Tales of Willentia テイルズオブヴィレンティア (さかなのねごと)
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プロローグ

 

 

 メルセディア。古い言葉で【祝福の場所】という意味を持つこの世界は、六つの大精霊が創ったとされている。

 

 第一に、闇の大精霊シャドウがすべてを無垢に還した。

 第二に、水の大精霊ウンディーネが生命を与えた。

 第三に、地の大精霊ノームが生命を育んだ。

 第四に、火の大精霊イフリートが繁栄に手を貸した。

 第五に、風の大精霊シルフが行くべき道に導いた。

 第六に、光の大精霊レムが行き着いた魂の善悪を裁いた。

 

 レムによって裁かれた魂は、シャドウによって無垢に還る。そうして巡る世界に精霊が生まれ、理が正され、最後に、大精霊の眷属たる六つの種族が生まれた。

 

 シャドウの眷属たるシェド。

 ウンディーネの眷属たるディーネ。

 ノームの眷属たるノーマン。

 イフリートの眷属たるイブリス。

 シルフの眷属たるシルフィ。

 レムの眷属たるレムリア。

 ーーそれぞれの大精霊の祝福を受けた彼ら六の種族が、それぞれの力を持ち、それぞれの役割を担い、ともに生きていく。

 

 それがこのメルセディアだった。

 それがあるべき世界の姿だった。

 あるべき世界の姿ーーだったはずなのに。

 

 

 

 

「……どうして……」

 

 呆然と呟く。そこはもう、終わりに瀕した世界だった。

 優しい夜の守りだった暗闇は、貪欲に光を貪った。

 大いなる生命の源だった海は、荒れ狂い大地を呑んだ。

 大地は引き裂かれ、底知れぬ奈落への口を開けた。

 火は業火となり、築き上げてきたすべてを灰と化した。

 緩やかな風は変貌し、すべてを薙ぎ倒した。

 先行く道を照らしていた光など、もはやどこにもない。

 

「どうして、こんなことに……」

 

 ゆるゆると首を横に振る。受け入れがたい世界の終わり。しかし彼にとって一番受け入れがたく、許しがたい現実は、視線を落とした先にあった。

 自身の腕の中に、横たわる少女。血の気が引いた白い顔にも、散らばった髪にも生気が感じられない。どこか色褪せた彼女の、その胸元だけが血に溢れて鮮明に赤く、少年の瞳がふるりと震えた。

 

「……ああ……」

 

 慟哭は掠れて、言葉にならなかった。泣き叫ぶような気力さえ、今の彼の体には残されていない。ただ腕の中の少女を掻き抱いて、強く目を閉じる。そのまなうらに今までの思い出がよぎった。あたたかく、優しかったはずのその記憶は、誰よりも何よりも、凄絶に彼を苛めた。

 

「……ぼくのことなど、放っておけばよかったんだ」

 

 長い沈黙を破って吐き捨てられたその言葉は、単なる自棄ではない、確信めいた後悔に満ちていた。

 

「きみが傷つくくらいなら、」

「きみが泣いてしまうくらいなら、」

「きみの未来が絶たれるくらいなら、」

 

「ーーぼくを、見捨ててくれたなら……」

 

 それは懇願だった。荒れ果て、今にも崩壊してしまいそうな塔の上で響くのは、その声だけ。悲痛なその音は細く、しかし、抑えきれない決意と熱があった。

 

「ぼくをもう、見ないでくれ」

「その目をどうか、開けてくれ」

 

「ぼくの手を、放してくれ」

「別の幸せを掴んでくれ」

 

「ぼくのことで、泣かないでくれ」

「どうかまた、笑ってくれ……」

 

 切々と紡がれる願いは、ただ降り積もっていく。それに返る声はひとつもなくなってしまったけれど、それでも彼は言い募った。

 

 

「もう、ぼくを、諦めてくれていい。……いいんだ」

 

 

 諦念は、ある種の許しで、優しさだった。

 そんな優しさで、世界は、終わろうとしていた。

 

 

 

Tales of Willentia テイルズオブヴィレンティア

 

 

 ーーそれは、貫く意志の物語。

 

 



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設定
パーティメンバー


 

 

「私は命尽きるまで、絶対に、諦めはしない」

 

紅 アスハ

Kurenai Asuha

 

種族:イブリス

出身:火の皇国・皇都アマテラス

性別:女

年齢:18歳(物語開始時)

誕生:イフリートデーカン27の日

容姿:身長169㎝ / 緋色の髪に琥珀色の目

人称:私 / 君・あなた・貴殿

 

備考:

 この物語の主人公。火の皇国を統べる天皇カグツチの娘で、第4位皇位継承権を持つ皇女殿下。しかし母が平民出身であることから、周囲とあまり深く関わらずに過ごしてきた。

 穏やかで紳士的。皇族の一員らしく礼儀正しく誠実だが、どこかお人好しでのほほんとしている。学者であった母の影響か、知的好奇心が旺盛な学者肌。

 

武器:刀

属性:火(・地・光・風)

戦闘スタイル:スピード型魔法剣士。前衛寄り中衛。

 

 

 

ーーー

 

 

「ぼくを信じろ。信じて、ぼくを選べ」

 

ミライ

Miray

 

種族:シェド

出身:不明

性別:男

年齢:16歳(推定)(物語開始時)

誕生:シャドウデーカン12の日

容姿:身長171㎝ / 白髪に銀色の瞳

人称:ぼく / きみ・おまえ

 

備考:

 この物語のヒーロー?。旅の始まりでアスハと出会った少年。【色無し】で、ここ最近までの記憶を失っているらしい。

 何事にも動じず、冷静に淡白に振る舞う。物怖じせず、自分の思ったことをそのまま口にしてしまいがち。ほとんど何事にも執着しないが、何故かアスハにはやや過保護になるほど気にかけている。

 

武器:大鎌

属性:闇(・水)

戦闘スタイル:攻撃特化型前衛

 

 

 

ーーー

 

 

「俺には、こうすることしか、できない」

 

シャオレン

Xiaolian

 

種族:ディーネ

出身:水の帝国・睡蓮の村ニルファル

性別:男

年齢:24歳(物語開始時)

誕生:ウンディーネデーカン2の日

容姿:身長180㎝ / 淡い水色の髪に紫色の目

人称:俺 / あんた・お前・あなた

 

備考:

 旅の途中でアスハたちと出会った青年。気ままに一人旅をしていたらしいが、諸々の理由があって旅に同行する。

 飄々としたさっぱりした物腰。面白いことが好きでよく人をからかうが、その後のフォローも上手。基本的に人当たりはいいが、必要な時には必要な分だけ冷酷になれる。

 

武器:縄鏢

属性:水(・闇・風・光)

戦闘スタイル:タフネス後衛。パーティの生命線。

 

 

 

ーーー

 

 

「ユニは、ユニでありますので」

 

ユニ=ククル・パルティエ

Yuni Ququle Paltier

 

種族:ノーマン(犬のアニマ)

出身:地の王国・湖畔の森

性別:女

年齢:12歳(たぶん)(物語開始時)

誕生:ノームリデーカン12の日

容姿:身長144㎝ / ベージュ色の髪に茶色の目

人称:ユニ / あなた・おまえ

 

備考:

 幼い頃皇都アマテラスをさ迷っていたところをアスハに拾われ、以後アスハ付きの従者兼騎士となった少女。犬系のアニマなので犬の耳と尻尾が生えている。

 誰に対しても敬語で話すが礼儀正しいとは言いがたく、大胆不敵で少々ひねくれている。そんな態度ではあるが、主人であるアスハのことは不器用ながらも大切に思っている。

 

武器:鎚と盾

属性:地(・火)

戦闘スタイル:タフネスメイン盾

 

 

 

ーーー

 

 

「わたし、こんなことで臆するほど、弱くはないの」

 

エセル・アトリー

Ethel Atree

 

種族:シルフィ

出身:風の連邦・花鶏のトマリギ

性別:女

年齢:16歳(物語開始時)

誕生:シルフリデーカン2の日

容姿:身長157㎝ / 茶色の髪に緑色の目

人称:わたし / きみ・あなた

 

備考:

 巡礼の旅をしているシルフィの少女。髪と目に茶色と緑色を併せ持つ【対の色持ち】で、天才的な響術士でもある。

 常に微笑みを絶やさない柔らかな物腰だが、歳に似合わぬ落ち着きと知識を持つリアリスト。必要に応じて冷徹に徹しようとするが、徹しきれない甘さと優しさを隠し持つ。

 

武器:長杖

属性:風(・光・水・闇・火・地)

戦闘スタイル:高速響術士。完全後衛型。

 

 

 

ーーー

 

 

「弓引く僕は、正義でなくてはならない」

 

フィレイン・ヴィナ

Philein Vina

 

種族:レムリア

出身:光の聖国・聖都アドラシオン

性別:男

年齢:14歳(物語開始時)

誕生:レムリデーカン21の日

容姿:身長160㎝ / 金色の髪に金色の目

人称:僕・私 / お前・君・あなた・貴様

 

備考:

 光の聖国を統べる聖女クラリティの弟で、彼女を守るために精霊騎士団員になった少年。愛称はフィン。

 生真面目で頑固。努力家であるゆえにプライドが高く、時に高飛車になることもあるが、根は誠実で正義感が強い。実直すぎるほどに素直なためからかわれやすい。ツンアホ。

 

武器:装飾弓

属性:光(・風・火・地)

戦闘スタイル:物攻術攻両刀アタッカー。後衛寄り中衛。

 

 

 

ーーー

 

 

 

【おまけのパーティ内比較】

 

▼戦闘編

▽物攻強い>弱い

ミライ>>ユニ>>アスハ≧フィン>>シャオレン>エセル

 

▽物防強い>弱い

ユニ>>ミライ≧シャオレン>>アスハ>フィン>>エセル

 

▽術攻強い>弱い

エセル>シャオレン>>フィン>アスハ>>>ミライ>ユニ

 

▽術防強い>弱い

エセル≧シャオレン>>アスハ>ユニ>>フィン>>ミライ

 

▽体力ある>ない

ユニ>シャオレン>>ミライ>>アスハ>>フィン>エセル

 

▽移動速度すばやい>鈍足

エセル>フィン>>アスハ>>シャオレン>ミライ>>ユニ

 

▽攻撃速度すばやい>遅い

エセル>アスハ>>フィン>>ミライ≧シャオレン>>ユニ

 

▽器用>不器用

アスハ>フィン>シャオレン>>ミライ>>エセル>>ユニ

 

 

▼日常編

▽理想主義>現実主義

フィン>>アスハ>>ユニ>エセル>>ミライ>シャオレン

 

▽コミュ強>コミュ障

シャオレン>アスハ>エセル>>フィン>ユニ>>>ミライ

 

▽料理上手>メシマズ

シャオレン>>エセル≧ユニ>>アスハ>>ミライ>フィン

 

▽知識豊富>知識不足

エセル≧シャオレン>アスハ>>フィン>>>ミライ≧ユニ

 

▽情が深い>ドライ

フィン>アスハ>>エセル>ユニ>>>ミライ≧シャオレン

 

 



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用語集

▼あ行

▽秋茜の林道

 火の皇国・皇都アマテラスの外れにある林道。イフリートの影響で、季節に関わらず木々が紅葉している。この林道を行くと登山道に繋がり、もっと登るとイフリートが住まう火山・霊峰ホノアカヅキに行ける。

 

▽イフリート

 火の大精霊。火のムジカと精霊を統べるもの。創造と繁栄を司る。

 猛々しい炎を纏う男性の姿をしている。代々火の皇国の天皇と契約しており、今代の召喚士は天皇カグツチ。

 

▽イブリス

 イフリートの眷属。第四の民。人間としての姿と、褐色の肌に炎の髪を持つ火の精としての姿を併せ持つ。火の精霊の祝福の証として、髪か目の色が赤色になるという特徴がある。

 個体差はあるが、イブリスには研究者気質のものが多く、学術や研究に打ち込むものが多い。魔導機関の主だったものは、ほとんどがイブリスの発明品である。

 

▽色無し

 この世界の住人はすべて精霊の眷属であり、それぞれの祝福の色が髪や目に宿るのが普通だが、ごくたまに髪や目の色が抜け落ちて白になってしまうことがある。それは精霊の祝福を失った証とされ、長らく色無しとは侮蔑や憐れみの呼称だったが、近年ではとある物語の影響で違う意味を持つようになった。

 

▽ウンディーネ

 水の大精霊。水のムジカと精霊を統べるもの。生命を司る。

 清廉な女性の人魚の姿をしている。今代の召喚士はユーロン。

 

▽エセル・アトリー

 シルフィの少女。16歳。天才響術士。

 アトリーの一族出身の少女。とある理由から巡礼の旅をしている。対の色持ちであり、6属性すべての響術を扱う天才。可憐な容姿や柔らかな物腰とは裏腹に、必要とあれば冷徹に徹することのできるリアリスト。しかしその裏には、年頃の少女らしい葛藤や優しさも持ち合わせている。

 

▽エトピリカ商会

 エトピリカのトマリギで生まれ育ったシルフィたちが中心となって立ち上げた商会。旅人への商売を主に名を馳せた商会であり、武器や防具、アクセサリに携帯食料や飲料水など、世界中で手広く展開している。

 

 

▼か行

▽風の連邦

 鳥の名を冠するさまざまな一族が集まって国を成している。風の精霊が好む竜脈が数多くあり、シルフィが多く集う。草原と風の国。

 北西部の高山地帯に位置するため気温は低いが、広大な草原が広がる緑豊かな土地。放牧が盛んで質の良い馬の産地でもある。シルフィは旅をする種族であるため、ほとんどのものは決まった住居を持たず、キャラバンや天幕などを用いて旅の空のもと暮らしている。シルフリデーカンは例外で、その月はすべての旅するシルフィが風の連邦に帰ってくる。

 一族の長がシルフリデーカンに集まり、1年の方針などを話し合うことで治めている。まとめ役の一員に今代の召喚士であるバードもいる。

 

▽響術

 世界を巡るムジカに干渉し、変化を与える術のこと。ムジカを体に取り込んで強化したり傷を癒したり、空中のムジカを炎や氷雪に創り変えて放ったりと内容は多岐に渡る。一人一人が使える響術の規模は小さいが、世界の理を保つムジカに変化を与える、という性質上、響術とは世界に変化を与える術とも言える。

 

▽響術士

 響術を扱える人を言う。全人口の3割ほどしか使えず、そのものはムジカを取り込むことから戦闘能力が跳ね上がるため重宝されている。普通は2属性まで、得意なものは4属性の響術が使える。しかし中には特別な素養を持ち、全6属性の響術を扱える猛者も存在している。

 

▽紅アスハ

 主人公。イブリスの少女。18歳。火の皇国の天皇カグツチの娘。

 第四位皇位継承権を持つ皇女殿下だが、母が平民出身だということもあって周囲とあまり深く関わらずに過ごしてきた。穏やかで紳士的。滅多なことでは怒らずお人好しでのほほんとしている。母や叔父の影響か知的好奇心が旺盛な学者肌。

 

▽紅イザナ

 イブリスの女性。享年30歳。アスハの母。

 城付きの学者として活躍していたところ、天皇カグツチに見初められて三の妃として迎えられる。天皇との間にアスハを産むが、彼女が3歳の時になんらかの事故で亡くなってしまったらしい。明朗闊達で知的好奇心が旺盛だったという。

 

▽紅カグツチ

 イブリスの男性。55歳。火の皇国の天皇。

 火の皇国を統べる天皇で、一の妃、二の妃、三の妃を迎え、それぞれの間にミカゲ、コノハナ、カムド、アスハの四人の子どもをもうける。非常に理性的で、正しい為政者としてあらんとする厳格な性格。

 

▽紅カムド

 イブリスの男性。24歳。火の皇国の第二皇子。

 天皇カグツチと二の妃の間に産まれた。第二位皇位継承権を持つ皇子で、アスハの腹違いの兄にあたる。優しく柔らかな物腰で、アスハのお忍びにも笑って目を瞑る寛容さがある。

 

▽紅コノハナ

 イブリスの女性。享年20歳。火の皇国の第一皇女。

 天皇カグツチと一の妃の間に産まれた。第三位皇位継承権を持つ皇女で、実兄にミカゲ、腹違いの兄妹にカムドとアスハがいる。おっとりした優しい性格で、アスハもよく懐いていたが、物語が始まる3年前に亡くなった。

 

▽紅ミカゲ

 イブリスの男性。25歳。火の皇国の第一皇子。

 天皇カグツチと一の妃の間に産まれた。第一皇位継承権を持つ皇子で、実妹にコノハナ、腹違いの弟妹にカムドとアスハがいる。常に冷静で判断力に長け、何事にも動じないため、なにを考えているのかわからない面もある。

 

▽暦

 一年間に12の月があり、一月は30日ある。それぞれの月に名を冠する大精霊の力が強まり、それにちなんだ祭、行事が執り行われる。

シャドウデーカン…1月。新年祭。一年の始まりを祝う。

ウンディーネデーカン…2月。冬の生命祭。厳寒を耐え凌ぐよう祈る。

ノームデーカン…3月。豊穣祭。新たな農耕の始まり。

イフリートデーカン…4月。学業祭。新学期の始まり。

シルフデーカン…5月。巡礼祭。旅人の平穏を祈る。

レムデーカン…6月。懺悔祭。自身の悪行を振り返る。

シャドウリデーカン…7月。鎮魂祭。死者の冥福を祈る。

ウンディーネリデーカン…8月。夏の生命祭。厳しい夏を耐え凌ぐよう祈る。

ノームリデーカン…9月。収穫祭。豊穣を祝う。

イフリートリデーカン…10月。焔祭。火山を鎮める儀式。

シルフリデーカン…11月。音楽祭。ムジカへの感謝を奏でる。

レムリデーカン…12月。祝福祭。自身の善行を振り返る。

 

 

▼さ行

▽シェド

 シャドウの眷属。第一の民。自らの影が独立した存在として存在しており、影を介して死の国と行き来できる。闇の精霊の祝福の証として、髪か目の色が黒色になるという特徴がある。

 死の国を管理するという仕事柄、時にシェドを忌避するものもいる。しかし彼らは言葉少なだが真摯に役目を全うしており、心穏やかで優しい気性をしている。

 

▽東雲ナギ

 イブリスの男性。45歳。アスハの叔父。

 アスハの母であるイザナは双子の妹。イザナと同じく学者であり、皇都アマテラスにある学研街の一角に自分の研究所を構えている。お忍びでやって来るアスハに魔導機関のなんたるかを教える、彼女の師でもある。

 

▽シャオレン

 ディーネの青年。24歳。旅慣れた好青年。

 一人旅の途中、アスハたちに出会った。飄々としていてよく人をからかうが、フォローも上手な兄貴分。笑顔が多く人当たりもいいが、必要なときには必要な分だけ冷徹になれる。

 

▽シャドウ

 闇の大精霊。闇のムジカと精霊を統べるもの。死と始まりを司る。

 闇色のローブを深く被った男性の姿をしている。代々闇の召喚士の家のものと契約しており、今代の契約者はレイラ。

 

▽召喚士

 大精霊と契約を交わした存在。大精霊という強大な力を行使するため、大抵が絶大な影響力と権力、そしてそれに伴う責務を負う。

 

▽シルフ

 風の大精霊。風のムジカと精霊を統べるもの。導きを司る。

 鳥類の翼が2枚、蝶類の翅が2枚背中に生えている、妖精の少女のような姿をしている。今代の召喚士はバード。

 

▽シルフィ

 シルフの眷属。第五の民。跳躍などで宙に浮くと、背中から生える翼を使って空を飛ぶことができる。翼の形状は人によってさまざま。風の精霊の祝福の証として、髪か目の色が緑色になるという特徴がある。

 個体差はあるが、シルフィは皆放浪癖があり旅好きなため、キャラバンや天幕などを用いて旅をする。また芸術家肌でもあり、音楽家や芸術家として名高いものも多数いる。楽観的でさっぱりした気性のものが多い。

 

▽白の死神

 メルセディアで語り継がれるとある物語。その物語の主人公のことでもある。白髪の少年が大鎌を持ち旅をする中で、色無しと憐れまれ迫害されながらも、各地で魔物の手から人々を救い続けたという話。この物語が民衆に広く愛されたことから、近年では色無しが悪い意味で取られることはほぼなくなった。

 

                 

▼た行

▽大精霊

 精霊やムジカを統括する存在。闇のシャドウ、水のウンディーネ、地のノーム、火のイフリート、風のシルフ、光のレムがいる。彼らはそれぞれ契約を交わした召喚士を介して世界に干渉する。

 

▽地の王国

 国王が治める国。地の精霊が好む竜脈が数多くあり、ノーマンが多く集う。豊かな森と大地の国。

 大陸の中央部に位置するため、気温は温暖で作物が育ちやすい。ノームやノーマンたちの影響で豊かな土壌が広がっている。そのほとんどが農耕地帯であり、世界の食のほとんどを地の王国が支えていると言っても過言ではない。水の帝国と同盟を結んでおり、帝国から水を引くことで、より肥沃な農耕地帯を築くことができた。

 今代の国王はグランジオ=ルフ・アルバ。代替わりしたばかりの若い王。

 

▽対の色持ち

 この世界の住人は髪か目に精霊の祝福の色を宿すが、中には光と闇、風と地、火と水といった相反する色をそれぞれ持つものもいる。それを対の色持ちと呼ぶ。彼らは数多の精霊から祝福を受けているとされており、響術に類い稀な才を見出だす。

 

▽ディーネ

 ウンディーネの眷属。第二の民。水に入ると下半身が魚や海獣のものに変化し、水中でも呼吸ができ、自由に泳ぐことができる。水の精霊の祝福の証として、髪か目の色が青色になるという特徴がある。

 生きとし生けるものに生命の祝福を与えるという自身の役割に誇りを持っていて、その誇りが乗じて選民意識が高いきらいがある。しかし人一倍生命を大切にする種族であり、医療関係に従事するものが多い。

 

▽時狂い

 時と存在を司るムジカが歪んだ結果、姿が変貌したり理が変化したりすることを言う。まったく別人の姿になってしまったり、急激に年老いてしまったりと症状は多岐に渡る。時狂いの結果、生き物は魔物に変貌すると恐れられている。

 

▽トマリギ

 シルフィたちが旅から帰る家であり、翼を休める場所。巨大な大樹を元に作られたツリーハウスで、シルフリデーカンの月にはそこで生まれたものたちが集まる。シルフィたちは、自分のトマリギに帰ってくるものたちを家族と呼び、血の繋がりがあろうと無かろうと同じ姓を名乗る。

 

 

▼な行

▽ノーマン

 ノームの眷属。第三の民。獣の耳や尾を持つアニマという部族と、体から植物を生やしているフラウという部族がある。地の精霊の祝福の証として、髪か目の色が茶色になるという特徴がある。

 育てることに関しては他の追随を許さないエキスパート。育てる対象は農作物、牧畜、人間とさまざまで、農耕者以外に教育者も多い。おっとりとしていて牧歌的、保守的な性格のものが多い。

 

▽ノーム

 地の大精霊。地のムジカと精霊を統べるもの。守護と成長を司る。

 頭に大輪の花を持つもぐらのような姿をしている。今代の召喚士は若き国王グランジオ。

 

 

▼は行

▽光の聖国

 聖女が治める国。光の精霊が好む竜脈が数多くあり、レムリアが多く集う。氷雪と光の国。

 北の果てに位置するため、国土のほとんどが氷と雪に覆われている。空にはレムの影響でオーロラが多く観測される。厳しい土地ではあるが、精霊信仰の総本山ともいえる聖都アドラシオンがある他、精霊騎士団の本部もあるため、人々の行き来は盛んである。

 今代の聖女はクラリティ・ヴィナ。

 

▽火の皇国

 天皇が治める国。火の精霊が好む竜脈が数多くあり、イブリスが多く集う。発明と火山の国。

 大陸の北東部に位置するが、地熱の影響でそこまで寒くない。四季があり、春季、夏季、秋季、冬季によって気候がやや異なる。イフリートの影響か火山が多く見られ、中には温泉が湧いているところもある。学者肌であるイブリスが集うからか、高名な学研都市や大学なども数多くある。

 今代の天皇は紅カグツチ。主人公アスハの父親でもある。

 

▽フィレイン・ヴィナ

 レムリアの少年。14歳。年若き精霊騎士団員。

 まだ年若いが、並々ならぬ努力をして精霊騎士団員として力をつけた少年騎士。姉に今代聖女であるクラリティ・ヴィナがおり、彼女のために正しく強くあろうとする。誇り高いがゆえに高飛車ではあるが誠実で、実直すぎるためからかわれやすい。

 

心臓石(ヘルツ)

 生きとし生けるものすべてが体の内に持つとされる結晶体。高密度のムジカが結晶化したもので、耳に当てるとその個体独自の響きが聞こえるとのこと。ムジカの塊であることから、魔導機関の動力源にもなる。

 

 

▼ま行

▽魔導機関

 響術の原理を用いた機械技術。心臓石(ヘルツ)を動力源とし術式を書き残すことで、響術の素養がない人々でも火が出せる、水が出せるといったことができる。それらの発明品はほとんどがイブリスによるものであり、今では世界中に、それこそ一般家庭にも広く使われている。

 

▽魔物

 時狂いによってムジカが歪み、変貌してしまった生き物の成れの果て。変貌する前の記憶は無くなり、凶暴化して正常な生き物を襲うとされている。

 

▽マルシャン・エトピリカ

 シルフィの女性。24歳。旅する商人。

 旅人のための商会として名高い、エトピリカ商会に属する女商人。アスハたちとは砂漠で出会って以降、世界中のさまざまな場で出会い商いトークを繰り広げる。にこやかな糸目と独特な話し方が特徴的な女性。

 

▽水の帝国

 帝が治める国。水の精霊が好む竜脈が数多くあり、ディーネが多く集う。伝統と水脈の国。

 南西部に位置し、高温多湿な気候で降雨量は世界一。辺境の島では雪が多く降る土地もあるらしい。川が多く船の行き来が盛んであり、海辺や川辺などの水辺に多く街が造られている。

 今代の帝はユージン。もうすぐ息子であるユーロンに代替わりするだろうと言われている。

 

▽ミライ

 シェドの少年。外見年齢16歳前後。色無しの少年。

 闇の公国でアスハと出会い、彼女の旅に着いていくことになった少年。記憶喪失で自分の名前以外ほとんど覚えていないが、本人はあまり気にしていない。淡泊で物事にあまり執着しないが、何故かアスハのことはやや過保護なくらいに気にかけている。

 

▽ムジカ

 時と存在を司る魔力エネルギーの総称。世界を巡る精霊の歌から生み出されるとされている。第一属性の闇、第二属性の水、第三属性の地、第四属性の火、第五属性の風、第六属性の光があり、それぞれを統括する大精霊が存在する。

 闇のムジカは魂を無垢に還し、水のムジカは魂に命を与え、地のムジカは魂を育み、火のムジカは魂を栄えさせ、風のムジカは魂を導き、光のムジカは魂を裁くといわれている。そうしてムジカが正しく世界を巡ることによって、火が燃える、風が吹くといった世界の理が保たれている。

 

▽メルセディア

 この世界の名前。古い言葉で「祝福の場所」という意味。はじめに大精霊が精霊を生み出し、次いで自身の眷属であるシェド、ディーネ、ノーマン、イブリス、シルフィ、レムリアを生み出したとされる。

 

 

▼や行

▽闇の公国

 大公が治める国。闇の精霊が好む竜脈が数多くあり、シェドが多く集う。砂漠と夜闇の国。

 南の果てに位置するが、日射時間が短いため気温は低め。広大な砂漠が広がっており、水源を確保するためオアシスやカレーズは重宝されている。厳しい土地ではあるが、命を終えたものが集うとされる死の国があり、死者を弔い冥福を祈るものが多く訪れる。

 今代の大公はベフナーム・バルディア。

 

▽ユニ=ククル・パルティエ

 ノーマンの少女。12歳。アスハ付きの騎士。

 幼い頃さ迷っていたところをアスハに拾われ、以後は彼女付きの騎士として従属してきた。敬語で話すものの礼儀正しいとは言い難くふてぶてしい。そんな態度ではあるがアスハへの忠誠心は高く、周囲からあまり顧みられないアスハの傍に常に寄り添ってきた。少しひねくれてはいるが根は真っ直ぐ。

 

 

▼ら行

▽レム

 光の大精霊。光のムジカと精霊を統べるもの。魂の審判を司る。

 輝かしい光を放つ中性的な男性の姿をしている。代々契約したものが聖女として聖国を治めており、今代の召喚士は聖女クラリティ。

 

▽レムリア

 レムの眷属。第六の民。額に光の眼という結晶体を持つ。光の眼が見通すものは人によってさまざまで、とあるものは千里を見通し、とあるものは過去や未来を視たりする。光の精霊の祝福の証として、髪か目の色が金色になるという特徴がある。

 魂の善悪を裁くといった役目のもと、生真面目で正義感の強い性格のものが多い。そうした役目や気性から、レムリアのほとんどが精霊教団かそれを守る精霊騎士団に所属している。

 

 



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第1部 巡りの旅路
第1話 いつもの研究所


 

「いい?よく見ておいてね」

 

 青みがかった黒髪を高く結い、赤い瞳で微笑んだ女性は、少女の眼前で一つのカンテラを掲げてみせた。鬼灯の形を模した器の中に、赤い宝石が転がっている。

 ……これはなんだろう?と首を傾げた少女は、次いで瞠目した。女性が指先で術式をなぞった途端、カンテラに光が灯ったのだ。

 

「わあ……!」

 

 赤や橙の輝きを受けて、少女の琥珀色の目が煌めく。よくよく見れば、カンテラの中の赤い宝石から光が放たれているのがわかる。

 

「かあさま、かあさま!すごいです、ほうせきがきらきらしてます……!これはなんなのですか?」

「さすが私の娘!目の付け所がいいわね」

 

 きゃらきゃら笑う少女を抱き締めた女性は、誇らしげに微笑む。こほん、と勿体づけた咳払いを一つして、解説を始めた。

 

「これは宝石ではなくて、心臓石(ヘルツ)というの」

「へるつ?」

「そう、心臓石(ヘルツ)。高密度のムジカの結晶体で、魔導機関の動力になるのよ」

「ムジカ……なのですか?これが?」

「ムジカは本来、世界中を漂う不可視のエネルギー……けれど、たくさんたくさん集まると、こうやって石の形になるの。それが、」

「へるつ!」

「そう!」

 

 正解!と、母子は頬を寄せ合って笑い合う。その体勢のまま、女性は声を低めた。少女にはわからないよう、そっと、目蓋を伏せる。

 

「……これは、母様が作ったものよ」

「かあさまが?すごいです!すてきです!」

「そう、……そうね。凄いものよ。素敵なものよ。これさえあれば、響術が使えない人でも、生活が楽になる」

 

 微笑みは、どこか寂しげだったけれど、それでも瞳は強い意志を携えていた。

 

「私は、これが正しいと思って作った。みんなの力になると、助けになると思って、選択したの」

「……かあさま……?」

 

 ここでようやく母の違和感に気づき、少女が首を傾げる。心配そうな娘の眼差しに、母はぱっと瞳を明るくして笑った。

 

「まあ、まだあなたには難しいことはわからないよね」

「は、はい……まどうきかん?とかは、わからなくて」

「仕方ないわ。しょんぼりする必要もない。わからないことは、これからわかっていけばいいの!」

「これから?」

「そう!あなたはまだ3歳なんだもの。これからいっぱい勉強して、たくさんのことを経験して、そうしてわかっていけばいい」

「……っはい!」

 

 少女は、娘は笑った。母が示してくれた未来が明るくて、母が、自分の未来を信じてくれた気がして、嬉しくて。

 

「わたし、もっともっとがんばって、すてきなまどうきかんをつくってみせますね!」

 

 

 

ーーー

 

 

 

「ーースハ、アスハ!なにボーッとしてるんだ!」

 

「え、……あ!」

 

 呼び掛けられた少女ーーアスハは、はっと我に返った。同時に目の前の魔導機関から火が出ているのに気づき、慌てて術式に触れて動力のスイッチを切る。火は名残惜しそうに揺らめいていたが、程なくして消え去った。アスハはほっと胸を撫で下ろすとともに、やってしまった、と眉を寄せる。

 

「ごめんなさい、叔父様」

「気にするな。おまえに怪我が無ければいい」

「ですが、せっかく頂いた材料を、心臓石(ヘルツ)を無駄にしてしまいました」

 

 切れ長の目を伏せて、しゅんと頭を下げるアスハに、彼女の叔父である東雲ナギは微笑んだ。仕方ないな、と言わんばかりの優しい苦笑のまま、姪の肩に手を置く。

 

「さて、アスハは何を作ろうとしていたんだ?」

「!はい、叔父様!これは以前の携帯カイロを改良しようとしたものでして、熱を持つ時間をより長くしようと心臓石(ヘルツ)の大きさや強さ、術式を変えてみた、の、ですが……」

「この様子だと、出力が強すぎたんだな」

「……その通りです」

 

 研究の品を問われて生き生きとする様も、今度はどうすればいいだろうかと考察する表情も、彼女の母親に本当によく似ている。ナギは心の内でこっそり思ったのを誤魔化すように、そういえば、と無精髭を撫でた。

 

「アスハ、秋茜の林道に、渡りのヒノコ鳥が来ているのを知っているか?」

「はい。本来ならば火山付近で翼を休めるはずの魔物ですが、林道に降りて来てしまっていて……そこで木の実を食い荒らしてしまっていると」

「そうだ。城からも討伐隊が出されていたな」

 

 首肯するアスハに、ナギはそこで、と提案する。

 

「もしよければでいいんだが、2、3匹ほど狩ってきてくれないか?魔物の中でも最弱の部類で、そいつの心臓石(ヘルツ)が、今おまえの作っているカイロにぴったりだと思うんだが」

「!はい、行って参ります!」

 

 ぱっと目を輝かせて立ち上がるアスハに、まあ待てと再びナギは苦笑をこぼす。

 

「急いては事を仕損じる、というだろう。いくら弱いと言えど魔物は魔物。怠りなく準備する必要がある。わかったな?」

「、はい」

「よし。ではこれを持っていけ」

 

 そう言ってナギがアスハに手渡したのは、手のひら大の巾着袋だった。絞り紐には黒い闇属性の心臓石(ヘルツ)、青い水属性の心臓石(ヘルツ)に加え、赤い火属性の心臓石(ヘルツ)がついている。

 これは?と視線を向けたアスハが口を開くよりも早く、ナギがにやりと口角を上げた。

 

「これは俺が発明した、名付けて【無限巾着】だ。影を通じて空間を操るシェドの技術を応用していてな、巾着の中は無限の空間に繋がっていて、簡単に言ってしまうとーー何でもいっぱい入る」

「何でもいっぱい入る」

「そうだ!その上、食材なら食材、武器なら武器、それぞれが良い状態で保存できるように温度調整も可能。そして、この心臓石(ヘルツ)に刻まれた術式を操作することで、自分が望む道具を即座に取り出すことができる!」

「!そのシェドの技術を闇属性の心臓石(ヘルツ)で、冷蔵庫に使われている調整機能を火と水の心臓石(ヘルツ)で再現したのですか」

「その通りだ!これを完成させるまでに、どれほど徹夜したことか……!……、…………すまん、また我を忘れた」

「いいえ、構いません」

 

 そこまで話してようやく、自分が熱く語りすぎていることに気づいたナギが謝罪したが、アスハは事も無げに笑った。普段落ち着いている叔父が発明品に関するとこうなるというのはよく知っていたし、何より、研究に対する情熱が感じられて、アスハは嬉しかったのだ。

 

「叔父様がいつも通りで、なんだか嬉しいです。また御髪の先が炎となっていましたよ」

「……それを言うなら、アスハ。おまえだってさっき毛先が燃えていたぞ」

「え、」

 

 アスハはひとつに結われた自身の髪をつまむ。そこには確かに熱の残りが感じられて、またやってしまったか、と彼女は苦笑した。

 アスハたちはイブリスという、大精霊イフリートの眷属である。彼らは火の精霊の祝福を受けているとされ、髪か目が赤色になるという特徴を持ち、感情が昂ると褐色の肌と炎の髪を持つ姿に変じるという。

 それ故か、生まれたときから『常に理性を保て』と教えられ育てられたアスハは、自身の緋色の髪をつまんで眉を下げる。そんな姪を見て、ナギは赤色の目で微笑んだ。

 

「まあ気にするな。これはある意味、研究者としてのサガというものだ」

「……そうなのですか?」

「ああ、おまえの母もそうだったからな」

 

 思わず口からついて出た呟きに、ナギははっとしたが、

 

「……ならば、嬉しく思います」

 

 それを聞いた彼の姪は、小さく、しかし嬉しそうに口許を綻ばせていた。

 

「さて、それではそろそろ秋茜の林道へ向かいます」

「、ああ。くれぐれも気を付けるように」

「はい、叔父様。……行って参ります!」

 

 アスハは綺麗に一礼をして部屋を出ていった。とんとんとん、と階段を下りる足音が遠ざかる。ナギがゆったりと窓辺に近寄ると、ちょうど窓下にアスハが駆けて行く姿を捉えた。

 真っ直ぐな緋色の髪は、青みがかった黒髪とは似ても似つかない。目の色だって琥珀色と赤色でそれぞれ違った。それでも、

 

「……瞳の輝きは、同じだな……」

 

 妹も、イザナもそうだったと、ナギは懐かしむように目を閉じた。まなうらには、快活に駆け回って研究に勤しんでいたイザナの笑顔が映り込む。

 イザナが亡くなってから、早15年。彼女が残した忘れ形見ーーアスハを思い、ナギは微かに息を吐いた。

 

 

 

第1話 いつもの研究所 了

 

 

 


 

 

スキット『心配性な叔父様』

 

アスハ「【無限巾着】か……とんでもない技術を詰め込んだ品だな。確かに便利だが、本当に貰ってしまってよかったのだろうか」

 

アスハ「……うん?なにか入っている?」

 

アスハ「……アップルグミが10個に、オレンジグミが5個。それにパナシーアボトルまで……」

 

アスハ「……相変わらずだな、叔父様は」

 

 



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第2話 斜陽の異変

 

 

 歩みを進める度に、かつんかつんと石畳の音が響く。アスハはぐるりと視線を巡らせて、今となっては通い慣れた学研街の街並みを見渡した。

 創造と繁栄を司る、火の大精霊イフリート。その眷属であるイブリスもまた、種族柄というべきか、創造に情熱を傾けるものが多い。ここ皇都アマテラスにおいては特にその特徴が顕著であり、数多の研究所が建ち並び、数多の研究者が集う学研街が存在する。つまり、

 

「……ぃいやったあああ!!ついに成功したぞ!!」

 

「うあっわああああ動かない!?動かないなんで!?さっきまで動いたのに!!?」

 

 ……こういった研究に関する悲喜こもごもが、ありとあらゆる研究所から聞こえてくるような、そんな喧騒に満ちた場所だった。いつも通りだな、と笑いながら、アスハは歩みを進めて目的の路面電車に跳び乗った。

 人々を乗せて走るこの路面電車も、街を照らす街灯もーー数えればきりがないくらいに、魔導機関は人々の生活に根づき、それを支えている。アスハが視線をやった先では、屋台から買った焼き芋を手にほくほくと頬を綻ばせる子どもたちの姿がある。そんな姿が、今はもう当然のものなのだ。

 

「……母様。今日もまた、魔導機関は人々を助けています」

 

 空を仰いで呟いた声は、雑踏の中に溶けていった。

 

 

ーーー

 

 

 路面電車でたどり着いた町外れからしばらく歩くと、建物が建ち並ぶ街並みから、木々の覆い繁る山道へと景色が変わっていった。ひらり、ひらりと舞い落ちる葉は、鮮やかな黄や赤に染まっている。イフリートの影響でそうなっているのだと、そう聞いたのが随分昔のことのように感じる。

 

「秋茜の林道……来るのは久しぶりだ」

 

 誰とはなしに呟いて、アスハは腰に差した刀に手を置いた。風が木々を揺らす音に混じって、なにものかが息をひそめてこちらを窺っている気配がする。獣か、ーー魔物か。

 呼吸を整えて踏み出したアスハを、猪型の魔物・ボアが出迎えた。その後方で翼をはためかせ火の粉を散らしているのは、件のヒノコドリだ。羽根は黄色から赤色のグラデーションに彩られ、燃えるように煌めいている。

 

「さっそくのご登場だね」

 

 すらりと刀を抜き放ち、上段に構え、切っ先を相手に向ける。ふッと短く息を吐き出すと共に、刀を大きく振り抜いた。

 

「魔神剣!」

 

 生み出された衝撃波は地を這い、落ち葉を撥ね飛ばしながらボアに直撃する。痛みと怒りの声を上げてたたらを踏むボアに、アスハは肉薄して刀を振るった。振り下ろし、横に薙ぎ、そして三の太刀筋で。

 

「虎牙、破斬!」

 

 斬り上げて、斬り下ろす。その剣技を受けたボアは倒れ、光の粒となって消えた。残されたのはムジカの結晶体ーー心臓石(ヘルツ)のみ。

 それをちらりと視認するや否や、アスハは刀を体の前に構えてヒノコドリの嘴を防いだ。戦いはまだ終わっておらず、火の鳥は敵意に体を燃え上がらせて再びこちらを狙っている。アスハは刀を構え直し、駆け出した。敵の懐に駆け込み、低い体勢から上空に向かって刀を跳ね上げる。

 

「ーー昇舞!!」

 

 刀は綺麗に回転しながら上昇し、ヒノコドリに斬りかかる。刀が回転しながら落ち、再びアスハの手に戻った時には、ヒノコドリもまた地に落ちていた。ぼう、と体が炎に包まれたかと思うと、光の粒子が散らばり、淡い赤色の心臓石(ヘルツ)が転がっている。

 

「これが、叔父様の言っていた心臓石(ヘルツ)……」

 

 刀を鞘に収め、心臓石(ヘルツ)を手にとったアスハは、それを陽の光に翳してみた。3cm程しかない小さなもので、淡い陽炎のような揺らめきが石の中に見える。そこまで強い力を持っているわけではないが、確かにカイロにはぴったりかもしれない。うん、と頷いて、アスハは心臓石(ヘルツ)を無限巾着の中にしまった。先ほどのボアのものも忘れずに。

 戦闘があったのが嘘のように、秋茜の林道は常の静けさを取り戻していた。しかし道の先には、まだ幾つかの気配を感じる。油断するには早いな、と、アスハは気を取り直して進み出した。

 

 

ーーー

 

 

スキット【不在のあのこ】

 

アスハ「そういえば、一人での実践なんて何年ぶりだろう?」

 

アスハ「鍛練でも実践でも、いつもユニがいてくれたから、何だか変な感じだ」

 

アスハ「……ユニ。勝手に一人で戦った、なんて知ったら怒りそうだ。これは言わぬが花、というやつだね」

 

 

ーーー

 

 

「……これでお仕舞い、だ!」

 

 鋭く刃を振り抜いて、魔物が心臓石(ヘルツ)に還ったのを確認すると、アスハは刀を収めた。心臓石(ヘルツ)を拾い上げながら、ふう、と息を吐く。これでヒノコドリの心臓石(ヘルツ)は5個集まっていた。

 

「こんなものかな、そろそろ引き上げるか」

 

 辺りを見渡してひとりごちる。魔物との戦いを経て、気づいたらだいぶ奥まったところまで来ていた。これより先に進むと、より険しい登山道が、そしてイフリートが住まうとされる霊峰ホノアカヅキがある。その辺りにはここよりも強い魔物が棲息しているのだとか。

 ……自分の力量を過信して進むことなど、アスハにはできない。しかし、ふと頭によぎったことがあって、彼女は霊峰を見上げながら呟いた。

 

「そういえば、ヒノコドリは元々、火山近くで羽根を休めていたのだったね」

 

 それが今季に限って、このような麓近くまで下りてきてしまったーーその理由は何だろうかと、アスハは思考に目を伏せた。

 木の実を食い荒らしているということは、食料を求めて下りてきたということ。食料を求めて、ということは、火山近くでは食料が取れなくなったということ。食料が取れなくなったということは、何らかの要因で、火山の環境が変わったということーー。

 そんな風に考えに耽っていたものだから、アスハは気づくのが遅れた。気づいた時には、遅かった。

 

「ーー!?」

 

 ざわりと、肌が粟立つような感覚。この場に在る存在が、ムジカのすべてが歪められてしまいそうな蠢き。それらを感じ取って瞠目したアスハに、大きな影が襲いかかった。

 

「っ!う、ぐ……ッ」

 

 咄嗟に刀で防御したアスハだったが、勢いは殺しきれず、吹っ飛ばされて後方の幹に叩き付けられる。崩れ落ちそうな体を奮い立たせ、ふらつく足で立ち上がった彼女は、それを見た。

 それは一見、赤黒い炎だった。見上げんばかりの巨大な体躯が、赤黒い炎に包まれている。熱気によく目を凝らしてみれば、それが鋭く太い牙を備える大猪だとわかった。しかし猪とはいえ、先ほどのボアとは体躯も放つ殺気もまるで違うーームジカの歪みもまた、そうだ。

 

(……ムジカとは、時と命を司る力。それが歪められてしまうと、在るべくして在る存在が歪められる)

 

 幾度となく教わってきた世界の理を、脳裏で反芻する。

 

(ムジカが歪んだ存在をーー魔物と、呼ぶ)

 

 魔の物、と称されるのも納得の禍々しさだった。その場にいるだけで他の正常なムジカまで歪んでしまいそうなほど、強烈な不協和音を放っている。

 アスハは刀の柄を強く握り締めた。ひりつくような熱気と緊張感から、こめかみに汗が伝う。油断などない。全神経を集中させている。それでもなお、この強大な魔物をどうにかできる気がしなかった。

 

(こいつは他の魔物とは明らかに格が違う。今の私では、倒すことなどできはしない……!)

 

 自分の力量を過信して戦うことなど、アスハにはできない。……それでも、ただ背を向けて逃げることもまた、彼女にはできなかった。できない理由があった。

 

(もし私が退いて、この魔物が林道を下りてきてしまったら……、)

 

 ーー皇都に下りてきてしまったらどうなるかは、想像に難くない。それを思えばこそ、アスハは意を決した。

 

「……こっちだ!!」

 

 わざと大声を上げて、わざと足音を立てながら、アスハは火山へ続く登山道へと向かった。人里とは反対方向へと魔物を誘導するために。魔物は彼女の思惑通りに視線を巡らせて、

 

「グオオオオオッ!!」

 

 敵意に満ちた雄叫びを上げ、突進してきた。直進的な動きを何とかかわして、アスハは走りながら刀を振るう。

 

「っ魔神剣!」

 

 少しでも機動力を奪えればと、地を這う衝撃波を放ちながら逃げ回る。そんなアスハの考えは理にかなっていて、足を傷つけられた魔物は次第に動きに精彩を欠いていく。これを続けていれば、いずれ魔物はその足を止めただろう。ーー圧倒的な力の差が無ければ。

 

「ッグウアア!!」

 

「!? っう、わ!」

 

 大猪の巨躯が立ち上がり、高く振り上げられた前足が下ろされ大地を揺らす。それに足をとられたのは一瞬。されどその一瞬の隙に、大猪の突進がアスハの体を撥ね飛ばした。ぐらりと視界が反転し、高く飛んだ体は地面に激しく叩き付けられる。痛みと衝撃に詰まる喉から血が溢れた。

 そんな獲物を前に、まるで舌舐めずりするかのように喉を鳴らしながら、大猪は歩みを進める。どしん、どしん、と近付いてくる足音。一刻も早く立ち上がって逃げねばとは、アスハにも勿論わかっている。しかしどれほど力を振り絞っても、更なる痛みがやってくるだけで、ちっとも体は動いてくれない。

 

「……っ立て、歩け、動いてくれ……!」

 

 痛みを押し殺そうと奥歯を噛み締め、地面に爪を立てて、アスハは立ち上がろうとする。何度も、何度も、何度も。繰り返し体を叱咤し奮い立たせるも、何も、変わらなかった。

 

「……っ、」

 

 何も変わらず、自身は地に転がるだけ。魔物との距離だけが、どんどん縮まっていく。

 

「……ここまで、かな……」

 

 焦燥は次第に、諦めへと変わる。自分の限界を悟り、自嘲の笑みが頬にのぼる。どしん、どしん、と。もう耳のすぐそばで聞こえる足音に、アスハは静かに目を閉じた。

 人生なんてものは、こうも呆気なく終わるものなのだな、と。そんなことを考えて、彼女は刀の柄から手を離す。

 

 

 

 ーーその時、魔物の咆哮が空気を震わせた。

 

 

 

「……え……?」

 

 アスハが驚いたのは、その魔物の声が苦痛に満ちていたからだ。呆然と呟いたアスハは、次いで視界に飛び込んできた光景に目を見開く。

 赤い炎。そう錯覚させるほどに鮮やかな深紅の髪が、動きに合わせて靡いている。長大な太刀を軽々と振るう彼の向こうで、あの大猪が地に沈み、光の粒子となって消えていく。それを見届けた彼の人が、チン、と太刀を鞘に収める音だけが、やけに大きく響いた。

 そうしてアスハを振り返る。長い深紅が尾を引くように揺れる。アスハを見据えるその目は、青と黒の入り雑じった深海の色をしていた。

 

「アスハ。ーーこんなところで、何をしている」

 

 静かに深い、冷ややかな海の色に見下ろされて、アスハは喉を震わせた。

 

「……ミカゲ、兄上……」

 

 この火の皇国の第一皇位継承者。一の妃の令息。そして、ーー自身の腹違いの兄であるミカゲの名を呼んで、アスハはふつりと糸が途切れるように、その意識を手放した。

 

 

 

第2話 斜陽の異変 了

 

 

 



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第3話 ひとりの旅立ち

 

 

「ーー……」

 

 アスハが目覚めたその時、視界に映ったのは彼女のよく知る天井だった。四季の花が控えめにあしらわれた几帳も、毎晩見ていたものーーここは自分の自室であり寝室なのだと、アスハはまだぼんやりした意識の中で思う。灯り障子から射し込む月の光が、今が夜だと告げていた。

 

「……すまない、誰かいるかな」

「はい、ここに」

 

 几帳越しに応えたのは、アスハのよく知る使用人の一人だった。アスハは布団の上で上体を起こし、声の方へ向かって口を開く。

 

「現状を」

「はい。アスハ様は夕刻頃、ミカゲ様とともに秋茜の林道から帰還されました。アスハ様はお怪我を治療されたばかりだとお聞きしたので、しばらくこちらでお休みになっていただきました」

 

 怪我、と譫言のように呟き、アスハは自分の体を見下ろす。あの大猪に負わされた怪我は一つも残っていなかった。焼けつくような痛みも、何も。……兄上が治してくださったのだろうと、アスハは目を伏せながら思う。

 

「……世話をかけてしまったね」

「どうぞお気になさらず。御身が御無事で何よりでございます」

「ありがとう、……ミカゲ兄上から何か言伝ては?」

「アスハ様がお目覚めになられましたら、氷鏡の間にてお会いになると」

「わかった」

 

 すっと立ち上がると、いつの間にか解かれていた緋色の髪がさらりと揺れる。それを一つに結いながら、アスハは言葉を継いだ。

 

「氷鏡の間ならば正装の必要は無いだろう。自分で仕度をして向かうから、貴女は先に行って兄上にアスハが向かうとお伝えしてほしい」

「ですが、」

「もうすっかり夜も更けているだろう。これ以上兄上を待たせたくないんだ」

「……承知いたしました」

「ありがとう、頼んだよ」

 

 深く頭を下げた気配を残して、使用人は部屋を出て行った。アスハは帳台を降りながら寝間着を脱ぎ、正装ではないがきちんとした着物を身に纏っていく。

 氷鏡の間は本丸御殿の奥部にある。場所をそこに定めたというなら、正式な謁見ではなく親族間のそれだろうと、身仕度を進めながらアスハは考える。天皇である父上はいないだろうなと、きっと、林道でのことでお叱りを受けるのだろうな、とーー。

 

「……いけない。早く向かわなければ」

 

 落ち込みそうになる視線を無理やり上げて、アスハは鏡台の前に立つ。そこには緋色の髪をシンプルな簪でまとめ、紺地に白い蝶々が羽ばたく着物姿の少女がいた。失礼の無いよう身仕度を確かめてから、うんと頷き、アスハは廊下へ向かう襖を開く。射し込む月光を受けて琥珀色の目が細められた。

 白い城壁は宵闇にも目映く浮かび上がり、燈籠の灯りが赤い瓦屋根をぼんやりと照らしている。見上げんばかりの壮麗たる迦楼羅(かるら)城は、この皇都アマテラスの、ひいては火の皇国の象徴でもありーーアスハの生まれ育った家でもあった。

 今はシャドウリデーカンの月であり、四季のあるここ火の皇国では夏季にあたる。そのため水路が張り巡らされた夏の庭では、水芭蕉や杜若の花が咲き乱れていた。白や紫の花びらの合間に、蛍の淡い光が瞬いている。そんな風光明媚な光景を前に、アスハはひそかに息を吐いた。

 

(……家と言うには、些か豪奢に整い過ぎてはいるけれど……)

 

 皇女として生を受け、教育を受けてきたアスハではあったが、未だに居心地の悪さを感じる時があった。自分の居場所がどこにも無いような心細さを感じるたび、アスハはひとり、そっと目を伏せる。

 

「相変わらずだな、私は……」

 

 苦笑を浮かべる。心は自嘲にまみれていた。そんな風に思うのはひとえに自分の心が弱いからだと、アスハはわかっている。わかっているにも関わらず変えられないから、今回のようなバチが当たったのだろう。

 ーーそんなことを思いながら、アスハは氷鏡の間に辿り着いた。緊張する心を落ち着かせようと深く呼吸する。

 

「……失礼いたします。アスハです。言伝てに従い参上いたしました」

「入れ」

「はい」

 

 作法に則り襖を開け、広間の奥へと進んでいく。上座に座す彼の人と、その傍らに控えるもう一人の男性を目に留め、額づいて最敬礼を示す。

 

「ミカゲ兄上、カムド兄上。お待たせして大変申し訳ございません」

 

 三つ指をついて頭を下げるアスハに、彼らが浮かべる表情はさまざまだ。ミカゲは無表情のまま頷き、カムドは優しげに微笑んでみせる。

 

「アスハ、頭を上げて。ミカゲ兄上が響術で癒したとはいえ、病み上がりには違いないだろう」

 

 カムドはこの皇国における第二皇位継承者であり、アスハにとっては腹違いの兄にあたる。剣士としても名高いミカゲとは異なり、やや体は弱いものの、内政に手腕を発揮している理知的な皇子である。穏やかな気質で、今も妹を気遣いあたたかな言葉を掛けたが、アスハは心中安堵しながらも顔を上げることはなかった。

 

「お気遣い感謝します。しかしまずは、謝罪を述べさせてください。ーーこのたびは、身勝手にも単身で魔物のいる林道に出向き、ご迷惑をおかけしてしまい、本当に、申し訳ありませんでした」

 

 アスハの謝罪を聞き、カムドは少し眉を下げて傍らの兄を見る。ミカゲはというと、静かな眼差しのまま真っ直ぐアスハを見据えていた。

 

「アスハ。顔を上げろ」

「ーーは」

 

 その声色にわかりやすい怒りは無いものの、穏やかなものも感じられない。冷えきった氷のような緊張感に、アスハは口許を結んで向き直る。

 そんな彼女の前でミカゲは懐から何かを取り出した。ちゃり、と赤と青、黒の心臓石(ヘルツ)が音を立てる。それはナギがアスハに渡した無限巾着だった。

 

「……お前が秋茜の林道に赴いた理由は、魔導機関の研究のためだな」

 

 中にあるものはすべて把握しているらしい。加えて、アスハの意図もすべて見透かしているかのような目で、ミカゲは続けた。

 

「また学研街の東雲殿の元へ行っていたのだろう。そこで必要な心臓石(ヘルツ)を取りに行った、……というところか」

「はい、……ですが、兄上。恐れながら申し上げますが、叔父様は関係ありません」

 

 気圧されてはいるものの、それだけは譲れないとアスハは声を張る。きゅっと唇を結んで、膝の上の拳を強く握って。

 

「今回の件はすべて私の油断が、弱さが招いたことです。……どうか、すべての責は、私に」

 

「……いいだろう」

 

 アスハの決意を前にミカゲは目を伏せ、しばし思案の海を泳いだ。しかしそれもつかの間、音もなく顔を上げ、アスハを見据えて口を開く。

 

「ーーアスハ、お前に、巡礼の旅に出ることを命じる」

 

「兄上!?」

 

 氷鏡の間は静まり返っていて、カムドの驚愕の声のみが響く。当のアスハはというと、彼と同じく驚いてはいるものの、声を無くして呆然としている。

 

「巡礼の旅、とは……各国にある大精霊の身許に赴き、祝福を賜るという旅のこと、ですね」

「そうだ。魔導機関に現を抜かすことなく、その旅を通して精霊への信仰心を培うのだ」

「……は、い」

「……これはお前の鍛練の旅でもある。伴はつけずに、一人で発て」

 

「兄上!それではあまりに……!」

 

「ーー行きます」

 

 カムドの制止を遮り、アスハは言った。彼女はもう呆気に取られてなどいない。静かに落ち着いて、穏やかに微笑んでいる。

 

「ミカゲ兄上の御命令、謹んでお受けいたします。挽回の機会を与えてくださったことに、改めて感謝を申し上げます」

「……明朝に馬車と船を手配する。手早く仕度をするように」

「ミカゲ兄上、」

「承りました。……カムド兄上も、お気遣いいただきありがとうございます」

 

 アスハは穏やかな、綺麗な笑顔を浮かべた。

 

「ですがご心配には及びません。私なら、大丈夫です」

 

 綺麗に綺麗に、笑顔を整えてみせた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

「アスハ!」

 

 氷鏡の間を後にしたアスハ。回廊を進む彼女を呼び止めたのはカムドだった。足を止めて振り返ったアスハに、彼は眉をひそめる。深い赤色の目に悔恨が滲んだ。

 

「……すまないね、僕にもっと権限があれば」

「いいえ、そんな。私などにお心を砕いてくださり、ありがとうございます」

 

 アスハは微笑む。それから少し笑顔の色を変えて、また言葉を継いだ。

 

「……私は未熟者です。今回のことで、それを改めて強く実感しました。巡礼の旅にて、心身ともに鍛え直してこようと思います」

 

 そんなアスハにカムドは何かを言いかけて、堪えるように口をつぐんだ。そんな彼の言いたいことは、アスハにもなんとなくわかる。

 ーー巡礼の旅とは世界中を巡る旅。大精霊の身許に向かうには、危険な場所もある。そのような旅に護衛もつけず皇女一人を放り出すなど、本来なら有り得ないことだ。罰にしたってあんまりな所業。大切に育てられ守られる姫君ならば、死ねと言われているのと同じこと。……しかし、

 

(私は決して、そうではないから)

 

 心の中で呟いて、アスハは目を細める。口元には相変わらず笑みが浮かんでいた。思ったよりもずっと心は落ち着いている。幼い頃から染み着いた諦念は、彼女を絶望や悲しみから遠ざけていた。

 

「……アスハ、これを君に。兄上から預かってきたんだ」

 

 カムドがアスハに渡したのは、無限巾着だった。叔父からの贈り物を失くさずにすんだ、と安堵する妹へと、彼は微笑みを取り戻して続ける。

 

「その中に餞別が入っているよ。旅に使えそうなものは、一通り入れてあるから」

「このようなことまでしていただけるとは……ありがとうございます、カムド兄上」

「このようなことしかできない、の間違いだよ。……あ、そうだ」

 

 もう一つ、とカムドは懐から何かを取り出す。その手に握られているのは手紙と便箋だった。

 

「あまりに急な旅立ちとなったろう。言伝てを残しておきたい者に書くといい」

「……ありがとうございます。ですが、」

「書き終わった手紙は君の部屋に置いておいてくれ。僕の方で届けておくからね」

「! ……重ね重ね、ありがとうございます」

「礼なんていいんだよ、……本当に、こんなことしかできないのだから」

 

 ほっと頬を緩ませるアスハに、カムドはまた苦笑を浮かべる。それからその微笑に寂寥と心配の色を混ぜた。赤い目が、ゆっくりと祈るように伏せられる。

 

「汝の旅路に、精霊の祝福あれかし。……アスハ、君の無事を祈っているよ。どうか無事に、この城へ帰っておいで」

 

 兄の祝福の言葉に、アスハははい、と噛み締めるように頷いた。いつの間にか月は彼らの遥か頭上に昇り、冴えた光を注いでいる。

 

 

 

 もうすっかり夜も更けた。数時間もすれば朝日が昇るだろう。

 それがわかっているから、アスハは自室に戻るとすぐに文机に向き直り手紙を認め、旅立ちの準備を整えた。それからはどうしても眠る気になれず、アスハは窓の向こうをぼんやりと眺めていた。

 漆黒の空がじわじわと色を取り戻していくのを見つめる、彼女の心は凪いでいた。ただ時が過ぎていくという事実のみを、静かに受け止めている。

 

「今日、この城を発つんだね」

 

 その事実を正しく理解してはいるが、感情は置き去りにされたかのように遠い。他に何と言うべきかわからず、結局アスハは沈黙を選ぶ。

 空が漆黒から濃紺へと変わり、山の端から薄青、緑、黄色、橙へと、見事な色彩を描いていく。もうじき赤に染まるだろうというところで、部屋の外から声がした。出立の時が来たのだと、アスハは静かに立ち上がる。

 その時、彼女の目は文机に置かれた写真立てと手紙を捉えた。写真の中で満面の笑みを浮かべる母の姿と、手紙の宛先である叔父と従者の姿とを脳裏に焼きつけて、そして。

 

「……行ってきます、……」

 

 別れの挨拶をしたところで、返ってくる声は無い。静かな部屋にたった2通の手紙を残して、この日、紅アスハは旅に出た。

 

 

 

第3話 ひとりの旅立ち 了

 

 



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第4話 白

 

 

 長い船旅に揺られた体は、少しよろめきはしたものの、しっかりと石畳を踏み締めた。乾いた潮風に緋色の髪を靡かせながら、アスハは今しがた降りてきた船を振り返る。そこには、護衛としてアスハをここまで連れてきた兵たちが数人いた。

 

「本当にご苦労だったね。世話をかけてしまった」

「そのようなことはございません。お気に召されるな」

 

 折り目正しく頭を下げる兵たちに、アスハはこっそり、苦い笑みを浮かべる。しかしそれもつかの間、再度顔を上げた彼女の顔には明るく穏やかな表情のみがあった。

 

「ありがとう。では、私は行くよ」

「はい。御無事の帰還をお待ちしております」

 

 深く頭を下げる彼らに、うん、とだけ返して、アスハは歩みを進めた。町の外れに船を着けたこともあって、周囲に人気はほとんど無い。静かな昼下がりの港町を見渡して彼女は吐息を溢した。

 あまり木材が流通しないからだろう、砂を固めて粘土にしたーー所謂日乾しレンガが使われた建物は、石灰が混ぜられているからか、陽の光を浴びて白く滑らかな光を弾いている。それだけでは味気無かったであろう街並みは、色とりどりのタイルや織物で飾られている。火の皇国のものとは何もかもが違う。建物も、装飾も、行き交う人々の服装も。

 

「闇の公国、か」

 

 アスハがこの国を訪れたのは、これが初めてではない。それでも自国のそれとはあまりに異なる文化を前に、視線が移ろうのを抑えられない。

 闇の公国ーー大公が治めるこの国は、世界の最南部に位置する島国である。大陸のほとんどを砂漠が覆い尽くしていることもあり、昼夜で寒暖差が大きく、日中はやや露出度の高い、エキゾチックな装束が目に留まった。頭にはターバンやベールを纏い、股下が深く足首までゆったりと広がるズボンを履くという闇の公国独特の衣装は、さらさらとした薄手の生地で作られながらも決して安っぽくはなく、光を受けて繊細な光沢を見せている。

 辺りを見渡しながら歩いていたアスハは、いつの間にか人通りの多い港まで来ていた。闇の公国の者に限らず、さまざまな国の民族衣装を纏った人々で溢れている。記憶のそれよりも多い人数に首を傾げるも、すぐに思い至る。

 

「そうか、今はシャドウリデーカン……鎮魂祭か」

 

 この世界、メルセディアにおいては、1年が12の月に分けられている。1年の始まりをシャドウデーカンとし、それからウンディーネデーカン、ノームデーカン、イフリートデーカン、シルフデーカン、レムデーカンと続き、1年の折り返しとなるこの7の月はシャドウリデーカンと呼ばれる。それぞれの月には、名に表される大精霊の力が強まり、それぞれにちなんだ祭礼が執り行われるのが常だ。

 シャドウリデーカンーー死と始まりを司る大精霊シャドウの力が強まるこの月では、毎年鎮魂祭が行われる。水盆に張った水に月光を浴びさせ、死者の形見と闇の心臓石(ヘルツ)を入れることによって、水鏡は死者の姿を映す。言葉を交わすことはできないものの、死の国で穏やかに過ごす死者の姿を見ることで、生者は心の安寧を得て、改めて死者の冥福を祈るのだ。

 

(つい先日、私もやったばかりだったな)

 

 伏せた目蓋の裏に、あの日の光景が甦る。灯りを落とした部屋の中、襖を開けて招き入れた月光で水盆を満たしたーーその水鏡に映る、母の笑顔。

 

(……母様……)

 

 水鏡越しでは、死者の声は届かない。だからアスハには、あの時母が何を思っていたのか、何を言ってくれていたのか、なにもわからない。仕方ないと割り切っているが、心が曇ったのも確かだ。

 だが、しかし。この地でなら、そうではない。

 

「この、シャドウの力が溢れるこの地、この時ならば……」

 

 このシャドウリデーカンで、この闇の公国で行う水鏡の儀ならば、死者の姿を見るだけでなく声を聞くこともできるのだという。だからこそ、この時期に訪れる人々は多くなる。皆、死者の声にすがりたいと願っているのだ。

 アスハもまたその一人であるがゆえに、思い悩むように唇を噛んだ。母の声を聞きたい。母が幼い日のように自分の名を呼んで、励ましてくれるのを聞きたい。そう望みながらも動けないのは、葛藤に苛まれているからだ。

 

(今の、こんな私を見たら、母様はどう思われるだろう?)

 

 皇族の一員であるにも関わらず、魔導機関に夢中になるだけでなく、そのために一人で魔物の元へ赴き、勝手に危機に陥り……今こうして、たった一人きりで旅に放り出されている。

 どうしたの?と問われるだろうか。その時自分は、きちんと落ち着いて、誤魔化さず、笑うことができるのだろうか。情けないと、失望されはしないだろうか?

 そんなことを考えているうちに、視線がどんどん足元に落ちていく。街行く人並みの外れで、アスハはひとりだった。一人立ち尽くして、昼下がりの柔らかな日光に落とされた影を、ぼんやりと見つめている。

 

 

 そんな時だった。

 

 

「どうかしたのか」

 

 声を掛けられたのが自分だとは気づかず、アスハはしばらくぼうっとしていたが、しばらくしてはっと顔を上げた。その途端、こちらを窺っていた視線と視線が絡んで、彼女は大きく目を見開く。

 目の前に立っていたのは、アスハと同じ年頃ぐらいに見える少年だった。いつの間に近づいていたのか、なぜ声を掛けてきたのか、という驚きはあったものの、彼女の瞠目する理由は別にある。

 

(……白、い……)

 

 その少年の髪は白く、目は白銀だった。すべての色が抜け落ちたかのような混じりけのない“白”の姿を、このメルセディアでは【色無し】と呼ぶ。精霊の祝福の証として髪や目に精霊の色を宿すこの世界においては、【色無し】とは精霊の祝福を受けない者として、長らく差別の対象だった。今はそれほどではないものの、そもそも【色無し】は珍しく、アスハも出会ったのは初めてだったのだ。

 そんな彼女の驚きに気づいた様子もなく、少年はじっと窺うようにアスハを見つめている。そうしてまた口を開いた。

 

「具合でも、悪いのか」

「え?」

「……どこか、痛めたとか」

「い、いや、違うよ。なぜそんなことを聞くんだ?」

 

 アスハの問いに、少年は首を傾げた後、また彼女を真っ直ぐに見つめた。

 

「ーーきみが、辛そうな顔をしていた」

 

 真っ直ぐな白銀の目に、見透かされてしまったかのようだった。少なくともアスハはそう感じて、一瞬息を飲む。が、すぐに取り繕ってみせたのは彼女の矜持ゆえだった。

 

「そんなことはないよ。ぼうっとしていただけだから」

「そうなのか?」

「うん。心配させたようだね、すまない」

「すまない、は、いらない」

 

 ふるふると首を横に振って、少年の追求は終わったようだった。それでも彼の眼差しは変わらず、アスハに注がれている。責められているような厳しいそれではないが、なんとなくアスハは視線を反らした。

 反らした視線の先では、人々が行き交っていた。この国に住まうシェドの他に、鎮魂祭のために訪れたのだろう異国の民たちがそれぞれの装束を靡かせて歩いている。訪問客に品を売り込む商いの声に、今日の宿の場所を探し訪ねる声と、死者の思い出話をする声とが聞こえてくる。そんな穏やかな賑わいの中で、ふと、

 

「ーー、ーー……、ーー!」

 

 悲鳴が、聞こえた気がした。遠く遠く、か細く儚い、それでも悲痛に満ちた声。アスハは驚きに目を瞬かせて、その悲鳴はどこから聞こえてきたのか探ろうと耳を澄ませた。

 

 瞬間、彼女の背筋を、鋭い寒気が駆け昇る。

 

「ーーッ、う、あ……!」

 

 悲哀、憤怒、憎悪、諦観、絶望ーー世界中のそうした感情をかき集めて煮詰めて固めたような、そんな陳腐な表現では言い尽くせないほどの、重苦しい感情の波。おおよそ正常なものではない、歪みきったムジカの音律。それがアスハの鼓膜から入り込み、彼女の内側をガンガンと揺らす。頭痛に、吐き気。自分の在り方すら歪ませてしまいそうな響き。それに何より、心を引き裂かれるような痛みに、アスハは耳を塞いで膝をつく。

 そんな彼女の肩を支える手があった。痛みに耐えてうっすらと目を開けると、先ほどの少年が気遣うようにアスハを見ていた。そんな少年の眉間にも皺が寄っており、彼もアスハと同じく、この不協和音に苦しんでいるとわかる。

 

(それなのに、なぜ……)

 

 どうしてこんな、見ず知らずの者を案じているのか。案じて、くれるのか。

 アスハが疑問に思っていると、いつの間にかあの響きが止んでいた。は、と緊張のほどけた吐息を漏らし、アスハは立ち上がる。そうして少年に向き直った。

 

「……すまない、また、心配をかけてしまったね」

「すまないはいらない、と言った。……それより、大丈夫なのか」

「それは私の台詞だよ。君こそ大丈夫なのか?君にもあの音は聞こえていたようだけれど」

「問題ない」

 

 にべもなく答えた少年は、淡白なその表情を変え、すっと鋭く目を細めた。その視線の先をつられるように見たアスハは、大きく瞠目する。

 

「きっ、きゃああああ!!」

「魔物だ!魔物が出たぞぉぉ!!」

 

 つい先ほどまでいつもの日常を送っていた港町が、悲鳴と怒号に溢れていた。逃げ惑う人々の向こうに、黒い、人型の“何か”が蠢いている。

 それは人型ではあるが、体は腐りきって土塊にまみれていた。よたよたと覚束ない足取りを進めるたびに、腐敗した体の一部がぼたりと地面に染みを作る。胸が悪くなるような腐臭とムジカの歪みは、まだ遠いこの距離からも感じる。

 

「グール……!?」

 

 ムジカが歪んで魔物と成る。その中でも死者の魂がねじ曲がって在るべからず体に宿ってしまったものは、屍鬼(グール)と呼ばれ、紛い物の体で生者を襲う。そんな言い伝えは残っているものの、最近ではほとんど見かけなかったはずの魔物だった。

 なぜグールが、しかも街の中に出るなんてーーと、困惑に浸る時間は無かった。グールが手当たり次第に街の人にその両腕を伸ばす。その動きは緩慢だが、人々の中には恐怖のあまり腰を抜かしている者もいる。

 

「い、いや、いやああっ……!!」

 

 幼い少女がぺたんと座り込み、ぼろぼろと涙を流しているのを見た瞬間、アスハの心は決まっていた。逃げ惑う人々の波に逆らうように駆け、腰に差した刀の鯉口を切る。

 

「魔神剣!」

 

 地を疾る斬撃がグールの足を止める。痛みに呻いているその隙に、アスハは少女の前に立ち塞がった。グールを遠ざけるように斬り払いながら、背後の少女に呼び掛ける。

 

「そこの君、立てるかな?」

「あ……う、うん……」

「うん、偉いね。立って、走って、街の人と一緒に行くんだよ」

 

 穏やかな声に促され、少女がふらつく足で立ち上がる。その様子を背後で感じながらも、アスハは眼前の魔物から目を反らさない。痛みから立ち直ったらしいグールが自分を睨み付けるのに対して、刀を構え直す。

 

「大丈夫。怖い魔物は、絶対に追ってこないからね」

 

 声色は優しく、視線は厳しく、意思は固く、アスハはグールに対峙する。今度こそ少女が駆けて行ったのを背中で聞きながら、彼女はふッと鋭く腕を振り抜いた。

 

「虎牙、破斬ッ!」

 

 宙に浮いたその体を、再び地に叩き落とす。そんな斬撃を喰らったグールは、先ほどのダメージもあり呻きながら地に溶けていった。残された黒の心臓石(ヘルツ)を横目に、アスハは再び刀を振るう。未だ通りには複数のグールが蠢いている。街の人を救うためにも、刀を収めるわけにはいかなかった。

 

「はっ、……せやあッ!!」

 

 2体目を無に還して、辺りを見渡す。グールたちは徐々に距離を詰め、アスハに襲い掛かろうとしている。それでも守るべき街の人は既に避難しきったらしく、ほとんど姿は見えない。それはアスハを安堵させ、同時に僅かな隙を生んだ。

 背後の物影から現れたグールに、反応が一瞬遅れる。辛うじてその鉤爪を受け止めたが、それに乗じて襲い来る新手に対し、アスハは無防備だった。晒された彼女の首筋に、どろりとした屍の腕が迫るーーその前に、

 

 

「月閃光」

 

 

 陽の光の下で、月光が輝いた。そう錯覚させるような斬撃が、アスハの目の前でグールを斬り裂く。低い構えから一気に振り上げられた大鎌が、三日月の軌跡を描いたのだ。

 

「……君、は、」

 

 そこにいたのは【色無し】の少年だった。細身の体に似合わぬほどの大鎌を両手に、白銀の眼差しで敵を射抜いている。呆然と呼び掛けるアスハを見て、名を問われたと思ったのか、彼は静かに口を開いた。

 

「ぼくの名は、ミライ」

 

「……ミラ、イ?」

「そう。だけど今は、それよりも」

 

 ぶん、と大きく弧を描いて、ミライと名乗った少年は大鎌を構え直す。そうして、アスハを庇うように進み出た。

 

「今は、こいつらを倒す」

 

 その言葉に恐れや迷いは一切ない。真っ直ぐな声色に、アスハは鼓舞されたかのような心地で唇を引き締めた。ミライの隣に進み出て、切っ先をグールの群れに向ける。

 

「……ああ!」

 

 1人と1人は2人で並び立ち、同時に地を蹴った。

 

 

 

第4話 白 了

 

 



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第5話 夜が明けて

 

 ぶん、と空を切る音とともに、鋭利な大鎌が振るわれる。それがグールの死肉を両断したかと思えば、すぐさま弧を描いて別のグールへと襲い掛かっていく。三日月のような軌道は美しいが、それに見合わぬほどの破壊力に満ちていた。どしゃ、ぐちゃ、と薙ぎ倒されていくグールの群れ。その前に立つミライを、アスハは横目にこっそりと覗き見た。

 

(本当に、涼しい顔で振るうんだな)

 

 身の丈ほどありそうな大鎌は、持つだけでも相当な力が要ると見える。それを振るい続けるミライからは、しかし疲労の色は見当たらない。疲れはおろか、焦りや恐怖などもない。凛としたその眼差しは強く、ただ前を見据えている。

 どこにそんな力があるのか不思議なくらいに細身の体は、シェドの民族衣装を纏っていた。濃紺を基調としたその色合いは、まるで月明かりの眩しい夜空のよう。頭にはさまざまな色と模様が織り交ぜられたバンダナを巻いており、真白の髪によく映えていた。

 ふと、そんな彼の向こうに新手のグールが近寄っているのが見えて、アスハは刀を手に駆け出す。

 

昇舞(しょうぶ)ッ!」

 

 高く跳ね上げた刀が、夕焼けの光を弾いて輝く。グールの沈黙と同時に落ちてきた刀を受け取って、アスハはミライの隣に並んだ。

 

「だいぶ、数は減ってきたけれど……」

「きりがないな」

 

 戦場となった通りを見渡す。非戦闘員である民衆の避難は済んでおり、今は駆け付けた自警団や戦闘技能を持つ旅人らがそれぞれグールを相手取っていた。しかしそれでも尚グールが全滅に至っていないのは、ぼこり、ぼこりと、次から次へと地面から這い出てきているからだ。

 ……地下、とアスハは視線を足元にやる。そこからグールが這い出てくるということは、もしや。

 

「……確かこの街には、地下に墓地があったはず」

「そうか。なら、行こう」

 

 アスハの呟きに、ミライが頷くのは早かった。そのまま駆け出してしまいそうなミライの袖を、アスハは慌てて掴む。待ってくれ、と声を上げた少女に、少年は不思議そうに首を傾げる。

 

「どうした?」

「どうしたって……地下は恐らくこの騒ぎの元凶がいるはず。ここ以上に危険に違いない」

「ああ」

「……本当にわかっているのか?危険なんだ、だから、」

 

「それでもアスハは行くだろう」

 

 そう言われてアスハが言葉を無くしたのには、理由がある。一つはそれが図星だったから。そしてもう一つは、何故自分に着いてこようとするのかわからなかったからだ。

 何故、どうして。自分などに着いてきてくれるのか。

 アスハの疑問を気にした風もなく、一切の揺らぎなく、ミライの白銀の目は彼女を見据えている。

 

「きみが行くなら、ぼくも行く。ーー行こう、アスハ」

 

 真っ直ぐな声に、瞳に、アスハは口許を結んで頷く。そうして一瞬の後、二人は同時に駆け出した。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 街外れの地下階段を下った先は、ひんやりとした空気に満ちていた。日の当たらない地下は暗く、ただカンテラに備え付けられた心臓石(ヘルツ)が仄かな灯りを灯している。

 

「ここが、地下墓地……」

 

 暗闇に目を凝らせば、土塊の壁は円周上に広がり、幾つもの通路を成している。それらは一つ一つ、棺桶が安置されているのだろう小部屋に続くのだろう。一目見ただけで、膨大な広さがあることが二人にはわかった。無闇に歩き回っては、無駄に体力と時間を消耗してしまうだろうということも。

 ならば、と。アスハは目を閉じて、耳をそばだてた。ムジカの歪みを、その大元を辿ろうと意識を集中させる。冷えきった静寂、グールのべちゃりとした足音、呻き声、ざり、と砂が擦れる音、そしてーー

 

「ーー見つけた」

 

 琥珀色の目が見据えた、そのずっと先に、元凶たる大きな歪みがある。遠いこの場所からも感じ取れる異常な響きに、アスハは浅く息を吸い込む。ひゅ、と喉が鳴った。

 

(……行かなければ、)

 

 行かなければ、この騒動は収まらない。今はなんとかなっているとはいえ、騒動が続けば負傷者もーー最悪の場合死者も出るだろう。自分が行かなければ、ならない。

 それでもアスハの足を止めるのは、つい先日の秋茜の林道での一件だった。あの時の強大な魔物になす術なく倒れ伏した自分を、痛みを、無力感を、恐れを思い出してしまった。使命感か、恐怖か、諦念か。葛藤に身動きできずにいるアスハの前を、すい、と影がゆく。

 

「、……」

 

 ミライだった。彼は平然と地下の暗闇へ足を進めている。漆黒の世界に浮かび上がるようなその白に、アスハははっとした。気づいた。

 ーー今は、ひとりではないのだと。

 

「……?どうした、アスハ」

「いや、……なんでもないよ」

 

 にこりと微笑み、アスハは嘘を吐いた。

 

「行こう、ミライ」

 

 足音は二人分。足はもう、震えてはいない。

 

 

 

ーーー

 

 

 

スキット【心臓石(ヘルツ)の使い道】

 

 

ミライ「戦闘終了。……アスハ、何をしているんだ?」

 

アスハ「先ほどの魔物が心臓石(ヘルツ)を落としたから拾っているんだ。心臓石(ヘルツ)には色々な使い道があるからね」

 

ミライ「使い道とは、どのような?」

 

アスハ「そうだね、まず何においても魔導機関の動力源になることかな。後は……私はまだ試していないけれど、武器の補修や強化にも使えるらしい。……待てよ?ということは武器そのものを鍛える時にも使えるのでは……」

 

ミライ「詳しいんだな」

 

アスハ「!……いや、その、……すまない。話し過ぎたね」

 

ミライ「なぜ謝る」

 

アスハ「……確かに、君に謝るのはおかしかったかな。けれど、あまりこういうことに傾倒してはいけないと言われていたんだ。それなのに、私は……」

 

ミライ「……アスハ、」

 

アスハ「すまない。さあ、先を急ごう」

 

ミライ「…………」

 

 

 

---

 

 

 

 地下墓所を歩き進めてどれほど経っただろうか。ここは常に暗闇に覆われているから、時間の感覚が掴みづらい。道中に沸き出るグールたちを斬り払い、迷路のような細道を歩き続け、幾度目かの扉を開け放ったアスハたちは、これまでの小部屋とは違う広間に出た。

 四方を囲む壁面には繊細な幾何学模様が掘られており、柱に埋め込まれた心臓石(ヘルツ)の灯りによってその凹凸が照らし出されている。そうした厳かなこの間の最奥部には、タイルで装飾の施された棺が等間隔で並べられている。この街の代々の領主の墓だろうかとアスハは思い至るも、それを口にすることはできない。何故ならば。

 

「--グオオオオオオォォ……」

 

 地を揺らす唸り声は、グールのそれより大きく低い。それも当然だろう、とアスハは対峙した巨体を見上げた。土塊にまみれた腐敗した体。四肢の他に、本来あるべきところとは違う場所からも手足がばらばらと生えている様は、まるで何匹ものグールが乱雑に混ぜられたかのようだった。--よう、ではなく、事実なのかもしれない。たった一匹のグールでさえ、魔物特有の歪みを発している。それが何十、何百にも折り重なったと思えば、このムジカの強烈な歪みも納得できる。

 

「グールキング、……話に聞いたことはあったが、実在していたとは」

 

 アスハは努めて声を落ち着けた。無意識のうちに、刀の柄を握り締める手に力が籠る。そんなアスハの様子を知ってか知らずか、ミライが大鎌を手に進み出て、

 

「あれを倒すんだな」

 

 そんな、迷いのない声で言うものだから。アスハは目を瞬かせた後、ふっと微笑んだ。

 

「ああ、ミライ。……行こう!」

 

 先んじて斬り掛かったのはアスハ。巨体ゆえ攻撃することは容易なものの、分厚い腐肉に遮られて刃が奥まで届かない。続けて鎌を振るったミライもまた、思ったような手応えが得られずに眉を寄せた。

 そんな二人に向かって、グールキングの両腕が振り下ろされる。

 

「ッぐ……!」

 

 鞭のようにしなった腕に薙ぎ払われ、アスハとミライは床に叩きつけられた。受け身をとって直ぐ様立ち上がったが、受けたダメージは大きく、その足を少しふらつかせる。

 

「……斬り合いでは、こちらが不利だ」

「……そのようだね」

 

 ぽつりと小さく会話を交わす。その間にもグールキングの鉤爪が飛んでくるため、二人はそれぞれ横に跳んで攻撃を避けた。斬って、避けて、避けきれず防御して。戦えば戦うほど攻撃力の差が歴然と表れ、押されていくようだった。アスハは歯噛みし、思考する。

 

(物理的な攻撃では通らない、ならば……!)

 

 術での攻撃ならば、効くかもしれない。腐臭を撒き散らす体はぬらぬらと滑っていて、火でも与えてやればよく燃えそうだとアスハは気づく。そしてアスハはイブリス。火の大精霊イフリートの眷属。剣技だけでなく詠唱術も修行していた彼女は、火属性の攻撃術を会得している。

 そうした条件を揃えながらもアスハが行動に移せないのは、グールキングの攻撃が止まず、隙を見出だせないからだ。精神の集中を必要とする詠唱術は、大抵の場合、敵からの攻撃を受けると詠唱が中断されてしまう。中にはムジカを体内に取り込んで鋼体を創る上級者もいるが、今のアスハには不可能である。

 詠唱の時間を稼がなければいけない。そのためには、詠唱の間グールキングの攻撃を一手に引き付けなければならない--引き付ける誰かが、要る。

 

「アスハ、」

 

 その声はさほど大きくないにも関わらず、この戦場において凛と響いた。顔を上げたアスハの目に、戦いながらも、こちらを真っ直ぐ見据えるミライの姿が映る。

 

「なにか思いついたのならば、言ってほしい」

「、……っいや、駄目だ。いけない」

 

 脳裏に浮かんだ作戦を振り払う。駄目だ。いけない。そんなことをさせては危険だと、アスハの中で警鐘が鳴り響く。

 自分が皆を守らなければいけないのに、自分の代わりに矢面に立たせるわけにはいかない。--それはアスハの信念ではあったが、意固地とも言えるプライドでもあった。“そうしなければならない”と、思考と行動を縛るものだった。しかし。

 

 

「--アスハ!」

 

 

 そんな戒めを、彼の声はほどいていく。

 

 

「任せろ。絶対、きみに攻撃を届かせやしない」

 

 

 細い背中も、背丈も、アスハとあまり変わらない。しかしその後ろ姿に、どうしようもない安堵を抱く。--信頼を、抱く。

 

「……わかった。……ミライ!詠唱時間を稼いでくれ!」

 

 彼は微かに、けれど確かに頷いて、大鎌を高く振り上げた。ぶおん、と空を切る音とともに大きく弧を描いて、その月は地上すれすれから再び空に昇る。その最中、鎌の切っ先がグールキングの腕を引っ掻けた。ぐっと、ミライは腕に力を込める。

 

弄月(ろうげつ)、」

 

 斬り下ろし、斬り上げ、また斬り下ろす。鎌に引っ掛けられたまま方々に体を打ち付けられて、グールキングが苦悶の声を上げる。そんな前衛の様子を見やりながら、アスハは詠唱を続けた。空中に漂うムジカを集め、力ある事象を創りあげていく。そして、

 

「--“ファイアーボール”!」

 

 練り上げた力に名を与える。存在を、かたちどる。アスハの頭上で生まれた火の玉は、真っ直ぐに宙を疾りグールキングに命中した。弾ぜた火球は暗闇を散らし、苦悶の声が地を揺らす。すえた臭いがアスハたちに届くが、まだ巨躯が傾ぐ様子は見えない。

 

「……グオオオオォォォッ!!!」

 

 しかし、激昂に至るだけのダメージは与えていたらしい。グールキングは怒りに震えるまま、巨大な腕を振り下ろす。前線を張っていたミライに向けて。

 

「……ッ!」

「、ミライ!!」

 

「--来るな!!」

 

 轟音とアスハの悲鳴じみた声に負けぬようにと、ミライは声を張り上げた。振り下ろされた豪腕を大鎌で受け止めたミライの姿は、舞い上がる砂埃に隔てられてアスハからは見えない。しかし、

 

「もう一度だ、アスハ!」

 

 迷いなく、揺るぎなく、その声は凛と響く。それにアスハは頷き、瞳を決した。決意を込めて唇が開かれる。

 

「……焔より生まれ出でよ火の精 その意志を射放て」

 

 先ほどより威力が出るようにと、より緻密な言霊を紡ぐ。その詠唱にかたちどられたムジカが、ごう、と熱風を起こした。地下墓地の暗闇を照らしたその様は、まるで小さな太陽のよう。

 その熱気を危険と判じたのか、グールキングがぎょろりとした眼孔をアスハに向けた。が、それを咎めるように大鎌の斬撃が襲い掛かる。

 

「行かせない」

 

 アスハへ続く道に、ミライが立ち塞がる。その背中を見つめて、アスハの瞳に光が灯った。

 

「--汝に、名を 与えよう--」

 

 存在をかたちどる名付けで、詠唱を締め括る。

 

「……“ファイアーボール”!」

 

 名付けられた力は、その名を証明するかのように熱を持つ。火矢は続けざまにグールキングの身体に突き刺さり、腐った巨躯を燃やしていき、ついに傾いだ身体は地に倒れ伏す前にムジカとなって消えていった。

 ……ついにあのグールキングを倒したのだ、と。そうした感慨を抱くのも束の間、アスハは慌ててミライに駆け寄った。

 

「ミライ、怪我が……」

「問題ない」

「……問題ないわけないだろう、」

 

 事も無げに言うが、ミライの身体は傷だらけで、相当のダメージを負っているとわかる。それなのに少年は涼しい顔をするものだから、アスハは眉を寄せながら回復術を唱えた。

 

「癒しよ来たれ。“ファーストエイド”」

 

 ミライの身体が、柔らかな白緑の光に包まれる。それを何回か繰り返し、ようやく彼の身体から傷が消え去ったのを見てとって、アスハはようやく微笑んだ。

 

「君がいてくれなかったら、グールキングは倒せなかった。本当に感謝する。……ありがとう、ミライ」

 

 ふわりと浮かんだ晴れやかな笑みに、ミライは銀の目をぱちくりと瞬かせた。ぽかんと空いた口が、言葉を探すように開閉を繰り返す。

 

「……、…………」

「ミライ?」

「……ああ、うん、……」

 

 ……こういう時、どう言えばいいかと、迷って。

 しばしの沈黙の後、心底真面目くさった顔でそんなことを言うものだから、アスハはまたくすりと笑った。

 

「ありがとう、と言われたら、どういたしまして、でいいのではないかな」

「そうなのか」

「うん」

 

「……どういたしまして」

「うん、ミライ」

 

 アスハが嬉しそうに笑う。それを見たミライもまた、笑うまではいかないものの、瞳が丸く柔らかくなる。そんな会話をした2人は、共に地上へと戻っていった。

 

 

 

---

 

 

 

 アスハとミライが地上に戻ると、既に討伐が完了していた。夕暮れの中、戦後の処理のためか役人や町人が走り回っている。日常に戻りつつある街並みを見て、改めて元凶を倒したのだという安堵と疲労感がやって来て、アスハたちは真っ直ぐ宿を目指した。ロビーで別れ、それぞれの部屋に入り、旅の汚れを落とし、簡単な食事を摂って、ぼふん、とベッドに雪崩れ込む。闇の公国特有の刺繍が施されたクッションを抱え、ふう、とアスハは吐息を漏らした。

 

「色々なことがあった、な……」

 

 思い返せば、非常に目まぐるしい1日だった。あまり晴々しい旅立ちではなかったはずだが、これだけ忙しないと感傷的になる暇もない。それに、

 

「……ありがとう、か。……ふふ、」

 

 悲しい記憶だけが、刻まれたわけではなかったから。

 

「……くすぐったいもの、なんだね」

 

 微笑んで目を閉じる。異国の地のひとりの旅立ちは、思ったよりも穏やかな気持ちで始められそうだと、そう思いながらアスハは眠りに就いた。前途は明るいように思われた。

 

 そのはずだったのだが。

 

 

「……一人では、通行許可が出せない?」

 

 一夜明けて、さあ出発しようと門に訪れたアスハを待ち受けていたのは、思いもよらない言葉だった。呆然とするアスハに、門を預かる衛兵は続ける。

 

「そうなのです。昨日の騒ぎが原因かは不明ですが、ここに限らず闇の公国全体で魔物の数が増えています。キャラバンなど、複数人での旅ならまだ大丈夫でしょうが、一人での行動は危険であるとお達しがあったのです」

 

 なので、お通しすることはできません。

 眉を下げてそう言われると、アスハも食い下がることはできず、しかし戸惑いに俯いてしまった。

 

(そんな、……どうする。キャラバンに頼むしかないか?)

 

 羽根馬車で世界中を旅する旅団・キャラバンに乗り合いすれば、この問題を突破できるだろう。他の巡礼者の一行と合流しても可能だったかもしれない。しかし今はシャドウリデーカン。旅立ちの月であるシルフデーカンから2ヶ月も遅れているため、街にはキャラバンも巡礼者もいなかった。

 どうする。このまま留まってしまうと、兄の命令に背いてしまう。……どうすれば。

 そんな風に、アスハが思い悩んでいたとき。

 

「アスハ、」

 

「……ミライ!」

 

 名を呼ばれて振り返ると、そこにミライが立っていた。彼は少し首を傾げ、じっとアスハを見つめる。

 

「この街を出たいのか」

「ああ、月の都マハスティに行きたいのだけれど、1人では通行許可が通らないそうで……」

「なら、一人でなければいい」

「うん、そうだね。そうなのだけれど、」

 

「ぼくが一緒に行けば、2人になる。」

 

 事も無げに言ってのけたミライに、アスハは言葉を失くす。ぱち、ぱち、少女の琥珀色の目が瞬くのを見て、ミライは不思議そうに口を開く。

 

「アスハ?」

「……あ、す、すまない、少し、驚いて、……」

 

 アスハは改めて目の前の少年を見やった。銀の目に迷いはなく、揺らぎもなく、さっきのは心からの言葉なのだと気づかされる。冗談でもなく、慰めでもなく、本音そのものなのだと。

 

「……魔物が増えたそうだから、道中には危険が伴うだろう。私と一緒に戦ってもらうことになる。それでも、ミライ、

 …………私に、着いてきてくれるの?」

 

「ああ」

 

 アスハとしては、申し訳ない気持ちと覚悟とで、緊張の面持ちで尋ねたのたが、あんまりにもミライが呆気なく肯定するので、なんだか気が抜けてしまう。ぽかんとして、ふっと微笑みを溢して、……躊躇いとは無縁の人物だったな、とミライを見つめ直す。

 

「では……すまない、頼めるかな、ミライ」

「すまないはいらない、と前も言った」

「……ふふ、そうだったね」

 

 アスハは右手を差し出した。朝焼けを背に、晴れやかに微笑む。

 

「ありがとう、ミライ。これからよろしく」

「……どういたしまして、アスハ」

 

 

 

 

第5話 夜が明けて 了

 

 

 

 



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第6話 砂漠を歩む

 

「……わあ……!」

 

 感嘆の声を上げるアスハの目の前に広がるのは、きらきらと黄金色に輝く砂漠だった。砂の一粒一粒が生み出す濃淡が、まるで波のようにさざめいている。こんな光景は火の皇国では決してみることはできない。その違いが面白くて、アスハは、砂混じりの風すら笑って受け止める。

 

「……砂漠が、それほど嬉しいか?」

「嬉しい……よりも、面白いが近いかな」

 

 踏み出した足が砂塵の中に少し沈む感覚も、大変さよりも新鮮みを感じる。にこりと笑いながら前を行くアスハに、ミライは曖昧に頷いて続いた。

 アスハとミライは港町を出て、この砂漠に築かれた街道・【銀の道】を歩いていた。門番の言っていた通り、道行く旅人に襲い掛かる魔物は数を増していたが、二人揃った今なら道を阻むほどの脅威ではない。

 

「そうか。ミライはシェドなのだし、君にとっては大して珍しいものでもないかな」

 

 だから何気なく、そんな雑談が口をついて出た。アスハにとってはほんの世間話のつもりで。だから、

 

「シェド、……シェドとは、なんだ?」

 

 まさかそんな返答があるとは思わず、しばらくの間、二人の間を沈黙が満たす。足を止めて振り返ったアスハに、驚きに見開かれた目に、ミライは不思議そうに首を傾げる。

 

「どうした、アスハ」

「ど、うしたっ、て…………それは私の台詞なのだけれど」

 

 裏返った声を抑えて、アスハは努めて冷静に言葉を選ぶ。

 

「……このメルセディアは精霊の祝福を受けた地であり、私たちヒトは皆、精霊の眷属として生を受けた。闇の大精霊シャドウはシェドを、水の大精霊ウンディーネはディーネを。地の大精霊ノームはノーマンを、火の大精霊イフリートはイブリスを。風の大精霊シルフはシルフィを、そして、光の大精霊レムはレムリアを、それぞれ生み出したんだ」

「闇の大精霊シャドウの眷属、それがシェドか」

「そうだよ。……聞いたことは、一度もなかったかな」

「ああ」

「そう、か」

 

 誰もが皆、大精霊の祝福を受けた眷属であることは、この世界に生きるヒトならば誰もが知る常識だった。父母からの寝物語や、幼稚舎での読み聞かせなどで、幼い頃から何度も耳にするはずの“当たり前の話”。それを聞いたことがないとは、どういうことなのか。疑問に思ったアスハだが、その問題に踏み込んでもよいものか、ミライをみだりに傷つけはしないだろうかと躊躇する。

 視線を僅かにだが泳がせたアスハに、ミライは彼女の戸惑いに気づいた。ああ、と付け足す。事も無げに。

 

「ぼくはつい先日、この闇の公国で目覚めたんだが、目覚めるより以前の記憶を失っているんだ」

「……、…………え、」

「記憶を失っているから、きっと、知っていて当然のことも知らないんだろう」

「……随分と、他人事みたいに言うんだね」

「記憶がない分、実感が遠いからかもしれない」

 

 淡々と受け答えするミライに、記憶を失ったことへの不安や焦燥は感じられない。ただあるがままに現状を受け止めている。彼はなるほど、と頷いた後、しばし考え、また首を傾げた。

 

「そういえば、アスハはなぜ、ぼくがシェドだとわかったんだ?」

「え、あ、ああ……六の種族にはそれぞれ特徴があってね、たとえば風の祝福を受けたシルフィなら、背中に羽根を生やして空を自由に飛ぶことができるんだ。そしてシェドなら、」

 

 アスハはすっとミライの足元を指差した。砂漠の熱気にゆらりと空気が揺れている。燦々と降り注ぐ陽光を受けてなお、少年の足元にはあるはずのものがない。

 

「シェドには、影が無いとされている。私の足元には、ほら、あるだろう?」

「確かに。けれどどうして、シェドの影は無いんだ?」

「私も伝え聞いただけなのだけれど……曰く、影とは魂の楔。魂がここに在ると証明するもの。普通は、私たちと切り離せないものなんだ」

 

 アスハは口許に手を添えながら、以前本で読んだ記述を思い返して諳じる。

 

「けれど、シェドの影には魂そのものが宿るとされている。それはシェド本人の魂の半分だとか、また別の魂だとか……そこは明らかにされていないけれどーーとにかくそうした理由で、シェドの影は独立した存在として存在していて、私たちのように足元には現れないんだそうだ」

「そうか。では、シェドの影はどこに?」

「大抵は【死の国】にいるそうだよ。【死の国】とは、生を終えた魂がゆくところで、この闇の公国であってそうではない場所ーー別位相にあるとされている。私たちは行くことはできないけれど、シェドは、死の国にある自分の影を介して、死の国に行くことができるのだとか」

 

 話しながら、アスハの琥珀色の目が微かに曇る。その翳りの中で彼女は過去を思っていた。過去になった、母を思っていた。

 

(シェドだったならば、母様に会えるーーなんて、)

 

 なにを感傷的になっているのやら、とアスハは口許に嘲笑を浮かべた。今がシャドウリデーカンで、鎮魂祭が行われていて、闇の公国にいて、とさまざまな条件が揃っていたにしても、あまりに後ろ向きすぎる。心が、弱すぎる。

 こんなことでは駄目だ、とアスハはすぐさま気を取り直し、表情を穏やかに作ろうとした。その時。

 

「なら、ぼくの影は迷子になっているのかもしれない」

 

「……、……うん?」

 

 唐突なミライの言葉に、アスハは表情を取り繕うのも忘れて目を丸くした。意味を図りかねている少女に、少年は不思議そうな顔をする。

 

「?どこにいるのかわからないものを、迷子と呼ぶのではないのか?」

「そ、そうだけれど……、……待った。今君は、“どこにいるのかわからない”と言ったね?」

「ああ。ぼくの影が、今、“どこにいるのかわからない”」

「…………そんなことが、あるんだね……」

「あるみたいだ」

 

 あまりに淡々としているミライの声色に、冗談や自虐は感じられない。彼は至極真面目なのだ。至極、真面目に、なにもわからないという現状を受け止めているに過ぎない。

 

「アスハ、」

 

 そんな彼に呼び掛けられ、はっとアスハは我に返った。どうしたのかな、と言おうとした言葉は喉の奥に消える。アスハの視界の中にいるミライは、いつものまっさらな表情の上に、ほんの微かな微笑みを滲ませていた。

 

「ぼくは今、なにもわからない。……だけど、きみからいろんなことを教わるのは、楽しい」

 

 アスハの心に、ふわりと熱が込み上げる。それはミライの初めての笑顔を見たのと、その言葉に思うところがあったのと、両方が理由だった。

 

(私も、……私も、そうだった)

 

 かつて幼い自分もまた、母から多くのことを教わるたびに、楽しくて、嬉しくて、そして、ーー。

 

「……うん。私も、知らないことを知るのは、楽しくて、大好きなんだ。知るたびに、世界がもっと鮮明に見えて、世界にもっと近づく気がして、もっと、もっと、……世界が好きになるんだよ」

 

 過去の想い出を噛み締めるように言葉を紡ぐ。知らず知らずのうちに、アスハは柔らかく微笑んでいた。そんな少女の穏やかな眼差しをじいっと見つめた後、ミライは目を瞬かせる。

 

「アスハにも、知らないことがあるのか」

「もちろん!世界にはまだまだたくさん、私の知らないことがある。たとえば、……そう、この銀の道が、なぜ銀の道と呼ばれるのか」

「……確かに、一面黄金色なのに、なぜ“銀の道”というんだろうか」

「ね。“何故だろう”が、たくさんあるよね」

 

 楽しげに笑って、アスハはくるりとその場で回ってみせた。黄金の砂漠を背に、緋色の髪が踊るように揺れる。

 

「知らないことをたくさん見つけて、たくさん知っていこう、ミライ。そしたらきっと、もっと君は、世界を好きになれるから」

 

 アスハの言葉を聞いて、ミライは黙考した。銀の目がなにかを思うように伏せられる。それは眩し過ぎるものを避ける仕草に似ていた。それでも。

 

「……ああ、アスハ」

 

 それでも彼は、少女を見つめ返し、静かに頷いてみせた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

スキット【ディスカバリーブック】

 

 

アスハ「そうだ。ミライ、新しいことを知るというのなら、これを使ってはどうかな」

 

ミライ「ディスカバリーブック?」

 

アスハ「ああ。これは倒した魔物や見つけた珍しいものを記録していく本だよ。今までは私が書いていたんだけれど、これからは一緒に書くのはどうかと思って」

 

ミライ「一緒に、……だけど、ぼくに書けるだろうか」

 

アスハ「できるよ。よくわからない時は私も教えるし……知識というのは、自分で見つけて、考えて、記録に残すべきだと思うから」

 

アスハ「あ、でも、ミライが嫌でなければ、だけど……」

 

ミライ「嫌ではない。頼めるか、アスハ」

 

アスハ「!うん、一緒にやろう、ミライ」

 

 

 

スキット【サンドローズ】

 

 

ミライ「……、アスハ、これを見てくれ」

 

アスハ「どうしたの、ミラ……、これは、サンドローズ!?」

 

ミライ「サンドローズ?砂の薔薇……これは植物なのか?」

 

アスハ「うん……これはね、分類が難しいんだ。地底から染み出した水が一部を溶かして形成された石だと言われていたんだけれど、最近になって植物の細胞が確認できたと学会で発表されたんだよ」

 

ミライ「……石でもあるが、植物でもある……?」

 

アスハ「それが混ざりあった存在、というのが近いかな」

 

ミライ「不思議なものだな」

 

アスハ「本当に。自然の神秘というのは、奥深いね」

 

 

 

ーーー

 

 

 

 朝方に出発してから銀の道を歩き続け、流石にアスハたちにも疲労が溜まってきた。頬を伝う汗が顎から落ち、砂に染み込まれていく。

 

「流石に、少し……疲れてきたね」

「喉が乾くな」

「備えの水はまだあるけれど、早めにどこかで補給したいところだ」

 

「補給ならば、この先のオアシス=ジャンナへお越しくださいな~」

 

 ふと頭上から影が差して、アスハとミライは驚いて顔を上げる。視界を染める真っ青な空を背景に、にこにこと微笑む人物がいた。その背中には黒い翼ーー白と橙の飾り羽根が印象的だーーが生えている。

 

「背中に羽根……風の大精霊シルフの眷属、シルフィか」

「ですです~。それに加えて申し上げますと、」

 

 シルフィの女性はとんと砂漠に着地した後、胸に手を当て、ひらひらとした服の裾をつまみ、綺麗に一礼してみせた。空中から降りたため背中の羽根は溶けて消えたが、肩口で真っ直ぐに切り揃えられた髪は羽根と同じ黒色で、飾り羽根と同じ、白と橙の髪飾りをつけていた。

 

「ワタクシはマルシャン・エトピリカと申しまして、エトピリカ商会に勤めております一介の商人でございます。御気軽に『マルちゃん』『マルさん』とでもお呼びくださいな~」

 

 にこっと微笑む目は糸のようだが、きっと緑色をしているのだろう。羽根を出すために大きく背中の空いたインナーに、それを覆うようなケープは、シルフィが好んで着ている民族衣装だ。大きく広がって足首で裾が絞られたズボンは、丸いシルエットを描いていて可愛らしい。

 人好きのする笑顔と“エトピリカ商会”という名を聞き、アスハは警戒を解いて笑みを浮かべた。

 

「エトピリカ商会とは、旅する者への貢献度なら他の追随を許さないと言われているね」

「はいな~。旅人への衣食住、武器防具に役立つ道具、なぁんでも揃えてご提供!がわが商会のモットーでして~」

 

 にこやかなマルシャンと相対するアスハに、ミライもようやく肩の力を抜いた。そんな彼の様子を知ってか知らずか、マルシャンはぱっと微笑んで続ける。

 

「昨日から魔物の活性化だなんて物騒なことが起きていますでしょ?わが商会はそれにいち早く対応するために、商会員一同、真心こめて品揃えさせていただいております~!この先のオアシス=ジャンナにも系列店を出させてもらっていますので、どうぞどうぞご贔屓に~」

「携帯用の水もあるのか?」

「勿論です~!それだけじゃなく、ありとあらゆる新鮮な果実をギュギュッと絞り、水の響術でひんや~り冷やした果実水も各種ご用意しておりますよ~」

「果実水……」

「うん、その名に違わぬ商売上手だね」

「お褒めいただきありがとうございます~」

 

 ミライの白銀の目がわかりづらくも輝いている。アスハだって苦笑しながらも完全に果実水の口になってしまっていた。2人はいち早く都に行かねばならないというマルシャンと別れ、彼女の言うオアシス=ジャンナへと足を向けた。

 

 

 

ーーー

 

 

 

 オアシス=ジャンナ。闇の公国の古い言葉で【天国】を意味するらしいそこは、まさしく砂漠の中の天国だった。

 

「わあ……!」

 

 感嘆の声を上げるアスハの隣で、ミライも目を丸くしていた。オアシス=ジャンナの街の中央には大きな泉ーーオアシスがあり、空の青さを映したような水面がきらめいている。水辺には椰子や蘇鉄の木が覆い繁り、涼しげな陰を作って暑さにうだる人々を癒していた。水を汲むために大きな桶を抱える女性や、水遊びをする子どもたち、船で品物を運ぶ男たちの姿が見える。ここではオアシスを中心に生活しているのは明らかであり、そんなオアシスを中央に円を描くように、さまざまな建物やテントが建ち並んでいた。

 

「オアシス=ジャンナ……砂漠を旅する人々や、彼らを相手に商いをする人々が集まってできた街だそうだ」

「商い、……だからこんなに店が多いのか」

「みたいだね。店舗を持たない者だって、テントで露店を開いているようだし」

 

 世界中を旅して商売をして回るキャラバンのものだろうかと、物珍しげに辺りに視線をやる。その目はきらきらと輝いていた。

 

「マルシャンから聞いたエトピリカ商会の店もあるそうだし、少し歩いてみようか、ミライ」

「ああ」

 

 連れ立って歩き、露店をひやかして回る。道中でマルシャンの言っていた果実水の店を見つけ、2つ注文した。アスハが少し悩んでから選んだ西瓜の果実水を見て、ミライも同じものを頼む。店先の木陰に置かれた丸椅子に腰掛けて口をつけると、さっぱりした甘さが喉を潤していき、自然とアスハの頬に笑みが浮かんだ。

 

「甘くてひんやりしてて、美味しいね」

「そうだな。……それにしても、」

「どうしたのかな?」

 

 何かあったのかい、と尋ねると、少年はアスハの無限巾着に目を向け、疑問を口にした。

 

「道中の魔物退治で得た心臓石(ヘルツ)は、換金することもできるんだな」

「そうだね。もはや魔導機関はこの世界の生活の基盤となっているし、心臓石(ヘルツ)はその動力源だから」

 

 誰もが使うし、誰もが求める。だから金銭と交換もできるのだろう。アスハたちも携帯食料や飲料水、新しい武器や防具にアクセサリなど、これからの旅に必要なものを買ったので、無限巾着の中の心臓石(ヘルツ)はだいぶ少なくなっている。

 その中に残った一際大きい心臓石(ヘルツ)に目を留め、そういえばとアスハは手に取った。手のひらほどの大きさのそれは夜空のような黒色。ーーつい昨日、あの地下墓所で討ち取ったグールキングが落としたものだった。

 心臓石(ヘルツ)は宝石のような姿かたちをしているが、実際は高密度のムジカの結晶であり、触れているとそこに含まれた響きが聴こえてくる。そこでまた、アスハは首を傾げた。

 

(……そういえば、港町で聴いた“あの悲鳴”と、このムジカの響きは違うな)

 

 あの通りで突然聴こえた、か細くも悲痛な悲鳴。その直後、到底まともとは言えない重苦しい感情の揺らぎに襲われ、心身にダメージを負ったことは記憶に新しい。

 

(あの“悲鳴”の直後にグールの群れが沸いたから、元凶であるグールキングの発するムジカかと思ったのに、違う(・・・)。ーーだとしたら、)

 

 あの“悲鳴”の持ち主はまた別にいる。

 グールキングより苛烈に、凄絶に、何かを恨みつらみ、絶望している感情の持ち主が、別にいる。

 

 砂漠の熱気を押し避けてやって来た寒気に、背筋が震える。そんな風にして考えに没頭していたから、だから彼女は気づけなかった。

 

「ーーアスハ!」

 

「え、……っ!?」

 

 突然、目の前を何かが横切る。あまりに速いそれは残像しか残さず、アスハたちの前から遠のいていく。気配を追ってミライが店の屋根の方を見上げる。そこには、

 

「あーっはっはっは!!」

 

 腰に手を当て、口許を扇で覆い、高らかに笑う女の姿があった。その両隣を2人の男が固めている。

 

「油断大敵という言葉をご存知?知らなかったなら御生憎!知っていたならお馬鹿さん!あなたの心臓石(ヘルツ)、頂いていきます!」

 

「姐さんじゃなくて、俺が獲ってきたのになー」

「そも、何故名乗りを上げるのだ。そのまま逃げたら見つからんのに」

 

「黙らっしゃい!!」

 

 男というには若い……まだ十代半ばといった少年がぼやき、もう片方の青年は低い声でこれまたぼやく。そんな2人を叱り飛ばして、女はまた高らかな笑みを浮かべた。紅を塗った唇がつり上がり、明るい赤毛が風に遊ばれ波打つ。

 

「私たちはそんじょそこらのこそ泥とは違うのです!だから正々堂々とここに宣言します!」

 

 女は屋根からとんっと跳躍し、空中に身を踊らせる。途端、その背から黒い蝙蝠の羽根が生えた。音もなく羽ばたきを繰り返しながら、彼女は口を開く。

 

「お嬢さんにお坊ちゃん!あなたの心臓石(ヘルツ)は、私たち【漆黒の翼】が確かに頂きました!私たちの糧となり翼になること、光栄に思いなさいな!!」

 

「……っ待て!!」

 

 アスハがハッとして声を上げるも、遅かった。蝙蝠の羽根を持つシルフィの女を先頭に、少年と青年も続く。殿を務める黒髪の青年の背を追いかけ、アスハとミライも走り出す。

 

「……っすまないミライ、私がぼうっとしていたから、」

「アスハは悪くない」

 

 だからすまないはいらない、とミライは言う。

 

「“人のものを盗ったらいけない”ーーいけないことをしているのはあいつらだ」

 

 アスハの持っていた拳大の心臓石(ヘルツ)。あれには大きな力が秘められているだろう。それが悪用されてしまったなら、考えたくもない事態を引き起こしかねない。

 そんな悪い予想とミライの励ましを受け、アスハは落ち込んでいた口角をきゅっと引き締めた。

 

「……ああ!盗っ人は、必ず捕らえよう!!」

 

 決意を新たに、走る手足に力を込める。こうしてオアシスの街での追いかけっこが始まったのだった。

 

 

 

第6話 砂漠を歩む 了

 

 

 


 

 本当は砂漠での出来事は1話にまとめたかったのですがまとまりきらず……というか漆黒の翼はともかくマルシャンはいつの間にか生えてきました。咄嗟に出したのになんだか妙に愛着が湧いてしまったキャラです。これからもたまに出します。



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