スカーレット・ローズ (コウヤ)
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1話

例えるなら月夜の水面のように静寂で透明な白だった。

風に乗って優しく鼻を掠めたのは噎せかえるようなバラの匂い──そのバラの白がひどく鮮明で、まるで時間さえも止まったようで。

けれども芽生えた感情は例えるならば正反対の赤。

抗えない自身の性質。それはきっと、この身に流れる血のせいだとどこかで感じた──。

 

 

色とりどりのバラが香るここ神聖ブリタニア帝国の皇宮庭園で一人の青年──シュナイゼル・エル・ブリタニアはとある方角をぼんやりと眺めていた。

 

「オデュッセウス兄上、シュナイゼル兄上!」

 

そうしてどれほど経っただろうか。不意にふわりと舞う風と共に明るい声が伝わり、シュナイゼルは優雅な仕草で振り返る。

「やあ、クロヴィス」

先にオデュッセウスと呼ばれたシュナイゼルにとっては異母兄にあたる人物がクロヴィス──異母弟に声をかけ、シュナイゼルもそれに続く。

「嬉しそうだね、何かあったのかい?」

穏やかな口調を声に乗せつつ、つい今しがたまで考えていたことを浮かべる。長年耐え殺してきた赤の感情。それをまさに目の前にいるクロヴィスがこじ開けることになるとはシュナイゼルは予想だにせず、クロヴィスは持ち前の濃い金髪を揺らしてスケッチブックを二人の前に差し出した。

「近ごろ私室に引きこもりがちになっていたのですが、やっと構想がまとまりまして」

クロヴィスは絵画の才ある芸術肌だ。もっぱらの趣味は絵を描くことであり、この庭園のさまざまな木花や数多の兄妹達を年中描いては皇宮の至る所に飾っていた。

そうか、とオデュッセウスが柔らかく笑う。

「今度は誰かな? コーネリアやユフィかい?」

穏和さを体現したような彼が顎髭を湛えた優しげな表情でクロヴィスに語りかければ、クロヴィスは少しばかり戯れの色を瞳に宿して首を横に振るった。

「実は、ライブラの離宮に一度忍び入りまして」

クロヴィスの話に耳を傾けていた二人は微かに目を見開いて押し黙った。少しの沈黙の先に口を開いたのはオデュッセウスの方だ。

「ライブラ……第四后妃様の宮だね。すると、サクラモネの所かい?」

「ええ、サクラモネは私と一歳も違わない、最も歳の近い妹ですから思い入れもありまして。とは言え、今だ言葉を交わしたことはありませんが」

驚いたな、と息を吐くオデュッセウスにクロヴィスは上機嫌で手にしていたスケッチブックをパラパラと捲った。

「兄上はサクラモネとはお話になったことが?」

「たまにだけど、様子を見に行くようにしているからね。いつも顔色が悪くて心配だけど、大人しい良い子だよ」

クロヴィスの持つスケッチブックには、ラフに描かれたスケッチ画にパステルで軽く色がつけられた一人の女性が描かれていた。

色素の薄そうな長い髪に、青い瞳。薄いパステルの色合いがどこか儚そうな印象を見るものに与える。

それに何より。

「白バラ……」

どこか色のない、抑えたような声でシュナイゼルは呟いた。

クロヴィスのイメージだったのだろうか。絵には白いバラが共に添えられ描かれており、シュナイゼルは自身に眠る記憶と衝動を呼び起こされるようで強く手を握りしめた。

酷く喉の渇きを覚えていると、そんなことは知る由もないだろうクロヴィスは満足げに自作を披露しながら誇らしげに言う。

「我が妹ながら、美しい姫でしたね。もっとも私の姉上や妹たちはみな美しいのですが」

はは、とオデュッセウスが穏やかに笑う横で、シュナイゼルは小さく首を振るった。瞳には憂いの色を浮かべる。

「サクラモネ……か。月夜の水面──と第四后妃様が讃えられていたことは知っているかい?」

「ええ」

「どこか儚げで、でも大変お美しい方だったからサクラモネも似たのかな。しかし……后妃様は病弱で、今の離宮に移られるほどにお加減が悪くなられたのは確か亡くなったマリアンヌ后妃が嫁がれてきたころだったか」

その言葉にクロヴィスとオデュッセウスの顔が曇った。しかしシュナイゼルは憂いた瞳のまま皇宮の庭園からライブラの離宮のある方角をそっと眺めて呟いた。

 

「お気の毒に……」

 

ライブラの離宮──、というのはブリタニア皇宮の傍近くに設けられたごく小さな宮である。

この宮にはブリタニア皇帝の第四位に位置する后妃とその一人娘である第三皇女、サクラモネ・ル・ブリタニアが静かに暮らしていた。

后妃がなぜ皇宮ではなく離宮に身を寄せているのか──、その理由は彼女の虚弱体質にあった。皇女を産み落としてからは一層体調がすぐれず、皇女が物心つく前だというのにあわやみまかるのではないかと案じられるほどに寝たきりの生活と相成った后妃は静養のために離宮へと移ったのだ。

そんな母から生まれた皇女もまた身体虚弱でこの離宮に引き籠もりがちな生活となっている。ゆえに公の場に顔を出すこともほとんどなく、他の兄妹ともほとんど親交のないまま気づけば二十年ほどが過ぎていた。

第四后妃は儚げな印象の美しい人だった。ともすれば銀のようなプラチナ・ブロンドを讃え、まだ赤子だったサクラモネを抱いていた姿を幼少の時分に見た記憶がうっすらある──と、皇宮内の私室に戻ったシュナイゼルはベッドの端に腰を下ろしてしばし考え込んだ。

ブリタニアの国是は一言で言ってしまえば、弱肉強食だ。他の国を喰らい、絶対的な支配者として君臨しブリタニア人以外は人ではないという語り尽くされたような選民主義を尾ひれも隠さず打ち出している。その争いの系譜は皇宮内においても例外ではなく、兄弟姉妹は次期王位継承を巡って争ってゆかねばならない。

妃たちもまた、同じように皇帝の寵愛を巡り争ってゆかねばならないのだ。

そんな中──例外のように現皇帝に格別愛された后妃がいた。

そして、時期を同じくして脱落した后妃もいた。──現在、ライブラの離宮に隔離されともすれば存在すら忘れ去られているような第四后妃だ。

そう、まるで愛にうち破れたように──と考えて眉を顰めるシュナイゼルは何もブリタニアの国是を否定しているわけではない。欲しいものを力を持って勝ち取ることはどういう形であれ自身もやってきたことであるし、これからもそうしていくだろう。

だが、手にできないものもある。

それは第四后妃が手にできず、いまも手にできずに苦しんでいるもの。

そんな彼女の落とし子である異母妹に、人知れずどれほどの激情をぶつけてきたことか。

君なら分かるだろう?

君は私と同類。そうだろう──数多の兄弟の中、たった一人君だけが私の思いを理解できるはずだ。

実に勝手なシンパシーだ。

けれども、きっとそれだけではない──とシュナイゼルは昼間に見たクロヴィスの絵を脳裏に過ぎらせた。

 

白いバラ──、どこまでも透明なあの色を赤く染めたいと自身に走った衝動はどれほど時が経っても忘れられない。

しかし抑えてはきた。忘れられなくとも抑えてきたというのに、まるでこうも脆いのかと自身に呆れるほど不意打ち気味にクロヴィスによってあっさりと柵を壊されてしまった。

 

品行方正と名高い第二皇子。優秀で優しい兄であり弟。周囲の望みのままに理想の人間の仮面を被り続けてきたというのに。どれほど虚しくても、続けてきたというのに。結局自分は弱肉強食を国是とする皇帝の血を継ぐ者だと──この身に流れる血がひどく残酷な本性をも併せ持つことを訴えかけている。

シュナイゼルはどこか自嘲気味に呟いた。

「私の本質、か……」

 

 

──翌日。

ぱたん、と母の寝室の扉を閉め、ブリタニアの第三皇女──サクラモネ・ル・ブリタニアは小さなため息を一つ零していた。

あまり陽の元に晒されたことのない、ともすれば不気味なほど青白い肌に室内用のドレスを身に纏った彼女は己のプラチナ・ブロンドの髪に手をやる。

「母上……」

相変わらず寝たきりの母。この離宮で静養生活を送っていても一向に病状はよくならない。何度もこの地を離れ、実家に下がってはと進言してみた。それほど自分は皇族というものに執着心もないし、いっそ皇位継承権を返上してただ人になったていい。なのに──母は首を縦に振ろうとはしない。

理由は分かっている。そして母がこうも弱り切った理由も分かっている──と碧眼を伏せたサクラモネの耳に、この静かな宮には滅多に起こることのない騒がしい音が届いた。

警備の兵の声。そしてやたらエコーを伴った複数の足音だ。

「何ごと……?」

サクラモネは顔を顰めるも物音のする方にゆっくり足を進めた。こんな短い距離でさえ走る体力もない。響くエコーとは裏腹にゆったりなサクラモネの歩みが止んだのは、突き当たりから姿を現した人物を目に留めてからだった。

「あ……」

思わず手を口元に持っていって目を瞠ってしまう。サクラモネと鉢合わせる形で姿を現したのは長身に煌びやかな上着を纏った、どこか憂いを帯びたような表情をした青年だった。

「あ……シュナイゼル……兄、さま……?」

紛れもない、眼前にいたのは帝国の第二皇子でありサクラモネにとっては異母兄にあたるシュナイゼル・エル・ブリタニアだった。

だが、生まれてこのかたこの兄に目通りするなどなかったというのに。何なのか──身構えるように一歩後ずさったサクラモネとは反対にシュナイゼルは、ふ、と柔らかい笑みを浮かべた。

「私を見知っていてくれたとは光栄だね。こうして話をするのは初めてだというのに」

笑みそのままに穏やかさと柔らかさを湛えた、心地の良い声だった。

「あ、はい……あの……」

サクラモネはなおも構えて固い声を出したが、シュナイゼルはあくまで穏やかに微笑んでいる。それがどこか不気味で、皇帝からの勅でも言い渡しに来たのかと勘ぐってしまったサクラモネはか細い声で何か用かと訊いた。すればシュナイゼルは心外そうに苦笑いしてサクラモネに歩み寄る。

「兄が妹の機嫌を伺いにくるのに、理由なんているのかい?」

「……いえ」

あまりに突然で、とサクラモネは目を伏せた。

本当に、一体何の用だというのだろう?

ここへ自分の身を案じて機嫌を伺いに来てくれるのは長兄のオデュッセウス・ウ・ブリタニアくらいのものだった。ゆえに、オデュッセウス以外の人間は兄妹という気さえしない。

もっとも母があの状態で面会を断ることも多かったのも理由の一つではあるが──と目を伏せるサクラモネの耳にシュナイゼルの柔らかな声が響いた。

「后妃様に謁見は叶うかな?」

「とても、お話できるような状態ではありませんけども……」

言葉を濁すサクラモネにせめて見舞いだけでもとシュナイゼルは促した。サクラモネは目を伏せながらも少し間を置いたのち小さく頷く。そして母の寝室へとシュナイゼルを誘導するとそっと寝室の扉を開いた。

奥のベッドには后妃が横になっており、シュナイゼルはそっとベッドの方へ近付くと片膝をついて臣下の礼をとる。

「お久しぶりです、后妃様。おかげんはいかがですか?」

すると天井に向けられていた后妃の視線がゆっくりとシュナイゼルの方へ向けられ、彼女はこんな言葉を口にした。

「陛下……? まあ、来てくださいましたの……?」

妙に上擦った嬉しさの混じった少女のような声にシュナイゼルの眉が反応する。傍で苦い顔をしていたサクラモネはいたたまれないといった具合に自身の母にそっと告げた。

「違います、母上。陛下ではありません、シュナイゼル兄さまですよ」

焦点の定まっていなかった后妃の瞳がどこか落ち着きを取り戻し、ああ、と力なく息が吐かれる。

「殿下……、お身大きくなられたこと」

そうして弱く言うと、后妃の瞳は再び天井に向けられ、そっと閉じられた。

サクラモネはそんな母親の様子を見て、そっと眉を寄せた。

「お立ち下さい、兄上」

言ってサクラモネが母の寝台に背を向けると、シュナイゼルも立ち上がってサクラモネの後に続く。

 

そのまま二人は午後の日差しが少しばかり厳しいベランダへと出て話をした。

「申し訳ありません、母はずっとあの調子で……。ですから、今まで目通りをやんわりと拒んでいたのですが」

「いや、気にしてないよ。しかし、なぜ私を陛下だと思ったのだろうね、后妃様は」

陽に透けるシュナイゼルの金髪は透き通るほどに滑らかで、その兄の憂いたような顔を見上げながらサクラモネは胸に手をあてた。

「兄上は、おそらく父上のお若い時分に似ておられるのだと思います。それで……母もあんなことを」

「私が父上に? そうかな、そんな風に思ったことはないんだけどね」

シュナイゼルは首を傾げるもサクラモネは複雑そうな表情を崩さない。そのサクラモネの心情はシュナイゼルには読めなかったが、それより、と切り返しながら持ち前の気品を湛えた柔和な笑みを浮かべた。

「君こそ后妃様のお若かった頃にそっくりだ。いやそれ以上に……これほど美しくなっていたとは、驚いたよ」

それはあくまで僅かばかり冗談まじりに、妹用に言った言葉であった。現にこのような甘言を吐けば妹たちは恥じらいながらも笑ってくれるのが常だ。しかしサクラモネは心底不審そうな顔を浮かべ、一瞬の後には瞳を逸らして目を伏せていた。

「そんなことよりも、兄上はなぜここにいらしたのですか?」

そんなことよりも、と切り捨てられたことでシュナイゼルは自身の想定していた彼女の反応予想から大幅に外れ、目を見開いた。

「あ、ああ……さっきも言ったけど、妹の機嫌を伺いに来るのに理由なんて──」

「先日、クロヴィス兄さまがこの宮に忍び入られたそうですね。私たちの身辺調査でもされているのですか……宰相閣下?」

シュナイゼルが取り繕うよりも先に、サクラモネは更にシュナイゼルの予想外の言葉を口にした。

宰相──このブリタニアにおけるシュナイゼルの公務肩書きである。

兄ではなく宰相と呼んだということは、サクラモネは私的な訪問ではなく公的なものだと考えているのだろう──とシュナイゼルは思った。

おまけに自身の趣味のためにライブラの離宮に妹観察に行ったクロヴィスの行動を大いに勘違いしている。

しかしながら、彼女にはこちらを疑うだけの理由があるのだろう。それもそうだ。普段は訪れない兄が時期を置かずに二人も訪れれば何かあったのかと思うのは無理もない。自分たちは決して仲が良いだけの兄弟ではないのだ。血で血を洗い、皇位継承権を奪う合う敵同士でもある。

しばしシュナイゼルが考え込んでいると、ふとサクラモネの足元がふらついた。そのまま彼女はベランダの縁に手をついて身体を支え、驚いたシュナイゼルは手を引いてサクラモネの身体を支えてやった。

「大丈夫かい?」

「へ、平気です。ちょっと日差しにやられただけで……もう、大丈夫なんです、身体は」

俯いていたサクラモネは顔を上げ、か細い声で必死に訴えた。シュナイゼルが間近で見た彼女の肌はやはり病的なまでに白く、支えた肩も折れそうなほどにか細く、シュナイゼルの背にぞくりと悪寒にも似た寒気が走った。

月夜の水面──と称された彼女の母に本当によく似ている。例えようのない透明感と儚さがシュナイゼルの庇護欲をそそるより先に劣情を煽ってごくりを喉を鳴らした。遠く、遙か昔に覚えた懐かしい感情だ。

なかなか手を離さないシュナイゼルを不信に思ったのかサクラモネは身をよじる。しかしシュナイゼルはサクラモネを支えていた腕に力を込めた。

「兄上……?」

「安心したよ、サクラモネ。君はもう外に出ても平気なんだね?」

耳に唇を寄せて囁けば、ピクリとサクラモネの身体が反応したのがシュナイゼルに伝った。そのままそっとサクラモネを解放したシュナイゼルは緩やかに微笑む。

頭の回転は速いほうだと自負しているシュナイゼルは、必死に彼女が「身体はもう大丈夫」と強調した意味を悟ってしまったのだ。それはきっと――と思考を巡らせつつ少しだけ唇に笑みを乗せる。

「ならば次の金曜の夜に、私の部屋へ来てもらえるかな?」

瞬間、サクラモネは目を瞠った。何を言っているんだと言い返される前にシュナイゼルは更に畳みかける。

「ああ、これはお願いじゃないよ。命令でもないけれど……拒むのなら、君の一番大事な物を替わりにもらおうかな」

シュナイゼルの言葉にただでさえ白いサクラモネの顔は更にサーッと青ざめていった。

あくまでシュナイゼルはカマをかけただけだ。先程から宰相として公的に自分たちに不利な言い分を告げに来たのかと警戒していたサクラモネの誤解を上手く利用したにすぎない。あとはもう、上手くサクラモネが乗ってくればシュナイゼルの勝ちは決まったも同然だった。

「私の一番大事な物……」

胸の前で握りしめられたサクラモネの手は小刻みに震えている。

「私の皇位継承権ですか、兄上。こんな……役に立たない皇女は要らないと」

瞳を伏せたサクラモネの長い睫毛を見下ろしながら、ふ、とシュナイゼルは笑みを零した。おおよその予想はできていたが、彼女が警戒していた理由はそれだったのだろう。

「そうだね、残念だけど──」

「待ってください! 皇籍の返上だけはできません」

シュナイゼルの言葉を掻き消すように言い放ったサクラモネはシュナイゼルを見上げ、頬を震わせていた。

 

「──交渉成立、ということかな?」

 

シュナイゼルの薄い金髪に日差しがかかり、陽だまりの中で微笑む彼の姿はまるで絵画から抜け出てきたように優美で、こんな状況でなければ誰もが見惚れただろう。

だが、サクラモネは今も眼前の兄に突きつけられた要求が信じられずにしばし唇を結んでその場に立ちつくすしかなかった。

 

皇位継承権を失うということは、皇籍を剥奪されるということ。つまり、ただ人になり臣下に下るということだ。

そうすればもう、このブリタニア皇宮にはいられなくなる。

サクラモネ個人として臣下に下ることにさしたる抵抗もなかったが、問題は母だ。皇女を生んだ事実に縋り、皇女を生んだからこそそれなりに高い位の后妃であり続け離宮を与えられている母はサクラモネがただ人となれば絶望するだろう。

今でも皇帝を愛し、もう一度皇帝の寵愛を受ける日が来ることだけを夢見てこの地にしがみついている母親に追い打ちをかけるようなことだけはサクラモネにはできなかった。

自分たちが他の皇族から疎まれていることは知っている。歴史上、数多の例があるようにいつ廃嫡されるとも限らないと怯え暮らしてもきた。

母は寝たきり、自分の身体も決して丈夫とは言えない身。廃するに値する理由はいくらでも作れる。ゆえに今日こそ宰相である兄自ら終わりを告げに来たのかと思った。

兄に、あのシュナイゼルに出来ないことはないに等しい。

いくら離宮暮らしをしているとはいえ、第二皇子であるシュナイゼルがどんな立場かはサクラモネにも分かっている。実質、彼にできないことといえば玉座に座ることくらいであり、ほぼ全てのことは彼の意のままになるだろう。こちらの皇位を奪うなど脅しでも何でもなく容易いことだ。

しかし──まさかそれを脅しにあのような要求をされるとは夢にも思わなかったことだ。

兄が──シュナイゼルがどういう人間かは、よくは知らない。賢く人当たりの良い人物だと人伝に聞いてはいたしメディアを通じて観ることはしていたが、まともに話したのは今日が初めてだ。

兄、というほど彼を身近に感じる生活を送ってきたわけではない。

けれども、それでもシュナイゼルは自分の兄であり、自分は彼にとっては妹なのだ。

なのに──、部屋に来い、という要求はどう考えてみても妹にすべきものではないはず。最悪の想像のみが脳裏を駆け巡る。

 

既にシュナイゼルの手に堕ちている自分をどこかで悟りながら、サクラモネはこれから起こりうることへの恐怖で震える自身の身体をきつく抱きしめた。



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2話

『皇籍の返上だけはできません』

 

シュナイゼルは皇宮の執務室でふと先日サクラモネに言われた言葉を思い返していた。

彼女は自分の一番大切なものは皇女の地位だと言ったのだ。しかしあのように離宮に引き籠もっているというのに華やかなプリンセスという立場に執心しているようには思えないし、何不自由ない生活を手放したくないというのなら無用な心配だ。彼女の母は他の妃同様、有力な貴族の出。例え臣下に下ってもせいぜい「皇女様」が「お嬢様」に変わる程度で生活に支障はないだろう。

彼女が次期皇帝の座を狙っている──ともやはり思えない。彼女が皇帝になるにはそれこそ血で血を洗う凄惨な闘争を自ら仕掛け、勝ち取らねばならないのだ。今の彼女を見るに、それはあまりに無謀すぎる。

ならばやはり原因は后妃である母親か──とシュナイゼルは思った。

父である皇帝の寵姫だったマリアンヌ后妃が嫁いできてから、寝たきり状態となってしまったサクラモネの母。

 

『陛下……? まあ、来てくださいましたの……?』

 

先日、自分と在りし日の皇帝を見間違えた后妃──彼女が身体虚弱を理由に「実家に下がってはどうか」と多方面から言われているのは知っている。しかし、頑なにこの皇宮に残り続けているのは何も后妃という地位だけにしがみついているわけではないのだろう。

いつかまた父の愛情を取り戻す日を夢見ているにちがいない──と考えるシュナイゼルの青い瞳がふと暗く曇った。

 

父である皇帝、シャルル・ジ・ブリタニアの感心はいつもとある一家にしか向いていなかった。

最愛の后妃であったマリアンヌ・ヴィ・ブリタニアと、そしてその──と暗い瞳の奥で追想したシュナイゼルはハッとして小さく首を振るう。

 

このことを考える際にいつもル家のこと──サクラモネのことが過ぎるのは、数多の兄妹の中で唯一自身の心の底と思いを同じくしてくれているという思い込みからだろうか?

理解者が欲しいと願ったことなど一度もないというのに。

それに、サクラモネに対して沸く感情は理解などという崇高なものではない。穏やかな水面を乱暴に搔き乱したいという、破壊願望にも似た下劣な情だ。欲したものは奪う。それはブリタニアの国是であるし、弱きものが強きものに蹂躙されるというこの国のやり方はサクラモネもよく理解しているだろう。

だからこそ彼女の母は皇女を生んだという強みを活かして后妃であり続け、彼女はそれを守るために自分の手を取った。いや、自分の手を取らざるを得なかったのはこの国の仕組み通り、彼女が弱かっただけに他ならない。

そうだ、何も特別な感情などありはしない。

あの水面のような透明さをただ汚したいという、誰しも持っている欲望が沸いただけなのだ。ただそれだけのこと──とシュナイゼルは薄く笑った。

 

 

離宮から出るのはいつ以来だろうか──とサクラモネは離宮のテラスから庭園を眺めていた。

病弱を理由にこの宮に押し込められていた幼少の頃は外の世界に憧れてもいた。そっと抜け出して、すぐに警備のものに連れ戻されたことも2、3度はある。しかし、時と共に外の世界はただ恐ろしいものになってしまった。この身体では闘争の中に身を投じることもできず、母の病が進行した原因を知ってからは尚さら──とサクラモネは自身の銀に近い金髪を夜風に踊らせた。

今日は金曜──約束の日だ。

気が晴れるわけもなく、ここ数日は食事もまともに喉を通らず目眩やふらつきはいつもより増えている。いっそ本当に倒れてしまえば兄は許してくれるだろうか──と考えてサクラモネは目を伏せた。

逃げる、という選択肢は最初からなかった。どこにも逃げ場はない。例え父である皇帝に兄の要求を取り下げてくれとぶつけたとしてもどうにかなるとは思えない。それこそ、時の人である宰相閣下の顔に泥を塗りかねないのだ。そんな真似、できるわけがない。兄が──シュナイゼルがどんな思惑であれ、今の自分はシュナイゼルの意志に背くことは許されないただの人形に過ぎないのだ。

ならばいっそ感情も人形のように無になれれば楽だろうか──とサクラモネは母の寝室の方へと一度振り返って哀しげに微笑むと、キュッと唇を結んで離宮の外へと出た。

この宮付きの警備の者たちを言いくるめるくらいはサクラモネでも容易だが、夜分に皇宮を歩き回るのはそうもいかない。しかしそこは流石に宰相らしくシュナイゼルも承知済みで、あらかじめ人目に付かない皇族用のプライベートルートの中のもっとも人通りのないルートをサクラモネは聞いていた。

うっすら夕闇に染まる外の世界は星明かりのみに照らされている。

月は、まだ出ていない。

この時間に月が見えないということは、今宵の月は既に下弦へと欠けた月なのだろう。満月より浸蝕された下弦の──と思い浮かべたサクラモネの背をゾクッ、と震えが走り、サクラモネは濡れる瞳を擦りながら皇宮への道を歩いた。

向かう先は宰相府。遠くで物音がするたび、サクラモネは恐怖におののきながら近くの壁や柱へ身を隠し息を殺した。例え見咎められたとしても、みなが皇女である自分を容易く通してくれるだろうことは分かっている。しかし、このような夜も更けてきた時分に兄の部屋へ通う姿など見られるわけにはいかない。

情けなさからいっそのこと消えてしまいたい。

この国の第三皇女として生まれ、これ以上は望むべくもない身分をこの身に受けているというのに……このように人目を気にして行動をしている自分が滑稽で仕方ない。

自分は何かシュナイゼルに恨まれるようなことでもしたのだろうか?

それとも、自分を廃嫡しようというのは国の意志でシュナイゼルは助けてくれただけなのか?

極度の緊張で過呼吸気味の胸を押さえ、答えのでない問いをグルグルと繰り返して迷路のような皇宮を進み続けたサクラモネは、自身の浮かべていたルート通りに目的の建物の目的の部屋の前へと辿り着いた。

ノックは三回。

返事を待たずに開けて良いと言われている。

だが、このドアに手をかければもう後戻りはできないのだ。胸が上下し、震える手を懸命に押そうとするが力が入らない。けれどもいつまでもこうしているわけにもいかないだろう。恐怖を押し殺して無理やりに押し開ける。

「やあ、サクラモネ。よく来たね」

シュナイゼルは部屋の奥のソファでガウンを羽織り分厚い本に目を落としていたが、目線をあげてサクラモネの姿を目に留めると本を閉じてソファに置き立ち上がった。瞬間、半歩後ずさったサクラモネの目にシュナイゼルの部屋の光景などは一切見えてはいない。今すぐに踵を返したい気持ちを抑えて立っているのがやっとの状態だ。対してシュナイゼルは優美な笑みと常と変わらぬ穏やかな口調を崩さない。

「どうやら道には迷わなかったようだね」

「あ……、はい」

サクラモネが小さく頷くとシュナイゼルは感心したように「物覚えがいいね」と軽く声をたてて笑った。そんなシュナイゼルの真意が分からず、サクラモネは緊張したままに唇を開く。

「兄上……私は、いったい何を──」

「チェスの相手を頼むために呼び出したように見えるかい?」

しかしシュナイゼルに言葉を遮られたサクラモネの身体は傍目にも分かるほどにびくりと撓った。ふ、とシュナイゼルは笑みを深くしたがシュナイゼルの言葉に絶望に近いものを感じ取ったサクラモネは動くことさえ叶わず近付いてくるシュナイゼルをただただ怯えたように見ているしかできない。

「さ、おいで」

サクラモネがハッとした時にはシュナイゼルの手が腰に回さされており、強引に引き寄せられる形で部屋の奥へと歩かされる形となった。長身のシュナイゼルに力ずくで誘導されて抗う術はサクラモネにはない。いや、例え抗えたとしても皇籍剥奪という銃口を突きつけられているサクラモネにとってシュナイゼルを振り切るという選択肢はないのだ。せいぜい目を瞑って今の現実から逃避するくらいしか出来ることはない。

キィ、とドアを押す音が響いてから数秒後。サクラモネはシュナイゼルの手から解放され恐る恐る瞳を開いた。シュナイゼルが自分をどこへ連れて行こうとしていたのかある程度の予測ができていたサクラモネは眼前に広がっていた光景を確認して一瞬の驚愕を瞳に浮かべたあと、諦め混じりの涙を目尻に浮かべた。

「ここに人を……女性を入れたのは君が初めてだよ、サクラモネ」

シュナイゼルの声色はあくまで穏やかで優しい。ここがシュナイゼルのベッドルームでなければ、サクラモネにもまだ彼を兄と慕う心が残っていただろう。しかし今のサクラモネにはそのような感情は微塵も沸いてこなかった。

「あ、兄上……どうして──」

もはや何をするのか? とはサクラモネは訊かなかった。なぜ、という疑問だけをぶつけたが最後まで言葉を紡ぐことは叶わず立ち眩みのような浮遊感の次には自身の背に柔らかな感触を受けていた。

「理由がそんなに必要かな?」

反転したサクラモネの視界を覆ったシュナイゼルの表情は、この薄暗いベッドルームに紛れてさえ歪んでいるように感じられた。

皇女と生まれたとて、何も童話の中の姫のようにいつか現れる王子を待ち望んでいたわけではない。いつかは有力な貴族のもとに政略という名の望まない輿入れをせねばならない身だということもサクラモネは重々理解していた。ロマンチシズムな戯曲のように情熱的な恋愛の果て愛する者と結ばれたいなど生まれてこの方一度も思ったことはない。しかし──、こんな形で実の兄に──と見下ろされる視線に耐えかねて顔を横に倒した瞬間、シュナイゼルの両手が自身の肩にかかった。

目を見開く暇もなくそのままドレスのショルダー部分を降ろされ、首筋にシュナイゼルの唇が触れた刹那──サクラモネの背には得も知れぬ嫌悪感がぞくりと走った。

「いや……ッ!」

生暖かい舌先が自身の肌を滑る感触に戦慄し、ここへ来るまでの覚悟などあっさり崩れ去ったサクラモネは本能からシュナイゼルを拒絶した。しかしシュナイゼルは意に介した様子はない。自身の下でこれほど華奢な異母妹がいくらあがこうが大した意味はないと理解しているからだろう。

「あにうえッ──!」

が、サクラモネがシュナイゼルの肩口を掴んで抗議した瞬間、シュナイゼルはゆるりと顔をあげて酷く冷めた目でサクラモネを見下ろした。

「君の今の行動は契約違反じゃないのかな?」

「あ……で、でも、私……」

「困ったね、手荒な真似はしたくなかったというのに」

口調はあくまで柔らかいシュナイゼルが心中で何を思ったかサクラモネにはとうてい理解できるはずもない。いや、次にシュナイゼルのとった行動は理解などという生易しいものではなく、サクラモネは悲鳴をあげようとしたものの悲鳴さえままならずに引きつったような声にならない声が喉から漏れ出た。

あろうことかシュナイゼルはサイドに置いてあった布でサクラモネの両手首を頭の上で縛り上げたのだ。あらかじめサクラモネが暴れたらこうすべく用意していたものだろう。

「ッ──、なにを、兄さま……!」

縛られた痛みに顔を歪めながらも愕然としてシュナイゼルを見上げるサクラモネだが、自身の抗議がいかに無意味かをより深く理解するだけに終わることとなった。

「ここでどれだけ声をあげても外に漏れはしないだろうけど、万に一つも誰かが駆け込んで来たら困るのは君の方じゃないのかな?」

さもサクラモネを気遣っているような口調ではあったがシュナイゼルとしてはこの先いつまでも抗議や悲鳴を叫ばれては鬱陶しかったのだろう。もう一つの布で猿ぐつわのごとくサクラモネの口を覆って縛り、声の自由さえ奪ってしまったのだ。当然サクラモネは首を振り抵抗を試みたが両手を縛られた状態ではみっともなく身体を揺り動かすだけに終始し、まるで意味を為さない。

「ん、ん──ッ!」

かすかにサクラモネの口の端から漏れる声はもはや言葉を形取れず、絶望の色さえ浮かべたサクラモネの瞳に映ったのはどこか不敵に笑うシュナイゼルの姿だけだった。

お兄さま──とサクラモネは心内で強く兄を呼んだ。これ以上視覚にシュナイゼルの姿を留めたくなく瞳を閉じると、胸元にさらりとした細い髪の感触が触れた。シュナイゼルの髪だろう。再び行為を開始したシュナイゼルの感覚にぞわっとサクラモネの肌が粟立つ。意味はないと分かってはいても縛られた手首をもがき動かして、唇からは言葉にならない間抜けな声を漏れさせながらサクラモネは思った。助けて──と訴えているというのに、助けて欲しい白馬の王子など自分の頭にはぼんやりとさえ浮かんでこない、と。ここでこんな辱めを甘んじて受けているのは、母のためだ。母のため。母が愛する父の傍にいられるためだ──と考えるサクラモネの脳裏に、いま眼前にいるシュナイゼルではない、いつもどこか憂うような表情を浮かべていたシュナイゼルの姿が過ぎった。母がよくシュナイゼルは父の若い頃に面差しがよく似ていると言っていた。映像でシュナイゼルの姿をみるたび母の愛した父とはこういう人だったのだろうか──と思ったものだ、となぜかそんなことを過ぎらせた自分にサクラモネはひどく絶望した。瞳を閉じて目の前の現実から逃避してさえシュナイゼルに支配されているようで逃げ場がどこにも見つからない。

「あっ、ぅ……」

太股を滑っていたシュナイゼルの指が付け根にさしかかり、ビクッとサクラモネの身体が悲鳴をあげた。反射的に瞳を開くと、シュナイゼルは唇から赤い舌をかすかに覗かせて自身の人差し指をぺろりと舐めあげていた。それにどんな意味があったかはサクラモネにはすぐ理解できなかったが、その生々しい妖艶さに恐怖にも似た戦慄が走ったことは事実だ。

既に着ていたドレスは剥がされ、手と口の自由を奪われているサクラモネの秘所にシュナイゼルはいま湿らせた人差し指を性急にあてがった。彼のそんな行動を予想だにしていなかったサクラモネは愕然と瞳孔を開いたがシュナイゼルは冷笑さえ浮かべており、サクラモネの目尻には無意識のうちに涙が滲んで顔を横倒しにして歯を食いしばる替わりにあてがわれた布を思い切り噛んだ。

「んっ! んぅ……」

必死に何も考えないよう努めてみても、感覚がそれを許さない。今は痛みよりも恐怖が勝り、内部に侵入したシュナイゼルの長い指の感触だけがリアルに感じられて圧迫感から息が詰まる。

「にぃ……さま……」

言葉にならない声でシュナイゼルに抗いながら、いまこのようなことをしている相手が兄だということをサクラモネは改めて感じた。いずれはどこかへ嫁ぐ身としてある程度の教育は受けてきたからこそ、このあとに自分に起こるだろうことが想像できる。それが正しければこのままだと自分の身体は兄のものとなるのだろう。──そんな恐ろしいことを眼前の兄はどう感じているのだろう? 妹である自分に──と考えるサクラモネだったが、一方で兄とはどのような人物か分かりかねている自分にも気づいていた。兄とは名ばかりで、身近に接したことなどなく”兄”という事実があるだけで見知らぬ男性に等しい。いや、事実見知らぬ男だ。自分の知っているシュナイゼルは帝国の宰相で兄弟の中で誰よりも抜きんでた才能に溢れ、物憂げで、父に似て──と瞳を閉じても浮かぶ虚像のシュナイゼルにサクラモネの瞳からは大粒の涙が溢れ始めた。

外から見えていたシュナイゼルの姿は全て偽りだったのだろうか? いま自分を冷たく犯そうとしているシュナイゼルの姿こそ本物なのか? 分からない、もう何も考えずシュナイゼルが満足し終えるまで待てばいい──と内部を翻弄する兄の指にも慣れてきたころ、ふいに体内から異物感が消え、かわりに指よりも大きなものが入り口にあてがわれて流石にサクラモネは青ざめた。

自分の覚悟がいかに脆いものか実感するのは今日何度目になるだろう。それの正体が兄自身だと悟ってサクラモネは身をよじった。防衛本能からだろうか、力の限り足を閉じようと試みるがシュナイゼルの身体に阻まれて上手くいかない。拘束された痛みをもろともせず激しく振り下ろしてもがくが、シュナイゼルまで届かない。

「そんなに暴れて力んでも、より辛いのは君の方だよ?」

しかし逆らわれたのがいささか不快だったのか、シュナイゼルは突き放すような一言を告げてからおもむろにサクラモネの腰を掴んだ。

「んんッ、んーッ!」

やめて、いや、いや──! 口の端から漏れる音は拒絶の言葉さえ紡がせてはくれなかったが、それでもサクラモネは出来うる限り抗った。しかし身体の自由を奪われた上でシュナイゼルの力に抗えるはずもなく、彼の言葉通り想像以上の痛みが脳を焼けるほどに覆った。

「ッ──!?」

ピン、と両足が緊張して張りつめる。まるで労りなど感じられない、否、わざと酷くしているのかと思えるほど非情にシュナイゼルは力任せにサクラモネの中に押し入ったのだ。もはや痛いなどという温い感覚はサクラモネの中に生まれなかった。息が詰まり、得体の知れない何かに圧迫されているようで呼吸が上手くできない。歯を食いしばることさえ叶わず、開いた唇からはだらしなく唾液が布へと染みだしている。

喉が引きつって苦しくて、これ以上ないほど瞠目した先には酷く表情を歪めているシュナイゼルがいた。

「さすがに、キツいな。……だが」

情欲と征服欲に支配されたような顔。シュナイゼルに、自分の兄にそんな表情で見下ろされていることに耐えきれずサクラモネは懸命に瞳を閉じた。

「これで君は、私の──」

シュナイゼルの呟きなどサクラモネには届いていなかった。律動を開始したシュナイゼルが打ち付けてくる痛みに耐えかねて手首を揺するも、縛られた箇所が余計に食い込んで意味を為さない。

「んッ、ん、ん、ん──!」

得も言われぬ感覚に何かに縋りたい衝動にかられるが、力を逃がしてやる場所さえない。枕を握りしめることも、シーツを掴んで耐えることもできずにシュナイゼルの好きなように翻弄されるしかない自分がサクラモネは情けなくて仕方がなかった。

皇女として生まれ、これ以上ない高貴な身分を与えられているというのになぜこのような辱めを受けねばならないのか。いっそこのまま消えてしまいたいと願っても内部を行き来するシュナイゼルの存在がいやでも現実を忘れさせてくれない。せめてシュナイゼルの下で髪を振り乱してのたうち回る今の自分が彼にどんな風に映っているのか、どのように見られているのかだけでも確認したくなくてサクラモネは必死で瞳を瞑り続けた。耳にシュナイゼルの息があがってきているのが届くが、その音さえ掻き消すように強く首を振る。拭う術もない涙がみっともなく頬に流れ続け、口周りの布は唾液でぐっしょり濡れてしまっていたが気にする余裕さえないほど必死に瞳を閉じたまま抵抗し続けた。

シュナイゼルに揺さぶられる感覚が速まり、自分の中で彼の質量が増したのを感じ取ってサクラモネはより一層ギュッと瞳を瞑った。

今さら驚くことはない。自分がなにをされているのか──襲う倒錯感に耐えきれずに閉じた瞳から更なる涙を流しながら誰ともなく許しを請うた。

しばらくしてシュナイゼルの動きがとまり、ふ、と上から息を漏らす音が聞こえたかと思うとサクラモネを圧迫するような重みが襲い、頬にくすぐったいような髪の感触がかかって恐る恐る瞳をあげるとぐったりしたように覆い被さっているシュナイゼルがいた。

「っ、は……」

息を整えているシュナイゼルを間近で感じても放心状態が抜けず、とっさに感情がついてこなくて何の感傷も沸かなかったサクラモネだが、次に顔を上げたシュナイゼルが発した言葉でこれ以上ないほど意識を現実に引き戻された。

「……一人で、戻れるかい? サクラモネ」

少し掠れたようなシュナイゼルの声。まだこちらは息も整っていない状態だというのに、しかもまだ繋がった状態で暗に帰れと言われるとはサクラモネは想像もしていなかった。開いた瞳孔の端から屈辱の涙が滲むも、シュナイゼルは気にも留めないというように優雅にサクラモネの口を拘束していた布を解いた。同時にサクラモネから自身を引き抜き、自由になったサクラモネの唇からは鼻にかかったような声が漏れる。

「ぁ……っ」

シュナイゼルは含み笑いを漏らしながらサクラモネの両手を拘束していた布も解いて言った。

「それとも、誰か人を呼ぼうか」

「……ッ、一人で、帰れます」

自由になった手でサクラモネは涙を拭い、まだ残る痛みに耐えながら上半身を起こすとベッドに散乱していた自身の服を拾い集めて手早く身に纏う。

「──サクラモネ」

一刻も早くこの場から立ち去りたくてベッドから降りようとすると後ろからシュナイゼルに呼び止められ、サクラモネはびくっと身体を撓らせた。

「……はい」

「次の金曜も待っているよ」

シュナイゼルはいつも通りの穏やかな口調で笑っていて、愕然と振り返ったサクラモネは直後に襲った絶望感で震えながらその場に数秒立ちつくしたものの、キュッと瞳を食いしばると返事をせずに再びシュナイゼルに背を向けた。

寝室を出て広いシュナイゼルの私室を抜け、恐る恐る宰相府の廊下を抜けて外へと出る。

「っ……」

足を引きずるようにして歩いていたサクラモネは、息を乱しながら皇宮の柱にもたれ掛かった。警備の者に見つからないか、今は気にかけるのも煩わしかった。こんなぐちゃぐちゃのドレスで、髪も乱して、こんな第三皇女の姿を見たら臣達はなんと思うだろう? まさか兄の手にかかったなどとは想像もすまい──と涙を拭いながら身体を引っ張って再び外へと歩き出す。

シュナイゼルの部屋へ向かう時には昇っていなかった月が東の空に輝いていて、サクラモネはむせ返るように咳き込んでその場にへたり込んだ。

あまり体力のない身だというのに無理がたたったのだろう。自身の身体を抱きしめるサクラモネの腕は震えていた。

ゆるりと夜風が過ぎ、ツンと鼻に薫り高い匂いが届いてサクラモネは小さく息を漏らした。

「あ……」

見ると行きがけには気づかなかった見事なバラ。月明かりに照らされて白く浮かび上がっているバラの花が瞳に映ってサクラモネは思わず口元を押さえた。

思い出したのだ、先ほど寝室に漂っていた鉄の錆びたような匂い。あの匂いは自身の赤く染まる──と考えて、えずきながら月明かりに照らされた手首を見れば拘束されていた証がうっすら色づいていてサクラモネはかぶりをふった。

なぜこんなことを。なぜ──と全力でシュナイゼルへの疑問を訴えながらも、もうシュナイゼルから逃げられない絶望に身を委ねサクラモネはしばしその場に留まって地を濡らし続けた。

 

空に浮かぶ下弦の月──その光景をシュナイゼルも自室のバルコニーから眺めていた。

今ごろこの月明かりの下でサクラモネは泣いているのだろうか? あの銀と見まごうような見事なプラチナブロンドを揺らして、と考えるシュナイゼルの脳裏に先ほど自分に組み敷かれて腕の中で跳ねていたサクラモネの姿が蘇った。穏やかな水面が乱れるように揺れていたあの髪。思い出すだけで倒錯した快感がぞくりと背を走る。

女性を、あれほど乱暴に抱いたのは初めてのことだ。帝国の第二皇子であり宰相であるという仮面をつけている普段の自分は、そのイメージを壊すようなことはしない。特定の女性を作ることは避けていたし、兄であるオデュッセウスが呆れる程度に不特定多数を相手に優しく紳士な宰相閣下を演じてきた。だが、そんな気遣いを一切排除して奪うように彼女を抱いたのは、きっとそうせずにはいられなかったからだ。

こんな思いを抱くようになったのはもう昔──、十年以上は前になるだろうか。あの夜も今夜のように下弦の月が輝く夜だった、とシュナイゼルは追想の映像を夜空に重ねる。

皇宮内での勉学に飽きたらず学校に通い始めてからというもの、第二皇子は優秀だと周りにもてはやされて自分でもそれに喜びと誇りを感じていた。しかし父である皇帝は自分がどんな好成績の報告をしても一切興味を示さず、生まれたばかりの第十一皇子につきっきり。あの夜もそうだ、自身の話に耳もかさずに最近第十一皇の言葉数が増えてきたとそればかりで、今にして思えば子供じみた不満だったのだろう。眠れずに庭園を散策していると、泉のほとりに佇んでいる一人の少女を見かけた。

周囲を彩る白いバラが月明かりに照らされて美しく、風に乗ってバラの匂いを纏う妖精のようにさえ思えた。夜の水面のように揺れるプラチナ・ブロンド──見惚れると同時にそれを汚したいという形容できない想いを抱えていると近付いてきたのは足音。

 

『姫さま……! こんな時分に出歩かれて。弱いお身体でいられるのに』

『ごめんなさい、昼は太陽が眩しくて。でも、外に出てみたかったの』

 

自分を捜しにきたのかと勘違いしたが、足音の主は少女を抱き上げて去っていってしまった。

姫さま──と呼ばれていた少女。あの髪の色、儚げな雰囲気。二番目の異母妹であるサクラモネ・ル・ブリタニアであることはそれで理解したが、少なくともしばし見とれていた間、少女に対する気持ちに妹という意識はなかった。

そのままそっと彼女がいた場所へ歩み寄り、バラを一輪手折ってそっと口付けた。そうして泉にバラを浮かべてできた波紋を見つめながら想いを馳せた──今度は妹としてのサクラモネに。第十一皇子の母であるマリアンヌが嫁いできてから病の床に伏し、離宮へと隔離されてしまったサクラモネの母とサクラモネ。

君も、私と同じだろう? 父に顧みられず、あの第十一皇子親子のせいでないがしろにされている。そうだろう? いや、きっと同じだろう、と。

「そうだろう……? サクラモネ」

追想を終えながら、シュナイゼルはそっと呟いた。

いつか、こんな日が来るような気はしていた。クロヴィスの描いたサクラモネの成長した姿を見て決意したのはおそらくただのきっかけだ。勝手なシンパシーの押しつけだったのかもしれない。が、それでも彼女を手に入れたかった。

そう、これはブリタニアの国是だ。

無理やりに奪って彼女に自分を刻みつけるにはこの方法しかなかったのだ──とシュナイゼルは情事に乱れた髪を掻き上げながら薄く笑った。



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3話

やっとの思いで離宮に辿り着いたサクラモネは、そのまま倒れるようにベッドへと伏してしまっていた。

やはり慣れない外出と、兄にああいうことをされたという精神的負荷が一気に肉体に出たのだろう。微熱が引かない身体で眠るたびに何度もシュナイゼルの幻影にうなされては飛び起きた。皇籍にしがみつくためにこんな汚れた皇女に堕ちたのだと告げられているようで。しかし情けなさも憤りさえもぶつける場所もなく、ただ必死に湧き出る感情を押し殺そうと努めるくらいしかできることはない。

本当に恐ろしかった。自分が捕食される側だなどという原始的なことよりももっと、シュナイゼルという一人の男に蹂躙される女なのだという例えようもない生々しさが身体を駆け巡った。

「お兄、さま……」

まだ手首には拘束された跡が残っている。忘れたくても忘れられない屈辱と、罪の刻印。

兄を、素晴らしい人物だと思っていたわけではない。この弱肉強食を国是とするブリタニアにおいて、あれだけ穏やかで人格者と讃えられているからには宰相としてそれなりに裏の顔を持っているだろうことも容易く想像できることだ。しかし──異母とはいえ妹である自分になぜあのような真似をしたのかだけはサクラモネには幾度考えても解せなかった。ただの丁の良い慰み者? だとすれば、なぜ自分を選んだのかが分からない。もし自分を貶めて次期皇位継承権を競うライバルとしていち早く落としておきたかったとすれば見当違いもいいところだ。確かに皇籍にしがみつきはしたが、そんなもの望んでもないというのに。

でももう彼から逃れることは叶わないのだ。──皇籍剥奪という脅し以上にシュナイゼルの存在は恐怖という呪縛となってサクラモネの心を縛り付けてしまった。

もういっそこのまま病に伏してこの離宮に閉じこもっていたい──と願うサクラもモネはそれが叶わないことも悟っていた。

次の金曜が来れば彼の言葉通りまた彼の元へ行かなければならないのだ。彼に──兄に抱かれるためだけに。

 

そう、恐怖は呪縛だ。

少なくとも自分には抗えないという意識をサクラモネに植え付け、畏怖の念でのみサクラモネを支配することには成功したはずだ、とシュナイゼルは自室から窓の外の暗闇を見上げていた。

今宵は金曜。サクラモネとの約束の夜だ。この月明かりさえない空の下、サクラモネはどんな心持ちで自分の元へとやってくるのだろう? 一週間という時間は彼女の中の恐怖と屈辱と諦めを育てるにはちょうどいい時間だったはずだ。それとなく離宮へ出入りしている臣にサクラモネの様子を訊いてみたらあまり加減が良くなく伏せっているという。それでも彼女は約束を破りはしないだろう。

程なくして、部屋のドアが三度ノックされた。

恐る恐るドアが引かれ、顔を出したのはいつも通り青白い顔色を浮かべるサクラモネだった。華奢な身体が先週よりも更に細くなっている気がするのは気のせいではないだろう。

しかし先週と違い彼女は躊躇しつつもゆっくりとシュナイゼルの方へ近付いてきた。

「やあ、調子はどうだい?」

こちらに近づきつつも目も合わせようとしないサクラモネにシュナイゼルが何ごともなかったかのように声をかけると、サクラモネはぴくりと眉を反応させてわずかに唇を噛みしめた。

ふ、とシュナイゼルは笑みを落として無言で寝室へと促す。サクラモネは大人しく従ったものの、寝室に入ってシュナイゼルが触れようとすると懸命に唇を開いて呟いた。

「あ、兄上……」

目線は下げたままのサクラモネに「ん?」とシュナイゼルが聞き返すと、サクラモネは少々頬を震わせながらも懸命に目線をあげシュナイゼルを見上げた。

「私、もう抵抗は……しません。ですから、この間のようなことは……」

胸のあたりで手をギュッと握りしめて訴えるサクラモネが何を言いたいのかシュナイゼルはすぐに悟った。先日のように身体を拘束されて辱めを受けるくらいなら甘んじて受け入れるということだろう。

「それは──」

答えながらシュナイゼルはサクラモネを軽く抱き上げ、すぐ傍のベッドへと押し倒すと耳元に顔を埋めて囁くほどの小声で言った。

「君しだい、かな」

ビクッ、とサクラモネの身体が撓ったが気にせず首筋に唇を寄せるとほのかに心地良い匂いがした。

いつかバラ風呂の中で抱いてみようか、と匂いの正体を悟って口の端をあげ彼女の肌に舌を滑らせると、頭上に感じたのは息を詰まらせる気配。

先週残した跡がまだ消えていない。ライブラ離宮付きの侍女たちの間ではどんな噂になっていることやら、と漏れそうになる笑いを堪えて胸元に手を這わせるとサクラモネはキュッとシーツを握りしめた。

豊満とは言い難いが弾力性のある形のいいそれを些か乱暴に揉みしだけば、痛みを訴えるような小さな声と眉を歪めたサクラモネと目が合う。

しかしサクラモネは一瞬瞳を揺らしてすぐに顔を横に倒し、唇を噛みしめた。

ふ、と耐えきれなかった笑みを漏らせば彼女の頬が震えた。屈辱を覚えているのだろう。それでも決して抵抗の意志を見せずに堪えているのはやはり先週のような思いは避けたいからだろうか。

ドレスを剥ぎ取り下着を取り去って彼女の肌をどれほど好きに楽しんでも彼女は大人しくしていたが、太ももの付け根に顔を埋めた途端にサクラモネの身体が跳ねた。

「なッ──!?」

何をするんだ、と続けたかったのだろうか?

しかしサクラモネが言い終わるより先にソコに口付ければ彼女はそれ以上言葉を発することはなかった。否、声が言葉を為さなかったのだろう。ねっとりと舌で嬲ってやると息があがって身体の反応が今までとは比較にならないのが隠しようもなく伝わってくる。

「う、ぁ……ッ、ん」

唇の隙間から漏れる甘ったるい声。先週は聞けなかったものに背筋がゾクゾクする。

舌先にあたるぬるりとした感触がサクラモネの状態を声以上に明確に告げ、シュナイゼルはおもむろにそれを吸い上げた。

「あッ──!」

ビクッ、とサクラモネの身体が震える。

とっさに頭を捕まれた感覚にシュナイゼルがぴくりと反応すれば、サクラモネの身体が強ばったのが伝った。

顔をあげて口元を拭うと、彼女はついいま自分の頭を捉えていた手でシーツを握りしめ唇を震わせていた。目尻にはうっすら涙が滲んでいる。

抵抗した、と感じられるのを恐れたのだろうか? それとも極力自分には触れないようにしているのか。

分からないままにシュナイゼルは慣らしたサクラモネの秘所に一気に二本の指を突き入れた。

今まで他の女性相手にそうしてきたような甘い言葉は一切吐かず、自身の劣情をぶつけるだけの行為。けれども今までに感じたことのない昂りを感じてシュナイゼルはそのままサクラモネを奪うように抱いた。

「あに……ッうえ……ッ」

自身の下でふいにサクラモネが切羽詰まったように呟き、シュナイゼルは自分でも気づかないほどの違和感を身体に走らせた。

しかし息があがって、自身の身体もそれどころじゃない。

その違和感の正体に気づかないままに終わっても先週のようにすぐ返すなど勿体ない真似はせず、しばし留まらせて再び行為を再開したときのサクラモネの驚愕した表情にシュナイゼルは淫靡な笑みを漏らした。

けれども抗わないと言った以上、彼女は自分にそう聞かせているのだろう。

「い、ぁ──!」

歯を食いしばって耐えていたサクラモネだが、身体を反転させて腰を持ち上げた時は拒否の言葉が出そうになったのかシーツに唇を押しつけて声を殺していた。

寝室に入ってどれほどの時が経っただろうか?

サクラモネはもう自分の身体を支えていられないのか、シーツにうつぶせに顔を預けて殺せない声をただ漏らすのみだ。

やはり身体が弱いせいだろう。さすがに無理をさせすぎているのかもしれない。

「ん……あっ……、ぁに、うえ」

しかし、たまに喘ぎまじりにこう呼ぶサクラモネの声がどこか痛くてシュナイゼルは誤魔化すように腰を引き寄せ、背にかかるサクラモネの髪に唇を押し当てて没頭した。

やがて寝室に響いていた荒い息が収まってきた頃、シュナイゼルはサクラモネを見下ろしながら囁いた。

「君はもう少し体力をつけたほうがいい」

サクラモネはまだ苦しげに眉を寄せて胸を上下させている。

「──私のためにね」

かすかに目を見開いたサクラモネに一瞬睨まれた気がしたが、サクラモネは何も答えず再びきつく瞳を閉じて胸の前で握った手を震わせていた。

 

 

そうして時間だけが過ぎ、季節が過ぎても二人の関係は続いた。

為さない関係のまま逢瀬を重ね──今の自分はシュナイゼルのただの愛玩人形だ、とサクラモネはライブラの離宮でうつろな視線を彷徨わせていた。

週に一度、自分が自分ではなくなる日。

いつまでこんなことを続けなければならないのだろうか。

シュナイゼルが飽きるまで? それとも一生──? と考えるとひどい絶望に襲われる。

時が経てば身体は慣れる。けれども心はそうはいかない。より強く、彼を兄だと思えば思うほどにどうしようもない恐怖はサクラモネの中で一層膨らんでいた。

ベッドサイドの棚から経口避妊薬を取り出し、口に含みながらサクラモネは屈辱で拳を震わせる。

適当な理由をつけて主治医に処方してもらったものだが、何も言わずとも事情は察されていることだろう。おそらく、自分の様子や行動がおかしなことは誰かしら気づいているはずだ。

──望んでそうなったわけではない。

心から叫びたい言葉を抑え、誰に告げるでもない言い訳をサクラモネはグッと堪え続けていた。

そうだ、母のためなのだ。これは母のため。

そうでも思わないと壊れてしまいそうだった。

シュナイゼルの穏やかな声も、まるで他人に同意を求めるかのように語尾を伸ばしがちに話す口調のクセも、大きな身体も、あの優しげな瞳の裏の冷たさも、全部自分の身体に染みついていて。

瞳を閉じれば今も母の愛した父に似ているシュナイゼルの姿が浮かんで。

けれども──あの人は自分の兄。兄でしかないのだと思うたびに、自分がとてつもない過ちを犯しているようでどうにもサクラモネはやりきれなかった。



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4話

シュナイゼルは少々気分を害している今の自分をなるべく外に出さないよう努めて宰相府の廊下を歩いていた。

「どうされましたの、殿下? 浮かないお顔で」

が、宰相府の執務室へ入れば側近を務めているカノン・マルディーニが首を捻って問いかけてきて、ふ、と憂うような笑みを浮かべながら椅子へと腰掛ける。

「陛下のご意見を伺いに謁見の間へと顔を出したんだけど、生憎の留守でね」

「まあ……、ここ数日ずっと玉座からお離れになっているのですね」

「困ったものだよ、父君にも」

シュナイゼルは慣れたような、それでいてどこか諦めているような色を瞳に浮かべて自身の顎を手で支えた。

「それだけですか?」

「何がだい?」

「いえ、ここ最近ずっと殿下はお元気がないような気がしてましたもので。陛下のこと以外にも何か気がかりがおありになるんじゃないかと」

仕事の資料を揃えながら執務席のほうへ視線を流してくるカノンを見つめながらシュナイゼルは普段通り穏やかに笑った。

「考えすぎだよ、カノン。でも、そうだね……自分でも考えあぐねていることがあるにはあるんだ。例えるなら少し難易度の高いチェス・プロブレムにあたった時のような感じかな」

「チェス……殿下に解けない問題などそうはないでしょう?」

「例えば詰みまで自分の読み通りじゃない一局は考えただけで破棄したくなるほど不快だけれど、逆になぜそうなったか考えざるを得ない。そして答えがでないとより気持ちの悪いものだよ」

「よく分かりませんけど」

眉を捻るカノンに、はは、とシュナイゼルは少々自嘲気味に笑みを零した。実は自分でもよく分からない、と前置きしてカノンの持っていた資料を受け取る。

「さて、続きをやろうか。エリア13と15のことだけど──」

仕事に意識を戻しながらシュナイゼルは胸の内のわだかまりを封印して、しばし宰相としての顔を浮かべた。

 

父である皇帝がたびたび玉座を離れて何をしているかはだいたい予想がついている。

父は最愛の寵姫であったマリアンヌと、更にはその子供であった皇子と皇女──ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアとナナリー・ヴィ・ブリタニア──を失ってからというものどこか現実が見えていない。ふらりとマリアンヌ達が住んでいたアリエスの離宮へ行ったきり戻らなかったり、気まぐれに侵略命令を下したり。

その度に自分は父の命令を忠実にこなし仕えてきたというのに──とシュナイゼルは自分の心がひどく空虚になるのを慣れたように受け止めていた。

そうだ。もう慣れているのだ。自分がどんな働きを見せても、父は自分になど興味はないのだ。何の不満も漏らさず常に求められるままに優秀な皇子として宰相として仕えても、父には自分という人間など見えてはいない。

そう、慣れているのだ。だというのに時おり考えてしまう。慣れている、というのは本心だったのだろうか? と。

本当に空虚なら、なぜ自分を映す鏡のように、自分と同じ思いを抱えているのではないかと勝手なシンパシーを感じていたサクラモネを奪うように自分のものにしたのだ?

 

彼女を力づくで自分のものにして、それで彼女を自分に縛ってしまえるなら満足だったのだろうか。

いや、満足など覚えたことはない。彼女を奪って、満足を得られる時間などほんの僅か。否、それさえも偽りの悦びなのかもしれない。どこか違和感だけが募っていくような気がしてもどかしさが拭いきれない。

逢瀬を重ね続けどれほど自分に慣れても、いや慣れれば慣れるほどサクラモネは自分を遠ざけている気さえするのだ。身体は重ねても言葉を交わしたことは数えるほどしかなく、幾度となく熱を共有しても冷たい関係のまま彼女はこちらを見ようとしない。現に自分に抱かれているときのサクラモネは懸命にシーツや枕を握りしめこちらに触れようともせず、まるで今ある現実から逃避するように、ただ甘んじて自分を受け入れているだけ。自分が彼女を縛っていられるのは、あくまで彼女の身体だけ。

それでも時おり彼女の口の端から漏れる声はもどかしくシュナイゼルの心を刺激して止まなかった。

「……ぃさま、おにぃさまぁ……っ」

気を昂らせたサクラモネはうわごとのように「兄」を呼んだ。数え切れないほどの逢瀬の中で、彼女が上気させた頬に涙を湛えて快楽と背徳の入り交じった表情を見せるたびにごく僅かな痛みがシュナイゼルの中で増していっていた。

今宵もそうだ。サクラモネは常と変わらず固く瞳を閉じ唇を噛みしめてギュッとシーツを握りしめている。そんな彼女を熱に浮かされた身体で突き動かすたびに耐えきれない甘ったるい吐息が漏れ、煽られるように律動を速めればサクラモネは熱を逃がすように大きくかぶりを振った。

「やッ……、あっ、ぁに、うえ……っ」

呼ばれて、シュナイゼルは思わず歯を食いしばった。

誤魔化しようのない苦みが身体に広がるも、その正体さえ自分では分からない。

「サクラモネ……ッ」

「はっ、い……」

動きを緩め、掠れた声でシュナイゼルがサクラモネを呼べば彼女は反応を示したが、うっすら開いた瞳は決してシュナイゼルに合わせようとはされなかった。

グッ、と再びシュナイゼルが苦みを紛らわせるように自身を深く埋め込むとサクラモネは辛そうに柳眉を寄せて息を詰まらせる。

「あッ──!」

そんな彼女を見下ろしながらシュナイゼルも自身の熱を解放すべく息を荒げた。

「ッ、兄上、兄上ぇ……」

いやいやをするように首を振るサクラモネの与える言葉はシュナイゼルに快楽の中で確かな痛みをもたらしていた。

兄と呼ばれるたびにひどく胸が痛む。最初は小さすぎて感じなかった痛みが、今では表情すら歪むほどの正体のない切ない痛みとなってシュナイゼルを襲っている。

なぜ、なのだろう?

なぜ──と考えるシュナイゼルはほぼ無意識に近い状態で頑なにシーツを握りしめていたサクラモネの手に自身の手を滑らせた。そうしてシーツを掴むサクラモネの手を解かせ、自身の手と絡めさせればサクラモネはハッとしたように瞳を開いた。

「あ、にう──」

解せないというようなサクラモネの瞳と目が合ったが、シュナイゼルは気にせずもう片方の手でサクラモネの額にかかる髪を優しく払うとそのままそっと唇を塞いだ。

ぴく、とサクラモネの首筋が反応したのが伝わる。

「……ふっ……ぁ」

ゆるりと舌を絡めるとぞくりと言いようのない感情が走り、シュナイゼルはそのまま絡めた手に力を込めて感情のままにサクラモネを突き上げた。

 

なぜ──?

 

白濁する意識の中で、サクラモネもまた考えあぐねていた。

シュナイゼルはいつも冷たく自分を抱くだけで、こんな風に指を絡めたりなど甘やかなことは決してしなかった。ましてやキスなど──こんな優しいキスなんて一度もしなかったというのに。

ただの気まぐれなのだろうか?

なぜ──と熱に浮かされたまま意識の奥で思考していると、そのうちにシュナイゼルは自分に覆い被さって荒い息を整えるように深い呼吸をしていた。

程なくして寝室は静寂に包まれる。いつものことだ。会話すらなく、ことが終わればそっとシュナイゼルの寝室を後にするのみ。なぜ、など考えるだけ無意味だろう。この場での自分はただ兄の好きなようにされるだけの人形にすぎない。意味のないものなのだ。シュナイゼルが何を考えていようとどうでもいい。それよりも一刻も早くこの場から立ち去りたい──と身を起こすと、後ろからシュナイゼルに腕を引かれてそのまま抱きしめられてしまった。

え? と瞬きする間にもシュナイゼルはサクラモネの髪を掬い上げて愛しそうに口づけを落としている。

「兄上……?」

一体シュナイゼルが何をしたいのかが分からず身をよじろうとすると、そのまま強く抱きしめられ耳元に唇を寄せられて切なそうに囁かれた。

「君にとって、私はやはり兄なのかい?」

「え……?」

腕の力が少し弱まりサクラモネが身体を捻って振り向くと、そこにはいつも浮かべている憂い顔以上に哀しげな表情を浮かべているシュナイゼルがいた。

「な、にを……兄──」

兄上、と問いかけようとした唇はシュナイゼルによって塞がれてしまう。触れるだけの、軽いキスだった。一瞬の間を置いてシュナイゼルはサクラモネの上唇を甘噛みしてから離し、かすかに目を見開いて震えるサクラモネに再び、今度は強く口付けた。

そのままの勢いでベッドへと押し倒されてされるがままに激しいキスを受け、ようやく解放されて「兄上」と呟きそうになればシュナイゼルはそっとサクラモネの口元に手を添えて首を振った。

「兄として、ではなく……今は私を男として見てはくれないか?」

サクラモネは心底愕然とした。眼前の兄が何を言っているのか理解さえできなかった。あまりに突然で、あまりに強引で。

「お、おっしゃっている意味が、わかりませ……んっ」

首筋に舌を這わせ始めたシュナイゼルに一旦サクラモネの思考は途切れた。いつものどこか突き放したような冷たいものではなく、慈しむような愛撫だった。

「ぃ、や……あっ、あにうえ……」

シュナイゼルが望む以上抗うことはできないが、兄と呼ぶたびにシュナイゼルが辛そうな顔をするのでサクラモネはいつも通り瞳を閉じてシュナイゼルが満足するのをただ待った。

汗ばむ肌の感触が身体を滑る。

荒い吐息も、響く水音も、シュナイゼルの身体の重みも慣れたものではあるが心から慣れたわけではない。抱きしめられて、まるで恋人のように扱われ熱を共有しながら気持ちのやり場がないままに漏れそうになる声を抑えていると、シュナイゼルの声がうわごとのように頭上から降ってきた。

 

「愛、しているよ……ッ、サクラモネ」



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5話

兄と呼ばれ、増幅していた痛みの正体。それが何なのか分からないまま夢中で彼女を抱いた。

愛している、と口からついて出た無意識に近い自分の言葉をシュナイゼルはあれから時間が経って後追いのように実感していた。

増していた痛みは、もはや妹ではなく一人の女性として彼女を愛していたからだと。理解してしまえばまるでチェックまでの一局を完全に読み切ったかように目の前の靄が晴れ、疑問を抱く余地さえなかった。

そうだ、きっとそうだったのだ。あの十年以上まえの夜、泉のほとりで妖精のようだったサクラモネに見惚れた時から。

だというのに──彼女の方はより一層畏怖の念を自分に向けるようになったとさえ感じられる。元々自分に抱かれるだけの人形だとどこかで諦め割り切っていた彼女は再び疑心を胸に蘇らせ、身構えるようになったのだ。

どれほど愛しても、愛される見込みは無きに等しいと思えてしまうほどにサクラモネは自分を受け入れる気配はなく──シュナイゼルは鬱屈した日々を送った。

それでも接し方が変われば対応も変わるはずだと信じて時が経てば変わるだろうと楽観視していたが、相変わらずサクラモネはシュナイゼルとは必要以上に言葉を交わそうともしなければ笑顔すら見せることはなかった。

しかし、共に過ごす時間だけは少しずつ増えていく。サクラモネにしてみれば自分が望むから逆らわずそばにいる、それだけだと理解していたシュナイゼルだが、それでも共にいられるのは嬉しいことだった。

たわいのない話──公務のこと、人には決して零すことのない愚痴めいた話も彼女は黙って聞いてくれた。聞き流している、と言った方が正解かもしれなかったが、ほとんど返事をしてくれずとも時おり小さく変化する表情から聞いているのは伝わった。

特に公務のことは、一つ一つに微細だが反応を示していた。元々物覚えはいい質なのだろう。自分の部屋を初めて訪れた時も迷路のような皇宮内のルートを一度教えただけで完全に覚えておりひどく感心したものだった。と、シュナイゼルは「うちの姫さまは勉学の虫」だと自慢していたライブラ離宮付きの教師の表現もあながち過剰ではなかったことを思い知ってそのうちに自分の元でいくつか施政に関する公務に携わらせてみようかとも考えていた。

「サクラモネ……君はもうすぐクロヴィスが本国を出立することを知っているかい?」

ある夜、行為が終わって互いに息を整えたあとに何気なく話しかけてみると、サクラモネは小さく頷いた。

「エリア11の総督に就任すると……帝国放送でも観ましたし、臣下のものが話しているのも聞きました」

「そうなんだよ。それで来週末にクロヴィスの出立を祝って大々的に舞踏会が開かれるんだが……私には同伴者が必要でね」

「そう、でしょうね」

「君がなってくれないかい?」

どこか薄ぼんやりとして話を聞いていたらしきサクラモネはその一言に、え、と唇を動かして上半身を起こした。

「あ……でも、私……」

「どこかの公爵家令嬢に頼むと良からぬ噂を立てられる恐れがあるからね。君だとその点は申し分ない。それにそろそろ皇女として社交の場に出ても良いんじゃないかな?」

サクラモネは俯く。これまで身体虚弱を理由にほぼ公の場に顔を出すことはなかったサクラモネだが、今は以前よりも体力はついてきている──とはいえそれはほぼシュナイゼルの所為のようなもので、余計なことは口にせずにシュナイゼルはあくまで穏やかに誘った。

「クロヴィスと君は同じ年に生まれた兄妹だ。顔を出せばクロヴィスも喜ぶと思うよ」

「……ダンス」

「ん……?」

「私、たぶん、踊れません」

目を伏せて口籠もるサクラモネにシュナイゼルは僅かばかり目を瞠る。

「たぶん?」

「あ、その……こういうものだと習いはしましたけど、それだけで……」

一定以上の身分と生まれれば社交ダンスは必須教養のようなものである。サクラモネも教わりはしたが、身体の弱さゆえに外に出ても恥ずかしくない程度に鍛えるまでには至っていないということだろう。

はは、とシュナイゼルは軽い笑みを零した。

「だったら私が教えよう。それでいいかな?」

サクラモネの口元に手を添えて確認すると、サクラモネは視線をそらしたものの頷いた。が、相変わらずにこりともしてくれない。それどころか嫌がっているともとれる表情だったが、今はこれで良しとしようとシュナイゼルも小さく頷いた。

 

弱肉強食を国是とするブリタニアは、しばしば皇帝シャルルの命令で他国を占領統治していた。

そのエリアを番号で割り振り、各エリアは主に皇族のものが統治するシステムとなっている。

今回エリア11──旧日本の総督へと就任する帝国第三皇子、クロヴィス・ラ・ブリタニアの出立祝い準備を進める皇宮内はいつもに増して活気づいていた。

 

「うん、上手いよ。その調子だ」

公務の済んだ夜、シュナイゼルは自室でサクラモネにダンスの指導をしていた。手をとり腰をとり音楽に身を委ねても相変わらずサクラモネは浮かない表情をしている。

しかし身のこなしは存外軽く、知識だけ、と謙遜しつつもある程度はこなせる辺りは流石は我が妹──と考えてしまったシュナイゼルは内心苦笑を漏らした。結局は、彼女が妹であるという事実は決して変えられないというのに。

「サクラモネ……」

動きを止め、思考を掻き消すようにサクラモネの腰を引き寄せて口づけようとすればサクラモネは一瞬目を見開いて避けるように顔を背けた。

「今日は……」

金曜ではないから言いなりにはならない。と口をつぐんだサクラモネは続けたかったのだろう。

はっきりとした拒絶だった。

自らの意志ではない、脅されているから兄に抱かれているに過ぎないと。シュナイゼルに寄せる感情にそれ以上のものはなく、だから契約に反する行為は受け付けない、と。

それでも強引に口づけ、無理やりに抱くことはそう難しいことではなかったが、今のシュナイゼルにはそんな意志はなかった。

哀しげにサクラモネのプラチナ・ブロンドを撫で、切り替えたようにシュナイゼルは穏やかに笑う。

「そうだ、君に似合いそうなドレスを見立てていてね。楽しみにしててくれよ」

「え……? あの、ドレスくらいいくらでも──」

「君は私のパートナーだ。コーディネイトくらいさせて欲しいものだね」

肩を竦めてみせると、サクラモネは頑なに抵抗する理由もないと思ったのか大人しく頷いていた。

 

大きくデコルテの開いた深い青のイブニングドレス。大粒のダイヤをふんだんに使用した豪奢なネックレス。結い上げた髪にパールをあしらった飾りを付けさせサクラモネを飾り立てさせたシュナイゼルは満足そうに微笑んだ。

「うん、綺麗だ。やはり君は母上に似たんだね、透明で可憐……まさに月夜の水面のようだよ」

事実、血管の浮き出るほどに白いサクラモネの身体に深い青のドレスはコントラストがよく映え、シンプルなデザインのドレスを豪奢な装飾品は上品に引き立てていた。何よりサクラモネの透けるほど銀に近いプラチナ・ブロンドの前髪は長めで、サクラモネが動くたびに揺れて図らずも夜の水面のような清涼感を醸し出していた。並んで立つシュナイゼルの白を基調とした皇族らしい装飾をあしらった燕尾服とも絶妙に合っている。

しかしながらサクラモネは少々顔をしかめていた。母に似ている──と称されるのは、例え誉め言葉であってもサクラモネにとって嬉しいことではなかったのだ。母のことは愛しているが、愛しているからこそ、あのように父の愛だけを求めて病に伏してしまった母と似ていると言われるのはどこか恐ろしかった。

そんな母の血が自分の中にも──と深い思考に陥りそうになったところで、シュナイゼルが「行こうか」と促してきてサクラモネはハッとする。

今日はクロヴィスのための舞踏会──、兄妹たちとさえ顔を合わせたことなど数えるほどしかないというのに、公の場に出るのは初めてに近い。とはいえ皇族としてそれなりの教養だけは身に付けさせられてきたのだから、と強く思おうとするもやはり胸は早鐘を打つ。それでも想像よりもずっと平常心を保っていられるのはシュナイゼルがついてくれているからだろうか?

この兄と、神に背くような為さぬ関係に陥りながら──と考えると倒れそうなほどの目眩がサクラモネを襲ったが、今は懸命に振り切って平常心を保った。

やがて大広間に近付き、扉の奥から華やかに賑わう声が聞こえてきた所でシュナイゼルが歩みを止め、サクラモネも立ち止まった。

「お手をどうぞ、お姫さま?」

言って左手を差し出すシュナイゼルの優雅な仕草にサクラモネは一瞬眉を寄せた。優雅で華麗で、ブリタニアの白きカリスマと称されるシュナイゼル。そんな彼に見惚れるほど優美な微笑みを向けられて、喜ばない女などブリタニア中を探してもそうはいないだろう。

「……はい」

もし妹でなければ。いや、ただの妹でいさせてくれれば自分も嬉しくその手を取り、心から喜んだだろうと思いながらそっとシュナイゼルの左手に自身の右手を乗せた。

シュナイゼルが守衛に目配せすると、扉の両脇に立っていた守衛達は同時に扉を引いて二人の前に広間への空間を作ってくれた。

シュナイゼルに従って中へと歩き進むと、一斉に周りの視線がサクラモネとシュナイゼルに注がれる。

「まあシュナイゼル第二皇子さまがお見えだわ。あら……お隣の方は」

「まさか……」

「第三皇女殿下? まあ、ライブラ離宮の后妃さまのお若い頃によく似ておられること」

遠巻きに聞こえる花や蝶の声を耳に入れつつ、サクラモネは臣下のものたちの礼を受けながら広間の中心へと歩いていった。やがてシュナイゼルはこちらに向かって礼をしている男性の前で立ち止まり、それに伴ってサクラモネもシュナイゼルから手を離した。

「やあ、カノン」

シュナイゼルの目線の先に立っていたのは細身の柔らかい雰囲気の青年だ。シュナイゼルには劣るもののけっこうな長身である。容姿も美しい顔立ちと称して外れてはいないが、まるで女性のような化粧を薄くとはいえ施していてサクラモネは首を捻る。

ああ、とシュナイゼルがサクラモネに向き直った。

「紹介するよサクラモネ、私の側近を務めてくれているカノン・マルディーニ伯爵だ」

「あ……はい、お初にお目にかかります。サクラモネ・ル・ブリタニアです、以後お見知りおきを」

カノンと呼ばれた青年は一礼をしてサクラモネの方に歩み寄ると中性的で親しみやすそうな笑みを浮かべた。

「あなたが第三皇女殿下ですのね、噂はシュナイゼル殿下の方からたびたび……なるほど、お美しい方だわ」

「カノン」

「あら殿下、ご自慢の妹君だというのは本当でしょう? お会いできて、光栄です」

カノンは冗談めかしてシュナイゼルの制止をやり過ごし、紳士的な態度で婦人めいた笑みを零している。

サクラモネはというと、他に挨拶をしてくる、というシュナイゼルに頷きつつも少々あっけにとられていた。眼前の青年の明らかな女言葉、施された化粧。目を瞬かせていると気づいたらしきカノンが軽くウインクをしてきた。

「殿下は変わり者がお好きなんです。もう古い付き合いで公私ともに親しくさせていただいてるんですよ」

「そ、そう……ですか」

変わり者が好き、というカノンの言葉に深い意味はなかったのかもしれない。しかし、被害妄想にでも取りつかれているのか。彼の瞳がシュナイゼルに好かれている自分も変わり者、そもそも妹を愛するシュナイゼル自身が変わっていると訴えているような気がして背中に冷や汗のようなものが流れた。が、それも一瞬。すぐに始まったワルツの音によってその場は華やかな社交の場へと姿を変える。

カノノは柔らかい仕草でサクラモネへと手を差し出した。

「私と踊っていただけますか? 皇女殿下」

「──はい、マルディーニ伯爵」

「カノンとお呼び下さい、殿下」

頷いたサクラモネの手を取ったカノンは、ふふ、と笑い優しくサクラモネをリードした。

少々緊張していたサクラモネだがそれもすぐに解け、流れるワルツに身を任せた。

揺れるカノンの赤みがかった淡いブラウンの髪はサラリとしていて、緑に程近い碧眼も透き通るように美しく、女性めいた化粧など施さなくとも十分に綺麗な青年なのだと感じられる。何よりサクラモネとしては相手がシュナイゼルでないことで言い表しようのない安堵感に満たされ、自然笑みを浮かべてステップを踏んでいた。

皇女はこのような場では目立つ存在だ。それが第二皇子の同伴で現れた普段は社交の場に姿を見せない皇女となれば格段に人々の興味を引き、サクラモネとカノンは来客の視線を一身に集めていた。

それでもカノンが物怖じした様子を見せないのは変わり者ゆえだろうか?

サクラモネのそばを離れたシュナイゼルも観衆に倣い、ちらりと遠巻きにサクラモネとカノンを見やっていた。

憂うというよりは哀しげに二人を見たのは、サクラモネが自分といるときには決して見せようとしない笑みを浮かべていたからだろうか?

踊るサクラモネはそんな兄の視線など露知らず、曲が終わると拍手の中でカノンに手を握られたまま少々息を乱して胸を上下させていた。

「大丈夫ですか? ごめんなさい、少し乱暴すぎたかしら?」

「いいえ、平気です。ただ、私の体力が足りないだけなので」

案ずるカノンの手を離しながらサクラモネが微笑んでいると、二人のそばに複数の男性が近付いてきた。あら、と呟いて臣下の礼をとったカノンにサクラモネが振り返ると瞳に映ったのは髭を湛えた30代前半と思しき男性とサクラモネとそう歳の違わぬだろう青年の姿。

「オデュッセウス兄さま……!」

「やあ、サクラモネ。久しぶりだね」

長兄のオデュッセウスの姿を確認するやいなや、サクラモネはパッと笑った。幼少のころから度々サクラモネの住むライブラの離宮を訪れては何かと気遣ってくれていたオデュッセウスはサクラモネのとって唯一"兄"と呼び慕うのに値する存在である。

そうして優しげに笑うオデュッセウスの横で煌びやかな衣装に身を包んだ青年にもサクラモネは声をかけた。

「ク、クロヴィス……兄さま、この度はエリア11総督へのご就任、おめでとうございます」

「ありがとう。君も元気そうで安心したよ」

「い、いえ……」

青年──同い年の兄であるクロヴィスに対するサクラモネの対応がぎこちなくなるのは緊張のせいもあったが、何より以前離宮に忍び入りをしていたクロヴィスの本意がサクラモネには掴めていないためだった。

片やオデュッセウスは、うんうん、と頷いてそっとサクラモネの頬を撫でた。

「随分と顔色がよくなったね。シュナイゼルからは何も聞いていなかったから君を同伴して現れたときには驚いたが……外に出られるようになって私も嬉しいよ」

サクラモネは曖昧な笑みを浮かべる。自分を外へと強引に連れだしたのは他ならぬシュナイゼルだが、そのシュナイゼルに自分は──と思うといたたまれず、他の兄妹に挨拶をしてくると告げてその場を離れた。

公の場に出た以上、他の皇族を無視するわけにもいかない。まずは長女のギネヴィアに挨拶を済ませ、次女であるコーネリアを探すサクラモネは後ろから可愛らしい声に呼び止められた。

「サクラモネお姉さま!」

「え……?」

「やっとお会いできた! 私、ユーフェミア・リ・ブリタニアです」

振り返ると、一三歳くらいの愛らしい少女がドレスの裾を持ち上げて可愛らしくお辞儀をしている。サクラモネのすぐ下の妹──とはいえ十歳近く歳の離れた第四皇女のユーフェミアだ。確か直に顔を見るのは彼女が赤ん坊のころ以来だ、と思いつつサクラモネは笑みを浮かべる。

「大きくなったのね、ユーフェミア。ところで──」

「ユフィ!」

サクラモネが背を屈めてユーフェミアに問いかけようとしたところで、突き刺すような声が二人の間に割って入った。見ると、うねる髪を見事にまとめた艶やかな女性がこちらへ歩いてきていて、あ、とサクラモネは彼女に向き直る。

「姉上……、ご無沙汰しております。もうじき姉上も新たなエリアを開くべく出兵なさると聞き及び……武運長久を及ばずながらお祈りしています」

サクラモネの探していたユーフェミアの同腹の姉、コーネリアだ。コーネリアは持ち前の鋭い視線を更に鋭くして、うむ、と頷いた。

「気持ちはありがたく受け取っておく。それよりユフィ、あまり走り回るな、はしたない」

ユーフェミアへと語りかけたコーネリアの口調と表情は打って変わって露骨に緩み、同腹の妹を溺愛している様子がまざまざと伺える。コーネリアはブリタニア切っての女傑であり、ブリタニアの国是にもっとも忠実な軍人であり皇族でもある。そういう部分はサクラモネにとってはどこか恐ろしくもあり、これ以上かける言葉に詰まっていると聞き慣れた声が三人へとかけられた。

「こうも麗しい花が三輪も咲いていると、つい目移りしてしまうね」

「兄上……」

「やあコーネリア。戦場の女神は着飾ると更に輝きが増すようだね」

「か、からかわないでください」

兄──シュナイゼルに誉められコーネリアは恥じらうように視線を泳がせた。シュナイゼルはいつも通り穏やかな笑みを浮かべたままユーフェミアも誉める。

「ユフィももう立派なレディだね。日に日に綺麗になってとても眩しいよ」

えへへ、とユーフェミアが笑う横でサクラモネは呆れたような目線をシュナイゼルに送っていた。しかしながら、妹を讃える兄の言葉を素直に喜べる二人が羨ましいとも感じつつ目を伏せていると絶妙とも言えるタイミングで流れていた音楽が切り替わった。

目線をあげるとオーケストラの方へシュナイゼルが手で合図をしており、指示を送ったのだと理解している間にシュナイゼルはサクラモネに向き直って手を差し伸べてきた。

「私と踊っていただけるかな? 姫」

身体に、コーネリアとユーフェミア、その他の痛いほどの視線が自分に向けられたのを感じてサクラモネは困惑した。

「あ……」

「悲しいね、カノンは受け入れて私は拒否するつもりなのかい?」

あくまでシュナイゼルは微笑みながら強引にサクラモネの手を引くと耳打ち気味にごく小さい声で囁く。

「みんなが見ているんだよ、サクラモネ」

脅しに近い台詞を受け、サクラモネはハッとした。そうして今更ながらに気づいた。──今日は、金曜の夜だ。自身がシュナイゼルの人形と化す禁忌の日。気づいた事実に絶望さえ覚えつつもサクラモネは素直にシュナイゼルに従った。

言葉とは裏腹にシュナイゼルのリードは優しく、浮かべる笑みも優しげで本当にただ自分と踊りたかっただけなのかもしれない。しかし、何も大衆に見せつける形で自分を引き寄せる真似は止めて欲しかった。ちらりと流れる風景からコーネリアを探せば、やはり不審そうな顔色を浮かべてこちらを見ている。とても仲の良い兄妹だとほほえましく受け取ってくれている感じはしない。

恐ろしい──と半ば青ざめながらステップを踏むサクラモネの耳に、やけに大きく観衆のうわさ話が聞こえてきた。まるで在りし日の皇帝陛下と第四后妃様を見ているようだ、と。

そっとシュナイゼルに視線をおくると、ふ、とシュナイゼルは微笑んだ。母の最も愛した男性──父の面影を宿した人。そして父に全てを捧げた母に瓜二つだと言われる自分。

こうして母も父に向き合っていたころがあったのだろうか、と考えることさえサクラモネには恐ろしかった。

この人は兄であって父ではない。自分も、母ではない。似てなどいない──似ていいはずがない。

いっそ夢か幻であったら良かったのに。眼前にいるのが父で、自分が母で──母は父に愛されていて、そうしたら──とぐるぐると巡る思考のようにサクラモネは意識が白むのを感じた。それはちょうど音楽の終了と同時で、わ、と周りからは悲鳴のような声が一斉にあがる。

「……あ……」

意識を失ったのは一瞬のことだったのだろう。シュナイゼルの腕に抱き留められたサクラモネは大丈夫かと案ずるシュナイゼルに小さく頷いた。

「すみません、急に立ち眩んで……」

ダンスに集中していなかったせいだと顔をあげると、そうか、と憂い顔を浮かべるシュナイゼルはそのままサクラモネの手を離そうとはせずサクラモネは困惑する。皆が見ているのに、と先ほどシュナイゼルに言われたことを過ぎらせると、シュナイゼルは名残惜しむようにサクラモネの手の甲にキスを落とした。

「ちょ、と……兄上──」

「そろそろお開きにして、部屋へ行こうか」

まるでサクラモネとは裏腹に、周りに見せつけているようなシュナイゼルの行動にサクラモネは愕然とした。この場では兄妹でいなければならないことを分かっているのだろうか? それとも、宰相ゆえに何をしても文句は言われないと自負しているのか。

シュナイゼルはサクラモネの肩を抱くと、オデュッセウスにだけ体調の悪い彼女を休ませてくると告げ舞踏会広間を後にした。

妹を同伴して舞踏会に顔を出し、妹を誘って会場を出る──倒れかけた自分を介抱して連れ出す兄とも取れるかもしれないが、おかしな目で見る人間もいないともかぎらない。勘の良さそうなコーネリア辺りは疑いを持ってこちらを見ているかもしれない。と不安と焦りが込み上げるもシュナイゼルに抗う術もなくサクラモネはそのまま宰相府のシュナイゼルの自室へと足を進めることとなった。

ダンスの練習をしていた時とは違い、今日は拒めない。部屋に入るなりサクラモネの髪に手をやって器用に装飾品を外しながら解いた髪に指を絡ませ、性急に口づけてきたシュナイゼルをサクラモネは甘んじて受け止めた。

「んっ……! んぅ」

シュナイゼルはそのままパールの装飾品をテーブルに置くと、そばのソファに押しつけるようにしてサクラモネを組み敷き、首筋に顔を埋めながらダイヤのネックレスを外した。

「あ、にうえ………どうして」

「自ら着飾った花を自ら手折りたくなった……ッ、それだけだよ」

なぜこんな場所で、と続けようとしたサクラモネを察したのか、昂ったような荒い吐息混じりにシュナイゼルはそう答えた。

その言葉で、サクラモネはシュナイゼルがほぼ故意犯であることを確信した。クロヴィスの出立祝いを今日に決めたのはおそらくシュナイゼルだ。自分好みに着飾らせ、あんな風に人前で危うい真似をしたあと、こうして自分を抱く算段がついていたに違いない。そうだ、そのためにわざわざドレスも用意したのだろう。君にドレスを贈りたい、と言われたときに気づくべきだった。

でも──、いつもの彼ならもっとスマートにこなすはずだ。こんな性急に、なぜ、と思考を巡らすことさえ許されないほどの激しさに次第にサクラモネも飲み込まれてしまう。

「や、も……あッ──!」

なぜこんなことになったのだろう?

どこで何を間違えたのか──母上、母上──と抑えようもない声をあられもなく漏らしながら母の姿を浮かべるサクラモネの脳裏に自分でも気づかないほどの刹那に誰かが過ぎった。

黒く長い髪。皇帝の最愛の女性──マリアンヌ。そして──。



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6話

五年ほどまえ、ブリタニア皇宮を一つの悲劇が襲った。

アリエスの離宮──第五皇妃マリアンヌの住む宮に何者かが襲撃をかけたのだ。犯人は謎のまま、マリアンヌだけが帰らぬ人となってブリタニアは喪に包まれた。その後マリアンヌの遺児であったルルーシュとナナリーは当時友好関係にあった旧日本へ皇帝の命により疎開。マリアンヌ襲撃が内部犯によるものと見ている皇帝が犯人から彼らを守るための行動だったとも言われているが、程なくして日本との関係は悪化し戦争状態となった。そして勝利したブリタニアは日本をエリア11として配下に収めるも、ルルーシュとナナリーは戦火に巻き込まれて二度とブリタニアへと戻ることはなかった。

 

弟と妹が死んだ──我ながら冷たいと思いはしたが、ルルーシュとナナリーの死に対してサクラモネは何の感慨も沸かなかった。特に面識もなければ思い入れもない異母弟と妹だ。悲しめというほうに無理がある。

ただ──ルルーシュとだけは、サクラモネは一度だけ顔を合わせたことがあった。

マリアンヌの葬儀には伏せっていて顔を出せなかったが、後日、思い出したようにマリアンヌの墓標を訪れてみた時のことだ。

母を病床に押しやった女の眠る墓。この世から消えてさえ父の心を縛り付ける女。どこまでも厄介な存在だとしばし墓標を睨み付けて踵を返せば、風の中を涙を湛えて強い視線で歩いてくる黒髪の少年がいたのだ。

マリアンヌの長子であり異母弟であるルルーシュだとサクラモネにはすぐに分かったが、声をかけるでなくただすれ違うのみだった。が、今でもよく覚えている──あの射るような瞳。どこか不安を煽られるような目をしていた。

 

そんな弟もすでにこの世にはいないのだが──と、サクラモネはライブラの離宮で史書に囲まれながら追想していた。

ここしばらくはサクラモネにとって比較的穏やかな日々が続いていた。シュナイゼルがEU方面に外交の所用で出ているため本国を留守にしており、彼に頭を悩まされる日々からしばし開放されているからだ。

こんな日々がずっと続けば──との願いは虚しく、シュナイゼルはたいてい出国している時は離宮にロイヤルプライベートで通信を寄こして帰国の日をサクラモネに告げていた。

帰国の日が必ずといっていいほど毎回金曜なのはただの偶然なのか故意なのか、今回も例に漏れず金曜に帰ってくるという知らせを受けて、サクラモネはシュナイゼルの部屋で彼を待つこととなった。

「古書……流水力学、航空学」

自由に使っていい、とシュナイゼルに言われているのをありがたく受け取り、一人でシュナイゼルの部屋にいるときはサクラモネは大抵ずらりと並んでいる本棚を物色していた。ライブラの離宮にも膨大な数の本を収めた書庫があるが、シュナイゼルの部屋にも面白い本は割合揃っていて暇を潰すには最適の空間でもあった。

書物に目を通しながら思う。彼は、シュナイゼルは優秀であることは間違いないし、本当にただの兄であってくれればどんなにか──と思いを巡らせたところでサクラモネは虚しく首を振った。今さらどうにもならない。このままずっと自分はシュナイゼルの人形のままなのか──と遠い思考をしていると、キィ、とドアの開かれる音が届いた。

「ただいま、サクラモネ。元気だったかい?」

久しぶりに顔を見る兄は相変わらず穏やかな笑みを浮かべていて、サクラモネは開いていた書物をぱたんと閉じた。

「おかえりなさい」

相変わらず必要以外のことはシュナイゼルとは喋らないようにしているサクラモネだ。素っ気なく返すとシュナイゼルは上着を脱ぎながら苦笑いを浮かべ、眉を寄せる。

「寂しいね、せめて無事で良かったと……嘘でも言葉が欲しいものだ」

「今回は外交での所用と聞いておりましたから」

「戦地から戻ったあとも、君は私の無事を喜んではくれなかっただろう?」

例え嘘でも心にもないことをなぜ言ってやらねばならないのだ、と苦く思ったサクラモネはそれ以上シュナイゼルに言葉を返しはしなかった。するとシュナイゼルもそれ以上は要求せず、そっとサクラモネに歩み寄りながら首元でアスコット巻きにされていた白のスカーフに手をかけ、まるで息苦しさから解放されるように息を吐きながらしゅるりと解いてふわりと落とすとそのままサクラモネを引き寄せて自身の大きな身体へと熱っぽく抱きすくめた。

「会いたかったよ。どれほど君に焦がれていたことか」

ただの気まぐれな支配者と人形。そう思っていた関係に愛などという原罪まで加えられてどれほどの月日が過ぎたのだろう? 妹、という枠を取り去ったとしても、シュナイゼルが自分のどこを気に入ったのかサクラモネは全く持って分からなかった。

親しげに言葉を交わした記憶もなければ、シュナイゼルに対して好意的に接した覚えもない。彼にとっての自分はただ欲のままに抱ける玩具であったはずだというのに──とサクラモネは寝室の暗がりからぼんやりシュナイゼルの金髪を目に留めて首を振った。

いっそ本当に人形になってしまえればいいのに。熱を持たない、ただの玩具に。感じることも考えることもなく、全てを放棄できればどれほど楽か──と目尻に涙を溜める。

 

「んっ、……んっ、んっ」

 

一度だけでは飽き足らなかったのか、サクラモネはシュナイゼルの要求によってシュナイゼル自身を口に含み懸命に舌を這わせていた。屈辱を感じるよりも激しく蹂躙された身体が雄の匂いに震え、熱い疼きが身体中に広がって制御できない。

「……はッ……」

頭上からシュナイゼルの悩ましげな吐息が降ってきたかと思えば口の中で彼の体積が増し、急に視界が反転したかと思うとサクラモネはシュナイゼルに組み敷かれていた。そのままシュナイゼルは自身を擦り付けるようにサクラモネの入り口に滑らせる。

「あっ、あぅ……」

ぶるっ、とサクラモネの身体が震えた。既に一度シュナイゼルを受け入れたソコは酷く敏感でサクラモネの意志とは裏腹に彼を誘うように収縮している。

数度自身を擦り付けるようにして滑らせたシュナイゼルはそのまま濡れそぼったサクラモネの秘所に己を当て、一瞬、サクラモネの身体がぴんと強ばった。

くる──、と感じるこの瞬間だけはどうしても慣れることができないのだ。兄と繋がるこの一瞬だけは変わらぬ罪の意識に犯され酷くサクラモネの意識を冷めさせたが、それもすぐに覆い尽くすほどの熱に流されてしまう。

「はっ……あっ……んんっ……!」

溶けるほどに全身を愛され、ぐちゃぐちゃに突かれてサクラモネは必死でシーツを握りしめた。

甘美な悦びにシュナイゼルを離すまいと締め付ける身体。ぞくぞくと身体を巡る言い表しようのない快楽。抗おうともがく自分と享受する自身の葛藤さえ倒錯した刺激となってサクラモネの身体を襲う。

不意にシュナイゼルが胸の突起を口に含んで、サクラモネは甘ったるい悲鳴をあげた。

「ふぁ、ッ……兄上ぇ……あに、うえっ──」

うっすらあけた瞳に哀しげな顔をするシュナイゼルが映ったが、サクラモネは知らないふりをして瞳を閉じ迫りくる波に耐え唇を噛みしめた。シュナイゼルはなおもサクラモネを突き上げながらその身体をきつく抱きしめる。

「名を──ッ、呼ん、で……くれないか」

耳元にかかる熱い吐息と共に切なそうな声が響いてくるも、サクラモネは熱に浮かされながら首を振るった。その要求だけは聞き入れられない。サクラモネにすれば最後の砦のようなものだったのだ。

兄と呼べば辛そうな顔をするシュナイゼル。辛いのは、こっちのほうだ。兄に犯され、為さぬ関係へと落とされて──こんな、こんな。

もはや快楽に溺れる嘆きを抑えきれないままサクラモネはきつく眉を寄せた。

無理やり抱かれて恐怖で支配され、愛していると告げられて。もう何がなんだか。彼を容易く受け入れてしまうこの身体も、与えられる快楽に悲鳴をあげる自身も全てがぐちゃぐちゃだ。

「サクラモネ──ッ!」

切羽詰まったような声とともにより奥を激しく突き上げられ、サクラモネは甲高い声を詰まらせて縋るものを求め彼の背へと回した手にギュッと力を込めた。

 

──シュ、ナイ……ゼル──。

 

意識が白む中、サクラモネは自身が何を考えていたのか理解することはできなかった。

この快楽に溺れたあとの目覚めは最悪だと知りながら、落ちるままに意識を手放す。

 

 

「……ん……」

 

程なくして、うっすら瞳を開いたサクラモネの視界に暗がりの中で見慣れたシュナイゼルの寝室の天井が映った。

久方ぶりの逢瀬が堪えたのか、酷く身体が重い。

どこか空虚な面もちで軽く上半身をおこして、サクラモネは隣で眠るシュナイゼルを冷めた瞳で見下ろした。自分をめちゃくちゃにした兄。いっそこの場で殺してやろうかとシュナイゼルの首元にすっと手を伸ばす。

「……ふっ」

手先が震え、ツ、とシーツにサクラモネの頬から伝い落ちた涙が零れた。彼を憎んでいないと言えば嘘になるというのに。でも、きっとシュナイゼルがいなくなっても全てがリセットされるわけではない。きっともう、戻れない。

「一生、お恨みします……兄上」

止まらない涙を流すだけ流して、サクラモネは無意識のうちにまた眠りの中へと落ちていった。

自分でもどれほどの時間を眠っていたのか分からない。ただ身体が重くて仕方なく、ぼんやりと意識が戻ったのは寝室にかすかに広がる物音に呼ばれた時だった。

「兄、上……?」

意識が半分戻らないまま唇を動かすと、薄ぼんやりとした視界にガウンを羽織っているシュナイゼルの姿がうっすら映った。

「いいよ、そのままで」

「ん……」

「私は朝から公務が入っていてね。もう行かなければならないが、君はゆっくり休んでいるといい」

言われるままに頷いてシュナイゼルが寝室の扉を閉める頃にはサクラモネは深いまどろみの中に逆戻りをした。まるで現実から逃避するかのように、深く、深く。

 

 

「クロヴィスのほうは大分エリア11の平定に手こずっているようだね」

「まだ就任して日が浅いですし、クロヴィス殿下も手探り状態なのでしょう」

「コーネリアの軍を行かせようかと提案したら、きっぱりと拒否されてしまったよ。まあ、もう少し待ってみて駄目なようなら本格的にテコ入れを考えないといけないね」

宰相府の執務室で山のように詰んである書物に目を通しつつ調印をしながら、シュナイゼルは側近のカノンと話をしていた。

昨晩──サクラモネが自分を手にかけようとしていたのは夢だったのだろうか?

いや、昨夜は例え夢の中の出来事であっても彼女がたびたび自分へと殺意を向けているのは知っている。

どれだけ愛しても、愛すれば愛するだけ遠ざかってしまう。どれほど焦がれても、同じ目線で笑い愛してくれることはないのだ。そう、まるで父親に愛されなかったように──決して。──苦い思考に陥りそうになった所で、ふ、とシュナイゼルは自嘲気味に息を吐いた。

「君に……嫉妬を覚えそうだよ、カノン」

「は……?」

脈絡のない言葉にさしものカノンもぽかんとし、シュナイゼルはなおも苦笑いを漏らした。

いつか舞踏会でカノンと楽しげに踊っていたサクラモネを不意に思い出したのだ。あれは何もカノンにのみ向けられるものではない。自分以外が相手であれば、サクラモネはあのように自然と笑い合うことができるのだろう。だというのに自分は一生かかっても彼女を笑わせることは無理なのではないか、と心のどこかで悟っていても求めずにはいられない。

「殿下……?」

「ああ、すまない。ただの戯言だよ」

それでも──例え恨まれていても生涯彼女を縛っておけるならば。そばに置いておけるならば、それでいいのかもしれない。

いつか皇帝になるような日がくれば、それこそ法を曲げ彼女の意志さえも無視して、有無を言わさず彼女を自分のものにできる。

けれども心は──と眉間に皺を刻んでシュナイゼルは再び資料に目を落とした。

 

 

この数年後、クロヴィス・ラ・ブリタニアの原因不明の突然死によって皇宮は再び深い衝撃と悲しみに包まれることとなる。



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7話

第三皇子の突然の死──不可解な死は陰謀渦巻く皇室には付き物のようなものである。

それでもクロヴィスの死を臣民は悼み、兄妹達は我がことのように悲しんでいた。

 

エリア11の新たな総督となるべく旧日本へはコーネリアが赴き、その妹であるユーフェミアも副総督として付いていって皇宮内からは少しばかり活気と華が失われた気さえした。

 

 

「クロヴィスのお母上である后妃さまは精神的にひどく参っておられるようで……お気の毒だよ」

ある日の午後、サクラモネはオデュッセウスに誘われて皇宮の庭園を眺めながらともにお茶を楽しんでいた。

「近ごろは、ますます我が国は侵略の刃を深く刺し……またクロヴィス兄さまのような悲劇が増える気がして私も不安に思っております。兄上も、じき軍を率いてEUへ出立せねばならないのでしょう?」

「心配してくれるのかい? まあ、私は争いごとは苦手だからね。なんとかシュナイゼルが平和的に外交条約を結んでくれることを期待しているのだけれど」

オデュッセウスを案じるような顔色を浮かべていたサクラモネの頬がぴくりと反応するもオデュッセウスは更に続ける。

「そういえばシュナイゼルは午前中にアヴァロンで帰国したそうだよ。今は陛下に謁見中だと思うが……」

「そう、ですか」

サクラモネが目を伏せていると、オデュッセウスは不審そうに肩を竦めた。

「サクラモネは、シュナイゼルが嫌いなのかい?」

「え……?」

「シュナイゼルの話になると君はいつも浮かない顔をするね、けれども兄妹なんだから仲良くしてくれよ?」

優しく語りかけてくるオデュッセウスの問いには答えず、サクラモネは苦笑した。オデュッセウスはまるで常のシュナイゼルのように顎に手をやっていて、やはり異母でも彼らは兄弟だ、と思う。

「兄上とシュナイゼル兄さまはとても喋り方が似ています。語尾を伸ばしがちに話すところなんてあまりに似ていて……仕草も、そっくり」

「え、そうかい?」

「シュナイゼル兄さまも、口調や仕草だけでなくすべてが兄上のようだったらよろしかったのに」

眉間に皺をつくるサクラモネをオデュッセウスは笑いながら穏やかにいなした。

「シュナイゼルが私のようだったら国中が困ってしまうよ。あれだけ優秀な弟を持てたことは私の何よりの誇りなのだから」

いつも優しいオデュッセウス。第一皇子として生まれ、皇帝に最も近い位置にいるこの兄こそがブリタニアという国の国是からは最も遠くにいるのだとサクラモネは思う。彼は自分の地位さえ脅かしそうなシュナイゼルを弟として本気で愛しているのだろう。

「少し、兄さまが羨ましいです。私もそんな風に想われたらどんなに良かったことか……」

「いやいやシュナイゼルに限った話ではないよ。私はもちろん、君のことも愛している。シュナイゼルだってそうだよ、病みがちだった君がこうして外に出てくれるようになったのはあの舞踏会がきっかけだ……シュナイゼルは君のことをとても愛していると思うよ」

「……でも、お兄さまの愛は──」

違う。と受け流せばいいところを否定しそうになったところで、サクラモネの声はそばのドアが開かれる音に掻き消された。

ハッとすると、目の前のオデュッセウスが目を細めてドアの方に目線を送っている。

「やあ、噂をすれば……おかえり、シュナイゼル」

「これは兄上、お元気そうでなによりです。噂……とは?」

「ああいや、君は優秀な弟だと彼女に自慢していたのだよ。そうだろう、サクラモネ?」

謁見から戻ってきて長兄に挨拶にきたのだろうシュナイゼルの姿を目に留めて、サクラモネはギュッと胸の辺りで手を握りしめていた。

オデュッセウスから目線を移したシュナイゼルの瞳がサクラモネに向けられる。

「珍しいね、君がこうしてここにいるとは。……訊くまでもなく元気なようだ」

「あ、はい。兄上にお茶に誘っていただいて。お兄さまもお変わりなく……安心致しました」

目を合わせないように返事をすればオデュッセウスが肩を竦めている気配がしたが、オデュッセウスが何かを言う前にシュナイゼルの方がオデュッセウスに所用らしく話しかけた。

「兄上、陛下からお召しです。なんでもEUへの軍派遣について話があるようで」

「そうか……やはり出兵か。君の案ではEU全てではなく半分を掌握すれば良し、だったんだろう?」

「私はそのつもりなのですが、珍しく父上に目通りが叶ったかと思えばEUに飽きたらず中華連邦まで"奪い取れ"との一点張りでして」

「やれやれ……争いは避けたいものなのだがね」

オデュッセウスはため息混じりに呟いて、立ち上がるとドアの方へ向かおうとした。が、ふとその足を止めてサクラモネの方へ振り返る。

「すまないね、呼ばれているようなので失礼するよ」

「いえ……お気遣いなく」

「あとはシュナイゼルに任せるから。仲良くしてくれよ」

それはオデュッセウスらしい、深い意味合いなどない単純に兄妹の仲を憂いての発言だったのだろう。しかし慕わしい兄の気遣いを今は心底疎ましく思いながらサクラモネは口をつぐんだ。

いまさら兄妹としてシュナイゼルと仲良くなどできるはずもない。そもそも、接し方すら分からないというのに。

「少し、外を歩かないかい? 君はあまり見たことないだろう、とても美しい花園だよ」

気遣うような声が聞こえて軽く目線をあげれば、常と変わらないどこか憂いをおびた表情を浮かべるシュナイゼルがいた。

この表情がサクラモネはどこか苦手だった。まるで何ら非はない人間の良心を無理やり責め立てられるような──。これもシュナイゼルらしい人心掌握術の一環なのかもしれない。が、心底悲しんでいるような気もしていたたまれない。

午後の日差しは穏やかだったが、それでも目には眩しくて日傘の替わりのように手を翳しながら歩いていく。

見事に細工された庭園は至る所で様々な花が咲き乱れ、蝶が飛び交い、水路のせせらぎは爽やかに耳を楽しませてくれる。さすがにブリタニア皇宮自慢の庭園だ。離宮のそれとは規模が違う。

「小さい頃、向こうの噴水のそばでよくコーネリアとユーフェミアは花遊びを楽しんでいたものだよ。ここのバラ園はクロヴィスのお気に入りでね、晴れた日には必ずキャンバスを持ち出して一日中絵を描いていた」

穏やかな口調で語りかけてくるシュナイゼルの声をぼんやりと耳に入れながら、サクラモネはぼんやりと庭園の花々を見やった。図らずもシュナイゼルの話からは明確に妹たちを"弟妹"と認識していることが伺え、どこか疎外感を感じてしまう。

もし自分の身体が丈夫で離宮に引き籠もりがちでなければ彼らと──いや、シュナイゼルとは普通の兄妹でいられたかもしれないというのに。父を愛し、愛に破れ、それでも愛に縋るような母でさえなければこんなことには、とかすかな反発心を胸に飛来させつつサクラモネは足を止めて白いバラに見入るシュナイゼルを見つめた。

日差しの下で透けるような柔らかい金髪。どこか狂おしく愛おしそうな色を己の碧眼に浮かべて白バラに身を寄せる彼はまるで絵画から抜け出てきた童話の中の王子のようで──、並ぶもののない第二皇子と讃えられる魅力を確かに感じさせる。

夜ばかりを共に過ごしてきたから陽のもとにいる彼を見るのはどこか新鮮で、目を奪われそうになった自分にハッとしてサクラモネは視線をそらした。すると、ふと咲き乱れる白バラの中に真紅のバラが一輪混じっているのを見つけ、歩み寄る。

庭師が見落としていたのだろうか? 手を伸ばしたサクラモネを急に鋭い痛みが襲った。

「つッ──!」

棘に触れてしまったのだろう。見ると右手の人差し指から真っ赤な血がふっと湧き出ていて軽く目眩を覚えていると、白い手袋をはめた手に右手を捉えられた。

「大丈夫かい?」

目線をあげると、シュナイゼルが捉えた手を口元に持っていき血の出ていた人差し指の尖端をそっと口に含んだ。

「ッ──」

軽く吸われている感覚にサクラモネの身体を先ほどよりも強い目眩が走る。けれどもその血──、自分の中に流れる血は紛れもなく眼前のシュナイゼルにも流れているもの。そう思うと畏怖の念に襲われて、サクラモネは軽く膝を笑わせた。

「サクラモネ?」

「ご、ごめんなさい……ちょっと、日差しが眩しくて」

シュナイゼルから手を離し、サクラモネは事実日の眩しさも手伝ってよろけた身体を草の上に座らせる。

息を整える先でシュナイゼルは先ほどの真紅のバラを手折り、ゆっくりこちらに顔を向けた。

「どこから紛れ込んだのかな、このバラは」

言いながらサクラモネの隣に腰を下ろし、懐から折り畳み式のナイフを取り出して棘の部分を取り払うシュナイゼルにサクラモネは僅かに眉を寄せる。

「護身用だよ、一応ね」

少し物騒だ、と思ったのを察したのだろうか? 肩を竦めるシュナイゼルを見ていると、シュナイゼルの口元がふいに緩んだ。

「白いバラは、水や月の光を象徴するって知っているかい?」

「……はい」

サクラモネが頷いたことで、シュナイゼルはなお誉めるように笑みを深くする。

「君には白のバラが似合うと思っていた。君の母上がそう呼ばれていたように、月夜の水面のように透明で……でも──」

そうしてナイフを閉じて置いたかと思うと、シュナイゼルは左手でサクラモネの顎を捉えた。

優美な仕草でそっと上向かせられ、サイドの髪に右手で持っていたバラをゆっくりと挿されてサクラモネの唇がぴくりと反応するとシュナイゼルは愛しそうに目を細める。

「赤いバラも、とてもよく似合っている」

まるで人を惑わせるような笑み。

そうだ、古来──バラは人々を惑わせる禁忌とさえ言われてきた。そのもっともたる真紅のバラ。

象徴するのは──罪の色。

そんな色に染まるバラが似合うなど、どういう皮肉なのだろう。そう感じながらも日差しのせいか頭がくらくらして、頬も熱くてサクラモネはただ潤んだような瞳を揺らしてシュナイゼルを見上げた。

「綺麗だよ……本当に」

口づけられる──と分かっていてもサクラモネは拒まなかった。受け入れようと意識したわけではない。けれども自然と瞳を閉じて、触れた唇の感触に初めて心地よさを感じた。

「……ん……」

柔らかな日差しの下でのキスは今まで感じたことのないほどに甘美で、うっとりとシュナイゼルの腕に手を添えて求められるままに緩やかに舌を絡める。

身体の芯があたたかい。

バラの香りが鼻孔をくすぐって陶酔さえ覚えるようで、なぜこんな気持ちになったのか分からないままにシュナイゼルを感じていたサクラモネだったが突如として夢見心地から現実へと引き戻された。

 

「──兄上!」

 

刺すような鋭い声。ビクッ、とサクラモネの身体が震えた。おそらく触れていたシュナイゼルにも伝ったことだろう。

しかしシュナイゼルは冷静に声のしたほうを振り返って穏やかな声で応えた。

「やあ、コーネリア」

サクラモネも恐る恐る声のした方を見やると、軍服に身を包んでマントを靡かせるコーネリアがいた。

「あ、姉上……」

さっと青ざめるも、サクラモネはシュナイゼルの差し出した手を取ってその場に立ちコーネリアに挨拶をしようと試みた。が、まともにコーネリアの顔を見ることができない。もしかしたら先ほどのキスを見られたのではないか──と思うと血の気が引き膝が笑う。

「どうしたんだい? 君はエリア11からエリア18へ軍を率いて向かう予定だったというのに」

「いえ、ちょうど補給も兼ねて本国待機のグラストンナイツと合流しようと立ち寄りましたもので。出立前に兄上に挨拶をと」

「そうか……、グラストンナイツも合流してコーネリア軍が本来の姿に戻れば、エリア18の反乱鎮圧など容易いだろうね」

普通に会話のできるシュナイゼルがサクラモネには心底理解できなかった。足の震えが止まらない。怖い。なんて恐ろしいことを──とつい今しがたの自分の行動を心底恥じて、罪の意識のみに支配されているとコーネリアの視線がこちらへ向けられた。

「体調はずいぶんいいようだな、サクラモネ」

「は……はい」

「お前もいざというときのためにナイトメアフレームくらいは動かせるようになっておいたほうがいいぞ。あれはユフィすら操作できるのだからな」

コーネリアの言葉に返事をするのがやっとだ。きっと不審そうな顔をしているだろうコーネリアと目を合わせるのが怖くて俯きがちになっているとコーネリアはもう一度シュナイゼルに挨拶をして去っていく気配がした。それでも震えが止まらない。

「サクラモネ……」

目尻に涙を滲ませて青ざめるサクラモネをシュナイゼルは落ち着かせるように優しく抱きしめたが、振り払う気力さえサクラモネにはなく涙をこぼして首を振るった。

 

「君は……私といるといつも辛そうな顔ばかりだね」

シュナイゼルの部屋へと場所を移し、ソファに座って静かに涙を流すサクラモネをシュナイゼルは辛そうに見つめていた。

「どんな顔をしろと言うんですか……兄と、こんな罪深いことを続けていて」

「だったら、兄でなければいいのかい?」

シュナイゼルは自身の手袋に染みこませるようにしてサクラモネの涙を拭った。え、と唇を動かしたサクラモネをシュナイゼルは微笑を湛えて見据える。

「いっそ君を、私の妃にしようかと今まで何度も考えていた」

「な、にを……兄上」

「妹と言っても私たちは異母兄妹だ。そう珍しいことでもないと知っているだろう? 同腹でない兄妹が、互いに婚姻を結ぶというのは」

「──でも」

「そうすればもう私と君は兄妹ではなくなる。君を咎めているものも消えるはずだ」

信じられないとでも言いたげにサクラモネは瞳を開いた。けれどもシュナイゼルにとってはごく自然なことだったのだ。彼女が今の発言をどう取ろうがよほど驚いたのか溢れていた涙が止まった。そのことを今は嬉しく思い、シュナイゼルは自身の誠意が伝わるようにサクラモネの前で片膝を付いて跪くとそっと彼女の手をとった。

「君を愛しているよ。おそらく、君が知るよりもずっと以前から」

「……兄上」

第二皇子が跪いて愛を語る。これ以上はない情熱の訴えだと誰しも理解できるだろう。しかし、相変わらずサクラモネは困惑した表情を浮かべている。こうした甘言でたいていは──妹であるコーネリアでさえきっと恥じらい喜んでくれるという確信があったのにサクラモネは違った、と驚きにも似た感情を抱いたのはいつの話だっただろうか? いまは素直に受け入れてもらえない苦しさがシュナイゼルの胸を苦く満たしていく。

サクラモネは目を伏せて、小さく呟いた。

「私には兄上が私のどこを気に入ってくださったのか分かりません。兄上といても……お話しすることもあまりありませんし、私といて兄上も楽しいとは思えませんし」

「それは……答えた方がいいのかな?」

シュナイゼルは肩を竦める。なぜ彼女に惹かれたか──おそらく一言で言ってもきっと分かってはもらえないだろう。

「君の全て……と言いたいところだが、一つだけ受け入れられないものがあるな。君の皇位継承権だけは憎んでいるよ──でも」

伏せられていたサクラモネの目が見開かれたが、シュナイゼルは構わず続けた。

「私が皇帝になれば、君は皇后だ。例え君が拒んでも、ね」

「なっ……いくら兄上でも、そんな──」

「例え話だよ」

皇帝の名を出すなど恐れ多い、と咎めようとしただろうサクラモネをシュナイゼルは笑ってやり過ごした。

いつものサクラモネならこの後は口をつぐんで会話を打ちきり、こちらへ歩み寄ってはくれない。しかし珍しくサクラモネは口を開いてシュナイゼルを驚かせた。

「でしたら……私を皇女のまま皇后になさると? ついいま私の継承権が憎いとおっしゃったばかりなのに」

「何か、問題でもあったかな?」

「女帝エカテリーナのようなことが起きないとも限りませんのに」

サクラモネ自身は次期皇帝への野心などは持っていないだろう。皇籍にこだわっているのもあくまで母親のため。けれども自分はまだ兄を憎んでいるのだ。──といまの彼女の言葉で理解でき、シュナイゼルは哀しげに眉をよせた。

「卓識だね、君が軍を率いればきっと素晴らしい将となるだろう。やはり恐ろしいよ……競う相手としてはね」

「そんな……買いかぶりすぎ、です。私の話など所詮は机上の空論……ですから」

「みなそうさ。上に立つものは……極論をいえばね」

「……兄上」

喋りすぎた、と自省したのだろうか? それとも別の理由か。次第に語尾を弱めて消え入りそうになるサクラモネの言葉に「ん?」と相づちを打つと、彼女は神妙な面もちをして唇を震わせた。

「私は、例えどんな形であれ、相手が誰であれ……皇帝の妃にだけはなりたくありません。私は……母のようには……なりたくないんです」

その言葉で、彼女を少しばかり饒舌にしたのは一種の拒否反応であったことをシュナイゼルは悟った。

自分と似ている、いやそれ以上に后妃の悲哀を感じながら育った彼女らしい言葉だ。心中を察してシュナイゼルは震えるサクラモネをそっと優しく抱きしめる。

「私は君以外はいらない。こうは言いたくないが、君の気持ちは兄である私にはよく分かるよ……だから」

「──無理、です。一人の后妃しか愛さない皇帝など……愚帝と呼ばれてしまいます」

「君の知識も、少し憎いよ」

サクラモネの髪に手を絡め、苦笑いを浮かべながらシュナイゼルは感じた。一人の后妃しか愛さない皇帝──歴史上の例をあげているようで、実は彼女が父親である今上を非難しているだろうことを。

やはり似ている。とシュナイゼルは強く思う。幼い頃から苦しみ続けていた原因を恨む気持ち。それはやはり──兄妹ゆえなのだろう。

 

眠るサクラモネの頬をそっと撫で、シュナイゼルは身体をおこして切なげに彼女を見つめた。

まるで人形のように端正な寝顔。自分の腕の中で乱れている姿など想像もできないほど透き通っていて、少しだけ罪悪感を駆り立てられる。どれほど望んでも自分を「兄」としか呼んでくれないことが辛くて、けれども愛しくてたまらずいつも激しく求めてしまうことに、仕方がない、という言い訳すら気づかないふりをして僅かに眉を寄せた。この愛が彼女にとって苦痛でも、ずっと欲しかったのだ。ずっと──、もはや記憶さえ定かではない子供の時から。

どのような名君も、ひとたび愛に迷うと簡単に道を誤ってしまうとは古来から幾度言われてきただろう。現に父親である皇帝がそうであるし、結局はその血を継ぐ自分もそうなのだろうか──と思うとひどく自嘲じみた笑いが込み上げてくる。そうしてそっと、シュナイゼルはサクラモネの額に優しく口付けた。

いま彼女を解放してやれば彼女は本来の幸せを取り戻せるのだろうか? いずれはカノンのような爵位持ちの青年の元へ降嫁して、自分のことなど忘れて幸せに生きられるのだろうか。もともと本気で彼女の皇籍を剥奪するつもりなどなかった。彼女の継承権を疎ましく思っているのは事実でもあるが、ただ、彼女を手に入れるための口実に過ぎなかった。

きっと愛し方を間違えたのだろうと今にして思ってみても、ああでもしなければ手に入れることは叶わなかったのだ。所詮は兄と妹──否定こそされずとも、歓迎される仲ではない。

けれども見ず知らずの男女として出会っていれば──とはシュナイゼルは考えもしなかった。

「これほど愛しいのは、血を分けた妹だからなのか……?」

眠るサクラモネの輪郭を指で辿りながら、シュナイゼルは憂うような顔を浮かべていた。

強烈に彼女に惹かれている理由に同じ血が流れていることはきっと外せない。同じ、父の血が流れる身体。そしておそらく、自分と思いを同じくして育った境遇。

白いバラを無理やりに赤に染めた──例え紅蓮の中へ彼女を連れて堕ちるとしても、もはや手放すなどできるはずもない。

もう何年もこんな関係を続けてきたのだ、既に自分たちの関係を怪しんでいる者、気づいている者は皇宮内に数多いるだろう。コーネリアとてそうだ。事実、知られてもよしとして振る舞ってきた。彼女を自分のものだと見せつけたかったこともある、が、皇帝が──父がどんな反応を示すか興味があった。

彼は自分にもサクラモネにも興味などない。

例え自分がサクラモネを妃にしたいと申し出ても、恐らくはあっさりと承諾するだろう。それほどまでにどうでもいい存在なのだと結果を知りながら、それでも反応を期待するのはバカげた行為なのだろうか?

何度裏切られてきたと思うのだ……その期待を。もはや期待などしていないというのに。

愛し求めても何も得られない。ならば自分は一体何のために存在してきたのだろう?

 

「いっそ、本当に皇帝になってみせようか……」

 

そうすれば何かが得られるのだろうか。

いずれは次期皇帝の座を争い、勝ち取らねばならない身だ。動機など、そこに関係はない。

たった一人の寵姫に溺れ、その妃を亡くしたショックから抜け出せず国政を顧みない父よりはよほど宰相である自分の方が国を憂いている──と民は支持してくれるだろう。

そうだ、自分は父とは違う──と、シュナイゼルはサクラモネの細い髪に指を滑らせながら、そっと一人鋭い目を虚空に向けた。



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8話

中東地域──エリア18の反乱勢力を瞬く間に陥落・平定したコーネリアは自身の治めるエリア11へと戻っていた。

そうして思いにふける。先日、本国で見た光景──兄であるシュナイゼルと妹であるサクラモネのことだ。

兄、シュナイゼルは例え血を分けた姉や妹相手でもまるで口説き文句のような甘い言葉を囁くことを少しも厭わない性格なのは知っている。そして姉や妹──自分も含め、そんな彼に憧憬に近い淡い想いを抱いているのもまた事実だ。

が、あの二人はそんな笑い話で済まされるような雰囲気ではなかったように思う。そもそもクロヴィス出立祝いの舞踏会からおかしいと思っていたのだ。社交の場に不慣れで身体も弱いサクラモネをシュナイゼルはただ気遣っていたのだと何度も思いこもうとした。しかし、兄が──シュナイゼルがサクラモネに向ける瞳はどこか狂おしげで、いつもの紳士めいたものとは違っていた。

そうして先日のアレだ。シュナイゼルの後ろ姿しかはっきりとは確認できなかったが、見間違いでなければあの二人の影は重なり合い、口づけを交わしていたように見えた。

──と考えたコーネリアの頬が歳に似合わず朱に染まった。

その後のシュナイゼルは平然としていたが、あのサクラモネの明らかな狼狽ぶりを見るにおかしいと思わざるをえない。

だが──、とコーネリアは一息入れるために水差しからコップへと水を汲んで一気に喉へ流し込んだ。

だからといって二人を咎める権利もなければ咎めるつもりもない。いくら兄妹とはいえ彼らのプライベートにまで立ち入るつもりはコーネリアにはなかった。あるとすれば、兄に対する軽い──失望や失恋などという喪失感だろうか。

「ん……?」

我ながらおかしなことを、と自嘲していると執務室のモニターが通信を知らせてきた。しかもロイヤルプライベートだ。

ピ、とモニターを操作すると画面についいま考えていた兄の姿が映し出される。

「やあコーネリア。エリア18の反乱鎮圧、見事だったそうだね」

「兄上……ありがとうございます。兄上はいま中華連邦におられたはずでは?」

「うん、ちょうど帰りでね、アヴァロンの自室にいるんだが……吉報だよ、かの地は我がブリタニアの一部となるも同然の結果となった」

自軍の旗艦であるアヴァロンから上機嫌そうにシュナイゼルが話し、コーネリアの切れ長の瞳が見開かれる。

 

中華連邦──ブリタニア・EUと並ぶ世界列強の一つであり、その頂点に立つのは国家の象徴たる天子である。が、まだ幼い少女にすぎない天子に替わり中枢権力を掌握しているのは大宦官たちであり、民は絶えない貧窮に喘いでいた。

 

その中華連邦を「奪い取れ」とシュナイゼルに命じたのは他ならぬ皇帝シャルルであったが、シュナイゼルはシャルルの想像とは違う形での奪取を試みていたのだ。

「兄上が……婚姻を結ばれる、と?」

本国に戻ったシュナイゼルは、サクラモネに今回の土産話を語って聞かせていた。

その話とは中華連邦の天子とブリタニアの第一皇子であるオデュッセウス・ウ・ブリタニアの結婚。聞いたサクラモネはあまりに突然のことで愕然とし、かすかに眉を寄せる。

「ご自身の兄をまつりごとの道具になさるなんて……随分なことをされるんですね」

「兄上は承諾済みだよ。もともと私たちは戦争なんて望んではいなかったからね、天子がこちらに嫁いでくれば両国の友好は約束されたようなものだ。それに大宦官に爵位を与え中華連邦を実質ブリタニアの配下に置くことも決まっている」

「──兄上はお優しいから」

サクラモネは視線を下に流した。いつもなら一方的に話すシュナイゼルの話を聞き流して終わるところだが、そうもいかないこともある。

「私も皇女に生まれた身、政略結婚に異議を唱えるつもりはありません。シュナイゼル兄さまのお立場を思えば、これは望ましい結論だったのも分かります。でも──」

言い淀むサクラモネは複雑な心情を交錯させていた。

自分のこととなるとあれほど情熱的に「君以外はいらない」などと言い切るわりにオデュッセウスの優しさにかこつけ、双方望まないだろう結婚を押しつけるシュナイゼルの非情さには今さら驚きもしない。国と国が絡んでいる限り、感情を挟めないこともあるだろう。そうだ、どれほど情熱的に愛を謳ってもシュナイゼルとて必要だと判断すればどこかの国の王女や大公爵の令嬢をあっさりと妃に迎えてしまうだろう。そうなれば自分は──と考えそうになったサクラモネはハッとして思考を戻した。

問題は、そのオデュッセウスの結婚相手だ。

仮にも強国の長を娶るとなれば、天子はオデュッセウスの正妻に収まることになるだろう。それは礼儀だ。不当な扱いをすれば瞬く間に外交問題に発展する。

ここで問題なのはオデュッセウスの皇位継承権である。次期皇帝に最も近く、皇位継承権第一位のオデュッセウスだからこそ中華連邦も天子を差し出すことに合意したのだろう。しかし順当にオデュッセウスが皇帝となった場合、皇后が天子──つまり他国の人間であることに納得するものがいるだろうか。おそらくは厳しいはずだ。皇族、貴族、民の全てから反発を招くに決まっている。ましてや皇宮内には有力な皇族がこれほど多く存在しているのだ──他国の血をわざわざ混ぜる意味がない。

となると次期皇帝には別の人物を、との声があがるのもまた容易く予想できてしまう。そして、オデュッセウスの次に皇帝に近いのは──と考えてサクラモネはキュッと唇を結んだ。

「でも、なにかな?」

訊き返してきたシュナイゼルにサクラモネは、いえ、と言葉を濁した。シュナイゼルが皇位継承権にやたらと拘っているのは知っている。が、いまのことはさすがに深読みが過ぎるかもしれない。

シュナイゼルは含み笑いを浮かべたのち、いつもの憂い顔へと変えて視線を流した。

「それにしても、父上は中華連邦で執り行われる兄上の式には参列しないそうだよ。……悲しいことだね」

サクラモネが黙っていると、シュナイゼルはどこか苦笑いを浮かべながら更に続けた。

「嫡男の婚姻だというのにね。やはり……父上の心内にあるのは今もマリアンヌ様ただお一人なのだろうね」

しかし、その言葉にサクラモネの身体がぴくりと撓った。

初めてのことだ、シュナイゼルの口からマリアンヌの名を聞くのは。その名を耳にするのさえ随分と久方ぶりだ。

「サクラモネ?」

「──例え話です。いつかお話ししたとおり……たった一人の寵姫に溺れる皇帝など愚帝と呼ばれる、と」

サクラモネは精一杯抑えて、皇帝への不満を不敬にならない程度に言葉を濁した。マリアンヌという一人の妃に溺れ、母を不幸にし、挙げ句の果てにはその寵姫が死ねば廃人のようになって国政をおろそかにする父への不満。

いや、本心ではそんな優等生めいた不満など持っていないのかもしれない。──マリアンヌという存在に全てを奪われた母の憎しみを自身も感じているだけだろう。ゆえに自分は他の兄妹と違い明確にマリアンヌを、その子供であるルルーシュとナナリーを良く思ってはいない。

視線を下に流していると、シュナイゼルの骨張った手が白い手袋越しにそっと頬へ触れてきた。

「私はそうはならないよ」

「またそのような……兄上をさしおいて皇帝になるおつもりですか? 例え──」

「例え話、と誤魔化すのは卑怯、かい? 今の君がそうだったように……?」

「ッ──!」

あくまで柔らかなシュナイゼルの声に、舌戦をするべき相手ではなかった、と悟られずにはいられないほどサクラモネは表情を歪めた。パッと顔を背けると、シュナイゼルが笑った気配。

「本心だよ、宰相という身を経験して……少しは玉座に主がいない不便さを分かっているつもりだ。それを繰り返すような愚かな真似は決してしない。例え、君だけを寵愛したとしてもね」

「兄上は、宰相こそが相応しい方だと思います。オデュッセウス兄さまの世を支えられるのは兄上しかいないと私は思っています」

「嘘でも、あなたは皇帝に相応しい……と言ってくれれば嬉しいんだけどね」

苦笑いとともに彼の声色は沈んだようなものに変わり、ちらりとシュナイゼルを見やれば本当に辛そうな顔をしていてサクラモネとしても多少いたたまれない気持ちになった。が、それでも彼が要求するような嘘の言葉は吐けずに黙しているとそっとシュナイゼルに抱き寄せられる。そうして耳元に唇を寄せられ、低く囁かれた。

「本当に君が私に従順なのはベッドの上でだけだね」

カッとサクラモネの頭に血が昇った。望んでそうなったわけではないと反論しようとするも諦め、サクラモネが大人しくしていると頭上からシュナイゼルの息づかいが伝わってくる。

「いつか君が訊いたことだけど、私は君のそういう所も気に入っているよ。それに……さっきの君の話だが、私にはよく分かる」

「え……?」

「マリアンヌと、ルルーシュ達の……」

聞き取れない程の小さな声で呟かれてサクラモネは思わず顔を上げたが、問い返そうとした唇はシュナイゼルに塞がれてしまった。

 

どこかで破綻が始まっているような気がした。

こんな関係が永久に続くわけがない。例え彼が本当に自分を妃に迎えたとしても、根底にあるわだかまりを捨てて彼を愛することはできないだろう。

もしも彼が皇帝になって有無を言わさず皇后にされても、きっとそれは変わらない。

ましてこのままでは──、いつか何かが壊れてしまいそうで。

兄でなければ良かったのだろうか?

見ず知らずの男と女として出会っていれば、こんなおかしなことにはならなかったのだろうか。自分は皇女ではなく、彼も皇子ではなくて、爵位もない、普通の男女であれば穏やかな気持ちで彼を愛せていたのだろうか──と考えることさえ今は虚しい。

いつの日かきっと彼もオデュッセウスのように妃を娶る日が来るだろう。その時こそ、自分はこの兄から解放されるのだろうか。そうしてどんな顔で祝えばいいのだろう?

笑えるのだろうか──彼のために。そして自分のために。

もう決してゼロには戻れないと分かっていながら──、とサクラモネはギュッと瞳を瞑ったまま自身の思考に蓋をしてそのままシュナイゼルに身を任せた。



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9話

「カノン」

宰相府を歩いていたカノン・マルディーニは後ろから柔らかい声に呼び止められて振り返った。するとドレス姿に書類のようなものを抱えたサクラモネの姿が目に入り、あら、と漏らしつつ軽く礼をする。

「サクラモネさま……、どうされたんです?」

「皇族の調印が必要とやらで、雑務を頼まれていたんです」

「まあ、殿下に?」

「ええ、兄としてのお願いですか? と訊きましたら、宰相としての頼みだと返されて……断れなくて。サインをするか否かの判断はこちらに委ねるとのことで、私などでいいのか不安でもありますが」

殿下らしい、と笑いながらカノンはサクラモネの持っていた書類を受け取った。

「殿下はいま謁見中ですものね。本国を留守になさることも多いし、あなたがこうしてお元気でいられたら公でもそばに置いておかれたいのでしょう、信頼しているのだと思いますよ」

公でも、と引っかかる言い方をわざとしたカノンだったがサクラモネは一瞬反応するのみで軽く受け流し、少しだけ肩を竦めて困ったような表情を作った。

「少し心外ですね。私も兄上に変わり者だと思われているのでしょうか」

「変わり者は第一条件ではありませんわ、あくまで有能であれば変わり者でも受け入れてくださる……殿下の器の大きいところはそこです」

「あまり、意味が違うようには思えませんけども」

くすくす、と笑い合っていると、ふとサクラモネはどこか遠い瞳をする。カノンが瞬きをすると、彼女はキュッと胸の前で手を握りしめてから唇を薄く開いた。

「カノン……、兄上は普段はどういう感じなのですか?」

「え……? あの、どう、とは?」

カノンが訊き返すと、サクラモネはハッとしたように首を振るう。

「いえ、その……公務での兄をあまり存じませんもので」

視線を落とすサクラモネが何を考えていたのかまではカノンには分からない。ただ彼女はどこか辛そうな表情で、カノンは慰めるようにして優しく笑いかけた。

「ご存じの通り、殿下は素晴らしい宰相ですよ。でも、皇女殿下……」

「はい」

「殿下の方が私よりもシュナイゼル殿下の近くにいられると思うんです。支えてあげてください、公私ともに」

サクラモネは否定も肯定もしなかった。ただ辛そうな顔のまま肩を竦め、小さく首を振るってからそっと手渡した書類に手を添えた。

「兄上に渡してください。謁見が済めばまた本国を立たれるようなので……あなたもどうか気を付けて」

「──イエス、ユア・ハイネス」

かしこまって礼をすると、ふ、とサクラモネはどこか儚い笑みを浮かべてカノンに背を向けた。

カノンもサクラモネとは反対方向に歩き出す。そうしてゆっくりと歩きながら窓から外を見上げ、小さく呟いた。

 

「そう、殿下は……哀しいひと──」

 

その頃──シュナイゼルは謁見の間で皇帝シャルルの側近と話をしていた。

相も変わらず皇帝は玉座を空けており、シュナイゼルの表情からはいつもの穏やかさが若干薄れている。

「それで? 陛下はどこに行かれているのかな」

「ハッ、それが……全てシュナイゼル殿下にお任せする、と」

「困ったね、EUには国境付近に兄上の軍を駐屯させているというのに兄上は幼い天子様を置いて国を空けられない。私が行くにしても中華連邦の時のように陛下の意に添わない結果となりかねないからご意見は伺っておきたかったのに」

広い謁見の間、空いた玉座をひと睨みしてシュナイゼルは踵を返した。

「せめて争いは早期に終わらせたいものだよ。──陛下の直属部隊をお借りしたいと伝えておいて」

短く終わらせて、シュナイゼルは本国出立の準備に取りかかった。

シュナイゼルに任せる──、シャルルの常套文句だが、これは文字通りにただの「丸投げ」であって期待から自分に任せているわけではない。

自分は彼にとってはていのいいただの雑用係。父としての情などあるわけもなく、たまたま優秀だったがゆえに宰相という事実上の政務のトップを預けているだけ。その優秀ささえ愛でてくれることはなく、ただの便利なアイテム程度にしか思われてはいないのだ。

幼いころからずっとこうだった。どれほど物覚えがよくとも、学業をトップで修めてみせても、中華連邦という大国を自国のものにしてみせてさえシャルルにとってはどうでもいいこと。

「マリアンヌマリアンヌ、またマリアンヌか……」

このような日でさえまだマリアンヌとの追想の日々にふけって現実逃避をしているであろうシャルルを侮蔑するようにシュナイゼルは呟いた。

それでも──例え便利な道具として見られていても。自分の宰相としての能力だけは認められているのだと思いたい。

他に人材がいなかったといえばそれまでになるが──と思いめぐらせてシュナイゼルの表情が曇った。

黒髪の、マリアンヌによく似た意志の強そうな瞳を宿した弟の姿が脳裏をよぎったのだ。

マリアンヌの長子、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。幼いながらにどこか突出した才能を感じさせる弟だった。

生きていれば今ごろは18歳くらいだろうか? もしも彼が生きていれば、シャルルは自分ではなく愛息である彼を──と考えてシュナイゼルは人知れず唇を噛みしめた。

 

『やはり……父上の心内にあるのは今もマリアンヌ様ただお一人なのだろうね』

『──例え話です。……たった一人の寵姫に溺れる皇帝など愚帝と呼ばれる、と』

 

ふ、とサクラモネの姿をよぎらせてシュナイゼルは眉を寄せた。

この思いを真に理解してくれる誰かがいるのなら、それはやはりサクラモネなのだろう。しかし、それでも彼女にも分かるまい。皇子として生まれ、才能にも恵まれ人に抜きんでようと密かに努力を続け──皇子と生まれたからには玉座を夢見る。

だというのに能力のみを良いように使われ、決して父親に愛されることはない。

「……ルルーシュ……!」

死んだ弟の影を振り払うように低く唸って、シュナイゼルはグッと拳を握りしめた。

 

 

過去、世界の覇権を握ろうと試みた国は数多ある。そして過去、その野望を為した国は一つもない。

侵略戦争ばかりを続けてその先に一体ブリタニアは何を求めようとしているのだろう──とサクラモネはライブラ離宮の書庫で端末を弄りながらEU軍と激突するシュナイゼル率いる自軍のニュースを目に留め、ため息を吐いていた。

その一方でモニターにあるマニュアルを出して読み進める。ブリタニアの誇る人型兵器だ。

「ナイトメアフレーム……、確かにユーフェミアにも操作できるくらい易しそう。だけど」

果たしてこれを自分などが操作する日が来るのだろうか──と、いつかコーネリアに言われた言葉を思い出してサクラモネの顔が曇った。

あのバラ園で交わしたキス──、コーネリアに見咎められたかもしれない、というのも恐ろしかったがそれ以上に自分を恐れた。一瞬でも心地良いと感じてしまった自分を。

既に癒えて傷跡も残っていない人差し指を見るたびに全身に甘くて苦い痺れが走る。あの血──互いに分け合った兄と妹だというのに。

どこか哀しげで、いつも優しいシュナイゼル。その裏に酷く冷酷なものも持っていると知るのは自分だけなのかもしれないが、でも、あの優しさも否定はできない。

強すぎるほどの愛を彼がくれているのも──否定、できない。

「兄上……」

程なくして自室に戻り、サクラモネはいつものようにベッドサイドの棚に入れてある薬を口にした。そして喉に通す屈辱──、この瞬間だけはシュナイゼルへの憎しみは間違いなく自分の中に存在していると強烈に教えられる。

眉を歪めて、サクラモネは唇に手をあてた。

あのキスを心地よく思ったのはきっと午後の緩やかな日差しのせいだ。あたたかくて眩しくて、目眩を起こしそうになっただけなのだと懸命に自分に言い聞かせる。

初めてキスされた時、いったい何が起きたのかさえ理解できなかった。まるで恋人のように手を絡められて、キスされて、愛していると言われた。それから優しくされて、彼のことが分からなくなった。

母の愛した父に似た人。冷徹さの裏に優しさも持った人。どこか冷めているようで、何かに激しく執着している人。

人形のように無になれればいいと願った思いは虚しく、心はどれほど望んでも殺せはしない。シュナイゼルが兄でさえなければ──、そうしたら、と思ったこともある。

それでも、やはり彼を許す気には到底なれない。

もういっそこの出兵で戦死してくれたら──そしたら、みなと一緒に兄の死を悲しむ妹くらいは演じられるのだろうか?

浮かんだ考えにふるふると首を震って、サクラモネはそっと眉を寄せた。

 

 

エル・アラメイン──歴史上何度も激戦地となった悲劇の地ではあるが、この時代においても例に漏れずでEU軍とブリタニア軍のぶつかり合う最前線の激戦地となっていた。

 

「戦いは全て陛下ご自慢の直属部隊に任せるとしよう」

「それでよろしいので?」

「彼らは戦いのプロだからね、ここは信頼しようじゃないか。それに……戦術ばかりを披露するのは無能な指揮官だよ」

「では、有能な指揮官とは……?」

アヴァロンのブリッジで専用の椅子に座り、シュナイゼルは語りかけてくるカノンに意味深な笑みを向けた。

そうして考える。この場で制空権を奪うのに重要なのは戦術よりもナイトメアパイロットの力量。そしてそれを裏方で支えるのは充実した物資だ。つまり重要なのは補給線である。既に中華連邦・中東と手に入れたブリタニアにとってここエル・アラメインは最高の条件で戦える場所でもあった。

いかに物資を絶やさず、かつ迅速に前線に送り届けられるかが勝敗の鍵を握る──、シュナイゼルはブリタニア切っての精鋭部隊に有り余る程の物量差で畳みかけ、一気に戦局を好転させた。

 

「やれやれ、あとは地中海からギリシャ州の国境付近に3個師団を配置させて様子をみようか」

 

エル・アラメインを突破して地中海への制海権を得、シュナイゼルはアヴァロンのブリッジで小さなため息を吐いていた。

ため息の理由は一つ。取りあえずの報告を本国にあげ、シャルルの指示を仰ごうとしたら「任せると言ったはずだ」と一蹴されてしまったからだ。

「みんなが命がけで苦しんでいるというのに……困ったね、陛下にも」

あくまで心底不満に思っていることは隠し、軽口に乗せてからシュナイゼルはブリッジから離れた。その後ろをついてきたカノンがシュナイゼルに声をかける。

「殿下、少しよろしいですか?」

「ん……?」

「戦闘に区切りがついてからお話しようと思っていたことです。クロヴィス殿下の暗殺についての──」

ピク、とシュナイゼルの眉が反応し、そのまま無言でシュナイゼルはカノンを私室へと招き入れた。

クロヴィスの死──、皇族に暗殺はつきものだ。まして何かと諍いの絶えないエリアを統率する総督には常に身の危険が付きまとう。

ゆえにクロヴィスが暗殺されたこと自体は不運ではあるが不思議ではない。が、それでもシュナイゼルには引っかかるものがあった。

エリア11──、クロヴィスが殺された地は、かつてルルーシュとナナリーが死んだ場所でもある。むろんただの偶然なのだろうが、それでも胸に引っかかる何かが拭えずシュナイゼルはクロヴィスの死について独自に調査させていた。

「それで?」

「残念ながらクロヴィス殿下の暗殺犯を突き止めるには至らなかったのですが。イレヴン──旧日本人とブリタニア人、あのエリア11に住む全ての人間を洗っていて気になる名前が弾き出されたとの報告があがってきたんです」

「やけにもったいぶるね、結論は?」

ソファの肘置きに手を置いて優雅に頬杖をつくシュナイゼルの表情は次のカノンの言葉で凍った。

「ルルーシュ・ランペルージ、及びナナリー・ランペルージ……と」

ただの偶然かもしれませんが、と続けるカノンの言葉は既に脳裏には届かず、シュナイゼルは瞬時に真っ白となってしまった頭の隅でどうにか考えを巡らせる。

ランペルージ──、マリアンヌの旧姓である。とすると、ただの偶然で片づけるのは無理があるだろう。

エリア11には没落した貴族が複数出向していた。すれば戦争の混乱に紛れて密かにルルーシュ達を助け、表向きは死亡として扱ったと考えても合点はいく。

いやしかし──と考えてシュナイゼルは目線を鋭くした。

「カノン」

「ハッ……」

「帰国を急ぐとしよう。それから……少し一人にしてくれ」

カノンに目を合わせず言った言葉にカノンが眉を寄せたとも知らず、シュナイゼルは手で顎を支えて思考の海に沈んだ。

「イエス──ユア・ハイネス」

どこか哀しそうなカノンの声も、今はシュナイゼルの耳に届くことはなかった。



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10話

八年前──ルルーシュたちの死亡報告を受けて他の兄弟たち悲しむ中、思わず口の端が上がりそうになるのを必死で抑えた。

そしてその後すぐに調査させた。ルルーシュたちが本当に死亡したのか、と。結果、生存は確認できずにある程度は安堵をしていた。死亡報告に嘘はないと。

だが、漠然とした「疑念」はクロヴィス死亡の報を受けてから少しずつ広がっていった。

手を下したのはもしやルルーシュではないか、という何の証拠もない想像のみが膨らんでいったのだ。

そうして今回のカノンの調査結果があれだ。カノン曰く、詳細を洗ってみてもルルーシュたちと目される人物の経歴は皇族とは何の関係もなかったという。当然だろう、もしも本人なら偽造しているに決まっている。

いっそエリア11にいるコーネリアかユーフェミアに調査をさせるか?

いや、彼女らはルルーシュたちとは懇意だった。生存を悦びこそすれ疎むなどはしないだろう。

そう──誰もが喜ぶはずだ、兄妹たちはもちろん、皇帝であるシャルルさえも。

 

「……サクラモネ……」

 

アヴァロン私室のソファにうなだれて、シュナイゼルは自身の愛する異母妹の名を呟いた。

おそらくこの気持ちを少しでも共有してくれる相手は彼女以外にいないだろう。いまこの場に彼女がいたら、きっと強く彼女を抱きしめてやるせない思いをぶつけていたに違いない。

愛し方を間違えたと理解しながら、きっとそうするしかできない。

そうしてまた彼女の心を自分から遠ざけてしまうと分かっていながら──きっとそうしてしまう。

もしも皇帝となり、彼女を彼女の一番嫌がる形で手に入れてたとしてもきっと何も変わらない。自分は──誰からも必要とはされない。

分かっていたことだ。マリアンヌを消しても、ルルーシュたちがいなくなっても、それは変わらなかった。

 

 

「お久しぶりです、父上」

 

 

かつてマリアンヌの暮らしていたアリエス離宮の広間では、シャルル・ジ・ブリタニアが豪奢な椅子に腰掛けて色のない表情でマリアンヌの肖像画を眺めていた。

 

「コーネリアはクロヴィスと違ってなかなか隙がなく、直接訪ねて参りました。八年前の真実と……あなたの罪の精算を求めるために」

 

 

その頃、シュナイゼルはアヴァロンをブリタニアの国境付近に留まらせて首都ペンドラゴンへとごく僅かな護衛と共に戻っていた。

ペンドラゴンは険しい山々に守られるようにして栄える街だ。忍び入るのにこれ以上適した場所はない。しかも──皇宮から比較的離れた場所にあるアリエスの離宮ならばなおさらだ。

シャルルが離宮の警備を最小限に留めて静かにここで過ごしていることは知っているし、人知れずシャルルのいるだろう広間に行くルートも熟知している。ゆえに皇宮エリアに入ってからはシュナイゼルは単身で父である皇帝がいるだろうアリエス離宮へと足を運んだ。

「父上……」

静かにアリエス離宮の広間に入ったシュナイゼルは真っ先に飛び込んできたマリアンヌの肖像画を目に留めて苦い顔をした。そのまま椅子に座るシャルルに背後から声をかけ、話しかける。

「EUの地中海以南の領土は既に我がブリタニアに堕ちました。私の考えでは領土の半分を押さえたところでそろそろ幕を引いても良いかと思っておりますが。ご意見を伺いたく」

そうして跪いて臣下の礼を取ると、まるでマリアンヌにも礼をしているようで少々いたたまれない。

小さく、シャルルが返事をした。

「なんたる愚かしさよ。そのような俗事は全て……任せると言ったはずだ」

「……俗事……?」

ぴくり、とシュナイゼルの頬が撓った。──俗事とは取るに足らないどうでもいい雑務ということだ。

シュナイゼルは小さく歯噛みをする。少なくともシュナイゼル自身、常に政務に関してはできうる限り尽くしてきた自覚がある。自ら前線に立ち、戦闘の指揮をも執ってきた。どんな形であれ列強の一角である中華連邦を半属国とし、EUを追い込んだのも自分だ。

だというのにそれが全て「俗事」だと、シャルルにとっては取るに足らないわずらわしい出来事だというのだろうか? 皇帝として向き合うべき現実の問題だというのに。

「お言葉ですが、父上……これらの事柄は皇帝である父上自らが執り行うべきことでは? それを全て私に任せるとおっしゃるのであれば──」

「”早く玉座を退いて私を皇帝にしろ”か? 実の妹を手に入れるために玉座を目指すか、シュナイゼルよ」

「──! 父上、それは」

「構わん、サクラモネを妃にしたければするがよい。ただし……貴様に、玉座は……渡さん」

思わず、ギリ、と歯を噛みしめたシュナイゼルにはシャルルの声がどこか弱々しくなったのに気付けなかった。それほどまでに自分の継承権をはっきり直に否定されたことが響いてシュナイゼルはきつく眉を寄せる。

「あなたが皇帝に相応しいとは私は思えない……! 少なくとも私は常に尽くしてきた、国に、民に、そして父上……あなたにも。なのになぜ……」

「なぜ? 愚かな……、お前の中に流れる血は、マリアンヌのものではない──」

「そこまで愚弄なさるか、私を──私の母や兄妹たちをも……ッ!」

シャルルの言葉を遮って、シュナイゼルは懐の剣に手をかけた。しかし──シャルルの座る椅子に歩み寄って愕然とする。

「父、上……」

「玉座を……譲るべきものは、見つかった。これで……もう」

シャルルの纏う皇帝服にはじんわりと血が染みだし、椅子からも鮮血が伝わって滴り落ちていたのだ。シュナイゼルは驚きのままに彼の身体を支えた。

「父上……!」

しかしシャルルの瞳はシュナイゼルを見ることはなく、ただマリアンヌの肖像画だけを見つめている。

「マリ、アン……ヌ……」

そうしてゆっくり瞳を閉じていくシャルルをシュナイゼルは成す術もなくただ見守った。

愕然とする中でマリアンヌの大きな肖像画がこちらを見下ろしてきて、言葉をなくしたまま少しだけシャルルから手を放す。すれば自身の白い手袋が深紅に染まっており、シュナイゼルは苦く眉を寄せた。

 

「ルルーシュ……なのか、やはり」

 

元々慣れていた──虚に近かった感覚が一気に冷えてどこか抜け殻になっていくのをシュナイゼルは感じた。

ただただ自分の存在の無意味さを空虚の中で覚えた。

それほど野心を持っていたわけではない。第二皇子としてただ与えられた宰相という役目をこなしてきただけだ。幼少の頃から変わらない、ただ、父に認めて欲しいという子供じみた感情だった。皇帝の座を真に欲したわけでもない。ただ、今の延長線上に……お前になら次の世を任せられるといつか父の口から聞きたくて。

だが最初から無理な話だったのだ。

父が現実を顧みなくなっても玉座から退かなかったのは、いつかこんな日が来ると信じていたからだろう。自らの命を盗られてもマリアンヌの血を引く息子──ルルーシュに後を継がせる。自分はそのための「つなぎ」、ただ国を維持するためだけの宰相だったのだ。いずれ父の後を継ぐ彼のための舞台装置。そんな程度の存在にすぎないのだ、自分など。

もしもマリアンヌが生きていたら、など無意味な問いだ。彼女が生きていれば自分は今ごろ宰相ですらなかっただろう。そう、宰相たるルルーシュの下につく者。そうしていずれ来るだろうルルーシュの世で、彼に一生忠誠を誓うだけの人生だったのだ。

 

「哀しいね……サクラモネ」

 

ならば自分は、自分たちは一体何のために存在していたというのだろう? こんな国、いっそ潰えてしまえば──この虚しさも消えるというのだろうか。

 

 

陽がだいぶ傾きかけてきた──、このライブラ離宮のテラスに差し込む朱はどこかもの悲しく、主の儚さに似ていた。

「皇女殿下──」

臣下の者に呼ばれ、サクラモネは自室で本に目を通していた手を止めた。すると彼は予想外の用件を伝えてきた。

「面会の申し出です。シュナイゼル殿下が……」

「まさか、兄上はいま……」

EUへ出兵中だったはず、と返そうとするも言われるままに廊下に顔を出すと、奥から歩いてくるのは確かにシュナイゼルその人だった。

頭をさげて下がっていく臣下を目に留めつつ、サクラモネは驚きから唇に手をあてた。帰国するときは必ず連絡をくれたシュナイゼルだというのに。それに一方的に呼びつけるのみで、この離宮に足を運ぶことなどなかった。

「やあ……、久々に見ると、やはり美しい。変わらないね……君は」

いっそう憂うような表情を深めてシュナイゼルは微笑んでいた。いつもよりもどこか噛みしめるような口調だ。

「どうして……」

「驚いたかい? すぐ戻らなくてはならないんだけど、どうしても君の顔が見たくてね」

サクラモネは戸惑ったが、急な訪問とはいえ相手は第二皇子だ。もてなしの用意を、と誰か呼ぼうとするとシュナイゼルに止められ、仕方なしに自室に招き入れて向き合った。

黙していると、ふ、とシュナイゼルが笑う。

「そうだ、父上からお許しを頂いたよ。君を妃にしてもよい、と」

「え……?」

「だけど、君が私を愛していないのだから……仕方がないね」

穏やかな口調にどこか芯がない。サクラモネが怪訝に思っていると、シュナイゼルは一つ声のトーンを落としてとんでもないことを言い出した。

「──ルルーシュが、生きていたそうだよ。サクラモネ」

何の脈絡もない話にサクラモネは瞠目するしかない。いきなり何を言っているのだろう。その名を持つ弟は八年前にエリア11で死んだはずだというのに。

「何を根拠にそのような……」

「根拠、か。そのうち分かるんじゃないかな。ただ……私も嘘だと信じたいけれど、兄上たちはお喜びになるだろうね」

ルルーシュを──マリアンヌ親子を良く思っていない、というのは既に互いの暗黙の了解だ。ゆえにこのような話ができるのは兄妹の中では自分だけなのだろう。けれどもあまりに突拍子もないことにサクラモネが返事に窮していると、目線の先のシュナイゼルは肩を竦めていた。

「マリアンヌ后妃は破天荒な方だった。非貴族の出でもあったし、皇族に似つかわしくない言動の数々に胸を痛めていた人々もいてね……八年前、そんな后妃を悲劇が襲った。真相は今だ闇の中だとは君も知っていると思うけど、私は知っていたんだよ。アリエス離宮襲撃の噂を」

「え──!?」

「離宮の警備増強を奏上はしなかったけどね。聞き流しただけ……。おそらく君でもそうしただろう?」

言われて、サクラモネはマリアンヌの墓標を訪れた時のことを思い出した。母を苦しめた女、と彼女の墓標を睨んだ自分。でも……となおも言葉に詰まっているとシュナイゼルはどこか諦念したように静かに語る。

「けれども、あの日からルルーシュはブリタニアを深く憎むようになってしまった。彼の安全のためにエリア11へ疎開させた父上をもね。確かにすんなりとアリエス離宮を襲える人物など限られてはくる、その最たるものが私たち皇族の人間だ。八年前──すでに17歳だったクロヴィスが何かしら后妃暗殺に関わっていると疑っても不思議ではない」

「まさか……、じゃあクロヴィス兄さまを殺したのはルルーシュだと?」

「……例え話、だけどね」

「兄上、どうなさったのですか? なんだか様子が……」

あまりに不可解なシュナイゼルの態度に眉を寄せながらサクラモネが歩み寄ると、シュナイゼルは少しだけ満たされたように笑った。

「嬉しいね、君が私を案じてくれるとは」

しかし頬へと伸ばされかけた手にぴくりと反応すれば、シュナイゼルは苦笑いを漏らしてそれ以上触れようとはせず手を降ろす。

いつも公務のときは身につけているはずの白い手袋をしていない──その事に気づいて瞳を揺らしたサクラモネだったが、シュナイゼルは哀しげに微笑むのみだ。

「君が生まれた時のことはうっすらとだけど覚えているよ。儚げで美しかった君の母上によく似たその髪の色が印象的で……けれど次に君に会った時、すぐに妹だとは気づかなかった」

「次に、会った……?」

「君は知らないだろうね。でも私はよく覚えているよ……バラの香る中、倒れそうな身体を警備の者に支えられて”外に出てみたかった”──と言っていた幼い少女のことを。闇夜の中で揺れるその髪がとても美しくて目を奪われて……。あの夜から君は私のたった一人の大切な女性で、大切な妹で、その二つが切り離せず……結局は耐えられずに君を傷つけてしまった」

「あ、兄上……」

兄、と呼ぶと傷ついたような表情をするシュナイゼルは今も変わらず、しかし今さら懺悔めいたことを口にするシュナイゼルをサクラモネが理解できずにいるとシュナイゼルは部屋の時計に目をやって軽く息を吐いた。

「もう行かなくては。まだ決着がついたわけではないからね」

「あ……」

「君が息災であることを祈るよ。──愛している、サクラモネ」

抱きしめてキス──といういつものシュナイゼルの行動であればこの言葉も不思議には思わなかったかもしれない。しかしシュナイゼルはいつもの憂い顔に微笑みを乗せるだけで、消え入るように呟いてからサクラモネに背を向けた。

追うことはせず、サクラモネはその背を見送った。

扉の向こうに消えるシュナイゼルの大きな背中がやけに儚く消え入りそうで気にかかったが、それ以上は考えないようにした。

ただ、ルルーシュは生きていた、という妄言めいた言葉が気にかかって──調べようとした矢先の出来事だった。

 

「皇帝陛下が崩御された──!?」

「アリエスの離宮でご遺体が発見されて……」

「第一発見者はオデュッセウス殿下と、あの──」

 

皇宮内はシャルルの突然死一色で染まった。

クロヴィスの死からまだ一年ほどしか経ってない矢先の出来事だ。大がかりな皇族殺しの陰謀が計画されていると話は飛躍し、恐怖と畏怖が瞬く間に皇宮内に広まった。

「母上……!」

そんな中、自身も動揺を隠せないサクラモネは母の耳に父死去の話が入らないよう努める余裕はなく──、気づいたときには既に手遅れであった。

シャルル崩御の話が耳に入った時、母は大きく瞳を見開いたという。そして静かに父の名を呼び、静かに目を閉じた。

最期に母が見たのは若い頃の──シュナイゼルのようだったという父の姿だったのだろうか? とサクラモネは静かに涙を落とした。

報われない愛に終焉の瞬間まで殉じた彼女を哀れと思えばいいのか、既にこの世にいないシャルルやマリアンヌを恨めばいいのか、サクラモネには分からなかった。

だが、少なくともはっきりしたことが一つある。これでシュナイゼルと自分を繋いでいた鎖は絶たれてしまった。これでもう母のためにシュナイゼルと罪深い関係を続けることはない。

もう二度と、あの腕に抱かれることもない。

ようやく解放されたのだ、彼から。解放された──その事実だけはきっと喜ぶべきことなのだろう。

けれどもどこか感情が乾いて、嬉しい、という実感は沸かなかった。サクラモネは思う。おそらく急すぎて感情がついてきていないだけなのだと。きっともう少し時間が経てば分かるはず──、そう思いこもうとしたサクラモネだが、時はそれほど悠長な暇をサクラモネに与えてはくれなかった。

急速にサクラモネの周りは慌ただしくなる。

シャルルの死亡推定時刻は、シュナイゼルがこのライブラ離宮を訪ねてきた日のちょうどあの時間。あの日、アヴァロンで戻らずになぜか単身でこの皇宮に戻ってきたシュナイゼルのことはそう多くはないとはいえ知っている人間は知っている。

シュナイゼルがアリエス離宮に出入りした所は誰も見ていないが、その後、皇宮を歩いているところやライブラ離宮に来たことは見咎められていたからだ。

以上の不自然さから、まずシュナイゼルにシャルル暗殺の嫌疑がかかった。いま現在アヴァロンとの連絡が途絶えていることも一層それを加速させた。

「まさか……兄上が、そんな」

シュナイゼルと最後に面会したのは自分だと証言してから、サクラモネは一人考え込んだ。

あの日のシュナイゼルは確かに様子がおかしかった。まるで今生の別れのような──そんな雰囲気を漂わせて消えていった彼の背中。

そうだ、あの日の彼は全てを諦めたような顔をしていた。それに何より──自分に指一本触れはしなかった。ということは、じき自分たちの契約が切れると、母が身まかると予想していたとさえ思えてくる。それにあの不自然に外された手袋は「何か」で汚れたからなのかもしれない。

だが──、だが彼が手を下したとはとても思えない。

きっと自惚れではない、彼が自ら母を死に追いやるような真似をして自分との絆を断つなど考えられない。

それに何より、彼は彼なりにシャルルを愛していた。常に認められたがっていた。それこそ母と同様に──常に父の愛を求めていたはずだ。

そんな彼が父を殺すとは思えないのだ。何より、彼ならばこんなにあっさりと足のつくような真似はしないだろう。

 

『──ルルーシュが、生きていたそうだよ。サクラモネ』

 

あの日のシュナイゼルの言葉──、いつかマリアンヌの墓標の前ですれ違った弟の強い視線が脳裏にちらついてサクラモネは思案した。

 

「ルルーシュ……?」



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11話

シュナイゼルはアヴァロンで中華連邦の領空付近を飛んでいた。

私室のソファに座り、常と変わらぬ憂い顔を浮かべるのみのシュナイゼルを控えていたカノンは苦痛さえ湛えたような辛そうな目で見ていた。

すると、どこか色のない弱々しい声でシュナイゼルはカノンへと語りかけた。

「カノン……、君は、いつも私に何も言わず汚れ役を買ってでてくれていたね」

「殿下……?」

「知っているんだよ、君が……マリアンヌ后妃暗殺を秘密裏に誘導していたことを。マリアンヌ后妃をよく思わない人間はそれこそ山のようにいたからね。そして、私は知りながら黙認した」

ハッとしたカノンにシュナイゼルは静かに笑いかける。

「君はいつも私の望むことを察し、私に替わって手を汚し続けてきてくれた。済まないと言うべきかありがとうと言えばいいのか。言葉が……みつからない」

「──私はブリタニアではなく、殿下ただお一人に忠誠を誓った身です。ですから、一切の責任は殿下にはございません。全ては私の独断、ですからどうか私の身柄をブリタニアに──」

「いや、いいんだよ。実行しなかったというだけで、私には明確な殺意はあったんだ。マリアンヌにも、父にも……」

赤い、真紅のワインが注がれたグラスを傾けながらシュナイゼルはそっと瞳を閉じた。

そうして思う。恐らくあれが最後の面会だった、と。自らが赤に染めた、真っ白で、透き通る透明な水のようだった異母妹の姿を瞼の裏に浮かべた。これで良かったのだ。自分とのことは悪い夢だったと思って忘れ、幸せに暮らしてくれればいい。──我ながらどうかしている。どんなことがあろうと彼女だけは手放すまいと誓っていたというのに、今も狂おしいほど彼女を求める心は変わらないというのに、気持ちだけがひどく空虚だ。

父の死でようやく悟り知ったからだろうか。自分でも気づかないうちに心内にあった僅かな期待……そのすべてが無意味だったのだ、と。しょせんは自分という存在など誰からも愛されることはない。どれほど足掻こうが真に欲するものなど一つも手にすることは叶わないのだ──、とワインを喉に流し込んでいると私室に機械的な呼び出し音が鳴り響いてシュナイゼルはは少し眉を寄せる。

通信の受信音だ。立ち上がって端末の所まで行くのが煩わしかったシュナイゼルはソファに設置されている遠隔操作ボタンに手をかけた。

「ほう、ロイヤルプライベート……か」

そうして映像を部屋全体に大きく投射させる。すると、そこには見事な黒髪を湛えた強い瞳が特徴的な少年がいた。

「お久しぶりです、シュナイゼル兄上」

「やあ、ルルーシュ。生きていたそうだね、ナナリーも無事なのかい? 嬉しいよ、とっくに死んだものだと思っていたのだから」

「ええ、地獄の果てから舞い戻ってまいりました。あなたを──殺すために」

通信相手がルルーシュであるだろうことを予測していたシュナイゼルは驚いた様子を見せず、尊大な表情で睨み付けてくる成長した弟の姿をいなすようにいつもの憂い顔を浮かべた。

「ほう。私は君に対しては常にいい兄であろうと努めたつもりだよ、その私を殺そうとは……悲しいね」

「あなたは──ッ! 俺の母さんの、マリアンヌ后妃殺害の真相を知っているはずだ! でなければ俺は──」

「早合点でクロヴィスや父上を殺したことを後悔しているのかい?」

「ッ、クロヴィスが日本でやっていたことを知っているのかシュナイゼル!? コーネリアのことも! 反乱の見せしめのように一つのゲットーの民間人を皆殺しなど日常茶飯事。こんな腐った連中、死んだ方が世界のためだろう!」

「──まあ、コーネリアはブリタニアの国是に忠実な性分だから、しょうがないかな」

「だったら俺はブリタニアをぶっ壊す!」

「哀しいね、ルルーシュ。父上は君の身を案じてエリア11へと君を疎開させたというのに。そしてそんな反発心を育てて戻ってきた君に甘んじて殺されたとは、実に報われない」

「母さんを守れずに何が俺の身を案じただ!? ──それに俺はシャルルを殺してなどいない。あなたはいい道化でしたよ兄上……アヴァロンを降りて単身帰国したのが運の尽きでしたね」

「私のせいにするつもり、か。けれどルルーシュ、私がその気になれば逆転のチェックメイトはそう難しくはないんだよ」

「おや負け惜しみですか?」

「いいや。ただ──その気があまりないというだけだ」

自分の言葉に一喜一憂するルルーシュの表情を面白く、だが冷め切って見やってからシュナイゼルは操作ボタンに手をかけようとした。これ以上無意味な会話を続ける気はなかったからだ。

「待てッ! 母さんの死は──」

「ああ、マリアンヌ后妃を殺したのは私だよ」

殿下、と焦った表情を浮かべるカノンを手で制止してシュナイゼルはもう一度ルルーシュを見やった。

 

「これで満足かい? ルルーシュ」

 

そうして一方的に切られた通信モニターを見やって、シュナイゼルの通信相手──ルルーシュは一人歯噛みしていた。

「あなたはいつだってそうだ、そうやって人を見下して……!」

八年前、母親を何者かに殺された。その悲しみが癒えるのを待つ間もなくエリア11──当時まだ日本であった地に送られ、まもなく日本はブリタニアと交戦状態に陥った。そんな中で命からがら生き延びて、かの地に住んでいたブリタニアの貴族に匿われ生き抜いた。

表向き死亡扱いにしたのは、暗殺の危険から逃れるためだ。自分一人であればそれも怖くはなかったが、妹のナナリーの無事を思えばそうせざるを得なかった。

そして恨んだ。母を守れなかっただけではなく自分とナナリーをこんな境遇に陥れた父を。いつか必ず自分たちを不幸にした全てに復讐すると誓って七年──最初の転機はクロヴィスだった。

 

『我が母上の死について知っていることを全て話せ』

『何を言っているんだいルルーシュ。皇族が関わってるなんてあくまで噂だろう? 私ではなく姉上や兄上に訊いてくれよ。それより──』

『ならば死ね』

 

自身が生きていたことに驚きを隠せなかったクロヴィスを手にかけた。実に簡単なことだった。芸術以外には才覚のないクロヴィスの治める政庁の警備などザルもいいところ。忍び込むのも、証拠を残さずクロヴィスを始末するのも容易い。

それに圧政から解放されたかつての日本人はクロヴィスの死を喜びこそすれ悲しむ者はいなかった。次の総督であるコーネリアがクロヴィス以上の圧政を敷いたのは皮肉以外の何者でもなかったが、副総督であるユーフェミアが正式に総督に昇任すれば少しはエリア11の状態も良くなるだろう。

あとは──あとは、母の無念を晴らせればそれで良かった。

それで良かったというのに。

「ルルーシュ、入るよ?」

深い思考に沈んでいると、ドアの外から声をかけられてルルーシュは姿勢を正した。

入ってきたのは長兄のオデュッセウスである。

「落ち着いたかい? 君も大分ショックを受けているとは思うけど……ちゃんと食事はとってくれよ。私は君が生きてくれていただけで嬉しいのだから」

「はい、ありがとうございます。兄上」

「それにしても、私は未だに信じられないよ。シュナイゼルがまさか父上を……などと」

心底辛そうなオデュッセウスに合わせ、ルルーシュも「俺もです」とうなだれる。

単身ブリタニア本国に戻ったルルーシュはまずオデュッセウスと連絡をとり、保護してもらっていた。

ルルーシュが生きていたことを何より喜んだオデュッセウスは快くルルーシュを受け入れ、すぐに皆に知らせようとしたがルルーシュはそれを止めた。

狙われているかもしれないから知られたくはない、と。今までそうして身を隠してきたのだから、と。

オデュッセウスは考えすぎだと言っていたが、取りあえずはルルーシュの言うとおり匿うことを承諾してくれた。

そして頃合いを見て父であるシャルルがよく訪れているというアリエス離宮──元はルルーシュの住んでいたその宮に二人して赴いたところ、広間で絶命しているシャルルとの悲劇の再会となったのだ。

「兄上はどうされるおつもりですか? アヴァロンは、コーネリア姉上に追わせると?」

「いや……シュナイゼルともう一度話をしようと思っているんだ。いくら私でも、今回ばかりはコーネリアに任せっきりにはできないよ」

「その事ですが兄上……俺、さっき話をしたんです。勝手かとは思ったんですが、シュナイゼル兄上と」

言ってルルーシュはつい今し方シュナイゼルと通信をしていた端末を弄った。オデュッセウスには分からないように巧みに編集し、再生ボタンを押す。

 

「ああ、マリアンヌ后妃を殺したのは私だよ」

 

ルルーシュはわざとと気づかれないよう装いつつ陰鬱な表情を浮かべてオデュッセウスを見やった。

「俺、兄上が母さんの死について何か知らないか訊きたくて……そしたら、こんな……」

オデュッセウスは通信のシュナイゼルの声を聴いて愕然としていたが、ルルーシュは思った。本人がこう言っている以上、シュナイゼルは何かしらマリアンヌの死の真相について知っているだろう、と。

殺すにしてもそれを突き止めてからでないと──と思いつつ口の端をあげる。

皇帝暗殺の犯人について、シュナイゼルはこれ以上ない隠れ蓑となってくれた。

こうもあっさりとこちらの思惑に引っかかるとは、聡明さだけは認めていたシュナイゼルだというのに随分と鈍ったものだと思う。

ただ一つ、誤算があったとすればそれは──と考えてルルーシュは首を振るった。

 

『いつか、このような日が来ると思っておった……』

『ふざけるなッ! お前は母さんを守れず、俺とナナリーを見捨てた! それを──』

 

アリエスの離宮でシャルルと交わした最期の言葉。

美しく清掃の行き届いた離宮──、マリアンヌの肖像画をただ見つめていたシャルルの姿。

その姿は、幼少の頃からひたすら憎んできたはずの父の姿とはどこか違っていた。

 

『我が幻想は現実となった……もう、この世に未練などない。マリアンヌの待つ場所へ……行くとしよう』

『待て、せめて母さんの死について知っていることを吐いて死ね……!』

『あやつが、シュナイゼルが知っておる。おそらくな。ルルーシュ……ブリタニアは、お前に譲る。わしの、全てを……』

 

殺意はあった。銃は向けた。しかし、あれはほぼ自殺に等しかった。

シャルルはずっとあの場所でいつ訪れるとも限らない自分を待っていたという。そうして自分が壊すと決めたブリタニアをあっさり譲ると言った。

その後はもう──密かにオデュッセウスの元に戻り、オデュッセウスと共にアリエス離宮を訪れてさも第一発見者のように振る舞った。

同時に自身が生きていたことを公表し、失っていた皇籍をも取り戻したのだ。

あとはシュナイゼルさえ始末してしまえば全てが終わる。そう、それでいいのだ。

今までずっと虚像の人生を生きてきた。死を偽り、名前を偽り、経歴を偽って。だがそれももう終わりだ。

もうじき自分の真の人生が始まるのだ──とルルーシュは強い眼差しをまっすぐ前に向けて口の端をあげた。



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12話

皇帝殺しのクーデター犯。今の自分にはそんな罪状がついていることだろう。

もう今さら足掻いて覆す気さえ起きない。どれほど国に尽くしても、結局は何一つ報われはしなかったのだ。今さら未練などない。ましてルルーシュの治める世などに尽くす気が起きるはずもない。歴史に汚名を残すことになっても──それも一時のことだ。いつか、熱心な歴史家が真実を紐解いてくれることだろう。もうそれだけで十分だ。

ただ未練があるとすれば──、と表情を暗めてシュナイゼルは小さく首を振るった。

 

「さて、そろそろ討伐軍がやってくる頃かな?」

 

アヴァロンの私室でどこか色のないシュナイゼルの声が響き、そばに控えていたカノンはそっと眉を寄せた。

「殿下、反撃に出ればよろしいではありませんか。中華連邦は、いくら天子様がオデュッセウス殿下の妃だとはいえ殿下側につくはず。こちらの戦力は決してブリタニアに劣っては──」

「カノン、私はね……望まれてはいなかったんだよ。哀しいことだけど、時代にも……人にも」

カノンは哀れみを湛えた目でシュナイゼルを見つめるも、シュナイゼルは色もなくただ続ける。

「唯一、欲しいと願ったものも……結局は手に入らなかったしね。私はもう帝国宰相にも、玉座にさえも興味はない」

シュナイゼルが欲したもの──それは愛情だったことをずっと側で仕えてきたカノンにはよく分かっていた。

幼少からとびきり優秀だった、その能力を父親に認められず──いつしか期待することすら止めて空っぽになってしまったシュナイゼル。

それでもサクラモネさえ彼の側にいてくれれば──と思っていた。

彼女が兄であるシュナイゼルを愛し、支えてくれたら。

 

『支えてあげてください、公私ともに』

 

いつか、そう言ったら複雑そうな表情をしていたサクラモネ。おそらくシュナイゼルが無理強いした関係だったことは想像に難しくない。

それでもいつか、いつの日か彼女が彼の満たされない思いを分かってくれたら。──その願いは虚しく、彼は父親の死でどこか空虚だった心さえも折れてしまったのだろう。

そう、いまわの際までシャルルが口にしたのはルルーシュの名。自分の想像があたっていれば、そうだったのだろう。

でなければ、どんな場面にあっても宰相として尽くしてきた彼が折れてしまうわけがない。

本当に、なんて哀れな人なのだろう──。尊敬が同情へと変化して久しいが、だからこそ自分はこの主にちゃんと付き合ってやろう、とカノンは静かにシュナイゼルの私室を後にした。

 

 

オデュッセウスは何度かシュナイゼルとロイヤルプライベート通信での会話を図り、こちらへの出頭を説得しようと試みた。が、ことごとく交渉は決裂してついには出兵を決意していた。

アヴァロンはちょうど中華連邦の領土付近にいるという。

「中華連邦の軍を動かすよう私から説得してみましょうか?」

「いや、いいんだよ。残念だけど中華連邦はシュナイゼルの息がかかってるからね。──ありがとう、リーファ」

案ずるような目線を向けてきた幼い妻・中華連邦の天子だった少女にオデュッセウスが笑いかけると、彼女は「でも」と言い淀んだ。

「それなら、エリア11のコーネリアにお願いしてはどうかしら? 何も、殿下が行かなくても」

「コーネリアはとてもシュナイゼルを慕っていた。そんな可哀想なこと、頼めないよ」

「でも……でも……!」

天子は大きな瞳に涙を溢れさせて嗚咽を漏らす。

「殿下が、かわいそうで……! 殿下だって、辛いはずなのに……」

そんな天子を見てオデュッセウスは背を屈め、なだめるように彼女を抱きしめ背中を撫でた。

「君が替わりに泣いてくれたから十分だよ。弟の事は……兄である私がちゃんと決着をつけないといけないからね」

「でも……」

「大丈夫だよ、心配しないで。少しの間留守にするけど、元気にしているんだよ?」

「ッ、子供扱いしないで」

「ははは、まだ子供じゃないか」

泣きながら頬を膨らませる天子の頭を撫で、オデュッセウスは本国出立の準備に取りかかった。

 

そんな兄の出兵の話はライブラ離宮のサクラモネの耳にも入り、サクラモネは憔悴しきった色を顔に浮かべていた。

「兄上が軍を率いて出立なさる……。シュナイゼル兄さまを討つために?」

いったい彼が何の罪を犯したというのだろうか。

皇帝暗殺? いや、違う。それはルルーシュが──と思うも、証拠は何一つない。状況証拠からシュナイゼルは疑われるに値するだけの行動を犯してしまっている。

ではマリアンヌ暗殺? いやそれも本人が違うと言った以上、違うのだろう。が、所詮は根拠も証拠も何もない。

当のルルーシュはオデュッセウスの元で正式に第十一皇子としての籍を戻されたという。

これでは多くの歴史で語られてきたように、シュナイゼルは闘争に敗れ濡れ衣を着せられた哀れな皇子だ。

なぜこんなおかしな状況を甘んじて作り出させることを許してしまったのだろう。あの優秀で、野心さえ垣間見せていたシュナイゼルが。

 

『君が息災であることを祈るよ。──愛している、サクラモネ』

 

まるで別れを告げているかのようだったあのシュナイゼルの言葉──、本当に今生の別れのつもりだったのだろうか?

あの日のシュナイゼルは既に戦う意志などなかったように感じられた。どこか全てを諦めたような。まるで愛に破れ、打ちひしがれた母のようでさえあった。

父の死で、何かが壊れてしまったというのだろうか?

 

「兄上……」

 

だとしたら、死ぬのだろうか──シュナイゼルは。オデュッセウスやルルーシュに討たれて。

父の愛を求め、叶わず、彼が疎んでいたルルーシュに討たれて死ぬなどこれ以上ない屈辱のはずだ。なのになぜ──なぜそんな状況を許しているのだ?

 

『だけど、君が私を愛していないのだから……仕方がないね』

 

なぜ、あんな哀しい顔をしていたのだろう。

愛せるはずないではないか。そうしたのは、他ならぬシュナイゼルだ。

 

『君が生まれた時のことはうっすらとだけど覚えているよ。儚げで美しかった君の母上によく似たその髪の色が印象的で……けれど次に君に会った時、すぐに妹だとは気づかなかった』

『あの夜から君は私のたった一人の大切な女性で、大切な妹で、その二つが切り離せず……結局は耐えられずに君を傷つけてしまった』

 

あんなこと、今さら言われても知らない。それほどまでに堪え忍んで愛してくれていた、なんて。

うそだと思っているわけではない。本心からの限りない愛を注いでくれていたのもちゃんと分かっている──だけど、でも。

「兄上……」

ようやく解放されたというのに、頭がシュナイゼルから解放させてくれない。

自分を汚し、辱めて不幸にしたシュナイゼル。何度も何度もこの手で彼を殺そうと思った。

優しげな宰相の姿はただの仮面で、本当の彼は酷く残酷で恐怖で自分を支配しようとした──あの初めて彼に抱かれた夜に植え付けられた呪縛は今も自分の中で消えさってはいない。

けれども、あの冷酷さだけが彼の全てではなかった。

優しかった彼も、自分を愛した彼も、嘘ではない──全部本当のシュナイゼルだった。

 

サクラモネはふと、いつかバラのトゲに刺された人差し指に目線を落とした。

 

この指先から流れ出た赤い血──自分の中に流れる血。

この血が、ずっと疎ましかった。恐ろしかった。愛に生き、報われない愛に殉じた母のようになるまいと心に誓って──そして、母の愛した父に生き写しの兄に愛された。

汚れ、呪われた血だと──蔑んで憎んで。けれど、どれだけ疎んでも結局は否定できなかった。

「兄上……」

否定、できない。

──そうだ。きっと生まれたときから決まっていたのだ。母の子と生まれたときから、きっと逃れられない運命だと決まっていた。

「……シュナイゼル……!」

だってこんなにもシュナイゼルのことが頭から離れない。彼の穏やかな声も、しなやかな仕草も、肌の感触も、あの憂うような瞳も、冷酷ささえも既に自分の中に染みついて住み着いてしまっている。

彼のいない世界なんてもう考えられない。

だってこの血が、この全身が知っているはずだ。彼のいない世界に残された自分がどうなるのかを。

だから──、とサクラモネは胸に沸いた思いを抱いて駆けだした。

逃れられないのなら、受け入れよう。全てを赦せなくても、きっとそれが自分という存在の意味だったのだ。

ならば──。

 

 

「アヴァロンへ通達する。即刻武装を解除し、投降せよ。これは最後通告である」

 

皇帝殺し、及び后妃暗殺容疑のクーデター犯としてシュナイゼル討伐の任のため自ら前線へと乗り出したオデュッセウスは中華連邦との国境付近でついにアヴァロンを捉えていた。

案の定バックには中華連邦の軍が控えており、交戦やむなしの状態となる。天子の祖国の軍と戦闘となるのは心が痛かったが、今はそれも耐えた。

共に行かせてくれと志願したコーネリアのたっての申し出を苦く受け入れ、コーネリア軍を率いたオデュッセウスのブリタニア軍は強く、中華連邦軍は既に防戦一方に追い込まれている。

「兄上、なぜなのです、兄上……!」

前線でナイトメアを駆り、鬼神のごとき働きで中華連邦軍を一掃していくコーネリアもまたシュナイゼルへのやるせない想いを一人孤独にぶつけていた。

 

そんな中──、全く違うルートからアヴァロンへ近付くナイトメアフレームがあった。

 

「少しは抵抗してみせた方が後世の史学家も喜ぶ……とはいえ、コーネリア軍の前じゃ中華連邦軍も形無しだろうね」

「援護はいらない……と言いはしましたが、自国の領空に他国の軍隊が押し寄せれば中華連邦としても防御しなければなりませんものね」

「本国の天子は悲しんでおいでだろうね」

「中華連邦は殿下の配下ですもの。いくら彼らといえど、あっさりと殿下を引き渡すなどできませんものね」

アヴァロンの私室で静かに審判の時を待つシュナイゼルに笑いかけると、カノンは外へ出て格納庫へと向かった。

近付いてきているナイトメアの存在は知っている。ハッチを開いて収納させ、それに乗っている人物を迎え入れた。

「カノン……」

「良かった、無事に来られて。殿下からロイヤルプライベートを受けたとき……断るべきだったんでしょうけど、ごめんなさい」

「いいえ……ありがとう」

ふわり、と降りてきた人物のプラチナ・ブロンドが舞う。

そこに立っていたのは帝国の第三皇女、サクラモネ・ル・ブリタニアその人だった。

アヴァロンへのルートを教えてくれ、とロイヤルプライベート通信を受けたのがこの前。ここへ来たいというサクラモネの要望をカノンは快く受け入れた。

本来ならば拒否すべきだったのだろうが、そうするしかなかったのだ。全ては忠誠を誓ったシュナイゼルのために。

「彼は……」

「私室におられます。この格納庫を抜けて最上階に出れば大きな扉が見えますからすぐお分かりになるわ」

「ありがとう。カノン……あなたは……」

脱出して、とサクラモネは続けたかったのだろうか? 少し微笑んで首を振るってみせるとサクラモネは言葉を止め、一度目を瞑って纏っていた白いドレスをひるがえすと背を向けかけていった。

 

「エレベーター……」

 

カノンもまた、自分の運命に従うつもりなのだろう──、サクラモネは寂しそうに笑ったカノンを振り返ることなくカノンに教えられた最上階を目指した。

ドレスの裾を持って、廊下を小走りで進んでいく。やがて辿り着いた大きな扉の前で少しばかり息を整えると、サクラモネはかつてシュナイゼルの部屋に入る際にしていたようにノックを三度した。

そうしてそっと扉を開いて中に入る。

ゆっくりこちらに視線を向けたシュナイゼルは中央のソファに腰掛けていて、いつもの公務服ではなく皇族用の正装で短めの白いクロークを肩に巻き付けていた。

その装いがいかにもシュナイゼルらしい、と感じたサクラモネの瞳にシュナイゼルの瞳が徐々に見開かれる様が鮮明に映る。

「……サクラモネ……?」

「来て、しまいました」

笑いかけてソファの方へ足を向けると、シュナイゼルは意外そうにしながらも顔に笑みを浮かべる。

「まさか、兄上は君を差し向けたのかい? まあ、君に討たれるのなら……それもまた良しだ」

「違います。カノンに頼んだんです……アヴァロンへ行きたい、と。近くまでは船で来たのですが、ここまではナイトメアで。マニュアル……学んでいたのが役に立ちました」

「それは……、でも、どうして?」

「もう本国にはお戻りになれないと悟ったから。だから……私は、おそばに……」

そっとシュナイゼルの隣に腰掛けて、サクラモネはシュナイゼルの手に自分の手を重ねて精一杯の瞳でシュナイゼルを見上げた。ハッとしたように彼が切れ長の碧眼を揺らした瞬間に不意にアヴァロンが揺れ、サクラモネは小さな悲鳴をあげて揺さぶられるままにシュナイゼルの胸へと倒れ込んだ。

その身体を受け止めて抱きしめ、シュナイゼルは哀しげな瞳を浮かべる。

「そう長くは、このアヴァロンも持たないだろうね。……サクラモネ」

「はい」

「初めてだね、君が、君の意志で私の元に来てくれたのは。こんな時でなければ……いや、こんな時だからこそとても嬉しいよ。──でも、君はここにいちゃいけない」

どこか諭すようなシュナイゼルの瞳は遠く、サクラモネは眉を寄せるもシュナイゼルは小さく首を振るった。

「君はこれからいくらでも幸せになれるだろう? 由緒ある貴族に嫁いで、並の皇女らしい人生を──」

「そのような……、今さらどの口がそんなことをおっしゃるんですか? 私を汚して、不幸にしたあなたが」

「のちの史学家に笑われてしまうよ。女性を……それも妹を道連れにした男だと」

「その程度の恥、耐えてください。あなたのしたことを思えば、罪滅ぼしにもなりません」

シュナイゼルは言葉ではやんわりと拒否しながらもサクラモネを抱く手を緩めることはなく、彼女の片方の手をとって自身の頬にあて薄く笑っている。

「やっとまともに話をしてくれたと思えば……随分と手厳しい」

遠くで剣戟の音が聞こえる。誘爆の音も。オデュッセウスの軍が上船したのか──と二人はどちらともなく思った。

だからこそサクラモネは静かにシュナイゼルの胸に身体を預け、シュナイゼルは優しくサクラモネの髪に指を絡めながらゆっくりと今の時間を噛みしめていた。

「離宮の外に出てみたい。……小さい頃、よくそんな風に思っていました。でも、身体も弱くて……成長するに比例して怖くなって。だから……こうして外に出られるようになったことは、どんな形であれ幸せでした」

「そうか……。思い出すよ、十五年ほど前の、二度目の君との出会いを」

「不思議ですね……やっと今、自由な気がするんです」

やがて近付いてくる荒々しい足音がこの部屋に押し入る瞬間まで、サクラモネはうっとりと瞳を閉じていた。

彼の心臓の音が聞こえる。ゆったりとしていてあたたかい。

もう何も怖くない。だって自分はこのために生まれてきたのだから。

全身にただ彼の存在だけを感じ、どこか懐かしくて時間の感覚さえなくなるような──いつかのバラ園でも感じた甘美な時間が流れるも、それはよく見知った声によって乱された。

「いるのか、シュナイゼル!?」

サクラモネが顔をあげると、そこには武装した兵たちを引き連れて驚愕するオデュッセウスの姿があった。

「サクラモネ……!? なぜ君が……」

その横にもまた、同じく驚愕しているらしき黒髪の少年がいた。

「まさか……姉上……? なぜシュナイゼルと共に──」

「ルルーシュ……」

成長した憎むべき弟の姿。けれども今、かつてのような憎しみも畏怖もサクラモネの中に存在はしていなかった。

兵士たちが一斉にこちらに銃を向け、オデュッセウスが悲鳴に近い声で叫ぶ。

「こちらへ来なさい、サクラモネ! シュナイゼルから離れて──」

「いやです……!」

しかしサクラモネは、最も兄として慕ったオデュッセウスの叫びを掻き消すように拒絶した。

ギュッとシュナイゼルの腕を掴み、震える唇でオデュッセウスを見やる。

「ごめんなさい、兄上」

目線の先でオデュッセウスが驚愕の中、悲しげに眉を寄せているのが映った。

抱き合う妹と弟──、いくら凡庸と言われるオデュッセウスといえど二人の関係を理解してしまったのだろう。

僅かな沈黙が続き、ルルーシュさえも沈黙を続ける横でオデュッセウスは意を決したように兵士たちに指示を出すべく手を翳した。

もう時間がない──、サクラモネは表現できない精一杯の想いをシュナイゼルに向けた。

 

「──シュナイゼル」

 

そう初めて口にした彼女は見たこともないような満ち足りた笑顔を見せ、シュナイゼルは言葉を失う。

ずっと呼んで欲しかった名、ずっと向けて欲しかった笑顔。それが叶ったのが最期の瞬間であったことだけが悲しく、淡く表情を歪めながら詫びた。こんな運命に巻き込んですまない、と。

しかしそれも刹那──強く彼女を抱きしめれば胸を満たす愛しさだけに覆われて、その命を熱く受け止めながら初めて感じた。永遠にさえ思えた一瞬の中で、幸せだ──、と。

 

空間を貫いたオデュッセウスの声は、おそらく二人には届いていなかっただろう。

溶け合うように飛び散った二人の鮮血はまるで真紅のバラのようで──、全てが終わったあともオデュッセウスとルルーシュは二人の亡骸をしばし静かに目に留めるくらいしかできることはなかった。

 

 

***

 

 

やがて、オデュッセウスはシャルルの後を継いでブリタニアの皇帝へと即位した。

シャルルの遺言は「ルルーシュを皇帝に」であったがそれを聞いたものはだれもいないし、ルルーシュも明かすつもりはなかった。

マリアンヌ暗殺の真相も全ては闇の中。しかしマリアンヌ、クロヴィス、シャルルと全ての不可解な殺人は既にこの世を去ったシュナイゼルに押しやられ、世の無常を静かに感じさせた。

そしてまた、ルルーシュも無理に真相を知ろうとは思わなくなっていた。シュナイゼルを前にして問いただそうとした気力も、シュナイゼルを憎む気持ちさえもすべて彼と運命を共にしたサクラモネの死に攫われてしまったからだ。そうして残ったのは虚しさや罪悪感のみ──、彼女を死に追いやったのは自分ではないか、と感じる気持ちさえ境界線が曖昧で、何かが自分の中で終わりを告げた。

ルルーシュはオデュッセウスたっての願いでブリタニアの宰相に収まることとなった。シャルルやクロヴィス、シュナイゼル達のことを思えば辞すべきだったのかもしれない。しかし甘んじて受けたのは、宰相という地位に今後の人生を捧げて滅私奉公で全うすることにより語られることのない自分自身の罪へのせめてもの償いになれば、と思ったからである。

 

シュナイゼルとサクラモネの墓は皇宮の敷地内にひっそりと立てられ、オデュッセウスとルルーシュはせめて花は絶やすまいと公務の暇を見つけては二人の墓所を訪れていた。

今日も墓前へと白いバラを添え、オデュッセウスは虚空を見上げた。

「私は今も悩んでいるよ。弟を手にかけたこと……それから、何の罪も犯していないサクラモネをも討ってしまったことは本当に正しかったのか、と」

「……姉上は、とても幸せそうな安らかな顔をしておいででした」

「うん。私はずっとサクラモネはシュナイゼルとは仲違いをしていたと思っていたんだよ。コーネリアからも話を聞いたけれど、それは間違いで思い悩んでいたんだろうね……けれども最期は幸せそうだった、それがやるせないんだ」

ふわり、と風が一陣過ぎ去り、二人の鼻孔をかぐわしいバラの匂いが満たしていく。

兄を愛した──それを罪だと感じていたのならば、最期に彼女は解放されたのだろうか?

二人は、幸せだったのだろうか。

もはや確かめる術もなく、いずれは時間という広大な流れの中に二人のことも消えゆくだろう。

 

皇宮のバラ園には今日も色とりどりのバラが咲き乱れている。

 

ふと、墓所帰りの庭園を歩くオデュッセウスの耳に愛する弟と妹の懐かしい声が届いた気がした。

水路のせせらぎが聞こえる。

シュナイゼルの差し出す手をサクラモネが取り、バラ園の中で幸せそうに笑い合う二人の姿が瞳によぎってオデュッセウスはハッとして瞬きをした。

しかし、どう目を凝らしてみてもそこには普段通りのバラ園があるのみで、少しだけ寂しげに笑う。

 

 

この後──オデュッセウスを最後の皇帝としてブリタニアは瓦解。弱肉強食の支配主義は否定され、民主主義の道を歩むこととなった。

シュナイゼルとサクラモネを襲った悲劇の真相が歴史上で明るみになるのも、そう遠い未来の話ではない。

ある者は彼を悲劇の皇子と讃え、ある者は愚鈍な最期だと酷評した。彼の功績や軌跡も研究され、賛否両論さまざまな意見が今も飛び交っている。

しかし──成就することのなかった異母妹との恋だけは。その壮絶なまでの最期に人々は感情の琴線を刺激されずにはいられなかった。

誰かがこう言い残している。

彼らは確かに罪を犯したかもしれない。しかしそれは──この世で最も美しい罪だった、と。

 

ゆらゆらとバラの葉が揺れる。

かつての皇宮跡──二人の墓前には今日も豊かな香りを湛えたバラが絶やされることはなかった──。

 

 

 

 

── Amen. ──







最後までありがとうございました。


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