もう一つの冬樹イヴの物語 (アッシャ)
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学園生時代編
「没収された妹の雑誌を返して欲しい、ですって?」
氷川が冬樹イヴを睨みつけた。
「お願いします。私からよく言って聞かせますから。あの子は右も左もわからない幼な子。悪気があっての事ではありません」
冬樹イヴは頭を下げてお願いした。
「冬樹のお姉さん。入学時のオリエンテーションで説明があったと思うけど」氷川が冷たく言い放った。「この学校の風紀は風紀委員が守ります。妹のした事は姉に免じて見逃すなどという、情実を認めるわけにはいきません」
外の世界では、優秀なお姉さんに任せよう、などといった甘えも通用したかもしれませんが、そうした事は忘れてくださいと、氷川は冷たく突き放した。優秀な新入生と聞いたが、最初が肝心。グリモア に入った以上、外では通用したであろう甘えはもはや許されない。
しかし、後に引けないのはイヴも同じだった。ある日突然、魔法使いとやらに覚醒するや、何がなんだかよくわからないうちに親や先生、クラスメート達と引き離され、遠く離れたよくわからない学校へ半ば強制的に連行された上に、そこの教官からは、「人類のために魔物と戦え。まぁ一年後には生きていないかもしれないが、仲間を増やしてなんとかやってくれよ」などと基本的人権すらも無視した話をされ、どうしていいのかわからない、というのが正直なところ。はっきりしているのは、自分の権利や人権と言ったものが完全に無視され、しかもどうやらその扱いが正しいらしい、という事だけだ。ではどうやって我が身を守ったら良いのか…?幸いというか不幸にもというか、イヴは妹のノエルと同時に魔法使いに覚醒したために、この学校には妹のノエルもいる。彼女が不安げに「お姉ちゃん…」などとイヴを頼って来た日には、イヴとしては迷っている暇さえない。学校に雑誌を持ち込むのはダメなのはノエルも重々承知ではあるが、半ば無理矢理連れて来られた学校で案内役の教官から「一年後には死んでるかもしれないが、まぁせいぜい頑張ってね」的なことを言われて楽しくお勉強する気になりますか?心の支えとして、あるいは半ばヤケになって、学校にお気に入りの雑誌を持ち込んで何が悪いのでしょう?しかし、目の前の氷川という風紀委員、どうやら自分と同じような身の上ながら、兎ノ助などのここの教官側に立った考え方のようだ。すっかり洗脳されてしまったのか…哀れな。しかし今は氷川よりも妹のノエルの事だ。青ざめた顔で、「お姉ちゃん、雑誌、風紀委員の人に取られちゃった…」とぼうぜんとしながら寮に戻って来たノエルをなんとかしなければならない。イヴの頭の中はそれで一杯になっている。
「なんです?おや、優秀な成績で入ってきた新入生さんじゃねーですか」
騒ぎを聞きつけて、風紀委員室の奥から水無月風紀委員長がひょっこりと顔を出した。
「氷川が説明したとーり、この学校の風紀は風紀委員にすべて任されています。姉に免じてなどという、意味不明な情実が入る余地はねーです。だいたい、アンタさんは妹さんと大ゲンカしたというじゃねーですか。この際出来損ないの妹は放っておいた方がアンタさんの今後の為にもなるんじゃねーですか」
出来損ないの妹と言った時、冬樹イヴの目に凄まじい怒りの炎が燃えるのを水無月は見逃さなかった。
「そーゆー事ですか。なるほど。どうです?取り引きしませんか? 姉に免じてというのはダメですが、アンタさんが風紀委員に入って、風紀委員としてノエルを指導するから雑誌を返してくれというなら、応じますよ?」
「あなた方がどうして、ここの学校側に立って考えて行動しているかはわからない」冬樹は慎重に言葉を選んだ「私の最大の関心事は妹と二人で生き延びる事。その為なら何をしてもいいと思っている。何しろ、一年後には死んでるかもなどと言われるなど、魔法使いとやらになった瞬間から、基本的人権が無くなってしまったようなのでね。取り敢えずは、誘われている事もあるし、生徒会に入ってゆくゆくは会長になって、この学校の実権を握り、私と妹を含む私達全員の生きる権利を主張する。場合によっては学校の生徒全員で、今のこのバカな決まりを作った政府に対して反乱を起こすわ」
「やめときなせー。今の虎千代会長も似たような考えの持ち主で、ゆくゆくは魔法使いの国を作るなどと言っていて、歴代の会長も似たような考えの持ち主が多かったですが、卒業した会長の中で存命してるのは始祖十家の我妻梅だけで、後はみんな亡くなってやがります。世の中を甘く見ねー事です。基本的人権が無くなった?結構、その仕組みの中で生き抜いてやろーじゃねーですか。今のウチらの扱いを作った社会に対して反旗を翻した卒業生達がどんな運命をたどらされやがったか、アンタさんもじっくり歴代のこの学校の会長の卒業後の運命を中心に、納得の行くまで調べて考えてくだせー」
「私にも信義はあります。ただしノエルと私が生き延びる事が最優先です。私達が生きのびる上で障害になると感じたら、ためらいなく風紀委員を抜けます。それでよろしければ」
「嫌いじゃねーですよ、そういうの。風紀委員でいる間は最低限の仕事はしていただきますが、後は自由です。雑誌はお持ちくだせー」
氷川は不満そうだったが、それで決着がついた。
「お姉ちゃん、風紀委員になったの?」
寮のノエルの部屋で、雑誌が戻ってきてご満悦のノエルだった。
「生き延びるためにも情報が必要だからよ。もっとも、風紀委員の中にも学校側にすっかり洗脳された人もいたけど、少なくとも委員長はまだ考える頭を持っているようだったわ。1年後には死んでるかもしれないなんて、不気味なガイダンスをする学校だから、手っ取り早くここの仕組みを覚えてうまく立ち回る必要があると見たわ。ああ、そうそう、ノエル、寮ではともかく学校では誰が信用できるかわからないから、よそよそしい態度を取るから、あなたも学校ではなるべく私のそばに来ないで」
「えー。どうして?ノエル、学校でも甘えたい」
「妹に危害を加えられたくなかったら、死の危険の高いクエストへ行けと言われたら、断れないわ。学校側には、あなたが弱点だと知られたら困るの」
「…姉妹って時点で、バレバレだと思うんだけど」
「そうでもないわ。入学時の大ゲンカを見て、私達が仲が悪いと見る向きも少なくないみたい。せっかくだから、その誤解を利用させてもらうわ」
「ケンカするほど仲が良いっていうのにね。魔法使いの学校って意外と◯かな人が多いんだね」
「そんな事を言うものじゃないわ。ともかく、私達の目標は、生きてこの学校を出る事。そして卒業後も、生き延びる確率が高いように今のうちから情報収集しておくことよ。ノエル、学校で困った事があったら、寮に戻ってからお姉ちゃんに相談しなさい。学校では話しかけない事。いいわね」
「うん。わかったよ」
「走れ、犬コロめが」真偽のほどは定かではないが、イヴが以前読んだ本の中には、太平洋戦争時の日本兵やナチスドイツの軍人が、侵略した国の住民を虐殺する時に、10秒だけ時間をやるから、せいぜい遠くへ逃げろよと言って、必死で走り去る住民を笑いながら後ろから撃ったという記述を見た。当時はイヴは、世の中、酷い事をする人達がいたものだという感想を持ったものですが、まさか今、自分がその立場に立たされるとは…しかも、同じく逃げる側の住民であるはずの氷川などは、風紀を守るなどと称して、同じ住民を弾圧しようとしている。
「なんとかしてこの地獄から抜け出す術を探さないと…」
水無月風紀委員長の捨て台詞を逆手に取ったわけではないが、イヴは今図書館で、歴代の生徒会長の人となりと卒業後を調べていた。そんな漠然とした情報(学校誌みたいなもの?)がこの学校の図書館にあるのかと、半信半疑で行ってみたのだが、応対してくれた霧塚という図書委員の案内で、簡単にお目当ての情報が載っている本を見つける事ができた。
「生徒会長を目指してらっしゃるのですか?」
霧塚が聞いてきた。本来であれば、親切にイヴが求めている情報を聞いて的確な本を案内してくれた霧塚に対して、邪険にするのはスジが通らないが、イヴとしては現在、ノエル以外の誰を信用していいかわからない状態である。うかつな事を言って学校当局に弱味を握られてはたまったものではない。
「案内ありがとう。個人的に興味があっただけよ」
イヴはそっけなく言って会話を打ち切った。
「思っていたより深刻な事態ね…」
寮の自室で、ノエルと夕食をとりながら、イヴはつぶやいた。
「お姉ちゃん、どうだったの?」
「水無月風紀委員長がおっしゃっていた通り、虎千代会長をはじめ歴代の生徒会長は、魔法使いの人権を守るために魔法使いだけの国を作る、という考えの方が多かったようだけど、ほぼ例外なく卒業後は自殺的な馬鹿げた任務を命じられて命を落としているわ。ある元会長は援護もなくほぼ単身で魔物の大群への突撃を命じられ、別の元会長は、魔物が占領している北海道へ、補給もろくにないまま偵察と称して出撃を命じられ、帰らぬ人となっている。しかも学校内での発言や考え方が、政府当局ー特に魔法使いの人権や生存権を認めないという考え方に対してーにとって都合が悪い、と見られた人物ほど、卒業後時間をおかずに馬鹿げた自殺的な任務を命じられている。」
とてもじゃないけど、生徒会長になって内側から学校を変えようという当初のプランはお話にならないわ。なんとか別の手立てを考えないと。
「国連の人権団体に興味があるわ。あそこなら、戦争での女、子供などの弱者の人権保護を訴えている所だから」
「お姉ちゃん、魔法使いって弱者なの?」
「それを言われると弱いわね。そこは正直言って、賭けね。でも私達は、彼らが言う所の、女、子供には間違いないわ。そこに期待するのみよ。別の見込みができたらまた教えるわ。それから、言うまでもない事だけど…」
「うん、この作戦は二人だけの秘密だよ」
「うん、ごめんね。散歩部の仲月さんとかは悪い人じゃないとは思うんだけど、どこに目があるかわからないから」
数日後、散歩部にて
「秋穂〜ペロペロ〜ペロペロ〜」
さすがにノエルとしても、そこまで姉に溺愛されたいとは思わないまでも、毎日のように学校内ではイヴからそっけない態度を取られていると、つい姉から可愛がられている秋穂に対して、なんとも言えない羨ましげな視線を送る事が多くなった。
「ノエルさんも、早くお姉さんと仲直りできるといいですね〜」
さらが話しかけてきた。
「うん」
ノエルは気のない返事をした。
もっとも、秋穂の姉の春乃が以前、「秋穂のためならどんなクエストもこなすからね」と言ってたのをノエルは聞いていたので、イヴの心配はあながち杞憂でもないのだろうと考え、我慢する他あるまいと自らを納得させていた。寮室の姉の前では「スパイ映画みたいだね♪」などと気丈に振る舞ってはいたが、内心は寂しかった。
「ヘイ、フユキ。国連軍に興味あるんだって?」
ある日、国連軍からこの学校への編入組のエレンとメアリーが、ズカズカと図書館に入って来てイヴに話しかけた。
「え?、な、なんの話です?」
イヴはキョトンとして二人を見つめた。
「頭デッカチの背広組になるつもりなら、いい迷惑だぜ」
「どんな将校を目指しているのかは知らんが、下で働いている兵士を、あたら無駄死にさせるような作戦は立てるなよ」
言いたい事だけ言うと、二人は去っていった。後には話が見えずぼうぜんと立ち尽くすイヴが残された。
「冬樹さん、国連軍を目指してるんですか?」
霧塚図書委員が話しかけて来た。
「いいえ、ていうかなんでそんな話になっているのか、こっちが知りたいわ」
「アンタさんが連日、熱心に図書館で勉強しているのを見て、この学園の教官の一部が将来国連軍入りを目指しているんじゃないかと噂してたよーですね」
風紀委員室で水無月風紀委員長が教えてくれた。
「国連軍と言えば、魔法使いの中でも一部のエリートしか行けない所じゃない。そんなに優秀だったなんて…先日は失礼しました」
氷川が頭を下げてきた。権威に弱い、と切って捨ててしまえばそれまでですが、彼女はここの地獄を今までそうやって生きてきたのだろう。
「国連軍ってエリートなんですか?」
「卒業生の中でも限られた者しか行けない所です。詳しくは例によって自分で調べて納得してくだせー。その上で、目指すなり、他の進路を選ぶなり考えてくだせー」
「国連の人権保護団体がダメなら、というわけじゃないけど、ここで優秀な成績を修めて国連軍入りするというのも、生き延びるという戦略では悪くないみたい」
再び寮のイヴの部屋。風紀委員としての生活指導と称してノエルを呼び、二人だけで夕食を食べていた。
「よくわからないけど、お姉ちゃんならできるんじゃない?」
「うまくエリートコースに乗って、将校になる事ができれば、ある程度前線に誰を送るかの決定権も持てる。ある特定の人物、例えばノエルに危険な任務が来ないようにする事もできるかもしれないわ。」
「魔法使いのここの卒業生が全員、国連軍の傘下に入るわけじゃないよね?国連軍の将校ってそんなに偉いの?」
「私もまだ調べきれてはいないのだけど、今まで考えていた可能性の中ではもっとも有望な道よ。もっとうまく私達が生き延びられる道が別にあれば、そちらに行くけど、今のところ、ほぼそれで進路は決定かな、と思っているわ」
「でもそれって、お姉ちゃんだけが苦労して私はのほほんと生き延びるって話だよね。それっておかしいよ。私だって魔法使いだし、お姉ちゃんの力になりたい」
「ありがとう、ノエル。気持ちだけ受け取っておくわ。あなたが無茶をすると危険なクエストを受けて死んでしまう可能性の方が大きい。お願い、我慢して」
「えー、わかったよ。ぶー」
いっそのこと、今度散歩部で秋穂ちゃんに聞いてみようか、ノエルはふとそう考えた。「お姉ちゃんに守ってもらうだけじゃなくて、お姉ちゃんのために何ができるか、ですって?ええ?ノエルちゃん、お姉ちゃんにいじめられてたんじゃなかったの?」「待って待って、お姉ちゃんが私をかわいがってるのは内緒だよ」「えー、いい話ですぅ」「へえ、冬樹の姉もいいところあるじゃねーか」あー、ダメダメ、とても秘密が守れそうもないわ。一通り、散歩部で話題にした時の様子を想像して、ノエルは秋穂に相談するのを諦めた。仕方ないなぁ。
ん?秘密と言えば。私が毎日、お姉ちゃんの部屋に来てるの、さすがにみんな気づいてるよね?表向き風紀委員に生活指導を受けに行く、って事にはなってるし、さすがに部屋の中の会話までは聞かれてないだろうけど、お姉ちゃんの部屋へ向かう時、もう少しこう、暗い表情で行った方がいいよね。どこで誰が見てるかわからないし、ニコニコしながらまるで仲の良い姉の部屋へ行くような表情を見られたら、学校での偽装は全て水の泡。そう、寮内の移動時も、まるで氷川風紀委員の部屋にでも呼ばれているかのような表情で行った方がいいよね。
このノエルの機転が利いて、ほぼ毎日のようにノエルは姉と一緒に過ごしていたにもかかわらず、二人の仲が良いと気づける人はそう多くはなかった。
「ええ、殊勝な表情で、まるで氷川先輩の部屋にでも向かっているかのような表情でしたよ」
服部梓が氷川に、イヴのノエルへの「指導」の様子を伝えた。
「そう、結構。姉だからといって甘くしてはいないようで何より…ところで、何よ、そのまるで私の部屋にでも来るかのような表情ってのは?」
「だって、鬼の風紀委員と言えば、ぶっちぎりで氷川さんじゃないですか。泣く子も黙る氷川風紀委員とまで言われているようですよ。さすがですね」
「あまり嬉しくないわねぇ」
「まぁ風紀委員は、憎まれ役ですからねぇ」
「だからあなたと神凪さんは、あまり熱心じゃないのね」
「しまった、口が滑ったっス。じゃ私はもう行きます。ニンニン」
服部は修行に行くと称して氷川の前から素早く姿を消した。
「これが忍術…味方としては頼もしいけど、敵にいたらと思うゾッとするわね」
氷川は、さっきまで服部が立っていた空間を見つめて言った。
将来国連軍に入って、それなりの出世コースを進むつもりならば、学校での勉強に加えて、英語以外の外国語、特に国連公用語になっているフランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、アラビア語の5つには精通しておいた方が良いとイヴは考えた。何しろ、失礼ながらイヴからは国連軍の中ではエリートではなく、一兵卒かせいぜい下士官のように見えるメアリーが、外国人の高官と少なくともフランス語とアラビア語で流暢に会話しているのを見たからだ。メアリーは、他に日本語と英語もできるので、少なくとも4ヶ国語は話せるというわけだ。一兵卒や下士官がそのように数カ国語流暢に話せる集団に入って、その一兵卒や下士官達から「今度の新入りの冬樹少尉、英語と日本語しか話せないんだってよ」などと噂されながら、その中で頭角を現して出世していけるとは、イヴには思えなかった。国連軍に入るのがゴールではなく、そこで頭角を現して行くつもりのイヴにとって、英語以外で国連公用語になっている5か国語は、卒業前にぜひとも習得しておきたかった。日本の官僚組織であれば、入社時にエリート候補として採用してもらえれば、ある程度の階級までは自動であげてもらえるが、国連軍ではそういうわけにはいかない。将来のエリート候補として、少尉として採用されたとしても、その後実力を見せて行かなければ、その後の昇進はおぼつかない。イヴの調べた範囲では、イヴの望む権限が手に入るのは、最低でもそこから3階級は昇進して、少佐になる必要がありそうだった。少尉採用者の中で、少佐になれる人間はそう多くはない。仮にエリート候補として採用されたとしても、その後には厳しい競争が待っているようだった。
ところで、英語以外の外国語の勉強を在学中にしようとした時に、グリモア学園の授業はどうかというと、学校名がフランス語から来てるので多少はフランス語の文法の授業はあるものの、他の言語に至っては、ほぼ対応する授業は無く、独学で勉強する他ないお寒い状況であった。そこで、英語以外の5か国語全部を流暢に話せる水準までとは言わないまでも、あと2、3の言語はそこそこ話せるようにはなりたいし、残りについても片言くらいはわかるようになりたいと、以前よりも熱心に図書館で勉強をするイヴであった。意外と言っては失礼にあたりますが、図書館で外国語の勉強を始めると、霧塚図書委員が国連公用語全部を含む22カ国語に精通している事が分かった。イヴが勉強していると、「外国語の勉強ですか?」と霧塚が話しかけて来て、雑談するうちに分かった事である。22か国語というのはいささか誇張もあるかもしれないけれど、そのくらい多くの言語に堪能であり、新しく外国語を勉強したいというイヴに、ぴったりの本を選んでくれたりもした。
自分の勉強がハードにはなったものの、妹へのフォローも手抜きはしなかった。イヴとノエルは別のクラスで授業を受けていたが、ノエルと同じクラスの水無月風紀委員長から、今日の授業で、ノエルがちょっと理解が不足している風なところがあったという話を聞くと、イヴは早速その日の夜には、夕食後にノエルの勉強を見たりもした。ノエルとしては、時にはそういう姉が煩わしく、機嫌を悪くした事もあったが、姉妹というだけあって、ノエルがつまづいた所は、大抵イヴも以前迷った所であり、間違う所や誤解するポイントも似通っていた事から、概ねイヴはノエルに対して的確なアドバイスができた。ノエルからすると、先生よりも姉の説明の方がわかりやすい、という事も頻繁にあった。
「ほら、こうすれば簡単に解けるでしょう。お姉ちゃんの言う事を聞きなさい」
そんな感じで、ノエルの勉強もよく見ていた。
この学校には、シャルロット・ディオールというフランス人の女生徒がいた。宗教家で、日本に布教に来ている都合なのかどうか、フランス人の魔法使いでありながら、日本のグリモア学園に籍を置いていた。そして、イヴとあまり変わらぬ年齢ながら、日本語も堪能であった。
イヴが図書館で外国語を勉強し始めてしばらくしたある日、風紀委員室での打ち合わせの後でイヴは氷川風紀委員に呼び止められた。
「不純異性交友の前科のある男子生徒のモアットのログを見てだのだけれど、どうも最近、シャルロット・ディオールと頻繁にやり取りしてる。内容が気になるのだけど、日本語でも英語でもないみたいでお手上げなのよ。最近、冬樹さんは英語以外の勉強もしてると聞いたから、何かわかるかと思って…」
渡されたログをざっと見て、イヴは何やら不健全な男女間のメッセージがあるようにも感じたので、調べてみたいと思い、
「辞書とか引いて本腰を入れて訳してみたいので、そのログのコピー、図書館へ持って行ってもいいかしら?」
と、聞いてみた。氷川も水無月風紀委員長も許可したので、イヴはそのログのコピーを持って、図書館へ行った。
思った通り、そのメッセージはフランス語で、イヴの理解できる範囲でも、健全な男女間のやり取りを超えたものを、主に男子生徒側のメッセージから感じた。
そのコピーの出所を伏せて、霧塚図書委員にも聞いてみたが、彼女も同意見だった。「まさかこれ、修道女のシャルロット・ディオールさんじゃないわよね?」と霧塚が聞いてきたので、「関係ないわ」とイヴは否定した。まぁ、懲罰房へ送る事になるだろうから、ここで否定してもあまり意味はないのだけどね。念のためよ。
風紀委員室へ戻ると、予想外の事が起きた。氷川風紀委員は、イヴの訳に興味を示し、懲罰房へ送るべきだと主張したが、肝心の水無月風紀委員長は、それがフランス語だと知るや、内容を理解する事について、あきれるほど頑固に拒否した。イヴの対訳が付いていたにも関わらず、それを読む事すら拒否したのである。
「ウチは以前、フランス語の文法の先生に、こっぴどくイジメられたトラウマがあります。わかってくだせー」
それにしても、イヴの対訳すら読もうとしないのは、拒否反応というにしても異常だとイヴは感じた。氷川も戸惑っていた。水無月風紀委員長は、多くは語りたがらなかったが、フランスの文法の授業中、彼女がなまじ英語はできたので先生が意地悪をしたのがトラウマとなって、今の拒否反応につながっているようだ。
「とにかく、取り締まりの対象としては、ちゅーをするなど見た目にも明らかな違反があった時だけです。それ以外は疑わしくとも罰せず不問にする、たった今以後は、その方針で行くことにしますのでみなさんよろしくおねげーします」
水無月風紀委員長はそう叫んだ。
明確な違反以外は罰しない、そういうルールが風紀委員の中に確立された瞬間であった。その大元の原因が、授業での先生からのイジメだったというのはなんともやるせない。鬼の風紀委員長といえど人の子、悪い先生からのトラウマには勝てなかった。
しかし、直接そのトラウマを受けたわけではない氷川とイヴにとっては、完全に水無月風紀委員長の決断を理解できたわけではなく、やや不満の残る決着となった。以後、氷川はこの時の反動からか、たびたび、水無月風紀委員長からは暴走と言われるほど厳しい取り締まりを提案したり実行に移すようになった。イヴもこの一件以降、水無月風紀委員長への見方が変わった。
「何が鬼の風紀委員長よ。先生に過去にどんな意地悪されたか知らないけれど、明らかな違反以外は取り締まりませんなんて、どんだけトーンダウンしてるのよ!」
とは氷川のセリフである。さすがに水無月風紀委員長本人の目の前で言うことこそ無かったものの、いない所では、イヴや神凪、服部といった風紀委員の他の面々に、折に触れこぼす事が多くなった。
面と向かって言わなくとも、そういう態度や考え方というのはある程度伝わってしまうもの。それを感じ取ったからかどうか、水無月も時々、仲の良い風紀委員ではない生徒に対して、氷川の暴走困ったものだとこぼすようになった。一度などは、料理部の里中花梨に好物のリンゴをご馳走になった際、宿敵の報道部の遊佐部長や生徒会への悪口よりも、氷川の暴走に対してその3倍以上の時間をかけて雄弁に愚痴を語った事さえあった。
冬樹イヴ自身も、この一件以前は、水無月が「ウチは魔法使いに覚醒したばかりの人が安心できるように、将来は、覚醒したばかりの魔法使いに真っ先に接触する機会のある警察官になりたい」と語っていたのを、ある種の違和感を感じてはいたものの、好意的に捉えていた。違和感というのは、イヴ自身の体験に基づくものだが、魔法使いに覚醒してこの学校に強制的に転校させられた直後、兎ノ助教官から「一年後には死んでるかもしれないけど、まぁ頑張って生き延びてね」的なガイダンスを受け、恐怖心に全身を包まれていた頃、水無月風子からこの学校を案内されたのだが、その案内先というのが、誰もいない教室やトイレ、体育館などで、それらを見せた後、風子から「不純異性交友をしたら、懲罰房へぶち込むのでお気をつけくだせ〜」と言われたのだ。イヴは正直言って、この時に水無月風子から安心感よりも恐怖心を感じたのだ。そういう体験があったからこそ、風子が「覚醒したばかりの魔法使いを安心させるために〜」という話を聞いた時に、「いやいや、あなた、私に何を言ったか覚えていますか?あなたと接して、安心感よりも恐怖心を感じる人の方が多いと思いますよ」というのが、イヴの持っている違和感である。しかしながら、覚醒直後の魔法使いが心細いというのも事実であるので、自分の体験は脇へ置いて、水無月風子の話している理想そのものは良いものであると、風子に対して好意的に見ていた。しかし、先生に過去に何をされたにせよ、イヴの書いた日本語の対訳さえ読むことを拒否して、あっさりと取り締まり方針を緩める方向へ舵を切った水無月風子を見て、イヴの中で彼女を好意的に見る感情が少し薄れた。天才でかつ努力家のイヴとしては、先生に何を言われたにせよ、それで自分のポリシーを曲げるなど信じられない話であったし、その程度でポリシーを曲げる程度の人物が、どんな理想を掲げるというのか、もっと言えば、その程度の事で自分のスジを曲げる人間がはたして信用に値するのか、といった感情もあった。そうなってくると、相対的に、水無月風子の語る理想に対して好意よりも、イヴが風子に初めて学校を案内された時の恐怖心が顔を出してくるようになった。風子が警察官になりたいという夢を語るたびに、イヴとしては応援しようという気持ちよりも自らの体験に基づく違和感が先に出るようになったのである。
口には出さなくても、水無月風子もイヴの自分への感情が変化したのを敏感に感じ取った。水無月は風紀委員以外の親しい生徒に対し、氷川とは反対に「冬樹は働かない」などと愚痴をこぼすようになった。
散歩部で、遠足に行こうという話が持ち上がった。ノエルの発案であるが、部長のさらがそのアイデアを採用し、精鋭部隊の護衛が付くなら、学校の外へ出ても良いとの許可ももらえた。
「なぁ、アタいら護衛につく必要あるか?あれ、見ろよ」
ノエル達からやや離れた場所で、護衛の任務についているメアリーが、他の精鋭部隊員に話しかけた。朝比奈龍季と春乃と、そして意外な事に冬樹イヴまでが、散歩部の3人から少し離れたところで、頼まれもしないのに見守るように尾行しているのだ。
「龍季はさらと仲が良くて、春乃は秋穂の姉だからだろう?で、あれは何だ?ノエルはお姉さんとケンカ中じゃなかったのか?」
イヴの尾行は、軍事行動に関しては素人の散歩部の3人には気づけなくても、メアリーら精鋭部隊からはバレバレの尾行だった。もっとも、それは龍季と春乃の尾行に関しても言える事であるが。
「風紀委員としてノエルを指導するという建前があるからじゃないですか?」
「バカ言え。あの図書館の虫が丸一日ノエルにこうして付き合っているのが、ただの義務感なものかよ」
「違いないですね」
結局のところ、龍季と春乃は、尾行の途中で我慢できなくなり、散歩部と合流して一緒に遠足を楽しんだが、イヴだけは最後までノエル達の前に姿を現す事は無かった。
「ヘイ、フユキ。姉が一日中付き合ってたぜ。勇気出して話しかければ、仲直りできるんじゃないのか?」
遠足が終わり、解散しようかという時になって、メアリーがノエルに話しかけた。
「え?お姉ちゃんが?」
ノエルはイヴの尾行に気づいていなかった。
「そういえば、冬樹の姉もいたな。こっちに合流はしなかったが…」
龍季が同意した。
ちょっとお姉ちゃん、偽装バレそうなんですけど?なんて事してくれたのよ。尾行するならもっとうまくやってよね。
「えー?そうなんだ…うん、ありがとう。」
ノエルは力無く言った。なによなによ。私にばっかり学校で我慢させて、自分だけ好き勝手な事してくれちゃってさ。ノエルの内心は姉への怒りでいっぱいだった。
その日の夕方、ノエルは怒りの表情で寮のイヴの部屋へ向かった。
「ちょっとお姉ちゃん、バレバレなんだけど」
扉を開けて部屋に入るなりノエルはぶちまけた。
イヴはちょうどミルクティーを飲んでいたところだったが、ノエルのこの一言で口から吹き出してしまった。
「な、な…」
「汚いわねえ。そんな事より、散歩部の遠足、一日中尾行してたんだって?精鋭部隊と龍季さん達にバレバレだったんだけど」
イヴが図書館での勉強を放り出して丸一日付き合ったのだから、仲直りはすぐじゃないかとみんなに言われて、ごまかすの大変だったんだからね。
「ごめんごめん、ノエル。苦労かけるわね」
「まったくよ」
ぶぅ、とばかりにノエルはふくれた。
「ケーキ」
「え?」
「駅前のケーキ奢って。それで誤魔化されてあげるわ」
「分かったわ。ノエル、ありがとう」
それからイヴはノエルの頭を撫でながら
「ムクれてるノエルもかわいいわ」
と呟いた。
それを聞いたノエルは、しょうがないなぁ、私がお姉ちゃんを守らないとね、と思った。この場合の守る、とは、イヴが秘密にしたいと思っている二人の仲について、どんなにバレバレであっても、イヴの望む通り学校内では、散歩部のメンバーの中でも、姉妹仲は悪い、という下手な芝居を演じ続ける事である。もはや学校内の結構な人数に、薄々気付かれつつあるようにも思えたが、イヴの望む通りにしてあげようと、思いを新たにしたノエルだった。
「それにしても、もう結構な人数にバレバレな気もするから、学校でも甘えたいな」
「ん?どうしたの、ノエル?」
「…お姉ちゃん、結構うかつな所があるみたいだから、私がしっかりお芝居しないといけない、という話」
そんなある日、グリモアに新しい転校生が来た。イヴやノエルの時と同じように、ある日突然魔法使いとして覚醒してしまったために、強制的にこの学校へ転校させられて来たかわいそうな生徒だった。その転校生は男性であった。そのため氷川風紀委員などは男子生徒は風紀を乱すという先入観があるからか、彼のことを汚れ物を扱うかのような手荒な扱いをしていたし、水無月風紀委員長も、「不純異性交友の現場を見たら、問答無用で懲罰房へぶち込みますので、お気をつけくだせー」などと早速圧力をかけていた。一方、イヴとしては、同じ基本的人権を剥奪された者同士で潰し合いをするのはやるせないと考えていたので、イヴ自身は風紀委員ではあったが、そこまで酷い扱いをする気にはなれなかった。むしろ、内心では心細いだろうから、何か手助けしてやりたい、と考える事さえもあった。もっとも、相手は男性なので、そうそう心は許さなかったし、警戒心からトゲトゲしい対応をする事もあった。
ある日の美術の授業の時の事。絵を描くのに難儀している転校生を見て、イヴは絵の描き方くらいは手ほどきしてもいいだろうと、転校生に声をかけ、あれこれ面倒見ているうちに、口が滑った。「ほら、こうした方がいいでしょう。お姉ちゃんの言う事」言いかけてしまったと感じた。「な、なんでもありません。5年も前の口癖が、どうして出てしまったのか、自分でもわかりません。」強引にごまかして会話を打ち切った。しかし、実際にはイヴがそのセリフを最後に言ったのは、つい5時間前、ノエルのために早起きしたイヴが部屋にノエルを呼んで、登校前の早朝に時間を作って里中花梨から教わったレシピで作った朝食(デザート付き)をノエルに振る舞いながら、ノエルの勉強をみていた時であった。
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グリモアのロレンスー風紀委員長就任直後
「氷川さん。もしかしてあなたは魔法使いに覚醒した事で,自分はもう生きる権利がない,命令一つで,それこそ電話の一本で,簡単に死んでしまってもいい存在になってしまったと思い込んでいませんか?まずそれはやめてください。その考えは捨ててください。あなたは愛され,尊重され,生きる権利があります。まずその事を思い出してください」
「は、はぁ…」
風紀委員室での打ち合わせの席で,氷川は戸惑いながら,冬樹イヴ新風紀委員長に返事をした。つい先日までは,風紀委員長は水無月風子であったが,4月から水無月は生徒会長になった。そして風子は,後任の風紀委員長に,冬樹イヴを指名したのだ。イヴは,新風紀委員長として,前任者の風子に負けまいと張り切って風紀委員の仕事をこなす毎日であったのだが…
「私達は人間であって,指先一つで死ねと言われる兵器ではないのです。入学時の兎ノ助のマインドコントロールから,脱却すべきなのです」
「お話は分かりますが,なぜそれを今,氷川先輩に?」
服部が口を挟んだ。
「氷川さんだけではありません。自分も含め,皆さん全員が今一度,認識すべきだと思ったからです。相手の生徒も人間です。生活指導は,工場の品質検査ではありません。しかし、そこを忘れてしまうと,服装のボタンの位置が数ミリずれてるような些細な事にまで指導が入ったりしてしまうものです。工場での製品の品質検査ならそれでも良いでしょう。相手も自分も、会話ができる兵器,指先一つで死ねと言われるだけの存在,と思っていたら,生活指導もそんな感じになってしまうわ。そうではなくて,氷川さん,あなたは愛され,尊重され,生きる権利があります。相手にとっても同じ…言いたいのはそういう事です」
「要するに,暴走するなという事ですね」
「私は暴走とは思っていませんよ。私達は全員が全員,グリモアに入学する時に受けた兎ノ助のガイダンスで巧みにそう思い込まされているフシがありますから。自分を含め,私達がまずすべき事は,あの忌々しいマインドコントロールをとくこと。それにつきると思います」
「お姉ちゃん,兎ノ助にセクハラでもされたの?」
寮のイヴの部屋にノエルが来て聞いた。二人の仲直りは,既にみんなが知るところとなっていたので,学校で話をしても良さそうなものではあったが,仮に兎ノ助にセクハラまがいの事をされましたなどという話になるようであれば、みんなのいないところの方がいいだろうと思って,姉の部屋を訪ねての事であった。
「セクハラじゃなくて,ノエル,あなたは先日のクリスマスに,両親と会った時に,違和感は感じなかった?」
「違和感?」
一瞬,ノエルは姉が言っている事が分からなかった。
「私達にとって,いいきっかけだったと思うけど?」
ノエルは,上目遣いに姉を見ながら言った。
「あー,そうじゃないそうじゃない。私達の事じゃなくて,お母さんの事よ」
違うのよノエル,と言いたげにイヴは話した。
「私は兎ノ助に,ここに転入させられた時に,一年後には死んでてもおかしくない,と,半ば死ぬのが当然のような説明を受けたわ。だからこそ,下手な芝居をうってでもあなたを遠ざけ,最悪の場合でもあなただけは生き延びられる方法はないか,と探す羽目になったのだけど」
「ちょっとまってよお姉ちゃん。私,それ初めて聞いた。お姉ちゃんは私達二人が生き延びるための道を探すと言ってた。私だけ助かるなんて聞いてない」
「ええ,言わなかったわね。もちろん,私も死にたくないから、二人とも生き延びる道を探してたわ。あなただけでも,というのはあくまで最後の手段よ。だいたい,ある日突然魔法使いとやらに覚醒して,見たこともない学校へ強制的に連行された挙句、一年後には死んでるかもしれないけど,まぁせいぜい頑張ってね的なガイダンスを受けたら,ある程度考え方や行動が支離滅裂になってしまうのは仕方ないじゃない。私は私達二人が生き延びる道を探していた。でも最悪のケースでもプランBとしてあなただけでも助かる道があれば,それも考慮に入れようと思っていた。ここまで言っておかなければ、いけなかったかしら?」
そのくらい,察してちょうだい,と言わんばかりにイヴは言った。
「…お姉ちゃん。前も言ったと思うけど,私のことももっと頼ってよね。同じ境遇の姉妹じゃない。もっとノエルの事も使って欲しい。せっかくここにもう一人,お姉ちゃんの言うことを理解して裏切る心配もなく,魔法使いに覚醒した同じ境遇の人間がいるのに、活用しないのは片肺飛行しているようなものよ」
「うん。ありがとう。で,話を戻すと,お母さんの話を聞いて違和感を感じたのよ。もしかすると,お母さん達は,私達とは別の説明をグリモア側から受けたのではないか,とね」
少なくとも,お母さんがグリモア学園から,私達と同じ説明を受けていたなら、夢で私達が死ぬシーンを見たくらいで,あそこまで取り乱すのは不自然だわ,とイヴは続けた。
「だからあの時,聞いてみたのよ。私達はグリモア入学時にこういう説明を受けました。でもお母さんの話を聞いて疑問に思ったのだけど、もしかしてお母さん達には,私達が死ぬかもしれないという説明,もしかして無かった?ってね。
そしたら案の定,『私達にお任せください。お嬢さん達が新しく手に入れた力を安全に制御できるお手伝いをするだけです。全く危険はありません。当学園の卒業生の中には、魔物と戦うための軍隊等に就職される方もおりますが,それは任意であり,強制ではありません』ですって」
「え?なにそれ、とんだ二枚舌じゃない」
ノエルも怒って言った。
「この学園には,いいところのお嬢さんもいるけど、親に対しては,死ぬ危険はまったく無いって説明してたのね。合点がいったわ。おかしいと思ってたのよ。死ぬ危険がある,むしろ死んで当然みたいな説明を受けて子を預ける親はいないわ。上流階級ならなおさらよ」
腑に落ちたわ、と言いたげにイヴが言った。だからあのムカつく兎ノ助の入学時のマインドコントロールから,私達は脱却しなければいけない,と力説してるわけよ。
「思考に気をつけなさい、いつかそれは言葉になるから。言葉に気をつけなさい、いつかそれは行動になるから。行動に気をつけなさい,いつかそれは習慣になるから。習慣に気をつけなさい、いつかそれは性格になるから。性格に気をつけなさい、いつかそれは運命になるから…ってね」
イヴは歌うように言った。
数日後,校内を巡回していた冬樹イヴは,裏世界の仲月さらが,落胆した表情で生徒会室から出て来るのを見た。裏世界の住人達は,現在,この世界のグリモア学園の地下で生活していた。そして仲月さらは,裏世界の住人の中で顔役的存在であった。
「どうしたんですか?」
イヴは声をかけた。
「ああ,冬樹さん。そういえば,風紀委員長に就任なさったそうですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます。重圧で押しつぶされそうな毎日です。水無月前委員長は,こんな重責を,あんな平然とした表情でこなされてだんだと,改めて尊敬の念を抱いているところです」
「その水無月会長なんですけどね…」
言いにくそうに,裏世界の仲月は言った。
「そろそろ新会長の引き継ぎの忙しさも終わり,定常業務に入られる頃だろうからと,裏世界を救う,という約束の履行を,それとなく求めたのだけれど…」
仲月は語尾を濁したが,その様子から察するに、色よい返事は得られなかったようだ。
仲月さら達裏世界の住人に,裏世界も救うので,こちらの世界の霧の魔物の討伐の協力をお願いし,先日スペインにて霧の魔物の本体を討伐したところだ。裏世界の住人だけでなく、外国の魔法学園生や国連軍などの力もあって成し遂げられた事ではあるが、相手は強敵だったので,これらの勢力のうち,どれかが欠けてもうまくはいかなかっただろう,そう思えた。それに仮に裏世界の住人の協力が無くても討伐は成功だったとしても,だからといって裏世界を救うという約束を反故にしていい事にはならない。
「新会長はまだ忙しいのね。いいわ,私からも話をしてみます。それに,仮に会長が約束を軽んじるような事があれば,それはこの学園の風紀委員長としても見過ごせませんしね」
「そんな大げさなものじゃないのよ。急がなくていいわ」
仲月は慌ててイヴをなだめにかかった。
「ありがとうございます。まだ新会長も忙しいんでしょうし,それとなく約束を守るように話してみるわね」
「今ちょっと生徒会として,大事な緊急の要件を抱えているでやがります。約束を忘れたわけじゃねーですよ」
風子新会長はそう言って,イヴ新風紀委員長を安心させた。
「どーです?風紀委員長の仕事は慣れやがりましたか?」
「氷川さんや服部さんに助けられ,なんとかこなしています。浦白七撫さんも,新風紀委員として,張り切って仕事をこなして頂いています。」
「結構,それは何より。…ところで,ちぃっとばかり小耳に入りやがったんですがね。アンタさん,面白い事を説いて回ってるそーじゃねーですか」
風子は、風紀委員長時代の取り調べのような表情で話し出した。
「確かにこっちの世界の霧の魔物は片付きましたがアンタさんも言った通り,ウチらにはまだ裏世界を救うという仕事もあります。それにどーもこっちの世界でも,霧の濃度は薄くなっただけで完全には消えてねーよーなんですよ。これらの事については当然,ウチらにもやらねばならない仕事があるでやがります。そんな中で生きる権利がどーのと言ったところで,苦しむのは学園生でやがりますよ。まだ危険は去って無いんでやがります」
「私の考えが,間違っていると?」
イヴは風子新会長を見据えて聞いた。
「いやいや,おそらくアンタさんの言ってる事は正しい,そうは思うでやがりますよ。アンタさんは国連軍志望との事で,国連の連中から人道支援とか人権に対する考え方なども相当教わって勉強してやがるでしょーしね。仮にウチが反論を試みたところで3秒で論破される確信があるでやがりますよ。人道,人権,人間としての権利…このあたりの知識で,学園内でアンタさんにかなう人間は一人もおりゃしません。だからウチはこう言う他無い。昔,イヴが知恵の実をアダムに与えた事で,ウチら人間は楽園を追い出され、失意と苦労の中で死ぬ運命を神様から背負わされました。アンタさんの下の名前も確かイヴでやがりますよね?イヴのもたらす知識で,ウチら学園生がかえって余計な苦しみを味わう事にならないか,よく考えて行動してくだせー」
裏世界の住人達のうち,仲月さらなどの裏世界のグリモア学園の関係者達は、現在この世界のグリモア学園の地下にある大きな空洞内で生活していた。そこは家が何軒も建てられる程度の広さがあり,そして過去のグリモア関係者が建てたと思われる家屋が何軒か既に存在していた事から,現在は空き家となっている地下の集落に住んでいた。といっても、彼らにとっては裏世界こそが自分達の世界であり,現在はこちらの世界の に一時的に避難している,という意識であった。
「ねえ,裏世界の私の家のそばに,最近魔物が出没してるようなんだけど」
裏世界の桃世ももが、裏世界の仲月さらに話しかけた。
「ついこの前,自宅がどうなっているか様子を見に行ったのだけど、魔物の気配が嫌に近くに感じたわ。通り二つ隔てた向こうで,つい最近魔物に襲われたとみられる人の遺体もあったし、近所の生き残りの人の話を聞いても,最近この辺での魔物の出没頻度が上がっているって言ってたわ」
「分かったわ。すぐに水無月新生徒会長に報告と援軍の要請をしましょう。向こうも忙しいらしいけど,遠慮してる場合じゃなさそうだしね」
仲月さらと桃世ももは,二人して早速生徒会室へ入って行き…やがてぶ然とした表情で出てきた。
「忙しいのは分かるけど,ちょっとあんまりよねー」
様子を見に来た裏世界の風槍ミナに,二人はぶちまけた。
「テロ事件も起きて,それに関連する秘密の作戦かどうか知らないけどさ,精鋭部隊の来栖さんやグリモア軍軍医の椎名さんも関わっている特殊任務の調整に忙しいからすぐには動けないってサ」
「え?なにそれ。今の会長って前身は風紀委員長ですよね?他の生徒に決まりや約束事などを守らせ,生徒達の模範となるべき風紀委員長が,生徒会長になった途端に約束を軽視するような真似が許されるの?」
裏世界の風槍ミナは,表世界のミナと異なり,生真面目な性格であったが,それだけに,風子新会長の約束を軽視したとも取れる言い草に腹が立ったようだ。
「まぁ,もう風紀委員長じゃなくて,生徒会長だけどね」
裏世界の桃世ももが取りなす。
「だからって,約束を軽視して良いって話にはならないじゃない」
裏世界の風槍ミナがなおもぶつぶつと言う。
そこに,巡回中の冬樹イヴが通りかかった。裏世界の3人の騒ぎを聞きつけて飛んで来たのだ。
「みなさん,どうしたんですか?」
「ちょっと聞いてよ。あなたの前任者酷いのよ」
「まぁまぁ。冬樹さんは関係ないんだし…」
「みなさんはここにいてください。私がただしてきます。」
裏世界の三人から事情を聞いたイヴはそう言うと、生徒会長室へ入って行った。
水無月前風紀委員長はよく,生徒会は何を考えてるか分からないと愚痴ってらしたけど,水無月さんが会長になって,風紀委員会と生徒会との間のそうしたギクシャクは無くなると思っていたわ。それがまさか,水無月さんが生徒会長になってから十日と経たないうちにこんな訳の分からない事で水無月新会長と話をしに行くなんて,思ってもみなかったわ。もしかすると、私と水無月新生徒会長の関係は,虎千代前生徒会長と水無月前風紀委員長と同じような関係になってしまうのかしらね。イヴはそんな事を考えながら生徒会室に入って行った。
「おや冬樹,どーしたんですか?血相を変えて」
「委員長,いえ会長。こちらの世界の霧の魔物は倒せましたが、裏世界では依然として霧の魔物の脅威に晒されています。そして,表でも私達の支えになってくれた桃世ももさんの自宅付近にまで,裏世界の魔物の魔手が伸びております」
「ダメでやがります。今ウチらは大変大事な作戦の準備をしているところでやがります。精鋭部隊や椎名軍医,それに転校生さんにも協力の依頼をしているところです」
「なんとおっしゃいました?」
冬樹イヴは一瞬,会長の言ってる事が理解できなかった。
「それでは,見殺しにするとおっしゃるのですか?」
「そんな人聞きがわりー事言わねーでくだせー」
「転校生さんや精鋭部隊や椎名軍医が絡む作戦は,テロリスト対策なのですか?仮にそうだとしても、裏世界の桃世ももさん達を見殺しにしてまで優先すべき作戦とは思えませんが…」
「詳細はまだ秘密でやがります。ウチだって見殺しにしたくて言ってるわけではないでやがります。分かってくだせー」
結局,風子はイヴに,作戦の詳細は教えなかった。
「学園が今,動けないのは分かりました。しかしそれなら、国連軍なりに応援は頼めないのですか?裏世界も救うというのは国連も決議したと記憶していますが…」
「確かにそうでやがりますが…国連事務総長に連絡を取るのは少し待ってくだせー」
「どうしてですか?」
風子は無言だった。
「今進めていらっしゃる作戦と何か関係があるんですか?」
「今は言えねーでやがります。分かってくだせー」
冬樹イヴは,それ以上情報は引き出せず,困惑しながら生徒会室を出た。
「どうでしたか……その顔を見れば分かります」
裏世界の仲月さらが落胆気味に冬樹に声をかけてきた。それでイヴは,自分が思っている以上に顔に出ていることに気付き,慌てていつもの生真面目な表情に戻した。
「もう遅いですから」
裏世界の風槍ミナがツッコミを入れる。
「…わ,私が行きます。見殺しにはしません。桃世さん,案内してください」
見殺しにするのはどうなの?という感情からか,冬樹イヴはそう口走った。
「気持ちは嬉しいけど,あなた一人が来たって,死にに行くようなものよ?」
「こっちの世界のあなたは,かなり早い段階で亡くなってます。短慮はやめてください」
「あなたに死なれても、こちらの寝覚めが悪くなるだけだしね」
裏世界の三人は,口々にイヴを思い留まらせようとした。三人の言葉の端々に棘があるのは、この状況では仕方あるまい。
「一人じゃないわ。委員長。私も行きます」
不意に後ろから声がした。イヴが振り返ると,そこには氷川が立っていた。騒ぎを聞きつけてやって来たのだろう。それにしても、いつからそこにいたのか…
「それに,私達では手に負えない規模の相手だったなら,一度撤退して改めて風子新会長に報告と援軍の要請をすればいいと思います。風子新会長だって,相手の規模が具体的に分かれば,どの程度の援軍を送れば良いか、国連軍への応援要請をすべきかどうか,といった判断はしやすくなると思います」
今風子新会長が決断を渋っているのは、相手の規模がわからないから動きようがないのだろう、そんな感じの事を氷川は話した。
「氷川さん,あなた…」
冬樹イヴは氷川の方を振り返って言った。
「あなたまで来てしまったら、その間の学園の風紀は…」
「まぁ委員長。私を置いて行くつもりだったんですか」
氷川は口をとがらせた。
「風紀を乱す最大の要因の一つ,例の転校生さんは風子新会長の作戦に関わるようですから、当分はそうそう変な動きはできないでしょうから,そうそう大きな問題は起きないでしょう。私と委員長がいない間は,服部さんと浦白さんに任せれば十分だと思います」
「え?自分置いてきぼりスか?仕方ないですね。今回だけですよ」
冬樹イヴが驚いた事に,今度は服部の声が氷川の後ろからした。氷川もこれは予想外だったのか,びっくりして振り返ると,そこには服部梓が立っていた。
「いや〜あれだけ大声で学内で話していれば,自分のような忍者にとっては、丸聞こえですよ。ニンニン」
「服部さんと二人で留守はしっかり守ります。本当はついて行きたいのだけど。」
軍事行動なら任せてください、と言いたげに,同じくいつからそこにいたのか、浦白七撫が言った。
「私も軍隊あがりですから精鋭部隊にも負けません」
と浦白は言って胸をはった。
「今回の偵察作戦はおとなしく留守番してますけど、敵の規模が分かった後の掃討戦では是非私も加えてくれるよう,風子新会長によろしく言ってくださいね」
私も風紀委員の一員ですから,浦白はそう付け加えた。
「ずいぶん楽しそうな話をしてるじゃない。お姉ちゃん,当然私も一緒に連れて行くんだよね?ノエルをもっと使って欲しいと言って,お姉ちゃんはうんと言ったよね?」
「ひ?」
みんなの前だというのに、イヴは素っ頓狂な声を上げてしまった。そしておそるおそる振り返ると,いつからそこにいたのか、妹の冬樹ノエルがいた。
「ノ,ノエル。いつからそこに?」
「あんな大きな声で話していたら丸聞こえよ。そんな事より,お姉ちゃん裏世界の魔物退治に行くんだって?当然,私も連れて行くんだよね?」
ノエルは,ずぃとばかりにイヴに近寄って言った。ツンツンと指で姉の肘のあたりをつつきながら、お姉ちゃん一人で背負うのは無しよ,と言い添えた。
「そのかわり,ノエルちゃんが困ったら,お姉ちゃんに助けてもらうんだ」
イヴの腕を取って,ピトッと顔をイヴの肩のあたりにくっつけてノエルは言った。
「ちょっと,ノエル。みんなの前よ」
イヴは真っ赤になってあたふたしながら言った。
「それにね。あ、あのねノエル,危険なのよ。お姉ちゃんとしてはノエルには来ないで安全な場所で待ってて欲しいわ」
「ノエルとしてはお姉ちゃんに,危険な場所に一人で乗り込んで欲しくないわ」
そして姉妹二人して顔を見合わせて,ぷっと吹き出した。
「こっちの二人と違って,仲が良いんですね」
裏世界の仲月さらが声をかけた。
「それに,こちらの冬樹さんと違い,ずいぶんと人望もおありの様子。いいでしょう、あなたに賭ける事にしましょう。案内しますからついて来てください」
グリモア学園の地下に,いつの間に開いてしまっているのか、裏世界へ通じる門があり,それを使って裏世界の仲月さら,桃世もも,風槍ミナの三人と,冬樹姉妹と氷川紗妃の計6人は,裏世界の風飛市の廃墟に降り立った。裏世界の桃世ももの家は,この風飛市の廃墟から歩いて2時間ほど行ったところの,まだ比較的無事な家屋が多いとある街中にあった。表世界と違い,こちらでは霧の魔物が健在なので,いつ出没してもいいように警戒しながら一行は進んで行った。いくらも歩かないうちに、白い霧があたりに立ち込めてきた。視界が悪くなってきたので、不意に魔物に襲われないよう,歩くスピードをかなり落とし,霧を透かして向こうに魔物の気配がないか,あたりを見回しながら進み始めた。
「霧に潜んでやって来る魔物も当然脅威だけれど,霧それ自体も危険です。にも気をつけてください。霧に飲み込まれた人は,永遠に戻って来ません。」
裏世界の仲月さらがイヴ達に言った。
「それ自体って事は,中に潜んでいる魔物にやられるのとは別の意味ですか?」
「委員長,もしかして霧の嵐の事でしょうか?」
魔物に襲われるわけではないが、霧それ自体にも人を時空を超えて移動させる力のあるようで,今までにイヴも含め,学園の生徒の大半が過去の,すなわち幼少期の自分に会っていた。ただし,純粋なタイムマシンと違い,自分の過去ではなく,SFなどでよくある平行世界の過去の自分に会っていた。そのあと,学園の生徒は全員,自分の元々の世界の自分の時間に戻ってこれていたが、もしかするとこれは移動時に,不思議な力を持った転校生さんと一緒に移動したからであって,彼の同伴無しで移動してしまった場合,戻って来るのはほぼ不可能なのかもしれない。
「霧の嵐っていうのはよく分からないんだけど,時空の狭間に落ち込んで永久に出られないって説明をされると確かにしっくり来るわね」
と,裏世界の仲月さら。裏世界では,イヴ達のいるこちらの世界と違い,例の転校生さんはグリモア学園に転入しなかったため,霧の嵐での移動を裏世界のさら達は経験しておらず、帰ってこれるものだとも,そもそも呑まれた後どうなるかすら知らなかったという状況である。彼女たちに分かっていたのは魔物ではなく霧そのものに呑まれてしまった者は,二度と帰って来れない,という事だけだった。
ツンツンとノエルはイヴの肘をつついた。
「お姉ちゃん,今転校生さんはいないよね。この状況で霧の嵐にあったら、あたし達どうなるの?」
「お姉ちゃんから離れないようにしなさい。なんとかしてあげます」
「さすがお姉ちゃん」
ノエルははしゃいでイヴの腕を取ると,ピトッとばかりにくっついた。
「委員長,何か妙案でもお持ちなんですか?」
氷川が聞いてきた。
「そうですね…その時はみなさんで転校生さんを呼びましょうか。私達6人のピンチと聞けば,時空を超えて飛んできてくれるかもしれないわね」
「い…委員長」
氷川は,まさかイヴの口から冗談が出てくるとは予想できず、ポカンとしてしまった。あるいはイヴも,半ばヤケになっていたのかもしれない。
「氷川さんの契約の魔法って,人間以外のもの,例えば霧に命じて元の世界へ戻させる事はできるかしら?」
「そ…それはやった事がないので。ただ,委員長。霧それ自体に契約の概念があるのでしょうか?」
「例えば私の得意とする冷却系の魔法だと,冷たい暴風雪を呼び出す時に『凍てつく氷河の吐息よ来たれ』などと詠唱するように,詠唱で呼びかける相手は明らかに無生物でこちらの言ってる内容を理解できるとは思えないけど,それで成立するのが魔法の呪文なので,もしかしたらと思ったのだけれど…ちょっと都合良すぎたようね。他の手を考えましょう」
「みなさん,風槍ミナさんが霧に呑まれてしまったようです。さっきから姿が見えず、呼びかけても返事がありません」
仲月さらがイヴ達に話しかけてきた。すぐ向こうでは桃世ももが風槍ミナの名前を大声で叫び続けている。
「え?そんな?あの一瞬で?」
イヴ達表世界三人組がじゃれあっている間に風槍ミナが霧の嵐に巻き込まれてしまったのか…
「委員長すみません,せっかく裏の人たちのお役に立てばと思って来たのですが,私達がふざけあってる間にって…」
「氷川さんのせいじゃないわ。私が気をつけるべき事だったのだから。それにしても,霧の嵐って,こんな風に音もなく何の前兆も無しにやって来るものだったかしら?前に私がさらわれた時には,地震のような大きな前触れがあったような気がするわ」
「うん,たしかに今までの霧の嵐だと,こんな静かに前兆もなく人がさらわれる事は無かったよ。少なくとも,あたし達グリモア学園生がさらわれた時には」
「あなた方の知っているいわゆる霧の嵐とは別の事象で風槍さんがさらわれたという事ですね」
仲月さらが言ってきた。
「どんな事象が起きたのであれ、風槍ミナさんが永遠に失われた事に違いはないわ」
桃世ももががっかりして言った。
冬樹イヴはしばらく考えていたが、やがて
「みなさんはここでじっとしていてください。連れ戻して来ます」
と言った。
「お姉ちゃん,時空を渡る魔法でも使えるの?」
まだ霧は晴れておらず,視界は悪いまま。下手に動けば,イヴまで行方不明になる恐れもあった。
「気休めに過ぎないでしょうけど,探しに行ってくれるならせめて霧が晴れてからにしたら?」
半ば落胆した声音で,仲月は言った。
「せっかくここまで生き延びたのにね」
ボソッとつぶやいた桃世ももの一言が,冬樹姉妹と氷川に深く刺さった。
「もし風槍さんが霧の力で別の時空に連れ去られたとすれば,霧が晴れてからでは連れ戻しようがありません。危険ですが、この霧の中を歩き回って探して来ます。これを見てください」
冬樹イヴの手のひらの上,5センチほどのところに,直径5センチほどの真っ黒い球が浮いていた。
「ずいぶんと危険な魔法が込められているようですが、それはなんですか?」
「言ってみれば、時空の道標です。この中には,私の冷却の魔法で,絶対零度にまで冷やされた原子が数個入っています。詳しい説明は省くけど、この世の物体は完全に動きを止める事はありません。止まっているように見えても、原子レベルの大きさでみれば,常に揺らいでいます。そしてその揺らぎの動きが速いほど高温,遅いほど低温で,完全に動きを止めた時の温度が,マイナス273.15度の絶対零度です。揺らいでいるはずのものが止まっているので、やや乱暴な言い方をすれば,この黒い球の中には私の魔法で時空を凍結された物質が入っています。」
イヴは手を下げたが、黒い球は落ちずにそのままの位置で宙に浮いていた。
「えっと,重力は?」
「時間が止まっているからだ,と私は勝手に解釈してるけど、見ての通りよ。これを,そうね1メートルおきくらいに設置しながらこの霧の中を探し回ってみるつもり。」
「地球の自転は?」
「そこら辺は,時間停止の魔法と同じようなご都合主義で,作成した時の私に対して止まっているのよ。」
「なんか不安だなぁ。お姉ちゃん,本当に大丈夫?」
「私も実地で使うのは初めてです。次に霧の嵐に巻き込まれた時に,必ず元の世界へ戻ってこれるための保険として開発した魔法なので…実際に霧の中での使用は初めてよ。」
「それじゃ,あなたも帰って来れなくなるかもしれないじゃない。行くのはやめてよね」
とは仲月さら。
「ちょっと試してみて,危険を感じたら、道標を頼りに引き返して来ます。」
「待って,あたしも行くわ」
ノエルがイヴの腕を取って言った。
「霧の中に魔物がいるかもしれない。お姉ちゃん一人より二人の方が対処できるでしょ」
「その代わり,迷った時は二人とも帰れないのよ」
「二人集まれば文殊の知恵。その時はなんとかなるわよ」
「それを言うなら三人…いいわ。ついて来て」
イヴは用心のために30センチおきに直径5センチの黒い球を設置しながら進んだ。霧の視界は悪いといっても1メートル程度は優にあったが,イヴは一つ設置するごとに,後ろ向きにそろそろと歩きながら,前に設置した黒い球がはっきり見えると確認しながら次の球を置いていた。やがて冬樹姉妹の姿は霧の向こうに消えていったが、二人の通った後には黒い球が空中で数珠つなぎになっており,なかなか壮観だった。
一個一個設置するのにはそれほど時間がかかるものではなく、ほぼ一瞬でできていたが、イヴが,直前に設置した球が不意に視界から消えたりしないかと用心しながら、まるでそろそろと後ずさりするかのように進んでいたので、歩む速度は遅かった。イヴが後ろの方ばかり見ているので、必然的に前方を見るのはノエル担当になり,ノエルは大声で風槍ミナの名前を呼ばわりながら前方を注視していた。
500歩ほども進んだだろうか。不意にイヴが悲鳴をあげたのでノエルが振り向くと,直前に設置した、直径5センチほどの球がいつのまにか2メートルを超える巨大な黒い球になっていた。
「お姉ちゃん、なにこれ成長するの?」
「いえ、時空を凍結してるのに成長するわけないわ。大きく見えるとすれば…」
言いながらイヴはノエルと手を繋いで、そのままイヴだけそろそろと黒い巨大な球の方へ進んだ。イヴの動いた距離は、ノエルと手を繋いだままなのでせいぜい数十センチだったが、それでもノエルの見てる前でみるみるイヴが巨大化していった。
『お姉ちゃんまで成長した?」
ノエルが素っ頓狂な声を上げた。イヴが空いている方の手を巨大な球の方に近づけると、その手の方だけ更に大きくなっていった。
「思った通り、球が大きくなったのではなく、私達が小さくなったのね」
「お姉ちゃん、前に霧の嵐にさらわれた時、体の大きさが小さくなったり、大きくなったりした人はいないよ?」
「そうね。ここで起きている事と、風槍ミナさんがいなくなった事は、私達の知る霧の嵐とは全然別の事象みたいね。もっとも、だからといってやる事は一緒だけど」
イヴは前の球が巨大化してびっくりはしたものの、探索は続けるつもりのようだ。次の球は、イヴの手のひらの上に、直径5センチほどの大きさで出現した。
「今度は逆に私達が進むにつれて大きくなれば、球は縮小して見え無くなってしまう可能性があるから、今まで以上に球の様子を見ながら、ゆっくり進む必要がありそうね」
『お姉ちゃん、小人のように風槍さんが小さくなってたらどうする?」
「連れて帰るしかないわ。さっきの私達の体の大きさの変化から言って、戻れば大きさも戻ると思う…たぶん、戻るはずよ」
「足元にも注意しないといけないね」
「見上げるほど大きくなってるかもしれないわよ」
30分ほども進んだろうか。イヴ達の前方に、見覚えのある黒い球が見えてきた。ありがたい事に特に巨大化とかはしていないようであるが…
「前方にあるって事はつまり…」
「ぐるっと一周してしまったようね」
「お姉ちゃんもミスするんだね」
「なっ、ち、違います。ノエル、霧の中しらみつぶしに探そうとうろつけば、こういう事も起こり得ます」
「それで、どうするの?戻って来た時、どっちの球の列へ進めばいいか、分からなくならない?」
イヴ達の後方には、今まで設置して来た黒い球が数珠つなぎに列をなしていた。しかし前方の黒い球も、一個だけポツンとあるわけでもなく、左から右へ(あるいは、右から左へ?)黒い球の列をなしていた。これでは戻って来た時、どちらに進めばいいのかわからなくなってしまう。
「今まで設置した球全てに、設置順に番号をふります」
イヴは数秒、何事かを唱えると、黒い球全てに番号のようなものが浮き上がって見えるようになった。すぐ後ろの球の番号は25121、目の前の球は8641で左から右へと数字が大きくなっていった。
「お姉ちゃん凄い」
「さあ、風槍さん探しを続けましょう」
ノエルに感動されて満更でもない表情でイヴは言った。
またしばらく行くと、ちょうど31140番目の球を設置した直後、今までの球と異なり、設置するやその球はスーッと左の方へと浮いたまま滑って行くではないか。
「お、お姉ちゃん。球って動かないんじゃなかったの」
「そ、そのはずよ」
イヴは慌てた。今まで球は動かない、という仮定で探索を進めて来たのだ。それがひっくり返ってしまうと…もう随分霧の中を進んでしまっている。球が動かないという仮定が崩れたとするならば、高い確率で私達は時空の狭間で迷子になってしまうだろう。このまま永遠にさまようのか、それともどこか別の時間、別の世界へたどり着くのか…どちらにしても、氷川達の所へ戻るのはほぼ不可能だろう。
ふと見ると、直前に設置した球だけでなく、その前までに設置した球の列が、列の形は崩さないまま、同じ速さで左へと流れて行っている。と、いう事はつまり…
「ノエル、走るわよ。球が動いているんじゃない。私達の方が右へ流されている」
「え?だってあたし達は立ち止まっているし、水か何かに押し流されている感触もないけど」
「いいから。あの球見失ったら最後よ!」
なんとか二人は黒い球の列に戻り、探索を再開した。
35000個目の球を設置した時、また別の異変が起きた。球は見る見る大きくなるや、直径3メートルほどになり、ゴロンと地面に落ちるやイヴ達の方へゴロリと転がって来たのだ。
「お、お姉ちゃん?」
「逃げるわよ!ノエル。あの球の中には絶対零度の冷気が閉じ込められている。轢かれたら安全かどうか、分からないわ」
二人ははぐれないように手を繋いだまま走り出した。やがて、霧が晴れ、明るい日差しの中に出てきた。冬樹姉妹は、水田の中を走るあぜ道の上にいた。あたりは見渡す限り水田が広がっており、はるか彼方の右手にはこんもりと生い茂った森がある。ところどころ、家屋が見えるが、冬樹達が知っている家とは明らかに建材などが異なる。少なくとも、イヴ達の知る限り、こんな場所は風飛市の近くにはない。そもそも風飛市の近くに農家はほとんどないので、イヴ達は農家の家の作り等は知らないが、少なくとも風飛市の住宅でよく見るタイプの壁や屋根は使っていない。振り返ると、二人を追って来た35000個目の黒い球がすぐ後ろにあった。ただし大きさは5センチに戻っており、イヴの手のひらの上くらいの位置で静止している。
「別の世界へ来たのはいいけど、風槍さんもここにいるのかな?」
34999番目の球は、35000個目の球から30センチほど離れて、やや上の方にずれた形でぼんやりともやがかかったような感じで見えた。少しあぜ道の端に寄らねばならないようだ。そして、34998番以前の球は見えない。
「えっと…」
イヴはダメ元で35000個目の球の脇を通り抜け、34999番目の球へ向けて片足を宙に上げて踏み出してみた。すると、風景が少しぼやけ、宙にあるはずの足はしっかりと地面のようなものを踏みしめ、イヴの視界には34998以前の球の列がぼんやり見え始めた。
「ノエル、どうやら戻る事はできるみたい。ならここに風槍さんがたどり着いていないか辺りを探し回ってみましょう。」
しばらく辺りを探していなければ、またあの球の列をたどって今度は別の時空へ行けばいい話だ。
しかしそこまで手間をかける必要はなかったようだ。いくらも行かないうちに、二人はあぜ道の上でぼう然と立ち尽くす風槍ミナを見つけた。
「風槍さん、よかった。迎えに来ました」
「冬樹さん達、どうして?」
言いながらも、かなりホッとした表情で風槍ミナは言った。
イヴの見込み通り、35000個目の球から逆に辿って、三人は周囲の風景が妙にぼやけた薄暗い空間を辿り、元の世界へ戻ることができた。道中で風槍ミナは
「さっきは酷い事言ってごめんなさい。約束を反故にしていいように利用されただけかなと思ってしまったものですから…あなた達を誤解していました」
と、頭を下げて来た。
「いえ、私も風子会長の態度を見れば、同じような考えが頭をよぎったので…ただし、私達は約束は破りません。だいたい、自分達が困った時だけ『助けてほしい、そのかわり裏世界も救いますから』と言っておいて、いざ自分達の世界の霧の魔物を裏世界の人たちの協力もあって倒したら、手のひらを返したように『今テロリスト対策で忙しいから』はないです。まるでそれじゃ昔見た映画、アラビアのロレンスそのままじゃないですか。当座の戦争に勝つためにアラブ人を利用しておきながら、いざ戦争に勝ったら約束などポイしたどこかの国と一緒だわ。グリモアはイギリスにあるネティスハイム校と良い関係を築いているからあんまり言いませんけどね」
と、イヴは答えた。
氷川達のところへ戻ると、もう風槍ミナは戻ってこないと諦めていた仲月さらと桃世ももは、とても喜んだ。そして口々にここへ来る直前の生徒会室の前での発言を詫びてきた。そのたびに、イヴはミナに言った事を繰り返した。
「お姉ちゃん、裏世界の人たちに分かってもらえて良かったね」
ノエルがはしゃいで言う。
「風槍さんだけでなく、私達の名誉と信頼も探しだす事ができたようね」
感慨深げにイヴは言った。
冬樹達が裏世界で奮闘している最中、風子会長は時間をなんとか作って、ショインカ国連事務総長と会う約束を取り付けた。もちろん、裏世界を救うための援軍の相談のためである。
人の気も知らねーで、誰が「いいところ取りの恥知らず」ですって?
裏世界の仲月や、後任の風紀委員長の冬樹から散々言われた事は、風子も自覚していた。
「だいたい、マスコミも新政権になってから三カ月は、色々準備があるだろーというので政権への批判を控えるとゆーのに、4月になって10日も経たねーうちに、アンタさん方は鬼でやがります」
「私達が鬼だと言うのですか?」
つい声に出してしまったようだ。水瀬薫子副会長が風子を睨んでいる。
「いや、ちげーます。約束は約束ですからねー。とっとと仕事を軌道に乗せられねーウチが悪りーんでやがります」
「ああ、少し前に裏の仲月さんや冬樹さん達に詰め寄られた件ですね。着任早々大変でしたね」
「いえ、まぁここで約束を反故にしたら、ウチらがいいところ取りの恥知らずになりやがりますからねー。で、なんとか今月中にショインカ国連事務総長と会う約束を取り付ける事ができたので、着任早々申し訳ねーですが、来週2,3日開けます。」
「通訳は連れて行かなくて大丈夫ですか?」
朱鷺坂チトセ書記が聞いてきた。
「英語ならなんとかなるのでふよーです。」
翌週、ニューヨークの国連本部に乗り込んだ風子会長は、そこで恐ろしい思いをして帰って来た。
会見の前に、ショインカ事務総長と、偶然にも国連本部のビルのエレベーターの中で一緒になったのだが、風子がびっくりした事には、ショインカの爺さん、あろう事か風子の尻に触って来たのだ。一瞬、風子は何が起きたか分からなかった。知識として、アメリカの大統領にはツイッターで女性蔑視とも取れる発言を平気でする人が選ばれたとか、海外は日本とは違い、酷いセクハラにあって泣き寝入りする女性が多数いて、その中の何人かが裁判で加害者の男性を告発すると、ミートゥーとばかりに続々と被害を訴える女性がいるとか、そういう話は知っていた。しかしまさか、国連のトップがそんな事をするとは…?
何が人権でやがりますか。冬樹、アンタさんが心酔しているその考えはまやかしでやがります。ウチは今国連のトップからセクハラされやがりました。国連が説く人道、人権、人間としての権利などデタラメでやがります。
モアットで冬樹イヴにそう伝えようと思った。しかしできなかった。一文字も打てなかった。怖くて。あるいは悔しくて。その後の会見では、正直言って何を話したか覚えていない。はっきりしているのは、援軍の相談はできなかったということ。ここで借りを作ったら、何をされるか分からない。風子の頭の中は、どうやったら無事にこのビルを出られるか、の一点だけを考えていた。たわいもない雑誌をして、風子は逃げるようにグリモアに帰ってきた。
「おかえりなさい。どうでしたか?」
水瀬副会長が首尾を聞いてきた。
「話す事は何もねーです。ほっといてくだせー」
見るからに落胆した声音で風子は言った。
これには水瀬副会長も結城も朱鷺坂も驚いた。というのも国連が援軍の要請を断るとは思わなかったからだ。風子の様子からすると、援軍に関して色良い返事はもらえなかったのだろうなと予想はつくが断られる理由というのが思いつかない。例えばテロ対策で忙しいと言ったところで、国連の人手がそれだけで足りなくなる事などなさそうに思えた。実際、人道援助と称して紛争の絶えない地域の住民を支援する活動を行ったり、貧困の撲滅と称して発展途上国の中でも国民が特に貧困にあえいでいる地域には生活物資を届けたり等の支援を世界各地で行っているではないか。まさか風子が話をする前にセクハラにあってしまい、ショックと恐怖で援軍の要請自体ができていない、などとは思いもよらない。風子は国連との会見の様子については、ほっといてくだせーと言ったきり、何も語ろうとはしない。水瀬達は困惑した。
「そんな事より例の作戦進めましょう。制服を変えて気分一新を図るのはいい事でやがります」
精鋭部隊の来栖や軍医の椎名などの協力を得て、新しい制服でのクエストを画策していた。しかし…
「援軍の要請が断られて、その上冬樹さん達に内緒にしていた作戦というのが、テロ対策への作戦でもなんでもなく、ただの制服一新のクエストだと分かられてしまっては、裏世界の仲月さん達からの信頼は、決定的に失われてしまうのでは…」
「ええ。間が悪りーでやがりますねー。ああそうそう、冬樹達にはウチが国連へ行った事は伏せといてくだせー」
「どうしてですか?」
「触れられたくねーんでやがります」
「い、いや、しかし、国連の石頭どもが風子会長の要請を断ったとしても、それで風子会長のせいだとは誰も思いませんよ?」
「ウチの沽券にかかわるでやがります」
「沽券って、そんな大げさな」
「特に冬樹に突っ込まれたら、ウチは何を口走るか分からねーでやがります。」
「しかし、秘密にしていたら、変な誤解を招くかもしれませんよ。それこそ会長がおっしゃったように、タイミングは最悪です」
「それでいーでやがります。」
風子は頑なだった。恥ずかしさや悔しさ以外にも、セクハラにあった事を表沙汰にして、万が一にも国連とグリモア学園の関係が悪くなってしまうのではないかという心配もあったので、風子は頑なに口を閉ざす選択をした。そんな事態に発展するよりは、ウチが恥知らずの約束破りと言われる方がマシだと考えた。もしかすると、冬樹達からは風子が、こっちの世界の霧の魔物本体を倒せた事で浮かれてしまい、約束の事など忘れてしまって新しい制服のデザインにうつつを抜かしている、などとさえ思われるかもしれないが、それでもショインカ国連事務総長から受けたセクハラについて話すつもりはなかった。
「なかなか興味深い事になっているわね」
裏世界の桃世ももの家の付近に現れた魔物達は、どうやらデタラメに動いているのではなく、まるで軍隊のように魔物の中で上下関係があって、上位のものが下位の魔物を使役しているようにも見えた。
「魔物同士が連携して組織的に行動するなんて…」
「表でも、時々見られたわよ。あのカマキリ頭の化け物がリーダーのようね」
桃世ももの家の近くで暗躍している魔物は総勢50匹。一匹一匹が、人間よりはやや大きいが、桁外れに大きな個体は無く、最大のものでもリーダー格と思しき人間の体に首から上を人の顔とほぼ同じ大きさのカマキリの頭を乗せた個体で、2メートル50センチ程度の身長だった。
「組織的に行動しているという事は、リーダーさえ倒せばあとは総崩れになったりしないかしら?」
「それは期待できるけど、確実にそうなるかはわからないわ。私達だけで勇んであのカマキリ頭の首を取ったら、周りの部下達によって返り討ちにあいましたじゃ、お話にならないわよ」
どっちみち、6人だけでどうにかしようというのは無謀に思えた。イヴ達は戦闘を極力避け、相手に気づかれないようにしながら観察し、敵戦力の分析等を行っていた。
「50人程度の魔法兵なら国連軍なら楽に集められるでしょうし、一旦帰って水無月会長を通して国連軍へ応援要請をしたらどうでしょうか?」
氷川が提案した。敵は弱くはないが、国連の魔法兵、あるいはグリモア の学園生なら一対一ならそうそう遅れは取らないように思えた。相手が50匹なら、こちらも50人揃える事ができれば、勝ち目は十分にあるように思えた。むしろ厄介なのは魔物は倒してもその魔物を生み出した力は霧となって霧散し、いずれそれは何かのタイミングで再び魔物の形をとるので、魔物を倒しても当座の解決にしかならない事だ。裏世界を本格的に救うなら、裏世界のスペインに陣取っていると思われる、霧の魔物の本体を退治する必要がある。裏のスペインに乗り込むのはもっと後のこととして、当面の目標は、桃世ももの家に迫っている脅威を取り除く事だ。
「でも、国連軍からの援軍が来る前に、私の家が壊されたら…」
桃世ももがつぶやいた。彼女にとって、思い入れのある場所だ。
「国連軍の応援が来るまで、学園生が30人ずつ二交代制で桃世さんの家を守れないか、併せて会長に相談してみるわ」
と、イヴは言った。一匹一匹の魔力は、強めに見積もってもイヴと同じ程度と思われた。弱くはないが、グリモアの学園生が30人で常時守りを固めたら、50匹の魔物軍団といえどおいそれとは手は出せないと思われた。少なくとも、国連軍の応援が来るまで持ちこたえる見込みは十分あると思われた。イヴの頭は、既に生徒会室にあって風子会長との相談というか交渉というかバトルモードになっている。風紀委員出身の会長なのだから、もう少しスムーズに話が進んでも良さそうなものだが、イヴとしてはここに来る直前の風子会長とのやりとりの印象がどうしても強かったからそんな想像をしてしまったのだ。それにしても、風子さんは委員長時代、虎千代元会長を散々言っていたけれど、虎千代元会長の方がもう少し協力的だったと思うのだけれど…などとさえイヴは考えた。
「今はダメでやがります。詳細は言えませんが、国連への援軍要請は少し待ってくだせー」
まさか本当に断ってくるとは…イヴはあきれてしまった。
「そんな事より冬樹。アンタさん国連軍への就職は諦めなせー。アンタさんにはとても耐えられないでやがります。自分で退路をふさがず、しっかり進路を考えてくだせー」
気位の高いアンタさんには,あんなセクハラの巣窟は無理でやがります。何が人道でやがりますか。正確には風子は,国連の事務総長からセクハラを受けたのであって,国連軍のスタッフから受けたわけではないのであるが、トップがああなら,下で働く人間達も似たようなものだろう,そう決め付けての発言であった。もちろん,ショインカ国連事務総長からセクハラを受けた事は話せないので,そうした自らの考えは述べず,結論だけを風子は話した。しかし…
一体この会長は何を言っているの?支離滅裂もいいところじゃない。めちゃくちゃだわ。イヴはそんな感想を風子に抱いた。イヴはセクハラの話など当然知らず,よもや風子が国連へ援軍を要請しに行って,国連事務総長からセクハラを受けて恐怖心のあまり,援軍の話もできずに帰ってきている,などとは夢にも思っていない。
「しかし、このままでは、裏世界の桃世さんの家は…」
やっと声を絞り出してイヴは言った。
「50人ほどでよければ、ネティスハイムなどの他校への応援は頼めないのですか?」
横から水瀬副会長が助け船を出す。
「そうでやがりますね。相談してみます」
「もうひとつ、ご相談が…」
「なんでやがります?」
「裏世界の魔物は、いつ桃世さんの家のある界隈を襲撃してもおかしくない状況です。他校からの援軍が到着するまでの間、グリモア学園生で30人体制で警備する体制を作りたいのですが…」
「冬樹。今はウチらは秘密の作戦の準備をしているでやがります。学園として体制は作れないでやがります。」
イヴは憮然として生徒会室を出た。
「まさか断られるとは思ってもみなかったわ。国連への要請は不可、他校への応援要請なら考えないでもない。ただしその間、グリモア学園として守備隊を作って守るのはダメですって」
風紀委員室に戻ったイヴは、待っていた風紀委員達と裏世界の仲月達に、経過を報告した。
「いったい生徒会は何を考えているのよ」
「そのセリフ、水無月前委員長とまったく同じですね。ニンニン」
服部がツッコミを入れる。
「風紀委員の事をよく分かっている人が会長になったから、その辺は少しは改善すると思っていたのだけれど…」
「それで、お姉ちゃん、これからどうするの?」
風紀委員でもないのに、なぜかいる冬樹ノエルが聞いてきた。
「そうですね…どこからか30人かき集めますか。他校からの援軍の話もどこまで当てになるかわからないけれど」
「それにしても国連ってずいぶん不親切ですね。私達を、つまり裏世界も救うってはっきり約束してくれたんですよね?」
たまりかねて仲月さらが口を挟んだ。
「その辺がよく分からないのよ。詰め寄ろうとするとなぜか水瀬副会長まで一緒になって今はダメだの一点張り。うちの生徒会、国連に何か弱味でも握られてるんじゃないの、とさえ思えるような対応だったわ」
「あの時国連がたしかに約束したと私達に断言していた遊佐鳴子に頼んで,証拠というか国連が決議する様子を動画で見せてもらったから、それは確かだと思うわ。」
裏世界の風槍ミナがコメントした。
「ただし,当時の虎千代会長の様子をその動画で見る限り,緊張はしていても特に国連に弱味を握られている様子はなかったから、今の生徒会の対応は、確かに不自然ね」
と,付け加えた。
「守備隊なら,私も立候補していいですか?軍隊経験もあるし,遅れは取りません」
七撫が言った。もっとも,留守の間の風紀関係の取り締まりをどうするか、という問題はありますが、と付け加えた。
「その事なんですけど、委員長の許可が頂けるなら,私達が留守の間の風紀関係の取り締まりは,『氷川紗妃ちゃんに監視され隊』の人達にお願いしようかと思うのですが…」
と,氷川が提案した。
「なんスかその,聞くからにアヤシゲな名称は?」
服部がツッコミを入れた。
グリモア学園には,魔法使いに覚醒した学生,生徒が断続的に転入してくるが,彼らの中には少数とはいえ男子生徒もそれなりにおり,その中には氷川の厳しい取り締まりにもかかわらず,氷川のファンクラブのようなものを形成している者達もいた。そのファンクラブの名称が,『氷川紗妃ちゃんに監視され隊』なのであるが…
「任せた瞬間,学園の風紀が乱れまくる事はないですよね?」
名称のアヤシさからか,七撫が心配そうに聞いてきた。
「私が見る限り,真面目で信頼できる生徒達だと思います。もっとも,そんなそぶりを見せたら浮かれて何されるかわからないので,彼らの前ではツンデレを装ってますが…」
ちなみに,学園内のファンクラブの最大派閥は『風子委員会』であり,その名の通り水無月風子のファンクラブである。虎千代が次の会長に風子を選んだのは,一説には風子委員会の影響力を考慮したからとも言われている。なお,服部梓のファンクラブは『梓推しの隠れ里』,浦白七撫のファンクラブは『七撫ちゃんと一緒に青春しよ』であり,取り締まる側の風紀委員にも,男子生徒のシンパは一定数いる。男子は女子より魔法使いの絶対数は少ないが,だからといって各々の実力が女子より劣っているわけではなく,実際,風子委員会のメンバーの中には,始祖十家と比較しても遜色のない,凄まじい実力の持ち主もいる。グリモア学園の男子生徒といえば,真っ先に現在,風子会長の秘密の作戦の準備に駆り出されている、あの『転校生』が思い当たるが,他にも特筆すべき実力を持った者たちはいた。
「今は猫の手でも借りたいから,彼らが引き受けてくれるなら,甘えましょう」
イヴは氷川の提案を受け入れた。もっとも,魔法使いの男女比は,2対8で女性が多く,グリモア学園も例外ではない。仮に『転校生』以外の男子生徒全員の協力を取り付けられたとしてもせいぜい20人…他の手も考える必要がありそうだった。
「こっちの世界の冬樹さんなら,どんな状況でも間違っても男子生徒に頼る事は無かった。一体,『表の世界』では何があったのよ」
裏世界の桃世ももが感嘆して声を漏らした。
「それだけ,私達との約束を重視してくれている、という事じゃないかしら」
霧の中の迷子の一件以降,イヴ達への考えを改めたミナが言った。
「委員長,朗報っス。天文部の皆さんの協力を取り付けたっス」
教室で冬樹イヴが,男子生徒の中でも実力のある生徒達に協力をお願いしようと頭を下げていると,後ろから服部梓が声をかけてきた。
「他校の連中に,グリモア学園生は何もせずに寝てたと思われるのも癪だしな。そういう事なら俺達も協力するぜ」
天文部に遅れを取るまい,と思ったわけでもないだろうが,直前までイヴの話を聞いてどうしようかと考えあぐねていた男子生徒がそれを聞いた途端に言った。彼は個人として魔法使いの実力が高いだけでなく,風子委員会の顔役的な存在でもあった。
「風子さんが動けないなら,親衛隊が一肌脱がなきゃいけない事もあるだろうさ」
こうして風子委員会の総勢11人が,協力してくれる事になった。学園内のどの部,委員会よりも人数が多い。加えてその中には虎千代前会長や,始祖十家と比較しても遜色ない実力の持ち主も数名いる。事実上の学園内の最大派閥だ。
「お姉ちゃん,散歩部のみんなの協力も取り付けたよ」
後ろから冬樹ノエルが声をかけてきた。
「ダメよ。危険なのよ」
散歩部は,ノエルの他には表世界の仲月さらと瑠璃川秋穂がいるが,二人とも魔法の実力はともかくまだ幼く,イヴとしては今回の危険な任務へ従事させるわけにはいかなかった。ちなみに裏世界の仲月さら達は,表世界の仲月達より10年以上年上である。裏世界といっても,表とは時間が少しずれているようであった。イヴが断ろうとすると,背後から声がかかった。
「何が『危険』なんだい。元はと言えば,風紀委員長が生徒会長に約束を履行させられなかった事が原因じゃないか」
怒声にイヴが振り向くと,グリモア学園を卒業して今はグリモア軍に所属している瑠璃川春乃と朝比奈龍季が立っていた。
「アンタたち新旧の風紀委員長がだらしないのは勝手だけどね,そのせいでグリモア全体が約束軽視のいいとこ取りのいけ好かない連中だなんて裏世界の人間に思われたら迷惑なんだよ。アンタらの不始末の尻拭いを買って出てやろうと言ってるんじゃないか。秋穂と仲月の安全は任せな。その代わり,裏世界との約束はきっちり果たしな」
「天文部と散歩部はもしかしたらと思ってましたが,男子生徒達の大半の協力も取り付けましたか」
生徒会室で,報告を受けた風子が意外そうに言った。
「風紀委員だけでなく、男子生徒やグリモア軍の一部からも,今の会長は何をやっているのかという声も聞こえてきています。国連で何があったのか,明らかにすべきではありませんか?」
薫子副会長がそう進言した。
うるせーでやがります。ウチだってすべてぶちまけてショインカ国連事務総長の悪行を洗いざらい全校生徒を集めて言ってやりたいですよ。で,その後どーなるでやがります?国連との関係が悪化して,ワリを食うのはウチらの方なんですよ。
「風子さんてさ、風紀委員長時代にはやれルールを守れ,さもないと懲罰房行きだなんて言ってたけど、いざ自分が会長になったら、約束一つ守れないんじゃん」
教室で,あるいは校内の廊下ですれ違いざまに風子はそんな事を言われた事もあった。
ウチの気も知らないで,みんな好き勝手言ってくれるでやがりますねー。
その日のうちに,天文部,散歩部+グリモア軍の二人,風子委員会、氷川紗妃ちゃんに監視され隊,梓の隠れ里,七撫ちゃんと一緒に青春しよ,の協力を取り付けた冬樹イヴは,総勢28名で裏世界へと向かって行った。留守の間の風紀委員の仕事は,氷川紗妃ちゃんに監視され隊の中の一人にお願いした。最初の予定では,氷川紗妃ちゃんに監視され隊全員にお願いするつもりであったが,そうすると人数が足りなくなってしまう事や、風紀を乱す最大の要因と思われる例の『転校生』は,風子会長の秘密の作戦の準備に忙殺されているようなので、留守中の学園での風紀関係には,最低限の人数だけを割く事にした。
桃世ももの家に到着すると,早速魔物が数匹襲いかかってきた。こちらは28人もいるので,撃退は簡単だったが,その後も五月雨式に襲撃があった。
「冬樹。連中,軍隊のように統制された動きしていたのだろう?大勢で押しかけた私達の事を偵察に来てるのではないか?」
春乃や龍季と同じく,グリモア軍からの助っ人として参加している神凪怜がイヴに言った。
「魔物側にここが重要な拠点か何かだと認識されてしまうと,他校の応援が来る前に,魔物の総攻撃が始まってしまうかもしれないわね…」
イヴは考えこんだ。
「いい傾向だ。このまま各個撃破で殲滅してやろうぜ」
声に振り向くと,風子委員会の猛者が,一人で5匹目の魔物を倒したところだった。彼一人で,魔物50匹の10分の1を倒した事になる。虎千代前会長と互角だったとか、始祖十家にも比肩しうる実力を持っているとか,色々噂を聞くが,それはどうやら伊達ではなかったようだ。しかも猛者は彼一人ではない。
「なぁ,裏世界の風子さんって,男子生徒は使いこなせていたのかな」
別の猛者が声をあげる。まるで『俺たちがいれば風子さんに遺書を書かせる事も無かったろうに』と言いたげだ。魔法使いの数は女性の方が多いが,男性の魔法使いの実力が女性より劣るわけではない。実際,世界最強の魔法使いは男性だったりする。しかしながら,私といい風子会長といい,男性優位の社会に対する無意識の反発のせいか,意図的に男子生徒を軽んじ,活躍の場を与える事なく不当に冷遇してはいなかったか,反省する必要があるかもしれないなとイヴは考えた。実際,虎千代前会長も風子会長も,重要な局面で使っている男子生徒は例の『転校生』だけだ。他の男子生徒は,実力が女子に比べて劣っているわけでもないのに、全く使っていない。
「男ってのは女を守るために生まれてきたんだから,これを機にもっと頼ればいい」
そんな声も聞こえてきて,「おい,女性蔑視とかジェンダーがどうのこうのと言われるぞ,声を落とせよ」などと別の男子生徒がたしなめたりしている声まで耳に入って来た。考えてみれば,確かに今まで,私を含めたグリモア学園の女性の魔法使い達は,男性と対等以上の力を身につけたという事で不自然に背伸びをして,男子を無視していたかもしれない。男女平等とか,女性活躍社会というのは,決して男性は下を向いて大人しく冷遇されていろ,という話では無かったはずよ。男性優位の社会を嫌悪するあまり不自然に彼らを冷遇するのではなく、私達の片割れに対して正当に遇する必要があるのではないかしら。先日ノエルから,お姉ちゃんは片肺飛行をしていると指摘されたけど、もしかして片肺飛行しているのは,私を含めたグリモアの女子全員なのでないだろうか…
「お姉ちゃん,敵のボスが来た…」
ノエルの声に視線を上げると,少し遠方から,例のカマキリ頭の魔人が手下を従えてやって来るところではないか。
「風子委員会の連中ばかりにいい格好させるわけにはいかない。少しは俺たちも見せ場を作らないとな」
氷川紗妃ちゃんに監視され隊のメンバーが,敵の斥候と思われる魔物を倒した。すると恐ろしい事に,死体は霧となって霧散したあと,カマキリ頭の魔人のそばまで漂っていき,別の魔物として再生したではないか。敵は数の上では50匹とあまり多くはなく、一匹一匹もさほど強くはないが、これではキリがないではないか。
「これではキリがないですね。霧だけに」
声に振り向くと,グリモア軍からの応援の一人,雪白ましろがいた。
「事情は分かりませんが、会長が動けないならOGが出張る必要もあるでしょう」
ましろはそう言った。
現在,イヴ達は数の上では劣っているものの、各々の力は魔物に負けてはいない。しかしながら例の『転校生』がいないので、魔力が無制限というわけではない。敵が倒されても倒されても、ああして再生するのであれば,いずれ魔力切れでこちらが敗北するのは明らかだ。なんとかしなければ…
イヴがどうしようかと考えあぐねていると
「なんだ。そういう事か。ならこうしたらいいんじゃないか?」
七撫ちゃんと一緒に青春しよう,のメンバーがそう言うや,魔物の一匹を倒す。するとその死体は,霧となって漂う代わりに…
「カムイコタンって知ってる?私,そこの出身なの」
浦白七撫の声が空中から聞こえたと思った次の瞬間,等身大の浦白七撫の彫像が霧から現れた。その像は,どうした仕組みか,動きこそしなかったものの「カムイコタンって知ってる…?」とセリフを繰り返しながら言っている。
「妙案だな。なら俺達は風子さんの彫像を作ろうぜ」
あっと言う間に周囲からは「懲罰房行きです」と言う声とともに,水無月風子の等身大の彫像が数体,現れた。風子委員会のメンバーが,魔物を10匹ほど,手早く倒した結果だった。
「あなた,服装が乱れていますよ。服装の乱れは心の乱れ」
氷川紗妃ちゃんに監視され隊も続いた。紗妃の彫像も二体,三体と増えていく。
「霧の魔物ってのはこっちの思考を読み取って,敵意を感じたら魔物になるんだろう?だったら倒した瞬間,別の事を強く思えばこういう芸当もできるかなと思ったまで」
男子生徒達が得意げにイヴ達に種明かしをする。
イヴ達もやってみようと思ったが,なかなかうまくいかない。倒した瞬間,チューリップやバラの花などを強く思い浮かべようとするのであるが、思いの力が強くないからかどうか、いずれもうまくいかず、霧となって霧散し,カマキリ頭の前で再生した。
一方で男性生徒達は総じてうまくやっていた。みるみるうちに魔物の数は半分以下になり,風子,紗妃,七撫,梓の等身大の彫像が多数林立していった。
「風紀委員長として,あなたの行動は監視しますよ」
見るとなぜか等身大の冬樹イヴの像まであった。俺達からのプレゼント,と男子生徒達が言った。「お姉ちゃんばっかりずるい」とノエルが言うや,すぐとなりに等身大のノエルの彫像が現れた。その上,ノエルの像はイヴの像と手を繋いでいたりする。ノエルはすっかりご満悦だ。一方でイヴは,「ちょっとノエル」と恥ずかしがって真っ赤になっている。
「援軍が欲しいのだろう,水無月くん。ではどうすれば良いか分かっているね」
「やめてくだせー。仮にも国連のトップがそれでいーんでやがりますか。人道だ人権だ女性の権利だと,どの口が言うんでやがりますか!」
叫んで風子はガバっと飛び起きた。寮内の自室のベッドの上。あたりはまだ暗い。枕元の時計を見ると午前3時だった。どうやら悪い夢を見ていたらしい。まだ息が荒い。
やってる事が支離滅裂だ。自分が悪者になれば秘密を守れると思っていた。そして自分は悪者になっても耐えられると思っていた。ところが実際に方々から「風子会長は何をやっている」などと声があがり,教室などで聞こえよがしに嫌味を言われたりもすると,実は耐えられませんでしたと悩み,悪夢まで見て飛び起きるわけだ。すみません,やっぱり悪者になるのは耐えられませんでした。今までのはみんななかった事にしてください。しかし,国連でセクハラにあった事など言えません。何も言わずに察してください。お願いします…
それもこれもすべて,ショインカのエロ爺が悪いんでやがります。男はみんなロクでもねーでやがります。前会長の虎千代以上に,男子生徒は冷遇してやるでやがります。
まだ暗い部屋の中で,風子はそんな事を考えていた。
結果は完勝だった。カマキリ頭の魔人が率いる魔物軍団は,まるで冗談のようにあっけなく全滅し,後には「懲罰房行きです」と「服装の乱れは心の乱れ」と「カムイコタンって知ってる?」と「1日3食納豆」の大合唱とともに,数十体の彫像が残されるのみとなった。これらの彫像は,動くわけでもなく、決まった言葉を定期的に繰り返すだけで害はなさそうだった。おそらく,立華卯衣やさらの友達のシローと同じように,人間にとって無害なものになったのだろう。それにしても、男子生徒達の助っ人がなければ、こうはいかなかっただろう。戦力的な面ももちろん,霧となって無制限に再生する敵のサイクルをいとも簡単に崩せたのも彼らのおかげだ。イヴは改めて,頼れるのは女性だけ,とばかりに肩肘張ったやり方をするのは間違っていると実感した。
イヴ達は意気揚々と凱旋し,風子はイヴ達の凱旋を喜んで迎え入れた。だが…
「冬樹,男というものは筋肉とペ◯スでしか物を考えられねー連中でやがります。できるだけ男子生徒は重用しねー方向でおねげーします。」
「お言葉ですが会長。私達のそうした考えこそがグリモアの欠点,改めるべき点だと痛感いたしました」
「ほう,冬樹の口からそんなセリフがもれるとは驚きですねー。さては寝て考えを改めやがりましたか」
「会長。私もまさか男性ではなく女性の口からセクハラされるとは思いもよりませんでした。一体どこまで落ちれば気がすむんですか」
風子の遠まわしな嫌味に対し,イヴは昂然として言い返した。さらに続けて
「ああそうそう。会長が以前私におっしゃっていたように,確かに昔,イヴが知恵の実を渡したせいで,人類は楽園を追い出されはしました。しかしその知恵を使って私達は,寿命を二倍にしたわよ。私達と遺伝子が一番近いチンパンジーが,僅か38年ほどしか生きられない事を考えあわせると,ね」
と言い放った。そこで風子はようやっと我にかえった。
「いや,これは失言でしたね。みなさんよくぞ無事で帰って来てくれました。」
「ところで…転校生さんや精鋭部隊,椎名軍医などを巻き込んだ作戦って一体なんなんです?」
いい加減,教えてくれませんか?とイヴ達は言った。
「そ,それは…」
覚悟は決めていたはずであるが、いざとなると風子は言い淀んだ。
「なら私から説明しましょう。私もその作戦に駆り出される人間の一人なのですが…どうやら会長はグリモアの制服を新しくしたいようで,そのための試着とかなんとか聞いてますわ」
と,グリモア軍からの助っ人として途中から参加した雪白ましろが言った。
「なんですって?」
イヴは一瞬,意味が全く分からなかった。それでは,まるで風子会長がテロ対策ともなんの関係もない,ただのお気楽な着せ替えを,裏世界を救うという約束より優先したように見えるではないか。
「いつもの冗談,ですよね」
氷川が真っ青になって,ましろにすがるように言った。
背後では七撫と梓が,勘弁してくれとばかりにヘタリ込む気配を感じた。裏世界の仲月さらや桃世もも達の表情がみるみるうちに変わっていくのも,改めて彼女達の顔を見なくても気配で分かった。
「残念ながら冗談ではありません。そうですよね,会長」
と,ましろはダメ押しとばかりに風子に言った。
「参りましたね。アンタさんには当日まで内容を伏せておくつもりだったんですが…一体どこから情報が漏れやがったんでしょうか。そのとーりでやがりますよ」
イヴはがっくりとしてその場にヘタリ込んだ。まさか会長がそんな事を優先して裏世界を見殺しにしようとしていたとは…
「お姉ちゃん…」
ノエルが気遣うようにイヴに歩み寄る。
「冬樹さん。もういいんです。あなたの誠実さは伝わりました」
裏世界の仲月さらがイヴのところに来て言った。
「私達は協定を進めます。私達年寄りの仕事です。」
裏世界の仲月さらは,表より10年以上未来の時代とみえて,仲月さらにしろ風槍ミナにしろ桃世ももにしろ,冬樹イヴ達よりはかなり年上だった。ただし,年寄りというほど年齢が上というわけではなく,あくまでイヴ達と比較して,という事であろうが…
「あなた方若者は戦う。戦いの長所は若者の長所,つまり勇気と未来への希望なのです。しかし年寄りは平和を作る。そして平和の短所は年寄りの短所,つまり不信と警戒感なのです。そうに違いありません。イヴさん達に対する私達の感謝の気持ちは計り知れません」
しかしイヴには,そんな仲月のセリフも虚しく響くばかりだった。不信感と警戒心!裏世界の人達に,その単語を言って欲しくなくて、あれほど頑張ったというのに…
イヴは今すぐにでも風子会長に掴みかかりたかった。「このバ◯殿。こっちの世界の霧の本体倒して何を浮かれているのですか。新しい制服?人をバ◯にするのもいい加減にしなさいよ!」
風子会長は,そんなイヴ達の内心も知らずに,新制服についてあれこれ思いを巡らせていた。試着コースは,デートスポットとしても定番になっているあの岬のあたりにでもしやがりましょうかね…
風子さんが会長に就任する前には,「風子の遺書」で風子新会長の仇が裏世界の魔物と印象付け,会長就任時には風子さんが「魔物の脅威はまだ去っていない」と言っておきながら、なぜ原作では風子さんが裏世界を救うという約束を放置して,新制服のクエストに花嫁イベント(これは新制服のイベント後の2019年6月頃になります)へと向かったのか…個人的に疑問を感じていて,できた話がこれです。こういう事ならあり得るのではないか、と。原作ではショインカ国連事務総長は完全な善玉に書かれていて(2020年2月10日現在),こんな悪い一面があるとは思えません。しかしながら、先日私が偶然読んだナオミ・オルダーマンさんの著書「パワー」を読む限り,外国の政府高官は結構平気でこうしたセクハラを行う事や,男性と女性ではこうした事に対する捉え方がかなり異なる事から,男性の原作者と自分を含めた男性プレイヤーから見たショインカ国連事務総長と,女性の目から見たそれとではかなりの隔たりがある事もありうるかなと考えて,原作では語られることのなかった物語の裏で,こういう事も起こり得たのではないか、と思ってこの物語ーグリモアのロレンス編ーを書きました。みなさんの中で,「ああ,こういう解釈も面白いよね」と思っていただけたら,これに勝る喜びはありません。
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卒業後ー霧塚さんの災難
「おい、そこの魔法使い。席を譲りな」
イヴは黙って席を譲ったが、内心は怒りでいっぱいであった。
霧の魔物もクマの魔物もいなくなり、人類には平和が訪れたように見えたが、魔法使いの人権は無視されたままだった。バスなどの公共交通機関の利用も、かなりの制限があった。例えば、今イヴが一般人の若者にバスの席を譲ったのも法律に基づくものである。魔法使いは、バスで席に座ることさえままならない、そんな程度の扱いを受けていた。
イヴは3年前にグリモア学園を卒業し、首尾よく国連軍にエリート候補として採用され、現在では中尉になっていた。採用直後はエジプトでの勤務を命じられたが、現在では風飛にある日本支部での勤務となっており、自宅から通勤していた。
「魔法使いの公共施設等の利用制限の法律、まだあったのね。驚いたわ」
帰宅するなり、イヴはノエルに不満を漏らした。ノエルは卒業後、グリモア軍に入り、自宅から通勤する毎日だった。卒業生の大半は、ノエルと同じようにグリモア軍に就職していた。
「元気盛りの20代前半のお兄ちゃんに席を譲らされたわ。法律とはいえ、面白くはないわね」
「エジプトではどうだったの?」
「バスで席を譲れなんて法律こそないけど、似たような馬鹿馬鹿しい制限ならあるわ」
これでも日本は、姉原議員などの働きで、かなりマシにはなっていたのだが…
しかし、うまく法律に適応できなかった者もいた。霧塚萌木はイヴと同じように卒業後、グリモア軍には就職せず、国連図書館に職を見つけ、海外で勤務していたのだが、グリモア軍が所有している図書に用事があり、一時的に帰国して、風飛市のバスに乗っていたのだが…
「あの、あなた、元気そうではありませんか?どうして私が譲らなければいけないんですか?」
霧塚は、席を譲れと迫って来る若者を見た。これがお年寄りだったり、若くても怪我などして明らかに具合が悪そうに見えれば、言われる前に席を譲っていたところなのだが…目の前の若者は血色もよく、とても元気で健康そうに見えた。バスの運転手が、バスを止めて霧塚のそばへ歩みよって言った。
「席を譲ってください。さもないと警察を呼びます」
「この人がお年寄りか、病気なら、私も喜んで譲ります。しかし、どう見ても譲る必要があるとは思えません」
「仕方ないですね。警察を呼びます」
「正気ですか?どうぞ」
霧塚はあきれて言った。
ほどなくして警察がやってきた。
「悪い魔法使いが暴れていると聞いてやって来ました…って霧塚じゃねーですか。何やってやがるんですか?」
「水無月会長、いえ刑事と呼ぶべきかしら。お久しぶりですね。警官の格好も良く似合ってますよ」
「そりゃどーも。おかげさんで今は警部補です…ってそーじゃねーでやがります。アンタさん、法律を破ったそうじゃねーですか?」
「法律?バスの中で見るからに元気そうな若者に席を譲らないのが、逮捕に値する事なんですか?」
「そんな事は知ったこっちゃねーですよ。法律は法律です。残念ですがアンタさんを逮捕します」
「私も残念です。あなたは学生時代、覚醒したばかりの魔法使いを安心させたいから警察官になるとおっしゃっていたではありませんか。それなのに、魔法使いを弾圧するような仕事を率先してやるなど…」
「昔話でほだそうったってそうはいきません、続きは署で聞きます」
かくて霧塚は逮捕された。
「え?霧塚さん、逮捕されちゃったんですか?」
「そうなのだ。びっくりなのだ」
「たかがバスで席を譲らなかっただけで逮捕だなんて、いくらなんでも無茶苦茶ですぅ」
イヴの家に知らせに来たのは、在学中霧塚と同じ図書委員だった七喜ちひろと、彼女達と一緒に図書室に入り浸っていた与那嶺里菜だった。二人とも今はグリモア軍に所属していて、青い顔をしてイヴのところに飛んで来たのだ。
「なんとかしないと…でも一体どうすれば?」
イヴは考え込んだ。
「脱獄させるのだ」
「ダメよ。それじゃテロリストと同じで、成功しても未来は無いわ」
「水無月元会長にお願いするのはどうでしょうか?」
「嫌な言い方だけど、一介の警察官にそこまでの権限は無いわ。」
「ではこのまま泣き寝入りですか?」
ちひろが悲しそうに言った。
「まさか。なんとかして声をあげるしかないわ。どうやってかは、私にも正解は分からないけれど」
「お姉ちゃん、ノエルにできる事はない?」
家の奥から、ノエルがひょっこりと顔を出した。
「そうそう、ノエル。今からグリモア軍へ行って、一年くらい、そこの敷地から一歩も出ないでちょうだい」
「へ?なんで」
「お姉ちゃんは、今から、世間に対して、魔法使いに対して、たかがバスの席を譲らないだけで逮捕するようなばかげた弾圧というか差別をやめるように声をあげていくつもり。そうすると、私を黙らそうとする人達が出て来て、おそらく彼らは、ノエル、あなたを人質に取って何かしてくるかもしれない。危険だから、お姉ちゃんとしてはノエルに事が済むまで、安全な場所にいて欲しい。で、おそらく身近で一番安全でかつ長期滞在できるのは、グリモア軍の敷地の中だから」
「そういう事なら、ノエルちゃんも一緒に声をあげるよ」
「ちょっとノエル?危険なのよ。相手はたかがバスの席を譲らないだけで平気で投獄してくる連中なのよ。いえ、正確には、そのくらいの事をしてもなんとも思わない差別意識を持った相手と戦うと言った方がいいわね。それこそ何をしてくるか分からない相手なのよ?」
「でもそれってさ、霧塚さんだけの問題じゃないよね?私も当事者の一人だよ?水無月刑事を含め、私達は全員が、魔法使いに覚醒するや、強制的に今までの学校、友達、先生から切り離されて、グリモア学園という、得体の知れない学校に転校させられた過去があるんだよ?外国の魔法使いも似たような経験してるんじゃない?そうした事も含めて、魔法使いには人権がないから声をあげたいって話じゃないの?」
「ノエル、あなたいつの間に」
「私もいつまでも子供じゃないわ」
「いいわ。そのかわり約束して。まず第一に何をされても反撃しない事。それをやった瞬間、世間からの目はテロリストと同じになるから。第二に、36計逃げるにしかず、というわけで命の危険を感じたらさっさと逃げる事。死ぬのは許さないわ。」
「それで、具体的に何をすればいいのだ?」
「里菜さんはちひろさんを連れてどこか安全な場所に隠れててください。はっきり言って勝算なんかありませんし、安全の保障もありませんから」
「それじゃなおさら、イヴさんとノエルさんだけに押し付けるわけにはいきません」
「二人だけで声をあげても世間は動かないのだ」
イヴの脳裏には、グリモア転入当時の、水無月風紀委員長のセリフがこだましていた。「この社会に反旗を翻した卒業生達がどんな運命をたどらされやがったか、じっくりお調べくだせー。世の中を甘く見ない事です」
当時と決定的に違うのは、霧の魔物がいない事。少なくとも、自殺的な任務を命じられて死ぬ事はない。もっとも、似たような不名誉で馬鹿馬鹿しい死が用意される可能性はある。しかし…
「私達の問題なのに、魔法使いでもない姉原議員などの他人に任せて何もしないってのは、やっぱり違うと思うわ」
誰に言うともなく、強いて言えば頭の中の水無月元風紀委員長への反論としてイヴはつぶやいた。
魔法使いの学校のある街だから、というわけでもないだろうが、風飛署を中心とした風飛市の警察は、日本の他の地域の警察と比べても、魔法使いによるデモなどを暴力で弾圧する事にためらいを感じない傾向があった。むしろ調子づかせると、また魔法使い達が調子に乗ってテロ事件などを起こしかねない、という考え方から、魔法使いのデモなどの活動を積極的に弾圧し、その様子をマスコミなどに報道させ、魔法使い達に「変な考えを起こすな、こうなるぞ」という見せしめというか警告を与えたがる傾向があった。
イヴ達のデモを弾圧せよとの命令が、水無月警部補達にも出た。警察の出世が年功序列だったのは昔の話で、今は警察の世界も実力主義である。先に警察官になってはいても、仕事でミスの目立つ角島祈子はまだ巡査であるが、後で警察官になった風子はすでに警部補であり、こういう事は既に警察内部では珍しい事ではなくなっていた。また、先に警察官になっていた笹下舞巡査部長(この数年で,彼女も巡査部長に昇進していた)と、風子警部補を分けたのは、魔法使いに対してどれだけ非情になれるか、であった。魔法使いの学校があり、したがって人口当たりの魔法使いの比率が高い風飛署では、魔法使いを調子づかせてテロリスト達の温床にしない事、が最優先事項であった。在学中から風紀委員として長年、顔見知りの友人達に対してためらう事なく「懲罰房行きです」と裁いていた風子は、この非情に振る舞えるという点において、笹下舞の一歩先を行っていた。
「冬樹、解散しやがりなせー。さもないと…」
デモといっても、そんな大袈裟なものではなく、「魔法使いがバスの席を譲らなかったくらいで、逮捕・投獄するのはやめてください」という趣旨のイヴ達の言い分を書いたビラを、4人で街頭に立って通行人に呼びかけて配っている程度のものであった。周りの反応は、10人中9人は無視、足を止めて話を聞く人は10人に1人いるかいないかという程度のものであり、放置しててもそれで即世論が動くとはとても思えない程度のもので、目くじらを立てて弾圧せずとも、大目に見たところで大勢に影響はなさそうではあった。しかし、風飛署の方針は、「たとえわずかな抵抗であっても、魔法使いによる差別への抗議の声は徹底的に潰せ」であった。
「さもないと、どうなさるんです?その腰につけている銃で私を撃ちますか?」
イヴは、風子達の警官隊を見ても、物怖じすることなく、毅然とした態度で話した。
「アンタさんが抵抗すれば、射殺しても警察官は罪に問われません。まぁ昔のよしみです。とっとと解散して、日常生活に戻ってくだせー。ここで死んでもテロリストとして名前が残るだけでやがります」
「それで、私達が解散して、世の中が変わりますか?あなた方先輩魔法使い達が、基本的人権が無くなった?結構、その枠組みの中で生きてやろーなどと現状を追認なさるから、たかがバスで席を譲らなかったくらいで投獄されるような弾圧がいまだに存在しているのではないのですか?そもそも、魔法使いとして覚醒したからと、年端のいかない少年少女を誘拐同然にそれまでの学校、友達、先生達から引き離して、知らない学校へ強制的に転校させること自体が、重大な人権侵害ではないのですか?」
「言いたいことはそれだけですか?冬樹。」
水無月警部補は、いきなり持っていた警棒で殴りかかってきた。
「反撃しちゃダメ。逃げて」
殴られながらもイヴは、とっさに反撃しようとしたノエルや里菜達を制止した。
「ほおー、無抵抗ときましたか。面白い、いつまで続きやがりますかね」
「ここで挑発に乗って反撃して、世間からテロリストとみなされた例はいっぱいあるわよ」
笹下舞巡査部長は、署の方針とはいえ自らが卒業した学校の後輩を直接警棒で殴る事には抵抗があるのか、代わりに警察犬を放って逃げ惑う里菜やちひろを襲わせた。そして、警察が呼んだマスコミが、イヴ達のデモが壊滅していく様をカメラにおさめていた。魔法使いへの差別に対して抗議すればこうなるぞという見せしめ記事にするのだろう。
「これが在学中、あなたが言っていた魔法使いを安心させる仕事なのですか?」
逃げ遅れたノエルをかばい、警棒の雨を浴びながらも、イヴは冷静な口調で聞いた。
「そうでやがります。魔法使い達が変な気を起こして、テロや暴動が起きねーようにするための、立派な仕事でやがります」
翌日、エレンとメアリーがイヴ達の家を訪れた。
「フユキ、今すぐデモをやめるんだ。さもないと出世に響くぞ」
「残念です。国連軍の方であれば、もう少し人権問題に対して理解があるかと思ったのですが…」
「エレンさん、メアリーさん。あなた方が国際貢献の一環として、とある発展途上国で人権侵害に苦しんでいるそこの住民を保護するために派遣されたとします。そこの住民が自らの権利を守る為に圧政を敷いている政府をなんとかしようと立ち上がった時に、彼らにやめろ、出世に響くぞと言うんですか?」
「フユキ、日本は先進国だし圧政も敷いていない。すり替えるな」
「バスで席を譲らなかっただけで逮捕される国のどこが圧政を敷いていないと言えるのでしょうか?政府当局は私達魔法使いの背中に30センチのナイフを突き刺しました。今彼らはそれを乱暴にゆすりながらも引き抜いています。15センチは出たでしょう。それだけで私達は感謝しなければならないのですか?仮に完全に抜いたとしても、傷は残ったままです。違いますか?」
「しかし、世間はお前達をテロリストと見ているぞ」
エレンが指した新聞には、ノエルをかばったイヴが警官に警棒で袋叩きにされている写真が大写しで掲載されており、見出しには「魔法使い達のワガママの果てに…」と書かれてあった。記事を読むまでもなく、イヴ達魔法使いがワガママを通そうとしたためにこんな目にあっている。こうなりたくなければ魔法使い達よ、大人しくしろ、という趣旨の内容の記事であろう事が推測できた。
「あー、それね。私も迷ったんですよ」エレンさん、どうしましょう?とでも言いたげな口調でイヴは告げた。「霧塚さんには悪いけどこのまま黙って泣き寝入りをした方が、利口なのかな、とね。しかし、魔法使いでもなんでもない姉原議員などに任せきりで、自分達が差別されているのに声もあげないのが本当に正しいのかな、とね。どう思います?魔法使いがこの世に現れてから300年、その間には姉原議員のような、魔法使いに対して理解のある政治家もいたわ。でも現状はどうでしょうか?魔法使いに覚醒した子供達は例外なく今までの学校、先生、友達と切り離されて、魔法使いだけの学校へ入れられる。これが人種差別に基づいて、人種の違う人間を特定の学校へしか通わせない人種隔離政策と、どう違うのでしょうか?この300年の間、魔法使い達は声を上げる代わりにテロなどの暴動を起こしてきました。その結果、かえって立場が悪くなりましたが…暴動を起こさずに声を上げる事もいけない事なのでしょうか?」
「フユキもとっくに気づいているんだろうが…国連軍の魔法兵の中には、自分達の人権が守られていないのに、途上国の住民の人権の保護に行く私達はなんなんだろうな、と言い合っている奴は少なくない。しかし、分の悪い賭けだぞ。自分の人生を棒に振って、見返りがテロリストと同じ扱い。しかも、世の中がほんの1ミリでも、そのおかげで良くなる保証も無い」
「これは私が好きでやっているんです。もっとも、もっと良い方法があれば、教えていただきたいですね。情報はいつでも歓迎いたします。それと、ノエルや里菜さん達も好きで協力してくれていますが、エレンさんやメアリーさんさえ良ければ、彼女らを思いとどまらせていただいても構いません。おっしゃる通り、分の悪い賭けですから」
「…反対に、国連軍の有志が加わるのは構わないか?」
「声を上げるなら、大勢の方が良いのでお願いしたいくらいですが、分が悪い賭けなので、なんとも…」
「好きで勝手に加わるのはオーケーなのだろう?」
「ええ、もちろん。ただ、何をされても非暴力は貫いてください。」
イヴは頭を下げた。
「ガン細胞は、小さなうちに叩いておけ」
風飛署では、風子達が署長からもっと厳しく取り締まれと激励されていた。
「奴らは増殖し、気がつけば危険なテロ集団になっているのだ。今のうちに根絶やしにしろ」
「テロ集団…なんですかねー」
ボソッと風子警部補がつぶやいた。
「水無月君、不服かね?」
「いえ。てってーてきに叩きます。今までも手加減はしてませんでしたが」
それから風子は、笹下巡査部長に向き直り
「笹下巡査部長、アンタさんも犬けしかけるだけでなく、警棒でぶちのめす作業も率先してやってくだせー。本来ならアンタさんがウチより先に警部補になっていなければいけねー人材です。妙な遠慮は無用でおねげーします」
「それと角島巡査!アンタさんデモ隊に水を撒く際、一般人にはかからないようにしてくだせー。冬樹達が非暴力を貫いている中で、警察側のそういう失点は致命傷になり得ます」
水を撒くといっても、庭の花に水を撒くのとは違い、立っている大の大人がなぎ倒されるくらいの勢いの水をホースから撒いていた。ただし、どういうわけか最近、イヴの主張に共感した一般人もチラホラ混じるようになり、祈子巡査は、生来の不器用さもあって、そうした一般人にも水をかけてなぎ倒している事からの注意だった。
「で、でも水が勢いあるから勝手に…」
「他の巡査達は魔法使いだけにかけてます。自己の怠慢を水のせいにしねーでくだせー」
「あ…ハイ」
「元風紀委員長が後任の元風紀委員長を殴りまくるって、どんな冗談よ」
少し離れた場所で、風子達のデモの弾圧の様子を撮りながら、岸田夏海はつぶやいた。
「ボクらにできるのは、事実をありのままに記録して伝える事。確かにグリモア始まって以来の珍事だけどね」
イヴはノエルをかばうように抱き抱えて、背中を風子警部補らに打たれていたが、夏海達の見ている前で、イヴは意識を失ってしまったのか、地面にくずおれるとピクリとも動かなくなってしまった。なおも容赦なくうちかかろうとする警官達に、今度はノエルが、地面に倒れて動かなくなっているイヴを守るように前に出て、とうせんぼの格好で警官達の前に立ちふさがった。
「冬樹、守ろうとしている妹に逆に庇われるのは、どんな気分でやがりますか」
気を失っているであろうイヴの耳には届かないであろうに、風子警部補はそう叫ぶと、今度は警官達全員でノエルを警棒でめった打ちにし始めた。
「アンタ達の暴力で、お姉ちゃんと私の心は折る事はできないわ」
ノエルはそう叫ぶと、その場で殴られるまま耐えていた。
「ちょっ、な、なにやってるのよ」
夏海は見てられなくなった。
「部長、ちょっとインタビューに行ってきてよろしいですか?」
「ボクはもう部長じゃないよ。好きにするといい」
つい癖で、と鳴子に答えながら、夏海はツカツカと警棒を振り回す水無月警部補へ歩みよった。
「すみません、グリモア軍放送ですが…」
「取材ならあとで受けやがります」
「無抵抗な人間殴って、そんなに面白いんですか?」
「なんですと?ウチは、いや本官は公務中でやがります」
「無抵抗な女、子供を警棒で殴る事が公務ですか。凄い言い草ですね」
「法律は法律でやがります」
「たかがバスの席を譲らなかっただけで牢屋にぶち込み、2か月以上経った今も牢屋に閉じ込められているじゃないですか。それが法律ですか?そしてその状況に抗議した無抵抗な女、子供を大の警察官が大勢で寄ってたかって警棒でめった打ちにする事が法律ですか?法律以前に人としてどうなんですか?」
「それ以上言うと、公務執行妨害で逮捕しやがりますよ」
「裏世界では、イヴさんとノエルさんは、互いにかばい合いながら魔物に殺されましたが、表世界では同じ構図で、よりによってあなたに殴り殺されるわけですか?それについて、あなたはなんとも思わないのですか?」
「はい、逮捕でやがります」
「ちょっと、やめてよ暴力は。やめなさいって言ってるのー」
夏海は逮捕され、連行されて行った。
「ノエルちゃんを助けに行くよ」
散歩部部長兼生徒会長の仲月さらは、秋穂と、グリモア軍からの支援者春乃と龍季を連れて、学園の門から出ようとしたところで、我妻梅と鉢合わせした。
「これはこれは、生徒会長どの。どこへ行くおつもりで?」
「ノエルちゃん達に加わりに行きます」
「やめな。現在でさえ周万姫やジャンヌ・エメなど他の始祖十家から、グリモア学園は何をやっているんだと言われてるんだよ。新旧の元風紀委員長の殴り合い、まぁ正確には片方が一方的に殴られているわけだが、そんな様子が連日放送されていれば、日本のグリモアは何を教えているんだという声は自然と上がる。そんな中で、現生徒会長のアンタまで行ったら、旧生徒会長が、現生徒会長を一方的に殴る場面まで追加で放送される事になるわけだ。どーなっているんだという声はますます大きくなって、私でもかばいきれなくなるよ。はっきり言って、もう限界なんだ。今日明日にでも冬樹の家に乗り込んで、やめさせてやろうと思っていたところなんだ。」
「いやだと言ったら、どうなさるんです?」
「悪いけど、選択の余地はないよ」
明言こそしなかったものの、力づくでも止める気なのは明らかだ。
「秋穂ちゃん、春乃さん、龍季さん、例の場所で」
さらがそう言うが早いが、4人は我妻梅に背を向けてバラバラになって全力で走り出した。
「ノエルちゃんからの伝言。非暴力、不服従。じゃそーゆーわけで」
「こら、待ちなさい」
同じ頃、冬樹姉妹の家には水瀬薫子が訪れていた。
「あなた方はここで死ぬべき人間じゃない。やめるのも勇気です」
「死ぬって…誰かが私達の命でも狙っているんですか?」
「お姉ちゃんが私達をしっかり守ってくれているから、そんな心配は杞憂だよ」
「あなた方の行動の反作用として、魔法使いの待遇がかえって今より悪くなるのではないかと考えている人達がいます」
「と、いう事は、魔法使いの中に私達の命を狙う人たちがいると言う事ですね?」
「えー?一般人なら分かるけど、魔法使いの中にも私達が邪魔だって言う人達がいるの?」
「ノエル、おそらく、この前私が話した、調教された魔法使い達よ」
「調教とは手厳しいですね」
薫子は苦笑した。
「水瀬さん。私の聞いた限りだと、グリモアに転校させられた当時は、あなたは魔法使いに覚醒した当時、ずいぶんな扱いをされたと腹を立てたというではありませんか。だからこそ、虎千代軍長が以前、魔法使いの権利を守るために魔法使いだけの国を作る、と主張なさった時に、一も二もなく支持したと聞いていますよ。しかし現状はどうです?すっかり現在の差別を受け入れて、あまつさえ私達を止めようとなさっているではありませんか。当時の意気込みはどこへ行ったのですか?」
そういう状況を指して、調教と表現してるんですよと言いたげにイヴは言った。
「お姉ちゃんと私は、いわばここに魔法使いの国を作ろうって言ってるんだよ。要は差別がなくなればいいんでしょ?悪い事何もしてないのにどうしてコソコソ亡命同然に未開の孤島かどこかへ集団で逃げ出して、不便な思いをしながら一から生活を組み立てなきゃならないのさ。ここの生活の便利さを享受しつつ、一般人と同じ権利がもらえれば、それが一番じゃない」
「ノエル、虎千代軍長がその理想を考えた当時と今では状況が異なるから、あんまり言うものじゃないわ」
「私は、個人的にはあなた方の行動は賛成です。しかしながら、差別されているとは言っても、ある程度の特権を手に入れた魔法使い達もいます。彼らは、現在の制度がぐらつくのを望みません。嫌な言い方をすれば、せっかく自分達だけうまく立ち回って、社会の中でそれなりの地位を手に入れたのに、最底辺のところで這いつくばっているはずの他の魔法使い達にも同じようにチャンスが与えられ、這い上がってくるのを面白くない、と考えているようです」
「水瀬さんも言いますね。お友達になりたいくらいですよ。どうです?一緒にやりませんか?」
「私は、グリモア軍でやらなければならない仕事があるので…どうか用心して、世間を導いてください」
「私は進んで死ぬ気はありませんが、『人は死んでも、その人の影響は死なない』という言葉もあります。私達の暗殺を計画・指示して成功した人達は、暴力では何も解決しない、という事実を学ぶ事になるでしょう」
「風子元会長って、魔法の実力ではたいした事ないんだろう?反撃するわけにはいかないのか?」
合流を果たして後で、龍季がイヴに聞いた。冬樹姉妹の実力なら、風子達の警官隊を圧倒できるのではないかと。
「それをやってしまうと、世間からは私達は警官を攻撃したテロリストにしか見られなくなっちゃうから、もうこちらの言い分に耳を傾けてくれる人がいなくなってしまうのよ。反撃するのは、その場では勝てても結局は私達の本来の目的を達成できず、敗退が決まってしまうわけ。しかも、今まで非暴力だったからと、私達の言い分に耳を傾けてくれたり、あるいは味方になってデモに参加してくれた一般の人を裏切った事になってしまう、というオマケ付きでね」
魔法使いへの覚醒は、魔法使いになりたくて訓練した結果なるものではない。姉妹のイヴとノエルが同時に覚醒したり、始祖十家などのように魔法使いを輩出する家系もあるので、もしかしたらある程度は遺伝も関係するのかもしれないが、現時点でははっきりした事は分かっておらず、言えるのは覚醒したのは本人の責任ではないということ。イヴもノエルも、水無月警部補も含め、故意に魔法使いに覚醒したわけではなく、本人には魔法使いになった責任は無い。そういう事情もあるので、イヴとノエル達が非暴力で世の中に訴えかけている限り、一般人の中にも一定数、同情というか理解を示す人達はいた。
「それは確かにそうなんだろうが…アンタ、このままだといつか死ぬぞ。夏海が逮捕された日なんか、かなり危なかったではないか」
殴られてできた怪我は、その日のデモが終わった後で魔法で各自で治していた。しかし、風子警部補達は、本当にイヴ達が死んでしまっても構わないとでも考えているのか、手加減を一切せずに殴ってくるので、この2か月あまりの間には、夏海逮捕の日の時のように、途中で意識を失ってしまう事も無いわけでは無かった。今後ともこういう日々がこのまま続けば、命を失ってしまう、という可能性はあった。
当初の目的もなにも、命あっての物種だろうに、と龍季は言った。
「あー、それね。私も死にたくはないんですよ」どうしましょう、龍季さん、とでも言いたげな口調でイヴは話した。「はっきりしてるのは、暴力をふるうのは不正解だという事。今まで魔法使いへの差別に対して非暴力を貫いて抗議した例はないので、今のやり方が正解かどうかはわかりませんが…魔法使い以外で言うと、過去に非暴力を貫いてインド独立を勝ち取った革命家がいらっしゃいます。ただし、彼自身は殺されてます。アメリカで黒人の権利を非暴力で主張した牧師さんもいましたが、彼も殺されています。ただし最近、アメリカで史上初の黒人大統領が誕生しました。このように、提唱者、首謀者が死ぬリスクは確かにありますが、私の調べた限りでは、非暴力を貫く事が、目的達成の必要条件です。その過程で、私かノエル、あるいは二人とも死ぬことになるかもしれません。確かにおっしゃる通り、命あっての物種です。でも過去300年、先輩魔法使い達が全員、命あっての物種と称して誰もこの道を通ろうとしなかったから、魔法使いへの差別がいまだにあるのではないでしょうか?はっきり言って、私もノエルも死にたくはないです。しかし、龍季さんは裏世界では、仲月さんのために命を投げ出したと聞いています。で、あれば今の私の気持ちも、わかりませんか?」
もちろん、もっと良い方法があれば、いつでも教えてください、情報はいつでも歓迎いたします、とイヴは結んだ。
「冬樹姉妹を始末するのは、やめた方がいいというのかい?」
「はい。おそらく今殺してしまえば、二人とも英雄になってしまい、かえって取り返しのつかない事になるかと思います」
グリモア軍の応接室で、我妻梅が水瀬薫子と話をしていた。
「あの二人、在学中はそんなにカリスマがあったという話は聞いてないんだけどね。それとも、卒業してから変わったのかい?」
「いえ、先程お会いした印象では、姉の方は相変わらず偏屈で頑固、妹の方は甘えん坊でした」
「ずいぶんな言い方だけど、仲悪いのかい?」
いえいえ、さっき調教されたと言われたもので、つい気がたって…とはさすがに言えないわね。
「今の話を聞いてると、消しても別に問題はなさそうだけどねぇ…」
「二人は、私達魔法使いが内心思っている事をうまく代弁しています」
「例えば?」
「そうですね、バスに座っていて、若い元気そうな男性から席を譲れと言われたら、どう思います?」
「法律だから、仕方ないよね。始祖十家とはいえ例外じゃない」
「それで、本心は?」
「立ってろ◯◯だね。」
「それを、我が身の危険を顧みず、表現しているからではないでしょうか?今のところ、風子警部補達の挑発にも乗らず、世間からはテロリストとは見なされていませんし…」
まぁ、時間の問題でしょうけど、化けの皮が剥がれて殴り返すようになってから、始末した方が賢明かと思います。
「そうだね。じゃもう少し様子を見よう」
やがて、海外のメディアも、イヴ達のデモを取り上げるようになった。最初に動いたのは、フランスの風刺新聞シャルル・エビド紙だった。同紙は中近東のとある宗教を風刺する記事を書いた事で過激派の襲撃を受け、その事件をきっかけに世界的に知られる風刺新聞紙となっていたが、イヴが地面に打ち倒されたノエルをかばうように覆いかぶさり、そのイヴの背中を風子警部補達が警棒でめった打ちにしている写真を掲載して、これが日本が推進しようとしている女性活躍社会の実態だと風刺したのだ。他の国の大衆紙も続いた。連日、イヴとノエルが互いにかばいあうようにしながら地面に倒され、大勢の警察官が寄ってたかって警棒でめった打ちにしている写真が掲載されるようになった。それぞれの国でも、魔法使いに対する差別は、様々な形で存在していたが、それは棚に上げて日本の魔法使いへの差別と警察の対応について批判的な内容の記事が連日掲載されるようになった。ちょうど日本がIWCを脱退して絶滅危惧種として保護動物となっているクジラを獲る事を決定した時、自分達の国でも様々な動物を絶滅に追いやった事は棚に上げて日本を批判したのと同じ構図である。社説でもったいをつけて「我々は、日本人が礼儀正しいというイメージを考えなおさねばならないかもしれない。食い意地に負けて保護動物の狩猟を始めたばかりか、今度は無抵抗な女、子供を警察官達が寄ってたかって殴りつける事が奨励されているのだ」などと書いたところさえあった。海外の一部のメディアは、日本のマスコミがこの様子を警察官側に立って報じている事についても批判し、日本のマスコミは社会的責任を果たしていない、それどころか政府の暴力的な弾圧を支持している、と報じた。
夏海が運営していた岸田タイムズには、夏海が逮捕される瞬間の様子が音声付きで公開されていた。鳴子が遠くから撮影して、アップしたものである。皮肉な事に、夏海が逮捕される前はチャンネル登録数もパッとしない数字だったが、今や再生回数は10億回を超え、登録数も1億人を超える勢いになっていた。もちろん、ほとんどが外国人によるものである。日本の良心が崩壊した日、と称して夏海逮捕時の動画が紹介された事もあった。影響は、思わぬところにも波及した。北朝鮮からは、「日本は拉致問題を語る前にやるべき事があるのではないか」などと国際会議の席で皮肉たっぷりに言った事もあった。また、アジア・太平洋地域の経済連携協定では、アメリカが自国の経済を優先して不参加、中国も参加していないことから、経済力から考えて日本がイニシアチブを取るかと思われたが、「警察官が無抵抗な市民を殴りつける事を奨励するような野蛮な国がリーダーシップを取るのは嫌だ」と関係各国が猛反発し、日本は主導権を取り損ねる事態にまで発展した。日本は、「殴っている警察官も同じ女性でしかも魔法使いであるから問題はないと考えている」などと弱々しく弁護したが、その反論は役に立たないばかりかしばしば有害でさえあった。また、他の国でも魔法使いへの差別はあるではないかという反論は、火に油を注ぐだけの結果に終わる事がほとんどだった。また、「経済問題とは無関係の事を取り上げるのは論理的ではない」などという理屈を展開する頭デッカチの人達もいたが、それは何の役にも立たなかった。日本は、次第に追い込まれて行った。
「わーはっはっは。サーバントよ、加勢に来てやったぞ」
「ま、わっちらも見てるだけではいかんと思ってな」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい〜突然押しかけてしまいました〜」
「私もあなた方に加勢するわ。心の奥底で、そうするのが正しいと訴えかけるものがあるから」
「自分、水無月先輩に殴られるのは、慣れてますしね。ニンニン」
風槍ミナ、南条恋、双美心、立華卯衣、服部梓の5人がイヴとノエルの所にやって来た。だがこの合流に反対する人物がいた。5人の後を追って来た、宍戸博士である。
「ちょっと冬樹さん、風槍さん。卯衣は人間らしく生きるために未来の私が命がけで作ったんです。こんな所で警察官に殴り殺されるために作ったのではありません。すぐ解放してください」
「解放もなにも…立華さん、そういうわけですから、どうぞお帰りください」
「うむ。アートフィシェルハートよ、我も強制した覚えは無い。帰るが良い」
風槍ミナはどういうわけか立華の事をアートフィシェルハートと呼んでいた。
「…嫌です。博士は私に人間らしく生きる事を命じました。ここを去る事は、それに反すると、私の内なる声が言っています」
「な…あなた、何を言って」それから宍戸博士は風槍ミナをにらみつけ「ちょっと風槍さん、私の卯衣を壊さないでください」
「い、いや、我は何も…」
「こやつに卯衣の内心になにかを働きかける芸当などできぬ。というか、それはお主も知っておるのではないか」
恋が助け船を出す。
「立華さん、残念ながら水無月元会長達は手加減せずに殴って来ます。壊されない保証はできませんよ」
「彼女の細腕で私を壊せるとは思えないけど、もし危ないと感じたら逃げるわ。反撃はしないから安心して」
結局、宍戸結希は、卯衣の説得を諦めて、グリモアへ帰っていった。
「一体どういう事でやがりますか。転校生さんの介入もないのに、あの冬樹の下にこれだけの人が集まってくるとは…」
ここ数ヶ月の間、風子達の弾圧にもかかわらず、イヴとノエルに賛同する人達が毎日少しずつ増えてきている事に、戸惑いを隠せない風子警部補だった。学生時代、バスの席を譲らないというのと似たような、しょうもない理由で生徒たちを懲罰房にぶち込んでも、それをきっかけとして抗議の声が上がる事などなかったし、仮にあったとしても、「懲罰房行きです」の一言で簡単に解決できた。しかし今は…
「って、服部。なんでアンタさんがそこにいるんです?」
「先輩こそ何をしてるんスか?風紀委員長も生徒会長も、学園生を守るのが仕事でスよね。卒業したら関係ないんスか?」
「法律は法律でやがります」
「その前に人としてどうかという話スよ。だいたい、霧塚先輩は、いつ出されるんスか?たかがバスの座席を譲らないだけで何ヶ月も投獄し続ける事が妥当なのかという話スよ」
「そんなの知らねーでやがります。法律は法律です」
風子警部補は警棒で殴りかかってきた。
「安い挑発スね。ガッカリっス」
服部は軽蔑した表情で、打たれるままになっていた。
「魔法使いならともかく、なんで一般人にも応援する人達がいるんですかね?」
警官達が、イヴ達の中に明らかに魔法使いではない参加者も、日々増えている事を訝しんで言った。
「冬樹達が何を主張しているか、理解もしねーで、ただ政府に文句を言いたい人達が集まってるだけだと思いやがります。そうやって魔法使いどもを調子づかせると、またテロなどに発展するでやがります」
署長がよく訓示している事であるが、そのように風子は説明した。
「状況を打開するために、一番弱い所を徹底的に叩きませんか?いままでは、首謀者の冬樹姉妹を中心に殴っていましたが、あの土下座している女魔法使いを攻撃した方が、より効果的だと思います」
警察の一人が、そう進言して来た。その意見は採用され、翌日の新聞には、涙を流しながら土下座している双美心を警察官達が寄ってたかって殴る様子が報道された。またこの様子も、心が涙ながらに謝っている音声付きで岸田タイムズにアップされ、イヴとノエルが互いにかばいあいながら殴られる様子や、夏海の逮捕時の様子と並んで、記録的な再生回数となっていった。夏海本人は牢屋の中にいたが、例によって鳴子が遠くから撮影してアップしたものである。
「これは決定的な動画だね。裏世界の心君は、魔法でネットワークを支配したが、表の心君は、魔法やハッキングといった手段を一切とる事なく、土下座によってネットから世界を変えるかもしれない」
とは鳴子の感想である。無抵抗の姉妹が互いにかばいあいながら警官達に殴られている図というのも、大いに世界の人々の心に訴えかけるものがあったが、涙ながらに土下座して謝っている双美心を、警官達が容赦なく取り囲んでめった打ちにする様子は、閲覧する者にそれと同等以上に訴えかける力があった。
警察官の出世は確かに年功序列ではなく、実力によるものではあるが、ミスの目立つ角島祈子巡査が風子に出世レースで追い抜かれたのは自業自得と見る向きがほとんどであったが、笹下舞巡査部長よりも、風子の方が先に警部補になったことについて、警察内部で面白く思わない人達もいた。警察は正義の味方とはいっても、中で働いているのは感情のある生身の人間である。国家公務員総合職試験に合格して警察官になったわけでもない風子が、20歳そこそこで警部補になった事について、面白く思わない人達はそれなりにいた。彼らは風子に聞こえよがしに「あの冬樹イヴって、学生時代、風子警部補の下で風紀委員やってたんだろう?風子警部補は何を指導してたわけ?」などと嫌味を言ったりもした。風子警部補はまだ若く、そうした嫌味を聞き流せず、過剰に反応した節がある。なら今、警棒で今まで以上に「指導」してやろーじゃねーですか。くだらない事言ってる連中は、テレビでウチがどれだけ手加減せずに冬樹イヴを殴っているか、よく見るでやがります。
このように考え、反応してしまった事で結果的に風子は、風子警部補達の過剰とも言えるイヴ達への弾圧が、かえって世間一般の同情をイヴ達に集めている事に気づけなくなってしまった。それどころか、笹下舞巡査部長が、イヴ達への過剰な弾圧をやめようと、同じ考えの巡査や巡査部長達の意見をまとめて風子警部補に話をしようとした時には、まるで聞く耳を持たず「アンタさん、署の方針を意識して行動してくだせー。魔法使いへの弾圧は徹底的に厳しく、でやがります。ウチら魔法使いの警官隊が率先垂範して厳しさをアピールしなければ、魔法使い全体へのイメージが悪くなるでやがります」と、逆に忠告するありさまであった。
「サーバントよ、これだけ味方が増えたのだから、反撃に出てはどうか」
「おぬし、イヴとノエルの主張の内容も理解せずに参加したのか?」
暴走しかかったミナを恋がたしなめた。
「風子さんを倒すのが目的じゃないので。…私達の有利な点、というと言いかた悪いんだけど、まず魔法使いへの覚醒は本人には責任がない事。インフルエンザや生活習慣病のように予防すればある程度防げる、というものではないので、暴力的な行動にさえ出なければ、話を聞いてくれる人達はかなりの割合でいるはずよ。そうなる前に、警官達の暴力的な弾圧にめげない事。これが難しいけど、一番のキーだから…」
と、イヴ。
それに、言いかたを変えれば、今まで関係ないと他人事だった一般人も、明日は我が身かもしれないわ。原因がわからないという事は、言い換えれば魔法使いへの覚醒はいつ誰の身に起きてもおかしくない事だから。差別していたはずが、ある日突然、差別される側に回る。嫌な言い方だけど、必要に応じてその辺を説明していけば、かなりの割合の人を味方にする事もできるはずよ。
「もっとも、それがいつになるかはわからないから、風槍さんがしんどいなら、後ろに下がっててください。今日もたくさん殴られたんでしょう」
「我が殴られる事で、サーバントが殴られる回数が減るのであれば、喜んでこれからも殴られよう」
「イヴさんは岸田タイムズの動画を見返した方がいい。みんな心配してるわ。顔が変形したり、顔色がずいぶん悪くなったり。みんな見てられなくなって飛び出して来てるって事は、把握して欲しい」
ボソッと卯衣が言った。
「そうそう。仲月さんなんか、我妻梅さんを張っ倒して馳せ参じたと聞いてますっス。ニンニン」
「張っ倒してはいないわ。ちゃんと非暴力は守ったんですからね」
横から仲月さらが口を挟んだ。
「ノエルちゃん達が非暴力を貫いているのに、支援する側が破るわけにはいかないわよ」
「そうそう。さらちゃん格好良かったわよ。あの始祖十家の梅さんに、『始祖十家とはいえ、あなたの言う事には従えません』て」
「ちょっと秋穂ちゃん。私、そこまでは言ってない」
「正しいものは正しい、始祖十家や風子元会長が反対しても。間違っているものは間違っている、たとえ始祖十家や風子元会長が絶賛しても」
と、さらは訂正した。
「デレック・メイスフィールド死刑囚が私と話したい、ですって?」
そんなある日のデモが終わり、自宅に帰ろうとした時に、国連軍からの有志参加者の一人がイヴに話を持ちかけてきた。
『あなたが、非暴力ながら魔法使いの差別と戦っていると獄中で聞いた彼が、ぜひあなたに聞いて欲しい話しがあると…』
デレック・メイスフィールドは魔法使いだが、イヴやノエルと異なり、暴力を使って魔法使いへの差別に対して行動を起こしたため、テロリストとして逮捕され、彼の起こしたテロでは死者も出ていたことから、死刑が宣告され、現在は国連軍管轄の刑務所で死刑執行の日を待つ状況であった。
「私は、暴力行為に訴えるつもりはありませんし、そのような行為を容認もできませんよ」
それに、私はこの場を離れるわけにもいかない。少なくとも、霧塚さんが釈放され、バスの座席を譲らない魔法使いは逮捕などという、馬鹿げた差別法を日本政府が撤回するまでは。
場所に関しては、刑務所の接見室にデバイスを置けば、イヴのデバイス越しにテレビ電話の要領で会話は可能だった。
彼が暴力行為を誘ったり、そのための協力を依頼してきたら、即座に通話を切るという条件で、とりあえずお話だけ聞く事にした。
彼の話はこうだった。彼は両親ともに魔法使いの家に生まれたが、周囲に住むおじさん達はおしなべて魔法使いが嫌いだった。そして、彼の国の法律では、一般人が魔法使いを殴っても罪には問われず、魔法使いが殴り返せば逮捕される事になっていた。だから周囲のおじさん達は腹が立ったり、不機嫌な事があると、すぐ彼の父を殴っていた。流石に彼の母が近所のおじさん達から殴られる事まではなかったものの、一家は近所の人の目から隠れるように暮らしていた。しかし、ある時悲劇が起きた。彼の父は路上で死体で見つかり、顔は変形するほど殴られた痕があった。どう見ても他殺だったが警察は自殺と断定し、普段から彼の父に暴力を振るっていた近所のおじさん達を調べようとすらしなかった。彼の父には2社から保険金がかけられており、一社は保険金が少額だったため支払われたが、もう一社は、金額が高額だったため、警察が死因を自殺とした事を理由に、保険金の支払いを拒否した。そのショックかどうか、彼の母は気が狂ってしまい、精神病院に強制入院させられたが、その時どういう治療をされたのか、彼と彼の兄弟で病院に何度請求しても、治療の記録もカルテも開示されることはなかった。はっきりしてるのは、彼の母はその病院で廃人同然にされてしまい、彼のことも、彼の兄弟のことも、顔を見てもわからないくらいにされていたのだという。おそらく、精神科医どもにモルモットにされ、効果のよくわからない怪しげな薬なんかも大量に注射されたんだろう、とデレックは話した。
「自分が魔法使いに覚醒した時は、まぁだいたいどの国も同じお決まりのコースさ。それまでの学校、友人、先生達とは切り離され、見た事もない魔法使い専門の学校に転校させられた。自分は前述の通り、近所のおじさん達が怖い人ばかりだったから、他の魔法使いとは違い、その事自体には怒りはない。だがそうは言っても自分の両親が魔法使いという理由だけでそんな目にあわされりゃ、世間に恨みも持つ。自分はあなたと異なり、有志を募って半ば当然のようにテロ行為に及んだがね。あなたの方法を見て、ああ、自分もそうやれば良かったんだなと今頃思っても後の祭りさ。テロリスト達にも理不尽な事をされた過去がある。テロをやって欲しいなどとは思ってもいないが、その事は伝えたかった」
「目には目を、という古い法律を守っていたら、私達はみんな目が見えなくなってしまいます。あなた方のした事は、決して許される事ではありませんが、魔法使い達が理不尽な目にあわされないような社会を、まぁ、どうやって進めていけば一番良いのか私もわからないですけど、そういう社会を作って欲しいと世間に訴えていきたいと思います」
と、イヴは答えた。
「それにしても、どう進めていけば良いのかしらね。ねぇ水無月元委員長。調教された魔法使いの地位に逃げ込むなんてずるいですよ。一番相談したい相手だったのに…」と、一人つぶやいた。
日本では、小学生から英語を勉強させようという話になってきていた。それを受けて知識階級の家庭ほど、自分の子供に幼少の時から英語に触れさせるようになった。また、耳を慣らさせるという名目で、我が子に対してインターネットなどで海外のニュースを視聴させる家庭も増えてきた。そういう家庭はおしなべて、日本で報道されている事と、英語圏で報道されている事が矛盾した場合、英語圏の報道の方が正しいと評する場合の方が多いのであるが…
英語圏を含む海外のメディアでは、無抵抗のイヴ達を殴りつける警察に対して、おしなべて批判的であった。土下座して泣いて謝っている双美心を警察官達が寄ってたかって殴りつける動画は、分かり易いという事で、海外の子供向けニュース番組でもよく取り上げられていた。日本のそうした子供達が、そのニュース番組を視聴する機会も増えてきた。これは何か?日本のニュースと全然違う説明ではないかと子供に聞かれ、説明に窮する知識階級の親が急増した。「海外ではこれが正しいけど、日本ではこれが正しいのよ」などと説明する親もいたが、土下座して泣いて謝っている相手を容赦なく殴りつける構図は、どちらが正しいかを理屈以前に本能的に伝えている側面があった。子供から指摘されて改めて日本と海外、双方のニュースを見直して、考えを改める人も出てきた。日本国内においても、イヴやノエル達の全く考えもしなかったところから、少しずつ変化してきていた。
イヴは在学中、他ならぬ当時の水無月風紀委員長に命じられて、魔法使いのテロ関連を徹底的に調べあげた事があった。テロリストの中には最初から、先日会話したデレック・メイスフィールドのように暴力と殺人で行動を起こした者も多かったが、最初はイヴのように穏やかな方法で世間に訴えかけていたが、警察から殴られて本能的に殴り返すと、それを契機にテロリスト認定されて投獄され、処刑された者も大勢いる事も知った。実際、殴られたら殴り返したくなるのは人間の本能に近く、その罠にかけられた魔法使い達は、過去に想像以上にいたのだ。事実、先日の風子警部補の挑発的な警棒での殴りに対し、服部などは軽く受け流していたが、春乃や龍季に反撃させようとするには十分だった。こちらの戦意を高めるためか、風子警部補がもったいつけて警棒を見せながら、「これが懲罰房ならぬ懲罰棒でやがります」などと言ってくると、つい反射的に「ふざけるな」と反応したくなってしまうものである。イヴが必死に「やり返しちゃダメ」と訴えて、龍季達がそれを聞き入れたのは、ひとえにイヴとノエルの二人が誰よりもたくさん殴られ、ボロボロになりながら耐えている姿に心を打たれたからだ。それに、「これまでたくさん、ここでやり返してテロリストに仕立てあげられた人達がいるわ」というセリフには、徹底的に調べあげた者だけが持つ説得力もあった。「ただのガリ勉だと思ってたけど、意外と根性あるな」などと意味不明な賛辞もイヴは受けたが、ともかくそんな感じでなんとかやっている状況だった。デレック・メイスフィールドとの会見で話していた「目には目をという古い法律を守っていたら、私達はみんな目が見えなくなってしまうわ」という言葉は、イヴの口癖になっていた。
また、頭の中がルールでできていて、融通がまるできかないと周囲から思われていた氷川までが、イヴとノエル達に加わった事は、周囲を大変驚かせた。氷川は、風子警部補を睨みつけると「あなた。風紀委員は学園生を守るという前提があるからこそ、懲罰房に入れるなどの権限が許されるのですよ。一体全体、何をやっているんですか」と一喝したものだ。風子が「法律は法律でやがります」と言いながら殴りかかると、氷川は軽蔑と憐れみのこもった表情で「それが以前、あなたが語っていた理想なんですか」と言い放ったものだ。
魔法使いの差別に関して、このまま非暴力を貫いて世の中を変えた前例はない。非暴力といえば、魔法使い以外では、インド独立時のある革命家の名前が浮かぶが、イヴの記憶では独立を勝ち取るまで完全に非暴力だったのではなく、どこかのタイミングで暴力が入ったはずだった。ただしイヴには暴力的な行動に出るのが正しいとはどうしても思えなかった。むしろ、どのタイミングにせよ、そんな行動に出たら最後、これまでの事が全て水の泡になる予感しかなかった。しかし、だからといってこの先どう進めていけば良いか、イヴは悩んでいた。
「お姉ちゃんのサポ役、ノエルちゃん登場」
姉が悩んでいる気配を察した時は、ノエルがよくイヴを食事などに連れていったりした。在学中は、イヴがノエルの面倒を見る事が圧倒的に多かったが、今やノエルが姉のフォローをする事も珍しくはなくなっていた。
そんなおり、イヴはフランス大統領と会話する機会を得た。と言っても、直に会って話したのではなく、デバイス越しの会話ではあったが…
フランスとグリモア 学園の間には、過去に色々あり、イヴが風紀委員長時代には後見役を買って出てくれた事もあった。その縁もあり、今回のイヴ達の行動をネットのニュースで知った大統領から、話をしたいと申し入れがあったのである。フランス大統領は最初に、霧塚さんの様子を気遣いながら「霧塚さんは、どのくらいの期間、拘束されているのか?」とイヴに聞いてきた。イヴが「そろそろ半年になります」と答えると、大統領は、やはりか、と言わんばかりの反応で「日本の警察は、市民を拘束する期間が国際標準から見て驚くほど長すぎる。私の方から、日本政府に対し、何か言ってやろうか」と申し出てくれたものである。背景には、去年、フランス人の自動車会社の社長が、日本国内で、会社の粉飾決算をした疑いで逮捕された時、フランスでは考えられないくらいの日数、警察に拘束された事実があった。ちなみにフランスは数年前、イヴの在学中、ひょんなことからイヴ達魔法使いの味方になってくれた事もあった。イヴが当時のグリモア学園の生徒会長が、今や警察官として、私達魔法使いを率先して弾圧していると伝えると、大統領は「悲しい事だ」と言ってくれたものだ。
またこの時、イヴは自分達の行動が外国ではどのように見られているかも教えてもらった。どう報道されているかは、ネットで見て知ってはいたが、やはり直接励まされると嬉しいものだ。大統領からフランス語が上手ですねと言われて、学園在学中、他ならぬ霧塚さんから教わりました。そういう過去もあるので、私は霧塚さんを助けたいと思います、と結んだ。
「お姉ちゃん、霧塚さんもだけど、夏海さんもまだ釈放されてない」
後ろからノエルが声をかけた。
「そういえば、岸田さんはなぜ捕まったの?」
首だけ振り向いて、イヴが聞いた。
「岸田タイムズに動画出てるけど、何回見ても理由はわからない。お姉ちゃんも何度も見たよね」
「確かに…警察官がその時の気分で投獄できちゃうなんて、ゆゆしき事態だわ」
イヴは、その事もフランス大統領に話した。フランス大統領が日本政府に話をしてくれたからといって、それで即座に何かがどうなるかは分からなかったけれど、他に方法はない以上、現状より良い方向に動きそうなものがあればなんでもやるつもりだった。
「自動車会社社長の時は、捕まったのがフランス人だったから、日本政府もある程度配慮したみたいだけど、今回は捕まったのも日本人だから、どの程度の効果があるかしらね」
フランス大統領との会見が終わった後で、イヴがノエル達にそう話した。
「フユキ、吉報だ。国際連合人権理事会が日本で起きている魔法使いへの差別問題を取り上げてくれるみたいだぞ」
フランス大統領との会見が終わってから何日か経ったある日、エレンが吉報を持ってきた。
「国際連合人権理事会ですか…」
イヴが予想外に浮かない顔で反応した。
「お姉ちゃん、すごい事になったね…って、何か問題でも?」
「あそこは確かに以前、日本政府がその存在を否定している従軍◯◯婦の問題を取り上げて、日本政府の反論を退けた事があるから、今回のケースでも日本政府が抵抗しても私達の主張が認められる可能性はあります。ありますが…」
それはゴールではなくスタートにすぎないわ、とイヴは付け加えた。
「国連での決議が全てではなく、日本政府がそれにそって動いてくれなければ意味がないわ。実際、従軍◯◯婦の決議も出てしばらく経つけど、日本国内では、国連の決議が出たから従おう、ではなく依然として従軍◯◯婦は存在しなかったと言っているでしょう。」
外国の魔法使い達もそれぞれの国で差別に苦しんでいるので、国連で取り上げてもらう事がまるで意味がない、とまでは言わないけど、仮にそこで私達の望む結論が出たとしても、それはゴールではなくスタートの一つよ、とイヴは言った。
「それでも、前進には違いないわ。エレンさん、良い知らせありがとうございます」
イヴは頭を下げた。
「ウチらのバックには日本政府がついてるでやがります。浮足立つのはみっともないでやがります!」
フランス政府に続き、国連が問題視しそうだとのニュースを聞きつけ、動揺を隠せない警官達を風子警部補は一喝した。
「国連なんて綺麗事ばかり並べて何もしやがらないでやがります。安心してこれまで通り日本政府が認める正義の実現に向けて邁進してくだせー」
それは風子警部補の実感でもあった。忘れもしない風子警部補が生徒会長としてグリモア学園を率いていた頃、国連ははっきりと「裏世界も救う」と風子達に対して約束してくれたのだ。正確には、その約束は、風子が生徒会長につく数ヶ月前、虎千代が会長の時ではあったが、グリモアの生徒会長はすぐに風子が引き継ぎ、グリモア学園に避難してきている裏世界の住人達を、国連の援護のもと保護しながら、裏世界の魔物を倒す、そういう役割を風子会長と国連は共にになう…はずだった。しかし、国連は約束を事実上反故にし、風子は、裏世界の住人から「約束を守ってほしい」とせっつかれながら、そうは言っても裏世界の事はグリモア学園とグリモア軍だけでどうにかできる問題でもなく、また風子の代で新たに発生した問題ーーリゼットなどのテロリストや新たなクマの魔物への対応ーーにも追われ、風子は「嘘つき」だの「何も成し遂げられない生徒会長」だのと任期中散々言われたあげく、逃げるように卒業してグリモアを去った苦い経験がある。国連が約束を守ってくれていれば、ウチは今頃裏世界を救ったグリモアの英雄としてその名前を刻む事もできたであろうに…。風子にしてみれば、国連は、耳障りの良い約束はしてくれても、実行しないあてにならない所だった。
「冬樹もリアルタイムで体験しただろうに、何を血迷いやがったんですかねー」
ただし、風子の側に全く落ち度が無かったわけでもない。実際、風子が生徒会長である間、風子の方から国連に対し約束を守るよう働きかけた事は一度も無かったし、水瀬副会長などを通じて約束を守るよう動いた形跡さえも無かった。これでは、約束を反故にして逃げるように卒業していったと言われても、ある程度は仕方あるまい。
「一体、いつまで続けたら満足するアルか?」
イヴ達がその日のデモ行動のために、いつもの空き地に集結していた時に、始祖十家の一人、周万姫が突然現れて聞いてきた。始祖十家の出現に、周囲は緊張し、ざわついたが、イヴは心底疲れはてた、という表情をわざと浮かべ、「本当に、いつになったら日本政府と警察と刑務所は誤りを認めてくれるんでしょうね?」と逆に聞き返したものだ。周万姫は苦笑し、何もせずに去って行った。
「お姉ちゃん、もしかして先日、楊さんと会話した事が一因かな?」
楊というのは中国人の魔法使いで、先日イヴ達とデバイス越しに会話した人物だ。イヴとノエルが非暴力で魔法使いへの差別に対して戦っているニュースを見て刺激を受け、自分達も同じように非暴力を貫きながら仲間を募って世間に対して魔法使いへの差別をやめるよう訴えかけている、と話していた。楊達のデモに対して、中国の警官は、風飛署と同じように暴力と弾圧でこれを押えこもうとしたが、中国の警察は風飛署の警官よりも容赦がなかったようだ。実際、中国警官による楊達へのデモに対する弾圧で、高校生のデモ参加者が警官の暴行により入院する騒ぎとなったと、日本のテレビでも紹介されていた。アナウンサーとコメンテーター達がこぞって「中国の警官はやりすぎだ。酷い」と報じていたのを見て、風飛署の警官の暴力は全然非難しようともしないのに、よく言うよとみんなして失笑したものだ。
中国のデモ参加者の中に周万姫がいるという情報はなかったが、先ほどの態度から察するに、周万姫は中国の楊達のデモに対し、反対の立場のようだ。
「始祖十家の人達が率先して魔法使い達の人権を守ってくれなきゃいけないのに、困った事よね」
イヴとノエルは顔を見合わせて笑った。
「だから魔法使いへの差別が全世界に存在するんだろうな」
ボソッとメアリーがつぶやいたのが、みんなの心に響いた。
「無抵抗な人間殴って楽しいかー」
「いい加減、誤ちを認めろー」
いつの頃からか、警察官達がイヴやノエル、双美心といった魔法使い達を殴っていると、デモ隊の他のメンバーから口々にそういう声が警察官へ飛ぶようになった。笹下巡査部長のように、元々殴る事に対して心理的に抵抗のあった警官達は、それだけで手が止まったり、手数が減ったりした。そのたびに風子警部補から、「いい加減気づいてくだせー。警察は日本政府の指示する正義を実現するのが仕事であって、アンタさん自身の良心を実現するのではねーでやがります。履き違えないでくだせー」と檄が飛んだ。しかし、しまいにはその風子警部補の激励にさえ「横暴だ」「無抵抗の女、子供を殴るのが日本政府の正義か」などという声が飛ぶようになり、警察官達が動揺する場面が増えてきた。
さらに数ヶ月が経つと、デモ参加者ではなく、通りかかった通行人からそんな声が飛んでくる事も増えてきた。国連の動きなどとは関係なく、イヴとノエル達を警察が暴力と弾圧で抑えつける事は限界に近づいてきているようだった。また、イヴ達が要求している事はそれほど無茶なことではなく、焦点となっている霧塚萌木は普段の素行は問題なく、席を譲って欲しいと要求した青年は当時元気そうで体調が特段悪いわけでも無かったという事から、霧塚を釈放したらどうかという声も上がり始めた。また、鳴子が以前予想した通り、土下座して謝っている双美心を殴る構図が、風子達警察側に不利な心証を日本の一般人達にも与えていた。
「冬樹姉妹達に、軍として協力したい、ですって?」
水瀬薫子は、耳を疑いながら虎千代のセリフを聞いた。
「まぁその、なんだ。調教された魔法使い呼ばわりされて、面白くない気持ちもわからないでもないが…」
言いにくそうに、虎千代軍長は言った。
水瀬は、少なくとも虎千代の目の前で、イヴに会った時に遠回しに「調教された魔法使い」呼ばわりされた、とは言っていなかった。しかし、当時のイヴのあの口ぶりだと、水瀬達のように現状の差別を受け入れて良しとしている魔法使い達のことを、特に隠し立てせずに「調教された〜」等と話していたようだったし、長年の付き合いで虎千代は水瀬がどの辺が気に障ったのかが、なんとなく分かるのだろう。
「けど言ってる事は正論だ。確かにコソコソ僻地に逃げ出して新しい生活を一から作らなくても、現在の便利な生活はそのままに、差別がなくなってしまえばまさにそれが魔法使い達の国とも言える。それにー」
虎千代の目には、自分達先輩魔法使い達が現状を受け入れたり、逃げたりして差別と戦って来なかったツケを、今の冬樹姉妹達が支払っているようにも見えた。イヴを先輩の風子が殴っているのがまさにその象徴だろう。風子は現状を受け入れた上で、あまつさえそれをサポートする警察官になった。魔法使い達への差別に対して、戦うのではなく、こういう道を選んだのは、何も彼女だけではない。しかしながら、裏世界では姉妹がかばいあいながら魔物に殺されたが、ここでは同じ構図でよりによって風子達に殴られているわけだ。この滑稽さがそのまま、この問題の本質なのではないだろうか。
「現在でも、軍から有志が彼女達の行動に参加しているのは黙認しているが、もっと積極的に軍として支援すべきなのではないかと思うわけだ」
「インドなら、失敗してたわね」我妻梅に会いに、グリモア軍の詰所に来ていたマーヤー・デーヴィーが口を挟んだ。「インドでは、非暴力を標榜して独立を勝ち取った革命家の例があるから、非暴力を貫いたとしてもすぐに投獄されてしまうわ。」そうしたら、冬樹姉妹の行動も、すぐに頓挫してしまうわね。と、続けた。中国や日本など東アジア諸国では、現在風飛署がやっているような「見せしめとして痛めつける」というやり方を好むから、冬樹さん達の行動が活きたわね。「それにしても、独立を勝ち取った革命家には悪いんだけど、非暴力といえば腰抜けの代名詞かと思っていたけど、ヘタなテロより破壊力あるわね…国が転覆するわけだわ」
「日本でのあなた達の成功を祈るわ。でももしインドの首相か大統領と会話する機会があったら、声をあげただけで投獄される私達の事を思い出して欲しい」
イヴとノエル達の行動をネットのニュースで知ったインドの魔法使いからイヴ達にコンタクトがあった。インドでは、以前非暴力を標榜して独立を勝ち取った革命家がいたので、声をあげただけで投獄されてしまうので、声をあげる事すらままならないが、差別が無いわけではない。むしろ日本よりひどく、例えばバスの席を譲る以前に、利用できるバス自体が一般人と魔法使いでは分けられている。もちろん、魔法使いが乗っていいバスの本数はかなり少なく、外出する事自体にも大変な不便を強いられている。
「声をあげただけで投獄、ですか?」
「インドでは平等扇動罪、という犯罪になります」
デバイスの向こうの、アーシャというインドの魔法使いが、悲しげな口調で話した。言論の自由が保証されている日本が羨ましい、とも。
「保証されてるって…毎日ボコボコに殴られてるんだけどね」
とはノエルのセリフだ。彼女も、姉が外国人とよく会話しているのを間近で頻繁に見聞きしているため、簡単な英語の会話ならわかるようになっていた。姉の前でついいつもの調子が出てしまうのか、デバイスの向こうにアーシャがいるにも関わらず、「何が自由よ」と、ぶぅ!とばかりにふくれてみせた。
「投獄されたら声すらあげられないから…話には聞いていたけれど、本当にそんな国が存在したのね」
よしよしとばかりに、妹の頭を撫でながらイヴが言う。
「仲が良いんですね」
とアーシャ。
「私がここまで頑張って来れたのは、もちろん多くの人達の支えもあっての事だけど、一番はノエルがいつもそばで支えてくれたからよ。ありがとうね、ノエル」
それからイヴは口調を真面目モードに戻して
「私達は政治家ではないので、インドの国家元首と話をする機会があるかは分かりませんが、チャンスに恵まれれば、話をしてみようと思います。」
とアーシャに答えた。
やがて、日本のマスコミの報道にも変化が見られるようになった。
ある日のニュースで、アメリカのある州で一般人が隣人の魔法使いを殴り殺したという事件を報じた時の事だ。アメリカの一部の州では、一般人が魔法使いを理由もなく殴っても罪に問われる事はないと司会役のアナウンサーが紹介した後で、「しかし、行き過ぎは良くありません」と続けた時に、辛口で知られるコメンテーターの一人から「日本も、アメリカの事は言えないのではないか」と声が飛んだのだ。彼は司会役に向かって「君にもお子さんがいるだろう。お父さん、海外では風飛警察の弾圧についてかなり厳しく批判されてるよと言われた事はないかね。いや子供でなくたっていい、報道に関わる者なら、海外では日本がどう報じられているか、知ってて当然ではないかね」と。司会役が曖昧に肯定すると、コメンテーターはさらに続けて「T◯P、アジア・太平洋地域の経済連携協定では、アメリカと中国が不参加なので、日本はイニシアチブを発揮する絶好の機会だったのに、警察が無抵抗な市民に暴行を加える国がリーダーシップを取るのは嫌だと関係各国から猛反発を食らってせっかくのチャンスを逃した事もあった。このように警察の横暴で国益を逃している事も、君達マスコミはしっかり報道しなければいけないんじゃないの。これ知らない日本人、多いと思いますよ」と言い放ったものだ。少なくともほんの数カ月前までは、こうしたコメントはスタジオでは出たとしても放送される事はなかった。しかし最近では、こうしたコメントもしっかりと放送されるようになってきた。「警察は魔法使いへの弾圧に力を入れるよりも、オレオレ詐欺のような、本物の犯罪の取り締まりに力を入れるべきだ」という趣旨のコメントが放送されてくるようにもなってきた。
「ねえお姉ちゃん。この事件ってもしかして…」
「ええ。以前会話したデレック死刑囚の故郷の話かもしれないわね」
もっとも、だからと言ってテロを起こしてもいい、という話にはならないわ。
「目には目を、とやりたくなるのは人間の本能に近いけれど、それで相手の目をつぶした所で、相手が悪うございましたと思うわけもなく、反対にそれを恨みに思って、こちらの目をつぶしたくなるのがオチよ。人間って結局のところ、ある程度は誰もが自分勝手だから。結果双方が目には目をと主張して、双方とも目をつぶされる事になるわ。」
「お姉ちゃん、アメリカといえば先日、今までとは毛色が違う人から連絡が無かった?」
アメリカの魔法使いの女性から、しばらく前に連絡があった。彼女は、過去にイヴとノエルが連絡を取り合った中国の楊やインドのアーシャなどとは異なり、冬樹姉妹の非暴力の方針を生ぬるい、と批判してきたのだ。その人は大人になってから魔法使いに覚醒したのだが、覚醒前は不幸な事に職場でセクハラにあっていた。そして、せっかく魔法使いに覚醒して力を得たのだから、今後は男社会に対して復讐していきたいし、幸いにも魔法使いは女性の方が割合が高いので、女性の魔法使いは一致団結して男性優位の社会をぶっ壊すべきだ、と強固に主張していた。
「あんた達は恵まれている、と非難されたわね。男に◯された後でも、『目には目をと言っていたらみんな目が見えなくなってしまう』などという綺麗事が言えるのかと」
頼りにしていた元生徒会長から毎日殴られるのも、精神的ダメージはかなりのものなんだけど、それは全く考慮してもらえず、恵まれているの一点張りだったわね。
「自分が酷い目にあわされて、やり返したくなる気持ちはわかるけど、それを実行したらテロリストと変わらないじゃない。それが綺麗事だと言うなら私は綺麗事の権化になってやるわよ。だいたい、お勉強じゃないんだから復讐復讐復讐復讐うるさいっての」
「お姉ちゃんが冗談言った。貴重なものを聞いた」
霧塚が逮捕され、投獄されてから1年が経とうとする頃には、釈放を求める声も大きくなり、イヴ達が望んだ通り、魔法使いはバスの座席を一般人に譲る事という法律を改正しようという動きも出てきた。
そんなある日、国際連合人権理事会で、この問題を取り上げるので、イヴに代表者として参加して欲しい、という話が来た。国連の力を借りなくても、良い方向に動きそうな矢先ではあったが…
「なんか、今更って感じだね」
とはノエルのセリフだ。最初に国連で取り上げる、という話が来てから数ヶ月過ぎていた。
「当時と違うのは、実現の目処がついているという事よ。とはいえ、断る理由もないし、差別に苦しんでる魔法使いは日本だけでもないですし…」
この一年間で、イヴ達は、外国の魔法使いで、同じように差別に対して抗議して、警察の手によって投獄された人の話もたくさん聞かされたし、じかに話をしたこともあった。日本の警察はマシな方で、無抵抗でも投獄される国も多数あるという話も聞いた。そういう状況であれば、国連に関心を持ってもらうのは、悪い話ではない。
「せっかく国連で発言する機会があるのだから、私達の問題だけでなく、他の国も含め、魔法使いの差別全体に関心を持ってもらえるような話をしてきたいわ…と、いうわけで、ノエル、ちょっと付き合ってくれる?」
「最近の報道等を見て不安に思う者もいるだろうが、諸君らには法律では上司の命令に従う義務があるので、なんら不安に感じる事はない。君達は、職務を忠実に果たしただけだ」
風子警部補達の前で、風飛署長がそう激励した。
「それで、冬樹達への弾圧は、もう行わない、という認識でいーのでやがりますか?」
「いや、まだ魔法使いに対する政府の方針は変わっておらん。内心不満に思う者もおるだろうが、当面は今まで通りやってもらいたい」
風子は、「法的には問題はないと考えている」という言葉は嫌いだった。警官なので法律を超えた事はできないが、心情的には「法的には問題ないと考えている」と言っている悪い連中を刑務所にぶち込んでやりたい、と考えていた。それがまさか、自分がその言葉に守られる日が来ようとは…
「皮肉な巡り合わせでやがりますね」
ひそかに、ため息をついた。
「今日私は、国際連合人権理事会で発言の機会を与えられた事を嬉しく思います」
国連の席で、発言をもとめられ、イヴは緊張しながら話し始めた。
「70年前、各国の偉大なリーダー達が、世界人権宣言に署名しました。今私達は、それに基づいた会議に参加しています。この極めて重大な宣言は、容赦のない不正義に焼かれていた何万人もの魔法使い達に、大きな希望の光明として訪れました。しかし、70年経った今、魔法使い達は依然として自由ではありません。70年経った今、子供時代に魔法使いに目覚めた人は、誘拐同然にそれまでの学校、友達、先生から引き離され、魔法使いだけの専門の学校に入れられます。70年経った今、大人の魔法使い達は就職先を制限され、バスでは若い元気な一般人に席を譲らされ、美術館や動物園などの公共施設の利用時にも、一般人に遠慮して、自国にいながら、まるで亡命者のような生活を送っています。そこで私は今日、この恥ずべき状況を劇的に訴えるために、ここに参加しました。
ある意味で、私達は、小切手を換金するためにここに来ました。各国のリーダーが世界人権宣言に署名した時、彼らは全ての人々は、生命、自由、そして幸福の追求という不可侵の権利を保証される、という約束手形に署名したのです。
今日全世界の各国で、魔法使いの国民に関する限り、この約束手形が不渡りになっている事は明らかです。各国政府は、この神聖な義務を果たす代わりに、魔法使い達に対して不良小切手を渡しました。その小切手は、残高不足の印をつけられて戻ってきました。
しかし私達は、正義の銀行が破産しているなどとは思いたくありません。だから私は、この小切手を換金するために来ました。自由という財産と正義という保証を、請求に応じて受け取ることができるこの小切手を換金するために、この神聖な場所に来ました。私はまた、現在の極めて緊迫している状況を日本に思い出させるために、この神聖な場所に来ています。今は、冷却期間を置くという贅沢にふけったり、耳を傾けてくれる人が増えてきたのは良い事だなどという鎮痛薬を飲んだりしている時ではありません。今こそ、平等の約束を現実にする時です。今こそ、暗くて荒廃した魔法使い差別の谷から立ち上がり、日の当たる人道的正義の道へと歩む時です。今こそ、すべての人の子達にとって、正義を現実とする時です。
この緊急事態を見過ごせば、日本にとって致命傷となるでしょう。魔法使い達の正当な怒りに満ちたこの酷暑の夏は、自由と平等の爽快な秋が到来しない限り、終わることがありません。2024年は、終わりではなく始まりの年です。魔法使い達はたまっていた鬱憤を晴らす必要があっただけだから、もうこれで満足するだろうと期待する人達は、日本が元の状態に戻ったら、叩き起こされるでしょう。魔法使いに自由と平等が与えられるまでは、日本には安息も平穏も訪れる事はありません。正義の明るい日が出現するまで、反乱の旋風はこの国の土台を揺るがし続けるでしょう。
しかし私は、正義の殿堂の暖かな入り口に立つ魔法使い達に対しても、言わなければならない事があります。正当な場所を確保する過程で、私達は不正な行為を犯してはなりません。私達は、敵意と憎悪の杯を飲むことによって、自由への渇きをいやそうとしないようにしましょう。私達の抗議を、肉体的暴力に堕落させてはいけません。信じがたい新たな風が私達魔法使いを後押ししてくれていますが、それがすべての一般人に対する不信につながってはいけません。なぜなら、一般人の方の多くは、今日私がこの場に呼ばれて発言を許された事からも証明されるように、彼らの運命が私達の運命と結びついていることを認識するようになったからです。また、彼らの自由が私達の自由と分かち難く結びついている事を認識するようになったからです。私達は、たった一人で歩くことはできません。
私達に対して、『あなたはいつになったら満足するのか』と聞く人もいます。私達は、魔法使いが警察の言語に絶する恐ろしい残虐行為の犠牲者である限りは、決して満足する事はありません。私達は、バスの席で、元気な一般人の若者に席を譲らなくても投獄される事がなくならない限り、満足する事はありません。私達は、就職先が限定されている限り、満足する事はありません。私達は、子供が魔法使いに覚醒した途端、人格と尊厳を剥奪され、それまでの学校、友達、先生から切り離され、専用の学校に押し込められている限り、満足する事はありません。ええ、決して満足する事はできません。そして、正義が河水のように流れ下り、公正が力強い急流となって流れ落ちるまで、私達は決して満足しないでしょう。
私は、多大な試練と苦難を乗り越えてきた人達が、魔法使い達の中にいることを知らないわけではありません。自由を追求したために、迫害の嵐に打たれ、警察の暴力の旋風に圧倒された方も大勢います。抗議の声を上げただけで、テロ行為を一切していないのにテロリストと断罪され、処刑されてしまった方も大勢います。またこんな悲劇もあります。私が魔法使いに覚醒したばかりの頃、『人格と尊厳が剥奪されたからと言って怒ってはならない、現状を受け入れて生きていけ』と教えてくれた先輩魔法使いがいます。その方は現在、警察官となって、私や妹や仲間達を毎日殴っています。彼女は自分では素晴らしい事をしていると信じて疑っていません。彼女自身も魔法使いに覚醒した時に、人間性や人格、尊厳などを奪われ、おそらくはその時のショックで冷静な判断ができなくなっているのでしょう。彼女達も被害者です。言ってみれば、北朝鮮に拉致された日本人が、後から同じように拉致された日本人が自由を求めて声を上げているのを、殴って黙らせようとしているのと同じです。ヘタに声をあげれば酷い目にあわされるかもしれない、だから黙れ、と当人達は良い事をしているつもりなのです。これはまさに悲劇でしょう。
私には夢があります。それは、いつの日か、日本が「全ての人は法の下に平等である」という当たり前の理念を、真の意味で実現させるという夢です。
私には夢があります。それはバスなどの公共機関や施設を、魔法使いが一般人と全く同じように利用できる、という夢です。
私には夢があります。それは、どこの国であっても、子供達が魔法使いに覚醒した途端に、誘拐同然に見知らぬ学校に転校させられる事がなくなり、それまでの学校や友達、先生達から切り離されない日が来る、という夢です。
私には夢があります。それは、南アジアなどの国でも、魔法使い達が自由に発言でき、差別に対して声を上げただけで投獄される事がなくなる、という夢です。
私には夢があります。それは、一般人が魔法使いを殴っても罪に問われることの無いアメリカの一部の州であってさえ、そうした法律はなくなり、魔法使いと一般人が隣近所で仲良く住む日が来る、という夢です。
今日は発言の機会を与えてくださり、ありがとうございました」
会場は、割れんばかりの拍手に包まれた。イヴの演説は大成功だった。程なくして、日本に対し、警察による魔法使いへの暴力の中止と、バスなどの利用に関する魔法使いへの差別的扱いを定めた法律の廃止、そしてこの件に関して投獄されている魔法使いの解放を求める決議が満場一致で可決され、日本はそれまでの国内世論の動向も受けて、それを受け入れる事とした。
かくして、霧塚萌木は、逮捕から1年と2カ月後、ようやく釈放された。
「お帰りなさい。長いバスの旅だったわね」
釈放された霧塚にイヴが話しかけた。
「ただいま。冬樹さん、ご心配をおかけしました」
霧塚は頭を下げた。
「まさか本当に逮捕されるなんて、一体この国どーなっちゃうわけ」
同じく釈放された岸田の第一声である。
「岸田君。これからだよこれから。僕達は、歴史が変わる瞬間の生き証人になるかもしれない。」
鳴子が声をかける。
「うえ?この登録数と閲覧数、なに?」
岸田タイムズの状況を確認して、岸田は素っ頓狂な声を上げた。
最後までお読みいただき,ありがとうございました。イヴが妹をかわいがる話だったはずが,どうしてこうなった…。霧塚さんがローザパークスさんに似ているように見えたのが全て。個人的に興味があった事なので一気に書き上げてしまいましたが、妹をかわいがる話からはちょっとずれた話になってしまいました。
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