袁公路の死ぬ気で生存戦略 (にゃあたいぷ。)
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序章.蜂蜜よりも甘い毒
第一話.


 断じて私は特別な人間ではなかった。

 名門と知られる汝南袁家と縁のある名家の次子として生を受けるが、知略や武芸に秀でるはずもなく趣味に打ち込むこともなかった。幸いにも裕福な家庭の生まれではあったので質の良い教育は与えられていたので人並み以上の教養は身に付けていた。

 ひと通りの勉学を終えた私は、親の縁で汝南袁家に仕官し、主に書庫を管理する仕事に就くことになる。

 暇ある時は写生で小遣いを稼ぎ、貸し出された書物を記録して、時折、保管物が劣化しないように虫干しにする毎日を過ごした。

 色恋には興味はなかった、むしろ食欲の方に興味があった。名家の生まれであるにもかかわらず、面倒臭いと許嫁の一人も居なかった私は借り受けた小さな屋敷で自炊しており、珍しい食材を見つけては、とりあえず煮たり、焼いたり、蒸したり、調理して食する。それが趣味といえば趣味だったのかも知れない。他にも屋敷の中を掃除するのは時間潰しに丁度良くて、暇ができれば洗濯に出かける程度には綺麗好きあったとは思っている。

 良い嫁になれるよ、とはよく言われたものだ。その度に私は、男なんだけどね、と返している。

 

 平々凡々な私にも、親しい間柄の相手が一人くらいはいる。

 今でも鮮明に思い出せる憎たらしげな顔付き、名は文醜と云った。元は馬賊で、とある事情で袁家に仕えるようになった変わり種である。その武芸は同じ馬賊出身の顔良を除き、袁家では右に出る者がいないと呼ばれるほどの腕前だ。

 出会いは祝宴だったか。まだお互いに新米だった時の話、酒に酔い潰れた彼女の介抱を周りから押し付けられたのは縁の始まりになる。放っておいても大丈夫、との話ではあったが、流石に女一人を放っておくわけにもいかない、と致し方なく賃貸している屋敷まで運び入れて、ひとつしかない布団に転がした。別にやましい気持ちがあった訳ではない。多少は意識をしていたが、彼女の屋敷が何処なのか分からなかったし、宿を取るにも金が勿体なかった。

 翌朝、彼女は見知らぬ部屋に慌てふためくことになったが、とりあえず朝食を振舞ってやれば落ち着いてくれたし、事情を説明すれば納得もしてくれた。その時に彼女はやけに私がもてなした料理を絶賛してくれ、何故か翌日から彼女は酒瓶片手に家まで押しかけてくるようになった。酒のつまみを用意しろ、と命じては酒を飲み耽り、そのまま酔い潰れて眠ってしまうのだ。その度に布団を占拠されてしまうので、新しく布団を一組買う羽目になった。

 そのうち襲われるぞ、と忠告しても、返り討ちするから大丈夫、と大口開いて笑われた。

 実際、彼女を酔わせたところを狙った不埒な輩は居たようだが結果は返り討ちにされ医療所に送り込まれたようだ。末恐ろしや。だからまあ見知らぬ部屋に連れ込まれたのは初めての経験だったようで、あの時は本当に焦ったなあ、と酔い潰れる寸前の彼女は笑いながら話してくれた。

 机に突っ伏せるように眠る彼女の横で、このまま布団に連れて行っても良いものか悩んだのは内緒だ。

 まあ連れて行ったけど。

 

 さてはて、

 出会った当初から彼女は頭を使うことを苦手としていた。

 また面倒を嫌う性格でもあり――身も蓋もない言い方をすれば、彼女は極端に物臭な性格をしていた。

 女性が身嗜みを気遣わないとかありえない。と朝にまだ寝ぼける彼女の乱れた髪を梳かしてやったり、衣服を整えてやったり、食事は肉と野菜の調和が大事だと世話を焼いている内に随分と慕われるようになった。屋敷に泊まる回数も日に日に増えていき、気付けば酒盛り以外でも屋敷に訪れてくるようになっていた。時には勝手に屋敷に上がり込んで寛いていることもあるほどだ。

 そうしている内に部屋の一つが彼女に私物化され、彼女の私物が屋敷に溢れるようになっていった。

 

 彼女が泊まった後、部屋は散らかっていることが多い。

 部屋の掃除はもちろんだが、下着類を乱雑に放り投げたままにしておくのは如何なものか。勝手に洗濯してもなにも言わず、私が手洗いした下着を穿いて仕事へと出向いていった。週に二度、多い時は三度、稀に四度も泊まる時がある。泊まらないにしても屋敷に来ることは多く、箸とか、茶碗とか、着替えとか、備品が至るところに転がっている。徐々に侵食されている生活圏に私は深く溜息をこぼす。少なくとも水場に歯磨きが二本並ぶ光景は、嫁を取らず、恋仲も居ない。独身男性が見慣れて良い光景ではないはずだ。

 文醜が鍛錬後、汗臭い体を私の前で恥じらいなく晒して、濡らした布で肌を拭いている時のことだ。

「あたいの嫁にならない?」と言われたことがある。私は何時もの冗談だと思って「欲しいのは嫁じゃなくて使用人でしょ」って呆れ混じりに返すと「かもね」と彼女にしては珍しく、しおらしい笑顔を浮かべてみせた。

 文醜は妾の子と呼ばれる袁紹の側近として働いている。

 黄巾を頭に巻いた賊徒が増え始める頃、週に何度も泊まっていた彼女も忙しくなったのか顔を合わせる機会が減った。月に一度、泊まることがあるかどうかという頻度にまで落ち込み、二本も並んでいた歯磨きも半年過ぎれば自分の分だけに戻ってしまった。あれだけ面倒で邪魔で仕方ないと思っていた存在も今となっては懐かしいもので、彼女の臭いがしなくなった部屋に少し寂しさを感じながら掃除する。

 私は恋愛には縁のない人間だと思っていた。

 時折、夕食目当てで訪れる文醜はよく同僚の顔良のことを自慢する。私に対する当て付けのように、あたしの嫁だ、と宣言するようにもなった。その話を耳にする度にもどかしい想いをさせられる。金銭に余裕ができたのか、「小間使いとして雇ってやる」と彼女は冗談めかした声色で告げるが、わたしにも意地があったので丁重に断り続けている。そうすると不貞腐れたように頰を膨らませて酒を呷る。そんなだらしない彼女のことを見ているのは好きだった。可愛いと思う、愛おしいと感じている。我ながら女を見る目がないと思う。でも、たぶん、これはずっと前から育まれてきた想いのはずで、今になるまで気付かなかっただけの話だ。もう彼女の想いが私にはないことを察してから気付くとは情けない。彼女が顔良という人物に想いを寄せている今、彼女に仕えるのはきっと生き地獄に違いない。そんな苦行に自ら足を踏み入れる度胸はなかった。

 もう私達は恋愛関係に発展することはない。

 部屋を片付ける最中、彼女が脱ぎ散らかしたままの衣服を思いっきり嗅いだのは、後にも先にもこの時の一度きりだけである。

 

 文醜は考えることは苦手としていたが、元は馬賊の出身ということもあってか武官としては優れた才覚を持っている。

 彼女が袁紹の下で賊退治に精を出し、顔良と共に着実に名を上げる。その陰で私は今日も今日とて書庫整理に精を出す。とはいえ、やることをやってしまえば基本的に退屈な業務であり、書庫の入り口で訪問者を待ちながら余暇を過ごすことが多い。これでもっと政務に関われる役職であれば、政治のあれこれに振り回されたりもするのだろうが、幸いにもそういう御役目が私に回ってきたことはなかった。むしろ政治に関わるのが面倒だったから今の役職を選んだとも云える。

 閑職らしく閑古鳥が鳴く中で、何処ぞ彼処で大剣を振り回す少女を想って大きな溜息を零す。

 我ながら女々しくて、未練がましい。そうやって自嘲していると、こそこそとなにやら可愛らしいものが書庫の中へと入っていくのを目の端に捉えた。呼び止めようと思ったところで幼い少女と目が合って、幼子は真剣な顔付きで、しぃーっ、と口元に人差し指を立てる。

 さて、どうしたものか。考え込むと侍女が慌ただしい様子で駆け寄ってきた。

 

「はぁ……はぁ……お嬢様を見なかったでしょうか?」

 

 問われる。視線はそのまま、視界の端で書庫の入り口を探ると幼子の姿は消えていた。

 教えても問答になりそうだし、教えなくても面倒になりそうだ。という訳で「はて?」と持ち前のことなかれ主義で首を傾げてみせると侍女は丁寧にお辞儀をしてから立ち去った。そして取り残された私は誰もいなくなった書庫前で、本当に教えなくても良かったのか考える。例のお嬢様が書庫内にいることが知られると、とても面倒なことに巻き込まれるだろう。できることなら私の関わり知らぬところで解決して欲しいものだ。とりあえず幼子を書庫から追い出してしまおう。

 そんなことを思っていると、先程の幼子がちょこんと私の膝上に乗った。そして書庫内から取ってきたのか書籍を私に持たせる。

 

「其方、読んでたも」

 

 断るのも面倒になった私は、まあいいか、流されるままことなかれに読み聞かせる。

 この天真爛漫な自由人の正体が名門袁家の嫡子、袁術と知ることになるのはもう暫くしてからのことになる。

 

 

 




「袁本初の華麗なる幸せ家族計画」における美羽様の物語。

幸せ家族計画と合わせても読み難くて、かといって分けると検索で迷惑がかかる。
実際、どういう形が良いんだろうね。と思いながら、とりあえず恋姫二次が活発化することを祈って書き綴る。とりあえず区切りまで書き溜めは終わってます。七天で「この話を何処にぶち込めば良いんだよ! かといってないと袁術勢力がわけわからないことになるよ!」ってなったのが一番の原因。できるだけ検索ページの先頭に私の名前が重ならないように配慮していきたい。
投稿サイトに分けることで緩和した方が良いのかな。全勢力が好きなので欲張りたい。


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第二話.

 姓は袁、名は術。字は公路。

 名門袁家の嫡子にして、正当な後継者とされている。

 大切に育てられているせいだろうか。姉の袁紹がよく市内を歩き回るのに比べて、袁術は部屋の外に姿を現すことは少なく、その姿を周りに知られることはほとんどない。そのため絶世の美女と謳われることもあれば、容姿の醜さゆえに未だ許嫁の一人もできない。もしくは病弱であるが故に部屋から出られない幸薄の少女という信憑性のない噂が飛び交っている。

 そして現実は見ての通り、私の膝に乗って鼻歌交じりに絵本を読み漁るような歳相応に自分勝手で可愛らしい幼子であった。

 口遊む声の調子に合わせて、幼い体が左右に揺らされる。それに合わせて、少女の金色の髪もふんわりと揺れる。手に触れると肌触りが良く、品質の良い石鹸の香りが鼻先を擽る。背凭れの代わりにしているのか、暫くすると彼女は私の体に背中を押しつける。重心を傾けられる。いくら彼女が軽いといっても長時間そのままでいるのは少し辛かったりする。

 多くを語らない寡黙な少女を懐に収めながら私は和足で書類を広げて、新しく入った書籍を目録に書き込んでいった。

 

 どういうことか、あれから私は袁術に懐かれている。

 事ある度に書庫まで遊びに来ては私を椅子代わりにしながら書籍を読み漁るのだ。時間がある時には読み聞かせをしてあげることもあるが、仕事をしている時は基本的に大人しかったりする。どうにも彼女は本質的に図々しくはあるのだが、それとは裏腹に内向的な性格でもあるようだった。話をしようにも、うむ、とか、そうじゃの、とか適当な相槌しかしてくれないので正直なところ持て余している。ともあれ彼女にどういった事情があろうとも、今の平々凡々なる日常を過ごせるのならば構わないか、と目前の問題から目を逸らし続けているのが現状であった。

 ともあれ彼女も一応、賓客ではあるか、と思った私は来客用の茶請けを棚から取り出して与えている。手渡しする時、目を輝かせながら大切に受け取る姿が可愛らしかった。ご飯が食べられなくなるから一個だけ、そう言い聞かせるも少女は話も聞かずにゴクリと喉を鳴らしてから菓子に食らいついた。

 むしゃむしゃと貪る幼子を懐に抱えながら、目の前で揺れる金髪に惹かれるように頭に手を添える。

 思わず、と言った行為ではあったが当の本人は御菓子を食べるのに夢中になっており、気にする様子はない。その鈍感さに付け入るように優しく頭を撫で続ける。質の良い髪を手に絡めるのは思っていたよりも楽しい。今度、編み込みについて勉強してみようかと思いながら彼女の髪を手で梳かす。こうも間近にあると少しの乱れも気になるもので、手櫛でどうにか直そうと試みたが上手くいかなかった。

 次に会う時までに櫛でも買っておこうか。そんなことを考えていると袁術は菓子を食べ終えてしまったようであり、名残惜しむように自らの手をぺろぺろと舐める。

 

「其方、もう一個渡すのじゃ!」

 

 お口にあったようでなにより、しかし約束は一個だけだ。

 そう宥めると袁術は不貞腐れるように頰を膨らませ、私に書籍を手渡してきた。読めということだろうか、少女が急かすように両手で机をパンパンと控えめに叩いている様子からまず間違いない。仕方ない、と私は書類を片付けると彼女に読み聞かせを始める。彼女が好むのは旅行記や冒険譚といったものであり、目を閉じながら私の声に耳を傾ける彼女は何処か懐かしむに耳を傾ける。

 子どもとは心変わりが早いもので、先程まで不貞腐れていたのが嘘のように穏やかだ。

 

 翌日、喧騒の仲に私は居た。

 豫州汝南郡で最も賑やかとされる市場、立ち並ぶ屋台と露天商の迷宮を彷徨っている。

 目的は来客用の茶請けと櫛だ。末端とはいえ仮にも官職に就く身の上、酒は程々に、女を買うことはしないので資金には余裕がある。意匠を凝らした櫛を買うことはできないが、せめて髪を傷つけないような材質の良い物を探し求めて歩き回り、それで結局、給料一ヶ月分の品質のものを買うことになった。

 櫛はなくしたりしないように大切に懐に収める。

 そして周囲を見渡せば、随分、歩き回っていたようで人気の少ないに来ていた。あと茶請けを買う必要がある、と元の通りに戻る為に歩み出そうとした時、ふと甘い香りが鼻先を擽ったい。甘ったるい臭いに誘われるまま、視線を動かすと小瓶を売る露天商を見つける。

 なんとなしに気になって、露天商の店主に、これが何なのかと問いかける。

 

「蜂蜜だよ」

 

 女店主は素っ気なく答えてみせた。

 料理に興味を持つ一人として一度は味わってみたいと思っている代物だが、その高価さから手を出すことができずにいる。

 それが最高品質の蜂蜜ともなれば――この小瓶だけで私の給料の半年分が消し飛ぶほどの値段設定がされている。じっと見つめていると「それが何なのかわかっているのかい?」と女店主に問われたので首を傾げると「常識人はこっちにしな」と人懐こい笑みで安価の蜂蜜を差し出された、それでも月給の半分もする。どうしようか思い悩み――ふと菓子を食べる袁術の笑顔を思い出した。まあ私も舐めてみたかったし、と軽い気持ちで蜂蜜を仕入れる。普段の私なら絶対に手を出さないが、櫛という多額の買い物をしたことで気が強くなっていたこともあったのだと思う。

 知っているかい、兄ちゃん。と支払った貨幣の金額を上機嫌に数える女店主が世間話をするような気安さで語りかける。

 

「世の中には不思議な蜂蜜があるんだってね。男性が食べるとただの精力剤に過ぎないが、女性が食べると陰茎が生えるっていう代物だ。市場には滅多に出回らない代物だが、裏商人が名家を相手に多額で売り捌いているとのことだ。もしかしたら、あの子も、その子も……あんたの想い人も……」

 

 にっしっしっ、と下品な笑い声を上げる。

 元より名家の生まれにある私は、不思議な蜂蜜の話も知っている。というよりも一定以上の資産を持つ家に生まれた者にとっては常識的な話だ。そして不思議な蜂蜜の存在は富裕層における女尊男卑を助長させる原因にもなっている。言ってしまえば、不思議な蜂蜜で陰茎を生やせる以上、当主は必ずしも男である必要はなくなったのだ。ここから転じて子を孕む能力を持たない男性は女性に比べて劣っている、という思想が高祖劉邦の時代、権力者の間で流行ったこともあって富裕層の間では今でも男性軽視の風潮が根付いている。これは極端な話になるが――昔は男と目を合わせただけで、全身精液人間、と罵倒する女も居たとか居ないとか。

 最も後漢が成立して以来、性差別は徐々に改善されつつあるので私個人が陰湿な虐めを受けたことなどはない。

 ちなみに庶民の間では普通の蜂蜜すらも手に入れることが難しいので、女尊男卑の思想は浸透しなかった。文醜が私のことを蔑視しないのも、馬賊出身という経歴を持っている為を思われる。そういえば、彼女はよく話に出てくる顔良とよろしくやっているのだろうか。想像しかけて、頭を振って無理やりにかき消した。

 女性が口にすることじゃないよ、と曖昧に笑いながら自分自身を誤魔化した。

 

「私もどっちかっていうと価値観は庶民に近いから話せることだが――こういう行為をする時、男性は性欲に忠実になるだけで良いだけの話になるんだけどね。肉棒を差し込まれる側はいくら相手が愛する者とはいえ、行為中に組み敷かれて常に陵辱されるという背徳感を悦楽に変えなきゃならないんだ。それは相手を攻め立てている時でも同じ話、相手を受け入れる以上、興奮できなきゃ地獄に等しい苦痛を味わうことになる――こと性行為に関しては男性よりも女性の方が余程えげつなくて闇深いんだぜ。特に愛を知る者は性癖の開発に余念がない」

 

 そういえばお兄さん可愛いね、と微笑まれる。頰を指先で撫でるように手を添えられる。

 屈辱の快楽を味わってみたければ良い仕事を紹介するよ、と女店主に舌舐めずりをされた私は一歩、距離を取った。

 

「残念だ、私が最初を貰ってやったのに」

 

 小瓶を片手に摘まみ上げる女店主に、私は表通りに向かって逃げ出した。

 不思議な蜂蜜。男が舐めると中毒性の高い媚薬効果があり、よく女性が男性を貶めるのに使われるという話も聞いたことがある。そして今でも快楽漬けにされた破産者が男女問わずに奴隷堕ちするという話は絶えない。あの給料半年分の蜂蜜はおそらく、そういうことだったのだろう。戦々恐々、あの店には二度と近付かないでおこうと思った。

 懐に入れた小瓶を握り締めて、この蜂蜜は大丈夫なのだろうか? と思ったが改めて話を聴く気にはなれなかった。

 

 ところかわって翌日、

 今、私の膝上には袁術が蜂蜜を口に含んで目を輝かせているところであった。

 そんな上機嫌な彼女の髪を両手を添えて、最高級の芸術品を手入れするように優しく丁重に櫛で梳かしている。

 手で触れるだけでも穢してしまいそうな程に美しい金髪、光の当たり方で様々な輝き方を魅せる彼女の髪は見ているだけでも飽きず、触れているだけでも感動に吐息が溢れた。思わず顔を埋めてしまいたくなる程の髪質であり、ついつい顔を近づけてしまうと袁術が擽ったそうに身を震わせた。耳に息が吹きかかっておるぞ、と彼女は不機嫌に頰を膨らませるが髪そのものに触れることを禁じられることはなかった。

 綺麗ですね、と伝えると、そんなことはない、と素っ気なく返される。

 

「お主の方がよっぽど綺麗ではないか」

 

 そう言うと彼女は懐に収まったまま、天井を見上げるように私の顔を見つめる。

 面倒で切らずに伸び放題になった黒髪。このまま、もう少し経てば売り物になると思って今は整えるだけで意図的に伸ばしている。後ろに纏めている黒髪を、半身に座り直した袁術が私の頭の後ろに幼い手を伸ばして、シュルリと髪留めの紐を解いた。縛っていた髪がばらりと広がる一瞬の開放感、髪がうなじに覆い被さって、耳元が隠される。なんとなしに慣れない感覚、まるで女子のようじゃの、と袁術は楽しそうな笑顔を見せる。

 そろそろ切ろうと思っています、と言えば、勿体ないの、と袁術が少し残念そうな顔を見せたので切るのはもう少し後にしようと思った。

 

 

 



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第三話.

 とある日、いつもの様に袁術が書庫前まで来た時のことだった。

 なんとなしに普段と違う様子に違和感がありながらも彼女を屋内へと招き入れる。仕事を続けながら横目に袁術の様子を観察していると、まるで書庫内に初めて足を踏み入れたかのように周りを見渡しており、適当な場所から冒険譚を見つけ出すと、とたとたと私のところまで駆け寄ってきた。そして私の許可も取らずに膝上にちょこんと座って、読んでたも、と上目遣いにおねだりされる。まだ仕事中であるにも関わらず、にこにこと笑顔を浮かべる少女から書籍を受け取る。そして彼女の髪に鼻先を近付けて、すんと嗅いでみた。

 似ているが、違う匂いがした。擽ったそうに身を捩らせる彼女に問いかける。

 

「君は誰?」

「なんのことじゃ? ……いえ、惚けても無駄のようね」

 

 袁術によく似た幼子は残念そうに溜息を零すが、私の膝上から離れようとはせずに体重を預けてきた。

 まあ悪くない椅子ね、と冒険譚とは別の書籍を取り出して、自分で読み始める。

 趣味嗜好は違っているようだが、少女は袁術とよく似ていた。髪質、顔付き、そして匂いすらも本当に似ている。

 

「そういえば、どうして私が違うってわかったの?」

「袁術様はもっと石鹸の匂いが強いからね」

 

 もう一度、彼女の匂いを確認しようと顔を近づけると、変態、という一言と共に手で振り払われた。

 まあ不自然な点は多かった。例えば袁術は自分が興味のある書籍の場所はもう分かっており、他の書籍には興味も示さずに駆け足で向かっていくのだ。それに私が仕事をしている時に読み聞かせを強請ってくるような真似もしない。演技を止めた袁術似の少女は、改めて見つめると、袁術と比べてと利発な顔付きで全体的に落ち着いているように感じられた。

 彼女の名前を問いかけると、袁姫、と彼女は名乗った。

 

「名門袁家における正当後継者の二番手とはわたしのことよ。まあ尤も政争の火種になるからって表にはあんまり出して貰えないけどね」

 

 たまに御姉様に成り代わって遊んでいるの、と袁姫と名乗った幼子は悪戯っぽく歯を見せる。

 今日、袁術は来ないのか。と少し残念に思いながら彼女の髪を手に取って櫛で梳かす。すると袁紹姫は頭を振って、私の手を振り払った。私は御姉様じゃないんだけど? と半目で睨みつけられたので慌てて髪から手を離す。好ましくない異性に髪を触られて気分の良い女性はいないだろう、では彼女が私の膝上に乗ることは許して良いのだろうか。そんなことを思えば、私のような美少女を膝に乗せれて嬉しく思わない男はいないわ、と自信たっぷりに断言されしまったので何も言い返すことはできない。

 そもそもだ、袁術相手に初対面で膝上を占拠されているのだ。何を言ったところで説得力はない。

 藪蛇は突かないに限る。

 

「あらやだ、女性を退屈させるなんて教育がなっていないのね」

 

 沈黙を保ちながら粛々と書類整理をしていると袁姫が退屈そうに欠伸をする。

 袁術と比べて、随分と御令嬢然としている気がする。手に持っている書籍も冒険譚から別のものに変わっており、背中越しに覗き込んでみると――どうやら異性の落とし方について書かれているようだ。その方法は、えげつないものが多く書き記されている。例えば、この一節。『男性から情報を得るには先ず、既成事実を作ることである。なお、その場合は恋人になるよりも秘密を共有する愛人、つまり浮気相手となるのが好ましい』というのが平然と書かれている辺り、未成年の子どもが読んでも良い代物ではない。

 かといって取り上げる気にもならないのが、なんというか、何処までもことなかれな私だった。

 

「私は当主を引き継げないだろうから自分の身は自分で守れるように勉強しとかないといけないのよ。御姉様みたいに勉強をサボっている時間なんて何処にもないわ」

 

 いつ邪魔者として殺されるのかわかったものじゃないわ。と妙に実感のこもった声色で告げる。

 

「ちなみに御姉様が勉強をサボるようになった原因って知っているかしら?」

 

 問われて、首を傾げる。

 思えば、そういう話を袁術としたことがない。

 興味がない、といえば嘘になる。でも、興味がない、と答えることが私が私の日常を守るための処世術。それは意図的というよりも無意識で、あまり相手の深い事情に関わりたくないという自己保身が働いた結果だ。

「知りたくないの?」と半身に腰を捻りながら幼子を問いかける。

 頰に触れる小さくて柔らかい手の感触、じっと私の瞳を覗き込んでくる翡翠色の瞳、どうしてか目を背けることができなかった。

 それでも私は「興味がなかった」と答える。

 

「嘘ね」

 

 ふっと吐息を零す袁姫の笑みは妖艶だった。

 袁術と同じ顔で、袁術とはまるで違う仕草をする。

 それは新鮮で、少し薄気味悪い。怖かった。

 

「気になるなら御姉様に聞いてみると良いわよ。そうね、問い質すのは()()にすることをおすすめするわ」

「どうして?」

「だって貴方は御姉様のお気に入りじゃない」

 

 くすくすと肩を揺らしてみせる。何故、袁術に好かれることが問い質すことに繋がるのかわからない。

 

「どうするかは任せるわ。でも、私は汝南郡から離れることを勧めるわよ」

 

 もうあまり時間がないのよ、と零される。

「なんの時間?」と問いかけると「私にも監視が付いているのよ?」と鬱陶しそうに零した。

 貴方に会えるのはお目溢し、身代わりもお目溢し、と退屈そうに告げる。

 

「ちなみにこれは袁術の秘術、氣の扱いに長けることは不老長寿の証なのよ」

 

 言いながら奥付を見せると汝南袁家を示す押印があった。

 そこから書物のとある頁を開くと、男女の周りについて、図面付きで詳細に書き記されている。

 そのあまりの精密な絵と想像を遥かに超える濃密な内容に体の一部が固く反応した。

 

「あら、不能じゃなかったのね?」

 

 袁姫が嘲笑いながら下腹部を撫でる。

 無言で少女の手を払って、私は大きく深呼吸を繰り返して気を落ち着ける。

 袁術とよく似た彼女は、袁術とはまるで違っていた。

 

 その翌日、

 袁術が妙に気落ちした様子で書庫前に姿を現したが、事情を聴いても力なく笑うだけで答えてくれなかった。それだけで私は深く追求することをやめる。

 袁姫のことも今は聞くべき時ではなさそうだ。問い質すわけでもなく、解決しようともせず、まだ幼い少女に寄り添える場所を与える。問い質すことは袁術にとって、そして私にとっても大事なことだと本能的に理解していながらことなかれに身を委ねる。いずれ聞けばいい。そんなことを考えている内に、有耶無耶になって、忘れてしまうのが何時もの私だった。

 膝上に座る彼女の髪を櫛で梳かす、やっぱり彼女は石鹸の香りが強いと思った。

 少し過剰に思えるくらいに。

 

 

 




自分で書きながら他の人の作品を読んでると毎日投稿できてる人って本当におかしいと定期的に思います。
あとFE面白いですね。今は無双OROCHi3やってます。
みんなどうやってモチベを保ち続けているだろうか。
ガリィちゃん、面白くて三周目ですよ。


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第四話.

 数日後、

 仕事から帰ると賊退治から帰ってきた文醜が私の屋敷に上がりこんでいた。

 ほとんど下着だけの姿で寛いでおり、私が棚に隠していた菓子類を勝手に取り出しては頬張っている有様だ。少しばかり自由奔放が過ぎる友人の様子に、私は苦笑を浮かべながら屋敷に足を踏み入れる。おかえり、とぶっきらぼうに告げられて、ただいま、と頰を緩ませながら答える。冷室に残っている食材を思い出しながら、後で改めて買い出しに向かうことを考慮する。

 今日の献立のあれこれを考えていると「暫くここで過ごすからな」と彼女から突拍子もないことが告げられた。思わず、文醜の顔を見返すと「嬉しいだろ?」とにんまりとした笑顔を浮かべる彼女がいた。

 俯せでパタパタと足を振りながら目を細める仕草は、普段、がさつな彼女から感じさせない色気がある。

 

「誘ってる?」

「違うな、貰いに来た」

 

 歯を見せて笑う文醜に私は目を背ける、今の彼女はあまりにも目に毒だ。

 とりあえず深呼吸、そして、よく食べる彼女の為に買い出しに行くことを決める。

 今、この場にいると間違いを起こしてしまいそうだ。

 

「……冗談は程々に、食べたいものはある?」

「半分くらいは真面目だよ」

「もうちょっと身嗜みには気を付けるように、親しき仲にも礼儀は必要だからね」

 

 そうなのか? と文醜は首を傾げた後、そっか、と頷いた。

 

「私の屋敷に来た本当の理由は、賊退治で汝南に戻れない時期が長らく続いたから屋敷は荒れ放題。どうせ屋敷に戻ることも少ないし、どうせ管理できないのなら汝南にいる時期は私の屋敷に寝泊まりすれば良いじゃん、とかそんな感じでしょ?」

「いやまあ、確かにそれもあるけど……」

「良いよ、別に。私も日中は屋敷にいることが少ないし、部屋も一つ余ってるからね」

 

 異性と同じ屋根の下で二人きり、それを良しとする彼女は常識とか貞操観念というのが些か欠けている気がしないでもない。

 いや、むしろこれは私のことを異性として見られていないことが問題なのかもしれない。これはこれで信頼の証と呼べるかも知れないが、友達以上の存在になれないのは少し苦しかった。う〜ん、と猪々子が下着姿を晒すように体を大きく伸ばした。ちらりと見える脇下か横乳、薄っすらと汗ばんだ肌――思わず見てしまった肢体に私は生唾を飲み込んで、改めて目を逸らす。

 視界の端で楽しそうに笑う文醜、意識してしまったことは気付かれているようだ。

 

「変な噂が立っても知らないよ」

 

 揶揄われることに私は不機嫌さを露わにする。

 しかし文醜は嬉しそうに笑みを深めるだけだ。

 

「構わないな」

「構ってよ、いつか痛い目を見るよ」

「痛い目は嫌だなあ」

「だったら思い改めて」

「思い改める気はないね」

 

 文醜は口元を弧にして、くすくすと肩を揺らした。

 

「反省させたかったら身を以て分からせてみろよ」

 

 一歩、後退った。

 

「それともお前が誰のものなのか分からせる方が良いか?」

 

 いつもの粗雑な印象とは違う、彼女は獲物を見つけた猛獣のように獰猛な目で私のことを睨みつける。

 身が竦んだ、蛇に睨まれた蛙のように体が震えて動かない。細められた彼女の双眸から逃れることもできず、蒼色の瞳に意識がとらわれる。目の前の少女が初めて恐ろしいと感じだ。一歩、近付かれる度に心臓が止まりそうになる。呼吸は短く、荒くなり、まだ距離があるというのに首筋に歯を突き立てられたような錯覚に陥る。頰に冷たい汗が垂れる、呼吸が苦しい。じりじりと肌が焼けるような錯覚、これは殺意か、敵意か。胸が苦しい、心が苦しい。呼吸が止まりそうになる。妖艶な笑みを浮かべる彼女の姿から目を背けることができない。薄っすらと脂肪を纏った筋肉質な肉体から目を離せない。

 じわりと距離を詰められる、その分だけ後退る。

 待って、と両手を上げる。怖かった、体が震えて止まらない。受け入れることができない。今、目の前に起きていることが信じられない――というのに何故、私は笑みを浮かべているのだろうか。待てと、落ち着けと、正気に戻れと、心の内で何度も反芻する。これは違う、ありえない、と首を振りながら後退っていると、背中に壁が当たった。右か、左か、どちらに逃げようか悩んでいる間に、あと一歩の距離まで詰められる。もう駄目だ、と駆け出そうとした瞬間――ドンッ! と耳元の壁に手が叩きつけられた。ひうっと情けない声が出る。胸元でぎゅっと両手を握り締めながら強く目を閉じる。

 鼻先に息が吹きかかる。暫くしても何も起こらず、恐る恐ると目を開けば、目と鼻の先に彼女の顔があった。

 とても楽しそうで末恐ろしい笑みを浮かべている。猫に追い詰められた鼠の気持ちがなんとなくわかった。まるで金縛りにあったかのように動けない。食べられる、どうすることもできない。目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとなった。目に溜まった涙は溢れそうで溢れない。逃げられない、逃げなきゃいけないのに。彼女には想い人がいる、そして一時の気の迷いで彼女に心を許したくなかった。きっと嫉妬する、醜い自分が溢れ出す。想いを止められなくなる。だから適度な距離を保ってきたのに、苦痛を感じない距離を保ち続けてきたというのに。どうして彼女は追い詰めるのか、どうして彼女は私を虐めるのか、私は独占したい訳じゃない。幸せを願っているだけで充分、そう思い込むことで心の均整を保ってきた。彼女の顔を見ていると可笑しくなりそうだったから顔を俯ける。それが私にできる唯一の抵抗であり、それは簡単に打ち砕かれた。

 顎下に手を添えられる。首を振って、振り払おうとすれば、顎を掴まれた。ぐいっと持ち上げられる。目の前に想い人の瞳がある、息が吹きかかるよりも近い距離で、彼女の瞳には私の瞳が映っていた。口元に吹きかけられる吐息を吸い込んだ。少し熱の孕んだ吐息が私の肺に満たされる。身動ぎするだけでも唇同士が触れ合いそうだった。実際、呼吸の度に何度か掠っている気がして仕方ない。胸の内側から何かが叩きつけられている、ドクンドクンと全身が熱くなる。

 ふと彼女の顔が目の前を横切って「あたいのものになってよ」と耳元に吹きかけるように囁かれた。

 擽ったい、ゾクゾクッと身が震える。どうしたら良いのかわからなくなって、ギュッと目を閉じる。逃げられないと観念して、訪れるはずの感触を待ち受けた、待ち望んだ。体の方は膝が震えるほどに限界で、想いは言葉にならない。呼吸がわからない、もう心の方が保たなくて、ポロポロと涙が溢れて止まらなくなった。

 情けないけど、もう無理だった。耐えきれない、耐えられない。涙を流すことだけが私に残された唯一の感情表現だった。

 

「えっ? ちょっと、えっ? ああ、もう泣くなよ! 男なんだろっ!?」

 

 普通は女が泣かされるものだろうが、と怒鳴られても困る。

 怖かったし、恐ろしかったし、なによりも嬉しかったし、もうごちゃ混ぜでどうすれば良いのかわからなくなってる。顎から手を離されると膝から崩れ落ちて、壁に押し付けた背を擦るようにへにゃりと座り込んでしまった。体の動かし方も忘れてしまったようで、涙を拭うこともできずに流し続けた。ああもう、と悪態を吐きながら彼女が服の裾で私の目元を拭い取る。それでも立ち上がることができない。完全に腰が抜けてしまったようだ、過呼吸で胸が痛み、苦しくなってきた。

 ハヒッハヒッと前のめりに背中を丸める最中、慌てふためく彼女のなすがままにされるしかなかった。

 

「……なあ、あたいの下で働かないか?」

 

 どうにか心が落ち着けた頃合い、文醜が気遣うような、どこかぶっきらぼうに私に告げる。

 こんな私で良いの? と問い返すと、そんなお前だから良い、と真顔で答えられた。ゆっくりと瞼を閉じる、そして彼女の下で働く自分の姿を夢想した。面倒臭がりな彼女のことだ、自分の屋敷の使用人として雇われるだろうか。日が昇ると同時に目覚めて、身支度を整えてから朝食の準備をする。少し遅れて、その匂いに誘われるように寝惚けた顔の彼女がひょっこりと顔を出すのだ。他愛のない話をして、城に出向く彼女に玄関で別れる。いや、もしかすると城までついて来させられるかも知れない。率いる部隊の兵糧や装備の管理を任されて、報告書といった資料作成を押し付けられるのだ。彼女が練兵に精を出している間、私は書類を睨みつけて部隊の維持費と予算を兼ね合いに頭を悩ませる。面倒なことは全て、押し付けられるのだろうな。そして私の苦労など知らずに満面の笑顔で浪費してみせるに違いない。苦労させられる未来しか見えなかった。それでも、まあ彼女の隣に居られる時間が少しでも増えるのなら、と思う自分はどうしようもない程に手遅れだ。汗だくになった彼女と共に屋敷に帰って、汗を流してもらっている間に夕餉の準備を済ませる。そして御飯を食べながら今日起きたことを話し合うのも良い、他愛のない話でも良かった。気楽にできる話なら、なんでも良い。休日にはだらしない彼女の部屋を掃除したり、洗濯をしたり、家でだらだらし続けるのも良い。時折、一緒に街へと足を運んで――そういえば、彼女は馬賊の出身だった。遠乗りに連れて行ってくれたりもするだろうか、今から騎乗の練習を始めた方が良いだろうか。いや、それとも騎乗の練習を彼女に付き合ってもらうのが良いだろうか。馬に乗る彼女の姿は格好良いから、だからきっと大草原で馬を駆る彼女は惚れ直すほどに素敵に違いなかった。惚れさせて欲しい、呆れさせて欲しい、だらしないことはわかっている。彼女の生活力には期待しない、でも彼女の格好悪くて、だらしないところも好きなんだから仕方ない。好きなところも、嫌いなところも、丸ごと全てを愛してしまっている。

 来るかどうかもわからない未来を想い描いて、むふふと頰を緩ませた。気持ち悪いな、と引き気味に告げる文醜。失敬な。

 

「……少し時間が欲しい」

 

 彼女の誘いは魅力的で、今すぐにでも手を取りたかった。

 しかし私は仮にも役人だ。仕事を辞めるにしても引き継ぎは必要だ。同じ汝南袁家とはいえ本家から親戚筋に仕えるとなれば、それなりの根回しは必要になる。衝動的に決めて良いことではない。だから身支度を整えるまで待って欲しい、と告げる。

 文醜は残念そうに肩を落としたが、すぐに笑顔を浮かべ直してくれた。

 

「それじゃあ次の討伐が終わるまでだ、それまで待っていてやるよ」

「うん、わかった。次の討伐が終わって帰るまでに終わらせておくよ」

「あたいのものになる約束だ」

 

 文醜が立てた小指を私に突き出してくる。

 彼女の笑顔は眩しくて、また目頭が熱くなってきた。きゅうっと胸が締め付けられる、きっと顔は恥ずかしいくらいに真っ赤に染め上げられている。おずおずと小指を差し出すと、その先端同士が触れ合って、ヒュッと息が漏れた。とくんとまた心臓が高鳴って、その瞬間だけ時間が止まったかのように感じられた。頭の中が真っ白になった一秒にも満たない隙間、気が引けそうになる小指を彼女の小指に絡め取られる。繋がっている、力強く絡みついている。

 ゆびきりげんまん――そんな言葉にまた目元から涙が溢れる。もう片方の手で掬い取られた。彼女の指で透明の雫が揺れている。それを彼女の赤い舌がペロリと舐めとった。獲物を前にした猛獣のような目で私のことを見つめる。約束だよ、そんな風に彼女の口元が動いた気がした。ぶるりと身が震えた、怖い、怖かった。もう私の心と体は私のものではなくって、彼女に縛り付けられる。

 また涙が止まらなくなった。苦しいほどに幸せで、涙は嬉しい時に流すものなんだって思い知る。

 

 夕餉を食べた後、文醜は屋敷を出る。

 いつもなら止まるのに今日に限って――と切なさを胸に抱いていると、次の討伐を早く終わらせるための下準備と彼女は答えてくれた。どうやら居ても立っても居られなかったようだ。自由気ままな彼女はあれからずっと浮かれた様子であり、そんな自由気ままで気紛れな彼女を見つめながら、今後も苦労しそうだなと苦笑いを浮かべる。わかっていたことだ。そんな苦労も今では待ち遠しく思えるのだから、恋は盲目という言葉は本当だと思う。だって彼女が視界にいるだけで世界は幸せ一色で彩られてしまうのだから。

 最後に文醜が私の髪に触れると、伸びたな、と呟いた。切った方が良い? と返すと彼女は少し悩んでから、私の耳を髪の中から晒して、綺麗、可愛い、好き、愛してる。と耳元に囁いてきた。なんだか急に気恥ずかしくなった、胸の鼓動がドクンドクンと鳴っている。惚れた女性に可愛いと言われるのは屈辱的なはずなんだけど、でも何故か嫌な気がしない。文字通りに骨抜きになってしまうような感覚、ふらりと地面に座り込んでしまいそうになったら彼女の片腕が背中に回されて簡単に受け止められた。もう彼女は、どれだけ私のことを殺せば良いのだろうか。人はきっと幸せで死ぬことができる、頭の中はのぼせてしまっていた。

 別れ際、頭を撫でられる。それはやっぱり恥ずかしくて、少し不快だったけど、それ以上に幸せだったからもうどうしようもない。

 彼女の姿が見えなくなるまで見送って、それから私は髪先を弄りながら覚束ない足取りで家に戻ろうとする。

 きっと私は浮かれていた、幸せで周りが見えていなかった。

 

 何か背後で足音がしたと思ったら、鈍器のようなもので後頭部を殴られた。

 前のめりに倒れる、やけに冷たい地面の感触を味わいながら複数の足音が感じ取った。

 頭に何か袋を被せられた私は手足を縛られて、体を筵に巻かれる。

 薄れる意識の中で、確かに恋は盲目だ、と私は妙に冷めた心で思うのだった。

 

 

 




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第五話.

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 ズキズキと痛む頭に目が醒める。

 周りを見渡せば、見覚えのない部屋。後ろ手に両手を縛られており、身動ぎが取り難かった。

 そういえば気絶する直前に後頭部を殴られたのだったか。ということは今、私は囚われているということになるが――部屋の中を観察すると妙に内装が整っているような感じがした。少なくとも自分が安い家賃で借りている屋敷ではなくて、もっと御偉いさんを案内する部屋のように高貴な感じがした。もっといえば高級娼館がこんな内装をしているのではないだろうか、行ったことないけど。体も床に野晒しにされている訳ではなくて、寝台の上に転がされていた。まるで見世物のように部屋の中心に置かれている。そして、それは丸い形をしていた。

 鼻腔に吸い込まれる甘ったるい香の臭いに頭がくらくらとする。心なしか体が熱い、胸の動悸が強い。ここは何処なのか、今、自分はどのような状況にあるのか。また此処から抜け出す術はないか。懸命に頭を働かせる。そして意識がはっきりとし始めた頃合いで漸く、私は部屋の端で私を囲うように椅子に座る七人の存在に気付いた。私の知らない人間ばかり――いや、その内の一人は私の知っている人物だった。

 袁術。いや、彼女は袁姫の方か。哀れむような目で私のことを見つめている。

 

「ようやく起きたか、あと数分起きるのが遅ければ寝ている内に始めるところだったぞよ」

 

 袁術や袁姫よりも幼い見た目の少女が、ふわぁ、と大きく口を開いた。

 始めるとは何のことだろうか。ゆったりと体を起こそうとすれば、いつもよりも妙に布擦れの音が多いことに気付いた。そして今、私が着ている衣服が女性用のものであることを知った。とりあえず寝台の上に座る、後ろ手に縛られているせいで少し胸を張る格好になった。また別の女性、ああ彼女も何度か見たことがある。確か袁家の使用人だ。少女は嬲るように私の体を見つめると、これは上物ですね、と唇を舐める。

 これはどういう状況なのだろうか。困惑していると後ろから誰かが覆い被さってきた。手を縛られた状態では抵抗することもできず、枕に顔を押し付けられる。私よりも大きくて屈強で肉体、たぶん女性だ。明らかに鍛えられた力で全身を抱き締められる。力強くて少し痛い。私が伸びた黒髪に顔を埋めるように体を密着させられる、頸に荒くて熱い息が吹き掛かる。思いっきり臭いを掲げれていることも察せられる。ぞくりと悍ましさに全身が震えた。気持ち悪い。枕に顔を押し付けられたまま、恐る恐る後ろを覗き見ると、やはり知らぬ顔だった。女性ということはわかった。頰は朱に染まっており、欲望の赴くまま、貪られるように大きく深呼吸をされる。私のことなんか御構いなしで、明らかに発情されていることが分かった。体を擦り付けるように身を捩り、背中には大きな胸の感触、そして臀部には――女性にとってはないはずの遺物が押し付けられている。腰を振り、布越しに擦り付けられている。私の体を使って、欲望を発散しようとしていることが分かった。全身で発情しきっている、私も男だからその気持ちはわからないでもない。しかし見知らぬ誰かに性的対象として見られることがここまでおぞましいことだとは思いもしなかった。

 生理的に受け付けない、体全身で拒絶する。気持ち悪くて仕方なかった。

 

「何が起きているのか分からない、といった様子だのお。まあ実際、理解できるような状況ではあるまいて」

 

 下半身に手を入れられて、ごそごそと下着を剥ぎ取られる。

 寒気に晒される。前のめりでお尻を突き出したような姿勢、後ろから見た光景を想像して恥ずかしくって、それ以上に情けなくて泣き出したくなる。首筋にねっとりとした冷たいなにかが這った。唾液を塗すように、執拗に舐め上げられる。ぞぞっと怖気に全身が粟立った。舌全体を使って味見をされているようだった。気持ち悪くて声が出ない。呼吸が震えている、ひっという悲鳴のような情けない声だけが溢れる。頰を舐められる。口の端に舌先が微かに触れて、僅かな唾液が口の中に入り込んだ。吐き出したくて、でも怖くて、飲み込むこともできなくて、ギュッと目を瞑りながら下唇を噛んだ。汚されている、穢されている。背中に乗っかるように抱き締められている。後ろの悍ましい誰か、肌が触れ合うだけで皮膚が爛れてしまいそうだった。心の底から気持ちが悪い、もうやめて欲しい。私がなにをしたというのか。助けて、と胸の内で叫んだ。声に出ない悲鳴に誰も応えてくれない、枕の中に顔を埋めて涙で濡らす。

 どす黒い泥の中に沈み込む最中、心を照らすのは文醜の笑顔だった。

 汚れていく体、心が蝕まれる感覚に、つい思わず、ごめんなさい、と声が溢れる。

 

「妾の可愛らしい愛娘の美羽……つまり術がの、お前なら良いって言うのよ。でものぉ、袁家の房中術ってのは所謂、秘術と呼ばれるものよ。部外者にそう易々と教える訳にもいかないぞえ」

 

 耳に舌が差し込まれた。くちゅくちゅと這いずるように奥の奥まで侵食せんと舐められる。

 脳髄に音が反響する、犯されている音がした。俯せに押し付けられた姿勢では身を捩るだけでは逃れられない、首を振ろうにも枕に顔を押し付けられているせいで逃げ切れない。臀部に押し付けられる勃起物が、びくんと上下に跳ねるのが吐きそうなほどに気持ち悪い。発情されている、気色悪い。生理的に嫌悪する。小刻みに腰を前後に動かされるのが、もう耐え切れないほどに悍ましい。頰を涙が伝う、情けなさに嗚咽が漏れる。可愛い、と耳元で囁かれて、より一層に嫌悪感が増した。髪を手に取って、綺麗だと言われた。触らないで欲しかった。お前の為に伸ばしたままにしていたんじゃない。これ以上、穢さないで欲しかった。私の何処にも触れて欲しくない、同じ部屋で呼吸すらもして欲しくない。目が腐る、肺が腐る。肌が爛れる。耳を噛まれる、首筋を舐められる。息を吹きかけられる。まるで獣に犯されている気分だ、実際、そこら辺の犬に犯されているのと大差がない。

 どうしてこんな目に合わなくてはならないのか。私はなにも悪いことをしていなかったはずだ。

 

「なにもしていなかったからですよ」

 

 不意に袁姫が感情を伴わない素っ気ない声で告げる。

 それに合わせて、にんまりとした笑みを深めたのは袁姫よりも幼い少女だった。

 

「其方のことは調べさせて貰ったんだがの、今の御時世には珍しく品行方正という言葉が良く似合う潔癖な御方で困ったぞよ。ちょいとおいたをしていれば、妾とてこのようなことする必要はなかったんじゃが……賄賂の一つも受け取らない、渡さない。ついでにいえば富と名誉にも興味がなく、女子の誘惑にも靡こうとはしなかった――つまりじゃ、其方を脅せる要素がなにも出てこなかったんじゃよ。其方のような人物を聖人君子と呼ぶのだろうな、それほどまでに其方には後ろめたいことが何一つない。愛娘の練習相手としては合格点をくれてやるぞ」

 

 ま、だから弱みを作ってやることにしたんじゃ。と目の前の女は軽い調子で肩を竦めてみせる。

 

「其方には好きな相手がおるようじゃの? なんでも同棲するような仲で、この前は結婚する約束もしたんだとか、違うとか? 其方の想い人には違いない、それも両想いという話ぞよ」

 

 さて、と幼子が口元を言葉を区切り、改めて私のことを見据える。

 

「今から其方を陵辱するのだが……ああ、これは決定事項じゃぞ? これから朝になるまで屋敷の者全員で其方を陵辱する。すると当然、其方はそれを愛する者には知られたくないはずじゃ」

 

 お尻を捲り上げられる、全員の視線が私の下半身に集まるのが分かった。

 目の前の女は口を弧にして告げる、これは取引じゃよ、と。厚顔無恥に、どの口が言うのかと怒りが湧くか、お尻を撫でられる感覚に、嫌悪感以外の全ての気持ちが萎えきった。背中の重みがなくなったかと思えば、がっしりと両手で尻を掴まれて、熱い吐息を吹きかけられる。それから頬擦りまでされた。気持ち悪い、悍ましい。気色悪い。それ以外の感情が消え失せた。

 布越しでも感じられる勃起物の熱を擦り付けられたら、もう反抗心なんて欠片もなく失われていた。

 

「これは口止め料じゃ。想い人に其方の知られたくない過去を黙ってやる代わりに、其方はこれから知る秘術にまつわる全てを誰にも話さない」

 

 布擦れの音と共に、何かが床に落ちる音がした。

 後ろを見れない、見たくもない。恐怖に体が震える。周りを見渡すと誰もが好奇に満ちた目で私のことを見つめている。「ああ、袁家一門、屋敷仕える者は皆、同じことを経験しておるからの」と幼い少女に告げられた。ここに居るものにとって、これは当たり前の光景、という事だろうか――意識が眩む中で、ただ一人、この場における例外者に気付いた。袁姫の瞳には同情と嫌悪があった。縋る想いで、助けて、と口に出そうとした時、強い力で腰を掴まれた。もう耳元に誰かの顔はないはずなのに、荒い息が聞こえてくる。腰を掴む手は、指が肉に食い込むほどに強い力で捕まえている。

 当てがわれる。何処に、何が、とは考えたくもない。

 もう駄目なのだろうか。意思が折れようとした時、脳裏に文醜の顔が思い浮かんだ。あたいのものになってよ、と耳元で囁かれた声が妙に鮮明に思い返された。宴会で絡まれて、酔い潰れた彼女を介抱した日から昨日に至るまでの毎日が脳裏を過ぎ去っていった。

 あの時、後先なんて考えずに彼女について行っていれば――私のものにしてやる、と背中越しに情欲で歪んだ声に告げられる。

 もう嫌だ、もう止めて欲しい。好きでもないのに好きだとか、愛してもないのに愛してるだとか、可愛いとか綺麗とか、そんなことを口にしないで欲しかった。記憶まで侵さないで欲しかった、私と文醜の想い出を汚さないで欲しかった。悍ましい、気色悪い。そんな相手に私は今から侵されようとしている。その事実に大粒の涙が目からあふれ出した。

 悔しくて、情けなくて、どうしようもないから、もう泣くことしかできなかった。

 

「待ってください」

 

 袁術とよく似た声が部屋に響き渡る。

 助けてくれるのだろうか、袁姫のことを見つめると彼女は懐から小瓶を取り出した。

 いつぞや見たことがある、蜂蜜が入った小瓶だ。

 

「紀霊さん、彼は初めてなんですよ? 力任せに犯してしまっては簡単に壊れてしまいます」

 

 袁姫はゆったりと腰を上げる、小瓶の蓋を開ける。甘い香りがした。どうやら中身は本当に蜂蜜のようだった。

 自身よりもひと回り、体の小さな幼子に向き直ると袁姫は深々と頭を下げる。

 

「御母様、私に手を加えることをお許しください」

 

 御母様と呼ばれた女性は、構わんぞよ、と興味深げに袁姫を見つめ返す。

 許可を得た袁姫は私の方へと歩み寄ると、どいてください、と私の腰を掴んだ女性に告げる。あんまり待てないよ、と拗ねるような声と共に腰から手が離される。私が安堵の息を零すのも束の間、貴方もじっくりと楽しみたいでしょう? という言葉と共に粘性の強い液体が私の体に垂らされた。

 この絶望的な状況で思い浮かべるのは文醜の笑顔だった。

 助けに来るはずがない、と分かっていながら、助けて、と声が漏れる。

 

「蜂蜜には強い殺菌作用があるので炎症や擦り傷に効果のある薬として使われることが多いのですよ。また粘性が高いので潤滑液としての効果も高い。それに今回、特別に用意したのは不思議な蜂蜜でして、男性が摂取すると肉体を強制的に興奮状態にするものでもあります」

 

 淡々と告げる袁姫の瞳には憐れみの色しかなかった。

 私にできるのはこれだけ、せめて快楽に身を委ねてください。と蜂蜜を中まで塗り込んだ。

 そこから先のことはよく覚えていない、うまく思い出せない。喉が潰れる程に叫んでいた。痛くて苦しくて、痛いとか苦しいとかよく分からなくなって、熱くて、体が内側から熱くなって、悲鳴が悲鳴じゃなくなって、自分が出したとは思えないような声を上げていた。布団には赤い花が散るように血の染みが残り、それとは別の悪臭が染み込んだ。黒い髪には別の色が付着する。綺麗とか、可愛いとか、好きとか、愛しているとか、延々と聞かされ続けていた。そう言えと強要された。嫌々ながら口にすると、とても優しく愛されたから苦痛から逃れるように心にも思ってないことを口にした。愛して欲しい、と口にすると、とても優しくされたから何度も口にした。心が削れる。感情が消え失せる。気持ち悪い、と悪態を吐き捨てていた心が、媚びるように相手の情を求めていた。抵抗していた心が溶かされる。ただ自分の身を守る為に、そう思い込むことだけが私に許された抵抗だった。嫌悪感で吐いていた体が苦痛を感じなくなった時、別の認めたくない感覚が体と脳を支配して、それに気づいた時、もう戻れないんだと悟った。穢された、汚された。もう何も感じたくない。でも、私が反応をしないと容赦なく攻め立てられるから感じざる得なかった。夜が過ぎて、朝が来て、まだ終わらず、入れ替えに人が入って、昼が過ぎて、また夜が訪れる。何度、愛してる、と言われたか。何度、愛している、と言っただろうか。どれだけの人と契りを交わしたのか。もうわからない、わかるはずもない。わかりたくもない。気絶する度に起こされて、そしてまた気絶する。時間感覚がなくなって、誰もいなくなった部屋で私は一人、寝台の上に転がされていた。今もまだ、愛してる、大好き、という甘ったるい声が延々と反響している。そこに文醜の声はなかった。どんな声をしていたのか、よく思い出せない。

 このまま死んでしまいたかった。死んでしまってもいいと思った。だから私は身動ぎひとつ取らず、心臓が止まるまで、このままでいようと思った。それに体を動かしたくとも動かせない、そんな気力はもう根こそぎ失われてしまった。何故、呼吸をしているのかわからない。何故、心臓が動き続けているのかわからない。表情一つ動かせないまま、涙だけが止めどなく流れ続ける。

 全身の感覚がほとんど失われる中、小指の感覚だけは僅かに残っていた。

 もう約束は果たせない。

 どうして自分がまだ生きているのか、ただただ不思議だった。

 

 

 



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間幕.ご幸福をお祈り申し上げます。

 誰かを本気で好きになる、それはとても大変なことだ。

 気付いた時にはもう幼馴染の斗詩(顔良)を誰にも渡したくない、と思うようになっていた。それは家族愛とか友情とかいった気持ちが徐々に変質していったものであり、いつの間にか当たり前になっていたものだ。今の状態でも彼女とは友達以上といった関係で、親友であることには違いないと思う。ただあたしは斗詩に幸せになって欲しいと思っているし、幸せにするのがあたしだったら良いなってちょっと本気で思っている。斗詩とはずっと一緒に居たい、この温もりを他の誰にも渡したくないという気持ちもある。ただ、それは、やはり家族愛や友愛の延長線にある感情だと思っている。

 とある日、私は恋をした。たぶん、それは一目惚れだった。

 祝宴が開かれた時、部屋の隅の方でちびちびと酒を飲んでいる優男が居たから絡みにいったのが始まりだ。そいつは華奢で撫で肩で髪が長くて、下手な女性よりも整った顔をしている。話しかけると程々に返事を返してくれるが会話は長続きせず、下世話な話をすると顔を赤くして目を逸らす。そして酒を舌先で舐めるようにちびちびと飲むのだ。それが可愛らしくて、絡み続けていたら――気付けば、見知らぬ部屋に運び込まれていた。生活感のある部屋に、サアッと血の気が引いたことを覚えている。思わず、近場の屑箱の中身を覗き込んだけど、まあ中にはそれらしい痕跡はなかった。そもそもあたしが着ている衣服は、祝宴に向かったのと同じものだ。乱れもない。親切な誰かが連れ込んでくれたのだろう――あたしは記憶に残ってないけども、悪意を持つ相手の時は撃退していると話に聴いている。

 しかし、と布団に潜りながら周囲を見渡す。なんとなしにここが男の部屋だということはわかる、臭いからして違っている。

 ガチャリと部屋の扉が開けられる。

 

「ああ、起きたんだね」

 

 彼女――いや彼は目覚めた私の姿を確認すると、そのまま扉を閉じ直した。

 数分後、水の入った杯と粉薬らしきものを持ってくる。

 

「二日酔い用のよく効く薬なんですけど、いりますか?」

「くす……!? いや、頭も痛くないし、そんな高価なものなんて使わなくとも……!」

「まあ、それっぽいものを用意しただけだったりします。思い込みだけでも結構、効果があるのは実証済みなので」

 

 蕎麦粉です、と彼は悪戯っぽく歯をみせた。

 その顔が可愛らしくって、朝御飯の準備ができています。と彼が扉を閉めた後、パンと自ら頰を叩いた。

 うん、顔が熱くなっているのがよくわかる。

 

 朝御飯は白御飯に味噌汁、それに焼き魚が用意されていた。

 添えるように置かれた漬物を箸で摘み、ポリッという小気味よい歯応えにしょっぱい味付け、それがまた炊き立ての熱々ご飯によく合った。ほっかほかのご飯を、はふはふっと口の中で冷やしながら少しずつ歯で噛み潰す。それは劇的な味ではなかった。まだ馬賊だった頃、もしくは、それ以前だった時は蒸した芋に塩を振りかけるだけでご馳走だった。袁紹に仕えるようになってからは生活水準が劇的に上がり、食べるもの全て、感性が弾けるほどに刺激的で美味しかった。今、食べている味は袁紹のところで出される料理と比べると素朴だ。しかし、ほっと安心するような味付けであり、それでいて美味しい。いつも食べている料理よりも質素なはずなのに、どういう訳か私の舌にはよく馴染み、体の内側が癒されるような優しい味がする。これなら毎日でも食べれそうだ。実際、豪華な料理というのは、毎日食べていると胃が靠れて、体全身が鈍くなっていくような感覚がする。重い、ではなくて、関節辺りが少し鈍くなる

ような――違和感に近いものだ。たぶん、あたしには脂身の強い豪華な食事が合っていない。だから質素で簡素な味付けであっても美味しさを損なわない彼の料理が胃に合うのだろう。

 少し物足りない量の食事を、ものの数分でぺろりと平らげた。

 

「昨晩は酒をたらふく呑んでいらしたので、あっさりとしたものを用意しましたが――少し物足りなかったですかね?」

 

 そう申し訳なさそうにはにかむ笑顔に、あたしは暫し見惚れてしまった。

 三日が過ぎた頃には彼の料理が恋しくなり、それを理由に彼の屋敷に訪れる。急な来訪に困り顔を見せたが、既に用意していた料理に加えて、簡単で量もある料理をささっと大皿に乗せて用意した。酒はない、彼自身、あんまり酒は飲まないようだ。来るのであれば先に連絡を入れるか、もう少し早めに来て欲しい。と咎められたあたしは翌日、酒を持参して夕餉には少し早い時間に訪れた。彼はあたしが持ってきた酒をひと舐めすると私を連れて買い出しに出かける。食材は十分に残っていたはずだ、と言えば、あれだけだと食材が足りないからね、と返される。その日の酒はとても美味しかった。料理がとても酒に合っており、酒を飲むと箸がよく進んだ。いつも酔い潰れるほどに飲むのに、今日はほろ酔い程度でお腹が満足し、気分良く酔うことができた。少し頭が浮ついている、夜風が涼しくて、とても心地良かった。彼の寝台の上で寝転がり、意識が深い闇の中へと沈み込んだ。

 料理を作る時の些細な気遣いが真心と呼ぶべきものだと実感するのはひと月が過ぎた頃だ。

 馬賊の頃は料理なんて食べられれば良いと思っていた。袁紹に仕えた頃は料理なんて美味しければ良いと思っていた。でも違っていた。武に意志を乗せるのと同じように、料理には真心が注がれている。きっとこの世にある行動の全てには想いが込められており、そうして世界は築かれているのだと知った。

 嗚呼、素晴らしきかな世界。嗚呼、素晴らしきかな人生。この素晴らしき世界に祝福を、この素晴らしき人生に福音を。そして彼の人生には誰よりも素晴らしき幸福を祈る。あたしはきっと、あの時、初めて料理を振舞ってくれて、はにかんだ笑顔を見せてくれた時、一目惚れしてしまった。あたしのような粗暴で軽薄な女では、彼の隣は相応しくない。隣同士で歩いても似合わないと思った。

 でも惚れてしまったから仕方ない。あたしは彼が好きなのだ。

 

 あたしが彼を幸せにしたい、と願った。

 斗詩に抱く感情とは、また違っている。この心を焦がすような想い。どうしようもなく自分勝手で自分本位な考え方こそが恋心だと知った。追い求める心は醜くて、ただ欲しい、と相手の都合も関係なしで身勝手に求めている。相手を求める心こそが恋心、でも、幸いなことに私は愛を知っている。見返りを求めずに相手の幸せを純粋に願い、行動する。そのことに利害はない、ただ幸せになって欲しい、と願う想いこそが理由であり、原動力だ。ひとつ間違えれば、自己犠牲。自分の心を押し殺す訳ではない、相手の幸せを願って行動する。それこそが愛なのだ。

 私は彼を欲している、幸せにしたいと願っている。その上で愛して欲しいと思っている、恋して欲しいと思っている。矛盾しているかも知れない。共依存と思われるかも知れない。だが全てが本心、私は彼を幸せにしたくて、その上で彼の側に居たいと思っている。それが全てだ。それこそが恋愛だ。

 ただ相手に尽くすだけでは愛情、見返りを求めないのは、それはそれで身勝手だとも思う。

 

 苦しい時は私を呼べ、辛い時も私を呼べ。悲しい時もだ。

 会いたくなったら呼んでくれ。楽しい時も、嬉しい時もだ。私は何時でも待っている、何処にだって飛んで行く。

 あたしはお前がはにかむ顔を、特等席で見せてくれたらそれで良い。

 そう想える相手に出会えたことは、きっと奇跡的に幸せなことなんだと思った。

 

 あたしのものになってよ、と告げた言葉が受け入れられた時、きっとあたしは世界で最も幸せなんだと錯覚した。

 世界は幸福で包まれた。幸せが全てを眩く彩っていた。歩く歩調は幸せ一色、喜色の心を隠せない。福音の鼻歌を口遊む、世界はきっとあたし達が中心に回っている。世界はあたし達の幸せの色で染め上げられる。浮ついた心のまま、勢い任せに指輪を購入する。誓いの指輪、その健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命がある限り、真心を尽くす。そんなことは天に誓うまでもない。もし仮に誓う相手がいるとすれば、ただ一人、あたしが恋して愛して止まない彼だけだ。

 嗚呼、今からもどかしい、楽しみだ。にへらと緩む頰を引き締められず、次会う時を想って糧に気合いを入れ直す。

 

 そして約束の日、

 指輪の入った小箱を片手にお花畑が満開の頭で彼の屋敷に訪れる。

 そこに屋敷はなかった、焼け焦げた跡だけが残っていた。

 

 

 




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第六話.

前話の最期の一文だけ、書き換えています。


 思考を閉ざし、死に体の意識だけが残る。

 打ち捨てられた肉体を拾い上げたのは袁術だった。

 彼女は私の姿を見つけると、すぐに誰かの名前を呼んで助けを求める。暫くして現れた侍女は私の姿を見ると顔を顰めた。嫌悪に顔を滲ませながら最初、侍女は私から距離を離すように袁術を庇おうとしたが、しかし袁術はするりと侍女の腕を潜り抜けて異臭を放つ私の体を抱き締めて「助けてたも、助けてたも」と懇願する。頰に透明色の雫が落とされた、ポロポロと落ちる涙に温もりを感じた。

 侍女は意を決したように表情を引き締め直すと、まず袁術を横に追い払ってから私の体を担ぎ上げる。その際に一瞬、顔を歪めるも、足早に浴室まで運び込んだ。袁術が浴室の扉の陰から心配そうに見つめられる中、侍女に全身を洗い流された後で浴槽に放り込まれる。お湯の熱さが体を芯から温める、失っていた感覚が戻ってくる。それに伴って、涙がまた頰を伝った。長くなった髪に絡まった汚液を丁寧に解しながら清められる。その間、ずっと泣いていた気がする。

 まだ意識は朦朧としている。視界には景色が映っている、視界に映る景色が頭に入らない。徐々に思考が正常に戻りつつあることを感じつつ、それでも私は何も考えたくなかった。寝巻きに着替えさせられて、まだ髪が濡れたまま寝室に運び込まれる。寝台を前にして、思わず暴れ出した。彼女の手を振り解いた後、部屋の隅に自らの体を抱き締めながら蹲る。欲しいのは手首を切る小刀、欲しいのは首を吊る紐。心が死んでいる。呼吸をしている、心臓は動いている。漠然と死にたかった、死に方なんてどうでも良い。このまま消えてなくなりたかった。死にたいと思っているのに死ぬ為の気力が湧かなかった。それは即ち逆説的に生きたいということか。いや、違う。本当になにもする気が起きなかった。何も考えたくない、何も感じたくない。だから、このまま消えてしまいたかった。植物のように静かに死に絶えたかった。考えることをやめる、それだけで苦しいこと、辛いことから遠のくことができる。心の奥底でぐじゅぐじゅと蠢く泥のような感情に目を背けながら消え失せる。それだけが私が求めることだった。

 三角座り、膝に頭を乗せる姿勢でポンポンと誰かが私の頭に手を乗せる。

 

「其方、其方、起きとるかえ?」

 

 少しだけ顔をあげると幼くて見慣れた顔があった。

 見上げるのは初めてな気がする。袁術は心配そうに私のことを見つめていたが、私が顔を上げたのを確認してか嬉しそうに口元を綻ばせる。そして小さな手で私の頰を触れる。また泣いてしまっていたのだろうか、彼女に泣き顔を見せるのが忍びなくて顔を俯かせると「其方、其方、顔を見せて欲しいのじゃ」と私の頭をポンポンと優しく叩かれる。顔を上げると今度は嬉しそうに目を細められた。胸が苦しい、心が痛い。魂が悲鳴を上げている。もう何がどうなっているのか分からない、自分がどうなっているのか分からない。虫が体全身を這いずっており、心は今にも引き裂けそうだった。

 気持ちが悪い。瞬間的に複数人から嬲られた記憶が思い返される。喉奥から酸っぱいものが込み上がってきて、口から吐き出した。肌の内側から何かが這いずる音がする。肌に爪を立てようとした時、少女の小さな手が触れた。その瞬間だけ虫が蠢く感覚を忘れることができた。その一時だけ、体が綺麗に浄化されるかのように――穢れを禊がれる感覚はきっと気のせいなのだろう、穢れた心が肌から染み出すように、虫が皮一枚の内側を這いずり蠢いている。それでも私の目の前に座る少女は太陽のように感じられた。金色に煌めく髪は太陽の輝きと同じだと思った。そこに居るだけで私の肌を焼いて、表面に蠢く虫を蒸発させる。触れるだけで私の身に巣食う虫を蒸発させる。この心の奥底まで蝕む虫を根絶させるには、きっとこの体の奥深くにまで、もしくは彼女の奥深くにまで身を交わらせる必要があるのだろう。

 欲しい、と思った。この穢れに塗れた体を禊ぐ為に袁術が欲しい、と手が伸びた。

 

「襲うかえ?」

 

 それだけを告げると袁術は微笑んで瞼を閉じる。

 身を晒す、あまりにも無抵抗な姿に困惑した。自ら身を捧げる献身的な姿に神聖さすらも感じられた。触れ難いものに触れようとする禁忌、ごくりと喉を鳴らす。私の体は汚れている、私の心は穢れている。もし私が彼女の体を欲してしまえば、この神聖さすらも帯びる少女が壊れてしまう気がした。

 それはそれで唆る。が、伸ばした手を握りしめる。下唇を噛んで、ゆっくりと手を引いた。

 

「……どうしたのじゃ?」

 

 こてん、と首をかしげる。その愛くるしい姿に触れることすら憚れる。穢れた私では触れることすらできない、きっと許されない。

 

「……其方の髪は何時も手入れが行き届いておって、綺麗じゃな」

 

 私の長い髪を彼女が手に取る、綺麗じゃない。

 汚れている。汚泥に浸けられたように、きっと肥溜めのような悪臭がする。悍ましい汚液を染み込ませて、その内側までを侵食させた。

 切ってしまいたい、いっそ根っこから全てを引き抜いてやりたかった。

 

「やめるのじゃ」

 

 髪を握り締める手を優しく包まれる。何故か少女は縋るように私を見つめて、そして私の頭を胸元に抱き寄せた。

 

「其方が汚れておるのなら、妾も汚れてしまっておることになるんじゃぞ?」

 

 今にも泣き出しそうな震える声で彼女が告げる。

 その言葉の真意に気づいた時、私の心は物理的な痛みを伴った。胸が締め付けられる。これ以上の絶望なんてなにもないと思ったのに、自分が侵される以上に胸が苦しくて、怒りが込み上がってくる。何時からだったのだろうか、初めて袁姫と出会った時には……いや、おそらく私と初めて出会った時にはもう彼女は悪意の中に晒されていたのだろう。

 ふと顔をあげると袁術は涙を溜まった目で気丈に笑ってみせる。

 

「……妾は綺麗、なんじゃろ?」

 

 その言葉を聞いた時、もう我慢なんてできなかった。

 力一杯に抱き寄せる。彼女の体は石鹸の匂いが強い、今は私も同様に。涙が溢れる、憎しみや恨みも込めて、それ以上に彼女に対して忠誠を誓った。私だけは彼女を絶対に見捨てない。夢はない、希望もない。世の中は腐りきっている。世界の全てが彼女に悪意の刃を突き立てるというのであれば、私が盾になる。世界の全てが彼女に敵意を向けるのであれば、私が剣となって振り払う。懐に抱きしめる彼女すらも絶望の色に染められている、そんな世の中に私は悪意を向けることを心に決める。前後不覚、彷徨うこともできなくなった私が縋れるのはもう袁術を守るという意思そのものだった。

 歯を食い縛る、喉の奥から嗚咽だけが零れる。

 

「妾のせいじゃ……妾が其方なら良いと言ったから、其方が……」

 

 私は存在そのものが穢れている、口から出す声すらも悍ましい。

 

「貴方のせいじゃない」

 

 だから、簡潔に一言だけを告げる。

 強く抱き締める。強く、強く腕に力を込めた。口を閉ざしたまま言語化できない想いを目一杯に込めて、彼女を抱き締めた。お互いに泣き叫ぶような真似はしなかった。声を殺して、ただ今は互いに違いを縋るように、傷口を舐め合うように抱き締め合った。

 死ねない、私はまだ死ぬ訳にはいかない。この穢れきった体は彼女の為に使い切ると魂に刻み付ける。

 きっと、それだけが私に許された生きる理由だった。

 

 数週間後、

 その日は雲一つない澄み切った青空だった。

 袁紹が賊退治から帰ってきており、文醜はいち早く目的の人物に逢いに向かったのだ。

 しかし屋敷のあった場所には火事の焼け跡が残るだけだった。全てが真っ黒に焦がされた光景を前に呆然としている。

 それは信じ難い光景だったかも知れない。文醜は周辺の住民に聞き込みを始めるが、私と別れた翌日に火事が起きて、屋敷からは屍体が見つかった。という話を耳にするだけだ。嘘だ、と叫ぶ彼女の表情は悲痛に歪んでおり、それから五人に聞き込みをして、同じような話を耳にする。誰かに話を聞く度に顔を青褪めさせて、色褪せる姿は見ていられなかった。それだけ愛して貰えていた、という事実は私の心を疼かせる。

 今すぐに駆け寄りたい気持ちはある。だけど、もう私には彼女の手を受け取ることはできない。

 

「……主君の御厚意ということを忘れないでくださいね」

 

 遠目から文醜の様子を伺っていると後ろから忠告を受けた。

 分かっているよ、と私は女装姿で答える。私はもう死んだ人間だ、だから知り合いに会うことは許されない。それでも最後に一度だけ顔を見たい人がいる、という想いを主君が汲んでくれた。今、この瞬間だけ御目零しを受けている。正体を知られてはならないから遠目から眺めるだけだ。嗚呼、心配だな。不安かな、きちんと御飯は食べているのかな。酒を飲み過ぎてたりしないかな。でもまあ、もう心配するのは私の役目ではない。まだ顔も知らぬ誰か、顔良が彼女の面倒をしっかりと見てくれるはずだ。そう信じよう、信じるしかない。彼女の手を取ることはできない、彼女を私側に引き摺り込むことは絶対に許されない。

 私は意を決して背を向けると「待て!」と怒声が張り上げられた。振り返れば、文醜がおもむろに駆け寄ってくる。

 いや、ちょっと待って、変装しているのに、彼女は走る勢いのまま私を抱きしめようとしてきたから「待って!」と両手を前に突き出して静止する。地声と裏声の丁度、中間辺りの女性らしい声に、文醜は思わず足を止める。拒絶されるとは思っていなかったのだろうか、それとも私の女声に驚いているだけか。

 困惑する彼女に、人違いです、と私は笑顔を向ける。化粧もしている、だから顔を見られても分からないはずだ。

 どうしてだよ、と想い人は震える声で拳を握り締めた。

 

「どうしてそんな格好をしているんだ! 何が起きたんだ、教えてくれ……いや、教えなくても良い! 来い、あたしと共に行こう! 何かに狙われるというならば、あたしが世界の全てから守ってやるッ!!」

 

 その言葉を聞いた時、固めていた決意が揺らいだ。

 文醜と人生を共にしたい、彼女と一緒なら幸せになれると信じていた。夢想する、訪れたかも知れない未来を。これが数週間前であったなら私は確実に連れ去られていた。しかし彼女の幸せを願うのであれば、もう私では駄目だ。きっと彼女を不幸にする。私の体は汚れている、私の心は穢れている。きっと私は彼女に依存する、泥沼の中に引き摺り込むことになる。私は彼女には幸せになって欲しい。貴方なら幸せになれる、と信じている。

 だから私は拒絶の言葉を口にする。人違いです、と自然体で答えた。

 

「私の名前は四ツ葉(よつば)です」

 

 しかし心の弱い私は未練を振り払うことができなかった。

 この名の意味に気付いても良い、気付かなくても良い。今後を思えば気付いてくれない方が良い。

 優柔不断な私の心に折り合いをつける為の情けない言葉だった。

 

「……わ、私は猪々子(いいしぇ)ッ!」

 

 しかし文醜は汲み取ってくれた。

 初めて聞く想い人の真名を深く心に響く刻み込む。

 猪々子、猪々子、うん、彼女らしい真名じゃないか。

 その真名の温もりだけで幸せ過ぎて死にそうになる。

 

「猪々子様、貴方様の益々のご幸福をお祈り申し上げます」

 

 深く頭を下げてから背を向ける。

 

「……なんだよ、なんだよそれ!」

 

 背中越しに怒鳴られる。

 怒られても仕方ないことをしている自覚はあって、つい苦笑する。

 死にたいなあ、嗚呼、死にたい。この幸せを胸に刻んだまま死にたかった。

 

「絶対だ……四ツ葉! 絶対にあたしは四ツ葉を貰いに行くからなッ!! あたしがこの手で四ツ葉を幸せにしてやるッ!」

 

 止まりそうになる足を動かして、振り返りそうになる想いを振り切った。

 残念だけども、私が猪々子を傍で支える可能性はあまりにも低い。悲しいなあ、辛いなあ。初めては猪々子が良かった、何もかもの全てを猪々子に捧げたかった。猪々子にならいくら汚されても良かった、いくらでも穢されても良かった。猪々子の色に染め上げられたかった。監禁されても良い、縛られても良い。それも全て喜びになる、そう考えてしまう時点できっと私は脳髄まで穢れている。

 ここ最近で私は何年分の涙を流してしまったのだろうか。もう枯れ果てても良いはずの涙は未だに止まることを知らない。

 監視役を申し出てくれた給仕姿の女性の横を通り過ぎる。

 

「では戻りましょうか、美羽(みう)様が待っています」

 

 主君の真名を口にした時には、涙は止まっていた。

 

「ええ、そうしましょう。楊宏様」

 

 新しく与えられた名で、これからを生きる。

 過去は記憶の宝箱に入れて、大切に鍵をかけた。

 もう開かれることがないように。

 

 

 




タグの「男の娘」を漸く回収できました。
これにて「蜂蜜よりも甘い毒」は無事に完結です。
次章からはタイトルを改めて「袁公路の死ぬ気で生存戦略」をご期待ください!
とはいえ少し時間が空くとは思います。


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脈動編
第七話.


 姓は楊、名は宏。字は大将。それが今の私を示す記号になる。

 楊家というのは数年前に跡取りが居なくて滅んだ名家の一つであり、今回は金にものを云わせる事で私が跡を継いだ形になった。

 このような面倒な手続きをしているのには理由があって、今、私が女装姿で美羽(袁術)様の身の回りの世話をしている事と大きく関係がある。私が受けた説明では、名門である汝南袁家の次期当主である美羽(みう)様に異性である私と同じ部屋に居るのは風聞が悪いということだ。そのおかげで私の身分は女性となっており、今後、男装の一切を禁じられることとなった。他にも細々とした理由があるようだが*1、政治的なあれこれは私の本分ではない。

 今、問題にすべきは近頃、美羽様の父違いの姉である袁紹が賊討伐で目覚ましい活躍を見せていることだ。

 その影響で袁逢と繋がりの薄い者が「袁紹こそを汝南袁家の後継者にすべき」と声高々に訴えてる。それは即ち袁逢派とは縁の遠い者達であり、美羽様の味方になってくれるかも知れなかった存在だ。世論は袁紹に傾く今、美羽様の味方は着実に減りつつあった。そして今や県令に選ばれており、太守になるのも時間の問題とされている。

 そうなってしまえば、もう手遅れだ。美羽様を守ってくれる存在は、汝南の土地から居なくなる。なにか手を打たなくてはならない。

 

 美羽様の寝室、その寝台に腰を下ろしている。

 いつも私が使っているものよりも高価な布団は体を包み込むように柔らかくて温かかった。

 そして私の懐には美羽様が収まっており、その香りを楽しむように金色の髪に顔を埋める。石鹸の香りは前に比べると弱まった、その為か美羽様個人の匂いが前よりも強く感じられた。首筋で思いっきり深呼吸すると彼女は擽ったそうに、それでいて困ったようにはにかんだ。身の回りの世話をする他、袁家の秘術、その練習で衆人環視の中、夜を共にする時以外はこうやって穏やかに時間を無為にしながら過ごしている。何事もなく、この無為な時間が延々に続けば良いのに――それはあり得ない、そのことを私は知っている。

 充分に美羽様分を補給した私は、周りを見渡した。呆れたように私のことを見つめるのは美羽様の侍女長を務める橋蕤、疎ましげに見るのは美羽様の妹である袁姫。美羽様自身が信じていると言った二人組、だから私も無条件に信じると決めた。

 とはいえ二人、私を含めて三人。たったこれだけが美羽様の味方だった。

 

「あまり密会の時間も取れないので必要なことだけを、ざっくりと説明します」

 

 そういうと橋蕤が姿勢を正した。

 美羽様の髪に埋もれながら深呼吸する。こうすると心が落ち着いた、虫の這いずる感覚が治まる。密室にいる時、美羽様を感じていないと心が落ち着かない。気付けば、自傷を行なっている時もある。そういう時、大抵、美羽様が駆けつけて宥めてくれた。美羽様が私を振り払わないのも、二人が何も言わないのも、そういう事情があっての話だ。自分が可笑しくなっていることは自覚している、それでもまだ正気の部分も残っている。

 橋蕤が、こほん、と咳をしてから続きを話し始める。

 

「私達の最終目標は御嬢様、つまり美羽様を袁家の悪意から逃すこと」

「違うのじゃ」

 

 美羽様が私に抱き締めながら口を開いた。

 

「妾達の目的は、今、この場にいる全員が生き残ることじゃ。誰一人とて欠けることを妾が許さん。特に結美(ゆみ)、肝に命じておくのじゃ」

 

 ふん、と鼻息を荒くしてふんぞり返る。

 結美と呼ばれた美羽様と瓜二つの少女である袁姫は僅かに目を見開き、「はい、御姉様」と嬉しそうに目を細めた。その言葉だけで充分です、という言葉が続きそうな表情を私は見て見ぬふりをする。

 あ〜、と頭を掻くのは橋蕤であり、とにかく、と話を仕切り直す。

 

「逃げるにせよ、守るにせよ。なにをするにしても私達には三つの要素が抜け落ちています」

 

 武力、頭脳、時間と三本の指を立てながら続ける。

 

「先ず武力、逃げ出す際には追っ手を、打倒する際には最低でも袁逢の側近を相手にしなくてはなりません。私は侍女長ではありますが――何処ぞの青州、北海孫家のように完璧で瀟洒という訳ではありません。ただの侍女長です。忍んだりもしません、ただの侍女長です。武力には期待しないでください。そして美羽様は言わずもがな。結美(ゆみ)様は舞の心得はあっても、武の心得はありません。そして見たところ、楊宏様も武は得意という訳ではない様子で」

 

 その言葉に首肯する。護身術程度には剣を扱うこともあるが、基本は身を守る為のものだ。雑兵一人から逃げるのが関の山で倒すことはできない。

 

「どちらの場合でも私達が相手にするのは、紀霊になります」

 

 その名を聞いた時、美羽様を抱きしめる腕にぎゅっと力が込められた。

 紀霊、汝南袁家に仕える者で最も優れた武を持つと呼ばれる女だ。その実力は袁紹が従える文醜、顔良に比肩するとも、上回るとも言われている。そして不思議な蜂蜜を用いて、私が初めてを悉く奪った女の名でもあった。悍ましい記憶が肌に纏わり付いている。

 心配そうに私を見上げてくる美羽様に、大丈夫、と笑顔を返した。

 

「彼女は偏屈的なまで楊宏様に執着しており、もし仮に私達が捕らえられた時、彼女は自らの意思で楊宏様の助命を嘆願してくれるでしょう。よって、追っ手の場合は楊宏様を囮にすれば良いだけの話ですが――」

 

 きっ、と彼女を睨みつける美羽様に、橋蕤は溜息を零す。

 

「――彼女の乗馬術から逃れることは難しい、というよりも不可能です。諦めて彼女に対抗できる者を見つけるか、策を弄する他にありません」

 

 そして意味深に私のことを見つめてきた。

 いざという時は犠牲になれ、と。

 わかってる、と笑みを浮かべることで返事をする。

 

「其方達、気付いとるからの」

 

 じとっと半目になる美羽様に、私と橋蕤は罰が悪そうに視線を逸らした。

 

「其方達にとって妾が最優先なのはわかっておる。でも最後まで生き残ることを諦めるではないぞ? 逃げるときはみんな揃って、これは命令じゃ」

 

 妾が外で一人になっても生きられると思うかえ? と不貞腐れる美羽様に二人して苦笑する。

 覚悟は決めている、美羽様が魔の手から逃すことが私達の希望だ。

 少なくとも私と橋蕤にとってはそうだ。美羽様の傍には、どちらか一人が居れば良い。

 

「私達では紀霊をどうにかする策が思いつかない。楊宏を囮にして対処するにしても、他の追っ手を振り払えるとは思えないわよ」

 

 先程、結美と呼ばれた少女、袁姫が話を繋げる。

 

「だから最低でも追っ手をどうにかできる存在が必要になるのだけどね。正直、私達では誰がお母様……袁逢に忠誠を誓っているか、そうでもないのか、判別することができないわよ。正直、探りを入れるだけでも命がけよね」

 

 話術が巧みなやつもいないし、と袁姫は甘菓子を口にした。

 

「それが頭脳が足りない、といった部分になります。私達には誰が敵で、誰が味方に成り得るのか判断できない。逃げ出したところで袁家の情報網、包囲網から逃れるには大陸を出る他にありませんし……異民族相手から身を守る力もなくて……」

 

 それに時間の問題もあります、と橋蕤が続ける。

 

「あの妾の子……もとい、袁家の肥溜め……もとい、袁紹が台頭してきた今となっては時間が経てば経つほどに私達の不利になります。それとは別に期限がもうひとつあり、それは秘術の訓練。今は楊宏様が一人で御相手を勤めていますが、段階が進むに連れて、御嬢様が相手にする人数が増えます。先ずはひとり、そしてふたり、最終的には十人以上を相手にすることが訓練内容に組み込まれています」

 

 ぶるり、と懐に収まる美羽様が身を震わせた。橋蕤は私と結美に視線を投げる。

 

「私は訓練の後始末を申しつけられていますので訓練に参加できません。二人目には袁姫様が志願する手筈になっていますが、これも確実ではない。つまり時間が経てば経つほどに御嬢様の負担は増える、その前に私達は行動を起こさなくてはなりません。ついでにいえば、密会の時間も満足に取れません。私達には武力も頭脳も時間も足りない……」

 

 どうすれば良いのか。

 名案のひとつも思いつかず、沈黙が寝室を重く包み込んだ時だ。

 美羽様が、ぽつりと零した。

 

七乃(ななの)のせいじゃ……あやつがおらんから妾はこんな目にあっておる……」

「……七乃?」

 

 私は橋蕤を見た、首を横に振る。袁姫も同じ反応だった。

 

「えっと美羽様、七乃というのは?」

「七乃は七乃じゃ! それに七乃は真名じゃぞ! 四ツ葉と言えども許せん、さっさと訂正するのじゃ!」

「も、申し訳ありません! 訂正します!」

 

 膝上で暴れ出す美羽様に慌てて謝罪した。それで怒りは納めてくれたが、ふん、と不機嫌に腕を組んで黙り込んだ。

 

「それで御姉様、私、その人物の名前は初めて聞いたのだけど? 友達いたの?」

「七乃は友達ではないの、妾の側近で太鼓持ちじゃ。まあ今回はまだ出会っておらんからの、知らぬのも無理はない。今まで三度共に会いに来てくれたのに今回は全然来てくれぬ……なにをしておるのかの、妾がこんなにも困っとるというのに……」

「ちょっと待って、御姉様。何を仰られているの? 側近なんていないでしょう?」

 

 困惑する袁姫に、とにかく、と美羽様が告げる。

 

「七乃じゃ、七乃がおれば頭脳の問題は解決する。悪巧みをさせれば、あやつの右に出るものはおらんからの」

 

 ほっほっほっ、と笑う美羽様に私達三人は見合わせた。

 七乃という人物が誰なのか分からない。話を聞き出そうか、と思った時、橋蕤が首を横に振り、時間が少ないことを告げる。

 そして解散する直前、最後の質問は橋蕤に委ねられた。

 

「それでその人物の名前はなんというのでしょうか?」

「七乃じゃぞ?」

「いえ、真名ではない方です」

「なんじゃったかの?」

 

 こてんと首を傾げる主君に、私達三人はこの日一番の大きな溜息を零した。

 

 

*1
例えば、美羽様の付き人は名家出身の者でなくては顰蹙を買う等。




逃げる時はみんな一緒に、そんなことを言っていた人が何処かに居ましたね。
美羽様がこの先生きのこるには。


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第八話.

 私には監視が付けられている。

 屋敷の外を出歩く時は必ずと言っても良いほどに袁家の人間が私の護衛に付いた。

 街中を歩く時は名家の御令嬢が忍ぶような格好をして、化粧も濃いめに施される。口紅を付けた後に「んーぱっ」と上下の唇を軽く合わせるように紅を馴染ませる行為に慣れ始めているのはちょっと複雑だった。街中を歩く時の護衛は誰と決まっている訳ではなく、この日は偶然にも橋蕤が付いてきてくれた。なんでも私の護衛、もとい監視には人気あるのだとか。みんな私の尻を狙っているようで、袁家の屋敷には男はいないし、可愛い男で尻を使わせてくれるのは貴重なのだとか。なにそれ、怖い。

 橋蕤による徹底的な指導のおかげで女装をするのに慣れて、女性らしい仕草も無意識にできるようになってしまった。

 溜息交じりに街中を歩き回る。

 

 美羽様を袁家の魔の手から守る為に橋蕤と袁姫の二人と結束したが、その成果は芳しくない。

 私達は同じ目的の為に行動しているが、どう行動すべきか明確な指標もなければ、なにか良い案や策も思い浮かばないといった現状だ。ただでさえ貴重な時間を有効に使う手立ても見出せず、かといって無為な時間を過ごす訳にもいかない。完全に手探りの状態であり、それでいて監視が付いているので迂闊に動き回ることもできなかった。情報収集だって深入りした質問をできなければ、そもそも何についての情報を集めれば良いのかわからない現状だ。結果、当たり障りのない会話から噂話などを耳にする他にない。「侍女長、ちょっと忍んでくれませんか?」と冗談交じりで橋蕤に問いかけると「万能人間のことを侍女や執事と呼ぶのはやめましょう」と割と殺意を込めた目で睨み返された。過去に何かあったのだろうか、触れないでおこう。

 さて、外出した時、それとなく青髪の少女を目で追いかけるようにしている。

 それは、とある少女を探している為だ。私達が結束した時、七乃、と美羽様が口にした少女の真名。あやつは必ず妾達の力になる、と美羽様が断じる程に信頼を寄せる誰か。しかし探すに当たって肝心の外見情報は「短い青髪に飄々とした態度を取り続ける少女」といったものであり、流石にこれでは探そうにも探すことができない。明確に個人と特定できる情報は、七乃という真名のみ。しかし真名である為、易々と口にすることもできず、七乃という名の少女の捜索は後回しにされていた。

 尤も後回しにするほどの役目もないので、こうやって街中に出た時は青髪の少女を目で追いかけている。

 青髪の少年なら何度か見かけているが、青髪の少女、それも短髪となるとなかなか見かけない。

 

「そういえば、楊宏、貴方って街中に屋敷を貰っていましたよね?」

 

 美羽様の為に土産を探しながら表通りを歩いていると橋蕤が話しかけてくる。

 今の私は名家の御身分だ。その為、名家としての体裁を保つ為に屋敷を持つ必要があり、袁家の全額負担で汝南郡に小さな屋敷を与えられている。ただこれには問題があった。屋敷を与えられたことに問題はなく、与えられた屋敷にも問題がある訳ではない。

 問題があるのは、私自身だ。

 

「ほとんど使ってないから埃塗れになってるよ」

 

 前に借りていた屋敷よりも、ひと回り、ふた回りも大きな屋敷は独り身の私には持て余した。

 それは使わない部屋がある、といった程度の問題ではなくて、屋敷を空けている時間が多過ぎて寝室一つすらも管理し切れない。週に一度、屋敷に戻れることがあるかないかといった頻度であり、寝室以外の部屋は埃に溜まり続けている。かといって掃除をしようにも屋敷が広すぎるので、休日一つをまるっと潰してしまうことになるので手が付けられない。

 このままではいけない。とは思っており、せめて屋敷の状態を維持させる為に誰かに住まわせることを考えている。

 幸いにも今の私は、書庫の管理をしていた時よりも金を持っていおり、人ひとり養う程度の余裕があった。ただまあ使用人を応募するにしても面接をする時間が取れないので、結局、屋敷は埃まみれで荒れ放題のまま放置している。

 誰か都合良い人はいませんか、と橋蕤に問いかけると彼女は首を横に振った。

 

 美羽様のお土産用に蜂蜜を瓶ひとつ購入する、蜂蜜水は美羽様のお気に入りだ。

 

 烏が鳴いた夕暮れ時。

 今日も収穫がなかった。と私と橋蕤は徒労感に苛まれながら袁家の屋敷を目指す。

 その時、ふらりと路地裏に逸れる。これは屋敷までの最短経路を通ってのことで寄り道をしている訳ではない。元は役人とはいえ木っ端役人、散財できるほどの家計に余裕のなかった私はよく低所得向けの市場や商店街に足を運んでいた。その為か裏道には結構、詳しかったりする。

 この路地裏は猫がよく集会を開催している場所ではあるが、人慣れしており、こちらから手を出さなければ危害を加えてくることはない。時折、差し入れを持っていくこともあったので、どちらかといえば懐いている。見た目の性別が変わっても猫達は私を私だと見抜いてくれているようで足元まで歩み寄ってきた。そして困ったように「なあ〜」と鳴いて、私達を先導するように猫集会の場所へと歩き出す。

 どうせ通り道だったので私達も猫の後に続いた。

 

「……行き倒れ?」

 

 集会場、路地裏にしては少し開けただけの場所で少女が俯せに倒れていた。

 猫達は少女の体の上に乗っかり、頭を肉球で叩き、添い寝してみたり、と好き放題に弄んでいる。

 見た感じでは行き倒れているように見える。しかし、倒れる彼女の指先には「食い倒れ」と地面に書かれており、なんかもう放っておいてもいいんじゃないかな、と思ったり思わなかったり――橋蕤はといえば十数匹にも及ぶ猫達に困惑しており、「これ以上増える前に間引かなきゃ……」と末恐ろしいことを呟いていた。ちなみに彼女に近付く猫はいない、遠巻きに威嚇している猫がいるくらいだ。

 触らぬ神に祟りなし、と私が歩を進めようとしたらガシリと足を掴まれた。振り払おうとしたが、非力な癖にしぶとくて振り払えない。

 

「……むう、いけませんよ、お兄さん。可愛い女の子が倒れているのだから介抱してくれないと」

 

 見た目、美羽様ほどの年齢の少女がむくりと体を起こした。

 体の上に乗っていた猫はピョンと軽やかに飛び降り、少女はパンパンと衣服についた砂埃を払ってから頭の上に独特な感性の人形を乗っける。金色の波がかった髪が風に揺れる。懐から棒付きの飴を取り出すと「これが最後の一本……」と惜しむように呟きながら口に咥えた。

 なんというか、不思議な雰囲気(迂遠表現)を持つ少女だった。

 

「いたいけな少女を捕まえておいて、酷い御方ですねー」

「どちらかというと捕まえられた方だと思うのだけど?」

「据え膳食わぬは男の……おや?」

 

 むむむ、と少女は眉間に皺を寄せながら顔を近付けて、すんと鼻を鳴らした。そして、やっぱり顔を顰める。

 

「……その衣装は趣味でしょうか?」

「御主君からの命令で他に衣服がないのです」

「これはとんだ色物が罠に引っかかってしまったようですねー」

 

 目を閉じて、くわばらくわばら、と少女はなにかを唱え始める。

 他人のことを言えた義理ではないと思うんだけどなあ、と彼女が頭に乗っけた人形を見つめる。

 すると人形は、くねり、と気恥ずかしそうに体を動かした。

 

「そんなに見つめられると照れるぜ」

 

 低い声色、飴を咥えたまま少女は「その子は宝譿と言います」と、どや顔を決める。

 確か、口をほとんど動かさずに喋る技術を腹話術と云うのだったか。

 どや顔を決める彼女には申し訳ないが、その人形が動く原理の方が気になって仕方ない。

 

「それでどうしてこんなところで倒れていたのでしょう?」

 

 隣に控えていた橋蕤が問いかけると「人を待っていました」と少女は飴を舐めながら答える。

 

「待ち人?」

「待ち人といえば待ち人ですねー」

「こんなところで?」

「此処にいたのは、なんとなく懐かしかったからですかねー」

「あ、そう。それじゃあ本当に行き倒れていたわけではないのですね」

 

 少し安心するように表情を緩める橋蕤に「いえいえ、行き倒れなのは本当ですよ」と少女は語り始める。

 

「旅の路銀を使い果たしてしまったのですよ。それで行く当てもなく、何処かに身を寄せられる場所を探して彷徨っていましたー」

「でも人を待っている、って貴方、さっき言っていたでしょう?」

「ええ、言いました。そして待ち人は見つかりましたー」

 

 そう言いながら少女は私の方へと振り返る。

 

「えっと、お兄さん? ……お姉さん?」

「今はお姉さんで」

「それではお姉さん、(ふう)を養ってください」

 

 不思議な雰囲気を持つ(ちょっと頭がおかしい感じの)少女は不思議な(頭がおかしい)ことを言い出した。

 

「姓は程、名は立。字は仲徳と申します。以後、お見知りおきをー」

 

 程立と名乗る少女は、まるでもう養われることが決まったかのように頭を下げる。

 

「いや、養うって決めてないから」

「むう、厄介ですね」

 

 頰を膨らませる少女を前に「楊宏、都合が良いのでは?」と橋蕤が横から割って入る。

 

「屋敷の管理を任せられる人を探していたのでしょう?」

「いやぁ、それは……」

 

 ちらりと程立の容姿を盗み見る。

 美羽様と大して変わらぬ外見、氣の扱い方次第で老化を防ぐことはできるが――氣の扱いには特別な訓練が必要になり、その訓練方法は秘術とされていることが多い。時折、生まれ持った時から氣の扱いに長けている者もいるが、そんな存在は一万人用意して一人いるかどうかの話だ。旅先で生き倒れる人間が名家とは思えないし、そのひ弱そうな見た目から天賦の才を授かっているようにも見えない。

 つまるところ彼女は見た目通りの年齢だと判断できる。

 

「えーっと、屋敷の管理とは何処までの範囲でしょうか?」

「家の状態を維持してくれるだけで構いませんよ。誰か住んでいないと屋敷なんて、すぐ駄目になっちゃいますので」

「ああ、それなら、むしろこちらからお願いしたいですねー」

 

 程立は私の方を振り向くと改めて「これからよろしくお願いしますねー」とまるで話がまとまったように頭を下げた。

 こちらこそよろしくしてあげてね、と私の代わりに橋蕤が答える。

 困っていたのは本当なので構わないんだけど――これで私の屋敷問題はひとまず解決する。

 こんな感じで何処かに智慧者のひとりでも転がっていたら楽なのになあ。

 

 これは蛇足になるのだが、

 どうして私を頼ることに決めたのか、程立に問いかけた。私が悪人だったらどうする、とか叱るような感じで。

 その質問に程立は飄々とした態度で、以下のような答えを返す。

 

「最初に私を無視しようとしたからですね。もし仮に私のことをどうこうしたい人間だったら形だけでも見捨てようとはしませんでしたし、かといって悪い人間なら猫に懐かれることもありません。猫を見捨てられない人柄で押せばいけそうな気がしたので駄目元で押してみましたー」

 

 ひとり旅をしてきたと言うだけあって、少女は意外と強かだった。



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第九話.

 程立は意外と真面目に働いてくれている。

 決して家事が上手いとは言えないが、出来ないことを出来ないなりに熟しており、その実力を日々向上させていった。

 何時も頭に乗っけている宝譿も掃除の時ははたきを片手にぱたぱたと旗のように振り回している。ほんとあれ、どういう原理なのだろう。程立に聞いてみても「宝譿は宝譿です」と答えられるだけで肝心なことが分からない。試しに宝譿に話しかけてみると「おめぇは自分の心臓がどうして動いているのか説明つけれんのかよ!」と声色を変えた程立に叱られた。尤もだとは思うけど、釈然としない。

 ともあれ週に一度、屋敷に戻っては働いた分だけの給金を支払っている。生活費は月に一度、まとめて与えている。

 見栄の為でしかない屋敷は、庶民の感性でいえば維持するだけでも割に合わない。しかしまあ週に一度、気兼ねなく寝泊まりできる場所があるというのは思っていた以上に居心地が良かった。袁家の屋敷にいる時は四六時中、気を張り続ける必要がある。それは確実に精神を摩耗させる。その為、心を落ち着けられる場所があるというのは想像していた以上に癒された。自分の屋敷にいる時だけ、私は何も考えずに惰眠を貪り、そしてまた朝になると袁家の屋敷へと赴いた。

 行ってらっしゃいませ、とまだ眠そうな顔で見送る程立は、まるで戦場に赴く誰かの武運を祈るようにも見えた。

 

 袁逢派の結束は硬い。

 一枚岩、というよりも砕いた岩を混ぜて粘土のように固めたひとつの石だった。

 それは屋敷に住む全員が同じ秘密を共有していることに起因する。袁家の秘術。それは屋敷に住む全員で行われる儀式であり、その内情は乱交と輪姦だ。袁家の当主である袁逢は屋敷の侍女、その全てと肉体関係を持っており、不思議な蜂蜜を用いて、全員を相手にすることもあれば、不思議な蜂蜜を使わせて、全員から犯されることもある。その痴態は屋敷に住む全員の記憶に刻まれており、陵辱された経験は屋敷に住む全員と共有されている。

 だから彼女達には、陵辱された経験を持つ私とも仲間意識を持っていた。それでいて個人的に私を伽に誘おうとすることも少なくない。ちょっとお茶に誘うような気軽さで彼女達は簡単に肌を重ねる。貞操観念は壊れていた、此処では常識を持ち続けることの方が難しい。理性では屋敷で行われていることがおかしいとは気付いている。しかしもう彼女達は元の生活には戻れない、狂っている、と自覚することで彼女達は理性を保ち続けていた。もう真っ当には生きられない。ここでしか生きられないことを知っているから彼女達は袁逢に強い忠誠を誓っている、この場所が失われることは彼女にとって死活問題であった。

 袁逢派を切り崩すことは、私達が思っていた以上に困難を極める。

 

 そうでありながら躍進を続ける袁紹に汝南袁家の力を削がれ続けているのだからやってられない。

 もうひとり、またひとり、と袁逢から袁紹に――つまり美羽様から袁紹に鞍替えする者達に少なからずの嫌悪感を抱くのは仕方のない話だと思っている。日に日に絶望感が増している、歩く音が死刑囚が処刑場に向かう足音と被って聞こえた。そんな風に廊下を歩いていると侍女の一人が私に言伝を持ってきた。内容は、袁家の秘術の為に受け役を務めて欲しい、というものだ。袁逢は私がまだ堕ちていないことを知っている。だから定期的に私を呼び出してきた、美羽様には知られない時間帯、私が承諾すると侍女は凄く嬉しそうに笑って、袁逢の下へと駆け出していった。

 このことを橋蕤は知っている、袁姫は参加者の一人だ。もう互いに慣れてしまって、翌日、顔を合わせても普通に会話できるようになってしまった。この日の夜のことを思って、体が疼いてしまう辺り、徐々に肉体が作りかえられつつあることがわかる。この頃になると猪々子(文醜)に恋心を抱いていたことなんて、もうどうでもよくなっていた。そんな時期もあったなあ、と思い返すことがある程度だ。でも彼女が活躍しているという話を聞くのは嬉しかったりする。その分だけ袁紹が躍進するので複雑な気持ちもあったりするけども、それはそれとして私は、昔のような甘酸っぱい気持ちがなくなっただけで猪々子のことを好いている。

 ただ今はもう美羽様の方が大事だった。

 

 屋敷に備えられた浴室で汚液を洗い流している。

 慣れというのは恐ろしいものであり、今も嫌なことには変わりないが嫌悪感は薄れつつあった。中の洗浄も手馴れたもので、今ではひとりでも綺麗にできる。美羽様に気付かれないように丹念に肌を擦り、隈なく洗ってから浴槽に浸かった。少し熱めの湯が肌に染み渡る。髪に付いた汚液のように、心にこびり付いた汚れが溶かされる。全身の筋肉が緩んでいくのがわかる、心もまた温もりに満たされる。少し痛む喉を指で揉み解しながら、少し高めの声を出す。とても男とは思えないような声が浴室に響き渡る。こんな生活が続いて二ヶ月近く、今では女声で歌を歌うこともできるようになった。体付きも心なしか、ふっくらと丸みを帯びているような気がする。骨格がもう男性なので、女性には程遠いが、中性的な肉付きにはなりつつあるようだ。女装にも慣れた、今やもう男装の方が違和感を感じてしまうようになっている。

 私がひらひらした衣服で更衣室を出ると、私の後を待ち構えていたように数名の侍女が浴室に飛び込んでいった。そのことに苦笑しながら、ほかほかの体で袁逢の屋敷に用意された寝室に足を運ぶ。

 扉の前では橋蕤が待ち構えており、袁姫からの言伝を言い渡される。

 

「袁家の者から貴方の屋敷に使用人が入ることになったわ」

 

 端的に告げられると、まだ仕事が残っているのか橋蕤が軽く頭を下げてから何処かへと行ってしまった。

 どうやら監視の目が強くなるらしい。

 私達はまだなんの成果も上げられないまま、時間だけが無情にも過ぎ去っていった。

 

 翌日、屋敷に戻った私を出迎えてくれたのは程立の他にもう一人、少女……いや、少年が居た。

 中性的とも呼べる顔付きだが、男装をしているのでたぶん少年なのだろう。

 それにこの青い短髪の少年、街中で何度か目にした記憶がある。

 

「私は張勲と申します。この度は主君袁逢様の命により、楊宏様の身の回りの世話をしに来ました! 以後、よろしくお願いします!」

 

 はきはきと自己紹介をする少年の隣で「先に言っておいて欲しいですねー」と程立は不満げに告げる。

 彼女からすれば、寝耳に水の話だったに違いない。とりあえず土産にと持ってきた甘味を程立に手渡して、此処でも心を休めることができなくなる、と小さく溜息を零した。その時、程立が不思議そうに私を見つめたが無視する。

 人探しは難航している。私達に手を貸してくれる知恵者は見つからず、武力の目処も立たないままだ。美羽様が言っていた七乃という少女も見つからない。それでいて監視だけが強くなる。

 どうしたものか、と自室に戻った私は頭を抱えた。

 

 

 



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間幕.七乃動きます。

袁家の人間は不安よな。


 大陸各地に点在する張姓ではありますが、

 その中でも汝南郡にある張家と云えば、代々より汝南袁家に仕える暗部のことを意味する。

 この大陸には東洋の島国から忍者と呼ばれる一族の末裔が存在しているが、あのように行動的な存在ではなく、もっと現実的に卑劣な手段を用いることを得意としている。例えば、古くからある酒場をまるっと買い取って従業員だけをすり替えることで、信頼ある老舗の看板を付けた酒場を情報源にする手法を用いたり、娼館の運営をすることで裸の付き合いをした相手から情報を仕入れたりと暗部関連の組織運営を生業とする。

 そんな張家が今回、楊宏の監視に付いたのは屋敷で不穏な動きがあるという話を聞いたからだ。

 屋敷は袁逢から下贈されたものであるが、その屋敷に近頃、使用人と思われる少女が住み着くようになった。この少女が何処まで袁家の事情について知っているのかわからないが、街中では暗部らしき者と接触している――という話を暗部の者が入手しており、張家の現当主は一門の者を送り込んで直接、監視をすることになった。

 監視に留めているのは、楊宏が要注意監視対象であると同時に保護対象でもある為だ。その命を奪うことは許されず、しかし忠告としても拷問は許されている。私が派遣されたのは、楊宏に余計なことをさせないようにする為の抑止力の役割を期待されてのことだ。まあ大した仕事ではない、少なくとも私のような組織から抜けても大した問題ない末端に任されるような御役目である。

 適度に手を抜き、最低限の成果を。それが私が持つ人生哲学。

 

 これが退屈で楽な仕事だと認識した私は意気揚々と楊宏の屋敷へと赴き、堂々と潜入を果たした。

 私の役割は諜報活動ではなくて抑止力である以上、正体を隠す必要はない。お前は監視されている、と訴えることに意味がある。必要以上の敵意を与えて追い詰めすぎず、さりとて威圧感は与えておく為に、馬鹿正直に堂々と名乗ったりはしない。あくまでもまだ監視対象、決して懲罰対象ではないことを忘れてはならない。

 とりあえず、今はそれだけをしておけば良い。家事は必要最低限、ぐうたらと怠けた人生を満喫する。

 世の中で、よく謳われているように一生懸命、汗水流して働くことなんて馬鹿らしい。他人の金で食う飯は格別に美味しくて、楽して稼ぐことこそが人間の生きるべき道だと思っている。真面目で真っ当に、なんていう言葉は搾取する側の人間が使う言葉だ。経営者の夢は無料で真面目に働いてくれる労働者だと相場で決まっている、それができないから格安で真面目に働く労働者で妥協する。

 真面目で真っ当なんて、まったくもって馬鹿らしい。

 

 朝、目覚めた後に簡単な身支度を整えた私は実家から楊宏の屋敷に足を運ぶ。

 太陽も昇り切っていない時間帯、通りを吹き抜ける風は肌寒かった。まだ眠気の引き摺っている体には丁度良いかもしれないが、まだ商店街に建ち並ぶ店も閉ざされているのに仕事に赴くのは億劫だ。どうせ使用人という設定で楊宏の屋敷に潜り込んでいるのだから住み込みで働いても良かったかも知れない。監視の意味合いを考えれば、寝食を共にする方が効率が良いのは事実だ。

 しかし、それをしたくない理由がある。

 私が独自に集めた情報によると彼は袁家の屋敷に住む全員と肉体関係を持つ性欲の塊なのだ。嘘のような真の話、私も最初は信じていなかった。袁家の秘術とは何か、障りだけは知っていたのでありえない話ではないと思ったが、いや、しかし、三日三晩も休憩なしに屋敷の全員を満足させるというのは、どれだけ絶倫で化け物なのだ。

 同じ屋根の下で過ごしていられない、と身の危険を感じた私は男装することで同性を装った。

 幸いにも私は変装する為に髪は短くしているし、声色を少し変えてやることで少年と同質の声を発することができた。実際、仕事で男性として行動することも少なくなかったので、そうすることに違和感はない。私は自らの貞操を守る為に全力を尽くす所存である。

 同棲しているという少女もきっと調教済みに違いない。

 

 この名探偵七乃に死角はありません!

 

 そんなこんなで楊宏の屋敷に辿り着いた。

 う〜寒い、と冷たくなった合鍵を片手に玄関に上がる。靴下は厚め、先ずは台所に出向いて朝餉の準備を整える。

 基本的には昨日、用意していたものを温めるだけだ。少しすると女装姿を強制されている屋敷の主人が現れるので先に茶を淹れて、食事の準備ができるまで机で待って貰う。そして朝餉を机に並べる頃合いに同じ使用人の程立が見計らったように寝間着のまま姿を見せる。まだ眠たそうに瞼を擦る程立に「ご飯の前に顔を洗ってきたら?」と楊宏は声をかけると「ん〜そうしますね〜」と少女は重い体を引きずるように台所へと向かっていった。のんびりとした会話、緩い日常。使用人が戻ってくるのを待つ主人。顔を洗って、幾分かすっきりとした顔付きの少女が主人の隣の椅子にちょこんと座り、「いただきます」と二人揃って手を合わせてから食事に手を伸ばした。とても主従にあるとは思えない二人の関係性。黒と金、髪色は違っているが少し歳の離れた姉妹のように感じられた。

 さて、ここで働くようになってから一週間が過ぎている。

 今のところは二人に不穏な動きはない。色恋沙汰もなければ濡れ場もなく、ついでにいえば修羅場もなかった。寝室の掃除をした時、敷布に不自然な皺や染みがなかったことから子供禁制の事態に発展していなかったことは分かっている。元より二人が一緒の寝室に入るところも見たことがない。私の前だから遠慮している可能性はある。しかし二人で外に出ることもなければ、恋仲、もしくは愛人関係であったとしても肌の触れ合いが少ないように感じられた。互いに自然体の会話を交わしており、異性として意識しているようにも見えなかった。

 あれ、もしかして、私の勘違いだろうか? 私はなんという過ちを……(節穴)

 

 名探偵七乃は本日を以て廃業しました。

 

 更に二週間が過ぎた、ある日のことだ。

 程立と良い感じに分担しながら仕事を熟していた時の話、「付き合ってくれませんか?」と将棋盤を両手に持った程立が話しかけてきた。必要のある時しか関わってくることがない程立に少し不思議に思いながらも、退屈凌ぎには丁度いいかな、と深く考えもせずに承諾する。監視対象の楊宏は週に一度か二度しか帰って来ないし、要注意人物に指定されている程立も今のところは不穏な動きを見せていなかった。毎日、飽きもせずに書籍を読み漁っており、時折、外に出たかと思えば新しく書籍を仕入れるだけだ。家事が昼過ぎには終わってしまうこともあり、とにかく私は暇を持て余している。

 それに私は将棋や囲碁といった盤遊戯が得意で、そんじょそこいらの相手には負けない自信がある。

 事実、彼女との一局は私の優勢で事が運ばれていた。

 

 程立は駒に指を添えようとして、考え込む素振りを見せた後に顔を上げる。

 

「そうですね〜、ただ勝負するだけっていうのは味気ないですね〜」

 

 程立がにんまりと笑みを浮かべて告げる。

 

「ちょっと賭けでもしてみませんか?」

 

 私は少し考え込む素振りを見せる、振りだけだ。

 パッと見た感じでは互角の局面だが、私には勝ち筋が見えている。そして先程、程立が手を伸ばそうとした先にある駒は私の勝利をより確実にする為の一手だ。これは勝ったな、と私は込み上がってくる笑いを堪えながら眉間に皺を寄せる。大人しそうな見た目とは違って、目の前の少女、程立は意外と博打が好きな性格のようだ。だが、勝負とは勝利を確信している時に行うべし、そうでなくとも優勢の時に勝負は仕掛けるものだ。程立の顔を盗み見る、その挑発的に浮かべた笑みは裏がないことを示している。策士とは、こういう時は表情を隠すものだ。今、私がそうしているように!

 だ……駄目だ。まだ笑うな……堪えるんだ……し、しかし……程立、笑いを堪えるのがこんなに大変だとは思わなかったですよ。

 

「意外と博打が好きなんですね」

 

 当たり障りのないことを問いかけると「そうですかね〜?」と程立もまた当たり障りのない言葉で躱した。

 きっと彼女は嘘を吐くのが下手なのだと把握した、これはもう負ける要素がない。

 

「何を賭けるおつもりで?」

「そうですね〜、お互いに誰にも話せない秘密を喋るというのはどうでしょう?」

 

 履いている下着の色とか、いつも自慰をしている回数とか。その時に使っている道具を御披露目とか。

 そう楽しげに語ってみせる程立に「自分はしていない、はなしですよ。その場合はもう一度、質問し直しますから」と条件を付け加える。もちろんですよ〜、と私を見据える程立の雰囲気が変わる。今、この時になって、ようやく私を仕留める気になったようだ。だが、もう遅い。将棋には自信があるようだが、次の一手、それで局面は覆せなくなる。

 程立、貴方の敗因はただ一つ。やる気を出すのが遅過ぎた、それだけだ。

 

「それでは……私は自らの真名、風に誓って、この約束を違えないことを約束します」

 

 見せつけるように指先で駒を摘んで、そして挑発的に私を誘ってくる。

 

「では私も自らの真名、七乃に誓って、この約束を違えないことを約束しますね」

 

 程立はまだ勝負が決まっているとは思わず、勝利する可能性があると信じている。

 だが、まだ次の一手を差していない。次の手を打つまで悟られてはまずい、その場合は勝負の行方がわからなくなる。

 彼女が駒から指を離してから勝利宣言をしよう。

 

「言いましたね?」

 

 すっと駒を戻すと、その手で隣の駒を横に滑らせた。

 

「待ったはなし、ですよ」

 

 あ、これまずい。形勢が覆ったことを直感的に悟る。

 いや、まだだ、まだ勝負が決まった訳ではない。くしゃりと髪を掻きながら盤面を見つめる。しかし、考えれば考えるほどに相手が私を追い詰める手が次々と思い浮かんでいった。

 ま……負けるですか? 私は負けるですか!

 

「あまりこういうことを言う趣味はありませんが〜」

 

 程立は振袖から棒付きの飴を取り出すと、それで口元を隠すと嘲笑うように目を細めた。

 

「計画通り、と言っておきますね〜」

 

 その後、程立の手堅い戦術を打ち崩せずにじわりじわりと追い詰められて負けてしまった。

 

「策士、策に溺れる。とはこのことですねえ」

 

 くわばらくわばら、と余裕ある声が脳裏に響いた。

 呆然とする頭で程立の顔を見やると、彼女は初めて感情を込めた顔で私のことを見つめていた。

 それは酷く腹が立つにやけ面だった。

 

 

 勝負を終えて数分後、

 程立は盤上に並べられた将棋の駒を、じゃらじゃらと意気揚々に片付けている。

 能ある鷹は爪を隠す、と云うが彼女がそう。無害そうな顔をしてとんだ狸だ、と内心で悪態を吐き捨てた。賭けを始める時に真名に誓っている為、ある程度のことは喋らざる得ない。綺麗に嵌められた、ということからも覚悟はしている。何を聞かれることになるのか、戦々恐々とする私に「新しく茶を淹れましょう」と程立が提案する。どれだけ焦らすつもりかと、絶対に性格が悪い。用意した急須から白い湯気の立つ液体が、こぽこぽと二人分の湯飲みに注がれる。茶請けまで用意される徹底ぶり、えっなに、そこまでじっくりと話を聞くつもりなんです? 程立は無害そうな顔で一口だけ茶を啜り、ふうっと息を吐いた。

 それからゆっくりと私の顔を覗き見る、それだけで心臓が握り締められるようにごりごりと精神が削られる。

 

「まあ勝負に負けたからと言っても話せないことは多いと思いますがー」

 

 ゆったりとした言葉遣い。楽しんでやがるなあ、とじっとりと睨みつけてやると程立は困ったようにはにかんだ。

 

「胸襟を開いて語り合いたいと思った次第です」

 

 そんなことを彼女はほざいた。はい? と思わず、問い返してしまった。

 

「正直に云うと手詰まりなのですよ。流石は汝南袁家と云うべきでしょうかー。誰かを雇うにもひと苦労で、雇えたとしても袁家の防諜能力には敵いません」

 

 むむむ、と眉間に皺を寄せる少女を前に私は呆気に取られる。

 まさか自分からあっさりと手の内を明かすとは思っていなかったからだ。

 敵対行動を取っている、と自ら宣言する言葉に身構える。

 

「敵になるとは言っていませんよ?」

「今、正に宣戦布告も同然の言葉を聞いたような気がしましたけど?」

「敵になるも、味方になるも、正直いうとまだ決め兼ねています」

 

 程立はズズッと茶を啜り、唇を潤して告げる。

 

「貴方と(ふう)で手を組みましょう。風はまだ好奇心旺盛なだけの女の子なんですよ」

 

 満面の笑顔、作った笑顔で告げられる。

 

「私は貴方を信用していませんよ?」

「風も貴方のことを半分程度しか信用していませんからおあいこですねー」

「それで手を組めなんて無茶じゃないですかー」

 

 茶請けを口に放り込んで、ぼりぼりと頬張る。甘くなった口に茶を流し込めば、丁度良い味加減になった。

 相変わらず、どこまでが本気で、どこまでが冗談なのかわからない。

 

「なので、お互いに話し合いの場を設けさせてもらいました」

「……真名を賭けてまで場を整える必要ありました?」

「その方が話し合いもスムーズに進むと思いましたのでー」

 

 すむぅず? と聞き返すと、円滑にって意味です。と程立は端的に答える。

 

「勝負に負けたからと言っても話せないことは多いと思いますが、胸襟を開いて語り合いたいと思った次第です」

 

 仕切り直すように改めて告げられる。

 言いたいことは色々とあるが、とりあえず今は茶を飲んで、彼女の出方を窺うことにした。

 もう一度、茶を口に含み、喉を潤してから程立は言葉を発する。

 

「最初に聞いておきたいのですが、貴方は汝南袁家の諜報員ということでよろしいでしょうか?」

 

 仕切り直してからの第一声に、そこから? と思わず転びそうになった。

 

「ちょっと待って……貴方は、楊宏が雇った諜報畑の人間ですよね?」

 

 頭を抱えながら問いかけると、はて? と程立はわざとらしく首を傾げてみせる。

 

「食指が動かないわけではありませんが、そのことを御主人様は知らないと思いますよ?」

「じゃあ、どうして貴方を雇ったのです?」

「屋敷の管理さえしてくれれば誰でも良かったようですねー、私に求められたのも家事能力だけですし」

 

 そう告げる少女は面白いものを見つけた時のようにくすくすと肩を揺らした。

 これでも私は張家の中では、とびきりに優秀だと言われている。性根の腐った張勲と称されることもあるが、それはそれ、私が持つ才覚を乏める言葉にはならない。そんな私を相手に鮮やかに嵌めてみせた彼女の才覚は私よりも格上だとわかる。それは初めて彼女と顔を合わせた時から感じていた違和感のはずで、彼女の才覚を知った今、その存在は歪に照らされていた。

 つまるところ、彼女がただの使用人として、此処にいることが歪だった。

 

「……貴方は、どうしてここにいるのですか?」

 

 その質問をした時、程立は愉悦に顔を歪めてみせた。

 

「よりにもよって、その質問を先にするのですね? 他にも聞くべきことは多くあるというのに、違和感に気付いたら真っ先に問いかけるですね? 風が敵か味方か、を確認するよりも先に、風の正体を訊くよりも先に、急所を捉えますかー」

 

 敵か味方かを確認することは必要なことだ。彼女の正体を知ることは重要なことだ。

 その二つよりも先に私が知りたいと思ったのが彼女の目的だった。

 程立は楽しげに甘味を頬張りながらただ一言、「理由はないですよ」と不条理に告げる。

 

「強いて理由を上げるとすれば、ここは私にとって縁も所縁もなかったことが理由として挙げられますねー」

 

 じとっと睨みつけると程立は「本当のことですのでー」と私の視線から逃れるように顔を背けた。

 

「勘の良い小娘は嫌いだな」

 

 程立は振袖で口元を隠しながら、あたかも頭の上に乗っけた趣味の悪い人形が喋ったかのように振る舞ってみせる。

 

「あ、こらっ、他人を小馬鹿にした態度を取ると、めっですよ」

 

 ポカリと人形の頭を叩く彼女の振る舞いこそが他人を小馬鹿にしていると思うのは私だけだろうか。

 

「……なら、どうして影の者を雇ったりしたのですか?」

「それはまあ、一応、私の主人は楊宏様ってことになっていますのでー、一宿一飯の恩という訳ではありませんが、義理くらいは果たそうと思ったわけですよー。冴えない面をしている割には汝南袁家の屋敷に招かれているのですからびっくりしました」

 

 司書って聞いてましたよ、と程立は半目で不貞腐れる。

 さて、この程立という少女。字面だけを受け止めるのであれば、今は敵でも味方でもない。それを判断する為の情報が足りていないのは事実なようであり、その情報を収集する為に私と手を組みたいと言ってきていているようだった。ただ彼女は腹芸ができない人物ではなく、その智謀は決して軽視して良いものではない。

 重要なのは、彼女は仮にも楊宏に仕える人物。そして他とは縁を持っていない、という点だ。彼女は孤立している、そうでなくては危険を犯してまで獅子身中の虫と分かっている私と手を組む理由がなかった。

 それもまた彼女の言葉を信用すればこその話であるが――――

 

「貴方の目的は?」

 

 ――分かるのは、彼女を放置していては危険という一点だ。

 

「今の穏やか生活が維持できれば、と思っていますねー」

 

 じいっと程立の目を見つめるが、彼女の瞳に嘘を吐いている気配はない。

 後ろめたいものがある時、人は視線を逸らす。絶対に隠したい何かがある時、人は見つめ返してくる。しかし彼女はまるで腹の虫を探られることを恐れていないように自然体で私の視線を受け止めた。逆にこれは異常だった。目を見つめられると人は少なからず、身構えるし、動揺や困惑、焦燥が生まれる。

 つまり、余裕があるということ。そこを探られても痛くない、ということは探られて痛い腹はあるということだ。

 

「そういう貴方の目的はなんでしょう?」

 

 問い返されて、私は素直に答えるべきか迷った。

 

「……それはもちろん張家の繁栄ですよ」

 

 迷った末に、嘘ではない言葉を告げる。

 なにかの為に熱心に生きるつもりはない。適当に生きて、適当に馬鹿やって、楽しく生きられれば良いと思っている。ただ自分の為に張家を犠牲にしても良いとも思っていない。私には汝南袁家に対する忠誠心はなく、張家に対して服従もしていない。そこにはただ情があるだけだった、情があるが故に私は張家を裏切るつもりもない。繁栄してくれれば良いな、とも思っている。繁栄させるのは私ではない誰か、という前提の話だが。

 なるほど〜、と程立は意味深に笑みを浮かべると改めて手を差し伸べてきた。

 

「損はさせませんよ」

 

 と告げる程立の手を受け取り、「楽はさせませんよ」と返した。

 困りましたね〜、と目を細める程立は何処か楽しげだった。

 

 

 




新年明けましたおめでとうございます、今年もよろしくお願いします。
私は軽く筆が詰まっており、仕方ないのでアトリエ黄昏シリーズのプレミアムボックスを買いました。
アトリエをやらなきゃって思ったら、筆が進むようになりました。

暫く間幕が続きます。


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間幕.風立たぬ。

 風が吹き込んできた。

 墨の匂いが篭る部屋の中、開けた窓から冷たい空気が肌を撫でる。

 心地よい眠気を誘うような微睡んだ空気が追い出されて、眠気が醒めるような新鮮な空気が私のことを包み込んだ。息を吸い込むと肺に溜まった淀んだ気持ちを包み込んで、吐息と一緒に口から吐き出される。体の内側が少し綺麗になった気分になる。瞼の裏、目の奥に巣食うような鈍く重い感覚に頭を二度、三度と軽く小突いて、何度か深呼吸を繰り返す。体を揺するようにお尻の位置を整えて、肘を持ち上げるように大きく肩をぐるりと回した。すると心持ち体が軽くなって、少し頭も冴えてきたところで机の上に開かれた書籍の頁を指で摘み、墨で引っ付いた紙と紙の隙間をぺりぺりと丁寧に剥がす。外から枝葉の擦れる音が耳に入り、私の前髪を揺らした。

 此処は豫州、汝南郡。四世三公で有名な汝南袁家が拠点に据える城塞都市、その一角にある楊宏の屋敷。

 世の中は飢饉や賊の襲撃で騒がしくなっているというのに、此処は――いや、この空間は長閑だった。この時期、曹操と袁紹はまだ県令であり、それぞれが太守になるために功績を積んでいる頃合いだろう。これからそう遠くない未来に黄巾を被った賊徒達が大陸全土で蜂起し、漢王朝は未曾有の大混乱に陥ることになる。

 そんなことはどうでもいい、と私は椅子から立ち上がって部屋の換気を終えたと窓を閉じる。

 

 私、程立仲徳は俗世から隔絶した空間で書籍を読み耽ることのみを良しとする。

 

 この世界には私の知っている人間が存在している。

 実際に会ったことはなく、話したこともない。それは相手のことを歴史上の人物として知っているという意味でもなければ、風聞を耳にすることで間接的に知っているという話でもない。

 でも確かに私は、まだ見ぬ誰かのことを知っている。

 頭の奥底で大事にしまわれた宝石箱、今はまだ思い出すことができない記憶が封じられている。開けたくとも箱には鍵が掛けられているようで自分の意思で開けることができず、また鍵が見つかっても箱が錆びてしまっているようで部分的にしか記憶を覗き見ることができなかった。箱の鍵は、私が知っている――さりとて、まだ出会ったことのない誰か。その顔を私の目で確認した時、強い既視感と共に白い靄のかかった朧げな記憶が甦る。僅かに開かれた蓋の隙間から覗き込むように、隙間から漏れる記憶の残り香を嗅ぎ取るように。私の知らない記憶の映像、手で触れ合った感覚が脳裏に浮かんだ。最初は気のせいだと思った。何度も繰り返される内に記憶は鮮明となり、今となっては、嘗て私が経験した記憶であると確信にまで至っている。

 それは夢の世界での出来事かも知れない。別の世界での出来事かも知れない、もしくは前世での出来事かも知れない。私はまだ見ぬ誰かの事を知っている。今を生きる私ではない私が歩んだ道のりの記憶が宝石箱にしまわれている。

 物心がついた時から、私はきっと私の頭の中に記憶の宝石箱があることに勘付いていた。

 毎日が退屈だった、初めて経験するはずのことに既視感があった。初めて目に通す書籍の続きがなんとなしにわかる。初めて足を運んだ街の様子を知っていた。それはただ単に自分は勘が鋭い人間なのだろう、と思っていたが今はもう確信した事実から目を逸らすことができない。記憶の宝石箱、その存在を疎ましく感じたのは何時頃からだろうか。

 たぶん物心のついた時から思っていた、自覚したのは今より一年近くも前の話になる。

 

 新鮮味のない既視感に満ちた世界から抜け出したくて旅に出た。

 未知を求めた旅先で、私は郭嘉という名前の女性と出会うことになる。戯志才と名乗る彼女が偽名を使っていることを初対面で見破った。そのこと自体は勘が鋭い、というだけで済まされる話だ。しかし私は彼女の本名が郭嘉であることも見破っていた。それは知っていなければ知らない事実、それは異常と呼ぶ他になかった。

 彼女は頭の回転がとにかく早い。その人並み外れた能力を持つが故に、脳が負荷に耐えきれずに知恵熱を出して、まるで風呂でのぼせてしまったかのように鼻血を吹き出す癖を持っている。それを初めて見た時、私は自然と彼女の首筋をトントンと叩いてあげていた。

 それは酷く懐かしさを覚える光景だった。懐かしい、と感じる自分が気持ち悪くて仕方なかった。

 二人旅を続けて数日が過ぎた頃合いで「まるで昔に私と会ったことがあるようだ」と郭嘉が零したことを今も強く覚えている。

 数ヶ月後に郭嘉の真名を教えて貰った時、ズキリと心が痛んだ。彼女の真名は顔を合わせた時から知っていた。騙しているつもりはないのに騙しているような気持ちになった。胸に抱えた罪悪感が気のせいなのはわかっている。私が悪い訳ではない、悪気があった訳でもない。でも胸に感じる疎外感はきっと気のせいではないのだろう。私は郭嘉と同じ世界で生きている気がしない。同じ場所に立っていながら、手と手が触れ合う距離にありながら、きっと私は彼女と同じ時間を生きていなかった。お互いの心は致命的にすれ違っている。そんなどうしようもない距離感を私は埋めることができず、勝手に孤独感に苛まれては自己嫌悪にじゅくりと心が蝕まれる。

 正直なことをいえば、私の頭に記憶の宝石箱を残した世界に苛立ちすらも感じていた。

 

 また少し立って、趙雲という女性が旅の仲間に加わる。

 彼女との出逢いでまた私の宝石箱は僅かに開き、彼女が近い将来に私達と袂を分かち、強大な敵として立ち塞がることを予見した。

 いずれ敵となる人物。でも、この時はまだ私達は仲間だった。

 趙雲は少々変わった人物ではあったが、話していると面白い。普段は飄々とした態度を取る彼女の本質は、人懐っこくて可愛らしい乙女になる。動物に例えるならば、猫。それも我がもの顔で街中を歩き回る小綺麗な白猫だった。遠目から見る分には気紛れで高貴な立ち振る舞いをしており、頭を撫でようと歩み寄れば、そっと距離を保って自分の間合いに踏み込ませようとはしなかった。逆に適度な距離で接していると彼女の方からそっと距離を詰めて、構って欲しそうに、頭を撫でて欲しそうに身を寄せてくる。

 寂しい時や辛い時、彼女は独りでいることを好んだ。夜空に浮かぶ月を肴に酒を呷っている。こういう時は近付いても大丈夫で彼女に寄り添うように腰を下ろすと趙雲は嬉しそうに目を細めた。与太話を聞かされる。月が綺麗だから、とか、風が気持ちいい、とか、そんなどうでも良い話の中にポツリと本音を零すのが彼女の手垢が付いた手法だった。私が酔いを求めると彼女は優しく微笑んで懐から新たな杯を取り出して、手渡される。独りで呑むには必要のない杯、こんなこともあろうかと、と誤魔化す彼女の本音が此処にあるのだと思った。

 孤独は気楽だ。でも時折、人肌が恋しくなる。

 私が孤独感に苛まれている時、彼女はなにも喋らずに寄り添ってくれた。誰かに話したい訳ではない、慰めて欲しい訳でもない。私は私の境遇を理解して貰えるとは思っていない。同意が欲しい訳でもない。でも孤独だけに生きるには、私はあまりにも弱過ぎた。私は独りの時間が好きだ、孤独でいる時間を尊重する。だからといって、寂しさを感じない訳ではない。人生という道は、孤独に歩むには、あまりに寒く、暗く、ふとすれば凍えてしまいそうになる。私が求めるのは止まり木で、ほっと一息吐けるだけの場所を欲する。求めた時だけ人肌で温めて欲しい。それは実に身勝手で贅沢な願いだと分かっている。分かっているから、その時間を私達は大切にした。

 趙雲との距離感を掴むことは難しいが、一度、掴んでしまえば彼女ほどに可愛くて甲斐甲斐しい人物もそう居ない。

 

 私は趙雲と過ごす何気ない時間が好きだった――失いたくなかった。

 

 ある日、気付けば彼女の服の裾を摘んでいた。

 趙雲が振り返る。

 彼女は笑みを浮かべたままだったが、私の真意を読み取ろうと見つめ返していた。

 

 ――ん、どうしたのかな。(程立)殿?

 

 その真っ直ぐな瞳で告げられて、私は喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。

 あのー、そうですねー、と間延びした声で場を繋いだ。視線を逸らす、心が萎縮する。胸の動悸だけが早くなる。告げたいのはただ一言、行かないでください。それだけだ。

 口を開こうと彼女の顔を見つめた。さりとて彼女の瞳が直視できず、笑ったふりをして目を細める。

 

 ――やっぱりなんでもありません、と口にした。

 

 これが私の限界だった。

 惑う心は彼女の真摯な瞳に晒されて、揺らいでしまった。

 それからも彼女を呼び止めようと試みたが、結局、声にするところまでは届かない。

 私は独りの時間が好きだ、それはきっと彼女も同じだと思っている。だからといって孤独を望む訳ではない。彼女、趙雲は今を全力で生きている。自分が思うがままに、何処までも自由に自分を在り方を表現し、その生き様を以て証明していた。彼女はただ立っているだけで自らを眩く輝かせた。その光は羨むほどに強く、妬むほどに魅力的だ。だから揺らぐ私の一言で、彼女の歩むべき道を歪めていいとは思えなかった。

 郭嘉に対してもそうだ、二人のことは触れ難い宝石のように感じている。

 

 きっと私は彼女達と同じ刻を生きていない、そのことが私に劣等感を抱かせた。

 

 家事を終えて、日がな一日、書籍を読み耽る毎日、

 目に疲れを感じると部屋に備え付けの寝台に身を放り投げる。気怠さが全身にのしかかり、ずぶずぶと肉体が精神と一緒に布団の中へと沈み込んだ。

 この世界が退屈だと感じるようになったのは何時からだったか、確か物心がついた頃から世界には飽きていた気がする。何をしていても楽しくなく、何を見ても新鮮味を感じない。この世界の全てが面白くなかった。この世に生まれ落ちてから今に至るまで競争というものに興味を持てない性分で、無気力に人生を歩むことが多い御身分ではあるけども――それでも未来を知っているということは、私にとっては酷く興が削がれることだった。何処の誰とも知らない人物の記憶に振り回されるのも嫌だったが、かといって未来を知っているにも関わらず、来たるべき不幸に備えないのも馬鹿らしくて仕方なかった。

 枕に顔を埋めたまま、鬱憤した気持ちを溜息と共に吐き出した。つまるところ私は何をしたところで楽しくないのだ。

 

 この世界で私は独り、立つこともできずにいる。

 

 未知を求めて旅に出た時、当時はまだ仕官を望んでいたので主君を探す目的もあった。

 それで情報を集めている内にピンと来たのが曹操だ。郭嘉は別れる寸前まで曹操のことを絶賛していたので、見聞を広める為の旅を終えた後で曹操に仕官するものと思っている。自然な流れでいえば、私も曹操の下へと馳せ参じて、彼女の躍進を手助けする一人になっていたに違いない。

 しかし、今となってはそれもありえない。

 何故ならば、私は曹操の真名を知っている。遠目から彼女の顔を確認した時に記憶の宝石箱から彼女の真名が零れ落ちた。夏侯惇に夏侯淵、曹仁、曹純、曹洪と続けて視界に収めてしまったことで、この世界の行く末の大半を理解してしまった。

 それは知っている未来だ。今生きる私ではない私が歩んだ道のりでもある。

 

 私は曹操に仕えていた。だから私が曹操に仕えることはありえない。

 

 実は旅を続けている内に、ずっと考えていたことがある。

 この旅を終えたら何処かに身を隠して、俗世から離れた場所で隠居暮らしをしてみたい。

 晴れた日には田畑を耕して、雨が降れば書籍を読み耽る。必要以上に誰かと関わることをせず、誰とも関わろうともせず、土と語り合いながら田畑に実る小さな恵みに感謝する。そんな日々の幸せを噛みしめるような生活こそが私には必要なんじゃないかなって、そう思った。郭嘉が聞けば、卒倒してしまいそうな話だ――いや、彼女は意外と相手を尊重してくれるから、案外あっさりと受け入れてくれるかもしれない。それとも非力な貴方に農業なんてできませんよ、と率直な意見を述べたりするだろうか。

 そんなことを考えていると、くすり、と含み笑いをする声が耳に入る。

 振り返る、部屋の中を見渡した。此処には自分の他に誰もいない、ということは笑ったのは――そういうことなのだろう。想像するしかない未知の未来を考えるのは楽しかった。そんな未来に手を伸ばそうとすれば、人生も少しは楽しくなってくれるだろうか。

 わからない。けど、そうなってくれれば良いな、と思う。

 

 私が汝南郡に身を寄せたのは、知った顔がほとんどいなかった為だ。

 旅費を稼ぐ為に公孫瓚に仕えていた記憶がある、袁紹とは官渡の戦いで雌雄を決した。涼州の馬家とは征伐を行った記憶があり、同様の理由で荊州の劉表とも縁がある。益州には魏の宿敵である蜀が建国する場所で、呉とは浅からぬ因縁があった。記憶にある魏は、戦国乱世と呼ばれる群雄割拠の時代において、ほとんどの勢力と戦闘を繰り広げていた。

 その中で私と縁が遠そうで魏と関わりの薄い勢力が袁術。つまり汝南袁家の本家筋だった。

 とはいえ今すぐに仕官をするつもりはない。私が知る生き方が何処かの勢力に仕官することだけだった、という話であり、他に安定した生活を得られるのであれば仕官に拘る必要もない。順風満帆な隠居生活には資金がいるし、ちょっと小金を稼ぐつもりで袁術のお世話になるつもりだった。

 ここまでの話で分かるように、私は袁術にも固執している訳でもない。

 私と縁が遠くて、魏と関わりの薄い勢力であれば、相手が劉耀や陶謙でも良かった。ただ夢の隠居生活を考えた時に最も近い場所にあった手頃な勢力が袁術だった。それだけの話だ。特に仕える理由がなく、縁も所縁もない。それだけの理由で私は汝南郡に身を寄せている。

 そして楊宏の使用人として働く今、汝南袁家に仕官する理由は失われていた。

 

 生活費と共に手渡される給金の半分以上は書籍代に消えている。

 家事は必要最低限、午後、おやつの時間が過ぎる頃には仕事を終えて、残りの時間を読書に費やす日々を送っている。週に一度か二度、私の雇い主である楊宏が屋敷に帰ってくる時だけは腕を振るって料理を作る。私は料理の腕には自信がない。美味しくもないが食べられない程でもない。美味しいか不味いかで問われれば、不味いといった程度の腕前である。そんな程度の味しか出せないので、余分に与えられた生活費を用いて、私独りの時は外で食べ歩いている。

 屋敷に戻る時、楊宏は外で食事を摂ることは少なかった。

 酒を飲んで帰ることはあっても、あまり食事を摂らず、しっかりとした足取りで屋敷に戻ってくる。帰宅する日は予め教えてくれる為、急に帰ってきた時に焦ることもない。用意しておいた一人分の食事を、彼は眉間に皺を寄せながら黙々と口に運んだ。不味いのは知っている、でも残さずに食べてくれるのは作った甲斐がある。彼の食事する姿を書籍を読むふりをしながら盗み見るのは、ちょっとした楽しみだった。

 食事を終えると彼は身を清めた後、すぐに就寝する。

 

 いつも泥のように眠る姿が、少し気がかりだった。

 

 彼の仕事は司書だと聞いている。

 書庫にある書籍を管理するだけの簡単な仕事。そんな風に語るにしては、彼はあまりにも疲弊しきっていた。それに主人からの命令とはいえ、常日頃から女装を強制する意図も見えない。気になった私は楊宏の身辺を簡単に調査してみたところ、毎日、彼が足を運んでいるのは書庫のある城ではなくて、汝南袁家の個人的な屋敷であった。

 ここで初めて私はきな臭いものを感じ取り、更なる調査を乗り出そうとしたところで――張勲が楊宏の屋敷に送り込まれてきた。

 監視だろうか、早過ぎる動きに私は暫し息を顰める。数日が過ぎ去って一週間、彼女の動向を観察し続けた結果、やはり彼女は袁家から送り込まれてきた刺客ということを確信する。

 そして自分が踏み込んだ藪には、蛇が潜んでいることを察した。

 

 このことに気付いた時、私は自分がどうしたいのか分からなかった。

 張勲が使用人として屋敷に来た時点で袁家からの刺客ということは気付いていた。結論を引き延ばすように彼女のことを観察し続けて、刺客以外にありえない。というところまで待ち続けてきた。

 私は結論を出さなくてはならない。楊宏を見殺すのか、それとも助けるのか。

 

 寝台に身を埋めながら、もぞりと体を動かした。

 書籍を読み耽り、眠くなったら寝る。という生活を過ごしている。

 布団には私の匂いが染み付いており、部屋には紙と墨の香りがこびり付いていた。

 私は、この部屋にいると安心する。

 この部屋は私の空間だと身と心が認めている。

 

 ――はて、少し眠っていただろうか。

 軽くなった頭を働かせて、身を捩る。枕元に置き捨ててあった書籍を手に取り、俯せで頁を開いた。綴られた一字一句を指でなぞりながら読み耽った。情報を頭に詰め込むだけならば、十数分もあれば書籍を一冊、読み切ることができる。じっくりと読み込んだとしても半刻(一時間)も必要としない。今は情報を欲している訳ではない、書籍を読む行為そのものに意味があった。頭の中を空っぽにして、放っておいても働いてしまう脳を強引に休ませるために文字の世界へと意識を落とす。

 近頃、私は詩集に嵌っている。

 書き綴られるは想いの丈、甘酸っぱい恋心、繊細な言葉遣いで書き記されている。ふと目を閉じれば、瞼の裏に情景が浮かび上がる。呼吸をすれば空気を感じ取れる。橋の上に立つ二人の男女、その恋心は行方は何処なりや。残念ながら結末までは書かれておらず、ただ著者の想いの残り香が胸を満たした。

 想像する、夢想する。心地よい後読感に細く長い息を零した。

 屋敷に受け入れられてからは優雅で和やかな毎日を過ごさせてもらっている。こんな調子で良いのかと不安に感じてしまうほどに此処での暮らしは平和そのものだった。

 満たされている、満たされているはずだ。世間一般的な感性で言えば、幸福と呼べる毎日を送っている。

 溜息が漏れる、重苦しい吐息。ふとした瞬間、今の暮らしに空虚さを感じることがある。

 幸せというのは単純なようで難しかった。

 見て見ぬふりを続けている。相手は特に思い入れのない人物、切り捨てようと思えば、何時でも切り捨てられる。ただ少し、ほんの少しだけ居心地が悪かった。喉の突っかかりをずっと放置しているような感覚。割りに合わない、という気持ちもある。それは私の手に余る問題だ、本当に? 違う、やる気がないだけだった。私は袁家の問題に深く関わるつもりはない。私は知っている。近い将来、袁術が台頭することを、そして群雄割拠の時代で志半ばで歴史から消えることを知っている。知っているだけだ、確信はない。実感もない。当たり前だ、私はこの時代を生きていないのだから、実感がなくて当然だった。

 ただ一つ、分かっていることは、それなりに今の生活を気に入っている。

 私は溜息を一つ零して、将棋盤と駒を手に取った。人間という生き物は、時に不合理な行動を取る。

 それ故に知恵に生きる者は、自らの感情を制御しなくてはならない。

 しかし、どうやら私はまだ未熟だったようだ。

 当たり前だ、と自嘲する。

 

 だって(ふう)はまだ、この世界で何者にもなっていないのですから。

 

 

 




七天の御使いより、「間幕・風は吹いている」の書き直し。


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間幕.とんだ狸だ

 汝南袁家の暗部として仕える張家。その懐刀とも呼ばれる張家の矛先は内側に向けられている。

 つまるところ張家の役割とは、汝南袁家に潜む反乱分子や他勢力から送り込まれた諜報員の監視と摘発にあり、取調べの際には人格を破壊しない程度の拷問が許可されている。その為、私自身も張家式の拷問術は身に付けており、爪を剥ぐことは得意でよく褒められていた。そんな私だから内部調査なんて大したことはない――そう思っていた時期が私にもありました。

 汝南袁家、その屋敷の防諜は完璧で鼠一匹の侵入も許さない。思っていた以上の厳重な警備体制に、これは無理です、と早々に諦めた私は切り口を変える。名付けて、屋敷に潜入できないのであれば屋敷にいる者から情報を得れば良いじゃない作戦だ。しかし、それも上手くはいかず、屋敷に住む全員が袁逢に忠誠を誓っており、なによりも義理堅かった。

 あんまり嗅ぎ回っていると……と使用人に脅されたこともあって楊宏の屋敷に戻った私は、もうお手上げです、と程立に降参の意を示した。

 

「あそこの結束力、絶対におかしいですってー」

 

 汝南袁家の屋敷の者達は当主に絶対服従している。

 その振る舞いは軽く引いちゃうほどであり、どう見ても裏があるとしか思えなかった。

 ただそれも見当も付けられず、突破口も見つけられる気がしない。

 

「前に御主人様のことを聞いて回った時は情報を頂いていたのではないのですか?」

 

 私が調査に乗り出している間、家事を担当する程立が首を傾げる。

 

「あの時は踏み込んだ話をしたわけではありませんので」

 

 次の仕事に必要だからと軽い気持ちで楊宏の評判だけを聞いて回ったので変に警戒をされなかったのかも知れない。それで今回は楊宏が屋敷でどのような仕事をしているのか聞くと急に侍女達の空気が変わったのだ。それで袁術の侍女長を名乗る橋蕤に脅されて今に至る。

 

「これ以上、私が手を貸す義理はないですからね」

 

 じとっと睨み付けると、ふむ、と程立は考え込む仕草を見てた後、

 

「屋敷の者から情報を得られないのであれば、外の者に訊くしかないですねー」

 

 と次の方策を語り始めた。

 

「――話は分かりました。ところで、これって本当に私の益にも繋がるのですよね?」

 

 まだいまいち信用できない相方を訝しげに見つめると少女は緩やかに頷いてみせる。

 

「はい、情報を集めたい私と御主人様の動向を探りたい貴方、目的は一致しているのですよ。私の監視にも繋がりますし、一石二鳥ですねー」

 

 にへらと笑う程立に私は眉間に皺を寄せる。

 楊宏の動向にも気を使わないといけないが、目の前にいる少女もまた食えない性格をしている。

 最後の最後で出し抜かれないように、警戒は続ける必要があった。

 

 

 今日は家事をお休みにして、外食を摂ることにした。

 商店街を歩くだけで、あちこちから漂う美味しそうな匂いに意識が持っていかれそうになる。お腹がくうっと鳴いたから「適当な場所で良いじゃないですか」と隣を歩く程立に提案すると「いいえ、駄目です」と彼女は両手の指でバッテンを作った。それから数分、程立の案内に従うがままに商店街の奥へ奥へと歩き、少し寂れた料理店に辿り着いた。どうやら餃子屋のようだ。「穴場です」と程立が暖簾を潜るので、私も彼女を追いかけて店内へと足を踏み入れる。

 中には数人の客がいるだけで静かだった。出入り口も含めて、店全体を見渡せる席を確保した私はお品書きを手にする。

 

「店長、麻婆豆腐を二人前でお願いします」

 

 しかし程立は私の意見も聞かずに勝手に注文してしまった。

 お口はもう餃子の気分だったのに、それに炒飯を付けようかなって思ったのに。

 なんだか、ちょっと勿体ない気持ちになった。

 

「……私、まだ何も決めていませんよ?」

 

 じとっと目の前に座る少女を睨み付けると程立は素知らぬ顔で口を開いた。

 

「ここがどうして寂れているのか分かりますか?」

 

 その問いに思考を巡らせる前に私は店内をぐるりと見渡した。店内で食事をするのは二人、共に麻婆豆腐を注文している。

 

「……餃子は美味しくない、とか?」

「流石ですねー、当たりですよー」

 

 パチパチパチ、と手を叩く程立の前にドンッと叩き落される麻婆豆腐が盛られた大皿。恐る恐ると顔を上げると髭面のおっさんが不機嫌そうな顔でお米の入ったお椀を持っていた。彼が店長で料理人なのだろう、程立は素知らぬ顔で散蓮華を手に取り、はふっはふっと湯気立つ麻婆豆腐を口に入れる。

 

「此処の麻婆豆腐は絶品ですよ? 都で店を出しても評判になる美味しさですねー」

「……都に行ったことあるのですか?」

「ありますよー」

 

 はむっと小さな体で次々と麻婆豆腐を口にする程立を前に、食欲が刺激された私も麻婆豆腐を一口頂いた。

 

「あっ、美味しい」

 

 ピリリとした辛みに思わず呟いた。

 程立は嬉しそうに目を細めると「ご飯と一緒に食べても良いんですよ」と米を掬った散蓮華で麻婆豆腐を掬い取って、あむっと食らいついた。目を細めながらもっきゅもっきゅと口を動かす姿は、なんというか見ているだけでも美味しかった。私は散蓮華で米に麻婆豆腐を掛けてから一緒に掬い取ってから口に含んだ。白ご飯に麻婆豆腐の絡みつき、口内が絶妙に調和された味で満たされる。

 つまるところ、より美味しかった。

 

「これだけ美味しいのに餃子は不味いのですか?」

「ええ、食えたものではありませんねー。表通りにある炒飯屋で出る餃子の方が遥かに美味しいです」

「……ふぅん?」

 

 比較対象がよく分からないこともあったが、いまいち納得のしきれない私は餃子も注文してみようかと考える。だって口の中は餃子を求めているし、なんなら不味い餃子にも興味があるし、そんな私に程立は眉間に皺を寄せて「食べるなら一人でお願いしますね」と心底嫌そうに告げた。

 

「ちなみに、具体的にはどのように不味いのでしょう?」

「えっと……ぬちゃっとして、ぐちゃっとして?」

「ああ、いえ、もう結構です。ありがとうございます」

 

 聞いているだけで不味くなってきた。

 餃子の気分だった口が麻婆豆腐になっている、今は美味しいと分かっている麻婆豆腐が食べたかった。

 白ご飯を合わせて、倍率ドン! な美味しさだ。

 

「それで、ここにはなにがあるのでしょうか?」

 

 程立が連れてきたからには何かあるに違いない、と思って問いかけてみた。

 寂れた店に愛想の悪い店主、数名の客、餃子の看板を掲げておきながら麻婆豆腐が推しの店だ。

 この店が本気で生計を立てるつもりがないのはわかっている。

 

「いえ、美味しい麻婆豆腐があるだけですねー」

 

 しかし予想と反して程立は私の予想を否定する。

 

「期待に添えず申し訳ありませんが、此処には腹拵えに来ただけです」

「……どうして餃子を作り続けるのでしょうね? 麻婆豆腐を看板にしたらもっと繁盛しているでしょうに」

「そこは店主の拘りですねー」

「美味しくないのに?」

「拘りだからといって美味しいとは限らないのです……」

 

 本人の意思で才能が与えられるものでないのだとすれば、才能があるからといって本人が望むとは限らない。

 この料理店は麻婆豆腐で生計を立てているが、やはり本人が最も好きなのは餃子ということだ。餃子好きが高じて店を開き、店が高じて麻婆豆腐という才能に巡り会えた。それだけの話、そのおかげで私達は至高の麻婆豆腐に出会えたという話。でもまあ好きな餃子を作り続けられているのだから、それはそれで幸せなのかも知れない。人生はままならないものですね、と麻婆豆腐を咀嚼する。

 うーん、美味しいですねえ。いつかまた来よっと。

 

 

 餃子屋で至高の麻婆豆腐を堪能した私達は市場へと繰り出した。

 此処、汝南の都市では週に二度、市場が開かれる。河に面していることもあり、毎回、それなりの賑わいをみせる。書籍が売り出している出店を見つける度に程立が、ふらりと足を運ぼうとするので手を引っ張った。すでに三冊の書籍を両手に抱える程立を無視して先を急がせる。そうして数十分が過ぎた、表通りから裏路地へと続く道に程立が身を滑り込ませる。彼女の後に続き、薄暗い通路から周りを見渡すと薄汚れた壁や床、上を見上げると胸元を大きく強調した衣服を着込んだ女性が誘うように手を振ってきた。そして甘ったるい香の匂いがする。真昼間から聞こえてくる男女の喘ぐ声で、ここが売春街だということを察した。時折、妖艶な女性に声を掛けられるが、適当に躱して程立の背中を追いかける。それが何度か続いて、辟易してきたところで、すっと手を差し伸べられた。

「手を繋ぎましょう、それで娼婦避けになりますよ」と告げられて、少し逡巡した後に彼女の手に触れる。指を絡められた、所謂、恋人繋ぎと呼ばれるものだ。「お姉さんがちょっとした風評被害を受けるだけで済みますよ」とにこやかに笑う程立の後ろで、ひそひそとした声で話し合う二人組の娼婦。えっ、あの子、まじ? あの年齢の子をこんな所に連れてくるとか引くわー、という声が聞こえてくる。余談だが庶民は一般的に氣を使えない、そして此処は庶民が活用する娼婦街だ。

 つまり、程立は見た目通りの年齢でしか見て貰えない。

 これは不味い、非常に不味い。男装しているとこもあって、なお不味い。

 引き攣った笑みを浮かべながら程立を見つめる。

 

「……えっと、程立……さん?」

「お兄ちゃん、大好き!」

 

 ごふっと胃が悲鳴を上げた。

 口の端から垂れる血を袖口で拭い取り、終わった。と空を見上げる。

 裏路地から見上げる空は狭く、逃げ道はなかった。

 ひそりひそりと窓から覗く娼婦が私達を見下している。

 

「これでもう独りの時でも声を掛けられませんよ」

 

 足を運ぶこと自体ができなくなった気がするのは気のせいだろうか。

 まあ私が利用する娼館は、高級と名の付くものばかりなので庶民向けの娼館には縁がない。まあ尤も活用方法は利用者としてではなくて運営側としてなのですが、それも情報を聞き出すだけの簡単なお仕事。張家の房中術は自慰特化なので、相手が必要ないことも相まって独り身が捗る。房中術なのに性欲解消に特化とか、なんですか。おかげで張家の人間は全員、性癖を拗らせており、普通の相手では興奮できなくなっている。

 私が背負っている業もまた常人には理解されない類だと理解している。

 例えば、階段の縁に立っている人間の背中を押して転がり落ちる様を見るのは興奮する。崖の上まで登りきった人間を蹴り飛ばし、滝壺に落ちていく様を見るのは興奮する。豪華絢爛な衣服を着込んだ人間が道端で襤褸を纏った姿で物乞いをする姿に興奮する。多額の費用をかけた権威の象徴がガラガラと崩れ落ちる光景に興奮する。私に破滅願望はない、破壊願望もない。ただ堕ちる様を見ているのは興奮する。私は拷問が好きだ、私が初めて拷問をした時、爪を剥ぐ行為に興奮することはなかった。むしろ嫌悪感の方が強かった。冷水をぶっかける行為も、鞭を打ち据える行為も、私は好きではない。誰かを貶めることに興奮は覚えない。でも、拷問に耐えきれず、相手が親友と謳った相手を売り飛ばした時、その姿を見ているだけで私は絶頂してしまった。薄暗い拷問室で股下から透明の液体がポタリと落ちる、床には無数の染みができていた。崇高なものが汚れる瞬間、絶対的なものが崩れ落ちる瞬間、神聖なる純潔が穢れる瞬間、その場に立ち会えたことに私は耐えきれないほどの多幸感に満たされて、神々の奇跡に感謝し、快感が爆ぜるように全身を迸らせるのだ。

 私は見ているだけで良い。自慰特化とは、そういう意味だ。手を汚すのはその瞬間に立ち会う為だった。

 

「……ここには名家出身の娘とか居たりします?」

 

 なんとなしに問いかけると程立は眉間に皺を寄せられる。貴方が――仕えていた理由が――――、と呟かれた言葉は上手く聞き取れなかった。

 

「少女偏愛よりも性質が悪いですねー」

 

 問い返す前に言われて、失敬な、と今度は私が眉を顰めてみせた。

 

「いくら私でも生理前の子供は嗜好の範囲外です」

「そうですねー、手を握っても反応がない理由もわかりましたー」

 

 貝繋ぎにした手を離して、着きました、と彼女が告げる。

 その視線の先には出店があり、店頭にはいくつもの薬が並べられている。近付いてみれば、それは媚薬や精力剤、睡眠薬。潤滑液に浣腸液、更には利尿剤といったものが販売されていた。そして目玉商品とされる小瓶には蜂蜜と書かれている。その法外な金額から察するに不思議な蜂蜜が詰められているのだろう。

 店主らしき女性は退屈そうに頬杖を突いていたが、近寄る私達の姿を確認すると満面の笑顔で出迎えた。

 

「やあやあ、ようこそいらっしゃい。お目当ての商品はなにかな? 見たところ、あまり遊んでいないように見えるけど――うちは高品質が売りだが、その分、効能も高い。興奮剤を使う時、初心者はまず十倍に薄めて使うことをおすすめするよ」

 

 その営業的な口上を並び立てる女性に、程立は慣れているのか余裕ある表情で店主に話しかける。

 

「とある名家も御愛用している、という触れ込みを聞いて来たのですがー」

「ああ、そうだよ。この汝南郡で最も大きな名家も愛用しているのが私の薬だ。安心と信頼の高品質――正直に云うが、初心者にはおすすめしない。そうだな、君がその後ろの女性を堕としたい。と云うのであれば、これがおすすめだけど君は別に惚れているわけでもないだろう。ここに何をしに来た? 子供の火遊びは、お姉さん、関心しないな?」

「……いえ、初めてで不良品を掴ませられたくなかったのですよ。お姉さん、こちらの小瓶をください」

 

 程立が潤滑液を指で差すと「毎度!」と店主は威勢良く声を上げる。

 小瓶と貨幣を交換する二人のやりとりを見守りながら、堕としたい。と店主が言いながら持ち上げた小瓶を横目にちらちらと見つめる。値札は割高、いや、媚薬にしては桁一つ違っている。その分だけ高品質で効能が高いということか。

 財布の中身と相談して、小さく溜息を零した。

 

「そこなお姉さん、小売してあげよっか?」

 

 不意に店主が私に話しかけてきた。

 

「元から量が少ないから、あんまり小売はしないんだけどね。見ての通り、うちは高級品だ。最初の一回が手を出せない人間も多い。だから初めての人間には小売をしてあげることにしている。そちらのお嬢さんと違って、お姉さんは興味あるようだし? 良い顧客になってくれることを祈り、小売して差し上げよう」

 

 興味はある、しかし小売して貰ったところで金銭的に厳しいことには違いない。

 

「随分と商品に自信があるようですね? それは本当に私の財布の紐を緩めるほどの効能なのでしょうか?」

「ああ、文字通りに病みつきになる。用法、容量を間違えると人ひとり、簡単に壊すこともできるほどにね」

「そこまで自信のある品でしたら――試供品と云うことで割り引いてくれませんでしょうか? 良い品でしたら次から定価で買い込みに来ますよ」

「それは私に対する挑戦かな? 見たところ実家は良いところのようだな。わかった、原価で売ってやるよ、これでお得意様をひとり確保できると思えば安いもんだ」

 

 損して徳取れ、それが商人の鉄則だ。と店主は小瓶を一つ手渡してきた。

 

「初心者は十倍に薄めてから使うと良いよ。原液そのまま使って死んだ人間を何人か知っている」

「危険な薬を扱っているのですね」

「うちには危険な代物を求めてくる人間がたくさん居るからね。需要があるから供給しているだけさ」

 

 店主がへらへらと笑ってみせる。行きましょう、と手を取られて、露天商に背を向ける。

 

「行きはよいよい帰りは怖い。家に帰るまでが遠足とはよく言った話、背後に気をつけな。戸締りはしっかりとしておくものだ。張家の御嬢様、そして楊家の使用人。私は需要があるから供給をするだけの極めて御立派な商人様だよ」

 

 振り返ると露天商は店仕舞いを始めるところだった。

 さあさあ帰った、と手で邪魔者を追い払う仕草を見せる。嫌な予感がした、なんというか泥沼に片足を突っ込んだような錯覚。ふと 頭上を見上げると、狭い空が更に遠くなったかのような錯覚を覚える。程立が手を引いた、つられて私も歩かされる。

 人目の付かない場所に辿り着いた時、少女は独り言を呟くように語り出した。

 

「今更な話なのですが、あの餃子屋の店主は貴方の見込み通り情報屋なのですが、事前に情報は仕入れた後だったりします。今回、裏路地の露天商に足を運んだのは餃子屋の情報を頼ってのことですねー。では何故、わざわざ餃子屋に足を運んだのか、ですがー。それは顔見せの為でしてー。もちろん汝南袁家に繋がる情報を得る為の行動だと露呈させてありますよ?」

 

 ところで、と何気なく少女が問いかける。

 

「その腰に差した剣、手入れは済んでいますでしょうか?」

 

 謀ったな、程立。

 

 

 



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間幕.採用されるまでが献策です。

by.ネコミミ軍師


「その腰に差した剣、手入れは済んでいますか?」

 

 そう告げた次の瞬間、張勲の気配が変わった。

 考えるよりも早くに私は棒付きの飴を彼女の喉元に突き立てていた。うっ、と臆する張勲は剣に手を翳しており、さりとて、突きつけられたのが飴だと気付いた彼女は柄を握り締め直した。その剣が鞘から抜かれるよりも早く、私は口を開いた。

 私の武器は槍でもなければ、剣でもない。この小賢しい頭と小手先の口だ。

 

「今、貴方にはふたつの選択肢があります」

 

 指を二本、立てる。相手の視線を誘導しながら興味を失われないように注意深く言葉を選びながら話しかける。

 

「ひとつは今ここで私を斬り伏せて、自らの潔白を証明する道」

 

 誰かは言った、策を採用させるのも軍師の腕の見せ所だと。

 今回の私は軍師ではないけども、その本領を発揮する機会があるとすれば、きっと今だ。

 先ずは知っている事実から告げることで注意を惹きつける。

 

「もうひとつは私と手を取り、袁逢と対する道」

「それならば答えは決まっていますよ。私は汝南袁家の――」

「違います、貴方は汝南袁家を裏切るわけではありません」

 

 袁逢には二人の後継者がいる。

 ひとりは袁紹、今は冀州勃海郡で太守を勤めている。汝南袁家の後継者として台頭している人物であり、今もなお袁家に仕える者達は猛る龍の如く飛翔し続ける袁紹に擦り寄る者が多い。しかし別の世界線でもそうだったが、袁紹は正式な後継者として選ばれている訳ではない。結果的に袁家の力が多く引き継いだのが袁紹だった、というだけの話であり、汝南袁家を正式に受け継いだのは袁術の方だった。だからこそ袁術は未だに豫州汝南郡に残されており、袁紹は冀州の土地へと追い出された。

 つまるところ袁術の味方をする分には、汝南袁家を裏切ったことにはならない。

 あと袁術の地に着いてから、ずっと気になっていたことがある。別の世界線では、今から数年もしない内に袁術が汝南袁家を引き継いだ。まだ袁逢は健在のまま、あの愚かな袁術に家督を引き渡したのだ。そして、この世界線でも袁逢は未だに健在で、これから唐突な事故でも起きない限り、袁術に家督を譲ることはないだろう。別の世界線での袁逢は不慮の事故でなくなったという情報はない。袁逢ほどの大物が不慮の事故や暗殺で殺されたのであれば、その事件を私が知らないはずがない。見逃すはずがなかった。それに今のままだと袁逢の後ろ盾なしに袁術が家督を得ることはあり得ない。汝南袁家の後継者は袁紹で決まりだ、それで後継者争いが起きたとしても十中八九で袁紹が勝つ。

 だから、ここに謎がある。

 どのようにして袁術は袁逢から家督を譲り受けたのか。その入れ知恵をできる人物を私はひとりだけ知っている。

 そして、袁術には一発逆転の布石がある。

 

「確かめましょう。きっと屋敷内は面白いことになっていますよ?」

 

 博打ですね、と自嘲する気持ちを抑えながら不敵に笑ってみせる。張勲は柄を握り締めたまま、私のことを睨みつけた。

 

「危険を侵す価値があるとは思えません」

 

 目の前にいる張勲は仕事人だった。

 私が知る張勲はもっと愉快な小悪党だった印象がある。

 今の彼女と別の彼女、違いはなにか。

 そんなのはひとつしかなかった。

 

「理由があれば良いのですね?」

 

 今の彼女には信念がなく、意志も持たない。

 だから彼女は黙々と言われた任務を熟す、必要以上の仕事をしようとは考えない。忠義はなく、義理だけで生きている。それ故に彼女の生き様は酷く適当だ。国ひとつを振り回した狡猾さを、今の彼女が持っていないのはそういう訳だ。

 きっと張勲という存在は袁術が傍にいることで初めて輝くのだろう。

 

「袁逢が落ちぶれる様を見てみたいとは思いませんか?」

 

 張勲は微かに目を見開き、こくりと唾を飲み込んだ。

 

 

 




間幕はここまで、次から楊宏主観になります。
此処に至るまで凄い苦労した。
次回は風先生と七乃先生によるスピード解決です。


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第十話.

 汝南袁家の屋敷。評定の際、いつもは袁逢が座っている席に袁術が腰を下ろしている。

 まだ幼い彼女の左右を固めているのは、袁術の侍女長を務める橋蕤と我が家の使用人兼監視員であるはずの張勲の二人だ。そして三人を庇うように一歩前に控えるのは袁家の猛将、紀霊だ。彼女が抜き身の剣で切っ先を向ける先には、地面に打ち付けられたまま呻く袁逢の姿があった。その彼女を背後から挟むように立つのが私、楊宏であり、棒付きの飴を舐める程立と細剣を両手に握る袁姫が私の傍で袁逢を見下した。それから部屋の端では屋敷の使用人達が青褪めた顔で事の成り行きを見守っている。

 どうしてこうなった――事の始まりは三日前になる。

 

 

 屋敷の仕事から解放されて屋敷に戻ったのは丁度、今から三日前のことだ。

 廃屋のように静まった気配に、嫌な予感がした私は玄関扉を開け放った。中には誰かと誰かが争った痕跡があり、仕込んでいなかった罠が起動した跡や不自然な場所に置かれた本棚が倒れており、廊下には包丁が床に突き刺さったりしていた。何が起きたのか、と困惑しながら屋内を歩いていると「ぐえっ」と蛙が踏まれたような声が下から聞こえてきた。黒尽くめの女、どうやら袁逢の刺客のようだ。「大丈夫ですか?」と問いかけると「あの二人、まじやばい……」と呻くように残して、がくりと気絶した。周りを見渡せば、所謂、壁尻状態になっている少女と亀甲縛りで放置されている大人の女性がいた。

 いや、本当に何があったんですか。これ。

 とりあえず刺客達を介抱してあげると三人の主格である少女、雷緒はギャン泣きしながら当屋敷で起きた恐怖体験を赤裸々に語ってくれた。その内容は冗談としか思えないものばかりであったが――曲がり角の先にある床を蝋で塗りたくって滑りやすくしていた、とか。階段を登ろうとすれば振り子運動の丸太が真正面から襲ってきた、とか。追い詰めたと思ったら二階にある部屋の床全てが抜けた、とか。ついでに大量の灰を頭から被った、とか――屋敷に残る痕跡が彼女達の話が真実であると告げていた。「もうやだー、おうちかえるー!」と泣きべそを掻く雷緒を見送って、さて、と住める状態ではない惨状を確認した私は溜息を零し、独りとぼとぼと袁家の屋敷に戻る。もう疲れたので、明日になってから考えようと思った。

 美羽様の寝室に辿り着いた時、歓喜に泣き喚く美羽様と不貞腐れた顔の張勲。そして、そんな二人を見守る程立の姿があった。

 

「あ、ようやく戻ってきましたねー」

 

 相変わらず、のんびりとした調子で話す我が家の使用人。

 どうやらまだ休ませてくれるつもりはないようだ。

 そっと温かい茶を差し出してくれる橋蕤の心遣いが今日は酷く痛み入った。

 

 この寝室には現在、私を含めた六人の人間が所狭しと詰め込まれている。

 部屋の主である美羽様は寝台に座る私の膝上にちょこんと座り、すぐ隣には結美(袁姫)が私に身を寄せながら腰を下ろす。橋蕤は全員に茶を配り終えた後、部屋の隅で椅子に座っており、程立と張勲の二人は横に並ぶように机の椅子に腰を下ろしていた。美羽様の支離滅裂な話や結美の理路整然とした話を交互に耳にしながら程立は、ふむふむと頷いて時折、質問を重ねた。張勲はあまり積極的に動く気はないのか、橋蕤に茶請けを要求している。ちなみに美羽様の話では、彼女こそが七乃とのことだ。あんまり協力的ではなさそうだが大丈夫だろうか。

 ひと通りの話を聞いた後で程立がずずっと茶を啜る。

 

「……どうしましょうか、これ。あまり気の進まない策ですねー」

 

 困ったように告げる程立に「どういう策なのか教えて欲しい」と告げる。

 

「……御主人様の尊厳が失われることになりますよ?」

 

 これ以上、失われる尊厳なんてない。と告げれば、程立は首を横に振って答える。

 

「いえ、たぶん、御主人様が思っている以上に辛い思いをすることになりますねー」

 

 むむむ、と眉間に皺を寄せる程立に横槍を入れるのは菓子を頬張る張勲だった。

 

「本人がそう言うのであれば、構わないじゃありませんか」

「いえいえ、これ、下手すると廃人になりますよ?」

「週に一度、十人以上から尻を掘られている人間が、ですか?」

 

 どうやら此処での行いは二人には筒抜けのようだ。

 

「え? 絞られる側ではなくて? ……掘られて?」

「雷諸が言っていたじゃないですか。褒美に私も混ぜて貰うんだって」

「そういう意味とは思わなくて……しかし、これはこれで……」

 

 少し頰を赤らめながら私を見つめてくる程立は「可愛い顔して……なかなか……」と飴で口元を隠しながら零した。なんだろう、この黒歴史を暴露されている心境は。蔑まされるならまだわかるが、その反応は予想外ですよ。まるで思春期の子供のように私のことを興味津々に見る程立はコホンと咳払いして「その話は後日、改めて詳しく訊くことにしましてー」と場を整え直した。

 

「話を聞く限りでは袁逢の戦力は紀霊に依存していることがわかりました。ひとりで戦力差をひっくり返すことができるほどの武力、袁逢に反する時、紀霊が最大の障壁になると貴方達は語りましたが――――」

 

 程立はチラリと私を見遣った後、言い難そうに顔を背ける。そして張勲が呆れるように溜息を零して続きを口にする。

 

「――懐柔しちゃってくださいよ、楊宏さん。愛の言葉を囁きながら抱かれれば良いんですよ。今更、綺麗事を抜かせるほど綺麗な体もしていないのでしょ?」

「その言い方は御主人様の心を抉ると言いますか……張勲さん、もうちょっと言葉を選びませんか?」

 

 程立の言葉に「わかりましたよ」と少し不貞腐れるような仕草を見せてから張勲は言葉を改める。

 

「負ければ屋敷兼用の性奴隷、貴方が大事にするその子も数十人から陵辱される毎日を送ることになります。なら勝って紀霊の愛人に収まり、せめて彼女を救う道を選ぶ方がよろしくはありませんか?」

 

 それが最も確実で早い道です、と張勲は断言した。

 

「決断は早くしてください。できることなら今夜にでも動き出さなければ間に合わなくなりますよ」

 

 何故なら、と張勲は私達を見渡してから告げる。

 袋の鼠とは、このことですね。と。

 

 

 粧ひ化ける、と書いて化粧と読む。

 私の顔付きは世間一般的な女性よりも整っており、魅せ方によっては女性よりも綺麗に整えられる。と侍女長として袁術に仕える橋蕤が告げた。袁術の身嗜みの全てを任されている彼女は化粧に関しても一流の腕前を持っており、その能力を性癖の赴くままに遺憾なく発揮した結果、今から高級娼館に行っても余裕で客を取れる出来になった。と化粧を施した彼女自身からお褒めの言葉を頂いた。それに合わせて衣服も着直し、立ち振舞いや仕草に至るまでを即席ながらに矯正させられる。ずっとこうしてみたかった、と呟いた橋蕤の言葉は聞こえなかったことにする。

 ほくほくと満足顔の橋蕤に手を引かれて、紀霊ひとりを落とす為におめかしした姿をみんなに披露した時、「うっわ」と張勲がドン引きした。美羽様は爛々と目を輝かせながら私の姿を褒め称え、「同性なのに惚れそう……同性? 性別……とは?」と困惑する結美(ゆみ)。程立はと云えば「同性愛者の気持ちが少し分かりますね」と頰を少し赤らめながらしみじみと呟いた。

 これは余談になるが、余分な塗り薬で脱毛させられている。屋敷の使用人に遊び半分で大事なところも塗り込まれたのでツルッツルだ、日焼け止めも強制させられているので肌も白かった。

 男としての尊厳、何処に落としたのかもう分からない。

 

 死んだ目を続けること数十分、寝室の扉を叩く音がした。

 この時、部屋にはパッと見では私しかいない。しかし収納家具や屋根裏、寝台の下などに彼女達は潜んでいる。二人だけにするのは流石に危険という話ではあったが――どうしてだろうか、その提案をした程立からは嘘を吐いているようにしか見えなかった。見とうない、と不機嫌になった美羽様だけは別室に赴き、それを追いかけるように張勲が寝室を後にした。そして残った結美と橋蕤、程立は意気揚々と部屋の各所に身を隠しに向かった。

 まあ今更、気にしたところで仕方ない。と寝台の上で紀霊を出迎える。

 紀霊、真名は六花(りっか)。筋肉質な肉体をしており、体格は男の私よりも大きかった。氣の扱いにも長けており、私では絶対に膂力で敵わない相手だ。抵抗すれば抑え込むように体の自由を奪い取り、不思議な蜂蜜によって得たそれで強引に私を貫いてくる乱暴者。でも悔しいけど技術は上手い、指使い、腰使い、足使い、体全てを使って私を蹂躙する。彼女の相手をさせられた後の記憶は曖昧になっていることが多く、気付けば二、三日過ぎていることもあった。廃人とか、幼児退行とか、そんな言葉が聞こえてくる辺り、あまり聞かない方が良いと思っている。彼女の真名を知っているのは行為中に無理やり押し付けられたからだ。真名で呼んで欲しい、と言われて、乱暴にされるのが嫌だったから必死に彼女の真名を叫んだことがある。結局、乱暴にされたけど、近頃、慢性的に腰が痛い。

 そして紀霊は私の初めての相手であり、唇以外の初めてを全て奪っていった相手でもあった。

 

 そんな相手を自ら招き入れる。

 彼女が私に執着していることは明白で、その想いは恋愛感情から来ていることもわかっている。

 ただ彼女の愛は独り善がりで、重たかった。

 

「橋蕤から聞いたけど話って――」

 

 ガチャリと開けられる扉。彼女の姿を確認した時、私は引き攣りそうになるのを堪えながら笑顔を返した。

 紀霊は無言のまま立ち尽くし、そして、無言のままズンズンと大股で近付いてくる。

 妙な圧力を感じる彼女に少し気後れしながら、ちょっと待ってください。と両手を突き出した。

 

「結婚しよう」

 

 私の非力な腕など意にも介さず、全身で抱き締められて唇を奪われた。

 そのまま押し倒される。仰向けに倒れたまま見上げると、そこには正気を失った目をした紀霊の顔があった。あ、これは駄目だ。と察した私は「せめて、優しくしてください」と涙目になりながら告げる。懐から不思議な蜂蜜を入った小瓶を取り出しながら「話は後で聞いてやる」と荒い息で告げられた。骨が軋むほどに抱き締められて、呼吸すらままならない状態で身を重ねられた。

 三回戦までは覚えている。気付いた時には美羽様に膝枕されていた、全裸で。

 

「うむ、話はわかった」

 

 張勲と話し合っていた紀霊は力強く頷き、意識を取り戻した私の方を振り返って告げる。

 だが無理だ、と。どうして、と問い返す。

 

「私は楊宏のことを愛しているが、楊宏が私を疎んじていることを知っている」

「…………」

「お前達と手を組んだとして、袁逢を倒した後、用済みになった私が楊宏と関係を持ち続けるできない」

 

 次に危険なのは私の身になるだろ、と告げられる。

 

「そんなの当たり前じゃないか……」

 

 思わず、呟いてしまった言葉に張勲は露骨に顔を顰めて、程立は黙って目を伏せる。でも言わずにはいられなかった。

 

「だって私のこと、一度も優しくしてくれなかったじゃないか。いつも力尽くで抑え込んで強引に突っ込んで、嫌なことばかりさせて……貴方が私のことが好きだなんてことは知っている。確かに貴方達に対する印象は出会い頭から最悪だ。でも、私、今は嫌いじゃない使用人、結構居たりするんですよ? 優しくしてくれるし、私を気持ち良くしようって気持ちが伝わってくるし、どれだけ私が素っ気ない態度をとっても、どれだけ敵愾心を露わにしても、困った顔でできるだけ私の体を労ってくれようとする人は居ます」

 

 まだ痛む身体に鞭打って、体を起こす。そして紀霊を睨みつけながら身を寄せる。

 

「愛して欲しいというなら愛してやる。そして私の虜になれ、私の初めてをくれてやる」

 

 紀霊の首に手を回して、押し付けるように唇を重ねる。

 彼女の弱点はもう分かっている。何をして欲しいかなんて分かっている。体を重ねた回数なんて十回じゃ済まない、繋がった回数は百を超えている。私は貴方のことをこれだけ知っている。歯の隙間から舌を滑り込ませる、厭らしい音を立てながら紀霊の目を睨みつける。私は貴方のことを誰よりも知っている。どうすれば気持ち良く感じるかなんて手に取るようにわかる。

 唇を離した時、彼女は呆然と私を見つめていた。休ませてなんてやるものか、考える時間なんてくれてやるものか。

 勃たぬ想い、無理やり勃たせる為に彼女が持ち込んだ小瓶に口付ける。

 そして、残った蜂蜜を全て飲み干して、もう一度、彼女と口づけを交わした。初めての私からの攻勢に筋肉に覆われた彼女の体が弛緩し、ゆっくりと押し倒した。不思議な蜂蜜には、男性にとっては精力剤の効果がある。舌を絡ませながら彼女の体を弄っていると紀霊の体が大きく跳ねた。荒い息を立てながら虚ろな瞳で天井を見つめる。

 まだ休ませる気はない。彼女の太腿を両手で開きながら絶対の殺意を込めて告げる。

 

「死ね」

 

 その一瞬、彼女の顔が青褪める。

 彼女が足に力を入れるよりも早く腰を打ち付けた次の瞬間、獣のような嬌声が上がった。

 

 

 膝上には不貞腐れた顔の美羽様、背中越しに抱き締めるのは全裸の六花(紀霊)

 程立は赤らめた顔で満足げに頷いており、結美は妬ましそうに六花を睨みつけている。ほくほく顔の橋蕤は私と六花に水を手渡す。「四ツ葉、口移し」「死んでくれない?」暴言を吐いたはずなのに六花は嬉しそうに頰を緩ませる。

 そんな私達の姿を見て、張勲は呆れたように両手を挙げた。

 

「本当に紀霊を味方に付けられては、もう裏切るしかないじゃないですか」

 

 そこから先はトントン拍子に事が進んでいき、そして冒頭に繋がる。

 見た目だけだと十歳にも満たない幼い体、ふらりと体をよろめかせながら袁逢は身を起こす。

 そして強がるように笑みを浮かべながら口を動かした。

 

「汝南袁家の歴代当主は秘術の影響から性行為に依存症を患っておる……妾の初めては外見相応の時じゃった。それからずっと快楽漬けの生活を送らされ続けてきて――ちょっと鬱憤が溜まったから妾は弟の袁隗と手を組んで先代当主を殺っちった。こんな家だから汝南袁家の家督は代々、奪うことで継承され続けてきている……」

 

 じゃが、と袁逢は立ち上がり、不敵に笑ってみせた。

 

「妾はこの屋敷の者達が好きじゃぞ? 辛い時、苦しい時、楽しい時、嬉しい時、幼い時から苦楽を共にしてきたのが此処の者達じゃ。まあ途中参加の者も多いがの、妾が心から愛し愛される者達じゃ。もはや家族同然、それ以上、親の顔よりも見知った仲じゃ」

 

 だから、と彼女は続ける。全身から悍ましい氣を蠢かせながら、たった一人で大胆不敵に口を開いた。

 

「妾には彼奴(きゃつ)らを幸せにする義務がある」

 

 胸を叩き、強く握りしめる。強い意志を言葉に乗せる。

 

「妾はこれしか知らぬ。故にまだまともな袁隗は外に追いやった。妾の居場所はここだけじゃ。だから妾が汝南袁家の当主を引き継いだ」

 

 私、楊宏。そして美羽様、結羽、橋蕤、程立、張勲、六花。計七人に囲まれながら袁逢は抜き身で言い放つ。

 

「かかって来い。そして妾の屍を超えてみろ」

 

 




次回は袁逢視点、間幕と屋敷に乗り込む辺りから始める予定です。
予定は未定です。


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間幕.泥を捏ねるように生命を宿す。

 名は袁逢、字は周陽。真名は織羽(おりは)

 司空、司徒、太尉と三公全ての官職を歴任した袁湯の嫡子として生まれる。

 当時は三世三公、後に四世三公と謳われる名門の中の名門、汝南袁家の後継となるべく物心が付いた頃から秘術の会得を義務付けられていた。初めてが何であったのかなんて記憶にない、そもそも処女であった時期があったのかも定かではない。その味は妾にとって当たり前のものであり、その臭いは妾にとって日常的なものだった。玩具は何時だって生きた誰かであったし、それを弄ぶことに嫌悪感を抱くはずもない。この生活が可笑しいと気付いたのは元服を終えてからの話で、その頃にはもう身も心も性欲と情欲に堕ちていたから今更止められるはずもなかった。妾にとって愛するというのは肌を重ねる事だ。愛を受け止めるには、相手をこの身に受け入れることが最も効果的だと考えている。そして相手に好意を示すには全身全霊を以て相手を気持ちよくする事だ。この感覚がズレていることは自覚している。しかし妾が最も相手の想いを感じ取れる瞬間は体液を注がれた瞬間だった。悦楽を解き放つ、最も心が無防備になる瞬間の機微で相手が妾に抱いている感情を読み取ることができる。そして目一杯の愛情を注ぎ込む手段として、相手の肉体と精神、魂魄に至るまでを刻み、体液で染める。妾は親を殺している、初めて殺したのは親の袁湯だった。肉欲のままに娘を犯す袁湯を受け入れて、禁忌に手をつける愚かな親をこの身で愛した。三日三晩の性交の後、妾に覆い被さるように袁湯は干からびて死んだ。殺すつもりなんてなかったのに、と云うつもりはない。死んでも構わないと思っていた。それが彼女の望むことならば、と妾は抵抗せずに全てを受け入れて、もっと、と望まれたから気持ちに応えた。異臭を異臭と思わなくなって意識が朦朧とする最中、親の安らかな死に顔を見たとき、これこそが妾の生きる理由なんだと悟った。受け入れる、受け止める。そして愛する。人間一人の生きた証をこの身に刻み、その最期を看取る。安らかあれ、と祈りを込めながら全身全霊で尽くし切る。妾が三公を務めていた時期、宮中には私と肉体関係を持っていない者の方が少なかった。妾に抱いた好意、敵意、恋慕、憎悪、他にも怒気や嘆き、悲哀といった想いも全て肉壺に受け入れて、一滴、残さずに飲み干してきた。慈愛の心で包み込んで、目一杯の愛情で溶かして蕩けさせる。自我が保てなくなるほどに甘やかし、勃起物がピクリとも反応しなくなった頃合いで皆、例外なく妾の元から去り、そして世界からも姿を消していった。

 殺意を以て誰かを殺したことは一度もない。だが妾が関わって死んだ人間は千を下らないだろう。

 妾は愛している。この世の全てを、全人類を愛してる。無償の愛を捧げましょう、見返りを求めない奉仕の精神で愛を注ぎましょう。幸いにも妾には全人類が抱える全ての想いを受け止めきれるだけの(子宮)が備わっていた。この世の未練を失くすまで、その身に抱えた煩悩を払うまで、幾らでも相手を努めましょう。この世から解脱するその時まで、妾が愛して愛して愛し尽くす。救いを求める全人類が私を陵辱し切るその時まで、私はそうあろうと心に決めている。

 経験した人数は千を遥かに超える、致した数は万を下らない。その全ての想いが私のお腹で蠢いていた。妾の子宮には、今まで経験した千人以上の精液が詰め込まれている。おかしなことを言っているとは分かっているが元服してから間もなく子宮に吐き出された精液が股から垂れた覚えがない。相手の精気を吸い付くように絞り出した後は、そっくりそのまま子宮に溜め込まれる。質量保存の法則を無視するように全てが子宮に満たされた。お腹を撫でる。愛憎が入り混じり、闇よりも濃い色をした混沌が蠢いているのがわかる。既に生殖器としての機能は失われており、ただ想いを貯める器として機能していた。

 汝南袁家の秘術、その本質は力の貯蔵にある。

 人の身を容れ物として作り変える、房中術によって最適化された体は歳を取ることはない。ただ老朽化するのみだ。この体には呪詛が刻まれている。丹念に練り上げた氣と共に刻まれた呪いは、この身に溜め込んだ力を使う為に用いられる。人ひとり分の未練、煩悩――即ち、欲と呼ばれる感情は多大な力が込められている。神話時代、人は畏れを抱くだけで神を生み出した。怖れを抱くだけで妖を生み出した。人の感情には質量がある、魂には重さがある。二十五分の一斤(約21グラム)に込められた力は膨大であり、その熱量は灼熱地獄に焚べて、地獄全体を温める燃料に使われるほどだった。

 人あらざる所業、人あらざる身、溜め込んだ力には当然、それを活用する為の手段がある。

 

 ――さて、太平要術、という言葉を知っているだろうか。

 

 この身に刻まれた呪いの名は、そう言った。

 

 

 足元の床にビチャリと泥が落ちる。

 地面に打ち付けられた真っ黒な異物、それは個体と液状の半ばにある。

 服の裾を上げながら産み落とされたソレは、ひとつの生命体だった。



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第十一話.

 汝南袁家、その屋敷を制圧するという作戦は思っていた以上に上手く行った。

 基本的に御母様は屋敷の内と外を分けて考えている。屋敷内にいる者は身の回りを世話する者達で固めており、政治や軍事に関する実権を与えていなかった。また屋敷内における役職が外に影響を与えないことを明言していたこともあり、屋敷内の人選は本当に御母様が心から信用している者だけで固められていた。ちなみに女性のみで固められているのは、男性だと数年の内に壊れるか、腹上死してしまう為だ。なので四ツ葉(楊宏)に対しては性行為に制限が掛けられている、という話を聞いたことがある。具体的には本番禁止、彼に挿れることは許されていても、挿れさせることは許されていない。

 まあ、さておき、その中にも例外が一人だけおり、それが紀霊だった。

 彼女は汝南袁家の護衛として雇われており、堕とすことが前提になっている。その彼女を汝南袁家に繋ぎ止める為に楊宏を利用していることもわかったが、しかし、それを逆手に取ったのが今回の籠絡になる。まあ少し? 不愉快に思わなくもなかったが? それでも妾が楊宏に抱いている感情は恋慕のそれとは違うことは分かっていたので、複雑な気持ちを抱えながら我慢することはできた。なんというか血縁以上に親しく思っていた身内が、異性の誰かと逢引しているのを見逃すような心境に似ている。その後で身内が傷付けられるのは我慢がならなかったし、その更に後で異性を責め立てる姿を間近で見せられるのも複雑だった。

 ともかく紀霊を籠絡することに成功した妾達は早速、袁家を乗っ取る為の計画を立てた。

 紀霊の武力は汝南袁家の屋敷内においては無双できるだけの力を持っており、事細かに策を弄する必要はない――とのことだ、七乃と程立がそう言っておったのじゃ。御母様に外に助けを求められると困るので、相手が油断した時、たった数秒で制圧できるのが好ましい。そして、それもまだ裏切ったばかりの紀霊を使えば簡単に事を成せる。

 実際、事はあっさりと成し遂げた。

 

 妾達が一同に会する場にて、自らの護衛に付いていた紀霊から不意の一撃を受けた御母様は俯せに倒れ伏した。

 その姿を妾は、胸にしこりが残るような想いで見下ろす。前世における妾は、御母様とはほとんど顔を合わせたことがない。七乃の手によって袁家の屋敷から離れて、別荘とも呼べる場所で隔離されるように暮らしていた。今にして思えば、監禁されていたのだろう。理由はよく分からぬが、わがままはなんでも聞いて貰えたし、不自由ない生活を遅れていたので不快に思った事はない。屋敷の中で数年過ごした後、妾は思い出されたように外へと出された時、妾は汝南袁家の当主になっていた。評定の間では上座に座り、汝南袁家に纏わる全ての人間が妾の前に平伏していた。とはいえ妾には政治は分からない、軍事も分からない。最も信頼できる側近であった七乃を立てた妾は、そうと気付かずとも、自ら進んで傀儡の道を歩むようになる。

 妾としては、今の生活が続けられるのであれば、世の中のことなんてどうでもよかったのじゃ。

 その願いを叶えてくれる相手が、あの時は七乃だけだった。とも言える。

 

 本質的に妾は名誉や栄光に興味はない。

 ただ気に食わないから行動する。妾が不条理や理不尽を振り翳すことは構わぬが、妾に不条理や理不尽を押し付けてくることは我慢ならなかった。だから妾の子であるにも関わらず、汝南袁家の力の半分以上を掠め取った麗羽のことが気に食わなかったし、妾の家臣であるにも関わらず、反抗心を見せる呉家の一族は苛立ちの対象だった。

 妾は贅沢な暮らしがしたいから地位を守りたいと考える。

 誰かの為に、とは考えない。全てが利己的な理由で完結している。それが悪いとは言わせない、この世の全てが妾を愉しませる為に存在すれば良いと心の底から思っている。だから妾を不愉快にする全てを排除したかった。

 それは今も変わらない。しかし、だからこそ、許せない。看過できない。

 妾は御母様を見つめながら独り言を呟いた。

 

「妾は誰かの為に生きない、家柄も関係ない。妾は妾の為だけに生きるのじゃ」

 

 その為ならば他全てを使い潰しても良いと心から思っている。

 

 さて、これは前世を思い返している内に思ったことなのだが、七乃が自分から発案した作戦が失敗したことはほとんどない。

 そのおかげで前世における妾は我が世の春を謳歌するような時間を過ごすことができた。しかして桜が舞い散るように呆気なく妾の栄華は過ぎ去った。後者の理由として考えられるのは、七乃は基本的に熱しやすく冷めやすい性格をしているということだ。つまるところ、作戦が成功した時点で満足してしまうので後始末で手を抜いてしまうのが七乃の悪い癖だ。今回は、前回と同じことを繰り返させない為に強く言いつける予定である。事は為した後が大事である、と。遠足は帰るまでが遠足なのじゃ、と。

 今回の場合でいえば、御母様を捕縛するところまでが下克上なのじゃ、と。

 詰めのあまい七乃に言ってやるつもりだった。

 

 ふらりと御母様が満身創痍の体で立ち上がる。

 さっさと捕らえるのじゃ、と七乃――今世ではまだ張勲に指示を出す前にゾワリと背筋に嫌なものを感じた。この冷たい感触を妾は知っている。まるで孫策が背後から迫ってきた時のような悪寒、しかし、あれはもっと鋭くて、肝が冷えるような殺意だった。今、感じるのは、それとはまるで別の質を持っている。肌に纏わりつくような怖気、まるで吐き出す息が白く染まるような寒気を感じる。御母様の体から紫色の悍ましい氣が漏れるのを視覚した。何かを話していた、何を話していたのか頭にはほとんど入って来ない。

 萎縮している内に話が終わって、御母様が最後に言い放った。

 

「かかって来い。そして妾の屍を超えてみろ」

 

 姉、袁紹にとって御母様(袁逢)は父親だった。

 まだ御母様が袁家の秘術を会得できていなかった頃、誤って娼婦を孕ませてしまったのが袁紹になる。

 妾が袁家の正当後継者となっているのは御母様自身が腹を痛めて産んだ子である為だ。万が一に備えて、もうひとり、と産んだ子が妹の結美(袁姫)である。そうだ、妾達は御母様のお腹から産まれてきた子なのだ。

 ビチャリ、と音がなった。真っ黒な汚泥が御母様の股座から垂れ落ちる。ビチャリ、とまた床に打ち付けられる。半液体、半個体のソレは、まるで生きているかのようにビチビチと跳ねる。周りに汚液を撒き散らしながら縋るように御母様の足に寄り添っていた。ビチャリ、と汚泥が落ちる。ビチャリ、とまた産み落とされる。

 声が出なかった、悍ましくて。全身が凍えるように寒かった。

 御母様はぶるりと身を震わせると、ふぅっと上気した頰で艶っぽい吐息を零す。そして糸を手繰るように手を動かして、床に飛び散った泥を手も触れずに集めて、捏ねる。液状に近かったそれがなにかを象る。それは烏でもなく、土竜でもなく、禿鷹でもなく、蟻でもなく、ましてや腐乱死体でもなかった。名状し難い形状のソレは蜥蜴に似ていた。蝙蝠のような羽根が生えている。頭からは昆虫のような触覚を生やしており、四肢もまた蟲を彷彿とさせる。肩の付け根から生やした手は、人の首を刈り取る形をしていた。爬虫類と昆虫が入り混じったかのような姿、自身よりも一回り大きなソレを御母様は慈しむように顎を撫でる。

 その姿は人ではなかった。人の形をしたなにかが、人あらざるなにかを産み落とした。袁家を象徴する黄衣を纏って、ソレを従える姿はまるで王と従者のようにも感じられた。

 人理の保証対象外。妾を産んだ、その股ぐらから人以外のなにかを産み落とした。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ!!??!!!!??」

 

 脳が理解を受け付けず、発狂する他に術がなかった。

 

 

 御姉様の悲鳴を耳にしながら私は吐瀉物を床に撒き散らしていた。

 それが黄ばみがかった透明色をしていたことに安堵し、寸でのところで正気を保った。私の肉体は辛うじて人間だ、少なくとも目の前の何かとは同一ではない。まだ震える体、細剣を握り締め直して飛びかかった。もう殺すしかない、と御母様だった存在に細剣を突き出した――キィン、という甲高い音と共に刀身が宙を飛んだ。手には根元から折れた細剣、そして私を睨みつけるのは爬虫類と昆虫の混合体。私が持つ細剣をいとも容易く折ってのけたのは鍵爪だった、それが私の首を刈り取ろうと動いていた。

 ソレの感情が読み取れない目と視線が合った時、私は死を予感した。

 

「その子は殺したら駄目じゃよ、妾の子じゃ」

 

 その言葉で鍵爪が下される。安堵する間もなく、脇腹を蹴り飛ばされた。

 骨が折れるほどではない衝撃、しかし私の小さな体は宙に舞って、その身を壁際に叩きつける。全身が痛む、しかし動けないほどではなかった。戦わなくては、と思う。しかし体が動いてくれなかった。死が鮮明に視えた、あの一瞬、私は死んでいた。死は覚悟できる、しかし、魂に植え付けられた死は拭えなかった。あっ……と声が漏れる。太腿に温かい液体が流れ落ちる。腰から力が抜ける感覚に私は声も上げられず、涙だけが溢れた。

 情けなく尿を垂らしながら蹲るように戦線を放棄する。

 

 

 美羽様の悲鳴を聞いた時、体が動いていた。

 護身用の剣を引き抜いて、先に動いた袁姫の後ろを駆ける。その次の瞬間で袁姫の細剣が根元から折れて、その直後に袁姫の体が真横に蹴り飛ばされた。あまりの実力差に臆する。思わず、踏み留まった鼻先を化け物の鉤爪が掠めた。そのまま尻餅を着いて、腰が抜けるように爬虫類型の化け物を見上げる。鍵爪を振り上げていた、逃げ出したくても体がいうことを聞いてくれなかった。殺されるのだろうか、ここで死ぬのだろうか。人間ですらもない相手に命を奪われるのか。

 臆病な私は突きつけられた死から目を逸らすこともできなかった。直視する、死の瞬間を。

 鍵爪が振り落とされる時も私は目を見開いていた。

 

四ツ葉(楊宏)は私のだッ!!」

 

 だから見た、英雄の姿を。

 私の前に割って入り、両刃の剣を以て振り落とされた鍵爪を払いのける。

 その背中を、私は見たことがなかった。

 何故なら私は彼女を真正面からでしか見たことがなかったからだ。

 安堵に股下から温かい液体が漏れる。

 

「お前……?」

 

 震える声で呼び掛ける。紀霊、いや六花は振り返らず逞しい背中を見せたまま答える。

 

「当然だろ? ひと目見た時から好きなんだ」

 

 彼女は私に向けて微笑むと化け物に斬りかかった。

 

 

 発狂する美羽様を真正面から抱き締めて、暴れる体を必死で抑え込んだ。

 ここで無闇に動かれては命の保証はできない。ならせめて戦闘に巻き込まれないように美羽様が正気に戻るまで押さえつける。それまで、この身を盾にしてでも守り抜く決意を固める。横目に後ろを振り返れば、化け物と切り結ぶ紀霊の姿が映り、そして足元を泥で汚した袁逢の姿があった。まるで陸に上がった魚のようにビチビチと汚泥が跳ねており、その中から掌大の塊が三つ飛び出した。襲い来るソレらに私はギュッと目を瞑って、美羽様を強く抱き締めた。

 ――覚悟した痛みがいつまで経っても来ない。どうしたのか? 恐る恐ると目を開ければ、剣を抜いた張勲が庇うように私達の前に立っている。

 

「私、戦うのは苦手なんですよ?」

 

 大きく剣を横に振るって剣身に付いた泥を払った。

 

「正直に言いますと分が悪いと言いますか、なんと言いますか? 今すぐにでも裏切りたい気分ではあるのですが?」

 

 そして、ゆっくりと構えを取り、袁逢と対峙する。

 

「流石に人以外には仕える気はないですねえ」

 

 頰に冷や汗を流しながら口の端をペロリと舐めた。

 強がっているのが分かる。ヴヴヴと音を立てる小型の蟲が袁逢を守るように展開される。ソレは蟲の羽根に海老のような体を持ち、幾つもの触覚を生やした奇妙な頭を持っていた。可愛いじゃろう? とソレを指先で愛でる袁逢は悍ましくて仕方なかった。我が子には知性が足りていない、と袁逢は告げる。だから其方の脳に興味津々なようじゃ、と袁逢の形をした何かが口にする。

 彼女の身振り手振りの全てが恐ろしく、そして悍ましかった。

 

 

 チッ、と舌打ちする。

 背後には発狂した袁術、それを抑え込む橋蕤の二人。それからまともに戦力になるのは紀霊だけだった。

 私は剣術を修めているが一般的な兵士よりかは強いといった程度、精鋭と呼ばれる軍の一兵卒といった程度の実力しかなかった。後ろの二人を守りながら戦えるだけの腕はない。どうする、と思考する。思案する。ここは生き延びる一手、いや、勝たなければ私には先がない。人生崖っぷち、覚悟を決めるしかない。泥の中から次々と生み出される海老型の昆虫を斬り落としながら勝つ為の一手を探る。そして、やはり私では勝てない、と結論が出て、否定するように勝機を探った。防戦一方のじり貧で、このままではいずれ食い潰されることを悟る。ならば一か八かの勝負に出るか? いや、そんな破れ被れが通用する相手かと自らを叱責する。

 息を腫らしながら八匹、九匹と切り落とした後、疲弊から荒い息を吐き出した。そして目の前の光景に絶望する。

 私が九匹を倒している時間で、袁逢は数十匹もの化け物を生み出していた。

 

「我が子には手を出してはならん」

 

 そういって解き放たれた蟲共に、あっ、と私は死を悟る。

 これはもう駄目だ、と諦めの笑みを浮かべた――次の瞬間、私のすぐ横を蜥蜴の巨体が吹き飛んできた。

 バチュッと幾つかの蟲を巻き込みながら壁に叩きつけられる。

 

「ああ、うん、やはり、化け物退治には蹴りの一撃だな。物理こそが正義だ――いや、それは間違っている」

 

 紀霊が無傷の体で剣を肩に抱えながら、ゆっくりと告げる。

 

「愛だ、愛が私を強くする。そうだ、化け物。私の勝因を教えてやる」

 

 蜥蜴は、蹴破られた腹から黒い泥を吐き出しながらビクンと身を跳ねさせた後、黒い霧状になって蒸発を始める。それでも紀霊は構わずに言葉を続けた。

 

「私は四ツ葉を愛していた。それ以外に理由はなに一つない、それだけが私の勝った理由だ」

 

 袁逢が咄嗟に海老型の蟲を紀霊に解き放ったが、横薙ぎのひと振り、それだけで蟲共が砕け散る。

 

「そしてこれからも勝利する。所謂、約束された勝利というものだ」

 

 驚愕する袁逢のすぐ側まで歩み寄った紀霊は、剣を振り上げると、その柄頭で袁逢の首の裏を叩き落とした。

 

「まあ、殺しはしませんよ。良い思いをさせてくれましたしね」

 

 前のめりで倒れる袁逢を紀霊が片手で抱きかかえる。

 今度こそ気絶したのか足元に展開されていた汚泥が霧状になって蒸発した。

 なんとも呆気ない幕切れに、私は暫し呆然とし、そして腰が抜けたように地面にへたり込んだ。

 

「えっ? 納得でき兼ねる? なら勝因は筋肉で、筋肉が全てを解決する」

 

 もう絶対に、剣を使わない。前線に出ない、とそう誓って。

 

 

 




ようやっと次回から恋姫ができますねえ


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第十二話.

前半の微調整、後半は新規です。
同時に読んでもらった方がいいと思って、一度消させてもらいました。
申し訳ございません。


「終わりましたでしょうかー?」

 

 部屋の外からひょっこりと顔を出したのは程立だった。

 トテトテと何食わぬ顔で部屋に入ってきた少女は、気絶する袁逢の姿を見て「殺さないのですかー?」と指を差しながら告げる。六花(りっか)は庇うように袁逢を抱き寄せると無言で彼女を睨みつける。「あれ?」と程立は不思議そうに首を傾げながら周りを見渡すと「どうやら今すぐに殺すつもりはないようですね」と満足げに頷き、「まあ、これ以上、袁逢が私達に敵意を向ける事はありませんね」と呑気な声で口にした。

「彼女達は縛っておきましょう、形式だけでも」と程立は部屋の隅に固まった屋敷の使用人を視線で見やる。

 抵抗はほとんどなかった。

 

「さて、張勲さん。今後についての計画はありますでしょうか?」

 

 縛り終えた後、評定の間は本来の機能を取り戻した。

 とはいえ、まともに頭が働いているのは半分程度であり、美羽(袁術)様は身を震わせながら張勲に抱きついて離れないし、結美(ゆみ)は青褪めた顔で私の膝上に収まっている。互いに衣服は新しく着替えた後だ、理由については察して欲しい。橋蕤はまだ正気を保っているが緊張の抜けていないせいか表情が強張ったままだ。紀霊は嬉々として使用人達を縛り上げているところだ。鉄砲縛りとか、亀甲縛りとか、胡座縛りとか。「ちょっと練習してみないか?」と言った後で縄を私に押し付けた彼女は、率先して手を後ろに回しながら背中を向けてきた。とりあえず縄を投げつけておいた。今は鼻歌交じりで使用人を縛っている。

 張勲は面倒臭そうに美羽様の背中を撫でながら溜息を零し、特には、と口を開く。

 

「勝てばなんとでもなりますよ。の精神で此処まで来ましたのでー」

 

 その解答に程立は、ふむ、と頷いて眉間に皺を寄せる。

 

「それでは袁逢には袁術様に後継を定めてもらってから隠居して貰いましょう」

「……生かすのか?」

 

 思わず、問い返すと「特に殺す意味はありませんので」と告げる。

 

「……私達がそうしたように袁逢もまた私達に牙を向くかも知れないんじゃ?」

 

 そんな橋蕤の言葉に「その可能性は低いと思いますよー」と程立はいつもと同じようなのんびりとした口調で返した。

 

「袁逢さん、最初から本気を出していませんでしたよ?」

「え?」

「それに周囲の被害も気にされていたようですし」

 

 ほら、と程立が視線で示した先には多種多様の縛られ方をした使用人達が床で転がっている。

 

「あとはまあ私達はさておき娘は傷付けないようにしていました。袁姫様は蹴り飛ばされた時点で、まあ、死ぬまでは行かずとも骨の一本や二本は折れていないとおかしいのですよー」

「――それに袁逢は戦い慣れてないってのもあった。不可思議な術ではあったが、化け物を産むのにあそこまで時間を掛けていたら勝てるもんも勝てなくなる。あれって本来は戦闘が始まる前に用意しておくべき術なのでは?」

 

 そこんとこどうなのです? と紀霊が縛られた袁逢の頰をペチペチと叩いた。

 

「起きているのは分かっているんですよー?」

「五月蝿いのう、妾は眠たいのじゃ」

「不貞腐れてないで起きてくださいよ。見栄と意地は張れたでしょう?」

 

 そんなものは張っておらんわ、と袁逢は不貞腐れた顔でむくりと体を起こす。無論、縛られたままの姿で。

 

「妾の負けじゃよ、負け。妾は出せるだけの全力を出して、負けたのじゃから文句はなかろう」

「えー? なりふり構ってなければ、もっと戦えましたよ?」

 

 程立は楽しげに目を細めて、袁逢を見る。

 

「真正面から戦う姿勢を見せている時点で袁逢さんにとっては手加減では?」

「ふん、娘に陰謀と謀略を使う親が何処におる。親に陰謀をけしかける娘もな。紀霊はともかく数名、妾を殺すつもりで襲いかかってきたであろう?」

 

 殺す気で向かっておってわ、と告げる袁逢に「えっ?」と紀霊が首を傾げる。

 

「私も殺す気ありましたよ? 万が一は仕方ないかなって」

 

 え、まじ? と袁逢が見つめ返す。まじまじ、と六花が頷き返す。

 

「私の四ツ葉に手を出しておいてなにを言ってやがるのですか?」

 

 六花が恨めしげな視線に袁逢は、そこが妾の計算違いじゃったなあ、としみじみ呟いた。

 

「まあ袁逢様が弱すぎたおかげで殺さずにすみましたけど? もうちょっと鍛えましょう、筋肉は良いですよ」

「……妾が戦意を見せた時、程立と言ったか? お主がが真っ先に部屋から逃げ出したのを知っとるからな?」

「私に噛みつかないでください。それと戦術的撤退というものですよー。私がいたら足手まといになるだけじゃないですかー」

 

 呆れ混じりに溜息を零す程立から視線を外して、袁逢は私達、いや、美羽と結美を見つめる。

 

「四世三公は袁家の秘術があって成し遂げられたものじゃ。本来なら一子相伝の秘術、房中術を用いた探求の末に辿り着いた道教の神秘。この身に刻んだ太平要術には世界を変革させる力がある――まあ本当に世界を変えられるだけの力を蓄えた人物は歴代を含めても妾だけだろうがの」

 

 袁逢は自嘲し、そして細くて長い息を吐いた。ゆっくりと間を取り、改めて娘二人を見つめる。

 

「太平要術には願いを叶える力がある。それを要らぬというのであれば、もう知らぬ」

 

 そこまでいうと袁逢は六花に向けて「筆を持て」と告げる。

 はいはい、と面倒臭そうに部屋を後にする六花。彼女の娘二人は話を聞いていたのか、いないのか。無言のまま何も語らない。

 二人の代わりにおずおずと手を挙げたのは、張勲だった。

 

「あの〜、太平要術に願いを叶える力があるのであれば、私達に負けることもなかったのでは?」

「……妾の願い、妾の幸せは此処にある」

 

 袁逢は屋敷の部屋全体を見渡し、多種多様の縛られ方をしている使用人達を慈しむように見つめる。

 

「それに其方は、娘達を檻に閉じ込めることが親の幸せだと思ってるのか?」

 

 いえ、と張勲は罰が悪そうに頰を掻いた。

 袁逢は後ろ手に縛られたまま、よろしい、と胸を張って頷いてみせる。

 そうして少し気不味い時間が過ぎる中、「お持ちしました」と六花が筆と墨、それに紙を持って部屋に戻ってきた。

 解け、という袁逢の指示に、はいはい、と従う六花を止める者は誰もいない。

 

「後継者は袁術。これで良かろう? 妾達の処遇も含めて、後は勝手にしろ」

 

 すらすらと達筆な文字で書類を書き終えると袁逢はごろんと床に寝転がった。

 

「隠居先の屋敷には、此処の使用人を使っても問題ないでしょう――というよりも此処の使用人は袁逢様にしか御する事ができないと思いますねー」

 

 下手に解き放つと娼婦に貢いで破産する人が増えてしまいそうです、と程立は溜息を零した。

 

 

 事を終えた晩、私はひとり部屋に居た。

 背凭れに体重を傾けると椅子が軋む音がする。自分の為に用意した茶を啜り、ふうっと息を吐き捨てる。

 なんというか疲れた、この一言に尽きる。

 

 ほんの数カ月前までのことが嘘のようだ。

 思い返すと胸の奥が疼く、甘酸っぱい思い出。窓から夜空を見上げながら猪々子(文醜)のことを想う。この同じ星空を見上げているだろうか。それはないだろう、彼女は典型的な花より団子という人物だ。月を肴に酒を呷るのではなくて、月が綺麗だから、と月を動機に酒を呷る性格だ。正直、未練はある。後悔もある。でも不思議なことに今、私の想いは疲弊感だけだった。事を為した、という達成感はない。かといって今更、猪々子(いいしぇ)の鞘に収まるつもりもない。

 私の居場所は、此処なのだ。と私の心が告げていた。

 

「本当に良いのかの?」

 

 ふと声を掛けられる。

 開けっ放しになっていた扉から今は主君、美羽様は酒瓶片手に眠たそうな目で歩み寄ってきた。

 そして許可も取らず、私の膝上にちょこんと座って、盃を二杯、机の上に並べる。

 

「妾は御母様に対して愛着はないからの。其方が望むのであれば殺しても構わぬぞ?」

 

 元服前の少女にしては、やけに手慣れた手つきでトクトクと盃に酒を注いだ。

 まあ元服前といってもあと一週間もすれば、汝南袁家の当主を引き継ぐついでに元服の儀を終える手筈になっているので誤差といえば誤差なのだが、それでも酌をする姿が様になっていることに違和感を覚える。だが、その原因に至る話を聞いている。美羽様には前世で同じ世界、でも違う歴史を辿った経験がある。俄かに信じ難い話ではあるが――張勲の真名を言い当てたことが、彼女の言葉に信憑性を与えている。だから、その分だけ彼女は大人びているのだと思う。

 美羽様は私の膝上で酒を呷り、「やはり、あまり好かんの」と苦笑いを零す。

 

「今世での妾は袁家の跡取りとして教育を受けとるからの、サボっておったが……まあ、それでも御母様を生かすことの利点は理解しておるつもりじゃ」

 

 納得はしておらんがの! と両拳を築き上げて憤った。

 良くも悪くも美羽様は素直な性格をしている。妹の結美でさえも強かさを身に付けているというのに、彼女は汝南袁家の屋敷で育ったとは思えない程に純粋だった。嘘を吐ける性格ではない。嘘を吐くことはあっても、素直で純粋な美羽様では嘘を貫き通すことができない。それは汝南袁家の枠組みで考えると奇跡的なことだった。私でさえも純粋な気持ちは失われているというのに、彼女は純粋性を失わなかった。そんな彼女が放つ輝きは、まるで地底を照らす太陽のようで、その光に縋るように手を伸ばし、そして守らなくてはならない存在だと認識させられる。

 彼女の存在は温かい。私が自我を崩壊させず、陵辱に耐え続けることができたのも彼女の存在が居ればこそだ。

 

「妾にとって大切なのは御母様よりも其方じゃ。だからの、其方が報復したいのであれば処刑しても構わないぞよ?」

 

 繰り返される提案に私は首を横に振る。

 

「今更ですよ」

 

 もう手遅れだった、なにもかもが今更過ぎた。

 初めて陵辱された時の絶望感は薄れ、復讐心は押し殺している内に薄れてしまった。屋敷の者達が私に好意的だったのもいけない。納得できない気持ちはある、許すつもりは毛頭ない。でも潰すほどでもなくなってしまったのが現実だった。今、私にとって大切なのは美羽様であり、結美。残念ながら猪々子は二の次、三の次と優先する順位が落ちている。

 きっと私は美羽様の為なら猪々子相手にも剣を取れる。それで情けを掛けることはあっても靡くことはない。確かに愛していた、正しく純愛だった。でも純情はもう私の中には欠片も残っておらず、私の居場所は美羽様だと心に定めている。

 だから、もう良いのだ。全てが今更で、きっと報復したところでこの気持ちが晴れることはない。

 

「……まあ、それはそれとして、殺しておくに越したことはないと思いますけどね」

「じゃな!」

 

 美羽様が満面の笑顔で同意する。

 袁逢の処遇は張勲と程立の二人に任せている為、私達には決定権はない。

 もし彼女を殺せるのだとすれば、私情による処刑だけだ。

 

 だから袁逢は殺せない。今はまだ利用価値があり、殺すに足る道理はあっても合理はなかった。

 

 

 




次回からは動乱篇。
ようやく恋姫の時間軸に辿り着きました。
まあ冒頭部だけ書いて、暫く本作は筆を休める予定です。


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動乱篇
第十三話.


 此処は荊州南陽郡。汝南袁家の家督を正式に継いだ袁術、つまり美羽様が太守として治める土地だ。

 本来であれば汝南袁家と名にあるように拠点のある汝南の地を治めるのが道理と思われるかも知れないが、それはそれ、汝南郡を治める太守は袁家とは別にいるのだ。その太守が汝南袁家に頭が上がらないだけである。さておき荊州南陽郡とだけ書けば、豫州汝南郡から離れている見えるかもしれないが、南陽郡と汝南郡は州境にある隣接した土地にある。袁逢が気を利かせてくれたのか、親心なのか。最後の仕事として、愛娘を汝南袁家の影響力が強い土地に押し込んだ。

 そして美羽様が南陽太守に就任したのを契機に、袁逢は政界を引退して汝南郡にある別荘に隠居した。

 

 南陽郡にある城塞都市、その城の軍議室にて会議を開いている。

 袁術配下、側近と呼べる者は現在八名。私、四ツ葉(楊宏)の他、結美(袁姫)、張勲、程立、六花(紀霊)、橋蕤といった何時もの面子に加えて、雷薄と李豊の二人が仲間に加わっている。二人共に袁逢に仕えていた人物であり、袁逢から美羽様に家督が引き継がれた際に馳せ参じてくれた。他にも美羽様の配下になった人物は多くいるが、ここで取り上げることはない。少なくとも側近として取り立てることはないだろう。

 今はまだ着任されたばかり、新体制を整える間もなく、問題は次から次へと上がる。

 

「民草による大規模の反乱、世も末じゃの」

 

 上座に腰を下ろす美羽様は各地から報告を受ける傍で、匙ひと掬い分の蜂蜜から作った甘露水を啜る。

 基本的に美羽様が会議中、策を考えることはない。良きに計らうのじゃ、が彼女の決め台詞だ。

 しかし口を挟むことは意外と多く、話を聞いていないということはない。

 

「それで賊退治には誰が行ってくれるのじゃ? 雷薄かの? それとも李豊かの?」

 

 不意に呼ばれた新入りの二人組は、やや緊張した様子で姿勢を正した。しばらく美羽様は二人のことを見つめた後、ふむ、と少し興味をなくした様子で視線を外し、七乃(ななの)、と彼女が最も重宝する側近の名を呼んだ。七乃と呼ばれた少女、張勲は「私ですか〜?」と不服そうに答える。

 

「賊を退治するだけでしたら雷薄さんでよろしいのではありませんか?」

「それで良いかの、程立?」

「毎度のことですが私に話を振らないで欲しいですねー」

 

 どうして毎度、私を連れてくるのでしょうか? と程立は心の底から面倒臭そうに私のことを睨み付けてきた。

 程立の役職は前と変わらず、私の屋敷の使用人のままだ。それは本人からの強い希望であり、どれだけ高い役職に付けようとしても程立自身が拒否し続けている。曰く、面倒臭いですねー。そんな彼女からの視線に耐えきれず、そっと目を逸らすと「新しい書籍を買って貰いますよ」と言い付けてから「それで構わないと思いますよ」と美羽様に素っ気なく告げた。

 それでも美羽様は、うむ、と笑顔で頷くと今度は六花(紀霊)に問いかける。

 

「兵の数と編成はどうすれば良いかの?」

「精鋭五十名もあれば十分かと」

「……賊兵の数は幾らだったかの?」

「五百ですね」

「良い、分かった。張勲、倍ぐらいで良いかの?」

 

 美羽様が張勲に話を振ると「んー、防備が少し心配ですねー」と答える。

 

「確か、他の地域では数千っていう規模で反乱が発生してましたよね?」

 

 張勲の言葉に橋蕤がバラリと竹簡を開いて、そこに書かれた文字を指でなぞる。

 

「ああ、ありました。ええ、はい。青州では五千という規模で叛乱が起きていますね」

「あー、もしかして、全員が黄色い頭巾を被っていたりします?」

「はい、その通りです。流石は程立殿、既に情報を掴んでいましたか」

 

 んー、そうですねー、と程立は罰が悪そうに視線を泳がせた。

 現在、大陸全土は寒冷化の影響で食糧難に陥っている。その影響で数年前から賊徒が活発化していたのだが、この数ヶ月で黄巾を被った賊徒の情報が耳に入るようになってきた。最初こそ散発的な蜂起であったが、今となっては数千規模で行動することも少なくない。そして賊徒の勢いは日に日に増しており、数も膨れ上がってきていた。

 ちなみに南陽郡の全兵力は四千だ。まだ移動してきたばかりで訓練中の兵が多く、思うように集めきれていなかった。

 

「青州だけではありません。豫州と冀州、幽州の方でも同様の情報を得ています」

「それって黄色の頭巾を被ったっていう?」

 

 私の質問に橋蕤が静かに頷くと、ざわり、と軍議室に緊張が走る。

 

「話が逸れているのじゃ」

 

 そう美羽様が告げると「仮に万の兵が城壁に押し寄せてきたとして、此処には幾ら残しておけば良いのかの?」と続けて皆に問いかけた。

 

「兵力三倍の法則に則るのであれば、最低でも四千は欲しいところですね」

 

 答えたのは六花だった。

 

「それじゃと賊退治に派兵する兵が居らぬではないか」

「では三千五百で」

「同数で賊徒を蹴散らすことは可能かの?」

 

 美羽様が訝しげに雷薄を見つめると、雷薄は自信なさげに視線を外した。それを確認して、今度は李豊に視線を投げれば、先と似た反応が返ってきたので美羽様は大きく溜息を零す。

 

「……張勲」

「えー、私ですかー?」

「あと程立」

「えー、面倒ですねー」

「さっさと考えることを教えるのじゃ」

 

 有無も言わせない美羽様の態度に、ぶぅぶぅ、と二人は不服そうに声を上げる。

 

「妾だって面倒なんじゃからさっさとするのじゃ。考えるのが其方達の仕事、良し、と云うのが妾の仕事じゃ」

 

 それ以後、耳を貸さぬ、といった調子で頬杖を突いた美羽様に、張勲と程立は押し黙って互いを見つめ合った。「此処は名軍師足る程立さんの意見が聞きたいですねー」とは張勲の言、「いえいえ、此処は悪巧みをさせれば比肩する者はなしと言われる張勲さんの意見を話すべきではありませんか?」とは程立の言。そんな二人の牽制の応酬に美羽様は大きく欠伸をして、紀霊、と袁術軍随一の猛将を呼びかける。

 

「意見を言うまで二人の関節を極めるのじゃ」

「はい、恐れながら張勲めが提言します。絶対的に兵力が足りていない現状、やはり外部から救援を求めるしかないと思います」

「うむ、それで妾は何処に書状を書けば良いのじゃ?」

「えーと、それはー? やっぱり朝廷?」

「程立、意見を述べるのじゃ」

「えー?」

「紀霊、関節」

「横暴になっては駄目ですよー」

 

 仕方ありませんね、と程立は飴で口元を隠しながら告げる。

 

「外部から救援を呼び込むのであれば、できるだけ後腐れない相手が良いですよねー。使い勝手がよくて、使い潰しても問題なさそうなー」

 

 おお、そういえば。と程立はわざとらしく声を大きくした。

 

「此処より少し離れた江南の土地に、狂虎と呼ばれる者が居るそうですねー。地主ですらも持て余している様子、また自前の手勢を持っているようなのでー。兵糧や物資の補給と引き換えに賊退治を依頼してみては如何でしょうか?」

 

 狂虎? と美羽様は露骨に眉を顰める。

 

「ああ、江東の狂虎! 独立志向の強い荊州南部の地にて、圧倒的な武力を以て見事に平定したあの江東の狂虎ですね!」

 

 橋蕤がポンと手を叩いて告げる。

 その狂虎です。と満足げに頷く程立に反して、美羽様が顔を青褪めさせる。

 

「どうかしましたか?」

「……四ツ葉、いや、なんでもないのじゃ。気のせいなのじゃ」

 

 私が問うと美羽様は首を振り、そして恐る恐るといった様子で橋蕤に問いかける。

 

「それでその狂虎とは誰のことなのじゃ?」

「孫堅、字は文台です」

「よし、やめよう。やめるのじゃ。この提案は取り消しなのじゃ」

 

 他に案はないのか? と問いかける美羽様に程立は黙って首を横に振る。

 

「……孫策」

「ひいっ!!」

 

 ガタガタブルブルと震え出す美羽様に「貴方もでしたかー、道理でお利口さんだと思いましたよ」と程立が呑気に告げる。

 此度の軍議は此処で終わり、後日、美羽様が泣きながら書かされた書状が孫堅の元に送られる。それから毎日のように断られることを祈る美羽様であったが、天に祈りは通じず、二つ返事で依頼を承諾する書状が送り返される。それから数日の間、孫堅からの書状を片手に真っ白に燃え尽きる袁術の姿があったとかなかったとか。

 私はと云えば、孫堅軍が駐屯する為の場所を確保する為に袁姫こと結美と一緒に奔走することになった。

 

 




動乱篇スタートです。
勢いのまま次話まで書くかも、書かないかも。
気分次第。


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第十四話.

 一日、一匙の蜂蜜。この量を増やすには、どうすれば良いかの?

 この何気ない言葉に侍女長の橋蕤は次のように述べる。南陽郡は荊州北部における交易の要所、積極的に各地から人と物が集める政策を取れば自然と蜂蜜も集まります。次いで側近の張勲が話を振られて答える。そもそも蜂蜜って森の中から適当に採ってくるのですよね? 飼育したりとかできないのでしょうか、例えば牛とか? 羊とか? そして最後に意見を求められた程立が嫌々ながら答える。蜂蜜という嗜好品を嗜むことができるのは資金に余裕があってのことなのでー、先ずは国力を高めることを優先すべきだと思います。それが蜂蜜の量を着実に増やせる道ですねー。

 三者三様の意見が出たところで美羽様は、その全てを実行するように許可を出したが「え、嫌です」と程立が拒んだ為、名目上、彼女の主人である私、楊宏が国力増強に従事する手筈となった。*1

 

「だったら防備も固めないといけないな。人が集まるのは安全が保証されてのこと、人が研究に集中できるのは外敵の心配がないからこそ、国力を維持できるのは攻撃を仕掛けてきても守り抜く武力があってのこと、なら老朽化した城壁の補修は優先事項だ」

 

 六花(紀霊)の言葉に橋蕤、程立、張勲の三人も首肯する。

 

「ちょっと待ってください! この前、訓練以外に暇を持て余した兵達を使って治水と開墾を計画していましたよね? あれってどうするのですか!?」

 

 開墾と治水の指揮と執る予定の李豊が声を上げる。

 

「あー、そうじゃったの」

「それだと城壁の補修に対する人手が足りなくなるな。いや都市が攻め落とされては元も子もない。先ずは城壁の補修を優先すべきだ」

「いえいえ、紀霊さん。都市の維持も大切ですが、やはり都市としての発展も並行してやらなくてはなりませんよ? 都市の発展を待ってから城壁の補修に手をつけた方が結果的に早くなる可能性もありますし?」

「動かせる労働力にも限りがありますからねー」

 

 てんやわんやとし始めた軍議の場にて、美羽様は深く溜息を零して蜂蜜水を啜る。

 袁術軍の経済方針は蜂蜜嗜好、もとい蜂蜜志向だ。より多くの蜂蜜を南陽郡に呼び寄せる。もしくは生産する為に都市の発展を促そうとしており、その手段として、経済や軍備を増強させようとしていた。目指すは一日三食、おやつも蜂蜜の食生活である。

 しかし現状では夢のまた夢、橋蕤、と程立は古くからの重鎮に声をかける。

 

「あまり聞きたくはないが予算は足りるのかの?」

「まったく足りませんね。正直、開墾と治水を続けるだけでも財政が保ちませんよ?」

「南陽郡は最も人口が多い都市の一つ、と聞いておったのだが……税収はどうなっとるのじゃ?」

「……それが把握しきれていません」

「どうしてじゃ?」

 

 問い返すと橋蕤は気不味そうに返した。

 

「単純に人手不足です。各地に派遣できるだけの数が居ません」

「あー、んー、文官の雇用も進めねばならんかの?」

 

 美羽様が大きく溜息を零す。

 これ幸いと耳聡い程立と張勲がこぞって文官の登用に賛成した為、文官の新規雇用を進める方針で合致した。結局、経済政策の方は開墾と治水をぼちぼちと続けることに決まり、先程あげていた蜂蜜政策はひとまず見送りとなる。もうちょっと煮詰めてから、というよりも先ずは地盤を固めるのに人手が足りていないという結論に至り、現状維持のまま月日が過ぎるのを待ち続ける。

 その歯切れの悪い結末に美羽様は蜂蜜の少なくなった小瓶を寂しげな顔で見つめながら呟くのだ。

 

「……蜂蜜片手に頑張るのじゃ」

 

 それ以上はいけない。

 

 

 張勲は自分が楽をする為、精力的に文官の新規雇用に取り組んだ。

 その横で程立もまた、これ以上は自分が巻き込まれないようにと手紙を認めて、雷緒と名乗る少女に持たせる。風貌だけを見ると商人らしき娘であり、私に対しても愛想の良い笑顔で振りまいてくれる可愛らしい子だ。こほんと程立が咳を立てると慌てた様子で、ぴゅーっと程立の元へと駆け寄っていく姿もまた可愛らしかった。なんとなしに風貌が雷薄と似ているな、と思いつつも二人の関係性については聞いていない。雷薄の実家が商家だったりとかするのだろうか。そんな話は聞いたことがないが、一度、聞いてみるのも良いかも知れない。いつも程立が世話になっているようなので茶請け用の菓子を袋に包んで持たせると、「やったー!」と彼女は満面の笑顔で喜んだ。「こいつにそんなことはしなくても良いですよ?」と告げる程立、すすっと雷緒が私の背中に隠れる。どうしたのだろう? なんとなしに手紙を何処に送ったのか聞いてみると「水鏡女学院ですよ」と答えた。聞きなれぬ名前に「知る人ぞ知る、といった場所ですしね」と言って、「臥龍鳳雛の内、どちらかが来てくれれば助かるのですがー」とあまり期待していない様子で呟いた。

 さておき、二週間が過ぎた頃合いで文官の雇用試験が行われることになった。ついでに六花が並列して、武官の新規雇用を行なったが大した成果は得られなかったと不満顔を見せる。そんな彼女に首根っこを掴まれている少女が暴れている。名は邢道栄と云うそうだ。見込みがありそうだから拾ったとの話、見込違いだったので今から落ちていた場所に返しに行くとのことだ。いや、まあ、良いんだけどね。うん。何処で拾ってきたの、その子? それから文官の雇用試験が終わる頃合いを見計らって、答案の採点を手伝いに向かうと大量の容姿に囲まれた張勲は頭を抱えているところだった。全体的に能力が低過ぎます、と。その中にもひとりは優れた人物が居たようで「この人がいなかったら完全に徒労でしたね」と大きな溜息を吐き捨てる。

 名前欄には、魯粛と書かれてあった。

 

 

 人材雇用もひと段落し、今度は孫堅軍を受け入れる準備を整える。

 とはいえ、こちらの方は袁姫が進めてくれていたので、あとは仕上げだけの状態だ。兵達に手伝わせて、毛布や何やらと物資を運び入れる。まるで雑用ではないか! と反発する兵達には六花と特訓に向かって貰っている。山を登り、無手で数日間の野営を経験する特別訓練だと話に聞いている。定期的に紀霊が奇襲を仕掛けるおまけ付き、脱落組から聞いた話によると少女が悲鳴が聞こえたら数分後に襲撃がかかるとのことだ。そして彼女の片手には泣き叫ぶ邢道栄が握られており、戦闘しながら振り回しているうちに泡を吹いて気絶しているのだとか。散々、暴れ回った後で襲撃はピタリと止み、ずるずると森の奥へと引き摺り込まれる少女の姿は悲惨の一言だとか。今も山に残っている連中は六花から邢道栄を救う為に日夜戦っているのだとか――いや、たぶん、みんなで仲良く脱落したら解放されると思うよ。うん。下手な善意は相手を追い詰めるだけだな、と世の中の闇を垣間見ながら兵達に指示を送る。ちなみに六花は孫堅軍が来る前日に戻る予定だ。今日も今日とて山では少女の悲鳴が響き渡る。

 計画表を見ながら、どうにか今日中には終わりそうだ、と胸を撫で下ろす。

 

「おう、そこの小娘! いや……まあいい、そこのお前!」

 

 背後からドスを効かせた声で話しかけられる。振り返れば、六花と同じほどの体格を女性が豊満な胸を張りながら私のことを見下ろしていた。第一印象は、なんだか怖い人。しかし、その風貌と髪と肌の色、そして背後に率いる千程度の兵を確認して彼女が何者であるか察する。

 

「つかぬ事をお聞きしますが、孫堅様で宜しいでしょうか?」

「あ〜ん? そうだが、それがどうした?」

「私は袁術様の側近の一人、楊宏と申す者でございます」

 

 江東の狂虎、荊州南部を単身で平定したと呼ばれる人物。曰く、血狂い。曰く、戦闘狂。その気性は誰の手にも制することはできず、その闘志は誰にも止めることはできず、江東の地を我が物顔で駆け回る姿から虎と称される。今の時代を生きる、紛れもない英傑のひとりだ。

 

「ああ、お前が書状に書いてあった名前の奴か」

 

 あまり興味がなさそうに告げられる。

 予定では今より三日後に到着することになっていた。それでも通常の行軍速度を鑑みると厳しく、軍議では遅れが生じることも考慮に入れていた方が良いという話が上がっていた。ただひとり、程立だけは「むしろ数日、早くに来る心配をしておいた方が良いですよー」と零していたのを頭の片隅に覚えていたおかげで取り乱さずに済んだ。

 実際、その為に三日前には準備が終わるように彼女達の寝床を整えさせていた。

 

「四ツ葉、宿泊地に毛布を配布し終えたわよ……って、え? もう?」

「袁姫様、至急、袁術様か張勲に、孫堅殿が来た、と連絡を入れてください」

「あ、うん、分かったわ」

 

 袁姫は孫堅に向き直ると手を重ねて礼を取る。

 

「えっと、貴方が孫堅殿……で良いのよね?」

「おう! 俺が孫堅、字は文台だ」

「私の名前は袁姫、袁術様の妹になります。江南の地から遥々の長旅、ご苦労様です」

 

 普通に歩いてきただけだ、と告げる孫堅に、まだ仕事が残っていますので、と袁姫は申し訳なさそうにこの場から離れた。

 

「さて詳しい話は後で説明させて貰います。宿泊地の準備はできていますので、その案内も兼ねて一度、休まれては如何でしょうか?」

 

 お言葉に甘えさせて貰おうか、と孫堅が配下達に目配せする。

 そして宿泊地を案内する際に孫堅軍の様子を窺ったりしていたが、なんというか、うちの兵達とは比べものにならない。なんというか潜ってきた修羅場の数が違うという感じだ。自分で言っていて、よくわからないけど、というよりも修羅場がよくわからないけど。山で訓練を受けている兵達は今頃、どうなっているだろうか。邢道栄がなく頃に、六花相手に挑んでいるのかも知れない。

 そして城の方では今頃、美羽様の悲鳴が上がっている気がする。ギエピーとか。

 

*1
国ではないけど。




なんか書くのが楽しくなってきた。

時系列管理、間違えたので少しシーンを削りました


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第十五話.

 謁見の間、挙動不審な美羽様を窘めながら待ち人に備える。

 江東の狂虎、名は孫堅。字は文台。その獣染みた気性と規格外の武力は、民草の間で奇天烈な武勇伝と共に語り継がれている。例えば、十五の夜には盗んだ梯子で戦場を走り出し、単身で城壁に梯子を掛けた後、そのまま乗り込んで内側から門を開け放った。といった尾鰭が付きまくった伝説があるほどだ。流石にこれは眉唾な話だろうが、孫堅が常識外れの存在であることは間違いない。公式の記録では、揚州刺史の臧旻が揚州で独立を保つ各都市に対する抑えとして、三百の将兵と共に信じて送り出された孫堅は、兵数一万以上を有する豪族連合に対して、完膚なきまでに打ち倒して、見事に平定してのけたという実績を持っている。

 敵にすれば恐ろしい、味方においても恐ろしい。しかし単純に戦力として考えるならば、彼女以上に頼りになる者はいない。

 壇上には張勲と橋蕤が残り、上座には私、楊宏と結美(袁姫)を筆頭に李豊、雷薄と続いている。そして末席には無理やり連れて来られた程立が不満顔で控えさせている。六花(紀霊)は欠席だ、結局、間に合わなかった。整列をさせてから数分後、「孫堅殿がいらっしゃいます!」という門番の声に謁見の間に緊張が走る。

 ゆっくりと大扉が開け放たれる。

 その奥から姿を現したのは三人の女性、一人は孫堅。袁術軍で最も優れた武勇を誇る六花と同等の体格を持ち、歩いているだけで他者を跪かせるほどの威風を纏う規格外の英傑。そんな彼女の後ろに控えるのは――橋蕤から得た情報を照らし合わせて、おそらく黄蓋と程普の二人組だ。孫堅軍の双璧を為す猛将であり、黄蓋は揚州一の弓の使い手、程普は優れた用兵術で敵を翻弄すると言われている。もし仮に二人の内一人でも袁術軍に来ることがあるとすれば、軍事の筆頭、総指揮官の立場で全軍を率いて貰うことになるはずだ。

 好奇心や警戒、数奇といった様々な視線を浴びながらも彼女達は胸を張り、威風堂々と袁術が座る壇上のすぐ側まで歩いた。

 

「う、うむ! 長旅、ご苦労なのじゃ!」

「この程度、揚州を駆け回っていた頃に比べると大したことがない距離だ」

「そ、そうかの?」

「田舎者の俺達を引き取ってくれて感謝する。何時まで長居することになるのか分からないがお互いに仲良くやって行こうぞ」

「頼りにしてるぞよ! 詳しい話は七……張勲、其方に任せるのじゃ!」

 

 そこまで告げると美羽様は、疲弊しきった様子で大きく息を吐き出した。

 孫堅はおっかないから好きじゃない、と美羽様は言っていたことを覚えている。でも孫策の方がもっと恐ろしくて怖いから嫌いじゃ、とも言っていた。

 美羽様にとっては幸いか、この場には()()居るという娘の姿は見当たらなかった。

 

「ええ、それでは説明させてもらいますね」

 

 張勲が人差し指を立てながら猫を被った声で告げる。

 私達から孫堅軍に与えるのは、本来、練兵場として活用している土地を流用した宿泊施設。とはいえ城に残っていた野営道具を持ち込んだものであり、居住性は決して良いとは呼べない。宿舎も用意しているが、孫堅軍千人を収容できるだけの建物は確保できなかった。あとは孫堅軍を維持するだけの食料と物資、そして破損した装備の補修、補填する為に幾ばくかの資金を提供する。

 そして私達が対価として孫堅軍に要求するのは、南陽郡とその近辺に生息する族徒の討伐だ。

 

「あと監督役として孫堅軍には李豊と雷薄を付けさせてもらいますね」

 

 張勲が付けた最後の要求に孫堅は僅かに顔を顰めた。

 

「ついでに百の兵も付けますので存分に活用してくださって構いませんよ?」

 

 孫堅が推し量るようにじっと壇上を睨み付けるが、張勲はにこにことした笑顔を崩さない。

 

「それは断ることはできるのか?」

「残念ながら難しいですねー。他所から軍勢を引き入れるというだけでも地元豪族から結構、反発が起きていまして……私達の軍勢が貴方達を監視するという条件で受け入れてもらっているんですよー」

 

 そんな話はない。いや孫堅軍を引き入れることに難色を示す者は少なからず存在したが、今の不安定な情勢に孫堅軍の力を借りられることは心強いと賛成する者の方が多いほどだ。それは言ってしまえば、袁術軍は頼りないと思われていることの裏返し。でも、現状の袁術軍はは満足に賊退治ができてないので、そう思われても仕方ない話ではある。

 

「監視するにしては百という兵は少ないように思えるがな」

「そこはまあ、そちらの事情に合わせて? できるだけ孫堅軍の邪魔にならない数、でも豪族の皆様には納得して貰えるだけの数、高々百の兵しか送らないのは、そちらを信頼してのことだと思って欲しいですねー」

 

 まあ実際のところ、袁術軍の全兵力を動員しても孫堅軍には敵わないのだろうけど。ということは黙っておく。

 

「行軍に付いて来れなかったら置いていくが構わんな」

「えー、それは困りますよー」

無料(ただ)で引き連れてやるんだ、邪魔になるようなら切り捨てる」

 

 その孫堅の物言いにこちらの意図が気付かれているな、と私は目を伏せる。

 正直な話、私達に孫堅は手が余る。その気性、その威風は共に英傑の器であり、誰かの下に就くような人間ではない。ここは体良く彼女が飛躍する為の踏み台となり、恩を売りつけておく方が良い。という話を謁見前の軍議で話し合われている。そして孫堅が南陽に駐屯する間に私達がすべきことは、精鋭と名高い孫堅軍から少しでも力の秘訣を学んで自衛手段を獲得することだ。

 張勲は視線を泳がせた後、末席に居座る程立を見た。その視線から逃れるように程立が一歩、退がる。

 

「誰か隠れているのか?」

 

 ただ、それだけで程立の存在を看破される。

 目に見えて狼狽える張勲、横に立つ橋蕤も言葉に詰まっていた。

 その反応に孫堅が背後を振り返ろうとして――

 

「……妾が太守じゃ」

 

 ――と美羽様が口を開いた。

 

「良し、と妾が言えば皆が従う。意思決定は妾にある。何処かに誰かが潜んでいようとも其方の話し相手が妾であることには変わらないのじゃ」

 

 其方にも知恵袋の一人や二人はおろう? と問い返すと孫堅は笑みを浮かべて、深々と頭を下げた。その姿に声には出さないが、黄蓋と程普の二人が僅かに狼狽えた。

 

「これは失礼だったな」

「わ、わかれば良いのじゃ!」

「それで袁術殿はどう考えているんだ?」

 

 無料で子守りはごめんだ、と孫堅は言っている。美羽様は唾を飲み込んだ後にゆっくりと口を開いた。

 

「監督官の派遣については妾達にとっても、其方達にとっても必要なことじゃ。少なくとも其方達と連絡を取れる者が必要であるし、妾の名を使って城外の集落と好き勝手に交渉されても敵わん。いわば李豊と雷薄は南陽郡における窓口じゃ、それにこれでも人選は考えておる。最悪、この二人だけなら其方達の行軍には付いて行けるからの」

 

 という話じゃったの? と美羽様が張勲の方を見れば、「ええ、はい」と張勲は少し戸惑いながらも頷き返した。

 

「……戦場では江東流のやり方でさせて貰うぞ」

「やり過ぎなければ良い、元より戦下手の妾達が孫堅軍に口出しできることはないからの。じゃが、念の為に監視は付けさせてもらうのじゃ。余所者に好きにさせては妾の、強いては汝南袁家の沽券に関わるぞよ」

「この俺の戦を特等席で見物できるんだ、それなりの対価があっても良いと思うがな」

 

 それなら決まっていることがある、と美羽様が告げる。

 

「孫堅、其方も地に足を付ける土地が欲しかろう。此度で功績を上げれば、妾が汝南袁家の威光で其方を太守に推薦してやるのじゃ」

「ほう?」

「妾達も何時までも他所者に居座られるのは困るのじゃ。じゃから用が済めば、お役御免。太守の席を用意してやるから出て行って貰うからの」

 

 それとも妾の下に付いてくれるかえ? と袁術が問えば、虎を飼い慣らす気概があるのなら考えてやる、と孫堅は鼻で笑ってみせた。

 

「太守に推薦されるのは喜ばしいことだ。だがな、我らは――」

「推薦する時に揚州、強いては呉郡と付け加えるには、それなりの条件が必要になると思うのじゃが?」

 

 美羽様が強がるように笑みを浮かべてみせる。

 そわそわと肩を揺らしているところから無理をしていることが分かる、それはきっと孫堅にも伝わっていることだ。

 しかし孫堅もまた笑い返した。

 

「与えられた百の兵、使い潰すことになるかも知れないが構わないな?」

「うむ。最悪、李豊と雷薄だけは無事に返してくれたら構わないのじゃ」

「分かった、承ろう」

 

 孫堅は再び頭を下げると、踵を返して来た道を戻る。

 その後ろでは精魂尽き果てた美羽様が、ぐでっと椅子に座り、真っ白になった姿で口から魂を吐き出した。

「よく頑張りましたねー」と静かに拍手する張勲に「もう懲り懲りじゃ」と美羽様は力なく笑った。

 

 

 所変わって執務室、

 南陽郡を治めて以来、この部屋から喧騒が消えることはない。

 その隅っこの方で口を尖らせて、不満ありありの顔で書類の処理を続ける少女がいる。

 姓は魯、名は粛。字は子敬。真名は包。

 袁術軍の側近達が孫堅軍の動向に目を向けている中で、虎視眈々と少女は機を待ち続けている。

 いつか成り上がる、その日を辛抱強く――――

 

「いや、無理ですね。もう包は我慢できませんよ!」

 

 南陽郡における税収の報告書を前に、包は立ち上がって執務室で声を上げる。

 

「これ、やっぱりおかしいですって! 実際に支払ったとされる税収と金庫に入った金額が合っていませんよ! 何処に行ったんですか、これ!?」

 

 ――そう、少女は短絡的に動き出した。

 

 

 




一旦、止めて他を進める予定が、書きたい欲に負ける。


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間幕.万夫不当の荒武者(下積み時代)

 名は紀霊、真名は六花(りっか)

 かつては荊州北部を旅する無頼漢として知られており、良くも悪くも気分次第で仕事を請け負う傭兵だった。町から町へと移動する時は商隊の護衛となり、資金が心許なくなれば適当な場所で賊退治に勤しみ、退屈な時には町娘を引っ掛けたり、あるいは娼館に足を運んで夜な夜な女子達を泣かす日々を送った。

 私はあまり考えることが得意ではない、というよりも無駄だと思っていた。

 人は皆、将来について考えられる人が賢いとか、偉いとか、よく言うのだけども、その日暮らしが精一杯な人間に生きていられるかも分からぬ明日について考えることはできないと私は思っている。半年後、生きていられる保証はない。自分だけは大丈夫だ、と無根拠に信じることもできない。民草にとって、常に死は身近にあった。何時、死ぬかも分からぬ毎日に怯えて暮らし、祈りを捧げるように明日を願う。それが当たり前の世の中になっている、少なくとも私はそういう環境で生きてきた。

 だから私は貯金をしない。何かを買う目的がなければ、さっぱりと使い切るようにしている。

 その結果、得意としていた三尖刀を売り払うことにもなったのだが、それはそれ、私は何時死んでも良いように準備をしていた。何十人と女子を抱いていたのも、不思議な蜂蜜に惜しみなく金を支払っていたのも、高い酒を呷るのも、溺れる時は溺れて、呑まれる時は呑まれる。そういった刹那的な生き方を私が好んでいたのは、死ぬ時に後悔しない為、さっぱりと未練を残さずに死ぬ為だった。

 袁逢に雇われたのは、気の迷い、としか言いようがない。

 宮中の奸物達を手練手管で骨抜きにしてきたという幼子に興味を持ったのだ。勝ちも負けも関係ない、その極めた性技を味わってみたいと思って、のこのこと敵の寝ぐらに乗り込んで見事に腰が砕かれてしまった。あまりの気持ちよさに失禁した、という経験を味わった私は袁家の房中術の病みつきになり、しばらく汝南袁家に腰を据えることになる。

 それから一月が過ぎて、二月が過ぎて、運命的な出会いを果たす。

 肉欲に溺れる時は気が狂うほどに堕ちるが、それとは別に肉体を衰えさせない為に日々の鍛錬は怠らない。強くなる為、というよりも弱くならない為に行うものだ。これもまた未練を残さない為、今の御時世、力がなければ何もできないことを私は知っている。その時に衰えていたから負けました、なんて笑い草にもならない。そんな訳で、汝南袁家の護衛達がよく使っている訓練場で汗を流した帰り、その通り道の廊下でその者と出会った。書籍を両手に抱えながら、ふらふらと歩く華奢な男の姿、その可愛さに思わず目を奪われてしまった。もう言うまでもないことだが、私は本来、同性愛者だ。それも格好良いよりも美しい、美しいよりも可愛いが好みな性癖で、だから異性にこんな感情を抱くことはなかった。動揺していた。訓練で汗を流した帰り道だったこともあって、思わず身を隠してしまった。臭うだろうか? 大丈夫? やっぱり汗臭い? と戸惑っている内に男はどこかへと消えてしまった。

 また会うこともあるだろうか、そんなことを思いながら更に半年が過ぎる。

 

 あの者の名前を知った。

 そして、あの者には彼女と呼べる存在がいることを知った。

 彼が何処で働いているのか知ってから機会がある度に様子を窺いに行っており、されども勇気を持てずに声を掛けられずにいる。最初は興味しかなかった想いは日に日に強くなっている。彼のことをほとんど知らないというのに想いは強くなるばかり、これが恋に恋している、と呼ばれるものなのか。想いは強く、より強く、されども勇気が持てず、女を取っ替え引っ替えしてきた時期もあり、後ろめたさもあって話しかけらない。汝南袁家の屋敷に居ても、性欲が湧かず、いや、性欲はあっても気乗りがせず、独りで慰めることが増えて、それすらも愛する人を穢している自重した。悶々とした気持ちから、これは歪んだ気持ちだとか、彼には相応しくないとか、そんな想いが堂々巡りしている内に彼には同棲している女性がいるという話を聞いた。

 その日は荒れた。とても荒れてしまったが、それもまあ仕方ないことだと考えるようにした。

 それから汝南袁家の屋敷で過ごす毎日が辛くなって、長居をし過ぎた。と再び旅に出る決心をつけた。実際には逃げたかっただけだ。

 その想いを袁逢に申し出ると「もったいない」と彼女は答える。

 

「折角、彼を招き入れることになったのにの。それじゃあ妾達で美味しく頂くことにするかの?」

 

 その言葉を聞いた時、私は手の平を引っくり返すように土下座した。

 

「初めては私にください」

 

 と懇願した。

 想いは煮詰められる。混ぜられずに放置されたまま煮詰められた感情は、じゅくじゅくと腐敗する。

 本当に彼のことを愛しているのであれば、身を呈してでも守るべきだった。しかし、それはできない。それをすると彼はきっと私の手の届かない場所に行ってしまうことが分かっていた。だから堕とす、そして、彼の初めては私が良かった。それが脅迫的なもので、強引だったとしても、私以外の誰かに穢させたくなかった。どうせ穢れるのであれば、それは私が良い。こんなことをしているのだ、好意を向けられるとは思っていない。ならば、憎悪を、それ以外の感情を私に向けて欲しい。私を見て欲しい、私に夢中になって欲しい。それがどのような形であっても、記憶にすら残らないよりも遥かにましだった。半ば、禁欲生活を送っていたこともあって、その想いが尽きるまで彼を求め続けた。細胞の一つ一つに染み渡るまで注ぎ込んだ。汝南袁家の屋敷で定期的に開催される陵辱会には普段、参加しないようになり、彼が参加する時にだけ溜まった性欲の全てを発散した。心を奪えないのであれば、せめて体だけでも、そう願って彼を犯し続けたのだ。今では自信をもって言える。私が誰よりも彼を犯した、と。その回数は百じゃ効かない、数百は固い。五百には届かないか、まあ、それぐらいに私は彼に夢中になっていた。四六時中、彼のことばかりを考えていた。日頃、ぼーっとしている時間が増えた気がする。彼の顔を見るだけで胸が高鳴り、興奮した。歪んでいるとわかっている、でも、もう私のものにはならないと理解していたから、求めても無駄だと分かっていたから、私は私の欲望を満たすことだけを考えた。彼を助け出して、他の女の所に送り出すなんて絶対にできない。それだけは許されない。そんな真似をするくらいなら何処か山奥にでも連れ去って、牢獄の中、手枷足枷に鉄球を付けて飼い殺す。……とても愛しているとは言い難い、この感情にそのような綺麗な言葉を使って良いはずがない。

 だが、愛している、という言葉以外に適切な言い回しが思いつかなかった。

 

 だから、どういう形であれ、彼から求められた時、私は幸せを感じていた。

 私の体は挿入前から屈服していた。だって私の体と心は、とっくの昔に堕ちていたのだから仕方ない。

 むしろ当然の帰結というものである。

 

 

 無事に袁逢を倒した後、私は幸せいっぱい夢心地だった。

 正直、口も聞いてくれなくなるかな。と思いはしたが、意外なことに彼――つまり、楊宏は私のことを嫌ったりしなかった。死ね、とか言われたりすることはあるけども口で言うだけで逃れる素振りは見せないのだから最悪とは言い難い。それに彼が私のことを拒絶しない理由の一つに私の武力が含まれていると思われる。本心ではきっと私のことを嫌っている、でも、折り合いを付けようと努力してくれている。この私の為に! それがどういう理由であれ、私を嫌わない努力をしてくれているのなら嬉しいことだった。それが打算的なものであったとしても構わない。最悪なのは顔も合わせてくれなくなることだ。視界に入れることも叶わない、その声を聞くこともできない。そんな生活、耐えきれるはずがなかった。別に構わない、彼が私のことを好いてくれようがくれまいが、そこは重要ではない。私の武を求めているというのであれば、より一層に鍛え上げよう、武官としての働きを期待されているのであれば、今からでも孫氏の兵法を学んで来よう。

 怖いのは必要にされないことだ。今、私が彼の傍に居られるのは、必要とされているからだ。

 だから必要とされる為に私は研鑽を続けるべきだと思っている。そして、これ以上、嫌われない為にも私は彼に誠意を持って対応すべきだと思う。まあ後者はちょっと難しいのだけど、彼を求める想いを抑えることができない。顔を見る、手を取る、抱き締める。それだけで幸せだった、挨拶を交わすだけでも歓喜に打ち震える。彼の匂いを嗅いでいるだけで子宮がキュンと来る、使用済みの下着を盗んだ後は秘部が濡れる。襲いたくなる衝動は定期的に処理しなくてはならない、これは私の幸せの為に必要な手順である。

 さておき、私が意気揚々と遠駆けに出掛けると――河に掛けられた橋の下に薄汚い姿をした少女が倒れているのを見つけた。

 

「少女よ、こんなところでどうした?」

 

 馬を降りて近寄ると少女が飛び起きて、刃物を片手に飛び付いてきた。

 物盗りの類か、と片手で刃物を制し、そのまま彼女の頸に手刀を落とす。少女は白目を剥き、前のめりで地面に崩れる。さて、このまま放置しても良いのだが――この辺りには野犬が出ることがある。

 とりあえず起こすか、手頃な河があったので放り込んだ。

 

「げほっ! がはっ……あ゛っ、がぼ、ごぼぼっ! がはぁっ!!」

 

 おお、溺れとる。溺れとる。その河、足が着くから落ち着きなさい。そうそう、落ち着いて、落ち着いて……

 

「げふっ……ごふっ……はぁ、はぁっ! がふっ……けほっ、ふぅっ……殺す、絶対に殺すッ!!」

 

 ずぶ濡れの体で殴りかかってくる少女を片手でいなして、その額を軽く小突いた。

 すてんと尻餅を着いた少女は呆気に取られた顔をした後で、奮起し、再び私に殴りかかってきた。根性があるな、と思いながら試すように今度は頰に張り手を叩き込んだ。まだ戦意を失わなかったので、次は鳩尾に拳を入れる。別に殴った訳ではない、何度も馬鹿正直に真正面から突っ込んでくるので、それに合わせて鳩尾に拳に置いただけだ。ただ威力は絶大だったようで、少女は口から水を吐き出しながら顔から地面に倒れ落ちた。

 ペシペシと頭を叩いても起きなかったので、仕方なしに首根っこを掴んで自分の屋敷まで運び入れた。

 

 少女の名前は邢道栄と言うようだ。

 事情は知らない、興味もない。ただ、このままでは簡単に死んでしまうことは分かったので、昨日の残飯を喰わせてやった後、彼女の首根っこを掴んで訓練場に放り込んだ。文字通り、ぽーん、と。頭から地面に突っ込んだ邢道栄は私のことを睨みつけてきたが、こんなのは受け身が取れない方が悪い。周囲の兵達から視線を感じる中、私は武器庫から幾つかの武器を拝借して、剣、槍、戟、手斧、弓と順々に地面に突き立てる。

 呆然とする邢道栄に私は端的に告げた。

 

「来い、来ないなら行く」

 

 木刀を片手に、じわりと歩み寄る。

 すると邢道栄は慌てながら間近にあった剣を握って構えを取る。拙い構えだ、先ずは構えから矯正する必要がある。と比較的、隙の多い場所に木刀を叩き込んだ。二度、三度、四度、五度、守りを固めたら一方的に攻められることを教え込むために攻撃の手は緩めない、十二度、十三度、十四度……全身に青痣を作った体で地面に倒れる。手加減はしているので骨や筋は痛めていないはずだ。気絶はしていない。そのまま五分待っても起き上がらなかったので、蹴りやすい位置にあった頭を爪先で蹴飛ばした。困惑する邢道栄に、もう一度、足を振り上げると慌てて立ち上がった。立ち上がれるのに、直ぐ立ち上がらないのは悪い癖だ。それだと戦場で死ぬ、矯正する必要がある。周囲が遠巻きに私達を見守る中で、私は目の前の少女を何度も叩き伏せた。気絶したら水を持って来させて、ぶっかける。立たなければ、体を蹴り上げて立たせる。そしてまた叩き伏せる。

 それを大体、三十分続けた後で三十分の休憩を挟む。痣だらけの体で倒れる邢道栄に周囲の兵が心配になって集まってきた。

 

「あの……紀霊殿、少し厳しすぎるのではありませんか?」

 

 兵士ひとりの進言に私は首を傾げる。

 

「このままだと死んじゃうけど?」

「この稽古を続けると、あの娘が死んでしまいます」

「大丈夫、死なないように手加減してる」

 

 実際、大怪我はせず、後遺症も出ない叩き方をしてやっている。

 

「さて、そろそろ休憩時間も終わりだな」

 

 言いながら腰をあげると兵達が娘の前で壁になっていた。

 邪魔だな、と私は眉間に皺を寄せた後、丁度いいか、と考えを改める。

 兵達はみんな、私と戦いたがらないからな。

 それに望んでいない兵に稽古を付けることは橋蕤に禁止されていた。

 だが、相手が望んで私と戦いたいというなら仕方ない。

 

「護衛を守る為の戦い方を学ぶことも大切だ」

 

 結果、休憩時間が五分伸びた。

 何時の間にか目を覚ましていた邢道栄は私のことを鬼でも見るかの如く、脅えた目で私のことを見つめてきた。しかし、周囲に倒れる兵達を確認して、目に涙を溜めた怒りの形相で私のことを睨んできた。活きが良いのは良いことだ。もう三十分、叩き伏せたところで本日の訓練を終える。

 それを翌日も、また翌日も続けている内に邢道栄の体に痣が減ってきた。

 日に日に動きがよくなりつつある。武器は手斧を扱っていることが多く、器用に小回しを効かせながら致命傷を避けた。そして漸く守るだけでは駄目だと気付いたのか、自分の身を守る為に攻撃を仕掛けてくることが増えた。そうして私との手合わせを半月も続けている内に、遂に彼女は三十分間、地面に倒れずに凌ぎ切ったのである。故に時間を増やした、十五分、合計四十五分間を耐え凌ぐたけの力はなかったようで少女は地面に叩きつけられる。これを最終的に二時間凌ぎ切れるようになるまで続けるつもりだ。

 深夜、熟睡していると寝室に誰かが忍び込んだ気配を感じたので寝惚けたまま思いっきり蹴飛ばした。

 このことで邢道栄は生死の境を彷徨ったが、応急手当てによって命を吹き返した。

 

 そんな生活を続けていたある日、邢道栄の心がポッキリと折れてしまった。

 訓練中、「もう好きにしろよー! 何が楽しいんだよー! もう良い加減にしてくれよーっ!!」と泣き喚いてしまったのだ。構え一つ取らない邢道栄を蹴飛ばしても身動き一つ取らず、そのまま地面に倒れたまま泣き崩れてしまった。兵達も訓練の手を止めており、私のことを非難するように睨みつけていた。ん、これ、私が悪いの? 周りの反応を見るに、どうやら私が悪いようだ。ボリボリと頭を掻いた後、「んじゃ元あった場所に戻してくる」と彼女の首根っこを掴んで訓練場を出て行った。

 やる気のない者が居ても皆の邪魔になるだけだ。

 邢道栄は信じられない者を見るような目で私のことを見つめてきたが、そんなの私の方が信じられないよ、って無視を決め込んだ。待ってください、と兵のひとりが私の行く手を阻んだ。「貴方に人の心はないのですか?」と問われたので「それで生き残れるの?」って問い返した。

 兵は驚き、目を見開くと刃を潰した剣の切っ先を私に向けた。

 

「私が勝てば、その子の世話を任せてくれませんか?」

 

 その姿を見て、これは彼らの稽古を付けるのに良い機会だと思った。

 

「貴方では、どう足掻いても勝てないよ」

 

 だから、と続ける。

 

「今、この場にいる。全員でかかってくると良い」

 

 数時間後、私は新しく青痣を作った邢道栄の首根っこを掴み、誰一人立つ者のいない訓練場を立ち去った。

 そして気絶する邢道栄を何時か前にした時と同じように河へ放り込んだ。

 

 

 更に数週間後の特別訓練中、山奥の森の中を縦横無尽に駆け回る。

 鍛え上げた体術を用いて、手を使わずに木々を駆け上り、枝から枝へと飛び跳ねた。

 そして眼下に南陽兵の姿を見れば、頭上から飛び降り、素手で頸を叩いたり、首を軽く捻ったりして昏倒させる。反応の良いものには軽くて合わせした後に、骨折しない程度の打撃を加えて地面に叩きつけた。四方八方からの攻撃に対しては、幹や根の位置を把握して、攻撃を防ぎ、敵との足並みを乱しながら投げ飛ばし続ける。関節を極めるのは楽しい、人体の構造は把握している。女体を抱いた時の経験と実験で、人体がどのように動くのか把握していた。男と女の差異はあるが、それは実戦を続けながら微調整を繰り返している内に分かるようになった。人を投げるのに大きな力は要らない、力が必要になるのは相手の態勢を崩す時だ。それさえできれば、ごろんごろんと面白いように相手は転がった。そして無力化した相手を服を剥いで、恥ずかしい格好で縛り上げる。縛るのは得意だ、何度も縛って吊るしてきた経験がある。

 それで心が折れて、従順になった者から下山するように促した。

 今もまだ残っている者は私に復讐してやると気概を持った連中だ。具体的に云うと邢道栄と強い関係を持つ者達、その中には何故か邢道栄の姿もあった。一矢報いてやる、と大斧を背中に構えて突撃してくる。その一撃は重かったが、動きが鈍重で隙が大きい。木刀を片手にまた稽古を付けてやろうと考えれば、他の兵達が彼女の隙を埋めるように攻撃を仕掛けてきた。連携された動きに追撃を阻まれる。真正面から一人が突っ込んできて、そいつを倒す為に木刀を振るう――その隙を突くように左右から他の者が攻撃を仕掛けてきた。殺しても構わないという気概で打ち込んできている。なら少しだけ手加減を止めてもいいか、と何時もよりもキツめにしばき倒した。

 そうして蹂躙している内に、奇襲を仕掛けてから三十分が過ぎたから撤退する。

 その際、勝手に訓練に混ざっていた邢道栄を連れ去り、軽くおしおきをした。泣き叫ぶ邢道栄の悲鳴は、面白いように南陽兵を誘き出した。あ、これ、楽しい。と分かった私は邢道栄を虐めて、誘き出した南陽兵を蹴散らす作業に励んだ。その上で奇襲も仕掛ける。袁逢に教えてもらった拷問術の中で後遺症を患わないものを選んで、嬉々として邢道栄を甚振り、そして山に残った南陽兵の能力を飛躍的に向上させていった。「拷問するなら質問しろよーっ!?」という至極真っ当な訴えには「拷問そのものに意味がある」と言って黙らせた。特別訓練の期限を迎えた時、解放された邢道栄は「もう来ねえよ! ウワァァン!!」と吐き捨ててながら、ふらつく足で山を下りていった。

 まだ余裕があるな、もっと痛めつけても良かったかも知れない。

 

 

 




上げた株は下げるもの。
後に荊州四天王を打ち破って覇を唱えるかも知れない武士による伝説の始まりである。


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第十六話.

 特別訓練を最後まで戦い抜いた百名の南陽兵。

 おそらく六花(紀霊)との特訓で地獄を見てきた者達だ、面構えが違う。

 半ば目は死んでいるような気もするが、その異様さもまた彼らの凄味を足す要因となっている。この百名を率いることになる李豊と雷薄が少し引くほどの彼らの立ち姿に「使い物になりそうだ」と孫堅もにっこり満足げに頷いた。南陽郡に巣食う賊徒を滅ぼす為に意気揚々と出発する孫堅軍を見送り、残された私達は南陽郡の地盤を固める為に各地へと奔走する。

 ――予定となっていたのだが、こちらはこちらでまた別の問題が生じていた。

 

「都市運営、強いては領地の開拓となれば、私には少し荷が重すぎると思うのですよー」

「えっ、冗談は頭の人形だけにしてください? 貴方以上の適任者が何処に居るというんです?」

「張勲、貴方が居るではありませんかー。私のようなポッと出が指揮を執っては見縊られてしまいますよー」

「それこそ荷が重すぎますよ、私だって身の程くらいは知ってます」

「私は頭脳労働は得意ですが人を使うのは苦手なんです」

 

 とまあ、このように南陽郡では政策の指揮を執る人間がいない状態が続いている。

 本来であれば、程立か張勲の内一人が全体指揮を執るべきなのだろうが、二人とも出世欲を持たず、贅沢をするよりも楽をしたい性格の持ち主であった。その為、二人は軍師という立場から逃れようと軍議や評定が行われる度に牽制をし合っている。今は結美(袁姫)が指揮を執り、橋蕤と私が補佐をしているが正直、手が回っているとは言い難かった。というのも私達の中で政務を重点的に勉強した者はおらず、聞き齧った知識でやり過ごしているに過ぎない為だ。今ある仕事だけでも遅れが生じており、新しい政策に手をつけることなんてできなかった。

 南陽郡の発展の為には政務を専門的に学んだことのある人物が必要になるのだが――

 

「そもそも私は片手間に学んだ知識ですよ?」

「私だって片手間ですよ。所謂、下手の横好きというものです」

「あはは、何を言ってるんでしょうか。このチビは」

 

 ――該当する二人が上の通りである。

 これには美羽様も匙を投げてしまっており、今のところは

 結美や橋蕤、私は悩む時間すらも惜しかった。

 猫の手も借りたい、とは正にこのことだ。

 

 

 少し情報を整理する為に執務室にて、私、橋蕤は集められた情報を精査する。

 大陸全土の情勢を掌握する為に各所に放った草からの報告は密に行なわせているが、外よりも内に注力しなくてはならない現状、集められる情報は表面上のものばかりだ。それでもないよりはましだと掻き集めた情報を整理する。

 先ず洛陽では、何進が大将軍になったという話で持ちきりになっている。名家や宦官といった連中の手による政治の腐敗に辟易としていた民草は、元は屠殺業を営んでいたという卑しい身分の何進に親近感を抱いており、民草の視点に立った政治を行ってくれるのではないか。と期待を寄せていた。そして、分かりやすく武威を示す為に涼州と并州の英傑である董卓を洛陽に招き入れたことから人気に拍車を掛けている。

 次いで、冀州では近頃、袁紹が武名を轟かせていた。良く統治し、良く退治する。冀州、それも袁紹が本拠に据える勃海郡には賊も寄り付かないと専らの噂だ。そのおかげで汝南袁家の正当な後継者は美羽様に定められたというのに、実績のない美羽様よりも袁紹の方が汝南袁家の後継者と疑わない連中が後を絶たない。荀家の人間も袁紹に与しているのだったか、ふざけた話だ。

 幽州では啄郡の太守を努める公孫賛が異民族相手に奮戦しており、豫州の陳留郡では太守の曹操がやり手という噂を聞いている。そして涼州では韓遂が謀叛を起こしたという話であり、董卓と並び称される英傑の馬騰が負傷。涼州は韓遂と同調した異民族により、占領されつつあるとのことだ。益州のことはよく分かっていない。お隣の劉表は不穏な動きを見せているようだし、荊州の南部では、四英傑を名乗る劉度、趙範、金旋、韓玄の四人組は分割統治し、朝廷の支配から外れた治外法権を主張している。

 右も左も好き勝手する連中ばかりで嫌になる。まともなのは曹操と公孫賛くらいなものだ。

 

 茶を啜る、そして深く息を吐いてから再び資料に目を落とす。

 

 局部的には大陸全土の治安は改善の兆しを見せている。

 しかし度重なる天災に食料そのものが足りていない現状、この慢性的な問題を解決するまでは賊が発生することは防げない。そして集まった賊徒は弱いものから集中的に狙うようになる。この辺りでいうならば、南陽郡。つまり私達だ。

 とはいえ孫堅軍を招き入れたことにより、賊徒による被害は落ち着くはずだ。

 

 今、私達が考えなくてはならないことは二つある。

 南陽郡の発展および軍備の増強。そして、朝廷との連絡手段の確立だ。

 前者は、まあ良い。軍備に関しては今、手を付けている最中だ。

 問題なのは後者、そもそも私達は朝廷との伝手を持つ者がいないという事だ。

 美羽様は孫堅に袁家の威光と見栄を切ったが、今や何処まで効果があるのか。

 

 ほんっと袁紹、許すまじ。暗殺したい。

 

 私は大きく息を吐き捨てながら首を横に振る。

 冷静になれ、暗殺などと物騒で現実味のないことを考えている場合ではない。それに汝南袁家には誰よりも朝廷に通じている人物が存在しているではないか。その者の力を借りることは酷く億劫ではあるが、しかし他に頼める人物もいなかった。

 そして彼女の力を借りる為には、誰を遣わせるべきか。考えなくてはならない。

 私では駄目だ。私は汝南袁家の屋敷に仕える者で唯一、袁家の秘術と呼ばれるものに参加して来なかった人間である。袁逢にではなく、美羽様個人に仕える従者。故に侍女長、美羽様に関わる世話を全て任されていたから侍女長だ。だから袁逢に私の頼みを聞く道理がない。張勲も同じだ、裏切り者が今更なにを、という話になる。紀霊も後腐れがない関係を保っていたこともあり、わざわざ願いを聞く義理がなかった。

 となれば思いつく適任者はひとりだけ――その者に今から頼みに行くことに億劫になる。

 

 楊宏。袁逢に仕えていた身の上でありながら、袁逢自身の手によって裏切る要因を作った相手だ。

 私達の中で彼にだけ、袁逢は貸しを作っている。

 

 

「楊宏、それでわざわざ妾の下まで来たと?」

 

 いつか彼女が構えていた屋敷よりも半分以上も狭くなった別荘。

 しかし名家が暮らすにしても大き過ぎる屋敷で、幼子の見た目をした女性、袁逢は侍女に耳掻きをして貰いながら問い返す。

 行けと言われたから来た。それが美羽様の為になるのであれば、と。

 

「橋蕤はちと妾のことを恐れすぎておらんかえ? 娘の為になるのであれば、見返りなぞ求めんに決まっておろう」

 

 若干、呆れたように告げるとパンパンと二度、手を叩いた。

 

「閻象、戻ってるかの?」

「はい、ここに」

 

 ガチャリと部屋の扉が開かれる。

 眼鏡を掛けた長身の女性、髪は全て後ろに束ねており、執事服を着こなしている。

 背筋をピンと伸ばした姿勢は綺麗というよりも格好良かった。

 

「此奴の名は閻象、妾に仕える侍女長だが美羽にくれてやる。今の朝廷のことならば妾よりも此奴の方が詳しいからの」

「これからよろしくお願いします、楊逢様」

 

 キビキビとした仕草で手を差し伸べてくる閻象に、おどおどしながら私は手を握り返した。

 

「それで楊宏?」

 

 袁逢は妖艶な笑みを浮かべながらねっとりとした声色で問いかける。

 

「少し気持ちいいことをしていかんかえ? 其方は人気者でな。皆、寂しがっておる。そうじゃ、今宵は妾が直々に房中術の限りを尽くして、気持ち良くしてやらんこともないぞ?」

 

 閻象が手を強く握りしめる。彼女の顔を見上げると、にっこりと笑顔を浮かべていた。

 

「そういえば筆下ろしは済ませた、と紀霊から聞いておるの。となれば、今夜限り、精を搾り取っても問題はなかろう……良い良い、遠慮をすることはない。今回、協力する対価を思ってくれれば良いのじゃ」

 

 揚宏は逃げ出した、しかし周り込まれてしまった。

 

「知らないのか、袁逢(魔王)様からは逃げられない」

 

 気付いた時には、朝焼けの空に鳥が囀っていた。

 

 

 




この作品で一番やらかしてるのは七乃が美羽様に惚れ込むイベントが入れなかった点ですね。美羽様ラブラブな七乃を書きたい気持ちが半分で書き始めたのに…残り半分は美羽様可愛いの心意気です。
正直まだ両方とも全然書けてないので消化不良中。


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間幕.包の三日天下・壱

 どうやら魯粛子敬は天才のようです。

 幼い時から控えめに云って、人並み外れた記憶力を持っていた私は齢十歳にして屋敷中の書籍を読み尽くし、軍人将棋に至っては十二歳で相手になる者がいなくなってしまった。大の大人が私に教えを請う有様であり、そんなことも分からないんですか? と得意顔で定石とやらをご教授してやる。

 年配の方から先生と呼ばれるのは気分が良いものであり、苦しゅうない、と扇子を開いてパタパタと自らを扇いだ。

 

 人生に虚しさを感じるようになったのは十五歳を過ぎた頃合いだ。

 これは類稀なる才覚を持つ者の宿命と呼ぶべきものかもしれないが、私には私を理解できる友達と呼べる存在がおらず、そして私の相手に足り得る好敵手と呼ぶべき存在がいなかった。周囲には私と同じ次元でモノを語れる者がおらず、幼少期から退屈な思いをさせられる羽目となった。

 部屋に押しかけてくる大人達の相手を続ける日々、うちの息子をどうだ、と言われても苦笑を浮かべながら丁重にお断りをする。私から軍人将棋で一度でも勝つことができることが最低条件と言えば、村の大人達の全員が私から目を逸らして、翌日から縁談の話が忽然となくなってしまった。書籍を抱いて寝る女、と村の男達に罵られたこともあったが、誰彼構わず男を抱いて寝る女よりも健全なのではと思わざるを得ない。せめて私の話す内容の一欠片でも理解できる頭を持ってから出直して来いと切に思う。なにより私は腕自慢の逞しい男よりも知的で頼り甲斐のある男の方が好みだった。

 私の目に敵う異性も見つけられず、満たされぬ日々を送る。部屋の窓から夜空に浮かぶ満月を見つめながら溜息を零した。

 これが天才として産まれてしまった代償なのかもしれない、きっと世に伝わる歴史上の偉人達も私と同じように誰からも理解されない孤独を味わったのだろうと部屋で独り納得するように頷いた。それから先も良縁には恵まれることなく、自慰に耽るように歴史書を読み漁って、過去の偉人達の偉業に触れることで孤独感を紛らわせる――他の誰もが気付かなくても、(魯粛)だけは貴方の事を分かっていますよ。

 数多の偉人を胸に抱きながら、祈りを捧げるように眠る日々を送る。

 

 更に数年が過ぎて、

 度重なる天災による飢饉の影響で、賊徒が大陸全土に出没するようになった。

 人生というものに退屈をしていた私は、戦乱の世の前触れに恐怖するよりも先に心が踊った。何時も読み込んでいた歴史書に書かれるような時代が訪れたのだ。数多の英雄が鎬を削って争う時代の幕が開ける、こういった時代には必ずと言っても良いほどに天才と呼ばれる人間が輩出される。それは王佐の才と呼ばれた張良であったり、太公が望んだ者と称される呂公、軍事の才においては他に追従を許さない白起も忘れてはならない。そんな時代だからこそ、もしかすると私に匹敵する才覚を持つ者と出会えるかもしれない、という期待を胸に抱かずにはいられなかった。そういった者達と鎬を削り合ってみたい、それこそが孤高の天才である私の願いである。

 そんな私が村を出ることを決意したのは必然だったのだろう。

 あの時、胸に抱いた高揚感を今も忘れていない。

 空虚な退屈さで埋め尽くされた灰色の記憶、何処までも突き抜ける青空に吹き飛ばされた。風は吹いている。何処までも、私の旅路を祝福するように、これから私が進む道を吹き抜ける。それは私が何処までも歩けることを示しているかのようにも感じて、ならば歩こうと思った。何処までも、行けるとこまで歩いてみようと思った。

 旅立ちの時、村の若者達からは後ろ指を差される。上には上が居る、井の中の蛙、書籍狂いの気違い、男ではなく書籍と結婚した女。そんな罵声の数々を耳にして、言いたい奴には言わせておけば良い、と私は鼻で笑い飛ばす。

 ああでも、と最後に村の方を振り返って告げる。

 

「だって包は天才ですから」

 

 貴方達とは違うんですよ、と僻む彼らに同情心からの言葉を送る。

 私が天才である以上、世界が私という存在を欲しているのだ。そんな世界に愛された私が皆から嫉妬を浴びるのは、天才が天才である所以、謂わば宿命と呼ばれるものに違いない。まだ見ぬ誰か、私と同等以上の才覚を持つ相手を求めて私は旅に出る。後ろから怒声が響き渡ったが、もう雑音なんて耳に入らない。鼻歌交じりで小躍りするように歩を進める。そういえば彼らの内で誰一人も名前を覚えることはなかった、と今更ながらに気付いた。

 そのことも三日が過ぎた頃には綺麗さっぱりと忘れてしまった。

 

 

 数ヶ月後、

 私は独りだけの執務室で頭を抱えている。

 机に並べられるは書類の束、床に積み重なる木簡と竹簡の山、部屋の隅に固められるのは不祥事の箱、

 頭に詰め込まれるのは数字に数字、また数字、食事を摂る時も頭の中で常に数字が蠢いている有様で、夜中になれば数字に溺れる夢を見る。その数字も全てが黒色であれば良いのだが、血に染まったような赤色ばかりで手が付けられない。

 仕事を続けるのも億劫になった私は、深い溜息と共に背凭れに体重を乗せた。良い椅子を使っているようで優しく私の体を受け止めてくれる、目を閉じるとそのまま眠ってしまいそうだった。これを作ったのは誰なのか、何処かに銘が彫られてあれば良いのだが――そんなことを考える。天井を見上げる、ぼんやりと染みの数を数える。頭が休息を欲している、心が気落ちしてしまっている。それもそのはずで、机の上にある書類のほとんどが問題だらけで手に取るのも億劫な程だった。

 不自然に足りていない税収、水増しされる請求書、定型文のような報告書、どうせ誰も真面目に確認をしていないと高を括ったような舐め腐った書類ばかりが執務室に届けられるのだ。もういっそ書類を読まずに全部、送り返してやっても問題ない気がしないでもないが、こんな惨状であっても百に一つ程度は真面目な報告書を見つけてしまうのがまた面倒だった。そうであっても確認をしない訳にはいかないので――とりあえず報告書未満の紙屑の裏に名前を書き連ねて、次の書類に目を通す。斜め読みすること十秒未満、どうせ横領や着服をするならもっと上手くやりやがれ、と及第点以下の代物に赤筆で大きくバッテンを付けた。これはもう私のことを舐めていると云うよりも、この書類がまかり通っていた前執務長と各部署、各県令の癒着が酷かったのだろうと考え直す。

 私が赴任するまでの間、よくもまあ勢力としての体裁を保ててきたものである。

 

 此処は荊州南陽郡にある袁術軍の居城、

 こんなどうしようもない勢力になんで仕官をしてしまったのか――包は今、激しく後悔をしています。

 

 私が袁術軍を選んだのは、私にとって手頃な勢力であったためだ。

 袁術軍には目立った軍師がおらず、口煩そうな老臣がいない。功績を持つ武将も少なかった。そうであるにも関わらず、大陸全土で見れば有数の力を持った勢力であったので、身一つで成り上がるにはお手頃な勢力だと思ったのだ。しかし袁術軍に軍師希望で仕官した私が配属したのは執務室であり、待ち受けていたのは書類、書類、また書類、そして書類に次ぐ書類の束、書類の山、その書類のほぼ全てが問題を抱えている有様だった。

 当時、私の上官であった執務長の下には毎日のように不自然に重たい菓子折りが届けられる。箱に添え付けられた手紙と書類、手紙だけを確認して、書類は読まずに承認の判子が押される。こういった業界には多少の不祥事があることを知っているが――流石にそれは拙いのでは、と私が問いかければ、お得意様だからね、と彼はにこやかな笑みを浮かべて答えてみせた。そして口五月蝿い部下を黙らせるように書類の束を手渡される。その場で書類を流し読みしてみるだけで分かる拙い不祥事の数々、そのことを私が指摘しようとすると彼は、判子を押すだけの簡単な仕事だよ、と私の言葉を遮って告げる。不満はあったが、もう彼には私の相手をする意思はないようで菓子折りの中身を確認する。チラリと見える黄金色の菓子を目の端に捉えて、私は不満を飲み込んで自分の席へと戻った。

 こんな有様では軍師云々の話ではない。

 私は自分が使う判子などを懐に納めて、資料を求めて独り書庫へと赴いた。

 

 翌日、纏めた資料を届けに執務室に足を運んだ。

 遅いぞ、何処に行っていた。という彼の言葉を無視して、不祥事の在り処と合わせた資料をドサリと机の上に置いてやる。無言で見返してくる執務長、それを渾身のドヤ顏で迎え討つ。そのまま黙して睨みつけあった後、彼は大きく溜息を零すと資料を見ずに横にどかしてのける。

 そして、ポンと自らが持っていた承認の判子を押した。

 

「魯粛君、仕事の邪魔だよ。どかしたまえ」

 

 なるほど、そう来ますか。

 冷めた心で笑みを浮かべる私は資料を引き取ろうと手を伸ばすも、これは貰っておくよ、と不祥事を纏めた紙だけを抜き取られてしまった。余計なことをしてくれる、と彼は私の目の前で紙を細かく千切って墨に浸す。私は黙したまま目を伏せた、そして小さく深呼吸をしてから改めて笑みを作って頭を下げる。

 後で絶対に後悔させてやる、と心に誓って。

 

 彼を失脚させることは赤子の手を捻るよりも簡単だ。

 何故なら私は幼い時から控えめに云って、人並み外れた記憶力を持っている。

 不祥事を纏めた控えは、私の頭の中に残っている。

 

 

 



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第十七話.

 酒は百薬の長、という諺がある。

 しかし薬も飲み過ぎると毒に転じるのと同じように、何事にも限度というものがある。

 私、七乃(張勲)の机まで届けられた書類が、正にそれを体現していた。

 

「いや、どうするんですか、これ?」

 

 それは告発書であった。それは何十枚と重ねられた紙の束であり、その隣には付箋付きの資料が山のように積み重ねてあった。

 ぱらぱらと中を覗き見ると袁術に仕える役人が行ったとされる不正が延々と書き連ねてあり、資料と照らし合わせた不正の証拠は付箋の番号で示してあるようだ。尤も付箋の番号が三桁を超えている時点で読む気は失せる。それでも、もし仮に、この告発書に書かれている内容が本当であったとするならば、南陽郡に存在する役人の九割弱が不正に手を汚していたという計算になる。

 思わず、溜息が溢れる。どうして、こうも頭が痛くなる案件が私の下に舞い込んでくるのか。

 無論、それだけの人数を今すぐに処罰することは難しい。それは南陽郡における統治機能が麻痺するとか、そういった想定される問題以前の話だ。つまり牢屋の数が足りない。罪人を保管する場所と管理する人手が今の私達には足りていなかった。

 だからといって、放っておくこともまた難しい。

 

「これ、どれだけの国力が削がれているのですかねー?」

 

 簡単に目を通しただけでも半分以上の力が削られているような気がする。

 とりあえず私は頭を抱えながら、先日、文官の新規雇用試験で使った名簿を取り出した。さて、御天道様は人の行いを見ているというが――もし仮に今の私の現状を見ている者が居るとするならば、是非とも私の疑問に答えて欲しい。職員の九割が不正に手を汚す組織と職員の九割が新規雇用の新人の組織。どちらの方が長生きするのか、是非とも考えてみて欲しい。頭が痛くなること間違いなしだ。ちなみに私はこのように結論を出している。

 もう末期じゃないですかやだー! と。

 

 

 ある日、忽然と提出された匿名の告発書。

 それを見せられた時、私、橋蕤が思ったことは、時期が悪い、の五文字であった。

 美羽(袁術)様は今、洛陽との繋がりを作る為に楊宏と共に南陽郡を離れており、張勲は情報の裏取りをすると言って逃げ出すように城塞都市を飛び出していった。そして紀霊は新たに現れたという賊退治へと向かっている。李豊と雷薄は孫堅軍に付いて行ってから戻って来ていない。今、南陽郡に残っているのは美羽様の代理を務める結美(袁姫)様の他には、楊宏が居ないと屋敷から出もしない程立が居るだけだった。

 そして、結美様専用の執務室にて、告発書に目を通しながら結美様は淡々と告げる。

 

「処罰する、それしかないわね」

 

 茶を啜り、落ち着きを払いながら言葉を続ける。

 

「粛清できる時期は今しかない。もし仮に政務が滞ることを恐れて、犯罪者達に温情処置を与えた場合――それは私達にとって慢性的な毒になり得るわ。どれだけ言い聞かせたとしても彼らはきっと私達を舐め腐る。そして内側から食い荒らされた挙句、私達は使い捨てられるのよ。それは決して許されるべきことではない。そもそも、この告発書に書かれている情報が正しいのだとすれば、私達が南楊郡に赴任してから不正の割合が飛躍的に向上している。ここは身を切る一手、手遅れになる前に患部を切り捨てるのよ」

 

 しかし、と私は口を開いた。

 粛清をするのであれば、せめて美羽様の指揮の下に行わなくてはならない。それが道理であるはずだ。それに全員を粛清にする必要もない。汚職の元締めを粛清するだけでも抑止としては効果があるはずだ。無法地帯になっているのは不正を取り締まる者が誰も居なかったからであり、きちんと犯罪を取り締まるようになれば不正は自ずと減る。それに不正を取り締まって統治機能が麻痺すれば意味がない。南陽郡は確実に荒れる、それだけは避けなければならない。粛清をするにしても段階的に粛清をすべきだ。

 それでは駄目よ、結美様は首を横に振る。

 

「やるなら徹底的にしないと意味がないわ」

 

 無表情に微笑む結美様の瞳には強い意志が込められていた。

 

「こいつらは汚職の専門家よ。時間を与えれば、あの手この手を使って抜け道を探し、そして大元は粛清の手が届かない土竜の穴にへと引き篭もるようになる。今しかない、粛清をできるのは今、この時しかないのよ。まだ防衛線を築き上げていない今、粛清の炎を用いて一気呵成に奴らを根絶やしにするしかない」

 

 言いたいことは分かる。だが、それなら尚更、美羽様の帰還を待ち、全員で事に当たるべきだ。

 

「そして私が独断で実行する、御姉様には関わらせない。汚れ仕事は私がすれば良いのよ、御姉様には綺麗で居て貰わないといけないわ。恐怖は私が受け持つ、御姉様は皆から好かれる統治者になるのが似合っている」

 

 そう告げる結美様の姿はやけに綺麗に見えた。

 汝南袁家の血縁者である証の金髪が太陽に照らされて煌めいた。

 だが、それでは貴方だけが泥を被ることになる。

 それは看過できない。

 

「しかし、これだけの人数を処罰するとなれば牢屋の数が足りず……」

「牢屋が足りなければ処刑をすれば良いじゃない」

 

 食い下がろうとするも、ばっさりと切り捨てられた。

 彼女の瞳には真っ黒な炎が宿っていた、邪魔する全てを燃やさんと前だけを見据えている。彼女は決意を固めていた、覚悟を終えていた。だからもう私に止めることはできないのだと諦めた。もし仮に私にできることが残されているとするならば、それはきっと寄り添うことだけだった。

 従者らしく彼女と共に手を血で汚す覚悟を決める。

 

 

 南陽郡で大粛清が行われた。このことは大陸全土にまで衝撃を与える。

 しかし民草の間では、血税で私腹を肥やしていた悪党が処刑されたとして好意的に受け入れられることになった。

 その情報を聞いた時、妾、袁逢は別荘で天井を見上げる。

 

「あれは意外と潔癖症であったからの……」

 

 目を伏せる、久しく忘れていた。

 汝南袁家の秘術。その真相を知った時も彼女は悦楽にのめり込むようなこともせず、自ら動いたのは楊宏を相手にした時だけだ。そういえば初めて楊宏を秘術の場に呼んだ時、あいつだけは楊宏を犯すことをしていなかった。後に美羽の練習中に致したことはあるらしいが衆目監視の中では見たことがない。

 結美も、美羽も、妾の娘と呼ぶには、相応しくないほどに綺麗好きだった。

 

 

 御姉様に近寄ってくる全ての人間が敵だった。

 御姉様が汝南袁家の正当後継者として認められた直後、虫が群がるように塵達が御姉様に擦り寄ってきた。

 血縁の正当性を根拠に御姉様に付いてくれる袁家の者も少なからず存在している。しかし、南陽郡に残る大半の役人は汚職によって私腹を肥やす輩であり、実力よりも賄賂の方が重視される現状の組織体に自分の実力に自信を持つ者、もしくは清廉潔白を自称する者達の大半が袁紹に流れてしまった。結果的に、ではあるが袁紹達は粛清を行う事もなく、汝南袁家に巣食っていた患部を私達に押し付ける形で切り離すことができたのだ。

 ところで、皆は知っているだろうか。

 悪党が御家を乗っ取る際に使われる常套手段、それは皇帝を相手に幾度となく使われてきた錆び付いた方法だ。つまりは婚姻、そして自らの子に権威を継がせることだ。後漢における歴史の半分以上が外戚と宦官の政争によるものとなっているのは、つまり、そういうことだ。まだ見た目の幼い御姉様であれば、簡単に騙せると思ったのだろう。塵屑共は、私は勿論のこと、御姉様にも自らの子を孕ませようとしていた。

 ああ、本当に糞ったれだ。今の袁術軍には、どうしようもない連中だけが残されている。

 だから私は確信を持って天に問いかける。

 

 ――塵屑を殺すのに理由が必要あるのでしょうか、と。

 

 血塗られた処刑台、大量の血が地面を汚していた。

 転がる頸の数は如何程か。とうの昔に十は超えた、二十はある。三十も超えている。四十は近い、五十に届いているかもしれない。死臭がする、血の臭いが噎せ返るほどに充満していた。処刑人の剣はもう十回は変えている。血塗れの処刑台に犯罪者の首が落ち着けられた。助けてくれ、死にたくない。と喚く頭に布袋を被せて、振り被った処刑用の剣で一息に斬首する。そしてまた、ごろりと頸が地面に転がった。

 その一部始終を私、結美(ゆみ)は見つめる。

 粛清は躊躇してはならない、粛清をする時は徹底しなくてはならない。後に禍根を残してはならない、仮に禍根を残したとしても自然淘汰される程度には徹底的に力を削がなくてはならない。下手に余力を残すと死に物狂いの反撃を受ける可能性がある。窮鼠に猫は噛ませない。そして今際の際にある袁術軍には、内乱に耐え切るだけの体力もない。

 だから、ここで殺し切らなくてはならなかった。

 

「南陽郡の塵を一層します。犯罪者は獄を抱かせ、悪党には労役を課し、塵屑は処刑台にて頸を晒しましょう」

 

 名門袁家の癌を身を切るように摘出する、一切合切の全てを悉く殺して殺し尽くせ。

 大粛清だ、一心不乱の大粛清だ。与えられた僅かな期間、兵法の極意である拙速を尊ぶの真髄をお見せしよう。

 彼ら、彼女らが戻った時には、全ては手遅れだった。というのが好ましい。

 

 

 私、七乃。南楊郡の城塞都市に帰還、粛清なう。

 えーっ? いや、これ……えーっ?

 どう収拾付けるつもりなんですかこれもうやだー。

 たすけて、フウえもーん!*1

 

 

 

*1
真名は交換していない。



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第十八話.

 南楊郡、城塞都市。楊宏邸。

 汝南郡にある屋敷は今と比べると幾分か狭くなったが人二人が暮らすには余裕のある広さだ。

 特に椅子が良い、この屋敷にある家具で最も質が良くて高価なものだ。楊宏が読書好きの私の為に私の体格に合わせて誂えた物でもある。彼は冴えない男ではあるが気配りは上手い、こんな世捨て人のような暮らしを望む私であっても少しくらいは使われてやろうって気にさせられる。朧げに残る記憶の男とちょっと被る――いや、あれは違うか。あの者は愛嬌と可愛げがあった。しかし楊宏には愛嬌も可愛げも――まあ、ないこともないが特筆する程ではない。楊宏は凡庸な人物だ。人を見る目はないも同前だった。少しでも人の能力を見抜く目があれば、もっと私を活用しようとしている。少しでも人の本質を見抜く目があれば、もっと前に私を見限っている。どちらもしないということは、やはり彼の目が節穴ということになるのだろう。彼はただのお人好しだった。

 お気に入りの椅子に座りながら読書を嗜むことが今の私の楽しみだ。

 この時間は誰にも邪魔をされたくないし、この時間を尊重してくれる楊宏のことを私は好ましく思っている。だから私も彼に対してだけは義理立てしようと考える。そうでなくては三食おやつに昼寝付きの生活を思う存分に満喫している今の私に外界に触れる理由がない。前世では軍師をやっていた習性とでもおいうべきか、なんというべきか、評定の間に連れ出されると議題に上がる問題点の解決策がポンポンと浮かぶので、もどかしい思いをしてしまうのだ。ただ私が口を挟むと重要な役職に就けられそうなので、私は常に役立たずで深入りしませんと主張し続けなくてはならない。私は今の悠々自適な生活を失いたくないのだ、故に評定の間は私の精神衛生に悪いので屋敷の外には出たくなかった。今だって外界との接触を断つ為に屋敷の戸締まりはしっかりとしている。

 例えばそうだ、屋敷の門を内側から漆喰で塗り固める万全っぷりだ。

 

「程立さん! ちょっと出てきてくださーい! 今、本当に外が不味いことになっていますー!」

 

 解決は夕食の後で、朝飯前なんて言いません。

 

「もう勝手に入りますよ? 門を壊しちゃっても構いませんね? はい、皆さん。やっちゃってくださーい!」

「張勲様、内側から塗り壁で固められているようです!」

「えーっ!? なんでそんなどっかの偏屈爺がするようなことをしているんですかー!?」

 

 どうやら諦める様子はないようだ、この調子だと昼飯時には突破されそうだ。

 あの張勲がここまで強硬手段に出るということは、本当に外では大変なことになっているのだろう。

 やれやれ、とお気に入りの椅子から腰を上げて、うんと体を伸ばした。

 

 

「なるほど、袁姫さんが粛清をー」

 

 やっちゃいましたねー、と新しく煎れた茶を急須から湯飲みに注ぎ入れる。

 客間には張勲の他、お付きの者が二人おり、全員が山の中をひとっ走りしてきたのではないかという程にボロボロな姿をしていた。

 とりあえず、四人分の茶を用意して、その内みっつを三人に差し出した。

 

「門を塗り固めるのはさておき、庭の罠もまあ良いとして……しかし、最後の玄関の罠は絶対に余計でしたよねー!?」

「ほっと一息吐いた瞬間が最も危険だということですよー」

「はい、身をもって知りましたとも!」

 

 張勲の恨みがましい視線を受けながらズズッと茶を啜る。

 どうやら外では面倒なことが起きている御様子。此度の件で特に面倒なのは放っておけば、より面倒な事態に巻き込まれることになるという点だ。仕方ないですね、と呟いてから鈍った頭を働かせる。今回の粛清で不味いのは漢王朝が定める法と照らし合わせた際、打ち首という判決が妥当な者が役人の半数以上を占めていることだ。つまり袁姫の行動は突拍子もない癖に正当性だけはしっかりと握り締めている。ただ袁姫の判決には温情措置が一切ない。その為、状況的に汚職に手を染めるしかなかった者達にも死刑判決がでてしまっているようだ。せめて降格か、数ヶ月の減俸や資産の没収、酷くても数年の労役といった処置で済ませるべき人間が少なからずいるはずだ。そういった人間を助け出し、人的被害を抑えることこそが貴方達がすべきことではないだろうか。

 袁姫の行動が私怨ではなく信念に基づき、理性を失わず正当性を訴えている以上、温情を掛けるに足る根拠を提示することができれば見逃されるはずだ。

 

「そういう訳で頑張ってくださいねー」

 

 知恵袋は知恵を授けるだけなので。そう突っ撥ねると、貴方も後で困ることになりますよ? と言い返された。

 仕方ないですねー、と先程よりも若干、うんざりとした声色で呟き、パンパンと手を叩いた。すると天井の裏からドタバタという音が聞こえた後、待つこと数分、「雷緒見参!」と頭上からピッチリとした忍び装束を着た小娘が飛び降りてきた。雷緒は周囲を見渡して、状況を確認すると、張勲に向け、両手を合わせてから深々とお辞儀する。

 

「ドーモ、チョウクン=サン! スパークニンジャです!」

 

 稀に雷緒は可笑しくなる。

 こういうのを天の国では、電波を受信する。と言うそうな。

 

「私、諜報畑の出身ですけど忍者ではないですねー」

 

 張勲の言葉に雷緒はしょんぼりと眉を下げた。(´・ω・`)こんな感じに。

 

「雷緒さん、例の名簿を出してください」

「え、なんかこうニンジャ的なことをするんじゃないの?」

「もっと忍んでくれるのであれば考えますねー」

 

 ペチンと自分の額と手で叩きながら雷緒はアイヤーと叫んだ。

 

「お代官様、どうかお納めください」

 

 そして次の瞬間には懐から何処に隠していたのか汝南銘菓の菓子箱を取り出して、蓋を開ける。

 中には山吹色の御菓子、ではなく、書類の束が収められていた。蓋の裏には「お主も悪よのお(暗黒微笑)」という台詞に“ここ読んでください><”という小文字が添えられている。

 私は暫く考え込んだ後、資料を手に取り、無言でパラパラと中を覗き見る。

 

「なにか言ってくださいよー! りあくしょん、ぷりぃずみぃ!! グレますよ!? 拗ねますよ!? 夜な夜な忍び込んで添い寝しながら舐め回すように寝顔を堪能した後、起きる前に天井裏から部屋を脱出して、何食わぬ顔で入口から“おはようございます、御嬢様”って晴れやかな笑顔で言いますよ!?」

「筆を持って来てください」

「アッハイ」

 

 シュバッと天井に飛び込んで、どんがらがっしゃーんと音がなった後にバッテンな張り物を額に付けた雷緒が涙目になりながら筆と硯を手渡してきた。

 

「今回は仕込みじゃないんですねー」

「なにもない場所で転んだりとかしていませんからね!?」

「何を言ってるのでしょうか?」

 

 筆先を硯の墨に付けようとして、硯にはまだ墨がないことに気付いた。

 

「雷緒さん、墨をお願いします」

「ラジャっす」

 

 軽いノリで敬礼した後、人差し指の先を齧る仕草を見せた後、その指先を硯の上に添える。

 すると指先から血ではなく、黒い液体がダラーッと垂らされた。

 

「……手品は忍術ではないと思うのですがー?」

「四次元殺法を使えば、なにもない空間から物を取り出すことなど容易いものですねえ!」

「それは体術の一種だと認識していますが――まあ、無粋なつっこみは控えるとしますね」

 

 便利ではありますし、と四次元殺法ではなく、雷緒自身に向けて告げる。

 古代ニンジャカラテに不可能はありませんよ!(白帯)と粋がる彼女はさておき、墨に浸した筆先で役人名簿に丸を付ける。軍師としての性分、情報の重要性は理解している。いずれは役人を整理する必要は出てくると思っていたので準備だけは進めていた。例えば、上司の命令により、止むに終えない事情で不正を働いていた役人などだ。

 まあ、これだけ性急に事が進むとは思っていなかったので目星を付けていただけだが……それでも見栄を張ることは許されるはずだ。

 

「こんなこともあろうかと」

 

 情報を集めていたのですよ、と軍師が言ってみたい台詞第二位の言葉を告げる。

 ちなみに第一位は、今です、だ。

 

 

 張勲に情報を手渡した後、ふうっと溜息を零した。

 雷緒は張勲に付けたので私の手足となって動いてくれる者もいなくなり、本格的にやることがなくなってしまった。でもまあ後は彼女達が良いようにやってくれるはずだ。苦難に道を敷くのは今を生きる者達の役目であり、遠い未来を知る周回者は本来、出る幕ではないのだ。未来を知っている為に効率的な手段を知っているが、正しい手順を踏まない発展と進化は歪さを生むのではないだろうか。例えばそうだ、かつて曹操から天の知識に対する見識を聞いたことがある。あれは劇薬だと、たった一滴垂らすだけでも身を蝕む毒となる。天の世界では王が存在していない。大多数の民衆が政治の根幹を担っており、文化の発展と方向性は民衆が決めるのだと云う。無論、今の御時世では難しい。学校という文化が根付いているからこそできる国の形であり、民衆に知識人の少ないこの世界で同じことをすれば、忽ちに国が傾くことになる。経緯を伴わない発展は、必ず何処かで破綻する。そして私達が生きて発展させてきた国の文化が壊れることになる。今世では知らないが、前世の曹操は愛国者だった。誰よりも国を愛していた。劉備は民を愛したが、曹操は国を愛したのだ。だから曹操は、あの天の御使いを重用せず、地道に経験を積ませる。そして天の御使いを大陸の一員として、根付かせようとしていた。文化とは根幹だ、文化とは歴史だ。文化とは信仰だ。文化とは民族だ。文化とは国家よりも更に上位にある概念だ。殷も、周も、奏も、そして漢も、この大地に住む人間が作り上げたものだ。過去から未来へと文化は脈々と受け継がれる、それは黄河よりも大いなる流れであり、大河は多民族をも飲み込んで更に大きく発展し続ける。つまるところ文化さえ残れば、私達が紡いできた意志は失われないのだ。例え、漢王朝が滅びることになろうとも、漢王朝の意志は文化という形で生き続ける。

 未来を知る私に今の時代を生きる者達のような必死さがない。それはきっとなにか事を成すには致命的な欠陥だった。歴史とは人々の大いなる流れによって築かれる、そして流れを作るのは熱量だ。誰かの膨大な熱量が他者に熱を伝播させて、未来を切り開くのだ。そういう意味でいえば、自分なりにできることをしようとしていたあの男はの方が今の私よりも何倍も素晴らしかったのだろう。

 それはそれとして、前回の私はあれだけ働いたのだから今回の私はまったりしても許されるとも思うのだ。

 と私は自らに言い訳しながら惰眠を貪る。だってほら、果報は寝て待てと言いますし。

 

 

 



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間幕.包の三日天下・弐

 ほんの数週間前までは活気溢れ――てはいなかったが、人は詰まっていた執務室。

 嫌がらせのように仕事を私に押し付けていた上司は何時の間にか居なくなり、これで少しは楽ができますね! と思ったのも束の間、各地から送られてくる書類の全てが私の机に送り込まれてくるようになった。それもそのはずで今、この執務室には私以外に誰も居ないのだ。

 つまり今は私が部屋の主なのだ。執務室の長、我が世の春が来た。未だ、ヒラ役人であるにも関わらず!

 

 ――どうしてこうなった!!(血涙)

 

 本来は十人以上で処理する量の書類を私ひとりで回している。

 確かに私は上司が居なくなって欲しいとは思っていましたが、誰もいなくなるのは想定の範囲外。望んでいない形での下克上に裸の王様の気分を味わう羽目となった。これが独裁の末に辿り着く風景、包は謙虚に生きようと思いました。そんなことを考えながらも手を動かす、文章を斜め読みで掌握する。何時もの倍以上の速度で処理する書類の山は、更に倍の速度を以て積み重なる。もう頭がおかしくなっちゃいますよ、とがしがし頭を掻き毟りながら書類の処理を続ける。

 そうすること一刻、二度、三度と放り込まれる書類の山を睨みつけながら「もう我慢なりませんね!」と立ち上がった。

 

「こんなの何時まで経っても終わりませんよ! (魯粛)が死んじゃいます!」

 

 せめて人員を増やして貰わないことにはどうしようもない、と私は人事担当に話を付けに行こうと扉に手を触れた。

 

「あっ……」

「うひゃあっ!」

「ん、誰ですか?」

 

 扉の向こう側で少女もとい幼女が二人、私の顔を見ながら立ち尽くす。

 この辺りでは、あまり見かけない衣服を着ている。白を基調とした衣服に焦げ茶色の上着を羽織った姿、そして奇抜な帽子を被っていた。それはまるで都の学問所で使われているという制服に似た形状をしているようにも思えるが、実物を見たことがなかったので判別できなかった。兎に角、質の良い衣服を着ているということはそれなりの家を出ているか、後ろ盾があるということだ。

 誰かの御客様かも知れない、もしくは御客様の付き添いか。どちらにしても丁寧に対応して損はない。

 

「こほん……御二人方、如何致しましたか?」

 

 仕事の疲労を営業的な笑顔を覆い隠しながら二人に問いかけると、片や唖然とした、片や驚いた顔をした幼女二人組が姿勢を正した。

 

「私達、程立様からの紹介で来たのですが……」

 

 程立? 聞いたことがない名前だ。

 おずおずと二人組の幼女が差し出してきた二つの封筒を拝借すると、片方には水鏡女学院に宛てた手紙が入っており、そこには確かに程立と呼ばれる人物が南陽郡の袁術に人材を派遣して欲しい旨が書き記されていた。そして、もう一つには程立への返信と袁術に宛てた紹介状が入っている。水鏡女学院の存在は知っている。将来有望な若者を多く抱えた男子禁制の女学院、その内の二人を我が勢力に貸し与えてくれたという話だ。

 しっかし、こんなちんちくりんな二人が役に立つんですかねえ? と訝しげに見つめた。

 

「ええ、分かりました。とりあえず私が預かっておきますね」

 

 とりあえず封筒は預かって「ところで」と執務机の上に置いていた二枚の報告書を二人に手渡す。

 

「ちょっと、この二枚の報告書を読んでみて貰ってもよろしいでしょうか?」

 

 その二枚の報告書を受け取った二人は言われるがままに報告書を読み、まるで正反対の反応を見せた。

 

「はえー、やっぱり南陽郡って人が多いだけあって税収も潤沢なんですね」

「ふえー、この程度しか税収を回収できてないの?」

「はえ?」

「ふえ?」

 

 二人は互いの顔を見合わせると申し合わせたかのように互いの報告書を覗き込んだ。

 そして確認すべきことを確認した二人が次に取ることは想像できる。

 

「えっと……あの、貴方は……!?」

「魯粛ですよ」

「魯粛さん、この集落における経費の内訳を見せてください!」

「はいはーい、こちらになりますよー」

 

 二人に報告書を見せた瞬間、「ひえっ」「ふえっ」と二人は顔を青褪めさせた。

 

「ろ、魯粛さん! この報告書、この社交費の項目! 桁が三つほどおかしくないですか!?」

「ええ、そうですよね。舐めてますよね?」

「姉様! ここ、ここ! 環境整備で、どうして、ここまで高価な壺を買ってるの!?」

「高価な壺を買ったのか、それとも安物を高値で買ったのか、気になるところではありますね」

「ひええ、茶葉に玉露。食事に特上鰻重。一役人が毎日食べるものじゃないですー!」

 

 包なんて近頃、仕事しながら食べられるおにぎりしか口にしていませんよ。

 それは口に出さないとして、ここまで頭が回るのであれば、ある程度の仕事を任せられそうだ。

 満足げに頷き、二人を執務室に招き入れた後、後ろ手に扉の鍵を閉める。

 

「……えっと、どうして扉の鍵を掛けられたのでしょうか?」

「此処にあるのは機密の資料が多くてですね。こうして普段から鍵を掛けているのですよ」

「ふえー、そうなんですねー。入る時は鍵が掛かってなかったと記憶していますが?」

「あらら、それは不注意ですね。気を付けないと……」

「……と、ところで、他の役人の姿が見えないようですが?」

 

 二人が私を見つめてくる。確信と恐怖を込めた瞳、私は一度、天井を見上げた後、そのまま二人を見下ろしながら告げる。

 

「勘の良いガキは嫌いですね」

 

 その後、震えあがる二人にはたっぷりと研修を受けて貰うことになった。

 二人が悲鳴をあげる程にたっぷりと、だ。

 かあっと烏がなく頃に、

 何時もの二倍は進んだ執務に私は満足げに頷き、ぐだっと長椅子で倒れる二人に問い掛ける。

 

「ところで二人の御名前はなんと言うのでしょうか?」

「今更ーっ!!」

「えーと、私が馬良、字は季常。そして妹が――」

「――名は馬謖で字が幼常! 馬氏の五常が二人とは私と姉様のことよ!」

 

 そして、と名乗った少女は身を起こしながら私を人差し指の先を向けてきた。

 

「私は袁術軍の筆頭軍師になる女よ!」

「ほう? それは面白いことを聞きましたね」

 

 私は執務室の棚から将棋を取り出すと彼女の前に並べる。

 

「将棋はできますか?」

「あ、私とやるつもり? 得意も得意、大得意! 予言してあげる、この馬謖に挑んだことを後悔するとね!」

「それでは一局、お手合わせを願いましょう」

「さあ、ぎゃふんという準備はできているかしら!」

 

 憤る馬謖に、私は涼しい笑みを浮かべて、五枚の歩を握る。

 数十分後、「ぎゃふん!!」と叫ぶ馬謖の姿があったとか、なかったとか? ともあれ鴨が葱を背負って来るように従順な手下が増えて嬉しい限りだ。

 新しい人材が配属されるまでは大切に預かっておきましょう。

 

 

 




出す予定があった子は粗方出ましたので、ここからの補充は恐らくありません。


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間幕.上洛

 旅は嫌いじゃない、むしろ好きだ。

 贅の限りを尽くすような豪遊こそが妾の望む生き方であると自負している。

 しかし、それはそれとして、旅は良いものだ。

 

 三度の人生を謳歌して、三度も人生を旅して、その良さを妾は知っている。

 権威とは衣を着るようなものだ。血筋とは骨格のようなものだ。しかし血と肉ではない。

 肉は教養であり、血は魂魄だ。

 だから自分が持つ感性だけで旅をするのは――その九割方が苦難ではあるが、それでも心の根本では楽しんでいる。

 新鮮とか、そういう話ではない。

 ただ楽しいのだ、ありのままに世界を見るのは気分が良くて、気持ちが良かった。

 

 常日頃、というのは嫌だけど偶になら構わない。

 馬車に揺られるのは慣れている、歩くことにも慣れている。

 だから数週間程度の旅路が辛いなどと感じなかった。

 

 地面は壮大で、青空は広大だ。車輪が回る度にギシギシと荷台が軋む音がする。

 馬を操るのは閻象。その後ろの荷台で四ツ葉(楊宏)が腰を下ろして、その膝上に妾が座る。ガタゴトと揺れる荷台が少し煩わしいが、それでも久し振りの特等席は心地良い。背中に体重を傾けて、我儘に身を委ねる。なにかが欲しいとか、どうして欲しいとか、そういうことに我儘は使わない。昔の妾ならいざ知らず、今の妾は少なからず我慢を知っている。ままならない事があると経験している。それでも我儘はやめられない。特に理由がなくとも我儘を聞いてもらうことは気分が良かった。

 うつらうつらと眠気に蝕まれる。道中は危険だ、気を張らなくては、と分かっていても眠気に負ける。心地良い温もりに抱かれながら、意識は夢の中に落とされる。

 

 思えば、三度の人生で妾が家族と関わりと持ったことはほとんどない。

 気付いた時に御母様は死んでおり、妹は居なくなっていた。だから家族の温もりというものをよく知らなかった。神輿を担がれるように妾は袁家の当主を継ぐことになる。それは麗羽の下では甘い汁を吸えないからという理由で妾に取り入ろうした連中の思惑だったと今なら分かる。妾が幸運だったのは七乃(張勲)が居てくれたことだ。彼女にだけは甘える事ができた、彼女だけが妾に温もりを与えてくれた。計算高い彼女のことだ。妾との接触には、なにかしらの思惑があったのかも知れないが、それは構わない。

 大事なのは、三度の人生で最後まで妾を見捨てずに付き添ってくれたという事実だけだ。

 その事実だけでも妾は幸せだった、と今では考える。

 

 それはそれとして贅沢はする、豪遊もする。

 妾は我儘だ、幸せは一匙の蜂蜜から始まるのだ。甘えられる温もりも、旅で感じる自由も、自分勝手な贅沢も、全てが全て、妾は大好きだ。どれが最も大切か、なんて関係ない。どれも大好きだから、妾は全てを手に入れたいと考える。そして全てを失いたくないとも考える。人には守れる者には限界がある。なんて偉ぶった連中はいるけども妾は全てを守りたい。だから守る。それだけの話だ。妾は好きだ、七乃が。妾は好きだ、四ツ葉が。結美(袁姫)が。だから一緒に居たいし、甘えたい。どれか、なんて選べない。選ぶ必要すらもない。

 なにか捨てるという選択は、最後の最後まで取っておけば良い。

 どうしようもなくなった時に考えれば良いのだ。

 

 旅は好きだ。この大陸の広大さを肌身に感じることは、それだけで清々しい。

 権威は衣のようなものだ。だから偶に脱ぎ捨てたくなる時がある、衝動的に。貧乏は嫌いだから直ぐに着直すけど、時には身持ちを軽くして歩き回りたくなる時もある。だから、うん。我儘は好きだ、媚びを売られるのは好きじゃない。もう仕方ないな、って甘えさせてくれるのが好きだった。頭を撫でられるのは大好きで、髪を梳かされるのも大好きで、入浴時に体を洗われるのも大好きで、添い寝されるのは大好きだ。

 世界は妾が中心で回れば良い、全てが妾を愛すれば良い。そうすれば妾は幸せで、きっと皆も幸せに違いない。なぜなら妾を甘やかす連中は皆、決まって幸せな人生を歩んでいる者だと相場で決まっているからだ。

 

 それに妾は可愛い、そして可愛いは正義だ!

 可愛いから甘やかしたくなる。そして可愛い娘に甘えられるのは、この上ない幸福なのじゃ!

 そんなの当たり前なんじゃよな、ガハハ!

 

 

 司隷洛陽、

 漢王朝が都とする都市であり、文化の発信地。大陸全土から物資と人材が集まる場所でもある。

 その広大さは他郡から来た者にとっては、ただ圧倒されるばかり――になるはずだが、その街並みに少々違和感を感じる。街並み、というよりも活気というべきか。馬車に揺られながら華やかな表通りをなんとなしに眺める。そして違和感の正体に気付いた。それを知り、なんとなしに面倒臭くなった妾は、目を背けるように四ツ葉(楊宏)の体に背中を擦り付ける。温もりの微睡みに身を委ねる。

 此処に住む者達には笑顔がない。

 だからといって、どうにかしたいとも思わない。理由は単純、気が乗らない。たったそれだけの理由で目を背ける。いや、逆だ。妾が動くに足る理由がない。そういうのは何処ぞのお人好しにでも任せれば良いのだ。

 首を傾げる四ツ葉を見上げて、呑気なものじゃ。と目を伏せる。

 

 さて、

 目的の人脈作りは明日以降に回すとして、先ずは昼飯を摂ることにした。

 その際に閻象から高級料理店での食事を勧められたが、旅通の妾は知っている。こういうのは表にある店並ではなくて、表通りから少し外れた場所に佇む小汚い外見。しかし店内はきちんと清掃が行き届いており、二、三組の客が入っている店が狙い目であることを妾は知っている。そういう店は平均よりも安くて、それなりに美味しいのじゃ!

 そこをケチるほどお金には困っていませんけどね。と閻象は言いながら三人一緒に裏通りの店に足を踏み入れた。

 パリッと羽根の付いた餃子を箸で突きながら今後の方針について、閻象が話し始める。

 

「先ずは洛陽の現状から説明を致しましょう」

 

 現在、漢王朝の皇帝は霊帝である。

 しかし彼女は今、傀儡となっており、実際に政治を差配しているのは何進と張譲の二人だ。

 何進は現皇帝である霊帝の外戚で、今は軍事の最高責任者として大将軍の地位に就いている。張譲は霊帝の身の回りの世話をする宦官の主格であり、霊帝にあることないこと吹き込むことで自分の思い通りに政治を行わせているとのことだ。そして、軍事と宦官の主格が手を組むことで漢王朝の地盤を盤石のものとしていた。

 本来であれば、この二人と手を組むのが妥当だ。

 だが何進は袁紹と懇意としており、袁紹を汝南袁家の正当な後継者として扱う素振りを見せている。この恐れ知らずの行動は、袁逢が朝廷で猛威を奮っていた時期を何進が知らぬが故の行動と閻象は推測しているようだ。であれば宦官の張譲と手を組むべきかも知れないが、宦官は宦官で問題がある。宦官で真っ当な存在は少なく、その九割以上が汚職に手を染めていた。故に協力を求めようものならば、多額の賄賂を要求されるに違いない。そして袁逢は卓越した性技を以て、宦官達を手懐けた過去がある。妾が汝南袁家の後継者であることから、そういう行為を求められる可能性も少なくないとの話だ。

 ならば誰と手を組むべきか。我に一計有り、と閻象は得意げに告げる。

 

「董卓です」

 

 董卓? と問い返すと、涼州の士です。と閻象は説明を続ける。

 

 姓は董、名は卓。字は仲穎。

 涼州隴西郡の生まれ、実家は涼州一の農業を有する豪農である。

 匈奴族が涼州に攻め込んだ時には「我こそは!」と将軍として従軍し、異民族相手に連戦連勝の戦果を叩き上げる。その後は当時、まだ不安定だった并州に移動しては平定し、再び異民族の脅威に脅かされた時にも連戦連勝の戦果を挙げた。その活躍は正に常勝、董卓が来た、そして董卓が見た。故に董卓は勝った。と呼ばれる程であり、并州と涼州の英傑として知られている。

 今は何進の招集により、中郎将として官軍を率いる立場だ。

 

 そんな将軍と簡単に会えるかの? という疑問に対しては、会える。の一言。

 名門、汝南袁家の名は伊達ではない。四世三公という実績は、それだけで朝廷に強い影響力を持っているのだとか。ついでにいえば、肉屋上がりの女よりも豪農の娘である董卓の方が道理を弁えているという思惑もある。それに時の人である董卓であれば、その人脈にも期待できるという話だ。

 

 閻象の提案に妾は、適当に進めておくのじゃ、と丸投げした。

 彼女の話を聞く限りでは問題はなさそうであったし、そういう政治のあれこれに関しては妾の考えるべきことではない。

 わからないことには首を突っ込まないのが一番である。

 

「そういえばまた徐晃将軍が賊を蹴散らしたってよ」

「流石の無敵将軍だな。董卓の評判も良さそうだし、これから先、少しでも世が明るくなればなあ」

 

 ふと、そんな声が耳に入った。

 閻象に問いかけると、徐晃というのは洛陽を守る最後の砦として知られる人物のようだ。また正確には将軍ではなくて騎都尉、数千規模の軍勢で洛陽周辺に棲息する賊徒を退治して回っている。洛陽では皇甫嵩、慮植、朱儁、董卓と並び立つ英傑達よりも強い人気を持つ人物でもあるようだ。

 少し気になるの、と何気なく呟いた言葉に、会ってみますか? と後ろから声を掛けられる。

 

「ずっと付けてきていたのはお前か?」

 

 閻象が庇うように席を立った。はい、と少女はにこやかな笑みを浮かべてみせる。

 

「自己紹介を致しましょう。私の名は李儒、字は文優。先程、仰られていた徐騎都尉の副官を務める者です」

 

 背中を覆い隠すほどに伸ばした黒髪を揺らしながら彼女は手を差し伸べる。

 

「汝南袁家の現当主、袁術様でございますね? 私であれば橋渡しになれるかも知れません」

 

 その姿を一目見て、直感した。

 此奴からは七乃と同じ臭いがする、と。




語り部が美羽様中心になってきた。
時系列的には現在魏√開始時点か、それより少し前辺り。


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