紫煙燻らす彼の話 (社畜的な社畜)
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紫煙燻らす彼の話
カタカタとキーボードの操作音が断続的に響き、ディスプレイには世界の仕組みが着実に構築されていく。
「…………よしよし、良いぞ、良いぞ……!いい感じに指が踊ってきやがった…………!」
デスクトップ型のパソコン画面が二つ並んだデスクに座り、火のついていないタバコを口にくわえた彼は黒縁眼鏡にパソコン画面を反射させながらぶつぶつと何かを呟いていた。
ボサボサの黒髪は癖っ毛なのかゴチャゴチャしており、眼鏡の下にある目はどんよりと淀んで目の下には濃い隈が作られれており明らかに疲労困憊の様子。
それでも、彼の指は走っており画面には絶え間なく文字が刻まれ止まる気配が無い。
時間にして凡そ、三十分。その間ずっと動き続けていた指だが、ここで初めてその動きを止めた。
「……………………ふひゅー………SAN値チェック」
メガネを外し、凶悪な皴の刻まれた眉間を揉んで目薬を差した彼は少しの間目を瞑り、出来を立ち上がった。
データの保存を終えて、社員証とタバコの箱、百円ライターを片手にフロアの外へ。
現在朝の五時三十七分。昨日の夜からほとんどぶっ通しでパソコンの画面と向かい合っていた彼の脳は今はとろとろに蕩け切っているのだ。
上ってくるエレベーターに乗り込み、最上階へ。
解放された屋上は、朝日も未だ射し込んでこない。
黒いワークパンツに白のTシャツ。その上から肩から手頸にかけて緑のラインが入った藍色のジャージを羽織った彼からすると、ほんの少し肌寒い気がしないでもないが茹った頭には朝風が程よく熱を奪ってくれるお陰で丁度いいというもの。
「あ~、まっじぃ……………」
苦い煙を肺一杯に取り込んで、空へと吐き出す。体に悪い事は理解しているが、止められないので致し方なし。別段趣味なども無い彼からすれば、食費光熱費水道代と必要な金額を給料から差し引いてしまえば結構な額が手元に残り、タバコ代も三日に一箱前後。一万円を超える事は無い。好みも特になく、一時期はコンビニの一番から最後までタバコを流し買いしていた事もあった。
屋上の手すりに背中を預けるようにして、寄りかかる。
「えぇっと………あっちのプログラムを書き直して、で、多分向こうでバグが出るし…………」
休憩のはずなのだが、自然と頭に仕事の事が出てくるあたり、彼は社畜道を邁進していると言えるのではなかろうか。
気づけば、ほとんど吸う事無く火が進んでおりフィルター近くまでタバコは燃えてしまっていた。
ポケットに常備している携帯灰皿に捩じ込み、もう一本を咥えて火をつける。
新たな紫煙が朝の空へと昇っていった。
++++
ゲーム会社イーグルジャンプ。
春先のこの日、新入社員として入社したレディーススーツが完全に中学生の制服にしか見えない童顔小柄な彼女、涼風青葉は憧れのキャラクターデザイナーである金髪美人、八神コウに出会い同時に衝撃的な姿にショックを受けることとなる。
そんな彼女にフォローを入れるのは、コウの同期でありADを務めている遠山りんである。
「そう言えばコウちゃん。ケイちゃん知らないかしら?」
「け、ケイちゃん?」
「えー?またパソコンに齧りついてるんじゃないの?それか、屋上じゃない?」
「また、タバコね…………ハァ、止めてって言ってるんだけど」
「まあまあ、キヌも私達の事考えて屋上にまで登ってくれてるし」
「けど、体に悪いでしょ。ただでさえ、直ぐに徹夜するのに…………」
「でも、キヌが体壊したことないじゃん。むしろ、私達がインフルで倒れても一人だけ元気だったし」
「あれは!…………あ、ごめんね涼風さん。放っておくみたいな事しちゃって」
「い、いえ!大丈夫です!あの、ケイちゃんさん?って…………」
「ああ、ケイちゃんは―――――」
「よぉ、朝からどうしたんだお前ら」
りんが青葉の疑問に答える前に、男性の声が三人娘の間に割り込んでくる。
青葉が振り返れば、そこに居たのは黒髪がもっさりとしており黒縁の眼鏡をかけた一人の男性。無精ひげの生えた左の頬を、右手で掻いていた。
「あ、キヌ。今日も貫徹?」
「気づいたら朝になってただけだ。ちょいと小休止挟んだら続きをやるさ」
「ケイちゃん?」
「怖い顔すんなよ、遠山。別に無理してねぇし。生まれてこの方風邪も…………っと、悪いな、新人だろ、君」
モサモサ頭の彼は、眼鏡に蛍光灯の光を反射させて表情の伺えない顔を青葉へと向けた。
「俺は鬼怒川。
「騙されちゃダメよ、青葉。キヌは、何でも屋の仕事人間だからね。キャラやモーション、企画までいろいろやってるの」
「仕方ねぇだろ…………」
茶化すように言うコウに対して、啓路はため息をついた。ただ、本人が否定しないという事はそう言う事である。
そこで、いつの間にかその場を離れていたのかりんが四人分のカップをもって戻ってきた。
「はい、二人ともコーヒー。涼風さんは紅茶にしたけど、良かったかしら?」
「あ、はい!…………」
元気よく返事をしてカップを受け取った青葉だが、その視線はコーヒーを受け取ったコウや啓路の手元のカップへと向けられていた。
その視線に気づいたのかコウが首を傾げた。
「どしたの青葉。コーヒーが良かった?」
「え、あ、いえ!そういう訳じゃ…………皆さん、コーヒーはブラック、ですか?」
「私は違うよ?砂糖は入ってるし」
「私は、ブラックね」
「俺もだな。まあ、普通にカフェオレとかも好きだが」
「遠山さんも鬼怒川さんも凄いですね…………」
「何でそこに私は入って無いんだ?」
「八神が子供っぽいのは前からだろ」
「大丈夫よコウちゃん、スティックシュガー一本分は入ってるから」
「そこまで子供舌じゃなーーーーーいっ!」
騒ぐコウ。とはいえ、別段二人が虐めているわけでもなく、日常的なおふざけでしかない。
「皆さん、仲が良いんですね」
「まあ、同期だしね……あ、そうだ。青葉に問題出しちゃおうか」
「えっ……」
「そう、堅くならないでよ。単なる質問。私達は一体幾つでしょうか?」
「えっと、えっと……と、遠山さんが二十三歳位?鬼怒川さんが、に、二十八歳?八神さんも同い年…………?」
「ふふっ、コウちゃん固まってるよ?」
「俺はこんな成りだしな」
「違ってました?」
「私もコウちゃんもケイちゃんも、同い年の二十五だよ。私達はみんな高卒で入ったの」
「ああああああああの、ご、ごめんなさい!私、失礼な事…………」
「気にすんな。質問した八神が悪い。当人が答えに固まっちまうのは、ざまあみろだがな」
見た目を気にしない啓路は老けて見られることが多いらしく気にした様子もない。
この後、コウが騒ぎ始めたりコミュ障な先輩が現れたりと色々あるのだが、それはまた別の話。
++++
《プロフィール》
鬼怒川 啓路
身長:178センチ
体重:64キロ
視力:右0.4 左0.8
備考:髪を切りに行くのは、数ヶ月に一回。髪を切ると一転して短髪になる為、場合によってはイメチェンにも見える
タバコの銘柄に拘りは無く、両切りや葉巻、電子タバコも吸える。酒の強さは程々、記憶は翌日残るが悟られないタイプ
基本的に年上、目上の相手は性別問わずに“さん”を付ける。例、葉月さん
後輩、同輩は呼び捨て。うみこだけはアハネと呼ぶ。これは、彼女が後輩で入って来た際に彼が名字が読めずにアハネと読んでいたから
過去にゲーム作りを個人でしていたらしく、そのノウハウを買われてフロアスタッフの様な何でも屋擬きとなってしまった
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紫煙香る彼の話
鬼怒川啓路にとって仕事とは、金銭を稼ぐ手段であると同時に趣味でもある。
中堅ゲーム会社であるイーグルジャンプに就職した契機も、その趣味が高じてのもの。
元々、ゲームが好きだった彼。ただ、その楽しみ方というのが、特殊だった。
「よっしゃ、裏世界来たぜコレ!」
某狩人ゲームにおいて、討伐対象すらも利用して、壁を越えた世界に突っ込んだり。それを利用して、討伐対象を討伐したりなどが最たる例だろう。
そう、彼はゲームによるバグを態々引き起こして遊ぶようなタイプだった。無論、真面にプレイもちゃんとする。だが、一定期間遊ぶとデバック作業の様な事を始めるのだ。
あくまでも改造ではない。ゲームのプログラム上穴を突く様なことばかりしていた。
そんな事を続けていると、ふと彼は思ったのだ。
“自分も作りたい”と。
この思いを抱いたのは、小学生の頃。それから、小遣いやお年玉などを貯めて彼は中学校入学と同時にパソコンを買った。
プログラミング言語から、モーションや何やら。そしてイラストも。
全てが初めてであったが、啓路は苦労すらも楽しみに変えることが出来る稀有な性格をしていたお陰か、独学であるにもかかわらずメキメキとその実力を伸ばしていった。
そして、高校二年生の秋。彼は数々のエラーを乗り越えて一本のフリーゲームを作り上げた。
ジャンルはRPG。勇者が世界を救うありふれたもの。だが、そこに彼は渾身のグラフィックとプログラム、そして選択肢によって世界は三つの終わり方を迎えるように作られたもの。
一つは、魔王を倒して世界平和とする王道。
一つは、魔王と和解し共存繁栄の道を描く平和。
一つは、魔王に与して世界を滅ぼす悪堕ち。
手が込んでいるのが、このエンディングを迎える最初の選択肢が始まるのは主人公が魔王討伐に向かう前から。何気ないNPCとの会話から分岐する点。
フリーゲームでありながら、総プレイ時間はやりこめば軽く百時間は遊べる代物。王道であるからこそ、のめり込み、多くのプレイヤーに遊ばれた。
何より特徴だったのが
ある行動をすれば、あるモンスターが永続的に出てくるとか、ある壁に進み続けると壁抜けをして違う部屋に到達するとか。部屋間の暗闇の世界の様なグラフィックの無い場所に入る事により出現するモンスターであるとか。
恐るべきは、バグを許容させるギリギリのプログラミング。どれだけバグらせようともフリーズしないレベル。
製品化の話なども出たのだが、当人は乗り気ではなく高校卒業と同時に比較的家から近かったイーグルジャンプに入社することになる。
++++
タバコ休憩の是非について世論が沸いた事もあったが、イーグルジャンプではそもそも喫煙者が働き過ぎの啓路一人という事もあって特に問題にもなってはいなかった。
「鬼怒川さん。いい加減、休憩に行ってください」
「んー……ちょい待ち、今良いところだから」
「十分前も同じこと言ってましたよね?それに、貴方が火の着いてないタバコを咥えるのは疲れてるときですから、自覚してください」
「んな固いこと言うな、アハネ」
キャスター付きの椅子に胡坐をかいて座り、キーボードを用いてディスプレイに文字を連ねていく啓路にため息をつくのは日焼けした美人。
「私は、あ、阿波根です…………」
「不服なら良いじゃねぇか。八神の奴より善良だろ?」
あだ名だあだ名、口角を歪めた啓路は加えたタバコをそのままに指を走らせていく。
彼女、阿波根うみこから見ても目の前の先輩は群を抜いている。それこそ、プログラマーチームの仕事の六割は彼一人で熟せる程だ。
だが、その分だけ色々と振り切ったまま仕事をするのはいただけないのが現状。
「とにかく、休憩に行ってください!残りはこっちで処理しますから」
「いや、でも――――――」
「返事は、yesのみ認めましょう。さもないと、撃ちます」
言い募ろうとする啓路に対して、うみこは黒光りする拳銃を突き付けていた。
勿論、本物ではない。エアガンである。只、これが額に当たると割と洒落にならないレベルで痛いのだ。主にコウや仕事のできるサボり魔がその対象になるのだが、啓路も何度か受けていた。
流石に、ここまでされて無視し続けるのは難しいというもの。
「オーケー分かった。だからその銃をゆっくり下ろしてくれ。それは痛いからな」
書きかけのプログラムを保存して、啓路は手を上げると立ち上がった。
余談だが、うみこと啓路は並ぶと十センチ以上差があり、自然とうみこが見上げる形となるのだ。
喫煙道具一式と財布をワークパンツのポケットへと突っ込み、社員証を首から下げて啓路はフロアの外へ。
「あん?」
後ろで扉が閉まるのを聞きながら、彼は片眉を上げた。
「えっと、涼風、だったか。何やってるんだ、お前」
「き、鬼怒川さん…………!」
何故か廊下で膝を抱えて壁に凭れて蹲る青葉がそこに居た。
「え、えっと……お手洗いに行ってそれで…………!」
「…………ああ、成る程。社員証無くて入れなかったと」
「は、はいぃ…………」
べそべそ涙目の青葉に、啓路は頭を掻いた。
イーグルジャンプのフロア内には社員証が無ければ入れない。主に防犯面の為だ。
「……とりあえず、中入るぞ。そして、八神に関しては……まあ、遠山に叱ってもらうか」
「で、でも、鬼怒川さん。何か用事があったんじゃ…………」
「休憩して来いってアハネに追い出されただけだから問題ない。それに、後輩の面倒見るのが先輩の仕事だしな」
メガネに光を反射させてニヤリと笑った啓路に、青葉はポカンとした表情。
だが、手招きされて我に返ると慌てて立ち上がり彼の後に続いた。
そうして二人はブースの森を抜けて、
「おい、八神」
「んー?あれ、キヌ。珍しいじゃん、こっちに来るなんて」
「お前の尻拭いでちょっとな」
イラストに向かっていたコウの元へ。
「お前、涼風の社員証どうしたよ」
「ふぇ?………………………………あ」
固まった彼女を見れば、完全に忘れていたことは確定だろう。
啓路はため息をつくと、頬を掻いた。
「まあ、お前が忙しいのは分かってるさ。けどよ、せめて後輩はちゃんと見てやれ?それも、涼風は新人なんだからな」
「わ、分かってるし!青葉、会議室に行くよ!」
「え、えぇ!?えぇーーーーーッ!?」
説教を気配を悟ってか、コウはすぐさま青葉の腕を掴むとそのまま会議室へと向かってしまう。
その背を見送り、啓路は一つ息を吐きだした。
「アイツも、もう少しイラスト以外に気を配れないもんかね」
「それ、キヌさんが言います?」
「割とキヌさん、いつもうみこさんに休むように言われてませんでしたっけ?」
「俺は良いんだよ。それよりも、篠田も飯島も涼風の面倒は確り見ろよ?」
「了解です!」
「私かて分かっとります。けど、キヌさんも面倒見なあかんとちゃいますか?」
「アイツがプログラミングに来るならな。まあ、無いだろうが」
彼女らもまた、グラフィックチーム(片方はモーションだが)の人間。
フリルのあしらわれた可愛らしい格好の小柄な彼女が飯島ゆん。健康的でボーイッシュにしてグラマーな体形をしている彼女が篠田はじめとなる。
どちらも青葉の一年先輩であり、同期だ。
「そういえばキヌさん」
「ん?」
「FOFの新作とか出したりしないんですか?」
「………お前は、俺に死ねというのか篠田よ」
「あ、それ私も気になります。その辺、どうなってはるんですか?」
「飯島もか…………いや、流石に新作は無理だろ。暇も無いし」
FOFとは、【フェイト・オブ・フューチャー】と呼ばれるフリーゲームの事。
製作者は、鬼怒川啓路その人であるのだ。
追加コンテンツこそあった物の、一新した二作目などは結局発表される事はなかった。
偏に、啓路自身が就職してしまった為。そして、このイーグルジャンプの代表作である【フェアリーズストーリー】の修羅場に掛かりっきりであったからだ。
そして、ここまでズルズルとやって来た。
「…………まあ、作りたいと思わないわけじゃねぇがな」
ゲームを一から作り上げる感覚を思い出しながら、啓路は思いをはせる。
気分転換には十分であった。
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喫煙マナーは社会人の基本
昨今は健康ブームでタバコが悪として扱われ、喫煙者は非常に肩身の狭い暮らしを強いられている。
だがしかし、喫煙者とて気を付けてはいるのだ。
例えば、イーグルジャンプ所属の彼、鬼怒川啓路の場合は屋上で基本的に吸っているし、その屋上の出入口脇には自費で消臭スプレーなども置いている。それに、吸うにしても会社ならば一日に二、三本といったところであるしヘビースモーカーと言うほどは吸っていない。
まあ、数量が少ないのは偏に仕事ばかりで休憩する回数が少ないというだけなのだが。
「――――ぷはっ…………」
屋上の手すりに凭れかかって空へと煙を吐きだす。
空を汚している様な、そんな気分になるが苦い煙が体の中に入り込むと、自然と頭がキリッとなるようなそんな気がした。
少なくとも、啓路自身はどんな理由でタバコを吸い始めたのか覚えていない。
両親の影響であったか、単純な興味か。一つ言えるのは、自分から健康というものを投げ捨てた、というぐらいか。
フィルター近くまで燃えたタバコを携帯灰皿へとねじ込み、啓路は手すりより体を持ち上げる。
体を動かせば凝り固まった肩回りや首筋から嫌な音がする。日がな一日、ブルーライトと向き合い続けているためだ。目の疲れが首や肩にまで広がっていた。
「後で、シップ貼るか…………」
ゴキゴキと肩を回しながら啓路は屋上の扉へと足を向ける。約数時間ぶりの休憩であったのだが、その時間はタバコ二本で十五分程度か。因みに、前に一度一本だけ吸って五分程度で休憩を切り上げた際にはうみこに叩きだされて追加で十分の休憩を取らされたりもしていたり。
銀のドアノブに手を掛けて捻り、引っ張る。
その扉の先。そこに居たのは、珍しい人物であった。
「あん?滝本?」
「ッ!け、啓路君…………」
「珍しいな。お前が
「え、えっと……そ、外の空気を吸おうかな、って…………」
「ふーん……まあ、春先とはいえ体冷やし過ぎるなよ」
「う、うん。ありがとう」
ポニーテールに纏めた引っ込み思案な彼女は、滝本ひふみ。キャラ班所属で腕も良いのだが、如何せんコミュ障の嫌いがあり初対面では思わず隠れてしまうほど。
そんな彼女であるからか、ぶっちゃけ初対面の際には啓路から逃げる様に離れて、その折にコウやりんからそれとなく窘められたりもしていたりする。
もっとも、彼がFOFの制作者と知ってからは一転していたのだが。
「それじゃあ、俺は―――――」
「ま、待って!」
戻る、とひふみの脇をすり抜けようとした啓路だったが、その前に彼女が割り込んだ。
咄嗟の事で突き飛ばしそうになるところを、何とか踏みとどまり啓路は眉を上げた。
「ど、どうした?」
「あ、その…………す、少しでも良いからお話、したいなって…………」
「話?」
「えっと……あ、青葉ちゃんの事で…………」
「涼風か?良い子だろ。仕事にも熱意を持ってる。八神が一応見てるが、篠田や飯島、それに滝本。お前も居るからな」
「わ、私も?」
「俺も葉月さんもお前の事は買ってるんだ。自信持てよ」
これは本当の事。
事実、もしもコウがキャラ班のリーダーから外れれば、次にその席に座るのはひふみである、というのが少なくとも彼と上司の考えであるのだから。
年数的な物もあるが、実力も十分。後は現場度胸と対人スキルの向上程度。
「で、でも…………」
「大丈夫だって。何なら、涼風とか八神に手伝ってもらえばいいだろ」
「…………啓路君も、手伝ってくれる?」
「うん?まあ、後輩の面倒見るのも先達の仕事だしな」
「!そ、そっか…………!」
「?」
にこにこと擬音が付きそうな笑みを浮かべるひふみに、啓路は首を傾げるのだった。
++++
どれだけ素晴らしいモーションも、絵も、シナリオも、世界のルールであるプログラムが無ければゲームは成立する事は無い。
「あ、やっべ…………」
火の着いていないタバコのフィルターを噛み潰し、啓路は眉根を寄せた。
割と勢いに任せて彼はプログラミングを書き上げるのだが、どうしてもエラーが出てしまう場面というのがあるのだ。それも、修正したくないような場所で出た場合はこんな顔をする。
意図したバグであろうとも、その他の部分で悪影響を及ぼすならばやり直さなければならない。
「…………コーヒーでも淹れるか」
眠気覚ましとやる気スイッチを兼ねたカフェインを取り込もうと、啓路は席を立った。
ひふみとの一件から暫く。凝り固まった体は鉛の様に重い。
給湯室へと向かう道すがら、欠伸ついでの伸びをしていた彼は、ふとある事に気が付いた。
「遠山?」
「あら、ケイちゃん。休憩?」
「コーヒー飲もうかと思ってな。そう言う遠山は、また八神にか?」
「皆のもあるわよ。ケイちゃんも飲むかしら?」
「コーヒーならな」
「相変わらず、紅茶は苦手なのね」
「渋いのはダメだ」
給湯室で二人並んで飲み物の用意をする。
同期ではあるが実のところ、最初からここまで仲が良かった訳ではない。むしろ、どちらかというと仲が悪かったというか、一方的にりんが目の敵にしている節があったのだ。
それが緩和されたのは、とある一件から。
「そう言えば、コウちゃんって結構青葉ちゃんの事気に入ってるみたいなの」
「あん?急にどうしたよ」
「村人のNPCデザインを任せたみたいなんだけど…………ほら、これが青葉ちゃんのデザイン」
「どれどれ………うんまあ、初めてならよく出来てるんじゃないか?」
「そうよね?けど、コウちゃんはNGを出したのよ」
「そらまた…………」
スマホから画像を確認した啓路は、頭を掻いた。
実際のところ、青葉が書いたキャラは結構な完成度だ。だが、それをコウは却下した。つまりは“結構な”程度では許さないという事。
「まあ、二の轍は踏まないだろ」
「…………そう、よね?」
「いざとなったら、横っ面でも引っ叩いてやればいいさ」
「そんな事するわけないでしょ!?」
「いった!?俺じゃないっての!ちょ、叩くの止めろ!零れる!」
じゃれ合う二人。距離感が近いものの、その間には甘酸っぱい関係などはありはしない。
片や思い人が居り、片や仕事が恋人。名前は出さずとも、どちらがどちらか分かってしまうのは悲しめばいいのか何なのか。
++++
青葉がキャラデザの一件で一皮むけた数日後、イーグルジャンプの一部メンバーは飲み会と称して居酒屋に集まっていた。
そのメンバーの一人にして、黒一点である啓路はハイボールの入ったジョッキを片手に唐揚げの皿を独占してテーブルの端、壁に背を預けて飲み会を眺めている所。
元々、参加する気は無かったのだがコウとりんの二人に引っ張られ、デスクに齧りつこうとすればうみこにブースから蹴り出されてここに居る。
彼女曰く、いい加減家に帰れ、らしい。
「この唐揚げ旨いな」
「あー!キヌさん一人でズルいですよ!私にも唐揚げくださーい!」
「酔ってんな、篠田。まあ、レモン掛けないんなら何でも―――――」
「あ、私唐揚げにはレモン派なんで!」
「うおお!?掛けるなって言った側から掛けてるんじゃねぇよ!?あ、ちょ、待、レモン汁跳ねた!」
悲鳴を上げる啓路を尻目に目が座っているはじめは唐揚げを貪り始める。スポーティな彼女の好物はお肉なのだ。
「ち、畜生め……俺は酢豚にパイナップルとか、肉に掛かってる林檎ソースとかは苦手な方なんだよ」
「それ、前にも言っとりましたよ?」
「そうか?…………まあ、食えない訳じゃないんだが…………やっぱ別に食べたいよな」
「えー?でもパイナップルはお肉を柔らかくするとか聞きましたよ?」
「確かそれも誤植だろ?火ぃ通したらパイナップルの成分が壊れて意味無かったはずだ」
「キヌさんってちょいちょい豆知識ぶっこんできはりますよね?調べてはるん?」
「いいや?何ていうか、いつの間にか頭の中にインプットされてる、的な?別段、自分で覚えようとか、知ろうとして調べてる訳じゃ無いさ」
さらりと言ってのける啓路だが、彼は時折妙な知識を持っている事が多かった。
例えば、タコ殴り。これは、そのままでは固いタコの肉を柔らかくするために殴る様を表した言葉である、とか。
先程のパイナップルにしたってそうだ。割とそんな知識がスルっと出てくる。
「なぁにぃ?まぁた、ケイちゃんが雑学披露でもしたの?」
「げっ、遠山。おい誰だこいつに飲ませたの」
「ご、ごめんね啓路君。りんちゃんがどうしてもって…………」
「滝本……いや、お前を責めたりしねぇよ。それより、
出来る女、遠山りん。彼女は、絡み酒であった。それも、啓路が逃げようとする程度には面倒くさい絡み方をしてくる。
どうにかこうにか四苦八苦して、彼女をコウへと押し付けて彼はハイボールのジョッキを呷った。
こういう時にこそ、タバコを吸いたくなるのかもしれないが、生憎とこの店は禁煙。そもそも、彼はこういう集まりでタバコを吸う事は無いのだ。
「あ、鬼怒川さん」
「涼風か。どうしたよ?楽しんでるか?」
「はい。といっても、私って未成年だからお酒飲めないんですけどね…………」
「まあ、法律があるわな。けど、飲めないならというか、飲まないなら飲まない方が良いんだけどな」
「お酒、ですか?」
「ああそうさ。酒もタバコも手を出さないなら、出さない方が良い。金もかかるし、体にも悪いからな」
「でも、鬼怒川さんってどっちもしてましたよね?」
「ははっ、まあそうだな。口ではどうあれ、癖になっちまってるし仕方ない」
お前は吸うなよ?とほんのり酔った啓路は、青葉へと笑みを向けて最後の唐揚げ(レモン汁付き)を頬張った。
「すっぺぇ」
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交流もまた大切な仕事
株式会社イーグルジャンプ。
この会社で、よく働く、もとい働き過ぎな人物を上げろと言われれば、咄嗟に二人挙げられることになるだろう。
一人は、八神コウ。もう一人は、鬼怒川啓路。
どちらも会社に住んでると揶揄される程度には、仕事人間であり同時にその処理速度は他の社員の数倍にも及ぶ。
そんな二人は同期であり、会社にも夜遅くどころか同じフロアで一夜を過ごす事珍しくない。
普通、年頃の男女が一夜同じ場所で過ごせば、過ちの一つや二つ起きそうなものなのだが所がどっこいこの二人、何も起きない。噂の一つも立たない。女性の割合が圧倒的に高い会社でありながら、槍玉に上がる事も無い。
無いない尽くしで面白みも無いほどに、二人は仕事一筋であった。
「…………」
眼鏡のレンズにブルーライトを反射させ、火のついていないタバコを咥え無精ひげが伸び始めている啓路はその日もパソコンへと向かってキーボードへと指を走らせていた。
とはいえ、疲労の色合いが濃くなってきている。出来る後輩は、その瞬間を見逃さない。
「鬼怒川さん」
「んー?」
「そろそろ休憩の時間です。それから、デスクの方も片付けてください」
「おー、了解了解。これが終わったらなー」
「さっきもそう言ってましたよね?子供じゃないんですから、自分の疲労の度合い位しっかりと把握してください。それに、これも前に言いましたけど鬼怒川さんが仕事から離れないと、こっちも休憩が取りにくいんです。私の言いたいこと、分かりますよね?」
「オーケー、分かった。分かったからその銃口をゆっくりと下ろせ。どっから出したんだ、そのM16。モデルガン?モデルガンだよな、ソレ?精巧過ぎない?」
「勿論モデルガンです。それとも、M82が宜しいですか?」
「それ、対物ライフルゥ…………ホント、どうやって持ち運んでんだよ」
「鬼怒川さんが、ちゃんと休憩をとって尚且つ家に帰ってくれるのでしたらベレッタだけで良いんですけどね」
「妥協してるように見えて、モデルガンは持ち歩くのね」
恐ろしい後輩だ、と内心で零しながらも啓路は素直にプログラムの保存とバックアップを別々にとってパソコンを落とし席から立ち上がる。
「んじゃ、少し出てくる」
「一時間程度休んでもらっても大丈夫ですよ」
「んな穴開けられるかよ。まあ、十五分ぐらいだな」
「でしたら、散歩してきたらどうですか?」
「お前、本当に俺に仕事させたくないんだな」
「むしろ、あそこまで鬼気迫る雰囲気のままパソコンの画面に向かっている人を仕事させ続けようと思う人が居ないのでは?」
「ぬぐっ…………」
うみこの言葉に他の席の数人が頷いた事実に、啓路は口を噤まざるを得ない。
働け、と思われる上司は世に割と多いが、彼はその逆で働き過ぎないで、と静止を求められるタイプの上司である。
繫忙期などならばこれほど頼りになる人材は早々居ないのだが、逆に通常業務ですらも居残り上等、残業上等、休憩返上で仕事されると休憩をとったり帰ったりするときに気まずい思いをする事になるのだ。
そこで白羽の矢が立ったのがうみこ。彼女ならば、啓路とも友好的な関係を築けており、尚且つ上司だろうとズバッと物を言えるから。
かくしてブースを追い出された啓路は、いつも履いているワークパンツの尻ポケットへと財布と携帯、その反対にタバコの箱と百円ライター。左前のポケットに社員証を突っ込んでフロア出た。
と、そこで、
「あ?どっか行くのか、お前ら」
「お疲れ様です、キヌさん!遠山さんのタブペンが利かなくなったからその買い出しに行ってくるんです」
「お、お疲れ様です鬼怒川さん!」
「おう、お疲れお前ら。にしても、電気屋か…………」
「キヌさんは、またタバコですか?あんまり吸い過ぎると、また遠山さんに怒られますよ?」
「ちげぇよ。いや、吸うかもしれねぇけど、今回はアハネにブースから追い出されたんだ。ちょいと気分転換に散歩だ、散歩」
「あ、それじゃあ私たちと一緒に行きません?」
「お前らと?」
「はい!って、良いかな青葉ちゃん?」
「あ、は、はい!私は大丈夫ですけど…………鬼怒川さんは良いんですか?折角の休憩ですし…………」
「んー、まあ、良いだろ。折角の後輩からのお誘いだしな」
へらりと笑った啓路に対して、はじめは喜色を浮かべる。
彼は見た目に反して面倒見がいい。それこそ、彼よりも後に入った社員の大半は最低でも一回は厄介になる程度には世話になっている。
ついでに、割と人気もあったり。
そうして、ビルを出た三人は揃って割とのんびりとした足取りでお使いへと出発した。
「そういえば、鬼怒川さんってFOFの製作者、何ですよね?」
「ん?まあ、そうだな。つっても、何年も前で更新もやっちゃいないが」
「あの、私すっごくファンだったんです!細かい伏線から、選択肢の幅の広さに意図したバグ!とっても楽しかったです!」
鼻息荒く瞳を輝かせた青葉は、そう言って無意識の内に啓路へと詰め寄っていく。
一方詰め寄られる形となった彼は、苦笑い。
ジンクスなのか、或いは狙っているのかイーグルジャンプには、一定数のFOFファンが籍を置いていた。
そんな彼ら彼女らに自己申告するような性格ではない啓路なのだが、周りはそうではない。
発端は、経歴で知っていたディレクターから。そこから紆余曲折経て、今では新人にあの人は……といった形で教える事が通例となっていたりする。
「あ、でも、どうして製品化はしなかったんですか?」
だからこそ、青葉の質問も恒例だ。その答えも。
「んまー……面倒だったから、だな」
「め、面倒?」
「元々は、俺が満足するゲームが作りたかったから作ったんだ。ネットの方に挙げたのも単に、感想が欲しかったから。金稼ぎの為に作ったわけじゃねぇし」
「ヒュー♪キヌさん、かっくいー!」
「茶化すんじゃねぇよ、篠田。ま、後は製品化なんぞしちまったらそれこそ、時間が無くなる。主に続編制作とかのせいでな」
「続編作ってるんですか!?」
「いや、作ってはねぇよ。そもそも、そんな暇ねぇし…………まあ、会社辞めたら作るかもって所じゃねぇか?今のところ、予定はねぇけどな」
「むしろ、キヌさんがクビになるなんて想像できませんけどね。プログラマー班ってうみこさんが居ても大変そうだし」
「うみこさん……?」
「俺の後輩のプログラマーでな。ああ、名前で呼んでやれよ?名字で呼ばれると嫌がるからな、アイツ」
「青葉ちゃんも気を付けてね?うみこさん結構厳しいからさ」
「そ、そうなんですか?」
「厳しいっていうよりも、真面目だな。まあ、心配すんな。悪い奴じゃねぇし、何なら頼られると弱いまである」
「い、良い人なんですね」
「怒らせなきゃな」
そんな会話を繰り広げながら三人は店へ。
タブペンの太さなどで色々あったのだが、真の事件は会計の時に起きた。
「―――――あっ」
「どしたの、青葉ちゃん?」
「その、お財布を会社に忘れてきちゃったみたいで」
「あちゃー、次からは気を付けるんだよ?」
恥ずかし気に笑う青葉に対して、先輩風を吹かせるはじめはポケットの中へと手を突っ込み、その顔を曇らせた。
彼女の異変に気付いたのは、シェーバーの替えの刃を手にレジへとやって来た啓路。
「何やってんだ、お前ら」
「あ、キヌさん……その、財布落としちゃったみたいで」
「私は、会社に忘れてきちゃいました…………」
「いや、本当に何やってんだよ」
割と初歩的なミスをした後輩二人に、呆れた溜息をつき啓路は青葉の手からタブペンを回収。替えの刃と一緒に支払いと領収書を受け取って二人に退店を促すのだった。
「で?涼風は兎も角、篠田はどの辺りで落としたのか目星はついてるのか?」
「ええっと、多分会社を出るころには…………持ってました!多分!」
「…………一応、下を気にしながら戻るか。見つかるかもしれねぇし、無けりゃ会社。そこにも無けりゃ、警察だな。交番にでもあるだろ。涼風も、頼むな?」
「分かりました!」
ビシッと敬礼を決めてくる青葉に笑みを返し、はじめの頭を一撫でして啓路は帰路につく。
その後、はじめがキャラを見失ったり、そこをゆんに突っ込まれてトイレに逃げ込む事件があるのだが
全くの余談である。
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偶に帰る家のベッドは抜け出せない
社会人数年目。仕事の関係上、どうしても納期が近づくと帰れなくなることは珍しくない。
「…………」
そんなある日、珍しくも家に帰って自炊し、風呂に入ってベッドに潜った啓路はスマホ片手に固まっていた。
示されたデジタル時計の表示は、明らかにいつも起きる時間よりも遅かったのだ。
三度見返して、三度ともその表示が変わる事はない。
「やっべ…………」
布団を蹴り飛ばし、ベッドから転がり落ちる。運が良いのは、イーグルジャンプが私服OKであり、着替える事に手間取らない点だろう。
何枚か持っているTシャツとワークパンツに着替え靴下を履き、斜め掛けのカバンに必要なモノを放り込んで玄関へとダッシュ。履き慣れたハイカットのスニーカーに足を突っ込み、そのまま転がり出るように外へ。
玄関の鍵を閉めて、啓路は通路を駆け出した。
*
(しくじった、見えねぇ…………)
電車に揺られ、吊革を掴んだ啓路は己の失態を内心で悔やんでいた。
彼の視力は決していいとは言えない。寧ろ悪い。だからこそ、視力矯正兼眼精疲労対策のメガネは必需品である、のだが今日の朝はバタバタしすぎて忘れてしまっていた。
その結果、前髪に隠れながらも隙間から覗く眼光は鋭い通り越して、若干怖い事になっている。
周囲の乗客から若干距離をとられながら、電車に揺られて二駅ほど。
駅のホームに降り立った瞬間、華麗なスタートダッシュを決めた彼は、その勢いのままに階段を駆け下りて若干持ち腐れている定期を改札にタッチ、通り抜ける。
驚くべきは、彼の身のこなし。四六時中パソコンに噛り付いてばかりであるはずの彼だが、しかしその走る姿は結構様に成っていた。
そのまま駅を駆け出して会社への道を真っすぐに走る啓路。そんな彼の背中に、聞き覚えのある声が掛けられる。
「キヌさーん!」
「ん?飯島に、涼風じゃねぇか。おはよう」
「おはようございます、キヌさん。おろ、眼鏡はどないしたんです?」
「お、おはよう、ございます……!」
「おう……涼風は大丈夫か?息も絶え絶えだが…………あと、眼鏡は忘れてきた。会社に予備置いてるからつけば問題ないけどな」
「わ、たし……!う、運動、苦手で…………!」
「お、おう、そか。無理すんなよ」
「青葉ちゃんも、運動苦手なんやね。ちょっと、親近感…………って、こないな事しとる場合やない!遅刻や、遅刻!」
「おお、そうだったな。急ぐぞ」
ゆんの言葉を受けて、改めて三人は仕事への道を駆ける―――――のだが、そこで三人の運動能力の明確な差が出た。
まず、男であり体の頑丈さも折り紙付きな啓路が先頭。その後を運動苦手なゆんが割と離されながら続き、更にその後ろ。運動苦手とかそんなレベルではない青葉が走ってるのか歩いてるのか分からないスピードで追いかける形。
「―――――いや、遅いな、おい」
少し進んだところで後ろを確認した啓路が呟くのも無理はない。
事実、マジで青葉は走るのがありえない程に遅かった。いや、頑張っている事は分かるのだが、その頑張りが欠片も報われないレベルで遅い。
「飯島ー」
「は、い!なん、です……!?」
「お前も息絶え絶えか。先行っててくれ、俺は涼風連れてくるからな」
「わ、かりました!」
よたよたと駆けていくゆんに道を譲って、待つこと一分。
「はぁーっ!はぁーっ!」
「フルマラソンでも走った息の荒れ方だな、涼風」
「ゲホゲホッ!……あれ?鬼怒川、さん?」
「おー、鬼怒川さんだぜ?んな事より、ほれ」
目を白黒させる青葉に対して、啓路は時間が惜しいと彼女の前で背を向けて膝を負った。
「乗れ。このペースだと、間に合わねぇぞ」
「ふぇ?」
「第一、仕事前から疲労困憊なんざ洒落にならねぇ。乗れ」
「あ、えっと、その…………し、失礼します?」
捲し立てられたからか、それとも疲労で頭が回ってなかったのか、青葉は少しの思考の末に意外にがっしりとした背中へと手を伸ばす。
「確りと掴まってろよ」
「は、はい!」
色々と触ったりしないように細心の注意を払いながら、啓路は走り出す。
そのスピードは、青葉にしてみれば文字通り飛ぶかのような速さだった。
時間にすれば、それから数分といったところ。
「思ったより、お早い到着やねキヌさん」
「まあ、な。で、何で滝本が居るんだ?遅刻か?」
「朝ごはんが美味しすぎて…………おはよう、啓路君」
「おう、おはよう……っと、悪いな涼風。背負いっぱなしだった」
「い、いえ!大丈夫です!むしろ、重くありませんでした?」
「いいや?どっちかっていうと、心配になるレベルで軽かったが?よいしょっと」
青葉を下しながらそう言う彼の言葉に嘘はない。
年の割に相当小柄である彼女だが、それにしたって軽いというのが啓路の感想だった。
因みに彼は、知り合いだからと言って女性に対して羽のように軽い、などといったおべっかを宣う事は決してない。
一応、その辺のお世辞を言うメリットなどは理解しているのだが、それ以前に彼の持論は【人間は重い】なのだから。
「にしても、今日は何だ?俺も人のこと言えねーが、四人も遅刻かよ」
「いやー、あはは……って、青葉ちゃん危ない!」
「ふぇ?きゃっ!?」
気が抜けていたのだろう、ついでに普段の運動不足と元々の運動能力の低さが仇となったのか青葉は何もない地面に躓く。
ゆんが先に気づき声を上げ、咄嗟に掴んだおかげで倒れる事は無かったがその代わりに、バッグが宙を舞った。
ぶちまけられる中身。静まり返る場。
「…………すまん、咄嗟に掴めなかった」
「ご、ごめんね、青葉ちゃん」
「い、いえいえ!大丈夫ですから!頭上げてください!そ、それに運んでもらったのに躓いた私が悪かったんで…………」
謝りながら、ぶちまけたカバンの中身を拾い上げる青葉。自然と、他三人も膝をつくと拾い上げて彼女へと返していく。
そうして、四人は揃ってビルを上がりイーグルジャンプの入っているフロアへとやって来た。
「―――――遅いッ!」
待っていたのは、コウからの一喝。
普段優しい人間が怒ると怖いというが、入社してそんな場面に遭遇したことのなかった青葉は畏縮してしまう。
ただ、今回ばかりは仕方がない。確かに遅刻したが、下で彼女が躓いて転びかけねば時間通りにギリギリ間に合っていたはずなのだから。
「そう、カッカするなよ八神。涼風だって、遅刻したくてしたわけじゃねぇし本人も反省してるし、な?」
「ぬぐっ…………そりゃあ、見れば分かるけど……でも…………」
「ま、話は聞いてやってくれ。まだ初犯だし、な?俺は、遠山と葉月さんに遅刻の件謝ってくるからよ」
場を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、啓路は片手を挙げて目的の人物の元へと向かってしまう。その行動の裏側には、一刻も早く眼鏡を掛けたいというのもあったりする。
この後、りんからはちょっとした小言と仕事のし過ぎを。上司からは、人間確認できたという笑いを貰い。部下たちからは、寧ろ遅刻でも何でもしっかり休んでくださいと栄養ドリンクを手渡されたりすることを、彼はまだ知らない。
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