ちょっと悪いひとたち ~さらば北方深海基地よ!~ (シャブモルヒネ)
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護衛棲姫VS防空棲姫
3-1:陽キャになりたい護衛棲姫ちゃん


 ここ一番の大勝負というものがある。

 勝てば望むものを手に入れて、負ければ失ってしまう。そんな取り返しがつかない一戦が、今まさに眼下の海で始まろうとしていた。

「さーて、一体どちらが勝つのやら?」

 護衛棲姫はのんびりと他人事のように呟いて、目線は遠く、決戦場となるリングを見渡した。

 そこは、四つの島に囲まれた赤い海。ヒトの姿は影一つもない。住むのは人外の化け物――深海棲艦だけという死の領域だ。

 そんな最果ての海で行われる戦いに国際条約が適用されるはずがない。ルールも無ければ仁義も無い。勝利こそが全てであり、そのためならばあらゆる手段が許される。それもそのはず、この赤い海には審判がいなかった。立会人すらいない。こんな戦いにはおそらく神や悪魔でさえも「勝手にしやがれ」と見放すだろうに違いなかった。

 なぜなら、かの空想上のお偉方がご興味をお持ちあそばすのは人間様に対してのみであり、ソレから外れた廃棄物たる深海棲艦の諍いなど視線を向ける価値も無いのだから。

 だから、護衛棲姫は思うのだ。これから始まる決戦に観客が全然居ないのも自分たちが人間様じゃないからなんだろうなぁ……と。

 そんなことを考えながら素足をぷらぷらと冷たい風に晒していたら、いよいよ選手入場のときがきた。

 東より現れたるは、我らが主『北の魔女』が一番の部下、戦艦棲姫。

 黒髪であるところは一般的な戦艦棲姫と同じだが、その髪先は雅にカールがかかっていて長さも肩までしかない。目は小生意気そうに釣りあがってはいるがキツイ印象はなくて、どちらかというと幼ささえ感じる。それは彼女の背丈が戦艦娘にしては低いせいでもあるだろう。ちっちゃい戦艦……そう本人に指摘すると「もっと尊敬と畏敬の念を持ちなさい!」と怒らせてしまうけど。

 続いて西から現れたのは、北の魔女一派の挑戦をことごとく退けている絶対王者、防空棲姫。

 こちらの外見はまさに資料通りといった感じで、護衛棲姫がかつて艦娘だったときに写真で見たそのままの姿だった。艦種は駆逐艦……のはずなのだが、特筆すべきはその防空力と装甲の厚さだろう。どちらも駆逐艦に収まりきらないインチキじみた性能で、この一戦に限れば後者が大きな役割を果たすはずだった。その装甲は徹甲弾をも弾き返すというから恐ろしい……というより呆れてしまう。そんな駆逐艦がいてたまるか。これがシミュレーションゲームならバグもいいところのユニット性能だ。

 そんな両者が揃ったところで、これまでの戦績を思い返す。我らが戦艦棲姫様は敵方の装甲の厚さに阻まれて、三回、いや四回は負けていたはずだ。

 じゃあ今日で五回目の決戦になるわけか、と護衛棲姫は感心した。よくもまぁ頑張るなぁと。……敵である防空棲姫に対して。

 先程『取り返しがつかない一戦』といったが、あれは半分嘘である。こちらは何回負けても失うものは無い。対して、向こうの防空棲姫は違う。一回負ければお終いだ。『取り返しがつかない』のは相手だけ。なんと不公平な戦いだろう。こちらの挑戦権は無限にあるというのに。

 要するに護衛棲姫が言いたいのは、「そんな絶対に負けられない防衛戦をよくもまぁ延々と続けられるもんだ」という、敵さんに向けた呆れの意味合いだった。

 ――さっさと諦めちゃえばいいのに。

 だが、遠く百メートルほど離れたリングの海では、両雄――両雌?――の戦意は漲るばかり。睨み合って火花を散らしていた。今にも開戦してしまいそうである。

「うーん、なーんか盛り上がりに欠けるなぁ」

 応援も五回目ともなれば緊張感も薄れてしまうわけで。護衛棲姫は持ち込んだラジカセに手を伸ばし、一本指でスイッチを押下した。

 ザザっとした雑音が走る。

 辛気臭い空気を吹き飛ばすようにラジオのパーソナリティが陽気に喋りだす。

 

『――このコーナーは! リスナーの皆さんから頂いた素敵なお悩み相談を華麗に解決するコーナーでぇっす! ……素敵なお悩み相談ってナンだよ!? 悩みがステキって青春かぁ!?』

 

 護衛棲姫は「にひっ」と笑う。

 人生は楽しくなくっちゃあいけない。悲壮な顔してシリアスモードに浸っていたって良いことなんて一つも無い。ケセラセラ。何事もこの小さな両手に収まる範囲の問題にだけ取り組むようにすればいい。それ以上は分不相応、許容量オーバー、投げ出しちまえばいいのだ。前世は無理して抱え込んだせいで死んでしまったのだから、今生こそは適切適度な生き方で面白おかしく楽しんでやろうと護衛棲姫は思っている。

 そう、この軽薄なラジオの声のように。

 

『――っていうね、いつものツッコミもやったところでさっさと始めちゃいましょーい。……はい、では早速の一人目はラジオネーム『七面鳥と呼ばないで』さんから。常連さんですね! いつもありがとうございまーす!』

 

聞き覚えのあるラジオネームに「おっ!」と思わず身を乗り出した。

「あっ、ズイズイ出た! ちょっと浜ちゃん、これ瑞鶴さんのお便りだよ! 知ってる? 空母娘はみーんな知ってるんだけどさー、本人だけはバレてるの知らないんだよねー超ウケる。しかもこれを暴露したのが姉っていうのがまた面白くなーい?」

「ひゃ、ひゃわぁぁ」

 笑う少女に、怯える少女。

 更にラジカセを加えて、合計三名の声が、天高くそびえる大型バルジの上に響いていた。

 そこは雑談するにはあまりにも高い場所だった。地上約30メートル……といわれてピンとこなければマンションの10階を想像してもらえれば分かると思う。落ちれば普通に死ぬ高さ。そんなところに連れてこられたら高所恐怖症でなくても怯えて当たり前だろう。

 一人の少女が、震えながら抗議していた。

「お、降ろし、降ろしてっ。高い、高いよっ」

 夕雲型の十三番艦、浜波。

 へっぴり腰で、もう一人の少女――護衛棲姫――の腰にしがみついている。彼女の前髪は瞳より長く伸びていて表情は見えないが、声を震わせている様子から涙目なのは間違いない。

 そんなテンパっている駆逐艦娘を見もせずに、護衛棲姫は「だーいじょうぶだって!」と無責任に笑っていた。

 

『――え~と、『七面鳥と呼ばないで』さんのお悩みは……「つい先日、後輩の身に不幸がありました。彼女を可愛がっていた先輩が落ち込んでいて見ていられません。私にできることってあるでしょうか?」……重い話ですねぇ。まぁいいですけど……』

 

「にっひっひ! な~にラジオに悲報送っちゃってんの、あの人! ってーかさ、この後輩ってあたしのことじゃね? あたしでしょ! ひゃはー、照れるんだけど!」

 護衛棲姫は、やけに白い少女だった。

 服も白ければ、肌も白い。髪も脱色したように真っ白だ。アルビノよりも更に白く、それは生物としては不自然な色合い。それもそのはず、彼女は深海棲艦だった。

 元は艦娘、そのときの呼び名は大鷹。

 今は深海棲艦、人呼んで護衛棲姫。深海の仲間たちからはトゥリーと呼ばれている。

 彼女は布切れ同然の薄着をしているせいで腹も脚もあらわになっている。背丈は浜波よりはほんの少しだけ高かったけれど、細く頼りない体躯のせいで女というより少女と呼ぶに相応しい。額から伸びた一本角の先を撫でながら、彼女はラジオパーソナリティの声に耳を傾けた。

 

『――居なくなった人の代わりには誰もなれません。胸のうちに留めて痛みに慣れていくしかないんです。だからあなたができることは、大切な人の傍にいること。一緒に痛みを共有してあげましょう』

 

「いひひひ! ラジオの雰囲気がお通夜みたいになってんだけど! ズイズイさんちょっとー? お便りの内容は考えて送らないとー! そういうとこー!」

「うご、動か、ないで、こっここ怖い」

 なおも笑う少女に、まだ怯えている少女。

 彼女たちが座っているのは、粗大ゴミが寄り集まった島の中心部にでかでかと突き刺さった大型バルジの上だ。先程も述べたが高さは約30メートル。ここまででかいバルジは艦娘や深海棲艦のものではない。実艦のものだ。そんな代物が何をどうやったら縦になって地面に突き刺さるのか浜波には分からないし、この島の主であるトゥリーも分からない。けれど、在る物は在る。それだけが事実だ。

 その大型バルジはとてもよく目立っていた。このゴミ島のシンボルといっていい。上に乗ればこの赤い海に浮かぶ四つの島々を――北方深海基地の全体をよく見渡せる。……となれば、逆にどこからでも見えるわけで。どうせなら己の縄張りを示す表札代わりにしようと島を任されたトゥリーは考えた。そうして描いたのが“③”という文字記号。

 今、少女たちが座っている大型バルジ、その足下に視線を降ろしていくと赤いペンキででかでかと描かれている“③”――それは、彼女を示す記号でもあった。

「でもいいこと言ったねぇ、このラジオの人。そう、死んだ人についてアレコレ考えたって仕方ないわけよ。だってもう居ないんだから! ……まっ、あたしは生まれ変わってこの世にしがみついてるんだけどね!」

 少女はまたしても笑う。彼女は、深海棲艦に生まれ変わったという数奇な運命を受け入れて、かつての同僚と先輩たちに向けてあっけらかんと薄情に別れの挨拶を叫んだ。

「ズイズイさーん! 加賀さーん! あたしは深海棲艦として元気にやっておりまーす! そっちもどうかお元気でー!」

 そうやって水平線へ大仰に手を振るもんだから身体が揺れて、浜波は顔を真っ青にしながら渾身の力でしがみつくしかない。その目は固く閉じられて、せっかくの大勝負の現場を見ていない。

 トゥリーの瞼がぴくりと震える。自分だって目を離していたのを棚に上げ、彼女はぐいと顔を近付けながら不満げに唇を尖らせた。

「浜ちゃん浜ちゃん浜ちゃんさぁ? 単冠湾泊地に帰りたくないの? 待ってる人がいるんでしょ?」

 浜波の小さな身体がぴくりと反応する。

「ふ、ふーちゃん……」

「そう、藤波ちゃんだっけ? その娘に会いたいんでしょ?」

「会い、たい……」

「だったらさー、ちゃんと応援しよーよ。あたしは単冠湾のことは分かんないけどさぁ、きっと浜ちゃんのことを皆心配してると思うよ? 帰って安心させてあげたいでしょー?」

「ぅ、うん」

「だったら応援だ! いい? さっきも言ったけど、これから始まる戦いであたしらが勝てれば外に出れんの。……あの戦艦棲姫のほうが味方ね。分かる?」

「分かる、けど。どうして一対一……?」

 浜波は恐る恐るトゥリーを見上げて、顔色を伺った。

 勝てばいいならどうしてあなたは加勢しないのか、と。

「だからさー、あの辺の海って二人以上で行くと羅針盤がすげー狂っちゃうわけ」

 そう言って、トゥリーは周囲に目を向けるように首を巡らせてみせた。

 眼下には、決戦場である赤い海が見える。

 そこを中心として、囲むように四つの島が円状に浮かんでいる。

「まともに航行できるのはね、この島を含めた四つの島を繋ぐドーナツ状の範囲だけなんよ。その中心の、今決戦場になってるあの辺の海は、たかが直径三百メートルもない狭い範囲なんだけど、入ったら最期、出てこれなくなっちゃう不思議空間なんだってさ」

「な、なんで?」

「知らなーい。あたしも新入りだし。ただ、ボスがいうには「条件は単艦ッ! 二人以上なら無限ループにご案内よ! フゥーハハハ!」……らしいよ?」

「だから、一対一でしか、勝負できないってこと、なの?」

「そういうことー。ちなみにね、もう何度も何度も何度も言ったけど、ここ四つの島々の外側はもっとやばいからね?」

 トゥリーはぐるりと首を巡らせて、四つの島の外側を、真っ赤に染まった水平線を見回した。

「羅針盤を安定させる条件はナシ! 東西南北完全ランダムに空間が歪みまくってる次元の狭間状態だからぜぇーったいに外海に出ちゃだめだかんね? 前にあたしも迷い込んじゃって1000キロ直進しても海しかなかったんだから。あんときは焦ったよー。飢え死にだけはしたくないからね。……深海棲艦って飢え死にすんのかな? ま、いいケド! ここに戻ってこれたのも奇跡みたいなもんなんだよ?」

「分か、った、分かった……けど。でも、どうしてあの戦艦棲姫さんが勝ったら、外に出られることになるの?」

「それはねぇ、話すと長いんだけど……ああっ、始まっちゃった! 行けーっ、せんぱーい! ぶっ飛ばせーっ!」

「ちょ、ちょっ、お、落ちるっ」

 

 

 深海棲艦は人類の敵である。

 海からやってくるその怪物たちは、国土を海に囲まれた日本にとってけして看過できない存在だった。

 対抗者として現れたのが艦娘と呼ばれる少女たち。日本の艦娘たちは国境狭しと出撃し、深海棲艦と一進一退の攻防を繰り広げた。北はAL海域の果てから、南はサーモン海のアイアンボトムサウンドまで。

 今回のお話はその北方方面。北海道の更に北、大ホッケ海のど真ん中で起こったイザコザについてである。

 

 大ホッケ海。

 千島列島と樺太に挟まれた海。地獄のように赤い海。

 流氷漂う極寒のその海に、北の魔女が率いる深海棲艦の集団が住んでいた。

 深海棲艦……という名前ではあるけれど、彼女たちは海の中に住んでいるわけではない。怪物だって人のように呼吸はするわけで。寝床は当然、陸の上。

 つまり島。

 あるいは船。

 そういった場所を縄張りにして住みつくのが深海棲艦の在り方だった。

 では、今回の北の魔女。その一派がどこに住んでいるのかというと、これが島でもなければ船でもなかった。

 ゴミの山。

 ガラクタの墓場。

 吹き溜まり。

 そんな感じの、廃墟未満の島もどき。

 それらが四つ、円を描くように等間隔に並んで浮かんでいる。

 そのそれぞれに、姫級が一人ずつ住んでいた。

 自称・北方四天王。元艦娘だったり、元陸上施設だったりする娘たち。彼女たちはけして仲が悪いわけではなかったけれど、自室を欲しがる思春期の少女のように自分だけの縄張りを要求した。寝る場所や私物を置く場所を確保するために。あるいは、“自分だけの場所”という、安心感や落ち着きを得るために。精神的な健康を求めるのは人も深海棲艦も同じというわけだ。だってそうだろう? どんなに仲の良い親友であろうとも、血の繋がった家族であろうとも、ケツの穴までは見せない。それと同じこと。プライベート空間は必要というわけだ。

 つまりはここに住む北の魔女一派の関係性もそんな距離感だと思ってもらえればいい。人間社会における人と人との距離感と大体同じ。深海棲艦は怪物ではあるけれど、人から大きく離れた存在でもないのである。

 

 閑話休題。

 今はその四つの島もどきの中から最も雑然とした島を見てみよう。

 ゴミ屋敷。あるいは汚部屋。……そんな表現が一番近い。

 とにかく、歩く場所がない。

 まず土台が、転覆した軍艦。そしてそれに乗り上げた漁船の群れ。数えれば50隻にはなるだろうか。津波がいくら押し寄せてもこうはなるまいが、それら全てが押し固まって複雑に絡み合い、一つの陸地となっていた。

 そして、その土台の上と隙間には、“もう少し小さい物体”が無造作に積み重なっている。

 砕けたアスファルトの塊。テトラポット。錆びた鉄骨。

 そんなのの集合体が、この島の大地だった。

 当たり前だが平面が存在しない。

 裸足で歩けばすぐに血まみれになるだろう。

 だが、呆れたことに、この島のカオスっぷりには続きがあった。できそこないの大地の上には更に雑多な粗大ゴミがばら撒かれている。大陸の文字が描かれた看板や、ギトギトの原色で彩られた謎の木材に始まって、割れたガラス片や、瓦に釘……これらはまだ序の口だ。タイヤの無い車。蓋の無い洗濯機。戦車のキャタピラ。土木工事用ショベルカー。皮のはぎとられたソファーの上には何故かフライパンや鍋が50個ぐらい山になっていたり、一昔前の黒いゴミ袋を見つけたと思ったら注射器の針がハリネズミのように突き出していて近寄れたものではなかったり、挙句の果てにはマネキン人形と言い張るには性的すぎるダッチなワイフまでが転がっていて、とにかく筆舌にしがたい混沌を晒していた。

 ガラクタの集積地である。

 あまりにも多くの人工物が積み重なり、ドキュメンタリー番組で紹介されるような『ゴミの楽園』と化している。

 その中にあって一際目立つのは、島の中央部に垂直に突き刺さった大型バルジ。30メートルはあるその威容には一つの数字が描かれていた。

 “③”

 読んで字のごとく、3を意味している。

 それはこの島を支配する深海棲艦、護衛棲姫の名前でもあった。

 北の魔女の三番目の部下、自称“北方四天王”が一人、護衛棲姫。

 名を、トゥリーという。

 彼女は、北の魔女直々に命名されたときにその名前をことのほか気に入った。その簡潔でどことなく優雅な響きを、どこかの国の美女か美しい花あたりに由来するものと思ったからだ。

 だから名付けられたときに聞いてみた。

「ボス。そのトゥリーってどういう意味なんですか?」

「3だッ!」

「……さん?」

「3ッ!」

「はぁ……??」

 ただ3と言われても困る。

 それが突飛すぎて、頭の中で名前と結びつかなかった。

 見かねた先輩――ドヴェが教えてくれた。

「トゥリーとはな、ロシア語で“3”を示す言葉だ」

「……3って、数字の3? どうして3なんスか?」

 なぜ3か。

 それは、彼女が3番目の配下だったから。

 そんだけ。

 囚人番号じゃないんだから。

 真実を知った彼女はわりと本気で怒ったが、顔を真っ赤にして抗議しても魔女は不可解そうに首を傾げてみせるだけ。あれこれと名前の大切さを説いてみても暖簾に腕押しで、元艦娘の護衛棲姫トゥリーはがっくりと肩を落として諦めるしかなかった。

 そもそも北の魔女に命名センスを期待するのが間違いだった。北の魔女は生まれついての深海棲艦だったせいで人間的な情緒をこれっぽっちも備えていないのだから。なんというか世間知らずで、常識が無いというか、有体に言えば馬鹿だった。

 その北の魔女は絶賛死亡中である。

 つい先月に、幌筵泊地に敗北し、殺人蜂のような雷巡娘に魚雷で木っ端微塵にされてしまったらしい。

 が、深海棲艦にとってはあまり大事ではない。

 そう、大事ではないのだ。

「へぇ~、深海棲艦って沈んでも復活するんスか」

 トゥリーは元々は艦娘――大鷹――だったので深海棲艦の生態について詳しいところまで知らなかった。初耳だった。

 なんでも深海棲艦という生き物は、仮に身体がバラバラになろうともそのテリトリーである赤い海に浸かっていれば自動的に修復して復活するらしい。例えるなら、入渠して回復する艦娘のように。

 そんな生き物だったから、ボスである北の魔女が死んだときも誰も心配しなかったらしい。

 どうせ直る、そしてまた次の指示を出すだろう。そう思って棲家に戻り、ぞんざいに放置してしまったと、別の先輩――戦艦棲姫アドナーさん(1の意味)が言っていた。

 それが全くの悪手だったらしい。

 北の魔女の復活を阻む者が現れたのだ。

 そいつは修復中の北の魔女の身体を奪い、タイマン以外不可能な北方深海基地の中心部に立てこもった。

 犯人は、元艦娘の深海棲艦。

 通称“防空棲姫”。

 彼女は生前の任地・幌筵泊地を守るため、深海棲艦と化してなお人類の味方をした。

 その少女は、照月と名乗った。

 

 

「……ってわけでぇ、ボスの身体を取り返すためにあたしらは戦ってるってわけ。外の世界に出るためにはボスの力が必要なんだってさ。理屈はあたしもよく分かんないけど……せんぱーい、そこだー! 抉りこむようにしてぇ、撃つべし撃つべし! いっけー!」

 腕を振り回してアドナーを応援するトゥリー。その視線の先は四つの島を結んだ中心点。赤黒く染まった海の上。二人の深海棲艦が戦う戦場だ。

 一人は、北の魔女の遺骸を取り戻そうとする戦艦棲姫。

 対峙するもう一人は、件の防空棲姫である。

 互いの主砲と機銃の弾が容赦なく飛び交っている。

 防空棲姫はくるくると器用に砲撃を避けながらカウンターをいれた。流石は日本の誇る水雷戦隊だっただけはある。細やかな動きでは戦艦娘の追随を許さない。一対一における技量差は明らかで、主導権は握っているのは照月を自称する小柄な少女の方だ。

 戦艦棲姫は起死回生を狙って被弾を恐れず猛攻に出た。捨て身の前進に不意を突かれた防空棲姫はその一撃を喰らってしまう。

「おっ、やったかー!?」

 しかし、防空棲姫は健在。

 大口径主砲が直撃してけろりとしている。

 そう、これが防空棲姫の恐ろしいところだ。

 無敵の装甲。誰も彼女を傷つけることはできない。

 戦艦棲姫は逆に反撃を食らってバランスを崩してしまう。

「あっ、やっべ!」

 致命的な隙。

 防空棲姫は身体を大きく前へと傾けた。クラウチングスタートを思わせるその姿勢は、必殺の連撃を叩き込むためのものだ。

 防空棲姫から針鼠のように突き出た対空機銃。本来は対空用のそれらが全て水平方向へ――戦艦棲姫へと照準を合わされた。

 嵐のような一斉掃射が始まる。

 4inchの殺意が百を超え、千を抜け、万を突き破る。凄まじい量の銃弾が瞬時に戦艦棲姫に叩き込まれた。その猛攻が途切れたとき、戦艦棲姫は文字通り穴だらけとなっていた。断末魔の一つもなく、彼女はずぶずぶと赤い海へと沈んでいく。

「あ~、あ~あ~!」

 戦艦棲姫の敗北だ。

 トゥリーはがっくりと肩を落として悔しがる。

「せ、先輩~! やっぱあの装甲を抜くのは無理ですよぉー!」

 アンタもそう思うでしょ? と首を傾けて浜波を見た。

「あ、あわわ」

 少女は目を白黒とさせている。

 目の前で、ヒトの形をした生き物が轟沈した。それが例え深海棲艦であろうともスポーツ感覚で話のタネにするのは憚られる……そう自制するぐらいの倫理観を浜波は持っていた。

「……お優しいことで」

 トゥリーはつまらなさそうに半目でぼやく。

 深海棲艦は轟沈しても数日すれば完全復活する。そう教えてあげたというのにこの駆逐艦娘ときたら未だに神妙な顔をしてみせる。ちょっと鈍いんじゃないだろうか。

「浜ちゃんってさー、志願組? それとも実は身売り組?」

「え、ぇ?」

 困惑の色。

 トゥリーはなおも怯える少女をしばらく眺めて、肩を竦めてみせる。

「なんでもなーい」

 くだらないことを聞いてしまった。やれやれと溜め息をつき、その小さな指をくわえて口笛を吹いた。

 すると。

 ばっさばっさと翼を羽ばたかせる音を伴って、鷹型艦載機が現れた。

 三匹、四匹、いや五匹。

 瞬く間に集まったソレらのボディは艶やかな黒色をしていてまるでカラスのよう。しかしただの鳥類ではない証拠に頭部には巨大な単眼がついていた。深海棲艦の艦載機。地球の生態系からかけ離れた存在だ。

 その異形たちが、浜波を連れ去らんと彼女の身体に群がっている。

 鳥に似たカギ爪のついたニ本足がぬるりと伸びて、浜波の細い身体をガシリと掴む。

「ひっ、ひぃ」

 何匹もの異形に捕獲された浜波は生きた心地がしない。対して鷹型艦載機たちはそんな繊細な感情などお構いなしに羽ばたいていく。

 浮遊感。

 足が浮く。

 それまでしがみついていたトゥリーから手が離れた。宙を彷徨って何物をも掴めない。

「ぃぃぃゃぁぁああ」

 空中に連れ去られていく。その稀有な経験は、昇るときを一回目としてもまだ二回目だ。当然慣れてなんていない浜波は戦々恐々、まさに神に縋る思いでひたすら祈る。臆病な彼女が失神しなかったのは奇跡かもしれない。

 約30メートルの降下劇。

 どうにか着陸したときには息も絶え絶えだった。

「……っ、……っ」

 しばらくの間、地面から立ち上がることもできない。

 そんな少女を見て、後から同じようにして地上に降り立ったトゥリーがからかうように声をかけた。

「なっさけなぁーいー。浜ちゃんが特等席で見たいって言ったんじゃん」

「……だ、だって、あんなところに昇るなんて、き、聞いてない、し」

 がくがくと、足は生まれたての子馬のよう。

 トゥリーはその正面にしゃがみ込んで「ほら」と手を差し伸べた。

「あ、ありが、と……」

 その手を掴む浜波。

 彼女は、いうまでもなく艦娘だ。

 起こし上げたもう一人の少女は深海棲艦。

 この二人は本来ならば敵同士である。

 それがどうしてこのように手を取り合っているかというと、それはここ北方深海基地を支配する北の魔女の方針が適当だったからに他ならない。

 

――戦争とは宣戦布告してから始まるものである!

 

 北の魔女はどこかで聞いてきたそのフレーズを絶対のルールと信じ込み、人類と深海棲艦の間で起こる争い事を全て『よーいドン』から始まるレクリエーションのようなものと勘違いしている。故に彼女はこれまで毎月のように人類に対して『果たし状』を突きつけて、これもまた誰かから聞いてきたような“深海棲艦らしさ”を体現するために幌筵泊地に殴りこみをかけていた。

 そこには信念や大義があるわけでも、恨みや憎しみがあるわけでもない。

 まさに子どものごっこ遊びという他ないだろう。

 だが、そんなのでもボスはボスだ。

 世界中の深海棲艦に共通する鉄の掟、その一つに『主には絶対服従』というやつがある。破ったらどうなるか日の浅いトゥリーは知らないが、特に艦娘を嫌っているわけでもない彼女としては反発する理由も見当たらない。問答無用で殺しあうなんてナンセンス、仲良くできるならしたらいいじゃん、と思っている。

 勿論、それは仮初の平和とは分かっているけれど……。

「ウゥーイ!」

 いきなり奇声が響いてきた。

 いや、呼び声か。浜波はびくりと震えて振り返り、トゥリーの陰に隠れた。

 トゥリーは呆れて、

「ちょっとー、いい加減慣れなよ~」

 と溜め息をつく。

 しかし逆の立場なら自分でも堂々としていられない、とトゥリーは思う。なんせここは艦娘にとっては恐るべき敵の住処なのだ。

 浜波は恐る恐る頭だけを出して、声のした方角を確かめていた。

 そこに現れたのは、見知った三人の深海棲艦。

 戦艦のタ級、軽空母のヌ級改、そして重巡のネ級。

 女たちはカツカツと音を立てながら丸みを帯びた鋼材の上を歩いてくる。

「ぅぅぅ……」

 浜波は哀れにも涙目になっている。

 深海棲艦と艦娘は、本来ならば、互いに見敵必殺の対象だ。その敵方が接近してくるとなればいくら害意が無いと分かっていても穏やかではいられないのは当然だろう。浜波からしてみたら怪物たちが接近してくる悪夢のような光景でしかないわけで。そんな悪夢扱いされている三人の女たちは、深海棲艦特有の死人のような白い肌、そして意思を感じられない濁った瞳をしている。そのどれもが浜波に刻まれた条件反射を刺激しているのだろう。

 ……まあそれをいうならトゥリーも似たようなものだけれども、彼女はまだ艦娘寄りの外見をしているし、何より言葉が通じるのが違うのだろう。

 タ級とヌ級改とネ級はそれぞれ両手を上げて、

「ウゥーイ!」

「エーイ!」

「エァー!」

 と奇妙な声を上げた。

 謎の言語……ではない。挨拶だ。

 トゥリーも応じて「うぇーい!」と両手を上げてハイタッチを交わす。

 パンパンパーン、と乾いた音が鳴った。

 トゥリーは「お前も挨拶ぐらいしろよコラ」と、まだ怖気ついている浜波の首根っこを掴んで矢面に立たせた。

 「ひ、ぃぃ」

 なんてことするのぉぉ、と顔中に書いてある。と同時に、「抗議したいのも山々だけどそんな素振りを見せるわけにもいかないよぅ」ともあった。

 浜波は、にへらとなんとか愛想笑いを作って顔を上げてみせる。

 ……この調子じゃなあ、とトゥリーは呆れるしかない。

 もうちょっと胸を張ってコミュニケーションもとれないようじゃ、この先、人間相手でもやっていけないんじゃないだろうか。と、敵のくせに心配してしまう。

「ほれ、手ぇ上げなよ」

 正面には上背のあるタ級がじろりと見下ろしていて、その左には半人間型のヌ級改が鎮座していて、右には腹から艤装が飛び出ているネ級が控えている。

 浜波はどうにか勇気を振り絞って片手を上げて、「うぇ、うぇーい」と深海式の挨拶(?)をしてみる。

 するとタ級たちはにこりと笑って、

「ウゥーイ!」

「エーイ!」

「エァー!」

と浜波の手の平を叩いた。

 それだけでもう浜波はいっぱいいっぱいだった。

「よしよし、頑張ったねぇ」

「ぅ、ぅぅ」

「……で、君たち。どしたの? なんかあった?」

 タ級たちとトゥリーが雑談を始めたのを尻目に、こっそりと浜波は涙ぐむ。

 ――単冠湾に帰りたい。着任三ヶ月で幌筵泊地に送られたと思ったら、その道中で霧に包まれて、いつの間にか同行していた艦娘がいないと気付いたときには、深海棲艦の巣の中だった。あまりにも不幸すぎると思う。全周を囲まれたときは死ぬかと思った。というか気絶した。それ以来ここで養われている。これはなんの悪夢だろう、自分は前世でよっぽど悪いことをしたのだろうか? だったらもう許してほしい、今世では何でもしますから。

「……艦娘がまた来たってぇ?」

「ふぇっ?」

 艦娘。

 その単語に浜波は敏感に反応した。

 この敵だらけのゴミ島にお仲間がやってきたのかもしれない。その可能性は浜波に活力をもたらした。

「ど、どこっ?」

「うわっ、いきなり元気だな」

「か、艦娘、会いたい」

「なんだよ、あたしじゃ不満かー? まっいいケド。一緒に会いに行くー?」

「ぃ、行く」

「ほんじゃレッツゴー」

 なんでも外海側の浜辺に漂着しているらしい。浜辺……といっても砂地ではなく横倒しになった軍艦の横腹、ただの波打ち際なんだけど。

 タ級たちと別れて、ゴミの障害物をひょいひょいと乗り越えて浜辺を目指した。

「さーて、今度はどんな間抜けが来たのかな……っと!」

 軍艦の縁に手をかけて身を乗り出した。後はもう、海まで緩やかに下るだけ。

 件の、漂着したという艦娘の姿はもう見えていた。赤い海から上半身だけ出してうつ伏せになっている。ぴくりともしない。どうやら気絶しているようだ。

「ぁ、あそこ、いたっ」

「あの艤装は……駆逐艦かなぁ?」

 浜波が小走りに駆け寄って、その身を引き上げた。外傷は無さそう。ひっくり返して上を向かせると、ごほごほと咳き込んだ。

「あ、起きた。どれどれ、どんな奴……」

 とトゥリーが顔を覗き込むと同時、漂着者の瞼がゆっくりと開かれた。

「……う、ここは……?」

 顔を上げ、自分を抱える浜波を見て、続いて傍で覗き込んでいたトゥリーの顔を見た。おぼろげな瞳が焦点を結ぶ。

 目が合った。

 声が出た。

 「あ」

 「げ」

 両者、知っている顔だった。

 かつて同じ大湊警備府に所属していた艦娘同士で、更に加えていうならば浅からぬ因縁の仲でもある。

 かたや、身代わりになって轟沈した者。

「た、大鷹……? 生きていたの?」

 かたや、命を守られた者。

「む、叢雲じゃん……」

 その二者が、奇しくも大ホッケ海のど真ん中で再会を果たしたのだった。




自分が書きたいという理由だけで、一番楽しくなりそうな三章からいきなり始めましたよ、私は。
書いてる分には楽しかったけど読む側の気持ちを全く考えていなくてバランスもいい。
過程をすっとばしたせいで情報密度が高すぎて作者のオナニーというほかない。

秋イベ前段作戦がひとまず終わったので書いてみました。
長期連載の始まりのくせに第二話は一文字も書いてません。次回はしばらくお待ちください。


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3-2:いっぱい出てきた北方四天王さんたち

 叢雲の瞳に自分の顔が映っている。

 恐らく彼女は今、照合中。トゥリーの顔と、己の記憶に在る大鷹とを照らし合わせているのだろう。

 結果は“一致”するに決まってる。

 ならば彼女は次にどうでるか?

 かつて己を庇って沈んだ同僚があろうことか深海棲艦になってしまった……そう理解すれば、恐らく嘆き、あるいは跪いて許しを請うかもしれない。

(ちょー面倒くさぁ……)

 元大鷹、トゥリーは正直、そう思う。

 人間関係における煩わしいやり取りが嫌いだった。

 貸しがあるとか、借りがあるとか。配慮とか気遣いとか、見せかけの敬意とか、形骸化した誠意の証明とか。

 そういう面倒くさい手続きに時間をとられたくなくて前世では人と距離を置いていた。大湊警備府の同僚は全員他人、人間関係はあくまでビジネス上のものだと割り切って、上司・先輩・同期・後輩、その全てを堅苦しい敬語でシャットアウトしてきた。

 なのに今更、卒業したはずの過去を掘り返されても困る。そこに親密な間柄なんて一つも無いと教えてやりたい。

 今の叢雲が見ているのはトゥリーの過去ではない。悲劇の再会を果たした自分自身なのだ。彼女は鏡を覗き込んでナルシシズムに浸っているにすぎない。そんな一人芝居にあたしを付き合わせないでくれと叫びたかった。

「はっ、なーにマジ顔してんだか」

 わざとおどけて、シリアスな空気をぶち壊そうとしてみた。けれど。

 叢雲は止まろうとしなかった。震える手をトゥリーの顔へゆっくりと伸ばしてくる。

(そういやこういう奴だったぁ……)

 人の話なんて聞きやしない。周りを巻き込みながらぐいぐいと突き進んでいく女だった。その素質はチームのまとめ役としては素晴らしいかもしれないが、今この時だけは引っ込めてほしいと切に思う。

(まいったなぁ)

 まさか泣き出したりしないだろうな。

 面倒事だけはごめんだ。最悪の事態を避けるためには多少は宥めてやる必要があるのかもしれない。つまり、これから叢雲の謝罪を受け入れて、肩を抱いて宥めすかし、薄ら寒いお芝居に付き合うのだ。例えばそう、こんなふうに。

 

――気にしないで。

――いいえ、でも……。

――あたしの分までしっかり生きてくれればいいの。

――うん分かった、ありがとう。

 

(うへえ、勘弁してよ~)

 想像するだけで億劫でしかない。

 そんなの面倒くさいんじゃあ! と突き放せたらどんなに楽か。むしろやってやろうかと本気で悩んだが、突き放してしまえば涙目で延々と追いかけてくるかもしれない。それほどまでに叢雲との別れは劇的だった。なにせ一つしかない命を使って助けたのだから。庇われた彼女はその献身を無碍にできないのだろう。

(それほど大した決意があったわけじゃないんだけど……)

 本当に。

 ただ、身体が咄嗟に動いてしまっただけだ。

 変に神聖視しないでほしい。

 そんなふうに悩んでいたら……そぅら来た。叢雲の手がトゥリーの顔に触れ、その実在を確かめるように頬を擦っている。こりゃ完全に自分に酔ってるな、と辟易したが、するがままにさせるしかない。叢雲の手はゆっくりと額に移動して一本ツノへと至った。深海棲艦特有の部位に触れている。ああそうだよ、本物だよ。華奢な指が、ツノの根元をぎゅっと掴んだせいで声がでた。「んっ?」そのままぐいぃと強く引っ張られ「んああっ?」前後にがくがくと揺さぶられる。

「いでででで!?」

 慌てて叢雲の手を振り払う。

「な、なにをするんじゃあ!」

 思わず変な口調になった。

 が、叢雲は涼しい顔だ。

「取れない……。本物みたいね」

「は、はァ!? 第一声がそれ!? 人の頭を揺すっておいて……なにそれ!?」

「あんた、深海棲艦になったのね」

「な、なったけど! 他に言うことあんでしょ!」

「あによ、驚けばいいわけ? ……わぁ、大鷹さん深海棲艦になったの!? コワイ!」

 あっさりと、それだけ。

 思わず目が点になってしまう。

「……はァ? はァァ!? ば、馬鹿にしてんの!?」

「ぷっ。顔、真っ赤よ。元が白いからよく目立つわねぇ」

「なんなのアンタ! もう……なんなのよっ!」

 忘れていた。

 そういやこういう奴だった。

 弱みを見せない。凹んだりしない。もしも彼女が涙を見せたならそれは男を篭絡するための秘策だろう。そのぐらい隙が無い女だった。

「……でも、あんたのおかげで助かったわ。ありがとう。礼は言っておくわ」

「ぐ、ぐぬぬ」

 おまけに鮮やかに切り上げられてしまった。

 なんだかものすごく納得いかない。

 そりゃあトゥリーとしてもメソメソした展開を避けられたのはありがたい。けれど……もうちょっとこう、なんというか、せめてこの生意気な女をやり込めたかったというか。前世の死因をネタに使っても優位に立てないとなればもの凄く負けた気分になってしまうではないか。

「……はぁ。もういいわ。アンタってそういう奴よね。うん、そういう奴」

「あによそれ。褒めても何も出ないわよ」

 叢雲は「よいしょ」と身を起こし、大きく伸びをしながら周囲を見渡した。

 そこは本土の穏やかな海とはまるで違う。ヒトの住む領域とはかけ離れた世界。

 生き物の気配はまるで無く。

 軍艦が横倒しになって半分沈んでいて。

 海は水平線まで真っ赤に染まっている。

 それらを瞳に映しながら、叢雲はのんびりと宣った。

「地獄みたいな景色ねぇ」

「……アンタ、心臓に毛が生えてんじゃない?」

 浜波のときとは大違いだ。彼女が目覚めたときは小一時間はパニックになっていた。

 その浜波は、叢雲につられて立ち上がり、「ぁ、あの、そのぉ」とどう声をかけようかと迷っている。

 叢雲はついと顔を向け、

「あなた……夕雲型の浜波、で合ってるわね?」

「は、はい。皆と、はぐれちゃって……」

「知ってるわ。あなたを捜索していたの」

 そういうことか、とトゥリーは納得した。

 叢雲が大ホッケ海に来た理由。

「ミイラ取りがミイラになったってワケね。叢雲サンも案外お茶目なところがあるんですねぇ」

「やらかしたのは否定しないわ。けど、」

 トゥリーへ向き直り、

「思わぬ収穫もあったようね。――あんた。私のことも覚えてるし、中身はちゃんと大鷹なのね?」

 じろじろと頭のてっぺんから足の先まで観察してくる。

 トゥリーは思わず身体を隠してしまいそうになるが、なんとか胸を張ってみせた。

「そ、そーよ。なんか文句ある?」

 叢雲は腕を組み、ふむと頷いた。

「けど、ちょっと変わったわね。前はそんなにイキってなかったし」

「は、はぁ? 今も別にイキっていませんけどぉ?」

「艦娘時代はもっと内向的だったじゃない」

「ぐ……。前は、猫を被ってただけだから」

「ふぅん? それが深海棲艦になったら心機一転、大学デビューならぬ深海デビューをしたってわけ?」

「……あのさ、人を上京したてで調子に乗ってる田舎娘みたいに言うのやめてくれる?」

「まさにその通りじゃない」

「なんですって? 芋臭い吹雪型が偉そうに……」

「は? あんたの顔には負けるわよ」

「なんだァ、てめぇ……」

「ちょっ、ちょっと、喧嘩は、だめ……」

 浜波、慌てて間に割り込んだ。

 さすがのトゥリーもこの繊細な少女を悲しませるのは躊躇った。

「と、とにかく! あたしはもう大鷹じゃなくて護衛棲姫なの! 大湊のときみたいに馴れ馴れしくしないでほしいわね!」

 大見得を切ってみせたが、叢雲はどこ吹く風だ。

「あーら、生まれ変わったぐらいで縁が切れると思ってんの?」

「切れますぅ~。アンタとは大して仲良くもなかったしぃ」

「私はそうかもしれないけど、大湊の皆は違うでしょ」

「いーえ。私は誰とも深く関わっていないのでー」

「そんなわけないじゃない。組織に属するってのは持ちつ持たれつなのよ」

「だとしても、今はスッパリ切れてるの。だってもう深海棲艦なんだから。貴社とはなんの関わりもありませーん」

「何言ってんの、あんた。いじけてんの?」

「は?」

「深海棲艦になったぐらいで自棄になってんじゃないわよ」

 叢雲は少し勘違いしたらしい。

「縁が切れたっていうなら繋ぎ直してあげるわ。大湊の皆にあんたが敵じゃないって説明したげる。そうねぇ……言うなれば正義の怪人かしら。仮面ライダーみたいでカッコいいじゃない?」

 トゥリーとしてはそれこそ勘弁してほしい話だった。

「冗談! そんな展開、サイアクよ! 好奇と不信の目に晒されて実験動物みたいに不自由に生きろっての? 絶対に嫌!」

「じゃあ何よ、あんた、これから人類の敵として生きていくつもりなの?」

「そーねぇ。そっちの方がマシよ」

「……本当にそれでいいわけ? 大湊の皆なら話せば分かってくれるはずよ」

「ああ、そういうの、いいから。仲間とか、絆とか、ハナッから求めていませんし」

「はぁ?」

「あたしはね、元々三年で艦娘を辞めるつもりだったの。お金稼いで、スッパリ辞めて、その後は……」

「……」

「とにかく! あたしに未練があるとするならね、それは人間関係じゃなくて銀行口座に丸々残してきた五百万円ぐらいなもんよ! ああ、思い出したら苛々してきた! 二年と九ヶ月もかけて貯めたのに全部パーになったのよ、信じられる!?」

「……ふぅーん」

 叢雲は。

 怒りもしなければ、軽蔑もしなかった。ただ淡々と元大鷹の急所を突いただけ。

「それ、一航戦の二人の前でも言えるワケ?」

「うぐっ……!」

 思わずたじろいだ。

 その名前だけは出してほしくなかった。

 一航戦。

 日本の空母娘たちの頂点にデデンと座るお局様二人。赤城。そして加賀。

 その二人は大鷹の師匠でもあった。

 思い出すだけで背筋が凍る。とにかくもんのすごくシゴかれた。まず要求ラインが理論値上等。教育方針は今どきありえない『見て盗め』。説明も駄目だしも全然してくれなくて、失敗したら酷い目にあうだけの実戦方式。

 おかげで生傷が絶えた日は無く、毎晩気絶するように眠るしかなかった。

 駆逐艦娘たちは神通をえらく恐れているけれど、一航戦の二人に比べたら慈悲深い聖女に違いない。

 ……そんな一航戦ではあったけど、大鷹にとっては単に恐ろしいだけの存在でもなくて。

 恩義も、確かにあったのだ。

 もしも才能の無さを理由に見捨てられていたら半年と待たずに轟沈していたに違いない。何故なら、空母は艦隊の要。敵からすれば急所そのものであり、未熟な腕なら集中攻撃されて海の藻屑と化してしまうのだから。

 故にトゥリーは、深海棲艦と化してなお、一航戦の二人には足を向けて寝られないのだった。

「い、一航戦の話はするなー!」

「だめ。帰ったら包み隠さず誇張して伝えるわ」

「こ、誇張まですんの!? 止めてよぉ!」

 

 

 大鷹が大湊警備府に勤めた期間は、およそ二年と九ヶ月間。

 自分でいうのもなんだがとってもとっても頑張ったと思う。

 精進の日々だった。

 着任してから轟沈するまでのその期間、一日たりとも気を緩めなかった。一航戦の理不尽なシゴキにめげず、休暇も自己研鑽に費やして。辛いと思ったのは一度どころか万度はあるし、汗も涙もリットル単位で流してきた。

 しかし、楽をしたいと思ったことは一度もない。

 同期の艦娘たちは、いち早く実戦に出て活躍する自分を遠巻きに眺めて「何が大鷹をそこまで駆り立てるんだろう?」と不思議がっていたが、理解できないのはこちらの方だ。

 だって負けたら死んじゃうんだから。

 生き残るために腕を磨くのは当たり前じゃないか。

 その辺の危機感を持たない者が『志願組』には多すぎる、と大鷹は思っている。

 ……志願組とは。

 その字面の通り、自分から志願して艦娘になった者を指している。

 御国のために、正義のために、身内の敵討ちのために。

 そんなフワフワしたお題目を掲げて戦場に身を投じる娘たち。

 大鷹は、誰にも打ち明けてはいないけど、そんな連中をアホだと思っている。戦わなくても生き続けられるご身分でありながら艦娘になるなんて頭がお花畑でなくてなんだろう? ああいう手合いは恐らく、ナントカ保護団体とか、ホニャララ権利団体とかと同じ性質なんだと思う。要するに、そのお題目を本気でどうこうしようとしているわけではなく、ただ自分の人生に『立派なことをした』という一文を飾りたいだけの、言ってしまえば金持ちの道楽趣味だ。人生に余裕のある奴がトチ狂って道を踏み外している。

 だからアホとしかいいようがない。

 対して、自分はどうなのかというと、これがどこに出しても恥ずかしい『身売り組』だった。

 金が無い、職が無い、行き場が無い。もうどうしようもなくなって艦娘という名の兵隊に身売りするしかなかったどん詰まりの小娘だ。他に道があったとすれば“花”を売ることぐらいだが、生憎自分はそれほど器量良しではなかったし年齢もまだ若すぎた。となれば売りつけられる先は特殊性癖のアレ長オジサンになるのは目に見えていて、だったら艦娘になって生存ギャンブルした方がマシだろうと大湊警備府の門を叩いたわけだ。

 そんな経歴であるからして大鷹は、シャキッとしきれない志願組をどこか見下していたし、かといって身売り組の中にも境遇にふてくされて腐っている連中が大勢いるのも分かっていて、それに比べたら自分は順風満帆、進路は直進――早い話が成功の花道を歩んでいると天狗になっていたのである。

 まぁ、天狗になっても仕方ないのかもしれない。

 一航戦の二人からお墨付きを頂いた。

 実戦で何度もMVPを受け取った。

 それも空母としては異例の一年間で。

 

 そんな調子だったから、着任して一年が過ぎた頃、大湊警備府の最古参であるところの叢雲様に呼び出されて駆逐艦寮に連れ込まれ、わいわいきゃっきゃとボードゲームに参加させられたときは何が起こっているのか全く理解できなかった。

 それまで駆逐艦娘たちとは全く関わりがなかった。

 何をどう間違っても友達なんかではなくドストレートの初対面。叢雲の顔だけはかろうじて知っていたが話したことは勿論ない。

 その叢雲は、

「これからは艦種の違う娘たちとも交流を深めていきたいと思ってるの」

 とか言っていたがそんなの嘘に決まっていた。

 だってその一人目ともなればもっと手堅い人選でいくのが当たり前。なのに、こんな遊びの“あ”の字も知らないような仕事人間を選んでしまえばどうなるか予想できない秘書艦様ではあるまい。もしも気まずい空気で終わってしまったせいで駆逐艦娘たちから、

――これって意味あんの?

――もう止めにしない?

 とプロジェクトの中止を求める声が上がったらどうする? 仮に空母を選びたかったとしても自分だけは“無い”。朗らかな瑞鶴さんあたりを選ぶべきだ。

 ……自分の結論がちょっと悲しくなってきた。

 が、悲しいとか楽しいとか、そんなのはどうでもいいのである。

(……楽しい、か)

 ちらり、と横目で叢雲を伺った。

 主催のくせに前に出ず、柔らかな笑みを零しながら周りを盛り立てるように適度に声を上げている。

 間違いなくコイツがキーマンだ。

 最古参。秘書艦。誰からも頼られる上に応えられ、必要があれば頼られなくてもグイグイ引っ張って前を向かせてくれる女。『志願組』であったが一目置いていた。けしてお花畑ではない。

 そんな女が、初対面の軽空母を駆逐艦寮に引っ張り込んだ。

 遊び目的のはずがないだろう。

 だったら、何らかの問題を解決するための行動だ。

 対象は勿論、この自分となるわけだけど……はて、この自分に一体どんな問題があるのやら?

 周りに目を向けてみる。

 狭苦しい駆逐艦部屋。四人も集まれば座る場所にも事欠いて、二人はベッドに腰を掛けるしかない。声が響く。壁は薄そう。こんなに騒いで怒られないのだろうか。他の艦種ではこうはいかない。こうまではっちゃけられない。人の目を気にできる大人だから。

(ああ、そういうこと)

 何となく、分かった。

 この大鷹は、内心はどうあれ外面は真面目さだけに極振りした艦娘だ。誰に対しても敬語で、礼儀正しく、そして誰とも打ち解けようとしない。

 そういうところを何とかしたいのだろう。

 ――さぁて、誰が言い出したのやら。

 師匠である一航戦の二人の顔が浮かんだが一秒で打ち消した。あの二人はそんな優しさとは無縁である。弟子は谷底に突き落として這い上がらせるスタイル。メンタルケアなんて天地がひっくり返ってもするわけない。

 となると、一体誰だろう?

 ……もう候補がいなかった。

 自分でも驚いた。

 こんなにも人と関わりが無いなんて。

 着任してもう一年が過ぎたというのに、思い返してみれば誰の私生活もよく知らない。趣味も、好きな物も、長所も短所も。ただ戦闘や連携に関する特徴だけが頭に入っている。

 ……もしかしたら、大湊警備府で自分は腫れ物のような立ち位置にいるのではなかろうか?

 だから最古参の秘書艦である叢雲が出張ってきた? 『誰からも距離をとろうとする優等生をどうやって皆と打ち解けさせるか』という難題を解決するために。

(……めんどくさっ!)

 大鷹は、そんな自分が問題だとは露ほども思っていない。

 だって、まずは生き延びなきゃ話にならないんだから。

 毎日を楽しむとか、友情を育むとか、豊かな人生を送るとか……そういう贅沢は兵隊である艦娘が望むべきではない。

 “後が無い”という言葉の意味を誰よりもよく分かっているのが『身売り組』だ。物事のリスクを直視して、回避するために行動する。そんな道理を実践できない人間は意外と多い。

 自分はそんなアホたちとは違う。

 これからも自分のためだけに時間を使うつもりだ。

 いつ関係が切れるか分からない連中のために生存率を削る理由があるものか。まして残り二年弱で辞めるつもりなのに、今更友誼を結んでどうなるというのか。

 

 ――結局、この場は愛想笑いで乗り切った。

 けれどその後も度々遊びに誘われることになる。

 正直に言って、迷惑だった。

 しかし。

 それ以外の感情が全く無かったといえば嘘になる。

 

 

 そんな叢雲との馴れ初めを思い出したのは、それきっかけで知り合った秋雲の台詞が脳裏をよぎったからだ。

 

――イキってる子供の動画配信に「お前学校と全然違うなw」ってコメントすると途端に黙るからチョー面白い。

 

 今の自分の状況がまさにそれ。

 深海棲艦にデビューしてイキっていたら艦娘時代の現実を思い出させられた。

(……いや、あたしはけしてイキってるわけじゃない。ただ本来の自分を隠さなくなっただけ。ほんとです)

 さてはて。

 そんなトゥリーは、叢雲と浜波を伴って、とある建物を訪れた。

 薄汚れた木造建築物の一角が、まるまるもぎ取られて大型バルジに寄りかかるように鎮座している。それがどうやって海を漂流してきたのかトゥリーはやっぱり知らなかったが、とにかく在るものは在るわけで、だったら有効活用させてもらおうと生活拠点にしているのだった。

 それは木造の教室だった。引き戸を開けて中に入ると、木造の床に古めかしい学習机が2行3列で6つ並べられ、窓は四角く切り取られ緑のカーテンが揺れている。入り口正面の壁には大きな黒板まで備え付けられていた。壁際には大きなやかんストーブまで。まさに学校。学生が勉強するための部屋と言えるだろう。

「……よくもまあこんな部屋を作ったわねぇ」

 叢雲は呆れてみせたが、トゥリーはむしろ胸を張って「すごいだろう?」と勝ち誇った。

「まず木造の建物があってね。一緒に学習机と黒板もあったもんだから、これは教室にできるって思い立ったわけ。修繕するのが大変だったんだから!」

「ほんとにすごいわ、これは……」

 ところどころ木がささくれているのは仕方ないにしろ、これはもう実際に使用できるレベルに修繕されているといってもいいだろう。よく見れば床や机の端には子どもが描いたと思われる落書きが残されている。列車の線路や、『なのです』という謎の文字列。……もしかしたらここは本物の教室だったのかもしれない。

 入り口から歩を進めると、ぎぃと木の床が軋む音がした。席は6つある。前に3つに、後ろに3つ。叢雲はその中から最も入り口に近い、後ろの真ん中の席を選んだ。浜波はその左におずおずと座る。

 視界に黒板がでかでかと映った。

 小さな学習机に手を乗せると、幼い日の記憶が蘇るようだ。

 時の止まった教室。

 そんな空間が、このゴミ島の中心の、どでかい実艦バルジの足元に存在しているのだった。

 部屋の後ろを見れば、隅っこには安っぽい煎餅布団が畳まれていた。

 今夜は自分もここで寝るんだろうな、と叢雲が考えていると、トゥリーは足取り軽やかに黒板の前に駆け寄った。腰に手をやって振り返りながらにやりと笑う。

「そんでは! 遭難してきた間抜けな叢雲のために! これからこの北方深海基地について説明してあげまーす!」

 そう言って、白いチョークを使ってここの島々の地図を描いた。

 四つの島を円状に描いて、そのドーナツ状の範囲とその中心、そしてそれらの外側の海について解説を始める。

 

 四つの島には、それぞれ一人ずつ姫級が居る。

 彼女たちのボスである北の魔女は死んでいる。

 その身体は中央の海にあり、一人でしか行けない。

 外側の海を進むことは不可能で、脱出するためには中央の海にたてこもる防空棲姫を倒すしかない。そうして北の魔女の身体を取り戻すことでようやく外海に出られるようになる――

 

 そんな長々とした説明を聞いて、叢雲はこうまとめた。

「あんた頭おかしいんじゃないの?」

「はあァァ!?」

 トゥリーの顔が一瞬で真っ赤に染まる。

 感情が分かりやすくてちょっと面白いと叢雲は思った。

「羅針盤が狂うって、なに? 空間が歪んでる? 意味が分からないんだけど」

「アンタだって体験したでしょーが!」

 この大ホッケ海に迷い込むはめになった……その事実だけで納得しなかった叢雲のために、トゥリーはこの教室に来る前に実地体験させていた。

 水平線に向けての砲撃である。

 

 とりあえず撃ってみな、と言われるままに砲撃した弾が、海上でいきなり消えた。

 見失ったかと思っていたら、見当違いの九時方向で水柱が立った。どんな強風が吹いてもそうは曲がらないだろうという位置だった。

 続けて撃ってみた。四度、五度と、方向を固定して。

 それら全てが異なる位置に着水した。

 怪奇現象としかいいようがなかった。

 

「――それを“空間が歪んでる”と言わずになんて表現すればいいのよ!」

「確かに私もこの眼で見たし、体験もしたけどねぇ」

 俗にいう大ホッケサークル。バミューダトライアングルの円形バージョン。北海道の北に現れた魔の海域だ。北の魔女の本拠地であるこの北方深海基地を守る不可侵領域でもある。

 それがバミューダトライアングルと違う点は一つ。その効力が本物であるということ。

「そういえば、もう何隻もの船や艦娘が消えているって報告もあったわね。さっきの怪奇現象を見るに、本当に科学で説明できない現象が起こってるのかもしれないわ」

「分かってるならどうしてさっきは馬鹿にしたわけェ……?」

 わなわなと震えるトゥリーに、叢雲は頬杖をつきながら受け流す。

「そこの部分はいいわよ、納得するわ。けど、あんたの言い方だとその怪奇現象を起こしてるのも止められるのも北方水姫ってことになるじゃない」

「そう言ったじゃん」

「あんたのボスは魔法使いなの? そんな真似ができる深海棲艦がいるなんて聞いたことないわ」

「魔法使いじゃなくて、魔女ね。北の魔女」

「呆れた。そんな仇名通りの力を持っているとでもいうつもり?」

「まあ信じられない気持ちは分かるよ。あたしも見るまでそんな感じだったし」

「なにそれ。見るって、何を見たの?」

「色々。海の上を走ったり弾を飛ばしたり」

「……?? そんなの深海棲艦なら誰でもできるじゃない?」

「ああー、そうじゃなくてー、うちのボスは艤装無しでやるんだよね」

「艤装、無し?」

 叢雲は思わず、左の席の浜波と目を合わせた。

 素足で海上を走る。素手で弾を飛ばす。

 できるわけがない。

 けれど、それをここで議論しても仕方ないと叢雲は思ったのだろう。肩を竦めて話を切り上げた。

「まぁいいわ……。確かにその北の魔女さんは、もう二年もの間この大ホッケサークルを出入りしてるんだもの。魔法じみた力があるかはともかく、何らかの法則か必要条件を知っているんでしょうよ」

「ぅ、うん。出れないと、困る……」

「そうねえ。私もこんなゴミの楽園からはさっさとおさらばしたいわ」

「……はン。あたしだって小うるさい女から解放されたいね」

 トゥリーの嫌味をよそに、叢雲は腕を組みながら記憶を掘り起こしてみる。大ホッケサークルに関する噂話について。

「昔の話だけど……ここから脱出したっていう艦娘がいたはずよ。名前は忘れたけど」

 あれは誰だったか。もう二年も前の話で、救助されたのも幌筵泊地だったから叢雲は噂でしか知らなかった。確かその噂では……大ホッケサークルの中心には瓦礫の島があって、そこには艤装の怪物を伴わない戦艦棲姫と素っ裸の魔女が居たと聞いている。それともう一つ……そんな与太話には誰も真面目に取り合わなかった、とか。

「ちょっとちょっとー? 叢雲、アンタさぁ、まさか一か八かで外海に出ようって考えてんじゃないでしょうね? あたしだって1000キロ走っても出れなかったんだからさぁ、自殺行為は止めてよね?」

「でも、脱出できる確率はゼロパーセントじゃないのかもしれないわ」

「あほくさー。待ってれば確実に出られるのにどうして命を賭けちゃうの?」

「確実ねぇ……。あんたら北方四天王とやらが本当に勝てるならいいんだけど」

「そりゃーいつかは勝てるでしょ。今んとこ五連敗だけど」

「あんたは戦らないの?」

「あたしが? ジョーダン! 防空棲姫とタイマンなんて相性悪すぎでしょ!」

「まぁ確かにね。艦載機を全部落とされて終わりだわ」

「そーいうこと。あたしは無駄死にはごめんだよ」

「ぁ、あの……」

 浜波がおずおずと手を挙げる。

「他の人は……2番さんと、4番さんは、戦わない、の……?」

「うん、それを今から決めるんだよね~」

 トゥリーはくいと顎を上げ、黒板の上を見た。

 時計があった。

 9時50分。

「10時からここで対策会議をやることになってんの」

 にやりと笑う。

「対策会議……?」

 何のための会議か? それは勿論、防空棲姫に対抗するための会議だろう。では誰と誰が話し合うのか? その答えも簡単だった。ここは北方深海基地。集まってくるのも深海棲艦に違いない。

「え゛?」

 叢雲は硬直した。

「ここに集まるの?」

 この木造の教室に。

 トゥリー以外の敵の幹部がやって来る。

 あと10分で。

「ぇ、ぇ、2番さんと、4番さんが……? こっ、ここに……っ?」

 トゥリーは半笑いで頷いた。

「そうでーす」

 こいつ、確信犯か。

 叢雲が気にしたのはその2人のスタンスだ。トゥリーと同じように艦娘に対して寛容なのか?

 期待する方が間違っている気がする、と叢雲は思った。ここは敵の本拠地、ホールドアップしても許してくれないかもしれない。……と、なれば。初めから顔を合わせない方がいいだろう。

 身を隠すために椅子から勢いよく立ち上がり、浜波の手を引いて振り返った。早く出よう、と足を踏み出したところで、しかし叢雲たちの動きは止まった。

 教室の入り口に見知らぬ和服の少女が立っていたからだ。

 透き通るような水色の瞳に、不自然なまでに白い肌。明らかに深海棲艦だった。

 駆逐古姫。

 背丈は叢雲よりも少し低かった。ヘアスタイルは黒髪ロング、和服の肩を紐でたすきがけにした楚々とした佇まいで、つるりとした肌質と相まってまるで等身大の日本人形のようだった。

「……」

 人形少女は無表情のままで視線を左右に走らせた。深海棲艦の領域に居るべきではない部外者たちをギロリと睨む。

「う……」

 その冷たい眼差しといったら。まさに深海棲艦に相応しい、底冷えする悪意すら含んでいた。

 叢雲たちは忘れていた。トゥリーがいくら友好的であろうとも、他の深海棲艦も同じとは限らないと。

「うっす、チーちゃん! 早いねー」

 トゥリーがあっけらかんと挨拶すると、チーちゃんと呼ばれた駆逐古姫の視線が若干和らいだ。

「……この人たち、誰?」

 声は少し甲高く、見た目通りの少女らしいものだった。

「うちの島に漂着してきた艦娘たち。一人は、前世の知り合いね」

「……へえ、そうなんだ」

「ここに居てもいいかなぁ? ほら、うちの島って他に待てる場所も無いしさぁ」

「別に私が決めることじゃないわ。ただ……」

「ただ?」

 和装少女はコツコツとヒールを鳴らして浜波と叢雲の間をすり抜ける。

「私は、艦娘は嫌いよ」

「あらら。私だって元は艦娘なんだけど」

「トゥリーはいいの。お友達なんだから」

「えへ、ありがと。でもさ、できればこの二人とも仲良くしてほしいな~」

 駆逐古姫は答えなかった。

 そのまま歩を進め、教室の前列、左側の席に座った。

 そこは浜波の前の席でもある。

 深海棲艦と隣接してしまった哀れな夕雲型の十三番艦はガチガチに固まっている。今更、席を変える勇気は無いだろう。

 駆逐古姫は背筋をぴっと伸ばして静止していたかと思うと、間を置いてから独り言のようにこう囁いた。

「チェティーリ。それが私の名前です」

 4番の意味である。

「……名乗るからには呼んでもいいってことかしら?」

 嫌いと言いつつ、名乗りはする。その態度をどう測るべきだろう。叢雲は緊張を隠しながら尋ねてみた。

 回答はシンプルだった。

「どうぞ、ご自由に」

 ひとまず、発言を許される程度には寛容なようだった。

「私は叢雲よ。こっちは浜波。宜しくね」

 叢雲は、敢えて堂々と名乗ってみせた。

 当のチェティーリは、黒板横に立つトゥリーの方を向いていて叢雲たちを見ていなかったけれど、それでも冷淡な反応を示す姫級に怯まなかったのはすごいとトゥリーは素直に感心した。

「はぇぇ、メンタルつえー」

 実はこのバッティングは、叢雲をびびらせてみたかったというだけの理由で仕組んだものだ。つい先刻のトゥリーと叢雲の邂逅はともかく、今回のチェティーリとは正真正銘の初対面。これには流石に怖気づくだろうとトゥリーは目論んでいた。

 ところがそれでも叢雲はびびらなかった。内心はともかく、とにかく引き下がらなかった。たいしたもんである。

 こういう人種がたまにいる。多分遺伝子からして人間力が違うんだろうとトゥリーは思う。……自分だったらどうだろう? もしいきなり艦娘の本拠地に放り込まれてしまったら、へーこら揉み手をしてへりくだっていたかもしれない。

 とはいえ、流石の叢雲も肝を冷やしていたのだろう。唇をぴくぴくと震わせながら凶悪な面相でトゥリーをぎりりと睨みつけていた。これが不良漫画なら『!?』とオノマトペが盛大に浮かんでいただろう。

「いやーごめんごめん。叢雲がそんな顔するのを見たくってさぁ」

「あんたねぇぇ……!」

「にひひひ」

 ようやく一つやりこめられた気がする。

 けれど浜波には悪いことをしてしまったかもしれない。彼女は今や机にへばりつく石像と化していた。熊を相手にする時のように動かなければ襲われないと思っているのかもしれない。教えてあげた方がよいだろうか。その対処法は間違っていると。

 まあいい。早く次のお客さんについて紹介してあげなければ。トゥリーは黒板前から入り口を眺めながら口を開いた。

「なぁに大丈夫だよ、叢雲ちゃん。お次の二番さんはアンタも知ってる人だから」

「はァ? 深海棲艦の知り合いなんて……」

 コンコン、と木製の壁をノックする音。

 開けっ放しの引き戸にノックは必要無いはずだ。ならば彼女は姿を見せるタイミングを計っていたのだろう。

 驚いた叢雲と浜波が振り返ると、上背のある女と、小柄な女が入り口に立っていた。

 上背のある女は、姫級だった。額には二本ツノ。衣服は薄く露出が多い。腹部からは巨大なワームのような怪物型の艤装が二匹も飛び出している。

 重巡棲姫。

「……」

 彼女は黙してただ直立し、小柄な女の斜め後ろに控えていた。まるで従者のように。

 となればその前に立つ小柄な女の方は、やはり主人となるのだろうか、重巡棲姫と比べて値の張りそうな衣服に身を包んでいる。黒く、フリルが施された上着。ゴスロリっぽい。首には狐色のファーティペットを巻いている。離島棲姫によく似ていたが、目の色が違った。オーロラを思わせる紫がかった青。

 北端上陸姫。

 彼女は、叢雲と浜波に目を合わせ、もう喋ってもいいかな? とわざとらしく微笑んだ。

「トゥリー君も意地の悪いことをするものね」

「こんちゃっス、先生。本日も御機嫌麗しゅう」

 確かに叢雲も知っている顔だった。浜波だって知っているはずで、それどころか日本中の、いいや世界中の誰もが知っている超有名人だった。

 かつてはTVにまで出演し、人類との友好を訴えた世界唯一の深海棲艦。彼女たちは多くの人間たちの猜疑の目に晒されながらも活動を続け、更には自らの勢力を率いて北極海に巣くう他の深海棲艦たちをも排除してみせた。彼女たちのおかげで北極海は人類の手に戻された……それは、どんなに深海棲艦を憎んでいる人間であろうとも否定しきれない事実だった。

 人呼んで『ピースメイカー』……そんな大物の登場に、艦娘二人は見事に固まっていた。

 トゥリーはしたり顔で思い出していた。それは、一昔前のコマーシャル。

 居酒屋でサラリーマンが酔っ払いながら「日本の政治家は情けない! 俺ならガツンと言っちゃうよ!?」と息巻いていたら、話題にしていた米国大統領が現れるという筋書きのアレだ。

――どうだ叢雲、流石のあんたも驚いただろう?

 場の注目を集めた北端上陸姫は、鷹揚に肩を竦めてみせた。

「ひとまず挨拶しましょうか。こんにちわ、トゥリー君。チェティーリ君。今日も先を越されてしまったようだ。日本人は5分前行動を習慣にしていると覚えていたけれど、チェティーリ君をみるに10分前行動が正解だったかしら? 実に勤勉、頭が下がる思いだね」

「……いえ、そんなことは」

 駆逐古姫は遠慮がちに頭を下げてみせた。

 北端上陸姫は目尻を緩めて微笑んだ。続いて二人の艦娘に目を向ける。

「初めまして、艦娘のお嬢さん方。叢雲君に浜波君……だったかな? ああ、ご覧の通り扉が開かれていたもので外まで聞こえてしまったのだよ。盗み聞きするつもりはなかったけれど、気分を害したなら謝罪しましょう。私の名前はドヴェ。ノーリ様……君たちには『北の魔女』の方が馴染み深いかな? その魔女の配下がこの私というわけだ。この身は深海棲艦ではあるけれど、君たち艦娘とも仲良くしたいと思っている。同じ孤島に閉じ込められてしまった者同士、手を取り合っていければ嬉しいのだけれども。……どうかな? そこの前髪が個性的なお嬢さん?」

「ふ、えぇっ?」

 突然話を振られた浜波は、ぱくぱくと口を開閉しながらもなんとか「ぃ、いいと、思う、ます」と答えた。

「叢雲君はどうかしら?」

 叢雲は、口をぎゅっと真一文字に結んでいたが、何も喋らないわけにもいかないと諦めたようだった。

「……日本語が、上手いのね」

「勉強しているからね。それは知っていることでしょう?」

「ええ、知っていますとも。TVでは流暢に話しましたからね……ピースメイカーさん?」

「敬語は止めましょうか。まるで私が偉いみたいじゃない?」

 言われて叢雲はハッとした。無意識のうちに気圧されて敬語になっていたと気付き、そんな自分に歯噛みした。

「私とあなた達は初対面。けれど、第一印象を持つ前からイメージができていたでしょう? ピースメイカーという名の幻想がね。それも私なのは間違いないけれど、インタビュアー越しの虚像でしかないのもまた事実。できればあなた達にはその目と耳で“私”を判断してほしいね」

「それは……」

 叢雲は、若干言い淀み、

「そう単純に割り切るのは難しいわ。それほどあなたに関する噂は強烈なのだから」

「ふむ、噂ねぇ」

 元ピースメイカー。現ドヴェ。艦娘からの仮称は、北端上陸姫。

 そんな厄介な姫級が、こつこつと靴の音を立てながら教室を横切った。黒板の前に立つ。

 トゥリーは壇上を譲って、教室の前列、右側の席に座った。

 重巡棲姫は無言で、番犬のように入り口の横に陣取った。

 どうやらこれがいつもの定位置らしい。

 前列中央の席が空いているのが叢雲は気になったが、今は意識を割いている場合ではなかった。

「噂。それはどんな噂かな?」

 元ピースメイカーはふわりと振り返りながら叢雲に問うた。その余裕のある表情はまるで世の理を教える教師のようだ。

 ここが教室という場所であるせいでどうにも上下関係を意識してしまう。叢雲は頭を振って意識を切り替えた。

「それって言ってもいいわけ?」

「どうぞ?」

「裏切り者。大虐殺者」

 なんの遠慮もなく放たれた言葉は凶器だった。浜波は肩を震わせて縮こまり、トゥリーは椅子に寄りかかりながら口笛を吹く。

「北極海を制した直後、用は済んだといわんばかりにロシアの民を虐殺したと聞いているわ」

 けれども元ピースメイカーは微塵も揺るがなかった。

「そうね、それが一つ目の噂。二つ目は?」

「……真の平和主義者。あなたはハメられただけって言う人たちもいるわ。……あの虐殺は、与党の自演。あなたに協力する野党と親深海棲艦派の台頭を恐れた与党が諸共攻撃したんだって……。どっちが真実なのかしら?」

「世の中には知らない方が良いこともある……なぁんて台詞では納得しそうにないね」

 北端上陸姫はゆっくりと髪をかき上げながら室内の全員を順に見渡した。

 叢雲を、浜波を。駆逐古姫を、護衛棲姫を。

 重巡棲姫は見なかった。

「私が殺しました」

 叢雲はぎょっとする。

 それを見て、元ピースメイカーは微笑んだ。

「……あるいは、私は殺していません。そう言ったところで証拠は無いのだよ。所詮、口だけ。だったらこの問答に意味は無いでしょう?」

「それは詭弁よ」

「口に出すことに意味があるとでも? だったら言ってあげましょうか。“私は、人間を殺してない”」

「……」

 虚しく響いたその宣言をどうとるべきか。証拠も伴わない発言を信じられるわけがない。それはたった今、元ピースメイカーが言った通りだった。

「信用よ」

 元ピースメイカーは指を一本立てて語りだす。

「人と人は繋がっていない。意思を伝えるには言葉を介するしかない。その疎通は、どうやっても不完全になるでしょう。嘘は通り、誤解も生まれる。だからこそ、信用の価値は重いのです」

 まるで一つの講義のようだった。

「ふふっ、深海棲艦が信用なんて、と思うかな? でもね、戦場に生きる身ならば分かるはず。時に信用は百万の弾薬よりも重い。その有無で敵が味方に変わるのだから。故に私は、信用を得るために誠意ある行動を心がけている」

「……だから?」

「あなた達にも教えよう。私は生まれてから一度も嘘をついたことがない。言葉に価値を付与するためにね。……無論、聞いたばかりのあなた達にとってはまるで重さの無い宣言にしか受け取れないでしょう。だからこそその目と耳で判断してもらいたい。この私の行動と発言にどこまで信用をおけるのか? 無責任なメディアや社会的な立場に左右される政治家に影響されるのではなく、ね」

 教室が静まり返る。

 誰も、何も言わなかった。

 北端上陸姫は手の平をパンと打ち鳴らす。

「なんだか冷えてしまったね。そこのストーブはつかないのかな?」

「……へっ? ああ、つくよ、先生。つけよっか?」

 トゥリーが俄かに立ち上がり、元ピースメイカー……いや、ドヴェは点火を頼んだ。

 冷えた、とは勿論温度のことではないだろう。張り詰めたこの雰囲気を切り替えようと言っているのだ。つまり、これでこの話は終わりという意思表示なわけで……。

「……うん? 冷えた?」

 叢雲は気付いた。

 この島、別に寒くない。

 おかしかった。そんなはずがあるわけないのだ。

 だって、ここ北方深海基地は大ホッケ海の中心。本来なら流氷漂う極寒の海だ。

 当然、薄着でうろつけるわけがない。

 しかし叢雲も浜波もへっちゃらだ。主機を止めているのにまるで寒くない。むしろ本土に居るように過ごしやすい。

「どういうこと……?」

 艦娘二人は顔を見合わせて困惑する。けれど考えても分からない。この島は一体どうなっているのだ?

 そんな彼女たちをよそに、ドヴェは時計を見上げながら呟いた。

「10時5分。我らが主様は相変わらず時間を守らない。困ったものだ」

 開かれた引き戸の外から、甲高い金属音が届いた。誰かがゴミか何かを蹴飛ばしたような音。

 誰か来た。

「今度は誰よ……」

 疲れきった叢雲の声に、応えるように一人の幼女が飛び込んできた。

「ふぅーははは!」

 裸足で、真っ白い長髪で、何故か一糸纏わぬ姿だったが、それ以外は、かの北方AL海域に住む北方棲姫によく似ていた。背丈も同じぐらいで、違ったのはその頭部ぐらい。髪質がさらさらとたなびくストレートで、何より頭部にツノがついてなかった。

 北方棲姫の亜種だろうか。

「待たせたなー、お前たちっ」

 やたら偉そうな幼女だった。

 トテテテと教室を走りぬけ、目を丸くする艦娘二人を歯牙にもかけず、前列中央の机によじ登る。仁王立ちして、腰に手をあてながらふんぞり返った。

「我こそはー! んんっ、我こそはぁー! 北の魔女であるぅー!」

 おままごとのような口上だ。

 なんだこいつ、と叢雲たちがあっけに取られていると、他の深海棲艦たちが一斉に幼女に向き直った。

「ボス~、遅刻しすぎだって!」

「……こんにちわ」

「ノーリ様、机に乗ってはいけません。常識というやつですよ。前回教えたばかりでしょう?」

「はっはっは。私は知ってるぞ、まずは挨拶、こんにちわだ。こんにちわ! こんにちわ! こんにちわ! ……どーだ!? ジョーシキできただろう!」

 がやがやと活気付く北方四天王の2・3・4番たち。その中心にいる幼女は、ボスと呼ばれ、0番を意味するノーリと呼ばれ、自分では北の魔女と名乗った。更に誰もが一定の敬意を払っている。

 もしかしてのもしかしてだった。

 浜波が珍しく「ぁ、あのぅ……」と声を上げた。「むっ?」と振り向いた幼女に向けて真偽を問いただす。

「あなたは、北の、魔女さんですか……?」

「そうだっ。私は北の魔女!」

「し、死んでるんじゃあ……?」

 そういう話だったはずである。というか、それ以前に、かの有名な北の魔女は成熟した女の姿と報告されている。幼女であるはずがない。

 だが目の前の自称・北の魔女は、窓の外にぴっと指を差しながらこう答えた。

「あっちで死んでるぞっ。本体がなっ!」

「ほ、本体……?」

「私は北の魔女だが、本体ではないっ。ええと、なんだ、何ていうんだ? 偽者……ではなくて、本物だけど、でも本体じゃない。そういうやつだ!」

 浜波はあっけに取られていた。

 口を大きく開けて、自分の耳か頭を疑っているような顔をした。何かが狂っているけれどそれが何だか分からない。正常な判断をしてもらいたくて彼女は隣の叢雲を見た。

 叢雲も似たような顔をしていた。

「私はな、北の魔女カッコカリだっ」

 もはや意味が分からなかった。

 この島では全てがでたらめに動いている。




大ホッケサークルについて。
空間は歪んでないです。光が屈折して変なふうに見えてるだけです。

ゲーム本編のほうはE6を残すのみとなりました。
手をつけるのが億劫です。その現実逃避でこの二話目ができあがりました。
うん? ゲームの現実逃避……? 何かが、おかしい……。


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3-3:叢雲VS駆逐古姫

「北の魔女……カッコカリ?」

「そうだっ」

 叢雲の呟きに、机上の幼女は満足そうに頷いた。

「あなたが、本物の北の魔女……?」

「うむっ」

「けれど本体ではない……?」

「そのとーりっ」

 そんな満面の笑みで言われても。

 常識的に考えて、全然分からない。

 “本物”という言い分は分かる。

 けど“本体”ってなんだ?

 叢雲は改めて机の上でふんぞり返っている幼女を観察した。

 ツノは無い。艤装も無い。身体の線は細く、人間の子どもと言われても信じられる貧相さ。

 しかし彼女の周りには誰の目にも明らな深海棲艦たちが寄り集まっていて、その全員がそれなりの敬意を払っている。

 ただのホラ吹き幼女ではないのだろう。恐らく何かがあるはずだ。元艦娘のトゥリーや、ピースメイカーと呼ばれた狡猾な女を納得させて、従わせるだけの何かが。

 黙って見ているだけでは分からない。叢雲は探ってみることにした。もしかしたらその情報は北の魔女攻略の鍵になるのかもしれない。

「本体じゃないってどういうことかしら?」

「本体はあっちで死んでるよ。……さっきも言っただろー?」

「よく分からないわ。あなたは、何なの? 魔女の艤装か何かなの?」

 深海棲艦の艤装は、生きている。

 例えば戦艦棲姫の艤装がそうだ。

 その身長4メートルを超す人型の化け物は、本体である黒髪女の大型主砲を運ぶための奴隷のように見えて、その実態は戦艦棲姫とケーブルで繋がっている一つの兵器だ。独立した生き物ではない。本体に付随する艤装なのだ。

 だからこの幼女も似たような生き物ではないかと叢雲は考えた。この目の前で偉そうにしている幼女は、実はケーブルで繋がっていないだけで北の魔女の艤装のような役割を持っているのではないかと。

 しかし、答えは否だった。

「ギソーじゃない! 私は私だっ」

「だったら何なの? あなたも本物だって言うなら北の魔女が複数いることになるんだけど?」

「だから、どっちも私なんだってば! それも説明しただろう!?」

「されてないけど……」

「んあっ? なんだとぉ~?」

 叢雲は困惑し、幼女は不思議そうにぽかんと口を開けてみせるだけ。どうにも話が噛み合わない。認識が食い違っている。

 その差を埋めたのは、北の魔女、2番目の部下だった。

「ノーリ様。彼女たち艦娘は、この島に来たばかりで何も知らないのですよ」

「ええっ? だってあんなに何度も、何度も、説明したじゃないかっ」

「いえ、ですから……あなたが説明したのは我々に対してだけです。アドナーとこの私、そしてそこのトゥリー君、チェティーリ君の4人にしか伝えてないでしょう?」

「んん? 4人? ……4人だけ?」

「そうですよ」

「……じゃあ、こっちの艦娘2人はな~んにも知らないってことか?」

「その通りです。私たちは個別なのです。繋がっていないのですよ」

「うー、面倒だなぁ!」

「そういう生き物なのです。人間と深海棲艦は」

「えーい、もういいっ、お前が説明しろ!」

「はぁ、ご命令とあらば構いませんが」

「……え、それ説明しちゃっていいんスか? わりと核心的な話だと思うんスけど」

 今度はトゥリーが割り込んだ。

 が、彼女のボスは取り合わない。

「別にいい。気にするなっ」

「えー、いいのなぁ……」

 トゥリーは食い下がり気味だったが強く止めるつもりもなさそうだ。

 北の魔女とは何なのか? ただの深海棲艦と違うなら、何がどう違うのか?

 それは深海棲艦のボスの性質に関わる話かもしれなかった。

 頭を狩れば群れは瓦解する、それが深海棲艦の習性ではあったけど、何故そうなるのかまでを知る者はいない。少なくとも人類にとってはそうだ。その答えを知るチャンスがきたならば叢雲でなくとも知ろうとするのは当然だろう。

 思わず肩に力が入ってしまう、そんな叢雲を横目で見ながらドヴェはにこりと微笑んだ。

「ではこうしましょう。これから演習をして、艦娘たちが勝ったら教えるのです。負けたら何も教えません。更に加えてもう一つ……装備を一式預かって今後も大人すると誓ってもらうというのはどうでしょう?」

「エンシューだぁ~?」

「ええ。その方が面白いでしょう?」

「そうかなぁ? どうしてそんな面倒な手順を踏むんだ?」

「勝負ですよ、ノーリ様。欲するもののために戦う、その姿を見たいでしょう?」

「むっ。そういうことか。流石だな、ドヴェ! お前は頭がいいっ!」

「それほどでも」

 ドヴェと呼ばれた北端上陸姫は挑発的に目を細めて向ける。

「叢雲君、受けてもらえるかな? そちらにとっては願ってもない話だろう?」

「……勝手に話を進められるのは気にくわないけど、まぁいいわ。やってやろうじゃないの」

「え、えぇ……いい、の? 負けたら装備、取られちゃうよ……?」

 浜波は怖気づいていたけれど、これは確かに願ってもない話なのだ。勝てば貴重な情報が手に入る。負けたとしても多少不自由になるだけ。元より敵の本拠地にいて拘束されていない時点でありえないのだ。ならば実質ノーリスク。受けない話はない。

 けれど気になるのは勝負の内容だ。

「一体どんな勝負をしようっていうのかしら?」

 まさかこの場の姫級たちを全員相手にできるわけもない。自称・北の魔女は別にしても、その他は錚々たる顔ぶれだ。北端上陸姫・護衛棲姫・駆逐古姫……壁際には重巡棲姫まで控えている。対してこちらは駆逐艦娘が二人だけ。性能も人数も大きく負けているとなれば結果は火を見るより明らかだ。

「安心して。一騎打ちよ」

 ドヴェは、ついと傍らの駆逐古姫を流し見て、

「チェティーリ君、相手をしてあげなさい」

 と対戦相手を指名した。

「えっ、私ですか? どうして……」

 急に話を振られた少女は目を丸くする。人形めいた容貌の深海棲艦でも虚を突かれると少女らしいあどけなさを見せるらしい。その表情は、初対面で抱いた冷たいイメージとは少し違っていて、叢雲と浜波は軽く驚いた。深海棲艦といっても全てが埒外な存在でもないようだ。

「チェティーリ君、何事も経験だよ。これは演習といえども艦娘と砲を交える貴重な機会だ。君にとっては大きな財産となるだろう」

「そう、でしょうか。……いえ、そうなのでしょうね。確かに私が一番未熟。訓練としてはまたとない機会でしょう」

 駆逐古姫は一応の納得を見せたが、残る疑問について問いを投げかけるのを忘れなかった。

「でも、それだけじゃないですよね?」

「ふむ?」

「私の未熟さが、艦娘と駆逐古姫の性能差を埋めるのに丁度良いのですね? 公平な勝負とするために」

 ドヴェはわざとらしく首を振ってみせた。

「……少し違う。君は自身の精強さを分かっていない。多少の練度差ぐらいでは埋まりはしないのだよ」

その台詞を聞いたチェティーリは、なぜか顔を強張らせた。

「……私が、精強? 今更……」

 口元には、苛立ちさえ滲ませて。

 剣呑な雰囲気に、隣の浜波は思わず身を縮こまらせてしまう。

「今の君には力がある。昔とは違ってね。そこに不都合はあるのかな?」

「……いえ」

「だったら振り返るのは止めなさい。先を見ろと常々言っているでしょう?」

「分かってはいるのですが……」

 チェティーリは黙り込んでしまう。どうしたものか、事情をさっぱり飲み込めない叢雲たちは口を挟むこともできなかった。

「なんだぁー? エンシュー、やらないのかー?」

 無知な子どもには微妙な空気なんて関係ない。ノーリは「よっ」と机から飛び降りて、遠慮なしに問いかけた。ドヴェはにこりと笑って、「やりますよ」と答える。

 元ピースメイカー。今はこの北の魔女一派のまとめ役をしているらしい小柄な女は、髪をかき上げながら部屋の出口を指差した。

「ひとまず海に出ましょうか」

 

 

 赤い海の上に出た。

 そこはトゥリーの島とチェティーリの島の間の狭い海。この範囲ならどこぞに迷い込んでしまうこともないとドヴェは言った。

「演習だよ、諸君。繰り返すがこれは実戦ではない。誰の目にも明らかな決着を望むなら実弾を使うべきだがね、我々は禍根を残したいわけじゃない。ここは試合形式に拘ろうじゃないか。なぁ、君もそう思うだろう、叢雲君? 深海棲艦には成りたくあるまい?」

「私が負けると言いたいの?」

「火力と装甲を加味するならね。君に勝ち目はなくなるよ」

「言ってくれるじゃない」

「君には、かの夕立君や綾波君ほどの腕があるのかな?」

 それは日本の駆逐艦娘たちの名前だった。確かに有名な強者たちではあったけど、その名が北の果てからやってきた深海棲艦の口から出るとは思わなかった。

――狂犬夕立。撃った数だけ敵が死ぬ、射程に入れば確殺できるとまでいわれたソロモンの悪夢。

――鬼神綾波。そこが夜の世界だったなら、艦種・姫級の区別なく、狙った首は必ず狩り獲る執行者。

 そこまでの腕は、確かに叢雲にはない。

「……ピースメイカーさんは極東の島国の艦娘事情にも詳しいのね」

「情報だよ、叢雲君。知っておいて損はないだろう?」

 ドヴェはこめかみをトンと叩いてみせる。そこに膨大な情報が入っていると示すように。そして古参駆逐艦の叢雲についても当然知り尽くしているといわんばかりに。

「そういうわけだから、きちんとルールを定めたらいい勝負になると思うのだよ」

 波打ち際でドヴェが嘯く。

 そこには観戦者たちが野次馬となって並んでいた。自称・北の魔女のノーリ。元艦娘の護衛棲姫トゥリー。傍には浜波が不安そうに立っている。

 一騎打ちには叢雲が名乗り出た。いくら演習とはいえこれは深海棲艦が言い出した勝負。何が飛び出るか分からない。そんな危険な戦いに着任数ヶ月の娘を放り込むわけにはいかなかった。

「弾を貸してくれたまえ」

 唐突な提案に面食らいつつも小口径主砲用の弾を手渡すと、ドヴェはそのままノーリに回してこう言った。

「ノーリ様、演習用にしてください」

「うむっ」

 幼女はしゃがみこみ、足元の赤い海に腕を浸した。手にした実弾が沈んで見えなくなる。

「……?」

 動かない。訝しんでいると十秒ほどで腕を引き上げて、海水が滴る弾束を叢雲に放り投げた。

 慌ててキャッチする。

 見ると、色が変わっていた。

「赤い……」

 まるで塗料で塗りつぶしたようだった。

 そんなことがあるだろうか? 叢雲が島に漂着したときは海に浸かっていたけれど服も肌も染まらなかった。なのに今だけは色がついた。どういうからくりだろう?

 眉をひそめる叢雲に、ドヴェは応えない。ただ弾の束を指差すだけだ。

「ペイント弾だよ。これで破壊力は極限まで落とされた」

 中身まで変わったと言う。

 そんな馬鹿な、と言いかけた。が、論より証拠。試しに装填して、波打ち際の古タイヤを撃ってみた。

 ビシャッと赤い塗料が広がった。

 タイヤには凹み一つもついてない。

「……なにこれ」

 まるで狐に化かされているようだった。

「――さぁて始めようか。ルールは単純、先に3発当てた方の勝ちだ。……おっと、魚雷を忘れていたよ。どうする? 貸してくれればまた演習用にしてあげるけど」

「結構よ。主砲だけの勝負にしましょう」

 本音では雷撃も使いたかったが叢雲は敢えて突っぱねた。何もかも向こうの言うままなのが気に入らない。雷撃こそ己の得意とする戦法ではあったけど……主砲一本でなんとかしてみせよう。

 叢雲と駆逐古姫が、およそ10メートルの距離で対峙する。

 相手は能面のような表情を保っている。自分では未熟と言っていたけれどどこまで信用できたものか。油断はできない。……いや、正直に言ってしまえば、技量云々より前に姫級と1対1の勝負をするというこの状況が恐ろしかった。ペイント弾を使うと公言されてはいるが相手が化け物クラスのスペックなのは変わらない。その性能は並みの戦艦以上。まるで安心できない。

 だからこそ叢雲は、堂々と胸を張り、高らかに口火をきった。

「――始めてちょうだい!」

「では」

 ドヴェは浜波に合図を送る。

 少女は本当にいいのだろうかと迷いながらも主砲を空に掲げてトリガーを引いた。

 砲声が鳴り響く。

 ――演習開始だ。

 海上の2人が同時に主機を駆動させる。

 両者、重心を傾けて方向転換。鏡に映したように並行して進む。

 駆逐艦は機動力が命、まずは運動エネルギーの確保が原則だ。トップスピードを目指しながら敵の挙動を凝視していると、

 いきなり撃ってきた。

「っ!?」

 砲弾が叢雲のたなびく髪を突き抜けた。

 続けて2発目、3発目。

 それらは叢雲の皮膚上、数十センチを通って消える。

 ひやりとした。

 精度がいい。だが。

(素人か? 本当に)

 こちらが速度を得る前に当てるつもりだったのだろうが、タイミングとしては悪手中の悪手。

 撃てば、加速は殺される。3発も撃ったせいで駆逐古姫は未だ中速の段階にいる。代わりに加速に専念した叢雲はトップスピードに乗っていた。その速度差は駆逐艦同士の戦いにおいては致命的。

 叢雲はぐるりと軌道を変えて相手の進路上を横切った。敵を正面に捉える瞬間こそ好機。移動軸と射線が重なって最も命中率が上がる。T字有利だ。

 流し打ちが、2発命中。

 敵も反撃してきたが、高速で真横に突き抜ける駆逐艦を捉えるのは至難の業だ。当然、当たらない。叢雲は勢いのまま急速旋回。敵に尻を狙われないように右に左に軌道を変えて追撃を見事に切り抜けた。

 波飛沫を上げながら距離をとる。

 安全を確保してから回頭。

 その頃には敵もトップスピードにのっていた。再び並列に対峙する。

 見ると、相手の身体に2ヶ所の血痕が散っていた。いや、あれはペイントによる塗料か。……やはり、本当に弾の性質が変わっている。

 だが今はそれに気を取られている場合ではない。

 あと一発、どこかに当てればこちらの勝ちだ。だからこそ油断は禁物だと叢雲は気を引き締める。相手も先程の愚を悟り無駄撃ちを控えているようだった。巨大な顔型の主砲を構えながらもチャンスを伺っている。

 こうなれば航行技術の差がものをいう。

 離れ、近づき、波を駆けているとよく分かる。駆逐古姫は体重移動がスムーズではない。バランスを崩さないように若干の確認を挟んでいる。

 あれは本当に素人だと確信した。

 となれば確実にイニシアチブを奪っていくだけだ。

 叢雲は巧みに方向転換を続け、追いすがる駆逐古姫を少しずつ抑えこんでいく。狙いは再びT字有利。敵の進路を抑えてペイント弾を命中させればいい。

 駆逐古姫はぎりりと唇を噛みしめる。

 王道の戦法。それは種が割れていようともハマれば逃れられない優れた手管。姫級だろうと通用する。叢雲は12.7cm連装高角砲の照準を敵へと向け、

 狙いを定めようとしたときだった。

「――――」

 駆逐古姫が目を見開いて、何かに気付いたように呟いた。

 その唇の動きを、叢雲はかろうじて読み取ることができた。

『りようされた』

 バキン、と。鉄が割れる音がした。

 駆逐古姫の背中が膨張する。

「!?」

 メキリメキリと蠕動し、背面から別の生き物たちが伸びてくる。

「な……あれは!?」

 巨大なフジツボのような――いいや、目の無いイ級のような顔たちが、沸騰する泡のように互いに競り合って、痙攣し、最終的には3つの首が形成された。その太さは、小さな個体でも古姫の胴体と同じくらい。でかい奴は2倍近くある。おぞましくも歯を円状に並ばせて、口内をうっすらと紫色に輝かせながら、怨嗟を放つように唸り声を上げている。その形状は、まるで本体が手に持つ主砲のようで――

 その類似性に気付かなければ喰らっていた。

 駆逐古姫の背中から生えた3匹のイ級もどき。その口内から一斉に砲弾が放たれた。

「っ!」

 なんとか避けられた。転倒直前まで身を投げ出すことで。必死にバランスを立て直し、向き直りながら、叢雲は見た。

 古姫の、怒りに染まった表情に。

 そこには先程までの静謐さは欠片も無い。

 まるで誰かの仇のように叢雲を睨みつけている。

「……騙すほうが、悪いけど……騙されるほうは、馬鹿なのよ……。そして損をするのは、いつだって騙されたほう……」

 突如として雰囲気が変わっていた。その見た目同様に。古姫の背中には胴の4~5倍にもなろう体積の化け物たちが蠢いていた。古姫本体よりはるかにでかい。いかにも動きが制限されそうであったけど、鈍さは感じられなかった。姫級ご自慢の出力のおかげだろう。ただの駆逐艦娘とは馬力が違う。

 怪物と化したチェティーリ。彼女は、なぜか、その怒りを仲間であるはずのドヴェにぶつけた。

「――ドヴェさん! 私を利用したのね!?」

 遠く、波打ち際に立つ北端上陸姫は、まったく悪びれずに頷いた。

「その通り。君はきっと苛立ってくれると思ったからね」

「私の経験のためにとか言ってたくせに……!」

「嘘じゃない。だって、それが技量の分野だけとは言ってないのだからね。……思い知ったでしょう? まんま誘導されてるようじゃ甘すぎる」

「……っ!」

「逆に聞くけど、どうして私が得るものも無いただの演習を提案すると思ったの?」

 ドヴェは唇を釣り上げて、並んで試合を観戦しているノーリの肩に手を置いた。

 その幼女は、苛立つ仲間チェティーリの表情を見て、楽しそうに目を輝かせていた。それはそれは本当に楽しそうに。憧れのヒーローショーを観戦している子どものように純真で。

 その光景は、どこか異常だった。言いようのない気色悪さに叢雲は舌をうつしかない。

「あんたら一体……何の話をしてるのよっ!」

 今は勝負の最中だ。何の事情があるか知らないが、隙を晒すなら逃さない。

 古姫に向けて砲撃。

 集中力を乱していたはずの少女は、しかし瞬時に回避してみせた。

 ターンにキレがある。

 思い切りがよくなった。怒りで慎重さを捨てたから?

 波飛沫を立てながら、古姫のガラス玉のような眼球がぎょろりと回り、敵である叢雲をロックした。じろりとねめつける。

「あなた……叢雲さんっていったわね?」

「……あによ」

 うねうねと背中の艤装たちが蠢いている。生きた艤装。深海棲艦特有の艤装。だがしかしそれが身体から生えてくるものとは知らなかった。装備が変化してできるものだとばかり。

 様子を伺うしかない叢雲に、古姫はいっそ穏やかに話しかけた。

「悪いけど……今から八つ当たりをさせてもらうわ。あなたに非が無いと分かっていても、その在り方は私にとって目の毒過ぎる」

「は? どういうことよ?」

「私は未熟だけれど、それでもあなたが長い時間を積み重ねて強くなったことぐらい分かる……。さぞかし恵まれた環境に居たのでしょう? それを想うと、苛々してしょうがないの。更には、」

 ぎりりと、歯を食いしばる。

「ドヴェさんはそうと分かって私を指名した! この逆恨みを見世物にするために! そして何よりも腹に据えかねるのは……生まれ変わって、尚! いいように利用されている、この私自身よッ!」

 古姫が叫び、艤装が唸る。

 気圧されるより先に砲弾が飛んできた。必死に避ける。避けながら考える。まずは落ち着け。想定外の事態ではあるけれど分からないことだらけじゃない。よく見ろ。ただ敵の武器が3つ増えただけだ。そして自分には長年培った航行技術がある。対処できる。必ずできる。

 敢えての深呼吸。

 トライアングル状に散らされた砲弾が周囲に着水した。水柱が上がる。続いて手に持つ主砲からも弾が飛んで来る。

「っ」

 掠めるような一撃だった。

 急加速して距離をとる。

 が、敵も追いすがってきた。背中の大質量をものともしない。ピタリと後方につけられる。すぐに3本の主砲が蠢いて一斉射、回頭して避けて、そこにまた腕の主砲が牙を剥く。

――なんとなく分かってきた。

 叢雲は大きく脚を開いて波を引っかける。ありったけの大減速。敵の弾丸が鼻先に消えていく。

(――敵は、1人でしかない!)

 敵の背に生えた3匹の艤装――その数に惑わされていた。別個に蠢いている様子からそれぞれに意思があるようなイメージを持ってしまっていた。錯覚だ。敵が3人増えたわけじゃない。あれらはむしろ三連装砲に近い性質。同時撃ちしかできない。あるいは別個に撃てるのかもしれないが、それぞれ精密に分業できるわけじゃない。

 背中から3発同時に雑に撃ち、動きを制限したところを腕の主砲で撃ち抜く。

 恐らくそんな戦法なのだろう。

――数に惑わされるな。後手に回れば圧し潰される。

 減速した叢雲に古姫が追いついた。古姫の速度が僅かに緩む。自分も減速するか迷ったからだ。

(ここだ!)

 つけいる隙。

 古姫はいっそ駆け抜けてしまうか、接近に専念するべきだった。

 半端な速度で走る古姫が叢雲を追い抜かし、その後ろに叢雲が食らいついた。古姫は速度を上げて引き離しにかかったが、叢雲は当然離れなかった。背後から必中のタイミングを狙い続ける。その瞬間は遠からずやってくると叢雲は予測した。

 ぐるり、と。敵の背の主砲が1本、真後ろを向いた。

 追尾する叢雲を排除するために。

(真後ろにも撃てるの!?)

 一撃が放たれる。

 見当違いの方向だった。

(しまった……!)

 今のはブラフだ。見もしないで当たるわけがない。

 古姫は大胆に減速。互いの距離が近付くが、叢雲はブラフに気をとられていたせいで狙えない。

 このままでは彼我の位置関係がまた逆転してしまう。

 ドッグファイトの前側になってしまう。

――ならば、いっそ。

 追い抜きざまに、叢雲は思い切りカーブを切った。海上ドリフト。弧を描いて真横へ動く。

 直進する古姫と、急カーブした叢雲。

 互いの距離が離れていく。

 せっかくのチャンスを逃すまいと古姫は勢いよく加速した。

 その瞬間こそが狙い目だった。

 波を足先をひっかけながら弧を描いていた叢雲が、別の波に引っかかって転倒した……ように見えた。それは意図的な跳躍だった。全身を捻りながら宙で振り返る。追いすがる古姫を正面に捉える。

 真っ直ぐに進むだけの古姫は、動かぬ標的も同然だった。

「あ――」

 加速の出鼻をくじくカウンター。古姫も気付いたが遅かった。

 叢雲の照準はぴたりと古姫の左胸に定められている。

――ダァン!

 乾いた発砲音が響いた。

 

 

「やるねえ! 流石は日本の水雷戦隊だ!」

 パチパチパチと、ドヴェの白々しい拍手が勝者の叢雲を出迎えた。

「……やめて。これで勝ったなんて言えないわ」

「どうして? 3対1の結果で不満かい」

「ええ、おおいに不満よ」

 叢雲の左肩には赤い塗料がついていた。それは古姫の最後の悪あがきだった。

――最後の瞬間。

 古姫は咄嗟に半身になりながら砲撃で迎え撃っていた。

 結果は、相打ち。

 叢雲は1発被弾したけれど、3発先取して勝利した。加えて言うなら、その最後の相打ちも、相手の心臓部に見事に当てただけ叢雲の方が精度においても優れていたといえるだろう。

 しかし、そんなのは演習だから通用する話だ。

――もしもこれが実戦だったなら。

 肩に実弾を食らった叢雲は、海上を無様に転がって停止したところを狙い撃たれていただろう。あるいはそれ以前に、撃たれた肩ごと左腕を持っていかれて終わっていたかもしれない。それに比べて敵はどうだ? 駆逐艦の豆鉄砲が3発当たったからなんだというのか。その程度、姫級にはカスリ傷にしかならない。せめて10発は当てなければ中破もしない。

 つまり、この演習結果は確かに『3対1』ではあったけど、叢雲にとってはお情けの勝利でしかないのだ。

(最後の一撃を当てられるとは思わなったわ)

 空中で弧を描いて飛んでいる相手を撃ち抜くのは至難の業だ。着水した瞬間ならともかく。……敵は、砲撃精度だけは玄人並みだった。

 試合前のドヴェの言葉を思い出す。

 

――火力と装甲を加味するならば君に勝ち目はなくなるよ

 

 まさに言われた通りになってしまえば反論のしようも無い。

 苦々しい顔をしている叢雲。遅れて上陸してきたチェティーリも、同じぐらいに不機嫌だった。口をへの字に結んでしまって何も言わない。負けたからだけではない。彼女の意に添わぬ何かをドヴェがやったからだ。

「あーあー、最悪の空気だよ。これ、先生のせいだよ?」

「でしょうね。けど多くの者に得る者があったでしょう?」

「ええ? どの辺が?」

 トゥリーは首を傾げるばかり。

「チェティーリ君は、自身の未熟を再認識した。叢雲君は勝利を得た。ノーリ様は魂の輝きを見られた」

「う~~ん。そのために皆がいや~な想いしてるからなぁ」

「んあっ?」

 幼女は両手を大きく揚げて抗議する。

「私はイヤナオモイしてないぞ!?」

「あー、そうですね、ボス。そういうのは趣味が悪いから言わない方がいいッスよ」

「んん? シュミガワルイ?? なんだそれは?」

「嫌われるってことッス」

「キラワレルとどうなるんだ?」

「……ああ、もう、いいです。難しいから今度にしましょ」

「む、そうか? ムズカシイなら仕方ないな」

 チェティーリは無言だった。苛立ちを晒すまいと背中を向けて歩き出す。そこにドヴェが声をかけた。

「私をなじらないのかい?」

「……私が頼んだことです。強くしてほしいと……。けど!」

 細い肩が激高に揺れる。

「今は冷静に話せそうにありません! 失礼します!」

「そうかい。では、夜にここで待っている。9時でいいかな? 反省会をしようじゃないか」

「……っ」

 古姫は勢いよく海に飛び出した。飛沫を散らしながら主機を駆動させ、隣の島へと振り返らぬまま去っていった。

 徐々に小さくなっていく背中を見送りながら、トゥリーは一言、非難した。

「先生ぇ、あんまり苛めないであげて下さいよ」

 当のドヴェは平然と肩を竦めるだけだった。

「これは彼女の成長のために必要な措置だった。後になって振り返ればチェティーリ君も感謝するでしょう」

「そーいうさ、効率しか考えないやり方は良くないと思うッス」

「かもしれないね。けど、私は生まれついての深海棲艦。ヒトの気持ちはよく分からない」

「……後でフォローしといて下さいよ?」

「そうだね」

 ……これらの会話は、叢雲たちは完全に蚊帳の外だった。一体、何の話をしてるのだろう? ただ分かるのは、叢雲が当て馬に使われたらしいことだけだ。いいように利用された、だというのに説明の一つもされないのはどういうことか。馬鹿にしすぎだろうと叢雲は抗議した。

「ふむ、だったら教えてあげよう。チェティーリ君がどうしてああも怒ったのかを」

「先生、それは」

「なんだい、トゥリー君。あの娘は自身の前世について隠していない。ならば教えても問題ない。違うかな?」

「それはそうかもですけど、その、デリカシーというか……」

「必要とされない気遣いは却って重荷になる。君は知っているだろう?」

「まぁ……でも人として、いや人じゃなかった……。うーん、なんて言ったらいいか分かんない! 口では勝てそうになーい!」

 トゥリーの消極的な肯定を得て、ドヴェは満足そうに腕を組む。ふぅ、と艶やかな息を漏らし、叢雲と浜波に向き直り、北方四天王の4番目、チェティーリについて説明を始めた。

「あの娘はね、元々艦娘だったんだ」

「……え」

「艦娘、ですって?」

 ……艦娘は、轟沈すると深海棲艦になる。その噂は何度も耳にしてきたし、元大鷹という実例もそこに居る。けれど2人目もすぐに現れるとは思わなかった。

 現・艦娘の叢雲と浜波は目を見合わせた。

 あの人形めいた容貌の少女が元々艦娘だったなんて俄かには信じられない。だって、彼女は背中から化け物じみた艤装を何本も生やしていて……。

 ドヴェは3本だけ指を立ててみせた。

「ただし、彼女が艦娘だったのは3日間だけ」

「3日……?」

「そう。彼女は着任してたったの3日で実戦に出されたんだ。そして、取り返しのつかない事態になった。……ひどい話だと思わないか? 3日間じゃ乗用車の免許さえ取れないよ」

「3日間……」

 ごくり、と唾を飲み込んだ。あり得ない。短すぎる。それは死刑宣告といっても過言ではない。幼稚園児を闘牛と対峙させるような仕打ちだ。そんな命令が自国でまかり通るはずはないと、叢雲は声を大にして否定したくなった。

 けれど。

 心当たりがあった。

「ブラック提督と呼ぶのかな? そういった采配をする連中を」

 耳にした覚えがある。

 人を使い捨てるような真似をする提督が存在すると。

「私もね、ロシアで無茶を命じる人間を何人も見てきたが……流石にそこまでの輩は居なかったよ。仮に人手不足だったとしても経験3日は素人すぎる。はっきり言って足手まといだ。囮役にもなりはしない。もしそういった役割が必要だったなら、艦娘の写真を貼りつけたブイでも自走させたほうがマシだろう。……しかし、チェティーリ君の提督君は、わざわざ安くない装備をつけさせて前線に出した。……これは一体どういう心算なのだろうね?」

「……」

「とにかく、そのようにしてチェティーリ君の前世は儚く消え去ったわけだ。だから今の彼女は、周囲に守られながらぬくぬくと育てられた艦娘を見るとどうにも恨みつらみが噴き出てしまうらしい。どうして自分とはこんなにも違うのか、と」

「別に私だって、楽をしていたわけじゃ……」

「だろうね。それはチェティーリ君も分かっている。自分の感情が逆恨みに過ぎないとも。だが理屈では衝動を抑えきることができないんだ。……ふふ、実に人間的とは思わないか?」

「……あんたはそれを知ってて、彼女を対戦相手に指名したのね?」

「そうさ。元より彼女に頼まれていたんだ。この世界の荒波を泳ぎ切る力をつけてほしいと」

「それは技術面だけじゃないってわけね……」

「その通り! 感情のコントロールもできるようになってもらわなきゃ強くなったとは言えないだろう? 彼女だってそれを承知して演習に臨んだはずだ。艦娘と対峙することに慣れるために。……でもそれだけじゃ、ちと温いと私は思った。せっかくの演習だ、私はもう一つ課題を加えることにした」

 ドヴェは再び己の主――自称・北の魔女ノーリの肩に手を置いた。

「我が主様はヒトの感情が視える」

「うむっ」

 にこにこと笑っていた。この世の穢れを一つも知らないような幸福に満ちた表情で。

「すごかった!」

「どうでした、チェティーリ君の煌めきは?」

「あのな、あのな、薄水色の光がいくつも重なって、強くなったり弱くなったり……とってもきれいだった!」

「……との事で、主様も喜んだ」

 幼女は胸に手を置いて空想にふけっているようだった。本当に感情が視えたなら、恐らく先程の演習のときの、駆逐古姫の苛立ちと怒りを思い返しているのだろう。その表情は、人の不幸さえ美しいと讃えるくそったれの聖女に近かった。

「このように、私はチェティーリ君をダシに使ったわけだが……そうする可能性ぐらい警戒してもらわなければ困るね。“他人の提案を鵜呑みにしてはいけない”……彼女は一つ、学んだだろう」

「……あんたはそれでも仲間なの?」

「仲間の提案だからといって思考停止していいわけじゃない」

「さっきは信用は大事、とか言っておいて。舌の根も乾かないうちにそういうことを言うのね」

「信用は大事さ。油断してくれるからね」

「あんたは……っ! 全然、信用できないわ!」

「ひどいと思うかな? けど私は事前にヒントまで与えたよ?」

 

――欲するもののために戦う、その姿を見たいでしょう?

 

「それでもチェティーリ君は聞き流した。見世物になるのは艦娘であって自分ではない、と。自分こそがダシにされる可能性に思い至らなかった。……これはもう、痛みをもって学んでもらう他ないだろう?」

「……そ、それは、違うと思います。教えるなら、一つずつ、丁寧に伝えるべきだと、思います」

 浜波が、たどたどしくもハッキリと、否を唱えた。

「……ふむ、賢明な人間は皆そう言うね。だけどこれが中々どうして、『嫌な想いを避けるために努力する』……そのやり方にも馬鹿にできない効果があると私は思う」

「あたしもそういうのは嫌だなぁ……」

 トゥリーはぼやく。

 叢雲も同感だ。失敗したら竹刀で叩くぞ、と脅すようなやり方は、人権意識の膨れ上がったこの現代にはまったくそぐわない。傍で唇を噛み締めている浜波を見て、尚更そう思う。それは適性を考慮しない愚かな方法だ。

「ま、私だって嫌われたいわけじゃない。君たちが一日も早く一人前になってくれることを願ってるよ」

 ドヴェは狐のように目を細める。

 トゥリーに向けて。

「……んん?」

 “君たち”と彼女は言った。

 その意味合いをトゥリーはすぐに察した。

「もしかして……、あたしもその、ピースメイカー式精神修行の対象、だったりして……?」

「精神修行ではなくて。洞察力の強化を目的とした実践、といったところかな」

「げげっ!? それってやっぱり痛い目を見ちゃうやつ……? な、なんであたしもやらされるんスか……?」

「前に伝えたはずだけどね? 深海棲艦は、誰の庇護下にもない。己で戦い、己で交渉しなければならないんだ。安易な口車に乗せられるようでは困る」

「えーっ! だってその辺は先生の得意分野でしょ!? あたしがやる必要ないじゃん!」

「私はどこにでもいるわけじゃない。それに、君たち2人には今後艦隊を率いる部隊長になってもらいたい。今のままでは別行動もおぼつかない」

「ほ、他の人は……?」

「アドナーのことかな?」

 1番を指すロシア語。叢雲と浜波がまだ会っていない深海棲艦の名前だった。

「アレは旗艦にさえ向いていないでしょう?」

「う……確かに」

 2番と3番に見限られている。どうやらその1番は、あまり有能ではないようだった。

 が、何はともあれ。

「――あんたらの事情はこの際どうでもいいわ」

 叢雲。

「演習で勝ったんだから、北の魔女の秘密について教えなさいよ」

 まさかうやむやにするつもりじゃないでしょうね、と狐女を睨みつける。

 当のドヴェは、そういえばそうだった、と大げさに驚いてみせて、指を一本立てる。

「約束を守る。その行為の積み重ねで信用は築かれる」

「……はいはい、分かったから」

 この女、何をするにしてもわざとらしい。叢雲も少しずつ分かってきた。彼女は敢えて、自身の情報をアピールしている。

 ドヴェという女は、何をしたがっているのか?

 そのためにどんな手段を選ぶ傾向にあるのか?

 ……それらを、くどいぐらいに披露している。

 そうする理由が、相手と親交を深めるためなら問題ない。

 だが。

 逆の意図なら話は変わる。つまり、艦娘と仲良くなるつもりなんてさらさら無い場合。叢雲たちを誘導し、いいように利用するために虚像を見せているだけならば……彼女の情報開示は全て嘘ということになる。

 

――私は生まれてから一度も嘘をついたことがない

 

 その宣言からして嘘なのかもしれない。

 目の前で肩を竦めている北端上陸姫を観察する。敵意なんて微塵も漏らしていない。こちらもつい、騙されることはあっても撃たれはしないだろう、と油断してしまいそうになるが……。

 相手は深海棲艦である。それも、ロシアを引っ掻き回した張本人。

 ただ性根が悪いだけの女ではないのだ。

「あんた、回りくどいのよ」

 この狐女は、ついさっき、己の仲間さえも平然と騙してみせた。そんなずる賢い深海棲艦が、どうして艦娘にだけ誠意を尽くすと思えるだろう?

 叢雲は、ピースメイカーだった女を全く信用していなかった。

 目を光らせる叢雲に、ドヴェはほんの少しだけ唇の端を歪めてみせる。

「……ならば僭越ながら、この私ドヴェがノーリ様について説明させていただきましょう」

「ん、あー、そういえばそういう話だったな。ドヴェ、私の説明をしろ!」

 主に促されたドヴェは、自分の胸に手を置いてからこう言った。

「――いいですか? 私という存在は、この身体が全てです。具体的にいうと……」

 自分の頭の先を指差しながら、

「ここから、」

 ゆっくりと身体の線をなぞりながら下げていき、足のつま先で動きを止めた。

「ここまでです。この肉体が、私です」

 その動きを、全員が注視していた。

 自称・北の魔女の幼女は頷きながら。護衛棲姫は事情を知っているのか平然と。

 艦娘である叢雲と浜波は、「何が言いたいんだコイツ?」と顔を見合わせた。

 当たり前すぎて意味が分からない。自分という存在は身体と同一である? だから、なんだ?

 ドヴェの説明は続く。

「では次に。ノーリ様、あなたという存在はどこからどこまでになりますか? その範囲を教えてください」

 問われた幼女は、「えーとな、」と幼い手を持ち上げた。宙を指す。何も無い空間だ。

 その先には海があった。

 真っ赤な海。

 幼女の指は、その水平線を指している。

 自称・北の魔女は、こう言った。

「あっちの果てからぁ、」

 腕を水平に固定して、ぺたぺたと裸足を動かして独楽のように回った。ぐるっと一回転。360度動いたところで、きゅっと動きを止めた。

「ずぅ~~っと、ぜ~~んぶ、赤いところが、私だよ」

 胸を張って、叢雲たちに目を合わせた。

 五秒が経過して。

 十秒経過した。

 誰も、何も言わなかった。

「えっ、なにが……?」

 ようやく叢雲は、説明が終わっていると理解した。

「全部って? どういうこと?」

 叢雲は狐につままれた気分だ。呆けた顔を浮かべるしかない彼女に、トゥリーが答えを告げる。

「海なんだってさ」

 言いながら、やはり水平線の彼方へと目を向けた。

「この北方深海基地を囲む海……もっと言うなら、大ホッケサークルと呼ばれる赤い海、それ自体がうちのボスなんだってさ」

「……はぁ?」

 海。

 赤い海。

 それ自体が北の魔女なのだとトゥリーは言った。

 元ピースメイカーも、同じように目を細めた。遠くの水平線を視線でなぞる。

「……不思議でしょう? 荒唐無稽でしょう? 私も、初めは信じられなかった。しかしノーリ様が普通の深海棲艦ではありえない力をもっているのもまた事実。だから私はこの一年間、彼女を観察し、研究を続けた。仮定と考察を繰り返し……そして確信を得た。彼女は深海棲艦ではない。言うなれば生みの親。故に、私は彼女に従うと決めたのよ」

 全員で、赤い海を見渡した。

 ……海の色が、赤くなる現象。

 それは、深海棲艦の出現とともに起こる、解析不能な現象とされている。少なくとも人類の認識ではそうだった。

「――では仮に。その因果関係が逆だとしたら、どうだろう?」

 ドヴェは囁いた。

 つまり、深海棲艦が現れるから海が赤くなる……のではなく。

 海が赤くなるから深海棲艦が現れる……だとしたら?

「全ての生物には目的がある。動物ならば、産めよ増やせよ、だ。しかし深海棲艦は産めないし、増やせない。少なくとも自力ではね。……だったら、深海棲艦が存在する目的はなんだ? 神が生み出したのではないのなら、一体誰が、なんのために発生させている?」

 正解を告げたのは、深海棲艦の生みの親と紹介された、1人の幼女だった。

「煌めきだ!」

 ドヴェは恭しく一礼し、足りない言葉を補足する。

「戦争だよ。戦争による魂の煌めきだ。深海棲艦とは、それを再現するための演者に過ぎない」




説明パート長すぎ問題。
つまらねー! と思って戦闘パートを入れましたが説明パートが増えただけだった。申し訳ない。

あと登場人物が増えすぎてわけ分からないことになってると思うので深海棲艦の名前だけでもリスト化しておきます。

ノーリ   (0番):幼女。自称・北の魔女。
アドナー  (1番):戦艦棲姫。現在死亡中。
ドヴェ   (2番):北端上陸姫。元ピースメイカー。
トゥリー  (3番):護衛棲姫。元大鷹。
チェティーリ(4番):駆逐古姫。元艦娘。


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3-4:北の魔女ってなんじゃらほい

今回でようやく、いかにも解説なパートは終わるんで……。お兄さん許して。


 深海棲艦の研究は世界各国で行われている。

 人類の英知たちがこぞって研究を進め、資金は惜しみなく投入されたが、海の底からやってきた謎の生物の仕組みについては全く分からなかった。

 そもそも生き物なのかも分からない。本来ならば死んでいるはずの肉体と無機物とが複雑なパズルのように組み合わさって、フランケンシュタインの怪物のようになっている。そんなでたらめな構造では動くわけがないのだが、しかし現実では不具合を起こさずに稼働している。

 生まれ方、構造、動力源、能力、目的。何もかもが分からなかった。

 となれば、一つずつ地道に研究を続けるしかない。

 ここでは動力源について掘り下げてみよう。

 深海棲艦が生物であるにしろ機械であるにしろ、動くからには何らかのエネルギーを消費しているはずである。では、そのエネルギー源とは何なのか?

 燃料として油を取り入れているらしいと分かったが、それはあくまで機械部分を動かすためのエネルギー。では生物部分の方はどうなっているのかと調べたら、食事による経口摂取でエネルギーを賄っているのではないか、という仮定が挙げられて、それは概ね正しいという実験結果も出た。

 しかし、同時に。

 その仮定だけでは説明できない事例も報告されていた。

 飢え死にしかかった深海棲艦が、意識を失って倒れてからものの1分ほどで回復したのだ。栄養補給を済ませたように快調な状態で。

 更に研究が進められ、この現象に必要な条件が絞られた。

 答えは、倒れた場所だった。

 海の上で倒れたなら、エネルギーが枯渇していようと復活できる。

 地上で倒れれば、そのまま餓死して、どれだけ放置しても復活しなかった。

 つまり、深海棲艦は、燃料でも食事でもない第三の動力源によってもエネルギーを得ていると推察された。

 第三のエネルギー。

 栄養でもない。燃焼によるエネルギー変換でもない。

 これが一体なんなのか、人類には予想すら立てられなかった。なぜって、海は言ってしまえばただの水。熱しようがろ過しようが混ぜようが、たった1分で全快するようなエネルギーを得られるわけがない。ついでにいえば、作物を植えても育たないし、飲料にするのも非効率的。役立たずの塩水だ。

 それが、深海棲艦にとっては生死の不可逆性を打ち破るほどの触媒になっている。ならば人類にとっても使い道はあるのではないだろうか、と科学者たちは考えた。

 もしかしたら、石油や原子力に代わる新たなエネルギー源になるかもしれない。

 その言葉の響きは、人類にとってあまりにも魅力的だった。

 もしも原理を解析できたなら。

 そして、実用化に一番乗りできたなら。

 世界のリーダーにとって代わるのも夢ではないかもしれない。

 ともなれば。研究に莫大な予算が割り当てられるのは当然だった。深海棲艦の研究項目に、“海に関する研究”も追加された。

 

 とある科学者がいた。

 彼は、その“海の研究”の第一人者だった。

 彼が着目したのは、海の色。

 深海棲艦が群れて、戦う海は、赤くなる。

 一定量の規模勢力が現れると赤くなり、撃滅されると自然の色に戻る。

 そのときは、深海棲艦の存在が海に影響を及ぼしているのだろうと推察されていた。

 『深海棲艦は“影響する側”であり、海は“影響された側”』

 それが最初の前提だった。

 海の色は変化する。それは前述した通りだが、その原理はまるで分からずにいた。戦場から赤くなった海水を採取してきても、時間が経つと透明な色に戻ってしまう。ならばと戦場に実験器具を持ち込んで、砲弾飛び交う海上で調査をしてみたが、やはり芳しい成果は得られなかった。

 赤い海水と、ただの透明な海水。その間にはまるで違いがみられなかったのだ。

 ……そもそもの話、何をどう調べても赤色に見える要素が存在しなかった。色素がどうだとか、電磁波の波長分布がどうだとか、そのような科学的な調査をあらゆる角度から検証してみても、数値としては『透明である』としか出なかった。

 しかし、肉眼に映るのは、赤色でしかなく。

 その理由はしばらく判明しなかった。

 とある報告があった。

 偶々その観測船に、片目を失明した者が乗っていた。彼女は負傷して救助された艦娘で、苦痛に喘ぎながらこう証言した。

 

――見えないはずの右目で、何かが見える。赤い、蠢くなにかが、海いっぱいに居る。波じゃない。何か、アメーバのような生き物が……

 

 科学者の行動は早かった。

 すぐに色盲の人や、赤色に反応しにくい犬を戦場に連れ込んで、危険を顧みずに調査した。

 結果は、明らかな反応があった。犬は海に怯え、吠え立てて、全盲の人ですら“赤い何か”の存在を訴えた。

 判明した事実は2つ。

 1つ、この謎の赤色は、五感以外の何かで察知することができる。

 1つ、現代の科学力では解析することができない。

 彼は思った。

 

――この赤色のナニカは、人間や動物といった生き物にだけ感知できて、機械や薬品では検知できない。明らかに人類の科学力の外に在る。もしかしたら第六感的な……口にしたくはないが、霊的な領域の存在なのかもしれない。

 

 そして、ある日。

 別の報告が科学者の元に舞い込んだ。

 とある2つの国が少ない漁業域を巡って争っていたら、なぜか海が赤くなったというのだ。周囲には深海棲艦が居なかったはずなのに。

 新たな仮定が浮上した。

 この赤色は、深海棲艦に付随した存在ではない。独立して発現する。

 この頃、科学者はこの赤色に仮称をつけた。

 深海棲艦となんらかの関わりがある未知の存在――『深海Ⅹ』と。

 

 Ⅹに関する研究は更に進められた。

 世界各地から情報を集め、海が赤くなる条件が絞り出された。

 

・Ⅹは深海棲艦が居ない場所でも発現する。

・Ⅹは主に争いが起こる場所で発現する。

・しかし演習や模擬戦では発現しない。生死を懸けた争いでのみ発現する。

 

 更に、もう一つ興味深い統計も報告されていた。

 赤い海では、深海棲艦が発生する数が圧倒的に多いというものだ。

 ……人間は、自分が労力を注いだものには価値があると錯覚したがる生き物である。この科学者も例外ではなく、どうやっても手掛かり一つ掴めないその深海Ⅹを、人類ではけして届かない高位の存在と信じるようになった。それは何らかの意思を持つ存在で、争い事に惹かれる性質がある……等と、擬人化した感覚まで抱くようになっていた。

 彼の認識はすっかりひっくり返っていた。

 もしかしたらこのⅩが深海棲艦を生み出しているのではないか。

 『海こそが“影響する側”であり、深海棲艦は“影響される側”である』とさえ考えるようになっていた。

 ……考えているだけなら良かったのに。

 ある日、彼は、そんな絵空事を研究成果として発表してしまった。

 

――この深海Ⅹこそが全ての元凶である。

――この存在は、霊的な力、あるいは魂と呼ばれるものに影響を及ぼす力を持っていて、死体や無機物から深海棲艦を生み出している。

――これまでの観測結果から予想するに……Ⅹは、人間が生命の危機に晒される様に、もしくは死に際の……そう、魂の最期の燃焼に惹かれる性質があると思われる!

――あるいは、このⅩは、その光景を見るために深海棲艦を生み出しているのではないだろうか!?

――更なる戦争を生み出すために!

 

 霊的とか、魂とか。

 科学者が使っていい言葉ではない。

 こうして一人の科学者が追放されることになった。

 当たり前だ。彼の主張は、何一つ証拠を伴っていないのだから。ただの仮定と推論を積み重ねた不安定なバベルの塔にすぎなかった。そんなものは神でなくとも雷を落とすに決まってる。

 実に勿体ない話である。

 だって、そのバベルの塔はドンピシャの大正解を指していたのだから。

 

 

「その深海Ⅹが、私だぁっ!」

 と、北の魔女を自称する幼女は言った。

 なんでも、彼女が言うには。

 元々は、海に漂う原生生物のような存在だったらしい。思考能力を持たず、自我すら曖昧な、ひょっとしたら生き物ですらない存在であったと。

 そんな彼女は――彼女たちは、ただ海で、生命の営みを見ているだけだったと言う。時間の概念もなく、いつから居たかも分からない。地球誕生から居たのかもしれないし、宇宙発生から居たのかもしれない。彼女たちはただ何もせず、ずっとずっとたゆたう海を眺めていた。

 そんな永い時の流れの中で、あるとき、鮮烈な輝きを見たらしい。それは突如として発生し、彼女たちの棲み処である海の上でピカピカと、あるいはギラギラと、それまで観賞していた命の流れ――食物連鎖とは比較にならない煌めきを放っていて、深海Ⅹたちに強烈な印象を残した。

 ドヴェが補足する。

「――それは恐らく世界大戦だと思われる。何百人もの人間が軍艦に乗って生死をかけて争った、その姿・魂の輝きを見たのだろう。彼ら軍人たちは、国是のために、愛する者のために、生きたいと願う者がいて、死んでも責務を果たしたいと誓う者もいて、喜怒哀楽、愛や憎しみにとらわれて、互いにぶつかり支え合い、そして消えていった……」

 その魂の煌めきに、深海Ⅹは夢中になったらしい。

 人間という知性を持つ生き物が、文化の中で本能以上の生き甲斐を育んで、人生の総決算をぶつけ合う。その魂の輝きは、それまで見てきた食物連鎖とは一線を画していたからだ。

 しかし、ほどなく戦争は終わった。

 海では魂の煌めきを見られなくなっていた。

 深海Ⅹは待ち続け、何十年も経ってからようやく気付いた。どうやらあの輝きはもう見れないらしい。

 

――また見たいなぁ。

 

 深海Ⅹがそう思ったのが全ての始まりだった。

 かつて海上で争っていた人間たち。彼らはもう来ないけど、彼らの残骸ならスープとなって海中を漂っている。彼らの乗り物も海底に残っている。魂は、とろけて離れてしまっただけ。

 だったら、その肉と鉄と魂を合わせてやれば、また元に戻るんじゃないか?

 あの鮮烈な煌めきをもう一度見られるんじゃないか?

「――そうして生まれたのが深海棲艦というわけだ」

 世界中の深海Ⅹたちは、海に眠る死者たちをどんどん復活させていった。それは主に人間が死んだ場所・船が沈んだ場所から生み出され、生前に持ち合わせていた感情の残滓を拠り所に行動を開始した。誰かを守る。敵を倒す。そのために争いが発生し、また多くの魂が煌めいた。

 深海Ⅹは歓喜した。

 

――やった。

――きれいだ。

――もっと見たい。

 

 灯りに惹きつけられる羽虫程度の行動原理。このときはまだ知能を持っていなかった。

「――さて、このように深海棲艦は、過去の残骸から作られるわけだが……では、その材料が無い海はどうなると思う? 深海棲艦が作れない海……まぁ大ホッケ海、つまりノーリ様のことなんだがね」

 大ホッケ海に棲む深海Ⅹ――後にノーリと呼ばれる存在は、深海棲艦をほとんど作れなかった。単純に材料が無かったからだ。大ホッケ海は凪いだ海のままだった。他所の海とは大違い。南の海でも、東の海でも、西の海でも、美しい煌めきを見れているらしいのに、自分の海だけは閑古鳥。つまらない。面白くない。足りない材料が欲しいと他の海域に棲むⅩに意思を飛ばしてみたが、ミドリムシ未満の知能の存在が惹かれるものを融通するわけがない。流されてきたのは煌めきの残滓がまるで無いガラクタばかり。粗大ゴミ、執着の染みつかない漁船にボート、未練の散逸した死体。そんな材料では、動物程度の深海棲艦しか作れない。

 そこに一人の深海棲艦が漂流してきた。

 艤装の怪物を伴わない戦艦棲姫。後のアドナーだった。

 当時の大ホッケ海――ノーリはおおいに期待して、深海Ⅹとしては異例のコミュニケーションを試みた。

 

――お前の煌めきを見せてみろ。

 

 それに対する返答がこうだった。

 

――知らねーよ。てめーでやれっ!

 

「……目からウロコが落ちたんだ! 煌めきを見るんじゃなくて、自分で成る!? そんな発想は無かった! すごい、だって自分が煌めきなんだぞ……? なぁ、すごいよな、ドヴェ!?」

「……ええ、そうです。その一言だけはアドナーのお手柄です。奴の考え無しの返答が、今のノーリ様を方向づけた」

「私はな、新しいシンカイセーカンの身体を作ってな、タマシーは私のを乗っけたんだ!」

 そうして北方水姫と呼ばれる深海棲艦が誕生した。

 見た目はただの姫級でも中身は全然違う。大ホッケ海に広がる深海Ⅹ、そこに繋がるインターフェース。人類では検知すらできない無限のエネルギーを行使できる高次元からの使者だ。北の魔女が爆誕した瞬間だった。

 物質世界に降りてきたノーリは、早速アドナーに聞いたらしい。

 

――どうやったら煌めきに成れる?

――はぁ? 知らねーっ!

――どうやったら煌めきに成れる?

――うっせーなぁ。お前さ、あれだよな。見た目は大人なのに、中身は赤ちゃんだ。

――??

――赤ちゃんは大人の真似をして常識を覚えていくもんだろ~?

――オトナ? ジョーシキ?

――あ~……お前、よく分からねーけど深海棲艦の一種なんだろ? だったら深海棲艦らしく生きてみたらいいんじゃね?

――シンカイセーカンらしく?

――人間と戦うんだよ。

――ニンゲンってなんだ?

――ああ~、面倒くせーな! 習うより慣れろ、だ! 近くのナントカ泊地を攻めてみりゃいいだろ!

――そうしたら、煌めきに成れる?

――成れる、成れるよっ!

 

 こうして北の魔女は幌筵泊地に攻めこむようになった。

「……ここまで聞き出すのに丸々一年かかった」

 と、ドヴェは疲れきった顔をしてみせた。本当に大変だったらしい。なにせ、元々が未知の存在だ。生物ですらないとくれば常識なんて一つも持っていない。言葉をどうにか使えるだけで、共通認識というものが殆ど無かった。

 まず、生と死の概念が分からない。

 時間の概念も分からない。

 感情も分からないし、共感能力はゼロだし、善悪や倫理感なんて人間的な発想は微塵も持ちあわせていない。

「そして、つい最近まで“個”という概念も分からなかった。彼女たち深海Ⅹは、どうやら群生生物に近い在り方らしい。……まぁサンゴを想像してくれ。彼女たちは世界中で繋がっていて、認識も逐一共有されている。かと思えば海域毎に自我も別れていて、しかし切れ目ははっきりしない。なんとも、我々“個別”な生き物には理解が難しい」

 そんな在り方だったから、他の生き物も同じだとノーリは思っていたらしい。人類は、何十億人で1つの存在。深海棲艦も同様。だから、1人と話せば全体と意思疎通できると思っていた。勿論そんなわけがない。1人1人に意思があり、目的がある。行動も思惑もばらばら。その形態を理解するところまでは一年かけてどうにか来れた。だが実感は伴わず、時折間違えてしまうのだとか。

 ……さて、そんな北方水姫がどうして今は幼女の姿をしているのかというと、話は先月に遡る。いつものように敗北し、轟沈したときのことだ。

 勝利への執着がなく、そもそも勝とうとも思っていない北の魔女は性能頼りの素人だ。いや素人以下。今回もきれいだったなぁと全身バラバラ死体になりながら復活を待っていた。

 だが今回はバラバラが過ぎた。

 毎月しつこく攻めてくる北の魔女に業を煮やした幌筵泊地、そこに派遣されてきた北上という名の雷巡娘の仕業だ。シャッシャッシャッ、ドーン! と飽和攻撃を食らわされたノーリは、哀れ、爆発四散。損壊が激しく、復活までに時間がかかり……ノーリは暇を持て余した。身動きできない時間が長すぎる。ノーリは思った。簡単なボディを作って、そっちに意識を移して遊んでいよう。そうして仮ボディとして現在の幼女形態が作られて、今に至るというわけだ。

「――いやー、それがまさか本体を獲られるとは思わなかった! こっちの身体じゃなんにもできない! 戻りたいけど、防空棲姫が邪魔するし、触らないと戻れないんだ! なぁドヴェよ、どうしたらいい!?」

「防空棲姫を倒せばよいのです」

「でもアドナーはまた死んだぞ!?」

「そうですね。今の奴では今後も勝てないでしょう。ですがご安心ください。次は私が出撃しましょう」

「おーっ!? センソーだな!?」

「ええ、あなたの望む戦争です」




今回は少なめ。


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3-5:ストーブを囲んでくっちゃべる

 暗く、静まり返った教室で、ストーブがごおごおと燃えていた。時折、カンカンと金属が軋む音も混じる。部屋の中央にはぼんやりとした灯りを照らすランタンがぽつんと置かれていて、古びた教室の輪郭をいくらか照らしだしていた。部屋の隅には机が5つ寄せられていて、残りの1つはストーブの前に残されている。その1つの上には古びたラジカセが置かれていた。

 

『本日のリクエストはこちら。サンバのリズムと軽妙なラップとの組み合わせが夏の空気を呼び込む爽やかPOP、楽園ベイベー』

 

 パーソナリティが昔の曲を紹介していた。陽気な男が刹那的な快楽の素晴らしさを謳っている。

「……あー、懐かしいなー。あたしらの世代の曲じゃないけどさ、なーんか気に入ってんだよね。それっぽい単語を並べてゴキゲンに歌うだけって気安さが、いかにも大衆曲って感じで良いよね~……」

 トゥリーは呟きは、部屋の隅へと吸い込まれて消えた。

 彼女は椅子の背もたれに肘を乗せ、ぼんやりとストーブの窓から覗く炎の揺らめきを眺めている。

 ここはトゥリーの住処、教室。とはいっても授業や仕事に使われているわけでもない。ガラクタ小屋だ。電気も通っていない廃墟であるうえに、場所は孤島の上だった。その静けさといったら、まるで世界が終わってしまったかのようで、壁の時計さえ見なければ時間さえ淀んで止まってしまいそうだった。

「“底抜けの欲望にただ身を任せてみませんか~”……」

 口ずさみながら、良い歌だとトゥリーは思う。自分もこの歌詞のように気楽に生きてみたいとずっと昔から願っていた。……昔。そう、艦娘時代から。ド貧乏から抜けだして楽園行きの切符代を稼ぐために汗水を垂らし、命さえ懸けていたけれど、辿りつけなくて……けれど今回の人生ではあっさりと到達してしまった。北方深海基地という名の絶海の孤島に。今度はなんの苦労もなかった。ただ生まれた場所と、最初に会ったヒトに恵まれていたという理由だけで。大ホッケサークルと、北の魔女。その2つさえ維持されるなら外敵に怯える必要はどこにもない。

 ずっと欲しかった平穏な時間を手に入れた。

 けれど不満がないわけでもなかった。

 この赤く広がる海とゴミの島にはなんの面白みもなかった。代わり映えしない日々で、とにかく退屈なのだ。まるで監獄のようだった。

「娯楽がないんだよねぇー……」

 かつては平穏さえあればいいと願っていたのに、いざ手に入ったら今度は刺激が欲しくなる。贅沢なものだ、ヒトの心というものは。

――さて、どちらが良いのだろう?

 危険と刺激が待ちうける外海か。

 安寧と停滞が保証された北方深海基地か。

 比べるために、思い返す。大湊警備府に居た時代。

 あの頃はいつも予定に追われていた。時間をいかに効率よく消費するかが至上命題だった。それはそれで充実した日々だったと思うし、得られたものも多かった。けれど、得ることばかりに固執した人生をふりかえってみるとどうだろう? 後悔は……ある。塩漬けになった500万円。それを稼ぐ時間で別の生き方をしていたら、と夢想したのは一度や二度ではない。

 大鷹時代の自分は生き急ぎすぎていたと思う。

 もっと適当に生きてもよかったはずだ。

 街にくりだしてみれば遊んでいる連中はそこら中にたくさんいて、そいつらは無責任に軽薄ながらも随分と楽しそうに見えた。そんな時間をこの二度目の人生で体験してみたいと思うのは悪いことではないと思う。

 頑張るだけが人生じゃない。

 トゥリーはそう考えるようになったけれど、教室の後ろで難しい顔をしている艦娘の二人は同じようにはできないようだった。義務感に縛られて、正義感に囚われて、視野を狭めてしまっている。

 振り返る。その二人の顔を――叢雲と浜波の様子を、もう一度確認してみた。

 二人とも、敷いた布団の上で黙り込んでしまっている。

「……なぁんで先生はバラしちゃったのかなぁ?」

 叢雲と浜波がこうなってしまった原因は、昼間の情報公開にあった。

 ここ北方深海基地のボス、北の魔女の特殊な生まれと特性について、ドヴェがバラしてしまったせいだ。おかげで艦娘2人の顔はこうして深刻色に染まっているというわけだ。

(考えたところでどーにもできないんだから、もっと気楽に構えりゃいいのに)

 思うに。ドヴェが暴露してしまった理由はそういう部分が大きいのではないか。あの老獪な女は、艦娘2人に知られたところでどうにもなるまいと判断したのだろう。

 なにせここ北方深海基地は現在、けして脱出することのできない大ホッケサークルに囲まれている本物の孤島だ。つまり、どんな重要な情報を知られてしまっても外に漏れる心配は無い。

 いや、それ以前に、近い将来に脱出できるようになってこの情報が漏れたとしても問題はないのだろう。頭の固い人類はこんな荒唐無稽な話を信じないし、もし信じてしまったとしても、そこをとっかかりに交渉して美味しい着地点に導ける自信がドヴェにはあるのだ。なにせ彼女はロシアの政治家たちを手玉にとるほど弁舌が優れている。自分たちの利用価値を説いたり、他所の国との交渉を匂わせたり……そんな口八丁でどうにかできるのだろう。

 だから、叢雲も浜波もそんな難しい顔をしなくていいと思う。ただの艦娘2人にできることはないし、する必要も無い。いつか脱出できるようになるまでのんびり今を楽しめばいい。……そう、思うのだけど、

「なんだかなぁ」

 トゥリーはぼやきながら立ち上がり、四方の壁に目をやった。

 適当な話をふってみる。

「教室っぽい家具をもっと揃えたいんだけど、なにがいいと思う?」

 返事は無い。

「……教室ってさー、後ろに色々貼りつけてあるもんじゃん? プリントとか? そーゆうのを貼る掲示板みたいなのが欲しいんだよねえ……?」

「……」

 応えてくれるのはスピーカーだけだ。自由と開放感こそが人生にとって最も重要なスパイスだ、と見当違いの答えを返している。

「はー、やれやれって感じ」

 夏の歌だった。ビーチ、スポーツカー、ナンパ、常夏の楽園……現代の人類にとってはもうスクリーンの向こう側でしか知ることのできない夢物語。いまや南国はリゾート地ではなくただの戦場。バカンスはできない。深海棲艦が抑えてしまったから。

 でも、だったら……とトゥリーは想う。今の自分なら? 深海棲艦の身になった自分なら南の島にだって行けるかもしれない。

 その想像は少しだけ愉しかった。

(そうだ、物事には必ず良い面だってあるんだ。深海棲艦になったからって悪いことばかりじゃない。これからはそっちを向いて楽しんでいけばいい――)

「ラジオを、止めて」

「んあ?」

 思考を中断したのは、叢雲の声だった。

 鋭い目つきで軽薄なスピーカーを睨みつけていた。考え事にはそぐわないと言いたげだ。

 トゥリーはやれやれと首を振ってみせ、先程の考えを伝えた。心配してもしょうがない、そんな話を。

 叢雲の声は硬かった。

「……そんなことは分かってる。けど結果を勝手に決めつけて手を抜くのは愚か者のすることよ。できることはキッチリやるべきでしょ」

「真面目だなー」

「あんただってそうだったでしょう」

「大鷹時代はね。今はもう、止めたの」

 叢雲はじぃっと元大鷹を見つめた。何かを言いたそうにしていたが、結局目を落としただけだった。囁くような声量で、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「……あの元ピースメイカーは、北の魔女をどうしたいのかしらね」

「さぁ。あたしらをまとめるボスに祭り上げたいみたいだけど」

「自分がボスになればいいのに。あの小さな北の魔女ちゃんも嫌とは言わないんじゃないかしら」

「先生は、もうリーダーをやりたくないんだって。疲れるから……いや、飽きたからだっけ?」

 叢雲は黙った。

 なんとなく、言葉に熱がないと感じた。これまで付き合ってきた経験もそう言っていた。この質問は、会話の助走みたいなものだろう。

「……あんたはどうしてあいつに従ってるの?」

 多分、こっちが本命だと思う。

 トゥリーは素直に答えてあげることにした。

「そりゃー、あの北端上陸姫の頭がキレるからだよ。……アンタも艦娘歴が長いなら分かるでしょ? 深海棲艦は、大体お馬鹿で、戦術も戦略もいい加減。すぐにやられちゃう。そういう連中と運命を共にするのは嫌なんだよね」

「か、艦娘でいうと……下手な提督には、従いたくないって、こと?」

「そーだよ浜ちゃん、よく分かってんじゃん」

「それだけ? あいつが何をやらかすかは想像はしてないの? 北の魔女についてはどう思ってるわけ?」

「あー……」

 めんどくさいことを聞いてきた。

「大鷹?」

 しかも、大鷹ときた。

 もう違う、と何度も言ってるのに。自分はもう、深海棲艦で、護衛棲姫で、トゥリーって名前だって言ってるのに。

「あのさぁ、叢雲はさぁ……」

 トゥリーは穏便に済む言い回しを探してみた。けれど、上手い言葉は浮かんでこなかった。

「……その話、しなきゃだめ?」

「だめよ」

「いやさ、だめってことはないでしょ。あたしの上司じゃないんだから」

「私は、聞きたいわ。あんたが何を考えてるのか、私は知りたい」

「だからさぁ……」

 トゥリーは元は大鷹で、今もその記憶を保持しているけれど、深海棲艦だという事実は覆せない。対して、叢雲と浜波は艦娘だ。この2つの勢力の間には本来、底が見えないほどの亀裂が走っている。今はぼやかして見ないようにしているだけだ。それを叢雲は分かっていない。

「あたしをまとも扱いしてくれんのは嬉しいけどさ? それでもあたしは深海棲艦で、あんたらは艦娘なわけ。突っこんだ話をしちゃったら喧嘩にしかなんないでしょ? だからあんまりめんどくさい話をしてほしくないんだけど?」

 叢雲はすっくと立ち上がった。ラジカセの前まで歩いて止まる。細い人差し指でためらいなく電源を切った。

 いっそう静かになった教室で、叢雲はトゥリーと同じ高さで目線を絡ませた。

「話して」

「……はぁ~」

 こんな強引な性格で、よく周囲と衝突せずにやってこれたもんだ。トゥリーは溜め息をついたが、実は悪い気分でもなかった。叢雲は、旧知の仲だからこそ突っ込んだ話をしてくるのかもしれない。

 だから付き合ってやることにした。

「……ロールプレイングゲームでよくいるらしいよねー、ああいう設定のラスボスって」

 トゥリーは椅子によいしょと腰を下ろした。煎餅布団で膝を抱えている浜波に目を向ける。

「ラ、ラスボス……?」

「北の魔女のことを言ってるの?」

 叢雲は神妙な顔だ。

「そ。……叢雲、あんたゲームは……やらない、か」

「そんな暇ないわ」

「悲しい人生ねえ」

「あんただって訓練漬けだったでしょう?」

「ま、そうなんだけど。……浜ちゃんは?」

「す、少しは」

「うん、じゃあ分かるかな? 昔のRPGのラスボスってさ、魔王とかじゃなくて、神様とかシステムとかが多い時期があったんだって」

「シス、テム……?」

「まー要するにあれよ。本人には悪意が無いけど、居るだけで迷惑なやつ」

「それが何だっていうのよ?」

「あの北の魔女がソレって話。あの子には悪意が無いって話よ」

 叢雲はかぶりを振った。

「そんなの、実害が出てるんだから関係ないでしょう?」

「いや、関係あるよ。あのちびっ子の目的は、魂の煌き? とかいうのを見ることであって、人類に敵意は無いわけ。見逃してくれって頼んだらオッケーしてくれたし」

「……そうなの?」

「ん……。まぁ、大湊は、なんだけど」

「幌筵泊地は……違うのね?」

「どこかの勢力とは戦いたいみたいだねぇ」

「……あのね、人が悲しんだり怒ったりしてるのを見たいなんて奴が邪悪じゃなくて一体なんだって言うの?」

「そう? でも人間だってそういう話は好きじゃない? 上げて落とすみたいなやつとかさあ?」

「それは創作物の話でしょ……」

「そーかなぁ。映画の中なら人が死ぬ場面を見て感動するのは正しいの? そういう話を求めるのは邪悪じゃないの?」

 叢雲は苛立ちを隠そうともしなかった。

「くっだらない! あんた、そんな低次元な議論がしたいわけ!?」

「……分かった、分かったよ。あたしが悪かった」

 トゥリーは椅子に正面向きに座りなおす。今度は堂々と、叢雲の燃え盛る瞳を直視した。

「あたしが言いたいのは、あのちびっ子はかなりマシな部類ってこと」

「マシって、なによ?」

「人間を殺したいって言ってるわけじゃないじゃん。頼めば大湊警備府をスルーしてくれるしさ。その点でいえば、私らが戦ってきた深海棲艦たちと全然違うでしょ?」

「スタンスがどうであれ、敵対して戦争しかけてくるのは同じでしょ」

「そーかもしんないけど。ちっと黙って最後まで聞いてくんない?」

「……」

「とりあえず、そのスタンスとやらがマシだっていうのが、あたしが一緒に居る理由の1つ目。2つ目は強さだね。あのちびっ子は、よく分かんないけど北の魔女みたいだし、ってことは本体に戻れば超強いってことでしょ? しかもブレーンとして超優秀な元ピースメイカーも従ってる。つまり、あたしが今後、深海棲艦として平穏な人生を送るにはなかなか優良な集団ってわけ」

 叢雲は腕を組み、苛立たしげに指をトントンと揺らした。

「……大湊は、それでいいかもしれないけど。幌筵はどうなるわけ?」

「いや、だからさぁ、」

「単冠湾は?」

「……」

 叢雲の目つきがどんどん鋭くなっていく。

「聞こえのいいこと言っても結局、戦争するんじゃない。あんた、人殺しの集団に参加するって言ってんの、分かってる?」

 今度はトゥリーが苛立つ番だった。聞こえよがしに舌打ちをする。

「……叢雲、あんたさぁ、言わなきゃ分からないわけ?」

「当たり前でしょ」

 トゥリーは大げさなほどにわざとらしく溜め息をついた。私は言いたくなかった、言わせたのはお前だと非難するように。そうしてたっぷりの間をおいてからトゥリーは言葉の刃を並べた。

「あたしからしたら幌筵も単冠湾もどーでもいーんだわ。知り合いも居ないし、私の胸は痛まない」

「あ、あんた……!」

「言っとくけど」

 トゥリーは脚を組み、不満を表現するようにつま先を上下に揺らした。

「あたしだって本意じゃない。けど、これ以上はできねーわ」

「なんですって……?」

「大湊だけでも温情かけてやってるだけありがたいと思いなよ。なのに文句まで言われる筋合いは微塵もないね。違う? あたし、なんかおかしいこと言ってる? 叢雲はさ、深海棲艦を攻撃する艦娘のくせに、深海棲艦のあたしにどこまで献身を求めんだよ?」

 静かな憤りがあった。

 思わぬ反撃に叢雲は鼻白む。トゥリーの口調からはこれまでの馴れ合いを感じさせる暖かさを感じられない。敵意とまでは言わないが……けして味方の側の温度ではなかった。

 彼女の眼は、海底に沈んだ鉄屑よりも冷たかった。

「いっぺんさぁ、あたしの立場になって考えてみなよ? 突然生まれ変わって、深海棲艦になりました。味方は誰もいません。一人で生き延びられるほど海は甘くないし、どこかの集団の入れてもらわなきゃいけない。じゃあ大湊に戻る? はっ、無理だね。攻撃しかされんでしょ」

「そんなことは、」

「そんなことなんだよ」

 つま先が、苛立たしげに揺れていた。

 お前はなんにも分かっちゃいないと責めている。

「深海棲艦なんて人類からしたら侵略者でしかない。白旗を揚げようが人権の“じ”の字も保証しちゃくれないね。……違うなんて言わせねーし。他ならぬ艦娘だったあたしが言うんだ、間違いない」

 唾棄するように言葉を紡ぐ。叢雲を、安全圏から綺麗事を押しつけてきた女を睨みつけ、なおも収まらぬ苛立ちを吐きだした。

「ゴキブリ以下に見下され、いつ撃ち殺されたっておかしくない。それでも人間様の味方しろってなんなのさ? そうしなきゃ仁義にもとるって、そう言ってんのよアンタは。勘弁してよ。なぁんでそこまでしなきゃいけないの?」

 誰が好き好んで前世の同胞と争うものか。しかし、世界が、この世の仕組みが戦う以外の選択を許さない。ならばもうこれは仕方のないことなのだとトゥリーは言っていた。

「死して護国の鬼となれって? だったらせめて支援ぐらいしてから言いなよ。例えば、どっかの島を丸々譲ってさ、メシ・風呂・住居、その他諸々を整えて、不自由なく暮らせるように物資と人員もサポートして、そんで「どうか人類のために戦ってくださいお願いします」って頼みなよ。それぐらいやってくれるならまだ分かるさ。けど、なーんもしないで、むしろ銃口向けて罵声を浴びせる立場のくせに、それでいて「人類に敵対するな~」なんて……。はン、どの面下げて言えるワケ?」

 叢雲は。

 しばらく無言を貫いた。

 深海棲艦になってしまった元同僚からけして目を逸らさない。白磁器のような肌、その表情に歪みの一つも作らずに、彫像のような無感情さを保っている。

 明らかな反抗を正面から受け止めて、それでも微塵も怯んでいなかった。

「な、なんか言いなさいよ……」

 啖呵をきったはずのトゥリーのほうが逆にたじろいでしまう。

 叢雲はほんの少しだけ口元を緩めた。

「他には、無いの? 北の魔女一派に加わる理由」

「……え? いや、無い……けど?」

「人間が嫌いになったわけじゃないのね……」

 艶やかな吐息とともにトゥリーに歩み寄る。そして、鍛え上げられながらもピアニストのように麗しい五指を広げて元大鷹に差しだした。

「大湊警備府に帰るわよ」

 決意を迸らせた瞳だった。

「提督だろうと戦艦娘だろうと誰だろうと文句は言わせない。矢面に立って、全ての悪意と思い込みからあんたを守ってあげる。中身は大鷹のままだって24時間叫び続けてやるわ。だってあんた、まともなんだもの。こんなところに居ていいわけがない」

「は……」

 嘘はなかった。強がりもない。もしも大湊にいっしょに帰ったなら、叢雲は本当に有言を実行するだろうと信じさせるだけの強さがあった。彼女は必ず、全ての艦娘と軍関係者の理解を得るために尽力するだろう。そのことを、前世から腐れ縁で繋がっていたトゥリーは理解させられてしまった。

 こいつはこういう女なのだ。

 強烈な眩しさに、思わず吸い込まれてしまいそうになる。――けれど。

 人間の掲げる高貴で崇高な理念に運命を委ねられるほどトゥリーは純粋ではなかった。むしろ不純なほうだ。なにも特別なんかじゃない、ただの卑しい身売り組なんだから。

「い、いやいや……なに、言ってんの? まいったなー、そういうこと真顔で言うんだから……」

「私は本気よ」

「知ってる、うん、知ってるよ。あんた、根っからの人たらしなのよ。男だったらさぞモテたでしょうね」

「あによそれ?」

 叢雲は差し出した手を更にトゥリーに近付けた。さっさとこの手をとりなさいと迫る強引さは自信さえ満ちていて、抗いがたい魅力を放っている。

 トゥリーはごくりと唾を飲み、椅子に座りながらも仰け反った。

「待って、待って待って。いい、あんたが本気なのは分かったから……。けど無理なものは、無理」

「なーにが無理なのよ?」

「あんたはいいよ、あたしの中身を信じてくれる。けど周りはそうはいかんでしょ?」

「誰? 提督のこと? 言いくるめてやるわよ」

「あーあー、そうね、それもできるかもしれないね……。あの人、お人好しだから。よしんば戦艦・空母のお姉さまがたも抑えられるかもしれない。そういうことに、しましょうか? それでもだよ、」

「わ、私も、言う。証言、する」

「はいはい浜ちゃんもありがとねー、ちょっと黙っててねー」

 一言でいえば、ありがた迷惑だった。

「うちの……じゃなかった、大湊警備府の人たちがまるまる味方してくれるようになったとしてもだよ? 他所の鎮守府・泊地はそうじゃないし、司令部の連中なんか絶対に放置してくんないでしょ?」

「そんなの、あんたが無害だって証明していけばいいのよ」

「いやだからさ、世の中そんな単純にできてねーっつーの……」

 叢雲は簡単に言うけれど。困難な道のりだろうと最善の結果のために進んでいこうと手を差し伸べてくるけれど、トゥリーはそんな博打にのろうとは思えなかった。

 叢雲を信用していないわけじゃない。

 大湊警備府の人たちだって時間をかければ分かってくれると思う。

 もしかしたらその勢いで司令部の人たちが“元大鷹の深海棲艦”というセンシティブな存在を認めてくれる確率も0.1%ぐらいはあるかもしれない。

 しかし、しかしだ。

 汗水たらして稼いだ500万円はどうして塩漬けになった?

 それは、努力が報われるとは限らないからだ。必死こいても全てがパーになる、そんな未来は無数に待ち受けている。

 人生を懸けた無駄働き。その愚かさを嫌というほど思い知っていた。

――想像してみる。

 もしも、叢雲と浜波に連れられて大湊に帰ったらどうなるか?

 かつての仲間たちに憎しみを向けられて撃たれるかもしれないし、それでも信じてもらうためには無抵抗でいなければならない。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、五体投地でなんとか砲を引っ込めてもらえたとしよう。様子見という段階に入れたとする。しかし、疑いの目は消えないし、自分を庇うであろう叢雲と浜波はスパイ扱いの陰口を叩かれるかもしれない。自分のせいで嫌がらせさえ受けるかもしれないと想像したら、たまらなかった。自分だってあらぬ思い込みで悪意に晒されて、それでも耐えて少しずつ信用を築いていくしかない。心休まる時間なんて一秒だってないだろう。その苦しみをどうにか乗り越えたとしてもまだ終わりじゃない。お次は他所の連中が黙っていないはずだ。「大湊の連中はとんでもない裏切り者たちの巣窟だ」とか言われて、そんな醜聞と危険性を許さないド偉い肩書の人たちが圧力をかけてくるに違いないし、実力行使にでるに決まっていた。そうなったら提督も艦娘も自分を守れきれないだろうし、守ろうとして下手な事態になられても困る。どちらにせよ自分はド偉い人たちにどこぞに連行されていき、自称・元艦娘の実態をケツの穴まで調べつくされるはめになる。運が悪ければ「解剖しよう」とか言われるかもしれない。自由なんて当然ないし、人権はおろか命だって保障されることはない。

 そんな艱難辛苦を味わってまで身の潔白を証明したいか?

 答えはNOだった。

 塩漬けになった500万が頭をちらついて離れない。2年と9ヶ月という時間、そして命は、けして安い代価ではなかった。同じ轍を踏む気は、ない。

 その心情を、とてつもなく回りくどい言い回しで、自分だって本当は帰りたいんだけどみたいなニュアンスで伝えると、叢雲はむすっと口元をへの字に曲げて、不満を顔中で表現した。

「――そんな顔しないでよ。とにかく、いきなり帰るのは無謀なんだって。歩み寄りには時間が必要ってやつ」

「で、でも……このままだと、大鷹さんと、いつか、戦うことになるかもしれない……」

 浜波さえも不満そうだった。

「もう大鷹じゃねーっつーの。そう理解しな。来るときが来ちゃったらもうしょうがないんだよ」

「そんな……」

 トゥリーは頭をがりがりと掻いて立ち上がる。窓の向こう側、暗闇のもっと向こう側の……本土があるはずの方角に目を向けた。

「……とりあえずさぁ、あんたら帰ったらあたしのことを報告しなよ。こういう経緯で自己防衛するしかない深海棲艦がいるってさ? もしかしたら大ホッケ海の外にもそんな元艦娘がたくさん居るかもしれなくて、そいつらが安心して戻れる体制を整えたら強力な味方になるかもしれないぞー、って」

「まるで深海棲艦シンパの言い分ね」

「あー、そういやそうだね。今じゃカルト扱いされてっけど。主にピースメイカー先生のせいで」

「……あいつ、信用できるの?」

「するしかない、っつー感じ。まぁ実際、あのひとが何したいのかはよく分かんないんだけど……あれはあれで意外に悪いひとでもないんだよね。人の嫌がることは……やるんだけど、ホントの本当に嫌なことはやらないんだ。そこの線引きはできてると思う」

「ふん。私は信用できないわね」

 叢雲は腕組みを解いて、踵を返す。入り口まで歩いていって戸を開けた。

「ちょっとちょっと、どこ行くの?」

「散歩。長話して疲れたわ」

 叢雲はちらりと壁時計を見上げた。

「この島、ぐるっと歩いてくる。ちょっと時間かかるかも」

 切り替えの早い女だった。

 いや、これは自省の一種なのかもしれない。これ以上熱くなって口論にならないための。

「……叢雲」

「あによ」

「お花摘みなら、海でしな」

「違うわっ」

 戸がぴしゃりと閉じられた。

 教室の空気は再び落ちつきを取りもどし、ストーブの燃える音がカンカンと鳴る音が聞こえてくる。

「……馬鹿なやつ」

 呟いてしまってから、浜波と眼があった。夕雲型の少女はただじっとトゥリーを見つめていた。

 言い訳せずにはいられなかった。

「あたし、どーも口が悪くって。白いものを黒いって言っちゃうんだ」

「そういう人がいても、いい、と思う。いろんな人がいたほうが……」

 浜波は体育座りのままきゅっと膝を抱えこむ。

「けど……」

「ん?」

 浜波の前髪から、瞳がのぞいていた。

「大鷹さんも白いんじゃないですか?」

 ぎょっとした。

「そうじゃなきゃ、大湊だけでも守ろうとなんてしません。私たちを拾って保護しようとなんてしません。せっかく見つけた、自分を守ってくれるかもしれない魔女たちに嫌われるかもしれない危険を冒そうとはしないと思います」

「ああ、いや……」

 無力な娘だと思っていた。相手の裡に切りこむ勇気は持ちあわせていないと。かつての自分と同じように。

 だが、そうではなかった。

 彼女もまた叢雲と同じように、白く、輝かしい強さを持っていた。

 たまらない。そんな光を見せないでほしかった。

「……あたしは、白くなんてないよ」

 トゥリーは逃げるように眼を背け、沈黙をかき消すためにラジカセの電源をONにした。

 ラジオ番組はいつの間にかニュースへと移っていて、午後9時を告げていた。

 

『――明日は風が強く、波が高くなることが予想されます。海岸沿いにお住まいの方々は災害や事故にご注意を』




海外軽巡、増えましたね。
海外軽巡たちと一部の日本軽巡による催眠合戦で過去を改変されまくって幼馴染という概念が崩壊した提督のハートフル・サイコ・ラブコメディな二次創作を誰か作ってください。こんな感じの↓

好きとか嫌いとかを超越したパーフェクト幼馴染のゴトランド!
ふわふわ系全肯定幼馴染のデ・ロイテル!
生真面目でみんなの前ではそっけないけど2人きりになると少しだけ心を開く委員長系幼馴染のパース!
マイペースで口が悪いけど悪友ポジでおっぱいのでかい幼馴染のアトランタ!
過保護で甘やかしてくる年上のおっぱいのでっかい幼馴染のアブルッツィ!
恋愛感情がないゆえに距離が近くておっぱいのでかい幼馴染のガリバルディ!
おっぱいの小さい幼馴染……? 由良……うっ、頭が……
はっ! 私はいったい、何を、考えて……


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3-6:夜。浜波と護衛棲姫

 叢雲が散歩にでかけてしまい、夜の教室部屋に残されたのは2人だけ。浜波と、護衛棲姫トゥリー。ストーブの稼働音とラジカセのBGMが虚しく消えていく。2人の間には微妙に気まずい空気だけが漂った。

「……」

「……」

 言いたい放題やらかした後である。

 こうなってしまったらもう不自然にでも明るい話題を始めたほうがなんぼかマシというやつなのだが、いかんせん残された2人はどちらもコミュ力は低かった。ここに叢雲が残っていたらきっかけを作ってくれたかもしれないが、2人だけで面と向かって話をするとなるとダメだった。

「え、えーと、寒いね?」

「うん。そ、そうだね……」

 寒いわけあるか。

 ストーブのおかげで室温はむしろ快適でしかない。あまりにも苦しい話題の投げ方をしたせいでいたたまれなさ濃度はむしろ上がった。

「あぅ……」

 浜波もそれを察しており、なんとか会話を続けようと頭をフル回転させている。しかしその様子をトゥリーが更に察していて、だからこそ更に切りだしにくくなり……なんていう、苦行のようなやり取りが展開されていた。

 だがちょっと待ってほしい、どうしてトゥリーに『スキル:引っ込み思案』が発動してしまうのか? 彼女はこれまで平然と会話をしていたではないか。

 その疑問にお答えしよう。

 トゥリーはこれまで浜波を対等に見ていなかったから気構えなく喋れていただけにすぎない。

 浜波はこれまでずっとおどおどして、自分の意思を発していなかった。いかにも小動物的な態度で、艦娘としての経歴もド新人。……とくれば、艦娘時代は中堅ポジションとして活躍していた元大鷹からすれば浜波はあらゆる面で格下も同然。ゆえに園児の世話を焼くがごとく心の余裕をもって対応することができていたのである。

 だが浜波の実態は違った。いざとなると他人に切りこむ強さを持っていた。

 つまり、浜波はけしてコミュ障で無力な後輩ちゃんなんかではなく、対等に向き合うべき存在であると理解してしまったのだ。

 こうなるともう言葉がでてこなかった。それまで調子に乗って上から目線の発言を連発していた記憶が浮かび上がる。トゥリーはいまや「あのぅ、ええとぉ」と択捉型のシャイ娘のように上目遣いで相手を伺うしかできなくなってしまっていた。

 それでは、相手のほうの浜波はどうかというと――こちらもダメになっていた。

 つい先程、トゥリーに対して流暢な口ぶりでツッコミを入れられたのは勢いに任せた奇行なようなもの。我にかえると(あああ、わたし、すごいこと、言っちゃった……!)と俯くしかなくて、相手の視線から逃れるために前髪でササっと壁を作って瞳を奥へと隠す始末。

 やっぱりコミュ障じゃないか……と呆れることなかれ。誰だって苦手な分野はあるからして、立ち向かおうとしているその姿勢を評価していただきたい。

 さて。そんな浜波であったが、彼女はどもりながらもトゥリーに聞きたいことがあった。護衛棲姫になる前の大鷹だった時代について、ずっと気になる点があったのだ。

「……え? 艦娘を辞めた後は、どうするつもりだったかって?」

「う、うん。500万円は、あったん、だよね? そんなに貯めて、どうするつもり、だったの?」

「そりゃあ……まぁ、色々よ。お金はあればあるほどいいでしょ?」

「でも、艦娘つづけてると、死んじゃうかも、しれないし……。始めから辞めるつもりなら……3年も続けなくていい、と思う」

「そんなの、あたしの勝手じゃん」

「職歴、作りたいだけなら、1年で充分。それで、次の職にはありつける……と思う」

「……だろうね。やけに詳しいじゃん」

「うん」

「もしかして、浜ちゃんも『身売り組』なの?」

「……うん」

「へぇー……。確かに正義のために、ってタイプには見えないけど。そっか、浜ちゃんも身売り組かぁ……」

 身売り組。それは、浜波にとっては知られたい情報ではなかったはずだ。なぜなら『私は生活に困って仕方なく艦娘になっただけで志は低いです』と公言するに等しいから。

 とはいえ、知られたからといって見下すような艦娘や軍関係者はいないし、そのような者こそ軽蔑されるというありがたい風土が海軍にはある。しかし、それでも、身売り組はけして胸を張れるような肩書きでもないのは確かだ。

 バレて良いことなんて1つもない。

 なのに浜波は自分から藪を突ついて蛇を出した。

 何故なのか?

 その理由は簡単だった。

「同じ身売り組、だから……気持ち、分かる」

 トゥリーはどうして3年間も艦娘を続けるつもりだったのか?

「お金が必要だったん、でしょ? しばらく働かなくても、大丈夫なぐらい。それと、初期費用……?」

「……あー、バレてたのかー」

 トゥリーは踵を返し、浜波から顔を背けた。言い訳のように「めっちゃ恥ずかしいわー」とこぼした。

 身売り組は、総じて貧乏人である。

 貧乏人は、しょうもない夢を見るものだ。余人には理解しがたい、つまらない夢を。

「うぐぐ」

 貧乏人もそれは自覚している。だからけして口外しない。例え哀れまれることがなかろうと認識の差をつまびらかにされるのは耐え難いからだ。

 どうしてそういうことをするんだ、とトゥリーは文句を言いたかった。けれど、これはきっと腹を割って話そうという浜波の意思表示なのだと思う。

 この引っ込み思案の浜波が、自分から身売り組だと認めたのだ。

 自分だって恥ずかしい願望の1つぐらいは教えてやらなきゃ不公平だろう。

「あのさ、恥ずかしいからさ……叢雲には絶対に言わないでよ?」

「うん」

 トゥリーはぐるりと部屋を見渡した。

 黒板を。学習机を。ストーブを。まさに教室でしかない、己の部屋を。

 そして、どうしてこんな教室部屋を苦労してまで修繕して整えたのか、その理由を明らかにした。

「あたしさ、学校に行きたかったんだよね」

 浜波は笑わなかった。

 それがトゥリーにはめちゃくちゃありがたかった。

 

――別に、なにかを学びたかったわけじゃない。

 ただ普通の学生みたいな体験をしてみたかっただけ。

 例えば。

 誰かと待ち合わせをして登校するとか、

 講義中に居眠りして怒られるとか、

 レポートの提出期限がやべーと愚痴を言い合うとか、

 美味しいナントカ屋を見つけたから帰りに一緒に食べに行こうと約束するとか、

 飲み会に明け暮れて次の日のことなんて何も考えずに限界まで飲み比べをするとか、

 どっかのサークルに所属して好いた惚れたの噂話に巻き込まれるとか、

 その中心人物に自分がなってみちゃったりするとか、

 そんな、普通っぽい人生に、路線変更してみたかっただけ。

 

「――知ってる? なんでも世の恵まれた少年少女様たちは大学に合格すると入学祝いとかいって車を買ってもらえるらしいよ? すごくね、車って? ケーキじゃないんだからさぁ」

 そんな無駄遣い、トゥリーには想像もできない。こちとら誕生日に自販機の釣り銭忘れを回収していた身分である。お祝いで車ってなんだよ。それで調子こいて公道ぶっ飛ばしてオシャカにするようなクソガキが毎年発生するとはどういうことか。そんな連中は残らず全員、免許証・永久取得禁止の刑になればいい。

「まっ、金を貯めたところで学が無いから、ろくなガッコーにゃあ行けないんだけどね。名前を書けば入れる馬鹿校か、専門学校か……。まーそれでも行ってみたかったってわけ」

 トゥリーは再び、後ろを向いた。「おー、恥ずい恥ずい」とぼやく彼女は冗談めかした口調ではあるのだが、やはり耳まで赤く染まっているせいで顔が焼けるほど恥ずかしがっているのがバレバレだった。

「それで、行けなくなって……せめて教室だけは再現したくて、この部屋を作ったの?」

「そーだよ、未練たらしくなっ! ……分かってるなら、わざわざ聞くんじゃねーっ!」

 振り返って怒鳴ったトゥリーは、その顔の全てが見事に真っ赤だった。そこまでムキになることもないのに。おかしくて、浜波は笑った。

「なんなんだよオメーはよー。こちとら身売り組の先輩様だぞ、ちっとは敬えや!」

「ふふ、ふふっ。ごめ、ごめん……」

「ちえっ、話すんじゃなかった!」

 浜波は笑いが止まらず、眼の端に涙さえ浮かべた。

 笑われてるトゥリーはまったく面白くない。

 が、厭な気分でもなかった。

 こういう馬鹿みたいなことで笑い・笑われる関係性こそおそらく普通と呼ばれるものだから。

「でも、そんな目標があって、あと3ヶ月で達成ってとこまできてたのに、それでも叢雲さんをかばって、助けたんだから、やっぱり大鷹さんは、いい人、だと思います」

「はン、そんなんじゃねーから。別にあいつのためじゃねーし」

「またまた……。友達、だったんでしょ?」

「友達ぃ?」

 すぐには否定できなかったのがトゥリーは悔しい。

 腕を組んで考えた。あの八方美人との関係をどう表現したものか。

「むむむぅ」

 胸の奥底にしまいこんでいた文句が次々と浮かび上がってきた。

 己の顔が、梅干しのようになってくるのが分かった。

 あの生意気な駆逐艦娘について愚痴を言いたいと思った。誰かに不満を聞いてもらいたい。けど、それを吐き出すとなると、同時に自分の情けなさも追加で披露するはめになる。

「むむ、むむむむ……」

「……大鷹、さん?」

 それでも、やっぱり聞いてほしかった。だってこの機を逃したらきっと次は無いから。艦娘時代の愚痴なんて、この島の誰にも話せるわけがないのだ。アドナーやドヴェには言っても理解されないだろうし、チェトゥーリになんて禁句もいいところ。ましてやノーリに打ち明けるぐらいなら夕陽に向かって叫んでいたほうがマシだろう。

「むがー!」

「ひゃっ!?」

 がばっと浜波の両肩を捕まえる。こうなったらとことん聞いてもらうと決めた。

「浜ちゃん、聞いてよ! 叢雲はね、ひどい奴なんだよ!」

「え、えぇ? なんなの、一体……」

 目を丸くする浜波にがっぷり詰め寄って。大湊警備府にいたときの叢雲との関わりについて暴露した。

 

 この自分、大鷹が、ほんのちょっぴり薄皮一枚分くらいだけ問題児だったこと。

 それを解決するために叢雲が余計なお世話を焼いてきたこと。

 そのせいで駆逐艦娘たちとめんどくさい関わりを持つはめになってしまったこと。

 例えば、秋雲のエロ漫画作りを手伝わされたせいで報告書をつくる時間がなくなって徹夜するはめになってしまったり。

 「素敵な催しがあるから絶対来い」と力説されて休日返上で渋々行ってみれば駆逐艦寮の雑草抜きの手伝いだったり。

 水雷戦隊の打ち上げになぜか呼ばれて「空母だからたくさん飲めるでしょ」と意味の分からないアルハラを受けたこと。

 仕事人間の皮をかぶっていたせいで「クールで礼儀正しくて大人っぽくてステキ!」とほぼ初対面の娘からラブレターをもらって苦労したこと。

 挙句、『駆逐空母』という不名誉な称号を頂戴したこと。

 

「……ふぅ~ん」

 力説するトゥリーを眺めて、浜波は半笑いだった。

 楽しそうじゃん、と顔に書いてあった。

「なーによ、その顔は。言っとくけど酷いのはここからなんだから」

「そうなんだぁ」

「叢雲はさ、そうやって事あるごとにあたしに関わってきたワケ。ま、どーせ問題児だったあたしをどーにかするためだったんだろうけどさ、いちいち鬱陶しいくらいに熱いもんだから、こっちもなんか絆されちゃったのよねぇ。「あれ? これってもう友達なんじゃない?」とか思っちゃうわけ。でもね、これって不可抗力なの。だってこっちは今までそういう経験、ないんだもん。自分のために一所懸命になってくれる人なんていなかったんだからさ、免疫がないの。だから簡単にありがたがって、入れこんじゃってもしょうがないのよ。ねぇ、分かる?」

「分かるかも……」

「でしょっ!? ……なーのに叢雲は違うのよねぇ。あいつにとってあたしはその他大勢の一人でしかないの、すーぐに分かっちゃったわ。だってあいつ、誰に対しても同じように全力なんだもん。暴走機関車かってカンジ。そのエネルギーはどこから沸いてくるんだって呆れたわ」

「分かる……。ふーちゃんも、はーちゃんと距離近いし……。別に嫌じゃないけど、なんか、もやもやするとき、ある……」

「浜ちゃん、あんた……分かってるじゃん!」

「分かる、分かるよ!」

「う~、一緒にお酒、呑みたい! 呑まずにはいられないっ! けどここにはお酒がないんだ!」

「あ、お酒はいいです」

「はァ? なに言ってんの? 呑めっつったら呑め! 先輩命令だぞ、コラァ!」

「ア、アルハラ……」

「んな単語はこの島には存在しないっ! 浜ちゃんにはリバースするまで呑んでもらうぞぉ!」

「いやいや、ええっと、無いんでしょ? お酒」

「ああっ、そうだった! くそぅ……お酒ェ……」 

 そんなふうにわちゃわちゃと盛り上がっていると、

 遠くから、いきなり甲高い破裂音が轟いた。 

「おおっ!?」

 音の残響は、すぐに消えてなくなった。

 静寂。

 トゥリーと浜波は顔を見合わせる。

「……なに? 今の音」

「交通事故に、似てるかも……」

 言われてみればそんな気もする。

 が、このゴミ島に乗用車は走っていない。いるはずがない。であるならば、そんな破壊音をもたらす原因は深海棲艦の攻撃でしかありえない。

「ウチのモンかな? いやでも喧嘩・マジバトルはご法度だしなぁ」

「あ、あの、叢雲さんは……」

「あ!」

 そうだった。今、叢雲は外を出歩いている。トラブルの原因になるとしたら彼女しかいない。

 ――やばいかも。

 僅かに残っていた緩い空気をうち消して、2人はにわかに立ち上がる。

「いやいや、でもでも! 艦娘には手を出すなって言ってあんだけどー!?」

「どど、どうしよ?」

「行くしかなーい!」

 身を翻し、引き戸を思い切り開いて飛び出した。

――闇。

 外は、一面の闇だった。

 世界はまったく緩くない。いつだって厳格だったと思い出す。

 室内の明るさとはまるで違っていた。異次元のようにただ黒い。捜索は一筋縄ではいかないだろう。

「っ」

 まずは、どこに向かうべきか。当てずっぽうに飛び出しても時間を無駄にするだけだろう。ならば――

「浜ちゃんは部屋で待ってて。何が起こってるか分かんないけど、艦娘は出歩かないほうがいいと思う。どうせどっかの馬鹿が言いつけ破って攻撃したんでしょ。あたしが行けば、解決するから」

「そ、そう?」

 指をくわえて口笛を吹いた。

 すぐに鷹型艦載機たちが現れる。

「上から探してみる」

「み、見えるの?」

「大丈夫、少しは夜目がきくから。暗さに慣れればなんとかなる」

 黒色のカラスたちがトゥリーの両腕をがしりと掴む。細い身体が上空へと一気に飛びたっていった。

 

 

 結局、叢雲は見つからなかった。

 いや、こう言ってしまうとなにやら悲劇の幕開けのように聞こえるが、単にトゥリーと入れ違いになってしまっただけだった。

 あの後すぐに叢雲はなに食わぬ顔で教室に戻ってきて、浜波を飛び上がらせるほど驚かせた。

「え、何かあったの?」

 叢雲はすぐに事情を聞きだすと、上空で捜索しているはずのトゥリーを呼び戻そうとした。が、そのとき既にトゥリーは島中を探し終えて隣の島へと飛びたった後だった。

 こうなるともう連絡手段がない。

 トゥリーは4番・1番・2番の島を順に捜索し、それでも見つからないものだから焦りに焦って4つの島をぐるぐると旋回し続けた。運悪くすれ違うこと2回――つまりトゥリーは4つの島を、3周も探し続けるはめになった。

 へとへとになって戻ってきて、引き戸を開けると捜し求めた女がいた。普通に。ストーブに手をかざしていた。

「遅かったわね」

「……はァ?」

 トゥリーは金魚のように口をぱくぱくと開閉し、罵詈と雑言を喉元までせり上げた。感情的になりすぎて言葉にならず、トゥリーは唇を噛み締めてそれらを封殺。肩を怒らせて煎餅布団を床に叩きつける。横に寝そべって背を向けたまま、

「のんきちゃんかオメーは! 次はもう探さねーからな!」

 叢雲はなにも言わなかった。

 それがますますトゥリーを意固地にさせた。右手で頭を支えて舌を打つ。

 浜波だけがおろおろと両者を見比べて。

 そのまま時間だけが過ぎていった。

 

 

 朝である。

 いの一番に起きたのは浜波だった。慣れない寝床のせい……ではない。昨夜の険悪な雰囲気を引きずっていたからだ。明日になったらどうしよう、とうつらうつらと考えているうちに外が明るくなったので起きることにした。

 のそりと身を起こして女の子座りをしながらぼうっと壁時計を見上げる。時針は5、分針は真上を指すところだった。

 がばっ、と。

 左右で寝ていた2人がまったく同時に身を起こした。

「ひぃっ!?」

 トゥリーは寝ぼけ眼のまま腹をぼりぼりと掻いていて。

 叢雲は流れるように立ち上がり、テキパキと煎餅布団をたたみ始めていた。

「……」

 何かを言おうと思っていたけれど、既にそんな雰囲気ではない気がする。

 トゥリーはゆっくりと顔を上げ、壁時計を見つめている。

 朝の5時。分針はミリ単位でその先に進みつつある。

 その事実をトゥリーは親の仇のように睨みつけていた。

 叢雲が布団をたたんで定位置に片付けると溜め息をついた。

「……朝飯、食べる?」

「食べる」

 叢雲は当然のように応じた。

「どこにあるの?」

「隣の島」

「どっちの?」

 ここ3番島には2つの島が隣接している。西には2番島、東には4番島が。それぞれの島にはその数字に対応した深海棲艦が住んでいた。

「チーちゃんのほう」

「ふうん、4番さんね。ま、ピースメイカーのほうよりずっといいわ」

「なんで上から発言なんだよ。金とるぞ」

「一円も無いわよ」

「知ってらあ」

 トゥリーはのそりと立ち上がり、自分の布団を半折りにして教室の隅へと放り投げた。ぼすん、と角に収まるのを確認してから欠伸を一発、

「くあぁ~……。じゃ、行こっか」

「そうね」

 そうして2人してスタスタと出口へと歩いて行く。

 浜波は慌ててついていくしかない。

 外に出て、トゥリーは真っ先に粗大ゴミの山へと向かった。

 皮のはぎとられたソファーの前で立ち止まる。用があるのは、その上に積み重ねられた調理器具だった。一番上に手を伸ばす。

 どでかい中華鍋。

「なんなの、それ」

「お土産」

「ふぅん? まだまだ使えそうね」

「でしょ? こういうレアもんがたまに流れてくんの。そういうのを見つけて、欲しいやつに配るのがあたしの仕事……みたいなもんかな」

「へえー。あの駆逐古姫が欲しいって? あの子、料理するの?」

「しないよ。すんのは、あの子の……家族かな」

「……家族?」

 叢雲の声が少し硬くなる。

「どういう……家族なの?」

「ま、血は繋がってないね。前世からの縁? みたいな感じ。一応言っとくけど、当人たちに変なこと聞かないでよ? 親父さんがこえーから」

「どんな人なのかしら?」

「戦艦棲姫ってさ、主砲もってるでかい奴がいるでしょ? アレよアレ、むきむきマッチョマン。あと喋れなくて、気に入らないことがあるとすぐにグーで殴ってくる」

「DV野郎ってわけ?」

「あー、そういうんじゃない。こっちがアホなこと言わなきゃ何もしてこないよ。ただ沸点がものすごく低いだけ」

「昭和のカミナリ親父、ってところかしら?」

「そんな感じ。あと、グーって言ったけど、腕の太さが業務用の冷蔵庫ぐらいあるから気ぃつけてよ。パンチってレベルじゃない。先輩……ここの戦艦棲姫のひとがよく悪口を言ってぶっ飛ばされてる」

「戦艦棲姫を……? その親父さんって、戦艦棲姫のパートナーなんじゃないの?」

「いんや? 勝手にパートナーにすんなって感じかな? めっちゃ仲悪いんだよねー。協力してんの見たことない。ちゃんと組めばてる……防空棲姫にも勝てるかもしれないのに」

「……? それじゃあ、どうやって戦ってるの、その戦艦棲姫は?」

「艦娘時代の装備を使ってる。でもどーにもフィットしなくて弱っちいっつーか……そんなのどうでもよくない?」

「ん。そうね」

 喋ってるうちに海岸に着いた。

 海を挟んで向こう側に小さく隣の島が見える。

 叢雲も、トゥリーも、すっかりいつもの調子に戻っていた。

 浜波はちらちらと2人を伺いながら、考える。

(もしかして、昨夜の喧嘩? はもう無かったていで、進むのかな……)

 2人とも本当に気持ちを切り替えてしまったのかもしれない。

 でも、浜波には分からないだけで、表面を取り繕っているだけなのかも。

 叢雲とトゥリー。2人は平然とした振る舞いで東の4番島を眺めている。そこにぎこちなさはほとんど無い。少なくとも、浜波には読みとれない。

――古参の艦娘とはみんなこういうものなのだろうか? 過ぎた出来事をいつまでも引きずらない……それはいかにも戦場のプロっぽいけれど、この2人も同じなのだろうか?

 

――突っこんだ話をしちゃったら喧嘩にしかなんないでしょ? だからあんまりめんどくさい話をしてほしくないんだけど?

 

 昨夜、トゥリーはそんなふうに言っていた。そうやって関係を壊さないように丁度よい距離感を測るのが大人なのだろうか?

 もし浜波が、藤波や早波と変な空気になったときは、まず謝る。どちらが悪いかはあまり関係ない。その後に腹を割って話すほうが大事だから。そうやって自分たちは今までやってきたけれど、そういうやり方は子どもっぽいのだろうか?

 考えているあいだにも時間は進む。

 さっさと海辺へと進んでいく2人に遅れまいと浜波は慌てて足を踏み出した。

 が、陸地から離れる前に2つの背中は止まった。

「あ」

 遠く、水平線に浮かぶ4番島から誰かやってくる。

「アっちゃんだ」

「アっちゃん?」

 1人の人影が水面を駆けていた。

 黒い衣服に、白い肌。目を細めて確認する。当たり前のように深海棲艦。というか、その和服姿は昨日に見たばかり。

「駆逐古姫?」

 ――のように見えた。

「違う違う、駆逐古鬼」

「どこが違うのかしら」

 一応、武装の形状が違う、と海軍は定義している。けれど接近してくる少女は武装を持っていなかった。叢雲たち艦娘には区別が難しい。

 海上の少女はこちらの姿を認めると、袖をはためかせながら右腕をぶんぶんと振ってみせた。

「おはよーっ! いい朝ね!」

 晴れやかな笑みを浮かべ、朗らかに声を響かせる。

 それだけで昨日のチェトゥーリとは別人と知ることができた。

「ちーっす!」

 あっという間に上陸してきた駆逐古鬼にトゥリーが両手を挙げる。2人の姫級が軽やかに歩み寄り、スパーン! と景気よくハイタッチを交わした。

「いえーい!」

「いえーい!」

 謎のテンションに叢雲も浜波もついていけない。

「あーっ! なにそのどちゃくそでかリボン!? めちゃかわたん!」

「でしょでしょ? 最&高の出来栄えじゃなーい? 褒めちょおけまる」

 すぅ~っと息を合わせて、

「かぁ~わぁ~い~い~!」

 とユニゾンした。

 腹を抱えて笑い出し、と思ったら再びハイタッチ。右手で「いえーい!」、左手で「いえーい!」、最後に両手で「ズッ友ーっ!」、そしてまた大爆笑。

 ――なんだこれ。

 浜波、あっけに取られて横を見る。

「ちっ」

 叢雲。

 苦虫を噛み潰したような顔だった。

「うまくいえないけどすごく苛々するわ」

「分かるかも……」

 昨日からそればっかり言ってる気がする。浜波はとりあえず挨拶したほうがいいのかなと半歩だけ前に出た。「あ、あのぅ」と口ごもっていると陽気な古鬼が気付いた。

 にぱっと音がしそうな笑み。

「あ、もしかして噂の艦娘ちゃんたち? おはよっ、いい朝ね!」

「は、初めまし、て」

「……どうも」

「遭難してきたってほんと?」

「ほんとよ」

「大変ねー! けど安心していいわ。ここってわりと適当みたいだから」

「そうみたいね。拘束もされないし」

「捕まえるとか! 戦争ってほんと最悪よねー。やりたいやつだけ集まってオリンピックしてればいいのにー、ってことでお腹空いてない? ご飯持ってきたんだけど」

「え、ええ、くれるなら頂くわ」

 古鬼は背負っているリュックを揺らしてみせる。

「今日はおでんよ、お・で・ん」

 トゥリーは「朝からおでんかぁ」とぼやいた。

「なーに? 嫌ならあげないけど?」

「ウソウソ、おでん好き。めっちゃ好き!」

「ふふっ。じゃあ、あーげる」

「アっちゃん、もしかしてわざわざ持ってきてくれたの?」

「そうよ? だってこの島、なんにも食べ物ないじゃない」

「ありがとー! お礼にこれ、あげる~。じゃーん!」

「おーっ、鍋! やーっと手に入ったのね。せっかくだからこの鍋、使っていい?」

「おでんに?」

「おでんに」

「中華鍋を?」

「……だめ?」

「う~ん、ちょっとなぁ」

「えー? 食べられればよくない?」

「でもねー、見た目がねー」

 渋るトゥリーに、古鬼がしびれを切らした。

「しゅ~ぐ~政~治~!」

 がばっとトゥリーに正面から抱きついて両手を封じる。

「へ? なに?」

「他のお鍋でおでんを食べたいひとー!」

「え」

 なんか始まった。

 浜波は固まってしまい、叢雲でさえ困惑顔。

 意図を把握しきれない。

「このお鍋でおでんを食べたいひとー!」

 誰も動かないと思ったら、しゅばっ! とトゥリーの背中側から古鬼の手が伸びた。

「……はい。反対ゼロ票、賛成1票の圧倒的賛成により可決しました!」

 気付いたときには終わってた。

「え、えーっ」

「じゃあ食べよう、すぐ食べよう。ここでいいよね? 海を眺めて食べるご飯も乙なもんよ、きっとそう」

 コンクリートブロックを集めて即席かまどを作りだす。野戦部隊顔負けの早業だった。

「……はぁ、いいわよ、もう」

 溜め息をつき、叢雲は流木を拾い始める。消極的な賛成に古鬼もご満悦。

「あなた、分かってるじゃない」

「叢雲よ」

「そっちのあなたは?」

「浜波、です」

「ムラちゃんとハマちゃんね」

「あんたは? あんたも元は艦娘だったの?」

「いいえ、違うわよ?」

 リュックを漁りながらのんびりと答える。

「適正はあったんだけど、なる直前でキャンセルされちゃったの。軍縮条約ってやつのせいでね」

「ふーん。ちなみになんて艦娘だったの?」

「朝風」

「ああ、神風型の……」

「そう、そのカミカゼ型っていうの? 弱いから要らない、って内定お祈りされたのよ? 勝手な話よね。おかげでこっちは……ま、いいわ。ご飯よご飯!」

 そう言って、でんと掲げたのは見事に育った大根だった。出汁に浸して煮ればさぞ食いでがあるだろう。ただ1つ、問題があるとすれば……

「色が、黒いんだけど……」

 真っ黒い大根、のようなもの。

 首を傾げる艦娘たちを安心させるために古鬼は笑った。

「だーいじょうぶよ。何度も食べてるから」

「うん、見た目はアレだけど、平気へいき」

 トゥリーまで自信ありげだった。

 しかし叢雲たちの疑念は晴れない。黒い大根なんてやっぱりおかしい。

「ちなみにどこで採ってきたの?」

「うちの畑よ!」

「ああ、そういうことなのね……」

 摩訶不思議な北方深海基地で採れた野菜。

 ――そりゃアンタらは深海棲艦なんだから平気なんだろうけど。

 どうやって断ろうかと叢雲たちは頭を悩ませるのだった。




夜の叢雲パートを書いてたのと年度末進行と色々で遅れました。


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3-7:一日の始まりは美味しくない朝ご飯から

 箱根の町に、黒たまごという名物がある。

 その名の通り、殻が黒色になっている卵のことで、作り方もいたって簡単。温泉に入れて茹でるだけ。そうすると殻に鉄分が付着し、硫化水素に反応して殻が黒く染まるのだ。うまみ成分も多く、食べると7年寿命が延びるといわれている。

 浜波はその黒たまごを一度は食べてみたいと思っていた。

 藤波や早波たちといっしょに旅行に行けたらなぁと観光雑誌をめくったこともある。けれどさすがに箱根は遠かった。自分の着任地である単冠湾泊地から赴くには太平洋をずごーんと縦走しなければならない。このご時勢に旅行目的で海を渡れるはずもなく。これはもう横須賀鎮守府に出張する機会でもなければ食べるのは不可能だろうと半ば諦めていたところだった。

 そこに、まさかの黒たまごがお出しされたのだ。

 この北の海でお目にかかれるとは。棚からぼた餅というやつである。

「うわぁ~!」

 諸手を挙げて喜んだ。が、

「……うわぁー」

 その黒たまごは、あまりにも黒かった。

 箸でつまむとずしりと重い。そこは普通の卵と同じである。しかし色、これがもうテカテカに黒すぎた。つるりとした表面には覗きこんでいる浜波の顔が映りこんでいる。

 これって実は鉄球なんじゃないの、という疑念は密かに飲みこんだ。言ってしまえば用意してくれたアっちゃんさんに失礼だから。

 ……でも。

 これはぜったいに箱根の黒たまごとは別物だと浜波は強く思う。

 目の前には中華鍋。ぐつぐつと煮えたぎる音を取り囲み、4人の人物が鎮座していた。

 浜波と叢雲。

 護衛棲姫と駆逐古鬼。

 珍妙なメンツだった。

 朝食の時間である。

 メニューはただ一品、おでんのみ。

 おでんといってもそんじょそこらのおでんとはワケが違う。日本各地の郷土料理を並べてみても似たような鍋は無いだろうと断言できる。なにせ具材がぜんぶ黒かった。

 たまごも。

 大根も。

 ちくわも。

 たくさんの黒い物体が泡立つ中華鍋に放りこまれていた。

 まるで木炭を煮こんでいるみたいだなぁ、と浜波は他人事のように思った。

 ぜんぶ同じ色をしているせいで、じゃがいもとつみれの区別がつかなかった。

 しらたきが毒性のイソギンチャクにしか見えなかった。

 タコの足なんてもう深海機雷の触手なんじゃないかと思った。

 これを食べろと仰るか。

 ためらいながらも箸を伸ばしてゆで卵を割ってみる。

 もしかしたら箱根の黒たまごのように中身は白いかもしれない……という願いは一発で砕かれた。

「う、うわあぁ」

 中身も立派に黒かった。そして黄身と思われる部分は赤かった。

 さすがにコレはない。

 希望を失った目でグロたまごを眺めていると、隣の叢雲が気合一閃、

「ええい、ままよ!」

 と叫んで、がぶりとグロたまごにかぶりつく。

「!?」

 もしゃもしゃと皿まで舐めあげる勢いで深海おでんを咀嚼している。他に食うものがないなら食うまでよ――眉間に刻まれた皺が彼女の決意を雄弁に物語っていた。

(すっ、すごい、このひと)

 まさに武人。サムライとはかくの如く揺るがぬ精神性を備えた乙女を指すのだと思った。見習いたくはないけれど。

 ――ごっくん。

「だ、だいじょうぶ……?」

「味がしないわ」

 武人・叢雲はぺろりと口の端を舐めあげた。

 姫級たちは目を丸くして、

「おーっ、すげー。コレを初見で食べるかー」

「やるわねぇ! 思い切りのいい子は好きよ!」

 と手を叩いて喜んでいる。

 食わせておいてその言い草か、と思わなくもない。

 叢雲は唇を尖らせて、

「コレってどうしてぜんぶ黒いの?」

 と今更な疑問を呟いた。食ってからいう台詞じゃない。

「知らないわ!」

 食わせてから答える台詞でもなかった。

 ついていけない。深海棲艦の無茶ぶりに対して自分はあまりにも無力だ。ただご飯を食べるだけでどうして覚悟が必要になるのか誰か教えてほしい。

 げんなりとしていると叢雲が目ざとく見つけてフォローした。

「こんな話を知ってる? 中国のある食堂では常連客を作るために麻薬を混ぜていたっていうし、インドでは死体が浮いてるガンジス川の水をそのまま料理に使っているって聞くわ。それを思えば、ちょっと色が黒いぐらい大したことないじゃない。私を見なさいな、ただちに影響が出てないでしょ?」

「そ、それは、許容していいレベルの話、なの……?」

 目の前の未知の食材を眺めながらしみじみ思う。食べ物に安全が保証がされている、それがどれだけありがたい話だったのか。

「これ、食べてたら、いつの間にか深海棲艦に、なってそう……」

「ふん。なったらなったでバレなきゃいいのよ。肌が白くなってお得だって思いなさい」

「い、いいのかなぁ」

 でも、確かにごねていてもしょうがない。

 だって他に食うものがないのだから。

 浜波も覚悟を決めた。

 瞼をぎゅっとつむって「えいっ」と黒たまご(偽)を放りこむ。なるべく噛みたくなかったが飲みこむためには仕方ない。もぐもぐと咀嚼した。たまご特有の柔らかな食感が……まるでない。

(うぅ……)

 しけった食パンみたい、というのが第一印象。もさもさで中身がつまってない。簡単につぶれて、味がしなかった。

 なにこれぇ、と渋い顔で嚥下した。

「おー」

「すごーい」

 ぱちぱちぱち、とまばらな拍手をいただいた。

 駆逐古鬼が晴れやかな笑みを浮かべていた。

「あんたも根性あるのねぇ!」

 その顔は、昨日会った古姫によく似ていた。よくよく見ると髪形が少し違う。おでこを大きく出していて、髪質もわずかにウェーブがかかっている。でも、そんなの凝視しないと分からない程度の違いでしかない。

 ――でかいリボンのおかげで区別はできるけど。

 じっと見つめていると、古鬼は「?」と小首を傾げた。

「なぁに?」

「べ、別に……」

「変な子ねぇ」

 古鬼はくすりと笑い、隣でまじまじとちくわを観察している叢雲に声をかけた。

「叢雲ちゃんは何をしてるの?」

「……いえね、おでんってほとんど加工品のはずでしょ? 大根はともかく、ちくわが黒いのはどうしてかなって……」

「ああ、そういうこと? あのね、これってぜんぶ畑で採れたのよ。最初から黒かったの」

「ぜんぶって……ちくわも?」

「そう。ちくわも、昆布も、たまごもよ」

「嘘よ、そんなの。だってちくわが土から生えてくるわけないじゃない?」

「普通はね。でもここって普通じゃないでしょ? 理由なんて私も知らないわ。私だって最初は驚いたもん」

「じゃあ……このたまごはニワトリが産んだものじゃないの?」

「そうよぉ? じゃがいもみたいに土に埋まってたの」

「えぇ? そんなのって……。だったらそのまま埋めてたらどうなるのかしら……。たまごから根が伸びて新しいたまごの実ができるの? それとも黒いヒヨコでも産まれる?」

「それはねえ……」

 浜波は聞き流した。

 世の中には知らないほうが良いこともある……はずだ。それが腹に入れてしまった謎食材についてなら、なおのこと。

 雑談をシャットアウトして箸を伸ばした。

 なんだかお腹が減ってきた。こんなものでも一度食べてしまえば抵抗感は薄れる。毒を喰らわば皿までではないけれど、どうせなら満腹になるまで食べてやろうと思った。

「これ、こんにゃく?」

「そうだよ」

 答えたのは護衛棲姫。

「味がないのは、本物といっしょだね」

「そうだねえ」

 護衛棲姫と並んで鍋をつつく。

 見事にぜんぶ味がしなかったけれど、誰かと一緒に食べるご飯はそれだけで美味しい気がしてくるから不思議だ。

「味がしないのはね、やっぱり出汁のせいかなって思うのよねー」

 元大鷹の少女はタコ足をくわえながらぼやく。

「ここには調味料も香辛料もないからね。素材の味しかしないってわけよ。そして素材はコレだもん。深海作物。なんなんだろーねこれ。栄養あんのかな?」

「畑で採れるって、言ってたけど……」

「うん、チーちゃんの島ね。隣の4番島。そこに畑があんの。畑っていうか更地?」

「ふぅん」

 この北方深海基地のヘンテコさにはもう慣れっこだ。わけの分からない現象があると言われればそういうものなんですねと返せる図太さが身につきつつあった。

 むぐむぐとはんぺんと噛んでいると、元大鷹はついと鍋の中身へと目をやった。

「……そういえば、大湊にいたときもおでんを食べたことがあったなぁ」

 独り言のような言い方だった。

「そうだ、あれは一航戦の2人に奢ってもらったんだった。改二になったお祝いに。そうだ、どうして忘れていたんだろう……」

 遠い目でおでんの具を眺めていた。

「もう教えることは何もないって言われた後に呼び出されてさ、なんだろう、最後にガチンコ勝負でもさせられんのかなって思っていたら普通に飲み会だったわけ。それがおでん屋なんだけど、今どき屋台よ? なんか空母の伝統らしいけどこれがまたきったない手押し車でさぁ、赤銅色の鉄板に油がこびりついていて、灯りは裸電球で……」

「うんうん」

「どうせならもっと良い店連れてけよ金持ってんだろって思ったけど、食べたら意外に美味しくってさ……でも赤城さんも加賀さんもダンマリなのよ。訓練のときみたいなおっかない目ぇしてひとっことも喋んないの。なんだこりゃって思ったわ。だって祝いの席なのに修羅場みたいな空気なんだもん。いやあたし、修羅場知らないけど」

「うん」

「そんで仕方ないから主賓のはずのあたしが喋ったわけ。お二人のおかげでここまでこれました、とか。憧れの二人に追いつけるようにこれからも精進します、とか。あと半年で辞めるつもりなのに我ながら薄っぺらいと思ったわ。なんでこんな嘘つかなきゃいけないんだろうって腹が立ってきたんだけど……ふと、もしかしてって思ったの。一航戦の2人にはあたしが辞めようとしてるのバレてんじゃないかって。だから何も喋らないんじゃないの? 内心ではぶちぎれててあたしはこれからヤキを入れられるのかもしれない、このおでんが最後の晩餐なのかもしれないって血の気が引いたわ」

「……うん」

「けど違ったの。バレてなかった。赤城さんがさ、」

 元大鷹は、少しだけ言葉につまった。

「赤城さんがさ、こう言ったの」

 

――ここまでついてこられた子はいなかった。

 

「……そりゃいないわって思ったわ。あんたら裏でなんて呼ばれてるかって知らないだろ、って。人殺し長屋(キラーマシーン)よ? 訓練が厳しすぎて二航戦も五航戦も逃げ出したことがあるぐらい。だから、逃げなかったあたしはすごいだろって、胸を張ってやろうと思ったんだけど、なんかこう、言葉が出なくなって……」

「……」

「そこで加賀さんがね、こう、「ん」って紙袋を渡してきたの。前向いたまま。なんだろうって開けてみたら、」

 言葉は過去を掘り起こし、艦娘としての記憶を呼び覚ます。

「マフラーが……入ってて……」

 語尾は少し震えていたかもしれない。

「なんだろう、あの気持ち。なんか、ぐっときたんだ。一航戦の2人はめちゃくちゃ厳しくて、温かい血なんて流れてないって思ってたけど、そうじゃなかった。ちゃんとあたしを見てたんだなぁって……」

 大鷹は、身売り組で。

 きっちり3年間で辞めるつもりで艦娘になった。

 だからその間の生活はぜんぶ仮のもの。誰とも深い関係なんか作らないし、自分のためだけに時間を使うと決めていた。

 でも。

「……ずるいじゃん、そんなことされたらさ。こちとら情を知らない野良犬なんだから、餌をくれたらすーぐ嬉しくなっちゃうんだわ」

 元大鷹の持つ小皿には、黒々としたおでんが浮かんでいるけれど。

 今の彼女の目には色とりどりの宝石が映っているに違いなかった。

「……その、マフラーって?」

 浜波が目を向けた先、元大鷹の首にはなにも巻かれていなかった。もしかして失くしてしまったのかと思ったから。

「捨てちゃいないよ。けど、つけてもいられなくてさ」

 深海棲艦になったから。

 艦娘として戦うために渡されたプレゼントを身につけているわけにはいかないから。

「……ねぇ、大鷹さん」

 浜波は、あえて『大鷹』と呼んだ。

 否定はされなかった。

「いつか、戻ろうよ。今は無理でも、そのうち大湊に戻れる日がくると思う。……ううん、来るように、する」

「……」

「そしたら、ちゃんとしたおでん食べよ? 奢るから。その屋台ぐらい美味しいかは、分からないけど……」

「ふ。浜ちゃんに気遣われるようじゃあ、あたしも未熟だね」

「食べたいの? 食べたくないの?」

「……そりゃ、まぁ」

「はっきり言って」

「食べられるもんなら、食べたい……かな」

「だったら、決まり」

 浜波はちょっと無理をして笑った。

「一文無しになった大鷹さんに、わたし浜波が奢ってさしあげます」

 元大鷹は何も応えなかった。まるでさっきの話に出てきた一航戦の2人のようにただ黙って前を向いていた。

 それでも構わないと浜波は思った。

 だって自分も同じタイプだからよく分かる。身売り組はちょろいのだ。このまま何度も情に訴えていればころりと落ちるに決まってる。そうすれば万々歳。具体的に何をどうすればいいのかはさっぱり思いつかないけれど叢雲がなんとかしてくれるに決まってる。そう、それが役割分担というやつだ。自分の役目は意地っ張りを宥めること。それで何も問題はないと浜波は思った。

「――照月、ですって?」

 その浜波の耳に、聞きなれない名前が届いた。

 目を向ける。

 叢雲が神妙な顔をしていた。

「照月って、艦娘の? じゃあ北の魔女の身体を奪った防空棲姫って、照月のことなの?」

「ええ、そうよ。知らなかったの? 偉いわよねー、死んでもお国のために尽くそうなんて。そこのトゥリーちゃんとは大違い。あはは……って、なにその顔? もしかして言ったらまずかった?」

 問われたのは護衛棲姫のトゥリー。

 見事に「やっべ、バレちった」という顔をしていた。

 叢雲の表情がみるみるうちに曇っていく。

「どういうこと……? あんたら、元艦娘と戦ってんの?」

「いやぁ、その。はは……」

 笑い事では済まされない。

 叢雲の瞳に剣呑な光が浮かんだ。

 いくらこの島々から脱出するためとはいえ、同じ元艦娘同士が殺しあうなんてとうてい看過できる事態ではないのだから。




「王様ゲーム!」
「2番は好きな人を告白するぅー! いえーい!」
「はぁ!?」
「ま、艦娘が関われるオトコなんて限られてんもんね。どこの鎮守府の提督? それとも作業員? 運送のおっちゃん? 警備の人?」
「しっ、知らないわよ! あんたらはどうなのよ!」
「さぁ。誰かを好きになる前に死んじゃったし……」
「よよよ。悲しいわー……」
「ずっ、ずるくない? そういう突っ込めない言い方するのって」


……みたいな話をいれようと思ってたけど、本筋と全く関係ないからやめました。


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3-8:防空ちゃん立て篭もる

 違うんだ、落ちついて話を聞いてほしい……とトゥリーは言い訳を始めた。

 曰く、自分だって元々艦娘だった少女と争いたいわけじゃない。でもあいつは話を聞いてくれなかったんだ、と。

 防空棲姫――かつて照月と呼ばれていた少女は、つい最近この3番島に漂着してきたばかりらしい。

 

 

 あれは天高く太陽が昇りきった真昼の頃だった。

 横倒しになった軍艦の船腹に乗り上げるようにして1人の少女が倒れていた。

 白い肌に、白い長髪。

 艤装からは凶悪な対空機銃が何本も生えて天を衝いていた。

 その特徴的な姿はあまりにも有名でトゥリーもよく知っていた。

 防空棲姫。

 意識は失っていたが僅かに胸が上下していた。まだ生きているらしい。あるいは生まれたばかりなのか。判断はつかなかったが放っておくわけにもいかず、トゥリーはひとまず陸へと運ぶことにした。

 ずりずりと引きずりながら軍艦から漁船へと足をかけ、小さな山のように積みあがっている廃車を乗り越える。その途中で少女が呻く。覗きこんでみるとその瞼がゆっくりと開いた。

「ここは……?」

 あたりは一面、ゴミの山。

 見慣れぬ光景に彼女は困惑したが、トゥリーが落ち着かせるように声をかけると慌てて頭を下げた。言葉を交わすうちに表情は少しずつ和らいで、艦娘時代の名前を告げると安心したように微笑んだ。

「――へえ~、照月? あんたも艦娘かぁ。あたしは大湊警備府で働いていたよ」

「はいっ、幌筵泊地所属です。何にも無いところですが良い人たちばかりです。来る機会があったら教えてください。歓迎しますよ」

「……来る機会、かぁ。多分ないだろうなぁ」

「そう、なんですか?」

 ぱちくりと目をしばたかせる。

 彼女は自分の身になにが起こったか分かっていないようだった。どうやらまだ艦娘のつもりらしい。会話の端々からもそれを察していたトゥリーは、さてどう説明したものかと少しだけ迷った。

「ところで……大鷹さん? どうしてそんな格好をしてるんですか? 気に障ったら申し訳ないんですが、その、深海棲艦みたいで……」

「ああ、これね」

 額に生えた角を撫でながらトゥリーは考えた。

 なるべくショックを受けない伝え方……そんなものがあるのだろうか? 仮にあったとしても前世ではずっと他人と距離をとってきた自分には難しすぎる注文だろう。上手い言い回しなんて思いつけるわけがない。

 トゥリーは早々に諦めて単刀直入に告げた。

「あたし、深海棲艦だから」

「え?」

「あんたも同じよ。あんたも深海棲艦になっちゃったの。分かる? しん・かい・せー・かん」

「……?」

 照月は、ゆっくりと己の掌を顔の前に持ってきて、まじまじと見つめた。

 その肌の色は、白すぎて。

 裏返すと、

 爪は黒すぎた。

「え……? うそ……」

 呆然とする元照月。

「ほら、艦娘が轟沈すると深海棲艦になるって噂があったでしょ? アレよアレ。あたしも自分のときはびっくりしたけどねー、慣れちゃえばどうってことないよ」

 照月は、首を巡らせて己の艤装を確認した。それは慣れ親しんでいたであろう秋月型駆逐艦のものとはまるで違っていたはずだ。ギザギザの歯が生えた怪物が自律して身をよじり、主人である照月を――防空棲姫をじっと見つめている。

 元照月は硬直し、動かなくなった。

 なんか思ってたよりショックが大きそう、とトゥリーは思った。

「まあいきなり言われても困るかぁ。仕事はクビで、戸籍も消滅。これからどうやって生きればいいのって感じよねー? でも、安心して。あんたはついてるよ。ここのボスは中身が子どもで規律もゆるゆるなのよ。戦争ばっかりしなくてもそこそこ楽しく生きていけると思うよ?」

「……生きるって? 深海棲艦として……?」

「そうよ。だってなっちゃったもんはしょうがないじゃん? 不可抗力ってやつでしょ? 泣いてたって元に戻れるわけじゃないし、後はどう生きるかじゃない?」

「艦娘には、戻れない……」

 深海棲艦は、肌が死人のように白いから、青ざめていても分からないけれど、指先の震えは見てとれた。

「ま、まあアレか。すぐに飲みこむのは無理か。とりあえず一回休みなよ。あっちにあたしの寝ぐらがあるんだけど、」

「……待って」

「ん? なに?」

「ここのボスって言ったよね? ここって大ホッケ海でしょう? その首領って、もしかして……」

「ああ、あんたも知ってる奴だよ。有名だもんね――」

 とトゥリーは言葉を紡ぎながら(あっ、これって言ってもいいやつかな?)と一抹の不安を覚えた。

 北の魔女は、幌筵泊地からすれば毎月攻めこんでくる大敵だろう。照月にとっては憎い相手だろうし、もしかしたら誰かの仇だってこともあるかもしれない。

 だから名前を出すのはまずいかも、と思ったのだ。

 でも、とトゥリーは思い直す。

――そんなのもう関係ないじゃないか。

 だって照月はもう深海棲艦なんだから。艦娘だったときの話をぐじぐじ言ってても仕方ない。

 敵と味方の関係はすっかり逆転してしまったのだ。そこのところを飲みこまなければこれから先を生きられないし、子どもじゃないんだからそのぐらい理解してほしい。いや、子どもではあるけれど……でも、理解しなければだめだろう。生存さえ保障されていないこのご時勢、そして深海棲艦という最悪な条件の身の上で、嫌だ嫌だと感情のままに振る舞うような甘えは許されない。

 だから、あえて宥めるような真似はしなかった。真実をそのまま伝えた。

「ここのボス……つまりあたしたちのボスは、北の魔女だよ」

 そうしたら。

 石でも呑んだように引き攣った。

(あ、やばいかも)

 と焦ったが、覆水盆に返らずというやつだった。

 照月は。

 駆逐艦として練度が高く、防空役を担うことができ、さらには貴重な姫級だった。もしもこの場にドヴェがいたならば、戦力として期待できると歓迎していたはずだ。あの狡猾な女さえいてくれたなら、照月を口説き落とすために口八丁を駆使して懇切丁寧に事情を説明し、宥めすかして保留させ、妥協させながら少しずつ情を移させて、恩を売りながら友好関係を強化して、最終的には仲間にしてしまっていたかもしれない。

 しかしこの場にドヴェはいなかった。 

「北の魔女、ですって……!?」

 ジャキッ! と反意の4inch連装両用砲+CICが向けられた。

「ちょ、おま……!」

「あなたは、北の魔女の手下なの!?」

「ちょっちょちょ、待って落ちついて!」

「あなたたちが幌筵泊地に攻めているのねっ!」

「してないしてない、あたしは出撃してないって! 攻め手に護衛棲姫はいなかったでしょ!?」

 ハッ、と勢いが削がれたのは一瞬だけで、

「……でも手下なんでしょ!」

 と砲口をぐいぃ突きつけてくる。

「怖い怖い! やめろって!」

 ホールドアップしても防空棲姫は収まらない。

 やたら興奮して「艦娘のくせに敵に与するなんてありえない!」とかのたまうもんだからトゥリーもカチンときて「うるせーっ! お前はとっくに深海棲艦なんだよ! こっちが味方なことぐらい分かればか!」と言い返す。それでも元照月は分かろうとしなかった。

「私は深海棲艦なんかじゃない!」

「はぁぁ!? どっからどう見ても深海棲艦なんですけど!」

「うるさい! あなたたちなんて幌筵泊地から皆を呼んでやっつけてやるんだから!」

「どうやってぇ? その姿で行っても撃たれるだけに決まってるじゃん!」

「そんなことない! 幌筵の皆はそんなことしない!」

「んなわけねーし! ちょっと考えれば分かるだろって!」

「なにをよ!?」

「逆の立場で想像してみな! 泊地に姫級が現れて「ワタシハ艦娘ナンデスゥ」って言ってきたら、あんたどうする!? 話を聞いてあげましょうって茶でも用意すんのか!?」

「そんなの……!」

「罠だって思うでしょ!? 違う!?」

「っ」

 思い当たる節があったのか、照月は黙った。

 トゥリーは言い含めるように一言ずつ区切って、

「あんたはね、もう、艦娘じゃないの。敵側の存在なの」

 刺激しないよう慎重に、連装両用砲に手を添える。その狙いをゆっくりとずらした。

 照月はさして抵抗しなかった。

「戻ったところであんたの味方なんて誰もしちゃくれないよ? あんたの任地だった幌筵泊地の艦娘はみーんな敵。分かる?」

「そんな……どうして? だって、私なんにも悪いことなんて……」

「良いとか、悪いとか、そういうんじゃないの。これが現実なの」

「……」

「あんたは照月じゃない。もう防空棲姫。別人なのよ」

「私は、防空棲姫……深海棲艦……」

「人類は敵。味方になってくれるのは同じ深海棲艦だけ。そこんとこを弁えて行動しないとさ……」

「どう、弁えろっていうの……?」

「ええ? いや、だからさぁ、郷に入れば郷に従え、みたいな、」

「深海棲艦になったから、深海棲艦らしく人類を攻撃しろっていうの? 幌筵泊地を、この手で?」

「いや、そこまでは言わないよ。幌筵は勘弁してってボスに頼みこめばなんとかなんじゃない?」

「――そんなわけないっ!」

 何が逆鱗に触れたのか。

 少女の細腕とは思えない力で胸ぐらを掴まれた。頭ではなく身体が暴力に怯えてのけぞった。血走った目は正気を失っているようにさえ見えた。

「あいつはそんな奴じゃない! 頼めば見逃してくれる? ありえない! そんな交渉ができる相手じゃないよ!」

「な、なに、あいつって? 北の魔女のこと?」

「そうよ! あいつは……北の魔女は、そのへんの深海棲艦なんかよりずっとおぞましい……」

 それ以上は続かなかった。

 言っても無駄だと思ったのか、照月は悔しそうに口をつぐんだ。

「え、あんた、知り合いなの? 艦娘だったのに?」

 この少女はいったい何を知っているのだろう?

 肩に力が入りっぱなしの少女をまじまじと見つめたが答えは返ってこなかった。

 照月、そして北の魔女。

 その2人の名前を並べると、ピンとくるものがあった。トゥリーの前世の記憶が蘇る。

 それは信憑性のない噂話。おおよそ2年ほど前の話。かつて大ホッケサークルで姿を消した後、自力で脱出してきた駆逐艦娘がいた――その少女の名が確か照月だったはず。当時はトゥリーもまだ春日丸という名の新米艦娘で、護衛空母として活躍できるようにと日夜訓練に励んでいた頃だった。

 そんな昔に、照月は北の魔女と会っていたらしい。

(でも、おぞましいってなに?)

 そんな形容はあの能天気なボスにはまったく似つかわしくない。

 当時の北の魔女の性格は今と違っていたのだろうか?

「……なんか、よく分かんないんだけど。だったらなんだっていうの?」

 防空棲姫を睨みつける。

 彼女の言う過去の話なんてトゥリーの知ったことではない。

「あんたが知ってる北の魔女がどんなんだったかは知らないけど、今はあけっぴろげでパッパラパーよ。それでいいじゃない。大事なのは今、もっといえば未来でしょ?」

 なんかソレっぽく上手に言えたかも、と内心ほくそえんでいたけれど。

 まったく通用していなかった。

「あなたは、何も、分かってない」

 どん、と突き放された。

 かっと頭に血が昇った。「てんめ……!」と怒りを滲ませた視線を送ったが、返ってきたのは凍えるような敵意だった。

(こ、こいつ、ヤる気!?)

 幾多もの戦場を生き延びてきた経験がそう言っていた。

 思わず身を固くしたが、予想に反して防空棲姫は攻撃してこなかった。

「あなたは何もかも諦めてしまったのね」

「……は?」

「私は、裏切らない。例えこの身が深海棲艦に墜ちようと、人類の敵になりはしない」

 防空棲姫はキッと目を細めて、遠くの赤く染まった海を睨みつけた。4つの島に囲まれた中心、北の魔女の本体が沈んでいる場所を。

「あそこに北の魔女がいるのね……!」

 呟きを置き去りにして疾風のように防空棲姫は飛び降りた。着地と同時にアスファルトを蹴りつけて、海の上へと飛び乗ってばく進していく。

 取り残されたトゥリーは廃車の小山の上にぽつんと1人、大口を開けて見送ることしかできなかった。

「な、なんだあいつ……」

 悲劇のヒロインのつもりかよ、と思わないでもなかった。

――それから。

 すぐに北の魔女の身体が奪われた。防空棲姫の仕業だった。意識のない本体を抑えてしまい、この北方深海基地を脱出不可能な孤島へと変えてしまった。

 緊急事態である。

 トゥリーは真っ先にドヴェに報告した。頭の良い彼女なら、あの現実逃避少女もなんとかしてくれるだろうと思ったから。

 しかし予想に反してドヴェは動こうとしなかった。

「……ふむ。君がなんとかしたまえよ」

「ええっ!? あたしがぁ!?」

 仮にもボスの一大事であるはずなのに、何を考えているのかドヴェは静観を決めこんだ。「私の身体がーっ!」と騒ぐボスを宥めつつ、かつてピースメイカーと呼ばれた女はこう言った。

「ようく考えてみたまえ。確かに主様の本体を抑えられたのは手痛いが、下手人もこの大ホッケ海から出られないのだから事態はこれ以上悪化しまい?」

「うーん、そうかな……?」

「そうさ。ゆえに、急いで解決する必要もないのだよ」

「でもなぁ」

「私の身体ーっ!」

「私はこれをチャンスだと考える。なまじノーリ様がなんでもできるせいで君たちは気が緩んでいる。このまま怠惰の道を進んでしまっては誰も得をしない。いいや、損さえするだろう。君なら分かるだろう?」

「ええっと、それってつまり……?」

「私の本体ーっ!」

「ノーリ様、ちょっと静かに」

「うぐっ! で、でもどーしたらいいんだ? お前らーっ、なんとかしろっ!」

「……というわけだよ、トゥリー君。この困難に立ち向かうことで君も一皮剥けるといい。説得するも、倒してしまうも、君の自由だ」

「うっそでしょ! 相手は防空棲姫ッスよ! 相性悪すぎッス、倒せねーッス!」

「だったら説得したまえよ」

「そ、そんなぁ……。アドナー先輩、助けてください!」

「……話がぜんっぜん分からなかったわ!」

「せ、先輩ぃぃ」

「要するに邪魔者を倒せばいいってことでしょう!? だったら私! この私をっ、頼りなさぁいっ」

「先輩カッコいいヤッター! ……って、ちょっと待って! いきなり攻撃するのは気が引けるッス、始めは説得させてください!」

「む。私じゃ頼りにならないっていうの!?」

「違いますっ! 先輩は……そう、奥の手! トランプでいえばジョーカー! 出番がくるまでデンと構えていてください!」

「あら、ジョーカーですって? この私が? ……ふふ、いいじゃない。待っていてやるわ!」

「チーちゃんは……何もしなくていいからね?」

「……そう? 別にいいけど」

 そしてトゥリーは説得しに行った。

 

 ――おーい、照ちゃーん。意地張ってないでさー、現実見なよーっ

 ――照ちゃんも引っ込みがつかなくなっただけでしょー? でも間違いを認めるのは恥ずかしいことじゃないんだよーっ

 ――このまま一生こんな何も無いとこで暮らすつもりー? あたしは嫌だよー! 外に出よーっ

 

 護衛棲姫と、防空棲姫。

 2人の姫級が、赤い海の上で対峙して、平行線そのもののやり取りを繰り返していた。

 防空棲姫に交渉の余地はなかった。

 

 ――深海棲艦になったことと、人類を裏切ること。そこにどんな関係があるっていうんです!?

 ――私が、私たちが今まで生きてこれたのも皆で手を取り合ってきたからこそ。その恩恵に預かってきておいて、立場が変わったからと足蹴にできるわけがない!

 ――北の魔女はぜったいに外に出さない! そのためなら私はここで一生番人をやることになっても構いません!

 

「あんのクソ右翼……」

 御国のために、とでも言いたげな防空棲姫のスタンスにトゥリーは苛立っていた。

 どこかで聞いたような正義論。思考停止のお花畑。

 そのような発言をする者は、トゥリーにとって最も好きになれない人種だった。

 ミンナって誰だよ、と吐き散らしてやりたいとさえ思う。

 トゥリーは前世で“みんな”とかいう不特定多数の人間に世話になったことがない。つまり、国というシステムの恩恵を受けたことはないと、少なくとも自分ではそう思っていた。そもそも国民様というものは、税金を払えて、面倒を見てくれる大人がいて、初めて成れる選民だ。そうでない者は搾取はされるだけされて弾かれて、野良の犬猫と同じ扱いをされるもの。だからトゥリーにとって不特定多数の“みんな”とは、まさに冷たい目で見下してくる他人でしかなかった。

 相容れるわけがないのだ、温室育ちの小娘と。

「……んなこと言ってもしょーがねーけどよー!」

 防空棲姫もはじめは意地になっているだけだと思っていた。

 時が過ぎ、腹が減り、孤独を味わえば頭も冷えて話を聞くようになると思っていた。しかし何故か防空棲姫の意志はどんどん固くなり、3度目の説得のときには殆ど口も聞いてくれなくなっていた。そしてとうとう、

 その日、乾いた発砲音が鳴り響いてしまった。

「うぐっ!」

 トゥリーの左の二の腕に、機銃の弾が命中した。

 一つ弁護をするならば、防空棲姫も当てるつもりはなかったはずである。

 食い下がるトゥリーを諦めさせようと脅しのつもりで撃っただけ。その弾道があまりにも命中すれすれで、そして砲口を見てトゥリーが反射的に回避動作をとってしまったせいで当たってしまっただけだ。それぐらい被弾したトゥリー本人もよく分かってる。しかし、これまでずっと苦手なコミュニケーションに尽力したにも関わらず一蹴され続けてきた苛立ちがここにきて爆発した。意図せぬ命中に狼狽している顔さえ憎い。

――撃ったお前が傷ついたような顔をするんじゃない!

「……もう知らねーっ! いっぺん死ねっ!」

 踵を返して自分の島に戻った。

 その背中にじっと視線が注がれていようとも、もう二度と手を差し伸べてやるつもりはなかった。

 

 

「――ってわけなんだよ。ひどいでしょ?」

 ね? と伺うように首を傾げると、烈火のごとく叢雲が吠えた。

「ひどいのはアンタでしょーがっ!」

「な、なんだよぅ」

「どうしてそれで見捨てちゃうの!? アンタのほうが優位なんだからちゃんと向き合ってやらなきゃだめでしょっ!」

「えぇ……。あたし、撃たれたんだけど」

「わざとじゃないんだから我慢なさいっ」

「マジかよこいつ……。浜ちゃんはどう思う?」

「う、う~ん。そこで我慢して優しくしていたら、懐いてくれた、かも……」

「なんでやねん。人間不信の捨て犬じゃないんだからさぁ、そんな上手くいかねっつーの」

「そう、かな? でも……」

 艦娘勢に聞いても埒があかない。トゥリーはましな意見を求めて駆逐古鬼に聞いてみた。

「アっちゃんだったらどうしてた?」

「どうもしないわよ?」

 なんでもないことのように返された。

「……どゆこと?」

「言葉通りよ。なんにもしないわ。始めっから説得に行かない。戦いもしない」

「えー? そしたら何も解決しないじゃん?」

「そうね。それでいいのよ」

 古鬼はすっかり空になった中華鍋をひっくり返し、出汁要素ゼロのお湯を海にぶちまけた。そのまま海水で軽くすすいで用意した布切れで水滴を拭う。

「最初に言ったでしょ? 私は一秒だって艦娘になったことはないの。ただの無力な一般人。戦うとか説得するとかできるわけないし、する気もないわ」

「……意外に消極的なのね」

 驚いてみせたのは叢雲だった。

 かつて朝風候補だったという駆逐古鬼。明るく前向きで行動力もある、そのように見えていたのは浜波も一緒だったのだろう。ぽかんと口を開けていた。

 古鬼は鍋を覗き見て、拭き残しを確認しながら、

「そもそも。嫌だって立てこもってるひとをどうにかしようってのが傲慢なのよ。ほっとけばいいじゃない。他人を無理に変えようとするから争い事が起きるのよ」

 とうそぶいた。

「でもさぁ、そしたらあたしらは一生ここから出れないよ?」

 と反論したのはトゥリー。

 しかし古鬼には取りつく島もなかった。

「出れなくてもいいじゃない?」

 古鬼は長い紐を取り出した。乾いた鍋に括りつけ、リュックに固定するために手を動かす。

「この島々には私たちを傷つけようとする人たちもいないし、美味しくなくてもご飯がある。それで満足すべきだと思うけど? それ以上が欲しくないと言えば嘘になるけど、そのために誰かをやりこめなきゃいけないなら、私はパス。ろくなことにならないわ」

 きゅっと紐を引っ張って、鍋をリュックの背に固定した。

「軍人さんは我が強いのねえ。うちの姉も同じ。もう誰にも踏みつけにされたくないから強くなるって言ってたけど、力を持てばそれで済むはずがない。いいえ、例え何もしなくても力を持っているだけで敵視されるものじゃない?」

「……」

 非暴力主義、どころではない。無抵抗主義ともいえる主張に異を唱えられる者はいなかった。まるで夢想家のたわ言ではあったけど、鼻で笑うには言葉に強さがありすぎた。駆逐古鬼、彼女もまた1つの人生を終わらせてきた元人間。重みがないわけがない。

 よいしょとリュックを背負いながら古鬼は問うた。

「さて、問題です。この世で最も不幸なことはなんでしょう?」

 明日の天気を占うような気軽さで、くりくりとした瞳を3人へと順繰りに向ける。

 誰も、答えられなかった。

「……この程度の質問に答えられないから争い事が起きるのよねえ」

 じゃあね~、と小さく手をふって帰ろうとする古鬼を、叢雲が止めた。

「待って。そこまで言うなら、あなたの答えを教えてちょうだい」

 古鬼は即答した。

「お金がないこと」

「……へ?」

「って、以前の私は思ってたの。本気でね。飢えたことのない人には分からないでしょうけど」

「じゃあ、今は?」

 古鬼はびっと腕を真横に伸ばした。

「ああいう奴のことを指すのよ」

 その指先を辿る。

 視線の先に、1人の幼女がいた。

「おはよう、北の魔女さん。いい朝ね? ってそろそろ昼かしら」

「……」

 幼女はどこからやってきたのか、ぺたぺたと裸足で瓦礫を乗りこえてきた。

 どこか様子が変だった。

 昨日の不遜さはどこへやら、硬質で、愛嬌のないアンドロイドのような顔つきをしている。挨拶してきた古鬼には目も向けず、4人の少女たちの前を通り過ぎる。ぶつぶつと独り言を零していた。

「――個体には役割がある。長には長の、兵には兵の。私は長。生みの親であり、群の長。では、長はなにをする役だ?」

 機械音声のように平坦で。

 幼女らしからぬ内容だった。

「命じるには指針が要る。目的。欲望。あるいは存在意義の確立のために。私は深海棲艦。私は、しかし……」

 そのまま幽鬼のように歩いていき、テトラポットの山を不意に曲がって、姿を消した。

 わけが分からない。

 なんだありゃあ、とトゥリーたちは顔を見合わせた。

「変なものでも食ったかな?」

「思春期になった、とか……」

「いーや、あれは厨二病の類っしょ。アイデンティティとか言ってたし」

「そうかなぁ。この島に、影響されるようなもの、ないと思う、けど……」

「本でも読んだんじゃない? 狐女のとこにいっぱいあるんでしょ?」

「狐女?」

「ドヴェって奴のこと」

「ああ……」

 結論なんて出ないだろう。そう断じて古鬼は話を切りあげた。

「なんだか変な空気になっちゃったけど私は帰るわ。明日になったらまたご飯を届けてあげる。味はしないだろうけど今度は美味しいって言うこと。それが礼儀よ? 分かった?」

「へーい」

「う、うん。分かった」

「叢雲ちゃんも分かった? ……叢雲ちゃん?」

 叢雲は、じぃっと北の魔女が消えた道を見つめていた。

「ねえ、聞いてる?」

 ハッとして「え、ええ。分かったわ」と慌てて返事する。

「変なの。……あっそうだ、明日は陸の話を聞かせてよ。楽しみにしてるから。じゃあね~」

 駆逐古鬼はにかっと微笑み、あっという間に去っていった。

 朝食を食べてしまえば、もうすることはない。

 仕事も、遊びも。トゥリーは余所の島にでも行ってみる?と提案したが、他の深海棲艦たちが恐ろしい浜波はたどたどしく断った。

「そう、いえば……ピースメイカーのひとが、防空棲姫と戦うって、言ってたけど……」

「ああ、そうだね」

 トゥリーはちらりと叢雲を伺いながら、

「今日の夕方にやるって言ってた」

「あのひと、強いの?」

「分かんない。戦ってるとこ見たことないけど……北極海の覇者だったっていうからねー、やっぱ強いんじゃない?」

「じゃ、じゃあ、その、防空棲姫さんは……」

 浜波は胸の上でぎゅうと両手を抑えた。彼女が気にしているのは防空棲姫――照月のゆくすえだろう。戦うからには死ぬかもしれない。艦娘だった少女が誰にも看取られず沈んでいく……その未来を想像すると穏やかではいられないといった面持ちだ。

 トゥリーは浜波と会話するていをとりながら、半ば叢雲に向けて言葉を繋ぐ。

「浜ちゃんにはもう説明したけど。深海棲艦って死んでも復活するからだいじょーぶなわけ。気にすることないよ」

「で、でも、轟沈だよ?」

「まーね。怖くないっつったら嘘になるけど、一回経験してるし」

「そんな……それだけ? そういう、ものなの?」

「死ぬのが怖い理由って、それが未知の体験だからでしょ? ……あとはそうね、積み上げてきた人生が台無しになる絶望感、みたいな? でも深海棲艦は人生が終わらないわけ。自意識が途切れないの」

 浜波は納得しきれないようだった。

「……そりゃあ、死にたくないって気持ちは普通にあるよ。次の命があるとはいえ今の命は惜しいし。あと痛いのも嫌か。でも、艦娘時代の感性より雑になっちゃうのはもうしょうがないと思うな」

「じゃ、じゃあ、照月さんは、」

「知らんわ。あいつが決めた道でしょ」

 言い放つ。と、叢雲がすぅと立ち上がった。

 そぅらきた、とトゥリーは苦い顔を作る。どんな文句が飛んでくるのやら。身構えるが、意外にも叢雲は落ちついていた。

「……私、照月に会いに行くわ」

「ええっ?」

「こ、これから?」

 トゥリーは驚きつつも、叢雲ならそうするだろうなと妙な納得感を味わっていた。

 突っこんで、巻きこんで、引っ張っていく。いかにも叢雲のやりそうなことだ。

――が、会ってどうするつもりだろう?

「行ってどうすんの? そのまま大ホッケ海の番人してろって応援すんの? それとも無駄な抵抗はやめて出てきなさいって説得する?」

 見上げた顔は固かった。

「分からない。話をしてみないと」

「ふうん?」

「それに、聞かなきゃいけないことがあるの」

「なにそれ」

「……大ホッケサークルから、脱出する方法よ」

「あ」

 言われて、気付く。

 照月はかつてこの北方深海基地から脱出しているはずだった。それが北の魔女の力によるものならあてにはできないが、もし何らかの法則や条件を知っていたなら話は違う。同じやり方を辿れば叢雲と浜波も脱出できるといって間違いないだろう。

――そうか、2人は行ってしまうかもしれないのか。

 まだ会ってから時間も経っていないのにトゥリーは若干の淋しさを覚えた。

 祝うべきか、惜しむべきか。いいや、外に出れば艦娘と深海棲艦の関係である以上、深入りすべきではないだろう。いつものようにへらへらと曖昧にやり過ごすのがベストなはず。その先の未来は運任せ。敵として遭遇しないように祈るしかない。だがそれでも、会ってしまったなら――?

 そんなことを考えていたからトゥリーは気付かなかった。

 叢雲の胸中に、嵐のような焦燥感が渦巻いていることに。

 原因は、北の魔女の奇妙な言動。

 叢雲には彼女の変貌、その理由に心当たりがあった。

 

――もしかすると自分たちは全員死ぬのかもしれない。




今更ですが、サブタイトルのセンスねーなって思います。


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3-9:大ホッケ海深部! 幻の無限回廊で装甲395防空棲姫を見た!?

 青い。

 書き割りのような空だった。

 ぬけるような青空が、果てなど知らぬとばかりに広がっている。

 叢雲は首を限界まで伸ばしてみたが雲一つ見つからなかった。

 なにも無い。

 あの空には、ただ何も。

 視線はどこにも留められず、見上げていると宇宙まで吸いこまれていきそうな錯覚を覚えて視界を水平に戻した。

 赤い海が、目に飛びこんでくる。

 青い空とのコントラストが禍々しい。

 航行に意識を戻す。波を駆る感触に集中した。

 ここは大ホッケ海。

 北海道の、更に北。

 そこに浮かぶ北方深海基地、4つの島々に囲まれた小さな海。

 たかが直径三百メートルもない狭い範囲であり、北の魔女の身体が沈む最重要地点。

 そして、その身体とやらを奪い返されまいと防空棲姫が篭もっている戦場でもある。

「……小さな内海だし、すぐに見つかると思ったけど」

 叢雲がこの中央の海を進み始めるとすぐに異変が起きた。正面向こう側に見えていた1番島の輪郭がぐにゃりと歪んで伸びていき、両隣の2番島と4番島とくっついたのだ。まるで魚眼レンズを覗いたように形を変えた。水平線上で島々がつぶれるように薄く伸びていく。と思ったら今度は逆再生のように縮んでいき、しまいにはぷつんと千切れて元のサイズに戻った。圧縮はそれでも止まらずに島はどんどん小さくなり続け、いよいよ点のようになって見えなくなってしまう。

 あまりにも現実離れした光景だった。

 そのせいで、逆に冷静になれた。

 島が飴細工のように伸び縮みするわけがない。おそらく幻。目の錯覚だ。

 つまり、光のせい。

 光が屈折してるだけ。

「歪んでいるのは、空間じゃなくて、光だったわけね。……でも、そうと分かっていてもひどく気持ちの悪い光景……」

 風景はぐにゃぐにゃとできの悪いCGのように歪み続けている。それは叢雲が進んだ距離の分だけ形を変えた。

 何をどうしたらこんな現象が起こるやら。

「ひとまずは照月さんを探さなきゃね……」

 噂の立てこもり犯の姿はどこにもない。

 視界の通りはいたって良好で、4つの島の向こう側にある水平線まで確認できている。が、狭いはずのこの内海には人っ子1人見つからなかった。波は穏やかで、見落とすはずがないけれど……。

 彼女は一体どこに行ってしまったのか。

 叢雲は息苦しさを覚えて首元を扇いだ。

 焦る、というほどではないけれど、絶えず風景が歪曲しつづけるという異様な空間にいるせいで落ちつかなかった。どうしても不安になってくる。これが北の魔女の狙いなら大した効果だと叢雲は思う。長居しすぎたら頭がどうにかなってしまうかもしれない。

 意識して呼吸を整え、額の汗をぬぐった。

 まだ5分も経っていない。

 もしかして自分は迷ってしまっているのではないかと思った。1人で進めば大丈夫、と言ったのは大鷹だが、彼女も知らない例外だってあるかもしれない。

(それに……ここに照月が居るということは、私を含めたら2人になっちゃうんじゃない?)

 だとしたら、大丈夫じゃないってことだろうか?

 そもそもそれ以前に、1人だの2人だの、誰がどうやってカウントしているのか?

(……分からない。分かることのほうが少ないし……。だったら自分はどう動くべきだろう?)

 赤い海を見渡した。

 穏やかな波がさざめいて。

 島々がぐにぐにと形を変えていて。

 味気ない水平線が果てにある。

 この異空間にいるのは自分だけ。

 照月は、いなかった。

(もし仮に迷っているとして……それでも、いざとなれば全力で直進すればいい。たかが直径三百メートルの内海を脱出できないわけがない……)

 風が通り過ぎる。

 匂いのしない風。むせ返るような生命の匂いがまるでしなかった。

 潮の匂いのしない海。

 そもそも潮の匂いとはなんだったか。――プランクトンが海洋生物の死骸を分解し、生成されるジメチルスルフィドという悪臭物質が原因で、それが海上に浮き上がることで海の匂いとなる――と、そのような知識はあるけれど、鼻からいくら空気を吸いこんでもやはり匂いはしなかった。

 この赤い海には死骸がないのだろうか。

 あるいはプランクトンが居ないのかもしれない。

 誰もいない。

 何もない。

(もしも本当に生き物が1匹もいないなら、死体が放りこまれたらどうなるんだろう。分解されずに形を永遠に保つのか……。もしも自分がここに沈んだら――)

「ちっ」

 良くない方向へ転がり落ちそうになっている思考を振り払う。叢雲はいま一度基本に立ち返ることにした。

(ひとは出来ることしか出来ない。だから出来ることをしっかりやりきる、それが大事)

 深呼吸。

 自分は、照月に会いにきた。

 自分に出来ることは、探すこと。

 見つからなかったら、あるいは危険を感じたら、帰る。

 それが基本。

 まだ探せるか? ……YES。

 危険を感じるか? ……NO。

(だったら、まだ探す。それが私にできること)

 決めてしまえば気が楽になった。

 一陣の風。ほどよく乾いた風は、むしろ前髪を撫でつけて気持ちいいと気がついた。

 春のような暖かさだった。北の海とは思えない。進むほどに気温が上がるような気さえしてくる。

(……気温?)

 不自然な気温の上昇。発生する寒暖差。

「……もしかして」

 思い当たることがあって足を止めた。指先を海に浸けてみる。

 予想通りに温かった。

「この熱。そして本来の大気との温度差……そうか、蜃気楼の原理なのね?」

 蜃気楼。

 光が屈折して幻が映しだされる現象。光には、密度が高く冷たい空気へと進む性質があり、例えば海面と空気との間に大きな温度差があったりすると、光が曲がって海上の空間に水平線より向こう側の風景が映し出されたりする。夏場のアスファルトに発生する“逃げ水現象”も同じ原理だ。

 つまり、風景が歪むのは特別おかしな現象ではないということ。自然現象の範疇だ。

「いえ、それでもここまで光が曲がるものかし、らっ?」

 指先に、違和感。

 冷たさを覚えて思わず海水から離してしまった。

 恐る恐る、再び指を入れてみた。

 今度は温かかった。

 しばらく浸けたままにしてみる。するとどうだろう、また冷たい水流が指先を通り過ぎていく。

「温かい水と冷たい水が、混ざらずに巡っている……?」

 またありえない現象が起きている。

 今度の原因は分からなかったが……しかし、これこそが海上の異常事態をもたらしていると予想できた。

 海と大気に温度差を生じさせ、光を意図的に歪ませているとしたら? その現象は霧を発生させ、光をいいようにねじ曲げて、侵入者を惑わすだろう。更に海流の流れをも操作しているのなら……侵入者は真っ直ぐ進むことさえ叶わなくなるだろう。

「……なるほどね。そうやってこの大ホッケサークルは魔の海域になったのか」

 新たな発見に思わず言葉が零れて、

「光が曲がるだけなら誰も迷いません。羅針盤も狂うんです」

 予期せぬ答えが返された。

 ぎくりとして顔を上げると、目の前には白い太ももがあった。更に見上げると白い腹があり胸があり、てっぺんには赤い眼をした少女の顔が見下ろしていた。

 視線が絡み合う。

 手を伸ばせば届く距離に防空棲姫が立っていた。

――やっと居た。

 安堵する気持ちが半分、姫級の外見にひるむ気持ちが半分。揺れてはいたが、トゥリーの前例を知っていたから立ち直りは早かった。

「……あなたが、照月さんね?」

 かなり安心してしまっている自分が少し恥ずかしい。平静を装いながら顔を上げ、姿勢を正した。

 ずいと握手の手を差し伸べる。

「初めまして。私は大湊警備府所属、その秘書艦の叢雲よ」

 元艦娘の深海棲艦と喋るのは慣れたものだった。

 護衛棲姫に、駆逐古姫。おまけに駆逐古鬼をいれてもいい。彼女たちは性格に違いはあったけど、一様にヒトの感情をもっていて、いわゆる海軍内で浸透している“冷徹非道な深海棲艦”というイメージからはかけ離れていた。内面はひとそのものだと叢雲は思っている。

――だがしかし。

 本当に、全員がそうだといえるのか。

 叢雲が差しだした手を、防空棲姫はマネキン人形の手相でも見るような目つきで見下ろしていた。瞬きせずにじっと時が止まったように動かない。それは狂気を孕んだ目つきだった。叢雲には覚えがある。戦闘の末に最後の一匹になった敵の駆逐艦がよく同じ目をしていた。

 追いつめられた敗残兵の目だった。

 防空棲姫は色のない顔のまま音もなく視線を上げて、叢雲をまっすぐ見つめた。焦点は叢雲の頭の向こう側、後ろにいる誰かに合わせているような様子で、こう尋ねてきた。

「説得してこいと言われたんですか」

 初めましてもこんにちわもなかった。

「あいつらに、私を説得してこいと言われたんですか」

「……違う、わ」

 かろうじて。

 乾いた喉を動かして喋ることができた。

 防空棲姫は聞いているのかいないのか、淡々と言葉を紡ぐのみだった。

「あいつらは、自分たちでは埒があかないから、とうとう艦娘を捕まえてきたんですね。私を投降させようと。死にたくなければ説得してこいと脅されましたか。向こう岸には深海棲艦たちが並んで待っているんでしょう。策を弄して、悪魔の身体を取り戻すために」

 このまま照月を喋らせてはいけないと思った。

「違う!」

 防空棲姫は目の前にいる叢雲に初めて気がついたようにほんの少しだけ首を傾げる。

「なにが違うんです?」

「私は自分の意志でここに来た。あなたを陥れるためにきたんじゃない」

「人質でもとられましたか?」

「いいえ、それも違うわ……」

 叢雲はあえてゆっくりと首をふり、

「あなたに用があってきたの」

 とはっきり伝えた。

「私に……?」

 少女の瞳にようやく感情の灯がともる。

「どうし……どうやって? 艦娘が……こんなところまで……?」

「私はね、大ホッケサークルに迷いこんでしまったの。他の艦娘を捜索していて偶然……。そして他の深海棲艦からあなたのことを聞いた。だから、来たの。艦娘だったというあなたに会いたくて」

 少女は微動だにしなかった。

 視線はいつの間にか斜め下に向いていて、波の影にどう喋ったらいいかが書いてあるかのように注意を向けていた。少なくとも叢雲にはそう見えた。

――なんだろう。

 ついさっきまで一歩も退くつもりはないといわんばかりの態度だったのに、今ではもう悪戯を指摘されて怯える子どものようになっている。

 いや、そうなっていても何もおかしくないのかもしれない。

 こんな異常な空間にこもっていたのなら、情緒も不安定になるだろう。

「……ねえ、お話しましょう? 深く考えることはないわ。だって私はあなたの味方なんだから」

「味方……?」

「そうよ。私ね、よくおせっかいって言われるの。だから今回もきっとそうね。大鷹って馬鹿があなたを突き放したって聞いて、いてもたってもいられなくなって来ちゃったの。自己満足よ? ほんとそれだけ」

「……」

「あ、ごめん嘘。ここから脱出する方法を聞きたかったのよ。あなた――照月さんが2年前に大ホッケ海から脱出したって噂を思い出したから」

「あのときは……誰も信じて、くれませんでした」

「うん、そうね。私もその話を聞いたときは信じていなかった。ごめんね? でも、今は信じてる。だって同じ目に遭ってるんだからね」

「仕方ない、です。こんな変な話、普通は信じません」

「そうね、そう。過ぎちゃったことは仕方ないわ。世の中そんなことばかりよ。ほんと大変。私もよく厄介ごとに巻きこまれるタイプだからよく分かるわ。……って、そう! こうやって嘆くとね、「あなたが巻きこんでいる方でしょ?」ってよく言われるの。ひどいと思わない? 私ってそんなふうに見える?」

「え……? どう、でしょうか……」

「むしろ逆だと私は言いたいのよ。私はね、トラブルが大きくならないように頑張ってるだけなの。なのに「原因はお前だ」みたいに言われるのはほんと納得できない。あんたらがしっかりしてないから私が首を突っ込まなきゃいけなくなるんでしょって。ねえ、あなたはどうなの?」

「私?」

「そうよ、あなただって北の魔女っていう大問題をなんとかするために頑張ってるんでしょ? たった独りで、誰にも褒められないのに、偉いと思うわ。あの馬鹿に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいぐらいよ」

 防空棲姫の顔はまだ固い。

 けれど、肩の力は少しぬけたように見えた。

「ねえ、お腹すいてない?」

「え?」

「あなたちゃんと食べてんの? こんなとこには魚一匹いやしないでしょう。腹が減ってはなんとやら、よ」

 腰にくくりつけたポーチを開く。くしゃくしゃの新聞紙の玉を取り出した。皮をむくようにして中身を晒す。

 炭、のような固形物。よく見ると少し違う。食材らしきもの。

「こんな新聞紙に包んでてほんとごめんなんだけど、良かったらコレ食べて。っていうか、食べなさい? あんた食べなきゃだめよ」

 何かあった時のためにとっておいた非常食。

 ぐい、と防空棲姫に押しつけた。

 彼女はしばらくうんともすんとも言わなかったが、やがて観念したのかおずおずと受け取った。

 食べる。

 変な顔をした。

「――でしょ?」

 そりゃそうだ、と叢雲はなぜか得意げな表情で笑った。

「私もね、30分ぐらい前に食べたばかりなの。毒が入ってないことだけは確かよ?」

 小指ほどの大きさのタコ足をひとつまみ、もっちゃもっちゃと咀嚼してみせた。「輪ゴムを食べてる気分」とこぼすと、防空棲姫もつられてほんの数ミリだけ口の端を歪ませた。

 多分、笑ったんだと思う。

 

 案内されて、赤い海原を進んだ。

 辿りついた先には小さな流氷の塊があった。

 その直径5メートルほどの氷の大地に上陸すると、途端に身を切るような冷たい空気が服の隙間に入りこんだ。ここだけは北の海そのままの気温らしい。まるで台風の目のようだ、と叢雲は肩を抱きながら思った。異常気象の中心点だけその影響を免れている。

 流氷の島はあつらえたように平らであり、滑ってしまわないように注意が必要だった。ひときわ目立つのは真ん中に直立する約2メートルほどの氷柱で、氷床から直角に伸びているさまは樹木に近いかもしれない。幹の太さは成人男性が3人両手を繋いだぐらいで、ガラスのように奥まで透けていた。内部で眠る一人の女性がよく見える。

「これが、北の魔女……?」

 綺麗な身体。傷はない。

 一糸まとわぬ裸体はびっくりするほど艶かしい。首筋から肩へのラインは細く、少女のような儚さが見てとれて、しかし同時に豊かな胸から引き締ったウエストへの曲線美が確かな女性性を放っていた。子どもから大人へと成長する一瞬の移ろいを閉じこめたような肉体には近寄りがたい神秘性さえ感じさせられる。閉じられた瞼は今にも開きそうで、むしろ動きださないのが不自然なほどの生命力に溢れていた。

「もう完全に治っているのね」

 おそるおそる氷柱の表面に触れてみる。

 つい先月に倒されたはずの女がそこにいた。

 幌筵泊地、単冠湾泊地、大湊警備府からなる連合艦隊と激突し、木っ端微塵に砕かれたと報告書にあがったのを叢雲はよく知っている。しかしどうだろう、たった一月でこうまで復元されてしまうとは、実際に目にしても信じがたい。北の魔女、やはり普通の深海棲艦ではないのだろう。

 けれど叢雲は不思議と恐ろしさは感じなかった。

 それは彼女がこの島で何人もの姫級たちと関わってきたからだろう。深海棲艦はひとと同じく意思をもち、言葉をもってコミュニケーションをとることができた。だからこの北の魔女も同じく理性的な会話をすることが可能だと思ってしまうのかもしれない。

(それにしても……きれいなひと……)

 女性である叢雲から見ても美しい。繊細さと生命の躍動感に目が吸い寄せられてしまう。死体の状態でこれならば復活したらどうなろう? 確かな意志をもって号令を下し、神秘の御技をふるわれたら、ピースメイカーでなくとも従いたくなってしまうのかもしれない。

 魅入る叢雲に、照月が言った。

「この棺は壊せません」

 棺。言い得て妙かもしれない。

「衝撃を加えてもヒビが走るだけですぐに直ります。海を撃っても隙間がすぐに満たされるように」

 だからここから離れることはできない、とでも言いたげな照月は、もうすっかり平常心を取り戻しているように見えた。北の魔女の身体を眺める姿に鬱屈した様子は見てとれない。ただ事実をありのまま受け入れる静寂さがあった。

――彼女はいつまで戦い続けるつもりだろう?

 聞いてもいいか迷った叢雲に、期せずして答えが告げられた。

「たった独りで戦い続けられるわけがない……そう言いたいんですね?」

「ええ、そうよ」

「私だって分かってます。いつかは負けるでしょう」

 叢雲の眉根に皺が寄る。

「だったらどうして戦うの?」

「勝ちって、なんだと思います? 敵をうち滅ぼすことでしょうか。だったらそれ以外は全部負けなんでしょうか?」

「回りくどい言い方はやめて」

「私がここで戦い続ける限り、幌筵は平和です。戦火の手は届かない。1日でも、1時間でも、平穏な時間を稼げればいい……。そうすればこの二度目の人生にも価値があると思うんです」

「……なにそれ?」

 理屈は分かる。だがまったく共感できない主張だった。

「あなたはどうなるの? 自己犠牲なんて今どき流行らないわよ」

「これは自己満足です。こうしないと納得できない、だから戦う。それだけです」

「嘘ね。私には通用しないわよ」

「叢雲さん……」

 困ったように眉をハの字に寄せても無駄だ。ひとは道徳のみに従って命を投げ捨てられるほど単純な生き物ではないと叢雲は知っていた。

「カミカゼ特攻隊って知ってるわよね? あの人たちは御国の為だけに戦ったわけじゃない。本土に残してきた母や妻、子どもたち……愛する家族を守るためだからこそ片道切符に乗れたのよ」

 具体性のない信条に命を賭けられる者などまずいない。そのような強靭な理念は長い人生を経ることで初めて得られるものであり、駆逐艦の艦娘が――子どもが容易に手にいれられるものじゃない。大鷹だって言っていた。“みんな”とかいう不特定多数の人間のために命を捨てられるわけがない、と。

 叢雲が厳しい目を向けると、照月は気圧されたようにたじろいだ。

「……」

 沈黙を、辛抱強く続けた。

「……幌筵泊地には、」

 血を吐くようにして絞りだす。

「秋月姉が、いるんです」

「そう……」

 それが照月の戦う理由だった。

 なぜ始めから本心を言わなかったのか、とは聞かなかった。軍人が、身内のために戦うなどと公言できるわけがない。……そう、照月は艦娘なのだ。少なくともその誇りを胸に秘めている。だから戦える。たった独りになろうとも。

「例え敗北が決まっていようとも退けるわけがないんです」

 拳をぎゅうと握りしめる。

 生半可な言葉は通じそうになかったが、それでも叢雲は聞かずにはいられなかった。

「戦うしか道はないの? 今の北の魔女は説得に応じてくれるって大鷹から聞いたでしょう」

「悪いけど信じられません。それは思い込みです。あの魔女がひとらしい言動をするから意思の疎通ができると信じたいだけでしょう。あれは模倣です。ひとの情緒なんてまるで持ち合わせていません」

「でも、私も話してるところを見たけれど、」

「叢雲さん」

 照月は咎めるように遮った。

「勘違いしないでください。あなたの目の前にいるのは誰ですか?」

「え? 照月でしょ?」

「違います」

 少女は、よく見ろと言わんばかりに両手を広げ、艤装の口をガチガチと開閉させた。

「私は、防空棲姫です。照月じゃないんです」

「でも……」

「それに大鷹なんてひとも存在しません。あのひとは護衛棲姫です。そこを勘違いしないでください。私たちはみんな深海棲艦なんです。深海棲艦ってどんな生き物ですか? 手を取り合えるなんて思ってるなら甘すぎます。ましてや北の魔女は深海棲艦の生みの親。コントロールできるなんて思わないほうがいいです」

「……本当にそうかしら」

「はっきり言わないと分かりませんか?」

「あにをよ?」

「あなたは何もできないんですよ」

「……っ」

「私を艦娘に戻せますか?」

「そんなこと、」

 できるわけなかった。

 照月は――防空棲姫はそれ以上を言葉にしなかったが、いわんとすることは明らかだった。

 最終的に解決できるわけでもないのに同情するのはやめてくれ。半端に希望をちらつかされて生殺しにされるほうがかえって辛い――

「感謝はしています。言葉をかけてくれて、ごはんをくれて……久しぶりにひとらしい気持ちになれた。それで充分です」

「でも……!」

――でも?

 現状が良くないと叫ぶことはできる。でも。どうやって解決すればいいのだろう? それを明確に示せない限り彼女は納得しない。

 そんな都合のよい解決策はない。

「あなたはまだ艦娘です。手遅れになる前に大ホッケサークルから脱出したほうがいい。そのための方法を教えます。あなたは自分の任地へ戻るべきです」

 勝手に話を進めていく。それを止めるための言葉はどうしても見つからなかった。

「上を見て」

 天を指す。青い空の真ん中に、1つの太陽があった。

「蜃気楼は高空には及ばない。空はそのまま見えるんです。脱出するなら夜がいい。星を目印にして航路を修正するんです。いずれは脱出できるでしょう」

 その方法を知るために来たはずなのにちっとも嬉しくなかった。

 どうにかできないのか。

 このまま彼女を放置していいのか。

「……ねえ、いつか負けてしまうなら今逃げても同じでしょう? 一緒にここを脱出しない? みんなで幌筵に行って提督を説得すれば、」

「叢雲さん」

 今度は叢雲が相手の視線にたじろぐ番だった。

 その目ははっきりとこう語っていた。半端な希望をちらつかせないでくれ、と。

「1つ、お願いがあります」

「あによ……」

「戻っても絶対に私のことは喋らないって約束してください。照月が深海棲艦になったなんて悪評を流さないでほしいんです。秋月姉が悲しみますから」

「じゃああなたはどうなるのよ……」

「どうにもなりませんよ」

 防空棲姫はおとがいを上げて空を見た。書き割りのような、何もない空を。

「自分のことを艦娘だって思いこんでいる頭のおかしい深海棲艦が1人いなくなるだけです」




この章の全体の2/3ぐらいは過ぎてるはずです。
章題のバトルまでもうちょっと。がんばっぞー。


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3-10:北端上陸姫のお優しい犯行予告

 ドヴェはたくさんの名前をもっている。

 種族名は深海棲艦、分類名は北端上陸姫。

 民衆からはピースメイカーの名で知られ、かつては北極海の覇者として名を馳せた。

 だがそれらは全て、仇名であり、カテゴリー名でしかない。

 「あなたの名前はなんですか?」と問われて「人間です」「日本人です」「会社員です」と答える者がいないように、彼女にもれっきとした個人名があるのではないかとトゥリーは問うたことがある。ドヴェと名付けられるよりも前はどう名乗っていたのか、と。

「以前はナプラーヴァと名乗っていた」

 それが彼女の回答だった。

 なんとなく数字シリーズよりもまともっぽい響きがあると思ったのを覚えている。

「意味とかあるんスか?」

「うん。ロシア語で“右”という意味があるね」

「みぎ? なんで右?」

「そうだね……ピースメイカーが2人いたのは君も知っているだろう?」

「ええ、まあ。双子のリーダーだって有名だったんで」

「そう、私たちは双頭。それぞれが艦隊を率いる長だった。連携をとってよく敵を挟み撃ちにしていたよ。そのときの私は、敵からみて右側から攻める役割を担うことが多くてね、それで相手からは「あの右側のやつ」とか「右野郎」とよく呼ばれていたのさ。それが由来だ」

「えーっ、そんなんで名前を決めちゃったんスか?」

 もっとちゃんとした意味がこめられていると思っていた。例えば“右翼”の右だとか。深海棲艦としての右翼、保守派、アンチ人間イズム……等々、そのような意思表明を含ませているのではないかと勘ぐった。しかしそんな理由もないらしい。

「名前なんて記号だからね。判別できればいい。ちなみに私のもう片割れの名はナリェーヴァ。左という意味だった」

「適当だなぁ……。それより前はなんて名前だったんです? 生まれたときは?」

「生まれたときから名前があるやつなんていないだろう」

「それじゃ“右”って呼ばれるまでは名前がなかったんスか?」

「なかったね。部下たちからはボスと呼ばれていた。それで何も支障はなかった」

「うーん? でもボスが2人いる艦隊だったんですよね? 互いにはどう呼び分けていたんです?」

「呼び分けていない。どちらも私だった」

「……ん? っていうと?」

「そのままの意味さ。私と片割れとのあいだに区別はなかった。いうなれば……私たちは双子というよりクローン、いやそれよりも同一性が高かった。思考回路が同じであるゆえに判断が別れることはなく、言葉を介して意思を疎通する必要もなかった。あれは確信以上の事実だったと思う。だから互いを隔てる呼び名も要らなかったんだ」

「……あ~、一卵性ソーセージってやつスかね?」

「さぁどうだろう。そうかもしれないし違うかもしれない。いうなれば別の自分、が近いかな。……このように説明して伝わった試しはないけれど、君はどうだ?」

「いやー、あたしには姉妹がいないんで。まったく分かんないッス」

「ふむ。まあとにかく、そのような関係で不便はなかったのだけど……あるときから片割れの考えが分からなくなってきてね。あれは厄介で不可解な体験だった……。人間でいえば“孤立する”という感覚に近いのかもしれない。しかし悪いことばかりでもなかった。独立独歩の必要性は私の精神を一歩成長させた。目的意識がより強固になったんだ」

「ふぅーん。そうなんすねー」

 そのように言われても、分からねーよの一言だった。

「……私のことはいい。ここで君に伝えておきたいのはね、2人のピースメイカーから同一性が喪われたきっかけだよ」

 ドヴェはふわりと屈みこみ、ロングブーツ状の艤装を外してみせた。

 晒された生足は青白く、本人の外見と同じように幼さを残す華奢な指をしていたが、それに似合わぬ深い傷痕が両の膝上にぐるりと一周走っているのがよく見えた。

「なんスか、それ」

「自己改造の痕だ」

 彼女が言うには、その太股の傷痕は、他人の足を移植したためにできた接合痕らしい。

「私たち2人のピースメイカーは陸上型であるゆえに防衛戦を得手としていたが、同時に海を渡れずに攻め手に欠けていた。……だから水上艦の航行機能がどうしても欲しくてねぇ? こうして足の速いやつから必要なパーツを拝借したというわけさ」

「そ、それってつまり……?」

「言葉通りだよ。足を頂いたんだ」

 つまり、とっ捕まえてきた相手の足をぶった切り、ついでに自分の足もぶった切って交換したということである。

 さすがにドン引きした。

「よ、よくそんなの平気でやりますね。抵抗感とかなかったんですか?」

「特には」

「……さいですか。てかその足、よくくっつきましたね。血液型とか、そういう相性的な問題はなかったんですか?」

「それはない、不思議とね。誰のどんな部位だろうとくっついてしまう、それが深海棲艦の性質なんだ」

「……はぁ、そういうものなんですか」

「うん。このパーツ交換はね、手術などの外科的手法によって成し遂げられたわけではない。修復過程を利用したんだ」

「あの、もうちょっと分かりやすく喋ってくれません……? 頭が追いつかないッス」

 ドヴェはのっぺりとした表情を崩さなかったが、言葉は少し流暢になっているように感じた。知識を披露するのが好きなのかもしれない。それは一向に構わないけれど、こちらの知らない概念を世間話みたいなスピードですらすら喋るのはやめてほしいと思う。普通に理解が追いつかない。

 しかしそんな機微はやはり分からないのだろう、ドヴェは解説の速度を落とそうとしなかった。

「深海棲艦は、轟沈しても復活する……これはね、人間の回復のように“治癒”しているわけじゃない。近場の死骸から足りないパーツをとりこんで補っているだけ。うん、“補修”といったほうが近いかな」

「ん? いま轟沈って言いました? 補修? えーと……」

「複数人のパーツが組み合わさって新たな1つの生命として息を吹き返すということだよ。これが深海棲艦が復活するプロセスだ」

「……。ちょっと待って、深海棲艦は轟沈しても復活する、それはパーツの組み換え? によって成立する……これで合ってます?」

「合っているよ」

「うーん? すごく機械的ッスね。自動車の整備みたい。艦娘の入渠とは根本的に違うんですね」

 傷を治すのとはまるで違う。

 代替品を交換してるだけ。

 深海棲艦における復活とは、フランケンシュタインの怪物のようにツギハギゾンビになって再起動することを指すのだろう。

(……ん? それを利用したっていうことは……?)

 ドヴェは性能の良い足がほしかった。

 だから轟沈からの修復過程を利用した――ということで。

「それってつまり、先生はわざと轟沈したってことスか?」

「そうだよ」

「そうだよ、って……いやいや、だってそんな、いくら海を渡る足がほしいからって……」

「変かね」

「変以外のなにものでもないと思うんですケド」

 ドヴェは心外だ、とばかりに顎を撫で擦る。

「やらずにいる理由も特にないと思うんだけどね……。まぁそれが常識的な感覚というやつなのだろう」

「あたしだったら指の一本だって他人のものになるのは嫌ですよ?」

「みんなそう言うね。うん、確かにそうだったよ。私のように性能目当てでパーツを取り替えようとする深海棲艦はいなかった」

「そりゃそうでしょ……」

 薄々、感じていたけれど。

 このドヴェという女、情緒というものに欠けている。人間が本能的に嫌悪するような行為に対しても平然と是を示す。そう、あるときなどは、こんなことも言っていた。

 

――人間は、敵の兵器工場は爆撃しても良しとするのに、妊婦を撃つのは避けようとする。これがどうしてなのか、私にはよく分からない。

 

 どちらも“敵戦力を生み出す”という点で一致しているじゃないか、と言っていた。

 かなり最悪だと思う。

 が、当人も最悪と思われるのは知っているらしい。だからこそそのような行為は避けている、と玄人気取りで言っていた。

――どう扱うべきなんだろう、こういう本性の生き物って。永遠に未遂でいられるのなら普通人と区別しなくてもよいのだろうか。

(まぁ、今んとこ実害もないし、先達としてお世話になってるけどさ……)

 他の仲間たち――アドナーやチェティーリはこんなんじゃなくて本当に良かったと思う。周りがみんなコレだったら……ぞっとする思いだ。

「しっかしどうして他人の身体がくっついちゃうんスか? 仮に自分の足がとれたとして、その部分がまだ綺麗に残ってたらどうなるんスか? そっちがくっつくんですか?」

「自他の区別は関係ない。近いものが優先される、それだけだ」

「近い? 遠くにあったら自分の足でもだめ? 一体どういう原理なんスか?」

「誰も知らない。そういうものだ、としか分かっていない。……だがね、私は最近になって、恐らくこれだろうという可能性に気がついた」

 ドヴェは腕を組み、北方深海基地を取り囲む赤い海に目を向けた。

「深海棲艦を修復させている赤い海……それはノーリ様のような上位存在であるわけだが……彼女たちは、どうやら個々の区別というものがついていない。我々が魚の顔を見分けられないのと同じように、彼女たちは全ての生命を同じように見ているのだろう。……ときどき魚類と結合している深海棲艦がいるだろう? あれはきっとそういうことだ。なんとなく欠損部位が埋まればよい……その程度の感覚なのだろうね」

「そんな、形の違うジグソーパズルを力づくでハメこむような……」

「その例えは的を射ているのかもしれないね。だがね、驚くべきなのは強引ながらもそれを実現させてしまう点だ。――いいかい、軽巡洋艦ト級の姿を思い出してみたまえ。頭が3つに腕が2つ、そして胴体が存在しない……こんな構造の生き物が普通に動いているんだ。運動性能を損なうこともなく、人間でいうところの拒絶反応もない。これがどれだけ凄まじいことか分かるかい?」

「はぁ……医学的にはすごいことなんでしょーけど」

 それをいうならそもそも深海棲艦自体がよく分からない生き物であるわけで。今更そのおかしさ加減で驚けといわれてもピンとこない。

「ちなみにね、これも覚えておいてほしいのだが……そうやって他者のパーツが混じると、記憶も混ざるんだ。私のケースだと、この足の分だけ別人の記憶が混じった。思考回路に影響をうけて、性格も少し変わったらしい。つまり私は『ナプラーヴァ』から『ナプラーヴァ’』に変化したというわけだ」

「えええ……? 頭ンなかも変わるんスか……」

「つまり、私たち2人のピースメイカーが道を違えた原因はこの足、自己改造にあったのだよ」

「じゃあ……深海棲艦は轟沈しても復活するけど、それはもう別人ってことなんスね?」

「記憶は引き継がれている。けれど混ざっているのだから以前の本人そのものとは言えないだろう」

「テセウスの舟みたいな? それって“今の自分は一度きり”ってことじゃないですか」

「なぁに大丈夫さ。ノーリ様はもう私たちをしっかりと記憶した。この大ホッケ海に限るなら轟沈してもちゃんと本人のパーツを選んでくれるだろう。きっと100%の同一性を保って復活できるはずだ」

「なーんだ、それなら死んでも大丈夫かぁ……とはならねっすよ?」

「轟沈は嫌か」

「当たり前ッス! ……あ、いくら復活できるからってゾンビ戦法みたいな作戦は立てないでくださいよ?」

「分かってるさ。ひとが嫌がるようなことはしない。基本だろう?」

「……」

 こんなに説得力がない台詞もなかなかない。

「む、その顔は信じてないね? 私はね、不服を命令で抑えつけるような真似はしたことがないよ?」

「ほんとかなぁ……?」

「君ね、言ったばかりだろう? 記憶は引き継がれるんだ、乱暴な命令を繰り返していればいずれ誰も従わなくなる。死ねば終わりの人間とは違うのだよ。そういう意味では深海棲艦は人間よりもずっと“お優しい”といえる。……そう、そして、その違いこそが人間の優位性でもあるね。人間は死ねば終わりなのだから無茶を背負わせて使い倒すことができるんだ。そう、彼らは一度限りの人生をまともに生きたければと不平不満を飲みこませて搾取構造を構築し、資本を集中運用して技術発展の礎を……」

「あ~、また長いの始まっちゃいます? そういう講義はまた今度にしてくれません?」

 

 

 叢雲が海へと消えて30分ほど経ったころ。

 浜波と並んで赤い内海を眺めていたら、不意にそんな会話を思い出した。

 照月がこの先どうなるか、なんて話をしたからかもしれない。

 あいつが決めた道だから知ったことではない、と口では言ったけど――

「浜ちゃんさ、浜ちゃんだったら……」

「?」

「いや、なんでもないや」

 照月は、人類の側につくと言っていた。トゥリーは逆。人類なんか知らんもーん、と気楽な道を選んだ。どちらに正義があるかは明白ではあるけれど――だったらなんだというのか。

「めんどくさいなー、マジで。浜ちゃんもそう思わない?」

「え、え? なにが?」

「無駄に張り切っちゃったり解説好きのサイコパスだったり。どいつもこいつもめんどくさいって言ってんのよ」

「……?」

「はぁ~」

 正義。

 めんどくささの極致のような言葉だと思う。

 トゥリーは正しさなんて欲しくない。誰かに褒められたいわけでも認められたいわけでもない。単純に面白おかしく暮らしたいだけだ。前世では生まれが貧乏というだけで人並みの生活を送れずに艦娘という名の兵隊に身をやつさねばならなかった。同年代の少年少女たちが未来に欠片ほどの不安も抱かずに娯楽に興じているときに命を担保に血と汗と涙を垂らし続けねばならなかった。

 その苦労の分だけ今世はエンジョイしたいと思うのは間違っているのだろうか。

 

――一度限りの人生をまともに生きたければと不平不満を飲みこませることで搾取構造を成立させ……

 

 そう、“大鷹”の人生はまさに搾取される側だった。

 一般国民様が遊んでヘラって気持ちよくなるための時間を稼ぐための人生だった。

 つまり割りを食わされたのだ。だったら今世で取り返したっていいだろう。

 誰かに搾取されることもなく、責任を課せられず、ただただ気楽に、現代の少女らしく、普通に生きたっていいじゃないか。

 それを間違っていると言われたからなんだ。

 仮に悪かったとしても知ったことではない。

 善とか悪とか、そんな娯楽に興じる趣味はないのだ。

 力をもつ者の責任が、なーんて聞いたふうなことをぬかすやつはまとめてはっ倒してやればいい。

 ……そのつもりではあるけれど。

 戒めるように、一航戦の2人の顔が浮かんだ。

 あの2人の前でも同じ啖呵をきれるだろうか?

「うーん、無理寄りの無理ってカンジ……」

 盛大に溜め息をつく。

 どうにも吹っ切れきれない自分の中途半端さが恨めしい。どうすれば叢雲のようにズバズバと決断できるようになれるのか。

 いや、ならなくてもいいんじゃないかとも思う。

 人は人、自分は自分。適正ってものがある。自分は下っ端。兵隊。なんも考えてない世の中舐め子ちゃん。そんな立場こそ合っているし、適度に気楽で楽しそうだ。

(……でもそんなんでいいのかねぇ)

 じゃりっ、とアスファルト上の小石を潰す音がした。

「――難しい顔をしているね」

 背後からドヴェの声がした。

 噂をすればなんとやら。めんどくさい女の登場だ。

 浜波の肩がびくりと震えたのを横目に、トゥリーは前を向いたまま答えた。

「先生~、そっからあたしの顔が見えんスか?」

「まさか。だが君がなにを考えているかは分かるさ」

「そいつぁすげーや。ピースメイカー様はなんでもお見通しってことですか」

「なんでもは分からんさ。だがこの北方深海基地にいる数少ないメンバーの動向ぐらいは気にかけているよ。これは思い通りに生きるためのコツでもあるね。自分の周りの人物や、近い将来に関わる可能性のある相手についてぐらいは探りを入れて推測と対策を立てておくべきだろう」

「講義ならあとにしてください。今はちょっとおセンチモードなんですよ。前世の知人との別れが近いんでね」

「ひとに近い深海棲艦はすぐに嘘をつく。難儀なものだね」

「……何しにきたんスか? 夕方のタイマン勝負にはまだ早いでしょう」

 太陽は中天を過ぎたところ。まだ昼すぎといった時間帯である。

「遺言を伝えにきた」

「なんですって?」

「遺言さ」

 うんざりしながら振り向いてドヴェの正気を確かめる。その顔は平然と、なんてことはないいつも通りの様子だった。

「この戦いで私は死ぬだろう」

「はい?」

 言葉と態度がちくはぐすぎた。

「……もっぺん言ってもらっていいッスか? 先生は、照ちゃんとの戦いに負けて轟沈するって言ったんですか?」

「うん。私は負ける。そして死ぬ。そう言ったんだ」

「……照ちゃんはそこまで強いって?」

「さぁどうかな、実際に手合わせするのは初めてだ。だが彼女が強かろうとそうでなかろうと関係ない。私は負けることにしたんだ」

「ちょっと意味がわかんねーッスね」

「この勝負に限っては負けたほうが得になるってことだよ」

「……はぁ。まぁ先生の言うことが分からないのはいつものことですけど」

「少しは考えてみてほしいんだけどね」

「いや、いいッス。あたしはもう面倒くさいことはしたくないんで」

「そうかい。それでは何もしなかったがために不利益をこうむってしまう可能性も許容するんだね?」

「……」

 情緒のない深海棲艦という生き物は平然と痛いところをついてくる。遠まわしに機嫌が悪いと匂わせてもまるで配慮しちゃくれない。蛙の面に水。そういう意味では艦娘はよかった。要らないことまで気遣ってくれた。

「……はぁ。で、遺言ってなんですか?」

 振り向いて、ドヴェの姿を確認した。周りを見渡してみる。

(……ん?)

 なにか足りないと思ったら、いつもぴったりと張りついている番犬役の重巡棲姫がいなかった。

「いつものボディガードさんはいないんスね。あのひと、ぜんぜん喋らないから名前も知らないんですよ」

「クロンシュタットだ」

「どういう意味なんです?」

「ソ連の重巡洋艦の名を使っているだけだよ」

「ふーん。で、どこに行ったんです?」

 ドヴェは目を細めて微笑んだ。

「私の遺言は2つ」

 なんか誤魔化したなこいつ……と思ったが、面倒なので追求しなかった。

「遺言遺言って。もうちょっと重みのあるモンだと思うんスけど」

「まぁ聞きたまえよ。1つ目は、この海での復活について。君にはまだ伝えていないことがあるんだ」

「こないだ教えてもらった、ツギハギ式再起動のことですか?」

「そうさ。それを実行しているノーリ様は、どうやら修復中に対象の記憶を覗きこんでしまうらしい」

「どーいうことですかぁ?」

「轟沈者のそれまでの人生を追体験してしまうのさ」

「じゃあ恥ずかしい想い出もバレちゃう、と。プライバシーもなにもあったもんじゃないッスね」

 ドヴェは軽口には応じなかった。ゆっくりと人差し指を持ち上げて自身のこめかみを叩く。

「人格は、経験によって形成される。……知らない思想にふれること、一世一代の決断と行動、それに伴う華々しい成功体験、そして焼けつくような後悔が……主様を飛躍的な成長へと導くだろう。1人分の人生にはそれだけの価値がある。短時間で一気に成長できるんだ」

「……ふぅん。なるほどねー」

 だったら、なんだというのだろう。勝手に成長すればいい。

――どうしてこの女はこうも回りくどいのか。

 苛立つトゥリーに代わって、浜波が疑問の声をあげた。

「あ、あの……っもしかして……あなたが負けたい理由、って、それですか?」

「それ、とは?」

「自分の記憶を、北の魔女さんに、見せる……」

「……おお!」

 ドヴェの瞼が大きく開かれる。

Вот именно(その通り)! ……いや、大したものだな。失礼、君を少し侮っていたのかもしれない。私はね、私の主様を成長させるために負けることにしたのだよ!」

 欲しかった質問を得たドヴェは喜色満面といった様子。

 対して、トゥリーは冷めに冷めていた。

――上司のために命を捧げる? なんだそりゃ?

「ご立派、っていえばいいんスかね? まさか先生が自己犠牲の精神をお持ちとは思わなかったですけど」

「なにを言う。これは自分のためだよ。主には立派であってほしいという願望を叶えるために沈むんだ」

「そっすか」

 よく分からないし、分かりたくもない。

「質問はあるかな?」

「いや、別に」

「そうか、残念だ」

 今日のドヴェはなんだかしつこいと感じた。自分は思っているよりも苛立っているのかもしれない。

 ドヴェは口元に指をあて、くすくすと癪にさわる笑いかたをした。

――なんだろう。

 どこかで見たことがあると感じた。

 あの笑いかた。

 ずぅっと昔に、よく向けられていた気がする。

 艦娘になるよりもずっと以前、なんのとり得もないただの小娘だった頃に……

「いいかい? じゃあ2つ目の遺言……これは教訓だ。よぅく聞きたまえ。――目的のためには手段を選ぶな、という言葉があるが、それを始めから選ぶ者は三流だ。手段はできるだけ選ぶべきだ。よりリスクが少なく、成功率も保てるようなやり方を」

「はぁ……まぁそうっすね」

「当たり前のように聞こえるかい? だがね、この世で最も効率の良い方法とはそのほとんどが誰もが知っているやり方なんだ。安易な奇抜さに正解はない。地道さを、つまらなさを忌避してはならない」

 人生の箴言、といった口調ではあるけれど。

 わざわざ遺言として伝えるほどの内容だろうか、とトゥリーは思う。

 が。

 次から一気に分からなくなった。

「その思想に則って、私は今回のプランに課題を設定することにした。リスクを背負わないこと。そのために決定権を持たないこと。そして最後は、どちらを選ばれてもリターンを得られるようにすることだ」

「え? プラン?」

「目的のための手段を選びぬいたんだ。加えて私には『嘘をつかない』という縛りもあるわけで……なかなか綱渡りだったよ。自分で自分に勲章を渡してやりたい気分だ」

「え……え? なんスか、一体? 今回のプランって? なに、なんかやったんスか?」

「いいや、私は、何も、やってない。繰り返すようだが、そのうえでリターンを得るのが今回のプランだった。覚えておきたまえよ? 私は、何も、やってない。それが大前提だ」

 わけが分からず、浜波と顔を見合わせた。

 互いに疑問符が浮かんでる。

 ドヴェが何を言っているのか?

 何を伝えたいのか?

 おそらく――いや間違いなく重要な話として伝えているのだと思う。彼女にとっては伝えておかなければならない情報なのだろう。しかしその内容も意図も読み取れない。それを解読するための手法すらトゥリーと浜波は知らなかった。

「ちょ、ちょっと、回りくどい真似はやめてくださいよ……。なんのつもりです? はっきり言ってください」

 ドヴェは微笑むだけだった。

「昨日言ったばかりだろう? “君たちが一日も早く一人前になってくれることを願ってる”と。少しは自分で考えてみるといい」

「なんスかそれ。分からなきゃ痛い目にあうってことですか? 怒りますよ? そういうの、趣味が悪いです」

「怒れば答えを教えてもらえると? そうやって思考停止するなと言ってるんだがね」

「嫌なことするぞって言われて平気でいられるわきゃねーでしょう?」

「やれやれ……。どうやら君は対処法を知らないらしい。どうやって推察したらいいか分からないんだね? だったら教えよう……いいかい、こういうときは相手の願望から辿るんだ」

「願望ぉ?」

「そうさ。口先の言葉なんていくらでも変えられる。そこから意図を読み取るのは至難の業だ。だからまずは相手のしたいこと・欲しいものを考える。それと言葉を結びつけて相手の方法論を探るんだ」

 願望、と言われても。

 ドヴェ、ピースメイカー、ナプラーヴァ。いくつもの顔をもつ古狐のしたいことなんて分かるはずがない。

 ぎりっと奥歯を噛み締める、そんなトゥリーの指先に小さなぬくもりが触れた。

 浜波。

「さ、さっき言ってた……。北の、魔女さんを……」

 成長させること。

「……それが先生の願望ですか」

「正解。できれば自分だけで解答にたどり着いてほしかったんだけどね」

「だったら勝手に轟沈して経験値を捧げてりゃーいいじゃないですか。あたしにはなにも関係……」

 口が止まる。

――関係、ない?

 本当に?

 さっきドヴェはなんと言っていた?

 

――轟沈者のそれまでの人生を追体験してしまうのさ

 

 轟沈者。

 戦って死んだ者。

 それがドヴェでなければならない必要はどこにもない。要するに、轟沈する深海棲艦はトゥリーでもよいということで――

「――まさか先生、あたしにも轟沈しろってんじゃないでしょうね?」

「それこそ、まさかさ。いつか言わなかったかな? 反発や不信感を与えてはならないと」

「はは、さすがにね……?」

「だから私は「轟沈しろ」とは言わない。言わないだけだ(・・・・・・・)

――轟沈してほしいとは思ってる。

 言われずとも、それぐらいは理解した。

「もう殆ど正解を言ってしまっているようなものだけど、まぁそういうことだね。私は君に嫌われたくない。そのリスクを背負いたくない。だから、君が自発的に――そう、例えば、かの防空棲姫君に戦いを挑みにいってくれでもしたらいいなぁと思っているわけだ」

 こいつ、何を言ってるんだ? とトゥリーは思った。

 詐欺師が吐露した最終目的は、とうてい実現しないであろう妄想に近かった。

 苛立ちを呼気にのせて盛大に吐きだした。眉根の皺を揉み解して抑えこむ。

「……先生さぁ、正気なわけ?」

「私はいつだって正気だよ」

「あたしが照ちゃんと戦うわけがないでしょう? 勝ち目がないんだから」

「そうだね。じゃあどうしたらいいか、と私は考えるわけだけど、」

「やめて下さいよ、つーかもうやめてくんないスか? いい加減ちょっとさぁ」

「思うだけだよ。何もしていない。それだけは勘違いしないでほしい。私は本当に何もしていないんだ」

「だってプランがどうこうって言ってたじゃないですか」

「だから。それは、私が何もせずにすむためのプランだよ。決定権は君にある――おや、どうやら時間切れのようだ」

 白々しく。

 ドヴェは真横にくいと顎を向けた。

 島々の内海、そこに小さな人影が駆けている。

「叢雲君のお帰りだ」

 赤い波を駆りながら、こちらを目指してやってくる。

「彼女は私が嫌いなようだからね、邪魔者は居なくなるとしよう」

 踵を返して去っていく――そうはいくかと縫いとめた。

「先生がなにをしたのか知りませんがね、」

 ぴたりと足が止まった。

 その背に宣言する。

「あたしは、絶対に照ちゃんとは戦いませんからね。なんなら一生この島から出られなくなってもいい。あたしはね、人に利用されるのが大嫌いなんですよ」

「それもいいだろう」

 ドヴェは遠く、豆粒のような大きさの叢雲の輪郭に目を眇め、

「そもそもね……こんなことを君に言う必要はまったくないんだ。単に君を陥れたいだけならば何も言わないほうがいい。そうすれば疑問の余地なく事はうまく運ぶだろう。しかし君にはちゃんと考えてほしいんだ」

「何を?」

「何もかもを」

 ドヴェは首だけで大きく空に向かって仰け反るようにして振り返る。

「怠惰の道を進むなよ」

 そして彼女は内海へと足を向けた。

 上陸した叢雲とすれ違う。

 叢雲は傍目にも分かるほど強張りながらドヴェを睨みつけていた。

「さようなら、叢雲君。また会えるといいね」

 腕を振ることもない。

 小柄な女はそのまま内海に足をつけ、主機を駆動させて遠ざかっていった。

「……彼女、どうしたの?」

 戻ってきた叢雲が訝しむ。

 そんなの、トゥリーが聞きたいくらいだった。

「……知らね。負けに行くんだとさ」

「はぁ?」

 結局。

 やたら回りくどかったけれど、ドヴェの目的は分かった。

 

 トゥリーと防空棲姫を戦わせること。それも自発的に。

 

 そのための策を彼女は仕込んだはずだ。何もしていないと何度も強調していたがそんなわけがない。絶対に、そうせざるを得ないような状況を用意しているはず。

――でも、それってなんだろう?

 考えろ、と彼女は言った。

 考えて正解に辿りつけば回避策があるということだろうか?

 考えなければ……トゥリーは自分から防空棲姫に戦いを挑んでしまう? 相性が最悪で勝てないと分かっているのに?

「ちっ、ワケ分かんねーし」

「なにか、あったの?」

 叢雲が寄ってくる。

「……いや」

「あったのね?」

「……ああ、あったよ」

 こんなワケの分からない話を伝えてどうする、とトゥリーは思ったが。

 すぐ傍に浜波がいた。

 トゥリーの腕にしがみつくようにして濡れた瞳で見上げてくる少女。彼女もすべてを聞いていた。

 だったら秘密にしてもしょうがない。

「いやー、変な話なんだけどさぁ……」

 そうして全てを話した。

 話しながら、トゥリーは思った。

 3人寄れば文殊の知恵、むしろ相談してよかったのだ、と。

 こういう話は大抵、抱えこんだせいで破滅してしまうのがお約束だ。勘違いや見落とし、思い込みのせいで突破口に気付かないのが一番まずい。だから3人で力を合わせたほうがいい。そうすれば老獪なピースメイカーの策だろうと回避できないわけがないのだ。

「――って先生は言ってたんだよね。……叢雲は、どう思う?」

 全てを聞き終えると。

 叢雲は、口元を手で覆って、黙りこんだ。

「……ま、さすがの叢雲もすぐには分かんないかー」

 浜波も、特に思いつくことはない様子。

 いきなり暗礁に乗り上げた。

 ぼりぼりと頭を掻いていると、叢雲はゆっくりと顔をあげた。

「……あのね? 私も言わなきゃいけないことがあるの」

 その瞳は、珍しく迷いに揺れているようにみえた。

「なに?」

「昨夜に私、散歩にでたでしょう?」

「ん……、そうだね。あたしが探しにいって見つからなかったやつね」

「そう、それ。実はね、嘘なの」

「嘘?」

「うん。散歩なんて嘘。始めから目的があって外に出たの」

 叢雲は自らの手首をぎゅうと握りしめる。

「反省会をやるって言ってたでしょ? その様子を見に行ったの。何か重要な情報でも聞けないかなって……」

 ハンセイカイ。

 なにそれ? 浜波と一緒に首を傾げた。

 叢雲はむっとして、

「なんであんたら覚えてないの?」

「そう言われても……」

 本気で覚えがなかった。

 浜波は申し訳なさそうに上目遣いになりながらもじもじと人差し指の先を合わせるしかない。

「え、ええと……ごめん、分からない……」

「うっそでしょ! ピースメイカーが言ってたじゃない。チェティーリって子と反省会するって、夜の9時から!」

「そうだっけ……?」

 言われてもやっぱり思い出せなかった。つい昨日の話のはずなのに、まるで4ヶ月も間を空けたショートストーリーのように忘れてしまっていた。……いや、そもそも本当に聞いたのかとすら思う。んなこと今頃言われてもわからねーよって感じだった。

「はあぁ、信じらんない! ……ともかくね! 私はその、あれよ、スパイ行為をしに行ったのよ! 艦娘がいない会合ならポロっと本音が出るんじゃないかって!」

「はぁーん? 随分危ないことしますなぁ。敵の本拠地にやってきた初日の夜に?」

「いいでしょ、もう。それでね、確かに反省会は、やってたの」

「そんで? なんか聞けたの?」

「うん……。それがね、あんたがさっき教えてくれた話と少しかぶるんだけど……」

 数秒の迷い。

 葛藤が決意へと変わる時間。叢雲の瞳がキッと意志で固まるのをトゥリーは見た。

「ピースメイカーが狙ってるのはあんただけじゃない。私たちもよ」

 そして叢雲は語り始めた。

 昨夜、何があったのかを。




伏線はって回収する話を作りたいなら何ヶ月もあけちゃだめだってはっきり分かんだね。


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3-11:夜。叢雲と北端上陸姫と駆逐古姫(回想)

 夜闇のねばついた黒をかきわけて叢雲は進む。

 時間をかけても目は慣れず、叢雲はほとんど手探りの状態でガラクタの山を迂回した。

 目的地は決まっていた。昼間に演習をやったあの海岸。記憶を頼りに歩を進めた。その先には2人の深海棲艦が待ち合わせをしているはずだった。

 

――夜にここで待っている。9時でいいかな? 反省会をしようじゃないか。

 

 昼に行った演習の後、ドヴェと名乗った敵の幹部は確かにそう言っていた。

 深夜に反省会が開かれる。

 あの場所に行けば、姫級が2人、現れるということだ。

 一体どんな話がされるのか、興味があった。反省会と言うからには昼間の演習について評価と改善点が話し合われるのだろう。深海棲艦の戦闘ドクトリン……それはそれで興味はあったけど、今の叢雲が期待しているのはそれ以外の雑談にあった。

 すなわち、深海棲艦に関するあらゆる情報について。

 叢雲たち人類は、深海棲艦についてあまりにも内情を知らなすぎる。その目的も、生態も、勢力分布すらはっきりしない。どんな小さな情報でもいいから手に入れたい。反省会をするという姫級たちの会話の端々から拾えたりしないだろうか……と考えていた。

 そのために叢雲はこうして夜の廃墟を歩いている。

 大鷹に散歩と告げたのは嘘だった。

「……」

 敵。

 深海棲艦。

 その種族については昼間にも語られていた。けれど、ドヴェが語った北の魔女についての情報は……スケールが大きすぎていかなる判断もできそうにない。深海棲艦の起源がどうのとか、そんな歴史を主張されても「へぇーそういう言い分なのね。だから何?」としか言いようがなかった。学者たちは喜ぶだろうけど。

 叢雲が必要としているのはもっと具体的で役に立つ情報だ。弱点とか、向こうの技術の原理とか……もっと些細なことでもいい。例えば、勢力図。これまでの会話から察するに、どうやら深海棲艦たちはいくつもの集団に別れているらしい。軍団として統一されていないなら連携もとれていないのだろう。その縄張りの境い目をうまく突けたなら各個撃破も簡単にできるかもしれない。あるいは、弱小勢力を懐柔していく手だってありえなくはないだろう。

(対話……できるの? 深海棲艦を相手に……)

 大鷹の顔が浮かんだ。

 ついさっき別れてきたばかりの旧知の友人、その白い顔の唇が皮肉げに歪められ、諦めの言葉を吐き棄てた。

 

――もう大鷹じゃねーっつーの。

 

 話せるなら、そして理性があるのなら、手をとることだってできるはず。彼女の戦う理由が自己防衛のためなら、なおのこと。

 叢雲は頭をふって考えかたを改めた。

 自分は今からスパイの真似事をする。争いを回避する手がかりを得るために。けして相手を滅ぼすためではない。

 手の平に、固くざらざらした感触――テトラポット。伝いながら、転ばないように歩を進めた。

(ふぅ、そろそろ着くはずだけど……)

 あの教室部屋を出るとき、壁時計は9時ちょうどを指していた。つまり今はもう集合時間を過ぎている。

 今はあれから何分経っただろう?

 せっかくぬけだしてきたのに、着いたらもう話は終わっていた、なんてオチは勘弁してほしい。

 あるいは、もう場所を移動してしまっているかもしれない。こんな一寸先さえ見通せない暗闇のなかで反省会なんてしたくないだろう。自分ならごめんだ。せめてもう少し明るい場所へ行こうとする。まぁ、このゴミの島々に灯りがあるなら、の話だが……。

 そんな不安をもてあましていると――ぼんやりとした光がいきなり現れた。

 ランタンの灯り。

 物陰から現れたその光源はかなり近かった。7,8メートルといった距離か。考えごとをしていたせいで気付くのに遅れてしまった。

 耳をすませば、ぼそぼそと、ヒトらしき話し声も届いてくる。

 慎重に、身を隠しながら、光源の周りを探ってみた。

(本当にいた……)

 うっすらと映しだされる影のなか、ヒトの輪郭を見つけた。それは確かに目当ての人物たちだった。

 ひらひらした衣服の、北端上陸姫、ドヴェ。

 小柄なマネキン人形のような佇まいの、駆逐古姫、チェティーリ。

 2人は、闇を照らすランタンを挟んで向かい合っていた。ドヴェは廃車に寄りかかり、チェティーリは案山子のように直立している。

 叢雲は、それを真横から覗く位置だった。

 テトラポットの影に身を隠し、姫級たちの会話に耳を傾ける。

「……つまり、戦闘が始まってから対策するようでは遅いんだ。それ以前の、いわゆる平穏な時間にどれだけ準備できたかで勝敗が決まる。精進したまえよ」

「はい」

 どうやら、本当に反省会をやっていたようだった。たった今、まとめが終わったばかりらしい。空気がわずかに弛緩するのを感じた。

(まさか……もう終わったんじゃないでしょうね)

――もっと話を続けろ、何でもいいから。

 その願いが届いたわけではないだろうけど、ドヴェは車から背を離し、一歩二歩と教え子に近づいた。

 会話はまだ続くようだった。

 ドヴェは小さな唇を微かに動かした。

「……それじゃあ、技術面についてはこのぐらいにしておこうか。次は、君の振る舞いについてだけど」

「なんでしょう?」

「君は、あの2人の艦娘を殺すつもりだったのかな?」

 いきなり物騒な単語がでた。

「……え? いえ、そんな、殺すだなんて」

 問われた少女もまた困惑しているようだった。

「チェティーリ君、きみは艦娘が好きではないのだろう? 我々の領域に踏み込んできたあの娘たちが目障りで、排除してやろうとは思わなかったのかい?」

「思いませんよ、そこまでは」

「だったら、ちゃんと愛想よくしたまえよ」

 ドヴェはさらに前に進み、ランタンを横切って、チェティーリに手が届く距離まで詰め寄った。

「あの……?」

「いいかい? よく聞きたまえ」

「は、はい」

「相手をすぐさま排除する必要性がないならば、嫌いだろうと憎かろうと殺してやりたかろうと、表面上は友好的に振る舞わなければならない」

 眉をひそめるチェティーリ、その背後にドヴェはゆっくりと回り込み、細い肩に手を乗せた。びくりと震える、その顔の横にドヴェはぬるりと己の顔を突きだす。少女の耳元で睦言を囁くようにして言葉を紡いだ。

「この世の全ては、“作る”のは難しい。時間がかかる。しかし“壊す”のは簡単だ。時間もかからない。これは物質に限らない。人と人との関係性もまた同じ。……このケースでいうと、友好関係とでもいうべきか。“仲良くなる”のは難しく、時間がかかる。しかし“嫌われる”のは簡単で、すぐにできる。故に、誰かとの関係というものは、安易に壊しにかかるものじゃあない。まずは友好だ。ラブ&ピース。なぁに、大した話じゃない。初めは挨拶、そして笑顔。握手を求めてもいい。その後に自己紹介だ」

「仲良く……なる、ですか?」

 メリメリメリ、と鉄の繊維が編みこまれ――巨大な艤装がいつの間にか、ドヴェの傍らに顕現していた。深海棲艦特有の、化け物を模した艤装、あるいは生物兵器。ソレの大きな口にはスマホサイズの巨大な歯が綺麗に並んでいて、隙間からは粘ついた液体がとろりと滴り落ちるのがよく見えた。顔の眉間があるべき場所からは大口径の単装砲が一本突きだしている。それが前触れなく固定され、一切の予告なく、

 砲弾が発射された。

 正面の廃車に直撃。

 耳をつんざく金属音が夜の静けさを切り裂いた。衝撃は奥にあったショベルカーと大型バスと九七式中戦車改を貫いて粉塵を巻き起こす。飛び散る破片を瞳に映しながら、ドヴェは、おとぎ話の狐のようにいやらしく口角を釣り上げた。

「……ほぉら、この通り。壊すのはすぐにできるだろう?」

 狐の邪悪な笑みは、しかしすぐに悲しげな顔へと変化した。巨大な穴を穿たれた廃車を哀れむように眉をハの字にしてみせる。

 それは実演だった。表情とは、作りだし、見せるためのもの。内心を映す鏡ではない。そう思い込んでいる愚か者を騙すための方便の一つに過ぎないのだ、と示している。

 仮面を取り替えるように、またしても顔つきが変わった。今度は能面のような無表情。

「やると決めたら速やかに、そして確実にやるべきだ。……しかし、あのときの君には艦娘たちを殺すつもりはなかったと言う。で、あるならば、君は当然、愛想よくしなければならなかった。ふてくされた態度をとっていても何の得にもならない。分かるかな?」

「……分かります」

「いい子だ」

 ドヴェは再び歩きだし、自分で破壊した車の前で止まった。くるりと踵を返し、愛くるしい満面の笑みを浮かべて、教え子に向けて大仰に手を広げてみせた。

「さぁ、思い出してごらん? あの艦娘2人に会ったとき、私はどのように自己紹介をしていたかな? あのときの言葉はもちろん嘘ではないが、相手の心を開かせるために言葉を選んでいたのは間違いない。……いいかい? 私は元ピースメイカー。人間たちからは虐殺者とも呼ばれているからして、あの艦娘たちからすればその印象は会う前から最悪だっただろう。しかし、今はどうだ? 信用は得ていないにせよ、『会話するぐらいなら問題ない』と思わせるところまではきた……と私は推察している。どうかな?」

 その通りだった。まさに叢雲は、ドヴェをそのように見ていた。信用はしていないけど、回りくどく芝居がかった言動をする様子から、艦娘が相手でもコミュニケーションを試みる程度の寛容さは持ちあわせていると感じていた。

 だが、それらは全て見せかけだった、とこの女は言った。

 殺す理由がなかったからとりあえずで“話が分かる”ようなキャラクターを演じただけだ、と。つまりは、この女は、その理由さえできてしまったら、きっと一秒の躊躇もなく行動に転じるということで――

 女は再び無表情の仮面をかぶり、淡々と語った。

「さて、そんな私に比べて君は……あの艦娘たちとは初めはまっさらな状態であったにも関わらず、今では私より印象が悪いと言えるだろう。『気難しいやつ』『艦娘を嫌ってるやつ』……これではいかにもよろしくない。そんな相手とは会話したいと思わないだろう? つまり、関係が発展しないんだ。軽んじられてしまう。言ってしまえば『どうなってもいいやつ』にカテゴライズされてしまうのだよ。そうなってしまえば、もう何ももらえない。小さな利益も、僅かな情報も、そして決定的な機会さえもすり抜けてしまう。そうやって小さな繋がりを断ち切っていってしまうとね、どうなると思う? いつの間にか大きな差ができてしまうんだよ。他の、積み上げてきた者たちとね。そして、踏みつけにされてしまう。……私が北極海で覇者になれたのはね、屈強な戦士たちを打ち倒してきたからではないよ。這い上がらなかった怠け者たちを敷石にして歩くことができたからだ」

「……分かります。とても、よく」

 言っている内容自体は、おかしくない。要約すれば『情けは人のためならず』――常識的でさえあった。なのに、それでも彼女の思想に抵抗を覚えるのは……彼女がひとを利用しようとしか考えていないからだ。良心にまるで欠けていて、人と人との関係性をリスクとリターンの一側面でしか捉えてない。ゆえに、ドヴェは人の心にまったく共感しておらず、ただそうと決まっている法律をそらんじるがごとく理屈で知っているだけなのだと叢雲は感じとることができた。

(こいつはきっと、自分の正しさにしか興味がない……)

 これが深海棲艦。

 大鷹とはまるで違う。外面だけでなく、中身まで人間的ではない。それでいて本物の心を持つ人間よりも感情を利用することに長けていて、操ろうとさえしている。なにかがひどくおぞましい。

 反社会的人格の持ち主が、子どもにひとの騙し方を教えている。

 そんな薄ら寒い光景が目の前で展開されていた。

「この海には勝者か、敗者かしかいない。……君はもう敗者にはなりたくないのだろう? だったら振る舞いを変えたまえ。微笑みを浮かべ、友好的な姿勢を示すといい。大事なのは、印象だ。警戒心は無知による不安から生まれるからだ。まずは相手に理解されるよう努めたまえ。分かりやすいイメージを持たせるんだ。あるいは短所を1つ晒せばいい。そうすれば人は理解した気分になる。理解が及べば安心する。安心すればガードが下がる。あとは繰り返しだ。慣れが信用にすり替わる。……悪態をつくのはね、排除する直前だけにしたまえよ。ただし、それは最後の手段だ。どんな役立たずにだってそれなりに利用価値があるんだからね」

 これは。

 はたして教育と呼べるのだろうか。洗脳ではないだろうか。

「……私、には、」

 駆逐古姫は、言葉に迷っていた。

 硬質な日本人形のような見てくれの少女。昼間の演習ではなにかに激昂し、それでいて自制して、醜態を晒すまいと去っていった少女。彼女はまだ人間的だった。感情をもっていた。

「私には――上手くできるか分かりません。生きるためにあなたの言うやり方が必要なのは分かります。けれどどこかで必ず失敗すると思うんです。人を騙すときに、どもってしまったり、目が泳いでしまったり、するでしょう」

「ふむ……」

「経験が、ないんです。戦うのも、色んな人と喋るのも……。私はひとの上に立つには向いていませんよ。……トゥリーさんは向いているんでしょうけど」

「学べばいいじゃないか。戦闘技術も、人とのコミュニケーションも」

「もちろん努力はします。けれど……」

 言いよどむ少女。

 女は励ますように目尻を緩めてみせた。

「才能なんて概念は存在しない――と私は思っている。適正なんてものはね、そうと知らずに幼少期に必要な経験を積んできたか否かでしかないんだ。ただ先行されているだけにすぎない。ゆえに、後から追いつけない道理はないのだよ」

「けれど……」

「ちっちっち。君は、どうにも後ろ向きだね。厄介で、非効率的で……しかしだからこそ方向性を上手く見いだせれば強大な原動力を生み出すこともできる」

「……? よく、分かりませんが……」

「君が人間的だと言っているんだ。私が、君とトゥリー君に期待している理由でもある」

 チェティーリは、何も答えなかった。口元を手で隠し、考え込んでいる。

「……ドヴェさんは、人間的ではないですよね?」

「そうだね」

 ある意味で失礼な問いかけにも、ドヴェは即答した。

 チェティーリは訝しげに眉根を寄せて、

「あなたのような考え方が、普通なんでしょうか? ええと、深海棲艦の、普通です。私の知っている深海棲艦はもっと“人間的”でしたよ」

「へえ、君の知っている深海棲艦っていうと?」

「私を殺した深海棲艦です」

「ほう」

「あの人たちは、這いつくばる私を指差して……おもしろおかしく笑っていました」

「そういう手合いはよくいるね。けど、それが普通かと問われれば、どうだろう? ただ差別主義者だっただけと思うね。人間にもよくいるだろう? 肌の色や国籍が違うだけで加虐的になる連中が」

「さぁ……そうなんですか?」

「そうさ、ましてや相手が敵対種族ともなれば尚更苛烈になるだろう。……でもね、そうじゃない公平な連中もたくさんいるよ。これは人間も深海棲艦も関係ない。色んなやつがいるからして、『これが普通』とひとくくりにするのはよろしくない。個別によく観察して判断するべきだ。そうでないと失敗することになる」

「……」

「チェティーリ君?」

「あなたは、どうしてこんなにも親切に色々教えてくれるんですか?」

「親切だって?」

「いえ……利用しようとしている、のほうが正確でしょうか?」

「よく分かってるじゃないか。私は見返りを期待しているだけにすぎない。そのような行為を親切とは呼ばない」

「どちらでも構いません。私が知りたいのは、理由です。私を育ててどうするつもりですか?」

「どうするって、それは以前にも伝えただろう? まずは戦力になってもらう。いずれは部隊長として独自に判断して行動できるようになってもらいたい」

「ですから、その目的を知りたいんです。一体どうして? そして誰と戦わせるつもりなんですか? 部隊長にして何をさせるつもりなんですか?」

「……ああ、そうか、方針の話か……。いや、これは私の落ち度だな。以前はそこまで知ろうとする部下がいなくてね……。従うことしか興味がなくて、随分苦労したものだ。だからこそ今度はしっかり自分の頭で考えられそうな君たちを育てようと思ったんだけどね、これでは片手落ちだ」

「……それで、結局、何をさせたいんですか?」

「それは私の決めることじゃない。組織の方針はリーダーが決めることだ」

「北の魔女……ノーリさん、ですか?」

「そうだ。私はね、いざ命令が下ったときに十全に動けるように準備をしているにすぎないんだ」

「じゃあ別に人類と戦うわけじゃないんですか?」

「分からない。命令次第だね」

「……あの子より、あなたの方がリーダーに向いていると思うんですが……あなたがやればいいのでは?」

「私にはリーダーをやるだけの目的がない」

「……目的、とは?」

「私にはね、艦隊を率いてまで成し遂げたい目的がないんだよ。そういうのはもう北極海を制覇したときに達成してしまった。だから君たちのリーダーにはなれない。なるべきではない」

「でも……自衛は立派な目的でしょう?」

「ただ生き延びたいだけなら既にできあがっている団体に加えてもらえば済む話だ。組織をいちから作りあげるなんて非効率的すぎるだろう? 私はね、あの北の魔女に従いたいのだよ」

「よく分かりませんが……要するに、私たちはあの小さな子の思いつきに振り回されるということですね……?」

「思いつきは困るかな? どうせ従うのなら確固たる指針のもと意志のある命令を下してほしい……私もそう思ってるよ」

「ええと、つまり?」

 北端上陸姫はすぐには返答しなかった。傍らの艤装に眼を落とし、その平べったい頭部につつ、と指先を這わせた。鉄の塊が音もなくたわんだ。糸状に解かれて、逆再生のように掌へと還っていく。

「君がさっきから聞きだそうとしているのは……この私が何をしたいか、で合ってるかい?」

「はい。あなたの願望が見えないんです。理解できないから、警戒が解けない。……さっきあなた自身もそう言ってましたよね。だったら安心させてください。……はっきり言っておきます。私は利用されても構わない。気分は良くないけど我慢します。ただ一つ、私の大事なものを傷つけないと誓うなら」

「ふむ……君の大事なものというと……」

 顎を上げ、遠く、隣の島へと目を向ける。4番島。チェティーリの縄張り。

「家族、か」

「……」

「誓おう。私は、君の家族を傷つけない。……これでいいのかな?」

「足りません」

 駆逐古姫は小さく首をふった。

「守ってください。あなたが知りえる全ての脅威から。その誠意がなければあなたについていくことはできない」

「おお……、驚いたな。そこの違いを理解しているとは思わなかった。いや、私は君を侮っていたのかもしれない」

「あなたのようなひとは平気で人を切り捨てる。『自分からは手を出さないとは言ったが他人から守るとは言ってない』……そんなふうに嘯くんです」

「うん、うん、そうだね。君に指摘されなければまさにそうするつもりだったよ。余計な労力は背負いたくないからね」

「『きちんと細部まで言及しなかったお前が悪い』と言うんでしょう? ……そうはいかない。ちゃんと約束してください。そして約束を守ると誓ってください」

「はっはっは! 素晴らしいな! 君はもう充分に痛い目を見てきているようだ。ちゃんと言葉の裏を探ろうとしている……ああ、誓うよ。私は、君の家族をよそ者の魔の手からできうる限り守ると誓おう。これでいいかな?」

「……今まで嘘をついたことがないというのは本当ですか? これからも自分の言葉を守るつもりはあるんですか?」

「ふふ……君の賢さに免じて、はぐらかさずに答えてあげよう。私はね、今まで一度たりとも嘘をついたことはない――これは本当だ。そして、そうやって築きあげてきた信用を上回るリターンがない限り、これからも誓いを破りはしないだろう。君が安心するように言うならば、『君のような孤立した小娘一人に、私の人生を懸けた誓いを破る価値はない』だ」

「いいでしょう。あなたのようなひとにとってその言葉は最大限の誠意。だったら私はあなたに従います。……それで、あなたの願望はなんなんですか? 現状に満足しているわけじゃないんでしょう?」

「願望、ね。さて、どう表現するべきか……」

 ドヴェは、顎に指を添えてしばらく黙った。

「……願望を達成するための手段には段階がある……。そうだね、ざっくりと言ってしまえば、私の今の願望は、ノーリ様に成長していただくことにある」

「……さっき言っていた、『確固たる指針のもと意志のある命令を下してほしい』、それを叶えるためにですね?」

「ああ、そうだ。彼女は現状のままでは“特殊な強さをもつだけの幼稚な深海棲艦”でしかない。……ちょっと想像してみようか。このまま何もしなければ、我らがリーダー、北の魔女はこの先どんな命令を下すようになると思う?」

「どんな方針をとるか、ってことですか?」

「その通り。まず前提として、大ホッケサークルから脱出した後の話としよう。現在、ノーリ様は、ひとの煌めき――感情の発露を観たがっている。さて、それでは彼女はその煌めきとやらを一体どうやって観ようとするだろうか?」

「どうやってって……人の感情なんてどこででも観られるじゃないですか」

「穏やかなモノならね。だが、より強い感情の発露というものは、何かしらの事件が起こったときに発生するものだ」

「事件とは?」

「親しい者が死んだとき」

「……」

「ノーリ様は現状、“深海棲艦らしく”をスローガンに、たいした理念ももたずに幌筵泊地と戦っている。結果は連戦連敗ではあるが、回を重ねるごとに性能を向上させていて、私の見立てではおそらく次回には勝ち越すだろう。……つまり、そこでたくさんの艦娘たちが轟沈することになるわけだ。負の感情が火花のように連なって今までにない煌めきを見せるだろう。それを見たノーリ様は、きっとこう学習するはずだ……『人類をやっつけるとこんなにも強い煌めきがたくさん見れるのかぁ。ようし、もっとやろう!』と」

「つまり、あの子がこの大ホッケサークルから出てしまえば……」

「その想像は正しいよ。我が主様は、陸伝いに人間の集落を攻撃しろと命じるようになるだろう。そして君の故国日本は、北から順に地獄が生まれていくことになる」

「……そうですか」

「それだけかい?」

「他に、なにか言えとでも?」

「……ふぅん。まあいい。私もね、やれと命令されれば従うだけさ。……しかしそれではつまらないと考えている。そんな欲望に直結した命令を下されるのはいかにもつまらない。……さて、ではどうするか?」

「あの子には、別の目的を持ってもらう……?」

「うん、そうだね。では、どうやって?」

「……口八丁で誘導する、とか」

「ふふ、単純だね。そして不正解だ。それでは私が操っているようなものじゃないか。実質、私がリーダーをやるのと変わらない」

「じゃあどうするんです?」

「確固たる信念を持てるよう、成長していただく」

「ああ、なるほど……。私たちのように教育し、経験をつませるんですね?」

「ちょっと違うな。実はね、君たちがここ北方深海基地にくる前に、ノーリ様に色々教えてみたんだが、どうにも吸収しようとしなかった。考えてみればそれも当然だ。彼女は普通の生き物とは違うのだから。語弊があるかもしれないが、無敵で万能、それがノーリ様だ。彼女は死ぬ心配をしないし、たいていの目的は工夫せずとも成し遂げる。つまり、成長する必要性がないのだよ。未熟なままでも問題ないというわけだ。……もしも全知全能の神とやらがいたならば、きっと彼女のように幼稚だと私は思うね」

「じゃあ……成長できないなら、どうするんです?」

「できないとは言ってない。彼女はね、少し前まであんな性格ではなかったんだ。もっと冷たく、機械的で……私よりもずっと薄情だったのだよ。それが、あるときから、一気に人格を塗り替える勢いで変貌していった」

「私が来る前の話、ですね?」

「そうさ。彼女はね、誰かが轟沈し、復活するたびにその者の影響を受けるようになったんだ」

「轟沈したひとの影響を受ける……?」

「ああ。ヒントはこの海だ」

「そうか……この海は、あの子そのものだから……この海で復活するということは、あの子に直してもらうのと同じこと。つまり、そのときに記憶にもメスが入る……? 人生の記録を、覗き見てしまうんですね?」

Вот именно(その通り)! 話が早くて助かるよ。……ちなみに、どうしてこの推測がたったかというとね、アドナーがやられるたびに、アレしか知らないはずの知識をノーリ様が喋るようになったからだよ」

「アドナーさんとは何度か話したことがあります。確か、防空棲姫には何度か負けているって……」

「うん。そして、そうやってアレが無様に轟沈するたびにノーリ様は変わっていった。……なぁ、ちょっと思い出してみてくれたまえよ? ノーリ様のあの性格は、アドナーのそれと似ていると思わないかい?」

「……言われてみれば、確かに、似てますね」

「だろう? つまりだ、今のノーリ様は、アドナーの轟沈5回分の影響を受けた人格ということになるわけだ」

「なるほど、理解しました。これからそうやってあの子を成長させようというんですね。そのために……そのためには……? あれ……?」

「気付いたか。君はつくづく察しがいいね。そうだよ、それなんだ。それこそが私の今の目的だ」

「ドヴェさん。あなたは、もしかして、」

「アドナーはもう必要ない。むしろ、これ以上アレに影響されてほしくない。だから、必要な死は、別の者だ。他なら誰でもいい。より多くの経験を得るためにはできるだけ多くの犠牲が必要なんだ」

「轟沈させる気ですね? この島々に住む、たくさんのひとたちを……」

「ああ。私はね、より多くの死を望んでいる。できれば全員。それはこの私自身も例外じゃあない。つまり……この私ドヴェ、トゥリー君、そしてきみ、チェティーリ君。少なくともこの姫級全員には轟沈してもらいたい」

「……」

 ドヴェは意味深に唇を歪めてみせた。

「――と、言いたいところだが、それはあくまで理想の話だよ。その目的のために無茶をして君たちに嫌われてはもったいない。特に問題なのは君だ。君は、家族に手をだす者は絶対に許さないだろう? よってそこは妥協しよう。幸い、代わりはいくらでもいるからね、死ぬのは他の者でも構わない」

 口元が、三日月のように吊り上がる。

 目標に向けた道筋を想像し、それが達成された先の輝かしい未来を想うと愉悦が抑えられない。そんな生の感情を、初めて表に曝けだす。

「死んでもらうのは艦娘でいいだろう。つまり、叢雲君と、浜波君さ。なぁに、足りない分はあとで幌筵泊地の連中から補えばいい。そうして大量の艦娘たちを轟沈させ、その人生の記録を垣間見たならば、我が主様は飛躍的に成長するだろう。決意と行動、挫折と後悔、成功体験と未知への探究心……それらの経験が1つの人格として統合されて、きっと私の考えなど及びもつかない高度な精神性を宿すはず……。愉しみだ……成長しきった北の魔女が一体どのような指針を下すのか……」

 ごくり、と叢雲の喉が鳴る。

 ――と、ドヴェが不意に顔を動かした。

 こちらを向く。叢雲が隠れるテトラポットに向けて歩きだす。

「ドヴェさん? どうかしました?」

(っ!)

 心臓が縮みあがる。

 バレているはずがない。こちらは完全な闇のなかで身じろぎ一つしていないのだ。

 息を殺す。瞳がわずかな光を反射させてしまうのを防ぐためできうる限り瞼を閉じる。

 ドヴェはコツコツとヒールを鳴らしながら歩を進め、息を殺す叢雲に近付いてくる。

――どうする?

 相手は姫級、しかも耐久自慢の陸上型。例え魚雷を5発零距離で炸裂させようと損壊どころか混乱すらさせられない。そもそもこの近距離でそんなことをすれば死ぬのはこっちだ。

 戦力差は絶望的。

 どうしようもない。

 ヒールの音はとうとう叢雲の横1メートルまで接近し、祈るしかない叢雲の傍を――通り過ぎてくれた。崩れた足場の先へと降りていく。

(バレて……なかった)

 額の汗も拭えなかった。叢雲は暴れまわる心臓を落ち着かせるだけで精一杯。

 女の足音は、傾斜の向こうへ消えていった。

「あの……ドヴェさん?」

 チェティーリが遅れて追いかけてきて、崖の上で歩みを止めた。

 慎重に、慎重に、首を伸ばして叢雲も確認した。

 ドヴェは、波打ち際で足を止めていた。

 その先は、海。

 灯り1つない真の暗闇に向けて、ドヴェは、

「――クロンシュタット!」

 叫んだ。

 その視線を辿ってみる。そこは誰もいない海原で、

 いや、

 縦に伸びる影が1つあった。

(あれは、人?)

 いつからそこに居たのだろう。

 幽鬼のように白い顔。

 背の高い女が1人、闇にまぎれて立っていた。

「……誰ですか?」

 チェティーリが問いかける。

 答えたのはドヴェだった。

「私の部下さ」

 よく見ると、重巡棲姫だった。

 昼間に教室部屋で見た覚えがある。ドヴェと一緒に現れた女だ。

 あのときも今と同じように、一言も喋らず、電信柱のようにつっ立っていた。

――あんなところで何をしているんだろう?

 ドヴェは再び重巡棲姫に向き直り、

「クロン、話は聞こえていたか?」

 と声をかけた。

「да」

 喋った。

 初めて聞いた声は低く、ともすれば男のような力強さがあった。

 ドヴェは続けて声をかけるのだが、

「よろしい。ではまず君に生贄になってもらいたいのだが」

 何を言っているのか叢雲には理解できなかった。

「命令を」

 また喋った。

 日本語、喋れるのか……とだけ思った。

「自沈したまえ」

 重巡棲姫の艤装、巨大なワーム状の怪物がゆっくりと蠢く。先端にある主砲が自身の胸部、その中央に向けられた。

「ああ、損傷はできるだけ少なくな。竜骨に傷がつかないように、そう、その角度だ、斜めに炉心を撃ち抜くといい……よし、いいぞ。復活したらまずはトゥリー君を助けてあげなさい。その後は、分かってるな?」

「да」

「では、また来世」

 そして、

 重巡棲姫は本当に撃った。

 闇に、ぱっと明るい火花が瞬いて、金属をねじ曲げる不快な音が響いた。

 重巡棲姫は、ゆっくりと後方へ倒れていく。

 胸からはうっすらと煙が立ち昇っているのが見えた。重力に引かれて背中から着水し、暗黒の底へとあっけなく飲み込まれていった。

 轟沈した。

 なんの抵抗もなく、決意も見せず、息を吸うようにあっさりと。

 何が起きたのか理解できなかった。

 死んだ。

 自分でやった。

 何故って、命令されたから。

 それだけで、自分の命すら平気で捨てた――

「良い部下だろう?」

 ドヴェはどこか自慢げだった。

「深海棲艦には純度がある。濃い者ほど兵器の本質に近くなる。どんな命令にも逆らわない。逆らおうとも思わない。そういう意味ではクロンシュタットは理想的な部下さ。……だからチェティーリ君、きみは何もしなくていい。プランはもう決まっているんだ」

 どこか絵空事のように感じていたように思う。

 北の魔女が深海棲艦を生み出しているとか、轟沈した者の影響を受けるとか……そんな漫画みたいな設定を、本気で信じて行動に移すやつがどこにいる? と。

 しかし、このドヴェという女は本気だった。

 本気で、北の魔女に記憶を吸わせるためにひとを殺そうとしている。いや、既に己の部下すら殺してしまった。

 躊躇がない。

 逡巡がない。

 己の判断に毛ほども疑念を抱いてない。

 人間の魂の重さは21グラムというけれど、彼女は1ミリグラムほどの枷とも思っていないのは明らかだった。部下を捧げ、自分すら生贄になると宣言した女が、他人を、ましてや敵である艦娘の生死を気にするわけがない。

「あの程度の損傷なら1日と経たずに復活できるだろう。そして期待に応えてくれる。必ずね」

 離れなくてはならない。一刻も早くこの島から。そして我が身を狙う魔の手から。



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3-12:北端上陸姫VS防空棲姫

「ツ級対策、ですか?」

「そうです。敵に防空艦がいたからといって動けないようでは話になりません。今日は対空弾幕を掻い潜るための軌道と立ち回りを覚えてもらいます」

「はぁ、それはいいですけど……。あの、赤城さん? 質問があります」

「なんでしょう」

「どうしていつもぶっつけ本番なんですか? そんなやり方じゃ育つものも育たないって思いません?」

「ず、瑞鶴! 言いかた!」

「だって翔鶴姉、失敗したらまたご飯半分にされちゃうんだよ? コツぐらい教えてくれたっていいと思わない?」

「でも……いえ、そうね。私も、そう思います。……先輩方、私たちは未熟です。どこに注意したらよいかも分からないんです。甘いと仰られるかもしれませんが注意点だけでもご教授いただけないでしょうか?」

「五航戦。実戦で敵がいちいち何に気をつけろと教えてくれるのかしら」

「う……」

「あのですね、加賀さん! 前から言おうと思ってたんですけど!」

「ちょっと瑞鶴、やめなさい!」

「――まあまあ。言いたいことは分かりました。大鷹はどう思いますか?」

「私は特に……。赤城さんと加賀さんに従います」

「あんたはそればっかりね!」

「五航戦。ひとにあたるのは見苦しいわ」

「な、なんですってぇ……?」

「もう。加賀さんもちょっとひどいですよ。そうやって意地悪するからこの子たちもいじけちゃうんです」

「わ、私のせいですか?」

「うーん、確かに失敗続きですし、ヒントぐらいあげてもいいかもしれません。ですよね、加賀さん? それぐらいはいいですよね?」

「赤城さんがいいなら構いませんが……私を悪者にしてません?」

「こほん。えー、では艦載機が一番落とされやすいタイミングはいつでしょうか? はい、翔鶴」

「わ、私ですか? んんっと、そうですね、敵艦に攻撃するときでしょうか?」

「違います。はい次、瑞鶴」

「えっ。ん、ん~~? 真っ直ぐ飛んでるとき!?」

「は? 聞こえませんね」

「うぐっ、ス、スイマセン……」

「では最後、大鷹」

「……離着陸のとき、でしょうか?」

「はい正解。速度が出ない、軌道がばればれ。だから離陸は敵が見えるより先にやる。着陸は敵を撃滅しきってから。それが大原則です。分かりましたか?」

「は、はーい」

「よろしい。では回頭。後ろを向いてください」

「? ……あっ、千歳さん? 伊勢さんと日向さんも……どうしてここに?」

「私が呼びました。今日はわざわざ幌筵泊地から来てくれたんですよ」

「は、はぁ……それは遠いところをわざわざどうも……」

「私たち、これから訓練なんですけど……視察でしょうか?」

「いいえ。私たちも参加するんですよ」

「えっ、そうなんですか?」

「あの、先輩方? 今日ってツ級対策なんですよね……?」

「そうですよ? だから彼女がいるんです」

「彼女って? あっ」

「こんにちわ、秋月です! 今日はよろしくお願いしますっ」

「はっ」

「まさか」

「翔鶴、瑞鶴、大鷹、始める前に言っておきます。艦載機が落とされた分だけ晩ご飯も減ります。全滅したらもちろんゼロパーセントですよ。頑張りましょう」

「ちょ、向こうは6人じゃん!? 戦艦もいるし!」

「こっちは3人ですよ!?」

「はい、よーいスタート」

 

 

「ぎゃああああ」

「いやああああ」

 

 

「――惨憺たる結果ですねえ。翔鶴は大破したので8割カットです。瑞鶴は中破で、艦載機は半分。うーん、これはどうしましょうね?」

「うぐぐ……納得いかないわ!」

「あら」

「こんな奇襲みたいな始まり方、ありえません! 実戦ならちゃんと偵察してますから!」

「ではどうしてさっきはしていなかったんですか?」

「するもなにも、いきなり始まったじゃないですか! 離陸のときが一番危ないとか言っておいて、こんなのってないです!」

「五航戦。赤城さんは、どうして始まるより前に離陸しておかなかったのかと聞いてるのよ」

「前っていつですか! ブリーフィング中でしたよね!?」

「それがあなたの死ぬ理由?」

「なんですって……?」

「先輩が喋っていたから艦載機を出すなんて失礼だと思った。まさかブリーフィング中に接近されるとは思わなかった――そんな言い訳であなたは死ぬつもり?」

「……そ、そんなの暴論です」

「じゃあ逆に聞くけど。現実に同じことが起こらないとどうして言い切れるの?」

「むむむ……」

「まあそういうことですね。実戦では開戦の合図はないんです。24時間365日、なにがあろうと油断してはいけません。ましてやあなたたちは空母じゃないですか? 死ねば艦載機の援護を信じてついてきた随伴艦の皆さんはどうなります?」

「そ、それは……」

「あなたたちは艦隊全員の命を背負うんです。それを分かっていたら、周囲を警戒していませんでしたなんて言い訳はできません」

「補足します。偵察うんぬんの前に、海に出ておいて周囲を把握せずいられる神経がまずおかしいと思いなさい。あなたたち、無意識のうちに油断していたのよ。ここが安全な演習海域だから。あるいはなにかあっても先輩たちが気づいてくれるはずだから。……いいの、それで? 私たちがそろって敵を見逃す可能性だってなくはないのよ?」

「……ぐう」

「赤城さん、他にはなにか?」

「うーん、そうですねえ。コツを教えるのはいいですけど、あてにされても困ります。他の事態は必ず起きるんですから。あなたたちの仕事は、想像すること。もしもに備えられなかったとき、あなたたちは仲間を殺すんです。いいですか?」

「は、はい……」

「返事」

「はいっ」

「はいっ」

「はい。……っ!」

「よろしい。では、第2戦、いきますよ」

「えっ」

「えっ」

「……」

「はい、よーいスタート」

 

 

「ぬわああああ」

「ひいいいいい」

 

 

「……まったく、ぜんぜん反省してませんねえ。一戦終わったあとにすぐ敵襲、なんてよくあることなのに。……ちゃんと飛ばせたのは大鷹ぐらいですか。加賀さんが気に入るのも分かります」

「あの子はちゃんと分かってます。いざというときに自分を助けてくれるのは自分だけということを。……でも」

「でも?」

「どんなに気を張っていても対処しきれないことは必ずある。それを誰かに任せられるようにならないといつかパンクしてしまいます」

「珍しいですね、加賀さんがそこまで言うなんて」

「だって他人事じゃありませんから。私も、赤城さんも、そうでしょう? 一人だけでは一航戦は張れません」

「……そうですね」

「誰か、あの子を変えてくれるような友達でもできるといいんですが」

「あの子も強情ですからねえ」

「も、ってなんですか?」

「いいえー、誰のことでもないですよ?」

「……そういうことにしておきます」

「ふふ」

「でもこういう話はどうにも不得手です。これも誰かを頼るべきでしょうか」

「そうですねぇ。適任なのは……うちの秘書艦さんでしょうか」

「叢雲さんですか? いいかもしれません」

「今度相談してみますか。報酬は間宮券……いえ、スタンプカード……いえいえ、割引チケット……」

「そこは出しましょうよ、間宮券」

「む、むう」

「気前よく10枚ぐらい」

「むがっ」

 

 

 ジャーーン!

 ダンッダカダ、ダン、ダカダ、ダンダン!

 ダンッダカダ、ダン、ダカダ、ダンダン!

 ジャジャーーン!

 ときは来たれり、北方艦隊決戦!

 おのが信念をかけ、いざ全艦前進!

 パ~、パパラ~パ~パ~、パ~パ~パ~……

 

――といった感じの、前段作戦のボス曲的なBGMはまったく鳴っていなかったけど。

 決戦のときはきた。

 

 西より現れたるは『北の魔女』が二番の部下、北端上陸姫。

 陸上型のくせに船と同じく海を渡る、そのカラクリは値の張りそうなロングブーツの下にある。太ももに刻まれたえげつない接合痕、そこから下の水上艦の足。それは、自ら望んでとりつけた航行機能。

 かつてはその機能に加えて、深海棲艦に似つかわしくない柔軟な思考力、そして類稀なる統率力をもって北極海を制した経歴の持ち主だ。その事実は有名を通りこして世界の常識ですらあり、彼女の自伝によれば3倍の数の敵艦隊を完封した戦いもあるという。だが非現実的だと指摘する声も少なくない。すべては彼女の有用性を喧伝するための誇張だと一部のマスコミは指摘した。果たしてどちらが真実か? その一端がこの一戦で明らかになるだろう。

 続いて東から現れたのは、北の魔女一派の挑戦をことごとく退けている絶対王者、防空棲姫。

 こちらの外見はまさに資料通りといった感じで、2015年夏にサーモン海の東に現れた同種の深海棲艦そのままの姿だった。特筆すべきはそのインチキじみた性能と艦娘時代に積み上げてきた戦闘技術だろう。その対艦能力は艦種の垣根をとびこえて戦艦棲姫を相手に5回もジャイアントキルを成し遂げるほど。天を衝く対空機銃は伊達じゃない。かつては一航戦の艦載機すら残らず塵に変えたという対空性能に艦娘としての実力が加わればまさに鬼に金棒、彼女は降りそそぐ雨粒すら撃墜しきってみせるだろう。

 そんな両者が揃ったところで、トゥリーは互いの意気込みを思い返す。防空棲姫は絶対に負けるわけにはいかないと息を巻いていて、北端上陸姫は負けるつもりだと嘯いていた。

 だったらもう結果は分かりきっている、とトゥリーはもう何度目になるか分からない溜め息をもらした。わざわざ戦う意味もない。

 先程『決戦』といったが、あれはまったくの嘘である。この出来レースが終わったところで何も決まらないし、変わらない。ただ現状が維持されるだけ。

 防空棲姫は悪を撃退できて自己満足。

 北端上陸姫は上司のために命を捧げられて自己満足。

 なんとアホらしい戦いだろう。

 その自己満足に巻きこまれてしまう罪のない一般深海棲艦の気持ちも少しは考えてほしい。

 要するにトゥリーが言いたいのは、「そんなオナニストたちの自慰行為のためにどうしてこの自分が不自由を強いられなければならないのか」という、現実に対する憤りであった。

 ――めんどくせー、マジで。

 だが、放置するわけにもいかなかった。なぜなら遠く百メートルほど離れたリングの海で睨み合う件の女たちのうち片方は、自分とその友達を害する存在なのだから。たとえこの戦いで負けて死ぬと宣言していようと信じられない。この目で最期を確かめるまで安心できるわけがなかった。

「……にしてもー。辛気くさくて、ヤなカンジぃ」

 せっかくの2度目の人生、楽しく生きると誓ったはず。多少下り坂になったぐらいで不幸ぶっていたらきりがない。

 こんなときこそ気分をアゲるべきだろう。

 必要なのはBGM。

 それもとびきり陽気なやつ。

 トゥリーは持ち込んだラジカセに手を伸ばし、一本指でスイッチを押下しようとする。

 が、

 できなかった。

「あれっ?」

 ラジカセが消えていた。

 叢雲の腕のなかに。

「ああっ、なにすんだよー!」

「……あんたね。状況が分かってんの?」

「なんだよもー、いーじゃん別にぃ! いざとなったら逃げちゃえばいいんだからさぁ!」

 そう、叢雲たちはセーフティネットをもっていた。

 危険を感じたらすぐに安全圏へ逃げられる。

 大ホッケサークルから脱出してしまえばいいのだ。

 だからこそこうして暢気にくっちゃべっていられた。

 そして油断だってしていない。今だってちゃんと偵察機を巡回させて周囲を警戒しているのだ。

 だからラジオ番組くらい聴いたっていいじゃんよー、とトゥリーは唇を尖らせた。

 が、叢雲はにべもなく。

「ばか、そっちじゃないわよ。今から始まる戦いをちゃんと見ときなさいって言ってんの」

「いや、こうして見てっから」

 トゥリーは素足を前方下方へ指してみせる。

「……つーか、なんか注目するとこあったっけ? どうせ照ちゃんが勝つって分かってる戦いじゃん」

「あのね、ピースメイカーが戦うのよ? すっごく貴重な機会だし、ほんとに轟沈するかも確認しなきゃだめでしょ」

「そのぐらいさぁ、BGMが鳴ってたって問題なくなーい? ……ねえ、そろそろズイズイラジオが始まっちゃうから返してほしいんだけど。それだけがここの楽しみなんだからさぁ」

「横でジャカジャカ鳴ってたら集中できなくなるじゃない」

「そう? 別に大丈夫でしょ。ねぇ浜ちゃん?」

「う、うん……」

「私が集中できないの」

「はー? そんなの知らねーし」

 生意気な駆逐艦娘にむけて「返せよ、こらっ!」とぐいぃと身を乗り出した。

 対する叢雲はフリーになっている片腕を突っ張って全力で抵抗してみせる。

 そのせいで、間に座っている浜波の身体は盛大に揺らされた。

「ひゃ、ひゃわぁぁ」

 揉める少女に、怯える少女。

 合計三名の声が、天高くそびえる大型バルジの上に響いていた。

 彼女たちが座っているのは、3番島の中心部にでかでかと突き刺さった大型バルジの上だ。高さは約30メートル……といわれてピンとこなければマンションの10階を想像してもらえれば分かると思う。落ちれば普通に死ぬ高さ。

「だ、だから昇りたく、なかったのにぃぃ~」

 いくら観戦しやすいからといって手すりも安全ベルトもないただの実艦バルジの先端に座るなんてどうかしている。浜波は猛烈に後悔した。やはり他人任せは良くない。自分の意見ははっきりと主張するべきだ。

(……よし!)

 浜波はごくりと唾を飲み込んで、思い切り息を吸いこんだ。

「も、もうっ、こんなところで暴れるのは、やめてよっ!」

 ぴたり。

 両隣でいがみ合っていた2人の動きが止まった。

(や、やった!?)

 と喜んだのもつかの間で、

 右手、左手、右右左右左右。

「うわわわわ」

 2人のツッパリ相撲はすぐに再開された。

 一念発起がすぐに通用すれば苦労しない。浜波の小さな決意の灯火はこうしてかき消されたのだった。

 

 

 洋上の決戦場。

「初めまして、今日も良い天気だね」

「……」

 2人の女が向かいあっていた。

 かたや陽光に目を細めながらゆるゆると微笑んでいる女、北端上陸姫。

 かたや拳を握りしめ、引き絞られた矢のごとく神経を尖らせている少女、防空棲姫。

 今日も海は凪いでいる。

 天候はいたって良好。空には雲の一つも浮かんでおらず、せいぜいが頬を撫でつけるそよ風が漂っているだけで。目を瞑ってしまえば春一番もかくやというピクニック日和だった。

 そんな平和な空間のなかで、穏やかさの欠片もない曇り顔をしているのが防空棲姫だった。

「……おや、返事がない? これは嫌われたものだね。もしかして私の悪評を気にしているのかな? ピースメイカーの名は随分と嫌われているようだからね……」

 少しだけ淋しそうに笑ってみせる。細めた目はそのままに、眉をハの字にして困り顔。遠慮がちに相手をうかがった。

「……」

 互いに初対面である。

 しかし出会う前から互いを知っていた。

 アドナーとトゥリー、2人の深海棲艦を介して互いの存在は伝わっていた。

「挨拶ぐらいはしてもいいんじゃないかな?」

 北端上陸姫は、相手を利用しようと考えた。

 邪魔者なら邪魔者なりに役に立つだろうと。

「……」

 防空棲姫は、まったくの逆。

 特に考えていることはない。

 有名人? だからなに? 来れば殺す――それだけだ。

 徐々に空気が張り詰めていく。

 それが破裂しようとする寸前、北端上陸姫は懲りずに再び口を開く。

「1つ、聞きたいんだけどね。いいかな?」

 返事はない。

「2年前に、ここ北方深海基地に迷いこんできたという駆逐艦……それは君のことで合ってるかい?」

「……それが、何か?」

 やっと返事をもらえた。北端上陸姫はおおげさに「あはっ」と喜んでみせる。

「なぁに、確認だよ。アドナーが……ほら、君と5回も戦っていた戦艦棲姫が言っていたんだ。「あの防空棲姫は2年前にここに居た」ってね。それが真実か否かはとても大切なことなんだ」

 防空棲姫は応えない。

「ねぇ、照月君? だったら君はこの大ホッケサークルから脱出する方法も知っているはずだ。ちゃんと叢雲君に教えてあげたのかい?」

「……」

「照月君?」

「教えました。あなたたち北の魔女一派の手にかからないように。今頃は脱出しているでしょう」

 そう告げると、北端上陸姫の顔からすぅーっと表情が消えた。

「……ふぅん、教えたのか。そうかそうか……」

 北端上陸姫はひどくつまらなそうに呟いた。

 あの無表情こそが、北端上陸姫の本質。

 そう防空棲姫は思っている。

 言葉巧みにひとを惑わして、いいように操ってしまう扇動者……それは生前に観たTV番組での印象ではあったけど、あながち的外れでもないと彼女は信じている。

 だから話はしない、と決めていた。

 なのに、気がつけば会話に応じてしまっている。

 何故だろう、と防空棲姫は訝しむ。

 始めに人懐っこい表情を見せられたからだろうか? それが意外で、つい言葉に耳を傾けてしまった。気がつけば今の有様だ。

――こんな話をしても無意味なのに。

 開戦のために主砲の角度を動かして、

「――ところで、君はどうして戦うのだろう?」

 ぴたりと止めた。

 また、反応してしまった。

「……今さら、何を……」

 その質問には反応せざるをえなかった。

「君はトゥリー君――大鷹だったあの娘を知っている。アドナーも知っている。そしてこの私、ピースメイカーが仲間にいることも聞いていた」

「……だから?」

「これだけ特徴が異なる者たちが傍にいて、全員が無事に生きている……それだけで昔の北の魔女とはずいぶん違うと分かっていたはずだ」

「だとしたら、どうだというんですか?」

「話ができると分かったはずだ。ならば君は、その行き詰った状況を打開するために交渉しなければならなかった。だめで元々、やっても損はない。譲歩させる余地があるかもしれない。取引に応じるかもしれない。あるいは騙まし討ちにできるかも……しかし、君は頑なに話をしようとしなかった」

「当たり前です。あなたたち深海棲艦を信じられるわけがない」

「頑なすぎた、と言ってるんだ。もしも君が本当に事態を好転させたいと願うなら、もっと必死にその手がかりを探して実行していたはずなんだ」

 少女の口がわずかに開く。

 しかし。

 反論は、出てこなかった。

 北端上陸姫はおかまいなしに次の矢を放つ。

「君はトゥリー君の説得をすべて否定した。吟味すらしていない。ただ反射的に拒絶した……さて、なぜだろう?」

 防空棲姫の肩が震えた。

 指摘の矢は、放たれるたびに精度を増していた。

 当てずっぽうではない。

 明らかに急所が見えている。

「君はどうやら現状維持を望んでいる。好転すら望んでいない。つまり、幌筵泊地を守ろうとしていないんだ」

 やめろと叫ぶ声はやはり出てこなかった。

 防空棲姫は金縛りにあったように動けない。その指だけがぴくりぴくりと震えている。

 女は気付いているのかいないのか、唇を歪めてしたり顔。

「ずばり、君の目的は、この大ホッケサークルから誰も出さないこと。そうだろう? ……私たち深海棲艦はもとより、艦娘も。いやむしろ、艦娘のほうをこそ、ね」

 防空棲姫の呼吸が止まった。

「だからね、君は叢雲君に脱出手段を教えないと思っていたよ。逆に邪魔してくれるんじゃあないかと期待さえしていたんだがね……」

 防空棲姫のなかで圧力が高まっていく。

 これ以上は危険だった。

 言葉の矢じりで穴が開く。

 そうなればどうなるか。どす黒い感情が一気に噴きだして、目の前で得意げに喋っている女になにをするか分からない。

――いや、違う。

 やつは敵。

 むしろ、そうしなければならなかった。

 防空棲姫は重心を僅かにずらす。

――やつは、戦うためにここに来た。

 ならば私のすることはただ一つ。

 今すぐ黙らせてやればいい。

「これは純粋に疑問なんだけどね。君はどうして叢雲君を――始末しなかったんだい?」

 弾かれたように少女が飛びだした。

 つんのめるほどに重心を落として両舷一杯、砲身を敵へと定めて火を噴かす。

 命中を期待してのものじゃない。あくまで牽制、目くらまし。にも関わらずその弾道は正確に対象へと吸いこまれていった。

 北端上陸姫は、自身の艤装で受けた。

 斜めに弾く。

 そのわずかな時間だけで防空棲姫はトップスピードにのっていた。

 敵も主機を駆動させ始めたが、遅すぎた。

 そもそも、軽量快速が旨の駆逐艦を前に停止するという暴挙を選んだ時点で勝負はついていた。速度に乗るまではただの的。2桁は銃弾を叩きこめる。ましてや防空棲姫は熟練の水雷屋だった。全速で動きながらピンポイントに攻撃を命中させる技術をもっていた。どれだけ硬かろうとキツツキが穴を穿つようにして削りぬいてしまえばいい。

 結末はすでに見えていた。

 頭は海面すれすれに。対空機銃は揃えて水平方向へ。標的はもちろん北端上陸姫。

 嵐のような一斉掃射を、

 海面に、黒い影。

「ッ!?」

 直感だけで膝を曲げる、

(影! 魚雷違う下じゃない!)

 踵を突きだす、海面を蹴る。

(上何か飛んで艦載機!)

 ついさっきまでいた空間に爆弾が落ちてきた。

 爆発。

 水しぶきをくぐりながも女から目を切らない。

(どこから発艦見てないいつから上に会う前でも空には雲さえ隠れるどこに?)

 ここで視界を上げてしまうほど素人ではない。

 耳で確かめた。

――風切り音。

 おそらく一機。

(やはり。既に発艦させていた。でも、どこに隠れていた?)

 空には雲一つなかったはずだ。

 主機を回してカーブを描く。敵を睨みつけながらも意識は空へ。

 音で座標を割りだした。

 ぽん、と一発。落としてみせる。

 艦載機はひゅるると翼で大気を引きずりながら着水し、爆発炎上。

「ほう、見もせずに……?」

 北端上陸姫は悠々と速度に乗っていく。

 鷹揚に腕を広げ、手品のように何もない空間から艦載機を何機も発艦させた。

 防空棲姫の眉がぴくりと上がる。

「太陽、ですね?」

「ご明察」

 敵の伏兵は、太陽の光のなかに隠れていた。

 ずいぶんと古くさい手だ。

 けれど引っかかってしまったからには笑えない。

 むしろ飛行音を限界まで落としたうえで見つからないように飛ばしていた彼女の腕を褒めるべきだろう。

 2人はゆっくりと並走する。

 同航戦のかたちで睨みあう。

「……君が叢雲君を始末していたら、トゥリー君は仇を討ちにきただろう。そして当たり前のように返り討ち。……これが私のプランだった。誘導するのはなかなかの手間だったんだが」

「わけの分からないことを。どうして私が叢雲さんを傷つけなければならないの?」

「それが君にとっては一番手っ取り早くて確実な方法じゃないか」

「理解できませんね。都合が悪いからといって仲間に手を出していいわけがない」

「仲間? 艦娘が? 随分とかわいいことを言うじゃないか」

「……」

「自分でも信じてないくせに。信じていたら、叢雲君に助けを求めていたはずだ。違うかい?」

 歯を噛んだ。

「理解できない、と言いました」

「ふん……まぁいいさ。次のプランが動くだけだ」

 北端上陸姫はぼそぼそと、もう結果は決まっているのだと呟いた。

 その合間にも艦載機が飛んでいく。

 23、25、27、

 敵の艦載機が次々と、大空を自由に駆けまわる。その冒涜的な光景に眩暈がした。

「まさかとは思うけど。一応、聞いておきます」

「ん、なにをかな?」

「もしかして伝わってないのかな、って。アドナーってひとにも、トゥリーさんにも、言ったんですけど。ここに来たら沈めるって」

「ああ、聞いてるよ。だからなんだい? まさか殺しが怖いわけじゃないだろう」

「いえね、あなたがあまりにも無防備なものだから、おかしくなっちゃって」

「……なんだって?」

 北端上陸姫の艦載機はもう30を超えた数が悠々と大空を舞っていた。

 31、33、35、

 頭上に大きく広がって、あれでは対空弾幕を厚くしたところでほとんど落とせない。むしろそんなことをしていたら別の攻撃機が狙ってくる。撃ち落とす好機はとっくに逃してしまったのだ。

――とでも思っているのだろう。

 防空棲姫は、笑った。

 砲撃は、単純なようで奥が深い。距離があるほど命中しにくくなる。

 必要なのは、腕と、予測と、計算だ。

 海上というほぼ平面に浮かんでいる標的に対してですら、そうなのだ。

 これが艦載機相手となると、もうほとんど当たらない。三次元空間を自在に飛び回る相手にはこれでもかと対空機銃を撃ちまくり、曳光弾の軌跡を確認しながら射撃方向を修正していかねばならない。

 より高い集中力と、長い時間が必要になってくるのだ。

 だから、そこを手持ちの大型主砲で邪魔されたら防空艦はほとんど仕事ができなくなる。

 ――と。そんなふうに舐めているのだ。

 愚かすぎて、逆に面白かった。

 どうやら北の果てからやってきた田舎者は知らないようだ。

 日本が誇る防空駆逐艦、秋月型の真髄を。

「誰が艦載機を飛ばしていいって言ったのかな」

 

 ぽぽぽぽぽ。

 

 きっちり2秒。

 航行速度を落とさずに、顔も上げずに無造作に放たれた銃弾が。

 半径100メートル、ドーム状に展開されていた艦載機45機、その全てに命中した。

 大ホッケ海の上空に爆炎が咲き乱れる。

 北端上陸姫の瞳にいくつもの光の大輪が照らしだされた。

「……なんと、これは……」

 幾筋もの黒煙が結露のように垂れ落ちていく。

 こぼれる破片が戦場にばらまかれた。

「さぁ、始めましょうか?」

 降りしきる鉄の雨のなか。

 防空棲姫は今度こそ開戦の合図を告げた。

「撃ち方、始め」



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3-13:抜錨

▼更新が開きすぎたのであらすじを書いておきます。
 話が複雑で申し訳ない。

大ホッケ海(オホーツク海。北海道の北の海)に『北の魔女』の一団が住んでいた。そこは羅針盤の効かない魔の海域。一度入れば出られない。
物語冒頭、そこに迷いこんでしまった浜波と叢雲。
2人を拾ったのは元大鷹である深海棲艦、護衛棲姫ことトゥリー(ロシア語で3番の意)だった。
大ホッケ海から脱出する方法は2つ。
1つ目は、北の魔女を完全復活させること。
 ただしこれは元照月の深海棲艦、防空棲姫が阻んでいる。
 (生前所属していた幌筵泊地を守るため)
2つ目は、天測航法で航行すること。

トゥリーたちはその2つ目の方法を知った。
その直後、艦娘たちの轟沈を目論んでいる北端上陸姫ことドヴェ(2番)が照月と対峙する。


 北端上陸姫と防空棲姫の戦いはおよそ30分間続いた。

 

 前世は秋月型二番艦であると主張した少女――照月。秋月型といえば、常軌を逸した対空射撃訓練をこなすことで有名である。空間把握能力と対空射撃精度にかけて並ぶ者なしと評される彼女たちの神経は空中全域に張り巡らされている。首より上の空間にはハエの一匹すら生存を許さない。

 北端上陸姫の艦載機を封殺してのけた。

 防空棲姫を中心とした半径100メートルの結界、そこに侵入した機体は即座に鉄屑に成り果てる。

 自然、勝負は『横』の殴り合いになった。

 砲と機銃の浴びせ合い。

 防空棲姫は生粋の水雷屋。鍛え抜かれた日本の駆逐艦。

 並の深海棲艦なら相手にならないが……今回の相手は並ではなかった。

 北の覇者。

 かつて北極海において覇を争った相手を残らず沈めてきた女。その腕が鈍いはずがない。

 王者ピースメイカーには戦術眼があり、勝負勘を持ち、精密さを備え、鈍重な航行性能を補ってあまりある身のこなしを披露する。

 その練度は、精強な防空棲姫にもひけをとらない。 

 となれば、趨勢の行方は残酷なまでにシンプルな構図になってしまう。

 “性能差”。

 これに尽きた。

 防空棲姫は確かにスペックが高い。だがそれはあくまで艦娘と比べた場合の話だ。

 対して北端上陸姫は、元々陸上型であるため装甲は水上艦タイプよりさらに分厚く、主砲にいたっては強力な大口径。

 まさに子どもと大人の差がある。

 

 互いに隙を見せない削り合いが30分間も続けられた。

 防空棲姫が放った機銃の弾は、幾度も装甲に阻まれる。

 対する北端上陸姫はここぞという場面で砲弾を叩きこみ、着実に相手の肌に亀裂を入れていく。

 辿り着いた結末は、北端上陸姫の勝利だった。

 

 

 

 防空棲姫は身体中にヒビを刻まれて膝をつく。

 そこに、悠々と巨大な単装砲が突きつけられた。

 北端上陸姫は余裕の表情。

 嘲るようにカウントを始める。

 

「10、9、8……」

 

 お前などいつでも殺せるという宣言。

 対する防空棲姫は息を荒げながら肩を上下させるしかない。艦娘ならば立ち上がる事さえ叶わない損傷を負っていた。しかし、それでも防空棲姫の瞳には真っ赤な闘志が燃えている。

 

「6、5、4……」

 

 諦めていなかった。

 例え腕と足がもげようと首が残るなら食らいつけ――かつて日本艦として叩き込まれた艦娘としての矜持が牙を剥き続けている。

 

「3、2、1――」

 

 ゼロの発音、その直前。トリガーに指をかける音、引き絞る音、瞬間、

 防空棲姫が飛びあがる。

 頭に突きつけられた単装砲を掻い潜り、電撃的に腕を伸ばしながら敵の手首と頭を掴んで捻った。艦娘時代に培ってきた格闘技術――関節の可動範囲と防衛反射を知り尽くした捻りこみで相手の反意を捻じ伏せる。

 北端上陸姫の上体が不自然な角度で曲がり、稼動域ぎりぎりまで伸びきって固定されたその頭部、その位置に、彼女自身の巨大な大口径主砲が大口を開けていた。

 トリガーは引かれていた。

 砲口が、火を噴いた。

 炸裂音とともに、持ち主の首に全てを破壊する大口径主砲の砲弾が直撃、ピンク色の肉片とオイルが飛散する。

 

「――かっ」

 

 北端上陸姫の首の左半分が吹き飛んだ。

 破損箇所からは見るも無残な断面が顕わになり、頭がぐらりと安定を欠いた。

 

「……は」

 

 だが、それでも。

 にやり、と女は微笑んだ。

 北端上陸姫はまだ生きていた。

 当人の手が素早く伸びて、自身の頭頂部、その髪の毛を掴んだ。ぐぃぃと持ち上げ、頭を支え、自身を損壊せしめた駆逐艦の少女を正面から見据えた。

 目元を歪めた。

 震える唇を、動かした。

 

「君、の、勝ち、だ……。そし、て……わたし、の、勝ち、さ」

 

 満足気に。

 言葉通りに勝者の表情を浮かべた。

 何故ならば、こうして敗北することこそが彼女の望みだったから。

 

「は、は、は……」

 

 北端上陸姫から力が抜ける。

 海面にぱしゃりと倒れこみ、小柄な体躯があっけなく奥底へと消えていく。

 真っ赤な海――北の魔女の海へと吸い込まれてしまった。

 

 

 こうしてピースメイカーは轟沈した。

 その知識と経験は北の魔女へと還元されていく。

 思惑通りに。

 

 

 

 

 思わず唇を噛んだ。

 ……こうなるとは知っていた。他ならぬ彼女自身が負けると宣言していた勝負だ。

 しかし、この目で見るまではどうにも信じきれなかった。

 上司を成長させる――それだけのために命さえも捧げてしまう。元艦娘のトゥリーからすればありえない発想だ。

 

「……なんなんだよ、一体」

 

 最後の逆転劇は茶番もいいところ。

 ドヴェはあのまま普通にとどめを刺すだけでよかった。あと一発撃つだけだった。

 なのにわざわざ近付いて、これ見よがしにカウンティングした。

 照月に反撃させるためにあからさまに負けにきた。

 

 そこまでするか?

 そこまでするほど、本気なのか。

 

 ――この島々に住む者たちを轟沈させる。

 

 ドヴェは本気だ。

 それをようやく理解できた。

 彼女は、部下である重巡棲姫でさえ手にかけている。ならば艦娘相手にためらう理由は1つもない。

 

 ちらりと隣に目を向ければ、叢雲と浜波が神妙な面持ちで黙り込んでいる。

 この北方深海基地において、ただの艦娘の、しかも脆弱な駆逐艦である彼女たちはほとんど無力といっていい。

 

 ドヴェ――あの狡猾な狐女がどのような算段をたてているかは分からない。だが宣言したからには必ずやる。仕掛けは既に動き始めている。

 たった今、轟沈したという最大のアリバイを手にいれて、それでも自動的に目的が叶うような仕組みを動かしている。

 ピースメイカーはかつて世界を騙したペテン師だ。

 その企みをたいした教育も受けていない自分が先読みするのは難しい。まして阻止するなんて不可能だろう

 ……ならば、もはや対抗策は一つしかない。

 

「ねぇ、叢雲さ」

「あによ」

「もうここから逃げちゃったほうがいいんじゃね?」

 

 三十六計、逃げるにしかず。

 どんな策謀も手の届かない安全圏まで逃げのびてしまえばいい。

 それだけで彼女たちの安全は保証される。

 

「大ホッケ海から脱出する方法さ、照ちゃんから教えてもらったんでしょ? 星を観測しながら航路を修正していく――できるでしょ? だったらもう行っちゃいなよ」

 

 巨大バルジのてっぺんに座ったまま、ついと顎を下方へしゃくってみせる。

 眼下の浜辺。

 波打ち際に、1人の女が漂着していた。

 長身の、白い女。

 たった今、死んだばかりのドヴェと入れ替わるように、赤い海から重巡棲姫が復活していた。

 昨夜に自沈したはずのクロンシュタット。

 ドヴェの部下で、どんな命令にも従う冷血のターミネーター。

 その女は赤い海から這い上がり、鉄の浜辺に腕をつきたてた。がくがくと小鹿のように足を震わせえながら身を起こしつつある。

 膝に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。

 静かに周りを見回している。

 何を探しているかは想像するまでもない。

 獲物だ。

 きっとドヴェに命令されていたのだろう。敵を殺せとか、そんな類の命令を。

 

「ぐずぐずしてると殺されちゃうよ。あたしみたいに深海棲艦になっちゃうんだから」

 

 あいつはおそらく刺客だろう。

 ドヴェは部下に手を汚させるつもりなのだ。

 そうして全てが終わった後に白々しく肩を竦めてみせる。「そんなつもりはなかった」等と嘯きながら。

 

「……あの重巡棲姫、どんぐらい強いんだろうね~。ま、少なくともピースメイカーと一緒に北極海を制覇できる程度の腕はあるよねぇ」

 

 間違いなくベテランだ。

 対抗するのは難しい。自分は確かに深海製――強力なスペックを持っているが、それでもしょせんは軽空母。そこに艦娘の駆逐艦を2人足したぐらいでどうにかなる相手ではない。仮に勝てたにせよ犠牲がでる。誰かは死ぬ。

 私ならいい。復活できるから。

 でも、叢雲や浜波だったら?

 

「ねえ、叢雲、浜ちゃん」

 

 この2人を冷たい海底の世界に連れ込むわけにはいかない。

 

「さっさと自分の泊地に帰んなよ」

 

 2人はしばらく無言だった。

 やがて叢雲だけが小さく頷いた。

 

 それでいい。

 深々と溜め息をついた。

 

 

 

 

 つまらない記憶が蘇る。

 これは自分――大鷹がまだ艦娘だったときの話。轟沈したときの話。

 

 いつの時代にも「自分は特別だ」と思いこんでる兵隊はいるもので、そんな馬鹿者は身の丈に合わない無茶をして戦列から間引かれるのが常である。

 艦娘だって例外じゃない。

 その日の大鷹の艦隊にも、そんな新入りが混ざっていた。

 そいつは何度も先輩たちに諌められていたにも関わらず、いざ本番となると勇気と蛮勇を取り違えてしまうような気性で、まあ言ってしまえば『早死にするタイプ』だった。

 その日も最前列へと飛び出した。

 一発、二発と砲弾が身をかすめた。

 三発目もどうにか避けられた。

 けれど四発目は無理だった。

 バランスを崩した。

 戦艦タ級の砲口が据えられた。

 外しようのないタイミング。

 新入りの引き攣った顔。タ級の照準の正確さ。

 悟った。

 新入りの死は避けられない。

 なのに1人の駆逐艦娘が飛び込んだ。

 叢雲だった。

 スローモーションの世界のなかで、私は他人事のように思った。

 

 あんたがかばったってしょうがないでしょ。

 死ぬ奴が変わるだけ。

 自業自得なんだから放っておけばいいのに。

 

 戦艦の大口径主砲の弾道に、吹雪型の華奢な身体が割り込んでいく。

 

 あーあ。

 馬鹿を助けるようとして、別の馬鹿が死んじゃうわ。

 

 引き伸ばされた時間のなかで、その別の馬鹿の顔を見た。

 叢雲。

 何度も突き合わした顔だからよく知っている。

 そいつは誰にでもいい顔をする八方美人で、こっちの気持ちも考えずに毎日構ってきた鬱陶しい駆逐艦で、いつも自信満々の人気者――

 

 あいつにとっちゃ、私なんてその他大勢の一人でしかないんだろう。

 私が気にかけてやる必要なんてない。

 私の人生の通り道でたまたまお節介を焼いてきた変わり者。私はそれに付き合ってやっただけ。

 だからこんな奴、別にどうなったって、構わない、はず、なのに……。

 

 どうしてだろう。

 足が、動いた。

 

 今でも分からない。

 動くべきではなかった。

 自分は空母で、このときは艦隊の旗艦を任されていた。随伴艦をかばうなんてとんでもない。

 それに、あと3ヶ月で艦娘を辞めるつもりだった。

 お金も貯まっていた。退役後の身の振り方も決めていた。

 ここで命を賭けてどうすんだ。

 

 手を伸ばしながら、頭の隅で嘆くしかなかった。

 

 これじゃ私も馬鹿みたいじゃん。

 まるで馬鹿のドミノ倒しだな――

 

 

 

 

 夜が訪れる。

 星が見えるようになる夜が――

 2人の艦娘が北方深海基地を去ろうとしている。

 

 

 私は3番島のゴミの山に陣取って、艦載機を飛ばして島内をうろついているクロンシュタットを監視している。同時に、背後の2人にも意識を向けていた。

 今まさに出発しようとしている叢雲と浜波に。

 

「……」

 

 特にかける言葉もない。

 手をひらりと振る。

 それだけで充分だ。

 さっさと行っちまえ。

 けれど、叢雲はこんなふうに言った。

 

「じゃあね」

 

 溜め息が漏れた。

 けれどしかたない。

 叢雲はこういう奴なのだ。

 どう返したもんかね。

 あばよ~、とでも言っておけば格好がつくかもしれない。けれど、元同僚の関係といえど、けして馴れ合うような立場ではない。

 

 私は、深海棲艦。

 叢雲と浜波は、艦娘。

 

 次に会うときは敵同士。

 だから、やっぱり何も伝えないと決めた。

 振り返らない。

 背中を向けたまま、もう一度だけ手を振った。

 さすがの叢雲も聞き分けのない子どもではない。それ以上、言い募るような真似はしなかった。

 彼女の靴音が遠ざかっていく。

 これでお別れ。

 本当にさようなら。

 祈った。

 願わくば二度と会うことがありませんように――

 

「友達、だよね?」

 

 浜波の声だった。

 腹の底がずんと重くなった気がした。

 泣きださないように相手をしてやらなければならない。

 

「……浜ちゃんはお子ちゃまだねぇ。そんなこと言っちゃったら、いつか海で鉢合っちゃったときに面倒くさくなるっしょ……なぁんてさぁ、わざわざ言わせないでよ? こういうときはね、なーんにも言わないで別れるの。それが大人の対応ってやつなの。覚えときな」

「叢雲さんも、そう思ってるんですか」

「あのね、浜波」

「――そうやって!」

 

 叢雲の諭すような声色に、浜波は強く反発した。

 

「傷つかないように、一歩退いて! そんなのが大人なんですか!?」

 

 どんよりとした空気を切り裂くように少女が叫ぶ。

 叢雲は無言。

 私も同じ。何も言い返せない。

 正論ならごまんと浮かんだ。けれど口に出すのも勇気が要る。そんな勇気は、そして覚悟は、叢雲も私も持ち合わせていなかった。

 

「どうしてたった一言、『またね』って言えないんですか? だったらこの2日間は、なんだったんですか? いっしょにバルジに登ったのも、夜にお話したのも、変なごはん、食べたのも……ぜんぶ、ぜんぶ、どうでもいい、他人としたことなんですか?」

 私は背中を向けている。浜波の顔は見えない。

 けれど声の震えが、絞り出すような呼吸音が、彼女の真剣さを知らせてくる。

 浜波はしゃくりあげるように息を吸う。 

 

「私は、撃ちま、せん」

「……浜ちゃん、それは、」

「撃ちません。私は、友達は撃ちません」

 

 撃てない、ではなく。

 撃たない、と浜波は言った。

 覚悟があった。

 鉄火場において、自分の命がかかった場面において、それでも深海棲艦である私を撃たないと宣言した。

 そんな覚悟は無価値だとどうしても言い返せなかった。

 

「私たち、友達でしょ……?」

 

 さぁ、どうかな――言葉は頭に浮かぶだけ。

 否定はできず、肯定もできない。

 私はただただ硬直しているだけで――

 

 

 そんな別れ方だった。

 結局、気の利いたことは何も言えないまま、2人の艦娘は北方深海基地を去っていった。

 

 

 

 

 朝方、自分の棲み処である教室もどきで寝そべってぼんやり天井を眺めていると、来客があった。

 無表情、無感情。ロボットがごとき白い女。

 重巡棲姫クロンシュタットが入り口に立っていた。

 

「……うわ、びっくりした。なんスか、突然」

「助けに来た」

「は?」

 

 女は無言。直立したままこちらを見下ろしている。

 わけがわからない。

 

「……艦娘の二人ならもう居ないっすよ。この島から脱出したんで」

「助けに来た」

「あの、話聞いてる?」

「聞いている。私はお前を助けに来た。そうしろと命令されている」

「はぁ、えっとー……ん~、ごめん、よくわかんないんスけど」

 

 身を起こして、あぐらをかく。そちらもどうぞと促すと重巡棲姫は素直に応じた。椅子に腰を下ろした。こちらは布団の上なので少し見上げる形で向かい合う。

 

「ナプラーヴァ様から何か聞いていないか?」

「ナプ……誰?」

「ナプラーヴァ。今はドヴェと名乗っている」

「ああ、あの人のことね。で、なんスか? 私を助けるって?」

「そう命令されている」

「あの人に? 助けるって、何を?」

「知らない」

 

 再び、沈黙。

 重巡棲姫はぴくりとも動かずに何かを納得したらしく、一度だけ瞬きした。

 

「そうか。よくあることだ」

「はあ……?」

 

 変な奴。コミュ障か。

 自分を棚にあげつつ、目の前の置物女に用件を問いただす。どうやら艦娘を狙いにきたわけではないらしい。本当に「行け」と言われたから来たとのこと。

 

「私はドヴェ様に、『復活したらまずはトゥリー君を助けてあげなさい』と命令された」

「そんだけ? ほんとにそれだけなんスか?」

「ああ」

 

 助けてくれる、って言われても。

 首を傾げ、やたら姿勢よく椅子に座る長身の女を眺めた。

 重巡棲姫、クロンシュタット。

 こいつはドヴェの部下。

 対してこっちは、北の魔女直属の部下。

 一応立場はこっちが上のはず。でも相手は長身でスタイルもよくて堂々としているものだから目上のように思えてつい敬語を使ってしまう。

 軍隊気質がぬけないなぁと頬をかきつつ、とにかく話を探ってみることにした。

 

「よくあること、ってどういうことスか?」

「ドヴェ様は全てを説明しない。命令だけを言う」

「ふうん……。で、その命令が『あたしの力になれ』なんだ?」

「ああ」

「漠然としすぎ……。それじゃあたしの言う事ならなんでも聞くってこと?」

「ああ」

「何でもって、何でも?」

「そうだ」

「へえー……」

 

 なんだなんだ?

 いきなり部下をレンタルされたぞ?

 え、どういうこと? なんで?

 だってドヴェの狙いは艦娘を沈めることじゃなかったのか?

 

「あ、そうだ。じゃあさ――」

 

 なんでも言うことを聞くっていうのなら。

 正直にドヴェの狙いを話してもらおうと思った。あの人がどういう方法で叢雲と浜ちゃんを沈めようとしていたのか?

 だがクロンシュタットは何も知らないと答えた。

 

「相談してないってことかぁ。そりゃそうだよねー、あの人、全部自分の頭んなかだけで完結してそーだもん」

「他に何か知りたいことはあるか?」

「ん~、思いつかない……。そっちは? クロンシュタットさんはなんか思いつかない?」

「なんか、とは?」

「あの人の企みそうなこと。どういう人かよく知ってるんでしょ?」

「私は考えない。従うだけだ」

「ええ~……」

「深海棲艦とはそういうものだ……と、ドヴェ様は言っていた。特にロシア製の深海棲艦は自主性に乏しい、と」

「そっすか」

 

 まさに兵隊。とはいえ、言動は完全な一問一答でもない。ロボットといえるほど思考停止しているわけでもないようだ。

 ほんの少しだけ肩の力がぬけた。

 この人は本当に戦いにきたわけではないらしい。

 となれば特に気張ることもない。そうでなくとも艦娘の二人が帰ってしまって暇なのだ。話し相手にでもなってもらおう。

 ひとまず現状を整理しつつ説明してみる。

 艦娘の二人が漂着してから今日まであったことを並べた。

 クロンシュタットの受け答えはハキハキとしていて、浜波とは真逆。さらに叢雲とも違って、こちらの領域に踏み込もうとする強引さもない。心地よい距離感だった。執事や秘書って感じがした。知らないけど。ただ、そこに物足りなさを感じしまうのは、彼女たちが去ってしまったのを淋しいと思っている証拠なのだろうか、なんて思ったりして。

 ――と、最後の最後、叢雲たちが島を脱出した場面になって、ようやくクロンシュタットは口を挟んできた。

 

「それは不可能だ」

「……へ? 何が?」

「今、星を読んで航行すると言っただろう。それは不可能だと言ったんだ」

 

 唐突だった。

 すぐには意味が理解できない。

 

「不可能?」

「星は見えない。大ホッケ海に侵入する者がいれば霧がでる」

「……霧、って?」

「昔、ドヴェ様が魔女に警告した。『星が見えていたら観測して航行できてしまう。だから空への対策も立てたほうがよい』と。……あれは確か、私たちがここに来てすぐのことだったから……一年前のことか」

「え? え? なに? 霧がでるから、星は見えない?」

「そうだ」

 

 航行できない……?

 いや、だって、そんなのおかしい。

 だって照月は航行できるって言っていた。星を読めば脱出できるって……。

 あれは、嘘だった?

 いや……いやいや、嘘なわけがない。

 だって照月は実際にその方法でここから脱出したことがあるんだから。

 

「その照月とやらが脱出したのは二年前のことだろう? そのときはまだ星は見えていた」

「二年前?」

「そうだ。二年前は星が見えていた。だから照月とやらは脱出できた。それから一年経って、私たちがここに来て、北の魔女は星読みへの対策として霧をだすようにした。だから今は星読みができない。脱出できない」

「……」

 

 脱出できない。

 

 どくん、と心臓が跳ねる。

 立ち上がって外へと飛びだした。

 そんなバカな……嘘でしょ!?

 

 できそこないの大地を駆け抜ける。ガラクタと化した軍艦の縁に手をかけて身を乗り出して、転びそうになりながら仄かに赤く発光する波打ち際に辿り着く。

 

 見た。

 島をぐるりと取り囲む遠大なる大ホッケ海――その海面上に、空まで覆うほどの白い霧が充満している光景を。

 

「うそ……」

 

 海から上に白い霧がかかっている。

 数メートル先も見通せない。

 星なんてまったく見えない。

 これでは方角を測定できない。

 脱出できない。

 つまり、

 

「大ホッケ海を、延々と彷徨うしかない……」

 

 飢え死にするまで。

 クロンシュタットの声が背後から虚しく響いた。

 

「これがドヴェ様のプランだったようだな」

「プラン……?」

「ああ。あの方は何もしていない。艦娘たちが勝手に危機感を募らせて、照月とやらから古い情報を聞きだして、自ら脱出不可能の海域に飛びこんだ。自滅だ」

「自滅……? じゃあ、叢雲と浜ちゃんはどうなるの……?」

「運があれば脱出できる。脱出できなければ、死ぬ」

「運って、どれぐらいの確率……?」

 

 そんなのは聞くまでもなく知っていた。

 大ホッケ海を取り囲む魔の海域――足を踏み入れて生還できた者はいない。

 かつて自分は浜波に『1000キロ走ったら戻ってこれた』と伝えたが、あれは実は嘘だった。あの二人が万が一にもギャンブルしないようにと警告のつもりで言ってみただけ。本当はチャレンジなんてしていない。

 

「……」

 

 大ホッケサークルに飛びこんでしまった叢雲と浜波。

 飲まず食わずでどれだけもつだろう?

 人間なら二日はもつと聞いたことがあるけれど……それはあくまで“動かずに体力を温存したら”の話だ。波が蠢く海上を航行しながらだったら、おそらく一日未満で力尽きる。

 

「トゥリー。私は助けてやれと命令された。艦娘たちを探しに行けと言うのなら行ってやろう。どうする?」

「それじゃあんたも死ぬじゃん……。ていうかそもそも、見つけたところで戻ってこれないでしょ」

「そうだな。では他にすることはあるか?」

「……」

 

 口元を手で覆う。

 危機感に心臓が跳ねまわり口から飛び出てしまいそうだった。

 

 叢雲と浜ちゃんは、大ホッケ海にでてしまった。

 空には霧がかかっていて自力で脱出することは不可能。

 かといってこちらから助けに行くことも不可能。

 私にできることは……、

 できることは……、

 

「何もないなら、私は二番島で待機する。何かあったら言いに来い」

 

 クロンシュタットが去っていく足音をどこか遠くの出来事のように聞いていた。

 胃がせり上がり、嵐のような混乱に満たされている。

 

 叢雲が死ぬ。

 浜ちゃんが死ぬ。

 私が何も気づかなかったばっかりに。

 

「――っは、ア」

 

 喘ぐ。

 唇を噛みしめて、胸の裡を占める後悔に浸りながら、叢雲たちを生存させる方法を探した。

 実は、一つだけ思いついている。

 けれどあまりにも実現性に乏しいやり方だったから、他の方法を見つけるために頭を悩ませるしかなかった。

 考えて、考えた。けれど結局そんなものは存在しないと思い知るだけだった。

 

 叢雲と浜波を救う方法――それは、この霧を取り払うこと。

 大ホッケ海にかけられた羅針盤の呪いを解除してしまうこと。

 つまり――北の魔女を完全復活させて、呪いを解いてもらう。

 

 そのためには防空棲姫を撃破しなければならない。

 

「……」

 

 はっきりいって無謀だと分かっていた。

 だからもう一度だけ考えた。

 他の方法はないか?

 照月と戦わずに北の魔女を復活させる方法。

 もしくはそれ以外に叢雲たちを救う方法。

 ……どちらも見つからなかった。

 叢雲と浜波を助けるためにはどうしても照月を倒さなければならない。それはもう決定事項だ。

 照月は、深海棲艦。轟沈しても復活する。それに彼女は自らの意志で北の魔女一派と敵対する立場をとっている。倒すことにためらいはない。

 だから悩むべきは『どうやって倒すか』という戦術論。

 

「いや、無理でしょ……」

 

 自分は、軽空母。

 照月は、防空駆逐艦。

 相性でいえばパーとチョキ。しかもタイマン。勝ち目はゼロ。これはもう絶対に揺るがない。

 空母として血を吐くような訓練をしてきた自分がいうのだから間違いない。私では、絶対に、絶対に彼女に勝てない。

 

「しょーがなくない? これはもう……」

 

 どうしようもない。

 そこに関しては私は何も悪くない。

 

「それに、あたし言ったし。ちゃんと叢雲には言っておいたし……」

 

 会ったその日に伝えたはずだ。

 二度も命を救うと思うなよ、と。

 あいつはそれでも出て行った。だからこれはもう自己責任というやつだ。あいつだって覚悟していたはずだし、それにそもそもこちらは深海棲艦で、あちらは艦娘なのだ。そこまで手を尽くしてやる義理はない。

 

「……」

 

 義理はない……。

 ないんだけど……。

 

 思いだす。

 自分が艦娘になったのは、お金を貯めるためだ。

 お金を貯めて、学校に行きたかった。

 普通に勉強して、普通に遊んで、普通に恋をする。そんな誰でも経験するような普通を体験してみたかった。

 周回遅れでもいい。

 普通の一端に触れてみたい。

 だから艦娘という名の兵隊になり、金を貯めて、堂々と青春をやってやるって思った。

 けど、全て無駄になった。

 あと三ヶ月で退役だってところだったのに、お節介の馬鹿をかばったせいで台無しになった。

 

 なんであんなことをしたんだろう?

 艦娘なんて所詮は金稼ぎのための手段であって、本当にやりたかったことでもないのに。誰かを助けたかったわけじゃない。立派なことをしたかったわけじゃない。ただ金のため。本当にそれだけだったのだ。

 あくまで仮のお仕事。そんな一時期の金稼ぎの手段に本気になって、命まで捧げる使命感なんて一ミリも無かったはずだった。

 けれど。

 

 もしもあの時、叢雲を見捨てていたら、あたしはもう二度と普通の世界に居られないと思った。

 だからかばった。

 

 思いだす。

 艦娘として働いた2年と9ヶ月――

 本当にすべてが金稼ぎのためだった?

 何もかもが“仮”だった?

 大湊警備府は思い入れの1つもないただの職場だった?

 同僚の艦娘たちは仕事だけの付き合いで全員どうでもいい連中だった?

 一航戦の二人は厳しいだけだった?

 叢雲はお節介で鬱陶しいだけだった?

 

 ……違う!

 

 2年と9ヶ月も生きてきたなら、それはもう本物だ。

 人生に“仮の時間”なんてない。

 すべてが本物の、他の誰でもない自分だけの人生なのだ。

 

 

 心に従え、と前世の自分が言っていた。

 覚悟を決めた。

 

 

 自分の棲み処である偽教室に駆け戻る。

 教卓の裏に隠していたマフラーをとりだした。

 

「……」

 

 じっと見つめる。

 もう二度と触れることもないと思っていた。

 

 これは一航戦の二人から贈られたマフラーで、

 艦娘時代に身につけていたマフラーだ。

 轟沈したときに海水に浸かってしまったせいで今ではごわごわと固くなってしまっていたけど、その程度で洗い流されることのない強い想いがつまっていた。

 だからこそ、今まで触る勇気がでなかった。

 再びこの首に巻くなんてありえないと思っていた。

 だが、今は。

 今だけは。

 

「赤城さん、加賀さん……。あたしは深海棲艦になってしまいました。これを身につける資格はないと重々承知しています。けれど、すいません。許してくれなくても構いません」

 

 震える指を握りしめ、マフラーをくるりと首に巻く。

 

「力を貸してください」

 

 思いだす。

 艦娘だったときの記憶を。

 あの時の意識を。気概を。高揚を。

 五感が研ぎ澄まされていく。

 細胞が若返っていくようだった。

 

 

 

 

 ここ一番の大勝負というものがある。

 勝てば望むものを手に入れて、負ければ失ってしまう。そんな取り返しがつかない一戦が、今まさに始まろうとしていた。

 

「今この瞬間にも世界中で争いが起きている……」

 

 北の魔女――その端末であるノーリはのんびりと他人事のように呟いて、目線は遠く、決戦場となるリングを見渡した。

 そこは四つの島に囲まれた赤い海。ヒトの姿は影一つもない。住むのは人外の化け物――深海棲艦だけという死の領域。

 

「なかでも私が最も惹かれるのはやはりアイアンボトムサウンドだ。あそこは素晴らしい。因縁と憎悪の坩堝になっている」

 

 横倒しになった軍艦の横腹、波打ち際にノーリは立っていた。

 足首から下を赤い海に浸からせて、決意を結び現れた私に背中を向けたまま、言葉を紡いでいる。

 

「見ろ――といってもお前らには見れないか。たった今、遥か南方のガダルカナル島で小さな戦争が始まろうとしている。戦艦レ級と南方棲戦姫――その魂のぶつかり合いと煌めきをこの眼球で直接見たかった。残念だ、非常に残念だ……」

 

 幼女はくるりと振り返る。

 こちらを見た。

 北方棲姫によく似た幼い姿――しかし、顔つきが違った。

 無邪気さの欠片もない計算された表情が貼りついている。老獪な狐が化けているような、無慈悲なアンドロイドが成りすましているような、そんな異形の中身の気配が漂っている。

 北の魔女。ノーリ。深海X。

 轟沈者たちの記憶を吸って進化する化け物。

 彼女は告げる。何百年も生きた吸血鬼のような威厳をまとわせて。

 

「トゥリー。お前が来るとはドヴェは確信していなかった。来ないかもしれないと思っていた。だから奴はこう言ったのだ――『どちらを選ばれてもリターンを得られるようにする』と。つまり、奴の思惑は、」

「興味ありません」

 

 遮った。本当に興味がなかった。

 今の私が気になっている事柄は1つだけ。

 

「教えてください。今、大ホッケ海にたちこめているこの霧は――今のあなたでは晴らせないのですか? 本体に戻らなければできない?」

「おま、え……?」

 

 ノーリは呆然と、見た目通りの年齢らしい素直な驚きを浮かべた。

 

「なんだ、その魂の色合いは……? いくつもの光が重なって、輝いて……」

「できるんですか? できないんですか?」

「……できない。この霧は自動的に発生するようになっている。その仕組みを変えるには本体に残してきた力が必要だ」

「そうですか」

 

 ならば。戦うしかない。

 一歩足を踏み出して、ひいては返す波に乗る。艤装を稼働させながら四つの島に囲まれた赤い海を睨みつける。

 一歩、さらに一歩。

 直立したままのノーリの傍を通りすぎるとき、誰何の声がかけられた。

 

「お前、本当にトゥリーか?」

「違います」

 

 一陣の風が吹き抜ける。

 前髪がさらわれて額の角があらわになった。

 肌は白い。髪も脱色したように真っ白で、爪は黒く、身体の中身もいくらか機械になっている。私のすべてが生物としてはあまりに不自然。

 でも。

 首にマフラーがたなびいていた。

 胸を張って、答えた。

 

「私は大鷹。航空母艦大鷹。――出撃いたします」

 




前の話から1年半。お待たせしました……もう忘れられてる気がしますが。
書き方だいぶ変わりました。

次回、ラストです。近いうちにだせるよう頑張ります。


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3-14:一つの終戦

 うっすらと立ちこめる霧のなか、2人の深海棲艦が対峙している。

 

 元『大鷹』の深海棲艦、護衛棲姫。

 元『照月』の深海棲艦、防空棲姫。

 

 真っ赤に染まる大ホッケ海に緩やかな風が吹く。

 照月は私の姿を認めると、即座に姿勢を変えた。

 私の決意を察知したのだろう。

 だらんと垂らされた腕はあらゆる事態に対応するための迎撃姿勢。彼女はすでに理解している。私が何をしにここに現れたのかを。

 それでもあえて確認しなければならないことがあった。

 

「――あの霧が見えますか」

 

 視線をゆっくりと左端から右端まで動かした。

 四つの島々の外側。そこには、いっそ白煙と呼ぶほどの濃い霧が立ち込めている。

 

「あの中に叢雲たちは居ます」

「そうですか」

「彼女たちはもう進むことも戻ることもできない。このままにしておけば死にます」

「そうなるでしょうね」

 

 照月の声色は平坦だった。

 ……知っている。彼女はとっくの昔に覚悟を決めている。

 幌筵泊地の仲間たちを守ることを最優先とし、それ以外を些事とする。

 今の私だってそうだ。

 叢雲と浜波を救うためにここにきた。そのためなら例え同じ境遇の娘だろうと容赦しない。

 目を逸らさずに宣言する。

 

「私はこの霧を取り払う。北の魔女を復活させる」

 

 照月も逸らさない。

 応じるように胸を張る。

 

「させない」

 

 敵意と呼ぶにはあまりにも鋭い視線がぶつかった。

 怒りは無かった。憎しみも無い。

 正義感よりも使命感よりも色濃い熱が放射され、肌がちりちりと焼けていく。

 これは意志。

 2つのまったく同じ願望がぶつかり合っている。

 

 私は、叢雲と浜波を助けたい。

 照月は、幌筵泊地の仲間たちを助けたい。

 

 私はあなた。あなたは私。

 互いに相手が折れないであろうことを知っている。

 だからこれは約束された開戦への手続きだ。

 告げる。

 

「どけ」

 

 照月は即答する。

 

「断る」

 

 ……知ってたよ。

 こうなることは知っていた。

 

 もはや問答は無用。

 火蓋は切って落とされた。

 

 即断。すでに空中に待機させていた鷹型艦載機たちに命令を下す。

 海面すれすれに展開し、同時に別働の高高度隊を更に上昇させ、私自身も波を駆けて飛びだした。

 敵の艤装から突き出した針鼠のような機銃が揃って私を凝視する。

 

 来い。全て潜り抜けてやる。

 

 前のめりに海面を蹴りつけて弧の字を描く。

 防空棲姫から4inchの殺意がばら撒かれ、波が穿たれ飛沫が散っていく。一つ一つを浴びながら鷹型艦載機の機首を微調整、波を擦りながら左右に展開する。

 2つに分けた艦載機群、さらに高空のものも合わせて合計3つの群。それらを更に分割して操作する。

 

「……っ」

 

 頭が処理しきれない。神経がささくれ立ってくる。

 普通はこんなに分けない。艦載機はほとんど固めて運用するもので、その単位も並は1群、ベテランでも2群がせいぜいだったのだ――赤城さんがもっと増やせと言いだすまでは。

 

――なんでもアメリカさんは『FBA連合』とかいって艦戦・艦爆・艦攻を連携させて運用してるみたいですよ。だったら当然、うちもできますよねぇ?

 

 そんな馬鹿な、と思ったのを覚えている。

 だって意識を3つに分割するって普通に考えておかしいだろう。

 そもそも艦載機は地面を走らせるラジコンとはわけが違う。3次元運用なのだ。運動エネルギーと位置エネルギーをリアルタイムで把握して、目標に攻撃を命中させるための軌道を計画し、対空射撃を回避する余地も残さなければならない。それを群の数だけ操るのがどれほどの至難の業か? 知らない赤城さんでもあるまいに。

 更にいえば、そこに空母である自分自身の航行もこなさねばならない。空に意識を向けすぎて自身が被弾してしまうのは空母初心者のあるある話だ。

 私は今でも忘れない。

 大湊を視察で訪れたアメリカ空母娘が一航戦仕込みの訓練を見て、一言、「crazy...」と呟いたのを。聞けばアメリカ様がFBA連合とやらを仕掛けるのは攻撃のときのみで、常時別働として動かすなんて頭おかしいんじゃないかジャパニーズは……とか言ったらしい。

 

 本当に理不尽だった。

 でも赤城さん。鬼でいてくれてありがとう。

 血の小便を流すほどシゴいてくれたおかげで今の私は4つの群を操れる。

 そして更に、

 

「――ッ!?」

 

 鷹型艦載機、翼を広げて空中で急停止。

 射撃を鼻先でやり過ごし、ひらりとホバリング、そして上に斜めに後方に散開する。

 通常ありえない軌道に防空棲姫が驚愕する。

 こんな曲芸ができるようになったのも加賀さんのおかげだ。

 

――あなたたちの仕事は、想像すること。もしもに備えられなかったとき、あなたたちは仲間を殺すんです。いいですか?

 

 戦い方に正解は無い、常に最善を模索しろ――

 加賀さんのくれたその薫陶が、私に深海棲艦特有の生物型兵器の特性を活用する未知の荒野を開拓させた。

 

 超低空と超高空、おおまか2つに別れた艦載機群に防空棲姫が迷いを見せる。

 どちらも機銃を当てにくい。

 その僅かな時間の分だけ超低空隊と私自身が詰める。

 もちろん攻撃はできない。ただ接近する。その選択に敵は焦る。攻撃手段を持たない空母本体が距離をつめてくる理由が分からないのだろう。

 だが――ああ、意識を切り替えたな。

 空母本体を落としてしまえば話は終わるというシンプルな結論に辿り着いた。

 ――まずい。

 超低空隊を左右から急加速、ミサイルのように突撃させる。

 が、私の焦りが機首の角度にあらわれた。僅かに上昇してしまう。

 そこに間髪いれず、

 

 ぽぽぽぽぽ。

 

 無造作に機銃が放たれた。

 海面に爆炎が咲き乱れる。

 

「ぐ……」

 

 ほんの一瞬、彼女の頭部より位置を上げてしまっただけで低空隊の全てが撃墜された。

 ぞっとした。今のは対空性能だけで成し遂げられる技じゃない。

 ――これが秋月型。

 敵に回して初めて思い知る。こいつらもまた狂っている。

 だが、艦載機を半分生け贄にしたぶん距離を詰められた。

 あと僅か。視線を上へ、高空隊の攻撃を示唆するフェイントに、しかし防空棲姫は引っかからなかった。機銃が、4inch連装両用砲+CICがこちらが向けられた。スローモーションのようだった。照準されるのを視認。だがもう一歩、足りない。どうする、もう少しなのに――

 

 ばたたた――

 

 マフラーのたなびく音が私を叱咤する。

 

「一航戦魂を……舐めんなぁあ!」

 

 半身になって左腕で頭をカバーして、横殴りの豪雨がごとく機銃の一斉掃射に突っ込んだ。4inchの殺意が十を超え、百を抜け、千を突き破る。凄まじい量の銃弾を瞬時に浴びせられ、体中に亀裂が走る音を聞く。ただ一瞬だけ耐えられればよかった。時間にして2秒か3秒の地獄を潜りぬけ、全身を投げだして防空棲姫に激突した。

 

「ぐぅっ!?」

 

 右腕を相手の腰に巻きつける、左腕は、砕け折れている、そのぶん噛みつく勢いでびたりと身体を密着させた。

 

「辿り、ついた、ぞ」

「なにを……」

 

 既にぼろぼろ。武装もなければ腕も片方無い。

 ここから逆転する手は存在しない――そう思っているのだろう。

 確かに、私は勝てない。元々勝つ見込みはゼロ%だった。そんなことは知っていた。

 だから私は勝利を狙っていなかった。

 

「あたし、は、引き分け、で、いいんだよ……」

 

 指令を飛ばす。

 超高空に。

 待機させていた、私の艦載機たちに。

 温存していた大量の爆弾を一斉に投下した。

 

「――なッ!?」

 

 目標は、私と彼女。もろとも消し飛ばす相打ち狙い。

 ここから番人さえどけてしまえば魔女は復活できるから。

 

「あな、たは……!」

 

 防空棲姫がもがき、暴れる。

 真上を見上げて、腰の艤装を駆動させ、砲口を差し向けようとする。

 だが、させない。

 片腕と全体重を駆使して邪魔をする。角度をずらし迎撃させない。足をからめて回避も潰す。そのためにここまで苦労して接近した。

 

「悪いね、照ちゃん。一緒に、沈んでくれ」

 

 防空棲姫にびたりと張りつきながら上を見た。

 粒ほどの大きさだったものが落下とともに大きく迫る。馬鹿馬鹿しいほどの量が落ちてくる。例え戦艦棲姫でも3度は殺せる、いや4度は粉砕できる質量の爆弾が、身動きできない2人の姫級めがけて降り注ぐ。

 

 ひゅるるる……

 

「う、くう……! 秋月、姉……!」

 

 爆弾が、起爆した。

 

 

 

 

 

 

 

 北の魔女は思いだす。

 

 かつて、鮮烈な輝きを見た。

 それは突如として発生し、海の上でピカピカと、あるいはギラギラと、それまで観賞していた命の流れ――食物連鎖とは比較にならない煌めきを放っていた。

 世界大戦で燃えあがる魂の煌めき。

 当時、軍艦に乗って生死をかけて争った何百人もの軍人たち。

 彼らは、国是のために、愛する者のために、生きたいと願う者がいて、死んでも責務を果たしたいと誓う者もいて、喜怒哀楽、愛や憎しみにとらわれて、互いにぶつかり支え合い、そして消えていった。

 甘く、切なく、重厚な人生の物語。

 人間という知性を持つ生き物が、本能以上の生き甲斐を育んで、人生の総決算としてぶつけ合う。その魂の輝きは、それまで眺めてきた微生物や魚類・哺乳類たちの食物連鎖とは一線を画していた。

 

 しかし、ほどなく戦争は終わった。

 海では魂の煌めきを見られなくなっていた。

 何十年も待ち続けてからようやく気付いた。どうやらあの輝きはもう見れないらしい。

 

――また見たいなぁ。

 

 そう思った。

 だから深海棲艦を造った。

 戦争を願った。

 

 そして今日。あの鮮烈な魂の煌めきをまた見ることができた。

 

 

 

 

 

 ……。

 ………………。

 あれ……?

 ここは?

 

 私のなかだ。

 

 あん? あんた誰?

 

 北の魔女。ノーリ。深海X。

 なんとでも呼ぶがいい。

 

 じゃ、ノーリで。

 

 お前は?

 トゥリー? 大鷹?

 どちらで呼べばいい?

 

 ……。

 トゥリーでいいよ。

 で、あたしは今、海の底で修理中ってわけ?

 

 そうだ。

 お前はよくやった。

 覚えてるか?

 あそこまでやるとはドヴェも想定していなかった。

 

 へえ、どんなんだった? 覚えてないや。

 

 お前は木っ端微塵に砕けた。

 頭部も大きく損傷した。

 記憶はばらけてしまっている。

 

 ってことは、カミカゼ戦法は炸裂したの?

 

 ああ。

 命中はした。

 だが撃破には至らなかった。

 

 ああ~……。

 なるほどね。

 倒せなかった、か。

 あたしは負けたんだ?

 

 そうだ。

 

 ……。

 ………………。

 なんで?

 すんごい量の爆弾を投下したはずなんだけど。

 

 防空棲姫が硬かった。

 それだけだ。

 

 ……ええ~。

 まじで? そんなのずるくない?

 

 防空棲姫は生き延びた。

 事実だ。

 

 ……そっか。

 あいつを負かしてやれなかったか……。

 悪いことしたな。

 解放してやりたかったのに。

 

 お前はじきに復活する。

 アドナーとドヴェも復活している。だが防空棲姫と再戦するつもりはないようだ。

 お前はどうする?

 

 いやぁ、私も、もういいかな……。

 もう戦う意味ないし。

 ……ねえ。私が轟沈してから何日経った?

 

 三日。

 

 ああ、そう……。

 それだけ経っちゃったか……。

 もう手遅れ、かな……。

 あいつら、どうなった?

 叢雲と浜ちゃん。

 やっぱり深海棲艦になっちゃった?

 

 深海棲艦にはなってない。

 艦娘のままだ。

 

 艦娘……?

 

 お前は勘違いしている。

 あの二人は死んでいない。

 

 え?

 

 

 

 

 

 

 

 目が醒める。

 瞼をゆっくりと開いた。

 赤銅色の地面に頬をつけていた。指先をぴくりと動かしてみる。擦ってみて、それが軍艦の横腹であると理解した。

 顔を上げる。

 ゴミの山が無秩序に広がっていた。

 見覚えのある私の庭。3番島、その浜辺。

 

 そうか、私は復活できたのか。

 

 ちゃぷちゃぷと寄せては返す赤い海水に半身が浸かっていた。

 腕をつき、立ち上がろうとする。

 上手く力が入らない。

 長期療養生活の後ってこんな感じかと思う。なかなか膝を立てられず、諦めてごろりと転がった。

 

「……ふう」

 

 仰向けになって空を見る。

 まっすぐ見上げる北方深海基地の空は、薄水色に染まり、ちぎれかかった綿菓子のような雲が浮かんでいた。なんだか普通の空だ。艦娘時代を思いだした。大湊警備府の窓からよく見上げていた空だ。普通の世界の、普通の空。

 ここの空はちょっと前まで違っていた気がする。ペイントで塗りたくったような単純な青一色で、息の詰まりそうな閉塞感があった。作りものの世界。それはそれで嫌いではなかった。余計なことを考えなくてよかったから。

 でも今はこの当たり前の空のほうがいいと思う。

 

 ぼんやりと寝そべっていると、顔に影がかかった。

 人の気配。私に声をかけてきた。

 

「遅いのよ」

 

 目が合った。

 何度も突き合わした顔だからよく知っている。

 そいつは誰にでもいい顔をする八方美人で、こっちの気持ちも考えずに毎日構ってきた鬱陶しい駆逐艦で、いつも自信満々の人気者――

 

 腕を伸ばして、顔に触れてみる。

 柔らかい。温かい。生きている熱がある。

 肌は一般的な薄い肌色で、ケアもできずに潮風に晒され続けたせいでちょっと荒れている。髪は青みがかっている。眼も赤くない。角もない。

 人間の色だ。

 深海棲艦になっていない。

 ぱたり、と力が腕から抜けた。

 

「叢雲ぉ」

「うん?」

「なんで生きてんの?」

 

 ごつん、と頭を叩かれた。

 

「いたぁ」

 

 肩を掴まれ、引っ張りあげられる。

 「いででで!」と抗議しても緩めてくれやしなかった。「しゃきっとなさい!」と肩を組まれて強引に歩かされる。横倒しの軍艦の上をゆっくりと上がっていく。コツンコツンと足音が連なって、夢でも見てるんじゃないかと思い始めた矢先、叢雲は教えてくれた。

 

「アドナーさんが助けてくれたの」

「え、先輩が?」

「そ。戦艦棲姫のひと。……霧が濃くなってどうしようもなくなって、浜波と2人ではぐれないようにするだけで精一杯ってときに、突然現れたの。高笑いしながらね」

「ええ……?」

「あのひと、霧のなかでも方角が分かるみたいね。磁石も電波も効かない大ホッケ海なのに、どうしてかしら?」

「うそぉ。あたしも知らないんだけど。ほんとに?」

「うん。私も聞いたんだけどまともに答えてくれなくて――」

 

――This is frontier spirit! しっかりついてきなさい! 返事は!?

 

「――って感じ」

「なにそれ……。それでここまで連れ戻してきてくれたの?」

「そう」

「へえ~。よくわかんないけど、今度聞いてみよ。あ、お礼も言っとかなきゃ」

「……」

 

 叢雲は黙りこみ、意味深にこちらを見つめた。

 

「あん? なに?」

「別に。ただ……私さ、今まであんたがそんなに熱い女だって知らなかったなって」

「熱い? ……あっ! んん、いやその、」

「まさか私たちを助けるために防空駆逐艦に戦いを挑むなんてねえ」

「べっ、べつにそういうんじゃねーし」

「命を助けられたのはこれで二度目ね……。ありがと」

「や、やめろって……。今回のは失敗してるし、マジ顔は禁止っ」

「なぁに照れてんの? 肌が白いからすぐ分かるわ、真っ赤になっちゃって面白ーい」

「やめろっつってんの!」

 

 ゴミの山を通り抜け、住処である偽教室に辿り着く。

 がらりと引き戸を開けると、中の少女と目が合った。

 夕雲型の十三番艦、浜波が口をまんまると開けていた。

 

「た、たた、大鷹さん……!」

「う、うっす。恥ずかしながら、復活しました~」

「わ、私、私ぃ……!」

「浜ちゃん、いったん落ち着こう。深呼吸して。ほらっ、ひっひっふー、ひっひっふー」

「良かった……大鷹さんがなおってぇ、本当に、っすん、良かった、ですぅ……」

「やめてよぉぉ!」

 

 

 

 結局。

 話は振り出しに戻った。

 艦娘の2人は脱出できていないし、そのあてもない。

 深海棲艦たちもそのままだ。

 けれど、このゴミの積み重なる3番島には明るい声が響いていた。

 艦娘と深海棲艦が分け隔てなく暮らしている。

 それだけで充分なのかもしれない。

 

 

 

 

 大ホッケ海。

 北海道の、更に北。

 そこに浮かぶ北方深海基地、4つの島々に囲まれた小さな海。

 たかが直径三百メートルもない狭い範囲であり、北の魔女の身体が眠る最重要地点。

 直径5メートルほどの氷の大地。

 そこに防空棲姫が篭もっていた。

 

「今日のご飯はぁ、なんとっ、コンビニ弁当で~す!」

 

 くそでかリボンを揺らしながら駆逐古鬼が甲高い声で微笑んだ。

 にこにこ顔でリュックから取り出したのは、確かにコンビニ弁当だった。ただし色は真っ黒い。箱だけではなく、中身の米も、おかずも、箸さえもブラック色に染まっていた。

 そんな黒々とした物体を少女はぐぃぃ~と流氷に座ったままの防空棲姫に押しつけた。

 

「……なんですか、これ」

「うちの畑でとれたのよ! 知ってるでしょ、もう何度も持ってきてるしね! で、どうなのよ最近の調子は~? 元気してるっ?」

「別に……」

「こないだトゥリーちゃんやっつけたって聞いたけど。あんたも大変よねぇ」

「……」

「あのね、このお弁当って、きっと私の記憶から作られたのよ。うちの畑からとれる食べ物ってみんなそう。知らなかったでしょ? これって轟沈したひとの記憶から再現されてるの。だからおでんとかピロシキとかハンバーガーが土の中からぽんぽん出てくるわけ」

「……」

「ちなみに箱もお箸も食べられます。そのへんほんと雑なのよねぇ~。北の魔女さんにはしっかりしてほしいわ。だって味がないんだもん。そこを再現しなきゃしょうがないでしょってハナシ。あんたもそう思うでしょ?」

「味なんてなくても生きていけます」

「暗いわねぇ」

 

 はぁ~、とわざとらしく溜め息をつく。

 渡すもんは渡した、と言わんばかりの勢いで立ち上がり、よいしょとリュックを背負った。

 駆逐古鬼。

 かつて朝風候補だった少女。

 軍縮条約のせいで艦娘になれず、職にありつけぬまま社会の隅に追いやられて死んでしまった民間人。彼女は、この亡霊漂う北方深海基地において最も報われぬ一生を通り過ぎてきたのかもしれない。

 しかし彼女はいつでも明るく笑う。防空棲姫を気にかける。

 

「さて、問題です。この世で最も不幸なことはなんでしょう?」

 

 防空棲姫は、思わず少女を目で追ってしまう。

 互いに過去を知っていた。

 この島々において最も不幸なのはあなたの前世――防空棲姫はそう思っていた。

 しかし、当人は違うと言う。

 かつての自分は不幸のうちにも入らない。もっと不幸になりそうな奴がいると囁いた。

 

「この世で最も不幸なことはね――誰にも看取られずに孤独に死ぬことよ」

 

 踵を返す。海面に足をつけ、リュックを背負い直した。

 

「好きになさい。けれど泡のように消えるのはよしておいた方がいいわ」

 

 艤装をふかし、駆逐古鬼が遠ざかっていく。

 ここは大ホッケ海。

 四つの島に囲まれた赤い海。ヒトの姿は影一つもない。住むのは人外の化け物――深海棲艦だけという死の領域で、その中心点である氷の大地には深海棲艦すら寄りつかない。

 防空棲姫がたった一人で守っているだけ。

 

「……」

 

 黒い弁当に箸をつけてみる。

 なんの味もしなかった。

 




終わりです。
やっと、って感じです。
途中で「なんか上手くいえないけどこのままじゃいかん!」と話を中断させて習作に手をつけてたわけですが、その成果あったのか今では何がいけなかったのかがよく分かります。
とにかく読みにくいし分かりにくい!
それでもここまで読んでくださった皆様には感謝の念しかありません。ありがとうございます。

さて、このお話は『ちょっと悪いひとたち~』の全体でいうところの第三章の位置付けです。
他の章は構成からして読んでてまったく楽しくならない話になると予想されるのでここに概要を書いてしまいます。そんな文章化されてもいない妄想なんて読みたくないって人は読み飛ばしてください。では。










↓↓↓『ちょっと悪いひとたち』の別の章について↓↓↓

●第一章 アドナー(コロラド)の話。
90%ぐらいが過去話、更にコロラドとフレッチャー以外は全員オリキャラ。もう二次創作でもなんでもないのでは……?っていうパターンその1。
・西方海域に無敵の深海棲艦が8人いた。無敵すぎて誰も手をつけられなかったが、ある日なぜか仲間割れをして1人が死にかけの状態でとある島に漂着した。それを人工衛星で察知したアメリカはそいつを回収・研究するために100人連合艦隊を送りこむ。
・でも西方は他の深海棲艦もウルトラ強い。死にかけ君を回収したところを空母メインの群隊と潜水艦メインの群隊に囲まれてアメリカ艦隊は全滅。
・その間際、コロラドの意思と死にかけ君の未練が一致。フレッチャーだけは守らねばならない、合体! ででーん、1つの体に2つの意思、アルティメットコロラドの誕生だぁ~。
・無事脱出。フレッチャーはリンガ泊地に預けて放浪。→大ホッケ海へ。
・北の魔女とバトル。決着がつかず休戦。以後だらだらと住み着いている。本気になればウルトラ強いけどその事実を誰も知らない。

●第二章 クロンシュタットの話。
99%ぐらいが過去話、タシュケント以外は全員オリキャラ。もう二次創作でもなんでも(略)っていうパターンその2。
・ピースメイカーの古株の1人クロンシュタット。最も自主性に乏しく命令に忠実だったためある港村の防衛を任される。そこは人間の村で友好アピールのため常駐する。
・その村の戦災孤児の少女がある日『タシュケント』の適性を見いだされる。でも当人は人間に愛想がつきていて「深海棲艦になりたい」と言う。
・そこからは映画等でよくある『冷酷マシーンが純真な少女に絆されていく』感じに話が進む。
・ピースメイカーが北極海の制覇に王手をかける。はー敵弱すぎなんだけどまじで! もっとちゃんと戦える相手いねーかなー、あっいたわぁ、双子の自分。よっしゃ自軍真っ二つにわけて戦おっと。人間派(左さん)と深海派(右さん)で互いにばれないように勧誘開始。
・北極海制覇。左さん、人間判定試験(『悪いひとたち』の番外編で書いたやつ)を始める。死亡率10割。どうやったら生かすのか当人も決めてない。ロシア人がいっぱい死ぬ。
・クロンシュタットの常駐する港村にもお呼びがかかる。試験するぞ試験するぞ試験するぞ!→「いやです」「えっ」
・あのロボット深海棲艦クロンシュタットが初めて逆らった、これは凄い人間がいるのでは? 右さん「こっちにつけば人間殺さなくていいよ?」クロン「味方します」→戦争開始。
・なんとかタシュケント候補の少女を逃がす。その場面が撮影されていて、これを根拠に深海シンパが「ピースメイカーは良い深海棲艦!」と主張。ロシア荒れる。
・戦争は途中でロシア艦娘が介入してきてぐだぐだ状態で停戦。左さんと右さんはまたいつかちゃんとした戦争できたらいいねと約束を交わしてさよなら。

●第四章 チェティーリ(神風)と朝風になれなかった少女の話。
80%ぐらいが過去話。
・お祈りされた2人と、陸軍をクビになった男の3人で浮浪者生活。そこにある日神風にだけ再内定通知がくる。行ってみたら佐伯湾泊地で、提督は黒井(『悪いひとたち』参照)。ブラック鎮守府全盛期。
・初出撃で魚雷くらって足がなくなる。クビ。
・ちょっと気安く書けないえぐい事態が重なる。
・深海棲艦が町に襲撃してくる。佐伯湾は防衛スルーで殲滅優先。3人とも死ぬ。
・ゆるさん!
・場所は変わって大ホッケ海。対防空棲姫を繰り返す。「もうやめてくんない?」「嫌です」
・陸軍クビ男が奮起していい感じに落ち着く。

●第五章 北の魔女の話。
・精神的に成熟した魔女がいろいろあって体を取り戻して完全復活。ネガティブ感情は何もしなくても勝手に見れるから私はポジティブ感情を喚起するために愚かな人間どもを幸せにしてやるぜぇー! おらっ深海パンチ! 照月負ける。
・大ホッケサークル解除。幌筵泊地と和解。
・照月は幌筵泊地の仲間たちと再会。クロンシュタットは派遣されていたタシュケントと再会。大鷹は一航戦や五航戦と再会。
・自称熊野と会ってガダルカナル島の深海棲艦を知る。行くと決める。
・南下中、富士山に上りたいと言いだして横鎮とバトルになってぼこぼこにされる。北の魔女の頭が再びパーになる。
・ガ島に合流。


以上です。いや~長いっすね。お付き合いいただきありがとうございました。


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