天邪鬼の下克上 ex (ptagoon)
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死者と生者
「もし、死んだ生物を生き返らせる方法があるとすれば、あなたは信じるかしら」
目の前に出された蕎麦に目もくれず、半開きの目をぼんやりと開いた鶏ガラが、そんなことを言い出した。「死者蘇生ってやつよ」
人里の端の、誰も寄り付かないような寂れた場所でひっそりと佇んでいる蕎麦屋だ。かつて全焼した建物と瓜二つだが、全体的に真新しい。前の店主の時には、客なんて一切いなかったのだが、今ではちょくちょく現れる。やはり、閑古鳥が鳴いていたのは彼の人柄のせいだったのだ。
「死者蘇生だなんてどうでもいい。そんなことより、早く蕎麦を食えよ。伸びちまうぞ」
「私、あまりお腹空いていないのよ」
「なら、なんで来たんだよ。帰れ」
客に帰れなんて失礼ね。そう笑った鶏ガラは、紅魔館の魔女らしく箸をふわりと浮かせ、手もとに寄せた。そんなしょうも無いことに魔法を使う彼女に呆れる。これだから強者は。
「いいか。どんなことも先延ばしにするような奴は駄目なんだよ。早めに行動することが大切なんだ」
「蕎麦と同じで?」
「そうだ」私は強く頷いた。「人生は蕎麦と同じなんだ」
鶏ガラが鼻で笑ったのが分かったが、無視して言葉を続ける。
「どんなことも先延ばしにしちゃいけねえんだよ。蕎麦と同じだ。人生も、蕎麦も、伸びたら腐っちまう。だから、そういう奴には伸びた蕎麦を出して、こう言ってやるんだ。お前の人生は、この蕎麦だってな」
「酷いわね」くすくすと静かに笑った彼女は、だるそうな目を眩しそうに細めた。
「それ、あなたにだけは言われたくないわ」
「どういう意味だよ」
「その包帯を解かないと、あなたは腐ってしまうって事よ」
動かない大図書館は、私の顔に巻き付けられた包帯を指さした。彼女の言葉は相も変わらず意味が分からない。いつだってそうだ。慧音といいこいつといい、どうしてまどろっこしい言い方を好むのだろうか。理解できない。くそ食らえだ。
「こんな店主がいる蕎麦屋なのに、どうして潰れないのかしらね」
「そりゃ、美味しい蕎麦を作るからだよ」
「冗談でしょ?」
「本当だ。なんだって、あの引きこもりがちなパチュリー・ノーレッジが食べに来るくらいだからな。きっと、私の蕎麦には不思議な力があるんだ」
「不思議な力って?」
「引きこもりを外に出す力。あなたのソバにってな」
鶏ガラは肩をすくめた。これ見よがしに一口そばを頬張り、眉をしかめている。
「美味しくないわ」
「伸びた蕎麦は美味しくないに決まってるだろ」
「伸びて無くても美味しくないわよ。天邪鬼が作る蕎麦なんて、美味しい訳ないわ」
「天邪鬼? 誰だそいつ」
顔を下げ、大きく息を吐いた鶏ガラを見ると、自然と頬が緩んだ。呆れているのか、頭を押さえ首を振っている。あの博識な魔女が悩んでいる姿を見ることは、最近の幸せだ。
天邪鬼は死んだ。一年前、八雲紫の手によって殺された。そうなっているし、そうでなければならない。数多の人を殺し、苦しめ、挙げ句の果てに小人を欺き、幻想郷を混乱の渦に巻き込んだ。そんな極悪非道な天邪鬼がもし今生きているとなれば、人里は黙っていないだろう。また、以前のように追い出されてしまうに違いない。だから、そんな奴はもう死んだのだ。そういうことにしたのだ。誰が。他でもない、妖怪の賢者が。
「天邪鬼だなんて知らねえよ、私はただの蕎麦屋だ」
「ただの蕎麦屋がどうして顔に包帯を巻いているのよ」
「怪我でもしたんじゃねえの?」
「それに、どうしてそれで正体を誤魔化せているのか、私には分からないわ」
生意気にも溜め息を吐いた鶏ガラは、ふるふると首を振った。とはいうものの、鬼の世界から帰ってきた私を見たとき、鶏ガラは私の姿を見てもまったく気がついていなかったのだが。いったいどの口が言うのだろうか。
「というより、あなた、正体を隠す前の時も、ずっと包帯を巻いていたじゃない。怪我をして」
「まあ、天邪鬼は殴られてなんぼだからな」
「どういう意味よ」
「知らねえよ」
辛そうに眉間を押さえた鶏ガラは、だからね、と肩をすくめた。
「だから、包帯を巻いていたら、逆にあなただってばれちゃうんじゃないかしら」
「大丈夫だ。そもそも私は天邪鬼じゃないからな」
「そんなこと言っても、いつかバレるわよ」
「何がバレるんだよ。へそくりか?」
「正体よ。ま、どうせバレるなら有効活用しなさい」
「なんだよ。積み立てでもすればいいのか」
「へそくりの話じゃないわ」鶏ガラは鼻先で笑った。嫌な笑い方だ。「どうせ正体がバレるのなら、格好良くバレなさい。寝ている間に天邪鬼だとバレた、なんて面白くもないわ」
「何の話か分かんねえな。私は天邪鬼じゃないから」
嘘だ。だが、真実でもある。私が天邪鬼なのは間違いない。ただ、天邪鬼はもう生きてはいないのだ。そういうことにしたのだ。
「天邪鬼は死んだんだろ? 私は違う。ただの蕎麦屋だ」
「死んだ、ねえ」
鶏ガラは意味ありげに目線を私に向けた。
「今、人里の間で、死者を生き返らせる方法ってのが話題らしいのよ」
「さっき言ってた奴か」
「驚きよね」
驚きなのは、そんな眉唾な話を楽しそうに話すお前の神経だ。いつも通りの落ち着いた声だが、何度もその話題をぶり返す辺り、興味があるのだろう。もし本当に可能ならば試してみたい。そう思っているに違いない。
「やめておけ」私の声は自分の想像以上に低かった。
「そんなもん、嘘に決まってんだよ。碌な事にはならねえ」
「なんでそんなことが分かるのかしら」鶏ガラは不満げに鼻を鳴らした。「あなたなんかに、どうしてそんなことを」
どうしてそんなことが分かるのか。そんなの私自身も分からなかった。ただ、嫌な予感がしたのだ。全身が赤錆びにまみれた一人の老人の姿が頭に浮かぶ。母親を生き返らせようとした、哀れな少年の姿が頭に浮かぶ。些細な願いを叶えるために、小槌を振るった小人の姿が頭に浮かぶ。得体の知れない呪いのような物に手を出すことは、この世で一番やってはいけないことだ。
鶏ガラは、いつの間にか蕎麦を食べ終えていた。美味しくないと言いつつも、何だかんだ完食する彼女を見ていると、笑いがこみ上げてくる。が、彼女の放った言葉は、その笑みを打ち消すには充分なものだった。
「あなたにも、生き返らせたい奴の一人や二人、いるんじゃないの?」
「は?」
「もしいるなら、少しは考えておいたらいいんじゃないかしら」
それだけ言い残した鶏ガラは、ごちそうさま、と言い残して席を立った。
「おい、金置いてけよ」憮然とした態度で立ち去ろうとする鶏ガラに向かい言った。「うちは慈善事業じゃねえんだ。引きこもりだって金を払ってもらう」
「あら、恩人に対してなんて態度なのかしら?」
「恩人だあ?」
「あなたの指、治してあげたじゃない」
怪我だって何度も治してあげてるでしょ、と薄い笑みを浮かべた。
私は、いつの間にか自分の左手を見ていた。傷一つ無く、綺麗な手だ。とても指が落ちたとは思えない。それもこれも、確かに鶏ガラのおかげだ。恩があるというのは間違い無い。
だが、恩を仇で返すのが天邪鬼だ。そう思い、ひとり苦笑する。どう取り繕ったところで、私は天邪鬼なのだ。こんな調子ではいつか正体が露見してしまう。そう思うと、肝が冷えた。
鶏ガラは、ふわりと紫色の服を翻し、カタカタと風で震える扉を開く。春の暖かい空気が部屋に入ってきて、いっきに室内に春があふれ出した。
だが、それでも私の身体は冷たかった。鶏ガラの言葉が頭の中で何度も響く。生き返らせたい奴はいるか。頭の中で、得意げに鼻を鳴らす男の姿が思い浮かんだ。「お前は人間よりも人間らしい」そう笑う老人の姿だ。
「馬鹿馬鹿しい」
一人残された蕎麦屋でぽつりと呟く。胸にこみ上げてくる何かを誤魔化すように、思い切り机を叩く。端に置かれた二枚の写真が、責めるようにこちらを見ている気がした。
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飛車と歩兵
朝の人里は、いつも通りの晴天で、心地が良い風が肌を撫でてきた。真っ青な空の端にちょこんと太陽が頭を出している。それでも、これだけの暖かさを与えてくるのだから、偉大だ。偉大で、憎らしい。私が太陽を好きになることなんてあり得ないだろう。日陰者の私にとって、眩しく、そして美しいそれは天敵とも言える。
「だから、とっとと私の店に行こうぜ。そもそも、この状況は何だ。おかしいだろ」
「おかしくなんてありませんよ。私たち天狗にとっては普通ですよ」
「天狗の言うことが普通なわけ無いだろ」不遜に笑う烏に向かい、私は中指を立てた。「どうして外の腰掛けでお前と将棋なんてしなきゃならねえんだよ」
人里の大通りに面する甘味屋。そのすぐそばにある桜を見るためなのか、最近外に腰掛けがおかれた。そう提言したのは、そこで働く若い少年らしかった。直接聞いたわけではないが、まず間違いないだろう。あいつらしいと言えばあいつらしい。
だが、その腰掛けはあくまで桜を見ながら甘味を食べるためにあるのであって、将棋をするためにあるのではない。
「私は情報が欲しいと言ったんだ。ガキみたいに遊んで欲しいとねだったわけじゃない」
「言ったでしょ? 何事にも対価が必要なんですよ。情報が欲しいなら、将棋で私に勝って下さい」
「勝てるわけ無いだろ」
将棋なんてやったこともなかったし、やりたくもなかった、こういうのは、強者が暇つぶしにやるものであって、その日暮らしがやっとの蕎麦屋がやるものではない。まして、烏となんて冗談にしても笑えなかった。
だが、面倒でもやらざるをえない。別に興味があるわけではないが、気になったのだ。もちろん将棋ではない。鶏ガラの、死んだ人間を生き返らせるという言葉がどうしても気にかかる。理由は分からなかった。だが、気がつけば私は早朝にもかかわらず、烏に会うために人里をぶらついていた。彼女であれば、何か情報を持っていると思ったのだ。甘味屋の前で新聞を配っていた彼女に出会えたまでは良かったのだが、まさか「私に将棋で勝てれば、その噂の情報をあげてもいいですよ」だなんて生意気なことを言われるだなんて思わなかった。
「私にはルールも分からねえんだぞ」
「大丈夫ですよ。私は飛車抜きでやってるんですから。このハンデは大きいです」
「馬鹿な」やはり、烏はどう取り繕っても烏だ。脳みそが足りていない。
「いくらお前がハンデをつけてもな、ルールが分からなければ勝てるわけがないだろ。鼠が猫に勝てないのと同じだ」
「分からないですよ? もしかしたら、鼠が勝つかも知れないじゃないですか。窮鼠猫を噛むっていいますし」
「言わねえよ」
「言いますよ」
ま、私は猫にも鼠にも勝てますけどね、と嘯いた烏は、盤面に置かれた駒をひとつ前に進めた。歩と書かれた小さな駒だ。ルールは分からないが、明らかに弱い駒だと言うことは分かる。私も烏のまねをして、全く同じ駒を動かした。
「あやや。同じ場所を動かすとは。飛車がない以上、少しは考えないといけませんね」
「その飛車って奴は強いのか?」
「ええ、強いですよ」
烏の翼がばさりと大きく翻った。黒々としたそれは、春の陽の光を浴び、その漆黒がより際立っていた。神秘的と言ってもいいくらいだ。絶対に口には出さないが。
「飛車ってのは、そうですね。弱い歩なんかと違い、そのひとつだけで戦況を動かし得る。それくらい強力な駒です。まあ、歩も当然大事なんですが」
「つまりだ。その飛車って奴が私で、歩ってのがお前か」
「正気ですか?」
はん、と鼻を鳴らした烏は、眉をハの字にしてわざとらしく肩をすくめた。お前なんかが飛車な訳がないと思っているのだろうか。それとも、烏が歩だなんて、冗談にもならないと思っているのだろうか。きっと、両方だろう。
「つまりです。飛車ってのは将棋の中心なんです。なくても何とかなるかもしれないですが、あった方が絶対にいい。いざ無くしてしまうと、その動揺も激しいでしょう」
「なるほど」よく分からない。
「つまり、あえて誰かに例えるとするのなら」
そこで烏は視線を逸らした。つられて私も周囲を見渡す。いくら大通りといえども、さすがに早朝に出歩く人の姿は少なかった。包帯を顔に巻いているだけだが、私が鬼人正邪だとバレたことはない。だが、さすがに白昼堂々と出歩く勇気は無かった。
周りに人がいないことに満足したのか、烏はぐいっと顔を近づけてきた。真っ黒な瞳には包帯をぐるぐる巻きにした私の顔が映っている。蕎麦屋らしい灰色の甚兵衛のせいで、男か女か一目では自分でも分からなかった。
「飛車ってのは、人里で言うあいつなんですよ」烏の声は囁くように小さいが、それでも楽しげだった。「あなたのよく知るあいつです」
「あいつって、誰だよ」
「喜知田ですよ」
えっ、と思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。まさか、その名前を今になって、しかも烏から聞くだなんて、思わなかったのだ。
「彼は人里では大きな影響力を持っていました。そんな男が急にいなくなったんです。そりゃ、人里も混乱しますよ。人里の守護者も頑張ってはいますが、それでもです」
「なんでそんなことを私に言うんだよ」
「なんでって、あなたなら何か知っていると思ったからですよ」
烏の目がいやらしく光った。将棋盤の上に置かれた飛車を取り上げ、ぐいぐいと近づけてくる。口角がつりあがり、綺麗に揃った白い歯が覗いていた。
私はそこで、ようやく彼女の目的が分かった。彼女にとってみれば、将棋に勝とうが負けようがどうだっていいのだ。売れない蕎麦屋は将棋が弱かっただなんて、記事になんてなるわけがない。そんなことより、情報が欲しかったのだ。忽然と姿を消した人里の有力者の情報を。
「知らねえよ」私はつとめてぶっきらぼうな声を出した。「そんなの、ただの蕎麦屋が知ってるわけ無いだろ」
「喜知田という男がいなくなってから、すぐにあなたが現れたのですよ。何か関係があると思うのが普通じゃないですか」
「普通じゃない」
「妖怪の賢者が言っていたんですよ。喜知田は、鬼の世界にでも行ったんじゃないかって。鬼の世界ってどこなのか、知ってるんじゃないですか。なんであの男がそんなところに行ったのかも」
「知らねえよ」知っている。だが、それを口にすることは絶対に出来ない。誰のためでもない。私のために、これは文字通り墓まで持って行かなければならないことなのだ。
「そんなの、私が分かるわけねえだろ。お前は蕎麦屋に何を期待してるんだ。私が出来るのは、ただ美味しい蕎麦を打つことだけだ」
「美味しくなかったですよ」
うげえ、と彼女は舌を出した。どうやら烏は頭だけでなく舌も馬鹿のようだ。
「それに、あなたはただの蕎麦屋じゃないです」
「凄い蕎麦屋か?」
「違いますよ」烏は溜め息を吐き、あのですね、と語気を強めた。「あなたは天邪鬼、鬼人正邪なんです。一年間も油を売ったあげく、私をおちょくるような真似をした、下衆な妖怪じゃないですか」
彼女の声はいつも通り、不遜で自慢げで、そして平坦だった。だが、どことなく怒気が含まれているような気がする。
おちょくるような真似。確かに彼女はそう言った。いったい何のことを指しているのかすぐには分からないが、ニコニコと微笑みながらも、私から視線を逸らさない彼女を見て、ようやく思いついた。きっと、あの新聞のことを言っているのだろう。私が帰ってからすぐにした悪戯。烏の新聞に私のつくった新聞を混ぜるという悪戯に怒っているのだ。いや、違う。彼女が怒っているのはそんなことではない。そう分かったとき、堪え難い愉悦が身体の奥底から湧いてきた。自然と頬が緩み、包帯が顔を擦る。
「なあ烏。お前、心配だったんだろ」
「え?」
「言ってたじゃねえか。生きて下さいってな。おまえ、私が死んだと思ったんじゃねえか? それで生きていると分かって、安心したんだろ。安心して、連絡の一つもしなかったことに怒った。違うか?」
烏は何も言わない。ただ、突きつけてきた飛車をおずおずと盤に置き、俯いているだけだ。
「心配なんてしてませんよ」
しばらく黙っていた烏だったが、ぽつぽつと言葉を零しはじめた。
「ただ、腹が立ったのは事実です。人里で人間を襲った妖怪を逃がしたせいで、大目玉を食らったんですから。なのに、その妖怪どものリーダーときたら、礼も言わないんですよ。そんなの、怒るに決まってるじゃないですか」
「はいはい」
「なんですか、その適当な態度は」
烏はまるで子供のように頬を膨らませた。いつも飄々としている彼女がそんな表情をするとは思わず、たじろいでしまう。
決まりが悪かったのか、「将棋なんて、外でやるもんじゃないですね。暑すぎです」と悪びれもせず言い放った烏は、「はやくあなたの店に行きましょう」と急かしてきた。
「お前が言い出したんじゃないか」
「覚えてませんね」
「これだから烏は駄目なんだ」
将棋盤を片付け、席を立つ。いつの間にか太陽は完全に頭を出し、人里を照らしていた。ぽつぽつとだが人の姿も増え、何人かは甘味屋に入っていく。朝から贅沢なことだ。だが、彼らの表情にはどこか覇気が無かった。不安をのぞかせていると言うほどではないが、悲しみを抱いているようにも見える。
「早く行こうぜ」
なぜだか、そんな人間の姿を見たくなくて、私は足を進めた。
「蕎麦でも作ってやるから、情報を教えてくれよ。それでいいだろ?」
「あなたの蕎麦にはそんな価値はないです」
「いや、ある。なんて言ったって、引きこもりを外に出す力があるんだからな」
そんな蕎麦、逆に怖いですよ。そう笑った烏は、いつもの調子で私の後ろを着いてきた。
この世には困難な出来事が無数にある。とくに、私のような弱小妖怪だと尚更だ。それこそ、ただ生きていくことだって困難なのだ。私はそれを痛いほど知っていた。一年前、指名手配され、結果的に鬼の世界に封印されたとき、私は終わった。終わったはずだった。だが、こうして今私は幻想郷にいる。それだけでも、奇跡に近い。けれど、奇跡なんてものは本来起こらないからこそ奇跡なのだ。そしてそれには大抵綺麗事では済まされないような犠牲がある。
「あややや。これは凄いですね。奇跡ですよ」
だから、奇跡という言葉を安直に使う烏に呆れた。
「奇跡じゃねえよ。これは必然だ」
「必然って、こんなことが必然だったら世の中は狂ってしまいますよ」
「狂わねえ。よくあることだろ」
「ないですよ」
「ある。そんなに珍しいことじゃない。蕎麦屋が燃えることなんて、大したことじゃないんだ」
黒い煙を立ち上らせながら、焦げ臭い匂いを放っている蕎麦屋を前に、私たちは立ち尽くしていた。
幸いにも火は既にほとんど消えていた。以前のように轟々と燃えさかってはいない。あれほどまでに燃やすためには、ただ火が点くだけでは駄目なのだろう。喜知田は灯油か、または呪術的な何かを使ったに違いない。そう考えれば、今回の火事は良心的と言えた。良心的な火事だ。
「きちんと火を消してなかったんですか? そんなんだからあなたの蕎麦は美味しくないんですよ」
「消したに決まってるだろ。それに、私の蕎麦は美味しい」
うるさい烏を無視して、いまだ煙を出し続けている店へと入る。扉を開けると、噎せ返るような強烈な煙が溢れてきた。包帯をしているにも関わらず、喉が焼けるように痛む。慌てて後ろに飛び退く。咳が止まらなかった。
「あややや。情けないですね」
うるせえ、と声に出したかったが、咳が止まらず、何も言い返すことが出来ない。
「こんな煙ぐらい、どうにかしないと妖怪の山では生きていけませんよ。あそこ、山頂から煙が出てるんで」
そう嘯いた彼女は、おもむろに懐から団扇を出した。例の、紅葉の団扇だ。それを店に向かって大きく振り上げ、勢いよく下ろした。
一瞬だった。音が消え、空気が止まったかのように感じた。そしてすぐに止まっていた空気が爆発し、突き飛ばすように身体に襲いかかる。店に背中からぶつかる。息が出来ない。顔に巻き付けられていた包帯が切れ、しゅるしゅると解けていく。
「これで火は完全に消えましたね」
烏はなぜか得意げだった。といっても、こいつはいつも得意げだが。
「よかったですね、大事にならなくて」
「よくねえ」
「あややや。包帯ほどけちゃっているじゃないですか」
大変ですねぇ、と声をかけてくる烏の声はいつもより高かった。顔を手で隠しつつ、彼女の顔を見上げる。見上げて、後悔した。
いつもの仮面のような薄ら寒い笑みは消え、にんまりと頬がだらしなく緩んでいる。ハの字になった眉は、嘲りを隠す様子もなかった。顔を伏せるようにし、舌打ちをする。
「見るな。はやく店に入れ」
「あややや。いいじゃないですか。というより、私からすればその包帯だけでどうして隠し通せているかが不思議ですよ」
「不思議じゃねえだろ」包帯は完全に解けてしまっていた。久しぶりに外の空気が地肌に触れる。
「鬼人正邪は死んだんだ。みんなそう思ってるんだよ。もし怪しいと思っても、人間は無視するんだ。そうであってほしくないからな。あいつらにとって、信じたいことが真実になるんだ。そうだろ?」
「だとしても、ずっと包帯をつけていたら怪しまれますよ」
「大丈夫だ」私はそこで胸を張った。二本の角が暖かな風に撫でられる。「幻想郷には小人だっているんだぞ? ミイラ男がいてもおかしくねえだろ」
「女じゃないですか」
下らないことを気にする烏を無視し、開けっぱなしになった店の扉をくぐる。あれほどの暴風にもかかわらず、店の内装は一切崩れていなかった。室内に充満していた煙は消え去っているものの、机や壁が所々焦げて黒ずんでいる。だが、それだけだった。修理を頼むほどのものではない。唯一気になることといえば、どうして火が点いていたか。それだけだ。
「なあ烏。最近人里で放火が度々起きていたりしないか?」
「あややや。起きていたら記事に出来たんですがね。残念ながら」
「お前、いつか刺されるぞ」
おずおずと机の奥へと向かっていると、憎まれ口なんかより言うことがあるんじゃないですか、と烏が自慢げに口を開いた。
「感謝して下さいよ。火と煙だけを消すの、中々に大変でしたから。風を操ることができる私くらいしかできない芸当です」
「そうか。なら、蕎麦を食わせてやる」
「いらないですって。あなたは蕎麦をなんだと思っているんですか」
「人生」
面白くないですね、と下唇を突き出してくる烏を無視して、腰を落とす。大量に保管された包帯をぐるぐると顔に巻きながら、何をやっているんだと自分に呆れる。やはり、烏に会いに行ったのは失敗だった。こんなことなら、まだ慧音の方がましだったかもしれない。いや、それはないか。
「おい烏。そろそろ教えてくれよ」
「教えるって何をですか? 天邪鬼の無能さ?」
「ちげえよ。死者を生き返らせるっていう、人里の噂だ」
ああ、と彼女は間抜けな声を出した。その様子をみるに、本気で忘れていたのだろう。
「でも、将棋に勝ってないじゃないですか。駄目ですよ」
「いや、私の勝ちだ」
「はい?」
「お前から辞めると言い出したんだぞ。投了だよ投了。お前の投了で、私の勝ちだ」
「なんで投了は分かるのに、飛車は分からないんですか」
深く息を吐いた彼女は、私のちょうど正面の席に座った。彼女の黒く、肩口にまで切り揃えた髪が机越しに私の鼻をくすぐる。
「しょうがないですね。分かりました。教えてあげますよ。といっても、大した話ではありませんが」
「最初からそうしとけばいいんだよ」
「あなたはどうしてそうも上から目線なんですか」
「天邪鬼だからだ」
「今、天邪鬼って」
「言ってない」
どうしてそれでバレないんですか、と呟く彼女の声には、明らかな落胆が浮かんでいた。なぜそんな声を出すのか分からない。ただ、今のところ烏の新聞に、天邪鬼が蕎麦屋を営んでいる、といった情報が載ったことはなかった。何だかんだ言いつつも、正体がばれないよう協力してくれているのだろう。絶対に感謝はしないが。
「それで? 人間はどうして死者を生き返らせるだなんて言っているんだよ。また小槌か?」
「そんな訳ないじゃないですか。ただ、私にも全貌はよく分かってないんですよね。いま記事を作るために情報を集めている所なんですが」
「ですが?」
「どうやら、少しきな臭い感じがします」
むしろ、そんな明らかな地雷から何の匂いも感じないのであれば、そいつの鼻は腐っている。
「いえね。方法自体は簡単なんですよ。確か、死んだ人のことを祈って、その写真に自分の血を垂らす。ただそれだけでいいんです」
「そんなんで生き返ったら苦労しねえよ」
「その通りですね。普段であればそんな世迷い言は鼻で笑われるだけでしょう。ただ、今は別です」
「別って?」
「人間達の間で、どうしても生き返らせたい人物がいるんですよ。それこそ、そんな怪しい噂を信じてまで」
それが誰を指しているか、烏は言わなかった。きっと、言わなくても分かると思ったに違いない。事実、私には思い当たる人物がいた。あいつだ。喜知田だ。ただ、あいつは絶対に生き返る事なんて無い。なぜなら、まだ死んでいないのだから。鬼の世界に、私の代わりに封印されたのだから。八雲紫の手によって。
「まあ、すぐに嘘だと分かるんじゃないですかね。こんな下らないことをする暇があれば、もっと有意義に過ごすべきだと、人間も気づくでしょう」
「そうか?」
「そうですよ。人間もそこまで愚かではありません。少なくともあなたよりましです」
「いや、分からんぞ」
「はい?」烏はまるで目の前に蕎麦があるかのように、割り箸を手元に置いた。なんだかんだ言いつつ、食べていく気なのだ。その図々しさに笑みがこぼれる。蕎麦の仕込みをしながら、私は言った。
「人間ってのはな、嫌なことからは目を背けるんだよ」
「嫌なこと?」
「そうだ。何でもかんでも自分の都合のいい方に解釈するんだよ。悪いことをするのは妖怪で、いいことをするのは人間だって、そう思い込むんだ。もしかすると、いつか悪いことをした人間も、実は妖怪だった、とか言われるんじゃないか?」
「あり得ませんよ」
「もしあり得たら謝ってくれよな」
なんで自慢げなんですか、と不服げに眉を下げた烏は、机の端に並べられた二枚の写真を見て、嫌そうに顔をしかめていた。きっと、あまりの巧さに嫉妬しているに違いない。そう思っていると、「酷いですね」と彼女は顔をしかめた。
「ピントもあっていませんし、背景だって汚い。私の足下にも及びませんよ」
「なんだよ。負け惜しみか?」
「そんな訳ないじゃないですか」
そう笑った彼女は懐からカメラを取り出し、私に向けた。新調したのか、以前見たときよりも一回り大きく、そして綺麗になっている。
「折角ですから、蕎麦屋のレポでも書いてあげましょうか。店主の写真付きで。もしかすると客足が増えるかも知れません」
「そもそも読まれない新聞に書かれても意味ないだろ」
「あなたの蕎麦よりはよく売れてますよ」
そう言った烏は、躊躇無くカメラのシャッターを切った。止める暇すらなかった。
「おい。なに勝手に撮ってんだよ。金取るぞ」
「いいじゃないですか。あ。正邪さん。包帯上手く結べてないですよ。これだと、すぐに正体がばれてしまいます」
言われて、慌てて顔に手をやる。冷やかしかと思ったが、本当に包帯は解けており、角どころか、髪がほぼ全て露見していた。やはり、一人で短時間で結ぶのはいつまでたっても難しい。
「おい烏。その写真消せよ」もう一度包帯を巻き直しながら、私は言った。「記事に載せたらはっ倒すからな」
「あややや。あなた如きが私を倒せるわけ無いじゃないですか」
「分からんぞ。さっき、窮鼠猫を噛むとか何とか言ってたじゃねえか」
「何言ってるんですか。鼠の方があなたよりよっぽど強いですよ」
まあ、載せませんけど、と呟いた彼女は、もう一度写真を撮った。今度はきちんと包帯を巻けている。そこまでして私の写真を撮らなくてもいいだろうに。
「おい烏。おまえ、そんなに写真ばかり撮っていると嫌われるぞ」
「あなたよりは嫌われませんよ」
写真。自分が口にした言葉に引き寄せられるように、机端の写真に目をやる。もしかして。もしかしてあの写真を使えば、奥さんが生き返るのではないか。特に深い意味なんてないはずなのに、どういうわけか気になった。
「あ」
烏が素っ頓狂な声を出したのは、ゆがいていた蕎麦をあげようとしていたときだった。
「そういえば、その人を生き返らせる方法について、ひとつ重大なことを思い出しました」
「なんだよ」
「教えてほしいですか」
「そういうのいいから、早く教えろよ」
「どうしましょうかね」
ニヤニヤと笑う烏に舌打ちし、蕎麦のつゆを丼に入れる。
「なんで渋るんだよ」
「ほら、やっぱり対価がいりますよ。ただで情報をあげるほど私は安くないんです。結局、喜知田についての情報は教えてもらえませんでしたし」
「知らねえもんは教えられねえだろ」
面倒くさく、鬱陶しい。だが、どこか懐かしかった。まさか、烏の軽口を感慨深く思う日が来るだなんて。どうやら私にとって、あの空白の一年は、なかなかに辛かったらしい。
「まあ、いいさ」どんぶりに、麺を入れる水はほとんど切られていない。
「とりあえず、これ食えよ」
「ちょっと待ってください。これめちゃくちゃ伸びてるじゃないですか」
「そうだろ?」
私は胸を張り、言った。
「これがおまえの人生だ」
どういう意味ですか、と肩をすくめた烏は、それでも蕎麦に口をつけた。
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希望と絶望
絶体絶命。弱小妖怪である私にとって、それは別に珍しくもない状況だ。何度も死にそうになったし、大怪我もした。もう二度とあんな目には遭いたくないが、幻想郷中を敵に回すなんて、意味の分からない状況にも追い込まれたことすらある。
そんな危機的状況を何とかくぐり抜けてきた私だったが、今まさにその、絶体絶命的な状況に追い込まれていた。油断した。まさか蕎麦屋でこんな事態に陥るだなんて。冷や汗が止まらず、顔に巻いた包帯が肌にくっつく。それのせいで、余計に焦りが募っていった。
「ねえ、いいでしょ?」
無邪気な少女が、私に向かい微笑みを浮かべてくる。
「その包帯、取ってよ」
「駄目だ」
「なんでさ。いいじゃん」
頑固な客に、うんざりとする。と同時におののいていた。こうなった針妙丸は中々に厄介だと言うことを、私は嫌というほど知っていた。
朝っぱらの蕎麦屋に客が来ることなんて、滅多になかった。だから、どうせ烏あたりが暇つぶしに来たのかと思い、「今日はもう閉店だぞ。飯を食いたいのなら自分の翼でも食ってろ」と適当に追い返そうとしたのだが、実際に店に入ってきたのは、二人の少女だった。小人と巫女だ。まさか、彼女たちが来るだなんて想定外もいいところだ。三ヶ月ぶり二度目の来店だった。
机の上で寝転がり、足を組んでいた私は飛び起きた。客の前で、はしたない格好をするわけにはいかない。そんな殊勝な考えを持っていたからではない。包帯を顔に巻いていなかったのだ。いつもは寝るときも身につけているのだが、こういう時に限って外していた。慌てて机の下へと身体を転がし、いらっしゃい、と小さな声で言う。
「ねえ、さっき店員さん包帯つけてなかったでしょ!」
博麗の巫女の頭の上にちょこんと乗った針妙丸は、店に入った瞬間にそう叫んだ。机の下で慌てて包帯を巻く私は焦っていた。もしかして、顔を見られてしまったのではないか。正体がばれてしまったのではないか。もしそうであるならば、非常にまずい。私はもう針妙丸と深く関わらないと決めたのだ。水の泡にしないために距離を取ると、こんな悪党とつるんではいけないと、そう決意したのだ。
だが、私の正体を知った彼女が、それを易々と許してくれるとは思えなかった。
動揺しながらも、手早く包帯を巻く。焦っていることを悟られないために「躾がなってねえぞ」と叫んだ。
「しっかりしてくれよ博麗の巫女。店に入っていきなり叫ぶだなんて、非常識にもほどがある。どういう教育をしているんだ」
「私は慧音じゃないから教育なんてしてないわよ」
やんやと暴れる針妙丸を抱きかかえながらも、彼女は飄々としていた。
「それに、多分これはあなたの影響だと思うわ」
「はあ?」
「あなたの非常識さが移ったのよ。私なんかより、今でも彼女はあなたの後ろを歩いているのだから」
「蕎麦屋を継ぐってのか」
そう呟く私の声は細かく震えていた。針妙丸が私の後ろを歩いている? 馬鹿な。こんな純粋で真っ直ぐな彼女が、私みたいな捻くれ者の後を追ったところで、いいことなんて一つも無い。
「もー、霊夢も店員さんも変な話ばかりして!」
ぴょん、と博麗の巫女から飛び降りた針妙丸は、とてとてとこちらに近づいてきた。包帯が巻き終わった私は、いかにもだるそうに身体を伸ばしました、といった風に立ち上がる。それでも不安は拭いきれず、自然と顔に手が伸びた。布のざらざらとした感触が手に伝わる。
「あー! 包帯もう巻いちゃってる!」
甲高い声を出し、頬をぷくっと膨らませた彼女は、じたばたとその場で地団駄を踏み始めた。その眉は悲しげにハの字になっている。
「ねえ、店員さん。もういっかい取ってよ」
「とるって、何をだよ。写真か?」
「違うよ! 店員さんが顔に巻いている包帯だって」
「嫌だね。私は包帯女なんだ。これを取るってのは、お前からすれば、その茶碗を壊すくらい辛いことなんだよ」
私がそう言っても、彼女は納得していないようだった。しぶしぶといった様子で博麗の巫女を呼び、底上げされた椅子に座らせてもらっている。彼女専用の椅子だ。どうしてこんな物を店に置いてしまったのか。馬鹿だろ、と内なる自分が嘲笑してくる。何も言い返すことができなかった。
ありがとう、と太陽のような笑みで博麗の巫女に微笑みかけた針妙丸だったが、こちらを見た瞬間に、その目を鋭くした。不貞腐れた子供のようにしか見えなかったが、なぜか私の身体は強張った。嫌な予感しかしない。
「ねー、いいでしょ。かお見せてよ」
「嫌だ」
「いいじゃん。減るもんじゃないし」
「私の自尊心が減るんだよ。それに、どうしてそこまで気にするんだ。私の顔なんてどうでもいいだろ」
私は期待していた。祈っていたと言ってもいい。この小さな小さな少女が、ただ好奇心でそう訊いているだけだと信じたかった。だが、現実はそんなに甘くない。
「あのね。さっきちらっと店員さんの顔が見えたんだけど」
「だけど?」
「昔の友人。ううん。仲間に似ていたんだ」そう口にする針妙丸の顔には、うっすらと悲嘆が隠されていた。
似ているもクソもない。本人だ。やはり見られていた。だが、どうやら確信は持てていないようだ。というより、さすがの針妙丸も、私が生きているとは思っていないのだろう。不幸中の幸いと言うべきだろうか。
「針妙丸。もうその辺で止めときなさい」
天邪鬼のくせに上手い言い訳が思いつかず、なんと誤魔化そうかと逡巡していると、巫女が助け船を出してきた。まさか博麗の巫女に助けられる時が来るとは。あまりにも惨めだ。
「そんなことより、もっと言うことがあったじゃない」
「言うこと?」
「ほら、さっき貰った紙切れよ」
「あ、ああ!」
口を大きく開け、巫女の懐から何かを抜き取った針妙丸は、こちらを見てにぱりと笑った。あれほど私の素顔に興味津々だったのに、もはやそんなことは忘れ去ってしまったかのように眩しい笑顔だった。純粋というか、単純というか。
「これ、さっきもらったんだ。だから、ここに来たの」
「なんだよ、それ」
「文おねえちゃんからもらった新聞だよ」
「ごみじゃねえか」
文文。新聞と書かれたそれをなぜか大切そうに胸に抱いた彼女は、私の前にそれを突き
出してきた。子供にゴミを押しつけるなんて、烏の神経が分からない。はやく巫女に退治されればいいのに。
だが、その紙くずを見て、どうして針妙丸がこんな朝っぱらから私の店に来たのかが分かった。分かってしまった。
「これ、私じゃねえか」
「そう! 店員さんがいちめんって奴だったんだよ。すごいね! おめでとう」
「嬉しくねえ」
またまたー、と無邪気な笑みを浮かべるチビに舌打ちし、新聞を乱雑に奪い取る。そこには目つきの悪い、包帯を巻いた人物が写っていた。服装こそ蕎麦屋らしい甚兵衛だが、それ以外は明らかに異様だった。我ながら、酷い格好だ。
「文おねえちゃんがね、これを持って蕎麦屋の店員さんのところに行けば、喜ぶって言ってたんだ」
「喜ぶわけねえだろ」
「でも、ちゃんと蕎麦についても書いてあるって言ってたよ」
隠れた迷店! と下らないタイトルを読み飛ばし、本文に目をやる。どうせ、美味しくないだの汚いだの書いているだろうと当たりを付け、文字を読み進める。が、予想に反し蕎麦については好意的な意見が並んでいた。香りがよく、色もいい。つゆと麺のバランスもとれていて、薬味の種類も豊富。言われたことがないような賛美がつらつらと書き連ねられている。逆に、ここまで書かれると気持ちが悪い。いったい烏は何を考えているのだろうか。不審に思ったが、すぐにその理由は判明した。
その次の文章には、蕎麦以外のことについて、つまりは店主である私について書かれていた。得たいの知れない不気味な存在で、人間だか妖怪だかも判然としないが、会話をすれば揚げ足を取られて腹が立つだけなので、もしこの蕎麦屋に行く場合は、無言でただ蕎麦をすすることをおすすめする、とのことだ。腹が立つより前に、驚いた。人間だか妖怪だか判然としない。嘘をつけ、と叫びたくなる。お前は知っているじゃねえか。
「どう? 嬉しい?」
じっと新聞に目を注いでいると、ひょこりと針妙丸がのぞき込んできた。その仕草は、憎らしいほどに無邪気で、純粋だった。
「嬉しくねえよ」突き放すように、私は語気を強めた。
「こんなゴミを押しつけられて、いい迷惑だ」
「えー、ひどい!」
また、ぷくりと口を膨らませた針妙丸は、それでもどこか楽しそうだった。小さな足をバタバタと忙しなく動かし、身体を私の方へ近づけてくる。
「でも、私はこれに書かれてることは本当だと思うよ」
「読んだのか」
「当たり前じゃん! しんぶんってのは、読むための物なんでしょ?」
「実はな、その新聞は本当は窓拭きに使うための物なんだ」
そうなの? と不安げに巫女のほうを見た彼女だったが、ふるふると首を振られると、勝ち誇ったかのような笑みでこちらを見上げた。その仕草に、私は吹き出してしまう。一年という空白期間があったはずなのに、それでも彼女は何も変わっていなかった。安堵とともに、どこかむなしさが胸を包む。私はこうして針妙丸を遠くから見守る。これでいいじゃないか。関わったらいけないと、あれほど痛感した。だからこそ、私は無性に悲しくなるのだ。どうして? まさか彼女の側にいられないからだなんて、言うんじゃないだろうな。そう声が聞こえた。水の泡にしないと決めたんだろ。
考え事をしていると、無意識に手が蕎麦を打ち始めていた。もう立派な蕎麦屋になってしまったものだ。喜びよりも、苛立ちが心を包む。
「やっぱり、店員さんは包帯を外した方がいいよ」
やけに溌剌とした声が店に響いた。結局、その話題に戻るのか。巫女に目をやり、助けを求めるが、ふっと目を伏せられた。諦めなさい。そう言っているのだろう。まったく、役に立たない。
「文おねえちゃんが書いたとおりだよ。やっぱり、そんな見た目だとお客さんは来ないと思う」
「余計なお世話だ」
「それに、私はもう一度店員さんの顔が見てみたいんだ」
「しつこいぞ」
だって、と口を尖らせた彼女は、頭上の茶碗をより深く被った。先ほどまでの明るさは消え去り、薄暗い、陰険とした表情に変わる。
「店員さん、似てたんだよ。正邪に。もう死んじゃったって分かってるけど、会えないって分かってるけどさ。それでも、会いたいじゃん。そっくりさんでもいいからさ」
「お前」
「それに、どこか似てるんだよね。店員さんと正邪。なんでだろうね。最初、本当に正邪かと思ったもん。そんなはずないのに」
泣き顔と笑いの中間のような顔になり、俯いた。かと思えば、懐をがさごそと漁り、何かを引っ張り出す。小さな、長方形のそれは、こちらから見るとただの白い紙にしか見えない。
「何だよ、それ」
「写真。しんぶんを買ったときに、文おねえちゃんから貰ったんだ。昔に撮った物なんだって」
「見せてみろ」
強引に針妙丸の手からそれを奪い取る。嫌な予感がした。あのケチな烏が、理由もなくこんなチビに写真を渡すとは思えない。
恐る恐る、その写真を裏返す。裏返して、息が止まった。それは私の写真だった。中途半端に包帯が巻かれた、昨日の写真だ。特徴的な短い角と、赤色混じりの髪は、間違いなく鬼人正邪だと分かる物だった。
「これ、生きてた頃の正邪の写真なんだって」
「え?」
「怪我をして、包帯でぐるぐる巻きにされているときの写真なんだって。かっこいいでしょ!」
「格好良くはねえだろ」
「包帯をまいている店員さんにいわれたくないよ」
「それに、なんで烏はこの写真をお前に渡したんだよ」
「正邪に頼まれたんだって」
どうしてあいつはいけしゃあしゃあと嘘を吐くことができるのか。天邪鬼の私ですら呆れてしまう。それに、巫女はこの写真の正体を知っていたはずだ。なぜ、止めてくれなかったのだろうか。私の正体がバレてしまえば、そして人里に知れ渡ってしまえば、博麗の巫女としての仕事を、つまりは幻想郷を混乱の渦に巻き込んだ逃亡犯を、殺さなければいけないと、彼女も分かっているはずなのに。
「没収だ」私は感情を隠しつつ、その写真を懐に入れようとした。
「こんな物捨てちまえよ」
「止めなさい」
だが、針妙丸の隣に座った巫女が、素早く手を動かし、逆に取り返される。
「おい、なんで」
「写真ってのは大きな意味を持つのよ。それこそ、死んでしまった人の写真はね」
あなたもそうでしょ? と巫女は机の端に目をやった。私も同じ場所を見る。二枚の写真が並んでいる。奥さんと針妙丸の写真だ。
「人は寂しくなると、亡くなった人の大切な写真を見て、心を落ち着けるのよ」
「なんだそれ。烏にでも言わされてるのか」
「違うわよ」
「なら、お前も持っているのか、写真」
私は持っていないけど、と俯くだろう彼女を馬鹿にしようと、息を吸った。が、予想に反し、私も持っているわよ、と巫女が手に持った写真をひらひらとさせたのを見て、その息を飲み込む。
「誰の写真だよ。見せろ」
「いやよ」
「というより、お前にも寂しいって感情はあったんだな」
あの完璧で無敵な博麗の巫女が、精神的に不安定になる状況なんて、思い浮かべることができなかった。私たち弱者の対極に位置する存在。圧倒的強者の象徴。それが博麗の巫女だ。大げさかもしれないが、私はそう思っている。
が、何を勘違いしたか、博麗の巫女は「まあ、確かに周りは騒がしいけどね」と針妙丸の頭をなで始めた。
「それでも寂しいものは寂しいのよ」
「なんだよ年頃の少女みたいなこと言いやがって」
「私は年頃の少女よ」
馬鹿なの、と博麗の巫女が鼻を鳴らしてくる。動揺と憤りを隠すために、背を向け、蕎麦を切る。なぜかいつもより力が入り、上手くいかない。ストンストンと、まな板と包丁が喧嘩する音が耳につく。
「私たち、別に蕎麦を注文していないんだけど」巫女がやけに快活な声で、そう言ってきた。「どうして勝手に作り始めているの?」
「どうしてって、お前そば屋に来て蕎麦食わないとか、あり得ないだろ」
「この店、うどんとか置いてないの?」
「ない。蕎麦だけだ」
えー、と針妙丸が嘆いた。悲しげに眉を下げ、机にへたりこんでいる。
「なんで蕎麦しかないのさ」
「なんでって、ここが蕎麦屋だからだ」
「でも、他のお店はうどんとかも置いていたよ」
「分かってねえな」私は思いきり胸を張った。「蕎麦ってのは最強の麺類なんだよ。暖かいのも、冷たいのもあるし、薬味を使えば味だって変わる」
「うどんだってそうじゃん」
「うどんと蕎麦は全然違う。ほら、そこの巫女と妖怪が同じって言う奴なんていないだろ?」
「まあ、いないと思うけど」
「だろ? それと同じだよ。麺類だからって同じだなんて言っちゃ駄目なんだよ。ほら、謝れよ。ごめんなさいって」
「それ、もしかして麺だから? ご麺なさいってこと?」
「そうだ」
「おもしろくなーい」
にべもなくそう言い放った針妙丸は、やっぱりうどんがいいなー、と文句を言った。
「蕎麦はなんか色が汚いからなー」と聞き捨てならないことを言っている。絶対にうどんはメニューに加えないと心の中で決意した。
今まで静観していた巫女が、「ねえ針妙丸」と重い口を開いたのは、ちょうど湯がいた蕎麦の水切りをしようとしているときだった。その声は、聞いたことがないくらい柔らかく、暖かい。
「針妙丸は、鬼人正邪についてどう思ってるの?」
「どうって?」
「どんな妖怪だった?」
うーんと悩む針妙丸を見て、ニコニコと楽しそうに微笑んでいる。と、わざとらしく私の目を見て、肩をすくめた。何やら口を動かしているが、よく見えない。
しばらく考えていた針妙丸だったが、ぱっと顔を上げると「正邪はうそつきだったかなー」と笑った。
「やっぱり天邪鬼だったよ。死なないっていってたのに死んじゃったし」
「でも、針妙丸はそんな天邪鬼の言葉を信じてたのよね。嘘つきの言葉を」
「まあね」なぜか彼女は得意げだった。いつの日か、私の言葉を信じる、と真面目な顔つきで口にしていた彼女の姿が頭に浮かぶ。感じる必要の無いはずの、罪悪感が体を包む。
「でも、私は正邪には嘘を本当にするちからがあると思うの」
「何だそれ」会話に参加する気は無かったのだが、思わず突っ込んでしまう。嘲笑が隠せない。
「そんな力を持つ妖怪が、弱小妖怪なわけないだろ」
「そうだけど……」
「だろ? 天邪鬼のことなんてとっとと忘れろ。死んだ奴のことを思っても意味ねえよ。もしかしたら、体が錆びちゃうかもだぜ」
「大人げないわよ」
針妙丸をかばうように身を乗り出した巫女は、妙に生暖かい目で私を見た。大きく溜め息を吐き、「ねえ、針妙丸」と彼女の頭を優しくさすっている。
「もしもう一度正邪に会えたら、どうする?」
知らず知らずのうちに手が止まる。自分の耳が真後ろにくるりと向かないか、と心配になるほど、私は耳をそばだてていた。
「そうだねー、もし正邪に会えたら」
「会えたら?」
「一緒に蕎麦でも食べたいな」
巫女の、気の抜けた息がここまで聞こえてきた。振り返らずとも、彼女が呆れているのが分かる。
「どうして? 蕎麦好きじゃないんでしょ?」
「うん。だけどね、きっと正邪にはぴったりだと思うんだ」
「なんでかしら」
だって、と彼女は椅子の上にもかかわらず、勢いよく立ちあがった。そのせいで、椅子がふらふらと揺れ、落ちそうになり、手をあわあわとばたつかせている。咄嗟に彼女を支えようと手が伸びたが、それより早く巫女が針妙丸の体を支えた。自身に対する嫌悪感と気恥ずかしさを誤魔化すために、「だって、何だよ」と強い口調で訊ねる。
「なんで天邪鬼と蕎麦がぴったりなんだよ」
「だって、正邪も蕎麦も、どこか汚いでしょ? 色とか、性格とか」
巫女が吹き出した。針妙丸も、楽しそうにニコニコと笑っている。だが、気のせいだろうか。彼女が正邪、と口にしたときに、わずかに泣き出しそうな、悲痛に満ちた顔をしているように見えた。気のせいなはずだ。そうあってくれ、とひとり願う。湯がいている蕎麦はいつの間にか伸びきっていた。
何だかんだ言いつつも、凸凹な二人の客は蕎麦を食べ終わり、店を後にした。針妙丸に正体がばれそうになったせいか、嫌な余韻が頭に残る。危なかった。これからは、包帯を解くときは鍵を閉めておこう。あの蕎麦を好まない針妙丸がこんな朝っぱらから来るなんて、想定できるはずがなかった。
早速鍵を閉め、包帯を緩める。もう今日は店を開く気力が残っていなかった。開いていたところで、客なんてめったにやってこないので、特に問題も無いはずだ。
完全に包帯をほどくと、新鮮な空気が肌を撫で、すがすがしい気持ちになる。やはり、常に包帯を巻くなんて、不衛生にもほどがある。本物のミイラ男に会ったら、尊敬の念で握手を求めてしまうだろう。だが、弱小妖怪である私にとっては、こんなことで平穏な日々を過ごせるなんて、破格もいいところだ。それこそ、些細なことで打ち破れてしまいそうなほどに。
特にやることもなかったため、また寝直そうかと床に腰を落としたとき、たまたま新聞が視界に入った。烏の新聞だ。特段大した内容が書かれていないことなんて分かりきっていたが、それでもなぜか手が伸びる。一面に書かれた私の悪口を読み飛ばし、ペラリとめくる。
あっ、と思わず声が零れた。そしてすぐに口内に苦い唾が上がってくる。あいつ、と誰もいないにもかかわらず、呟いていた。あいつ、記事にしてるじゃないか。
『必見! 死者を生き返らせる方法!』と書かれた見出しを見つめる。無意識のうちに力が入り、くしゃりと新聞が音を立てた。落ち着け、と自分に言い聞かせ、読み進める。
そこに書かれていることは、おおよそ昨日聞いたことと変わりは無かった。だが、いくつかのことについて、それは例えば写真が湿って、ひたひたになるくらいの血が必要であるとか、祈る際には両手をしっかりと組まないといけないだとか、そういった類いのことが具体的に書かれているだけだった。
一つ気になる点は、注意点として、とやけに太い字で書かれている箇所だ。『なお、この方法で生き返らせることができるのは、一人だけである』
まるで、烏がこの噂を生み出したかのような断定口調に、呆れた。
こんな戯れ言を、本当に真に受ける奴がいるのだろうか。いるわけがない。そう思いたかったが、私は知っていた。溺れる者は藁をも掴む。その通りだ。追い込まれた人間は、弱小妖怪は、何をするか分からない。無垢な少年が野菜を盗むことだってあるのだ。絶望した人間が下らない迷信に惑わされることだっておかしくない。
人里の外れに、血に濡れた大量の写真が積み上がっている様子を想像すると、体が震えた。恐怖ではない。歓喜だ。心の弱い人間を欺き、無意味な行動をさせる。すばらしく魅力的じゃないか。
そう思うほどに、体の震えは大きくなっていった。まるで、建物全体が振動しているみたいだ。いや、みたいではない。本当に蕎麦屋が揺れている。
慌てて立ち上がったとき、ひときわ大きな揺れとともに、爆音が鳴り響いた。あまりの衝撃にバランスを崩し、その場に倒れ込む。目の前が真っ白になり、音のせいか、酷い頭痛に襲われる。いったい何だっていうんだ。
おそるおそる、目を開く。室内だというのに土埃が蔓延し、視界はよくない。だが、それでも誰かが室内にいることが分かった。鍵のかかった扉を強引にこじ開けたのだろう。とても人間ができることじゃない。
「おい。妖怪か? こんなことしたら、巫女に半殺しにされるぞ」
たかが店に押し入っただけで巫女がとんでくるわけもなかったが、私は自信満々に凄んだ。弱小妖怪にとって、巫女という存在はいわば抑止力だ。彼女が出てくるだけで、悪巧みは終わり、滅亡が待ち受ける。実際はどうなのか分からないが、少なくともそう信じられているのは事実だった。
だが、それでもそいつはひるまなかった。躊躇無く足を進め、辺りを払うように堂々と迫ってくる。背筋が凍った。弱小妖怪としての本能が、危険を知らせてくる。これはまずい。殺される。
「ねえ」
侵入者は、低く、そして仰々しい声を出した。手に持った何かをびゅっと振る。すると、室内に籠もっていた土煙が晴れ、段々とその姿が露わになっていった。赤い。最初はそう感じた。が、ぼんやりとしたその輪郭が明瞭になっていくにつれ、凍っていた背筋が燃え上がり、そして砕け散るような、そんな感覚に襲われる。
「よくもまあ、この私を妖怪だなんて言ってくれたわね」
侵入者は巫女だった。なんでこいつがここに。さっき帰ったじゃないか。数多の疑問が頭に浮かび、消えていく。あまりの恐怖に何も考えられなくなっていた。
「ご、ごめんなさい」
咄嗟に出てきた言葉は単純な謝罪の言葉だった。つくづく、自分の無能さに腹が立つ。尻餅をついてただ謝るだなんて、情けないにもほどがあった。
巫女はしばらく返事をしなかった。真顔でうつむき、固まっている。まったく感情が読めなかった。怒っているのだろうか。だとすれば、まずい。ここから逃げようと腰を浮かせるが、包帯を巻いていないことを思い出した。さすがにこのまま外に出るわけにはいかない。どうしようか、と混乱する頭を回していると、いきなり巫女が顔を上げた。にっと得意げに笑い、手を差し出してくる。
「おもしろくなーい」
その針妙丸の真似は、腹が立つほど似ていなかった。
「いきなり人の店の扉をぶち壊すなんて、何考えてんだよ」
外に出た私は、隣をのんきに歩く巫女に唾を飛ばした。が、残念ながらその唾は口許の包帯に吸収されていき、彼女には届かない。だからだろうか、彼女は私の言葉などなかったかのように、「あんたねぇ」と手に持ったお祓い棒を突きつけてきた。
「いったいいつまでそんな生活を続ける気なの」
「いつまでって」私は眉根を下げ、相手を見下すような表情を作った。
「そりゃ、永遠に」
「永遠って、そんなの無理に決まってるでしょ」
「分かんねえぞ。死ぬほど頑張りゃなんだってできるって、知り合いも言ってた」
「言ってたって、誰が」
「妹紅が」
「彼女は本当に死ぬほど頑張っているのよ」
呆れを隠そうともしない彼女の髪が、春のそよ風に揺すられた。桜の香りがする柔らかい風だ。赤い特徴的なリボンと、白いフリルがゆらゆらと揺れ、かわいらしいといえなくもない。だが、博麗の巫女がいくら可愛らしい少女だと言われても、私たち弱小妖怪からすれば、ただの恐怖の対象であることに変わりはなかった。
「一体なにを考えているか知らないけれど、そんな包帯だけじゃ、いつかはバレるに決まってるじゃない」
「今までバレてないから大丈夫だ」
「大丈夫っていう言葉の意味を調べた方がいいわよ」
「きっと、こう書かれているぜ。大丈夫とは、蕎麦屋が巫女を馬鹿にするときに使う言葉ですってな」
使いどころがなさ過ぎる。そう呟いた彼女は、淡々と道を真っ直ぐ進んでいた。一応私に配慮してくれているのか、人通りが少ない道をくねくねと曲がり、人里の端へと向かっている。もうそろそろ昼時だ。春の昼なんて、大通りは人で溢れかえるに決まっていたので、ただそれを避けただけかもしれない。
「なあ、どこに向かってるんだよ。もう帰っていいか?」
「駄目よ。着いてきてくれたら扉を直してあげるから」
「お前が壊したんじゃねえか」
あまりに暴虐な巫女の態度にうんざりとする。もう黙って帰ってしまおうか。いや、駄目だ。今度は建物ごと壊されかねない。
「まったく、お前はひとりで出かけることもできねえのか」暗に、早く返してくれ、と言外に含めつつ、わたしは言った。「わざわざ私を呼び出しやがって。寂しがり屋かよ」
「そうね」私はてっきり、違う、と言われると思ったのだが、案に反し、彼女は頷いた。
「私は寂しがり屋なのよ。お母さんがすぐ死んじゃったから、我慢しているだけ」
「なんの冗談だよ」
「冗談じゃないわよ」巫女は悲しげに言った。「人間にとって、お母さんって本当に大切なんだから。それこそ、三千里を歩いて会いにいくほどね」
「なんだよそれ」
「やっぱ、駄目だ、わたし。やっぱり、世の中で大切なのは諦めることだったのね」
「さすが博麗の巫女。こじらせてらっしゃる」
私の一言が気に障ったのか、巫女は足をより速めた。私と同じくらいの背丈にもかかわらず、彼女の歩みはかなりのスピードだった。それがさらに加速したのだ。早歩きではついて行けず、小走りで追う。急いでいるのだろうか。
むすっとした巫女は、しばらく黙々と進んでいたが、人里を抜けた辺りでふわりと体を浮かせた。あまりにも突然だったため、浮遊していく彼女をじっと見つめていると、何してるのよ、と棘のある声で突っつかれる。
「はやく来ないと、置いていくわよ」
「うるせえな」なら、とっとと置いていって欲しかったが、優しく手を握り、ガキを引き連れるように手を引っ張られる。慌てて振りほどくと、彼女は心配そうにこちらを振り返った。逃走の心配ではない。私が彼女と同じように空を飛べるのか、と憂慮しているのだ。馬鹿にしやがって。
「お前の助けなんていらねえよ」
「そう? ならいいのだけど」そう笑みを浮かべた彼女は、何かを思い出したのか、手をぱんと叩いた。ああ、そういえば、とわざとらしく呟いてもいる。
「あなたに教えて貰いたいことがあったのよ」
「何だよ。下克上の起こし方か?」
「違うわよ」なによそれ、と彼女は下唇を突き出した。「基準を知りたいのよ」
「基準?」
「そう。どんなことにも基準はあるでしょ? この基準を超えたら怒る、みたいな。だから、あなたにもあると思って」
「どういう意味だよ」怒る基準であれば、当に巫女によって超えられている。
かなりの速度で飛んでいるせいで、向かい風が強く、目が痛む。私がそんな有様なのに、巫女は余裕綽々といった様子で滑るように、まさしく空を滑空していた。そんな彼女の顔を、涙でにじむ目でじっと見つめる。心なしか、張り詰めた表情をしている気がした。
「基準って言うのはね」彼女の声が、風の音をかき切るように私の耳を刺した。
「あなたが生きていることを、人里の蕎麦屋にいるってことを教えてる人の基準よ」
「は? なんだそれ」
「パチュリーと、それと文には生きてるって教えたんでしょ? それと慧音にも。なんでその三人には教えたの?」
「なんでって」そんなこと、私自身にも分からなかった。
「あなたがどうして身分を隠しているか。たしかに分かるわ。天邪鬼だとバレたら、また指名手配されちゃうものね。そうしたら、私も追っかけないといけないし」
「そうだな」
「でもね」強張っていた頬を少し緩め、彼女は言った。
「でも、別に針妙丸には言ってあげてもいいんじゃないの? あの子、中々まわりには見せないけれど、かなり傷ついているわよ」
「え?」
「夜にね、正邪ってうなされているの。泣きながらね」
嘘だろ、と声が零れる。今日みた様子だと、そこまで追い詰められているようには見えなかった。あれは、無理して笑っていたのだろうか。
「あり得ない」
そうはいったものの、あり得ないとは思っていなかった。彼の父親も、心の内にどす黒い感情を隠していたが、まるで表情には表さなかったじゃないか。血は争えない。きっと、そういうことなのだろう。
「分かりにくすぎだろ。滅茶苦茶元気そうだったのに」
「案外、絶望した時ってのは分かりにくいものなのよ」知ったような口で、巫女は淡々と言ってきた。「慧音は分かりやすいけどね」
「なんだよ。みんなもっと分かりやすくしてくれればいいのにな。そうしたら、より多くの人を絶望に追い込める」
「分かりやすくって、どうやって」
「私だったら、希望しかないって叫ぶね」
「ああ、天邪鬼だから」分かりにくいわよ、と彼女は唇を尖らせた。
「だけど、私は針妙丸に正体は言わねえよ。いっちゃならねえんだ。そう決めたんだよ」
「決めたって、誰が」
「この世界が」
ふうん、と曖昧な返事をした巫女は、それ以上何も訊いてこなかった。前を向き、無言で雲を突っ切っている。
そうだ。鬼人正邪は針妙丸に会ってはいけない。水の泡。しわがれた彼の声が、頭の奥底にこびりついている。包丁を持った三郎少年を思い浮かべ、それからすぐに、喜知田に捕らえられた針妙丸の姿が目に浮かんだ。これ以上、彼女を不幸にするわけにはいかない。やっと、彼女は幸せになる権利を得たのだ。それを、壊すわけにはいかない。他の誰でもない。私のために、蕎麦屋の店主として振る舞い続ける。そう決めたのだ。
「そう決めたじゃないか」
なのに、なぜか針妙丸の笑顔が、頭から離れなかった。
「途中で大体察してはいたけどよ」私は溜め息を隠すことができなかった。
「まさか、本当に博麗神社に連れて行かれるとはな」
赤く、大きな鳥居を見上げると、もう一度溜め息が零れ出た。真っ青な晴天にそれはよく映えていたが、美しい、とは到底思えなかった。博麗神社。妖怪の天敵である巫女が住まう場所であるとともに、数多の妖怪が住まい、訪れるという矛盾した存在。いつの日か、傲慢な天人によって破壊されたらしいが、もうそんな馬鹿なことをする奴はいないだろう。それこそ、天邪鬼が下克上を起こす可能性よりも低い。
「おい博麗の巫女。どうして私をこんなとこに連れてきたんだよ」
鳥居をくぐり、本殿へと向かう巫女を呼び止め、言った。
「まさか、一緒にお茶でもしましょう、だなんて言うわけじゃないだろうな」
「まさか」冗談でしょ、と鼻を鳴らした。
「あなたなんかにお茶を出す奴はいないんじゃない?」
「そうだよな」
「よっぽどのお人好しか、馬鹿だけよ。そうじゃなくて、あなたに見て貰いたい物があるの」
「見て貰いたい物? なんだよ、芸術作品でも作ったのか?」
「なんでそうなるのよ。それに、もしそうだとしても、絶対にあなたには見せないわ」
「なんで」
「だって、絶対あなた、『くそみたいだな』とか言うんでしょ」
「言わねえよ」私は首を振った。「言うなら、『芸術は爆発だ』とかだな」
「どういう意味よ」
「こんなもの爆発してしまえって意味だ」
結局罵倒するのね、と薄く笑った彼女は、私の手を握り、強引に前へと進んだ。いやいやながらも、彼女について行く。ここに来るのは三回目だった。以前は針妙丸と取っ組み合いをしたのだったな、とぼんやりと考え、あの時の彼女の眩しい笑顔を思い浮かべる。そうだ。私はあの笑顔を守らなければならない。汚してはいけない。そうだよな、と蕎麦屋の親父に訊ねる。当たり前だ、と返事が返ってきたような気がした。
本殿の前まで来た巫女は、「ただいまー」とどこかわざとらしい声を出した。が、辺りを見渡すも、誰の姿も見えない。
巫女は、誰かいないか確認しているのか、ぐるりと見渡すとうつむきながら扉を開いた。が、中々奥へと進まない。何をしているのだ。
巫女の体をすり抜けるように、部屋をのぞき込む。のぞき込んで、目を疑った。息が詰まり、きゅっと胃が締め付けられたかのような感覚に襲われる。めまいがし、その場にうずくまる。これは夢なのか、と疑い頬をつねるも、鈍い痛みが走るだけだった。
頼むから、目が覚めてくれ。お願いだから。そう願う。だが、現実は変わらない。なんだよ、これは。話が違うじゃないか。やっぱりそうなのか。駄目なのか。おかしいとは思っていた。平穏な生活を過ごす中で、これがずっと続いていくのか、と疑問に思っていた。だが、まさか。こんなことになるとは。こんな最悪なことになるなんて、思わなかった。
「希望しかねえな」
血まみれで倒れている針妙丸を前に、私はただ佇むことしかできなかった。
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事件と事故
「想定しうる最悪のことは必ず起きる」
いつの日か、慧音にそんなことを言われたことがある。具体的な日付までは覚えていないが、確かあれは慧音が初めて店にやってきたときだった。
「人里にいるのなら、普通に挨拶してくれればいいのに」と不満を言った彼女だったが、その表情は明るかった。喜知田がいなくなり、人里の混乱を鎮めるために躍起になっているからか、目元や髪には疲れの象徴ともとれる乱れや皺があったが、それはそれで慧音らしい、とも言えた。
「一年間、いったいどこで何をしていたかは知らない。けど、何もこんな物で生きていることを知らせなくても」
「こんな物ってなんだよ」
「シラウオだよ。生きた奴。寺子屋の前に落としていったの、お前だろ?」
「違う」違わない。それを落としていったのは私だった。どうしてあんなことをしたのか。気の迷い。いや、違う。気まぐれだ。気まぐれで、私は彼女たちに合図を送った。正直に言えば、生きている、と知らせるつもりはなかった。合図を送ったとしても、本当に生きていると彼女たちが分かるかどうかは、半々といったところだと思っていた。が、予想に反し、烏も、慧音も、鶏ガラもすぐに気がつき、そして当然のように蕎麦屋にやってきた。まるで天邪鬼という妖怪は蕎麦屋にいると、どこかの図鑑に書いているかのように、迷いなく来たのだ。
「まったく。しかもあの正邪が人里で蕎麦屋を営むようになるとはな。驚きだよ」
「ああ。わたしも驚いている」
「もしよければ寺子屋に居候してもいいんだぞ」
「指名手配犯が潜んでいる学校ってどうなんだよ」
生徒が減りそうだな、と慧音はケラケラと笑った。彼女の笑い声が蕎麦のつゆに反射し、円上の波紋ができる。それに気がついたわけではないだろうが、箸を持った慧音は蕎麦を口に入れた。
「どうだ。旨いだろ」このときの私は蕎麦を作り始めて三日と経っていなかった。作り方なんてまったく分からず、手探りで作り上げた物だ。
慧音は最初、微動だにしなかった。ゆっくりと咀嚼し、水を口に含む。酷いしかめっ面だった。
「想定しうる最悪なことは必ず起きる」
口の中の物を一気に飲み込んだ彼女は、おずおずとそう言った。
「こんな話を知っているか?」
「知らない」
私は半ば反射的に答えていた。また、慧音のつまらない話がくるぞ、と身構えるものの、懐かしく、感傷的な気分にもなった。ああ、この世界に、人里に帰ってこられたのだな、と実感する。鬼の世界は、こんな慧音のクソみたいな話ですらありがたく思えるほどに、最悪だった。
私の返事に片眉をあげた慧音は、包帯を弄りながら背を向けた私なんてお構いなしに「むかしな」と話し始めた。
「むかし、とある大工がいたんだ。そいつは丈夫な建物を造るのが売りでな、本人曰く『火事と地震が同時に起きて、その後に雷でも落ちない限り、大丈夫』と豪語してたんだ」
「地震雷火事親父ってか? 親父が足りねえぞ」
「べつに親父は建物を壊さないだろ」
「分からんぞ。親父だって壊すときは壊す」
肩を落とし、大きく胸を上下させた慧音は、これだから、といった表情で私を見つめた。呆れとともに、むず痒くなりそうな暖かな笑みを浮かべている。舌打ちが出た。私はお前の生徒じゃないんだぞ、と釘を刺すも、彼女はもう一度笑みを浮かべるだけだった。
「まあいい。それでな、その大工はそう豪語するだけあって実力は確かだったんだ。だから、調子に乗った。『もし造った家が崩れたら、首をはねてもいい』だなんて、愚かなことを口にしたんだ」
「それは愚かだな」
「だろ?」
「慧音と同じくらい愚かだ」
半獣の顔が嫌みに歪んだ。「まさか、天邪鬼のお前に言われるとは」と笑いながらいってくる。「確かに私は愚かだが、正邪よりはましだよ」
「正邪? 誰のことだよ。私はしがない蕎麦屋だ」
「ないのは客だろ」とつまらないことを言った慧音は、「話を戻すぞ」と続けた。戻さなくてもいい、と呟く私の声は、当然のように無視される。
「でもな、その大工にとって、悲劇的なことが起きた」
「なんだよ。不倫がバレたのか?」
「違う。家が崩れたんだよ」だと思った、と私は声に出す。
「確かにそいつの造る家は丈夫だった。だがな、悲劇的なことに、本当に地震と火事と雷が同時に一軒の民家を襲った。すると、その家は呆気なく倒壊したんだ。本当に呆気なかったよ。え、こんな簡単に? と驚くほどだった。この家は豆腐でできていたのか、っていうくらい」
「豆腐で家が作れるわけ無いだろ」
「それはそうだが」
そこで慧音は、目の前に置かれた蕎麦の器を指でつついた。麺はほとんど減っておらず、汁を吸い、ふやけはじめている。早く食べればいいのに、箸を持つ気配はない。
「つまり、私が何を言いたいというと」
「大工にはなるなってことか?」
「慢心していると、絶対にいつか痛い目に遭うってことだ」
はん、と意図せず馬鹿にするように鼻を鳴らしていた。慢心していると痛い目に遭う? そんなこと、言われなくても分かりきっている上に、間違っている。私たち弱小妖怪は決して慢心していなくとも、痛い目に遭うのだ。理不尽に、さも当然かのように蹂躙され、殺される。細心の注意を払ったところで、そうなってしまうのだ。そういう運命なのだ。
「どうしたんだ正邪。そんなにむすっとして」慧音がどこか心配そうに訊ねてきた。
「私の話、つまらなかったか?」
「逆に、どうして面白いと思ったんだ」別に慧音の話がつまらなくてむくれていたわけではなかったが、私はいかにも、お前のせいだと、いわんばかりに指を突きつけた。
「そもそもな、最初の段階で話の落ちが予想つくだろうが。自信過剰な大工がいましたって言われたら、ああ、こいつの建てた家が崩れて、酷い目に遭うんだなって誰でも分かる。単純なんだよ」
「話ってのは単純なもんだろ。そういう物のほうが好まれるんだ。悪い奴がいて、退治されて、終わり。王道だよ」
「そんなことないだろ」
「ある。竹取物語も、桃太郎も、金太郎も、全部単純だ。現実だけだよ、複雑なのは」
「その童話と肩を並べようとするのはさすがに傲慢すぎる。いつか、痛い目に遭うぞ」
確かにそうだな、とあっさり認めた慧音は、伸び始めている蕎麦に箸をつけた。少し口に持っていき、ゆっくり食べ進める。蕎麦をすする音が店内に心地よく響いた。
「それで? どうしてそんな妙な話を急にし出したんだよ。大工にでもなりたくなったのか?」それか、寺子屋を改修しようとしているかのどちらかだと私は踏んでいた。
「違う違う」慧音は苦笑いを浮かべた。
「この蕎麦を食べて、さっきの話を思い出したんだ」
「なんでだよ」
そもそも、思い出した話をすぐさま口に出す神経が分からなかったが、それを口にするのはやめておいた。どうせ、先生だから、とかいう下らない理由に違いない。
「なんでって、それは」
「それは?」
「この蕎麦が、想定しうる最悪の味だったからだよ。なんだこれ。不味すぎる」
「慧音は天邪鬼だなあ」
「お前が言うのか、それを」
困ったように笑う慧音の声が、私の胸を打った。ああ、これが幸福なのか。そんならしくもないことを、その時には考えていた。
だが、幸福というものは簡単に打ち崩されてしまうものらしく、そんな話をした数年後、再び慧音と向かい合っている私は絶望していた。後悔と怒りが頭を支配し、いてもたってもいられなくなる。破壊された扉は直っておらず、隙間風どころか、突風が店に入ってきているが、そんなことすら、どうでもよかった。
「想定しうる最悪だ」私は黙って蕎麦に目を落とす慧音に呟いた。
「慢心したわけでもないのによ」
血塗れで倒れている針妙丸を目にした私は何もすることができなかった。目の前が真っ暗になり、何度もこれは夢ではないか、と疑った。が、当然それは現実で、動かしようのない事実だった。
彼女のお椀は二つにかち割れており、服は血を吸って重くなっていた。彼女の持ち物は全て血まみれになっており、まともに掴むことすら憚られるほどだった。
首筋の太い血管が切れていた、らしい。というのも、気が動転していた私は、あの後必死に針妙丸の名前を連呼し、その後すぐに鶏ガラ! と叫びだしていたそうだ。まったく覚えていないのだが、何度も「全てがひっくり返りますように!」と喚き、何も持っていない手を揺さぶっていたらしかった。控えめに言って、錯乱していた。
不幸中の幸いと言っていいか分からないが、針妙丸は一命を取り留めた。どうやら見た目ほど重症ではなかったらしい。紅魔館ではなく、永遠亭という場所に巫女が運んだらしいが、とにかく、そこにいる腕のいい医者が治療し、無事に完治した、と私は聞いた。が、まだ意識は戻っていない。身体的影響というよりは、精神的被害によるものだと、針妙丸を運んだ巫女が言っていた。純粋なものほど汚れやすい。それは、痛いほど知っていることだった。
あれからどうやって帰ってきたかは覚えていない。気づけば自分の店で眠っていた。いくら春とはいえ、扉がぶっ壊れているせいで、夜風が部屋に入り込んできて体が冷えたが、それでも私は眠った。目が覚めれば、針妙丸が怪我をした事実など消え去り、またいつものように巫女と楽しい生活を送るのだと、私の知らないところで、幸せになっているのだと、そう思いたかった。だが、実際に目が覚めた先にあったのは、なぜか私の店の椅子に腰掛ける人里の守護者の姿であった。寝ぼけていた私は、勝手に入ってきたことを咎めるより早く、「なんで」と口走っていた。「なんで慧音がここにいるんだよ。鬼の世界にいるんだよ」
それを訊いた慧音は、何を思ったかは知らないが、おもむろに私の頬を撫でた。といっても、包帯を巻いているので、正しくは包帯を撫でたといった方がいいかもしれないが、とにかく、彼女は私を励まそうと、優しく接してきた。
「とりあえず、蕎麦でも作ってくれよ」
にっと笑う彼女にそう言われた私は、ここが鬼の世界ではなく人里の蕎麦屋であることを認めると、おずおずと蕎麦を作り始めた。「慧音に励まされるなんて、私も落ちぶれたな」と嫌みを言うことも、もちろん忘れない。
蕎麦を作っている間、私は知らず知らずのうちに、針妙丸が怪我をしたことを彼女に話していた。どうやら慧音もそのことについて知っていたようではあったのだが、私が何か言うごとに「そうか」と相槌を打っている様子から察するに、彼女自身もショックを隠し切れていない様子でもあった。
「まあ、針妙丸なんてどうでもいいんだけどな」
とってつけたかのように、私はそう言った。
「だが、気にくわねえんだよ。あのチビを利用していいのは私だけなんだ。いわば、私の所有物みたいなもんなんだよ。それを勝手に傷つけるってのは、許せねえよな」
そうか、とまた慧音は呟いた。彼女の顔に生気はない。よく見る、絶望したときの顔だ。分かりやすい。
「それは、チーム天邪鬼だからか?」と無理して笑顔を作って訊いてくる。「自分が天邪鬼だと認めるのか?」
「いや、私は天邪鬼じゃない。蕎麦屋だっていってるだろ」
口ではそう言いつつも、私は彼女の口にしたチーム天邪鬼という言葉に思いを馳せていた。輝針城で集まった弱小妖怪の集い。いま思えば、あれは小槌の願いなのか、針妙丸の魅力なのか、はたまた弱小妖怪が傷を舐め合うためにできたものなのかは分からないが、碌でもない集まりなのは確かだ。喜知田と対峙したとき、人里で暴れたせいで、巫女に痛い目に遭わされていないか、と心配になり、そんな自分に嫌気がさす。どうしてあんな弱小妖怪のことを心配しなければならないのか。あいつらのことなんてどうでもいい。他人の心配なんてしている暇はない。そんなこと、分かっているのに。
「いったい誰があんなことをしでかしたんだかな」
なんとなしに、慧音がそう呟いた。声に抑揚はない。まったく感情がない声だった。自然と出たとは思えないほどに、淡泊だ。
「それとも、事故か何かだったのか」
「事故?」
「そうだ。不慮の事故だよ。不慮の事故。不良の自己じゃない」
よく分からないことを言った慧音を無視し、事故、と呟く。その瞬間、開けっぱなしになった扉から突風が入ってきた。普段であれば朝とはいえ、春の風は暖かいのだが、あいにく今日は雨模様のようで、大量の水滴とともに冷たい風が体を突き刺してくる。お前なんて、ここにいてはいけないんだ、と糾弾されているようにも、お前がいたからこんなことになったんだ、と非難されているようにも感じた。
「事故で腹を刺すって、どういう状況だよ」
「痒かったからかいたんじゃないか? 刃物で」
「下らねえ。本当に下らねえよ、慧音」
慧音自身も、本当にそう思っているわけがなかった。彼女の苦痛に満ちた表情を見れば、嫌でも彼女の心情が理解できてしまう。どうせまた、私のせいだ、と自分を責めているのだろう。阿呆らしい。愚かだ。お前ごときがどうこうしたところで、何も変わらないだろうに。思い上がりもいいところだ。だが、それは他でもない自分自身にも言えることだった。そうだ。私なんかが何かをしたところで、どうしようもない。だが、そう分かっていても納得できるはずがなかった。彼女を暗闇に落としたのは、他でもない私なのだから。
「針妙丸が恨みを買うと思えないからな」慧音は蕎麦をすすりながら言う。「誰かに刺されたなんて、考えられないだろ」
「恨みを買わないと刺されたら駄目なんてルールはない。私なんて、恨みを買った覚えもないのにボコボコにされまくってるぞ」
「正邪は恨みを押し売りしているじゃないか」
「私が売っているのは蕎麦だけだ」
「この蕎麦も、ある意味恨みの体現みたいな味だけどな」
「どんな味だよ」
慧音がふっと笑みを零した。それだけで葬式じみていたこの店の雰囲気が緩み、部屋が明るくなったように感じる。
「まあでも、やっぱり誰かに刺されたとは思えないよ、私は」
「なんでだよ」誰か犯人がいると決めつけていたので、否定する慧音が信じられなかった。「他に可能性があるってのかよ」
「あるかどうかは分からない。だが、あり得ないんだ」
「何が」
「博麗神社に入って、そこにいる針妙丸を刺すだなんて蛮行、人間はおろか弱小妖怪がするわけないだろ。強大な妖怪だって、わざわざそんなことはしないし、するとしたら針妙丸はもう死んでいる」
「強者がもてあそんだかもしれないだろ。あいつらは弱者を鞠か何かだと勘違いしている」私がそう言うと、慧音はふるふると首を振った。その顔は醜く歪み、今にも泣き出しそうだ。
「ない。博麗の巫女に喧嘩を売ってまで、そんなことはしないさ。弱者をいたぶりたいなら、そこら辺の妖怪をいたぶるだろ」
「まあな」
「それに、時間も無い。そうだろ?」
逆に、針妙丸を刺すような時間がある奴がいるか、と文句を言おうとしたが、そういうことを言いたかったのではない、とすぐに察した。
「確か、この蕎麦屋に針妙丸と霊夢が来て、帰った後にすぐ霊夢が戻ってきたんだよな」
「そうだが」私は自分で作る蕎麦をすすりながら、答えた。思ったよりも味が薄いが、きっと精神的苦痛のせいで、味覚が鈍感になっているのだと思いこむ。
「というか、なんでそんなことを知ってるんだよ」
「なんでって」慧音は少し早口で言った。「それは、人里の守護者だからだよ」
「私の知っている人里の守護者は、ただ蘊蓄を話す面倒な奴だったはずだが」
「おい。私だって、怒る時は怒るぞ」
ふん、と鼻息をならした彼女は、怒りを隠すためか、一気につゆを飲み干した。
「そんな短期間の間に、博麗神社まで行って、針妙丸を刺して帰るだなんて、無理だろ」「分からんぞ。幻想郷では何があってもおかしくない」
「なら、いつか素直な天邪鬼が見られるかもな」
「それはもはや天邪鬼じゃねえよ」
私のその答えが不満だったのか、慧音は悲しげに眉根を下げた。「おまえはもっと素直になるべきだ」とあり得ないようなことを言ってくる。私はいつだって自分の欲望に素直だというのに。
欲望。私の欲望とは何か。天邪鬼らしく、相手を不快にし、嘲笑すること。そのはずだ。
針妙丸が刺された。なんとも受け入れがたい事実だ。何かの間違いであってくれ、と願う私がいる。こんなの嘘だろ、と悲鳴を上げる私がいる。私のせいか、ともがく私がいる。とにかく、こんな事実は認められなかった。でも、それでも慧音の言うような、事故だとはとても思えない。自分を納得させられない。
視界の端にある針妙丸の写真に目を向ける。満面の笑みの彼女が写っているが、それは文字通り写真の向こうにあるもので、すでに現実では見られなくなってしまったものかのように思えた。隣の奥さんの写真と同じように、すでにこの世から消え去っていったもののように。
店の奥に立てかけられている古びた時計が音を立てた。黄色の塗装が印象的だが、経年劣化のせいか、焦げ茶色の木目が所々あらわになってしまっている。が、よくよく考えれば、その時計はあの男によって燃やされてしまったわけで、つまりはこれは新しく作られた再現品ともいえる。どうせなら新品に変えておいてくれれば良かったのに。
「もう、こんな時間か」
気づけば、慧音も時計に目をやっていた。青白い髪を撫でつけるように掻き、「そろそろ寺子屋に行かないとな」と淡々と言った。
「お忙しいんだな、先生は」
「お陰様でな」慧音は、本当に辛そうに溜め息を吐いた。
「誰かが面倒な噂を流したせいでな」
「あの、死者蘇生の噂か?」
「そうだ」正邪が知っているのだから、相当だな、と呟く彼女の声は低かった。鶏ガラや烏が情報源だと聞いたら、彼女はどんな反応をするだろうか。きっと、苦笑するだろう。情報源が胡散臭すぎる、と。
「どうにかして、それを無くそうとしているんだがな、かえって広まっていく一方だ」
「人間は噂好きなのか」
「というよりも」彼女は心底辛そうに言った。「団結したいんだよ」
「団結?」
「そう、団結だ。人間ってのは、共同体をつくる。一つの目的のために共に行動する時、人間は安心感を得るんだ。だから、喜知田という恩人を生き返らせようと、頑張っているんだよ」
「頑張るなよ」本心でわたしは言った。どうしてあんな奴が人間に慕われているか、理解できない。人殺しだぞ。まあ、私もだが。
「ま、今のうちは大した被害がないからまだいいが、何かあったら大変だからな。今から、少し注意喚起をしてくるよ」
「そうか、寂しくなるな」思ってもいないことを、私は口にした。てっきり、慧音はらしくないな、と指を突きつけてくると思ったが、予想に反し。「そういうと思って」と声を高くした。「代わりを呼んどいたよ」
「代わり? なんのだ」
「私の代わりだよ。私の代わりにそこの扉を直してくれる奴を呼んどいた」
空になった丼を押しつけ、「ごちそうさま」と無理した笑みを浮かべた彼女に続き、店のすぐ前まで出る。相も変わらず天気は悪く、顔に巻かれた包帯に水滴がつき、気持ちが悪い。
「お、ちょうど来たぞ。私の代わりが」
「おまえの代わりになるほど愚かな奴がこの人里にいるのか」
あたりを見渡すも、人の姿はなかった。来てないじゃないか、と呟き、無意識のうちに、ほっと胸をなで下ろす。慧音の知り合いなど、どうせ碌でもない奴に決まっている。それに、人里の人間と一対一で会うことは極力避けたかった。正体がばれるようなことになってしまえば、目も当てられないことになる。
「やっぱり、慧音との約束なんて、誰も守らないんじゃないのか?」
馬鹿にするように片頬をあげ、慧音をあざ笑おうとしたとき、ちょんちょんと肩をたたかれた。振り返るも、そこにはただ扉のない私の店があるだけだ。気のせいかと思いぼんやりとしていると、頭上に風があたる。生暖かい嫌な風だ。冷たい雨に似合わない。嫌な予感がした。
「よお、久しいな。一年振りかな」
見上げると同時に声がした。頭の中に情報が一気になだれ込み、整理がつかなくなる。が、体は咄嗟に動いた。弱小妖怪としての本能が警鐘を鳴らし、視界に何が映ったかを理解するより早く、店の中へと転がり込む。文字通り、無様に頭から突っ込み、ごろごろと転がって入ったのだ。
「おいおい、驚きすぎだろ」
呑気な笑い声が聞こえてくる。が、私はそれに反応することすらできなかった。体を起こし、後ずさりしながら、先ほどの情景を頭の中で整理をする。上を向いた時、まず目に入ったのは白だった。一瞬、雲がそのまま地面に垂れ、私の頭を撫でたのかと思ったが、すぐに違うと分かる。あれは髪の毛だった。
そう理解した時、やっと私の心は落ち着いた。動悸と冷や汗は収まっていないが、それでもまっすぐと前を向き、嫌みに笑う余裕は生まれた。
目の前の、宙に浮いている少女を見る。倒立したまま飛んでいるような恰好で、彼女はニヤニヤと笑っていた。赤いもんぺのポケットに両手を突っ込み、だるそうに足をふらふらとさせている。髪は重力に従い垂れ下がり、顔の大部分を覆っていたが、それすら彼女の魅力を際立たせているように見えた。まあ、ガキのような悪戯をする千歳に魅力も糞もあったものではないのだが。
「天邪鬼が蕎麦屋だなんて、世も末だな」
「殺され屋が繁盛するよりましだろ」
違いない、と笑った妹紅は、なぜか顔を両手で覆うと少し自分の顔に火をやった。その直前、なぜか涙が見えたのは気のせいだろう。
気のせいに、違いない。
「それにしても、お前は冷たいな」
雨に濡れた真っ白な髪を器用にも手から出した炎で乾かしながら、妹紅は眉をひそめた。
「私は最初、本当に死んだと思ったぞ。生きていたなら、教えてくれてもいいのに」
慧音はすでに寺子屋へと向かっていた。その代わりとして呼んだのがこいつだったらしい。確かに人里の守護者の代役には相応しいだろう。強く、人望もある。そして鬱陶しい。人の店に入るなり、店主の悪口を言う奴なんて、まともでないに決まっていた。
「教えるって何をだよ。蕎麦屋の開店セールか? 生憎うちはそんな大衆受けしそうなもんはしてねえよ」
「違うよ。正邪が生きているってことを、教えに来てくれてもいいだろうに」
「誰だよ正邪って。私は知らないな」
私がそう言うと、彼女は少しうつむき、何かを考えるように顎を親指と人差し指で挟んだ。探偵のような仕草に苦笑してしまう。現実で本当にこの仕草をする奴に初めて会った。傲慢で、滑稽だ。
そのまましばらく固まっていた妹紅だったが、がばりと顔を上げると、「なるほど」と小さく呟いた。
「正邪、おまえは一生そのまま隠れているつもりなのか?」
「どういう意味だよ」
「お前はこう考えたんじゃないか? 鬼人正邪が生きているとバレたら、また指名手配される。だから、一生隠れて生きていこうってな。そうだろ? だから、そんな包帯をしてるんでしょ。私にも会いに来なかったし」
「なんの話だ」
「まあでも、私は正邪が帰ってきてるって知ってたんだけど」
え、と思わず声を出してしまい、慌てて口を閉じる。私が帰ってきたと知っている? 冗談にしては面白くなかった。針妙丸は、と声を上げてしまいそうになる。あいつにはバレていないよな、と。
「ほら、おまえ射命丸にぶつかっただろ。結構前に。あんとき、私も側にいたのを覚えているか?」
「ぶつかってねえよ」
「いや、ぶつかったんだ。その時、私はすぐにピンときた。あ、正邪だって」
「なんで」
「なんでって」妹紅は不思議そうに首をかしげた。「普通、分かるだろ」
「え?」
「いくら顔を隠していても、なんとなくで分からないか? ほら、後ろ姿だけでも判別できるだろ。それと同じだ」
「でも、烏も鶏ガラも気づかなかったぞ」
「トリばっかだな」
大声で笑う妹紅に聞こえないように小さく、針妙丸も、と付け加える。
「まあ、鬼人正邪は死んだって思われてるからな。似てるって思われるだけかもしれない」
「そういうもんか?」
「そういうもんだよ。あり得ないって一度思っちゃうとな、その固定概念は中々覆せないんだよ。ほら、あれだ。いっかい足つったら、すぐには直らないだろ? それと一緒だ」
「一緒ではないだろ」
一緒だよ、とこれ見よがしに足を伸ばしてくる。舌打ちをし、床を強く蹴る。なぜだか無性に腹が立った。
固定概念は中々覆せない。確かにその通りだ。鬼人正邪は悪い奴で、そして死んだ。その事実はもはや覆せそうもない。妖怪の賢者の『鬼人正邪は死んだ』という言葉には、それほどの重みがあるに違いなかった。
なら、なんで。なんでこいつは私だとすぐに分かったのだろうか。こいつは、そんな固定概念に囚われないような、柔軟な頭を持っているのか。そう考えていると、考えを読んだわけでないだろうが、「なんで私は気づいたか、って?」と得意げに口を開いた。
「それは単純だよ。あれだ。年の功ってやつだね」
「なんだよ、それ」
「年の功ってのはな、長生きすると色々なことが分かるって意味だよ」
「そういうことを聞いてるんじゃねえよ」
私が大声を出すと、でもなあ、とどこか牧歌的な声を出した。
「正邪、無茶苦茶嫌われていたからね。やっぱり、正体を現すわけにはいかないか」
「嫌われすぎて、指名手配されたからな」まあ、私は蕎麦屋だけど、と申し訳程度に付け加える。
「でもよ、よく好きと嫌いは紙一重って言うじゃん。もしかすると、正邪もみんなから好かれることがあるかもよ」
「ねえよ」そもそも皆から好かれる天邪鬼という言葉自体が矛盾しているように思えた。
「好きと嫌いは正反対ってのはな、そういう時に使うんじゃねえんだ」
「なら、どういうときに使うんだよ」
「逆だよ。好きな奴は簡単に嫌われるって話だ。信じて、勝手に期待して、勝手に失望して、裏切られたと錯覚するんだ。だから、好きと嫌いは紙一重なんだよ」
「夢がない話だな」
「弱小妖怪が夢を見られるわけがないだろ」
「悪い悪い。そういうつもりで言ったんじゃないんだ」これで許してくれ、と懐から袋を取り出し、私に押しつけてくる。許してくれ、なんて命令形で謝罪する奴のものなんて欲しくなかったが、いつの間にか受け取ってしまっていた。
「これ、なんだ?」
「さっきそこら辺で拾ったんだ。いらないからあげるよ」
「お前は拾った物をあげて、本当に相手が喜ぶと思ったのか」
「弱小妖怪にはぴったりだろ」なるほど、確かにその通りだ。
袋の紐をほどき、中を覗く。いったい何が入っているのかと思ったが、なんてことはない、ただの石ころだった。どうしてこんなものを袋に入れているのか理解に苦しむ。どうせ、子供が遊んで作ったのだろう。
「最近人里は何かと物騒だからな」妹紅はここが私の店と言うことすら忘れてしまったのか、椅子に深く腰掛け目を閉じている。「そんなんでも、武器になるかもよ」
「なんでだよ」
「なんでって、石を投げつけられれば、痛いだろ」
「そうじゃなくて、人里が物騒ってとこだよ。そんな話、聞いてないぞ」
ああ、そっちか、と呟いた彼女は、よっ、とかけ声をあげながら勢いよく体を起こし、立ち上がった。
「ほら、お前も知ってるだろ。正邪と入れ替わるようにして喜知田がいなくなったんだ。残念だったな、復讐できなくて」
「だまれ。話を続けろ」
「分かったから、怒るな。それで、まあ人里は混乱したね。最初はすぐに帰ってくるだろうってどこかみな気楽に考えてたけど、甘かった。いつまでたっても喜知田は帰ってこない。そしたら、混乱は加速するだろ。不安が不安を煽り、そして新たな不安が更に不安を生む。悪循環だ」
「それで人里が荒れてんのか」
「そうなんだ。せっかく食糧不足も解決しかけているというのに、最悪だよ。はぐれの妖怪による被害も出てるし、最近では放火魔なんてのも」
「放火魔?」
「そうそう。まあ、そこまで大層なもんじゃないけどね。人里でボヤ騒ぎが頻出してるんだ。誰かの手によって。火そのものは小さいから、そこまで大事にはなってないけど、それでも怖いもんは怖いよ」
おいおい、とつい声を上げてしまう。話が違うじゃないか、烏。
「その放火魔ってのは、人里では話題になっているか?」
「なってるよ。不安の内の一つって感じだけどね」
「烏は放火魔なんて知らないって言ってたんだが」
「あの射命丸が? 嘘でしょ。こんな記事になりそうなことを知らないだなんて、よっぽど忙しいのか」
それか、烏がぽんこつかのどちらかだ。人里で混乱が広がっていることは、少しではあるが肌で感じていた。だが、まさかそんな妙なことをしでかす輩がでているとは。もしかして、この前ここが燃えていたのも、そいつが犯人だろうか。だとすれば、笑える。こんな所まで燃やしに来てくれるとは。感謝したいくらいだ。
そこでふと、一抹の疑問が頭に浮かんだ。案と言い換えてもいい。もしかして、針妙丸を刺したのは、そいつなのではないか。こんな人里の外れまで火を点けてくる奴なのだ。博麗神社にも同じことをしてもおかしくない。そこで、針妙丸に見つかり、咄嗟に手が出てしまった。そう考えられないだろうか。あり得なくはない。むしろ、真に迫っているのではないか。
「まあ、そんな情勢だから、人が生き返るかもしれない、だなんて妄言を信じちゃうんだと思うよ」
妹紅は、少し悲しげに言った。
「私だって、死ねるかもしれないって言われたら、どんなことでもやっちゃうし」
「慧音に怒られるぞ」
「それは困る。死ぬより辛いね」
ハハ、と乾いた笑い声を上げた妹紅は、「なら、怒られる前に仕事をしちゃうか」とどこから取り出したのか工具を机に広げた。トンカチや螺子が大量に入っている箱だ。
「壊れた扉、直すよ。そのために来たんだ」
「そういえばそうだったな」
「なんで忘れてるのさ」
螺子を手の上でくるくると回しているさまは、こういった大工紛いのことにも慣れているようにも感じた。これも、年の功なのだろうか。
「本当に、お前に直せるのか」
「当たり前だ」彼女はふふんと胸を張った。見栄を張っているというよりは、あふれ出る自信を隠しきれないといった様子だ。
「私、こういうのは得意なんだよ。火事と地震が同時に起きて、その後に雷でも落ちない限り、大丈夫だ」
「え?」
「ま、むかし本当に同時に起きて、家が崩れた時もあったんだけどな。そんなことはもうないだろ。だから、大丈夫だ」
「お前かよ」私は笑みを隠すことができず、震える声で言った。
「そういうこと言うから、首をはねられるんだ」
なんで知ってるんだ、と目を丸くする彼女を前に、慢心は駄目だ、と嘯く慧音の言葉を何度も頭の中で反響していた。
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狩人と獲物
人里は混乱している。烏も、妹紅もそう言っていたことを思い出した。だが、混乱といっても、実際にどのような騒ぎになっているかは知らなかった。それは、興味が無かったからでも、目をそらしていたからでもなく、単純に人里を出歩くことが少なかったからだ。そう分かったのは、実際にその混乱に巻き込まれてからだった。
本来であれば、ひとりで人里を歩くなんて、絶対にしたくはなかった。正体がバレては困るし、嫌な思い出しかない。だが、さすがに蕎麦屋で死ぬまでじっとしているわけにもいかず、かといって出かける度に巫女や慧音に頼むような、子供のような真似もできないので、しぶしぶ外へ出たのだ。
のんびりと呑気に買い物をするわけではない。また、烏のもとへと向かおうとしたのだ。悲しいかな、情報を集める際に頼れる奴はあいつしかいなかった。文文。新聞が情報の命綱なんていったら、おそらく皆に嘲笑されるだろう。だが、そんな物にしか頼れないのも事実だった。
店を出て、大通りに進むまでは良かった。早朝で人も少なく、空は雲に覆われている。包帯をしているとはいえ、逆にその包帯が目立っている節もある私からすれば、雲はありがたかった。
そいつを見掛けたのは偶然だった。最近よく烏が新聞を配っている、大きな桜の木の麓に向かっている時、たまたま見掛けた。
誰をか。小魚をだ。
私以上に目立つ彼女が、こんな朝っぱらに人里で佇んでいるとは思えず、二度見してしまった。一度目で、その特徴的な尾びれと、青いくるくると巻かれた髪に驚いて声を上げてしまい、二度目で、その尾びれに縄がつけられ、ペットの犬よろしく家の横でじたばたとしていることに気がついた。
最近の人里では弱小妖怪をペットとして飼うことが流行っているのか。一瞬だが、本気でそんなことを考えてしまう。それほどまでに、自然に、違和感なく小魚が捕らえられている。家が大きめの木造のものであることも、それを助長していた。
最初、そのまま無視して烏のところまで行こうかと思った。あんな弱小妖怪を助ける義理は私にはないし、いざとなれば烏か慧音が助けてくれるだろう。そう思ったのだ。だが、なぜだか彼女のことが気になった。
理由は分からない。気まぐれだ。あの腹が立つ小魚の惨めな姿を、もっと近くで見たくなった。そうに違いない。
近づくと、彼女の凄惨な様子がより露わになった。綺麗な虹色に光っていた鱗は剥がれ落ち、薄く赤色の血が滲んでいる。土にまみれていることを考えると、逃げようとした際に土で擦ったのだろう。酷く暴れたせいか、縄とヒレの間は紫色にうっ血していた。が、今では彼女は大人しく空を見上げている。その目には何も映っていない。一晩中こうして放置されたのだろう。姫というにはあまりにもみすぼらしい姿になっている。
「おいおい、情けねえな」
声をかける気なんてなかったが、私はそう口走っていた。声色でばれないかと不安になるが、どうやら小魚は私だと気づいていないようで、面倒そうに目を向けてくる。
「こんな場所に魚を置いといたら、干からびちまうだろうが。それとも、干物を作る予定だったのか?」
小魚は返事をしない。助けを求めようともしなかった。ただ、虚ろな目で私を見上げるだけだ。それだけで、彼女がどのような目に遭ったかが分かってしまう。自然と手に力が入った。本当は、ただ無言でこいつの縄を切り、たっぷりと嫌みを言った後に金でも貰って帰ろうと思っていた。それが正しいと、今でも思っている。ただ、いつの間にか私は隣の家の扉を乱暴に押していた。てっきり鍵がかかっていると思ったが、不用心にもそんなものはなく、いとも容易く扉は開いた。がしゃんと嫌な音が辺りに響く。想像していた以上に家の中は広く、がらんとしていた。目の前に二つの布団が見えたが、人はいない。と思ったが、先ほどの扉の音に驚いて飛び起きたのか、家の端で固まっていた。
夫婦だろうか。老年の男女が互いを支え合うようにして立っている。食糧不足のせいか、腕はゴボウのように細く、くすんでいた。白い髪も相まって、幽霊のように弱々しい。
「おい、お前ら」
私の声は、どこか気が抜けていた。筋骨隆々の恐ろしい大男が出てくると予想していたので、拍子抜けしたのかもしれない。
「すこし、話がある。何の話か、分かるか」
私の声にびくりと肩をふるわせた二人は、互いの顔を見つめ合い、示し合わせるように頷いた。しわがれた肌に涙の線が浮かんでいる。
よろめきながら、おずおずと近づいてくる二人は、とても小魚をいたぶる人間のようには見えなかった。私を恐れ、怯え、絶望している。まるで、大妖怪にでもなった気分だ。この私が、だ。
「本当にすみません」
蚊の鳴くような声で、謝った。夫婦のどちらが言ったか分からないほどに、その声は小さい。
「悪いことだとは分かっているんです。本当にごめんなさい」
「謝るなら、外の小魚に謝れよ」
「小魚?」
「そこの妖怪だよ。お前らが捕まえた」
ああ、と彼らは悲しそうに目を伏せた。女性は何かを言いたげに口を開こうとするが、隣の男性が首をゆっくりと振り、またゆっくりと目を伏せる。やっぱり、諦めるべきなんだ、そう小さな声が聞こえた気がした。
二人はおぼつかない足で外に出た。その後ろからついて行く。彼らの背は年のせいか酷く縮んでおり、腰も曲がっていた。どうして彼らに小魚が捕らえられているのか、本当に分からない。
「ごめんよ、人魚さん。本当にごめんよ」
男は涙を隠そうともせず、小魚にそう言い続けた。が、それでも小魚は反応しない。目は開いているものの、何も見えていないようだった。
ぐったりと寝転んでいる小魚の側に寄った男は、大きなはさみを使い、彼女のひれを固定していた縄を慎重に切った。ぱちんと大きな音がし、ほどける。
小魚の反応は早かった。今まで本当にぼけっとしていたのか、と思うほど素早く跳躍し、老夫婦の元へと突進していく。が、やはり放置されていたせいで体力が尽きていたのか、尻餅をついた老夫婦にぶつかるより早く失速し、地面に突っ込んだ。砂煙が舞い、地面に跡が残る。
あの小魚が、そのまま逃げればいいものを、弱小妖怪らしくもなく、反撃に時間を使った。私の知っている彼女らしくない。人里で人間を襲えばどうなるかなんて、嫌というほど、それこそ身をもって知っているはずなのに。
倒れている小魚を背負う。顔に包帯を巻き、背中に人魚を背負った奴なんて、目立つに決まっていた。これは失敗したか、と後悔していると「あの」と婦人が申し訳なさそうに手を合わせてきた。彼女は膝をつき、土下座をするような恰好で涙を流している。
「本当に申し訳ないことをしてしまいました」
「そんなに謝るな。本当に申し訳ないと思ってんなら、土下座なんて止めてくれ。目立ちたくねえんだ」
「でしたら」
今度は男性の方が声を出した。地面に座り込む女性の肩を撫で、優しい声で言ってくる。「でしたら、せめてお茶だけでも飲んでいって下さい」
「おまえ」
ボロボロの小魚を落とさないように、しっかりと手を回す。おいおいと泣く老人と、意識を失った小魚。端から見れば、私が悪人に見えるだろう。だが、それでもいいと思えた。自然と笑みが浮かぶ。頭をよぎったのは、巫女の言葉だった。
「おまえ、馬鹿か。それともお人好しかよ」
たぶんどっちもだな、と呟く。老人達はぽかんと私を見上げていた。
先ほど押し入った時にも感じていたが、老夫婦の家にはほとんど物がなかった。がらんとした部屋に、ただ布団とちゃぶ台があるだけだ。壁は長い年数を経たせいかヒビが入っており、それはこの老夫婦の肌によく似ていた。
「これ、どうぞ」
出がらしですが、と出された茶は、本当に出がらしだった。水にうっすらと緑色が混じっているだけだ。当の夫婦は出がらしどころか、ただのお湯をありがたそうに飲んでいた。
室内に入る時感じた少しの緊張はもはや消え去っていた。最初、これは罠なのではないか。いくら見た目が貧弱な老夫婦とはいえ、小魚をここまで追い詰めたのは事実だ。そんな彼らが、みすみす私たちを室内にいれ、無事に返す保証なんてどこにもなかった。が、それでも私は彼らの提案通り、家に居座り、茶を飲んでいる。できるだけ目立ちたくなかったということもあるが、彼らが似ているように思えたのだ。あの、蕎麦屋の夫婦の未来の姿を見ているような、そんな気がした。
「うっすいな、このお茶。風味しかしねえよ」
「申し訳ないです」
「おまえなあ」私はここが自分の家かのように、足を投げ出した。「謝るんだったら、そんなことしなけりゃよかっただろ。なんで小魚を捕まえてたんだ」
「本当に申し訳ございませんでした。ご友人にこんなことを」
「待て待て。言いたいことは多々あるが、とりあえずこいつは友人じゃねえ。そもそも、知り合いですらねえよ」
え、そうなんですか、と老夫婦は声を合わせた。初めて出た謝罪以外の言葉がそれかよ、と苦笑してしまう。
「いえ、あんなに怒っていられたので、そう思ってしまいました」
「怒ってねえよ。怒っていたとすれば、『ああ、街の景観がこんなお魚によって汚されちゃったわ。干物を作るならきちんと吊さないと』って怒ってたんだ」
「そうなんですか」
そうなんです。と口調を真似て返す。夫婦はやっと、ふわりと頬を緩ませ、ふふっと笑った。気に食わない笑い方だ。私たちと同じ、弱者の笑い方だ。
「あなた、お名前は何て言うんですか?」
「蕎麦屋だ」
「そばやさん、ですか。変わった名前ですね」
「なんで信じるんだよ」
呆れを通り越して、笑いがこみ上げてくる。それに反応したのか、小魚が身を揺らし、尾ひれで私の背中を叩いてきた。私をこんな目に遭わせた奴らと雑談するな、と怒っているのだろうか。知ったことではない。
「人里の外れに蕎麦屋があるんだ。そこで無茶苦茶旨い蕎麦を作っている。暇だったら来てくれ」
「ああ、あの何もないとこの。また今度、食べに行ってみようかねえ、ばあさん」
「そうだねえ」
呑気な声だ。だが、小魚の姿を見る度に彼らの表情は曇り、今にも泣き出しそうな、いや、既に泣き出しているにもかかわらず、眼球が枯れ果てるまで涙を流しそうな顔へと変わる。
「なあ、ひとつ、聞いていいか?」
「ええ、かまわないですよ」
「なんで小魚を。この人魚をこんな風にボロボロにしたんだ」
想像よりも彼らは動揺しなかった。互いに顔を見合わせ、ゆっくりと頷く。きっと、私がこの家に飛び込んできた時に、すでに洗いざらい白状することを覚悟したのだろう。いや、違う。逆だ。彼らは、私にそれを話したがっている。嫌な予感がした。誰かが相手に何かを伝えたい時、それは自慢話か、不幸話のどちらかだ。
「話せば長くなりますが」
「短く話せ」
「実は、私たちには昔、息子がいまして」
昔、いまして。それだけで、この話の結末が分かったような気がした。
「元気な男の子でした。大志っていうんですけどね。やんちゃで、でも優しくて。何か間違ったことがあると、親である私たちにも言ってきたんですよ。それはおかしいって」
あなたに似てますね、と微笑む彼らの目は生暖かかった。きっと、彼らは私の後ろに、その大志なる少年の姿が見えているに違いない。まったく、馬鹿らしい。
「でもね、大志が十二になる時、病気しちゃったんですよ。いつもは元気いっぱいのあの子が、嘘みたいにしおらしくなっちゃって。私たちも医者に連れてったんですが、駄目でした」
彼らの瞳に悲しみはなかった。あるのは懐かしさと愛おしさだけだろう。
「その大志って奴の話と、この人魚を痛めつける話の何が関係するんだよ」
「もう一度、会いたかったんですよ」
「人魚にか?」
「大志に」
そこで、彼らはまた新しい表情を見せた。自らの罪に耐えかねた、愚かな反逆者のように両手を組んで祈っている。
「最初はね、本気じゃなかったんですよ。死者を生き返らせる方法だなんて、嘘に決まってるって」
「まあ、嘘だろ。普通に考えて」
「でも、普通に考えられなかったんです」つまり信じてしまったんです、と彼らは続けた。「だからといって、それを実行できるわけがないのも事実でした。そんな機会が訪れることなんてあり得ないと、そう思っていたんです」
そこで、老婆は転がっている小魚の尾びれに手を触れた。痛々しく変色した傷が目に入ったのか、驚くように目を丸くしている。が、ふるふると首を振った。何かの迷いを断ち切るかのような、自身の傲慢さに嫌気がさしたような、そんな仕草だ。
「でもね、そう諦めていた時、彼女がやってきたんですよ」
「やってきた?」
「連れてこられた、と言った方がいいかもしれません」
彼女の口にする言葉の意味が分からず、当惑する。
「この世のものは、大体商売になるんです」
「まあ、殺され屋なんてものもあるしな」茶化しているとでも思ったのか、老婆は見た目に似つかわしくもない、鋭い声を出した。
「嫌な世の中になったもんですよ。こんなことまで商売になるだなんて。いつの日か、人助けでも金を取られるんじゃないかと、私は本当に思ってますよ」
「何事にも対価がいるだろ」
「あなたも、そう思うのですか」
「思うね。まあでも、私だったら金じゃなくて、鰹節がいいな」
「どうして」
「蕎麦に合うだろ。それに、いざというときには武器になる」
ケチャップが盾で、鰹節が武器だ、と私が呟くと、「変わった人ですね」と彼女は目を細めた。人ではない、と口走りそうになるのを必死に堪える。
「そういうお前らだって、無償で人を助けたりはしないだろ」嫌みのつもりで、つまりは、そんなことないですよ、と微笑む彼らを馬鹿にしようと言ったのだが、予想に反し、「まあ、そうですねえ」と老婆は頷いた。
「私は、自分たちの尻拭いは自分でしたいタチですから」
誰も老人の尻なんて拭きたくねえよ、と口にしようとしたが、さすがに躊躇した。代わりに、「どうして商売の話なんてしだしたんだ」と早口で言った。
「それはですね」今度は、婦人の肩をさすっていた老父が口を開いた。
「まさに、その人魚のお嬢さんが商品として売られてきたからですよ」
「え」
「かなり法外な値段でしたがね」
こいつが商品? 冗談だろ、と声が零れた。新鮮な魚だ。さあ食べようだなんて思ったのだろうか。それとも、どこかの金持ちのように、でかい水槽でも買って観賞用として飼おうとしたのだろうか。いずれにせよ、悪趣味としか言えなかった。
「こんなみすぼらしい姫を買ってどうするんだよ」
「姫?」老夫婦はまったく同じタイミングで声を出した。「姫ってなんですか」
「なんでもねえよ。こんな小魚を買って、いったいどうするつもりだったんだ。お前ら、貧乏だろ? そのなけなしの金で、なんでこいつを買ったんだって聞いているんだ。カルシウムでも取ろうと思ったのか」
「知らないのですか?」
何をだ。人間の愚かさか? と聞き直すも、彼らは返事をしなかった。まるで、今から言おうとしていることがこの世の常識であるかのように、そんなことを知らない人がいたのか、と信じられないようなものを見る目で視線を向けてくる。
「本当に知らないのですか?」
「しつこいぞ。しつこい男はもてねえぞ」
そうですか、と頷いた彼は、なら、と小さな声で言った。
「なら、お伝えしますが、最近人里で、死者を生き返らせる方法ってのが流行っているんです」
「そうみたいだな」
「その方法というのがですね、その人の写真を用意して血で浸す、というのなんですが」
「ですが?」
「人間の血じゃ、上手くいかなくてですね。でしたら妖怪の血だったらどうだって話になったんですが、それでも上手くいかなかったらしく」
そこで彼は大きく息を吸った。場に一瞬の静寂が訪れ、自身の鼓動の音だけが耳を打つ。嫌な予感しかしない。
「どうやら、普通の妖怪の血では駄目だ、ということが分かったんです。すると、今度は珍しい妖怪の血なら生き返らせられる、ということが判明しまして」そう口にする彼らは、未だにその噂を信じているのか、どこか名残惜しそうに目を伏せていた。
「それで、『最近珍しい妖怪を捕まえる商売』なるものが横行していて。そのうちの一人が人魚を売ってくれたんですよ、私たちに」
珍しい妖怪。なるほど、人魚は確かにその代表例だろう。ということは、だ。小魚は、数多の人間に追いかけられ、疲労困憊し、捕まったということなのだろうか。彼女自身は何もしていないにもかかわらず、理不尽に痛めつけられたというのだろうか。なんだそれは。いったい、なんなんだ。
驚くことはない。弱小妖怪が意味もなく虐げられることなんて、今に始まったことではないじゃないか。そんなことは分かっている。こんなことは私たちからすれば日常で、騒ぐようなことですらない。それこそ、春になり桜が咲くのと同じように、私たちは蹂躙されるのだ。
だが。それでも私はそれを認めるわけにはいかない。決して小魚を不憫に思ったとか、そういうわけではなく、単純に腹が立ったのだ。下克上もしていないくせに、皆から追われるなど、随分と出世したじゃないか。
「今まで貯めてきた虎の子だったんですけどねえ」
黙りこくっていると、ぽつりと老夫が言葉を零した。それは、私に聞かせると言うよりは、心の中に貯めていた絶望が流れ出たかのように、冷たく、弱々しい声だった。
「これで、正真正銘一文無しになっちゃいましたよ。最近の仕事の分、全部なくなっちゃいました」
「仕事?」
「ええ。二人で頑張ってきたんですが、残念です」
「しかも、こんな雑魚妖怪のせいでな」
「でも、これでよかったんですよ。やっぱり、悪いことをしても、神様が取り上げてくるんです。欲はかくべきじゃありませんね」
夫婦は顔を見合わせ、つばを飲み込み、頷いた。よかったんです、と繰り返す。だが、私は知っていた。自分に言い聞かせるように何度も言葉を繰り返す奴が、本当によかったと思っているなんて、あり得ない。
「最初はね、ただ少し血を貰うだけだって、そう思ってたんですよ。怪我だって、妖怪ならすぐ直るし。それだけで大志が生き返るなら、その可能性が少しでもあるなら、かけてみようとしたんです。ですが」
私の膝に頭を乗せ、苦しげな表情で目を閉じている小魚の頭を、夫婦が優しげになでた。まるで、孫ができたかのような暖かい笑みを見せている。
「ですが、体の傷は治っても、心の傷は治りません。私たちは、取り返しのつかないことをしてしまった。こんな可愛い子を、ひどい目に遭わせてしまった。きっと、大志も怒っているはずです。こんな間違ったことをしてはいけないって」
間違ったこと。一体彼らの行為の何が間違っていたのだろうか。亡くした家族を生き返らせようとするがあまり、盲目的に噂を信じてしまったことだろうか。それとも、小魚を一方的に虐待し、弱らせたことだろうか。そうだ、と私は断言できなかった。弱者のわずかな望みを、願望を、そして絶望を無視することなんてできない。彼らのやったことを非難する権利なんて誰にもない。息子を失い、その悲しみを紛らわせようと藁にすがる彼らを冒涜できる奴なんて、いないに決まっていた。
「私はね、手品が好きなんですよ」なんて声をかけたらいいか分からず、そんな気を遣うような真似をしている自分に困惑していると、いきなり老父がそんなことを言いだした。
「最近、はまってまして」
「急にどうした」
「あれ、どういう仕組みかといいますとね、どこかに注目を集めて、皆がそこに見ている時に、何かをするっていいうものなんですよ。例えば、大きな声を出している間にトランプを入れ替えたりとか」
「花火を打ち上げている間に逃げたりとか」
私の言葉の意味が理解できなかったからか、首を捻った彼は聞こえなかったかのように言葉を続けた。
「つまりは、インパクトの大きなことが起きれば、そっちに皆が注目して、それ以外のことを見落としがちになるってことです。私たちは、まさにそれだったかもしれません」
「どれだよ」
「大志を生き返らせられる、という希望にすがりたいがあまり、他のことを見落としていたかもしれないってことですよ」
彼は、どこか淡々とそう言葉を続けた。悲しみを押し殺しているようにも見えるが、逆に何も考えていないようにも見える。
「なあ、ひとついいことを教えてやろうか」
にっと私は気取って微笑んで見せた。が、包帯をしているせいでただ皺が広がっただけに終わる。それでも、楽しげに声を出した。
「その噂、嘘だぞ」
「え?」
「別に珍しい妖怪の血を使おうが、人は生き返らない。そもそも、人が生き返るだなんて、それ自体が嘘なんだ」
「本当ですか?」
落胆しつつも、どこか安堵の表情を見せる二人に、私は強く頷いた。「本当だ」とはっきりと言う。もちろん、根拠なんてなかった。だが、それでいいのだ。私は天邪鬼。適当なことを言って何が悪い。いや、むしろそれが仕事ともいえるだろう。
「だから、お前らはただ騙されただけなんだよ。騙されて、金をむしり取られたんだ。残念だったな。滑稽だ。笑える」
「ええ。笑えますね」
くすくすと、彼らはまたもや同時に笑い始めた。阿吽の呼吸という奴だろうか。
「でも、それを聞いて諦めがつきました。やっぱり悪いことはするべきじゃないですね」
「悪いことはするべきだぞ」
「なら、あなたを折檻してしまいましょうか。殴ったりして」婦人が、微笑んだ。
「え?」
「冗談ですよ」
それより、はやくこの子の怪我の手当をしなきゃ、と婦人は立ち上がった。このみすぼらしい家のどこにも治療品なんて見当たらなかったが、一体どうするつもりなのだろうか。いや、それよりも。それよりも、いま彼らの言った言葉が気にかかる。
「さっき、私を折檻するっていったか」
「え、ええ。言いましたけど、ばあさんが」老父は、きょとんとした。
「ただの冗談ですよ。ばあさんは嘘がうまいんです」
「嘘がうまいって、私にそれを言うのか」
「え?」
「何でもねえよ」
天邪鬼に嘘がうまいと自慢する奴など、おそらくもう二度と現れないだろう。
「そんなに婆さんの冗談が気に食わなかったのですか?」老父はおどおどと訊いてくる。
「そうじゃねえ。お前らみたいな老人が私を折檻できると、そう思っていることが気にくわねえんだよ」
「ああ、そんなことですか」
よく言われるんです、と彼ははげ上がった頭を掻いた。
「こう見えても、私たちはそれなりにやるんです」
「やる?」
「はい。弱小妖怪の一匹や二匹、簡単に倒せます」
病気は倒せませんでしたけどね、と自虐的に笑う彼らの前で、どう反応するべきか分からなかった。あまりに貧窮して、ぼけているのだろうか。それとも虚勢を張っているのだろうか。いずれにせよ、彼らがそのような態度をとる理由は分からない。
「人は見かけによらないんですよ」
彼が得意げにそういったとき、「ひとつ聞きたいことがあるんだが」といつの間にか口を開いていた。今までも聞きっぱなしじゃないですか、と薄く微笑む彼の姿が、蕎麦屋の親父と重なる。こんなこと、聞くべきではない。そう分かっていたにもかかわらず、口は止まらない。
「もし、お前らが何か悪事をやらかして、正体を隠して逃げなきゃならないってなったら、どうする?」
「え? 何ですか急に」
あまりに唐突な質問に驚いたのか、彼はぎょっとし、目を見開かせた。が、すぐに柔和な笑みへと戻る。
「まあ、私だったら堂々としてると思いますよ」
「堂々と?」
「そうです」彼はなぜか、やけに自信満々に言った。「変にきょどきょどしてると、逆に怪しまれます。だから、堂々と」
「胸を張って?」
「そうです」実際にその細い胸を張って見せた彼は、だって、と口をすぼめた。
「悪事といっても、もしかしたら許される事情があるかもしれないじゃないですか。だから、悪いことと分かっていても、しょうがないってそう思うしかないんですよ」
「いい悪事ってことか」そんなの、あるわけがない。野菜を盗んだ一人の少年の、悲運な人生を思い浮かべる。
「いい悪事だなんて、矛盾してないか?」
「まあ、そうですね」苦笑した彼は、それとですね、とやけにはきはきとした声で続けた。
「あとは、痕跡を消すんですよ」
「痕跡って何だよ」
「何でもですよ。正体や身分がバレそうになるもの全てです。ほら、言うじゃないですか。立つ鳥跡を濁さずって」
「私は鳥じゃねえよ」
「分かってますよ」
クスクスと笑う彼につられ、私も頬が緩む。互いに顔を合わせ笑っているうちに、老婦が部屋の奥から出てきた。その手には何やら高そうな瓶が握られている。西洋風の磁器だ。婦人の朴訥とした柔和な雰囲気とあまりにもかけ離れていて、違和感がひどい。
「これ、使ってあげてください。高いお薬だそうです」
「いいのかよ。というか、何でそんな物もってるんだ」
「仕事で手に入れたんです。薬と分かったのは、しばらくしてからですけど」
いいから、と押しつけるようにして渡してきたそれを受け取り、まじまじと見つめる。毒ではないか、とわずかな疑念が頭をよぎり、少しだけ手につけてみる。が、何も起きない。少し甘い香りがしたが、それだけだった。
「後でこの薬を飲ませてあげてください。きっと、すぐに直るはずです」
「なるほど、受け取っておく。礼は絶対にしないが」
「いらないですよ」
健気な老夫婦は顔を見合わせ、くすくすと笑った。また、仕事をすればいいんです、と頷き、私の方を向く。にんまりと笑って、言った。
「礼をするくらいなら、鰹節がほしい。そうですよね?」
「鰹節をほしがるなんて、変な奴だな」
あなたが言うのですか、と微笑む彼女たちの顔には、不自然なほどに憂いの影がさっぱりと消え去っているように感じた。
人目につきたくないのなら、いい通りを知ってますよ。そう口にした老夫婦に渡された地図を頼りに、私は小魚を背負って人里をかけていた。
太陽はすでに昇っており、生暖かい風が体を撫でてくる。昨日とは打って変わり、カンカンとしたいい天気だ。先ほどまで出ていた雲もどこかに消え去ってしまっている。あのままだと、本当に小魚は干物になっていたのではないだろうか。家先で乾き物になっている彼女の姿を想像すると笑えた。
人間たちが活発になる時間にもかかわらず、渡された地図に示された道には人の姿はなかった。別段細くもなく、かといって薄暗いわけでもないにもかかわらず、私以外の姿がない。逆に不気味なくらいだ。どうしてあの夫婦はこんな通りを知っているのだろうか。
便利な道もあるもんだ、と感心していると、後ろ手に抱えた小魚がもぞりと動いた。早速薬が効いてきたのだろうか。
「んっ……。ここ、は」
「起きたか」
状況を理解できていないのか、小魚はしきりに体を動かした。そのせいで重心がずれ、転びそうになる。彼女の湿った尾ひれは掴みづらく、ぬるりと手から滑り落ちた。あ、と私が声を上げるのと同時に小魚が地面に落ちる。きゃあ、と似つかわしくない悲鳴が耳を刺した。
その衝撃で、やっと記憶が戻ったのか、小魚は目を見開き、自身を抱きしめるように背中に手を回した。細かく震え、口からはつばが溢れている。何度も見たことがある、弱者の顔だ。
「情けねえな。そんな面するなよ。記念に写真を撮りたくなる。まあ、今はもってねえんだけど」
「あなたも」
「ん?」
「あなたも私の血が目当てなんですか?」
意識するより早く、嘲笑が漏れていた。愚かだ。馬鹿馬鹿しい。意識を取り戻し、一番初めに出てくる言葉がそれか。いったい、こいつはどんな悲劇に見舞われていたのだろうか。想像するだけで吐き気がする。
「おいおい、思い上がりもいいところだぞ。お前の汚ねえ血なんて誰もいらねえんだよ。私はただ、おいしそうな魚がいたから、だしでも取ろうと思っただけだ」
「わたし?」
小魚は警戒を怠っていなかったが、どこか呑気な声を出した。
「もしかして、女性ですか?」
「そんなこと、どうでもいいだろ」呆れすぎて、逆に笑みが浮かんだ。
「そんなどうでもいいことを考えているから、捕まるんだ」
「いえ、あなたが男みたいな格好しているので、つい」
「お前、見る目ねえよ」私は思わず吹き出してしまった。
「どこからどう見ても、私は女だよ」
「そんな恰好していたら、分からないですよ。見る目は関係ないです」
「変か?」
「ええ。顔に包帯を巻いているだなんて、悪趣味ですね」
嫌みかと思ったが、どうやら彼女の言葉は本心であるようだった。人間に襲われ、必死に逃げていたというのに、落ち着いている。こうして会話を続けようとしているのも、その間は殴られない、と思っているからに違いなかった。
「悪趣味でもいいんだよ。私にとって、一番大切な物は」
「大切な物は?」小魚が首をかしげる。大切な物。どういうわけか、頭の中で針妙丸が自慢げに胸を張る姿が浮かんだが、首を振り、かき消す。
「大切な物は、蕎麦だ」
「蕎麦?」
「そうだ。蕎麦のためだったら、私はどんなに悪趣味なことだってするんだよ。例えば、小魚を誘拐して、煮詰めたりとかな」
「小魚、ですか」彼女の目が怪しく光った。「それ、もしかして私のことですか?」
「い、いや」
「どうなんですか」
口の中で小さく息を吐く。焦りと困惑が押し寄せてくる。いつの間にか、私は小魚に気圧されていた。おかしい。こいつは人間に追い込まれ、いたぶられ、恐怖で体を揺すっていたはずではないか。なのにどうして、私が糾弾されているのだ。
「実はですね、私のことを小魚と呼ぶ人物に一人だけ心当たりがあるんです」
「そうか」
「でも、彼女はもう死んでしまったんですよ」
「そうか」
「彼女は、それはそれは酷い妖怪でしてね。私たち弱小妖怪を騙し、使い捨て、最後には何も言わずいなくなってしまったんですよ。最悪ですよね」
「最悪だな。でも、どうして私にそんなことを言うんだ」
「あなたが、小魚って言ったからですよ。そんなこと、忘れかけていたのに、思い出しちゃいました。嫌な思い出ですね」
彼女はふっと頬を緩めた。そこで、やっと私は胸を落ち着かせることができた。彼女は、私が天邪鬼だと、鬼人正邪だと察したわけではなかった。単に、小魚という言葉から、連想しただけに過ぎなかったのだろう。危うかった。そして、安堵している自分に気がつき、驚く。巫女の、基準という言葉を思い出した。なぜ私はこいつに正体を悟られたくないのだろうか。妹紅は良くて、こいつが駄目な理由は何か。
「あなたは、何だか違う気がします」
考え事をしていると、小魚が口を開いた。いつの間にか私と間隔を取り、いつでも逃げ出せるような距離を取っている。まったく、抜け目ない。だが、その表情は穏やかだった。
「あなたは、本当は私の血を狙っていないような、そんな気がします。なんででしょうね、そんなに怪しい見た目をしているのに」
「人は見かけによらないらしいぞ」
「あなたに言われると、何とも言えませんね」
ふぅと息を吐いた彼女は、肩を落とした。怪我をした尾びれをさすり、どこか陰険な表情に変わる。疲労と絶望を乗り越えた後の、緊迫した表情だ。まだ乗り越えたわけでもないのに。相変わらず、詰めが甘い。
「ほんと、妙な噂のせいで人里の人間から追われて、大変だったんです」
「なんで私はお前の愚痴を聞かなきゃならねえんだ」
「初めは大丈夫だったんですが、しつこくて」私の言葉なんて無視して、彼女は続ける。「最後には疲労困憊したところを、やられちゃいましたよ。どうして最終的にあなたの元に私がたどり着いたかは覚えてませんが、幸運でした」
「幸運じゃねえよ。お前は今からだしを取られるんだ」
小魚は、いったいいつから人間に追われていたのだろうか。例の、草の根妖怪ネットワークとやらは機能しなかったのだろうか。いや、そもそも。そもそも、小魚が人間たちに狙われていると、そう知っている奴はどの程度いたのだろうか。分からないことだらけだ。それに、興味も無い。だが、一つ気になることがあった。
「おまえ、捕まえた後売られたんだとよ。んで、私が買い取った奴から奪ったんだ。魚泥棒だよ。お魚咥えたどら猫って奴だ」自然と嘘を吐いていた。別に正直に言っても良かったが、なぜだか出鱈目を口にしてしまう。天邪鬼としての本性だろうか。
「こんな包帯だらけの猫は嫌ですけど」
「んでだ、一つ聞きたいんだが」
「何ですか?」そう首をかしげる彼女は、ここが人里で、今まで自分を追ってきていた人間達の総本山と言うことを忘れたかのように無邪気だった。
「お前を捕まえた人間、どんな奴だった」
「え?」
「男か女か、人数は? どうだった」
「どうしてそんなことを気にするのですか?」
「気まぐれだ」
はぁ、と要領の得ない返事をした彼女は、「覚えていません」と訥々と話した。
「覚えていない?」
「そうなんです。ずっと同じ人間に追われていたのは覚えてるんですが、顔までは分からなくて」
「いったい、どうなってやがるんだ」
「本当ですよ。私はとりあえず、しばらくは湖の底で身を隠すことにします」
「いや、お前は鍋の底で煮詰められるんだ。人魚蕎麦。いい響きだろ」
「どこがですか」
それはごめんですね、と生意気な口を叩いた小魚は、ふわりと体を浮かせた。体力はだいぶ回復したらしく、その動きに違和感はない。どこかほっとしている自分が情けなくてしょうがなかった。
「助けてくれてありがとうございました」
「助けてねえよ」
「あなたがそう言うのなら、そうしときましょうか」やっぱり似てますね、とくすくすと笑う。彼女の目には懐かしさが浮かんでいるような気がした。
「あなたは、いい人ですよ。少し話しただけでも、それが分かりました。またどこかで会えるといいですね。さようなら」
そう言い残すと、小魚は優雅にゆらゆらと体を上下させながら飛んでいった。あんなに目立つ飛び方をすれば、また人間に襲われるのではないか、と心配になる。いや、心配ではない。恐怖だ。また、厄介事を連れられては困る。が、幸運なことに何事もなく彼女の姿は視界から消えた。
「いい人、か」
小魚が最後に言い残した言葉を思い浮かべる。私がいい人? 冗談にしても笑えない。そんなこと、あるはずがないのに。死んでも私は悪人だ。それは、どうあがいても変わることのない真実だ。そうに違いなかった。
「やっぱり、見る目がねえよ」
誰もいない路地で、私の声はやけに大きく響き渡った。
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完璧と欠陥
「この世に完璧な人なんていないわよ」
いきなり現れたそいつは、気取った態度でそんな青臭い言葉を嘯いた。
「もしあるとするならば、それはきっと妄想ね」
普通の相手であれば、私はその言葉を馬鹿にして、鼻を鳴らし、嘲り笑っただろう。そこらのガキが少し穿った見方をしているかのような詭弁だ。そんなことは言われなくても誰もが分かっているし、一々指摘されるまでもなく実感している。それをわざわざ口に出している時点で、心のどこかで完璧なる存在が実在していると信じている証拠だ。普通であれば、そう文句を言い、揚げ足を取り、天邪鬼らしく悦に浸っただろう。蕎麦屋としても、同じことを言ったと思う。完璧な蕎麦なんてない。これもまた事実だった。
だが、そんな恥ずかしい台詞さえ似合う奴が、幻想郷にただ一人だけいた。それを口にしてもいい権利がある奴がいるのだ。それが、私の店に勝手に入ってきた、幻想郷の賢者だった。
いきなり店に来た、というよりはいつの間にかいた八雲紫は、その金色の長い髪を右手で撫でた。白い手袋と陶器のような肌を見ていると、催眠術にかかったかのようにくらくらとする。自分の店にもかかわらず、恐縮していると、彼女は「完璧な存在なんていないのよ」ともう一度繰り返した。
「まあ、私は完璧なのだけれど」
「矛盾してるじゃねえか」
その答えを予想していたのか、彼女は自慢げに小さな矛と盾を取り出し、手の上でくるくると回した。小さいが、その両方が高価で、私なんかでは手が出せない。そんな物だ。そんな金があるなら、人里に流してやればいいのに。そうすれば、小魚だって追われずにすんだはずだ。そう考えたが、すぐに首を振る。八雲紫がそうしないということは、意味がないのだろう。彼女のやることには全て意味がある。それは、痛いほど知っていた。
昨日、小魚を助けた私は、本来の目的である情報収集を諦め、店に戻った。そして、いつの間にか眠っていた。昼間っから眠ってしまったからか、深夜に目が覚め、どうしようかと考えていると、いきなり八雲紫が現れたのだ。私がちょうど厠から出てきたのと同時だった。それすら、八雲紫の計算の内のように思える。不気味で、恐ろしい。
「私の知り合いにね、完璧に近い子がいたのよ」椅子があるにもかかわらず、わざわざ空間に切れ目のような物を作り、そこに腰掛けた八雲紫は悠々と口を開いた。
「でも、その子はね、自らの重みに耐えきれず、結局は破滅してしまったの」
「だから、何の話だよ」
「あら? 分からないのかしら?」
分からないから聞いているのだ。そんなことすら分からないのか。
「私はね、誰にだって間違いがあるって言いたいのよ。どんなことにも不都合はあるし、誰だって誘惑に負けることだってある。だから、それを責めるのはお門違いってことよ」
「だから、なんの話を」
「私はあなたに言っているのよ」
ぴしゃりとそう言い切った彼女の声に抑揚はなかった。声こそ小さいものの、有無を言わさぬ威圧感がある。大妖怪特有の、嫌なプレッシャーだ。
「慧音もそうだけどね、あなたは自分を責め過ぎなのよ。あなたの手はそんなに大きくないということを自覚しなさい。それは、あなたの仕事ではないわ」
「いったい何が言いたい」
「昨日、人魚に会ったでしょ。霧の湖の」
こみ上げる驚きを隠すために、口に力を入れた。そうだ。こいつは幻想郷の賢者。いったい私が何をして、誰と会っていたかなんて、すぐに分かる。驚くほどではない。そう言い聞かせるも、唇の震えは隠しきれなかった。なんで知っているんだ、と叫びたくなる衝動に駆られる。
「あなた、もしかしなくても、彼女を救おうだなんて思ってないわよね」
「すくうってのはあれか? 金魚すくいみたいにか?」
「違うわよ」彼女はくすりともせず、言った。「針妙丸と呼ばれた小人と同じように救おうだなんて、考えてないかって聞いているのよ」
「もちろん」そんなこと、考えていない。そのはずだ。だが、どういうわけか、言葉が続かなかった。もちろん考えていない。そう言えばいいだけなのに、できない。誤魔化すように大きく咳払いをするも、かえって白々しくなるだけだった。
「無理よ」そんな私を見たからか、八雲紫はにべもなく言い切った。
「諦めなさい。完璧に全てを救うだなんて不可能なのよ。あなただって知っているでしょ。誰かを救えば誰かが傷つく。そういう風になっているのよ、この世界は」
「世界、ね」やけに大仰な言い方をする彼女が気に障った。「弱小妖怪が損をして、大妖怪が得をする世界だと、確かにそうかもしれないな」
「無理なのよ。たった一匹の妖怪が全てを救おうとすれば、最悪の結果になる。だから、あなたも止めときなさい」
「お前は馬鹿だなあ」
巻いている包帯を強く引き締める。そうすることで、浮かんでいた表情が消えるはずだ。
「この私が全てを救う? 正義のヒーローじゃねえんだから、そんなことしたくねえし、できないだろ。むしろ、私は全てを壊す方ほうだな。それこそ、下克上とか」
「正義のヒーロー。いいじゃない。似合ってるわよ。誰かが窮地に陥っている時に、助けに来たぞ、って決め台詞を言いながら颯爽と登場したりするのね」
「ねえよ。私だったら、殺しに来たぞっていうな」
素直じゃないわね、とニヤつく八雲紫を無視し、部屋の奥にある時計を見る。時刻は既に午前三時を回っていた。体内時計がずれたせいか、それとも寝過ぎてしまったからか頭が痛い。いや、きっと八雲紫に出会ってしまったせいだ。そうに違いない。
「というより、そんなことを言うなら、お前がなんとかしろよ」
「なんとか?」
「人里の現状だよ。中々やばいことになってんぞ」
「あら、あなたがそれを言うのかしら」心底楽しそうに彼女は笑みを浮かべた。真っ白い肌に綺麗な紫の瞳が不気味に光る。
「あなたを助けたのは他でもない私よ。鬼の世界から助けたのは私。なのに、それ以上私に何かを頼むというのかしら?」
「そうじゃねえけどよ」
「なら、いいじゃない。文句は受け付けないわ」
「でもよ」
文句は受け付けない、と言われ、はいそうですかと納得するほど私は優等生でいるつもりはなかった。
「でも、約束とちげえじゃねえか」
「約束?」
「針妙丸を幸せにする権利がうんぬんって約束しただろ。なのに、あいつ」
彼女の、傷ついた姿がありありと思い浮かんだ。首筋から血を流し、仰向けで倒れている哀れな少女の姿だ。首をぶんぶんと振るも、その姿は消えない。一生忘れることはできないだろう。
「あいつ、刺されたぞ。約束と違うじゃないか」
「まだ刺されたと決まったわけじゃないわよ」
「なんだよ。お前も慧音みたいに、事故だとか何だと言うのか」
「まだ、調査中ってとこかしらね。それに、私は約束を破った覚えはない」
「は?」
「あの小人の幸せが何か、あなたに分かるのかしら? 分からないでしょ。だから、間違っていないのよ」
は? ともう一度繰り返す。こいつは何を言っているのだ。確かに幸せなんて分からないが、少なくとも首の血管を切られ、死にそうになることが幸せだとは到底思えなかった。
「おまえ、それ本気で言っているのか?」
「私はいつだって本気よ。冗談は嫌いなの」
「だとすれば、お前の頭が心配だ」
私の嫌みに彼女は一切の反応を見せなかった。親しみなんてもってのほかで、威圧感で私を殺そうとしているようにも思える。何もしていないにもかかわらず、土下座して謝りそうになるくらいには、恐怖を感じた。
「なら、逆に訊くけど、あなたはいま幸せなのかしら?」
「は?」
「どうなのかしら」私がいま幸せかどうか、そんなの決まっていた。
「幸せに決まってるだろ」
「へえ」八雲紫は、意味ありげに眉を下げた。無性に腹が立ち、自然と語気が強くなる。
「指名手配もされず、誰にも罵倒されず、住処と食料に恵まれた環境がある時点で、弱小妖怪からしたら夢みたいに幸せなんだよ。それこそ、死んでも離したくないほどな」
「本当にあなたはそれで幸せなのかしら」
やけに挑発的な笑みを浮かべ、扇子を突きつけてくる。
「天邪鬼にとっての幸せは嫌われること、とか言ってなかったかしら?」
「私は蕎麦屋だ。天邪鬼なんて知らねえよ」
場の空気が嫌に冷えた。春とは思えないほどの冷気が体へと入り込んでくる。にもかかわらず、汗が止まらない。原因はすぐに分かった。八雲紫が明らかな敵意を向けてきているのだ。あの八雲紫が。
「せっかく助けてあげたのに、これでは面白くないわ」
「面白い蕎麦屋は目指してねえんだ」おずおずと言うも、言葉尻は消え入るように小さくなってしまう。恐怖のせいで足はガクガクと震えている。
「そう。なら聞き方を変えるわ。あなたは天邪鬼にとっての幸せって何だと思うかしら」
なんでそんなことを聞くのか。というより、恐ろしいからその殺気を消してくれ。そう口にしようとするも、言葉が出てこない。彼女の質問には答えなければならない。弱小妖怪としての本能が、そう警鐘を鳴らしていた。
「天邪鬼の幸せ、か」妖怪の賢者からの威圧感は未だ続いている。が、ふしぎと笑みが浮かんだ。天邪鬼が幸せになることなんてあり得ない。もし、強いて言うのであれば
「天邪鬼はな、幸せになれないことが幸せなんだよ」
「なによそれ」場に漂っていた冷たい空気がふっと緩んだ。「意味が分からないわ」
「いつものお前のほうが意味わかんねえよ」
「失礼ね」
「いつものお前の方が失礼だ」
むっと口をつぐんだ妖怪の賢者を無視し、言葉を続ける。威圧感は既に消え去っていた。
「言葉の通りだ。天邪鬼はな、蔑まれ、馬鹿にされ、嫌われてなきゃならねえんだ。それが幸せなんだよ。ほら、よく言うだろ。憎まれっ子世にはばかるって。普通に考えれば分かるだろ」
「それ、普通じゃないわよ」
「普通だ」これだから強者は、とため息が出る。だが、そんな私を小馬鹿にするように笑った八雲紫は、「普通はどんな時に幸せを感じるか、知っているかしら」と得意げに言ってきた。
「それは何か? 哲学か?」
「何でもかんでも哲学という言葉で概念化しては駄目よ。もっと一般的なこと。例えば、美味しい物を食べた時、たくさん寝た時、子供が成長した時」
「お前の場合はあれだな。相手が苦汁を舐めている時だ」
「嘘ばっかり」
嘘ではない。そう抗議するものの、彼女は聞く耳をもたなかった。どうせ、彼女の中では予め答えが決まっているのだろう。さすが大妖怪。傲慢だ。吐き気がする。
「私はね、一番幸せを感じる時は、やっぱり親しい人に会った時だと思うの」
「は?」
「どんな存在でも寂しさを感じるのよ。だから悪党だって徒党を組むし、一匹狼だってウサギと仲良くする。そうでしょ?」
「そうでしょ、と言われてもな。それを私に聞くのか」親しい奴なんて、誰もいない私に。「それに、お前はどうなんだよ。あの幻想郷の賢者様にも寂しいだなんて感情はあるのか?」
「もちろん」
彼女はわざとらしく眉根を下げた。およよ、とか弱い乙女のような泣き声をあげ、体を縮こませている。控えめに言って、気持ち悪かった。
「私だって、寂しいと思う時はあるわ。本当に親しい人というのは、同じ立場じゃないと作れないのよ。管理者、リーダーで、なおかつ馬の合う輩なんて、それこそ指で数えるほどしかいないけどね」
「指で数えるほどはいるんじゃねえか」
「いる、というよりは、いた、と言った方がいいかもしれないけれど」
私と同じ立場で、親しい奴。想像するも上手くいかなかった。なぜか頭に浮かんだ針妙丸の顔をすぐに消し去る。あいつとは親しくもなければ、同じ立場でもない。
「最近は人里で不安が広がってるでしょ? だから、誰もが親しい奴に会いたがっているのよ。もう会えないに決まっているのにね」
「それって」
「例の噂ね。死者蘇生の。まあ、大概の連中は喜知田を生き返らせようとしているみたいだけれど」
「何でだよ」
八雲紫の無茶苦茶な論理に溜め息が出る。彼女の言うことが正しいのであれば、喜知田は多くの人々と同立場で、親しいということになるではないか。あいつが? あり得ない。
「というより、その噂を何とかしろよ。珍しい妖怪の血が必要だなんて、悪趣味にもほどがある」
「そんなこと言われても、私が噂を流したわけではないから」
「お前なら、あんな噂をなくさせることぐらいできるだろ」
「どうしてなくす必要があるのかしら?」
「そりゃあ」そこまで言って、私は言葉を詰まらせた。どうしてか。根拠のない噂で人里を混乱させるのはよくないことだから? それで小魚が痛めつけられたから? 冗談じゃない。先ほど、自分で言ったじゃないか。私は正義のヒーローなんかじゃないのだ。そんな噂が出回っていたところで、私には何の影響もない。
「あの噂、最初とは随分変わって尾ひれがついているけれど」
「小魚だけにか?」
「けど、結果的にいい方に向かっていて、よかったわ」
「よかった?」人里が混乱しているのに、幻想郷の賢者がよかったというだなんて、信じられなかった。
「ええ。だって、希少な『妖怪』の血が必要となったんですもの。ま、人間の血が駄目だったから、そういう変化をしたのでしょうけれど、人里内で争いが起きるよりは百倍ましだわ。それに」
「それに?」
「不満のはけ口になる」
ああ、と私は納得してしまった。
「風船にずっと空気を入れていたら破裂するように、不満もずっとため込んでいたら、爆発してしまうのよ。それを妖怪にぶつけるのは理想型よ。人間だって理性は、良心はある。どんなに相手が弱くとも、理由がなければ、一方的にいたぶったりはできないわ」
「そんなことなかったぞ」
「あなたの場合は理由しかなかったでしょ」
呆れているのか、扇子を広げて口許を隠した八雲紫は、とにかく、と短く言った。
「人里のために誰かを生き返らせられる、という大義名分を得た彼らは、うちに巣くった不満を外に吐き出せるのよ。珍しい妖怪を見つけて、捕まえて、いたぶって、血を流させることによってね」
「いつかしっぺ返しが来るぞ」
「そうね」彼女は当然と言わんばかりに頷いた。「初めは珍しくて弱い妖怪を虐めるでしょう。が、いつか無謀な愚か者が、強い妖怪、それこそ天狗なんかに手を出すかもしれない。そうすれば、願ったり叶ったりって感じよね」
「なんでだよ」
「そうすれば、妖怪に対する恐怖感も増すでしょ? 私たちは、恐れられることによって存在できるのだから」
そういうもんなのか、と私は分かったかのように頷く。が、まったく理解していなかった。妖怪は恐れられることによって存在できる。もしそうならば、私はどうなるのだ。人に恐れられたことなんてないぞ。だが、そう口を挟むより早く、彼女はもっと癇にさわる言葉を言い放った。
「だから、その人魚が傷ついたのも、ある種必要経費だったのよ。残念だけれど、諦めなさい。全体を考えれば、それがいいのよ」
「おまえ」
「それにね」なぜか悲しそうに眉をハの字にした彼女は、「これは友人の日記に書いてあったのだけれど」と虚空を見上げた。
「人っていうのは、上げてから落とされると余計に辛さを感じてしまうらしいのよ」
「どういうことだよ」
「期待を裏切られれば、余計に腹が立つってことよ」
「鶏ガラも同じようなこと言ってたぞ」
「だから、気をつけなさい」
そう諭すように、ゆっくりと噛み含めて言った彼女は、言いたいことは言ったとばかりにいきなり姿を消した。そう。消したのだ。瞬きしている間に、彼女は視界から消え去っていた。八雲紫なんて、初めから来ていないのではないか。本気でそう思うほどに、一瞬だった。
「無茶苦茶だ」
いったいなんだったのだろうか。あいつはわざわざ私に妙な忠告をするために来たのだろうか。だとすれば、笑える。やっぱり、暇なんじゃねえか。
嫌な予感がしたのはその時だった。どすん、と感じたことのある振動が体を包んだ。初めは気のせいかと思い無視していたが、段々とその衝撃は強くなっていく。八雲紫の悪戯かとも疑ったが、さすがにそこまで幼稚ではないだろう。ということは、だ。心当たりなんて、一つしかなかった。
慌てて扉の元へ向かい、鍵を開ける。と同時に巫女が飛び込んできた。全身をぶつけるようにして扉に突っ込んだからか、勢いよく開き、大きな音を立てる。だが、幸運なことに扉は無事だった。妹紅の自慢げな笑みが頭に浮かぶ。
「おいおい、いま何時だと思ってんだよ」
焦っていたからか、私はそんなことを巫女に問い詰めていた。
「近所迷惑だろうが」
「そんなこと、どうでもいいのよ!」
珍しく巫女は焦っていた。よく見ると、彼女の服装はいつもと異なっている。例の、赤を基調とした妙ちくりんな巫女服ではなく、白い浴衣を羽織っている。寝起きにもかかわらず、必死に来たのだろう。でも、理由が分からなかった。
「おいおい落ち着けよ。今は閉店中だ。蕎麦なら明日にしてくれ」
「蕎麦なんてどうでもいいのよ」
「よくねえよ。蕎麦より大切な物があるか」
「時間とか」
彼女は膝に手を置き、息を整えていた。らしくない。
「なんでそんなに慌てているんだ。急いでも、ただ疲れるだけだぞ」
「いいじゃない疲れても。時間の方が大事よ」
「そうか?」
「そうよ」
なぜか巫女は強気だった。自分の言葉が正しいはずだと、縋っているようにも見える。
「時間ってのは、過ぎちゃえばもう戻らないでしょ? でも、体力は休めば回復するじゃない」
「だから何だよ」
「人ってのは、もう手に入らない。元に戻らない物を優先するのよ」
「時は金なりって言うだろ。時間はお金で買えるんじゃねえのか?」
「買えるわけないじゃない」彼女は息を切らしながらも鼻で笑うという高度な技術を見せてきた。
「一番大切な物は、お金で買えない物なのよ」
「それ、聞かせたい奴が一人いたぜ」
誰よ、と訊ねてくる彼女を無視し、店の奥で寝直そうと後ずさりすると、巫女が手を掴んできた。
「なんだよ」
「いいから、着いてきなさい」
「なんでだよ」
いつも冷静で、冷徹な博麗の巫女も人間なのだな、とそんなことを考えていると、ばっと顔を上げた。驚き、少し後ろに下がると、彼女は胸を大きく膨らませ、叫んだ。
「針妙丸が目を覚ましたのよ」
常識的に考えて。
度々使われるこの言葉だが、あまりいい意味で使われることはない。お前、なにやってんだよ。そんなこと、常識的に考えれば分かるだろ。そんなお叱りの定型句になっている。だが、残念なことにその常識とは酷く曖昧で、各々によって異なる。だから、こう言われた時、大抵の者はこう思うだろう。そんな常識、知ったことではない、と。
だが、ただ一つ言えることがあるとするならば、頸動脈を切られたというのに、「よく寝たー」と呑気に欠伸をするようなことは、絶対に常識的ではないということだ。
やけに焦っていた巫女に連れられ、私は博麗神社へと来ていた。針妙丸は、すでに体の傷はあらかた治っているらしい。だからこそ、永遠亭なる場所から博麗神社に移され、寝かされているのだ。巫女がつきっきりで看病していたらしい。巫女のいる神社は間違いなく幻想郷で一番安全な環境と言ってよかった。
未だ太陽は顔を出しておらず、決して子供が起きていていい時間ではなかったが、それでも針妙丸は起きていた。小さな布団の上にちょこんと座っていた彼女は、遠くから見れば人形のようにしか見えない。それほどまでに、顔は青白い。動悸が激しくなった。どこか、精神的に壊れていないか。暗い影が心を覆い尽くしていないか。そうやきもきしていると、私の顔を見た針妙丸は、眠そうな声で言ったのだ。
「よく寝たー。でも、まだねむいかも」
「え?」
「あ、おはようれいむ。あれ、なんで蕎麦屋さんがいるの?」
そう首をかしげる彼女の目には一寸の曇りもなかった。誰かに首を切られたというのに、恐怖心すら覗かせていない。謎だ。あの小魚ですら震えていたのに。
「ねえ針妙丸」博麗の巫女も同じことを考えたのか、どこか怯えたような声を出した。
「あなた、体はもう大丈夫なの?」
「からだ?」
「首とか、痛くない?」
「全然痛くないよ」
そう笑った針妙丸は、これ見よがしに首をぱちんと叩いた。傷一つ無く、綺麗なままだ。
「ごめんなさい、針妙丸」
だが、笑顔の針妙丸とは対照的に、巫女の表情は優れなかった。あの巫女がはらはらと涙を流してさえいる。鬼の目にも涙。巫女の目にも涙、だ。
「本当にごめんなさい」
「なんでれいむが謝るの?」
「本当にごめんなさい」
そう何度も繰り返しながら、巫女は針妙丸の肩をそっと抱いた。そのままおいおいと泣き続けている。当の針妙丸といえば、苦しいよー、と文句を言いつつも、満更でもなさそうに苦笑いしていた。時々助けを求めるようにこちらを見てくるが、無視する。感動的だな、と小さく呟いた。なんて素晴らしい絵面なのだろうか。一人の少女が、幼き妖怪の身を案じ、号泣している。新しく映画にできそうなほどに感傷的だ。下らない。あまりの馬鹿馬鹿しさに、苛立ちすら感じた。
「おいおい、私はお前らの抱擁を見せつけられるために呼ばれたのかよ」
その苛立ちをぶつけるつもりはなかった。だが、意図せず語気が強くなってしまう。
「ポップコーンを食べながらハンカチで目を拭えばいいのか?」
「ぽっぷこーん?」
「なんでもねえよ」
どうしてこうも腹が立つのか分からず、後ろを向き、草履を乱暴に脱ぐ。土足で上がり込んでやろうとも思ったが、別段何も言われなさそうなのでやめた。
巫女は中々泣き止まなかった。大声で泣きじゃくっているわけではないが、ずっと涙をこぼし、謝っている。その滑らかな黒髪を針妙丸が微笑みながら撫でていた。これではどちらが小人か分かったものではない。
「別に、巫女が謝る必要はないだろ」嘲笑しようにも上手くいかず、馬鹿にしようにも笑えなかった私は、ぶっきらぼうに言った。「謝られても、そのガキも困るだけだ」
「そうだよ、れいむ。私は大丈夫だから」
「大丈夫って、丸二日寝てたんだぞ、お前」
「え、そうなの?」どうしよう、と眉をハの字にした。
「もしかして、おもらしとかしてた?」
巫女がふっと息を漏らした。泣いていいのか笑っていいのか分からず、微妙な顔つきになっている。
「心配するの、そこかよ」
「え、どうなのれいむ。わたし、おもらししてたの?」
あせあせとその場で地団駄を踏んだ彼女は、博麗の巫女の手から抜け出し、掛け布団をばさりと広げた。そして、濡れていないことに気がつくと、よかったー、と今日一番の笑みを浮かべる。
「おもらししてたら、恥ずかしくて死んじゃうとこだったよ」
「おもらししてなくても、死にそうだったぞ、お前は」
そうなの? といつものように針妙丸は霊夢に首をかしげた。だが、博麗の巫女はいつもとは違い、鬱屈とした表情でごめんなさい、と謝るだけだ。さすがにくどい。
「もういいだろ、博麗の巫女。いっぺん頭を冷やしてこい。霧の湖にでも行けば死ぬほど冷やしてもらえるぞ」
もちろん、私は冗談のつもりだった。だから、「そうするわ」と巫女が腰をあげた時、心底驚いた。自分で言っておきながら、本当に? と聞いてしまうほどに。
「ごめんなさい、後はよろしく」と囁き、巫女はゆらゆらと外に出た。早朝の冷たい風が本殿へと入る。巫女のいない神社に針妙丸と二人でいるだなんて、どこか空想じみていた。
「なあ、チビ」
「チビじゃないもん」
「お前、覚えているか?」
口を開いたものの、いったい何について聞いているのか、私自身でも分からなかった。もしかすると、鬼人正邪についてどのくらい覚えているのか、と聞きたかったのかもしれない。だが、咄嗟に言葉を変えた。
「お前、どうしてしばらく寝込むことになったか、覚えているか?」
「どうしてって」
「首を斬られてたんだぞ。血を流して。いったい誰にやられた」
え、と変な声を出したのは針妙丸だった。なぜ彼女がそんな声を出すのか分からない。
「実は、よく覚えていないんだ」しばらく体を揺すり、考えていたが、結局は観念したのか小さくそう言った。「なんか、頭がぼんやりとしてうまく思い出せない」
「そうか」針妙丸の答えを聞いた私は、どこかで落胆を覚えていた。彼女を傷つけた奴が分からないことが、むず痒く、情けない。
そんな私をぼんやりと見た彼女は、少し寝ぼけているのか、のんびりとした声で、「私には夢があるの」と言った。私ではなく、どこか遠くの誰かに言っている様子だ。
てっきり、さっきまで寝ていた時に見ていた夢の話でもするのかと思ったが、違った。子供が持ちがちな、将来の夢のほうの夢だ。くだらないほうの夢だ。
「わたしはきっと、正邪がみんなを助けてくれると思うんだ」
いきなり出てきた正邪という言葉にどきりとする。そして、どこかで聞いたことがあるな、と記憶の中をいつの間にか辿っていた。確か、妹紅と出会う直前だったはずだ。
「それでね、正邪が人里のみんなから感謝されて、けいね先生にもほめられて」
「それは無理だろ」
「やっぱり、蕎麦屋さんもそう思う?」死んだ奴の話をしているはずなのに、なぜか針妙丸は愉快そうだった。「正邪がけいね先生に褒められるだなんて、ありえないもんね」
「そこじゃねえよ」
私がいいか、とたしなめようとすると、それを遮るように針妙丸が声を挟んだ。人の話は最後まで聴くと、慧音から教わらなかったのだろうか。
「それより、なんで蕎麦屋さんは神社まで来たの?」そんな私の苦悩など知らない針妙丸は、怪我明けだというのに元気な声を上げた。そもそも怪我をしたということすら知らないのだろうか。
「もしかして、参拝に来たの?」
「そうだ」そんなわけがない。どうしてこんな辺鄙で、妖怪が住まう神社に参拝しなければならないのだ。そこまで考え、そういえば、と思い出した。
「そういえば、博麗神社って他に住んでいる妖怪はいないのか?」
「え?」
「お前と巫女の二人でずっと住んでいたのかって聞いてるんだよ。他にも住んでいる奴っているか?」
「あ、ああ」やっと合点がいったのか、針妙丸は深く頷く、と同時に嬉しそうにニコニコと微笑んだ。
「いつもいるわけじゃないけど、たくさん来るんだ。みんな優しくて、面白いよ」
「そうか」
「だから、毎日が楽しいの」
この前は鬼にもあったの、と中々に危ういことを言っている彼女は、どこからどう見ても幸せそうに見えた。その向日葵のような笑みも、大げさな身振りも、間違いなく本心からくるものだろう。だが、不思議と私の心には不安がうごめいていた。巫女の言葉が頭に浮かぶ。絶望というのは分かりづらい。本当にそうなのだろうか。
「なあ、針妙丸」気が抜けていたからか、いつもは意図的に低くしている声も、少し高くなっていた。
「おまえ、幸せか?」
しあわせ? と鸚鵡返しにした彼女は、なんとなしだろうが、後ろを振り返った。振り返って、顔を青ざめさせた。分かりやすいくらいに動揺し、肩をわなわなと震わせている。
いったいどうしたのだろうか。何か喉に詰まらせでもしたのかと思い、声をかけようとすると、勢いよく針妙丸が振り返った。その目には涙が浮かんでおり、口は真一文字に結ばれていた。大声で泣き出すのを我慢しているのがばればれだ。
「ねえ、蕎麦屋さん」
「なんだ」
「さっき、私に幸せかってきいてたけど、私は幸せじゃないよ」
そう言うや否や、彼女は私へと思い切り飛び込んできた。勢いに耐えきれず、そのまま尻餅をついてしまう。痛みよりも、懐かしさを感じた。こいつに押し倒される日がまたくるだなんて。嬉しくないな、と呟くも「壊れちゃった」とぐずる小人の声にかき消される。
「壊れたって、何がだよ」
「あれだよ、あれ」
私を見上げる彼女の顔は、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになっていた。大きな瞳に私の顔が映り込む。あれ、と指を指しているにもかかわらず、私はしばらく彼女の顔から目が離せなかった。紫色の綺麗な髪も、あどけないその表情も、やはり一年前から何一つ変わっていない。まったく、とため息が出る。少しは成長してくれよ。
私の甚兵衛に顔を埋め、思いっきり涙と鼻水を拭った彼女は、真っ赤に腫れ上がった目で私を見つめ、「私のお椀が」と悲しげな声を上げた。
「お椀?」
「いつも被っていたお椀が割れちゃってるの!」
なんだそんなことか、と口に出しそうになる。目を向けると、確かに割れた茶碗が転がっていた。
「何だよ、大事な物なのか?」
「そりゃそうだよ」彼女は喚きながら泣き言を並べた。「先週買ったばかりなのに!」
「なんだよ、普通に買えるのかよ」
なら、いいじゃねえか。私は思わずそう呟いてしまう。
「お金で買える物は大切な物じゃないらしいぞ」
そんなことないもん、と頬を膨らませる針妙丸の姿は、なぜか勇ましく見えた。
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糾弾と恩赦
誰だって誤りはある。妖怪の賢者はそう言った。世の中に完璧な存在なんていない。それは正しかった。他でもない、八雲紫がそれを証明して見せた。
八雲紫の読みは誤っていた。あの、死者蘇生の噂は人々の不満のはけ口になり、人里の、喜知田が抜けたことによる不安は解消される。妖怪の賢者はそう言っていたじゃないか。なのに、このざまはなんだ。たかが妖怪をはけ口にするだけでは、彼らは足りなかったのだ。出ていく不満より、はるかに溜まっていくそれの方が多かった。少し穴が空いた程度では風船は萎まず、それどころかその穴から空気が入っていった。
空気を入れすぎた風船はどうなるか。
当たり前だが、爆発する。木っ端微塵にゴムは破れ、今まで中に収まっていた空気は散り散りになる。それを実感していた。
博麗神社を後にする頃には、ちょうど昼頃になっていた。本来であれば博麗の巫女に護衛を頼みたかったのだが、どうやら本当に霧の湖まで頭を冷やしにいったらしく、中々姿を見せなかった。帰ってくるまで居座っても良かったが、顔が広いと噂の彼女の知り合いに見つかっては面倒だ。そう思い、神社を出た。霧の湖に巫女がいる以上、妖精や低級の妖怪は近くに寄りつかないだろう、という算段もあった。だが、予想外だったのは、針妙丸も着いてくる、と主張したことだ。
「壊れちゃったお椀を直しに行きたいの」
そう笑う彼女の顔からは、涙は消えていた。直すも何も、一体その修理費は誰が出すのだ。そもそも私はお前の買い物について行くつもりはない。というより、今の人里は危ないからここで大人しくしておけ。人里には身長の入場制限があるんだぞ。考えつく限り、全ての反論を口にしたのだが、針妙丸は一向に首を縦に振らなかった。ただ、いいじゃん、と私の足にくっつくだけだ。誰かさんに似て、頑固だった。
幸か不幸か、人里へは何の障害もなくたどり着くことができた。一応、妖怪であるということすら針妙丸には隠しておきたかったので、陸路を使ったのだが、予想よりも時間はかからなかった。いくら人里から離れているとはいえ、人間がいけない神社では意味が無いのだろう。当然、いけないの枕詞には安全に、という文字はない。
人里の異変を最初に嗅ぎ取ったのは針妙丸だった。
「なんだか、人が少ないね」
人里の端の、私の店のすぐ近くに来た時に、ぽつりとそんなことを零した。
「そんなことはない」と私は否定したが、確かに人の姿は少なかった。いや、少ないどころではない。一人もいないのだ。確かに、人里の端は中央よりも妖怪に襲われやすい、といわれている。普通の人であれば特におとずれたりはしないだろう。だが、さすがに一人も見掛けないというのは稀だった。
まあ、稀とはいえ、偶にはそういう偶然があるのは事実で、その時の私は特に何も感じていなかった。このまま誰と会うことなく、慧音にでも針妙丸を押しつけよう。呑気にそう考えていた。だから、私の店先であたふたとしている妹紅を見掛けた時も、私の蕎麦を食べに来たのかと、本気で思った。
「おい蓬莱人。今日は閉店だぞ。残念だったな。土でも食ってろ」
「蕎麦屋さん、酷いこと言っちゃ駄目だよ」
いつも霊夢にやられているのか、めっと指を立てた針妙丸を無視し、妹紅に目を送る。いつも通りの赤いモンペを着て、いつも通りの白い髪をたなびかせているが、その頬はいつもとは違い、白くなかった。赤い。最初はペンキでも塗っているのかと思った。が、よくよく見てみるとそれが血だということが分かる。慌てて針妙丸の目を塞いだ。うわー、と楽しげな声を出す彼女を持ち上げた。おい慧音、と文句を言いたくなる。お前の友人は教育に悪いぞ。
「せい、いや。蕎麦屋。おまえ、どこ行ってたんだよ」
針妙丸の姿を見た妹紅は、気を利かせたのか言葉を濁した。
「こんな大変な時に、どこに」
「大変って何がだよ」
「話は後だ。いいから着いてこい」
「なんで後にするんだよ。今言え、今」
巫女といいこいつといい、どうしてそうも焦っているのだろうか。急がば回れ、という諺など、こいつらの辞書にはないのだろう。まあ、私の辞書にもないのだが。
「とりあえず、店に入れよ」
「そんな時間は」
「包帯が死ぬほどあるんだ。顔に巻け」
なんでだよ、と語気を強めた彼女だったが、自分の頬に手をやった後、何も言わずに頷いた。どうやら、怪我に気づいていなかったらしい。興奮して痛みを感じていなかったのか、それともその程度の痛みなど彼女にとって屁でもないのか。いずれにせよ、狂っているとしか言えない。
店の鍵は開いていた。単純に私がかけ忘れていただけなのだが、妹紅は何も言わなかった。きっと、勝手に家の中に入ったのだろう。血痕がぽつぽつと床に落ちていた。
「これ使えよ」近くにあった、少し黄ばんでいる包帯を渡した。妹紅が巻き終わるのを待って、針妙丸から手を離す。まぶしーと目をパチパチさせる彼女と妹紅の沈んだ表情は対照的だった。
「ありがとな」
「礼なんて要らねえよ。対価を払え」
「なら、また今度何でも言うことを聞いてやるよ」
「安請け合いすると、痛い目に遭うぞ」
「私の命の価値なんてそんなもんさ」
そう冗談を言っているものの、カラカラとした乾いた笑みしか出せていない。しおらしい巫女といい、元気のない妹紅といい、様子がおかしい奴らばかりだ。唯一まともなのは、針妙丸だけだった。いや、誰かに刺されたというのに、いつも通りというのもそれはそれでおかしいのかもしれない。
「えっと、慧音先生のお友達の人?」
包帯を巻き終え、ますます白と赤のコントラストがはっきりとした妹紅に、針妙丸は笑いかけた。
「いつも先生が言ってたよ。とても頼りになるんだって」
「ありがたいね。けど、私は役に立てなかったよ」自嘲気味に彼女は片頬をあげた。強者らしくない、弱者特有の笑みだ。
「私は慧音の期待に応えられなかったんだ」
「何があったんだよ」
別段聞いたところで私には何もすることができない。が、なぜだか気になった。
「ふだん能天気なお前がそこまで焦ることなんてあるんだな」
「能天気は余計だよ」ふっと息を漏らした彼女の包帯に赤色が増した。きっと、吐血したのだろう。それでも彼女は苦しむ素振りすら見せなかった。それどころではない、といった様子で私に鋭い目を向ける。
「大変なことになった」
「私はいつも大変だ」
「私も!」針妙丸が手を挙げる。「私もいつも大変」
「大変なことになったのは、慧音だ」
「慧音?」
確かにあいつはいつも大変そうだが、妹紅がそこまで焦ることもないだろう。何もかも一人で抱え込むあいつは、汚い水でしか住めないザリガニよろしく、大変で忙しい環境でしか生きていけないのだと、私は半ば本気で思い込んでいた。
「慧音はいつも大変だろう」
「そうじゃないんだ」
「そうじゃない?」
「訳を話せば長くなるが」
それに、子供に聞かせる話じゃない。そう呟いた彼女は針妙丸にむかい、にこりと微笑んだ。明らかに無理して作ったものだったが、それでも針妙丸も同じように微笑む。
「結論から言えば、慧音が矢面に立たされている」
「やおもて?」言葉の意味が分からず、首を傾げる。「矢を持てって、弓でも使うのか」
「違う」彼女は本当に辛そうな顔をした。
「人里のみんなから糾弾されてるんだ」
「は?」
「恨みを買ったんだよ。ミスをしたんだ、あいつは」
妹紅の言っていることが分からず、ただ呆然としてしまう。慧音が人里から糾弾される? なんでだよ。あいつほど人里に尽くしている奴はいないし、人里で愛されている存在もいなかったじゃないか。
「だから、とにかく着いてきてくれ」
今度の妹紅の言葉を断ることは、私にはできなかった。
針妙丸を一人で残しておくことに、不安がないわけではなかった。だが、いくら見た目が小さいとはいえ、彼女自身はそこまで軟弱ではないことを、愚かではないことを私は身をもって知っていた。なんなら、私なんかよりよっぽど強い。「大丈夫だよ。留守番には慣れているんだ」と胸を張る彼女の顔には露骨に寂しさが浮かんでいた。その顔を見ると、ここに残らねば、という使命感に駆られる。小人のためではない。子供一人に私の店の切り盛りを任せるほど、落ちぶれたつもりはなかった。それに、人里の守護者がどうなろうが、私の知ったことではない。勝手にくたばっていればいいし、そもそもあいつが簡単にくたばるとも思えなかった。だが、明らかに尋常ではない妹紅の様子を見ると、酷い目に遭っているだろう慧音の面を拝むのも悪くないと、そう思えた。結局のところ、私はその天邪鬼としての欲望に従い、妹紅について行くことにした。やはり、針妙丸を人里へと連れてくるべきじゃなかった。無理にでも置いていくべきだった。そう後悔する。が、後悔なんてしても意味が無いことは明らかだった。
人里の大通りに向かい、足を進める。が、それでも人間の姿は中々見えなかった。そこで、ようやく私は、これはよっぽど面倒なことが起きているのでは、と理解した。酷く見覚えがあったのだ。私が、人里中から責め立てられた、あの野菜の時と、全く同じだ。
「時間がないから、端的に説明するぞ」
妹紅はなぜか空をとばず、早足で移動しながらそう言った。
「お前、あの死者蘇生の噂、知ってるよな」
「またその話か」
「最近、その噂にある情報が伝わってな」
「珍しい妖怪の血じゃないと意味が無いってあれか?」
知っていたのか、と唇を噛んだ妹紅は、苛立たしげに地面を蹴った。
「まったく、馬鹿らしいよ」
「そうだな。最近、珍しい妖怪を売りつけるような輩が増えてるんだろ?」
「え?」妹紅はなんだそれ、と肩をすくめた。
「そんな商売があったら、さすがに慧音も私も、妖怪の賢者も動いているよ」
「確かに」だが、あったのも事実だ。
「それも気になるが、今は慧音のほうが心配だ」
「何があったんだよ」
「もう想像がついたんじゃないか?」
「つかねえよ」
「簡単だ。半獣って、珍しい妖怪と言えなくはないだろ」
あ、と声を零してしまう。確かに、そう言えなくもない。だが、それはあくまでも言えなくもない、といった程度だ。普通に考えれば、半獣が妖怪であるかどうかの議論からはじめなければならないだろう。だが、そもそも普通に考えられる奴は、そんな妙な噂に引っかかったりはしない。
「それで、とある人間が慧音を尋ねたんだ。喜知田を生き返らせたいから、その血を分けてくれって」
「そうか」
「慧音は受け入れたよ」
だよなと頷く。お人好しの慧音が、懇願してきた人の願いを聞き届けないはずがない。
「だが、まあ。当然だが、そのまじないを行っても、喜知田は生き返らなかった」
「だろうな」
「そしたらな、二つの反応が生まれたんだ」
どこか客観的に語る妹紅に違和感を覚える。慧音の歴史の授業のように、淡々と事実をまとめ、述べあげている。だが、彼女の眉が細かく震えているのを見た時、その理由が分かった。こいつは怒っている。だが、その怒りをぶつける所がなく、必死に隠しているのだ。哀れで、惨めだ。強者のくせに、と呟きそうになった。強者のくせに、なんてざまだ。「一つは、まあ有り体にいえば落胆だな。やっぱり、あの噂は嘘だったのか。と正気に戻った奴だよ。はかなく消え去った期待に驚愕する奴も、そのデマを流した奴に対する怒りを示す奴もいたが、その根底は落胆だったはずだ」
「それで、なんで慧音が酷い目に遭うんだよ」
「もう一つはな」私の言葉を無視した妹紅は、ぎゅっと拳を握った。
「もう一つは、諦めきれなかった人々の興奮だ」
「は?」
「慧音の血じゃ駄目だった。だが、それは半獣の血だから駄目だっただけで、別の珍しい妖怪ならいいかもしれない。そう思った奴がいたんだ」
「だから、なんだよ」それで慧音が酷い目に遭う理由が、糾弾される理由が分からない。
「よくよく考えろ。慧音がな、そう言われて何て答えると思う。先生の血じゃ駄目でした。でも、他の妖怪の血ならいけるかもしれません。もしよければ協力してくれませんか。そう言われれば、どうするか」
「無視する」
「あいつはそんなに器用じゃない」妹紅は悲しげに言った。「当然のように断ったよ、あいつは」
そういえば、と私は思い出した。慧音は、この噂を好ましく思っていなかったはずだ。
「人間は、一つの目的のために協力すると、凄まじい力を発揮する」気づけば、そんなことを口に出していた。慧音の言葉だ。
「その通りだ」妹紅は頷いた。「そして、その輪から外れる奴を、理不尽に嫌う」
「は?」
「皆、興奮してるんだよ。どこか、おかしくなってる」
「どういうことだよ」
「誰かが言ったんだ。『おいおい先生。どうして反対するんだよ。妖怪の血を少し貰うだけだぞ。それで、喜知田さんが戻ってくるかもしれないんだぞ』って」
「分かんねえよ。だから、なんでそれで慧音が」
「『先生、もしかしてあなた、妖怪の肩を持っているんですか?』って言われたんだ」
ひゅっと息が零れた。実際に見たわけではないのに、その場面がありありと脳裏に浮かぶ。おそらく、そう口にした人間も、本気でそんなことを思ったわけではないだろう。慧音の優しさは誰もが知っている。なんせ、天邪鬼の私が一目見た時に、近づきたくないと思った奴なのだ。私と真逆の、鳥肌がたち、気持ち悪いほどの善人の彼女のことを、本気で恨んでいる人間なんているはずがない。
「好きと嫌いは紙一重」妹紅は悔しそうに吐き捨てた。「まさにその通りだったよ。今でも人里の人間は慧音を信頼しているし、頼りにしている。だからこそ、反発は大きくなった。私はそう思っている」
笑えるな。私がそう言うと、彼女はきっと睨んできた。が、すぐにその目をそらし、空へと向ける。晴天だ。雲一つ無く、出てきたばかりの太陽が私を照らす。すがすがしい。空を見上げると、どこか慧音の姿が思い浮かんだ。綺麗な水色と、私たちを包み込むような暖かみが似ている。だが、その空に一筋の煙が立っていることに気がついた時、暖かみは完全に消え去った。黒々とした、嫌な煙だ。青空を蹂躙するかのように、もくもくと広がっていく。何かが燃えている。そう分かったのは、その煙にだいぶ近づいた時だった。
「覚悟しろよ」妹紅は呟いた。私に向けた言葉ではなく、きっと自分自身に向けた言葉だろう。「慧音の姿を見ても、うろたえるな」
燃えているものの正体は、おおよそ予想がついていた。だが、実際にその現場を目撃すると、衝撃を隠すことができない。
燃えているのは寺子屋だった。蕎麦屋が燃えた時と同じくらいの小さなボヤだが、それでもあの寺子屋が燃えているという事実は衝撃的だった。良心的なのに、良心的ではない。
「奇跡だ」思わずそう呟いてしまう。「烏、こういうのを奇跡って言うんだぞ」
かなり距離があるはずなのに、その炎の熱気が襲ってきている。と、思ったが、どうやらその熱気は炎だけが原因ではないようだった。
中々姿を見せなかった人間が、寺子屋周辺に所狭しと佇んでいる。いや、佇んでいるだなんて、生易しい物ではない。牙を研ぎ、爪を磨き、威嚇している、ように見えた。燃え上がっている寺子屋のすぐそばだけ、危険だからか円上に避けられていたが、そこ以外は人間でぎゅうぎゅうになっている。これでは慧音を探し出すことができないのではないか。そう思ったが、それは杞憂に終わった。彼女はその、誰もいない寺子屋のすぐ近くにいた。いつものように、壇上にあがる先生のように、そこだけぽつりと空間が浮かんでいるように見えた。だが、そこにいる先生はいつもの堂々とした姿ではない。
「おい妹紅」私の声は、なぜか震えていた。
「なんでお前は悠長に私を呼びに来たんだ」
「だから、早くしろって」
「そうじゃねえよ」妹紅を責めるのはお門違いもいいところだ。だが、問い詰めずにはいられなかった。
「なんで先に慧音を助けなかった。お前ならあの人間の輪の中からあいつを助けることなんて訳ないだろ。なにぼさっとしてんだよ」
「私だって、助けようとしたさ」
口元に巻かれた包帯を撫でた妹紅は、思い切り地面を蹴り飛ばした。少なくない衝撃が辺りに響き、砂煙がまう。当然、それは慧音を取り巻く人間にも伝わったはずだ。が、人の波は動かない。
「でも、慧音が断ったんだ」
「なんでだよ」
「人里の守護者だからだよ」はっきりと妹紅は断言した。「彼女は、こうしている今でも人里を守ろうとしている」
視線をあげ、慧音を見つめる。いったい彼女は何を考えているのだろうか。ぼんやりとだが、想像はつく。きっと、この期に及んでも彼女は自分を責めているはずだ。私のせいでこんなことになってしまったのだ。なら、私がどうにかするしかない。そう思っているに違いない。まったく、馬鹿らしい。なんて傲慢でおこがましいんだ。
「みんな、落ち着いて聞いてほしい」
立ち上がった慧音は、小さな声であるが、そう言った。ただそれだけで、騒いでいた群衆は水を打ったように静まりかえる。大勢の生徒に向かい、先生が注意をしているような、そんな錯覚に陥る。みんなが静かになるまで三分かかりました、そう言い出しても違和感がない。そう思っていると、慧音は実際に、「みんなが静かになるまで、三分かかりました」と口にした。はっとし、周りを見渡す。その誰もがぎょっとし、驚いていた。
「私は人里の守護者である前に、一匹の半妖であり、そして寺子屋の先生だ。貴方たちの半分は、私の元教え子だろう。いや、もっとか。私自身、全員の顔を覚えていると豪語するつもりはないが、少なくともこの場にいる全員くらいは、歴史の成績まで連ねることができる」
慧音はボロボロだった。だが、傷ついてはいない。彼女の心はまだ折れていないのだ。なぜか。信じているから。人里の人間を信じているから、折れていないのだ。
「だから、分かって欲しい。私は別に妖怪の肩を持っているわけではない。ただ、お前達になってほしくないんだよ。自分たちの利益のために、他者を平気で傷つけるような、そんな子になって欲しくないんだ」
そこで、慧音はふっと笑った。そう。笑ったのだ。憤る人間相手に、自分自身を責め立てている有象無象に笑いかけたのだ。寺子屋に火を点けられたというのに、だ。
人里の雰囲気が、落ち着いたように感じた。燃え上がる寺子屋を背に、優しく語りかけるボロボロの慧音の姿は、痛ましく、健気だった。このような不幸に見舞われて、なお笑い続けるだなんて、常軌を逸している。控えめに言って、気持ち悪かった。まるで聖人君子のようではないか。
だが、そう思ったのはどうやら私だけだったらしく、人間どもは口をパクパクと動かし、どこか恍惚とした表情を浮かべていた。さすが慧音先生、と拍手をする輩もいる。
「おい」
私は、もう一度妹紅を小突いた。
「全然糾弾されてないじゃねえか」
「私が来た時には、もっと酷かったんだよ。寺子屋が燃えてたんだぞ。ま、勝手に消えるぐらいの小さなものだったけど」
「誰が燃やしたんだよ」
「さあ」
妹紅は首を捻りながらも、どこかほっとした表情を浮かべていた。慧音が何かを話す度に、そうだ! と狂信的な信者のように声を上げている。
私は呆れ、興ざめしていた。何が人間の輪に入れない奴は阻害される、だ。何が妖怪の肩を持ってるんじゃないですか、だ。こんなの、糾弾されたなんていえない。少なくとも、アマチュアだ。糾弾されるプロの私からすれば、甘いも甘い。かき氷のシロップをそのまま飲んで、練乳をがぶ飲みするくらい、甘い。つまり、反吐が出た。
一件落着だな、と微笑んだ妹紅は、ひょいっと軽く飛び、熱弁を振るう慧音の元へと飛び立った。私からしてみれば、そもそもその『一件』すら起きていないので、何の感慨もない。ただ、慧音が勝手に騒ぎ、勝手に納得されただけだ。茶番にもほどがある。
だが、そうは問屋が卸さなかった。
こんな下らない喜劇を見るだなんて、阿呆らしくなった私は、とっとと針妙丸のいる店へと戻ろうと振り返った。こんな大量の人間がいる場所に、これ以上いると正体がばれるのでは、という不安もあった。
慧音の言葉が急に止まり、群衆が静まりかえったのはその時だ。足が止まる。何が起きたのか、気になった。恐る恐る寺子屋の方向を向く。
目を疑った。なんで。どうして。まるで意味が分からない。頭が固まり、動くことができなかった。その場で立ち尽くし、呆然とするほかない。
燃え上がる寺子屋の中から、二人の人物が現れた。逃げ遅れた人がいたのか、と最初は思った。だが、その二人は酷く落ち着いた様子で、しかも明らかに寺子屋にいていいような年齢ではなかったので、すぐにその可能性は消え去った。
皆、何が起きているのか理解できていなかった。燃えさかる寺子屋から、外の騒ぎなど知らないかのように平然と出てきた彼らは、どこか浮き世離れしていた。もしかして、これは幻覚なのでは、と訝しむくらいだ。
だが、私はこれが現実だということをすぐに認識した。その理由は簡単だ。その、寺子屋から出てきた二人組に見覚えがあったのだ。
それは、例の老夫婦だった。小魚を買い取り、一人息子を生き返らせようとした、弱々しい二人。彼らが涼しい顔して、寺子屋から出てきたのだ。
それだけならまだよかった。ただ出てきただけならば、無事を喜び、心配し、受け入れられただろう。慧音によって和らいだ人間達ならば、そうしたに違いない。
だが、現実ではそうならないことは明らかだった。なぜか。彼らの恰好が原因だ。服装こそは普通の、みすぼらしいボロだが、持っている物が異様だ。老婆の方は何やら大きな包みを肩にかけ、米俵を運ぶようにゆったりとした足つきで出てきた。その包みの透き間から、何やら光る物が見える。絹の織物だと分かったのは、ちょうど太陽が寺子屋の黒煙を切り裂き、スポットライトのように婆を照らした時だった。
そして、もっとまずいのは老夫のほうだ。彼は背中に大きな荷物を抱え、きっとそれは老婆のように高値の物を積み込んだのだろうが、重そうにのっしりと足を進めていた。が、問題なのはそこではない。彼が手に持っている物が問題なのだ。
彼は、少しの衣類と、大量のマッチ棒を両手に抱えていた。明らかに、今使ったものだ。本当は背中の袋に入れたかったのだろうが、入らなかったに違いない。だが、だからといってそれを持って外に出るのは愚かだ。こんなの、罪を自白しているようなものではないか。
「悪いことをしたらどうするか」
私は人知れず、呟いていた。
「堂々とする」
だからといって、それは堂々としすぎだろ、と嘆きたくなってしまう。
目の前の燃え上がる寺子屋から、いかにもな怪しい老人が出てきた時、慧音と妹紅は特に反応しなかった。あまりにも自然に出てきたため、元々ここに住んでいたのか、とでも思ったのかもしれない。だが、さすがに見逃すほど馬鹿ではなかった。
「あの、あなた達」
そう呼び止めた慧音の声は、決して鋭くなかった。心配そうですらある。
「どうして、寺子屋にいたんだ」
ゆっくりと振り返った二人の老人は、きょとんとしていた。まさか、自分たちの存在に気がつくだなんて、と驚いているように見える。
「無事なのはよかったが、説明してくれないか。なんで寺子屋にいたのか」
「なんでって」
老人は肩をすくめた。互いに顔を見合わせ、首をかしげている。そんなの、質問する意味がないことは、慧音だって分かっているはずだった。
「なんででしょうね」
小さく老夫がそう呟いた。と、共に彼らは荷物をどさりと置き、大きく跳躍した。え、と漏れた声は一体誰のものだろうか。まさか、あの老人がこんなにも機敏に動くだなんて、思えなかったのだろう。慧音はおろか、妹紅ですらそいつらの姿を見失っている。
私はそいつらの姿を必死に目で追おうとした。が、群衆に紛れたせいか、上手くいかない。あんなに弱々しかった彼らが、まさかこんな素早く動けるだなんて。感心や驚きよりも、落胆が先に出た。なんだよ、全然弱くないじゃないか。
だが、多勢に無勢。群衆の中の誰かが大きな声で、捕まえた! と叫んだ。まるで子供が嬉々として虫を捕らえたような、そんな声だ。
今度は慧音たちではなく、その老人達の周りに人が集まっていく。嫌な感じだ。先ほどまでの感動的な雰囲気はとうに消え去り、また、凶暴で愚劣な空気に戻ってしまっている。「あ、こいつ」その、老人を捕まえた、と叫んだ青年が、また声を上げた。
「こいつ、あの時の」
あの時って、どの時だよ。誰かがそう声を上げた。それに応えるように、青年は目を上げる。
「この前、こいつが売りに来たんだ。人魚を。珍しい妖怪の血じゃないと死者蘇生ができないってことを教えてくれて、それで捕まえていた人魚をわざわざ売りに。けど、高くて買えなかったんだ」
え、と困惑した声を出したのは誰だ。私だ。話が違う。誰に言うでもなく、そう口走っていた。周りの人間が目を向けてくるのもお構いなしに、私は呟くのを止められない。お前らは小魚を売りつけられたんじゃなかったのか。なけなしの金で買ったんじゃなかったのか。
「ええ、確かに私はあなたに人魚を売りましたよ」
あっけらかんと、老父は言った。ふっと眉を下げる。それだけで酷く弱々しい顔になった。儚く、脆い顔だ。
「でも、それは人里のためだったんです。私たちは別に生き返らせたい人などいませんから、譲ろうと思って」
開いた口が塞がらなかった。どういうことだ。いったい、何が起きている。彼らは嘘を吐いていたのか。私を騙していたのか。
「おまえ」老夫婦に近づいた妹紅は遠目でちらりとこちらを見た。そして不快感を滲ませ、唾を飛ばす。「おまえらが、特殊な妖怪を売買していた奴ってことで間違いないんだな」
「は、はい。でも、悪気はなくて」
「どうやって捕まえた」
「え?」
「その人魚をどうやって捕まえた」
「そんなの単純です」恐る恐るといった様子で、老婆は口を開いた。「人里の外に出て、捕まえたんですよ」
「おまえらが?」
「そうです。私たち、こう見えても中々強いんですから」
何の冗談だ、と笑い飛ばすことはできなかった。先ほどの機敏な動きを見ていると、弱小妖怪ぐらいであれば、勝ててしまいそうだ。少なくとも、私には。
ということは、だ。彼らは小魚を買ったのではなく、自分たちで捕まえたということか。なんでも商売になる。そう呟く老婆の姿が頭に浮かぶ。商売にしていたのは、他でもない二人だった。そういうことなのか。
「それで? 寺子屋に火を点けた理由を教えて貰おうか」慧音の声には、先ほどまでの優しさは消え去っていた。「誤魔化すなよ」
「分かってます」
そこで、老夫婦は表情を変えた。観念したのか、ふるふると首を振り、大きく息を吸っている。そうすると、彼らの顔に刻まれた皺がより深くなり、鬱蒼として、おどろおどろしい物になった。
「実は、寝るところがなくて、偶然泊まっていたんです」
「嘘だろ」妹紅がすぐさま否定した。「なら、そのマッチはなんだ」
「寒かったので、火を焚こうと」
「だとしても、そんなにはいらないだろ」
「確かに、そうですね」
何が可笑しいのか、ふふっと笑った老夫婦の顔は、楽しそうだった。私に見せた、あの弱者特有の笑みではない。見たこともないものだった。
「火を点けたのは消すためですよ」老人が顔を上げた。私の方を一瞬見て、にやりと笑った、ように感じた。自分の被害妄想であってくれ、と願うも、明らかに二人はこちらを見ている。
「今回は、ちょっと火が強すぎましたけどね」
「消すためって、何を」
「痕跡ですよ」さも当然かのように老父は言った。「私たちが入ったという痕跡を消すためです。ほら、言うでしょ。立つ鳥跡を濁さずって」
「なんでそんなことをする必要が」
「慧音先生、あなた、もう分かってるんじゃないですか?」今度は老婆が言う。
「貧乏人が他所様の家に忍び込む理由なんて、ひとつしかないでしょう」
「盗みか」
「そうです」
にわかに、群衆がざわめいた。盗み? と繰り返し声が聞こえる。その中の一人が私だった。何を盗んだんだ。若さか?
「農家をやってたんですが、最近の不作で駄目になってしまったんです。私たちには子供がいたんですが、もういなくなってしまったので」
きっと、大志という少年のことだろう。彼らの子供が病死したという話は、やはり本当だったのだろうか。それすら嘘だったのだろうか。それとも、彼らがいま口にしていることも嘘なのではないか。疑心暗鬼に陥り、頭がこんがらがってくる。私なんかよりも、よっぽど天邪鬼に向いていると言えた。
「だから、二人で盗みをしていたんですよ。まあ、仕事みたいなものですね」
仕事って、それかよ、と思わず声を上げてしまう。盗みが仕事かよ。貧乏そうにもかかわらず、やけに高そうな薬を持っていた理由も、やっと分かった。あれは盗品だったのだ。だが、なぜそれを私にくれたのかは謎だ。売ればかなりの金になっただろう。それこそ、小魚と同じくらいに。
慧音も妹紅も、どうすればいいか困惑しているようだった。まさか、こんな大勢の前で寺子屋が盗人に入られるだなんて思わなかったのだろう。最悪なタイミングだ。寺子屋が燃えているのと、慧音が糾弾されていることに、何の因果関係もなかったのだ。たまたま、その時に二人が泥棒に入った。そういうことなのだろう。
この二人はどうなるだろうか。確かに今まで通り人里で暮らすことは難しくなるだろうが、そこまで悪いようにもされないはずだ。困窮しているのはどの人間も同じで、さすがに盗みだけでどうこうされることはない。その時はそう思っていた。楽観視していたと言ってもいい。
だが、老父が「あの噂がこんなに広まって、困ってたんです」と言った瞬間、人里の雰囲気が変わった。憤りと共に、どこか同情的な雰囲気も広がっていたが、それが一気に消え去った。むしろ、ハイエナの中にか弱き羊をぽつりと放り込んだような、殺伐とした空気に変わる。
「最初はね、そこまで考えていなかったんですよ。ただ、最近人里で火事が頻出してる、ってことを知り合いから聞いて、ちょっとまずいなって思ったんです。妻とやっている仕事がばれるかもしれないなって」
彼の声は決して大きくはなかった。それどころか、小さく、か細い。けれど、その独白は人里の隅々までに響き渡っているように感じた。それほどまでに、群衆は静まりかえっている。嵐の前の静けさだ。
「私はね、手品が好きなんですよ」そんな群衆に向かい、老父は子供のような笑顔を見せた。「違うところに、どこかに注目を集めて、皆がそこに見ている時に、何かをする。それと同じことを考えたんです」
「どういうことだよ」慧音は困り切っていた。彼女自身も、異様な人里の雰囲気に気圧され、飲まれつつあるのか、自然と声に語気が含まれている。「何が言いたい」
「つまりは、インパクトの大きなことが起きれば、そっちにみんなが注目して、それ以外のことを見落としがちになるってことですよ」
「だから、それはどういう」
「私たちが起こした火事の噂も、もっと重大なことが起きれば、見落としてくれるかもしれない。そう思ったんです。だから、それとなくみんなに吹聴したのですよ、死者を生き返らせる方法があるって。まあ、ここまで尾ひれがつくとは思いませんでしたが」
はじめはただ写真にお祈りするってだけでしたもんね、と老婆が優しく老父に言った。その姿はどこからどうみても普通の老夫婦で、和やかだ。だが、彼らを取り巻く状況はすでに最悪なものになってしまった。なぜそれを口にしてしまったのか。きっと、彼らは分かっていないのだ。自分自身の置かれた立場に。口にしていることの重要性に。ただ、雑談をしている程度の認識しかないのだ。
さらに息を吸う老父の姿を見て、黙れ、と思わず叫んでしまう。それ以上言わなくていい。言ってはいけない。もう、取り戻しのつかないことになる。
「だから、私たちが出てきたのも、そのせいなんですよ。私たちの流した噂のせいで慧音先生にまで迷惑を掛けてはいけないと思ってね」
なぜか得意げに鼻を擦った彼は、ぼそぼそと呟いた。
「私は、自分たちの尻拭いは自分でしたいタチですから」
なら、尻拭いをして貰おうか。騒ぐ群衆が大きな口となり、そう叫んだような気がした。
私はふと、八雲紫との会話を思い出していた。『人間だって理性は、良心はある。どんなに相手が弱くとも、理由がなければ、一方的にいたぶったりはできないわ』彼女はそう言った。たしかにそれは間違っていないのだろう。
だが、逆にもし理由があるならば、人間はたとえ同族相手にも、どこまでも非情になれる。それこそ、一方的にいたぶることはできる。不満のはけ口の対象にすることができる。そのことを、嫌というほど痛感することになった。
「あの噂、嘘だったのか」
夫婦に一番近い、青年が悲痛な声を上げた。
「嘘だよな。嘘って言ってくれよ」
「ですから、言ってるじゃないですか。あれは嘘だって」
老父は本当に辛そうに顔を伏せた。
「私たちも、こんなに噂が広まったからには、もしかしたら本当になるんじゃないか。私たちが適当に考えた死者蘇生が、案外当たっていたりしたんじゃないか、と思ったんですが、やっぱ噂は噂ですよ。こんなんで、死人が生き返るはずがないんです」
気づけば、人の流れは徐々に夫婦へと動いていた。餌に群がる蟻のように、ゆっくりと、だが着実に近づいていく。その輪から逃れようと必死に後ろへ進むも、私の力ではどうすることもできない。無数の人間にもみくちゃにされながら、流れに押されていく。包帯がほどけないか、正体がばれないかと不安になるが、誰も私のことなんて気にしていなかった。彼らの目には老夫婦しか映っていない。
「つまりは、あなた達は俺たちを騙したんですよね」青年が叫ぶ。慧音がたしなめるように、そいつの名前を口にしたが、聞こえていないようだった。
「俺たちが、喜知田さんを生き返らせるようとしているのを知って、こんな酷いことをしたんですか」
「いえ、知りませんでしたけど」
「挙げ句の果てに、自分たちの作り出した噂を使って、商売をしようとするなんて、人魚を売りつけようとするなんて、悪質すぎます」
「ぐうの音も出ません」
小魚の、酷く痛ましい姿がありありと脳裏に浮かぶ。彼女を痛めつけたのも、目の前にいる夫婦ふたりなのだろうか。許せない、とは思えなかった。もちろん、小魚を痛めつけたからといって、私が怒る理由もなければ、義理もない。あんな弱小妖怪がどうなろうと、知ったことではない。が、腹が立たなかったのは、それだけが理由ではなかった。
彼らは悪人か。そう訊ねられたら、どう答えるだろうか。彼らは嘘を吐く。それも、ごく自然に何でもないように、すらすらと。きっと、それが日常と化しているのだろう。嘘つきは泥棒の始まり。泥棒を始めてから嘘つきになったのか、嘘を吐いたから泥棒になったのかは判然としないが、彼らにとって、盗むことも、嘘を吐くことも日常と化していた。なぜか。そうしなければ生きていけないからだ。
彼らは悪人か。死者蘇生の噂は、確かに悪質だ。人間は信じたいことを信じる。喜知田がいなくなった時期にこんなことを言われたら、誰もが縋り付きたくなるだろう。それを分かってて、あえてこの噂を吹聴したのだとしたら、悪質極まりない。とばっちりで痛めつけられ、売られそうになった小魚など、いい迷惑だろう
だが、それでも。
「みんな落ち着け!」
にわかに騒がしくなってくる人々に、慧音が叫んだ。先ほどまで誰もが慧音の言葉に耳を貸していたというのに、今では全員がそっぽを向いている。貸していた耳はもう返して貰います、と言わんばかりだ。それほどまでに、頭に血が上っている。
「面白かったか?」
その群衆の中から、一際大きな声が響いた。誰が発したか、どこから聞こえてくるか分からないほど、辺りは錯綜している。
「俺たちが、そんな噂で惑うザマを見るのが、そんなに面白かったか!」
いえ、と二人は必死に首を振っていた。先ほどまでのどこかのんびりとした雰囲気はかき消え、焦燥しているように見えた。二人で抱き合いながら、唇をわなわなと震わせている。
「しかも、盗みまでするなんて許せん。火を点けるだなんて言語道断だ。燃え広がったらどうする」
「ちゃんと、燃え広がらないように私たちが触れた物をまとめて、そこに水をかけてから火を」
「そんなの言い訳じゃねえか!」
段々と人間達の声が大きくなっていく。そのたびに周りの人間も動き、私はその波に揺すられる。抜けようともがくも、どうすることもできなかった。空を飛べば脱出できるだろうが、それは最後の手段だ。妖怪だとバレたくはない。空を飛べる人間と勘違いしてくれればいいが、それはそれで面倒だった。
「しかも、弱小妖怪を捕まえて、売ったんだろ?」
「え、ええ」
「なんてひどい!」どこからか女性の絶叫が聞こえた。「妖怪でも、いい妖怪もいるんですよ! なのに、弱いからっていじめたらかわいそうです」
はあ? とどこかで誰かが呆れの息を吐いているのが聞こえた。誰か。私だ。意図せず怒気が籠もった声が出てしまい、困惑する。が、それでも怒りは隠せない。逆に、人里の中で弱小妖怪を虐めたことのない奴なんて、誰一人いないはずだ。他でもない私が言うのだから間違いない。
どこかの誰かが、小さな石を老人に向かって投げた。勢いもなく、怪我もしない位の物だったが、心を傷つけるのには十分だったのだろう。二人は初めて涙を見せた。私に見せた涙とは違う。本心からの涙だ。
その石が切っ掛けになったのか、群衆が牙を剥いた。待ってました、と言わんばかりに、手近にあった物を投げつけはじめる。石や枝、簪といった洒落にならないものまであった。
「おい止めろ。止めてくれ!」
慧音が叫んだ。妹紅もその飛んでくる物が二人にぶつからないように、自らの体を盾にしている。
「落ち着いてくれ。確かに彼らは悪いことをしたが、だからといって感情的になるな。きちんと、私たちが罰を下すから、落ち着いてくれ」
「でも先生」一番手前にいる青年が、悲痛な声を上げた。「さっき、言ってたじゃないですか。自分たちの利益のために、他者を傷つけては駄目だって。この老夫婦はその代表例じゃないですか。なんでかばうんですか」
「お前らもそうだよ。いくら彼らが悪いことをしたからと言って、傷つけていいわけじゃない」
慧音がそう口にした瞬間、人里の雰囲気が更に変わった。今まで慧音に向けられていた、冗談みたいに同情的な、狂信的な信頼が消え去っていったかのように感じた。人間どもは、すでに決めたのだろう。彼らは悪で、退治しなければならない存在だと、彼らさえいなくなれば、少しは人里もよくなると、そう信じたのだ。それを慧音が邪魔するだなんて、人里の守護者として矛盾している。そう感じたに違いない。野菜の時と同じだ。
「慧音、まずいんじゃないか?」妹紅が小さな声で呟いた。「これはまずい」
私の周りの人間たちの熱がさらに上がった。ああ、確かにまずい。もはや収拾がつかない。人間どもは冷静さを完全に失っていた。このままでは、人里の雰囲気は最悪になるだけだ。もはや慧音では止められない。そして、誰にも止められるものではないとそう思っていた。
だが、その流れは止まった。妹紅の脇を通り過ぎ、小さな石が老夫婦に向かっていく。鋭く、早い。しまった、と焦る妹紅の動きがゆっくりに見えた。
しかし、その石が夫婦に当たることはなかった。その直前に飛び出してきたそいつが、身をていし、かばったのだ。痛そうにうずくまるが、幸運なことに怪我はなさそうだった。思わず、舌打ちが出る。そんなことをするような馬鹿なやつは、私の知る限りひとりしかいない。けれど、信じたくなかった。なんで、と声が漏れる。なんでここにいる。
「けんかはだめだよ!」
小さな体をのけぞらせ、針妙丸は叫ぶ。留守番ぐらいこなせよ、とそう呟くことしかできない。
いったいどこに隠れていたのか。突然の針妙丸の登場に、誰もが面食らっていた。慧音も妹紅も老夫婦も、あれほど憤っていた群衆ですら地団駄を踏む彼女の様子を見つめている。最初は、毒気が抜かれたのかと思った。いくら冷静さを失っているとはいえ、人間たちも、こんな針妙丸の呑気な姿を見ると、怒る気力を失ったのではないか。間抜けな小人に免じて、許してやるかと、そういう気になったのだと思った。
だが、もしその程度で落ち着くのであれば、見るからにか弱そうな老人二人をそもそもいたぶったりはしない。そう気づくまでに、時間はかからなかった。
「お嬢ちゃん、妖怪か?」
そう訊ねたのは誰だろうか。姿は見えないが、しわがれた声だった。最初に訊くのがそれかよ、と呆れる。先ほど、妖怪でもいい妖怪はいると言ったばかりじゃないか。なのに、なぜそれを訊くのか。
慌てて慧音が針妙丸のもとに駆け寄るが、それよりはやく針妙丸が口を開いた。その姿はどこか自慢げですらある。
「そうだよ。私は小人なんだ」
「小人?」
「そう! かの有名な小人だよ?」
一部の人間は針妙丸に見覚えがあったのか、驚き、不安げな表情をしていた。が、大半が鋭い目をしている。なんだこのガキ、邪魔しやがって、と非難する声すら聞こえた。
「だめだよ喧嘩は。みんな仲良くしないと」
「喧嘩じゃないんだよ」やっとのこと針妙丸を捕まえた慧音が、悲しそうに言った。
「先生が何とかするから、もう帰るんだ」
「えーでも」いつになく、針妙丸は強気だ。「いじめはだめだとおもう」
「いじめ?」
「そうだよ。みんなで弱い人をいじめるのはよくないでしょ。正邪もよく言ってた」
「いま、正邪と言いましたか?」
針妙丸の呟きに反応したのは老父だった。その声は酷くかすれており、儚い。
「あの天邪鬼のことですよね?」
きっと、その老父の言葉に深い意味はなかったはずだ。単純に、聞き慣れない単語を鸚鵡返しにしてしまっただけだろう。現に、老父はすぐにはっとし、開いた口を慌てて閉じ、カタカタと震えはじめる。私なんかが口を開いてごめんなさい、そんな声が聞こえた。
そう。老父の小さな声でも聞こえるくらい、人里は静まりかえっていた。だが、決して怒りが冷めたわけではない。むしろ、逆だ。ぽつぽつと、天邪鬼という言葉が聞こえてくる。怒気と嘲笑が混ざった声だ。
妹紅がもう一度小さく、まずい、と言った。その通りだ。これ以上なくまずい。だが、針妙丸の口は止まらない。慧音が口を押さえようとしているが、間に合わなかった。
「たぶん、そろそろ生き返るんじゃないかな」
え、と困惑する声が聞こえた。きっと、人里の全員が同じような顔をしているはずだ。いま、この小人は何を言ったんだ、と。それは慧音も妹紅も、私ですら例外じゃなかった。
「えっとね、正邪の写真に、私の血を付けたんだ。ほら、珍しい妖怪の血ならいいんでしょ? 小人って珍しいし、たぶんいけるはずだよ」
人里の空気が凍った。それは何も、鬼人正邪が本当に生き返ることを危惧したわけではないだろう。ただ、鬼人正邪を生き返らせようとした、という事実に衝撃を受けているのだ。たった、一人しか生き返らせることができない。こう噂に付け加えたのは誰かは知らないが、それを少なくとも一瞬でも信じた彼らにとっては、衝撃的だったのだろう。
そして、凍り付いたのは私も一緒だった。血まみれで神社で倒れていた彼女の姿が頭に浮かぶ。なぜ彼女が怪我明けにもかかわらず、妙に落ち着いていたのか。博麗神社という場所で、短期間で怪我をすることになったのか。やっと分かった。分かってしまった。それは、私を生き返らせるためだったのだ。
「ごめんなお嬢ちゃん」おずおずと老父が口を開いた。「それ、嘘なんだ」
「うそ?」
「私たちが噂を流したんだ。皆を騙していたんだよ」
声もなく、石がもう一度投げつけられる。が、今度は老夫婦を狙ったものでなかった。一切のずれなく、針妙丸へと向かっていく。慌てて妹紅が体を投げ出し、それを頭で受けた。どこかが切れたのか、血が流れる。
「おい!」慧音が、今まで見たこともないような形相で叫んだ。
「何してる! 止めろ!」
だが、投石は止まらない。それよりも、かえって勢いが増していった。何だこれ。なんでこんなことになってやがる。
慧音は涙ながらに大声で止めてくれと懇願し、妹紅は血まみれで石を体に受ける。めそめそと泣く老夫婦は後悔のためか唇をかみ切り、針妙丸は初めて悪意を向けられたからか、唖然としていた。いったい、これは何だ。
幸せになる権利。八雲紫が口にした言葉を思い出す。これが幸せなのか? こんなのが私の望んだ幸せなのか? 『どんなに良い奴だって、どこかで悪い感情を心の中で弄んでるんだよ。逆に、どんな悪人だって、良心を少しは持っている』どこからか、懐かしい声が聞こえた。つい、蕎麦と同じでか、と声を漏らしてしまう。まったく、馬鹿馬鹿しい。
あの老夫婦は悪人か。いや、違う。元凶ではあるが、悪人ではない。うずくまっている彼らを見る。懐から取り出した、何か小さな紙切れをみて、必死に謝っていた。写真だろうか。その口は確かに、ごめんよ大志、と動いていた。やはり彼らは人里の連中にリンチされるほどの悪人では絶対にないだろう。なら、その老人二人をいたぶっている人里の連中は悪人か。これも違う。こいつらはただ、目の前の不安から逃げたくて、やり場のない怒りをぶつけずにはいられないだけなのだ。それを非難できる奴もまた、いない。なら、悪いのは誰か。そんな奴はいないのだろう。誰もが苦しみ、もがき、あがいている。ただそれだけなのだ。
『正義のヒーロー、似合ってるじゃない?』そう笑う八雲紫の声が聞こえる。ふざけるな。私が正義のヒーローだなんて、笑えるだけだ。笑ったついでに顔を上げ、針妙丸を見た。状況が理解できていないのか、呆然としているものの、自分の登場が事態を悪化させたことだけは分かっているらしく、顔を青くしていた。そんな彼女のすぐ近くまで、石が迫っている。悪意で色づけされた石だ。
私にとっての幸せとは何か。
どうすればいい。全てを助けることは無理だなんて、そんなことは分かっていた。私は正義のヒーローではない。当然だ。そもそも誰かを救いたくもない。なら、私は何だ。私は蕎麦屋だ。指名手配されることもなく、食料に困ることもなく、平和に暮らす蕎麦屋。ああ、なんて幸せなのだろうか。豊かで、牧歌的で、呑気で。そして反吐が出る。
私にとっての幸せとは何か。
胸に手を当て、大きく息を吸う。混乱し、悪意が氾濫した人里を見渡す。涙目の針妙丸と目が合ったような気がした。ざまあない。平和ぼけしたことを言ってるからこんな目に遭うのだ。針妙丸の夢を思い出す。わたしはきっと、正邪がみんなを助けてくれると思うんだ。阿呆らしい。誰がそんなことするか。私にはそんな義理もなければ意味もない。
私にとっての幸せとは何か。
だが、だからこそ気に食わない。私はこいつらを悪人だと、認めるわけにはいかない。悪人でないにもかかわらず、さも凶悪犯のように扱われているという事実を認めるわけにはいかない。おこがましいにもほどがある。下克上もしていないくせに、と唾を吐く。
どうせバレるなら、格好良くバレなさい。鶏ガラのせせら笑いが頭に浮かんだ。
私にとっての幸せとは何か。
荒れ狂う人々から何とか距離を取り、空に浮かぶ。周囲にいた人間が驚き、戸惑いの声を上げた。手で包帯をほどき、台風の目のように人が退いている針妙丸たちの元へと向かう。自然と笑みが浮かんだ。そうだ。これでいい。
私はミイラ女でもなければ、もちろん蕎麦屋でもない。天邪鬼だ。
私にとっての幸せとは何か
そんなの、嫌われることに決まっていた。
「よう針妙丸」
ぽかんとしている針妙丸に向かい、気取った様子で声をかける。まだ現実をうまく認識できていないのか、彼女はぽつりと正邪、と呟くだけだった。そんな彼女の横に立ち、頭を撫でる。大きく息を吸い、言った。
「殺しに来たぞ」
私の登場に、誰もがぽっかりと口を開いていた。夢でも見ているのか、と首を捻っている。そのすきに、私は考えていた台詞を、意気揚々と言った。
「残念だったな。死者蘇生、私が使わせて貰ったぞ。小人を脅していた甲斐があった」
脅し? と誰かが反復する。死んでいるのに、どうして脅せるのか。そう思っているのだろうか。もちろん、その問いに私は答えることができない。だが、そもそも答える必要はない。小人がいやいや天邪鬼を生き返らせたと思わせられれば、それでいいのだ。人は信じたいものを信じる。見るからに幼い針妙丸を悪者にするよりは、私の方が、極悪非道な天邪鬼を悪者にする方がはるかにましだろう。それに、私は正真正銘の悪人だ。こいつらとは違う。なんていったて、下克上なんてやらかしたのだから。
正邪、と嬉しそうな顔をする針妙丸の正面に立ち、群衆から隠す。慧音と妹紅もようやく頭が追いついたのか、人間を落ち着かせようと必死に声をかけている。が、そんなことをしても意味はない。
「正邪、なんで出てきたんだ」そんな中、疲れ切った顔の慧音が小さな声で言ってきた。
「いま出てきたら、お前また!」
「慧音だって言ってたじゃないか」
「言ってたって」
「物語は単純な方がいいだろ? 悪人がいて、退治されて、終わりだって」
「お前」
「誰が悪人か分からないから悪意が変なところに向かうんだよ。針妙丸とかお前にな」
「だからといって!」
「それに私は天邪鬼だぞ。嫌われて喜ぶ妖怪なんだ。そんなことも忘れちまったのかよ」
私はもう一度、群衆を見渡す。どこか見慣れた光景だった。慧音や針妙丸、二人の老人に向けられていた目が、全て私を見ている。手品と同じだ。私が出てきたら、皆はそれに注目して、他はどうでも良くなる。確かにその通りだった。
「死者蘇生、嘘なんじゃなかったのか」
一番手前にいた青年が、そんなことを呟いた。老人たちの方を弱々しく見る。
「貴方たちが作り出した嘘だって」
「嘘じゃねえよ」
嘘だ。だが、私は自信満々にそう言った。嘘を吐くのは私の専売特許だ。人間になんか渡してやるものか。
「その嘘ってのが嘘なんだよ。うそうそだ」
そう笑い、わざとらしく体をくるりと回す。内心、いつ石が飛んでくるかと冷や冷やしていたが、首を振りその恐怖をかき消す。
「いいかお前ら。覚悟しとけよ、今度こそ下克上してやるからな。どうだ、希望しかないだろ!」
そう笑い、思い切り地面を蹴る。そして、空を飛んだ。また、喜知田の護衛のような超人的な人間がすぐさま私を退治してくるのでは、と思ったが、そんなことはない。ゆっくりと、あえて姿をさらすように人里の北へ移動する。「追え!」という悲鳴と共に、大きな足音が聞こえてきた。恐怖と絶望を隠すように、もう一度大きく笑う。やっぱり、天邪鬼はこう出なくては。
「憎まれっ子世にはばかるっていうしな」
私の声は、すぐに人間たちの怒声によって上書きされてしまった。
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