人を呪わば恋せよ少女 (緑髪のエレア)
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胎動と目覚め

 意識が浮上する。

 

 窓の外はまだ暗い。私はベッドから起き上がると、自らの着衣の乱れを確認する。寝相の範囲内であること了解すると、寝間着を脱いで体を確認していく。

 

 鍵はかけているが、いつ壊されるか分かったものではない。侵入された時点で「終わり」だとは思うが、この辺は鍵を付ける前に身についた習慣だった。

 

 ブラジャーにもショーツにも異変はなかった。私は制服に着替えると、直方体をずらすだけの簡素な鍵を開け、洗面台へと向かう。

 

 廊下は静かだった。

 

 まだ誰も起き出していない。太陽が昇っていないためまだ薄暗い中を、電気を点けずに歩く。

 

 ふと、鼻先を悪臭がかすめた。

 

 ドアの隙間から室内の臭いが漏れているのだろう。私は顔を顰めつつ、静かに足を速める。

 

 洗面台についた。なるべく音をたてないように顔を洗い、髪を整える。来たばかりの頃はいっそ女と思えないほど短くしてしまおうかと考えたこともあるが、結局はそうしなかった。自尊心が許さなかったからだ。

 

 

 音が出てしまうためドライヤーは使わず、櫛を通しただけの髪を一つにまとめる。うっすらと茶色がかった髪が、私が左右を向くのに追従して揺れる。

 

 

 私は自室へと戻ると、教科書の入ったリュックと小物類の入ったバッグを持った。先ほど使用した櫛もここに入れる。外側から自室に鍵をかけると、走りやすいスニーカーを履き、玄関の扉を開けた。

 

 

 

 

 pcの光が室内を照らしていた。

 

 スナック菓子の袋、丸められたティッシュペーパー、飲み終わったペットボトル、その他ごみが散乱している。部屋の中央に置かれた座卓は、種々のごみに埋もれて表面が見えない。床に敷かれたカーペットは何年も取り換えられておらず、様々な液体がしみ込んでいる。

 

 一人の男がいた。

 

 小学生用の学習机に向かい、pcの画面を見つめている。規則的に体を前後に動かし、男の体重にこれまた小学生用の椅子がきしきしと鳴る。ふと机の上にあるスナック菓子の袋が微かに揺れた。男は動きを止めると、外界の音に耳を澄ませる。

 

 

 数秒後、男の耳にマンションのエレベーターが到着したことを知らせる音が微かに届いた。

 

 男は立ち上がった。散らばるごみを踏みしめ、廊下に出る。

 

 男が向かった先は洗面所だった。彼は床に這いつくばると、何かを探し始めた。男の目が一本の茶色い髪の毛にとまると、彼はそれを指先で拾い上げた。男はしばらくの間その髪の毛を眺めると、唐突にそれを口の中に入れた。

 

 

 男は目をつむり、多幸感に浸るように身を震わせる。

 

 

 男は思う。

 

 ネットの奴らは哀れだ。アイドルやアニメキャラを推しだなんだと言って祭り上げている。自分の近くに推せる存在がいないからだ。でも僕は違う。僕は推しと同居している。手を伸ばせば触れられる距離に、僕の推しはいるのだ。

 

 男は口の中で髪の毛を舐り続けている。

 

 二年前、引きこもっていた僕の前に突然現れた、僕だけの天使。きっと生まれつき他の奴らよりも持っているものが少なかった僕に、神様がくれた「特典」なんだ。そうだ。幸せと不幸せは同じ数になるんだ。そうでなきゃおかしいんだ。

 

 僕は彼女()幸せになるんだ…!

 

 男は自室に戻ると、おもむろにズボンを脱ぎ、下半身を露出させる。推しの同居人の髪の毛を執拗に舌で舐りながら、男は自身の一部をしごき始めた。

 

 

 

 

 時計の針は九時を指していた。私はタイムカードを切ると、お疲れさまでしたと声をかけて裏口のドアを開ける。男の声でおつかれさまと返答が返ってきたが、最後まで届かないうちにドアが閉まった。

 

 私は夜の道をこっそりくすねた廃棄のパンを食べながら歩く。二つ折りの携帯を取り出して確認すると、友人からメールが届いていた。

 

 次の休みに遊びに行くらしい。了承の返事を送った。

 

 交差点に差し掛かり、私は少し迷う。このまま夜の街を徘徊したいという気持ちが強まったため、私は家とは反対の方向へと体を向けた。

 

 適当に歩いていると、ふとある家からもれる楽し気な声に足が止まった。四人分の声色。両親と兄、そして妹が、楽し気に会話をしている。

 

 私はしばらくその家のフェンスにもたれかかり、幸福な一家の団欒の漏れ声に耳を澄ませていた。

 

 家に帰る頃には、時計の針は一〇時を回っていた。私は憂鬱と警戒心と嫌悪感を抱きながら、玄関のドアを開ける。

 

 自室のドアの前に立ち、少しの間立ち尽くす。バッグから鍵を取り出して開錠する。回すときの感覚に変化はない。私はドアを開けると、すぐに室内をざっと見渡した。朝と配置が変わっていないか、何者かが入った形跡はないか。

 

 次いで空気のにおいを慎重に確認する。己以外の臭いがしないか、臭気がまき散らされてはいないか。私はベッドを見て、それからクローゼットの中を見る。

 

 そして最後にごみ箱の中を恐る恐る確認する。

 

 幸い今日は異変も臭気もなく、私はドアに取り付けた簡素な自作の鍵をかけた。

 

 

 

 

 彼は同居人の少女が帰宅したことを、廊下を歩く気配で認識した。

 

 彼は思った。

 

 こんな時間まで家に帰ってこないなんて、普通ならとても悪い子だ。けれど僕の天使は違う。

 

 彼女はアルバイトをしているのだ。

 

 僕と一緒に暮らすためのお金を、高校生なのに頑張って稼いでいるのだ。

 

 本当に健気でかわいい。けれども大丈夫だろうか。

 

 幸せと不幸せは釣り合うようにできている。けれどもこんな天使な子が僕の元に来たら、少し幸せの方に偏りすぎじゃあないだろうか。

 

 彼は考える。己のこれまでの不幸せと、彼女が来てからの幸せは釣り合うだろうかと。しばらく考えて、彼は何かを思いついたように目を開いた。

 

 そうだ、まだ幸せは始まっていないんだ。なぜなら僕と彼女はまだ結ばれていないからだ。

 

 いつか僕と彼女が本当に結ばれて、二人きりで暮らし始めた時、そこが、僕の幸せの始まる地点だ。

 

 それに、これまでの僕の不幸せは並大抵のものじゃなかった。それに比べれば、天使が近くいても、その天使と結ばれていない今なんて、幸せの猶予期間みたいなものだ。不幸せに対する幸せの埋め合わせは、まだ始まってすらいないんだ。

 

 

 彼は納得のいく答えが見つかったことに満足すると、今廊下を通った時の、彼女の押し殺した足音を思い出し、恍惚の笑みを浮かべた。

 

 待っててね、恥ずかしがり屋の天使ちゃん。

 

 

 

 

 私がここに来たのは、私が中学二年生の時だった。

 

 生まれた時から父親はいなかった。というかそもそも父親が誰なのか、母にも分かっていないらしかった。

 

母親は美しかった。そして、美しいだけの女だった。

 

 私は母親に呪われた。母親の遺伝子に呪われた。私には、母から引き継いだ異性を惹きつける形質のようななにかが、確かに存在しているようだった。

 

 小さいころから容姿によって肯定され続けた母親は、大学を卒業するまで特別な努力を何もしなかった結果、必然のように、その容姿で所得を得るようになった。

 

 

 男は母が好きだった。そして母も、自分に価値を与えてくれる男たちが好きだった。女性に知性を感じられないと食指がわかないという男でない限り、母はどんな男からも愛された。

 

 

 そして母の方も、そんな男たちを愛していた。

 

 

 私はそんな母親を嫌悪した。そんな価値の認められ方を嫌悪した。男の欲を刺激し続けなければ生きていけない生き方を嫌悪した。

 

 そうして自分の価値を模索した。容姿以外の価値を。

 

 ある時、母親が死んだ。自殺だった。私と母は考え方こそあわないものの、仲が良いと思っていた。だから母の遺書の中で、娘である私について一言も書かれていないのを知った時、私は自分でも意外なほどひどく狼狽した。

 

 母は見抜いていたのだろうか。私の中にあった嫌悪を。

 

 ただ、私は母の生き方を嫌悪していたが、侮蔑はしていなかった。

 

 そういう生き方もあるのだと理解しようとしていたからだ。

 

 しかし、母の遺書の中に『違う生き方をしてみたかった』という言葉を見つけたことで、私のそれまでの努力は一瞬にして致命的な疑念に変じてしまった。

 

 母は。

 

 そういう生き方を選んだのではなく。

 

 そういうふうにしか生きられなかったのではないか、という疑念へと。

 

 その時、私を恐怖が襲った。私もそうではないのか。私も母のように、そういうふうにしか生きられないのではないか、と。

 

 

 そんなことをぐるぐると考え続けているうちに、私の引き取り先が決まった。どうやら母には弟がいたようで、彼の家に引き取られることになったのだ。そしてそこには一人、息子がいるらしい。小学生の頃にいじめにあって以来引きこもりになり、以来一〇年間引きこもり続けているようで、彼の父親はもう諦めているようだった。

 

 私は引きこもってしまった彼も、そういうふうにしか生きられないのだろうかと思った。自分の部屋の中で、自分の匂いに囲まれることでしか、生きていけないのだろうか、と。

 

 始めて会った時、彼は怯えたような目で私を見ていた。贅肉を付けた体はぷよぷよと柔らかそうで、私より三つは年上のはずなのに、全体的に雰囲気が幼い。

 

 風呂に入っていないのか、髪の毛はひどくべたついているし、微かに腐った油のような悪臭も漂わせていた。

 

 容姿だけしか持っておらず、容姿を活かす生き方しか選択できなかった母の影響で、私は相手の容姿を評価しない癖を、早くから身に着けていた。私は彼に向ってほほ笑んだ。すると彼は、心底驚いたような目で私を見た。

 

 

 そういうふうにしか生きられないのならば、私たちはどうするべきなのだろうか。それ以外に選択肢が存在しないとき、私たちは敬虔な宗教者のように、ただその運命に身を任せることしかできないのだろうか。

 

 

 母親を亡くしてセンチメンタルになっていた中学二年生の私は、そんなことを考えていた。

 

 

 

 

 私はその日、疲れていた。ストレスからか生理周期が狂い、結果、一番体調が優れないタイミングに長時間のバイトが重なってしまった。休もうにもバイト先に代わりを頼めるような友人なんていないため、仕方なく出勤しいつもより適当に作業をこなしていたら、頭のおかしいクレーマーが、態度が悪いだのなんだのいちゃもんをつけてきて、店長は助けてくれず、結局小一時間赤ら顔の中年の相手をすることになったのだった。

 

 

 私は帰宅するといつものルーティーンをこなし、消臭剤を部屋いっぱいにスプレーすると、倒れこむようにベッドに入った。寝入る直前、何かを忘れているような気がしたのだが、生理のだるさと長時間のコンビニ勤務の疲れが合わさり、私の意識は瞬く間に沈んでいった。

 

 

 

 

 

 ふとした違和感で目を覚ました。

 

 

 暗い自室。その中に自分のものではない気配がある。目を開き、ベッドの脇を見ると。

 

 

 

 

 

 

 息を荒げた従兄が、私の上半身をまさぐっていた。

 

 

 

 

 

 いつもは鍵をかけている同居人の少女が、今日に限って鍵をかけていなかった。彼はそれを、恥ずかしがりやな少女の精一杯の「OK」のサインだと解釈した。

 

 そうして深夜、彼が彼女の部屋に侵入すると、彼女は眠っていた。彼は、彼女は待ちつかれて眠ってしまったのだと思った。もっと早く来てあげるべきだったのだと後悔した。

 

 気が使える兄としては、今日は帰るべきかと思ったが、彼の別の部分が、今日を逃したらシャイな彼女がもう一度その気になるのはもっとずっと先かもしれないと言っていた。

 

 彼は眠っている彼女を見た。

 

 端正な顔立ち。艶やかな肌とぷっくりした唇。彼の天使は、何度見ても天使だった。

 

 彼は激しく後悔し、己をなじった。

 

 どうしてもっと早く彼女のサインに気づいてあげられなかったのだ。日頃規則正しく生活している彼女が、こんな時間まで起きていられるはずがないだろう。兄としての気遣いが足りないんじゃないか。

 

 彼は彼女の規則正しく上下する胸元を見た。

 

 そして彼は気が変わった。

 

 折角愛する推しが恥ずかしさを堪えてサインを出してくれたのだ。ここは彼女を起こしてでも、それに応えるべきではないのか。そうだ。彼女もきっと、それを望んでいる___

 

 そうして自らの欲望のまま彼女の胸に触れると、彼女が目を覚ました。彼はまだ感触がわかるほど触っていないため少しがっかりしたが、同時に期待もした。彼女はどんな反応をするだろうか。恥ずかしがる?それとも嬉しがる?あるいはようやく自分の願いがかなったと涙をながす?

 

 しかし彼女の反応は期待していた予想と大きく違った。

 

 彼女は彼を力の限り突き飛ばしたのだ。彼は痛みを感じるよりも先に、激しく困惑した。

 

 彼とて眠っている少女の体に触れることは悪いことだと思っていた。けれども同居人の少女は、彼の推しは、そんなことで彼を拒絶しないだろうと思っていた。いつか見た画面の中の少女のように、あるいは好んで読む小説のヒロインたちのように、仕方ないんだから、と笑って、でも満更でもないような雰囲気を出して、そうして彼と懇ろな仲になるものだと思っていた。

 

 そして彼は思った。

 

 彼女は突然のことに驚いてしまっただけなんだ。僕が彼女の立場でも驚いてしまうかもしれない。ただ僕なら、すぐに状況を判断して彼女のことをやさしく受け入れるだろうけどね。まあ、初めて男に触られたから驚いたんだね。でも突き飛ばすのはだめだなあ。これはお仕置きってやつをする必要があるんじゃないかな?

 

 そうして彼が彼女を見ると、彼女は殺意のこもった眼で彼を見ていた。汚物を見るような、地を這うゴキブリを見るような目で。

 

 彼はその目に覚えがあった。小学生の頃、クラスの女子共があんな目で僕を見ていた。あんなふうな、汚いものを見るかのような目で__

 

 彼の中にどす黒い感情が生まれた。

 

 どうしてそんな目で僕を見るんだ。君は、君だけは、僕をそんな目で見ちゃいけないだろう。僕の推しは、僕の天使は、そんな目で僕を見たりしない。僕の、僕の天使は!

 

 そうして彼は彼女に掴みかかろうと、清潔なカーペットを握りしめた。

 

 

 

 

 私は悲鳴をあげてそれを突き飛ばした。

 

 大きな音を立てて尻もちをつくそれ。体は大きいが筋力はないため、踏ん張ることができず後ろ向きにひっくり返った。

 

 それは「何が起きたか分からない」という表情で私を見ていた。呆然と、どうして自分が拒絶されたのか分からない、とでも言うかのように。

 

 心の底から意外そうで、傷ついたような表情さえ浮かべていた。

 

 

 その、何も分かっていない顔を見て。

 

 

 私の中で、何かが切れる音がした。

 

 

 ふと、過去の光景がフラッシュバックする。

 

初めて会った時の怯えたような表情、

食事を部屋に届けた時の呆然とした表情、

徐々に減っていく私物、

帰宅すると妙に配置が変わっている自室、

ある時発見したねばついた洋服、

激怒、

鍵の取り付け、

その日自室に入ると感じた違和感、

独特の臭い、

おそるおそるクローゼットを開けた時の吐き気、

 

穢された下着たち。

 

穢された下着たち。

 

穢された下着たち。

 

 

 殺してやる。

 

 

 私の内側から何かが流れ出した。

 

 それは腹のあたりを起点に生じ、滲むようにして全身を浸していく。指先までそれが行き渡ると、私の全身は充足感と全能感に満ち溢れていた。

 

 私は目の前の生物に意識を向ける。

 

 これを殺すのに、具体的な動作は何も必要ない。言葉も、イメージすらも必要ない。今の私はそのことを純然たる真実として了解していた。

 

 だから、私がそれをあえて言葉にしたのは、純粋にそうしたかったからであり、それだけ私の中で培われた殺意が確かだったからだ。

 

 

 『死ね』

 

 

 とてもシンプルに表出された殺意は現実としての質感を伴っており、それを真っ向からうけた私の従兄は、抵抗する間もなくその精神を崩壊させた。

 

 

 

 

 男は体を痙攣させ倒れ伏した。

 

 芋虫のようにもぞもぞと動き、一定の間隔で発作のように大きく体を震わせる。

 

 口からは唾液が流れるままになり、おえ、おえ、とうめき声を絶えず発している。

 

 そんな男のことを、彼女は汚いものを見るような目で見下ろしていた。

 

 ふと彼女は気が付く。

 

 廊下に、この部屋に近づく気配がある。

 

 彼女はそれが、もう一人の同居人である、この男の父親、つまりは彼女の叔父であると認識した。

 

 時刻は二時過ぎ。深夜に何事か騒いでいるので小言を言いに来たのだろうと推測する。

 

 彼女は今目覚めたばかりの『力』に意識を集中させる。

 

 彼女の部屋のノブが回り、中年の男が顔を出し、口を開いた。

 

 「おいうるせえ」

 

 ぞ、と言い切る前に、彼女の『力』が男を襲った。

 

 

 『これを殺せ』

 

 

 男に対してそう命令することに、彼女はなんの倫理的葛藤も感じなかった。

 

 彼女の言葉を聞いた叔父は、芋虫のように這いずるそれの首に手をかけた。

 

 「あっ、が」

 

 呼吸を阻害された男が苦し気にうめく。

 

 実の息子を手にかけている男は、しかしいたって普通の表情を浮かべていた。

 

 面倒な仕事をしている時のような、誰もやらないごみ出しをするときのような。

 

 

 まるでそれが日常であるかのように。

 

 

 やがて男の動きが止まった。父親の手が息子の首から離れる。横たわった「彼」は、もう二度と、起き上がることはない。

 

 「彼女」が、その父親に殺させたから。

 

 命令を遂行した「父親」に対して、彼女は言った。

 

 『お前は殺したいから殺した。

 

 こいつを殺した殺意は確かにお前の中にあった。

 

 殺した時の意識は明瞭だった。

 

 実行は突発的だったが殺したいという思いは常に胸の奥にあった。

 

 それがほんのわずかな正義感と一緒になることで実行へと至った』

 

 男は、彼女の言葉一つ一つにうなずきを返す。

 

 最後に彼女が、「警察に『人を殺した』と通報しろ」と言うと、彼は部屋から出て行った。

 

 数秒後、彼女の耳にリビングからぼそぼそとした話し声が届いた。

 

 彼女は掛布団をつかむと、自らの元へ引き寄せた。そして警察が着くまでの間、じっと「従兄」だったものを見つめていた。

 



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金策と引取と邂逅

 警察は『引きこもりの息子が同居人の姪を襲おうとしている現場に直面し、ショックと失望がないまぜになった状態での突発的だがある種必然的な犯行』という私が描きたかったシナリオへとすんなりたどり着き、そしてそれをあっさりと信じてくれた。

 

 私は殆ど何も言わなかったが、叔父がすべてを語ってくれた。

 

 凄惨な話だが特別な話でもない。

 

 叔父の動機も犯行のきっかけも通常の人間の想像力の範囲内だし、死体の手跡や犯行の現場といった全ての証拠も彼の供述を裏付けている。私を疑うことは科学的にすら不可能だ。

 

 自作の鍵や私物が少ないことについて尋ねられた時は、絞り出すような声音で「彼は寝ている私や私の私物に気持ち悪いことを」と言うだけで、彼らは私に都合のいいように想像力を働かせてくれた。

 

 それ以来私には女性の警察官のみが付くようになり、私は彼ら彼女らから最大限の尊重をもって扱われた。

 

 

 

 

 違和感に目覚める。胸をまさぐられている。悲鳴をあげて突き飛ばす。猛烈な不快感。

 

 床に這いつくばるそれ。汚濁。嫌悪感。何も理解していない顔。

 

 猛烈に膨れ上がった殺意。

 

 爆発、そして___全能感。

 

 この世のすべてが自らの思いのまま。

 

 

 

 あの時の感覚は最高に気持ちがよかった。

 

 

 私は警察から与えられたホテルの一室で昨夜のことを思い返す。

 

 不快感、嫌悪感、そして憎悪、殺意。混然一体となったそれらが、防衛本能をトリガーに爆発した時、私の内側から途方もない力があふれ出した。

 

 そしてその力の奔流は、私の内側に刻まれた何かに触れると、その性質を変化させた。

 

 純粋な力から、人を操り、隷属させる力へと。

 

 この力が何なのかは分からない。

 

 唯一分かっていることは、この力を使えば、人の精神を操ることができるということ。

 

 単純に動きを止めたり、人を殺させたりすることは勿論、記憶や意識の改ざんさえできる。

 

 現にこの力で操られた私の叔父は、何の疑いもなく自分の意思で息子を殺したと信じている。

 

 それと、この力に目覚めてから一つ、不思議なことがあった。

 

 署の廊下の隅、電信柱の陰、ビルの隙間、その他、鬱屈として、暗く、湿った場所に、目に見えない存在を感じるのだ。

 

 どれだけ目を凝らしても肉眼では見ることはできないのに、力を使うと確かにそこにあることがわかる。そしてそれらは全て、嫉妬や怒りといった負の感情を湛えている。

 

 私はそれらを霊のようなものだと考えることにした。

 

 精神のみでこの世に存在する、肉体を持たぬ亡霊たち。

 

 どうやら人という生き物は、死んでもなお、この世と感情に囚われ続ける生き物らしい。

 

 私は備え付けの鏡を見つめ皮肉気に笑う。

 

 鏡の向こう側で、美しい少女が嗜虐的に嗤っていた。

 

 

 

 

 授業中の教室は静かだった。

 

 チョークと黒板がぶつかる音、ノートにシャーペンを走らせる音、教科書をめくる音。雑多な音に溢れてはいるが、その場にいる者は寝ているか集中しているか退屈しているかのどれかで、静寂とは異なる、教室特有の静けさがあった。

 

 やたら声が良いせいで生徒を眠りに誘うことで有名な教師の、それでなくたって眠くなる関数についての授業を聞きながら、私はこれからの生活について考えていた。

 

 中学二年から生活していた家は殺人の現場となってしまった。今まで扶養者だった叔父は最低でも五年は塀の中から出てこられない。

 

 警察は身寄りのなくなった私を引き取ってくれる親類を探しているが、見つからないだろう。私は施設に入ることになるだろうが、長居をする気はない。

 

 タイミングを見て抜け出し、自由に生きることにする。

 

 学校には通いたいから、適当な物件を探すことにする。アルバイトは続けるつもりだが、人が一人生きていくのには貯金を切り崩してもすぐに限界を迎える。金策を考えなければならない。

 

 ふと、こんなことなら叔父に息子を殺させたうえで自身も自殺させればよかったかと思うが、それでは私に捜査の目が向くことになっていたかもしれないとも思う。

 

 どちらにしろ、叔父には財産と呼べるようなものは何もなかっただろうし、なけなしの預金も賃貸物件を汚した後始末のクリーニング代で吹き飛んだことだろう。自殺までさせるのはリスクが大きすぎた。それに、私自身、叔父にはそれほどの恨みはなかったし___

 

 私は思考を切り替える。

 

 目下考えるべきは金策。ただ、私はそれほど心配していなかった。なぜなら私には力があるから。

 

 他人を意のままに操るこの力を使えば、人が一人生活していくのに必要な諸々など、容易く確保できるに違いなかった。

 

 私は退屈しのぎにその方法を考え始めた。

 

 住む場所の確保を考えよう。

 

 不動産業者を操って手ごろな賃貸を借りる…借りる際の書類はいくらでも偽造できるだろうが、数字までは操れないから家賃を払っていないことがいつかは発覚する。偽造も素人がやったのではかえって証拠を残すことになる。

 

 では大家もろとも操る…家賃の振り込み記録がないのはおかしい。仮にそれに疑問を抱かせないようにできたとしても(まず間違いなくできるだろうが)、直接操った不動産業者と大家本人以外がその事実に気が付いた場合、その人物も操らなければならなくなる。これでは気が休まる暇がない。

 

 書類の偽造や家賃の未払いが発覚したとしても、業者と大家に会うたびに彼らの脳内の私の認識を歪め、顔と名前を覚えさせなければ私の身元はばれないか。いや、周囲の住民全員の認識を歪めることは現実的ではない。可能不可能でいえば可能かもしれないが、私の力では監視カメラは誤魔化せない。背格好、年齢、顔はすぐにばれる。賃貸に関わる者を操るのは却下か。

 

 では単純に金銭を得るだけならばどうだろうか。

 

 コンビニ強盗…監視カメラは誤魔化せない。却下。銀行強盗…同じ理由。却下。

 

 通りすがりの人間を力で操り金銭を譲ってもらう…小遣い稼ぎとしてなら有かもしれないが、それで生活するだけの金銭を得ようとするのはあまりにリスクが大きい。

 

 財布の中身を把握しているのは本人だけとは限らない。いや、募金したと思わせればいいか。

 

 頻繁に場所を変え一度に受け取る金銭を調節すれば発覚もしないのでは。ここは首都東京。電車で二駅も離れればそこには所得も仕事も何もかもが違う人々が住む。

 

 案としては良いかもしれない。監視カメラの場所のチェックさえ確実にできれば、それなりに現実的かもしれない。金策の一つとして考えておこう。

 

 そこまで考えたところでチャイムが鳴り、授業が終わった。私は弛緩した空気の中で、この力を使ってできることを想像し、微かな興奮をおぼえていた。

 

 

 

 

 結論から言って、私の考えたいくつかの金策は、全て実行されることはなかった。

 

 

 私の母の従妹叔母が、私を引き取っても良いと言い出したからだ。

 

 

 

 

 タクシーの窓に切り取られた景色が、後ろへと流れていく。都会のつまらない景色。ビルや商業施設は多いが、それだけだ。東京の風景は、私にとっての原風景にはならない。じゃあ何が私の原風景かと問われると、さあなんでしょうと答えるしかないので、それは結局私に故郷がないのが原因なのかもしれなかった。まあ、そんなことはどうでもいい。私はより実利的で生活的なこと。ざっくり言えばこれからのことについて考えようと、頭を切り替えた。

 

 今向かっているのは、私の引き取り先。麻布十番にある一軒家だ。聞いたことのない地名だが、地図を見ると随分都心にある。そこそこお金持ちと予想されるが、どうなのか。

 

 麻布十番にある引き取り先。そこには、70代の女性とその孫が、二人で暮らしている。

 

 孫の年齢は17。学年は私と同じ高校2年。性別は、男。

 

 性別は男。

 

 その言葉に、その属性に、私の中から嫌悪感が沸き上がる。私と同年齢の男。青年と少年の間にいる男。動物界脊索動物門哺乳綱サル目ヒト科ヒト属sapiens種、男。

 

 同じようなやつだったらどうしよう。

 

 私は考える。

 

 私が叔父に殺害を命じた私の従兄と、同じような人間だったらどうしよう、と。

 

 祖母の話によると学校にはきちんと通っており、成績は優秀。人好きのする優しい少年らしいが、真偽のほどは分からない。孫へのひいき目がどれだけ入っているのか知れないから、というよりも、もっと単純なことで、たとえまともな人間でも、特定の状況においてはまともじゃなくなるからだ。

 死ぬ間際まで私を性の対象としてしか見ていなかった従兄も、初めはまともだった。今となっては私自身も少し信じられないが、少なくとも彼と出会った当時の私にはそう見えていた。しかし共に生活するにつれて、彼は内側に秘めていた利己的な欲求をさらけ出すようになっていった。

 

 

 今度の同居人も、そうならない保証はない。

 

 

 ふと、私は思う。

 

 このような心配や危惧というのは、私が私だから生じるのだろうかと。

 

 私の中にある異性を惹きつける形質が、すべての原因であり、また、この心配事の究極的な源であり。

 まともな人間がまともじゃなくなる特定の状況というのは、私という「欲望をさらけ出させる存在」が、共に生活しているという状況を指すのだろうか、と。

 

 私は自嘲した。

 

 なぜこんな自罰的な考えが浮かんだのだろう。

 

 見るたびに視姦してくるのも、私物をくすねるのも、下着を白濁液で汚すのも、全て従兄が自分自身で行ったことだ。私が彼にさせたことではない。

 

 性暴力に遭った女性の中には、自分に非があったと思い込んでしまう女性もいるらしい。私の受けた被害が性的な傷害といえるのならば、この自罰的な考えはそのような被害者特有の症状の現れといえるのかもしれなかった。

 

 私は漫然とそんなことを考えながら、都内の街並みを眺める。

 

 ふと、携帯が震えた。メールが一件。差出人は、引き取り先の遠縁の祖母。

 

 

『お疲れ様。今どのあたりかい。お夕飯、お寿司とおそばとピザならどれがいいかな』

 

 

 どうやら私が来ることで気を遣ってくれているらしい。私はその気遣いを好意的に受けとめた。

 

 

『お気遣いありがとうございます。その3つならお寿司が良いです。18時には着くかと思います。これからよろしくお願いします』

 

 

 寿司なんて小学生以来食べていない。私は豪勢な食事ができそうなことに気分が上向いた。最後の一文を付け足すかどうかは迷ったが、加えてもそう不自然はないし、私はそれを付した上で送信ボタンを押した。

 

 

 たとえ本心では、引き取られることを迷惑に感じていても。

 

 

 アプリを切り替え、マップを表示させる。目的の住宅はもうすぐだ。二つ折りからずいぶん進化したそれ(当然費用はその辺の人から拝借した)を撫でながら、私は今一度思考する。

 

 同年代の男と生活しなければならないという心配事はあるが、もしも嫌悪感や身の危険を感じたら、そいつの精神をゲイにしてしまえばいい。

 

 何度かの実験で、記憶だけでなく嗜好についても操作が可能なことは分かっている。性的嗜好をいじったことはまだないが、ほぼ確実に可能だろう。遠縁ではあるが一応親類の人生を大きく歪めるのはやや気が咎めるが、昔みたいに、毎日視姦されるよりはずっといい。

 

 それに、殺しはしないだけありがたいと思ってほしいものだ。

 

 タクシーの窓に切り取られた景色が、住宅街へと変わってくる。ふと、とある邸宅の塀の陰で、野良猫がまぐわっているのが目に入った。

 

 それを見て、私は『永続的な精神の去勢』はできるのだろうかと思い、それについて考え始めた。

 

 

 

 

 引き戸を開けようとすると、がちりと音が鳴り手に抵抗が感じられた。鍵がかかっている。後ろ手に鍵を取り出し、開ける。ただいまー、と言うが返事はない。

 

 たたきを見ると靴が一つもなかった。

 

 でかけているのか。

 

 リビングの座椅子に適当にかばんを放り、キッチンへと向かう。冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注いだ。

 

 なみなみと注がれたコップを持ち座椅子に腰掛けると、ふと座卓の上にメモが置かれているのに気が付いた。

 

 

『駅まで迎えに行ってきます。』

 

 

 誰をだろうか、というのが率直な感想だった。

 

 俺も祖母も、俺たちの顔を見にわざわざ訪ねてくるような親類はおよそ考えられない。おそらくは祖母の友人だろうが、それにしたってかなり珍しい。

 

 俺は祖母が事前に何も言わなかったことを少し不思議に思った。

 

 ふと壁掛けの時計を見る。

 

 夕方時。夕飯の準備を始めるころだ。先ほど見たキッチンには夕飯は準備されていなかった。ということは十中八九、今日は出前を取るのだろう。

 

 思いがけず沸いた豪勢な夕食の予感に俺の気分が上向いた。

 

 祖母の友人が来るならやはり寿司だろうか。それとも最近できた高級そうな蕎麦屋か。あるいは歳の割にジャンク好きな祖母ならばピザの線も有り得るか。

 

 などと考えていると、表に車が止まる音がした。次いでばたんとドアが閉まる音も。

 

 俺は飲み干したコップをシンクに置くと、財布を持って玄関へと向かった。

 

 たたきで靴をつっかけていると、タイミングよくチャイムが鳴る。俺はわくわくしながら、玄関の引き戸に手をかけ、お疲れ様でーすと言いながら引き戸を開けた。

 

 

 

 

 

 料金を払ってタクシーを降りる。背後でばたん、とドアが閉まった。

 

 革製の長財布をパンツのポケットに仕舞いながら、私は目の前の家を見る。

 

 まず目につくのが、大きな門。扉は開け放たれており、内部が見える。

 

 10mほど先には引き戸の玄関。門から玄関までは整然と石畳が敷かれている。家を囲む塀は高く、瓦屋根の上から葉の細い和風な木が生い茂る。

 

 門に表札もインターホンも見当たらなかったため、私は敷地の内部へと足を踏み入れた。

 

 内部は純和風だった。盆栽をそのまま大きくしたような木、淵を石で固められた池、庭の裏へと続く飛び石。

 

 私は知れず深くため息を吐いていた。

 

 

 まるで、ここだけ違う世界のようだ。

 

 

 通りを走る車の音は遠く、微かに耳に届く程度。目に映る物全てがそのコンセプトを統一されている。

 

 

 これは領域だ。

 

 

 外界と切り離された空間。個人によって作り出された、あるいは切り出された究極的な私的空間に、それ以外のどんな言葉を当てはめればよいのか、私には分からない。

 

 庭を通り、玄関の前に到着する。引き戸の横にインターホンと表札があるのが分かった。名前を確認する。

 

 

『土御門』

 

 

 ここで間違いない。

 

 私はこの家が本当に私の引き取り先であったことに微かな喜びを抱いた。私はフルコースより懐石料理派だ。食べたことはないが。

 

 インターホンを押す。ピンポーンと鳴り終わる前に、玄関の中から人の気配がした。

 

 丁度出てくるところだったのだろうか。

 

 私は気持ち姿勢を正した。扉の向こう側で引き戸に手をかける気配がする。がらり、と引き戸が開かれた。

 

 

「おつかれさまでーす」

 

 

 気の抜けた声とともに、私と同年代くらいの男が出てきた。

 



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食事と(悪い)予感

 *

 

 緑茶の香りが漂っていた。

 

 高級そうなテーブルの上には湯飲みが一つ鎮座しており、ほわほわと湯気をあげている。

 

 私は湯のみを持ちあげると、温かいそれを一口含む。甘さがふわりと口の中に広がり、その奥に微かな渋みが感じられた。砂糖の甘味ではない。茶葉の甘味だ。こくりと嚥下すると、まろやかな茶の香りが鼻を抜けていく。

 

 ほう、とため息が漏れた。

 

 たかが緑茶でこの高級感。まさか緑茶を飲んで感動する日が来るとは思わなかった。

 

 私は家の中を見回す。

 

 シックに抑えられた調度品に、磨き上げられた大理石のキッチン。天井は吹き抜けで、空気を循環させるための大きなプロペラのようなものが静かに回っていた。さらに、リビングの端には螺旋状の階段まである。

 

 

 __ここ、本当に人が住んでいるのだろうか。

 

 

 ふとそう思ってしまうくらい、この家は広く、清潔だ。おそらく、こういう家を___豪邸と、そう呼ぶのだろう。

 

 

「やった」

 

 思わずそんな言葉がもれた。

 

 螺旋階段を下りる音がして、そちらに目を向ける。通話していたのだろう、携帯電話をポケットにしまいながら、一人の男子が階段を下りてくる。

 

 黒のスラックスに無地のパーカーというシンプルな服装。事前の情報によれば、歳は17。

 

 温厚篤実な性格。加えて成績優秀。外見としては、線は細く、身長は低くもなく高くもない。165cmある私よりは高い。色が白く、佇まいや雰囲気は、少し大人びている。そして__

 

 私の新しい同居人。

 

「あー、祖母ちゃんに連絡とれました。なんか電車で来ると思ってたみたいで、駅まで迎えに行ったらしいです」

 

 

「それは……私の連絡不足ですね、申し訳ありませんでした」

 

 

「あ、いえ……こちらこそ、うちの祖母ちゃんが早とちりをしたようで……」

 

 

 彼は心底申し訳なさそうに頭を下げた。本来頭を下げるべき私が下げていないのに。

 

 彼は私の手元に目をやると、「あっ」と何かに気が付いたように声をあげ、

 

「すみません、今お茶請け出しますね」

 

「あ、いえ」

 

 お構いなく、と言ったが、彼はキッチンに消えていった。冷蔵庫を開ける音や食器がこすれる音が、リビングに座る私の元に届く。

 

「どうぞ」

 

 小ぶりなお皿が目の前のテーブルに置かれる。羊羹だった。

 

「ありがとうございます」

 

 彼はいえ、と言い、再びキッチンに消えた。

 

 出された羊羹を見つめる。

 

 今これを持ってきてくれた彼__私の新しい同居人__は、まともそうに見える。少なくとも今は。第一印象はそこまで悪くはない。私は当座の彼の評価を下した。

 

 速攻『やっちゃう』ほどではないかな。

 

 私はフォークを手に取り、羊羹を一口食べた。やっぱりというか何というか、今まで食べたどの羊羹より美味しかった。

 

 

 *

 

 

 出前だと思って扉を開いたらそこにいたのは美少女だった。

 

 きょとんとした顔で玄関の前に立つ美少女。チャイムを鳴らしたら住人がおつかれさまでーすと言いながら出てきたような表情をしていた。そのまんまだった。

 

 

「あ、すみません、出前かと思って」

 

 

 財布を見せながら、そう言い訳をする。

 

 少女の背後、門の向こう側で、タクシーが走り去った。どうやら俺は美少女の来訪を出前の来訪と勘違いしたらしい。こんなことならインターホンで確認するんだった。そう後悔するも後の祭り。

 

 

「そうですか」

 

 

 美少女が言う。

 

 その声音さえ澄んでいて、俺は完成された芸術品を見ている気分になる。ただ俺はその声音に、彼女の確かな拒絶の意思を感じ取った。

 

 ふと彼女と目が合う。彼女は俺を観察するように見ていた。そのまっすぐな視線から、彼女は俺に恐怖心を抱いているのではないことが分かる。彼女は俺を脅威とみなし、警戒し拒絶しているのではない。

 

 ただ単に、俺を人として見ていないだけだった。

 

 俺は自分のその思いつきにいささか驚いた。

 

 会って数秒の少女になぜそのように見られている(あるいは見られていない)と感じたのか。そしてなぜそれをほとんど確信したのか。この時の俺には、自分の思い付きの根拠が分からなかった。

 

 俺は意識を切り替えた。

 

 祖母は人を迎えに行っている。

 そして見覚えのない人が家を訪ねてきた。

 となると十中八九、この人物が、祖母が迎えに行くと書置きで記していた人物だろう。

 となると……行き違いになってしまったのだろうか。

 

 

「祖母に御用があるんですよね」

 

 

 確認のためそう尋ねると、美少女は少し考えるそぶりを見せた後で、まあ、はい。と歯切れの悪い返事をした。

 

 それにやや違和感はあったものの、俺は玄関の扉を最大まで開き、彼女のために道を開ける。

 

 ふと、彼女がキャリーバッグを持っていることに気が付き、持ちましょうか、と申し出ようとしたが、流石に馴れ馴れしすぎるかと思い直し、玄関の靴をキャリーを運びやすいよう脇に追いやるにとどめた。美少女は軽く会釈をすると、キャリーを引いて玄関をくぐる。

 

 俺は来客用のカップの置き場所を脳裏で探りながら、祖母に連絡するため携帯電話を取り出した。

 

 

 *

 

 

 食卓には寿司の桶が三つ並んでいた。真ん中にはアボカドと海老のサラダが置かれ、その脇に手巻き寿司と春巻きが並ぶ。目の前に置かれた桶の中には所狭しと寿司のネタが並び、私のテンションをじわじわと上げ続けている。

 

 どうやら土御門家の家長は、私という新しい同居人が来るということでかなり気合を入れてくれたらしい。最後に寿司を食べたのは小学生の頃、母が死ぬ前に行った回転寿司だったが、目の前にあるこれはその数倍の値段はしそうだった。

 

 ことん、と年齢の割に背筋が伸びている女性が醤油さしを置き、それで晩餐の準備が整ったようだ。

 

 女性は食卓の短い辺の部分、所謂お誕生日席に座り、私の目の前に男子が座る。

 

 女性が寿司桶と総菜を持ちながら帰ってきた時、彼女がもう一人の同居人であり、私を引き取ると言い出した張本人だと知った。私は一応ポーズとしてタクシーで直接向かう旨を伝えていなかったことを謝罪したが、女性は全く気にしていないようだった。

 

 後からそれは、私に気にさせないようにしようという気遣いの一つだったと考えるようになるが、ここではそれはどうでもよいことだ。女性とその孫の男子が夕飯の支度を始めたため、私も準備の手伝いを申し出たのだが、彼らに丁重に断られてしまった。

 

 どうやら私のことを完全なお客様として扱ってくれているらしく、私は食卓に座っていてほしいと逆にお願いされてしまった。叔父の家に引き取られた時は、夕飯すら用意されず、自分で弁当を買いに行ったことを思い出す。

 

 比べるようなことでもないし、叔父の対応も有難いといえば有難いのだが、これまでの人生のあらゆる場面において、一人の人間として丁重に扱われた記憶が全くない私としては、ぽっと現れた遠縁の同居人への彼らの丁寧な対応が、とても新鮮なものに思えた。

 

 

「じゃ、一応紹介しておこうかね」

 

 

 高齢の女性が言う。

 

「私が、土御門小夜(さよ)。んで、こっちが阿頼耶(あらや)。阿頼耶は私の孫だね」

 

 目の前の男子___阿頼耶が軽く会釈をする。高齢の女性___小夜は、次いで私を示し、阿頼耶に対して言う。

 

「阿頼耶、こちらは末那(まな)ちゃん。私の従姉のお孫さんね」

 

 私は阿頼耶に対して軽く会釈をした。同時に脳内で家系図を思い描く。

 

 私からすると小夜は母方の祖母の従妹であり、母の母のそのまた母の姉妹の子供だ。

 

 親等で言えば6親等。続柄を正式に書けば従伯叔祖母。

 

 その孫の阿頼耶は、母の母の母の姉妹の子供の子供の子供で、続柄で言えば三従兄にあたる。

 

 親等は8親等なので、私とは法律上は親族ではないことになる。戸籍上もDNA的にも、私と阿頼耶は殆ど他人だった。

 

 

「__それじゃ、食べましょうか」

 

 

 小夜がそう言い、私たちは手を合わせる。いただきます、と唱和し、それぞれが料理に手をつけた。

 

 好物は最後に食べる派な私は、少し迷ったあと、取り敢えず好きでも嫌いでもないイカから手を付けることにした。さっと醤油をつけて口に入れる。咀嚼すると、思っていたよりずっと柔らかく、ずっと濃い味が口の中に広がった。

 

 あ、美味しい。

 

 思わずそんな言葉が漏れた。あ、いや、まて。

 

 私の脳裏に、これまでの土御門家に来てからの自身の振る舞いがよぎる。

 

 やらかしたか。

 

 私の背筋に緊張が走る。私は恐る恐る、阿頼耶と小夜の反応をうかがった。

 

 今の私の立場は相当に微妙である。

 

 中学二年で母を亡くし、引き取られた叔父の家で思春期の大部分を日常的に性的な嫌がらせを受けながら過ごす。

 

 その後、性的嫌がらせを行っていた張本人に寝込みを襲われ、強姦されそうになったところ、その父が息子である犯人を殺害したため、強姦は未遂で終わったが、叔父が従兄を殺すところを目の前で見た。客観的には、年頃の女子がトラウマを抱えるには充分な出来事が継続的に、立て続けに、起こっている。

 

 しかし私の主観では、あれらの出来事はインパクトこそあったが、心に傷を負うような出来事ではなかった。

 

 

 なぜか。

 

 

『力』を得たからだ。

 

 

 私の主観では、あれらの出来事は、私が『力』を得る際に起きた出来事、言ってしまえばおまけのようなものである。

 

 あれらの出来事がなければ私は『力』を得なかっただろうが、かといってその後の私の精神に最も大きな影響を与えたのは、『力』を獲得したことと、『力』そのものにまつわることであって、その過程の出来事ではない。

 

 そのため私は、心的外傷後ストレス障害に悩まされることも、男性嫌悪を悪化させることもなく、ごく普通の精神状態を現在に至るまで保っている。

 

 しかし、それは異常だ。客観的に見て私は、途方もない心的ストレスを抱えているはずなのだ。

 

 なのに、私のこれまでの行動はどうだっただろうか。阿頼耶との初対面ではごく普通に彼のことを観察し、お茶を差し出された時には普通にお礼を言い、彼らが夕飯の準備をし始めた時には自然に手伝いを申し出、そして出された寿司を食べて素直に美味しいと口に出す。

 

 普通の少女に、そんなことができるだろうか。

 

 普通の、多大な心的ストレスを抱えている少女に。

 

 私は今更焦り出していた。私の態度は私の主観では何の違和感もないが、彼らの主観においては__強姦未遂に遭った後に殺人の様子を目の当たりにした少女においては__著しく不自然だったのではないか、と。

 

 私は彼らの様子をうかがった。小夜と阿頼耶が、不審なものを見る目で私を見ていないか__

 

 

 

 小夜は満面の笑みを浮かべていた。

 

 

「そうでしょう、そうでしょう、このお寿司本当に美味しいわよねえ。板前さんが私の同級生でね、産地にこだわりがあるとかで__」

 

 

 板前がどこそこで修業したとか、有名な芸能人がよく食べに来るといった話をする小夜。相槌を打つが、適正な間隔が分からず、殆ど固まったまま小夜の話を聞く。

 

 ふと視界の端で阿頼耶が私に目をやるのが見えた。

 

 妙な焦りと緊張が一瞬で生まれ、次の瞬間には解けたことで微妙な心持になっていた私は、阿頼耶の視線に無防備にそちらを向いてしまう。すると阿頼耶は私と目が合う前に自然な動作で料理に目をやり、ばあちゃんこの春巻き何味?と小夜に尋ねた。

 

 

 __杞憂だった、ってことでいいのかな

 

 

 私はほっと胸を撫でおろした。

 

 どうやら彼らにとって、私の態度はそこまで不自然なものではなかったらしい。

 

 彼らが鈍感なのか、私が考えすぎなのか……いましがたの阿頼耶からの視線は気になるが、少なくとも何かを探るような、不躾なものではなかった。もっと透明で、人に何かを尋ねるときのような……それに、目線をそらす際のあれは、微かだが怖れのようにも見えた。

 

 いずれにせよ、私はぼろを出さないように気を付けようと心に決める。

 

 

 __人形と生活するのは、勘弁したいからね。

 

 

 私は一人の生活か、普通の生活がしたいのだ。

 

 二人を消したら怪しまれるし、『力』を使えば人形と暮らすことになる。私は身の回りの人間に対しては極力『力』を使いたくはなかった。それが何故なのかは……今のところどうでもいいことだろう。

 

 ピザ味だね、それは。と阿頼耶の質問に小夜が返し、阿頼耶がまたかよとぼやく。

 

 私は「普通の事件後の少女」として振る舞おうとしたが、無い袖は振れないというか、どうにもぎこちなく思えてしまい、最後にはほとんど諦めて、数年ぶりの寿司を楽しむことに集中していた。

 

 

 *

 

 

「阿頼耶、こちらは末那ちゃん。私の従姉のお孫さんね」

 

 

 祖母ちゃんがそう言うと、目の前の少女__末那は軽く会釈した。生来のものか、光の当たり方によって髪がやや茶色がかって見える。

 

 肩甲骨のあたりで切りそろえられた飾り気のない髪型は、しかし、それが彼女の最もふさわしい髪型のようにも見えるから不思議だ。おそらく、彼女はどんな髪型にしても、それが彼女を最も美しく見せる髪型になるのだろうと、俺はこの時何となく思った。アフロとかにでもしない限りは。いや、彼女ならばアフロヘアーさえ自らのものとし、ブームを席捲するのやもしれなかった。

 

「__それじゃ、食べましょうか」

 

 途方もなく益体のないことを考えていると、祖母ちゃんがそう言った。

 

 俺は手を合わせ、いただきます、と唱和する。祖母ちゃんが自分の小皿にサラダを取り分ける。食べるかい、と聞かれるが自分でやると返す。

 

 祖母ちゃんは末那にも聞こうとしたが、目が合わなかったためそのまま取り分け用のトングを置いた。

 

 俺は祖母ちゃんが話題を探しているのに気が付いた。かくいう俺も……何と言うべきか__あるいはそれは、何を言わないべきか、かもしれない__言葉を探して脳裏を探っていた。

 

 ぼんやりと寿司の桶を見つめていたが、ふとイカをつまんだ彼女__末那の身に起きた出来事は、祖母ちゃんの口から聞いている。ただ、祖母ちゃんにしても、警察から聞いたことが全てで、末那本人から何が起きたかを聞いたわけではないらしい。

 

 俺はそれも当然のことだと思う。

 

 末那の身に起きた出来事は、伝聞の伝聞として聞いただけでも、その出来事を当人に思い出させることが罪にあたると思わせられるような、そんな凄惨な出来事だった。

 

 中学二年で母を喪い、叔父の家へ引き取られ、そこの家に住む引きこもりの従兄から、性的な嫌がらせを日常的に受ける。末那は身の危険を感じ、自作の鍵や私物を常に持ち運ぶことによって自衛していたらしいが、それでも被害は毎日のようにあった。

 

 叔父に被害を訴えると、彼は怒り、引きこもりの息子を(軽く小突く程度にらしいが)殴った。

 

 すると被害は......ひどくなった。

 

 自室の衣類を穢され、家の中で迫られ、そして、寝込みを襲われた。

 

 彼女は抵抗し、大声を上げた。すると叔父がやってきて、従兄を絞め殺した。彼女はそれを、目の前で見ていた。

 

 胸の悪くなる話だ。何かを力いっぱい殴りつけたくなるような……そんなどうしようもない話だ。

 

 この話を祖母ちゃんから聞いた時、俺は彼女から「人として見られていない」と思った理由を理解した。

 

 キャリーを運びやすいよう靴をよけた時の会釈、階段を下りる気配に振り向いた時の目、お茶請けに羊羹を出した時のありがとうございます、それら全てに、一切の血が通っていなかった理由を理解した。

 

 

 男性嫌悪、なんて言葉では、片づけられないそれ。

 

 

 引きこもりの従兄から、日常的な性的嫌がらせを受ける__この時点で、彼女には大きな精神的苦痛が生じたはずだ。しかもそれを彼女は三年以上もの間耐えていた。その間、彼女の中にどのような感情が蓄積されていったのだろうか。単純に言って想像を絶する。

 

 欲望の対象として見られる嫌悪

 身勝手に性欲を向けられる怒り

 いつ終わるのか分からない焦燥

 ふとした瞬間に襲い来る不安

 そして__殺したいほどの憎しみ__

 

 俺は不躾な思考を打ち切った。

 

 このままでは彼女の思いを、その身に生じた苦痛を、決めつけてしまいそうになったから。他人の苦痛を想像し、それに寄り添おうとすることは、必ずしも罪ではないと俺は思っている。その根底にあるのは、理不尽な被害に遭った者の心を慰撫したいという思いであり、思いやりを構成する一部だと思うから。

 

 けれども相手の苦痛を自分の想像の範囲内で勝手に決めつけ、その苦痛の総量がどれほどのものだったのかを推し量ろうとすることは、その人への侮辱になってしまう。

 

 苦痛は数に、量に、表せない。何物も何者も、他者の苦痛を定量的に表し、理解することはできない。し、あまつさえ理解できたと思うことなど許されない。

 

 

 俺は自身を戒め、そして問いかける。

 

 

 

 では、俺は彼女に対し、どのような存在として在るべきだろうか、と。

 

 

 

 あ、美味しい。

 

 

 思考の渦にはまりかけた俺の耳に、そんな言葉が入り込む。

 

 本当に思わず出た言葉のようで、彼女自身も驚いたように口元を押さえていた。そんな彼女を見た祖母ちゃんが、嬉しそうに「そうでしょう」と言い、板前さんについて話し始めた。

 

 言葉数こそ極端に少ないものの、末那は祖母ちゃんの話に相槌を打つ。

 

 

 その透明な瞳は、きちんと祖母ちゃんのことを映していた。

 

 

 ふと末那がこちらを向き、俺は料理に目線を移す。誤魔化すようにこの春巻き何味?と祖母ちゃんに問うた。

 

 

 何ができるか、とか、どう在るべきか、とか、考えても答えが出ないことは、ひとまず保留だ。俺は、末那の話を聞いた後、祖母ちゃんが涙ながらに言った言葉を思い出す。

 

 

 __私たちは、あの子の家族にならなきゃあいけない。

 

 

 ピザ味だねと答えた祖母ちゃんにまたかよとぼやきながら、俺はそれに箸をつける。いつもの味がした。

 

 春巻きか、寿司か、サラダか、それ以外でも、何でもいい。何かが、三人のいつもの味になる日が来るのだろうか。

 

 俺は目が合う直前の彼女の瞳を思い出す。

 

 

 路傍の石を見るような目だった。

 

 

 三人が家族になる日。三人で家族になる日。それは限りなく遠いか、あるいは永遠に来ない。胸の奥底にそんな予感が生まれ、そしてそれは焦燥感となって、喉の奥を焼いた。

 

 俺は努めてそんな悪い予感を振り払いながら、祖母ちゃんの話に相槌を打つ。暫くは末那もこちらに注意を払っていたが、やがて興味を失ったのか、視線を落とし、食事を続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちょうど半年後、俺はこの時の予感が正しかったことを、その身を以て識ることになる。ただし、そのベクトルは__真逆だったが。

 

 




✖男性嫌悪を悪化させることもなく
〇男性嫌悪はこれ以上悪化しようがない


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土御門(旧姓:町田)末那の幕間

 

 ゆっくりと意識が浮上する。

 

 ぼんやりとした意識の中、手を伸ばして掛布団を手繰り寄せ、胸のあたりまで引き寄せる。枕に顔を押し付け、深く息を吸い込むと、自分のものではない匂いがした。

 

 少しずつ、意識がはっきりとしてくる。

 

 何度か寝返りを打ち、心地よい体勢を作っては微睡みに浸ったが、やがて寝ている方がだるさを感じるようになってきたため、私はベッドの上で起き上がった。沸き上がる衝動に逆らわず、口を大きく開けて欠伸をする。両手を頭上に向けて伸びをすると、じんわりと筋肉が伸びて、両腕に血液が巡るような感じがした。

 

 数秒間、そうして筋肉を伸ばす。両腕を下ろすと、ぼんやりと目の前のクローゼットを見つめた。

 よく眠れた。

 私はすっきりとした頭で、十分な睡眠がとれた満足感に浸る。睡眠不足、というわけではなかったのだが、いかんせん目覚めがよかった。頭の中が空っぽになったかのような、脳の配線を丸ごと入れ換えたかのような、そんな爽快な気分だった。

 

 「……起きるか」

 

 ベッドから降り、立ち上がる。背筋を伸ばし、今度は全身で伸びをする。その体勢のまま首を回して時計を見ると、短針が六、長針が十二を指していた。

 六時か。

 昨晩床に就いたのは十時頃だったので、八時間程度寝たことになる。そりゃ爽快な目覚めになるはずだった。

 (……水でも飲むか)

 伸びを終え、ぼーっと突っ立っていた私は、のどの渇きを感じ、ドアへと向かう。初めから設置してあった鍵を開け、ドアを開くと、廊下へと踏み出した。

 

 

 

 

 『パンとお米、どっちが好きかい』

 『え……どちらかといえば…お米です』

 

 そんな会話があったのは、昨日の晩、土御門家における初の夕食が終わり、私が自身の使う部屋をあてがわれた直後だった。無論のことながら、土御門家の家長である土御門小夜と、私との会話である。新しい同居人に、パンと米のどちらが好きか、聞いたから何になるというのか。と昨夜の私は思っていたが、朝餉の匂いにつられて階下へ降りた私は、そういうことだったのかと昨夜の質問の意図を理解した。

 

 ほわほわと湯気を立てる白米が、私の前に置かれている。食卓には他に、みそ汁と焼き鮭と漬物が並んでいる。土地も含めればその時価総額が億に届きそうな豪邸に住む土御門家も、流石に朝食は一般家庭と同様のスタイルらしい。昨夜の質問は、朝食は米がよいかパンがよいかという質問、あるいは、土御門家は朝食に米を食べるがそれでよいかという確認の意味だったようだ。

 

 私は朝食の用意された食卓を眺める。普通の人間ならここで、自分の慣れ親しんだ光景が見られてほっとしたり、あるいは似てはいても慣れ親しんだ味とは微妙に異なることでかえって寂寥感を感じたりするのかもしれないが、あいにくこれまで朝食を食べるという習慣がなかった私は、朝餉にみそ汁や米を食べた記憶がそもそもないため、むしろもの珍しいものを見る気分というか、新鮮な心持で目の前の食卓を眺めていた。

 

 「それじゃ、食べましょう」

 

 小夜がそう言ったため、私はいただきます、と言う。小夜がそうしたように、取り敢えずみそ汁を一口飲んだ。

 (あー…)

 胃がむかむかする。朝食を食べる習慣がなかったからだろう。胃が普段とは異なる時間帯の食事を拒否していた。

 面倒だな。

 私は心の中で思った。

 今から断るのも、これを食べるのも。

 私は少し迷ったうえで、今日のところは適当に終わらせることにした。

 焼き鮭を一口大に切っていく。

 切り終えると、米を口に入れ、咀嚼も程々にみそ汁で流し込む。時折一口大に切った鮭を口に押し込み、それも流し込む。四,五回それを続けると、私の朝食は終わった。

 

 「ごちそうさまでした」

 

 流しへ持っていくため、食器を重ねる。胃のあたりに気持ち悪さを抱えつつ、私は明日から朝食は必要ない旨を告げようと、小夜の方に顔を向けた。

 

 「あの…」

 

 明日から朝食はいらないです。そう言おうとして、私は言葉を詰まらせた。

 

 なぜか。

 

 小夜が、私のことを、とても__本当に、とても、嬉しそうに見ていたからだ。

 

 「…あ、今お茶入れるわね。ちょっと待ってちょうだい」

 

 言葉を詰まらせた私をどう解釈したのか、小夜は席を立ちお湯を沸かしに行く。やかんを火にかけると、棚をあさり茶葉を出す。

 その様子を見ていると、小夜は、しわの刻まれた目を申し訳なさげに下げ、しかし依然として嬉しそうに口角を上げながら、「ごめんなさいね、じろじろ見ちゃって、」と言った。

 

 「黙々と食べてくれるのが嬉しくて…昨夜も思ったのだけれど、末那ちゃんは食べるのが好きなのかしら」

 

 小夜がそう問うてくる。

 

 「あ、いえ、そういうわけでも……昨日はお寿司だったので」

 

 虚を突かれた私は、その問いに本心で答えてしまう。すると小夜はさらに喜色を浮かべて、「そうなのねえ」と言い、にっこりと笑った。

 私は困惑した。

 何がそんなに小夜を喜ばせたのかが分からない。

 黙々と食べてくれたのが嬉しかった?私が食事をしていると嬉しいの?

 なぜ?

 私はそう問いたいのをすんでのところで堪えた。本当に私には、小夜が何を言っているのか、全くもって理解ができなかった。

 黙々と食べてくれて嬉しい?違うよ。あれは、食べるのも断るのも面倒だったから、ただ胃の中に詰め込んだだけだよ。

 食べるのが好き?まともなものを食べてこなかっただけだよ。

 

 あなたが思っているような姿は、本来の私の姿とはかけ離れているよ。

 

 にこにこと笑う小夜を見ていると、自分がとても罪深いことをしたような気になった。ただ、なぜそんなふうに思うのかが全く分からず、私は自分の胸の内が分からなくなってしまった。

 

「……すみません、学校の準備をしたいので、部屋に戻ります」

 

 そう告げ、私は立ち上がる。食卓に背を向け、螺旋階段へと向かった。

 

 お茶、ここに置いておくわね。小夜がそう言う。私はそれに返事を返さなかった。

 私は胸の奥に、もう一度、ちくりと痛みを感じた。

 

 

 

 

『財布を出せ』

 

 ぼんやりとした顔の青年が、パンツのポケットから財布を取り出す。

 4枚だけ抜き取り、青年に返す。ぼんやりした青年は受け取った財布をポケットにしまった。

 顎に手を当て、少し考える。金額も少額だし、わざわざストーリーを作らなくてもいいか。

 

『私を認識してから見聞きした全てのことを忘れろ』

 

 青年は一瞬白目を剥き、すぐに元に戻る。記憶を消去すると、このようなおかしな挙動をすることがままあることを、私は度重なる『力』の行使によって知っている。 

 

『ゆっくり100を数えたら正気に戻れ』

 

 いーち…にーい…と数を数え始めた青年を置いて、私は路地裏を出た。

ビルが立ち並んでいる。まだ七時にもなっていないが、出勤のためか、スーツ姿の男女がちらほらと見えた。

 

 ポケットからスマホを取り出し、時刻を確認する。六時五五分。登校時間まではまだまだ余裕がある。早起きの習慣が抜けず家を早く出たが特にすることもなかったため、手ごろな青年から金銭を拝借させてもらっていた。

 私は友人たちと作ったグループラインを開く。

『8時まで駅前のスタバいるね』

メッセージを送ると、すぐに既読と返信がついた。

『りょ。あと5分で駅着く』

『…zzz(-_-)zzz』

『まじで!?うわーん(涙)もっと早く起きればよかったー!!!』

 私は画面に向かって軽く微笑むと、駅前に並ぶビル群へと足を向けた。

 

 

 

「そういえばさ、末那、なんで今日スタバ行ってたの?」

 

 授業の合間の空き時間。前の席に座る由美が、椅子の上で体を反転させ、背もたれを抱きしめる様にして尋ねてきた。

 

「そういう気分だったんでしょ」

 

由美の隣の席の亜里沙が言う。

 

「えぇ~、そういや、亜里沙も行ってたね。でも、うちらが朝に行くのってあんまなくない?っていうかスタバ自体あんま行かないし…特に末那は倹約家なイメージあるし…ほら、末那ってあんまうちらとカラオケとか行かないじゃん?だから気になって…」

「バイトが忙しいからでしょ」

 

 亜里沙があけすけな由美をたしなめる様に言う。そりゃそうだけど~と不満そうにぼやく由美。確かに、友人たちがカフェに行くと言っていても、私は欠席することが多かった。そんな私が今朝、急に意味もなくスタバに行っていたため、由美は何かあったのではないかと疑問に思ったのだろう。そんな由美をいさめた形になった亜里沙も、そこはかとなく聞きたそうな雰囲気を出していた。

 

「ちょっと色々あって…」

 

 そこで言葉を切り、何と言ったものかと胸中で思案する。正直に全てを話すのは論外として、具体的にどこまでなら言っても大丈夫だろうか。友人に対し生活が大きく変わったことについてどう説明するか、あまり考えていなかったことに、私は今更ながらに気が付いた。

 そんな私の態度が秘密主義のように見えたのか、由美が「末那はそればっかし」と言い、拗ねたように顔を背ける。

 

「こら」

 

 亜里沙が由美を小突く。私は声を上げて笑った。亜里沙と由美が不思議そうに私を見る。

 

「実は、バイト辞めたんだ」

「え、そうなの?」

 

 がばっと体を起こす由美。亜里沙も驚いたように、へえーと声を漏らす。穂香は相変わらず由美の髪をいじりながら、顔だけこちらに向けた。

 

「うん、正確には、これから辞めるんだけど…もうシフトには入らないかな」

「へぇ~」

 

 チャイムが鳴る。

 教師はまだ入ってきていないが、教室内の生徒たちはわらわらと席に着き始める。一人だけ席が遠い穂香は、由美の髪の毛をいじり倒して満足したのか、満ち足りた表情で席へと戻っていった。

 

 私は、反転させていた体を元に戻した由美と、鞄を漁って教科書を探す亜里沙に向かって言う。

 

「だから、結構ひまな時間できちゃって」

 

 由美はすぐに食いついた。

 

「じゃあじゃあ!カラオケ行こうよ!駅前のDAM置いてあるところ!」

「うん、いいよ」

 

 やったー!とガッツポーズをする由美と、それを楽し気に見る亜里沙。離れた席で教科書をめくっていた穂香は、何事かと不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。

 教師が入ってきて、教室内の喧騒が収まっていく。由美は授業中も嬉しそうに、体を左右に揺らしていた。

 

 

 

 

「町田末那さん、好きです、付き合ってください」

 

 放課後、ごみ出しじゃんけんに負けた私が特別棟裏のごみ捨て場に行き、空のペットボトルで満ちた袋を放り投げ、さあ戻ろうと踵を返すと、突然目の前に男子生徒が現れた。彼はごみ出しを終えた私の通り道をふさぐと、唐突に頭を下げ、冒頭の言葉を発したのだった。

 

「あの、俺、何回か手紙、渡したんだけど...読んでくれましたか...?」

 

 目の前の男子生徒が言う。私は彼の発する言葉を音としては認識していたが、人間の話す言語としては認識していなかったため、何か言ったな、という程度にしか、彼の言ったことを理解していなかった。

 

 私はふと気になったことがあり、それを彼に尋ねることにした。

 

「尾行けてきたんですか」

「へ…?」

「学校の決まりで、ペットボトルは分別して、通常のごみとは異なる場所に捨てなければなりません。空のペットボトルは業者が回収していくから、その収集場所は道路に近い、特別棟の裏の奥まった場所にある。そして、通常のごみを捨てるタイミングは学年ごとに揃えられていますが、ペットボトルを捨てるタイミングは、クラスの判断に任されている。私がごみ捨てに向かっているのを目にし、その手にペットボトルの入った袋が見えたため、ここまで尾行けてきた、ということでしょうか」

 

 私は、この男子生徒が、何故私が一人になる場所とタイミングを知っていたのか、それを知りたかった。

 男子生徒は私の言葉を聞くと、一瞬無理解に満ちた顔をしたが、理解が及ぶにつれ何故か傷ついた顔になっていった。

 

「あの、俺たち、同じクラスなんだけど」

 

 私は腕を組み、思考を巡らせた。ということは、今日の掃除当番に私が含まれていることを知り、そのうえで彼自身は当番でもないのに放課後教室に残り、私がごみ出しじゃんけんに負けるところを見ていた、ということか。

 確認のためそれで合っているかと尋ねると、彼は傷ついた表情から一変、不愉快そうに眉をひそめた。

 

「いや、俺も掃除当番なんだけど…っていうか、ごみ出しじゃんけんにも参加してたし…最後に君に勝ったの、俺なんだけど…君がペットボトルを捨てに行って、俺が普通のごみを捨てに行くことになったんじゃん…あのさ、ふざけてんの?」

 

 私は納得した。なるほど、それなら私が特別棟の裏に行くことが分かる。男子生徒は苛立ったように髪を手で払うと、

 

「あのさ…」

「わん」

「え…?」

 

『喋るな』

 

「__っ、__!__っ!」

 

 唐突に喋れなくなり、驚愕する男子生徒。何かを訴えようとするが、金魚がえさを待つように口をパクパクと開閉することしかできない。

 ここは特別棟の裏。周囲に人気はない。ブラバンはごみ捨て場の近辺では練習しない。私はこれを機に、少し『力』の実験をしてみることにした。

 

『苦しめ』

 

 地面に倒れ伏し、胸を掻きむしる男子生徒。血走った眼を限界まで見開き、顔面が異様に紅潮している。首や手には血管が浮き出し、本来なら上げているであろう絶叫は、『喋るな』の命令によって禁じられ、かひゅー、かひゅーと肺がおかしくなったかのような息を漏らしながら、顎が外れんばかりに口をかっ開いていた。

 

『やめろ』

 

 芋虫のように地面を這いずり回り、のたうち回る姿が、想像していたものより10倍は気持ち悪く、私は命令を中断した。

 男子生徒がぴたりと動きを止める。

 

『私が「わん」と言ってから見聞きした全てのことを忘れろ』

 

 言い終わった途端、ぱちぱちと瞬きをし状況を確認する男子生徒。自分が地面に横たわり私に見下ろされているのを確認すると、地面に手を付き立ち上がった。

 

「なにを…」

 

『私に関する一切を忘れ、金輪際私に興味を持つことも、視線を向けることも、話題に出すこともするな』

 

 中腰の男子生徒の脳に命令が染み込んでいく。目の焦点は定まらず、眼球はせわしなく動き、手が少し痙攣する。

 

『あとゲイになれ』

 

 一瞬白目を向き、元に戻る。脇を通りすぎたが、呼び止められることはなかった。

 

 

 教室に戻ると、由美が自分の鞄と私の鞄を持ち、うきうきしながら待っていた。由美はごみ捨てから戻って来た私に気が付くと、子犬のように勢いよく抱き着いてきた。

 

「末那〜カラオケ行こっ」

「うん」

 

 亜里沙と穂香も来るようだ。私たちは校門を出て、カラオケのある駅前に向かう。

 他愛もない話をしている道中、ふと亜里沙が言った。

 

「そういえば、末那、なんか雰囲気柔らかくなったよね」

「そうかな」

 

 微笑んで返すと、由美が勢いよく食いついてきた。

 

「そうだよ!あんま自覚ない?なんか前は…よらば切る!みたいな感じで、いつもちょっとピリついてる感じだったけど、今はなんか…」

 

 うーん、と考え始めた由美をよそに、穂香が言った。

 

「ほんわかした感じ?」

「あ、そう!ほんわかした感じ!穂香みたいな!」

「んふふー。どういうこと?」

 

 あわわわわわと由美が失言した自分の口を押さえる。そんな由美ににじり寄る穂香。じゃれあう二人を微笑ましい気持ちで見ていると、同じく目を細めていた亜里沙が言った。

 

「何か良いことでもあった?」

 

 私はついさっき用意した話を、彼女らにすることにした。

 

「母親が海外に赴任になって、お婆ちゃんと暮らすことになったの」

 

 ふにん?そうなの?ふーんと、それぞれの反応を返す三人。亜里沙が重ねて問いかけた。

 

「じゃあ、今はお婆ちゃんと二人暮らしなの?」

「あ、や、もう一人いる」

「へー」

 

 今後の四人での交流のことを考え、嘘にならないようそう言うと、由美がふと訊いてきた。

 

「もしかしてだけど、もう一人って男のひと?」

「え、そうだけど…」

 

 由美は、やっぱり、と言い、ほかの二人と顔を見合わせる。すると三人はくすくすと笑いだした。

 

「ちょっと、なに?」

 

 私が不満を滲ませて言うと、亜里沙がごめん、と言い、

 

「末那ってほら、なんか男に厳しいじゃん?だから、二人暮らしか聞いたときに、もう一人いるって、他人行儀な言い方したから、そのもう一人は男なのかな、って」

 

 私は自分の顔がこわばるのを感じた。けれどもそれは亜里沙や由美に図星を突かれた不快感からではなく、自分が男に厳しい理由、あるいは原因、を想起してしまい、それらに紐づけられた嫌悪感が一瞬顔をのぞかせたからだった。

 私の顔がこわばったことで、三人の会話がぴたりと止まる。この話題は地雷だと思ったのか、亜里沙が会話の方向を変えた。

 

「や、でも、アルバイト辞められたのは良かったね。すごい大変そうにしてたし」

 

 うんうん、と由美が相槌を打つ。穂香もそやね~と柔らかく言った。

 

「…お婆ちゃんが、しなくていいって。生活に必要な分は出してくれるし、学費も心配するな、って言ってくれたから」

 

 半分嘘で半分本当だ。しなくていい、とは言われていない。そもそも私はアルバイトをしていることを小夜に言っていない。小夜の方でも私がアルバイトをしていることは知らないだろう。ただ、大学の学費については「心配しないでほしい」と言われているので、小夜のおかげで学費を稼ぐ必要がなくなったのは本当のことだった。

 

「そっか、良かった…のかな?」

「お母さんは、海外に転勤になっちゃったわけだし…」

 

 こういった場合に、何と声をかけるべきか。言葉を探してくれている彼女たちに、私は朗らかに笑って見せた。

 

「いままでも家にいるような人じゃなかったから、あんまり寂しいとかはないかな、むしろ、今はいつでもお婆ちゃんがいるぶん、前よりも寂しくないかも」

 

 そしてこれも、半分本当のこと。

 

「…そっか、それなら…」

 

 安心したように胸を撫でおろす由美。ありがとね、と言うと、満面の笑みで「ううん!」と頭を振った。

 

「…お婆ちゃんち、結構大きくてさ。よかったら今度おいでよ」

「え、行く行く~!!」

 

 末那から誘ってくれるの初めてじゃない?と由美がはしゃいだように言い、亜里沙と穂香も行きたいと言う。カラオケを通り過ぎたことに気が付き、来た道を引き返すのは、それから一〇分後のことだった。

 

 



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土御門阿頼耶の幕間、あるいは彼らの物語の開始地点

二日連続投稿という奇跡。批評、感想、よろぴくです。


 

 

 硬い鱗の表面を思いきり殴りつけると、そいつは苦悶の声を上げた。ついで輪郭がじわりとゆがみ、砂が崩れる様に体が崩壊していく。

 

「…ふぅ」

 

 完全に祓えたことを確認し、俺は一息ついた。頬を撫でた風が心地良い。呪霊を祓ったことを伊地知さんに連絡しようと、ポケットからスマホを取り出した。

 

「うげ」

 

 電話の着信。表示された人物名に思わず声が漏れる。とはいえ無視するわけにもいかず、俺は応答ボタンを押した。

 

「…もしもし」

『ヤッホー!元気?』

 

 やたらフランクな挨拶。友達かよ、という突っ込みが喉元まで出かかる。

 

「なんすか、今俺ボランティア中なんすけど」

 

 そう言うと、電話の相手はくつくつと笑った。

 

『ボランティアねえ』

 

 と、がさがさとノイズが混じり、

 

「一級呪霊を祓うボランティアか、僕なら死んでもやりたくないね」

 

 電話越しの声が背後からも聞こえた。嫌な予感を、というより確信を抱きながら振り返る。

長身、黒目隠し、黒い服。黒尽くしがトレードマークの男。

 

 現代最強の呪術師、五条悟がそこにいた。

 

「…何の用すか」

 

 とげのある言い方になったことを自覚したが、この人にはそれくらいで丁度いいのだと思い直す。当の五条さんはそんな俺の態度などどこ吹く風で、この空に浮かぶ雲と同じような、自由で不敵な笑みを浮かべた。

 

「ちょっと手伝ってほしいことがあってね」

 

 

 

 

東北、秋田。

鷹巣駅。その周辺。

 

「なんすか、ここ。まじで何もないんすけど」

 

 見渡す限りのシャッター街。平日の夕方だというのに、道を歩く人は一人もいない。有り体に言ってゴーストタウンだった。

 

「コンビニすらねぇ…」

「そんくらいなーんもない場所の方が、いんちき霊媒師にとっては都合がいいんだろうね」

 

 東北の僻地にいる呪詛師の討伐。それが五条さんの「俺に手伝ってほしいこと」だった。

 

「この丸が潜伏先の半径だね」

 

 事前に地図を渡された俺は、在来線に揺られながら自身の術式で調べること一時間弱。件の呪詛師の居場所がこの鷹巣駅周辺であることを突き止めた。

 

「ここですね」

「はいどーん」

 

 とある居酒屋の前で立ち止まりそう言うと、五条さんがノータイムでドアを蹴破る。破天荒ってこの人のためにあるような言葉だよなぁとか思いながら中に入ると、畳敷きだからか、随分と古臭い匂いがした。

 

「な、なんだお前ら!」

 

 ここの店主だろう、こってりと化粧をした50代くらいの女性が、俺たちに向かって叫んだ。

 

「阿頼耶、どう思う?」

 

 五条さんが俺に訊く。あんたの目ならもう視えてんだろと思いつつ、俺は術式を使い、唾を飛ばして怒鳴る女を視た。

 

「あー、術式は持ってますが、交霊や降霊に関するもんじゃありませんね。いいとこ式神術、あるいは低級の呪霊を使役する術式、ですかね」

 

 五条さんはつかつかと女に近づいていく。女はようやく俺たちが自分の同類で、かつ自分をしょっ引きにきた存在だと分かったのか、懐から数枚の紙きれを取り出した。

 

「玄武、白虎、来な!」

 

 女の握った紙切れが舞い、二体の呪霊となった。四足の人面を持つ犬のような呪霊と、蛇に足を付けたような呪霊。

 

「…っ」

 

 俺は少し警戒した。女が出した二体の呪霊から、女の術式の格から想定される実力よりも、強いプレッシャーを感じたからだ。しかし、同じく足を止めた五条さんの存在を思い出し、いらぬ心配だったかと肩の力を緩めた。ちなみに五条さんはそもそも警戒も何もしておらず、足を止めたのは呪霊に警戒したからではなく、カウンターに雑多に置かれたキャラクターグッズに興味を惹かれたからだった。

 

「へっ、私の術式は、自分の血を滲ませた紙に、呪霊を封じ込めることができるのさ。こいつらはあたしが持つストックの中でも最強格だ。怪我する前に帰ったほうがいいよ」

 

 女は得意げな笑みを浮かべる。俺は冷静に二体の呪霊を観察し、等級を算出した。

 

「どさくさに紛れて縛りで強化したみたいだけど、あんま意味ないっすよ。視たところどっちも2級程度、甘く見積もっても準1級だ」

「…っは、その見積もりが正しいかどうか、試して」

「一度元に戻した呪霊は、もう一度紙に封じることは出来ない。だろ?それと、封じたり戻したりはできても、従えることまではできない。帰ってもいいけど、あんたにそいつらを祓えるのか?」

 

 女は言葉に詰まった。この二体も本当に切り札で、自分で調達した呪霊ではないのだろう。その証拠に、女は二体が放つ不気味な呪力にあてられ、冷や汗を流していた。

 

「大人しく捕まるってんなら、こいつらを祓ってやってもいいけど?」

 

 キャラクターグッズをちゃっかりポケットに仕舞いこんだ五条さんが言う。女はくそがと悪態を吐き、唾をはくと、裏口に向かって駆け出した。

 

「はいどーん」

 

 無下限呪術が二体の呪霊をすりつぶす。女は飛び散る調度品に巻き込まれ、壁に叩きつけられて気を失った。

 

「一件落着、っすかね」

 

 瓦礫と粉塵の舞う中を、女を確保しに向かう。あとはこいつを高専まで連れ帰れば、本日の任務は終了。俺は女が完全に気を失っていることを確認し、店の外に引きずり出そうと両足を持ち上げた。

 

「あー、回収は人がくるからそれは放置で。僕らはもう一件を片づけに行こう」

 

 俺は持っていた足を取り落とした。がごん、と女の脛が瓦礫の角にぶつかり、嫌な音を立てる。

 

「は?もう一件?」

「うん」

 

 いい笑顔で頷いた五条さんにげんなりしながら、俺はほこり臭い店内を出入り口めがけて歩く。外に出ると、開放感がすさまじかった。

 

「で、今度はどこなんすか」

 

五条さんはにやりと笑うと、

 

「男鹿半島」

「もしかして【なまはげ】か!?」

 

 うわあ行きたくねえ。俺の脳裏に包丁を持った異形の怪物の姿が浮かぶ。そんな俺の心情をよそに、楽しそうな五条さんは俺の首根っこを掴んだ。

 

「特級仮想怨霊【なまはげ】、僕と行けば単なる観光だ。阿頼耶も本物のなまはげ、興味あるっしょ」

「ないないないないないない!!頼むから帰らせてくれええええええ」

 

 恥も外聞もなく泣き叫び、「行きたくない」の意思表示をする俺。もちろん、五条さんが俺の意思を聞き入れてくれることはなかった。

 

 

 

 

「死ぬかと思った…」

 

 所は麻布十番。世帯所得1,000万以下はお断りな雰囲気を醸し出す高層マンション、その麓、に並ぶ植木の淵に腰掛けて、俺はうなだれていた。

 

 目を閉じればありありと思い浮かぶ、恐ろしい形相。「悪い子はいねが~」と言いながら淡々と包丁を振り回す、子どもたちの怖れによって生み出された特級呪霊は、最初こそ爆笑しながら見ていたが数分で飽きた五条さんによって秒ですり潰されていた。

 

 特級呪霊のプレッシャーに晒されたことでげんなりしている俺とは対照的に、余裕の態度を崩さぬ五条さんは、なんぞ面白い物でも見つけたのか、俺たちがたむろす高層マンションの最上階あたりを見つめてにやにやしていた。

 

 しばらくそうして、体力の回復をはかる。上流階級の闇が深そうな日常をのぞき見することに飽きたのか、五条さんはうなだれる俺に「だらしないねえ」と言った。

 

「あれくらいでびびってるようじゃ困るんだよね。阿頼耶には【なまはげ】くらい、秒で倒せるようになってもらわないと」

 

「いやいやいやいやいや無理だから。あれ特級呪霊だから。俺の方が秒で死ねるから」

 

 俺の力量を1000割増しくらいで勘違いしているおかしな発言は、きっちりかっちり丁重に訂正させていたただく。

 そんな俺の泣き言に対し、五条さんはくつくつと笑った。

 

「今の阿頼耶が行けば、そりゃ死ぬだろうね」

 

 含みのある言い方に眉を上げる。しかし五条さんはにやにやと笑うだけで、含ませた意味を語ってはくれなかった。

 

「...じゃ、行きますか。駅まで送ってきますよ」

 

 大分回復してきたので、高専に戻るという五条さんを駅まで送るべく、立ち上がる。正直見送りが最も必要ない人間オブザワールドなまでありそうな五条さんだが、いかんせんうちの祖母ちゃんに見つかると色々と面倒なので、とっととお帰りいただきたい意思も込めて駅までお送りすることにした。

 

 

「あ、そうだ。精神系の術式を持った呪詛師に心当たりない?」

 

 五条さんの生徒にゴリラが多いという話を聞いていたところ、ふと五条さんがそう問うてきた。

 

「精神系、ですか…?」

「阿頼耶を迎えに行く前、ちょっと渋谷のタワレコに寄ったら、通りすがりの会社と家を往復することだけが生きがいの変態リーマン一般凡俗ピーポーからほんのちょっとばかし残穢を感じてね。よく視たら脳みそに作用するタイプの術式の残穢っぽかったから、何か知らないかと思って」

 

 言われるまま脳裏を探るが、心当たりはない。ふと先の五条さんの発言の一部が気にかかり、俺は尋ねた。

 

「ぽかった?」

 

 それまで余裕のある、悪く言えば気の抜けた顔をしていた五条さんは、突然真面目な顔になる。空気感が変わったことを察した俺は、居住まいを正した。

 

「今も昔もそしてこれからも終生ときめく最強呪術師のこの五条悟でも、被害者リーマンに使われた術式の詳細までは分からなかった」

 

 居住まいを正したことを後悔しつつ、それでもあの五条悟が術式を看破できなかったことに驚く。

 五条さんは、まあ、脳を中心に術式の影響があったなら、十中八九認識阻害や催眠系だろうけどね、と言い、

 

「この僕が注意して視て、ようやく残り香が微かに香る程度の残穢。かなりのやり手だ。僕や君クラスのレベルの呪詛師、それも精神をどうこうできるようなやつが、この東京のどっかにいるかもしんない。気を付けたほうが良いかもね」

 

 と続けた。そんな五条さんの言葉に、俺は苦笑いを浮かべる。

 

「僕や君クラスって…五条悟と土御門阿頼耶には、結構どころじゃない、逆立ちして人生やり直しても埋まらないくらいのレベル差があると思うんですが」

「まあね。なんたって僕は唯一にして絶対の現代最強呪術師五条悟だから。そんな僕からしたら、一級呪霊を町のゴミ拾い感覚で祓っちゃうような君でも、赤子の手をひねるようなもんさ」

 

 そう、五条悟と土御門阿頼耶には、歴然としたレベル差が存在する。それは格の違いと言い換えてもいい。生物としての格の違い。例えば俺が、一級呪霊をごみ拾い感覚で祓うとすれば、この人は、特級呪霊を街頭アンケート感覚で祓ってしまうのだから。

 

 現代最強。

 

 その肩書は、重く、はてしなく遠い。

 …というか別に、俺はゴミ拾い感覚で一級呪霊を祓ってはいない。今日の呪霊も命がけで祓っている。あんたの感覚を人にあてはめないでほしい、俺は切にそう思った。

 

「でもね、そんな産まれた時から最強を義務付けられた僕の足元程度になら、及ばないこともなくもなくないとは思ってるんだよね」

「…買い被りですよ」

「どうかな」

 

 僕、目には自信あるんだよね。五条さんはそう言った。

 

「精神系の呪詛師のこと、それっぽいやつを見つけたら、伊地知さんか七海さんに知らせときます」

「ん、よろぴく」

 

 そうこうしている内に駅に着いた。俺は五条さんに軽く頭を下げる。五条さんはいつもの黒い目隠しを付けたまま、不敵な笑みを浮かべた。

 

「んじゃ、いつでも待ってるよ」

「…考えときます」

 

 何度目かになるやり取りをし、俺は踵を返す。

 

 五条さんから誘われることも、それをどっちつかずのまま放置することも、何回も繰り返しているはずなのに一向に慣れることはなかった。

 それはやはり、俺が本当は、望んでいるからだろうか。

 あの世界に、入ることを。

 

 ふと喉の渇きを覚えた俺は、コンビニへと足を向ける。ついでに誘惑にも似た思考を払うように頭を振った。

 

「あ、コンビニ寄るの?僕あんまん食いたいんだよね」

「あんたほんっとしまらねえな…」

 

 自由すぎる先達にげんなりとしながら、コンビニへと入る。季節外れにも、おでんの匂いがした。

 

 

 

 

「またあした~」

 

 手を振る由美。ドアが閉まり、電車が動き出す。姿が見えなくなるまで、由美はずっと手を振っていた。

 

 今日は久しぶりに楽しかった。

 

 私は今日一日を思い出して、そう思った。

 

 「麻布十番~麻布十番~」

 

 一日の余韻に浸っていると、アナウンスが最寄り駅に到着したことを知らせた。私は電車を降り、プラットフォームへ立つ。エスカレーターで出口まで上昇していると、ふと喉の渇きを覚えた。今日行ったカラオケはワンドリンク制で、庶民派な私たちは誰も400円以上するドリンクバーを付けようとは言いださなかった。私は出口近くのコンビニに寄ることを決め、エスカレーターの上昇する感覚に身を任せた。

 

 

 

 

「え、五条さん、あんまん食うのにカフェオレ飲むんすか?」

「だって僕最強だし」

「どのへんが"だって"?」

 

 五条さんの最強ジョークに突っ込みを入れる。あんまんにカフェオレとかどんだけ糖分摂取したいんだって話だが、この人の感覚ではおかしなことではないらしい。最近東京にも進出している酪王乳牛のカフェオレを手に取った五条さんをよそに、俺はミネラルウォーターを取った。

 喉が渇いたときには水が一番である。

 

「らっしゃいませー」

 

 レジに並んでいると、一人の女子高生が店内に入ってきた。視界の端で捉えただけだったが、ふと見覚えのある顔立ちのような気がして、そちらに目を向ける。

 

「あ…」

 

 末那だった。

 彼女もこちらに気が付いたらしい。俺と五条さんを交互に見ると、軽く会釈をした。そのまま、先ほどまで俺たちがいたドリンクのコーナーへと歩いていく。

 

「なに、阿頼耶の知り合い?」

「ええ、まあ」

 

 俺は手短に事情を説明した。

 土御門の遠縁であること、身寄りがなくなってうちに引き取られたこと、もうすぐ2週間が経つが、まともに会話をしたことがないこと。

 五条さんは話を聞き終えると、一言、ギャルゲーかよと言った。いらっとしたのでジャブを放つと、普通に躱されたあげく「ぷぎゃー」と煽られる。俺は静かに呪力を練り始めた。

 

 今なら黒閃を出せそうな気がする。ふと、五条さんが一点を見つめていることに気が付いた。視線の先を追うと、巨大なケースの前で飲み物を選ぶ末那が。

 

「犯罪ですよ」

「あ?」

 

 無下限パンチすっぞと脅された俺は、やめてくださいミンチになってしまいますと許しを請う。必死の願いが通じたのか額にデコピンを食らう程度で済んだが、食らった瞬間は頭が爆散したかと思った。

 制裁(デコピン)を終えた五条さんはシリアスな顔になると、こう問いかけてきた。

 

「……阿頼耶、あの子を術式で視たことは?」

 

 五条さんの問いかけに答える。

 

「普通にありませんけど…」

 

 俺の回答を聞いた五条さんは、2,3度頷くと末那から視線を切った。レジの順番が来て、俺と五条さんは会計を済ませる。

 

 コンビニを出ると、ほのかに冷たい風が身体を撫ぜていった。風がきた方向を見つけようと空に目をやると、夕焼けの色合いに目が細まる。今度こそ別れの言葉を口にしようと、傍らの長身黒目隠しに向き直ると、会計が終わってから黙っていた五条さんが静かに口を開き、こう告げた。そしてそれが、これから起こることの、少なくとも俺の主観においての、すべての始まりだった。

 

「阿頼耶、さっきの末那って子、術式で視たほうが良い。ほんの僅かだけど...」

 

 

 残穢の気配がした。

 



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 __なにかが、いる。

 

「でさ~、その時のちょびひげの言い訳が苦しくてさー」

「なんて?」

「『僕じゃない、妖怪がやったんだ』」

「うわ、見苦し」

「禿げると恥を忘れるのかな?」

「それは言い過ぎ」

 

 けらけらと笑う由美と穂香。そんな二人に合わせ、私は曖昧に笑みを浮かべる。引きつらないように、慎重に調整しながら。

 

 __なにかが、いる。

 

「それじゃあそろそろいきますか……」

 

 ふと、由美が神妙な顔で居住まいを正す。拳を握り、ぐりん、と私に顔を向けた。

 

「ドキドキ!お部屋探索~!」

 

 いえーい、と由美が拳を振り上げ、こういうノリが意外と好きな穂香が、いえーいとそれに乗っかる。一瞬面食らった私は、ほどほどにしてね、と苦笑を浮かべた。

 興味津々で部屋を見回す由美と穂香。ベッド、デスク、と視線が動き、クローゼットに止まった。

 

「ここかっ!」

「あ、ちょっと」

 

 私は慌てたふりをして、穂香を止める。

 

「あ、怪しい」

 

 顔を見合わせ、にやあ、と笑う穂香と由美。

 

 見られたとて困るものなどないが、唯一、拝借した金品だけは困ったことになる。下着の底に敷き詰める様にして保管してあるが、なぜそんな大金をそんな方法で保管しているのか、問い詰められて上手く言い逃れできる自信はなかった。まあ、いかにこの二人とはいえ、流石に下着をひっくり返すことまではしないだろう。

 

「ここはどうだ!」

 

 由美がベッドの下を覗き込む。きゃあきゃあと姦しい二人。あまりうるさくすると、階下の小夜に何か小言を言われるかもしれない。十中八九それはないだろうという気もするのだが、由美の手が衣類の入った箪笥に向かおうとしていたため、私は参考書やテキスト類が雑多に置かれている机を強めに爪で叩いた。

 

 かつん、という音に二人が動きを止める。私は一拍間を置き、二人に対してにっこりと微笑んだ。

 

「二人とも、あんまりふざけてると追い出すよ」

 

 はわわわわわと口を震わせる穂香と由美。ごめんなさいいいいと許しを請う二人に、私はデコピンの構えでにじり寄る。

 

 __なにかが、いる。

 

 調子に乗った二人への制裁を終えると、私は亜里沙に目をやった。

 

「……」

 

 他の三人が騒がしくする中、亜里沙だけはぼんやりと何もない空中を見つめていた。

 その目は危ういほどに虚ろだ。

 

「……亜里沙、大丈夫?」

 

「……ん?あ」

 

 はっと目を開き、しばしばと瞬きをする。まだ意識がはっきりしないのか、どこかとろんとした眼で、目の前の机を見つめる。

 

「だいじょぶ……」

 

 そう言いながらも、亜里沙は気怠げに欠伸をする。目をこすり、机に突っ伏した。

 

「なんか最近、ぼーっとすることが多いんだよね」

 

 机にのしかかりながら、亜里沙が言う。別に眠いわけじゃないんだけどなあ、と呟いた。

 

「勉強のしすぎじゃないの?」

「んー、そうかも」

 

 デコピンから立ち直った穂香が言う。亜里沙はなおもだるそうに返事をした。

 

「慣れないことしてるからじゃない?」

「由美、それってどういう意味?」

 

 いらないことを言った由美に、良い笑顔でにじり寄る亜里沙。由美は、はわわわわわと口を振るわせながら、後ろへと下がる。穂香がその様子を爆笑しながら見ていた。

 

 __なにかが、いる。

 

 私は由美ににじり寄る亜里沙を見る。長い黒髪をポニーテールにまとめ、紺色のシュシュで縛っている。学校指定の制服はなだらかな曲線を描き、黒いタイツが素肌を隠している。

 

 いつもの亜里沙だ。

 

 そこに違いはない。少し生気がないが、それだけだ。亜里沙本人は、何も変わっていない。

 

 __なにかが、いる。

 

 私は意識を集中させ、亜里沙を視る。目覚めた『力』。その一端である、「霊のようななにか」を感じ取る能力に、意識を集中させる。

 由美とじゃれあう亜里沙の、その肩のあたり。

 

【つらい】【苦しい】【なんで私ばかり】【やめたい】【つらい】【もうやだ】【悔しい】【逃げたい】【恥ずい】【ふざけろ】【調子乗んな】【苦しい】【悲しい】【もうやだ】【疲れた】

 

 嫌な汗が手のひらに滲む。

 間違いなく、亜里沙は何かに取り憑かれていた。

 

「そろそろ再開するよ、由美も机に戻って」

「はーい」

 

 くすぐられていた由美は、「亜里沙の鬼畜ぅ」と言い、自業自得でしょと穂香が言う。亜里沙はというと、由美のぼやきなど気にも留めず、再びぼんやりと何もない空間を見つめていた。

 亜里沙の異常が始まったのはここ数日のことだ。穂香と由美はそんな時期もあるでしょと殆ど気に留めていない。

 

 このままではだめだ。

 

 二人には霊が視えていない。それゆえ、亜里沙の異常を大きなことだとは捉えていないのだろう。だが霊が視える私は違う。私には、亜里沙の異常は、霊に取り憑かれたことが原因だとしか思えない。

 

 このままいったら、亜里沙はどうなってしまうのか。

 

 私にはそれが分からない。もしかしたら、放っておいても問題はないのかもしれない。いつかあっさりと、霊は他の宿主を見つけるなりなんなりして、そちらに取り憑くのかもしれない。そうすれば、亜里沙は元に戻るのかもしれない。

 

 けれども、そうはならないかもしれない。

 放っておいても霊は離れず……亜里沙の症状は悪化し続けるかもしれない。そうして、私以外の誰にもその原因が分からないまま……亜里沙は死ぬのかもしれない。

 

 そんなことは許さない。

 私は霊を視る。

 テキストに集中するふりをしながら、私は亜里沙に取り憑く霊に意識を向ける。

 

『離れろ』

 

 声に出さずに放たれた思念。それを真正面から受けた霊が、微かにその実体を震わせる。

 

「ね、末那、ここの公式って」

「ああ、それは……」

 

 穂香からの質問に答えながらも、私の意識は霊に向いている。数秒の間、身を震わせていたように視えたが……。

 その後数十秒経っても、霊が亜里沙から離れることはなかった。

 

 __なんで

 

 私は口の中だけで呟く。

 

『力』を得てから、霊が視えるようになった。にもかかわらず、その『力』は霊に対してその効力を発揮しないのか?

 

 私は奥歯を強く嚙み締める。『力』を得た。その『力』でクソみたいな環境をぶち壊した。金銭という社会を生きていく手段を得た。満足のいく同居人と、それには及ばないが許容範囲の同居人、過ごしやすい生活環境を手に入れた。

 私の人生は切り開かれた。

 そう思っていた。

 なのに。

 

 __殺してやる

 

 私は久方ぶりに沸き上がった殺意を押し殺す。平静を装いながら、友人に勉強を教える作業に戻った。

 

 *

 

 ドアが開く。

 

『恵比寿~恵比寿~お降りの際は足元に……』

 

 機械音声がプラットフォームに響く。その声にかぶせる様に、隣の路線が電車の到着を知らせるベルを鳴らした。

 

『だあ、しえりやす』

 

 空気の抜けるような音と共に、列車のドアが閉まる。吐き出したのと同じくらい新しい人間を乗せ、電車は走り出した。

 

 車両内にはちらほらと空いた席がある。山手線とはいえ、24時間人でごった返しているわけではない。夕方と言ってもよい時間帯だが、退勤のラッシュにはまだ余裕がある。学生の通学時間とサラリーマンの通勤時間は、微妙にずれていた。

 

 車窓から外を眺める。光を反射してキラキラ光る先進的なビルと、それらよりずっと多い、背が低くて前時代的な汚いビル。老朽化が進み黒ずんだそれらには、やはり古臭く洗練されていない広告が張り付いている。カラオケの広告、塾の広告、居酒屋の広告。新宿のように、風俗の宣伝がトラックから大音量で流れていないだけましか。

 そもそもあれは堂々と流れていてよいのだろうか。なんらかの条例に引っ掛かりそうな気がするのだが。

 

 ふと、窓の外に意識が引かれる。視界の先、500mほどだろうか。コンクリートのビルがある。一見何の変哲もないただのビルだが、俺の目では……正確には、俺の術式では、ただのビルには視えていない。

 

 __恐らくは4級……甘く見積もって3級か

 

 あの程度なら本来報告の必要はない。目立つ位置にあるし、窓の人がいずれ見つけるだろう。何なら放っておいたって問題はない。だが、東京の場合は事情が異なる。俺は手元のタブレットに、呪われたビルのおおよその位置をプロットした。

 

 備考欄に推定される等級を書き、情報を確定させる。これらの情報は補助監督員の間で共有され、そこから任務が発生する。あのくらいならば高専の一年生が実習としてアサインされるかもしれない。

 高専。その言葉を、俺は口の中だけで呟く。

 

 __いつでも待ってるよ

 

 飄々とした現代最強からの誘い。否応なしにそれに魅力を感じてしまうのは、最強本人からの誘いだからか。

 それとも、俺の欲の根底がそうせよと叫んでいるからか。

 

『新宿~新宿~』

 

 気づけば電車は目的地にたどり着いている。俺はタブレットの電源を消し、鞄に入れる。プラットフォームに降りると、雑踏の中、迷路のような構内を、案内板を頼りに歩き出した。

 

 *

 

 JR東南口。改札を抜け、階段を降りると、ちょっとした広場がある。甲州街道を走る車の音、広場にたむろする若者の声、店舗から流れ出る調子はずれの音楽、それらが交じり合う喧騒の中、俺はスマホを操作し、呼び出しボタンをタップした。

 

 コール音が鳴る。3回目が鳴る前に、通話に切り替わった。

 

『……はい、伊地知です』

「阿頼耶です。どうも」

 

 手短に挨拶を交わし、本題に入る。発見した呪霊をプロットしたことの報告と、危険度が高いと思われる呪霊について。

 

『ありがとうございます。助かります』

「いえ」

 

 呪術界は人手不足が常だ。力を持つ者として、呪いを視認できる者として、ちょっとしたボランティアに参加することは、力を持つ者の義務だと言える。

 

 義務。

 力に義務が伴うとして、その義務を果たそうとする者がいれば、そうでない者もいる。そんな義務など知ったことかとせせら笑い、唾を吐きつける者が。

 

「件の呪詛師については、何か進展はありましたか」

 

 五条さんから聞かされた呪詛師。彼がやり手と評するほどの精神操作系の呪詛師が、この東京のどこかにいる。

 新たな手掛かりが発見されたことを期待し、伊地知さんの答えを待つ。

 

『ああ、その件でしたら、呪詛師の被害者と思われる方々が、数名発見されました』

「被害者が?」

 

 それは意外な情報だった。残穢どころではなく、被害者が見つかったのか。

 

「どんな経緯で発覚したんですか」

 

 件の呪詛師はかなりのやり手。他ならぬ五条悟がそう評したのだ。人を操って何をさせているにしろ、精神を操れるのだとしたら、証拠を残す方が難しいのではないか。操った当人からその期間の記憶を消去するか、あるいは、あまり考えたくはないが……単純に自死させるか。

 

『それが……警察内部の高専関係者によると、被害者は警察に、「催眠術にかけられ、金銭を奪われた」と訴えたそうで』

「それはまた……」

 

 何と言えばよいのか。こう言っては何だが……妙に小物臭い。五条さんがわざわざ警告するくらいだから、冷酷で凶悪巧者な呪詛師を想像していたのだが……油断なのかミスなのか、はたまた術式の限界なのか。ただ、そのおかげで手掛かりが得られたことは確かだった。

 

「本当に金銭を奪われただけなのでしょうか。他のことをやらされて、その記憶を消されているとか……」

『その可能性も考慮に入れて捜査しています。ただ、今のところ、被害者が人を殺した形跡も、後遺症が残るような何かをやらされた形跡もありません』

 

 気を付けてくださいね。

 呪詛師について考えていた俺は、ふと差し込まれた伊地知さんの言葉に、え、と返す。

 伊地知さんはというと、書類を探しているのだろうか、電話口からがさがさと紙がこすれる音が聞こえた。

 数秒して、探していた書類が見つかったのか、電話口に息遣いが戻る。

 そして、伊地知さんは語る。

 件の呪詛師の悪意を。

 

『……被害に遭った男性の聴取の際、女性警官がお茶を差し入れたそうです。すると、男性の顔が青ざめ、挙動不審になったそうで__』

 

 __胸の内に嫌な予感が起こる。

 

『__異常を察知した警官が、何にそんなに怯えているのかと尋ねると、彼は「お茶が怖い」と言ったそうです』

「……」

『精神操作……この場合は恐怖の刷り込み、でしょうか。男性はお茶に対して、異様な恐怖心を感じるよう操作されていました。コーヒーや茶葉そのものには反応を示さなかったことから、「器に入れられた茶」というイメージを、恐怖と結びつけられたのかと』

 

 伊地知さんは続けて言う。

『犯人は明らかに、力を使うことを楽しんでいます。最近呪力に目覚めたのか、はたまた解釈を広げることで術式効果を拡張できることに気がついたのか……現段階では、力の限界を見定めながら遊んでいる、といったところでしょうか』

 

 阿頼耶くんはこちら側の人間ではありません。ですから、私としては……この件からは手を引くことをおすすめします。

 伊地知さんはそう言うと、「ご協力感謝します」と残し、通話を切った。

 

 *

 

「……疲れた」

 

 最寄り駅に到着すると、そんなぼやきが漏れた。

 ボランティアでやっている呪霊のプロット。山手線一周というちょっとありえないくらいの長時間の術式の行使は、体に疲労として跳ね返ってきていた。

 

「真っすぐ帰ろう……」

 

 既に空は漆黒に染まり、駅の周辺は帰宅途中の人たちや居酒屋に向かう人たちでごった返している。俺は賑やかな駅に背を向けると、家に向けて歩き出した。

 

「……!」

「……っ!」

 

 そうしてだらだら歩いていると、前方から姦しい声が聞こえてくる。女子高生の一団だろうか、制服姿の4人連れがおしゃべりをしながら歩いている。

 

 ふと、彼女たちの一人に、呪霊が取り憑いていることに気が付いた。背が高い少女の肩のあたり。視たところ4級相当の呪霊が取り憑いている。はて、心霊スポットにでも行ってきたのだろうか。暗闇で顔はよく見えないが、呪霊の影響か、彼女だけ口数が少ないように思えた。

 

「……でもさ~やっぱりあっちのほうが……」

「え~そうかな~私は……」

 

 距離が狭まるにつれて、彼女たちの会話内容が明瞭になる。少しずつ狭まる距離。俺は歩幅を調節し、取り憑かれた女子との位置関係を調整する。幸い彼女たちは会話に意識を割いており、歩く速度は遅い。俺は手に呪力を集中させた。

 

「なにそれ、タピオカかよ」

「どういうツッコミ?」

 

 彼女たちとの距離がゼロになる瞬間、俺は術式を起動した。瞬間、世界がスローモーションになる。女子高生の一団の一人一人の位置、歩道と車道を隔てる鉄柵の形状、個々の街灯の光が照らす範囲、2ブロック先の車道を走る車、女子高生の集団のさらに後ろを歩くサラリーマン。

 集中により極限まで分割された主観的時間の中、俺の手が動く。調整した位置関係と歩幅により、俺の手は呪霊の中心を正確に捉え、その実体を薙ぎ払った。

 

「亜里沙はどう思う?」

「…………え、私?」

 

 ばしゃん、と散り散りになる呪霊。女子高生の一団は、何事もなかったかのように歩き続けている。

 

「……きっつ」

 

 一秒にも満たない一瞬の起動。しかしごく短時間だからこそというべきか、思ったよりもきつい術式のフィードバックに脳が揺れる。

 

「うげー」

 

 軽い酩酊状態に堪えながら、挙動不審に見られないように意識して歩調を正す。ただでさえ疲れているのに、JKの一団からゴミを見る目でそそくさと逃げられでもしたら、流石の俺も深く傷つき貝になり、暗い海の底で一生を過ごすと決めてしまうかもしれない。

 ふらつきながら足を前に出す。

 疲労のせいか、この時の俺は、背後から見つめる双眸の存在に、気が付くことができなかった。

 

 



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記事タイトル:「今日は美奈のクラスを紹介するお☆」

露悪的なのが呪術の醍醐味って、ばっちゃが言ってたから...




 やっほー☆美奈だお(>_<)みんな元気???

 今日はこれを見てるみんなに、私のクラスのことを教えてあげるね!(^^)!

 

「ねね、スタバの新作飲んだ?」

「まだ~」

「ソーダ系?だっけ」

「じゃ今日いこーよ」

「おっけー」

 

 今は昼休み!みんなリラックスモードでだるだるちゃんなんだ~(-_-)zzz

 

「なあ、今日のグラビア見たかよ」

「見た見た、やばくね?」

「ああ、まじやばい」

「やばいてかえろい」

「やばえろい」

 

 きゃっ(#^^#)なんだかエッチな会話みたい、、、美奈、こういう会話、ちょっと苦手かも(*ノωノ)

 

「ちょ、それは陰キャだわ、まじ、陰キャ陰キャ」

「はあ?何がだよてめーこそ陰キャだろーが」

「うわ切れてる」

「必死じゃん」

 

 うんうん、わかるわかる!馬鹿にされてる~って思うと、ついか~っとなっちゃうよね~((+_+))美奈もそういうことあるから、すごくわかるな~(;_;

 

 っと、こんなふうに、クラスのみんなはいくつかのグループに分かれて、それぞれ全く異なる話題に花を咲かせてるんだ♪それぞれの話題は色々で、スタバの新商品だったり、tikitokについてだったり、くだらないマウンティングだったり☆たまに他のグループが同じ話題について話していたりすると、グループどうしが合流して、少しの間一つのグループになって話したりすることもあるんだっ(^^♪でも次の休み時間には、また元のメンバーで会話するんだよね~。どこの高校でもおんなじ、クラス内のちょっとふくざつな人間関係(>_<)

 

 で、グループは学年の初めにいくつか成立して、ちょっとずつメンバーが減ったり増えたりするんだよね~いつまでも同じメンバーだけ、っていうグループは、あんまりないかな???でもでも、すっごく仲良しだったら、いつまでも一緒にいたい~って思うから、ずっとその人と一緒にいるのかな~、、、美奈もそんな王子様に、早く会いたいな~ (*ノωノ) キャッ

 

「で、ここがこうなって……」

「え、じゃあこの場合は……」

「それはこっちの式を……」

 

 中には複数のグループを渡り歩く子もいるけれど、そういう子はクラス全員から好かれる本当の人気者か、全員から少しずつ嫌われて、全部のグループから弾かれている厄介者のどっちか☆うちのクラスには、今のところどっちもいないかな~(^^♪

 

「やっぱ末那って天才だわ」

「ほんと、まじ頭いいよね」

「尊敬する」

 

 グループの結束はそれぞれのグループで全然違うんだよね。趣味が合う人で集まったグループでも、お互いの性格が気に入らなかったりすると直ぐにそのグループはなくなったりするんだ。。。サミシイ…

 

「なあ、やっぱ別格だよな」

「ああ、まじで」

「モデルとかやってんじゃねえの」

 

 あ、ごめん!!(>_<)耳に入った会話が気になっちゃった☆男子たちの声だね( *´艸`)ちみたちが誰について話しているか、美奈には分かるぞ♡でも、分かっちゃうのが、ちょっと悔しい、、、だってそれは、うちのクラスで「モデルみたい」っていう素敵な褒め言葉を使ってもらえる人は一人だけって、認めてるみたいなものだもん、、、(´・ω・)

 

 ちょっとしんみりしちゃったね☆慰めてくれるの???ありがとう!君って優しいね!!なんだかテンションあがってきちゃった(((ꎤ’ω’)و三 ꎤ’ω’)-o≡シュッシュ

 

 君たちの高校とおんなじで、グループには明確な力関係があるんだ☆単純に言えばあるグループはイケてて、あるグループはイケてない。その違いがそのまま格付けになって、明確な序列になってる♪クラス内の発言力は、この力関係で決まっちゃうんだ~(ひどーい泣泣)発言力が高いと、文化祭の出し物を決めるときに意見が通りやすくなったり、体育祭で気になるあの子♡と同じチームになることができたり、序列が【下】のクラスメイトにちょっと横暴な態度をとっても許されたりしちゃう☆

 

 偉い人が言ったよね☆学校は社会の縮小版♪だったら貧富の差があって当然だし、誰が言ったかで意見の重要度が変わるのも当然☆ちょっとだけ違うのは、学校ではお金持ちかどうかはあんまり序列に関係しないことっ♪

 

「ちょ、俺話しかけてこようかな」

「まじ?勇者じゃん」

「え、マジで行くの?マジで行くの?」

 

 男子のグループの会話だ~☆ついつい舌打ちしたくなっちゃう(>_<)序列で言えば下から数えて2番目くらいのグループ。それはつまりクラスで2番目にイケてないグループってこと☆気持ち悪くてついそっちを見ちゃうと、ビリから2番目の男子たちはある女子グループのことをちらちら見ていた(*ノωノ) キャッエッチッッ

 

 学校は社会の縮小版。でも、社会と違ってお金が力にならないなら何が力になるの?学力?コミュ力?どっちも違うよね(>_<)学校で力になるのは~

 

 そう、ルックスだあ☆

 

「なあ、お前ら課題やった?」

 

 あ!下から2番目のグループに、クラスで一番のイケメンくんが話しかけてるね!!!なんだか珍しい光景に思わずそっちを見ちゃう。自分たちよりもはるかに序列が【上】のイケメンくんに話しかけられた男子たちは、どんな返答をするんだろう。わくわく。

 

「ちょ、俺らやってなくてさ、見してくんない?」

「え、ああ……」

「まあ、い、いいよ」

 

 下から2番目の男子グループは、イケメンくんの言うことに従って課題を見せてあげた。すごーい。あの子たち、優しいんだね……。プライドがないのかな???

 

「さんきゅな。おーい、見してくれるって」

 

 イケメンくんの呼びかけに彼のグループの男子たちが集まってくる。下から2番目の男子グループは、彼らに言われるまま課題を渡してあげてた。なんだか胸が痛くなる光景だけど、でも、しょうがないよねションボリ(´・ω・)

 だって、クラスで一番のイケメンが所属するグループ、ってことは、そのまま、クラスの男子序列トップのグループ、ってことだもんね(#^^#)

 

 あ!そんなふうに悲しい気持ちで男子たちを見てたら、美奈、気づいちゃった☆イケメンくん、にこやかにビリから2番目のグループの男子と接してるけど、目が笑ってない!!でもそれもしょうがないか⤵⤵⤵だってイケメンくんは、ビリから2番目のグループが話しかけようとしてた女子グループの一人のことが、超、超、超、大っっっ好きなんだもんね☆正直、私はあんな女の何が良いのって感じだけど、イケメンくんはそうは思わないみたい。。。(ナンデ?)イケメンくんがその女子のことが好きだっていうのはこのクラスのみんなが知ってることだけど、唯一知らないのはイケメンくんに好かれてる本人だけ。

 

 ああ、あともう一人、イケメンくんとおんなじ子が好きだって公言してる男子がいたけど、その男子は2週間くらい前からその子が好きだってさっぱり言わなくなっちゃった。みんなでなんでだろう???って話してたけど、もしかして告白して振られたんじゃないか、って。ホントひどいよね。なんで振っちゃうんだろう???私だったらどっちから告白されても、取り敢えず付き合ってあげるのになあ☆

 

 イケメンくんが好きなのは「町田末那」っていう子で、今は教室の隅で同じグループの女子に勉強を教えてる。ビリから2番目の男子たちが話しかけようとしてたグループは、その町田末那ちゃんのグループなんだ。噂だと、4人は入学初日からずっと一緒みたい。入学初日からってなんだか気持ち悪いよね(笑)ちょっとその関係性は美奈には分かんないかな~(苦笑)

 

 イケメンくんは、ビリから2番目の男子たちがそのグループに話しかけようとしているのを察知して、阻止するために話しかけたんだと思う。イケメンくんの目が笑ってないのはそういうこと。お前らごときが話しかけるな、って、威嚇してるの(ガオー)ゴリラのドラミングと同じだね。なんたってここは美奈の大好きな動物園だから☆

 

「なあ、由美は課題やった?」

 

 イケメンくんが町田末那ちゃんのグループに話しかけてる!あっ!!!これはあれだね???美奈、ぴーんと来ちゃった☆☆☆

 

 イケメンくんはビリから2番目の男子たちが町田末那ちゃんのグループに話しかけるのを阻止したよね!そのうえで、「お前らごときじゃ無理だけど、俺は彼女たちに話しかけられるんだぞ」ってことを示したいんだね!!!美奈、今日とっても冴えてるかも~(パチパチ☆)

 

 うんうん、序列を示し続けることは大事だよね~じゃないと勘違いしちゃう子が出てきちゃうもんね!それになんてったって、クラス内、いや学年、学校中の序列は、「町田末那にどれだけ近いか」で決まるもんね~。

 

 でも、あれあれ?イケメンくん、課題は???って思ったら、なあ~んだ!イケメンくん、課題の写しを自分の取り巻きたちにやらせてるみたい☆流石イケメンくん!合理的だねっ(ヨシヨシ)時間は大事に使わないとね~(シミジミ)

 

 イケメンくんに話しかけられたゆみって子は、ほえ、って言って、あはは、馬鹿みたいなあほ面を晒してる。ほえ、だってwwwwww狙いすぎて気持ち悪いよね(苦笑)ちなみに私はこの子を馬鹿女ちゃん、もう一人のふわふわした子をからっぽ女ちゃん、髪が長くていつもタイツを履いてる子を勘違い女ちゃん、町田末那をお山の大将ちゃんって呼んでるよ☆みんなも良かったらそう呼んであげてねっ♡

 

「え、課題なんてあったっけ?」

「おいおい、まじかよ、数学の問題集。つーか由美、今日当たるんじゃねえの」

「えっ、あ!」

 

 馬鹿女ちゃんが大げさに驚く。ほんとあざといなあ。シネヨ

 

「おっちょこちょいだな、由美は。課題、見せてやろうか?」

 

 イケメンくんが言う。お前だって今、グループの取り巻きが下から2番目のグループから奪った課題を写してるだけだろうが。そう突っ込んでくれる子は4人の中にはいないみたい。多分彼女たちには目と耳と頭がないんだと思う。シネヨ

 

「君らも、どう?」

 

 あ、イケメンくんが本命の子に話しかけてる。シネヨ

 そっか、そのために色んなグループと節操なく関係を持つ馬鹿女ちゃんに話しかけたんだね。色んな人と節操なく関係を持つってなんかビッチみたいだね(苦笑)

 

「ん~私はやってあるし……亜里沙は?」

「私もやってある」

「末那は言わずもなかだもんね」

「言わずもがな、ね」

 

 馬鹿女ちゃんは本当に馬鹿だなあ。でも男子はそんなところが可愛いんだって。(ナンデ?)私は女だから馬鹿女ちゃんの馬鹿なところを見てもいらっとしてうっかり殺しちゃいたくなるだけだけどなあ(殺)

 

「末那たちに見せてもらうから大丈夫!」

 

 馬鹿女ちゃんはイケメンくんに向き直って元気いっぱいに言う。馬鹿女ちゃんはこういうところが本当に馬鹿だと思う。断る時は申し訳なさそうにしなさいってお母さんに習わなかったのかな。それともお母さんも馬鹿なのかな(爆笑)

 

「別に見せないけど」

「ええっ」

「教えてあげるから、ちゃんと解こう」

「まな~あいしてるっ」

「はいはい」

 

 馬鹿女ちゃんが大将ちゃんに抱き着いてる。え、二人ってそういう関係なの!!!????大変!もしそうなんだとしたら学校の裏掲示板で晒してあげなきゃ☆大将ちゃんは有名人だから晒される義務があるもんね。有名税?だっけ。税金はちゃんと払わなきゃめっ、だぞ☆

 

「末那さんって、本当頭良いよね」

「……」

 

 あらら、大将ちゃんにはお口がないみたい。イケメンくんが勇気を振り絞って話しかけたのに何も言ってあげないなんて、そんなお口はいらないよね。いらないけど大将ちゃんはとってもきれいでかわいいから、美奈、おじさんたちの肉棒をしごくのとかに使ってあげたら資源の有効活用でとっても良いと思うの☆

 

「まじで、俺、尊敬するわ」

「……ありがとう」

 

 大将ちゃんが喋った!どうも、とか、いえ、だけじゃなくて、ちゃんとした言葉を喋った!!!どうしたのかな、おなか痛いのかな?生理でむらむらしてるのかな?誰でもいいから男が欲しいのかな???

 

「まじでまじで!ほんと、勉強教えてほしいくらい」

 

 イケメンくんのテンションが上がってる!イケメンくんが嬉しいとなんだか私も嬉しくなっちゃう。嬉しすぎてうっかり大将ちゃんの弱みを作って、新宿でトラックを使って募集してる高収入のバイトとかに沈めたくなっちゃう☆

 

「あのさ、良かったら勉強会とかやらない?テスト近いし、みんなで勉強すると、ほら、効率もいいだろうし。自分で言うのもなんだけど、俺結構成績良いんだぜ」

 

 う、うわ~イケメンくん頑張ったね!中々そんなこと言えないよ~。とてもじゃないけど、たった数ページの課題をやってこないでクラスのイケてない男子から巻き上げた回答を取り巻きに写させてる人間の発言とは思えな~い(爆笑)

 

「お、なになに、勉強会やんの?」

「いいじゃんいいじゃん」

 

 あ~!さも今聞きつけました!みたいな態度で、イケメンくんと大将ちゃんグループの会話にイケメンくんの取り巻きくんたちが参加してきた~!どうでもいいけどイケメンくんの取り巻きくんたちってややこしいね。お猿さんたちでいっか☆。お猿さんたちの参戦にイケメンくんは……あらら~残念、露骨に嫌そうな顔をしちゃった(苦笑)そうだよね、イケメンくんは大将ちゃんとお勉強(意味深)したいだけだもんね☆(ゴムイル?イラナイカwww)

 

 イケメンくんの目に気づいてるのか、それとも気づいてないふりをしてるのか、お猿さんたちは「いつにしようか」「来週の日曜は?」「あ、駅前のサイゼでやって、息抜きにスポッチャ行こうぜ」みたいに日程を決めちゃおうとしてる。しょうがないね、お猿さんだもんね。飼育員さんの言うことなんて聞いてらんないよね。わかるわかる(ウンウン)

 

 馬鹿女ちゃんとからっぽ女ちゃんは困ったように大将ちゃんを見て、、、勘違い女ちゃんは、、、あらら~敵意のこもった眼でお猿さんたちを睨んでる。馬鹿女ちゃんもからっぽ女ちゃんも自分じゃ何にもできないんだもんね。大将ちゃん!!!ちゃんとお人形さんに指示だしてあげなきゃめっ(プンスコ)だぞ☆それに対して勘違い女ちゃんはどうやら義務教育を受けてこなかったみたい、、、(カナシイ)だって人を睨んじゃだめだってことも分からないんだもん。。。勘違い女ちゃん、どれだけ目の前の人間が嫌いでも、人を睨んじゃダメなんだゾ☆おねーさんとのお・や・く・そ・く☆罰としておじさんに5,000円くらいで体売ってこよっか☆

 

 あれ、大将ちゃん、何か取り出してる???あれは~、、、課題だ!え、え、え???大将ちゃん、何をするんだろう???

 

「ほら、由美、やるよ。昼休みあと10分しかないし、当たるとこだけでもやっとこ」

「え、うん……でも……」

 

 戸惑った様子で言葉に詰まる馬鹿女ちゃん。これは、、、私も言葉に詰まっちゃった。。。(マジカヨ)大将ちゃん、この状況で課題できると思えるその神経の図太さ、控えめに言ってドン引きだよ~(シネヨ)どんだけキャラ付け徹底してるの?キャラが立ってて良いのはアニメの中だけだよ!君は自分のキャラを立たせるんじゃなくて、周りのイケメンくんとお猿さんの棒をいきり立たせた責任をとってあげなきゃ!(ウンウン)

 

「あ、課題、俺らの写していーよ!」

 

 お猿さんの一人がウキキーって感じで言い放つ。だからそれは(以下略。でも、ここからどうするのかな???イケメンくんもお猿さんたちもテンション上がっちゃってるし、昼休みが終わって一旦は治まっても、次の休みもその次の休みも絶対大将ちゃんのグループに話しかけにいくだろうし、放課後になったら誰も部活をやってない大将ちゃんグループは付きまとわれちゃうんじゃないかな~。。。だってこんなチャンス今まで一度もなかったし、お猿さんとイケメンくんは、ここから関係を確かなものにしていきたいだろうしねっ☆お猿さんたちは、取り敢えず今、勉強会の詳細を決めちゃって、あとはテンションで押し切ることで、大将ちゃんグループのみんなに、「断る方が面倒くさい」って思わせたいんだろうね。ナンパと同じだね☆これを本能でやってるところが、本当にすごーいって、美奈感心しちゃう。(オカサレチマエ)

 

 突然、がたん、って大きな音が教室内に響いた。クラスのみんなが聞きなれてる音、椅子を強めに引いた音だ☆いつもなら昼休みに誰かが鳴らしたところでだーれも気に留めない音でも、その音の発生源が、今まさにクラスの話題の中心になっている人間だと……そう、大将ちゃんみたいな人間だと、その音は嫌でも大きく響いちゃう。

 

「……まな?」

 

 美奈、大将ちゃんが怒ったのかな、って思ったけど、それはどうやら違うみたい。。。大将ちゃんは、教室の扉の向こうを見ていた。その大将ちゃんの顔があまりにもあほ面で不細工だったから、思わず美奈も気になってそっちを見ちゃう。

 

「由美、写しといていいよ。107頁から111頁までで、由美が当たるのは109頁の問4ね」

 

 大将ちゃんが立ち上がって、扉の方に行こうとする。でもその道はお猿さんたちがふさいじゃってるね。(フザケンナドコイクンダヨ)

 

「どいて」

「あ、え?」

 

 お猿さんの一人が、一歩脇にどく。空いたスペースを通る時、大将ちゃんは、意外なほど強い口調で言った。

 

「勉強会はやらない。やるなら勝手にやって。私たちは誰も行かない。由美も、亜里沙も、穂香も。当然、私も」

 

 大将ちゃんは小走りで扉に向かうと、そのまま廊下に消える。お猿さんたちとイケメンくんは、呆気にとられたようにその後ろ姿を見つめてた。(ハア?)

 

 ……おっと!こうしちゃいられない、大将ちゃんがどこに行ったのか見に行かなきゃ☆誰も見に行こうとしないなんて、ちょっとみんなひどいと思う(プンスコ)もし大将ちゃんが向かった先に大将ちゃんの弱みがあれば、それはみんなで共有しなくちゃいけない重大情報だ。だってそれは大将ちゃんが払うべき有名税で、かわいく生まれた女の子が払う顔面税なんだから。

 

 大将ちゃんが税金の未払いで捕まるところなんて見たくない。だから美奈はスマホを構えて、大将ちゃんのあとをつけた。大将ちゃんは小走りで廊下を進む。そんな姿もなんだかかわいくて、美奈は吐き気を催しちゃう。大将ちゃんは何かを追いかけているみたい。なんだろう、大将ちゃんみたいにかわいい子が、イケメンくんのお誘いをめちゃくちゃにしてでも追いかけたくなるもの……男性器???

 

 大将ちゃんはある教室の前で突然止まる。そして……きゃー!スクープ!これはスクープだよ!大将ちゃんが、男子の腕を掴んでる!共有しなきゃ!これはみんな、特にイケメンくんとお猿さんたち、あとサッカー部と野球部とラグビー部のOBの怖いお兄さんたちと共有しなきゃ!

 

 きゃー!大将ちゃん、どうしちゃったの!?あんなに必死に追いかけて、どうしても会いたかったの?そんなにその男子のことが気に入ったの?

 

 あれ、でもおかしいな。大将ちゃんに腕を掴まれてる男子は、全然嬉しそうじゃないや。やせ我慢かな?学年中どころか学校中、地域中で人気の美少女が突然腕を掴んできても、僕は簡単に赤面したりしない、硬派な男だぜっていうアピールかな?うわあ、美奈、それはどうかと思うよ???

 

 あっもう離れちゃった。残念……もっと撮りたかったのに……(ぴえん)でもいっか、良く撮れてるし!いいアングルからも撮れたし!

 

 いいね~いいね~(カメラマン風)美奈、なんだかつまんない日常がひっくり返りそうな予感がするな!!!☆☆☆

 

 



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悪意の矛先

 

「何だ今の」

 

 ☆や顔文字、半角カタカナを多用した、凄く頭の悪い文章。そんなひと昔前どころか化石みたいな時代のノリに、どろどろに煮詰まりきった悪意を目一杯詰め込んだような、そんな謎の毒電波をどこかから受け取ったような気がして、俺は痛みを訴えるこめかみを押さえた。

 

「……勘弁してくれ……」

 

 こめかみをぐりぐりと刺激し、ストレスに(散れ~散れ~)と念を送る。

 

 ただでさえ進路のこととか年々増え続ける呪霊とかで心労がマッハなのに、何でこうトラブルというのは連続してやってくるのだろうか。

 

 距離感が全く分からない新しい同居人、悪意もりもりの精神操作の呪詛師、同居人に残穢があったとかなかったとかいう騒動(祖母ちゃんが詳しく視たが、結局残穢は確認できなかった。祖母ちゃんは適当な五条さんに切れた)そこに新たに謎の毒電波を受信する体質まで加わるのか。

 

 もしかして俺は精霊とか地球の意志的なものに嫌われていたりするのだろうか。地球への敬意が足りないとかで。

 

 今後、プラスチックはちゃんと分別して捨てよう。俺はひそかにそう決意した。

 

「どしたの、あらやん」

「いや、なんでもない」

 

 前の席から投げかけられた声に手を振って応える。俺は「ちょっと頭痛が」と言い教科書を取り出す。俺のことをあらやんと呼んだ男子は、興味なさげに「ほーん」と言った。

 

「にしても、あらやん、きみ、町田さんと面識あったんやね」

 

 俺は机に顔面を叩きつけた。がごん、と鈍い音がして、机が盛大に揺れる。「ど、ど、ど、どうしたん!?」と困惑した声が頭上から聞こえたが、俺は何事もなかったかのように起き上がった。

 

「ああ、町田さんね。面識、うん、なんか、偶然ね……」

 

 動揺を抑え、平静を装い、さもどうでもいいことのように言う。男子は「そ、そうなん?」と戸惑った声をあげたが、それ以上その話題を追及してくることはなかった。

 

「……え、まじで?……」

「……うん、なんかさっき……」

「……え、付き合ってるとか……?」

「……どうだろ、そんな感じじゃ……」

 

 ざわめきに包まれた教室。それはいつもの昼休みの喧騒ではなく、教室内の人間が全員ひそひそ声で話しているような、そんなざわめき。大声で語ることは憚られるが、語らずにはいられない。そんな雰囲気が今の教室内を支配していた。

 

 トラブルといえば喫緊のものは間違いなくこれだろう。俺は再度憂鬱なため息をもらした。

 

 町田末那。

 

 言わずと知れた美少女。彼女に恋をした男は数知れず。しかし実らせた男は一人もいない。

 

 その美貌はいずれ癌にも効くと言われている、天才的な美しさを持った美少女。

 

「……は?なんであいつが?」

「……知らない、なんか用でもあったんじゃねえの」

「……殺しとく?」

「……処す?処す?」

 

 学校生活において、彼女が口を開くことは殆どない。

 

 訂正。

 

 彼女が()()()()()()口を開くことは殆どない。

 

 彼女が男子から話しかけられた場合のデフォルトの対応は無視だ。教師からの連絡など、用件が明確な場合は、はい、とか、いえ、とか、必要最低限のワードで済ませる。

 

 彼女がまともに会話をするのは、入学初日から共に過ごす同じクラスの女子3人だけ。

 

 そんな鉄壁で守られた美少女に、なにやら小走りで追いかけられ、更には腕を掴まれ、あまつさえ顔を近づけ内緒話をした男子が、この教室内にいるらしい。

 

 俺だった。

 

 教室内のざわめきの原因はそれだ。事件はおろか、出来事とすら呼べないような些末事。

 

 そんなことでも、町田末那が行ったというだけでそれは大事件になってしまうのだ。

 

「……冗談みてえ……」

 

 ざわめきはやまない。

 

 教室内の生徒たちは遠巻きにこちらをちらちら見ては、仲間内でひそひそとささやく。

 

 俺をあらやんと呼ぶ男子以外は、誰も俺に直接話しかけてこない。それは俺がこれまで意図してクラスメイトとの交流を絶ってきたからだ。

 

 なぜなら、呪霊との戦闘は常に命がけ。であるならば命を懸ける場面で友人の顔がちらつくような事態は避けなければならないのだった。

 

 真っ赤な嘘だった。単に前の席の男子以外に友達ができなかっただけだった。

 

「……なんだろ……二重につらい……」

 

 これが世にいう「ぴえん」というやつか。俺は少しだけ流行に追いつけた気がした。十中八九気のせいだった。

 

 居心地の悪さを誤魔化すように腕をさする。そこは先ほど意外なほど強い力で末那に掴まれた辺り。

 

 俺の腕を彼女が掴んだ時、思わず振り向いた俺が見たのは、驚愕により大きく見開かれた瞳だった。

 

 恐らく彼女は俺が同じ高校に通っていることを知らなかったのだろう。それでいるはずのない姿を見つけたため、思わず追いかけ、その腕を掴んでしまった。

 

 ただ、捕まえたところで特別話すこともない。なぜ同じ高校に通っているのかと詰問したところで、どうせ「そこに高校があるから」とかアルピニストみたいな返答が返ってくるだけだ。

 

 だから彼女は“後で”と言い残し、それ以上の会話を避けたのだろう。もしかしたらそれはこれ以上余計な注目を浴びないようにという、俺への気遣いだったのかもしれないとふと思うが、そんなことは有り得ないと即座に打ち消す。その推測の根拠となる、俺と彼女の関係性があまりに薄かったためだ。

 

 俺は彼女を責めることができない。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()。腕を掴まれるその瞬間まで、俺は彼女と同じ高校に通っていることをまったくもって知らなかった。

 

 学年中どころか隣町の高校に通う男子さえ魅了する美少女。俺にとってその存在は、そんな人がいるのねん程度の重みしか持っていなかった。わざわざ顔を見に行くほどの興味も、話しかけに行こうぜと悪乗りできる友人も、どちらも持っていなかったためだ。

 

「……しょうがないよ……忙しいんだもん……」

 

 幼児向け番組に出てくるぬいぐるみのような口調でぼやく。勝手にボランティアをやって忙しくしているのは自分自身なのだが、そのような些末なことは全力で棚に上げておいた。

 

「……なんだ……それだけ…………」

「…………やっぱ……美人だから……」

 

「……別にどうでもよくない………………」

「………………えー、なんか面白いじゃん……」

 

「……あれを……こうして…………」

「……ああ…………こっちの方向から……」

「……………決行は今晩………」

「……鈍器で後ろから………………」

 

 クラスメイトたちは依然遠巻きにひそひそとささやいている。

 

 気まぐれにそのささやきに耳を傾けると、その内訳は、純粋な好奇心が5割、妬み、嫉み、嫉妬、やっかみ、的な敵愾心が4割、そして後の1割が、割とマジの殺意。

 

 どれに女子が多くてどれに男子が多いのかは正直確かめたくもない。

 

 というか殺意って、なんで呪霊でも呪詛師でもなく一般人から命を狙われにゃならんのだ。

 

 はよチャイム鳴れ。俺は切にそう願った。

 

 ただ、他人の関係を無責任に噂する彼らのことも、俺は責める気になれない。

 

 この状況で誰か責められるべき人間がいるとしたら、それは間違いなく、この状況をネタとして消化できるだけの関係性をこれまでクラスメイトと築いてこなかった、俺自身であった。

 

「……転校しよ」

 

 それはそれとして転校はする。

 

 クラスでの立ち位置がゼロがマイナスになったのだから、もう一度ゼロから始めるのは極めて合理的な選択のはずだ。

 

 俺の脳裏に、うぇるか~むと言う某最強黒目隠しの顔がよぎった。

 

 

 

 *

 

 

 暖かい湯が身体をつたい、足元まで流れ落ちていく。ヘッドから流れ出るお湯は、髪の毛に沿って流れを作ると、身体をつたい、その温度を徐々に失わせながら、排水溝へと流れてゆく。

 

 お湯が身体を滑り降りる感覚は心地良く、私は身体の奥の緊張が少しずつほぐれていくのを感じていた。

 

 ただ、少し熱すぎるかもしれない。私は温度調節のノブを掴み、手前に回す。夕焼けのグラデーションのように、緩やかに温度が切り替わった。

 

 温度調節とは逆側のノブを回し、お湯を止める。襟足のあたりに両手を差し込み、髪の毛全体をボニーテールを作る要領で一つにまとめる。浴室の棚に置かれたボトルを数回プッシュし手になじませると、余分な水気を絞った髪に手を差し込み、わしゃわしゃと洗い始めた。

 

「…………ん」

 

 適当に伸ばした髪は、洗っていると頻繁に手に引っ掛かる。伸びればその分髪の毛同士がこすれて痛むからだろう。単純に髪の量も増えているし、そろそろ切り時かもしれない。今度の休みに切ってしまうか。引っ掛かる部分を適当に一まとめにして洗いながら、そう決めた。

 

 泡にまみれた手でノブを回し、お湯を出す。シャンプー剤が残らないように、念入りに髪を流していく。2分ほどかけて流しきると、コンディショナーと書かれたボトルを手に取った。小夜がしきりに「使いなさい」と言うが、何分効果的な使い方というものを知らないので、適当に数プッシュし髪になじませる。確かに、これをし始めてから櫛の通りが良くなった気がした。

 

 再度髪を流し、別なボトルに手を伸ばす。今度はワンプッシュだけ手に取り両手になじませると、そのまま腕にスライドし、脇、胸、腹と、全身に刷り込むようにして広げていく。手に薬剤のぬめりが感じられなくなるとボトルをプッシュし、全身をぬめりで覆うようにして、身体を洗っていく。

 

 ふと、身体を撫でていた指が、胸のふくらみの先、そこにある柔らかな突起に触れた。

 

 直後、全身に走った不快な刺激に、眉が顰まる。

 

 胸のふくらみの先にぽつんとあるそれは、生物的な意味では哺乳類の証であり、生殖と子育てを行う予定のない者にとっては何の用途にも資さない器官だ。男のそれに至っては本当に無意味だし、女にしても子どもを作る気のない者にとっては、走ると擦れて痛みを発するだけの無意味な器官である。

 

 私は母ほどには育たなかった(別に育たなくていいが)ふくらみの先にあるこの器官について、何となくそう考えていたのだが(”これ”に確固たる哲学を持つ者がいるかは知らないが)、最近になって、というか高校生になって、亜里沙たちが読んでいるような女性向け雑誌を読むようになると、その認識が少しずれていることを知った。

 

 どうやらこの無意味な器官は、生物的な本来の用途とは別に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使われることの方が多いらしい。

 

 私としては借金を負っているわけでもない女性が、金銭のためでも、もちろん子どもを作るためでもなく、男性と性行為をするということの方に驚いたのだが、出版社の異なる複数の雑誌を読んでも、またバイト先の女子大生に尋ねてみても、どうやらそれがスタンダードであるらしかった。特別深い関係にある男女、所謂“付き合っている”状態にある男女は、子どもを作るためではなく、ただお互いに快感を得るためだけに、性行為をする。

 

 私はそれを「もしかしたら遊んでいる人たちの間では、そういうこともあるのかもしれない」程度に考えていたのだが、どうやらその後に見聞きした情報によると、今の社会おいてはそれこそが普通であり、むしろ交際している男女においてはそちらのほうが健全であるらしい。女性向け雑誌が「女だって知りたい、彼との〇〇特集」と称し、性行為について当然のように取り扱っているのだから、一般的な、いわば平均値的な女性たちというのは、生殖目的ではない、快楽目的の性行為を当然のように行い、そしてそれは男女交際とは切っても切り離せない関係にあるようだった。

 

 

 私でも、性行為が快楽を伴うものであるということくらいは知っているし、交際関係にある男女がそういうことをするのも、まあ理解している。

 

 より速く走り、より獲物を多く捕まえることができるライオンは、そうでないライオンよりも生き残りやすい。そのようなライオンは生きている時間が長い分、他のライオンよりも生殖活動の機会に恵まれる。よって、優秀なライオンの形質(速く走る)は、そうでないライオンの形質よりも、次世代に残りやすい。

 

 ただし、長く生きていたとしても、そのライオンに生殖への欲求がなければ、その優秀な遺伝子が次世代に残されることはない。そのため、優秀だが性行為を好まない個体というのは、進化上何の意味もないことになる。

 

 

 なので、動物である人間が性行為に快感を感じることは、進化上いわば必然といえる。性交で快感を感じない個体は次世代を残さないので、その形質が次世代に残ることはないためだ。

 

 だから、快感を得るために性行為を行うこと自体には、あまり驚きはない。人間はそうプログラムされている。

 

 私が驚いたのは、石器時代でもないのに、20代の女性が、平均して5人以上の男性と関係を持つということに対してだった。

 

 社会のスタンダードであるらしい、交際人数=経験人数の前提が正しいのだとしたら、5人と交際経験のある女性は5人の別な男と性行為をしたということになる。私は亜里沙が読んでいた雑誌にそのデータが載っているのを見た時、結構な衝撃を受けた。驚きついでに亜里沙たちにどう思うか尋ねると、3人とも(一応は)多いと思うと言っていたので、相当に個人差というものはあるのかもしれないが。

 

 

 そんなことをつらつらと考えながら手を動かしていると、全身を洗い終えた。私はノブを回し湯を浴びる。ヘッドを掴み、泡が残らないように全身に湯をかけた。

 

 ヘッドを持つ手とは反対の手で身体を撫ぜ、泡を落としながら、私は思う。

 

 精神というソフトの面では、私は普通の性や性行為、それに伴うとされる快感を貪ることに、嫌悪感しか感じない。しかし肉体というハードの面では、私はいたって普通の女性としての身体を持っている。

 

 ならば私も、いずれその快楽に気づく時が来るのだろうか。

 

 全身の泡を落とし終えると、浴室用のゴムで髪をまとめ、湯舟に向かう。大人が優に3人は入れそうなそれに、恐る恐る足を伸ばす。両足を入れると、まとめた髪を胸の側に垂らし、湯に浸からないようにする。私はゆっくりと腰を下ろし、湯舟に全身を沈めた。

 

 ぬるめに設定されたお湯が、染み入るように全身を浸していく。思わず満足げなふへーともはわーともつかない声が漏れるが、心配せずともこの家では風呂に入る際に気配を殺す必要はない。私は湯舟の端に後頭部を預けると、心地よさに導かれるまま両眼を閉じた。

 

 頭の奥に、じんわりとした心地よさが広がっていく。

 

 ぼんやりした頭で思う。

 

 完全に気を抜いた状態で風呂を済ませられるというのは、なんて幸せなことなのだろうか。

 

 音が出ないように衣擦れの音を極力殺して服を脱いだり、水の滴る音が鳴らないようにシャワーの出力を慎重に調整したり、その結果シャワーがお湯にならずに冷たい水しか浴びられなかったり、そのせいでシャンプーが泡立たなかったり、定期的に入浴のために友人の家にシャワーを借りに行ったり、脱いだ洋服を勝手に使われないようビニール袋に入れて浴室に持ち込んだり。そうしたことをする必要が一切ないのだから、その安心感たるや。

 

 この前由美に「雰囲気が変わった」と指摘されたが、その一番の理由はこれかも知れない。

 

 湯舟の中でゆらゆらと手を動かし、掌に伝わる抵抗感を楽しむ。

 

 私も何だかんだで、新しい環境を満喫しているのかもしれなかった。

 

 私は苦笑し、土御門家に来るまでのことを思い返す。

 

 『力』に目覚め、さあ自由に生きていこうと思った矢先、遠縁の、法律上扶養の義務すら存在しない親類が身元引受人に名乗りを上げた時は、殺意さえ覚えたし、同居人に同世代の男がいると聞いた時は心底うんざりしたが、いざ蓋を開けてみれば、ここは理想に限りなく近い環境だった。

 

 最近知ったことだが、麻布は高級住宅街で、そこに邸宅を維持する財力など、物質的な豊かさもさることながら、私は、この家の家主である小夜のことが、それほど嫌いではなかった。生活の中で何かと気にかけてくれるし、必要な物は全て買い与えてくれる。私の大学の学費も、何故か当然のように払う気でいるし、受験に向けて学習塾に通うことを見越し、私よりも熱心に塾の評判を調べたりしている。

 

 そんな小夜に対して、最初は戸惑っていた。けれども最近は、もし私に祖母がいたとしたらこんな感じなのだろうかと思うようになっていた。

 

 単純な話。

 

 無償で愛してくれる人間を、嫌いになることは難しい。

 

 

 特に意識せず思ったことだが、ふと、その言葉の持つ意味に気が付き、私は一つ新しい発見をした。

 

 

 __そっか、これが、愛されてるってことか

 

 

 私は産まれて初めて、誰かから愛されていると確信できている自分に気が付いた。

 

 生前の母から愛を感じなかったわけではないが、彼女のそれはどちらかというと自己愛の部類、自分と同じ顔をした存在を愛している感覚だった。

 

 だから母の意図にそぐわないこと、それはつまり母ならばやらないようなことを、私がやるようになると、彼女の愛は離れていった。

 

 小夜の愛はそれとは違った。

 

 何も押し付けることなく、何かを期待することもなく、ただ私の存在を肯定し、その生に寄り添う。私の幸せのために、その労力を使ってくれる人がいるというのは、なんだか不思議な感覚だった。嬉しいようでいて、その裏でなんだか泣きたくなるような。

 

 ただ、とても心が落ち着く感覚だった。

 

「…………ふぁ……」

 

 徐々に瞼が重くなってくる。きれいな湯舟に浸かれることも、そこでうとうとできることも。私にとってはそのどちらも、新鮮な幸せだった。

 

 意識が薄れていく中、ふと私は、もう一人の__小夜ではない方の同居人のことを思った。

 

 私と同年代の男。小夜の()()()孫。

 

 小夜とは対照的で、初日以来、彼とは殆ど会話をしていない。

 

 気を遣っているのか、朝食や朝の時間帯に顔を合わせたことはなく、互いに顔を合わせるのは夕食の時だけ。

 

 加えて、私が一階にいる時に彼がリビングの螺旋階段を降りてきたことはなく、トイレや入浴を済ませた後に廊下で鉢合わせたこともないのだから、彼のそれは徹底している。

 

 最初の頃はあまりにも顔を合わせないため不気味に思い、3年間に渡る前環境の生活で刷り込まれた警戒心から、隠れて何かをしているのか、あるいは小夜のいない間を見計らって仕掛けてくるかと身構えていたが、どうやらそのどちらでもないようで、彼はただ単に、私に興味がないようだった。

 

 彼に対して『力』を使い、私に興味を持たないよう去勢した記憶はない。もしかしたら無意識の間にやっていたのかもしれないが、『力』によって操作された精神には、独特の違和感が残る。その人間がその人間であるという一本の筋のようなもの、いわば人格の一貫性とでもいうべきものが失われるのだ。

 

 これを認識するのは難しく、私もクラスメイトにサンプルがいなければ気づかなかったかもしれない。いつぞや交際を申し込まれ、その後私がゲイにした男子生徒は、変わらず学生生活を送っているように見える。が、ふとした時、その行動や言動に違和感が伴う。この人ならここでこうするだろう、というところを、全てほんの僅か外していくような、そんな違和感。

 

 同居人からそれらは感じない。単に私が彼のことをよく知らないから違和感を感じようがないだけかもしれないが、あの違和感はそういった種類のものではない。もっと人間の根幹に迫るもの。いわば魂に生じる違和感とも言うべきもので、それは長年共に暮らしてきた人物か、私のように直接精神をいじれる人間だけが気が付くようなものだった。

 

 兎にも角にも、彼は『去勢』される前から私に興味がなく、そしてそれは私にとってマイナスが限りなくゼロに近づくことを意味していた。そもそも男と生活空間を共有しないに越したことはないのだから、彼が存在していることは、彼がどれだけ私に気を遣い興味を持っていないのだとしても、性別の時点で私にとってマイナスだった。

 

 

 そんな、染色体レベルでマイナスの存在に対して、今の私は明確に興味を抱いていた。

 

 

 

 眠気がいよいよ迫ってきた。薄れていく意識の中、小指の先ほど残っていた自我が、記憶の棚からとある光景を引っ張り出す。

 

 私の部屋で、亜里沙たちと勉強会をした後。彼女たちを駅まで送っている途中に、一人の男が私たちの進行方向から歩いてきた。人通りが少ないわけでもないため、特に警戒せず、男との距離が近づく。そして、男との距離がゼロになり、私たちと男がすれ違った、その瞬間。

 

 亜里沙に取り憑いていた霊が、跡形もなく霧散した。

 

 弾かれたように振り向き、男の姿を探す。ふと男が街灯の下を通り、その風貌が露わになる。円錐状の光に照らされたその姿は、ふらついたようにたたらを踏んでいたが、その背格好、服装、横顔は

 

 

 どう見ても、同居人のものだった。

 

 

 小夜ではない方の同居人。

 

 

 その程度の認識でしかなかった存在が。

 

 

 その瞬間、一気に私の興味の中心に躍り出た。

 

 

 ____阿頼耶

 

 

 眠りに入る直前、私はその名前を口に出す。瞼の裏に、学校で彼を見つけ、思わず追いかけて腕を掴んだ時の、彼の表情が浮かび上がる。

 

 

 意識外からの衝撃に対する純粋な驚き、そして、衝撃の犯人が私であることに気が付いた時の__わずかな、怯え。

 

 

 その怯えた表情を思うと、不思議と、胸の奥がうずくような気がした。

 

 

 

 *

 

 

 誰もいない住宅地。月明かりと街灯だけが、眠りについた家々を、ぼんやりと浮かび上がらせていた。

 一人の男が歩いている。

 黒い袈裟を着た男だ。

 丑三つ時、一日で最も光が絶える時分に路地を歩く姿は、まるで積極的に闇と同化するかのようだ。

 男は集合住宅の階段を上り、とある部屋の前で足を止める。扉を開け中に入ると、土足のままたたきを越え、室内へ。簡素なキッチンを通り過ぎ、部屋の扉を開ける。

 

 穏やかな海が広がっていた。

 

「や、おかえり、夏油。実験はうまくいった?」

 

 顔に縫い目のある男が、砂浜を歩く男に振り返り、言う。

 

 夏油と呼ばれた男は、外界との明暗差にまぶしそうに眼を細めると、砂浜に置かれたビーチチェアに腰を下ろした。

 

「なかなか興味深かったよ。思わぬ収穫も得られたしね」

「へー、それは良かった」

 

 顔に縫い目のある男は、鮮やかな液体の入ったグラスを男に差し出す。夏油と呼ばれた男はそれを受け取ると、代わりに数枚のレポートをテーブルに放った。

 

「これが、仲間に引き入れる予定の子?」

 

 顔に縫い目のある男がレポートを拾い上げ、中身に目を通す。レポートには写真が数枚添付されており、その全てが不自然なアングルから撮られていた。

 

「綺麗な顔、眉毛を芋虫とかに変えてあげたら、どんな顔するんだろう」

 

 縫い目のある男が嗜虐的に嗤う。レポートには大した情報は書かれていないのか、男はレポート本体ではなく、添付された写真を眺めていた。

 

 袈裟を着た男はグラスに口を付けると、苦笑を浮かべた。

 

「自分で呪霊を祓わなかったことから、事前に立てた推測に間違いはない。術式もうまく扱えているみたいだし、そろそろ接触しに行くよ」

 

 「レポートの方も見とけよ」そう言うと、男はビーチチェアに深く腰掛ける。穏やかな水平線を満足そうに眺めた。

 

「つちみかど、か。珍しい名前だね」

 

 縫い目のある男が気のない声で言う。取り敢えず言われたから読んだが、興味が惹かれるものはなかったと、その声音がありありと告げていた。

 

「……それだけかい?真人」

 

 遠くの海に浮かぶ赤い呪霊を眺めていた男は、レポートの感想が意外だったのか、不思議そうに傍らの男に目を向けた。

 

「ほかに何か?」

 

 つまらなそうに答える、真人と呼ばれた男。袈裟の男は、いや、なんでもないと頭を振ったが、何かを考え込むように額に手を当てた。

 

「……そうか、そうなのか…………君達でもそうなのか」

「…………?」

 

 砂浜を見つめ、ぶつぶつとつぶやく袈裟の男。ふと顔を上げると、縫い目のある男に対し尋ねた。

 

「真人、私があげた日本呪術史の本は、もう読んだかい?」

 

 尋ねられた男は記憶をさらう様に瞳を泳がせる。ややあって該当する記憶に至ったのか、肯定を返した。

 

「ああ、まあね。なかなか興味深かったよ。特に家同士の争いとかは、流石人間だね。どろどろぐちゃぐちゃで、何とも醜くて誇らしいよ」

 

 独自の価値観で感想を語る男に、袈裟の男が満足そうに頷く。

 

「それは何より。それじゃ、一つテストをしようか。平安時代、呪術全盛の時代にあって、安倍晴明(あべのせいめい)賀茂忠行(かものただゆき)は師弟関係だったわけだけど。この二人は、どちらが師匠で、どちらが弟子だったかな」

 

 縫い目のある男は得心のいかない顔をし、首をひねった。

 

「引っ掛け問題?どっち、って言われても、あべのせいめいって名前に、聞き覚えがないんだけど」

「__本当に?今まで一度もないかい?」

 

 袈裟の男はそう尋ねる。いつの間にか、愉快そうな笑みを浮かべていた。縫い目のある男はしばらく考え込む様子を見せていたが、やがて結論が出たのか、断定的な口調で言った。

 

「ああ、ないね」

 

 そうか、ないか。袈裟の男は愉快そうにその返答を反芻した。

 

 やがて男は、ぱん、と手を一つ打ち鳴らす。そして、計画を説明する時の、講義風の口調で言った。

 

「いい機会だから話しておこうか。日ノ本を代表する呪術師、安倍晴明と、その末裔の一族について、ね」

 



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第5次呪詛師討伐作戦

 *

 

 

 アラームが鳴っている。

 

 徐々に形を取っていく意識の中、スマホを探り当てる。適当にボタンを押すと、調子はずれなテロテロ音は止まった。

 

 もぞもぞと起き上がり、寝ぼけ眼をこすりながら、ふわと欠伸をする。

 

 眠い。

 だるい。

 頭が重い。

 きっと今の俺は死んだ魚のような目をしていることだろう。

 

 俺はベッドから出ると、のそのそと立ち上がる。伸びをするともう一度ふわと欠伸が漏れた。

 

 この疲労。原因は最近始めた新しいボランティアのせいだ。

 くそう、こんな思いをするくらいなら、ぼくぁボランティアなんて、ボランティアなんて……しとうなかた!

 

 めそめそと泣き言を言いながら、ふらふらと歩く。

 自室のドアを開け、廊下に出る。重い足取りで洗面所に向かった。

 

 大理石でできた洗面台。

 脱衣所もかねたそこには、珍しいことに先約がいた。

 

 薄いピンクの寝間着。少し茶色い髪の毛。

 顔を洗った後なのか、髪が濡れている。

 ぱっちりとした二重の瞳と、透き通るように白い肌。うっすら桃色が差した頬に、白いタオルを当てている。

 

「あ、」

 

 俺の判断は早かった。

 

「ごめんなさい」

 

 即座に謝り、洗面所に背を向ける。

 びっっっっっくりしたぁ!もう!と、ばっくんばっくんいう心臓を押さえながら、俺は心の中で叫ぶ。

 いや、まあ、でも、着替えの途中とかじゃなくてよかった。うん、それは不幸中の幸いだった。

 

 これで末那が下着姿とかだったら、罪悪感だけで胃に穴が開くところだった。

 あぶねえあぶねえ。胃が救われたことに感謝しながら、俺は出直すため、自室に向けて歩き出した。

 

「使いますか」

 

 ぎぎ、と体が硬直し、振り出した足が空中で止まった。

 背後から投げかけられた声。

 その透き通った声が誰のものなのか、振り返らずともわかっている。わかっている、よね?え、YouTubeとか流してるわけじゃないよね?違うよね?

 

 俺は思わず振り返り、え、と間抜けな声を出してしまった。

 

「洗面台、使いますか」

 

 振り返った俺に対し、末那がその艶やかな唇を震わせ、再度尋ねる。

 

「あ、いや、うん。後でいいです」

 

 あまりにも他人行儀に言うと、逃げるように末那から視線を切った。

 妙に高く打つ心臓に(収まれ~収まれ~)と念を送り、平常心カモン!と自律神経にエールを送る。

 同時に、これは末那なりの歩み寄りなのだろうか、と、俺の中の冷静な部分がこのやり取りの意味を推し量ろうとしていた。

 

 初日と、あと学校で腕を掴まれて噂になって以来、末那と会話をしたことはない。

 

 どんな顔をして彼女の前に立てばいいのか。

 いまだ俺の中で答えは出ていない。ここ数か月の末那との関係は、俺のその優柔不断さにあるのだろうか。

 

 

 

 と、そこまで考えて、俺は混乱のせいか妙なことを考えている自分に待ったをかけた。

 

 そもそもこのやり取りに、そんな深遠な意味とかあるだろうか。

 末那が放った言葉は「使いますか」と「洗面台」だけだぞ。それだけで「これは末那なりの歩み寄りなのだろうか」とか真顔で考えるのは、少々いかれてるんじゃないのか?その思考に意味はあるのか?早とちりがすぎるってものじゃないのか?

 

 というか、ばったり顔を合わせても、マジのガチでお互いに一言も発さないほどに、それほどに末那とのコミュニケーションは断絶していたのか?

 

 俺は考える。

 ちなみにこの間、時間にして0.001秒。

 極度の集中が時間を切り刻んでいた。

 

 答えは出た。

 

 してたわ。断絶。

 

「そういえば」

 

 ふと、末那が言う。その言葉に、俺は思考の海から引き揚げられた。

 

「おはようございます」

 

 俺の目を真正面から見据え、末那は言った。

 その顔は、完璧なまでの無表情だった。

 

 冷たく、無機質。それは人間が作るからこそ威圧感のある表情といえる。ぬくもりを信じて触れたら、思わぬ冷たさに心臓が跳ねるような。温度があると思っていた場所が、徹底的に冷え切っていたような。

 

 あるいは単に、全てを拒絶するような。

 

 そんな表情。

 

 ただ、何故か俺は、その完璧な無表情の中で、彼女がほんの少し、うっすらと、笑みのようなものを浮かべているような、そんな気がしてしまった。

 

「…………え、あっ、おはようございます」

 

 言葉を絞り出す。

 俺が言うと、末那は用は済んだとばかりに俺から視線を切り、持っていたタオルを洗面台に置いた。

 化粧品らしき小瓶を手に取ったところでふと我に返り、俺は今度こそ踵を返し、自室に向かう。

 あれだけあった眠気はとうの昔に覚めていた。

 

 ぺたぺたと廊下を歩く。フローリングに触れる素足がいやに冷たい。

 

 おはようございます。

 

 初めて交わした挨拶。

 家族への一歩。

 そのはずだ。そのはずなのに、

 

 なぜだ。

 

 なぜこんなにも、悼ましい気持ちになるんだ。

 

 おはようございます。完璧な無表情に、わずかな微笑。

 心が暖まるはずのそれには、決定的に何かが欠けている気がした。

 

 

 *

 

 

 風が吹いている。

 強い風だ。

 体重の軽い者ならば容易に吹き飛ばされるだろう。

 

 強風の中、黒い服を着た男が立っている。すらりとした体躯。才気走った顔立ち。つんつんと尖った髪型。

 

 呪術高専1年、伏黒恵が、高層ビルの屋上に立っていた。

 傍らには、特徴的なサングラスとまだら模様のネクタイを身に付けた長身の男。七海健人がいる。

 

 彼らは、真剣な面持ちで眼下の街を眺めていた。

 地平線の向こうまで続くコンクリートの群れ。

 その中に潜む狐を見つけようとするかのように。

 

「…………きませんね」

 

「…………ええ」

 

 伏黒が焦れたように言う。

 彼らは二人とも、このビルの屋上で、とある人物からの連絡を待っていた。

 

 第5次呪詛師討伐作戦。

 

 それが今、彼らが参加している作戦だった。

 

 作戦の概要はこうだ。

 東京のどこかに潜伏する呪詛師。彼又は彼女を捜索する。

 発見次第、即時拘束。

 抵抗された場合、もしくは抵抗されずとも何らかの危険を感じ取った場合、当該呪詛師を()()()()せよ。

 

 彼らが待機するビルとは別の場所では、虎杖とパンダ、冥冥と憂憂、狗巻と日下部の、計8名、4チームが待機していた。

 

 伊地知から説明された呪詛師の被害と、その討伐作戦の概要。

 伏黒は本作戦の要である協力者からの連絡を待ちながら、今一度それらを脳内で確認した。

 

 伊地知の説明によると、数か月前から、とある奇妙な被害を訴える者が出始めた。

 曰く、催眠術によって金銭を奪われた、と。

 警察は半信半疑どころか殆ど彼らを信用せず、酷い時は調書すら取らずに門前払いし、いい年をした人間がそのような戯言を真面目な顔で言えてしまう、この日本社会の闇を嘆いた。

 

 この奇妙な被害者たちの話が、警察内部の高専関係者の耳に入った。彼は催眠術というワードと、幸運なことに調書を取ってもらえた被害者たちが、共通して精神に何らかの障害を負っていたことから、呪詛師による被害である可能性に思い至り、本件を呪術高専に通報。

 

 高専は、仮にこれが呪詛師による被害だった場合の事態の大きさを鑑み、本件に特級呪術師、五条悟を派遣。

 

 五条悟が六眼による調査を行った結果、被害者の脳に微かな残穢を確認。

 よって当該事件の犯人は呪詛師であると断定。

 以降、当該呪詛師を精神操作の呪詛師として危険人物に指定する。

 高専関係者、補助監督員、窓、その他協力者に通達。警戒を促した。

 

 当該呪詛師による被害者は、発覚しただけでも23人。

 これは氷山の一角であり、呪詛師が精神を自由に操れるのだとしたら、その被害の大多数はそもそも発覚しないと考えられ、総被害者数は100人とも500人とも予想される。

 

 呪詛師の拠点、性別、行動パターンはその一切が不明。

 

 しかし、被害者が負った後遺症の傾向から、非常に憂慮すべきことに、当該呪詛師は急速に成長を遂げていることが予想される。

 

 これまでの被害者が負った後遺症は、

 お茶に異様な恐怖心を抱くようになった者。

 自分を架空のキャラクターの生まれ変わりだと信じるようになった者。

 昆虫にしか欲情できなくなった者。

 等の、比較的単純なものであった。

 

 それに対し、最も卑近の被害者は、表面上、精神に異常があるようには見られなかった。

 が、高専が手配したカウンセラーとの会話の中で、被害者が「糞野郎」という単語を「顧客」という意味で使っていることが判明。

 彼は「顧客との打ち合わせ」を「糞野郎との打ち合わせ」、「顧客第一」を「糞野郎第一」と言っており、本人にその自覚はなかった。

 

 この被害者は、紙に書かれた「顧客」という文字を読む時でさえ、「糞野郎」としか発音できなかった。

 その後彼に対しどのような説明の仕方をしても、顧客という単語を認識させ、発話させることはできなかった。

 

 凶悪にして巧者。手口の杜撰さの裏にある、どす黒い悪意と嗜虐心。

 

 被害に遭った者の中には、自分の性器を認識できなくなった者もいた。

 彼は尿意を催して便器の前まで行っても、そこからどうしたらよいのかが分からず、何度もズボンを汚すことになった。

 ただひたすらに悔しい。

 その男性は、突然尊厳を奪われたことに対し、涙を流しながらそう言った。

 

「…………ちっ」

 

 伏黒は舌打ちをした。苛立つように携帯端末の入った場所を指で叩く。

 

 趣味が悪すぎんだろ。

 

 呪詛師の被害について説明を受けた時、虎杖が言った言葉だ。

 伊地知が説明を終えた後、彼は眉間にしわを寄せ、顔も性別も知れぬ呪詛師に対し不快感を露わにした。同席していた野薔薇、狗巻、パンダ、禪院も同じような反応を見せ、そして伏黒もまた同じ思いだった。

 

 許せねえ。

 

 シンプルに、伏黒は呪詛師に対してそう思っていた。

 

 発覚した被害者は、全て男性。しかし推測される呪詛師の術式を鑑みると、女性の被害者がいないと断言することはできない。

 むしろ、金銭を奪われた男性たちは幸運な方で、目を付けられた女性は、現在進行形でより悲惨な__産まれたことを後悔するような__被害に遭っているのだと、そう推測したほうが自然とすら思える。

 

 それほどまでに、悪逆の限りを尽くした犯行。

 

「…………っ」

 

 伏黒の手に力がこもる。

 人のこころをおもちゃのように扱い、気まぐれに壊しては愉しんでいる呪詛師に、強い怒りを覚えた。

 

 連絡はまだか。

 

 伏黒は、呪詛師を発見次第、連絡をよこす手はずになっている協力者のことを思った。

 

 被害の全貌が明らかになるにつれて、極めて自然な道理として立ち上げられた、本件呪詛師の討伐作戦。

 しかし肝心の呪詛師の居場所が分からなければどうしようもなかった。

 けれどもこのまま手をこまねいている訳にはいかない。

 呪詛師の居場所が分からないのならば、探せばいい。

 当然の帰結だ。しかし、ここで重大な問題が立ちはだかる。

 

 人が多すぎる。

 

 ここは首都東京。日本一人が多い街。

 毎日膨大な数の人間が、血管のように張り巡らされた交通機関で、日夜凄まじい頻度で行き来する。

 

 23人の被害者は、それぞれ襲われたと思われる場所も住まいも異なり、呪詛師の根城も行動パターンも、分析し明らかにすることができない。

 

 そのため、まずは呪詛師、あるいは最新の被害者を発見することが急務となった。

 

 呪詛師本人が見つかればベスト。

 本人が見つからずとも、被害に遭って間もない被害者が見つかれば、その周辺が犯行現場ということだ。

 その数が増えるにつれて、好む現場や時間帯など、呪詛師の行動パターンを分析することができる。

 

 討伐において要となる、呪詛師本人、あるいは被害者の発見。

 

 最も重要だが、同時に最も困難な問題。その問題を解決するために、上層部、というか五条悟が用意した策は、外部の人間に協力を依頼することだった。

 

 どうやら伏黒の担任であるちゃらんぽらんな軽薄男は、御三家だけあって顔が広いらしい。伏黒は自身の担任が強い以外で役に立っているところを久しぶりに見た気がした。そのような探し物にうってつけの人材がいるということで、五条悟はとある人物に協力を依頼した。

 

 伏黒が待っているのは、その人物からの連絡だった。

 

「…………くそっ」

 

 焦れたように膝を叩く。傍らの七海が、焦っても良いことはありませんよと宥める様に言った。

 

 五条悟が連れてきた協力者。

 彼の協力により、被害の現場が都心に集中していること、呪詛師の行動パターンが一見ランダムなようでいてその実規則性があること、呪詛師が犯行に及ぶ時間帯が早朝か夕方であること、等の情報が明らかになった。

 

 そして、彼に協力を依頼して数週間後、この、本命である呪詛師を討伐する作戦が立案されたのだった。

 

 何者なのだろうか。

 

 頭を冷静にするため、眼下の街を睨みながら、伏黒は考える。

 どう書くのかは分からないが、彼はつちみかどあらやと名乗った。

 

 つちみかど、という名に聞き覚えはない。珍しい苗字だが、呪術師として有名な一族ではない。

 だが伏黒は、あらやという名前には聞き覚えがあった。

 

 阿頼耶識。

 

 五条悟が持つ六眼。

 それと同じくらい、有名な概念だ。

 

 唯識論における究極の概念、阿頼耶識。その名を冠する彼が言うには、呪詛師の行動パターンから、次の犯行現場がここ、新宿だと予想される。

 しかし新宿は広い。どこで呪詛師が発見されたとしても柔軟に対応できるよう、討伐要員を4チームに分け、それぞれが別々の場所で待機する。機動力のある伏黒は七海と組み、高層ビルで待機することで更に広範囲をカバーしていた。

 

 頭を冷静にするつもりが、気づけば無意識のうちに作戦の内容をさらっていた。

 伏黒は強く奥歯を噛み締めた。

 

 彼には忸怩たる思いがあった。

 

 第1次討伐作戦で、協力者が襲われた直後の被害者を発見。その際現場に最も早く到着したのは、七海と伏黒だった。

 現場に着いた伏黒は、協力者から、犯人がどんなに高速で移動しようとも、現場の半径100m以内にはいるはずだと聞き、七海と共に捜索した。

 

 しかし、結果として呪詛師は見つけられなかった。暗い路地で倒れ伏し、狂ったように笑い声をあげていた被害者。彼に近い順で、会社員、配達員、女子学生がいたが、その内誰からも呪力は感じられなかった。結果、呪詛師を取り逃がす形になってしまっていた。

 

 伏黒は思う。

 

 今度こそ、このふざけた遊びを辞めさせてやる。

 

 伏黒は、自分が因果応報の歯車であることを、強く、強く意識した。

 

 

 

 結局その日、協力者から連絡が入ることはなく。

 

 第5次呪詛師討伐作戦は空振りに終わった。

 

 

 *

 

 

 クローゼットを開けると、茶色い紙袋が目に入った。何を入れた袋だろうかと思い、取っ手のついた袋を引き寄せ、中を見る。

 

「あ」

 

 ストライプの洋服。大きめの胸ポケット。

 

 辞めたはずのバイトの制服だった。

 

 

 

 自動ドアが開く。てんとーん、と、聞きなれた入店音が鳴った。

 

 店内には誰もいない。都内とはいえ、住宅地の真ん中にあるコンビニにまで常に客がいるわけではない。

 とはいえスタッフの姿すら見えないというのは珍しい。

 バックヤードにいるのだろうか。

 私はカウンターの内側に入り、その際ちらりとシフト表を確認した。

 

 どうやら今の時間帯、スタッフは一人しかいないらしい。

 ふと、ワンオペは違法だったんじゃないかと思ったが、まあそんなことはどうでもいいと意識から切り捨てた。

 

 店長には事前にメールで連絡してある。私は手に下げた紙袋の重みを確認した。

 

 バックヤードに入り、給湯室のドアを開ける。

 すると、一人の男がいた。

 足を組み、気だるげにスマホを見ている。髪は茶色く染められており、入り口にいる私のところまで整髪料の匂いが漂ってきた。

 

 さっき見たシフト表ではスタッフは一人のはずだった。目の前の制服姿の男がそのスタッフなのだろうか。それとも前のシフトの人間がまだ残っているのだろうか。私はそもそもこの男の名前を知らないため、どちらなのか判別のしようがなかった。

 

 兎にも角にも。面倒なことになる前にさっさと帰ろう。

 私は制服を置くため、給湯室の中へ進み出た。

 

「あれ、末那ちゃんじゃん」

 

 喜色の混じった声。男は馴れ馴れしく私の下の名前を言う。

 私は咄嗟に舌打ちしたくなったが、あまりお上品なことではないので何とか堪えた。

 

「え、どうしたの。今日シフトじゃないよね?あ、ヘルプ?だとしたらまじありがたいんだけど、まじでまじで」

 

 男がまくしたてるように言う。

 にやついた顔がたまらなく気色悪い。男の視線は私の顔と胸のあたりを行ったり来たりしていた。

 うーん、取り敢えず黙って死んでくれないかなーと思うが、『力』を通していない思念は、何の効力ももたらさない。

 

 無視したら面倒なことになるかな。

 

 私は、カスみたいに薄い記憶の中で、この男が粘着質なことを知っていた。このまま無視して給湯室を出れば、やたらプライドの高いこの男は私を追って来るだろう。そのまま訳の分からない理由で逆切れされても面倒だった。

 

「制服を返しに」

 

 端的にそれだけ言う。それ以外に言うことも思いつかなかった。

 私はすぐに、その返答が失敗だったと気が付いた。

 

「え、末那ちゃん、辞めんの?」

 

 __私の馬鹿。

 

「あ、そだ、じゃあさ、Line交換しようよ」

 

 男はスマホを操作し、緑の画面を表示させた。

 

 私は天を仰ぎたくなった。

 この手の輩には、少しでも自分についての情報を開示してはならないのだった。

 そう、経験から知っているはずだった。

 この手の輩は、こちらがどれだけ迷惑そうにしていても、逆切れされるよりはましかと思ってしたわずかな返答を広げて、あれこれと関わりを持ってこようとするのだ。

 

 しかも面倒に思って無視したり、申し出を断ったりすると、今度は露骨に敵意をぶつけてくる。更には仲間内でその敵意を共有したり、他の人間にあることないこと吹き込んで、私の知らないところで私の敵を作ったりしてくるのだった。

 複数人にいわれのない悪意を向けられるよりかは、一人からの粘着質な好意に耐えたほうがまし、そう思ってなあなあの受け答えをしていると、こちらに脈がないわけではないと勘違いして、更に増長し粘着してくる。

 

 この世のバグみたいなやつだ。

 そして残念で無念で誠に遺憾なことに、私の容姿が引き寄せるやつだった。

 

 『力』に目覚める前の私なら、この辺りのヘイト管理は徹底していたはずなのだが。

 私は自分を責めた。これは明らかな油断、気の緩みだ。

 

 『力』を得たことによって芽生えた、目の前の人間はいつでも殺せるという感覚。

 その感覚が、私は面倒ごとを引き寄せやすい容姿であるという自覚を薄めてしまったのだろう。

 私は反省した。そしてふと、こうも思った。

 

 もしかしてこの油断は、ここ数か月で最も触れ合う人間があまりに無害で、そちらの感覚に慣れてしまったからなのではないか、と。

 そしてそれは、もしかしたら幸せなことかもしれない、と。

 私は思うのだった。

 

 欲しかった普通の生活。それに慣れれば、当然、私の感覚も変化する。

 普通の感覚。

 それを持った私という人間は、普通の少女だ。

 

 普通の少女は、普通に遊んで、普通に勉強して。

 家に帰れば普通の優しい家族がいて、学校に行けば普通の優しくしたい友人がいる。

 そして、

 

 特別でも何でもない、王子様でも石油王でも勇者様でもない、普通の人に、恋をする。

 そんな普通の少女に、私はなれるのかもしれない。慣れて、成れるのかもしれない。

 そんな予感が、私の胸に灯っていた。

 

 思わぬ過程で気が付いた、私は幸せになれるのではないかという予感。

 しかし、今の状況でそれに浸るべきではないのは明らかだった。

 

「ね、折角出会えたのに、このまま縁が切れちゃうのももったいないしさ、ね」

 

 男が言う。私の反応が芳しくないと思ったのか、やたら甘く、舌足らずな、ねだるような口調だった。

 私は鳥肌が立つのを感じた。

 普通に気色悪い。

 誰かに恋をするとして、こいつは100%有り得なかった。

 

 頭が良いわけでもなく、有能なわけでもなく、霊が視認できるわけでもなければ、それらを祓えるわけでもない。

 

 『力』の実験台に使ったところで大した金銭も持っておらず、私の痕跡を残すだけ。

 

 私は当然のごとく、『力』を使う衝動に駆られる。

 しかし最近認識したリスクが、私にそれを思いとどまらせた。

 

 痕跡。

 そう、痕跡だ。

 『力』を行使すると痕跡が残る。

 

 私はそのことを、つい最近知ったのだった。

 

 そんなわけで、私はこの男に何と言えば、最もコストを最小にして家に帰ることができるだろうかと考え始めた。

 

 Lineをやっていない。少し無理があるか。

 

 嘘のメアドだけ渡して、メーラーデーモンの返信が来る前に帰る。嘘だとばれた時に最高に面倒なことになりそう。

 

 単にスマホを持ってきてないと言ってしまう。露骨に連絡先を渡すことを嫌がっているふうに見えるか?

 

 ふとそこまで考えて、なんだかこんな男のために思考を割いているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。

 私は嘆息し、服の中のスマホを意識する。

 もうLineを渡してしまって、即刻ブロックすればいいか。

 

「急いでるので」

 

 連絡先を知られるという少しの傷を許容しようと決意したのだが、結局、私の口から出たのはそんな言葉だった。

 自分で言っておきながら、びっくり、と目を見開く。

 思ったよりも私はこの男のことが嫌いだったらしい。

 

 私は紙袋を机に放ると、踵を返し給湯室を出た。

 

「え、待って待って」

 

 案の定、男は着いてきた。バックヤードにかつかつと靴音が響く。

 客でも誰でもいいから入店音を鳴らしてくれ、と願うが、残念なことに売り場は静かなままだった。

 

「ねえ」

 

 男の手が、ドアノブに手をかけていた私の、その肩に触れる。

 私は本能的に沸き上がってきた嫌悪に顔をゆがめると、短く舌打ちをした。

 

「え、何それ」

 

 男が開きかけていた扉に掌を叩きつけた。

 誰もいないバックヤードに、ガン、という音が鳴り響く。

 

「今舌打ちしたよね」

 

 詰問するように男が言う。

 舌打ちを聞き取ることはできるのに嫌そうな顔は見えないのか。

 随分と都合のよい感覚器官をお持ちのようだった。

 

「舌打ちしたかってきいてんだけど!」

 

 男が威圧するように扉を叩く。先ほどよりも大きな音が鳴った。

 男は扉を手で押さえながら、爪でかっかっかっと表面を叩き始める。

 

 私はその間ずっと、扉の表面を見つめていた。

 何だろう。

 私は自分の腹の中に、この状況にそぐわない感情が生まれつつあることに気が付いた。

 少し楽しくなってきたかもしれない。

 

「あんさ、末那ちゃんさ、いいの?そんな態度でさ。大丈夫?自分のしたことわかってないんだよね?」

 

 男が何やら脅迫めいたことを言いだした。私は興味を惹かれ、男の物言いを聞くことにする。

 

 一体私が何をしでかしたというのだろうか。

 かつあげ?性癖の刷り込み?重度の精神障害の植え付け?それとも時限爆弾的な単語の入れ換え?

 

 苛立ったように髪をかき上げ、男が言う。

 

「末那ちゃんさ。廃棄の弁当とか、パンとか、ちょいちょい盗んでたよね。俺知ってるんだわ。見てたから。ばっちり。あんね、それ、立派な窃盗だから。俺が店長とか、警察とかに言ったら、きみ、前科着いちゃうよ。だって盗みだもん。立派な犯罪だもんね」

 

 何を言っているんだこいつは。

 それが率直な感想だった。

 廃棄の弁当を持って帰ったことは確かにある。割と何度も。が、それが窃盗にあたると、そして己がしかるべき機関に知らせれば、私には前科がつくことになると、この男はそう言いたいのだろうか。

 

 私はちらりと思考を巡らせた。男の言うことは一部正しい。しかし一部間違っている。

 

 コンビニにあるもの、仕入れたものは、オーナーの所有物だ。

 ということは、オーナーが許可しているのならば、それは自分のものにしてよいということになる。なにやら得意げに語っているようだが、その程度の単純な決まりも知らない男に、私はがっかりした。

 

 大学生でこのレベル。

 

 日本の未来は暗い。

 

 私は教育の敗北を嘆いた。

 

 まあ、私はオーナーから許可を貰っていないのだが。

 

 男は始めこそ苛立った様子だったが、自分の発する言葉に勇気づけられたのか、声の端々に愉悦を滲ませていった。

 今顔を横に向ければ、きっと下卑たにやつき顔が見られるのだろう。

 少し見たい気もするが、多分後悔することになるのでやめておく。ホラー映画とかスプラッタ映画とか、怖いのに、不快なのに、つい見てしまうものが、世の中には沢山ある。私はそれで見たことを後悔する派だった。

 

「ね、ばれたら困るよね?前科ついちゃうもんね。学校いらんなくなるもんね。いやー、お母さんとかも泣くんじゃないかなー」

 

 黙っている私。それをどう解釈したのか、男は勢いづく。

 

 男の言葉を聞いていると、不思議と楽しくなってくる自分がいた。

 一体これはどういう感情なのだろう。

 胸のうちで首をかしげつつ、私は演技力をかき集め、精一杯の震え声を絞り出した。

 

「どうすれば、黙っててくれますか」

 

 渾身の震え声。オプションで怯えたような表情も付ける。

 私の頭上で男が息を呑む気配がした。

 

「あ、いやいや、そんな怖がんないでよ。大丈夫。俺は本当に、君と仲良くしたいだけだから。ね?」

 

 自分の望み通りになったことが余程嬉しいのか、男はなだめるように言った。

 

 どうやら男は、仲良くしたい人間がいたら、その人物に付きまとい、思い通りにならないなら脅迫するべしという価値観で生きているらしい。どんな経験をし、どんな情報収集の仕方をしたらそんな結論に至るのだろうか。

 ちょっと頭の中を開いて論理展開を見せてほしいと思った。

 

「取り敢えずうち来ようか」

 

 男が私の肩に手を乗せる。ぞわりと鳥肌が立ち、肩が跳ねる。

 

 肩に触れられたことで、私の中では楽しさよりも嫌悪感が勝った。私は男とのやり取りを総括する。

 ふむ、中々面白かった。

 頭の悪い人間がどういうことを考えているのか、それを知るための、貴重な生の情報に触れられた気がする。

 

 私は感謝の気持ちを込めながら、男の手を払いのけた。

 お礼はきちんと目を合わせて言うべきだ。

 私はそれまで扉に向けていた目線を傍らの男に向け、お礼の言葉を言うべく、口を開いた。

 

「死ねよごみが」

 

 おっと。

 

「…………は?」

 

 男の顔がどす黒くそまった。

 

 

 *

 

 

「制服を返しに」

 

 その言葉を聞いて、美少女の来訪にぶちあがっていたテンションが急激に冷めた。

 

 え?返す?ってことはなに、辞めんの?

 

 末那がバイトを辞める。その現実を理解した俺は、急激に焦り始めていた。

 

 おいおいおいおい、聞いてねえよ。うーわまじか。ちょいちょい話して良い感じだったのになー。そのうち絶対やってやろうって思ってたのに、辞められたんじゃそれもできなくなっちまうよなー。

 

 あ、そうだ。

 

「あ、そうだ、じゃあさ、Line交換しようよ」

 

 ガラケーだった末那がスマホにしたことは知っている。JKならまずはお友達と連絡を取るためのアプリを入れるだろう。

 

 急いでスマホを操作し、友達追加を表示させる。

 ああ、いや、電話番号の方が良いか?いや、どっちも聞けばいいか。

 

 とにかく、ここで末那と連絡が途絶えるのは避けたい。相手はJK。学校にはいくらでも盛りのついた雄どもがいやがる。末那みてえな頭の中お花畑な年頃は、たいして自分と釣り合わない相手でも、思春期特有の乳繰り合いてえって気持ちを優先して、近くにいるからって理由で何ランクも下の野郎と付き合ったりすんだ。そんで後から、それを後悔したり、逆に誇ったりする。

 それは良くねえ。すげえ良くねえ。そんなん、この世界に対する冒涜だ。

 

 そんなことを防ぐためにも、俺がもらってやらねえと。JKは大人の男に弱い。大丈夫、俺はかなり脈があるほうだ。

 

 何もアクションを起こさない末那に目を向けると、彼女は少しだけ、眉を潜めていた。

 どうした、体調でも悪いのか?もしかしてあの日か?

 まさか、嫌がってるってわけじゃあねえだろうし。

 

「ね、折角出会えたのに、このまま縁が切れちゃうのももったいないしさ、ね」

 

 大人の男が、あえて子供っぽく舌足らずに言う。こんなんJKにぶっ刺さりだろまじで。いやー、自分の魅力が怖いわ。こんだけレベルの高い女とも対等に駆け引きできんだから。まじ愉悦。あ、大人っぽい言葉出ちまったw

 

「急いでるので」

 

 末那が給湯室から出る。その背には、一切の未練も躊躇もなかった。

 

 え?

 

 いやいやいやいやいやいや、ちょっと待てって。まずいってそれは。

 

「え、待って待って」

 

 末那の背を追い、給湯室を出る。末那は売り場に続く扉に手をかけていた。

 売り場に出られるとまずい。店員がJKを口説いてたなんてSNSに晒されでもしたら最悪だ。

 

「ねえ」

 

 俺は末那の肩を引き留めるように掴んだ。これまでの人生で断トツの美少女に触れたことで、俺のテンションが上がる。うっは柔らけ。

 ふと、ちっ、という短い音がした。少しして、それが目の前の少女がした舌打ちの音だと気づく。

 

「え、何それ」

 

 末那が扉を開けようとしている。俺は叩きつけるようにドアを抑えた。

 え、え、え。舌打ち?今のって舌打ちだよな?ちょっと。ない、ないわ。それはない。

 いくらなんでも、それは先輩への敬意が足りないわ。

 

「今舌打ちしたよね」

 

 強めに言う。

 しかし末那は扉の表面を見つめるだけだった。

 謝るでもなく、怯えるでもなく、ただただ面倒そうな表情を浮かべていた。

 

 いやいやいや。それはちょっと。だめだろ。許されないだろ、こんなん。いくら顔が可愛いからって、ちょっとこれは調子に乗りすぎだろ。

 俺はここがバックヤードなのも忘れて、怒りに任せて叫んでいた。

 

「舌打ちしたかってきいてんだけど!」

 

 扉を叩く。

 確実に売り場まで聞こえただろう。けれどもそんなことはどうでもいい。今はこいつに上下関係を叩きこめればそれでいい。

 

 少しは怯えた顔をするだろう。

 そう期待したのに、末那は声にも音にも反応を示さずに、依然として退屈そうな顔をしているだけだった。

 

 は、ぁあ?どんだけ人様のこと舐め腐ってんだこいつ。普通怒鳴られたらそれ相応に怯えるか申し訳なさそうな顔をするだろうが。なに澄ました顔してんだよ。怯えろよ。私は小動物です、男の人に力では敵いません、狩られる側ですって顔をしろよ。ふざけんなよ。

 

 監視カメラの死角は知ってる。おい、俺がその気になればここでお前犯れんだぞ。分かってんのか?お前の抵抗なんざたかが知れてるだろうが!

 

「あんさ、末那ちゃんさ、いいの?そんな態度でさ。大丈夫?自分のしたことわかってないんだよね?」

 

 いつまでも舐め腐った態度を取るなら、こっちだって考えがある。廃棄の弁当を盗んでいたこと。それを俺は知っている。そう、こいつは万引き犯と同じだ。前に調べたからわかる。廃棄の食品を勝手に持って帰るのは犯罪、窃盗と同じだ。こいつは高校生だから知らねえんだろ。高校で法律なんざやらねえかんな。

 

 持ち出しは窃盗。犯罪なら前科が付くだろう。こいつは、俺が言わないであげてるから無罪になっているだけだ。

 

 俺が密告をほのめかすようなことを言うと、末那は眉を潜めた。その反応に、俺はようやく見たいものが見られて満足する。

 

「ね、ばれたら困るよね?前科ついちゃうもんね。学校いらんなくなるもんね。いやー、お母さんとかも泣くんじゃないかなー」

 

 末那は何も言えない。大方、今更事態の大きさに気づいてビビってんだろう。

 ふと末那は、声を震わせてこう言った。

 

「どうすれば、黙っててくれますか」

 

 背筋が震えた。

 

 来た!それだ!それだよ!俺が聞きたかった言葉、見たかった顔、教え込みたかった上下関係!!

 

 腹の奥底から熱い欲の塊が突き上げてくる。股間が熱くなり、男の象徴が硬さを帯びていく。

 

 目の前の少女を好きにできる。俺の腹は歓喜の渦で痛いほどに荒れ狂っていた。

 

「あ、いやいや、そんな怖がんないでよ。大丈夫。俺は本当に、君と仲良くしたいだけだから。ね?」

 

 そう、仲良くしたいだけ。もうちょい正直に言うと、出し入れしたいだけ。

 

 ま、禿げおやじの店長にばらされて、あいつと仲良くするよりはずっといいだろ?なんせJK憧れの大学生だかんな。それに結局、女ってのは快感に抗えないもんだ。最初は嫌がるかもしれないが、何度もやってりゃあいつか末那の方から縋り付いて来るようになる。そうなるまで徹底的に調教してやるよ。

 

 欲に濡れた目で末那を見る。いっつも男に興味ないですって澄ました顔をしているから、その怯えた顔にほの暗い喜びを覚えた。

 

 話した回数は多くないが、それでもわかる。こいつ、男が嫌いなんだろ。こういうやつは多い。顔面に恵まれたからって、どんな態度をとっても良いと思ってるようなやつ。

 

 末那は処女だろうか。

 ふと思う。

 大きな二重の瞳、しみ一つ、ニキビ跡一つない滑らかな肌、完璧な形の唇、それから更に下に向かい、思いの他はっきりと起伏のある胸と、初めて拝んだ生足を眺め、俺は考える。

 こんだけ顔が良いと、高校でも馬鹿みてえにモテるだろうな。えぐい数の男から言い寄られてんだろう。それでこの態度ってことは、末那自身はそれに不快感しか感じてねえってことだろうな。

 

 強張る横顔を見る。俺は笑った。

 

 まあいいか。これから確かめりゃいい。

 

 肩に手を置き、俺は言った。

 

「取り敢えずうち来ようか」

 

 肩を跳ねさせる末那。怯えたのか、喉の奥から引きつったような声が漏れていた。俺はその反応を見て、さっきの疑問に確信的な答えを得る。

 

 やっぱ処女だわ、こいつ。

 

 やったわ。まじか。うわ、このルックスで処女。しかも完全に言いなり。興奮が止まらない。先走りでパンツの中がぬめっていた。

 

 やば、えろ漫画みてえ。まじラッキーだわ。早くその男に興味ないですって顔を快感でゆがめさせてやりてえ。

 

 ふと、緊張でおかしくなったのか、末那が笑った。それを見て、俺はちょっとだけ心配になる。おいおい、自棄にだけはなんなよ。警察に駆け込まれちゃ困るんだよ。これはあれだな、窃盗ってのがどんだけ重い罪か、ばれれば人生即終了レベルだってことを、きちんと教え込んでやらねえとな。

 

 目の前の、弧を描く艶やかな唇を見る。興奮が高まるのを感じた。ああ、別に、少しくらいいいよな?どうせ今から、何回したか分かんねえくらいするんだし。

 

 俺は末那に顔を近づけていく。大丈夫。すぐにその笑みを蕩けた顔にさせてや

 

「死ねよごみが」

 

 るよ。

 

 …………は?

 

 

 *

 

 

『動くな』

 

 放たれた『力』。言葉に乗せた思念の通りに、男の体が硬直する。私に払われた腕が妙な位置で止まっていて、そうしているとセンスのないオブジェみたいだった。

 

「……っ、なんだ、これ!!」

 

 男が怒鳴る。

 唐突に一切の動作を封じられて困惑しているのだろう。

 唾が飛ぶし、何よりそのしゃがれた声が不快だから、声帯を取り換えてから喋るか、一生黙っていてくれないだろうか。

 

『黙れ』

 

 男がぴたりと口を閉ざす。

 動くことも声を発することもできずに、ただ顔を真っ赤にさせる。

 『力』に抵抗しているのか、身体を小刻みに痙攣させていた。

 

 私は男から離れる。売り場に続く扉を開け、店内に誰もいないことを確認すると、適当なパイプ椅子を引き寄せた。

 

 あーあ、使っちゃった。

 

 私は座り、足を組む。

 

 ここからどうしようか。

 

 私は使ってしまったものはしょうがないと諦め、そのうえで、目の前のこれをどう処理しようかと考え始めた。

 

 さくっと殺す?従兄みたいに?んー、なくはないけどいきなり殺しちゃうのはなんか勿体ない。

 迂闊に『力』を使えないのだから、一度使ってしまったのなら、それは実験とかで有効活用すべきだろう。

 殺すのは思わぬ事故があった時の緊急の手段かな。

 

 じゃあ、金を奪う?んー、もらえるものはもらっておきたいけど、こいつの手が触れた金とか使いたくないな。

 

 じゃあ、一切の記憶を奪ってほったらかしにする?これ以上私の痕跡を残さないようにするなら、これがベストかな。

 ()()に目を付けられた原因は、遊びすぎたってのが一番だろうし。

 でも、どうだろ。

 私はそれで、満足できるかな?

 

 前衛的なダンサーみたいな姿勢で固まり、ぷるぷると痙攣する男を見る。

 私はこの男に肩を掴まれ、脅迫され、家に連れ込まれそうになった。

 もしも私が『力』を持たないか弱い少女だったら、果たして最後まで抵抗できただろうか?

 

 男の処理について考えていると、ふと一つの選択肢が脳内に浮かび上がってきた。

 

 自殺させちゃおうか。

 

 首吊り、練炭、入水、リストカット、飛び降り、感電、電車、睡眠薬、

 

 それらの内、最も遺体が見つかりにくい方法。私の痕跡が残らない方法は、どれだろうか。

 

 私は首を振り、その物騒な考えを打ち消した。

 

 そうしてやりたい気持ちはある。

 あるが、それは最後の一線だ。そこを超えれば、私は戻れなくなる。

 その選択肢が、常に脳裏にこびりつくようになる。

 私は殺し屋になりたいのではない。

 

 普通に実験だけでいいか。

 私はそう決めると、男の方に向き直った。

 男の体は、私が『動くな』と言った時の姿勢で固まっている。

 その体が小刻みに震えているのを確認した私は、一つの命令を口に出した。

 

『私の命令に抵抗しろ』

 

 男の体が大きく震えた。力の入りすぎた腕ががくがくと震え、顔面が異様なほど紅潮していく。

 筋線維の千切れる音だろうか、ぶちぶちという音が男の全身から発せられた。

 

「へえ」

 

 面白い。

 これまではいきなり抵抗意志を奪っていたから分からなかったが、私の命令に抵抗させるとこんなふうになるのか。

 そうして観察していると、ふと、男の体内から、がごん、という鈍い音が発せられた。

 男がうめき、その額に脂汗が浮く。

 

 なんだろう。

 

 私はちょっと考えて、直ぐに結論に至った。

 

 ああ、骨が外れたのか。

 

『抵抗をやめろ』

 

 男の体から力が抜ける。

 やけに浅い呼吸を繰り返していた。

 

「……っ……ぅぁ」

 

 男は泣いていた。

 『動くな』の命令通り、その姿勢を固定しながら。

 

 その涙は、体の自由の一切を奪われたことに対する屈辱のためか、それとも骨が外れたことによる痛みのためか。

 まあ多分痛みのせいだろうけども、どちらにせよ、大の大人が涙を流す姿は、不思議と胸がすっとするものだった。

 

「だらしない」

 

 私は嘆息し、足を組み替える。

 スカートの端がめくれ上がり、その内側が露わになるが、それを見ることができる者は、今この場にはいなかった。

 

 両目から静かに涙をこぼし続ける男を見る。

 

 ふと私は、()()ならどういう抵抗をするだろうかと考えていた。

 

 ()()

 

 白いスーツに、まだら模様のネクタイ。顔には不思議な形のサングラス。男性。

 つんつんした黒髪、真っ黒などこかの制服、眉間に寄った皺。少年。

 

 あれはつい2週間前のこと。

 路地裏で男から適当に金銭を奪ったあと、植え付けて面白そうな認知のゆがみも思いつかなかったため、取り敢えず『発狂』させて現場をあとにした。

 

 人通りの多い道に出て数m歩き、会社員と配達員の作る流れに乗った時。

 

 その男たちとすれ違った。

 

 同居人と、同じ匂いがした。

 

 思わず立ち止まり、目で彼らを追う。

 彼らは私が出てきた路地裏に消えていった。

 数秒してサングラスの男だけが出てくると、彼は何かを探すような鋭い視線を、周囲に対して向け始めた。

 

 ふと、サングラスの男の視線が、私を捉えた。

 歩道の隅に立ち尽くし、己を見る少女に対して、彼が何を思ったのかは分からない。ほんの1秒にも満たない、目が合ったとすら言えないような短い時間ではあるが、彼は間違いなく、私を個体として認識していた。

 

 私は素知らぬ顔をしてその場を離れた。数m離れても、男や少年が尾行してくる気配はなかった。

 

 今思い出しても、背筋がぞくぞくする。

 

 私は身震いし、沸き上がる衝動のまま、茶髪の男に『苦しめ』と言う。

 押し殺した絶叫という、矛盾した声が、男の口から流れ出ていった。

 

 私は空想する。

 あの時、もしも彼に話しかけられていたら、私は何と答え、どう言い逃れしただろうか。

 

「…………ふふっ」

 

 間違いない。私は確信する。彼らは()()()()の住人だ。

 私のような、超常を身に付け、あちらを覗き、そして恐らくは、『力』を持つ者を取り締まる、いわば()()()のような存在。

 

 私は()()の顔を思い返す。

 

 日本人離れした顔立ちの男性と、才気走った顔立ちの少年。

 そして、眠たげな瞳の奥に、確かな信念を宿しながら、私を見る時だけは、なぜかその瞳に怯えを宿す、私の同居人。

 

「あはっ」

 

 彼らが私を、排除すべき敵として見る時。

 

 その瞳は一体、何を宿すのだろうか。

 

 きっといい目で見てくれる。

 

 その視線にだけは、私は嫌悪感を抱くことはないだろう。私はその時のことを想像して、くすくすと笑った。

 

 

 *

 

 

 コンビニを出るとすっかり夜だった。

 

 すっきり爽快な気分で、私は住宅地の暗がりへと進み出る。 

 

 ()()の間、誰も来なかった幸運を喜びながら、静かな道を駅に向けて歩いていた。

 

 ふと、違和感に足を止める。

 

 静かすぎる。

 

 「こんばんは」

 

 前方に人がいた。男だ。今の声はこの男からだろうか。

 私は暗闇の中で輪郭がはっきりとしない男を注視する。

 暗くてよく見えない。いや、待て。

 いくら街灯が少ないとはいえ、この通りはこんなに暗かっただろうか。

 

 ふと、男が街灯の下に出たことで、その姿が露わになる。

 

 黒い袈裟、自身に溢れた佇まい。そして何より、額にある妙な縫い目。

 

 誰だ。

 

 私は警戒心を最大まで引き上げた。

 男の恰好が怪しいというのもある。

 が、何よりも私を警戒させたのは、目の前の男が、()()と同じ雰囲気を身に纏っていることだった。

 

 私はいつでも『力』を放てるように身構えながら、目の前の男に意識を集中させる。

 ふと、男がそのにやついた口を開いた。

 

 「町田末那……いや、()()()()()()()、か」

 

 男は意味ありげに笑みを含ませ、そう言った。

 

 どうやって私の名前を知ったのかは分からないが、()()()()()()()()()()()()()()

 土御門家に引き取られはしたが、姓を変える手続きは行っていない。

 戸籍上の名前を知っていることも十分におかしいが、私が土御門家に引き取られたことを知っていることはもっとおかしかった。

 

 誰なんだ、こいつは。

 

 私は既に最大だった警戒心を更に引き上げた。

 

 「あーあ、可哀そうに。怯えちゃってるじゃん」

 

 もう一人の声が耳朶を打つ。

 背後から聞こえたそれに、私はこいつらが敵であることを確信した。

 

 もしも私に友好的な存在ならば、このように挟み撃ちの形で、逃げ道を塞ぐようなことはしないだろう。

 

 「俺、弱い者いじめって良くないと思うんだよね」

 

 トン、と軽い衝撃。

 何かを背中に突きつけられている。

 私はブレザー越しに伝わる感触からそう判断した。

 

 掌にじんわりと汗がにじむ。

 命の危機の感覚は、貞操の危機のそれとは全く違うものなのだと、どこか遠い頭の中でそう理解した。

 

 私の強張りを見て取ったのか、それとも単におちょくるためか、袈裟を着た男は、莞爾として笑い、言う。

 

 「ちょっとお話しようか」

 

 私の背後で、くすりと笑う気配がした。

 

 

 

 

 

 

 



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『精神操術』

 *

 

 

「末那と連絡が付かない?」

 

 新宿駅。大江戸線のプラットホーム。

 着信があったのでスマホを見ると、「祖母ちゃん」との表示が。なんぞらほい、と端末を耳に当てた俺に、祖母ちゃんは開口一番、『末那ちゃんと連絡が付かないんだよ』と言った。

 電光掲示板脇の時計をちらりと見る。時刻は二二時三〇分。深夜、と言うにはまだ早いが、高校生の少女が一人で出歩くには、十分に遅いと言える時間だった。

 

『電話も、メールも、一向繋がらないんだよ』

 

 祖母ちゃんが心配そうに言う。

 祖母ちゃん曰く、夕飯の後、突然、アルバイトの制服を返しに行くと言って家を出たらしい。それから三時間経っても、彼女は帰って来ないのだという。

 

『事件にでも巻き込まれたんじゃないかって、気が気がじゃなくて』

 

 末那を送り出したのが一九時過ぎ。それから時計の針が進むにつれ徐々に心配になり、二二時を回った時点で、書置きを残して探しに行こうとした。けれども祖母ちゃんはつい最近腰を痛めていて、とてもじゃないが駆け回って人を探せる状態じゃない。そこで、ボランティア終わりの俺に電話をよこしたのだった。

 末那のバイト先は、彼女が以前住んでいた場所から徒歩で行ける距離にあるらしい。俺は祖母ちゃんとの通話を切る。一先ずそのバイト先に向かおうと、ホームの上を走り出した。

 

 末那が以前住んでいたのは明大前。新宿からは3駅だが、走って行ける距離ではない。京王線を使うしかないか。俺は階段を駆け上った。

 ホームに着くと、タイミングよく電車が滑り込む。俺は橋本行のそれに乗り込んだ。

 到着して直ぐに出られるよう、ドア脇のスペースに立ち、発車を待つ。やけに遅く感じられた。

 

(事件、か……)

 

 電話口で切々と訴える祖母ちゃん。「事件にでも巻き込まれたんじゃないか」。高校生の少女に対するそれは、ひょっとすると過保護ともとれるのかもしれない。

 けれども俺はその心配を、杞憂だと切って捨てることはできなかった。

 がちゃこん、とドアが閉まる。閉まる直前、スーツ姿の男が乗り込んできた。

 微かな振動を感じながら、外の景色を眺める。そうして揺られていると、現在末那が置かれている状況について、嫌な想像が次々と沸き上がってきた。

 

 ・交通事故

 ・ひったくり

 ・路上強盗

 緊急を要する事態。だが、比較的ましな状況ではある。

 

 ・誘拐

 ・暴行

 ・監禁

 最悪の事態。それらが起きていた場合、俺は一線を越えるだろう。

 そして。

 

 ・呪霊、呪詛師による襲撃

 考え得る中で最悪の事態。仮に精神操作の呪詛師による襲撃だった場合、事態は最悪を極める。どういうわけか、やつは現場に残穢を残さない。そのため追跡のしようがなかった。

 

「くそっ」

 

 嫌な想像を振り払い、落ち着けと自分に言い聞かせる。突然悪態をついた俺を、スーツ姿の男がぎょっとした目で見ていた。

 

 呪詛師のせいと決まったわけではない。他の可能性だって有り得る。

 そう、例えば、バイト先の友人と話が弾んでいて、電話に気が付いていない、とか。

 あるいは、給料の計算に手間取っている、とか。

 それとも、気になっていた先輩とLineを交換して、そのまま別れを惜しんでいる、とか。

 会話を楽しんでいたところにやたら迫真じみた俺が来て、何だこいつはと迷惑そうにされる。そんなことだって、あるのかもしれない。

 会話を邪魔されて迷惑そうな顔をする末那。笑顔なんかよりも余程想像しやすいそれを、しかし俺は頭を振って打ち消した。

 

 甘すぎる想像だ。

 善人が報われないなんて当たり前。悪辣な者は、より悪辣な者の養分にされ、貪られる。

 そんな呪われた世界で、俺も彼女も生きているのだ。

 

「笹塚~笹塚~お降りの際は足元にお気をつけて」

 

 一駅目に到着し、アナウンスがそれを知らせる。

 俺は列車を乗り降りする人たちを見つめながら、拳の力を抜いた。じわり、と止まっていた血が流れていくのが分かった。

 

 これ以上彼女から奪うことは、絶対に許さない。

 悪人だろうと、呪詛師だろうと、呪霊だろうと。

 

 誰だろうと。

 

 彼女が光の道を歩む邪魔をするのならば。

 俺はそいつを、原型がなくなるまですり潰してやる。

 窓の外、遅々として進まないように見える街並みを睨みながら、俺は、末那が迷惑そうに俺を見てくれることを願った。

 

 

 *

 

 

「君は、魂を信じるかい?」

 

 人通りの一切ない、暗い路地。新月でもないのに、どういうわけか月の光は届かず、街灯だけが唯一の光源だった。

 

「無視か、つれないなあ」

 

 返答がないとみるや、大袈裟にため息を吐く真人。やれやれ、とでも言いたげに首を横に振った。

 

「……あなた方は」

 

 真人からの問いには答えず、少女が言う。警戒のためか、その眉間に皺が寄っていた。

 

「真人」

「はいはーい」

 

 夏油が呼ぶ。呼ばれた呪霊、真人は軽く言うと、少女の背に触れている手とは別の手で、ぽいと何かを放り投げた。

 どさ、とアスファルトに投げ出されたそれ。投げられた勢いでごろごろと転がり、少女の傍ら、ぎりぎり視界に入る位置で止まった。

 

「た……すけ……」

 

 男だ。整髪料のついた茶髪、ストライプの制服。末那を脅迫してその身体を弄ぼうとし、逆に弄ばれた男。

 彼は混乱していた。好みの女子高生の弱みを握り、その身体を好きにできるはずだった。なのに気づけば、自分の体はずたずたになっているし、脳の奥では今もなお、「苦しむためだけの苦しみ」が、押しては引く波のようにこだましている。

 

(誰でもいい、誰でもいいから、俺を助けてくれ)

 

 彼は地面を這い、痛む頭で助けを求める。ふと、頭のどこかが、「給湯室にいた自分がなぜアスファルトの上にいるのだろうか」と訝しんだが、今の彼には些末なことだった。

 

『無為転変』

 

 筋繊維は千切れ、関節は破壊され、脳には消えない後遺症を負った男。

 それでもなお、生きようと足掻く男。

 生死だけを言えば、彼は既に死んでいた。

 

「お、ごぁぁあああああ」

 

 グニィ。男の顔が物理的に伸び、人のそれから大きく外れる。

 ぐき、ごきゃ、と湿った音を立てて、男の体が二足歩行のそれから四足歩行のそれに変形していった。

 

「……ぅあ……」

 

 大きな口からうめき声を漏らす。自重を支えきれず、べちゃりと地面に倒れ伏した。

 

(あ……ぅい……)

 

 小指の先ほど残った意識の中、男だったものはその肥大化した瞳で傍らの少女を見上げる。

 暗闇の中、彼の人生で最も心惹かれた少女が、アスファルトに倒れ伏す己を見下ろしていた。

 

 街灯の光に照らされて見えた、端正な顔立ち。ぱっちりとした瞳、艶やかな唇、滑らかな頬、それらの完璧なバランスの中には、年相応の幼さが潜んでおり、それがかえって見る者の支配欲を掻き立てていた。

 

 彼が最も心を惹かれたのはその瞳だ。

 この世に何も期待していない眼差し。しかし、その冷笑的で厭世的な眼差しの奥に、こんな世界など壊してやるという苛烈さを秘めている。

 彼が人間だった頃は、一度も己を映さなかった瞳。

 その瞳が、異形に変貌した今、初めて、己という存在を映していた。

 

「あ…………ぱ……んつ」

 

 薄れる意識の中、彼は少女のスカートの中を覗く。むしゃぶりつきたくなるような太ももの奥に、うっすらと黒い布が見えた。

 脅迫してでも見たかったそれを目に収め、彼は意識を手放す。

 こと切れる直前、彼は確かに幸せだった。

 

(…………へえ)

 

 少女はそれを見ていた。男が人でなくなるという、明らかに人知を超えた光景。そして人でなくなった男が、己を見上げ、満足げにこと切れる瞬間を。

 

(こんなことまで出来るのか)

 

 たった今死んだ男。それはつい先ほど、少女が楽しんだ男。無論それは男女の交わりなどではなく、少女の側からの拷問だったが。脅迫し、拷問され、最期にはとち狂ったゆるキャラみたいになって、意味もなく殺された男。

 少女はその男を、じっと、見つめていた。

 

「あはっ、才能あるよ、君」

 

 真人が嬉しそうに言う。

 彼が言う才能。

 異形に変貌した同僚を、恐怖するでもなく、眉を潜めるでもなく、ただただ興味深そうに見つめることが示す、グロテスクな才能。

 

 人を、弄ぶ才能。

 

「私たちのことについて、少しは知ってもらえたかな」

 

 夏油が言う。

 真人の術式のデモンストレーション。それは確かに、男たちの素性や人格を手っ取り早く示すのに、この上なく適していた。

 

「まあ、少しは」

 

 夏油の問いかけに、少女が答える。

 異形に変貌した男と背後の存在を結び付けて考えられない程に馬鹿だというのでなければ、その胆力は大したものだった。夏油はにやつき、少女のいかれ具合を上方修正する。

 

「お気づきの通り、私たちは悪い奴らだ」

 

 演説するように、夏油は両手を広げた。悪い奴ら、というフレーズで、真人がくすりと笑う。悪いと言われて喜ぶ中学生みたいな態度だったが、実際、彼は相当に悪い奴だった。

 

「誰も、私たちがやったとは認識できない。だから、誰も裁けない。それをいいことに、私たちは何でもやる。文字通り、何でも、だ」

 

 夏油は続けて、

 

「能力の練習のために何の関係もない人間を殺すし、会話をするのに煩わしいと思ったら取り敢えず殺す。何物も、何者も、私たちを縛ることなんて出来ない」

 

 言葉を区切る。一呼吸置くと、夏油は少女の瞳を真正面から見つめ、言った。

 

「君もそうだ、土御門末那。力を得た君を縛るものは、何もない。渇望した自由の味は、さぞ甘露だったことだろう」

 

 少女は夏油を見つめ返し、その言葉に耳を傾けていた。夏油は続けて、

 

「ただ、残念なことに……その自由を、侵害する者たちがいる」

 

 深刻そうな声音で首を横に振る。芝居がかった仕草だが、不思議と絵になる仕草だった。

 

「彼らはなんというか、強迫観念のようなものに駆られていてね。非、術師……いわば、君や私たちが持っているような力を、全く持たない者たちのこと、を、守り、保護し、呪いから隠蔽しようとするんだ」

 

 老朽化のためか、街灯がちかちかと瞬く。夏油は掌を上に向け、少女のことを指し示した。

 

「非術師の保護。それはつまり、君という力ある者から、君の従兄のような者を守るということだ」

 

 少女の顔がぴくりと動いた。夏油はここが少女の琴線と理解し、畳みかける様に言った。

 

「ふざけていると思わないか?我々は力を持つ者だ。強者として産まれた我々が、なぜ弱者たる力なき者たちを顧みなければならない?そんなものは淘汰という進化の法則に反している。自然じゃない。そうだろう?」

 

 言いながら、夏油は少女の反応を見ていた。従兄、というワードに反応していたようだが、それ以外は終始一貫して無表情を貫いていた。

 夏油は再度両手を広げる。その身振りは、少女を自分たちの側に受け入れようとするかのようだった。

 

「私たちと共に来ないか、土御門末那。応用的な力の使い方、彼らから身を守る術、この世界で生きていくノウハウ、全て教えよう。きっとこれまで想像もできなかったような世界が、君を待っているよ」

 

 自身に満ちた笑みで、夏油はそう締めくくった。

 ぴゅう、と真人が口笛を鳴らす。わざわざ三本目の腕を生やし、ぱちぱちと拍手を送った。

 

「…………」

 

 空々しい拍手の中、少女は静かに立っている。真人のように拍手こそ送らないが、その表情は、少女が夏油の演説に不快感や嫌悪感を抱いてはいないことを伝えていた。

 

(……どうだ?)

 

 夏油は少女の反応を待った。その脳は少女に姿を見せた時から、絶えず呪力で覆われている。

 ふと少女が、紅い唇を開いた。

 

「取り敢えず、お試しってことでもいいですか」

 

(釣れた!)

 夏油は内心でほくそ笑んだ。

 

「ああ、勿論。肌に合わないと感じたら、その時点で抜けてもらって構わない」

 

 鷹揚に頷きを返す。その顔は微笑んでいた。

 計画の中途で現れた、思わぬ人材。

 土御門末那。

 その術式、『呪言催眠』

 呪力を乗せた言葉で、人の精神を操る術式。

 この術式があれば、五条悟にさらなる負荷を与えることができる。夏油はそう考えていた。

 

「あの」

 

 拠点に向かおうとした夏油の耳に、少女の声が差し込まれる。彼女は夏油ではなく、背後の存在に対して、口を開いた。

 

「あなた、人間じゃないですよね」

 

 問われた真人は、軽く眉を上げ、口の片側だけに笑みを浮かべた。

 

「うん、俺は呪霊だよ」

 

「呪霊……」

 

 少女は真人の言葉を反芻する。話せるのもいるのか、と、口の中だけで呟いた。

 

「ありがとうございます。それと、逃げたりしないので__

 

 『__離れてもらっても、いいですか?』」

 

 さりげなく差し込まれた『力』。低級の呪いには効かなかったそれが、真人に襲い掛かった。

 

「うん、いいよ」

 

 真人が少女から離れる。彼女の言葉に、素直に従って。その動作は極めて自然だった。

 まるで、青年が電車でお年寄りに席を譲るかのような、あるいは、向かい側から歩いてきた人に道を譲るかのような。そういう滑らかで芝居がかっていない動作で、真人は少女から身を離した。

 そしてそれは見る者に、強烈な違和感を抱かせた、

 

「っ、殺せ!」

 

 異常を認識した夏油が叫ぶ。真人はきょとんとした顔で夏油を見た。

 真人には夏油の慌てようが、まるで理解できなかった。

 

 ふと、するりとした動作で、少女が動く。自らが「離れてください」と言った真人に近づき、その腕に触れた。

 彼女の口元が、怪しげな弧を描く。

 

『自殺しろ』

 

『無為転変』

 

「…………あぇ?」

 

 真人は訝しんだ。

 なぜだ?

 なぜ己の胸に、こんなにも大きな穴が開いているんだ?

 

「ごっ」

 

『無為転変』

『無為転変』

『無為転変』

 

 腕がはじけ、足が崩れ、眼球が破裂する。術式が発動するたび、真人は身体の一部を崩壊させていった。

 

(祓われる!)

 

 真人の異常を認識した瞬間、夏油は走り出した。このままいくと真人は祓われる。それは夏油の計画にとって芳しくないことだった。

 

 少女は真人の腕を掴んでおり、こちらを見てはいない。夏油は少女との距離を詰めながら、計算違いに舌を打った。

 

(なぜ『呪言催眠』が、呪霊である真人に効くんだ!)

 

『離れてもらってもいいですか』

 あの一言で、彼女は確かめたのだ。己の術式が背後の存在に有効かどうかを。

 夏油は眉を潜めた。

 

(彼女は友人に取り憑いた呪霊を祓わなかった。ならば土御門阿頼耶は既に彼女の傀儡か?特定の状況下で望む行動をするように、あらかじめプログラムしていた?腐っても土御門。術式を自覚して数か月の少女に、そんな簡単に操られるか?)

 

「っ、」

 

 ぐりん、と少女が夏油を見た。瞬間、攻撃を予感し、脳に呪力を集中させる。

 

『死ね』

 

 少女の術式が、夏油の脳を叩いた。

 

「……ぐっ」

 

 呪力で防御してなお、がつんと響く衝撃に、夏油は呻く。同時に疑問の答えを得た。

 

(この強度、天与呪縛か!)

 

 夏油は少女との距離を詰める。意識が他のことに割かれたためか、真人の崩壊は止まっていた。

 拳を握る夏油。少女がもう一度呪言を飛ばす。脳が揺れたが、夏油は足を止めなかった。

 

(あ、まずいかも)

 

 少女は足を止めない夏油を見て、そう思った。

『力』が呪霊に有効。そう分かった時には行動していたが、いささか軽率が過ぎたかもしれない。

 

(死にたくない)

 

 少女の思考。咄嗟に、彼女は両腕を体の前で交差させた。夏油の打撃を防ぐためだった。

 

「ぅぐ」

 

 少女の口から、苦しそうな声が漏れる。夏油は直前で打撃をキャンセルし、蹴りに切り替えていた。

 夏油のつま先が、少女の腹にねじ込まれる。成人男性の体重と走りの勢いが乗った蹴りは、少女をボールのように吹き飛ばした。

 

「ぁうっ」

 

 飛んだ先のアスファルトでバウンドし、少女が喘ぐ。一度のバウンドでは勢いは止まらず、民家の塀にぶち当たった。

 

 どちゃ、と地面に落ちる少女。その身体はピクリとも動かなかった。

 

「やれやれ」

 

 純粋な暴力で少女を無力化した夏油が、額の汗をぬぐう。乾いていたが、気分の問題だった。

 

「さて、どうしようか」

 

 頭を切り、傷口から血を流す少女。彼女から視線を切り、真人に目を向ける。眼球はぽっかりと空洞になり、四肢のほうも、残っているのは少女が掴んでいた左腕だけだった。

 

「大丈夫かい、真人」

 

 白々しく問う。同時に、この程度では無条件の取り込みは不可能だと結論した。

 

「だい、じょうぶに、見えるか」

 

 息も絶え絶えに答える真人。その間も彼の体は徐々に修復され、眼球、腕、足の順番で、その機能を取り戻していった。

 

「ぐ、う」

 

 修復が完了する。外見だけは元の姿に戻ると、真人は調子を確かめる様に首を鳴らした。

 

「どれくらいやられた」

 

 夏油が問う。

 

「……ざっと3割ってとこかな」

 

 首を回し、真人が答えた。その表情は苦々しくゆがんでいる。

 たった数秒だ。たった数秒警戒を解いただけで、3割ものHPが削られた。

 

(ふざけやがって)

 

 真人は己の魂を明確に害した少女に舌打ちをした。

 

「そんなにか。いやはや、とんだじゃじゃ馬娘だったね」

 

 言い、夏油は街灯に照らされた少女に目を向ける。頭から血を流し、ぐったりと倒れ伏す少女。真人の魂に攻撃を届かせた少女は、たった一度の蹴りで、すでに生死の境をさまよっていた。

 

(呪力を身に纏えないことが幸いしたか)

 

 夏油は少女のフィジカルの弱さに感謝した。

 

「イレギュラー、ってことで、いいんだよな?」

 

 真人が少女を顎で示し、問う。その目は鋭く光り、冗談やおふざけを許さない雰囲気を醸し出していた。

 

「ああ、勿論、イレギュラーだとも」

 

 一言一言を噛み締めるように、夏油が言う。そうかっかするなよと宥めるようだった。

 真人はそんな夏油の態度を鼻で笑う。気に食わないが、ここで追及はしない。この協力者が怪しいのは、今に始まったことではなかった。

 

「天与呪縛、だよな?」

 

 夏油から少女に視線を移し、真人が言う。疑問形になったのは、視線の先にいる少女のような例を、彼がこれまで見たことがなかったためだ。

 

「ああ、そうだろうね」

 

 真人の問いに、夏油は肯定を返す。そのまま少女の天与呪縛について語り始めた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。呪力と術式を捨て去って身体能力が強化されるフィジカルギフテッドとは、正反対の呪縛だね」

 

 続けて、

 

「彼女の術式、『呪言催眠』は、本来は呪力の弱い、非術師のような存在にしか効果がないはずなんだ。けれども呪縛により術式の格が底上げされたことで、術師だけじゃなく、君のような呪霊にまで効力が及ぶようになっている。呪力の流れが非術師のそれなのは、新しい家の住人から自身が術師であることを隠すためだと思っていたが、呪縛によるものだったとは。いやいや、見事に騙されたね。まあ、当の本人には、隠蔽しているという意識はなかっただろうけれど」

 

 夏油はにやにやと笑いながら、動かない少女を見つめた。

 

「術師、非術師に関係なく操ることができる上、呪霊の場合は、()()()()()()()()()()、その効力を発揮する。確かな自意識を、より人間に近い自我を持つ者ほど、彼女の餌食になりやすいからね。まあいわば、精神と呼べるもの全てを操ることができる術式。そんな術式は『呪言催眠』なんかじゃなく」

 

 そこで言葉を区切る。続く言葉を、彼は歌う様に言った。

 

「『精神操術』、そう呼んだ方が的確だろうね」

 

 

 *

 

 

「『精神操術』……」

 

 真人はその言葉を反芻した。

 夏油が持つ『呪霊操術』。高専内に用意した内通者のそれは、『傀儡操術』。どちらも強力な術式だ。

 ノーリスクで対象を操る術式に付けられる名が『操術』ならば、あらゆる種類の精神を言葉だけで操ることができるそれは、確かにその名に相応しい。真人はそう思った。

 

「どうしよう、果てしなく有能だね、彼女」

 

 ここに来てようやく明らかになった、少女の真骨頂。それは五条悟の封印において、多くの便益をもたらすであろうことは、真人にも理解できた。

 

(俺がもう一人いるようなものか)

 

 ふと頭に浮かんだ思考。真人はその思考をやや修正する。

 魂に触れることで、人間の肉体を変形させる真人とは異なり、少女の術式は肉体の変化を伴わない。真人の術式によって異形へと変貌させられた人間は、一目でそれと分かるし、一目でもう殺すしかないと分かる。

 しかし、少女の術式で精神を壊された者は、その外見に変化がない。そのため、傍目からはその者が治療により回復可能かどうかの判断が付きづらかった。

 

(これは……使えるな)

 

 例えば、五条悟の周囲を非術師で固め、こちらが領域展延を駆使して攻める際、ランダムに非術師に彼を襲わせる。五条悟は自身の力で非術師を殺めることを許容できないため、人間の姿をした彼らをすり潰すことができない。無下限の壁はあるが、選択を迷わせ、動きを制限するくらいの効果は見込めるだろう。

 

(でも……)

 

 真人は倒れ伏す少女を眺める。スカートがめくれ上がり、大腿部が大きく露出しているが、性欲のない真人は特に何も感じなかった。

 

(そもそも、作戦に参加しなさそうなんだよなあ)

 

 先ほどのやり取り。少女は自身の術式が呪霊に有効と見るや、即座に真人を殺しにかかった。呪言が『死ね』ではなく『自殺しろ』だったのは、彼女の中で呪霊が死ぬというイメージが明確でなかったためだろう。似たような術式を持つ者として、真人にはそれがよく分かった。

 

(脅せばいいか?ばばあを殺すとかで)

 

 少女の首輪となりそうな老婆を、脳内で思い描く。

 しかし。

 

(土御門、か)

 

 その名前が、真人に人質を躊躇させた。

 夏油から聞かされた、土御門の意味と意義。そしてその開祖である、安倍晴明。

 知的生命体は、土御門を敵に回すべきではない。

 夏油は説明の後、悔しさも苦々しさも浮かべず、ただの事実を共有するように、そう言った。

 

(「無下限呪術のない五条悟」も、近くにいるしなあ)

 

 真人は「面倒なことになりそうだ」と嘆息した。

 接触した少女は有用だ。

 しかし同時に、触れれば爆発する弾頭のようでもある。

 漏瑚や花御と常にいれば、少女が牙を剥いたとしても、誰かが彼女を殺すだろう。

 けれどもその過程で、こちら側の呪霊が一人でも祓われたとすれば、大損以外の何ものでもなかった。

 

(わざわざ取るべきリスクじゃない)

 

 真人は少女をこちらに引き入れることについて、そう結論付けた。

 

「『精神操術』は有用だけど、わざわざ引き入れる必要はないよね」

 

 唇を撫で、真人は言った。夏油は顎に手を当てて考える素振りを見せ、口を開く。

 

「ふむ、そうだね。術式は破格の性能だが、いかんせん我が強すぎて制御できなさそうだ。作戦には使えないだろうね」

 

 首を横に振った。

 

「殺して良いか?」

 

 真人が言う。

 夏油は意外なものを見たという顔で傍らの真人を見た。先の言葉を放った真人は明らかに苛立ち、そしてそれを隠そうともしていなかった。

 夏油はそんな真人に対し肩をすくめる。好きにしろ。その態度はそう告げていた。

 

「んじゃ」

 

 真人が少女に近づく。

 少女は今だ地面に倒れ伏していた。頭部から流れ出る血がアスファルトに広がり、制服を汚す。襟の部分が赤く染まっていた。

 

(殺す)

 

 真人の手が、少女の肩に触れる。柔らかな感触が真人の手に伝わるが、それは彼の殺意を止められる類のものではなかった。

 その様子をにやついた顔で眺めていた夏油が、ふと上を見る。微かな違和感。その感覚がはっきりと形をとる直前、

 

 バシュン、という音が響いた。

 

「っ!?」

 

 夏油と真人、両名が空を振り仰ぐ。驚愕により、真人は術式をキャンセルしていた。

 

「馬鹿な、帳が、あがった……?」

 

 夏油は瞬時に最悪の事態を想定し、身構えた。

 最悪の事態。

 それは、今この場に五条悟が到着すること。

 

「……っ、いや、違う。五条悟ではない」

 

 僅かな情報から、夏油はそう結論付けた。

 帳が破られる直前、彼は空を見上げ、その一部始終を見ていた。帳は彼が見る前で、その大部分をごっそりと消し飛ばされ、崩壊させられていた。

 仮にこれが五条悟だったら、このような壊れ方はしない。無下限呪術ですり潰されるか、単純に解析されて破られる。

 そのどちらでもない、この壊れ方は。

 ()()()()()()()()によるものだった。

 

「逃げるぞ」

 

 最悪は免れた。しかしそれは事態が好ましいものであることを意味しない。

 なぜなら今の状況は、五条悟程ではないにしろ、帳をたった一度の打撃で崩壊せしめる実力を持った術師が、この場に現着したということなのだから。

 

(到着が速すぎる……偶然か?)

 

 夏油はなぜこれ程速く術師が現着できたのか訝しんだ。高専の内通者に今日のことは伝えていない。協力している呪霊たちが裏切る動機はない。よって彼は偶々術師が近くにいたのだろうと推測した。

 夏油は残穢を残せない。真人はHPが削られている。イレギュラーに重なったイレギュラー。あまりにも不確定の要素が多い。そのため夏油は臆病ともとれる“逃げ”を選択した。

 

「まじかー」

 

 夏油の指示に、真人が不満を露わにする。到着した術師のレベルは分からないが、その者が単独ならば、確実に自分一人で殺せる。少女の力量が少しイレギュラーだったからといって、この闖入者もそうであるとは限らない。

 

(ビビり過ぎだろ)

 

 真人は心の中で夏油を嘲笑した。彼の姿は既に消えており、この場には真人と少女だけが残されていた。

 

(土御門末那。お前はここで確実に殺しておくよ)

 

 真人の手が少女に近づいていく。ふと、より辱めてやろうという気になり、その大腿部を掴み取った。

 

(足と腕、その後に顔だ。目も当てられないほど醜悪にしてやるよ)

 

 嗜虐的に嗤う真人。呪力も身に纏えない小娘に魂を傷つけられ、かなり頭にキていた。

 

(虎杖はこいつを見るかな?目立つとこに置いときゃ、誰かがSNSに晒すか。高専は俺との関係を容易に導くだろう。ああ、あいつにだけ分かるようなメッセージを刻むのも……)

 

 少女の太ももを掴み、真人はアイデアを巡らせる。どんな愉快なオブジェにしてやろうかと考えていると、徐々にインスピレーションが湧いてきた。

 

(顔面は原型を残し、こいつだと分かるようにしておこう。ああ、そういえばこいつは男嫌いなんだっけ。じゃあ基本のモチーフは男性器にして、それを体の随所に配置する形で……)

 

 悪魔的なアイデアが閃き、真人は笑みを深める。アウトラインが完成したため、後は作りながら微調整を加えていこうと決め、術式を起動する。

 

『無為転変』

 

 ぱき、という軽い音が、真人の耳に聞こえた。

 それが、真人の体内で鳴っているものであり。

 かつ、己の頭蓋が割れる音であることに、彼は気が付けなかった。

 

「ごっ、ぁあ!!」

 

 真人の体が、思いきりアスファルトに叩きつけられた。あまりの衝撃により、反作用で体がバウンドし、しばし宙に浮く。

 奇妙な浮遊感の中、真人は今の一撃で、魂の形ごと叩かれたことを認識した。

 

(い、たどり、悠仁かっ!)

 

 真人は闖入者の正体をそう結論する。

 己を魂ごと叩くことができる存在を、真人は虎杖悠仁以外に知らなかった。

 体勢を立て直さなければならない。彼は片方の腕を闖入者に対し振り向けた。虎杖に掌は使えないが、牽制にはなるだろう。そう思っての行動。

 しかし。

 

(は?)

 

 その瞬間、真人は完全に自失した。

 

(腕が、ない)

 

 真人の腕。少女の足を掴んでいた腕が、肘から千切れている。同時に、その分の魂が傷つけられていることを、遅れて認識した。

 

(虎杖悠仁じゃ、ない?)

 

 一瞬だ。たった一瞬で、腕を失い、額に重い一撃を喰らった。そのことが真人に、とある疑問を惹起させる。

 虎杖悠仁とは、こんなにも強かったか?

 

(あ、)

 

 バウンドし、宙を舞い、自由の利かない体。かすむ視界の中、真人はその男を見た。

 拳を握り、両目に激情を漲らせた男。

 

(土御門、あらや……)

 

 どちゃ、と湿った音が住宅地に木霊する。振り抜かれた拳が真人の顔面を正確に捉え、その頭蓋をアスファルトの上で爆散させた。

 

 

 



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『術式反転・他我』

 飛び散った脳漿。拳を引き上げるとねちゃりと何かの液体が糸を引いた。

 頭部を失い動かなくなった呪霊。生々しいそれから視線を切り、背後を振り返る。

 

「血が……」

 

 塀の陰で倒れ伏す末那。意識はなく、頭部の傷口からは今も血が流れ出ている。流れた血を吸い取り、シャツが赤く染まっていた。

 

『術式反転・他我』

 

 即座に術式を起動する。瞬間、情報が脳に溢れ出す。反転した術式が、目の前の末那についての情報を、俺の脳に洪水の如く流し込んできた。

 渦巻く情報を観察し、選り分け、まとめあげる。術式が作り出す流れの中で、俺は末那の状態について判断を下していった。

 

 傷口:左側頭部。頭蓋未到達。

 出血:継続。

 出血量:体重の1%未満。

 脳の損傷:なし。

 呼吸・脈拍:頻度減小。

 体温:35.8℃。

 状態:脳震盪。

 一時間以内に死亡する確率:低

 

「……ぶはっ!」

 

 術式から帰還する。ぐらぐらと揺れる頭を押さえ、俺は通報のために携帯端末を取り出した。

 

 術式反転・他我。範囲内の情報を取得する。対象を定め、その対象の情報のみを取得することも可能。最大効果範囲はおよそ1km。範囲を狭めるほど詳しい情報を取得することができ、最小効果範囲においては分子レベルの認識が可能。

 ただし、この術式は情報を持ってきてくれるだけ。脳にぶち込まれた情報を意味のある形にするには、俺自身が術式が送り込む生の情報を自前の脳で解釈しなければならなかった。

 

「はい、場所は……」

 

 人探しやもの探しならば、解釈の必要はそれほどない。ぶち込まれた情報から、ウォーリーを探せをするだけだ。問題は人間などの複雑な仕組みを認識し、その状態が示す意味を把握しようとする場合。雑多かつ膨大な情報は勿論インデクシングなんてされていないため、自分でパターンをつかみ取りデータの意味を読み取るしかない。それはランダムな数字の列から法則や公理を読み取ろうとする行為に似ており、俺の脳に負荷を与えた。

 

「はい、お願いします」

 

 通話を切る。思わず、深くため息を吐いた。頭から出血している末那を見た時はひどく狼狽したが、取り敢えず最悪の事態だけは免れた。俺は安堵し、携帯端末を服の中にしまった。

 

「……!」

 

 悪寒。第六感が告げたそれに逆らわず、横たわる末那を抱きかかえる。横に飛ぶと、凄まじい風圧が頬を叩いた。

 ばきゃあ!と塀が崩れ落ちる。俺の耳に、ひゅんっ、ひゅんっ、と空気を切り裂く音が届いた。

 鞭だ。鋼鉄の如き鞭が、俺と末那を襲い、延長線上にあったコンクリの塀を切り裂いたのだ。俺は末那を抱いたまま、攻撃してきた者を睨む。腕の中の少女を強く引き寄せた。

 

「あ~、ほんと。嫌になっちゃうよな~」

 

 暗闇の中、皮肉気な声が聞こえてくる。ずりゅり、と鞭が動き、掃除機のコードみたいに引き戻されていった。

 視線の先で、俺が脳漿をぶちまけさせたつぎはぎ顔の呪霊が、悪意に満ちた目で俺を睨んでいる。その頭部は完全に再生されていた。

 

「女がぶっ壊れだと思えば、駆け付けた人間もぶっ壊れかよ。インフレか?ゲームバランス狂ってるよ」

 

 呪霊が苛立ったように言う。

 はっきりとコミュニケーションの取れる呪霊。

 間違いなく、特級に分類される呪霊だった。

 

(……くそっ、馬鹿か、俺は)

 

 呪霊の襲撃。可能性の一つとして予期していた事態。しかし目の前の状況は俺の想定をはるかに上回っている。

 

 特級呪霊。一級のその先に位置付けられた呪いの中の呪い。

 

 直近で相対したのは五条さんに連れられた【なまはげ】。あの時は実際に戦っていないのに呪霊が発するプレッシャーだけで大いに精神をすり減らされた。

 あれと同じ、特級に分類される呪霊が俺を敵とみなし、殺意のこもった眼で睨んでいる。呪霊は軽薄そうな笑みを浮かべてはいるが、その腹の中では闖入者たる俺に対しブチ切れていることが容易に分かった。

 

(俺も同じだよ)

 

 抱きかかえた末那。その左足の付け根には、青黒い筋のような跡が残っている。強く握られたことによる、内出血の跡。目の前の呪霊が付けた跡だ。こいつはまるで物を扱うかのように末那の足を掴んでいた。だから初撃をぶちかます前にその腕を千切ってやったのだ。

 

 怒り、不快、嫌悪。沸き上がった感情に身を浸す。呪霊が末那に何をしようとしていたのかは分からないが、碌でもないことなのは確実だろう。俺は冷静でいるように努めつつ、沸き上がった怒りを呪力にくべた。腹の奥底に溜まった負の感情が呪力となって俺の全身を浸していく。

 

「土御門阿頼耶。無下限呪術のない五条悟。義理の妹のために馳せ参じたってか?かっこいいねえ」

 

 呪霊が言う。唇を歪め、憎々し気な表情だった。俺は眉を潜める。

 

 呪霊の態度が不快だったから。ではなく。

 呪霊が俺と末那を知っていることが不可解だったから。でもなく。

 

(無下限呪術のない五条悟ってなに!?どゆこと!?)

 

 呪霊の放った言葉が純粋に衝撃的だったから、だ。

 

「無視かよ。お前ら土御門ってのは人の話を聞かないやつらの一族なのか?」

 

 苛立ったような呪霊。放たれるプレッシャーが増す。しかし俺の脳内は先ほどの衝撃的な発言の方でいっぱいいっぱいだった。

 無下限呪術のない五条悟。この呪霊は確かにそう言った。聞き間違いではない。と、思う。ちょっと待てよ。俺は臨戦態勢のまま頭の中を整理する。

 

 俺はこの呪霊とは初対面のはずだ。こんなびっくり人間みたいなやつがいたら確実に覚えている。土御門、という単語が珍しい姓ではなく、一族の名前であると認識できているということは、何らかの呪詛師とつながっているということだろう。ソロの呪霊なら土御門をそれと認識することはできない。

 

 呪詛師とつながりのある呪霊。

 その呪霊が俺を認識して、無下限呪術のない五条悟と言った。

 ということは。

 

(え、俺って呪詛師界隈でそんなふうに呼ばれてんの?やっだはずかしっ!)

 

 俺にとってとても恥ずかしいことが起こっていることを意味していた。

 やだ。いやだ。その呼ばれ方は非常にいやだ。誠に遺憾。まじ遺憾。よりによって五条さんと比べられて、その下位互換的に呼ばれるとか。いやまあ、俺が彼の下位互換なのはその通りだし、なんなら日本にいる全ての術師は彼の下位互換なんだけれども。それでも、その呼ばれ方は釈然としない。すごくしない。

 だってなんかその呼ばれ方…………『術式以外は五条悟並の強さ』みたいに、勘違いされそうじゃん?

 術式なしで五条さんと戦ったら、俺は死ぬ。呪力だけの戦闘でも、あの人は馬鹿みたいに強い。だからその勘違いされそうな呼び方はやめて、俺のことは『呪力の籠った路傍の石』程度の認識でいてくれないだろうか。

 

「スカウトに来といてなんだけど、お前らって別にいてもいなくてもいいんだよね」

 

 呪霊が何かを吐き出した。枝のようなものだ。どこか不吉な雰囲気のそれを睨みながら、俺は末那を抱く腕に力を込めた。

 

「だから、死ねよ」

 

 肉の弾丸。瞬き一つの間に、視界がぶよぶよした肉で埋め尽くされた。

 

「しっ」

 

 民家の上に飛び乗り、肉の壁を回避する。動きを予見されたのか、着地と同時に鞭が飛んできた。

 

『術式反転・他我』

 

 効果範囲:10m

 対象:空間内の物体全て

 髪の毛がはらりと落ちる。迫りくる鞭を、紙一重で回避していた。

 

『多重魂』

 

 呪力が高まる気配。肉の壁で呪霊の姿は見えない。しかし術式が脳に叩き込む情報の中から、呪霊が枝のようなものを混ぜ合わせているのが分かった。

 

『撥体』

 

 質量にものをいわせた、面での攻撃。

 特級らしい理不尽な攻撃だ。

 しかし。

 

「ふっ」

 

『他我』の指定範囲、俺を中心とした半径10m。

 俺を中心とした、ということは。

 当然、俺自身も、その中に含まれる。

 迫る肉の壁。下にいる呪霊から上にいる俺に向けて放たれたそれに対し、俺は足を突き出した。

 そっと。

 階段を降りるかのように。

 

「は?」

 

 俺の体が宙を舞う。急速に離れていく呪霊との距離。つぎはぎ顔の呆気にとられた表情を眺めながら、俺は『他我』の有効範囲を500mに拡張した。

 

 呪霊が放った高速の肉の弾丸。点というよりは面でのそれに、俺はタイミングを合わせて足をかけ、()()()。『他我』による肉体の把握がなければ不可能な芸当。結果として、俺は末那を抱えながら、呪霊との戦闘から高速で離脱していた。

 

「っと」

 

 途中、電柱や民家の縁を使い、角度を調整する。着地時の末那に与える衝撃を、少しでも弱めるために。

 地面が近づいて来る。足を突き出すように前に出すと、浅い角度で地面と触れ、アスファルトの上を滑った。

 背後を振り返る。『他我』が送る情報通り、誰もいない歩道が続いていた。

 呪霊は逃走する俺と末那を追わなかった。旨みがないと感じたのか、それとも単に興が削がれたのか。どちらにせよ末那を抱えた状態であの呪霊を祓うことは不可能なので、俺は追撃がないことに一先ず安堵した。

 

「末那……」

 

 腕の中の少女を見る。今だ意識はなく、その両目は閉じられている。美しい髪が血に染まり、湿った毛先がその頬に張り付いていた。

 遠くから、救急車のサイレンが聞こえてくる。俺は音のする方向に向けて歩き出した。

 

 

 *

 

 

「有り得ない」

 

 真人は遠ざかる男を見つめ、胸中に生じた思いを吐露した。

 

『多重魂・撥体』

 複数の魂を混ぜ合わせ、その拒絶反応によって生じた勢いを使い、肉の壁を射出する技。点ではなく面での攻撃であるところや、射出の方向が直前まで読めない性質等を持つ、『無為転変』を極めた先の、いわば真人の奥義とも呼べるもの。

 その奥義を、現在空中を舞い真人から遠ざかっていく男は、回避するでもなく、迎撃するでもなく、自身と自身の抱えた少女が加速するために、利用した。

 真人はその瞬間を思い返す。

 男の視界外から、撥体が迫りくる。角度的には確実に見えていないはず。しかし男はまるで知っていたかのように、ふいと足を振り出した。

 そして男は、そう、まるで。

 

 エスカレーターに乗るかのような気楽さで、迫りくる肉の壁に乗った。

 遠ざかっていく男と少女。真人には彼らを追撃する意欲はなかった。

 

(ふざけやがって)

 

 仮にここで追撃し、追いついたとしよう。執拗に攻撃を繰り返せば、二人の片割れ、末那を殺すことはできるかもしれない。しかし、末那を殺したその後、怒り狂う阿頼耶を正面から相手にし、確実に勝てるという自信が、真人にはなかった。

 

「無下限呪術のない五条悟、か」

 

 真人はその呼び名が眉唾ではないことを、深い実感と共に理解した。

 同時に、彼は己の中の殺意が確固たるものに変容していくのを感じていた。その殺意の確かさは、彼が虎杖悠仁に対して抱くものに匹敵するほどであった。

 

「土御門兄妹、お前らはいつか殺す」

 

 誰もいない住宅地。暗闇に包まれた場所で、誰にともなく、真人は宣言する。今日接触した、今代の土御門一族。彼らは己が必ず殺す、と。

 首を鳴らし、体の調子を確かめる。削られた魂は、裏切った内通者を処分しに行くまでには回復する。自身の消耗度合いを確かめると、真人は仲間が待つ拠点へと歩き始めた。

 

 月の光が、その姿を青白く映し出している。しかし、その姿を見ることができる者は、今この場にはいなかった。

 あいつ、領域使えんのかな。つかそもそも術式はなんだよ。真人はふと浮かんだ思考を巡らせながら、彼らとの次の戦闘のことを思った。

 

 

 *

 

 

 爽やかな風が頬を撫でた。

 青々とした草の絨毯が、地平線の果てまで広がっている。

 

 「ここは……」

 

 呟き、辺りを見回す。見渡す限り草原が続いているだけで、それ以外、建物も、動物も、何も、ここにはなかった。

 

 「あれ?」

 

 ふと、それに気が付く。見渡す限りの草原。清涼とした空気の流れるその世界に、私が入っていないということに。

 

 「境界……?」

 

 足元を見る。草原は丁度、私の足元で終わっていた。私が足を立たせている場所には、草が一本も生えていない。首を回して後ろを見ると、私が立つ側は、土くれだらけの荒野だった。

 

 「どこだろう、ここ……」

 

 草原と荒野。対照的な二つの世界は、定規で線を引いたようにきっちりと分けられている。その境界ははるか彼方まで続いていた。

 ここがどこなのか。分からないが、何となく、じっとしていたくなかった。歩いていれば何か分かるかもしれない。取り敢えず辺りを散策しようと決め、歩き出す。

 足を上げ、振り降ろす。荒野の居心地が悪かったため、草原の方に入ろうと、二つの世界の境界をまたいだ。

 

 「え?」

 

 私は目を見開いた。草原の世界に踏み入れようと足を上げ、草のカーペットと足の裏が接触した、瞬間。

 私の足は荒野を踏みしめていた。

 

 「なにこれ」

 

 私は足を振り上げ、再度草原に踏み入れる。しかし足の裏が草に触れた瞬間、私は草原の一歩手前で、荒野の世界を踏みしめていた。

 何度境界をまたごうとしても、同じ結果になるだけ。私は草原の世界に足を踏み入れることができなかった。

 

 「まだ無理だよ」

 

 ふと、声が聞こえた。少女の声だ。私は声のした方向を見る。草原の世界から聞こえていた。

 

 「君は善?それとも悪?」

 

 声が言う。童女のような響きだった。

 

 「どういう……」

 

 私はその質問の趣旨がわからなかった。

 善か、悪か。それは当人が決められることではない。私が善だと思って行動しても、悪だと思って行動しても、その行動の意味や意義が変わるわけではない。私は私の思うままに生きるだけであり、そこに、私は善だからこうしよう、とか、悪だからこうしよう、みたいな指針は、存在しなかった。

 

 声は私の無理解を見てとったのか、質問を変えた。

 

 「じゃあ、こうしよう。君は被害者?それとも加害者?」

 

 「え」

 

 その質問は、完全に意識外からの一撃だった。私は質問に動揺している自分がいることに気が付き、唇を噛んだ。

 

 「加害者、被害者、どっちかな?」

 

 声が言う。童女のような響きは変わらないが、真剣そうな響きが加わっていた。

 

 「加害者か、被害者か……」

 

 私は呟く。その二択は、妙に私の心をざわつかせた。

 

 「それを決めたら、この世界も変わるよ」

 

 声は言う。この声の主は、この世界の何を知っているのだろうかと私は思う。

 確信的に言葉を投げつける声の主。姿の見えないその存在の正体は、一体誰なのか。ふと私は、草原の世界で、次々と土がめくれあがっていることに気が付いた。

 同時に背後で、地面が割れる音が聞こえる。世界が、崩壊しかかっていた。

 

 「荒野か、草原か。加害者か、被害者か、悪か善か」

 

 薄れていく世界の輪郭。同時に私の意識も攪拌されていく。

 けれども草原から聞こえる声だけは、はっきりと耳に届いた。

 

 「決めるのは君だ」

 

 世界が崩れる。意識が浮上する。

 ほどけていく世界の中、ふと、誰かに呼ばれたような気がした。

 

 

 

 *

 

 

 目が覚めた。

 病院の匂いだ。つんとくる匂いと、機械のような冷たい匂いが混ざり合った、独特の匂い。頭を動かすと、ごわごわとした感触が返ってきた。

 

(あれ……?)

 

 目覚めた瞬間の体勢のまま、ぼんやりと宙を見つめる。何か夢を見ていたような気がするが、不思議と内容を思い出すことはできなかった。

 

(手……動く……足……動く)

 

 もぞもぞと手足を動かし、伝わる感触と意識を繋げるようにして、感覚を確かめていく。

 ふと、急激な喉の渇きを覚えた。

 

「えほっ、げほっ」

 

 唾液を飲み込もうとして失敗し、盛大にむせる。そもそも口の中が乾ききっていた。

 

(誰か来るのを待つか……)

 

 ぼんやりとした頭で、そう考える。

 ふと、自分で人を呼べばいいのではないかと思い至った。

 私はのろのろとした動作で布団をはがすと、手首を確認する。左腕に点滴の管が入っているが、右腕には何もなかった。

 感覚的には起き上がれそうなのだが、下手に動くのが怖かったため、私は目覚めた時の体勢のまま、枕元を右手で探る。幾ばくも無いうちにナースコールを見つけた。

 弱弱しい力でそれを押し込む。特に音は鳴らなかった。

 

「…………ふぁ」

 

 そうして人を待っていると、ふと欠伸が漏れた。同時に、今は何時だろうと思い、時計を探す。

 

「あ」

 

 病室内に視線を巡らせると、一人の男がいることに気が付いた。それまでは暗くて気が付かなかったが、パイプ椅子に座り、うなだれるようにして眠っている。

 暗闇に目が慣れてくるにつれ、その人物の輪郭がはっきりしてきた。

 阿頼耶だ。

 阿頼耶が、病室の隅で、椅子に座って眠っていた。

 かしゃん、と、病室の扉が開かれる音がした。次いで、ぱたぱたと足音が聞こえてくる。視線の先で、阿頼耶がびくりと身を跳ねさせ、目を覚ましたのが分かった。

 

「末那さん、意識ははっきりしていますか。この指が見えますか」

 

 看護師の女性が語りかけてくる。私はそれらに頷きを返す。立ち上がった阿頼耶が、そんな私をじっと見つめていた。

 

 

 *

 

 

「ええ、はい、自在に形を変え、鋭利な鞭のようなもので……」

 

 病院の外。清潔感をイメージさせる外壁に背を預ける。信号機が鳴らすピヨピヨ音が、どこか遠くから聞こえてきた。

 

『つぎはぎ顔で、人型の呪霊……真人と呼ばれる特級呪霊ですね』

 

「まひと……」

 

 伊地知さんが言った単語を反芻する。つぎはぎ顔の呪霊の名は、まひと。まひと、ま、ひと。

 真人、か。

 

『術式の名は無為転変。人間の魂に触れ、その形を操ることで、肉体を変形させます。阿頼耶くんが見た、枝のようなものは……』

 

 伊地知さんは言い淀む。俺は眉を潜めた。枝のようなもの。人間の魂を操り、肉体を変形させる術式。そして、肉の弾丸。それらから導かれる事実。

 あの枝のようなものは。

 

「……ストックした人間、てことですか」

 

『……はい』

 

 伊地知さんが肯定する。苦々しい声音だった。

 

(胸糞悪い)

 

 後味の悪さが広がる。俺が回避し、逃走のために足蹴にした肉の壁。あれらはみんな、元人間だったということか。

 

(すみません)

 

 両目を閉じ、黙祷を捧げる。呪霊に弄ばれ、最後は俺に足蹴にされた人たちへの、せめてもの弔いだった。

 

『彼と接敵し、逃走できたことは幸いでした。末那さんの容体は……』

 

「頭の手術が終わって、先ほど目を覚ましました。直ぐにまた眠りましたけど、命に別状はありません」

 

『よかった……』

 

 ほっとしたように、伊地知さんは言う。

 俺だけではなく、非術師である末那まで巻き込んでしまったことに、責任を感じているようだった。

 

「呪霊、真人は、俺と末那のことを知っていました」

 

 そこで止め、続く言葉を、声を潜めて言った。

 

「情報が、洩れているのでしょうか」

 

 真人は言った。『義理の妹のために馳せ参じたってか?』

 加えてこうも言っていた。『お前ら土御門ってのは、人の話を聞かないやつらの一族なのか?』

 

『……誠意のない言葉だと思います。けれども、すみません』

 

 言えない。

 伊地知さんは、苦しそうにそう言った。

 

「……いえ、気にしないでください」

 

 伊地知さんに対しそうは言ったが、俺の唇は強く噛み締められていた。

 呪霊は確実に俺と末那を個人として認識し、襲い掛かってきた。辻斬り的な、突発的な襲撃ではない。それは帳が降ろされていたことからも明らかだ。

 加えて、土御門は単に珍しい姓名ではないということすら、あの呪霊は知っていた。

 それらが示す事実。

 呪術界の上層部に、呪霊か呪詛師と通じている者がいる。

 土御門の意味。それを知る者は少ない。安倍晴明が全人類にかけた呪いを、克服できた者たち。彼らのみが、土御門を名乗ることを許される。そしてそのことを認識するためには、土御門を名乗ることを許された者から、直接、あるいは間接に聞かなければならない。そこで許されるのは又聞きの又聞きまで。

 御三家と呼ばれる術師の重鎮ほど、土御門を知る確率は高まる。

 あるいは。

 俺はもう一つの可能性を思い描く。

 

 俺が高専に協力していることを疎ましく思う者が、当てつけのために末那を狙った。

 

 苦々しい思いが胸を満たした。末那が襲われた原因は俺であり、土御門に引き取られたこと。ならばかつて彼女を苦しめた地獄は、今や命の危機すらもたらす、別の地獄に変わったということか。

 

『お気をつけて』

 

 伊地知さんはそう言うと、通話を切った。何も聞こえなくなった携帯端末。耳に当てていたそれを持ったまま、俺はだらりと腕を下げた。

 かつん、端末と壁がぶつかり、音を立てる。車のライトが項垂れる俺を照らした。

 巻き込んではいけないと、思っていた。

 そう思っていたのに、末那は今回、呪霊に襲われ、殺されかけた。

 

 どれほど怖かっただろうか。

 

 頭の裂傷だけではなく、肋骨には罅まで入っていた。恐らく、あの呪霊に吹き飛ばされた時に負ったものだろう。

 

 加えて、頭部の裂傷は確実に跡が残るらしい。見えにくい場所とはいえ、末那の体には消えない傷が残ってしまった。

 

「くそっ!」

 

 壁を叩く。ばき、と端末から嫌な音が聞こえた。

 残ってしまった、じゃねえだろ。てめえのせいだろ、なあ、土御門阿頼耶。

 お前が、どっちつかずの態度でいたから、だから末那を呪いから引き離すこともできず、彼女を守り切ることもできなかったんだろうが。

 呪力が沸き立つ。自分自身への怒りによって燃え上がった呪力は、めらめらと俺の身を焼いた。

 

 冷たい風が頬を撫でる。夏の終わりと、秋の訪れが近づいている。

 

 誰もいない病院の裏。時折通り過ぎる車のライトに照らされて、アスファルトの隙間から生えた小さな花が、俺の目に映った。

 

 力を抜き、沸き上がった呪力を霧散させる。青白いそれは燐光をまき散らし、ほどけて、消えた。

 

 

 *

 

 

「経過は良好です。意識の混濁も、認知能力の低下も見られません。明日には退院できるでしょう」

 

 病室。ベッドの上で身を起こす私に、ではなく、ベッドの脇に立っている小夜に対し、白衣の男が言った。

 

「本当に、ありがとうございます」

 

 小夜が男に頭を下げる。私も軽く会釈しておいた。

 男は人を安心させるような笑みを浮かべると、では、と言い残し、病室を出ていく。彼の残り香として、消毒液の匂いが鼻に届いた。

 

「体調はどう?末那ちゃん」

 

 備え付けの椅子に上品に腰かけた小夜が、そう言う。その瞳は慈愛に満ちており、私は心が暖まるのを感じた。

 

「うん、大丈夫」

 

 笑みを浮かべる。小夜はそうかい、と何度か頷くと、頭痛は?吐き気はない?と訊いてきた。

 

「大丈夫。なんともないよ」

 

 小夜の瞳に目を合わせる。彼女は慈しむような手つきで、私の頭にそっと触れた。

 彼女の手が、私の髪を撫でていく。手術のために剃られた部分に触れると、美容院、行こうね、と言った。

 

 左側頭部の裂傷。頭蓋までは到達していなかったその傷は、既に抜糸を終え、塞がりつつある。痛みはあるが、我慢できないほどではない。むしろ本当に辛いのは、これから傷が塞がっていくにつれ、増していくであろう痒みの方だった。

 

「末那ちゃんは美人さんだから、どんな髪型でも似合いそうね」

 

 小夜が言う。美人と言われることほど不快なことはないのだが、彼女のそれは私の心にするりと入り込み、暖かな気持ちにさせた。

 

「うん、美容師さんと、相談してみる」

 

 私が言うと、小夜は「そうね、それがいいわ」と言い、穏やかな笑みを浮かべた。

 本当は髪型なんてどうでもよかったが、不思議と、小夜が勧めるなら行ってみようと思えた。

 

「阿頼耶は……」

 

 ふと私が、この場にいない同居人の名前を出すと、小夜はぱっと顔を輝かせた。

 

「下で飲み物を買って来るって。もうそろそろ着くと思うよ」

 

 小夜が言う。その表情は晴れやかだった。

 阿頼耶について話す時、小夜は嬉しそうにする。それは孫を愛しているからだと思っていたが、最近になって、私という新参者が同居人の阿頼耶と関わっていることが、小夜にとっては嬉しいのだということに気が付いた。

 

 小夜と話していると、病室の扉が開かれる。ぺたぺたと足音がなり、ラフな格好の少年が姿を見せた。

 

「はい、祖母ちゃん、お茶」

 

 ペットボトルを3本抱えた阿頼耶が、その内の1本を小夜に差し出した。小夜は「はい、ありがと」と言い、それを受け取る。阿頼耶はあいよと言うと、その細い指でもう1本のボトルをつかみ取った。

 

「これ、良かったら……」

 

 言い、阿頼耶が私にペットボトルを差し出す。季節の変わり目、涼しくなってきた時分であるためか、オレンジ色のキャップだった。

 

「あ、どうも」

 

 ボトルを受け取り、謝意を伝える。両手で包み込むようにして持つと、手のひらにじんわりと熱が伝わってきた。ちらりと阿頼耶の様子を窺うと、同じタイミングでこちらを見たのか、ベッドの脇に立っている彼と目が合った。

 

「…………」

「…………」

 

 阿頼耶から、ではなく、私の方からふいと目を逸らした。手元のボトルに視線を落とす。妙なくすぐったさを覚えながら、キャップを開け、暖かいそれを一口含んだ。

 

 今回の一件について、私は記憶を失ったことになっている。なっている、というか、目覚めた直後は実際に記憶を失っていた。数日して出来事の全貌を思い出したが、私は看護師や刑事たちに、あえてそれを言いだそうとは思わなかった。今思い出したのですが、私を襲ったのは黒い袈裟を着た似非仏教僧と、つぎはぎ顔の軽薄な男でして…………あ、つぎはぎ顔の方は”呪霊”といって、普通の人には見えないのですが__なんて、説明できるはずもない。小学生でももう少しましな話を作る。

 

 それに、聴取に来た男の刑事に対して、「4足歩行の化け物を見た気がする」と言ったところ、彼は微妙な顔をした後で、私の頭に巻かれた包帯を見ると、何やら得心がいったように頷いた。男は去り際、どうかお大事にと言い残し、それ以来、私の聴取に来ることはなかった。どうやら、頭をぶつけたショックで妄想と現実の区別がつかなくなった、可哀そうな子だと思われたらしい。

 

 そのため病院内の者や警察関係者からは、私は路上で襲われ、血を流して倒れていたところを、阿頼耶によって救い出されたことになっている。

 

 ふと、私はその事実認識がそれほど間違っていないのではないかと思った。

 

 私は袈裟を着た男が、『殺せ!』と叫んでいたことを思い返す。彼は真人とかいう霊__ではなく呪霊__に牙を剥こうとした私を、何の躊躇もなく殺せと指示した。元バイト先の気色の悪い男を、能力を見せるためだけに殺したような者たちが、片割れに牙を剥いた私を、殺さずに放置するだろうか。

 

 私は思う。絶対にない、と。

 

 ということは、私はあの時、確実に彼らに殺されるはずだった。なのに今、私は病院のベッドで身を起こし、小夜と雑談し、阿頼耶が買ってきたお茶を飲み、思考を巡らせることができている。

 それはつまり。

 

(阿頼耶があいつらと戦って、私を連れて逃げた。ってことか)

 

 私は阿頼耶をちらりと見る。彼は由美たちが置いて行ったお見舞いの品々を、なぜか興味深そうに眺めていた。

 ぱっと見の彼の印象は、色が白く、やや童顔。線が細く、犬や猫すら殺せるようには見えない。

 ただ、その細い体をよくよく見ると、何と言うべきか、妙に倒れなさそうな、丈夫そうな印象を抱いた。

 

(刃物とか通らなさそう)

 

 私はその思い付きを否定した。流石に行き過ぎだ。刃物が通らないとしたら、それはもう、そういった種類の新しい人類だった。

 

(傷がない、足も引きずってない……戦って、勝った?)

 

 阿頼耶の様子から、私は彼があいつらと戦い、勝利したのではないかと考える。隙を見て逃走した、ということも十分に考えられるが、私にとってそれは、戦って勝つことと価値としては同じようなものだった。

 

 なぜなら私一人では、あそこから生きて帰ることすらままならなかったのだから。

 

『力』が有効とみるや、即座に服従から敵対に切り替えた。呪霊の方は良いところまで殺しかけたが、結局袈裟の男に暴力で負けた。

 私は思う。あいつら二人と真正面からかち合って、私という荷物を抱えて逃げる。それはむしろ、戦って勝つことよりも、余程離れ業といえるのではないだろうか、と。

 

(強いんだ)

 

 どこか抜けていそうな少年、今となっては命の恩人である少年についての認識を、私は改めた。

 

「退院したら食べたいものとか、あるかしら」

 

 ふと思いついたように、小夜が言う。私はちらりと考えて、入院する前から食べたいと思っていたそれを口にした。

 

「初めて来たときの、お寿司が食べたいです」

 

 小夜が笑みを深めた。由美が置いていった謎のキーホルダーを眺めていた阿頼耶も、くすりと笑う。邪気の籠っていない、暖かな笑みだった。

 彼らの笑みを見て、私の中に沸き上がってきた思い。切なさにも似たそれは、暖かく私の心を照らしていた。

 

 

 *

 

 

「ここか」

 

 明大前駅、その周辺。何の変哲もない住宅地に、五条悟はいた。

 

「ほ~ん……」

 

 時刻は夕方。下校中の小学生たちが「なにあれかっけえ!」「目隠し!目隠し!」と興奮し、五条の脇を通り過ぎていった。

 

「よいしょ」

 

 五条はしゃがみ、アスファルトを注視する。ふと、目隠しを引き上げた。

 

「なるほどねぃ~」

 

 青い瞳を輝かせる。秋めいた風が通り抜け、その白髪を揺らした。

 確認すべきことが確認できたのか、五条は立ち上がる。下げていた目隠しを元に戻すと、どこかに向けて歩き始めた。

 

「阿頼耶には申し訳ないけどねえ」

 

 足を振り出しながら、五条は言う。その口元に、軽薄そうな笑みはなかった。

 

「呪詛師 町田末那、いっちょ討伐といきますか」

 

 五条は歩く。電線に止まっていた鳥が一斉に飛び立ち、ざわざわと羽音をまき散らした。

 

 

 

 __少女が蒔いた種は、成長し、身をつけ、正義の目を引き。

 

 __やがて、最強の青い目にすら映り込んだ。

 

 __因果応報の歯車が、動き出そうとしていた。

 

 

 

 

 



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呪霊よりも怖いもの

 鉄のフライパンは中の空気を陽炎のように揺らめかせていた。十分に熱したそれにベーコンを放り込むと、途端に香ばしい匂いがキッチンに広がる。油が出始めたところでベーコンを脇に追いやり、溶き卵を流し入れる。じゅわあと焼ける音がした。

 

 固まってきたところで、卵を端から巻いていく。空いたスペースにもう一度溶き卵を流し入れると、再びじゅわあと焼ける音がした。

 数回、同じ工程を繰り返す。一分もしないうちに、卵焼きが出来上がった。

 フライパンの上で、ほわほわと湯気を上げる、黄金色の物体。柔らかいそれを、慎重にまな板に移す。小夜がその上に濡らした布を被せた。

 

「随分上達したんじゃない?」

 

 私の手際を見ていた小夜が、にっこりと微笑む。私は微かに頬が染まったのを自覚した。

 

「おばあちゃんが、教えてくれたから」

 

 フライパンをシンクに置き、水を浴びせる。じゅわっと水が蒸発する音が鳴り、少しだけ煙のような水蒸気が舞った。

 

「私に教えられてちゃんと出来るなんて、末那ちゃんは筋が良いわね」

 

 冷えたフライパンをたわしでこする。小夜は卵焼きに乗せた布巾を取り、包丁で一口大に切っていった。

 私はフライパンを水ですすぎながら、今しがたの小夜の発言が暗に示すことを尋ねようと、おずおずと口を開いた。

 

「あ……らやくん。も、作ったりするんですか」

 

 洗い終えたフライパンを脇に置き、たわしからスポンジに持ち替え、菜箸を洗う。小夜の返答を待ちながらごしごしとこすっていると、意味もなくその手つきが早まった。

 

「ええ、たまにね。でもあの子はだめねえ。丁寧にやろうとし過ぎるから、時間がかかってしょうがなくて。料理には手抜きとがさつさが必要なのに、全部の工程をきっちりやろうとしてしまうから」

 

 真面目過ぎるのよね。色々と。そう呟く小夜は、どこか遠い目をしていて。彼女が料理についてだけ言っているのではないことが何となく分かった。

 

「さ、できた。阿頼耶を呼んでこようかしらね」

 

 卵焼きとベーコンを皿に盛り付け、朝食の準備が整う。皿は全部で3人分あった。

 小夜はシンクで手を洗い、濡れた手を割烹着でふく。その横顔がそこはかとなくわくわくしているように見えた。

 

 私がこの家に来て、早数か月。小夜とは毎日朝食を共にしているが、阿頼耶とは一度もない。私が拒否したのではなく、阿頼耶が自主的にそうしているからだ。

 数か月を共に過ごした今、私にも彼の人となりが少しは分かっている。

『真面目過ぎる』

 確かに、それは的を射ているように思えた。

 

「あの」

 

 螺旋階段に向かおうとしていた小夜が、私の声に足を止める。なに?と振り向いた彼女に、私は口を開いた。

 

「私が呼んできても、いいですか」

 

 小夜は驚いていた。これまで私が阿頼耶と積極的に関わっている所を、恐らく彼女は一度も見ていない。その私が突然そんなことを言い出したので、彼女としてはどういう心境の変化かと戸惑ったのだろう。

 

「え、ええ」

 

 眼を開き、皺の寄った手が割烹着の裾をつまむ。ふとその顔がほころび、何度か頷いてみせた。

 

「そう、そうね。勿論。勿論よ。それが良いわね」

 

 そう言い、小夜は嬉しそうに頷く。

 それじゃ、私は準備を済ませちゃうわね。そう言うと彼女はキッチンに戻り、皿を手に取る。私は小夜と入れ替わりでキッチンを離れると、螺旋階段に向かった。

 

 とん、とん、と軽い音が響く。ねじれた階段を登り切ると、シンと静まった廊下が続いていた。

 静かな廊下を歩き、阿頼耶の部屋の前に立つ。手を胸の前まで持っていくと、手の甲で扉を叩いた。こんこん、とノックの音が鳴る。

 

「ん、祖母ちゃん?」

 

 扉の向こうから、くぐもった声が聞こえた。椅子を引く音と、軽い足音が続く。数秒も待たずに取っ手が降ろされ、部屋の扉が開いた。

 

「あ……」

 

 内側に開いた扉。取っ手を掴み、開けた時の姿勢で固まりながら、阿頼耶は私を見ている。その両目は微かに見開かれ、私という予期せぬ来訪者に戸惑っていることがはっきりと分かった。

 

「あの、」

 

 朝ごはん、一緒にどうですか。そう、続けようとした。ごく普通の申出。緊張するほどのことじゃない。クラスの男子とだって、必要があればこのくらい喋る。

 なのに、私の声帯はそこで止まってしまっていた。

 

(あ…………)

 

 阿頼耶が私より頭半個分高い目線から、気持ち見下ろすようにして私のことを見ている。その瞳は澄んでいて、欲に濡れてはいない。ただ単に、私という存在がいたから見ている。それ以上の感情の発露は、彼の瞳にも、表情にも、どこにもなかった。

 

 なのに。

 

(怖い)

 

 ノックの位置のまま浮いていた手を、胸に引き寄せた。その手が強く握られる。掌に爪が食い込み、痛みを発した。

 目の前の阿頼耶は何もしていない。ただ扉を開け、私を見ただけだ。それなのに私は彼に対し、明確な恐怖心を抱いていた。

 

(なんで……今更……!)

 

 阿頼耶から離れたい。このまま遠くに行って、彼の視界の入らないところへ行きたい。私の中の恐怖心がそう訴える。一方で理性が、なぜ?とその理由を問いかけていた。

 

(あ、そっか……)

 

 硬く握られた手がじくじくと痛む。脈のようなそれに浸りながら、私はこの恐怖の理由を理解していた。

 

 それは、最も原始的な恐怖。

 どんな富豪でも、権力者でも、この世の全てを手に入れた人間でも、逃れることはできない、人間の普遍的な結末への恐怖。

 

 死の恐怖。

 

 ぴり、と唇が痛みを発する。知らないうちに唇の内側を噛み締めていた。温かい血が口の中に広がり、鉄の匂いが鼻を衝く。

 阿頼耶は、私を殺すことができる。

 そのことへの恐怖が、私の身体を縛り付けていた。

 

 思い出されるのは、似非法師とつぎはぎ顔に襲われたこと。

 私の『力』は、似非法師には効かなかった。

 

『死ね』と言った時、彼は衝撃に耐えるように頭を押さえたが、倒れることはなかった。何度も言い続ければ結果は違ったのかもしれないが、その隙を与えるような手合いではなかった。現に私は死にかけ、阿頼耶に救い出された。

 

 その阿頼耶にも、『力』は効かないのではないか。

 私を殺しかけた人間。そいつから私を救い出した人間。前者には効かなかった『力』が、後者にだけは例外的に効くと考える理由はない。加えて後者は、私がどうあがいても祓えなかった霊を、ただふらりとすれ違う、その一瞬の合間に祓っている。

 

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 これまで得た情報から導かれる、明白にして簡潔な事実。

 

 その事実を今一度自覚すると同時に、恐怖に叩き込まれた脳みそが、自分自身に対して一つの問いを提示した。

 

 ”阿頼耶が私に、興味を持ったとしたらどうなるか”

 

 その想定は私の胸をひやりと撫でた。動機が早まり、呼吸が浅くなる。久しく感じていなかった焦りが、私の身を焼き始めた。

 

 彼の視界から消えたい、恐らくはそう思った最も大きな理由。

 死の恐怖とは異なる、阿頼耶だから生じる恐怖。

 

 彼は、私を好きにできる、ということ。より具体的に言えば、彼は私を、私の身体を、好きなように貪ることができる、ということ。

 

 その想定が自意識過剰ではないことを、私はこれまでの人生で嫌という程思い知らされていた。

 

 例えば。

 母が私にかけた呪いが、阿頼耶の奥底にある欲求を曝け出し。彼が、私を救い出したその手で、私の服の端を掴んだとすれば。

 

 私はどれだけ、抵抗できるのだろうか。

 

 何秒経ったか。ふと、阿頼耶が私から視線を切った。床とも壁ともつかない場所を見つめ、首に手をやる。そのまま彼はこちらを見ないまま、私から距離を取るように、すっと一歩下がった。

 

(あ…………)

 

 それを見て、その何気ない行動を見て、私は我に返る。今しがたの阿頼耶の行動は、明らかに私の異常を見て取ったことへの反応だ。彼は怖れる私に対して、その原因である自分自身を、私から遠ざけるようにしたのだった。

 

「……朝ごはん、出来てますから」

 

 そっと、阿頼耶から離れる。どこを見てよいか分からず、視界の右下に視線を向けた。

 

「……それじゃ」

 

 歩き出す直前、ちらりと阿頼耶を見る。彼は私のこめかみを見つめ、痛ましそうな表情を浮かべていた。

 阿頼耶から視線を切り、静かな廊下を歩く。阿頼耶はついてこなかった。

 

「…………」

 

 歩きながら、そっと、頭の左側に手をやる。髪をかき分けると、薄いガーゼに触れた。

 既に傷口は塞がり、そこにはピンクの跡があるだけだ。掻きむしってしまわないよう、念のためにガーゼを付けているに過ぎない。

 

 私は今しがたの光景を思い返す。これを見て、彼は痛ましそうな……言い換えれば、泣きそうな、そんな表情を浮かべていた。

 

 握られていた手から力は抜かれ、硬直していた身体は弛緩している。

 不思議なことに、あれだけあった恐怖心は跡形もなく消えていた。

 

 

 *

 

 

 ビルからビルへ、都会の景色が移り変わっていく。

 少し前までは明るかった時間帯でも、季節が変わってきたためかほんの少し空に陰りが見えた。

 電車の中、吊革に掴まりながら外の景色を眺める。目の前のシートでは、黒いネクタイに黒いスーツを身に纏った男が死んだように眠っていた。

 

 眠っている喪服姿の男の隣では、馬鹿っぽそうな少年がこれまた口を大きく開けて眠っている。私は少年の姿に違和感を抱き、心の中で首を傾げた。

 

(なんだろう、この人)

 

 色素の薄い髪はぼさぼさで、小麦粉でも浴びたのか、ところどころが白くなっている。フードのついた変則的な制服は黒で統一されており、私は同じような服装をしていたあちら側の存在、つんつん頭の少年のことを思い出していた。

 

(いや……流石に無関係でしょう)

 

 私はその思い付きを否定する。あっちの少年は見るからに才能に溢れていたが、目の前の朝帰りっぽい少年は、一見して単なる少年だ。それに、あの少年の服にフードは付いていなかったし、加えて目の前の少年は明らかに馬鹿っぽそうだ。

 

 私はこの少年と彼らとの関連性はないだろうと結論付けた。

 

 少年から視線を切り、私は隣の車両に続く連結部を見る。車両同士を繋ぐ部分の、窓の向こう。そこに、見知った横顔があった。

 私の視線に気づいていないのか、その人物は手元に目線を落としている。性格的に、スマホではなく文庫本でも読んでいるのだろうと推測した。

 

 ふと、電車が大きく揺れる。意識が逸れていたため、私は体勢を崩し、前につんのめった。

 

「……痛っ」

 

 脇腹に鋭い痛みが走る。思わず、その部分に手を当てた。

 罅が入った肋骨は、今だ完治には至っていない。そのため急に動いたり走ったりすると、こうして痛みを発してその存在を思い出させた。まあ、体育をサボる理由ができたと思えば、差し引きとしては悪くなかった。

 

「どうぞ」

 

 痛む肋骨を撫でていると、目の前の少年が立ち上がっていることに気が付いた。立ち上がる気配が全くしなかったことに驚きつつ、私はシートを示す少年に対して首を横に振る。

 ついこの前、同じような人間に席を譲ってもらい、善意からだと信じて座ったところ、私が降りるまで延々と話しかけられ続けたということがあったため、私は席を譲ってくる者に対し警戒感を抱くようになっていた。この少年から邪な感情は感じないが、一度染みついた嫌な記憶や警戒感は、そう簡単には拭えない。

 

 そのため私は「大丈夫です」と、少年が勧めたシートを丁重に固辞した。

 

「ほら、伊地知さん起きて起きて」

 

 私の固辞をどう解釈したのか、彼は死んだように眠る男の頬をぺちぺちと叩く。かっと目を見開いた男はしばしばと目を瞬かせると、数秒して状況を理解し、ふらりとした足取りで立ち上がった。

 

「いえ、私は」

「肋骨って痛いよねー。かがめないから靴紐結べなくなるし、足洗うときとか背筋伸ばしたまま洗わなきゃなんないし。俺もこの前腹に穴空いてさ~」

 

 自分の目が見開かれたのがわかった。私は痛むところを手で押さえただけだ。それなのに、肋骨が患部であるとどうしてわかったのだろうか。

 

(……当てずっぽう?)

 

 私は少年が適当に言ったのではないかと考えた。というか腹に穴ってなんだろうか。何かの例えとかだろうか。

 

「じゃっ」

 

 ひらりと手を振ると、少年は喪服姿の男性を連れて別の車両へと移っていった。私は彼らの後ろ姿を見送り、空いている席を見つめる。

 

(次で降りるんだけど)

 

 正直必要のない気遣いだったが、何となく無碍にするのもあの少年に悪いような気がしてしまい、私はその席に腰を下ろした。座った後で、”少年”から受けた厚意を自分が抵抗なく受け取ったことに、少し驚く。

 

(なんでだろ)

 

 何故だろうかと首を傾げる。少年の持つ、明るい雰囲気のせいだろうかと思った。

 ふと、今のやり取りを見られていただろうかと思い、連結部に目をやる。そこにある横顔は、依然として手元に向けられていた。

 

 

 

 

「まなあ~!」

 

 私の顔を見た途端、由美が走って私の元まで向かって来る。このまま飛びつかれると、くっつきかけの肋骨が痛みを発するだろう。いや、ひょっとしたら今度こそぽっきりと割れるかもしれない。これ以上この痛みを長引かせるのも勘弁したいため、私は犬に待てをするように手を前に出した。

 

「ステイ、由美」

 

 ぴた、と由美の動きが止まる。彼女の後ろでは、穂香と亜里沙がなんだなんだと覗き込んでいた。

 私は由美に突きつけた手をゆっくりと畳み、人差し指を立てる。そのまま肋骨のあたりを指し示した。

 

「私のここには、罅が入っています。なので今抱き着かれると、とても、とっても、痛いです」

 

 ええっ!と目を見開く。心配そうな瞳で、私がここ、と指した場所を見つめた。その瞳は餌を貰えなかった子犬のように湿っていて、私はくすりと笑ってしまう。

 

「なので、私から行きます」

 

 つかつかと歩き、由美の元まで近づく。え、え、と困惑する由美を、私は正面から抱きしめた。

 

「…………心配かけて、ごめんね」

「……ううん」

 

 由美が首を振る。ふわりと柑橘系の柔軟剤の香りがした。

 

「本当に、良かった……」

 

 そっと、由美が私の背に手を回す。彼女らしい、優しい手つきだった。

 

 どちらからともなく身を離し、お互いの顔を見合う。私たちはくすりと笑い合いあうと、互いの手を絡ませた。

 由美と手を繋ぎながら、亜里沙と穂香の元へと歩いていく。近くまで行くと、二人は眩しいものを見るような目で、私と由美を見ていた。

 

「なに、その顔」

 

 私が言うと、二人は破顔し、尊い、と声を揃えて言う。今更になって、妙な気恥ずかしさがこみあげてきた。

 

「そんなんじゃないし」

 

 不満げにする私に、亜里沙がにやつきながら、

 

「情熱的だった」

「…………もうっ」

 

 からかう彼女を軽く小突く。

 少しの間そうしてじゃれると、私たちは学校に向けて歩き始めた。

 

「あ、そうだ」

 

 学校に向けて歩いていると、ふと穂香が足を止める。彼女は私を見ると、にへ、と目じりを下げた。

 

「おかえり、まな」

 

 穂香からかけられた言葉に、私は破顔すると、彼女に身を寄せる。あー!浮気だ!と由美が不満そうに言った。

 

「で、怪我は大丈夫なの?」

「山で足を滑らしたんでしょ?頭を切ったって……」

 

 心配そうに私の顔を覗き込む彼女たちに、私は「大丈夫だよ」と返す。左の髪をかき分け、布で覆われた部分を見せた。

 

「うひゃ~」

「女の命が……」

 

 他愛もない言葉を交わし合いながら、私たちは校門を通り過ぎ、校舎に向けて歩いていく。周りでは同じ高校の生徒たちが、私たちと同じように集団を作り、校舎に向けて歩いていた。

 

「無事でよかった……」

 

 ふと差し込まれた、亜里沙の言葉。本当に思わず出た言葉のようで、私の視線に気が付いた彼女は、恥ずかしそうに顔を背ける。純粋に私を労ってくれる彼女に、私は自然と顔が綻ぶのを感じた。

 

「…………っ」

 

 ふと、その顔が引きつる。妙な気持ち悪さが、胸の内に広がっていた。

 

(……汚らわしい)

 

 由美、亜里沙、穂香。談笑する3人。私の大切な友人たち。彼女たちに対する嫌悪感ではない。

 これは、自分自身に対する嫌悪感だった。

 私は彼女たちの会話に相槌を打ちながら、その感情を胸の内で転がせる。根本を探るため、思考の海に入っていった。

 

 

 ここ数か月、私はかなり好き勝手にやってきた。『力』を得て、従兄を殺し、その罪を父親に擦り付け、素知らぬ顔で遠縁の親族の家に転がり込んだ。

 住居を得た私は、これまで溜まった鬱憤を晴らすように『力』を使い、様々な人間を弄んできた。

 

 普通のサラリーマン、日焼けした証券会社の社長、たまたま路地にいた大学生。殆ど手あたり次第に『力』を使い、そしてその金銭を奪ってきた。

 そして、そんな彼らに対し、私は決まってとある質問をし、その回答が気に障った場合、彼らを『力』の実験に使った。

 

 その質問は、『お前がこれまで異性に対し行ったことで、最も客観的に罪深いことを懺悔しろ』というもの。

 この質問をすると、彼らは様々な罪を答えてくれた。

 

 小学生の頃に、気になる女子のスカートをめくったこと。

 いじめられていた女の子を助けずに、いじめに加担したこと。

 友人の女子のハンカチを盗んだこと。

 酒を飲ませ女子学生と事に及んだこと。

 金で高校生を買ったこと。

 

 様々な罪が、ぼんやりとした男たちから語られ、私はそれらを全て聞いた。そして罪を聞いた後、私はそれらに対し、適当と思われる罰を下した。

 

 スカートをめくった大学生は小学生の時のことなので無罪放免に。

 いじめに加担したビジネスマンは中学の時のことなので嗅覚を奪い。

 酒に酔わせ大学生をレイプしたベンチャー社長は、成人し己の立場を利用してのことなので、二度と同じことができないよう自分の性器を認識できなくさせた。

 

 独断と偏見による罰。それらを下すにあたって、私は正義や倫理、因果応報といった、何らかの正しさの原理に従っていたわけではない。

 私がそれらの罪を聞き出し、罰を下したのは。

 

 純粋に、それらが楽しかったからだ。

 

 この遊びを何回か繰り返すと、徐々に私は、「もっと酷いことをしでかしたやつに会いたい」と思うようになってきた。何故なら重い罪を犯した者ほど、その罰は重くなり、結果として私は好き勝手にその者の精神を歪めることができるのだから。

 

 そうして、私はここ数か月の間、積極的に人間を操っては、罪を聞き出し、それに対して罰を与えてきた。それはとても面白い行為だったし、『力』についての理解もかなり深めることができた。路地裏の暗がりで、女なんて男の欲を満たすための道具としか思っていない人間から尊厳を奪い、人間としての全てを放棄させることは何にも増して胸がすっとしたし、法律では裁けない罪や、そもそも明らかになっていない罪を私だけは裁くことができるという感覚は、奇妙な全能感を与えてくれた。

 

 そうして世直しをしていると信じ『力』を振るっていた矢先、私はあの二人組に襲われた。袈裟の男と、つぎはぎ顔の呪霊。彼らは明らかに悪だった。私が気持ち悪さから思わず弄んでしまった茶髪の男を何の躊躇いもなく殺し、勧誘の際には自分で「私たちはなんでもする」と言っていた。きっと彼らにとっての「何でもする」は、文字通りの意味なのだろう。

 

 イラつけば殺すし、気が向けば犯す。欲しくなくても奪うし、目が合わなくても貶める。唯我独尊、己の感情のみに従い、暴虐の限りを尽くす。そしてそのことに対し、一抹の罪悪感すら、抱くことはない。

 抜糸を終え、じくじくと痛む頭を意識しながら、病院のベッドでそんなことを考えていた時、私はふと、気が付いた。

 

 私も彼らと同類だ、と。

 己の主観で罪を量り、罰を下す。客観的な指標を持たず、罰の判断に使われるのは、罪を聞いたその時に私の胸の内に生じた不快感の程度のみ。

 

 そのように、不快の程度によってのみ罰を決め、それを自らの手で下すというのならば。

 私は、快・不快で好き勝手に人間を殺す者たちと、その本質において何の違いもありはしなかった。

 

「……まな?」

「大丈夫?」

 

 ふと、心配そうに覗き込まれていることに気が付く。私は咄嗟に「大丈夫だよ」と答え、笑顔を作った。

 

 病院のベッドの上。毎日見舞いに来てくれる小夜が帰った後。深夜の病室で、脈打つようなこめかみの痛みに苛まれながら思ったこと。

 

 ()()()()()()()()()()()。ということ。

 そしてその観念こそが、私に彼女たちと触れ合う資格がないのではないかと思わせた原因であった。

 

 襲われ、悪に触れ、気づいたこと。己の内側に潜んでいた邪悪さ。

 これまでの私だったらそんな邪悪な自分を受け入れ、むしろ歓待したかもしれない。

 

 けれども、私には新しい家族がいた。小夜と阿頼耶。二人が私に接する態度によって、私の心は少しずつ、けれども確実に、溶かされていった。

 私の幸せを考えてくれる小夜と、私の嫌がることを極力排除し、そのためならば自分自身さえも遠ざけてみせる阿頼耶。二人の存在が、私を変えた。

 

 心の奥底にあった、煮詰められ、粘ついた悪意。

 ヘドロのようなそれらが、清涼な水で漱がれていくような感覚が、二人と接していると、私の胸の内には生じるのだった。

 

「なんかあったら言いなよ」

「そうそう」

「まなは変なところで意地張るからさー」

 

 彼らと、彼女ら。家族と、友人たち。

 私はもう、彼らの魂を穢すようなことを、していたくなかった。

 

「…………うん、ありがと」

 

 正義か悪か。加害者か、被害者か。

 多分、私はどちらの側にも振れることができる。悪にも、正義にも、気の持ちよう次第で、どちらの位置にも就くことができる。事実私は、従兄から性的な嫌がらせに遭い、寝込みを襲われ、あと一歩で大事なものを奪われるところだった。その一方で、私は独善的な指標で多くの人間を弄び、尊厳を奪い、その人格を歪めてきた。

 

 そのどちらもが、私という人間の両極ならば。私はその間のうちどの辺りに自分自身を置くべきか、決めなければならなかった。

 いつか見た、『力』を持つ彼ら。悪に染まれば、私は彼らに討伐される。そしてそれは恐らく、私の怪我を泣きそうな顔で見つめる心優しい同居人と、敵対することを意味する。

 それは、その状況は、私にとって…………

 

(…………嫌、だな)

 

 阿頼耶と戦って、勝てる自信はない。今朝抱いた恐怖心だってそれを示している。けれどもそれ以上に、私は形の取らない不定形な感情が、阿頼耶と敵対することを拒否していることに気が付いた。

 

(…………帰ったら、阿頼耶に『力』のことを話そう)

 

 阿頼耶が私と同じく『力』を持つ者だと知ってから、ずっと心のどこかで思っていたこと。私は今日その選択肢を取ることに決めた。

 

 彼はその気風的に悪というよりは正義側のような気がするし、多分、『力』を打ち明けた私を悪いようにはしないと思う。ただ、そんなふうに正義感を持った彼が、私が今までにしてきたことを知った時、果たして私に対しどのような感情を抱くのかはまるでわからなかった。

 

(……まあ、その時はその時ってことで)

 

 もしも阿頼耶が私に嫌悪感を示し、その行いをなじるような言葉をかけてきたら。あるいは、阿頼耶が邪悪な本性を現し、私欲のために私の『力』を使うよう言ってきたら。そうしたら私は、たとえ刺し違えてでも、()()()()()()()()()()

 

 私は帰宅してからのことを決めると、亜里沙たちとの会話に意識を向ける。『力』を打ち明けた時、阿頼耶がどんな顔をするのか。不安はあるが、彼の驚いた顔を想像すると、少しだけ胸が躍るような気がした。

 

 

 *

 

 

 教室に入るとそれまでうるさかった教室がしんと静まり返った。

 数秒してざわめきが戻る。クラスメイト達はそれぞれの興味に移っていった。

 ただ、教室のあちこちから妙な視線を感じる。不躾なそれらに不快感を抱きながら、私は自分の席へと歩いて行った。

 鞄を降ろし、テキストを取り出す。時計を確認し、一限目の教科書を机に出した。

 

 私がいない間に席替えがあったらしく、席は由美たちと離れている。ペンを弄びながら何となく教室の外に目をやると、見知った横顔が廊下を歩いていた。女性のように白い肌を持ったそいつは、電車内で発見した時と同じように静かな雰囲気を身に纏っている。

 

 何ともタイムリーな発見だ。私は帰宅してから視線の先の彼に何と言って『力』を打ち明けようかと考えた。

 ふと視界が遮られ、彼の姿が見えなくなる。同時に頭の上から女の声が降ってきた。

 

「ね、町田さんさあ」

 

 振り仰ぐと、ぱっちりとした瞳の女子生徒が私を見下ろしていた。学校指定の制服は着崩されており、スマホを持つ手にはネイルが施されている。スカートの丈がかなり短く、少し動いただけで中が見えそうだった。

 

 彼女の後ろには数名、同じような雰囲気の女子たちがいる。彼女たちはめいめい顔を見合わせてはくすくすと笑みを交換していた。

 声をかけてきた女子生徒と、その後ろに控えている女子たち。彼女たちの間には私たちの年頃に特有の空気感があった。お互いに同調圧力をかけ合い、それに従うことをよしとする空気。そして一人の強い人間とその他の弱い人間で構成された、グループ内ヒエラルキーの存在。

 

 私はなんだか嫌な予感がした。

 

「…………うん、なに?」

 

 邪険にしているふうにならないよう、声音を調整する。私を見下ろす女子生徒は一見友好的だ。けれどもその柔らかな声音の裏には、蓄積され煮詰められた、ドロドロとへばりつく何かしかの強烈な感情が見え隠れしていた。

 私の返答などは初めからどうでもよかったのだろう。女子生徒はその口調に愉悦を滲ませると、あえて周囲にも聞こえるように、はっきりとその言葉を口にした。

 

「レイプされたって、ほんと?」

 

 教室中がざわついた。

 

 

 *

 

 

「レイプされたって、ほんと?」

 

 どき。心臓が跳ねた。

 それまでずっと突っ伏してた机から身を起こして、声のした方向を見る。登校してからずっと机でお昼寝してたおにゃのこが急に起き上がったら、クラスのみんなから注目されちゃうかな~?って思ったけど、全然そんなことはなかった。みんなさっきの言葉がショックだったみたいで、クラス中、男の子も女の子も、声を発した女子生徒と、声をかけられた女の子の方を注目していた。

 

 声をかけた女子生徒は後ろに数人の取り巻きがいて、彼女たちは「本当に言っちゃったよ」みたいにちょっとざわついてたけど、やっちゃったものはしょうがないみたいな感じで逆にテンションが上がってる。

 

 彼女たちの一番前にいる、声をかけた女子生徒。ちょっと派手目で可愛い(はな)ちゃんは、きれいなお目目をぱっちり開いて椅子に座っている女の子を見下ろしていた。

 華ちゃんはとってもきれいな女の子で、入学した時は清楚って感じの正統派可愛い!な女の子だったけど、ちょっとずつ服とかが派手になって行って今やスカート丈がおしりの終わりと同じくらいの、正真正銘立派なギャルになった。たぶん、駅の階段で男の人からちょう見られてる。

 

 おじさんの血走った目つきを浴びたり、まだ純な中学生をむりやり性に目覚めさせたりするような、そんな男好きのする身体つきをしてるのにあえてそんな恰好をしているから、美奈はむしろ襲ってほしいのかな?と割とまじで思ったりしちゃってる。

 

 そんなリアルJKサキュバス風俗嬢みたいな華ちゃんが、スマホを持ちながら座っている女の子を見下ろしている。それに対して見下ろされている女の子、町田末那ちゃん改め大将ちゃんは、今私は何を言われたの?って感じで、ぽけっと華ちゃんを見ていた。そんな大将ちゃんをよそに、華ちゃんは持ってるスマホをついついっと操作する。なにか画像を出したみたいだった。

 

「これ、町田さんだよね」

 

 華ちゃんが、持っているスマホを大将ちゃんに見せる。画面を見せられた大将ちゃんはそのおっきなお目目をぐりっと見開いた。

 

 美奈的にどんな画像だろう?って興味津々だけど、うーん、残念。美奈のいるところからじゃ、華ちゃんが大将ちゃんに見せている画像は見えない。でも大将ちゃんの席は教室の真ん中にあるから、その大将ちゃんに突きつけられたスマホはその後ろにいる子たちにはばっちり見えている。画像が見える場所にいる子たちは、「え、」「ちょ、あれ血?」「やっ」と、なんだかざわざわしていた。

 

 その子たちの反応を見て、美奈は首をひねる。血?血ってどういうことだろう?確か大将ちゃんはお婆ちゃんの家に遊びに行った時、山の中で足を踏み外したんだよね?それで今まで入院してたから学校に来られなかった。大将ちゃんの頭を見るとうっすらと包帯みたいなのが見える。きっと怪我したところだ。華ちゃんが見せている画像は、大将ちゃんが怪我した時の画像なのかな??

 

 美奈はもう一度、心の中だけで首をひねる。う~ん、分からないなあ。そんなものを朝の教室でこれ見よがしに突きつけて、一体華ちゃんにどんなメリットがあるのかなあ???

 

 むむむ、と考える美奈。その時ぴこん、って頭の電球が光る音がした。

 

 あれ、待って待って。ぼんやりしてて見過ごしちゃったけど、華ちゃんは最初何て言ってた?

 

 美奈は思い出す。

 れいぷ。レイプって言ってたよね?待って待って。いつの間にそんな愉快なことになったの?レイプ、れいぷってあれだよね?女の人が男の人に犯されるやつ。ああ、逆もある?

 

 美奈は男女平等に配慮しながら、どきどきする胸を抑える。少しずつ、自分が興奮していくのが分かった。

 

 どゆことどゆこと?レイプされたって、ほんと?華ちゃんはそう言ってたよね?え、え、大将ちゃんが、男の人にずっこんばっこんやられちゃったってこと?そうだよね?ということは、華ちゃんが今大将ちゃんとに見せている画像は、その裏付けになる写真ってこと???そうっぽい。だって写真を見た男子が、この世の終わりみたいな顔をしているもん。

 

 どくん。もう一回心臓が跳ねる。どっきんどっきん。思いもしなかった刺激の到来に、美奈の心臓は痛いくらいに跳ね回ってた。

 きゃー!!スクープ!!これはスクープだよお!!

 もしもしもしもしこれが本当なら、とってもとっても面白いことになっちゃいそう!!

 

 美奈は心臓の辺りを抑える。美奈は普段、お淑やかな清楚系おにゃのこだと思われているから、こういうゴシップに、ワンちゃんみたいに飛びつくわけにはいかないのだった。

 にやつきそうになる顔にむん!と力を入れて、美奈は華ちゃんのことをじっと見つめる。

 

 わくわく。わくわく。え、え、華ちゃん、それでそれで?あとあとあとあとあとはなに?次は何て言っちゃうの?別に本当のことでもそうじゃなくてもいいんだよ?だって大将ちゃんはとってもカワ(・∀・)イイ!!女の子だから!!顔面累進課税制度を採用している女子社会では、大将ちゃんは超高所得者の高額納税者だもんね!!可愛い子は生きやすさの対価として、いついかなる時でも面白おかしくいじられなきゃならない。いつかも言ったけど、税金はきちんと払わなきゃめっ(o`з’*)だぞ?

 

 

「ちょっとあんた」

「黙れ」

 

 亜里沙ちゃん、改め勘違い女ちゃんが、華ちゃんに噛み付く。どうやら大将ちゃんというご主人様のピンチに駆け付けたみたい。でもそこは流石華ちゃん、勘違い女ちゃんの方を見もせずにぴしゃっと撥ねつける。取り巻きの女の子たちがそんな勘違い女ちゃんを舞台から退場させるようにその腕を掴んだ。美奈はその手際の良さに感動しちゃう。う~ん、ナイス連携!

 

「触らないでくれる」

「きゃっ」

 

 どん、取り巻きの一人が尻もちをつく。勘違い女ちゃんが強く腕を振るったからだ。尻もちをついた子は女の子らしい悲鳴を上げた。

 

「は?あんた何してんの」

 

 暴力を振るった勘違い女ちゃんの方を振り向き、華ちゃんが凄む。がおーがおーって、お友達を突き飛ばした勘違い女ちゃんを睨んだ。

 勘違い女ちゃんは一瞬、尻もちをついた子に申し訳なさそうな顔をした。けれども勘違い女ちゃんにはそれよりも大事なことがある。睨む華ちゃんに毅然とした態度で立ち向かっていった。

 

「あんたこそ何言ってんの?まながどうとか、」

「話をすり替えないでくれる?うちはあんたが今何をしたかって聞いてんだけど」

 

 勘違い女ちゃんの追及を華ちゃんは強い口調で撥ねつける。流石元・女子序列一位なだけあって、その迫力は中々だった。美奈は心の中で華ちゃんを応援する。

 フレーヾ(゚ー゚ゞ)( 尸ー゚)尸_フレー ハ ナ チャ ン

 

「謝れよ」

「…………」

 

 華ちゃんが尻もちをついた子を指で示す。その女の子は今にも泣きそうな顔をしていた。

 勘違い女ちゃんは苦々しい表情になると、ちらりと倒れた女の子を見る。自分がやっちゃったことをようやく自覚できたみたいだったꉂ (๑¯ਊ¯)σ オセエヨл̵ʱªʱªʱª

 

「謝れって」

「…………っ」

 

 華ちゃんの追及に、勘違い女ちゃんは口を開く。勘違い女ちゃんは男子には厳しいけど、女子にはそうでもない。珍しいものが見れそうな予感に美奈のプリチーなシンデレラバストがこれ以上ないってくらいドキドキ!してた。

 

「…………っ、ごめ」

 

 勘違い女ちゃんが突き飛ばした女の子に対して謝罪の言葉を口にする。う~~~ん、レコーダーに録っときた~~~い(●´Д`●)。*・シ。*・ネ。*・カ。*・ス。*・

 

「大丈夫だよ、亜里沙」

 

 がらり、椅子を引く音がして教室中のみんながそっちを見た。

 勘違い女ちゃんが自分の罪を認めて謝罪をするという、大事な、大事な場面。そんな緊迫した空気をぶった切るように、その声は差し込まれてた。美奈と、華ちゃんと、あとその他大勢のモブたちの視線の先には、勘違い女ちゃんの歴史的謝罪を中断させた戦犯がいる。

 

 誰も彼もを含めた全員の視線の先で、大将ちゃんが立ち上がって勘違い女ちゃんに微笑んでいた。

 

「は、ああ?何が大丈夫なの?勝手に決めんなよ」

 

 華ちゃんが大将ちゃんを非難する。そのまま鋭い目で睨みつけた。二人とも、女子にしては背が高いけれど、大将ちゃんの方が少しだけ華ちゃんよりも目が上の位置にあった。

 

 勘違い女ちゃんはそんな大将ちゃんを心配そうに見ている。大将ちゃんの取り巻き、からっぽ女ちゃんと馬鹿女ちゃんも、椅子から立ち上がって大将ちゃんのことをじっと見つめていた。

 華ちゃんはそんな四人のことを順番に睨みつけると、嘲笑うように唇を歪める。ねえ、と強い口調で言い放った。

 

「あんたらさ、いつもそうやって身内だけでつるんでて、なんでもかんでも自分たちが上だって顔してんじゃん?これ見よがしに勉強したり、そのくせ男子に話しかけられても傲慢ちきな態度で拒絶したりさ。そういうのって周りから見たらめちゃくちゃ鼻につくんだよね。わかんないかな」

 

 華ちゃんが荒々しく言う。大将ちゃんグループの良くないところを糾弾するために。美奈的には華ちゃんの言っていることにトータルでアグリーだった。

 

 大将ちゃんグループは、確かにみんな結構かわいい。でも、かわいいだけで何でも許されるほど人間社会は甘くない。どれだけかわいかろうが、みんなの和を乱すやつはごみくずと同じ扱いを受けることになる。大将ちゃんグループはみんなの和を乱しているのに、これまで大将ちゃんが異次元にかわいいからって許されてきた。そんなのってないよね?基本的人権とか平等とかに反してるよね?

 

 華ちゃんはそれを追求することにしたのだ。これまで放置されてきた不公正を。理不尽な不平等を。

 完全に、正義は華ちゃんの側にある。美奈はそう信じるけれど、華ちゃんのことは大将ちゃんの次くらいに嫌いだから特に援護とかはしない。表面上は清楚なおにゃのことしてはらはらしながら、心の中ではにやにやしながら、華ちゃん主演の勧善懲悪劇を見守ることにした。

 

 華ちゃんは解決編の探偵さんみたいに、にやりと笑ってスマホを突きつける。大将ちゃんは自分の罪を詳らかに指摘された犯人みたいに、たじっと狼狽え…………………………………………てはいないけれど、ちょっとだけ眉毛をぴくっと動かしたように見えなくもなかった。

 

「これだってそうだよ。あんた襲われたんだろ?だってこれ住宅街じゃん。頭から血、流してるしさ。それに太もものこれ、あざだよね?くっきりついてんじゃん」

 

 人の手の形で。華ちゃんがそう言うと、教室のあちこちから息を呑むような気配がした。住宅街、太もものあざ、そして、クラス内に不平等を産み出すくらい、異次元にかわいい美少女。それらを裏付けるらしい、実際の写真。これらを聞けば誰だってストーリーを思いつく。美奈だって思いつく。

 

 単純に、拉致されて犯られた。あるいは出会い頭に頭を殴られ、意識がないまま貪られた。それとも、茂みに引きずられ、頭を切り、公園のベンチで純潔を奪われた。

 頭の傷だけだったらそこまでのストーリーには至らないかもしれないね。けれども太もものあざ、しかも手の形のあざとなると、途端に淫靡な匂いが湧き立ってきちゃう。

 

 美奈も初めは華ちゃんの言うことを全く真に受けてなかったけど、並べられた要素があまりにそれっぽ過ぎて、あれ?もしかしてほんとに?と思い始めていた。

 

「ね、どうなの?お婆ちゃんちで山登り中に怪我したんじゃないの?それとも嘘なの?あんたみたいに顔が良かったら、そうやって事実を捻じ曲げてもらえんの?」

 

 華ちゃんの攻勢が続く。美奈的には顔が良かろうと悪かろうと女の子が襲われた時にそれをそのまま学級内に伝える教師とか普通に嫌だし、狂気の沙汰としか思えないけど、今はそんな細かいことはどうでもよかった。

 だって大将ちゃんは可愛いから。可愛い子は社会から守ってもらえるから。だったら……………………今更優しい嘘で守られる必要なんて、ないよね?

 

「何とか言いなよ」

 

 華ちゃんがスマホを見せ、大将ちゃんを糾弾する。女の子同士の戦い!って感じがして、美奈はずっと、どきどきが止まらなかった。

 美奈的には華ちゃんを援護したい。この前撮れた写真は良い感じに加工できたから、これを提供すれば更に華ちゃんの望む方向に持っていくことができると思う。でも残念なことに、今の状況とばっちり噛み合うような写真ではない。あと、実は美奈、華ちゃんとあまり仲良くないんだよね。だからここはぐっと抑えてことの成り行きを見守ることにした。

 

 華ちゃんから追及された大将ちゃんは、じっと華ちゃんのスマホを眺めていた。その大きな瞳は、血を流す自分自身の画像から動かない。そんな大将ちゃんを、それぞれの取り巻きたちが、いや、もはやクラスの全員がじっと見つめていた。

 

 何秒経ったか、分かんないけれど。

 ふと、大将ちゃんが画像から視線を切った。

 そして、スマホを突きつけている華ちゃんの顔を見る。ぱっちりしたかわいいお目目どうしが見つめ合って、二人にしかわからない言葉の応酬をしていた。

 

「そうだよ」

 

 唐突に、大将ちゃんは頷いた。華ちゃんの言ったことを………………山登り中に怪我をしたのではなく、男の人に襲われて怪我をしたのだということを、大将ちゃんは、肯定、した。

 それだけでも結構な驚きだった。まさか華ちゃんの主張が正しかったなんて。

 でも、クラスのみんなが驚いたのはそれだけじゃなかった。

 

 ()()()()()()()()()()()。その綺麗な唇をにっこり曲げて、美奈でもどきっとしちゃうような、そんな妖艶な顔で。

 

 しんと静まった教室。みんな声を発することができない。

 町田末那が男に襲われた。めちゃくちゃショッキングなニュースだ。本当ならてんやわんやの大騒ぎ、怒号と阿鼻叫喚と嘲笑が飛び交う混沌になるはずなのに。

 

 クラスのみんなは声を発することができない。大将ちゃんの笑顔に、みんな気圧されていた。

 そしてそれは、大将ちゃんを追い込んだ張本人も。

 

「…………っ、はあ?」

 

 華ちゃんは辛うじて不満そうな声を発したけれど、その後に続く言葉はなかった。

 華ちゃんの取り巻きも、初めて見た大将ちゃんの満面の笑みに思考が止まっちゃってる。華ちゃんを援護する声は上がらず、華ちゃんは自分で追及したのに途中で勢いを失ったとてもかっこ悪い人になってしまっていた。

 

「…………っは!そうだよってことは、あんたやっぱり……!」

 

 もちろん、華ちゃんはそんな不名誉なことに耐えられない。自分が一気に不利な立場になったことをその鋭敏な嗅覚で察知すると、再び攻勢に入った。

 

「そう、襲われたの」

 

 涼やかな声音だった。雑味の一切ない、芸術品のように美しい声。けれども決定的な違和感がある。言っている内容と、その声音が一致しない。

 

 大将ちゃんは、まるで歌うように、大事な思い出を語るように、襲われたの、と、己の純潔が散ったことを宣言した。

 異様な振る舞い。正直言って気持ち悪い。ひょっとして嘘を言っているんじゃないかと思う程、大将ちゃんの声音は朗らかだった。

 

 ふと、大将ちゃんが手を伸ばす。物を拾う時のような自然な動作で、目の前にあった華ちゃんのスマホを奪い取った。

 

「ちょ、」

 

 大将ちゃんの言ったことに呆然としていた華ちゃんも、大事なスマホが奪われたことで我に返る。取り返そうと手を伸ばしたけれど、大将ちゃんがした行動によってまたフリーズしてしまった。

 

「……ひっ」

「うわ……」

「え、まじ……?」

 

 大将ちゃんは奪い取ったスマホの画面を教室中のみんなに向けた。男子も女子も、そこはかとなく写真が見える位置に動いて画面を確認する。

 美奈も、大将ちゃんの行動に驚きながら、その写真を見た。

 

 おにゃのこだ。一人のおにゃのこが、ぐったりとストレッチャーに寝かされてる。目は閉じられ、意識がない。襟の部分が赤く染まっていて、かなり出血したことがなんとなく分かった。

 

 視線を下に持っていくと、ストレッチャーに乗せる時に引っ掛かったのか、おにゃのこのスカートがめくれ上がってる。短パンを履いているけど、その太ももの付け根には、確かに、指の形の青いあざがあった。

 救急車に搬送される直前の写真。角度的に民家のベランダから撮られた写真ぽかった。

 

「ご、合成とかじゃ……」

 

 由美ちゃん、改め馬鹿女ちゃんが、今にも泣きそうな眼差しで大将ちゃんに尋ねる。けれども大将ちゃんは無慈悲にも首を横に振った。

 

「ううん、合成じゃない。これは本当に、私が襲われた時の写真だよ」

 

 再び教室から息を呑む気配がした。女子たちの中には、痛ましそうに顔を歪ませている子たちもいる。特に物静かな子ほど、そういう悲痛な表情を浮かべていた。

 

 多分、年頃の女の子なら、誰もが一度は意識すること。女の子のお父さんが、メイクなんてしなくていいって言うのも、学校の先生がスカート丈にうるさく注意するのも、全ては女の子をそれから守るため。あるいは間接的にそれを意識しているから。

 

 魂の殺人。

 

 それを堂々と宣言する大将ちゃんに、ある者は痛ましいものを見る目を、そしてある者はおぞましいものを見る目を、それぞれ向けていた。

 

「…………っ、……ぅえ……」

 

 ぽろぽろと、馬鹿女ちゃんの眼から涙が零れ落ちる。本人から聞かされたショッキングな事実に耐えられなかったんだね。美奈もちょっと苦しい気持ちになっていた。大将ちゃんが女の子が経験し得る中で最も残酷な目にあったから、じゃなくて、それを朝の教室で堂々と宣言できる神経の無さに心底ドン引きしたからだ。

 

「泣かないで、由美。私は大丈夫」

 

 大将ちゃんが慈愛に満ちた目で馬鹿女ちゃんを見つめた。

 

「…………でも……でも、…………っ」

 

 しゃくりあげる馬鹿女ちゃん。どれだけ大将ちゃんに依存してるんだろう?って思っちゃって、美奈はちょっと背筋にうすら寒いものを感じた。

 

「だって、ちゃんと助けてもらったから」

「え…………?」

 

 馬鹿女ちゃんが呆然とする。ぽけ、とした顔で大将ちゃんを見つめた。

 教室内の生徒たちも、みんな似たような反応を示す。大将ちゃんが何を言っているのか、美奈にもよくわからなかった。

 

「ほら、よく見て。ちゃんと短パン履いてるでしょ」

 

 大将ちゃんがスマホを指す。確かに、写真の中の大将ちゃんはぐったりと横たわり、頭から血を流しているが、その足の付け根には黒い短パンがあった。

 一番悲惨なことは免れた。大将ちゃんはそう言うが、あまり説得力はなかった。だってその写真は、あまりにも普通からかけ離れていて、なんていうか………………もろ“そういうこと”の後にしか見えなかったから。

 

「…………助けてもらったって、誰に?警察のひと?」

 

 勘違い女ちゃんが尋ねる。彼女自身、半信半疑な様子だった。美奈も大将ちゃんの言っていることは怪しいと思う。どう見ても写真の中の大将ちゃんは意識を失っている。だったらその間になにをされたかなんて分からないんじゃないのかな?それにそれに、病院で検査をすれば襲われたかどうかなんてすぐに分かる。それでもしも襲われた女の子に、その時の記憶がなかったとして………………周囲の人は、その女の子の身に何があったのか、馬鹿正直に本人に言うかなあ?

 

 大将ちゃんは、優しい嘘に守られているんじゃないか。美奈は勘違い女ちゃんがそう思っているんだろうな、と思った。

 まあ、でも。仮にそう思ったのならあんまり突っ込むべきじゃない。案の定、その可能性に思い至った華ちゃんが嘲笑するような笑みを浮かべた。

 

「それ、うちも気になる。誰に助けてもらったの?」

 

 にやにやと笑いながら、華ちゃんは大将ちゃんに尋ねる。きっと、大将ちゃんの答えから矛盾や不自然な点を見つけたいんだね。そこから大将ちゃんを守っている、ふんわりふわふわした善意の嘘を破り去って、大将ちゃんの心に風穴を開けたいんだ。

 大将ちゃんは持っているスマホを抱き寄せた。そうしてとっても幸せそうな笑みを浮かべると、歌うようにこう言ったの。

 

「私の、王子様」

 

 正直なところ、美奈はちょっと興味を失いかけた。だって大将ちゃんが、あんまりにもぱっぱらぱーなことを言うから。女の子の「終わり」を生々しく想像させるような写真をわざわざ教室中のみんなに見せておいて、なのに肝心の自分を助けてくれた人は夢見がちな女の子の妄想みたいに王子様なんて言う。きっとクラスのほとんどの人は、大将ちゃんは自分が見たい夢を見ているんだと、そう思ったと思う。

 

 苦しい現実から目を背けるために。

 自分で作り出した夢に、浸っているんだと。

 

「へええ」

 

 華ちゃんが嬉しそうな声を上げた。本当にもう、心の底から嬉しそうな声音。

 華ちゃんは、大将ちゃんの言ったことを繰り返す。

 王子様、王子様かあ。

 喜色の混じった声でそう呟く。嬉しそうな華ちゃんに対して、勘違い女ちゃんとからっぽ女ちゃんはというと、なんだか辛そうな顔をしていた。馬鹿女ちゃんに至ってはまた泣き出しちゃってる。

 ふと、華ちゃんはぐり、と大将ちゃんに目を向けた。

 

「その王子様って、どんな人?」

 

 ほら、背格好とか、顔つきとか。華ちゃんはそう言い、大将ちゃんの返事を待つ。

 大将ちゃんはぱっと顔を輝かせると、一つ一つを歌うように言った。

 

「顔はちょっと子どもっぽくて、女の子みたいに色が白いの。体の線は細いんだけど、不思議と頼れる感じで…………ああ、あと、男の人にしては睫毛が長くて…………なんか、耽美な感じ」

 

 容姿について語る時、ちょっとだけ大将ちゃんは恥ずかしそうにした。

 美奈的に、大将ちゃんが言ったことは意外だった。あの大将ちゃんが、自分が作り出した夢の中の存在とはいえ男の人の容姿を肯定的に評価するなんて。

 よっぽどその人が気に入ったみたい。まあ、夢の中の存在だけど。

 

 あれ、でも、なんか変かも?美奈は心の中で頭をひねる。けれども具体的にどこに違和感を抱いたのかは、大将ちゃんが言葉を続けたのでわからなかった。

 

「それで、私をその腕で、ヒーローみたいに助け出してくれたの。記憶はないんだけど、きっと、かっこよかったんだろうなあ」

 

 大将ちゃんは本当に幸せそうにその人について語る。クラスのみんなはそれぞれの面持ちで彼女の言葉を聞いていた。

 

「……ふっ、ふぐっ……そ、それで……?」

 

 一人だけ、笑いを堪えながら華ちゃんは続きを促す。おかしくて仕方がないといった様子で、大将ちゃんの言葉に耳を傾けていた。

 

「それでね、普段はぼんやりしてて、何を考えているのか分からないんだけど…………それでも、私の嫌がることは絶対にやらない。なのに、ピンチになったら颯爽と現れて、私のことを助けてくれるの。これってとっても素敵なことでしょう?」

 

 予鈴が鳴った。一限目の始まりが近づいている。美奈的にはもっと大将ちゃんの妄言を聞いていたかったけど、時間が来ちゃったならしょうがない。華ちゃんがこんな面白いものを放っておくなんてありえないし、続きはまた次の休み時間に見られるかな。

 

「へ、へえ……ふ、くくく」

 

 遂に堪え切れなくなったのか、華ちゃんは笑い出した。他のみんなは予鈴が鳴ったことで我に返ったのか、それぞれの席に戻っている。中には華ちゃんに対して不快感を露わにする人もいたけれど、実際に彼女を止められる人はいなかった。少しだけ緊張が解けた空気の中で、ふと思いついたことがあるのか、華ちゃんがぱっと顔を上げた。

 

「その人の、名前は?」

 

 視線を切った人たちも、ちらりと大将ちゃんのことを見る。いったいどんな名前が飛び出すのか、美奈もわくわくした。

 誰だろう?芸能人の名前かな?それともアニメキャラクターかな?それともそれとも歴史上の人物とかかな?

 

 まあどんな名前でもいいけど、できるだけ有名な名前が良いかな~。アイドルの名前とか、俳優とか。だってだって、みんなが知っていればいるほど、大将ちゃんの話が妄言である信憑性は高まるもんね!

 

 美奈は頭の中で芸能人の名前を思い浮かべる。こういう時、一番面白い名前は何だろうね?

 

 どんな名前でも、大将ちゃんが、町田末那が襲われ、本人はその記憶を捻じ曲げたという噂は広まるだろう。美奈的には、華ちゃんが「レイプされたって本当?」と訊いた時点で結構お腹いっぱいだったけれども、この面白劇場の最後の味付けがどうなるか気になって、ついつい大将ちゃんをガン見しちゃった。

 

 華ちゃんの質問に対して、大将ちゃんは蕩けるような笑みを浮かべた。見るもの全てを魅了するような、蠱惑的な笑み。その笑みは、その表情は、誰がどう見ても__

 

 __恋する、女の子のものだった。

 

「あらやくん」

 

 美奈は即座に、頭の中でその名前を検索した。あらや、あらや。ちょっといかつい名前。だからこそ芸名って感じがする。アイドルかな?俳優かな?う~~~ん。だめだ。思いつかないなあ。

 ちらっとみんなの顔を見るけど、あらや、という名前に心当たりのありそうな子は誰もいなかった。

 

「………………え?」

 

 ふと、華ちゃんが呆然としていることに気が付いた。その表情が、大将ちゃんの言ったことが彼女にとって心底意外だったと示している。

 美奈はそんな華ちゃんに目を向けた。美奈的にあらやって名前はあんまり面白い名前じゃなかったけれど、華ちゃんには心当たりがあるらしい。でもなんだろう、華ちゃんの反応がちょっと、思っていたのと違うかも……??

 

 華ちゃんは眉をひそめると、大将ちゃんに向かって口を開いた。

 

「あらやくんて………………どの、あらやくん……?」

 

 尋ねる華ちゃんの態度は、妙に弱弱しい。美奈はそんな様子を見て、なんでだろう?って首を傾げる。

 あらや、っていう名前は、そんなに有名なのだろうか。そういう名前の凄腕の用心棒とかがいるのかな?でも、華ちゃんの目は、そういう、本当に守ってもらえたんじゃないかっていう懐疑の目じゃなくて、もっと不安そうな…………思いがけないところで好きな人と恋敵が会ってた、みたいな、そんな乙女チックな感情を湛えていた。

 

 そんな不安そうな華ちゃんの問いかけに、大将ちゃんはにっこりと笑う。

 そうして大将ちゃんは、今日一日中の話題をかっさらっていくような、そんなとんでもない爆弾を投下した。

 

「隣のクラスの、あらやくんだよ」

 

 

 

 

 



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引き摺り出される罪

 そよりと爽やかな風が通り抜け、髪の毛を揺らしていく。風に乗った香気を逃すまいと深く呼吸すると、思いがけない冷たさに少し驚いた。

 アスファルトの上で足を止め、空を仰ぐ。突き抜けるような快晴。筆を走らせたような薄い雲がちらほらと見えた。

 

 そういえば今朝のニュースでお天気お姉さんが言っていた気がする。なんでも今年は冷夏だったため、秋の訪れもその分早くなると。俺は夏が終わったことを理解し、止まっていた足を再度動かす。どこかの庭にでも植えてあるのか、ほのかに金木犀の香りがした。

 

「おはよ~」

「はよー」

「おっす」

「うぃっす」

 

 登校中の生徒たちは互いの顔を見つけると挨拶を交わす。一人の女子生徒が小走りで別な女子生徒に近づき、わっ!と声をかけた。驚かされた方はびくりと身を震わせ、声の主を把握すると「もう~」と小突く。その顔は笑顔だった。足を晒した彼女たちは今日寒くない?と気温の変化を確かめ合いながら校門を抜け、校舎へと歩いていく。ぼんやりとその光景を眺めていた俺も、のそっと足を振り出し、のそりのそりと校門へと歩いていった。

 

 登校中の生徒の波。祐天寺駅から日白高校へと歩く生徒たちで、歩道はごった返している。校舎へと歩く生徒たちの様子は様々だ。だるそうに足を振り出す者、友人とはしゃぎながら歩く者、地面を見つめながら黙々と歩く者。皆それぞれの面持ちで歩いている。髪型も雰囲気もばらばらな彼らの間に強いて共通点を探すのであれば、歩道を歩く彼らは全体的に浮ついていた。

 

「ね、明日ひまなつ公開だよ。見に行く?」

「行く行く~」

「あ、それ私も気になってた!」

「窪田くん主演でしょ?私も行く!」

「バルト9でいいよね?」

 

 ゆっくりと歩く女子の一団は映画に行く約束を取り付けている。今日を乗り越えれば明日は土曜日だ。歩きながら友人と会話している者たちは、彼女たちのように休みの予定について語らっている者が多かった。

 

(休みの予定か……)

 

 タイルを踏みしめ、校舎に入る。下駄箱から内履きを取り出しぽいと放る。靴を履き替えると、教室に向けて歩き出した。

 

(まあ、またボランティアかなあ)

 

 ぺたぺたとワックスの塗られた廊下を歩きながら、俺は休日の予定を思い浮かべる。ボランティア先のビル群が脳裏に広がっていた。

 

(精神操作の呪詛師、か)

 

 下駄箱の傍にあるドでかい鏡を通り過ぎ、階段へと向かう。朝練の後なのか、ジャージ姿の男子たちがそんな俺を追い越して行った。

 いつぞや五条さんから警告を受け、その後討伐作戦に招聘されることになった件の呪詛師。その討伐作戦は今もなお継続中だが、残念なことに成果はない。加えてここ数週間は呪詛師本人どころかその被害者すら一人も見つけられていなかった。

 

(こんだけやばい呪詛師…………どんな面してんだろ)

 

 悪辣な呪詛師。俺はその容貌を想像する。

 

 目元に隈を染みつかせ、ガンギまった目でナイフをぺろぺろ舐めるサイコキラー。

 目じりに笑い皺を刻んだ好々爺。

 フードを目深に被り無精ひげを生やした、小汚い中年。

 

 段々頭の中がむさ苦しくなってきたところで、ふとその姿がぱっと浮かぶ。

 

 ――――極度の男性嫌いを患っている、スーツ姿の女性。

 

(女性…………そうか、女性も有り得るのか)

 

 ふとした思い付き。けれどもこれまで排除していた可能性。俺はその可能性を頭の中で転がせた。

 もしも、件の呪詛師が女性だったら――

 

 階段を上りながら、俺は想像する。ほわんほわんほわーん、と、俺の脳内であらやくん劇場が開演された。主演は当然、絶賛追跡中の精神操作の呪詛師だ。

 

 ――赤いドレスに、耳にはピアス、足元は高めのヒールで、手には薄いハンドバック。ゴージャスな格好の彼女は夜な夜な都心に足を運び、人の多い繁華街を練り歩く。賑やかな通りを歩いていると、ふと彼女の嗜虐心をそそる人間が目についた。彼女はその男に近づくと、ただ一言『ついてこい』と言う。言われた男はぼんやりした顔で彼女の後を追い、路地裏に消えていく。

 ふと、女が路地に消える直前、その相貌が露わになった。ネオンに照らされて見えた顔、はっとするほど美しいその顔は、意外なことに殆ど化粧をしていない。素のままで十分に美しい女は、その茶色がかった髪を揺らしこちらを振り向く。彼女は俺の存在を認めると、その赤い唇を嗜虐的に歪め――

 

(…………なんで末那なんだよ)

 

 眉を顰めた。唇を噛み、それ以上の想像を打ち切る。俺は自分に対し舌打ちをした。

 

(なんで…………んなこと有り得ねえのに…………ああ、くそっ)

 

 頭を掻きむしりたい衝動を抑える。踊り場で男子生徒が語らっていた。彼らの横を通り過ぎ、階段を上り切る。どこからかブラバンの音が聞こえてきた。

 

 微かに届く楽器の音を聞きながら、俺は教室に向けて歩く。今しがたの想像を振り払うようにかぶりを振った。けれども脳裏には、ネオンに照らされて怪しく嗤う末那の姿が残像のようにこびりついていた。

 末那は非、術師だ。だからこの想像は有り得ない。なのに俺の頭の中では、彼女が呪詛師として術式を使い、無辜の人間を弄ぶ様子がはっきりと思い描かれていた。

 想像上の彼女は男から金銭を奪い、いらなくなった財布を路地に放る。彼女は男に顔を近づけると、その耳に呪詛を流し込んでいった。

 

『お前は豚だ』『時計を怖がれ』『食事で手を使うな』『虫に発情しろ』『ゲイになれ』『性器を認識できない』『苦しめ』『電車を見るととても悲しい』『舌を噛み切れ』『クライアントは糞野郎だ』『首を吊れ』『お前は鬱だ』『飛び降りろ』『この世の全てに絶望しろ』『自殺しろ』『生きる意味を失え』『死ね』――

 

 

 

 

 

 *

 

 

 チャイムが鳴った。国語教師の松浦は「ここテストに出るかんな、復習しとけよー」と野太い声で言い、チョークを置く。彼は手についた粉を払うと、開いていたテキストを閉じ、重ねる。教科書を始めとした数冊のテキストを分厚い手で持つと、ごつごつと足音を立て教室を出て行った。

 

(…………?)

 

 どでかい図体とがさつな振る舞い。それらの外見とは裏腹に繊細な授業を展開することに定評のある国語教師松浦が出て行くと、教室内は弛緩した空気に包まれる。気だるげにスマホをいじる者たち、数人で集まって昨日見た配信について語り合う者たち、グループ外の者には分からない暗号のような言葉で会話する者たち。彼らはそれぞれに領域を定め、その範囲内にいる者とだけコミュニケーションを取っていた。

 

(…………なんか……見られてる……?)

 

 そんな中、俺は心の中だけで首を捻る。どこかから見られているような気がした。

 

「……、…………」

「………………っ…」

「………………」

 

 視線を感じる方向。俺は顔を向けずにちらりとその方向を見やる。次いで何気ない動作でバッグから次の授業の教科書を取り出した。物理の教科書を机に置くと、頬杖を突き窓の外を眺める。窓枠に切り取られた住宅街が見えるが、俺の脳裏には先ほど見た光景が焼き付いていた。視線を感じた方向にちらりと目をやった時、一瞬だけ見えた光景。

 

 教室の隅、女子生徒たちが顔を寄せ、何やら会話している。彼女たちは俺の方をちらりと見ては、仲間内でひそひそと囁き合っていた。

 

(なるほど、モテ期か)

 

 女子、内緒話、ちらちらと向けられる視線。それらの要素から導かれる結論。それすなわちモテ期の到来。誰だってこれらの要素を並べられれば容易くその解答にたどり着くだろう。俺は気分が高揚したことを自覚した。っか~そっか~!!時代、俺に追いついちゃったか~!っべ~、どうしよ???

 

(…………なわけ)

 

 モテ期だわっしょいと舞い上がる自分自身に突っ込みを入れ、ため息を吐く。頬杖を突き窓の外を眺めた。多分だけど俺に視線を向けていた彼女たちの会話はこんな感じだ。

「あ、陰キャくんがいるよ~」

「ほんとだ~つかいつも一人だよね?友達いないのかな?かわいそ~~~」

「作んないのかな??」

「作れないんじゃね(笑)」

「ちょ(笑)ゆっこひど(笑)」

「でもそんな感じする(笑)」

「わかる(笑)」

「いっつも本読んでるよね(笑)」

「オタクじゃん(笑)」

「キモ(笑)」

「でもさ、意外とああいうタイプが大学でチャラくなったりして(笑)」

「陰キャオタク大学デビュー(笑)」

「でも友達はできない(笑)」

「高校で友達出来ないやつが大学でいきなり友達出来るわけないんだよなあ(笑)」

「(笑)」

「ぼっちくんドンマイ(笑)」

「でも大丈夫(笑)陰キャくんには二次元がある(笑)」

「俺の嫁ってやつ?キモ(笑)」

「ぼっちくんまじ妻帯者(笑)」

「幸せ者(笑)」

「一生童貞なんだろうなあ(笑)」

「いっしょうどうてい(笑)」

「やば(笑)お腹痛い(笑)」

「ゆっこ(笑)ひど(笑)」

「ぼっちくんにも人権あるし(笑)」

「え~~~(笑)でもそんな感じしない?(笑)」

「まあ分かる(笑)」

「Vtuberにスパチャしてそう(笑)」

「それ分かりみ深すぎ(笑)」

「それ絶対親の金(笑)」

「ちょ(笑)ぼっちくんニート(笑)クソニート(笑)」

「社会問題(笑)」

「陰キャコミュ障ニート親のすねかじり童貞ぼっちくんとか(笑)生ける社会問題の見本市(笑)」

「ちょ(笑)ゆっこギャグセン高杉(笑笑)」

「(爆笑)」

「(嘲笑)」

「(大爆笑)」

 

(…………おそらあおい)

 

 窓枠に切り取られた住宅街の向こう。鮮やかな空が広がっている。きらりと何かがよぎった。俺の涙だった。

 あ、鳥。

 

(妄想はおいといて………………妄想だよな?…………末那と噂になったのは、もうひと月以上前だし……)

 

 羽ばたく鳥を見ながら、俺は同居人の少女を思い浮かべる。俺自身が注目されるような出来事に心当たりはない。ならば俺ではなく美少女の方か、と視線の理由に当たりをつける。が。

 

(うーん)

 

 なんだかそちらも違う気がする。学校で彼女と接触したことはあの初邂逅以来一度もないのだから、噂話好きの彼女たちにしたって俺と末那を繋ぐ要素は何もないはずだった。

 

(まさか…………)

 

 目を見開く。あまりよろしくない可能性。俺はそれを胸中で言葉にする。

 

(一緒に住んでいることがばれた……?)

 

 まさかまさかの可能性。最悪中の最悪だった。

 

(もしそうだとしたら……………………いや、本当にそうか…………?)

 

 俺は再度首を捻る。どうもそれも違うような気がした。俺は何故そう思ったのか、自らの思考を探ってみる。

 冴えない男子と誰もが魅了される美少女が同棲。高校生活やってても中々ないゴシップだ。今の時代スマホを突っつけば娯楽には事欠かないが、とはいえ誰だって身近なスキャンダルには心惹かれる。俺たち高校生はいつだって異世界転生やテロリストやアルマゲドンを夢想し空想し妄想しているものなのだから。

 

 事件に憧れ、テロに憧れ、ここではないどこかに憧れて。そうして俺たちは退屈を紛らわせている。麻薬のようなコンテンツの奔流に身を浸らせて、現実から目を背けている。

 何故なら俺たちは皆、自分にスポットライトが当たっていないことに薄々気が付いているから。ライトを浴びられるのは生まれながらに特別な才能を持っている一握りの者たちか、彼らにたまたま近かった者たちだけなのだ。高校生になった俺たちはそれに気が付き始めている。

 

 そして多くの場合、俺たちはそのライトを無理矢理自分に向けさせるスキルも、家柄も、努力の積み重ねさえも持ってはいないのだった。

 

 自分がライトを浴びられないのなら、ならばせめてライトが当たった場所に群がりたい。群がって面白可笑しく楽しみたい。そうしてここに非、日常があるのだと。

 私たちは普通の高校生が体験できないことを体験できているのだと。

 僕の境遇は、環境は、生まれは、生活は、あの漫画に、あの小説に、あのアニメに、あの芸能人に、あのアイドルに、あの配信者に。少しだけ近いのだと、そう思いたい。

 つまるところ俺たちは皆、画面の向こう側にいる、魂の限り人生を謳歌している者たちを見て、自分は彼らと同じくらい人生を楽しめているのだと、そう思い込みたいのだった。

 

 恐らくは10代に特有の執念にも似た青い欲望。しかし、俺に視線を向ける彼女たちからも他のクラスメイトたちからも、それらは感じ取れなかった。

 

(じゃあ、なんだ…………?)

 

 美少女でないなら何なのか。俺は空を泳ぐ鳥を目で追いかけながら、視線の理由を再度考えた。

 

(…………通知?)

 

 ふと、スマホの震えに意識を引き戻される。画面を見ると、震えの回数から分かっていたがメッセージの通知だった。ロック画面に表示された短冊形のそれをタップすると、ぐいんと緑の画面がせり出してくる。

 

(え…………?)

『一つ、お聞きしたいことがあるのですが』

 

 画面に表示された簡素な文章。けれども俺はそのメッセージの送り主の名前を見た時、確かに自分の目が見開かれたのが分かった。

 

(末那から…………!?)

 

 画面上部に記された文字列。アカウント名を示すそこには、はっきりと「町田末那」と書かれてあった。

 予想だにしない、完全に意識の外から来た一撃。

 その一撃に何と返信すればいいのか。俺は返信欄で文字列を書いては消してを繰り返す。急速に頭を回転させながら、ああでもないこうでもないとスマホを突っついた。

 

『いつも昼食は教室で済ませていますか?』

 

 そうこうしている内に末那から次のメッセージが来る。速さ的に俺の返事を待つつもりはなかったようだ。俺は変に返答して会話のテンポを乱さなくてよかったと安堵した。

 

『というより、お弁当は昼休みに食べていますか?』

 

 ひゅぽん、と補足的な内容が送られてくる。俺はたどたどしい手つきで返信を入力した。

 

『昼休みはいつも教室にいます。弁当はその時食べています』

 

 送信ボタンを押すと瞬時に既読が付いた。数秒も経たず、次のメッセージが送られてくる。

 

『分かりました』

 

 了承の言葉。続きを待つが、数十秒経っても新しいメッセージは送られてこなかった。

 教室の扉が開かれ、白衣の中年男性が姿を見せる。席を立っていた生徒たちは教師の登場で席に戻り始めた。俺は時計をちらりと確認すると、まだ二限目の始まりまで余裕があることを確認する。握りしめていたスマホを机に置き、末那からのメッセージを待った。

 

「…………」

 

 秒針が一周し、二周目に入る。授業開始まであと半周というところになっても、俺のスマホは震えなかった。

 

(…………俺の昼休みの予定…………?)

 

 続くメッセージがないということは、末那の目的は達成されたということか。俺はスマホを持ち、末那とのやり取りを見返す。他人行儀な文章のやり取り。それらのやり取りから彼女の意図を読み取ろうとした。

 

(『教室で済ませていますか』……………………昼休みに俺がどこにいるかを知りたかった…………?)

 

 画面を睨み、むむむと頭を捻る。

 

(………………俺と鉢合わせたくないから?)

 

「教室にいるか」は、「教室以外にいるか」と読むこともできる。俺と会いたくないからその俺の動向を尋ねた。そう考えるのはしっくりくる気がした。

 良くも悪くも、俺は末那にとって身近な異性だ。身近、といっても今のところ物理的にと付くが、それでも彼女が日常において俺という異性を目にする頻度は高い。トラウマのフラッシュバック、あるいはPTSD。それらについての知識はないが、触れ合う頻度が高いからといってその人物に対してだけは耐性がつくような、そんな単純なものではないだろう。

 

(でも………………『弁当』か…………)

 

『というより、お弁当は昼休みに食べていますか?』

 補足的に送られてきたメッセージ。俺はそのメッセージに首を捻る。いつも昼休みは教室にいるのか?と訊いた後でこう訊くということは、末那にとって俺が昼に弁当を食べるかどうかが重要だということだろうか。

 

(………………分からん)

 

 頭をかき、窓の外を眺める。今度は鳥が二匹、番いのように仲良さげに空を飛んでいた。

 

 俺と鉢合わせたくないのならば、弁当をいつ食べるかと訊く必要はない。確かに食べている間は拘束されるので、その間は俺が昼食を摂っている場所にさえ末那が行かなければ俺と鉢合わせることもないが、その尋ね方には違和感が残る。どうしても俺と会いたくないのならば、昼休みという時間的に限定された振る舞いを尋ねるのではなく、俺が属している委員会とか部活動を尋ね、そこから俺がよく行くと考えられる場所をあらゆる時間帯において避けるのが、最も俺と出会う確率を減らせるのではないだろうか。

 

 そこまで考えたところで、授業開始を知らせるチャイムが鳴った。俺はスマホを仕舞い、教科書をぺらぺらとめくる。中年の教師が授業の進捗具合を確認し、今日の内容に入っていった。

 俺は漫然とそれを聞きながら、距離感の掴めない同居人のことを思う。それが俺と会いたくないからだったとしても、「メッセージを送ってもいい」程度には忌避されていないのかと思うと、少しだけ救われた気がした。

 

 

 *

 

 

『お昼休みに伺うので、席で待っていてもらえますか。私が行くまで、お弁当を机の上に出さないようにしておいてください』

 

 

 *

 

 

 チャイムが鳴り、教師がチョークを置く。教科書を確認し進み具合を確かめると、彼女は課題を告げて去っていった。

 生徒たちは課題の範囲を書き留めると、それぞれの行動に移る。購買に走る者、早弁したのかボールを持ち中庭へ行く者、机を動かし、友人と弁当を広げる者。彼らを横目に見ながら、俺も昼食を摂ろうと傍らのバッグに手を伸ばした。

 

 バッグに伸ばした手。ふと、その動作がぴたりと止まる。末那から送られてきていたメッセージがフラッシュバッグのように脳裏によぎった。別に忘れていたわけではないが、ついいつもの習慣で弁当箱に手が向いてしまった。

 

「どしたん、あらやん」

 

 隣の席の男子が不自然な体勢で固まった俺に声をかける。俺はバッグに伸ばしていた手を引っ込めると、ついさっきまで開いていた教科書をもう一度開いた。

 

「ああ、いや、ちょっと」

 

 歯切れの悪い返事をし、教科書の表面を撫でる。白い背景にゴシック体で公式が強調されていた。

 

「なんや、もう課題やってまうのか。ほんと真面目やなあ」

「ああ、まあ…………ね」

 

 もにょもにょと返事をし、俺はノートを開く。そのまま数式を書き連ねていった。えーっと、サインコサインタンジェント……すいへいりーべーぼくのふね……これは元素記号か。

 

「え?」

「お?」

「あれっ」

 

 そうしてノートに記号だか数式だかポエムだかわからないものを書き連ねていると、ふと教室がざわめく。抜き打ちテストを告げられた時のような、完全に虚を突かれた時のどよめき。俺は周囲から聞こえるそれらを努めて無視し、ただひたすらノートに向かってペンを動かした。

 

「なんだろ」

「用事?」

「委員会とか?」

 

 ざわめく教室。交わされる憶測の言葉に意識を向けないようにしながら、俺はひたすらに元素記号を書き連ねていく。

 えーっと、水35ℓ、炭素20kg、アンモニア4ℓ、石灰1.5kg、リン800g、塩分250g、硝石100g。イオウ80g、フッ素7.5g、鉄5g、ケイ素3g、その他少量の15の――

 

「あらやくん」

 

 ――元素ぅえあ?

 聞こえた声。それは透き通っていて、俺の耳にするりと入り込む。女性の声だ。教師で俺を「あらやくん」と呼ぶ者はいないので、この声は正確には俺と同じ高校生の少女のものだった。

 

 正直俺は、教室内がどよめいた時点でその声の主がここに来るであろうことは予見していた。一限目と二限目の間に送られてきていたメッセージ。その指示通り、俺は机の上に弁当を出していない。何のための指示なのかは分からないが、彼女なりに考えがあってのことなのだろうと思い、その理由を追及することはしなかった。あるいは聞けば彼女は教えてくれたのかもしれないが、今朝見た瞳が。怯えた表情が。俺に「訊く」という選択肢を採ることを躊躇させた。

 

 それは、「詰問するようになることが嫌だった」というわけではなく。

 結局のところ、彼女からどんな理由を聞かされようが。

 彼女の言う通りにするという選択肢以外を、俺が採ることはないのだから。

 だからまあ、別にいいか、と。俺は彼女に理由を問うことはなく、その不可思議な指示に唯々諾々と従うことを決めたのだった。

 そんなわけなので、教室内がざわついた瞬間、俺は何が起きているのかを理解した。誰が侵入ってきたのか、その人物は誰を目当てにしているのかを。

 そうしてその人物は俺の席の隣まで来た。数か月を共に暮らしているのだ、気配で分かる。そうして彼女は、俺にこう呼びかけた。

 

 あらやくん、と。

 

 その瞬間、俺を襲ったのは強烈な違和感だった。

 例えるならそれは――――動物の求愛。鳥がメスを呼ぶような、犬が寂し気に鳴くような。そんな、声をかけた対象に己の全部を預けてしまうような響き。そういう響きが、あらやくん、と、俺を呼ぶその声音に込められていた。

 

 拒絶でも無関心でも無遠慮でも諦観でもなく。

 己の価値全てを預けるような響き。

 端的に言って。

 その声は。その縋るような声音は。

 とてつもなく、甘かった。

 甘く、甘えた声だった。

 

「……………………ナンデショウ」

 

 出来の悪いAIみたいな口調で言いながら、俺はギギ、ギギギ、とロボットみたいな動きで振り向く。それはあるいは、恐る恐る、と言ってもよいのかもしれない。もしくはそれとも――――怖る怖る、とも。

 およそ甘い声への反応としては最も似つかわしくないであろう動作で、俺は声のした方向を振り向く。振り向いた先、手を伸ばせば触れられる距離に、その人物はいた。

 俺を呼んだ人物。俺をとんでもなく甘えた声で呼んだ人物。

 美しい少女だ。

 俺はその姿を見て、改めてそう思う。

 整った鼻筋、透き通るように白い肌、艶やかな唇。初めて見た時と変わらない、可憐で美しい少女。出会った時と変わったところがあるとすれば、少し髪が伸びたくらいか。

 彼女は制服に身を包み、その両手を体の後ろに回している。少し垂れ目な瞳を潤ませ、その表情に小さじ一杯ほどの不安を滲ませると、俺に対しこう言った。

 

「お昼ご飯は…………まだ、だよね?」

 

 瞳を潤ませ、更には少し不安げに、少女はこてん、と首を傾ける。可憐な仕草。人によってはあざといとも取れる仕草。しかし「あざとい」ということは、それだけ異性を惹きつける仕草であるともいえる。なぜならそれは、「この人に己を好きになってほしい」という心の現れだと解釈できるから。目の前の異性の関心を全て己に向けさせようとする意志。あるいは最愛の恋人の興味を何とかして引こうといういじらしい乙女心。純粋で健気で、でもはっきり好きだとは言えない、けれども自分のことはちゃんと見ていてほしい。そんな恋する乙女の純度百パーセントの「好きアピール」が、その仕草には込められていた。

 それを見て。

 その仕草を見て。

 意外なほど――――そう、それは本当に意外だったのだが――――少女から混じりけのない好意(のようなもの)を立て続けに向けられて。

 思わず抱きしめたくなるような少女に、そんな想いを向けられて。

 俺は。

 

 ――――鈍器で殴られたかのような衝撃を受けていた。

 

 くらくらする脳みそ。とんでもないインパクトを持ったその光景は、もはや物理的な衝撃を伴って俺の頭を揺らす。しかしこれは、この衝撃は、目の前の少女の可憐さにやられたからとかそういうことではなく、いやもしかしたらそれもあるのかもしれないが――――というかそっちの方が遥かに幸せなのかもしれないが――――そういうことでは多分全くなく。

 

 己の全てを預けるような声音。加えて自らの所持する武器を全て使って目の前の人物の気を引こうという純度百パーの乙女心。

 そんな感情を、美しい少女に。

 共に暮らしてはいるものの殆ど接点のない少女に。

 かつて俺をプリンタや冷蔵庫を見るのと同じ目で見ていた少女に。

 今日の朝怯えた目で俺を見ていた少女に。

 衆人環視の元で向けられるという状況は。

 ――――いったい、何を意味するのだろうか。

 

(怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い)

 

 完璧な少女のこの上なく可愛い仕草。首をこてんと傾け、さらさらな髪が頬にかかる様子はそれだけで雑誌の表紙を飾れそうなほど可憐で愛らしい。目の前の少女は可憐である。それもこの上なく。ここまでは俺も異論はない。空の上で五条さんもうんうんと頷いている。

 けれども、その腹の内も外見と同じように愛らしいか。正直、俺はそうは思えなかった。五条さんも首を横に振っている。その顔つきは神妙だった。殴りてえ。

 

「…………ウン、マダダヨ」

 

 俺は黎明期のAIみたいな口調で返答する。多分だけど今のAIの方がもうちょい高性能。しかし俺のそんなプログラム未満の感情しか込められていない返答を聞いた末那は、どういうわけか華やぐような笑みを浮かべた。怖い。

 

「じゃあ、あの…………これ」

 

 そうして、後ろ手に持っていたものをおずおずと俺に差し出す。その仕草に導かれるまま手元を見ると、そこには薄い水色の巾着が。箱のようなものが入ったそれを、彼女は白くしなやかな手でつまみ、俺に対して差し出していた。

 

「…………?」

 

 殆ど反射的にそれを受け取る。両手で持つと、巾着に包まれた輪郭がはっきりと手に伝わってきた。

 

(…………弁当?)

 

 祖母ちゃんが作った弁当。末那用に量が少なめになっているはずのそれは、しかし俺の手に妙にずっしりとその重みを伝えてきた。

 

「あ…………っと」

 

 末那が何かを言い淀む。胸にかかる髪をつまみ、視線を明後日の方向に向けた。

 俺は巾着を持ちながら、その可憐な仕草を見つめる。頭の中はもうしっちゃかめっちゃかだ。「何でこんなことするの…………?(泣)」という疑問から、「あびゃ~まなたんかわええんじゃあ~(泣)」という可憐さへの賛辞、そして「怖いって。あと怖い(泣)」という恐怖。渾然一体となった感情は試験管内の化学反応が収束するように一つの極致へと至る。「泣きたい(泣)」

 打たれ弱いことに定評のある俺は殆ど泣きながら末那を見る。俺が見つめる中で彼女はふと顔を上げると、そのぱっちりした目で俺のことを真っ向から見据えた。俺は彼女の瞳に自分の姿を発見する。黒く澄んだ虹彩に映し出された俺は、とても小さく矮小な存在に見えた。

 突き刺すような視線で俺を捉えながら、彼女は一歩、俺に向かって踏み出す。軽やかな動作だった。

 

(…………っ)

 

 直後、ふわり、と甘い匂いが鼻先を掠める。甘い、キャラメルのような匂いだ。俺はその甘さに覚えがあった。

 それは家でのこと。廊下を通った時、洗面所に入った時、夕食後に食器を片づけている時、帰宅し自室に向かうためリビングを横切り、その際ソファに座る末那の側を通り過ぎた時、そんな時。日常においてふとした瞬間に香る匂い。温度を伴った甘い匂い。

 末那の匂い。

 それが、末那が俺に対し一歩近づいたことで、はっきりと俺の嗅覚に訴えてきていた。

 

WTF(What the Fuck)!?)

 

 俺は混乱の極みにある頭で「何故」と問う。何故同じ柔軟剤を使っているはずなのにこんな匂いがするのだろうかと。女子だから?それとも美少女だから?多分一生かけても解き明かせないであろう謎を抱きながら、俺はその甘ったるい香りから逃れようと身を引いた。けれども椅子の上にいる俺にはハナから逃げ場なんてない。そんな動作で稼ぐことが出来たのはほんの数cmで。

 互いの体温が感じられるほどの至近距離。睫毛の本数すら数えられそうな距離で、彼女は内緒話をするように、けれども隣の人間や耳をそばだてている人間には聞こえるくらいの声で言う。

 

「…………卵焼きの感想、教えてくださいね」

 

 ぽしょり、と。告げられた言葉は、やっぱり甘くて。彼女は呆然とする俺に少しだけ笑った。身を離す時、彼女の髪が俺の頬をくすぐる。ぞわりとした感覚。俺の総身が震える。恐怖と混ぜ合わされたその震えは、しかしほんの少しだけ快感のようでもあった。

 詰めた時と逆の動きで一歩下がった彼女はくるりと後ろを振り返り、教室の扉へと歩いていく。モーゼが海を割るように彼女の進行方向にいる生徒たちが彼女を避けていった。

 

「…………っ」

「…………♪」

 

 教室を出る直前、彼女は振り向き、ひらひらと手を振る。それが誰に向けて振られたものなのか。俺を含め、分からない人間は少なくともこの教室内にはいなかった。

 

「………………」

「………………」

「………………」

 

 水を打ったような静寂が教室内に降りていた。隣のクラスの喧騒が廊下越しに聞こえてくる。時折笑い声が差し込まれ、それが滑稽な己を嗤っているように思えてしまった。

 凄まじい空気の中、俺は渡されてからずっと手の中にあった水色の巾着に視線を落とす。弁当。弁当だ。俺はここに来て漸く末那の指示の意味を完全に理解していた。

 人を殺せるんじゃないかってくらいに突き刺さる視線の中、俺は手の中の弁当を机の上に乗せる。爆弾処理みたいな手つきでそっと巾着から取り出した。

 檸檬を爆弾にして雑貨屋を吹き飛ばす文豪は教科書にいるが、弁当を核弾頭にして同居人を蒸発させる女子高生がいたとは。事実は小説より奇なりというのは、間違っていなかったようだった。

 

「…………いただきます」

 

 途方もなく益体もないことを考えながら(あるいはそれは現実逃避なのかもしれない)ちっっっさい声で言い、弁当を開く。几帳面に食材が詰め込まれた弁当箱には、確かに卵焼きが入っていた。俺は箸のケースを開き、水色のそれを取り出す。末那用の箸は俺のものよりも少し小さく、俺は掴んだ卵焼きを取り落としてしまった。

 

 

 

 *

 

 

 チャイムが鳴った。本日最後の授業、その終了を示すチャイム。俺はバッグを持って飛び出そうとし、ふと立ち上がりかけた体に急ブレーキをかけた。まだHRが終わっていない。この学校は私服登校が許されるくらいには自由だが、サボりに関しては厳しかった。てかアニメのキャラクターが皆サボりすぎ。

 

「おい~すHR始めんぞ~」

 

 担任が教室に入ってくる。彼女は教室内をざっと見渡して何も異常がないことを確認すると、「校舎の裏で覆面の不審者が出没したので気をつけるよーに」と言い残し、そのままふらりと去って行った。彼女が教室から出て行った瞬間、がたがたと椅子を引く音が鳴り響く。清掃のため、全員教室の片側に机を移動させにかかった。

 幸い、俺の席は机を移動させる側である教卓に近い。俺はぱぱっと机を移動させると、通学用のバッグを手に取った。

 

(っしゃ帰ろう今すぐに)

 

 そうして今度こそ迅速な帰宅のために一歩を踏み出す。俺を邪魔できる者は誰もいなかった。

 雷の呼吸一の型、霹靂いっせ――――

 

「なあ」

「おい」

「ねえ」

 

 ――――ん?踏み出そうとした俺の目の前に、いつの間にか3人の男子生徒が立ち塞がっていた。なにこれ強制イベント?

 通り道を塞いだ彼ら。その風貌はそれぞれ異なる。一人は生徒会長っぽいしっかり者タイプ。もう一人はいがぐり頭の体格のいい野球部タイプ。そして最後に正統派の爽やかイケメン。彼らは教卓の後ろを通り過ぎようとした俺の前に、瞬きする間に現れていた。瞬歩?

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

 事前に打ち合わせをしたわけではないのか、彼らは俺の目の前で何やらやり取りを行う。数秒して合意が採れたのか、一人の男子生徒が口を開いた。いがぐり頭の野球部タイプ。3人の中で一番強そうなやつだった。

 

「あらやくん?ってさ」

 

 彼は俺の名前を呼ぶ際、語尾にクエスチョンマークを付けて言った。多分俺の名前が分からないので、昼休みに末那が呼んだ名前をそのまま言ったのだろう。二言目には「押忍!」とか言いそうな彼にくん付で呼ばれるのは絶望的な違和感があった。

 

「――――町田さんと、どういう関係なの?」

 

 そう言うと、彼は俺を見下ろした。彼の両隣に控えている二人も、同じような目で俺を見る。彼らの瞳は真剣を通り越してもはや攻撃的ですらあった。野球部っぽい彼も言葉こそ友好的だがその口調と態度には有無を言わさぬ響きがある。俺は心の中で「まま~~~!」と泣き叫んだ。

 

「……………………ああ、えっと」

 

 シリアスな瞳から逃れるように視線を降ろし、頬を掻く。どこともつかない場所を眺めた。

 昼休みのあれがあってから、一応俺はこういう者たちが現れるであろうことは予想していた。それはつまり、俺と末那の関係を詮索する者たち。そういう者に捕まらないよう手早く帰宅しようと思っていたのだが、どうやら俺は彼らの執念を甘く見ていたようだった。いや、俺が甘く見ていたのは町田末那という少女が持つ怪しげで退廃的なファムファタル的魅力のほうか。

 教卓の後ろ、放課して間もない教室で、俺を見下ろす3人の男子生徒たち。彼らの瞳には見下ろす俺を嘲るような色があった。

 問いかけたのにも関わらず何も言わない俺にしびれを切らしたのだろうか。生徒会長タイプの男子が苛立ったように口を開いた。

 

「だんまりかい?もういい。この際だからはっきり聞こうか。有り得ないことだと承知してはいるが、念のためだ。あらやくん。君は町田さんと――――交際しているのかい?」

 

 言い、彼はくい、と眉を上げる。目の前の人間を自分よりも下の者だと疑っていない態度だった。

 

(うわあああああああああああああ)

 

 俺は苦虫を噛み潰した顔になるのをぎりぎりのところで堪えた。正直3人にそれぞれ呪力パンチをお見舞いしてやりたかったが、ほのぼのした教室に頭部を失った遺体を3つ作り出すことになるのでやめておく。明日の朝刊を彩る意欲はそれほどなかった。

 

「…………末那が望めば、直ぐにそうなると思う」

「彼女が望めば?っは、そんなの答えになってな…………え?」

 

 しばし思考し、俺はそう言った。茫洋とした答え。というかそりゃ誰だってそうだろうよという俺の回答に、案の定生徒会長が苦言を漏らす。しかし俺がさりげなく言ったことに気を取られたのか、彼はその切れ長の瞳を見開いた。

 

「じゃ!」

 

 同じく、俺の回答に驚いている野球部タイプとイケメンを尻目に、俺は教室の出口に向かう。下の名前を呼び捨てで呼んだだけでここまで驚かれるとかどんだけ男子と関わりないんだろうかと末那の交友関係の徹底具合にちょっと引いたが、そんな思考はぶん投げた。後ろから何か聞こえた気がするが全て無視し、廊下に出る。廊下は帰宅する生徒でごった返していた。ふはは、このように人の多い廊下ではやつらも大きな態度は取れまい。俺は通行する生徒とぶつからないよう小走りに切り替え、一目散に下駄箱へと向かった。

 

(早く、早く帰るんだっ!一刻も早く安全な場所へ――――早く――――)

 

 せかせかと足を動かす。後ろから「おい!」「逃げんな!」「チョ待てよ!」と苛立った声が聞こえてきた。一人ふざけてない?

 

(あばよ~~~とっつぁ~~)

 

「あ、あらやくん」

 

(~~~ん?)

 

 ルパンの気分で逃走していたのもつかの間、俺はギギ、と硬直し足を止めた。教室を出てからまだ数歩しか歩いていない。それは俺を呼んだ少女が隣のクラスに所属している都合、至極必然のことだった。

 教室の出口からほど近い場所。隣の教室の入り口に、末那は立っていた。

 立って、その手をふりふり振っていた。廊下に立つ、俺に向けて。

 

「あ、お、おう」

 

 たった一言で帰宅を熱望する俺を引き留めた彼女は、引きつる俺の表情筋を見てくすりと笑う。なんか怪しい笑みだった。例えるならそれは、お気に入りの玩具を見つけた時のような、あるいは隠れている猫を探し当てた時のような笑み。無邪気ではあるのだがその笑みを人に対して向けているあたりがなんかもう蠱惑的だった。だから怖いって。

 

「ふふ、『おう』」

 

 彼女は笑みを含ませ、俺の口調を真似る。その仕草と声音は普通の高校生のものだった。可愛い(錯乱)

 彼女は廊下で立ち尽くす俺を「邪魔になっちゃうよ」と隅に誘導し、自分も教室の出口を開けるように移動する。ふと何かに躓いたのか、彼女はととっ、とステップを踏むように体勢を崩した。その手が体を支えるものを探し、近くにあった俺のブレザーの胸元を掴んだ。

 

 見かけの動作よりも意外と強い衝撃に、俺の体が揺れる。けれどもいくら勢いがあっても、体重の軽い末那を術師である俺が支えきれないはずもない。ブレザーを掴んだ末那は俺が体勢を崩さないと知ると、一瞬あれ?という顔をした。

 

「…………っ」

 

 ぐい、とブレザーが引っ張られ、体勢が前に傾く。なんで!?と思う間もなく、俺は彼女の髪の毛に思いきり顔を突っ込ませる。息を止める暇も心の準備もなかったため、俺はキャラメルのような甘い匂いを盛大に吸い込んでしまった。

 

「…………駅まで歩きます。詳しい話は家で」

 

 身を硬直させる俺に対し、彼女は耳元で素早く、かつ囁くような声音で言うと、ぱっと身を離した。そのまま目を泳がせ、ぱたぱたと手を振る。ブレザーを掴んだ手で自身の髪を梳き、あはは、と今あったことを誤魔化すように笑った。その仕草がどこからどう見ても「男子と急に接近して恥じらう乙女」にしか見えなくて、俺は今しがた耳元で業務連絡みたいな指示を冷たい声で囁いた者と、目の前の少女が本当に同一人物なのか疑わしく思った。

 

(…………女はみんな女優、か)

 

 遠い目をしながらつくづく演技力の高い末那に感嘆する。ハリウッドどころかボリウッドまで狙えそうだった。なんでだよ踊んのかよ。

 

「あのさ………………この後予定とか、ある、かな」

 

 言い、末那はちらりと上目遣いで俺を見る。乙女チックな仕草。しかしその裏に「分かってるよな」という圧がある。俺は(そこからやんの!?)と驚き、かつさっきの男子生徒たちとは比べ物にならない程の圧に肝を冷やしながら、首を横に振った。

 

「いや、ないよ」

 

 俺が言うと、末那はぱっとその表情を輝かせた。

 

「じゃあ…………」

 

 そうして何かを期待した目で俺を見る。そのまっすぐな眼差しに射抜かれた俺は、「分かっておりますとも」と頷いた。ええ、ええ。全て分かっておりますとも。このやり取りも全て、周囲に聞かせるための――――いわばパフォーマンスだと。

 

「…………」

「…………」

 

 廊下には人が多い。そのため隣り合って進むことはできない。俺と末那は前後に分かれて下駄箱へと向かった。

 

「………………おいあれ」

「………………え?どれ?」

「……………………一緒に帰るのかな」

「……………………たまたま並んでるだけだろ?」

「ばっかちげえよ………………あの隣のはあらやっつって………………」

「……………………は?まじ?」

「それどこ情報?どこ情報?」

 

 生徒たちでごった返す廊下を歩く。ちらほらと俺と末那を見て噂する声が聞こえた気がしたが努めて意識から排除した。

 下駄箱に着き、靴を履き替える。校舎を出ると、人の波ができている。駅まで続く生徒の群れ。俺と末那はどちらからともなく足を振り出し、駅へと歩き始めた。

 

「…………あらやくんは」

 

 生徒が作る波に乗っかっていると、ふと末那が口を開く。

 

「趣味とか、あるんですか」

 

 一瞬何を言われたのか分からず、俺は傍らの末那を振り向く。彼女は生徒の波に沿って歩きながら、顔をこちらに向けていた。

 

「ああ、うん。読書とか…………」

 

 彼女の問いかけに応えながら、俺は自分の顔が引きつっていないか心配になっていた。

 

「読書!いいですね。私あんまり本とか読まなくて」

 

 俺の陳腐な回答に対して末那は朗らかに相槌を打つと、その話題を広げていく。

 

「どんな本を読むんですか?」

「…………まあ、普通に。太宰とか、夏目漱石とか……」

「夏目漱石かあ……私、『こころ』以外読んだことないです」

「ああ、俺も『こころ』から読み始めて…………教科書のやつ」

「ああ、あれ。遺書の部分ですよね、教科書に載っているのは。私のクラス、そろそろ終わりそうなんですけど…………あらやくんのクラスはどうですか?」

「俺のクラスはまだ終わらないかな…………今は「魔法棒のために一度に化石された~」ってところだから、まだ2,3回はやると思う」

 

 授業の内容を思い出し、そう答える。末那は記憶をさらうように指先でこめかみに触れた。

 

「Kがお嬢さんへの恋心を先生に告白するところですね。あのあたりはすごく重苦しい感じがしました」

「確かに………………記憶力いいね」

 

 末那が俺の言った僅かなフレーズからどの場面かを言い当てたので、俺は彼女の記憶力の良さを称賛する。ふと、真面目に授業を聞いていれば今の末那くらいのことは当然にやってのけるのだろうかと思ったが、別にどうでもいいやと投げ捨てた。

 

「…………ありがとうございます」

 

 俺の言葉に末那は驚いたように目を見開いたが、数秒して顔を背け、前を向く。賛辞への礼の言葉は常よりも固く、他人行儀な響きがより強かった。

 

「…………あらやくんは、『こころ』の中で好きな言葉やシーンはありますか?」

 

 そのまま10mほど歩いたところで、再度末那が口火を切る。俺はちらりと脳裏の記憶棚を探った。

 

「そうだな…………陳腐かもしれないけど、やっぱあれかな」

 

 商店街が見えてきた。あれを抜ければ駅はすぐそこだ。寄り道しているのか、それとも道幅が広くなったためか、通りを歩く生徒の波は少しだけ薄くなっている。どこまでこの演技を続ければいいのかは分からないが、生徒の眼がなくなるまでやるのだとしたら、一先ず駅が区切りになりそうだった。

 

「先生が「私」に言った…………『鋳型に入れたような悪人は世の中にいない』ってところ。………………えっと確か、『鋳型に入れたような悪人は世の中にいませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくとも普通の人間なんです。それがいざという時に、急に悪人になるから怖いんです。だから油断ができないんです』………………かな」

 

 商店街に入る。制服姿の高校生だけではなくスーツ姿のサラリーマンや私服姿の大学生らしき者たちも周囲の人いきれに混じり始める。東横線沿いに多いカルディコーヒーの脇を通ると、視線の先に祐天寺駅の看板が見えた。

 

「細かい部分は違うけど…………多分こんな感じの言葉。それが一番心に残ってるかな」

 

 コーヒーの香り。香ばしいそれに金木犀の匂いが混じり驚く。街路樹にはなかったから、やはり住宅のどこかに植えてあるのだろうか。

 

「鋳型に入れたような悪人…………」

 

 末那が呟く。その横顔は物思いに耽るようだった。なんとなく、末那は漱石の『こころ』以外の作品も読んだことがあるのだろうな、とこの時思った。

 

「どうして、そう思うんですか」

「え」

「あらやくんは…………どうして、その言葉が好きなんですか」

 

 そう問いかける末那は真剣そのもので。これが演技ではないことが分かった。

 

「そう、だな」

 

『こころ』の中で、何故その部分が好きなのか。惹かれたことを覚えていたとしても、その理由をはっきりと言語化したことはなかったことに気が付く。俺は自身の心の内側を探った。

 

「…………俺も、そう思うから」

「…………」

 

 子供じみた回答だと、我ながら思う。けれどもどれだけ頭の中を探っても、それ以上の言葉は出てこなかった。

 

「鋳型に入れたような悪人はいない…………俺はそれを、生まれながらの悪人はいないって解釈したい。それは、えっと…………つまりは…………どれだけ教育を受けても、どれだけ愛に触れても、善を知ることができない人間なんて、この世には一人も存在しない…………そう考えたい、ってこと。結論ありきの解釈だけど…………こんな考え方は、「先生」の言葉の本質を失わせてしまうのかもしれないけれど…………でも、理想主義でもなんでもいいから、俺はそう思いたい。だから、そう解釈したい。それが、この言葉に惹かれる理由だと思う」

「…………」

 

 末那はしばらく黙っていた。何を考えているのか、その頭の中にどんな思考が渦巻いているのか、俺には分からない。けれどもその姿に、俺の言ったことを真剣に咀嚼してくれている横顔に、俺は彼女の誠実な心の現れを感じた。

 

 そして、それだけで十分だった。

 

「…………ああ、あと」

「…………?」

 

 末那の様子を見ていてふと思ったことがあり、俺は口を開く。それはいわば俺の原点とも言うべきもの。俺がボランティアで呪霊を狩り、高専の手伝いをするようになったきっかけの出来事。

 それがあった後、俺は『こころ』の一節に救われたのだ。ならば今ここでそれを語るべきではないのか。先の彼女の問いかけに誠実に応えるのならば、むしろその出来事をこそ語るべきではないのか。

 

「どうしても、忘れられない人がいて」

 

 絞り出すようにそう言った。言ってから己の声の震えに気が付いた。誰にも語ってこなかったつけだろう。それを言語化し他人に告げることそのものに対し強いショックを感じていた。

 

「その人が…………」

 

 ショックを押し殺し、俺が言葉を続けようとした時、ふと、末那の表情が硬くなっていることに気が付いた。

 

(あ、)

 

 遅れてその意味に気が付く。昼休みのこと、そしてこの通学路。末那の目的は判然としないが、それが“自分には親密な仲の異性がいる”と周囲に知らしめることであるとは、何となく理解している。

 なのに。密度は低くなったとはいえ同じ高校の生徒たちがいる場所で。

 異性役の俺が“忘れられない人がいる”なんて言うことは。

 どう考えても、彼女の目的と乖離していた。

 

「…………ごめん、何でもない」

「…………」

 

 謝罪する俺に、末那は何も言わなかった。その横顔からは俺の言葉を真剣に咀嚼しようとする色は消え失せ、作り物のような無表情があるだけだった。

 俺は「はは、」と乾いた笑いを漏らし、

 

「ごめん、つまんなかったよね。()()()()は――――」

 

 毒にも薬にもならないような世間話をしようとした時、ふと末那が前を向いたまま言った。

 

「いえ、興味深かったですよ」

 

 そう言う彼女の口調は、業務的なもので。それは今日行った彼女とのやり取りの中で、最も冷たく、突き放した声音だった。

 

 

 *

 

 

 雑居ビルの屋上。コンクリートの外壁にもたれかかりながら、猪野琢真は目の前の光景に舌打ちした。傍らには一級術師の七海健人が彼と同じように眼下の光景を眺めている。七海は猪野のように舌打ちをすることはなかった。

 

「どんな神経してんだか…………」

 

 言い、猪野は不快感を示すように首をこきりと鳴らす。彼はビルの屋上から見える光景に生理的な嫌悪感すら抱いていた。

 

「呪詛師町田末那…………最重要討伐対象…………」

 

 猪野と七海、そしてここにはいないが冥冥。計3名は、精神操作の呪詛師こと、町田末那を監視していた。

 監視対象は学校から駅に向けて歩いている。彼らの目に当該監視対象は男子生徒と仲睦まじげに歩いているように見えた。

 それを見て、猪野は眉を顰める。額にかけた覆面の中に指を入れ、額を掻いた。

 

「確か――――」

 

 猪野の声はビルの屋上に止まる烏を通じて冥冥の耳にも入っている。彼はそれを特に意識せずに言った。

 

「明後日の討伐作戦。いきなり攻撃じゃなくて、先ずは対話から入るんでしたよね」

 

 言い、彼は足元のコンクリートを靴の裏で擦る。

 

「即時殺害でいいと思いますけどね」

『――――それは無理だよ。猪野琢真くん。なんせ上が決めたことだ。私たちはそれに従う義務がある。プロとしてね』

「ええ――――プロとして、オーダーには従う義務があります。分からない貴方ではないでしょう」

 

 電話口から冥冥が。傍らに立つ七海からは直接、猪野の発言を窘める言葉がかけられる。猪野は「俺だってそんくらい分かってますよ」と言い、

 

「でも…………プロである前に………………いや、呪術師である前に。一人の人間として、彼女は生かしておくべきじゃないと思っただけです」

『……………………』

「……………………」

 

 猪野の言葉に、二人の一級術師は返答しなかった。その沈黙が、二人が猪野の言葉に真っ向から反対しているわけではないことを暗に示していた。

 呪詛師 町田末那。

 彼女は殺されても仕方がない。その犯した罪によって。少なくとも猪野は、猪野の心は、彼女の行いに対してそのような印象を抱いていた。

 

『…………呪術師は人材不足。呪いを祓う手は常に足りていない。多少のやんちゃには目を瞑る。上は割と真っ当な判断をしたと思うよ』

 

 冥冥が通話越しに意見を述べた。次いで七海も口を開く。

 

「…………そうですね。被害に遭った方々は皆男性。命に関わる後遺症もない。加えてプロファイラーは彼女が女性を標的にしたことはないだろうと結論付けている。彼女の母親と、育った環境…………そして実の従兄から受けた性的な嫌がらせ。それらによって産まれさせられた怪物。いわば彼女は環境の被害者とも言えます。何故悪に至ったのかを考慮せずに罪を論じるのは危険ですよ。猪野くん」

「………………はい」

 

 七海の整然とした物言いに猪野は不承不承頷く。そもそも上からの命令なので、猪野一人がごねたところでどうにもならない。それは猪野も分かっている。彼は高専がまとめ上げた被害者の情報も、高専が雇っているプロファイラーの分析にも目を通した。プロファイラーたる彼らの結論は、当該呪詛師はその精神性において多少の難はあるが、致命的な良心の欠如までは見られない。したがって殺人を犯した可能性は低く、女性を標的にした可能性は更に低い。

 それを踏まえた上で、彼女の対処としてまずはスカウト――――勧誘から入るというのが、最終的に上層部によって決定された事項だった。

 

 しかし。

 

(同級生の女の子をあんなふうにした後で、同居人の男子とラブコメできるって…………)

 

 その精神性が、兎にも角にも気持ち悪ぃ。それが猪野琢真の偽らざる本音だった。

 

「………………そういえば、勧誘には誰が行くんすか?」

 

 ふとした疑問。猪野はそれを二人に尋ねる。

 

「五条さんですよ」

「まじか」

 

 簡潔に言う七海。それに対し猪野は少なくない驚愕の念を抱いていた。

 それだけ上も警戒しているということか。いや、彼女がそれほど有用だということか?

 五条悟の派遣について、猪野はその意図を思案する。彼が実行に当たるのならば、事態がどう転がるにせよ少なくとも犠牲者が出るようなことは避けられそうだった。

 

(哀れ…………少年…………何も知らずに)

 

 猪野は監視対象の隣にいる同居人の少年に同情の念を抱いた。討伐作戦に参加している彼が、その討伐対象が隣にいて、しかも数か月共に暮らしていたと知ったら…………果たして彼は、そのことに対してどう思い、どう感じるだろうか。

 

(…………伊地知さんは今日の夜伝えるって言ってたけど………………いや待てよ。もしかしたら、全部を知ったあの少年が、()()()()()()()()()()()()()()()()…………!)

 

 猪野は少年が少女を手にかけることを危惧したが、それに気を配るのは己の仕事ではないし、自分に思いつく危険を上層部や有能な伊地知が思いつかないはずもないかと、その心配を打ちやった。

 

 

 

 *

 

 

 豊かな香気が漂っていた。ナッツとチョコレートを合わせたところに、一筋のほろ苦さを加えたような香り。素晴らしいフレグランスだ。俺は陶然とした心持で深く呼吸する。目を閉じれば、産地であるグアテマラの農園がどこまでも広がっていた。

 

「コロンビアコーヒー…………そもそもコーヒーって銘柄があるんですね」

 

 ……………………豊かな香気が漂っていた。ナッツとチョコレートを合わせたところに、一筋のほろ苦さを加えたような香り。素晴らしいフレグランスだ。俺は陶然とした心持で深く呼吸する。目を閉じれば、産地であるコロンビアの農園がどこまでも広がっていた。

 ちなみに、想像上の農園はさっき想像したものと寸分違わず同じである。地図帳以外で農園とか見たことがなかった。

 ヤカンを置き、フィルターを取り外す。抽出を終えたそれは水分を含み、もったりと重くなっていた。

 

「まあ、俺もよく分からないんだが…………祖母ちゃん曰く、これが一番飲みやすいらしい」

 

 手早くフィルターを捨てると、ポッドを手に取る。琥珀色の液体が揺れていた。

 末那は豆の入った袋を置くと、キッチンの端にもたれかかり、俺の手元を見る。俺はボッドを傾け、カップにコーヒーを注いでいく。ふわりと湯気が立ち昇った。

 注ぎ終えたカップをトレイに載せる。ダイニングのテーブルにトレイを置き、カップを手に取る。どこに置くか少し迷い、結局いつも夕食の時に二人が座っている場所に置いた。

 

「…………」

「…………」

 

 椅子を引き、俺と末那は向かい合わせに座る。どちらからともなくカップに手を伸ばし、互いに無言で口を付けた。傾けると、熱く苦い液体が口の中に広がる。ふわりとコーヒーの香りがした。

 

(…………にが)

 

 お子様舌な俺はカップを置き、机の上の焼き菓子を引き寄せる。祖母ちゃんが買ってきたどこかのマドレーヌ。貝の形をしたそれは中央にオレンジが埋め込まれてあった。なにこれおしゃれ。

 

「…………美味しい」

 

 ふと、カップの表面を見つめながら末那がぽつりと言った。それは、注意していなければ聞き逃してしまうくらいの声音。数秒後には本当に口にしたのかも分からなくなってしまうような淡い言葉の切れ端は、しかし確かな質感を持って俺たちの間にひらりと落ち……………………そして俺の心に微かな震えを引き起こした。

 

「…………良かった」

 

 今度は俺がぽつりと言う。末那の発した微かな感嘆。反応を期待して言ったわけではないであろうその言の葉に、俺はそう回答した。別に何も言わなくてもよかった。というか自宅に到着し演技を終えた今、俺と彼女の距離感にあっては何も言わない方が“らしい”。けれどもそこで俺は返答することを選択した。何故と問われても分からない。ただ彼女のあまりにも無防備なその呟きを、呼気と共に消えゆくままにしておくことが、なんだか惜しいと思ってしまったのだった。

 

「…………」

「…………」

 

 しばし無言で時だけが過ぎる。空調の音が低くうなっていた。

 

「――――今日のことは、何というか」

 

 ふと、末那が口を開く。手の中のカップの縁を指でなぞりながら、彼女は今日の出来事について説明し始めた。

 

「面倒な人に絡まれまして」

「…………」

 

 やっぱり。というのが俺の偽らざる心境だった。

 

「朝の教室で、その人が写真を突きつけてきたんです。彼女は何故か、私が………」

 

 ふと、末那は左のこめかみに触れた。そこにある薄いガーゼ、そして傷跡に。

 

「…………怪我をして倒れている写真を持っていました。それで、その写真を突きつけて言ったんです」

「………………なんて」

 

 末那は微かに身を震わせると、感情を排した声で静かに言った。

 

「レイプされたのか、って」

「――――っ!」

 

 目を見開いた。動悸が速まったことを自覚する。怪我をしている写真を突きつけ、レイプされたのかと教室という公衆の面前で指摘する――――なんて、悪意。

 そんな悪意を向けられたことを、しかし末那はあくまでも感情を排した声で、坦々と語った。

 

「そんな…………」

 

 絶句する俺。末那はなおもカップの中、黒々としたコーヒーの表面を見つめていた。

 

「その、そいつ…………その言ったやつ、は。教師に報告したりとかは……」

 

 聞いてから、俺は己の浅慮を恥じた。レイプされたのかと公衆の面前でクラスメイトに尋ねられた。そう教師に相談したい者がどこにいるのだろうか。「で、本当にされたの?」デリカシーも教養も欠如した教師だとしたら、そのような配慮に欠けた質問を真顔でする可能性だってある。俺は教師というものを呪霊と呪詛師の次に信用していなかった。

 

「ああ、いえ。それは大丈夫です。彼女とは和解しました」

「わか…………え?」

 

 再度、俺は絶句する。和解。わかいと言ったか。和解。どちらかが…………この場合は末那に対して常軌を逸した質問をした女子生徒が、己の非を認め、そしてそれを末那は許し受け入れたと、そういうことだろうか。

 

「あ、ああ、そう、なんだ。それは…………よかった」

 

 常識を超えた展開に「よかった」と言ってしまって良いのかまるで分からなかったが、末那は特段気を悪くした様子もなく、「ええ」と頷いた。

 

「それで…………彼女に追及された時に、つい、本当のことを言ってしまいまして」

「本当のこと……?」

 

 俺は末那の言った「本当のこと」がどういう意味かわからず首を捻る。怪我の事。呪霊に襲われたこと。しかし末那はその時の記憶を失っている。ということはそれをそのまま伝えたのだろうか。

 記憶がない、と。

 

「あらやくんに助けてもらった、と」

「…………あ」

 

 末那がカップから顔を上げ、俺を正面から見てそう言った瞬間、全てが繋がった気がした。弁当を出すなという不可解な指示も、末那が昼休みに弁当を自分が作ったことにして持ってきたことも、そして帰路において親密な仲を装ったことも。

 つまり彼女は。

 怪我の写真を突きつけられ、暴行されたのかという問いに対し。

 襲われたことまでは事実だが、その先は免れたと。怪我こそ負ったが、最悪の事態だけは避けられたと、そう言ったのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 彼女は作られた不名誉を、事実で覆い隠した。あるいは吹き飛ばした。

 つまりはそういうことだった。

 

「…………それで、あの行動を」

 

 俺は全てに合点がゆき、そう呟く。ふと俺を見ていた末那が再度視線を落とした。そうして彼女は急に力を失ったように、ぽつりと言う。

 

「…………あらやくんには、ご迷惑をおかけしたと思っています。今日だけじゃない。きっと週明けも」

「やめてくれ」

 

 ――――末那の言葉を、俺はそう言って止めさせる。かぶりを振り、恐らくは俺の方からは初めて――――彼女の瞳を真正面から見つめた。

 

「迷惑だなんて思ってない。異常な状況で最善の選択をしたと思う。変な遠慮とか罪悪感とか持たずに、いくらでも俺を使ってほしい」

 

 末那は目を見開いた。

 

「…………ありがとうございます」

 

 それは、帰路で言われたのと同じ言葉だったけれども。そこに宿った温度は、全く異なるものだった。

 沈黙が降りる。けれどもこれまでのものとはまるで性質が違っていた。

 

「…………あ、それで、その……」

 

 ふと、沈黙を破り、末那が何かを言いかける。何度も口を開いては、躊躇うように閉じる。それを数度繰り返す。その様子を見ながら、もしもこれも演技なんだとしたら、俺は一生、彼女の本音と嘘を見抜けないだろうと思っていた。それくらい、その振る舞いは……………………彼女の『素』に、最も近い気がした。

 

「話は変わるのですが…………少し、言わなければならないことがあって」

「…………?」

 

 末那の言うことに首を傾げる。まだ何かあったのだろうか。俺は彼女の口が動くのを待った。

 ふと、震え。

 

「…………ごめん」

 

 着信音を鳴らすスマホを取り出し、通話拒否を選択する。着信の相手が伊地知さんだったため少し迷ったが、末那との会話を優先した。

 

「…………」

 

 すると、再度着信が鳴る。画面を見るとまた伊地知さんだ。拒否しようとした時、末那が「出ていいですよ」と言った。

 

「あ、いや……」

 

 躊躇う俺に、末那は『素』の表情のまま、ふわりと――――驚くほど無防備に、はにかむようにして――――笑った。

 

「私の話は――――いつでも、できますから」

「……………………ごめん、すぐ戻る」

 

 その笑みに、その優し気な微笑に、一瞬、心を奪われる。しかし舌を噛み強制的に正気を取り戻すと、俺はスマホを持って席を立つ。通話ボタンを押しながら、廊下に続くドアを開いた。

 

「…………もしもし」

 

 薄暗い廊下。そこでスマホを耳に当てる。すると思っていたよりもずっとシリアスな声が聞こえてきた。

 

『阿頼耶君ですね?』

(…………?)

 

 開口一番、本人かを問われる。訝しみつつ、俺は答える。

 

「ええ、はい。阿頼耶です。伊地知さんですか?」

 

 意趣返しというわけでもないが、聞かれたのだからこちらも聞いておくかという程度で訊き返す。

 

『…………すみません、余計な質問でした。君が真正の土御門阿頼耶なのか、それすらもこちらには分からない。ただ、今の質問は君を心配してのことだと、どうか理解してください』

「…………?」

 

 伊地知さんの言っている意味がわからず、俺は首を傾げる。

 

「あの…………?」

『阿頼耶君、一つ質問があります』

「はいなんでしょう」

 

 伊地知さんの唐突な宣言に俺はそう答える。先の言葉の意味も、伊地知さんの置かれている状況も何も分からないが、電話を連続で掛けてきたあたり緊急事態っぽいので、俺は彼の言うことを素直に聞くことにした。

 

『近く、電話口の声を拾えるような場所に――――町田末那は、いますか』

「…………いえ、いません」

 

 伊地知さんの言ったことに、俺は自分の内心が変化したことを自覚した。末那の名が伊地知さんの口から出た瞬間、刀を抜いた時のようなひやりとした緊張感が胸の内を支配した。

 加えて少し、引っ掛かりのようなものも感じていた。電話口の声を拾えるような場所に、町田末那はいますか。

 何故、伊地知さんは末那をフルネームで呼んだのだろうか。

 しかも、土御門ではなく。

 町田、という戸籍上の名で。

 

『いいですか、阿頼耶君。落ち着いて聞いてください』

 

 伊地知さんが言う。この上なく真剣な声。

 

『私たちが追っていた精神操作の呪詛師――――』

 

 そうして伊地知さんは、業務的で抑揚を排した声で、こう、言った。

 

『件の呪詛師の正体は――――君と共に暮らしている、町田末那です』

 

 

 

 

 



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『伊地知潔高』09/23 17:02 10分57秒

感想ありがとうございます。全部読んでいます。
ちなみに末那にはモデルになった人物がいます。いました。もう乖離しすぎて原型ないですけども。こんなクレイジーサイコパスをのさばらせていたらそれだけで犯罪が成立しそう。私の友人にこんなやつはいません。





(発信 奥多摩井川局 受信 港区東麻布局)

(通話開始)

『もしもし』

『阿頼耶君ですね?』

(2秒沈黙)

『ええ、はい。阿頼耶です。伊地知さんですか?』

(3秒沈黙)

『すみません、余計な質問でした。君が真正の土御門阿頼耶なのか、それすらもこちらには分からない。ただ、今の質問は君を心配してのことだと、どうか理解してください』

(2秒沈黙)

『あの』

『阿頼耶君、一つ質問があります』

『はいなんでしょう』

『近く、電話口の声を拾えるような場所に、町田末那はいますか』

(3秒沈黙)

『いえ、いません』

(5秒沈黙)

『いいですか、阿頼耶くん。落ち着いて聞いてください』

『私たちが追っていた精神操作の呪詛師』

『件の呪詛師の正体は、君と共に暮らしている町田末那です』

(8秒沈黙)

『阿頼耶君?』

(10秒沈黙)

『阿頼耶君?阿頼耶君!』

(2秒沈黙)

『伊地知さん』

『ああ、良かっ』

『高専がどんな人材を雇ったのか知りませんが、そいつは即刻解雇するべきです。ケアレスミスってレベルじゃない。こんなのかすりもしてない、大馬鹿野郎だ』

(かつかつと硬いものがぶつかる音が鳴る)

『伊地知さん、貴方も霊視はできますよね。なら分かるはずだ。病室で末那を見たでしょう。彼女は呪力を扱えない。一般人だ』

『ええ、私もそう思います。思っていました』

『いました、じゃないですよ。それで合ってるんです。末那は非、術師だ』

『阿頼耶君』

『誰ですか?そんなふざけたことを言う輩は。上か?ああ、そうだ。伊地知さん。以前内通者のことに触れましたよね。やっぱり俺の協力を好ましく思わない人間が』

『阿頼耶君!』

(4秒沈黙)

『私たちも、情報の裏取りは行います』

(2秒沈黙)

『明大前で彼女が襲われた時、君は彼女を助け出しましたよね』

『その時、君は術式を使った』

(5秒沈黙)

『それが?』

『あの場にいた人物は計3名。真人、交戦した君、そして町田末那』

『彼女が襲われた後、24時間以内に現場検証が行われました。術師による残穢の調査です。見つかった残穢は全部で3種類。それらの内、術者が明らかなのは、真人と君だけだった。それでは、もう一つは』

(10秒沈黙)

『呪霊が一匹だけだったとは限らないですよね。仲間の呪詛師がいたかも。そいつが、帳が上がったからびびって逃げ出した可能性だって』

『真人は徒党を組んだ特級呪霊です。あそこにもう一体呪霊が、ないしもう一人呪詛師がいたとして、どうでしょう。特級相当二名を相手にして勝負になる術師が、この国にどれだけいるでしょうか』

(5秒沈黙)

『そんなん、五条悟くらいだ』

『ええ。そして五条悟が最強であり、それ以外は彼の下位互換だということを知っているのは、何も高専関係者だけではない。当然、敵も、いえ、この国にいる呪術に関わる者全てが、己は彼の下位互換であると自覚している』

『現場に残っていた残穢は3つ。うち一つは正体不明。力量的に撤退は有り得ない』

『でもっ!こうも考えられますよね?初めは二人で襲いに来た。けれども途中で興が削がれたから一人は帰り、真人だけが残った。呪霊や呪詛師だ、団体行動なんてできやしないでしょう。それとも単に、非術師を殺すのになんで二人も必要なんだと苛立っていたのかもしれない。それで真人じゃないやつは、俺が帳を壊す前に現場から立ち去ったとか』

『照合したんです。現場に残された残穢を。精神操作の呪詛師に襲われた、被害者のものと』

(6秒沈黙)

『は?』

『脳を起点とした残穢。犯人は異様なほど痕跡を残さないが、ゼロではない。だからそれを辿ればやがては犯人にたどり着く。ここひと月ほど、君が無給でやってくれていたことです』

『明大前に残されていた残穢と、被害者のそれ。それが一致した。しかも前者は、町田末那が頭を打ち付けたコンクリートの塀に付着していた』

『十分に証拠が揃っています』

(2秒沈黙、次いで、息を吸う音)

『状況証拠だ。あんたらは末那が実際に人を襲うところを見てな』

『本日、一二時四五分から五八分にかけて、町田末那が一人の少女を襲いました』

(12秒沈黙)

『は?』

『被害者の名は唐仁原華(とうじんばらはな)。彼女のクラスメイトです』

『ちょ、ちょっと待ってください。何を言って』

『一限目が始まる前、彼女たちは言い争いをしていました。内容まではわかりませんが、それぞれのグループだけではなく、クラス全体を巻き込んだ争いだったと』

『いや』

『昼休み、君に弁当を届けた後、町田末那は校舎の裏に向かいました。特別棟の裏手、業者がペットボトルの回収を行う以外、誰も来ることがない場所です。通行人に見られることもない。町田末那が到着すると、そこには唐仁原華がいました』

『違う』

『初め、両者は穏やかに話し合いをしているように見えました』

『だってさっき』

『異変が始まったのは、両者が顔を合わせてから数分後』

『和解した、って』

『突然、唐仁原華が苦しみ始めました』

(息を呑む音)

『地面をのたうち回り、喉を掻きむしって、声にならない声を上げ』

『そしてその様子を、町田末那は見つめていました』

『何も言わず。助けも呼ばず。10分以上の間、ただじっと。唐仁原華が苦しむ様を、彼女は見下ろしていました』

『監視していた術師によると、彼女はとても、楽しそうだったと』

『昼休みの終わりが近づき、町田末那が何かを言うと、唐仁原華が何事もなかったかのように立ち上がりました』

『町田末那が去った後、校舎裏で立ち尽くす彼女を監視役の術師が確認したところ、その脳に残穢が確認できたそうです』

(4秒沈黙)

『違う』

『何も、違うことは有りませんよ。阿頼耶君。もはや状況証拠だけではない。町田末那は術師、いえ、呪詛師です』

『違う!』

(8秒沈黙。その間、荒い呼吸の音が混じる)

『末那は…………違う。そんな人じゃない』

『違うとおっしゃられるのなら、彼女を術式で視てはどうでしょうか。君の術式はそれを使う者の脳にとって極めて不親切ですが、習熟すれば「六眼」を超える。無下限呪術を持たない五条悟ならば…………ご自分の眼で確かめてみては』

(8秒沈黙)

(衣擦れの音、呪力の湧き立つ音が混じる)

(息を呑む音がした後、18秒沈黙)

『嘘だ………………………………………こんな…………………………………………こんなこと……………………………………何かの間違いだ』

(32秒間、嗚咽混じりの声が続く)

『彼女の討伐作戦が、明後日、日曜に決行されます』

『派遣されるのは五条悟。オーダーは――――()()です』

『そこで君にお願いしたいのは、日曜日の町田末那の予定、動向を、可能な範囲で構いません。彼女から聞き出し、我々に伝達していただけますか』

(10秒沈黙)

『すみません、今の要望は配慮に欠けていました。君は小夜さんを連れて安全な場所に』

『伊地知さん』

(2秒沈黙)

『はい』

(4秒沈黙)

『今日、俺、初めて末那と「会話」できた気がするんです』

『これまでは同じ家に住んでるのに、お互いがいないかのように振る舞って……………………顔を合わせても、まともに挨拶すら交わしていませんでした』

『それはきっと、俺の態度のせいで……………………。彼女が来てから俺は、気配を殺して、息を殺して。そうして、彼女にとって「空気」であろうとしました。そこにあるようで、掴むといなくなる。彼女を益することはないけれど、その代わり積極的に害しもしない。そんな存在になろうとしてた』

(6秒沈黙)

『君は優しい人だ。彼女の身に起こったことを聞いて、君なりに考え抜き、配慮した』

(自嘲的な笑い声)

『違うんです。伊地知さん。そうじゃない』

『悩みに悩み抜いて決めたことじゃない。彼女を傷つけないよう……………………彼女を尊重しよう……………………そう思ってそんな態度を取っていたわけじゃないんですよ』

(引きつった笑い声)

『結局のところ……………………俺に勇気がなかったから。俺に、末那の傷と向き合う勇気が……………………彼女の空虚を、俺自身が傷ついてでも埋めようって気概がなかったから……………………だから俺は、そんな中途半端な態度しか取れなかったんだ』

『中途半端な態度のつけ。それを今、俺は払わなければならないんですね』

(10秒沈黙)

『腹は決まりました。協力します』

(息を吸う音)

『何を、すればいいですか』

(2秒沈黙)

『ありがとうございます』

『先に言ったように、動向を聞き出せた場合は、それを我々に』

『分かりました。できる限りやってみます。それ以外では』

『そうですね、っと、少し失礼』

(6秒沈黙)

『では、彼女をおびき出して頂けますか。決行は夜なので、麻布のご自宅の近く。それでいて、できるだけ人のいない場所』

『東京タワー』

『え』

『東京タワーの展望台を貸し切りましょう。電気を消せば外からは何も見えない。強化ガラスで頑丈だし、仮に失敗して末那が逃走を図ったとしても、地上に降りるにはエレベーターを使うしかない。バックアップもし易いかと』

(3秒沈黙)

『成程、良いと思います。彼女に怪しまれずに、展望台までつれ出せるなら』

『そこは、多分問題ないかと』

(2秒沈黙)

『分かりました。君と小夜さんの自宅を戦場にするよりはいいでしょう。五条さんと相談します』

『お願いします』

『後は』

『後はこちらで行います。君は異常を悟られないようにだけしてもらえれば。釈迦に説法かもしれませんが』

(2秒沈黙)

『分かりました』

『よろしくお願いします。それでは』

『あの』

『はい』

(躊躇う気配)

『本当に』

(呼気だけが響く。何度か言おうとし、躊躇う)

『本当に、殺すしかないんですか』

『上層部が何を掴んだのかは分かりませんが、俺には末那が』

(2秒沈黙)

『末那が、人殺しをするような人物だとは、どうしても思えないんです』

『彼女の何を知ってるんだって言われるかもしれないですけど、でも、俺は彼女が…………もう殺すしかないような、生きていちゃいけないような、そんなどうしようもない悪人だとは、思えない』

(6秒沈黙)

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。残念ですが…………彼女の殺害は、もはや決定事項です』

(10秒沈黙)

『そう、ですか』

『はは、しかも五条さんか。そっか』

『じゃあ、末那はもう、死ぬことが確定してるんですね』

(6秒沈黙)

『申し訳ありません。そろそろ切ります』

『あ、あと』

(5秒沈黙)

『伊地知さん?』

『いえ、何でもありません』

『それでは』

(通話終了。通話時間 10分57秒)

 

 

 *

 

 

 高専、その一室。室内には銀色に光る台が数個と、メスや注射器といった医療器具がある。それ以外にも、体重計や秤、ヘッドレスト等、種々の器具が置かれていた。点滴や心電図といった、人を生かすための機材はここにはない。何故ならここに運び込まれるのは生者ではなく死者だから。

 

 死体安置所。使われないことに意義がある場所で、五条悟は数枚のレポートに目を通していた。銀色の台に腰掛け、目隠しをしたままA4サイズの用紙をその手に持っている。彼の周囲には20枚から30枚ほどの紙媒体のレポートが散らばっており、それらは二つのグループに分けられていた。

 二つに分けられたレポート群。それらのうち、五条から見て右側が公式。関係術師、例えば七海健人や伏黒恵に提出する用。

 そして左側が非公式。上層部の一部と五条しか知らない、知ってはならないレポート。

 

「そこは死者がメッセージを伝えるための場所だ。お前が座るための場所じゃない」

 

 アンニュイな女性の声が、五条のいる死体安置所に響く。こつこつとヒールの音を鳴らし、反転術式の使い手であり医師免許保持者である家入硝子が、入り口の扉を開け室内に入る。彼女は五条が解剖台に座っているのを見ると、死者でないものがそこに乗るなとその不謹慎な振る舞いを咎めるように言った。

 家入の声に、五条はレポートから顔を上げる。彼女の姿を認めると首を傾げた。

 

「別に座ってないよ」

「なんですぐ分かる嘘を吐くんだ。3歳児かお前は」

 

 堂々と言う五条に、家入が突っ込む。どこからどう見ても五条は解剖台に腰掛けている。彼があんまりにも平然と言ったので、家入は「座る」という概念に自身と五条との間で致命的な食い違いでもあるのかと思った程だった。

 

「ほら、見て見て」

「ああ?」

 

 微妙な顔をする家入。そんな彼女に五条は己の太ももの裏を示す。解剖台と接する面、足と台が触れるところを。

 

「浮いてるでしょ?」

 

 五条に示されるまま家入が体を傾けると、確かに台と五条の太もも、というか尻の間には、数cm程度の隙間があった。

 

「じゃあ変える。解剖台をレポート置き場にするな」

「………………」

 

 座るな、に対し座ってない、と反論されたならば、別の論点を持ち出すまでだ。家入は術式を使って姑息な工作をした五条にいいからどけと言い放った。

 ――――というか無下限で浮くくらいなら最初からそこに座るな。なんで中途半端に配慮するんだ。

 

「…………で?これは?」

 

 報告書を置きたいならこれを使え、と、家入ががらがらと移動式の台を持ってくる。台の上にはメスや注射器、その他解剖に使うのであろう、のこぎりや外科用カッターが載っていた。

 

「リスト」

「何のだって聞いてるんだ」

 

 五条はそれまで解剖台に置いていた報告書の束を家入が持ってきた台に移動させる。家入も五条から見て右側にあった束を取り、その内容に目を通し始めたが、その内容は人物の名前、顔写真、そして簡単なプロフィールが書いてあるだけであり、一見して何のための情報なのかが分からなかった。

 

「性的嗜好の改変、虫に欲情…………表象の入れ換え、「顧客」を「くそ野郎」に…………」

 

 家入は報告書の束をぱらぱらとめくり、その内容を読み上げる。一見して精神疾患や異常性癖を持った者のリストのようだが、「改変」や「入れ換え」という単語はそれらが人為的に引き起こされたものであることを示していた。

 

「件の呪詛師の被害者か」

 

 家入はリストの意味を得心し、呟く。彼女は一時的に高専を騒がせている呪詛師について不知ではなかったが、熟知してもいなかった。彼女は治癒要員であり検死官。死者が現れなければ彼女の仕事もない。

 

「これをJKがねえ」

 

 被害者のリスト。並べられた情報の内、後遺症に限定して見ていく。性器の失認、聴覚の喪失、感情の鈍化、当然のことだが、被害者の後遺症は全て、認知や感情に関するものだった。

 

「虫に欲情…………吐しゃ物に欲情…………性器失認…………切り傷に快感…………性に関するものが多いな」

 

 10枚ほどの報告書。それらを読みながら家入は言う。彼女は「そういえば犯人の少女は従兄から性的な嫌がらせを受けていたのだったな」と、共有されたプロファイルの内容を思い出していた。

 ――――本名 町田末那。17歳。高校二年生。家族なし。母親が中学二年の時に自殺。以来親族の家に引き取られるが、そこで引きこもりの従兄から性的な嫌がらせを日常的に受ける。従兄の名は町田王様(きんぐ)。彼は当該少女の寝込みを襲ったところを父親に見つかり殺害されているが、これは当該少女が術式により父親を操り行わせたことだと推測される。少女の叔父、町田忠一は現在服役中。少女は術師 土御門小夜の遠縁の親族であり、本年6月より麻布にある土御門邸で生活している。小夜との関係は良好。同居人の土御門阿頼耶とは関係を断っていたが、本年9月より交流が始まった模様。なお、土御門阿頼耶は高専の協力者であり討伐作戦において被害者の捜索を請け負っていた――――。

 少女の生い立ち、その概要。以下、プロファイルには少女についての様々な情報が記載してあった。それらの情報と、主に小夜との関係性、友人との関わり、そして発見された被害者の症状を分析し、プロファイラーたちが出した結論は、『当該呪詛師に致命的な良心の欠如は見られない』であり、『また、彼女が憎悪しているのは己の尊厳を奪った従兄のような者たちであり、男性を襲ったことは単に悦楽を得るためであるとは必ずしも言えず、加えて己と同類である女性を襲ったとは考えられない』…………ということだった。

 そのためその罪を問うよりもこちら側に引き入れたほうが、呪術界にとって有意義である――――。

 

 その結論に至るまでには、当該呪詛師が高専に対しその尻尾を全くといっていいほどに掴ませなかったという経緯も考慮された。

 少女が犯人だと発覚するまで、この呪詛師が社会全体に与える悪影響は、それを推測することすら困難であった。これが例えば、職場の人間を都合よく操る程度なら、その影響はたかが知れている。

 だが仮に呪詛師に商売っ気があったとして、人をその量においても行為においても無制限に操ることができるのだとしたら、大量の女性を集めて風俗店を経営することだって可能だ。操られた、ないし認識を歪められた彼女たちは喜んで「接待」に応じるし、プレイの内容に不満を言うこともない。給料を払わなかったところで文句を言われることもないし、病気になっても替えはいくらでも調達できる。

 風俗経営だけではない。宗教を興す。政党を作る。特定の思想をそうと知られずに群衆に植え付ける。犯人に知恵と野心さえあれば、国家を転覆することだって可能。しかし最も厄介なことは別にあり、それは犯人にその野心があるのかどうかは、捕まえてみないことには誰にも分からないということだった。

 

 それが蓋を開けてみれば、犯人は高校生の少女だった。そして少女が人を襲う理由は野心や壮大な目的ではなく、自身の個人的な経験によって培われた憎悪のみ。それが感情によって行われており、大義によって行われているのでないのならば、その危険性は少女が成長させた憎悪の量に比例する。そして分析の結果、少女の憎悪は許容量。レッツスカウトと相成った。

 

 そんな上層部の判断を、家入は至極合理的で当然のことだと思っていた。少女に襲われた男性たちには不満を言われるかもしれないが……………………それはそれとして人材はいつだって欲しいものだ。少女が呪詛師として開花する前に対処する必要があるというのならば、抹殺してその才能を無為にしてしまうよりも、管理されたシステムの中でそれを有効活用してもらう。突然変異なのか隠していたのかは分からないが、『力』を振るいたいというのならば、こそこそ隠れて行使するのではなく、正々堂々、正義の名の元でその『力』を振るってもらおうじゃないか。

 レポートの表紙には町田末那の顔写真とプロフィールが記載してある。家入は妖艶だがどこか陰を感じさせるこの可憐な呪詛師について、そんなふうに思っていた。

 

「少女の被害者のデータなんか見て…………明後日の予習か?」

 

 家入は五条にそう問いかける。少女の脅威度的に仕方がないのかもしれないが、彼女にはこの男が「勧誘」に著しく不適格な気がした。

 

「予習っちゃ予習かもね」

「……………………?」

 

 曖昧な五条の受け答えに家入は首を傾げる。五条はほい、とそれまで自身が眺めていた方のレポートを………………時期が来れば握りつぶす用のそれを家入に渡した。

 

「……………………随分詳細だな」

 

 家入は渡されたそれに目を通し、呟く。五条が読んでいた報告書。それもまた少女呪詛師に襲われた被害者のデータだったが、彼女の読んだものとは情報の密度が全く異なっていた。

 

「………………佐藤重明、32歳。商工会議所勤務…………池袋の路地裏で狂ったように笑っているところを、2級術師の伏黒恵が発見、保護…………彼は喜怒哀楽のうち楽以外の感情が欠落していた………………以来高専協力の病院に入院、経過を観察…………」

 

 静かな死体安置所に、家入のハスキーな声が響く。ふと、家入はそこで読み上げるのを止めた。彼女が読み上げを止めたことで、静かな室内には空調の音だけが低く響いていた。

 家入に代わり、五条がその後を引き継ぐ。彼は軽薄とは程遠い口調でこう言った。

 

「…………観察開始から3日後、彼はナースコールで首を括り…………自殺した」

「……………………」

 

 死体安置所に沈黙が降りる。本来想定されるこの部屋の使用用途からして沈黙であることは当然だが、その沈黙には別種の重さがあった。

 

「………………三浦博、45歳。住宅街の真ん中で数遊びをしているところを発見、保護。5日後、窓から飛び降りて自殺」

 

 家入は読み上げを再開した。そこに書かれた罪の一部始終の重さを、確かめるように。

 

「濱田陽介、26歳。皇居周辺をふらふらと歩いているところを保護。病院に入院するもその日のうちに備え付けのテレビのリモコンを飲み込み、窒息して死亡」

「和田功、67歳。散歩から帰ると突如として抜け殻のようになったことで家族が心配し、病院へ。重度の鬱と診断される。入院から2週間後、死亡。死因は呼吸を辞めたこと」

「大町彰吾、19歳。刃物に欲情する特殊性癖を持つ。自宅の包丁で自慰を行おうとし、陰茎を切断し出血多量で死亡。遺族によるとそのような嗜好は彼が実家にいる時には絶対に持っていなかった」

「元木弘明、23歳。接着剤を飲もうとし窒息して死亡。死後、彼の胃からは尿、インク、醤油、食用油、はちみつ、ケチャップ、消臭剤、香水の混合液が発見された。家中の液体を飲んだと思われる。死後2日で発見」

「佐々木正太郎、51歳。アパートの屋上から飛び降りて死亡。彼の日記からは自らをアメコミのヒーローだと思い込んでいるような記述が散見された」

「松下宗次、72歳。協力者による捜索で発見。どこにも異常はないように見えたが、カウンセラーとの会話中に突如舌を噛み切り死亡。会話中のいずれかの単語がトリガーになったと考えられる」

 

 まだ10枚ほど続きがあったが、家入はその先を読まなかった。

 

「これらの事案(以下、本件事案群と呼称)並びに本件呪詛師について、『罪の時点において無垢な呪詛師の違法性消失プロトコル』を適用。同プロトコル上の使者に五条悟を指名する。また、当該呪詛師が術師として活動を始めた場合の周囲との軋轢を避けるための特別措置として、本件事案群をトク秘認定、事案と関係する者に当該呪詛師案件が終結するまでの間、箝口令を敷くこととする。仮に当該呪詛師が敵対した場合は本件事案群を正規の事案として承認するが、当該呪詛師が術師として活動すること、ないし高専の管理下に置かれることを承諾した場合は、本件事案群は抹消され、全ての記録は破棄されるものとする…………」

 

 報告書の最後のページにあった文章を読むと、家入はため息を吐いた。

 

「しっかり呪詛師じゃないか」

 

 家入のその言葉は静謐な室内に溶けて消え、後には空調の音だけが響く。五条は頭の後ろに手をやると、「そうなんだよなあ」と呼気と共に吐き出すように言った。

 

「邪悪と言えば邪悪。結果論のような気もするし、故意犯のようにも見える。まあ、若いみそらのやんちゃで片付けられるかは、個々の術師によるだろうね」

「………………だから隠蔽、か」

「そ」

 

 五条は頷き、

 

「ま、伏黒や七海、あとあの後輩くんとかは、薄々気づいてるだろうね。表には出さないだけで」

 

 家入がそんな五条に対し言う。

 

「良いのか?それ。七海はともかく伏黒は学生だ。まだそういったことと折り合いを付けている真っ最中だろう」

 

 家入の言う折り合い。それは罪と功を天秤にかけること。これまで呪詛師として社会に与えてきた害よりも、術師としてもたらす功が大きいのならば、彼、彼女の罪は打ち消される。それはいわば襲われた者たちや殺された者たちといった個々の被害を数値としてのみ扱うことであり、人間の罪を減らしたり増やしたりできるものとして扱うことを意味していた。

 

「この少女は、彼らには刺激が強いな」

 

 家入は互いを認め合い、切磋琢磨する彼ら彼女らを思い浮かべ、そう言った。

 ――――だからこそ、悪だくみしてるんだよ。

 五条が家入に言う。彼女が首を傾げるのをよそに、彼は焼け石に水かもな、と、彼にしては珍しく、自身の企みを否定するようなことを言った。

 

 

 

 *

 

 

「――――♪」

 

 コーヒーの匂いが漂っている。同居人が淹れたコロンビアコーヒー。チョコレートのような、お線香のような。嗅ぎなれない匂いだが悪くはない。むしろ――――好ましいくらい。あるいはそれとも、今日この時この瞬間に、この香りを好きになったのだろうか。そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。どっちでもいい。この香りに包まれていることが、何だか心地良かった。

 

「――――♫」

 

 カップを傾け、黒々とした液体を口に含む。苦い、そして少し酸っぱい。だけど全体的に――――ちょっと甘い。

 私はカップを置くと、ほう、と息をつく。これまでは苦いだけの欠陥飲料だと思っていたが、これは中々好みの味だった。やっぱりちゃんとした豆を使っているからだろうか。あるいはそれとも――――淹れ方が良かったのだろうか。

 

「――――♪」

 

 足を揺らす。弾んだ心に導かれるまま。ぷらぷら、ぷらぷら。

 ふふ、と笑みが漏れる。何故今自分が笑ったのかが分からず首を傾げる。けれどもそれも直ぐにどうでもよくなった。

 

「――――♬、ん?」

 

 ふと、声が聞こえる。廊下の奥。くぐもった声で、違う、と聞こえた。

 

(………………誰と話してるんだろ)

 

 優しい彼が声を荒げる場面が想像できなくて、私は首を捻る。そうして会話の内容を聞こうと耳を澄ませたが、結局声が聞こえたのはその一瞬だけだった。

 

「――――♪」

 

 カップを撫でる。足を揺らし、でたらめなメロディーを口ずさみながら。私は同居人が戻ってくるのを、ご機嫌な心持で待っていた。

 

『――――変な遠慮とか罪悪感とか持たずに、いくらでも俺を使ってほしい』

「ふふっ」

 

 笑みが漏れる。今度はその理由ははっきりしていた。先ほど彼が言っていたこと。その言葉を思い出したからだ。

 いくらでも、俺を使ってほしい。その言葉は私の心を妙にさざめかせた。それは多分、私はこれまで、異性にとっての自分は単に消費され、使われるものだと思っていたから。私は異性にとって欲を満たすための道具であり、獲得されるトロフィーのようなものであると、心のどこかで思っていたから。だから彼がそう言った時、私は胸の高鳴りと共に、ある種の解放、カタルシスまで感じたのだった。

 

 そうして今の私は、その言葉を思い出したうえで、何となく、こう思った。

 彼は私()幸せになろうとするのではなく。

 私()幸せになってほしいのだと。

 彼の言葉から、私はそんな思いを感じ取っていた。

 

「…………変なの」

 

 そう言いつつも、その口調は少し甘くて。私は妙な気恥ずかしさに襲われた。首の裏がぞわぞわするような、胸の奥が少しだけ熱くなるような。そうして鼓動が少しだけ早まる。私は自分の頬を軽く叩いた。こんなの私らしくない。こんな乙女みたいな感情は、由美や穂香にこそ相応しい。ああいう朗らかで優しく、人を思いやれる女の子にこそ、こういう純情は相応しい。

 

「――――、ん」

 

 私が気持ちをリセットするようにカップを傾けた時――――背後で、ドアが開かれる音がした。どうやら通話が終わったらしい。彼はリビングに入ると、私のいるダイニングテーブルに向かって来る。

 ふと私は、その足取りがやけに力を失っていることに気が付いた。

 

「……………………?」

 

 気配が近づいて来る。私はカップを置くと、そちらに顔を向ける。

 

「……………………」

 

 振り向いた先で、彼は黙って立っていた。床ともテーブルの脚ともつかない場所を見つめて。そうして悲痛そうな表情を浮かべていた。

 

「………………どうしました?」

「っ」

 

 私が声を掛けると、彼はぴくりと身を震わせた。私は内心で首を捻る。通話の相手と何を話していたのだろうかと訝しんだ。

 

「あ……もしかして、小夜おばあちゃんに何か――――」

 

 憔悴しきった彼を見て、ふと心に浮かんだこと。私はそれを恐る恐る彼に尋ねる。彼がここまでショックを受けること。それは例えば、身内の不幸とか。だとするとおばあちゃんに何か――――あったの、だろうか。

 

「え…………?」

 

 私の問いかけに、阿頼耶は顔を上げた。その目が見開かれている。その様子から、私の言ったことは彼にとって意外そのものだったと分かった。

 

「あ、いや…………」

 

 歯切れ悪く、彼は肯定とも否定ともつかない声を漏らす。

 

「ごめん、そういうのでは、ない。祖母ちゃんは元気だよ」

 

 そうして私の問いかけを否定する。小夜おばあちゃんに何かあったのではないか、という心配を、彼は否定した。

 否定、してくれた。

 

「そう、ですか」

 

 よかった。そう呟きつつ、しかし私は再度思う。

 それでは――――何故、そんなに辛そうな顔をしているの?

 

「――――そうだ、話の途中だったよね」

 

 彼は我に返ったようにそう言うと、さっきまで座っていた場所に向かう。椅子を引き、食べかけのマドレーヌの前に座った。

 

「いえ、やっぱりいいです」

 

 そんな彼に対し、私は首を振る。私は彼に『力』のことを打ち明けるのが――――急に、怖くなっていた。

 

「そう、か」

 

 数秒の沈黙の後、阿頼耶は呟き、カップに目を落とす。その瞳は、彼にしか分からない何かと何かの狭間で、ゆらゆらと揺れていた。

 

 




『罪の時点において無垢な呪詛師の違法性消失プロトコル』
第一条(理念)このプロトコルは、呪術師の人材不足、並びに呪霊の脅威が年々増している昨今の状況をかんがみ、呪詛師と認定された者のうち、その行為の時点において、術式を持つ者の存在と、それらが組織化されていることを知らなかった者(以下、無垢な呪詛師)に対し、適切な教育を施すことで、呪術師として活動させ、もって呪術界の発展に寄与することを目的とする。
第二条(定義)
①(無垢な呪詛師)無垢な呪詛師とは、次に掲げる要件を全て満たす者をいう。
一 呪詛師と認定された者
二 術式を手段として用いた行為の時点において、呪術高等専門学校、禪院家、加茂家、五条家の存在を知らなかった者
三 前号につき過失のない者
②(基準日)基準日とは、使者が当該呪詛師に接触した時点をいう。
第三条(適用範囲)このプロトコルは無垢な呪詛師のうち、18歳未満の者に適用される。
第四条(効果)無垢な呪詛師と認定された者には、次に掲げる効果が生じる。
一 基準日以前に行った全ての行為の免責
二 東京、及び京都呪術高等専門学校へ入学する権利の付与
第五条(例外)このプロトコルは、無垢な呪詛師のうち、その行為の様態や動機、精神性から特に悪質だと判断された者については、適用しない。


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挑戦者が現れました

2021 2/17 0:06 削除したつもりの文章が入っていたので非公開にした後修正しました。何もかもをぶっ壊す一言だったので「終わったな…………青い春が…………」と遠い目をしていましたがこっそり直せばばれないよねと再公開しました。反省してます。


 鈍痛が頭に纏わりついている。脳の奥底から地鳴りのように響く痛みは頭の働きを鈍らせ、論理的な思考を奪う。散発的に産まれた想念は個々の繋がりを得られずに消えゆき、後には虚無感だけが残る。そうしたことを何度も繰り返す。苦しみに身を置いているのに、一向に悟りは得られそうになかった。

 

 自室。暗い部屋。俺は地べたに座り、壁ともその手前の空間ともつかない場所を見つめている。全室に設置された換気設備の機械的な音以外に、聞こえる音はない。完全に近い静寂の中、俺は緩慢な動きでポケットからスマホを取り出した。

 

 暗い部屋の中、スマホの光がぱっと俺の顔を照らす。数時間ぶりの光に目を細めながら、メールを作成していく。数分してできたそれを、推敲もせずに送信する。正常に送信されたことを確認すると、俺はスマホを放った。背後で硬いものを床に落とした時の音が鳴る。ふと、送ったメールの返信を確認する必要があることに気が付き、暗闇の中、手探りでスマホを探す。けれどもどこかに転がっていってしまったのか、手に触れる範囲にはスマホはなかった。

 

 探すことを諦め、俺はフローリングに寝転がる。冷たく硬い床に頭と体を預けながら、ぼんやりと天井を見つめた。当たり前のことだが、壁にもその手前の空間にも、そしてこの天井にも、俺が望む答えはどこにも書かれていなかった。

 暗い自室で、硬いフローリングの床に身を投げ出して、そうして、俺は考える。答えがどこにも示されていないのならば、俺自身の頭で答えを見つける必要があるから。

 だから、俺は考える。欲しい答えを見つけるために。採るべき選択肢を見つけるために。

 

 

 部屋が明るくなってきた。夜が明けたらしい。俺は床に寝そべったまま身じろぎをした。ぱきりとどこかの骨が鳴った。

 しばらくしてかちゃりとドアの開く音がした。次いでぱたぱたと軽い足音が続く。音の主は洗面所に向かったようだった。末那が起きて支度を済ませに行ったのだろう。彼女の気配を感じていると胸の奥が締め付けられたから、寝返りを打って耳を塞いだ。彼女の気配を感じないように。彼女の生を意識しないように。

 

 そのまま俺は眠ってしまったらしい。目を覚ますと窓から差し込む陽光はオレンジ色に変わっていた。住宅街に点々と設置された防災無線から夕焼け小焼けが流れている。懐かしいメロディを聞いているとなんだか寂しくなってきて、少し泣いた。泣いたら疲れたのでまた眠った。次に起きると夜だった。床から身を起こすと、体のあちこちがぱきぱき鳴った。頭の鈍痛は大分消えていた。そうして床とも壁ともつかない場所を眺めていると、無性に末那の顔が見たくなったので一階に降りたが、彼女はそこにいなかった。誰もいないリビングは酷く静かで、俺は孤独を感じた。

 

 固定電話に留守電が入っていたので再生すると、病院からだった。祖母ちゃんの主治医の声を初めて聞いた。入院が伸びるらしい。受話器を取って病院にかける。了承したとだけ伝えた。

 一日何も食べていなかったが、不思議と空腹は感じなかった。喉の渇きだけ癒そうと思い、キッチンに向かった。暗い中感覚だけを頼りに照明のスイッチを探り、板のようなそれを押し込む。強烈な光が暗闇に慣れた目を焼いた。

 

 光に照らされて、キッチンの様子が見えた。シンクには洗い終えたコップが一つだけ置いてあった。末那が使ったのだろう。暗闇の中、光に照らされた彼女の痕跡を見ていると、また熱いものがこみ上げてきたので、俺は唇を噛んでその衝動を抑えた。シンクから視線を切り、食器棚から別のコップを取り出した。

 蛇口を捻り、出てきた水をコップで受ける。水がコップから溢れたところでもう一度蛇口を捻り水を止める。ぽたぽたとシンクに水滴が当たる音が静かなキッチンに響いた。

 コップを傾ける。一息で飲み干し、空になったそれをシンクに置いた。

 メールのことを思い出した。返信は来ただろうかとスマホを見る。着信が一件。伊地知さんに送ったはずだが、どういうわけか五条さんから返信が来ていた。タップし、開く。

 メールに本文はなかった。代わりにpdfファイルが添付されていた。4MBを超えるそれをダウンロードし、閲覧用のアプリで開く。何かのリストだった。

 

「…………っは」

 

 呼気とも声ともつかない音が喉の奥から漏れた。

 表形式の文書をスクロールする。五条さんから送られてきたそれ。それは死者のリストだった。

 リストの中には何人か見たことのある顔がいた。俺が術式で見つけた者のうち、直接顔を見た者たちだ。けれども俺が顔を覚えていなくても、【協力者により発見】と書かれてあれば、それが俺が彼を見つけたことの証だった。

 

「なんだ…………」

 

 リストは10ページ以上あった。スクロールの長さが、そのまま罪の重さだった。

 

「末那、お前…………生きてちゃだめなやつじゃないか」

 

 リストを見る俺の口から、そんな言葉が漏れた。殺そうとしてやったことなのか、そうでないのか。分からないが、これらが全て末那の手によって行われたことならば…………一般社会では間違いなく死刑に値するような行いだった。

 

 スマホの電源を切った。これ以上、あのリストを見ていたくなかった。

 スマホをポケットに入れ、冷蔵庫に背中を預ける。キッチン越しにダイニングテーブルを眺めながら、俺は思った。もしも末那ともっと早い段階から関わっていたとしたら、何かが変わっただろうか、と。俺が彼女の術式をもっと早くに知っていたら、何かが変わっただろうかと。

 彼女がこの家に来たその日に、術式の有無を確認して、彼女と術式についての話をしていたら。そしたら――――何かが、変わっただろうか。

 ふと、ダイニングテーブルに置かれているものの存在に気が付いた。キッチンの照明に照らされて、ぼんやりと浮かび上がったものたち。俺は導かれるように、テーブルの前まで移動した。

 テーブルの上には食器が二つ、置かれていた。お椀と平皿だ。お椀にはみそ汁が、平皿には…………卵焼きが。見覚えのある形のそれは、昨日の昼に食べたものと瓜二つだった。

 

「…………なんだよ」

 

 暗いダイニング。キッチンから漏れる明かりで照らされた食卓には、みそ汁と卵焼きが置かれている。それが示す意味。

 

「何なんだよ…………!」

 

 祖母ちゃんは入院している。俺が作ったわけはない。

 

「お前は…………何がしたいんだよ…………!」

 

 だから、この食事を作ったのは末那だ。彼女が調理し、盛り付けて、ここに置いた。

 

 それ以外有り得なかった。

 

「末那っ…………!」

 

 ダイニングテーブルの上。キッチンからの明かりが届かない場所に、一枚の紙きれがあった。手を伸ばして摘まみ、光に晒す。そこには几帳面だが、少し丸みを帯びた文字で、こう書かれてあった。

 

『体調が優れないのですか』

「あ、ああ…………っ」

 

 視界がぼやけた。紙に書かれた文字が見えなくなり、生ぬるい液体が頬を伝う。透明な雫がぽたぽたと落ち、手に持った紙切れにしみを作った。

 

「何なんだ…………何なんだよ、お前…………」

 

 崩れ落ちた俺は胎児のように丸まり、うわ言のようにそう呟く。

 俺を物のように見る彼女と、恋する乙女のように見る彼女。奔放に人を弄ぶ彼女と、祖母ちゃんに何かあったのかと心配する彼女。人の精神を捻じ曲げて殺す彼女と、部屋から出てこない俺を心配し食事を作ってくれる彼女。

 どれが本当の姿なのかが分からなくて。そうして、俺は寒さに震える子どもみたいに、ただただ、うずくまって泣くことしかできなかった。

 

 

 *

 

 

 シャワーを浴びると少しだけ気持ちが楽になった。水気をふき取り、清潔な服に着替える。パーカーに動きやすいズボン。これからすることを考えて黒い服を選んだ。

 使用したタオル類を適当に放り、洗面所を後にする。どうせもうここに戻って来ることもない。祖母ちゃん一人ではこの広い家は持て余すだろう。バリアフリーの賃貸でも借りるといいのにと思った。

 自室に戻り、電話を一本入れる。通話が終わると、椅子に腰かけ、時計を睨む。そうして待つ。適切な時間になるまで。じっと。

 数度、ドアが開き、部屋の主が廊下に出る音が聞こえた。その度に俺は術式を使い、その動向を探る。手洗いに行くのか、階下に飲み物を取りに行くのか。そうして彼女の生活を監視する。悪趣味の極みだが、不思議と醒めた頭はその作業を淡々と行っていた。

 徐々に外が暗くなってくる。幾ばくもなく完全な宵闇になる。俺は睨んでいた時計から視線を切り、椅子から立ち上がった。

 ドアを開け、廊下に出る。静まり返った冷たい床を歩く。ものの数秒で目的の場所に着いた。そうして俺は深呼吸する。心を決めるために。全てを終わらせる覚悟を決めるために。

 俺は目の前の扉をノックした。

 

 

 *

 

 

 ペンを置く。凝りをほぐすように首を回し、両手を組み合わせて伸びをする。集中していたため頭の奥にじんわりとした疲労が感ぜられた。

 ふと喉の渇きを覚えた私は、階下に向かうため廊下に出る。静まった空間をぺたぺたと歩き、階段まで向かう。その際同居人の部屋をちらりと見た。そこにあるドアは変わらず閉じられている。私は視線を切ると、階段を降りてキッチンへと向かった。

 一階には大きな窓があり、陽光を取り入れられる設計になっている。私は窓から差し込むオレンジ色の光に目を細めた。

 キッチンに入り、冷蔵庫から紙パックを取り出す。シンクに洗い終えたコップが置いてあったのでそれを手に取る。パックを傾け、中身を注ぐ。八分目まで入れたコップを持ち、パックを冷蔵庫に仕舞う。ぱたん、と静かなリビングに冷蔵庫を閉じる音が鳴った。

 

「…………ふう」

 

 こくりこくりと二回嚥下し、コップを口から離す。夕焼けのオレンジ色の光が、コップについた唇の跡を照らしていた。

 そうして、キッチンの縁に身体を預けながら、ちびちびとコップに注いだ紙パックのお茶を飲む。緑茶の青い匂いを感じながら、私は同居人のことを考えていた。

 

(私が昨日用意した食事は食べたのか…………)

 

 飲み物を出す際、ちらりと冷蔵庫の中を確認したが、卵焼きやみそ汁はなかった。シンクにそれらの食器がないということは、食べた後の食器を自分で洗い、棚に仕舞ったのだろう。私は伏せていた目線を上げて、お椀を収納するスペースを見た。彼のお椀が置いてあった。

 

(食欲はある…………忙しいのかな)

 

 私は同居人の状態についてそんな推測をする。小夜おばあちゃんがいない今、私に助けを求めないということは、深刻な体調不良ではないということだろうか。

 

「…………寂しいな」

 

 私は自分の口を手で覆った。今しがたの自分の発言が信じられず、暫くそうして口を塞ぐ。けれども言った後でどれだけ口を塞ごうとも、漏れた言葉の内容もそれを言ったという記憶も、消えてなくなることはなかった。

 

「おばあちゃんがいないからだ。だから寂しいんだ」

 

 誰に対してしているのか分からない言い訳をしながら、私はしきりに自分の髪を撫でる。するりと流れる髪の毛に指を通していると、次第に焦りの感情は薄れていった。

 

(馬鹿みたいだ)

 

 一人で感情を跳ねさせたり鎮めたりしている自分が何だか滑稽に思えてしまい、私は自分自身を非難する。自分で言った言葉に一人で焦って、一人で言い訳して。非生産的ったらありゃしない。それにそもそも、ちょっと会話をしたからといって、そしてそれが思ったよりも――――楽しかったからといって。だからといって、ちょいとばかし絆され過ぎじゃあないだろうか。

 私は自分に言い聞かせる。浮かれすぎだ。いつからお前はそんな簡単な人間になったんだ、と。

 しかし同時に心の別な部分がこうも言っている。仕方ないじゃないか。彼は私と同じ、特別な人間なんだから、と。

 特別な人間。私はその言葉を反芻する。特別な人間。言い換えればそれは『力』を持った人間ということであり、この全能感を共有できる人間であるということ。目の前の人間は己の下位互換であるという認識を共有できる人間。それはきっと私にとって、自分の深いところにあるものを晒し、人生における大事な価値を分かち合える存在に、彼がなれるということ。

 

「特別、か」

 

 呟いた言葉は、静かなキッチンに溶けて消え。後には夕焼けの橙色だけが残っていた。

 

 

 *

 

 

 外は暗くなっていた。十七時に流れる夕焼け小焼けはとっくに終わり、残響さえ聞こえはしない。私は見ていたスマホを閉じると、夕飯を作ろうかと立ち上がった。

 その時ふと、気配を感じた。ドアが開く音だ。続けて、とん、とん、と足音。同居人の気配だ。手洗いにでも行くのだろうか。私はドアを開けて廊下を歩く彼の顔を確認しようかと考えた。具合が悪いのなら看病くらいはしてやろう、と思ったから。けれどもここでドアを開けるのは、何だか待ち構えていたみたいで抵抗がある。恐らく彼は洗面所か手洗いに行くのだろうから、その用が終わってから、偶然を装ってドアを開けようか。

 そんな小狡い策を練っていると、こんこん、とドアがノックされる。まさか私に用があるとは思っていなかったため驚きつつ、私はノックに対し素直にドアを開いた。

 

「…………」

「…………?」

 

 彼は立っていた。床を見つめ、無表情で。凍り付くような冷たさを持ったその表情を、私は初めて見た。

 

「あの…………?」

 

 廊下に立ち、尋常ではない面持ちで私を尋ねてきた阿頼耶。常になく真剣で威圧的ですらある。私は首を傾けつつ、ふと、彼が目の前に立っていても、自分の中に恐怖や怯えといった感情がないことに気が付いた。

 

(ああ、これはもう…………)

 

 そんな自分自身に対して、私はもはや諦めのような感情を抱いた。つい一昨日は彼に対し盛大に怯えたのに、その時と同じような状況になった今、私の中に怯えや恐怖といった感情は一切ない。阿頼耶の対応のおかげだとは分かるが、私は自分のちょろさに呆れつつ、彼に絆された自分を認めた。これが恋かは分からないが、少なくとも私にとって彼は、全人類の中で唯一、マイナスではなくプラスの男性だと。

 

「やっぱり、体調が優れないんですか」

 

 顔色の悪い阿頼耶。私は彼に対しそう尋ねる。

 唐突に、『力』の波動を感じた。彼の右手。だらりと下げられた手を中心に、不可視の『力』が渦巻いている。反射的に、あるいは本能的に、私はそちらに目をやってしまった。

 

「見えてるんだな」

 

 私が右手に目を向けたのを見て、阿頼耶が言う。その声音はただ事実を確認する時のもので。私は自分が致命的な間違いを犯したことに、遅ればせながら気が付いた。

 

「『うごく』」

 

 な、と言い切る前に、阿頼耶が俊敏な動作で私の口を塞ぐ。彼はそのまま私の口の中に指を入れ、発音を阻害させると、もう片方の手で私の喉を押さえ、発声を封じた。

 

「やめろ。お前がどんな呪詛を吐こうと、俺はお前を2秒で殺せる」

 

 私の口に指を突っ込み、加えて喉を鶏のように掴みながら、阿頼耶は言う。試しに『離せ』と言おうとしたが、的確に咽頭を押さえ付けられ、声帯から掠れた音が漏れただけだった。

 ならばと、私は自由な両手で阿頼耶の腕を掴んだ。引き離そうと力を入れるがびくともしない。私は股間に向けて蹴りを放った。

 

「ぅぐ」

 

 喉の奥に指が入り込み、生じた吐き気でえづく。酸っぱい唾液が分泌され、彼の指を濡らした。

 

「終わりか?」

 

 手の力を緩めることなく、彼が問う。返答を期待していないことは明らかだった。私は身体から力を抜いた。発声を潰され、指を噛んでも痛がる素振りはない。抵抗は予備動作で予知されて潰される。

 詰みだ。

 私はその結論にこう付け加えた。

 今のところは。

 

「YESは瞬き二回、NOは瞬き三回。分かったか」

 

 威圧的な口調に、私は瞬きを二回返す。返答を読み取るため、彼は私の瞳を覗き込んだ。

 

「質問に答えろ。お前は術式を持っているな」

 

 じゅつしき、というものが何か分からず、私は反応ができない。素振りから無理解を見て取ったのか、彼は「特殊な力を持っているか」と言い直した。

 私はそれに対し瞬きを二回返す。こぷり、と、出しっぱなしの唾液が口の端から漏れ、彼の手を汚した。

 

「その力は、言葉によって精神を操るものか」

 

 私は自分の目が見開かれたことを自覚した。次いで理解する。彼はもう、全てを知っているのだと。私が言おうと思っていたことを、言わなくていいのなら言わないままにしておきたいと思っていたことを、彼は既に知っている、知ってしまっているのだと、私は理解した。

 私は観念し、二回、瞬きをする。恐らくは一昨日のあの電話だろう。あれが彼に私の正体を知らせるものだった。そうして彼は今日、この時、その真偽を確かめに来た。純粋な『力』を纏うというブラフで『力』を認識できるかを確認し、その後の私の行動で連絡通りの人物かを確認した。私は彼が「見えてるんだな」と言った時に違う反応をしたらどうなっただろうかと考えた。『動くな』ではなく、例えばそう、罰の悪そうな顔をしたらどうなったか。こんなふうに拘束され、尋問されることはなかったのではないか。それに、彼の私に対する印象だって――――。けれどもそんな想定に意味はなく。そして意味のないたらればは、日本語で後悔という名で呼ばれていた。

 私は数秒前の自身の判断を悔い、彼の瞳を真正面から見据える。口の中に突っ込まれた彼の指を噛み、挑発するように舌を這わせた。

 

「お前はその力を、3か月前に自覚したか」

 

 表情を変えることなく、彼は次の問いを重ねる。

 私はそれに対し二回、瞬きを返した。

 

「お前はその力で――――人間を、襲ったか」

 

 私はその問いに答えることを躊躇った。けれども彼がどこまで確かなことを知っているのかが分からず、それはつまりここで嘘を吐くことがどんな意味を持つのかが分からないということであり、私はギャンブルのような選択を迫られる。電話の相手から何を聞いたのか。そもそも電話の相手は誰で、何をどこまで知っているのか。それは組織なのか。仮に組織ならば阿頼耶はその一員なのか。『力』を使った時に生じる痕跡は、DNAのように個人を特定できるものなのか。

 様々な想念が渦巻く中、私は数秒を置き、ゆっくりと瞬きを二回する。

 彼は三回目がないことを確認すると、数秒、瞑目し、何かに耐えるようにした。彼は目を開き、詰問を再開する。

 

「お前は襲った者から金銭を奪い、その精神を捻じ曲げたか」

 

 二回。

 

「人で力の実験をしたことはあるか」

 

 二回。

 

「人を襲う場所は都心で、毎回場所を変えていたか」

 

 二回。

 

「人を」

 

 彼はそこで区切った。私には淡々としていた彼が、そこで初めて躊躇っているように見えた。

 

「人を、殺したことは、あるか」

 

 一言ずつ、噛み締めるように言われたその質問に対して、私はゆっくりと瞬きをした。ゆっくり――――三回。ちゃんと、NOを示すために。

 

「――――佐藤広軌。男性、会社員、ソフトウェアエンジニア。池袋の路地裏で発見」

 

 私の瞬きを確認すると、唐突に彼は語り始めた。ソフトウェアエンジニアの会社員についての物語を。そして恐らくは――――私が襲った者についての物語を。

 

「彼は一切の文字が読めなくなっていた」

 

 息を接ぎ、

 

「発見から二週間後…………彼は自殺した」

 

 ひやり、と。冷たいものが心臓を撫でた。『自殺した』その一言は、私の心に取り返しのつかないことをしでかした時の圧迫感と焦りを生じさせた。

 

「プログラミングは彼の仕事道具であり、生きがいだった。収入源と没頭できる趣味を一度に失った彼は、生きる意味を失い…………命を絶った」

 

 いつの間にか、感情を排していた彼の声に熱が籠っていた。義憤という、世の中に蔓延る不条理に対する怒りの熱が、彼の声には宿っていた。

 

「彼にはガーデニングプランナーの妻と、小学生の子どもが二人いた」

 

 そしてその怒りを向けられているのは――――口の中に指を突きこまれ、唾液で彼の手を汚し続けている、私だった。

 

「子どもは…………父親としての彼が大好きだった。ガジェット好きの父と共に、最新の端末をいじくり回すことが、何よりも幸福を感じられる時間だった」

 

 彼の手に力が入った。増した圧迫感にうめき声が漏れる。

 

「子どもについては創作だ。俺が今作った。だけど全く有り得ない話でもない」

 

 目の前の阿頼耶は私の苦しさを見て取ったはずだが、その手に籠めた力を緩めることはなかった。

 

「なあ、教えてくれよ。お前は今の話を聞いて…………どう思うんだ?」

 

 どう思うか。YESかNOで答えられない質問。ふと彼は私の口から指を引き抜き、歯と舌を自由にする。ぬるり、と、私の口と彼の手に唾液の糸が引いた。

 

「『うごく』」

 

 言い切る前に背中から壁に叩きつけられる。肺から空気が押し出され、呼吸が阻害された。

 彼は私を壁へと押し付け、冷たい目でもがく私を見つめた。

 

「お前の力は強力だ。気を抜けば術師だろうと簡単に無力化させられる。でもな、力を自覚してたかだか3ヶ月程度の人間にしてやられるほど、俺も落ちぶれちゃいないんだよ」

 

 彼は言い、

 

「10年。俺とお前には力を使う者としてそれだけの経験の差がある。無駄な抵抗をするのもいいが、あざが増えるだけだぞ」

 

 私はせめてもの抵抗として彼の腕を掴むが、私を壁に押し付ける腕は大木のようにびくともしない。私は歯噛みし、力を抜く。経験の差を叩きつけられ、格の違いを見せつけられ、何より私を救った力で私の抵抗を封じ、そして私を怒りの籠った眼で見る彼の姿は、私からなけなしの戦意を喪失させるには十分だった。

 

「分かったら答えろ。お前は彼らについて………………どう思うんだ」

 

 彼が問う。同じ問いを、繰り返し。

 

「気の毒だと、思います」

 

 私は言った。掠れた声で。死んだ彼と彼の家族に対して…………気の毒だ、という心からの言葉を、目の前の阿頼耶に向けて言った。

 

「殺すつもりなんてなかった。自衛のために死ねと言ったことはあっても、快楽のために殺そうとしたことはない。その一線は――――越えたことは、ない。だから気の毒だと、そう思います。私に彼を殺す意図はなかった」

 

 息苦しさに喘ぎながら、私は言葉を紡いだ。阿頼耶に対して言ったことに嘘はなかった。私は誰かを殺そうとして殺したことは…………あの従兄以外に、ない。

 

「気の、毒…………?」

 

 彼は私の言ったことを反芻した。瞳が泳ぎ、私の言葉の意味を咀嚼しようとする。戸惑った様子を見せる彼に対して、私は再度口を開いた。

 

「それに私は、無差別に心を壊したわけじゃない。分かるでしょう、私の力は人の心を好きに改変することができる。聞きたい情報を聞き出すことは力の応用ですらない。聞きたいことがあるなら一言尋ねればいい。例えばそう――――お前の罪を答えろ、と」

「………………罪…………?」

 

 その一言で、彼は逸れていた視線を私に戻す。ふと私は彼の拘束が緩んでいることに気が付いた。

 

「ええ、罪。女性に対する罪。私は人を襲い、金銭を奪ったが、心を壊したのは罪を犯した者に限られる。なぜならそういう――――ルールだったから」

 

 彼の瞳が揺れ、苦悩するように眉が顰められる。目の前の人間の言い分を理解しようとするが、心がそれを拒否している。そんな表情。私は彼のそれを隙と見た。

 

「『離せ』」

「っ――――」

 

 喉が自由になる。命令に抵抗したのか、彼の腕は私の喉から完全には離れていなかった。が、口と声帯が動けば十分。

 

「『動くな』」

 

 命令が脳に入り込む。彼は何かに耐えるように顔を歪めたが、直ぐに持ち直し、私に向けて手を突き出した。私は体を傾けて彼の掌底を回避すると、突き出された腕の下を通すように自身の腕を突き出す。私と阿頼耶、両者の腕が上と下ですれ違う。私はそのまま彼の頭部に触れた。

 

「『動くな』」

 

 接触すると力の効果が向上する。それを私は実験により知っている。効果が向上する条件は対象に掌を触れさせることで、触れる場所は頭部に近いほど良い。

 

「――――え」

 

 天井が見えた。清潔な白いクロスと、LEDの照明。次いで全身に伝わる浮遊感。私は合気か何かで投げられたことを理解し、来るであろう衝撃に備えた。しかしいくら待っても衝撃は来ず、私は奇妙な浮遊感の中、反射で閉じていた目を開いた。

 

「あ」

 

 胸の中心から腕が生えていた。視線を上げると、阿頼耶が私の胸元を掴んでいる。逆光で彼の表情は分からなかった。

 

「――――きゃっ」

 

 どさ、と床に落ち、私は短く悲鳴を上げる。数瞬遅れで、彼が手を放したことに気が付いた。

 

「――――っ」

 

『死ね』とは言いたくなかった。袈裟の男が死ななかったことから、『力』を持つ者には私の言葉が効き難いことは分かっている。けれども私は、彼に殺意を向けることがどうしても出来なくて。だから馬鹿の一つ覚えのように再度『動くな』と言おうとして――――声が出なかった。視線の先。床の上で上半身だけ起こした私の目に、彼の空虚な瞳が映り込んだから。

 彼は目を伏せ、感情の消えた目で私を見下ろしていた。数秒して口を開くと、低い声で言う。

 

「下に金がある。それを持って消えろ」

「…………え?」

 

 初め、私は彼の言ったことが理解できなかった。言われた言葉が脳に浸透するまで数秒。加えて浸透した言葉を咀嚼し、その意味を読み取るまで数秒。理解が及んでもなお、私は口を開き、え、と言う事しかできなかった。

 

「ちょ、ちょっと待って。私は」

「表にタクシーを止めてある。好きな行き先を告げろ。彼女は土御門専属のドライバーだ、何処へでも連れて行ってくれる。当面の生活基盤は提供するが、ひと月以内に土御門から自立しろ。そこから先のことには関与しない。好きに生きろ」

 

 何か言わなければ。そう思い絞り出した言葉も、立て続けに放たれた事務的な声にかき消される。私は焦りに支配された頭で言うべき言葉を探ったが、論理的なことは何一つ言えそうもなかった。

 

「待って。お願い、あらやくん。待って。話そ、話そうよ。まだ言ってないことが沢山ある。話さなきゃならないことが沢山あるの」

 

 言い、私は阿頼耶を見上げる。彼は表情を変えずに、ただ冷たく私を見下ろしていた。私は焦りと悲しみがない交ぜになった頭で、言葉を探す。ただ探そうにも、私には私自身のことを言う以外に選択肢はなかった。

 

「なんでお金が必要だと思ってたか、とか、なんで男の人の罪を聞き出してたか、とか。全部理由があるの。ちゃんと、なんでそれをやろうと思ったのか説明できる。だからさ。お願い。話そうよ」

 

 私は言う。彼の瞳を見ながら。それは懇願だった。慈悲を請い、庇護欲をそそる仕草を意識することさえしながら、私は彼に、話そう、と懇願する。そのためには私は女を使う事さえした。彼の意識を引き、対話に持ち込めるならなんでも良かった。ただここで彼に拒絶され、二度と会えなくなることを避けられるなら、私はどんな武器でも使った。

 

「ねえ、お願い。お願いだから…………」

 

 声音が弱まる。顔が俯く。私は清潔なカーペットを見つめながら、阿頼耶の言葉を待った。阿頼耶が「分かった」と言ってくれるのを待った。そうして一昨日のように珈琲を淹れ、あの心地よい香りの中、私の身の上の全てと、それらに対し私が何を感じていたのかを、彼に話したいと思った。

 思った、けれど。

 

「…………」

 

 阿頼耶は何も言ってはくれなかった。ただただ、感情の消えた瞳で、懇願する私を見下ろしていた。

 暫くそうして、時計の針が時間を刻む音を聞く。彼に対話する気がないと知った私は、違う方向で気を変えさせようと、口を開く。

 

「……………………どこにでも、って、どこへ?」

「知らない。適当な地名を言え。県庁所在地ならどこでも東京の下位互換だろうよ」

「……………………生活基盤の提供は?」

「ドライバーに滞在先を言えば土御門から金が届く。名義も貸してやる。連帯保証にでも使え」

「……………………関与しないって、どこまで」

「文字通りの意味だ。どこかで人を襲おうが野垂れ死にしようが知ったこっちゃない。ただ、次にお前を糾弾するやつが、俺みたいな人間だと思わないほうが良い」

「……………………小夜、おばあちゃんには」

「言ってない。体調に障る。退院したら伝えるさ。朝起きたらいなかった。金を持ってどっかに消えた、って」

「……………………」

 

 問いかけに答えるうちに、考えが変わってくれたら。そんな願いは終ぞ届かず、阿頼耶は感情を排した声で淡々と私の問いに答えただけだった。

 

「戻って来た時に消えてなかったら――――殺す」

 

 彼はそう言い残し、消えた。アニメーションでそのページだけ書き忘れたみたいに。瞬きすらしていないのに、彼の姿は突然目の前から消えた。音もなく、残像もなく。残り香さえなかった。

 彼がいなくなった部屋の中で、私は立ち尽くす。頬を流れる生暖かい雫を拭いもせずに。

 そうして私は後悔していた。これまでの自身の行いを。人を襲った事を、金銭を奪った事を、心を壊した事を、クラスメイトを実験に使った事を、彼が術式と呼んだ『力』を、好き勝手に使った事を。

 そして何より。

 彼に、もっと早く『力』を打ち明けなかった事を。

 私は後悔していた。

 このままここにいて、彼に殺されるのもいいかもしれない。莫大な感情の波に押しつぶされそうになりながら、私はふと、そんなことを思った。

 

 

 *

 

 

 からり、と、玄関の引き戸を閉めた。草木の匂いが鼻腔をくすぐる。私は俯き、地面を見つめながら、石畳の上を門に向けて歩き始めた。

 一歩踏み出すごとに膨大な気力が必要で。私は門にたどり着くと、そこで全ての体力を使い切ったような感じがした。

 門は開かれていた。通りにはタクシーが横付けされている。私は力のない足取りで車体へと向かった。

 私が近づくと自動的にドアが開いた。緩慢な動きでシートに座ると、バタンとドアが閉まる。ドライバーであろう、老齢な女性の声で「どこに行きましょうか」と聞こえた。

 

「どこへでも」

 

 女性は戸惑ったようだった。けれども事前に事情を聞いているのか、彼女は分かりましたと言い、車を走らせる。私はシートに体を預け、微かな振動を感じた。

 

「京都はどうですか。四季が美しいですよ」

 

 暫くそうして車体の揺れに身を任せていると、ドライバーの女性が言う。皺の寄った声音は優しくて、私は小夜おばあちゃんの事を思い出した。

 

「そこでいいです」

 

 思い出したら、何だか泣きたくなってきて。私はガラスの窓に顔を押し付けた。都会のつまらない街並みが、ただ流れゆくままに移り変わっていく。私は空虚な心を抱えながら、窓の外を眺める。故郷にしたかった場所は二度と行ってはならない場所になった。私の原風景は未だ空白。寄って立つ場所を持たない私は、これからどうやって歩いていけばいいのだろうか。

 窓の外、皇居の近くを通り過ぎた。先進的なビル群を目に収めながら、私は寒くもないのに肩を抱き、何かを包むように身を丸める。そうして胎児のように丸まりながら私はきつく目を閉じた。

 あの家での思い出。それらを全て、振り払うために。

 目を開ける。私は目覚める。己を引き留める全てのしがらみを引き裂いて。心を漱ぐ清涼な二人をどこかへと置き去りにして。

 車体の揺れを感じながら、私は次に襲う男のことを考えている。できるだけ多くの人間を一度に壊そう。そうして今度こそ、存在するであろう正義の組織に殺されよう。そうだ、今度はあんななよなよしたやつではなく、ちゃんと業務を真っ当できるやつに見つかろう。あんな――――優しい人間じゃなくて。

 

 涙は出なかった。

 でも、それでいいと思った。

 

 

 *

 

 

 絶望する少女が自己破滅的な思考に陥るところから、時は少し進み。

 東京タワー、特別展望台。高さ250mのその場所で、五条悟はとある人物を待っていた。誰もいない展望室。光のない空間で、彼は眼下に広がる東京の街並みを眺めながら、鼻歌を歌っている。

 ふと、彼の背後でエレベーターの到着を知らせる音が鳴った。軽やかな音に導かれるまま、彼はゆったりとした動作で後ろを振り返る。彼の瞳に、機内から出てくる二人の人影が映った。

 人影がそれぞれ足を踏み出す。機内から出て、展望台の床を踏みしめた。

 ふと、どさり、と。片方の人影が展望台の床に倒れる。そのまま彼は動かなくなった。

 

「どうも、五条さん」

 

 動かなくなった人物ではない方の人影が言う。彼は倒れ伏した人物に駆け寄ることもなく、窓際の五条に向けて数歩、歩み寄った。

 

「やあ、あらやん」

 

 五条が言う。たった今エレベーターから出てきた人物に対して。あらやんと呼ばれた人物は「なんでそのあだ名知ってんだよ」とぼやくように言った。

 

「恵じゃ役者不足だったかな」

 

 五条は倒れ伏す人物を顎で示し、言う。阿頼耶は首を振って、

 

「いやめちゃくちゃ強かったですよ、かれ。いやまじで。もうばぐってんだろってくらいに。つーか何なん、最近の高専生って領域使うの?そんなことあっていいの?あれって一応呪術の極致だろ?そんなんを15歳だか16歳が使えていいの?俺も似たような歳だけどさ。何なん?馬鹿なの?あほなの?天才なの?」

 

 阿頼耶のぼやきに、五条はくつくつと喉の奥で笑う。

 

「七海と日下部は?」

「日下部さんは下で寝てます。狸寝入りですけど。七海さんはちゃんとした大人なので、ちゃんと意識を奪いました」

 

 五条の問いに阿頼耶は答える。ふと、五条は口を開いた。

 

「――――阿頼耶、泣いてんの?」

「え」

 

 五条から問われた阿頼耶は、自身の頬に触れる。彼はそこが濡れていることを知ると、その両目を見開いた。

 

「あ、はは。なんでだろ」

 

 そうして、阿頼耶は無理矢理笑った。顔をくしゃくしゃにしながら、歪に。

 

「五条さん、ちょっと訊きたいんですけど」

「うん?」

 

 泣き笑いのまま、唐突に阿頼耶は口を開いた。

 

「例えば…………例えばですよ?ある所に、総監部が抹殺を決めた呪詛師がいるとするじゃないですか」

 

 阿頼耶は語る。あくまでこれは例えだと前置きをして。

 

「それで、その呪詛師と共に暮らしていた術師が、同居人のよしみってんでその彼だか彼女だかを逃がしてしまったとして」

 

 そして。

 

「その時その術師に対して、総監部はどんな命令を下しますかね」

 

 それは彼にとって、既に知っていることのチェックであり、単なる事実の確認であった。

 五条は考える素振りを見せたが、阿頼耶はそれが単なるポーズであると分かっていた。この問いの結論に筋道を立てた思考は必要ない。太陽は東から昇ると言う事に思考が必要ないように。五条は口を開き、

 

「んー、そうだなあ。まあ、先ずは逃がした呪詛師の居場所を聞くよね。それでもしも口を割らなければ…………その呪詛師の危険度にもよるだろうけど、最悪の場合、共犯を疑われて処刑じゃないの」

 

 阿頼耶は「ですよね」と言い、苦笑のような表情を浮かべた。

 

「ああ、すいません、あともう一つ」

 

 言いながら、彼は背後から棒状のものを取り出した。柄と刃で構成されたそれは、一般的に鉈と呼称される刃物の一種だった。

 

「末那への指令が抹殺だっていうのは、本当ですか」

 

 七海健人の鉈を持ち、阿頼耶は問う。暗闇の中、夜景の光を反射して刃が鈍く光っていた。

 

「――――ああ、本当だよ」

 

 五条は阿頼耶の問いにそう答えた。抹殺は真実であると。

 彼女はもう、殺すしかないのだと。

 総監部からの命令と矛盾することを、堂々と、言った。

 

「逃がしたんだろ?監視の七海、地上の日下部、恵と戦ってまで」

 

 世間話のような軽さで、五条は言った。指摘された阿頼耶はそれには答えず、おどけた笑みを返す。

 

「ちなみになんですけど、このまま見逃してくれたりとかって」

 

 阿頼耶の言に五条は首を振り、

 

「いーや、ないね。町田末那は殺す」

「ですよねー」

 

 たはは、と。置かれた状況にそぐわないおちゃらけたことを言い、手に持った鉈で頭を掻く。

 

「じゃあ、五条さん」

 

 そうして、流れる涙を拭うこともなく。ぐちゃぐちゃになった感情の中、突きつけた鉈は、天に唾吐く行為だと知りながら。

 

 それでも彼は、その相貌に悲壮なまでの決意をにじませて、目の前の最強にこう言った。

 

「末那が逃げ切るまで――――殺し合い、しましょうか」

 

 

 

 

 

 




 やめて!五条悟の無下限呪術で吹き飛ばされたら、同居人の女の子が呪詛師だったショックから立ち直れていない阿頼耶の精神まで燃え尽きちゃう!
 お願い!死なないで阿頼耶!あんたが今ここで倒れたら、伏黒や七海の犠牲はどうなるの?呪力はまだ残ってる。ここを耐えれば、サイコパスJKを逃がせるんだから!
 次回、「阿頼耶死す」呪力スタンバイ!




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そっか、『死ね』

 清潔な匂いがしている。

 

 東京タワー。都心を一望できる箱を内に飲み込む電波塔は、残念ながらもっと高いタワーが出来てしまったことでお役御免となり、直線を組み合わせただけの単なる鉄の塊になってしまっている。ああ、いや、ラジオかなんかの電波を送信してるんだったっけ? そんなことを隣の席の俺をあらやんと呼ぶ男子から聞いた気がするが、さてそれが本当なのかは分からない。もし本当ならこの巨大な建造物は今なお何かの役に立っているということになるが、そうでなかった場合、一番高いところから電波を垂れ流すというアイデンティティを失ったこの塔は、かつてもてはやされた時代が過去となり、やがては人の記憶からも忘れ去られていくのだろうか……と思ったが、こんなどでかくてなおかつ真っ赤な建造物なんて早々忘れることなんてできないだろうと一秒前の思考を否定する。

 

 むしろこれからは「俺、一番とかどうでもいいんで」とか言っちゃう妥協できる俺かっけえな人間にひそかに愛されたり、「俺は二番手でいい。君が幸せでいてくれるなら……結婚しよう」みたいに素朴な幸せをあなたと築いていきたい系のプロポーズに使われたりするのだろうと思った。

 

 二番手でいいと言った口で結婚しようと申し出るのは中々に頭が悪くて俺的に好みなのだが、そんな求婚の言葉を受け取った女性は「馬鹿なんじゃないの? ほんと…………馬鹿。そんな馬鹿には私がいないとだめね」と柔らかく笑い、そして数年後に「本当の馬鹿はあの時プロポーズを受けた私だったわね……」と寂しく笑うことになる可能性が高い。そしてその様を独身女性たちに嗤われるのだ。そういう不幸な出来事を防ぐためにも、やっぱプロポーズの言葉は「毎朝俺のみそ汁を飲んでくれないか」がベストだと思った。いや働けよ。

 

『術式反転・他我』

 

 瞬間────くだらないことを考えている脳に、膨大な情報が入力され始めた。

 

 熱が出そうなほど頭をフル回転させ、ぶち込まれる情報を処理していく。足に力を込め、飛びかかる準備をした。が、俺が床を蹴るよりも────目の前の最強が呪力を練り上げる方が速かった。

 

『術式順転・蒼』

 

 物質を消失させる程の吸引力が、静謐な展望台に生じる。ブラックホールのように全てを無に帰す力がガラス窓を吹き飛ばし、破壊の余波が俺の身を叩く。飛んできたガラスを腕で防ぎながら、俺は今が殺し合いの最中だったことを思い出し、数秒前の思考を後悔した。

 プロポーズがどうとか考える前に今を生き延びることを考えるべきだった。

 

「よっと」

 

 破片から身を守る俺の前で、五条さんが破壊された窓枠を飛び越える。そのまま彼はふらりと闇夜の空中に消えた。

 

(まずっ、『対象』を直接追いに行ったか────!)

 

 毒づき、窓枠まで駆け寄る。俺を無視し、直接末那を殺しに向かうことにしたのか。最強の男には俺の相手をする理由がないのだから、その判断は合理的といえば合理的だった。

 

(無視、する────? あの五条悟が、目の前に立つ『敵』を────?)

 

 窓枠までたどり着くまでの数秒の間、俺は強烈な違和感に眉を顰める。五条悟は最強だ。その力は圧倒的にして絶対的。どれだけの雑兵が武器を持って襲い掛かってこようと、彼にはその身に降りかかる火の粉を能動的なアクションを起こして振り払う必要すらない。

 

 目の前に立つ『敵』と、戦う必要がない。しかしだからこそ────五条悟は『敵』を叩き潰す。俺ごときの障害なんてクリボーを潰す感覚で轢き殺して行く。

 

 彼がそういう性格であると想定したからこそ、俺は粘着質なクリボーとしてその靴の裏に張り付き、抹殺に向かおうとするその足を、末那が逃げるまで止めさせるくらいのことはしてやろうという意思でいたのだ。

 

 なのに。

 

 今、五条悟は直接末那を追いに行った。眼前に立ちふさがる俺という雑兵を蹴散らすことを選ばずに、任務を果たすうえでの最適解を選び取った。俺は予想と異なる最強の振る舞いに舌打ちする。末那が車に乗り込んでからまだ10分と経っていない。せめてあと20分、時間を稼ぎたいところなのに────。

 

 俺は宙に飛び込んだ背を追おうと窓枠に足を掛ける。そのまま空中に飛び込もうとした瞬間────俺は展望台の内側に向けて飛んだ。

 

 ごしゃあ、と、ゼロコンマ数秒前まで俺が立っていた窓枠が弾け飛ぶ。ぶっ壊れた窓枠が天井を貫通し、タワーのどこかにぶつかって甲高い音を鳴らした。

 

「勘が良いね」

 

 床に這いつくばる俺に、黒目隠しの男が言う。吹きさらしになった展望台の外、足場のない暗闇の中で、いつも通りのにやつき顔を浮かべて宙に立つ最強。

 

『術式順転・蒼』

 

「────っ」

 

 ぐん、と体が前に引っ張られる。宙に浮かぶ最強に向けて、俺の体が台風で吹き飛ぶレジ袋みたいにぶっ飛んでいく。加速度だけで脳が揺れる中、俺の体は巻き込んだ物質を原子レベルで分解する渦へと突き進み────。

 

「おっ?」

 

 目の前で起きた事象に対し、最強が何かを発見した時のような声を上げる。

 

「っ」

 

 ばぢい、と青白い呪力がはじけ飛んだ。首を狙った一撃は無限の壁に阻まれ、肉体まで届かない。インパクトの瞬間、ほんの僅かだけ俺の呪力が無下限を中和したような気がしたが……もしかしたら錯覚かもしれなかった。

 

 完全に意識外から行ったはずの攻撃を完璧に防いだ五条さんは、背後にいる俺に向けて裏拳を繰り出す。笛のような高い音を鳴らして迫る拳を、俺は鉈の刃を立てて受け止めた。手の甲と鋭利な刃が触れるとどういうわけか刃の方が砕け散り、吹き飛んだ破片が散弾銃のように俺の身に迫る。最初の破片が眼球に触れる直前────俺は術式を起動した。

 

「…………どういう原理?」

 

 裏拳を繰り出した時の姿勢からゆったりと展望台を振り向きながら、五条さんが問う。

 

 その端正な顔から、先ほどまでのにやついた表情は消えていた。

 

 展望台の床に立つ俺は、砕け散りもはや用途を果たせなくなった凶器の残骸を打ち捨てる。からん、と硬質な音を立てた。

 

「瞬間移動、ではないよね。さっきも今も消えてから現れるまでラグがあった」

 

 無手になった俺に対し、しかし五条さんはすぐさま追撃を加えることをしなかった。額に手を当て、何かを考えるような表情になると、今しがた自分が見たものがどのような原理に基づいているのかを分析しにかかる。

 

 それなりに高度があるからだろう、強い風が白髪を揺らす中、ふと彼は口を開き、

 

「どちらかと言うと透明化……それも物理的な接触を失わせる類のものか」

 

「…………」

 

 目の前の雑兵が引き起こした現象についての所感を述べた最強は、宵闇に浮かび眼前の小物を見据える。そのまま蒼で引き寄せることもなければ、赫で吹き飛ばすこともしない。戦闘の中にふと生じた空白。実力が優越する者が手を止めることで生まれ得るその間隙に促されるようにして、俺は口を開いた。

 

「……唯識法術」

 

 低い声が喉の奥から滑り落ちる。目の前にいる圧倒的強者が作った間。強者がこのまま殺しては詰まらないからと作ったような間、どうぞ話してごらんなさいとでも言うかのようなその間隙に乗じ、俺は術式を開示することを決める。

 

 ふと、何か違和感のようなものが胸の内に生まれたが、はっきりと形をとる前に自分の声に攪拌されてしまった。

 

「仏教徒が修行のために作ったとされる術式。ただひたすらに己の内側に潜り込むことで悟りを得ようとした僧が、試行錯誤の末獲得したチカラは……発動することで全ての感覚器官を閉ざすことができる」

 

 無残に破壊された展望デッキに、俺の声が反響する。俺が言葉を区切ると、途端に遠くの方で行きかう車の音が静寂を嫌うように浮かび上がった。その対比に眩暈のようなものを覚えながら、俺はチカラの開示を続ける。ざり、と砕かれたガラスと靴の裏が擦れ、耳障りな音を発した。

 

「唯識法術は自分の中に一から術式を構築するため、類型としては結界術やシン・陰流に近く、才能さえあれば誰でも習得が可能。一門相伝や他者に教えてはならないなどの縛りもない」

 

 この辺りのことは御三家であるこの男は既に知っていると分かっていたが、折角口を動かす機会をくれたのだからこちらとしては精一杯話を引き伸ばすだけだ。俺は冗長な言い回しで時間を稼ぐことを意識しながら、続く言葉を言うため、口を開く。

 

「感覚を閉ざす、というのが通常の唯識法術ならば、それを正のエネルギーでもって反転させれば、逆の効果が得られることになる。それが術式反転・他我」

 

 言いながら、俺の背にたらりと冷たい汗が流れた。どうやら『地上』の戦闘の際に分泌されたアドレナリンが、説明のために頭を動かすことで切れてきたらしい。震えそうになる腕を抑えつけながら、俺は口を動かす。

 

「感覚を閉ざすことが通常のチカラ、そしてそれを反転したのが認識を拡張する『他我』」

 

 唇をしめらせ、

 

「…………無下限の『止める力』を強化すると『引き込む力』になる。では、『感覚を閉ざす力』を強化すると……?」

 

 迂遠な言い回し。術式の開示によるメリットを得られるかどうかぎりぎりのラインの言葉の選び方だったが、聞いている最強は不審に思うこともなかったようだ。彼は俺が説明を始めてから一貫して宙に浮き、感情の分からない顔でこちらを見ている。その顔を見て、あるいはこの男はこちらの企みなどとうに得心しており、その上で珍しい術の原理を聞きたいから黙って俺の説明を聞いているだけなのかもしれないと思うが、それはそれで好都合だと自身に言い聞かせた。

 

(────、なんだ…………?)

 

 ふと、先ほどと同じ違和感が胸の奥底に生じる。けれども俺はその感覚を振り払い、強化した唯識法術についての情報を目の前の最強に開陳した。

 

「感覚を閉ざすということは、己の世界に入るということ。それを強化すると、己以外の全てから意味という意味が失われることになる」

 

 続けて、

 

「意味を失ったものに束縛される謂れはない。こちらが世界に対して『認識』という干渉をしないのならば、世界の方からも『存在の保証』という干渉をされる謂れはない。屁理屈のような論理だが、そも術式というものは世界に屁理屈を押し付けるもの。突拍子もないロジックでも、解釈を広げて術式に呪力を流したらそうなったのだから、それはそういうものとして効力を発揮する。唯識法術も同じことだ。世界との接続を否定したら、世界の方でもこちらとの接続を打ち切った。だからその間だけ、術者は世界に存在しないことになる」

 

 もう説明することもなくなってきた。俺が息を継いで言葉を続けようとした時、ふとそれまで黙っていた最強が口を開き、

 

「極限まで己に潜り込んだ結果、己以外の存在を否定する権利を手に入れたわけか。ああ、いや逆か。己以外の存在から否定される権利を手に入れた、ってことね」

 

 俺は身構えた。五条さんは俺が『消える』ロジックを理解した。

 

 俺が消えているのは術式を発動している間だけ。

 

 そして消えた俺は亜空間に入っているのでも別な場所に飛ばされているのでもなく、単に術式の効果であらゆる干渉を受け付けないだけだ。

 

 それが分かった最強は、次にどんなアクションを取るか。

 

 ────領域は、あらゆる術式を中和する。

 

 俺は『それ』を意識し、視線の先にいる長身の男に全神経を集中させる。たらり、と嫌な汗が頬を流れた。

 

(…………カラス?)

 

 緊張の中。

 

 ふと視界を横切ったそれに意識を引かれる。

 

 夜も深いうえに黒い姿なので確証はないが、宙に浮く五条さんの後ろを、カラスが通り過ぎたような気がした。

 

「面白いね」

 

 黒目隠しはそう言って笑い、

 

「じゃあこれもどうにかできるのかな」

 

『術式反転・赫』

 

 強烈な斥力により俺の体が吹き飛ぶ。展望台の壁にぶち当たる直前、俺は術式を起動した。

 

『術式順転・自我』

 

 ふ、と世界から切り離される。視覚聴覚触覚味覚痛覚嗅覚、ありとあらゆる感覚が意味を失う。

 

 何も見えない何も聞こえない何も触れられない世界の中で、俺は唯一存在するこの己を意識する。

 

(……3…………4…………終了)

 

 感覚が戻る。同時に世界との接続が復帰する。存在を取り戻した俺は、タワーの外に投げ出されていた。

 

「やっぱり、発動前の運動量は保存されるのか」

 

「────っ!」

 

 すぐ傍から聞こえた声。俺は意味がないと分かっていながら、両腕をクロスさせて防御の態勢をとる。風を切る音が耳に届いた瞬間、つま先が腕が交差する部分、その中心にぶち当たり、蹴りの衝撃が全身に伝わった。

 

(……!?)

 

 きりもみしながら地面に向かう体。とんでもない速度で吹き飛んでいる俺は、しかし────またしても途轍もない違和感に襲われていた。

 

 地面と激突する。浅い角度で入ったためかごろごろとアスファルトの上を転がった。仮に直角で衝突していれば即死だっただろう。回る視界の中、ふと思う。あるいはこれも、この浅い角度も────? 

 

 転がる勢いを利用し、ばねのように飛び跳ねる。両足が車道の真ん中に触れると、そのまま10mくらい地を滑った。

 

「まだまだ」

 

 足の裏が目の前にあった。咄嗟にバックステップで回避すると、寸前までいた場所に長身の男が舞い降りる。強烈なスタンプによってアスファルトが割れ、細かな破片が宙に浮いた。

 

「よっ、ほっ、せやっ」

 

「っ、ふ、────」

 

 繰り出される掌底二発を顔を傾けて躱す。こめかみを狙った回し蹴りを『順転』で回避した。

 

「しっ」

 

 直後、俺の拳と無限が衝突し、どうっ! と衝撃が五条さんの後方に広がる。

 

『術式反転・他我』

 

 無限に阻まれそれ以上進まない拳。しかし俺が術式を起動すると、ごり、とその拳が僅かに前に進んだ。

 

 ぎゅる、と俺の周りに吸い込む反応が作られる。蒼による直接攻撃。肉体がねじ切られる直前、俺は『順転』を起動した。

 

「……それも『存在の否定』の応用?」

 

 はるか後方にいる俺に向け、五条さんがそう問いかける。

 

 一瞬前まで彼の目の前にいたはずの俺は、10mほど離れた場所に移動していた。

 

「コマ割りみたいに見えたけど……ああ、そういうことか」

 

 俺は何も答えなかったが、五条さんは勝手に理解したようだ。

 

 俺が蒼から脱することができた種は至極単純。『順転』を細かく起動し、その都度保存された運動量を計算、現実世界での動きをイメージする。そこに蒼の引き寄せる力をいい感じに考慮すれば、ある程度の望む方向に移動できるというわけだった。

 

「あの、五条さん、一つ聞きたいんですけど」

 

 離れた場所にいる黒目隠しに、今度は俺から声をかける。

 

 違和感。

 

 展望台で術式の開示を促された時に生じたそれは、蹴りを受け止めた時に大きくなり、そして今気が付いたが────先ほどの掌底と回し蹴りで確信に変わった。

 

「もしかして……」

 

 アスファルトの上で、破壊された道路の前で、俺はその違和感を言葉にする。言いながら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という思いがよぎる。

 

 そして、続く言葉を言おうとした時。

 

 最強の胸ポケットから電話のコール音が鳴り響き。

 

 直後、呪力が湧き立つ気配。

 

『領域展開』

 

「────っ」

 

 世界が、塗り替わる。

 

『────無量空処』

 

  

 

 *

 

  

 

 タクシーが走っている。

 

 窓の外、移り変わる景色には外食チェーンが多く、殆どの店に駐車場がある。地方都市の駅前から伸びる大通りといった風情で、高級な店も小汚い宿もない。整えられてはいるがそれ以上の何かは存在しない景色を、乗員の少女は何を思うでもなくただ漫然と眺めていた。

 

「…………」

 

 ドライバーの女性はそんな少女に声をかけない。ただ黙って前を向き運転を続ける。

 

 信号が赤になり、ブレーキを踏み込む。ゆったりと減速し、停止線の内側で止まった。

 

(…………?)

 

 ただ流れる景色を目で追っていた折、ふと少女は何かがおかしいような気がしたが、何故自分がそう思ったのかを掘り下げて考えることはしなかった。感覚的に、考えた結果答えが明らかになりそうなものではなかったし、窓の外を見て思い付いたことならなおさら土地勘のない自分にその本質を同定できるものではないだろう。それにタクシーに乗ってからずっと頭痛がしている。発熱の時のようなだるさもあるし、今は余計なことに体力を使いたくなかった。

 

 少女は胸の内に生じた違和感を打ち捨てる。頭痛を堪えるようにきつく目を閉じた。

 

 少女は気づけなかった。少女の乗るタクシーが京都になど向かっていないことに。より正確に言えば、京都に向かうならば使うであろう首都高速道路の入り口から遠ざかっていることに。

 

 車が動き出す。信号を越えてしばらく走り続けると、唐突にウィンカーを出し、路上に駐車した。

 

「…………?」

 

 少女────末那は、重い頭を上げ、唐突に車を停車させたドライバーの女性に目を向ける。

 

 鈍痛の纏わりついた頭で思った。自分は何も言っていない。どうしてこのような、駐車場でも何でもない────何の変哲もない場所に車を停めたのだろうか。

 

 末那は車内ミラーに目を向けた。ドライバーの女性が目を閉じているのが見えた。

 

「……東京を抜けました。縛りはここまで。阿頼耶様……言いつけ通り、私は私のやりたいように致します」

 

 女性が漏らした、か細い呟き。しかしそれは確固たる意志の籠められた呟きだった。

 

「……っ」

 

 阿頼耶、という単語で、少女の肩が跳ねる。彼女にとってその単語は、出来る事なら今は────聞きたくない単語だった。

 

「末那様、お伝えしなければならないことがあります」

 

 ふと、女性はミラー越しに末那と目を合わせ、そう言った。

 

「今宵、阿頼耶様は貴女様を逃がすため、五条悟と戦闘し……」

 

 息を継ぎ、

 

「……死ぬおつもりでいます」

 

  

 

 *

 

  

 

 背後でバタンとドアが閉まった。

 

 夜の道。不自然なほど人通りの少ない道。私は降りたばかりのタクシーの前で、ぐるりとあたりを見回した。

 

 左右に並ぶビルの群れ、ぼつりぼつりと立っている街灯、そしてそれらを覆う────妙な薄暗さ。

 

 ────似非坊主に襲われた時────。

 

 バイト先に制服を返しに行った時のことが思い出される。人通りがゼロなのも類似していた。

 

(結界、みたいなものなのかな……)

 

 不気味な街の姿から視線を切り、ドライバーの女性に目を向ける。皺の寄った口元が「お気をつけて」と動いた。

 

 前を向く。色彩のおかしくなった街が広がっている。私は走り出した。

 

 誰もいない街に一人分の足音が響き渡る。ぼろきれみたいなスニーカーとアスファルトが擦れる音。

 

 夜の街を、理外の術がかけられた空間を、私は駆ける。顔を上げずとも見える赤い電波塔を目指して。

 

 足を交互に動かしながら、ふと私は『何故戻って来たのだろうか』と思った。

 

 阿頼耶はカーペットの上で這いつくばる私にこう言った。『どこかで人を襲おうが野垂れ死にしようが知ったこっちゃない』と。

 

 死のうが生きようがどっちでもいい。俺は関与しない。だったら私も、阿頼耶がどんなことに命を使おうが知ったこっちゃない。誰かと戦う? 死ぬつもり? はあ、そうですか。ごめんね、お葬式には出られそうもなくて。

 

 私は奥歯を噛み締める。ぎり、と軋んだ音を立てた。

 

 そう思えれば。そう切り捨てられれば。

 

 どれだけ良かっただろうか。

 

 どれだけ楽だっただろうか。

 

「……はあっ、……はあっ」

 

 大して走ってもいないのに息が切れてきた。呼吸も、足も、思考も、色彩の狂った空間では車軸の取れた水車みたいに空回る。

 

 今の私は一貫した行動の指針を持っていない。脊髄反射的な情動に衝き動かされているだけだ。『阿頼耶様は死ぬつもりです』。女性ドライバーの言ったその言葉に走らされているだけ。確かかも分からない、本当にそんなつもりなのか知れない、確かめられない、そんな確証のない言葉に導かれて、私は天を突く電波塔の残骸に向けて走っている。

 

 何のために行くのか分からない。

 

 あそこは私の死刑執行の場だ。

 

 私は命を捨てに来たのだろうか。

 

 分からない。

 

 もしかしたら、私を拒絶した阿頼耶の前で殺されることで、お前の自己犠牲なんて何の意味もなかったぞと、彼の覚悟をせせら笑ってやりたいのかもしれない。

 

 あるいはお前如きに救ってもらうなんて虫唾が走ると、身の程を知らない匹夫に一言文句を言ってやりたいのかもしれない。

 

 もしくは彼の死体に唾を吐きかけて、ざまあみろこの中途半端野郎と、その意思も覚悟も生き様も侮辱したいのかもしれない。

 

 それとも…………それとも私は────阿頼耶に…………。

 

 分からない。

 

 この足を衝き動かす衝動が何なのか、私には────分かることができない。

 

 大通りまでたどり着いた。この通りを渡ればタワー下の広場に着く。信号は赤。無視して突っ切ろうとした時。

 

 ぐに、と。

 

 私の足が、何かを踏んだ。

 

 そう認識した瞬間、私は後ろに飛び退った。足に伝わる感触が生々しいもので、生理的な嫌悪感が引き起こされたから。

 

 ウサギみたいに跳ねた私の目に、たった今自分が踏んだものが映り込む。

 

 自分の目が見開かれたのが分かった。

 

 親指人差指中指薬指小指。

 

 私が踏んだもの。

 

 それは『手』だった。

 

 手首のところから切断された『手』。

 

 それが、私が横断歩道を渡ろうとして踏みしめたものの正体だった。

 

「…………え」

 

 どうしてこんなものが、とか、本物だろうか、とか、一体誰のものだろうか、とか。思うところは多々あったけれども。

 

 そういう思考が吹き飛ぶものを、私は目の端で捉えた。

 

 横断歩道の上に立つ私から見て、右側の通り。

 

 クレーターのようにアスファルトが陥没している車道の脇の街灯の下に。

 

 犬の死骸のようなものが転がっていた。

 

 ぴたりと呼吸が止まる。

 

 静寂が耳鳴りを誘発した。

 

「…………………………………………え?」

 

 予感が、あった。

 

 あれとこの『手』は、関係があると。

 

 あそこにあるぴくりとも動かない肉塊と、この切断された『手』には何らかの関係があると。

 

 加えて。

 

 もう一つの予感。

 

 死骸と『手』には関係があり。

 

 それら二つは、私に、関係がある。

 

 そういう予感。

 

 だって────だってそうじゃないか。ここは本来、私の死刑執行の場なのだから。その場にある切断された『手』と何かの『肉塊』が、私と何ら関係のないものであるはずがないではないか。

 

 そう、ここは私の死刑が執行されるはずだった場所。

 

 その場所に、その地点に。

 

 偶然、何の関係もない『手』が落ちていることなど、有り得るだろうか。

 

 偶々、体の大きな犬種が車に轢かれて打ち捨てられていただけだと、そう思うのは────あまりに楽観的にすぎないだろうか。

 

 楽観的、というより。

 

 もはやそれは────夢見がちと、そう言えないだろうか。

 

 私の頭にぐるぐると色んな言葉が渦を巻く。

 

 異常な事態、坊主と呪霊に襲われた時と同じでやたら暗く、そして誰もいない道。同居人が向かった東京タワー、そして道路わきにゴミのように捨てられた何かの死骸。

 

 何かの『死骸』、あるいは『肉塊』。ぐっしょりと濡れているように見えるそれ。

 

 ────確かめなきゃ。

 

 恐る恐る、私はそれに近づいていく。

 

 一歩進む。

 

 まだ犬に見える。

 

 二歩進む。

 

 大きな犬だ。

 

 三歩進む。

 

 可哀そうな犬。

 

 四歩進む。

 

 なんだろう、鉄のような匂いがしてきた。

 

 五歩進む。

 

 匂いがきつい。発生源はあれか。

 

 六歩進む。

 

 シルエットが見えた。

 

 七歩進む。

 

『肉塊』は服を着ていた。飼い犬だったのかもしれない。

 

 八歩進む。

 

 だめだ。

 

 九歩進む。

 

 これはもう。

 

 十歩進む。

 

 見るな。

 

 〇歩進む。

 

 ────。

 

  

 

  

 

「………………………………………………………………あ、らや……くん?」

 

  

 

  

 

 街灯の下、安っぽい光に照らされた何かの『死骸』。

 

 目の前で汚いアスファルトの上に横たわる『死骸』。

 

 死骸。

 

 否、それは。

 

 死体。

 

 私を否定し、拒絶し、突き放した人間が。

 

 血の海に沈んでいる。

 

 沈んで、死んでいる。

 

 血に染まった体。

 ぴくりとも動かず、見つめていても呼吸によって上下する気配がない。

 

 この人間は死んでいる。そう直感してしまう光景。

 

 その光景を見て。

 

 私は。

 

 名字を剥奪された単なる『末那』は。

 

 やはり────何を思えばいいか分からなかった。

 

「は、はは」

 

 零れ落ちる。吐息とも声ともつかない何か。

 

 でもそれだけだ。叫びも、嗚咽も、唸りも、歯ぎしりも、私の口からは出てこない。

 

 頭の中に強烈な感情が渦巻いていることは分かる。ぐるぐると、ぐちゃぐちゃと。けれどもそれが何の感情なのかと訊かれて、どういう思いなのかと尋ねられて、こういう気持ちなのかと提示されて、ああ、これですよと言えるものが、私の言葉の中には存在しなかった。

 

 ざまあみろ、なのか。

 

 誰がやったのか、なのか。

 

 殺してやる、なのか。

 

 なんなのか。

 

 分からない。

 

 分からない。

 

「あ」

 

 ふと私はそれに気が付く。

 

 一つだけ。

 

 たった一つだけ、確かなことがあった。

 

 確かな、事実があった。

 

『貴女様を逃がすため、五条悟と戦闘し……死ぬつもりでいます』

 

「あ、はは、あははははははははははははは」

 

 次から次へと湧き上がる衝動に逆らわず、私は腹を抱えて笑った。

 

 ごじょうさとる、が誰かは分からない。恐らくは私の死刑執行人とかだろう。阿頼耶はそいつと戦いに行ったのだ。そう、ドライバーの女性が言ったことだ。

 

 そうだ。

 

 阿頼耶は私を逃がすために戦いに行った。

 

 だったら。

 

 これは。

 

 この目の前の光景は。

 

 私が原因じゃないか。

 

 私が『力』を濫用しなければ、罪に罰を与えなければ、男から金を奪わなければ。

 

 起こらなかったことじゃないか。

 

 そうだ。

 

 私が『力』なんて使わなければ。

 

 起こらなかった現象だ。

 

 絶対に。

 

 余すとこなく。

 

 徹頭徹尾。

 

 これは私のせいだった。

 

 私の────罪のせいだった。

 

「初めまして。誰かのお家の末那ちゃんさん」

 

 ふざけた呼び名で名前を呼ばれた気がし、私はそちらを振り向く。

 

 ペイントツールで塗りつぶしたみたいな暗闇の中、そいつの周りだけ強調表示したみたいに浮かび上がっている。

 

 長身、黒目隠し、白髪。

 

 私はそいつの姿に覚えがあった。

 

 いつかコンビニで阿頼耶と共にいた男だ。

 

 白菜みたいなそいつは軽薄そうな口を開き、

 

「GT五条悟でーっす! わーお。確かに君めちゃくちゃ可愛いね。特にその垂れ目がちな目とか。退廃的で気だるげな雰囲気とマッチしてなんかこう……いいね! まるで留年特級術師の初恋相手が成長したみたいな感じがするなー。ま、危険度的にも執着的にも、りかちゃんには遠く及ばないだろうけどね」

 

 訳の分からないことを立て続けに言った。

 

「ごじょう、さと、る……?」

 

 男の言うことの9割は意味不明だったが、一つだけ、私の意識を引いた言葉があった。

 

 ごじょうさとる。

 

 ドライバーの女性が言った名前。

 

 そしてそれは────阿頼耶が戦いに行った男の名前だ。

 

「名前を知られているなんて光栄だね」

 

 全くそうは思っていない声音で、目の前のごじょうさとるは言った。

 

「じゃあ、これ、は……?」

 

 私がぼろ雑巾のような肉塊を指して言うと、男は「ああ、それね」とにんまり笑い、

 

「────土御門阿頼耶は僕が殺した」

 

 その瞬間、頭の中がすっきりした。天日干しした布団に体をうずめた時のような爽快感が全身を駆け巡る。『力』に目覚めた時と同じ全能感が、頭の先から足の指の先までを浸した。

 

「そっか、『死ね』」

 

 ごじょうさとるは倒れなかった。私の殺意を受けても、体を揺らすことも表情を歪めることもなく、ただただ、尋常の様子でにやつきながら立っていた。

 

 それを見て。

 

 私は思う。

 

 この男は何度『死ね』と言ったら倒れるだろうかと。

 

 そしてこうも思った。

 

 大丈夫。

 

 だって────殺意の在庫は、こんなにもあるのだから。

 

 こんなにも。

 

 たくさん。

 

 溢れるほどに。

 

「第二ラウンドだ」

 

 色彩が狂った世界の中で。

 目の前にいる白菜みたいな頭の男が────にやりと笑ってそう言った。

 

 

 








あと少しだけ続くんじゃ〜。


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残ったものは

 墨をぶちまけたような宵闇だった。

 帳。

 その内側。

 

 理外の術がかけられた舞台の上に、長身の男と少女が二人、向かい合って立っている。

 

 

 少女、末那の左手には街灯があり、安っぽい白い光が道路沿いに打ち捨てられた肉塊を照らしていた。

 

 肉塊。

 シャワーでも浴びたみたいに真っ赤な血で染められている、何かの塊。

 

 人の形をした肉塊。

 人の遺体。

 死体。

 

 土御門阿頼耶の、死体。

 

 濡れて重くなったフードからは柔らかな黒髪が零れ落ち、捲った袖からは男性にしては白く細い腕が伸びている。血で固くなった髪が張り付いている頬からは赤みという赤みが消え失せ、瞳孔が開いた瞳はどこか遠くを見つめて虚ろだ。何かに驚いたように見開かれたその瞳は、煉獄を見つめ苦悶しているようにも、意外にも穏やかな死後の世界に拍子抜けしているようにも、どちらにも見ようと思えば見ることが出来た。

 

 街灯の下、道路の側に顔を向け、硬いアスファルトの上に横たわる少年。その体は石造のように冷たく凍り付き、ぴくりとも動かない。青ざめた唇、血が抜けて生気を失った肌、唾液を飲み込んで上下しない喉元、自らを抱きしめるように回された右腕、瞳孔の開かれた瞳、そして、数m離れた末那の元まで届く、鉄のような、それでいて生々しい生命の匂い…………。

 

 生命だったものの空気を漂わせ、ごみのように道路脇に転がる少年、土御門阿頼耶。

 

 どちらかといえば、彼は強者に分類された。

 

 被呪者に気取られずに取り憑いた呪霊を祓うほどの卓越した身体感覚、特級の頭蓋を一撃で爆散させる、虎杖悠二に匹敵するほどの膂力、そして、現役の一級術師2名と、十代にして領域に到達した才能マンを無傷で無力化するほどの────圧倒的な戦闘センス。

 

 土御門阿頼耶。無下限呪術のない五条悟とまで称された少年もまた、一つの願望を持ってこの場所に来た。そんな彼は今、何もかもが二番手となった赤いタワーの麓で、今まさに目の前で行われようとしている殺戮の執行を止めることも出来ずに、力を失った体をぼろ雑巾のように横たえ、昆虫のような瞳でただ虚ろを見つめ続けている。

 

 かつて、不幸な境遇にあった少女を慈しむべきものとして見たその瞳が、もう一度彼女を映すことは────未来永劫、ない。

 

 なくなった。

 

 五条悟によって、『土御門阿頼耶』が持っていた全ての機会と未来は────剥奪された。

 阿頼耶の頭蓋からあらゆる言葉は失われ、彼が歩むはずだった道は恒久的に塞がれている。

 

 もはや末那に向けて、『彼』が彼女のことをどう思っていたのかを語って聞かせてくれる者は存在しない。『土御門阿頼耶』が、土御門末那に対しどのような印象を抱き、そしてどのような感情を向けていたのか。それを自分事として語ってくれる者は、この世のどこにも存在しなくなっていた。

 

『彼』は末那を好いていたのか。

 

 それとも鬱陶しく思っていたのか。

 

『彼』は一時でも末那に情欲を向けたことがあるのか。

 仮に『彼』がそれを向けたことがあるとして、それはいつの、どんな時か。それは末那の過去を知った後のことか。それとも知る前、『彼』と末那が初めて会った時のことか。

 

 

『土御門阿頼耶』は。

 

 同居人の少女を────愛していたのか。

 

 家族として、友人として、共に暮らす者として、一番近い他人として、あるいはそれとも────異性として。

 

『彼』は末那を愛していたのか。

 

 それとも────嫌悪、していたのか。

 

 それらの問いに、答えてくれる精神はもはやこの世に存在しない。

 

 解きほぐされることのない意図。答え合わせの機会を失った問い。

 

 問いといえば、これも問いだ。

 

 最後の最後で、彼は何故、説得ではなく────糾弾を、選んだのか。

 

 末那を東京タワーに向かわせる。そう言って伊地知との通話を切った。無論それはブラフ、誤魔化し、嘘の類で、『彼』に末那を執行場所に連れていく気はなかった。

 

 はずだ。

 

 どのタイミングで『阿頼耶』は末那を逃がす決断をしたのか。

『彼』は全部を話すことだって出来たはずだった。

 なのになぜ、そうしなかったのか。

 

 末那をタクシーに向かわせるという目標を、全てを詳らかに説明することではなく、罪を糾弾し、突き放すことで達成しようとした。

 

 それは何故か。

 

 何故『彼』は言葉を尽くさず、末那の言葉に耳を傾けず、強硬的な手段を選択したのか。

 末那の行いを嫌悪したからか。悪辣な者の言葉など耳を傾ける価値がないと判断したからか。あるいは別の真相があったのか。

 

 その問いに答えられる者は、もうこの世には存在しない。横たえられた頭蓋の裏は今や空っぽで、そこに書き込まれていた言葉の数々、そして少女にとっての真相は────既に失われた。

 

『土御門阿頼耶』は死に。

 全ては闇に葬られた。

 解釈を丸投げされた言葉たちは────まるで呪いのように、それをかけられた者を苦しめる。

 

「………………」

 

 末那は伏せていた瞼を上げた。

 

 存在の中心が叫び声を上げている。腹の奥底がマグマのように熱い。心が金切り声で叫ぶ度に、熱さの奥から不定形な力が湧いて来る。身体の中で渦を巻く力。決して外に出ることのない力の奔流を弄びながら、彼女は目の前の人物へと視線を向ける。

 

 しんと静まった暗闇の中、気を抜けば飲まれそうな闇の中で、超越者と逸脱者の視線が交錯する。視線を受けた長身の男は何も言わず、ただ僅かに口の端を上げた。嘲笑するように、罵倒するように。何の期待もしていないが、取り敢えずかかっておいでと、遥か高みから見下ろすような、酷薄な笑み。

 

 嘲り。それを理解した瞬間、激情に燃料が投下され、一層激しく燃え上がる。燃え盛る憎悪は呪力となって末那の内側を浸すが、一秒ごとに感情の爆発に晒されるような凄まじい精神の活動は末那自身の心までも焼き尽くす危険性を孕んでいた。

 

 男と少女が視線を交差させたのは、時間にして僅か数秒の出来事だった。視線を逸らすまでの間に、末那の脳内では万に近い言葉が産まれ、感情が産まれ、殺意が産まれた。

 エンジンの側にいる時のような力の脈動、途方もない万能感、そして己の一部を喪ったかの如き莫大な喪失感を抱きながら────末那はその艶然たる唇を動かす。

 

 

『────殺せ』

 

 

 変化は直ぐに現れた。

 

「────あはっ」

 

 ぬるり、と。

 

 末那の表情が変化する。

 

 スライムが垂れるみたいに、ヘドロが流れるように、末那の顔面からそれまでの表情が流れ落ち、内側から何かが現れる。

 

「んふふふふふふふふ」

 

 無邪気な声を道路に響かせながら、末那はその場でバレエダンサーのようにくるりと回る。

 

「んふ、んふふふ、ふふー」

 

 

『精神操術』

 

 青白い光が産まれた。五条と末那の中間地点からやや末那に寄った地点に産まれた光は、炎のようにゆらゆらと揺れる。光の残像を尾のように残しながら揺らめく光は、それ自体が意思を持っているかのように移動し、その残像で一つの像を作り上げた。

 

『擬制脳』

 

 ラグビーボールを二つ並べ、真ん中を太い管で結ぶ。全体をくるみのようなひだで覆えば、かなり外見は近づくだろうか。

 突如、五条と末那の間に描かれたそれ。

 

 それは人間の脳に酷似していた。

 

 大きめのチラシをくしゃっと丸めたような外見。眼球や脊髄はなく、前頭葉、頭頂葉、後頭葉がまさしく脳というイメージ通りの形をなしており、側部に側頭葉、後ろに運動を司る小脳が付け加えられている。まるで医学部の教科書にそのまま載せられそうなほどに、細部に至るまで正確な脳髄。

 

「んふふふふふふふふ」

 

 末那は楽しそうに体を揺らす。足を入れ替え、頭を揺らし、己の頭の中だけに流れる音楽に沿って踊り続ける。

 

『輝奔・爆』

 

 くるくると無邪気に体を遊ばせる末那が、ふと何事かを呟くと────光で描かれた脳に呪力が灯る。

 

 青白い脳の内側に、かがり火のように灯された呪力。五条が僅かに眉を上げた、次の瞬間。

 

「────っ」

 

 爆散。吹き荒れる呪力。脳を起点に生じた爆風に、瞬き一回の間、五条は視界を封じられる。吹き荒れる呪力の奔流に覆われ、彼はほんの一時だけ────末那の姿を見失った。

 

 呪力の奔流が視界を覆ったのは時間にして3秒に満たない。轟音と共に叩きつけてきた呪力が収まると────最強の視界から少女は消えていた。

 

『擬制脳』

 

 五条の耳に透き通った声が入り込む。素早く声のする方向────背後────を振り返った彼は、そこで僅かな間自失する。

 

 脳の群れ。

 

 青白い線で構成された脳。脳、脳。人格の拠り所たる脳。計算を理解し、実行できる脳。あらゆる文化を創り出した基盤としての脳。

 驚くべき計算機たる脳髄、末那が術式で作り出したそれが、五条の視界を埋め尽くしていた。

 

『輝奔・爆』

 

 異様な光景に、ほんの僅かだけ思考を止めた五条悟。背筋を撫でるような蠱惑的な声音がタワー前の幹線道路に木霊すると、目の前に展開されていた脳の群れ、その一つ一つに呪力が灯り始める。

 

 視界を埋め尽くす脳の群れに、光が灯っていく。

 五条が数秒前に観察した攻撃の前兆。

 視界を埋め尽くすほどの脳の群れ、その一つ一つに光が灯るのを認識した刹那────五条はその場から飛び退った。

 

 瞬間、────音が消える。

 

 帳を揺らすほどの衝撃が四方八方にまき散らされた。

 

 五条は無限で浮かぶと、上空からその光景を見下ろした。道路の真ん中、直径30mはあろうかという大穴が口を開けている。穴の周辺部は瞬間的に熱せられたアスファルトが空気に触れることで急激に冷やされ、沸騰したような奇妙な形で固まっていた。

 

「やるね」

 

 追撃が五条を襲う。槍の形をした呪力の塊を、五条はひらりと手を振るだけで霧散させた。

 

 五条は眼下を睥睨する。視線の先、茶色がかった黒髪が揺れているのを確認すると、不意にその場から消えた。

 

「よっと」

 

 肉が弾けたみたいな音が鳴り響いた。

 五条の拳が末那の頬を貫き、水っぽい音を立てる。

 

「お?」

 

 ふとした違和感。拳を振り抜いたはずなのに、人を殴った気がしない。五条は拳の先にある物体を見て得心した。

 

 青白い脳。

 

 燐光を放つそれが、拳との間にクッションのように挟まっている。

 

『輝奔・突』

 

 バヂイ、と呪力が無限の表面を走った。拳の先にあった脳が槍に変化し、無限にぶち当たる。壊れた槍は呪力をまき散らし、表面を稲妻のように駆け巡った。

 

「機転が利くね、頭が良い。いや────本能かな?」

 

 五条の足の裏が末那の腹にねじ込まれる。華奢な体が嘘みたいに水平方向へと吹き飛び、ビルの壁面に激突した。

 

 ぱらぱらと砕けたコンクリートが末那の髪に降り注ぐ。顔を上げた時、末那が見たのは迫り来る拳だった。

 

 

「…………!」

 

 驚愕の息遣い。それは末那ではなく五条の喉から零れ落ちた。

 

 一瞬の間に四度、末那の顔面に拳が叩き込まれ。

 四度とも、打撃の直前で現れた脳に阻まれる。

 

 マイクロ秒の世界で脅威的な反射神経と脳の生成速度を披露した末那。

 五条の顔が僅かに曇った。

 

「乙女の顔をサンドバッグみたいに。何て失礼な人なの」

 

 打撃の余波だけでひび割れたビルの壁面をバックに、末那が楚々とした笑みを浮かべる。

 

「でも────捕まえた」

 

 端正な顔に無邪気さが宿る。庭で見つけたカマキリをマッチで炙って殺すような、そんな無邪気な邪悪さが。

 

 五条の腕に脳が巻き付く。顔面を殴打した右腕が、青白く、ぶよぶよとした、水風船に似た物体で覆われる。

 

『輝奔・削』

 

 ごり、と、鉄をやすりで削ったような音がした。

 五条の腕に巻きつけられた脳が、呪力をチェーンソーのように回転させる。ごりごりごりごりごりごりごりと、無限を削る音は加速度的に増してゆく。

 

「…………」

 

 無限を中和しにかかる『擬制脳』。五条は無下限を強めようとして

 

『擬制脳』

 

 今度は左足にクラゲのような脳がへばりついた。

 

 右腕と同じく、左足の脳も回転を始める。五条は構わず掌底を繰り出そうとして────動きを止めた。

 

「────あは」

 

『擬制脳』

 

 虚空から脳が産まれる。左腕に纏わりついたそれを、五条は掌底で打ち払った。

 

『擬制脳』

『擬制脳』

『擬制脳』

 

 たん、たん、たん、と、暗闇にアスファルトを駆ける音が鳴り響く。どちゃり、と、行き先を失った脳が三つ、末那と五条の間に落ちた。

 

(…………これは)

 

 五条は右腕を視る。呪力をまき散らし、無限を食い荒らす大きめのモルモットのような脳は、一向に消滅する気配がなかった。

 

「…………」

 

 水っぽい音が鳴り響く。五条が腕を振るうと、纏わりついていた脳が散り散りに弾け飛んだ。

 

「脳同士の接続による効率の向上…………一部の脳による自己補完」

 

 今しがた自身が目にしたものを分析しながら、五条は油断なく末那の動きを注視する。

 

「永遠に呪力を灯し続ける脳のネットワークか。えぐいことするね。呪力が何から産まれるか────薄々気が付いているだろうに」

 

 擬制脳。

 その正体は呪力を産み出す脳みそだ。

 

 末那の術式によってただの燃料として産まれさせられた脳は、術者によって負の感情を抱くよう最適化されている。

 

 恥辱、苦痛、悔恨、刻苦、激しい負の感情を湛えた意識は、それ以外の感情を知らないままこの世から消え去る。

 末那が作り出す青白い脳に、本当に意識と呼べるものが備わっているかは────五条には分からないが。

 

 意識を形作る基盤となるもの。

 

 例えば記憶も、

 思い出も。

 

 今産まれたばかりの脳に備わっている道理はないだろう。

 一切の記憶も思い出も持たない、なのにただ苦しむためだけに産まれさせられた人格。

 

「よいしょ」

 

 パン、と軽い音を立て、五条の左足に纏わりついていた脳がはじけ飛ぶ。

 五条が視線を戻した時、そこには────ひび割れたビルの壁面だけがあった。

 

『擬制脳』

 

 脳が産まれ、無下限にへばりつく。ナメクジのようにくっついた脳は次々に呪力をまき散らして爆散し、血税で敷かれたアスファルトを揺らした。

 

 爆破の衝撃で舞い上がる粉塵で、末那の姿は見えない。

 不意に五条の視界の端を何かがかすめた。

 五条は気配の方向に目を向ける。粉塵の中、柔らかな質感の手がこちらを向いていた。

 

「…………へえ」

 

『擬制脳』

 

 どうやっても攻撃が届かないことを理解した末那は、そこで一つの選択肢を選び取った。

 彼女は無限の表面に手を添えると、その状態で二つの脳を産み出す。

 

 一つは魔法少女のマスコットのように、自身の肩口に作り。

 もう一つは────自分自身を包み込むほど巨大に作る。

 

『輝奔・爆』

 

 五条が楽しそうな声を上げるのと、末那が爆発のトリガーを口にしたのはほぼ同時だった。

 

 瞬間、規模の異なる二つの爆発が末那と五条を襲う。

 

 まず、巨大な脳が超新星爆発のように膨大な呪力をまき散らす。濃密な呪力は五条の無限を中和し、末那の手と最強を隔てている無限層の壁を次々と破壊していく。

 

 次いで、右肩で生じた爆発により、右手がロケットのように押し出される。

 

 目隠しに覆われた頭部へと向かい────

 

 ────その額に触れる直前で停止した。

 

 見えない壁にぶつかったように。

 

 石化する魔法をかけられたが如く。

 

 土御門末那の右手は、最強の一歩手前で静止した。

 

 その右手が、人を操る魔手が、それ以上前方へと進み、薄ら笑いを浮かべた最強の頭蓋に達することは────ない。

 

「言いたいことは」

 

 動きを止めた末那に、五条が問う。至近距離で起きた爆破の影響で焼け爛れた頬を…………皮膚がめくれ、ピンク色の肉が露わになった頬を歪な笑みの形にしたうえで、末那は静かに言葉を選び取った。

 

「心の底から呪ってあげる」

 

 無限が爆ぜた。不可視の力が末那の全身をダンプカーのように蹂躙する。

 

 激痛。耐えがたい痛みの津波が末那を襲い、どういうわけか次の瞬間には引き潮のように引いていく。

 

 末那の意識に闇が迫る。視界から物の境界を失わせる程度の闇ではなく、正真正銘本物の闇が、美しき逸脱者の眼に広がってゆく。

 

 退廃的で厭世的。

 可憐にして醜悪。

 無邪気であり邪悪。

 個として完成されており、同時に極度の寂しがり屋の少女はこの日、最強の手に殺された。

 

 

 *

 

 

 山間の道を一台の車が走っている。闇にとけ込むような黒い車体に、落ち着いた雰囲気の内装。運転手の腕がいいのか、カーブの多い道でも車内の揺れはそれほど気にならない。

 

 伏黒恵は、窓に頭を押し付けてガラスの向こう側に広がる光景を漫然と眺めていた。隣には特徴的なまだら模様のネクタイを身に付けた七海健人がおり、助手席では日下部が寝ている。運転は補助監督員の伊地知が担当していた。

 

「…………」

「…………」

 

 車内に会話はなかった。誰も口を開かず、ただタイヤがアスファルトと擦れる音だけが、背景音楽のように男たちの間で揺蕩っている。元より会話が弾むような面子でもないが、全員が車に乗ってからかれこれ一時間半、未だに誰も口を開いていないのはちょっと尋常じゃなかった。

 

 東京タワーの麓で3人を乗せて以来、彼らの間で発せられた肉声は、出発直前に伊地知が放った「じゃ、出発しますね」だけであり、そのまま無言の男たちを乗せた車は、高専がある奥多摩に向かって西へ西へと疾走を続けていた。

 

 五条悟が直々に集めた3名の優秀な術師たちは、本日一九○○、東京タワーの麓にて『対象』が『協力者』に連れられてやって来るのを待ち、『対象』がタワーに入った後は、不測の事態に備えバックアップとして地上で待機することになっていた。

 

 指示通り麓で『対象』と『協力者』を待っていた彼らは、そこで一人の人物から奇襲を受ける。フードを目深にかぶることで目線を隠した男は、彼ら3人と同時に戦闘し、そして信じ難いことに────彼らを打ち破った。

 

 ────土御門阿頼耶…………『無下限呪術のない五条悟』……か

 

 伏黒は心の内で『襲撃者』の顔を思い浮かべる。加速度的に激しさを増す戦闘中、ふと街灯に照らされて見えた貌は────いつか資料で見た『協力者』のものだった。

 

 少し長めの睫毛、男性にしては白い肌、信念を宿した瞳。呪詛師捜索に協力する際、高専に提出を求められでもしたのか、証明写真みたいな生真面目な顔がこちらを見ている写真を、伏黒はおぼろげな記憶の中で覚えていた。

 

 自分とそう歳の変わらない人間が、普通の高校に通いながらボランティアとして高専に協力している。五条からそのなよっとした少年についてそう聞かされた時、伏黒は「酔狂な人間もいるもんだな」と思った。

 

 ごく普通の生活を送ることも出来るはずなのに。

 わざわざ裏の世界に飛び込んでくる。

 

 その最も大きな動機とは何なのだろうかと、伏黒は少しだけ考えて…………すぐに辞めた。考えてもこんな不可思議な人間の心理など理解できそうもない、と思ったから────というわけではなく。

 

 この人間は自分に近いのではないかという直感が、ふと脳裏をかすめたからだ。

 

 ────だりい

 

 四角く切り取られた外の景色に、面白いものなんてなに一つとしてない。

 

 突如襲い掛かってきた人物。闇にとけ込むためか、黒づくめの服装が残像を残し縦横無尽に駆け回る。七海の打撃、日下部の剣戟を躱した襲撃者は、黒閃連続記録保持者から彼の獲物を奪い取ると、まるで長年愛用した武器のように自在に扱い、伏黒に襲い掛かってきた。

 

 咄嗟に鵺を出したものの、即座に鉈が振るわれ、その馬鹿げた威力により一撃で半壊に追い込まれる。殺られる────そう身構えた瞬間、日下部と七海が横槍を入れ、襲撃者は伏黒の頭上を体操選手のように飛び越えることで、一級術師二名の攻撃を躱した。

 

 あの時、一瞬の間に目まぐるしく状況が変化する中で、伏黒は不思議な程冷静に、今まさに自身を殺そうとしている者の顔を見ていた。

 

 伏黒はその顔を思い出す。

 

 まるで子どもの泣き顔だった。

 

 車体が揺れる。かすかな振動が眠気を呼び起こす。領域を使用した後のだるさを抱えながら、伏黒はもう一度だりいと呟く。

 

 

 

 ぼろ雑巾のようになって血だまりに沈む少年。昆虫のような視線の先に、しみ一つない白磁のような肌にまるで内側から爆発したかのような裂傷を走らせた少女。

 

 酷いボーイミーツガールがあったもんだねと、全てを終えた五条が見つめ合う二人を見て言った。

 

 頭蓋から言葉が消えたまま、視線を絡め合う彼と彼女。その光景が、伏黒の頭から離れない。

 

 離れて、くれない。

 

 焦燥にも似た感覚に苛まれながら、伏黒は思う。

 

 仮に、仮にだ。

 

 何度もそう前置きをしたうえで、伏黒はその想念を言葉にする。

 仮に…………仮に己が、義姉と恩師、そして一癖も二癖もある友人たちに出会えなかったとして。

 そうして高専や呪術界とつかず離れずの距離を保っていた時分に、あの少女と引き合わされたとしたら。

 

 果たして自分は、あれよりもまともな結末を導くことが出来ただろうか。

 

 ────あいつら、まだ起きてるかな

 

 伏黒はスマホを取り出し、時刻を確認する。虎杖はまず起きてるだろうな、と、底抜けの善人でありながら最悪の呪いの器となってしまった、心優しき少年の顔を思い浮かべた。

 

 

 *

 

 

 

 草原。

 荒野。

 

 二つの世界がせめぎ合う不可思議な空間に、土御門末那は呼ばれていた。

 

「ごめん、勝てなかったや」

 

 末那の右腕は無残な状態だった。皮膚の殆どが裂けており、残った部分も火傷のように爛れている。下手なパッチワークのようにまだらに皮膚が残っていた。

 

「別にいいよ、それくらい」

 

 そんな傷をさして気にしている様子も見せず、末那は草原の景色をただぼんやりと眺めている。以前にここに来た時と同じく、その足の裏は荒野の世界に触れていた。

 

「そう? そう言ってもらえるとありがたいけど……」

 

 末那の纏う雰囲気は希薄で、その相貌はどこか儚げだ。

 

「多分、もう殺せないよ、あいつのこと」

 

 あいつ、が誰のことを指しているのか、末那はすぐに分かった。その上で、末那は緩やかに首を振った。

 

「いい。殺すとか殺さないとか、そういうことはもういいの」

 

 末那は何かを諦めたような、それでいていつかの過去を懐かしむような声音で言った。

 草原から伝わって来る困惑の空気。追加の言葉を欲している童女のような声をした存在に、末那は柔らかな唇を笑みの形にした。

 

「奪えば奪われる。侵せば侵される。踏みにじれば踏みにじられる…………理科の授業で習ったでしょ、作用には必ず反作用がある。私はそのことを忘れていた。いや、無視していた。だったら────その結果は受け入れなきゃ」

 

 そっか。末那の回答を受け、童女のような声はそう答えた。そっか。うわ言のように呟く。

 ふと草原からの声の主は何かに気が付いたように声色を変え、

 

「そうだよね。だってもう、あの人はいないんだし。そんな世界で誰かと殺し合ってもなんの意味もないよね」

 

 私たち、弔い合戦ってガラでもないしね。童女のような声はどうでもいいことのようにそう言った。

 

 草原から風が流れてくる。草の匂いを感じながら、末那は自分の心が穏やかになっていることに気が付いた。

 

 つい先ほどまであれだけ猛り狂っていた怒りの衝動が、憎しみの波動が、今や影も形もない。末那はふと、もしかしてあれから大分時間が経っているのだろうかと思った。自分がいつからここにいるのか、末那はよくわかっていない。が、時計のない世界ではそれを確かめる術もない。

 

 まあ、ここに時計があったとしても、正確な時刻を知ることなど期待できようはずもない。なんてったってその時計は────腹時計と大差ないのだから。

 

 ふと、末那は思った。もしかしたら穏やかな心の原因は、時間が経っているからではなく、命が失われかかっているからかもしれないな、と。

 

 消えゆく命の灯火。その最後を無意識の内に感じ取っているから、今の自分はこんなにも穏やかな気持ちでいられるのか。

 

 あるいは末那はこうも思った。単に────出血によって頭に上っていた血が抜けたからかもしれないな、と。

 

「中学生の頃さ、まだお母さんが死ぬ前だから、一年生の頃かな」

「うん」

「お母さんの仕事関係の人が、私に『接待』をやらせようとしたことがあったよね」

「あー、あったね」

 

 何となく、末那は己の過去について語り始めた。

 いくら待っても走馬灯が意識の上に昇ってこないため、自分で語ることにしたのだった。

 

「みゆきさんは疲れてるから、とか、お母さんに楽をさせてあげな、とか、その他にも何だかんだと色々言われて、まだぼんやりとしかお母さんの仕事を知らなかった私は、渋々一回だけ『常連』の相手をすることに同意した」

 

 末那の母親は容姿で所得を得ていた。そして彼女は自身の娘を、自身が勤める店の『店長』に会わせたことがあった。

 

 その頃から、末那の容姿には母親の面影があった。母と違って理知的な雰囲気を身に纏っているし、仕事をさせるには幼過ぎるが、そのどちらもがとてつもない需要を誇ることを、その店の『店長』は熟知していた。

 

「充血した目で私の足を見てくる脂ぎった男に酌をして、まなちゃんはもう生理は来たのと聞いてくるサラリーマン風の男に曖昧に返事をして、10出すからホテルに来てくれとしつこく言い寄って来る男を必死に躱して。そうしてトイレに行く振りをして店長に「もう無理だ」って言ったら、じゃあここで休んでなって空き部屋に連れられて。本当に疲れていたから何の警戒もせずにその部屋で休んでたら、隠し扉みたいなところからさっきのしつこく言い寄ってきた男が入ってきて。それで、そいつは私に覆いかぶさってきたんだった」

 

 それは、母親がついぞ知らないままこの世を去った事実だった。末那はこのことを誰にも言わなかった。言ってどうにかなることでもなかったし、誰かに…………例えば彼女の友人に語って楽になるには、その出来事はあまりに生々しすぎた。

 

「多分、裏で店が何かの取引をしたんだろうね」

 

 童女のような声が補足する。末那は頷いた。

 

「息を荒げて、煙草とアルコールの匂いを漂わせた獣に体を押さえ付けられて…………すごく怖くて、気持ち悪くて、それで、私は」

 

 言葉を切る。

 

「あの時、私は…………私はどう思ったんだっけ」

 

 末那は首を傾げる。爆破の影響で露出した皮下組織に髪が触れるが、さして気にした様子もなく、瞳を彷徨わせて記憶をさらう。

 

 童女のような声が、その時の心情を彼女の代わりに言い添えた。

 

「『死にたい』、じゃなかったっけ」

 

 ああ、そうだった。末那は忘れていた昨日の夕飯を思い出したような声音でそう言った。

 

「あの男が私を犯すのにいくら払ったのかは分からない。知りたくもない。中学生になったばかりの少女を強姦する権利を得るために、未だ初潮の来ていない女の子の体を好き勝手するために、あの営業マン風の男がいくら払ったのかなんて。女の子の一番繊細なところを、性処理の道具みたいにしか思っていない男に、私がどれくらいの金銭で差し出されたのかなんて…………私が────」

 

 末那の声音に震えが混じる。いつの間にか掌が拳の形に握りしめられていた。

 

「私がいくらで買われたのかなんて」

 

 末那はこの世界に来て初めて、その顔を嫌悪に歪めた。

 

「私の知らないところで────私は買われていた」

 

 末那は爪が食い込むほど強く手のひらを握りしめた。力いっぱい殴りつけるものを探して瞳が彷徨うが、ここには草原と荒野以外、何も存在しなかった。

 

 境界で分かたれた世界には。

 末那自身と謎の声以外に、何も存在してはいない。

 

「多分、あの時だね」

 

 童女のような声が懐かしむように言った。

 

「お金と性。その二つへの嫌悪が、私たちの原点になったのは」

 

 末那は怒りに震えながら、もう一度声の主に頷いた。

 

「どうやって逃げたのかは分からない。気が付いたら私は店の外にいて、ぐちゃぐちゃになった髪と乱れた制服に、何故か痛む脇腹を押さえて、街灯の下で立ち尽くしていた」

 

 暗い夜道。繁華街の外れ。住宅と盛り場の境界線のようなところで、末那は立ち尽くしていた。胸の内では、こんなこと早く忘れてしまいたいという気持ちと、この怒りを決して忘れるなという矛盾した気持ちがぶつかり合う。

 

 轟轟と渦巻く感情のぶつかり合いに飲まれ、少女は薄暗い街灯の下で立ち尽くす。立ち尽くすことしか────できない。

 

「そういえばあの時、誰かに声をかけられたよね」

 

 ふと、童女のような声が今思い出したという声音でそう言った。

 

「そうだっけ?」

「男の子だった。確か、『大丈夫ですか』、って聞いてきたの。それで君は、返事の代わりにその子のことを────力いっぱい殴りつけたんだよ」

 

 末那は目を見開いた。忘れてた。唇がそう動く。

 

 童女のような声が続きを語った。

 

「本気で殴ったのにその子がびくともしないのを見て、驚くよりも先に恐怖を感じた。なにせついさっき自分の処女を奪おうとする男から逃げてきたばかりだからね。目の前の人間も、どうやら自分と同年代っぽいけど、その性別が男であることに変わりはない。激昂して襲ってきたらどうしよう。君は怒りから一転、もう一度恐怖に叩き込まれた」

 

 まともそうな人間でも中身までまともとは限らない。つい先ほど自分を犯そうとした男は、街ですれ違ってもなんとも思わないであろう風体をしていた。

 

「それで…………確かあの時、殴った私に、あの男の子は……」

 

 末那は記憶の中の光景を呼び覚ます。あの時、人生で初めて人を殴った後、殴られた少年は殴った自分に向けて────

 

「────あの男の子は自分のことを思い切り殴った君に、もう一度、『大丈夫ですか』って聞いたんだよ」

 

 優しい声音だった。声変わり前のハスキーなトーン。少年は末那のことを本気で心配していた。

 

 その時のことを、自分の心の動きを、末那ははっきりと思い出す。自分を捕食しようとする大人の男から逃げ、その先で自分と同じ…………性的に未分化な少年に出会い、そうして身を案じられた。

 

 その対比が、落差が、奇妙な安堵感を抱かせたことを、末那は記憶の切れ端で覚えていた。

 

「殴られたのにまだ心配するなんて、その男の子、なんだかあらやくんみたいだね」

 

 童女のような声はくすくすと笑った。声につられ、末那も口の端に笑みを浮かべる。ふと、あの少年に会いたいな、と思った。

 

 自分と同年代なら、きっと今は高校生だろう。どんな人間に成長しただろうか。

 

 その少年とその後何をしたのかは覚えていない。公園かどこかで話をしたような気もするし、そのまま別れたような気もする。末那はあったかもしれない少年とのやり取りを覚えていないことを少しだけ残念に思った。

 

「そのあとは、どうなったんだっけ」

 

「そのあとは……」

 

 ひとしきり笑った後、声は続きを促す。末那はその後のことを淡々と語った。

 

「その後は、特に何もないまま進級した。2年生になって間もなく、お母さんが自殺した。浴槽の中で冷たくなった死体を私が見つけた。早朝だった。顔を洗おうとして洗面所に行ったら、浴室からシャワーの音がして不思議に思ったのを覚えてる。人の気配がしないし、呼びかけても返事がなかったから、出しっぱなしのシャワーを止めようと思って浴室に入った。そしたら……」

 

「そこで、お母さんが腕を切って死んでたんだよね」

 

 浴槽からだらりと垂れさがった白い腕。赤く染まった水。ぽちゃんぽちゃんという水滴が垂れる音。発見が早かったためか、腐敗が始まっていなかったのが救いといえば救いだった。

 

「そのあとは?」

「葬儀が終わると、叔父の……お母さんの弟の家に引き取られた」

 

 葬儀はしめやかに執り行われた。あの時期のことは記憶がおぼろげでよく覚えていないが、遠い親戚が全てをやってくれたようだった。

 

 そうして別れの儀式が終わると、末那は新しい家に引き取られた。

 本人の意思とは無関係に。

 取り敢えずそうしておくかみたいなノリで。

 末那は叔父の家に引き取られた。

 

「そこで、君は何をされたの?」

「すごく……気持ちの悪いこと」

 

 初めはうまくやっていた。叔父と従兄と自分、3人の関係性はそれほど悪くはなかった。引きこもりの従兄は末那が来て以来部屋から出るようになり、叔父はそんな息子の変化に期待を抱いていた。末那は従兄から向けられる視線が時折妙な熱を帯びることに気が付いていたが、その時の彼女はそれを黙殺してしまった。母を喪ったことによる喪失感が、家族としての繋がりを求める結果となり、その視線を正しく解釈することが出来なかったばかりか、彼女は積極的に彼と家族になろうとさえした。

 

 してしまった。

 

 純粋な厚意と、母を喪った寂しさを埋めたくてした行為のいくつか。それがどんなふうに受け取られたか、末那は最悪の方法で知ることになった。

 

「あれは最悪だったね。特に下着を汚されたのは堪えた」

 

 草原からの声に怒気が混じる。末那は傷だらけの顔を嫌悪に歪めた。

 

「私をモノとしてしか見ない人間がここにもいると思った。私を意思ある一人の人間だと認めないやつが……獣がいると思った」

 

「人をコンテンツみたいに見る手合いだね…………ああいうのはどこにでもいる。確かバイト先にも一人いたしね」

 

 声が言及した者について、末那は思い当たる節がなかった。彼女はかつてのバイト先にいた男子大学生のことを、綺麗さっぱり忘れていた。

 

「それで?」

 

 声は続きを促す。末那の口調は次第にうわ言のようになっていった。

 

「それで…………バイトから帰ってきて、すごくだるかったからそのまま寝ちゃって……目が覚めたら……」

 

「あいつが、私を犯そうとしてた」

 

「私は力に目覚めて、あいつに『死ね』と命じた。何の抵抗もなくあいつは死んだ。そのまま置いておくと面倒だったから叔父にとどめを刺させた」

 

「その時、きみはどう感じた?」

 

「何も感じなかった。どうでもいいと思った」

 

「それで、適当に生きようと思っていたらあの家に引き取られたんだよね。あの家のことはどう思った? 住人たちは? やっぱりどうでもいいと思った?」

 

 末那は首を横に振った。

 

「どうでもいいとは思わなかった。ううん、思えなくなった。小夜おばあちゃんは優しかったし、阿頼耶はこれまで会ったことがないタイプの男子で、私にとって新鮮だった」

 

「君はどうして────あらやに恋をすることができたの?」

 

 末那は首を傾げた。そのことについて、末那の中ではまだ答えが出ていないはずだった。

 

「恋…………あれは恋だったのかな」

 

 本気で分からない末那は、逆に草原からの声に問いかける。結果は自身への更なる問いだった。

 

「君はあらやとキスできる? ハグは? 愛撫は? その先は?」

 

 ハグ、愛撫、そしてその先一連の行為。

 

 末那にとってそれらの想像は常に嫌悪感と共にあった。

 

 異性と触れ合い、甘い言葉を囁き合い、唇を重ねる。末那は小学生以来、それをしたいと思ったことがない。その意味で、末那の恋愛観は小学6年生で止まっている。

 

 恋愛観は小学生並みだが、知識の方は普通の高校生の少女と変わりがない。末那は恋愛が接触を伴うものだと理解している。知識としてだけではなく、感覚として、誰かに触れたいと思うことだってある。

 

 けれどもその時、触れたいと思った時に末那が心の中で夢想する相手は、いつだって顔も体型も曖昧な、マネキンのような人物だった。具体的な顔や体型をイメージしようとすると、どうしても嫌悪感が先に立ってしまうから。だから末那は、どれだけ有名な俳優だろうと、クラス中の女子が黄色い声を上げるイケメンだろうと、自分がその腕に抱かれている想像をしたことは、これまでの人生で一度もなかった。

 

「そんなの…………そんなの分からない」

 

 年端も行かない少女のように、末那は草原からの問いに視線を落とす。その頬はほんのりと赤みを帯びていた。

 

「ふふ」

「…………なに?」

 

 草原から届けられた笑い声に、末那は顔を上げる。

 

「そんなの、答えを言っているようなものだとは思わない?」

「…………」

 

 末那は再び視線を落としてしまった。声の言うことは的を射ているように思えた。

 

 不意に末那の喉元に熱いものがこみ上げてきた。奥歯をきつく噛み締めて、決壊しないように堪える。

 ぽろぽろと透明な雫が、末那の頬を零れ落ちていった。

 

「これが…………これが罰なのかな。触れても良いと思える人がいることに気が付けたのに、その人とあんな別れ方をして…………もう永遠に会えないことが、私に下された罰、なのかな」

 

 石くれだらけの地面を涙が濡らす。末那は何度も目元を拭ったが、熱い雫は次から次へと溢れ出てきた。

 

「罰、か」

 

 泣きじゃくる末那を見たためか、草原の声は少しだけ柔らかくなっていた。

 

「まあ、その辺りはおいおい詰めて行こうよ。今は考えても仕方がない」

 

 目元を拭う末那の前で、草原の地面がめくれ上がっていく。前回と同じ、目覚めの前兆だった。

 

「それに、罪だなんだって言うなら────」

 

 意識が攪拌され、どこかへと浮かび上がっていくような感覚の中、末那は自身の内側から鳴り響く声を聞いた。

 

 

 

 

 

 

「────きっと、罰はこれからだ」

 

 

 *

 

 

 目が覚めて初めに感じたのは、どうして目覚めることが出来たのだろうかという疑問だった。

 

 目を動かし、自分が何に横たわっているのかを把握する。白いシーツ、薄いピンクのカーテン、清潔さを思わせる匂い。

 

 病室か。

 私は鉛を詰め込んだみたいに重い頭で「意外だな」と思った。

 

 治療したのか。

 

 何はともかく起き上がろうと、私はシーツの中で手を動かす。ごわごわとした感覚。包帯? 右腕全体に巻かれた白い布。数秒して布の意図を理解する。

 

 そうだ、右腕は「爆破」したんだった。

 

「…………っ」

 

 がくん、と、起き上がろうとした体が支柱を失ったテントみたいに崩れ落ちた。匂いまで殺菌したんじゃないかってシーツに顔を突っ込みながら、私は自分の体がどうやら絶不調であるらしいことを知った。

 

 葉っぱの表面を這う芋虫みたいに体をくねらせ、元の位置に戻る。柔らかな枕に頭をうずめると、一仕事を終えたような倦怠感に襲われた。

 

 そのままぼんやりと天井を見る。

 力が入らない。起き上がることも出来やしない。

 しょうがない。

 寝ているか。

 

「…………」

 

 天井は和風だった。

 

 そうして木目を眺めていると、少しずつ意識がはっきりしてくる。同時に色々な想念が浮かび上がってきた。

 

 戦いのこと、白髪の男のこと、『殺せ』と自分に命令した時のこと、自分の中から別の何かが現れたこと。

 空間に響く童女のような声の主のこと。彼女と交わしたやり取りのこと。自分のこと。この私のこと。いつか出会って、でも忘れていた、とっても変で、けれどもすごく心優しい男の子のこと。

 

 あと。

 

 ────阿頼耶の、こと。

 

「…………なんでだろ」

 

 脱色したみたいに真っ白なシーツを握りしめながら、私は呟いた。なんでなんだろう。どうしてなんだろう。男の子が大好きなゲームを取り上げられてなんでお母さんはそんな酷いことが出来るんだろうって悲しむみたいに、女の子がどうしてお父さんとお母さんは結婚したんだろうと素朴な疑問を吐露するみたいに。

 

 なんでだろう、なんでなんだろう。

 

 どうして私は、あんなことをする人間になったのだろう。

 どうして私は、性と金が嫌いになる経験をしなければならなかったのだろう。

 どうして私は、『力』を得たらそれを無造作に振るうようになったのだろう。

 どうして私は……阿頼耶になら、触れても良いと思えたのだろう。

 

 阿頼耶。

 土御門阿頼耶。

 

 私はその些か仰々しい名前を復唱する。

 

 阿頼耶。

 土御門阿頼耶。

 土御門さん家の阿頼耶くん。

 

 優しい人。

 理性的な人。

 人を思いやれる人。

 

 私を守ろうとして、私を糾弾した人。

 私が好きになれそうだった人。

 もう────この世にはいない人。

 

「…………」

 

 頭が痛い。こめかみに心臓が出来たみたいだ。どくんどくん、鼓動に合わせて眼窩を突き刺すような痛みが頼んでもいないのに運ばれてくる。

 

 街灯に照らされて見えた赤。

 鼻腔を突き刺す鉄の匂い。

 生気を失って倒れ伏す体。

 ぴくりとも動かない体躯。

 

 なんでなんだろう。私は呟く。

 どうして私が生きて、阿頼耶が死んでいるんだろう。

 

「……?」

 

 入り口から人の気配がして、私の意識はそちらに向く。かつかつかつかつ、と、一定のリズムでヒールの音が近づいて来た。

 

 気配は私が横たわるベッドの傍までくると、意外にも控えめな動作でカーテンを開く。

 起き上がれない私は、目線だけそちらに向ける。白衣を着た女性と目が合った。

 

「お、起きてたか」

 

 彼女は瞼が上がっている私を認めると、ハスキーな声でそう言った。

 

「調子はどうよ」

 

 無事な左腕で脈を測り、ペンライトで瞳を確認する。一通りのチェックを済ませると、白衣の女性は適当な椅子を引き寄せた。

 

「…………」

 

 何秒経ったか。私が何も答えないでいると、女性は「まあいい」とさばけた口調で言い、

 

「体に異常はない。多少の…………結構な出血はあったが、命に障るほどじゃなかった。後遺症の心配もしなくていいだろう」

 

 用意された文章を読み上げるように、女性はすらすらと私の状態について説明した。

 

 あの時、タワー下で白菜のような頭の男と戦った時点で、私の行く末はいくつかに絞られていた。

 

 その一:私が死亡した場合。

 

 死体を処理されて終了。阿頼耶と共にその存在は抹消され、その消失がニュースになることすらない。

 

 その二:私が生きていた場合。

 

 生きていた、という言い方は適切ではないかもしれない。私の生死はあの男────『ごじょうさとる』に握られていたのだから、正確には『ごじょうさとる』が私を生かした場合、ということになる。

 

 この場合、まず爆破によって盛大な裂傷を負った私を治療するかどうかで分かれる。このように治療したということは、私に利用価値があるということか、あるいは死よりも重い罰を与えたいということになるだろう。

 

 もしくは裁判のようなものに出廷させられ、そこで裁きを受けた上で改めて殺されるという可能性もある。正義の機関ならば手順は大事だ。決められた制度への敬意。それだけが唯一、気ままに力を振るう者とそうでない者を隔てる境界線なのだから。

 

 気ままに振るっていた者が言うのだから────多分、間違いない。

 

 ────今の内に死んでおこうかな。

 

「生かされた」理由によっては、私はそうするだろう。恐らくは死にかけだった私を、彼らがコストをかけてまで延命させた理由。

 

 ────人体実験とか、力を使わされるくらいなら別にいい。でも……。

 

 力……「術式」がどういうものか、私はよく分かっていない。

 ただ、それが人間に宿るものならば。

「術式」もまた、遺伝しない理由はないだろう。

 

 ────「術式」を産む母胎にされるくらいなら…………いっそ……。

 

「何か欲しいもの、ある?」

 

 そんな考えを全部、私は意識の外に追い出した。

 

 女性の申し出に対し反射的に「いや、」の形に口を開いて、包帯が巻かれた右腕に意識が向く。ぐるぐるに巻かれた清潔な布。傷ついた部分の方が少ないような裂傷を負った腕の、その包帯の奥にはどんな醜い跡が残っているのだろうか。

 

 私は頬に触れた。同じく包帯の感触が返ってきた。

 

「────鏡をください」

 

 女性は私の意図を察するとどこか物言いたげな雰囲気になった。幾ばくもなく「くぎさき」と短く言う。ドアのあたりから「ほーい」と女性の声が返って来た。

 

 てっきりこの女性だけだと思っていた私はもう一人の存在に驚くが、そういえば彼らにとって私は危険人物なのだということを思い出す。

 

 声が聞こえてから間もなく、備え付けの机にやたらファンシーな鏡が置かれた。

 

 

 *

 

 

 起き上がるだけで全身の力を使い果たした気がした。

 

 息を切らしながら、私は「くぎさき」という女性が置いていった鏡に目を向ける。

 

 右腕の包帯を少しずつ取っていった。

 

 顔の包帯は白衣の女性が外していってくれた。もう必要ないらしい。右腕の包帯も外したら捨てて良いと言っていた。

 

 鏡を見ると、意外にもさほど様変わりしていない自分の顔があった。頬にも傷があったはずだが、そちらはあまり残らなかったらしい。注意して見ると肌の色が違う部分があるが、すれ違った程度では気づかないほどの微かな跡だった。

 

 私は外した包帯をくるくると丸め、ごみ箱に入れる。出てきた右腕を鏡にかざしてみた。

 

 まだら模様みたいな傷の跡。

 

 黒ずんだ皮膚の周りが突っ張り、皺が寄ったみたいになっている。そうした跡がいくつもあった。

 

 病室に備え付けの時計は音が鳴らない。静かな部屋の中、私はベッドの上で身を起こし、自分に刻まれた傷跡を眺めていた。

 

 

 *

 

 

 高専本部。

 どこかの会議室。

 

「────そうだ、件の少女はどうなった。確か使者との戦闘で負傷し、今は高専にいるとか何とか」

 

「精神を操る術式を持った少女だな。五条家のガキを交渉に遣わせた」

 

「負傷……何故負傷するような事態になったのだ?」

 

「あやつのことだ、自分に向かってくるようけしかけたのではないか」

 

「大いに有り得るな」

 

「呪詛師少女は先ごろ目覚めたそうじゃないか。何と言っているんだ」

 

「まだ何も。沈黙を保っているようです。治療に当たった家入女史によれば、鏡で傷跡を確認したこと以外に、能動的に何かをしたことはないと」

 

「引き続き経過を観察。仮に秩序に唾を吐きかけるようなら秘匿死刑でよかろう」

 

「私は今でも反対だがな。言葉一つで精神を操る術式、それも天与呪縛によるブーステッドだ。今後こちらに牙を剥かないとも限らない」

 

「なに、その時はやつが処理してくれるだろうよ。自分が担任すると名乗り出ているそうじゃないか」

 

「少女の瞬間的な呪力出力は特級並みだ。むしろ私は積極的に歯向かってほしいくらいだね。少女が癇癪を起こした結果、やつの脳に後遺症でも残ってくれればこれ以上愉快なこともあるまい」

 

「ひっひっひ」

 

「…………少年の方はどうなさいますか」

 

「少年? …………ああ、土御門の者か」

 

「どうするも何も、何かをする必要があるのかね」

 

「土御門家の当主からすれば彼はたった一人の孫です。怒りを買うのでは」

 

「放っておけ。所詮は耄碌した老婆だ。枯れ木が燃え上がったところで何もできんよ」

 

「時に、やつは少年を使って何かを企んでいたそうじゃないか」

 

「何か、とは」

 

「こちらの命令を改竄して伝えていたそうだ。少年を追い込むためとか」

 

「悪だくみを共有する相手をぼろ雑巾のように転がすか」

 

「やつらしいと言えばやつらしい。下劣なやり方よ」

 

「それも結局は闇の中だ。彼についてはこれ以上考えても仕方あるまい。次の報告を────」

 

 

 

 *

 

 

「────っていうわけで、呪詛師少女を高専に勧誘することは殆ど決定事項だったんだけど、頭の固い上層部には受け入れに反対するやつらもいてね。そういうやつらはJK呪詛師が持っている術式が怖いってだけなんだけど、その理由をやれ「倫理観に問題が」とか「良心の欠如が」とかぐちぐち言い繕って、さも自分は慎重派だみたいな風情を装うわけよ。まあ普段ならそういうやつらは放っておくに限るんだけど、今回ばかりはそうもいかなくてね…………。なんせ、そいつらが言うことにも────一理あるんだから」

 

 病室。陽光が差す清潔な空間で、五条悟は備え付けの背もたれがない椅子をがったんがったん揺らしながら、今回の経緯について病室の主に語っていた。

 

「文句を垂れる奴らを放っておいたら、「事故」だ何だといって処理しかねない。しかも元呪詛師だから、単純に生徒を殺すよりも心理的なハードルが低い。普段は腰が重いのに、こういうことに限ってはやたらと行動力を発揮する馬鹿が多いしね」

 

 五条は心底呆れたようにやれやれと首を振った。

 

「少女一人を処理するならまだ許せる。でも、その巻き添えで僕の大切な生徒たちまで危険な目に遭わされるのは到底許容できない」

 

 ま、そう単純にどうこうされるような生徒たちじゃあないんだけどね、なんてったってGTGの教え子だしぃ? 五条は両手の人差し指を天に突きつけながら得意げに言ったが、聞いている者からは特にこれといって反応はなかった。

 

 オーディエンスの無反応を特に気にすることなく、五条は語りを再開し、

 

「で、意図的に引き起こされる「事故」を防ぐ……というか辞めさせるためには、大義名分を奪えばいい。この場合は「倫理観がどうたら」ってやつ。少女は倫理観に問題なんてない。ちょっとばかしハイになってただけだ……みたいな証明ができればよかった」

 

 たとえ「事故」でも、それが何故起きたかは上層部に身を置く人間なら皆が知るところとなる。その「事故」に明確な大義がないのであれば、当然それを起こした者は立場が悪くなる。

 秩序を作るべき者が私的な感情で少女を誅するとは何事か、と。

 

「そのために、少し悪だくみをすることにした」

 

 五条はベッドの上に足を振り出した。足を乗っけられたベッドの主にちょっと、と文句を言われるが、さっきのお返しとばかりにそれを無視する。

 

 自分の文句を受け流す自由気ままな最強に、ベッドの主は諦めたようにため息を吐いた。

 

「まず、少女の同居人を精神的に追い込み、僕という最強に挑ませる。勿論僕は最強だからそんな悲壮な覚悟を決めた同居人を問答無用でぶっ飛ばす。そこに到着する呪詛師少女。彼女は倒れ伏す同居人を見て怒り狂う。大事な人を傷つけられた怒りに震えながら、少女は思う。誰がこれをやったのか、と。そこに満を持して現れるGTG。万物から拍手喝さいを浴びながら現れた男は言う。こいつ? ああ、俺が秒で砂にしたけど? 怒りの矛先を得た少女はこの男を殺すと決める。それが現代最強の呪術師とも知らずに…………」

 

 五条は何かを思い出したのか、僅かに言葉のテンポを緩めた。

 

「『大事な人を傷つけられて激昂する少女』っていう画を作ることで、「事故」を画策する者たちから大義名分を奪う作戦だったわけよ。ここまでオーケー?」

 

 親指と人差し指で丸を作る、所謂オッケーサインを見せながら、五条はベッドの主にそう尋ねる。

 尋ねられた人物は一度に全てを理解できたわけではないのかやや首を傾げたが、

 

「────はあ、まあ、オーケー、ってことにしておきます」

 

 曖昧に頷いた。

 

「で、結果としては大成功って感じ。冥さんにお願いしたから物証的な映像も残せたし、これを資料として提出すれば「慎重派」も動きにくくなると思うよ。動きにくくなる、ってだけで、警戒自体は必要だけど、ま、その辺は大丈夫でしょ。優秀な先輩たちが付いてる」

 

 五条はぱん、と手を打ち鳴らし、この話題がこれで終わりであることを示す。

 

「で、君の方だけど────」

 

 呪詛師少女についての話を終えた五条は、ベッドの上で上半身を起こした少年に向き直り、

 

「────高専への転入手続きを進めるってことでいいかな、あらやん」

 

 いつもの薄ら笑いを浮かべてそう言った。

 



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代償

 女はみんな女優。

 

 そんな言葉を聞いたことがある。

 

 女性の社交性の高さを端的に表すのに、女優という言葉がぴったりだったのだろう。

 一介の高校生に過ぎない自分も、その言葉が示すところは何となく分かる。

 

 

 例えばリュックに新しいキーホルダーを付けてきた女子に対しての「あ、これ可愛いね。北欧風っていうの? おもしろ~い」は「(小物でアピールとかあざとすぎw死ねば?)」だし、返答の「えへへ、でしょ? 表参道の雑貨屋さんで買ったんだ~ま、あやには教えないけどね~」といういたずらっ子のような冗談めかしたセリフも、「(細かいところに気を配らない女って何の価値もないよね~w小物すらオシャレにまとめられない喪女予備軍は精々私のセンスを崇めてろよ)」みたいな意味だったりする。

 

 かように女子というものは表と裏(というか副音声)を使い分け、常日頃から本心を隠し、真実を隠蔽し、そうして嘘と欺瞞に溢れた言葉を応酬しているのだ。

 

 

 その在り方は花々というよりも修羅のようであり、そんな彼女たちを形容する言葉は「花園」より「魔界村」の方が相応しかろう。まあこれは共学の高校に限った話であって、正真正銘女子しかいない空間というのはやはり「花園」と言える……というとそんなことはなく、そこにはまた別の意味での「魔界村」が広がっているらしいのだから、げにこの世というものには救いがない。女の子どうしで湿度の高い恋愛をするゆる百合、いやガチ百合空間はどこですか? え? ない? はあ(クソでかため息)。

 

 

 なお先の例ではキーホルダーを変えたことに気づかれなかった場合、それはそれで「ねね、ちょっと自慢していい? これ、表参道で買ったんだけどね~」と自分から「自慢であることは分かってるけどどうしても言いたいの!」という雰囲気を装って話し出すスタイルも存在したりする。その場合相手側としては受けに回らざるを得ず、「え、まじ? 気付かなかった、ごっめ~ん。でもやっぱあゆみセンスいいわ」みたいな感じでお茶を濁すのがセオリー。そうした億千万の流派を使い分けながら、彼女たち「女子」は自分だけの生き方を見つけていくのだった。女子って剣客のことだったのかな? 流浪人? 殺伐度的には北斗の拳か?

 

 

 あと、同じグループ内でちょっと微妙な距離感の人と二人になっちゃったなーって時の妙に緊張感ある雰囲気ってどうにかならないんですかね。近くにいるとすごく居たたまれない気持ちになるんですが……。

 

 

 何なのあの互いにスマホをいじりながら他の人が来るのを待ってる感じ。段々互いが互いに対して「この沈黙はお前のせいだ」みたいな雰囲気を出し始めるし、挙句の果てにはどちらかの仲が良い人が来ると当てつけみたいにそっちだけで盛り上って「私はノリがいい人とならちゃんと面白いんだかんな、沈黙だったのはお前のせいだかんな、橋本か~んな」みたいな空気を作り出すしさ。

 

 

 千年に一人の美少女っていうかそのまま千年戦争に突入しそうな勢いだが、意外なことに彼女らはこういった緊張と緩和を繰り返すことでうまいことバランスを取り、グループが空中分解することを防いでいたりする。とどのつまり女子社会とは須らく冷戦構造を内包しているのであり、修羅の世界に産まれた彼女たちに対し、「浜辺美波可愛くね?」とか一生言ってるだけの一般的な男子が、恋愛という舞台で勝てる道理などどこにもないのだった。

 

 

 というわけで、女はみんな女優、というか女優にならざるを得ないのであり、女優になる過程で腑抜けた男を蹴散らす強かな女になるのだと言えるだろう。

 

 

「くだらないことを考えているだろう」

 

 

 ハスキーな声に指摘され、背筋がぎくりと跳ねた。別にやましいことを考えていたわけではないし、身近な人間関係の複雑さをコミカルに、しかし精緻な論理で展開した語り口はもはや哲学といえるまであると自分的には思うのだが、自負しているのだが、そういう自負心とは全く関係なく、目の前の女性にそういう指摘をされると、かつてごりごりに刷り込まれた上下関係のせいか勝手に背筋が伸びてしまうのだった。

 

 

 家入硝子。

 

 反転術式の使い手。

 

 

 特に返答を期待していたわけではないのか、家入さんは俺の腹のあたりに触れていた指を離すと、「もういいぞ」と診断の終わりを告げた。

 

 服を下ろし、露出させていた肌を隠す。薄いインナーの下には難筋かの白い跡が残っていた。

 

「内臓は問題なし。化膿その他感染症もなし。脳診断異常なし。直ぐにでも呪霊狩りに行けるぞ」

 

「ありがとうございます。やっぱり本業の方に診断を下してもらえると安心できます」

 

 家入さんは医師免許を持っているだけあってその診断は的確だ。反転術式で治るとはいえ、本物の知識を兼ね備えた人から太鼓判を押してもらえるのは安心感が違う。

 

「まあ何年かずるしてるから、若干基礎知識が覚束ないんだが」

 

 家入さんはそんな冗談を言った。

 有能なのにジョークまで達者とは、懐の深さを感じる。

 

「ジョークじゃないぞ」

 

 はっはっは。

 家入さんは素晴らしいお人だなあ。

 流石は俺の反転術式の師匠だ。

 

「そういえば、この後五条さんに呼ばれてるんですけど……何か知りませんか?」

 

 席を立ちかけた時、ふと思い出したことを家入さんに尋ねてみた。

 

『硝子の診断受けたら、なんかあの大きい応接間で待っててね』

 

 丸三日の眠りから覚め、五条さんから事の経緯を説明されて、そうして俺がそろそろ帰っていいかなと思い始めていた頃、彼は唐突にそう告げると────つむじ風のようにどこかへと消えた。

 

「あー……」

 

 何か知りませんか? という俺のアバウトな質問に対し、家入さんは何か思い当たることがあるのか、どこか遠くを見つめるような目になり…………

 

「元から少し鈍感な気のある君には、何を言っているか分からないかもしれないが……」

 

「鈍感……」

 

 …………そうして何やら俺を傷つけるようなことを言った。

 そうですか。

 鈍感ですか。

 

 でも今ので傷つきましたよ。

 

 

「…………今の内に会っておいた方がいいと、私は思う」

 

 

 家入さんは少しだけ固い、シリアスな声で、問いの答えを締めくくった。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 大きい応接間で待っててね。

 

 師匠の診断を受けた俺は、五条さんからの指示に従ってその場所に向かおうとした時、ふとあることに気が付き、廊下のど真ん中でぴたりと立ち止まった。

 

 大きい応接間。

 

 どこだそれは。

 

 ただでさえ慣れない建物の内部にいるのに、そんなふわっとした指定の仕方をされても分かるわけがない。これだからあのサブカルクソ目隠しは……ノリが10年古いんだよ……とぐちぐち言い募りながら高専の中をうろうろとほっつき歩いていた折、俺はふと一つの扉の前で足を止めた。

 

 応接間。

 扉にはそう書かれている。

 

 中から気配がしないことを確かめた俺は、そうっと扉を開けた。

 

 

 五条悟はあんぽんたんだ。ついでに人の心が分からない。

 その最たるものの内に、色々とアバウトな指示を平気で言い、それを本人としては完全に伝わっていると思い込んでいるという悪癖があると常々感じていたのだが、こと高専の応接間事情という場合に限り、彼の表現はある程度的確なようであった。

 

 

 ここが目隠しの指定した場所だと思った俺は、室内をざっと見渡し、どこに腰を落ち着けたものかと思案する。部屋の調度品は整えられ、このままどんなお偉いさんだろうと丁重に迎えられそうだった。

 

 取り敢えずこういう時は下座に座るのがマナーなんだっけ……とどこかで聞きかじった知識を元に視線を彷徨わせるが、そもそもどちらが下座でどちらが上座か分からない。仕方がないので入り口に一番近いところに座っておこうかと足を踏み出すと、ふとどこからか人の話し声が聞こえてきた。

 

 音に導かれ、俺は窓際へと歩いていく。刑事ドラマとかでよくあるあの「かしゃってやるやつ」の隙間から、外の景色を見つめた。

 

「あ、」

 

 そこで見た光景に、呼気とも声ともつかぬ音が喉から滑り落ちる。

 

 窓の外に見えたのは、高専の生徒たちだった。

 

 戦闘訓練でもしているのだろう、つんつん頭の少年と緑がかった髪をポニーテールに結った女性が、獲物を構え向かい合う。一合、二合、三合、片方の武器が弾かれ、宙を舞う。降参と示すようにつんつん頭の少年が両手を上に上げた。

 

「……パンダ?」

 

 女性と少年が訓練を行う隣では、明るい髪の男子と巨漢のパンダが組手を行っていた。見ているだけで息が切れそうなやり取りは圧巻という他ないのだが、それはそれとして何故パンダがここに。どうしたのだろうか。上野動物園から逃げ出してきたのだろうか。

 

 身体能力が高い少年と、不規則な動きをするパンダ。そしてそれを観戦する口元を隠した男子と、トンカチを持ちながら野次を飛ばす女性。

 

 

 楽しそうだ。

 

 

 仲睦まじげな姿に、微笑ましさと僅かな羨望を抱く。そのままぼんやりと窓の外を眺めていると、ふと視線を向けられていることに気が付いた。

 

 先ほどつんつん頭の少年から一本を取ったポニーテールの女性。立ち居振る舞いからしてもうめっちゃ強そうな女性が、窓際からグラウンドを眺める俺を睨むように見つめていた。

 

 視線に押され、窓際から一歩下がる。

 何となく叱られたような気分になった俺は、大人しく座っているかと踵を返した。

 

 広めの空間をぐるりと見渡す。

 取り敢えず、入り口に近いところに座っておこうと決めた。暗殺に遭った時にそこが一番危険だから三下はそこに座るべきって聞いたことがあるし、なんか扉の近くって下って感じがするし、あと入ってきた人に挨拶しやすいし。俺はふらふらと足を振り出し、広い空間を入り口に向けて歩いていく。何だろう、こういうことがぱっと思い付くあたり、俺の社会人適性って案外高いのかもしれない。高専はやめて公務員にでもなろうかしら。

 

 と、つらつらと益体もないことを考えていた、その時。

 

 からから、と軽い音がして。

 

 大きい応接間の、一つだけの扉が開かれた。

 

 

 *

 

 

 女性の指が、私の腹のあたりを押している。今はどの臓器を確かめているのだろうかと生物の資料集に載っていた人体図を思い浮かべるが、ふと一つの疑問に行き当たった。あの資料は自分の体を鏡で見た図なのか、はたまた自分以外の誰かを正面から見た図なのだろうか。

 

 取り敢えず肝臓は右側だったはず……と唯一知っている臓器を元に相対的な位置関係を把握しようとするが、次第に内臓のイメージがこんがらがってくる。十二指腸が肝臓に、胃の先に膵臓が繋がっていることになったあたりで、私は女性が触診している部位を特定するのを諦めた。

 

「問題ないね」

 

 女性────家入は指を離すと端的に告げる。ここが病院なら医者は患者の状態をカルテに書き込むのだろうが、家入の手元には何もなかった。

 私は捲り上げていた服を下ろし、彼女が触れていた部分をさする。さばけた態度とは裏腹に、とても丁寧な手つきだった。

 

「────今の内に伝えておくが」

 

 これからどうなるのだろうか。ぼんやりと自らの処遇について考えていた折、家入がそれを告げる。

 

「土御門阿頼耶────彼は生きているよ」

「…………っ!」

 

 息を呑んだ。純粋な驚愕に目を見開く。

 

 

 ────よかった……。

 

 

 不思議と家入のことを疑う気は起きなかった。多分、私がそう信じたいからだと思う。

 

 あの時のことを、心の中で丹念に思い描く。道路脇で倒れ伏す阿頼耶。あの時の彼からはまるで生命の────精神の気配を感じなかったが、どうやらそれは私の錯覚だったらしい。治療を受けた阿頼耶は既に全快したと、家入は言った。

 

「生傷に限れば、君よりも少ないくらいだ」

 

 そうして私は、彼女から今回の経緯を聞くことになった。

 受け入れのこと、反対派のこと、そいつらが引き起こす「事故」のこと、それが生徒たちに及ぶ危険のこと。今回の一連は、その危険を払拭するために五条悟が立てたものだということ。

 全部を聞いた感想としては、そんなもんか、だった。計画を立案した五条悟に対して憤るには、私の手は汚れすぎている。

 

「それで、彼についてなんだが」

 

 家入は少しだけ躊躇い、

 

「これは私たちみたいな稼業の人間にとって、よくあることとは言えないまでも、その程度で良かったと胸を撫でおろす類のものでね」

 

 瞳が言葉を選んで揺れる。私は唐突に発せられた不穏な空気に少しだけ身構えた。

 家入は隈で縁取られた目元を何かを探すように伏せ、続ける。

 

「まあ今回のは五条が作り出した死地だから、厳密に言うと阿頼耶は戦場に行ったわけではなく、その意味では彼の身に起きたことは純粋な事故と言えなくもないんだが、とはいえ今回の一件をやらなかったらやらなかったで上層部が引き寄せる方の「事故」の危険度が上がるから、担当の生徒を持つ五条としては譲れなかった部分でもあり……そしてそもそもこの一連全てが、廻り廻って君を守るためでもあったんだが…………」

 

 家入の持つ静謐な空気が僅かに温かみを帯びていた。彼女なりに気遣いを発揮しているのだと、知り合って三日の私でも分かった。

 その気遣いが、思いやりが、今だけは────不吉なものにしか、思えない。

 

「それでも、まあ、なに。君にとってはもの凄く重要な事だろうから、こういう物事についてデリカシーがないを通り越して面白おかしく玩具にしかねない男に代わって、私の口から伝えておくと……」

 

 家入が語ったことは確かに私にとって重要な事だったし、それをあのいけ好かない軽薄な男から聞かされるのは、さぞ不快だろうと思われた。

 

 

 

 

 

 彼女から全部を聞いた後、私は一つの部屋の前に立っていた。

 

 誰もいない廊下、遠くから喧騒が聞こえてくる以外に、際立った音は聞こえない。

 横開きの扉には応接間と書かれたプレートがぶら下げられている。

 私は一つ深呼吸をすると、目の前の扉を開けた。

 

 広い部屋だった。

 

 整えられた調度品。皮張りのソファ。足の低いローテーブルに、瀟洒な趣の木彫りの棚。

 静謐で上品な空間の中、窓際に一人の少年が立っている。彼は扉を開けた私に顔を向けていた。

 

 その姿を見て────生きている姿を見て、胸のどこかにあったつかえが取れた気がした。

 確かに────私よりも健康そうだ。

 

 室内に入り、後ろ手に扉を閉める。からりと軽い音が響いた。

 窓際に立つ少年────阿頼耶は、驚いたように瞳を見開いていた。ややあって我に返ったのか、彼は室内に進み出た私に向き合い、威儀を正す。

 

 そして阿頼耶は、三日ぶりに会った私に向けて────礼儀正しく、会釈をした。

 

 

 

 

「────初めまして。高専外部協力者、特別準一級術師の────土御門と、申します」

 

 

 

 

 瞬間、お腹の奥がかっと熱くなり、次の瞬間には急激に冷えていく。強いストレスに晒された時に特有の、こめかみのあたりが圧迫されるような感覚に襲われた。

 

 

 

「五条さんから、応接間で待つように言われているのですが…………」

 

 

 そんな私の心情に気づいた様子もなく、阿頼耶は困ったような笑みを浮かべる。

 その態度、立ち居振る舞いから、阿頼耶が私をこの学校の関係者だと思い込んでいることが容易に分かった。

 

 

 ────どれくらい、待っているんですか。

 

 

 自分の声が遠くの方で聞こえた。唇も舌も声帯も、自分の意思で動いているようには思えなかった。

 

 

「まだ、ほんの数分です」

 

 

 阿頼耶は気を遣わせまいという空気で言った。彼の中での私は「五条さん」側だからだろう。振り回されるのは慣れっこです。その口調はそんな前向きな諦めに満ちていた。

 

 

 ────そうですか。

 

 

 凍てついた声で言うと、それきり会話は途切れる。

 静寂。

 互いの呼吸の音さえ聞こえそうな静けさが、私と阿頼耶の間に降りる。

 遠くの方から、学生と思わしき者たちの声が聞こえてきた。

 

 

「……………………あの」

 

 

 ────はい。

 

 

 沈黙に耐えきれなかったのか、はたまたいきなり入室してそのまま黙りこくってしまった者を不審に思ったのか。

 阿頼耶はこちらの顔色を窺うと、それを聞いた者が決して何かを強制されたとは思わない、彼らしい柔らかな声音で言った。

 

 

「よろしければ……………………お名前を伺ってもよろしいでしょうか」

 



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そして、少女は

「阿頼耶に何をした」

 

 家入硝子は彼女にしては珍しいことに、その口調に微かな苛立ちを滲ませ、目の前で革張りのソファに身を沈める黒目隠しにそう問いかけた。

 

「…………? 別に何も」

 

 五条悟は家入の感情をそよ風のように受け流し、極自然な口ぶりで答える。

 家入は額に青筋を浮かべた。

 

「何もせず────ここ一年のエピソード記憶がごっそりと消え去るなんてことがあるか」

 

 阿頼耶は一年間の記憶を全て失っていた。今の彼は、精神操作の呪詛師を追って日夜東京を駆け巡っていたことも、生い立ちが不幸な少女と4か月余り同棲していたことも、それ以前にボランティアで呪霊のプロットを行っていたことも、何一つ覚えてはいない。

 

 彼の頭蓋からは、文字通りあらゆる思いが失われている。

 同居人の少女に感じていた思いも、当然────失われた。

 

「…………年下好きだったけ」

 

「…………」

 

 家入はシンクにこびりついた水垢を見る目で現代最強の呪術師を見下ろした。

 彼女は阿頼耶に特別な感情を抱いているわけではない。単に、己のアバウトな指導によって反転術式を会得してみせた若き才能に…………理詰めに見せかけて実は超感覚派の少年に…………自身の事を師匠と呼び慕ってくる純粋さに、ほんの僅かばかりの親しみを感じているだけだった。

 

「別に、大したことはしてないさ」

 

 同期からの凄まじい目線に晒されながら、五条は何てことのない空気で言い、

 

「ほんのちょっと────領域に引き入れてみただけ」

 

 五条悟の領域、無量空処。

 その効果は膨大な情報を強制的に詰め込むことで行動能力を奪うことだ。莫大な情報を詰め込まれた結果、脳が焼き切れるのは理屈としては分からないでもないが…………家入は本人からそのような例を聞いたことがなかった。

 

「抵抗したんだよ、阿頼耶は」

 

 不意に、五条は言った。

 

「抵抗……?」

 

「うん、そ。僕の領域に、ね」

 

 土御門阿頼耶。無下限呪術のない五条悟。

 彼は現代最強の呪術師の領域に、呪術の極致に、その身一つで真っ向から抵抗した。

 して、みせた。

 

「なまじその手段を持っているからね、阿頼耶は。結果、阿頼耶は僕の領域にも耐えたけれど、頑張りすぎたせいで脳が焼き切れて────アボン」

 

 五条は手を開き、爆発のジェスチャーをする。

 

「実力が近くなるほど殺しやすいってのは、どうやら本当みたいだね」

 

 プロのボクサーが素人を相手にすると一瞬で決着がつく。

 これがプロ同士の試合となると、決着は中々つかず、マッチの終了まで互いの体に何発もの拳が叩き込まれることになる。

 かように、戦いの過程でどちらかが深刻なダメージを負う確率は────実力が近くなるほどに高まっていく。

 

「…………本気の乙骨を無傷で無力化することが難しいのと同様に、か」

 

「特級呪霊を生け捕りにするのが至難の業であるのと同等に、ね」

 

 仮に、阿頼耶が領域への抵抗手段を持っていなければ、彼が記憶を失うことはなかっただろう。

 実力。あるいは最強に挑む資格。それを備えていたことが、土御門阿頼耶の「死因」だった。

 

「弱者であれば、何ともなかったはずなのに……」

 

 家入は診断した時の弟子の顔を思い浮かべた。時折くだらないことを考えてぼうっとする癖のある少年は、自身が強者であったが故に、失うものが増えてしまった。

 それはなんて…………なんて、

 

「皮肉だねえ」

 

 五条が放った台詞に、家入は微かに頷いた。

 

 

 

 *

 

 

 

 くりっとした大きな瞳に、透き通るように白い肌、桜色の唇は艶やかに光を反射し、ほっそりとした喉元が妙に艶めかしい。

 

 応接間。

 

 楚々とした雰囲気の少女、いや女性……………………少女と女性の中間に立っている彼女は、どこかぼんやりとしているようにも、深遠な物思いに耽っているようにも見える。呪力の流れからすると彼女は補助監督員、あるいは外見の年齢からして監督員志望の生徒という可能性もあった。

 

 高専関係者。

 

 ならば────関係構築は欠かせない。

 

 そんなこんなで慇懃に振る舞ってから、俺はこれから高専に転入することを思い出した。まだ実感が沸かないからついいつもの感じで挨拶をしてしまったが、向こうも高専生でこれから命を預け合う仲間ならば、「特別なんちゃら術師の土御門です」とかじゃなく、もっと砕けたことを…………どーも、新しいメンバーです、よろ乳首! 的なことを言った方が良かっただろうか。

 

「末那、といいます。末広がりの末に、那覇空港の那で、末那」

 

 そんな俺をよそに、美少女はにっこりと笑った。

 

 末那、と名乗った彼女は、しかし名字の方は名乗らず、それきり聞かれたことは答えたと口を閉ざす。術師には名字を嫌う人が一定数いるので、彼女もその類なのだろうかと思った。

 

 名字嫌い。

 

 となると名家の出だろうか。

 

 まな。

 

 ふと、俺の脳裏にその名前が何かの暗示のように浮かび上がる。

 

 まな。

 

 末広がりの末に、那覇空港の那で、末那。

 真奈や愛、あるいは平仮名のまなではなく、末に那と書いて、末那。

 

 ────末那識。

 

「良い……名前ですね」

 

 ありがとうございますとも何とも、末那…………さんは言わなかった。

 沈黙。

 耳鳴りがしそうなほどの静けさ。

 

 彼女は何をしにここに来たのだろうか。

 待ちぼうけを喰らいかけた俺へ五条さんからの伝言を伝えるメッセンジャーというわけでもないのならば………………例えば彼女も、五条さんから指示を受けてここに来ただけの哀れな迷い人、みたいなオチだったりするのだろうか。

 

 やっぱりあの目隠し許せねえな。

 

 こんな────美少女を、顎で使うなんて。

 

「…………えっ」

 

 自分の口から漏れた、素っ頓狂な声。

 いつの間にか、口数の少ない楚々とした美少女が、腕を振り回したらぶつかるくらいの距離にいた。

 

「え、ちょ、まっ────」

 

 驚いたことに、美少女は更に距離を詰めてきた。接触を避けるためには、必然俺が後ろへと下がるしかない。

 一歩、二歩、三歩。腰が窓枠にぶつかる。これ以上下がれない。

 

「な、────」

 

 なのに、もう逃げる場所がないのに、それでも美少女はそんなことはお構いなしに足を振り出した。彼女のものか、ふわりとキャラメルのような甘い香りがする。背伸びをするように精一杯体を後ろに傾けると、ブラインドと背中が触れ、かしゃんと紙を丸めたような音が鳴った。

 

 美少女はそのまま、俺の胸板に手を添えると、艶やかな唇を近づけてきて────。

 

 

 *

 

 

「例えば、ですよ」

 

「────は、はい」

 

「例えば、私とあなたが、既に知り合っていて」

 

 至近距離。互いの吐息のリズムすら感じ取れる距離で、私は噛んで含めるように、阿頼耶の耳元で繰り返し言う。

 

「あなたが落としたここ数か月の内に、色々と…………そう、色々と親密な仲になっていたとしたら」

 

 胸板に置いた手を滑らせる。びくりと体が跳ねたのが、手のひらの感触からわかった。

 

「あなたは────どう思いますか」

 

 茫洋とした質問。

 良い仲になっていたとしたら、どう思うか。

 出会って数分の少女にそんなことを聞かれた阿頼耶は、混乱の極みという顔をしていた。

 

「い、色々、というと…………?」

 

 私はもう一歩、阿頼耶に体を近づけた。ひい、と悲鳴じみた声が阿頼耶の喉から流れ出る。

 

「す、すごく……その────申し訳ないと、思います」

 

 阿頼耶は息も絶え絶えに言った。

 

「理由は」

 

「へっ」

 

「申し訳ない。嬉しいでもラッキーでもなく、悪いことをしたと感じる、その理由は」

 

 私は自分の口調が強くなっているのを自覚した。かあっと体の中心は熱いのに、背筋は震えるほどに冷たい。感情の制御が壊れている証拠だ。力に目覚めた時の激情に近いが、呪力の方は静かだった。

 

 阿頼耶はあちこちに視線を彷徨わせると、えと、その、と言葉にならない声を漏らす。幾ばくか経った後、阿頼耶は私と視線を合わせた。

 

「し、親密になった、ってことは、そうなるだけの何かがあったってわけで…………」

 

 しどろもどろになりながらも、阿頼耶は自分の考えを言葉にする。

 

「ということは、『二人』にとって大事な出来事を、俺は忘れてしまったってことだから…………」

 

 だから、と。阿頼耶は少しだけ語気を強める。目の前の少女に対して、強い気持ちで自分の意思を表現するという気概に満ちていた。

 

「────君一人を置いていくようなことをして…………本当に申し訳ないと……思いますです」

 

 強めた語気が一秒たりとも続かないばかりか最後の方が文法的におかしなことになっているのが、阿頼耶の困惑具合を表しているような気がした。

 

 あと生来の────ヘタレ具合も。

 

「そうですか」

 

 聞きたいことが聞けた私は、阿頼耶から離れる。

 

 初対面の少女からの詰問から解放された阿頼耶は、ほっとしたような顔をしていた。

 

 その心底安堵した顔を見て、私は少しだけ────イラっとする。

 

「ちなみに、今私が言ったことは全て嘘です」

 

 棘のある口調で言い放つと、阿頼耶はほっとした顔から一転、愕然とした顔になった。

 

「…………………………え?」

 

 私は意識して口の端を上げ、嘲るような顔を作る。ごじょうさとるの薄ら笑いを思い浮かべた。

 

「私とあなたが良い仲だったなんてお話は、嘘八百、真っ赤な嘘、虚言、妄言、仮初の類、絵に描いた餅どころか棚に置かれることすらなかったぼた餅です。記憶を落っことすような間抜けにそんな天変地異レベルのラッキーが起こるわけがないでしょう。残念でしたね。こんな美少女とお付き合いできなくて」

 

 ほうれほうれ、と、私は「まき」という女性から借りた服の袖をひらひらさせた。

 

「そ…………ソウデスカ、は、はは。騙されたな~…………は、ははっ」

 

 乾いた声を漏らし、光の消えた目で遠くを見つめる阿頼耶。精一杯笑顔を作ろうとした結果、なんだか引きつった顔になっていた。

 

 そんな彼に、私は追い打ちをかけていく。

 

「ええ、私とあなたは何でもありませんよ。勘違いしないでくださいね」

 

「だ、大丈夫ですって。そんな、流石に冗談って分かって────」

 

「左利きなのに箸を持つのだけは右手で、好きなみそ汁の具はかぼちゃ、基本的に好きなものは後から食べるタイプだけど、一番好きな寿司ネタのいくらだけは一番最初に食べてしまうようなあなたと、宇宙開闢以来の奇跡の美少女と称された私が恋愛的にどうこうなるはずがないでしょう」

 

「冗談だよね?」

 

 阿頼耶はマタタビの隠し場所を暴かれた猫みたいに愕然とした顔になった。

 

「冗談ですよ」

 

 と私は言ったが、阿頼耶はなおも不審そうな表情で私の顔を見つめた。

 

「本当になんでもないですよ。ただ少し……」

 

 私は説得力を持たせるために、そこで言葉を区切る。

 

「……小夜さんと関わりがあるだけです」

 

 柔らかい口調でそう言うと、阿頼耶は納得した顔になった。

 

「あ、ああ。なるほど。祖母ちゃん繋がりか。…………孫のこと話しすぎだろ祖母ちゃん……」

 

 私が色々と知っていることの原因が判明し、その原因たる祖母に不平を漏らす阿頼耶。

 私はその顔に笑いかけた。

 

「とても愛されているようですね。羨ましいです」

 

「いや、そんなことは。昔から祖母ちゃん子だったもので……」

 

 私の放った世辞に否定とも肯定ともつかない言葉を返すと、阿頼耶はたははと頭の後ろに手をやった。

 

「まあ、血の繋がりはないんですけど……」

 

 そのまま何やら聞き捨てならないことを言う。

 

 え。

 どういうこと。

 

 私の思考がたった今明らかになった事実に引っ張られる。

 

 私はおばあちゃんの遠い親戚で。だからあの家に引き取られて。

 でも阿頼耶は、おばあちゃんとの血の繋がりがない?

 

 じゃあ私と阿頼耶は────正真正銘、赤の他人…………?

 

「ちなみに、祖母ちゃんとはどんな経緯で……?」

 

 警戒の薄れた声音で尋ねてくる阿頼耶に、私は我に返った。指先を顎に当て、問いの返答を思案する。

 

「経緯…………まあ、成り行き、でしょうね」

 

「な、成り行き、ですか」

 

「ええ、特に劇的な出会いがあったというわけではありません。気が付いたら出会っていたという感じなので…………ああ、そういう意味では、小夜さんと私が出会ったことは────むしろ必然といえるのかもしれませんね」

 

「な、なるほど…………?」

 

 阿頼耶は分かったような分からないようなという表情になると、そんなもんかと肩をすくめる。私は苦笑を浮かべた。

 

「本当に、特別なことなんて何もありませんよ。私とあなただって、ほんの何回かお話しただけの関係です。それ以上のことは何もありませんでしたから…………安心してください」

 

 阿頼耶は私の言葉に対し、どんな表情を浮かべたものか迷っているような何とも微妙な顔つきになると、暫くして「そうですか」とだけ言った。

 

「ふふ、少し冗談が過ぎましたね。病み上がりなのに揶揄うような真似をしてしまい、どうもすみません。何だかんだ、生きていてくれたのが嬉しかったのだと思います」

 

 私はそこで目を伏せ、

 

「一目見ただけだと、生きているのか、死んでいるのか…………分からなかったものですから……」

 

「…………あっ」

 

 阿頼耶は何かに気が付いたような声を上げると、

 

「ご心配を…………おかけしました」

 

 そう、神妙な口調で言い添えた。

 

「…………」

 

 目線を彷徨わせ、言葉を探す。己の無事を案じていた者に対して、原因となった出来事を忘れた人間が何を言えばいいのか、そんなの私にだってよくわからないけれど、阿頼耶はそれを考えようとしてくれているようだった。

 

 阿頼耶が言う言葉なら、何でもいいような気もするし。

 阿頼耶が選ぶ言葉だからこそ、きちんと考え抜いた言葉が欲しいとも思う。

 

 私はそんな矛盾した気持ちを抱え、脳裏から言葉を引っ張り出している阿頼耶を見つめた。

 

「…………当然、今の俺には、前の自分がどうしてあんなことをしたのか…………よく、分からないんだけど」

 

 阿頼耶はぽつりぽつりと語り始めた。伏せられた瞳が迷うように揺れている。私は彼の言うことに、選び取っていく言の葉に、静かに耳を傾ける。

 

「色んな人から話を聞いた後でも、何で俺が五条悟に挑んだのか、とか。どういう理由で呪詛師を助けようと思ったのか、とか。本当に、誰のどんな話を聞いても、まるで分からなかったくらいで…………」

 

 阿頼耶がそう言った時、胸の奥がきゅうってなって、ちょっとだけここから逃げ出したい気持ちになった。

 

 阿頼耶は、記憶を失う前の自分がどうして私を助けたのか理解できないと言った。

 

 なんで命を懸けたのか、なんで五条悟に挑んだのか、今の自分には到底分からないと言った。

 

 だったら、あの時の阿頼耶の選択は。

 

 私を逃がした決断は。

 

 本当は糾弾して引き渡すつもりだったのだけれど、ふと魔が差した結果に過ぎないのだろうか。

 

「それでも」

 

 阿頼耶の声に、ふと意識を引き戻される。彼は私の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「それでも、きっと、その時の俺には、それがすごく────大事な事だったんだと思います。血まみれになってまで成し遂げたい事だったんだと…………そう、思います」

 

 言い切った後で、でも、と彼は付け足す。

 

「でも…………後悔のないように行動することと、それを周りが心配しないことは、イコールじゃないから…………」

 

 息を吸い、意を決したように、

 

「だから────ありがとうございます」

 

 阿頼耶は、そう言った。

 

「心配してくれて、ありがとう、ございます」

 

 人を包む毛布のような暖かさで、阿頼耶は笑った。

 

 笑って、礼を言った。

 

 

 

「こちらこそ────ありがとうございます」

 

 

 私の返礼でふと頭の中の何かが繋がったのか、阿頼耶は「あ、」の形でぽかんと口を開いた。愕然とした顔のまま、口元が「もしかして……」と動く。

 

 暫くの間そうして驚きを露わにしていたが、次第に目を逸らし、首に手をやり、どこか気まずげな空気を醸し始めた。

 

「────あ、ああ。うん。いや、まあ、前の俺がやったことだし……今の俺には、実感がないっていうか…………」

 

 阿頼耶はしどろもどろに目線をあちこちに彷徨わせる。出会って早々詰問されたり揶揄われたりした少女が、実は自分が記憶を失う理由だったことを知り、どう扱ったものかと戸惑っていた。

 

 私は万感の思いを込めて、そんな彼に笑いかける。

 

「それでも、ありがとう」

 

 胸の奥にわだかまる熱さがそのまま声となり、二人だけの応接間に響き渡る。錯覚だろうか、正面にいる阿頼耶が目を伏せ、その頬に微かな赤みが差したような気がした。

 

 

 

「────お兄ちゃんっ」

 

「……………………………………………………え?」

 

 逃がしたってそういうこと? 生き別れの肉親は差し出せねえだろみたいな? いやいや待て待て落ち着け俺、この歳になって実は妹がいたなんてイベントは世界広しといえどそうそうあるもんじゃない。そんな事象が発生したのならば副作用としてなんかとんでもないことが起きるはずって起きてんじゃん記憶失ってんじゃんもうやだお家帰るー!

 

 ぎゃーすか言いながら頭を抱える阿頼耶。私は心の中でぺろりと舌を出し、いたずらの結果を愉快な心持で眺める。

 

 

 ────これくらいは許してほしいよね。

 

 

 揶揄うことで記憶を落とした不手際をチャラにしてあげようというのだから、感涙にむせび泣いてほしい。

 

 少しだけ、鼻の奥がつんとした。多分、埃のせいだった。

 

 

 *

 

 

「というわけで、色々と不幸な元JK呪詛師の末那ちゃんと、そんな不幸なJK呪詛師を助けるためには僕と殺し合いくらいやってやらあ! と覚悟ガンギマリなボランティア術師、阿頼耶くんで~す!」

 

 石畳が敷かれた空間に軽薄な現代最強の声が響き渡る。諸事情あって些か疲れ気味の体を抱えながら、俺は目の前に並ぶ黒い制服を身に纏った生徒たちに軽く会釈した。

 

「ちなみに、阿頼耶くんは一年分の記憶を失っていま~す。あっはは。記憶喪失って本当にあるんだねえ」

 

 お前のせいだろうが! と言いたかったが意志の力で抑え込んだ。第一印象は大事だ。

 

「いやお前のせいだろうが」

 

「しゃけ」

 

 そしたらポニーテールの女性が代わりに言ってくれていた。サンキュー、姐さん。

 

 目の前に並ぶ、都立呪術高等専門学校に通う高専生徒たち。

 

 俺と末那さんに対する彼らの反応は、もろ手をあげて歓迎するというものではなかったが、とはいえ明確な拒絶や嫌悪といった悪感情とも異なる感じの、なんというかフラットな感じであった。

 

「色々と思うところはあるかもしれないけど、青春を謳歌する者同士────仲良くしなよ」

 

「はあ」

 

「しゃけ」

 

「パンダはそのつもりだぞ」

 

 先ほど俺の代わりに突っ込んでくれたポニーテールの女性を含む、向かって右側の二人と一匹がそう言い表し、

 

「…………」

 

「うい~っす」

 

「睫毛なが……化粧水何使ってんだろ」

 

 左側の三人がそんな感じで反応した。

 

 五条さんは満足そうに頷くと、片方の手をひらりと振る。

 

「じゃ、僕は出張あるからこの辺で。ば~はは~い」

 

「五条先生てぎりぎり平成生まれだよな……? なんでケロヨン?」

 

「いやお前も知ってんじゃねえか」

 

 去り際、五条さんが放った意味不明な言葉に明るい髪色の男子がそのネタの古さを指摘すると、つんつん頭の黒髪の男子が突っ込みを入れた。

 

 ちなみに彼が指摘したケロヨンは昭和生まれの蛙のキャラクターなのだが、2014年に冬眠から覚めたという設定で復活し、今では栃木県のご当地キャラクターとして活動していたりする。どうでもいいけどなんで俺はこんなに古のゆるキャラに詳しいのだろうか。

 

 ふと、向かって右側にいた生徒たちが、ぞろぞろと俺を囲うようにして近づいて来る。

 俺は震えあがった。僕お金ないです。

 

「おう、これからよろしくな。あらやん」

 

 と怯えたのも束の間、どうやら彼らは友好的に俺を迎えてくれるらしかった。パンダが深みのあるバリトンボイスで言い、

 

「たかな」

 

 と口元を隠した青年も歓迎の言葉を今なんて? て、Take it now? もしかして最近帰って来たばかりの帰国子女で、発音がネイティブ過ぎて言うこと全てがおにぎりの具に聞こえるとかだろうか。リスニングは苦手なんですけど……。は、はうどぅゆどぅ?

 

「なよっとしてんなあ……肉食ってるか?」

 

 最後に、応接間からグラウンドを見ていた時に目が合った、喧嘩が強そうな女性が俺の体を見てそう言った。

 

「あ、はい。よろしくお願い……パンダが喋った!?」

 

 なんだこれ。なんでパンダが喋ってるんだ。新種か? 学会への報告はどうした!?

 

「さっきから喋ってたろ」

 

「しゃけしゃけ」

 

「パンダが喋っちゃダメなんですかあ? パンダ差別ですかあ?」

 

 驚く俺にそれぞれの声がかけられる。眼を飛ばしてくるパンダが暑苦しかった。

 

「うし、じゃあ取り敢えずグラウンド行くぞ」

 

 踵を返した女性(そういえばまだ誰の名前も聞いていない)に続き、他の二名もどこかに向けて足を振り出す。出遅れた俺は小走りで追いながら、これまでずっと気になっていたことをその背中に尋ねた。

 

「あの…………」

 

「あ?」

 

 女性が肩越しに俺を見る。眼光の鋭さに思わず財布を取り出しそうになった。へ、へへっ、命は勘弁ですぜ……。

 

「あ、えと、その…………俺って二年扱いになるんですか? その辺のこと、五条さんから何も聞いてなくて……へ、へへ」

 

 女性の眼光にビビった結果、俺の口調がなんか三下みたいになっていた。そのまま揉み手をする勢いである。旦那あ…………へへ、勘弁してくださいよお……。

 ちなみに五条さんはまじで何も説明しないまま、応接間にいた俺と末那さんをここまで連れてきた。あの最強犬の糞とか踏めばいいのに。

 

「あ? ああ、そうだよ。お前が二年で、元呪詛師が一年。なんか知らんけど分けるらしいな」

 

 強そうな女性は態度とは裏腹に俺の学年事情をきちんと説明してくれた。この時点で彼女は俺にとって五条さんよりも敬うべき人と認定される。やっぱ持つべきものは若々しさとチャラさをはき違えた子どもみたいな大人じゃなくて、しっかり者の姉御肌の先輩だよなあ。持っている長物とかやばい足運びとかを見るに姐さんより番長という感じだが、俺は早くもこの女性に好感を抱いていた。へへっ、姐さん、牛乳とアンパンでも買ってきましょうか……?

 

「経験の差だろう。だってお前、ボランティアでちょいちょい呪霊祓ってたんだろ? 実戦経験ありの外部協力者だったら、そのままスライドさせた方が都合がいい。教師の負担も分散するしな」

 

「しゃけしゃけ」

 

「ボランティアってところが変態じみてるな。実は破滅願望とかあるのか?」

 

 手下Bのロールプレイをしていた俺は、パンダと青年の言うことに納得の頷きを返す。早くも姉御からドン引きされるというハプニングはあったが、持ち前の営業スマイルで「力を持つ者の責務ですから……」と言い、事なきを得た。

 

「ええ…………変態かよ」

 

 気のせいだった。より引かれただけだった。

 

「俺は好きだぞ、お前みたいなの」

 

「うめ」

 

「パンダさん…………おにぎり先輩…………」

 

「誰だよおにぎり先輩」

 

 優しい言葉をかけてくれるパンダとおにぎり先輩に俺は感動に震えた。おにぎり先輩の方は優しい言葉をかけてくれたのかは分からないがきっとニュアンス的にはそういうことだろう。俺たちは早くも言葉よりも先に心で通じるソウルメイトに至ろうとしていた。

 

「んじゃ、『無下限呪術のない五条悟』がどんなもんか。見せてもらおうじゃねえか」

 

 え。

 ちょっと待て。

 

 姉御が放った言葉に、共振していたソウルの震えがぴたりと止まる。

 

 誰が何だって?

 無下限呪術のない五条悟……?

 誰が?

 俺が?

 

 なんだろう………………不穏なこと言うのやめてもらってもいいですか?

 

「ほら行くぞ!」

 

「あひんさー!?」

 

 首根っこを掴まれて連行されてゆく阿頼耶くんじゅうななさい。

 

 美少女とエンカウントできたと思ったら実は元呪詛師で、しかも「生き別れの妹ですよ。これからよろしくね、お兄ちゃんっ」とかいう道徳のない嘘を吐かれ、挙句の果てにたった今とっても不名誉な名で呼ばれている疑惑が浮上し、なんかもう色々と現実を受け止め切れなかった。

 

 …………ぼくもうお家帰る。

 

 弱音を吐いた。でも誰も助けてくれなかった。

 

 くそう。こんな世界滅びてしまえ。

 

 

 *

 

 

 ずるずると連行されていく阿頼耶。なんだか今まで見たことがない感じのテンションだった。

 あれも記憶を失ったせいなのだろうか。

 

「じゃ、よろしくね。私は釘崎野薔薇。こっちの陰湿そうなのが伏黒恵で、こっちの馬鹿っぽそうなのが虎杖悠二ね」

 

「誰が陰湿だ……」

 

「俺を傷つけない紹介方法もあったよね?」

 

 茶髪の女性が隣の男子二名を指し、それぞれの名前を紹介する。

 

 私から見て右側にいる色素の薄い髪の男子が虎杖悠二で。

 左側にいる暗そうな男子が伏黒恵らしい。

 

 二人の男子には見覚えがあった。

 一人は一度、私がまだ人を襲っていた時に、犯行後ニアミスした時の少年。

 もう一人は電車で席を譲られた少年。

 二人とも、私と既に会ったことがあることには、気が付いていないようだった。

 

「末那と申します。よろしくお願いします」

 

「ん、よろしく」

 

「おう、よろしくな」

 

「…………」

 

 釘崎と虎杖がそれぞれ返答する中、伏黒という少年だけが何も言わなかった。

 何も言わないが、物言いたげな雰囲気はあった。

 

「伏黒……あんたなんか言いたそうね」

 

 釘崎がその雰囲気を指摘する。

 

 伏黒はむっつりした顔で首を横に振った。

 

「いや、別に」

 

 素っ気ない態度を取られた釘崎は、トンカチを持った手で伏黒の顔を指し示した。

 

「別にじゃないでしょーがあるでしょーがその顔は。俺は言いたいことあるけどここで言うのもなんだし辞めときます。でも含むところがあることだけは匂わせときますって面してるでしょーが!」

 

「そんな雄弁かよ……」

 

 伏黒は大きくため息を吐くと、頭の後ろを掻き、

 

「お前のせいで人が死んだ」

 

 吐き捨てるように言った。

 

「伏黒……」

 

「事実だ。こいつは面白半分の小遣い稼ぎで人間を襲い、挙句の果てに自分の力の実験台に使ったんだよ」

 

 諫めるように名前を呼んだ虎杖も、伏黒のその言葉に沈黙する。釘崎さんも不機嫌そうな顔をしていたが、あえて口をはさむことはなかった。

 

「俺は別に、罪だとか罰だとかってことを言いたいんじゃない。どうせ誰も裁けやしないからな」

 

 だから、俺はこいつの罪を問いたいんじゃない。

 

 伏黒は私の目を真っ向から見据えた。

 

「お前は、何のために高専に来た」

 

 ぴくりと虎杖の眉が動く。伏黒はお構いなしに続きを言った。

 

「何のために、呪いを学ぶ」

 

 同じことを、ついさっきひげ面の男にも聞かれた。

 何のために呪術を学ぶ。何のために高専に通う。

 

「別に、理由なんてありませんよ」

 

「…………」

 

「私には力があって、その使い道によっては秩序を守る組織に殺されたり、逆に秩序を守る側になれたりする。だったら、秩序を乱して殺されるよりも、それを守る側に立った方が良いと、そう思うだけです」

 

 伏黒が納得していないのがはっきりと分かった。彼は私の答えを聞くと、眉間の皺を深くしていく。

 

 関係構築には失敗だろうか。私は少し目を伏せ気味にする。どうせ答えるなら、胸の内の全てを答えておこうと思った。

 

「それに世の中には、たった数か月を共にしただけの女の子を、命を懸けて助けようとするような、そんな馬鹿みたいなお人好しがいるんですよ」

 

 私は先ほど連れて行かれた背中を思い出す。情けない姿だったが、あれは私を二度も救った。

 

 そうして二度とも、私に見返りを求めることをしなかった。

 

 今の彼は、そんな出来事があったことすら忘れてしまったけれど。

 

「私は知らなかった。あんな人間がいることを。誰かのために自分をそのまま差し出してしまえる人間がいることを。そうしてそんな馬鹿な人間が、私と同じ世界に生きていることを」

 

 言葉を区切る。どうせなら真正面から主張をぶつけてやろうと思い、私は伏黒の顔を真っ向から見据えた。

 

「────いいかもな、って思ったんです。こんな世界だったら、まあ、いいかもな、って」

 

 自分の表情が柔らかくなったのが分かった。

 

 自分が生きている世界の肯定。

 阿頼耶がそれを可能にしてくれた。阿頼耶がいたから、私はそう思えるようになった。

 

 こんな世界なら、良いかもな、と。

 生きてやっても、良いかもな、と。

 

 世界は汚いだけじゃない。勿論、綺麗なだけでもない。

 ただ、真に美しい輝きを放つ信念は、どれだけ泥にまみれていようと────その輝きを失うことがない。

 私は、その輝きの隣に立ちたい。立っていいと思えるようになりたい。他ならぬ自分自身が、あの透き通る光の近くにいることを許せるようになりたい。

 

 だから私は、呪いを学ぶ。

 呪いを学び、呪われた人を助ける。

 そう、決めた。

 

「それが理由じゃ、駄目でしょうか」

 

 虎杖と釘崎は真剣な表情で私の話を聞いていた。彼らとて、私について思うところがあったのだろう。やがて二人は私の言葉に納得したのか、伏黒に目を向けると、返答を待つように瞼が閉じられた顔を見つめた。

 

「……………………取り敢えず、フィジカルを鍛えることから始めるぞ。呪力を身に纏えない分、どうしたって肉体は貧弱になる。足りない膂力は技術でカバーするしかない」

 

 伏黒は一息に言い放つと、そのまま阿頼耶たちが消えた方向に足を向ける。

 

「幸い、白兵戦がえげつない人が転入してきたからな。あの人に教えてもらえばいいだろ」

 

 肩越しにそう言い、伏黒はグラウンドに向かう。その背中に虎杖と釘崎が駆け寄った。

 

「何してんの、いくわよ!」

 

 釘崎が振り返り、私に手を振る。虎杖もこちらを振り返り、私が動き出すのを待っていた。

 

 この先は呪いの道だ。

 暗く、淀み、鬱屈とした下水道のような世界。

 感情の排泄物と戦う世界に、私は身を投じていくのだろう。呪霊、呪詛師、きっと私なんかよりもよっぽど邪悪な者たちが、この先には待ち構えている。

 

 私は人間を嫌いになるだろうか。男をより憎むだろうか。

 

 私は口元に笑みを浮かべる。空を仰ぐと、快晴とは程遠い分厚い雲の層が出迎えた。

 

 大丈夫。

 

 どんなことがあっても、この暖かな感情だけは────消えることはない。

 

 

 

 私は芽生えた淡い恋心を宝物のようにしまい込み、呪いにまみれた道を歩き始めた。

 

 



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