やはり私が先輩に本物を求めるのは間違っていない (猫林13世)
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再会
まず自分は原作を持っていないので、色々と原作との矛盾点が発生するかもしれませんが、その辺はご了承ください。
次に基本的にこの作品は八幡といろはの恋愛模様を妄想全開で綴るつもりですので、雪乃ファンや結衣ファンの方にはあまりお勧めできません。
更にモブを多用する予定ですが、モブの名前を考える気が無いので、友人Aや先輩Aなど、各自ご自由に区分けしてくださると幸いです。(自分もモノローグでそんな風に表記する予定です)
最後に、戸塚は天使。それではどうぞ。
『俺は、本物が欲しい』
先輩の本音を聞いてから、私は変わった――いや、変わろうとした。だから偽物の恋だった葉山先輩の事は諦め、それ以降は先輩に付きまとった。先輩本人は気付いていなかったかもしれないが、私は本当に先輩の事が気になりだしていた。
初対面の時は今後関わる事は無いだろうと思っていたから「先輩」としか呼ばなかったのだけども、今ではそれが特別であるような気もしている。実際結衣先輩や雪ノ下先輩の事は苗字や名前で呼んでいたし、葉山先輩や戸部先輩の事もちゃんとその人だと分かるように呼んでいた。
でもなぜかあの先輩の事は「先輩」としか呼んだ事が無い。先輩が自分の事だと認識しているからとか、今更呼び方を改めるのは恥ずかしいとか、上げればいろいろと理由はあるのだが、その理由が「本物」なのかどうかは分からない。というか、そんな理由に「本物」も「偽物」も無いのではないか。
結局先輩とは何度か強引にデートしただけで、それ以上の関係にはなれなかった。結衣先輩や雪ノ下先輩の事があったというのもあるけども、あの先輩はいくら私が誘ってもつれない態度を示すのみで、全然本気になってくれなかった。
私の先輩に対する気持ちは間違いなく『本物』だと言える。だって、先輩が卒業してから数人に告白され、内数人とデートした事はあるけども、どれも楽しいとは思えなかった。
以前先輩とデートした時「葉山先輩じゃないから減点」という、ある意味理不尽な採点をしたことがあったけども、その時は「先輩じゃないから減点」という採点を下していた自分に気が付いた。
そこで私が本当に先輩の事が好きなんだという事に気付いた。だが、先輩は既に卒業しており、東京の大学に通っているという事以外の情報が無い。先輩の妹の小町ちゃんに尋ねれば分かるのかもしれないが、それは何となく負けな気がして、先輩が卒業してから小町ちゃんとの交流も殆どない。
「(意地を張らず小町ちゃんに聞いて、先輩と同じ大学に進学すればよかったかな……)」
そんな事を考えながら、私は今日から一人暮らしをする賃貸マンションへと向かう。東京の大学、という曖昧な情報だけで決めた大学に通う為、私は実家を出て一人暮らしをする事にしたのだ。間取りは1DKで家賃は九万円とちょっと。両親――特にお父さんが心配性で一人暮らしは難しいかなとも思ったんだけど、実家から通うには少し遠いので渋々認めてくれたのだ。
仕送りなどはあるけども、それだけで賄うには無理があるので、バイトもするつもりだし、こっちに越してくる前も千葉でバイトはしていた。その貯金もあるので、引っ越してからバイトは探そうと思っていたので、現状は何もしていない。
「それにしても、私も明日から大学生か……ついこの間高校に入学したと思ってたのに」
こんなことを独り言ちていると、なんだかオバサン臭いけども、本当にこの間高校に入学して、嫌がらせで立候補させられた生徒会長になった気がするのだ。そして何の因果か二期続けて生徒会長を務め、先輩が卒業するまで散々手伝ってもらった。
初めは渋々手伝ってくれていた先輩だったが、次第に本当の役員よりも生徒会の仕事に精通し、他の役員たちも先輩に業務内容を尋ねる、という光景もしばしば見られた。
「ほんと、やる気さえ出せばあの先輩はある程度の事は出来るのに……」
エリートボッチ、ステルス・オブ・ヒッキーなど、自分を卑下する事と、斜め下の解決方法を思いつく事だけが二年次には目立っていたが、三年に進級してからあの先輩は変わった。具体的な事は分からないが、奉仕部の二人とは距離が出来たというか、奉仕部自体が開店休業状態だったので、次第に関係性が薄れていったのが原因なのかもしれない。
その結果かどうかは分からないが、先輩は戸塚先輩の練習相手としてテニス部に頻繁に顔を出し、苦手だった数学にも取り組むようになり、三年次のテストでは学年でもかなり上位の成績を修めるようになっていた。
そうやってだんだんと実力を発揮するようになったからかは分からないけども、新入生の中には先輩の事を「ちょっと好いかも」と囁く娘もいると、結衣先輩経由で小町ちゃんから情報が入ってきた。
確かにあの先輩は、目が死んでいる以外はカッコいい部類に入るのかもしれない。そして三年次になってからは、目に活力が宿りだして、「死んだ魚の目」から「死にそうな魚の目」と雪ノ下先輩に表現されるようになっていたとか。これも結衣先輩を経由して小町ちゃんから聞いた話。元々やる気がなかっただけで、あの先輩は本当に「やれば出来る子」なのだ。
「こんなふうに先輩の事を思い出して後悔するくらいなら、先輩が卒業するのと同時に告白しておけばよかったかも……」
結衣先輩や雪ノ下先輩も先輩の事は憎からず想っていたし、そのどちらかと付き合うと思っていたのだけども、先輩は誰とも付き合わずに卒業していった。噂では卒業前に数人の女生徒から告白されたらしいが、その全てを断ったという事だ。
先輩の上辺だけしか知らない人が見れば、随分と調子に乗っていると思うかもしれないが、あの人の本音を聞いたことがある私からしてみれば、先輩の返事は想定内だ。あの人は所謂「お試しで付き合う」という事が出来ないタイプの人間であり、自分と付き合ってもマイナスしかないと考えるタイプの人間だから。
「(ほんと、最近は先輩の事ばかり考えてるような気がする……)」
忘れようとしたけども、忘れられなかった
「……あれ?」
自分でも気づかない内に涙が零れる。こんなに泣いたのは、葉山先輩にフラれた時以来かもしれない。それだけ私は先輩の事が好きだったんだと、今再確認した。
「(泣いたって仕方ないのに)」
軽く涙を拭って、私は今日から私の部屋があるマンションへ入ろうとして――
「あれ? 一色さん?」
「えっ? 戸塚先輩?」
――高校時代の先輩である、戸塚彩加に声を掛けられた。
「やっぱり一色さんだ。僕の事覚えてる?」
「はい、戸塚先輩ですよね」
「うん、そうだよ。久しぶりだね」
「そうですね」
元々女子と間違えられるくらいの可愛らしさがあった戸塚先輩だが、今は少し伸びた髪を後ろで束ねており、ユニセックスの服を着ているので、より女性らしさが増したように見える。
「戸塚先輩もこのマンションに?」
「ううん、僕は遊びに来ただけだよ」
「戸塚殿、お待たせしてしま――ファッ!?」
「えっと……お久しぶりです」
先輩のソウルメイト(本人談)の……材木置き場? 先輩が戸塚先輩に近寄り、私の姿に気付きおかしな声を上げる。
「お二人で遊んでるんですか?」
「ううん、多分先に入ってると思うけど、玉縄君もいるはずだよ」
「あぁ、あの人ですか……」
海浜総合高校の生徒会長で、よく分からない用語を連発するので、あまり得意ではない。でも戸塚先輩とあの人って関係あったかな……
「それで、このマンションには誰が住んでるんですか? 玉縄さんですか?」
「違うよ。そもそも僕と材木座君、それに玉縄君はそれ程関係があったわけじゃないしね」
「まぁ、そうですね……」
あの先輩の名前、材木座だったんだ……まぁ、今後関わらないから覚えておかなくても良いかな。
「とりあえず、中に入ろうよ。一色さんもこのマンションなんでしょ?」
「はい、今日からです」
「何階?」
「二階です。205号室」
「あっ、じゃあ隣だね。僕たちが用があるのは206号室だし」
「そうなんですね」
階段を上りながら戸塚先輩と話す。私の部屋の隣に戸塚先輩と材木座先輩、そして玉縄さんが集まっているのか……正直、戸塚先輩以外嬉しくないかも。
「それじゃあ、私は荷物の整理とかがあるので」
「うん、またね」
205号室の前で別れ、私は受け取ったばかりの鍵で部屋に入ろうとして――
「八幡、来たよ~」
「……えっ?」
戸塚先輩が口にした名前を聞いてフリーズする。今、なんて言った……?
「戸塚……と、材木座」
「八幡、今我の事をついで扱いしなかったか?」
「いや、視界に入らなかった。目の前に天使がいるからな」
「もぅ、八幡ってば」
「あ、あのっ!」
玄関先で楽しそうに話している三人に、私は声をかける――いや、この表現は正しくない。玄関から顔だけを出している人に、私は声を掛けたのだ。
「ん?」
「先輩……ですよね?」
「……一色?」
これが、私『一色いろは』と先輩『比企谷八幡』との再会だった。
目指せ週一更新……後ろ向きすぎるかな?
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八幡の部屋で
部屋の片づけもそこそこに、私は隣の先輩の部屋に上がり込んだ。といっても勝手にお邪魔したのではなく、戸塚先輩に誘われたので仕方なく――という態を取っている。
だが本心は違う。ずっと会いたかった先輩が私の隣で生活している。それが何よりもうれしく、また先輩と一緒に過ごせるんだと思うと、思わず顔がにやけてしまいそうになる。それを必死に隠しているのだが、とりあえず誰にもバレていないようだ。
「本当に久しぶりだね、いろはちゃん」
「そうですね」
相変わらず人の事を勝手に名前で呼ぶなんて……まぁ、この人は出会った時からこんな感じだから、今更何も言わないですけど……というか、先輩と玉縄さんってどんな関係? クリスマスイベントやバレンタインイベントで一緒になったくらいで、後は接点無かったような気もするんだけどな……
「そういえばこの四人って、どんな集まりなんですか? 先輩と個々は関係あったとは思うんですけど、集まって何かするような感じではなかったので」
考えても分からない事は聞けばいい。というか、私が少し本気を出せば、大抵の男は隠し事なんて出来ないだろう。
「僕たちは同じ大学なんだよ。まぁ、学部は違うけども」
「そうなんですかー」
聞いておいてなんだけど、はっきり言って興味が無い。なのでテキトーに流しておく事にした。
「僕が英文学部で、材木座君が文学部」
「戸塚殿は経済学部」
「あれ? 戸塚先輩って文系じゃなかったでしたっけ?」
「僕はどっちでも出来たんだけど、八幡が文系にするって言ったから僕もそっちにしたんだ」
「そうだったんですか。それで、先輩は何学部なんですか?」
一番聞きたかったことを尋ねる。そもそも材木座先輩や玉縄さんが何学部なのかなんて、はっきり言って興味なかったですし。
「八幡は法学部だよ」
「えっ? あの先輩が?」
「悪いかよ」
キッチンで作業をしていた先輩が顔だけこちらを向いてそう聞いてくる。別に悪くはないですし、法学部なら将来も期待できるから私としては嬉しい誤算なのだけども、何事にも無気力無関心だった先輩と法学部が、どうしてもつながらない。
「専業主夫が将来の夢とか言っていた先輩が法学部って……しかも結構なエリート大学ですから、就職にも強いんじゃないですか~? 先輩、働くんですか~?」
「確かに二年生の時は本気でそんな事を思っていたが、さすがにその夢が叶えられるとは思えなくなってな」
「八幡、三年生になってから物凄く頑張って勉強してたもんね」
「うむ。我の誘いにもなかなか付き合ってくれなくなった」
「もともとお前と付き合うつもりなんてねぇよ」
「あふんっ!? 我と八幡は魂で結ばれて――」
「体育の時間であぶれた同士ペアを組んでただけだ」
「三年の時は僕と組んでたからね」
つまり、材木座先輩は本物のボッチと成り果てたと……
「というか、先輩もこっちに来てお喋りしましょうよ~」
「もう少しだから待ってろ。というか、何で一色までここにいるんだよ。お前の部屋は隣だろ?」
「何でって、戸塚先輩に誘われたからですよ」
「……なら仕方ないな」
本当に、どれだけ戸塚先輩の事が好きなんですか、この男は……普通可愛い後輩である私が部屋に来た時点で喜ぶべきなのに、戸塚先輩に誘われたという事実を知った途端に掌を返しやがったよ……中学時代に女子に夢を見て玉砕した所為で、異性を信じられなくなってるとは知っていますけども、いい加減私の事をちゃんと見てくれても良いじゃないですか。
「そういえば、いろはちゃんは何処の大学なんだい?」
「えー、普通の私大ですよ~。私は皆さんのようにエリート大学に合格出来るような頭脳は持ってませんので」
まさか先輩がそんな高ランク大学に通ってるなんて知らなかったので、手ごろな大学を選んだのが失敗だった……少し無理をすれば狙えない事も無かったのに……
「まぁ、部屋が隣ならいつでも会えるし、またこうして集まろうじゃないか」
「テメェの部屋じゃ無いだろうが……ほらよ」
玉縄さんにツッコミを入れながら、先輩が何かを持ってきた。私は首を傾げたけど、戸塚先輩と材木座先輩は目を輝かせて先輩にお礼を言う。
「ありがとう、八幡。やっぱり八幡の料理が一番おいしいしね」
「然り。我が調理しようとしても、何故か黒龍を召喚したかのような惨状にしかならんからな」
「お前は下手以前の問題だからな」
「これ、先輩が作ったんですか?」
「いや、作業してるのお前も見てただろ」
確かに見ていた。先輩がキッチンに立って何かをしているという事は……でも、まさかこのクオリティの料理を作っていたなんて、夢にも見なかったのだ。だって先輩、高校時代の時はあまり凝ったものを作れなかったのに……
「男四人で集まってご飯って、先輩たち彼女いないんですか?」
「っ!?」
「それは……」
「あはは……そういう事に時間を使う余裕がないというか」
「悪いかよ?」
「別に悪くはないですけど、せっかくエリート大学に通ってるんですから、お誘いとかあっても良いんじゃないかなーって思っただけです」
良かった、先輩に彼女がいないって分かって。正直玉縄さんと材木座先輩に彼女がいるとは思っていなかったけど、戸塚先輩もいなかったんだ……ちょっと意外かも。
「でも八幡はウチの女子から人気高いよね」
「殆ど戸塚のファンだろ? 俺はお前のついでだよ」
「そんな事ないと思うけどな。実際、何人かに『紹介して』って頼まれた事あるし」
「っ!? それって、どんな集まりなんですか?」
「普通のテニスサークルだよ。八幡はたまに僕の相手をしてくれてるんだ」
「先輩は入ってないんですか?」
「いろいろと忙しいからな」
先輩が忙しいって、正直想像も出来ない……でも、確かに以前は目が死んでいたから目立たなかっただけかもしれない。今の先輩は、目に生気が宿っているので、以前のような近寄りがたい雰囲気はない。むしろちょっと目を引く感じになっている。
「というか、先輩って眼鏡かけてましたっけ? ゲームのやり過ぎで目が悪くなったんですか?」
「理由は違うが、最近視力が落ちてきてな。半年前くらいからかけ始めた」
「その所為で八幡の人気が更に上昇する事に……我も眼鏡をかけているというのに」
「材木座の場合は、その病気をどうにかしないと無理だろ。せっかく声はカッコいいのに」
「でも材木座君のそれは、ある意味彼のアイデンティティだからね。個性を否定するのは良くない」
「個性って言葉で片づけちゃダメな事だってあるだろう。だいたい材木座だって文芸サークルの腐女子に誘われてただろ?」
「あぁ……『是非八幡と好い感じになってくれ』と頼まれた」
ここに海老名先輩がいたら興奮しそうな話題になり、部屋の空気が微妙な感じに……やっぱりそういう事を考える人って、海老名先輩以外にもいたんだ……
「ぼ、僕も言われた事あるな……『八幡の逞しいのを受け容れて!』って」
「戸塚殿なら絵になるかもしれんが、我が八幡におk――ゲバっ!?」
「それ以上言うなら、今後出禁にするぞ」
「う、うむ……我が悪かった」
「一色もいるんだ。何時ものノリで喋るな」
どうやら私がいなかったらそのまま許していたようだけど、先輩が私の事を気遣ってくれたという事が嬉しい。普段どうでもいいみたいな感じの扱いしか受けてこなかったから、こういったちょっとした優しさが心に染みてくる。
「悪かったな、一色。男同士の会話なんてこんな感じだから、あまり気にするな」
「いえいえ、大丈夫ですよ。はっ! ひょっとして今口説いてましたか? ゴメンなさい、気遣ってもらってかなり嬉しかったですし、材木座さんを殴る先輩を見てかなりカッコいいって思っちゃいましたけどもまだちょっと心の整理がつかないので無理です、ゴメンなさい」
「……久しぶりに聞いたな、それ」
「なるほど、気遣いをすればモテるのか……」
「あっ、玉縄さんはそれ以前の問題だと思いますよ」
自分は出来る、みたいな感じで喋ってるのがむかつく、と言うか何と言うか。もちろん、それを本人に言う事は無いだろうけども。
「玉縄君はまだ折本さんと付き合ってなかったの?」
「な、何のことだい? 僕は別に彼女の事が好きなわけじゃない」
「隠せてると思ってるのか、こいつは」
「バレバレですよね」
バレンタインイベントの時にチラチラと見てたし、それ以前にクリスマスイベントの時に折本さんを呼んだのは、恐らく玉縄さんが意識してるからだろう。……あれ? その理論で行くと、私が先輩を呼んだのも先輩を意識していたからって事に……いやいや、あの時はまだ葉山先輩一筋でしたし……
「(本当に?)」
自問自答しても答えは出ない――いや、分かり切っている事なので考える必要が無い。私はあの時既に葉山先輩の事は好きじゃなかった。それが分かっていたから、ディスティニーランドでフラれると分かっていて告白したのだから。
材木座、ほんと声はカッコいいのに……
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高校生活の思い出
ちょっと遠慮してたけども、先輩に勧められて先輩の手料理を口にして、私は小さくないダメージを負う。
「(私なんかよりよっぽど美味しい……)」
家庭料理なら私だって作れる。というか、先輩以外なら勝てる自信がある。でも先輩の料理は豪華さはないけども堅実な味付けで、ちょっとしたアレンジも加えているのか普通とは少し違う美味しさがある。
「先輩、本当に主夫志望だったんですね」
「男の一人暮らしだからな。自然と出来るようになった感じだ」
「その理屈で言えば、三人も料理が出来てもおかしくない事になりませんか?」
私が先輩から視線を三人に逸らすと、三人ともゆっくりと私から視線を逸らした。玉縄さんと材木座先輩は兎も角として、戸塚先輩も料理が苦手だというのはちょっと意外だ。見た目から一番料理が上手そうなのに。
「僕たちは良いんだ。僕たちは比企谷君に食費を払い、比企谷君は料理の腕を試せる。Win-Winの関係だからね」
「大して払ってねぇだろうがよ……確実にこっちの方が利益が少ない。というか、戸塚以外に食わせても嬉しくもなんともねぇよ」
「でも、こうして皆で集まると楽しいよね」
「そうだな」
「うわぁ……」
相変わらずの戸塚先輩至上主義というか何と言うか……こんなに鮮やかな掌返しは滅多にお目にかかれないんじゃないかってくらいの速さで自分の意見を翻した先輩を、私は冷ややかな目で見つめる。
「さて、そろそろお暇するとしようか。部屋が隣のいろはちゃんは兎も角、僕たちはそういうわけにもいかないからね」
「そうだね。それじゃあ八幡、片付けは僕たちがやっておくよ」
「悪いな」
「何処か出かけるんですか?」
「バイトだよ」
「先輩がバイト? 先輩、何か悪い物でも食べたんじゃ……」
「お前、相変わらず失礼だな……」
だってあの先輩が労働をするなんて、何か悪いものを食べた影響としか考えられないじゃないですか。と言いたかったけども、私はそれを声に出す事はしなかった。もう先輩と会わなくなって一年以上経っているのだから、先輩の中に変化が生じても不思議ではない――いや、それが普通だ。
私だって先輩と会わなくなってから随分と変わったし、それ以外の人たちも日々変わっている。先輩だけが変化なく過ごしていたなんて思う方が間違いだ。
「それじゃあ戸塚、鍵は何時ものところにしまっておいてくれればいいから、後は頼んだ」
「うん、任せて」
そう言い残して先輩は三人と私を残して部屋から出て行ってしまう。この時間からという事は、深夜バイトなのだろうと推測し、私も先輩と同じところで働けないかと想像して――慌てて頭をふる。
「どうかしたのかい?」
「な、何でもありません! それより、片付け手伝いますよ」
「一色さんは部屋の片づけがまだ残ってるんじゃない? ここは僕たちがやっておくから、一色さんは自分の部屋の片づけをしちゃいなよ」
「そ、そうですか? それじゃあ、戸塚先輩のお言葉に甘えて」
正直それ程物を持ってきていないので、部屋の片づけはすぐに終わる程度だ。だが先輩がいないこの空間に留まる理由も無いので、私は戸塚先輩の提案に乗って隣の自分の部屋に退散する事にした。
「あっ、そう言えば一色さんが言ってた大学、由比ヶ浜さんと同じ場所じゃない?」
「えっ、結衣先輩とですか?」
「確かそんなメールが着てたような……ほら、やっぱり」
戸塚先輩が見せてくれたメールには、確かに私が通う大学の名前が書かれている。でも少し気になるのは、メールの内容が『合格した!』というものなのに対して、メールが送られてきたのが最近……これはつまり……
「結衣先輩、浪人してたんですか?」
「そうみたいだね。八幡と一緒のところしか受けてなかったみたい」
「何と言うか……結衣先輩らしいですね」
結衣先輩の成績で、先輩と同じところ、同じ学部しか受けないというのは無謀だ。恐らく周りの大人たちも必死になって止めただろうけども、どうやらその説得は無意味に終わったようだ。
「ということは、結衣先輩が同期生になるってことですか?」
「そうみたいだね。由比ヶ浜さんは一色さんが同じ大学だって知らないだろうから、会ったら驚くんじゃない?」
「どうですかね。浪人して高校の後輩と同期生になったなんて、周りに知られたくないんじゃないですか?」
私だったら必死になって隠すだろうな。だって要するに、私が小町ちゃんと同期生になるということでしょ? 考えただけでも恥ずかしくて死にたくなる……生徒会長を二期務めて浪人とか、知られたら笑われるだけでは済まないだろうし。
「まぁ、向こうから話しかけて来たら、私も普通に付き合いますけどね」
「そうしてあげなよ。雪ノ下さんは留学しちゃってるし、海老名さんたちも千葉の大学に進学したはずだから、話せる相手がいないと思うし」
「えーでも結衣先輩ならすぐにお友達作れそうですけどね。そういう事は得意みたいでしたし」
勉強ダメ、料理壊滅的に下手、空気読むのが苦手と、あまり良いイメージの無い結衣先輩だけども、友達作りは上手だった印象がある。まぁ、葉山先輩グループに入ってただけあって、人付き合いが上手でも不思議ではないのだけども、あの人の側にいたのが先輩と雪ノ下先輩だからな……そういう風に見えても不思議ではなかったのかもしれない。
「それじゃあ、結衣先輩が私に気付いたら戸塚先輩にお知らせします。アドレス聞いてもいいですか?」
「いいよー」
気軽にアドレス交換に応じてくれた戸塚先輩。何だろう、私が女なのに、戸塚先輩に女子としての魅力に負けたような気が……
言いようのない敗北感を抱きながら、私は隣の自分の部屋に戻る。引っ越してきたばかりで荷物が少ない部屋だけども、散らかっていないのでそのままでも構わないと思えるような状況だ。
「でも、一応片付けておかないと」
先輩がこの部屋に来ることはないだろうけども、何時人を招いても問題が無いようにしておきたい。そんな考えが私の突き動かし、日付が変わる前には部屋の片づけは終わり、女の子の一人暮らしの部屋として恥ずかしくない光景になっていると思う。
「それにしても、まさか結衣先輩と同じ大学とはね……」
完全な仲違いはしていないようだけども、先輩と結衣先輩ってまだ付き合いがあるのかな? 明日聞いてみようかな?
先輩が隣で生活しているのだから、話を聞くチャンスはあるだろう。そう考えながら私は、携帯を開いて――何もせずに閉じる。今更ながら思ったけども、私って連絡する相手いなくない?
「いやいや、先輩じゃないんだから……クラスの中に居場所もあったし、生徒会メンバーと出かける事もあったし」
でも、それだけだった。個人的に予定を合わせて出かけたのは、クリスマスイベントの時に参考になればという事で行ったディスティニーランドと、フリーペーパー作りという名目で先輩を連れ出したくらいしかないような……あれ? 私ってボッチだったの……? 三年になって何度かデートしたけども、あれだって別に楽しい思い出とかではないし……
「いやいや、そんな事ないはず。だってアドレス帳にはクラスメイトの殆どが登録されているし――連絡した事あったっけ?」
殆どと言っても、交換しただけで一度も連絡をしたことが無い相手もいる――というか殆どそれだ。男子はすぐに交換してくれたけども、女子はあまり乗り気ではなかったような気も……一応付き合いで、って感じの人も多かった気がする……
「まぁ、同性から嫌われてたから、嫌がらせで生徒会長に立候補させられたんだけどもさ……」
何だか気分が滅入ってきた気がする……高校では確かに入学してすぐに葉山先輩に取り入ろうとして近づき、同性にイラつかれたりしたけども、二年生になってからはそんな事は無かったはず。クラスメイトたちとも普通にお喋りしたり、出かけたりだって――
「……してない。教室で喋ったりはしたけども、放課後や休日にどこか出かけたって記憶が無い」
二年に進学してからは先輩にちょっかいを出すので忙しかったのもあるので、誘われても行かなかったんだった……
「……先輩に付きまとっていた所為で、私は先輩のようにボッチになっていたなんて」
今更ながらに自分の高校生活が寂しいものだったと気付き、私は誰もいない先輩の部屋に向かって文句を言ってやろうかと息を吸い込み――無駄だと思い吐き出す。
「こうなったら、先輩に責任を取ってもらわないと」
私の高校生活が寂しいものになってしまったのは、間違いなく先輩に責任がある。全てとは言わないけども、半分くらいはあの先輩の所為だ。そう結論付けて、私は明日からまた先輩に付きまとってやろうと心に決め、明日が入学式だという事を思い出して慌ててベッドに潜り込んだのだった。
今年最後ーーにはしたくないな……頑張ってもう一話くらいやりたい
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遭遇
大学の入学式なんて特に緊張する事も無いだろうと思っていたけども、私は昨日知った事実が気になっていた。あの結衣先輩が私と同期生になるということ。もしばったり会ってしまったらどう反応すれば良いのかに頭を悩ませていた。
「(結衣先輩の事だから特に気にしないのかもしれないけども、こっちはそんな風に考えられないよね)」
先輩に相談したかったけども、昨日再会してすぐにバイトに行ってしまったので相談できなかった。というか、先輩が出かけてから結衣先輩が同期生になるということを聞いたから相談することが出来なかったのだ。
「(まぁ、同じ大学だって言っても学部が違うかもしれないし、これだけ人がいれば会うこともないかな)」
結衣先輩が私と同期生になるって知っていれば会ってしまうかもしれないけども、戸塚先輩に黙っててほしいとお願いしておいたので、恐らく結衣先輩は私がこの大学にいるということは知らないだろう。
「あれ? いろはちゃん?」
「………」
何故こんな人が多いのに聞き覚えのある声が聞こえてくるんだろう? というか、何故考えてるとその人と会うんだろう……
「えっ、結衣先輩? お久しぶりでーす。どうしたんですかー?」
動揺していることを隠すために、私は高校時代結衣先輩にしていた態度で対応する。大学生にもなってこんな喋り方はおかしいかもしれないけども、結衣先輩相手ならこれくらいでも問題ないだろう。
「いろはちゃんもこの大学なの?」
「そうですけど、何で結衣先輩が入学式にいるんですかー? 確か私の一学年上だったと思うんですけど」
「やはは……浪人しちゃってねー。今回も危なかったけど、何とか合格できたんだ~」
「そうだったんですかー。あっ、結衣先輩は何学部なんですかー?」
「文学部だよ」
あっ、やっぱり一緒だった……まぁ先輩がいるかなーって思って文学部を選んだから仕方ないけども、まさか結衣先輩と一緒になるなんて思ってなかった……
「いろはちゃんこの後時間ある? 久しぶりにお喋りしようよ」
「いいですよー。あっ、結衣先輩は何処に住んでるんですか~?」
「えっとね――」
結衣先輩の住所を聞いて、私は随分と近所だなって思った。これなら家の近くでお喋りすることになっても問題なさそうだ。
「結衣先輩はその辺りのお店知ってますかー? 私昨日引っ越してきたのでまだ分からないんですよー」
「私もまだこっちに来てそんなに時間経ってないけど、ある程度なら分かるよ。それじゃあ今日は私がお店決めて良い?」
「お願いしまーす」
入学式後の予定が決まって、私はただただ退屈な式典に参加することにした。まぁ、結衣先輩とのお喋りもそれほど楽しみではないけども、入学早々直帰する寂しさは感じなくてよくなったので、それはそれで良かった。
結衣先輩の案内で近所の喫茶店へ入る。落ち着いた雰囲気でこの時間帯はお客さんも少ないのか、先輩あたりが好きそうな感じだ。
「それにしても結衣先輩と同じ大学、同じ学部になるなんて思いもしませんでしたよー」
「私もー。まぁ、私が浪人してたから仕方ないけども、まさかいろはちゃんと同期生になるなんてねー」
「浪人してたのって結衣先輩だけなんですか?」
「戸部っちたちも浪人してたよ。まぁ、今年もダメだったって聞いたけども」
「そうなんですかー」
さすが戸部先輩。中途半端にチャラい人だったけども、知り合いが後輩になるかもしれないと思うと何だか複雑だな……まぁ、同じ大学に入る可能性は限りなくゼロだろうけども。
「ゆきのんは海外留学してるし、隼人君も一緒に留学してるしね」
「お二人って付き合ってたんですか?」
「家同士が何とかして付き合わせようとしてるらしいんだけど、ゆきのんの方は隼人君に興味ないみたいなんだよね」
「それは見てて感じてましたけどね」
雪ノ下先輩はどう考えても葉山先輩に興味なさそうでしたし、そもそも先輩に好意を持っていたようですしね。
「彩ちゃんやヒッキーはエリート大学だし」
「結衣先輩、まだ先輩と連絡してたんですか?」
「一応ね。卒業の時に告白しようと思ってたんだけども、ゆきのんに先を越されて……」
「雪ノ下先輩が先輩に告白したのって、三年生になってすぐくらいじゃなかったですかー? それなら先輩はフリーのままだったと思うんですけど」
「いや、ゆきのんがフラれたのを見てたから、なんだか勇気が出せなくてね……結局そのことがあって奉仕部はバラバラになっちゃったし」
あの部室に行っても誰もいなかったので、私も何かあったんじゃないかと思って調べたけども、何でまだ集まる可能性がある段階で告白したのかよく分からなかった。フラれるなんて思ってなかったのだろうか? それとも、先輩が遠ざかって終わりだと思っていたのだろうか? その答えは雪ノ下先輩しか分からないだろう。
「そろそろ注文しないと店員さんに怒られそうだね」
「そうですね。面倒だし、食事も済ませちゃいましょうか」
「ここのサンドウィッチ美味しいんだよ~。ホットサンドにしてもいいし」
「そうなんですか?」
メニューを見たけども、食事系で興味を惹かれたのはサンドウィッチだけだ。帰って用意するのも面倒だし、結衣先輩お薦めの物を食べるとしよう。
「私ホットコーヒーとサンドウィッチ。いろはちゃんは?」
「私も一緒のでお願いします」
注文を取りに来た店員にそう告げて、私は結衣先輩の方へ向き直す。どうしても聞いておきたい事もあるし、このまま注文した物が来るまで黙っているのは居心地が悪い。
「結衣先輩はまだ先輩の事が好きなんですか?」
「えっ? ……うん、私はヒッキーが好き」
まさか正直に答えてくれるとは思っていなかったので、私は聞いておいてなんだが結衣先輩の答えに対して反応出来なかった。
「だからヒッキーと同じ大学、同じ学部を受験したんだよね。私の成績じゃ無謀だって分かってたし、ママや先生たちからも止めた方が良いって言われてたんだけど」
「それで浪人してたんですね」
「……いろはちゃん、知らないフリは別にしなくて良いよ?」
「へっ? 何の話ですか?」
一瞬心臓が掴まれたような錯覚に陥ったが、私は表情を変える事無く結衣先輩に尋ねる。
「昨日彩ちゃんからメールが着たんだ。夜遅くにね」
「そうなんですか?」
「いろはちゃんと会って私が浪人してる事話しちゃったって」
「………」
「でもまさか同じ大学、同じ学部だなんて思ってなかったからびっくりしちゃった」
「そうですね。こんな偶然ってあるんですね」
一瞬戸塚先輩が喋っちゃったのかとも思ったが、私が戸塚先輩にお願いしたのは「私が結衣先輩と同じ大学に通う事」なので、私が戸塚先輩と会った事を結衣先輩に喋っても何ら問題は無いのだ。
「今度みんなで集まろうよ」
「みんなって?」
「彩ちゃんとヒッキーが同じ大学なのは聞いてるでしょ?」
「えぇ」
聞いているどころか、先輩は私の部屋の隣で生活しているのだ。無理に集まろうとしなくても顔を合わせることはできる。
「どうせだから四人で何処か遊びに行こうよ。ほら、私といろはちゃんの入学祝とかなんとか言ってさ」
「それいいですね。でも、先輩が来てくれますかねー? ほらあの人、人混み嫌いとか言ってましたし」
もっと言うのであれば「人が嫌い」とも言っていたような気もするけども、あの人が素直に遊びに付き合ってくれるとは思えない。
「彩ちゃんが誘えば来てくれるよ。相変わらず彩ちゃんには素直みたいだし」
「そうなんですね」
知っている。昨日間近で見たばかりなので、結衣先輩に言われるまでもなく知っている。先輩が戸塚先輩に対してだけ素直だということは。
「でもヒッキーもバイトが忙しいって言ってるから、時間を合わせるのは大変そうだけどね」
「結衣先輩はバイトしないんですか?」
「一応してるよ? でもヒッキー程はいれてないから」
「そうなんですか? ところで、先輩ってどんなバイトしてるんですかね」
「えっと、チェーン店の居酒屋の厨房と、閉店後のファミレスの清掃バイト、それからスーパーの早朝警備と、いろいろやってるって聞いてるけど。でも一番は家庭教師じゃないかな」
「家庭教師? 先輩が?」
「ほら。あれでもエリート大学の法学部だからさ。勉強は出来るみたいだし」
先輩が見ず知らずの女子と二人きりで部屋にいるところを想像して、私はなんだか怒りを覚える。そりゃ私は先輩の彼女ってわけじゃないですけども、面白くないと思ってしまうのは仕方ないじゃないですか。私だって、先輩の事が好きで、二人きりになりたいって思ってるんですし……
八幡の家庭教師は想像出来ない……
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数合わせ
結衣先輩とお喋りしていたので、帰りが随分と遅い時間になってしまった。別に一人暮らしなので誰も気にしないだろうけども、東京でこんな時間まで一人で外出した事ないので、ちょっと不安になってくる。
「別に東京だからってだけで、千葉と変わらないとは思うけど……」
むしろ東京の方が人が多いんだから、何かされる確率は低いと思う。結衣先輩も特に気にした様子もなく帰っていったんだから、私だって気にしないで良いよね……
「(なんだろう……急に不安になってきちゃった……)」
大学生になったからと言って、私が小柄なのには変わりはない。周りを歩く人たちは大きい人が多いので、人混みに呑まれて何かされたら抵抗出来ないだろうな……
「(早いところ帰らなきゃ)」
そう決心して歩を進めようとしたところで、私は背後から誰かがついて来ているような気配を感じ取り、急に怖くなって動けなくなってしまう。
だが後ろにいた人は私のことを追いかけてきたわけではなく、ただ単に方向が一緒だっただけであっさりと私のことを抜いて先に行ってしまった。
「(初めてのことだらけで辺に意識し過ぎてるのかな……)」
いずれは気にならなくなるのかもしれないが、暫くはこんな神経過敏な生活を送ることになるのかと思うと、ちょっと憂鬱な気分になってきた。
「(一人暮らし楽しみって思ってたんだけど、不安の方が大きくなってきたかも……)」
ホームシックではないが、家に帰っても誰もいないということを思い出し、早くも実家に帰りたいなと思い始める。実家ならお母さんがご飯を用意してくれていたが、これからは私自身が用意しなければいけないし、片付けなければならない。
「面倒だなぁ……」
思わず声に出してしまい、私は慌ててその場から移動する。別に誰も私のことを気に掛けてなどいないだろうけども、何となく恥ずかしいのだ。
「一色ちゃん?」
「へっ?」
知り合いも少ないこんなところで名前を呼ばれるなんて思っていなかったので、私は間の抜けた返事をしてしまい、ちょっと恥ずかしくなりながらも名前を呼んだ相手を確認する。
「あっ、折本さん……」
「こんなところで一色ちゃんに会うなんて、超うけるー」
「お、お久しぶりです」
先輩の中学時代の同級生で、海浜総合高校にいた折本さんが私を見つけて声をかけてきたのだ。折本さんの連れは見たことないので、大学の友人なのだろう。
「誰?」
「ちょっとした知り合いなんだけど、まさかこんなところで会うとは思わなかった。一色ちゃんも東京の大学なの?」
「はい、○○大学です」
「えっ、一緒じゃん。超うけるー」
別に面白くはないと思うんですけど、この人は高校時代からこんな感じだったし、まともに相手にしなければいいだけだと学習しているので、特に腹は立てなかった。
「そうだ。かおり、この子に数合わせをお願いしたら?」
「えっ、一色ちゃんに?」
「はい?」
いったい何に誘われているのか……。私はあまり付き合いのない人たちと行動するのは好きじゃない。しかも初対面の相手に数合わせに誘われるとか、今すぐ断って逃げ出したいくらいだ。
「実は今度合コンがあるんだけど、二人キャンセルが出たんだよね。だから、一色ちゃんと誰かもう一人頼めないかな?」
「合コンですか?」
いかにも折本さんらしいなと思いながら、私はどうやって断ろうか考えを巡らせる。
「エリート大学の人たちとすることになったんだけど、予定していた二人に彼氏が出来てさー。合コン楽しみにしてたくせに、やることちゃんとやってたんだよねー。うけるっしょ?」
「はぁ……」
一応相手の大学を聞くと、何と先輩たちが通っている大学だったということもあって、私は結衣先輩に話してみるということで、折本さんの連絡先を入手し、この場はそれで解散となった。まさか、あんなことになるなんてこの時は思ってもいなかった……
結衣先輩に話したら「面白そー」ってことで参加することになってしまった合コンだが、正直私はあまり興味がない。未成年でお酒も飲めないし、こういう場所で食事するのは憚られるからなぁ……気にしないで食べればいいだけなのだろうが、空気の読めない女って思われるのは嫌だし……
「お待たせ。って、折本!?」
「玉縄じゃん。なんであんたがいるの?」
「えっ、かおり知り合いなの?」
まさかの玉縄さん登場に、私のテンションは一気に下がる。この人と合コンしても仕方がないし……これは遠慮なくご飯を食べるだけ食べて帰ることにしよう。
「僕は数合わせだよ。こちら側は三人もキャンセルが出たらしくてね」
よく見れば玉縄さんの後から入ってくるメンバーの内、やる気が高そうなのは二人。後の二人はどことなく嫌々な感じが――というか!
「先輩っ!? それに、戸塚先輩もっ!?」
「あれ、一色さん?」
「由比ヶ浜まで……」
「ヒッキー、彩ちゃん、やっはろー!」
思いがけない再会に、先輩がどことなく気まずそうな雰囲気を醸し出しているが、結衣先輩はそんな事お構いなしに先輩に声をかける。
「えっ、知り合いなの?」
「一色ちゃん、この二人紹介して」
折本さんの友人二人から先輩と戸塚先輩のことを紹介して欲しいと言われ、私は簡単に二人のことを軽く説明することにした。
「高校の先輩たちなんですよー。ちなみに、結衣先輩も同じ高校だったんですけどね」
「やはは、私は留年してるからねー」
「でも由比ヶ浜さんもちゃんと大学生になれたんだからよかったよね」
戸塚先輩の、同性でも見惚れるような笑顔に、折本さんの友達二人だけでなく、玉縄さんたちもフリーズする。まぁ、見慣れてないと凄いインパクトだし……
「というか、比企谷がこんなことに参加するなんてね。中学の同級生が知ったら驚くって、絶対」
「そうだろうな。俺自身が驚いてる」
「何それうけるー」
折本さんが先輩の背中をバンバンと叩く。先輩は鬱陶しそうにその手を払いのけて、部屋の一番端に腰を下ろし、その隣に戸塚先輩が座った。
「なんだか改めて自己紹介って雰囲気でもないね」
「というか、数合わせとか言っておきながら玉縄が一番乗り気じゃん。うけるんだけど」
「なっ! そ、そんなことはないからな!?」
折本さんの興味が玉縄さんに向いたところで、私と結衣先輩は先輩と戸塚先輩に話しかける。
「実際のところどうなんですか?」
「どうって?」
「玉縄君は数合わせは三人だって言ってたけど、それってヒッキーと彩ちゃんと玉縄君ってこと?」
「いや。俺と戸塚は数合わせだが、玉縄はむしろ企画者側だ」
「あぁ、やっぱり」
随分とノリノリな感じで部屋に入ってきたし、折本さんに見つかって慌てているのを見て、そうなんじゃないだろうかと思っていたけども、まさか本当にそうだったとは……
「てか、ヒッキーと彩ちゃんがいるなら、あの厨二さんもいると思ったよ」
「材木座君は漫研の集まりがあるって言ってたよ」
「誘われてもないのに断ってたな、そう言えば」
「そういえばヒッキー、久しぶりー!」
「今更だな……まぁ、由比ヶ浜らしいか」
「どういう意味だしっ!?」
先輩の言葉に、結衣先輩が喰ってかかるけども、どことなく楽しそう。
「(あぁ……この空気は苦手だ……私が入り込めない)」
壊れてしまったと思っていたが、この感じはまだ残っていたのか……
「なんだか懐かしいね。そう言えば由比ヶ浜さんと一色さんも数合わせなんだよね? どういう理由で参加したの?」
「折本さんと偶然に会って、そのまま流れで参加する感じに」
「ヒッキーたちの大学だって分かってたから、もしかしたら知り合いに会えるかなーって思ってたけど、まさか本人に会うとは思ってなかったよ」
「てか、俺に知り合いがいるわけ無いでしょ。期待しないでくれませんか?」
「そんなこと言って、八幡結構注目されてるじゃない」
「そうなんですか?」
「うん。テニスサークルに所属していないのに、正式メンバーの誰よりも上手いって」
「戸塚の相手をしてる間に上達しただけだ」
先輩がスポーツしている姿は想像しにくいけど、この人は別に運動音痴というわけではない。運動音痴というなら材木座先輩の方が当てはまりそうだし。
「とにかくヒッキーに久しぶりに会えたんだし、また連絡して良いかな?」
「別に良いんじゃね? というか、何で連絡してこなかったんだ?」
「それは、その……いろいろと気まずかったから?」
「俺に聞かれても知らねぇよ」
「二人は相変わらずだね。なんだか僕も高校生に戻った気分だよ」
「彩ちゃん、何だかオジサンみたいだよ?」
「そうかな? でも、今年で二十歳だしね」
「由比ヶ浜は大学一年生だけどな」
「関係ないでしょー!」
「先輩も相変わらずですよね」
素直になれない捻デレだと知ってはいるけども、こんな時まで捻くれなくてもいいと思うのに……でもまぁ、今日ここに来てよかったとは思えるくらいには楽しめそうだな。
八幡と戸塚が自分の意思で参加するわけがないよな
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解散後
しばらく四人で固まって飲んでいた――もちろんノンアルコール飲料だ――のだが、折本さんがお友達を連れてこっちに絡んできた。
「比企谷さー、本当にどっちとも付き合ってないんだよね?」
「どっちともって誰だよ? まさか戸塚と玉縄とか言わないよな」
「言わないって。どうしてそっちになるの。マジうけるんだけど」
「いや、この間材木座の連れにそんなことを言われたばかりだから……」
材木座先輩が所属している漫研には、所謂「そういう趣味」の人が多いそうで、戸塚先輩と一緒にいることが多かったり、玉縄さんに絡まれることが多い先輩を「そういう目」で見てるらしい。というか、エリート大学でもそういうことを考える人っているんですね……
「普通に考えれば、由比ヶ浜ちゃんか一色ちゃんのどっちかって思うでしょ」
「生憎、男はもちろん女とも付き合ったことねぇよ。お前にこっ酷くフラれてから、人間不信が加速したんだよ、こっちは」
「あれは悪かったって」
先輩は中学生の頃、勘違いから折本さんに告白、見事玉砕したという過去がある。ここまでならよくある話なのかもしれないが、その後折本さんは先輩に告白されたことを周りに面白半分で話して、先輩を曝しものにしたのだ。その所為で、今のひねくれた先輩が出来上がったと言っても過言ではないのかも。
「えっ、かおりこの人に告白されてたの? 何で付き合わなかったわけ?」
「だってあの時の比企谷、何だか根暗ぽかったし」
「いや、否定しねぇけど酷い言い草ですね」
「だから悪かったって。それより、誰とも付き合って無いのなら今度どっか行こうよ。戸塚くんも一緒にさ」
「僕も?」
完全に蚊帳の外だと思っていた戸塚先輩だが、急に名前を呼ばれて少し驚いている。
「由比ヶ浜ちゃんと一色ちゃんの入学祝も兼ねて、どっか遊びに行こうよ」
「わー面白そう」
こういうことにすぐ喰いつく傾向のある結衣先輩が、あっさりと折本さん側に付く。戸塚先輩も先輩と一緒ならという感じにスタンスを取っているし、これは先輩次第で今後の予定が決まるという感じだろうか。まぁ、私としても先輩と一緒にお出かけできるなら嬉しいですし、ここはあえて折本さんの思惑に乗るのも悪くないかもですね。
「先輩、行きましょうよー」
「えぇいくっつくな! 分かった、行けばいいんだろ、行けば。といっても、バイトがあるから都合つくか分からねぇからな」
「その辺はちゃんと考えて予定組むから大丈夫だって。それじゃあ比企谷、連絡先教えて」
「別に構わないけど、またふざけて俺を曝しものにするのだけはやめてくださいよ」
「しないって。ほんと疑り深いんだから」
「かおりがそうしたんでしょ?」
「そうだった。うけるー」
何が面白いのかさっぱり分からないけども、折本さんたちは先輩と連絡先を交換して満足げに離れて行った。
「ねぇ八幡」
「何だ、戸塚」
「さっきから玉縄君たちが怖い目でこっちを見てるんだけど」
「あぁ、ほっとけ。モテない男の僻みだろ。まぁ、俺もモテないんですけどね」
「そんなこと無い! ヒッキーはモテモテだし!」
「いや、悲しくなるからフォローとかしないでくれませんかね? 余計惨めでしょうが」
「フォローじゃないし! 事実だし!」
「はいはい」
結衣先輩のセリフを慰めだと思った先輩は、まともに結衣先輩の相手はしなかった。だけどこの空間だけを取っても、女子五人――もしかしたら戸塚先輩も――が狙っているのが先輩だという事実にどうして気づかないのだろうか。さっきの話じゃないけども、人間不信にも程があるというものだろう。
結局ただ騒いだだけで終わった合コンだったけども、後日先輩とお出かけできるということでとりあえずの収穫はあったのかな。
「それじゃあ、今日はこれで解散だね」
「結局騒いでただけじゃねぇか」
「まぁまぁ、こういうのも良いじゃない。それじゃあ、お疲れ様」
玉縄さんの合図でそれぞれが上りと下りに分かれて歩を進める。私と先輩は当然だが、戸塚先輩と結衣先輩も同じ方面なので、当たり前のようにお喋りしながら電車を待つ。
「なんだかお腹へったなー。ねぇヒッキー、彩ちゃん。どっかでご飯食べてこうよ」
「それじゃあ八幡の部屋で良いんじゃないかな? 食材を買っていけば大丈夫だよね? 今日はバイトもないって言ってたし」
「別にいいけど」
「じゃあ私が作る!」
「「「それは止めてください(とけ)(といたほうが良いんじゃ)」」」
「何で三人で止めるし!?」
結衣先輩の料理スキルは知っているので、私たち三人は必至に結衣先輩を止めた。というか、先輩の家のキッチンを破壊するつもりだったのでしょうか……
「由比ヶ浜さん。八幡が作ってくれるから大丈夫だよ」
「えっ、ヒッキー料理できるの?」
「一応な。というか、一人暮らししてるんだから出来るようになってても不思議じゃないだろ」
「じゃあ私もできるようになるのかな?」
「由比ヶ浜。ゼロパーセントの確率では何回やっても成功しないんだ」
「どういう意味だし!」
先輩は半分笑いながら結衣先輩に告げ、結衣先輩も口では怒っていながらも顔は楽しそう。
「(やっぱり、この二人の雰囲気は苦手だな……)」
私と先輩との間にも独特の雰囲気はあるけども、ここまで親密そうな感じではないだろう。一緒にいる戸塚先輩に聞けば、どっちが親しそうに見えるかなんてすぐ分かる。もちろん、そんなことを聞いてショックを受けたくないので聞かないけど……
「それじゃあ買い物に行こう! いろはちゃんもそれでいいよね?」
「もちろんです! 先輩の料理、楽しみにしてますね」
「いや、良いんだけどね、うん……でもさ、こういう時って女子が作るもんじゃないの? もちろん、由比ヶ浜は期待してないけど」
「さっきから酷くないっ!?」
「酷くない」
同じ言葉を違うニュアンスで言う結衣先輩と先輩。これに関してだけ言わせてもらうのならば、私も戸塚先輩も先輩に同意だ。
「そういえばヒッキーの部屋ってどこなの? ひょっとしてエッチな本が散乱してるとかないよね?」
「あるわけ無いだろ! いつ戸塚が泊まりに来ても良い様に、常に綺麗にしてあるからな!」
「もう、八幡ったら」
「うわぁ……」
先輩の顔がガチ過ぎたので、私はとりあえず一歩引いておいた。戸塚先輩も満更でもなさそうな顔をしているから、材木座先輩のお仲間に「そういう関係」なんじゃないかって疑われてるんだと思うんですよね。もちろん、それを言って先輩と戸塚先輩の関係を悪化させたくないので、心の中だけに留めておきますけど。
「それじゃあ何時ものスーパーで良いよね?」
「問題ないだろ。てか、由比ヶ浜と一色は何か食べたい物はあるのか? ある程度なら要望に応えられるが」
「ヒッキーの料理がどの程度か分からないし、彩ちゃんに任せるよ。彩ちゃんはヒッキーの料理、食べたことあるんだもんね」
「結構お世話になってるからね。それじゃあ、僕がぱっぱと選んじゃうから、一色さんもそれで良いかな?」
「はい。お願いします」
一応私も先輩の料理を食べたことはあるのだけども、ここでそれを言えば結衣先輩に事情を聞かれてしまう。まぁ、この後先輩の部屋に行くのだから、遅かれ早かれ隣が私の部屋だということはバレてしまうのだが……
「(食事中に険悪な雰囲気になるのは避けておきたいし)」
結衣先輩ならそんなことで怒ったりしないだろうけども、何となく私が気まずくなるのだ。
「そういえば彩ちゃん」
「ん? どうしたの?」
「さっき彩ちゃんのことをずっと見てた人がいたんだけど」
「何時?」
「合コンの時」
「おっ、さすが戸塚」
どうやらあのメンバーの中に戸塚先輩狙いの人がいたようで、私は視線で結衣先輩に尋ねる。先輩を狙っていると思っていたけども、女性側には戸塚先輩狙いの人がいてホッとしたのも束の間――
「玉縄君の隣にいた男の人。知り合い?」
「……今日初めて会ったんだけどな」
「さすが戸塚だ……」
「あんまり嬉しくないかな……あはは」
引きつった笑いを零す戸塚先輩の肩を、先輩が軽く叩く。何度かあったことなのか、戸塚先輩も先輩のそう行為で切り替えたようだ。
「いっその事男らしい恰好でもしてみようかな」
「でも彩ちゃん、その恰好似合ってるし良いと思うんだけどな」
「そういえば戸塚先輩って、高校時代ジャージばっかりでしたけども、何か理由があったんですか?」
「一年の時、制服でいたら『男装?』って言われてね……それ以来式典とかじゃなければジャージでいることが多くなったんだ。特に怒られなかったしね」
「なるほど」
戸塚先輩なら男装の麗人にも見えなくないだろうし、むしろ下手な女子よりも絵になるだろう。男性なのだから当然なんだろうけども、何故かそう思ってしまうのだ。
「それじゃあ、ヒッキーの部屋に行こう!」
買い物を済ませて先輩の部屋に向かう途中、私は先輩が持っている荷物を手伝おうとしたけども、先輩は私を頼る事は無かった。というか、この人が重たい荷物を女の子に持たせるはずはないって分かってて近づいたんだけど、やっぱりそういうところは優しい人なんだろうな。
戸塚が不憫だ……
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時間の使い方
買ったものは先輩と戸塚先輩が持ってくれているので、私と結衣先輩は手ぶらのまま先輩の部屋までの道を進む――私の部屋までの道でもあるのだが、結衣先輩はそのことを知らないので。
「そういえば私、ヒッキーの家に行くの初めてだよね」
「そうだったっけ? まぁ、外で遊ぶようなこともなかったし。というか、高校の頃サブレを預かったんだが、その時迎えに来たのって由比ヶ浜じゃなかったか?」
「あれは遊びに行く感じじゃなかったし」
「別に今だって遊びに来てるわけじゃないような気も」
「僕は八幡の部屋に遊びに行くつもりだったんだけど、違うの?」
「いや。友達と自分の部屋で遊ぶのは楽しいよな」
相変わらず戸塚先輩に全乗っかりな先輩……心の底から友達だと言い切れる相手だからなのかもしれないけど、こうも戸塚先輩中心の考え方をしていると、漫研の方々ではないが、本当にそっちの趣味なんじゃないかと思ってしまう。
「ここ?」
「あぁ、二階だ」
マンションに到着してまず最初に先輩が中に入る。その後から戸塚先輩、結衣先輩、私の順番で階段を上がっていく。
「彩ちゃんはヒッキーの部屋にしょっちゅう遊びに来てるの?」
「八幡の時間がある時は、結構遊びに来てるかな。場所を借りてるんだから、僕たちの誰かが作るべきなのかもしれないけど、八幡には敵わないから」
「ヒッキー、そんなに料理得意だったっけ?」
「慣れただけだって、さっき言いましたよね? 一時間も経ってないのにもう忘れちゃったんですか?」
「か、確認しただけだし!」
少し残念な人だと思われている結衣先輩だが、先輩に見つめられて少し嬉しそうな表情を浮かべている。もしかしたらマゾなのかも? と思ったけども、私も先輩に見つめられたらあんな表情をしてしまうかもしれない……それだけ先輩のことが好きなのだ。
「お邪魔しまーす! って、本当に綺麗にしてるんだね。もしかしたら私の部屋よりキレイかも」
「結衣先輩……」
「べ、別に散らかってるわけじゃないからね!? ただちょっと、片付けが追いつかないだけで」
「それを散らかってるって言うんじゃないですか?」
とりあえず、結衣先輩の部屋に遊びに行くのは止めようと思わされる発言だったが、先輩は特に気にした様子もなく食材を戸塚先輩から受け取り、特に誰かに手伝わせようともせずキッチンへと向かっていってしまう。
「それじゃあ、僕たちは食器の準備や飲み物の用意をしておこうか」
「そうだね! って、私たちヒッキーの部屋の何処に何の食器があるのか知らないんだけど」
「あっ……それじゃあ僕が用意しておくから、由比ヶ浜さんと一色さんは座って待っててよ」
女子の私ですら見惚れてしまうような可愛らしい笑顔でそう告げて、戸塚先輩もキッチンの方へと行ってしまう。
「彩ちゃん、大学生になってさらに可愛くなったと思わない?」
「女としての自信が無くなりそうですよね、あの二人を見てると……」
戸塚先輩には見た目の可愛らしさや仕草の部分で。先輩には料理の手際の良さで。二人とも女子である私や結衣先輩より遥かに優れているから。
「いろはちゃんは一人暮らしで料理とかする?」
「一応しようとは思っているんですけど、先輩のようにはできないだろうなって思い始めてます」
「だよね。私も引っ越してくる前はやるって思っていたんだけど、ママや周りの友達から止められちゃってさ。酷くない?」
「いやー……どうなんでしょう」
周りの人たちは結衣先輩の家事レベルを知っているから、一人暮らしを始めてそうそうにその部屋で生活できなくなってしまうのを恐れたんだと私は思う。というか、結衣先輩ってどうして反省して止めようとか思わないのだろうか……
「そうそう、いろはちゃんはサークルとか入る?」
「どうしようか悩んでるんですよねー。バイトとかしなきゃいけないって思ってますし、先輩のように時間がある時だけ顔を出すような感じで良いならって思ってるんですけど」
「バイトって何するの?」
「まだ決めてませんけど、接客とかなら出来るかなーって思ってます。実際千葉でもしてましたし」
伊達に生徒会長を二期務めてきたわけではないので、自分を取り繕うのには慣れている。特に一年生の時は交流する相手は上級生だったので、こちらが下手に出なければいけない場面が多かったのだ――玉縄さんの時は、危うく本心が出かかってしまったけども、先輩が上手いことフォローしてくれたので何とかなった。
「いろはちゃん、コンビニのレジとか良いんじゃない? 可愛いからすぐ人気になりそう」
「別にああいう場所って人気とか関係ないんじゃないんですか? 不特定多数に人気になったとしても、あんまり嬉しくないですし」
ただ一人の相手に好かれなければ、どれだけ人気だろうと意味がない。そのことはもちろん、口にすることはないが。この間の会話から、結衣先輩もまだ先輩のことを好いていることは知っているので、私も先輩のことが好きだと知られれば、何となくこの先付き合いにくいと思ったからだ。
そんな風に結衣先輩とお喋りしていると、キッチンの方から先輩と戸塚先輩の楽しそうな雰囲気が伝わってきて、私は無意識にキッチンの方を睨んでいた。
「いろはちゃん? 何で睨んでるの?」
「えっ? あっ、何でもないです。ちょっと目が疲れちゃったみたいで、ただ細めてただけです」
「そうなの? なんだかヒッキーと彩ちゃんのことを睨みつけてるような感じだったんだけど」
「やだなー。そんなことするわけないじゃないですか」
「そうだよね」
何とか誤魔化しきることに成功した私は、結衣先輩には見えない角度でホッと息を吐いた。まさか無意識のうちに戸塚先輩を羨んで睨んでいたなど、言えるはずがない。
「出来たぞ」
「うわぁ、美味しそー。ヒッキー、本当に料理上手なんだねー」
「感想は食べてからにしてくれません? 見た目だけ美味しそうで味はそうでもないとか思われたくないんで」
「大丈夫だよ、八幡。八幡の料理が美味しいのは知ってるから」
確かに先輩の料理は美味しかった。引っ越してきた当日、偶々再会して先輩の料理をいただいた時、少なくないダメージを負った私が言えば先輩も納得してくれるだろうが、それを言ってしまうと結衣先輩に私の部屋が隣だと知られてしまう。できればもう少し黙っておきたい。
「彩ちゃんはこの辺に住んでるの?」
「そうだよ。五分くらい歩いたところだから、結構八幡にお世話になってるんだ。そのお返しって程じゃないけど、片付けとかは僕たちがやってるから、食器の位置とかは自然と覚えたんだ」
「戸塚なら二十四時間三百六十五日何時でもウェルカムだ」
「そう言ってもらえてうれしいよ。でも八幡にばかり頼っていると八幡が大変だろうから、毎日ってわけじゃないけどね」
「厨二さんや玉縄君も一緒に来てるんでしょ? あの二人も近いの?」
「材木座君はここから一駅向こうだけど、玉縄君は完全に逆方向なんだけどね。でも結構な確率で僕たちが八幡の部屋に来る時一緒に来てるよ」
「アイツ英文学科に友達いないんじゃないの? まぁ、一人もいない俺が言えることじゃないが」
「法学部の人って仲良くならないの?」
結衣先輩の何気ない質問に、先輩が顔を顰める。隣では戸塚先輩も引きつった笑みを浮かべているし、私も内心「その質問はないだろう」と思っている。
「仲良くしてるヤツはいるが、単純に俺にそういったスキルが備わっていないってだけの話だ。というか、戸塚と材木座、あとは玉縄くらいしか知り合いいないし」
「テニスサークルの人とは挨拶したりしてるじゃん」
「向こうから話しかけてくれば話すが、俺から話しかけることはないぞ。というか、そんなことする勇気がない」
「先輩って変なところでヘタレですよね。あれだけ物怖じせずにズバズバと言って嫌われ者になる勇気はあるのに」
「人の古傷抉るの止めてくれない? もうあんなことやってねぇから」
私が言ったのは、先輩が二年次の文化祭実行員で取った解決方法なのだが、どうやら先輩にはちゃんと伝わったようだ。自己犠牲と言えば聞こえがいいかもしれないが、先輩はそんなつもりではなく、他に解決方法が思い付かなかっただけだと言い張っている。時間があれば他の解決方法もあっただろうが、あの時は一刻を争う事態だったから仕方ないのだろうが、その所為で一時期先輩に対する悪い噂が流れたのだ。
「先輩は女子を泣かせて悦に浸る変態さんですもんねー」
「そんな趣味ねぇよ! というか、俺が泣きたいくらいだったんだが」
「先輩が泣いても誰も同情しませんよ? まぁ、私はお情けで同情してあげたかもしれませんけど」
「はいはい、ありがとうございます」
気のない返事をしながら料理を食べる先輩。私も先輩につられるようにして一口食べ、やっぱりレベルの高さに打ちひしがれるのだった。
空き時間ってどうすれば良いのか悩んでしまうんですよね……
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呼称
先輩が作ってくれた料理を食べながら談笑していると、ふと結衣先輩が先輩と戸塚先輩を交互に見て首を傾げる。私は何事か気になったので、結衣先輩に今の行動の理由を尋ねる事にした。
「結衣先輩。先輩と戸塚先輩を交互に見てどうかしたんですか?」
「いや、大したことじゃないんだけどね」
「そんな言い方されたら気になるじゃないですかー」
ちょっとおバカっぽいけど、結衣先輩相手ならこれくらいで十分だろう。高校時代にもこういった言い方をして結衣先輩から説明してもらったこともあるし、先輩も戸塚先輩も私がこういう『キャラ』だって知っているし。
「隼人君は仲良くなった相手は名前で呼んでたし、相手にも名前で呼ばれてたけど、ヒッキーと彩ちゃんは違うんだなーって思っただけ。彩ちゃんは名前で呼んでるけど、ヒッキーは何時まで経っても苗字で呼んでるでしょ?」
「そういえばそうですね。私のことも名前で呼んでも良いですよって言ったことあるんですけど、頑なに苗字呼びですし」
「おいおい。俺にリア充の真似をしろっていうのか? そもそも相手だって認識出来れば呼び方なんてどうでも良いだろ?」
「僕は八幡に名前で呼んでもらいたいけど」
「ぐっ……こればっかりは戸塚の頼みでも聞けない」
戸塚先輩の上目遣いでのおねだりに、先輩の心が揺らぐ。これが私のようにあざとさが感じられればそうでもないのかもしれないが、戸塚先輩のあれは素だ。捨てられた子犬のような目をしている。
「じゃあ、部屋の中だけで良いから」
「それなら……」
戸塚先輩の譲歩に、先輩が考え込む。なんだか付き合いたてのカップルみたいな会話だが、絵的に問題ないと思ってしまう私はどうかしているのだろうか……
「それだったら私もヒッキーに名前で呼ばれたいし!」
「なら私もです。部屋の中だけなら問題ないんですよね?」
「いや、彩加とお前たちとはって……やっぱり恥ずかしいな」
うっかり名前で呼んでしまったはいいが、やはり恥ずかしかったのだろう。先輩は戸塚先輩から視線を逸らして頬を掻く。やっぱり付き合いたてのカップルのような反応に、私の胸はチクリと痛んだ。
「なぁ戸塚、やっぱり無理っぽいんだが」
「一回呼べたんだから、あとは慣れていくだけだよ。無理しないで欲しいけど、やっぱり名前で呼んでもらえると嬉しいし」
「それなら……次第に慣れていく方向で頑張っていく」
「彩ちゃんだけなの? ヒッキーってやっぱりホ――」
「断じて違うからな! 彩加だけだ」
「八幡……」
なんだかキラキラオーラが見えるような気がするけど、ここで大人しく引き下がってはいけない気がして、私は先輩に再アタックする。
「先輩、私のことも名前で呼んでくださいよー。こうして材木座先輩たちがいない時だけで良いので」
「じゃあ私も! ヒッキー、ほらほら」
「ええぃ、くっつくな! じゃれつくな! というか由比ヶ浜、ジュース零してる」
「えっ!?」
先輩に指摘され、結衣先輩は自分の服をチェックする為に先輩から離れる。私もちょっと気になって意識を結衣先輩に傾けたタイミングで、先輩は器用に私が絡めていた腕を引き抜いて距離を取ってしまった。
「ヒッキー騙したね!」
「こうでもしないと離れなかっただろ? というか、零してるのは本当だ」
先輩がタオルを手渡しながら結衣先輩に零した箇所を教える。確かに少し零れているようで、そこには小さなシミができていた。
「ありゃ、本当だ」
「結衣先輩、大学生にもなって……」
「こ、これは偶々だしっ!?」
「まぁ由比ヶ浜さんもワザとじゃないんだし、八幡も一色さんもそこまで言わなくても」
「俺は別にそこまで言って無いけどな。というか戸塚、今日は随分と食べるんだな」
「えっ? あぁ、八幡の料理がおいしくてついね……というか、普段は材木座君や玉縄君が量を食べちゃうから」
「あの二人ってそんなに食べるんですか?」
材木座先輩は見た目通りかもしれないが、玉縄さんはそこまで食べるイメージは無い。むしろ蘊蓄を語ってなかなか箸をつけないイメージだ。
「最近遠慮が無くなってきてるからな……そうか。さ、彩加は遠慮してただけなのか」
「うん……だって部屋を貸してもらって更に料理まで作ってもらってるわけだし……」
「別に気にしなくてもいいんだが」
だんだん先輩と戸塚先輩が付き合ってるんじゃないかって思えてくる空気が流れ始めているので、私は強引に話を変える。
「そういえば先輩、何か良いバイト知りませんか?」
「バイト? そう言えばするって言ってたな」
「そうなんですけど、なかなか良さそうなバイト先が見つからないんですよね」
「なら俺のバイト先の一つの居酒屋で募集してるぞ」
「先輩の紹介って言えば雇ってもらえますかね?」
「いや、そんなの知らん」
興味を失ったのか先輩は空いた皿をキッチンへと運んでいく。こういった些細なことでもすごいなと思ってしまうのは、私がそのことに気づかなかったからなんだろうか……それとも、意識している相手だからこういった些細なことに気づくからだろうか。
「でもいろはちゃんならすぐに仕事覚えられそうだよね」
「まぁ、伊達に生徒会長をやってたわけじゃないですからね」
「散々人に仕事を押し付けてたくせに」
「何か言いましたか? 先輩が私を生徒会長にしたんですから、責任取ってもらっただけですよ」
「二期目は俺の所為じゃなかったはずですけどね?」
「一期目の評判が良くてそのまままた勝手に立候補させられてただけですから。だから、結果的には先輩の所為なんですよ?」
少し責めるような態度で先輩に言うが、あまり効果はない。これが玉縄さんならあっさりと懐柔されてくれただろうけど……まぁ、あの人にこんな態度を取る必要性は無いんだけど。
「はいはい、あざといあざとい」
「何ですとー! 私は別にあざとくないですからね」
「高校の時から数えて何回目だ、このやり取り。だいたいお前は全然素っぽくないからそう言われるんだよ」
「私のことをあざといって言ってたのは先輩だけですから。だいたいの相手は騙さ――素直に聞いてくれてましたし」
「今騙されたって言い掛けなかった?」
「そんなことないですよー。というかさっきから話題を逸らされてる気がするんですが、先輩は私のことを名前で呼んでくれないんですか?」
「えっ、そこに戻るの」
先輩としては終わった話だったのかもしれないが、私としては簡単に終わらせてはいけない話なのだ。先輩に名前で呼んでもらえれば、それだけで一歩前進したような気がするし。
「そもそも異性のことを名前で呼ぶなんて、小町以外でしたことねぇし」
「そういえば小町ちゃんと大志君って付き合ってるの?」
「そんな事実は存在しない! あの野郎が小町に付きまとってるだけだ!」
「まぁ、サキサキも付き合ってないって言ってたしそうなのかな? お似合いだと思うんだけど」
「結衣先輩、川崎先輩と連絡とってたんですか?」
「こっちに引っ越してくる前にちょっとね。『もう一回浪人したら大志と同期生になるんじゃね?』って話題から近況を聞いただけ」
「それで、戸部先輩たちは見事にそうなりそうだと」
来年も合格できなければ後輩になるわけで……あんまり思い入れないけど、頑張ってください、戸部先輩。
「って! また話題が逸れてますよ! 先輩、一回だけでも良いんで呼んでくださいよ! 呼んでくれないと、ここに居座りますからね!」
「それは勘弁してもらいたいんだが……というか、苗字で呼ぼうが名前で呼ぼうが大差ないんじゃないのか? さっきも言ったが、相手が自分だと認識すればそれで」
「気分の問題ですよ。そもそも、先輩とここまで親しくしてくれる女の子が他にいるんですか? そういう相手のことは他と一緒の呼び方じゃ失礼です」
「確かにお前らとは付き合い長いが……それとこれとは別じゃねぇの?」
「他の人がどう思ってるかは知りませんが、私は先輩になら名前で呼ばれても良いって思ってますよ」
玉縄さんなんて人の許可無く勝手に呼び始めたけど。まぁ、あの人は私には興味ないみたいだから放っておいてるけども。
「八幡、呼んであげれば?」
「さ、彩加まで……」
まさか戸塚先輩からの援護射撃があるとは思っていなかったけども、その一言で先輩が揺らいだ。さっきまでは頑として私のことを名前で呼ぶつもりは無かったみたいだけども、戸塚先輩に言われて困ったような表情を浮かべている。
「(本当に戸塚先輩に弱いんですよね、先輩って)」
戸塚先輩はライバルにならないと思っていたけども、最終的なライバルはもしかしたら戸塚先輩なのかもしれない。
「い、いろは……」
「なんですか、八幡先輩?」
「? お前に名前を呼ばれたのって初めてな気がする」
「そんなことないですよー」
そもそも私は『比企谷先輩』とも呼んだことなかったので、本当に先輩を先輩と特定して呼ぶのは初めてなのだ。でもその理由は先輩には内緒だ。
名前呼びは非リアにはハードルが高いですからね
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心の棘
先輩の家での食事の時間は、あっという間に過ぎてしまい、そろそろお暇しようかという流れになってきてるが、ここで私は一つどうにかしなければいけないことを思い出す。そう、結衣先輩にはまだ、私の部屋が先輩の隣だと知られたくないのだ。
何時までも隠していられるとは思っていないけども、今知られたら色々とメンドクサイことになる。具体的には、結衣先輩がほぼほぼ毎日私の部屋に入り浸るとか、そんな感じに。
「それじゃあ八幡、僕たちはそろそろ帰るよ」
「あぁ、またな」
既に戸塚先輩が別れのあいさつを交わし、結衣先輩もそれに倣って挨拶をしながら手を振っている。
「ヒッキー、また遊ぼうねー」
「そうだな……考えておく」
「絶対だよ!」
先輩としては社交辞令だったのだろうけども、結衣先輩はそんなことに気づけるはずもなく、先輩が本気で考えてくれると思ったらしい。相変わらずと言うか何と言うか……この辺りは結衣先輩らしいと言えるのだろう。
「あっ、さすがに片づけを先輩一人に押し付けるのは失礼ですので、私は手伝っていきますね」
「は? 別に気にしなくても――」
「こればっかりは女の沽券にかかわりますので」
「お、おぅ……」
物凄い剣幕で詰め寄ったお陰で、先輩はうまい具合に気圧されてくれた。さすがに調理から片付けまですべて男性である先輩にやらせたとなれば、女としての沽券にかかわるという脅しは効果的だったようだ。まぁ、今時女性が家事をやらなければならないなど、時代錯誤な考え方をしていないから、先輩に任せっきりでもなんとも思わないのですが。
「それじゃあ私も手伝うし」
「結衣先輩は家事が苦手ですし、今日のところは私一人で大丈夫ですよ」
「片付けくらいできるし! ま、まぁ、いろはちゃんがそう言うなら、今日はお願いするけどさ」
この反応、結衣先輩は片付けも苦手らしい。そう言えばさっき、部屋も散らかってるようなことを話してたし、仕方ないのかもしれないですね。
「それじゃあ一色さん、僕たちは先に帰るね」
「はい、また今度です、戸塚先輩」
「うん、またね」
相変わらずの可愛らしい笑顔を向けられ、ちょっとぐらっときてしまいましたが、これで戸塚先輩と結衣先輩を先輩の家から遠ざけることに成功したようですね。
「それじゃあ、さっさと片付けるか」
「はい、頑張ってくださいね」
「は? お前も手伝うんじゃなかったのか?」
「あれは私がこの部屋に留まる口実ですよー。まさか、本気で私が手伝う為に残ったと思ってたんですか?」
「留まるって……何の為に」
「そりゃもちろん、結衣先輩に私の部屋を知られない為ですよ」
私がはっきりと言い放つと、先輩はポカンとした表情で固まった。恐らく何でそんなことをしなきゃいけないんだとでも思ってるのでしょう。
「あっ先輩、食後のお茶をください」
「自分の部屋に戻って飲めばいいだろ、そんなの」
「だってまだ結衣先輩がいるかもしれないですし、今部屋を出るのは得策ではないんですよ。こんなに可愛い女の子がお願いしてるんですから、淹れてくれてもいいじゃないですか」
「はいはい、可愛い可愛い」
「全然心が篭ってないじゃないですかー」
高校時代にも何度かこんなやり取りはした覚えがあるが、先輩の答えは何時も心が篭っていない。これが他の男子なら簡単に手玉に取れたというのに……
例の合コンから一週間以上が過ぎ、私は普通に講義に出たり、サークルの見学をしたりと忙しかった。だいたいは結衣先輩と一緒だったけども、他の友達もできたりしたので会話内容が偏ることもなく平穏な日々を過ごしていた。
「それじゃあ、私こっちですので」
「そっか。じゃあね、一色さん」
「ばいばい、いろはちゃん」
新しい友達と結衣先輩は同じ方向なので私と別れて会話を続けていく。一人になった私はスマホを片手にバイト情報を探しながら近くのベンチに腰を下ろす。間違っても歩きスマホなどして、誰かにぶつかったら面倒だから。
「あんまりいい条件のバイトは無さそうだなぁ」
この間先輩に冗談で言ったけども、本当に先輩のバイト先に面接に行こうかな。そうすればバイトの時間も先輩と一緒に――っと。私は何を考えているのだ。バイトをしたいのは純粋にお金が必要だからで、先輩と一緒にいたいからではない。
「(……本当に?)」
自分に問いかけるが、答えなど決まっている。もし本心から先輩と一緒にいたいわけではないと言い切れるのなら、そもそも自問自答などしないだろう。
「はぁ……」
スマホから目を離し視線を前に向けると、見覚えのある髪型の男性が、中学生らしき女の子と何かを話しているのが見えた。男性の方はある程度の距離を保った感じだが、女子中学生の方はぐいぐいと近づいている。
「(なんだか面白そうですね)」
私はこっそりと二人に近づき、何の話をしているのか聞きたくなった。だが私が二人の会話を聞ける距離に近づく前に、二人の会話は終了し、男性の方にバッチリ私の姿を見られてしまった。
「何やってるんだ、お前」
「えっと……こんにちは」
「えっ、先生の彼女さんとかですか?」
「先生?」
何故先輩が先生と呼ばれているのか理解できずに、私は間抜け面で首を傾げる。
「比企谷先生に勉強を見てもらってるんです」
「あっ、家庭教師をしてるとか言ってましたね」
「それで、貴女は先生の彼女さんなんですか?」
そういうことに興味津々なお年頃なのだろう。先輩の教え子はぐいぐいと私に近づいてくる。これは先輩に気があってそういう行動をしていたのではなく、単純にこの子の癖なのだろう。
「比企谷さんとお付き合いさせてもらってます、一色いろはって言います」
「きゃー! 先生、こんな可愛らしい彼女さんが居たなら教えてくださいよ」
「違う。こいつは高校時代の後輩だ」
「そんな、照れなくてもいいのにー」
「そうですよ先輩。この間部屋で二人きりになったばっかりなのに」
「えっ、それって……」
私と教え子の連携で先輩に詰め寄る。先輩は頭を抱えながら教え子には軽く、私には結構強めのチョップを喰らわせてきた。
「なにするんですかー!」
「多感な年頃の女子に邪推されるようなことを言うなよな。お前は単純に戸塚と由比ヶ浜が帰った後も三十分くらい居座っただけだろ。本当に何もしないでお茶だけ飲みやがって」
「もうちょっと付き合ってくれてもいいじゃないですかー」
「えっと、つまり先生と一色さんは本当にただの先輩後輩の間柄なんですか?」
「今はそうですけど、私をこんな風にした責任を取ってもらおうとは思ってるんですけどねー」
「人聞きの悪いことを言うな。だいたいお前を生徒会長にした責任は、とっくに果たしただろ」
「……それだけじゃないですけどね」
「「?」」
先輩と教え子さんには聞こえないように呟いたので、二人は揃って首を傾げる。
「というか、先輩のようなひねくれた人が、こんなに純真な女子中学生に勉強を教えてるなんて、信じられません」
「確かに先生はひねくれていますけど、教え方は上手ですよ。お陰で成績も上がってお母さんに褒められましたし」
「本当ですかー? 先輩、高校時代は平均くらいだったのに」
「さすがエリート大学の法学部に通ってるだけのことはあるってお父さんも言ってましたし」
「そのエリート大学って止めてくれない? 自慢してるみたいで嫌なんだけど」
「先生が自分で言ってたら自慢になるでしょうけども、私たちが言ってる分には尊敬の念ですよ。あっ、それじゃあ先生、私はここで失礼します」
可愛らしく一礼してから、教え子さんは走っていってしまい、私と先輩だけが残される。先輩は特に気にした様子は無いが、私はさっき冗談でも先輩の彼女を名乗ったのだ。
「というか、お前はここで何してたんだ?」
「別に何もしてませんでしたよ。ボーっとバイトを探していたら、見覚えのある髪型の人が見えたので近づいただけです」
「何故近づいた?」
「だって、先輩が女子中学生を誘拐しようとしてると思って」
「そんなことするわけねぇだろうが。お前の中の俺はどんな奴なんだよ……」
「純粋無垢だった女子高生を悪の道に導いた最悪の先輩です」
「誰が純粋無垢だって? 俺と会う前からお前の腹の中は真っ黒だったろうが」
「なんですとー!」
確かに自分でも腹が黒いという自覚はあるけども、先輩に言われると何故かカチンときた。そもそも先輩以外には私が腹黒だと思われたことが無いということが原因なのだろうか。
「だいたい先輩ももう少しのってくれても良かったじゃないですか」
「教え子に嘘を教えるのは間違ってるだろ」
「変なところで真面目ですよね、先輩って」
この後は互いに予定も無かったので、同じ家路についた。傍から見ていたらカップルが同棲先に帰ってるようにも見えたのだろうが、ただ単に部屋が隣なだけという事実が、私の中で小さくない痛みを生んだ。
いろは程度の腹黒なら可愛いモノですけど
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ありがたみ
一人暮らしを初めて一ヶ月弱が過ぎたころ、私の体調はあまり良くない状態になっていた。高校時代にはこのような状態になった覚えはないのだが、やはり一人暮らしの疲れが出てきたのかもしれない。
「はぁ……」
一人暮らしなので体調が悪くても自分でいろいろやらなければいけないのだ。実家暮らしの時はお母さんがいろいろしてくれたけども、こういう時に親のありがたみを知るのか……
「とりあえず温かくして大人しくしてよう」
大学でも結衣先輩に心配されてしまう程、私の体調は悪いようで、もう外出するのも難しくなってきたような気がする。昨日まではそんなつもりは無かったのだけど、やはり自覚すると一気に悪化するのだろうか。
「えっとペットボトルの水は……」
冷蔵庫を開けて水を飲もうとしたのだが、タイミング悪く切らしていた。そう言えば昨日飲み切って今日買ってこようと思っていたんだっけ……
「タイミングが悪いな……仕方ない、水道水で我慢しよう」
普段ならコンビニにでも買いに行こうと思うのだが、この状態ではそれは難しい。私はとりあえず水を飲んでベッドに潜り込み身体を休める。
「結衣先輩には明日は講義休むって連絡しておこう」
明日の講義は一日結衣先輩と同じなので、最悪結衣先輩に講義内容を聞けば何とかなるだろうし……入学して早々に休んだら大変な目に遭うと思ったけど、知り合いがいてくれてよかった……
「ごほごほ……って、何だか咳まで酷くなってきたような気が……」
昨日までは軽く出るなーくらいだったのに、今日はなんだか重症な感じの咳が出る。これっていよいよマズいんじゃ……病院に行った方が良いのかもしれないけど、今は一歩も動きたくない。というか動けない……
「(先輩が助けてくれた嬉しいんだけどな……まっ、そんなことあり得ないだろうけど)」
先輩は今バイトなのかまだ部屋に戻ってきてはいない。昨日は玉縄さんたちが遊びに来ていたらしく、隣の部屋からは男の人の声がたまに聞こえてきていた。もちろん、うるさいと思う程聞こえていたわけではなく、単純に窓を開けて換気をしていた時に聞こえてきただけだ。
「(もしかしたら誘ってもらえるかもって思ったんですけどね)」
あの玉縄さんのことだから、軽い気持ちで誘ってくるかもしれないと思っていたが、最近折本さんと再会して普段のキレがなくなったと、先輩から聞いていたので誘われなくても不思議ではないと思えた。キレとは言ってなかったけど。
「(ダメだ……もういろいろと考えられなくなってきた……)」
目が回っているのか、頭の中がぐわんぐわんとしてきた。これは本格的に調子が悪いんだろうな。
「(こうなることくらい想定しておいて、市販の風邪薬くらい買っておくんだった……)」
なにせ自分の体調不良を自覚したのが今日なのだから、薬などない。大学の帰りに買ってくればよかったのだが、そんなことを考えられる状況ではなかったのだ。なにせ、買い置きの水の補充すら忘れているのだから、普段縁のない薬のことなど考えられるはずもない。
「(このまま死んじゃうのかな……)」
体調不良になると思考がネガティブになるとは聞いていたけど、まさか私がこんなことを考えるようになるとは……とりあえず布団にもぐって明日の朝体調が良くなっていることを願うしかないですね。
体調不良の現実から逃げるように寝たのだが、朝目を覚ましてその現実に打ちひしがれる。残念なことに、一晩寝た程度で治るような状態ではなかったようだ。
「うぅ、頭痛い……」
寝る前は感じなかった頭痛に襲われ、私は思わずそう呟いた。これはお母さんにこっちに来てもらって看病してもらうしかないんじゃないだろうか……
「(結衣先輩じゃ看病というかトドメになりそうだし。そもそもこの部屋のこと教えてないし)」
かといってお母さんだって気軽に来られる距離ではない。お父さんのことを放っておいて私のことをしてもらうのも悪いし、そもそも一人暮らしを初めてまだ一ヶ月だ。親を頼るのはなんだか気が引ける。
「とりあえず病院に行った方が良いよね……」
タクシーでも呼んで病院まで行けば何とかなると考えたが、それを行動に移すまでの気力が無い。さっきから咳も出て苦しいし、これは本当に死んじゃうかもしれない……
「助けて、先輩……」
隣の部屋にいるであろう先輩の姿を思い浮かべて、私は思わずそう零した。もちろん先輩に聞こえるような声量ではないし、忙しい先輩が今部屋にいるかどうかも怪しい。
「とりあえず水飲んで病院に――」
『一色、大丈夫か?』
「えっ?」
体調が悪くて幻聴でも聞こえたのかと思ったが、今のは間違いなく先輩の声。ダルイ身体を引きずるようにして玄関の覗き窓から外を見ると、眼鏡を掛けた先輩が心配そうに扉の前に立っているではないか。
「ど、どうかしたんですか?」
「いや、昨日から隣の部屋で咳き込んでるのが聞こえてたから、もしかしたら体調を崩したんじゃないかと思ってな」
どうやら私の咳は先輩に聞かれていたようだ。そこまで咳き込んだ覚えはないのだが、どうやら私が思ってる以上に咳き込んでいたようだった。
「それで、先輩は弱ってる私にひどいことをするつもりなんですか?」
「何でそうなるんだよ……ひょっとして薬が無くて苦しんでるんじゃないかと思って薬局で買ってきてやったのに、どうやらいらないようだな」
「欲しいです! ごほっ、鍵開けるのでちょっとまってください」
大声を出したので頭が更に痛くなり、咳き込んでしまったけども、そんなことを気にする余裕もないくらい、先輩の申し出がありがたかった。
「お前、本当に大丈夫か?」
「な、何がですか?」
扉を開けてすぐ、先輩は私から視線を逸らした。何故そんなことをしたのだろうと思い、私は自分の格好を改めて確認すると――
「うわっ……」
汗でシャツが透けそうになっており、ボタンも外れてブラがちらりと見えていた。
「先輩のエッチ」
「そうやってあざといことを言える余裕はあるんだな」
「割と本心です……というか、あざとくないですから」
「はいはい。とりあえずこれ、薬と水、後はゼリーとか簡単に胃に入れられるものを買っておいたから」
「いくらですか?」
さすがに先輩に奢ってもらうわけにはいかないので、私は財布を取りに部屋の中に戻ろうとして――
「あれ?」
「一色っ!」
――次の瞬間には先輩に抱き留められていた。やっぱり先輩は風邪ひいた私にエッチなことをするつもりだったんだ……
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ! 具合悪いなら無理するな」
「え?」
先輩に怒られて改めて自分の状況を確認すると、どうやら足をもつれさせて転びそうになったのを先輩が抱き留めてくれたようだ。
「というか、その状態じゃ昨日から何も食べて無さそうだな」
「あはは……自分の体調がここまで悪くなってるなんて思ってなかったものでして」
「生活環境が変わって、自分でも気づかない疲労が溜まってたんだろ。前に材木座も風邪をひいて似たようなこと言っていたからな」
「あの人と一緒はなんだか嫌ですね……」
せめて戸塚先輩と一緒とか、先輩と一緒なら素直に受け入れられたんでしょうけども。
「少し大人しくしてろ」
そう言い残して先輩は自分の部屋に戻っていき、三十分も経たないでまた私の部屋に戻ってきた。今度は外から声をかけることなく、あまりにも自然に。
「ほら、おかゆ作ってきたから、これ喰って薬飲んで寝てろ」
「あっ、ありがとうございます……」
まさか妄想していたことが実際に起こるとは……先輩に看病してもらえたらとは思ってたけど、本当にこうなるとどう反応して良いか分からないですね。
「? 俺の顔に何かついてるか?」
「いえ。もう何度か見たことありますが、眼鏡姿の先輩は見慣れないなーって」
「そんなことを考える余裕は戻ってきたようだな」
「先輩のお陰です。あっ、食べさせてもらってもいいですか? 手を動かすのもダルイんですよ」
これは嘘ではなく事実だ。ただおかゆを食べるという動作ですら、今の私には重労働に感じられてしまう。先輩は私の目をジッと見つめて、嘘を吐いているわけではないと判断したのか、ため息を吐いて頭を掻いてからおかゆを掬って私の前に運んでくれた。
「ほら」
「ま、まさか本当にやってくれるとは思いませんでした」
「冷ますのくらいは自分でやれ」
「分かってますよー」
息を吹きかけておかゆを冷ましてから、私は口を開けて待つ。先輩は一瞬固まったが、私が「あーん」してもらうのを待っていると理解して、もう一度ため息を吐いてから口の中に運んでくれた。
「味がしない……」
「味覚が麻痺してるんだろうな。まぁ、薄味で作ったから感じなくても仕方ないかもしれないが」
とりあえず先輩が作ってくれたおかゆを完食し、先輩が買ってくれた風邪薬を飲んで、私はもう一度ベッドに潜り込んで休むことにした。まさか先輩が「あーん」してくれるだなんて思ってなかったから、風邪とは違う理由で顔が熱くなった気がしますね。
弱ってる時くらいは素直に甘えましょう
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熱の時の思考
先輩に作ってもらったおかゆを食べ、薬を飲んだお陰で、さっきよりかはまともに考えることができるようになった。
「(冷静に考えると、今の私って無防備過ぎない? もし先輩が本気で私を襲おうとしたら、抵抗できないんじゃ……)」
そんなことを考えているが、先輩は今私が使った食器などを洗っている。先輩の部屋の食器なので持ってかえって洗えば良いのだろうが、もしかしたら私が口をつけたスプーンを舐るんじゃないかって疑ってここで洗ってもらっている。まぁ、そんなことを言った途端、先輩から冷たい視線を向けられたのだが……
「(先輩がそんな変態じゃないっていうのは分かっていたけど、熱の所為でおかしな思考がダダ洩れになっていたのかもしれない)」
ボーっとしながらも先輩の作業を見ていると、やはり私より先輩の方が家事の効率がいいことに気づく。一人暮らしの歴で考えれば先輩の方が家事をやっているのだから当然なのかもしれないが、先輩は男で私は女だ。今のご時世女が家事を――なんて考え方は古いというのは分かっているが、こうもレベルの違いを見せつけられるとやはりショックは受けてしまう。
「一色、身体とか拭いた方が良いんじゃないか?」
「な、何ですかいきなり!? もしかして先輩が私の全身を隈なく拭いてくれるんですか?」
「……そういった冗談を言えるくらいには回復したなら良いが、変なことを言うならもう看病してやらないからな」
「じょ、冗談ですから見捨てないでください。今先輩に見捨てられたらまた死にそうになっちゃいますから」
いくら先輩が薬を買ってきてくれたからといって、この状況でまた一人ぼっちに戻ったら寂しさで死んでしまうかもしれない。弱っている時に見捨てられるという経験がないから分からないが、恐らく助けてもらう前以上にキツイものなのだろうし……
「それから着替えておけ。洗濯しておくから」
「下着もですか?」
「……なるべく見ないようにするから」
「別に先輩なら持ってかえっても良いですよ~?」
精神的余裕ができたからか、こうして先輩をからかうこともできる。まぁ、からかい過ぎて部屋からいなくなられると困るので、このくらいで許しておこう。
「それじゃあ着替えますから、先輩」
「あぁ。俺は自分の部屋に戻るから着替え終わったら――」
「いえ、そうではなく」
部屋から出ていこうとする先輩を呼び止め、私は部屋の一角を指差す。
「身体がだるくて動けないので、着替えを出してくれませんか?」
「……俺が?」
「この部屋に私と先輩以外いないじゃないですか」
先輩なら私の衣装ケースを漁るとかしないだろうし、先輩に見られて恥ずかしいものは持っていないのでできるお願いだ。これが玉縄さんや材木座先輩なら頼まないだろうし、出そうと言われれば邪な思いがあるのだろうと考えるけども。
「何故俺が一色の着替えを出さなければいけない……」
「だってこのままの格好でいるのは気持ち悪いじゃないですか? でも着替えを出す気力も無いわけでして、先輩にお願いするしかないじゃないですかー」
「……這って行けば何とかなるだろ」
「先輩は風邪をひいて弱っている後輩を見捨てるんですかー?」
「……寝間着はどれだ」
こうやって精神的に追い込めば言うことを聞いてくれるのか。まぁ、普段の体調の時じゃ見捨てられるのがオチだろうけども、風邪を引いている時には先輩は意外と従順なのか、覚えておこう。
「先輩」
「何だ?」
「エッチ」
「お前が用意しろって言ったんだろうが!」
私の衣装ケースを開けて服を探す先輩をからかって、これ以上は本気で怒られそうだから自重し、大人しく着替えたのだった。
着替えてひと眠りすると、先輩は私の部屋にはいなかった。何処に行ったんだろうと探そうとして、携帯に先輩からメッセージが入っていることに気づく。
『バイトがあるから出かける。おかゆはサイドテーブルに置いてあるから食べておくこと。多少冷めていると感じたらコンロで温め直してくれ』
先輩の心遣いに感謝しつつ、この状態でコンロまで向かうのは難しいだろうと思いながら身体を起こす。薬を飲んでひと眠りしたからか、先ほどよりかはだいぶ身体が動く。これならコンロまで移動するくらいなら何とかなりそうだ。
「それにしても、可愛い後輩がここまで弱っているというのに、一切手も出さないなんて……私ってそんなに魅力ないのかな……」
これでも平均より可愛いと思うし、胸だって結衣先輩程ではないにしてもある方だと自負している。多少小柄なのはむしろプラス要素だと思うし、性格だって……
「いや、性格は問題ありかもしれない……」
先輩にはよく「あざとい」と言われているし、自分でも少しあざとすぎるかもしれないと思ったこともあるけども、大抵の異性は「あざとい」とは思わず「可愛い」と思ってくれるから治そうとはしてこなかった。まぁ、葉山先輩や先輩には効果なかったし、私と同じようなことを戸塚先輩がしていても、ワザとっぽさがなく本気でショックを受けたこともあるのだが。
「あの人は天然でやってるから恐ろしい……」
もし戸塚先輩が女子で、先輩と今と同じような関係だったとしたら、私には入る余地がないくらいにお似合いのカップルに見える。今でさえ「そういう趣味の女性」たちから人気だと聞いているし、結衣先輩からもそういう噂を聞かされたことがある。
「とりあえずおかゆ食べよう……」
思考がネガティブ方向に傾き始めたので、私は気を紛らわす為に先輩が作ってくれたおかゆを食べることにした。さっき食べたものより塩味が利いているのか、多少しょっぱいと感じるけども、それでも十分に美味しいおかゆだった。
「これは味覚が回復してきているのか、それとも先輩が気を利かせて濃いめで作ってくれたのか」
少し冷めていたが、それでも十分美味しいと感じるおかゆを食べながら、私は携帯に視線を向ける。すると先輩以外からもメッセージが送られていたことに気付く。
「結衣先輩からか……」
どことなく嫌な予感を覚えつつ、私は結衣先輩からのメッセージを開く。
『いろはちゃん大丈夫? 住所さえ分かれば私が看病しに行ってあげるんだけど……まぁそれは兎も角として、今度ヒッキーや彩ちゃんたちとお出かけするって話があったでしょ? いろはちゃんが回復したら行かない?』
「この人は……」
底抜けに明るい人なのか、それとも何も考えていない人なのか……前者なら今の私にとってありがたいが、後者なら付き合いを考え直さなければいけないと思えてくる……恐らく後者なのだろうけども。
「あれ、戸塚先輩からも」
以前の合コン際、先輩とだけ連絡先を交換するのは怪しまれると思い戸塚先輩とも交換していたのを思い出し、私はメッセージを開く。
『由比ヶ浜さんから聞いたけど、一色さん風邪を引いたんだって。大丈夫? まぁ、隣で八幡が生活してるから、万が一の時は助けてもらうと良いよ。それじゃあ、お大事に。返信はしなくても大丈夫だよ』
「うっ……」
内容からにじみ出る良い人オーラに思わず目を背けたくなる。結衣先輩の後に読んだのも原因かもしれないけど、戸塚先輩の気遣いに泣きそうになったからだ。
「(すみません戸塚先輩。既に先輩には看病してもらっちゃってます)」
余程私の咳がうるさかったのか、先輩には私が風邪を引いていることはバレちゃってましたし、ちゃっかり抱き留めてもらっちゃったりもしちゃいましたし……
「今思い返すと恥ずかしいことを口走っちゃったかも……」
熱の所為でまともな思考回路じゃなかったということを差し引いても、意識している相手にあんなことを言ってしまうとは……一色いろは、一生の不覚……
「とりあえず薬を飲んでもうひと眠りしよう……」
考えることを放棄したくなり、私は薬を飲んでベッドに潜り込む。やはり体調的にも精神的にも置き続けることが辛かったのか、ベッドに潜り込んでからすぐに私は寝てしまったようで、次に目を覚ましたのは翌日の昼前だった。
主に戸塚に目が行っていたのは気のせいだと思いたい……
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お礼
先輩の手厚い看病のお陰で、ようやくまともに動けるようになった私は、今日一日様子を見て明日から復帰することにしようと考え、今日は先輩にお礼の意味を込めてお昼ご飯を用意すると申し出た。
「いや、そんなことして欲しくて看病したわけじゃないんだが……」
「先輩が下心で私に優しくしてくれたわけではないって理解していますけど、何もお礼をしないのは私が納得できませんので」
私が強く申し出ると、先輩もさすがに拒否し続けるのは難しいと思ったのだろう。素直に部屋に上げてくれた。
「お邪魔します」
「こっちで作るのか?」
「先輩の部屋の方が調理器具揃ってますし」
引っ越してきてすぐ風邪をひいたということを差し引いても、私の部屋より先輩の部屋の方が調理に向いている。器具の数もそうだが、それ以外にもいろいろと……
「(この調味料、見たことないな……)」
「まぁ、あるものは自由に使って良いから」
「あれ? 先輩はどこかにお出かけですか?」
「ちょっと買い足しておきたいものがあったから出かけようと思ってたんだが、そこにお前が来たというわけだ」
「それじゃあ私も一緒に行きますよ」
「え……」
「なんですかその、嫌そうな顔と声は」
あからさまな態度に、私は頬を膨らませて先輩に詰め寄る。また「あざとい」と言われそうな行為だが、今の反応はさすがの私でも傷つく。
「だってお前、荷物持ちにもならないだろうし、目利きができるとも思えないし」
「……精神的潤いで同行しちゃダメですか?」
「まだ万全じゃないんだから、家で大人しくしてろ」
上目遣いも何のその、先輩は私の攻撃をあっさりと撃退して買い物に出かけてしまう。ただここは先輩の部屋で、私一人を残していくのは少しおかしいような気がしてきた。
「……あれ? これって先輩の普段の生活をしるチャンスなのでは?」
私の視線が先輩の部屋のクローゼットやお風呂場に向き、私は慌てて身体ごとキッチンへと向き直す。これではまるで、私が変態なようではないか。
「まったく先輩は……可愛い後輩を一人自分の部屋に残すなんて……まるで恋人みたいじゃないですか」
私と先輩の関係が恋人なら、このシチュエーションは無くはないかもしれないが、あくまでも私たちは同じ高校の先輩後輩でしかない。ただの後輩を自分の部屋に一人残すだなんて、先輩は何を考えているのだろうか。
「まぁ、さっき先輩が自分で言っていたように、私の体調を気遣ってくれているだけなんだろうけども」
まるでお母さんに注意されたかと錯覚するような指摘で、思わず言い返せなかったし、確かに私は今日一日出かけるつもりはなかった。先輩が出かけると言い出さなければ、私も出かけたいとは思わなかっただろう。
「とりあえず先輩が帰ってくる前に調理を終わらせちゃおう。病み上がりだから、あまり胃に重たいものは避けてっと」
先輩は男性だからあまりこういう料理は嬉しくないかもしれないけど、私は胃に優しくヘルシーなメニューをチョイスし、先輩の冷蔵庫を開けて中を物色する。
「うわっ、先輩の冷蔵庫凄い……」
ストックが私の部屋とは比べ物にならないくらいで、私は思わずそう呟く。イメージ的には先輩の冷蔵庫はスカスカで、毎日必要な分しか買ってこない感じだったのだが、やはり高校時代とは違うのか……
「とりあえずお魚を焼いて、その間にご飯を用意してっと」
アジの干物があったのでそれを焼いて解し、ご飯の上に乗せてお茶を掛ける。後は先輩は野菜を摂るように心掛けているようだったので、簡単なサラダを作ってっと……
「これ、主菜がないような気も……」
お茶漬けなのでおかずは必要ないかもしれないが、何となくこれを乙女の手料理と言って良いのかという疑問が頭を過る。
「作れないことはないんだけど、病み上がりで食べたいって感じでもないし……そもそももうお茶漬けの準備はできちゃったし……」
無計画で調理を進めていた自分に絶望しながら、私は仕方ないと思い主菜は諦めて先輩が帰ってくるのを待つ。帰ってくるまで自分の部屋で待機しようかとも思ったけども、無駄に心配させるのも悪いと思い素直に先輩の部屋で先輩を待つ事にしたのだが、急な睡魔に襲われて私はダイニングで横になるのだった。
人の気配を感じて目を開くと、先輩が私にタオルケットを掛けてくれたところだったようだ。私が起きたことに気づいたのか、先輩は少しバツの悪そうな表情をしている。
「起こしちまったか?」
「いえ、ずっと寝顔を見られるよりかはマシですから」
「悪かったな」
心からそう思っている感じではない謝罪だが、私はそこに抗議することはしない。寝顔など、看病されている時に見られているのだし、今更文句を言うことでもないと感じたからだ。
「それより、私どのくらい寝てました?」
「さぁ? 俺も今帰ってきて、お前が寝てたからタオルケットを掛けただけだし」
先輩にそう言われ、私は時計を見て安堵する。どうやら十分くらいしか寝ていないらしいと分かったからである。
「それで、一色が作ってくれたのってこのアジ茶漬けか?」
「本当はもっとちゃんとした料理も作れるんですけど、胃に優しい方が良いかなって思いまして」
「まぁ、病み上がりだしな」
先輩は文句を言うこと無く私が用意したお茶漬けを食べてくれた。当たり前のことだが、男性の先輩の方が女である私よりも食べるスピードが速く、一緒に食事といっても半分くらいは私が食べているところを先輩に見られているような気がして、何となく居心地が悪い。
「先輩ってなにか運動をしているわけじゃないのに、どうしてそんなに細いんですか?」
「なんだいきなり……」
「だって、女子にはずっとその悩みが付き纏うんですよ? 太ったらどうしようとか、太いって思われてるんじゃないかって」
「何となく聞いたことがあるが、そんなに気にすることか? 一色くらいなら特に問題なさそうだが。むしろそれ以上細かったら心配するかもしれない」
「そうなんですか? もう少し痩せたいって思ってたんですけど」
「女子ってそんなに細い方が良いって思ってるのか? 別に男の全員が細い人が好きってわけじゃないんだが」
それは私も知っているし、他の部分でもそれが当てはまるのも分かっているが、女子は細くて大きい方が良いと思ってしまうのだ。具体的な例を挙げるなら、雪ノ下先輩が結衣先輩の胸部を羨んでいるような感じだ。
「まぁそんなことは置いておくとしても、先輩の細さの秘密は気になります。高校時代から何もしてない感じだったのに」
「何もしてないとは失礼だな。俺は何もしないことに全力だったぞ」
「何ですかその理屈は。とにかく、教えてください」
「これと言ったことはしてないんだが……戸塚の練習相手をやってるくらいだぞ」
「あぁ、言ってましたね」
先輩はテニスサークルに入っているわけではないが、戸塚先輩の練習に付き合ったりしているらしい。それだけ先輩が上手で、戸塚先輩の相手が務まるくらいのレベルを有しているのだということなのだろう。
「後は材木座や玉縄のわけわからない話を聞かされて、精神的に参ってるくらいだぞ」
「それは痩せそうですね……」
精神的苦痛ダイエットなんて、斬新すぎて私には真似できない……というか、真似したくないです。だが先輩の体型維持の秘訣は何となく分かったので、私はそれ以上その話題を引っ張ることは避けようと思い、別の話題をふった。
「そういえばこの間先輩と一緒にいた中学生、先輩が高校時代ボッチだったこと知ってるんですか?」
「教える必要ないだろ」
「でもボッチが家庭教師じゃ、何となく気まずくないですか? 変な妄想されるんじゃないかって」
「どんな偏見だ。仕事として教えてるんだから、変な妄想なんてするわけ無いだろ」
「……変なところで真面目ですよね、先輩って」
「なんなんだよ……」
前に年下好きだって聞いたことがあるので、もしかしたらあの子も恋愛対象なのではないかと探ってみただけなのだが、先輩の真面目さを改めて知らしめられるだけで終わってしまった。
「ご馳走様でした。片付けも私がしますね」
「あぁ、頼む」
「はーい」
「なんだそのテンションは……」
「可愛い彼女を演じてみたのに、反応鈍いですね」
「いや、いきなりそんなことされてもこんな反応くらいしかできないと思うぞ? というか、お前のそれはあざといから」
「なんですとー!」
恥ずかしくなって何時も通りの反応を見せてしまったが、先輩は特に気にした様子も無く「あざとい、あざとい」と繰り返してパソコンの電源を入れて作業を始めてしまった。邪魔したら悪いので私は片づけを終えたら黙ってお茶を淹れて先輩の作業を眺めていたのだった――帰らなかったのは、何となく先輩の作業を見たかったからで、下心からではない。きっと、多分、恐らく……
あざと可愛いなコイツ
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遊びの予定
私の風邪も完全に治り、大学に復帰して一週間くらいが経った頃、結衣先輩と二人でファミレスにやってきていた。
「でもいろはちゃんが戻ってきて安心したよ。もしあれ以上休むようなら看病に行こうかとも思ってたんだけどさ」
「ご心配おかけしました」
結衣先輩の看病じゃ、下手をすればトドメになるかもしれない……まぁ、そんなことは口が裂けても言えないけども。
「彩ちゃんも心配してたし」
「戸塚先輩からもメッセージ着てましたから知ってます。治ってから返事をしましたが、凄く心配してくれていたんだって分かりました」
「ヒッキーは? いろはちゃんだってヒッキーの連絡先は知ってるよね?」
「先輩はあんまり心配してる感じじゃなかったですけど」
まさか看病してもらったとはいえないので、先輩ならあり得そうな雰囲気で答える。そろそろ隠し通すのも難しいと感じているけど、せめて夏休みくらいまでは隠しておきたい。
「ところで、今日は何か話があるんじゃないんですか?」
わざわざ予定まで聞いてきたのだ。単純にお茶をしたいだけなら講義後に聞けばいいのに、朝一で聞いてきたのだから、何かあるに違いない。
「もう少し待って。そろそろ来るはずだから」
「来る?」
結衣先輩が入り口に視線を向けたタイミングで、見覚えのある二人組が入ってきた。そして一人が結衣先輩に気付いて、笑顔で手を振ってこちらにやってくる。
「彩ちゃん、やっはろー」
「うん、やっはろー」
「ヒッキーも、やっはろー」
「おう」
「先輩? 戸塚先輩も……」
「ほら、何処か遊びに行こうって話をしたじゃない? いろはちゃんも回復したし、そろそろ具体的な話をしたいなーって思って。彩ちゃんに連絡したら、今日はサークルもないし、ヒッキーもバイト休みだって言ってたから」
相変わらずそう言うことへの行動力だけはある結衣先輩は、既に何処に遊びに行こうか候補を考えてきているようだった。それにしても、戸塚先輩は兎も角よく先輩もOKしたな……
「せっかく東京に住んでるんだし、東京らしいところに遊びに行きたいよね」
「結衣先輩、何だかアホみたいなこと言ってません?」
「そうかなー? でも東京タワーとかスカイツリーとか見に行きたいし」
「いや、地元からでも十分見に来られたでしょうが」
何となく地方出身っぽい会話になっていますが、私たちは千葉出身なので、東京だって遊びに来られない距離ではない。なのに結衣先輩はかなりテンションが上がっているようだ。まぁ、東京で遊ぶことにではなく、このメンバーで遊ぶことを楽しみにしている様子ではあるが。
「遊びに行くのは良いんだけど、いつ行くの? 今度の休みはちょっと難しいんだけど」
「そうなの?」
「うん。ちょっとサークル同士の交流会があって」
「じゃあその次は?」
「大丈夫だよ。八幡は?」
「夜にバイトがあるくらいだ。昼間は部屋でゆっくりするのに忙しい」
「じゃあ来週だね! 何処に行こうか」
「いや、由比ヶ浜さん? 俺、忙しいって言いましたよね?」
「先輩のそれは暇を持て余してるってことですよ」
「何を言う。俺はゆっくりすることに忙しんだよ」
相変わらずの出不精。何もしないことに全力だったとか言っていたけど、その辺りは変わっていないようだ。
「いいじゃん八幡。偶には何時もの四人じゃないメンバーで出かけるのも」
「えっ、ヒッキーって彩ちゃん以外と出かけたりするの?」
「玉縄君と材木座君だよ」
「あぁ、厨二さんか」
「いい加減名前を呼んであげたらどうなんですかね?」
結衣先輩は材木座先輩のことは『厨二さん』としか呼ばない。まぁ、大学生にもなって厨二病を引きずっているのだから、そう呼ばれても仕方ないんだろうし、本人は相変わらず女子と話すのが苦手のようだが。
「じゃあ来週、ここに集合ってことで。時間は追って連絡するね~」
「うん、楽しみだね」
「はぁ……」
結局結衣先輩と戸塚先輩に押し切られて、先輩も出かけることに同意したのだが、やはりどこか嫌そうな雰囲気。だが私は先輩とお出かけできるといことに少し浮かれ気分だ。
「それじゃあ今日は解散かな」
「そうだね。それじゃあヒッキー、彩ちゃん、いろはちゃん、またね」
「またです、結衣先輩」
この中で結衣先輩だけ逆方向なので、私たちはファミレス前で別れることに。
「あれ? 戸塚先輩もあっちじゃなかったでしたっけ?」
「僕はこの後八幡の部屋に行くから」
「あぁ、前のメンバーですか?」
「そうだね。一色さんも来る?」
「えー、でもお邪魔じゃないですか?」
戸塚先輩や玉縄さんは気にしないだろうが、材木座先輩は私がいると大人しくなる。そして家主である先輩は露骨に嫌そうな顔をしているのを、私は横目でしっかりと確認した。
「別に邪魔だなんて思わないよ。ねっ、八幡?」
「あ、あぁ……一色が来たいならくればいいんじゃないか?」
「じゃあ少しだけお邪魔します」
結衣先輩も参加したいんじゃないかとも思ったが、既に結衣先輩とは別れており、そもそも結衣先輩は先輩の部屋を知らないから来られない。
「それじゃあ、少し買い物をしてから八幡の部屋に行こう。八幡は先に帰ってて良いよ?」
「いや、戸塚に荷物持ちをさせるわけにはいかないからな」
「もう八幡ったら。僕だってそれなりに鍛えてるんだよ?」
確かに戸塚先輩はテニスをやっているだけあって、それ程非力ではない。だが見た目からはそう思えない雰囲気があるのだ。
「それに、何時も八幡に料理を作ってもらってるんだし、僕にできる手伝いくらいはさせてよ」
「……結婚しよう」
「は、八幡!? 僕男の子だってば!」
戸塚先輩の笑顔に完全にやられてしまった先輩が、思わず戸塚先輩にプロポーズ。戸塚先輩も言葉では焦ってる風だけど、表情は満更でもなさそうな感じ……
「(海老名先輩がいたら鼻血を出すんじゃないかってシチュエーションなのかな……)」
私からすれば、戸塚先輩に先輩を盗られたと思うシチュエーションだが、そういった関係に興奮する人からすれば歓喜物なのかもしれない。まぁ、戸塚先輩の見た目から、そういった感じはしないのだが。
「わ、悪い……」
「ううん、八幡が悪いわけじゃないし……」
「はいはい。それじゃあ三人で買い物に行けばいいんじゃないですか? そうすれば先輩も戸塚先輩の心配をしなくてすみますし、戸塚先輩も先輩に頼りっきりだって感じは薄まるでしょうし」
「そ、そうだな……三人?」
「はい。私だってお邪魔するんですから、少しくらいお手伝いしますよ」
ここで先輩と戸塚先輩を二人きりにするのは私の精神衛生上よろしくない。ここは多少強引でも私も買い物に同行しなければいけないのだ。
「というわけで、早速お買い物にゴーです!」
「おー!」
「……お前らのノリが分からん」
戸塚先輩はノリノリで付き合ってくれましたが、先輩は呆れているのを隠そうともしない表情でため息を吐き、それでもしっかりついて来てくれました。
飲み物や食材を買いこんで先輩の部屋に向かうと、既に材木座先輩と玉縄さんが部屋の前に来ていた。
「遅いぞ八幡。いったい何を――」
「こんにちはー」
「ぬおっ!? こ、こんにちは……」
「やぁいろはちゃん」
「玉縄さんも、お久しぶりです」
私の鉄壁のスマイルで材木座先輩は押し黙り、玉縄さんも私に挨拶をしてくれた。このメンバーの中では私はあくまでもおまけで、この二人は先輩とお喋りに来ただけなのでそれ以上のことはない。
「いろはちゃんも今帰りだったのかい?」
「はい。途中で先輩に誘ってもらいました」
「いや、誘ってなんか――」
「誘ってくれましたよね?」
私が笑顔で詰め寄ると、先輩の表情は固まった。何度かこの表情は見たことあるけど、私でも先輩は照れたりしてくれるんだなぁ……
「それじゃあいろはちゃんも一緒に部屋に入ろう。さぁ、鍵を開けてくれ」
「毎回何でお前が仕切ってるんだよ……というか玉縄、この前のレポート再提出喰らったんじゃなかったのか?」
「あれならちゃんと終わらせたよ。だから比企谷が気にする必要は無い。ノープロブレムだよ」
「いや、心配してねぇんだが」
先輩が少し嫌そうな顔をしたが、玉縄さんの角度からは見えなかったようだ。それにしても、高校時代を知っている人間がこの光景を見れば、先輩は随分とお友達が増えたと思われるだろう。だがまぁ実際は、高校時代から付き合いがあるメンバーなので、何も変わっていないのだが……
笑顔の圧力は健在
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無自覚カップル
今日は結衣先輩が強引に決めた四人で遊びに行く日なのだが、先輩のことだから忘れてたという理由で待ち合わせ場所に来ない可能性が考えられる。なので私は待ち合わせ時間の一時間前に先輩の部屋の前にやってきた。
「先輩、起きてますかー? そろそろ支度しないと間に合いませんよー?」
あえてインターホンを鳴らさずに声をかけるのは、この場所を通った他の人が出かける予定があるのだろうと思わせるのと共に、先輩が起きているのを確信しているからこそであった。インターホンを鳴らしても取らないだろうし、そうすれば私が諦めて一人で出かけるだろうと考えているのだろうが、その程度のことは想定内なのだ。
「せんぱーい? 早く入れてくださいよー」
「……うるさい、近所迷惑だろ」
「やっと出てきてくれましたね? というか、全然準備出来てないじゃないですかー」
「なに? 本当に出かけるつもりなの?」
「当然ですよー。というか、戸塚先輩からも連絡着てるんじゃないですか?」
私の言葉に先輩の目が一瞬泳いだ。恐らく戸塚先輩からも楽しみにしているという内容の連絡があったのだろう。それを無視するのは先輩としても辛いのかもしれない。
「ほらほら、早く着替えて待ち合わせ場所に行きましょうよ。なんなら、お着替え手伝ってあげてもいいですよー?」
「いらん。……はぁ、せっかくの休みが」
「先輩、夜からバイトだって言ってたじゃないですか」
恐らくこの間あった中学生の家に行くのだろうが、先輩はあくまでも仕事だから嫉妬する必要は無いだろう。中学生の方は先輩に興味がありそうだったが、先輩の方はあくまでも生徒に接する講師という感じだったし。
「おじゃましまーす」
「えっ? 何で入ってくるの?」
「だって、着替えるっていって二度寝するかもしれないじゃないですかー」
「……さすがにシネェって」
私を追い出して五分後、着替えた先輩が諦めた表情で玄関から出てきた。
「何で待ってるの? 先に行ってればいいのに」
「何でって、一緒の場所に行くんですから、別々に行く理由は無いですよね? 結衣先輩には、途中で会ったとか言っておけばいいですし」
「というか、何時まで由比ヶ浜に隠してるんだ? 別に教えても問題ないだろ」
「えっと……何となくですけど、結衣先輩は私が先輩の部屋の隣に住んでるって知ったら、毎日のように部屋に凸してきそうなんで……それだけならまだいいですけど、遊びに来たお礼だって料理でも創り出しそうですし……」
「それは……問題だな」
「しかも、私だけで済めばいいですけど、先輩におすそ分けとか言い出しそうですし」
あくまでも可能性の話なのだが、私と先輩は同時にため息を吐いてしまう。結衣先輩はあくまでも善意だということは私たちも理解できるのだが、その善意が恐ろしいから黙っているのだと理解してくれた先輩は、私の嘘に付き合ってくれると約束してくれた。
「あくまでも今回だけだからな」
「分かってますよー。私だって、何時までも隠し通せると思ってないですし」
いくら結衣先輩が鈍いからといって、何時までも隠せるなんて思っていない。というか、そろそろ勘付いても良いんじゃないかと思うくらい、私と先輩が一緒にいるところを見てるはずなのに……何故まだ気づかないのだろうか。
待ち合わせ場所に到着する前に戸塚先輩と偶然会って合流し、私たちは三人で結衣先輩が指定した店に入る。結衣先輩は既に着ており、私たち三人を見て笑顔で手を振っている。
「ヒッキー、彩ちゃん、いろはちゃん、やっはろー」
「おはようございます、結衣先輩」
「やっはろー、由比ヶ浜さん」
「……おう」
三者三様の挨拶を返してから席に座り、今日の予定を結衣先輩に尋ねる。実のところどこかに遊びに行くということしか聞いておらず、詳しい予定は結衣先輩が立ててくれているはずなのだ。
「それで、今日は何処に行くんですかー?」
「遠出したかったんだけど、よくよく考えたら私、それ程お金に余裕がなかったんだよね」
「それは私もです」
いい加減バイトをしなければいけないと思っているのだが、なかなか好条件のバイトが見つからないのだ。先輩が働いている居酒屋も考えては見たが、酔っ払いとかに絡まれたら面倒だからという理由で却下した。
「だから今日は、この周辺のお店を開拓したいなーって思ってるんだけど」
「良いですね、それ。私もまだこの辺は詳しくないですし」
「僕もそれで良いよ。八幡は?」
「これ以上遠出しなくていいなら何でもいい」
「遠出って、八幡の家からここまで三駅でしょ?」
「俺にとっては十分遠出ですけど何か?」
「もう、八幡ったら」
私たちの目の前で楽しそうに繰り広げられる先輩と戸塚先輩の遣り取り。それを見せられている私と結衣先輩は、自分たちが引き攣った笑みを浮かべているのを自覚しながら、互いの顔を見る。
「(前々から思ってたんだけど、ヒッキーって彩ちゃんのことが好きなんじゃないかな?)」
「(この前プロポーズしてたくらいですし、もしかしたらそうかもしれませんね)」
「(えっ、プロポーズなんてしてたの?)」
「(はい。この前結衣先輩と別れた後、二人で買い物に行くって話してた時に)」
本当は私もその買い物に同行したのだが、そこは伏せて先輩が戸塚先輩にプロポーズした経緯を話す。冗談だと分かっているのだが、そのことを話すと胸がチクリと痛むのは気のせいだということにして。
「ん? 由比ヶ浜さんと一色さん、どうかしたの?」
「ううん、何でもないよー。それで、ヒッキーと彩ちゃんはこの辺り詳しいの?」
「僕はあんまり……八幡は?」
「前に材木座に連れられて何件か入ったことはあるが」
「じゃあそこに行こう!」
「アニメグッズショップとかだぞ?」
「……そっか、厨二さんだもんね」
先輩の同行者を思い出してため息を吐く結衣先輩……というか、それだけで納得される材木座先輩も可哀想な気がしないでもないが……
「もしかしたら今日もいるかもしれないぞ? アイツも休みだって言ってたし」
「そうなの? だから玉縄君も集まらないかってメッセージ送って来たんだ」
「集まりたいのは良いんだが、何で毎回俺の部屋なんだよ……広さで言ったら玉縄の部屋の方が広いんだろ?」
「どうなんだろうね……玉縄君の話だけで、僕も行ったこと無いし」
「というか、俺は戸塚の部屋も材木座の部屋も行ったことないんだが」
「じゃあ今度僕の部屋に来る? 何もないけど」
「戸塚がいるなら行く」
「もう、僕の部屋だって言ってるじゃん。僕はいるよ」
またしても恋人のような遣り取りを始めた二人を、今度は睨むように見詰める私と結衣先輩。というかこの二人は本当に付き合っていないのだろうか?
「(何だかこの二人が付き合ってるって聞かされても、それが自然な感じがしてきたんですけど)」
「(ま、まぁヒッキーも彩ちゃんも男の子だし、付き合ってるわけ無いって)」
「(でも海老名先輩が好きな世界かもしれませんし)」
「(あれってリアルでもあり得るのっ!?)」
「(どうなんでしょうか……)」
少なくとも私の周りではそのようなカップルは存在していませんし、先輩と戸塚先輩がお付き合いしていないということも分かってはいるのですが、それでもこの光景を見せられるとどうしても疑ってしまうんですよね……戸塚先輩も頬赤らめてますし。
「それじゃあとりあえずどこかに行こうか。特に行き先も決めないで、ぶらぶらとお散歩するのも楽しそうだし」
「大学生の遊び方ではない気がするが、のんびりできるなら俺はそれで構わない」
「ヒッキー何だかおじいちゃんみたいだよね」
「ほっとけ」
「先輩、本当に私の一つ上なんですかー? 実は十年くらい歳誤魔化してるとか」
「あるわけ無いだろ。というか、俺は現役だからな」
このセリフに結衣先輩が苦笑いを浮かべたが、別に先輩は結衣先輩をバカにしたわけではない。そのことは全員が理解しているので、それ以上先輩の年齢詐称疑惑については話さずに、ファミレスを後にしたのだった。
八幡はいろいろと経験してるからな
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痛む心
いろいろなお店を見て回ったけども、盛り上がっているのは結衣先輩と私の女子組だけで、先輩と戸塚先輩は私たちに付き合っているという感じにしか見えない。これって一緒に遊んでいるって言えるんでしょうか……
「結衣先輩」
「ん、どうしたのいろはちゃん?」
「先輩たち、ちょっとつまらなそうですけど」
「えっ? あっ、本当だ……」
女性向けのアクセサリーショップなんて、先輩たちにとっては退屈でしかない場所だったのだが、どうしても入ってみたかったので無理矢理連れ込んだのだけども、やっぱり二人には外で待っててもらってたほうが良かったかもしれない。
「そ、そろそろ出よっか?」
「そ、そうですね」
本音を言えばもう少しウインドウショッピングを楽しみたかったのだが、先輩たちと一緒に遊ぶという名目から大きく外れてしまっているので、私たちは慌てて先輩たちの手を取って店の外に出る。その際、店員さんに不審がられたが、別に疚しいことはしていないので堂々と歩を進めていった。
「なんだ、もう良かったのか?」
「だってヒッキーたち、退屈そうだったし」
「まぁ僕たちにはあまり関係ない場所だったけども、由比ヶ浜さんや一色さんは楽しそうだったでしょ? だから気にしなくてもよかったのに」
「いえいえ、今日は四人で遊ぶって名目なんですから、私たちだけ楽しんでちゃ意味ないですから」
お店を見て回る前から、私と結衣先輩、先輩と戸塚先輩の構図になりかけていたというのに、あの状況は完全に二対二の構図になっていたと今更になって気付く……だが、女子二、男子二だというのに、どうして女子同士、男子同士になってしまうのだろう……
「次は全員が楽しめるお店に入ろうよ」
「でも結衣先輩、先輩が楽しめる場所ってどこですか?」
「えっ……ヒッキー、どこ行きたい?」
結衣先輩、それを先輩に尋ねますか……そんなこと聞いたって、先輩の答えは決まってるとしか思えないんですけど……
「家」
「(ほらやっぱり)」
超インドアな先輩なんだから、何処に行きたいと聞かれたらそう答えるに決まっている。というか、戸塚先輩がいなかったらここに来ることすらしなかっただろうし。
「家は無しで!」
「じゃあどこでも良い……戸塚は何処か行きたいとこ無いのか?」
「僕? うーん……あっ! この前材木座君と一緒に行ったゲームセンターに行ってみようよ」
「材木座と?」
「うん。この間ばったり会った時に」
先輩がいないところでも戸塚先輩と材木座先輩は付き合いがあるのかと思ったけど、それ以上に戸塚先輩の口からゲーセンなんて単語がでてくるなんて思っていなかった。
「それいいじゃん! ヒッキー、行こ」
「あぁ、それで良いよ」
「先輩、何だか私たちの引率みたいですね」
「うっせぇ」
このメンバーで年齢が違うのは私だけのはずなのだが、結衣先輩と戸塚先輩はいい意味で幼い感じがするので、逆に先輩だけが浮いている感じがし始めている。私も落ち着こうとすれば落ち着けるのだが、ここは年下らしくはしゃいでいた方が可愛く見えると思って結衣先輩たちに合わせているから余計にそう見えてしまうのかもしれない。
「あれ? 先生じゃないですか」
「よう……何でここに?」
「ちょっとした息抜きですよ」
ゲームセンターに入ってすぐ、先輩は見知らぬ女子に――いや、私は彼女と会ったことがある。先輩が担当している女子中学生だ。
「(誰? というか、ヒッキーが先生って?)」
「(あっ、もしかして八幡が家庭教師を担当してる子じゃないかな)」
「(ヒッキーが家庭教師? でも、成績良かったし、教えるのも上手そうだし)」
「(結衣先輩が言っても説得力無いですよ?)」
「(どういう意味だし!?)」
どういう意味って……だって結衣先輩浪人してたじゃないですか……そんな結衣先輩が成績のことを言ったところで、あまり凄みを感じるわけ無いじゃないですか。
「ちゃんと宿題は終わらせてあるんだろうな。後で確認するぞ」
「も、もちろん終わってますよ~……あっ、急用を思い出したので私はこれで失礼しますね。ゴメン、先に帰るね」
恐らく宿題を終わらせてなかったのだろう。女子中学生は先輩に頭を下げた後、一緒に来ていたと思われる友達に断って先に店を出ていった。
「やれやれ」
「先輩、家庭教師を通り越して保護者みたいな感じでしたよ?」
「八幡、いい先生だね」
「ヒッキーに勉強を教われば、私も頭良くなるのかなー?」
「由比ヶ浜はそのままでいいんじゃないか?」
「えっ、そうかな?」
「(先輩、結衣先輩に教えても無駄だって思いましたね?)」
私は先輩の腕を引っ張って小声でそう告げると、先輩は顔を引きつらせる。恐らくは私が言ったことが正解なのだろうが、それを結衣先輩に言えば面倒なことになると分かっていたからそれだけで済ませたのだろう。
「せっかく来たんだし、少しは遊んでいこうよ。この前材木座君と来た時は、彼のプレーを後ろで見てただけだったし」
「何のゲームやってたの?」
「えっ……僕はよく分からなかったんだけど……」
戸塚先輩が指差した筐体は、女の子向けのアニメか何かのゲームだった。材木座先輩は所謂『大きなお友達』というやつだったのだろう。
「ヒッキー、これ取れる?」
「クレーンゲーム? やめとけやめとけ。由比ヶ浜、昔の偉い人はこんな言葉を残しているんだ」
「どんなの?」
「クレーンゲームは貯金箱だ」
「どういう意味?」
「つまり、殆どの確率でお金を取られるだけって意味だと思いますよ」
実際上手い人とかなら兎も角、下手な人がやっても取れないだろうし……
「でもこのパンさん、可愛いし」
「パンさん、か……」
「先輩?」
何処か遠い目をした先輩を見て、私の心は痛む。パンさんから連想される人は、私の知り合いの中で一人しかいない。
「(やっぱり先輩、雪ノ下先輩のことが……)」
三年生の時、先輩と雪ノ下先輩は良い雰囲気に見えていたし、あのまま付き合って私はまた失恋するんだと思っていた。だが結局先輩たちは付き合うことはなく、雪ノ下先輩は海外留学で先輩の側から離れていった。
「それじゃああっちのゲームは?」
「結衣先輩、それクイズゲームですけど?」
「こ、これくらいはできるし!」
結衣先輩は勇んでクイズゲームに挑戦したが、案の定というべきか殆どの問題で首を傾げて、先輩か戸塚先輩に尋ねている。
「結衣先輩、こういうのは自力でやらなきゃ意味ないんですよ?」
「だって、こんな難しいなんて思ってなかったから」
「だからやめておいた方が良いって言ったんですよ」
「言って無いじゃん!?」
「ストレートに言ったら結衣先輩が傷つくと思って遠回しに言ったんですが、気が付かなかったみたいですね」
結衣先輩の頭では理解できないかもとは思っていましたけど、まさか本当に理解していなかったとは。先輩も戸塚先輩も引きつった笑みを浮かべているということは、私と同じことを想っているんだろうな。
「八幡、あっちのゲームやってみようよ」
「あぁ、戸塚となら良いぜ」
「あっ、ヒッキーと彩ちゃんが行っちゃったらこのゲームどうするのさ!」
「結衣先輩、素直に負けを認めたらどうなんです?」
結衣先輩一人なら、ステージ1で終わっていたでしょうし、ここまでこれたのだって先輩と戸塚先輩が教えてくれていたからって分かってるんですから。
「というか、また先輩と戸塚先輩のペアになってますし……」
「ヒッキーと彩ちゃん、仲いいよね~」
「ですね……」
戸塚先輩は男の人なので、結衣先輩のように素直に仲がいいで片づけられればいいんですが、どうしても私には、先輩と戸塚先輩が普通の友情ではない感情で一緒にいるような気がしてならないのです。
「(こんなに気になるなら、さっさと先輩に告白すればいいじゃない……)」
自分に悪態を吐きながら、私はそんな度胸がない自分にため息を堪えられなかった。こんな思いを、何時まで続ければ良いのだろうか……
取れる時は簡単に取れますけどね
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危機
戸塚先輩と遊んでる先輩を見ているとますます心が痛むので、私は先輩の邪魔をするためにすり寄り、先輩の腕にさりげない感じで自分の胸を押し付ける。
「先輩、あっちで一緒に遊びましょうよ~」
受け手によっては卑猥に聞こえなくもない感じになってしまったが、先輩はこの程度で勘違いするような人ではない。私に軽く視線をずらして非難するような口調で答える。
「一色……お前、誰にでもそうやってすり寄る癖、治した方がいいぞ。俺だから勘違いしないが!他のやつなら勘違いして変なことされるからな」
「なんですか、その言い方! まるで私が誰彼構わず抱きついてるみたいに聞こえるんですけど」
「実際そういう感じで言ってるんだから、そう聞こえて当然だ。というか、それ以外の聞き取り方があるとは思えないんだが」
「それって酷くないですか? 私は、ちゃんと相手を見てこういうことをしてるんですから~」
間違っても材木座先輩や玉縄さんにこんなことはしないし、戸部先輩にだってするつもりは無い。一時期は葉山先輩にできたらな~とかは考えたことはありますけど、実際にやったことがあるのは先輩にだけだ。つまり私の中でそれだけ先輩が特別な存在だということである。まぁこのことは、鈍感な先輩には教えてあげませんけど。
「だったらなおのこと止めろ。お前みたいな女子がそういうことをすれば、大抵の相手はお前を意識してしまうだろうからな」
「先輩はどうなんですか~? 私のこと、意識しちゃって寝られなくなっちゃいますか~?」
「いや、そんなことはあり得ない」
「それって酷くないですかね?」
こんなに可愛い後輩が抱き着いているというのに、この人は意識するどころか眼中にないとまで言い放ちやがったよ……いや、実際に言われたわけじゃないけども、先輩のニュアンスからそんな感じが受け取れるのだ。
「いろはちゃん、ちょっとこっちに――って!? 何してるし!?」
「先輩が私たちのことをほったらかして戸塚先輩とばっかり遊んでるから、ちょっと誘惑してただけですよ~。あっ、なんなら結衣先輩もしますか~? 反対側の腕、空いてますよ?」
「い、いや……それは無理だし」
相変わらずの純情っぷりですね……見た目ビッチなのにこの先輩は。結衣先輩は遊んでる風に見えるけども、ものすごく一途で高校入学からずっと先輩のことしか見ていなかったようだ。他に興味を持てていれば、今頃彼氏の一人や二人いてもおかしくない見た目をしているというのに……
「(それは私も似たような感じなんですけどね)」
私だって他の女子と比べれば可愛い方だし、男受けが良い感じを演じているので結構言い寄られたりもする。だが入学当初は葉山先輩しか、先輩と出会ってからは先輩以外の異性に興味を懐けなくなってしまっているのだ。
「八幡、そろそろみんなで遊ぼうよ」
「そうだな。何時までも一色に腕を掴まれていたらやり辛いしな」
「そんなこといって、肘に全神経を傾けてたんじゃないですか~?」
「というか離れろよ」
鬱陶し気に払われてしまったけども、先輩の顔が若干赤くなっているのを見逃さなかった。興味ないフリをしながらも、ちゃんと興味あるんじゃないですか。
「それじゃああっちに四人でできるゲームがありましたから、それで遊びましょうよ」
「分かったから引っ張るなっての!」
「あはは、八幡と一色さん、何だか付き合ってるみたいだね」
「な、何を言うんですか戸塚先輩! 私が先輩みたいな男に興味あるわけないじゃないですか! というか、先輩が可哀想だから引っ張っていってあげてるだけで、この格好に深い意味なんて……」
自分の気持ちに蓋をするのが難しくなってきていると気づく。初めは威勢よく否定していたのに、徐々に語気が弱くなっていくし、最終的には言葉を発することすらできなくなってしまったのだ。
「と、とにかく! 先輩が逃げないようにこうしてるだけですから!」
「う、うん、分かったよ」
「じゃあ戸塚先輩も結衣先輩も、一緒に行きましょう!」
勢いで何とか誤魔化したけども、さすがに先輩にも不審がられている。まぁこれだけ一気に捲し立ててればおかしいと思われても仕方ないし、否定しておきながらも私は先輩の手を離していないのだから、鈍感な先輩でも何かおかしいと思っても不思議ではない。
「(何だか急に恥ずかしくなってきちゃった……でも、ここで手を離したら私が意識してるみたいだって思われそうだし……)」
実際意識しているのは私なのだから、思われてもおかしくはないのだが、そう思われたくないと願ってしまうのは、やはり結衣先輩に負い目を感じるからなのだろうか……
四人で遊びに行ってからというもの、私は無性に隣の部屋が気になってしまっている。遊びに行く前はここまで露骨に意識したりしなかったというのに、最近では先輩が部屋にいる時ふと視線を壁に向けている。
「(これじゃあまるでストーカーみたいだな……)」
先輩がここに住んでいるなんて知らなかったので、ストーカーではないと断言できるのだが、最近の行動を思い返すと、自分がストーカーなんじゃないかと勘違いしてしまいそうだ。
「(今日は先輩、バイトで遅いって言ってたし、今は誰もいないんだよね)」
誰もいないとわかっていな分かっていながら先輩の部屋がある方の壁を見詰め、思わずため息を吐く。このままでは思考がおかしな方向へ進みそうだったので、気分転換に夜の散歩に出かけることにしよう。
「そういえばさっき、水とかいろいろ無くなっちゃったし」
まだあると思っていたのだが、冷蔵庫を開けたら結構使っていたことに気付き、明日買い物に行こうと思っていたのだが、天気が良くないって言ってたし、まだスーパーもやってる時間だし、今から買いに行っちゃおう。
「運よく先輩とばったり――なんてことは起こらないよね」
変な妄想をしかけたけども、すぐに頭を振って思考を外へ追いやる。最近講義中でも先輩のことを考えてしまうことが多くなってきており、友達から心配されてしまう程なのだ。
「(なんでこんなにも先輩のことを考えちゃうんだろう……)」
自問自答するが、答えなど最初から分かっている。だがその事を認めることができない。だって先輩は私のことを後輩としか思っていないだろうし、先輩のことを好きな人は私以外にもいるのだ、しかも身近に。
「(結衣先輩と同じ大学、同じ学部じゃなかったらもう少し気楽に考えられたのかな?)」
結衣先輩の気持ちは高校時代から知っているし、恐らく先輩も気付いているだろう。というか、あれだけ露骨に好き好きアピールしてるというのに気付けないなんて、そんな鈍感男がいるわけがないか。
「(あれ? そういえば私も先輩にアピールしまくってるような気も……)」
そんなことを考えながら歩いていたからだろうか。私はよく分からない道に出てしまった。
「どこ、ここ……」
来た道を振り返っても知らない場所だったので、どうやら迷子になったらしい。
「とりあえず携帯のGPSで現在地を――」
「おっ、良い感じの女発見」
「ヒュー、かなりのレベルじゃん」
「しかも小柄。楽しめそうだな」
「お前ロリコンだもんな。だけど壊すなら俺たちが楽しんでからにしろよ? この前なんか一番に使って後が大変だったんだからな」
「えっ?」
気づけば男の人たちが迫ってきている。しかも言葉を聞く限り私のことを襲おうとしているようだ。
「っ!」
とりあえず来た道を引き返せば知っている道に出るだろうし、一刻も早くこの場を離れなければ、私の純潔は散らされてしまうと本能で理解して、私は地面を蹴って駆け出す。
「おっと残念」
「えっ……」
どうやら他にも仲間がいたようで、私の逃亡は五秒も経たずに失敗してしまった。
「逃げなくてもいいじゃん。別に酷いことしようってわけじゃないんだし」
「そうそう。割り切れば君も気持ち良い思いができるんだから」
「アンタたちみたいなのに興味がないだけです。というか、群れないと女子と遊べないなんて、男としてどうなんですか?」
「コイツ!」
「待て。こいつ、足震えてね?」
「っ!」
虚勢だということを見抜かれてしまい、私は一気に恐怖に押しつぶされそうになる。
「それじゃあ、場所を移そうか」
「あっ――」
「何やってるんだ?」
「あー―っ!」
私に腕を伸ばそうとしてた男の腕を掴んだのは、見覚えのある男性だった。
「先輩!」
「何でお前がこんなところに? お前が行きそうな店、この辺りに無いだろ」
「考え事をしてたら道に迷っちゃいまして」
「何してんだよ……」
呆れながらも私の腕を掴み、ガラの悪い男たちから引き離してくれる。
「(あぁ、先輩に腕を掴まれると安心する)」
さっき男たちに捕まれそうになった時は泣きそうだったのに、今は幸せを感じている。これだけで十分だと思ってしまうくらいに。
八幡が現れるご都合主義……
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心の傷
ヒロインのピンチにヒーローが現れる。そんな少女漫画のような展開、リアルでは絶対にあり得ないと思っていたが、まさか自分がそれを体験することになるとは……
私は今、偶然現れた先輩の背中に庇われ、ガラの悪い男たちの視線から逃れている。と言っても、男たちは先輩を睨みつけながら私を見ている気がするのだが。
「おいおい兄ちゃん、この子は俺たちが先に見付けたんだぜ? 横取りはいけねぇよな?」
「横取り? 貴方たちは何を言ってるんです? いろはは俺の彼女です。横取りしようとしているのは貴方たちの方でしょう? というか、いろはは貴方たちについて行くと言ったんですか? もしそうでないのならば、貴方たちは拉致未遂ということになりますが」
「なんだとっ!」
「殴りますか? それなら暴行傷害になりますね。現行犯なら警察でなくても逮捕できるんですよ?」
「こいつ……」
「俺としては、いろはを無事に連れて帰れるのならそれで構いません。その様子ですと、貴方たちには余罪がありそうですから、ここで捕まれば暫くは塀の向こうで生活することになるでしょう。それは、貴方たちも避けたいのではありませんかね?」
見るからに阿呆そうな相手に、先輩は法学部ならではの知識――ではなく、少し勉強してれば知っている知識を使って追い込める。
「(というか、何時私が先輩の彼女になったって言うんですか! もしかして男たちに囲まれてる私を救い出したことで、私が簡単に堕ちるとか思ってるんですか? やり方があざといのでもっとロマンティックな展開で告白し直してください、ゴメンなさい!)」
絶賛混乱中なので、私はそんなことを心の中で呟く。そもそもそんなことを考えている場合ではないのだが、冷静さを取り戻そうにも先輩に「彼女」と言われたことが嬉し過ぎて他のことが考えられないのだ。
「……分かった、見逃してやる。さっさと消えな」
「ではそう言うことで。いろは、行くぞ」
「あっ、はい……」
男たちの視線が逸れたことを確認し、先輩はくるりと振り返り私の手を取り歩き出す。私はただただ手を引かれ、知らない路地裏からの脱出に成功したのだ。
知っている通りに出てから、先輩は私の手を離し真っ直ぐにこちらを見詰めてきた。
「(ま、まさか本当に告白されちゃうの?)」
完全に乙女モードになっている私の勘違いを正すように、先輩は厳しい視線を向け問いかけてくる。
「な、何ですか?」
「何を考えていたのかは知らないが、考え事をするなら部屋の中とか、電車の中にしておくんだな。偶々俺が通りかかったからよかったが、下手をすれば傷物にされてたんだぞ」
「ゴメンなさい……ところで、先輩はあんなところで何を?」
「バイト先からの帰り道、あそこを通るのが近道なんだよ」
「そうなんですか」
男性の先輩なら、今日のような出来事に巻き込まれる心配も少ないからこその近道なのだろうが、あの通りの恐怖は身をもって体験したので、今後は近づかないようにしよう。
「それじゃあ、俺は先に帰るから」
「待ってください!」
「なんだ」
「その……一人だとまだ怖いので、一緒に来てください」
「何処に?」
「買い物に来たって言ったじゃないですか」
「はぁ……荷物持ちはしないからな」
「蚊取り線香で十分ですよ」
「酷い言われようだ……」
男連れなら無粋な輩でもない限り声をかけてこないだろう。今はまだ、男の人に声を掛けられるだけでも警戒してしまうだろうし、先輩がいてくれれば何とか大丈夫だと思う。私は先輩と腕を組み――たかったのだが、さすがにそれはできずに、半歩後ろをついて目的地へと向かった。
先日の出来事からようやく回復し、私は普通にキャンパスライフを満喫している。とはいえ、大勢の異性を見ると委縮してしまうのは、まだ完全にダメージが抜けきっていないからだろう。
「ねぇねぇいろはちゃん」
「なんですか結衣先輩?」
「今度友達たちとお出かけするんだけど、いろはちゃんも一緒に行かない?」
「結衣先輩のお友達って、男性の方も結構いますよね?」
「うん。男女混ざって遊びに行こうって話になって、どうせならいろはちゃんも誘おうかなってさ」
「うーん……」
正直言って、先輩以外の異性と長時間一緒にいると、何時身体が震えだすか分からない。それくらいの出来事だったのだと今更ながらに、あの時先輩が現れてくれて本当に助かったと思う。
「あっ、いたいた」
「へ?」
背後から声を掛けられ、私は間抜けな声を出してしまった。それくらいその声の持ち主は予想外だったのだ。
「あっ、折本さん」
「かおりん、やっはろ~」
「由比ヶ浜さんも一緒だった。ちょうど良かった」
「何ですか~?」
この人ならさほど警戒する必要もないので、私は極めて冷静な態度で折本さんに問いかける。そんなことを考えてる時点で冷静ではないのかもしれないが、もう暫くはこういうことが続きそうだ。
「今度の休みさー、玉縄たちから誘われて遊びに行くことになったんだけど、人数が集まらなくてさ~。良かったら一緒に来ない?」
「玉縄君たちって、ヒッキーも一緒なのかな?」
「あぁ、面子は玉縄と比企谷、戸塚と……何だっけ?」
「材木座先輩ですか?」
「そう、それだ!」
どうやら玉縄さんが無理に誘ったような面子だ。あの人、先輩たち以外に交流ないんでしょうか……
「有名大の男子だって言ったら喰いつきは良かったんだけど、写真を見せたらさー……まぁ、玉縄の写真じゃ釣れないよね」
「彩ちゃんなら凄い勢いで集まりそうだけどね」
「何気に結衣先輩も酷いこと言ってますね」
「?」
どうやら自覚していないようだ。結衣先輩は戸塚先輩を持ち上げるふりをして、玉縄さんを貶したのと同義なことを言ったのだが、本人は気付いていないらしい。まぁ私も、玉縄さんの写真を見せられたところでついて行かなかっただろうから、似たようなものなのかもしれないが。
「こっちは三人になっちゃうけど、知り合いだし問題ないよね? さすがに私一人で玉縄たちと出かけるのはさー」
「私は別にいいですよ。結衣先輩は、お友達たちとお出かけの予定があるんですよね?」
「別に次の休みじゃなくてもそっちは問題ないから、私もかおりんたちと一緒に行くよ」
「オッケー、それじゃあそう返事しておく。詳しいことはまた分かったら連絡するから」
「あれ? でも折本さん、私のも結衣先輩のも、連絡先知りませんよね?」
「そうだった。それじゃあ、教えてくれる?」
折本さんと連絡先を交換して、とりあえずその場は解散となった。私は折本さんが見えなくなってから結衣先輩に声をかける。
「結衣先輩、明らかに先輩がいるからこっちを選びましたね?」
「そ、そんなことないし! 彩ちゃんとか厨二さんにも会いたかったし」
「玉縄さんは良いんですか?」
「それは……」
フッと視線を逸らす結衣先輩。それが何よりも物語っているのだが、それを指摘するのは避けておくべきだろう。
「い、いろはちゃんだってヒッキーがいるからかおりんの誘いに乗ったんじゃないの?」
「そもそも私は、結衣先輩の男友達とは交流がないので。そっちに誘われても気まずいだけでしたから」
「皆良い人なんだけどな~」
「それは何となく分かりますけど」
結衣先輩はおバカそうに見えて、人を見る目だけはしっかりしているし、それ程酷い相手とは付き合わないと私も思っている。だが今の精神状態で、あまり交流のない異性と一緒に出掛けることはできない。そんなときに折本さんからのお誘いがあったので、私はこれ幸いとそっちに乗っかったのだ。
「楽しみだね~、ヒッキーたちとのお出かけ」
「やっぱり先輩が目当てなんじゃないですか」
結衣先輩にツッコミを入れながら、実は私も先輩以外あまり興味がないなと心の中で苦笑するのだった。
他の面子で気になるのは戸塚くらいだろう
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必要な嘘
折本さんから指定された日の前夜、私は隣の部屋にいる先輩に話を聞きに行く。
「なんだかんだ言って、先輩も付き合い良いですよね~」
「いきなりやってきてなんだ……」
先輩はレポートを作成していたようで、私がインターホンを鳴らして出てきたときは眼鏡を掛けていた。普段から掛けているのだが、今掛けているのはまた別の物だ。
「折本さんから誘われたんですよ~。玉縄さんたちと出かけるけど一緒に行かないかって」
「あぁ、あれな……俺は断ったんだが、戸塚に誘われたら断れなくなって」
「また戸塚先輩ですか……先輩ってやっぱりホ――」
「断じて違う! ただ戸塚の悲しむ顔は見たくなかっただけだ」
恐らく先輩とお出かけできると思っていた戸塚先輩が、先輩は参加しないことになりそうだと察知しお願いしたのだろう。あの先輩もなかなかあざといと思うんだけど、恐らく素でやってるから先輩はあざといと思わないんだろうな……
「(私だって結構素なのに……)」
私に対してはあざといと言い放つくせに、戸塚先輩には何も言わない先輩に心の中で愚痴をこぼしながらも、表情は明るく先輩の隣に腰を下ろす。
「えっ、なに? 居座るつもりなの?」
「先輩のことですから、お出かけの時間になっても部屋から出るつもりが無さそうだなーって思いまして、今日はここに泊まって明日の朝起こしてあげますよ」
「いや、お前俺より起きる時間遅くね? 実際は知らんが、お前が動き始める気配って結構遅かったような気も……」
「なんですかそれ、何で私の気配なんて探ってるんですか? もしかして私のこと意識してくれてるんですか?」
「いや、単純に隣の部屋だし、ある程度物音とか聞こえるだろ?」
「意識してないと聞こえないと思いますけどね~」
ちなみに私は、先輩の部屋の物音に神経を傾けているのでよく聞こえるのだが、先輩の方は自然に聞こえてくると言っている。これはもしかして、先輩も私の部屋に興味があるということなのだろうか?
「とにかく! 先輩が来てくれないと気まずい空気になる予感しかしないんですから、ちゃんと来て下さいね? 何なら本当にお泊りしてでも連れていきますから!」
「何で俺に拘るんだよ? 俺が行かなければ三対三でちょうどだろ」
「あの面子で誰かとペアになるなら戸塚先輩一択じゃないですかー? そして戸塚先輩と結衣先輩は仲がいいですし……玉縄さんとか材木座先輩とかはちょっと嫌ですし……」
玉縄さんは折本さん狙いだから、必然的に私は材木座先輩とペアにされるだろう。せっかくのお出かけなのに会話無しはちょっと寂しいと思うし……その前にまだ、先輩以外の男性が怖いですし……
「お前、まだあの時の恐怖が残ってるのか」
「あれ? ひょっとして声に出してました?」
「あぁ、バッチリな」
「うわぁ……恥ずかしいです」
先輩に聞かせるつもりなど無かったので、恥ずかしさは倍増し、私は顔が真っ赤になってるのが良く分かる。それでも先輩の側を離れたくないと思うのは、何処か安心するからなのか、それとも……
結局先輩を押し切って先輩の部屋にお泊りすることになったのは良いが、先輩が言っていたように起きる時間は先輩の方が早かった。普段嗅がない匂いで目を覚ますと、既に着替え終えた先輩がキッチンに立っているではないか。
「せーんぱい、おはようございます」
「あぁ、おはよう」
「テンション低くないですかー?」
「だってお前のソレ、あざといんだもん」
「なんですとー! せっかく可愛い後輩が朝の挨拶をしてあげてるって言うのに!」
何だか似たような遣り取りをしたことがあるような気もするけど、とりあえず一旦自分の部屋に戻り着替えを済ませ、再び先輩の部屋にやってくる。鍵は掛かっていないので普通に先輩の部屋に入ったけども、何だか同棲カップルみたいな気分だ。
「何で戻ってきた?」
「何でって、先輩が作ってくれた朝ごはんを食べる為じゃないですかー」
「あっそ……ほらよ」
先輩は不機嫌そうに振る舞っていますが、迷惑そうではないので一安心。差し出されたカップと食事を見て、ちょっとだけ複雑な思いを抱きましたが、これはこれで良いものです。
「あまり時間もないですし、ゆっくり味わないのが残念です」
「別に急ぐ必要ないだろ。遅れたら遅れたでいいし」
「駄目ですよー。というか、先輩と一緒に行ったら結衣先輩に家バレしそうですし」
「いい加減教えればいいだろ。というか、由比ヶ浜と折本以外は知ってるんだし」
「そりゃ、引っ越し初日に家バレしましたからね」
マンションの前で戸塚先輩と材木座先輩に、そして玄関先で先輩に私の部屋を知られた。そして流れで玉縄さんにも知られたので、今日の面子で私の部屋を知らないのは女子二人ということになる。
「じゃあ今日結衣先輩には教えます。ただし、今日偶然先輩の部屋を知ったという感じにしてください」
「面倒じゃね?」
「結衣先輩の気持ちを考えれば、それくらいしておかないと」
「やれやれ……最初から教えておけばこんな面倒はしなくても良かったと思うんだがな」
食べ終わった食器を片付けながら愚痴る先輩に、私は結衣先輩にだけは教えたくなかったという気持ちを知られないように表情を偽り続けたのだった。
先輩と待ち合わせ場所に向かう途中、電車の中で戸塚先輩と合流。戸塚先輩を見つけた時の先輩の態度が気に入らなかったが、とりあえず三人で待ち合わせ場所にやってくると、玉縄さんが既に到着していた。
「やぁいろはちゃん。今日はよろしくね」
「こんにちは」
相変わらず私の名前を当たり前のように呼ぶ玉縄さんに、若干イライラしながらも、他のメンバーを待つことに。待つこと五分――
「あっ、ヒッキーに彩ちゃん、いろはちゃんもやっはろー」
「結衣先輩、やっはろーです」
「うん、やっはろー」
「よう……」
私と戸塚先輩がノリよく返事をしたのに対して、先輩は相変わらずのぶっきらぼう。だが返事をするだけ結衣先輩に対して心を開いている証拠なのだろう。
「あれ、比企谷が先にいるとは思わなかったわー。そんなに楽しみだったの?」
「そんなわけねぇだろ。俺一人だったらバックレてた」
「なにそれうけるー。って、一人じゃなかったわけ?」
「そうなんですよー。それが偶然先輩が私の部屋の隣の部屋に住んでましてー、家を出たタイミングで顔を合わせてビックリしたんですよー」
「ヒッキーの部屋っていろはちゃんの部屋の隣だったんだ」
「みたいだな」
「ん? いろはちゃんは比企谷の――」
玉縄さんが余計なことを言いそうになったので睨みつけると、事情を察してくれたのか言葉を呑み込んでくれた。
「ところで厨二さんは?」
「深夜アニメで盛り上がり過ぎて、そのままのテンションで出かけようとして、明日までのレポートが手つかずだった事を思い出したと、さっきメールが着た」
「アイツ、レポートは終わってるって言ってた気がするんだが」
「あはは……僕は終わりそうにないって聞いてたんだけどね」
「ヒッキーと一緒にお出かけしたかったから、嘘吐いたんじゃない?」
「だが、これで三対三になったからちょうどいいんじゃないかい?」
「てか玉縄も自分で女子を探せばいいじゃん。なんで毎回私にお願いするわけ?」
「それは……」
折本さんの言葉にたじろぐ玉縄さん。恐らく彼の本音は「折本さんが好きだから」というのと、「自分では呼べないから」という二つが隠れているのだろうが、折本さんはそのことに気付いていない。
「とりあえず移動しようよ。もうすぐ時間になっちゃうし」
「てか、何で集まって映画なんだよ……」
「いいじゃない。僕は好きだよ」
「お、おう」
愚痴をこぼしていた先輩だったが、戸塚先輩の笑顔で何も言えなくなってしまったようだ。というか、相変わらず戸塚先輩が最大のライバルなんですね……
アニメの陽乃さんが何だかエロかった……
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怯えるいろは
先輩はグチグチと文句を言っていたが、戸塚先輩に押し切られて一緒に映画館に入る。ほんとにこの人は戸塚先輩に弱いなぁ……ちなみに今は、玉縄さんと戸塚先輩が人数分のチケットを、結衣先輩と折本さんはパンフとか飲み物を買いに行っており、私と先輩は待機中である。
「先輩ってやっぱり――」
「断じて違うからな」
「ですけど、戸塚先輩の言うことは素直に聞くじゃないですか」
「戸塚が特別なだけで、他のヤツに興味は無い。これが例えば材木座だった場合、俺は迷わず帰ってるからな」
「何だか凄い説得力ですね……」
確かに戸塚先輩のような美少年に懇願されたら言うことを聞くでしょうが、材木座先輩のような人に頼まれてもぐっと来ないという感覚は、私でも理解できる。
「でもそれって、先輩が同性愛者じゃないって理由にはなりませんよね? だって先輩、私がどれだけ近づいても嫌そうな顔しかしませんし」
「前にも言ったが、お前あざといんだもん」
「あざとくないですよー!」
確かに葉山先輩や他の男子の前では可愛く見られようとしていた時もあったが、先輩の前では結構素だったりするのだ。それなのに先輩は私の態度を演技だと思っているようで、何時まで経っても私の気持ちに気付いてくれない。
「というか先輩だって結構あざといと思うんですよ」
「どこが」
「なんだかんだ言って優しいですし、今朝だって私の朝食をしっかり用意してくれてたじゃないですか。あれだけ帰れとか言ってたんだから、普通用意しませんよね?」
「それはー、あれだ! 朝食を食べないと頭に栄養が回らないから、朝食はしっかりと摂った方がからであって――」
「急に説明クサいですよ? そんなに誤魔化さなくても、先輩の愛情はしっかりと受け取りましたから」
満面の笑みで告げると、慌てていた先輩が急に冷めた表情に変わる。これはもしかして、演技したことがバレた?
「そういうところがあざといって言ってるんだよ、俺は」
「確かに今のは演技ですけども、普段は結構素だったりするんですからね? まぁ、先輩以外の前では猫被ったりしてることは認めますけども」
「いや、俺の前でも猫被ってんじゃん」
「それは最初の頃だけですよー。最近ではかなり素を出して接してると思うんですけどね」
先輩の前では演技をする必要もない――というか、先輩には私の素の部分をかなり知られてしまっているので、今更取り繕う必要が無いのでそういう態度だということも否定しないけども、先輩には本当の私を見てもらいたいという気持ちが強いからそうしているのだ。断じて演技するのが面倒になったとか、そう言うことではない。
「お待たせ。さすがに六人横続きの席は取れなかったけども、並んで座れる席は取れたよ」
「でも、五人が横並びで、通路を挟んで一人ってちょっとかわいそうだけどね」
「なら俺が一人席で構わない。どうせボッチには慣れてるからな」
「駄目ですよ、先輩! 先輩はそうやって貧乏くじを引くことに慣れてるのかもしれませんが、ここは公平に決めないと」
「そうだよ八幡。せっかくみんなで遊びに来てるんだから、八幡だけがそういう思いをする必要は無いんだよ」
私と戸塚先輩が必死に説得し――実質戸塚先輩の説得だけだったかもしれないが、先輩はとりあえず一人席を自分から選ぶことは止めてくれた。
「どうかしたの?」
「いや、一人だけ通路の向こう側の席になっちゃって、八幡がそこで良いって言うから止めてたんだ」
「ヒッキー、また一人ぼっちになるつもりだったの?」
「いやなに? 通路挟んで離れたらお前ら俺のことをハブにするつもりだったの? まぁ、そう言うことには慣れてるから良いんだけどね」
「そんなつもりはありませんけど、ほら、映画が始まっちゃうとさすがに話しかけられないじゃないですか」
「大人しく観てろよ」
「兎に角! チケットをこうやってシャッフルして裏返しにして、どのチケットが一人席なのかを分からなくして選びましょう。こうすれば公平性が保てるはずですから」
「それが良いね。さすがいろはちゃん、良い考えだ」
玉縄さんが私の肩を叩こうと近づいてきて――
「いやっ!」
「っ!?」
「あっ……ゴメンなさい」
思わず玉縄さんの手を払って結衣先輩の背後に隠れてしまう。玉縄さんをはじめ、戸塚先輩や結衣先輩、折本さんは驚いた表情を浮かべているが、先輩だけは真顔で何かを考えている。
「いろはちゃん、どうかしたの?」
「もしかして玉縄に言い寄られてるとか? そんな事態、さすがにウケないんだけど」
「そんなことしてない!」
「力いっぱい否定するところがまた怪しいんだけど?」
「ち、違うんです……実は――」
私は前にあったこと話して、まだちょっと異性が怖いということを説明した。事情を知って玉縄さんは頭を下げてきたが、誰も悪くないのでその話題はこれで終わらせることに。
「じゃあいろはちゃんの隣は女の子の方が良いよね?」
「あっ、いえ……そこは公平にしなきゃいけませんので」
隣が玉縄さんになったらちょっと嫌だなと思いつつ、私はチケットを選んだ。全員一斉にチケットを確認した結果、一人席は玉縄さんになり、私は先輩の隣の席になった。ちなみに、反対側の席は結衣先輩で、とりあえず安心して映画を観られる席になり安堵したのだった。
映画が終わり、女子三人でトイレにやって来ているのだが、さっきから結衣先輩と折本さんが私のことをチラチラと見てきている。
「どうかしたんですか?」
「いや……異性が怖いって言ってた割に、比企谷のことは怖がってないと思って」
「だって先輩ですよ? 女子と二人きりになってもあの人が襲ってくるなんて考えられないじゃないですかー? 曰く『理性の化け物』ですよ?」
「なにそれウケる―」
「あっ、平塚先生が言ったとか言わなかったとか聞いたことがある」
私も誰が言ったかは覚えていないけども、先輩のことをそうやって表した人がいると聞いたことがある。先輩のことを的確に表しているとその時は思ったが、今はそのことがありがたいとすら感じられる。だって、先輩と一緒にいても怯える必要がないから。
「それに、戸塚先輩が隣でも私は落ち着いていたと思いますよ?」
「まぁ彩ちゃんだしね」
「あれで男だって言うんだから、女としての自信を失くしそうだよね」
「ほんとそうですよねー。戸塚先輩を初めて見た時、正直『負けた……』って思いましたもん」
「ヒッキーも最初、彩ちゃんのことを女の子だって思ってたくらいだしね」
とりあえず私が先輩に窮地を救ってもらったことを話すことなく、私が先輩のことを怯えないことに納得してもらえたようで一安心。これ以上嘘を重ねたらいずれ破綻してしまうので、できる限り誤魔化す方向で行きたかったからよかった。
「とりあえず戻ろうか。何時までもトイレに入ってたら恥ずかしいもんね」
「あの面子じゃ、気にするのは玉縄くらいじゃない? 比企谷も戸塚君も、そう言うこと気にしないだろうし」
「そうですねー」
玉縄さんの折本さんへの気持ちを知っている人間からすれば、折本さんは完全に玉縄さんに興味がないと言ってあげたいのだが、人の恋路に口を挟んで痛い目に遭いたくないので黙っていましょう。
「それで、この後はどうするんですかね?」
「とりあえずお昼じゃない? その後はその辺をぶらぶらして、行きたい店に入るみたいな感じで」
「その方が気楽でいいですね。玉縄さんのスケジュールはきっちりし過ぎて堅苦しかったですし」
元々は映画ではなく何処かテーマパークに行く予定だったようだが、直前になって折本さんが「映画が観たい」といったおかげでこのようなスケジュールになったのだ。テーマパークなど、不特定多数の異性がいる場所に行くなんて、今の私にはちょっとハードルが高い。
「いろはちゃんも、映画の方が安心できたし、カオリンのお陰だね」
「いや、一色ちゃんの事情は知らなかったけども、結果オーライならよかったよ」
この二人に嘘を吐き続けるのは心苦しいが、まさか先輩に窮地を救ってもらったなんて知られたら色々と面倒なので、このままにしておこう……
まぁ戸塚だから
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責任の取り方
映画館近くのカフェで食事を済ませて、これから何をするか話し合っていると不意に結衣先輩が手を挙げた。
「私、いろはちゃんの部屋に行ってみたいな~」
「ウチですか~? 別に何もありませんよ」
「それだったら比企谷の部屋なら良いんじゃないか? 普段から客が多いから、いろいろともてなす準備もできてるだろうし」
「多いと言うか、お前らが勝手に人の部屋を溜まり場にしてるだけだろうが……それに毎回、食材とかは持ち寄りだろうが」
「だったら買物して比企谷の部屋に行けばいいんじゃない? 私もちょっと気になるし」
「折本まで……」
「八幡、僕も八幡の部屋でお喋りするの好きだよ」
「う……」
戸塚先輩にまで提案されてしまい、先輩は断れない雰囲気に呑まれてしまい渋々部屋に全員を招くことになってしまう。
「でもその前に何か買っていかないと何もないからな?」
「だったら僕と玉縄君でいろいろ買ってから八幡の部屋に行くから、由比ヶ浜さんたちは先に八幡の部屋に行っててよ」
「俺も行くが?」
「八幡の部屋に入るのに、八幡がいなかったら入れないでしょう?」
「その間一色の部屋で喋ってればいいだろ? どうせ隣なんだし」
さっき自分からバラしたから、先輩の提案に過敏に反応する必要は無かったのだけども、どうしても反応してしまう。こればっかりは慣れていくしかないんだろうな……
「だったら私が戸塚先輩と玉縄さんとお買い物に行きますから、先輩が部屋で――」
「お前、スーパーにも男は大勢いるんだぞ?」
「うっ……」
「だったら私が彩ちゃんたちと行くから、ヒッキーはいろはちゃんとカオリンと先に部屋に行っててよ」
「いや、お前は俺の部屋の場所を――」
「僕たちがちゃんと案内するから大丈夫だよ」
「まぁ、戸塚がそう言うなら……」
確かに結衣先輩は私の部屋も先輩の部屋の場所も知らないけども、戸塚先輩と玉縄さんは知っているので問題はない。
「だったら私も行くよ。一色ちゃんと比企谷は招く側の人だし、招かれる側の私が一緒にいるのもなんか変だしね。それに、玉縄が結衣ちゃんに変なことしないか見張ってないと」
「するわけ無いだろっ!?」
「あはは、それじゃあ八幡、僕たちは後から行くから」
何故か四人が買い物に行き、私たちは一足先に部屋に戻る事になってしまった……
「どうします?」
「どうもこうも、先に戻ってろと言われてしまったんだ。大人しく戻るしかないだろ」
先輩と二人でマンションまで歩く。この間襲われそうになった時以来だけども、先輩と二人きりなら怖い感じはしない。普段頼りない雰囲気の人だけども、いざという時はちゃんと助けてくれると思えるからなのだろうか。
「というか一色」
「なんですか?」
「お前そんなんで、大学生活とか平気なのか?」
「必要以上に近づかれなければ問題ないですし、普段は結衣先輩や他の友達と一緒にいますから、男子が近くに来ることなんて無かったんですよ。だから今日、玉縄さんにあんなに過敏な反応するなんて自分でも思ってませんでした」
「なるほどな……じゃあ何で俺や戸塚は平気だったんだ?」
「そりゃ戸塚先輩はあの見た目ですし、無許可にボディタッチしてくるような性格でもないですし」
「なるほど」
「それに先輩は……」
私が黙ってしまったのが気になったのか、先輩は歩を停めて私の方へ振り返り顔を見詰めてくる。先輩に見詰められるなんて無かったので、何だか照れ臭いがしっかりと言わなければ。
「先輩は私をあの窮地から救い出してくれた人ですし、いざとなれば頼りになるって分かりましたから怯える必要はないって思ってるんです。部屋が隣だって言うことも理由なのかもしれませんけど」
「いや、あれは偶々だし、何時でも助けられるわけじゃ――」
「『責任』取ってくれるんですよね?」
「お前、何時のこと言ってるんだよ……」
私が高1の時の冬、ディスティニーの帰りに電車で使った『責任』という単語を覚えていた先輩が、不意に顔を顰めた。だって私はまだ、先輩に責任を取ってもらっていないのだから。
「兎に角、私をこんな風にしたのは先輩なんですから、最低限の責任は取ってくださいね」
「人聞きの悪いこと言わないでくれませんかね? お前は俺たちの会話を勝手に盗み聞いて、勝手に影響を受けただけだろ? それの何処に俺が責任を取らなきゃいけない理由が――」
「それだけじゃないです。先輩にあんな風に助け出されてしまったら、他の人に興味が持てなくなっても仕方ないですよね? だから、私が他の異性に興味が持てるようになるまで、先輩は私に付き合ってください」
「はぁ……お前、高校の時と変わってないな」
「いいじゃないですか。卒業してまだそれ程経ってないんですし」
「俺は一年以上経ってるんだが?」
「そこは気にしちゃダメです!」
言いたいことを言ってスッキリした私は、先輩の腕を掴んで家路を急ぐ。先輩は振り解こうとすれば簡単に振り解けたであろう私の手を振り払うことはせず、大人しく私に手を引かれるように歩き始めた。
先輩の部屋で四人を待つこと三十分、ようやく戸塚先輩たちが先輩の部屋にやって来た。何故か荷物は玉縄さんが一人で持って……
「ここがヒッキーの部屋か~。うん、綺麗だね」
「比企谷って家事得意だったっけ?」
「一年以上一人暮らしをしてるんだから、これくらい普通だろ。というか、これで綺麗ってことは由比ヶ浜、お前の部屋って――」
「汚くないから! ただちょっと今、散らかってるかもしれないけど……」
「結衣先輩……」
見事に自爆した結衣先輩に、私は同情的な視線を向ける。料理は得意ではないと知っていたけども、まさか掃除や洗濯も苦手なのだろうか……
「というか玉縄、何時まで荷物を持ってるつもりなんだ?」
「あぁ、これ頼むよ」
玉縄さんから荷物を受け取った先輩は、冷蔵庫にしまうべきものはしまい、すぐに使うものはそのままキッチンに置いた。
「八幡、何か手伝う?」
「いや、戸塚たちは買い物に行ってくれたから気にするな。ここは俺が用意するから。といっても、さっき喰ったばかりだから、簡単なおやつくらいだがな」
「じゃあ晩御飯はヒッキーの手作りだね」
「えっ、なに? お前らそこまで居座るつもりなの?」
「当然。だから材料も買ってきたでしょ?」
「随分と量が多いはずだ……」
「それに比企谷、今日は何もないって言ってただろ?」
「まぁな……」
今日のスケジュールを知られている先輩は、バイトという名目で私たちを追い返すこともできなくなってしまい、肩を落としながらお菓子の用意を始める。結衣先輩が手伝いたそうに先輩に視線を送るが、私と戸塚先輩がさりげなくその視線を遮りお喋りに花を咲かす。
「ところで八幡」
「なんだ、戸塚?」
「部屋の中では名前で呼んでくれる約束だよね?」
「アレってあの時だけじゃないの?」
「僕は外でも良いんだけど、八幡が照れ臭いって言ったから部屋の中だけってことになったんじゃないか」
「そうだったか……?」
「八幡は、僕の名前、呼んでくれないの?」
「うっ……そ、そんなことは無いぞ……彩加」
「うん! ありがとう、八幡」
「あー良いな彩ちゃん。ヒッキー、私のことも名前で呼んで!」
「だったら私もー。比企谷に名前で呼ばれるなんてなんかうけるし」
「いや、うけねぇだろ……というか、名前呼びなんてリア充みたいなこと、俺ができるわけ無いだろ」
「でも彩ちゃんのことは呼んだじゃん」
「それは戸塚だからであって――」
「八幡?」
「さ、彩加だからであって……」
呼び慣れていない所為もあるのだろうが、先輩は戸塚先輩のことを名前で呼ぼうとしない。すかさず戸塚先輩が頬を膨らませて抗議すると、詰まりながらも名前で呼び直す。何だか付き合いたてのカップルを見ているようでモヤモヤする。
「だったら私の名前なら呼べますよね?」
「は? 何だよお前ならって」
「(だって、助け出してくれた時しれっと名前で呼んでましたよね?)」
「(あれはその場しのぎだろ。苗字で呼んでたらリアリティが無かっただろうし)」
「何話してるの?」
「なんでもない! というか、異性を名前呼びなんて、俺は小町しかしたことないからできん!」
そういって作業に戻っていった先輩だが、私は先輩が嘘を吐いていると知っているので、何だか誇らしげな気持ちになった。
やっぱりホモっぽい……
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真相
先輩が作業に逃げたので、私は追いかけることはせず結衣先輩たちとのお喋りに戻ることに。結衣先輩はまだ少し先輩の手伝いをしたそうだったけども、自分の料理の腕を自覚しているので無理に押しかけることはしなかった。
「それにしても比企谷がキッチンに立ってる姿を見ることになるとはウケるんだけど」
「でもヒッキーって要領は良かったから、少し練習すればできるようになっていても不思議ではないと思うけど」
「その理論だと、結衣先輩は要領が悪いってことになりますけど?」
「わ、悪くないし!」
そもそも結衣先輩の場合は、要領以前の問題だと思うけども、そこまで追求して場の空気を最悪にすることは避けたい。なのでこれ以上結衣先輩をイジメることはせずに、視線を戸塚先輩にずらした。
「戸塚先輩は料理とかしないんですか?」
「あはは……一人暮らしだからしなきゃいけないって分かってるんだけどね……」
「意外だね。戸塚君なら完璧な料理とか作れそうなのに」
「折本さんは僕を何だと思ってるのさ。僕だって一般的なイメージ通りの男子大学生の一人暮らしだよ? 面倒な時はコンビニのお弁当や外食で済ませることが多いって」
「それでそのスタイル……羨ましい」
確かに戸塚先輩のスタイルは羨ましいものがある。男性からしたらもう少し筋肉を付けたいとか、ひょろく見られるんじゃないかと思うのかもしれないけども、女性の目線からしたら、その細さは羨ましいものでしかない。ましてその容姿……先輩が戸塚先輩の言うことを聞く理由が何となく分かってしまうのが口惜しい……
「(まぁ、先輩はあくまでも恋愛対象として戸塚先輩を意識してるわけじゃないですから良いんですけどね)」
もしそんな展開になるとしたなら、私は速攻で部屋を変えるだろう。まさか自分の隣の部屋で生活している人が同性愛者だなんて……もちろん、そういう趣味嗜好の人を否定するわけではないが、自分の想い人がそうだったらちょっとね……いったん距離を置きたくなってしまっても仕方がないだろう。
「(って、私は誰に言い訳をしてるんだか)」
「いろはちゃん? どうしたの?」
「なんでもないですよ? というか、結衣先輩は何でさっきから先輩のクローゼットを見てるんですか? あっ、ひょっとして気になるんですかー?」
「見てないし!? そっちに彩ちゃんがいるからそっちを見てるだけで、ヒッキーの服とか下着が気になってるわけじゃないから」
ほぼ自爆してるようなものですが、結衣先輩はそのことに気付いていない様子。折本さんも気付いたようですが、それを指摘してさらに慌てさせると面倒なのでスルーしたのですが、空気の読めない人が一名いたのを忘れていた。
「でもそれって、意識してるって言ってるようなものだよね?」
「「っ!」」
「?!?!?」
あえてスルーした私と折本さんは玉縄さんを睨みつけ、結衣先輩は悲鳴にならない悲鳴をあげて戸塚先輩の背後に隠れた。
「な、何か変なことを言ってしまったのかな?」
「玉縄、アンタサイテーだわ」
「さすがにないですよね」
「由比ヶ浜さん、大丈夫?」
「うん……」
「お前ら、俺の部屋で騒ぐなよ――って、なにやってるんだ?」
私たちの声は聞こえていたようだが、内容までは把握できていなかった先輩が戻ってきてこの惨状を見て一言……まぁ、内容が分からなかったらそんな感想しか出ませんよね。
「――なるほどな。玉縄、お前最悪だな」
「確かに失言だったようだ……由比ヶ浜さん、悪かったね」
「だ、大丈夫……私の方も泣いちゃってゴメンね」
こんな時でも相手のことを気遣える結衣先輩は、やっぱりいい人なのだろうな……私だったらあんなこと言えないだろうし。
「とりあえず玉縄、今日はお前帰れ」
「そうだね……由比ヶ浜さん、本当に申し訳なかった」
さすがにこのまま居続けるわけにもいかないと判断したのか、玉縄さんは先輩に言われた通り部屋から去っていく。それで漸く落ち着いたのか、結衣先輩も戸塚先輩の背中から顔を出して私たちに頭を下げた。
「急に泣いちゃってごめんね。ちょっとびっくりしちゃってさー、あはは……」
「気にしなくて良いって。あれは結衣ちゃんじゃなくて玉縄のヤツが悪い」
「そうですよね。あんなデリカシーのないことを言うなんて信じられません」
「そもそも一色が冗談を言わなければそんなことにならなかったんじゃないのか?」
「先輩シー! 今それはシーです!」
せっかく玉縄さんが全て悪いみたいな感じで終わりそうだったのに、先輩の一言で余計なことになりそうになったので私は全力で先輩の口を塞ごうとしたが、そんな光景を見て結衣先輩は笑ってくれた。とりあえず、今後の関係が微妙な感じにはならなさそうで良かった。
先輩の家で過ごしてからまた暫く経ち、私も漸くバイト先が決まった。
「じゃあ、よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
初日ということもあっていろいろと教わったり、一緒に作業をすることしかなかったけども、ここならそれ程苦労することもなく働けそうだなと感じた。だって、殆どの従業員が女性で、客層も女性多めだから。
「そうそう、一色さんの他にももう一人雇うことになってるから、後で挨拶しておいてね」
「一緒の時間じゃないんですね」
「一色さんより少し遅い時間を担当してもらうのよ。前までなら別の人がいたんだけど、この職場でしょう? 居心地が悪かったみたいでね」
「男性だったんですか?」
「えぇ。さすがに全て女性の店じゃ、男性のお客さんは望めないかなーって」
そういう目的のお店ではないので、女性だらけの場所に男性が入るのは勇気がいるだろう。だが一人でも男性店員がいてくれればその敷居は多少低くはなる。そういう考えのようだ。
「もうそろそろ来てくれるとは思うんだけどね」
「おはようございます」
「あっ、来たみたい」
背後から掛けられた声に、私は聞き覚えがあった。というか、ほぼ毎日聞いているような声だった気がするのは気のせいだろうか。
「おはよう、比企谷君。今日からよろしくね」
「こちらこそよろしくお願い――って、一色?」
「やっぱり先輩でしたか」
「えっなに? 知り合いなの?」
私と先輩の遣り取りを見て、事情説明を求めてくる先輩店員。まぁ、初対面ではないことは今の遣り取りで分かるだろうけども、さすがに詳細までは分からないだろう。
「高校の先輩なんですよ。今もいろいろとお世話になってるんですけど、まさか同じバイト先になるとは思っても見ませんでしたよ。と言うか先輩、バイト何個掛け持ちするつもりなんですか?」
「俺はあくまでも次が見つかるまでのつなぎだ。ここのお店のオーナーとちょっとした知り合いで、次が見つかるまでと頼まれてな……」
「先輩の交友関係って、相変わらず謎ですよね」
「ほっとけ。というかお前こそ何でここで?」
「先輩は私の事情、知ってますよね?」
「まぁな……」
私が若干男性恐怖症であることは面接の時正直に話している。だからそこは深く追及されなかったが、別ことを聞かれてしまう。
「一色さんは比企谷君のことは大丈夫そうだけど、何か事情があるのかな?」
「それは……」
明らかにからかえそうなネタがあると分かっている顔で確認してくる先輩店員。どう答えるべきか考えていると、先輩が代わりに答えてくれた。
「こいつがそうなった原因は聞いてますか?」
「まぁ一応ね。採用するにしても、全く異性がダメじゃ雇わないし」
「なら詳細は省きますね。その現場から助け出したのが自分だから、恐らく自分のことは恐れなくても大丈夫だと思っているのではないかと」
「そうなの?」
「真相は自分には分かりませんが」
そう答えた先輩の背後から、オーナーらしき人が先輩を呼び、先輩はそちらに向かう。先輩の姿が見えなくなってから、先輩店員が私に耳打ちしてくる。
「てっきり比企谷君のことが好きだから大丈夫なのかと思っちゃった」
「なっ……」
「おっ、図星?」
結局からかわれてしまったが、その後の仕事は問題なくこなすことができた。何かあっても先輩がいると思えたことが、一番の原因なのかもしれないけど……
いろはも結構分かり易いと思うんだが
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見え隠れする本心
まだ少し男性客には身構えてしまうが、先輩店員たちのフォローもあり、私は順調にバイトを続けられている。もちろん、先輩店員たちのフォローだけじゃ続けられていなかったかもしれない。
「(何かあっても先輩が奥にいるって思えるから、こうして耐えられるんだろうな)」
期間限定と言っていたが、今のところ先輩がこのバイトを辞める様子はないし、偶に私の様子を窺っているようだと先輩店員たちから聞いている。
「(本当にあざといのは先輩の方なんですから……そんな風に心配されたら、気にしちゃうに決まってるじゃないですか)」
先輩が特別な感情で私のことを気にしているわけではないということは分かっている。そもそもあの人がそんな感情で動くとも思えないし、むしろ私にそんな感情を向けてくるなんて思えない。
「(それでも、私は先輩との関係を続けたい)」
何時までも後輩扱い――妹扱いのような気もするが――で満足していられるわけがない。だって私は、先輩が欲した『本物』が欲しいのだから。
「一色さん、そろそろ上がっていいよ」
「あっ、はーい。お疲れさまでしたー」
そんなことを考えながらバイトをしていた所為か、何だか今日は凄く早く終わったような気がする。
「比企谷君も、お疲れ様」
「お疲れさまです」
「どうせなら、一色さんのことを送ってあげなよ。比企谷君なら、一色さんも身構えずに済むだろうし」
「はぁ……一色、どうする?」
「そうですねー、先輩がどうしてもって言うなら送ってもらっても良いですけど」
「じゃあどうしても嫌なので。俺は先に帰る」
「冗談じゃないですかー! そんなに拗ねなくても良いじゃないですか」
本気で先に帰りそうな感じだったので、私は慌てて先輩を止める。一人でも帰れるが、今日は帰りに買い物をしておきたいのだ。先輩がいてくれた方がスムーズに買い物ができる。
「比企谷君も一色さんも仲が良いわね。羨ましいわ」
「そうですかね? ほら一色、帰るならさっさと支度しろ」
「はーい」
先輩の方も冗談だったようで一安心。私は急いで着替えて通用口前で待っていてくれた先輩と合流することに。
「それじゃあ、さっさと帰るか」
「ちょっと買い物したいので付き合ってください」
「買い物? そんなの一人で――」
「行きたくても行けないって分かりますよね?」
「……はぁ、いい加減俺以外に大丈夫な相手を見つけてくれませんかね?」
「そんな人いないので、当分は先輩で我慢してあげてるんです」
「我慢してまで俺が付き合う必要なくね? 一人でも行けるんだから行けばいいじゃないか」
確かに一人でも十分に買い物を済ませることはできる。だが何時この前のようなことがあるかもしれないと考えると、遅い時間に一人で外出するのは避けたい。その点先輩が一緒ならば安心できるし、いざとなれば楯になってくらいには私のことを心配してくれていることを知っている。だからこうして悪態を吐きながらも付き合ってくれるのだ。
「今度お礼しますからー」
「いらん。お前のお礼でまともだった覚えがない」
「そんなこと無いと思いますけど? ……はっ! もしかして性的なお礼を期待してましたか? すみません、先輩とそういう関係になるのもやぶさかではないですけどまだ気持ち的にちょっと無理です。ゴメンなさい」
「そんなこと言ってないがな……ほら、さっさと済ませて帰るぞ。明日も早いんだから」
「ちょっとはときめいたりしてくださいよー」
「だってお前のソレあざといし、何度目の遣り取りか分からないし」
「……演技ってわけでもないんですけどね」
「何か言ったか?」
聞こえるか聞こえないか微妙な声量で言ったので、先輩には聞こえなかったようだ。まぁ、聞こえていたら聞こえていたでこの後気まずかったので、聞こえていなくて良かった。
「なんでもないですよー。それじゃあ、先輩が奢ってくれるみたいだし、普段買わない物を――」
「さて、帰るか」
「ちょっとした冗談じゃないですかー! って、本気で帰ろうとしないでくださいよー」
私のことを無視して家に帰ろうとする先輩の腕を掴んで何とか買い物に同行してもらう。本当にこの先輩は扱いが簡単そうで難しいんだから……
私がバイトしていることは結衣先輩の他にも友人の間で知られている。だが私の事情を知っているのは結衣先輩のみ。他の友達には心配かけたくないので話していない。
「いろはさー、今度バイト先に遊びに行っても良い?」
「良いけど、冷やかしならお断りだからね。ちゃんとお金を落として行って」
「言い方。まぁ、ちゃんと食事していくから安心して。結衣さんも行くでしょ?」
「今月ピンチだから、行くならまた今度かなー」
「結衣先輩、何にそんな使ってるんですか?」
「ま、まぁ……いろいろと」
「結衣先輩もバイトした方が良いんじゃないですか?」
結衣先輩が何にお金を使っているかなんて分からないけども、一人暮らしで制止してくる相手がいないから散財しているのだろうと決めつけ、私は少しお金を稼ぐ苦労をした方が良いのではないかと告げる。こっちに来る前はしていたようだけども、少なくとも今、結衣先輩はバイトをしていないから。
「したいとは思っているんだけどねー。課題とかレポートで忙しいから中々時間取れなくて」
「それは私も一緒ですよ? 結衣先輩の作業効率とかの問題では? 高校時代もそういう作業は先輩や雪乃先輩がやってた印象がありますし」
「そんなこと無いし!? ……あれ? ヒッキーやゆきのんがやってる記憶しかない……」
「前から思ってたけど、その『ヒッキー』や『ゆきのん』って誰です?」
「私の友達」
「雪乃先輩は海外留学中ですし、先輩はエリート大学の法学部に通ってますよ」
「いろはちゃんも知り合いなんだよね。今度会わせてよ」
友達に頼まれ、私と結衣先輩は顔を見合わせて苦い顔をする。会わせたくないのではなく、先輩が会おうとしてくれないだろうと考えたからだ。
「ヒッキー、あまり人と関わりたくないって感じだし」
「無理矢理頼み込めば付き合ってくれないこともないですけど、ある程度親交が無いと難しいと思いますよ」
「彩ちゃんが頼めば確実だろうけども」
「また新しい人が出てきた。彩ちゃんって誰です? 女の子ですか?」
「女の子じゃないんだけど、正直女の子よりもかわいいかも」
「ですよね……戸塚先輩、下手な女子より人気高かったですし」
高校時代、そういう趣味の人から絶大な人気を誇っていた戸塚先輩だが、現在はよりその美しさに磨きが掛かっている。事実を知らない男が戸塚先輩のことをナンパしていたと、以前玉縄さんから聞かされたくらいに……
「あっ、そろそろバイトの時間なので、私はこれで失礼しますね」
「頑張ってねー」
「結衣さんもレポート、明日までじゃなかったでしたっけ?」
「あっ!? すっかり忘れてた……」
「結衣先輩も、頑張ってくださいね」
レポートといっても、この前の講義で感じたことを書いてまとめるだけの簡単な小レポートなので、私はさっさと終わらせて提出したのだが、結衣先輩はすっかり忘れていたようだ。
「(相変わらず結衣先輩はしっかりしてるようで抜けてるんですよね……)」
私の友達たちともすっかり仲良くなっているのは凄いとは思うが、こういう所は尊敬できない。というか、少しは改善してもらいたい。
「まぁ、私には直接関係ないから良いんですけどね」
「何がだ?」
「っ!? ってなんだ、先輩ですか……こんなところで何してるんですか?」
「いや、今日は俺もシフトに入ってるから早めに来ただけだが」
「真面目ですねー。高校時代の不真面目な先輩は何処に行ってしまったんでしょう」
「何を言う! 俺は何もしないことに本気で取り組んでた真面目な学生だっただろうが」
「はいはい、そう言うの良いんで」
先輩とのコントを早々に切り上げて私は仕事着に着替える為にロッカールームに逃げ込む。まさか背後に先輩がいるなんて思っていなかったので、私の心臓は早鐘を打っているのだ。それを気付かれないように早々に切り上げたのだが、本当はもう少し先輩と話していたかったのに……
「(今夜、先輩の部屋にでも遊びに行こうかな)」
そんなことしても何も起こらないと分かっているから考えられることなのだが、少しくらい何かあればいいのにと期待してしまう自分に、私は心の中でツッコミを入れて仕事に向かうようにしたのだった。
いろはすはこれでいい気もするが
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誕生日の話題
講義後時間があったので、私は結衣先輩や他の友人たちと食堂でお喋りに興じていた。初めの頃は結衣先輩に遠慮していた友人たちだが、最近では同い年の相手をしているような感覚で接している。
「そういえば結衣さんってそろそろ誕生日じゃなかったっけ?」
「うん、そうだよ~」
そう言えばそんな話を昔したような気もする。六月十八日が結衣先輩の誕生日だ。今が六月十日だから、約一週間後といったところか。
「私もいよいよ大人の仲間入りか~」
「年齢が二十歳を超えたからって、それだけで大人になれるわけじゃ無いですよ? そもそも結衣先輩は見た目が幼いですから、年齢を答えても信じてもらえないと思いますし」
「そんなこと無いし!」
「あーでも確かに、結衣さんって年上感ないよね~」
「物腰が柔らかいから忘れがちだけど、私たちより一つ上なんだもんね」
「別に学年は一緒なんだから気にしなくてもいいんだけどな」
「でもいろはが『先輩』って呼んでいるので、どうしても遠慮をかなぐり捨てることができないんですよね」
「だってしょうがないじゃない。高校の先輩だったんだから」
普通に知り合ったのならそんな風に呼ばなかっただろうけども、結衣先輩とは高校時代からの付き合いなのだ。だからどうしても呼び方は当時のままになってしまう。結衣先輩もそれを気にしていないから私もそのままだったけども、こういった弊害があったとは……
「まぁまぁ、それじゃあ当日は結衣さんの為に盛大なパーティーを開こうよ」
「でも、そんなにお金に余裕なくない?」
「自分たちで用意すれば、それなりに費用は抑えられると思いますけど」
「さすが元生徒会長。そう言った考えは得意って感じ?」
「別にそういうわけじゃないけど……」
「あっ、せっかくだから結衣さんの高校時代のお友達も呼んで、皆でお祝いするって言うのはどう? ほら、良くいろはが言ってる『先輩』にも会ってみたいし」
「えっー、ヒッキーは来ないと思うけどな」
「そうなんですか? 結衣さんも仲いいんですよね?」
「先輩はそういうイベント、絶対に嫌いですからね」
ただでさえ引き篭もり気味だった人だ。多少交友関係が広くなったとはいえ、見ず知らずの女子がいる場所に好んで来る人ではない。それは結衣先輩も知っているので、先輩を呼ぶのには消極的だ。
「あっでも、彩ちゃんも呼べばヒッキーも来てくれるかも」
「戸塚先輩がお願いすれば、恐らく来てくれるでしょうけども、まず戸塚先輩のスケジュールを聞かなければどうにもなりませんよ?」
「分かった。彩ちゃんに連絡してみる」
先輩が来る可能性があると分かった途端、結衣先輩はあからさまな態度で戸塚先輩に連絡をしに私たちの側から離れる。その姿を見て、友人たちがくすくすと笑う。
「相変わらず結衣さんは分かり易いよね~」
「絶対に『ヒッキーさん』のことが好きだよね」
「だからあれだけ告白されても断ってるんだって、絶対」
結衣先輩の人懐っこい態度に勘違いした人が結衣先輩に告白しているということは私も知っているが、友人たちの会話を聞く限りかなりの数が玉砕しているようだ……
「(無自覚ってのが罪ですよね……)」
結衣先輩からしてみれば普通なのだろうが、男子からしてみれば自分に好意を持っているのではないかと勘違いさせるような距離感なのだろう。なにせあの先輩ですら、結衣先輩との距離感に戸惑っていた時期があるのだから……
「お待たせー。彩ちゃん大丈夫だって。ついでにヒッキーも連れてきてくれるって」
「じゃあ場所はどうします? ここ、借りられるのかな?」
「大丈夫じゃない? 別に部外者立ち入り禁止ってわけでもないし」
「じゃあ、持ち込みは?」
「聞いてきます」
とんとん拍子に話が進み、食堂の使用許可と持ち込み許可をもらえたので、当日はここで結衣先輩の誕生日パーティーを開くことになった。大学内だし、知人程度の人たちも気軽に参加できるだろうし、結衣先輩に対して好意を持っていても個人的な付き合いは無い人たちも、お祝いすることができるだろう。まぁ、結衣先輩にとっては、その好意は嬉しくないのだろうが……
話し合いで結構時間を喰っていたようで、私が帰宅したのはだいぶ遅い時間だった。人通りもそれ程多くなかったのですれ違う男性に怯えることは無かったが、逆に人がいなさ過ぎてあの時と似たようなことに巻き込まれるのではないかとビクビクしながら帰ってきた。
「――で、何で当たり前のように俺の部屋にいるわけ?」
「先輩が招き入れてくれたんじゃないですか~」
「いや、お前が俺をすり抜けて勝手に入ってきたんでしょうが」
「まぁまぁ、細かいことは気にしないで。結衣先輩の誕生日パーティーについて、詳しくお話しておかなければと思いまして」
勝手知ったる何とやら、私は先輩の部屋でくつろぎながらお茶を飲み、さっきまで話していた内容を先輩に伝える。
「――というわけですので、当日は先輩の料理、期待してますね」
「えっ、何? 俺が作るの? お前たちが用意するんじゃないの?」
「もちろん私たちも作りますけど、先輩だって手ぶらで参加するわけじゃないですよね?」
「そもそも参加したくないんだが……」
「それは却下です。戸塚先輩に誘われて、参加するって言ったんですよね?」
「それは……」
相変わらず戸塚先輩に頼まれると断れないのが、先輩の弱点らしい弱点ですよね……その相手が私だったらよかったのに。
「そもそも何で誕生日パーティー? もう祝われても嬉しくない歳じゃないの?」
「そこらへんは性別の差じゃないですか?」
「そんなものか?」
「はい。あっ、今からでも良いので、私の誕生日を祝ってくれても良いですよ?」
「お前の誕生日って、四月だろ? ほんとに今更だな」
「ちゃんと覚えててくれてるんですね。ほんとそういう所律義というか、あざといというか」
「お前にだけは言われたくないな、その言葉は」
「なんですとー!」
こんな風に誤魔化しているが、先輩が私の誕生日を覚えててくれていたことが凄く嬉しい。些細なことなのだが、自分のことを把握してくれてるということが嬉し過ぎて、私は口早に誕生日パーティーの詳細を伝えた。
「――と言う感じですね」
「随分と大雑把な計画だな……まぁ、それが大学生っぽさなのか?」
「先輩だって、お友達の誕生日をお祝いしたり――あっ……」
「なに、その気付いちゃいけなかったみたいな『あっ』は? この間戸塚の誕生日をお祝いしたぞ、俺だって」
「そういえば戸塚先輩ももう誕生日来ていたんですよね」
「あぁ……あの時は凄かった」
「……何があったんですか?」
あの先輩が視線を逸らすような出来事があったのだと理解しながらも、私は好奇心を抑えきれずに尋ねてしまった。
「戸塚がせっかくだからって酒を呑んだんだが……うん」
「その光景を見たいような見たくないような……」
暴れ出したのか、それとも乱れたのかは分からないが、戸塚先輩がお酒を呑まない理由はそこらへんになるのだろうなと理解し、間違っても呑ませないでおこうと決意した。
「まぁ、由比ヶ浜に呑ませるかはお前たちに任せる。俺は責任持たんがな」
「結衣先輩が酔っぱらったら、先輩や戸塚先輩以外の異性は耐えられないでしょうね……なにせ、胸部に凄い武器を持っていますから」
「その言い方どうなの?」
「でも、先輩だって気になりますよね?」
「………」
無言で視線を逸らす先輩……ホント分かり易い時は分かり易すぎるんだから……
「兎に角そういうわけですので、結衣先輩のストッパー役としても期待してますからね」
「えっ、それって俺がしなきゃいけないの?」
「私じゃ本気になった男子を止められませんし。力的にも、心情的にも……」
「はぁ……まぁ、そんなことにならないことを祈るがな」
とりあえず先輩も参加してくれることが確定したので、私は使っていたコップを洗って隣の自室へ戻る事にした。先輩のことだから、私がコップをそのままにしても変なことに使ったりはしないだろうが、一応念の為に。
酔っぱらった戸塚……見たいような見たくないような
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結衣の誕生日パーティー
さすがに料理を用意するだけと言うのは申し訳ないということで、今日は先輩と一緒に結衣先輩の誕生日プレゼントを選びにお出かけしている。
「――というか、何で俺も? お前が由比ヶ浜への誕生日プレゼントを買いに来たんだろ?」
「せっかくですから、先輩との合同誕生日プレゼントということにしてあげます。先輩じゃセンスがないものになりそうですから、私が選んで先輩がお金を払ってください」
「いや、その理屈はおかしいだろ……」
「まぁ、半分以上冗談ですから」
さすがの私も、選んだだけのものを私からのプレゼントと言い張れるはずも無く、ちゃんとお金だって用意している。だがもし先輩がそれでも良いと言ってくれたのなら、その時はお言葉に甘えるつもりだったのだが。
「結衣先輩、先輩に祝ってもらえるってここ数日楽しそうなんですから、期待を裏切らないようにしてあげてくださいね?」
「はいはい。しかし……誕生日プレゼント、か」
「どうしたんですか?」
先輩がふと遠い目をしたので、私は興味本位で先輩に尋ねた。
「高二の時に、由比ヶ浜にはプレゼントをやったなと思ってな」
「へーそうなんですか。ちなみに、その時は何をあげたんですか?」
先輩のことだからどうせ大したものではないのだろうとは思いつつも、先輩が結衣先輩にあげたものが気になってしまいちょっと前のめりに尋ねる。
「首輪だ」
「はい?」
「だから首輪」
「えっ……先輩ってそういう趣味が?」
「お前は何を勘違いしてるんだ?」
「だって、先輩は結衣先輩に首輪をしてペット扱いしたいってことですよね?」
「お前の思考は由比ヶ浜並みだな……」
「それはちょっと嫌です」
結衣先輩に失礼かもしれないが、結衣先輩と同列視されてちょっとショックを受ける。
「由比ヶ浜は犬を飼っていたから、ソイツ用だ」
「あっ、なるほど……」
てっきり先輩が結衣先輩をペットのように扱いたいという願望の表れだと思ってしまった……でももし先輩がそういう趣向の持ち主だったら……
「なんだ?」
「先輩、調教は優しくしてくださいね?」
「は?」
「な、何でもないです!」
想像していたことを思わず口に出してしまい、その後はずっと先輩から「コイツ大丈夫か?」みたいな目で見られ続けてしまった……
「(私のバカ……)」
ちなみに、結衣先輩へのプレゼントはペンダントを選び、先輩が七割くらい払ってくれたので、私は少し申し訳ない気分を味わいつつ、残りを支払い商品を受け取ったのだった。
誕生日当日、参加者の殆どは同級生ということで、それ程集まるのに時間は要さなかったが、外部からの出席者が現れた時、食堂内の時間が一瞬止まった――ように感じた。果たしてそれは、戸塚先輩を見たからか、それとも先輩を見たからか……
「あっヒッキー! 彩ちゃんもやっはろー!」
「由比ヶ浜さん、誕生日おめでとう」
「よう」
何時も通りの笑顔で結衣先輩に挨拶する戸塚先輩と、こちらも何時も通りのぶっきらぼうな挨拶を返す先輩。なんだかんだ言ってもちゃんと参加してくれるのが、この人の良いところなのだろうな。
「一色さんも、こんにちは」
「こんにちはでーす、戸塚先輩」
「本当に僕たちも参加して良いのかな? 何だか見られてる気がするんだけど」
「気にしたら負けですよ~」
戸塚先輩なら見られることに慣れているでしょうと言いたかったけども、せっかくのパーティーの雰囲気を悪くしたくなかったので、その言葉は呑み込んだ。戸塚先輩には私の葛藤は分からなかったようだけど、先輩が少し離れた場所で私を見ていたので、先輩には私の考えはお見通しだったようだ。
「(何だか先輩に見通されているって、気分が良いような悪いような……)」
「あっ、由比ヶ浜さん」
「なーに?」
「これ、プレゼント」
戸塚先輩が結衣先輩にプレゼントを渡したのを見て、私も結衣先輩にプレゼントを差し出す。
「結衣先輩、これ私と先輩からです」
「いろはちゃんとヒッキーから……?」
「まぁ色々ありまして、先輩にプレゼント選びを手伝ってもらったんです。ついでにお支払いも」
「そうなんだー。ヒッキー、アリガトね」
「大した額じゃねぇし、選んだのは一色だ」
「ううん、嬉しいよ」
結衣先輩の笑顔に、先輩が視線を逸らす。普段分かり難いのに、こういう時は分かり易いんだから……でも、他の男子のようにあからさまな態度を見せないのはさすがだ。
「結衣さん、少し向こうでお話ししましょうよ」
「えっ、何急に?」
他の友人たちに取り囲まれて連れていかれていった結衣先輩を見送り、私は先輩に話しかける。
「やっぱり先輩ってモテるんですね」
「はっ? 何言ってんの?」
「だって、結衣先輩が連れていかれた原因、先輩ですよ?」
「どういう意味だ?」
本気で分かっていない様な先輩の態度に、私は少し苛立ちを覚える。この人は自分を過小評価し過ぎなのだ。
「(先輩、自分がモテてる自覚無いんですか?)」
「(あるわけ無いだろ。俺程非リア陰キャという言葉が似合う男もいないだろ)」
「(一度ボコボコにされた方が良いんじゃないですか?)」
あれだけ可愛らしい人に好かれていて、なおかつこんなかわいい後輩から慕われているというのに、自分の事を非リアと表現するとは……
「一色さん」
「はいっ?」
参加している男子から声を掛けられ、私は声を裏返しながらなんとか返事をする。不意に声を掛けられるとまだ怖いという感情が出てきてしまうのだ。
「ちょっと良いかな?」
「別に良いですけど……」
何となく二人で話をしたいという雰囲気だったので、私は声が聞こえない程度に皆から離れる事にした。さすがに視界から外れる程離れることはできなかった――向こうは少し不満そうだったけども。
「(しかし、見るからに陽キャな感じだな……)」
さっきまで一緒にいたのが先輩だったから余計にそう思えるのだろうけども、この男子は十中八九陽キャだろう。
「それで何です?」
私としてはこのタイプは好みではないので、さっさと話を切り上げて先輩が作ってくれた料理を楽しみたいという思いしかないのだが、向こうはそう簡単に私を解放してくれそうではない感じだ。
「(力尽くということは無いだろうけども、いざとなったら大声で先輩を呼ばなきゃ)」
先輩もそれ程力があるわけではないけども、私よりは確実にある。それに事情もすべて知っているから、助けてくれるだろう。
「実は前から一色さんのことが気になってて」
「はぁ……」
高校の時のように愛想を振りまいていたなら兎も角、素に近い感じで過ごしていて私のことが気になるって、この人はドMなのだろうか。私に調教されたいとか思ってるんだろうか?
「一色さん、いや、いろは! 良ければ俺と付き合ってくれないかな?」
「ゴメンなさい、無理です」
「どうして?」
「いきなり人のことを名前で呼ぶとかキモイですし、そもそも貴方のこと知りませんし」
何時も結衣先輩と仲良くしてるグループと一緒にいるなーくらいの感覚の相手に告白されて嬉しいわけがないだろ。そんなことも分からないのか、こいつは?
「でも俺なら君を守ってあげられるし、あんな陰キャよりも楽しませることが――」
「先輩のことを知りもしないくせに、あの人のことを悪く言うのとかサイテー。用が無いなら良いですか? 失礼します」
こっ酷くフッてやった。これで二度と私に声を掛けてくることは無いだろう。
「何かあったのか?」
「なんでもないですよー。それにしても、相変わらず先輩の料理はおいしいですねー」
「相変わらずって程食ってないだろ?」
「少なくとも、結衣先輩の料理よりかは確実に美味しいですって」
「どういう意味だし!?」
「褒めてないだろ、それ……」
「ヒッキーも酷くないっ!?」
私たちの遣り取りを聞いていた周りが大爆笑をして、結衣先輩は周りに抗議し始める。なんだかんだで楽しい雰囲気になったので、私はホッとして先輩の隣でまったりとした時間を過ごした。
褒めてないだろうな
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悪い噂
私に告白してきた男子は、彼が所属しているグループに戻り不機嫌そうな視線を私に――ではなく先輩に向けている。彼に睨まれる覚えがない先輩は、一度だけ気にした様子を見せたがすぐに興味を無くしたようで、今は結衣先輩のお喋りに付き合わされているのだった。
「それでね、この前レポート課題をすっかり忘れちゃってたさー」
「浪人してせっかく合格したのに、このままだと留年しそうですね」
「そんなこと無いし! あっ、言いきれるほど勉強できないけど、留年はしないようにするし!」
「最初の勢いは何処に行った……」
結衣先輩が気弱になったのを見て、先輩は苦笑いを浮かべながらツッコミを入れる。相変わらずこの二人の遣り取りを見ていると心がざわつく。私と先輩には無い雰囲気を感じ取っているからだと理解しているのだが、それを気にしないようにできないのは何故なのだろうか……
「そういえば八幡、一色さんと同じバイト先なんだっけ?」
「ん? あぁ、俺はあくまでヘルプ何だが、オーナーがなかなか抜けさせてくれなくてな」
「先輩のお陰でお客さんが増えてるって言ってましたし」
「俺、殆ど店に出てないんだが?」
「たまに見れるから良いんだって、お客さんたちも言ってましたし」
「いいな~。私もヒッキーたちと同じお店でバイトしたいな~」
「結衣先輩はバイトの前に学業をちゃんとしないとですし」
「どういう意味だし!」
「そろそろテストもありますし、しっかりと復習しておかないといけないじゃないですか」
「持ち込み可だから、多分大丈夫だし」
随分と自信なさげな感じだが、高校時代も赤点は無かったようだし、結衣先輩が後輩になる可能性は恐らくないだろう。まぁ、レポートの提出期限を忘れたりしなければなのだが。
「バイトで思い出しましたけど、戸塚先輩ってバイトしてるんですか?」
「うん、偶にね」
「彩ちゃん、何のバイトしてるの?」
「いろいろとしてるんだけど、サークルが優先になってるから単発バイトなんだよね。もちろん、何回かお世話になってる場所もあるんだけど」
「戸塚がレジをやると店が繁盛するから、正式にバイトをお願いしたいって言われてたな」
「その気持ちは分かります。戸塚先輩と先輩がレジをやってたら、間違いなく戸塚先輩の方に並びますし」
「ああ、俺でも戸塚側に並ぶね」
ほんとこの人はどれだけ戸塚先輩のことが好きなんですか……
「ところでいろはちゃん」
「はい、なんですか?」
「さっきから男子がこっちを睨みつけてる気がするんだけど、何かあったの?」
「あぁ、あれですか……」
私が呼び出されたのは、丁度結衣先輩が他の友人に先輩との関係を聞き出されてる時だったので、結衣先輩は私が彼に呼び出されて告白されたなど知らないのだろう。私が戻ってきた時には結衣先輩も先輩たちと一緒だったが、別の用件で席を外していたと思っているのかもしれない。
「さっき告白されまして、ハッキリ断ったら逆恨みでもされたんじゃないですかね」
「随分とあっさりしてるし!? でも告白なんて、いろはちゃんやっぱりモテるんだね」
「不特定多数にモテても仕方ないですし」
「?」
結衣先輩は私の言葉回しが理解できなかったようだが、先輩と戸塚先輩は私の真意に気付いているようだ。以前の私ならモテていることをステータスだと考えていたかもしれないが、今は違う。不特定多数よりもたった一人に想われていなければ意味が無いのだ。
「(葉山先輩を追い掛けてた時は、こんなこと考えてなかったかもしれないな)」
あの時も不特定多数にモテていても嬉しくは無かったが、便利な相手がいることは悪いことじゃないと思っていた節がある。まぁ、今回の相手は都合よく動いてくれ無さそうだし、気にしなくてもいいかと思い素で振ったのだが。
「結衣さん、せっかくだからお酒でも飲みません? 校外にあるコンビニで買って」
「興味あるけど、お酒って怖いって聞くし……」
「大丈夫ですって。この子なんて二十歳になったら速攻で飲むとか言ってるくらいですから」
「うーん……」
この中で成人しているのは結衣先輩を除くと戸塚先輩だけ。先輩もまだ誕生日が来ていないので未成年なので、お酒の怖さを知っているとすれば戸塚先輩だけ。そしてその戸塚先輩がお酒を飲んだらどうなったかを、先輩は知っているので結衣先輩にお酒を勧めようとはしていなかったのに……
「ヒッキー、どう思う?」
「お前の意思で飲む分には良いんじゃないか? だが、何かあっても俺は何もしないが」
「彩ちゃんは?」
「あ、あはは……僕はもう二度と飲まないって決めてるから」
「一回くらい飲んでみたいとは思うんだけど、今日は止めておこうかな。飲むなら誰かに迷惑を掛けないシチュエーションで飲みたいし」
「だったら先輩の誕生日に三人で飲んだらどうですかー? 私はさすがに未成年なので飲みませんが」
先輩の誕生日は八月八日。思いっきり夏休み真っ最中なので家飲みなら誰かに迷惑を掛けることは無いだろう。
「ヒッキー、それでも良いかな?」
「えっと、僕も飲まなきゃダメ?」
「一色が何かあったら処理してくれるなら、俺はそれでも構わないが」
「それはさすがに遠慮します」
戸塚先輩が酔っぱらったらどうなるか分からないし、結衣先輩や先輩もお酒に強いのか弱いのかも分からないのに、そんな責任を押し付けられても困るので、私は笑顔でその話題から逃げ出したのだった。
結衣先輩の誕生日パーティーから一ヶ月くらいが過ぎたころ、何故か私の悪い噂が大学内で流れていた。ただ、全くの事実無根であると友人たちが噂を否定してくれていたお陰で、私の耳に入る前にその噂は収束していた。
「いろは、何か心当たりとか無い?」
「そう言われましても……以前結衣先輩の誕生日パーティーの際に告白してきた相手が逆恨みで流してたのかなー、くらいにしか心当たりは無いし、その男は別の女子と付き合ってるって聞いてますし、今更逆恨みで噂を流す必要も無さそうだし」
見た目通りの陽キャだったようで、私に振られてすぐ別の女子と付き合い出したという噂が私の耳にも届いている。別に振った相手がすぐに別の相手と付き合ったからと言ってどうこう思うこともないので気にしていなかったのだが。
「ホント困るよね、こういう噂って」
「『一色いろはは他大学の男子と夜な夜な遊んでる』だっけ? そもそもいろはって男性恐怖症じゃなかったっけ?」
「多少は改善してるけど、まだちょっとね……」
親しい友人には事情も説明しているので良いが、あまり大っぴらに話すことでもないので殆どの人は知らない。だからこの噂もそれなりに信じられていたのかもしれないが、別に気にすることでもないだろう。
「もしかして結衣先輩の誕生日パーティーの時に先輩か戸塚先輩に惚れた女子が私を貶めようとしてたのかな?」
「でも、いろはの株を落としたからといって、あの二人とお近づきになれるわけじゃないでしょ? むしろ遠ざかりそうだし」
「あの二人、かなりかっこよかったしね」
「戸塚先輩は兎も角、先輩はどうだろうね……多少は改善されてるけど、あの人の目の濁り方は尋常じゃなかったし」
「何々~? ヒッキーの話?」
「そういえば結衣さんもあの人たちのこと知ってるんですよね」
「むしろ私より知ってると思いますよ。同級生なんですから」
私から二人の情報を聞こうとしていた友人たちの興味は結衣先輩に向いたので、私は噂の出所を考えることに。
「(気にしてなかったけど、知らぬ間に恨みを買っていたということだよね……しかし、どうやったらあんなデタラメな噂を流せるんだろうか)」
私生活を知っているわけでもないのに、私が夜な夜な遊んでるとか、誰がそんなことを考えたのか。噂の出所よりも、そんな噂を考えついた頭の持ち主に、私は若干の興味を懐いた。
振られた腹いせはカッコ悪い
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八幡へのプレゼント
そろそろ夏休みが近づいてきているということで、私はバイトのシフトを増やそうと相談している。このお店はほとんどが女性客なので、私みたいな体質の人間でも十分に働くことができるのだ。
「――こんな感じですかね」
「お店的にはありがたいけど、一色さんは夏休みに予定とか無いの?」
「遠出することは無いでしょうから、休みの日にでも遊びに行くくらいだと思いますよ。あぁ、後は実家に顔を出しに行くこともあるかもしれませんが、一日あれば十分ですし」
お父さんがしつこく「たまには帰ってこい」というメッセージを送って来るので、一日くらいは顔を見せに帰ろうかなと思っている。地元に戻ったからと言って、会いたいと思う相手がいないのは寂しいことなのかもしれないが。
「一色さんって千葉だっけ?」
「はい」
「一人で大丈夫? 夏休みということは、それなりに電車も混むだろうし」
「そうなんですよね……そこが心配なんですよ」
普段の電車ならそれなりに空いている場所で大人しくしていればいいだけなのだが、夏休みともなれば勝手が違う。時間帯を変えてもそれなりに混んでいるだろうし、誰かと一緒ならこの心配は解消するのかもしれないが……
「そういえば比企谷君は帰らないの? 地元、一緒なんでしょ?」
「ウチは妹が受験生なので、邪魔だから帰って来るなと言われていますので」
「あー、なら無理か」
「そういえば由比ヶ浜が帰るとか言ってたから、一緒に帰ればいいじゃないか」
「由比ヶ浜さん?」
知らない人の名前が出てきたので、バイト先の先輩は首を傾げるが、私はあの人が一緒ならとりあえずは大丈夫かなと考える。問題は、結衣先輩が帰る日程が私の休みと合うかどうかだ。
「結衣先輩と一緒ならとりあえずは安心ですけど、あの人夏休みの間ずっと千葉にいるつもりじゃないですよね?」
「その辺は知らん。そもそもお前は大学が一緒なんだから、今度会った時にでも聞けばいいだろ。俺は戸塚経由で聞いただけだからな」
「なる程」
何故先輩が結衣先輩の予定を知っているのか不思議だったが、戸塚先輩から聞いたのか。確かにあの人なら結衣先輩とつながっていても不思議ではないし、そこから先輩に話が流れても納得できる。本当は先輩が個人的に結衣先輩と遣り取りをしているのではないかとやきもきしていたのだが、これでその疑問も解消した。
「というか、先輩小町ちゃんに邪魔者扱いされてるんですか?」
「いや、小町にというか、両親に」
「そうなんですか、可哀想ですね~」
「笑顔で言われても嬉しくねぇよ」
「相変わらず仲いいわね」
先輩バイトにからかわれ、先輩は奥に引っ込んでしまう。私としてはもう少し仲良くなりたいところなのだけども、こればっかりは仕方ないかな……
テスト期間に入り、結衣先輩となかなか顔を合わせる機会が無かったので、連絡をして会うことにした。といってもどこかに出かけるわけではなく、学食で話をしようと誘ったのだが。
「お待たせ、いろはちゃん」
「すみません、結衣先輩。テストで忙しいのに態々予定を空けてもらって」
「これくらい大丈夫だよ。それで、話って何かな?」
結衣先輩に「話がある」とメッセージを送ったので、この質問は当然のものだろう。私はとりあえず結衣先輩が注文を済ませるのを待ってから本題に入った。
「結衣先輩って夏休みに千葉に帰るんですよね?」
「そのつもりー。ママだけじゃなくってパパもたまには戻ってこいって言って来てるし」
「それって何時帰るんですか?」
「まだ決めてないけど、ヒッキーの誕生日が過ぎてからにしようとは思ってるかな」
「ということは、八月の中旬以降ってことですか」
「お盆休みと重なりそうだけど、それならパパも家にいるだろうし」
成人している結衣先輩が『パパ』と呼んでいるのに若干の違和感は残るが、この先輩は前からそのように呼んでいたから仕方ないのだろう。まぁ、結衣先輩の雰囲気に合っているから良いのかもしれないが。
「それ、私も一緒に行って良いですか?」
「いろはちゃんもウチに来たいの?」
「いえ、私も千葉に帰るつもりだったんですけど、電車の事をすっかり忘れてまして」
「そう言うことか。それならヒッキーに頼めば良かったんじゃないの?」
「先輩は、小町さんの受験勉強の邪魔だから帰って来るなと、ご両親に言われているそうです」
「あー、小町ちゃんも来年受験だもんね~。でも小町ちゃんならそれ程必死に勉強しなくても大丈夫だと思うんだけどな」
「さすが結衣先輩。浪人していた人が言うと何だか説得力を感じますね」
「なんか全然褒められている感じがしないんだけど」
「気のせいですよ~。ところで、結衣先輩」
「なに?」
私は最初から疑問に思ってたことを結衣先輩にぶつけることに。
「結衣先輩って、単位大丈夫なんですか?」
「大丈夫だし! 良だろうか可だろうが、単位は単位だし」
「初めから望みが低すぎません?」
「そ、そんなこと無いし!」
とりあえず結衣先輩がギリギリの成績であることは分かったので、私はジト目で結衣先輩を見詰める。すると慌てたように紅茶を飲み誤魔化そうとした結衣先輩が盛大にむせたので、私は思わず笑ってしまったのだった。
無事に夏休みを迎えることができ、そろそろ先輩の誕生日ということで、私と結衣先輩、そして戸塚先輩の三人で先輩の誕生日プレゼントを買いに行くためにお出かけをすることになっている。
「彩ちゃん、やっはろー」
「うん、やっはろー由比ヶ浜さん」
「いろはちゃんも、やっはろー!」
「こんにちはでーす」
待ち合わせ場所に最後に現れた結衣先輩と挨拶を交わして、私たちはお店へ向かう。これと言って何を買いに行くかを決めていないので、とりあえずショッピングモールで物を探そうということなのだ。
「先輩って、何をあげたら喜ぶんでしょうか?」
「うーん……ヒッキーって基本的に物欲無さそうだしねー。彩ちゃんは何か知ってる?」
「八幡は基本的に自分で何でも揃えちゃうから、欲しいものがあったとしても買ってる可能性が高いんだよね」
さすがボッチエリート……友人からプレゼントされるという経験が少ないのか、欲しいものは自分で手に入れるらしい。それじゃあ誕生日プレゼントを何にしたらいいのかのヒントにはならないな……
「誕生日ケーキを用意するって言うのは?」
「結衣先輩、それって祝いたいんですか? 呪いたいんですか?」
「ど、どういう意味だし!?」
「由比ヶ浜さんの案はありだとは思うけど、八幡より美味しいケーキを用意できる自信がないかな……」
「先輩、一人暮らしを初めてめきめきと料理の腕を伸ばしてますからね……」
私たち三人で協力したとしても、先輩に勝てるとは思えない。むしろ結衣先輩がいる分、こちらにとってはマイナスだろう。
「こう言うのって気持ちが大事だって言うから、何をあげても八幡は喜んでくれると思うよ」
「そうですかね?」
確かに戸塚先輩からのプレゼントなら、あの先輩は物が何であろうと喜ぶだろう。だが私や結衣先輩からのプレゼントで、無条件で喜ぶとは考え難い。むしろ下手の物をあげたら、好感度が下がるまである。
「ヒッキー、あんまりアクセサリーとか付けないからね」
「服装も拘ってる感じはありませんしね」
装飾品売り場を見ながら、私と結衣先輩は頭を悩ませる。あの先輩がこういったものを付けている姿を想像できないのだ。
「新しい趣味を開拓してあげるって言うのはどうかな?」
「あの先輩が人に勧められてハマるとは思えないんですけど……」
「そっか……ヒッキーだもんね」
ひねくれた性格ですし、あの人は勧められたら恐らく、意地でもそのことに触れないで生活するでしょう。それくらい私は結衣先輩なら分かってしまうので、結衣先輩の提案は却下。
「とりあえず私はあっちで探してみるね」
「分かりました。私は向こうで戸塚先輩と探してみます」
「気を付けるんだよ」
「結衣先輩こそ、迷子にならないでくださいね?」
「さすがに迷わないし!」
さすがに一人で行動する勇気はないので、戸塚先輩と二人であちこち見て回り、とりあえずプレゼントは買うことができた。だが、これで先輩が喜んでくれるかどうかは、私には分からない……
後輩に心配されることではない
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関係性
先輩の誕生日パーティーを開くために、私の部屋でいろいろと準備を進める。参加者は私と結衣先輩、そして戸塚先輩の三人だけなので、それなりに時間はかかったけど、先輩の為ということで結衣先輩はかなり頑張っている。
「由比ヶ浜さん、随分と張り切ってるね」
「先輩にできることは限られていますからね~」
ケーキを作ると意気込んでいたようだが、他の友人に止められたとかでそれはしないことに。まぁ、結衣先輩に料理をさせるつもりなんて、私にも戸塚先輩にも無かったのですが。
「いろはちゃん、これって何処に置けば良いかな?」
「あー、それはそっちにお願いします」
「分かった」
簡単な飾りつけだけをして、後は先輩が帰って来るのを待つだけなのだが、結衣先輩はさっきからそわそわと配置を変えてみたり、うろうろとしたりと落ち着きがない。そんな姿を私と戸塚先輩は微笑ましげに眺めている。まぁ、私と戸塚先輩とでは、心の裡は随分と違うのだが……
「(やっぱり結衣先輩も先輩のことが好きなんですよね……まぁ、知っていたから良いんだけども、こんなにもはっきり見せつけられると、少し考えちゃいますよ……)」
結衣先輩が先輩のことが好きということは、高校時代から知っていたし、本人も隠していないので知っている――というか、以前本人の口から聞いたことがある。だが私も自分の気持ちを自覚してしまった以上、素直に応援なんてできるはずが無いではないか。
「ところで、本当に玉縄君や材木座君は呼ばなくて良かったの?」
「だってあの二人を呼んだところで大して戦力になりませんし、そもそも先輩が嫌な顔をするだけだと思いますよ? 普段から何もしないで食べるだけだって愚痴ってるくらいですし」
「あはは……僕もあまり何も出来てないんだけどね」
「戸塚先輩はちゃんと後片付けをしたり、買い出しをしたりと手伝ってるじゃないですか」
というか、戸塚先輩はいるだけで先輩が喜ぶので、呼ばないという選択肢は存在しない。むしろ戸塚先輩がいないと分かった途端、先輩が自分の部屋に帰ってしまうまである。
「いろはちゃん、ヒッキー帰ってきたよ」
「じゃあ、お出迎えしましょう」
覗き穴から先輩が帰って来るのを今か今かと待っていた結衣先輩から知らされ、私たち三人は隣の部屋に特攻を仕掛ける。
「せーんぱい? いるのは分かってるので出てきてください」
「ヒッキー! いるんでしょ、開けて」
「二人とも、ご近所迷惑になるよ?」
私と結衣先輩の特攻を見て、戸塚先輩が引き攣った笑みを浮かべる。確かに私と結衣先輩のセリフだけを聞けば、二股した最低野郎の部屋に突撃してきた彼女二人に聞こえなくもない。実際はそうではないのだが、噂と言うのは独り歩きすることが多々あるので気を付けなければ……
「何だうるさいな……何のようだ?」
「先輩確保! さぁ、私の部屋に連行します」
「彩ちゃん、手伝って!」
「八幡、ちょっと付き合ってね」
「あ、あぁ……って、くっつくな一色!」
「くっついてませんよ。ただこうしないと先輩が逃げると思って」
いくら二人掛かりとはいえ、男性の先輩を女の細腕で引っ張れるわけがないので、こうやって捕まえているのだ。断じて私が先輩にくっつきたいからではない。
「それで、何の用なんだ? 場合によっては付き合うが」
「それは私の部屋でお話しますので」
「お前の部屋って、隣じゃねぇかよ……だったらここでも良いだろ?」
「ほらほら八幡、とりあえず行こうよ」
戸塚先輩も手伝ってくれて、何とか先輩を私の部屋に連れ込むことに成功した。
「何なんだよ……」
「ヒッキー! お誕生日おめでとう!」
「おめでとうございます、先輩」
「八幡、おめでとう」
部屋に入るなり結衣先輩が先にお祝いしてしまったので、私と戸塚先輩もそれに続きお祝いの言葉を述べる。それで漸く自分の誕生日だということを思い出したのか、先輩は納得したように頷いた。
「そう言うことか……別にやらなくても良いと言ったんだが」
「まぁまぁヒッキー! 今年は特別な誕生日だしさ」
「特別? あぁ、成人ってことか」
「そうそう、だから三人でお祝いしようって話してたんだよ」
「先輩、祝ってくれる人いなさそうでしたし」
「余計なお世話だ」
「あはは、とりあえず八幡、座って」
戸塚先輩の誘導で先輩を座らせることに成功したので、私たちは恒例のお祝いの歌を先輩に送った。最初は呆れ顔だった先輩だったが、歌い終わったタイミングで私たちに頭を下げお礼を言ってくれた。
「ありがとな」
「これくらいは当然だって!」
「そうですよ。普段お世話になってるわけですし、お祝いくらいしてあげますよ」
「僕の誕生日を祝ってくれたのに、僕が八幡の誕生日をお祝いしないわけ無いって」
この後は普通にケーキを食べたり、買ってきた料理で盛り上がったりしたが、どうしても先輩が給仕側になってしまうのは避けられなかった。だって、結衣先輩が危なっかしくて見てられなかったから……
「ゴメンねヒッキー……」
「気にするな。こういうのは慣れてる人間がやった方が早い」
「せっかく先輩を休ませようと思ってましたのに」
「まぁ八幡だしね」
私や戸塚先輩がやっても大差はないので、結局は先輩に任せっきりになってしまったのを反省しつつ、私たちはそれぞれが用意したプレゼントを先輩に贈ることに。
「はいこれ。八幡、新しい圧力鍋が欲しいって言ってたから」
「いいのか? これ、結構値段するだろ?」
「普段から美味しいものを作ってくれてるし、僕の練習にも付き合ってくれてるからこれくらいは平気だよ。むしろ、まだ返しきれてないくらいだし」
「ありがとう、戸塚」
何だか二人だけの空気が出来上がってる気がして、結衣先輩が慌てて二人に割って入った。
「これは私から! ヒッキーの部屋、お客さん多いからマグカップとかあった方が良いでしょ?」
「客が多いって、俺から招いてるわけじゃないんだがな……まぁ、サンキュな」
「うん」
「じゃあこれは私からです。先輩、いろいろと忙しいですし、リラックス効果があるアロマグッズとかいろいろです」
「俺、そんなに疲れてるように見えるか?」
「高校時代よりかは健康的に見えますが、元々が不健康そうでしたからねー。少しはこれを使ってリラックスしてください」
「……そうだな。色々と精神的疲労が溜まってるから、本当に効果があるなら使わせてもらおう」
「最初から疑ってたら、効果あるものも無くなっちゃいますって」
疑り深い人なので仕方が無いのだが、そんな風に言われたらせっかく選んだのに失敗したって思っちゃうじゃないですか……
「ふぇ?」
「冗談だ。そんなに落ち込んだ顔するなよ。ありがとう」
私の顔色の変化を察知した先輩が、私の頭を優しくなでながらお礼を言う。何だか慰められた形になっていますが、先輩に頭を撫でてもらうのはなかなか気持ちがいい。
「……ハッ! もしかして落ち込んでる私を慰めることで口説いてるんですか! ゴメンなさい、慰めてもらって頭を撫でてもらって嬉しいですが、まだちょっと無理です」
「相変わらず訳が分からないことを言いだすな……」
「でも、ヒッキーって相変わらずいろはちゃんに甘いよね」
「そんなこと無いと思うんだが……」
「八幡はお兄ちゃんだから、年下女子の扱いに慣れているだけかもしれないね」
「まぁ、小町で慣れてるけど、そんなに年下女子の扱いに長けてるつもりは無いんだが」
「以前にも言いましたが先輩、私先輩の妹さんじゃないですからね?」
「分かってる」
妹だと思われてたら何だか望み無いので、もう一度はっきりと言っておいた。先輩は普通のタイプじゃないので『妹だと思ってたけど、もうお前のこと妹として見れなくなった』みたいな展開は望めませんし。
「先輩は私のこと妹扱いしてるみたいですけど、そういうことは小町ちゃんでしてください」
「そうは言ってもな……一色と小町を同じように扱ってるつもりは無いんだよな」
「……そうですよね。先輩シスコンですし、私以上に小町ちゃんに甘いんでしょうしね」
「それは否定できないかも……」
「いや、何でお前が答えるんだよ……」
結衣先輩にセリフを取られた形になったので、先輩はツッコミを入れて誤魔化していた。だがまぁ、先輩が私に甘いのは、私も自覚していたので結衣先輩が嫉妬する気持ちもわかる。なのでこれ以上そのことは掘り下げないようにしておこう。
次回はちゃんと二週間後にできれば……
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帰省
先輩の誕生日を祝うつもりだったのだが、何故か先輩が料理の配膳や片付けをしている姿を見て、私は何故こうなってしまったのかと頭を抱える。原因はほんの少しの好奇心なのだが、まさかこんな状況になるなんて……
「先輩は知ってたんですよね?」
「戸塚の酒の弱さはな。すぐに酔っぱらって側に居る人に絡んで、少ししたらつぶれる」
「まさか結衣先輩もだったなんて……」
好奇心とは、この三人がお酒を飲んだらどうなるのか、ということ。戸塚先輩は以前失敗してから飲まない様にしていたとは言っていたが、結衣先輩が戸塚先輩も巻き込んで飲酒をしたのだが、二人ともすぐに酔いつぶれて今は床で寝ている。一緒に飲んだ先輩は特に変わった様子も無く、何時も通りに作業を済ませ私にお茶を淹れてくれた。
「ここって私の部屋なんですけど」
「知ってる」
「先輩、どうして茶葉の場所が分かったんですか? もしかして私の生活空間が気になって隅々まで調べたんですか?」
「片付けしてた時に見付けただけだ。というか、あんな分かり易いところに置いてあったら由比ヶ浜でも気付くだろ」
「何気にひどいこと言ってません?」
先輩が淹れてくれたお茶を飲みながら、私は酔いつぶれた二人を覗き込む。結衣先輩は幸せそうな顔をしているが、戸塚先輩は何処か神秘的な寝顔をしていて、思わず吸い込まれそうな錯覚に陥った。
「結衣先輩は兎も角、戸塚先輩をこのままにしておくわけにはいきませんよね……いくら中性的だとはいえ男性ですし」
「戸塚なら俺の部屋で寝かせればいいだろ。由比ヶ浜はこのまま一色の部屋で寝かせておけばいい」
「ですが、私の部屋にタオルケットなんて一枚しかありませんよ?」
「夏なんだから何も掛けなくても大丈夫だろ。最悪上着でも掛けておけば風邪はひかないだろうし」
冷たいように見えて、しっかりと結衣先輩の体調を心配している先輩を見て、何だか複雑に思う。もし私が酔いつぶれても先輩は心配してくれたのだろうか、何てくだらない考えが頭に浮かんでは消えていく。
「こんなことなら私も飲めば良かったですかね?」
「お前未成年だろ。仮にも法学部の学生の前で未成年飲酒するとか、黙って見逃すと思ってるのか?」
「先輩って変なところで真面目ですよね~。法学部の学生だって悪いことしてる人だっているんじゃないですか?」
「そりゃいるかもしれないが、俺はお前にまで酒を勧めるつもりは無いからな。お前まで酔いつぶれたら敵わん」
「私は多分甘え上戸ですよ~。先輩にくっついて甘々な空気を作ってあげますよ」
「いらん。それじゃあ戸塚はこっちで引き受けるから、由比ヶ浜のことは任せたぞ」
小柄とはいえ男性の戸塚先輩を軽々と背負って隣の部屋に戻っていく先輩を見送って、私はクローゼットから薄手の上着を取り出して結衣先輩に掛ける。
「うーん……ヒッキーはゆきのんのこと……」
「っ!」
結衣先輩の漏らした言葉に、私は心臓が掴まれたような錯覚に陥り、少しの間呼吸困難になる。それだけ結衣先輩の口から出てきた名前は威力があるのだ。
「どうして……どうして先輩は、雪乃先輩の告白を断ったんですか?」
隣の部屋にいる先輩に聞こえるはずもないが、聞かずにはいられなくなってしまった思いを吐露し、私は逃げるようにベッドに潜り込んで思考を放棄する。こんな気持ちのままで寝られるはずもないと思ったが、何も考えたくないという気持ちが強かったのかすぐに眠りに落ちたのだった。
お盆に入り結衣先輩が千葉に帰るのと一緒に私も千葉に戻ることに。本当なら先輩に付き添ってもらった方が安心できるのだが、今年は先輩の妹の小町ちゃんが受験で、今追い込みの真っ最中らしく帰って来るなとご両親に言われているらしく、先輩はバイト三昧とのこと。一応帰る時に迎えに来てくれないかと打診したところ、時間があればという返事をもらっているので結衣先輩が何日滞在するかによっては帰りは先輩と一緒ということになる。
「彩ちゃんもサークルで忙しいみたいだし、私といろはちゃんの二人だね」
「以前は当たり前のように見てましたけど、東京と比べると千葉ってやっぱりちょっと落ち着きますよね。帰ってきたって感じがするというかなんというか」
「何となく分かる。去年まで普通に住んでたのにね~」
結衣先輩とお喋りしながら地元を歩いていると、結衣先輩に似た感じの女性が正面から手を振っている。
「お帰り~」
「ママ!」
「あれが結衣先輩のお母さん……」
以前先輩が「遺伝子スゲー」と思ったらしいお母さんを見て、確かにそんな感想を抱きたくなるような人だと私も思う。結衣先輩が今二十歳だから、若く見積もっても四十前後のはずなのに、結衣先輩と姉妹と言われても信じてしまいそうな見た目だ。
「貴女がいろはちゃん? 結衣から色々と聞いてるわよ」
「初めまして、一色いろはです。結衣先輩には色々とお世話になっています」
「こちらこそ、結衣と仲良くしてくれてありがとね~」
私との挨拶を済ませた結衣先輩のお母さんは、辺りを見回して少し残念そうな表情を浮かべた。
「ヒッキー君とは一緒じゃなかったのね」
「ママっ!」
「せっかく久しぶりにヒッキー君に会えると思ってたんだけどな」
「先輩とお知り合いだったんですね」
「以前家に来てくれたこともあるしね~」
「っ!?」
まさか先輩を紹介済みだったなんて……結衣先輩も奥手の癖にやることはやっているのか……
「何を心配しているのかは聞かないけど、お菓子作りのお手伝いをしただけよ?」
「そ、そうですか……」
「それに初対面の時はゆきのんちゃんも一緒だったしね」
「もう、余計なこと言わなくて良いから!」
「きゃー」
「………」
実に仲の良い母娘だなという感想しか出てこない遣り取りを見せられて、私はどうすればいいのだろうか。
「それじゃあ私はここで。結衣先輩、ゆっくりしてくださいね」
「いろはちゃんもね」
「パパが心配してるから早く帰りましょう。色々と聞かれると思うから覚悟してね」
「うぅ……それを聞いて帰りたくなくなったかも」
「あはは……どこの家も娘の心配をするんですね、父親って」
「そりゃそうよ。子供の心配をしない親なんていないわ」
「そう、だね……それじゃあいろはちゃん。帰りのタイミングが合えばまた」
「はい、失礼します」
結衣先輩と別れ、私は少しぶらぶらしてから実家の最寄り駅へ向かう。元々最寄りが違うので車内で別れても良かったのだが、久しぶりにこっちも満喫したかったので一緒に降りたのだ。さすがに東京程混んではいなかったが、実家までの数駅間、男性の視線が気になって仕方なかったのはまだあの時のショックが抜けきっていないからだろうな……
実家で二日ゆっくりして、そろそろ東京に戻ろうと思って結衣先輩に連絡したのだが、あちらはまだお父さんが解放してくれないみたいで数日はこっちにいるとのこと。私は結衣先輩と東京に戻るのを諦めて先輩に電話をすることに。
「――という感じなので、家まで迎えに来てくれませんか? 今ならお母さんとお父さんに挨拶できるオプション付きですけど」
『一人で帰ってこい』
「無理ですって! 千葉であれだけ怖かったんですから、東京なんて無理です!」
『今の東京は帰省ラッシュで人が少ないんだ。ひょっとしたら大丈夫かもしれないだろ?』
「それじゃあ先輩は、私が見ず知らずの男共に連れ去られても良いって言うんですか?」
『大袈裟な……そもそも俺はお前の実家の場所を知らないんだが』
「位置情報送りまーす」
最初から迎えに来てもらう気満々なので、私は先輩に実家の住所を送り逃げ道を塞ぐ。まだ何か言いたそうな感じだったが、先輩は諦めてこちらに来てくれると約束してくれた。
「それじゃあ、よろしくでーす」
『せっかくの休みが』
「こんな可愛い後輩とデートできるんですから、喜んで来るべきですよ」
『はいはい、可愛い可愛い』
「何ですかその返事ー!」
おざなりな返答だったが、先輩に可愛いと言われて頬が緩んだのは、絶対に先輩には教えてあげないんですから。
いろはママってどんな感じなんだろう
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母親の勘
先輩がお迎えに来てくれるので、私はそれまでのんびりと実家で過ごすことに。あの先輩は面倒だと言いながらもちゃんと来てくれる人だから安心して過ごせる。
「いろは、帰るんじゃなかったの?」
「お迎えが来てくれるからそれまでゆっくりする」
お母さんに不審がられたけども、事情を知っているので特に追及はされなかった。きっと一緒に千葉に帰ってきた結衣先輩が来ると思っているのだろうが、まぁ先輩とお母さんが会うことは無いから気にしなくても良いだろう。
「お迎えに来てくれるのは良いけど、荷物くらい纏めておいたら? それに、あんまりのんびりしてるとお父さんが帰ってきちゃうわよ?」
「仕事じゃなかったの?」
お父さんは朝早くから出かけているので、てっきり仕事に出かけたものだと思っていたが、よくよく考えれば今はお盆休み。仕事だとしたら相当なブラック企業に勤めているということになってしまうではないか。
「お父さんの方の実家のお墓参りに行っただけで、そろそろ帰って来るわよ」
「それは、ちょっと面倒だね……」
結衣先輩の家程ではないが、ウチのお父さんも相当な心配性だ。私が一人暮らしをする時も最後まで反対していたし、お盆に帰らないと言ったらかなり怒られたくらいだ。ここで先輩とお父さんが鉢合わせでもしたらかなり面倒な展開になるだろう。
「あっ、先輩からメッセージだ」
そんなことを考えていたタイミングで先輩から「最寄り駅に着いた」とのメッセージが。私は荷物を纏めて実家から駅へ向かう事にした。
「それじゃあお母さん、私はこれで」
「そんなに慌てるってことは女性の先輩じゃないわね。もしかして良い人?」
「そ、そんなんじゃないよ!」
「あらあら~」
お母さんには私の気持ちなど筒抜けの様で、楽しそうに笑いながら私の携帯を取り、先輩にメッセージを送ろうとし始める。
「何するの!?」
「せっかくだしご挨拶しておきたいじゃない? いろはがお世話になってるんだし」
「そんなことしてもしお父さんが帰ってきたらどうするの!? 先輩に迷惑かけちゃうでしょ!」
「そこまで必死になるってことは、高校の時みたいに『彼氏にしたら自慢できる』って理由じゃないわね」
「なっ……」
まさか私が葉山先輩を狙っていた理由まで知られていたとは……恐るべし、母親の勘。
「それじゃあ今度お父さんがいない時にでも紹介してね。せっかくいろはが本気で好きになった相手だし、お母さんもちゃんと挨拶しておきたいから」
「そう言うのじゃないって言ってるでしょ!」
お母さんは最後まで笑顔で「はいはい」というだけだったが、私はとりあえずお母さんに納得してもらってから駅へと向かった。途中男性とすれ違った時は少し怖かったけども、先輩が視界に飛び込んできてからは不思議と安心して歩けた。
「先輩、遅いです!」
「いや、お前から連絡貰ってすぐに家を出たんだが……というか、一人で駅まで来られるなら一人で帰れるんじゃないか?」
「それは、先輩が駅にいるって分かってたから来れただけで、一人だったら家から出ることすらできなかったかもしれません」
「それは大袈裟だろ……」
先輩は呆れてるのを隠そうともしない表情で私を見詰め、一つ息を吐いてから来た道を引き返す。私はその横に並んで歩き、千葉の景色をしっかりと眺めながら東京へ帰ることにしたのだった。
東京に戻ってきて暫くは、バイトで忙しい日々を送っていた。他のバイトがお盆休みでいない為、私がフルで出勤したりしていたので、お給料はだいぶ多くなっているだろう。
「ゴメンね、一色さん。お陰で助かったけど」
「気にしないでください。どうせ家でゴロゴロするしか予定も無いですし」
「彼氏とかはいないの?」
「いませんよ~。というか、私の場合は彼氏の前に男性恐怖症をどうにかしないといけませんので」
「そういえばそうだったわね。でも比企谷君のことは大丈夫なんでしょう? だったら彼に告白でもしてみたら?」
「どうしてそこで先輩の名前が出るんですか? あの人もあの人で人間不信ですから、告白してもドッキリとか疑いそうですけど」
「そうなの? でも比企谷君、お客さんに人気高いのよ? まぁ、男性スタッフが少ないから目立つってのもあるんだろうけども、偶にホールに出てくるとお客さんの視線が彼に集まるのは、一色さんも気付いてるわよね?」
「それは……」
それくらい言われなくても分かっている。というか、先輩の事をよく知りもせずに先輩のことをあれこれ言うお客にイラついたこともあるくらいだ。もちろん、表にはその感情を出すことなく、心の中で悪態を吐いたりしているので、クレームに直結することは無い。
確かに先輩は高校時代と比べてだいぶかっこよく見えるようになってきている。元々素材が良かったと言うのもあるのだろうが、あの時の死んだ魚のような目ではなくなったのも要因の一つだろう。いったい、何が原因で先輩の目に活力が宿ったのだろうか……
「三番上がったよ。五番も」
「さっ、仕事しましょうか」
「そうですね」
厨房からお声が掛かり、私たちは仕事に戻ることに。今はそれ程忙しい時間ではないのでこうしてお喋りに興じる時間もあるが、忙しい時は本当に忙しいのだ。こうした時間が取れるのは本当に稀である。
ゆっくりと過ごせる時間はあっという間に無くなり、残りの時間は忙しく働いていた所為か、時間の概念がすっかりと抜け落ちており、気付けば上がりの時間になっていた。
「それじゃあ、私はこれで。お疲れさまでした」
「はーい、お疲れ様。そろそろ比企谷君も上がりだから、一緒に帰れば?」
「そうですね。少しお腹も空きましたし、賄いでも食べながら先輩を待とうと思います」
「ほーんと、もったいないよね」
「……何がですか?」
急にそんなこと言われても何について言っているのか分かるはずも無く、私は首を傾げながら先輩バイトに尋ねる。
「こんなに可愛らしいのに彼氏がいないなんて、って思っただけよ。まぁ事情が事情だし、一色さんにも好みがあるから仕方ないって分かってるんだけどね」
「そういう先輩こそ、彼氏いないんですか?」
「あ、あはは~……これは手痛いカウンターを……」
あっさりと先輩バイトを撃退して、私は休憩室で賄いを食べながら今の会話を思い返す。
「彼氏なんて、いたこと無いなぁ……」
何回か一緒にお出かけ、くらいはあるけども、それだって彼氏彼女のデートというわけではない。むしろそのお出かけで採点してたくらいだし……
「(……あれ? 私と一緒に出掛けたのって、先輩が一番回数多いんじゃ……)」
二人きりという概念でもそうだが、皆で一緒にと言うのでも先輩が一番多いということに今更ながら気付く。ここ最近の事を差し引いたとしても、葉山先輩より先輩と出かけてる方が多い気がする……もちろん、部活の遠征とかを加えれば、葉山先輩の方が多いのだが。
「(また先輩と二人っきりで……)」
そこまで考えたところで、休憩室の扉が開かれた。私は反射的にそちらに視線を向け、入ってきた人を見て慌てて思考を放棄した。
「一色? お前帰ったんじゃ……」
「ちょっと疲れたので賄いを食べてたんですよ。それじゃあ先輩も終わったみたいですし、帰りましょうか」
「何、その言い方……」
「こんな可愛い子の送り迎えができるんですから、先輩は幸せ者ですよね~」
「部屋が隣ってだけだろ……というか、この時間なら人通りは大してないんだから一人でも帰れただろうが」
「万が一、ですよ先輩。それに、幾ら人通りが少なかろうと怖いものは怖いんです」
「やれやれ……さっさと俺以外に大丈夫な相手を見付けろよな。そうすれば俺もお役御免だし、一色だって俺と一緒にいなくて良くなるだろ?」
「それはそうなんですけど~……先輩以上に使い勝手のいい――安心できる人ってそうそういないじゃないですか~」
「いや、言い直さなくても良いけどね……」
何としても本音を先輩に見透かされないように誤魔化したが、我ながら酷い言い分だと思う。まぁ先輩が真に受ける性格じゃないって言うのは分かっているので、これくらいの毒舌でショックは受けないだろうと分かっていたからこそだが……
「それじゃあ着替えてきまーす。先輩、覗いちゃダメですよ?」
「覗くわけ無いだろ」
先輩をからかってから更衣室に入り、実は覗いてもらいたいと思っていた自分の気持ちを落ち着かせるのに少し時間が掛かってしまった。だが先輩はしっかりと待っていてくれたので、とりあえず安心して家に帰ることができる。本当に、この先輩は優しいんだから。
何かガハママみたいないろはママになったな……
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八幡の凄さ
夏休みも終わりに近づいた頃、バイト先でショックなことが起こった。先輩が後一ヶ月でこのバイト先を抜けると言うのだ。
「本当に辞めてしまうの?」
「オーナーが別の人を見付けるまでという約束でしたので」
「でも比企谷君以上に使える人かどうか分からないし……」
「俺だって最初からできたわけじゃないですし」
何とか先輩バイトが引き止めようとしているけど、先輩は残ろうとはしない。もともとオーナーから頼まれていただけなので、代わりが見つかったのなら仕方が無いのだけども、私としてはもう少し先輩と一緒に居たかったのだけど……
「まぁ、また人手不足になったら手伝いに来るくらいなら構いませんので。もちろん、時間があえばの話ですけど」
「そっか……」
そもそも先輩はここ以外でもバイトをしているので、時間に余裕があることなんてほとんどない。それなのにここを手伝っていたのだから、これ以上引き止めるのは無理だ。私も先輩バイトもそれは重々理解しているので、大人しく引き下がりフロアに出る。
「残念だね、一色さん」
「そうですね……先輩、凄く仕事が早くて良かったのに」
「えっ?」
「はい?」
私はてっきり店的に残念だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。先輩バイトは少しニヤニヤしていたので、私をからかおうとしていたのだ。
「一色さんとしては、憧れの先輩と一緒に働けなくなっちゃうし、帰り道とか心配になるんじゃない? 比企谷君、態々一色さんがシフトに入ってる日に出勤してるんだから」
「そう言われれば……」
他のバイトで忙しい先輩が高確率で私と同じシフトだということに今更ながらに気付き、そういうことだったのかと納得がいった。あの先輩はなんだかんだで優しい人だから、私が家路を怯えなくても済むようにしてくれていたのだろう。
「比企谷君も一色さんのことを意識してるんじゃない?」
「それは無いと思いますよ……先輩にとって私は、手のかかる妹みたいな感じなんだと思いますし……」
何度も「妹じゃないアピール」をしているのだが、その都度軽く流されてしまう。先輩も私のことを妹だとは思っていないと言っているのだが、どう見ても兄と妹の関係みたいなのだ。
「確かに比企谷君ってお兄ちゃんっぽいよね」
「実際お兄ちゃんだからじゃないですかね? 高校時代は重度のシスコンでしたし」
「えっ!? それはちょっと想像できないわね……」
「今は別々に暮らしていますし、妹さんが受験生で両親がピリピリしてるから帰省もしなかったですからね」
小町ちゃんが勉強に集中できるようにと帰省を拒まれた先輩だが、元々帰るつもりは無かったんじゃないかと、この前戸塚先輩からメッセージが着ていた。それだけ先輩も充実した毎日を過ごしているのだろうと思い、高校時代の先輩は何処に行ったのかとふとそんなことを思ったのだった。
「さっ、仕事しましょうか」
「そうは言っても、この時間は暇だしねぇ……」
「そうなんですよね……」
忙しい時間帯になるまで少し余裕があるので、私と先輩バイトはちらほらとやって来るお客さんの相手をしつつ、怒られない程度にサボるのだった。
先輩があのお店を辞め、大学も始まったのでそれ程先輩と会えなくなってしまったが、私もそれなりに忙しい日々を送っていたので寂しいという感覚は襲ってこなかった。そもそも先輩は私の隣の部屋で生活しているので、会えないというわけではないからだろう。
「結衣先輩、何だか周りが騒がしくないですか?」
「だね。今日は休日なのに人が多い気がするよ」
祝日だが私と結衣先輩は講義があったのでキャンパスに来ているが、だいたいの講義は休講になっているはずだから、これ程人が集まることは無いのに、私たちの周りには大勢人がいる。その中に居ても私が大丈夫なのは、圧倒的に女子が多いからだろう。
「あっ、結衣さん、いろは!」
「どうしたの?」
共通の知人が私たちを見付けて駆け寄ってくる。その様子はどことなく興奮しているようで、私と結衣先輩は揃って首を傾げながら尋ねる。
「テニスサークルの交流試合のことなんだけど」
「交流試合? それがどうしたの?」
「エリート大学のテニスサークルの人たちが来てるんだけど、その中に二人の知り合いがいるんだよ。それで騒がしくなってるんだよ」
「あぁ、戸塚先輩ですか」
確かにあの人が来ればこれだけ女子が集まっても不思議ではない。初見では男性だと思えないくらいの美貌の持ち主だしね……
「もう一人もいたよ? なんでも臨時メンバーだって」
「それって!」
結衣先輩が人込みをかき分けてその人物の確認に向かう。私と結衣先輩の知り合いで、この子が知っている人は結衣先輩の誕生日パーティーに参加したもう一人だけ。確認するまでも無くあの人だということは分かるというのに……
「あの人、本当に正式なテニスサークルの人じゃないの? ウチのサークル相手に完封してたんだけど」
「あの人は実力はあるんでしょうけど、やる気がないからね……加えて、今は時間も無いだろうから」
あのバイトを抜けたからと言って、先輩はまだいくつも掛け持ちしている。サークルに時間を割く余裕はないだろう。
「いろはちゃん。ヒッキーと彩ちゃん連れてきたよ」
「こんにちは、戸塚先輩。先輩も」
「うん、こんにちは」
「よう」
人々を魅了するであろう笑みを浮かべながら挨拶をしてくれる戸塚先輩と、仏頂面の先輩。相変わらずの二人だが、彼らと私たちの関係を知らない上級生たちが嫉妬の視線を向けてくる。
「ここじゃあれですし、何処か行きましょうよ」
「そだね。二人も良いかな?」
「僕は構わないよ? 八幡は?」
「ここより居心地がいいなら何処でも」
どうやら自分たちが見られていることも、私たちに嫉妬の視線が向けられていることにも気付いているようで、先輩は私の提案を受け入れてくれた。
「それじゃあ、近くのファミレスにでも行こうか。今月、もうお金ないし」
「結衣先輩……無駄遣いし過ぎじゃないですか?」
「そ、そんなんじゃないし!」
「あはは、それじゃあ行こうか。八幡も、今日はこの後予定ないんだよね?」
「まぁな。戸塚に頼まれて時間作ったから」
この人は相変わらず戸塚先輩の言うことは聞くんだな……私が頼んでも一日時間を作ってくれるなんてこと無いだろうし……
「それにしても、先輩がサークルの交流会に参加するなんて意外ですね~」
「本当は正規メンバーが来る予定だったんだけど、体調を崩してね。参加できるか微妙だったから八幡にヘルプを頼んだんだ。そうしたら他のメンバーが『彼の方が盛り上がる』って……正規メンバーも結局間に合わなかったし、八幡が参加することになったんだよ」
「そうだったんですね~。てか先輩、どうしてそんなに強いんですか? 聞いた話じゃ、完封勝ちしたらしいじゃないですか」
「相手が弱かったんじゃないのか? 俺は特別練習をしているわけじゃないしな」
全然嫌味っぽく聞こえないのだが、負けた相手が聞いたら嫌味以外の何でもないだろう発言を、この人はしれっとしてのける。本気でそう思っているのだから仕方ないのだろうが、もう少し周りの耳を気にした方が良いのではないか?
「というか、二人はどうして大学に? 今日は休日だよ?」
「やる気満々の教授が休講にしてくれなかったんですよ~。まぁ、他にもちらほら講義があった人もいるでしょうけども」
「まぁ、ウチの大学でも講義がある人いるしね」
会話しながら移動しているのだが、それでも私たちのことをジッと睨んでくる人はいる。さすがについてくる人はいないけども、暫くはこの視線が続くんだろうな……
「というかヒッキー! 最近連絡しても全然返事くれないじゃん!」
「他愛のない報告にどう返事しろと? 挨拶くらいしか返す言葉が見つからないんだが?」
「えっー! せっかくだしお喋りしようよー」
「そこまで暇じゃないんだよ、俺は」
「八幡、ますます忙しそうだもんね」
「何か始めたんですか?」
「教授に認められて、早めにゼミに参加できるようになったんだよ」
「何で戸塚が話すんだ? まぁ、良いけど」
「へー、さすがヒッキー」
恐らく凄さが分かっていないであろ結衣先輩に、私と先輩は呆れた視線を、戸塚先輩は引きつった笑みを向けたのだった。
真の実力者には勝てないですよね
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告白の内訳
居心地の悪い雰囲気が漂っていた構内からファミレスに移動した私たちは、とりあえず注文を済ませてお喋るに興じることに。
「彩ちゃんもヒッキーも人気高いんだね~。今日改めて感じたよ」
「戸塚は兎も角、何で俺も?」
「八幡は自己評価低めだよね。ウチのサークル内でも八幡のことを気にしてる人って結構いるんだよ?」
「そんなこと言われてもな……」
先輩はあまり恋愛に興味がないのか、人気があると言われても嬉しそうではない。まぁ、この人の場合は雪乃先輩や結衣先輩から好意を寄せられていたという実績があるから、そこらへんのモブじゃ満足できないのかもしれないけど。
「(じゃあ、私だったら?)」
ふと、そんな疑問が頭を過る。私はこれでも可愛い部類に入る容姿をしていると自覚している。性格はまぁ、ご愛嬌ということで許してもらえる範囲だろうし、胸だって――
「? いろはちゃん、どうかしたの?」
「いえ、何でもないですよ」
――結衣先輩と比べる必要は無いのだろうけども、どうしてもその部分に視線が行ってしまう。まぁ、先輩はそこまで気にしてる感じでもないから、私も気にしなくて良いのかもしれないが……
「俺より戸塚の方が人気だろ? 今日だって何人に言い寄られてたんだ?」
「あ、あはは……見られてたんだ」
「あの面子で俺が話せるのは戸塚だけだからな。絡まれた時に戸塚の場所を把握しておかないとと思って探してたんだが、まさか数人に告白されてるとは思っていなかった」
「彩ちゃん、何人に告白されてたの?」
「私も気になります」
考えを切り替える為に、私は無理矢理話題に乗ることに。戸塚先輩が告白されていようが興味は無いですが、複数人に告白されたという部分は少し気になったのだ。
「えっと……四人、かな……」
「どうして歯切れが悪いんですか? 戸塚先輩なら、何人に告白されたかちゃんと覚えてそうですし」
「一色、聞いてやるな……」
「先輩は戸塚先輩のキレが悪い理由、知ってるんですか?」
私の肩を掴んで左右に首を振る先輩に事情を尋ねようとすると、戸塚先輩が言い難そうに視線を逸らし、意を決したのか説明してくれた。
「告白自体は六人からされたんだけど、二人は男の人だったから……告白された回数に入れていいのか分からなくて……」
「あっ……」
戸塚先輩の容姿なら「そう言った趣味の男性」からのアプローチがあっても不思議ではない。もしかしたら戸塚先輩で目覚めたのかもしれないが、その辺を深く掘り下げる勇気は私には無い。
「彩ちゃん可愛いもんね~。女の子と間違われたのかもしれないし」
「い、一応男物のジャージを着てるんだけどな……」
「というか、更衣室で告白されてたんだから、女子と間違えてというわけじゃなさそうだよな……」
「あ、あはは……材木座君のサークルの女子たちの趣味の世界が、現実で起こるとは思ってなかったよ」
材木座先輩の所属しているサークルというのは、所謂オタク趣味が集まっているものらしい。その中には海老名先輩のような趣味の女子も大勢いるとのことで、私は戸塚先輩が言った「趣味の世界」というのがどういうものかを理解し、顔を引きつらせることしかできなかった。
「えっと……先輩って戸塚先輩から頼まれると素直ですよね?」
気まずい空気が流れたので、私は話題を変えようと先輩に話を振ったのだが、内容が思い付かなかったのでこのような質問をしたに過ぎない。だが聞きようによっては先輩が戸塚先輩のことを狙っているように聞こえると、言ってから気付いた。
「べ、別に変な意味で聞いてるんじゃなくて、私や結衣先輩が誘っても断ることがあるから、どうしてなのかなって気になっただけです」
「誘われてないから断っても無いだろ」
「そんなことないよ! ヒッキー、この前遊びに行こうって誘い断ったじゃん」
「予定があったから仕方ないだろ。というか由比ヶ浜、お前だってバイトするとか言ってなかったか?」
「なかなか良いバイトが無くて……」
「えり好みしてるから金欠なんじゃないのか?」
「うっ……」
先輩に論破された結衣先輩はその場で沈没し、暫く浮上してこない感じになってしまう。
「そうそう、バイトと言えば先輩」
「何だ?」
「戻ってきてくれませんか? 先輩が抜けた穴が大きくて、オーナーも困ってるんですけど」
「まだ一ヶ月だろ? 入って早々の人間に何を期待してるんだ」
「そりゃ、先輩が即戦力過ぎたのがいけないんですよ? その後釜なんですから、期待されて当然です」
「そんなこと言われてもな……」
先輩としたら、普通に仕事をしていただけなのだろう。だが周りから見れば、先輩は仕事ができる人という印象を与えるには十分すぎる成果を残していた。その後に入ってきた人が、可哀想なくらいの実力と結果を見せつけていたのだ。
「本当に困ったのならその内連絡は来るかもしれないが、今すぐ戻るのは無理だからと伝えておいてくれ」
「残念です……先輩がいてくれたら楽が――回転が速くて助かるのに」
「いや、本音隠せてねぇからな」
「あはは、八幡と一色さんは仲が良いよね」
「そうですか~? まぁ、こんなひねくれた先輩と仲良くしてる後輩女子は私だけでしたからね~」
「お前が一方的に絡んできただけだろ……」
本当に嫌そうな顔をした先輩だが、この人が本気で嫌がっているのならそもそも話してもくれないだろう。つまり、先輩も心の何処かで私のことを受け容れてくれているんだろうと、私は良い方向に解釈しておいたのだった。
先輩たちとお喋りしてから数日後、私たちの大学内では何故か、私と結衣先輩があの二人と付き合っているという噂が流れていた。まぁ、元々の知り合いということを知っている人たちの間では鼻で笑われるような内容だったのだが、交流の無い相手は嫉妬して私たちを睨みつけてくるということが多々ある。
「困りましたね」
「ねー……別にヒッキーや彩ちゃんとお付き合いしてるわけじゃないのに」
「直接聞いてくれれば否定できるんですが、何も聞かれてないのに否定してたら、逆に怪しまれますしね」
「あの二人の人気の高さを誤解してたよ……まさかここまでとは」
結衣先輩も私と同じ考えの様で、私たちはあの二人がどれだけ注目されていたのか、正確に把握できていなかったのだろう。
「あっ、いろはと結衣さん」
「今構内で話題の二人の登場だね」
「からかわないでよ」
「ほんと、迷惑してるんだから」
友人たちと合流しても、この様にからかわれてしまう。有名税と言えば聞こえはいいのかもしれないが、要はただの嫉妬から来る嫌がらせなのだから。
「まぁ、あの二人とお近づきにすらなれなかった人の内の誰かが流した、根も葉もない噂なんだし、その内消えると思うよ」
「そうだとしても、行く先々でひそひそと囁かれるのって、結構精神的に来るんだよ?」
「おまけに、結衣先輩は浪人生だってバレちゃいましたしね」
「別に隠してなかったけど、ハッキリと言われるのはちょっとね……」
交流の無い同級生たちから結衣先輩はひそひそと「浪人生だ」と囁かれている。結衣先輩以外にも浪人生はいるのだろうが、結衣先輩は注目の的ということでそんなことになっているのだろう。
「いっそのこと本当に付き合っちゃえばいいんじゃない? あの二人だって、いろはや結衣さんから告白されれば嫌な顔はしないと思うんですけど」
「いやー、それもどうだろうね」
「あの二人ですしね……」
戸塚先輩にはやんわりと断られそうだし、先輩には露骨に嫌な顔をされるであろう未来しか見えないのは、どうやら私だけではない様で、結衣先輩も引きつった笑みを浮かべている。
「手強そうな人たちだとは思うけど、そこまで二人が悲観的になる必要は無いんじゃない?」
「そうそう、ダメだったらダメだったで、噂の鎮火につながるだろうし」
「振られるダメージを負うくらいなら、噂が自然消滅するまで大人しくしてるって」
なんとも思っていない相手なら兎も角、先輩に振られるのは私も結衣先輩もダメージが大きすぎて、再起不能になる可能性がある。なので私たちは、噂が収まるまで大人しくしておこうと頷きあったのだった。
嫉妬は醜いですよね
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積極的に甘える
前の噂が漸く収まってきたと思っていたらまた新しい噂が流れて、私と結衣先輩はげんなりしていた。先輩と戸塚先輩が注目されるのは仕方ないにしても、旧知の間柄でしかない私たちに嫉妬するのは間違っているのだろうが、お近づきの機会に恵まれない人たちが嫉妬しているのだろう。そう考えると多少は気が楽になるのだが、どうしても嫉妬の視線の中で生活していると精神的に参ってきてしまうのである。
「――という感じなんですけど、どうしたらいいと思いますか?」
「……その前に、何でお前は当たり前のように俺の部屋にいるんだ?」
「だって、先輩が原因の一端なんですよ?」
先輩の部屋に上がり込んで愚痴をこぼしていた私に、先輩は呆れながらもお茶を出してくれる。多分無意識なのだろうが、この人は本当にあざとい人だと思える行動に、私は呆れ気味の視線を向ける。
「先輩が戸塚先輩と一緒に行動しているだけで注目されるんですよ。それをちゃんと理解してなかった先輩が悪いんです」
「物凄い責任転嫁だな……そもそもお前たちが声を掛けてこなかったら良かっただけだろ? まぁ、声を掛けてきたのは由比ヶ浜だが」
「このままじゃ私、ストレスで体調を崩しそうですよ……ただでさえ忙しくてまともに食事を摂れてないって言うのに……」
そこで私は先輩をチラッと見る。自分でもあざといなーっと思っていたので、先輩が盛大にため息を吐いた理由もちゃんとわかっている。
「ホントあざといな、お前は……」
「なんですとー! というか、先輩の方があざといって何度も言ってますよね?」
「はいはい」
軽くあしらわれたような気もするが、先輩が立ち上がってくれたのでこれは私の勝ちだろう。このまま先輩に作ってもらったご飯を食べて、ゆっくりと過ごせると思っていたのだが、どうやら思惑が外れたようだ。
「さっさと帰れ」
「え? この流れは、先輩が晩御飯を作ってくれるって展開じゃないんですか?」
「あのな……この後バイトだって部屋に入ってくる前に行ったよな? それなのに一時間近くも喋り倒しやがって」
「そんなに時間経ってました?」
先輩に言われて時計を見ると、確かに一時間近く経っていた。どうやら相当鬱憤が溜まっていたようで、吐き出せるだけ吐き出していたらしい。
「それじゃあ、先輩の部屋でお留守番しておいてあげますよ」
「帰れ。お前に部屋にいられたんじゃ、安心して勉強を教えられないだろ」
「別に何も盗りませんよー。まぁ、食材は探るかもしれませんけど」
「……帰ってきたら何か作ってやるから、大人しく部屋に帰れ」
「約束ですよ! 先輩から言ったんですから、後で無かったことにするのは駄目ですからね!」
半ば強引に言わせたんだが、先輩から言い出したことだとしっかりと確認して、私は大人しく自分の部屋に戻る。私の背後で先輩がもう一回ため息を吐いていたような気がするが、あの先輩は意外と押しに弱いと知っている私の勝ちです。
先輩が帰って来るまでの間、部屋でレポートでも作成していようと思っていたのだが、どうやら寝てしまっていたらしい。鬱憤だけでなく、疲れも溜まっていた所為だろう。
「今、何時……?」
手元にあった携帯を手繰り寄せて時間を確認すると、先輩が出かけてから二時間近く経過していた。仮眠にしては寝すぎだと思いつつ、私はうがいをしてから水を飲む。
「そろそろ先輩も帰ってくる頃だし、ちゃんと可愛らしくしておかないと」
別に寝起きが酷いわけではないが、何時もより機嫌が悪かったりするので、しっかりと目を覚まそうと軽く頬を叩き、滞ってしまったレポート作成の為にPCの前に座り直す。
「結衣先輩じゃないけど、私もレポート作成遅れてるし……」
何時もなら大学で済ませてしまうのだが、今の状況でレポート作成を黙々とできる程精神的に強くない。なので仕方なく家で作ろうと思っているのだが、家だとどうしても怠けてしまうのだ。
「監視されてるようで嫌だから大学でしてないのに、家でするなら監視が欲しいなんて、ちょっとおかしな話だよね……」
キーボード入力をしながら苦笑いを浮かべる私。最近独り言も増えてきたような気もするが、別に友達がいない寂しいヤツではない。ないのだが――
「私の愚痴に付き合わせるのもなぁ……」
――現状を知っている友人たちは、同情しつつも遠巻きに私を見てくるだけ。私も無理に巻き込みたくないので、挨拶程度しか交わしていないのが今の友人関係だ。酷いとは思わないけども、少し薄情だなとは思っている。
「先輩なら、誰かに見られても気にしないんだろうけども……」
高校時代あれだけ周りに敵を作っても気にしないで作業出来ていたメンタルの持ち主だ。嫉妬されようと好機の目に曝されようと気にせず作業出来るのだろう。
「やっぱり鬱憤が溜まってるのかな……」
無意識で作業していた所為か、レポートの内容は途中から愚痴に変わっていて、私はため息を吐きながら文字を削除していく。これもそれもすべて、先輩が悪いんだと思いながら。
「ん? メッセージだ」
携帯が鳴り、私はメッセージの送り主を見て顔を綻ばす。その内容は素っ気ないものだったが、ちゃんと私のことを考えていると分かるものだったから。
『何が食べたいんだ』
この一文しかないが、先輩が私のことを考えてくれていると分かる。それだけでさっきまで責めていた先輩に心躍らされてしまう。
「先輩が作ってくれるものなら何でもいいですよ、っと」
ハートでも付けてやろうかと思ったが、あの先輩にそんなことしても意味は無いと思い止めた。内容だけ見れば同棲しているようにも見えるが、残念ながらその様な事実は存在しないのだ。私はもう一度先輩からのメッセージを眺め、気合いを入れ直してレポート作成に取り組んだのだった。
先輩が帰って来るまでに仕上げたかったのだが、どうにもこうにも進みが遅かった所為で終わらず、私は先輩に泣きついた。
「このままじゃヤバいんです~」
「そういう時はだいたいまだ余裕がある時だろ? 自分で何とかするんだな」
「じゃあ、脱線しないように先輩が見ててください」
「何で俺が……」
先輩の家でご飯を食べながら、私は先輩に監視をお願いする。他の人に見られていると嫌な気分になるのだが、この人なら無遠慮に見てくることはしないので安心できる。そう思ってお願いしているのだが、私は私自身の考えに疑いを持った。
「(本当にそれだけの理由で? 別の理由は無いの?)」
自問しながら私は他の理由など無い、と即答できない。確かにレポート作成が遅れてマズい状態であるのには変わらないし、先輩なら安心して部屋にいれることができるという理由はある。だが、それ以外の理由があるのではないかと、自分で分かっているからだろう。
「(少しでも先輩と一緒にいたいという気持ちが、レポートの進みを遅くしているんじゃないか)」
それ程大変なレポートではないので、やる気さえあれば終わらせることができるだろう。だが単位が懸かっていると分かっていながら進まないのは、疚しい気持ちがあるからなのかもしれない。
「まぁ、見てるだけなら構わないが」
「あっでも、私の下着を漁ったりしないでくださいよ?」
「やっぱり断る」
「冗談じゃないですかー、本気にしないでくださいよ。あっそれとも、先輩は私の下着に興味があるんですか?」
「無い」
「即答はさすがに酷くないですか?」
少しは焦ってくれれば可愛げがあるのに、この人は無表情で言い切りやがった……しかも、みそ汁を飲みながら。
「監視のお礼にデートしてあげますから」
「はいはい、別にお礼なんて要らないから、さっさとレポートを終わらせることだけ考えろ」
「たまにはお出かけしましょうよ~」
甘えるように腕にしがみつくと、先輩は一瞬顔を顰めたがすぐに表情を改めた。
「お前の買い物に付き合わされるだけだろ」
「あっ、バレました?」
「はぁ……片づけはお前がやれ」
食べ終えた食器を押し付けられたが、作ってくれたお礼はそれで十分だということだって解釈し、私は片づけを終わらせて私の部屋に先輩を連れ込んだのだった。
連れ込んですることはレポート作成……
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真相
先輩に用意してもらったご飯を食べながら、私はふと付き合いたてのカップルみたいな雰囲気だなと思っていた。
「――まぁ、男女逆なような気もしますが」
「は?」
「いやいや、こっちの話です」
思わず声にしてたみたいで、先輩が不審がっている目を向けてくる。まぁ私だって一緒にいる相手がいきなり訳の分からないことを言いだしたら不審がるだろう。
「というか一色、お前少しは自分で家事とかした方が良いんじゃないのか?」
「してますよ。ただ先輩のご飯が食べたかっただけです」
「俺はお前の母親じゃないんだが?」
「分かってますよーだ。……はっ! もしかして私の作った料理が食べたいとか? それってもしかして遠回しのプロポーズですか?」
「何でそうなるんだよ」
心底呆れたような顔をされたが、私も殆ど冗談のつもりだったので笑って流す。もし先輩にその気があるのならお付き合いしても良いかなーとは思ってたけど、このタイミングでプロポーズされても返事に困っていただろう。
「お前か由比ヶ浜が俺か戸塚と付き合ってるという噂で悩んでるとか言ってた割には、堂々と人の部屋に来るよなお前」
「だって私の部屋も先輩の部屋も、噂を流してる人は知りませんし。こんなメンタルの時に自分一人の為に家事なんてできませんって」
「いや、一人暮らしだろうが……自分のことは自分でしろ」
「そう言って面倒を見てくれる先輩が好きでーす」
「はいはい……」
割と本心だったのだが、先輩には何時もの冗談だと思われてしまったようだ。まぁあれだけ振りまくっていたんだから、今更「好き」という言葉に特別な意味があるとは思わないか……
「(つまり、私の自業自得か)」
今の状況は別に悪いものではないと思う。だがこれ以上を望む場合、昔の私がしてきた行動が邪魔になる。そうなった場合、圧倒的に結衣先輩の方が有利だろう。
「先輩、お茶が飲みたいです」
「部屋に戻って自分で淹れればいいだろ」
「先輩が淹れてくれたお茶が飲みたいんです!」
「誰が淹れたって大して変わらないだろ、インスタントなんだし」
文句を言いながらもティーパックでお茶を淹れてくれる先輩を眺めながら、やっぱりこの人は基本的には良い人なんだろうなと思ってしまう。
高校時代には他人に嫌われるように行動していたから気付けなかった人も多かっただろうけども、大学ではそんなことはしていないということなので、私や結衣先輩以外にもこの先輩を狙っている人は多いだろう。もしかしたら、戸塚先輩以上かもしれない。
「先輩は彼女とか作らないんですか?」
「いきなりだな……そんなリア充なもの、この俺が作れるわけ無いだろ」
「でも、雪乃先輩の告白は断ったんですよね?」
「………」
「どうしてですか?」
知っていても踏み込まなかった領域に足を踏み入れた。これで先輩との関係が終わってしまうかもしれないと思って聞けなかったが、聞かないと先に進めない気がしたからだ。まぁ、これが原因で先どころではなくなってしまうかもしれないが。
「雪ノ下の気持ちは嬉しかった。だがアイツの感情は恋愛じゃない。共依存の延長でしかないと気付いたからだ」
「きょーいぞん?」
「共依存。互いに相手がいることが当たり前だと思ってるから、離れると不安になる。だったら付き合ってしまおうって感じだ。最初はそれでもいいかと思ったが、アイツの成長の妨げになると考えて、告白は断った。これから先アイツが目指す場所にたどり着くには、俺という存在が邪魔になる可能性の方が高い。そうなった時、アイツは目標か俺かの選択肢を突き付けられるだろう。恋愛ではなく共依存でしかないのだから、アイツは目標を捨てて俺を選ぶ可能性もある。そうなったらアイツの努力が水の泡だ。俺がいた所為でって周りに言われる。つまり、それが嫌で逃げただけだよ、俺は」
「じゃあもし雪乃先輩の気持ちが本当に恋だったら、先輩は付き合ってたんですか?」
「どうだろうな……雪ノ下のことは――いや、由比ヶ浜もか。アイツらのことを恋愛対象として見たことは無かったかもな」
何処か遠い目をする先輩を眺めて、私は少し後悔し始める。気軽に聞いていい内容じゃなかったと言うのもあるんだけども、それだけ先輩が雪乃先輩のことを考えていたということを知らされ、小さくないショックを受けたからだ。
「そういうわけで、この気持ちに整理が付けられるまで彼女とかそう言うのは無理だな。色々と小難しい理由を付けたが、要するに恋愛に憶病になってるだけのヘタレなんだよ、俺は」
「でも、先輩は雪乃先輩の夢を応援する為に断ったんですよね? 自分がその夢の妨げになってはいけないって思って」
「その時にそんな殊勝なことを考えていたかは分からないが、今あえて理由を考えるとすればそうなんだろうな」
「十分立派ですよ。あっでも、そのことを結衣先輩には?」
「話してない。話す必要も無かったからな。当時は小町にも散々罵られたっけ。『あんなチャンスを自ら捨てるなんて、ゴミいちゃんは本当にダメだ』って」
表情は笑ってるんだけども、目が笑っていない……何だか昔の先輩に戻ったような表情に私は顔を引きつらせたのだった。
「別に由比ヶ浜に話すのなら話しても良いぞ。隠し続ける必要もないだろうし」
「結衣先輩は知る権利があるでしょうしね……二人の所為で、奉仕部は空中分解したんですから」
私が顔を引きつらせた原因を、結衣先輩に話していいのかどうかで悩んでると勘違いした先輩だったが、許可をもらったのでその内結衣先輩に教えてあげようかなと思ったのだった。
先輩から過去の事実を聞いて数日後、私は結衣先輩と二人で大学の側にあるカフェに来ていた。
「それでいろはちゃん。話って?」
「先輩からは話しても良いって言われたんですけど、簡単に話せる内容じゃなかったのでとりあえず他人の耳がない場所に連れ出しました。それはゴメンなさい」
「うん……って、先輩ってヒッキーだよね? そんなに深刻な話なの?」
「簡単に人に話して良い話ではないのは事実ですが、結衣先輩はある意味当事者だと思うので。本当は先輩の口から聞いた方が良いんでしょうけども、あの人が話すとも思いませんし」
「というか、いろはちゃんはそんな話を何時聞いたの?」
「数日前です。大学で浴びせられる視線に辟易して先輩に愚痴ってた日に」
「そんな日があったのなんて知らないんだけど!?」
「まぁそれはさておき」
結衣先輩が何か言いたげな視線を向けてくるが、とりあえず今はそんなことはどうでもいい。私がこの数日、どれだけ悩んだかを考えれば結衣先輩の疑問なんて些末事だ。
「先輩が、雪乃先輩の告白を断った理由……知りたくないですか?」
「っ!」
私のセリフに結衣先輩が息を呑む。まさか私がその理由を知っているなんて思っていなかったから驚いたのか、それともその理由が知れるなんて思っていなかったから驚いたのかは分からないが、とりあえず結衣先輩は小さくない衝撃を受けている。
「……ヒッキーが教えてくれたの? 自分から?」
「いえ、私が踏み込みました。教えてくれないかもとは思いましたが、素直に話してくれました」
「そう……教えて?」
「聞いて、後悔しませんか? あの人は、雪乃先輩が嫌いだから断ったわけじゃないんですよ?」
「聞かせて! そもそも、ヒッキーがゆきのんのことが嫌いで振ったなんて思ってないし」
あの二人を一番近くで見てきた結衣先輩だ。先輩が雪乃先輩に少なからず好意を向けていることには気付いていたのだろう。だからこそ、告白を断ったと知った時に驚いただろう。
「――という理由らしいです」
「そうだったんだ……ヒッキー、ちゃんとゆきのんの夢を応援してたんだ」
「その夢の為に断ったんですから、応援しないわけ無いですよね」
「そっか……つまり、ゆきのん以上に本気にならなきゃ、ヒッキーに振り向いてもらえないってことなんだね」
「あっ、嘘かもしれませんが、お二人のことは恋愛対象として見てなかったって言ってましたよ」
「ゆきのんは兎も角として、私のはガチっぽくないっ!?」
結衣先輩以上に、私のことをそういう目で見ていないのは明らかだ。今のままでは手のかかる妹扱いのままだし、もう少し先輩の中に踏み込んでいかなければと意気込むのは良いのだが、何をどうすればあの人の興味を引けるのか、それが分からないのだった。
何か重い感じになってないか……?
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思い悩む
結衣先輩に先輩の真実を話した翌日、大学構内で折本さんと遭遇した。折本さんは例の噂が嘘だということを知っているので、それを周りに広めてくれているところなのであまり会わない様にしていたんだけども、向こうから近づいてくるから逃げるわけにもいかない。
「一色ちゃん、ちょっといいかな」
「はい、何ですか?」
折本さんは結衣先輩と違って大学でも先輩になるのでしっかりと従わないと私の評価が悪くなる。ただでさえありもしない噂の所為で見ず知らずの先輩たちから注目されているというのに、ここに先輩をないがしろにする一年というレッテルまで貼られたらたまったものじゃない。
「さっき結衣ちゃんにあったんだけど、何だか深刻そうな顔をしてたからさー。一色ちゃんなら何か知ってるんじゃないかって思って」
「結衣先輩が、ですか? すみませんけど、思い当たる節はありませんね」
「そっか。ゴメンね、急いでたところに」
「それ程急いでなかったので大丈夫ですよ。それじゃあ、失礼します」
折本さんの前では顔に出さなかったが、結衣先輩が悩んでいる理由なんてあれしかないだろう。タイミング的にも、先輩と雪乃先輩のことだ。
結衣先輩にとって――私にとってもそうかもしれないが――雪乃先輩が日本にいないことが救いになっている。もし雪乃先輩が日本にいて、万が一にもバッタリなんてことになったら気まずいことこの上ないだろう。それでなくても、先輩が雪乃先輩の告白を断っていこう気まずい雰囲気だったのだから……
「どうしてこんなことで頭を悩ませなきゃいけないんだろうな……」
「何が?」
「えっ? な、何でもないよ」
いつの間にか隣に立っていた友人に問われ、私は慌てて否定する。誰かに聞かせるつもりの無かった独白を聞かれたのだから、これくらい動揺しても普通だろう。
「また何か悩み事を抱え込んだのかなーって思ったんだけどね」
「何それ。私ってそんなに悩んでる風に見られてるの?」
「いろは自身は悩んで無さそうだけども、根も葉もない噂が結構広まってるじゃない? だからそのことを気にしてるのかなって」
「気にしてないわけじゃないけど、あれはだいぶ落ち着いてきてくれたし」
「でもまぁ、いろはと結衣さんに嫉妬する気持ちは分からなくもないけどね」
「なによ、それ」
友人の話では、私と結衣先輩が先輩と戸塚先輩と無条件でお近づきになれていることが羨ましいとのこと。そんなこと言われても、私は高校の後輩だし、結衣先輩に至ってはクラスメイトだったのだ。無条件というより既に知り合いだというだけの話なのだが、それで納得してくれない人も大勢いるということなのだろう。
「というか、本当に付き合って無いの?」
「だから違うって。そもそも先輩も戸塚先輩も、そういうことに興味薄そうだし」
「あー、それは何となく分かるかも」
そもそもあの二人が「そういう関係」なんじゃないかと疑われるくらいだし……戸塚先輩の見た目も相まってのことなんだろうけども、二人ともそっちの趣味は無いとハッキリ言い切れない態度だし……もちろん、そんなこと無いって分かってるんだけども、どうしても不安になってしまう空気があの二人の間にはあるのだ。
「結衣さんも悩んでる感じだったから、いろはも同じ悩みなのかなーって思ったんだけどね。違ったようだし、私は行くね」
「それだけの用事だったの?」
「偶々見かけたってのもあるけど、友達が悩んでる風だったら声を掛けるのが普通じゃない?」
「……そうかもね」
弱々しい笑みを浮かべながら友達を見送って、私は自分の講義の為に移動する。だがこんな悩みを抱えたまま講義を受けても意味は無さそうなんだよな……
結局一日中講義を上の空で聞いていた所為で、気付いたらすべての講義を消化していた。どうやら結衣先輩も似たような状況らしく、私たちは食堂で互いの顔を見てため息を吐きながら笑みを浮かべていた。
「いろはちゃんも?」
「えぇ……何の成果もない一日でした」
互いに虚無感を覚えながら席に座り、今後どうすればいいのかを話し合うことになった。
「結衣先輩はどうするんですか?」
「どうするって?」
「だから、先輩に対してどう動くか、ですよ」
「ヒッキーのことは昔から好きだけど、ヒッキーは私のことを恋愛対象として見てないんでしょ?」
「そう言ってました。それが本音かどうかは分かりませんけど」
あの人のことだから嘘という可能性も大いにある。なにせ結衣先輩の胸が当たるたびに顔を赤面させていたわけだし、少なくとも異性だということは認識していたはずだ。私が詰め寄っても赤くなっていたんだし、異性に興味がないというわけでもないだろう。
「ゆきのんの気持ちを考えたら、私がヒッキーに告白するなんて面白くないって思っちゃうんだよね」
「どうしてですか? 雪乃先輩は先輩に振られたわけですし、その後に結衣先輩が告白しても問題ないじゃないですか。むしろ、どうして遠慮してたんですか? 結衣先輩なら、雪乃先輩の後に告白するチャンスなんて幾らでもあったじゃないですか」
空中分解していたとはいえ、奉仕部は残っていた。することは無いがあの教室に集まることは止めていなかったし、小町ちゃんが中心となって何かしようとしていた。だから先輩も雪乃先輩も、ついでに結衣先輩もあの教室にいたのだから、隙を見つけて先輩に告白することだってできたはずだ。ましてやあの時には、先輩に気持ちを知らなかったんだし。
「だって、私はヒッキーがゆきのんのことが好きだって思ってたから。告白を断ったって聞いた時は驚いたし、もしかしたら私にもチャンスがって思ったこともあるよ」
「じゃあ何で?」
「だって、ズルいじゃん」
いったい何が狡いと言うのだろうか。狡さで言うのなら、結衣先輩の気持ちを知っているに違いないのに先輩に告白した雪乃先輩の方だと思うのだが。まぁ、同じ人を好きになったんだし、どちらが狡いというわけではないのだろうが……
「ゆきのんが振られたって分かってるのに私がヒッキーとお付き合いしちゃったらさ。ただでさえ気まずい空気だった奉仕部の中にさらに居づらい空気が流れちゃうし。ゆきのんが振られたから私の番だって感じでもなかったし」
「まぁ、結衣先輩が告白してもいい結果だったとは思えませんけどね」
「だよね……私も何回か告白しようとは思ったんだけど、成功する未来は見えなかった」
「三年になってから、先輩は常に忙しそうにしていましたからね。お陰で生徒会の仕事を手伝ってもらおうとしてもなかなか捕まえられませんでしたし」
実際に忙しかったのかフリだったのかは分からないけども、先輩は常に忙しない感じだったので、手伝いを頼むのも憚られる感じだったのだ。でもまぁ、手伝ってもらったんだけども。
「ヒッキーはやる気を出さなかっただけで実力があったからね……」
「あの人が本気になれば葉山先輩すら凌駕する力があったでしょうし」
「意外に人気あったしね」
先輩は捻くれてるだけでちゃんと人のことを考えられるからなのか、一部の人間から好意を寄せられていたのだ。もちろん、私もその中の一人だが。
「ヒッキーのことは平塚先生も注目してたし、他の先生からも一目置かれてたし」
「あの先生は先輩のことを異性として見てた節もあるでしょうけどもね」
「大人の色香があったしね」
「哀愁じゃないですか?」
結婚できないという嘆きから先輩に同情されていた感じだったし、先輩がもし十年早く生まれていたらって考えてると知っていたらあの先生の人生も変わっていたのだろうか。
「先輩が本気を出してから、結衣先輩との距離もできてましたしね」
「ヒッキーがどんどん遠くなっていっちゃった感じだったし」
「ですよね」
偶々私が隣の部屋に引っ越してきたお陰でまた縁ができたけども、もしあのままだったら一生近くに戻れなかったんだろうな……
「いろはちゃん」
「何ですか?」
「私、一度本気で考えてみるね」
「何を?」
「ヒッキーとの関係を」
「そうですね……私も、考えようと思います」
このままでも十分幸せなのですが、現状では引っ越したら終わってしまうのでまた一歩踏み込まなきゃいけないと心に決めたのだった。
関係を変えようとするのは難しい
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適任な相談相手
先輩との関係を考えると結衣先輩と話して数日、私は今までのように先輩の部屋を訪れることができず悶々と過ごしている。
「変に意識しちゃって気まずくなってるのが分かってるのに、どうすればいいのか分からない……」
以前のような関係で良いと思えなくなってしまった以上、気軽に先輩の部屋に上がり込んでダラダラと過ごすなんて難しい。だが普通に話せると思っていたのにここまでになるとは……
「意識的に先輩に会わないようにしてるから仕方ないんだけどね……」
先輩は何も変わっていないので、どう考えても先輩と話せないのは私の所為。先輩もさすがに不審がっているだろうけども、向こうから私の様子を窺うようなことはしていない。
「はぁ……」
「あれ、一色さん?」
「へ?」
声を掛けられて振り返ると、戸塚先輩が笑顔で手を振っている。
「戸塚先輩、お久しぶりです」
「この間そっちの大学に行って以来だね。最近八幡の部屋に行ってないから会わなかったけど」
「何かあったんですか?」
「八幡が忙しそうだから遠慮してるんだよね。僕たちもそれなりに忙しくなってきたから、集まって何かするのはもうちょっと先まで無理って玉縄君も言ってたし」
「そうなんですね。最近隣の部屋からバカ騒ぎが聞こえなくなったなって思ってたんですけど、そういう事情が」
「そんなに騒がしかったかな?」
「主に玉縄さんと材木座先輩を怒る先輩の声が聞こえてくるくらいですから」
その声も聴き耳を立てていなければ聞こえないくらいの声量だ。だが戸塚先輩は私が先輩の部屋での会話を盗み聞きしてるなんて露とも知らずに苦笑いを浮かべた。
「八幡は自分の部屋でも苦労してたからね……」
「ところで、戸塚先輩はこんなところで何を?」
「買い物の帰りだよ。一色さんこそどうしたの?」
「ちょっとぶらぶらしてました。考え事もしたかったので」
「考え事? 僕で良ければ相談に乗るけど」
「良いんですか? 戸塚先輩はこの後予定とか」
「特にないよ。今日はサークルも休みだったし時間が余っちゃってるんだよね」
思わず見惚れてしまいそうな笑みを浮かべる戸塚先輩に、私は内心苦笑いを浮かべる。男性恐怖症の私でも戸塚先輩相手なら変に身構えなくて済むし、戸塚先輩に憧れている女子は多いだろうな、と。こんな所を見られていたら、また変な噂が流れそうだなー、と。そんな考えが過った。
「だったら相談しても良いですか? 先輩に近い戸塚先輩なら、何か解決策を授けてくれるかもしれませんし」
「一色さんの悩みって八幡のことだったんだ」
「あっ……」
うっかり相談内容をバラしてしまったが、この人は他人に言いふらすような人ではないという信頼感があるからだろうと、私は自分の失敗を誤魔化す為にそう結論付ける。
「それじゃあ、何処か人の耳を気にしないような場所が良いよね。一色さん、男性が苦手だったし」
「そんなところありますかね?」
「この前八幡に教えてもらったお店が良いよ。内緒話をするにはちょうどいい感じだし」
先輩が何故そんな場所を知っているのかとか、そんな場所に行って先輩と鉢合わせしないだろうかとか、いろいろと聞きたいことがあったが、戸塚先輩は私がそんなことを考えているなど思っていないのかすたすたと歩き始める。見た目からは想像できないが、やはり歩幅は男の人。私は少し駆け足で戸塚先輩の後に続いたのだった。
十分程歩いたところで、戸塚先輩は一つのお店を指差す。恐らくそこが目的地のカフェなのだろうと思い外観を眺め、とても先輩が知っていそうなお店ではないと思ってしまう。
「先輩は何故ここを戸塚先輩に?」
「僕、サークルの男子からよく相談されるんだけど、何処か良い場所ないかなって八幡に聞いたらここを教えてくれたんだ。お客さんは多いけど、隣の席の会話が聞こえない程度には離れてるからって。八幡も外でレポート制作とかするときに利用するって」
「なる程」
戸塚先輩がされる相談内容も気になったが、とりあえず今はそれを聞くためにここに来たわけではない。私の現状を打破する為には、戸塚先輩に頼るしかないのだ。先輩の一番近くにいるであろう戸塚先輩に。
店に入り席に案内され、私はメニューに目を落としビックリする。コーヒーの種類もだが、デザートメニューも豊富で目移りしてしまったのだ。
「凄いよね。八幡はコーヒーしか頼まないらしいけど、僕はここのデザートも好きなんだ。だから利用してるって言うのもあるんだけど」
「美味しそうですしね」
二人で注文を済ませ、物が運ばれてくるまでは雑談をし、店員が近づいてくる心配が無くなってから本題に入る。
「それで、一色さんと八幡、何かあったの?」
「何かあったというわけではなく、何も無いのが問題でして……」
「どういうこと?」
私は少し逡巡したが、先輩とした会話を戸塚先輩にもすることに。もちろん、名前は伏せたのだが戸塚先輩にはバレバレだった。
「つまり、八幡が雪ノ下さんの告白を断った理由を聞いて、一色さんと由比ヶ浜さんが八幡との距離の取り方が分からなくなったってことで良いんだよね?」
「ぶっちゃけるとそうです」
誰一人名前を出さなかったのにここまで正確にバレるとは……伊達に付き合いが長いわけではないのだろう。まぁ明らかに奉仕部だって分かるように話したので、これで分からなかったら期待外れだと思っただろうけども。
「確かにある日を境に奉仕部の関係がおかしくなったなって思ったけど、そういう事情があったんだね」
「戸塚先輩も聞いてなかったんですか?」
「聞いたけど『俺が悪いんだ』としか言ってくれなかったし」
「まぁ、先輩が悪いのかもしれませんが、先輩一人の所為ではないですよね」
功を焦った雪乃先輩にも責任はあるだろうし、雪乃先輩が振られた後すぐにアタックしなかった結衣先輩も問題だと言えるかもしれない。二人に気を使って自分まで気まずくなる必要など無かったのだから。
「でも雪ノ下さんが振られた理由を聞いたからと言って、それで八幡との距離の取り方が分からなくなるっておかしくないかな? 理由はどうあれ二人は八幡が雪ノ下さんを振ったことは知っていた。共依存は八幡と雪ノ下さんに当てはまるだけで、一色さんや由比ヶ浜さんには関係ないよね? 少なくとも、アピールを控える理由にはならないと思うけど」
「先輩にどう思われているのかが不安になったといいますか……」
私は振った理由だけでなく、雪乃先輩と結衣先輩のことを異性として見ていなかったということを聞かされたことも戸塚先輩に話す。
「なる程ね……それで、一色さんも急に不安になっちゃったんだね」
「前々から手のかかる妹って感じに思われてそうでしたし……」
何度も妹ではないアピールはしていたのだが、ここ最近の私たちの関係は兄妹だと言えなくもないだろう。手のかかる妹の世話をしてくれる優しいお兄ちゃん、そう見えなくない光景だっただろうし。
「でも変に変えようとすると先輩と一緒にいられないような気がして……それでここ数日、意識的に先輩を避けてしまってるんですよね」
「女の子は大変なんだね。八幡は『最近見かけない』くらいしか思ってなかったみたいだけど、一応心配はしてる感じだった。でも一色さんはそんなことを考えていたなんてね」
「心配はしてくれていたんですか」
思考の片隅には置いていてくれたようで安心したのと同時に、その程度にしか思ってくれていなかったのかと肩を落とす。
「まぁ僕から言えるのは、八幡だって何時までも彼女がいない現状を善しとしていないってことかな。新しく出会う相手より、旧知の相手の方が気が楽だって思うかもしれないしね」
「つまり、大学で知り合った相手より、私や結衣先輩の方が可能性があるってことですか?」
「無責任な言い方になっちゃうけど、僕にはそう見えるな。実際、大学外で会ってる異性って、そんなに多くないし」
「そう…ですよね! あの先輩が異性に積極的になるわけ無いですもんね! だったらこっちから行かないとどんどん距離が開いちゃいますよね!」
「アハハ……一色さん、声が大きいよ?」
気合いが入り過ぎて大声になり立ち上がっていた私は、戸塚先輩に指摘されて急に恥ずかしくなり腰を下ろし顔を背ける。だがこれで方針は決まった。先輩相手にうだうだ考えても仕方が無い。私は今まで通りアピールを続けるだけだ。
盛り上がりに欠けた気もするな……
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踏み出す一歩
戸塚先輩に話を聞いてもらったおかげで、今後の方針は決まった。だが問題は、ここ数日先輩相手に気まずさを懐いていた私の心。
「いきなり先輩の部屋を訪ねたら不審がられるだろうし、かといって偶然を装って部屋に入り込むのも難しそうだしな……」
以前なら気軽に先輩の部屋を訪ねることができていたのに、今はそれができない。それだけ私が先輩に対する気持ちを理解してしまったからなのだろうけども、理解したからこそ踏み出さなければいけない。私は自分にそう言い聞かせて家に帰ろうとして――
「あれは……先輩?」
――視線の先に見覚えのある男性と、また見覚えのない女子を見つけた。
「何をしてるんだろう」
それ程親しい間柄ではなさそうだし、先輩は女子相手に何かを説明しているように見える。暫くして先輩に説明を受けていた女子が頭を下げてこちらに向かってきたので、私は慌てて身を隠し先輩の様子をのぞき見る。
「何だ、道を聞かれてただけだったんだ……」
今の時代、調べれば道なんて分かるはずなんだけども、最終的に頼るのはその地域の人らしい。だから偶々通りかかった先輩に道を尋ねただけなんだろうけども、私だったら異性には尋ねないだろう。心情的な問題もあるが、何となく身の危険を感じるから。
「あっ……先輩も行っちゃう」
慌てて隠れたお陰で先輩にもバレずに隠れられたのは良いが、その所為でせっかくのチャンスを不意にしてしまうと思い、私は慌てて先輩の後を追った。
「せーんぱい!」
「一色か……相変わらずあざとい声の掛け方だな」
「なんですとー!」
こちらは無理して何時も通りを演じているというのに、先輩は相も変わらず不愛想……これは、私のことも恋愛対象として見ていないということなのだろうか……それとも、私の心の裡を見透かして、あえて何時も通りを演じてくれているのだろうか……
「こうして先輩とお話するのって何だか久しぶりですよね」
「そうだな。俺と雪ノ下の話をして以来だろ」
「そう…でしたっけ……」
雪乃先輩の名前が出て、私は途端に気まずくなる。当事者である先輩は気にしていないのに私が過剰に気にしているのは傍目から見てもおかしな話だ。だがどうしても雪乃先輩の名前を聞くと硬直してしまうのだ。
「それで、何か用があって声を掛けてきたんじゃないのか?」
「偶々見かけたので、先輩を蚊取り線香にして家に帰ろうかと思いまして」
「何だ、まだ駄目なのか?」
「簡単に克服できるならトラウマなんて言いませんよ」
以前路地裏で襲われそうになってからというもの、私は一人で外に出るのが怖い。まだ明るい内はそれ程気にならないのだが、こうして日が落ち、周りに人が少なくなってくると途端に駄目になる。だからなるべく遅い時間に一人で外に出ることはしないのだが、どうしてもでなければならない時はかなり勇気がいるのだ。
「先輩が辞めちゃったから、バイト帰りとか怖いんですからね」
「だからさっさと俺以外に大丈夫な相手を見つけて送り迎えしてもらえばいいだろ? お前はモテるだろうし、相手を見つけるくらい簡単だろ」
「確かにモテますけど、それと大丈夫かどうかは別問題です。そもそも下心全開の相手に告白されても嬉しくないですし」
結衣先輩相手なら下心全開でも分かるのだが、私くらいでも興奮するのだろうか? まぁ、中には雪乃先輩くらいが一番だと思う人もいるのだろうし、別におかしくは無いのだろうけども……
「(女の気持ちを男が分からないのと同じで、男の気持ちを女が理解できなくても不思議じゃないのかもしれない……分かりたくはないけど)」
そもそも高校時代に付きまとっていた相手があの葉山先輩だし、今付きまとっている相手はこの先輩だ。それ程異性に対して貪欲ではないひとたちを見てきたからかもしれないが、私に告白してくる相手がそんなことを考えていそうだと思ってしまうのだ。
「(相談相手も戸塚先輩だったし、もしかして私って一般的な男性の知り合いっていない?)」
玉縄さんは折本さんに対してだけで、私や結衣先輩に対しては普通に対応してたし、材木座先輩はそもそも現実にあまり興味が無さそうだったし……
「一色」
「なんですかー?」
急に声を掛けられ、私は内心ドキドキしながら平静を装って答える。
「何って、もう部屋の前なんだが」
「へ?」
いつの間にか自室の前に到着しており、私はそんなに長い時間考え事をしながら歩いていたのかと思い知る。先輩が隣にいたから考え事に集中できたんだろうけども、もう少し話しかけてくれても良かったんじゃないかと不満を覚えた。
「それじゃあ」
「もうちょっとお話ししましょうよ~。というわけで、おじゃましまーす」
「お前はまた……」
図々しく部屋に上がり込む私を、先輩はため息を吐きながらも追い出そうとはしなかった。なんだかんだで私を受け容れてくれているのだと解釈し、私は普段腰を下ろす位置に移動し、先輩に飲み物を要求するのだった。
結局先輩にご飯も用意してもらい、私は先輩の部屋を全力で満喫した。ここ数日の気まずさが嘘のようだと思いながら、先輩はこんなにも何時も通りだったのかとうじうじ悩んでいた自分を恥じる。
「お前、一人暮らししてる自覚あるのか?」
「ありますよー。でも、たまには楽をしたい日だってあるじゃないですかー? でもこんな体質じゃ外食も難しいですし、それなら先輩に作ってもらうしかないじゃないですかー?」
「その語尾伸ばすのバカっぽいから止めろ」
「なんですとー! 馬鹿じゃないですよー」
ぽかぽかと先輩の腕を叩きながら抗議する私……うん、バカっぽい。だが急にキャラ変更しろと言われても難しい。これ以外には無関心な相手にする態度くらいしかないですし……それだと先輩に対して何とも思っていないって勘違いされそうだしで、どうすることもできないのだ。
「せっかくだし、今日はこのままここで寝ます」
「は? 何がせっかくなんだよ」
「お腹いっぱいで動きたくないんですよ。あっ、先輩は私の部屋から私の着替えを持ってきてください。これ、鍵です」
「お前……」
「お礼として下着の一枚くらい持っていっても良いですよ」
「いらねぇよ。というか、本気でこっちで寝るつもりか、お前……」
既にだらけモード全開の私を見て、先輩は本気で呆れてるような目を向けてくる。
「先輩が悪いですよ」
「何が」
「あんなに美味しいものを出してきたら、手が止まらなくなっちゃうじゃないですか。それで満腹になって動きたくなくなったんですから、しっかりと責任取ってくださいね」
「自重しなかったお前が悪いだろ……人の分まで食べやがって」
ここ数日悶々と過ごしていたからか、食事を摂るのも最低限しかやっていなかった。だからではないが、先輩の料理をがっつり食べてしまったのだ。
「先輩が小皿に取り分けなかったのが悪いですよ。私は悪くありません……」
「責任転嫁にもほどがあるだろ……ったく」
先輩は腰を上げ、私から鍵を受け取り隣の部屋へ。なんだかんだ言って私を受け容れてくれるのは先輩だけなのだと、いい加減自覚してほしいくらいですよ、まったく。
「……って、先輩に私のカップを知られちゃうんじゃ」
そこまでじろじろ見る人じゃないと思うし、あまり興味を持って無さそうだとも思うけど、意識してしまうと急に恥ずかしくなってきた……
「でもまぁ、先輩だしな……」
慌てるだけアホらしいと思い、私は先輩が淹れてくれていたお茶を啜りながら戻ってくるのを待つ。五分もしない内に先輩が戻ってきて、私の着替えを私の前に放り投げる。
「投げないでくださいよ」
「うっせぇ! 家族でもない女の着替えを用意する俺の身にもなりやがれ」
「なんですか、俺と家族になろうって口説いてるんですか? ゴメンなさい、遠回し過ぎて気持ち悪いです。もっと分かり易くして出直してきてください、すみません」
「何でそういう解釈になるんだか……」
こうして誤魔化しておかないと私自身が落ち着けない。だからそうふざけたのだ。
「お風呂借りますねー」
「動けてるじゃねぇかよ……」
先輩のツッコミは聞こえないふりをして、私はお風呂で早鐘を打つ心臓を落ち着かせるのだった。
「あれ? 私、何処で寝れば良いんだろう」
その疑問にたどり着き、私の心臓は再び早鐘を打ち始める。
一気に前進した気がする
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気持ちの整理
勢いで先輩の部屋のシャワーを使ったが、冷静になって考えればこの状況は色々とマズい気がする。だって私と先輩は付き合っているわけでもないので、私のお風呂上がりの色香に惑わされて――
「って、そんなことで篭絡できるなら、結衣先輩がとっくに篭絡してるか……」
先輩と結衣先輩は同級生で、修学旅行でお風呂上り姿を見せることはできたはずだ。あの結衣先輩の色香で堕とせないなら、私程度の色香では堕ちないだろう。それよりも問題は、私は何処で寝ればいいのかである。
「先輩のベッドを借りるにしても、そこに染み付いている先輩の匂いで寝られないかもしれないし、そもそも先輩は何処で寝るんだって話になりますし……」
だったら先輩がベッドを使って私は床で寝る?
「あの先輩がそんな状況を善しとするとは思えないですね……冷たい様に見えて優しい人ですし」
自己犠牲を厭わない性格だったので、自分か私かを選べと言われ、私を床に寝かすという選択をするとは思えない。でもそれだと先輩を床で寝かせることになってしまう……それはそれで心苦しい。
「一番いいのは、私が部屋に戻って寝ることなんだけど、せっかく勇気を出してお泊り宣言したというのにそれは……」
少しでも先輩との関係を前進したくてしたことなのに、何も進展がないまま逃げ出すのは負けに等しい結果だ。そんなの、私が納得できない。
「まぁ良いか……先輩が何とかしてくれるでしょうし」
昔から無理難題にぶち当たったら先輩を頼ってきた。生徒会長にした責任という言葉で脅していたとも言えるが、先輩はしっかりとその無理難題を解決してくれた。
「プロムの件は、私と雪乃先輩だけじゃどうにもならなかっただろうし……先輩だからできた手段ということだったけども、詳細は私には教えてくれなかったしな」
雪乃先輩はなにかを察していたようだったけども、私は何故先輩が雪乃先輩のお母さんをはじめとする保護者を説得することができたのかを知らない。だが結果から先輩がプロム反対派を黙らせたということは分かる。誰も何も言わなかったけども、先輩が最低な手段をとって反対派を押し切ったということは、合同プロムを開催したことから分かっているから。
「よくよく考えたら、私って先輩のことを何時から信頼してるんだろう……」
初めて見たのは奉仕部に連れていかれた時。城廻先輩と一緒に平塚先生に連れていかれたのだ。その時は結衣先輩と雪乃先輩が主に話を聞いてくれて、先輩は私が嫌われている子なんだなという視線を向けてきた印象しかない。だが実際に事態を収拾してくれたのは先輩だ。雪乃先輩と結衣先輩を仲違いさせること無く、かつ私をバカにしてきた子たちを見返すチャンスを作るという、最高にスカッとする結末を用意したのだ。
その結果生徒会長をしなければいけなくなったのだが、先輩がフォローしてくれたお陰で、問題なく生徒会活動はできていた。
「その時から? それとも、葉山先輩に振られて泣いた時?」
あの時は本気で悔しくて本気で泣いた。本気の恋じゃなかったと今では言い切れるけども、あの時は結構本気で葉山先輩を狙っていたのだ。彼氏にできたら自慢できるとか、人気者を堕とせば私の評価が上がるとか、そんな理由だったにしてもだ。
「でも、いつの間にか吹っ切れて、それからは先輩に纏わり付いていたような気もしないでもないですね」
あんな見た目だから誤解されがちだが、先輩は決して最低な人間ではない。選ぶ手段は最低でしたけども、人間性は立派だ。詳しくは知らないが、文実での出来事は相模先輩の尻拭いの結果であり、先輩が泥をかぶったお陰で無事に文化祭を終えることができたらしい。
だが噂として出回ったのは、先輩が相模先輩を侮辱し泣かせたということだけ。先輩も噂を否定しなかったから仕方が無いのかもしれないが、あそこで相模先輩を切り捨てたら、奉仕部が受けた依頼『相模先輩の成長を促す』を達成することはできなくなっていただろう。自分の力を過信し、できなくなったから逃げ出し、挙句に周りからそれを指摘されたら相模先輩は終わっていただろう。
『一色、何時まで風呂に入ってるんだ? 逆上せてるんじゃないだろうな?』
「大丈夫ですよ? それとも、一緒に入りたいんですか?」
外から声を掛けられ、私は長い時間考え事をしていたんだと気付いた。冗談で言ったことだが、半分くらいは期待もあった。
『バカなこと言ってないでさっさと出てこい。何時までも占領されてると俺が使えないからな』
「仕方ないですね、先輩」
何時も通り注意されただけで終わったが、がっかり半分安堵半分の気持ちで私は脱衣所に移動する。もし先輩が乗り込んできたら、先輩のことを恐れるようになっていただろうし。
先輩が用意してくれたタオルで身体を拭き、寝間着に着替えてから部屋に戻ると、先輩はPCに向かって何かをしていた。レポートでもやっているのだろうと思ったので後ろから覗き込むと、中学生の問題を見ていた。
「それって何ですか?」
「担当している子のテスト結果だ。何処を理解していないかを把握して、何処を重点的に教えればいいかを考えていただけだ」
「先輩は社畜の素質がありますよね。仕事を持ち帰ってるわけですし」
「ほっとけ」
そう言って先輩はPCを閉じてしまった。怒ったのかと焦りそうになったけども、先輩はお風呂に入る為に作業を中断しただけだった。
「一色、お前はベッドを使って良いから」
「先輩は何処で寝るんですか?」
「クッションでも重ねてそこで寝るから心配するな」
「……一緒に寝ます?」
計算して行ったあざとさではない。今のは紛れもない私の本当の気持ち。この人となら一緒に寝ても問題ないと思えたから誘った。ただそれだけ。それ以外の考えは無い。
「………」
私の真意を探ろうとしているのか、先輩は無言で私の目を覗き込んでくる。ここで逸らしたら二心ありと思われそうだったので、私はじっと先輩の目を見返す。
「お前が心配してくれたのは分かった。だが女の子がそんな風に言うもんじゃないぞ」
私の頭を少々乱暴に撫でる先輩に、私は何時も通り計算して作るあざとさで抗議する。
「妹扱いしないでくださいよ! こんなに可愛い女の子が誘ってるんですから、素直に受け入れたっていいじゃないですか!」
「本当に据え膳だったら頂いたかもしれないが、お前は純粋に俺のことを心配して提案したんだろ? だからその心配は無用だって言っただけだ」
「……先輩って、損な性格してますよね」
「自覚はしてる」
引き攣った笑みを浮かべながら風呂場へ向かう先輩を見送り、私はその場で脱力する。もし先輩が一緒に寝ることを選んでいたら、私はどうなっていたのだろう。
「最悪先輩に恐怖心を抱くようになっていたかも……」
自分から誘っておいて、そうなるかもしれないと思っていながらも、私は先輩に嫌悪感を抱くことになっていただろう。だから先輩が断ってくれてホッとしている。
「でも、想像していた反応とちょっと違ったんだよな……」
何時もみたいにバカなことを言うなみたいな感じで怒られるかと思っていたのだが、先輩は私の心の裡を見透かし、そして妹に向けるのとは違う感じの気持ちで私を注意してくれた。
「……ん? そう言えば先輩、とんでもないことを言っていたような気も」
確か『本当に据え膳だったら頂いていた』って言ったよね……それってつまり、私が本気で誘えば応えてくれる可能性があるってこと? 私のことを異性として見てくれてるってこと?
「あ、あれ? なんだろうこの現象……」
お風呂上りだから身体が熱いというわけでもないのに、身体の内から熱が湧き上がってくる。こんなことは今まで無かった。
「もしかして私、本当に先輩に抱かれたらって想像して興奮してる?」
自分がこんなにもイヤラシイ子だったなんて気付き、私は恥ずかしさから先輩のベッドに潜り込む。こんな気持ちを忘れる為にさっさと寝てしまおうと思ったのだが、先輩の匂いがして暫く落ち着くことすらできなかった。
逃げ込んだ先は死地だったと……
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匂い問題
普段嗅がない匂いで目が覚めた私は、ここが何処だか一瞬理解できなかった。だがすぐに先輩の部屋に泊まった――無理矢理居座ったとも言うが――ことを思い出し、匂いの先にいるのが先輩だと理解する。
「せーんぱい、おはようございます」
「朝からあざとさ全開だな……」
「なんですかー! 朝から可愛い後輩が挨拶してあげたんですから、もうちょっと何かあっても良いんじゃないですか?」
「可愛い後輩は勝手に部屋に泊まりベッドを占領したりはしないと思うがな? まぁ使って良いって言ったのは俺だから別に良いんだが」
先輩が許可してくれなくても勝手に使ってただろうけども、許可が下りたから先輩のベッドに潜り込んだのだ。その所為で暫くは先輩の匂いに包まれているような気がして寝られなかったけど……
「(もしかして今、私の身体には先輩の匂いが染み付いている? そう言えば昨日、先輩のシャンプーを使ったわけだし……)」
不意に不安になった私は自分の身体の匂いを嗅ぐ。だが一晩中その匂いに包まれていた所為で鼻が麻痺しているのか、自分がどんな匂いなのか分からなくなってしまっていた。
「先輩、私の匂い変わってますかね?」
「は? 俺がお前の匂いなんて知るわけ無いだろ」
「本当ですかー? しょっちゅう抱き着いたりしてるんですし、嗅ぎなれてると思うんですけど」
「人聞きの悪いことを言うな。お前から抱き着いて来てるだけだろうが」
「この際どっちでも良いですよ。それで、何時もと違いますかね?」
今日は普通に講義とかあるので、匂いが変わっていたら気付かれるかもしれない。結衣先輩はどことなくイヌっぽいし……
「そんなに気にすることか? 何時も通りテキトーに誤魔化せばいいんじゃないのか」
「さすがに先輩の匂いが私からしてたら誤魔化せないと思うんですが」
「は? 俺の匂い?」
「だって私、昨日先輩のシャンプーで洗って先輩のベッドで寝たんですよ? 私から先輩の匂いがしてたら誤解されるかもしれませんし」
「誤解? 何を誤解するって言うんだよ」
「それはその……」
ある種のセクハラじゃないかとも思ったが、先輩は本気で分かっていないような顔をしている。普段どうでも良いことは気付くのに、どうしてこういう時だけ鈍感になるのだろう……
「私が先輩と朝チュンしたって」
「あー……そういう考え方もあるのか」
この表現で伝わるかなとも思ったが、どうやら理解してくれたようだ。そう言えば先輩の交友関係にあのオタクがいましたし、伝わっても不思議ではなかったですね。
「着替えれば匂いなんて変わるだろうし、シャンプーはテキトーに『入ってから無かったことに気付いて借りた』とか言っておけばいいだろ。部屋が隣だってことは知られてるんだし、それで誤魔化せるだろ。由比ヶ浜相手ならな」
「それって結衣先輩に失礼じゃないですか?」
「そうか? 由比ヶ浜ならそれで誤魔化せそうだが」
私が言った「失礼」とは、結衣先輩の気持ちを知っていながら抜け駆けなようなことをしておいて誤魔化すのは失礼という意味で言ったのだが、先輩はさすがに馬鹿にし過ぎじゃないかという意味で使ったと思っているようだ。まぁそっちの意味もあったので間違っているわけではないのだが……
「そんなに気になるなら、出かける前に自分の部屋で髪を洗えばいいだろ。そうすれば匂いも誤魔化せるだろうし」
「でもせっかく先輩の匂いに包まれてるのに……」
「どっちなんだよ……」
呆れながらも朝食の準備を済ませ、自分だけ先に食べ始める先輩。
「どうして先に食べちゃうんですかー!」
「朝から用事があるんだよ、俺は」
よく見れば先輩の分の朝食は簡単に摂れるもので、私のはちゃんと栄養を考えて作られているものだと分かる。
「お前が出かける時に鍵は閉めておいてくれ。ポストにでもしまっておいてくれればいいから」
「分かりました。先輩、ご馳走様です」
「食べる前に言われるとはな」
先輩は脱衣所で着替えてから私に鍵を渡し出かけていった。残された私は先輩が作ってくれた朝食に満足してから部屋に戻り、断腸の思いでお風呂に入ってから着替えたのだった。
自分のシャンプーで洗ったからか、匂いの事を結衣先輩に追及されることは無かった。初めから心配し過ぎだったのか、それとも先輩に言われた通り自分の部屋で洗ったからなのかは分からないが、私が先輩の部屋に泊まったことを結衣先輩に気付かれることは無さそうだ。
「そういえばこの間彩ちゃんから遊びに誘われたんだけど、いろはちゃんも一緒に行かない?」
「えっ、戸塚先輩にですか?」
「うん。ヒッキーたちも一緒だって言ってたから、私の方も友達誘って良いよって言われてるんだー」
「先輩たちってことは、玉縄さんたちもってことですか?」
「何時もの四人だって言ってたよ」
「なる程」
これが誘って来ているのが玉縄さんなら、折本さんを呼べと催促しているように感じたでしょうが、戸塚先輩なら純粋に遊びに誘ってくれているということが分かる。
「それで、結衣先輩は他に誰か誘ったんですか?」
「カオリンは誘っておいたよ~。後は面識ある人あまりいなかったから断られたけど」
「まぁ、居心地は悪そうですしね」
面識はあっても会話したこと無いという人が殆どでしょうし、ただでさえ戸塚先輩の見た目に圧倒されてしまう人が多そうだ。それに加えて先輩までいるとなれば、慣れていない人は遠慮してしまうだろう。
「それじゃあ、私も参加しますよ」
「じゃあ彩ちゃんに言っておくねー。これで週末は皆でお出かけだね」
「というか、良く先輩が付き合ってくれましたね」
「彩ちゃんが頼み込んだみたいだよ」
「なる程」
戸塚先輩の頼みは断れないのは相変わらずで、先輩を連れ出したいときは戸塚先輩に頼めばいい。これは私たちだけではなく玉縄さんたちの中でも知られているようだ。
「それじゃあね、いろはちゃん」
「はい、また明日です、結衣先輩」
最寄り駅に着いて結衣先輩と別れた私は、心の中で結衣先輩に謝罪した。
「(先輩の部屋に泊まったことを黙っていてゴメンなさい)」
さすがにそんなことを堂々と宣言できる程、私は図太くない。ましてや付き合ってもいない異性の部屋に泊まったなんて知られれば、それこそビッチだと思われかねない。
「あっ、そう言えば先輩の部屋の鍵……」
私が出かける時にポストに入れておこうと思っていたのを忘れ、今もバッグの中に入っている鍵の事を思い出し、私は気持ち早足で部屋に向かう。これが合鍵だということは分かっているので、先輩が部屋に入れないという心配はしていない。だが鍵を持ち逃げされたとか思われたくないので、一刻も早く先輩にお詫びをしなければ。
「あっ先輩」
「一色?」
「何、比企谷君の知り合い?」
見知らぬ女性に絡まれていた先輩を見つけ、思わず声を掛けてしまった。先輩の方は助かったという顔をしているが、女性の方は少し不機嫌そうに私を見詰めている。
「えぇ。それじゃあ俺はこれで」
私の手を取りその場から立ち去る先輩。まだ何か言いたげな女性だったが、先輩が相手をするつもりがないということが分かったのか追いかけてくることは無かった。
「悪い、助かった」
「別に何もしてないですけど……というか先輩、手……」
「ん? あぁ、すまん」
女性が見えなくなったのを確認してから、先輩は私の手を解放する。別に不快じゃなかったのでこのままでも良かったんですけど、何となく気恥ずかしかったから……
「さっきの人は?」
「ゼミの先輩でな。なんでか知らないが言い寄られてて困ってたんだ。一色がタイミングよく通ってくれて助かった」
「へー、先輩ってモテるんですね」
「よく知りもしない相手に言い寄られても困るだけだろ。それは一色だって分かってるだろ?」
「それはまぁ……」
しょっちゅう顔くらいしか知らない相手から言い寄られてるので、先輩の気持ちは分かる。でもさっきの人はそれなりに美人だったし、スタイルだってよかったと思うのにどうして困ってたんだろう。
「付き合ってみようとか思わないんですか?」
「気になってる相手がいるのに、それ以外の人と付き合える程、俺は器用じゃねぇよ」
「そう、ですか……」
先輩が気になってる相手。それが誰なのか聞く勇気が無かった。だって、恐らくは雪乃先輩のことだろうと思ったから……
八幡は普通にモテると思うが
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存在感の大きさ
先輩に気になっている人がいると聞かされて、私は少なからずショックを受けている。先輩が雪乃先輩のことを本当はちゃんと想っているということは分かっていたはずなのに、どうしてこんなにもショックを受けているのだろう……
「(もしかしたら、先輩は私のことを気にしてくれているのかもとか思ってたのかな……)」
ある意味気にしてくれてはいるだろう。先輩は私が男性恐怖症になった現場に立ち会っているし、私が唯一身構えなくても大丈夫な――戸塚先輩は別だ――異性だし、こうして隣で生活しているからいろいろと気にしてもらっている。
「(でも、それはやっぱり後輩としてとしか見てくれてなかったってことなんだろうな……)」
週末に結衣先輩たちと一緒に遊びに行くと誘われた時は嬉しかったのに、今はこんなモヤモヤした気持ちで過ごすなんて……
「何であのタイミングであの場所を通っちゃったんだろう」
思わず声に出してしまったが、隣の部屋に聞こえるわけもない。先輩の独り言だって聞こえたことなんて無いのだから、私が呟いた愚痴など聞こえないだろう。
「というか、先輩は週末ちゃんと出かけるつもりなのかな?」
戸塚先輩に頼み込まれたらしいが、恐らくは玉縄さんが折本さんを呼ぶための餌として呼ばれたのだろう。いい加減自分の力で誘えば良いものを……
「とりあえず前日は先輩の部屋に居座って、なにがなんでも一緒にお出かけしてもらおう」
先輩がいないあの面子を考えると、結衣先輩は戸塚先輩とペアになるだろうから地獄でしかなくなる。玉縄さんは折本さん狙いだから、必然的に私の相手はあの材木座先輩になる……
「考えるのは止めよう」
あの先輩に何かされるとは思えないが、だからといって安心できるかどうかは別問題。私は先輩に何が何でも同行してもらおうと強く心に誓ったのだった。
もやもやした気持ちで過ごしていたら、あっという間に週末に。明日は結衣先輩たちとお出かけの日。というわけで私は朝から先輩の部屋に乗り込んでいた。
「せーんぱい、明日のこと忘れてないですよね?」
「できることなら行きたくないんだがな……」
「駄目ですよ。結衣先輩や戸塚先輩も先輩が来るものだって思ってるんですから」
「はぁ……」
非常に憂鬱そうにため息を吐いてから、先輩は私の前にカップを置く。最早何も言わなくてもお茶を用意してくれるようになったのだ。
「ありがとうございまーす」
「追い返しても無駄だからな」
先輩はそれだけ言ってPCの前に座り直す。今日の夕方は家庭教師の日らしく、その準備らしいと作業を見て理解した。
「先輩なら前日までに終わらせてると思ってましたけど、ギリギリまでやってなかったんですね」
「最終確認だ。さすがにギリギリじゃ終わらないからな」
「真面目ですねー……どうしてそれが高校時代に発揮出来なかったんですか?」
「俺程真面目な生徒はいなかっただろ?」
「何言ってるんですか。先輩はトップクラスの不良生徒だったじゃないですか」
言うほど悪い噂は無かったのだが、むしろそれは存在が知られていなかったからだろう。先輩の人間性を考慮すれば仕方が無いのだが、先輩が二年次に残した功罪は、先輩を悪く言うには十分すぎるくらいの威力がある。
「屋上で女子生徒を泣かせて、修学旅行で告白を横取りして、生徒会の企画と同じ内容を別団体としてぶつけてきた最悪な人ですよ? 何処が真面目なんですか?」
「お前はその裏事情を全部知ってるだろうが……」
「はい。先輩が泥をかぶることでその場を丸く収めようとした結果ですよね」
その裏事情だって結衣先輩から聞いたことだ。この人ならそれくらいするだろうと今では思えるが、先輩という人をちゃんと理解していないと最悪な人としか思えない所業だ。
「そんな先輩だから、遠慮なく面倒事を押しつけ――手伝いを頼めたんです」
「いや、言い直さなくて良いからねもう……」
「だから、明日もちゃんと来てくださいね? 来ないと全員でこの部屋に押しかけますから」
「いや辞めて? 怖いからな? そんな風に宣言されたら鍵かけて引き篭もるからな?」
「あっ、合鍵返して無かったですね。その鍵で開けますね」
「いや、返せよ……」
「部屋のバッグの中なので、後で返しますね」
取りに行くつもりがないというのが伝わったのか、先輩は盛大にため息を吐いて立ち上がった。
「俺はもう出るから、お前も帰れ。そのついでに鍵を返せ」
「お留守番しておいてあげますよ。そうすれば鍵を掛ける必要もないですし、ついでに私も先輩の晩御飯をご馳走になれますし」
「お前はまた……」
「それじゃあ先輩、行ってらっしゃい」
満面の笑みで送り出してあげると、先輩はガックリと肩を落としながら出かけていく。こんなに可愛い後輩が見送ってあげているというのにあの態度……これは仕返しをしなければ気が済まないですね。
「というわけで、先輩のお部屋点検開始」
何か弱みでも握れればいいと思い部屋を捜索したが、弱みになりそうなものは何も出てこない。それどころか自分の部屋よりも整頓されている部屋を見せつけられた気分だ。
「やっぱり何も無いのかな……ん? これは」
クローゼットの奥に置かれている写真を見付け、私はその写真を確認する為に手を伸ばし――後悔した。
「これって雪乃先輩とのツーショット……」
別にこの写真だけが特別というわけではないだろう。隣には小町ちゃんの写真とか、戸塚先輩との写真とかも飾ってあるのだが、どうしてもその写真だけが私の心に重くのしかかってくる。
「私だって先輩とツーショット撮ったことあるのにな……」
先輩の告白を聞いてからというもの、どうしても雪乃先輩と自分を比べてしまう。近くにいないという時点で脱落したと思っていたのに、まさかこんなにも私の心にダメージを与えてくるとは……やっぱりあの人は扱いにくい。
「側にいる結衣先輩の方がよっぽど敵になると思ってたのにな……」
誰もいない部屋でぽつりとつぶやき、私は携帯に保存されている写真を眺め思わず涙するのだった。
いつの間にか寝てしまっていたのか、私は人の気配を感じ身体を起こす。
「ここは?」
「お前、本当に人の部屋にいたんだな……」
「あっ先輩。お帰りなさい」
「ただいま」
寝起きだったので可愛い顔ができたかどうかは分からないが、先輩は普段と変わらない感じで返事をくれた。何だか同棲カップルのような会話だが、私たちの関係はあくまでもお隣さん。先輩後輩でしかない。
「何だか泣いてたようだが、何かあったのか?」
「乙女の寝顔を見るなんてサイテーです! 先輩はバカです! ボケナスです! 八幡です!」
「最後のは罵倒じゃないだろうが。というか、そのフレーズ知ってたのか……」
「小町ちゃんが言ってるのを聞いたことがあったので」
学校で先輩が小町ちゃんに罵倒されていたのを偶々聞いただけなのだが、何だか面白いフレーズだったから何時か使いたいと思っていたのだ。まさかこんなタイミングで使えるとは……
「泣いてたわけじゃないですよ。ちょっと欠伸して涙が出ただけです」
「なら良いが……また何か抱え込んでるんじゃないかと思っただけだ」
先輩は「気にするな」という感じでキッチンに向かっていくが、私は先輩の気遣いが嬉しかった。
「先輩、どうしてクローゼットの奥に写真なんて置いてるんですか?」
「おまっ!? 見たのか」
「はい! 先輩の弱味を見つけようと思いまして」
「相変わらずいい性格してるよな、お前」
「先輩には負けますけどね」
先輩の隣に立って料理のお手伝いをしようと思ったのだが、私がいたらむしろ邪魔になりそうだったので回れ右をして元の位置に戻る。
「堂々と飾っておくもんでもないだろ? だから奥に置いてあるだけだ」
「何だったら私との写真もプリントアウトしてあげますよ? 先輩がノリノリでピースサインしてるあの写真です」
「まだ消してなかったのかよ」
「すっかり忘れてましたので」
嘘だ。本当は先輩との思い出を消したくなかったから、意図的に消してなかっただけ。だがそのことは言わない。言えるわけがない。だって先輩の心の中には、私ではなく別の女性がいるのだから。
いろはが八幡の部屋にいるのが当たり前になってきた
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過去の清算
もやもやとした気持ちで夜を過ごした所為か、若干寝不足ではあるが問題は無い。今日は先輩とお出かけの日。とはいえ二人きりではなく、意中の相手を自力で誘うことができない玉縄さんが、私たちを巻き込んで遊びに行くというだけなのだが、先輩と一緒ということに変わりはない。
「せーんぱい。そろそろ時間ですよ」
「分かってるっての……というか、さっさと合鍵を返せ!」
先輩の部屋には鍵がかかっていたのだが、私が持っている合鍵ですんなりと入ることができた。先輩からは返せと言われているけども、これは返したくない。
「良いじゃないですか。先輩が鍵を無くしちゃっても私が持ってれば安心ですよね?」
「管理人に頼めばいいだけだろうが」
「管理人さんと繋がりがあるんですか?」
「別にねぇけど」
「だったら、私が持ってた方が早いじゃないですか。先輩と繋がりがありますし」
何が何でも返したくなかったので、私は高校時代の先輩のような屁理屈をこねくりまくり、何とか合鍵を回収されずに済ました。
「というわけで、レッツゴーです」
「楽しそうだな……」
「はい! 先輩が一緒なら、言い寄ってくる男たちを気にしなくて済みますので。思う存分遊べるわけですから」
実際先輩が隣にいる時に声を掛けられることは無い。それは私たちが恋人同士に見えているのか、それとも私が先輩を頼りにしているのが周りに見え見えなのかは分からない。だが結果として先輩といれば男性恐怖症が発動しないということだけは確か。なのであれこれ理由を付けて先輩とお出かけする機会が増えているのだ。
「そろそろ玉縄のヤツにも文句を言っておかないとな」
「いい加減自分で折本さんを誘え、とか言うんですか?」
「まぁ、折本に相手にされないだろうって分かってるから俺たちを巻き込んでるんだろうけどもな」
どうやら先輩にも玉縄さんの目的はバレバレのようだ。それでも付き合ってあげる辺り、やはり人が良いのだろう。
「そんなこと言って、先輩だって誘われなかったら寂しいんじゃないんですかー?」
「え、なに? そんな風に思ってるように見える?」
「正直に答えても良いんですか?」
「止めて? その顔は止めて? なんか怖いから」
私が真顔で聞き返すと、先輩は慌てた風を装って断ってきた。以前似たような遣り取りをした記憶はあるが、先輩は意外と真顔で返すと弱いようだ。
「先輩、怖いので手を繋いで良いですか?」
「人が多いところに出ると全くダメだな、お前……」
駅が近くなってきたので先輩の手を掴んで怖さを誤魔化す。知り合いに見られたら勘違いされそうだけども、こればっかりは先輩にしか頼れない。もう少し、この関係は続けていこう。
待ち合わせ場所に到着すると、既に結衣先輩と戸塚先輩が待っていた。あの二人が一緒にいると絵になるのは以前から思っていたことだ。
「あっ、いろはちゃんにヒッキー、やっはろー!」
「おはようございます、結衣先輩」
「八幡、おはよう」
「おう」
私たちが挨拶を交わしながら合流すると、先輩が携帯を取り出してため息を吐いた。
「どうしたの?」
「材木座のヤツ、サークルの集まりが急に入ったからこっちはキャンセルだと」
「厨二さん、サークルのメンバーと仲良しなんだね」
「まぁ、同じ趣味の奴らが集まってるからな。こっちより居心地が良いんだろう」
そう言って先輩は私と結衣先輩を交互に見てもう一度ため息を吐いた。恐らく材木座先輩がこっちに来ない理由は私たちだと思っているのだろう。
「そういえば以前も材木座君が来れなくなったことあったよね」
「あの時はレポートを忘れてたんだっけか?」
「まぁ、玉縄君の目的は一人だけだろうから、彼女が来れば問題ないでしょう」
どうやら戸塚先輩もこの集まりの本当の目的に気付いているようだ。ただ結衣先輩は分かっていないようで、戸塚先輩の言葉に首を傾げる。
「彩ちゃん、どういうこと?」
「玉縄君の目的は僕たちと一緒に遊ぶことじゃなく、折本さんと一緒に出掛けたいってことだよ」
「自分一人で折本を誘う勇気がないから、由比ヶ浜に頼んだんだろ」
「でも私は彩ちゃんに誘われたから」
「だからそれも、玉縄さんが戸塚先輩を使って結衣先輩を誘い、結衣先輩が私や折本さんに声を掛けると想定してのことですよ」
私たちの説明で納得がいったのか、結衣先輩はなにかを考え始める。
「だったら、カオリンと玉縄君を二人きりにしてあげようよ。もし付き合えればそれでもいいし、カオリンに振られたらこれ以上巻き込まれなくても済むだろうし」
「あのヘタレが二人きりになったからといって告白するとは思えん。もしそんな行動力があるのなら、お前たちを巻き込んで出かける必要は無いだろうからな」
「何の話?」
結衣先輩の案を却下したタイミングで折本さんが到着。私たちを巻き込んだ張本人が一番最後ということになった。
「何でもない。というか折本、近い」
「気にし過ぎだって」
「カオリン、やっはろー」
「結衣ちゃんおはよー。いろはちゃんも」
「おはようございます」
折本さんは結衣先輩とは違い、現役で合格している為大学でも先輩。結衣先輩にもそれ程なれなれしくしているつもりは無いが、しっかりと挨拶しておかなければ。
「戸塚君も」
「おはよう、折本さん」
「相変わらず綺麗な肌してるよねー。羨ましい」
先輩から興味が戸塚先輩に移った折本さんは、戸塚先輩の肌をじろじろと見ている。確かに戸塚先輩の肌は綺麗だし、あれで男性だと言われても信じられない人が多そうだとは思ったこともある。
「ところで、玉縄のヤツはどうしたの? てっきり一番に来てると思ってたんだけど」
「知るわけないだろ。というか、何をするのか聞いてないんだが、今日って何をするんだ?」
「集まって遊ぶとしか聞いてないから、僕も知らないや」
どうやら誰も今日何をするのか知らないようで、私たちは言い出しっぺの到着を待つ事にした。しかし十五分後――
「腹を崩して行けないらしい」
――あまりにも遅いので先輩が電話を掛けると、死にそうな玉縄さんの声が聞こえてきた。
「じゃあ解散だな。俺は帰る」
「まぁまぁ八幡。せっかく集まったんだしどこかで遊んでいこうよ。由比ヶ浜さんたちも、それでいいよね?」
「私はヒッキーや彩ちゃんがそれでいいなら良いよ」
「あたしも。比企谷が休日に外出してるなんて、中学の友達が知ったらなんていうか」
「いや、以前も言ってませんでした、それ?」
昔の話をされると、私や結衣先輩は会話に入っていけない。高校時代なら折本さんより詳しいが、中学時代の先輩のことは知らない。いや、伝え聞いた限りで良ければ知っているが、実際に見てきた折本さんには勝てない。
「まだあの時のこと気にしてるの? ほんとにごめんって」
「気にしてねぇよ」
「何なら、今からでも付き合う? あたしは別に構わないけど」
「「っ!?」」
折本さんの言葉に、私と結衣先輩が同時に肩を跳ねさせる。もしかしたら先輩が折本さんとお付き合いしてしまうかもしれないと思ったからなのだが、先輩の答えは予想通りのものだった。
「付き合わねぇよ。そもそも、あの時は勘違いで告白して悪かったな」
「だよねー。あたしも、面白半分で比企谷のことをネタにしてゴメンね」
「八幡も折本さんも大人になったってことで、この話はおしまい。それじゃあどこ行こうか、八幡」
二人の会話が終わったタイミングで戸塚先輩が二人の間に入り話題を強引に変える。男同士だって分かっているのに、何故か戸塚先輩までライバルなのではないかと思ってしまう構図だ。
「あっ、せっかくだからあたしも名前で呼んでも良い? あたしのことも名前で呼んでいいから」
「何でだよ、嫌だよ」
「友達同士なら普通でしょ」
「女子のノリを男子にあてはめないでくれます?」
「でも戸塚君は比企谷のこと名前で呼んでるじゃん」
「戸塚は特別なんだよ」
そう言えば先輩のことを名前で呼んでるのって、戸塚先輩だけのような気が……あっ、もう一人いましたね。クリスマスイベントを手伝ってくれた女の子が、確か先輩のことを名前で……まぁ、会うことないから気にしなくても良いかもです。
なんだかんだで仲が良い二人
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グループ内の温度差
言い出しっぺの玉縄さんが来れなくなったので、何をするのか相談しなければならなくなってしまった。とはいえこの面子で積極的に動くのは結衣先輩と折本さん、そして戸塚先輩だ。間違っても先輩が積極的に動くなんてことはない。
「それで、どうする? ウインドショッピングでもする?」
「でもそれだと集まってる意味無くない? もっと皆がいるときにしかできないことしようよ」
「でも由比ヶ浜さん、皆がいるときにしかできないことって? 映画はこの間行ったし」
このように三人が話しているのを、私と先輩は少し離れた場所で聞いている。
「お前も話し合いに参加してきたらどうだ?」
「どこに行くにしても、先輩が帰っちゃったら意味無いので。私は先輩の見張り役なんです」
「何だよそれ……さすがに黙って帰ったりしないって」
「ホントですかねー? 先輩は気配を消すのが上手ですし」
存在感が薄いのかもしれないが、人混みに紛れられたら見つけるのが難しい。ましてや私は男性に近づくのが怖いので尚更だ。
だから話し合い参加せずに先輩の見張りという安全地帯で目的が決まるのを待っているのだが、この人にはそのことが分かっていないようだ……
「というか先輩」
「何だ?」
「先輩が帰るなら私も一緒に帰りますからね? 黙って帰るなんて許しませんから」
「だから帰らないっての……どれだけ信用が無いんだか」
「普段の先輩は信用してますけど、こういう場面の先輩は信用できませんよ」
あえて笑顔で言うと、先輩は顔をしかめて頭を振る。集団行動が苦手だという私の言外に隠した本音は伝わったのだろう。
「ヒッキー、いろはちゃん、お待たせー」
「別に待ってない」
「まぁまぁ先輩、そんなこと言わずに。それで結衣先輩、何処に行くことになったんですかー?」
あえて語尾を伸ばして尋ねたので、若干馬鹿にしてる感じに聞こえる。先輩はそう感じた様だが、結衣先輩は気にした様子もなく答えてくれた。
「水族館に行こうって話になったよ」
「水族館? わざわざ人の多い場所に行くのかよ……」
「いいじゃないですか、行きましょうよ水族館」
先輩の腕を引っ張っておねだりする。かなり子供っぽい感じだか、私の行動を見た折本さんが悪のりして反対側の腕を掴んでおねだりを始めた。
「たまには良いじゃん。比企谷も付き合ってよ」
「二人で揺らすな! だいたい人が多いってことは一色、それだけ男も多いってことだぞ」
「さすがに水族館に男だけで来てるなんてことは無いでしょうから大丈夫なはずです」
「なら俺がいなくても平気だろうが」
私の言葉に勝機を見つけた先輩だったが、その程度で逃がす私ではない。
「移動の最中は分かりませんよね? それに、戸塚先輩だって許してくれませんよ?」
「比企谷も往生際が悪いよね。ここまで来たんだから最後まで付き合ってよ」
「分かったから二人で揺らすな!」
私と折本さんが交互に揺らしたお陰かは分からないけども、先輩は帰らないと言ってくれた。
「それじゃあ出発」
「てか二人ともズルいし! ヒッキーにくっつくなんて」
「結衣ちゃんもやってみる?」
「えっ、でももうヒッキーを揺らす必要無いし……」
先輩にくっつきたいけども理由がないのでくっつけない。見た目ビッチなのに純情な結衣先輩らしい感じに折本さんと二人で笑ってしまう。
「何で笑うし!?」
「いや、結衣ちゃんらしいなーって」
「てか、とっとと移動するならしようぜ。何時までもここでダラダラしてるのもあれだし」
「そうだね。それじゃあ行こうか」
いつの間にか私たちの間からすり抜けた先輩と戸塚先輩が二人で先に行ってしまう。私たちはその後を追い掛けるように移動し、電車の中では先輩にくっついていたお陰で安心して水族館へ向かうことができたのだった。
家族連れが多い中で私たちのようなグループは目立っちゃうのではないかと思ったが、意外とそうでもない。みんな水槽に注目しているからと言うのもあるが、意外と私たちみたいなグループもいるのだ。
「水族館なんて久しぶりだね」
「普段来るような場所でもないからな」
「八幡はあんまりこういった場所に出かけないもんね」
「一人で来る場所でもないしな」
水槽に夢中な私たちの後ろで、先輩と戸塚先輩が小声で会話をしている。何時もだったらまた二人で空気を作っていると思うのかもしれないが、今の状況では仕方が無いだろう。
「来るまではあまり乗り気じゃなかったけど、意外と楽しいんだね」
「だから言ったじゃん。来れば楽しめるって」
「結衣先輩、折本さん。そろそろ移動しましょうよ。先輩と戸塚先輩が引率みたいな立ち位置になっちゃってますし」
「「あっ……」」
私のように意識の半分を先輩に向けていたわけではなく、水槽に夢中だった二人は、完全に先輩と戸塚先輩のことを忘れていた様子。バツの悪そうな顔で二人に顔を向ける。
「ごめんごめん、つい夢中になっちゃって」
「別に構わないが、声のボリュームは気にした方が良いかもな」
「目立つまではいかないけど、ちょっと大きかったよね」
先輩と戸塚先輩に注意され、折本さんと結衣先輩はますますバツの悪そうな顔になる。
「ついテンションが上がっちゃってね……気を付ける」
「そろそろイルカのショーをやるらしいけど、見に行く?」
「俺はどっちでも」
「「行くっ!」」
「おっ、おぉ……」
食い気味の二人に気圧される先輩の図……何だか意外なものを見たような気も。
「それじゃあ行こうか」
「そうだな」
「八幡、疲れたなら休んでていいよ? 僕がしっかりと見ておくから」
「そうか? じゃあ頼む」
「一色さんは? 一緒に来る?」
既にイルカショーに意識が向いている折本さんと結衣先輩のお守りは戸塚先輩が、先輩は休憩するということで、私はどちらについていくか考える。
「(イルカも見たいですけど、先輩の側を離れるのは得策ではないですよね……この人のことですから、私たちがいないところでまたフラグ建設をしそうですし)」
この間もゼミの先輩に言い寄られていましたし、意外とモテるので心配なのだ。
「私も少し疲れたので休んでいます」
「分かった。それじゃあ八幡、終わったら迎えに来るから」
「悪いな」
折本さんと結衣先輩を連れて移動する戸塚先輩を見送り、私と先輩は休憩スペースに向かう。途中先輩がお茶を奢ってくれたので、それを飲みながらまったりとした空気を醸し出す。
「先輩、疲れる程はしゃいでなかったですよね?」
「あの二人の勢いに疲れた」
「あの二人ははしゃぎすぎですよね。二人ともいい大人なのに」
折本さんはまだだが、結衣先輩は成人を迎えている。まぁ見た目が幼い感じなので変ではなかったが、普通なら目立ってしまうだろうな。
「しかし、お前も良く付き合うよな。一人だけ年下だというのに」
「折本さんとは二ヵ月しか違いませんし、結衣先輩は同級生ですからね」
「そんなもんか?」
「はい。それに先輩もいますし」
この人がいれば安心して何処へでも出かけられる。それに意識している異性なので、集団だとしても一緒にお出かけできる機会を逃すわけにはいかないのだ。
「それを言うなら先輩だって、なんだかんだで付き合ってくれるじゃないですか」
「戸塚に頼まれると断れない……」
「やっぱり先輩は――」
「違うからな」
まぁ戸塚先輩にお願いされたら私だって断れないでしょうし、異性に免疫がない――戸塚先輩は男性だが――先輩が断れるはずが無い。
「そうですよねー、先輩はゼミの先輩にモテモテでしたしねー。もしかして、満更でもなかったんじゃないんですかー?」
「あの時にも言っただろ。気になる相手がいるのに付き合える程、俺は器用じゃないって」
「その気になる人って――」
誰、と聞こうとしたタイミングで、先輩に近づいてくる陰に気が付く。
「八幡?」
「……留美か?」
「うん、久しぶり」
「誰ですか?」
「クリスマスイベントで主役をやってくれた鶴見留美だ」
「……あぁ!」
この間思い出したのはこの子だった。まさかこんなところで再開するとは……まさか、あの思考がフラグだったのでしょうか。
建てたからには回収しないと
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拘る理由
先輩と二人きりだったのに、まさか知り合いと遭遇するなんて……しかもその相手はあの雪乃先輩が一目を置いていた鶴見留美さんだなんて……
「(会うことないって思った矢先に会うなんて……しかもこのタイミング)」
特別な雰囲気ではなかったが、核心を突こうとしていたのに邪魔をされてしまった。これでまた、先輩の気になる相手を聞きにくくなってしまいましたね……
「何してるんだ、こんなところで」
「八幡こそ何してるの? もしかしてデート?」
留美さんの視線が私に向けられ、私はそこはかとなく雪乃先輩の威圧感に似ているなどと思っていた。
「そんなわけないだろ」
「だって二人きりだし、男女で水族館に来てる」
「別に二人きりじゃない。今は別行動してるが、あと三人いるからな」
「別行動? 何で八幡はこの人と行動してるの?」
値踏みされていると感じる視線に、私は思わず視線を逸らす。ここまであからさまな視線なんて向けられたことが無いのだ。逸らしてしまっても仕方がないって私は思うのだか、留美さんは違ったようだ。
「何で目を逸らしたの? 何か疚しい気持ちがあるから?」
「そ、そんなものあるわけ無いじゃないですか! そもそも貴女は先輩とどんな関係なんですか?」
詳しく事情は知らないけど、先輩と面識のある年下の女の子ってだけでここまで敵視される筋合いはない。
「八幡は私の恩人なの。だから八幡には幸せになってもらいたい。でも貴女のような人じゃ八幡を幸せにできるとは思えない。私に八幡との関係を聞いたんだから、貴女こそ八幡とどういう関係なの?」
私を貫く留美さんの視線。ここでその視線から逃げたら恐らく、留美さんは先輩を連れていってしまうだろう。
「私は――」
「留美」
私が答える前に先輩が遮る。留美さんは先輩を睨んでいるが、先輩は動じることもなく淡々と続ける。
「俺たちの関係と留美と、どんな関係があるって言うんだ?」
「さっきも言った。八幡には幸せになってもらいたい」
「その気持ちはありがたいが、それと一色を敵視するのとは繋がらないんじゃないのか?」
「だって八幡には――」
留美さんが何かを言おうとしたタイミングで、結衣先輩たちがイルカショーから戻ってきた。
「あれ? もしかして留美ちゃん?」
「誰?」
「かおりんは話したこと無かったっけ? クリスマス合同イベントで手伝ってくれてたんだけど」
「あー、見たことあるかも。というか、何で比企谷たちと一緒にいるの?」
そう言えば追及されてばかりで気にしてなかったけども、留美さんは千葉在住じゃなかったっけ? それが何故東京の水族館にいるのでしょうか……
「私は両親と遊びに来てただけ。でも二人がはしゃぎすぎて私のことを忘れてデートを始めたから、休憩スペースに来ただけ」
「何それウケる。親が娘を忘れるくらいはしゃぐとかあるんだ」
「あるから私はここにいる。それで、八幡は本当にその人と付き合ってないんだよね?」
「あぁ」
何故そこまで気にするのか……もしかして留美さんも先輩のことが好きで、先輩に彼女がいないと信じたいのではないのか、という疑問が私の中に生まれる。
「というか留美ちゃんはどうしてヒッキーに話しかけたの?」
「久しぶりに見たから」
「でもよく分かったよね。今の比企谷、以前ほど目は死んでないし、眼鏡かけてるし」
「多少変わっても八幡は八幡。見てすぐわかった」
確かに私も約一年ぶりに先輩を見てすぐに分かったし――あの時は戸塚先輩が先に名前を呼んでいたからかもしれないが――基本的に先輩は見てすぐわかる容姿をしている。だから留美さんの言いたいことも分かる。
「それじゃあ私はこれで。あっ、八幡」
「何だ?」
「今度連絡しても良い? 確か八幡って、総武高校だったよね」
「ここにいる大半が総武だけどな」
折本さんだけ海浜総合だけど、確かに私たちも総武高校出身だ。それなのに何故留美さんは先輩にだけ話しかけるのだろう。
「今度勉強を教えてもらいたいんだけど」
「俺に分かる範囲なら構わないが」
「分かった。それじゃあまた」
そう言って留美さんは私たちから離れていったけども、最後の最後まで私は留美さんに睨まれた――ような気がする。
「いろはちゃん、何で留美ちゃんに嫌われてるの?」
「そんなの分かりませんよ……というか先輩ってやっぱり年下好き?」
「何でそうなるんだよ……」
「だって留美さんにはだいぶ甘い顔をしてましたし」
「そんなこと無いだろ」
先輩は否定していますが、結衣先輩や折本さんと話している時と比べればだいぶ甘い顔をしていました。まぁ、私と話している時と似たような感じなので、先輩は特に意識しているわけではないのでしょうが。
「もしかして留美さんのことも妹扱いしてるんじゃないですか?」
「確かに八幡は年下の女の子の扱いが上手だよね。テニスサークルの後輩女子のこともだけど」
「それ程交流もないだろうが」
「でも、僕や他の先輩じゃなくて八幡に相談してるのを見た人がいるし」
「そうなの、ヒッキー?」
結衣先輩が詰め寄って問いかけると、先輩は迷惑そうに手を出して距離を取り答える。
「偶々学部が一緒だったから相談されただけだ。そうじゃなきゃ俺に相談するわけないだろ」
「そうかなー? 私だったらヒッキーに相談すると思うけど」
「そもそも結衣先輩って悩みだらけじゃないですかー? 相談して解決するんですか?」
「するし! ……多分」
「結衣ちゃん……」
急に尻すぼみした結衣先輩を折本さんが呆れた顔で見詰める。戸塚先輩も苦笑いをしているので、さすがの結衣先輩も恥ずかしそうに視線を逸らす。
「ヒッキーのバカ……」
「何で俺なんだよ……今のは一色だろ」
「女の子に責任を押し付けないでくださいよ」
完全に私が悪いのだが、結衣先輩は先輩を責め、私はそれに便乗して責任逃れをする。
「とりあえず移動しようぜ。何時までもここにいても仕方が無いしな」
「あっ逃げた」
そそくさと移動する先輩の背中に、折本さんがそんなことを投げ掛ける。確かに逃げたようにも見えるけども、何時までも休憩スペースにいるのもあれだというのも確かだ。とりあえず私たちはその後も水族館を満喫し、お土産コーナーで再び先輩と戸塚先輩を置き去りにする勢いで盛り上がるのだった。
水族館に行った次の休日、何故か先輩の部屋から呆れた声が聞こえてきた。
『だから俺は千葉にいないって言ってるだろ』
「電話かな?」
相手が誰だか気になるが、壁越しでは先輩の通話相手が誰なのかを知ることはできない。せめて会話にヒントがないかと耳を澄ませていると――
『メールとかで教えてやるから、分からない問題を送ってこい』
――なんて会話が聞こえた。これは恐らく、先週再会した留美さんから勉強を教えて欲しいと頼まれているのだろう。もし小町ちゃんなら、先輩が千葉にいないことは分かっているだろうし。
『あぁ、届いた』
どうやらPCのメールに問題を送り、電話をしながら教わろうという形に収まったようだ。
「もしかして留美さんも先輩のことを……? いや、あり得ないでしょ、あんな捻くれた男を好きになるなんて」
出会った時は小学生だったかもしれないが、今の留美さんは中学三年生のはず。助けてくれた相手に好意を抱くのは分からなくはないが、それが異性に対しての好意かどうかの分別は十分につくはずだ。それにあの子は大人びた雰囲気だったし、尚更感謝と恋愛の情を勘違いするとは思えないし。
「何となく雪乃先輩に似ている雰囲気を感じ取ったからなのかな……」
苦手意識ではないが、私は留美さんと話すのが苦手だと感じている。雪乃先輩とも初めの方は苦手で困った覚えがある。だからではないが、先輩と留美さんが話しているのを見ると心がざわつくのだ。
「私ももう少し歳が離れていたら、先輩に勉強を――って、そうしたら先輩との接点が無くなっちゃいますね」
私は同じ高校の後輩として先輩と出会っているので、もし留美さん程年が離れていたら先輩と出会うことすらなかっただろう。そう考えると、今の状況は歳が近かったからなればこそだ。
「とりあえず、近くにいない人で悩むのは止めておこう……」
留美さんは千葉、雪乃先輩は海外にいるのだから、それ程悩まなくても良いだろう。それよりも問題は、どうやったら先輩との関係を進展させることができるかなのだから。
新たなライバルになるのでしょうか
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オープンキャンパス
この半年以上、先輩の側に居た年下キャラは私だけだったから気にしていなかったが、先輩は年下の扱いが上手いので、それなりに年下から慕われる。この間再会した鶴見留美さんが先輩に勉強を教わっているのを知り、私はなんとなく面白くない気持ちになってしまったのだ。
「(これって嫉妬なのかな……)」
別に年下に勉強を教えているだけなのだから気にする必要は無いのかもしれないけど、留美さんは先輩に特別な気持ちを懐いている様子。恋心ではないのだろうが、人のことを値踏みするような視線を向けられたことから、恐らく先輩の彼女に相応しいかどうかを見られていたのだろう。
「(留美さんからはどことなく雪乃先輩の雰囲気を感じたし、あの雪乃先輩が認めてただけあるのかな)」
自分と似ていると言っていたのを昔聞いたことがある。何処が似ているのかは分からなかったけども、確かに似たものを感じたのだ。
「ねぇねぇいろはちゃん」
「どうしたんですか、結衣先輩」
「さっきから何か考え込んでるようだったからどうしたのかなって思って」
「そんなに考え込んでました?」
「だってもう講義終わってるのに移動しようとしないから」
「え?」
結衣先輩に言われて漸く私は講義が終わっていたことに気が付く。確かあと半分くらい時間が残ってたような気がしたんだけども……
「あの、結衣先輩……」
「どうしたの?」
「後でノート見せてください」
「良いよ~」
留美さんに嫉妬していた所為で講義を半分聞き逃すなんて……別に私と先輩は特別な関係ではないのだから、あの人が誰とどのような付き合いをしていようが関係ないのに……
「(いや、私は先輩と『本物』の関係になりたいって願ってる)」
あの人が言う『本物』がどのようなものかは私には分からない。だが私が思う『本物』の関係になれるとしたら、あの人しかいないと確信している。だって、葉山先輩に懐いていた気持ちとは比べ物にならないくらい、私はあの先輩に執着しているから。
「そういえばこの大学もそろそろオープンキャンパスだね」
「もうそんな時期でしたっけ?」
「いろはちゃんは去年来たの?」
「一応は他のとこも行きましたけどもね」
先輩が何処の大学に通っているのか分からなかったので、目ぼしい大学のオープンキャンパスを覗き、自分の成績と相談してこの大学に決めたのだ。まさか大学でではなく、新居で先輩と再会するとは思っていなかったが。
「私たちは手伝いとか無いからどうしようか」
「あれ? 結衣先輩はお手伝いを頼まれていませんでしたっけ?」
「いろはちゃんがじゃなかっけ?」
「私でしたっけ?」
折本さんから「良かったら手伝って」と言われたのは覚えているが、それが私にだったのか結衣先輩にだったのかは忘れてしまった。
「カオリンに聞いてみるね」
結衣先輩がスマホを操作して折本さんへメッセージを送り、数分後に返答があった。
「出来れば両方にお願いしたいって」
「そうなんですか……」
せっかくの休みだから先輩にちょっかいでも出そうかなと思っていたのに、まさか手伝いが入ってしまうとは……
「まぁ、手伝いって言っても資料の配布とかだろうけどね」
「説明とかは折本さんたちがしてくれるでしょうし、本当にお手伝い程度なんでしょうね」
バイトもお休みだし、来年からは自分たちも作業をする立場になるのだからどんなことをするのか知っておいた方が良い。そう考えて私はその手伝いに参加することにしたのだった。
オープンキャンパス当日、私と結衣先輩は大量に用意されていた資料を研究室から割り振られている教室へ運んでいた。
「思ってた手伝いとちょっと違うんですけど……」
「こう言うのは男の人の仕事だと思うんだけどな」
「まぁ、折本さんが在籍してるゼミには男性がほとんどいないらしいですし、資料運びをするだけの余裕がある人もいなかったから仕方ないのかもしれませんけど」
文句を言いながらも結衣先輩と教室まで運び終えると、折本さんがペットボトルを差し出してきた。
「ありがとね。これ、教授から」
「何だか申し訳ありません」
「いいっていいって。本当ならあの人が運ぶべきなんだろうし」
「そんなこと言って良いの?」
「本人に聞かれなきゃ問題ないっしょ」
折本さんとそんなことを話していると、高校生たちが続々とやってきた。私たちは会話を切り上げて資料を配ることに専念し、折本さんは高校生たちに説明をしている。
「何だか懐かしいね、高校生って響き」
「私は去年まで普通にそう呼ばれてましたけどね」
「私はもう二年前だし」
そんな話をしていると、何だか見覚えのある女子高生がやってきた。
「小町ちゃんだ。やっはろー!」
「結衣さん! やっはろーです」
何と先輩の妹の小町さんがやってきたのだ。結衣先輩が小町さんと話していると、折本さんが不思議そうに近づいてきた。
「知り合い?」
「ヒッキーの妹さんだよ」
「比企谷の?」
「あ、どーも。比企谷八幡の妹の小町です。兄がお世話になっています」
小町さんが礼儀正しく一礼すると、折本さんもぎこちなくではあるが一礼を返した。
「ところで結衣さんといろはさんはこの大学に通ってるんですよね?」
「そだよー。訳あって同級生なんだけどね」
「結衣先輩……自分で浪人してたって言わなくても良かったのでは?」
「あはは……ところで小町ちゃんはヒッキーみたいにエリート大学には通わないの?」
「さすがにあそこまでの成績はありませんからね。無理して通っても楽しくないですし、私はお兄ちゃんのようにはなれそうにないですしね」
高校に入るまでは小町さんの方が優秀な感じだったようだが、どうやら先輩の方がスペックは上だったようだ。
「ところでこちらの方とお兄ちゃんの関係は?」
「中学の時の同級生」
「昔先輩を振ったんですよね?」
「その話は今言わなくてもいいでしょ」
「もしかして、折本さんですか?」
「知ってるの?」
「昔兄から聞き出しました。さすがに名前は教えてくれませんでしたが、そこらへんは頑張って調べました」
「そう」
小町さんが折本さんを睨みつけるような目をしているのが分かる。この人にこっ酷く振られた所為で、あの人の人間不信が加速したらしいし、妹の小町さんが折本さんを責めても文句は言えないだろう。
「結衣さん、この後時間あります? 少し話したいんですけど」
「大丈夫だよー。あっ、せっかくだからヒッキーの部屋にでも行く?」
「お兄ちゃんの部屋、知ってるんですか?」
「あれ? 小町ちゃんは知らないの?」
結衣先輩だけでなく、私も意外だと感じた。だって先輩はシスコンだし、小町さんに部屋の場所を教えていて当然だと思ってたから。
「父も母も教えてくれないんですよね。お兄ちゃんからは連絡もありませんし」
「そうなの? 高校の時から考えると、ヒッキーが妹離れするなんて思わなかったんだけど」
「受験に集中させる為に両親が連絡するなと言ってるようです」
「ヒッキーからいろいろと聞いてるけど、ご両親は随分と小町ちゃんに期待してるんだね。ヒッキーの時はそんなこと無かったって聞いたし」
「お兄ちゃんはただやる気が無くてゴミいちゃんだっただけで、やる気を出せば立派にできる人ですから」
事情を知らない人からすれば酷い言い草に聞こえなくはないが、小町さんのこれは一種の愛情表現だと私たちは知っている。先輩は間違いなくシスコンだが、小町さんも十分ブラコンなのだろう。
「それじゃあサテライトしようか」
「サテライト?」
「結衣先輩、サプライズです」
「し、知ってるし。冗談だから」
どうやら本気で間違えたようで、結衣先輩は早口で話題を変える。
「ヒッキーお盆休みにも帰ってないから、小町ちゃんも会うの久しぶりなんでしょ?」
「そうですね。お正月にも帰ってきてないから、もう一年くらい会ってないですね」
「ヒッキー、本当に帰ってなかったんだ」
「これも両親が圧を掛けていたからかと。私の邪魔をしないようにって」
「でもヒッキーなら小町ちゃんに勉強を教えられるんじゃないの? なんて言ってもエリート大学の法学部に通ってるんだし」
「両親のお兄ちゃんの記憶は、高校時代で止まってるようです」
「そうなんだ」
無関心なんだなと私は感じたが、結衣先輩は気にした様子はない。別に蔑ろにされているわけではないのだろうが、先輩の実家に先輩の居場所は今は無いのかと、私は少し先輩に同情したのだった。
遂に小町登場
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兄妹の会話
オープンキャンパスで再会した先輩の妹、小町さん。結衣先輩とは楽しそうに話しているけども、私とは最低限しか会話していない。
「(そりゃ出会った時は『お米ちゃん』って呼んでたから仕方が無いのかもしれないけど、もうちょっと私とも話してくれればいいのに)」
それ程話したいわけではないのだが、結衣先輩とばかり話しているのを見ると私がオマケみたいな感じになる。
「ところで、お兄ちゃんは在宅中なんですか?」
「多分いると思いますよ。今日は夜のバイトの日だって言ってた気がしますし」
「そうなんですか。ですがなぜいろは先輩がお兄ちゃんのスケジュールを把握してるんでしょうか?」
「いろはちゃんの部屋はね、ヒッキーの部屋の隣なんだよ」
何故か結衣先輩が自慢げに話してしまう。別に隠そうとしていたわけではないし、小町さんはいろいろと気が付く人だから、先輩の部屋を訪れる際に私の部屋の前を通っただけで気付いてしまっただろうと私も思う。だが、結衣先輩が自慢げに話すことではないと思ってしまうのも仕方が無いだろう。
「そうだったんですか。偶然ですか?」
「それ以外の何が? 私は再会するまで先輩と連絡すらしてなかったんですから」
何度か連絡しようと思ったこともあったが、結局勇気が出せずに一年以上連絡を取らなかった。それなのに偶然以外でどうやって隣に引っ越せたと言うのだろうか。
「お兄ちゃんが隣で生活してるなんて、いろは先輩も不運ですね。万が一引っ越す場合は兄に引っ越し代を請求しても構いませんよ」
「今のところはその予定はないので大丈夫。というか、結構助けてもらってることが多いので」
「そうなんですか?」
一人暮らしを初めて早々、私は風邪をひいてダウンした。その際に先輩に看病してもらったりもしたし、今も男性が多くいそうな場所に出かける際には先輩のお世話になっている。
「まぁ、あんな兄ですけど使えないこともないですからね。無駄にスペックが高過ぎでそのスペックをダラダラすることに使ってたくらいですから」
「確かに、ヒッキーてやろうとすれば結構できたはずなのに、やろうとしなかったからね」
それは私も感じていたことだ。実際生徒会長として私がやってこれたのは先輩の力添えが大きい。あの人がいなかったらまともに会長職を全う出来たかどうか……
「そろそろ到着だね」
「先輩がいなかったら私の部屋で少しお話ししましょうか」
「それいいね。小町ちゃんともうちょっとお話したいし」
「でもさすがに帰る時間を気にしておかないといけませんよね。明日も学校ですから」
小町さんは東京に住んでいるわけではないので、帰宅に掛かる時間を考えればそれ程長い時間はお話し出来ないだろう。だがそれでもすぐに帰ろうとしないあたり、あちらもこちらと話がしたいのだろう。
「ここですか?」
「本当にヒッキーは小町ちゃんに教えてなかったんだね」
「両親は知ってるのかもしれませんけど、私には教えてくれなかったんですよね」
小町さんは受験生ということで、先輩の両親が先輩に帰って来るなと言っていたのは先輩から聞いている。なので小町さんがこの場所を知らなくても不思議ではない。
だが高校時代の先輩の言動を鑑みると、絶対に妹の小町さんには部屋の場所を教えていそうなんですよね……本人は否定している――むしろ開き直っていたような気もする――が、あれはシスコンって表現していいのかどうか分からないくらい、小町さんを溺愛していたし。
「ヒッキー、遊びに来たよ~」
結衣先輩がインターホンを鳴らしながら声を掛けると、明らかに不機嫌そうな顔をした先輩が中から現れ――
「小町?」
「お兄ちゃん、やっほー」
――同行者がいることに驚いていた。
どさくさに紛れて私も先輩の部屋にお邪魔しているので、先輩は三人分のお茶とお菓子を用意してくれた。
「何で小町がこっちにいるんだ? 受験勉強はどうしたんだよ」
「オープンキャンパスでこっちに来てたんだよ。まさか結衣さんといろは先輩の通ってる大学だとは思わなかった」
「小町のレベルなら、もう少し上を狙えとか言われてそうだがな」
聞きようによっては私たちが低レベルだと聞こえるが、先輩にそんな意図はない。むしろ私が気にし過ぎなのだろう。
「お母さんは兎も角、お父さんは家から通える距離の大学にしろって五月蠅くてさ。あの距離なら通えなくもないから一応見ておこうって感じ」
「相変わらず小町には甘いんだな、あの親父殿は」
「過保護だよね。私も一人暮らししたいって言ったんだけどさ、許してくれそうにないんだよね」
「分かります。私も父が特に反対してきたので大変でした」
「私もー。パパが絶対にダメだって言ってたけど、ママが説得を手伝ってくれたお陰で一人暮らしができてる」
「やっぱりどこの家も娘の一人暮らしを父親が反対してるんですね」
しみじみと呟く小町さんに、私と結衣先輩は苦笑いを浮かべる。反対というレベルではないぐらいの勢いで反対されていたので、その当時のことを思い出しての苦笑いだろうと、勝手に結衣先輩の心の裡を推測してみた。
「お兄ちゃんは簡単に許可してもらえてたよね」
「さっさと追い出したかったんだろ。正月や盆も帰ってこいとは言われないし」
「どうせ家にいないことの方が多いし、お兄ちゃんが帰ってきたら私が勉強サボるって思ってるんじゃないの?」
「かもな。特に今年は『小町が受験だから』って念を押されたくらいだ」
「別にお兄ちゃんがいても勉強はしたと思うんだけどな。むしろカマクラの世話をお願いしたまである」
「ちゃんと世話してやれよ」
兄妹で会話が盛り上がってしまうと、私と結衣先輩は黙ることしかできない。なにせ久しぶりの兄妹の会話なのだから、割って入って邪魔をするわけにもいかないって思ってしまうから。
「それで、何で今日はここに来たんだ? 小町は俺の部屋、知らなかっただろ?」
「結衣さんの提案だよ。せっかくだから会っていこうって」
「ヒッキーも小町ちゃんに会いたかったかなーって思って」
「まぁ、久しぶりだしな。それだったら予め連絡してくれればよかったのに」
「結衣さん曰く『サテライト』だよ」
「わざと間違えただけだからっ!」
あれは完全に素で間違えていたと思うのだが、私も小町さんも余計なことは言わない。むしろ結衣先輩が必死に否定しているのを見て、その説明は必要なくなったのだ。
「それで、小町は何時までこっちにいるんだ? 早く帰らないと親父殿が心配するんじゃないか?」
「そうなんだよね。でもせっかく自由になれたし、もうちょっとこっちにいたいところだけど……お兄ちゃんはバイトがあるんでしょ?」
「まぁな。だがまだ時間は大丈夫だし、小町を駅まで送るくらいはできるぞ?」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ」
小町さんに対しては優しく接している先輩。私や結衣先輩のことは邪険に扱うことのほうが多いくせにこの人は。
「ところでお兄ちゃん」
「何だ?」
「彼女はいないの?」
「「っ!」」
小町さんとしては何気ない会話なのだろうが、私と結衣先輩は弾かれたように先輩の方へ視線を向けてしまった。その行動を見て、小町さんがニヤニヤと笑っているのを視界の端で捕らえたが、何も言わない方が良いだろう。
「いない。小町こそ、彼氏はできたのか?」
「小町もいないよー。まぁ、大志くんとは一緒に勉強したりはしてるけど、付き合ってるわけじゃないしね」
「サキサキの弟さんだね」
「一緒の大学に通うんですか?」
「どうですかね。大志くんは千葉の大学に通うつもりらしいですし」
川崎家の事情を鑑みればそれも仕方が無いだろう。だが本音では小町さんと同じ大学に通いたいのではないだろうか。
「そろそろ帰るね。お兄ちゃん、また来てもいい?」
「別に良いが、何時でもいるわけじゃないぞ?」
「それじゃあ、合鍵頂戴。そうすれば勝手に入れるし」
「……母さんに一応渡してるんだが」
「そうなの? それじゃあ、その鍵を探しておくよ」
一瞬不自然な間があったのは、先輩が持っているはずの合鍵を私が持っていることをここでいうべきかどうか迷ったからだろう。だって視線で「早く返せ」と今も言って来ているから。
「(絶対に返しませんよ、先輩)」
この鍵は私にとっての生命線であると同時に、精神を安定させる道具にもなっているのだ。これが手元にあればとりあえずは気持ちを落ち着かせることができるし、結衣先輩より一歩リードできていると思えるから。
ちょっとしたリードですけど
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デート前夜
小町ちゃんが帰るとのことなので、結衣先輩も先輩の部屋をお暇する。私も二人と一緒に先輩の部屋を出て自分の部屋に戻り――
「やっぱり先輩の淹れてくれたお茶は美味しいですね」
――二人の姿が見えなくなってから先輩の部屋に戻った。
「何でお前戻ってきてるの? 鍵かけたよね?」
「先輩からもらった愛の鍵で入ってきたんですよ」
「お前が返してない合鍵だろうが」
「少しくらいはのってくれてもいいじゃないですかー」
せっかく冗談を言ったのに、先輩は相手にしてくれない。まぁ、確かにつまらない冗談だったからスルーされても仕方が無いとは思いましたけども、ちょっと冷たすぎないだろうか。
「それで、何で戻ってきたんだ? 由比ヶ浜と一緒にどこかに出かければ良かったじゃないか」
「どこかに行くにも中途半端な時間でしたから」
「だったら自分の部屋で大人しくしてろよ。せっかく今日は一日休みだったのに、何でお前の相手をしなきゃいけないんだよ」
「まぁまぁ、せっかく可愛い後輩が先輩の相手をしてあげてるんですから、もうちょっと喜んでくださいよ」
「わーうれしいなー」
「感情が篭ってないですよ」
棒読みで言われても嬉しくないですし、そもそも表情が死んでいますから……この人に演技をさせるのは無理そうですね。
「合鍵のこと、小町さんに言うかと思いました」
「鍵?」
「私が借りパクしてるのを。それで小町さんと結衣先輩を味方につけて取り返すのかと」
「その方法も少しは考えたが、別の面倒事に発展しそうだったからな。というか、さっさと返せ」
「嫌でーす。せっかく先輩の部屋に堂々と忍び込める道具を手に入れたんですから、そう簡単に返しませんよーだ」
「人の部屋に忍び込んで何をするんだよ……」
心底呆れてるようですが、無理矢理鍵を取り返そうとしない当たり、本当は私に鍵を渡しても良いと思ってるのではないか――なんて思ったりもするのですが、この人が好きな人は私ではない。恐らく今も昔も雪乃先輩のことが好きなのだろう。
「ねぇ先輩」
「何だ?」
「今度の土曜日って暇ですか?」
「土曜? 夕方から居酒屋でバイトだが、それまでなら時間は――いや、のんびりするので忙しい」
途中で何かを感じ取ったのか急に忙しいアピールをしてきたが、のんびりすると言った時点で私の勝ちです。
「それじゃあ二人で出かけましょう! デートです、デート!」
「どうせお前の買い物に付き合わされるだけだろ……いい加減俺以外に大丈夫な異性を探せっての」
「いいじゃないですか。先輩だってこんなに可愛い後輩とお出かけできるんですよ? なんだったら学部のお友達に自慢――あっ……」
この人にお友達なんていなかったと思い出し、私は可哀想な人を見る目を先輩に向ける。
「止めて。その「可哀想な人を見る目」は止めて」
「だって、高校時代の友人を除けば、大学に友人なんていない人だなんて……可哀想ですって」
「好きで友達を作らない人だっているんだから、偏見良くないと八幡思う」
「まぁ、こんな茶番はさておき」
「お前が始めたんだろうが!」
先輩が少し問い詰めるように身体を乗り出してきたけど、とりあえずは話を進めよう。この人のボッチ体質について話し合う場面ではないですし。
「今回は本当にデートですよ。先輩には何時もお世話になってるので、いろはちゃんが先輩をエスコートしてあげます」
「気持ちだけで結構です」
「素直に受け取ってくださいよ~。じゃないと、先輩に襲われたって結衣先輩に言っちゃいますよ?」
「事実無根だ。もしそんなことを言いふらすなら、名誉棄損で訴えるぞ」
「先輩だって私のプライドをズタズタに傷つけてるじゃないですかー! それに、先輩の名誉なんてちっぽけなものですよね?」
「お前な……俺じゃなかったら寝込むようなことを平然と言うなよな……」
「先輩にしか言わないので大丈夫でーす」
無理矢理押し切った感じだけども、これで先輩とお出かけの約束ができた。私はこれ以上居座って先輩に逃げ道を作られるのを避ける為に自分の部屋に戻る。合鍵は返さないままで……
お出かけの前夜。普段なら先輩が逃げ出さないように部屋に押しかけてお泊りするところですが、今回は自分からデートと言いだした手前、多少なりとも意識してしまっている。
「先輩は私のこと、どう思ってるかなんて聞くまでもないのにな……」
手のかかる後輩、または妹みたいな異性としか思っていないのだろう。何度も「私は先輩の妹ではない」と言ってきたというのに……
「この間だってデートって単語出したのに、全然反応しませんでしたしね」
少しでも異性として見てくれているのなら、この単語で動揺してくれても良かったはずなのに、あの人は興味なさげな態度しかとってくれませんでした。これには少しショックを受けました。
「これでも大学では注目されている方だと思うんですけどね……」
結衣先輩とセットとして見られてる感じもしますが、一人でも十分異性の目を惹くと思う。本性はさておくとしても、外面は悪くないと自負していますし、胸だって……
「結衣先輩と比べるのは止めましょう」
私だってそれなりにある方だと思いますけど、隣にいるのが結衣先輩だからそこを自慢することはできない。でも先輩はあまり気にしない方だと思うので、今は沈鬱になる必要は無いでしょう。
「もし先輩が大きい胸が好きなら、結衣先輩にあれだけ密着されて何もしないのもおかしいですし」
顔を赤らめる程度のことはしていましたが、それ以上のことはしていない。もちろん押し倒したりなんかすれば、社会的に終了を迎えるのでしないでしょうし、あの人は「理性の化け物」と言われるくらい我慢強い人です。据え膳を与えられても手を付けることはしないでしょう。
「例えば、私がお風呂上りの姿で部屋を訪れても、何もせずに追い出しそうですし」
実際私のお風呂上がりの姿を見ても平然としていたのを思い出して、今更ながら腹が立ってきた。そりゃ私では色気に欠けるかもしれませんけど、異性の湯上り姿を見ておいてなんのリアクションも取らないとか。失礼にもほどがありますよ!
「って、そんなことを思い出してる場合じゃなかった……明日、何を着ていこう」
せっかくのデートなので、少しは可愛らしい恰好をして先輩を動揺させてやりたいのですが、生憎私の持っている服は普通の物ばかり。これと言って特別可愛らしい服を持っていないのです。
「今から買いに行くのも変ですし……そもそも、こんな時間に出歩くのは怖いですし……」
既に九時近くになっており、人通りはまばらになり始めている。幾ら金曜日の夜とはいえ、この辺りは人が集まるような店があるわけではないので、助けを求めなければいけなくなった場合、人を見付けるのは困難だ。そもそも私は、先輩以外の異性がダメなのに、助けてくれそうな人がいたとしても話しかけられるかどうか……
「少しはアピールできればいいんですが……そもそもあの人のタイプってどんな女性なんでしょう?」
それなりに付き合いが長いですけど、先輩の好みって知らないんですよね……トマトが嫌いってくらいしか知りませんし。
「そもそも外出が嫌いな人ですから、そこから情報を得るのが難しいんですよね……」
数回は一緒に出掛けたことはあるが、ラーメン屋だったりファミレスだったりと、女子とデートで行くような場所ではなかったですし……
「戸塚先輩から教えてもらったカフェは、ちょっと良かったですけど」
先輩から教えてもらった戸塚先輩に連れて行ってもらった場所ですが、あのカフェは私も気に入っている。デザートメニューも豊富ですし、何より席の間隔が離れているので、異性がいたとしても気にしなくてもいいのだから。
「兎に角明日は、少しでも先輩に異性として意識してもらえることを目標に頑張らなきゃ!」
なんとも情けない目標だと私自身も思うが、何時までも後輩ポジションでは何の見込みもない。私は少しでも異性として見てもらえるよう、ベッドに潜り込みながら作戦を練るのだった。
目標が何となく情けない気も……
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複雑な乙女心
デート当日。私は大事なことを決めていなかったことを思い出し、朝早くから先輩にメッセージを送ることに。
「朝十時に駅で待ち合わせですよ、っと」
せっかくのデートなのに待ち合わせ時間も場所も決めていなかったのだ。隣に住んでいるんだから待ち合わせなどしなくてもいいって考えがあったのだろうけども、デートなのだからそれくらいしておきたい。
「おっと返信が」
『わざわざ待ち合わせる意味が解らん。というか、あれって冗談じゃなかったのか?』
先輩は割と効率主義なところがあるので、やっぱり待ち合わせの意味を尋ねてきたし、出かけるのを嫌がっている。ここまできて往生際の悪い人ですね。
「『こんな可愛い後輩とお出かけできるんですから、諦めてください』っと」
先輩にとって私はただの後輩でしかない。だから無理矢理決められた予定に付き合う必要は無いのだろうけども、ここで逃げられるのは面白くない。これ以上ごねるのなら部屋に乗り込んで無理矢理連れ出そう。
『自分で可愛いって言うなよな……まぁ、本気なら仕方が無いな』
「なんだかんだで付き合い良いんですよね……」
私が乗り込もうとしているのが分かったのかは定かではないが、先輩は必要以上にごねることもなくお出かけしてくれることに。本気で嫌ならそもそも誘った時に断ってただろうし、先輩も私とお出かけすることを楽しみにしてくれているのかもって、ありもしないことを考えてみたり。
「先輩が想ってるのは雪乃先輩だろうし……」
あれだけ罵倒されていたにも拘わらず雪乃先輩の夢を応援できるんだから、異性として意識しているに違いない。私は先輩の想い人が誰なのかを確かめる勇気も無く、そう決めつけている。だってもし先輩に聞いてしまったら、ただの横恋慕になってしまうって分かってるから……
「聞かなければ……知らなければ……」
自分に言い聞かすようにそう繰り返し、私はデート用の服を選ぶ。おふざけでデート紛いなことならしたことはあるけども、今日は完全にデートなのだ。少しでも異性だと意識してもらう為にも、できる限り可愛らしい恰好をしていきたいのだが――
「そんな服なんて持ってないんだった……」
――普段とあまり変わらないラインナップしか持ち合わせていない自分に絶望する。誘ってから日にちがあったんだから、それくらい用意しておけよ、と。あれだけ意気込んでいたんだから、当日の朝までそんなことに気付けないなんて、本気じゃなかったのではないか、と。私は自分自身に愚痴を抱きながらも、その中で一番可愛いと思われそうな服を探す。
「先輩のことだから、目一杯おしゃれしたとしても気付かないかもしれないけど……」
どうでも良いことにはよく気づく人だが、異性の変化なんて気付かないだろう。だって女性の扱いに長けているとはどうしても思えないし、思いたくない。あの人はそんなことに縁がない人生を送ってきたんだって、そう思いたい。
「あっ、先輩からメッセージ」
服選びに集中していたから気付けなかったが、先輩からメッセージが着ていた。私は慌てて携帯を操作すると。
「『待ち合わせは分かったが、お前、一人で駅まで行けるのか?』……そのことを忘れてた」
駅に行くのだから当然人が大勢いるだろう。ましてや今日は土曜日、休みの人だっていれば、仕事で駅を利用する人だって普段程ではないがいる。その中には当然男性だっているだろう。私はまだ大勢の男性がいる場所に出かけるのが怖く、先輩と一緒に出掛けたり結衣先輩や事情を知っている友人に付き合ってもらって漸く出かけられるレベルなのだ。
「大学には何とか通えるけど、あれは何とか自分を誤魔化してだし……」
誰も私になんて興味がないと言い聞かせながら大学に通っているので、到着したらかなり疲れていることが多い。時間が合えば友達に部屋まで来てもらったりもするし、先輩と出かける時間が合えば駅まで付き合ってもらったりと、何とかして駅に行っている私が、一人で駅に向かうなんて考えただけで足がすくんでしまう。
「でも、せっかくのデートだし……」
デートは待ち合わせからしたいって思うし、以前は先輩を少し待たせてしまったから今回はって気持ちがあるのかもしれない。
『だ、大丈夫です。それよりも先輩、デートなんですからちゃんとした服装で来てくださいね?』
強がりだとバレバレな文面だが、とりあえずこれで待ち合わせができる。私はできるだけ可愛い服を選んで着替え、先輩が出かける前に部屋を出ることに。これで待たされたら大変なことになりそうだと思いつつ、先輩ならそれ程遅れてくることは無いだろうなと思っている。
「その方面では信頼度高いからな……」
高校時代無理矢理約束を取り付けたりした際も、文句を言いながらも付き合ってくれた人だ。まさか来ないなんてことはしないだろうと思いながら、私は駅までの道を恐る恐るながらも一人で歩いたのだった。
待ち合わせ時間五分前に駅に到着したのだが、やはり先輩の姿はない。そりゃ先輩が部屋にいるのを確認して家を出たのだから、私より先に先輩が駅にいるわけ無いのだが。
「でもやっぱり、先輩には先にいて欲しかったかもしれない」
待たせたら悪いなと思いつつ、デートなのだから男性には先に到着していてもらいたいなんて思いも懐いてしまっている。
「とりあえず、何処か目立つところで――」
「一色」
「っ! 先輩、ビックリするから背後から声を掛けないでくださいよ」
先輩を待とうと思って数秒でその人が現れたので、私は多少驚きつつも振り返って先輩を確認する。それ程おしゃれをしているわけではないが、高校時代と比べればだいぶ大人っぽい恰好をしている。
「先輩、せっかくのデートなのに普段とあまり変わらないじゃないですか」
「そんな機会も無かったからな。それ用の服なんて持っていない」
「相変わらず寂しい人生を送ってきたんですね。まぁ、今日はこのいろはちゃんが先輩とデートしてあげますから」
先輩がデートと縁がないことをしれて嬉しいくせに、私の口から出てくるのは悪態ばかり。こんなことをしてもこの人に嫌われることは無いと分かっているからなのか、それとも私が素直になれない性格なのかは分からないけども、先輩相手だとどうしても本音とは違うことばかり言ってしまう。
「そういうお前だって普段とあまり変わらない恰好だろ? その服、着てるの何回か見たことあるし」
「何で私の服を記憶してるんですか? もしかして普段からそういう目で見てたんですか?」
「隣で生活してるんだ。嫌でも目にするだろうが」
「そうですかねー? 意識して見てないと記憶なんてしないと思うんですけど」
先輩が私のことを意識してくれているのかと勘違いしそうだけども、この人は他人に興味なさそうで意外と相手のことを見ているので勘違いしてはいけない。
「とりあえずそう言うことにしておいてあげますね」
「勝手にしろ……」
「それじゃあ先輩、何処に行きましょうか?」
「は? そう言うのはお前が決めてたんじゃないのか?」
「何言ってるんですか。デートですよ、デート? 目的地は先輩が決めるに決まってるじゃないですか」
「そんな決まりなんて知らん。そもそもお前が半ば強引に決めた予定だろうが」
「そんなこと言ってるからモテないんですよ? まぁ先輩にそんなことを期待しても無駄だって分かってたので、今日はいろはちゃんがエスコートしてあげますね」
「いちいち癇に障るやつだな……」
「そんなの、高校時代からじゃないですか」
先輩の腕に自分の腕を絡め、私は改札に向かう。私の力では先輩を引っ張ることなどできないはずなのに、私の足はすんなりと改札まで進む。つまり先輩が私に付き合ってくれているのだと、私は内心大はしゃぎしたい気持ちを押さえつつ、平静を装って先輩の顔を覗き見る。
「(特に意識してる様子はなし……もうちょっと押し付けてみようかな?)」
これ以上露骨だと振り解かれそうだけど、全くの無反応と言うのも面白くない気が……だがあまり積極的だとまたビッチだと言われそうだし……
そんなことを悶々と考えているなど知らないだろう先輩は、私の横を黙って歩いている。もう少し意識してくれているって思えたら、こんなことで悩まなくてもいいのにな……
八幡が考えてるわけなよな
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あざとさを捨てて
先輩の手を引いて改札を通ったが、さすがにホームについたら解かれてしまった。周りの目もあるので仕方が無いと分かってはいるのだが、少し残念。
「それで、何処に行くんだ?」
「先輩の服でも買いに行こうかなーって思いまして」
「俺の?」
心底意外そうな表情で私を見る先輩。普段なら私の買い物に付き合わせるパターンなのでそう思われてしまっても仕方が無いけども、そこまで意外そうにしなくてもいいんじゃないでしょうか。
「せっかくのデートなので、記念にです」
「なんの記念なんだか……」
先輩にとってはデートと言うより私の我が儘に付き合ってる度合いが強いのだろうが、私にとっては正真正銘、嘘偽りなく先輩とのデート記念なのだ。ちなみに、高校時代のアレは、半分仕事だったので今日が初デートという扱いになる。
「先輩はもうちょっと女の子の扱いを勉強した方が良いですよ? 妹扱いばかりじゃ、モテないですから」
「別に妹扱いした覚えはないんだがな……」
「先輩にそのつもりが無くても、妹扱いされてるように感じるんです、私は」
「分かったから大声を出すな。周りから変な目で見られてるぞ」
「変な目で見られるのなんて慣れっこなんじゃないんですか?」
「いや、お前が見られてるんだって……」
本気で呆れてるような表情で私にツッコミを入れ、頭を抑える先輩。やっぱりお兄ちゃんが妹にするように感じてしまう仕草をしている。私、お兄ちゃんいないけど。
「兎に角電車が来たから乗るぞ」
「そうですね。何時までも駅で先輩と漫才してるわけにもいきませんしね」
「漫才をしてた覚えはない」
「まぁまぁ、先輩なら出ただけで笑ってもらえる顔してますから」
「お前な……」
また呆れられてしまいましたが、先輩があからさまに意識してくれているのでこれはこれで善いものだと思おう。ちゃんと私のことは妹じゃないって分かってるので、本気で異性として見ていないこともないのだろうし。
「高校時代から数えて、お前と出かけるのは何回目だ?」
「どうでしょうね? 結構みんなで出かけたりもしましたし、お手伝いってことで一緒に帰ったりもしてましたから」
「手伝いというか、半強制だっただろうが」
「そんなことないですよ~。というか、先輩たちの部活を考えれば、あれはお手伝いじゃなくて部活動なんじゃないですか?」
「そもそも俺は自分の意志で入部したわけじゃないんだが」
「今更そんなこと言って文句を言われてもどうしようもありませんよ。あっ、だったら私が代わりに先輩にご奉仕しましょうか?」
「いらん。というか、周りに勘違いされるように誘導するな」
先輩は私の意図に気付いたようだけども、『ご奉仕』と言われればどのように感じるか、想像するのは難しくない。私がメイドなら普通の意味に取られるだろうが、私と先輩はどっからどう見ても従者と主ではないので「そういった感じ」に考えてしまうのも仕方が無いだろう。
「先輩は変なところで真面目ですよね」
「お前にはそう言われっぱなしだな」
「だって、どっからどう見ても不良学生っぽかったのに、意外と仕事はできますし、細かいことによく気が付きますし」
実際私が無事に生徒会長を務められたのは、先輩のサポートがあったからだと言って差し支えないだろう。だって、私一人だったら問題に直面した時点で諦めていただろうし。
「というか先輩」
「何だよ」
「せっかくのデートなのに、会話がそれらしくありません!」
「仕方ないだろ。実際に付き合ってるわけじゃないんだから。日常会話の延長程度しか話せないだろ?」
「そこはもうちょっと頑張ってくださいよ。こんなに可愛い後輩と休日デートなんですよ?」
「はいはい可愛い可愛い」
「心が篭ってないです!」
おざなりに言われたけども、先輩に可愛いと言ってもらえるのは嬉しい。これをしっかりとした場面で言ってもらえたら、私はどうなるか分からないくらいに。
「というか、お前は異性に『可愛い』だなんて、言われ慣れてるんじゃないのか?」
「そんな風に見えます? 先輩は私の素の部分、よく知ってますよね?」
「よくって程知ってるつもりはねぇけどな」
一部の頭の悪そうな男子からはもてはやされていたけども、その反面で私のことを悪く言う男子も大勢いた。いや、男子以外に女子もか……そうでなければ、嫌がらせで立候補なんてさせられなかっただろうし。
「(そういえば、私の素を知ってもしっかりと付き合ってくれた人は、先輩が初めてかもしれない)」
中学時代は勝手に私のことをアイドル扱いして、素の私を知って絶望した男子もいたくらいだったので、高校では素の部分を知られないようにしようとしていた。だがその所為で嫌がらせの対象になり、他に候補者のいない選挙に立候補させられてしまったのだ。
その時に前任の生徒会長と一緒に職員室に相談しに行って、奉仕部にたどり着いたのだ。あれが無かったら、私と先輩との間に接点は無かったのかもしれない。
「(今更ながら、私に嫌がらせをした奴らには感謝しなければいけないのかもしれない)」
あの嫌がらせのお陰で、私は先輩との接点を持てた。その後も生徒会長にした責任を取ってもらうという名目で先輩に仕事を手伝ってもらえた。葉山先輩との関係をどうにかするのにも、この先輩は手を貸してくれた――手というよりかは知恵かもしれないけど。
普通それ程仲良くない後輩の恋愛相談など乗らないだろう。ましてこの人は中学時代に勘違いから告白し、それを周りに言いふらされるという異性にトラウマ級の思い出があるのにも拘わらず。
「一色?」
「ねぇ先輩」
「何だ」
「今日だけ……今日だけで良いので、私のことを名前で呼んでください」
「いきなりなんだよ……」
「だって、デートなんですよ? 今日だけは、先輩に名前で呼んでほしいです」
どうでもいい相手なら、ここで上目遣いでもしてあざとくアピールするのだが、先輩に対してそれは使えない。たとえ使えたとしても使わなかっただろう。だってこれは、紛れもなく『本物』の気持ちだから。
「ダメ…ですか……?」
「……はぁ、今日だけだからな」
普段なら「あざとい」と言われて終わっただろうが、先輩は私が冗談やからかいで頼んでいるのではないというのに気付いて、私の気持ちを汲んでくれた。
「本当ですか!? やっぱり無しはダメですからね?」
「分かったって」
「じゃあ、呼んでみてください」
せっかく先輩に名前で呼んでもらえるというのに、この人はテキトーにはぐらかして終わりにしてしまうと私の勘が働いたので、早速最速する。
「……いろは」
「はい!」
以前部屋で呼んでもらったことはあったけども、こうして真剣な目で先輩に名前を呼んでもらったのは初めてだ。この人は、自分がどんな顔をしているのか分かっていないだろうけども。
「前にも言ったが、異性を名前呼びなんて俺にはハードルが高いんだが」
「でも、鶴見留美さんのことは名前で呼んでましたよね?」
「留美はそう呼ばないと反応しなかったからな。お前とか、そういう呼ばれ方は嫌だと言われたし、苗字も嫌そうだったから」
「やっぱり先輩は年下好きなんですか?」
「そんなつもりは無いんだがな」
「でも、小町ちゃんも然り、留美さんも然り、先輩が甘やかしてる相手って年下女子ですよね?」
「別に甘やかしてるつもりは無いんだがな」
その中に私も入っているのかもしれませんが、あの面子だと絶対に妹扱いになってしまうので自分の名前は出さなかった。私は先輩に妹扱いしてもらいたいわけではないから。
「というか一色」
「………」
「いろは」
「何ですか?」
「何処で下りるんだ?」
「えっ? あっ……」
先輩に言われるまで気付かなかったが、目的の駅は既に通り過ぎていた。先輩との関係を進展させるのに必死で、目的地を忘れるとは……何たる不覚。
「とりあえず、次で下りましょう。そして、逆方向の電車に乗り直しです」
「しっかりしてくれ……」
思いっきり呆れられてしまったけども、少しでも先輩と長く二人きりでいたいって思ってたんですから、もうちょっと乙女心を理解してくださいよね
浮かれすぎです
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次の催促
まさか目的地を通り過ぎてしまうとは思わなかったが、無事に先輩をコーディネートすることはできた。先輩本人はあまり興味なさそうでしたけども、この人は普段ちゃんとしていないだけで、磨けばカッコいい部類に入る人だ。店員さんがやたら先輩に視線を向けていたのは、業務上の興味だけではなかっただろう。
「先輩、これからはその服を基準に考えてくださいね?」
「めんどい……着られれば何でもいいだろ」
「ダメです! 先輩はやる気を出せば立派な人間になれるんですから、服装でもやる気を出してください」
そして私の隣に――などと言えるはずもない。異性にフラれるのはかなり堪えるということは、葉山先輩にフラれた時に学習している。まして今回は本気で好きになった相手。フラれると分かっているのに特攻なんてできるはずもない。
私が何かを言いたげな表情をしていたのに気付いたのか、先輩はなにか探るような視線を向けてきているが、それが何なのか分からない様で追及はしてこなかった。
「それで、この後はどうするんだ?」
「どっかでご飯を食べましょうよ」
「それじゃあそこのファミレスで――」
「却下。先輩、今はデートなんですよ? 高校時代でも嫌がられたんですよね? 大学生にもなってデートでファミレスって」
「何なんだよ……」
以前結衣先輩から聞いたことがある。偶々私が遭遇したあの日、先輩は折本さんたちにファミレスをバカにされたと。
「(まぁ、お金があるわけでもないですから、ファミレスでも良いんですけど)」
せっかく先輩とデートだというのに、普段から行ける場所と言うのはいただけない。こういう時にしか行けないような場所に行ってみたいと思うのは仕方が無いだろう。
「先輩、あの店にしましょう」
「えぇ……」
「あの店のカップル限定メニューを注文すれば、少しはデートだという自覚が出てくるのでは?」
「そんな自覚出てこなくていいって……」
「ほら、いい加減覚悟を決めてくださいって」
体格差があるので私の力では先輩を引きずっていけるわけがないのだが、暫く引っ張っていると先輩は諦めたように引きずられてくれる。
「漸く諦めてくれたんですね」
「周囲の目がな……」
「?」
先輩に言われて周りを見回すと、生温かい目を向けてくる人や、嫉妬の感情が篭った視線を突きさしてくる人など、さまざまな思いをぶつけてきていた。先輩に集中していたからとはいえ、これ程の視線を向けられて気付けないとは……
「私たちって、どんな風に見られているんですかね?」
「我が儘な後輩に振り回される可哀想な先輩」
「何ですかそれー! ひねくれた先輩を更生させる健気な後輩でしょうが!」
本当なら恋人同士と言いたかったが、そんな風には見られていないのは分かっている。どう見ても私が先輩に我が儘を言っているような光景にしか見えなかっただろうし、先輩には私に対する好意の情が感じられない。それも合わさって、お世辞にも恋人と言える雰囲気ではなかっただろうし。
「というか一色」
「………」
「いろは」
「何ですか?」
「本当にこの店に入るのか? 正気で?」
「ここまできて怖気づくのは無しですって」
確かに店内にはラブラブなカップルが大勢見受けられる。普段なら舌打ちしそうな空気が漂っているけども、今だけは私だってその空気の中に突撃できる――はず。
先輩を伴って店内に入ると、早速他のカップルたちがイチャイチャしているのが目に入ってきて思わず後退る。だが、ここで引くわけにはいかない。
「先輩、顔が引きつってますよ」
「いろはこそ、目が笑ってないぞ」
自分で入ると言った手前今更無しとは言えない。だが想像以上にこの空間は居心地が悪いのだ。多少目に殺気が宿ってしまっても仕方が無いだろう。
「とりあえず食事を済ませてさっさと出るぞ。この場所は精神衛生上宜しくない」
「そうですね。とりあえずカップル限定メニューを注文して、さっさと食べてしまいましょう」
先輩が自然に名前を呼んでくれたことで、私の殺意はとりあえず収まっていく。この程度で懐柔されるとは何とも安っぽい女だなと思いつつ、地獄のような空間でも先輩がいてくれればとりあえず大丈夫だと思えるくらいにはなれるのかと感心してしまう。自分のことなのに……
「えっと……これって食べさせあえということなのか?」
「妙にお箸もスプーンも長いですし、そういうことなんでしょうね……」
所謂「あーん」というやつをやれということなのだろう。今更ながら、こんな頭の悪そうな店に入ろうなんて提案した自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られつつも、看病以外で先輩に食べさせてもらえる機会など無いだろうという気持ちを懐いている自分もいる。
「先輩からお願いします」
「お、おぉ……」
この後何とも恥ずかしい空気になりながらも、何とかデザートまで完食し、お会計を済ませて店から逃げ出す。割り勘かなと思っていたけども、先輩が払ってくれたのはデートぽかったけども、これからは入るお店はしっかりと見て決めようと思った。
さっきの食事の所為で微妙な空気になりつつも、私は先輩と一緒にゲーセンへ入った。思う存分遊びたいとかではなく、さっきのイライラをどうにかして解消できないかと考えての選択である。
「先輩、格ゲーしましょう」
「ヴァーチャルで人を殴ろうとするな」
「だって!」
「いろはが入るって言ったんだろうが」
「そうですけど……」
あそこまで居心地が悪いとは思っていなかったのだ。自分から提案したので仕方なく突撃したが、そこで強がらずに逃げ出せばよかったと後悔しているのだ。
その後悔を見抜いているのか、先輩は私の頭を撫でながら私の気持ちを宥めようとしてくれている。これも妹扱いっぽいけども、これはこれで悪い気分ではないので抵抗はしていない。
「とりあえず落ち着きました。先輩、すみませんでした」
「落ち着いてくれて良かった」
「そもそも私、格ゲーなんてしたこと無かったですし」
「なら何で――って、そんなにストレスが溜まってたのか」
「そりゃあんな空気に中てられた誰でもイライラするでしょうが」
自分たちもバカップルなら気にならなかったのだろうが、私と先輩の関係はあくまでも先輩後輩。そんな空気を醸し出すことなどできはしないのだ。
「先輩が撫でてくれたお陰で、とりあえず殺意は収まりました」
「物騒なことを言うやつだな……」
「先輩がもう少し私のことを彼女扱いしてくれていれば、あそこまでイラつかなったでしょうけども」
「だったらちゃんと彼女扱いしてくれる相手を探せよな……」
「それなんですよねー。ほら、私って男性恐怖症じゃないですか?」
「同意を求めるな」
確認の形をとっているが、圧力を掛けているのがバレバレなので先輩は私を押し返す。距離が開いてしまって残念だが、ここであからさまに詰め寄れるのは結衣先輩くらいだろう。
「先輩以外の男性とこんなことできないでしょうから、当面は先輩で満足しておこうかなーって」
「戸塚は大丈夫だったじゃないか」
「それじゃあ先輩は、戸塚先輩がこんなことに付き合ってくれるとでも?」
あの人はあの人で忙しい人だ。態々知り合い程度の後輩の気まぐれに付き合ってくれる程暇ではないだろう。
「分かってるなら俺にも遠慮してもらいたいんだが?」
「先輩はほら、私をこんな風にした『責任』があるわけですし」
「まだ言うのかよ……もう十分生徒会長にした責任は果たしただろうが」
「それだけじゃないですけど……」
「何か言ったか?」
「何でもないでーす」
聞こえない程度に言ったので先輩は聞き取れなかったようだ。私が先輩以外の異性がダメになってしまったのは、絶体絶命の場面から救ってもらったからだけではなく、先輩の気持ちの一部を聞いてしまったからでもあるのだ。この人が、あんなことを考えているなんて、考えても見なかったから。
「とりあえず、今度は先輩がデートプランを考えてくださいね?」
「今度があるのかよ……」
「何なら、お持ち帰りしてくれても良いですよ?」
「部屋、隣だろうが」
「そう言うことじゃないですって」
本気でそんなことをされたら怖かったかもしれないけど、この人がそんなことをしないという確信があったから言える冗談。私は笑顔で先輩の肩を叩きながら、本気にされなくて良かったと心の中でホッと息を吐いたのだった。
八幡はお持ち帰りしないだろうな
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踏み込めない理由
帰りの電車はそれなりに混んでいるので、私は行きよりも先輩に身体を密着させる。先輩も事情を知っているので、私が黙って密着してきた時は顔を顰めたが、すぐに他の男性から庇う様な位置に私を移動させてくれた。
「(こういうことができる人なんですよね……普段はやらないみたいですけど)」
贅沢を言うならば、私が密着させる前にしてくれれば満点評価だったのだが、恋人でもないただの後輩にそこまで気を遣うはずもないだろう。だから今のところはこれで十分満点評価しなければいけないのかもしれない。
「(これで満足できないくらい、私は先輩に特別だと思ってもらいたいんだろうな)」
若干妹扱いされている感じも否めないけど、先輩がここまで気を遣っている相手は私の知る限りいない。つまり、ある意味で私は先輩の中で特別、というわけなのだろう。
「(そういえば、電車の中で先輩にくっつくなんて、あの時みたい)」
フラれると分かっていて葉山先輩に告白した帰りの電車の中で、私は先輩にしな垂れかかって先輩を引き留めた。その時も先輩は文句も言わずに――内心ではどうだったかは分からないが――私に付き合ってくれたのだ。
「(この人は、弱った心に付け込もうとか考えないって分かってたから、素直に弱っているところを見せられたんだけど、今思えばあの時付け込んでくれた方が良かったかも)」
そうすれば今より親密な関係になれていたかもしれない。もしかしたら隣同士ではなく同棲していたかもしれない。
「(って、この人がそこまでするわけないか)」
曰く、理性の化け物である先輩だ。弱って簡単に手にかけられる女子がいたとしても、この人は手を出さない。お誘いがあったとしても、自分の中にその人への気持ちが無ければ断るだろう。それくらいこの人は身持ちが堅い。
「一色?」
「………」
「いろは」
「なんですか?」
「何時まで名前呼びを強要するつもりなんだ、お前は……」
「何時までって、今日は名前で呼んでくれる約束ですよ?」
もうデートは終わっているので、先輩としては何時も通りの呼び方に戻したいのだろうが、今日一日は私も譲るつもりは無い。せっかく先輩に名前で呼んでもらえるのだから、可能な限り名前で呼んでもらいたいのだ。
「それで、どうしたんですか、先輩?」
「さっきから黙って人のことをチラチラ見てくるから、何か言いたいことでもあるのかと思ってな」
「私、そんなに先輩のこと見てました?」
完全に無意識だったので、先輩に言われるまで気付かなかった。まさか先輩のことを考えていたからなんて言えるはずも無く、私は無言を貫く。
「先輩、先輩!」
「急に大声を出すな。で、何だよ?」
「せっかくですから、晩御飯も外で食べていきましょうよ」
「何がせっかくなんだよ……」
「だって、これからスーパーに寄って食材を買って、調理するのめんどくさくないですか?」
「一人暮らしなんだから、それくらいしろよ……」
「普段はしてます。ですけど、せっかくなんですから」
先輩としてはさっさと私から解放されたいのかもしれませんけど、私だってそう簡単に解放させてくない。もう少しデートの延長を願うくらい可愛い願いだと思う。
「……何を食べるつもりなんだ? 言っておくが、昼みたいな場所だったらお断りだからな」
「私だってもうあんな空気の中で食事なんてしたくないです。そうですね……」
何かないかと考えを巡らせていると、中吊りにラーメンの広告を見つけた。そう言えば、先輩とラーメン食べに行ったっけ……
「ラーメンなんてどうです?」
「ファミレスは文句言ったくせに、ラーメンはいいのかよ」
「だって、そっちの方が先輩も気が楽でしょう? 奢ってもらうのに、贅沢は言いませんよ」
「しかも俺の奢りかよ……」
文句を言いながらも、先輩は私にお金を払わせるつもりは無いみたいで「自分で出せ」とは言わなかった。本当に嫌な相手ならそんなことしないだろうし、先輩にとって私は、そこまで嫌な相手ではないと分かった。
「(でも、そんなことされると勘違いしちゃいますよ?)」
先輩の気持ちが自分に向いていないことは分かっている。だからできることなら特別扱いして欲しくないのだが、されると喜んでしまうのは仕方が無いことだろう。だって、私は先輩のことが本当に好きなのだから……
先輩とデートしてからというもの、どうしてもあの時のことを思い返してはボーっとしてしまうことが増えている。
「……は」
あの時、もうちょっと先輩にアピールしておけば良かったとか、もうちょっと身体を密着させて意識させてみれば良かったとか、そんなことを。
「ねぇいろはってば!」
「………」
「聞こえてるの?」
「………? 何か言った?」
「はぁ……全く聞いてなかったみたいね」
さっきから友達に呼ばれていたようだが、私の意識はそちらに向いていなかった。だから何を話していたのかなど分かるはずもない。
「ごめんごめん。それで、何の話?」
「クリスマスよ。彼氏もいない女子で集まってパーティーしない?」
「自分で言ってて悲しくないの?」
「悲しくなんて無いわよ!」
完全なる強がり。常々「彼氏欲しい」って言ってるわけだから、悲しくないはずなんて無いのだ。
「パーティーか……やるのは良いけど、何処で? 当日なんて、何処のお店も混んでるだろうし」
何が哀しくてリア充だらけの場所に女子だけで集まらなければいけないのか。そんな私の言外のセリフが聞こえたのか、微妙な表情を浮かべながら視線を逸らされた。
「決めてないのね」
「そもそも他の連中は彼氏とデートとかぬかすし、誘えるのはいろはくらいなのよ!」
「結衣先輩は?」
「なんでも『ゆきのんから連絡があって、その辺りに帰って来るみたい』とかなんとか」
「っ」
一人の名前が、私の心を鷲掴みにする。年末くらいは帰ってきてもおかしくないので、雪乃先輩が日本に戻って来ること自体には驚かない。だが今雪乃先輩の名前を聞くと、無条件で先輩のことを考えてしまうのだ。
「そういえば、いろはも知り合いなんだっけ?」
「結衣先輩と一緒で、高校の先輩。海外留学してるから、あまり会えないからね。結衣先輩は誘えないね」
「そうなるとますます二人きりになっちゃう……はぁ、彼氏欲しい」
「毎回言ってるけど、彼氏を作る努力してるの? 私が知る限り、そんな努力してないように見えるけど」
「努力して彼氏ができるなら、この世に独り身の女なんていないのよ」
「なんかゴメン……」
物凄いオーラが見えた気がして、私は思わず頭を下げる。私はそこまで考えていなかったが、やはりクリスマスに彼氏がいないと言うのは心に来るものがあるのだろう。
「いろはこそ、彼氏いないじゃない」
「私はほら、彼氏以前の問題だから」
「あぁ、そう言えばそうだったね。でも、大丈夫な人だっているんでしょ?」
「まぁ、今のところ二人は」
一人は戸塚先輩。あの人はあまり異性を感じさせないのもあるが、中性的な顔立ちで仕草も男っぽくないから変に身構える必要が無いからだ。そしてもう一人は――
「この間会った人たち?」
――先輩だ。あの人相手なら身構えることもない。だがその理由は戸塚先輩とは大きく異なる。
「いいな、いろはは」
「何がよ?」
「恋人候補が二人もいて」
「そう言うんじゃないから」
「でも、意識しないの? 感じは違うけど、二人ともかなりレベル高かったし」
確かにあの二人の見た目はかなりのレベルだろう。だって、あの二人に話しかけられなかった人たちが嫉妬で私と結衣先輩の悪評を流したくらいだ。
「それに、いろはのことも知ってくれているのなら、付き合うのも他の人と比べれば楽でしょ?」
「そう言う感情で付き合うのは良くないと思う」
「真面目ね。私はどんな感情でも良いから、とりあえず彼氏が欲しいのよ」
「はいはい」
私だって先輩と付き合えるのなら付き合いたいし、先輩の彼女になれるのなら感情なんてどうでもいい。だがあの人の好きな人は私ではないのだ。だから、今以上の関係を望むのが怖い。
下手に踏み込んで距離ができるのが怖いんでしょう
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八幡の予定
クリスマスが近づいてくるにつれて、結衣先輩が分かり易く浮かれている。その理由は聞くまでも無く、雪乃先輩が日本に帰って来るからだろう。
「いろはちゃんも一緒に会う? 多分隼人君も一緒だと思うし」
「いえ、先輩たちの再会に私はいらないと思いますし」
そもそも学年が違うのだ。私が会いに行ったところで気まずくなるだけだし、そもそも私は葉山先輩にフラれたのだ。今更未練など無いが、会えば気まずくなるのは私だけではなくあちらもそうだろう。
「そうかな? ヒッキーも誘ったんだけどバイトだって断られちゃったんだよね」
「先輩、断ったんですか?」
「そうなんだよー。せっかくまた一緒にクリスマスを過ごせると思ってたのに」
雪乃先輩に会えるのだから、先輩は何が何でもその用事を優先すると思っていたのだけど、どうやら違っていたようだ。それにしても、想い人に会えるというのにそんなにバイトが大事なのだろうか……
「いろはちゃんはクリスマスどうするの?」
「友人に誘われてるんですけど、彼氏ができない愚痴を永遠に聞かされそうなので家でのんびりしてようかなって思ってます」
「それじゃあバイト終わりのヒッキーと遊べば? 確か彩ちゃんたちがヒッキーの部屋でクリスマスパーティーするって言ってたから」
「何故結衣先輩がそのことを知ってるんですか?」
「実は彩ちゃんもゆきのんが帰って来るから会わないか誘ったんだけどね。あまり接点がなかったからって断られちゃって」
確かに戸塚先輩と雪乃先輩はあまり関係が深くない。先輩が間に入れば繋がりがある程度の関係と言っても過言ではないかもしれない。
「その時に彩ちゃんから聞いたんだ~。男だけで寂しくクリスマスパーティーするって」
「男だけってことは、あの四人ですかね?」
「そうみたい。ヒッキーと彩ちゃん、厨二さんと玉縄君の四人」
「後の二人は兎も角、先輩や戸塚先輩は彼女がいても不思議じゃないのに」
自分で言っていてチクリと心に棘が刺さったような気がする。私は先輩に彼女がいる光景など見たくない。
「ヒッキーは人間不信だし、彩ちゃんもあの見た目だからね~。何でも女の子の方が自信喪失しちゃうらしいって聞いたよ」
「誰からです?」
「ヒッキーが相談されたんだって、他のテニスサークルの女子から」
「あぁ、なるほど」
戸塚先輩は整った顔立ちをしているし、ユニセックスな服装をしていることが多い。下手な女子大生よりよっぽど可愛ら良いので、女子が自信を失ってしまっても不思議ではない。それ故に彼女が作れないのだろう。
「私もヒッキーたちと一緒が良かったけど、ゆきのんとも会いたいし」
「雪乃先輩を連れて先輩の部屋に行けばいいのでは?」
「それも考えたんだけど、ゆきのんがヒッキーと会うの気まずいって」
「雪乃先輩の夢の為に、自分をフッた相手だからですか?」
「それもあるけど、家の関係で隼人君と付き合ってるから、他の異性と会うとお母さんがうるさいんだって」
「そ、そうなんですか」
雪乃先輩のお母さんは、私も見たことがある。プロムの際に保護者代表として反対してきた時、先輩が対応してくれたので、私は直接対決していないが、かなり厄介な相手だ。
「(先輩は雪乃先輩のことが好きなはずなのに、家の事情で雪乃先輩は葉山先輩と……何だか物語の設定みたいな関係ですね)」
これで先輩が雪乃先輩と付き合うことは無いとホッとしたが、だからといって先輩が私に好意を向けてくれるかどうかは分からない。むしろますます人間不信が加速して、誰とも付き合わないとでも言いだしそうな勢いだ。
「とりあえず、今度先輩に参加して良いか聞いてみます」
「そうしなよ~。まぁ、最悪彩ちゃんにお願いしてからヒッキーに言えば、絶対に参加できると思うから」
「先輩、戸塚先輩の言うことは素直に聞きますしね」
最近戸塚先輩と会う機会も減っているのだが、あの先輩が戸塚先輩と険悪になったとは思えないので、戸塚先輩を味方に付ければとりあえず先輩の部屋に行くことはできるだろう。そう思い私は先輩に断られたら戸塚先輩に泣きついて参加させてもらおうと計画を練るのだった。
結衣先輩から話を聞いた夜、私は先輩の部屋に押し入ってクリスマスの話題を振る。
「先輩、クリスマスはバイトなんですってね」
「由比ヶ浜から聞いたのか」
「せっかく雪乃先輩が戻って来るのに、会えないなんてかわいそうですね」
ここで悲しそうな顔をされたら困ってしまっただろうが、先輩は表情一つ変えずに私の真意を尋ねてきた。
「俺が雪ノ下と会えないのが何故可哀想だと思うんだ?」
「だって、久しぶりの奉仕部集合なんですよね?」
「別段会いたいとは思わないがな。雪ノ下の毒舌を聞かされるくらいなら、玉縄のくだらない話を聞き流してる方が楽だ」
「そうなんですか? でも先輩は雪乃先輩のことが――いえ、何でもないです」
好きなのでは、と言いそうになったが何とか留まる。分かり切ったことを聞きたくなかったと言うのもあるが、ここで先輩に不快に思われたらクリスマスパーティーに参加させてもらえなくなってしまうと思ったからだ。
「それで、わざわざそんなことを言いに人の部屋に入ってきたのか? 合鍵まで使って」
「先輩が素直に家に入れてくれなかったからじゃないですかー」
私が訪ねてきたら鍵を掛けたので、私は合鍵で先輩の部屋に侵入したのだ。不法侵入とか言われても先輩からもらった――預かっただけなのだが――鍵なので問題は無い。
「そうじゃなくて、私もクリスマスパーティーに参加させてください」
「は、何で?」
「私も予定ないんですよー。だから、先輩たちのパーティーに参加したいなーって」
「別に良いが、戸塚は兎も角材木座と玉縄は大丈夫なのか?」
「先輩と戸塚先輩の側に居れば大丈夫かと。玉縄さんは私の事情を知っていますし、材木座先輩はそもそも近づいてきませんし」
「そういえばそうだったな」
玉縄さんには以前、映画を観に行った際に説明したし、材木座先輩は高校時代から私に近づこうとはしないので、そもそも心配する必要が無い。そして何より、先輩と戸塚先輩がいれば私は自分の体質を心配する必要がだいぶ無くなるので、あの二人を理由に先輩と一緒にいられなくなるなんて絶対に許容できない。最悪、あの二人を部屋から追い出してでも私は先輩とのパーティーに参加してやろうとすら思っている。
「一色が参加する旨は戸塚に話しておくから、準備から参加したらどうだ? 部屋でノンビリ過ごしてるよりかはマシだと思うぞ」
「そうですね、せっかく合鍵があるわけですから、戸塚先輩たちと一緒に先輩の部屋を飾り付けましょうか」
「てか、合鍵を返せ」
「やでーす」
先輩の力なら、私から鍵を奪い返すなんて容易い。だがそれをしないということは、先輩も本気で鍵を返せと言っているわけではないのだろう。
「(でも、どうして?)」
ただの後輩でしかない私に合鍵を持たせておく理由は? 私が先輩の部屋を漁るかもしれないと思わないのだろうか?
「(心配してないんだろうな……その点では、私は先輩に信頼されているのだろう)」
「一色? 急に考え込んでどうしたんだ?」
「何でもないですよ。というか先輩、部屋では名前で呼んでくれる約束ですよね?」
「は? そんな約束――あぁ、あの時の……」
「外で呼べたんですから、部屋の中なんて余裕ですよね?」
「どうして名前で呼んでもらうことに拘るんだ、お前は? 玉縄が呼んでる時は嫌そうな顔をしてるじゃないか」
「あれは、私の許可無く勝手に呼んでるからですよ。先輩には、私からお願いしてるので事情が違います」
「何なんだよ……」
この後は何時も通りの遣り取りだったが、とりあえずクリスマスに先輩の部屋で過ごす権利を得たので善しとしよう。
古い約束を引っ張り出すいろは
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最大のライバル?
クリスマスイブ当日、先輩はお昼から夜にかけてバイトを掛け持ちするので不在だが、先輩の部屋でパーティーをするのでその準備の為に夕方から戸塚先輩たちがやって来る。本来であれば先輩の部屋の合鍵は戸塚先輩が知っている場所に置いてあるのだが、今は私が持っているので戸塚先輩にメッセージを送っておいた。
他の男の人であれば邪推されそうな内容のメッセージを送ったのだが、戸塚先輩は純粋に私が先輩から鍵を預かっているのだろうと受け取ってくれた。
「何か罪悪感……」
純粋な戸塚先輩を騙している気がしてきて、私は心の中で戸塚先輩に謝罪する。
「そもそもクリスマスイブにバイトなんてしてる先輩が悪いってことにしておきましょう」
先輩が在宅であれば合鍵の問題も無く、私が戸塚先輩に嘘を吐く必要も無かった。そんな責任転嫁をして自分を誤魔化してみたが、やはり罪悪感は薄れなかった。
「私が先輩に合鍵を返せば丸く収まるんでしょうけども……」
せっかく手に入れた先輩の部屋の合鍵を返すなんて考えたくない。先輩からは再三「返せ」と言われているのだが、本気で怒られていないので返していない。もし先輩が本気で「返せ」と言ってきたら素直に返すのだが、あの人はなんだかんだで私が合鍵を持っていることを許容してくれているのだ。
「でも、どうして?」
ふとそんな疑問が私の中に芽生える。男性の先輩が女子の私から鍵を取り返すなんて難しいことではない。まして私は男性恐怖症である前に小柄なので、先輩が本気になれば簡単に鍵を取り返すことができるだろう。
それなのに鍵は私の手の中にある。これはつまり、先輩が本気で鍵を取り返そうとしていないということなのだろう。
先輩は私のことをある程度信用してくれているので、鍵を預けたままでも問題ないと思ってくれているのかもしれないが、もしかしたら別の理由があるのではないか。そんな期待をしてしまう。それが幻想だと分かっているのに、私は鍵を見て浮かれてしまう。
「先輩が私のことを想ってくれているなんて、あり得ないことだって分かってるんだけどな……」
先輩の心の中にいるのは私ではなく雪乃先輩だ。これは結衣先輩に聞いても同じことを答えるだろう。それくらい雪乃先輩の存在はあの人の中で大きいのだろう。
だが雪乃先輩は今葉山先輩とお付き合いしているらしい。家の都合とはいえ雪乃先輩が別の男性とお付き合いしている今、先輩の中に私という存在を大きくするチャンスではないか。
「とりあえず妹扱いは脱却しなきゃ、先なんてありませんけどね」
普通に考えて妹は異性として見ないだろう。つまり妹扱いされている内は異性として見られていないということ。高校時代冗談で妹扱いする男は――なんて話をしたことがありましたが、あの人の中の妹は完全に異性とは違う対象だということが分かっている。
「はぁ……」
思わずため息を吐いてしまったが、そろそろ戸塚先輩がやって来る時間だと気付き慌てて心を落ち着かせる。戸塚先輩は私の気持ちを知らないが、あの人は鈍くないのでモヤモヤした気持ちで対峙したらすぐに悩み事があると見抜かれてしまう。そうしたら誤魔化せる自信が無いし、そこから先輩に私の気持ちが知られてしまうかもしれない。
一瞬それもいいかもしれないと思ったが、どうせなら自分の気持ちは自分でちゃんと伝えたい。たとえそれが叶わぬ想いだとしてもだ。
「よしっ!」
目一杯伸びをして気合いを入れ、私は部屋の前に出る。戸塚先輩のことだから約束の時間に遅れる時はちゃんと連絡してくるだろう。そう思って五分前に部屋に出たのだが、私が出てすぐに戸塚先輩がやってきた。
「お待たせ」
「いえ、私も今出てきたところですので」
嘘偽りなく本音なのだが、何だか待ち合わせのカップルのような気がしてきて恥ずかしい。私はその気持ちを誤魔化す為に先輩の部屋の合鍵を出し、戸塚先輩を先輩の部屋へ案内したのだった。
戸塚先輩と準備をしていると、玉縄さんと材木座先輩がやってきた。そもそもこの面子では料理ができる人間がいないので、出来合いの物を持ち寄るだけなのでさほど準備など必要ないのだ。
「やぁ、いろはちゃん」
「お久しぶりです」
相変わらず人のことを勝手に名前で呼ぶ人ですね……もしはっきりと言って良いのならこの場で文句を言いたいくらいです。ですけど、今日という日を考えれば、この場で険悪な空気にするのは避けなきゃいけないですよね……何しろ、私が後から参加してるわけですから。
「八幡はそろそろ帰ってくると思うから、とりあえず部屋で待ってようよ」
「そうだね。比企谷は最近付き合いが悪くて困ってるんだ。戸塚君はどうだい?」
「八幡はいろいろと忙しいからね。僕もサークルの手伝いを頼みにくくなってるって先輩から愚痴られるくらいだよ」
「我もなかなか八幡に頼みごとをし辛くてな。最近は相手にしてくれなくて困っていたところだ」
戸塚先輩は兎も角として、先輩が玉縄さんや材木座先輩の相手をまともにするとは考え難い。腐れ縁ということでお付き合いは続いているようだけども、先輩の中で優先度は低いんだろうな。
「いろはちゃんは、最近比企谷とどうだい?」
「どうって言われましても、先輩は忙しそうだなーって感じですかね」
私と先輩の関係は、あくまで隣人。高校の先輩後輩でしかない。そこに特別な関係があるとでも思っているのでしょうか、この人は……
「ところで、三人はクリスマスイブにデートする相手、いないんですか?」
完全なる嫌がらせの質問だが、玉縄さんを黙らせるのには抜群の効果があった。最初から興味のない材木座先輩は兎も角、戸塚先輩もちょっと顔を引きつらせている。
「いたら比企谷の部屋に集まろうなんてしないよね」
「ま、まぁ……僕はテニスサークルの方でも誘われてたんだけど、せっかく八幡と遊べる機会が来たからこっちを選んだんだ」
「我は三次元のイベントになぞ興味なかったが、八幡といられるから参加した」
「えぇ……」
内容だけ聞けば戸塚先輩と材木座先輩は先輩狙いと聞こえなくもない。だがこの二人は純粋に先輩と会えていなかったから会いたかったという気持ちなのだろう……そも思っておかないと平静を保てない。
「いろはちゃんこそ、わざわざこっちに参加しなくてもお誘いがあったんじゃないかい?」
「ありましたけど、下心むき出しで誘われても嬉しくないですし、かといって女子だけで集まるのも寂しいですからねー。先輩の部屋でクリスマスパーティーするって結衣先輩から聞いて、せっかくなら参加させてもらおうって思ったんですよ」
「まぁ、一色さんがいてくれれば華やかになるだろうし、八幡も許可してるんだしね」
先輩は最初難色を示していたのだが、私が本気でお願いしたので参加を許可してくれたのだ。というか、そもそも先輩はクリスマスパーティー自体に難色を示していたのだが、そこは戸塚先輩パワーでどうにかしたようだ。
「それにしても、いろはちゃんと再会してもう結構経つんだね」
「そうですね。私が引っ越してきた日に再会したわけですから、もう結構経ってますね」
「まさか八幡の隣の部屋に一色さんが引っ越してきたとはね。前から誰か引っ越してくるとは聞いてたんだけどさ」
「私もまさか自分の部屋の隣に先輩が暮らしてるなんて思っても見ませんでしたよ。運命ですかね?」
冗談のように言っているが、私としては運命でも良いと思っている。先輩からしたら
「比企谷といろはちゃんは赤い糸で結ばれているのかい?」
「どうなんですかねー? あんな捻くれた人とつながってる人なんているんですかね?」
「確かに八幡は捻くれてるけど、それだけじゃないって一色さんも知ってるよね?」
「そう、ですね……」
何となく戸塚先輩から圧が掛けられたので、私は少し引き気味に答える。やはりこの人は先輩のことを好きなのだろうな――いろいろな意味で。
「うわ、ほんとにいるよ……」
「先輩、お帰りなさい」
私が戸塚先輩に対して気まずさを感じてるタイミングで先輩が帰ってきた。私はそそくさと先輩の出迎えに向かい、戸塚先輩も私に向けていた圧を消してくれた。ほんと、ナイスタイミングです、先輩。
戸塚が怒ったら怖そう……
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援護射撃の申し出
先輩が帰ってきたので私はすかさず先輩の腕を掴み自分の隣に座らせる。この人のことだから自由に座らせたら戸塚先輩の隣に座るだろうし。
「先輩、遅かったですね」
「そうか? まぁ食材とか買ってきたからな」
「八幡は用意しなくていいって言ったんだけどな」
「そういうわけにもいかないだろ? 玉縄や材木座は兎も角、戸塚や一色はいろいろと準備したみたいだし」
「おい、僕だって準備したぞ」
玉縄さんの抗議をまるっと無視して、先輩は座ったばかりだというのに立ち上がりキッチンへ消えていく。この面子で料理ができるのは先輩だけなので仕方が無いかもしれないけど、もう少し私の隣にいてくれても良かったのではないだろうか。
「とりあえず比企谷の準備が終わったら乾杯と行こうか」
「全員ジュースなんですね」
「悪酔いするかもしれないだろ? いろはちゃんもいるから止めとけと比企谷に言われてね」
「そうなんですか?」
私はキッチンにいる先輩に声を掛けると、先輩は無言で頷いた。恐らく私がいなくてもお酒は許可しなかったかもしれないけど、こうした気遣いは本当に嬉しい。些細なことでも先輩が私のことを考えてくれているから。
「それじゃあ比企谷の準備も終わったことだし、ここはいろはちゃんに音頭をお願いしようかな」
「私ですか? 玉縄さんがすればいいじゃないですか」
何で私に振るのか分からない。はっきり言って玉縄さんに面倒事を押し付けられた気がして、私は無愛想な表情で反射的に答えてしまう。
「まぁ、僕が音頭を取るよりいろはちゃんが音頭を取った方が盛り上がるかなと思っただけだから」
「盛り上がるも何も、別に普通で良いだろ。何時も通り、ただ集まっただけみたいな感じで」
「でもせっかくのクリスマスなんだし――」
「だったらいい加減折本に告白して恋人と過ごせばいいだろ。何時までもヘタレてないでいい加減覚悟を決めれば良いものを」
先輩にバッサリと斬り捨てられ、玉縄さんはガックシと肩を落とす。ここまではっきり言われたらさすがの玉縄さんも反論出来なかったのだろう。
「恋人と言えば八幡。以前我が偶々見てしまった女子からの告白はどうしたのだ? 確か保留にしてたはずだが」
「っ!?」
材木座先輩の言葉に肩を跳ねさせる。先輩がモテているのは知っていたが、私が知らないところで告白されていたとは……
「とっくに断ったに決まってるだろ。あの時はお前がいたから保留にしただけで、その場で断るつもりだったんだから」
「そうなのか? 我が言うのもなんだが、結構可愛い感じだったではないか」
「良く知らない相手に告白されても困るだろ?」
「そうなのか?」
先輩の発言に、材木座先輩と玉縄さんは首を傾げ、戸塚先輩は苦笑いを浮かべる。多分だが、戸塚先輩は経験したことがあるから先輩の考えが理解でき、他の二人は経験がないから分からないのだろう。
「そういえば八幡は気になってる人がいるからっていう理由で断ってるんだよね」
「それが一番角が立たない断り方だからな」
実際先輩が誰かを想っているかどうかは分からないけども、確かにそう言われればあきらめがつくかもしれない。
「だが比企谷が誰かを好きになることなんてあるのか? それ程付き合いが長いわけではないけど、恋愛に興味があるようには見えないんだが」
「興味はないが、何時までも独りで生きるつもりもない。タイミングが合えば誰かと付き合うこともあるだろうよ」
「まぁ先輩は中学時代のトラウマから人間不信になってましたからね」
折本さんに関するトラウマの所為で、先輩は人からの好意に疑いを持つようになってしまっている。今でこそ多少は素直に受け入れられるようにはなっているようだが、それでも全面的に人を――もっと言えば異性を信用していない。
「人のトラウマのことを弄る余裕があるなら、お前も自分のトラウマと向き合ったらどうだ? いい加減俺以外の大丈夫な相手を探せ」
「探してはいるんですけど、先輩程使いやすい――安心できる相手ってなかなかいないんですよね」
「本音を隠すつもりもないだろ、お前……」
「普段から本音で話してるじゃないですか。先輩大好きって」
「はいはい」
全く以て信じてくれていないようだが、これは紛れもない本心だ。だが一度たりとも正面から受け止めてもらえたことが無い。
こればっかりは私も悪いのだが、先輩への好意を素直に伝えられなかったから冗談だと思われてしまうのだ。
「(冗談じゃないんだけどな……)」
異性に対するトラウマ云々が無くても、私は先輩以外の男性を好きになることは無いだろう。高校の時から今まで、先輩のことが好きと自覚してから他の男子のことなど考えられなかった。それこそ、葉山先輩に付きまとっていた時以上にだ。まぁ、あの恋は本気ではなかったと言えばそうなのだが、それでも結構本気でフラれた時は悲しかったくらいには思い入れがあったものだ。
「八幡も戸塚殿もモテるようだが、恋人など作られたら我も誘いにくくなるからな。暫くは恋人など作らないで欲しい」
「お前の為ではないが、当分は付き合うつもりは無いから安心しろ」
「僕も、とりあえずは恋人は作らないつもりだよ」
材木座先輩の願いを叶えるつもりではないのだろうが、先輩も戸塚先輩も恋人を作るつもりは無いらしい。それはつまり私も先輩と付き合えないということなのだが、先輩が誰かと付き合わないと分かって安心してしまった。
「(当分はそれで良いのかもしれない)」
先に進めないということなのだが、先が無くなるよりかは全然いい。だから私はとりあえず先輩に恋人ができるまではこの関係を続けたいと願うのだった。
ある程度の盛り上がりはあったけども、特にこれといった進展は無かった。だが先輩が誰かと付き合うつもりは無いと分かっただけでも収穫だと思おう。
「一色さん、ちょっといいかな?」
「はい、何ですか?」
戸塚先輩に手招きされ、私は先輩の部屋から外へ出る。
「さっきの告白だけど、結構本気だよね?」
「な、ナンノコトデスカ?」
戸塚先輩に確信を突かれて、思わず片言になってしまった。
「隠さなくてもいいって。僕は一色さんの気持ちを知ってるわけだから」
「そうでしたね」
以前雪乃先輩関係の話を聞いた時、戸塚先輩に相談したのだ。その時に具体的な名前は伏せたのだが、戸塚先輩には全部知られてしまったのだった。
「確かに私は先輩のことが本気で好きです。高校の時は冗談で告白したりもしましたけど、さっきのは正真正銘本心でした。でも先輩には冗談だと思われちゃったみたいですけど」
「まぁ、八幡も色々と捻くれちゃってるから仕方ないけど、それでも一色さんのことはちゃんと考えていると僕は思うよ」
「そうなんですか? 何時までも妹扱いのような気がしますけど」
小町ちゃんと比べればそうでもないのかもしれないけど、どうしても妹扱いされている気分が拭えない。デートしていても彼女扱いしてくれないので、先輩は私に興味がないと思っていたのだが、戸塚先輩から見たら私は先輩に想われているように見えるようだ。
「妹扱いかもしれないけど、八幡がちゃんと女の子の相手をするのは珍しいからね。サークルの女子も必要最低限以外の会話はしてないから」
「まぁ、先輩ですからね」
必要以上の相手はしないのが先輩だ。つまり先輩にとって、私は必要な相手ということなのだろう。
「もし一色さんが本気で八幡と付き合うつもりがあるなら、僕は応援するからね」
「ありがとうございます。でも戸塚先輩にはあくまでも公平な立場でいて欲しいんですよね」
「公平な立場?」
「結衣先輩も、先輩のことが好きですから。恐らく私以上に」
「あぁ、由比ヶ浜さんもそうだったね」
「はい。だから戸塚先輩はどちらかに加担せず、あくまでも公平にお願いします」
「うん、わかったよ」
戸塚先輩に手伝ってもらえれば多少は楽ができるかもしれなかったが、結衣先輩相手に抜け駆けしたくないので、戸塚先輩の申し出は断った。この選択が正しかったかどうかは、私の行動次第なのだろう。
あくまで公平に勝負するいろは
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大きな一歩
戸塚先輩の申し出を断ったのは良いが、そもそも私一人で先輩との関係を進展できるのか……再会してそろそろ一年、高校時代の二年間を加えれば三年、私は後輩以上にはなれていない。
「(先輩が私のことを妹扱いしているのも原因なんですけどね)」
先輩の隣に座りながらそんなことを考えていると、戸塚先輩が同情的な視線を向けてくる。恐らく私が考えていることが理解できているのだろう。
「一色、さっきから人のことを睨みつけているようだが、何か用か?」
「せっかくのクリスマスだっていうのに、先輩は何もプレゼントくれないんですね」
「そもそもそんな風習なんてないからな。男同士で渡すのもあれだったし、一色が参加するって言うのが決まったのも最近だろ? 用意してる時間なんてない」
「だったら明日お出かけしましょうよ。その時に買ってください」
「おねだりするものじゃないだろ」
「そんなことないですよ~。そこはほら、男の甲斐性で」
別に付き合ってるわけじゃないから、先輩がプレゼントを用意してくれてなくても仕方が無い。だがこのまま何もなしで終わってしまったら、戸塚先輩の申し出を断らなければ良かったと思ってしまうだろう。
「八幡、付き合ってあげたら?」
「戸塚まで……」
「比企谷は明日、夕方まで予定がないって言ってたじゃないか。いろはちゃんに付き合ってあげればいいだろ?」
「お前は誘われなかったからって嫌がらせか?」
「そ、そんなわけないだろ」
どうやら玉縄さんは援護射撃ではなく単なる八つ当たりのようだったが、今はそれでもありがたい。戸塚先輩だけではなく玉縄さんにも言われて、先輩は少し考えるような仕草をしてくれている。
「出かけるのは良いが、何故俺が一色にねだられているんだ? 玉縄でも良いだろ」
「嫌です」
「さすがの僕も、ハッキリ言われると傷つくんだけどな」
玉縄さんをバッサリと斬り捨てて、先輩に上目遣いでおねだりする。あざといと言われるかもしれないが、こればっかりは譲れない。
「はぁ……分かったよ」
「本当ですか! 後でやっぱり無しは駄目ですからね!」
「分かった分かった。だから揺するな」
先輩が折れてくれるとは思ってないかったので、感極まって先輩を揺すってしまった。先輩は少し鬱陶しそうに私を払いのけて、コップに残っているジュースを一気に飲み干した。
「しかし八幡はモテるんだな。高校時代、我とペアを組んでいたというのに、何処で差がついてしまったのだ?」
「最初からじゃないですか? 先輩は誤解されやすいだけで、根は良い人でしたし」
「一色、さっきから容赦ないな」
先輩に言われ、私は玉縄さんだけでなく材木座先輩も斬り捨ててしまったと気づく。だが今は先輩以外のことを考えられないくらい、舞い上がってしまっているのだ。
「それじゃあ明日、朝一で部屋にお邪魔しますから」
「はっ? 昼からで十分だろ?」
「せっかくのデートなんですから、目一杯楽しみましょうね」
「人の話を――」
「それじゃあ、お休みなさい」
先輩はまだ何か言いたげだったが、私はさっさと切り上げて隣の部屋へと戻る。ここで下手に居座って約束自体を無効にされたくなかったのもあるが、これ以上自分の頬が緩まないように堪えるのができなくなってきたからでもある。
「まさかOKしてくれるなんて。戸塚先輩には感謝ですね」
玉縄さんも援護してくれたが、私が感謝するのは戸塚先輩のみ。だってあの人は折本さんを誘えなかった鬱憤を先輩で晴らそうとしただけだから。
目が覚めてすぐ、私は目一杯のおしゃれをして先輩の部屋を訪ねる。この間のデートとは違い、今回はちゃんと可愛いって言わせたかったから。
「せーんぱい」
「……今何時だと思ってるんだ?」
「朝の七時ですよ。普段ならとっくに起きてる時間ですよね?」
「こんな時間からやってる店がどれだけあると思ってるんだ、お前」
「まぁまぁ、細かいことは気にしないでください」
先輩の言う通り、この時間から出かけてもお店はやっていないだろう。だが一分一秒でも長く先輩と一緒にいたいという気持ちを抑えきれなかった。
「とりあえず入れてください」
「……ほら」
チェーンロックを外して部屋に招き入れてくれた先輩。さすがに昨日の片付けをしていないということは無かったが、まだ本格的に動いていなかったようで何処か眠そうだ。
「コーヒー淹れるが飲むか?」
「いただきまーす。あっ、お砂糖とミルクたっぷりでお願いします」
高校時代の先輩はマックスコーヒーという、めちゃくちゃ甘いコーヒーを好んで飲んでいたけど、今はブラックで飲むことが多い。だからちゃんとリクエストしておかないと私にもブラックで出してくるかもしれないと思ったのだ。
「ほら。それで、お前は何が欲しいんだ?」
「先輩、今は二人っきりなんですから……ね?」
「ね、じゃないだろうが……」
少しでも後輩――妹扱いからステップアップしたくて、今日の私はぐいぐい行くと決めているのだ。だから部屋の中だけでも名前で呼んでもらおうと必死になっているのが先輩にも伝わっている。
「いろはは何か欲しいものでもあるのか? 予算があるからあまり高い物は無理だが」
「そうですね……アクセサリーなんていいんじゃないですか?」
「その辺のセンスは無いから、いろはが自分で選んでくれ。俺は金だけ出す」
「せっかくなんですから、先輩も一緒に選んでくださいよ。何だったら、ペアとかでも良いですよ?」
「今日はなんだか何時もと違うな……何だか調子が狂う」
どうやら先輩も私をどう扱えばいいのかに悩んでいるようだ。何時もなら「からかうな」くらい言われそうだったけど、私が冗談ではなく本気で言っているのが伝わっているのだろう。
「ペアとかそう言うのは、本物の彼氏ができた時に取っておけよ。俺とペアなんて、その時の彼氏に申し訳ないだろ?」
「そんなの気にしなくてもいいじゃないですか。何だったらそのまま先輩が私の彼氏になってくれても良いですし」
「からかってるのか?」
「本気です……本気なんです」
私が真っ直ぐ先輩を見詰めると、先輩は数秒私をじっと見つめて、そして頭を振った。
「いろはの気持ちは恋じゃなんじゃないか? 以前俺がタイミングよくお前を助けたから、その時の感情が恋と錯覚させてるだけだろ」
「先輩は、どうして『恋』って気持ちに憶病なんですか? 雪乃先輩の気持ちだって、本当は恋だったかもしれないのに」
「雪ノ下の話は今関係ないだろ」
「関係ありますよ! だって先輩は今でも雪乃先輩のことが好きなんですよね!?」
言ってから後悔した。これじゃあ私の気持ちが横恋慕になってしまうじゃないか……
「はっ? 俺が雪ノ下を?」
だが、言われた側の先輩はきょとんとした顔で私のことを見ている。その顔を見て、私も連られてきょとんとした顔になってしまう。
「違うんですか? 先輩が気になってる相手って、雪乃先輩のことだと思ってました」
「何をどう解釈したらそう言う結論に至ったのか不思議だが、俺は雪ノ下のことを恋愛対象として見たことないって言わなかったか?」
「聞きましたけど、てっきり自分の気持ちを誤魔化してるだけだと思いました」
「やれやれ……いろはは深読みし過ぎだ。昔から人の言葉を深読みして勝手に告白されたと思ってたくらいだから仕方ないのかもしれないが」
「なんですとー!」
何だか馬鹿にされた気がして、私は先輩の腕を叩く。まぁ、私の力で叩いたところで先輩にダメージは無いだろうが。
「もう一度言うが、俺は雪ノ下のことを恋愛対象として見ていない」
「じゃあ、先輩が気になってる人って……誰ですか?」
これを聞いたら後には戻れない。だが聞かないと前に進めない。だから踏み込んだ。聞いたら後悔するかもしれないが、聞かないと後悔もできない。
「それは秘密だ。ほら、さっさと出かけるぞ」
「あっ、逃げないでくださいよ」
思いっきり誤魔化そうとして話題を変える先輩。だがここで深追いしてお出かけを中止にされるのも避けたいので、とりあえず誤魔化されておこう。
「(でも、デートが終わったら聞かせてもらいますから)」
私は今日の最後にもう一度踏み込もうと心に決め、先輩の腕に自分の腕を絡めて駅までの道を行くことにした。
かなり踏み込んだ感じになりました
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女の戦い
まさかこの短期間で先輩と二回目のデートができるとは。半ば強引とはいえ、あの先輩が私に付き合ってくれている、これは結構良い感じなのではないか。
「(まぁ、先輩からしたら私は手のかかる後輩でしかないのかもしれませんが……)」
先輩が雪乃先輩のことを恋愛対象として見ていなかったというのが事実であるのならば、先輩の心の中にいる女性はいったい誰なのか。結衣先輩ではないことも確かなので、そうなってくると限られてくる。
「(まさか、本当に戸塚先輩ってことは無いでしょうし)」
言い切れないのが何とも歯がゆいが、戸塚先輩は男性だ。先輩にそっちの趣味がない限り戸塚先輩ではない。そうなってくるといよいよ絞られてくる。
「(先輩の知り合いの中で、今でも先輩と付き合いがあるのは私か折本さん。でも折本さんには中学時代のトラウマがあるから、そういう気持ちにはならないだろうな)」
もしかして先輩も私のことを特別だと思ってくれているのだろうか? そんな淡い思いを懐いた時だった。正面から見覚えがあるカップルが歩いてくるではないか。
「あっ……」
気付いたのは私が一番。私が声を上げたことで先輩が二人に気付き、その視線を受けて向こうの二人も私たちに気付いた。
「いろは、それに比企谷」
「雪ノ下に葉山か。珍しい場所で会ったな」
私と雪乃先輩は互いにフリーズしてしまったが、葉山先輩と先輩は多少驚いてはいるが普通に会話できている。
「こんなところで何してるんだ? 確か海外に――っと。今は一時帰国してるんだっけか?」
「結衣から聞いてるんだろ、白々しい」
「関係ないから忘れてただけだ。それにしても、本当に何してるんだ、こんなところで」
「それはこっちのセリフだよ。まさか比企谷といろはがね」
葉山先輩の視線が私と先輩を交互に捉える。昔の私なら慌てて否定しただろうが、今の私は葉山先輩にどう思われようが関係ない。組んでいた腕をより一層強く組み直すまである。
「一色さん、お久しぶりね」
「お久しぶりです、雪乃先輩」
若干強すぎる視線を浴びせながらの挨拶に、私も負けじと対抗する。先輩の方は兎も角として、雪乃先輩はもしかしたら今でも先輩のことを想っているのかもしれないからだ。
「なるほどな。葉山、少しいいか?」
「構わないが、いろははいいのか?」
「大丈夫だろう。雪ノ下、一色のことをちょっと頼むな」
「えっ、ちょっと先輩っ!?」
名前呼びじゃなかったことに不満を覚える暇も無く、先輩は葉山先輩を連れてどこかへ行ってしまった。残された私と雪乃先輩は、とりあえず他の人の邪魔にならない場所に移動し対峙し直す。
「貴女、比企谷君と付き合ってるの?」
「雪乃先輩は葉山先輩とお付き合いしてるんですよね?」
雪乃先輩からのジャブを躱してこちらから打ち返す。今の遣り取りだけで雪乃先輩が本当はまだ先輩のことを想っていると確信できた。
「家の事情でね。でもそれは私の意思ではない」
「雪乃先輩の意思ではないにしても、雪乃先輩が葉山先輩とお付き合いしているのは事実ですよね?」
「そうね。事実ではあるわね」
この返答には少しこちらが動揺してしまう。てっきり私の攻撃で動揺するかと思っていたがまさか開き直ってくるとは。
「でも彼とは何時でも別れられるわ。彼は兎も角私には両家が望むような形に収束させるつもりはないもの」
「望む形ってなんです?」
「雪ノ下・葉山両家のより強い結びつきの為に、私と彼を結婚させることよ。でもそこまで言いなりになる必要なんてない」
「随分と葉山先輩に失礼なんじゃないですか?」
「彼も理解してくれているもの」
「でも、それって不誠実ですよね? もし『本当の』想い人にそのことを知られたらどうです? 軽蔑されない自信があるんですか?」
私が誰を指して言っているのか理解したのか、雪乃先輩は分かり易く顔色を変える。よりはっきりと敵愾心を剥き出しにしてきた。
「そう言う貴女は比企谷君とどういう関係なの?」
「雪乃先輩には関係ないですよね? 私と先輩がどんな関係であろうと」
「そうね。今は関係ないかもね」
「未来永劫関係ないと思いますけどね」
雪乃先輩から向けられる敵意に対抗するように、私も雪乃先輩に対しての言葉に棘を強めに混ぜる。結衣先輩のように相手の想いを知ってなお仲良く付き合おうとは思えない相手だから。
「貴女、比企谷君に依存しているんじゃない?」
「それは雪乃先輩ですよね。共依存の延長でしかないって言われたんですよね」
「……知ってるのね」
「えぇ、先輩から聞きました」
まさか私が知っているとは思っていなかったのだろう。ここにきて雪乃先輩が分かり易く動揺した。だがこの程度で崩せるほど簡単な相手ではない。
「確かにあの時は依存の延長でしかなかったかもしれない。でも今は違うと言い切れるわ。彼と付き合ってみてはっきりした」
「だから先輩と付き合おうと? でも先輩は雪乃先輩のことを恋愛対象として見ていないらしいですよ?」
「比企谷君がそう言ったのかしら?」
「えぇ。私は二回、そう聞いてます」
私がはっきりと言い切ると、雪乃先輩は少し寂しそうに視線を逸らす。恐らくは先輩も自分と同じ気持ちだと思っていたのだろう。
「はっきり言いますけど、これ以上先輩に依存するのは止めた方が良いですよ。先輩は雪乃先輩の夢は本当に応援しているんですから。ここで貴女が先輩に再び寄りかかろうとしたら、貴女の周りの人間が先輩を排除しようと動く。それに気付いた先輩はより一層貴女から距離を取ろうとするでしょう。これ以上先輩との関係を悪化させたくないのでしたら、先輩のことは諦めてください」
「そんなことは無い。今の比企谷君なら私一人支えられるだけの能力がある」
「二年近く先輩と離れていた貴女が、先輩のことを分かった風に言わないでください」
「分かるわよ。私と彼の間には本物の絆がある。先輩後輩でしかない貴女とは違ってね」
雪乃先輩の言葉に、今度は私が視線を逸らす。離れていても相手のことが分かるのは、二人の間に『本物』があるからだろう。先輩が雪乃先輩のことを理解しているように、雪乃先輩も先輩のことを理解できているのだろう。
だからといってここで引き下がるわけにはいかない。少なくともこの約九ヶ月、先輩の一番側に居たのは私だ。雪乃先輩でも、ましてや結衣先輩でもない。
「もしその絆が本物だというのでしたら、どうして高校時代に先輩は雪乃先輩のことを受け容れなかったのですか? やる気があるか無いかのだけで、能力的にはあの時とあまり変わっていませんよ」
「あの時は私の方に問題があった。ただそれだけよ」
「その問題は解決していませんよね? 雪乃先輩は現在進行で先輩に依存している。だから先輩に側に居て欲しいと思っているだけですよ」
「貴女に私の気持ちがわかるとでも?」
「だって本当に先輩のことが好きなら、どうして今まで何もリアクションを起こさなかったんですか? 雪乃先輩側の問題を解決するのに、こんなに長い時間が必要だったとは思いません」
「貴女には分からないでしょうね。私の家の事情なんて、一般家庭に生まれた貴女には」
「えぇ、わかりません。ですが、だからといって素直に先輩を渡すわけにはいきませんから」
別に私のものではない、というツッコミは無かった。恐らく雪乃先輩も「言っても無駄」だと思ったのだろう。
「そういえば、貴女の気持ちを聞いていなかったわね。貴女、本当に比企谷君のことが好きなの?」
真っ直ぐ、貫くような視線を向けられ、私は少したじろぐ。だがここで逃げたりしたら、二度とこの人と真っ向勝負できなくなってしまうだろう。
「はい。私は先輩が――比企谷八幡さんのことが好きです。この気持ちは誰にも負けない自信があります」
「そう。だったらはっきりさせましょう。彼が戻ってきたら私は比企谷君に気持ちを伝える。その時一色さんも比企谷君に気持ちを伝えて、どちらが選ばれるか――」
「どうして私が雪乃先輩の都合で告白しなきゃいけないんですか。私には私のタイミングがあるんですから」
危うく流されるとこだったが、ここで先輩に告白なんてできない。だってまだ、先輩の想い人が誰なのかはっきりしていないから……
肉弾戦より危なかったような……
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雪乃の気持ち
雪乃先輩に乗せられて告白させられそうになったが、私にはその勇気がない。だってもしフラれてしまったら今の関係も続けられないんじゃないかって思ってしまうから。
「話は終わったか?」
「先輩! どうして置いていくんですか」
まるでタイミングを計っていたかのように現れた先輩に、私は割と本気で喰ってかかる。
「雪ノ下がお前に話があるって顔をしていたから、俺と葉山は席を外しただけだ。それで、終わったならもういいか? さっさと買い物を済ませて帰ろうぜ」
「ゴメンなさい。まだ話があるの」
「そうなのか? じゃあもう一度――」
私への問いかけだったのに先輩に応えたのは雪乃先輩。そして先輩はまだ私と雪乃先輩が話すと思っているようで移動しようとしたのだが――
「一色さんにじゃないの。私が話したいのは比企谷君、貴方よ」
「俺?」
――恍けきれないと観念して先輩が雪乃先輩に連れていかれる。
「葉山、いろはのこと頼むな」
「あぁ、わかった」
雪乃先輩に引っ張られながらも私のことを心配してくれる。こんなことがこんなにも嬉しいなんて、もう誤魔化しきれないくらい私は先輩のことが好きなのだろう。
「良いのかい?」
「何がですか?」
葉山先輩に何を聞かれたのか分からず、私は問い返す。葉山先輩は苦笑いを浮かべながら説明してくれた。
「恐らく雪乃ちゃんは比企谷に想いを伝えるつもりなんだろう。いろははそれで良いのかい?」
「私よりも葉山先輩は良いんですか?」
「いいも何も、最初から雪乃ちゃんの中に俺がいないことは知ってるからね。家の都合で俺と付き合ってるだけで、今でも比企谷のことを想っているって」
「それなのに葉山先輩からは交際を解消しようとはしなかったんですね」
「理由はどうあれ、雪乃ちゃんと付き合えるのは俺としても嬉しいから」
葉山先輩は昔から雪乃先輩のことが好きだったらしい。だから事情はどうあれ雪乃先輩と付き合えるならこの人は嬉しかったのだろう。たとえ、相手が自分のことを想ってくれていなかったとしても。
「もし比企谷が雪乃ちゃんの想いを受け容れるというのなら、俺は潔く身を引くさ。元々家の都合で付き合ってただけなんだから、このまま関係を続けたとしてもいずれ破綻するだろうし」
「でも先輩は、雪乃先輩のこと恋愛対象として見ていないって言ってましたよ」
それが本音かどうかは私には分からない。だがそこまでして嘘を吐く必要があるのかどうかも分からないので、もしかしたら本当に先輩は雪乃先輩のことを恋愛対象として見ていないのかもしれない。
「もしそれが本当なら、俺としてはありがたい。昔ならいざ知らず、今のアイツに勝てるとは思えないからな」
「昔も今も、大して変わってないですよ、あの先輩は。ただやる気があるか無いかだけで」
「それが大きな問題だろ? 比企谷は昔からやればできたんだから」
葉山先輩は高校時代から先輩の能力の高さは認めていた。ただその能力を十分に発揮しない先輩に苛立ったこともあったとかなんとか。
「それにしても、いろはが比企谷のことをね」
「な、何ですかいきなり」
「いや、俺に執着していた時とは違う感じがするから、恐らく本気で比企谷のことが好きなんだろうなって思っただけだ」
「………」
恥ずかしくて視線を逸らすしかできない。雪乃先輩だけではなく葉山先輩にまで私の気持ちを見透かされるとは……
「でも雪乃ちゃんの告白を素直に見送ったということは、まだ付き合ってないってことなのかい?」
「私の気持ちは、先輩に伝えてませんから」
「どうして? 比企谷もまんざらではなさそうだが」
「そうなんですかね? あの人は昔から私のことを手のかかる後輩としか見てない感じがします」
実際手のかかる後輩だったのだろう。何かにつけて先輩に面倒事を相談して、解決に力を貸してもらっていましたし。今だって男性恐怖症の所為でろくに行動できない私に付き合ってもらっている。これじゃあ何時まで経っても手のかかる後輩のままだろう。
「というか葉山先輩」
「なんだい?」
「私より葉山先輩の方が雪乃先輩の告白のことが気になってるんじゃないですか? さっきからチラチラと二人の方を見てますし」
あの二人は私たちから離れてはいるが、視界から外れたわけではない。声が聞こえない程度には離れているので何を話しているのかは分からないが、二人が一緒にいることは分かるので気になってしまうのも無理はない。
「雪乃ちゃんの気持ちは知っているし、もし比企谷が雪乃ちゃんの告白を受け容れるのなら、俺は潔く身を引く。この思いは嘘ではない。だがそれと同時に、雪乃ちゃんの彼氏は俺なんだって思いが、俺の中にあるんだ。だから雪乃ちゃんの告白の結果が気になってしまうのは仕方が無いだろ?」
「そんなに気になるなら、雪乃先輩に告白させなければ良いじゃないですか」
「俺は、彼女の気持ちを尊重したい。かつて俺は彼女を救えなかった。今だって、彼女を縛る鎖でしかないのかもしれない。だがそれでも、俺は彼女と一緒にいたい」
「厄介な性格してますね、葉山先輩も」
「そうだな。比企谷のことを言えないな」
先輩が厄介な性格をしているのは、葉山先輩も知っている。それに負けないくらい葉山先輩も厄介で難儀な性格をしていると自覚しているようだ。
「あっ、終わったみたいですね」
二人がこちらに戻って来るのが見えたので、私と葉山先輩は思わずつばを飲み込んでしまう。結果がどうなったのか、やっぱり気になってしまう。
「待たせたな。それじゃあ葉山、俺たちはこれで」
「あ、あぁ……」
先輩のセリフがどういう意味なのか分からず、葉山先輩は困惑してしまっている。このまま雪乃先輩と二人で行ってしまうのか、それとも――
「いろは、行くぞ」
「あっ、はい!」
先輩に手を掴まれ、私は少し駆け足で先輩の後に続く。チラリと振り返ると、雪乃先輩が泣きそうな顔をしているように見えた。
「先輩、良いんですか?」
「何がだ?」
「何がって……」
雪乃先輩と一緒にいなくていいのか? 私でいいのか? このままお別れでいいのか? 私が口にしたセリフには、様々な思いが詰まっている。だからいざ「何が」と問われると答えに困ってしまう。
「言っただろ。俺は雪ノ下のことを恋愛対象として見ていないって。雪ノ下本人も、俺が告白を断ると思っていたようだし、これで良いんだ」
「そうなんですか?」
さっき私と話した限りでは、雪乃先輩にはどこか勝算があるように思えていたのだが、どうやら私の勘違いだったようだ。
「というか、今日はいろはとデートだっただろ? むしろ他の女と一緒にいたことを責められるかと思ってたぞ」
「あっ、そうですよ! せっかくこんなに可愛い後輩がモテない先輩とデートしてあげているのに、他の女性と行動するなんてサイテーです!! これはお仕置きが必要かもしれませんね」
「そっちの方がお前らしい。あんまり考え過ぎるな」
少し乱暴に髪を撫でられ、私は抵抗できずにいる。これじゃあ妹扱いというより子供扱いされている気がするのに、この感じが心地よい。
「てか先輩、名前呼びがスムーズになってませんか?」
「気のせいだろ」
「そんなこと無いと思いますけど」
朝の段階ではしどろもどろ気味だったのに、さっき葉山先輩に私のことを頼む時も、今もさらりと私の名前を呼んでいる。
「(先輩の中には、いったい誰がいるんですか? もし私なら、そう言ってくださいよ)」
先輩から告白されたら、今の私なら受け入れるだろう。高校時代のように茶化したりすることなく、素直に。
「いろは?」
「な、何ですか?」
「いや、黙りこくってどうしたのかと思って」
「先輩に行うお仕置きを考えてただけです」
「お手柔らかに頼む」
「ダメでーす! 許してあげませんから」
繋いでいた手を解き、私は先輩の腕に絡みつく。一瞬驚きはしたが、先輩は私の腕を振り解くことはしなかった。
「(受け入れてもらえたって、思っちゃっていいんですよね?)」
私から告白するのは癪だが、先輩から告白してくれればOKなんですよ? そんなことを考えながら、私は先輩とアクセサリーショップに入ったのだった。
間違いなく前進しているいろはの恋路
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次の遭遇
先輩と腕を組み、先輩と一緒にプレゼントを選ぶ。これだけ見れば私と先輩が付き合っているように思えるが、私はまだ答えを得ていない。
「(先輩は私のことをどう思っているんですか?)」
声にすればすべてが終わってしまうかもしれない言葉が、私の中で何度も繰り返される。私にもう少し勇気があれば聞くことができるのかもしれないが、そのもう少しが私には無い。だからこうして恋人ごっこで満足しているのだ。
「いろは、本当にさっきのでいいのか?」
「十分ですよ。まさか本当に買ってくれるとは思っていませんでしたので」
「人を引っ張ってきておいて酷い言い草だな……買うと言ったんだから買うに決まってるだろ」
「ほんと、そういう所律義ですよねー」
高校時代から感じていたことだが、この人は付き合いのある人には律義だ。一見するとそう見えないから勘違いされてしまうのかもしれないけど、一度責任を負ったものに関しては最後までやり通す。たとえその所為で自分が悪者になってしまうとしても、この人はそれをやり通すのだ。
私が生徒会長になった原因の一端でもあるので、私は散々先輩に仕事を手伝ってもらうよう仕向け、先輩は私がわざとそうしていると分かっていながらも手伝ってくれた。
「別に律義とか、そう言う理由で買ったわけじゃねぇけど」
「何か言いました?」
「何でもない。それで、もう帰っていいのか?」
「ダメですよ。今日は特に用事もないんですから、もっとデートを楽しみましょう」
「夜からバイトだっての……」
こういう日だからこそ、先輩はシフトを入れているのだろう。他の人が休みたがる日だからこそ、自分がとでも思っているのだろうか。もちろん、先輩に聞けばそんなことないって答えるでしょうけども。
「ところで先輩、さっきの質問ですけど――」
さっきは誤魔化したが、今度はちゃんと尋ねようと思ったのだが、またしてもタイミングが悪かったようだ。
「あっ、ヒッキーといろはちゃん。やっはろー!」
「結衣先輩……」
「由比ヶ浜か。こんなところで何してるんだ? 迷子か?」
「迷子じゃないし! てかヒッキー、私のこと幾つだと思ってるの?」
雪乃先輩の呪縛から解放されたと思っていたのに、今度はもう一人の呪縛である結衣先輩と遭遇。これはもう呪いの類いなのかもしれない。
「冗談だ。それで、何してるんだ?」
「ママとお買い物に来てたんだけど、ちょっと時間がかかってるから私はぶらぶらしてたんだー」
「結衣先輩とお母さんって仲良いですよね」
ウチもそこまで悪くはないのだろうが、結衣先輩と比べると霞んでしまう。私の方が普通だと思うのだけども、少し羨ましいと思ってしまうのはないものねだりなのだろうか。
「仲良いよー。さっきも姉妹に間違われてママが大喜びしてたし」
「まぁ、あのお母さんならそんなこともあるのかもしれませんね」
結衣先輩のお母さんと言うのだから、若く見積もっても四十前後。なのにその見た目は十分結衣先輩のお姉さんで通用するくらいなのだ。
「それで、二人は何してるの?」
「先輩に買い物に付き合ってもらってるんですよ。ほら私、異性がダメじゃないですか」
チクリと胸に痛みが走る。半分は本当のことだが、結衣先輩の前で堂々とデートと言えないのが悔しい。
「そうなんだ。腕組んでるからてっきりデートなのかと思っちゃった」
「あっ」
先輩と腕を組んでいるのをすっかり忘れていたので、結衣先輩に指摘されて私の顔に赤みがさす。別に結衣先輩に遠慮する必要は無いのに、どうしてもこの人を出し抜きたいと思いきれないのだ。
「こうしてれば一色に声を掛けてくる阿呆がいなくて済むだろ。リスク回避の一環だ」
「へー、ラスク回避」
「リスクな」
「知ってるし! 冗談だし!」
「結衣先輩……」
その反応は知らなかったと言っているようなものだが、私も先輩もそのことにツッコミは入れなかった。だって、事実は分かり切っているから。
「結衣、お待たせー」
「ママ!」
「あら、いろはちゃんにヒッキー君じゃない。お久しぶりー」
「お久しぶりです」
「ども」
手を振りながら私たちに挨拶してきた結衣先輩のお母さんに、私は丁寧に、先輩は会釈で応える。
「二人は付き合ってるの?」
「いえ、そう言う関係ではないです」
「そうなの? じゃあこの後一緒にご飯でもどう? せっかくの再会だから、ママが奢ってあげるわよ」
「一緒に食事は構いませんが、自分の分とコイツの分は俺が出します」
「えー、遠慮しなくていいのに」
どうやら結衣先輩のお母さんも先輩のことを気に入っているようで、先輩に遠慮されて不満そうに頬を膨らませている。とても成人女性の母親とは思えない行動だが、この人がやると絵になるのは何故なのだろう……やはり、先輩が言うように遺伝子の凄さなのだろうか……
「まぁ、一緒にご飯が食べられるだけでも善しとしましょう。それじゃあ、レッツゴー!」
「おー!」
「先輩、この母娘って……」
「いうな。それがこの人たちの為だ」
「そうですね……」
一緒にいるのが恥ずかしくなるようなテンションで前を進む二人を見ながら、そんなことを先輩と話すのだった。
由比ヶ浜母娘との食事は、想像以上に楽しいものだった。私が結衣先輩に対して懐いている負い目に気付いているのかは分からないが、お母さんはそのことに触れることなく楽しい会話になるようにしてくれた。
「こんどヒッキー君も千葉に帰ってきた時は遊びに来てねー。ちゃんとパパがいない日に招待するから」
「ママっ!」
「なんだったら、ママもお出かけするわよ?」
「そう言うの止めてって言ってるでしょ!」
「いやーん!」
「あ、あはは……」
とても母娘の会話とは思えないが、この二人にとっては普通なのだろう。そう思っておかないといろいろと大変だ。
「(先輩、何とかしてくださいよ)」
盛り上がる母娘を見ながら、私は小声でそう先輩に助けを求める。ついでに脇腹も小突いておく。
「お誘いはありがたいですが、当分は千葉に帰る予定はないですね。年末年始は小町も追い込みでしょうから」
「小町ちゃんの学力なら、そこまで必死にならなくても大丈夫だと思うんだけどな」
「結衣が言っても説得力に欠けると思うわよ?」
「そんなこと無いし! 単位ちゃんと取ってるもん」
「結構ギリギリじゃなかったでしたっけ?」
結衣先輩の前期の単位は、不可は無かったがとても褒められた成績では無かった。私も自慢できる程ではないけど、それでも結衣先輩よりかはだいぶマシだと思えるくらいに。
「分かってるとは思うけど、留年なんてしたらパパに怒られるわよ?」
「分かってるって……実家に帰ってこいとか言われそう」
「それって――」
怒ってるんじゃないのでは? と言おうとしたが、先輩のアイコンタクトで寸でのところ呑み込む。由比ヶ浜家ではそれが怒ってることになるのだろう。
「そういえばヒッキーのご両親ってみたことないかも」
「何だいきなり……」
「ゆきのんのお母さんは見たことあるから、ヒッキーのも見たことある気でいたのに気付いてさ」
「滅多にいないからな。一緒の家で生活していた俺ですら、まともに会った記憶がないくらいだ」
「大袈裟じゃない?」
そう言えば先輩の食事の準備は妹の小町さんがしていたとか聞いたことがある。そう言う面から考えれば、先輩が誇張しているとは考え難いのだが、まともに会わないとも思えない。
「立派な社畜だからな。家にいるより仕事場にいる時間の方が圧倒的に長いだろう」
「先輩にもその素質はありそうですけどね。部屋でも家庭教師の仕事してる時ありますし」
「こっちも追い込みだからな。志望校に合格できるよう最大限手助けをしなければいけないだろ」
「どうして自分のこと以外では真面目なんですかね、先輩って」
「そんなことないだろ」
「ヒッキーは昔から自分のことは後回しだとは思うよ」
私からだけではなく結衣先輩にも言われ、先輩は反論するのを止めた。これ以上反論して高校時代の黒歴史をほじくり返されるのを避けたのだろうが、それでも私は先輩に勝った気分に浸れたのだった。
結衣の成績はな……
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母の思い
私がお手洗いに立ってすぐに、結衣先輩のお母さんもお手洗いにやってきた。
「いろはちゃん、ちょっといいかな?」
「なんでしょう?」
結衣先輩を挟んでならそれなりに緊張せず話せたが、一対一だとそうはいかない。私は少し身構えるようにして返事をした。
「そこまでかしこまらなくてもいいわよ?」
私が緊張しているのを見抜いたお母さんは、リラックスさせるように笑みを浮かべている。こういうと失礼かもしれないが、結衣先輩のお母さんにしてはしっかりした人なんだな。
「それで、私に話があるんですよね」
わざわざ追いかけてきたのだから、先輩や結衣先輩に聞かれたくはない話なのだろう。私は緊張から解放された代わりに、居住まいを正して結衣先輩のお母さんと視線を合わせる。
「ちょっと確認したいことがあっただけよ」
「はぁ」
いったい何を確認するというのだろうか。私は間の抜けた返事をしてしまった。
「いろはちゃんも、ヒッキー君のことが好きなのよね?」
「っ!」
そんなにわかりやすく態度に出した覚えはない。だが結衣先輩のお母さんには私の気持ちは筒抜けだったようだ。
「結衣も高校時代からずっとヒッキー君のことが好きみたいだし、ヒッキー君はモテモテなのね」
「結衣先輩のお母さん的には、結衣先輩と先輩がお付き合いした方がうれしいんでしょうけども、私も高校時代から先輩のことは意識していました」
「娘の恋路に親が介入するなんてことはしないわよ。確かにヒッキー君が息子になってくれたら楽しいだろうなとは思うけど、だからと言っていろはちゃんの恋路を邪魔するつもりなんてないわ」
「そうですか」
結衣先輩の援護射撃でお母さんまで加わったら、私は太刀打ちできたかどうかわからない。結衣先輩単体でも強敵なのだから、そこにお母さんが加わるとなっていたら、おそらく戦意喪失してしまっていたかもしれない。それくらいお母さんも魅力的な人なのだ。
「ゆきのんちゃんもヒッキー君のことが好きで、高校時代告白したって話は聞いたことあるんだけど、どうして結衣がヒッキー君に告白しなかったのかは聞いてないのよね。いろはちゃん、何か結衣から聞いてない?」
「雪乃先輩に申し訳ないって話は聞きました。雪乃先輩がフラれて、自分が付き合うことになったら奉仕部内の空気が最悪になってしまうと」
もともと空中分解していたのだから、そんなこと気にしなくてもいいとは思ったのだが、結衣先輩は奉仕部にとどめを刺す勇気が出なかったのだろう。
「そうなのね。結衣にとっては、ヒッキー君と同じくらいゆきのんちゃんや奉仕部が大事だったから告白しなかったのね」
「本当のところはわかりませんが、私が聞いた限りではそういう理由です」
「それで、いろはちゃんは?」
「はい?」
急に話題が変わった気がして、私は思わずそう聞き返してしまう。私が恍けているわけではないと理解しているのか、結衣先輩のお母さんは悪戯っ子のような笑みを浮かべて具体的に切り込んでくる。
「いろはちゃんはどうして告白しなかったのかなって」
「そ、それは……」
真正面から尋ねられ、私は思わずたじろぐ。確かに私なら奉仕部の空気が最悪になろうが関係ない立場だったのだから、告白しない理由にはならない。
「その時はまだ、『本物』の恋なのかどうかわからなかったからかもしれません」
さっき自分で言ったように、私は高校時代から先輩に惹かれていた。だがそれが本物の気持ちなのかどうか自信がなかった。告白しなかった理由を無理やり探すとしたら、それくらいしか思い浮かばない。
「そうなの。それで、今は本物の恋だってわかったのかしら?」
「そうですね。先輩が卒業してから、私は先輩を基準に他の男子を評価していました。そのことに気づいたのは卒業してから半年くらい経ってからだったので、そこで私は本当に先輩のことが好きだったんだって思いました」
「ヒッキー君もだけど、いろはちゃんもしっかりと気持ちと向き合うタイプなのね。ノリで付き合う人もいるこの時代に、しっかりと自分の気持ちと向き合って付き合うかどうか決めれるなんて偉いわ」
「そんなに大それた人間ではありませんよ。私はきっと、当時の先輩と付き合うなんて自分の評価が下がるなんて考えていたかもしれませんし」
三年次は兎も角、二年次の先輩の周りの評価は最悪だった。ほとんどが誤解なのだが、それを解こうとしなかった先輩にも問題はあったが、本当に先輩のことを理解しようとした人間が少なかったのも問題だろう。
「ママ的には結衣に頑張ってもらいたいけど、いろはちゃんも頑張ってね」
「あ、ありがとうございます」
なぜか結衣先輩のお母さんに応援されてしまった。てっきり娘の恋路のために恋敵となりうる相手を潰しに来たなんて思ってた自分を叱りたい。
「それじゃあ、そろそろ戻りましょうか」
「そうですね」
いつまでもお手洗いに篭っているわけにはいかない。先輩が勘違いするはずもないだろうが、万が一にも変なことを思われたくないので、私はそそくさとお手洗いから先輩が待つ席へ戻るのだった。
お会計の際、結衣先輩のお母さんは私たちの分も払おうとしましたが、先輩が私と二人分を払ってくれた。
「遠慮しなくてもいいのに。ママ的にはヒッキー君たちと一緒にご飯ができて楽しかったのに」
「そういうわけにはいきませんよ。先に言いましたが、自分といろはの分は俺が払いますので」
「ヒッキー君は真面目ね。素直にごちそうになる子もいるだろうに」
「そういうわけではないですよ。曲がりなりにもデート扱いだったのですから」
先輩が今日のお出かけをデートだと思ってくれいたことがうれしいけど、曲りなりという言葉が気になる。
「こんなにかわいい後輩が付き合ってあげてるのに、先輩は素直になってくれないんですか?」
「はいはい、かわいいかわいい」
「心がこもってないです!」
「ヒッキー、私は?」
どさくさに紛れて結衣先輩も先輩にかわいいって言ってもらおうとしている。だが先輩は結衣先輩に一瞬だけ視線を向けて頭を振った。
「由比ヶ浜、成人してるのにかわいいって言ってもらいのか?」
「と、歳は関係ないし!」
「じゃあママは?」
「どうしてママまでヒッキーに絡むの!?」
「だって、ママだって言ってもらいたいし」
「いや、言いませんけど」
「えー」
先輩は私の手を取ってさっさと由比ヶ浜母娘から遠ざかっていく。それを見てお母さんが慌てて先輩を引き留める。
「ヒッキー君、冗談よ。さすがにママをかわいいって言ってくれるわけないよね」
「というかヒッキー、いろはちゃんの手を自然につかんでるけど、本当に付き合ってないの?」
「ああ。俺は誰とも付き合ってない」
私と手をつなぎながらはっきりとそう宣言する。なんとも複雑な思いだが、先輩の宣言に結衣先輩は一応納得したようだ。
「私もヒッキーと手をつなぎたいな。今度私ともお出かけしようよ」
「それは別に構わないが、手はつながないからな?」
「えー」
「(私とは手をつないでくれるけど、結衣先輩とは手をつながない。それってつまり、私の方が結衣先輩よりも上だってことですか?)」
声に出して聞きたいけど、それを聞いてしまうと結衣先輩に申し訳ない。だってはっきりとした言葉にしてしまったら、それが残ってしまうから。
「それじゃあ、俺たちはこれで」
「じゃあね。ヒッキー君、今度は結衣ともデートしてあげてね」
「考えておきます。いろは、行くぞ」
「あっはい」
あまりにも自然に名前を呼ばれて、私は一瞬フリーズしそうになりながらもなんとか先輩についていく。夜からバイトがあるから残された時間はあまり多くないけど、これで残りの時間は先輩と二人きりになれると思うと何だか嬉しくなってきた。
「(そういえば、何か先輩に聞こうとしていたような……)」
由比ヶ浜母娘と会う前、先輩に何か聞こうとしていたような気がして、私は暫く考え込むのだった。
結構進展してるのにな
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手の温もり
結局先輩と二人きりの時間はそう多くなかったけど、私の手元には先輩が買ってくれたアクセサリーがある。これだけでも今日の成果だろう。
「(でも、なにか忘れてる気が……)」
雪乃先輩に会うまでは、そんなこと考えなかったと思う。結衣先輩に会う前に、何か先輩に聞こうとした気がしてならない……
「さっきから人のことじろじろと見て、何か言いたげだな」
「そんなに見てました?」
先輩に指摘されるまで、私はそのことに気づいていなかった。完全に無意識で、先輩の横顔を窺っていたらしい。
「由比ヶ浜母娘と別れてからずっと、人のことを見てたのに無自覚だったのか?」
「そんな前からですか!?」
由比ヶ浜母娘と別れてからもう三十分近く経っている。つまり私は無自覚とはいえ三十分以上先輩の顔を見てもやもやしていたということになるのか……
「先輩、私、何か忘れてる気がするんですけど」
「いや、それを俺に聞かれても困るんだが」
「先輩に何か言おうとしてたと思うんですけど……先輩は心当たりとかありませんか?」
「しらん」
考える素振りもなく即答する先輩に、私はほほを膨らませて抗議する。
「少しくらい考えてくれてもいいじゃないですか!」
「いろはが何を考えていたかなんて、俺に分かるわけないだろ」
「そうかもしれませんが、もうちょっとこう、何かあるでしょ普通!」
「具体的に言え、具体的に」
身体を密着して抗議する私に対して、先輩は軽く押し返して落ち着くよう促してくる。こういうところが妹扱いされてる気がするのだが、今は関係--
「あぁっ!」
「っ! な、なんだよ」
「思い出しました!」
私が先輩に何を聞こうとしていたのか。何を忘れていたのかを。
「そ、それでなんだったんだ?」
「い、いえ……いざ聞こうとすると恥ずかしくて」
「なんなんだよ……」
さっきは勢い任せで聞けそうでしたけど、タイミングを逸してしまった今、それを聞くのは恥ずかしい。だって、面と向かって「私のことを異性としてどう思っているのか」なんて聞けるわけがない。
「とりあえず忘れておいてください」
「引っかかる言い方だが、いろはがそれでいいなら」
「それでいいんです」
結衣先輩のせいで踏み込むチャンスを失ったが、結衣先輩のお陰で答えを聞かなくて済んだ。私は心の中で結衣先輩に文句とお礼を言い、部屋までの帰路を先輩の手の感触を楽しみながら進む。
「そういえば先輩」
「今度はなんだ?」
「先輩って年越しはどうするんですか? 年越しまでバイトってわけないですよね?」
「さすがに大晦日は休みだ。特に予定もないし、家でのんびり過ごすつもりだが」
「だったらお邪魔してもいいですよね?」
有無を言わせぬ感じで迫ると、先輩は引きつった顔をしながらも拒否はしなかった。
「一人で寂しく年を越すかわいそうな先輩のために、私が付き合ってあげます」
「別に去年も一人だったし、特別寂しいってわけじゃ――」
「それじゃあ先輩、年越しそばの準備、お願いしますね」
「はっ? お前、それが目当てじゃ――」
「今日はありがとうございました」
部屋の前までついたので、私は先輩の手をほどいて自分の部屋に逃げ込む。別に自分で準備するのが面倒というわけではないのだが、せっかくのチャンスだから先輩と二人きりで年を越したいという、私の本音を知られないようにするためだ。
部屋に戻ってすぐ、私は自分の手に視線を落とす。自分から離したというのに、先輩の手の感触がなくなったのが気になってしまったのだ。
「随分と自然に手をつないでくれましたけど、本当に先輩は私のことをどう思っているんですか?」
面と向かって聞けなかったことを零す。その言葉に対する返事は無いまま、私はまだ先輩の温もりが残っている手をじっと見つめるのだった。
十二月三十一日、私は宣言通り先輩の部屋に遊びに来ている。
「なんで朝からくるんですか、お前は」
「良いじゃないですか。先輩だって特に予定はなかったんですよね?」
「俺は兎も角、お前は実家に帰ってこいって言われてるんじゃないのか? 娘に対する父親って、そういうものだと思うんだが」
「さすがに年明けに数日は帰りますけど、実家でダラダラするのもなんていうか寂しいですから、こうして先輩と一緒に過ごしてるんですよ」
お母さんには私に想い人がいることを知られている。下手に長期滞在したらそのことを根掘り葉掘り聞かれる可能性が高い。だから年明けの一日だけ実家に顔を出して、すぐに戻ってこようと思っているのだけど、そのことを先輩に教える必要はない。
「こっちに戻ってくるときは、またお迎えお願いしますね」
「またかよ……てか、いい加減克服してきてもいいんじゃねぇのか?」
「そう簡単に克服できたらトラウマなんて言いませんって。それに、先輩が優しすぎるから、他の男性がもっと苦手になってきちゃってるのかもしれませんし」
「だったら俺も厳しくした方がいいのか」
「ダメでーす。先輩はいろはちゃんに甘々じゃなきゃダメなのです」
「なんなんだよ、そのテンション……」
先輩の部屋で先輩の隣で炬燵に入ってダラダラする。そんなシチュエーションのせいで今の私はおかしなテンションになってしまっている。若干引かれても仕方がない状況だが、先輩は少し呆れた顔をしただけで私の前にカフェオレを用意してくれた。
「こうして先輩と二人きりで部屋で過ごす日が来るなんて、高校時代は思ってもみませんでしたよ」
「なんか誤解されそうな言い方はやめろ」
「別に誰かに聞かせるわけじゃないんですし、いいじゃないですか」
その誤解を真実に変えてもいいのだが、今は踏み込む勇気が出ないので流しておく。
「だって初対面の印象最悪の先輩とですよ? 死んだ魚のような眼をした、何事にも無気力無関心だった先輩と可愛くて人気者だった私がですよ?」
「いや、お前女子に嫌われてたから生徒会長に勝手に推薦されたんだろ?」
「そこはツッコんじゃダメです」
確かに陽キャ男子に人気だった半面、女子や陰キャ男子からは嫌われていたり勘違いされていたのは知っている。実際生徒会長に推薦されたのだって、嫌がらせでしかなかったのだから。
「その女子たちも、まさか私が本当に生徒会長になって立派に業務を遂行するなんて思ってなかったでしょうから、随分とすっきりしましたし」
「いや、ほとんど人に仕事を押し付けてたじゃないですか」
「押し付けたなんて失礼な! 私はただ、先輩に責任を取ってもらっただけです」
責任なんてとっくに取ってもらっている。だが先輩に対してこの言葉を使うと、かなり気まずそうな顔をして反論を諦めてくれるのだ。
「俺はお前に対してどれだけの責任を負ってるんだよ……」
「私をこんな風にしたのは先輩なんですから、まだまだ足りませんよ」
「えぇ……お前は昔からそんな感じだっただろうが」
「昔の私のことなんて、それほど知らないじゃないですか……はっ! もしかして昔の私ももっと知りたいってことですか? それって私の全部を知ってこれからも責任を取り続けてくれるってことですか」
「そこまで深読みするのも久しぶりじゃないか? てか、他の男子にもそんな風に言ってるのか?」
「はっ? そんなわけないじゃないですか。先輩以外にこんなこと言えば、変な勘違いされて大変な目に遭っちゃいますから」
そもそも先輩以外にこんなことを言うつもりはない。先輩なら変な勘違いされることもないし、万が一勘違いされてもいいと思えるから。
「それは俺が信用されているってことでいいんだよな?」
「信用もしてますけど、いざというときヘタれるってわかってますから」
「なんでだよ」
「だって、結衣先輩に胸を押し付けられても手を出さない人ですから」
「お前な……」
自覚があるのか先輩はがっくりと肩を落として炬燵に深く入り直す。私はそんな先輩にさらに近づいて、慰めるように背中をさすったのだった。
嫌な信頼のされ方
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優しさ
先輩と一緒に年を越す。去年の私だったら考えられないような展開だが、二人きりだからと言ってこの人が私に手を出してくることはない。むしろ私が先輩に手を出したい。
「ねぇ先輩」
「なんだ?」
「せっかく二人きりだっていうのに、何なんですかねこの落ち着きようは」
「知るか」
私は今、先輩が淹れてくれたお茶を飲みながらのんびりテレビを観ている。別に先輩の部屋じゃなくてもできることだが、先輩が隣にいるということが重要なのだ。
「先輩はお参りとか行くんですか?」
「高校時代は行ってたが、こっちに来てからは行ってないな。そもそも俺は、人が多いところはあまり好きじゃないからな」
「先輩は筋金入りのヒッキーでしたからね」
「いや、引きこもってないからな? ちゃんと学校通ってただろ」
結衣先輩は先輩のことをそう呼ぶが、世間一般的に「ヒッキー」と言ったら、まぁそっちの意味になるだろう。
「知ってますよー。先輩は誰よりも不真面目に登校してましたもんね」
「俺ほど真面目な生徒はいなかっただろ。真面目過ぎて、周りの奴らの邪魔にならないようにしてたまである」
「そんな不真面目な先輩に乗せられて、生徒会長を務めたかわいそうな後輩がいるんですよ? 少しは反省してるんですか?」
「最終的には自分の意志だろうが」
あの段階では、まだ私の立候補を取り消すことはできた。だが先輩に乗せられ、私をハメた女子たちを見返すという目的で私はそのまま生徒会長になったのだ。
その結果、私はクラスの女子たちを見返すことができ、教師たちからの評価も上がり、そして先輩との時間を確保する材料まで手に入れたのだ。
「でもその所為でいろいろと大変だったのは事実ですからねー。先輩があんな提案してこなかったら、私はもう少し高校生活を謳歌できてかもしれないのに」
「陰で女子たちにクスクスされたかったのか?」
「………」
確かに私が立候補を降りていたら、私を推薦した女子たちは陰で笑っていたかもしれない。いや、むしろ堂々と私を指さして笑っていたまである。そいつらの鼻を明かしたと考えるなら、生徒会長になった意味もあるのかもしれない。
「でもそのせいで、二期連続で務める羽目になりましたし」
「卒業ギリギリまで人のことをこき使ってたんだから、文句言うなよな」
「先輩が私を生徒会長にしたようなものなんですから、最後まで責任を持つのは当然です」
「二期目は俺の所為じゃないって言ってるだろうが」
「一期目が好評でそのまま二期目もって流れになったのは、先輩の所為ですからね」
実質先輩が生徒会を運営していたんじゃないかってくらい、先輩は生徒会の仕事を手伝ってくれていた。むしろ他の役員より生徒会の仕事に詳しいんじゃないかってくらい、他の役員も先輩のことを頼りにしていた節が見られていたくらいだ。
その所為ではないのかもしれないが、先輩が卒業してから半年、生徒会業務は偶にではあるが滞ることがあった。教師たちからは不思議そうに思われていたが、内部の人間は先輩が卒業したからだと、原因ははっきりしていたためそれほど焦らなかったのだが。
「そういうわけで、先輩は私に対して責任を取る必要があるんですよ」
「俺はいつまでお前に対して責任を負わなければいけないんだか」
「(別に一生でも構わないですよ?)」
「ん? 何か言ったか?」
「何も言ってませんよ。ところで先輩、今日はこのままここにいていいですか?」
「は? 隣なんだから帰れよ」
「こんな遅い時間に女の子を外に追いやるんですか?」
「いや、だから隣だろうが……」
「じゃあ一回帰って、着替えとかいろいろ持ってきますね」
「人の話を聞けっての」
先輩の話を無視して、私は一度自分の部屋に戻る。せっかくのお泊りなのだからかわいい寝間着を持っていきたいが、生憎そんなものは持っていない。なので普段通りの寝間着と、最低限の化粧道具を持って先輩の部屋に戻る。なぜか鍵をかけられていたが、そんなものはこの合鍵でどうとでもなる。
「ただいまでーす」
「鍵かけてただろうが」
「チェーンをしない先輩の優しさ、ちゃんと伝わってますから」
本当に私を部屋にあげたくなければ、チェーンロックをすればいい。いくら合鍵があるとはいえ、チェーンまでは突破できないから。だが先輩は一度もチェーンを閉めることはしていないのだ。それはつまり、本気で私を拒否しているわけではないということなのだろう。
「次からはしっかりとしてやる」
「そうしたら先輩の部屋の前で泣いてあげますよ。『私とは遊びだったんですね』って言いながら」
「本気でやりそうだから怖いわ……」
「もちろん、冗談ですよ?」
遊びどころか、私と先輩は付き合ってすらない。だから事情を知っていればいつもの悪ふざけなのだろうと思うだろう。だが私と先輩の関係を知っている人間がいないこの周辺なら、先輩が最低野郎に見られることだろう。
「あっ先輩」
「なんだ?」
「今年もよろしくお願いします」
「ん? あぁ、もう年明けたのか。こちらこそよろしくな」
意外にも素直に返事してくれたので、用意していた皮肉は行き場をなくす。とりあえず今年も先輩は私に付き合ってくれるということなので、私は安心して先輩の部屋のお風呂を借り、そのまま先輩のベッドで眠ったのだった。
何時もなら誰もいない部屋で目を覚ますのだが、今日は部屋に人の気配を感じる。
「むにゃ……」
「寝起きまであざといんだな、お前」
「はえ? なんで先輩が私の部屋に――って、先輩の部屋でしたね」
頭が覚醒し、ここが自分の部屋ではなく先輩の部屋だということを理解する。当然だが、先輩の方が先に目を覚ましていたので、私の寝顔を見られたということに。
「先輩は何時に起きたんですか?」
「一時間くらい前かな」
「せっかくのお休みなのに早起きなんて、やっぱり先輩には社畜の素質があるようですね」
「ほっとけ。てか、人のベッド占領しておいて言うことかよ」
「一緒のベッドで寝るわけにはいかないんですから、仕方なくないですか? それとも私と一緒に寝たかったってことですか?」
「お前が自分の部屋に戻ればよかっただけだろうが」
「そんなこと言って、私がベッド使うのを本気で止めなかったじゃないですか」
「言っても無駄だって分かってたからな。前にもこんなやり取りしただろ」
「そうでしたっけ?」
したような気もするが、とりあえず忘れたふりをして洗面台へ向かう。顔を洗い、軽くお化粧してから部屋に戻ると、先輩が作ってくれた朝食が並べられていた。
「お雑煮、美味しそうですね」
「雑煮なんてマズそうに作る方が難しいだろ」
「結衣先輩なら、できるんじゃないですか?」
「どうだろうな。てか、由比ヶ浜も一人暮らししてるんだから、多少は料理の腕が成長していてもいいんじゃないか?」
「じゃあ先輩は、結衣先輩が作った料理、食べたいですか?」
「遠慮したいな、うん……てか、外食以外で人が作った料理など、一人暮らししてから食ってないかもしれない」
「この間私が作ってあげたじゃないですか」
「お茶漬けを手料理にカテゴリーされたいのか、お前は」
「それは……じゃ、じゃあ! 今日のお昼ご飯は私が用意しますよ! それならいいですよね」
「何がいいのか分からんが、何時まで居座る気だお前」
「明日は実家に帰るので、少なくとも今日一日くらいですかね?」
「はっ? また泊まるつもりなのか?」
「良いじゃないですか。年末年始はかわいい後輩と二人きりだったって、大学の知人に自慢できますよ?」
先輩がそんなことを鼻にかける人ではないと分かっているので、これはあくまでも先輩を黙らせる手段でしかない。先輩は私が帰るつもりがないと理解してくれたのか、それ以上追及してくることはなかった。
「それじゃあ、あとでお買い物に行きましょうね」
「めんどい……あり合わせで済ませろよ」
「得意料理を披露するには、お買い物が必要なんですよ」
「一人で――あぁ、お前は無理だな」
「分かってくれてうれしいです、先輩」
こうして先輩とお出かけの約束もできたので、私は一旦部屋へ戻り、着替えを済ませて再び先輩の部屋でまったりするのだった。
あざとさに磨きがかかってる
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八幡の好み
私の得意料理を先輩にふるまうため、私は近所のスーパーにお買い物に向かう。もちろん、先輩も一緒に。
「そういえば私、先輩の好き嫌いってあんまり知らないんですよねー。確か、トマトが大好きなんでしたっけ?」
「お前、知ってて言ってるだろ……」
「えー、なんのことですかー?」
先輩がトマトを苦手にしていることは知っている。だからわざと問いかけているのだけども、先輩には私がわざとやってることはバレているようだ。
「基本的にはなんでも食べる。だがトマトだけはどうしてもな」
「それじゃあトマトは使わないでおきますね」
「別に食えないわけじゃないから気にしなくてもいいぞ」
「せっかくの手料理ですし、苦手なものはなるべく出さない方向で考えますよ」
男の人だからがっつり食べられるものの方がいいのかもしれない。世間一般の女の子が考えている彼氏に作ってあげたい料理と、男性側が考えている食べたい物は一致しないことが多いので、そこも考慮して考えなければ。
「てか、一色の得意料理で構わないぞ?」
「先輩には劣りますけど、私だってそれなりに料理できるんですから。いざ得意料理って言っても何を作ればいいのか分からなかったんですよねー」
最近は先輩に甘えることが多いが、私だって最低限の料理くらい作れる。だがいざ『これ』と言われると、何を作ったらいいのか分からない。
「うーん……チャーハンと唐揚げとかどうです?」
「えらく男飯くさいものをチョイスしたな。まぁ、揚げ物とかちゃんとしようとしたら大変だが」
「男の人が好きそうなものをチョイスしてみたんですけど、先輩は好きですか?」
「まぁ、嫌いではない」
「ふふ」
相変わらず捻くれた表現をしているが、どうやらこの二つは先輩の好物のようだ。だって本当に微妙だったら、この人の性格上はっきり言うだろうから。
「それじゃあ必要な物を買っちゃいましょう! まずはお肉コーナーからですね」
「おい一色、あんまり先走るとぶつかるぞ」
「子供じゃないんですから」
意気揚々と商品を見て回る私を、先輩は一歩後ろからついてきている。普段なら先輩がリードするんでしょうけども、今日は私がメインのお買い物なのでこの形をとっているのだ。
「先輩の部屋にお米と油はあるから」
「俺の部屋で作るの? お前の部屋じゃなくて?」
「先輩の部屋の方が調理器具が揃ってるんですよ」
隣同士なのだから、自分の部屋で作って先輩の部屋に持っていくとか、私の部屋に先輩を招き入れるとかでもいいのだが、私は先輩の部屋にいたいのでテキトーな嘘を吐く。まぁ、あながち嘘ではないのだけども……
「てか先輩」
「なんだ?」
「なんでまた苗字呼びに戻ってるんですか。お買い物デート中ですよ!」
「えぇ……これをデートと捉えるのは無理があるんじゃないか?」
「私がデートって言ったらデートなんです。こんなこと言わせるなんて、いろは的にポイント低いですよ」
「なんで小町の真似してるんだよ……」
先輩と小町さんのやり取りを思い出して真似をしてみたのだが、どうやら不評のようだ。今後はやらないでおこう。
というか、自分で妹扱いするなとか言っておきながら、どうして私は小町さんの真似をしたのだろう……
「(ひょっとして、妹として見られたいのかな?)」
「……どうしたんだ?」
「お兄ちゃん」
「やめろ」
「ちょっとした冗談ですよ、じょーだん」
本気で嫌がられたので意外だったけど、私の方も別にショックは受けなかった。
「せっかく小町さんの真似してみたのに、先輩は不服そうですね。小町さんのこと、嫌いになったんですか?」
「別にそういうのじゃねぇよ。ただお前が小町の真似をするのは違うだろ」
「?」
先輩がどういう意図でそんなことを言ったのか、今の私には分からない。ただ本当に小町さんの真似はしてほしくなさそうだったので、今後はしないでおこう。
「それじゃあお会計ですねー。先輩、お支払いお願いします」
「はぁ……」
半分くらい冗談だったのだが、先輩はお財布を出してお支払いをしてくれました。恐らくですが、先輩の中では自分が食べる物という認識なのでしょう。
「後で半分払いますね」
さすがに全額払ってもらうのは申し訳ないのでそう申し出たのだが、先輩は気にするなと言うだけでレシートを見せてはくれませんでした。
先輩の部屋で調理をするのは初めてではない。だがあれは料理というには簡単すぎる物だったので、実質的には初めてだろう。
「先輩はゆっくりしててくださいね」
「おちつかん……」
「普段は先輩が全部してくれますからねー。たまにはゆっくりしてもいいんじゃないですか?」
「やけどとかするなよ」
「気を付けますから大丈夫ですよ」
妹扱いされているのか、それとも私だから心配してくれているのか分からないけど、先輩は私のことを心配してくれていることには違いはない。私はそれだけでも嬉しくなり、気合を入れて調理をスタートさせた。
「(なんだか新婚気分だな。先輩が外で働いて、私が専業主婦で先輩を支える――悪くないかもしれない)」
私も一回くらい働いてみたいとは思うけど、先輩が言うのであれば家を支える役目でも構わない。
「ねぇ先輩」
「なんだ?」
「先輩って結婚相手に何を求めるんですか?」
「いきなりなんだ……」
「ほら、高校時代は専業主夫が夢だとか言ってましたけど、今は違うんですよね?」
「まぁな」
「でも主夫が夢ってことは結婚願望はあったわけですよね? 相手に求めるのってどんなのかなーって思ったんです」
当時の先輩なら経済力とか答えたでしょうが、今の先輩が相手に何を求めるのかが分からない。分からないことは聞けばいいと思える内容だったので聞いたのだが、先輩はなかなか答えてくれない。
「先輩?」
「いざ改めて考えてみると、別にそこまで求める物もないかな」
「どういうことですか?」
「こっちが求めても、相手が応えられるかどうかは分からないだろ? こっちの理想を押し付けるのは相手に申し訳ないから、出来る範囲でやってくれればそれでいい。たまに頑張ってくれたらそれはうれしいけど、毎日頑張ってもらう必要はないから、何かを求めるということはしないかもしれない」
意外と正直に答えてくれたので、私は数秒間フリーズしてしまう。
「どうした?」
「いえ、はぐらかされると思ってたので……」
「お前がいい加減な気持ちで聞いてきていたのならはぐらかしただろうが、真剣に聞いてきたから答えただけだ」
「それって――」
「てか揚げ物は良いのか?」
「えっ――あっ!」
先輩に言われて思い出したが、私は今調理中だった……慌てて鶏肉を油から上げたが、少し焦げて硬くなっている様子……
「先輩、ごめんなさい……」
「気にするな。チャーハンの方は美味そうにできてるんだし」
「そうですけど……」
先輩に慰められて、私はちょっとみじめな気持ちになる。せっかく意気込んで得意料理を作るって言ったのに、こんなミスをしてしまうとは……
「ほら、食べるぞ」
「ごめんなさい」
「気にするな。いろはなりに頑張ったんだろ」
「当たり前です。てか先輩」
「なんだ?」
「こういう時だけ名前呼びなんて、あざとすぎですよ」
「お前にあざといと言われるとは」
高校時代は私の方があざといと言われていたけど、やっぱり先輩の方があざといんですよね。
「十分美味くできてる。気にする必要はないだろ」
「今度はちゃんと作りますからね」
「今度があるのかよ」
「先輩が食べてくれるなら、いくらでも作りますよ」
ここで拒絶されたらショックだったけど、先輩は少し考えてから頷いてくれました。
「いろはの気が向いた時で構わない」
「それじゃあ次回、ちゃんとしたものを作りますからね!」
「あぁ、期待しないで待ってる」
「そこは期待してくださいよー!」
セリフだけなら期待されていないのかもって思いましたが、表情がとても優しい雰囲気だったので誤解はしない。先輩は私にプレッシャーを与えないようにしてくれたのだろう。
あざと八幡でした
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親の興味
先輩に駅まで送ってもらい、私はこれから実家へ帰る。先輩のように小町さんが追い込みなので帰ってくるなと言われているわけでもなく、むしろ帰ってこいと言われているので仕方なく帰るのだ。
「それじゃあ先輩、またお迎えお願いしますね」
「めんどい……」
「良いじゃないですか。私の事情を知っていて、私が平気な異性って少ないんですから」
先輩を除けば戸塚先輩くらいしかいない。そして戸塚先輩をこんなことに付き合わせられるほど、私は戸塚先輩と付き合いがない。
「どれくらい向こうにいるつもりなんだ?」
「一週間はいないつもりです。バイトもありますから」
実家に帰ると言ってあるので、年始のシフトに入れられることはなかったが、それでも何時までも休めるわけではない。それにあまり長いこと実家にいると、お父さんが五月蠅そうだし。
「それじゃあ先輩、またです」
「あぁ、行ってこい」
なんだか恋人っぽい会話だけども、私と先輩の関係はそんないいものではない。何時までも進展していない先輩と後輩。昨夜だってお風呂上りに誘惑してみたのだが、先輩は冷めた目で私を見てくるだけだった。
「(まぁ、先輩が誘いに乗ってくるなんて思ってなかったですけどね)」
もしあの程度の誘いで釣れるのなら、結衣先輩がとっくに付き合っているだろうし、過去に何度か私のお風呂上り姿を見たことあるんだから、その時に襲われていたかもしれない。
「(ひょっとして私、先輩なら手を出してこないって分かってて誘惑したのかもしれない)」
その時は真剣に誘っていたのかもしれないけど、冷静になって考えるとそんな気がする。だって、先輩なら私が本気かどうか分かるでしょうし。
二、三日実家でゆっくりしたら戻るつもりだったのだが、お父さんがしつこくいろいろと聞いてくるせいであまりゆっくりできない。お母さんがそれとなくお父さんに言ってくれたお陰で、二日目以降はしつこくは無くなったが、それでも私の状況を知ろうと話しかけてくるのだ。
「お父さんだって悪気があって聞いてるわけじゃないのよ」
「それは分かってるけど。それでも年頃の娘に対してずけずけと聞いてき過ぎ」
「あんたの状況はそれとなくしか教えてないからね」
私が男性恐怖症になっていることは知っているので、詰め寄ってくることはない。もしそれで拒否反応を示されたら立ち直れないからと母は言っていたが、さすがにお父さん相手に拒否反応を示すことはないだろう。
「それで、例の『先輩』とはうまくやってるの?」
「な、なんのこと」
「夏にいろはのことを迎えにわざわざ千葉まで来てくれた先輩よ。その後進展はないの?」
「ないよ、そんなの……そもそも私はあくまでも高校の後輩でしかないんだから」
自分で言っていて傷ついている自分がいる。先輩の中で私がどんな存在なのかは分からないが、今のところその程度でしかないと思うし。
「高校の後輩ってだけで、わざわざ千葉まで迎えに来てくれないと思うけどね」
「あの先輩はそういう人なんだよ。捻くれているけど、根は優しい人だから」
周りには評価されていなかったが、あの先輩の功績は凄いものがある。ただ表面上はあの人がしたことは褒められるものではないので、あの人が日の目を見ることはなかったのだが。
「随分と信頼しているようだし、やっぱり紹介してもらおうかしらね」
「やめてよね。先輩に迷惑掛かっちゃうし、何よりお父さんが暴走しかねないし」
「どこの家の父親も、娘には幸せになってもらいたいって思ってるのよ」
「だからって根掘り葉掘り聞かれたら面倒だし」
よくよく考えたら、先輩は私の両親と会ったことがない。雪乃先輩や結衣先輩のお母さんとは会ったことがあるのに……
「(まぁ、そもそも先輩はこの家に来たことすらなかったですし)」
雪乃先輩が一人暮らししていた部屋や、結衣先輩の家には、奉仕部の集まりとして訪れたことがあったり、お菓子作りをするために訪れたりしたそうだが、私とはそういったイベントはなかったし……
「はぁ……」
「随分と深いため息ね。そんなに気になるなら告白すればいいのに」
「だって……」
あの人は難攻不落に近い。私から見ても雪乃先輩や結衣先輩は魅力的だし、以前先輩に告白していたゼミの人もそれなりにレベルが高い女性だった。にも拘らず先輩はその告白を受け入れることなく断り続けている。
「そろそろ帰ろうかな」
「あと一日くらいゆっくりしていきなさい。お父さんには、私から言っておくから」
「うん、お願い」
実家に帰ってきて気疲れしてるようじゃ、なんのために帰ってきたのか分からない。私は早々に東京へ帰ろうと思ったのだが、お母さんに言われてもう一日こっちにいることにした。
「先輩にメッセージ送っとこ」
明日の午後に実家を出るとメッセージを送ると、最寄り駅まで迎えに来てくれるとのこと。
「(ほんと、どうして先輩は私に優しくしてくれるんですか?)」
私がこの体質になった原因を知っていて、尚且つ隣の部屋で生活しているからなのか。それともほかの理由があるのか。
「(もしそうだったら良いんだけどな……)」
先輩が私を好きでいてくれている。そんな妄想をしながら、私は実家での時間を過ごすのだった。
先輩が最寄り駅に着いたとのことなので、私はお母さんに挨拶をして実家を出る。お父さんに話しかけるといろいろと面倒なことになりそうだったので、黙って待ち合わせ場所まで向かうことにしたのだ。
「先輩、わざわざありがとうございます」
「断ったところでしつこくしてくるだけだろうし」
「だって、結衣先輩も戸塚先輩も忙しそうですから」
「俺は良いのかよ……」
「だって先輩、まだ時間に余裕ありますよね?」
担当している子がそろそろ受験の追い込みなので、先輩も忙しくなるのだろうが、さすがにまだ余裕があるのは知っている。なのでこうしてお迎えを頼んだのだ。
「まぁ、模試の結果も上々だから、あとは凡ミスを減らせれば合格はできるだろうしな」
「ほんと、真面目ですよね」
高校時代もこうやって全面的に真面目キャラでいれば、もっと楽しい高校生活を送れていただろうに……でもそうしたら、私は先輩と接点が持てなかったかもしれない。だって、先輩が奉仕部に入れられたのは、その不真面目さが原因だったのだから。
「せっかくこっちに帰ってきたんですし、先輩もご実家に顔を出したらどうですか? 今ならかわいい彼女付きですし」
「誰が彼女だ、誰が。それに、帰ったところで追い返されるだけだろうしな」
「先輩、本当にご両親に興味を持たれてないんですね」
「あの二人の中では、俺は何時までも不真面目な学生なんだろうしな」
さすがに呼び出しを喰らうようなヘマはしていないのでそこまで悪く思われているとは思えないのだが、先輩のご両親の期待は妹の小町さんにすべて向けられているようだ。
「それに、俺の実家の最寄はここじゃないからな」
「知ってますよ。結衣先輩や雪乃先輩と一緒ですしね」
「まぁな」
二人の名前を出しても、先輩はそれほど反応を示さない。むしろ私の方が若干動揺しているまである。
「そういえば先輩、成人式はどうするんですか?」
「行かない。行ったところで話す相手なんていないしな」
「戸塚先輩は行くんじゃないですか?」
「どうだろうな。戸塚が行くなら行っても良いが」
「相変わらず戸塚先輩ファーストな考えなんですね」
「でも、いくら戸塚がいたとしても、中、高の同級生に遭うのは面倒だな」
それほど知り合いがいるとは思えないけど、この人は悪い意味で有名人だった人だ。今もその勘違いをしたままの同級生に絡まれたら面倒だと思ったのだろう。
「それじゃあその日は、私が先輩の部屋でお祝いしてあげますよ」
「はぁ? 二十歳の誕生日にお祝いしてもらったから、別にしなくていいぞ」
「この間のリベンジです。今度こそ美味しい料理を作って見せますから」
「十分美味かったけどな」
とりあえず拒否はされなかったので、私は成人の日に先輩の部屋でお料理することに決まった。今度こそは失敗しないようにしないと。
自然と八幡の部屋に入ってるいろは
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周りからの評価
東京に戻ってきてからしばらくは先輩の部屋でまったりするつもりだったのだが、三が日が過ぎたら先輩はバイトで忙しくなり、私の方もちょこちょことシフトに入っているのでまったりしてる暇などなかった。
「一色さんが出てきてくれて助かったよ。他の子たちは長期帰省してるから」
「まぁ私は近場といえば近場ですから。帰ろうと思えばいつでも帰れますので」
距離的な問題はないが、私の方に問題があるのでそう頻繁に帰ることはできないのだが、そうでも言っておかないとバイト仲間が委縮してしまうから。
「そう言ってもらえて助かったよ。比企谷君がいてくれたらもっと楽だったんだろうけども」
「あの人が辞めたのはもうだいぶ前ですよ?」
確かに先輩が居てくれたらだいぶ楽ができただろう。何しろあの人は一人で二人分以上の仕事をこなしてくれていたのだ。ほんと、不真面目だった先輩はどこに行ってしまったのでしょうか。
「それだけ比企谷君が残した実績が凄かったってことよ。オーナーも臨時じゃなくて正式に雇えばよかったって言ってるし」
「まぁ、先輩の後に入った人、それほど仕事できませんからね」
先輩と比べてなので、普通に仕事はできるのだが、期待値が高すぎるのだ。あの先輩の代わりに入ったのだから、もう少しできてほしいと、こちらが勝手に思って失望しての繰り返し。
「とりあえず、今度一色さんから言っておいてよ」
「どうして私から?」
「だって、比企谷君の部屋、一色さんの隣なんでしょ? 話す機会くらいあるだろうし」
「まぁ、いろいろとお世話になってますから」
ここのメンバーは私が男性恐怖症であることを知っていて、先輩なら問題ないということも知っている。なので私が先輩を頼っていると聞いても不思議そうにはしない。
「てか、まだ一色さんと比企谷君って付き合ってないの?」
「まだって何ですか、まだって」
「だって一色さん、比企谷君のこと好きなんでしょ?」
「な、なんでそんなことを?」
「見てれば分かるって。明らかに普通に頼ってるって感じじゃないし」
まさか、そこまで分かりやすかったとは……私としてはそこまで分かりやすくしてるつもりはなかったし、ここのメンバーに気づかれてるつもりはなかったんだけど。
「比企谷君の方もまんざらじゃなさそうだし、いっそのこと付き合っちゃえば? 一色さんも、比企谷君なら身構えることもないだろうし」
「まぁ、あの人は湯上りの私の姿を見ても何もしてこなかった――って、どうしたんですか?」
私が何の気なしに言ったセリフに、職場の空気が凍った。私、そこまでおかしなこと言ってないと思うんだけど。
「一色さん、比企谷君に湯上り姿を見せたことあるの?」
「はい。先輩の部屋に泊まった時に」
「泊まったっ!?」
「えぇ。おなかいっぱいで部屋に戻るのが面倒だったので」
それ以外にも勢いで泊まったりもしたけど、その都度先輩は私に手を出すことなくクッションを重ねて床で寝ている。別に一緒にベッドを使っていって言ってるんだけどな……
「なんとも色気のないお泊りの理由だけど、それで付き合ってないの?」
「はい。私と先輩の関係は、あくまでも先輩後輩ですから」
自分で言っておいてなんとも情けないが、私と先輩の関係はそれ以上でもそれ以下でもない。高校の先輩後輩、それが私と比企谷八幡を表すうえで最もふさわしい表現だろう。
「そこまで行ってるなら、もう付き合ってるものだと思うけどね」
「そうですかね?」
私としてはそれでもいいのだけども、先輩の方がいい顔をしないだろうな。そんなことを考えながら、残りの時間働いたのだった。
部屋に戻ろうとしたが、ちょうど先輩も帰ってきたところだったのでこのまま先輩の部屋にでも――と思っていたのだけども。
「結衣先輩?」
「あっ、いろはちゃんだ。やっはろー!」
「こんばんはです。それで、どうして先輩と結衣先輩が一緒に?」
「彩ちゃんと出かけてた帰りにヒッキーに会ったから、このまま三人でご飯にしようって」
「それで、その戸塚先輩は?」
「彩ちゃんは、晩御飯のお買い物に行ったよ」
「そうだったんですね」
せっかく先輩と二人っきりでお話しようと思っていたのに、これではその計画が実行できない。かくなる上は、私も交ぜてもらおう。
「それって、私も一緒にいてもいいですか?」
「もちろんだよ。ねっ、ヒッキー」
「もう何でもいい」
ここまで戻ってくるのに何かあったのか、先輩はもはや抵抗する気概すら見せない。
「(先輩、何があったんですか?)」
「(由比ヶ浜が晩飯を作るとか言い出したのを、俺と戸塚で必死になって止めたから、もう何かする気力がないんだよ)」
「(それはお疲れ様です)」
結衣先輩の料理は食べた相手を病院送りにするとか言われているらしいから、出来ることなら遠慮したい。先輩と戸塚先輩が必死になるのにもうなずける。
「ヒッキーの料理、久しぶりだな~」
一方で、先輩をここまで疲弊させた結衣先輩は、何も考えていないかのように――実際何も考えていないのだろうけども――先輩の料理を楽しみにしている。
「ところで、どうして結衣先輩と戸塚先輩が一緒に出掛けてたんですか?」
「うん、成人式のことを彩ちゃんに聞きたくて私が誘ったんだ~。本当はヒッキーも一緒にって思ってたんだけども、ヒッキーはバイトだったから」
「なるほど」
てっきり結衣先輩と戸塚先輩がお付き合いを始めたのかと思ったけど、この人も先輩のことが好きだからそれはないか。
「それで、ヒッキーは本当にいかないの?」
「行く意味がないだろ。半年前に成人してるわけだし、式典なんてだるいだけだ」
「でも、一生に一度だし」
「地元の知り合いに会うのめんどい。そもそも会ったところで盛り下がるだけだろ。むしろ俺がいないことで盛り上がるまである」
「相変わらずですね、先輩って」
この人は中学時代散々な目に遭っていたらしいから仕方がないのだろうが、もう少し過去と向き合っても良いんじゃないだろうか。
「でも、カオリンも行くって言ってたから、ヒッキーも居心地は悪くないんじゃない?」
「折本がいたからって、俺が行く理由にはならないだろ。そして翌日朝から講義なのに、わざわざ千葉に戻る体力がもったいない」
「サボっちゃえば?」
「そんな考えだから、お前はギリギリでしか単位を取れないんだぞ」
「ぎ、ギリギリだろうが単位は単位だから!」
どうやら先輩は本気で成人式に参加するつもりはないらしい。それなら当日は私が先輩にお祝いしてあげよう。
「お待たせ。って、一色さんもいたんだ」
「こんばんはです、戸塚先輩」
「うん、こんばんは」
戸塚先輩と挨拶を交わし、私は料理中の先輩のそばに移動する。一瞬鬱陶しいような顔を見せた先輩だったが、言っても無駄だと思ったのか何も言ってこなかった。
「先輩は本気で成人式に参加しないんですね」
「さっきも言っただろ。翌日講義だからな」
「じゃあもし講義が無かったら参加してたんですか?」
「しない。俺がいたらその場の空気が悪くなるだろうからな。むしろ参加しないことで周りの雰囲気を壊さないようにしているんだ」
「相変わらず前向きな後ろ向き発言ですね」
「なんだ、その表現は」
「先輩にふさわしい表現だと思いませんか?」
昔から思っていたことだが、この人は実に前向きっぽく後ろ向き発言を繰り出すのだ。それでいてそれが的を射ているから厄介なのだが。
「可哀そうだから、当日は私がご飯を作ってお祝いしてあげますから」
「前も言ってたが、それ本気だったんだな」
「当然です! この前は失敗しちゃいましたけど、今度はちゃんと作りますから」
「期待しないで待ってる」
「そこは、期待してくださいよ」
てっきり断られると思っていたのに、思いのほかすんなりと受け入れてくれた。これって、先輩も私と一緒にいたいと思ってくれているからなんでしょうか? もしそうなら、そろそろはっきりと言ってもらいたいものなのですが……
「まぁ、それが先輩らしいですけどね」
「は?」
「なんでもないでーす」
何か追及したげな先輩から逃げるように、私は結衣先輩と戸塚先輩とのおしゃべりに参加するのだった。
自分も出席してないです
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計算と素
成人の日、当日。外を見れば晴れ着を着ている人もちらほらと見受けられる。来年は私がその中の一人になるのかと思うと、なんだか複雑な思いがするが、今はそれどころではない。
「先輩、本当に成人式行かないんですね」
「当たり前のように人の部屋に入ってくるな」
部屋には鍵がかかっていたが、合鍵でそんなものはどうとでもなる。前から思っているが、本気で私に入ってきてほしくないのなら、チェーンロックなり鍵を取り換えるなりすればいいのに、この人はそこまでしていない。
「食材は昨日の内に買っておいたので、このまま料理を始めますね~」
「買いに行ったのは俺で、金を払ったのも俺だ」
「まぁまぁ、細かいことは気にしないでくださいよ」
先輩の部屋の冷蔵庫を漁ると、私が頼んだ食材がちゃんと入っている。
「先輩、ちゃんと買ってきてくれたんですね」
「散々念を押されたからな」
「そんなこと言って、私の手料理が楽しみだったんですか?」
「そんなことは言ってないだろ」
「本当ですかー? 興味がないのなら、私がいくら頼んでも買ってこなかったと思うんですけど」
この人は興味がないことにはとことん関わらない人だ。だからもし、本当に私の手料理に興味がなかったのなら、わざわざ食材を買ってきてくれたりはしなかっただろう。
「作る手間が省けるのなら、食費くらいは出してやる。もちろん、俺が作るのより美味かったらの話だが」
「先輩の料理の腕って、最近ますます成長してるじゃないですか。サボり気味の私が勝てるわけないじゃないですか!」
先輩に頼る癖がついてきてしまったせいで、ここ最近自炊をしていない。ただでさえ先輩の方が料理上手だったというのに、これじゃあ差が広がっているのは間違いないだろう。
「別に勝ち負けの話じゃないだろ。今日の分は別に要求しないが、次もやるとか言い出すならお前が出せという話だ」
「ぶー。せっかく先輩に食費を出させて節約しようと思っていたのに」
もちろん、そんなことは考えていない。私だってバイトしているのでそこまで生活に困っていない。仕送りだってあるのだから、食べる物に困るなんてことはないのだから。
「最近、あざとさに磨きがかかってるな」
「そんなことないですよ。というか、素だって言ってるじゃないですか」
「お前の素はそんなんじゃないだろ」
「そんなこともないんですけどね……」
先輩には私の素の部分をかなり知られてしまっている。本当の私は可愛げのない女だ。付き合ったら自慢できるからという打算的な考えで葉山先輩に付きまとっていた。そのことは先輩だけではなく、おそらく葉山先輩にも知られていただろう。
だからではないが、葉山先輩は私に対して一定の距離を保った付き合い方をしていた。まぁ、あの人は雪乃先輩以外の女子に興味なんてなかったのかもしれないけど。
「とりあえず気を取り直して」
いきなりやる気を削がれたが、今日こそは失敗せずに先輩に私の手料理を食べてもらいたい。よくよく考えれば、こうやって異性に手料理を振舞いたいと思ったのは先輩が初めてだ。バレンタインのアレはお菓子なのでノーカウントだ。
「(先輩には私の初めてを沢山あげているんですよ? それを分かってるんですか?)」
捉え方によっては卑猥に思える考えだが、そういう初めてではない。異性の前で本気で泣いたのも、他人の言葉であそこまで心を揺り動かされたのも、こうして手料理を振舞いたいと思ったのも先輩が初めてなのだ。そこだけとっても私にとってこの気持ちは『本物』なのだ。
「ねぇ先輩」
「なんだ?」
「先輩は何時まで彼女を作らないつもりなんですか?」
「別に決めてるわけじゃないが」
「この間戸塚先輩に聞きましたけど……先輩、ゼミの人に言い寄られてるんですよね?」
「内緒だって言ったのに」
どうやら先輩は私に知られたくなかったようだが、戸塚先輩がこっそり教えてくれたのだ。私は少し問い詰めるような視線を向けると、先輩は肩を竦めて説明を始めてくれる。
「言い寄られているという表現が正しいのかはおいておくとして、付き合ってほしいと言われているのは本当だ」
「戸塚先輩曰く、結構美人な人らしいじゃないですか」
先輩と同じゼミの先輩で、この間私が見た人とは別の人らしい。さすがに写真とかはなかったけど、あの戸塚先輩が「美人」だと形容したのだから、かなりのレベルなのだろう。
「よく知りもしない相手と付き合えるほど、俺は器用じゃないし他人を信用しているわけでもない」
「でも、美人なら付き合ってみようとか思うのが普通じゃないですか?」
「それなら一色は、イケメンだからって理由で良く知りもしない相手と付き合うのか?」
「私の場合は、いくらイケメンでも拒絶反応が出ると思うので」
イケメンだろうがなんだろうが、異性には拒絶反応を示すと思う。だから先輩が欲しいと思っていた答えはあげられない。
「付き合いながら相手のことを知っていこうとか思わないんですか?」
「だから俺は他人を信用してない。基本的には相手を疑ってかかるから、試しに付き合ってみようとかいう、そんな陽キャ思考は理解できない」
「別に陰陽は関係ないと思うんですけど」
この人は本当に捻くれている。中学時代のトラウマがなかったとしてもこれだったのだろう。
「まぁ、先輩がフリーでいてくれるのは嬉しいですけどね。こうやって構ってもらえなくなるでしょうし」
「というか、さっさと合鍵を返せよな」
「やでーす」
おしゃべりをしながらもしっかりと調理を進めているが、この会話の時だけ視線が私のポケットに落ちる。そこにこの部屋の鍵が入っているから。
「(この鍵が心のよりどころになっているんだろうな)」
さすがに先輩に彼女ができたら返すつもりだし、本気で怒られたらすぐにでも返す。だが今のところ先輩が本気で「返せ」と言ってこないので私が預かっているのだ。
「てか先輩。部屋の中では名前で呼んでくれるんですよね? この間だって、結衣先輩と戸塚先輩にも言われてましたけど」
「長年使ってた呼び方を変えろと言われても難しいんだよ。それほど人付き合いがあるわけじゃない俺が、呼び方を変えるタイミングを把握してるとでも思ってるのか?」
「本気で答えた方がいいですか?」
「やめて。容赦のない返答がありそうだからやめて」
私が素の雰囲気を見せると、先輩は慌てて会話を打ち切ってくる。先輩は容赦のないことを相手に言うことが多いが、自分が言われるとすぐに弱るのだ。
「そうこうしているうちに、いろはちゃん特性オムライスの完成でーす!」
「今回は見た目も上手くできてるようだな」
「見た目だけじゃなくて、味も保証しますよ」
「別にお前の料理の腕を疑ってるわけじゃないし、作ってもらっておいて不味いと文句を言うつもりもない」
「そういうところは真面目ですよね、先輩って」
「俺は基本的に真面目だろうが」
「高校時代は不真面目だったから、平塚先生に怒られて奉仕部に入れられたんですよね?」
詳しいことは教えてもらっていないけど、先輩が奉仕部に入ったのは平塚先生からの命令で、先輩に拒否権はなかったらしい。それでも卒業まで奉仕部にいたのだから、必ずしも命令だけというわけではなかったのかもしれない。
「いい加減そのネタで人のことをいじるのはやめろ」
「先輩だって、何時までも私のことを『あざとい』って言うじゃないですか」
「それは事実だろ?」
「先輩に対しては計算してのあざとさではないんですから」
「はいはい」
全く本気にされていないけど、高校時代に計算してやっていたあざとさを、ここ最近先輩に対して見せたことはない。あざとく見えるのなら、それは素でやっているのだろうけど、先輩にとってはどっちも変わらないんだろうな。
「それで、お味の方はどうですか?」
「ちゃんと美味いぞ」
「それはよかったです。これからもたまに作ってあげますよ」
「それで自分の分も作って食費を浮かせるつもりか?」
「そんな気持ち、ちょっとしかありませんよ」
「ちょっとはあるのかよ」
照れ隠しなのだが、先輩は真に受けたらしい。まぁ、今はそれでもいいのかもしれないですね。
もうただの恋人っぽいな……
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周りのおせっかい
先輩の部屋でのんびり過ごしていたら、いつの間にか夕方になっていた。特に何かをしていたわけではないのに、時間を無駄にしたとは思わないのは、先輩と一緒にいられたからだろう。
「せーんぱい。晩御飯は先輩が作ってくださいね」
「は? お前、晩飯までここで済ませるつもりなのか?」
「良いじゃないですか。明日からまた頑張らなきゃいけないんですから」
いったい何を頑張るのかという問いかけはなかった。おそらく何を言っても無駄だと思っているのだろう。
「(手のかかる後輩扱いは嫌だと思いつつ、先輩が気にかけてくれているのが嬉しいなんて……)」
なんとも矛盾している思いだが、何とも思われていないよりかはだいぶ良い。だってこの人は興味がない人を部屋に招き入れ――勝手に入っているのだが、その点は気にしない――こんな時間まで滞在を許す人ではないから。
「てか先輩。せっかくの成人式でみんな集まってるのに、先輩に電話の一つもないんですね」
「そんなのあると思ってるの? 俺のことを思い出すヤツなんていないだろ」
「うわー……そうかもしれませんけど、それを堂々と自分自身で言うのはどうかと思いますよ?」
「ほっとけ。それで、何が食べたいんだよ」
先輩が腰を上げたタイミングで、先輩の携帯から着信音が聞こえた。先輩自身も珍しいと思ったのか、一瞬携帯に伸びる手が止まった――ように見えた。
「由比ヶ浜?」
「結衣先輩からですか?」
結衣先輩のことだから、成人式が終わった流れで先輩の部屋に遊びにこようとかそんな感じなんだろうと思った。
「先輩、スピーカーホンで出てください。私は黙ってますので」
「はぁ? なんでそんなことを――」
「良いから!」
先輩は私を不審がる視線を向けていたが、私の意志のこもった目を見てとりあえず言う通りにしてくれた。
「もしもし?」
『ヒッキー、やっはろー』
「何の用だ?」
『成人式の後に高校の友達と集まってたら、ヒッキーの話題になったから』
「はぁ? 俺の話題?」
先輩も意外だと思ったかもしれないが、私もそう思ってしまった。だって高校時代先輩と付き合いのあった人は極僅かで、しかも友好関係を築いていた相手とは今も付き合いが続いているはず。わざわざ話題に上がったからと言って電話をかけてくるようなことはないだろう。
『ヒキオ』
「どちら様でしょうか?」
『あーしが分からないの』
「あぁ、三浦さんですか」
独特の一人称で私も分かった。結衣先輩と一緒にいるのは三浦先輩でした。確かにこの人なら先輩の話題になって電話をかけてきても不思議ではない。何せこの人は川崎先輩と同レベルのおかん属性の持ち主。何時までも進展していない先輩と結衣先輩の関係を聞いて、一言いいたくなったとしても不思議ではないからだ。
『久しぶりだね、比企谷君』
「海老名?」
『おー、ちゃんと分かってくれた。さすがヒキタニ君』
「最初はちゃんと呼んでただろうが……」
高校時代、先輩は何故か『ヒキタニ』と呼ばれていた。先輩自身も訂正とかしなかったらかいまだに間違えている人とかいそうだが、この人は気にしないんだろうな。
「それで、三浦と海老名が何の用だ? 俺のことを懐かしく思ってとか、そんなんじゃないんだろ?」
『当たり前だし。あんたのことなんてどうでもいいっての』
「そうですか。それじゃあそろそろ失礼します」
『ダメダメ! 私たちは比企谷君に言いたいことがあったから結衣に電話してもらったんだから』
海老名先輩の会話の入り込み方からして、向こうもスピーカーで会話しているようだ。ここで私の声が入ったら面倒なことになりそうなので、私はさっきよりも電話から距離を取る。
「言いたいこと? なんだよ」
『いい加減結衣を解放しろし』
「解放? 別に俺は由比ヶ浜を縛り付けてなど――」
『比企谷君にそのつもりがないのは分かってる。でも君だって、結衣の気持ちは知ってるよね?』
「………」
海老名先輩の言葉に、先輩は黙ってしまう。この人だってあれだけアピールされれば結衣先輩の気持ちに気づいているに決まっている。おそらくは、私の本当の気持ちにも。それでもいつも通りを演じてくれるのは、この人なりの優しさなのだろう。
『あーしも長いこと隼人に縛られていたから言えるけど、何時までも一人に固執してたら次に踏み出せないんだよ。だから付き合うにしろ振るにしろ、早いとこ結衣を解放しろって言いたかっただけ』
『こんなこと言って、優美子は結衣のことが心配で仕方がないんだよ~』
『黙ってろし!』
「肝心の由比ヶ浜はどう思ってるんだよ? 俺の答えが聞きたいって思ってるのか? それとも、知らないまま今まで通りがいいと思っているのか?」
先輩の問いかけに、電話の向こうから聞こえていた声が聞こえなくなる。三浦先輩も海老名先輩も、結衣先輩の気持ちが一番だと分かっているのだろう。
「てか、さっきからこれだけ騒いでるのに由比ヶ浜の声が聞こえないんだが?」
『あー、結衣はね……にゃはは』
『酒呑んで酔っ払って寝てるし』
「呑ませたのか……」
結衣先輩が呑んだらどうなるか知っている先輩は、相手に見えないというのに頭を抱えてがっくりと肩を落とす。
『てか比企谷君、結衣が呑んだらどうなるか知ってたの?』
「以前俺と由比ヶ浜と戸塚の三人で呑んだからな。まぁ、二人は早々に潰れたんだが」
『意外だね。ヒキタニ君はそういう付き合いはしないと思ってた』
「二人に頼まれたら断りづらいだろ」
これは先輩の嘘。先輩は数で押してもどうにもならないが、戸塚先輩に頼まれると素直に言うことを聞いてくれる。だがそのことを知らない海老名先輩は、納得したように引き下がった。
『とにかく、さっさと結衣の気持ちに返事しろし! 隼人みたいに何時までも曖昧な態度でもてあそぶようなことは許さないから』
「随分と荒れてるが、お前も呑んでるのか?」
『吞んでないし! てか、吞んだこともないし!』
『優美子、ビビりで呑んだらどうなるか分からないーって』
『黙ってろし!』
「おせっかいは分かったが、結局は由比ヶ浜自身がどう思っているかだろ。返事が欲しいなら、してやらないこともないがな。由比ヶ浜が欲しい返事かどうかは分からないが」
先輩の答えに、二人は結衣先輩に可能性がないことを察する。それでも結衣先輩のことを心配する当たり、やはりいい人なんだろうな。
『結衣が返事が欲しいって言ったら、さっさと返事しろ! それで結衣を解放しろ』
『優美子は荒れてるけど、これでも真剣に結衣のことを心配してるのだけは本当だから』
「あぁ、それは分かってる。三浦、いいやつだからな」
『なっ……うっさいバカ!』
先輩に褒められて照れたのか、三浦先輩は暴言を吐いて通話を終了してしまった。
「やれやれ、おせっかいだってことに気づいているだけマシか」
「先輩、意外と普通に同級生と会話できるんですね」
「そこに感心するのかよ……てか、なんで黙ってたんだ?」
「だって、あの会話に私が加わったら、かなり面倒なことになりましたよ? 先輩はそれでも良かったんですか?」
あの二人は私のことを知っているし、海老名先輩はいろいろと勘が鋭い人だ。私がいることでいろいろと察して突いてきただろう。
「由比ヶ浜が聞いてたわけじゃないんだし、お前がいたとしても問題ないだろ。てか、由比ヶ浜はお前が隣に住んでることを知ってるんだし、気にしなかったと思うが」
「そういうところは相変わらずなんですよね」
「なに?」
「まぁ、先輩が乙女心を理解してるとは思えませんし」
「文句があるなら帰れ」
「やでーす。さぁさぁ先輩、美味しいご飯をお願いしますね」
「結局そこに戻るのかよ……」
電話があったせいでうやむやにされそうになっていたので、私はもう一度先輩に晩御飯をおねだりする。先輩の方もうやむやにするつもりはなかったようで、嫌な顔をしながらもしっかりと調理をしてくれたのだった。
褒められるのに弱い
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あやふやな記憶
成人式から数日後、大学で結衣先輩と顔を合わせたのだが、私は三浦先輩の話を思い出して咄嗟に結衣先輩から視線を逸らす。
「いろはちゃん、どうかしたの?」
「い、いえ……」
「そういえば私、成人式の後の記憶が曖昧なんだよね~。優美子や姫菜と一緒におしゃべりしてたところまでは覚えてるんだけどさ~。気がついたら実家のベッドにいたんだよね」
「(そりゃ、結衣先輩はお酒を呑んで酔いつぶれたから……)」
三浦先輩か海老名先輩かは分からないが、結衣先輩を実家まで連れて行ったのだろう。万が一結衣先輩を酔いつぶれたまま放置していたら、そこらへんのモブたちが結衣先輩に集っていただろうから。
「それでさ、携帯を見たらヒッキーに電話してるんだけど、私何話してたんだろう?」
「そんなこと私に聞かれても分かりませんよ」
「そうだよね。今度ヒッキーに聞いてみようかな」
「何々、なんの話ー?」
「カオリン、やっはろー」
私と結衣先輩の会話に加わってきた折本さんに、私は目礼をする。折本さんはそこまで礼儀に厳しくないので、目礼でも十分だと思ってくれたようだ。
「成人式の後の記憶があやふやって話だよ」
「結衣ちゃん、お酒呑んだんじゃない?」
「お酒? そういえば呑んだ気がする」
「折本さんも成人式は出席したんですよね?」
「とーぜん! むしろ出席してないヤツっているの?」
「先輩は出席してなかったですよ。当日、隣の部屋にいましたから」
その場に私もいたのだが、そのことは言わない。言えない。
「まぁ比企谷だしねー。同窓会に誘っても来ないし」
「むしろ先輩がそういう集まりに参加するとは思えないんですけど」
先輩は基本的に人付き合いが嫌いだから、人が多くいる場所には顔を出さない。無理矢理連れていけば行かないこともないのだが、自発的にそういうところにはいきたがらない人だ。
「だよねー。私も結構誘ってみたんだけど、全く付き合ってくれないし」
「カオリン、ヒッキーのこと誘ってるの?」
「同級生で比企谷の連絡先知ってるの私だけだから」
「ヒッキー、付き合い悪いからね」
私が誘えば結構付き合ってくれるのだが、結衣先輩や折本さんの誘いは断っているようだ。
「(それってつまり、二人より私の方が上ってことなんでしょうか?)」
あの先輩の中で、一番は戸塚先輩だろう。その次は小町さんなのだろうか? 高校時代なら小町さんが一番だっただろうけど、最近は小町さんと連絡を取っていないから戸塚先輩が一番になっていても不思議ではない。
「(じゃあ、その次は?)」
ずっと雪乃先輩だと思っていたが、先輩と雪乃先輩の間に恋愛は成立しなかった。雪乃先輩は先輩に対して恋愛感情を抱いていたようだが、先輩はそれを否定した。それも私の目の前でだ。
その次に可能性があるとすれば結衣先輩だったのだが、雪乃先輩を否定する前に結衣先輩に対する恋愛感情を否定している。
「いろはちゃん、急に黙ってどうしたの?」
「いえ、ちょっと人の中心にいる先輩を想像していました。でも、しっくりこなくて」
「まぁ比企谷だしね」
「ヒッキーが人と楽しそうに話してる姿は想像できないよね」
私たちはそれぞれが知らない先輩の姿を知っているはずなのだが、それでも人と楽しそうに過ごしている先輩の姿は想像できない。つまり、先輩は人付き合いが苦手だという認識が三人の中にあるということだ。
「そうだ! この後ヒッキーの部屋に行かない?」
「比企谷の部屋? でも、今日いるの?」
「いなかったら私の部屋でお茶でもしましょうよ」
「それいいかもねー。じゃあ、後で」
折本さんと別れ、私と結衣先輩も講義に参加するために移動する。この時、誰一人先輩の予定を確認するという、簡単なことを忘れていたのだった。
午後の講義も終わり、私たちは三人で先輩の部屋に向かう。――私個人で言えば、部屋に帰るでも間違いではないのだが、目的地は自分の部屋ではなく先輩の部屋だ。
「ヒッキーいるかな?」
「いるんじゃない? あの比企谷が出かけてるとは思えないし」
「講義があれば大学に行くでしょうし、バイトがあれば不在の可能性もありますけどね」
この三人よりも先輩の方が忙しそうにしているのだが、どうしても先輩のイメージは自堕落な生活をしているという先入観が邪魔をし、外出していないだろうという考えが先に出てきてしまう。
「あっヒッキー」
「ほんとだ」
少し先に先輩の姿を見つけ、まず結衣先輩が駆け出す。それを追いかけるように折本さんが向かい、私も速足程度だが速度を速め追いかけた。
「由比ヶ浜に折本、それに一色か」
「どうして私が一番最後なんですか?」
「近づいてきた順番だ。他意はない」
少し考えれば分かることだが、そんなことでも気にしてしまうくらい、私は先輩の中の順位が気になっているようだ。
「それで、わざわざ駆け寄ってきて何の用だ」
「ヒッキーの部屋に遊びに行こうって話になってね」
「俺抜きで話を進めないでくれませんかね?」
「まぁまぁいいじゃんそれくらい。同級生が遊びに来たくらいに思ってくれればいいし」
「そんな経験ねぇよ」
先輩に友達がいないのは昔からなので、先輩にそういう経験がないことは分かる。だが折本さんは決まづそうに視線を逸らした。
「別にお前が気に病む必要はねぇよ。自分で言い出したんだからな」
「いや、でもさ」
「それと悪いが、俺はこの後予定があるから部屋には戻らない」
「そうなの?」
「あぁ」
「それじゃあいろはちゃんの部屋でお茶しようか」
「ですね」
先輩と別れ、三人で私の部屋へと向かう。元々の目的地は隣なので、大した変更ではないのだが、気持ち的にはだいぶ違うだろう。
「比企谷の予定って何だったんだろうね?」
「家庭教師か、他のバイトかじゃないですかね?」
「比企谷が家庭教師とかウケル。あの不愛想に教えられる気持ちってどんなんだろうね」
「でも先輩って成績良いんですよね?」
「まぁ、あの大学に通ってるくらいだしね」
私たちが通っている大学よりはるかにレベルが高い。私は少し無理すれば通えないわけではなかったが、結衣先輩や折本さんは少し厳しいくらいのレベルだ。先輩の成績の良さは私よりこの二人の方が私より良く分かっているのだろう。
「でも小町ちゃんはヒッキーに勉強教えてもらってないんだよね?」
「先輩の両親の中では、先輩は高校時代のままですからね」
「いろはちゃん、詳しいね」
「この間小町さんに会った時に聞いたんですよ。折本さんも一応会いましたよね?」
「私はほら、中学時代の事で妹さんから睨まれただけだから」
小町さんは先輩に対してぼろっかすに言っている印象が強いが、実はブラコン気質なのだろう。中学時代の事を知っていれば折本さんに友好的じゃなかったのも頷ける。
「小町ちゃんがあそこまで敵意を向けるのは珍しいよね」
「私も反省してるんだけどな」
「まぁ、もともと捻くれていた先輩の性格に拍車をかけたのは事実ですし、小町さんが折本さんを快く思わないのも仕方ないのかもしれませんけどね」
今は反省しているし、ひょっとすると折本さんも先輩のことを憎からず思っているのかもしれないが、先輩の方は完全になさそうだ。そりゃ勘違いで告白して、それを面白おかしく周りに広めた相手――実際に広めたのは折本さんが話した友達だが――と今更付き合いたいとは思わないだろう。
「てか、比企谷の妹って結局どこの大学受けるんだろうね?」
「まぁ、合格したら先輩に連絡が行くんじゃないですかね?」
「どうだろう? ヒッキー小町ちゃんと疎遠になってるっぽいし」
「結衣先輩、疎遠って言葉知ってたんですね」
「それくらい知ってるし! いろはちゃん、私のこと馬鹿にしすぎ!」
「ごめんなさーい」
結衣先輩をからかって誤魔化したが、小町さんがこの周辺の大学に通うことになったら気まずくなるので、それだけはやめてほしいと心から祈ったのだった。
実際一位は戸塚だろうな
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お家芸
三人でお茶をしてある程度は楽しく過ごせたが、やはり先輩の用事が何なのかが気になってしまう。気になったのなら本人に確認すればいいと思い、私は結衣先輩や折本さんと別れてから先輩の部屋で先輩を待つことにした。
「――で、人の部屋に勝手に入った言い訳はそれで全部か?」
「はい……」
割と本気で先輩に怒られたので、私は表面上だけではなく本気で反省する。さすがに無人の部屋に勝手に入ったら怒りますよね……
「それで先輩、用事って何だったんですか?」
「教授に呼ばれてゼミの集まりに参加しただけだ」
「先輩が集まりに参加って、なんだか意外ですね」
「そんなことは俺だって分かってる。だがさすがに教授に呼ばれたのを無視するわけにはいかないだろ」
昔の先輩ならそれでも参加しなかったかもしれないが、今はあの時より大人の考え方ができるようになっているからこそ参加したのだろう。
「てか、事前に俺の予定を聞かなかったお前らが悪いんだろ。なんで俺が悪いみたいになってるんだよ」
「だって先輩ですよ? バイトだったらそういうだろうし、それ以外の予定って何なのか気になるじゃないですか」
「気にしなきゃいいだけだろ」
「私だけじゃなくて結衣先輩や折本さんだって気にしてたんですから」
折本さんは兎も角、結衣先輩は先輩に対して恋愛感情を抱いている。そのことはこの間の電話でも分かる。
「それで、なんで俺の部屋に行こうって話になったんだよ」
「結衣先輩、成人式の後の記憶があやふやで、先輩に電話した理由が分からないって」
「あぁ、酔っ払って忘れたんだろ」
「そのことを先輩に確認しようって流れだったんです」
「確認されたところで、あいつが欲しい返事ができるわけじゃないんだがな」
「………」
結衣先輩が欲しい返事とは何か、そんなものは考えるまでもない。だが先輩はその返事はできないと言っている。つまり結衣先輩の告白を受けるつもりはないということだ。
「(先輩曰く、気になっている人がいるかららしいけど、その相手は結衣先輩ではない。じゃあ、本当に誰なんですか?)」
先輩の周りにいる異性で、先輩が気にする相手というのが分からない。前までなら雪乃先輩一択だったのに、その雪乃先輩ははっきりと先輩にフラれた。そのシーンを間近で見たのだから間違えようがない。
雪乃先輩じゃなかったら次の可能性があるのが結衣先輩なのだが、先輩は結衣先輩とも付き合うつもりはないと言っている。こちらも前々から恋愛対象として見ていなかったと言っていたのが嘘ではないということだ。
「急に黙りこくってどうした?」
「ひょっとして本当に戸塚先輩じゃないですよね?」
「何が?」
「先輩が気になっている相手っていうのが」
「戸塚は男だ。いくらあいつが可愛いからと言って、そういう目で見るわけないだろ」
「良かった……海老名先輩歓喜の展開になるのかと思っちゃいましたよ」
海老名先輩ともこの間話した――先輩がだ――ので、もしかしたらそんな展開もあるのかもと思ってしまったのだが、とりあえず戸塚先輩が恋敵ということではなくて安心した。
「てか、用事が済んだならさっさと部屋に帰れ」
「せっかくですし、ここでご飯食べてきまーす」
「何が『せっかく』なんだよ。俺は外で済ませてきたっての」
「えー、先輩の用事が気になってずっと待ってた後輩に対してそれは酷いんじゃないですかー?」
先輩相手だとどうしても子供っぽい対応になってしまうが、先輩は特に気にした様子もないので大丈夫だろう。中には馬鹿っぽくて無理とか思う男子もいるかもしれないけど、不特定多数に何と思われようが、たった一人に好かれれば問題ないのだ。
「はぁ……お前、少し俺に甘え過ぎじゃないか? 一人暮らしって分かってるのか?」
「良いじゃないですか。お隣の好で。知らない間柄でもないんですし」
「俺はお前に何かしてもらった覚えがあまりないんだがな」
「何ですか口説いてるんですか? 遠回しに『お前の手料理が食べたい』って言ってもらえて嬉しいですけど、遠回り過ぎて分かりにくいです。もうちょっとわかりやすい表現でやり直してくださいごめんなさい」
「はいはい、そんなこと言ってないからな」
「何ですかその反応! それはそれで凄くむかつくんですけど」
「だってこのやり取り何回目だよ。てか、段々と否定が弱くなってきてるような気がするのは気のせいか?」
先輩も気づいているようだが、私のこれは否定のようで肯定になってきている。今のだって、先輩に受け入れてもらえて嬉しいという気持ちがはっきりと含まれているのだ。だが先輩はそれに気づかないふりをしてくれている。
「何か冷蔵庫に残ってたか?」
「なんだかんだ言って面倒を見てくれる先輩が好きでーす」
「都合よく動いてくれるからだろ」
本当はそうじゃないのだが、とりあえずそれで誤魔化しておこう。だって今はまだ、先輩の答えを知るのが怖いから……
大学生になって二回目の試験が近づいてくると同時に、世間的にはとあるイベントに向けて盛り上がっている。
「もうじきバレンタインだねー」
「結衣先輩はそっちより単位を心配した方が良いんじゃないですか?」
「今回はレポート課題の方が多いからそこまで心配する必要ないし!」
「そこはレポート関係なく大丈夫って言ってほしかったところですけどね」
結衣先輩には今期の講義は難しいようだが、少なくとも私は難しいと感じる物はない。殆ど同じ講義を受けているのにだ。
「ところでいろはちゃん」
「はい、何ですか?」
「この間いろはちゃんのことを紹介してほしいって言われたんだけど」
「断っておいてください」
「うん。そういうと思って断っておいた」
高校時代の私ならとりあえず会ってみようとか思っただろうけども、今の私はそんなことを考えない。結衣先輩もそれが分かっているからか、すでに断ってくれていたらしい。
「それにしても、いろはちゃんってやっぱりモテるんだね~。結構紹介してほしいって言われるんだけど」
「私よりも結衣先輩の方がモテるんじゃないですか? 結構男の人に声をかけられてるシーンを見るんですけど」
「そうかなー? でも、半分くらいはいろはちゃんを紹介してほしいとか、カオリンを紹介してほしいとかだけどねー」
折本さんも結構モテるようで、交流がない一年生がなんとかして知り合おうとするなら、本人に声をかけるか知り合いの結衣先輩に頼むかだろう。結衣先輩は年上だが今は同窓生ということで、幾分か結衣先輩の方が話しかけやすいんだろうな。
「折本さんも彼氏欲しいとか言ってる割には、誰かと付き合ったって話を聞かないですよね」
「カオリンもいろいろと考えることがあるんじゃない? 昔ヒッキーに酷いことをしちゃったらしいからさ」
「また同じ過ちを犯さないとも限らない、ですか?」
「うん、そんな感じじゃないかな」
結衣先輩は折本さんが先輩に対する罪悪感から異性と付き合えないと考えているようだが、私はちょっとだけ違う。もしかしたら折本さんも、先輩のことが気になっているのではないかと思ってしまうのだ。
「(中学時代に酷い感じでフったせいで今更言い出せないだけじゃないかと)」
「いろはちゃん?」
「いえ、先輩はもう気にしてないでしょうし、折本さんも何時までも気にしてないんじゃないかなーって思っただけです」
「でも、ヒッキーがますます捻くれた考え方になっちゃったのは、カオリンが原因なんだよね?」
「あの人が捻くれてるのは、多分元々だったと思いますけどね。より酷くなっちゃった要因の一つではあるでしょうけども」
先輩の幼少期は知らないので何とも言えないが、酷い失恋をしたからと言って、あそこまで捻くれた人間になるとは思えない。実際、葉山先輩にフラれて酷い失恋をした――当時はそう思っていた――私はそこまで変わっていない。男女の差はあるかもしれないけど、それでも違うと思う。
「まぁ、そのおかげでヒッキーと出会えたから、ある意味カオリンには感謝してるんだけどね」
「捻くれてたから奉仕部に入れられ、その結果結衣先輩と親しくなったんですもんね」
あの人はクラスメイトの顔すら覚えていなかったくらいだから、接点のなかった結衣先輩と親しくなるわけもない。その点は本当に折本さんに感謝してもいいところかもしれませんね。
八幡の捻くれは最初からのような気がしますが
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本気のチョコ
バレンタインが近いとはいえ、改まって先輩にチョコを渡すのはなんだか恥ずかしい。義理チョコだと偽れるほど自分の気持ちを抑えられないだろうし、だからと言って本命だと言って告白する勇気もない。
「(でも、渡さないなんて選択肢はないし……)」
先輩なら勘違いしないだろうけど、チョコを渡されなかったから自分に興味がないと思われる可能性は避けたい。いっそのこと告白でもしてしまおうか……
「それができれば苦労しない、か……」
何度も言おうとはしているが、いまだに言えていないこと。雪乃先輩と対峙した時に自分の気持ちをはっきりと言葉にしているので、今更自分の気持ちが本当にそうなのかという疑問はない。だがその気持ちを本人に伝えることができていないのだ。
「結衣先輩もだけど、私も大概ヘタレだよね……」
結衣先輩も何度もチャンスがありながら告白していないので大差ないのだが、あの人は雪乃先輩に遠慮して告白しなかったという理由がある。それを気にしなくても良くなっても告白できていないのは間違いなくヘタレなのだろう。人のこと言えないけど……
「でも、何時までもうだうだしていると先輩を盗られちゃうかもしれないし……」
別に私のものではないのでこの表現は正しくはないのだが、他の誰かの許に行ってしまうと考えると、どうしても盗られたと思ってしまう。
その相手が私なんかじゃ太刀打ちできないくらいの美人だったらあきらめがつくだろうけども、そもそもそのレベルの女性を先輩が信じるかどうか微妙だ。あの人は常に人を疑っている人だから。
「美人局とか思いそう」
きっと心の中で――
「俺じゃなきゃ騙されただろうけどね」
――なんて思うんだろう。あの人はそういう人だ。少しくらいは人を信じても良いんじゃないかと思いつつ、私も全面的に他人を信用していないなと思い苦笑いを浮かべる。
「とりあえず、材料だけでも買っておかないと。直前になってからじゃ何も残ってないとかありそうだし」
そう考えて私は携帯を操作し先輩にメッセージを送る。
「『先輩のためのチョコを作るための材料を買いに行きたいので、一緒に来てください』と」
なんともおかしな誘い文句だが、これくらいストレートの方があの人に効果がある。下手にはぐらかすと変な勘違いをされてしまうので、少し恥ずかしくても自分の気持ちははっきりと伝える。それが先輩と過ごした時間でたどり着いた、先輩攻略の最善手だと私は思っている。
「おっ?」
先輩から返事があり、私はすぐさま先輩からのメッセージを開く。
『めんどい』
「『せっかく可愛い後輩が先輩の為に愛のこもったチョコを作るって言ってるんですから、少しくらいときめいても良いんですよ?』……いやいや、この文面はないな」
慌てて文字を消去し、私はいつも通り不貞腐れた態を装って返事をする。いくらストレートに表現すると決めたとはいえ、さっきのはない。先輩も呆れるだろうが、それ以前に私が恥ずかしい。
「そもそも愛のこもったって何よ……」
私と先輩の関係を考えれば、そんなことを言える仲ではないし、それでフラれたら立ち直れない。私は自分の気持ちを上手くコントロールしなければと軽く頬を叩いて、先輩の部屋に特攻をかける。
「せーんぱい? 早速お買い物に行きましょう!」
「なんで人の返事を待たないで部屋に来てるんだお前は……」
「メッセージの通りですから、早速ゴー、ですよ」
「はぁ……」
私の力では先輩を引っ張って行くことなんてできないのだが、何度も腕を引っ張ると先輩が諦めてくれた。なんだかんだで付き合いのいい人だなーと思いつつ、他の人にはこれほど付き合っていないんじゃないかという疑問が私の中に生まれる。
「(つまり、私は先輩の中でそれなりに優先度が高いということ?)」
戸塚先輩に頼まれたのなら、この人は何をおいてでも付き合うだろうし、小町さんに頼まれてもそうだろう。この二人からの頼まれごとを、この人が断る光景が想像できないくらいだし。
だが折本さんや結衣先輩の誘いは断っていることが多いらしい。あくまでも二人との会話から得た情報だが、誘っても付き合ってくれないと。だが今、先輩は私の誘いに乗ってくれている。それはつまり、あの二人より私の方が上ということなのだろう。
「(もし先輩が告白を断っている理由である『気になってる人』というのが二人のどちらかなら、その誘いを断るはずがないよね)」
先輩はツンデレではなく捻デレだから、もしかしたらということもあるが、そんなことをしても相手の気を引けないということくらいは分かっているだろう。
「――聞いてるのか?」
「はい?」
急に先輩に顔を覗き込まれ、私は慌てて距離を取ってから先輩に問い返す。どうやら考え込んでいたらしく先輩の問いかけを無視していたようだ。
「出かけるのは分かったが、何処に行くんだよ」
「そりゃチョコの材料とラッピングに必要な物とか、いろいろと買わなきゃいけないですから沢山回りましょう」
「渡す本人と一緒にっておかしくないか?」
「えっ? 先輩本気で私からのチョコがもらえると思ってるんですか?」
いつもの癖でからかってしまったが、先輩は軽くため息を吐くだけだった。もしかして欲しくないのだろうかと思ってしまうが、それを聞いたら私の負けな気がして聞けなかったが。
高校時代はイベントとして一緒にチョコを作ったりしたことあるが、今回はあくまでも私個人として作る。そうじゃないと先輩に気持ちを伝えられないから。
「結衣先輩や折本さんも作るって言ってたし、その日が勝負の日になるかもしれない」
折本さんは違うかもしれないけど、結衣先輩は確実に本命だ。あの人の料理の腕を考えればさほど気にしなくてもいいかもしれないが、下手なアレンジを加えない限りチョコを不味く作る方が難しい。結衣先輩だからと油断しない方がいいだろう。
「先輩の味の好みは一応知ってるし、高校時代にあげたチョコくらいは甘くしても平気だろう」
今の先輩はコーヒーをブラックで飲んでいるが、基本的に甘いものは好きなのだろう。以前一緒にバイトしていたカフェでも、試作品としていろいろとデザートを試食していたのを見たことがある。その後から店に出ているメニューは普通に甘いものだったから、甘さ控えめな物の試食というわけでもない。
問題は今の先輩が何処まで甘いものが好きなのかということが分からない点だ。というか、昔もどこまでの甘さなら平気というのは知らない。
「まぁ、現実的な甘さなら問題ないでしょう」
私だってそこまで甘いものは遠慮したいし、甘すぎて糖尿になるとか言われたくないし。
「味は普通にして、形成に拘ってみるとか?」
さすがにハート形とかは恥ずかしいが、違う形にしてみるとかは良いだろう。
「一応型も買ってきてるから、そこに流し込んで固めれば作れるし」
市販の型だと安っぽくて気持ちが伝わらないんじゃないかとか一瞬思ったが、そもそもあの先輩がチョコを受け取ったくらいで気持ちに気づいてくれるなんて思ってる方がおかしい。もっと積極的にアピールしても流されてきたのだ。チョコにかける気合でどうにかなるはずもないじゃないか。
「だからと言って、手を抜くのは嫌だし」
これは自分の性格上仕方ないことなのだが、戦わずにして負けるのは気に食わない。いや、戦って負けるのも嫌だけども。とにかく、伝わる伝わらないは置いておくにして、今は先輩に喜んでもらえるように頑張らなくては。
「……あれ? よくよく考えたら、私って本気でチョコを作ったことあったっけ?」
高校時代のアレは、すでに葉山先輩にフラれた後意地になって作ったという面が大きいし、その後はチョコを作る暇なんてなかったし……
「えっ、ちょっと待って……もしかして、これが初めての本気チョコ?」
そう考えると頬に熱を帯びてきた気がして、私は今更ながら恥ずかしくなってきたのかと自覚し、更に頬が熱くなったのだった。
頑張ってるなぁ
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決戦前日
2月14日、先輩の部屋に結衣先輩が来ている。私が先輩の部屋を訪れる前に結衣先輩が先に突撃しているようだ。
『ヒッキー、これ受け取ってください』
『あ、ありがとう』
『それで、ヒッキー……私と付き合ってください!』
結衣先輩が先輩に告白しているのが聞こえる。先輩のことだからそれを断って――
『いいぞ』
「えっ!?」
――まさか先輩が結衣先輩の告白を受けるなんて……
「はっ!? ……今のは、夢?」
携帯のカレンダーを確認すると、今日は2月13日。バレンタインは明日だ。
「先輩が結衣先輩の告白を受けるなんてありえないと思ってたけど、結衣先輩は私から見て可愛らしい女性だしな」
先輩が結衣先輩のことを恋愛対象として見たことがないという言葉が嘘ではないとしても、改めて向き合って恋愛対象として思えると心境が変化しているかもしれない。そうなった場合、私では太刀打ちできないだろう。
「だって、結衣先輩は私以上に先輩のことが好きだから……」
私もそれなりに告白されているが、結衣先輩はそれ以上に告白されている。私が目撃しただけではないだろうから、それはもうかなりの男子が撃沈していることになる。
何故結衣先輩が告白を受け入れないかなど、考えるまでもなく分かる。私だけではなく、折本さんだって分かるだろう。その気持ちを知っているからと言って、先輩を譲れるわけがない。
「だって、私の気持ちは『本物』だから……」
葉山先輩に抱いていた気持ちとは別の、本気で好きになった異性。それが先輩だ。想っている期間は結衣先輩の方が長いかもしれないが、どれだけ先輩のことを想っているかは同じか私の方が強いと思っている。
「あんな夢を見るくらいなんだから、先輩を盗られたくないっていい加減認めちゃえばいいのに」
私の中のもう一人の私が話しかけてくる。そんなことは言われるまでもなく分かっているのだが、いざ告白しようにも経験値がないのでヘタレてしまう。
「告白されたことは数えきれないくらいあるけど、告白したことって実は一回しかないんだよな……」
しかもその告白は自分自身の中で踏ん切りをつけるためのもの。フラれたショックで泣きはしたけど、成功するとは最初から思っていなかったものだ。
だが先輩に対する告白はあの時のものとはわけが違う。もし断られたらどうしよう、失敗して先輩と今までの関係も続けられなくなったら、私はどうなってしまうか分からない。そう考えるとどうしても踏ん切りがつかないのだ。
「明日、このチョコを渡して自分の気持ちを伝える……」
それができれば苦労しないのだが、何時までもうじうじしていたら先輩を他の女性に盗られてしまうかもしれない。それくらい今の先輩は魅力的だし、将来性も高い。別にステータスで選ぶ人ばかりではないだろうが、そういった面でもあの人は人気がある。
「相手をステータスとしか見てなかった私がそんなことを思うなんてね……」
そんなことを考えながら、自分の作ったチョコを見る。私にしてみたらかなり本気で作ったチョコだ。はっきり言って、最高傑作だろう。
「逆に重いとか思われないよね……」
どうしても思考がネガティブな方向へと進んでしまう。こういう時は何か気分転換でも――
「おっ?」
――そんなことを考えていたタイミングで、結衣先輩からメッセージが着た。内容は、今から会えないかということだ。
「それじゃあ、決戦前日にライバルにと語り合うとしますか」
結衣先輩も間違いなく先輩にチョコは渡すだろうし、もしかしたら気持ちを伝えるかもしれない。少しでも結衣先輩の心境を知られれば、もしかしたら私も少しは気が楽になるかもしれないしね。
私の体質を知っているので、結衣先輩は外ではなく私の部屋にやってきてくれた。折本さんも一緒に。
「お邪魔します」
「いらっしゃいです」
二人を招き入れて、私は二人にお茶を用意する。先輩のように文句を言いながらではなく、あくまでも歓迎ムードで。
「いきなりゴメンね」
「いえいえ。私も暇を持て余していましたので」
「何それウケルー」
今は折本さんの軽いノリがありがたいかもしれない。私と結衣先輩の二人きりだったら、おそらく会話もままならなかっただろうし。
「それで、わざわざどうしたんですかー?」
「結衣ちゃんがいろはちゃんに確認したいことがあるって言ってさー。一人じゃ行く勇気がないから付き合ってって言われたんだよね」
「カオリン!」
「私に確認したいこと、ですか?」
今更何を確認するというのか、とは考えなかった。このタイミングで結衣先輩が私に確認したいことなんて一つしかない。だって、私が結衣先輩に聞きたかったことと同じだろうから。
「いろはちゃんはさ、ヒッキーに告白するの?」
ほらやっぱり。今日という日を踏まえ、恋する乙女がライバルに確認したいことなど一つしかないじゃないか。
「一応はしようかなとは考えていますけど、ダメだった時を考えるとイマイチ踏ん切りがつかない、というのが素直な気持ちですね。ほら、先輩って誰かと付き合うイメージができないというか」
「分かるよ。私もてっきりゆきのんと付き合うと思ってたから、その告白を断ったって聞いて怖くなっちゃったから」
「比企谷ってモテるよね。どうして過去の私は比企谷の本質を見てあげられなかったんだろう」
折本さんの懺悔の言葉が、私たちにのしかかる。先輩の女性不信の一端である折本さんがこの場にいるのは、本来であればおかしいことだが、彼女もまた先輩に特別な気持ちを抱いている一人だ。もし折本さんが先輩に告白するとしても、私たちに止める権利はない。
「まぁ、私は今更比企谷と付き合おうなんて思わないけど。思えないけど……」
「カオリン……」
「結衣ちゃんにしろいろはちゃんにしろ、比企谷のことを真剣に考えてあげられる子がいるんだもん。比企谷は幸せ者だよ。中学時代私と付き合わなくてほんとに良かった」
折本さんのセリフは、何処か自分に言い聞かせている雰囲気がある。あえて言葉にすることで自分に言い聞かせているとしか思えない。
「だからさ、結衣ちゃんもいろはちゃんも、思い切って告白してきなよ。フラれる痛みを知ってるあいつなら、それほど酷いことはしないだろうし」
「カオリンはそれでいいの?」
「どういう意味?」
「えっ、カオリンもヒッキーのことが――」
「違うよ」
結衣先輩の言葉を遮った折本さんの声音が、何時にもなく真剣だ。慌てて否定するでもなく、いつもみたいに軽いノリでもなく、真剣そのもの。
「私の想いは二人のとは違う。そもそも、フッた私が比企谷にそんな想いを抱くわけないじゃん。それにさ。結衣ちゃんやいろはちゃんみたいに可愛くないからさ、私は。だからさ、どっちが比企谷の彼女になったとしても、私は祝福するよ」
「カオリン……」
「折本さん……」
今にも泣きそうな顔をしている折本さんに、私も結衣先輩も何を言えなかった。言うべきではなかった。自分の中の気持ちに嘘を吐いてまで私たち二人を応援すると言う彼女に、安っぽい言葉をかけるべきではないと思ったから。
「ていうかさ、比企谷だって今更私にコクられても困ると思うんだよね。あいつのことだから周囲に中学時代の同級生が隠れてるんじゃないかとか、そんなこと思いそうだし」
「カオリン、もういいよ。それ以上自分を傷つけなくても」
「別に傷ついてなんて――」
「じゃあどうして泣いてるんですか?」
私の言葉に折本さんが自分の頬に手を当て驚く。そこには一筋の涙が流れていたから。
「気づくのが遅かったかもね。二人が本気で告白するってなる前なら、もしかしたら私も考えたかもしれなかったよ。私は無理だけど、二人は逃げちゃダメだからね」
折本さんの言葉で、私と結衣先輩は逃げることができなくなった。元から逃げるつもりなどなかったが、これで退路が断たれたのだ。
「結衣先輩、明日は頑張りましょう」
「だね。カオリンの分まで」
結衣先輩と力強く頷きあい、ひたすら折本さんを慰めることでバレンタイン前日は過ぎて行ったのだった。
友人関係としては良い感じですが
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二人の告白
折本さんに背中を押され――退路を断たれたともいえるかもしれない――私と結衣先輩は覚悟を決めた。元々逃げるなんて考えていなかったが、改めて自分の気持ちと向き合って先輩に想いを伝える。その結果がどうあろうと、前へ進むには逃げては通れない道だから。
「いろはちゃん、どっちも選ばれなかったらどうしよう」
「怖いこと言わないでくださいよ……」
先輩の中に意中の相手がいるのかどうかも分からない現状だ。高校時代は結衣先輩のことは異性として見ていなかったらしいが、今はどうか分からない。大学生となり少し大人っぽさを手に入れた結衣先輩に惹かれていてもおかしくはないだろう。さらに先輩と結衣先輩は気心の知れた仲だ。一緒にいて居心地が悪いということもないだろうから、その点から考えても先輩と結衣先輩はお似合いなのかもしれない。
だからと言って私が結衣先輩に白旗を上げる理由にはならない。私だって先輩にとって気心の知れた相手だと思うし、ここ最近だけに限れば結衣先輩より私の方が先輩と一緒にいる時間が長い。その点から考えれば私だって可能性がないわけではないだろう。
「それじゃあ、行こう」
先輩の部屋の前で何時までも長考しているわけにはいかないので、結衣先輩の合図で私たちは先輩の部屋に入るためにインターホンを押す。
「はい? 由比ヶ浜と一色?」
ドアを少し開けて来客の顔を確認した先輩は、半分だけしか開けていなかったドアを開けて私たちを招き入れてくれた。
「ヒッキー、作業中だったの?」
「担当している子が今日受験だからな。何時連絡が来ても対応できるようにしてただけだ。今のところ俺が何かしなきゃいけないってわけじゃない」
「立派な先生をしてるんですね、先輩」
確かにこの時期は高校入試と重なっているため、中学生はバレンタインを満喫できないかもしれないなんて考えながら、どうしてこの人はここまで真面目なのだろうと思ってしまう。
「(自分が嫌われることを厭わず、物事を成功へ導くような人だもんね)」
当時はそういう方法しか取れなかった人だが、今は違う。自分を犠牲にすればいいという考えは捨てたようで、周りの人を心配させることもなくなったようだし。
「てか、わざわざ人の部屋に来て世間話をしに来たのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
「てか先輩、私たちが来た理由なんて分かってるんじゃないですか? 今日が何月何日なのか、忘れてるわけじゃないでしょうし」
「………」
教え子の受験日だと誤魔化そうとしたのかもしれないが、それが意味をなさないと分かっているようで先輩は何も言わなかった。今更誤魔化されたからと言って私たちが退散するとは思わなかったのかもしれない。
「ヒッキー、これ受け取って」
「私からもチョコです。先輩の為に作りました」
「あ、あぁ……ありがとう」
私たちの勢いに圧されたわけではないだろうが、先輩は少しためらいがちに私たちのチョコを受け取ってくれた。とりあえず、これで終わり――というわけにはいかない。私たちは覚悟を決めてこの部屋にやってきているのだから。
「それからね……ヒッキーに聞いてほしいことがあるんだ」
「聞いてほしいこと?」
「うん。私はね、ヒッキー……ううん、比企谷八幡さんが好きです。友達としてだけじゃなくて、一人の男の人として」
「由比ヶ浜……」
「本当は高校時代に告白しようと思ってたんだけど、ゆきのんが先にヒッキーに告白したでしょ?」
「あぁ」
「あの時、私はてっきりヒッキーとゆきのんが付き合うと思ってたんだ。それなのにヒッキーはゆきのんと付き合わないでそのまま奉仕部は離れ離れになっちゃって、これ以上ヒッキーとの距離が開いちゃうのが怖くて告白できなかった」
結衣先輩の気持ちを、先輩は黙って、まっすぐ彼女を見つめながら聞いている。一方で結衣先輩の方は今にも泣きだしそうな顔で先輩を見つめている。まるで、この先の未来が分かっているかのように。
「だからヒッキー、私と付き合ってください」
「由比ヶ浜」
「うん」
「まずはありがとう。こんな俺を好きになってくれて――いや、好きでい続けてくれて。俺は誰かに好かれるような人間じゃないって思ってたし、由比ヶ浜は優しいから勘違いしちゃいそうになったこともあった。だが、お前の気持ちを聞いて、勘違いじゃなかったんだって思えた」
先輩のセリフを聞いていると、まるでこのまま告白を受けてしまうんじゃないかと思える。だが、先輩の顔はそんな勘違いをさせないように無表情を貫いている。
「そしてごめんなさい。俺は由比ヶ浜のことを異性として思えない。友人としてはかけがえのない存在だと思っているが、一人の異性としてそう思えるかと問われれば否だ」
「そっか……そうだよね。ゴメンねヒッキー」
「……なんで、由比ヶ浜が謝るんだよ」
「なんでって……なんでだろうね」
「……ゴメンな」
囁くような先輩の謝罪を聞いて、結衣先輩は堪えきれずに泣いてしまった。
「分かってたけど……ヒッキーにフラれるのって辛いよ……」
「ゴメン……」
「謝らないで。余計に惨めになっちゃうからさ……」
「ごめ――いや、ありがとう」
もう一度謝ろうとした先輩だったが、謝罪の言葉を飲み込み感謝の言葉を告げる。その言葉を聞いて結衣先輩は泣きながら笑顔を見せる。
「もしヒッキーの中に誰もいなかったら、私にも可能性はあったのかな?」
「どうだろうな……お前といる時間は嫌じゃないし、あったかもしれないかもな」
「そっか……違うって思ってたけど、恋愛って早い者勝ちなのかもね」
「どうだろうな……」
先輩はどこか遠い目をしながら答える。まるで結衣先輩を見ないようにしているようだと感じる。
「……よし! それじゃあ私は伝えたから、次はいろはちゃんだよ」
「分かりました」
結衣先輩が無理矢理気持ちを切り替えて私に促してきたので、私も頷いて先輩と向き合う。
「先輩」
「おう」
「私は先輩が――比企谷八幡さんが好きです! 葉山先輩に抱いていたような偽物の気持ちではなく、先輩に対する気持ちは『本物』です」
「………」
「いったい何時からこんな気持ちを抱いていたのか分かりませんが、私の中で先輩の存在が大きくなっていて、会えなくなって初めてこの気持ちが恋なんだって気づきました。そして再会した時、今度こそちゃんと伝えようと思っていました。随分と足踏みしてしまいましたが、これが私の気持ちです」
結衣先輩のように上手く伝えられない。どうして足踏みしていたのかも、何時から先輩のことを想っていたのかも、何もかもあやふやなままの告白だ。これじゃあ本心でぶつかっていった結衣先輩の告白よりも陳腐だろう。
「ずっと勘違いしないようにしようと思っていた」
「はい?」
「お前はあざといし俺のことを都合のいい先輩としか思っていないって思うようにしていた」
「………」
「葉山のことを理由にしてお前と一緒にいられるだけで良いと思っていた時もあったが、お前がフラれて落ち込んでいるのを見て、あざといだけじゃなくてちゃんと弱い部分もあるんだと思った時、俺の中にお前の気持ちが芽生えたんだろうな、守ってやりたいって」
「それって……」
「お前はそれを妹扱いだと言っていたが、俺にしてみれば特別扱いだったんだ。何せ妹以外の異性に優しくしたことなんてなかったからな」
そう言いながら先輩は不器用に笑っていた。
「お前にだけ言わせるのは不公平だよな……」
一度視線を外してから、先輩がまっすぐに私を見つめてくる。その視線に捕らわれ、私は息をするのを忘れた。
「一色いろはさん、貴女が好きです。こんな俺で良いのなら、付き合ってください」
「……はい!」
先輩の告白を自分の中で消化するのに若干のタイムラグがあったが、私は先輩の告白を受け入れ先輩に飛びつく。まさか飛びつかれると思っていなかったのか、先輩は一歩退いたが倒れることなく私のことを受け止めてくれた。
「おめでとう、いろはちゃん」
「結衣先輩……ありがとうございます」
「ヒッキー! 私、諦めないからね! いろはちゃんと結婚するまでは、私にもチャンスがあるって信じて」
「け、結婚って……」
結衣先輩の覚悟を聞かされ、私が赤面する。結衣先輩の中でお付き合い=結婚なのかと思ったのと同時に、新婚生活を夢見てしまった自分にも恥ずかしさを覚えたから。
結衣、諦めない宣言
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彼氏の実家
先輩に告白して付き合えることになった。それはとても嬉しいことなのだが、いざ付き合うことになったら、何をしていいのかが分からない。
「先輩、恋人同士って何をするものなんですかね?」
「そんなこと俺に聞かれても知るわけないだろ」
「ですよねー……」
デートまがいなことならしたことあるけど、私は恋人がいたことがない。当然先輩にもいたことがないので、お互いに経験値ゼロなのだ。
「てか、なんで俺の部屋に入り浸ってるんだよお前は」
「だって、先輩の料理の方が美味しいんですもの」
私だって最低限の料理くらい作れるのだが、先輩と比べたらせいぜいちょっと上手いくらいなのだ。
「それに、こういうのも恋人っぽくていいじゃないですか」
「恋人というより家族だろ、これじゃあ……」
それってつまり、先輩はもう私と結婚した後のビジョンができているということなのだろうか? なんて勘違いはしない。どうせ私のことを妹扱いしてるとか、そういうことだろう。
「ねぇ先輩。いい加減私のことを妹扱いするのはやめてくださいよ」
「別に妹扱いしてるわけじゃないって、何度も言ってるだろ」
「そうは言っても、私からしたら妹扱いされてる感じが否めないんですよね」
「俺は小町に料理を作ってやったことなんて殆どないぞ」
「そりゃ、小町さんはあまりこっちに来てないですからね」
小町さんの受験も終わったころなんだろうが、私は彼女が何処の大学を受け、その合否はどうなったのかは知らない。もしかしたら先輩も知らないのかもしれない。
「そういえば」
「何です?」
「由比ヶ浜は千葉に帰るって言ってたのに、お前は帰らないのかと思っただけだ」
「うわぁ先輩……彼女といるのに他の女の子の話題を出すなんて」
「なんだよ」
別に結衣先輩に嫉妬してるわけではないのだが、やはり先輩と結衣先輩の関係は羨ましい。彼女の立場は私が手に入れたが、結衣先輩がいる場所は私がどう頑張っても手に入らないからかもしれない。
「てか、どうしていきなり千葉の話なんですか?」
「……一度俺も帰らなきゃなと思ったから」
「何か用事があるんですか?」
「小町の合格祝いをやるから、金を振り込むか手伝えとお袋殿から……」
「うわぁ……」
相変わらず先輩に対する扱いが酷いご家族ですね……もしかしたら先輩が捻くれちゃった原因って、必ずしも先輩だけに原因があったわけじゃないのかもしれないですね……
「というか、小町さん合格したんですね」
「まぁ、あいつのレベルからしたら当然という感じだろ。お袋殿はもう少しレベルの高い場所を狙えと言っていたらしいが、親父殿があくまでも実家から通える場所に拘ったから、その中間を取ったという感じだ」
「溺愛されてるんですね」
「俺の扱いを見れば、小町が溺愛されてるのは分かるだろ」
「ですねー。先輩、殆ど興味持たれてないですもんね」
実際帰ってこいの理由が、小町さんの合格祝いの手伝いですし……
「それって、私も参加してもいいですか?」
「は? なんでお前が小町の合格祝いに――」
「先輩の彼女として、きちんとご挨拶しておきたくて」
「………」
私の言葉に、先輩は絶句している。まさか付き合って数日で家族に挨拶なんて思ってもみなかったのだろう。だが、小町さんにはいずれバレるだろうから、どうせならこちらから報告しておいた方が後々面倒なことにならないと考えたからだ。
「ところで、小町さんってどこの大学を受けたんですか?」
「由比ヶ浜から聞いてないのか?」
「結衣先輩? いえ、何も」
「小町が受けたのは、お前たちと同じ大学だ」
「えぇっ!?」
まさか小町さんがまた後輩になるとは……てか、先輩の実家からだとウチの大学はかなり通学が面倒な気がするんだけどな……通えないわけじゃないけど。
「遅くまで講義があった日とか、帰るの面倒じゃないですかね?」
「たまにこの部屋に泊まるかもしれないとは言っていたな」
「それって、私が先輩に甘えられる日が減るってことじゃないですか……」
「毎日入り浸るつもりだったのか、お前は……」
私が楽をしようとしていたのがバレてしまい、私は誤魔化すように笑みを浮かべる。それで誤魔化されてくれればいいのだが、この人には私の笑顔は通用しないのだ。
「一人暮らしの自覚が足りてないよな、お前……」
「やる時はやりますけど、長期休暇の時はどうしてもやる気が……てか先輩」
「なんだよ」
「さっきから『お前』としか呼んでくれてないですよね! 名前で呼んでくださいよ」
「いや、お前だって俺のこと『先輩』としか呼んでないだろ? いきなり呼び方を変えろと言われても難しいんだよ」
「それはそうですけど……でも先輩は私のこと『いろは』って呼んでくれたことが何回かあるじゃないですか。付き合ってなくても呼べたんですから、呼ぼうとすればできますよね?」
「………」
私の切り替えしに、先輩は何も言わずにコーヒーを啜った。
「黙らないでくださいよ……」
「……いろはも参加するって、お袋殿に言っておく」
「あっ、ありがとうございます……」
不意打ち過ぎる名前呼びに、私の頬は赤く染まる。こういう不意打ちが多すぎるから気をつけておかないと。
数日後。私は先輩と一緒に千葉へ帰ってきた。帰ってきたと言っても、小町さんの合格祝いを手伝ったらそのまま東京へ戻る予定なのだが。
「そういえば、先輩の実家って行ったことなかったですね」
「そうか? まぁ、来ても何もないからな」
雪乃先輩や結衣先輩は来たことがあるのだろうかとか、ご両親にどう挨拶すればいいのかとか、私の頭の中ではそんなことがぐるぐると駆け巡っている。
「ここ、ですか?」
「表札見れば分かるだろ」
「ですね……」
表札には『比企谷』の文字が。つまりここが先輩の実家で、今から私が彼女として初めて訪れる彼氏の実家ということだ。
「そういえば先輩、私手ぶらなんですけど」
「気にすることないだろ。あくまでも小町を祝いに来ただけで、正式な挨拶ってわけじゃないんだし」
「でも、気の利かない彼女だって思われたら……」
「気にし過ぎだ。てか、俺の親に何と思われようが、いろはは俺の彼女なんだから」
「先輩……」
この間催促したからではないが、先輩は私のことをちゃんと名前で呼んでくれる。そんな小さなことが先輩の彼女なんだと実感させてくれる。
「ほら、行くぞ」
「は、はい」
先輩に手を引かれ、私は比企谷家の中へ入っていく。
「ただいま」
「お、お邪魔します」
先輩に続くように挨拶をしてから、私は恐る恐るリビングへの道のりを進む。
「お兄ちゃんおかえりー。そして、いろは先輩いらっしゃい!」
「受験が終わって元気が戻ったようだな」
「さすがに死ぬかと思ったよ。まぁ、お兄ちゃんみたいにハイレベルな大学を受験したわけじゃないから、そこまで死にそうになってたわけじゃないけどね」
「それで、親父殿とお袋殿は? 人のこと呼びつけておいて不在か?」
「なんか二人とも急な仕事が入っちゃったらしいから、お祝いは小町とお兄ちゃん、あといろは先輩でやっておいてくれってさ」
「相も変わらず社畜か……」
「そんなわけですからいろは先輩、そんなに緊張する必要はないですよ」
小町さんには私が緊張していることがバレバレだったようで、そんな声をかけられてしまった。
「てかお兄ちゃん、本当にいろは先輩と付き合ってるんだね」
「なんだよ急に」
「だって、ずっと手をつないでるからさ」
「ん?」
先輩は無意識だったようで、小町さんに指摘されて漸く私と手をつないだままだったと気づいたようだ。
「てか、二人が不在じゃお祝いって感じにならないんじゃないか? なにも用意してないようだし」
「だねー。だからお兄ちゃんが何か作ってよ」
「俺が?」
「小町はいろは先輩からいろいろと聞かなければいけないことがあるので忙しいのです」
「な、なにを聞きたいの?」
「そりゃいろいろですよー。というわけでお兄ちゃん、いろは先輩借りるね~」
小町さんに引っ張られてリビングを出ていく時、先輩が同情的な目をしていた気がした。というか助けてくれないのかと文句を言いたかったが、小町さんの勢いに先輩も圧されたんだろうな……
小町の口調が難しい
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関係の変化
先輩の実家に小町さんの合格祝いをしに来たはずなのに、何故か私は小町さんの部屋に連れていかれた。
「えっと、聞きたいことってなんですか?」
高校の後輩で先輩の妹相手だというのに、私は何故か敬語で話さなければいけない雰囲気になっている。だって、小町さんの目が本気過ぎて怖いから……
「いろは先輩は何時からお兄ちゃんと付き合ってるのかな~って思いまして」
「こ、この間のバレンタインの時に、結衣先輩と一緒に告白して、先輩にOKを貰いました」
「ふむふむ、つまりいろは先輩とお兄ちゃんが付き合っていることは、結衣さんも知っているということですね」
「はい……」
この子は何を知りたいのかよく解らない。というか、どうしてこんな風に尋問じみたことをされなければいけないのだろうか……
「いろは先輩は何時頃からお兄ちゃんのことが好きだったんですか? 少なくとも、高校時代はそういった雰囲気ではなかったと思うのですが」
「具体的な時期は私自身も分からないけど、たぶん高校時代から先輩のことは意識していたんだと思う……葉山先輩にフラれた後、なんだかんだ私のことを気にかけてくれていたのは先輩だったから」
「まぁ、いくらゴミいちゃんでも、傷心の女の子をほっとくようなことはしないでしょうし。でもまぁ、まさか傷心に付け込んでこんな可愛い女の子を惚れさせるなんて……我が兄ながらなかなかの手練手管を使うんだなぁ」
「は?」
相変わらず理解不能な思考回路をしているようで、小町さんの中では私が先輩に騙されて惚れてしまったことにされているようだ。
「言っておくけど、私は本当に先輩のことが好きですから」
「それは分かってますよ。もし偽物の気持ちだったとしたら、あのお兄ちゃんが気づかないわけないですし」
散々貶しているようで、小町さんは先輩のことをなんだかんだ信用しているようだ。
「それになりより、あの結衣さんを差し置いていろは先輩が兄の彼女になったのですから、騙されて兄を好きになったわけではないって分かりますよ。結衣さんは本当に兄のことが好きだったんですから」
「そうだね。結衣先輩は先輩のことを本当に好きでしたからね。私が彼女になった時も、油断してたら盗るくらいの勢いでしたから」
さすがにちょっかいを出してくるような性格の悪さではないので、今のところ何もされていない。というか、何かされるという心配はしていない。
「それで、お兄ちゃんとはどこまで行ったんですか?」
「どこまで、とは?」
「誤魔化さないでくださいよ。大学生カップルですよ? もう行くところまで行っちゃってるんじゃないんですかね?」
「……っ! ま、まだ何もしていません!」
かなり初心っぽい反応を見せてしまったかもしれないが、正真正銘初彼氏なのだ。こういう反応をしてしまっても仕方がないだろう。
「まぁそうでしょうね。あのゴミいちゃんがそんな手練れなわけないですし、いろは先輩もなんだかんだで奥手そうですし」
「そ、そういう小町さんは恋人とかいないんですか?」
「いないですねー。なんだかんだお兄ちゃんを一番近くで見てきた人間ですから、人の裏側とかを見ちゃんうんですよ。だからそう簡単に他人を信じられないというか、お兄ちゃんほど大人びた相手じゃないと満足できないというか」
なんだかんだで先輩のことを尊敬していて、その人が基準になってしまっていると小町さんは少し寂し気な表情で告白する。あの先輩が基準では、同級生では満足できないだろうな。だって、私もそうだから……
「そういうわけで、大学生活にちょっとだけ期待してるんですよ。もしかしたら、小町のお眼鏡にかなう相手がいるんじゃないかって」
「期待しているのに悪いけど、先輩ほど擦れた人はいないと思うよ」
「ですよね」
そんな会話をしていたら、私の携帯と小町さんの携帯が同時に鳴る。どうやら先輩からのメッセージのようだ。
「準備できたみたいですね」
「そうですね。ゴミいちゃんだけどこういう時はちゃんと準備してくれますし、なんだかんだで料理の腕は小町以上になってるみたいですし」
「先輩の料理は戸塚先輩たちも好きですからね」
「いろは先輩も、でしょう?」
小悪魔的な笑みを浮かべながら指摘してくる小町さんから視線を逸らし、私はそそくさとリビングへ向かうことに。これ以上年下にからかわれるのは、なんとなくいたたまれないから……
結局三人で遊んだ感じになってしまったが、初めての先輩の実家での時間はそう居心地の悪いものではなかった。
「それじゃあお兄ちゃん、小町の最低限の荷物は送っておくから」
「お前も一人暮らしした方が良いんじゃないのか?」
「お父さんが許してくれないって。そもそもあの大学だってお母さんと散々説得して認めてもらったんだから」
「相変わらず小町に対しては過保護な両親なことで……」
小町さんの頭をなでながらぼやく先輩を見て、私と小町さんは同時に噴き出す。
「なんだ?」
「先輩も小町さんに対して相当過保護なのに、ご両親のことをそんな風に言うから」
「そうそう。そもそも小町が一人暮らしを始めたら、お兄ちゃん毎日来そうだし」
「さすがに毎日はいかない。せいぜい週に五日くらいだ」
「ほぼ毎日じゃん! てか、彼女のいろは先輩を放っておいて小町の相手とか、お兄ちゃんポイント低いよ」
「そのポイント、まだあったのか……」
兄妹のやり取りを見ながら、なんとなく思うことがある。
「(確かにこのやり取りを見てると、先輩は私のことを妹扱いしてたわけじゃないんだって分かる……だって、私にするよりも明らかに過保護だもん)」
先輩曰く『お兄ちゃんスキル』らしいが、やはり実際の妹相手だとそのスキルが遺憾なく発揮されるようだ。
「まぁ一人暮らしは追々できるように交渉するけど、それまではお兄ちゃんの部屋で我慢してあげるよ」
「酷い言い草だな……」
「もしくは――」
そこで小町さんが人の悪い笑みを浮かべて私を見る。
「お義姉ちゃんの部屋でもいいですけどね。場所的には一緒ですし」
「なっ!?」
「気が早すぎだろ」
「えーそうかなー? だってお兄ちゃんのことだから、いろは先輩以外と結婚するつもりはないんでしょ?」
小町さんの質問に、先輩ではなく私が慌てて否定しなければいけない気になる。だって結婚とかまだ早すぎるような気がするし、そもそもまだ付き合って一ヶ月程度だというのに……
「馬鹿な事言ってると、お前が俺の部屋じゃなくて男の部屋に泊まってると嘘ついて、外出禁止にさせるぞ」
「それは困る。てかお兄ちゃん、脅し方に容赦がなくなってきたように感じるんだけど」
「小町がふざけたことを言うからだろ」
「ちょ、やめてよゴミいちゃん」
そう言いながら先輩は小町さんの髪をぐしゃぐしゃに撫でまわす。言葉では嫌そうにしている小町さんだが、顔は嬉しそう。なんだかんだ構ってもらえて嬉しいんだろう。
「じゃあな。入学式の後で部屋にくるんだろ?」
「もしかしたら友達とそのまま遊びに行くかもしれないから確約はできないけどね」
「友達と一緒なんですか?」
「いえいえ、入学式でもしかしたら仲良くなれるかもしれないので。何せ小町は、ゴミいちゃんとは違って対人スキルが高いので」
「反論したいが言葉が見つからねぇ……」
「先輩、未だに友達少ないですからね」
というか、高校時代の知り合い以外のお友達がいるのかどうか知らない。
「兎に角お兄ちゃん、初彼女おめでとう」
「小町も合格おめでとう。今更だけどな」
「ほんと今更。あーあ、これで小町もお兄ちゃん離れしなきゃいけなくなっちゃったね」
「とっくに離れてただろうが」
「そんなことないよ……」
少し寂しそうな眼をした小町さんを、先輩は優しく撫でてから私の手を取る。
「じゃあ、俺たちは帰るから。今度はお袋たちがいる時にでも来るわ」
「それって結婚の挨拶?」
「ふざける元気は戻ったようだな」
「おかげさまでね」
兄妹のおふざけ会話だと分かっているのだが、小町さんの言葉に顔を真っ赤にしてしまったのだった。
小町のおふざけにマジ照れするいろは
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知らない人たちの反応
先輩の家に挨拶に行った――実際は小町さんとおしゃべりをしただけだが――からといって、何かが大きく変わるわけではない。春休みの間は私も先輩もそれぞれバイト以外は出かける用事もないので、どちらかの部屋でダラダラすることが多い。
だが今日、久しぶりに先輩の部屋に戸塚先輩と材木座先輩、そして玉縄さんたちが遊びに来るそうだ。
「結衣先輩や折本さんも来るみたいですね~」
「ようやく玉縄が自分で誘ったのかと思ったが、戸塚が誘ったらしい」
「あの人が自分で誘えるわけないじゃないですか」
玉縄さんは高校時代から折本さんに恋心を抱いているようだが、未だに進展する様子が見られない。というか折本さんにその気持ちがないのだから、玉縄さんが頑張っても進展しないだろう。
「てか先輩」
「なんだ?」
「私と付き合ってること、他の人には教えたんですか?」
「戸塚には報告してある。材木座と玉縄には言ってない」
「そうなんですか……じゃあ、集まってるときはくっついたりしちゃダメですかね?」
今日はお昼から先輩がバイトだったので、いつもより先輩成分が足りない。だから夜は思いっきりくっつこうと思っていたのだが、まさかの戸塚先輩たちの来訪なのだ。このままでは我慢できずに先輩のベッドで一緒に寝たくなってしまうかもしれない。
「必要以上にくっつかなければ構わない。戸塚と由比ヶ浜は知ってるんだし、どうせ今日残りのメンツにも話すつもりだからな」
「なら良かったです」
我慢しなければいけないと思えば思うほど、先輩にくっつきたくなってしまう。最近の私はどうも先輩に甘え過ぎている気がする。
「………」
「どうかしたのか?」
「いえ……どうやったら先輩なしで生きて行けるか考えていただけです」
「大げさな……」
「大げさじゃないですよ! いいですか!? もうすぐで新学期が始まるわけです。そうなると大学が違う先輩と過ごす時間が大幅に減ってしまうんですよ!? そうなったら何時禁断症状が出て寝ている先輩を襲おうと考えだすか分からないんですから」
「それは大変だな……」
若干引かれてしまったが、先輩は私のことを避けずにいてくれるようだ。
「大学が違うのは今に始まったことじゃないし、そもそも普通に通えてただろ? なんで今更無理になるんだよ」
「そりゃ、私がずっと我慢していた先輩と付き合うということが現実になったからですよ。今まではちょっと思うだけだったことが、少し頑張れば現実になるんですから、我慢できなくなっても仕方ないじゃないですか!」
「お、おぅ?」
先輩にはピンと来ていないようだが、私だって思春期の女の子だ。好きな異性とアレコレしたいと思ったりもする。ましてやその相手が隣の部屋で生活しているのだから、箍が外れたら大変なことになるだろう。
そういうことも考えて、春休みは目一杯先輩と触れ合おうと思っていたのに……まぁ、恋人の友人関係に口を出すなんて、最低最悪だからやりませんけど……
「あいつらが帰った後、ゆっくりすればいいだろ。さすがに日付が変わる前には帰るだろうし」
「そうだといいですけど……もし日付が変わってもいたら?」
「……泊っていけばいいだろ」
「はいっ!」
めったに出ないお泊り許可が出たので、私は誰か一人でも日付が変わるまでこの部屋にいてくれないかなと思いつつ、早く先輩と触れ合いたいという二つの気持ちで揺れるのだった。
先輩の部屋を一番最初に訪れたのは、ある意味想像通りの玉縄さんだった。
「やあ、いろはちゃん」
「こんばんは。今日はお誘いありがとうございます」
「良いって」
実際は誘われていないのだが、玉縄さんは戸塚先輩が折本さんや結衣先輩と一緒に私も誘ったのだろうと解釈してくれた。
「毎回思うんだが、なんで俺の部屋なんだよ。お前の部屋の方が広いんだろ?」
「僕の部屋より比企谷の部屋の方が来やすいって人が多いんだ。だから比企谷の部屋を使わせてもらってるんだよ」
「まぁ、先輩の部屋と玉縄さんの部屋なら、先輩の部屋の方が来やすいですよね――気持ち的に」
「僕は立地的な意味で言ったんだけどな……」
玉縄さんも女性には一応紳士的な対応を取る人だが、精神的には先輩の方が信頼できるので先輩の部屋と言われれば、玉縄さんの部屋と言われた時より参加しやすいだろう。
そもそも玉縄さんの目的は折本さんなので、折本さんが玉縄さんの部屋に行くかどうか問われたら何と答えるかなど、玉縄さん本人も分かっているんだろうな。
「てか、戸塚はどこだよ」
「戸塚君は少しよるところがあると言っていたな。もうすぐ来るんじゃないか?」
玉縄さんの言葉が合図だったかは分からないが、戸塚先輩たちがちょうどやってきたようで、外から声が聞こえる。
「ほら来た」
「てか、なんでお前だけ別行動なんだよ」
「僕は買い出しでは戦力になれないらしいから」
「材木座はなってるのにな」
先輩の言葉に込められた意味に気づくことなく、玉縄さんは残りのメンバーを部屋に招き入れる。
「待ってたよ」
「なんでお前が扉を開けるんだよ……」
戸塚先輩たちから荷物を受け取った先輩が文句を言うが、玉縄さんは気にした様子はない。本当にこの人は空気が読めないというかなんというか……
「こうして八幡の部屋に集まるのも久しぶりだね」
「最近の八幡は付き合いが悪いからな」
「いろいろと忙しかったんだよ。てか、俺が居なくても三人で集まったりすればいいだろ」
「そうなんだけど、八幡がいないとなんか違うなーって感じがするんだよね」
先輩と個々は付き合いがあるけど、先輩がいないとそこまで付き合いが深いわけではないようで、先輩抜きで集まることはしないと戸塚先輩が言う。確かに高校時代もそうだけど、先輩抜きで他のメンバーが喋ってるところを見たことがないかもしれない。
「そういえば比企谷、妹ちゃんがうちらの大学に入学するってマジ?」
「あぁ。由比ヶ浜と一色は高校に続き小町の先輩に――そういえば由比ヶ浜、単位採れたのか?」
「ヒッキー、あたしのこと馬鹿にしすぎだし! ちゃんと単位は採ったから!」
「それはよかった。小町と同窓になるのかと思った」
「それはそうと、比企谷はなんで結衣ちゃんをフッたの?」
「……折本、部屋に来ていきなりその話題かよ」
「だって、結衣ちゃんに聞くわけにはいかなかったからさ」
折本さんの質問に、事情を知らない玉縄さんと材木座先輩が勢いよく先輩に視線を向ける。当事者である結衣先輩と私、そして事情を知っている戸塚先輩はそれぞれ折本さんから視線を逸らす。下手に助け舟を出すより、先輩本人が答えた方が折本さんも納得するだろうと思って。
「前々から言っていたんだが、由比ヶ浜のことを恋愛対象として見たことがなかったからな。それに、半端な気持ちで由比ヶ浜と付き合うのは、相手に失礼だろ」
「じゃあ、一色ちゃんと付き合っているのは、比企谷も一色ちゃんのことが本気で好きってことなんだね?」
「「っ!?」」
結衣先輩をフったという話題の時は声を出さなかった二人が、私と付き合っていると知って先輩により強い視線を向けた。
「八幡貴様、何時の間に彼女持ちになっていたのだ!」
「この間のバレンタインデーに、二人から告白された。それで一色と――いろはと付き合ってるだけだ」
「ぬぅ……この我は未だに異性とろくに喋れないというのに……いったいどこで差がついたというのだ」
「最初からだと思うよ。八幡は誤解されがちだけど、意外と女子の間でも話題になってたし」
「おっふ! 戸塚殿、最近我に対して容赦がなくなってきてないか?」
「そんなことないよ。材木座君が八幡と同じレベルだと思ってるから、それを指摘してあげてるだけだよ」
戸塚先輩の黒い面が見えたような気がして、私たちは少し戸塚先輩から離れる。
「比企谷が女子を名前で呼ぶなんて信じられない」
「さすがに彼女だからな。苗字で呼ぶと返事しなかったりするから、いい加減呼ぶのも慣れた」
「そっか。比企谷、大事にするんだよ」
「分かってるっての」
折本さんの表情が少し寂しそうなのに、私だけが気づく。折本さんの中に先輩に対する気持ちがあるのではないかという疑問が残ってるけど、とりあえずは折本さんも祝福してくれているので大丈夫かな。
材木座も声はカッコいいんだから……
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玉縄の焦り
折本さんの心の裡がどうあれ、先輩は私の彼氏だ。そのことを主張するわけではないが、私は先輩の隣に座り腕を組む。
「なんだよ」
「別にいいじゃないですか、彼女なんですから」
少しうっとうしそうにしながらも力尽くで振り払わないのがこの人のやさしさ。私と先輩のやり取りを見て、結衣先輩と折本さんは少し羨ましそうな目をしていたが、この場所を変わってあげるつもりなどない。
「まさかいろはちゃんが比企谷を選ぶとはね。君ならもっと選び放題だと思うんだけど」
「しれっと人をディスってんじゃねぇよ」
「そうだよ。八幡は結構人気だし、一色さんも油断していたら誰かに盗られちゃうかもしれないから気を付けなね」
「は、はい……」
戸塚先輩の目が笑っていなかったので、若干引きつった声で返事をしてしまったが、戸塚先輩は気にした様子もなくいつもの笑顔を向けてくれた。だが一方で玉縄さんにはキツイ視線を向けたままだ。
「てかいろは、離れろ」
「いいじゃないですかー」
「これから料理作るんだから、くっつかれてると邪魔だ」
「はーい……」
はっきりと邪魔と言われてしまったので、私は渋々絡めていた腕を解く。ついさっきまであった先輩の温もりが無くなってしまい少し寂しいが、包丁を使うのにくっついたままでは危ないから仕方がないか……
先輩がキッチンへ向かったタイミングで、折本さんと結衣先輩が私の両隣へ移動する。これは何か聞かれるんだろうな……
「ヒッキーとデートしたの?」
「いろいろと忙しくて……外でのデートはないですね。私が先輩の部屋に遊びに来てゴロゴロしてるだけとか」
「何それうけるー。てか一色ちゃん、比企谷の部屋でゴロゴロして楽しいの?」
「意外と楽しいですよ? いろいろな先輩の表情が見れたりしますし、先輩の機嫌が良ければ頭撫でてくれたりご飯作ってくれたりしてくれますし。もちろん、忙しいときは私が作ったりもしますけど」
「恋人同士というより夫婦みたいな光景だね~。いいな、いろはちゃん……」
羨ましそうな表情をされても、結衣先輩に先輩を渡すわけにはいかない。結衣先輩の魅力を以てすればあるいは先輩が靡いてしまうかもしれないから。
「それにしても八幡に彼女か……なんともうらやまけしからんな」
「材木座君だって、同じサークルの女の子と仲いいんでしょ? 八幡だけ責めるのは違うと思うよ?」
「あ、あれはあくまでも同じ趣味だからであって、八幡と一色殿のような関係ではない」
「でもこの間一緒に出掛けたんだよね? しかも二人きりだったって聞いたけど」
「なんだそれ! 僕は聞いてないぞ」
材木座先輩にも春の予感があるとしり焦る玉縄さん。まぁ一番縁遠いと思っていた人にそういった予感があると知れば仕方がないだろう。だけど見ていてみっともないと思ってしまうのは、焦り方が尋常ではなかったからだ。
「そういう戸塚殿こそ、いろいろな女子からお誘いがあると聞いたことがあるぞ」
「僕の場合は一緒にカフェに行って写真撮ろうとか、ケーキバイキングに行こうとかそういうのだから。しかも女子がいっぱいの中に男は僕一人だけ」
「(実質的にはハーレムなんだろうけど、絵的には女子会にしか見えないだろうし)」
戸塚先輩を誘っている人も、中には戸塚先輩と仲良くなりたいと思っている人もいるだろうけど、大半が女子会に誘ってる感じなんだろう。だって、下手をしたら女子よりも可愛らしいからな、この人は……
「一色さん。何か失礼なことを考えていない?」
「そ、そんなことないですよ」
玉縄さんに向けていた鋭い視線がこちらに向いたので、私は慌てて誤魔化す。この人、見た目に反してかなり鋭い人だから気を付けなければと思っていたのに……
「ところでいろはちゃん、今度小町ちゃんと一緒に遊びに行こうって話があるんだけど、一緒に行かない?」
「えっ、小町さんとですか?」
「うん。後輩になるんだし、カオリンも一緒にどう?」
「あー、私は遠慮しておこうかな。なんだかすごく睨まれてたから」
折本さんは中学時代の事で小町さんに敵愾心を向けられてるからなぁ……
「とりあえず私は小町さんと会いたいので一緒に行きますね」
「義妹と仲良さそうだね」
「義妹って気が早いですよ。まだ付き合ってそんなに経ってないですから」
義妹どころか先輩と付き合ってさほどそれらしいことしたことないし……もう少し恋人っぽいことしたいと思っているんだけど、これ以上踏み込んだら拒絶されそうだし……
「そういえば比企谷はいろはちゃんと一緒の時はどんな風なんだい?」
「いつも通りですよ? ひねくれてるけど、最終的には私の望みを叶えてくれますし」
「八幡は優しいからね」
戸塚先輩には優しいけど、玉縄さんには厳しいようで、私の言葉に戸塚先輩だけは共感してくれたが、玉縄さんと材木座先輩は首をかしげている。
「お前ら、俺だけに準備させておいて俺の話で盛り上がってるんじゃない」
「運ぶの手伝いますよ」
先輩の準備が終わったので、私はそそくさと先輩の側に駆け寄って手伝う。
「だってせっかく付き合いだしたんだし、いろいろと聞きたいじゃない?」
「私の目の前で付き合いだしたカップルだし、いろいろと気になっちゃうんだし」
「気にするな。というか、付き合ってると言ってもそれほど時間が経ってないんだから、聞かせることなんてあるわけないだろ」
「ということは、比企谷はまだ俺たちと同じということだな?」
何が同じなのかは分からないが、深く聞かない方がいいことなんだろうと思い誰もがスルーした。この人は何を焦っているのか分からないけど、見た目はそこまで悪くなと思うんだけどな……
「それじゃあ、いただきます」
「相変わらずヒッキーの作ったご飯は美味しそうだよね」
折本さんと結衣先輩がさっさと食べ始めたので、私たちもそれに続く。先輩と二人きりのご飯も好きだけど、こうしてみんなで食べるのもたまには悪くないかもしれない。
日付が変わる前に解散になったので、私は片づけを手伝いながら先輩の部屋でまったりしている。
「ねぇねぇ先輩」
「なんだ」
「結局みんなの前で名前を呼んでくれたの少しだけで、殆ど『こいつ』とかだったじゃないですか」
「まだ慣れないんだから仕方ないだろ」
本当は慣れているのに、茶化されるのが嫌なだけだったんだろうなと思いつつ、それを指摘するとまた不貞腐れちゃいそうだったので、私は頬を膨らませるだけで済ませた。
「次集まる時はちゃんと私のことを名前で呼んでくださいよ? そうじゃないと、戸塚先輩に泣きつきますからね」
「それは卑怯だろ……分かった、ちゃんと呼ぶようにはするから」
「てか、小町さんの前では呼べてたんですから、折本さんたちの前でも呼べそうですけどね」
「気持ちの整理とか、いろいろあるんだよ、俺にも」
先輩の気持ちの整理という言葉が気になるけど、ここで興味を示したところで上手くはぐらかされてしまうだけだと理解している。なのであえて興味なさげにして洗い終わったお皿を受け取ってタオルで拭く。
「これで最後ですね」
「戸塚は兎も角、他の連中は俺が片づけをやると決めつけて帰りやがって……」
「まぁまぁ、可愛い彼女がこうやって手伝ってあげてるんですから。文句言わないでくださいよ」
「……そうだな。いろはは可愛い彼女だな」
「っ!? い、今のもう一回言ってください!」
「さて、風呂入って寝るか」
「聞こえてないフリしないでくださいよ!」
不意打ち過ぎたのでもう一度聞きたかったのだが、先輩は私のことは一切相手にせずにお風呂の準備をしに行ってしまう。
「先輩に可愛いって言ってもらえた……冗談じゃなくて、結構本気な感じで」
何度か冗談めいた感じでは言ってもらったことがあったけど、あんな真面目に言われたのは初めてだ。今度はちゃんと嚙み締められるタイミングで言ってもらいたいな。
順調に恋人っぽくなってるのか?
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進展具合
今日は結衣先輩と小町さんと三人でお出かけの日。本当なら先輩も連れて行きたかったのだが、都合がつかないということで諦めて三人で出かけることにしたのだ。
「結衣さ~ん!」
「小町ちゃん」
相変わらずこの二人は仲が良いみたいで、兄の彼女である私ではなく結衣先輩に先に声をかける。まぁ、付き合いの長さで言えば結衣先輩の方が長いんですし、仕方ないのかもしれないけど……
「そして、こんにちは、お義姉ちゃん」
「こ、こんにちは」
「いろはちゃん、そんな風に呼ばれてるんだ~」
「(呼ばれてないっての!)」
急に義姉扱いされ戸惑う私を、小町さんは楽しそうに見ている。おそらくだが、兄を盗られた腹いせでもしているのでしょう。
「さて、冗談はこれくらいにして、今日は結衣さんといろは先輩の二人なんですね。てっきり折本さんとかお兄ちゃんとかがいると思ってたんですけど」
「カオリンは小町ちゃんに苦手意識があるらしくてね」
「先輩は都合がつかないといって断ってきました」
「あーなるほど。折本さんとは初対面の時にちょっと鋭い視線を向けすぎちゃったようですね」
小町さんも自覚していたようで、折本さんに避けられている理由をしっかり理解していた。
「お兄ちゃんの方の都合というのは気になりますね……いろは先輩、何か聞いてないんですか?」
「たぶんバイトだと思いますよ。先輩、結構掛け持ちしてますし」
前回担当していた中学生の成績をかなり伸ばしたということで、先輩は家庭教師の方でも人気が高いらしく、何回か担当してほしいという連絡を受けている場面に遭遇した。おそらく今日もそれ関係で登録先から呼ばれたんじゃないだろうかと思っている。
「あのゴミいちゃんが立派に働いてるなんて……当時の小町に言っても信じないだろうな~。いやむしろお兄ちゃんも信じないまである」
「その言い回しヒッキーぽいね」
「そうですか? まぁ、長年兄と一緒にいたので似ていても仕方ないかと」
口では嫌そうな感じを出している小町さんですが、表情は誤魔化せていない様子。先輩と似ていると言われてなんだか嬉しそうです。
「とりあえずお店に入ろうか。何時までも立ち話もアレだし」
「そうですね。大学のこととか、いろいろと聞きたいですし。それに、いろは先輩が兄と何処まで進んでいるのかも知りたいですから」
「な、何にもありませんからね」
よくよく考えたらキスすらしていないのだ。進んだと言えるのは、先輩が私のことを名前で呼んでくれるようになったくらいで、後は先輩後輩の関係と変わっていない。
「(……あれ? 私、その程度で満足しちゃってたってこと?)」
「いろは先輩?」
「どうしたのいろはちゃん。急に立ち止まって」
「い、いえ……何でもないです」
改めて考えると、私って先輩に対して臆病になっているんじゃないだろうか。これ以上踏み込んで拒絶されたら嫌だとか、先輩に嫌われたら困るとかいろいろと理由を探して逃げているんじゃないだろうか。
そんな考えが浮かんできてからというもの、私は結衣先輩や小町さんとの会話をろくに楽しめなくなってしまった。
「いろはちゃん、本当にどうしたの?」
「具合でも悪くなっちゃったんですか?」
「だ、大丈夫です……」
そんな感じだから二人にも心配されてしまう始末……これは帰ったら先輩に相談して少しくらいは進展しなきゃですね。
とりあえず持ち直して二人との会話を楽しんだのち、私は先輩の部屋に突撃することに。先輩が不在だったら合鍵で入ろうと思っていたが、先輩は部屋の中にいた。
「先輩、ただいまでーす」
「いや、いろはの部屋は隣だろうが」
「もう殆ど同棲してるのと同義なんですし、今更そこは気にしなくていいと思いますけどね」
「いや、気にしろよ」
変なところで真面目な人なので、こういうことを指摘してくる。まぁ、私も指摘されると分かっていて言っているのだからあまり変わらないかもしれないが。
「それで、今日は小町や由比ヶ浜と出かけてたんじゃないのか?」
「そうですよ。そこで気になることが出てきたからこうして先輩の部屋に来たんです」
「気になること?」
「はい。小町さんに言われて気づいたんですけども」
「小町に? あいつ、何を言ったんだ?」
先輩も気になったようで、私の話をちゃんと聞く姿勢になる。別に今までがだらしない姿勢というわけではなかったのだが、よりしっかりした感じだ。
「いえ、そこまで大それたことを言われたわけじゃないですよ」
「そうなのか?」
「はい。私と先輩が何処まで進んだのかと聞かれただけです」
私がはっきりとそう言うと、先輩はすぐには理解できなかったのか数秒固まってから呆れたような顔を見せた。
「はぁ? そんなの余計なお世話だろうが」
「小町さんとしては、高校時代の先輩に戻らないか心配しているようでした」
「戻らねぇよ……」
先輩が高校時代にしていたことを考えれば、もし戻ったらどうしようと心配する気持ちも分かる。だがさすがにもうあんなことはしないと先輩も心に誓っているのだ。心配するだけ無駄なのでしょうが、小町さんは今の先輩の心情を近くで感じていないからなぁ……不安になるのも仕方がないのだろうな。
「それで私思っちゃったんですよね」
「何を?」
「先輩、私のことを名前で呼ぶ以外以前の関係と全く進展してないんですよ」
「そうか? いろはが気軽に人の部屋に泊まったり、人に洗濯させたりと、以前とは違うとは思うんだが」
「そういうのは兎も角!」
改めて指摘されると恥ずかしいので、私は語気を強めて先輩の口を塞ぐ。これ以上恥ずかしいことを聞かされるのが嫌だったのと同時に、先輩の中にはそういうことをしたいという気持ちがないのかと、ちょっと残念だと思ってしまったのが恥ずかしかったので。
「恋人らしいと言えば、もっとこうあるじゃないですか」
「……お前は何が言いたいんだよ」
「だから、その……き、キスとか……」
うわぁ……付き合いだしたばかりの中学生でもここまで初々しくないだろうな……
そんな現実逃避みたいなことを考えている私を見て、先輩も少し思うところがあったのだろう。視線を逸らして何かを考えている。
「言われてみればしたことなかったな」
「えぇ……気づいてなかったんですか?」
「いや、とっくにしたもんだと思ってたわ」
「それってどういう意味ですか! 先輩は私以外とキスしたことがあるってことですか?」
「いや、お前がしょっちゅう人が食べているものを横から盗るから、しょっちゅう間接キスはしてるだろ? だからてっきり普通のキスもしたものだと思ってたんだ」
「あっ……」
先輩に指摘され、私は今更ながら自分の行動が恥ずかしく思えてきた。確かに先輩が食べているものを横から貰うことはしょっちゅうだし、その時は先輩が使っているお箸やスプーンから貰っているので確かに間接キスはしょっちゅうしていることになる。てか、真顔で言われるとこっちが恥ずかしいんだけどな……
「つまりいろはは、未だにキスしてもらってないことに気づいて、小町たちとのお出かけが楽しめなかったと言いたいんだな?」
「むぅ……そうやって声に出して指摘する先輩は嫌いです」
「悪かった」
私の頭を撫でながら謝罪する先輩。なんだか妹扱いされているようですが、これはこれで悪くありません。
「それで、いろははしたいのか?」
「何をですか?」
「だから、キス」
「っ! ……で、出来ればしてみたいです」
もうすぐ二十歳になるのだが、キスをしたことなんて一度もない。改めて聞かれると恥ずかしくて逃げ出したくなるが、せっかく先輩がその気になってくれているのだから、ここで逃げたらダメだろう。
「分かった」
こういう時やっぱり先輩の方が年上なんだなと思い知らされる。私は緊張でいっぱいいっぱいなのに、先輩は落ち着いている。こういう経験があるわけではないんだろうけども、私の緊張を感じ取って精一杯リードしてくれているんだろう。
「(あっ、先輩の唇ってあったかいんだ……)」
先輩からキスされている時、私はそんなことを考えていたなど、先輩には言えるわけがない。
八幡が男らしいなぁ
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彼氏の妹との付き合い方
小町さんの入学式の後、私と結衣さん、そして折本さんに小町さんからお誘いがかかった。
「どうして私まで呼ばれたんだろう」
「カオリンも先輩なんだし、呼ばれても不思議じゃないと思うけど」
小町さんは折本さんの連絡先を知らない。なので結衣さん経由で折本さんにも誘いを入れたのだが、誘われた折本さんは不思議そうな顔をしている。まぁ、折本さんと小町さんの関係は微妙だから仕方ないけど。
「ところで、このメンツならヒッキーも呼ばれてそうなんだけど」
「先輩はゼミに参加するからって言ってました」
「ちゃんと彼女には予定を話してるんだ。比企谷もしっかりしてるね」
「私がしつこく問いただしたから仕方なくって感じでしたけどね」
本当は一緒に来てほしかったのでしつこく誘った結果、予定を教えてくれたのだが、そのことを二人に話す必要はない。
「それで、呼び出した比企谷の妹は?」
「そろそろ来ると思うけど」
結衣さんの言葉が合図になったのかは分からないけど、そのタイミングで小町さんが店に入ってきた。そしてすぐに結衣先輩を見つけて手を振っている。
「結衣さ~ん!」
「小町ちゃん! こっちこっち!」
「結衣先輩、少し声量を抑えてください」
高校時代のノリが抜けきっていないのか、周りを気にせず大声で手を振るので、私は恥ずかしくなってしまう。折本さんも私と同じ感じだし、やはり結衣先輩がおかしいのだろう。
「今日はわざわざ時間を作ってもらい、ありがとうございます」
「小町ちゃんのお誘いならいつでもOKだよ」
「それで、私まで呼ばれた理由は教えてくれるの?」
挨拶もそこそこに折本さんが小町さんに切り込む。小町さんもその疑問は当然だと言わんばかりの顔で頷く。
「さすがは兄と付き合いが長いだけありますね。質問の仕方に容赦がないですね」
「べ、別に比企谷との付き合いとかは関係ないでしょ。私はただ、そこまで付き合いのない相手に呼び出された理由を知りたいだけで……」
「まぁまぁ、そんなに興奮しなくてもちゃんと話しますから」
小町さんは自分の分の注文を済ませてから折本さんに視線を向ける。私と結衣先輩は固唾を吞んで二人が向き合っている光景を見守っている。
「折本さんが中学時代兄を晒しものにしてくれたお陰で、兄の高校時代はまぁ――あんな残念な感じになってしまったようですが、お陰でロクでもない相手に引っかからなかったので、そこはお礼を言わせてください」
「べ、別にそんなつもりがあったわけじゃないし……てか、私が晒しものにしたわけじゃないって」
折本さんは先輩に告白されたと友達に話しただけで、その話を面白おかしく脚色して先輩を晒しものにしたのはその友達だ。だが折本さんがその友達に話さなければ先輩が笑いものにされなかったかもしれないので、折本さんが晒しものにしたと言っても過言ではないんだろうな。
小町さんも折本さんの訂正を話半分にしか聞いていないようで、先ほどの発言を謝罪するつもりはなさそうだ。
「てか、そんなことを言う為に私を呼び出したの?」
「いえ、兄の件はただの口実です。よりよい大学生活を送るためには、先輩方に知り合いがいた方がいいかなーと思いまして」
「さすがは先輩の妹……いい根性してますね」
「その辺は高校時代で経験してますから、必ずしも兄の影響ってわけじゃないんですけどね」
小町さんが高校に入学した時、先輩と結衣先輩、そして雪乃先輩が三年に、私が二年にいたことで小町さんは上級生から注目されかけていたが、その辺は上手いこと取り込んで目立たなくなっていた。あれは何をどうやったのか未だに分からないが……
「まぁ、構内で見かけたら挨拶くらいはするけど、それほどしたしくもないあたしより、結衣ちゃんや一色さんと話した方がいいでしょ」
「そんなこと言わずに、カオリンも小町ちゃんと仲良くしようよ」
「そうですよ。もう兄の件は恨んでいませんから」
「少しは恨んでたんだ、やっぱり」
「ところで小町さん。この後は千葉に帰るんですか? もしそうならそろそろ時間が――」
「あっいえ。この後は兄の部屋に泊まることになってますんで」
「そうなんですか?」
先輩から何も聞かされていなかったので、私はあからさまに動揺してしまう。その表情を見て、小町さんが小悪魔的な笑みを浮かべて詰め寄ってくる。
「ひょっとしてこの後兄の部屋に行く予定だったんですか? だったらお邪魔になっちゃいますかね」
「そ、そんな予定はありません。ただ、先輩は今部屋にいないからどうするのかなって思っただけです」
「それなら心配ご無用。母から兄の部屋の合鍵を借りてきましたので」
小町さんがバッグの中から鍵を取り出す。その鍵を結衣先輩は少し羨まし気に眺めているが、私は一瞬息が止まりそうになった。
「(私の合鍵が盗られたのかと思った……)」
正確には私も先輩から借りたまま返していなかったのだが、今はそんなことを気にしてる場面ではない。
「あっ、別にお義姉ちゃんの部屋でもいいんですけどねー」
「き、急に言われても困ります」
「ですよねー。なので今日のところは兄の部屋で我慢しておこうかと思いまして。千葉には明日の昼に帰る感じです」
「そうなんだー。それじゃあ、この後この辺りのお店を案内してあげるねー」
「お願いしまーす。あっ、もちろんいろは先輩と折本さんも一緒ですからね」
私と折本さんが逃げ出そうとしているのに感付いたのか、小町さんからクギを刺されてしまった。私と折本さんは渋々この後も小町さんに付き合うことになったのだった。
小町さんが先輩の部屋に向かうということは、私と同じ方向へ向かうということ。さっきまで小町さんの話し相手を務めていた結衣先輩はいないし、折本さんもそそくさと帰ってしまった。つまり私は今、小町さんと二人きりで帰路についていると言うことなのだ。
「まさかいろは先輩が兄のことを好きだったとは思わなかったので、挨拶に来たときは本当に驚いたんですよ」
「その話は前も聞きましたって」
「それくらい衝撃的だったんですよ。だって私が入学した時、一年の間ではいろは先輩は葉山先輩のことを狙ってるって噂されていたんですから」
「まぁ、未練がましくそばにいたから、そう思われてたのかもしれないですね」
正直、進級した時点――いや、あのディステニーで告白する前から葉山先輩のことは諦めていた。あの告白だって一応のけじめとしてしただけで、まさかあそこまで泣くとは自分でも思っていなかったレベルなのだ。
それなのに私は、先輩の評価があまり高くないとか、自分の見る目を否定されるのが嫌で堂々と先輩に付きまとうことができなかったのだ。もしあの時先輩と付き合えていれば、もっと早く先輩とキスができていただろうに。
「ところで、あれから何か進展ありました?」
「っ!?」
心の裡を見透かされたかと勘違いするような質問に、私は音を立てて小町さんの方を振り向く。私の慌てっぷりに一瞬首を傾げたが、すぐに何かあったと察して人の悪い笑みを浮かべて詰め寄ってくる小町さん……
「この間会った時は何もないって言ってましたけど、あれからやっぱり何かあったんですね?」
「べ、別に大したことは――」
「いろは? それに小町まで……何やってるんだ?」
「お兄ちゃん、今日は泊めてね」
「は? 何も聞いてないんだが……」
私が慌てたタイミングで曲がり角から先輩が現れてくれたお陰で、私はそれ以上追及されることはなかった。だがどうやら先輩も小町さんの来訪は聞かされていなかったようで、驚いた表情を浮かべている。
「いろいろな人の話を聞いてたら疲れちゃって。その後結衣さんたちとお出かけしたら帰る元気もなくなるかなってことで、最初からお泊りの予定だったのです」
「聞いてないんだが?」
「うん、言ってないもん」
「はぁ……食材買ってくるから、お前はいろはと二人で先に部屋に行ってろ」
「元々そのつもりだったらか問題なし。それじゃあお兄ちゃん、お買い物よろしく」
来た道を戻っていく先輩を見送り、私と小町さんは二人で部屋へ向かうのだった。まぁ、私の目的地はあくまでも自分の部屋なのだが。
八幡の扱い方が一番うまいのは小町
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妄想と暴走
先輩に買い物を任せてしまったため、私は先輩の部屋で小町さんと二人きりということに。自分の部屋に戻ればいいだけなのだが、それはなんだか負けな気がして部屋に戻ることができない。
「お兄ちゃんの部屋とは思えないくらい綺麗に整頓されてますよね。いろは先輩が掃除してるんですか?」
「先輩が自分でしてるんですよ」
「まぁそうでしょうね。お兄ちゃんが人に掃除させるとは思えませんし」
小町さんは最初から分かっていたようで、ニヤニヤしながら追及してくることはなかった。この子のことだからからかってくると思っていたんだけど、これは意外だった。
「ところで」
「なんですか?」
「いろは先輩はどうしてお兄ちゃんの部屋に入ってきたんですか? いろは先輩の部屋は隣ですよね?」
「か、彼女として先輩の帰りを待とうと思っただけです」
い、言えない……妹に嫉妬してここに居座っているなんて正直に言えば、絶対にからかわれる。
「いろは先輩がお兄ちゃんに対して本気なのは疑っていないですけど、私に対してまで嫉妬する必要はないと思うんですよね。私は兄のことは好きですけど、そういう対象ではないですから」
「分かってますよ。昔から兄妹仲は良いですからね、先輩と小町さんは」
先輩は間違いなくシスコンだろうし、小町さんもなんだかんだでブラコンだと思う。お互いにからかったりすることはあっても、他の人がからかおうとしたら本気で怒ったりするくらいだし。
「それで、いろは先輩は二人きりの時お兄ちゃんのことをなんて呼んでるんですか?」
「っ!」
ここでニヤニヤしながら質問され、私は飲もうとしていたお茶を吹きだしそうになり、慌てて飲み込んで咽る。
「な、なんですかいきなり!?」
「いやー、いろは先輩ってお兄ちゃんのことを『先輩』としか呼んでないから、二人きりの時は特別な呼び方でもしてるのかなーって思ったんですけど、その反応は何かあるんですか?」
「何もないですよ! てか、未だに名前で呼んだことがないかもしれないです……」
冗談で何度か呼んだことあったかもしれないけど、二人きりだからと言って特別な呼び方をしたことなどない。先輩には名前呼びを強要しておいて、自分は未だに呼び方を変えることができていないなんて……
「いろは先輩は、お兄ちゃんのことをなんて呼びたいんですか?」
「べ、別に何か呼びたい呼称があるわけじゃないですけど、せっかく付き合ってるわけですし、名前で呼んでみたいとは思ってます」
「じゃあ呼べばいいじゃないですか。それほど難しいことじゃないと思いますけど」
「長年『先輩』としか呼んでなかったから、今更名前で呼ぶのも変なんじゃないかって思っちゃうんですよね」
途中からは意地になって「先輩」としか呼ばなかったのだが、今更になってそれがあだとなるとは……こんなことになるならせめて苗字呼びくらしにしておけばよかった。
「なるほど、いろは先輩はもっとお兄ちゃんに甘えたいと」
「そ、そんなこと言ってないじゃないですか!」
「いやいや、小町の目は誤魔化せませんよ。いろは先輩はお兄ちゃんに名前で呼んでもらいながら自分もお兄ちゃんの名前を呼んで、頭を撫でてもらいたいとか考えてるんですよね」
「………」
小町さんが言ったシチュエーションを妄想して、私は自分の顔に熱が集まっているのを自覚する。
「わっ、いろは先輩顔真っ赤」
「な、なんでもないです!」
私は逃げ出すように自分の部屋に駆け込み、そして鍵をかける。先輩なら私の部屋の鍵を持っているので入ってこれるが、小町さんならこれで時間を稼げる。
『いろは先輩! ちょっとした冗談ですから戻ってきてください! もしお兄ちゃんにいろは先輩をからかってたって思われたら怒られちゃいますから』
「少ししたら戻りますから、それまでは一人にしてください」
『わ、分かりました……』
小町さんの方も少しからからかい過ぎたと思ったのか、素直に引き下がってくれた。ここでしつこくされたら私も意固地になって部屋から出ていくことはしなかっただろう。
「せ、先輩の名前を呼びながら頭を撫でてもらうシーンを想像して顔を真っ赤にするなんて……付き合いたての中学生じゃあるまいし」
実際キスも漸くしたばかりで経験値の低い私たちだが、まさかそんなシーンを想像しただけで顔を真っ赤にするとは自分でも思ってなかった。それくらい私は恋愛というものに免疫がないのだろう。
「と、とりあえず先輩が帰ってくるまでには平常心を取り戻しておかないと……」
あの先輩は変なところで鋭いから、少しでも赤面が残ってると小町さんにからかわれたことに気づいてしまうだろう。そうなるとさっき小町さんが言っていたように、小町さんが先輩に怒られるということに。
「先輩が、私の為に怒ってくれる……悪くないかも」
そんなことを考え、また顔に熱が集まってくる気配を感じ、私は慌てて頭を振ってその妄想を頭の中から追いやるのだった。
なんとか平常心を取り戻して先輩の部屋に戻ってすぐ、先輩も買い物から帰ってきた。
「当然のようにくつろいでるんだな」
「いろは先輩からいろいろ聞いたけど、お兄ちゃんもしっかり一人暮らししてるんだね」
「なんだいきなり。てか、いろはから余計なこと聞いてないだろうな」
「余計なことって何さ。私は義妹として、いろいろとお兄ちゃんの現状を聞いてただけだよ」
先輩は少し疑っているような視線を小町さんに向け、私に視線で「本当か?」と聞いてくる。
「別段おかしなことは話してないですよ。ちょっと踏み込み過ぎな質問はありましたけど」
「だって小町も付き合った経験ないから、どんなふうに過ごしてるのか興味ありましたし」
「小町さんってモテそうなのに、どうして彼氏がいないですか?」
「いやー、なんだかんだ言って兄が基準になってるのが大きいのかもしれないですね。容姿は兎も角考え方が大人びた人間が側にいたので、同学年が子供っぽく見えてたのが一番の理由だと思います」
これは私は知っているが先輩は知らなかったのでした質問だ。先輩が原因で小町さんに恋人がいなかったと知れば、少しは先輩の機嫌が良くなるかもしれないから。
「親父殿が許してくれないからかと思ってたがな」
「あっ、それもあるかも。私に彼氏ができてなんて知ったら、お父さん仕事を休んで相手の家に突撃しそうだし」
「どれだけ親ばかなんですか……」
いや、小町さんのことを笑えない。私の父も私に彼氏ができたと知ればこの部屋に突撃してくるかもしれないから、まだ母にしか話していないのだから。
「ところでお兄ちゃんは、いろは先輩に名前で呼んでもらいたいとか思わないの?」
「っ!?」
とんでもない発言をした小町さんを羽交い絞めにしてしまい、先輩に不審がられる。
「い、いろは先輩……ギブ……」
「……はっ!?」
いつの間にか首を極めていたようで、小町さんが堕ちる寸前だった。私は慌てて小町さんを解放し、小町さんは大げさに私から距離を取る。
「こ、小町さんが悪いんですからね!」
「まさか首を極められるとは思ってなかったですよ……あー死ぬかと思いました」
「小町もからかいすぎだが、いろはも大げさじゃないか?」
「だ、だって……未だに先輩としか呼べていない私に愛想が尽きちゃうんじゃないかって……」
「前にも言ったかもしれないが、いろはが呼びたいように呼べばいいし、踏ん切りがつかないのなら今のままでも構わない。呼び方くらいで愛想を尽かすなんてことはないから、ゆっくりと変えればいいぞ」
そう言いながら先輩は私の頭を優しく撫で、小町さんの頭を少し乱暴に撫でる。
「小町はいろはをからかいすぎるなよ。今度は完全に堕とされるからな」
「さすがに今ので懲りたよ」
「そ、そんなことしません!」
兄妹のコンビネーションに恥ずかしくなり、私は残っていたお茶を一気に飲み干すのだった。
「いろは先輩って、照れてるの分かりやすいですよね」
「そういうことを言うからやられるんだろ。小町も反省しろ」
「でも、こんなに分かりやすくて可愛いお義姉ちゃんがいると、どうしてもからかいたくなっちゃうんだよね」
「そういえば雪ノ下や由比ヶ浜のこともからかってたよな、お前は」
「結衣さんは分かりやすかったし、雪乃さんもなんだかんだ分かりやすかったからねー」
どうやら小町さんのからかい癖は昔からのようで、私は餌食になったのが私だけではなかったのかと少し気が楽になったのだった。でも、結衣先輩は兎も角、雪乃先輩もからかうなんて、かなりのチャレンジャーなんですね。
仲のいい義姉妹になれるのか?
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小町の興味
先輩が作ってくれた料理を三人で食べていると、小町さんが不思議そうに私の顔を眺めてきました。
「何か?」
「いえ、いろは先輩はお兄ちゃんに料理を作ってあげたことがあるのかなって思いまして」
「数回はありますけど、殆ど先輩に作ってもらってますね。私が作るよりも先輩が作った方が美味しいですし」
「そんなこと気にしてたら結婚した後大変じゃないですか? まさか、お兄ちゃんを本当に専業主夫にするつもりなんですか?」
そういえば先輩、高校時代の夢がそれだって言ってたような気が……
「さすがに専業主夫にするつもりはありませんよ。というか、先輩が外で働いて私が家で帰りを待つというシチュエーションに憧れがないわけじゃないですし」
「なるほど。つまりいろは先輩は、お兄ちゃんと結婚した後のビジョンがちゃんと見えているということですね」
「あんまりからかうと、今度は本当に堕とされるぞ」
先輩のツッコミに、小町さんが私から距離を取った。ついさっき首を極めて堕とされかけた記憶が蘇ったのか、若干恐怖心の篭った目で見られている。
「てか、お兄ちゃんはいろは先輩の手料理食べたくないの?」
「何回か食べさせてもらったし、毎回作らせるのは手間だろ? いろはが作りたい時に作ってくれればそれでいいだろ。それよりも、毎回ウチに来て飯を集るのを辞めてほしい」
「集ってないですよ! ただ先輩と一緒にいたいなーって思った時間がちょうどご飯の時間だったってだけで」
嘘です。先輩の料理が食べたいからその時間に合鍵を使って部屋に入ってきているのだが、そこまで正直に言う勇気はない。
「付き合いたてのカップルってもっと初々しいのかと思ってましたけど、さすがに大学生ですからそこまでじゃないんですね。当たり前のように部屋を訪れるなんて」
「隣だからじゃないか? 普通に離れて生活してたら緊張とかするのかもしれないが、付き合う前からしょっちゅう部屋に遊びに来てたから」
「引っ越してきて早々風邪を引いた時、先輩に看病してもらったりしてましたしね」
あの時は本当に心細かった。このまま死んでしまうのではないかとすら思っていたところに先輩が来てくれて、本当に安心できた記憶がある。
「弱ってるいろは先輩に何かしたの?」
「するわけないだろ」
「だよね。お兄ちゃんなら欲望より先にリスク回避って考えが出てくるだろうし」
「そもそも弱ってる女子に何かしようって思考が俺の中にねぇよ」
「ヘタレだもんね」
私は先輩はこう見えて紳士的だからと思ったのだけど、小町さんはその度胸がないだけだと思ったようだ。まぁどちらも当てはまるのかもしれないけど。
「それでお兄ちゃん、小町はどこで寝ればいいのかな?」
「ベッド使っていいぞ。俺は床で寝るから」
「大丈夫? 慣れてないと床で寝るのって大変だと思うけど」
「いろはが泊ってく時はそんな感じだから気にするな」
「えっ!? いろは先輩、もうお泊りしてるんですか!?」
先輩としては当然と言う感じの流れだったのだが、小町さんからしてみれば衝撃的は発言だったようだ。すごい勢いで私に詰め寄ってくる。
「先輩のご飯が美味しくて食べ過ぎて動きたくなくなった時とか、疲れてそのまま寝ちゃったりした時とか」
「そんなに無防備な姿をさらしてるのに、お兄ちゃんはいろは先輩に何もしてないと?」
「寝落ちした時はベッドに運ぶぞ」
「いや、そうじゃなくて……」
小町さんが何を期待しているのか分かるけど、私と先輩の間にそういった事実はない。そもそも先輩が弱ってる私に何かをするわけないという気持ちは、高校時代から変わっていないから安心してこの部屋で寝られるのだから。
期待していた話題にならなくて少し残念そうな小町さんだったが、すぐに「まぁゴミいちゃんだし」といった感じで納得したようだ。
「それじゃあ遠慮なくベッド使わせてもらうね。あっ、お風呂はいろは先輩の部屋のを借りてもいいですか?」
「別にいいですけど、先輩の部屋と同じですよ?」
「さすがに男物のシャンプーを使うのは」
「そういうことですか。なら良いですよ」
用意のいい小町さんのことだから、お泊り用のシャンプーくらい用意しているのかと思いましたが、さすがにそこまで用意していなかった様子。私は特に警戒心を抱くことなく小町さんを部屋に招き入れお風呂を貸す。
「間取りは同じでも、やっぱりお兄ちゃんの部屋とは印象が違いますね。女性の部屋というかなんというか」
「そんなに違いますかね? 私からすれば、先輩の部屋と大差ないと思うんですけど」
「ところどころに可愛い小物とか置いてあるじゃないですか。お兄ちゃんの部屋にはこういうのはなかったですし」
「前、おそろいで置こうとしたんですけどねー。断られちゃいました」
少し恋人っぽいと思って提案したんだけど、思いっきり嫌な顔をされたのだ。あの時のことを想いだし、少し腹立たしい気持ちになってしまう。
「いろは先輩もちゃんと乙女してるんですね~。まぁ、あのお兄ちゃんがこういう小物を部屋に置くとは思えないので、ペアにするなら別のものにした方がいいですよ」
それだけ言って小町さんはお風呂に消えていく。
「何をペアにすればいいのよ……」
そこまでアドバイスしてほしかったのに、小町さんはそれ以上何も教えてくれなかった。さっさとお風呂を済ませて隣の部屋に行ってしまったので、私は先輩と何をペアにすればいいのかに頭を悩ませることになった。
翌朝、小町さんからお誘いがあったので私は先輩の部屋で朝食を摂ることに。ちなみに、これを用意したのは先輩ではなく小町さんらしい。
「小町の料理は久しぶりだな」
「大したもの作ってないけどね」
兄妹の会話を聞きながら、私は黙々と料理を食べる。下手に踏み込めない領域だからということもあるが、あまりにも自然に二人で会話をしているので入り込む隙が見当たらないのだ。
「すぐに帰るのか?」
「んー、あんまりのんびりしてたらお父さんから探りがありそうだからね。相変わらず小町に対しては過保護で困っちゃうよ」
「娘に対する父親ってのはそういうもんなんじゃないか? いろはの家だって、そんな感じだって言ってなかったか?」
「そうですね。何時までも心配してくるので、若干鬱陶しいですけど」
普通に心配される分にはそんなこと思わないけど、過干渉してくる時があるのだ。それが鬱陶しくて実家から足が遠のいている。
「あー分かりますその気持ち。小町ももう少し自由にさせてよって思う時がありますし」
「その分俺は自由にさせてもらったがな」
「お父さんもお母さんも、お兄ちゃんにはあまり興味がなかったしね~」
「現在進行形で興味持たれてねぇよ」
不貞腐れてるのかとも思ったが、先輩は特に気にした様子がない。昔から放任されていたから、今更寂しいとは思わないのだろう。
「それにしても小町も大学生か。ついこの間高校に合格したと思ってたのに」
「お兄ちゃん、オヤジくさいよ」
「言ってみただけだ。親父殿が言いそうだろ?」
「うん、実際言われた」
どうやら本当に父親に言われたようで、小町さんは顔を顰めている。私も実家を出る前にお父さんに言われたのを思い出し、若干苦い顔をしているのだが。
「それじゃあお兄ちゃん、またね」
「あぁ、次からは事前に連絡してくれると助かるんだがな」
「考えとくよ」
次もいきなり泊まりに来るんだろうなと思いつつ、私も小町さんを見送った。
「それで、いろははこの後どうするんだ?」
「特に予定はないですねー。先輩、デートします?」
「……いいぞ」
「えっ!?」
てっきり断られると思っていたので、まさかの返事に私の方が驚いてしまう。
「誘っておいてなんで驚いてるんだよ」
「だって先輩、デートですよ? 先輩が受け入れるなんて思ってたわけないじゃないですか」
「酷い言われようだが、否定するだけの実績がないのも事実だからな。だがせっかく時間があるんだし、彼女から誘われたからな」
少し顔を赤らめながら言う先輩を見て、私も恥ずかしくなってくる。
「そ、それじゃあおめかししてきますから、三十分後にまた来ます!」
「お、おぅ」
さすがにこの格好で出かけるわけにはいかないのでという名目で、私は自分の部屋に逃げ込む。
「先輩、ちゃんと私のことを彼女だって思ってくれてるんだ」
そのことが嬉しくてついつい頬が緩んでしまうが、私はいそいそと準備を進めるのだった。
ちゃんと恋人してます
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贈り物
半分くらい冗談で誘ったデートだったのだが、先輩が快諾してくれたのでこちらが焦ってしまう。だがこうして何気なく誘っても了承してくれるのはありがたいことだろう。
「せーんぱい。お待たせしました」
「相変わらずあざといな、お前は」
「あざとくないですよ! というか先輩。呼び方がまた『お前』に戻ってます」
頬を膨らませて上目遣いで抗議――うん、今の私は十分あざといな。
「とりあえず行くぞ。何時までも部屋の前で口論してるのもばかばかしい」
「あっ、待ってくださいよ!」
駆け足で先輩に追いつき、少しドキドキしながら腕を絡めてみる。付き合う前なら隣を歩くまでで満足していたけど、今の私たちは恋人関係だ。これくらいしてもいいだろう。
「歩きにくいんだが」
「少しくらいいいじゃないですか。それに先輩だって、こういうことしてみたいって思ったことあるんじゃないんですか?」
「さぁな」
そっぽを向かれてしまったが、恐らく先輩もこういうシチュエーションに憧れたことがあるのだろう。そうでなきゃこの人ははっきりと否定するだろうから。
「いろはは着替えてきたんだな」
「せっかくのデートですから。部屋で着るようなダル着じゃ出かけられませんよ」
「女子は大変だな」
「先輩も少しはおしゃれしたらどうですか?」
口ではこんなこと言っているが、私としては先輩がおしゃれをして他の女性に注目されるのは避けたい。だからいつも通りの恰好でいてくれて内心ホッとしているのだが。
「めんどい。それに、もともと予定してたわけじゃないんだし、別にいいだろ?」
「でも私だけ気合入れてるみたいで嫌じゃないですかー。せっかくのデートなんですし」
「はいはい、次からは考えておく」
「約束ですからね」
恐らくだけど、次もこんな感じではぐらかされるんだろうな。この人の頭の回転は私では太刀打ちできないくらい早いので、何か理由をつけて誤魔化されてしまいそう。
「それで、何処に行きます?」
「さすがに今から遠出するわけにもいかないしな……」
とりあえず駅に向かっているのは分かるが、先輩も具体的なビジョンは見えていない様子。まぁ、三十分前に誘ったばかりなので、その辺は仕方ないんだろうな。
「私は別にこのままお散歩デートでも構いませんよ?」
「それをデートとして認めてくれる彼女で助かるが、ちょっと行きたいところがあるからな」
「そうなんですか?」
この人のことだから、自分のための本を買う為に本屋に行くとか、そんな感じなんだろう。私としては先輩のお買い物に付き合うだけでも十分楽しいのでいいんですけど、普通の彼女だったら怒って帰ってしまうだろう。
だが私の予想は大きく外れた。先輩行きつけの駅前の本屋を素通りして、普段先輩が行かないようなアクセサリーショップに向かっている。
「先輩、装飾品でも買うんですか?」
「いや……いろはにプレゼントをな」
「えっ?」
少し照れながら言われて、私も一瞬理解するのに時間を要した。だってあの先輩が私にプレゼントとか言い出したのだから、フリーズしてしまっても仕方がないだろう。
「もちろん誕生日には別のものをプレゼントするが、さっき小町との会話が聞こえてな……さすがにペアは無理だが、俺からいろはにプレゼントくらいならできるから」
「そこはせっかくだしペアネックレスとかにしましょうよ」
「俺のキャラじゃないだろ」
「恥ずかしがらずに」
先輩からのプレゼントだけでも十分嬉しいのだけど、もう一歩踏み込んでも良いんじゃないかと思い提案しているのだ。もちろん、先輩がこの程度で折れてくれるとは思ってはいないけども。
「そういうのはまた今度な。とりあえず選んでくるから、いろははテキトーに見ててくれ」
「はーい、期待しないで待ってます」
本音は期待しまくりなのだけど、そんなことを言えば先輩にプレッシャーを与えてしまうだろうからいつも通り憎まれ口をたたいておく。可愛くない彼女だと思われるかもしれないけど、先輩は私の気遣いに気づいたのか、軽く肩を竦めてアクセサリーを選びに行った。
「私は私で先輩へのプレゼントでも選んでみようかな」
せっかく先輩がプレゼントしてくれるのだから、私からもお返しを用意した方がいいだろう。そう考えた私は男性用のアクセサリーコーナーへ足を向けた。
「うーん、どれも先輩にしっくりこないな……」
そもそもさほど着飾らない人だから、こういうアクセサリーを着けている光景が想像できない。似合いそうだなと思っても、いざ先輩が着けている場面を想像すると何か違うのだ。
「先輩が好きな物の形をしたネックレスでもあれば……」
あの人が好きな物って何だろう……
「そういえば私、先輩の好き嫌いってあまり知らないかも……」
いや、嫌いはそれなりに知っているが、好きを知らない。先輩が好きだと公言しているのは戸塚先輩と妹の小町さん。そして恋人の私――
「っ!」
余計なことを考えて顔が熱くなったので、私は慌ててその熱を追いやる。そのせいで店員さんに不思議そうに見られてしまったが、とりあえず冷静に戻れた。
「無難に三日月の形にしておこうかな」
これなら先輩でも似合うだろうし、最悪私が着けてもおかしくないデザインだ。先輩が気に入らなかったら自分用ってことにしよう。
「そうと決まれば」
私はそそくさとプレゼント用にとお願いして三日月型のネックレスを購入。先輩と別れた場所に戻ると、先に先輩が戻ってきていた。
「……お前も何か買ったのか?」
「そんなところです」
先輩の手には可愛らしい色で包まれたネックレスらしき物が見受けられる。
「気に入るかどいうか分からないけどな」
「ありがとうございます。実は私からも先輩にプレゼントがあります」
そういって私は、落ち着いた色の紙に包まれたネックレスを渡す。
「交換ってわけか?」
「私からプレゼントです。何気に彼氏彼女になって初めての贈り物ですし」
いや、先輩後輩の時だって贈り物をしたことなんてない。チョコのお返しにクッキーとか、帰り道にジュースとかはあったけど、こういうちゃんとした贈り物は初めてだ。あっ、誕生日にあげたっけ。
「家に帰ってから開けるか」
「ですね」
意外と短かったデートを終えて、私は先輩から貰ったプレゼントの包装紙を解いていく。
「これは、クローバー?」
無難といえば無難なデザインのネックレスを見て、私は先輩らしいと笑みをこぼす。
「私も無難なデザインにしたけど、先輩も同じ考えだったんだな」
早速着けて鏡の前に立つ。
「えへへ」
特別可愛いとか、高そうとか言うわけではないけど、先輩からのプレゼントというだけでだらしない顔になってしまう。先輩も私からのプレゼントを見て、こういう顔をするのかな。
先輩から貰ったネックレスを着けてバイトへ向かう。最近は人通りがあっても過敏に反応することもなくなってきたので、通勤もスムーズだ。
「お疲れ様です」
「一色さん、こんにちは。ん? そのネックレスどうしたの?」
先輩バイトが目ざとく私のネックレスを見つけ尋ねてくる。それほど目立つようにしていなかったんだけど、やっぱり女性はこういうのを見つけるのが上手なんだろうな。
「プレゼントしてもらったんです」
「彼氏? な訳ないか。一色さん男性恐怖症だし――」
「そうですよ」
「――だよね。彼氏な訳……って、えぇ!?」
「う、うるさいですよ……」
大声を出して詰め寄られたので、思わず顔を顰めてしまう。それを見て慌てて距離を取ってくれたが、追及はやめてくれなさそうだった。
「いつ彼氏ができたの? てか、男性恐怖症なのに彼氏できたんだ」
「付き合い始めたのはバレンタインデーです。相手は比企谷八幡さんですよ」
「あっ、なるほど。前から気にしてる様子だったけど、本気だったんだ」
「意外と競争率高いんですよ、先輩は」
私が知っているだけでも雪乃先輩に結衣先輩。それから川崎先輩なんかも先輩のことを意識してたようだし、本気かどうか分からないけど平塚先生も先輩のことを意識してたらしいし。
「それで彼氏からのプレゼントか。いいなー、私も彼氏欲しい」
「いつかいい人が現れますよ」
「くっ、彼氏持ちの余裕か」
「そんなんじゃないですよ」
仕事中はさすがに外していたが、ロッカーにあるネックレスに意識が向きすぎて、細かいミスを連発したのは先輩には内緒だ。
付き合って余裕が出てきてる
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小町の追及
講義も始まり、休みの時ほど先輩と一緒にいられなくなったけど、私はそこまで寂しさを覚えていない。隣で生活しているということも多分にあるのだろうが、先輩から貰ったネックレスがあるからだと思っている。
「いろはちゃん、そんなネックレス持ってたっけ?」
「これですか?」
今日は結衣先輩と一緒の講義だったのだが、結衣先輩が目ざとく私のネックレスを見つけて尋ねてくる。休み前はしていなかったので気になるのは仕方がないだろうが、意外と人のことを良く見ているんだなと思ってしまったのは結衣先輩には内緒だ。
「この間先輩に買ってもらったんです」
「先輩ってヒッキー? そういうのプレゼントしてくれるんだね」
「私も意外だと思いましたけど、そういうことをちゃんと考えているみたいですよ」
私が小町さんと話しているのを聞いていたわけではないので、もしかしたら先輩も私と同じ考えなのかもしれないと思ったが、もしかしたら小町さんがけしかけたのかもしれない。あの兄妹はそういうところがあるからそっちの方が可能性が高いが、先輩と同じ気持ちだと思う方が私の気分がいいので、真相を確かめようとはしていない。
「いいなー。私もヒッキーからプレゼント貰いたい」
「結衣先輩は高校時代に貰ってるじゃないですか」
「だからあれはサブレのだし! 私には去年いろはちゃんと一緒に買ったものしかくれてないし」
年上なのだが、こうやって落ち込んでる時は慰めたくなってしまうのは何故なのだろう? 見た目が幼いからなのか、それとも別の何かなのか……
とりあえず私のネックレスの話題はそれほど盛り上がることはなく――というか、次の講義があるのでそれほど盛り上がる時間もなく終わり、私は今日の講義を消化して帰路へ着く。
「いろはせんぱーい!」
「ん?」
構内を出てすぐ、背後から聞き覚えがある声が飛んできて、私はゆっくりと振り返る。
「小町さん、こんにちは」
声の主は先輩の妹の小町さん。この度大学でも後輩になった彼女だが、結衣先輩と一緒の時ならともかく私一人の時に声をかけてくるのは珍しい。少なくとも高校時代には数える程度しかなかったともうのだけど。
「これから一緒にお出かけしませんか?」
「私と小町さんの二人で?」
「結衣さんも一緒ですよ」
「なるほど」
二人きりだと気まずいと思われると見抜かれてたようで、小町さんは結衣先輩も誘っていたようだ。というか、私がおまけで結衣先輩と二人で出かけようとしていたのかもしれない。
「小町ちゃん、おまたせー」
「結衣さん、お疲れ様でーす」
この二人は高校時代から仲が良かったので気にしなくていいのかもしれないが、今の関係から考えると私の方が小町さんに近いんだけどな……でも、結衣先輩のように小町さんと付き合えるかと問われれば首をかしげてしまうだろう。
「それで、何処に行くんですか?」
「いろは先輩のネックレスのことをゆっくり聞きたいので、今日はいろは先輩の部屋でお話ししましょう」
「聞きたいって、先輩から貰ったってだけで、それ以上のことは何もないですけど」
「でもあの兄がいろは先輩に贈ったんですよね? 何かあるんじゃないかって疑うのは当然だと思いますけど」
確かに私も何かあるんじゃないかとは思ったけど、このネックレスをくれて以降、先輩も忙しいのかろくに会えていないのだ。何か面白い話があるわけでもないんだけどな……
「そういうわけで、いろは先輩の部屋にゴーです」
「おー」
「なんでノリノリなんですか……」
私が先輩にやっているようなノリで小町さんと結衣先輩が盛り上がっているのを見て、私は今後先輩にこういうノリを強要するのは控えようと心に誓う。
部屋に向かう途中でお菓子を購入して、長居する気満々だと分かる二人を見ながら私は、先輩が都合よく現れてくれないかなと期待していた。
「あれ? ヒッキーと彩ちゃんだ」
「由比ヶ浜? それと小町……いろはの部屋の前で何をしてるんだ?」
「八幡、一色さんのことちゃんと名前で呼んでるんだね」
「戸塚先輩、お久しぶりでーす」
どうやら先輩も戸塚先輩と話があったようで、それが終わり戸塚先輩を見送っていたところらしい。だが小町さんと結衣さんが戸塚先輩も巻き込んで、私の部屋から先輩の部屋に会場を変えておしゃべりが始まることとなってしまった。
「それでお兄ちゃん。いろは先輩にプレゼントしたのはどういう心境からなの?」
「なんでお前はそんなにグイグイ来るんだよ……」
「だってゴミいちゃんだよ? 小町の誕生日にマックスコーヒーを一箱プレゼントしようとしてたあのゴミいちゃんが、ネックレスなんて」
「あれは冗談だって言っただろ。てか、何時の話を引き合いに出してるんだお前は……」
一瞬先輩ならありえそうだなと思ってしまったが、やはり冗談だったようで安心した。もしかしたら私の誕生日にそんなものをプレゼントされるんじゃないかと思ってしまった。
「それで、やっぱりいろは先輩にプレゼントしたのは所有権を主張するため?」
「なんだその所有権というのは」
「だっていろは先輩大学内でも人気高そうだから」
実際結衣先輩と一緒に行動しているからそれなりに注目を浴びているし、勘違いした人に告白されたこともある。だからと言って先輩が嫉妬して所有権を主張してくるとは思えないんだけど。
「単純に付き合い始めて何もそれらしいことをしてなかったからプレゼントしただけだ。なんだかんだで忙しくて遠出もできてないしな」
「一番の遠出が小町たちの実家だもんね」
「どういうこと!? ヒッキーといろはちゃん、もう結婚の挨拶したってこと!?」
「由比ヶ浜さん、少し飛びすぎじゃないかな? 確か小町さんの合格祝いに一色さんも参加したんだよね?」
「はい。まぁ、先輩のご両親は急な仕事でいなかったんですけど」
「会いたかったのか?」
先輩が意外そうな顔で私を見てきたので、私は少し恥ずかしい気分になる。付き合ってはいるけどこういう風に正面から顔を見つめられるのはそうそうないので仕方がないだろう。
「一応、彼女としてご挨拶をと意気込んでいたので」
「まぁ、ああ言う人たちですからね。仕事第一人間とでも言うんでしょうか。兄もそういう面がありますから」
「まぁいたところで俺の彼女にはあまり興味を示さなかっただろうな。小町の彼氏なんてやつが現れたら、親父殿が激昂しそうだが」
「当分は大丈夫だと思うよ」
兄妹の会話に割って入れるほど、私たちは先輩のご両親のことを知らない。それが少し悔しい気もするけど、これからゆっくり知っていけばいいだけ。
「てか、話が逸れてるよ! いろは先輩にプレゼントしたのは、本当に恋人らしいことができてなかったからだけなの?」
「だからそう言っただろ? お前はそれ以外にどんな答えを期待してるんだよ」
「さっきも言ったように所有権の主張とか、ネックレスをプレゼントしたから次は指輪とか、そういうのを」
「ゆ、指輪……」
私が照れる前に結衣先輩の顔が真っ赤になる。おそらくは左手薬指まで思考が飛んでいるんだろなと、先輩と戸塚先輩は苦笑いを浮かべながら結衣先輩を見つめている。
「そういう意図は全くない。というか、俺はいろはの指のサイズなど知らないんだから、指輪なんて買えるわけないだろ」
「知りたいですか?」
私が悪乗りして先輩に指を見せると、少し見ただけでため息を吐かれてしまった。
「そういうことをするから、小町にからかわれたりするんだぞ」
「私はからかってるんじゃなくて、結構本気でお兄ちゃんといろは先輩のことを応援してるんだけどね」
「指輪……結婚……出産」
「結衣先輩っ!?」
「行くところまで行かせた方が落ち着くんじゃない?」
「戸塚先輩って結構ドライですね」
妄想が加速している結衣先輩に対して戸塚先輩が放った言葉に小町さんがツッコむ。張本人であったはずの私と先輩が蚊帳の外という、ちょっとおかしな構図に私は思わず笑ってしまった。
「とりあえず由比ヶ浜は戻ってこい。それから小町、あんまりいろはをからかってやるなよ?」
「分かってるって」
「あれ? さっきまで病院にいたような気が……」
「だいぶ飛んでったんだね。由比ヶ浜さん、ちょっとおもしろいよ」
「えっ、そうかな彩ちゃん」
「褒められてないと思いますけどね……」
戸塚先輩の新しい一面が見れたような気がする一日だったが、とりあえず小町さんからの追及は今後大人しくなりそうということだけが収穫だった。
由比ヶ浜は行きすぎだな
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微妙な温度差
そろそろ私の誕生日だというのに、先輩からはそんな話題は出てこない。まぁこの人がそういうイベントに積極的じゃないということは分かっているけども、それでも彼女の誕生日くらいはしっかりとしてもらいたい。
「ねぇねぇ先輩、最近冷たくないですか?」
「春先だからってちゃんと布団を掛けないで寝てるからだろ」
「そういうことじゃなくて――って、なんで私が布団を掛けてないって知ってるんですか?」
もしかして私が寝ている部屋に侵入しているのかなんて思ったけど――
「いや、お前最近俺の部屋で寝てることが多いだろうが」
「そうでしたね」
――ここ最近は先輩の部屋でご飯を食べ、お風呂に入り、そのままお泊りという流れが多いのだ。別に部屋が隣なのだから帰っても手間ではないのだが、なんとなく先輩の部屋にいたいという気持ちが強いからである。
そもそも今更寝顔を見られたからと言って文句を言うほど浅い関係でもない。私はあまり先輩の寝顔を見たことはないけど、先輩は私の寝顔をかなりの回数見ている。なので今更恥ずかしがることもない。
「てか、話をそらさないでくださいよ! 最近先輩が私に対して冷たいって話はどこに行っちゃったんですか!」
「そんな話は最初からしてないだろ。てかいろははそろそろ部屋に帰れ。俺は出かけるって言っただろ」
「お留守番してますよ。何なら、ご飯でも作って待ってます」
「……勝手にしろ」
力なく肩を落として外出する先輩を見送り、私は先輩のいない部屋でダラダラと過ごす。今日は特に予定もないので一日先輩といちゃいちゃ――ではなくダラダラしようと思っていたのに、肝心の先輩が出かけてしまったのですることがないのだ。
「そういえば最近買い出しも行ってなかったな……」
自分の部屋の冷蔵庫の中身を思い出し、そろそろちゃんとしなければと反省する。かといって今から一人で買い出しに行けるかと問われれば困ってしまう。最近は多少改善されてきたとはいえ、私は男性恐怖症になってしまっているのだ。大勢の人がいるスーパーで襲われる心配はないだろうが、男性客とすれ違うだけで大騒ぎになってしまうかもしれない。そういうことを考えると買い出しに出るのを躊躇ってしまうのだ。
そんな言い訳を自分の中でしつつ、私は先輩の部屋の冷蔵庫を開けて今日の献立を考える。人の家の冷蔵庫を勝手に開けているなんてと思うが、先輩も最近は何も言ってこなくなったので罪悪感が薄れてきているのだろう。
「相変わらず先輩の部屋の冷蔵庫の充実具合は凄いなぁ……伊達に来客が多い部屋じゃないってことなんでしょうけども」
ここ最近は先輩の部屋に来客がある時私も同席しているけど、たまに私がいない方がいい時もある。先輩が私に隠れて他の女を――とかではなく、私と面識のない男性が部屋に来ることもあるのだ。そういう時は先輩が先にメッセージをくれるので、鉢合わせることはない。
そもそも先輩の部屋にいる必要はないと言われることもあるが、少しでも先輩を感じていたいという思いが日に日に強くなってきているのだ。わざわざ先輩がさっきまで座っていた位置に腰を下ろしたのは、そういう思いからなんだろう。
「昨日は先輩がご飯を作ってくれたから、今日は私が――って思いも最初はあったはずなんだけどな……」
半同棲みたいな感じが続き、先輩に対する遠慮が無くなってきているのかもしれない。いや、最初からそんなもの無かったのかもしれないけど、ここ最近の私は厚かましすぎる。
「さっきだって露骨に構ってアピールしてたような……」
あの結衣先輩だってあそこまでアピールしてなかったのに、やっぱり最近の私は箍が外れているのだろう。少し戒めなければいけない。
そうは思うのだがどうしても先輩と一緒にいると甘えたくなってしまう。先輩もなんだかんだで許してくれるからいけないのだと責任転嫁しつつ、私は冷蔵庫と相談しながら献立を決めた。
「今日は野菜多めの野菜炒めとお味噌汁。それからアジの干物があるからそれも焼いて」
女子大生らしく華やかな料理――なんて考えは私の中にはない。そもそも先輩がそんな見た目重視の料理を喜んでくれるはずもないし、彼が作る料理もだいたいこんな感じ。洋食と和食の違いはあるけども、先輩だって基本に忠実な料理の方が圧倒的に多いのだ。たまに凝った料理も出てくるけど……
「てか、私は誰に言い訳してるんだろう」
言葉にしてないとはいえ、言い訳じみていたことを考えていたのは事実。私は自分自身にツッコミを入れてから気合を入れ直し、先輩が帰ってくるまでに料理を済ませようとキッチンに立つ。
「そういえばエプロン姿を見ても何も言ってくれなかったっけ」
男の人はエプロン姿が好きとかなんとか友達が言ってたからしてみたけど、先輩の反応は薄かった。まぁ、小町さんで見慣れてたとか、結衣先輩やそのお母さんと一緒にお菓子作りをしたことがあるとか聞いたし、今更新鮮でもなかったんだろうな。
「……でも、そう思うとなんだか複雑かも」
小町さんは兎も角として結衣先輩は最近までライバルだった人だ。その人のエプロン姿の方が良かったとか思われてたらと考えると、ちょっとイラっとする。
「結衣先輩、ゴメンなさい」
完全な八つ当たりだと理解しているので、とりあえず謝っておこう。そうじゃないと、今度結衣先輩に会った時に気まずい気がするから。
誕生日前日、私は午前中のみ講義に出て午後からはフリーだった。なので友達に誘われて近くのファミレスで一日早い誕生日パーティーを開いてもらっていた。もちろん、友達に宣言されるまでそんな感じだとは思っていなかったのだが。
「一日早いけど、おめでとう」
「ありがとう。でもなんで今日? 普通に明日でも――」
「だっていろは、彼氏持ちでしょ? 明日は彼氏と過ごすんだと思って」
「いいなーいろはちゃん」
特にそういう予定はないのだが、友人たちの中では明日は先輩とデートと言うことになっているらしい。結衣先輩だけは羨望のまなざしをしているけど、残りのメンツはからかう気満々の顔をしている。
「何を期待してるのか分からないけど、明日の予定は未定だから」
「そうなの? いろはから聞く限りだけど、いろはの彼氏は真面目そうだから記念日とかちゃんとしてくれそうなのに」
「いやいや、何処をどう聞いたらあの先輩が真面目だと思うのよ」
「何回か見たことあるけど、真面目そうな人だとは思うよ?」
あの見た目で何をどう解釈したらそうなるのか聞きたいけど、自分の彼氏をぼろくそに言われるよりかはマシだろう。とりあえず明日のことを考えるより、今はこのパーティーを楽しもう。
「さて、誕生日パーティーということは、もちろんプレゼントがあるんだよね?」
「いやー……」
「それはー……」
「あははー……みんな金欠でねー」
「まっ、そもそもパーティーだって知らなかったし、開いてくれただけでも感謝してるよ。あっ、ここは奢りでお願いしますけど」
「それくらいなら」
豪遊するわけでもないし、ファミレスで奢ってもらうくらいならこちらもさほど罪悪感は覚えないし、向こうのお財布にもダメージは少ないだろう。
「いろはは明日二十歳になるわけだけど、お酒とかどうするの?」
「今のところ興味ないかなー。先輩も呑まない人だから」
「ヒッキーそれほどお酒に弱いわけじゃないのにね」
「なんで結衣さんがそれを知ってるの?」
「もしかして浮気してるんですか?」
「そうじゃなくて、一回私とヒッキーと彩ちゃんの三人で呑んだことがあるんだよ。その時ヒッキーだけが無事で、私と彩ちゃんは酔いつぶれちゃったから」
「ちなみに、その場に私もいたからね」
なんだか変な誤解をされてそうだったので早めに修正を入れておく。てか、結衣先輩が成人してお酒を呑むかどうかの時、この子たちもいたような気がするんだけどな……
「とりあえず、今日まではまだ未成年だからジュースで乾杯しておこう」
「結衣さんはどうします?」
「私もジュースで」
全員でグラスを持って乾杯をする。なんだかこういうノリも懐かしくて楽しいな。でも、やっぱり先輩と一緒の方が楽しいと思ってしまうのは、私が先輩に依存しているからなのだろうか……
共依存という言葉がちらつくいろは
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呼びなれない名前
昨日は結衣先輩と友達に祝ってもらい、結構遅い時間まで外にいたので自分の部屋に帰った。ここ最近先輩の部屋にお泊りすることが多かったから、なんだか久しぶりな気分。もちろん、部屋が汚れ切っているとかそういうことはなく、普通に生活できるくらいには綺麗な部屋である。
「でも、先輩と一緒に寝たかったな……」
誤解のないように言っておくが、先輩は私と同じベッドで寝ているわけではない。私がベッドを使わせてもらっていて、先輩はクッションを複数使って床で寝ている。始めこそ一緒に寝るかと誘ってみたりもしたが、最近ではベッドを使わせてもらうのが当たり前のようになってきている。
「付き合ってそれほど経ってないのに、何だろうこの熟年夫婦みたいな感じは……」
一緒にいることが当たり前のように感じている自分に呆れながら、私は久しぶりに自分一人の朝食を用意する。
「先輩に作ってもらってばっかりだったから、朝食の準備が面倒だな……」
今日は休日で、急ぎで出かける用事もないので朝食を摂る必要はさほどない。今更成長云々は関係ないだろうし、昨日の夜少し食べ過ぎたので摂らない方がいいとさえ思える。
だが先輩と付き合う前から散々朝食はちゃんと摂れと言われている私は、面倒だと思いつつもちゃんと準備をして朝食を摂った。
「……ごちそうさまでした」
食器を片付けてから、誕生日だというのになんとも質素な料理だったなと自分自身に呆れる。いくら食欲がなかったとはいえ、もう少し何かすればよかったものを、と。
まぁ自分自身で祝わなければ誰も祝ってくれないというわけでもないので、朝食くらいは質素で良かったと思おう。
「さてと。早速先輩の部屋に行きますか」
バッグの中から先輩の部屋の合鍵を取り出し、私は意気揚々と隣の部屋へ突撃する。先輩はドアロックはするがチェーンロックは掛けないので、この鍵で部屋に入ることが可能なのだ。
「せーんぱい。愛しの彼女が遊びに来ましたよっと」
「……朝から何の用だ」
あからさまに嫌そうな顔をしているが、先輩のこれは演技。本気で拒絶しているのならチェーンロックをすればいいし、そもそも毎回そういう表情をしつつ私に付き合ってくれているのだ。捻デレとはよく言ったものだ。
先輩は私の分のコーヒーを用意してから、洗濯と洗い物を素早く済ませ、私の正面に腰を下ろす。恋人だから隣に座ってほしいという気持ちもあるけど、先輩の顔をじっくり見ることができるので正面に座られるのも嫌いではない。
「それで、こんな朝早くに何しに来た」
「何しにって、今日は私の誕生日ですよ? 彼氏の先輩はそれはもう凄いお祝いをしてくれるんじゃないかと思いまして」
「金欠大学生に何を期待してるんだか……」
「先輩が金欠なら、普通の大学生は文無しですね。先輩は幾つバイトを掛け持ちしてるんですかー?」
ちょっと馬鹿っぽいけど、先輩相手なら気にする必要もない。私がこういう演技をするのは今に始まったことではないし、先輩は最初から演技だと見抜いてるから。
「それで、先輩はお祝い、してくれないんですか?」
素早く先輩の隣に移動して上目遣いで尋ねる。なんともあざとい手法だが、私にはこれしかできない。散々キャラっぽくやってきていたせいで、他の方法が分からないのだ。
「ちゃんと用意はしている。だからくっつくな」
「先輩は私と密着するの嫌なんですかー?」
「別に嫌というわけでないが、コーヒー持ってるんだから危ないだろ」
私と密着したいが、私がやけどをするかもしれないという心配をしてくれているのか。この人はぶっきらぼうに見えて優しい人だから当たり前といえばそうなのだが、そんな小さなことがこんなにも嬉しいなんて。
「(あぁ、私は本当にこの人が大好きなんだな)」
そんなことを考えていたからか、先輩が私を振りほどこうとした時に反応が遅れた。重心がブレて後ろにではなく先輩の方へ倒れてしまい、さっきより密着する形に――というか、顔から先輩の膝に倒れてしまった。
「大丈夫か?」
「へ、平気です……」
膝枕みたいで嬉しい反面、顔から倒れた恥ずかしさで私は急いで立ち上がり先輩の向かい側へ戻る。
「乙女に恥をかかせるなんて、先輩は鬼畜です! サディストです! 八幡です!」
「だから、八幡関係ないだろ……」
冗談ではなく本気で顔を赤らめているのが分かったのか、それ以上反論はしてこなかった。
「これは相当な罰が必要ですね」
「罰ってなんだよ……」
「デートしてください」
「まぁ、それくらいなら」
「全額先輩の奢りですから」
「普段から殆ど俺が払ってるような気が……てか、最近はいろはの食費も」
「そうでしたっけ?」
旗色が悪くなりそうだったので誤魔化したが、確かに先輩の部屋にお泊りする際の食事の料金は先輩持ち。それが週に四日以上あるのだから結構な負担だろう。
「というわけで、ゴーですよ?」
「はいはい」
本気で私の食費を払わせるつもりではないようだが、これ以上その話題を続けるのは私の精神衛生上よろしくない。強引に先輩の腕を引っ張り、私は誕生日デートへ出かけるのだった。
デート自体はそれなりにしてきたが、彼氏彼女になってからはそれほどしていない。というか、以前のお出かけをデートとカウントしているのは私だけなのかもしれない。先輩からしてみれば後輩に振り回されたとか、我がままな後輩に付き合ったとか、そんな感覚だったかもしれない。
「ねぇ先輩」
「なんだ?」
「……八幡さん」
「お前……」
「やっぱ恥ずかしいですね! しばらくは『先輩』のままでいいですか?」
「好きにしろ」
先輩は私のことを完全に名前で呼んでくれるようになったが、私はまだ呼べずにいる。それが進展しない理由なのかもと思って呼んでみたが、想像以上に恥ずかしい。
「(先輩はよく呼べるなぁ……)」
せっかくのデートなのでそれらしくしたかったのだけど、私にはまだ早かった。自分がこんなにもヘタレだったとは思わなかったので、なんだか情けなさより笑えてくる。
「それにしても、彼女の誕生日に本屋デートって……」
「偶々欲しかった本があったから寄っただけで、ショッピングモールデートだろ」
「先輩、高校時代から結構本読んでますもんね」
今の時代電子書籍なるものもあるので、わざわざ本屋に行く必要はないのかもしれないけど、先輩は紙媒体を愛用している。だからこうして頻繁に本屋に足を運んでいるのだろう。
先輩が本を購入している時だけ私は少し離れた場所で先輩を眺めていたのだけど、店員の女性が若干先輩に馴れ馴れしかったのが気になる。この人のことだから気づいていないだろうけど、あれは完全に好意を含んだ視線だ。
「先輩って相変わらず無自覚フラグ建築士なんですね」
「急に変なこと言うなよな」
「だって、あの店員さん、先輩に好意を持ってる感じですし」
「そうか? まぁ、嫌悪感を抱かれるより好意を抱かれた方がいいだろ」
「はぁ……人としての好意なら私だってここまで嫉妬しません」
わざとなのか、それとも恍けているのかは分からないけど、先輩はそれ以上何も言わなかった。さっき買った本が気になっているのか、それとも別のことに思考を割いているのかは分からないけど、それ以上興味がないということだけは分かる。
「いろは、昼はどうする?」
「外で食べてもいいですけど、先輩の手作りの方が嬉しいですね」
「何が食べたい?」
「そうですね……昨日の夜はちょっと食べ過ぎたので、軽いものでお願いします」
「了解。それじゃあ、買い出しして帰るか」
自然に手をつながれ、私はこの人も変わったんだなと思った。高校時代の先輩なら無言ですたすたと先に行ってしまっただろう。
「さっきの話だけどな」
「はい?」
「無理に呼び方を変える必要はないぞ。俺はそれなりに苦労したがもう慣れたからあれだが、異性を名前で呼ぶのって結構勇気がいることだから」
「そ、そうですね……」
よくよく考えたら私って異性のことを名前で呼んだことなかったような気も……葉山先輩然り戸部先輩然り。全員苗字呼びだったし、先輩に関しては『先輩』としか呼んでない。
「(高校時代の私の阿呆ー!)」
昔の自分にいら立ちを覚えつつ、私は先輩に手を引かれて食材の買い出しに付き合うのだった。
それが異性なら猶更でしょう
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妹襲来
食材を買い込み、私は先輩と手をつないで――とか甘い展開はなく普通に部屋に帰る。本音を言えば少しは手をつなぎたいと思ったりもしたけど、先輩の両手は食材が入った袋でふさがっているのだ。
「てか先輩、なんでこんなに買い込んだんですか?」
「昼と夜と明日の朝の分だと考えれば、それほど買い込んでないだろ」
「でも一日分にしては多い気が」
先輩の冷蔵庫の中はまだ余裕があった気もするので、ここまで買い込まなくてもいいはず。それなのにここまで買い込んだのは何かあるんじゃないかと思い、私は疑いの目を先輩に向ける。
「……今晩小町が来るそうだ。お前の誕生日を祝いたいって言って」
「小町さんが、ですか」
先輩の妹の小町さんは、高校でも大学でも私の後輩だ。祝いたいと思う気持ち自体は不自然ではないが、それほど付き合いがあるわけではないので、わざわざ当日に祝わなくてもとは思う。それも、私が先輩の彼女で、当日は二人きりがいいなと思ってると分かっているはずなのに。
もしかしたら小町さんは先輩と私の交際を快く思っていないのかもしれない。もしそうだとすれば、今夜は結構荒れるかもしれないな……
「それで、小町さんは先輩の部屋にお泊りというわけですか」
「その流れになるかは知らないが、食材は買っておくように言われてるからな。どうせ俺が作るんだろうから、足りなくなってた分を買い込もうと思っただけだ」
「道理でお出かけに誘ってすんなり受け入れてくれたわけですね」
「元々いろはと出かけるつもりだったがな」
不貞腐れている私にフォローではないだろうが、先輩はそう告げる。さっきのショッピングモールデートは私から誘わなくても先輩も計画していたのかもしれない。
「今日くらいは先輩と二人きりが良かったな」
「何か言ったか?」
「何でもありませーん」
先輩は普段どうでもいいことは聞き逃さないくせに、こういう時は難聴スキルを発動する。まぁ、聞かせるつもりのないくらいの声量だったので、聞き取られた方が困ってしまうのだけども。
「それにしても、小町さんも大学生になったからか、先輩の部屋にしょっちゅう来るようになりましたね」
「元々小町は俺の部屋を知らなかったんだがな。それを誰かさんたちが連れてきたからだろ」
「あの時の発案者は結衣先輩ですからね。私はついでにお邪魔しただけですから」
小町さんがオープンキャンパスに来た日、結衣先輩が小町さんに先輩の部屋を教えたのだ。まぁ、小町さんならご両親から聞き出せないこともなかったでしょうけども、受験中はそっちに集中していたということになっている。
「高校時代は先輩がシスコンなんだと思っていましたけど、改めて見ると、小町さんもかなりのブラコンですよね。普通二十歳前後の兄妹がこんなに仲が良いことはないと思うんですけど」
もう少し大人だったり、子供だったりしたらありえないことではないだろう。だが先輩は二十一に、小町さんだって十九になる年だ。少し仲が良すぎると思ってしまうのは仕方がないことではないだろうか。
先輩はシスコンを公言しているくらいだから分かるが――分かってしまうのも彼女として複雑だが、小町さんは一応ブラコンを否定している。それなのにこれほど頻繁に兄の部屋を訪れるのだから、立派なブラコンなのだろう。
「そうか? まぁ、仲が悪いより良い方が見ていて気分が良いんじゃないか?」
「時と場合によりますよ。自分の彼氏が妹と仲が良すぎるってのは、いろいろと複雑なんですから」
「そんなものか?」
「そうなんです」
いまいちピンと来ていない様子だが、私が不機嫌だということは伝わったらしい。それ以降先輩が小町さんのことを話題に出すことはなかった。
昼食を済ませ、少しまったりした時間が流れていたのだが、一人の来訪者の所為でその時間は終了した。
「お兄ちゃん、やっほー」
「いらっしゃい」
「いろは先輩も、こんにちは」
「こんにちは」
先輩の妹である小町さんが部屋に遊びに来たのだ。先輩は普通に部屋に小町さんを迎え入れ、小町さんも私がいるのが当然だという感じでスルーしている。
「遅かったな。昼くらいに来るって言ってなかったか?」
「ちょっといろいろあってね。それでお兄ちゃん、いろは先輩とはどこまで行ったの?」
「今日はショッピングモールをぶらぶらした後スーパーで買い物――」
「そうじゃなくて、彼氏彼女としてどこまで行ったか聞いてるんだよ」
小町さんのドストレートな質問に、私は思わず咽てしまった。先輩の方は呆れているのを隠そうともしない顔をしているけど、小町さんは気にした様子もない。
「お前、そういうことを遠慮なく聞くのはどうかと思うぞ」
「興味津々なお年頃なんだよ、お兄ちゃん」
「お年頃って……」
「てか、いろは先輩が慌てたということは、以前聞いた時より前進したってことだよね。もしかして小町、来年には叔母さんになってたり?」
小町さんの妄想に私は顔が熱くなった。だって小町さんが言葉の意味を理解するならば、そういうことを私と先輩がしたということだから。
「残念ながらそういうことは一切していない。てか、俺もいろはもまだ学生なんだ。したとしてもちゃんと避妊はするだろ」
「でも、百パーセントじゃないわけだし、万が一ということもあり得るでしょ?」
「そんなことになったらいろはの両親に大学辞めさせられそうだな」
辞めさせられるとするなら、先輩ではなく私だろう。先輩はエリート大学の法学部、私は普通の私大文系。卒業して将来役に立つのはどちらかと聞かれれば、間違いなく先輩だと答えるだろう。
「なーんだ、つまらない。お兄ちゃんが小町にこんなもの取りに行かせるから、てっきりいろいろあったんだと思ったのに」
小町さんが先輩に何かの小箱を手渡したが、今の私にはそれについて追及するだけの元気がない。先輩は慌てた様子もなく小町さんから小箱を受け取り、少し乱暴に小町さんの頭を撫でる。
「取りに行ってもらったことは感謝するが、思い込みが激しすぎるぞ」
「痛いよ、お兄ちゃん激しすぎ」
「小町が突拍子もないことを言うからだ」
最後に軽く頭を叩いてから、先輩は小町さんにコーヒーを差し出す。これが兄妹のスキンシップなのだとしたら、先輩は私のことを妹扱いしていなかったという言い分も納得できる。だって私にはもう少し遠慮というか、配慮が見受けられたから。
「そういえば、いろは先輩が当たり前のように部屋にいたから言わなかったけど、小町、今日来てよかったの?」
「お前がいろはを祝いたいって言ったんだろ。今更だな」
「まぁ、お兄ちゃんといろは先輩が睦事をするっていうなら、今日のところは退散するけどね」
「ふざけたこと抜かすなら、さっきより強めに叩くぞ」
「お兄ちゃん、随分と暴力的になったね。実家にいた時はもう少し優しかったのに」
「小町がふざけるからだろ。言葉で伝えて分かるなら、俺だって手は出さない」
先輩は別に暴力的な人ではない。小町さんとのやり取りだって、スキンシップで収まるレベルだし、小町さんだって本気で嫌がっている様子でもない。やはりのこ兄妹の間には私では太刀打ちできないレベルの絆があるのだろう。それこそ、先輩と雪乃先輩、結衣先輩との間になる絆より強固な絆が。
「まぁいいや。それじゃあお兄ちゃん、晩御飯は楽しみしてるからいろは先輩借りるね」
「へ?」
「兄に聞いても埒が明かないので、いろはお義姉ちゃんにいろいろ聞きたいなーと思いまして。いろはお義姉ちゃんの部屋に行きましょう」
「ちょっ!? 先輩助け――」
先輩に助けを求めようとしたが時すでに遅し。小町さんに腕をつかまれてそのまま隣の私の部屋に連行されてしまった。
「まだお兄ちゃんのことを『先輩』って呼んでるんですね」
「何回か変えようとはしたんですけどね……長年『先輩』としか呼んでなかったので」
午前中にも変えようとしたが、結局恥ずかしくなってうやむやにした。そして先輩には急がなくていいと言われてホッとしたのだ。
「いろは先輩の気持ちを疑うわけではないですけど、そんなだと周りの女子に付け込まれるかもしれませんよ?」
「ですよね……」
小町さんのダメ出しに、私はがっくりと肩を落とす。このままじゃ胸を張って彼女だって言えないもんね……
今年もよろしくお願いします
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八幡からの誕生日プレゼント
小町さんからあれこれ聞かれたが、彼女が期待していたような答えはできない。なぜなら私と先輩は付き合ってこそいるが、それ以上の関係にはなっていないからだ。
もちろん、私だって先輩と付き合えただけで満足――なんて中学生じみた考えをしているわけではない。ずっと恋焦がれていた相手と付き合えているのだから、もっと踏み込んだ関係になるのだって吝かではないとは思っている。だが先輩にそういう欲があるのかどうか分からないし、こちらから誘ってまたビッチだと思われるのも避けたい。
そもそも私はビッチではないのだが、先輩の中で結衣先輩は天然ビッチで、私はゆるふわビッチという謎の仕分けがされてしまっているらしい。そのせいで誘うに誘えないのだ。
「つまり兄はまだいろは先輩に手を出していないと」
「そういう言い方止めてくれませんか? なんだか私が無理矢理先輩に誘われるみたいな感じに聞こえるので」
以前大勢の男たちに襲われそうになった時のことを思い出してしまい、私は思わず身体を捩る。あの時先輩が現れてくれなかったら私は……
「いろは先輩?」
「な、何でもないです」
自分でも顔色が悪くなったことは分かっている。小町さんが心配そうにのぞき込んできたので、私は力ない笑みを浮かべて自分に大丈夫だと言い聞かせる。
「そういえば小町さん、先輩に何を頼まれていたんですか?」
「何のことです?」
「何のことって、先輩の部屋に来た時何か渡してたような」
「あぁ、あれですか。お兄ちゃんが予約していた店が駅の側だったので、私が引き取ってきただけですよ。その報酬がお兄ちゃんのご飯なんですけど」
「小町さんも料理の腕は相当ですよね?」
高校時代は先輩ではなく小町さんが家事一切を仕切っていたはずだ。それなのに先輩の料理を報酬として感じるというのはおかしなことではないか。そんなことを考えていたが、小町さんが明確な答えをくれた。
「あのゴミいちゃんが小町の為に料理を作ってくれる。それだけでプライスレスですよ」
「あぁ、そうですね……」
忘れていた。先輩がシスコンであることは忘れようがない事実だが、小町さんもブラコンだったのだ。その兄が料理を作ってくれるとあれば、簡単なお遣いくらい喜んでこなすことを。
「まぁ最近はいろは先輩の為に料理の腕を振るってるようですけど」
「そ、そんな頻繁にお世話になっては――」
「誤魔化さなくてもいいですって。そりゃ彼氏彼女が隣同士で生活してるんですから、しょっちゅうお泊りとかあってもおかしくないですよね?」
見透かされているのか、それとも先輩から聞いているのかは分からない。だが確かに私はしょっちゅう先輩の部屋にお泊りしている。もちろん、一線は越えていないけど。
「さて、聞きたいことは聞けましたし、そろそろお兄ちゃんの部屋に戻りますか。何時までも彼女を借りてたら、小町が怒られちゃいますから」
「私が怒りたいくらいですけどね」
あれこれ聞かれたせいでなんだか疲れてしまった。これは先輩に慰めてもらって回復するしかない。そう切り替えて私は小町さんに続き先輩の部屋に戻るのだった。
私と小町さんが席を外していた間に、先輩は三人分の料理を作り終えており、結局今日も私はお手伝いすら出来ずにいる。
「ごめんなさい、先輩」
「気にするな。小町と話してたんだろ?」
「はい……」
先輩は本気で気にしてない様子だが、彼女としてこうも先輩に頼りっきりというのは考えてしまう。私だって先輩には劣るが十分料理上手な部類なはず。愛しい彼氏に料理を振舞う機会が欲しいのだけども、どうしても先輩に甘えてしまうのだ。
「さぁさぁお兄ちゃん、一緒にいろは先輩をお祝いしようよ」
「小町が一番ノリノリなのはおかしい気がするが」
「だって、未来のお義姉ちゃん候補筆頭の誕生日だもん。小町だって嬉しいんだよ」
「相変わらず気が早いヤツ」
「そうそう。お母さんにはお兄ちゃんに彼女が出来たって教えておいたから」
「で?」
先輩は軽く流す感じだが、私は思わず肩を跳ねさせた。先輩の両親は先輩に対してあまり関心を持っていないようだが、流石に彼女が出来たとなれば話は違うだろう。そのうち連れてこい、くらいの展開があってもおかしくはない。
私は先輩のお母さんにふさわしい彼女だと思われるだろうか、などと考えていたのだが、小町さんの答えはある意味予想通りだった。
「『ふーん』だって。それから『それ自体は止めないが、責任は取るように』って」
「だからしてないっての」
「(お母さんというよりお父さんっぽい感じなのかな?)」
やっぱり先輩に興味が薄いようで、彼女を連れてこいという展開にはならなかった。そこはホッとできたのだけども、先輩のお母さんにもやってると思われているのが複雑だ。
「そもそもお兄ちゃん」
「なんだよ」
「いろは先輩と付き合いだしたのがバレンタインなんでしょ? なんでまだ何もしてないの」
「何もしてないのに怒られるとは思わなかった」
先輩の「仕事じゃないんだから」という言外の言葉を私はしっかりと聞いた気がする。そもそもこういうのは彼氏彼女のタイミングというものに起因するので、周りがとやかく言うことではないというのが先輩の本音なのだろう。それに関しては私も同意する。
だが小町さんは先輩のお母さんが言うように、少しくらいは何かしてくれてもいいんじゃないかという考えもあるので、私は口を挿まずに黙っているのだ。
「ただでさえ本気なのかと疑ってるんだから、キスくらいしててくれないと小町だって安心できないんだよ」
「なんで小町を安心させるためにキスしなきゃいけないんだ」
「いろは先輩だって、お兄ちゃんからキスしてくれれば安心できますよね? 結衣さんや雪乃さんにふらつくことなく、自分が愛されてるって言いきれますよね」
「なんでそこで由比ヶ浜と雪ノ下が出てくるんだよ」
先輩からしてみたら意外な名前だったのかもしれないけど、私や小町さんからしてみたら妥当な名前だ。あの二人がライバルだと思っていたからだ。
「お兄ちゃんだって分かってるんでしょ? 結衣さんも雪乃さんも本当にお兄ちゃんのことが――」
「小町」
「っ!」
先輩が少し強めに小町さんの名前を呼ぶと、小町さんは肩を跳ねさせて黙った。それほど強めではなかったのに、有無を言わせぬ威力があったからだろう。
「俺は由比ヶ浜でもなく雪ノ下でもなくいろはを選んだんだ。今更あいつらの名前を出していろはを不安にさせるんじゃない」
「う、うん……」
「いろはもあまり気にするなよ。俺はお前のことが好きだからお前を選んだんだ」
「はい」
先輩に言い切ってもらえて嬉しいけど、面と向かって言われるとなんだか恥ずかしい。それも小町さんの前というのだからより恥ずかしい。
「ま、まぁお兄ちゃんといろは先輩がラブラブなのは分かったよ」
「そういうんじゃねぇけどな。小町も分かってくれたならそれでいい」
「いろは先輩もお兄ちゃんの気持ちが分かって良かったですね」
「う、うん」
顔が熱くて今すぐ逃げ出したいけど、ここで逃げたら私が先輩への想いが疑われちゃうんではないかと思って動けない。もちろん私の想いは本物で、先輩も疑っていないだろう。
「いろは」
「は、はい」
「誕生日おめでとう」
そう言いながら先輩が差し出してきた小箱を受け取り箱を開けると、指輪が入っていた。
「これってピンキーリング?」
「小町は薬指のにしろって言ってたけどな」
「まぁ、お兄ちゃんにしては頑張った方だけどね」
「ありがとうございます」
いそいそと小指に指輪をはめてじっくりと眺める。この間ペンダントを貰った時よりも感動が大きい。
「とりあえず小町のお遣いはこれで終了だから、お兄ちゃんのご飯を頂くとするよ。それにしてもお兄ちゃん、演技上手すぎ」
「え、演技?」
「いろは先輩に対する想いをちゃんと伝えるために二人の名前を出しただけなのに、あんなにプレッシャーをかけてくるんだから」
「半分は本気だったからな」
先輩の本気を受けて、私はもっと先輩に応えたいと思ったのだった。だがその想いにどうやって応えればいいのかが分からない。
「いろは? どうかしたのか?」
「な、何でもないですよ」
先輩だけでなく小町さんにまで不審がられてしまったが、いつも通りの笑みで誤魔化したのだった。
八幡のプレッシャーは凄そう
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先を目指して
先輩の部屋で私の誕生日を祝ってもらって、先輩の妹の小町さんとも少しは仲良くなれた気がする。もともと仲が悪かったというわけではないけども、何処か苦手意識があったのは確かだ。
高校時代は雪乃先輩や結衣先輩と小町さんの方が仲が良く、私との関わりが薄かったというのもある。まぁ、私から近づかなかったというのもあるけども、そこは気にしないでおこう。
「片付けくらい小町がやるよ」
「どこに片付けるか分かるのか?」
「そっか。じゃあ洗い物はするから、お兄ちゃんが片付けて」
「はいよ」
兄妹で後片付けをするのを眺めながら、私は食後のお茶を啜る。本当なら私が小町さんのポジションにいた方がいいんだけども、あの間に割って入るのは難しいのでやめておこう。
「お兄ちゃん、今日泊まっていいんだよね?」
「最初からそのつもりだったんだろ、白々しい」
「えへへ。でもさ、いろは先輩がお泊りするなら大人しく帰ろうかなって」
そのタイミングでチラっとこっちを見た小町さん。その視線を受けて私は慌てて視線を逸らす。小町さんが居なかったらそのままお泊りするつもりだったのが見抜かれている気がしたから。
「何だったら私がいろは先輩のお部屋にお泊りして、いろは先輩がお兄ちゃんの部屋にお泊りでもいいですよ」
「馬鹿な事言ってないでさっさと洗え。結局俺が洗ってるじゃねぇかよ」
「はーい」
兄妹のじゃれあいを見ながら、私は気持ちを落ち着かせるためにもう一杯お茶を淹れる。小町さんの提案はありがたかったけども、今の心情で先輩の部屋に泊まったら自分を抑えられるか分からない。それくらい小町さんに煽られたのが心の中に残っているのだろう。
先輩と付き合いだしたのがバレンタインだから、私の誕生日で二ヵ月だからまだ何もなくても不思議ではない。だが何かあってもおかしくはない期間でもあるからだろう。
「それじゃあ片付けも終わったことですし、いろは先輩とおしゃべりしましょう」
「さっきいろはの部屋に連れ込んで喋ったんじゃねぇのかよ」
「義姉妹の語らいはしたけど、お兄ちゃんを含めてのお喋りはしてないでしょ? それに、小町はお兄ちゃんともお喋りしたいんだよ。あっ、今の小町的にポイント高い」
「そのポイント制度、まだあったのかよ」
何回か聞いたことあるし、私も冗談でいろはポイントとか言ったことあるけど、小町さんが言うと私が言った時より可愛く見えるのはなんでなんだろう……やっぱり本家本元だから?
「いろは先輩、どうかしましたか?」
「な、何でもないです。それで、何を喋るんですか?」
「やっぱりお兄ちゃんが何時いろは先輩を好きになったとかですかねー。あっ、いろは先輩がお兄ちゃんのことを好きになったタイミングでもいいですよ?」
「んなっ!?」
そんなことを聞かれると思っていなかったので、私はとんでもない声を出してしまう。それに対して小町さんはニヤニヤしながら私に詰め寄ってくる。
「これはいろは先輩の方が攻略しやすそうですね~。お兄ちゃんはゴミいちゃんだけど、こういうことは人に言わないタイプだから難しいんですよね」
「あんまりいろはを困らせるなよな。親父殿に小町が男友達の家に外泊してるって吹き込むぞ」
「そんなことされたら小町、しばらく外出禁止になっちゃうよ!? 入学早々単位の危機だよ!」
「それが嫌ならあんまりいろはを困らせるなよな」
「はーい……お兄ちゃん、本当にいろは先輩のことが好きなんだね」
今のやり取りだけで、小町さんは先輩が本当に私のことを想っていると理解してくれたようで、それ以上の追及は諦めたようだ。今の会話にそれだけの威力があったとは私には思えなかったけども、この兄妹の中では今の会話だけで十分すぎるくらいだったのだろう。なんだか羨ましい関係性だが、兄妹と恋人を比べても仕方がないだろうな。
「高校時代のお兄ちゃんに今のお兄ちゃんの状況を話したらどうなると思う?」
「信じないだろうな。あの時はいろはのことは手のかかる後輩としか思ってなかったから」
「そうなんですか!?」
先輩の衝撃的な告白にショックを受ける。確かに面倒ごとを先輩に持って行っていた自覚があるだけに反論はできないけど、もうちょっとオブラートに包んで言ってもらいたかった。
「あー確かにね。お兄ちゃんがしょっちゅう休日に学校に出かけてるのを見てた小町の気持ちも考えてほしかったですよねー。せっかくお兄ちゃんと遊べると思ってたのに」
「いや、小町は受験生だっただろ。誘われたとしても俺は一緒に遊ばなかったと思うぞ」
「受験が終わった後だよ。お兄ちゃん、三年生になってもいろは先輩のお手伝いとか、戸塚さんの練習相手とかで家にいなかったじゃん」
「そうだったか?」
「そうだよ! そのせいでお母さんとお父さんの関心はますます小町に向けられるようになったんだから」
「そうだったのか。じゃあ忙しくしてて良かったな。あの二人が俺に興味を向けたとは思えないが、小町の期待度が上がったのは八幡的にポイント高いからな」
「全然高くないよ……」
どうやら小町さんはご両親の期待が重いようで、恨みがましい視線を先輩に向けている。
「両親から無関心だからこそ、俺は自由に実家を出ることができたわけか」
「いや、元々大学生になったら家から追い出すってお父さんが言ってたし」
「あの親父殿は……まぁ、男親なんてそんなものか」
男親が息子に向ける感情は分からないけど、先輩が言うように興味が薄いんだろう。
「それじゃあ私はそろそろ部屋に戻りますね」
「せっかくだからいろは先輩も泊まっちゃいましょうよ! 小町と一緒のベッドで寝ましょうよ」
「えっ?」
先輩の部屋に泊まれるのは嬉しいけど、小町さんと同じベッドというのが引っかかる。何かされるんじゃないかという疑念が私の中に渦巻くなか、先輩が疑いの目を小町さんに向けた。
「何を企んでる?」
「企んでるなんて失礼だなー! 小町はいろは先輩もお泊りしたいだろうなーって思って提案してるだけだよ。決してお兄ちゃんと何かあるかもなんて思ってないから」
どうやら思っているようだが、先輩は深く追求することなく流してしまう。私はと言うと、小町さんに強く反発することが出来ず、流されるようにお泊りが決定したのだった。
何故か小町さんと一緒にお風呂に入り、その後先輩が用意してくれたケーキを二人で食べている。ちなみに先輩はお風呂に入っている。
「いやー、ここまでお兄ちゃんの料理スキルが上がっているとは。小町もうかうかしていられませんね」
「そうだね……」
小町さんみたいなキャラが近くにいなかったからなのか、未だに距離の取り方が分からない。小町さんはグイグイ来るけど、私はどうするのが正解なのか……
「なんだか無理矢理誘っちゃったみたいですけど、いろは先輩は嫌だったりしますか?」
「そんなことはないですよ。私も先輩の部屋に泊まれるのは嬉しいですし」
壁一つ隔てただけとはいえ、先輩と同じ空間で寝食を共にできないのは寂しいし。付き合いだしてから自分の部屋で寝たのは本当に数える程度しかない。それくらい先輩に甘えているのだと思う反面、これだけ一緒にいるのに何もされていないという不満が私の中に生まれた。
「兄は曰く『理性の化け物』だから仕方ないですよ」
「え?」
急に脈略のない話題を振られて、私は阿呆みたいな反応を見せてしまう。
「いろは先輩に魅力がないとかじゃなく、兄からはそういう欲を見せないってだけですから、いろは先輩から誘ってみるのも一つの手かと思います」
「何の話?」
「えっ? お兄ちゃんに手を出されてないって不満を抱いたような顔をしてたので、ちょっとしたアドバイスをしてるんですよ」
「……そんなに露骨に表情に出てました?」
「小町レーダーは誤魔化せませんから! ことお兄ちゃん関係なら小町はエスパー並みの観察眼を持っているのです」
エッヘンと胸を張る小町さんを見て、私は素直に白旗を上げる。私の気持ちなど、ブラコンの前では隠しようがなかったのだろう。
「でも、先輩に引かれないかな?」
「まぁ、行きすぎると引かれるかもですが、普通のおねだり程度なら大丈夫だと思いますよ」
一応注意した方がいいと忠告を含みつつ、小町さんは多少強引にいけとアドバイスしてくれた。やっぱりそうした方がいいのだろうか……
いろはが決意したら大変だ
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次のお泊り
小町さんと同じベッドで寝ていたからかどうかは分からないけど、いつもより早い時間に目が覚めた。この時間ならまだ先輩も寝ているかと思ったが、先輩は既に起きて朝食の準備をしている。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
「私より先に起きている先輩に言われたくないです」
せっかく先輩の寝顔が拝めるかもと少し期待していた私は、ちょっと拗ねた感じで先輩から視線を逸らす。何時もなら「あざとい」と言われて終わりだっただろうが、先輩は私の頭を撫でて調理に戻る。
「な、なんですか!?」
「いや、少し落ち込んだ顔をしてたから」
最近になって分かってきたけど、先輩は相手の表情をよく見ている。私が素で落ち込んでいるのとキャラ付けで落ち込んでいる時の違いをちゃんと見分けてくるし、それ以外の場面でもそう言ったことがある。
「先輩って私のことあざといって言いますけど、先輩だって大概だと思うんですよね」
「なんだいきなり」
「だって本気で落ち込んでいる時に優しくされたら、もっと先輩のことを好きになっちゃうじゃないですか」
「それが何か困るのか?」
「困りはしませんけど、今のままじゃ満足できなくなっちゃうかもしれません」
昨日の夜小町さんと話したからではないけど、私だって今のままで満足なわけではない。中学生の付き合いたてのカップルではなく私たちは大学生の恋人同士。今以上があってもおかしくない年齢なのに、未だに踏み込んだ関係にはなっていない。
そりゃ私も先輩も初めての彼氏彼女なわけですから、お互いに経験値ゼロなのでゆっくりなのは仕方がないのかもしれないけど、それにしたって付き合って二ヵ月、半同棲状態なのに何もしてこないのは私に対して失礼ではないかと思い始めている。
そんなことを考えていると、先輩が少し恥ずかしそうに視線を逸らしながら何かを考えている表情をしている。一体何を考えているというのだろうか。
「いろはは、もう少し恋人っぽいことをしたいと思うのか?」
「無理にしたいとは思いませんけど、たまにもうちょっといいんじゃないかなとは思ったりします。もちろん、無理矢理とかは嫌ですけど」
ただでさえ男性恐怖症な私だ。これで先輩に無理矢理迫られて新たなトラウマが出来てしまったら、しばらく外出が出来なくなるだけではなく、この部屋から引っ越さなければいけなくなるだろう。
そうなると引越しの理由を両親に説明しなければいけなくなり、下手をすればお父さんが先輩の部屋に殴り込みにくる――なんて未来が容易に想像できてしまう。まぁ、お父さんにはまだ付き合っている人がいるとは言ってないけど。
「先輩は私とそう言ったことをしたいとか思ったりしないんですか? それとも、私にはそう思わせるだけの魅力がありませんか?」
ずっと抱えている不安。先輩の側には沢山の女性がいる。その中には私よりも魅力的な女性だっているだろう。例を挙げるならば、結衣先輩とか。
高校時代から結衣先輩や雪乃先輩と一緒の時間が多かった先輩が、私のどこに魅力を感じているのかなんて、私には分からない。先輩が私を選んでくれた時は嬉しかったけども、改めて考えると私の何処を気に入ってくれたのかが分からない。
「心配しなくても、いろはは十分に魅力的だ。だが俺にその覚悟がないからな」
「覚悟、ですか?」
一体何の覚悟だというのだろうか? 今のご時世覚悟なくそう言った関係になって問題になったりする若者が少なくないというのに。
「いろはのこれからを俺が貰ってもいいのだろうかという疑問が、な」
「そこまで深く考えなくても良いんじゃないの?」
「なっ!?」
先輩の答えに私ではない第三者が答え、私は慌ててそちらに振り替える。先輩も驚いた表情でその人を見つめている。
「お兄ちゃんがそこまで考えているなんて思ってもみなかったけども、いろは先輩はお兄ちゃんに手を出してもらいたいって思ってるんだから、そこで尻込みするなんて男らしくないと思わないわけ?」
「べ、別に手を出してもらいたいって思ってるわけじゃ……」
「思ってないんですか?」
「思ってない――こともないです」
第三者――小町さんからの質問に、私は蚊の鳴くような声で答える。さすがに声高に答えられるほど経験がないのだ。
「そういうわけだからお兄ちゃん、覚悟とかなんとか言ってないで、そろそろいろは先輩とそういうことをしても良いんじゃないかな? そうだな……例えば一緒にお風呂に入るとか、一緒のベッドで寝るとかなら、そこまで身構える必要もないんじゃないの?」
「随分なことを言っているが、小町は自分がそう言った場面に遭遇したらどうなると思う?」
「小町が?」
先輩からの問に、小町さんは少し考え込んでから顔を赤らめる。恐らく自分がそう言った場面になったら勇気が出せないと分かったからだろう。
「こ、小町のことは兎に角として、お兄ちゃんといろは先輩はもう少し進んでもいいと思うよ。てか、進まなきゃダメな気がするよ。結衣さんの為にも」
結衣先輩が未だに先輩のことを引きづっていることは小町さんも当然知っているし、私や先輩だって知っている。だから私たちが未だに友達以上みたいな関係を続けていると結衣先輩に吹っ切るきっかけを与えられないのだろう。
もちろん結衣先輩は良い人なので、私から先輩を奪おうだとか、私に嫌がらせをして先輩から遠ざけるなどのことはしてこない。そこは安心なのだけども、やはり結衣先輩の為にも何とかしなければいけないのかもしれない。
「と、とりあえずそういうことで。お兄ちゃん、朝ごはんちょうだい」
「やれやれ……」
小町さんの登場でなんだかうやむやになった気もするけど、先輩が私に魅力を感じてくれていることだけは分かった。今はそれだけで十分だと思っておこう。
小町さんと一緒に大学に向かうと、背後から大きな声を掛けられた。
「小町ちゃーん、いろはちゃーん!」
「結衣さん!」
私は大声で名前を呼ばれて恥ずかしいと思ったのだけど、小町さんは結衣先輩と同じノリで呼び返して手を振っている。この場合、私がおかしいのだろうか?
「おはよう。二人で一緒に来たんだね」
「今日は私もいろは先輩も一限目から入ってますから」
「そういうことじゃなくて、二人が一緒にいるのって珍しい気がしたから」
「昨日は兄の部屋に泊まりましたから」
小町さんからしてみれば隠すことでもないのだろうけども、私は思わず肩を跳ねさせる。朝にあんな話をしたからではないが、結衣先輩に申し訳ないと思ってしまう。
「そうなんだー。私もお泊りとかしたいなー。今度小町ちゃん、遊びに来ない?」
「良いですね! あっ、でも結衣先輩の部屋って大丈夫なんですか?」
「失礼だし! 人を招けるくらいには綺麗にしてるから!」
「あんまり大声で言うようなことじゃないとは思うんですけどねー。まぁ、楽しみにしてますね」
「いろはちゃんも来る?」
蚊帳の外を決め込んでいた私に、結衣先輩が無邪気に尋ねてくる。この人はどこまでも良い人なんだろうな。
「お誘いは嬉しいんですけど、結衣先輩の部屋に三人で寝られるスペースがあるとは思えないんですけど」
「いろはちゃんも失礼だし! 片付ければそれくらい作れるし!」
「つまり、現状では不可能だと?」
「そ、そんなことないもん」
何故だろう。結衣先輩が子犬のように見えてしまう……
「と、とりあえず結衣先輩の方で準備が出来たら誘ってください。予定が合えば私もお邪魔させていただきますから」
「ほんとっ! じゃあ準備しておくね」
もし結衣先輩に尻尾があれば、思いっきりブンブン振ってるんだろうな……そんなことを思っていると小町さんがニヤニヤしながらこちらを見ている。
「何ですか?」
「恋敵をイジメて面白いですか?」
「な、何をいきなり……」
「だって今のいろは先輩。高校時代に兄が結衣さんにしていたような弄り方をしていたので、彼氏の影響を見せつけているのかと思いましたよ」
「確かに。ちょっとヒッキーっぽかったかも」
先輩が結衣先輩にどんな風に接していたかは詳しく知らないけど、こんな感じだったのか……もしかしたら先輩も、結衣先輩を弄って楽しんでいたのだろうか。
「だから結衣さんも少し嬉しそうだったんですね」
「よ、喜んでないし!?」
「結衣先輩……」
結衣先輩がマゾだろうとなんだろうと関係ないけど、少し付き合い方を改めた方が良いんじゃないかと思った瞬間だった。
女子会回も近い……のか?
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小町に対する疑惑
それぞれ講義を終わらせて、私たち三人は食堂に集まっている。朝に別れてから小町さんからそれぞれにメッセージが送られていたようで、結衣先輩も私が現れたことに特に驚きを見せることはしない。
そもそも私と結衣先輩は大学内ではニコイチみたいな感じで見られているので、私たちが一緒に行動していたとしても不思議には見られない。そこに小町さんが加わって初めはどういう関係なのかと思われていたが、今では気にした様子もなさそうだ。まだ入学して全然経っていないのに……
「(小町さんのコミュニケーション能力というわけなんでしょうね)」
中学時代の事は先輩から聞いている程度しか知らないけど、高校時代の小町さんの人間関係構築速度はすさまじいものがあった。学年が違う相手だろうと遠慮なく話しかけ、すぐに打ち解けていた。もちろん最低限の礼儀はわきまえているので、いきなり馴れ馴れしいということはなく、それでいて数日後には数年来の友人のような関係まで発展しているのだ。
「いろは先輩、こっちでーす」
「私が一番最後だったんですね」
「私たちも来てそれほど経っていませんから」
小町さんの返答に結衣先輩も笑顔で頷く。未だにこの人ではなく私が選ばれたのが不思議で仕方がないのだけども、だからと言って結衣先輩に先輩を譲るつもりは起きない。
「それで、何故呼ばれたんですか?」
「何故って、結衣さんの部屋にお泊りする日程を決めようと思いまして」
「あれって本気だったんですね」
私としては半分くらいは社交辞令のつもりだったのだが、小町さんや結衣先輩の中では決定事項になっていたようだ。まぁ、ここ最近先輩としか過ごしていないので、別の人と過ごすのも悪くはないのかもしれないけど、少しは進展させたいと考えていた時にこのお誘いだ。少し面倒だと思ってしまっても仕方がないだろう。
もちろん、そんなことは言葉にすることもなければ、顔に出すこともないので小町さんや結衣先輩に私が半分嫌がっているということは気づかれていない。
「小町としては結衣さんといろは先輩に兄の何処がいいのかじっくり聞きたいところでしたから。雪乃さんもですけど、兄の何処が良くて三人で取り合っていたのか不思議でしかないんですよー。もちろん、お兄ちゃんが優しくて他人を気遣える人だということは分かってますけど、ゴミいちゃんの面を色濃く見ていた小町としては、何処に惹かれたのか興味津々なのです。なのでお兄ちゃんが居なくてかつ人の耳を気にしなくてもいい場所でじっくりお話したいのです。いろは先輩の部屋では兄に聞かれる可能性もありますので、結衣さんの部屋でのお泊りはまさにうってつけなのです」
「そんな理由でお泊りしたかったの!?」
「あっ、純粋にお泊りしたかったというのもありますからご安心を」
お泊り会を切望している理由を聞かされ、結衣先輩が驚く。私だって驚いたけども、結衣先輩のように表面に出すことはしていない――というか、感情が追い付いていない。
「だってゴミいちゃんですよ? 雪乃さんのように美人だったり、結衣さんみたいに天真爛漫で友達が多い人だったり、いろは先輩のように選び放題の人から好かれる要素って何なのかなーって。それ以外にも沙希さんとかもお兄ちゃんのことを気にしてましたし。身内には分からない何かがあるのは確かなんだろうなーとしか分からないので」
「いやいや、小町ちゃんだって十分ヒッキーのこと好きでしょ?」
「そりゃ好きですよ。家族ですから」
「そういう意味じゃなくて、小町ちゃんの中でヒッキーが基準になってたりするんじゃないの?」
結衣先輩の疑問は、私も思っていたものだ。先輩がシスコンなのは周知の事実だし、本人も公言していることだから今更だが、小町さんの方もブラコンなのだ。だがこれは小町さん自身が否定しているのだが、説得力がないと感じているのは私だけではないだろう。
そしてそのブラコンの度合いが、普通のブラコンとは違うのだ。例えば川崎先輩のブラコンはまだ家族思いの範疇で収まる。だが小町さんのそれは、家族思いという言葉で片付けられない部分が多々見られるのだ。
例えば高校時代。それなりにカッコよく成績がいい、それでいてそれを鼻にかけていない男子に小町さんが告白された。だが小町さんの答えはNO。詳しい理由は分からないけども、人伝に聞いた限りでは先輩に劣っているような気がしたかららしい。
どこがどう劣っているのかは分からないけども、小町さんの中で先輩が男性の基準になっていると思っていい事案だろう。
「どうですかねー。兄がそれなりに凄い人だということは小町も理解してますし、高校二年の時のようなゴミいちゃんから進化したからそれなりに評価が高くなってるのは事実です。でもそれイコール男性としての基準なのかどうかは分かりませんね」
「いやいや、ヒッキーが基準になってるって」
「そうなんですかね? 結衣さんやいろは先輩の中なら理解できますけど、小町はお兄ちゃんの妹ですよ? 異性として見てるわけないじゃないですか」
「そうなのかな……」
結衣先輩が小町さんにやんわりと撃退され、その後はその話題に触れることなくお泊りの日程だけ決めて解散となった。
帰宅後、私は少しもやもやしたので先輩を訪ねる。部屋に鍵はかかっていたが合鍵でそんなものは簡単に突破できる。
「先輩、ちょっといいですかー?」
「お前はまた……」
部屋に先輩がいることは分かっていたので確認もせず入ってきた私に、先輩は頭を抑えながらも追い返すことはしない。このやり取りが結構行われているから、今更口で言っても無駄だと学習してくれたようだ。
「それで何の用だ」
「先輩ってシスコンじゃないですか」
「いきなりだな」
ここで否定しないのがこの人だ。普通の人間なら否定するところなんだろうけども、この人はむしろ誇らしげな表情をするのだ。
「それで小町さんもブラコンなんじゃないかって話を今日してたんですよ」
「お前ら、大学でなんて話をしてるんだ」
「私じゃなくて結衣先輩が言いだしたんですからね?」
「由比ヶ浜が?」
先輩は意外そうに結衣先輩の名前を出したけども、むしろ小町さんをブラコンだと疑っていない人の方が少ないだろう。
「小町さんは否定してたんですけど、小町さんの中で男性の基準が先輩になってるんじゃないかと思いまして」
「家族が基準になることなんてあるのか?」
「先輩だって、小町さんが基準になったりはしませんでしたか?」
「そりゃ小町は可愛いし料理上手だし魅力的な女子だとは思うけど、異性の基準にはならないだろ。小町は唯一無二の存在で、小町と同じような他人がいるとは思ってないからな」
「うわぁ……言い切ったよこの人」
仮にも彼女の前で他の女子を褒めるとかどうかしてる――と普通の彼女なら憤慨するところなのでしょうけども、先輩のこれは付き合う前からなので今更嫉妬するだけ無駄なのだ。
「だから小町の中の俺がどういう評価なのかは分からないが、それイコール男性としての基準になってるとは思わないんだが」
「そういうものなんですかね? 私は兄弟がいるわけじゃないので分からないですけど、異性のきょうだいがいる人ってそれが普通なんですか?」
「川なんとかさんだって、大志のことを異性として見てたわけじゃないだろ?」
「川なんとかさんって……川崎先輩ですよね?」
「そう。だからいろはが思ってるようなことはないと思うぞ」
「イマイチ納得できないんですよね……」
先輩が小町さんのことを異性として意識しているということは疑ったことないけど、小町さんの方が先輩のことを異性として意識してるんじゃないかという節が多々見られる。もちろん血縁ということで「そういうこと」をしたいとか、そういった類の意識じゃないんだろうけど、それでも心配はぬぐえないのだ。
「考えすぎだと思うぞ。それじゃあ、俺は出かけるからいろはも部屋に帰れ」
「このままお留守番してまーす」
「またかよ……」
先輩はバイトに出かけてしまったが、このまま自分の部屋に戻ってモヤモヤするつもりはなかったので、私は先輩の部屋で一人考え込むのだった。
八幡が基準だとなかなか厳しいんじゃないかと……
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妥当な人気
今日は結衣先輩の部屋でのお泊り会。本音を言えば今日も今日とて先輩の部屋でのんびりしたかったのですけど、こういった付き合いも大事だと割り切って参加している。
お泊り会と言っても、メンバーは私と結衣先輩、そして小町さんの三人だけ。大学内でのお喋りの延長でしかないのだけども。
「やっぱり小町も一人暮らしとかしてみたいですね」
「でも小町ちゃんの場合、私たち以上にお父さんの説得が大変なんじゃないの?」
「そこなんですよねー」
小町さんのお父さん――つまり先輩のお父さんは小町さんを溺愛している。息子の先輩など眼中にないくらい小町さん中心の考えをしている人で、その人が小町さんの一人暮らしを認めてくれるとは到底思えない。
私や結衣先輩も父親の反対をなんとか押し切って一人暮らししている。小町さんももしかしたら可能なのかもしれないけど、娘を思う気持ちが私や結衣先輩の父親と小町さんのお父さんとでは違い過ぎる。私たちのはあくまでも過保護レベルで済むかもしれないけど、小町さんに対する思いはそれでは済まなさそうだ。
先輩が言うには「小町の可愛さを考えれば当然」らしいけども、それを「当然」で済ませて良いのかどうかという疑問も出てくる。
「お兄ちゃんが先に実家を出て行ってしまったから、小町もってなったら悲しむでしょうから――カマクラが」
「カマクラって……」
カマクラというのは、比企谷家で飼われている猫の名前。先輩にはさほど懐いていないようでしたけども、小町さんからしたら先輩にも懐いているらしい。
「お父さんとかじゃなくてカマクラなんだ」
「結衣さん、無理に私たちに合わせなくていいですよ」
「何が?」
「だって結衣先輩、いつもパパ、ママって呼んでるじゃないですか」
この中で結衣先輩が一番大人なのだが、呼び方に関しては一番子供っぽい。そのことを気にしてなのか、それとも無意識なのかは分からないけども、さっきから結衣先輩は私たちに呼び方を合わせていた。
そのことを小町さんが指摘して、結衣先輩の表情に赤みが増す。恐らく指摘されるとは思っていなかったので、いざ指摘されたら恥ずかしかったんだろうな。
「気にしなくていいと思いますよ。お兄ちゃんがそんな風に呼んでいたら気持ち悪いですけど、結衣さんの見た目ならぴったりですから」
「褒められてる気がしないのは気のせい?」
「どうでしょうね。そんなことより」
「そんなことって――」
結衣先輩がまだ何か言いたそうにしていたが、小町さんはそれに取り合うことはしない。彼女の中では結衣先輩に付き合うよりこの後の話題の方が大事だったからだ。
「お泊り会の本題に入りましょう」
「本題?」
「結衣さんやいろは先輩が、兄の何処を好きになったかですよ」
そういえばそんなことを話していたような気もする。だが小町さんには悪いけども、私はその原因を人に話すつもりは毛頭ないのだ。だって、私と先輩との思い出で、結衣先輩も詳しくは知らない話だから。
逆に結衣先輩が先輩を好きになった理由も私は知らない。知ろうとしたこともない。雪乃先輩に関しても同じだ。先輩のことを好きなんだろうとは思っていたけど、その原因を知ろうとしたことなど一度もないのだ。
「そんなことより小町さんこそどうなんですか? 良いなーって感じの男性とかいないんですか?」
「小町のお眼鏡に適う人はいませんねー。中学時代からそうですけど、同級生ってなんだか子供っぽいって思っちゃうんですよ」
「なんとなくわかります、それ」
私の場合は最初は葉山先輩、それ以降は先輩に粘着していたから仕方がないのかもしれないが、小町さんの場合はやはり先輩が基準になってしまっているからなのだろうか。あの人を基準で考えたら相当厳しいと思うんだけどな。
「そうかな? 私の場合は同級生は同級生って感じで楽しかったけどな」
「結衣先輩は戸部先輩とかと一緒に行動してましたもんね」
「うん。戸部っちだけじゃなくて優美子とか姫菜とかも一緒だったけど」
「あのグループって葉山さんが中心だったからじゃないですか? あの人は同学年の中でもかなり大人っぽかった感じでしたから。小町たちの学年でも、葉山さんは人気高かったですし」
「葉山先輩ですからね」
見た目の良さで手を――興味を持った相手だったが、実際内面を知っていくにつれて興味は薄れていった。初めに抱いた印象はだいぶ違っていたのだ。カッコよくてなんでも自分でこなせるスーパーマン。そんなのは幻想でしかなかった。
詳しいことは私には分からないけども、葉山先輩は問題に直面しても自分で解決しようとせずに先輩を頼り、先輩のお陰で問題が解消されたにもかかわらずそのやり方を否定したとか。まぁ、解決ではなく解消な辺りがあの人っぽいのかもしれませんが、何もできなかった人にそのやり方を否定する権利はないと思うんですよね。
「それと同時に、何故か兄の評価も高かったんですよね」
「ヒッキーの?」
「はい。だから結衣さんやいろは先輩が兄の何処に魅力を感じたのかを聞けば、当時の疑問も少しは晴らせるのかなって」
「そこに戻るのっ!?」
結局は小町さんからの追及を避けることはできなかったようで、私ではなく結衣先輩が声を上げた。まぁ、私も上げたかったんですけど、結衣先輩の方が反応が早かっただけなのだが。
「前にも言いましたけど、小町からしたらお兄ちゃんはゴミいちゃんだったわけで、異性としての魅力とか言われてもピンとこないわけですよ。それなのに同級生からは一定の評価を得て、先輩の中でも人気の高いと言われていた三人から想われているとか意味わからないんですよ」
「三人って、私とゆきのんといろはちゃん?」
「はい! 沙希さんとかも人気高かったですけど、トップスリーを上げるとしたら結衣さんたち三人ですね」
小町さんの言葉に、私は少し意外に思ってしまう。雪乃先輩や結衣先輩は納得いくが、まさかそこに私が加わっているとは思わなかったのだ。川崎先輩の面倒見の良さは私たちの代でも有名だったし、三浦先輩のような感じの女子も人気が高かったからだ。さらに言えば、私たちの代なら城廻先輩のことを知っている代なので、私よりも城廻先輩の方が人気が高かったからだ。
そもそも私は自分が興味のない相手からどう思われていようが気にしないというスタンスだったので、小町さんの代の男子との繋がりなどほとんどない。精々二期目を務めていた時にいた後輩たちとしか繋がりはなかった。それなのに何故そんなにも人気があったのだろう。
「雪乃さんはミステリアスな雰囲気がありながら、猫相手にデレデレになってるところを見られたんだとか」
「あー、ゆきのん猫大好きだからね」
「結衣さんは見た目もですけど性格も可愛いですし」
「いろはちゃんは?」
「真面目な生徒会長カッコいいって感じから、普段の猫っぽい雰囲気が良いとか言ってました」
「猫?」
「興味のない相手にはとことん冷たい感じですかね」
まさか私のスタンスが受けていたとは……てか、猫っぽいんですかね、私みたいな対応って。
「てか雪乃先輩がそんな油断するとは思えないんですけどね。あの人、常に周りに人がいるかどうか気にしてる感じでしたし」
「もしかしたら陽乃さんが雪乃さんのそんな映像を流したのかもしれませんね」
「あー陽乃さんならやりかねないかもしれないねー」
「でもあの人の重度もシスコンですよね? シスコン過ぎて愛情表現がおかしな感じでしたけども、雪乃先輩を貶めるようなことをしますかね?」
「逆に近づきやすい雰囲気を出したかったのかもしれませんよ?」
小町さんの言葉に、思わず納得してしまう。雪乃先輩はどこか近づきにくいオーラを放っていた。だからではないが、親しくない人からは勘違いされていたとかいないとか。それをどうにかしようと陽乃さんが動いたとしても不思議ではない。
「そんなわけで、人気の高い人たちが何故お兄ちゃんなんかを好きになったのか、小町は興味津々なのです」
「結局そこに戻るのっ!?」
脇道に逸れたはずなのに結局小町さんの中での本筋に戻ってしまい、結衣先輩がもう一度大声を出す。いやほんとに、なんでそこに戻るんですかね……私は話したくないっていうのに……
脇に逸れそうで逸れない
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知られざる過去
小町さんの追及を何とか避けるために、私は他の話題はないか必死に思考を巡らせる。そもそも他人が自分の彼氏を好きになった瞬間など聞きたくないし、私のきっかけを誰かに話すつもりもない。
だがこうなった小町さんはなかなかしつこく、何度話題を変えようとしても結局は元の話題に戻ってしまうのだ。こんなことなら、先輩に小町さんの扱い方をしっかりと聞いておくんだった。
「いい加減観念してくださいよ。小町はお二人が兄を好きになったきっかけを聞くまで眠りませんから」
「そんなこと言われても、思い出は大事にしまっておきたいし」
「結衣さんはもう失恋したんですよ? 何時までも大事にしていたい気持ちは分からなくもないですが、それに固執してたら前に進めないんじゃないですか?」
「そ、そんなことないし!」
確かに結衣先輩は既に失恋した身。過去の思い出を話したところで問題はないと考えても不思議ではない。だがもう少し言い方というものがあるのではないだろうか。
小町さんは失恋したことがないから分からないのかもしれないけど、私だって葉山先輩のことを話せと言われて簡単に話せるかと言われれば無理だろう。それくらい失恋というのは心に負うダメージが大きいのだ。たとえそれが、仮初の恋だったとしてもだ。
私の仮初の恋ですら難しいのだから、結衣先輩の本気の恋の思い出を人に話すのは相当難しいことだと、恋愛を経験している私には分かる。だが小町さんにはそう言った思い出がないのだろう。
「小町さんは誰かに恋したことないんですか?」
「小町ですか? んー、今のところはないですねー。大志君も結局はお友達で終わりましたし、小町的には無しの部類だったので良いんですけど」
「随分辛辣なことを……」
別に本人に聞かせるわけでもないので良いのかもしれないが、多かれ少なかれ川崎先輩の弟さんは小町さんに特別な感情を抱いていただろうに……恐らく告白したとしても、けんもほろろに断られたんだろうな。
「そもそも小町ちゃんってどんな男性がタイプなの?」
「タイプですか? そう聞かれて考えると分からないですね……兄があんなでしたし、戸塚さんとかは良いかもとは思いますけど、小町が戸塚さんと付き合うとお兄ちゃんが五月蠅そうですし」
「あー、ヒッキー彩ちゃんのこと大好きだもんね」
「もしかしたら、彼女の私よりも上かもしれませんし」
先輩の中で一番上なのは小町さんだろう。そこは恐らく揺るがないだろうし、私もそこを目指そうとは思わない。思っても届かないだろうから。
だから先輩の中で二番目を目指そうと思っているのだが、その二番目の相手が厄介だ。私から見ても戸塚先輩は可愛らしいし、下手な女性よりも魅力的に見えてもおかしくはない。しかも先輩のことをよく理解しているからなおさらである。
最近は私に遠慮しているのか先輩の部屋に集まることはないけども、もし私が長期先輩の側を離れることになったら、戸塚先輩を部屋に呼ぶかもしれない。いや、先輩と戸塚先輩は同姓だから気にしなくてもいいのかもしれないけど、万が一がありそうで怖いのだ。
「そんなわけでして、小町はお二人の恋愛観に興味津々なのです」
「好きになるきっかけなんて些細な事だし、具体的に話してと言われても難しいよ」
「結衣さんの場合は、やっぱり身を挺して飼い犬を助けてもらったことですかね?」
「なんですか、その話?」
「あれ? いろはちゃんは知らないんだっけ?」
「たぶん聞いてないと思います」
そもそも最初の頃は先輩になど興味なかったので、聞いていたとしても聞き流していたのかもしれない。だが今となってはものすごく興味を惹かれる話題だ。あの先輩が身を挺して犬を庇った? いったいどういう状況だったのだろう。
「あれは兄たちの入学式当日。珍しく早く出かけた兄は、サブレの散歩中だった結衣さんと、車で通学中だった雪乃さんと同じタイミングでその場所に居合わせ、飛び出したサブレが雪乃さんの車に轢かれそうになったのを庇って、代わりに轢かれたんですよ。そのせいで一ヶ月ほど高校生活スタートが遅れて、ただでさえボッチ気質だったのに、すでに完成されつつある人間関係に割って入る度胸もなく完全なるボッチになってしまったのです」
「でも先輩って雪乃先輩のことも、結衣先輩のことも二年になってから知り合ったとか言ってましたよ?」
そんなことがあったのなら、一年の時に知り合っていたとしても不思議ではない。結衣先輩は兎も角として、雪乃先輩は先輩の病室に謝罪に向かうべきだと思うし。
「諸々のことは両親が対応してましたし、雪ノ下家も顧問弁護士が来てましたからねー。結衣先輩はクッキーを持ってきてくれましたけど、その時はまだ兄は入院中でしたし」
「そうだったんですね」
そう考えると、奉仕部というのは中々に皮肉な集まりだったのだろう。事故の加害者と被害者、そして事故の原因を作った者の三人で活動していたのだから。部外者の私が言うのは違うのかもしれないが、そんな状況を作り出せた平塚先生はいったい何を考えていたのだろうか。
「そのせいかどうかは分かりませんけど、兄って結衣先輩の家のサブレにやたらと懐かれてるんですよね」
「確かに。私やママが居ても、ヒッキーに遊んでもらおうとしてたし」
「カマクラもなんだかんだでお兄ちゃんに懐いてましたしねー。人に好かれない代わりに動物に好かれるのかもとか考えた時もありましたけど、意外と人気でビックリしましたもん」
「やり方は兎も角として、先輩は問題に直面しても逃げませんでしたからね」
ある方面から見たら逃げていたのかもしれないけど、何もせず人任せにしていた葉山先輩や、口だけでいざという時に何もできなかった雪乃先輩よりかはしっかりと向き合っていただろう。まぁ、本当にやり方は褒められたものではないのだが。
私の時だって最初に提案されたのが推薦人として自分が壇上に上がり、スピーチを失敗して不信任にさせるという方法。確かに私にはダメージは少ないが、それを実行したら先輩の高校生活はあの時以上にボッチになっていただろう。
その次に提案されたのが、私を担ぎ上げるだけ担ぎ上げて放置した相手を見返してやる方法。結果としてもしかしたら先輩に乗せられたのかもしれないけど、私は自分を馬鹿にしていた相手を見返すという、一番スカッとする方法で問題を解決できた。そのせいで二期連続で生徒会長を務めることになったけど。
それが原因で私は先輩という人に興味を持った。興味を持ったから必要以上に問題事を奉仕部に持ち込み、なんだかんだ言って先輩を生徒会業務に引っ張っていた。先輩では頼りにならないと言いつつ、一番頼りにしていたから。
「まぁ、結衣さんがお兄ちゃんを好きになった理由はなんとなく察せますけど、いろは先輩はいったい何時なのか皆目見当もつかないんですよね。そもそも小町のお義姉ちゃん候補の中に、いろは先輩は全く入っていなかったわけですし」
「何です、そのお義姉ちゃん候補というのは」
「兄を押し付け――じゃなかった。任せられる相手のことですよ。高校時代の兄はあんなでしたから、上から引っ張り上げるか下から押し上げることができる人じゃないとと思っていたんですけどね」
「何言ってるんですか?」
確かプロムの準備の時にも似たようなことを聞いたことがあったと思うけど、確かその時は私のことを「くず」だとか言ってたような……いや、正確には「同じくず同士」だったか。とにかく小町さんの中での私の評価はそんなものだったのだ。
「それなのに雪乃さんや結衣さん、沙希さんを差し置いていろは先輩が兄の彼女になったのが驚きですよ。お兄ちゃんがいろはさんの何処に惹かれたのかも気になりますけど、聞き出しやすいのはいろは先輩の方でしょうから」
「人のこと散々言ってますけど、小町さんも十分『くず』ですよね」
「そりゃ、お兄ちゃんの妹ですから」
自信満々に言い切られても困ってしまうのだが、その一言で納得してしまうのは何故だろう。仮にも彼氏だというのに、あの人がくずだということに反論できないのは、それだけ先輩の卑怯な一面を見てきたからだろうか。それとも、小町さんが言うように、私も同類だから分かるのだろうか。
開き直る小町
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小町のトラウマ
結衣先輩が先輩を好きになった理由というのは、確かに私も気になっている。雪乃先輩もだが、結衣先輩だって言い方は悪いが選び放題だろう。それなのに何故あの先輩に惹かれたのかというのは、私も気にしていたことだ。
だからと言って、結衣先輩の理由を聞きだすのと引き換えに、私が先輩に惹かれた理由を話さなければならないとなるなら、無理に聞きたいとは思わない。以前に小町さんにはそれらしいことは伝えたけど、あれだって百パーセントの理由ではないから。小町さんもそれが分かっているから私にも追及しているのだろう。
そもそもの話として、兄の恋人に対してここまでグイグイ来る妹というのはどうなのだろう。先輩はシスコンを公言しているからありかもしれないけど、小町さんは自分がブラコンであることを認めていない。いや、認めているのかもしれないけど、それを声高に宣言はしていない。それなのに何故ここまでしつこく聞いてくるのだろうか。
「それで、結衣さんは何時頃から兄に好意を持っていたんですか?」
「まだその話なのっ!?」
「だって小町的には、それが聞きたくてお泊り会を提案したまでありますからねー」
さすがは兄妹。言い回しが凄く似ている。先輩もそう言った言い回しを使うことがあるし、小町さんが使っていても違和感を覚えないのはそうとしか言いようがないだろう。
「そもそもですよ、女子同士のお泊り会なんて、コイバナ大会しかやることないじゃないですか」
「そんなことないと思うけど……」
「じゃあ結衣さんは何が目的でお泊り会を開いてくれたんですか?」
「そりゃ、普通にお喋りとかしたいなーって」
「じゃあじゃあ、好きになった理由をお喋りしてくださいよ」
このままでは理由を話すまで解放してもらえないんじゃないだろうか。そんなことを考えていたら、ふいにメッセージ着信音が鳴り響き、私は意識を小町さんからそちらに向ける。
「(先輩から?)」
このタイミングで先輩からメッセージが来るのは、果たして良いことなのだろうか悪いことなのだろうかと考えながらも、私はメッセージを開く。
「誰からですか?」
「先輩からです」
普通に聞かれたので普通に答えてしまったが、質問してきた相手をよく確認するべきだった。この空間にいる人間は三人で、私に敬語を使う相手は一人しかいない。そしてその一人は、今最も送られてきたメッセージを見せたくない相手だったのだから。
「お兄ちゃんからいろは先輩にですか? ちゃんと恋人やってるのか気になりますねー」
私のスマフォを横からひったくり、小町さんはメッセージを確認する。咄嗟の行動で反応できなかったが、慌てて取り返そうとしたが遅かった。
「何々? 『小町が迷惑かけてないか?』だって。うわ、ちゃんと彼女の心配してる兄なんて知りたくなかった」
「だったら返してくださいよ!」
小町さんからスマフォを取り返し、私は先輩にメッセージを返す。
『思いっきり小町さんにこのメッセージを見られました』
別に見られたからと言って問題のあるやり取りではないのだが、やはりどこか恥ずかしい。私は恨みがましい視線を小町さんに向けると、流石に罰が悪そうな表情で私から視線を逸らした。
「あ、返信」
小町さんがもう一度私のスマフォを狙ってくるかと思い警戒したが、流石に二度目は無いようだ。私は安心して先輩からの返信を確認する。
『思いっきり迷惑かけてるじゃねぇかよ……今度会ったらお仕置きだな』
「お仕置き?」
「っ!?」
私が零した疑問に、小町さんの肩が撥ねた――ように見えた。結衣先輩も不思議だったのか、小首をかしげながら小町さんを見ている。その姿が可愛らしいと思ったのは、結衣先輩には内緒だ。
「小町ちゃん、急に怯えたようだけどどうしたの?」
「な、な、な、何でもにゃいですよ?」
「いや、分かりやすく動揺してるし!?」
「思いっきり噛んでますし」
先ほどまで私と結衣先輩が小町さんに追い詰められていたので、その意趣返し――というわけではないが、私と結衣先輩は小町さんに動揺している理由を尋ねる。
「どうして小町ちゃんは動揺してるの? ヒッキーにお仕置きされるのが怖いの?」
「こ、怖くはないんですけど、あの兄がすることですからね……下手をしたら外出禁止とかになりかねないので」
「あぁ……先輩ならやりかねないですね」
先輩自身はご両親に対して思われていないようだが、妹の小町さんは違う。もし先輩があることないことご両親に吹聴したら、小町さんの自由が制限されるかもしれない。それは確かに『お仕置き』というに値するだろう。
ただでさえ先輩の代わりに期待されて自由が少ないとボヤいている小町さんだ。そこに外出禁止という罰が課せられたらと思うと、怯えてしまっても仕方がないかもしれない。
「と、兎に角小町はもう寝ますね! 結衣さん、いろは先輩、おやすみなさい!」
「ちょっと小町ちゃん!?」
「布団にもぐって五秒経たずに寝ちゃいましたね……」
よっぽど怖かったのか、それとも早いところその恐怖から解放されたくて意識を手放したのかは分からないけど、小町さんの布団からは規則正しい寝息が聞こえてきている。これはもしかしたら、先輩に助けられたということになるのだろうか?
結衣先輩も寝てしまい、することがないので私も寝ようとしたのだが――
「寝られない」
――妙に目が冴えてしまっていて、私一人だけが起きていた。自分の部屋ならちょっと水でも、とか思うのかもしれないがここは結衣先輩の部屋。勝手にコップを使っていいものかとか、水を出した音で起こしてしまうのではないかとかが気になってそれもできない。
「(先輩なら、起きてるかもしれない)」
私は布団を抜け出して脱衣所に向かう。さすがに同じ部屋で電話をする勇気がないのと、声を聴かれて起こしてしまうのではという配慮からだ。
『何だ?』
5コール目で電話に出た先輩の声は、何処か不機嫌そう。
「せっかく愛しの彼女が電話したというのに、先輩テンション低くないですかー?」
『何時だと思ってるんだよ』
「えーと、夜中の二時ですね」
確かにこんな時間に電話がかかってくれば不機嫌にもなるだろうし、その相手に苛立ってしまうのも理解ができる。それでもこうやって相手をしてくれるのが、この人のいいところなのだろう。もちろん、本人には言わないけども。
「結衣先輩も小町さんも寝ちゃってて、私だけ暇なんですよ」
『お前も寝ればいいだろ』
「妙に目が冴えちゃってまして。先輩と話してたら眠くなるかなーって思って電話しました」
『どういう意味だ』
「だって先輩の話、つまらn――」
言い終える前に通話を切られてしまったので、私は慌ててもう一度先輩に電話を掛ける。もしかしたら出てくれないかもと思ったが、3コール目で出てくれた。
「いきなり切らなくてもいいじゃないですか」
『寝ていたところを叩き起こされて侮辱されるのは御免だからな』
「ちょっとした冗談じゃないですかー。それくらい分かってくださいよー」
半分くらい本気だったのだが、ここでそのことを正直に言えばまた切られてしまう。最悪、次は出てくれないかもしれない。そう思って私は咄嗟に冗談ということで押し通すことに決めた。
『それで、何か用があって電話したんだろ?』
「さっき小町さんが『お仕置き』って単語に怯えてたんですけど、何かあったんですか?」
『別に大したことじゃねぇよ。昔小町が悪戯した時にしたお仕置きを引き摺ってるんだろうよ』
「……何をしたんですか?」
私は反射的に嫌悪感を抱いてしまったが、先輩は私が誤解してるのを察してすぐに説明してくれた。
『足の裏のツボを思いっきり押しただけだ。相当痛かったのか、それ以降小町の悪戯は度を越えない範疇に収まったけどな』
「小町さん、内臓悪いんですか?」
『さぁな。それか、単純に俺の指圧が強すぎるのかもしれないが』
「なるほど」
とりあえず先輩が小町さんに厭らしいことをした疑惑は晴れ、私はとりあえずすっきりすることができた。それと同時に猛烈な睡魔に襲われ、私は挨拶もそこそこに電話を切って布団に戻る。
「(結局、先輩と話せなくてモヤモヤしてたから寝れなかったのかもしれない)」
そんなことを考えながら私は夢の世界に落ちていく。願わくば、先輩の夢が見れますように。
足つぼは自分も苦手
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偶然の合流
結衣先輩の部屋にお泊りして、なんだかんだで朝になった。それ自体は普通のことだし、私は別に眠りが浅いわけでもないので、途中で目が覚めてまだ夜だったということはない。問題はそこではないのだ。
朝になったということは、当然の流れで朝食ということになる。これが先輩の部屋へのお泊りだったらそこが問題になることは絶対にない。先輩が作ってくれなかったとしても、自分の部屋が隣だから。まぁ、作ってくれなかったことなんてないんですけど。
そんな風に現実逃避気味に別のことを考えなければいけないくらい、今の私は危機に面している。具体的には、結衣先輩が朝食を作ると言い出しているのだ。
「せっかく二人がお泊りに来てくれたんだし、ここは私が作るべきだと思うんだよね」
「いえいえ、部屋を貸してくれたお礼として、今日は小町といろは先輩で用意しますから。ねっ、いろは先輩」
「そ、そうですよ。結衣先輩はゆっくりしててください」
小町さんの言葉に一瞬理解が追い付かなかったが、小町さん一人より私も一緒の方がよりお礼感が出る。そのことを瞬時に理解し、私も朝食の準備を手伝うと申し出る。それでも結衣先輩は自分が作りたいオーラを出しているので困ってしまう。だって、あの顔をされるとどうしても止めにくくなってしまうから。
だが小町さんには結衣先輩のあの表情は効果が薄いようで、てきぱきと結衣先輩の分のコーヒーを用意して彼女の前に置く。
「結衣さんはお砂糖とミルクたっぷりですよね」
「ヒッキーほどじゃないけどね」
「先輩は最近ブラックですよ?」
「そうなんだー。ヒッキーといったら、マックスコーヒーのイメージだから」
「ですよねー。小町も久しぶりに会ってブラックコーヒーを飲んでるお兄ちゃんを見てびっくりしましたよ。まぁ、酒飲みになってるわけじゃなかったので、その点は良かったですけど」
先輩はお酒が呑めないわけではない。周りにいる人間がお酒に強かったら先輩も普通に吞んでいただろう。だが結衣先輩も戸塚先輩もお酒に非常に弱い。この二人が酔っ払った時のことを知っている身としては、この二人にお酒を勧めないためにも、先輩にはお酒を呑まないでもらおうと思ったくらいだ。
もし私が呑める体質なら先輩と一緒にお酒――というのも悪くはないだろう。まだ一度も呑んだことないので分からないけど、お父さんもお母さんもお酒は呑まないので、恐らく私もそこまで強くないのだろうな。
「ほらいろは先輩。義姉妹の共同作業をしましょうよ」
「なんだかおかしくないですか、その表現」
「そんなことないと思いますよ? いつもお兄ちゃんが全部やっちゃって、こうしていろは先輩と一緒に何かをするってことがなかったですから、ちょっと楽しみです」
「そんな頻繁にヒッキーの部屋にお泊りしてるの?」
「それほど多くないと思いますけど、いろは先輩と一緒にいる時って、だいたいお兄ちゃんも一緒にいますから。その時の給仕はだいたいお兄ちゃんです」
「まぁ、先輩の部屋ですからね」
半分くらい私の部屋みたいな感じにもなっているけど、あの部屋は間違いなく先輩の部屋だ。その主がその部屋のことを一番理解しているのだから仕方がないのだが、お茶の準備とか食事の準備とか、私がやらなきゃと思った時にはすでに先輩が用意し終わっているのだ。
彼氏彼女としてそれでいいのかと友達に聞かれたこともあるけど、私たちの場合はそれが自然であり、別に居心地が悪いわけでもない。まぁ、ちょっとばかし彼女として複雑ではあるけども。
「いいなー。今度は私もヒッキーの部屋にお泊りしたいなー。いろはちゃんや小町ちゃんと一緒におしゃべりしながら、ヒッキーにご飯作ってもらって」
「いろは先輩の部屋でもいいと思いますよ? お兄ちゃんの部屋だとちょっと複雑になっちゃいますけど、いろは先輩の部屋なら、お兄ちゃんの部屋でご飯を食べて、いろは先輩の部屋でお泊りという形が取れますから」
「まぁ、彼氏の部屋に別の女性が泊るというのは、確かに複雑ですね。小町さんは身内ですから我慢できますけど」
結衣先輩は先輩の身内ではない。ある意味では身内みたいなものだけども、血縁ではない。だから万が一があるかもしれないと思うと、私の心中は穏やかではないだろう。もちろん、先輩がそう言った過ちを犯すとは思っていないけども。だって、私にも何もしてこないんだから……
「まぁ、結衣先輩ならありえるのかもしれませんけど」
「何がですか?」
「な、何でもないですっ!」
心の中でつぶやいたつもりだったのだが、まさか声に出していたとは……小町さんに顔を覗き込まれて私は慌てて調理に集中するふりをする。包丁さえ持ってしまえば、小町さんもちょっかいを出してくることはないだろう。
「さぁ、何を作りましょう」
「いろは先輩はお味噌汁をお願いします。小町は卵焼きと軽いサラダを作りますから」
「分かりました」
これくらいなら結衣先輩でも作れたんじゃないかという気持ちと、これだけでも結衣先輩なら失敗するんだろうなという気持ちが両方湧き出てくる。それくらい結衣先輩の家事スキルは壊滅的なのだ。
小町さんからの追及を避けるためだったとはいえ、任された以上はちゃんとしたお味噌汁を作りたい。なので調理中は一切会話することなく、私たちは朝食を作り終えたのだった。
特にすることもなかったので、三人で外出することに。具体的にどこに行くというのは決めていないので、気の向くままお散歩をしているといった感じだ。
「あれ? 彩ちゃんと厨二さん?」
「珍しい組み合わせですね」
あそこに先輩がいれば不思議ではないのだけども、二人きりというのは珍しい気がする。高校時代も先輩を介して交流はあったようだけども、どうしてもあの二人が一緒にいるのを見るのは違和感をぬぐい切れない。
「あとでお兄ちゃんも合流するんでしょうか?」
「聞いてみようか」
二人と交流があってこういうことに物怖じしない結衣先輩が二人に声をかける。私と小町さんは顔を見合わせ苦笑いを浮かべてから、結衣先輩の後に続く。
「彩ちゃんやっはろー。厨二さんも」
「由比ヶ浜さん、やっはろー」
「こ、こんにちは」
女子態勢が低いのか、材木座先輩は相変わらず挙動不審だ。戸塚先輩の方は結衣先輩の意味の分からない挨拶を可愛らしい笑顔を浮かべながら返している。これで男だというのだから、何とも言えない気持ちになるんですよね。
「戸塚さん、お久しぶりです」
「小町ちゃん、久しぶり。遅くなったけども、大学合格おめでとう」
「ありがとうございまーす」
「それで、彩ちゃんと厨二さんは何してるの?」
「八幡を誘ってお昼でもって思ってね。せっかく八幡も休みだし、たまには男だけでって思ってたんだけども、三人も一緒にどう?」
「お兄ちゃんに確認しなくていいんですか?」
先輩のことだから私たちが居たら帰るとか言い出しそうだと思っていたら、私の考えを見透かしたかのように小町さんが戸塚先輩に質問する。
「三人だったら問題ないんじゃないかな? 八幡にとって三人とも身内みたいなものだし」
「うむ、そうだな」
空気だった材木座先輩も戸塚先輩の考えに同意したので、私たちも参加させてもらうことに。もちろん、私たちがいることは先輩には内緒なままで。
「――で、どうしてお前たちがいるんだ」
「偶然彩ちゃんたちに会って、一緒にどうって誘われたんだー」
「そうそう、たまにはお兄ちゃんの交友関係でも確認しておかないと」
「先輩、交友関係狭いですもんね」
「酷い謂われ様だな……」
実際先輩は交友関係は狭い。必要最低限と言えば多少は聞こえが良いかもしれないが、要するに人付き合いが苦手なのだろう。まぁ、そんなことはこの人の高校時代を知っていれば誰でも分かることだが。
「そういうわけで、支払いはお願いね、お兄ちゃん」
「は?」
「先輩、ご馳走様でーす」
「おい」
妹である小町さんに便乗して、私も先輩に奢ってもらう流れにしておこう。決して小町さんに負けたとか、そう言った理由で奢ってもらいたいわけではない。
「あはは……八幡、なんだかゴメンね?」
「いや、戸塚が悪いわけじゃないだろ……」
自分が誘ったせいで先輩の財布にダメージを与えたということで、戸塚先輩が謝っているのを見たけど、相変わらずこの二人は仲が良すぎる……同性だって分かってるんだけども、モヤモヤしてしまうのは仕方がないだろう。だって戸塚先輩だし……
八幡の財布にダメージが……
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八幡の現状
思いがけない形で先輩と会えたのが嬉しくて、私は食事中ずっと先輩のことを見つめて入る――なんてことはなく、先輩の正面は小町さんが、先輩の隣は戸塚先輩が座ってしまったため、私は小町さんの隣に腰を下ろしている。
「休日に外に出かけるようになったなんて、小町はお兄ちゃんの成長に感動しているよ」
「お前はいつの話をしてるんだよ……」
「だって、高校時代のお兄ちゃんは、休日は家でゲームしてるかアニメ見てるか、それか本読んでるかのどれかだったでしょ?」
「甘いな。本を買いに出かけていたこともあるぞ」
「そんなことで威張らないでよ」
兄妹の会話に割って入れるほど、私と先輩の付き合いは長くはない。というか、小町さんも私が先輩の彼女だって分かってるんだから、少しは私に先輩を譲ってくれても良いんじゃないだろうか。
「八幡、三年になってからは僕の練習に付き合ってくれてたりもしてたから、割と休日も学校に来てたよね」
「まぁ、戸塚に頼まれたからな」
「そのついでに私の手伝いもしてもらってましたね」
「そういえばお兄ちゃん、一時期帰りが遅かったもんね。奉仕部じゃなかったんだ」
「お前は知ってただろうが。名ばかりとはいえ奉仕部員だったんだから」
小町さんが入部した時にはすでに、奉仕部は空中分解している状態だったらしい。まぁ、雪乃先輩が告白して先輩がそれを断った後も未練たらしくあの部室に集まっていたのだから、居心地が悪くても不思議ではない。
小町さんもその時のことを思いだしたのか、苦笑いを浮かべながら結衣先輩に視線を向けている。当事者の一人でもある結衣先輩も、困ったような顔をしている。
「だが八幡よ。我が誘っても全く付き合ってくれなかったではないか」
「お前のくだらない文章を読むために出かけるなんてありえねぇからな」
「はふん」
「相変わらず材木座君の扱いは酷いよね」
「こいつはこれでいいんだよ」
戸塚先輩も同情している風を装っているけど、本気で先輩に態度を改めさせるつもりはなさそう。だってそれ以上先輩に何かを言うこともないし、材木座先輩を気遣う様子もないから。
材木座先輩も材木座先輩で、戸塚先輩に必要以上に同情されないことを気にしている様子もないし、さっきから居心地が悪そうにそわそわしている。
「材木座、トイレでも我慢してるの?」
「違うわ! あまり付き合いのない女子と一緒なのが落ち着かないのだ」
「由比ヶ浜は同級生だし、一色とはそれなりに面識があるだろ。後小町とも」
「面識があっても付き合いはそれほどないからな」
この中で材木座先輩ともっとも付き合いがあるのは先輩で、その次は恐らく戸塚先輩だろう。二人とも同じ大学ということもあり、同性であるということが大きいだろう。
そもそも材木座先輩は異性との付き合いが苦手だということを先輩から聞いたことが――もっと言えば他人との付き合いが苦手とも言っていた――あるし、この状況は彼にとっては好ましくないのかもしれない。まぁ、だからと言って「帰って」と言えるほど薄情でもないですけど。元々は男三人でのお出かけだったはずですから。
「てか八幡よ」
「なんだよ」
「お主、本当に一色嬢と付き合っていたのだな」
「今更だな」
「いや、噂では聞いていたが、八幡本人から聞いたことがなかったからな」
「いや、そんなの報告する必要もないだろ」
先輩が誰かに言いふらすような性格ではないと、この場にいる全員が分かっているから良いですけど、私としたら少しくらいは自慢してほしいと思う気持ちがないわけではない。そりゃ、結衣先輩のように裏表なく可愛らしい彼女ではないかもしれないけど。
「でも八幡狙いの女性は減ってないよね」
「戸塚に全部移行するかとも思ってたんだがな」
「それは八幡が彼女いるオーラを出さないからであろう? 付き合っている相手がいると分かれば、少しくらいは減るのではないか?」
「お兄ちゃん、そんなに人気なんだ」
小町さんが意外そうに先輩の顔を見つめる。ここにいる女子三人だけで考えても、先輩が一番だと思っているのは二人いるのだから、それなりに人気が高いと分かりそうなものなのに……
先輩は先輩で、小町さんから人気者だと思われて嬉しいのか、いつもの嫌味節ではなく少し恥ずかしそうな声で否定している。
「(先輩も、小町さん相手だとあんなふうになるんだもんなぁ……私相手じゃあそこまで素をさらけ出してくれてない)」
小町さん相手に張り合うのが間違っているのかもしれないけども、今の私は先輩の彼女。先輩の中の異性で一番でありたいと思ってしまうのは仕方がないことだろう。
「(私は誰に言い訳してるんだろうか)」
自分自身にツッコミを入れて、私は先輩と小町さんの会話に割って入ることを決めた。このままではいつも通り空気で終わってしまう気がしたから。
「先輩、今度私が先輩の大学に遊びに行きましょうか?」
「はぁ? なんでそんなことを――」
「こんなに可愛らしい彼女がいるんだってところを見せつければ、先輩に言い寄ってくる相手も減るんじゃないですかね」
「だったら私も行こうかな。お兄ちゃんがどんなキャンパスライフを送ってるのか気になるし」
確かに先輩がどんなキャンパスライフを送ってるのか知らない。先輩が私の大学に来たことはあるけども、私が先輩の大学に行ったことはなかった。今更ながら、私って先輩のことをあまり知らないんだな……
「私もヒッキーのキャンパスライフ、気になるな」
「由比ヶ浜まで何を言い出すんだよ……法学部なんて基本的にボッチに決まってるだろ」
「それは八幡が人付き合いが苦手だからでしょ? 法学部にだって友達がいる人は沢山いるって」
「友達付き合いに夢中で勉強が疎かになってるだけだろ」
「まぁ、現段階で八幡が一番現役合格に近いって言われてるくらいだからな。高校時代の八幡を知る身としては、驚愕でしかない」
「ほっとけ」
どうやら先輩はエリート大学の法学部の中でもエリートのようで、現役合格が期待されているほどらしい。ほんと、隣で生活してるのに、彼女なのに先輩のことあんまり知らないんだな……
「お兄ちゃんが弁護士になったら、お父さんたちの会社が訴えられそうだね」
「そういうのは労働基準監督署の管轄だろうが。残業に休日出勤が当たり前の会社なんだから」
「そうなの? そういえば八幡のご両親って見たことなかったかも」
「見る必要ないだろ。息子の俺だってここ最近親父殿とお袋殿を見た記憶なんてないんだから」
「それはお兄ちゃんが帰ってこないからでしょ」
「二人から帰ってくるなって言われてるんだから仕方ないだろ。むしろ両親の言いつけをしっかりと守る良い息子であると言える」
それは小町さんの受験期間の話だったのではないかとも思いましたが、小町さんが苦い顔をしているのを見るに、今も帰ってこなくていいと言われているようだ。相変わらず先輩の扱いが雑なご両親ですね。
「先輩、そろそろ私のことをご両親に紹介してくださいよ」
「結婚するわけじゃないんだから、わざわざ両親に紹介する意味が分からん。むしろ結婚の時だって紹介しなくても別にいいんじゃないか?」
「それって、お兄ちゃんといろは先輩が結婚前提って感じに聞こえるよ」
「っ!」
小町さんのからかいに私は顔を真っ赤にしたけど、先輩は素面で小町さんを撃退している。私ばっかり意識してるようで恥ずかしいけども、それだけ「結婚」というワードは女性にとって大きな意味を持っているのだろう。
「ねぇねぇヒッキー」
「なんだ?」
「ママがヒッキーに会いたがってたんだけど、ゴールデンウィークに一緒に千葉に来てくれないかな?」
「………」
「先輩?」
何か嫌なことを思いだしたのか、先輩は急に黙ってしまった。別に結衣先輩のお母さんが苦手とかそういうわけではないんだろうけども、いったいどうしたというのだろうか。
「そういえばお兄ちゃん、ゴールデンウィークに帰ってこいって言われてなかったっけ?」
「そうなんですか?」
「……いい加減、彼女を見せろとお袋殿に言われていたのを忘れてた」
「それって……」
つまり、私も必然的にゴールデンウィークに比企谷家に行くということだろう。だって先輩の彼女は私なのだから。
ゴールデンウィークは社畜してました……
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八幡の憂鬱
何も予定がなかったゴールデンウィークだったのだが、急に私の中で最も重要な要件が舞い込んできた。そりゃいつかはご挨拶を――とは思っていたが、こんな不意打ちみたいにその機会が訪れるなんて思っていなかったから。
「その日はいろは先輩は小町の部屋にお泊りですね」
「なんで泊まるの前提なんだよ……顔合わせだけして帰るっての」
「だってお父さんたち、ゴールデンウィークも仕事だよ? 帰ってくるのはだいぶ遅いだろうし」
「相変わらずの社畜っぷりですね……人を呼びつけておいて自分たちは仕事ですか、そうですか……」
先輩はどこか諦めた様子ですが、私はそう簡単にそのことを消化できない。ご両親にご挨拶ってだけでも緊張感が半端ないのに、まさかのお泊りまでとは……先輩個人の部屋にはしょっちゅう泊まってますけど、これとそれとでは全然話が違うのです。
「それじゃあ、午前中は私のウチにおいでよ。ママも会いたがってたしちょうどいいでしょ?」
「由比ヶ浜のお父さんも仕事なのか?」
「パパ? 確か会社の人とゴルフとか言ってたような気がするし」
「あぁ、そちらはそちらで大変なんですね……これだから社畜は……」
「八幡、さっきから疲れ切ったサラリーマンみたいな雰囲気になってるよ?」
先輩の捻くれた感想に、戸塚先輩が背中をさする。別に嫉妬する行為ではないのだけども、あまりにも自然にボディタッチをするもので一瞬戸塚先輩の性別を忘れてしまった。
「(先輩と戸塚先輩は同性、先輩と戸塚先輩は同性……)」
自分の中で何度か繰り返して漸く落ち着きを取り戻せた。途中海老名先輩の顔が思い浮かんだ時は危なかったけども、この二人はそういう感じではないのでこれ以上そのことで頭を悩ませないでおこう。
「八幡も十分社畜になりそうな要素は持ち合わせているではないか」
「うるさいよ」
「確かに。憎まれ口を叩きながらも付き合ってくれるもんね、八幡は」
「戸塚に頼まれたなら憎まれ口なんて叩かずに付き合うけどな」
「もう、八幡ったら」
「………」
落ち着きを取り戻せたと思ったらこれだ。この二人はあまりにも自然にこういう感じを作り出すから困る。同性だからと油断していると、そのうち本当に海老名先輩歓喜な状況になるんじゃないかと思わせてくるから……
「それじゃあゴールデンウィークは三人で千葉に帰るんだね」
「戸塚は?」
「僕はサークルの活動があるから。それに、この間帰ったばっかりだしね」
「そういえば春休みに帰ってたな」
「たまには顔出しておかないと」
「我もサークルの集まりが――」
「あぁ、聞いてないんで」
「はふんっ!?」
材木座先輩の発言を無視して、先輩は本当に嫌そうな顔で予定帳と睨めっこしている。実家に帰るだけなのになんであんなに嫌がるんだろう。
「先輩ってご両親と仲が悪いわけじゃないですよね?」
「ん? 別に仲が悪いってわけじゃないと思うが……何故そんなことを?」
「本当に嫌そうな顔をしてたので、どうしてかなーって思っただけです」
「普段無関心なのに、彼女のことになって干渉してきたからだよね」
「人の気持ちを代弁するなよ」
小町さんにズバリ言い当てられ、先輩はどこか不貞腐れた様子。私の方は小町さんの言葉に納得したのと同時に、彼女と言われて少し恥ずかしい気持ちになる。付き合ってもう三ヶ月くらいだというのにこの初々しさ……自分でもどうにかならないかと思ってしまうほどだ。
「小町はご馳走を作って待ってるから。ちゃんと帰ってくるんだよ、お兄ちゃん」
「はぁ、今から憂鬱だ……」
「いつかは通る道なんだから、うだうだ文句言わないの」
「分かってるけどよ」
残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干し、先輩はもう一度ため息を吐く。先輩にこれだけ嫌がられるご両親って、いったいどういう人なんでしょうか。
結衣先輩の部屋にお泊りして、そのままの流れで先輩たちとお茶をして数日が経った日。今日は午前中に結衣先輩の実家に遊びに行き、午後から先輩の実家に挨拶に行く日だ。挨拶と言っても、ご両親はお仕事らしく帰ってくるのは夜遅くらしい。つまり、先輩の実家にお泊りということだ。
さすがに先輩の部屋ではなく小町さんの部屋に泊まるので、そのことをご両親に咎められるとかはないだろうし、先輩も私も成人しているので普段からお泊りしていることがバレても問題はないだろう。
「(まぁ、私が成人したのはつい最近ですけど)」
別にそういう行為をしているわけでもない、健全なお泊りなのでバレたとしても怒られる筋合いもない。というか、これだけお泊りしているというのに何もしてこない先輩を叱ってほしいまである。
「――って、私は何を考えているんだか」
思わず自分自身にツッコミを入れてしまったが、先輩は私に手を出してくるどころか一緒のベッドで寝たことすらないのだ。理性の化け物とはよく言ったものだと感心するのと同時に、もう少しくらい私に興味を持ってくれても良いんじゃないかと思ったりもする。
そんなことを考えていながらも、実際に手を出されたら冷静でいられるかどうか分からない。万が一先輩に恐怖心を抱いてしまったら、せっかく先輩が選んでくれたのに離れて行ってしまうかもしれない。それが怖くてこちらから誘えないというのも、現状の一端ではあるだろう。
『いろは、準備できたか?』
「あっ、大丈夫です」
外から声を掛けられ、私は慌ててドアを開けて先輩を招き入れる。私が先輩の部屋に行くのは結構あるけど、先輩が私の部屋に入ることはあまり多くない。なので未だに招き入れる時に緊張してしまう。
「準備って言っても、この間結衣先輩の部屋にお泊りに行った時と用意するものは変わらな――はっ! 手土産とかどうすればいいんでしょうか? 手ぶらで訪問とかありえないですよね?」
「渡す相手が夜まで居ないんだから、千葉でテキトーに買えばいいだろ」
「そんなもので良いんですか? 気の利かない彼女だとか思われて息子に不釣り合いだとか思われたら――」
「気の利かない息子代表みたいな俺だから心配ないだろ。むしろ気が利きすぎてその配慮が感じ取られていないまであるからな」
「なんですか、それ」
思わず笑ってしまったけども、これが先輩なりの気の遣い方なのだろうと分かり、私は冷静さを取り戻せた。相変わらず分かりにくいけど、この人はちゃんと人を気遣える人なのだ。
「そろそろ由比ヶ浜が駅に到着するころだから、俺たちも出ておかないとな」
「結衣先輩とお母さんって、本当に仲が良いですよね。何回か会いましたけど、お母さんっていうかお姉さんみたいな感じでしたし」
「若いんだよな……見た目だけじゃなくて言動とかも」
「本当に年上の娘がいる人なのかって、一瞬疑いましたもん」
可愛らしいとか、そういう感想ではなく、もしかしたら先輩を盗られるんじゃないかとすら思える相手だった。もちろん、相手は既婚者子持ちなのでそんなことはあり得ないんだろうけども、あの人が本気で先輩と結衣先輩の恋路の手伝いをしていたら太刀打ちできたかどうか……
「由比ヶ浜母もだが、雪ノ下母もなかなか大変だったからな」
「その節はお世話になりました」
雪乃先輩のお母さんとは、プロムの件でいろいろあった。まぁ、私が直接対峙する前に先輩がまたしても斜め下の解決策と、先輩しか使えない技で雪乃先輩のお母さんを納得させ、他の反対派を丸め込んでくれたので、私は面識がないのだが。噂では物凄い切れ者な印象を与える和服美人だとかなんとか。
「どうやら総武高校の卒業の定番になったようだしな」
「私が卒業した後はどうなるかと思いましたが、小町さんもやったらしいですし、このまま定番化するかもしれないですね」
「一度やっちまえば、後は惰性で続くだろうしな」
「惰性はやめましょうよ。せめて恒例化するって言ってください」
「あんまり変わらないだろ」
「そうですかね? まぁ、プロムのことは兎に角、先輩にはいろいろとお世話になってたんですよね。改めてありがとうございました」
「今更だな。まぁ、お礼は受け取っておくからさっさと出かけるか」
「ですね。手土産は千葉で考えますので」
先輩に荷物を持ってもらいながら、私は自分の部屋の鍵をかけ、先輩の一歩後ろを歩く。本当なら隣を歩きたいんだけども、先輩の歩幅に合わせるのはなかなか大変なので、一歩後ろがちょうどいいのだ。
イベントとかサボってたからな……
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年長者の考え
駅で結衣先輩と合流して、私たちは千葉行きの電車に乗る。ゴールデンウィークということで混んでいるかなとも思っていたけど、意外なことに車内は空いており、三人並んで座ることができた。ちなみに、先輩は私と結衣先輩に挟まれて座っている。
本音を言えば先輩の位置に私が座って、少しでも先輩と結衣先輩の距離を保ちたかったのだが、あまりにも自然に結衣先輩が先輩の隣に腰を下ろしたので対応できなかったのだ。
「こうしてヒッキーと電車でお出かけって久しぶりだね」
「そうか? まぁ、あまり出かけることもなかったしな」
「そもそもヒッキーがいろはちゃんと付き合いだしてからは、私も遠慮して誘ってなかったからね」
「じゃあどうして今日は誘ってきたんですかね? どうせ親が遅くまでいないのなら、午前中は家でのんびりしていたかったんですけど」
「しょうがないでしょ。ママが会いたがってるんだから」
とても同級生の会話とは思えないが、この二人は昔からこんな感じなので良いのだろう。私が入り込める隙もなく二人で会話をしていくのは、今に始まったことではないとはいえ、彼女として複雑な思いがある。
そりゃ結衣先輩が先輩のことを好きだったことも知っていますし、一緒に告白したわけですからある程度の理解もあるつもりです。でも私が入り込めない世界を作って先輩と話しているのを見るのは、おもしろくありません。
「先輩がお出かけしなかったら、私は先輩の部屋にいたでしょうね」
「聞いてた? 俺はのんびりしたかったんだけど」
「ですから『彼女』の私とのんびりしてたってことですよ」
「いや、いいけどね……いろはが勝手に部屋に入ってくるのはいつものことだから」
「いろはちゃん、ヒッキーの部屋に勝手に入るの?」
「そりゃ、先輩の部屋の合鍵を持ってますから」
元々は先輩の方が先に出かけなければいけなかった時に預かっただけなのだが、屁理屈をこねて持ち続けた結果、そのまま私のものということになったのだ。先輩はイマイチ納得していない様子だけども、彼女としてこの鍵を手放すなんて選択肢は存在しないのです。
私が先輩の部屋の合鍵を持っていると知って、結衣先輩は少し羨ましそうな表情をしている。さっきあえて彼女を強調した時はそんな反応しなかったのに、やっぱり言葉よりも目に見える物の方が効果が大きいのだろうか。
「ウチに来た後ヒッキーの実家に行くんだよね? 今度みんなでお泊りしようよ」
「みんなって誰です?」
「ヒッキーと彩ちゃん、いろはちゃんと私、後は小町ちゃんとかかおりんとかも呼んでさ」
「メンツは兎も角、何処でお泊りするつもりなんですかね? そんなに広い部屋に住んでる奴はいないだろ」
「え? どこか旅館でも良いんじゃない?」
「めんどい」
この男が遠出のお誘いを受けるわけがないのに、結衣先輩はそのことを失念していた様子。まぁ、戸塚先輩と小町さんが結衣先輩側に着けばこの人はなし崩しに付き合ってくれるでしょうけども。
「でもそのメンバーだと男女比がおかしくないですか?」
「ちょっと待って。出かける前提で話を続けてるけど、俺はいかないからね?」
「先輩はちょっと黙っててください」
先輩を黙らせて、私は結衣先輩に視線を固定する。私が相手をするつもりがないと分かった先輩は黙って正面を見つめている。
「先輩と戸塚先輩と交流がある私たちは良いですけど、何も知らない人が見たら先輩がハーレム野郎に見えませんかね?」
「あっ……彩ちゃん、可愛いもんね」
成人男性を捕まえて酷い言い草だと私も思っている。だが戸塚先輩の容姿は高校時代よりもなんというか妖艶さが増しているのだ――男性なのに。それでいて可愛らしさも失っていないとか、女子としてなんとも羨ましい限りなのだが、戸塚先輩本人はそのことを自覚していない。むしろ男扱いされないことをより嘆いているくらいなのだが。
ただでさえ男二人に女四人の構図なのに、戸塚先輩が女性に間違えられたらと考えると、先輩がとんでもない変態だと思われてしまうかもしれない。実際は隣に手を出しても抵抗しない彼女がいても一切手を出さないヘタレなのだけども。まぁ、手を出されたら出されたで、私がどんな反応をするか私ですら分からないので、今の状況は私的にもありがたいのですが。
「そうなると別の人も誘った方が良いのかな? 例えば厨二さんとか」
「あの人がお泊りに誘って来てくれますかね?」
「じゃあ玉縄くん?」
「あぁ、そんな人いましたね……最近会ってなかったからすっかり忘れてました」
そもそも興味がない相手だったのでろくに覚えていなかったのだが、先輩の部屋でそれなりに会っていたから名前は憶えている。顔は既におぼろげにしか思い出せないけど。
「まぁ、そのことは本格的に考える時に決めましょうよ」
「そうだね。楽しみだね、ヒッキー」
「いや、だからね? 俺はいかないって――」
「ダメ?」
「うっ……」
涙目と上目遣いのコンボで結衣先輩に懇願され、先輩は言葉を失っている。確かにあの表情で見られたら断りづらいのは分かりますけど、隣に彼女がいるのに他の女に魅了されているようで面白くありません。私は結衣先輩に見えない角度で先輩の脇腹を抓り、無言で抗議を続けるのでした。
千葉に到着してすぐ、私は見覚えのあるお姉さん――ではなく結衣先輩のお母さんを見つける。ほんと、一児の母とは思えないほど若々しく、同年代の母親と言われても信じがたい女性だ。
「結衣、おかえりー」
「ママ、ただいま」
「ヒッキー君といろはちゃんもお久しぶりね」
「お久しぶりです」
先輩の会釈に続くように私も会釈だけしておく。この母娘が揃うとなんだか委縮してしまうのです。別に何かされるわけじゃないのに、何故だか上手く話せなくなってしまう。この感覚は雪乃先輩と対峙していた時とちょっと似ていますが、それとは種類が違う緊張なんだろうな。
「結衣から聞いてるけど、ヒッキー君といろはちゃんはお付き合いしてるんでしょ? どこまで行ってるの?」
「ママっ!」
「きゃー!」
なんだろう、この友達にからかわれているような感覚は……あの人は高校の先輩の母親だというのに……
「とりあえずウチに行きましょうか。ヒッキー君もいろはちゃんもそれでいいわよね?」
「はい、構いません」
「それじゃあ結衣、そろそろ追いかけっこはおしまい」
「ママが変なこと言うからでしょ」
「だってー」
「(この人は結衣先輩のお母さん、この人は結衣先輩のお母さん……)」
さっきから心の中で念仏のように同じ言葉を繰り返している。そうでもしないとこの人が結衣先輩のお母さんだということを忘れてしまいそうだから。
「それにしてもヒッキー君がいろはちゃんとお付き合いするなんてねー」
「変ですかね?」
「ううん、あまり他人に興味がない子だと思ってたけど、ちゃんと周りのことを見ていて、ちゃんと相手の気持ちを考えられる子だったんだって思ってね。ママちょっと嬉しいの」
「そういうもんですか?」
「ヒッキー君もいつか親になれば分かるわよ」
てっきり結衣先輩とお母さんがおしゃべりしながら家までの道を行くんだと思っていたのだが、意外なことに先輩とお母さんが話している。しかも先ほどのようなノリではなく、真面目な雰囲気で。
「結衣から聞いていた限りでは、成功のためには自分を犠牲にしても厭わない子だと思ってたからね、実際に話した時にそれは勘違いだって分かったし、その後も何回か会ってヒッキー君の為人は知れていたと思ってたから。だからこそ、いろはちゃんではなくゆきのんちゃんとお付き合いすると思ってたの」
「何故俺と雪ノ下が付き合うと?」
「あの子は誰かが支ええてあげないとすぐに折れちゃうような儚さがある子だからね。ヒッキー君が支えてあげるのが一番だと傍から見てて思ってたのよ。まぁ、ヒッキー君はそれを共依存の延長だって思ったみたいだけど」
「……実際そうでしかないでしょ。俺と雪ノ下は友達ですらなかったんですから」
「言い方なんてどうでもいいのよ。貴方とゆきのんちゃんは間違いなく他人ではなかった。それを貴方たちがどういう風に表現するのかは自由だけどね」
先ほどから私と結衣先輩は口を挿む隙が見つけられずにいる。さっきまで娘と同レベルではしゃいでいた人とは思えないくらい真面目な雰囲気と、先輩が私たちに会話に加わってほしくないオーラを出しているから。
結局結衣先輩の実家に到着するまで、私と結衣先輩は一言も発することなくただただ家までの道を歩いたのだった。
八幡もちゃんと考えてるはず
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看過できない冗談
駅から結衣先輩の実家までの間は、先輩とお母さんが話しているのを見ていることしかできなかった。無理矢理割って入ることもできたのだが、二人の雰囲気がそんなおふざけを許してくれない感じがしたので、結衣先輩と二人で大人しくしていたのである。
結衣先輩の実家に到着してすぐ、お母さんはいつも通りの雰囲気に戻ってお茶の用意をしてくると言い残しリビングへと向かい、私たちは結衣先輩の部屋に案内された。
「なんでリビングではなく由比ヶ浜の部屋に?」
「ママの気分だから私には分からないよ。まぁ、ここでも十分お喋りはできるから良いんじゃない?」
「彼女としては、自分の彼氏が別の女の部屋にいるのはいただけないんですけどね」
「いろはちゃんも一緒にいるんだから気にしなくてもいいじゃん。それに、この後にはママも合流するんだし」
それが一番安心できない。あのお母さんは真面目な雰囲気の時はいいが、いつも通りの雰囲気の時はとても子持ちには思えない。それでいて女性としての色香が私たちとは比べ物にならないくらいあるのだ。理性の化け物と呼ばれている先輩でも、あの人の誘いには乗ってしまうかもしれない。相手が人妻だということを忘れなければ。
もちろんお母さんがそんな目的で先輩を見ているわけもないし、先輩が結衣先輩を悲しませることをまたするとは思えない。だからこれは私の気にしすぎでしかない。
お母さんが四人分のお茶とお菓子を運んできたのを見て、先輩が受け取り私たちの前に置いていく。普通結衣先輩が手伝うんじゃないかとも思ったけども、先輩があまりにも自然にお手伝いしたので、私も一瞬それが普通だと思ってしまった。
「ヒッキー君は本当に優しいわね」
「これくらいは普通だと思いますけど?」
「自分の家なら普通かもしれないけど、ヒッキー君はここの家の子じゃないでしょ?」
「そんなものですか?」
お母さんのニュアンスに結衣先輩を責める感じはなかったのだが、言われて漸く結衣先輩は自分が手伝うべきだったということに気づいたようだ。
「ゴメンねヒッキー。本当なら私がやらなきゃいけないのに」
「気にするな。こういうのは慣れてる人間がやるのが一番早い」
本気で落ち込んでしまった結衣先輩を慰める先輩。別に頭を撫でているわけではないのに、その光景は落ち込んだ子犬を撫でている飼い主のようだ――結衣先輩には悪いけど、この表現が私の中ではしっくりくるのだ。
「まぁ結衣はこういうこと苦手だしね」
「配膳くらい出来るし!」
「あんまり威張れることじゃないと思いますけど?」
一切動こうとしなかった私が言えた義理ではないかもしれないけど一応ツッコミを入れておく。言われるまでもなく分かっていたようで、結衣先輩は無言でお茶を飲んでごまかしている。
「結衣の家事の腕は置いておくにしても、ヒッキー君は本当にいい子よね。どうやったらヒッキー君みたいな子に育つのかしら」
「いや、俺みたいな子を育てるのは止めた方がいいと思いますよ」
「ですよね。こんなひねくれた子が育っちゃったらご両親は大変でしょうし」
私としては、小さい先輩みたいな子供ができたら嬉しいけども、この性格の子を育てるのは大変そうだと思う。それとも、先輩との子供なら、どんな性格でも可愛いと思えるのだろうか。
「そもそもウチの両親は俺に対して無関心ですしね。小町優先で、俺のことは行きすぎない限り放置ですから」
「そういえばヒッキーのご両親って、あんまりヒッキーの行動に口を挿んでこなかったよね。普通なら何かしら言われそうなことをしてたのに」
「失礼な。呼び出されるようなことは何もしてないぞ」
呼び出されてもおかしくないことをしていたことは自覚しているが、実際呼び出しがなかったので先輩はそう言い切る。いろいろと問題はあったが、それは先輩個人で解決――解消しているのでご両親に飛び火することはなかったし、たとえ呼び出されたとしても来なかっただろうと、先輩は言外に告げているのだ。
「そうかしら? ヒッキー君のご両親はヒッキー君のことを信じているから、ある程度自由にしてくれてたんだと思うわよ。本当に信頼してなかったら、ヒッキー君のような性格の子を放置なんてできないもの」
「ママ、それって褒めてるの?」
「当然よ。結衣みたいに手のかかる子を放置していたら大変でしょ?」
「ママっ!」
突如始まった追いかけっこを、先輩は気にする様子もなくお茶を飲んでいる。私はまだこの光景に慣れていないので驚いてしまうのだけども、それなりに付き合いがある先輩からしてみたら、驚くほどではないようだ。
「そろそろ失礼しますね」
「えっー、もうちょっと良いんじゃない?」
「すみません。この後いろはが両親に対する手土産を決める時間を考えると、あまりのんびりしていられませんので」
「………」
すっかり忘れてたー。この後先輩の家に行って先輩のご両親に挨拶するのだ。そのための手土産を買いに行かなければいけなかったのに、この母娘のやり取りに意識を持っていかれ過ぎていた。
「そっか。また遊びに来てね」
「機会がありましたら」
「機会なんて作ればいいのよ。何なら、結衣と結婚するって挨拶でもいいわよ?」
「っ!」
「ママっ!」
「冗談よ。結衣もいろはちゃんもゴメンね」
チロっと舌を出して謝ってくるお母さんに、結衣先輩だけでなく私も無言で圧力をかけておく。今の冗談は看過できるものではなかったから。
「いろは、行くぞ」
「あっ、はい」
先輩に腕を掴まれるまで睨みつけていたようで、私は慌てて時計を確認する。どうやら十秒以上睨んでいたようだ。
「またね、ヒッキー」
「あぁ、またな」
それだけで別れの挨拶は終了。私は先輩に腕を掴まれたまま、結衣先輩の実家を後にしたのだった。
手土産を選ぶためにお店にやってきたのだが、私は心ここにあらずだ。原因は分かっている。さっきの結衣先輩のお母さんの冗談の所為だ。
この後先輩のご両親に挨拶に行く彼女がいるというのに、あの人は自分の娘と先輩が結婚するという冗談をかましてきたのだ。
「(あの人は先輩のことを息子のように思っているようだけども、先輩が義理の息子になる可能性はほとんどないんですからね)」
私が先輩のご両親の義理の娘になる可能性はあるけども、先輩が由比ヶ浜家と義理の家族になる可能性は、今のところ低い。実際先輩は結衣先輩からの告白を断っているので、安心してもいいはず。それなのに心がモヤモヤするのは、それだけ結衣先輩が強敵だということに変わりがないからだろうな。
「――は、いろは!」
「……? 先輩、何か言いました?」
「やっと反応したよ……そんなに何を買うかで悩んでるのか?」
「買う? ……っ!」
先輩に言われて漸く、私は結衣先輩のことで頭を悩ませている場合ではなかったことを思いだした。これからご両親に会うというのに、どうしてそのことを忘れていたんだろう。
「先輩のご両親って何が好きなんですか?」
「小町、仕事」
「いや、そういうんじゃなくって」
「別に気にしなくてもいいだろ。こういうのは気持ちなんだから」
「でも、下手なものを手土産にして、息子の彼女にふさわしくないって思われたら――」
「むしろ何を持って行っても息子にはもったいないとか思うだろうから気にしなくてもいいと思うぞ。それだけあの人たちの中の俺は、ダメ息子だからな」
今やエリート大学の法学部に通い、同学年の中でトップではないかと言われるくらいの先輩でも、ご両親の中では興味の対象にはならないようで、先輩は半分自虐、半分慰めのような感じでそう言い切った。
「どれだけご両親に興味を持たれていないんですか、先輩は」
「言っただろ。小町一番、仕事二番の人たちだからな。小町の受験勉強の邪魔になるから帰ってくるなと言い切るような人たちだぞ。俺の事なんて忘れてるんじゃないかとすら思ってたが、いろはのことは興味があるようだな」
「小町さんが面白おかしく話したからじゃないですかね」
「かもな」
先輩の彼女ってだけならここまで興味を持たれなかったかもしれない。が、先輩が言うように小町さんファーストな親なら、彼女がそこまで興味を持つ相手を見てみたいと思うかもしれない。私はこの場にいない小町さんに怒りを覚えながら、当たり障りのない商品を選んで会計を済ませるのだった。
手土産なくても大丈夫っぽいですけどね
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拍子抜けな展開
先輩の実家に向かう途中、私は一言も喋れずに先輩の数歩後を歩いている。今の時間先輩のご両親はいないということは分かっているのに、緊張してしまっている。
「いろは、さっきから歩幅が狭くないか?」
「そ、そんなことないですよ」
自分でも自覚していることを指摘され、私は慌てて先輩の一歩後ろまで近づく。ここで先輩の前までいけないくらいのメンタルなんだと、自分の状態を改めて思い知らされた。
「緊張してるのか?」
「緊張するに決まってるじゃないですか! いくらご両親不在とはいえ、夜には顔合わせをするんですよ? 先輩があまり興味持たれていないとはいえ、息子の彼女という立場はそれくらい緊張するんですよ」
「そんなものか? まぁ、俺がいろはの両親に会うって時には緊張するのかもしれないが、そこまでなのか?」
「そこまでです! とにかく、恋人の両親に会うっていうのはそれほど緊張するものなんです」
力説したおかげかは分からないけど、私の緊張は少しほぐれた――ような気がする。先輩がそれを狙っていたのかは分からないけども、先輩の表情は柔らかい。
「今の時間は小町しかいないんだし、とりあえず気楽にいけ」
「分かりました」
先輩の手を取って、私は漸く落ち着けた気がする。最初から手をつなげていたら、あそこまで緊張してなかったかもしれないけど、そういう考えをできないくらいのメンタルだったんだろうな。
「いらっしゃい、いろは先輩! って、いきなりラブラブ披露ですかー?」
「そんなんじゃないですよ。こうしてないと先輩が逃げ出しそうだったので」
「いや、実家に帰るだけなのに逃げないからね?」
こういう冗談を言えるくらいまでには回復している。小町さんも私が冗談を言っているということは分かっているようで、笑顔で私の発言を流す。
「とりあえず両親は夜まで居ないので、ゆっくりお茶でも飲みながらお喋りしましょうか。というわけでお兄ちゃん、お茶の用意お願いね」
「なんで俺? 実家のお茶の場所なんて知らねぇよ」
「昔と変わってないから大丈夫でしょ。別にコーヒーでもいいし」
「はいはい」
先輩がキッチンに消えていき、私は小町さんと二人きりになる。シチュエーション的には緊張する場面なのだろうけども、大学でも結衣先輩がいないときに二人きりになる時もあるので、ここが先輩の実家だということを気にしなければ緊張することもない。それに以前先輩の実家に来た時にもこういった場面になったので、そのおかげもあるのだろう。
「まさかお兄ちゃんの彼女としていろは先輩が両親に会いに来るとは、高校時代は思ってもみなかったですよ。てっきり雪乃さんか結衣さんが来ると思ってましたし、大穴としてはいろは先輩ではなく沙希さんだと思ってましたから」
「そうだったんですね」
「だって小町的にはいろは先輩とお兄ちゃんは同類だったので、付き合っても長続きしなさそうでしたし」
確かに初対面の時、私は小町さんに「兄と同じクズ」と評価されていた。あの時は「何言ってんのこいつ」と思ったけど、実際私と先輩は同類だろう。だからではないが、一緒にいてもさほど負担にならない。
「ほら、お茶だ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「ありがとうございます」
先輩からお茶を受け取り、私たちは一息つく。別に緊張してなかったのだが、意外と喉が渇いていたことに気が付いた。
「そんなに一気に飲まなくてもいいだろ」
「そんなにお喋りしてなかったんですけど、いろはさんは喉が渇いてたんですね」
「そうみたいですね」
指摘されると恥ずかしい。私は自分でも気づいていなかった風を装って誤魔化す。先輩も小町さんも、私が誤魔化そうとしていることに気づいてるんだろうが、そこを指摘することはない。
「ところでお兄ちゃん」
「なんだ?」
「いい加減いろは先輩との関係に進展はあったの?」
「っ!」
小町さんのセリフに、私は思わず咽てしまう。相変わらず進展はないのだけども、彼氏の妹にそういうことを聞かれると過剰に反応してしまうのは仕方がないのだろう。
「別に何もねぇよ」
「ほんとにー? いろは先輩が反応したから、何かあるんじゃないの」
「最後に小町と会ってからそれほど時間も経ってねぇし、俺たちには俺たちのペースがあるんだから、小町がとやかく言うことじゃねぇだろ」
「そんなことないと思うけど。いろは先輩だって、もう少し進展したいって思ってますよね?」
先輩が動じないと見るや否や、小町さんの標的は私に代わる。だが私もこの程度で動揺していてはダメだと思い、先輩のように毅然と振舞う。
「私は今のペースで十分ですよ。そもそも先輩と付き合えると思ってなかったので、今の状況でも十分満足できてますから」
「もっと高望みしましょうよ。そんなんじゃ結婚まで何年かかるか分からないですよ?」
「結婚も何も、私たちはまだ学生ですよ。今の時代学生結婚もさほど珍しくないとはいえ、私が先輩の勉強の妨げになるのは避けたいですし」
あの先輩が現役で司法試験合格の可能性があるというのに、私のわがままでその可能性を潰したくない。ただでさえ先輩の時間を奪っている感が否めないというのに、これ以上邪魔をして捨てられでもしたら、私は立ち直れないだろう。
「つまんないのー。もうちょっと慌ててくれればからかえたのに」
「そんなことばかり言ってると、小町に実は彼氏がいるって嘘ついて親父殿の興味を小町に全振りするぞ」
「やめてよお兄ちゃん! そんなことされたら無実なのに外出禁止になりかねないから」
「だったらいろはをからかって遊ぶのは止めろ」
「分かったよ」
先輩に脅され、小町さんの勢いはしぼんでいった。それで大人しくさせられるのならもう少し早く助けてほしかったけど、常に先輩が一緒にいてくれるわけではないのだから、もう少し自分でも小町さんを黙らせるようにならなきゃいけないんだろうな。
夜になり先輩のご両親と対面したのだが、驚くほどあっさりした対面だった。お二人ともお仕事が忙しいのか、家に帰ってきてもやることがあるようで、軽く挨拶しただけでそれぞれの部屋に行ってしまったのだ。
「相変わらずの社畜っぷりだな」
「最近は特に忙しいみたいだよ。今日だっていろは先輩が来るからこの時間に帰ってきただけで、いつもならもっと遅い時間だし」
「俺は絶対にあんな風にならないようにしなければ」
「大丈夫だってお兄ちゃん。数年後にはお兄ちゃんもお父さんたちに負けず劣らぬ社畜になってるから」
拍子抜けしている私をよそに、これが普通だと言わんばかりに兄妹の会話が繰り広げられている。
「てか、この時間なら十分帰れそうだし、このまま帰るか」
「ダメだよ。今日はこの後いろは先輩と一緒にお風呂に入って、本当に何もないのか聞き出すんだから」
「さっきも言ったが、あんまりいろはをからかって遊ぶようなら、さっきの嘘を親父殿に吹き込むからな。俺に興味はないだろうが、小町の情報なら聞く耳を持つだろうし」
「そんなことされたら本当に外出禁止になりかねないよ……分かった、大人しく義姉妹の会話程度にとどめておくよ」
私の事なのに私の意志を無視し、私のこの後の予定が決められてしまった。
「というわけでいろは先輩、早速お風呂に入りましょう」
「俺は自分の部屋でのんびりしてる」
「あっ、お兄ちゃんの部屋は今物置と化してるから、お兄ちゃんはリビングで寝てね」
「そういえばそうだったな……」
先輩がため息を吐いたタイミングで、カマクラが現れて先輩の肩に手を置いた――ように見えた。まさか飼い猫にも同情されるとは。
「何だったらいろは先輩と二人で一緒にリビングで寝てもいいけど。両親がいるってことを忘れて無ければそれでもいいと小町は思うけどね」
「馬鹿言ってないで、さっさと風呂入れ」
「はいはい。それじゃあいろは先輩」
「あ、うん……」
先輩がひらひらと手を振りながら持ってきた文庫本に興味を向けてしまったので、私はされるがままでお風呂場に連れていかれる。
「ビックリしました? 息子の彼女を呼びつけておいてあっさり終わったことに?」
「少し……いえ、かなりビックリしてますよ」
「兄はああなるだろうって思ってたようですけど、いろは先輩に言ってなかったんですね」
「言ってたかもしれないですけど、私の精神状態があれだったので」
「まぁ、初めての彼氏の両親との対面って緊張するものでしょうしね。小町もいつか経験するんでしょうけども、今はよく解りません」
明るい表情で言い放つ小町さんに、私は軽く殺意を覚えたのだった。
小町に対する殺意が募るいろは……
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意外なセリフ
小町さんとのお風呂タイム中は、先輩の助けはない。いったいどんな質問されるのだろうと身構えていたのだが、結構ありきたりな――言い換えれば先輩がいる時と大差ない質問しかされなかった。
「(あれだけ聞き出す気満々な雰囲気だったのに、意外と大人しいんでしょうか?)」
小町さんとの付き合いもそれなりに長くなってきているので、彼女の為人もそれなりに把握している。だから先輩がいないところでは結構きわどい質問をしてくるんじゃないかと思っていたのだが――まぁ、されたとしても答えようがないので意味はないのだけども――それほど疲れることなくお風呂タイムは終了したのだった。
「お兄ちゃんお待たせ。入るでしょ?」
「まぁ、泊まっていく以上はな」
「別にお兄ちゃんだけ帰ってもいいよ? 小町はいろは先輩だけいれば十分だし、お父さんたちも部屋から出てくることもないだろうし」
「ねぇ、ほんとになんで呼びつけたの?」
ここまで興味を持たれないのも凄いなと思いつつ、私は先輩に置いて行かれるんではないかという恐怖を覚えた。ここが別の場所ならここまで怯えることもなかっただろうが、彼氏の実家に私一人だけ置いて行かれるというのは、形容しがたい恐怖が襲ってくるのだと初めて知った。
もちろん、この人がそんなことをするわけがないと分かってはいるのだが、それでももしかしたらという思いが湧き出てきてしまう。
「帰るならいろはも連れて行くに決まってるだろ。何が悲しくて実家に彼女を置き去りにして評価を下げなければならないんだ」
「ゴミいちゃんならありえそうだと思ったけど、意外とちゃんといろは先輩のことを考えてるんだね」
「一応、彼氏だからな」
小町さんの頭を軽く小突いて、先輩はお風呂場へと消えていく。その背中を見送りながら、先輩が私の彼氏だという事実を先輩の口から聞けたことに感動していた。
「いろは先輩、ちゃんとお兄ちゃんに愛されているんですね。まさかお兄ちゃんがあんなことを言うなんて、小町は思ってもみませんでしたよ。これは赤飯を用意しなければいけなかったですかね」
「そこまでなんですか? 先輩の考えは分かりにくいですけど、しっかりと考えている人だとは思うんですけど」
「そりゃ兄はやればできる子ですから。でも異性のことでここまで成長するなんて、高校時代の兄を知っている人間からしてみれば吃驚仰天だと思いますよ? いろは先輩だって、高校時代の兄の言動は知っているでしょう?」
「そりゃ知ってますよ。でもそれだって、いかに問題を小さくして事を済ませるかを考えた結果ですし、先輩が泥を被れば丸く収まるという考えからの行動ですから――」
「いろは先輩に言われなくても分かってます。それでも、兄のそういうところが小町は嫌いです」
意外だった。あれだけシスコンブラコンコンビなところを見せつけられていたから、この兄妹に相手の嫌いなところなどないと思っていた。それなのに今、小町さんははっきりと嫌いと言い切った。
「だって、お兄ちゃんとは全く関係のないことなのに、お兄ちゃんが悪者になることでそのグループの問題が解決される――いや、解消されるなんておかしいじゃないですか。しかもそのことを知らない連中がお兄ちゃんのことを悪く言うなんて」
あぁ、つまり大好きな兄が悪者にされるのが嫌なだけなのか。やはり小町さんも十分ブラコンなのだろう。
「いろは先輩にこんなことを言うのはあれですけど、葉山さんって周りの人が評価するほどの人間じゃないなって思ってましたし。雪乃先輩からも聞きましたけど、幼少期の失敗を再現しようとしてたり、自分では友達を止められないからお兄ちゃんを頼っておいて、その後お兄ちゃんが悪者にされているのを見て見ぬ振りしたりと」
「まぁあの人は、結局自分では何もできない人でしたからね」
表面しか見ていなかった時は、あの人を彼氏に出来たら自慢できるとか思っていたけども、為人をある程度知った時から、葉山先輩への興味は薄れて行っていた。だから偽の告白をして自分の気持ちを切り替えようとしたのだが、思いのほかダメージを負ってしまったのだ。
だがそのダメージのお陰で、先輩に甘えることができ、先輩に意識してもらえるようになり、そして雪乃先輩や結衣先輩を出し抜くことができたと考えると、必要なダメージだったのだとも思える。
「小町は最初から胡散臭いと思ってましたけどね」
「そうなんですか? てか、小町さんって葉山先輩と何処で会ったんです?」
「具体的なことは覚えていませんけど、いろいろな話を聞いてトータルでそう思ってました。実際あった時に、あぁこの人があの――って感じですかね」
「そうだったんですね」
小町さんとそんな話をしていたら、先輩がお風呂から出てきて驚いた顔をした。
「お前ら、まだそんなところで話してたのか?」
「どこで話そうと小町の自由だよ、お兄ちゃん」
「まぁそうだな」
「あっ、お兄ちゃんが飲むかなって思って冷蔵庫に缶コーヒーが入ってるよ。今の小町的にポイント高い」
「そこは小町が淹れてくれたコーヒーの方がポイント高かったけどな」
そう言いながら先輩は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出して飲みだす。寝る前にコーヒーとか――なんてことを考えたことがないわけではないが、この人は全く影響なく寝ることができるから今更気にしない。
「高校時代ならマックスコーヒーだったけどね」
「最近は飲んでないからな」
飲み終えた缶を洗いゴミ袋に入れながら、先輩は私たちを見る。
「どうかしました?」
「いや、ソファで寝るからそこをどいてほしいんですけど」
「あぁ、そうだったね。それじゃあお兄ちゃん、お休み」
「おやすみなさい」
先輩と就寝の挨拶を交わしてから、私は小町さんの部屋に向かう。この後も質問攻めされるのかと身構えていたが、意外なほどにあっさり小町さんが寝てしまったので、私は肩透かしを喰らったのだった。
翌朝、下の階層から美味しそうな匂いがしてきたので目を覚ました。先輩のお母さんが朝食の用意でもしてるのかと思ったが、意外なことにご両親は既に出勤していて、キッチンには先輩が立っていた。
「おはようございます、先輩」
「あぁ、おはよう」
せっかく可愛らしく挨拶してあげたというのに、先輩の反応はドライだった。まぁこの人は私がキャラを作っていることを一瞬で見抜いた人だから、この程度のキャラではときめかないのだろう。
「せっかく可愛い彼女を演じてあげたというのに、嬉しくないんですか?」
「演じなくても、いろはは可愛い彼女だろ」
「っ!」
まさかの真顔で言われるとは思っていなかったので、私は分かりやすく動揺する。だって、先輩の口からこんなきざなセリフが出てくるとは思っていなかったから。
「お兄ちゃんおはよー。いろは先輩も、早いですね――って、いろは先輩?」
「お、おはようごじゃいます」
「お兄ちゃん、何かしたの?」
「何もしてない。そんなことよりさっさと着替えてこい。お袋殿から洗濯を命じられたからな。やっておかないと後で何を言われるか分からん」
「小町がやっておくから良いよ。さすがにお兄ちゃんに小町の下着を洗濯させるわけにはいかないし」
「別に気にせんでもいい気もするが……まぁ、小町がやっておいてくれるならそれでいいか。いろは、これ食ったら帰るぞ」
「ひゃい」
未だに動揺している私をよそに、先輩は淡々と調理を進めている。小町さんも私の様子を疑いはしたが、特に気にする様子もなく洗濯機を回し始めている。
「(この兄妹の切り替えの早さは、羨ましいものですよね……)」
引きずることなんてあるのだろうかと思うくらい、この二人はすぐに切り替える。もちろん内面はどうかなんてわからないから、もしかしたら引きずっているのかもしれないけど、それを他人に読み取らせないのは本当に羨ましい。
私は終始挙動不審になりながらも、先輩が作ってくれた朝食を摂り、その後簡単ではあるが荷物の片付けをしてから、東京へ帰るために駅へ向かう――何故か小町さんも一緒に。
「お前はなんでついてきてるんだ?」
「見送りだよ、お兄ちゃん」
「玄関で充分だろ」
「お兄ちゃん、今日小町はとっても暇なのです」
「はいはい……」
要するに小町さんは遊びに行くために私たちと一緒に出掛ける、ということらしい。一度部屋に戻ってからという条件で、小町さんも一緒に電車に乗り込むのだった。
小町が完全に邪魔者……
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小町の彼氏候補
各自部屋に荷物を置いてから再び出かけることに。本当ならさっきの発言を詳しく掘り下げたいところなのだが、小町さんがいるのでそれはできない。いや、もしいなかったとしても聞き出すことはできなかっただろう。先輩のことをヘタレと言っていた人がいたけど、私も大概か……
「でも、先輩があんなこと言うなんて思ってもみなかったですし……」
普段は憎まれ口だったり、感情のこもっていない言葉だったりしますけど、今朝のアレはいつもの無感情な発言ではなかった。無意識だったのか、先輩の表情に変化はなかったし、その後も引き摺っている様子もない。つまり、完全に私だけがダメージを負ったのだ。いや、ダメージという感じではなく、思いっきり動揺してしまったのだ。
私としてはいつも通り無感情で可愛いと言われるか、軽く流されると予想していたから仕方がないのだが、小町さんには思いっきり怪しまれるし、その後も動揺しまくりで先輩にも不審がられてしまう始末……
「てか、先輩の所為なんだから、先輩が不審がるのはおかしいと思うんですよね」
今先輩は部屋で自分の荷物を片付けている。同様に私も自分の部屋で自分の荷物を片付けているので、こうして文句を言えているのだ。もちろん、言われたことに関してだけなら嬉しいですし、出来ることならもう一度真正面から言ってもらいたい。だがそんな空気ではなかったし、何より小町さんがいるのでそんなことをすればからかう材料にされてしまうだろう。
「それにしても、あれは先輩の本心からの言葉だったんでしょうか」
もしそうであるなら、この上なく嬉しい発言だったし、私のことを可愛いと思ってくれているんだと自信にも繋がる。だが私の勘違いで、いつものように無感情での発言だった場合、私が先輩に問いかけた途端冷めた目で見られてしまうかもしれない。
「これは中々に難しい問題に直面してしまったのかもしれませんね……」
こんなことを相談できる相手なんていないし、もし友達に相談したりしたら――
「嫌味か! 彼氏のいない私に対する嫌味なのか! それとも、ただ単にのろけたいだけか!」
――と、思いっきり怒られるだろう。何しろ彼氏欲しいとずっと言っているのに未だに彼氏が出来ておらず、そんな素振りもなかった私に彼氏が出来たことを妬んでいるくらいだ。もちろん、だからと言って友達付き合いに変化はないし、先輩のことを盗ろうなんて思っていないので、その辺は安心しているのだが。
『いろはせんぱーい! そろそろ片付け終わりましたかー?』
扉の向こうから小町さんに声を掛けられ、私は結構な時間考え事をしていたことに気づく。片付けと言っても、一泊二日程度の荷物なのでとっくに片付け終わっていたし、もし小町さんが居なかったら先輩の部屋に行っていたまである。それくらいの手間な作業なので、小町さんが部屋に突撃してきていたとしても問題はなかった。
「お待たせしました」
「おぉ! もし終わっていなかったらお義姉ちゃんの部屋突入のチャンスと思っていたんですけどね」
「その呼び方止めてくれません?」
「だってお兄ちゃんの彼女ですし、将来的には小町のお義姉ちゃんになるんですから、今から慣れておいた方がいいですよ」
小町さん的には、すでに私と先輩が結婚することが確定しているようだが、万が一ということも十分あり得る。先輩が浮気――ということはないだろうが、私に愛想を尽かしたりしたら、普通に破局だってあり得る。もちろん、愛想を尽かされるようなことはなるべくしないようにしているけど。
「馬鹿な事やってないで出かけるならさっさと行こうぜ。ただでさえ明日からまた予定が入ってるっていうのに」
「お兄ちゃん、ゴールデンウィークは予定ないって言ってたじゃん」
「新しい家庭教師の依頼が来たんだよ。去年まで教えていた子のお母さんからの紹介で指名されたってさっき連絡があった」
「連絡? 電話なんてかかってきてなかったじゃん」
「メールだ」
そう言って先輩はその内容のメールを小町さんに見せる。ついでに私もそのメールを覗き込み、確かにそのような趣旨だった。
「先輩って、将来教師になりたいんでしたっけ?」
「あのゴミいちゃんが人様に勉強を教えられるまで成長したなんて、小町は嬉しくてお赤飯を炊きたい気分だよ。あっ、今の小町的にポイントたっかい!」
「全然高くないだろ……てか、去年も教えて、ちゃんと志望校に合格させたっての」
先輩が担当していた女子中学生は、先輩の指導のお陰でしっかり志望校に合格できたらしい。しかもただの合格ではなく、入学後の実力試験で上位に食い込めるくらいの実力を携えての合格だったのだと、この間先輩に来た電話で知った。
「合格ラインギリギリだって聞いてたけど、元々実力があっただけだろ」
「どうですかねー? 数回しか会ったことないですけど、先輩に教わっていなかったらたぶん落ちてたと思いますよ、その子」
勉強よりも周りのことに意識を取られて、受験勉強を疎かにしそうな感じな子でしたし。まぁ、人のこと言えるほど私も集中力高くないですけど。
「とりあえず明日顔合わせってことになったから、出来るだけ今日はのんびりしたいんだ」
「仕方ないな。それじゃあ買い物だけして、午後はお兄ちゃんの部屋でのんびりしますか」
「いや、帰れよ。電車賃は出してやるから」
「帰ってもすることないし、友達はみんなゴールデンウィーク明けまで出かけてるし」
先輩のことをとやかく言っていた小町さんですが、どうやら彼女も予定は真っ白だったらしい。まぁ、人のこと言えないのは私もですけど。
「せっかくだから今日は泊まっていこうかな」
「は? いやだって、洗濯物干しっぱなしだろ」
「それくらいお母さんがしまうでしょ」
「いつ帰ってくるか分からない人を頼るなよ……」
「大丈夫。さっきメッセージを送ってOK貰ったから」
「いつの間に……」
もしかしたら最初から小町さんは先輩の部屋に泊まるつもりだったのかもしれない。一日二日ならどうにかなる程度の衣服は先輩の部屋に置いてあるし、小町さんが泊る時はお風呂は私の部屋のを使ったりしている。さすがに男性用のシャンプーを使う気にはなれないとかなんとか……
「それじゃあお昼の分と夜の分、それから明日の朝の分の食材を買いにゴー!」
「はぁ……」
意気揚々と拳を突き上げた小町さんとは対照的に、肩を落としながら歩く先輩。この兄妹は変なところは似てるのに、こういうところは正反対だよなぁ。
先輩に用意してもらった昼食を摂り終え、今は食後のお茶を飲んでいる。もちろん、先輩が淹れてくれたものだ。
「それにしても、お兄ちゃん本当に料理上手になったよね」
「一人暮らししてもう三年目だぞ? 出来て当然だと思うが」
「でも、戸塚先輩や材木座先輩、玉縄さんは出来ないって言ってましたよね?」
「戸塚はいろいろと忙しいし、材木座と玉縄はそもそもしようとしてないからな」
戸塚先輩だけは庇ったが、後の二人はバッサリと切り捨てる先輩。やはりこの人の中で戸塚先輩は特別な存在なのだろう。
「戸塚さんかー。あの人って彼女いるの?」
「いや、いない」
「いてもおかしくないと思うんだけどなー。小町的にも、戸塚先輩はありだと思う」
「戸塚が義弟になるのか……悪くはないかもな」
どうしてこの兄妹は付き合う=結婚という考えをするのだろうか。普通はそこまで考えないと思うのだが、比較対象がいないのでどうすることも出来ない。もしかしたら、私の方がマイノリティなのかもしれないし。
「まぁ、小町には戸塚さんのファンを押しのけてまで戸塚さんと付き合おうという気概がないので、ほぼあり得ないけどね」
「戸塚のファンは多いからな……他大学にも大勢いるって聞いたことがある」
「ウチの大学にも結構な数いますよ。たまに交流試合で来る戸塚先輩目当てで、沢山の女子がテニスコートに群がってるのを見たことがあります」
「群がるって……いろは先輩、結構酷い言い草ですよね?」
「だって、普段は閑散としているテニスコートがあれだけの人で囲まれていたら、そういう表現したくなるじゃないですか」
「確かに」
小町さんも同じ大学なので、普段のテニスサークルの人気は知っている。それが戸塚先輩が来ているというだけであれだけの人が集まるのだから、私の表現は的を射ていると分かってくれたようだ。
「まぁ、一番は戸塚の気持ちだろうけどな。世界一可愛い小町を振るとも思えないが」
「もー、言い過ぎだよ、お兄ちゃん」
彼女の前で他の女を褒めるなと言いたいが、この兄妹はこれがデフォなので放っておこう。下手に付き合えば墓穴を掘りかねないし……
この兄妹はダメかもしれない……
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現状の理由
小町さんが先輩の部屋に泊まるということは、今日も先輩と二人きりになれないということ。小町さんは妹だから仕方ないと分かってはいるのだが、少しくらいは私に気を遣ってくれてもいいのではないかと思ってしまう。
「――というわけですからいろはお義姉ちゃん、お昼は小町とお義姉ちゃんの二人で用意しましょう」
「はい?」
別のことに意識を取られていたので、どういう流れでそうなったのかが分からず、私は間の抜けた返事をしてしまう。そのせいで小町さんには不審がられ、先輩には呆れられてしまった。
「いろは、また別のこと考えてただろ」
「しょっちゅうあるの?」
「あぁ、割とな」
確かに先輩に見惚れていて先輩の話を聞いていなかったことは何度かありますけど、そんなしょっちゅうと言われるほどないはずだ。精々両手で足りるくらい……いや、もっとあるかもしれない。
「それで、どういう話の流れで私たちがお昼の準備をすることになったんですか?」
「昨日からお昼はお兄ちゃんに用意してもらいましたし、夕飯もお兄ちゃん。ついでに朝食もお兄ちゃんに作ってもらいましたから、このままお兄ちゃんに甘えっぱなしだと、小町といろはお義姉ちゃんが料理できないんじゃないかってレッテルを貼られそうじゃないですか」
いったい誰がそんなレッテルを貼るというのだろうか。小町さんが料理上手だということは割と知られていることですし、私だって最低限の家事くらい出来る。そりゃ、最近は先輩の好意に甘えまくって自分のことをさほどしていない自覚はありますけど……
それでも、そのことを他人に話したりはしていないですし、結衣先輩は単純に羨ましがるだけで、そのことを吹聴するようなことはしていない。あの人の性格から、そんなことはしないだろうと分かっているので、私も安心して話せているまである。
つまり、小町さんの心配は杞憂でしかないのだが、確かに昨日から先輩に甘えっぱなしだ。お昼くらいは私たちで用意しても良いのかもしれない。
「分かりました。先輩はゆっくりしていてください」
「今の一瞬で何を考えていたのかは分かりませんけど、お義姉ちゃんも納得したことだから、お昼は私たちに任せてね、お兄ちゃん」
「あぁ」
どことなく不安そうな顔をした先輩だけど、私たちが料理できるというのは先輩も知っている。なので過剰に止めるということはしてこない。
「それじゃあ私の家で料理しましょうか」
「ここの方が良いんじゃないですか? お兄ちゃんに料理してる彼女萌えを提供できますよ?」
「先輩はそんなことで萌える人じゃないんですけど」
「ほぅ? では、兄の萌えポイントはいったい――」
「阿呆なこと言ってると、親父殿に小町に彼氏が出来たと嘘を吹き込むからな」
「さぁいろはお義姉ちゃん! 頑張って美味しいお昼ご飯を作りましょう!」
よほどお父さんが怖いのか、小町さんは先輩の脅しにあっさりと屈して私を弄ることを止めた。まぁ、父親に娘に彼氏が出来たなんて教えられたら、根掘り葉掘り聞き出そうとしてくるだろう。まして先輩の家は小町さん至上主義のようですし、愛娘の彼氏なんて考えただけで、お父さんが暴走しかねない。それこそ、小町さんがいう『外出禁止』になるような勢いで。
小町さんもなんだかんだで先輩がそんなことをしないだろうと思っているのだろうけども、万が一があるのでふざけ続けることが出来ないんだろうな。
「ところで、その呼び方で固定なんですか?」
「さすがに大学では先輩って呼びますけど、お兄ちゃんと小町しかいない時は良いじゃないですか。お兄ちゃんも止めないですし」
「人前で呼ばないなら……」
さすがに大学で呼ばれるのは勘弁願いたかったので、小町さんの言葉はありがたかった。もし大学でそんな風に呼ばれたなら、間違いなく友達に詰め寄られるだろうし、もしかしたら既に結婚したのかなどというあらぬ疑いを掛けられかねない。
「私よりもお義姉ちゃんの方ですよ。何時までお兄ちゃんのことを『先輩』って呼んでるんです? 付き合ってもう三ヶ月ですよね? お兄ちゃんの方は名前で呼ぶことに抵抗なくなってきているというのにお義姉ちゃんときたら……こんなんじゃ、お兄ちゃんの彼女失格の烙印を押さざるを得なくなりますよ?」
「そんなことしたら、小町は嫌味な小姑の烙印を押されるな」
「むぅ……その発言はポイント低いよ、お兄ちゃん」
「いろはを弄って遊んでる小町には、それくらいでちょうどだろ」
「すっかり彼氏が板についてきてるのは、小町的にも嬉しいことだけどさ……それで小町に冷たくなるのは違うんじゃない?」
「冷たくはしてないだろ。いろはを弄るのを止めろと言ってるだけだ。いろははそういうのに慣れてないんだから」
「それじゃあ、もっと慣れてもらう為にいっぱいしなきゃだね! これから義姉妹としてずっと付き合っていくんだから」
先輩の言葉を都合よく解釈して、これからも止めない宣言をする小町さん。そんな姿を見て、私と先輩は同時にため息を吐いたのだった。
お昼は私たちが用意したけど、晩御飯は結局先輩が用意してくれた。美味しいご飯を食べた後、私の部屋で小町さんと二人でお風呂に入っている。さすがに私も小町さんも、先輩の部屋のお風呂に入る勇気はないので、小町さんがお泊りする時は私の部屋のお風呂を使っている。
「――でも、なんで毎回一緒に入りたがるんですか?」
別に一人で入ればいいのでは? とは言い出せない。もしかしたらこれも、小町さん的義妹の振る舞いなのかもしれないので。
「だって、ここならいろは先輩は逃げられませんし、お兄ちゃんも助けに入ってこれないですから」
「いや、後で先輩に報告すればいいだけですけど」
「聞き出せちゃえばいいので、その後でお兄ちゃんに報告されても小町的にはダメージゼロなのです」
「本当にお父さんに嘘を吹き込まれても知りませんからね?」
外出禁止になれば、大学も休学しなければならないだろう。せっかく入学したというのに二ヵ月で休学。そんなことになれば、あらぬ噂を流されかねない。復学しても周りからの視線に悩まされるキャンパスライフになるだろう。
そのことを理解しているので、小町さんは最後の最後で本当に嫌がることはしてこない。そこで自重できるのなら最初からしないでほしいというのが本音なのだけども、小町さんのキャラを考えたら仕方がないのだろう。何せあの雪乃先輩にですら、このようなノリで話せるのだから。
「それは兎も角として」
「(あっ、誤魔化した)」
分かりやすく話題を変えようとした小町さんを見て、私はそんなことを思った。ここで追及できれば今後の弄りも減るのだろうけども、意地の悪い彼女だと思われたくないので止めておこう。
「本当にお兄ちゃんと何も進展がないんですか? 恋人同士が隣の部屋で生活して、しょっちゅうお泊りもしてるというのに」
「そんなしょっちゅうと言われるほどでは……いや、そこはどうでもいいです。何を疑っているのか分かりませんけど、私と先輩は健全なお付き合いをですね――」
「そんな中高生みたいな付き合いで、いろはお義姉ちゃんは満足なんですか?」
「満足か否かと問われれば、少しくらいは不満はありますよ。先輩は私に興味がないんじゃないかと思ったりもしますけど、私たちには私たちのペースがあるので、周りがとやかく言うことではないと思いますし」
「まぁ、お兄ちゃんは初めての彼女だから、どんなペースが正しいのか分からないのかもしれないですしね」
そんなことを言っている小町さんは、彼氏がいたことないのではないだろうかという疑問が頭をよぎったが、この子は結構耳年増なところがあるので知識はあるのだろう。逆に先輩は、そう言ったことに興味が薄かったせいか、知識がないのかもしれない。
「もし我慢できなくなったら、お義姉ちゃんの方から誘ってみるのもありだと思いますけどね」
「そんなはしたないこと出来ませんよ」
「うわぁ……高校時代のいろは先輩に聞かせたいセリフですね。すっかりお兄ちゃんに変えられてしまっちゃって」
「そういう訳ではないんですけどね……」
確かに高校時代の私は、気になる相手が居たらとりあえず手を出すという考え方をしていた。だが今は男性恐怖症もあって、必要以上に男性に近づくことが出来ないのだ。唯一と言っても良い相手である先輩に拒否反応を示したらどうしようという考えから、積極的にいけないという理由もある。
それが分かっているのかは知らないけど、先輩の方も必要以上に私に近づいたりはしてこない。それがありがたくもあり、もどかしいというのが現状なのだが、それを小町さんに馬鹿正直に言ったりはしないだろうな。
八幡が積極的になる感じが想像しにくいのもある
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悶々とするいろは
いつもなら先輩の部屋に泊まって少しくらいはと期待している時間だが、今日は先輩の部屋に小町さんが泊っているので自分の部屋で一人だ。別にそれ自体は珍しいことではないのだが、今朝の先輩のセリフと、さっきの小町さんとの会話の所為でモヤモヤして時間を過ごしている。
確かに先輩が無理矢理迫ってこないのは私にとってもありがたい。まだ完全に男性恐怖症が治っていない今、先輩に恐怖心を抱くのではという疑念が拭えない。だからと言って何もない現状を善しと思えるほど、私だって興味がないわけではないのだ。
「(そりゃ、あんまりがっつくとみっともないとは思いますけど、それでも少しくらいは――って期待しちゃうのは仕方ないじゃないですか)」
誰に聞かせるわけでもないので言葉にすることはないが、それでもいつも心の片隅で思っていることを今日も心の中で呟く。先輩が奥手とか、そう言った理由で手を出さないわけでもなさそうだしな……だってあの人、高校時代には結衣先輩の胸を見てドキドキしてたくらいだから、性に興味がないわけではなさそうだし。
「(ひょっとしたら、私から誘えば?)」
そんな考えが頭をよぎったが、私は慌ててその考えを頭から追いやる。そんなことして相手にしてもらえなかったら、ただ私がはしたない女だと思われるだけだから。
だからと言ってこんなことを相談できる相手がいないのだ。現状を打破できる手立てがないから、現状でもいいのではないかという考えで固まってしまう。心の底から善しとは思っていなくても、関係を悪化させる可能性があるくらいならという感じだ。
「(てか、小町さんも私たちの関係の進展を望んでいるのなら、邪魔しないでもらいたいですけど)」
彼氏のいない小町さんにとって、私と先輩の関係は興味が惹かれるのだろう。だが小町さんが最前線で私たちの関係の進展を妨害していると言っても過言ではないと私は思っている。だって、しょっちゅう先輩の部屋に泊まりに来て、私が先輩に甘える時間を奪っているのだから。
もちろん、小町さんは先輩の妹だから、私から先輩を奪うなんて本気では思っていない。あの兄妹ならもしかしたらと、高校時代一瞬だけ思ったことはあるけど、今の先輩からはそこまで小町さんを溺愛している感じはしないから。
「(まぁ、それでも十分に甘いとは思いますけど)」
なんだかんだで小町さんの我が侭を許しているので、根底は変わっていないのだろうとは思う。それでも小町さんファーストではなくなってきているのも確かだ。やはり数年間会っていなかったというのが大きいのだろうが、その反動で小町さんが昔以上に先輩にくっついている気がする。
「(高校時代は先輩が妹離れできないのではと思っていましたけど、実際は小町さんの方が兄離れできない人だったとはね……)」
互いにシスコン・ブラコンではあると分かっていましたが、どちらかと言えば先輩の方が重症だと思っていました。だが二年間まともに会わなかった結果、先輩のシスコンは多少改善したのに対して、小町さんのブラコン具合は悪化したわけです。つまり、小町さんの方が重症だったというわけだ。
他の兄妹事情をよく知らないから断言はできないですけど、普通年頃になったら異性のきょうだいを避けたり嫌ったりするのではないだろうか。雪乃先輩は同性のきょうだいだったが、それでも若干距離を摂りたがっていたし。
「あっ、川崎先輩のところは仲良かったな……」
あそこの姉弟もいろいろと事情があるから一般的とは言えないかもしれないけど、私の周りだけで考えれば雪乃先輩のところの方が異常だということになってしまうのか……
「てか、改めて思うと、私ってホント交友関係狭いな……」
別に友達が沢山欲しいとかは思っていなかったけども、こうして考えるともう少し仲良くしておけばよかったと思ってしまう。もう少しサンプルがあれば、こんなことに頭を悩ませなくても良かったのかもしれないから。
「(そんなことを考えている時点で、対等な友人関係を築きたいわけじゃないって分かるんですけどね)」
友人をサンプルと考えている時点で、私はあまり交流が上手ではないのだろうと理解できる。まぁ、そんなこと昔から分かっていますし、今更それを取り繕って交友関係を広げたいとも思わない。高校時代とは違い、最低限ではあるが友人もいるし、こうして彼氏もできているわけだから。
「でも、目下の悩みがその彼氏とは……」
彼氏自体に文句はない。むしろ私にはもったいないのではないかと思ってしまうくらいに、先輩は魅力的になったと言えるだろう。見た目ではなく、中身が。それこそ、今なら雪乃先輩の隣に立ったとしても誰も文句を言わないくらいに。
それでも先輩は雪乃先輩ではなく私を選んでくれた。だからこれ以上を望んでも良いのだろうか、望むべきなのだろうかというブレーキが、私の中にあるのかもしれない。そんなことを考えながら、私は先輩がいるであろう方向へ視線を固定し、いつの間にか眠りに落ちたのだった。
自分が何時寝てしまったのか分からないが、目を覚ましたら既に外は明るくなっていた。寝坊というわけではないが、先輩の部屋に泊まっていたら確実に寝顔を見られたと慌てるくらいの時間ではある。まぁ、先輩に寝顔を見られることなんて、しょっちゅうなので慌てることはないのですけど。
そんなことを考えながら着替えを済ませ、最低限のメイクをしてから部屋を出て隣の部屋へ向かう。鍵がかかってはいたが、合鍵があるので問題なく入れる。付き合う前は小町さんが泊っていたらこんなことできなかったけども、今の私は先輩の彼女。部屋の合鍵を持っているのがバレても問題ないからだ。
「せーんぱい。おはようございます」
「あぁ、おはよう」
既にしっかりと目を覚まし、今日から担当する子の成績を確認している先輩を見て、やっぱりこの人は社畜の才能があるんだろうなと思ってしまった。
「小町さんって、結構早起きな印象があったんですけど」
「昨日は夜遅くまで人にいろはとの関係を聞いてきてたからな。寝た時間が遅い分、起きるのも遅くなってるだけだろ」
「あっ、先輩にも質問してたんですね」
私はお風呂で質問されていたが、まさか先輩にも似たような質問をしていたとは。やはりこの妹は本気で私たちの関係を心配しているのだろうか? それとも、ただ単に面白そうだから質問しているのだろうか?
「朝飯作るから待ってろ」
「ありがとうございます」
何も言わなくても私の前にコーヒーを置いて、そのままキッチンへ向かう先輩。彼女としてここは私が、とか言う場面なんだろうけども、素直に先輩の好意に甘えている今日この頃です。
「それにしても……」
先輩のベッドで無防備に寝ている小町さんを見て、私は思わず嫉妬する。本来ならそこで寝ているのは私だという嫉妬ではなく、寝顔が本当に可愛らしいからだ。
「(高校時代、先輩が『天使』と言っていたのが分かってしまうのが悔しいです)」
これだけ可愛いなら、先輩がシスコンになったのも納得できてしまう。もちろん、しょっちゅう一緒に寝ていたわけではないだろうけど、身内フィルターで普段の小町さんも私たちが見ているのよりも可愛らしく見えるんだろう。
「うーん……」
寝返りを打つ小町さんを見て、色気だけなら私の方が上だと安堵する。これが結衣先輩だったらなんて一瞬思ったが、あの人が先輩の部屋に泊まることなんてないだろうから、考えるだけ無駄だろう。
「何を見てるんだ?」
「小町さんの寝顔です。本当に天使で嫉妬してたところです」
「最近では小悪魔じゃないかと思える言動も増えてきてるけどな」
「それは昔からでは? 先輩がいないところではかなり毒舌でしたし」
「いや、俺の前でも毒舌だったけどね」
苦笑いを浮かべながら朝食の準備ができたから小町さんを起こす先輩。そんな光景を見ながら、私は先輩が作ってくれた朝食に舌鼓を打つのだった。
八幡もいろはも、最終的にはヘタレそうだしなぁ……
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嫉妬の行く先
先輩が朝食の用意をしている間、私はずっと小町さんの寝顔を眺めていた。別に小町さんの可愛さに目覚めたとかではなく、この妹が何時まで寝ているのか純粋に興味を抱いたからである。
私だったらじっくりと寝顔を見られていたら、その気配に気づいて目を覚ますと思うのだけど、小町さんはさっきから起きる気配すらなく、ぐっすりと眠っている。頬を突いてみたりしたら起きるのかもしれないけど、そんなことをしてる最中に先輩に見られたらあらぬ誤解をされそうなので止めておこう。
「(それにしても、本当に起きませんね……)」
同じような時間に寝た先輩はこうして起きて朝食の用意をしているというのに、小町さんはぐっすり寝ている。この状況にモヤモヤしてきたので、私は小町さんの観察を止めて先輩の隣に移動する。
「何か用か?」
「いえ、寝ている小町さんを見ていたんですけど、なんだかモヤモヤしてきたので先輩の方に来ました」
「モヤモヤ? 小町の寝顔に欲情でもしたのか?」
「そんなわけないですよ。私は別に同性愛者じゃないので」
そう言った趣味の人を否定するわけではない。だが私にはちゃんと異性の恋人がいるのにそう思われるのが嫌だからはっきりと否定したに過ぎない。先輩の方も軽い冗談だったようで、私の言葉に過敏に反応することはしない。そもそもこの人は高校時代から多様性を認めていた側の人だから。
そもそも人と同じようなことをして安心する人ではなかったので、多様性を認めているというよりも同調圧力に屈しない人なのかもしれないけど、海老名先輩の趣味を否定することなく、それを誰かに告げることもなく過ごしていた――告げる相手がいなかったとか、そう言った事情だけではないだろう。
実際戸塚先輩や材木座先輩、それから玉縄さんや折本さんなどに教えることはできただろうが、先輩がそのことを話したということは聞かない。戸塚先輩はなんとなく気づいていそうだけども、後の三人は海老名先輩のことは知っていても、その秘密までは知らなさそうだし。
「さっきから何を考え込んでるんだ?」
「多様性の難しさを」
「はぁ?」
「いえ、何でもないですよ」
「考え込むのは良いが、そろそろできるから小町を起こしてきてくれ」
「分かりました」
先輩に頼まれたので仕方なく、という感じで私は小町さんを起こしに再びベッドの隣へ移動する。さっきと変わらず小町さんは気持ちよさそうに眠っているので、私は再びモヤモヤを抱きつつも小町さんを起こすことに。
「小町さん、起きてください」
「むにゃ……あと五分……」
起こされた人が言うと聞いていたセリフを、まさか実際に耳にすることになるとは……
「って、感動してる場合じゃなかった。小町さん起きてください。そろそろ先輩のご飯が完成しますよ」
「それは寝ている場合じゃないね!」
「っ!? ビックリしました」
急に飛び起きてきた小町さんに、私は思わず数歩引いた。まさか先輩のご飯に釣られるとは思っていなかったのもあるけど、さっきまでのは狸寝入りだったのではないかと思ったからだ。もしかしたら私がモヤモヤしてるのを薄目で見てほくそ笑んでいたのではないかとか、そんなことを考えてしまったから距離を取ったのだ。
「おはようございます、いろはお義姉ちゃん」
「お、おはようございます。とりあえず顔を洗って来てください」
「分かりました。いろはお義姉ちゃんの部屋の洗面台をお借りしますね」
「どうぞ。鍵は開いていますので」
隣の部屋に来るのにいちいち鍵を掛けていられないというのもあるが、どうせこういった流れになるだろうと思っていたから鍵は掛けなかったのだ。小町さんも私がそう答えるだろうと分かっていたのか、鍵を要求することはせず既に私の部屋に向かっていたし。
「でも、洗顔くらいなら先輩の部屋でもできると思うんですけどね」
タオルが気になるとかでしょうか? でも小町さんはブラコンですから、先輩のタオルを気にするとか、そういうことはないでしょうし……
「まさか、違う意味で気になるからなのでしょうか?」
「何がだ?」
「っ!? せ、先輩……急に声をかけないでくださいよ」
「人のベッドの前で考え込んでたと思えば急に変なことを言い出したんだ。声をかけるに決まってるだろ」
「そんなに考え込んでました?」
「小町が出て行ってからずっとだから、五分くらいか?」
「えっそんなに……?」
先輩に言われるまで気づかなかったが、どうやらそれだけの時間が流れていたようだ。どうやら私は小町さんに嫉妬するだけではなく、新たな疑念を抱き始めてしまったのかもしれない。
「(最終的にはライバルにならないと思っていたんですけど、戸塚先輩は兎も角小町さんは違うのかもしれないですね)」
先輩の中での寵愛ランキングを考えれば仕方ないけど、同性と血縁者ということで安心していたけど、やはり小町さんは侮れないのかもしれませんね。
三人で朝食を摂り終えた後、小町さんは変える準備を始めている。元々の予定ではなく急遽泊まりに来たのでそれほど荷物はない。だがそれでも昨日着ていた服など、そう言ったものは持って帰るようだ。
「それじゃあお兄ちゃん、小町がいないからっていろは先輩といちゃいちゃし過ぎないようにね」
「そもそもいちゃいちゃなどしてないからな。お前の中のお兄ちゃん、どれだけ酷いの?」
「そりゃゴミいちゃんだよ、ゴミいちゃん。むしろここまで成長したことに小町は驚きを隠せないレベルだよ」
「先輩、なんで妹に成長を驚かれてるんですか……」
兄妹の時間を邪魔するつもりはなかったのだけども、ツッコミを入れずにはいられなかった。高校時代の先輩は確かにダメ人間代表みたいな感じでしたけど、卒業して既に三年。そこから成長していても不思議ではないというのにこの人は……
「小町がお兄ちゃんと会っていなかったというのもあるんですけど、ゴミいちゃんは永遠にゴミいちゃんだと思っていたので、驚きを禁じ得ないんですよね」
「最近では小町の方がぐうたらしてるじゃねぇかよ。この部屋に泊まりに来た時、何かしてるか?」
「してないよ。だってのんびりするためにここに来てるんだから、わざわざ家事するわけないじゃん」
「すがすがしいほどのダメ人間っぷりですね……」
先輩が思わず丁寧語になっているのを聞いて、小町さんがこの部屋で何かをすることは本当にないんだなと理解した。小町さんと言えば働き者のイメージがあっただけに、先輩の部屋ではダメ人間になっているんだと知れてちょっとホッとする。
「だって実家では小町がずっとお兄ちゃんの世話をしてたんだから、お兄ちゃんの部屋ではお兄ちゃんが小町の世話をするのは当然なのです」
「いやいや、俺の部屋に小町の居場所はないだろ。お前はこの部屋で生活してるわけじゃないのに」
「小町だって実家を出て暮らしてみたいけど、お父さんが頑として反対してるからね。だから疑似体験としてこの部屋に泊まりに来てるんだよ」
「一人暮らしを経験したいなら、ちゃんと家事しろよ……普通誰もしてくれないんだからな」
「疑似体験だから大丈夫なのです! まぁ、今後は少し泊まりに来る機会を減らしておくよ。いろは先輩に嫉妬されて、背後から刺されるとか嫌だしね」
「はい? なんで私が小町さんを刺さなきゃいけない――」
「だって、私とお兄ちゃんが喋ってると、鋭い視線を向けてくるじゃないですか。まさか、無意識だったんですかね?」
小町さんに言われるまで、私がそんな視線を向けているなんて知らなかったので、私は驚いてしまった。その反応を見て小町さんも驚いている。
「本当に無意識だったんですね……小町はあくまで妹としてお兄ちゃんが好きなだけなので、心配しなくても大丈夫ですからね」
「あ、ありがとうございます……」
謎の慰めをされ、私はそう答えるしかなかった。まさか妹である小町さんに嫉妬して、あまつさえ排除しようと考えているんじゃないかと思われていたとは……
ヤンデレも真っ青になりかねない……
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僅かな進展
小町さんが帰り、先輩が新しい生徒と顔合わせに出かけたため、私は自分の部屋で一人考え事をしている。誰かに相談できることでもないし、ましてや今まで自分では知らなかったことなので考えがまとまることはないだろうけども、考えないわけにもいかないことだ。
「まさか私が小町さんに嫉妬していたとは……」
確かに先輩と仲が良すぎるとは思っていた。だがあくまでも兄妹として仲が良いと分かっていたのでそこまで嫉妬することではないと思っていたはずなのに、小町さんに指摘され、どうやら私は小町さんのことを女として嫉妬していたのだ。
高校時代の先輩ならもしかしたら、と思っても不思議ではないが、今の先輩は小町さんのことをそこまで溺愛しているわけではないだろう。約二年間まともに会っていなかったというのもあるのだろうけども、ある程度自立して小町さんに甘える必要が無くなったのも大きいだろう。逆に小町さんの方が先輩に甘えまくっているまである。
だからというわけではないが、私が小町さんに嫉妬しているのかもしれない。本当なら甘えるのは私だ、という考えが胸の奥底に芽生え、小町さんに対して敵対心に近い思いを抱いたとか。
「こんなこと相談できる相手なんていないし、そもそも相談したとしても答えが貰えるとも思えないし」
私の周りに恋人がいる友人はいる。だが別の女ではなく血縁の妹に嫉妬している友人などいないだろう。だから相談しても意味がないだろうし、そもそも笑われて終わるのがオチだろう。私だって血縁の妹に嫉妬しているなんて聞かされれば、そんな意味のないこと考えるだけ無駄だとか言って終わるだろう。
だがいざ自分がその立場になってみるとどうしても嫉妬が止まらないのだ。小町さんの容姿とか性格というのも多分にあるのだろうけども、あの兄妹は普通の兄妹と比べても距離が近すぎるのだ。普通年頃の妹はあそこまで兄にべったりということはないだろうし、逆も無いとは思う。だが小町さんは普通に先輩のベッドで寝るし、先輩も小町さんが寝た後のベッドで普通に寝れている。
普通に考えれば家族だから気にする必要がないということなのだろうけども、私だったらお父さんが使った後のベッドでは寝れないかもしれない。
「……いや、この考え方じゃないんだろうな」
普通娘が父親に嫌悪感を抱くのと比企谷兄妹を比べても意味はないだろう。一時期の感情を対象にしても先輩や小町さんの気持ちは分からないし、そもそも分かったところで対処のしようがない。
一番簡単な解決方法は、先輩と小町さんを会わせないということなんだろうけども、そこまでやってしまうと束縛が強すぎる。先輩に嫌がられてフラれるまであるかもしれない。そんなことになったらこの先生きていけるか分からないまである。
「こんなこと考えるなんて、私ってかなり独占欲が強い人間だったのか……」
執着心はそれなりにあると自覚していたし、先輩もそのことは知っているだろう。何せ高校入学してから二年の冬休みまでは葉山先輩に執着していて、それ以降は先輩に執着していたのだ。他に目を向けられていればもしかしたら先輩じゃない相手と付き合っていたのかもしれないけど、そんなことを考えても意味はない。だって私が本当に好きなったのは先輩しかいないから。
「初めての彼氏だからなのかもしれないけど、妹相手に嫉妬するのが普通なのかもしれないって思っちゃう時もあるんだよね……」
普通の妹ならこんなこと思わないのかもしれないけど、相手はあの小町さんだ。先輩が高校時代豪語していたように、可愛らしい見た目だし、若干小悪魔っぽい性格も可愛さを増すスパイスだと思えるレベルだ――たまに腹黒い一面が見えるけど、その辺りもご愛敬だと思えるレベルだ。
「あぁ、本当に誰にも相談できない問題だよね……」
こんなことを先輩に相談したら、妹に嫉妬してるやばいヤツとか思われそうだし、友達に相談したら笑われて終わりだと分かっているから一人で悩んでいるのだが、一人だとどうしても答えにたどり着けない。そもそも答えなんてないのかもしれないけど、考えないわけにはいかない問題なのだ。私と先輩の関係が今より先に進むためにも。
一人で永遠に考えていたらいつの間にか寝てしまったようで、次に気が付いた時は既に外は暗くなっていた。
「いつの間に寝ちゃったんだろう……」
うたたねしたからと言って風邪をひくような陽気ではないので気にしないが、考えがまとまらないまま寝てしまったので若干の気持ち悪さが残っている。
「いったいどうすればいいんだろう……? あれ、私いつのまにタオルケットなんて羽織ったんだろう?」
自分で羽織った覚えがないタオルケットが落ちたことで、私は寝る前に抱いていた疑問とは別の疑問を抱いた。無意識に羽織ったのだろうか。
「いろは、起きてるか?」
「先輩?」
私の部屋の扉を先輩が開ける。私が先輩の部屋の合鍵を持っているように、先輩も私の部屋の合鍵を持っているのでそこは問題ではない。だが先輩が私の部屋を訪れるのは珍しいことだ。
私との関係が上手くいっていないとはではなく、私が先輩の部屋を訪れる回数の方が圧倒的に多いから、先輩がこの部屋に来ることがないだけである。
「もしかしてこのタオルケット」
「帰ってきたらいろはがすぐに部屋に来ると思ったが来なかったから様子を見たら寝てたからな」
「別にいつも先輩の部屋に突撃してるわけじゃ――」
言いかけてここ数日の私の行動を思い返す。先輩が帰宅したらすぐに先輩の部屋に入り浸ってた気がして、私はゆっくりと視線を先輩から逸らす。
「私って先輩のプライベートをかなり奪ってます?」
「別に気にしなくてもいいが、どちらかと言えば奪ってる方なんじゃないか? 付き合いたてとはいえ、四六時中一緒にいなくてもいいとは思うが」
「そんな四六時中一緒にはいないですよ。最近は自分の部屋で寝てますし」
「いや、そのセリフが出てくる時点でおかしいからね? 普通付き合いたてで恋人の部屋に泊まりまくるっておかしいと思うけど」
「そうなんですかね? 先輩が初めての彼氏だからよく解りませんけど」
「俺も解らないけど、一般的にはおかしいんじゃないのか?」
あの先輩から一般的とか言われると笑いそうになるけど、確かに普通の彼氏彼女なら、いきなりお泊りとか厭らしいとか思うのかもしれない。だが私と先輩の間にそういうことはなく、あくまでも健全なお泊りだから問題ない。誰に聞かれても正直に答えられるお泊りだ。
「先輩が私に何かしてくれたら、もしかしたら自分の時間が増えるかもしれませんよ?」
「それってフラれてない? 自分の時間が増えるイコールいろはが俺と別れてるとかじゃない?」
「どうでしょうね」
先輩が少し焦ってるのが嬉しくて顔がにやけているのが分かる。まさか先輩が私と別れたくないと思ってくれているとは思わなかったので、これは嬉しい誤算だ。
「そもそも、いろはだっていきなり何かされたら嫌だろ。そういうのにはちゃんと段階があって――」
「先輩ってかなりヘタレですよね。何しても抵抗しない――抵抗できない相手がいるのに何もしないですし。据え膳食わぬは――なんていいますけど、先輩は恥だって思ってないでしょうし」
「俺を信頼してる相手に、いきなりそういうことするわけないだろ」
恥ずかしそうに視線を逸らしながら答える先輩を見て、私の頬も熱を帯びる。まさかここまで大事にされているとは思っていなかったのもあるが、先輩がちゃんと私のことを考えてくれているのが嬉しいからだ。
「だが、何もしないのもそれはそれで不満なんですよ? もしかしたら私に魅力がないんじゃないかって思っちゃいますし」
「じゃあどうすればいいんだよ……」
「キスしましょう! よくよく考えたら、まだしてなかったような気がしますし」
「間接キスならしょっちゅうしてるから、忘れてたのかもしれないな」
確かに先輩のお箸であーんとか、その逆はしょっちゅうやってるから忘れていたのかもしれない。冷静になって考えるとかなり恥ずかしいが、私はついに先輩にキスをおねだりしたのだ――できたのだ。
「いろは、目を瞑ってくれ」
「は、はい」
ここでほっぺや額だったらヘタレと罵ってやろうと思っていたが、先輩はちゃんと私の唇にキスをしてくれた。若干短かったけども、確かに先輩の唇の感触を私の唇に感じた。
「え、えへへ……」
「にやけてるぞ」
「これからは毎日しましょう!」
「毎日は勘弁してくれ」
これは嵌ってしまうかもしれない。私は先輩とのキスにそれだけの感動を覚えたのだった。
箍が外れたらやばそうな二人……
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気になるペース
先輩との関係が進展した翌日、私にしては珍しく友人との予定が入っていた。昨日の今日で先輩と別行動は避けたかったのだけども、前々からの予定をキャンセルするわけにもいかなかったので、渋々外出しているのだ。
これが当日誘われたのなら考えるまでもなく断ったのだが、予定の方が先に入っていたから仕方がない。もしドタキャンなんてしたら、先輩に怒られただろうし、友人には理由を根掘り葉掘り聞かれることになっただろう。
「休みも今日で終わりか」
明日から講義が再開するので、先輩と一日中ゆっくりできる日は限られてくる。ただでさえ先輩は忙しい人なのに、家庭教師のバイトが今年も入るとは思っていなかったのでそこは誤算だ。まぁ、先輩の評判が高いと思えば少しは誇らしくなるのかもしれないけど。
そう思おうとしても、やはり先輩との時間が減ってしまうのは残念だという気持ちの方が大きい。せっかくキスをして、これからという――
「って、なんだか厭らしい子みたいな考えになってるような」
集合時間になっても友達が現れないので、私は一人でそんなことを考えてしまっているのだろう。決して根が厭らしい子だというわけではない。そう自分に言い聞かせていると、漸く友達たちが現れ、少し申し訳なさそうに駆け寄ってきた。
「ごめんごめん、ちょっと遅れちゃった」
「まさかいろはがもういるなんてね」
「私は別に時間にルーズなつもりはないけど?」
「そういう意味じゃなくて、せっかくの連休だから、彼氏といちゃいちゃしてて遅刻するんじゃないかって話てたからさ」
もししてていいのなら、永遠に来ることはなかっただろう。先輩は私の予定は知らなかったのだし、私だってそれが許されるならそっちの方が良かった。
だが先約を無碍にしてまで先輩といちゃいちゃなんてするつもりはない。断腸の思いではあったけども、先約を優先するのは人として同然だから。
「そんなわけないでしょ。というか、先輩だって忙しい人なんだから、連休中ずっと一緒ってわけじゃないわよ」
「そうなの? でも、隣に住んでるんでしょ? 他のカップルよりかは一緒にいる時間が多そうだけども」
「そんなことないとは思うけど」
言い切る自信がないのは、他の恋人たちがどれくらい一緒にいるのかがわからないから。決して先輩の部屋にしょっちゅうお泊りしていることを知られたくないとか、そういう理由ではない――はず。
「まぁ、いろはがもういるならいいわ。早速行きましょう」
「行くって、店の前で待ち合わせしてるんだから、中に入るだけじゃない」
「それは言わないお約束よ」
「どんなお約束なのよ」
友人たちとくだらないやり取りをしているのも、これはこれで悪くはない。先輩と付き合いだしてからは、少し疎遠になりかけていたから、こうして友情を確かめ直すのも必要だっただろう。何せ、入学当初からの付き合いで、私が若干男性恐怖症であることを考慮して男性客がいない、もしくは少ないお店を選んでくれる貴重な友人なのだから。
「それにしても、まさかいろはに先越されるとは思わなかったな」
「まぁ、この子男性恐怖症だしね。彼氏なんてできっこないって思ってたから」
「私だって、彼氏なんて無理だろうなって思ってたわよ」
先輩や戸塚先輩だったら怯える必要もなかったから、彼氏にするならどっちかじゃないと言われていた時もあったが、あの時は本当に先輩と付き合えるなんて思ってもいなかった。だってあの時は先輩は雪乃先輩のことが好きで、雪乃先輩の方の問題が片付いたら雪乃先輩と付き合うと思っていたから。
だがいざ先輩の気持ちを知る機会が訪れると、もしかしたら私にもチャンスがあるのではないかと思った。そこからは必死に意識してもらえるように頑張っていたが、高校時代にじゃれついていたのとさほど変わらなかった。
「しかもあんなイケメン。ほんと、可愛いって罪だよね」
「というわけで、ここはいろはの奢りで」
「なんでよっ! 休みの間バイトしてた二人の方がお金に余裕があるでしょうが」
「いろはだってバイトしてるんだし、彼氏持ちに対する罰よ」
「理不尽な罰じゃないの……」
確かに先輩に奢ってもらったり、一緒にご飯を食べたりして食費は浮いているけど、だからと言って経済的に余裕があるわけではない。むしろ浮いた食費で先輩に何かプレゼントできないかと考えているので、無駄遣いは避けたいまである。
「まぁ、それは冗談として」
「本当に冗談なんでしょうね?」
私がジト目で睨みつけると、友人たちは笑顔で視線を逸らす。私が承諾したら本気で奢らせるつもりだったのだろう。
「てかいろは」
「なに?」
「前々から思ってたんだけど、何時まで『先輩』呼び名の? 付き合いだしたのってバレンタインデーだって聞いてるけど」
「そ、それは……高校時代の先輩だし、再会してからもずっと先輩って呼んでたから癖が抜けなくて……先輩も無理に変えなくても良いって言ってくれてるから……」
私だって本当は先輩のことを名前で呼びたい。先輩は私のことを名前で呼んでくれているのに、私は未だに先輩呼びじゃ、なんだか距離があるみたいだと思っている。
だがいくら呼び方を変えようと決心しても、いざ口にしようとしたらヘタレてしまうのだ。それが分かっているから、先輩も無理に変えなくても良いと言ってくれているのだけども……
「そんなんじゃ、いざという時に萎えちゃわない?」
「いざって、何時よ……」
「そりゃ、初夜とか?」
「っ! エホッ!」
水分を口に含んだタイミングでそんなことを言われたので、私は思いっきり咽てしまう。言った本人も顔を赤らめているのを見るに、狙ったわけではなさそうだ。それにしても、他の人の耳がある場所でそういうことを言うのはどうなのだろう。
「ゴメン。でも、実際そういう時になったら、その呼び方はどうなの?」
「そうなったらさすがに変わると思うけど……」
「てか、いろはって彼氏とキスしてるの? そういう雰囲気が一切感じられないんだけど」
「き、キスくらいしてるわよ!」
昨日漸くではあるが、嘘ではない。私は内心そんなことを考えながら、友人たちからの追及をなんとか躱すのだった。
どっと疲れた友人たちとの時間が終わり、私はヘロヘロになりながら自室に戻る――ことはせずに先輩の部屋に入る。
「ただいまです」
「お前の部屋は隣。ここは俺の部屋なんだが?」
「細かいことは気にしちゃダメです」
「いや、細かくはないだろ」
口では文句を言いながらも、実力行使をしてこない先輩の優しさ。いくら先輩が非力な部類とはいえ、女の子一人を部屋から追い出すのは難しくない。まして私は小柄な部類だし。
「先輩の所為で色々と疲れたんです。今日はこのまま先輩の部屋にお泊りして体力の回復をしなきゃ割に合いません」
「俺の所為? 今日お前は友達と出かけてたんだろ?」
「先輩との関係を聞かれて疲れたんです……まぁ、半分くらいは私の自爆でもありますけど」
「ほぼ八つ当たりじゃねぇかよ……」
具体的なことは何も話さなかったけども、先輩は私を受け入れてくれるようだ。本気で嫌そうなら帰るつもりだったけども、やっぱり先輩は優しいですね。口にはしないけども。
「ねぇ先輩」
「なんだ?」
「やっぱり私も名前呼びにした方がいいですかね? そっちの方がより恋人っぽい感じがする気がしますし」
「前にも言ったが、無理に変える必要はないだろ。周りがどんなペースで進んでるのかは知らないが、俺達には俺たちのペースがあるんだし、いろはのタイミングで良いと俺は思うが――っ!?」
先輩の優しさが嬉しくて、私は先輩の唇を奪う。昨日初めてしたとは思えないくらいの積極性だろう。先輩があっけに取られて放心してるのが答えだろう。
「ぷはぁ……お前、いきなり何を」
「先輩の優しさが嬉しくて、我慢できませんでした」
「あのな……まぁ、いろはが良いならいいけどよ」
「昨日言ったじゃないですか。毎日しましょうって」
「だから、毎日はさすがに多いっての。飯作る」
先輩が照れているのは明らかだが、ここで追及したら追い出されそうなので、私は素直にキッチンに逃げる先輩を見送ったのだった。
「やっぱり、先輩は優しくてカッコいいですね」
「何か言ったか?」
「何でもないですよ」
先輩に聞かせるつもりもなかったので、聞き取れなくても当然だろう。私はキッチンで料理をする先輩の後ろ姿を眺めながら、自分の唇を触ってニヤニヤするのだった。
いろはが積極的に……なったのか?
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依存の度合い
講義が再開され、私は結衣先輩と同じ講義を受けている。全部が全部一緒というわけではないが、比較的多くのコマが一緒なので、自然と隣に座って講義を受けることが多いのだ。
「ねぇねぇいろはちゃん」
「何ですか?」
「この後小町ちゃんと一緒にお茶する予定なんだけど、いろはちゃんも一緒にどう?」
「小町さん、ですか……」
先輩の妹である小町さん。苦手というわけではないのだが、なるべく近づきたくない相手なのだ。もちろん、未来の義妹との関係は良好であるほうがいいのだろうが、先輩と進展したばかりだということを目ざとく見抜きそうな雰囲気があるので、今日は遠慮したい。
だがそんなことを正直に言えるわけもないし、何より結衣先輩は純然たる善意で私を誘ってくれている。その善意を無碍にするのは申し訳ないし、それっぽい理由も思いつかない。
「分かりました。ご一緒させていただきます」
「分かった。小町ちゃんにもメッセージ送っておくね」
こういう時の結衣先輩の行動力の高さは高校時代から変わらないようで、あっという間に小町さんに私も一緒にお茶をすることを報告してしまった。
「(もうちょっとゆっくりでも良いんじゃないですかね……先輩に対してはあんなにも奥手だったのに)」
結衣先輩が小町さん並みにグイグイ行く性格だったら、もしかしたら先輩と付き合っていたのは私ではなく結衣先輩だったのではないだろうか。容姿はもちろん、性格も明るく可愛らしい。何より私や雪乃先輩にはない二つの凶器を兼ね備えているのだ。先輩にそういう欲求があるかどうかは分からないけど、魅力的に見えるのは違いないだろう。実際、さっきから教室にいる男子の一部が、結衣先輩の一部に視線を固定しているし……
「(結衣先輩自身は気づいていないのか分からないけど、とりあえず気にしてる様子もないし……もしかしたら、あそこまで大きいと、ある程度の視線を無視しないと生活できないのかな?)」
そんなことを考えていたら、あっという間に講義が終わった。講義中に携帯を弄っていたのは問題かもしれないが、一分待たずに小町さんから返信があったので、小町さんも同様に講義中に違うことを考えていたのだろう。
「それじゃあ行こっか」
「そうですね」
結衣先輩と二人で食堂に向かう途中で、折本さんを見かけたが会釈だけで済ます。三年生ともなるといろいろと忙しいだろうし、何よりあの人は小町さんとの相性が悪い。先輩の捻くれが加速した原因でもある折本さんと小町さんを同時に相手するのは精神衛生上宜しくないし、何より私の知らない先輩の話が始まりそうで嫌なのだ。
「カオリンも誘う?」
「先輩もですけど、折本さんもいろいろと忙しいでしょうからやめておきましょうよ。そろそろ就活に関することとか、いろいろとあるでしょうし」
「本当なら私もそっち側なんだよね……」
「結衣先輩」
年齢的には先輩や折本さんたちと同様に就活に向けていろいろと準備し始めなければいけないのだが、学年的には私と同じ。まだ一年の猶予というか余裕がある結衣先輩は複雑な表情を浮かべて折本さんを見送った。
その後は特に会話もなく食堂までの道を進み、先に到着して場所取りをしていた小町さんと合流した。いつも通り裏を感じさせない笑顔を浮かべて手を振る小町さんを見て、結衣先輩も明るさを取り戻した。
「いろは先輩、一昨日ぶりです」
「一昨日? いろはちゃんと小町ちゃんは休みの間も会ってたの?」
「はい。先一昨日朝はウチに兄といろは先輩がいました、先一昨日の夜から一昨日の朝は私が兄の部屋に行ってましたから」
「ヒッキーの実家にお泊り!? いろはちゃん結婚するのっ!?」
「結衣先輩……飛躍し過ぎです」
恋人の実家に挨拶=結婚という考えのようで、結衣先輩は前のめり気味に私の方に視線を向けた。私は結衣先輩の前に両手を広げて落ち着かせて、勘違いを誘発させた小町さんに非難めいた視線を向ける。小町さんは小悪魔的な笑みを浮かべた後、結衣先輩に事情を説明し始める。
「両親が兄に彼女を紹介しろって言って呼びつけたんですよ。その癖に仕事が忙しいとかで、顔合わせは一分なかったですけど」
「ヒッキーのご両親って、ヒッキーにあまり興味ないって聞いてたけど」
「実際興味薄いですよ? そのせいで私にかけられる期待が半端ないんですけど」
私も先輩の実家でご両親に会うまで、先輩と小町さんの過大表現だと思っていたのだが、実際会ってみて分かった。それが過大表現ではなく本当であると。
自分たちで呼びつけておいて、仕事の都合とかで一瞥をくれただけで顔合わせは終了。その後は部屋から出てくることもなく、翌朝は顔を見ることなく出社していったのだ。どれだけ先輩に対する興味が薄いのかが伺える顔合わせだった。
先輩のご両親に呼びつけられ緊張で押しつぶされそうになっていた時間を返してほしいとさえ思えた顔合わせだったが、小町さん曰くあれが正常で、むしろ私に興味を持ったことが意外だったとのこと。あの顔合わせの何処で私に興味を持ったと判断できるのだろうか……比企谷家はいろいろと普通とは違うようだ。
「小町的には、そろそろお兄ちゃんに対する評価を改めてくれないと、就職先まで大企業を求められそうで辛いんですけどね」
「ヒッキー、このままいけば法曹界関係に就職できそうなのにね」
「両親の中では何時まで経っても兄の評価は、高校時代のままなので」
先輩が高校を卒業してから二年以上経っているというのに、どれだけ興味がないのでしょうか……まぁそのおかげで、私は先輩とお付き合いできているのかもしれませんけど。
講義も終わり、結衣先輩と小町さんとのお茶会もお開きになったので、私は先輩が待つ我が家――ではなく先輩の部屋に帰宅する。
「ただいまでーす」
「昨日も言ったけど、ここお前の部屋じゃないからな? 何当たり前の顔して入ってきてるの?」
「彼氏の部屋なんですから、私の部屋も同然じゃないですか。逆に先輩こそ何言っちゃってるんですか?」
とんでもないジャイアニズムだが、先輩は何を言っても意味がないと思ったのかそれ以上何も言わなかった。
「何してるんですか?」
「司法試験に向けての勉強」
「先輩、やっぱり司法試験受けるんですか?」
「選択肢の一つとして考えてるだけだ。受けるにしても受けないにしても、勉強しておかないことには選択肢に入れることすらできないからな。こんな片手間でやってるヤツが合格できるほど生易しくないのは分かってるが」
司法試験と言えば、何年も浪人する人がいるという噂があるほど難しいらしい試験だ。実際私が受けようと思ったところで、まず何を聞かれているのかすら分からないかもしれない。
「彼氏が司法試験に向けて勉強中で構ってくれないっと」
「待て、何を発信するつもりだ」
「えっ? リア充アピールプラス高学歴彼氏羨ましいだろマウントですけど?」
「この子、一切のボカシなく言ったよ……てか、SNSやってないだろ」
「やってませんよ。別に承認欲求は先輩相手で満たされてますから」
「あっそ……」
私の欲求は先輩さえいれば充分に満たされるので、SNSで不特定多数の人に認められなくても困らない。むしろ不特定多数の人に否定されても、先輩にさえ認められていれば構わないまである。
「(これって先輩に依存してるんじゃ……)」
雪乃先輩のように、共依存になりそうという理由でフラれる未来を想像して、私の顔色は一気に悪くなる。自覚してるくらいだから、先輩が心配してくれないわけはない。
「大丈夫か? なんだか顔色が悪いが……」
「いえ、ちょっと先輩に依存し過ぎな気がしてきまして……少し改めないとフラれちゃうかもって」
「? あぁ、雪ノ下相手に言ったことを知ってるのか」
「一応は……先輩がどんな気持ちでその発言をしたのかまでは知りませんけど、実際そんな感じで雪乃先輩の告白を断ったということは知ってます」
今更雪乃先輩がライバルになるとは思っていないけど、雪乃先輩の二の舞を演じそうだと思い、私は少し先輩に頼りすぎな自分を戒めるのだった。
嫌味たっぷりのリア充アピール
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周囲の男性関係
先輩がバイトに行くように、私もバイトがある。ここ最近は人も増えて出勤日数が減ってきているが、原因はそれだけではないだろう。
「(先輩と付き合い始めて、食費が折半――というか先輩持ちになりつつあるから、そこまでがっついてバイトしなくてもお金に困らなくなってきているから)」
私としては先輩に幾らか渡したいのだが、先輩が頑として受け取ってくれない。私が料理するときはしっかりと先輩はお金を出してくれるのにだ。その辺は男の教示なのかどうかは分からないが、その浮いたお金が生活費に回っているので、必然的にバイトの日数が減るのだ。
「一色さん、最近全然出勤してなかったよね」
「ちょっといろいろありまして。でも、今週からは三日くらいは出勤できますよ」
「前は結構毎日入ってたのにね」
「人手不足もありましたけど、バイトしないと生活がやばいくらいには困窮していましたので」
嘘である。前だって三日くらい出勤すれば生活に困ることはなかった。だがそれらしい嘘を吐いておかないと、先輩と付き合ったお陰でバイトする必要がなくなってきたという本当の理由を話さなければいけなくなりそうだったから、それっぽい嘘を吐いたのだ。
「一色さんって仕送りしてもらってるんだよね? 何にそんなお金使ってたの?」
「まぁ、交友費と言いますか何と言いますか……一人暮らしを始めたばかりの女子大生だったので、お金の使い方がよく解ってなかったって感じですかね」
「あー、なんとなくわかる。私も一人暮らしを始めた時は結構無駄遣いしちゃってたから」
先輩バイトは私より三つ年上。つまりはバイトではなく正社員でもおかしくない年齢だ。それなのにバイトというのは、まぁそう言うことである。今のご時世、フリーターだって珍しくないし、ちゃんと納めるものを納めていれば、お国から文句を言われることもないだろうしね。
この先輩バイトは人は良いが噂話が大好きらしく、本当の理由を話したら次の日には店中に私がバイトの日数を減らした理由が知れ渡っているだろう。まぁ、くぎを刺しておけば言いふらすようなことはしないだろうけど、本気で内緒にしておく必要もないし、バレちゃったらそれまででいいだろう。
「そういえばこの間比企谷君を見たよ」
「先輩を?」
「うん。女子中学生と一緒にいるところを偶々」
「あぁ、新しく家庭教師を任された子じゃないですかね。あの人、意外と人気らしいですから」
「有名大学の法学部所属だもんね。勉強教えるの上手そうだし」
「大学云々は兎も角、あの人は本質を見抜くのが上手ですから、何処ができていないのかを指摘するのは上手そうですよね」
高校時代は、問題の本質は見抜いていたが、その解決策が斜め下過ぎていろいろと問題になっていたが、流石に女子中学生相手に斜め下の解決策を授けることはないだろう。そんなことをしていたら、去年担当していた生徒の親からはクレームが入るだろうし、先輩に担当してもらうまで合格できるかどうかギリギリのラインだった子が成績上位で入学できなかっただろう。
何故担当していた子の成績が上位だと知っているのかというと、先輩が電話しているのを隣の部屋から聞いたからである。盗み聞きするつもりはなかったのだが、部屋が隣だから聞こえてしまったのだ。決して先輩が浮気してるんじゃないかと思って聞き耳を立てていたわけではない。
「私も比企谷君に教えてもらいたいわよ」
「何をですか? 今更勉強なんて言いませんよね?」
「言わないわよ。ダメ男に引っかからない方法」
「それを男性の先輩に聞くんですか? むしろあの人は割とダメ男に近い人だと思いますけど」
大学時代しか知らない相手なら騙せるかもしれないけど、高校時代の先輩を知っている人に聞けば、先輩は間違いなくダメ人間に分類されるだろう。自己犠牲の精神が強いと言えば聞こえが良いのかもしれないけど、あの人は自分を犠牲にしているなんてつもりはないだろうし、そんなことを言えば怒るだろう。
あの人は問題を解決するのではなく解消することで先に進むという方法を採っていた。人によってはそのやり方が気に入らないということもあった。実際先輩のやり方を雪乃先輩や結衣先輩は『嫌い』だと言ったらしい――結衣先輩は言ったかどうかは分からないが。葉山先輩も先輩のやり方を否定していたが、最終的には先輩に頼っていたので、認めたくはないが成果は出ていたと周りも認めていたのだろう。
「ところで、先輩はダメ男に引っかかったご経験が?」
「ま、まぁね……危うく借金まみれにされそうになった時は本気でヤバいと思ったわよ」
「うわぁ……」
それはダメを通り過ぎてクズなのではと思ったが、上手く本性を隠していたからこそ騙されたのだろうと思っておこう。そうでもしないと、本気でこの人の男を見る目を疑ってしまいそうだから。
バイト先でそんな話をした翌日、今度は大学の食堂で友人と似たような話題になった。
「あー彼氏欲しい」
「それ入学してからずっと言ってるよね」
「だってさ。そんなことに興味なさそうないろはには彼氏がいるんだよ? 世の中不公平じゃない?」
「そんなこと私に言われても……」
そもそも人間はみな不平等だろう。いくら努力したって報われない人は報われないし、大して苦労しなくても報われる人はいる。そう考えれば、そもそもが不平等なのだから平等にしろと叫ぶ人はある意味滑稽なのかもしれない。先輩ならそんなことを考えそうだと、ふとそんなことを思った。
「良い感じの人とかいないの?」
「そもそも私は男性の知人が多くないけど」
「いろはの彼氏の友人とか」
「戸塚先輩? あのキラキラと一緒にいられる自信があるの?」
「……ちょっと無理そう」
戸塚先輩自身は意識していなさそうだけども、あの人は目立つ見た目をしている。その隣に並び立つには友人では力不足だろう――いや、たいていの女性ではあの人の隣に立てないだろう。私の知り合いの中で、戸塚先輩の隣にいても大丈夫そうなのは、雪乃先輩と結衣先輩くらいか。
そもそも女性よりも可愛らしい見た目をしているので、一緒にいたとしても女子会としか思われないかもしれないが、それにしてもだ。あの人と交友関係を構築するのは並大抵ではなさそうだ。
「(戸塚先輩は容姿云々で人を判断しないだろうけども)」
そう、戸塚先輩は拒絶したりしないだろうが、周りが勝手に釣り合っていないとか思うだろうし、そのうち自分自身が卑屈になって戸塚先輩と付き合うのが憂鬱だと思いかねない。それくらい戸塚先輩の容姿は優れている。下手をしたら、高校時代に抱いていた葉山先輩への憧れ以上に。彼氏にしたら自慢できるとか言うレベルではなく、大金星を挙げたと周りに言いふらしたくなるくらいに。
「他にはいないの?」
「先輩も交友関係狭いからね。後はオタク眼鏡と人のことを勝手に名前で呼んでくる人くらいしか」
「うーん、それは遠慮したいかも」
「誰の話?」
「あっ、結衣さん」
別行動だった結衣先輩が合流して、私は材木座先輩と玉縄さんだと結衣先輩に告げる。
「厨二さんは女子に興味ないだろうし、玉縄君はカオリンのことが好きだからね。付き合おうとしても難しいと思うよ」
「結衣さんは? 彼氏欲しいとか思わないの?」
「私はほら、フラれちゃったから」
「あっ……ごめんなさい」
結衣先輩が先輩にフラれたことはこの子も知っている。そのフッた相手が私の彼氏であることも。事情を知らなければ結衣先輩をフッた相手がいるなんて信じられないと思うかもしれないが、先輩も悩んで決めたことだとこの子も知っているのでそれ以上深堀はしてこない。
「いろはちゃんがヒッキーと楽しそうにしているのを見ると、ちょっとうらやましいって思うけど、だからと言って簡単に切り替えられないよ」
「結衣先輩、フラれた直後に諦めない宣言してましたからね」
「うわ、思いっきり修羅場ってたんだ……その場を見たかったような見なくて良かったような……」
「別に修羅場って程じゃないよ。むしろその前の方が修羅場っぽかったし」
「その前?」
「あぁ、ゆきのんと会った時のこと?」
その時のことを知っている結衣先輩は納得したように頷いたけど、友人はそのことを知らない。私は追及される前に逃げ出そうとして失敗し、その時のことを話す羽目になったのだった。
むしろ全滅だった……
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八幡のカテゴリー
友人や結衣先輩とおしゃべりしていると、向こう側から小町さんがその友人たちと楽しそうに話しながらやってきたのが見える。小町さんは昔からコミュ力が高く、交友関係も広いから不思議ではないのだが、ここ最近は私や結衣先輩といることが多かったから、ちょっと意外に思ってしまった。
私がそんなことを考えているとは思っていない小町さんは、私と結衣先輩を見つけて笑顔で手を振っている。普通年上相手にあんなに笑顔で手を振るなんてできないと思うんだけども、そこらへんは小町さんだからで説明がつく。あれが先輩だったら絶対にありえないだろう。
「あれって一年生だよね? いろはや結衣さんの知り合いの」
「そうだよ~。高校の後輩でもあるし、いろはちゃんの彼氏のヒッキーの妹の小町ちゃん」
「彼氏の妹が同じ大学って、結構きつくない?」
「そんなことないけど……それなりに友好的にしてるし」
高校時代はバチバチだったが、流石に大人になったのでそこまでではない――はず。たまに小町さんに嫉妬したりしているが、それは顔に出していないし、ましてや小町さんに覚られるようなヘマはしていない。先輩には呆れられているが、あの人が小町さんに話しているとも思えないし。
「さすがにこっちに合流することはないんだね」
「向こうも別の友達と一緒だし、小町さん以外は面識ないし」
「てか、彼氏の妹なのにさん付けなの?」
「いろはちゃんは高校時代小町ちゃんのこと『お米ちゃん』って呼んでたのにね」
「お米? ……あぁ! こまちだからか」
一瞬不思議そうにした友人だったが、お米の意味に合点がいったようで大きく頷いて、そして呆れたように私を見る。
「いろはって高校時代から今の彼氏のことが好きだったんでしょ? その妹相手にそのあだ名はないんじゃない?」
「そ、そんなこと言ったって、高校時代はそこまで本気で先輩のことが好きだったわけじゃ――」
「嘘だよね? いろはちゃん、高校時代から結構本気でヒッキーのこと、好きだったよね?」
「……はい。自覚はしていなかっただけで、先輩のことはかなり本気で好きだったです」
自覚していなかったではなく、自覚しないようにしていた、の方が正しいかもしれない。高校時代の先輩を好きなんて公にしたら、私の評価が下がりそうとか、そんなことを考えていた。
そもそも葉山先輩を彼氏にできたら私の評価が上がりそうだという理由で粘着していたのだし、あの時の先輩の評価を考えたら、私がそんなことを考えていたとしても不思議ではないだろう。
何故他人事のような感じで考えているのかというと、私も実際のところどうして先輩に執着しなかったのか分かっていないからだ。雪乃先輩がフラれたと聞いて、チャンスだと思わず少し自重したのは、遠慮とかではなかったはずなのに。
「てか、結衣さんもいろはも高校時代からその人のことが好きだったんでしょ? 何か理由とかあるの?」
「理由?」
「私も見たことあるから容姿から好きになったならわかるけど、それだけだとそんなに長期間好きでいられるのかなって。ほら、外面的な理由ってすぐに別の人に惹かれたりしちゃったりするし」
「なかなか実感の篭った感想だことで……」
彼氏が欲しいと豪語しながら、なかなかできないのはその辺りも影響しているのではないだろうか。コロコロとタイプが変わっているから、コレという相手に出会えないのだろう。
「私は、命がけで飼い犬を助けてもらって興味を持って、ヒッキーのことを調べているうちに、かな」
「命がけで? どういうことですか?」
「あぁ、そういえば結衣先輩の家の犬が飛び出して、雪乃先輩の家の車に轢かれそうになったのを先輩が助けたんでしたっけ? そのせいで先輩は入学早々入院。復帰したころには既にグループ形成が出来上がっていたからボッチになったとか聞きました」
恐らく入学からちゃんと通っていたとしても、あの人はボッチになっていただろうけども、先輩の名誉を守るためにも、その辺りは黙っておこう。
「えっと……確か雪乃先輩って、いろはの彼氏に告白したって相手だよね? よく轢いた相手に告白しようと思ったよね」
「まぁ、雪乃先輩が運転していたわけじゃないし、あれは不幸な事故が重なっただけだから」
あの時間に先輩が登校してなかったら、あの時間に結衣先輩が犬の散歩をしていなかったら、雪乃先輩が新入生代表として早い時間に登校しなければ。どれか一つでも欠けていたら、あの事故は起こらなかっただろう――先輩が欠けていたら、もしかしたら結衣先輩の家の犬は――だけども。
外から見た奉仕部というのは、事故の加害者、被害者、きっかけを作った人の集まりだったが、そのことを詳しく知っている人間はいなかった。私だって当時は知らなかったから、知っている人はいなかったんだろう。
「先輩も雪乃先輩が悪いわけじゃないから、気にする必要はないって言ったみたいですし」
「私も病院に謝罪に行ったんだけど、あえなくて二年になるまでお礼言えなかったしな」
「結衣先輩はタイミングが悪いんですよね」
「わ、悪くないし!」
どう考えても悪いのだが、これ以上イジメると結衣先輩が泣きそうなので止めておこう。本当に年上っぽくない人だ。
「結衣さんは分かったけど、いろはは?」
「………」
せっかく話を逸らせたと思っていたのに、簡単に話を元の流れに戻されてしまった。
「そういえばいろはちゃんって、何時からヒッキーのことが好きだったの?」
「……私の本性を知って尚、私に付き合ってくれたのは先輩が初めてだったので、そこから気にしだしてたんだと思います」
「いろはの本性って、真っ黒すぎるお腹のこと?」
「否定したけど自覚してるだけに何も言えない……」
「その本性を知って一緒にいるのは中々の猛者だね。もしかして、彼氏さんってドⅯ?」
「いや、最初から見抜かれてたからそういうんじゃない」
あの人は私が外面を装っているのを一目で見抜いたのだ。まぁ、ハルさん先輩の外面も一瞬で見抜いたみたいだし、私程度の装いなんてすぐにバレても仕方がないのかもしれないが。
「随分と人を見る目がある人なんだね」
「あの人の場合、人の悪い面を見抜くのが上手いから、それでだと思う。逆に人の良い面は見ないようにしてたっぽいし」
「ヒッキー捻くれてるからね。小町ちゃんに捻デレって言われるくらいに」
「何その新ジャンル……」
先輩のカテゴリーを聞いて、友人は絶句する。まぁ、初めて聞いた単語だろうし、そんなジャンルがあるなんて普通は思わないよな……
大学のカフェでお喋りしていたせいで結構な時間になってしまった。私は家路を急ぎ、何とかトラウマが発動することなく帰ってこれた。
「ただいまです」
「いやだから……」
当たり前のように先輩の部屋に入ってきた私に、先輩は何かを言いかけてやめた。恐らくは言ったも無駄だと分かっていながらも言わなければいけないと思ったのだろうが、言っても無駄だという気持ちが勝って途中でやめたのだろう。
「随分と遅かったな」
「カフェでお喋りしてたらこんな時間になっちゃいまして」
「あぁ、女子は喋りだすと長いからな」
「先輩だって、戸塚先輩とだったらこれくらいの時間までは喋れますよね?」
「戸塚相手だったら余裕。むしろそのままお泊りまである」
「さすがにそれは引きます……」
先輩と戸塚先輩が仲が良いのは知っているが、流石にそこまで行かれると……嫉妬の前にドン引きしてしまう。
「冗談はさておき、あんまり遅くなるなら電話しろ。予定がなければ迎えに行ってやるから」
「そこは予定を差し置いてでも私を優先してほしいところですが、先輩は律儀ですからね。まぁ、その気持ちは嬉しいです」
「飯は?」
「まだでーす」
恐らくはそういう理由で聞いたのではないだろうが、私は先輩が作ってくれたご飯を食べる気満々なので動くつもりはない。先輩も私の行動はお見通しだったようで、やれやれと首を振りながらもキッチンへ移動する。
「やっぱり先輩は捻デレですよね」
「なんだいきなり」
「いえ、そういう話題だったので」
「は?」
何のことかわからないという顔でこちらを見つめる先輩。まぁ、流石に今日私たちが何を話していたかなんて知らないでしょうし、私も話すつもりはないので結局先輩は首を傾げ続けるのだった。
捻くれは沢山いるんだけどな……デレまで行くと
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結衣の事情
それなりに忙しい日々を送っていたら、あっという間に世間は夏休みムードが漂い始めていた。去年の夏は何もなかったけど、今年は先輩と付き合って初めての夏休み。どこかに遊びに行きたいところだが、私の体質と先輩のスケジュールを考えると、遠出は難しいだろう。かといって何もしないでいるのも負けた気分になる。
そんなことを考えながら講義を受けていたので、私のノートは真っ白に近い。夏休みの前に試験やレポートがあるというのに、こんなのでは単位はもらえないだろう。
「結衣先輩、後でノート貸してください」
「良いけど、いろはちゃん考え事でもしてたの?」
「ちょっとだけですけど」
結衣先輩と同じ講義だったので何とかなったが、これが知り合いのいない講義だったら絶望的だっただろう。これからは気を付けて考え事をしなければ。
「結衣先輩は夏休み、何処か行くんですか?」
「千葉に帰るくらいしか予定はないかな。後はバイトをしなきゃいけないし」
「結衣先輩って短期バイトばかりで長期バイトしませんよね。どうしてですか?」
結衣先輩のことだから、長期的に働けないということはないだろう。むしろこの容姿だから店的には結衣先輩を餌に客を確保したいと考えるだろう。結衣先輩はそういった悪意に鈍感なところがあるから、そういう意図を感じ取って長期を断っているということはないだろう。
それ以外の理由を考えるとしたら、結衣先輩の頭が原因なのだろうか。単位を落としたとは聞かないけど、どれも結構ギリギリだったらしいし、バイトに時間を使う余裕が長期休暇くらいしかないから、長くても二ヵ月とかなのかもしれない。
「一回バイトしてたらナンパされてね。そのことをパパとママに話したら、パパが仕送り増やすからバイトするなって怒っちゃって……でも仕送りだけに頼るのもアレだから、短期バイトならいいってママがパパを説得してくれたんだ」
「なるほど……」
どこの家も父親は娘に対して過保護だった。私の父も、私が男たちに襲われそうになったと知っていたら、今頃私は一人暮らしが出来なくなっているだろう。母には話してはいるけど、父にはその話が行っていない。母も父がそんなことを知れば私を実家に連れ戻すだろうと思って話さないでいてくれているのだ。
もしかしたら母も私を実家に連れ戻した方が安全だと思っているのかもしれないけど、私の部屋の隣に頼りになる先輩が生活していると知っていたから、ギリギリのところで見逃してくれていたのかもしれない。その先輩は今、私の彼氏だということも、母にはお見通しだったが。
「いろはちゃんみたいに女性客ばかりのところだったり、裏方仕事なら大丈夫かなって思って相談したこともあるんだけど、やっぱりダメでね……だから長期休暇の時にバイトするだけになってるんだよね」
「バイト先も結衣先輩なら長く働いてほしいと思うですけどね」
能力云々は分からないけど、容姿や性格的にいてほしくないとは思われないだろう。本人がそれを自覚していないからこそいいのだろう。もし結衣先輩が計算して自分の容姿を使いだしたら、それは悪女と言われる類になってしまう。
私のような腹黒ではないからそんな心配はしなくても良いのかもしれないけど、結衣先輩が本気を出したら男性の大半はその誘いに乗りそうだ。先輩はそんな心配しなくても大丈夫だと今のところは言い切れる。何せ私の目の前で結衣先輩をフッたのだから。
「そういえばこの間入ったお店で彩ちゃんが働いてたんだよね」
「戸塚先輩が?」
「うん。ちょっとだけお話ししたんだけど、サークルの後輩の紹介で働き始めたらしいよ」
「戸塚先輩が働いてるのは、ちょっと想像しにくいですね」
先輩以上に、戸塚先輩が働いてる姿は想像できない。こういっちゃ失礼かもしれないが、あの人は働かなくても生きていけそうなイメージがあったから……
「コンビニの仕事なら私も出来るかな」
「意外と忙しいので、誰でもできるわけじゃないですよ? 力仕事とかもありますし、それこそ酔っ払いとか絡んでくる人もいるでしょうし」
「そうだよね……」
戸塚先輩目当てで通ってる男性客がいるかもしれないし、結衣先輩がレジをやっていたら、それ目当てで男性客が増えるだろう。中には結衣先輩を狙う不届き者が――などという展開が容易に想像できる。
そもそも結衣先輩が接客業なんてしたら、勘違い男が続出してしまうだろう。この人はパーソナルスペースが普通の人より狭いので、不快に感じる人もいれば、もしかしたらと勘違いする人もいるのだ。まして結衣先輩が近づいてきたら、あの大きな膨らみが当たりそうになるし。
「いろはちゃん?」
「いえ、結衣先輩も大変だなと思いまして」
「ほんとだよ。パパが過保護すぎて好きにバイトもできないんだから」
「いえ、そういった意味ではなかったんですけど」
「?」
結衣先輩は理解していなかったが、大きければ良いってわけでもないんだなと、かつて結衣先輩の胸に嫉妬していた雪乃先輩を思い出し、私は二人の間くらいで良かったと自分の胸に視線を落としたのだった。
結衣先輩とそんな話をしていた日の翌日、私はバイト先で先輩バイトとそのことを話していた。
「その子も大変ね。ウチの親は『さっさと働け! 自立しろ!』って大学時代から五月蠅かったのに」
「そういう家もあるんですね」
「いやぁ、私があまりにも自堕落だったってのもあるんだろうけどね。普通の家はあそこまで厳しくないと思うけど。もちろん、一色さんの知り合いの家みたいに、過保護すぎるのもアレだろうけど」
先輩バイトは学生時代は自堕落だったようで、実家から追い出されそうになっていたのか。今は一人暮らしだからそんなことはないのだろうけど、きっと家事を何もしていなかったんだろうな……
「その知り合いの人、うちの店なら働けるんじゃない? 男性スタッフも少ないし、男性客もそれほど多くないから」
「そう思ったんですけど、結衣先輩がここで働きだしたら男性客が増えるんじゃないかと思うんですよね。ほら、先輩が働いてた時、それ目当てで女性客が増えたみたいに」
「比企谷君、めったにホールに出てこなかったのに、確かに女性客増えたよね。その後は普通に常連になってくれた人もいるけど」
「結衣先輩が働くなら絶対にホールでしょうから、結衣先輩が出勤の日は男性客だらけになるかもしれません。そうなると私が働けなくなってしまいます。だから誘うのは止めておきました」
「一色さん、まだ男性客の相手はできないもんね。彼氏いるのに」
言葉だけ取れば嫌味を言われているような感じではあるが、先輩バイトは本気で私の体質を心配してくれている。だからではないが、男性客が来たときは私に奥に下がるようすぐ言ってくれるのだ。
「まぁ、比企谷君なら一色さんが警戒しないのも頷けるから、一色さんが彼を彼氏にしたのも納得だよ」
「どういうことですか?」
「ほら、比企谷君ってがつがつしてないでしょ? 異性にだけじゃなく、他人にあまり興味がないっていう感じのタイプだったから、一色さんが警戒しなくても疑問じゃなかったし。その体質になる前からの知り合いってだけじゃない感じもあったから」
「まぁ、あの人は他人に興味ないってのはあってますけど」
「あーあ、私も高校時代にカッコいい先輩に粘着してれば、今頃彼氏がいたのかしら」
「言い方どうにかなりませんかね……」
確かに私は先輩に粘着していた。だが自分でそう思うのと、他人にそう言われるのでは感じ方に違いがあるのだ。不快とはいかなくても、なんとなく腹が立ったりするものだ。
「とりあえず、一色さんの知り合いがこの店で働くことはないのね。ということは、人手不足はまだ続くのか」
「そうは言っても、忙しい時間帯とそうじゃない時間帯の落差が激しいので、トータルしたら忙しくないんですけどね、このお店」
「そうは言っても、人手不足には違いないんだし、一人くらい増やしてほしいわよ」
「ですね」
人員補充を願いながら、私は残りの時間必死に働いたのだった。
人には人の事情があるんです
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思考の中心
今日は先輩が午前中は家庭教師、午後は大学の集まり、夜は居酒屋のバイトと忙しい日なのだが、私は一日オフ。せっかくなら何かしたいところなのだが、生憎私のスケジュール帳は真っ白なのだ。
「こんなことなら何か予定を入れておけばよかった」
今更愚痴ったところで、先輩の予定が変わるわけでも、私に予定が入るわけでもない。だが何か言っておかないと駄目な気がしたので、独り言ちただけである。
「この体質だから、気軽にお出かけ――ってことも難しいし」
男性恐怖症が発症してからというもの、一人で出かけるのも難しくなってしまっているので、休日にブラブラするのも躊躇ってしまっている。誰か一緒ならある程度耐えられるまでは回復してきてはいるので、一緒に出かける相手さえいればこの暇も解消されるだろう。
だが生憎、私の交友関係は広くない。先輩ほどではないにしても、大学に入ってからも一部の女子からは嫌われているようで、私のことを露骨に睨んで来たりしている人もいるほどだ。
だが大学ではそこまで思われるようなことをした覚えはない。これが中学、高校時代なら身に覚えがあっただろうが、今もそう思われているのは心外である。精々大学に遊びに来た先輩や戸塚先輩と話していたくらいだし、その場には結衣先輩もいたので、私一人が恨まれるようなことはないはずなのだ。
もし私だけではなく結衣先輩も一部の女子に睨まれているのだとすれば、それが原因だとはっきりするのだが、今のところ結衣先輩からそんな話を聞いたこともないし、結衣先輩と一緒にいても睨まれているのは私だけだと思うので、結衣先輩が恨まれていることはなさそう――つまり先輩たちが理由でもないのだろう。
そうなってくるといよいよなんで恨まれているのかが分からない。そもそも話したこともない相手に恨まれるほど、私は悪女ではないつもりだし、ぶりっ子キャラも卒業しているからその面で嫌われることもないだろう。もしかしたら過去の私を知っていて嫌っているのかもしれないが、地元でもない大学で悪名が轟くほどのことをした覚えもないのだ。
「先輩にかまけていたから考えてこなかったけど、なんで嫌われてるんだろう、私……」
入学してから既に一年半くらい経っているというのに、今更ながらこのような疑問に頭を悩ませるとは……我ながら自分の問題を後回しにし過ぎではないだろうか。いや、別の問題が大きすぎて、些細な事判定していた交友関係の改善に着手できなかったのか……
私にとって第一に大切だったのが、先輩の興味を引くこと。先輩と一緒に行動して、どうにか雪乃先輩ではなく私と付き合ってもらえないだろうかと画策すること。まぁ、これは成功したし、そもそも先輩は雪乃先輩のことは恋愛対象として見ていなかったのだが。
その次に大切だったのが、生活していくためになんとかすること。実家ではある程度家事を手伝っていたとはいえ、本格的に一人で全てをやったことなどなかった。失敗してもお母さんがなんとかしてくれたし、そもそも手の込んだことなんてしてこなかったのだ。もちろん、私一人だけの為なら今でも手の込んだことなんてしないし、する必要もない。だが先輩に手料理を振舞う際には、少し手の込んだ料理をしなければと意気込んでしまうのだ。
「先輩の方が料理上手なんだけどね……」
私がいくら気合を入れたからと言って、先輩の料理を超えることはない。むしろ先輩との料理の腕の差を実感させられるくらいである。それでも気合を入れてしまうあたり、私も十分乙女なのかもしれない。
「って、今の問題はそこじゃなくて」
ついつい思考が先輩の方向へ流れてしまったので自分自身にツッコミを入れ、私は先ほどの考えに戻る。私自身が交友関係を広げることに重きを置いていなかったのは紛れもない事実、だがそこに恨まれる要素はどこにもない。それなのに何故現在進行で睨まれ、恨まれているのだろうか。
「全く以て思い当たる節がないんだよね……」
そりゃ、大学に入ってからも何人か勘違いした男子に告白されたりはしたけど、それだけで恨まれるなんて思えない。その相手が誰かの彼氏で、私がもてあそんだ挙句にフッたとかならわからなくもないが、私はそんな遊びをしたことはない。むしろ告白された時には既に、私の中の先輩に対する思いが恋だと分かっていたので、鬱陶しかったまであるのだ。その相手一人が逆恨みをしているなら兎も角、その相手となんの関係もない女子たちに恨まれるなどありえないだろう。
それ以外に可能性があるとしたら、やはり容姿なのだろうか。自分で言うのもアレなのだが、私の容姿は客観的に見て可愛らしい部類に入るだろう。高校時代側にいたのが雪乃先輩や結衣先輩、そして戸塚先輩とかだったりしたので自信喪失しかけましたけども、あの空間が異常だっただけで私の容姿は十分上位でやっていけるだろうと自負している。だがそれだと先に上げたように、結衣先輩も睨まれていたり恨まれていたりしなければおかしい。
「結局思考が袋小路に陥ってきた……」
せっかくの休日に解決すらしない思考で時間を割くのはもったいない気がするのだが、他にすることもないので考えてみたものの、結局収穫は無し。
「先輩がいないんじゃ自分でご飯を用意しないと何もないんだった」
一応最低限はしてきているし、買い置きがないなんてこともないので作ろうとすれば作れる。だがここ最近先輩に甘えまくったせいで、自分の為に何かをするという気が起きないのだ。
「仕方がないけど、やらないと生きていけないからな」
一食くらい抜いても死にはしないだろうが、あまり健康に良くはない。私は重い腰を上げてキッチンへ向かい、簡単な料理をするのだった。
午前中は身にならない思考に囚われて何もしなかったが、午後はお誘いがあったので外に出た。
「いろはちゃん、こっちこっち」
「結衣先輩、お誘いありがとうございます」
「よかったよ。いろはちゃんの予定が空いてて」
どうやら結衣先輩も今日一日予定がなかったようで、何をしようか考えた結果集まろうということになったのだ。
「僕もお邪魔して良かったのかな? 二人なら女子会だっただろうに」
「彩ちゃんがいても問題ないと思うよ。むしろ益々可愛くなっててちょっとショックを受けるくらいだし」
「ほんとですよね……これで男性だっていうんだから、神様は何を思って戸塚先輩を現世に顕現させたんでしょうか」
「あはは……一色さん、八幡みたいになってるよ?」
思考が先輩に毒されているのか、ついつい戸塚先輩のことを神の御遣いだと思ってしまった。先輩に影響されていると考えると悪い気はしないけども、気持ちが悪い方向に影響を受けるのはちょっとショックだ。
「ところで、一色さんは八幡と上手く行ってるんだよね?」
「今のところ大きな問題はありませんけど、戸塚先輩の方で何か気になることでもあるんですか?」
「気になるって程じゃないんだけど、八幡って大学内で結構人気が高いから、彼女持ちだって知っててもアタックする人が多いって聞いたことがあるんだ」
「へぇ……」
なんですかその女は! 人のものを横から搔っ攫おうとするなんて、トンビなんですか!――と大声で叫びたいのを我慢して、私は運ばれてきたばかりのコーヒーを一気に飲み干す。
「いろはちゃん、それブラック」
「はい? ――って、苦っ!?」
私が手に取ったのは戸塚先輩が注文したアイスコーヒーだったようで、ガムシロップもミルクも入れる前の状態のものだった。こればっかりは先輩じゃないので飲めはしない。
「戸塚先輩、申し訳ございませんでした」
「あはは、気にしなくていいよ。それだけ八幡に言い寄ってきてる女子が気になっちゃったんでしょう?」
「……はい」
なんだか見透かされているようで正直に答えたくなかったのだが、戸塚先輩相手に嘘を吐く必要もなかったので素直に認め、もう一度頭を下げる。
「確かに八幡の上辺だけしか知らないのに言い寄ってくるなんて腹が立つよね」
「彩ちゃん?」
「いやほら、高校時代の八幡を知ってる身としては、彼の内面も見て好意を抱いてる人を知ってるからさ。今の八幡だけを見て好きになって、内面を知って文句を言ってる人たちがちょっとね」
「あぁ、そういうことでしたか」
あの人の内面を知って、それでも受け入れられる人は多くないだろう。フラれた腹いせに先輩の悪口を言っているのを戸塚先輩に知られたのか。それにしても、今ちょっと戸塚先輩が黒かったような気もするが……
黒戸塚が現れたような……
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他人からの好意
戸塚先輩の話を聞く限り、先輩は大学でモテまくり――というわけではなく、一部女子からの人気が高く、彼女がいると知っていながらも告白してくる人が数人いるらしい。
「サークルの後輩からも、八幡の彼女のことを聞かれたりもしたしね」
「先輩の話では、サークルの女子の大半は戸塚先輩狙いだって聞いてたんですけど」
「全員が全員、僕のことが好きなわけないよ。それに、僕より八幡の方が頼りになりそうだと思うのは自然だと思うよ。僕はほら、こんな見た目だから」
戸塚先輩は確かに女性顔だとは思うが、頼り甲斐がないという感じは受けない。それは最低限鍛えているからというだけではなく、いざという時にしっかりと物事を言える人だということを知っているからだろうか。
結衣先輩も同じように思っているのか、何か否定の言葉を捻りだそうとしているが、どう言えばいいのか分からないという顔をしている。
「確かにヒッキーの方が頼りになりそうだとは思うけど、それだけで彩ちゃんのことを判断するのは違うと思うんだけどな」
「もちろんそれだけじゃないとは思うよ。大学生になってからの八幡は目にある程度活力が宿ってるから、高校時代のゾンビみたいな見た目じゃないしね。高校時代もあれはあれでカッコよかったのかもしれないけど、今は見てすぐにカッコいいって分かるような見た目だからね。私服だというのも相まってるのかもしれないけど」
確かに先輩の私服姿はカッコいいと高校時代に思ったことがある。もちろんそれ以外もカッコいいと思ったことはあるけど、それを本人に言ったことはない。言ったら負けだと思っていたから。
だってせっかくおしゃれして待ち合わせに行った私のことは褒めないのに、私が先輩のことを褒めるなんてできない。せめて先輩が先に私のことを褒めていたら、私だって褒めていただろうに。
「……あれ?」
「いろはちゃん、どうしたの?」
「いえ……」
高校時代のお出かけのことを思いだしていたら、最近のデートのことを思いだして私は思わず声を漏らした。そういえば私、先輩の容姿のことを褒めたことあったっけ? そして私がおしゃれしたことを褒めてもらったことってあったっけ?
なんとなくボソッと褒められたことなら何度かある――あの人は捻デレだから真正面から褒めるなんてできないのかもしれないけど、どうせなら真正面から分かりやすく褒められたい。私ばかり先輩のことが好きって感じで、先輩は本当に私のことが好きなのだろうかと不安になるのだ。そうした不安を払拭するのにはやはり、先輩に褒めてもらうのが一番だろう。
「でも一色さんは本当に八幡から愛されてるんだね」
「はい?」
いったい何を見て戸塚先輩がそんなことを言い出したのか分からず、私は思わず小首をかしげる。今日の私のコーデに先輩に愛されている要素なんてどこにあったというのだろうか。
「その指輪、八幡が誕生日にプレゼントしたやつだよね?」
「あぁ、このピンキーリングですか? そうですね、先輩から貰ったものです」
「僕が知ってる限りだけど、誰かの誕生日にそうやって形が残るものをプレゼントしたのって、そんなに多くないし」
「私はサブレの首輪を貰ったけど、確かにヒッキーからのプレゼントって多くないかも」
「元々交友関係が狭かったってのもあるけど、そうやって普段から身に着けられるものをプレゼントしたってことは、ちゃんと一色さんのことを想ってるってことなんだろうしね」
確かに貰った時は嬉しかったし、先輩がちゃんと私のことを考えてくれているんだと思ったけど、ずっと身に着けているとそういう気持ちは薄れてくる。何時までも浮かれてたら怪しくてしょうがないだろうし、身に着けてるのが普通になったということなのだろう。
だが外から見たらこの指輪が先輩が私のことをちゃんと好きでいてくれているという証拠になるのだろう。そう考えると、常に着けて周りを牽制していたということになるのだろうか?
少なくとも私の前で先輩にちょっかいを出そうとする女性はいなかったし、ウチの大学でも先輩のことを狙おうと画策している女子がいるという噂は聞いたことがない。まぁ、結衣先輩でダメだったんだからそれ以上の容姿を持った人間がどれだけウチの大学にいるんだという話もあるかもしれないけど。
「八幡はああ見えて硬派だから、女子と二人きりになるようなシチュエーションは避けているし、もしそういうシチュエーションになったとしても、他人が全くいない空間にはいかないだろうしね。絶対に誰かの目が届くような場所で話してる」
「そうなんですか?」
「この間玉縄君が偶々女子と二人きりで話してる八幡を見かけたらしいんだけど、わざわざ目立つような場所に移動してたって言ってたからね。人前では話しにくかったのかもしれないけど、人目がない場所は八幡が嫌ったから折衷案としてそうなったんじゃないかって」
「そうですか」
今度先輩に聞きださなければいけないことが出来たと、私は心の中で先輩に詰め寄る決意をする。私以外の女性と二人きりになるなとは言えない。先輩のバイト上、どうしても二人きりにならなければならないだろうから。
だがそれ以外の女子と二人きりというのは、やっぱりどうしても面白くない。小町さん相手でも嫉妬するのだから、全くの赤の他人と二人きりでいるところを見たら発狂する自信まである。それくらい私は先輩のことを想っているのだ。
「まぁヒッキーは疑り深い性格だから、告白されても宗教の勧誘とか思いそうだけどね」
「付き合いがない相手からいきなり告白されたとしたら、ありえそうですね」
「はは、確かにそんなことを話してたよ。いきなり勧誘されても興味ないんだけどって」
「女子からしたら必死の告白だったのかもしれないけど、ヒッキーからしてみたら余計に怪しく見えちゃったんだろうね」
私や結衣先輩、更には雪乃先輩はある程度以上先輩との関係を構築してから告白したから疑われなかったが、あの人は基本的に人からの好意に懐疑的な人間だ。見ず知らず――もしくは付き合いの浅い相手から告白されても信じないだろう。
「普通に断っただけだから、八幡の悪い噂が出回ることもないし、そもそも人目があるところで断ってるから、嘘を言い触らすことも出来ないしね」
「先輩なら嘘を吹聴されても気にしなさそうですけどね」
あの人は他人から悪い評価をされても気にしない――振り回されないだけの強靭な精神の持ち主だから。そうでなければ、高校時代の悪行三昧で評価最悪の中普通に登校なんてできなかっただろう。まぁ、戸塚先輩や川崎先輩のように、先輩のことを理解してる相手がいたからなのかもしれないけど。
だがもしそうだとしたら、大学でも問題なく生活できるということになる。戸塚先輩はいるし、材木座先輩や玉縄さんといった、先輩のことを理解して付き合っている友人がいるのだから。
先輩のことを問い詰めようと思っていたのだが、先輩が帰ってくるのが遅かったので日を跨いでしまった。そんな時間に訪ねてきたというのに、先輩は変な妄想はせずに変わらず嫌そうな顔で私を出迎えた。
「いったい何の用なんですかね? 今日はいろいろあって疲れてるんですけど」
「先輩、大学でモテモテみたいですね」
「戸塚にでも聞いたのか? 殆ど知らない相手にモテたって仕方ないだろ。てか、最初は本気で宗教の勧誘だと思ったくらいだ」
「相変わらず人からの好意を素直に受け取れないんですね」
「いろはや由比ヶ浜のように、付き合いが長い相手からの好意は素直に受け取っただろ」
「そうですねー」
この人に信じてもらうにはかなり長い時間が必要なのだろう。まぁ、出会ってすぐ信じられた戸塚先輩は兎も角として。
「それに、彼女がいるんだから他の女子から告白されても嬉しくない」
「そうなんですか? 自分が人気者だって知れて良いじゃないですか」
「そもそも目立つようなことはしたくないんだよ。悪目立ちし過ぎた人間が言う台詞じゃないかもしれないけどな」
「先輩の悪行にはちゃんと理由があったとはいえ、裏事情を知ろうとしなければただの最悪な人ですからね」
私の言葉に先輩はがっくりと肩を落としてキッチンへ消えていった。とどめを刺したつもりはないが、やはり先輩は高校時代の事をそれなりに気にしているようだ。
好感度は高いでしょうしね
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交流の難しさ
私は今、夢を見ている。何故そう言い切れるのかと言うと、先輩が私以外の女性と仲良さそうに歩いているのを私が見ているからだ。あの先輩が浮気なんてするはずないし、もししたとしてもこんなあからさまなことはしないだろう。理由としては弱いかもしれないが、これが夢だということは間違いないと断言できる。それくらい私は先輩のことを信じているのだ。
「……はぁ、なんて夢見てるのよ」
目を覚ましても夢の内容を覚えており、私は起き抜けにそんなことを愚痴る。高校時代雪乃先輩や結衣先輩と仲良さそうにしているのは見たことあるが、そういった感じではなかった。あれは完全に付き合っている雰囲気だったし、先輩も非常に楽しそうな表情をしていた。
そんな先輩を見て――夢の中ではあるが――私は少し不安になってきた。私と一緒にいる時の先輩の表情と言えば、たいていが仏頂面か呆れ顔のどちらかでしかない。あんなふうに楽しそうな表情を見た記憶なんて数えるくらいしかないのだ。
「もしかして、先輩って私といても楽しくないのかな?」
私と結衣先輩の両方から告白され驚いてはいたが、ちゃんと先輩の気持ちは聞いたので、流れで選んだとかそういうことはないはずなのだけど、どうしても不安になってしまう。もしかしたら先輩は、私と惰性で付き合ってくれているのではないか、と。
付き合いだしてまだ一年にも満たないというのに、何故こんなことで頭を悩ませなければいけないのか。それもこれも、あんな夢を見た私の所為――ではなく仏頂面ばっかな先輩が悪い。
「完全に責任転嫁だなぁ……」
先輩が仏頂面ばかりなのは、私がしょっちゅう先輩の部屋に突撃したりしているからであって、先輩の所為ではないということは分かっている。それでも、先輩の所為にしておかないと精神的安寧が保てなくなると分かっているからそうしたに過ぎない。それくらい今の私は、夢の内容にショックを受けている。
所詮夢だと割り切ることは簡単だろう。だけどあんな先輩の表情を私以外の女性に向けていると思うと、どうしても胸が痛むのだ。もしかしたら大学では、あんな表情をしているのではないかという、ありもしない疑問が私の中に芽生え、心を蝕んでいく。
「今すぐにでも先輩に確認したい。でも、こんなことを話せばまた呆れられるだろうし……」
先日戸塚先輩から大学での先輩のことを聞いたばかりなので、ほぼあり得ないと分かってはいる。それでもなんて思ってしまうとは、私は自分が思っている以上に独占欲が強く、嫉妬深いのだろう。
高校時代は自分の評価を上げるために目立つ相手と付き合おうなんて思っていたくらい、相手の事なんて考えてなかったのに、今は先輩のことで頭がいっぱい。私は先輩に変えられてしまったのだろうか。それとも、自分で気づいていなかっただけで、葉山先輩相手にも結構本気だったのだろうか。
「たぶん、先輩に出会って変わったんだろうな」
改めて思っても、葉山先輩に対して本気だったという気持ちは湧いてこない。三浦先輩のように本気で付き合いたいと思っていなかったと言い切れる。私の葉山先輩に対しての想いなんて、所詮その程度だったのだろう。だって、葉山先輩が他の女子と楽しそうに話しているのを見たことあるが、今のような精神状態になっていなかった。逆に考えれば、それくらい私が先輩に対して本気だという証拠でもある。
「どうしてあんな夢を見ちゃったんだろう……」
夢というのは記憶の整理――なんて言われているが、願望の現れということも聞く。私にそういった性癖はないので、彼氏を盗られたいという願望はない。そうなると先輩の隣にいる女性が自分だったらなという妄想が具現化して、その光景を自分が見ていたということだろうか。だとすればかなり中途半端な夢だった。
「それならそうと、ちゃんと隣の女性を私で表現しなさいよ」
私の妄想力が足りなかったからなのか、それとも私と一緒にいる時に先輩が楽しそうにしているのを想像できなかったのかは分からないが、私の願望だというのならそれくらいの融通は利かせてほしかった。そうすればこんな悶々とした気持ちを抱かなくてもよかったのにと。
目覚めてから暫くはそんな思いに囚われていたけど、何時までも横になっているわけにもいかないので無理矢理起き上がり顔を洗い思考をリセットする。今日は午後から講義があり、単位に重要な説明があるのだ。こんな気持ちで講義に出ても単位がもらえないかもしれないと、無理矢理思考を切り替える。
「これで単位を落としたら先輩の所為ですからね」
既に出かけているであろう先輩の部屋の方を睨みながら、私はそんなことを愚痴る。これも責任転嫁でしかないが、そうでもしないと気持ちを切り替えられないのだ。
「はぁ……こんなこと、誰に相談すればいいのよ」
友人や結衣先輩、小町さんにこんなこと相談しても解決しないだろうし、先輩本人に相談なんてできるわけがない。大学に向かう道中、結局私の思考は今朝の夢に支配され続けたのだった。
講義中は単位のことで忘れられていたが、講義が終わり緊張感から解放されると再び今朝の夢が私の思考を占領する。きっかけは見ず知らずの男女が楽しそうにしている光景を見てしまったからだろう。
「いろは、そんなところに立ち尽くしてどうしたの?」
「ちょっとね……」
「なに? 彼氏持ちのあんたが今更他のカップル見て羨ましがってるわけじゃないでしょ?」
「理由は違うけど、羨ましがってるのかもしれない」
「はぁ?」
友人に怪訝がられたので、私は諦めて今朝の夢を話すことにした。事情を説明するためにはどうしても、今朝の夢の内容を話さなければいけないから。
「――というわけ」
「つまり、彼氏が自分と一緒にいても楽しそうじゃないんじゃないかって不安と、そのうち捨てられて別の相手と楽しそうにしてる場面を見ちゃうんじゃないかって不安がいろはの思考を占領してるってこと?」
「少しは手加減して……」
ドストレートの表現されると別の理由でダメージを負う。だが正確に表現すると、そういうことなのだろう。
「あんたねぇ……あの結衣さんと比べられて選ばれたっていうのに、どうしてそんなに自信ないのよ。構内人気ナンバーワンとすら言われている結衣さんに勝ったのよ? それだけで十分自信になると思うんだけど」
「結衣先輩に勝ったって言われても、やっぱり不安になっちゃうんだよ……こんなこと考えてるなんて、結衣先輩にも先輩にも失礼だってことも分かってる。それでもね」
「彼氏がいない私に対する当てつけ、って訳でもなさそうだし、本気で悩んでるんでしょう。それが分かった上であえて言わせて」
「なに?」
友人が真顔になったので、私も顔を上げて友人に視線を向ける。私の気持ちを理解した上で何を言うというのだろうか。
「馬鹿じゃないの」
「なっ……人が真剣に悩んでるっていうのに」
「だって、いもしないライバルに不安を抱いて、自分のことを選んでくれた彼氏の気持ちが信じられないんでしょう? 今のいろはは紛れもなく馬鹿だよ」
「うっ……」
友人の言葉が私に突き刺さる。一切の容赦のない口撃に、私はさっきとは違うダメージを心に負う。だが友人はお構いなしに口撃を続けてくる。
「そんな風に思ってしまうのなら、あんたたちは長続きしないでしょうね。今からでも遅くないから、結衣さんに彼氏を譲ったら」
「そんなことしない! 先輩の気持ちは結衣先輩じゃなくて私に向いてるんだから」
「だったらもう少し彼氏のことを信用しなさいよ。仏頂面だろうが呆れ顔だろうが、彼氏はあんたと一緒にいてくれてるんでしょう?」
「そうだけどさ……もうちょっと楽しんでもらいたいって思うのは悪いことなのかな?」
「そんなの、彼氏がいない私に聞かれても分かるわけないでしょ。誰か彼氏がいる相手に聞きなさいよ」
「最後の最後に突き放さないでよ」
一番知りたかった答えは得られなかったが、友人のお陰で先輩の気持ちに疑問を抱くことは無くなった。それだけでだいぶ楽になれたので、私は心の中で友人にお礼を言う。
「(ありがとう)」
直接言わないのは、言えば絶対に付け上がって何か奢れと言われると分かっているから。決して気恥ずかしいとかではない。
絶賛コロナ中…
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未来予想図
決意を新たにしたとはいえ、そう簡単に行動に移せるのなら苦労しない。それが分かっているから頭を悩ませているのであり、どう行動すればいいのか分からないから先へ進めていないのである。
などと哲学的に考えてみたものの、最初から答えなどないのだから考えるだけ無駄だと思う反面、どうしても答えを欲して思考の坩堝に陥ってしまいかけているのだ。
「いろはちゃん、さっきから難しい顔してるね」
「はぁ……」
「あれ? おーい、いろはちゃん?」
「どうすればいいんだろうな……」
先輩に楽しんでもらうにはどうすればいいのかなんて、誰に相談しても答えなんて出ないだろう。あの小町さんですら、あっという間に白旗を上げるであろう難問を、私一人で解決しなければならないのだ。多少気分が落ちてしまっても仕方がないだろう。
「いろはちゃん、聞こえてる?」
そもそも私は高校時代から考えてみても、先輩が楽しそうにしている顔なんて見たことがないかもしれない。悪だくみをしている時は少し楽しそうではあったが、私が見たいのはああいった類の表情ではなく、純粋に楽しんでいる顔だ。――そもそも、そんな表情を本当にするのかは分からないが。
以前結衣先輩に聞いたことがあるが、マックスコーヒーの自販機を目の前にしたときはかなりテンションが上がっていたそうだが、それ以外で何かないのだろうか……
「でも、結衣先輩に頼るのはなぁ……」
「私がなに?」
「? ……結衣先輩、何時からそこにいました?」
「結構前から。声かけてたんだけど」
どうやら長い時間結衣先輩のことを無視していたようで、私は慌てて頭を下げる。結衣先輩も私が考え事をしているんだろうということは分かっていたので、集中していたと伝えると許してくれた。
「それで、いろはちゃんは何を考えてたの?」
「いろいろです。単位のこととか、私生活のこととか」
「私の名前が出たのは?」
「講義中も別のことを考えちゃって、ノートを取らなかったりしちゃうので、その都度結衣先輩を頼るもの悪い気がしまして」
とっさに吐いた嘘だが、過去に何度かやらかしているのでそれなりに信憑性はあるだろう。現に数日前も講義中に上の空でノートが真っ白だったばかりだし。
「そんなこと気にしなくてもいいのに。私だっていろはちゃんに分からない箇所を聞いたりしてるんだし、義母&テイルだよ」
「義母&テイル?」
「あっ間違えた。ギブ&テイク」
相変わらず語彙力に問題があるようで、結衣先輩は度々このような言い間違いをする。付き合いが長い私は気にしないのだが、大学からの付き合いの相手にはわざとではないかと疑われるくらいだ。
何故わざとだと疑われているのかと言うと、結衣先輩が言い間違えると男子たちが盛り上がるから、結衣先輩がそれを狙っているのではないかと思われているのである。そんなことを結衣先輩が狙って何の得があるのかとは思うが、結衣先輩の見た目におバカキャラが相まってさらに人気が高まっているのだから仕方がないのかもしれない。私だって、先輩という彼氏がいなかったら少し焦っていたかもしれないくらい、結衣先輩は魅力的な女性だから。
「兎に角、私で助けられることならなんでも頼ってくれていいよ。いろはちゃんのお手伝いができるなら私も嬉しいし」
「ありがとうございます。本当にどうしようもなくなった時には相談させてもらいますね」
「うん! ……なんだかあまり頼りにされてない気がするのは気のせい?」
「気のせいですよ。結衣先輩のことは、最後の最後に頼らせてもらいます」
「やっぱり信頼度なさげだし!?」
結衣先輩をからかって冷静さを取り戻せたので、私は取り留めもない話題で結衣先輩の興味を逸らす。決して私が先輩のことで頭を悩ませているなどと知られないように。
別に知られたからと言って何かがあるわけではないだろうけども、少しでも隙を見せたら横から掻っ攫われそうだから。もちろん、結衣先輩がそんな性格の悪いことをするとは思っていないが、この人はフラれてすぐに諦めない宣言をしたくらい先輩のことが好きなのだ。私と先輩の関係が上手く行っていないと知られれば、心配してくれるのと同時に割り込んでくるかもしれない。それくらいの危険人物なのだ。
結衣先輩が頑張っても先輩が相手をしない可能性の方が高いと分かってはいる。だが健気な女の子が魅力的に映るというのは女の私でも理解できる。ましてや結衣先輩には、小動物的な可愛らしさと暴力的な二つの膨らみがある。あれに抵抗するのは難しいだろう。それこそ、鋼の意志を持つ先輩でも、コロッとイってしまいそうなくらいに。
「単位と言えばこの間カオリンが言ってたんだけど」
「折本さん?」
「うん。そろそろ就職活動とか考えなきゃって。ヒッキーもそういうのあるのかな?」
「そりゃあるとは思いますけど……」
そもそもどんな職に就くにしろ、そういう活動をしなければ得られるわけがない。先輩の場合は学部が特殊なので、活動というよりかは試験なのかもしれないが、そもそも本当に法曹界に入るのかはまだ分からない。もしそうなら、今後ますます私との時間は減ってしまうのだろうか。
結局結衣先輩に先輩のことを相談することはなく、私は部屋に帰ろうとして――
「いろはお義姉ちゃん確保! さぁ、これから女子会ですよ!」
――第一歩目を踏み出すことなく小町さんに捕まり、そのまま結衣先輩と三人で構内ではないカフェに連行されてしまった。
「いきなりなんですか」
「まぁまぁお義姉ちゃん。小町は今日、とっても暇なのです。本当はお兄ちゃんの部屋に突撃してそのままお泊りでもしようかとも思ってたんですけど、あのゴミいちゃん、小町の訪問を拒否したので」
「珍しいこともあるんだね」
結衣先輩が言うように、あの先輩が小町さんの訪問を拒否するなんて、かなり珍しいことだと私も思った。高校時代と比べればだいぶマシになってきているとはいえ、あの人は生粋のシスコンだからなぁ……
「何でも今日は忙しいので小町の相手をしている暇はないんだそうです」
「ヒッキーが小町ちゃんより優先しなきゃいけない用事って何だろうね」
「まぁ、兄も大学三年生ですし、いろいろとあるんだということは分かるんですけど、それでも小町を蔑ろにするのはポイント低すぎですよね。なのでお兄ちゃんの不始末は彼女のいろは先輩に取ってもらおうと思いまして」
「なんで私!?」
完全なるとばっちりでしかない。本当なら部屋に戻って先輩のことで頭を悩ませたかったのに、その妹の小町さんに邪魔されるだなんて……
「とまぁ、茶番はこれくらいにして」
「茶番だったの!?」
「兄はゼミの集まりで日を跨ぐらしいので部屋にいないのです。なので小町も帰らなければいけないんですが、ただ帰るのも面白くないのでこうしてお茶にお誘いしたんです」
「なら普通に誘ってください。強制連行みたいで嫌なんですけど」
みたいというか、ほぼ強制連行だったが、そこは言っても響かないだろうから何も言わない。この子も先輩の妹というだけあって良い性格してるから。
「細かいことは気にしちゃダメです。いろは先輩には結構耳寄りな情報があるので」
「なんですか?」
「お兄ちゃん、結構本気で司法試験受けるみたいです」
「そ、そうなんですか。でも、それがどうして私にとって耳寄りな情報になるんですか?」
「だって弁護士夫人ですよ? 上手く行けば将来ウハウハですし」
「下衆い……」
「小町ちゃんって、やっぱりヒッキーの妹だよね」
私だけではなく結衣先輩も若干引いているのを見て、小町さんは軽く咳ばらいをして話を続ける。
「冗談はさておき、兄が職に就く意識があるというのは確かですから、いろは先輩が兄を養わなければいけないということはなさそうですよ」
「それはまぁ、前々からなんとなく分かってましたけど」
「おや? 結婚するつもりはあるんですね」
「なっ!?」
最後の最後でからかわれたのだと分かり、私は顔を真っ赤にする。世間は私のことを小悪魔系だとかいうけど、小町さんの方がよっぽど小悪魔ですよね……
さすが八幡の妹
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進展させる難しさ
小町さんにからかわれたのが悔しくて、私はどうにかして話題を変えられないか思考を巡らす。だが私が動揺しているのをこの小悪魔が見逃すわけがなく、人の悪い笑みを浮かべながらさらにからかいに来た。
「これは本当にいろはお義姉ちゃんになる日は近いんじゃないですかね~。もしかして小町、そろそろ小姑になるんですか?」
「そ、そんなことはないのでわくわくしないでください」
「小町としては、小姑になるなら可愛い甥か姪の顔を見たいところですが、奥手のいろは先輩はまだ兄にそういうことを強請ったりしてないんですよね? お兄ちゃんの方もそういう欲があるのかどうか分からない感じですし」
「さっきからなんなんですか!?」
小町さんのからかいがきつ過ぎて、私は思わず声を荒げる。小町さんの方も私がここまで動揺するとは思っていなかったのか、これ以上のからかいはヤバいと思ってくれたようだ。
「小町ちゃんも遊びすぎ。いろはちゃんをイジメて楽しいの?」
「イジメてるわけじゃないですよ。義姉妹のコミュニケーションといいますか、兄を盗られたことに対するちょっとした仕返しといいますか」
「盗られたって、ヒッキーは小町ちゃんのお兄ちゃんであることには変わらないでしょ?」
「そう言うことではないんですよ」
小町さんはかなりのブラコンで、先輩が自分に構ってくれる時間が減ったことが気に入らないのだろう。だが先輩が妹離れすることを望んでもいた節があるので、あまり堂々と嫉妬するのは避けたいと思っているのだろう。
だがそれでもブラコン部分が強すぎて私に対する当たりがキツくなるのは仕方がないと本人は思っているようだが、キツく当たられる身からすると堪ったものではない。先輩との仲を進展させられなくて悩んでいるというのに、その妹の件でも頭を悩ませなければいけないのだから。
結衣先輩が小町さんの相手をしてくれている間に、私は平常心を取り戻そうと飲み物を口に運ぶ。今回は慌て過ぎて先輩のコーヒーを間違って飲むなどというミスを犯すことなく、しっかりと自分のミルクティーを飲んで冷静さを取り戻す。
「さっきの話ですけど、先輩が今から本格的に司法試験の勉強をしたとして、合格できるんですかね?」
「兄は容量が良いので、今からでも十分間に合うと思いますよ。まぁ、失敗したら別の道もあるでしょうし。ゼミの教授からも気に入られているので、就職先くらい見つけてくれるでしょう」
「そんなことがあるんですか?」
「さぁ? 小町は知りませんけど」
相変わらずいい加減なことを言う小町さんに、私は苛立ちを覚えたがそれを覚られることはしない。先輩との関係を続けていく上では、この妹はどうしても避けられない相手だ。ならば良好な関係を築いていた方が後々楽ができるから。
本音を言えば、小町さんと今後も関わっていかなければいけないのはかなり厳しい。この子は高校時代からなんとなく苦手だったし、先輩と付き合いだしてからはますます遠慮が無くなってきたから。だがそれは小町さんが素の状況で私に接してくれているという証拠でもあるので、あまり無碍にして先輩に報告でもされたらどうなるか分からないのだ。
「(相手をするにしても無視するにしても、気を使わなければいけない相手なんですよね……)」
先輩がシスコンじゃなかったらここまで頭を悩ませる必要はなかっただろう。だがあの人はあの人でかなりのシスコンっぷりを発揮するから、その大切な妹を邪険に扱う彼女なんていらないとか思うかもしれない。そんなことはないと思いたいのだが、あの人のシスコンっぷりは相当な物なのでありえない話ではないのだ。それこそ、私と小町さん、どちらかしか選べないとなったら小町さんを選びそうなくらいに。
そりゃ、付き合って半年の彼女と二十年近く家族として側にいた小町さんのどちらかしか選べないとなったら、家族を選ぶ可能性だってあるでしょう。でもそういったことではなく小町さんに負けるのはなんとなく受け入れられない私がいるのだ。
「(同族嫌悪……とは違うんでしょうね)」
どことなく似ているとは思いますが、私と小町さんは同族ではない。私は結構作っていたけど、この子は天然の小悪魔だから。それでいて同性にも人気が高いとか、ほんとどういう生き方をしたらそんな風になれるのだろうかと本気で妬んだ時もあるくらいだ。
「いろはちゃん、さっきから黙っちゃったけど怒ってるの?」
「ちょっとした冗談ですから怒らないでくださいよ~」
「怒ってないですよ。ただちょっと、どうやったら上手く行くのか考えているだけです」
「上手く?」
「いえ、こっちの話です」
こればっかりは結衣先輩は無関係だろう、私と小町さんの関係なんて……いくらお人好しの結衣先輩だって、ある意味恋敵の人間関係まで取り持ちたくはないだろうし。
「兎に角、小町としてはいろは先輩とバチバチしてお兄ちゃんに怒られたくないので、ここは仲直りと行きましょうよ」
「だから、怒ってないですって――先輩が小町さんを怒るんですか?」
「そんなに意外ですか? お兄ちゃんは結構小町のこと怒りますよ? まぁ、主に小町が踏み込み過ぎて怒られるんですけど」
「あぁ~……」
その光景はなんとなく想像できる。先輩はあまり踏み込んでほしくないと思っている人だし、小町さんは結構無遠慮に踏み込んでくる人だ。いくら兄妹とはいえ、それは許せなかったんだろうな。
「それで納得されるのは複雑ですけど、いろは先輩が思ってるほど、お兄ちゃんは小町に優しくないんですよ」
「そうですかね?」
外から見てる分には、だいぶ優しい兄だとは思うのだけど、内側にいる小町さんからするとそうではないらしい。そう思ったのは私だけなのかと結衣先輩を見ると、結衣先輩も意外そうな顔をしている。
「ヒッキー、かなり小町ちゃんに優しいと思うけど」
「そうですかね?」
「うん。いろはちゃんには甘いけど、小町ちゃんにはそれ以上って感じがする」
「それって、私が妹扱いされてるってことですか?」
「ううん、それとは違う感じだよ。高校の時から思ってたけど、ヒッキーっていろはちゃんのお願いとか嫌々言いながらも聞いてたし」
それは確かに私も感じていた。あの他人に興味がない先輩が、いくら泣き顔を見たからと言ってただの後輩のお願いをあそこまで聞いてくれたのだ。お人好しというにはお世辞にも愛想がないあの人が、私のお願いだけは聞いてくれたのだ。しかも、かなりの無理難題を。
「あの時からヒッキーの中ではいろはちゃんは特別だったのかもしれないね」
「あの人の中で特別だったのは奉仕部だと思いますよ。だからあの空間を壊したくなかったから雪乃先輩や結衣先輩に対して恋愛感情を抱かないようにしていたのかと」
「そうなのかな? 私はヒッキーとゆきのんが付き合ってもあの場所にはいっただろうし、逆だったとしてもそうだと思う」
結衣先輩は兎も角、雪乃先輩はどうだろう。あの人は先輩が自分以外の女性と付き合っているのを間近で見せつけられるのを耐えられるとは思えない。部長という立場から先輩を追い出すまであると思う。
「まぁ、結衣さんもだいぶ特別だと思いますけどね。お兄ちゃんが女の子の家に行ったのは、小町が知る限り雪乃さんと結衣さんだけですから」
「そういえば、うちには来たことなかったですね」
「今はしょっちゅう行き来してるんじゃないですか?」
「……私が先輩の部屋に入り浸ってるだけで、先輩が私の部屋に来ることは殆どないです」
改めて考えると、私って先輩の部屋に行きすぎなのじゃないだろうか……もちろん、疚しい気持ちなどなく単純に一緒にいたいだけだから、今のところ先輩に本気で拒否されたことはない。だがもし、そういう気持ちが芽生えて先輩に強請ったら、今後部屋に入るのが難しくなるのだろうか……
「また考えこんじゃった」
「恋する乙女は忙しいんですね」
結衣先輩と小町さんが私の顔の前で手を振っているが、それに反応するリソースは残ってない。私は今後の付き合い方を本気で考え直した方がいいと思考の全てを先輩に使っているから。結局その後も小町さんにからかわれたり結衣先輩に羨ましがられたりしながらも、私の思考の殆どは先輩によって支配されていたのだった。
小町が絶好調だったな
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会えない苦しみ
三人でのお茶会を終えて解散し、私の足は先輩の部屋へ向かいかけて、小町さんの言葉を思い出してそのまま自分の部屋へと入る。いつもならば先輩の部屋に突撃して愚痴の一つや二つ――では済まないくらいの時間を過ごすのだが、本気で司法試験に臨むのならば私に時間を割くのは避けた方がいいだろうと思ったから。まぁ、時間を割かせている私が言うのもおかしな話ではあるが……
自分の部屋に入り鍵をかけてから、こうして直帰したのはいつぶりだろうと考えてみるが、少なくともここ最近直帰した記憶はない。絶対先輩の部屋に突撃して、そのままお泊りしたまである記憶の方がはるかに多い。そう考えると私は先輩に依存し過ぎなのではないかと思えてくる……
「結衣先輩や雪乃先輩と同じ轍を踏みそうな感じがしてきた……」
あの二人は告白段階でフラれているが、私は一応その場面は突破している。その時点で同じ轍とは言えないのかもしれないけど、このままでは先輩に依存しているだけの存在になってしまうのではないだろうか。ただでさえ先輩に甘えまくってなんとか生徒会長を務めているなんて噂されていたくらいなのに、このままでは先輩が居なければ生活できない自堕落娘なんて思われてしまうのではないだろうか。それだけは絶対に避けなければいけない。
だが、そう決意したところで今更ではないだろうかという疑問が私の中に生まれてくる。付き合ってからと言うもの殆ど先輩に料理をお願いしたり一人で出かけられないからと理由付けをして先輩を連れ出したりしているのだ。既に先輩が居なければ外出も難しいと思われているのだから、今更決意しなくてもいいのではないだろうか。
「……いや、これまでとは理由が違う。先輩の人生が懸かっているんだから、これ以上私が邪魔をしたらいけない」
先輩の人生=私の今後になるかもしれないのだ。もちろん私に関係なかったとしても先輩には頑張ってもらいたいし、そのせいで少し疎遠になるとしても我慢しなければいけないのだろう。だがどうしても先輩に会いたい。先輩と話したい。そういう気持ちがゼロになるかと問われれば、そんなことはあり得ない。それくらい私の中で先輩の存在は大きくなってしまっているのだ。
先輩が高校を卒業した後に気づいた気持ち、それが再会して大きくなり私から告白。そして先輩と付き合いだしたのだ。私の中から先輩に対する想いが消えるなんてありえない。蓋をしようにも溢れ出てしまうのも仕方がないのだ。
そう私の中で結論付けたところで、先輩が私のこの気持ちを受け止めてくれるかは別問題。先輩が自分のことを優先するかもしれない可能性だってあるのだ。もちろんそうなったとしても文句は言えないし、これまで先輩がどれだけ私の為に時間を割いてくれたかを考えれば感謝しなければいけないんだろう。だが、そう割り切れないから頭を悩ませているのだ。
「どうすればいいんだろう……」
こういう壁にぶつかった時に相談してきた相手は先輩だ。だが今回は先輩に関係していることなので先輩を頼ることはできない。ここで先輩を頼ったら意味がないし、結局は先輩が居なければ何もできないという評価を覆すことにはならないだろう。
そうなってくると頼れる相手は限られてくる。だが相談したところで解決できるかという問題を度外視しなければならないという難点があるのだが……
「結衣先輩はこういう時に役に立たないだろうし、友達は『彼氏がいない私に対する嫌味か』と言ってきそうだし、かといって折本さんに相談するわけにもいかないし……」
交友関係の狭さに絶望しながら、どうすればいいのか分からないという思考の袋小路に迷い込む。一番簡単で確実な解決策があるというのに、それを選択できない私の弱さ……
「先輩に会わなければいいなんて、我慢できる気がしない……」
隣に恋人がいるというのに会えない。触れ合えない。そんな時間を想像して私は泣きそうになる。再会するまで一年くらいは会ってなかったというのに、たった数日だけで限界が訪れそうな予感がしてならない。
「先輩、私……こんなに弱くなってたんですね」
元々強かった自覚はないが、多少の我慢は出来ていたと思う。だが先輩と恋人になって、先輩に甘えまくってたせいで、私は自分が弱くなったと実感した。先輩に会えないという想像だけで泣きそうになるなんて、付き合う前の私に言ったところで信じてくれないだろうな。
「高校時代の私に言ったら笑われるまであるだろうな……」
あの時の私は、先輩に対する恋心を自覚していなかった――いや、認めようとしなかったのかもしれない。あの時の私は――というか先輩は、周りからの評価があまり良くなかったので、その人と仲良くなるなんて認めたくなかったのだろう。それでも付き纏っていたのだから、半分くらいは認めていたんだろうが。
何よりあの時先輩の周りには雪乃先輩や結衣先輩が常にいたし、それ以外に川崎先輩なども先輩の側にいた。私が先輩の隣を確保するのは今よりも難しかっただろう。だから無自覚に諦めていたのかもしれない。
「はぁ……とりあえず何か食べてお風呂に入って寝よう……」
カフェで軽く摘まんできたとはいえあれを食事と言えるかと言えば無理だ。私は冷蔵庫の中身と相談して軽食を作り思考から逃げ出すようにお風呂に浸かり布団に潜り込んだのだった。
先輩の部屋に行かなくなって数日経ったが、私の顔色は段々と悪くなってきている。誰に指摘されるまでもなく自覚しているので、心配されると申し訳なくなってくる。
「いろはあんた大丈夫なの? 日に日に顔色が悪くなってるけど」
「体調不良とかではないから大丈夫だよ。ちょっと解決するのが難しい問題に直面しててね……どうすればいいのか悩んでるだけだから」
「私で良ければ相談に乗るけど――」
「彼氏との関係だけど」
「――うん無理。誰か適任者を探した方がいい」
やっぱり恋人関係だと分かるとあっさり手のひらを返してきた友人。想像通りとはいえ、こうもあっさり手のひらを返されるとツッコミを入れたくなってくる。
「早いよ! せめてもう少し悩んでよ」
「だって経験ないことだから。相談に乗ったところで解決策を出せるわけないじゃん」
「そうかもしれないけどさ」
「で、何が悩みなの? まさか別の女の影? ついにいろはもお一人様に戻ってくるの?」
「先輩が本格的に司法試験に向けての勉強を始めて、会う時間が減ってきた」
「知るかそんなこと!」
嫌な想像をされたので、私はそういう問題ではないと強調しておいた。そうしたら案の定怒られたが、これで先輩が浮気しているなんて疑惑は晴れただろう。
「てか、私がお一人様になるのよりも、貴女が彼氏を作る方が早いんじゃないの? あれだけ頻繁に呑み会に行ってるんだし、出会いくらいあるんじゃないの?」
「そんな簡単に彼氏が出来たら苦労しないっての……てか、普通に呑み会なだけで、そういう出会いを求めてる人ばかりじゃないからね……」
「マッチングアプリとかは?」
「ああいうのってイマイチ信用できないって言うか、ああいうツールを使っての詐欺とかあるじゃん? だから利用しようって考えに至らなくて」
「ああいうのって最終的には自己判断で、何が起こっても責任取りませんって感じなのかな?」
使ったことがないので何とも言えないが、利用者同士で問題が起こったとして、その開発者に責任を問うのはお門違いだと私は思う。結局のところ使ってる人間の問題であり、巻き込まれたくなければ使わなければいいだけの話なのだから。
「はぁ、彼氏欲しい……」
「先輩に会いたい……」
「嫌味か? それは私に対する嫌味なんだな!?」
「えっ? ……完全に無自覚だった」
「いろはあんた……かなりの重症ね」
「そっちは自覚してるって……」
指摘されるまでもなく、私がかなりの重症であることは分かっている。それをどうにかしたいと思いつつどうにもできない自分に呆れながら、私の悶々とした日々は続くのだろうな……
自覚しているだけマシか……
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意外な解決
先輩と会わずに過ごしてそろそろ一週間くらい経つだろうか。私の感覚ではとっくに一ヶ月くらい会っていないような気もするけど、カレンダーを見る限りまだ一週間も経っていないのだ。その間に先輩からメッセージなどはなく、隣の部屋から発狂するような声も聞こえない。つまり、先輩は私と会わなくても大丈夫だということなのだ。
「(私が弱いのか、先輩が薄情なのか)」
私が弱いのはもちろんだろうが、ここまで何のアクションもないと、先輩が薄情なのではないかという疑問が生まれてくる。そりゃ勉強で忙しくて彼女のことを考える暇がないのかもしれないけど、隣で彼女が生活しているのだ。全く気にならないなんておかしいじゃないだろうか。
「(そうだ。私が弱いんじゃなくて先輩が薄情なんだ)」
ある種の現実逃避をして自分を落ち着かせようとしたが、やはり効果はみられない。そんなことでこの寂しさが紛らわせるのなら、とっくに解決しているから。
「分かってはいるんだけどな……」
この壁一枚を隔てているだけだというのに、私の寂しさは日に日に募っていく。先輩はどうなのだろうかなんて、私には分かるはずないのに気になってしまう。
こちらからメッセージを送ればいいだけだと気づいた時には恥ずかしくて布団に逃げ込みたかったが、なんとなくこちらから送ったら負けなような気がして送れていない。もしかしたら私からのメッセージの所為で先輩のやる気を削いでしまうかもしれないと後付けの理由を見つけて落ち着きはしたが……
そんなこんなで今日も先輩の声を聞くことなく一日が終わりそうだったが、意外な人からのメッセージでそうはならなかった。
「戸塚先輩から?」
メッセージの送り主は私の高校の先輩であり、先輩の唯一の友達と言っても過言ではな戸塚彩加先輩だ。内容は今から会おうというもので、もしかしたら先輩と間違えているのではないかと疑ったくらいだ。だってあの戸塚先輩が彼氏持ちの私をその彼氏抜きで誘うとは思えなかったから。確認したところ、先輩にも誘いをかけているので安心していいとの返信があった。なので私は飛び上がりたい気持ちを抑えて戸塚先輩の誘いを受けることにした。
「(先輩に会える? こんなにも簡単に?)」
ここ数日どうやって会えばいいのかで頭を悩ませていたというのに、戸塚先輩が間に入るだけでこんなにもすんなり先輩に会うことが出来るなんて……
「(悩んでた私がバカみたい)」
そう、本当にバカみたい……会おうとすれば簡単に会えるというのに、勝手に会えないと思い込んで落ち込んでいたのだ。
「とりあえず出かける準備をしなきゃ」
本当なら先輩と一緒に出かけたかったのだが、戸塚先輩からのメッセージを見る限りその場に先輩がいる様子なのでそれは叶わない。とりあえず落ち込んでいた気持ちを切り替えて私は戸塚先輩から送られてきた住所へと向かうのだった――もちろん、男性が怖いのでタクシーを呼んで……
タクシー代は馬鹿にできないが、歩いて向かうには少し遠かったし、途中で男性とすれ違うことを考えれば出し渋るわけにもいかなかった。だがその代償のお陰で今、私はここ数日会いたくて会いたくて堪らなかった先輩と会うことが出来ているのだ。
「ゴメンね、一色さん。こんな時間に呼び出して」
「いえ、特に用事もなかったですから」
「八幡と最近会ってなかったって聞いてたから、せっかくなら一色さんも誘おうって話になってね。八幡から誘えばいいのにとは思ったけど、最近一色さんが自分と会うのを我慢してるのにその努力を無に帰すのも悪いって言いだしたから」
どうやら先輩も私が会いたいのを我慢しているのは気づいていたようで、その努力を尊重してくれていたようだ。だがそこに気づいているのなら、もう少し心配してくれても良かったのではないだろうか。
「先輩、私が我慢してるのを知っていて無視してたんですか?」
「別に無視してたわけじゃない。いろはのほうが我慢してるのに、俺の方が泣き言を言っていたらいろはの心遣いが無駄になっちまうからな。どうせ小町が余計なこと言っていろはの行動に制限をかけたとか、そんなところだろうけど」
「小町さんが、先輩が本気で司法試験を受けると言っていたので、邪魔しちゃいけないと思っただけです」
小町さんから聞かされた通りに伝えると、先輩と戸塚先輩は互いに顔を見合わせてから苦笑いを浮かべた。
「確かに司法試験を受けるかもと話したが、別にそこまで本気というわけではないぞ? もちろん、受けるからにはちゃんと勉強もするし、他の奴らに負けないようにはするつもりだが、いろはとの時間を排除するつもりはなかったんだが? もちろん、以前のように毎日部屋に突撃されたら困るが、たまに会うくらいなら全く問題ないんだが」
「そもそも八幡は容量が良いから、勉強を始めたのが遅くても同学年の中じゃトップクラスだもんね。今すぐ試験じゃ厳しいかもだけど、一年後なら十分に合格できるくらい」
「そうなんですか!? だったら言ってくださいよ……ここ数日、どれだけ寂しい思いをしたと思ってるんですか」
小町さんの口ぶりからして、先輩は司法試験の為に全てを傾ける勢いだと思っていたのに、本人はそんなつもりはなかったらしい。先輩の優秀さは知っていたつもりだったが、まさかあのエリート軍団の中でもトップクラスだったとは思っていなかった。もしそれを知っていたらこんなにも頭を悩ませなかったのに。
「とりあえずずっと会わないなんてことはしなくていいからな」
「それじゃあ、私は先輩の彼女のままで良いんですね?」
「どういう意味だ?」
「先輩の勉強の妨げになるから、もしかしたら別れた方が良いんじゃないかまで考えていたので」
大げさではなく本気でそこまで考えていた。会えないだけじゃなくて、私の存在が先輩の邪魔になるんじゃないかと。そこまで追い詰められていたのだ。
「いろはがいるから頑張ってみようと思ったのに、いろはがいなくなったら俺は何のために頑張ればいいんだよ」
「私の為?」
「将来的なことはまだ分からないが、もしいろはとこれからもずっと一緒にいると仮定した時に、少しでもいろはに楽をさせてやりたいと思ったからな」
口調はいつも通りだが、先輩の顔は少し恥ずかしそう。それを見ている戸塚先輩は楽しそうなのを見るに、戸塚先輩は先輩がやる気になった理由を知っていたようだ。
「八幡、急にやる気を出したからどうしたんだろうって思ってたからね。聞き出すのに苦労したけど、一色さんの為だと分かった時は嬉しかったよ。あの八幡が人の為に自分を犠牲にせずに頑張ろうとしてくれたから」
「別に高校時代の時だって自分を犠牲にしてたつもりはないんだがな」
「でも結果的に八幡が悪者になることで高校時代の問題の数々は解消されてきたでしょ? 八幡の考えをちゃんと理解して、八幡が好き好んで悪者を演じてたわけじゃないと知っている人間は少ない。多くは八幡を共通の敵として認識し、それを排除して団結した結果しか見ていない。その団結に必要だったものが共通の敵だったと理解して、八幡がそれを演じたに過ぎないと分かっている人は、八幡のことを悪く言うわけなかったし」
「まぁな」
そのことをいち早く見抜いて先輩に興味を持ったのがハルさん先輩なのだろう。あの人が興味を持つ対象がただの憎まれ口を叩くだけの人なわけがないと思っていたが、先輩に興味を抱いてからは納得できた。だって、この人はハルさん先輩が興味を惹かれるに値する――もっと言えばハルさん先輩に相応しいくらいの人間性を持った人だったから。
「とりあえず、隣の部屋で死にそうな声で俺の名前を呼ぶのは止めてくれ」
「そ、そんなことしてませんから!」
どうやら無意識に先輩を求めていたようで、私は自覚していなかった自分の行動を聞かされ顔を赤らめ、それを誤魔化すために先輩の腕を軽くたたき続けるのだった。
色々と限界が近かったいろは……
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いろはの願い事
数日間うじうじ悩んでいたのが何だったのかと思うくらいあっさりと先輩と邂逅を果たしてしまった翌日、私は倦怠感なく目を覚ますことが出来た。それもこれも戸塚先輩が気を利かせてくれたのと、先輩の本音を聞くことが出来たからだろう。
「あの先輩が、私の為に頑張ってくれてるのが嬉しい」
もちろん先輩の人生なのだから先輩の為でもあるのだろう。だがその努力の中に私の為という気持ちがあるのがとてつもなく嬉しいのだ。あの先輩が誰かの為に努力するなんて、高校時代の私に言っても――もしかしたら先輩に言ったとしても信じてもらえないかもしれない。
先輩は誰かの為に自分が泥を被ることはしても、誰かの為に努力するような人ではなかった。ある点では努力していたのかもしれないが、誰かを喜ばせる結果にはならなかったことが多い。もちろん、先輩の努力を認め、先輩が誰かの為に動いていることを知っている人は少なからずいた。その中の一人が戸塚先輩だろう。だからこそ先輩と戸塚先輩は今でも仲が良く、互いに本音を言い合えるのだろう。
「そんな相手、探そうと思ってもなかなか見つかるものではないだろうけども」
私にはそんな相手はいない。結衣先輩や小町さんのように仲良くしている相手はいるが、先輩と戸塚先輩のような関係ではない。何せ結衣先輩は高校の先輩で小町さんは後輩。ついでに言えば恋敵だった人と彼氏の妹という、なんとも複雑な関係だと言えるだろう。ある種の奇跡のような関係ではあると思うが、何でも言い合える仲ではない。
万が一小町さんに先輩の愚痴なんて言った日には、その翌日には先輩の耳にも入っているだろうし、もしかしたら結衣先輩を焚き付けて先輩と私の関係を壊そうとしてくるかもしれない。そんな不安を抱えながら付き合っている。もちろん、小町さんがそんな性悪ではないということも分かっているし、先輩の愚痴を本人に聞かれたからと言って、先輩が私のことを嫌うとも思えない。そもそも愚痴なんて日常茶飯事のような感じだし、先輩は先輩で憎まれ口を叩かれるのは慣れているのだ。今更彼女から愚痴を言われたからと言ってメンタルにダメージを負う人ではない。
「とりあえず先輩に挨拶しておこう」
ここ数日は我慢していた朝の挨拶をする為に、私は着替えてから先輩の部屋へ向かう。さすがにまだ鍵がかかっていたが、そんなものは合鍵でどうにでもなるのだ。
「せーんぱい、おはようございます」
「……随分と久しぶりな挨拶を聞いた気がする」
「そりゃ、先輩が司法試験に向けて努力してるのに、私個人の感情で邪魔するわけにはいかないって思ってましたからね。彼女に寂しい思いをさせた悪い彼氏なんですから、そのうち埋め合わせをしてもらわなければいけませんよね」
「埋め合わせね……何が望みだ」
「そうですね……」
何が望みだと言われても、そう簡単に出てくるものではない。冗談半分で良いならいくらでも出てくるけど、先輩の目は本気だ。私から話を振っておいて、私がふざけるわけにもいかないだろう。
「先輩が司法試験に合格したら、お願いしたいことがあります。その時聞いてくれますか?」
「なんだよ、随分ともったいぶるな」
「それだけ重大な願いってことです」
それは先輩の人生においてもだが、私の人生にとっても大きな意味を持つ願いだ。このタイミングで先輩に告げて良いものではない。
「分かった。何年後になるか分からないけどな」
「先輩は容量が良いので、下手を打たなければ現役で合格できるでしょう」
「そう簡単にいくわけないだろ」
「どうですかねー。先輩は普段努力しないだけで、実力は雪乃先輩にも負けないくらいにはあったじゃないですか」
「そこでどうして雪ノ下が出てくるのかは分からないが、いろはが俺の実力を認めてくれているのは分かった」
私がどうして雪乃先輩の名前を出したのか先輩は分からなかったようだが、あの人の今の恋人である葉山先輩も弁護士を目指している人だ。あの人は親が雪ノ下家の顧問弁護士を務めているから幼少期から雪ノ下姉妹との交流があり、自分も雪ノ下家の顧問弁護士になると決めていた人だ。その過程で雪乃先輩と恋人になれたらと思っていたようで、私や他の女子がアピールしても梨の礫だった。
その人が頭の片隅にあったなんて口が裂けても言えないので、私は何故雪乃先輩の名前を出したのかは説明しない。しなくてもいいだろう。
「とりあえず来年一年かけてやってみるが、俺はあっさりと物事を諦める人間だからな。一度不合格だったらもうやらないかもしれないぞ? そうなるといろはの願いとやらは聞けないな」
「そうなったらそうなったで別のお願いをするから良いですよ。だから、私の為とか余計な重荷をしょい込まないでくださいね」
「あぁ」
どうやら少しは私の為に頑張ろうと思ってくれていたようで、先輩は見透かされた気恥ずかしさを誤魔化すように短く答える。先輩には悪いが、こういう時の先輩の顔は見ていて嬉しい気持ちになる。サド的な感情ではなく、私相手に照れてくれているということが純粋に嬉しいだけだけど。
「それじゃあ私はそろそろ出かけますね。お邪魔しました」
「気をつけろよ」
「子供じゃないんですから」
先輩に心配してもらえて嬉しい反面、子ども扱いされたような気持になりながらも、私は笑顔で先輩の部屋を出て、必要な荷物を持って大学へ向かうのだった。
講義が終わり、昨日までの様子と違う私を見た友人が私の腕を取り構内のカフェへ連行する。本気で抵抗すれば振りほどけないこともないが、この後予定もないので素直に付き合うことにした。
「何かあったの?」
「何かって何よ」
「昨日までの上の空のいろはじゃなくて、今日はしっかりと講義も受けていたし、返事もしっかりしてるじゃないの」
「あぁ、そのことね」
私としてはそこまで変わったつもりはなかったのだが、周りから見たら今日の私はだいぶマシになっているようだ。それこそ昨日までの私は、何時屋上から飛び降りるか分からないような雰囲気だっただろうし。
「いろいろと問題が解決しただけよ」
「それって彼氏と会えないって問題?」
「そ」
「いろはがお一人様に逆戻りって流れは無くなったのか……あーあ、早く私も彼氏欲しいな」
「いい加減作ったら? 何人かと良い感じになったんじゃなかったの?」
彼氏欲しいと日夜文句を言っているだけではなく、この友人は彼氏を作ろうと努力している。なのでそれなりに良い雰囲気になった相手も一人や二人ではないらしい。だが未だに彼氏がいないのはどういうことなのだろうかと、純粋に気になったのだ。
「そりゃこのままいけばって思った相手も一人や二人じゃないけど、いざそういう雰囲気になったらやっぱり違うかもって思っちゃったのよね。私だけじゃなくて相手の方もかもしれないけど」
「そんなものなの?」
「どうなんだろうね。いろははどうやって今の彼氏と付き合いだしたのよ」
「どうやってって、バレンタインの時に結衣先輩と二人で告白して、どっちが勝っても恨みっこなしって感じ」
「あんたの彼氏って確か高校の先輩よね。あの結衣さんといろはの両方から好かれるって、そんなにイケメンって感じじゃない気もしたんだけど」
「何回か見たことあるんだっけ?」
先輩は戸塚先輩の頼みでテニスサークルの手伝いの名目で数回この大学に来たことがある。それ以外にも結衣先輩の誕生会とかいろいろと顔を出してるし、見たことがあっても不思議ではない。そのせいで私や結衣先輩に嫌がらせがあったくらいだし。
「確かに落ち着いた感じの人って雰囲気だったけど、美少女二人から好かれるような感じでは――」
「二人どころじゃなかったんだけどね」
「どういうこと?」
「私が知っている限り、後二人は先輩のことが好きだった人がいるのよ。それも、一人は結衣先輩以上に人気が高い女子で、もう一人はかなり家庭的な女子だった」
「競争率ヤバかったのね」
私が簡単に彼氏を作れたわけではないと改めて理解してくれたのか、友人はしみじみとそんなことをつぶやいたのだった。
八幡は人気だからなぁ
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小町の用事
先輩に会うことを我慢しなくても良いと分かってから、私はある程度自重しながらも先輩の部屋を訪ねている。もちろん、先輩の都合が悪かった場合は素直に自分の部屋に戻っているし、以前のように合鍵を使って勝手に入り込むようなことはしていない。
「いろは先輩、ちょっと後で時間いいですか?」
「小町さん? 別に構わないですけど……」
講義もあと一コマというところで先輩の妹の小町さんから声をかけられ、私は若干不審がりながらも誘いを受ける。ここで邪険にして先輩に報告されると後々面倒だし、今日は先輩の都合が悪いので直帰するしかないと思っていたのでちょうどいい暇つぶしになると考えたのもある。もちろん、そんなことは小町さんには言わないし、覚らせるつもりもないので、いつも通りの表情でその後のやり取りを済ませた。
「ねぇいろは、あの後輩って確かあんたの彼氏の妹よね? どうして敬語なの?」
「どうしてだろうね」
特に気にしたこともなかったし、変えようとしてこなかったので私自身は問題にしていなかったのだが、やはり外から見るとおかしいのだろう。高校の後輩でもあり彼氏の妹に対して敬語を使っているというのは。
私だって何回かは変えようとしたこともあるのだが、どうしても小町さんを目の前にすると変に意識して敬語になってしまうのだ。初対面の時には結構軽くいけてたと思うのだが、今ではあんなふうに話すことはできない。
「結衣さんは結構気さくに話してる感じはしたんだけど、あの子ってそんなに怖いわけじゃないんでしょ?」
「ある意味最強かもしれないけど、だれかれ構わずその強さを発揮するわけじゃないからね」
「どういう意味よ」
友人には分からないだろうが、小町さんを怒らせると先輩に報告が行く。そうなると私の立場が危うくなりなりかねない。今でこそ小町さん至上主義ではない先輩ではあるが、あの人はシスコンなのだ。その点は変わっていないので、小町さんに私の行動を改悪されて報告されても信じかねないのだ。そうなると私と先輩との関係にヒビが入るかもしれないのだ。
雪乃先輩や結衣先輩の影におびえながらも先輩のことを想い、その気持ちが漸く届いたというのに小町さんに壊されるなんて御免被りたいので、小町さんへや態度を改めることは先延ばしにしているのだ。
「まぁ、あんたたちが疑問に思ってないのなら、外部の私がとやかく言うことじゃないのかもしれないけどさ。聞いてて疑問に思っただけだから」
「普通はおかしいと思うだろうけども、私と小町さんに限って言えばこれで問題ないから」
「分かった。いろはに思うところがあるんだろうし、これ以上は聞かないでおくわ」
「ありがとう」
若干聞き出したそうな顔をしながらも、友人はそれ以上追及してこなかった。それほど深い仲ではないと思っていたけども、こういうところはありがたいなと素直に思う。今度誰か紹介してあげたいと思ったけども、私はこの子以上に出会いがなかったので気持ちだけ送っておこう。
講義を済ませて小町さんとの待ち合わせ場所に行くと、そこには結衣先輩の姿もあった。
「いろはちゃん、やっはろ~」
「こんにちはです、結衣先輩」
今日は全くの別行動だったので、結衣先輩とはこれが今日最初の挨拶。高校時代から使っている挨拶だから気にしなかったけども、改めて思うと『やっはろ~』って何なんだろうか?
「いろは先輩、お時間ありがとうございます」
「気にしないでください。今日は元々予定もなかったですし」
これは偽りなく本心なので小町さんもこれ以上恐縮しなくて済むだろう。私は具体的な理由は知らないけど、小町さんなら先輩が今日忙しい理由も知っているだろうし、もしかしたら私が手持無沙汰なのを知って誘ってきたのかもしれない。
「それはよかったです。お兄ちゃんはいろいろと忙しくて時間が取れないと言っていたので、いろは先輩の方にアポを取ってしまおうと思っていたので」
「? どういう意味ですか」
なんとなく含みのある表現に訝しみの視線を小町さんに向ける。まるで先輩と私、両方に用事があったけども外堀を埋めてから先輩を巻き込もうとしているような、そんな風に聞こえた。
「簡単に言うと、ウチの両親がもう一度ちゃんと挨拶したいから二人を連れてこいと言っております」
「はぁ……はい!?」
「まぁそんな反応になりますよね」
「あれ? いろはちゃんってヒッキーのご両親に挨拶したんじゃなかったっけ?」
「あの時はウチの両親が社畜っぷりを発揮しまして、一言だけで終わりましたからね。あれは小町も酷いとは思っていたけども、まさかもう一回を求めてくるとは思ってもみませんでしたよ」
言葉だけ取れば小町さんも驚いている感じがするけども、彼女の表情は非常に楽しそうだ。大好きな兄が実家に帰ってくるのと同時に私が困っているのを見て楽しんでいるのだろう。こういうところが見え隠れするから、私は小町さんのことを全面的に信じられないのだろうな。
「もう一回会ってるわけですから、今更緊張することもないでしょうし構いませんよね?」
「いろいろとツッコミたいですけども、そういうのって私に言うんじゃなくて先輩に言うものですよね? どうして先に私に話を持ってきたんですか?」
「だって、兄に言っても邪険にされるでしょうから、まずはいろは先輩を抱き込んでお兄ちゃんの逃げ道を塞ごうとした――なんてことはありませんからね」
「そうなんですね」
裏事情を隠そうともしない小町さんとは対照的に、私はがっくりと肩を落とす。どうやら私が考えていた通りのことを小町さんが考えていたとは。
「いいな~。私もヒッキーのご両親に会ってみたいな」
「結衣さんなら何時でも遊びに来て構いませんよ。あくまでも私の大学の先輩ってことならですけどね。ここでお兄ちゃんの知り合いなんて言ったら、変な勘繰りをされるかもしれませんし」
「高校の同級生なんだし、別にヒッキーとの関係を聞かれても大丈夫だと思うけど」
「高校時代の兄は両親から興味を持たれていなかったですから。その時悪いことをしてたと思われたら大変ですし」
「どうして私とヒッキーが知り合いだと、悪いことをしてたことになるの?」
小町さんの心配は私にもなんとなくわかる。高校時代の先輩の態度を見ていたら、結衣先輩のような美少女が仲良くしてるようには見えないしな。
「あれ? でも結衣先輩って交通事故の件で先輩の両親と会ってるんじゃ」
「あの時はタイミングが悪かったし、ちゃんとお話しするようなふいんきじゃなかったしね」
「結衣先輩、雰囲気です」
「し、知ってるし! 場の空気を和ませようとしてわざとだから」
結衣先輩のことだから素で間違えたんだろうけども、彼女の名誉の為にこれ以上はツッコまないでおこう。本当はサラッと流してあげた方が良かったんだろうけども、本気で間違えてる可能性もあったので一応ツッコミを入れたのだ。
「じゃあ結衣さんは今度の休みにでも遊びに来ますか?」
「いいの? 久しぶりに千葉にも帰ろうかなって思ってたし」
「ゴールデンウィーク以来ですか?」
「だね。まぁ、頻繁に帰る用事もないし」
「結衣さんのお父さんなら、毎週末は帰ってこいとか言いそうですけど」
「ママがなんとかしてくれてるから」
つまりお父さんは結衣先輩に毎週末は帰ってこいと言いたいようだが、お母さんがどうにかしてくれているお陰である程度の自由が確保されているということか……
「どこの家も、娘に対する父親って過保護なんですね」
「いろは先輩のところもいろいろとありそうですね」
「いろはちゃんの今の言葉、かなり実感が籠ってるね」
「まぁ、結衣先輩の家ほどじゃないですけどね」
ウチもかなり過保護だと思っていたけども、やはり上には上がいるのだ。由比ヶ浜家の事情を聞いて、私は少し安心したのだったが、すっかり小町さんの要件を忘れていたことを想いだして再び緊張しだしたのだった。
いろは、再び比企谷家へ
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打開策
小町さんから急に千葉の実家に遊びに来いと言われた日の夜、私は先輩の部屋を訪れていた。文句を言うためではなく、どうすればいいのか相談するためだ。
「――ということなんですけど、どうすればいいですかね?」
「小町の奴、俺が断るって分かってていろはに言ったな……お袋殿も俺じゃ抱き込めないと見込んで小町を使ってるだろうし……」
先輩と実家との関係は疎遠とまでは言わなくてもだいぶ関係が薄い。これは別に先輩が実家を出ているからではなく、高校時代からの事らしいのでその辺の心配はしなくても大丈夫なのだが、それでも息子の彼女をしっかりと見ておきたいという気持ちはあるようだ。
「だいたいそんな時間取れないってのに……」
「そろそろ夏休みですし、そこで帰ってこいってことなんじゃないですかね?」
「その時期は両親がますます社畜っぷりを発揮する時期だから、それよりも前ってことだろうな」
「あぁ……先輩のご両親ってかなりの社畜っぽいですからね」
自分たちで日にちを指定しておいて、結局仕事を持ち帰ってきて私と対面した時間は五分にも満たない。そんな初対面だったので先輩の両親に対する印象は、かなりの社畜なんだということで固まってしまったのだ。
そんな相手がもう一度私に会いたいとを思ってくれていることはありがたいことなのかもしれないが、また仕事が忙しくてろくに会えないんじゃないかと思うと先輩の気持ちも分からなくはない。今は一分一秒でも多く勉強しておきたいと思っている先輩としては、こんな相談に乗ってる時間ももったいないのだろうな。
「とりあえず俺の方からどうするのか聞いておくから、いろははとりあえずこの件は忘れていいぞ」
「忘れたくても忘れられないと思いますよ……」
仮にも彼氏の両親が私に会いたいと言っているのだ。そんな大事なことを忘れてのうのうと生きていけるほど私の神経は図太くない。いや、か細いとは思っていないけども、そこまで太くもないということだ。
「とりあえず先輩がどうにかしてくれるなら安心ですけど……私だけだと小町さんに押し切られてそのまま日程まで決められそうですし」
「そっちで勝手に決めたって俺が行けるかどうかわからないだろうに……まさか、いろはだけを連れて行くわけじゃないだろうし」
「そんな怖いこと言わないでくださいよ!? さすがに一人で彼氏の実家なんて行けませんからね」
それ以前に一人で千葉までたどり着けるかすら怪しいのだ。たとえ千葉まで行けたとしても、そんなメンタルで先輩の両親と対面したら言わなくても良いことも言ってしまいそうだし。
「とりあえず今、小町にどういう事情なのか聞いてるから」
「ありがとうございます」
どういう事情なのかはなんとなく分かるけども、どうして今更ということなのだろう。先輩としてはあの対面で充分だと思っているのだろうけども、ご両親としてはあれはいただけなかったのだろう。だからやり直したいという思いから誘ってくれているのだとは思う。問題は先輩の状況があの時と今とではだいぶ違うということと、私もできることなら暫くは会わなくても良いかなと思ってしまっているということだ。
あの時だってかなり緊張していて、何を話せばいいのか分からない状況だった。でもご両親が忙しくてまともに会えなかったことで話さなくても済んで良かったと安堵したのだ。そこにもう一度会いたいと言われて、分かりましたと言える人がどれだけいるというのだ。
普通に友人とか知り合いとかならやり直しも良いとは思うが、相手が相手なので快諾するのは難しいと相手も分かっているとは思う。だがこちらから断るのはやはり失礼に当たるだろうから、どうしても先輩を頼らざるを得ないのだ。
「小町から連絡があった」
「なんて言ってます?」
「えっと『最悪お兄ちゃんはこれ無くても良いからいろは先輩だけ実家に案内します』だそうだ」
「それだけは絶対に嫌なので、どうにかしてそちらで日程のすり合わせをお願いします。私はなんとかして合わせますから」
「はぁ……」
先輩としては自分が行かなくても良いということに安心したのだろうが、さっき想像しただけでも震えそうだったことが現実になりそうになり私は慌てて先輩に懇願した。それが効果あったのかは分からないが、先輩は今度はお母さん相手に連絡を取り、どうにか両方が時間を作れる日に会うこととで話がまとまったのだった。
先輩の実家訪問日が近づいてくるにつれて、私の情緒は再びおかしくなってきている。自分で自覚するくらいだから、当然周りの友人にも気づかれている。
「いろは、また何か問題?」
「まぁね……」
「今度はどうしたのよ? まさか、高校の後輩に今更告白され彼氏と板挟み状態とか言わないわよね」
「言わないって……先輩のご両親からもう一度会いたいって誘われてるの」
「あれ? 確か一回顔合わせはしたんじゃなかったっけ? その時もかなり緊張してたっぽいけど、今の方が顔色悪いし」
「あの時はまだどんな人かは知らなかったし、結局仕事が忙しくて数分しか会えなかったからね。だけど今度はしっかりと時間を作ってくれるらしいから前回のようなことにはならないだろうって先輩が」
先輩も先輩で無理矢理時間を作ってくれたのだ。私が失敗して両方の苦労を無駄にしてしまうなんてことになったら、先輩の彼女に相応しくないという烙印を押されてしまうかもしれない。そうなってくると今後に影響してくるかもしれないし、先輩に落胆されるかもしれないなどと考えてしまってここ数日まともに寝れていないのだ。
「でもわざわざ忙しい合間を縫って息子の彼女を見たいって、その先輩って随分と両親に大事にされてるんだ」
「どうだろうね。最初は先輩はいなくても良いからって話だったぽいから」
「何それ。つまりいろは一人で家に来いってこと?」
「小町さんに連れてこさせようとしてたみたい」
小町さんのことは知っているので、それならあり得るかもと一瞬納得した友人だったが、やっぱり違和感があったのか慌てて首を振った。
「いやいや、彼氏の妹に連れていかれて彼氏の実家とか、それってだいぶ辛いことだよね?」
「だから私も慌てて先輩に相談して、どうにかこうにか時間を作ってもらったんだよ」
「彼氏相手にどうにかこうにかって、そんなに忙しい人だったっけ?」
「今は大事な時だからね」
友人には先輩が司法試験を受けることは話していない。だから何が忙しいのかは分かっていないだろうけども、一学年上で色々とあるんだということは分かっているので追及はしてこなかった。
「そういえばこの間、結衣さんがあんたの彼氏の妹と二人で出かけてるとこはみたけど」
「あぁ、あの二人は仲いいからね。この間も結衣先輩が家に遊びに行きたいって言ってたくらいだから」
「兄の同級生を家に招くって、それってどんな感じなんだろうね」
「さぁ。私には分からない感覚だし、たとえ兄がいたとしてもその同級生を家に招くなんてしたくないかな」
「私だって嫌だよ」
とりあえず小町さんの話題でどうにか先輩の事情のことは忘れてもらえたが、今度はその二人の関係に興味を持たれてしまった。
「確か結衣さんもあんたの彼氏のことが好きだったんだよね?」
「歴で言えば私なんかよりも長いと思うよ。あの人は高校入学時から意識してたらしいし」
「まぁ、いくら歴が長くても最終的には選ばれるか選ばれないかでしかないもんね。その点はいろはは気にしなくていいだろうけども、よくそんな相手と付き合い続けられるよね」
「どっちが勝っても恨みっこなしって結衣先輩から言ってきたから」
そもそも私としては、勝てる見込みがないと思っていたから負けたとしても結衣先輩を恨むつもりはなかった。だがこうして先輩と付き合えているのは結衣先輩のお陰でもあるので、私は今後もこの付き合いを断ち切るつもりはないのだ。
忘れられるわけないだろ
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