命が射す (ptagoon)
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賭けに情けは掛けない

 

──狼と鴉──

 

 文さんの新聞はゾウリムシみたいなんですよ。

 

 いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、部下にそう言われたことがある。たしか、私と河童の河城にとり、そして部下の三人で将棋をしながら語り合っていた時のことだ。

 

 よく晴れた初夏の日だった。あまりの暑さに、着ている白いシャツが汗で肌に張り付いて気持ち悪かった。フリル付きの黒いスカートは太陽の光を浴び、手で触れることを躊躇するほど熱を帯びている。自慢の短い黒髪も、大きな黒い翼も、日光のせいで火照っていた。河原の石も同様に熱く、流れる小川は陽光を反射し、きらきらと輝いている。

 

「前、無理やり渡されたのを読んだんですけど」

 

 その小川に目をやっていると、部下の白狼天狗、犬走椛は、真っ白な短い髪をわしわしと掻き、鴉天狗である私に唾を飛ばしてきた。

 

「なんか、写真とタイトルだけ仰々しくて、文字は適当に埋めてあるような、そんな雑さを感じたんですよね。内容も適当ですし、悪趣味です」

「あややや。それで、どうしてゾウリムシなんですか」

 

 

 顔をしかめたくなるが、何とか微笑を保つ。どうせ、大将棋の指し方が間違っていると指摘され、腹を立てたのだろう。私たち鴉天狗が新聞作りに命を燃やしているのをいいことに、それを馬鹿にして意趣返しを試みているに違いない。まったく、どうして椛は上司に生意気な態度をとることができるのか。頭が痛い。

 

 椛の顔をじっと見つめる。真っ白な短い髪に、ちょこんと犬耳がついている。生意気な性格を象徴するかのような鋭い目は、赤く怪しげに輝いていた。

 

 いつもそうだ。椛は昔から傲慢で、腹立たしい。鴉天狗という上位の存在である私に、なぜ下っ端である白狼天狗の彼女が刃向かえるのか。髪色と同じ真っ白な和装も、それに対する黒い袴も、すべてが気に入らない。が、まさか私の新聞をゾウリムシ扱いするほど愚かだとは思わなかった。

 

「もしかして、椛はゾウリムシが何か分かっていないんですか? あの気持ち悪い微生物ですよ。新聞じゃない。椛と同じくらいちっぽけで、無能で単細胞な」

 

「知ってますよ、そんなこと」椛はふん、と得意げに鼻を鳴らす。

「だからこそ、そっくりじゃないですか。見た目だけ派手で、でも中身はなくて。それでいてどこか気持ち悪い」

「褒めないで下さい」

「褒めてないですよ」彼女は、上司を見下すかのように目を細める。「そんなゾウリムシみたいな新聞を書いているから、新聞大会とやらで惨敗するんですよ」

 

 今度は微笑を浮かべ続けることができなかった。鴉天狗は私も含め、ほぼ全員が新聞作りに勤しんでいる。縦社会の天狗社会、ひいては妖怪の山でも、やはり刺激というものは必要で、鴉天狗にとって、互いの新聞を評価し、ランキング化する新聞大会はそれに打って付けだった。だが、私の作る完璧な『文々。新聞』はなぜだか評価されない。あまりに高等な私の新聞に時代が追いついていないのだろう。幻想郷最速の私ならではの悩みだ。

 

「文さん、いま、自分の新聞が評価されないのは、皆の見る目がないせいだって思いましたよね」

 

 目ざとい部下は、生意気な口を叩き、将棋の駒を突きつけてくる。

 

「ゾウリムシが評価されるわけないじゃないですか。あんな気持ち悪い微生物を好む妖怪なんていません」

「いるかもしれないじゃないですか。椛はゾウリムシの何を知っているのよ。何も知らないでしょ。巷では、ゾウリムシってのは褒め言葉になっているんですよ」

「そうなんですか?」

「そんなわけない。何言っているんですか」腹立たしげな顔をする椛の顔を挑発するようにのぞき込む。

「それに、新聞大会は一種の暇つぶしです。刺激が足りないんですよ。ですから、それだけで新聞の価値は決まりません」

「椛も文も、二人とも頭を冷やしなよ」

 

 いつものようにいがみ合っていると、にとりが、まあまあと間に入ってきた。向かい合う私たちを押しのけ、強引に身体をぐいぐいと入れてくる。

 

「ゾウリムシだとか何とか知らないけど、落ち着きなって」

「落ち着いていますよ」当然だ。私が落ち着いていない時なんてない。

「落ち着いてないのは、この反抗的な白狼天狗だけです」

「あれだね。文は椛が絡むと面倒くさいね。天邪鬼くらいに」

「心外すぎます」

 

 何が面白いのか、ケラケラと笑ったにとりは、その青色のワンピースについたポケットから何かを取り出し、その場でくるりと一回転する。二つにくくられた青い髪が太陽に反射し、煌めいていた。緑色のキャップが日差しを遮ってくれているのか、どこか涼しげだ。羨ましい。私の赤い頭襟と交換してほしいくらいだ。

 

「新聞大会なんかより、私は賭け事をした方が絶対に楽しいと思うけどな」にとりは、にししと河童らしい笑みを浮かべて言った。

「賭け事?」椛が不思議そうに首を傾げるのがおかしく、無性に笑えてくる。馬鹿真面目な彼女と賭け事は、まさに油と水、私と椛くらいに相性が悪い。

「そう。最近流行っているんだよ。何でもいいから、適当に予想するんだ。例えば、博麗の巫女は明日どこに行くか、とか。霧の湖に妖怪が住んでいるのか、とか」

「狐と狸は仲良くできるか、とか?」

「あるね。文と椛が仲良くできるか、もある」

「それはないに賭けた方が賢明ですよ」

 

 そう言うも、にとりは聞いていないのか、耳を小指でほじくり、首を振った。

 

「まあ、とにかく。何でも賭けの対象になるんだ。暇つぶしにはもってこいだよ」

「あややや。案外楽しそうですね。賭けで勝ったら何がもらえるんですか?」

「賭けた相手と相談だね。何ならいま賭けてみるかい? さっき言った、霧の湖に妖怪がいるかどうかで」

 

 素直に面白い、と感じた。いくらか類推できるものの、こういったものは、やはり最後には運が物を言う。予想できない物事は好きだ。何でも思い通り、ではつまらない。なるほど。たしかに賭け事は刺激になる。

 

「では、私は妖怪がいる方に賭けますよ」

「分かったよ。もし勝ったら何がほしい?」

「そうですね……では、最新式の印刷機を使わせてください」

「お、いいね。なら私はキュウリ一年分でも貰おうかな」

「椛はどっちに賭けますか?」 

 

 まさか自分に振られるとは思っていなかったのか、きょとんとした顔になった椛は急にあたふたとしだした。どうせ、話をまともに聞いていなかったのだろう。まあ、そう思ったから話を振ったのだけれど、予想通りだった。これだから彼女は面白くないのだ。予想通りでは退屈。まさにその通り。

 

「聞いていなかったなら、素直にそう言えばいいのに。椛は下手に意地を張るから駄目なんですよ。白狼天狗は些細なことでも上司に判断を仰がないと駄目です。レタスですよレタス」

「それを言うならホウレンソウでしょう。それに、上司に連絡するとしても、文さんにはしません。大天狗様に直接言いますよ」

「なら、言ってきてくださいよ。偉大な射命丸文さんの話を聞いていなかったんですって」

「嫌です」

「やっぱ、二人は仲がいいねえ」いきなり馬鹿げたことを言ったにとりは、「ほら、嘘でもいいから私たちは仲がいいって、言ってみなよ」と冷やかしてくる。絶対に言うわけないし、そもそも仲は良くない。そう二人で言うと、にとりは浮かべていた笑みを深くし、スカートから何かを取り出した。

「そんな仲のいいのか悪いのか分からない二人にプレゼントだ」

「私と文さんは仲悪いですよ」

「本当に仲悪い人は仲悪いって言わないよ。ほら、優しい人が自分を優しいって言わないのと同じように」

「同じじゃないですよ、それとそれは」

 

 呆れる私たちを他所に、にとりは取り出したそれをこちらに放り投げてきた。緑色の長細い形が目に入る。キュウリだ。私はまた呆れ、小さく息を吐いてしまう。

 

「それさえあれば、嫌いな奴と隣にいても気にならない。そうでしょ? そもそも、どうして嫌いあっているのに、同じ場所で休憩しているのかが謎なんだけどね」

「言いたいことは沢山ありますが」私の声は、不思議といつも以上に平坦だった。「まず、休憩場所が被るのは、ここが立地的に一番いいからです。川に近いし、風下で比較的涼しい。そして何より、妖怪の山に誰かが来ても、すぐに気づきます」

「文さんは別に侵入者に気を張らなくてもいいじゃないですか」椛が不満そうに口を尖らせる。「哨戒は私たち白狼天狗の仕事です」

「記事のためですよ。面白い奴が来たら、一番に取材したいでしょ?」

「知りませんよ」

「というより。そもそも、にとりが私たちを呼び集めたんじゃないですか」

 

 火の粉が自分に向かってくると考えていなかったのか、にとりは「ひゅい!」と奇声を上げ、私と椛を交互に見た。自分で撒いた火の粉のくせに、だ。

 

「私を将棋に誘ったのはにとりじゃないですか。椛を誘ったのも、にとりのはずです。もし椛がいると知ってたなら、ここには来ませんでしたよ」

「それはこっちの台詞ですって」案の定、椛が噛みついてくる。「将棋は好きですけど、だからといって、文さんがいたら台無しですよ。酢豚のパインと同じです」

「私がパインなら、椛は蜜柑の筋でしょうか」

「ほらほら、喧嘩しないでくれ」子供を仲裁するかのように苦笑したにとりは「言いたいことって、それだけ?」と小首を傾げた。話を逸らしたいという魂胆は目に見えていたが、それが私たちのためを思ってのことであるということも分かったので、何も分からないフリをして首を振る。

 

「もう一つはこれですよ」

「これって」

「キュウリです。さっき、にとりがポケットから出して、渡してきたやつですよ」

「それがどうかしたのかい?」

 

 どうもこうもない。そもそも、ポケットからキュウリが平然と出てくること自体がおかしいのだ。以前、「普通はキュウリを持ち歩いたりはしませんよ」と伝えた時も、にとりは肩をすくめ、私の肩を叩き「文は嘘が下手だなあ。そんなの、妖精ですら騙されないよ」と鼻で笑ってきた。河童のキュウリ好きは知っていたが、ここまでくると心配になる。何が。河童の頭が、だ。

 

「にとりはキュウリさえあれば、嫌いな奴と隣にいても大丈夫って言ってましたけど、キュウリにそんな効果はありませんよ」

「え」

「少し腹が膨れて、喉が潤って、塩が欲しくなるけど、ただそれだけです」

「そんなことないさ。それに、キュウリに塩は邪道だよ」

「そうですよ」特に興味もないだろうに、椛はにとりに同調した。何が何でも私に反対したいのだろう。「キュウリに塩を付ける奴なんて、ろくでなしに決まってます。もし見かけたら絶交しますよ」と大袈裟なことを言い、腕を組んでいる。

「キュウリに塩を付けるだけで絶交だなんて、あり得ません」

「あり得ます」

 椛は語尾を伸ばし、ありえますぅと、この世に類いのないほど腹立たしい言い方をした。

 

「もし絶交したい奴がいれば、こう言ってやるんですよ。『やっぱ、キュウリには塩ですよね』って」

「ねえ椛、やっぱ、キュウリには塩ですよね」

 

 椛は私を無視し、にとりに「キュウリには味噌ですよねえ」と話し始めた。塩が駄目で味噌が許される理由が分からない。それに、そもそもキュウリに何を付けるかだけで、文句を言われる筋合いはなかった。

 

「そんな意味不明な論理がまかり通るだなんて、意味不明です」

「駄目だよ文。この世の中は多数決なんだ」

 

 高々河童のくせに、急に世の中だなんて言い出したにとりは、椛と自分を指差し、「二対一で、私たちの勝ちなんだよ」と勝手に勝利宣言を始めた。

 

「どんなに意味不明なことを言っても、たくさんの人が、当然のようにそれを言い出したら、実際にそうなっちゃうんだ。キュウリに塩を付ける奴とは絶交だと言ってもね」

「なら、もし皆が、私のことを不老不死といえば、私は不老不死になるんですか?」

「なる」

「ならないですよ」

「なる。不老不死の法則だよ」

「なんですかそれは。私は信じていませんし、ポケットから出したキュウリを投げてくるようなやつの方がよっぽどろくでなしだと思いますけど」

「失礼な」私の嫌みにも、にとりは怯まなかった。それどころか増長し「文もまだまだだなあ」と私より少し小さな身体を大きく広げてさえいる。

「よく見てくれよ。それ、本当はキュウリじゃないんだ」

「え?」

「機械なんだよ。機械。キュウリ型の機械なのさ」

 

 手のひらの上でくるくると転がしてみると、確かに違和を感じる。ヘタの部分は少し尖りすぎているし、ポケットに入れていた割りには全くしなびた様子もない。

 

「あややや。河童の技術力は凄いと聞いていましたが、まさかここまで」

「どうだい? 驚いたろう」

「ここまで愚かだとは思いませんでした」

 

 たしかに河童の技術力は驚異的だ。大型のロボットを造ったり、私のカメラだって、それこそ、目の前でキュウリ型の機械を振り回す少女、にとりに造ってもらった。「文の速さでも手振れしないカメラを作れるのは私だけだよ」と豪語する彼女の言葉に嘘はなく、あれから数年経っているにもかかわらず、まだまだ壊れる素振りすら見せていない。お気に入りのカメラだ。

 

 だが、そんな高い技術力を持つ彼女たち河童にも欠点はある。というより、そちらの方が悪目立ちしているくらいだった。彼女たちは、絶望的にセンスのない改造をよく好んだ。そして、頼んでもいないのに「サービスだよ」と意味不明なことを言い、施してくるのだ。「文のカメラのボタンに椛の顔をプリントしておいたよ」と言われた時には言葉を失った。そのせいでボタンを強く押しすぎてしまう。それでも壊れないのが憎らしいところだ。

 

「キュウリの機械を造るだなんて、ナンセンスです」

 

 今回も、そのセンスのなさを十二分に発揮し、こんな無意味な物を作り上げてしまったのだろう。

 

「なんでキュウリ型の機械を造ろうとしたのかが謎です」

「そりゃ好きだからだよ。文だったら椛の機械を造るんじゃないのか? 頼まれれば造るけど」

「そんなの、サンドバッグにもなりません。将棋の相手をしてくれるならまだいいですけど、どうせ椛じゃ相手になりませんし」

「そんなことないですよ」

 頬を膨らませ、顔を紅潮させているのが、見なくとも分かった。

 

「というより、文さんの駒の指し方は陰湿なんです。そんなんじゃ面白くないですって」

「椛が単純すぎなんです。攻めてきたら守ればいい。守ってきたら攻めればいい、だなんて、そんなんじゃ勝てるわけないのに」

「二人とも指し方が独特だからねえ」

 

 私と椛は、にとりの言葉を聞き、つい顔を見合わせてしまう。いま、本当に彼女は私たちの指し方を独特と言ったのか、と無言で頷きあった。

 

「にとりの方が独特ですって」椛の言葉に、私も頷く。にとりの将棋は、それは本当に将棋なのか、と言いたいほどに破天荒で、それは反則ではないか、と危ういことでも平気でやってくる。

「ルールで禁止されていないからといって、やっていいってことじゃないんです」

「ただ勝つよりも、ずるして勝った方が楽しいじゃないか。ズルは正義だよ。勝負ってのは絶対に勝てると分かっている時しかやっちゃいけないんだ。そして、負けを認めた奴にこう言ってやるのさ『キュウリでも洗って出直してきな』ってね」

「ださいですよ、決め台詞も勝負の価値観も」椛がすぐに否定する。「正々堂々戦った方がいいに決まっています。文さんもにとりも、捻くれすぎなんです」

「でも、椛だって魚を捕るとき、罠を仕掛けるじゃないか」川を指差し、にとりはぐっと眉根を寄せた。

「しかも、大きいイワナしか捕まらないような、そういうのをさ。あれは私からしたら邪道だよ。やっぱり、珍しい魚は自分で捕まえないと」

「それとこれとは話が別ですよ。ほら。イワナみたいなレアな奴は、なんとかこっちの戦場に引きずりあげないと」

「何が戦場だよ」にとりの苦言に私もうなずく。椛はいつの間にイワナと戦っていたのか。

「あくまで真剣勝負のためですよ。正面切って、本気の勝負をするためです。ほら、言うじゃないですか。力士は強敵を土俵に引きずり込むって」

「言わないですよ」イワナと真剣勝負をする意味も、そのたとえに力士を引き合いに出す意味も分からなかった。どうして、そこまで真剣勝負とやらに固執するのか、理解に苦しむ。

「椛は馬鹿みたいに単純なんですよ。ゾウリムシはあなたです、この単細胞が」

「酷い!」

 

 わざとらしく、椛が叫んだ。褒めてるんです、と言っても、聞く耳を持たない。どうせ酷いとも思っていないくせに、それでも酷い酷いと喚いた彼女は、そのまま小川へと向かい、手で水を飲み始めた。反論を聞きたくないという意思表示か、あるいは頭を冷やせと言いたいのか、いずれにせよ腹立たしいことには変わりない。川に落ちてしまえばいいのに。

 

 そう思っていると、椛が頭から川へと落ちていった。大きな水しぶきを上げ、頭から突っ込んでいったのだ。まさか本当に落ちるとは思わず、驚く。思ったより川は深いようで、彼女の姿は一瞬にして消え去ってしまった。

 

「どうしたんだよ、椛」驚くことなく、にとりは言う。

「キュウリでも流れていたのかい?」

「キュウリのために身体を濡らす馬鹿なんていませんよ」

「河童を馬鹿にしないでくれ」

「濡らすんですね」

 

 足でも滑らせたのだろうか。いや、あの椛に限ってそれはない。ということは、何かしら事情があったに違いない。

 

 しばらく、にとりと川を眺めていると、ぶくぶくと水面に泡が吹き出してきた。ぬっと白い椛の頭が現れ、ゆっくりと川からあがってくる。水を吸って重くなった黒と赤のスカートを引き摺り、肌に張り付いた白い服の袖を絞っていた。

 

「あやや。水浴びですか? まるで幼子みたいですね。さすがは犬」

「犬じゃなくて、白狼ですって」

 

 そうは言われても、ぶるぶると全身を揺すり、白い髪の毛から水滴をふるい落としているさまは、犬以外の何者でもなかった。

 

「それに、水浴びでもありません」

「なら、どうして川に飛び込んだんですか」

「キュウリがあったんだろ?」にとりの目は、輝いているように見えた。機械いじりをしている時と同じ目だ。「どんなキュウリだった」

「キュウリなんかじゃないですよ」

「なんかって」

「水底に気になる物が見えたんです」

 

 見えた。はっきりと彼女はそう言った。川に近づき、水底をのぞき込む。たしかに川は清涼で、綺麗に透き通っているが、光の反射のせいで泳ぐ魚すら把握できない。普通であれば、流れる物体に気づき、咄嗟に飛び込むなんてできないはずだ。だが、犬走椛は普通ではない。

 

「千里眼、ですか」いつの間にか、私は呟いていた。

「千里眼で水底を見たんですか?」

「ええ。そうですよ」えっへんと胸を張る椛は、どことなく間抜けに見える。

「私の『千里先まで見通す程度の能力』は便利なんです。羨ましいですよね?」

「まさか」

 

 強がりで言ったわけではなく、本当に羨ましくなかった。その場から動かずとも遠くを見渡せるその能力は、たしかに便利そうではあるけれど、あくまで便利そう、というだけで、実際に欲しいかと言われたら疑問が残る。そもそも、私の速さがあれば、千里眼なんてなくとも、実際にこの二つの綺麗な目で実物を見られるのだから、必要だとは思えなかった。

 

 だが、椛は私が羨ましがっていると思ったらしく、「残念でしたね」とその目を見せびらかすかのように顔を近づけてくる。彼女の濡れた白髪が頬に触れ、鬱陶しい。真っ白な肌は暑さのせいか赤く火照っていた。

 

「馬鹿馬鹿しい。そんな能力はいりませんよ。それこそ、このキュウリくらいに」

「よかったな、椛。褒められた」いつの間にかすぐ後ろに立っていたにとりは、マイクを向けるかのようにキュウリを口許に差し出してくる。

「キュウリと同じだなんて、最大級の賛美だ」

「褒めてませんよ」

「何でだよ。文だって、キュウリって言われたら嬉しいだろ?」

 

 そこで、ようやく私は彼女がわざと馬鹿なことを言っていることに気がついた。さすがの河童も、そこまでキュウリキュウリと連呼するほど狂ってはいなかったはずだ。私たちの争いをどうにかして止めようと、気を抜けるようなことを口にしている。それにしては、下手くそだが。

 

 どうして彼女がそこまで私たちを気にかけるのか。気弱な河童だから、いざこざを見るのが嫌い。それもあるだろう。単に友人同士がいがみ合っているのを見ていられない。それもあるはずだ。だが、それにしても今日は異様なほどに食ってかかってくる。しかも、こんな回りくどいことをして。

 

「それで? いったい水底に何があったんですか?」

 

 にとりに意識を集中しつつ、それを悟られないように、椛へと訊ねる。もちろん、嘲笑するように口許を緩めるのも忘れない。

 

「どうせ大した物ではないんでしょうけど」

「それがですね」

 

 てっきり、金目の物に目がない鴉とは違うんですよ、と生意気な口を叩いてくると思ったが、椛は眉をハの字にし、困惑していた。珍しい。

 

「これが落ちてたんですけど、何かよく分からなくて」

 

 懐から何かを取り出した彼女は、恐る恐る地面へと置いた。私は腰を落とし、見下ろす。一見、ただの石にしか見えなかった。手のひら位の角張った石だ。水に濡れ、所々に苔が生えているが、それだけだ。だからこそ、椛は持ってきたのだろう。

 

「おかしいじゃないですか。麓にある石がこんな角張っているなんて。誰かが投げ込んだだけかもしれないですけど、それにしては苔の着き方が自然だったので」

「あやややや。なるほどなるほど」

 

 持ち上げてみるも、手触りは本物と相違なかった。重さも、少し鼻をつく青臭さまでも再現されている。裏返すと、自然でできた石には似つかわしくない、小さな凹みとボタンがあった。表情には出さないようにと心がけていたが、つい目尻が垂れる。呆れと嘆きと愉しみのせいだ。

 

「これ、機械ですね」

「え? そうなんですか」椛がまじまじとそれを見つめる。

「さて。いったい誰がこんな精巧に石を摸した機械を作れるでしょうねえ。いったい何のために。どうなんですか? にとりさん?」

 

 石とにとりを交互にカメラに収めながら、私は訊ねる。大体の予想はできていたが、それでも本人に聞いておきたかった。もちろん、記事にするためだ。

 

「いやあ、まさかバレるとはね」

 

 アハハと後ろ頭を掻く彼女は、必死に苦笑を隠していたが、それでもあっさりと認めた。

 

「さすがは椛。千里眼をなめてたよ」

「この石、なんなんですか?」

「盗聴器だよ」

 

 にべもなく言い放ったにとりを前に、椛は呆然としていた。それもそうだ。いくらなんでも、まさか川底に盗聴器が落ちているとは思わない。

 

「これは優れものでね。水の中に入れておくと、その周りの音を広い範囲で記録してくれるんだ。難点といえば、水中に入れておかないと使えないってことなんだけどね。だからわざわざ石に似せたんだ」

「努力の方向性が間違っているんですよ」

「自信作なんだ。名付けてイッシー」

「安直ですね」

 

 まさか、自分の作った発明品に名前を付けているとは思っていなかったので、さすがに戸惑いを隠すことができない。控えめに言って、気持ち悪かった。

 

「でも、なんでそんな物をここに?」

 

 単純な思考回路の椛は、辺りを見渡し、そして石を掴み上げた。こんなもので、と小さ

く呟いている。こんな小さなものが水底にあるだけで、地上の声すら記録できるなんて、たしかに驚きだ。ただ、使い方が相変わらずナンセンスで、悪趣味だ。河童らしい。

 

「なんでって、賭けだよ」

「賭け?」

 

 そうだ、と指を立てる彼女は、恥じるどころか得意げだった。

 

「文と椛が仲良くできるか? って賭けで、私はできるって賭けたんだ。だから、何とかして二人が仲よさげにしてる会話を録音しようと思ったんだけど、喧嘩ばかりしてたからさ。無理やり仲よさげな雰囲気にしようとしたんだ」

「イカサマじゃないですか」

「言ったろ? ズルは正義なんだ。ただ勝つよりも、ズルして勝った方が楽しいんだよ」

 

 私はゾウリムシじゃないからね、と笑ったにとりは、悠々と椛に歩み寄り、イッシーなる盗聴器を取り上げた。お疲れ、イッシーと声をかけてすらいる。今後彼女との関係をよく考えたほうがいいかもしれない。

 

「一つ疑問に思ったのですが」

 

 そのイッシーを手に、笑みを浮かべているにとりを写真に撮り、そしてすぐに地面に置きっぱなしになっていたキュウリの機械をカメラに収めた。

 

「盗聴器を仕込むなら、そんな面倒なことをしなくても、そのキュウリの機械にでも仕込んでおけば良かったじゃないですか」

「文は分かってないなあ」そんなんだから、キュウリに塩をかけるとか言うんだよ、と頓珍漢な呆れ方をしてくる。そんなんだと絶交だよ、と。

「キュウリに盗聴器なんて、そんなショボいのは相応しくないよ」

「なら、何なら似合うんですか?」

「爆弾」

 

 は? と椛が声を漏らす。私はそこそこ予想できていたので、驚きはしなかった。もちろん、呆れたが、もう河童には呆れすぎているので、誤差の範囲内だ。

 

「やっぱ、機械の花形は爆弾だよ。だから、キュウリには絶対に爆弾を入れるって決まってるんだ」

「決まってないですよ」

「決まってるのさ。鬼でも怯むくらいの大爆発を起こすんだよ。ああ。私の可愛い可愛いキュウリ爆弾たち!」

 

 薄気味悪いことを言うにとりから目をそらし、小さく息を吐く。こんなの、記事にしても面白くない。それこそ、ゾウリムシ的な新聞になってしまう。とんだ取り越し苦労だ。

 

 盗聴器はイッシーなのにキュウリ爆弾はシンプルですね、と訳の分からない感心の仕方をする部下を押しのけ、私は訊ねる。

 

「もしかして、私と椛をここに集めたのはそのためですか?」

「その通り!」キュウリ爆弾を手の上でくるくるとさせながら、にとりは歌い上げるように言葉を紡ぐ。

「椛も言ってただろ? イワナみたいなレアな奴は、なんとかこっちの戦場に引きずりあげないとって」

「それが?」

「そもそも嫌いあっている二人が一緒にいるのがレアだからね。強引に一緒にいる状況を作り上げなきゃならなかったんだよ。イッシーの使える場所で。だから、将棋をやるって、わざわざ二人に連絡を入れたのさ。ほら、言うだろ?」

「言うって、なんてです?」

「力士は強敵を土俵に引きずり込むってね」

 

 キュウリでも洗って出直して来な、と豪語するにとりと、困惑している椛にカメラを向け、ボタンを押す。プリントされた部下の顔が目に入り、自然と押す力が強くなる。

 

 カシャリと小気味よい音が私たちを包み込んだ。

 



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カナリアは必要経費

──神と鴉──

 

 真夏の人里は、何度来ても慣れることがない。幻想郷に住むほとんどの人間が集まっているせいで、ただですら暑いというのに、彼らの体温が濃縮し、燦々と降り注ぐ日光の熱を増幅させていた。自慢の大きな黒翼を広げ、熱を少しでも放出しようとするも、ただ暑気を吸収するだけに終わる。これだから人間は、と悪態をつきたくなる。妖怪、しかも鴉天狗である私ですら音を上げるのだから、人間にとってもきついだろうに、彼らは意気揚々と人里を闊歩している。まったく、度しがたい。

 

「あ、文さん! こっちですよこっち!」

 

 人波をかき分けていると、後ろから元気のいい声が聞こえてきた。集合場所である桜の木とは正反対の場所からだ。どうしてそっちにいるのか。考えなくても分かる。どうせ、ご飯屋さんからいい匂いがしたので行きたくなったんです、とか言い出すのだろう。

 

 ぶんぶんと、周りの人に気を遣いつつも大きく手を振る彼女はよく目立った。どうやら人間たちも彼女が私と待ち合わせをしている、と気づいたようで、そそくさと道を譲ってくれる。人の波が途切れ、一本道のようになった。飛んで人の波を避けようと思っていたのだが、その必要もなさそうだ。

 

「遅いですよ、文さん」

「時間通りですよ。それに、早苗さんがいると目立つので、あまり早く行きたくなかったというのもあります」

「えへへ。そこまで褒めなくても」

 

 褒めてないですよ、と言うも、彼女の頬はにへりと緩んだままだった。とても、現人神とは思えないその幼稚さに、こちらも気が緩んでしまう。初めに会ったときは、いきなり我らが妖怪の山に現れた守矢神社の風祝ということで、警戒に警戒を重ねていたせいか、そのとぼけた様子も演技なのではないか、と訝しんだが、そうではないことはすぐに分かった。彼女は単に、純粋なだけだ。純粋で、うるさい。

 

「早苗さんって、小鳥みたいですよね」ふんふんと鼻歌を歌う彼女を見ていると、ふとそう思った。

「え、どうしたんですか、会ってすぐに」

「いえ、似ていると感じまして」

「小鳥って、賢いインコとかですか?」

 

 ですよね、と彼女は念を押してくる。たしかに、彼女の滑らかな緑の髪は、インコの毛色にそっくりだったが、性格は似ていない。

 

「いえ、インコではなく、どちらかと言えばカナリアですかね」

「カナリア?」

「そうです。カナリアって、ずっとピヨピヨ鳴いているじゃないですか。うるさいくらいに。しかも、小さくて儚げで、可愛いんです」

「それ、私が小さくて可愛いってことですか?」

 

 嬉しそうにはにかむ早苗さんに「そうですよ」と微笑み返す。ずっと鳴いていてうるさい、という点が似ていると思ったのだが、好意的に解釈してくれて幸いだ。

 

「でも、カナリアって、あんま見たことがないんですよね」その、緩んだ顔のまま、早苗さんは首を傾けた。「珍しい鳥なんですか?」

「あややや。カナリアは人間と密接な関係を持っている鳥ですよ。炭鉱のカナリアって聞いたことありませんか?」

「えっと、どうでしょうか」やっぱ、鴉天狗の文さんは鳥に詳しいんですね、と見当違いのことを口にし、顎に手を当てている。

「炭鉱のカナリア。まあ、言葉の意味としては危険を事前に察知するサインといった感じですが」

「危険を察知、ですか」

「カナリアは繊細なんです。だから、炭鉱に連れて行って、カナリアが鳴くのを止めるのを見て、人間は毒ガスの有無を察知していたんですよ。まあ、そんなことしていたら、カナリアはすぐに死んでしまいますが」

「かわいそうですね」

「そうですか?」

 

 早苗さんならそう言うだろうな、とは分かっていたが、私はとぼける。「理には適っていると思いますよ。誰だって自分が大事ですから。危険性を他者になすりつけられるのであれば、積極的にそうするべきです。カナリアは必要経費なんですよ」

 

「経費で落ちるんですね」

「早苗さんも経費で落ちてくれたらいいんですが」

「どういう意味ですか」

 

 ケラケラと子供のような笑い声を上げたまま、早苗さんは足を進め始める。目的地は分からない。人が多すぎて、立ち止まっているのも迷惑だと思ったのだろう。ゆっくりと着いていく。

 

「でも、驚きましたよ」両手を頭の後ろに組み、早苗さんは訊ねてくる。

「あの完璧な文さんが、まさか私に相談事だなんて」

「私も驚きです。でも、言うじゃないですか」

「言うってなんて?」

「困った時の神頼みですよ」

「何かあったんですか?」緑の長い髪をなびかせ、脇の開いた独特な巫女装束を翻した彼女は、こてんと小首をかしげた。「なんか文さん。変ですよ。それに、わざわざ人里で話たいだなんて。別に、妖怪の山でもよかったのに」

「たまには、早苗さんと人里を散歩しながら話したいな、って思っただけですよ」

 

 もちろん、そんな感情的な理由ではない。ただ、そう言えば彼女が納得するだろうな、と思っただけだ。案の定、にんまりと満足そうな笑みを浮かべた彼女は、ムフーと鼻息を荒くし、目を輝かせていた。彼女の純粋さを利用したようで、罪悪感を覚える。あとで和菓子でもごちそうしてあげよう。だなんて、思えるほど優しい心を私は持ち合わせていない。

 

「文さん、実はですね。私、散歩に打って付けの場所を見つけちゃったんですよ」

「どこですか?」

「すぐ近くです。ここから二、三軒ほど奥に行ったところに、美味しそうな食事処があったんです。ほら、いい匂いするでしょ?」

 そうですね、と私は満面の笑みで頷く。やはり、私の予想通りであった。彼女は純粋でいい子だが、その分面白みに欠ける。やっぱり、予想通りでは退屈だ。

 

 だなんて、私はもう思えなくなってしまっていた。

 

「でも、それはもはや散歩ではないのでは?」私の疑問にも、彼女は臆さない。自信満々に、まるで子供が習いたての言葉を並べるかのように「腹が減っては戦はできぬ、って言うじゃないですか」と嬉々として言った。

「散歩は戦じゃないです」

「似たようなものですよ!」

 

 何が似たようなものなのか、さっぱり分からない。きっと、彼女自身も分かっていないだろう。にもかかわらず、彼女は楽しげだ。

 

「散歩も戦も、三文字ですし。響きも似てます」

「似てないですよ。それに、戦いに必要なのは犠牲ですが、散歩に必要なのは」

「必要なのは?」

「忍耐です」

「どういう意味ですか」頬を含まらせる彼女にカメラを向け、写真を撮る。ふくれっ面の現人神など、珍しくもなんともないが、それでも、よく撮れていた。

「私と散歩をしたら、文さんにもきっといいことがあるはずです。退屈しませんって」カメラのファインダー越しに、早苗さんは抗議する。

「なんていったって、私は奇跡を起こすことができるんですから」

「奇跡って、いったい何ができるのです?」

「当たり籤をひいたりとか、ですかね」

「地味すぎます」

 

 そんなことないですよ、と首を振る彼女は、自分の能力によっぽど自信を持っているのか、青いラインの入った白い巫女装束に手を突っ込み、何やら小さな紙を取り出して、得意げにひらひらとさせた。気になりますか? なりますよね? とうざったらしく言ってくる。

 

「これ、甘味屋の一食無料券です。以前、大福を買った時に当たりまして。どうです? すごいでしょ」

 

 椛といい彼女といい、どうしてこうも自分の能力をひけらかすことができるのか。きっと、単純だからだ。特に深い意味もなく、自慢したいわけでもなく、褒めてもらいたいだけに違いない。現に、早苗さんは「せっかくなんで、文さんにあげますよ」とむりやり手に握らせてくる。

 

「仲のいい友達とでも行ってください」

「そうですね、ありがとうございます」

「いえいえ!」

 

 仲のいい友人。いったい私にとって、それは誰に当たるだろうか。頭の中で何人かの顔を思い浮かべるも、どうもしっくりこない。なぜか頭に浮かんだ椛の顔をかき消して、私は握った無料券に目を落とす。いつの間にか手に力が入っていたようで、くしゃくしゃになってしまっていた。

 

 

 

 早苗さんがおすすめするだけあって、そのご飯屋は昼前だというのによく繁盛していた。人間は行列を好むとは言うが、ここまで並んでおいしいご飯を食べようとするのか、と衝撃を受ける。首を傾げていると「人は行列がある店を見ると、その店のご飯は美味しい物だと思うらしいですよ」と自分が元人間であるにもかかわらず、どこか人ごとのように早苗さんが言ってきた。「不老不死の法則ですか」と訊ねるも、意味が分からなかったのか、愛想笑いを返される。

 

 予想外だったのは、その行列を待つほどの堪え性を早苗さんが持ち合わせていなかったということだ。

 

「私、待つのは苦手なんですよね」と怯えにも似た声を出した彼女は「以前、諏訪子さまが、ああ。諏訪子さまっていうのは守矢神社で祭っている神様の一人なんですけど」と分かりきった前置きをしつつ、おずおずと言った。

「私がまだ子供の頃、池の畔で待ってなさいって言われて、でも、諏訪子さまは全然帰ってこなくて。結局、見かねた加奈子さまが迎えに来てくれたんですけど、あれ以来、待つのは苦手なんです」

 

 嘘だ、と直感的に分かった。彼女が待つことを苦痛に感じているのは事実だろう。 だが、そのエピソードは明らかにでっちあげられたものだった。それが、意識的なものか、それとも無意識的に自らの記憶を変えてしまったものかは知らないが、彼女が待つことを嫌う理由は他にあるはずだ。そこまで考えた私は、「へえ、そうなんですか」と愛想笑いを浮かべた。

 

「ですが、今でも早苗さんは子供じゃないですか」と茶化す。彼女を気遣ったわけではなく、その理由に興味が無かったからだ。記事にならない不幸話など、聞くだけ損だ。

「子供って。こう見えても結構長く生きてるんですよ?」

「あややや。それを私の前で言いますか」

「文さんって、何歳なんですか?」

「女性に年を聞くのは不躾ですよ」

 

 それ、なんかずるいですよ、と不満げな声を上げる早苗さんを置いて、先に進む。人混みをするすると抜け、大通りを右に曲がった。細い路地にまで人間は溢れ、各々が指示をされたわけでもないのに、列を作り、流れを生み出していた。こういった人間の無意識による団結には何度も苦汁を舐めさせられている。まあ、それでこそ人間、といったところか。愚かで無様だが、それでいて強い。

 

「早苗さん」

 

 足の速度を落とし、美しい緑の髪が鼻にかかるほど近づいた時、私は彼女の耳元で囁いた。人間たちの群列に混じり、一定のペースで直進する。

 

「なんですか、文さん。散歩にしては人の多いところに来ちゃいましたけど」

「そっちの方が都合がよかったんですよ」

「なんでですか?」

「鴉は人混みが大好きなんです」

 

 もちろん嘘だ。単に、会話を盗み聞きできるような状況で話すには、あんまりな内容だったので、わざわざこんな時間の、こんな場所を集合場所に指定したのだ。 が、早苗さんは深く追求することなく、「そうなんですね」と両手を合わせ、胸の前で叩いた。

 

「意外です。文さんはほら、皆を置いて一人で先に行ってしまうような印象だったので」

「偏見ですよ。私はいつだって人間と歩みを共にしているんですから」

 

 いい加減、人にもまれて太陽に照らされ続けるのにもうんざりだったので、私はとっとと用を済ませようと、懐から新聞を取り出した。途中、行き交う人々に手をぶつけそうになるが、すんでの所で避ける。新聞に皺がついてしまったら、たまったものではない。

 

「もしかして、私を呼び出したのは、新聞の勧誘のためですか?」

 

 早とちりした早苗さんが、急にあたふたとし始める。

 

「嬉しいですけど、たぶん、諏訪子さまが反対すると思うので、その……なんというか」

「違いますよ。勧誘なんかじゃないです。というより、もし守矢神社に新聞の勧誘をするなら、あなたには訊ねませんよ」

「そ、そうですか。よかったです」

 

 何がよかったのか小一時間ほど問い詰めたいが、これ以上、話を逸らしたくなかったので、我慢する。

 

「この新聞、もちろん私が作ったのですけれど、この記事の内容について何か心当たりがあったりしませんかね。次の記事を書くために、情報を集めたくて」

「心当たり、ですか」

「些細なものでも構いませんよ。例えば、これを読んで挙動不審になった奴がいた、とかでも」

「うーん」

 

 顎に手を当て、考え込んでいる。自然と歩む速度が遅くなり、後ろの人間と危うくぶつかりそうになっていたが、彼女は気づいていないようだった。

 

「心当たり……ですか。でも、本当に心当たりのある人がいたら、すでに名乗り出ているような気もしますけどね」

「なぜです?」

「だって」

 

 私の新聞をばさりと広げた彼女は、ある一点を指差した。そこにはでかでかとした文字で『妖怪の山に異変! 襲撃事件相次ぐ!』と書かれている。私の考えた完璧な見出しだ。

 

「最近は人里でも、ずっと話題になってたから、何か知っている人はもう名乗り出てるんじゃないかなって思ったんです」

「確かにそうですね」

「ほんと、怖いですねえ」

 

 口ではそう言っているが、早苗さんはどこかのんびりとしていた。そういえば、と私は思い出す。今日の新聞は、いつもよりもなぜか捌けた。内容自体はとある事情により、あまり気に入っていない物にしたのに、だ。

 

 きっと、人間達にとって、妖怪の山が遠い存在だからだろう。対岸の火事は、見てる分には面白い。絶対的安全圏から悲劇を眺めるのは、何しも勝る娯楽だ。なぜだか腹が立つ。そして、腹が立つ自分にますます腹が立った。

 

「でも、早苗さんは対岸ではない」

「え、どうしました?」

「い、いえ」知らぬ間に声を漏らしてしまい、うろたえる。まさか、この私がこんな初歩的なミスをするだなんて。相手に感情を悟らせてはいけない。覚り妖怪をすら欺かなければ、鴉天狗は務まらないのだ。

「あれですよ。早苗さんが落ち着いているみたいだったので、驚いたのです。妖怪の山で無差別に妖怪が襲われているんですよ。怖くないんですか?」

「まあ、怖いですけど」ふふっと笑う彼女は、とても怖いと思っている様子ではなかった。「身内にもっと怖い神様がいますから。それに、そんじょそこらの妖怪に負けるほど弱くないですし」

「そうですか」

「それに」

 

 にっかりと笑った彼女は、胸を張り、立ち止まった。今度こそ後ろの人間にぶつかり、戸惑いの声が聞こえる。が、早苗さんはどうやら人里でも愛されているらしく、おやまあ、といった感じで、その人間は脇へと避けていった。

 

「それに、その襲撃事件で襲われているのって、悪いことをした妖怪だけって聞きましたよ。私、実はいい子なんです。だから、そんなに心配していません」

 

 止まり続ける私たちを避け、人間たちが進む。風が吹いた。湿り気を帯びた、嫌な風だ。悪いことをした妖怪だけ襲われる。早苗さんは確かにそう言った。私は新聞にそのようなことを書いた覚えはない。もちろん、そういった情報は入手していた。すでに人里にも広まっているのだろう。だが、そんなことは書くわけにはいかない。死んでも書くものか。

 

「早苗さん、興味はありませんか」

 

 内から湧き上がる悲痛を隠し、微笑みながら訊ねる。幸運なことに、彼女は何の違和感も抱いていないようで「何にですか?」とほんわりと聞き返してくる。

 

「ほら、異変ですよ、異変。解決しようとは思わないんですか」

「ああ、そういう」再び足を進めはじめた彼女は、うーんとうなり声を上げた。

「まだ異変ってほどではないんじゃないですか?」

「え」

「だってほら、妖怪が他の妖怪に襲われることなんて、特に珍しくもないですよね。たしかに妖怪の山で起こることは珍しいですけど、ただそれだけです」

「それは」

「文さん達にとっては一大事かもしれないですけど、幻想郷では普通だと思いますよ。だから、霊夢さんも魔理沙さんも動いていないんだと思います」

 

 幻想郷。八雲紫がつくりあげた妖怪の楽園。忘れ去られた者たちの行き着く果ての世界。妖怪の楽園とはいうものの、弱小妖怪たちは日々殺し、殺され、存在を消していく。なるほど。確かにそれは珍しいことではない。ごく普通の、悲しむべきでもない一般的なことだ。だが、天狗は弱小妖怪ではない。

 

「早苗さんは知らないと思いますけれど」

 

 私はさも、とても悲しいです、という表情を作り、うつむく。声を小さくし、消え入るように言葉尻をすぼめる。

 

「その、襲われた妖怪の中に、天狗も含まれているんですよ」

「え?」

「同胞の天狗が襲われるだなんて、私は悔しくてたまりません」

 

 歯をぎしりと噛み、拳を握る。もちろん演技だ。悔しくなんてないし、悲しくもない。そのはずだ。なら、私はいま何をしているのか。記事のため。そう。記事のためだ。だから仕方ない。そう思い込む。

 

「私たちは毎日、怯えて過ごしています。次は私の番かもしれない。もしかしたら、今まさに友人が襲われているかもしれない。そう思うと、食事も喉を通らなくて。不安で不安で仕方がないんです」

 

 ごくりと唾を飲む音が聞こえた。早苗さんがおろおろとしているさまが目に浮かぶ。現人神とはいえ、所詮は元人間。お人好しで、浅はかで、単純で、そして救いようのないほどに暖かい彼女を動かすことなんて、椛と会話するより簡単だ。

 

「私も色々調べてはいるんです。ですが、中々うまくいかなくて。このままでは、妖怪の山は不安と絶望でどうにかなってしまうかもしれません。ですから」

 

 がばりと顔を上げる。赤い天狗帽が落ちてしまうのも気にせず、いや、内心では気になっていたのだが、まったく意に介していませんよ、といった風に足蹴にして、早苗さんの両手を掴む。

 

「ですから、どうか解決に協力してくれないでしょうか。頼れるのは早苗さんだけなんです」

 

 一瞬、ぽかりと口を開け、呆然としていた早苗さんだったが、すぐにぱぁと顔を輝かせた。ぎゅっと手を握り返し、身体を寄せてくる。大きな瞳にうつる私の顔は、たしかにほくそ笑んでいた。

 

「任せて下さい!」人里中に響き渡るほどの大声を出し、えっへんと胸を張る姿は、年端もいかない幼子のようだった。

「文さんに頼まれては、不肖、この東風谷早苗。全力で尽力いたします!」

「なんですか、それ」あまりにらしくない言い回しに、思わず素で返してしまう。

「似合わないですよ」

「え、そうですか? 格好いいじゃないですか。クールですよ」

 

 そもそも、早苗さんとクールという言葉が不釣り合いで、対極に位置するように思えた。どうやら本人もそう分かっているようで「私って、格好いいってあんま言われないんですよね」と悲しげに俯いている。 

 

「だから、ほら。誰かに頼み事をされた時くらい、格好良く引き受けたいじゃないですか」

「だからって、それは格好悪いですよ」

「格好いい言葉って、どんなのがありますかね」

「キュウリでも洗って出直してきな、とか」

「格好悪いですよ」

 

 ですよね、と頷きつつ自分の顔に手を当てる。歪みはない。いつも通りの微笑みを浮かべられている。大丈夫だ。と自分に言い聞かせる。私は冷静だ。

 

 何にせよ、早苗さんの協力を得ることはできた。ほっと内心で息を吐く。妖怪の山で起きている異常事態を打破できるのは、早苗さんだけだ。あなたしか頼ることができない、という言葉に嘘偽りはなかった。

 

 狭い路地で立ち止まって話し続けていたからか、あれだけいた群衆の姿は消え去っていた。単に、鴉天狗である私に恐れをなして、逃げ去っただけかもしれない。

 

 伝えたいことはそれだけだったので、人里での散歩を切り上げて、妖怪の山へと戻ろうと空を飛ぼうとした瞬間、早苗さんに手を掴まれた。ぐいっと引っ張られる。見た目では想像できないほどに強い力だ。

 

「今から妖怪の山に戻ってもいいんですけど」

 

 目を閉じ、ふんふんと犬のように鼻先を立てた早苗さんは、一軒の建物を指差した。先ほどまで人でごった返していたからか、地面は足跡やゴミで滅茶苦茶になっている。が、その建物の方がよっぽど滅茶苦茶だった。周りの小ぎれいな家とは違い、酷く古びている。壁は剥がれ落ち、瓦は割れ、そもそも建物自体が傾いているようにも見えた。なぜ崩れていないか不思議なくらいだ。

 

「ここでご飯を食べてからにしましょう」

「え」

「ほら、ご飯ですよ。さっき、食べ損ねたじゃないですか。ここなら並んでいませんし」

 

 当然だ。こんな店に並ぶ奴などいない。というより、店だということにすら気がつかないだろう。よく見ると、確かに扉の前にはご飯処と書かれたのれんが垂れている。それも案の定汚れており、逆に客を遠ざけたいのではないか、と疑うほどに不気味だった。

 

「文さんもお腹すいているでしょ? 私はもうペコペコです」

「そうですか」

「やっぱ、異変解決前にはたくさん食べておかないと」

「私は遠慮しておきます」

 

 ええ! と早苗さんが大袈裟な声を出した。目を丸くし、口許に手を当てている。目の前にご飯処があるのに、食べないなんてあり得ない。そう言いたいのだろう。

 

「私はここで待っていますので、ひとりで行ってきて下さい」

「なんでですか。一緒に行きましょうよ」

「なら、こうしましょう」

 

 私は指を立て、ぷりぷりと湯気を立てる早苗さんに笑いかけた。

 

「早苗さんが中に入って、出されたメニューが美味しければ、私も入ります。そうでなければ、違うところで食べることにしますよ」

「なんでですか!」酷いです、と呻く彼女は、それでもなぜか笑顔だった。

「そんなの必要ないですよ。二人で食べればどんなものもおいしく感じますって」

「私はそんな特異体質ではありません」

 

 というより、こんなボロボロの店に入ろうとすること自体が信じられなかった。恐れ知らずというか無鉄砲というか。まだまだ青臭い人間だということか。

 

「でも、早苗さんは似ているじゃないですか」

「似ているって、何にですか?」

「カナリアですよ」

 

 ぼんやりと笑う早苗さんの目の前で、ピンと人差し指を立てる。翼を一度大きく羽ばたかせ、下駄で地面を軽く小突き、言った。

 

「誰だって自分が大事ですから。危険性を他者になすりつけられるのであれば、積極的にそうするべきです。カナリアは必要経費なんですよ」

「それ、私が人柱にされるってことですよね」

 

 さあ、と首を傾げていると、早苗さんは結局、私を無理矢理その店へと引っ張り込んできた。案の定、外見通りの内装で、料理だってお世辞にもおいしいものではなかった。それでも、出されたしゃびしゃびのカレーを頬張る早苗さんは満足そうに「おいしいですね」と屈託のない笑みを浮かべていた。本心からの笑みだ。私では浮かべられないような、無邪気な笑み。

 

「ほら、やっぱり二人で食べればどんなご飯だって美味しいんですよ」

「早苗さんは」

 

 彼女はきっと、信じているのだろう。人間や妖怪は、本質的には善良で、世界は煌びやかに輝いていると信じている。なんて単純で愚かなのだろうか。彼女といると、そう思えてくる。彼女は私にはあまりに眩しすぎて、潔白すぎている。子供ですら忘れてしまった希望を、彼女はまだ持っているような、そんな気がした。

 

「早苗さんは、やっぱり似てますよ」

「似てるって、何にですか?」

「ゾウリムシ」

「失礼すぎます!」

「大丈夫、褒め言葉ですよ」

 

そうなんですか、と頬を緩めた早苗さんを見つめる。薄暗い店内の中で、彼女の暖笑だけがぽわりと浮かび上がる。カエルの髪留めをさわりながら、カレーを頬張る彼女は太陽のようだった。私たちを平等に照らし、陰なんて知らないとばかりに無理やり明るくするような、そんな笑顔が私の身体の中に入り込み、凍り付いた心を強引に暖かくしてくる。

 解けた氷水が零れないようにと上を見ながら、私は自分の胸辺りを軽く小突いた。

 

 私の心に、暖かい光が射す。それはとても魅力的に思えた。

 

 



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目の上のたんこぶ

──狼と鴉──

 

 

 

 文さんのせいで、酷い目に遭ったじゃないですか。

 

 いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、部下にそう言われたことがある。直属の上司にあたる大天狗様にお叱りを受け、そのストレスを椛で解消しようとしていた時のことだ。

 

「どうして私まで大天狗様に怒られなきゃならないんですか」

「知りませんよ」

「どうせ、また文さんが何かやっちゃったんですよね」

 私は否定も肯定もしなかった。認めたわけではない。一体何をもって、やっちゃった、と見なすのか、分からなかっただけだ。

 

 一時間前、大天狗様からの招集を受けた私は、しぶしぶながらも山頂付近にある無駄に立派な建物に行き、その中でも一番大きな部屋へと入った。

 以前、といっても二年前だが。その当時の大天狗様は謙虚で、そして気取らない性格だったので、こんな絢爛な部屋に引きこもっていなかった。

 

 が、老衰を理由に大天狗の座を降りた彼に代わった次の大天狗様は、典型的な成金趣味を持っているようで、大きな部屋の壁一面がきらびやかに装飾されていた。鴉は光り物に目がない、とはよく言うが、それでも今代の大天狗様よりはマシだろう。もちろん文句は言わないし、不平もない。上司に刃向かうなんて、鴉天狗である私がするわけがなかった。

 

「射命丸。おまえ、どうして呼ばれたのか分かっているのか」

 私が跪くより早く、大天狗様はそう言った。低く、威圧感のある声のせいで体が震え上がる。顔を上げられない。実力行使をすれば、いくら大天狗様相手にも負けるつもりはなかったが、その圧倒的自信と権力がにじみ出る独特の声は、凍えるほどに不快感に溢れていた。

 

「お前はいつだってそうだ。どうして余計なことばかりする」

 顔を下げたまま、大天狗様の顔を窺う。眉間に刻み込まれた皺は怒りのせいか、それとも生来のものなのか、全く緩む気配はなかった。真っ黒な髪は私より長く、後ろになでつけているせいで、酷く悪人面に見える。天狗装束も変に着崩しているせいで、それを助長していた。

 

「お言葉ですが、この射命丸には、大天狗様が何をおっしゃりたいのか、察しかねます」私はできる限り、彼の逆鱗に触れないように言葉を選んだつもりだった。だが、何がいけなかったのか彼は激昂し、みるみる顔を赤らめていく。失敗した、と舌を打ちたくなる。

「察しかねますではない! お前の出す新聞に、見逃せないことが書いてあったのだ」

「お読みいただき光栄です」

「ふざけていると殺すぞ」

 

 私は至極まじめだったのだが、大天狗様はそう受け取らなかったようで、みっともなく子供のように地団駄を踏んだ。ああ、どうして、と心の中で嘆く。どうして先代の大天狗様はこのようなお方を後継者にしてしまったのか。

 

「お前、この前、新聞で妖怪の山の現状について言及していただろ。あの目障りな神社のことや、危なっかしい河童のことについて」

「それが何か?」

「その記事に、『妖怪の山の支配体制の変化が悪影響を及ぼしている』と書いてあった。あれは、我を侮辱しているのか?」

「まさか、滅相もございません」

 私は内心で舌を巻いていた。鋭い。まさか、あんな一文まで確認しているとは思わなかった。細かいというか小心者というか。

「もう二度と、あんなことを書くなよ。次書いたらただじゃおかないからな」

「ただじゃおかないって、一体なにをなさるおつもりなので?」

「お前、やっぱふざけてるだろ」

 大天狗様の顔にぎゅっと皺が寄り、鬼のような形相になる。もっとも、本当の鬼に比べれば可愛いものだが、恐ろしいことには変わりない。

 

 視線を逸らすことは悪手だと分かってはいたが、それでも私はきらびやかな壁に目を移す。部屋全体がキラキラと輝いており、ゴミ箱すら金色だった。

 

 そのゴミ箱の中に、見慣れた物が入っていた。燃やされたのか、黒く炭化しているが、わずかに燃え残った紙で、その正体が分かる。間違いない。私の新聞だ。

 

「ああ、これか」私の目線に気づいたのか、大天狗様は面倒そうに見下してくる。

「読み終わったからな。鴉天狗の新聞を全て保管してたら、部屋が一杯になってしまう」

「いえ、そうではなく」我々の新聞全てに目を通していることにも驚いたが、それより。「どうして、燃えて炭になっているのですか?」

「ああ、そんなこと」

 彼の目の鋭さがふっと緩んだ。怒りの形相はそのままだが、年寄り独特の自慢げで、得意そうな表情がうっすらと浮かぶ。

「焚き火をしたんだよ」

「焚き火? この時期に、ですか」

「心頭滅却のためだ。単純な話だよ。いらん情報を漏らさんようにするついでに、我の機運も高める。一石二鳥ならぬ、一ゴミ二鳥だな」

 

 何もかかっていない戯れ言だったが、私はさも感服しています、という顔をして、実際に「感服いたしました」と声を上擦らせる。

 

 椛が部屋に入ってきたのはその時だった。

 

 失礼します、と震える声を出した彼女は、私から二、三メートル離れたあたりに跪き、大天狗様に頭を垂れた。その際、こちらを意味ありげに見つめてきたが、気づかないふりをする。

 

「射命丸。先刻、お前は『もし同じことをしたら何をするか』と訊いてきたな」入ってきた椛を見おろした大天狗様は、真顔のまま言った。

「もしお前がまた何かをやらかしたら、今度は椛にも罰を与える」

「え?」

「我は思うのだ。上司の責任は部下が取るべき、だとな」

 

 ならば、あなたこそが全天狗の責任をとるべきではないか。口から出かかる文句を必死におさえる。

 

「今回は、射命丸。我の寛大な措置により、山の哨戒作業だけで済ませてやるが、次は無いと思え。そこの白狼天狗もろとも、妖怪の山にいられなくなるぞ」

「承知いたしました」

 

 深々とお辞儀をしながら、私は内心で毒づいていた。どうしてこいつは、椛を罰することが私に対する抑止力になると思っているのだろうか。むしろ、私が悪さをする度に椛が叱られると思うと、心が躍る。大天狗様による罰を差し引いてでも、お釣りがくるくらいには魅力的だと、跪きながら私をにらみつけてくる椛を見て、思った。

 

 大天狗様のお叱りを受けた私は、彼の言った『哨戒任務』とやらを果たすために、正確には果たしていると見せかけるために、昨日、にとりが盗聴器をしかけた辺りにきていた。予想外だったのは、怖い顔をした椛も着いてきた、ということだ。きっと、私に文句を言いたいのだろうな、と思っていると、案の定彼女は突っかかってきた。

 

「文さんが勝手に何かをやらかして、怒られるのは構いませんが、私にまで迷惑をかけるのは止めてください」

「迷惑なんてかけてないじゃないですか」

「かけてますよ」

「かけてないですよ。かき氷のシロップくらいに」

「どういう意味ですか、それ」

 

 真っ白な髪を逆立て、椛の柄の入ったスカートをばたつかせながら怒る彼女は、よっぽど頭にきているようで、腰にかけられた鞘から刀を抜いていた。おそらく無意識的なのだろう、幅広の刀の切っ先をまっすぐに向けてくる。なんて無礼な。

 

「当然知っていると思いますけど、かき氷のシロップって、メロンもいちごも、色が違うだけで全部同じ味なんですよ」

「だから、何の話ですか。私は大天狗様に叱られたことについて」

「まあまあ、落ち着いてください」どうどう、と両手を体の前で立て、手のひらを向ける。「つまりですね。かき氷のシロップの味が違うのは、見た目に騙されているからなんですよ。思い込みです」

「それがなんだっていうんです」

「人を見た目で判断してはいけないってことですよ」

「はい?」

「あなた、今の大天狗様を尊敬しているのでしょう」

 

 椛の顔が固まった。彼女にしては珍しく動揺している。構えていた剣は震え、反対の手に握られた紅葉の葉が描かれた盾で自分の体を隠していた。なんて分かりやすい。

 

「だから、そんなに怒っているんですよね。『わんわん。私の大好きな大天狗様に嫌われちゃったら、どうするわん』って」

「そんなことないです」

「ありますよ」

 

 大天狗様に睨まれた椛の姿を思い起こす。あんな生意気な彼女が、あそこまでしおらしくなるとは思わなかった。たしかに、私以外と話すときはそこまで生意気でないような気もするが、逆にあそこまでへこむこともないはずだ。

 

「大天狗様の見た目は、いかにも威厳がありますって感じですけれど、騙されてはいけませんよ。人は見かけによらないんですから。シロップと同じです」

「大天狗様をシロップ扱いするなんて、また怒られますよ」

「イッシーがあれば、バレて怒られるかもしれませんね」

 

 怒りすぎて冷静になったのか、やっと鴉天狗に剣を向ける愚鈍さを悟ったのか、彼女はおずおずと剣をしまい、その場にへたりこんだ。逆立っていた髪が収まり、風でさらさらと流れる。私も彼女から少し離れた平らな石に腰を落とした。厚い雲に空が覆われているためか、かなり涼しい。川の流れも心なしか速いような気がした。もしかすると一雨来るかもしれない。

 

「文さんには分からないかもしれないですが」

 椛は川辺を見つめ、聞いてもいないのに、ぽつりと呟いた。川の流れる音に負けそうなほど、小さな声だ。

「私たち白狼天狗にとって、大天狗様は雲の上の存在なんですよ。そんな彼から直々にお呼び出しを受けたとき、私は嬉しかったんです」

「嬉しい? なんでです?」

「どこかの誰かさんと違って、悪いことなんてしてないので、呼び出されるとしたら褒められるのかなって、そう思ったんですよ」

「いったいどこの誰なんでしょうか」

「あのですね!」椛は語気を強める。怒っている、というよりは落胆を隠しているようだった。「私にとって大天狗様は憧れなんですよ。まさにヒーローです」

「ひーろー」まるで人間の子供のようなことを言い出す椛に同情すら覚えた。あまりに幼稚で、馬鹿げている。

「そう。ヒーローですよ。正義のヒーロー。昔から有名だったじゃないですか。悪い奴らをバッタバッタ倒していく。格好いいです」

「正義」

 

 たしかにそうだ。大天狗様は昔から武勲を立て、多くの天狗に尊敬されている。伊達や酔狂で大天狗になったわけではない。少々目立ちたがりな性格を鴉天狗に煙たがられているが、それも嫌悪感を与えるには至っていなかった。

 

「私もさらに鍛えて、いつかは大天狗様みたいになりたいんです」

「椛は強くなりたいんですか?」

「もちろんです。いつかは、どんな奴からも妖怪の山を守れるようになるのが目標です。一人前になりたいんですよ」

「引き際も大切です」お節介にも、私は言う。そうすれば、彼女が腹を立てると知っていたから。「自分より強い奴なんて、絶対にいるんですから」

「分かってますよ。だから、今でも手に負えない奴が来たら、大天狗様に報告に行ってるんです。というより、文さんこそ、引き際を考えた方がいいかと」

「私だって、自分より強い奴が来たときは、ちゃんと対応しますよ」

「どうするんですか?」

「死んだふり」

「熊じゃないんですから」

 

 大きくため息を吐いた椛は、自身の剣を右手で撫でた。その目は慈愛に満ちており、とても戦いに使う道具に見せるものとは思えない。

 

「その剣、ずっと使ってますよね。いつからですか?」

 

 とくに興味もないが、私は訊ねる。理由は自分にも分からなかった。強いて言うのであれば、話題を大天狗様から逸らしたかったからだろう。

 

「もう覚えてないですね」そう薄く笑う彼女の顔は、見たこともないほど穏やかだった。「物心ついたころから使っていますから」

「そうですね。子供のころから椛は生意気で、今と変わらずアホでしたから」

「文さんだって、昔から陰湿で嫌味な鴉でしたよ」

「私はいつだって清く正しいですよ」

「面白い冗談ですね」

「そろそろ、新しい剣に新調したらどうです?」私のカメラのように、と胸にかけられたそれを見せつける。このままだと、またお互いに罵倒しあう羽目になりそうで、話を逸らそうとしたのだ。罵倒し合うのも悪くない、というより椛が悪いので仕方がないのだが、叱られたせいで言い合いをする元気が残っていない。

「いや、古くても、この刀がいいんです」椛も同じようで、話を逸らさないでください、といつものように、がみがみ言ってこない。

「古いのに、ですか」

「案外古いものもいいですよ。思い入れもありますし、使いやすいです」

「まあ、確かに老人はボケてて扱いやすいですね」

「そういう意味じゃありませんよ」

 

 やっぱ、文さんとは反りが合いません、と当然のことを口走った彼女は、はかなげな笑みを浮かべ、立ち上がった。どうも調子が狂う。怒ったかと思えば呆れ、かと思えば微笑を浮かべるだなんて、躁鬱病か、更年期障害か。まあ、どちらでもいいか。別段、椛がおかしくなろうが、私にはどうでもいい。だが、もしかすると記事にできるかもしれない。そうだ。あの椛がおかしくなったと記事にすれば、間違いなく興味を惹くだろう。少なくとも、にとりは読む。なら、調べるしかない。

 

「そんなに怒られたのがショックだったんですか?」

「え?」

「憧れの大天狗様に叱られて落ち込んでるんですか、と聞いているんです」

「まさか」彼女は、それまでの朧気な雰囲気から、いつもの生意気な表情へと変わった。失敗したか、と後悔が頭をよぎる。やっぱり、椛は椛だ。

「怒られたのは私じゃなくて、文さんじゃないですか。別に私は悪いことをしてませんし。ただ、こんな情けない姿はさらしたくないなって思いはしましたけど」

「格好良かったでしょ」

「よくないです」

「誰かに叱られるってのは、格好のいいものなんです」適当なことを言いながら、私はどこか安堵している自分に気がついた。どうして自分が胸をなで下ろしているのか、理解できない。もしかして。もしかして私は、大天狗様が椛に悪印象を持ちかねない事態を引き起こしてしまったことに、責任を感じていたのか。椛が大天狗様の前で怯える姿と、彼に対する憧れを見て、罪悪感を覚えているのか。

「まさか、ね」

「何がまさかなんですか?」

「何でもないですよ」勝手に口が動いたことに動揺しつつも、平然と首を振る。

「でも」

「私、何かいいことがあると、『まさか』って呟いてしまうんです」

「まさか」

 

 赤い厚底の下駄をはき直し、立ち上がる。木々も薄く、開けっぴろげになっており、視界はかなりいい。だが、逆にそれが寂しさをかき立ててくる。ただ何もない空間に囲まれていると、自分以外の連中はいなくなってしまったのではないか、と錯覚する。黒っぽい雲が陰と同化し、世界が真っ暗になっていくような不穏さを感じた。

 

「もう哨戒はいいんですか?」

 私はただ、座っているのに飽きたから立ち上がっただけなのだが、どうやら椛は帰ろうとしていると思ったらしく、どこか不安げな声を出した。「大天狗様に、また怒られちゃいますよ」

「大丈夫ですよ。哨戒作業を命じられたのは、半分見せしめみたいなもんですから。悪いことをすると、面倒な仕事をやらされるぞ、と他の鴉天狗に伝わればいいんですよ。実際、妖怪の山に侵入者が来ることなんて、まずないですし」

「でも、もしきたら」

「もしきたらやばいですね」やばいやばい、と若者言葉をあえて繰り返す。

「その時は、私の客人だということにしますよ」

「え?」

「そうすれば、怒られないかもしれません」

 

 そんな強引な、と口を尖らせる椛だが、いつものような侮蔑は浮かんでいなかった。やはり、どこか彼女の様子がおかしい。何か悪いものでも食べたのだろうか。「あの、文さん」

 

 まあ、拾い食いは犬の代名詞か、と勝手に納得していると、椛がたどたどしく言ってきた。あまりにらしくなくて、気持ちが悪い。

 

「ひとつ、お願いがあるんですが」

「お願い?」

「突然ですみませんけど、稽古をつけてくれませんか?」

「ほう」

 

 ほうほうほう、と梟のように繰り返す。なるほどなるほど。これで、やっと彼女の妙な雰囲気の理由が分かった。

 

 嫌っている私に稽古を頼むなど、彼女にとっては屈辱なのだ。しかし、そうしなければならない理由があった。可哀想にこの純粋な白狼天狗は、私の機嫌をうかがい、いつ言い出そうかとオロオロしていたのだ。それで、私が去ってしまいそうだったので、慌てた。そんなところだろう。

 

「へぇ。ふーん。そうですかそうですか。稽古ですか」

「なんですか。やってくれるかくれないか、どっちなんですか」

「あやややや。それが上司に物を頼む態度なんですか」

 

 椛の顔が真っ赤に染まっていく。羞恥と怒りのためだろう。これだから文さんには頼みたくなかった、と吐き捨てている。それが、ますます私に悦楽を与えてくれた。無意識のうちに、唇を噛む椛の姿をカメラに収めている。

 

「ほら。ちゃんと頭を下げて、お願いしたら考えてあげてもいいですよ」

「しませんよ、そんなこと」

「あややや。残念ながら私は無償で人助けをするほど、お人好しじゃないんですよ。どんな物事にも、必ず対価が必要なんです」

「対価、ですか」

「そうですね、これからは上司に生意気な口を叩かない約束とかどうです?」

「それは無理ですね」にべもなく椛は否定した。

「部下と上司は対立する運命なんですよ。私が上司に歯向かうのは、自然の摂理なんです」

「他の鴉天狗に対しては礼儀正しくしてるじゃないですか」

「まあ、そうですね」

 

 仕方ない、と肩をすくめた椛は、懐をガサゴソと漁り、何やら一枚の紙を取り出した。ついに白狼天狗まで新聞を作り出したのか、と衝撃を受けるが、その紙が薄っぺらいチラシであることに気づき、ほっとする。

 

「なんですか、これが対価だなんて、馬鹿なことは言いませんよね。私は紙なんてもらっても嬉しくないですよ」

「そうじゃないです。これ、読んでください」

 

 無理やり押しつけてきたそれを、しぶしぶ受け取る。綺麗にたたまれているが、激しく動いたせいで四辺は皺になっていた。黄色い蛍光色が目立つ。大量に刷られたものなのか、全体的に印刷は荒い。私の新聞とは雲泥の差だ。

 

『妖怪の山武闘大会!』と丸みの帯びたフォントで大きく書かれている。センスがない。さっと全体的に目を通す。どうやら、暇を持て余した妖怪の山の誰かが企画したものらしかった。どうせ河童あたりだろう。奴らは金になりそうなことは何だってする。機械が絡む場合は尚更だ。

 

「ほら。弾幕ごっこに飽きたって妖怪もたくさんいるじゃないですか」私は何も言っていないのに、勝手に椛は弁明を始める。

「だから、安全に配慮した範囲で、武闘大会を開こうってなったらしいんです。文さん達がやっている新聞大会みたいなもんですよ。それに私も参加しようと思っていまして。だから文さんに稽古を」

「それで、対価というのは」

「優勝賞品ってとこ、見てください」

 

 椛に言われる前から、私は目を通していた。というのも、わざわざご丁寧にも赤枠でくくり、目に悪いほどのビビッドなピンクで書かれているせいで、嫌でも目についたのだ。こういう新聞だけは作らないようにしよう、と決意する。

 

「優勝賞品は『どんなお願いも答えてみせる』ですよ。凄くないですか?」

「どんなお願いでも、ね」小さく、河童の技術力に叶う範囲でと注意書きがされている。やはり主催者は河童のようだ。彼らであれば、経費さえ度外視すれば、本当にどんな願いも叶えられるような気がするから恐ろしい。

「私が優勝したら、文さんの願いを叶えてあげます。それが対価です。どうですか?」

「どうですかって」

「私は単純に自分の実力を試したいんですよ。賞品なんていらないんです。どうです? 中々にいい条件じゃありませんか?」

「ありません」

 

 椛は確かに強い。白狼天狗という枠を超え、様々な妖怪の注意を惹くほどの実力を持っている。だが、それでも所詮は白狼天狗。私や、それこそ大天狗様には敵わない。まあ、大天狗様がこの催しに参加するとは思えないが、とにかく。もし、本当に私が優勝賞品を狙うのであれば、椛に稽古をするより、自分で出た方が確実で、楽だ。わざわざ面倒なことをするまでもない。

 

「ありませんが」だが、それでも面白いと思えた。

「いいでしょう。私の優しさと寛大さに感謝してください」

 

 椛が優勝してくれれば彼女の活躍の秘密と原動力を記事にできるし、負けてくれれば、その奮闘ぶりとおこがましさを前面に押しだせば、ゴシップになる。そして何より、稽古と銘打ってストレス解消に彼女をいたぶれるのだ。椛と顔を合わせなければならないのが難点だが、苦汁を飲んで目をつむる。

 

「ありがたいですけど、ありがとうって言いたくないですね」

「言ってくださいよ」

「嫌です」子供のようにべえっと舌を出した椛は、すっかりいつもの調子に戻っていた。安心している自分に嫌気が差す。椛を気にかけている暇なんてないはずだ。

「なら、文さん。ここにサインして下さいよ」その、生意気な態度のまま、彼女はチラシの裏にペンを載せ、渡してくる。

「ちゃんと、約束を守りますって、サインをお願いします」

「あやややや。なんでそんなことを。私を信用できないんですか?」

「できないから、頼んでいるんですよ」

 

 誰がしてやるものか、と頭に血が上る。が、大きく深呼吸し、上がった血を抑えこむ。椛が今まで、サインを求めてきたことなんてなかった。きっと、苛立つ私を見て馬鹿にしたいだけだろう。

 

「分かりました。サインをすればいいんですよね」

 

 ならば私は、その彼女の目論見を破ってやらなければならない。

 

 こくりと頷いた椛の手から、チラシとペンをひったくり、乱雑に急いで書く。ご丁寧にも、契約書のように、びっしりと文字が書かれており、四角い枠があった。わざわざ作ったのか、もともとあったものを流用しただけなのかは分からないが、適当に名前を書き、突き返す。

 

「これで満足ですか?」

「はい。満足です。てっきり、断られると思いましたよ」

「私はあなたほど心が狭くないのです。では、さっそく訓練をしますか」

「もうですか? 早すぎますよ」

「何事も早いほうがいいんです」

「文さんは早すぎるんですよ」

「褒め言葉ですか?」

 

 うんざりとした椛は、やっぱり他の人に頼めばよかった、とぽつりと呟いた。どうせそんなこと、思ってもいないくせに。

 

 そんなんだと、優勝できるものもできないし、私が椛を殴ってストレスを解消することもできないじゃないか。そう言おうと思ったが、できない。椛の顔が、急激に険しくなっていたからだ。彼女の大きな目が輝く。それだけで、私は何が起きているのか察してしまった。そしてすぐに舌打ちをする。こんな時に限って。ついてない。

 

「犬走さん!」

 遠くから声が聞こえた。風を切る音が段々と近づいてきている。振り返らずとも、いったい声の主がどういう存在で、椛に何を伝えたいか、分かってしまう。

「侵入者です! ちょうどここの裏手から」

「分かってる」椛は、淡々と言った。いやに落ち着いているが、それが逆に焦りを感じさせる。「いま見えた。油断してたよ」

「行きましょう」

 

 最悪だ。別に侵入者が来ることは別にどうでもいい。それが、他の白狼天狗に、すでに広まっているという事実が最悪だった。だとすれば、結果的に大天狗様の耳にも入るだろう。それで、いったい誰が責任を追及されるのか。いつもであれば、別に誰の責任でもない。ただ、入ってきた奴が悪かった、となるだけだ。だが、今回は違う。私が哨戒作業を懲罰として任せられていた以上、それで侵入を許したとなると、罰の意味が無くなってしまう。さぼってもいいと思われてしまう。愚痴を零したくなるが、耐えた。そして、自分の言葉を思い出す。

 

「その侵入者は」そこまで口にし、息を吐く。大天狗様に叱られる影響と罰則。そして侵入者の存在と自身の人望を秤にかけ、そして頷く。大丈夫だ。確率的には、こちらの方が優位だ。

「その侵入者は私の客人ですよ」

 

 空気が凍った。見知らぬ白狼天狗はあたふたとし始め、椛は頭を押さえている。嫌な予感がした。

 

「文さん」椛はどこか遠い目をしながら、私に振り返った。

「侵入者っていうのは、鬼です」

「え?」

「伊吹萃香様がいらっしゃったのです」

 

 私はその場に倒れ込んだ。目を閉じ、仰向けになる。ここで死んだふりをしても意味ないですよ、と言ってくる椛の声にも生気が宿っていなかった。

 

 



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一ゴミ二鳥

──鴉と神──

 

 

 

 

 子供は純粋で無邪気だ。世間の荒波に揉まれていないからか、それとも揉まれていることに気づいていないのか、いつだって明るく、まぶしく、そして鬱陶しい。自分の欲望に素直で、短絡的に行動する。そんなこと、分かっているつもりだった。 だが、まさか現人神が迷子になるだなんて、さすがに想像もしていなかった。

 

 たしかに彼女はまだまだ子供っぽいところを残してはいる。が、年齢的には大人のはずだ。ご飯処で「明日のご飯が美味しくなりそうですね」と私が嫌みを言いながら会計をしている最中にどこかへ消えてしまうなんて、そんな神様がいていいはずがない。

 

 通りは再び活気を取り戻していた。人混みの中から緑色を探し出そうとするも、絶え間なく人間の波は動き、崩れ、また再び作られ、なかなか注視することができない。そうこうしている内に彼らの波に飲み込まれ、身動きがとれなくなる。どうせ、早苗さんもこうして、戸惑っているうちにどこかへ行ってしまったのだろう。なら、このまま波に身を任せていけば、彼女の元へとたどりつけるかもしれない。半ば投げやりに私はそう考えた。

 

 何やら騒がしいな、と感じたのは、広場に出たため人が分散し、ようやく自由に身動きがとれると、文字通り羽を伸ばしたときだった。広場の奥にまた人が再結集し、わめいている。中には両手を挙げたり、指笛を鳴らしている者もいた。

 

 群衆に後ろから近づき、一番手前にいた女性に「すみません、何が起きているんですか?」と困惑した声で訊ねる。

 

 一瞬、女性は私が鴉天狗だと気づき、体を硬くしていたが、私がカメラを構えているのを見て、安心したのか「サッカーです」と耳慣れない単語を口にした。

 

「外の世界のスポーツらしいんです。詳しいルールは分かりませんけど、ボールを蹴って、向かい合わせの籠に入れれば点数が入るんですって。それを子供達がやっていて」

「そうなんですか」

 それにしては盛り上がりすぎだ。不思議に思い、首を伸ばすと、その原因が分かった。何やってるんですか、と頭が痛くなる。

 

 そこには、楽しそうにボールを追い回す早苗さんの姿があった。

 

 子供達の中で、彼女の姿は大きく、目立っている。とても楽しそうに笑い声を上げ、大人げなく広場を縦横無尽に駆け回っていた。

 とっとと呼び止めようとも思ったが、記事にできそうなので、しばらく見物することにした。カメラを取り出し、しきりにシャッターを切る。

 

 最初こそ、はやく終わらないかと退屈していたものの、縦横無尽に転がるボールと、子供たちの鋭い動きに次第に引き込まれ、最後には拳を握り、周りの人間達と同じように声を出していた。あっちへこっちへとボールが転がる度に声を上げ、ボールが見当違いの方へとんでいったときにはため息が漏れ、ネットを揺らしたときには歓声が上がる。

 

 が、必死に応援していた私の健闘むなしく、早苗さんのチームは惨敗だった。その原因は目に見えていた。早苗さんだ。彼女の動きは明らかに精彩を欠いていて、味方からのパスを受け止めきれず、相手の選手に奪われる、といったことを連発していた。え、これ僕にパスしたの? と相手チームの選手が驚いているようにすら思えた。一人だけ大人なのに、みっともない。

 

「あ、文さんじゃないですか!」

 去って行く子供たちに、ぶんぶんと手を振った早苗さんは、私に気づき、大声を出して近づいてきた。できれば他人のふりをしたかったが、名前を呼ばれてしまったので、仕方なく返事をする。

「早苗さん、何やってるんですか」

「すみません」へこへこと頭を下げる彼女の肌は汗で湿っていた。

 

 どうせ、ご飯処を出たはいいけれど、人の波に押されている内に広場にやってきてしまい、そこで子供達に、サッカーをやりたいのだけど人が足りないだとかを言われ、参加してたんだろうな、と考えていると、「人混みで流されてるうちにここに来ちゃって。そしたら人が足りないから、サッカーをやってくれって、子供達に頼まれちゃって」と予想通りの答えが返ってきた。ですよね、と頷きたくなる。

 

「それにしても、サッカーというのはいいですね。見ていて楽しかったです」

「ですよね!」手の甲で顎からたれる汗を拭った早苗さんは身を乗り出してきた。

「幻想郷でも流行ればいいのに。でも、文さんとかだったら、ボールを蹴破っちゃいそうですね」

「そうですか?」

「案外、難しいんですよ」

「そうみたいですね」

 

 先ほどの早苗さんの動きを思い出す。あれで、簡単です、と豪語しようものなら、明日の一面になるところだった。

 

「早苗さん、酷かったじゃないですか。まるで相手にボールを渡しているみたいでしたよ。子供相手に」

「あ、あれはですね」私はてっきり、相手が子供だからと手加減をしていたのかと思ったが、どうやら違うようだった。「あれは作戦なんですよ」

「作戦?」

「ほら、最初から相手のゴールにシュートしますって、そういう雰囲気を出していると、相手も警戒するじゃないですか。だから、最初は相手にパスをしてたんです。私はあなたの仲間ですよ。言いなりですよ。協力するから、許してって」

「何を言ってるんですか」

「味方を敵に回したら、相手は、あ、こいつはこっちの味方なんだなって思うんですよ。そして相手は油断する。ですよね? その油断を突こうと思ったんですよ。敵のフリ作戦」

「最後まで敵の味方してましたよね」

 

 言い訳を諦めたのか、頬をぷっくりと膨らませた早苗さんは「もう知りません」とそっぽを向いた。どうやらへそを曲げてしまったらしい。

 どのように早苗さんの機嫌をとろうかと考えていると、タイミングを見計らったかのように、かき氷、と書かれたのぼりが見えた。今度は古びた店ではなく、綺麗できちんとした甘味屋だ。私の行きつけの店だ。

 

「早苗さん、もしよろしければ、かき氷一緒に食べませんか?」

「え?」

「おごりますよ。異変解決の前金だと思ってください」

「文さん」

 早苗さんは私を真顔で見つめ、ゆったりとした口調で言った。

「あなたが神ですか」

 神はあなたですよ、と私は苦笑を隠すことができない。

 

 

 

「おー、美味しそうですね」

 机の上に出された山盛りのかき氷を見て、早苗さんは分かりやすいくらいにはしゃいでいた。金属でできた大きなコップ型の器を指で撫でている。

「さっそく食べましょう!」

 

 彼女に気づかれないように、こっそりとため息を吐く。どうして私は、こんなことをしているのだろうか。分からない。本来であれば、今頃は妖怪の山で調査をしているはずなのに、呑気にかき氷を食べているだなんて、部下にバレたら怒られてしまいそうだ。「私とかき氷のどっちが大事なんですか」と。まあ、そう言われれば、かき氷と答えるのだけれど、それでも頭が痛くなる。

 

 甘味屋はいつも通り繁盛していた。所狭しと並べられた机の半数近くが埋まっている。ほとんど人間だが、中には妖怪の姿もあった。蕎麦屋に入り浸っていると噂の天邪鬼だ。警戒しなければ、と一瞬思うが、大した力もない彼女に気を裂くより、早苗さんとの会話に集中した方がマシだとすぐに気づく。なんとなくだが、天邪鬼と一緒にここで食事をとることがあるだろうか、と愛嬌を振りまきながら行ったり来たりする店員を見ながら考える。

 

「文さんは抹茶のかき氷が好きなんですか?」

 

 ストローの先を切り広げて作られたスプーンをこちらに突きつけ、早苗さんが言ってくる。さっきまでむくれていたのが嘘みたいに楽しそうだ。

 

「私はメロンが好きなんですよ」

「早苗さんは人を見た目で判断するタイプですね」

「はい?」

「いや、何でもないです」

 

 以前来たときはおはぎを食べたのだが、かき氷も絶品だった。やっぱり夏といえばこれだ。しゃりしゃりとした食感を楽しみながら、口へ運ぶ。と、油断していたのか、気が抜けていたのか、はたまた気を詰めすぎていたのか、口に入れる前にかき氷を落としてしまった。

 

「文さんでも、食べ物をこぼすんですね。食べ物こぼし仲間です」

「そんな仲間には絶対に入りたくなかったですよ」

 

 というより、彼女は日常的に食べ物を零しているのか。冗談半分にそう考えていると「私、いつも食べ物を零しちゃうので」と何やら懐を漁りながら言ってくる。呆れよりも、それを堂々と言える勇気に感服した。

 

「だから、いつも台拭きを持っているんですよ。これ、使ってください」

「あやややや。ありがとうございます」

 真っ白な台拭きを汚すのは忍びなかったが、さすがに使わず返すわけにもいかないので、かき氷を拭き取る。粘り気のある抹茶シロップが緑の跡をつけてしまった。

「ああ。それ、汚れても大丈夫な奴なんですよ」私の心配を感じ取ったのか、早苗さんは優しげに言ってくる。「ボロボロになった私の服を再利用して台拭きにしたんです。だから、汚れてもいいんです」

「守矢神社は財政難に陥っているんですか?」

「あはは。違いますって」それは霊夢さんのところです、と怪しげで興味深い情報を口走ったあと、彼女は得意げに、ふんす、と鼻を鳴らす。

「どんな物でも有効活用しなきゃ駄目ですよ。もったいないじゃないですか。応用して、再利用するんです。どうです? ナイス応用でしょ」

「早苗さんは、新聞で焚き火をするタイプですか?」

「え。ああ。たしかに、やりますね」

「やっぱり、そうですか」貧乏くさいですね、と喉まで出かかったが、飲み込む。また機嫌を損ねられたらたまらない。幸せそうな早苗さんの顔を崩したくないなんてわけではないが、私は黙って台拭きを机の端に置いた。

「そういえば文さん。妖怪の山の異変について、聞きたいことがあるんですけど」

 積み重ねられた薄切りの氷を見て妖怪の山を連想したのか、早苗さんは唐突に切り出した。見れば、メロンのシロップのせいで、たしかに雰囲気は似ている。

「妖怪の山って、天狗と河童の皆さんが住んでいるんですよね」

「そうですが」

「そこで、悪さをした妖怪が何者かに襲われている」

 溶けた氷にストローをさし、ぶくぶくと泡を立て始める。ぴしゃりと飛び散った緑の甘水が飛び散った。

「でも、天狗も河童も、皆さん強いじゃないですか。それに、会社みたいに縦社会で、上司には逆らえない」

「一般的な会社の様態を知らないですけれど、上司に逆らえないのはたしかです」

「そんな規律が整った環境だったら、悪さをした妖怪はそもそも、内々に罰せられるんじゃないですか? それに、河童と天狗を闇討ちするだなんて、よっぽどの強さでないと不可能です。だったら、犯人はかなり絞られると思うんですけれど」

「鋭い」

 

 いつも、どこか間が抜けていて、全体的にほんわかとしている彼女だったが、地頭は切れるのだ。だからこそ、頼りがいがあり、恐ろしい。少しだけ、情報を出し過ぎたことを後悔した。鴉天狗らしく、ごまかし、場合によっては嘘をついた方がよかったかもしれない。

 

「その通りですよ。早苗さんの言うとおりです。だからこそ異変と言えるかもしれない。悪さをしたからと言って、無条件で殴っていいわけじゃないんです」

「霊夢さんは何もしてなくても妖怪を殴ってますけど」

「人は人、妖怪は妖怪です」

 

 そんなお母さんみたいな、と笑う彼女は、きっと私のことを同年代の友人程度にしか思っていないはずだ。というより、そう思ってくれなければ困る。実際は、母親どころか、祖父の祖父、またその祖父の年齢を足しても届かないというのに。

 

「とにかく、そんな妖怪を倒せるほど強大な妖怪がいるってことが問題なんです」

「まあ、そうかもしれませんね。でも、少し格好いいとは思いますよ、やっぱり」「格好いい?」

「悪い奴らをバッタバッタと倒していくなんて、漫画の世界です。スーパーマンですよスーパーマン」

「博麗の巫女も悪い妖怪をバッタバッタと」

「あれは駄目です。無差別テロです」

 早苗さんだって言えた口ではないのに「美学がありませんよ」とすまし顔で言ってくる。早苗さんと美学なんて、不釣り合いすぎて笑えてくる。

「あれですよ。人知れず悪い奴らを倒して、名も言わずに去って行く。これが格好いいんじゃないですか。名声も求めずに、ただただ平和を求めてるって感じで。それで、唯一の理解者だけがそのことを知っている、みたいに!」

「なに酔ってるんですか」

「よってる? お酒にですか?」

「自分にですよ」

 

 私には、彼女の言う格好良さが理解できなかった。たしかに実力を隠すことは必要だ。だが、それはあくまでも、相手との関係性を考え、敵対する可能性を加味し、その上で取る安全策だ。名声を求めず、というわけでもなければ、平和を求めているわけではない。それに、そもそも、だ。

 

「自分のやっていることが世の中のためになると確信し、自己満足と存在証明のために拳を振るっているだけですよ、それは。盲目的に善悪をかたづけるだなんて、それこそ、閻魔しかやってはいけないことです」

「辛辣ですね」

「だって、そうじゃないと」

「じゃないと」

「私は悪役ってことになってしまいます」

 

 ああ、と早苗さんが深く頷いた。その緑の大きな目に、呆れの色が混じる。早苗さんに呆れられるなど、あまりに心外だ。

 

「文さんって、漫画だと敵キャラって感じですもんね。なんか、相手を策略で陥れて、ニヤニヤしているって感じの」

「ニヤニヤはしませんよ。真顔です」

「否定するのそっちですかー」それに、真顔の方がもっと悪役っぽいですよ、とストローで頬を突っついてくる。冷たいし、汚い。文句を言う前に「でも、文さんはそのうち仲間になるタイプですよ」と嬉々として言ってくる。いつの間にか、ヒーローの物語についてへと話題が変わっていた。

「ああいうのって、美人な敵は仲間になっていきますからね。文さんは美人ですから、私たちを助けてくれるはず」

「早苗さんの方が可愛いですよ」分かりやすくお世辞を言ったのだが、それでも早苗さんはえへへー、と頬を緩める。

「ということは、ですよ。私は相対的に美人ではなくなりますので、早苗さんを助けることはできませんね」

「なんでそうなるんですか!」

「可愛いって言葉には拒絶の意味があるんですよ」

「ないです! それじゃあ、可愛いって言われても、素直に喜べなくなります」

「あなたは素直すぎるんですよ」

 

 今度はお世辞ではなかった。というより、そもそも褒めたわけでもなかったのだが、どうやら彼女は褒め言葉として受け取ったらしく、「えへへー」とまた例の微笑みを浮かべる。

 

「とにかく、文さんは何だかんだで私たちを助けてくれるんです。現実通りに」

「私は別に誰も助けたりはしていませんよ」またまたー、と指を向ける早苗さんには一切の悪意もない。

「基本的に文さんは優しいじゃないですか。助けてくれますよ」

「ありえません」

「いいじゃないですか。食べ物こぼし仲間のよしみで」

「最悪なよしみですね」

 

 いいじゃないですかー、と早苗さんは妙に突っかかってくる。かと思えば、急に小声になり、ぼそりと「怒ると無茶苦茶怖いですけど」と呟いた。てへっと笑う姿から察するに、茶目っ気のつもりだろう。いい年した大人が何やっているのか。

 

「もし文さんに怒られたら、私は泣いちゃいますよ」

「そうですか? というより、怒ったことなんてないと思いますけど」

「以前、一回だけ見たことあるんです。たしか、誰かにカメラを壊されそうになっているときだったような気がします。ぱっと見は怒っているように見えなかったんですよ。ニコニコ微笑んでて。だけど」

「だけど?」

「空気が凍っていました。文さんは気づいていないかもしれないですけど、微笑みを浮かべながら淡々と悪口を言われるのって、かなり怖いですからね」

「あややや。私は悪口なんて言いませんよ」

「またまたー」

 

 今度は指でもスプーンでもなく、どこから取り出したのか大幣を突きつけてくる。巫女がよく持っている、先に白い紙がくくられた謎の棒だ。

 顔を逸らし、避けるついでに壁に掛けられていた時計を見た。いつの間にか話し込んでいたらしく、すでに三時になろうとしている。時間に余裕があるとはいえ、予想外だ。おやつ時だからか、人の姿も多くなっていた。かき氷はすでに溶けきり、甘ったるいシロップ水になっている。ここまで時間の経過に気がつかないだなんて、と驚いた。罪悪感を抱いているわけでもないだろうに、どうして足踏みしているのか。私は自分で思う以上に小心者なのかもしれない。

 

 あ、と声がしたのは、その時だった。早苗さんの持っていた大幣が机の上に置かれたストローを吹き飛ばし、地面へと落ちる。「あちゃー」と眉をハの字にした彼女はかがみ、机の下に潜り込む。彼女の鮮やかな緑の髪が足下に近寄り、どきりとする。蹴飛ばさないように足を引いた。それがいけなかったのかもしれない。

 

 机の下にいたらしい翅虫が、不快な低音と共に飛び上がった。早苗さんの髪を住処である草原と勘違いしたのか、彼女の魅力に虫ながら取りつかれたのか、まっすぐに向かっていく。ひぎぃ! と信じられない悲鳴を上げた早苗さんは、その場で飛び上がった。そう。机の下で飛び上がったのだ。そんなことをすればどうなるか。当然、頭を打つ。強く打ち付ける。ゴンと、鈍く、大きな音が木霊した。しんと店内が静まりかえる。驚きのあまり見開かれた客の目を一心に集めていた。こんなことで注目されても何も嬉しくない。

 

「文さん。頭が! 頭が割れました!」

「大丈夫です。割れてないですよ」

「何か冷やせる物を!」

 

 涙目で頭をかかえる早苗さんは、ぐらぐらと揺れる机に手を伸ばし、立ち上がろうとする。と、ちょうど机の揺れのせいで不安定になっていたかき氷のコップに手が当たった。ゆっくりと、だが着実にコップが倒れていく。倒れて、中に残っていた氷水がこぼれ落ちた。どこにか。早苗さんの頭にだ。

 

 元々緑の彼女の髪は、水に濡れたせいか、それともメロンのシロップのせいか濃緑になっていた。中腰の姿勢のまま、微動だにしない。ポタポタとしたたり落ちる水滴が哀愁を漂わせていた。

 

「あ、あやさーん……」ようやく口を開いた彼女の顔は、汗と涙とシロップでぐちゃぐちゃになっていた。

「冷たくて風邪引きそうです」

「頭が冷えてよかったじゃないですか」

 シャッターを切りながら、私は言う。こんな特ダネを逃すほど、のろまではない。

「さすが早苗さんですね。有言実行だとは」

「え?」

「溶けたかき氷を使って、ぶつけた頭を冷やしたんですね。驚きました」

「い、いや」

「ナイス応用。一ゴミ二鳥ですね」

 

 どういう意味ですか、と抱きついてくる早苗さんを引き剥がそうとする。が、彼女の力は意外なほどに強く、手こずる。仕方がなく、僅かに残っていたかき氷の溶け残りを早苗さんの頭にかける。と、彼女は呆気なく私の服を離した。

 

「なにするんですかー! 酷いです」

「い、いえ。あれですよ。えっと、敵のフリ作戦です」

「敵なんていないですよ!」

 まったくもって、彼女の言うとおりだった。

「助けてくださいよー」翼をも抱きしめ、早苗さんは言った。「食べ物こぼしのよしみで」

「早苗さん」

「なんですか?」

「やっぱり、早苗さんは可愛いですね」

 それってどっちの意味ですかー、と彼女は騒ぐ。それでも、素直な彼女は額面通りの意味で捉えずにはいられないようだった。

 

 彼女の泣き顔に、赤い色がさす。それはとても魅力的に思えた。 

 

 



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鬼のいる間に落書き

──狼と鴉──

 

 

 

 文さん、いったいどうすればいいんですか。

 

 いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、部下にそう言われたことがある。突如、妖怪の山へと現れた鬼、伊吹萃香さまが、あろうことか私たちの場所へとまっすぐに向かっていると分かったときのことだ。

 

 椛を呼びに来た白狼天狗は、そうと分かった瞬間、慌ててどこかへと行ってしまった。その気持ちは痛いほど分かるし、私も逃げ出したい。が、できない。おそらく伊吹萃香さまは、私に用があって、わざわざ来てくださいやがったのだ。哨戒の白狼天狗に私の居場所を尋ね、向かってきている。奇しくも、客人といった私の言葉は本当になってしまったわけだ。きちんと侵入者を排除してくださいよ、と今回ばかりは文句を言えなかった。鬼だけには逆らってはいけない。それは、この妖怪の山において常識となっていた。

 

「私、萃香様に会ったことないんですけど、出会い頭に殺されたりしませんかね」

「しませんよ、たぶん」

「そこは断言してくださいよ」椛はすでに泣き出しそうになっていた。

「頼みますよ、文さん」

「大丈夫ですよ。よっぽど無礼なことをしなければ」

「頼みますよ、文さん」自分が無礼なことをする可能性なんて考えていないのか、椛は懇願してくる。「本当にお願いしますよ。文さんが失礼なことをしても、私は助けませんから」

「なら、椛が失礼なことをしたら、私は萃香さまと一緒に殴ってあげますよ」

「ならってなんですか」とぶっきらぼうに言った彼女は「なら、そうなる前に私は、こい、こいって叫びながらバタバタします」と口を尖らせた。

「なんですか、それは」

「降伏の合図ですよ。まな板の上の鯉です」

「鯉はこいって鳴きませんよ」

 

 私には苦手な物が三つだけあった。一つ目は辛い食べ物、二つ目は椛、そして三つ目が鬼だ。かつて妖怪の山を支配していた彼らは、力が強く、豪胆で、そして乱暴だった。しばらく会っていなかったが、どうやら今もそれは変わっていないようで、萃香さまが三日三晩と宴会を繰り返し、喧嘩をふっかける、だなんて妙な異変を起こしたことは記憶に新しい。あれ以来、博麗神社に住み着いていたはずだが、ど

うして妖怪の山に来るのだろうか。何を今さら。

 

「文はさ、少し考えすぎなんだよ」

 

 ふと、萃香様との会話を思い出した。いつだったかは正確に思い出せないが、かなり昔、それこそ、私がまだ若かったときの記憶だ。よく覚えていたな、と自分で自分に感心する。そして、それが苦い記憶だと言うことも、すぐに思い出す。押し留めようとすればするほど記憶の波は押し寄せてきて、鮮明に甦っていった。

 

「鴉天狗はみんなそうだけどさ、もう少し世の中を信頼してもいいと思うよ」

 

 小さな体からは信じられないほど大きな酒瓶を右手に持ちながら、萃香様は言ってきた。左手には焼き鳥が握られている。そうだ。彼女は鴉天狗である私を焼き鳥屋へと連れてきていたのだ。本人は気づいているか知らないが、嫌がらせ以外の何でもない。

 

「そんなに疑心暗鬼だと、いつか本当に何も信じられなくなっちまうさ」

 頭に生えた二本の角が机上のとっくりを倒す。小さな体に不釣り合いなほど巨大で、威圧感があるそれは、彼女の力を証明しているかのようだった。

 

 微笑を浮かべたままお絞りで日本酒を拭き、「そうなんですかねえ」と曖昧に返事をする。彼女の茶色く長い髪が、私のふくらはぎに当たっていた。それだけで、恐怖を覚える。毛先が足を突き破り、貫通するのではないか、と本気で思ったのだ。が、萃香様はそんな私の気持ちなど考えもせず、肩を叩いてくる。

 

「文は疑いすぎなんだ。推理小説の主人公くらいに。もっと気楽にさ、相手のことなんて考えずに自由でやってもいいと思うけどな」

「推理小説、読まれるんですか?」

「あんなもん、読むわけねえだろ」

 

 あなたは少しくらい周りに気を遣うべきではないか、と心の中で罵倒する。もちろん口には出さない。死にたくないからだ。

 

「私は酒と喧嘩があれば生きていけるからなあ。小説なんて、めったに読まないよ。それに、ああいうのを読んでいると、文ぐらいに疑い深くなっちゃうだろ」

「そんなことないと思いますけど」

「そうなんだよ。もし文みたいな奴ばかりになったら、どうなると思う?」

「どうなるんですか」

「私の機嫌が悪くなる」

 

 それはたしかにまずいですね、と相槌を打つ。冷えた背筋を温めるために、手元に置かれた日本酒を一気に口に入れた。お、いいねえ。と萃香さまが嬉しそうに笑いかけてくる。「私はな、お前のことを気に入っているんだよ」と信じられない言葉を吐きながら、私の頭をぽんと叩いてきた。気に入っているのなら、もっと優しく接して欲しい。

 

「だからな、お前はこれ以上推理小説は読んじゃ駄目だ。もっと疑い深くなって、私の言葉すら信じられなくなってしまうかもしれん」

「そんなことないですよ。萃香さまの言葉は絶対です」お世辞でも、絶対に信じないという皮肉でもなく、本心だった。鬼はまっすぐで、嘘を嫌う。いくら萃香さまが、鬼の中では異常なほどに飄々としており、搦め手を好むといえど、鬼としての矜持を易々と破るとは思えない。

「それに、そもそも推理小説にそんな効果はありません。世界はもっと複雑で、あんな薄っぺらい本で謎が解決するほど分かりやすくないんです」

「ああ、文はもう手遅れかもしれない」

 萃香さまは額をぺしりと叩き、上気した頬をこれでもかと持ち上げた。

「まさか、推理小説すら疑い始めるとは」

 

 あれから何年経ったのか。数百年のようにも、数年のようにも思える。が、いずれにせよ大した差ではないと思っていた。鬼は何年、何百年経とうが、乱暴かつ自己中心的で、はた迷惑な存在に変わりないし、その恐怖が妖怪の山から消え去ることも決してない。そして、厄介なことに、彼女たちの性格は死んでも変わらないのだと、そう思っていた。

 

 だから、川の向こうから現れた萃香さまが、推理小説を持っていると気づき、唖然とする。あんなに嫌っていたのに、と叫びそうになった。

 

「よお、久しいじゃないか。射命丸文。元気してたか?」

「え、ええ。萃香さまもお変わりないようで」

「鬼が変わるわけないだろ?」

 

 ガハハ、と見た目に似つかわしくない笑い声を上げ、手に持った瓢箪を口へと持っていく。挨拶代わりの一杯、と言いたいのか、「やっぱ酒はいいねえ」と息を吐く。まだ距離があるのに、かなり匂った。酒臭い。よく見れば、彼女の紫のスカートも、白いノースリーブのシャツもどこか湿っていた。汗や川の水かと思ったが、すぐに違うと悟る。酒だ。彼女は文字通り、その無限に酒が湧き出る瓢箪を使い、浴びるほど酒を飲んだのだ。控えめに言って、狂っている。

 

 急いで跪こうとする椛を見て「いいよいいよ。頭が低いのは好きじゃないんだ」と制した彼女は、手足につけられた鎖を引きずり、川を渡る。魚たちが信じられない勢いで逃げていった。

 

「いやー、いきなり来て悪かったね。どうしても文に会いたかったから」

「ありがたいお言葉です。が、わざわざ足を運んでくださらなくても、何か用があるのなら、私の方から訪ねましたのに」

「いや、霊夢を巻き込みたくなかったんだ」

 

 ということは、私は何かに巻き込まれるのか。嫌すぎる。隣でガタガタと小刻みに震える椛を見る。何もされていないのに、白目になり、泡を吹いていた。無様だ。

 

 いつの間にか、太陽を隠していた厚い雲は消え去り、日光が降り注いでいた。恐ろしい鬼に恐れをなし、雲が逃げ去ってしまったかのようだ。太陽が「え、俺を置いて逃げるのかよ」と右往左往しているさまが目に浮かぶ。

 

「私が妖怪の山まで来たのはな、風の噂で興味深い話を聞いたからなんだ」

 

 ちょうど日差しが萃香様の顔に当たり、彼女は目を細める。茶色の長い髪がキラキラと輝き、つややかな肌とねじれた二本の角がぽうっと浮かび上がった。

「まあ、暇つぶしと今後の参考を兼ねて、詳しい話を聞きに来たんだよ」

「風の噂、ですか」

「そうだよ。文はそういうのに目がなかっただろ」

「それって、その持っている推理小説に何か関係があるんですか?」

 え、と一瞬ぽかんとした彼女だったが、すぐに破顔する。子供のように顔をくしゃりとさせ「拾ったんだよ」と薄い胸を張った。

「ついさっきね。さすがに神社から持っては来ないさ。でも、最近よく読んでいるから、ありがたかった」

「読んでいるんですか」信じられない。あの萃香さまが。

「はまっているんだ。面白いし、参考書代わりにもなる」

「参考書、ですか」

「ほら、私って今まで地底にいただろ? 封印されてたといってもいいけど、その時にちょっと色々あってな」

「色々?」

「迷惑をかけたんだよ」

 むしろ、萃香さまが迷惑をかけていない方が珍しい気もしたが、何も言わないでおく。代わりに「どんな迷惑をかけたのですか?」とメモ帳を出しながら訊ねた。

「言いたくないね」

「え?」

「強いて言うなら、そうだな。心臓マッサージをした」

「はあ?」

 

 まあ、いいじゃないか、と珍しく煙に巻こうとする彼女の顔は、見たこともないほど悲しげだった。写真を撮ることすら憚られる。未だ、地底と地上は不可侵であり、私も博麗の巫女ですら赴いたことがない。鬼をここまで動揺させるなんて、どんな場所なのか。少し、興味が湧いた。

 

「そこで学んだんだよ。少しは世界を疑わないといけないなって。思い込みはよくないなって、そう思ったんだ」

「それで、推理小説を読んで、何か分かりましたか?」

「誰が死にそうかは分かるようになってきたよ」

「意味ないじゃないですか」

「そんなことはない」

 

 彼女はむっとし、下唇を噛んだ。子供のような仕草だが、萃香さまがやると、威圧感を含んで、恐ろしく感じる。

 

「誰が死にそうか分かるってのは、便利だよ。例えば、いま一番死にそうなのは」

「死にそうなのは?」

「そこでぶっ倒れている白狼天狗だ」

 慌てて隣を見る。椛が泡を吹いたまま、仰向けに倒れていた。顔面蒼白で、痙攣してすらいる。えええ、と驚きの声を上げてしまう。たしかに萃香さまは恐ろしいが、無条件でぶっ倒れるほどではない。死んだふりかとも思ったが、それにしては大げさだ。

「あとは、その白狼天狗がこうなった犯人を見つければ、推理小説ができるな」

 朗らかに笑う彼女は、自分が原因だとは、微塵も思っていないようだった。

 

 

 

 

 

「それで? いったい、どんな風の噂を聞きつけて、妖怪の山にいらっしゃったんですか?」

 

 私は倒れた椛を自室のベッドに降ろし、萃香さまに訊ねた。どうしてこんなことに、と嘆かずにはいられない。それもこれも、全部椛のせいだ。

 

「正直に言えば、心当たりがありすぎて分からないのですが」

 

 萃香さまは、客人用のカップに入ったお茶を飲みながら、そうだねえ、と小さな体をゆらゆらと揺らした。私の家を壊さないでくださいよ、と呟く。そもそも、椛が倒れさえしなければ、彼女を自宅へと招かなくても済んだのに。そんな私の気も知らないで、椛はせっかく体を包んであげた掛け布団を蹴り飛ばしてきた。もう一度かけ直す。嫌がらせだ。

 

「まあ、私もあくまで噂でしか知らないから、詳しくは知らないけどさ」

「大体でいいですよ」

「簡単に言えば、不抜けたよな、お前ら」

「はい?」

「私たちがいた頃は、もっとピリピリしてただろ。河童も天狗も仲良くさ、必死に生きてた」

「まあ、そうですね」

「だけど、今はぬるま湯に浸かっているように見えるんだよねえ。まあ、それだけならいいんだ。理由は分かるし。怖い私たちがいなくなったら、気が緩むのも、まあ分かる」

「え」

「なんで驚いているんだよ」

「い、いえ」まさか、ご自身のせいで妖怪の山が萎縮していたと分かっているとは思いませんでした、だなんて口にできるわけがない。

「組織は上司が嫌われているとまとまりやすいんだよ。地底でもそうだった」

「はあ」

「それがなくなれば、組織が乱れるのは仕方が無いかもしれない。けど、だからといって、賄賂はよくないだろう」

「はあ。はあ?」

「知り合いに聞いたぞ。『最近、妖怪の山で賄賂が横行してるんだって! 王侯貴族みたいだね。おー、こぅわい』ってな」

「誰ですかそんな下らない駄洒落を言ったのは」

「面白いだろ?」

「面白いです」

 

 面白くない。が、ケラケラと笑う彼女を前に、そんなことは言えない。

 

「というより、そんな情報、私は全く知らなかったんですが」

「え」

「そんな興味深い話があれば、喜んで記事にしますよ」

「てっきり口止めされていると思ったんだけどなあ。本当に知らないのか」

「もちろんです。というより、それガセじゃないんですか?」

「かもしれない」彼女はあっさりと認めた。ガセって響きがいいよな。風邪、畦、ガセと意味不明なことも言っている。

「まあ、どうせ暇つぶしだからな。ガセだったら、安心できるってもんだよ」

「本当だったら是非連絡ください。記事にします」

「それは嫌だな」私の家だというのに、椅子に深く腰掛け、机に足を乗せたまま、手元にあった新聞をたぐり寄せる。「文の新聞じゃあ、誰にも読まれないだろ?」

「そんなこと」

「私もやっぱり、変わったかもしれないけど、文もやっぱり変わったよ」

「突然、なんですか」私はまだ自分の新聞を馬鹿にされたことについて納得できていない。が、彼女はそんなこと、もう忘れたかのようだった。

「何というか、丸くなったよな。いや、むしろ尖ったと言うべきか」

「どういう意味です?」

「お前、昔から妙に腰が低かっただろ。私が空は黒いと言えば、そうですね、と頷くし、鴉は白いよなって笑ったら、まったくです、って鼻を鳴らす。馬鹿なふりをしているのか、それとも他に考えがあるかは知らないけど、あれ、中々に薄気味悪かったよ。まあ、今もだけど」

「そんなことないですよ」

「ある。だけど、まあ。昔よりはマシになった。やっぱり、彼女のおかげか?」

「彼女?」

「そこで寝ている白狼天狗だよ」

「そんなことないですよ」

 

 即答だった。自分が考えるより早くに口を開いていた。私はそもそも丸くないし、尖ってもいない。まして、椛が私にいい影響を与えているなんて、絶対にあり得なかった。彼女が私に与えているのは、ストレスと暴言のレパートリーだけだ。

 

「椛は生意気で腹立たしい部下ですが、それ以上でも以下でもありません。苦手な存在です」

「たかが白狼天狗をお前が意識するとはね」

「目の前で飛び回る蚊を振り払っているだけです」

「お前は蚊を自分の家の布団に寝かせるのか」

「虫愛好家なんですよ」

 

 私たちの視線に気づいたのか、椛はその場で身じろぎし、うーんと唸り声をあげた。当然のように布団は蹴り飛ばされている。服がはだけ、健康的な肌が目に刺さる。顔色は随分とよくなっていた。ぐがー、といびきをかいてすらいる。

 

「上司の家で、よくもまあ。情けないったらありやしませんよ」

「なら、起こせばいいじゃないか」

「もっと、いいことを思いつきました」

 

 部屋の奥、机に置かれた万年筆を手に取る。いつも記事を書いている机だ。筆に新聞用のインクをたっぷりとつけ、だらしない格好の部下へと近づく。白い髪を撫で、額を露わにさせる。それでも彼女は起きない。気持ちよさそうに眠っている。呑気な間抜け面だ。

 

「額に文字を書くのか?」萃香さまが、ありきたりだな、と肩をすくめる。

「ありきたりな方法で辱められるのって、屈辱じゃないですか?」

「悪趣味だ」そうは言うが、萃香さまもどこか期待しているようだった。

 

 とりあえず、額に肉とでも書くかな、と考えたが、さすがに面白くない。だが、何と書けば適切かも分からなかった。

 

 鬼、と書いたことに大した意味は無かった。自分の家に鬼が来る、だなんて昔話もびっくりな現状に動揺していたのかもしれない。だが、思いのほか似合っていたので、満足だった。

 

「何を書いたんだ? 犬か?」

「ああ、えっと。はい」

「また、ありきたりだね」

 

 たしかにそうですね、と笑う。嘘をつくな、と怒られるとも思ったが、こんな些細なことまで気にかけていないのか、気づいた様子はなかった。

 

 素直に、額に鬼と書いたんですよ、と言えばよかったのかもしれない。が、鬼を舐めるな、と怒られそうで、怒ったついでに家を壊されそうだったので、やめた。どうして鬼と書いてしまったのかと後悔に苛まれる。消そうにも、なまじインクで書いてしまったせいで消えない。しぶしぶ、布団のシーツの端を破り、椛の頭に巻いた。

 

「なにやっているんだ」当然、萃香様が聞いてくる。

「いえ、ほら。怪我をしたから治療しておきましたよ、と伝えておいて、いざ家に帰って鏡を見たら、そこに落書きがしてあったら、面白いじゃないですか」

「お前、性格悪いな」

「いい性格していると言っていただけると幸いです」

「絶対に言わない」

 

 ずっと頭上で騒いでいたからか、椛が大きく寝返りを打った。ううん、と声を漏らし、ゆっくりと目を開く。私の顔をぼぅっと見つめ、のんびりと起き上がる。

 

「起きたか」萃香さまに呼びかけられても、椛は返事をしない。ピクリと耳を動かし、大きく欠伸をする。そして、そのまま布団に倒れ込んだ。また、目を閉じる。

「嘘でしょ」私は萃香さまの前だというのに、うろたえる。どうして上司が目の前にいるのに寝直すのか。椛の頬をペチペチと叩き、腹を押さえて揺さぶる。

「いい加減起きてください。なんで人の布団で安眠を試みているんですか」

「あ、あと」椛は目をつむったまま、眠そうな間延びした声を出す。

「あと、何ですか」

「あと五分」

 

 萃香さまが噴き出した。私もつられて笑ってしまう。そこで、ようやく椛も意識が覚醒したのか、がばりと勢いよく起き上がった。笑っている私と萃香さまを見て、きょろきょろと忙しなく辺りを確認し、そして布団を見下ろした。ようやく状況を理解したのか、掛け布団を顔付近までもっていき、「おはようございます」と消え入りそうな声を出す。

 

「あやややや。おはようございます。いいんですか? あと五分くらい寝ててもいいんですが」

 

 椛の顔が真っ赤になる。目は羞恥で潤み、情けなく眉をハの字にしている。そして、おもむろに布団の上へと寝そべった。また寝直すのか、と驚愕していると、手を頭上でくみ、体をバタバタとくねらせ始める。突然の奇行に驚いたのか、萃香さまは呆然としていた。

 

 まだ寝ぼけているのだろう。椛はいま自分自身が行っていること自体が、失礼極まりないと気づいていない。 

 

「まな板の上の鯉なんかより、よっぽど情けないですよ」

 

 私の言葉に萃香様が頷くのが、視界の端に見える。が、彼女の目には、微笑ましい子供を見るときのような慈愛が浮かんでいた。

 

 こい、こい、と馬鹿みたいに、それこそ本当の鯉のように口をぱくつかせる部下にカメラを向ける

 

 カシャリと小気味よい音が私たちを包み込んだ。

 



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正直者の探偵

──神と鴉──

 

 

 

 仏の顔が三度までしかないのだとすれば、精々ふつうの人間は二度までしかないはずであるし、まして待つことを嫌う早苗さんの顔は一つしかないはずだ。そして、冷静で寛大、なおかつ偉大な私の顔は、四度もある。そう。四度もあるのだ。だというのに、私は苛立ちを隠すことに苦労していた。

 

「文さん、ひとつお願いがあるんですが」かき氷を食べて、ご満悦の早苗さんは、頭からシロップを被ったことなど忘れたかのように、天真爛漫に笑って、言った。

「妖怪の山に行く前に、少し寄りたいところがあるんですけれど」

「早苗さん」空を見上げる。太陽はまだ高い位置にあるが、それでもだいぶ西へと動いていた。甘味屋の前の大通りも、人の数がまばらになってきている。

「早く行ったほうがいいと思います」

 

 苛立ちを表に出さないように、あえて優しげな声を出す。たしかに、私が彼女の行動にケチをつける筋合いはない。頼み事をしたのはこちらだ。そして、負い目もある。だが、いくらなんでも身勝手ではないか。

 

「そろそろ妖怪の山に向かいましょう。日が暮れてからでは、色々面倒です」

「まあ、確かにそうですけど」

「また食事ですか? そんなに食べると太りますよ」

「違いますよ!」

「なら行きましょう。善は急げです」

「急がば回れって言葉の方が私は好きですね」

「早苗さん、こんな話を知ってますか」

 

 大人げもなく私は言い、そしてすぐに後悔した。何を熱くなっているのだ。何を焦っているのだ。何を恐れているのだ。私は鴉天狗。落ち着かなければならない。

 

「昔々、あるところに怠慢な鴉天狗がいました」

「はたてさんのことですか?」

 

 頭を冷やしながら、私は一度息を吐く。質問に答えなかったのは、何のことはない。図星だったからだ。

 

「その天狗は何をするにもノロマで、集会には遅れてくるし、記事の情報も古いし、トイレも長いんです」

「最後のは許してあげましょうよ」

「そしてある時、彼女の家が火事になってしまいました。が、ノロマな彼女は燃えているのに気づきながらも、中々家から出てこず、結局」

「結局、どうなったんですか?」

「燃え盛る布団で爆睡しているところを救出されました」

 

 早苗さんは苦笑した。何を馬鹿なことを、と私を軽蔑しているに違いない。が、残念なことに、笑えることに、嘘でも誇張でもなく、真実だった。

 

「あんまりのんびりしてると、早苗さんも痛い目に遭うってことですよ。速さは全てを解決します」

「そんなことないですよお」文さんは早すぎるんです、と彼女はぷんすこと怒る。

「私、こう見えて天邪鬼なんです」

「天邪鬼? 弱小妖怪の?」

「ああ、妖怪の方じゃなくて、性格の方です。昔からそうでした。宿題とかも、やりなさい、って言われたら、やりたくなくなるタイプで」

「なら、やめろって言われたらやるんですか」

「それがですね、やらないんですよ」

「やる気がないだけじゃないですか」

「でも、今は違います!」いきなり早苗さんが叫んだせいで、道行く人間がぎょっとし、こちらを見てくる。が、すぐ目を戻した。ああ、早苗さん、と微笑んでいる。

「今の私は、あの頃と違って、進化した天邪鬼なんですから」ダチョウ倶楽部ですよ、と訳の分からないことを彼女は口走った。

「やめて、と言われたら、しっかりやりますから」

「しっかり、ですか」

「文さんもですよ! やめろやめろって言われたら、やらなきゃ駄目ですからね。暗黙の了解です」

「早苗さん」

「なんですか?」

「妖怪の山に早めに行くの、止めましょうか」

 それはずるいですよ、と言う彼女は、それでも、しぶしぶと頷いた。

 

 

 人里と妖怪の山は決して近いわけではない。それもそのはずで、人間たちにとって、妖怪は天敵に他ならず、その妖怪の中でも凶暴で、強い妖怪が多数存在する妖怪の山の近くに、人間が住み着くはずもなかった。たまに、気狂いな奴が山へと入ってくることもあるが、たいていの場合、白狼天狗ですら気づかない。気づく前に、木っ端妖怪に殺されるからだ。

 

「でも、さすが文さんですね!」真っ青な空を滑空している中、早苗さんは大声で叫ぶ。それも向かい風に流され、ほとんど聞き取れない。

「あっという間に妖怪の山です。さすが、幻想郷最速!」

 

 急いでいる理由の半分くらいが早苗さんのせいだったが、まあ、それはいいとしよう。いつも通りにこやかで鬱陶しいのも、まあいい。だが。

 

「早苗さん」

「なんですか?」

「どうして私の背中に乗っているんですか」

 赤子のように私にしがみついてくることだけは、我慢ならなかった。

 

 私とさほど背丈が変わらぬ女性が、全体重を私に預け、肩に手を回してくる。たしかに早苗さんは子供っぽいが、ここまでとは。

 

「文さんの翼、すべすべしてて気持ちいいですよね」

「気持ち悪いですよ。というより、降りてください」

 

 えー、と不満そうな声を上げ、顔をすぐ横へと近づけてくる。長い緑の髪が視界にチラチラと入り、気が散る。

 

「でも、私は文さんほど早く飛べませんから、こっちの方がいいですよ」

「確かにそうですが」

「でしょ? 私だって、何も考えずに、いきなり文さんの背中に飛びついたわけではないんですから。ちゃんと考えているんです」

「それで? 本心は?」

「相棒の背中に乗って敵地に乗り込むのって、格好良くないですか?」

「格好よくないし、相棒でもないです」

 

 私の言葉が聞こえなかったのか、それとも聞く気が無いのか、早苗さんは続ける。

 

「それに、ほら、人の上に立つような存在になりたいんですよ、私は」

「はい?」

「やっぱり神様はみんなを引っ張っていくリーダーにならなきゃ駄目だと思うんですよね。諏訪子様や加奈子様みたいに。ですから、こうして文さんの上に立って」

「座ってるじゃないですか」無茶苦茶な言い分にため息が零れる。

「それに、どちらかと言えば、今の早苗さんは人の上に立つ、というよりは、おんぶに抱っこと言った方が正しいかと」

「せめて、人の上に座っていると言ってほしいです」

「どういう意味ですか、それ」

「あれですよ。今からお前を倒すぞっていう意思表示です」

「え?」 

「悪いことをしたお前を倒すぞっていう。ほら、漫画とかでよく見るじゃないですか。主人公が倒れた人の上で座っているって感じで」

「早苗さんは誰も倒していないし、それは悪役側の行動っぽいと思います」

「たしかにそうですね。それに『人の上に座る』って、よく考えたらださいです」

 

 妖怪の山が近づいてくる。哨戒の白狼天狗が遠目で私に一礼するのが見えた。軽く右手を挙げ、その上を通り抜ける。目的地は決まっていた。例の、河川のほとりだ。早苗さんも、そこで私がよく休んでいるのを知っているようで、特に何も言わなかった。今では、あそこは実質的に私専用の休憩所と化している。よっぽど無鉄砲で愚かな妖怪以外は、私を恐れてやってこない。そこで休んでいる時、私は疲れのせいで苛立っていると、誰もが知っているからだ。思い込んでいると言ってもいい。早苗さんも含めて、だ。

 

 だが、今日は珍しく妖怪の姿があった。私に気づくやいなや、「おーい!」と大きな声で呼びかけてくる。川原にいるのかと思ったが、なぜだか彼女は川の中央付近で立ち泳ぎしていた。いくら河童でも、服を着たまま水に入るのはやりすぎだ。

 

「遅くなってすみませんね」ゆっくりと地に足を降ろしながら、私は謝った。衝撃を吸収しきれなかったせいで、早苗さんが「ぐえぇ」と蛙の潰れたような声を出す。さすがに申し訳なくなり、謝ろうとしたが「いやー、楽しかったです」と屈託のない笑みを見せてきたので、「それはよかったです」と返事をかえた。

「いいわけないだろ!」叫び声を上げたのは、川に浸かりっぱなしの河童、河城にとりだった。水色のコートを翻しながら、ジャバジャバと泳いで向かってくる。

「来るのが遅いよ。間に合わないかとヒヤヒヤした」

「あやややや。申し訳ないです。少し、野暮用が重なりまして」

「どうせ、美味しいご飯でも食べてたんだろ?」

「いえ、そんなことはないですよ」

 

 美味しくないご飯を食べていたのだが、これは言わなくてもいいだろう。と思っていると、「そうですよ。美味しいご飯を食べていました」と早苗さんが満足げに口にした。にとりが目で刺してくるが、無視する。あれを美味しいとは口が裂けても言えない。

 

「間に合ったのでいいではありませんか。急がば回れって言いますし」

「待ち合わせの時間はもう過ぎてるぞ」

「待ち合わせ?」と早苗さんはきょとんとする。「文さん、にとりさんと待ち合わせの約束をしてたんですか?」私とにとりを交互に見つめながら、彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。「だったら、そう言ってくれればよかったのに。さすがの私も急いで向かいましたよ」

「さすがのって」にとりが苦笑する。私もつられて笑ってしまった。こほんと咳払いをし、場を整える。

「別に言ってもよかったのですが」私はにとりに目配せをした。

「約束ってのは、当人だけの秘密にしておくべきかな、と思いまして」

「秘密の約束……なんか、格好いいです!」

「早苗さんは、格好いいって言えば、何でも許してくれそうですね」

 

 何が彼女をそこまで「格好いい」という言葉に執着させるのか。さっぱり分からない。分かりたくもなかった。

 

「でも、なんでにとりさんと待ち合わせしてたんですか?」早苗さんは、格好いいと言った時の嬉しそうな表情のまま首を左に傾けた。「にとりさんも、襲撃事件の犯人を捜してるんですか?」

「違いますよ」にとりが何かを言う前に、慌てて口を挟む。「彼女はまあ、二つの目的で来てもらったのですが」

「二つ?」

「一つは早苗さんにとっても大事だと思います」

「おい」にとりが顔を寄せ、しかめっ面で囁いてくる。「どういうことだ」

「いいじゃないですか。先払いですよ」早苗さんが「先払い?」と今度は右側に首を傾げた。目を合わさず、聞こえないふりをして言葉を続ける。

「大丈夫ですよ。私を信用してください。そうじゃなきゃ、真実に」

「分かった。分かったよ。おお、怖い怖い」にとりが大げさに肩をすくめる。茶化しているように見えるが、その実、本当に恐怖しているのは明らかだった。誤魔化そうとしても、無駄だ。

「あれだね。やっぱ、文は椛が絡むと面倒くさいね。天邪鬼くらいに」

「暴言は止めてください」

「文さん文さん。私は進化した天邪鬼ですよ」早苗さんは胸を張った。

「褒めてください」

「それ、本当の天邪鬼の前で言わない方がいいですよ」と早苗さんのおでこを指で弾き、私は注意する。「絶対に馬鹿にされます」

「分かったよ。言うよ」にとりは渋々と項垂れた。

「言うって、天邪鬼にですか?」

「違うよ。私がここに来た理由だよ。それを今から言うんだ。正直にね」

 

 いつの間にか、にとりの服は乾ききっていた。あんなにびしょ濡れだったのに。何らかの細工をしているに違いない。その、不思議な服をぱさりと広げ、にとりは、

ぽつぽつと言葉を零し始める。

 

「最近、妖怪の山が何かと物騒なのを知っているかい?」

「知ってます知ってます!」早苗さんが声を上擦らせる。「人里でも話題ですよ」

「私は、その被害者なんだよ」

「え?」

「深夜、一人で川辺をうろついていたら、いきなり襲われたんだ。怖かったよ。本当に殺されるかと思った」

 

 彼女は、どこぞの役者のように、ふらふらと立ち上がり、私たちに背を向けた。そのまま川辺へと歩いていく。

 

「私もなかなか腕には自信があったんだけど、とても敵わなかったね。あっという間だったよ。いきなり切りつけられて」

 

 彼女は例の、あり得ないほど速乾性の服をまくりあげ、太ももを露わにした。綺麗に包帯が巻かれており、少し血がにじんでいる。撥水性のようで、表面には水滴が浮かんでいた。

 

「いきなり組み付かれてさ、闇雲に暴れて、何とか川に飛び込んだんだよ。さすがに、水中までは追いかけてこなくて、助かったんだ」

「何か悪いことをしたんですか?」珍しく真剣な顔つきな早苗さんは、どこか不安げな声を出した。「襲われるのは悪いことをした妖怪ばかりだと聞きましたが」

「早苗さん、逆におたずねしますが」らしくない彼女の態度のせいで、私もかしこまってしまう。「河童が、この河城にとりが悪事をしていないと、本気で思っているのですか?」

「いや、まあ。うん。なるほど」

「否定してくれよ」

「日頃の行いを考えてください」口を尖らせるにとりに、私は冷たく言い放つ。

「普段から相手の信用を得ようと、積極的に行動しないからこうなるんです。嫌いな相手に対しても、腰を低くして、さも貴方のためにって感じで行動するのが、信用されるコツですよ」

「文はいつも私に対して頭が高いじゃないか」

「低くしてこれということです」

 

 早苗さんを見習ってください、と私は考え込んでいる現人神を指差す。

 

「いつも素直だからこそ、誰も早苗さんが嘘をつくだなんて思わないんですよ。日頃の行いの成果です」

「それは違うだろ」

「え」

「早苗はさ、私ですら、考えていることが分かるからね。日頃の行いとか、そういうのじゃなくて、分かりやすいんだよ」

「そんなことないですよ」私は否定する。

「そんなことないです」早苗さんも、むっとしながら首を振った。

「こう見えても、中学生の頃は口が堅いって有名だったんですから」

「口が堅くても、顔が柔らかいからなあ」

「どういう意味ですか」

「顔に出るんだよ。何を考えているか、よく分かる。さとり妖怪入門編だ」

「じゃあ、私がいま、何考えているか、当ててくださいよ」

 

 目元に皺をぐっと寄せ、口を真一文字に結んだ早苗さんは、両手の人差し指を立て、自分の顔を指した。せっかく結んだ口の端は、すでに解けかけている。あまりの愚行に、頭が痛くなる。分かっていた。早苗さんが嘘をつかないと思われているのは、日頃の行いのおかげではない。嘘を吐いても、すぐにバレてしまうせいだ。だからこそ、私は彼女を探偵役に選んだのだと、思い出す。

 

「やっぱり、にとりの言う通りですね。前言撤回します」

「文さんまで! だったら、いま、何考えているのか当ててくださいって」

「そうですね。『今日の晩ご飯は何かな』とかですよね、どうせ」

「どうせって」語気を強めた早苗さんだったが、すぐにしょんぼりと頭を下げた。図星だったのだろう。夕方近くの時間帯で、急に何かを考えろと言われた場合に、大抵の人が考える話題を伝えただけなのだが、単純な早苗さんは、その『大抵の人』という枠内に入っていたらしい。やはり、分かりやすい。

 

「まあでも、早苗さんのそれは、いいところですよ」

 

 項垂れた早苗さんを励まそうと思ったわけではないが、私は彼女に笑いかけた。「単純とは、つまり、素直だということです。もし、何か疑わしいことがあっても、早苗さんの表情を見るだけで判断できますから。顔が柔らかい嘘判定機です」

 

「それ、褒めてないだろ。何だよ顔が柔らかい嘘判定機って」とにとりが突っついてくる。

「そんなことないですよ、私は褒めています」

「というより、文が誰かを褒めたところを見たことがない気がするね」

「あやややや。にとりは嘘が下手ですね」

 

 げえ、と嫌そうな顔をしたにとりは、未だにむっとしている早苗さんを見て、ちらりと私に目を移した。「子供っぽいなあ」とまたもや早苗さんを煽り始める。

 

「早苗はやっぱ子供っぽいよ」

「そんなことないですよ」

「ある。でも、文と同じように言えば、それも早苗のいいところだよ」

「どういいんですか?」

「子供は大人から色んな物をもらえる」

 

 にやりと微笑んだにとりは、ポケットから、小さな黄色い何かを取り出した。丸っこいすべすべとした物体から一本のひもが飛び出し、先に輪っかがついている。

 

「これは私の発明品でね。何か緊急時に、この輪っかを引っ張れば、居場所が私に伝わるようになっているんだ。警報音も鳴るから、威嚇にもなる。これを早苗にやるよ」

「防犯ベルじゃないですか!」早苗さんは叫び声を上げた。さも、怒っています、と言ったように頬を膨らませているが、目元は緩んでいた。その、防犯ベルとやらを受け取り、しげしげと見ている。

「いやー、懐かしいですね。私も昔、つけてましたよ」

「人間の間では有名な物なんですか?」

「子供はみんな持ってましたね」

 

 なら早苗さんが持っていても違和感はないな、と呟くも、幸運なことに聞こえていなかったようで、早苗さんはふふんと鼻を鳴らし、膨らませていた頬を元に戻していた。

 

 早苗さんを見て満足げに頷いたにとりは、腕に巻かれた時計に目を落とした。針がキュウリで表されている。すでに四時前になっていた。いつの間に。せっかく急いできたのに、結構ギリギリになりそうだ。

 

「そういえば、にとりさん。文さんと私が来たとき、間に合うかヒヤヒヤしたって言ってましたけど、いったい何に焦っていたんですか」

「ああ、それは」にとりは、懐から何かを取り出し、早苗さんに渡そうとした。と、その時、するりと一枚の写真がこぼれ落ち、ひらひらと足下に落ちる。濡れないようにするためのビニールに入ったそれを、早苗さんは何の戸惑いもなく拾い上げ、見た。

「あの、これ」

「おおっと!」にとりは、やけに滑稽な叫び声を上げ、写真を取り上げようとした。が、早苗さんが一歩下がり、避ける。没収を諦めたかのように、にとりは頭を下げ、代わりと言わんばかりに、一枚のチラシを渡した。例の、妖怪の山武闘大会のチラシだ。今から、私が参加する大会のチラシだ。が、早苗さんはそれに見向きもしなかった。にとりの写真を鋭い目で見ている。

 

「その写真のことは忘れてくれよー」目を細め、私を睨みながら、にとりは淡々と、言った。頬が心なしか赤くなっているような気もする「足を突っ込むなよ」

「文さん、私、すこし野暮用ができました」にとりに嫌な笑みを返した早苗さんは、どこか神妙な顔つきのまま、無理やり頬をつり上げた。

「なので、すみませんけど、ちょっと一人で調べてきます。大丈夫ですよ。約束通り、異変の解決に関することです」

「いったい、どこに行くんですか?」

「秘密です。まあ、強いて言うのであれば」口先で人差し指を立て、その場でくるりと回った彼女は、すでに歩き出していた。

「私、やめろって言われたら、やりたくなるタイプなんですよ。進化した天邪鬼なんです」

 

 去り際に早苗さんは、こちらを振り返った。にんまりとした太陽のような笑みに、ほんの少しの悪意がさす。それは、とても魅力的だった。

 



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記念日記念

──狼と鴉──

 

 

 文さんって、どうしてそんなに強いんですか。

 

 いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、部下にそう言われたことがある。たしか、妖怪の山武闘大会が近くなり、椛の訓練相手として付き合わされていたときのことだ。

 

「いくら鴉天狗だからって、さすがにおかしくないですか?」

「おかしくないですよ。それに、私は強くありません」

「え?」

「椛が弱いのです。昨日の鯉のものまねを引きずっているんですか?」

 

 侮辱されたと思ったのか、眉をつり上げた彼女は、剣と盾を慎重に地面へ置き、川へと向かっていた。バシャバシャと顔を洗い、汗を洗い流している。この晴天の中、朝から昼時まで訓練していたせいで、二人とも汗だくだった。私も彼女と少し距離を置き、顔を洗う。清らかな水が汗と疲労を洗い落としてくれた。

 

「言っておきますけど、椛を弱いと言ったのは、決して煽っているわけではありませんよ」喉を潤し、ついでに私は言った。

「いつもであれば、ここまで圧勝できませんし、したこともないです。が、今日の椛はいつも以上に動きが鈍かった。別に大会で椛が負けようが、ボコボコにされようが興味ないですけど、私のせいにしないでくださいね」

「しませんよ」

「それに、本当に強い妖怪は、自分のこと強いって言いませんよ。本当に仲悪い人は仲悪いって言わないように、優しい人が自分を優しいっていわないように、ね」

「ということは、自分は強くないって言う妖怪の方が強いってことですか?」

「その通りです。ですので、強くないと謙遜した私は、実は強いってことです」

「結局強いって言っちゃってますよ」

 

 ぽつりと呟く彼女に、いつもの元気はなかった。おや、と違和感を抱く。よっぽど暑いのか、スカートが水に濡れるのも気にせず腰付近まで川に浸かった彼女は、真っ白な髪をいじりながら、何かを耐えているようだった。

 

「椛、もしかしなくても、足を怪我していますね」私は確信を持ちながら、訊ねる。

「そんなことないですよ」

「なんで意地を張るんですか」

「だって文さん。怪我したって言ったら、爆笑しますよね。馬鹿じゃないのって」

「否定はしません」

 

 現に、私の頬はいつ決壊してもおかしくないほど緩みきっていた。

 

「でも、隠したら駄目ですよ。きちんと私に言わないと」

「なんでですか。私は子供でもないし、文さんは親でもない。もっと言えば、そこまで親しくもないじゃないですか」

「上司だからです」

「はい?」

「言ったじゃないですか。椛は下手に意地を張るから駄目なんですよ。白狼天狗は、些細なことでも上司に判断を仰がないと駄目です。レタスですよレタス」

「ダメダメうるさいですよ。それに、上司にそんな権限はないですし、前も言いましたけど、言うとしても文さんじゃなくて大天狗様に」

「いいから」

 

 しつこい私に根負けしたのか、深い溜め息を吐いた彼女は、重い足取りで川から上がってきた。肌に張り付いているスカートを剥がし、膝辺りを見せてくる。青紫色に変色したそれは、どう見ても重傷だった。

 

「これ、骨に罅でも入っているんじゃないですか?」

「ですね」

「ですねって」

 

 ふつふつと、大量の疑問が湧き上がる。いったい、どこで、どうして怪我をしたのか。医者には行ったのか。普通に歩いていいのか。頭の中に洪水が押し寄せてくる。が、そのあふれ出した疑問はすぐに収まり、洪水は一気に消え去った。どうして私が混乱する必要がある。椛が怪我をしたところで、私に何の影響もない。むしろ、笑い話になる。そうだ。なら、私は何をするべきか。笑うべきだ。そのはずなのに、頬が引き攣り、上手くいかない。

 

「とりあえず、写真を撮ります」咄嗟に出たのは、自分でも意味不明な言葉だった。

「え? なんでですか」

「記念ですよ記念」

「記念って、なんの」

「椛の膝に罅が入った記念です」

「何ですかそれ。そんなの記念になりませんよ」

 

 ですよね、と言いたくなる。耳が痛くなるほどの正論だ。だが、椛の正論に頷くくらいであれば、訳の分からぬ戯れ言を突き通す方がましだった。

 

「いいんですよ。記念ってのは、本来は嫌なことを忘れないためのものですので」

「そんな訳ないですよ」

「ですから、昨日は私にとっての記念日なんですよ」

「文さんの膝にも罅が入ったんですか?」

「もっと酷いですよ」考えないようにしていたが、余計な言葉を口にしたせいで、思い出してしまった。

「昨日は、萃香さまが私の家に居候した記念日です」

 

 昨日、寝ぼけた椛がベッドの上の鯉、という一発芸を見せた後、しばらく私と萃香さまは爆笑していた。意識が覚醒した椛は、ずっと顔を赤くし、額を床にこすりつけながら、萃香さまに謝っていた。心に傷は入ったかもしれないが、少なくとも、その時には膝に罅なんて入っていなかったはずだ。

 

「今から大天狗のところに行こうと思っているんだけどさ」一通り笑い終わった萃香さまは、土下座する椛の顔をのぞき込んだ。「お前も一緒に来るかい?」

「え?」

「ほら、文は家でご飯の準備をしなければならないだろ? だから、代わりに付き添ってくれよ」

「ちょ、ちょっとお待ちください」私は慌てて口を挟む。「別に、萃香さまなら、付き添いなんていらないでしょう」

「何だよ。文には関係ない。それとも何だ? この白狼天狗を捕られたくないのか?」

「まさか」

 

 萃香さまは、気に入った奴を連れ回す、といった習性があった。鬼が人をさらうのは珍しくはない。が、はた迷惑なので止めてほしかった。別に、椛がさらわれても問題ないし、まして捕られても困らない。が、叱られたばかりの大天狗様のもとへ、侵入者である萃香さまと共に部下が行くのは、さすがによろしくない。

 

「それに、ご飯の準備ってなんですか。人里に食べに行く予定だったんですけど」

「決まってんだろ」と萃香さまは、何も決まっていないのに、言った。

「私と、この白狼天狗、そしてお前自身のご飯だよ。文の手料理を楽しみに、わざわざ妖怪の山まで来たんだ」

「さっき、賄賂を調べるとか言ってませんでしたっけ」

「そっちがついでだよ」

 

 本気か冗談か分からないが、頼まれてしまった以上、断ることはできない。おそらく、私と椛を同じ食卓に並べて、仲を取り持とうとしているのだろうが、余計なお世話だった。

 

「分かりましたよ。久々ですが、作らせていただきます。何が食べたいんですか」「鍋がいいな。博麗神社ではあまり食べられないんだ」

「夏ですよ?」

「いいじゃないか。夏に鍋でも。なら、明日は冷やし中華にしてくれ」

「明日? いま、明日と言いました?」きちんと言葉を聞き取れていたが、私は訊ね返す。その言葉を信じたくなかったのだ。

「ああ。明日と言ったよ。しばらく、ここに泊まらせてもらうからな。霊夢にもそう伝えてある」

 

 唖然とした。家主の許可も得ずに居座る豪胆さは呆れを通り越し、尊敬に値する。 結局のところ、椛を連れて出かけていった萃香さまは、楽しそうに帰ってきて、三人で鍋をつつくことになった。鶏肉がほしいな、と躊躇もなく言い、椛をおろおろとさせる彼女の無遠慮さも、なぜだか懐かしく、悪い気はしなかった。

 が、それでも嫌なことに変わりはない。記念日になるほど、だ。

 

「想像してみてください。帰ると上司が自分の家にいるんですよ」

「それは……嫌すぎですね」

「まったくです。プライバシーがあるでしょうに。上司だからといって、部下の所有者になったつもりなのでしょうか」

「それ、文さんが言いますか」

「いつの日か、ぎゃふんと言わしてみたいですね」

「いつの日かって、将来の夢じゃないんですから」

 

 右手をあげ、「将来の夢は、上司をぎゃふんと言わせることです」と口にしてみたが、あまりに馬鹿げていたので、止める。馬鹿にするように指をさしてきた椛だったが、急に表情を固くし、膝を右手で撫ではじめた。痛むのか、眉間の皺は深く、頭に巻かれた──昨日私が巻いたものだ──シーツの切れ端が歪んでいる。椛も気づいたようで、それを手でいじくっていた。

 

「文さん、私が寝ているときに、落書きしたんですよね。しかも、犬だなんて」

「え」

「萃香さまに聞きましたよ。大天狗様の前で暴露されたから、死ぬほど恥ずかしかったんですから」

「いや、違いますよ」私は椛の怒りを宥める、というよりは、その怒りの矛先を逸らすつもりで、言った。

「犬ではなく、鬼と書いたんです。萃香様がいたから」

「どっちでもいいですし、萃香様は関係ないじゃないですか」

 たしかにその通りだった。今回に、限って言えば、椛の言い分が正しい。

「結局、大天狗様にお会いしたのですね」

 

 そんな正しい椛の言葉を真に受けるのも癪だったので、私は話題を逸らした。椛が食いつかざるをえないような話題に、だ。

 

「あ、はい。まあ、私としても光栄なことでしたし」

「どうでした?」自分で言っておきながら、かなり抽象的な問いかけだな、と唇を噛んでいると「曖昧な質問ですね」と椛が鼻を鳴らしてきた。隙があれば上司を馬鹿にしてくる部下など、聞いたことがない。

「そうですね。ずっと雑談をされてましたよ。萃香さまが入った時は、大天狗様もびっくりされてましたけど」

「でしょうね」

「ほとんど面識がなかったみたいでしたけど、打ち解けてました。私の千里眼も褒めてもらえましたし」えへへ、と笑う彼女は、見たこともないほど嬉しそうだった。

「賄賂について、どう言っていました?」

「賄賂?」椛はきょとんと目をしばたかせる。「何ですか、それ」

「いえ、知らないのなら問題ないです」

 

 え、教えてくださいよ、としつこく聞いてくるので、痣になった膝を軽くつつく。それだけで、彼女の体はぶるりと震え、力が抜けた。

 

「あやややや。やっぱり、痛むんじゃないですか。いったい、いつ怪我をしたんです?」今度はしっかりと笑いながら、訊ねることができた。口を閉ざすかと思ったが、予想に反し、椛はあっさりと「文さんの家から帰る途中ですよ」と答える。

 

「帰る途中で、転んだんですよ」

「転んだって、飛んで帰ったんじゃないんですか?」

「着地に失敗したんです」

 

 子供じゃないんですから、と言いたいが、さすがに落ち込んでいる彼女を前にすると、言葉が引っ込む。が、別に椛を前に遠慮する必要性はないか、と思い直し、「子供じゃないんですから」と実際に口にした。

 

「その怪我では、武闘大会に出るのは不可能ですよ。あやややや。訓練の代償として、優勝景品をくれると言っていたのに、これでは約束を違えてしまいますねえ。さて、いったい代わりに何をしてくれるのやら」

「いえ、大丈夫です」

 

 彼女の、『大丈夫』という言葉の意味が分からず、ダイジョウブと繰り返してしまう。椛の意図を理解できないなんて、久しぶりだった。

 

「このくらいの怪我、大したことないです。優勝なんて楽勝ですよ」

「絶対に不可能です」私は断言する。「身の程を弁えた方がいいですよ。スポーツ漫画じゃないんですから。それに、たかが気張らし程度の娯楽に、そこまで本気にならなくとも。本業の哨戒に支障が出たら、笑えません」

「上司みたいなこと言いますね」

「あややや。白狼天狗が生意気を。立場を考えてください」

 

 もしかして怒ってます? と見当違いなことを言う彼女は、罅の入った右足を軸に立ち上がり、屈伸してみせた。口元がわずかに強張っているが、ぱっと見は平素と変わらない。

 

「私は基本的に剣を使った立ち回りなので、足による影響は少ないんです。だから、大丈夫ですよ」

「そこまでして、あんな河童主催の胡散臭い大会に出なくても」

「夢なんですよ」

 

 ドリームです、と言い換える彼女は、想像を絶する腹立たしさだった。何が夢だ。何がドリームだ。馬鹿馬鹿しい。

 

「私はこの大会で夢を叶えるんです」

「参加するのは、実力を試すためって、言ってましたよね」

「そうです。ただ、負けるつもりで挑むとも言ってません」

「そもそも、夢ってなんですか」

 

 そうですね、と呟き、虚空を見上げる彼女は、どこか儚げだった。鳥肌が立つ。元々鳥肌だが、それでも、だ。

 

「私の夢は」

「夢は?」

 椛は右手をピンと立て、何かを宣誓するように言った。

「上司をぎゃふんと言わせることです」

 もっとマシな誤魔化し方はないものか、と頭を抱えずにはいられない。

 

 

 

 

 

 文は美学が強すぎるんだよ。

 

 椛との訓練を終え、鴉天狗が一同に集う集会所に着いた途端、いきなり、同僚の姫海棠はたてにそう言われた。

 

「そんなんだと、いつまでたっても、いい新聞は作れないよ」

 

 未だに訓練をせがみ続ける椛を振り払い、正確に言えば、私に着いて集会場に来たので振り払えてはいないが、とにかく。訓練を終えさせて、この集会場に来たのには訳があった。今日が例の、鴉天狗が新聞を競いあう大会の初日だったのだ。期間は三ヶ月ほどで、期間中に集会場に自分の新聞を掲示し、他の鴉天狗が、いいと思った新聞に投票をしていく、というシステムだ。不正を防ぐため、誰が書いた新聞かは分からないよう所々黒塗りになっているが、それでも大凡は予想がつく。

 

 私の新聞はまだできあがっていないので、掲示をしていない。ここに来たのは敵情視察のためだった。いったい、どういった内容で、どの視点から書かれたものなのか。それを確かめに来たのだ。だが、まさか、来るやいなや「文は美学が強すぎるんだよ」と馬鹿にされるとは思いもしなかった。

「だから、評価されないんだ」はたては、生意気な口を叩く。

「あなたに言われたくないですよ、はたて」

 

 姫海棠はたては、同じ鴉天狗とは思えないほどに、がさつで、のろまで、非協調的だった。組織を重視する天狗とは思えないほどの出不精で、家が火事になったときのエピソードを知らぬ天狗はいないだろう。悪い意味で、有名な天狗だ。「家から出なくても、私は念写があるから」と、遠くの場所を撮影できる能力を使い、一歩遅い情報を自慢げに載せる彼女の新聞に、私は嫌悪感を抱いていた。

 

 集会場は、かなり広いが、多数の妖怪が入り乱れているせいで、混雑していた。椛は私のすぐ後ろに置かれたベンチに座り、休んでいる。やはり、足が痛むようだ。

 

「文の新聞はどれなのさ」げんなりとする私を無視し、はたては訊いてくる。

「私はまだ掲示していないんですよ。今日は新聞を観に来ただけです」

「へえそう。珍しく遅いね。いつも、一番乗りに貼りに来るくせに」

「まあ、色々ありましてね」主に萃香さまのせいだが、私が記事にする予定なので、黙っておく。

「そう言うあなたの新聞はどれですか? もう貼ったんでしょ? 引きこもりのあなたが、他の新聞を観に来たとも思いませんし」

「ふふん。どれだと思う?」

 

 どうして、はたてはここまで得意げなのか。ふふん、と実際に口に出す神経が理解できない。薄気味悪く、不気味だ。

 

「答えは、それだよ」紫色のスカートをふわりと浮かせ、茶色のツインテールを私の肩に載せてくる。「文がちょうど読んでた、目の前のそれだって」

「ああ。この新聞ですか」

「そう。どう? ぜひ清き一票をってね」

「考えておきます」絶対に入れないと決意する。別にはたてのことは嫌いではないが、彼女の新聞に票を入れようとも思わない。まだ、トイレットペーパーの方が、水に流れる分、ましだ。

 

 今回の彼女の新聞にも、特に目新しいことは載っていなかった。内容も、構成も平凡で、つまらない。新聞を名乗るからには、何か新しいことを書いて欲しい。これでは旧聞だ、なんて下らないことすら考えてしまう。

 

「これでは旧聞ですよ、はたてさん」

 

 どうやらそう思ったのは私だけではないようで、いつの間にか、はたての隣に立っている椛が、つまらなそうに目を細めている。

 

「妖怪の山武闘大会が開催される、なんてことは、みんな知ってますよ」

 

 様々な妖怪が一枚の写真に収められ、『彼らの激闘を見逃すな!』と安直で下らない見出しが書かれている。まだ妖精の書く新聞の方がマシに思えた。

 

 が、はたては、私たちが呆れていることに気づいていないのか「すごいでしょ」と鼻を高くし、肩を叩いてくる。

 

「その写真、頑張ったんだから」

「何を? 確かにあなたには、シャッターを切ることも重労働だとは思いますが

「違うわよ」これよこれ、と教師のように新聞を指差す。掲載された縦長の写真は、白黒ではあったが、色遣いも細かく、鮮明だった。今にも動き出しそうなほど臨場感に溢れている。はたてが自慢するあって、よく撮れた写真だった。だが、だからこそ気に入らないのだ。才能をドブに捨てている。

「あれ、でもこれ、どこで撮ったんですか?」恭しく、たしかにすごいですね、とはたてに言った後で、椛は首を傾げた。

「この写真、私も文さんも映っていますけど、こんなの撮った覚えがありませんし、そもそも、会ったことない人とも一緒に映っています」

「さすが椛。目の付け所が違う。千里眼は伊達じゃないね」

「千里眼は関係ないですけど」満更でもなさそうに照れる椛の頭を撫でたはたては、「合成ってやつらしいよ。河童に少し手伝ってもらったけど、ほとんど自分でやったの」と得意げに言う。

「別々の写真を切り取って、くっつけるの。そうすれば、実際にはあり得ない写真も作れる。例えば、空飛ぶ魚だとか、こういった集合写真だとか」

「家から出るはたても、ですか」

 

 私は嫌みのつもりで言ったのだが、「それ、いいね」とはたては本気で考え始めた。椛

といい、はたてといい、少しは悪意に敏感になってほしい。

 

「うまくいけば、集会に参加しなくても、合成写真を作れば、行きましたっていいはれるかもしれない」

「あやや。さすがに無理です。私たちの目は、あなたと違って節穴ではないので」

「いや。案外いけるかもよ。私って、影うすいじゃん」

「濃いですよ」自覚がなかったのか、と驚きつつ、私は呆れた。

「天狗の名誉と歴史に映り込むほど、はたての影は濃いです」

「褒めないでよ」

「貶しているんです」

 

 前向きというか、楽天的というか。そんなんだから、火事が起きても逃げ遅れるのだ。きっと、妖怪の山が爆発しても、はたては呑気なままに違いない。

 

 うんざりしながら、私は椛を押しのけ、写真をじっと見つめる。と、一つ気になる箇所が目についた。え、と声が漏れる。

 

「はたて、もしかしなくても、私の服も変えましたね」

「え?」

「あなたのと違って、私の服に悪趣味な紫色は入っていないんですよ」

「ああー。そっか。いやー、うっかりしてたよ」

 

 そもそも、この大会に私は参加しないと文句を言いたいが、それよりも、見覚えのない服に身を包む自分の姿を見ると、背筋が凍った。言いようのない恐怖に襲われる。自分とまったく同じ顔をした誰かが、見知らぬところで私のフリをしているのではないか。そんな突拍子もないことを考えてしまう。

 

「文の写真って思ったよりもなくてさ。だから、服も適当にそれっぽくしたんだけど、やっぱ本人にはバレるね」

「そんなことまでできるんですか」

「できる。外の世界だともっと凄いらしいけど」

 

 感嘆と嫌悪の入り交じった感情に襲われる。隣の椛も「凄いですけど、なんか怖いですね」とぼそりと呟いた。彼女も私と同じ思いなのか、と期待したが、「ああでも、私の額の落書きも消せるかもです」と呑気に笑う姿を見るに、そうではないと悟る。「昨日、文さんに落書きされたせいで、しばらくは包帯が外せませんよ」

 

「ああ、それ落書きを隠していたのね」はたては肩をすくめる。

「てっきり、怪我をしたのかと思って、心配していたのに」

「包帯ではなく、シーツの切れ端ですけどね」それに、怪我をしているのは事実だ。

「もし椛が優勝して、その時にも落書きが残ってたら、消しておくよ」

 

 いい加減はたてとの会話にも飽き、他の新聞を見て回ったが、残念なことに、めぼしいものはなかった。非常に癪だが、一番興味深かったのは、やはり、はたての新聞だ。もっと詳しく見てみたいが、本人がこの場にいる以上、冷やかされるに決まっていたので、遠目で眺めるしかない。

 

「文さんって、やっぱり負けず嫌いですよね」

 私と反対側からぐるりと新聞を見て回った椛は、合流するや、すぐにそう言ってきた。

 

「素直に、はたてさんの新聞が見たいって、言えばいいのに」

「あややや。そんなこと思っていませんよ。それに、負けず嫌いでもないです」

「いや、文さんは負けず嫌いです」やけに自信満々に、彼女は断言した。

「昼行灯を気取ってるんですよね。負けず嫌いだから。あれです。生意気な子供と同じです」

「一緒にしないでください」

「同じですよ。普段は本気を出さずに、負けたとしても『あら。私はまだ本気を出していないのよ。それで勝った気でいるなんて、ぶざまですわね。おほほ』って感じで誤魔化すじゃないですか」

「とりあえず、椛が私にどのような印象を抱いているかは把握しました」

 

 むすっと言ってくる彼女はなぜか少し怒っていた。けれど、客観的に考えて、怒るべきは私であって、彼女にその権利はないはずだ。それでも椛は語気を強め、言葉を続けてくる。

 

「文さんは面倒くさいんですよ。本気を出さないくせに、中途半端に負けず嫌いだから、衆目を浴びている場では本気で勝ちにいくじゃないですか」

「私はいつだって全力ですよ」

「それ、萃香さまの前でも言えますか?」鬼の威を借りた椛は、ここぞとばかりにまくし立てる。「本気の昼行灯鴉は激レアなんですよ。大きなイワナくらい」

「鴉なのに魚なんですか」

 

 椛はそんなに魚が好きだったのか、と驚きつつも、ここまで元気があるのであれば、本当に足の怪我を気にしていないのではないか。白狼天狗の治癒力であれば、骨の罅なんて些細なことなのではないか、と思い始めていた。少し、肩の荷が下り、どうして下りたか分からず、困惑する。

 

「そういえば、なぜ椛はここに来たのですか?」困惑ついでに、私は訊ねた。

「ああ。いえ。文さんの言ったことが少し気になって」

「私の?」

「言ってたじゃないですか。賄賂がどうだとかって。少し気になって。それについての記事がないかなと」

 

 たしかに、賄賂についての記事はなかった。そもそも、情報元が萃香様である上、彼女自身も他の誰かから訊いた、つまりは又聞きの情報であるから、とても信用に足るものとは言えない。気にするだけ損だ。

 

「あれは忘れてください。たぶん、デマですよ」

「でも、本当だったら大変ですよね」

「きっと、椛が思っている以上に大変ですよ。少なくとも、鬼にバレたら大変です。鬼の皆様がたは、とても真摯でまっすぐですので、不正には厳しいですから」

「ですね」

 

 できればその不正に、暴力による威圧行為も含めてほしいものだ。が、力こそ正義の彼らにとって、それが一番正当なのだろう。野に放たれてはいけない連中だ。

 

 はたての新聞を詳しく見られなかったのが心残りだが、もうだいぶ時間が経っていた。今日はもう帰ろう。何なら、明日もう一度見にこればいい。

 

 爆音が室内に木霊したのは、そう思ったときだった。あまりに大きな音に、何かが爆発したのかと焦る。が、違った。それは音声だった。大音量で人の声が再生されている。何から? はたての新聞から。

 

 はたて自身も想定していなかったようで、呆然としていた。紙全体から『妖怪の山武闘大会!』と威勢のいい声が響いている。聞き覚えのある河童の声だった。にとりだ。きっと、写真の合成を手伝う際に、無断で仕込んだのだろう。音の鳴る新聞。仕組みは分からないが、確かにすごい。ただ、相変わらずセンスがない。

 

「あややや。はたて、前言撤回しますよ」

 自分の新聞を前に固まっているはたてに、私は満面の笑みで近づく。

「あなたの新聞は、かつてないほどに画期的でした。旧聞だなんて、もう誰も言えませんね。はたての新聞記念日です」

 記念って、悪いときにしか使わないんですよね、と訝しげな顔をする椛を無視し、カメラを構える。未だ音を鳴り続ける新聞と、はたての微妙な笑顔を狙い、シャッターを切る。

 

 カシャリと小気味よい音が私たちを包み込んだ。

 

 



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天狗の必勝法

──神と鴉──

 

 

 

 

 川の畔から勢いよく飛び立っていった早苗さんを、にとりと私はぼんやりと眺めていた。彼女がどこに向かったのかは分からない。が、その目的は分かる。早苗さんなら大丈夫であるとは思うが、やはり少し不安だ。

 

「ぼさってしている暇はないよ」自分もさっきまで呆けていたのを棚に置き、にとりは手を引っ張ってくる。「そろそろ始まってしまう」

「あややや。焦らなくても間に合いますよ。私、速さには自信がありますので」

「私が間に合わないんだよ。まさか、文の背中にしがみつくなんて、みっともない真似はできないし」

「みっともない? 格好いいの間違いでは?」

「おぶられているのに格好いいわけないだろ」

「人の上に座っているんですよ」

「どういう意味だよ、それ」

「悪い奴を倒すぞっていう意味らしいですよ」

「どっちにしろ、格好良くない」

 

 ですよね、と同意しつつ、私は勢いよく地面を蹴った。にとりの手を引っ張ったまま、風を切り、赤くなり始めた空を横切る。何やらにとりが文句を言っているのが分かったが、聞こえなかったふりをして、速度を上げる。間に合わなかったら、大変なことになる。何にか。もちろん、妖怪の山武闘大会に、だ。

 

 戦いの舞台。そう言えば幾分か緊張感を覚えるだろうが、残念なことに、滑稽なことに、妖怪の山武闘大会の決勝が行われるのは、山の中腹あたりにある、ただの平原だった。かつては鬼がよく宴会を開いていたが、彼らがいなくなって以降、好んで来るような輩はいない。おそらく、かつての鬼の幻影が見えてしまうからだ。

 けれど、今日だけは違った。どこから聞きつけたのか、白狼天狗や河童、鴉天狗の姿も見える。あまり大々的に広告していなかった割には聴衆は多い。彼らは、自ずから円上に並び、決勝の舞台を整えていた。

 

「緊張しているかい?」

 その聴衆から少し外れた場所で屈伸していると、にとりが少し心配そうな顔つきで訊いてくる。

「こんなんで緊張していたら、生きていけませんよ。殺し合いよりマシです」

「頼もしいのかよく分からないね、それ」

「それで? 相手は誰でしたっけ」

「なんで確認していないんだよ」

 

 そもそも確認する暇も、手段もなかったし、こんな河童の暇つぶしに行われる子供だましの大会に参加する気だって、更々なかったのだ。何もかも、椛が悪い。次会ったときには絶対に叱ってやる。どうせ、もう夕時だというのに、哨戒任務もさぼって爆睡しているに違いなかった。上司として、お灸を据えなければ。

 

「相手はその目で確かめなよ」にとりは投げやりに言ってくる。「ぱぱっと勝ってきてくれ。頼むから負けるなよ」

「あやややや。もしかして、河童ごときが私の心配をしているのですか。傲慢にもほどがありますよ」

「怖いなあ。ま、その調子なら大丈夫か」

 

 眉をハの字にするにとりを見ると、どうして自分がこんな大会に参加しているのか、分からなくなる。別に、強引に彼女に頼んでも、それこそ鬼のように力尽くで命令しても、力を貸してくれただろう。もしかすると、何もしなくとも、にとりは自発的に協力してくれたかもしれない。余計なことを引き受けたか、と後悔しそうになる。が、それでも。不思議と苦痛ではなかった。

 

「あ、そうだ」

 下駄をトントンと叩き、群衆の前に足を進めていると、にとりが呼び止めてきた。

「なんですか。もう、とっとと終わらせたいんですが」

「これ、持って行きなよ。お守りに」

「これって」私は振り返らず、足を進める。「どうせ、キュウリですよね」

「なんで分かったんだよ」

「分かりますよ」

 

 結局、私の前に回り込み、強引にキュウリを手渡してきた彼女は、ぐっと親指を立ててきた。あれだけ心配していたのに、不安の影は消え去っている。私なんかより、キュウリの方を信用しているようだった。呆れ、笑みがこぼれてしまう。

 

 甲高い鐘の音がなった。時間だ。群衆の熱気が一際あがり、悲鳴ともとれないざわめきが辺りを覆い尽くす。頭に血が上りそうになる。本来であれば、と思うとやりきれない。その苛立ちを相手にぶつけて

やろう、と私は翼を広げ、輪の中央へと飛んだ。私のことを知っている妖怪も、知らないであろう木っ端も、皆が一様に手を上げ、叫んでいる。応援しているのか、それとも負けてくれと呪詛を吐いているのか、それすら分からない。半々と言ったところだろうか。

 

 相手はまだ来ていなかった。遅刻だ。宮本武蔵を参考に、私が現れるのを待っていたのかとも思ったが、中々姿を現さない。どうやら、予想外の事態のようで、視界の端で河童たちが慌て始めるのが見えた。このまま不戦勝になったら楽なのだが。

 が、期待を裏切るように、群衆をかき分けて誰かが近づいてくる。収まりかけていた歓声が再燃し、また騒がしくなる。飛べばいいのに、そいつはゆっくりと輪を突っ切ってやってきた。

 

「え」そいつの姿を見て、最初は何かの冗談かと思った。迷子になって、間違ってやって来たのかと、そう思った。が、「因縁の対決って感じね」とにっと頬をつり上げる彼女は、どう見ても迷子には見えない。

「嘘でしょ」私はらしくもなく叫んでしまう。

「もしかして、対戦の相手って、はたて?」

「もしかしてって何よ」紫色の市松模様が描かれたスカートをばさりと揺すり、腕を組む。挑発的なその笑みは、これ以上無く腹立たしかった。

「私、こう見えても強いんだからね」

 自分のことを強いと言う妖怪は弱いですよ。そう言うも、はたては首を傾げるだけだった。

 

 

 

 

 姫海棠はたては出不精な引きこもりである。

 

 それは、もはや変えられない真実であり、常識だ。それは例えば、朝になれば太陽が顔を出すように、否定することすら馬鹿らしいようなことだった。

 彼女も鴉天狗である以上、たしかに外出はするし、必要最低限ではあるが、会議にも参加する。取材のために出かけることも、ごく稀にだが、ある。

 

 だが、こんな目立つ大会に好んで参加するような性格ではなかったはずだ。

 

「いったい、どういう腹づもりなんですか?」語気が強くならないよう、注意しながら言葉を紡ぐ。「どうして、こんな大会に」

「私だって、本当は出るつもりは無かったんだけどさ」あははと朗らかに笑う彼女は、どうやら寝起きのようで、髪はぼさぼさのままだった。

「けどまあ、色々事情が重なってね。にとりには恩があったし、新聞大会ももっと頑張らないと」

「にとり?」

「ほら、文も知っているでしょ? 私の新聞に、にとりが勝手に音が鳴る機能を付け加えたこと。あれ、受けがよくてね。もしかしたら大会で優勝できるかも」

「そうじゃなく」

「それに、あんな新聞を優勝させるわけにはいかないしね。誰が書いたか知らないけれど。そのために、私自らがこの大会を面白くして、記事にしようと思ったわけ。にとりの頼みを聞いたのは、そのついでだよ」

 

 にとりの頼み。いったい、彼女が何を頼んだのか。知りたくもないが、にとりのずる賢さと思慮深さはよく分かった。はたての気持ちも、だ。

 

「まあ、それでも易々と負けてやるつもりはないですが。しかも、あなたのような鴉天狗の面汚しにね」

 不意打ちをしかけようと妖力を高め、そこではっとした。思わず、苦笑してしまう。本能的に弾幕を放とうとしていた。弾幕ごっこに毒されている。私も随分と平和ぼけしてしまったようだ。

「ちょっと待ってよ、文」

 が、はたては、私の笑みを誤って解釈したらしく、バタバタと手を振った。呑気の象徴であるその間抜け面にも、どこか焦りの色が浮かんでいる。

 

「そんな本気出さないでよ。これはあくまで武闘大会で、殺し合いじゃないんだから。殺気はだめだよ。記事にできない。事件になっちゃう」

「あやややや。私が殺気なんて出すわけないじゃないですか。これでも、手加減しているのですよ」

「嘘だ」彼女はぶんぶんと首を振った。「普通の人には分かんないかもしれないけど、文が本気を出してるかどうか、私はすぐに分かるんだから。三百年前、白狼天狗を襲った木っ端妖怪を惨殺したときと同じくらい、本気だ」

「そんなこともありましたね」

「ちょっと、本気で本気を出すの?」

「本気なんて出しませんよ。いつも通り、手加減して遊んであげます」

「いつもはそんなこと言わないじゃん」

 

 じりじりとはたては後ずさり、距離をとろうとしている。そんな些細な行為で私の攻撃から逃れられるわけがないのに。愚かだ。本当に私と戦いたくないのであれば、降参するしかない。まあ、決勝まで勝ち残って、降参する馬鹿はいないか。

 

「だめだ、降参だよ降参」

 だが、はたては私の想像を凌駕するほど馬鹿だということを忘れていた。

「本気の文じゃ、命が何個あっても足りない。事故どころか、巫女が飛んでくる」

 

 やめやめ、と大きく手を振って、バツ印を作った彼女は、ブーイングを始める群衆など見えていないのか、どこか清々しい表情で向かってくる。不意打ちを狙っているのかと注視するも、それにしては隙だらけだ。

 

「まさか、本当に降参する気なんですか?」

「本当にって、どういう意味よ。私が文に嘘を吐くわけないじゃん」カラカラと、乾いた笑い声を上げる。「文は昔から疑い深いのよ」

「だって、普通に考えれば、決勝で降参なんて、考えられません」

「私は普通じゃないからね。空気を読まないことに定評があるんだ」どうして自慢げにそんなことを言えるのか。はたての神経は鋼鉄でできているに違いない。もちろん、悪い意味で。

「それに、にとりがどうとか言ってましたよね? 何か約束してたのでは?」

「ああ、まあしてたけど」悪びれもせず、彼女は笑う。「だけど、よくよく考えてみれば、音の鳴る新聞って、あんまりよくないよね」

「え?」

「家に置いてある新聞が急に音を出し始めたら、怖いでしょ。あれは改悪だよ。新聞大会で優勝を逃したら、にとりのせいだ」

「あややや。さっき、受けがいいとか言ってませんでしたっけ」

「言ってない」

 

 嘘を吐くわけない、と言った舌の根も乾かぬうちに、よくもまあ、ぬけぬけと。がくっと体の力が抜けてしまう。そこで、ようやく自分の肩に力が入っていたことに気がついた。彼女の言うとおり、想像以上に私は本気だったようだ。

 

「それに、文の気持ちも分かるし」すでに、はたては自身の家へと足を向けている。

「私だって、文が相手じゃなかったら、少しは粘って戦ったと思うけど、気持ちで負けたよ」

「気持ちって、なんの」

「さあ。親しみとか?」

 

 適当なことを言い残し、はたては去って行った。少し送れて、「優勝は、射命丸文!」と戸惑い混じりの叫び声と共に、歓声が沸く。だが、私の耳には、ずっとはたての言葉が鳴り響いていた。親しみ? 何だそれは。私の親しみに負けた。いったい、どういう意味だ。

 

「優勝おめでとう、文」

 後ろからにとりに声をかけられ、意識が呼び戻される。観客は、あんな茶番劇でも一応は満足したようで、ほくほく顔で帰って行った。そもそもが茶番じみた大会なので、あれでよかったのかもしれない。

「予想外な結末だったけど、まあ、うん。はたてらしいよ」

「主催者の河童は泣いてるんじゃないですか? こんな興ざめな結末で」

「盛り上がったからいいんだよ。金もがっぽりだし」

「そういうもんですか」

 

 優勝者がここにいるというのに、聴衆は目もくれずに去って行った。私には都合いいが、少しどうかと思う。こんな大会に本気で参加しようとしていた椛が馬鹿みたいではないか。いや、みたいではなく、馬鹿だったのだ。

 

 太陽が地平線に沈みかけ、いつの間にか世界が真っ赤に染まっていた。夕闇が緑の木々を照らし、晩秋のような赤さが目に染みる。ちょうど、風に流された楓の葉がひらひらと舞い落ちてきた。例に漏れず、真っ赤に染まっている。この大会が物足りないのは、はたてが降参したからではなく、他の理由があるからではないか。一瞬浮かんだ疑問を、頭を振ってかき消す。馬鹿な。そもそも、こんな大会に何も期待していなかったではないか。だったら、もの悲しさを感じる必要もない。

 

「何をしんみりしてるんだよ」にとりがすまし顔で肩を叩いてくる。「そんなに戦い足りなかったのかい?」

「少し、考え事をしていまして」

「なんだい? 早苗のこと?」

「違いますよ」私はあえて、にこりと微笑んだ。「あなたがはたてと交わしていた約束のことです」

「え」

「とぼけても無駄ですよ。本人からしっかりと訊いたんですから」

「ああ、うん。いや、別にとぼけていたわけじゃないんだ。単に、はたてが文に言うとは思わなくてね」

「いったい、どんな約束をしていたんです?」

「言ってもいいけど、驚きすぎて口から心臓を吐くなよ」

「吐きませんよ。なんですかそれ」

 

 あまりに大げさだ。下らなすぎて口から心臓が飛び出そうなくらいに。そして、にとりがこんな大仰なことを口にするときは、大抵驚くに値しないような、下らないことを言おうとしていることも、よく知っていた。

 

 想像通り、彼女はしょうもないことを自信満々に言う。

 

「はたてが優勝したら、彼女の家を防火性にしてあげるって、約束をしたんだよ。だから、頼むから優勝してくれって」

「はたては、そんなんで出場してくれたのですか」

「腐っても鴉天狗だからね。出場さえしてくれれば、決勝まではいけると、彼女も分かってたんじゃないかな。他は白狼天狗や河童ばかりだし。そして何より、ああ見えて、はたては強い」

 

 たしかにそうだ。強く、そしてその強さが露見していない。怠慢な性格のせいで、見下されているフシがある。あえてそう振る舞って、実力を隠しているのだろうか。 いや、それはあり得ないか。

 

「ま、結局のところ、私を前に降参したんですがね」と私が吐き捨てると、にとりは首を振った。

「文がはたてに気持ちで勝ったんだよ」

「はたてに気持ちで負ける奴なんていますか?」

「それは……いないけど」

 

 いつの間にか聴衆の姿は完全に消え去っていた。太陽の光が木々に遮られ、急激に薄暗くなっていく。真っ赤だった空も黒ずみ、一番星が瞬いている。

 

「とりあえず、帰るか」その星を写真に撮ろうと試みていると、にとりがぽつりと言った。「文が優勝したことだし、きちんとやるけどさ、さすがに一旦帰ろうよ」

「ですが」

「早苗だって、もう守矢神社に帰ってるだろ。普通に考えればね。時間的な制限があるわけでもないんだから、焦らなくても大丈夫だって。むしろ、急ぎすぎて失敗したら身も蓋もないよ」

 

 ぐずる子供を諭すように、ゆっくりと彼女は言ってくる。耳が痛くなるほどの正論で、そんなことは私も分かっていた。にとりをチラリと見る。ふざけるように肩をすくめているが、その手は虚空を掴んでいた。先ほどの言葉は、もしかすると私にではなく、にとり自身に向けた言葉だったのかもしれない。焦っているのは、彼女も同じだ。

 

 二人同時に息を吐く。あまりに重苦しくて、よどんだ空気が私たちの周りを包み込んでいるかのようだった。

 

「あ、やっと見つけました!」

 

 が、そんな重い空気を吹き飛ばすような、元気のよい声が聞こえてきた。どこからかと目をこらし、耳をそばだてる。鈍い、風を切る音が頭上から聞こえてきた。空を見上げる。ちょうど一番星に照らされるように、彼女の緑の髪が、暗闇の中に浮かび上がった。

 

「てっきり、まだ川原にいると思ってましたけど、こんな所にいるとは。人の流れを辿ってみて正解でした!」

「早苗さん」

 

 昼間もあんなに元気だったのに、よくこの時間までこんな大声を張れるものだ。子供は風の子というが、これほどまでとは。だが、私に操れない風はない。

 

 スカートを翻しながら、彼女は一直線に突っ込んでくる。あまりの勢いに、にとりの帽子がふわりと浮かび、慌てて手で押さえていた。夏の夜特有のじめじめとした空気も、早苗さんが来るとどこかへと消え去ったような気もする。

 

「いったい、ここで何をやってたんですか? たくさんの妖怪が集まっていたので、異変かと思いましたよ」

「大会ですよ大会。武闘大会です」

「武闘大会って、本当ですか! あの、天下一とかの?」

「別に天下は狙っていませんけれど」

「うわー。知らなかった。私も出たかったです」

 

 その場で地団駄を踏み、うがー、と唸り声をあげた早苗さんは、心底悔しそうに唇をかみしめていた。そこまで悔しがるとは。もし私が優勝したと伝えれば、面倒なことになりそうだな、と懸念していると、にとりが嫌みな笑みを浮かべ、言った。

 

「実は、武闘大会の優勝者は、何を隠そうこの文なんだよ」

「まじですか!」

 

 いいなー、と服にしがみつき、体を揺らしてくる。いったい何がいいのだろうか。早苗さんが戦いに飢えているとも思えない。単純な彼女のことだから、漫画やらの創作物にでも影響されたのだろう。

 

「武闘大会の話はいいんですよ」赤ん坊のように引っ付いてくる早苗さんを引き剥がし、乱れた服を整える。

「それよりも、今まで早苗さんは何をしていたのですか?」私は彼女のしたであろう行動を頭に描きながら、訊ねる。「なんか、悪い笑顔を浮かべながら去って行きましたけど」

「気になりますか? なりますよね!」

「いえ、そこまでは」

 

 そこは気にして下さいよ、と彼女は不満げに声を漏らす。が、表情は誇らしげなままだった。彼女の大きな瞳には一寸の濁りもない。笑えなかった。今さらになって、惨めな気持ちになる自分の弱さに呆れる。

 

「久しぶりに、私もハッスルしたんですから」早苗さんは、白く細い腕を曲げ、力こぶなんてできていないのに、二の腕をぺちぺちと叩いた。

「三時間くらいですかね。色んな場所で、色んな人に聞き込みをしたんですよ」

「聞き込み、ですか」

「探偵っぽいですよね! 刑事でもいいですけど」

 

 どちらかと言えば新聞記者っぽかったが、そういうとヘソを曲げてしまいそうなので、そうですね、と適当に相槌を打つ。「きっと、名探偵でしょう。名探偵早苗。響きも悪くないです」

 

「ですよね! いやあ、私にかかれば、幻想郷の謎なんてちょちょいのちょいです。きっと、いつの日か早苗探偵事務所を構えてやりますよ」

「守矢神社はどうするんですか?」

「神社兼探偵事務所ってどう思います?」

「胡散臭いと思います」

「もともと守矢神社は胡散臭いので、問題なしですね!」

 

 分かっているのであれば何とかすればいいのに。もしかすると、宗教には、その胡散臭さが必要なのかもしれない。だが、探偵の胡散臭さは必要でないはずだ。

 

「まあでも、早苗は本当に探偵に向いてるかもしれないね」にとりは苦笑しながら言う。私のお世辞とは違い、本気でそう思っているようだった。

「早苗相手なら、なんでもペラペラと口を滑らせちゃいそうだ」

「信用されていますもんね」

「間抜け具合を信用されているんだ。早苗相手なら、言っても大丈夫だなって、思っちゃうんだよ」

「悪口ですか?」

「違う違う。いい意味で、だよ」

 

 何がどういい意味なのか、さっぱり分からない。きっと、にとり本人も分かっていないだろうが、それでも早苗さんは納得したようで、笑みを浮かべている。

 

「それで? 誰からも信用されている早苗さんは、いったい何の聞き込みを?」その嬉しそうな笑みを崩さぬように、柔らかく声をかける。「こんな時間まで聞き込みをするなんて、何を調べていたんですか? 子供はもう寝る時間なのに」

「子供じゃないですって!」

 

 こほん、と咳払いをした彼女は、その笑みを深くした。自慢げで、得意げで。テストで百点をとった子供のように無邪気だ。子供じゃない、と否定する彼女の言葉ですら、子供らしいと思えてしまう。

 

「私は気づいたんですよ」

「気づいたって何をです」

「それ、聞いちゃいます?」

 

 ああ、と私は声を出してしまう。うざったく、そして面倒くさいその聞き方は、見覚えがあった。

 

「きっと、聞いたら驚きますよ」

「何を気づいたんですか」

 

 その場でくるりと回った彼女は、真上に手を伸ばし、人差し指を立てた。真上に浮かぶ一番星が、彼女をスポットライトで照らしている。その顔は、自身に満ちあふれていた。

 

「犯人です。例の異変の犯人が誰か、気づいたんですよ!」

「あややや。それはそれは」私はにとりを小突き、大げさに肩をすくめる。

「口から心臓が飛びでそうですね」

「それ、褒めてます?」

 

 自信満々だった早苗さんの顔に僅かな影がさす。それは、とても魅力的に思えた。

 



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赤いもみじは美しい

──狼と鴉──

 

 

 

 今日は椛と一緒じゃないのかい?

 

 いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、萃香様にそう言われたことがある。たしか、自分の家でくつろごうにも、家に上司がいるという状況に落ち着かず、気を紛らわせに、先日尋ねた集会場に行こうとしているときだった。

 

 昨日、新聞大会で他の鴉天狗の新聞を見た際、私は自分の優勝を確信していた。はたての新聞は、彼女にしては珍しく──河童が原因だとは言え──真新しかったが、それでも新聞としては評価に値しない。このまま進めば私の新聞は間違いなく優勝する。が、新しく貼り出される新聞に、もしかすると素晴らしいものがあるかもしれない。今日は、その確認をするつもりだった。

 

「いつも一緒に出かけていたのに、一人で散歩とは珍しいじゃないか」

 

 だが、その計画も崩れ去ってしまった。萃香様に目を付けられてしまった以上、彼女のご機嫌取りを全力でしなければならない。別に、集会場に行ったところで怒られはしないだろうが、そこまでして行きたいわけではなかった。

 

 今日も腹が立つほどの猛暑日だ。昼時にはまだ早いのに、既に汗ばみ始めている。だからだろうか。あの萃香様に向かい、生意気な口を叩いてしまう。

 

「椛が私に付き纏っているだけですよ。むしろ、一人で清清しています。萃香さまも、生意気な部下と一緒にいたくはないでしょう」

「まあ、そうだな。生意気な部下は嫌だな」

 

 私と一緒に来ないでください、と暗に言いたかったのだが、当然のように無視してきた。気づいていないのか、それとも意図的に無視をしているのか。前者であってくれ、と心から願う。

 

「だがな、今日も稽古をする予定だったんだろ? いくら嫌っているとはいえ、あの椛がサボるとも思えなくて」

 

 いつの間にか、呼び方が椛へと変わっている。どうやら萃香様は随分と椛を気に入ったらしい。出会い頭に失神する奴をどうして好意的に見られるのか。疑問だ。

 

「椛だって白狼天狗ですからね。約束を破っても、おかしくはないでしょう」

「心配じゃないのか? 何かトラブルに巻き込まれているかもしれんぞ」

「トラブル」

 

 妖怪にとっての一番のトラブルはあなたに会うことですよ、と教えてやりたい。

 

「椛に限って、それはないですよ。あるとしても、こけて怪我をするくらいじゃないですかね」

「それはないだろー」萃香様は、自分の姿を棚に置き「子供じゃないんだから」と朗らかに笑った。

「私もそう思ったんですが、萃香様が妖怪の山に来た日の夜、帰り際にこけて怪我をしたらしいんですよ。情けないにもほどがありますよね」

「それ、誰から聞いたんだ?」

「え、誰って。もちろん本人からですけど」

「怪しいな」

 

 彼女は川岸に近寄り、座り込んだ。軽く川に足を入れただけなのに、大きな音と共に水しぶきが上がる。「あいつ、白狼天狗の割には筋がよかったじゃないか。そこらの鴉天狗よりは強いくらいに。性格も真面目で、武人っぽいし」

 

「ぽくないですよ」

「そんな椛が、こけて怪我なんてするか? 絶対になんかあっただろ」

「なんかって」

「誰かに襲われた、とか」

 

 私は戦慄していた。椛を心配したわけでも、その襲撃犯の存在にでもない。萃香様が、そんな馬鹿げた推理を披露した、という事実が信じられなかった。

 

「萃香さま」

「なんだよ。そんなに青ざめて」

「やっぱり、本当だったんですね」

「何が」

「推理小説ですよ」

 

 はあ? と萃香様は首を傾げる。いきなり何を言い出すのか、と驚いているに違いない。私も同じだった。いったい、私は何を言い出しているのだ。

 

「言ってたじゃないですか。推理小説を読むと疑い深くなるって。まさか、萃香様すら影響を受けてしまうとは」

「どういうことだよ」

「常識的に考えてくださいよ。椛がこけて怪我する可能性と、誰かに襲われた可能性、どっちが高いかなんて一目瞭然じゃないですか」

「襲われた可能性か?」

「こけた可能性ですよ。いいですか。今の妖怪の山は、昔みたいに無鉄砲に喧嘩をふっかけてくるような、そんな妖怪はもういないんですよ。鬼の皆様みたいに豪胆じゃないんです」

「それもそうか」

 

 つまらなくなったなー、と手元にあった石を川に投げこんな萃香様は、顔だけでこちらを振り返った。茶色の髪が顔を覆い、表情が読み取れない。が、何となくほくそ笑んでいるような、そんな気がした。

 

「なあ、賭けをしてみないか?」その体勢のまま、彼女はいきなりそう言った。

「賭け、ですか」

「最近、流行ってるんだろ? 河童から聞いたよ。確かに賭けは楽しいからな」

「その河童は無事でしたか?」

「無事だったよ。無事、気絶した」

 

 可哀想に。いきなり鬼に話しかけられ、文字通り泡を吹く河童の姿が頭に浮かぶ。臆病な彼らにとって、萃香様はあまりに強大すぎる。

 

「でも、賭けるって、いったい何を賭けるんですか? 河童の精神力とか?」

「椛についてだよ」

 

 さも当然かのように、彼女は淡々と言った。

 

「椛が怪我をしたのは本当に誰かに襲われたからなのか、それともこけただけなのか。これで賭けようじゃないか。私が勝てば、今日の晩ご飯は魚にしてくれ。文が勝ったらカレーでいい」

 

 それは、もはや賭けではなく、萃香様の食べたい晩ご飯をただ選んでいるだけだ。まあ、無茶ぶりされるよりは百倍マシなので、「いいですよ」と頷き、そしてすぐに「いいですけれど」と少し首を横に傾けた。

 

「でも、椛本人はこけたって言ってたんですよ? 襲われたのだとしても、どうやって確認をとるんですか」

「それは、まあ」考えていなかったのか、しどろもどろに萃香様は答える。

「本人に聞いてみて、嘘かどうか見極めればいいだろ」

「そんなことできるんですか?」

「たぶん」

 

 そこは断言してほしかった。

 

「まあ、椛なら分かるだろ。鬼に嘘を吐くほど勇気があるように見えないし、それに」

「それに?」

「あいつ、嘘を吐くときだけ右の眉がぴくりと動くんだ。だから、たぶんわかる」

 

 にわかに信じがたく、怪訝な表情が漏れ出てしまう。本当に推理小説に影響されすぎたのではないか、と心配になった。疑心暗鬼な鬼など、聞いたこともない。

 

「お前、信じていないな?」そんな表情をしていたからか、萃香様にあっさりと心を見抜かれてしまう。慌てて「信じてますよ」と否定するも、彼女は不機嫌そうな顔のまま、ため息を吐いた。

「文、お前も嘘を吐いちゃ駄目だよ。いくら私と旧友だからって、許されないこともあるんだぞ」

「私は嘘なんて」

「お前、昔から嘘を吐くと、翼が少し右上に動くんだよ。分かりやすい。やっぱ、お前は変わらないよ」

「それ、本当ですか?」

「何だよ、信じないのかよ」

「い、いえ。信じますけど」

「あ、また動いた」

 

 冗談かと思い、自分の翼を見る。少なくとも私の目では動いたかどうか判然としなかった。彼女は本当に、そんな些細な挙動を見抜いているのか。あり得ない、とは思えなかった。鬼の動体視力をもってすれば、不可能ではない。鬼が嘘を見抜く、という噂は知っていたが、こんな物的な根拠によるものとは思わなかった。

 

「なら、椛の額に落書きしたときに、私が嘘を吐いたことも気づいておられたのですか」

「え」

「あの時、萃香様には『犬』と書いたと伝えましたけど、実は『鬼』って書いたんですよ。他意はなかったんですが、少し言いづらくて」

「え、ああ。うん」

「気づいてなかったのですね」

 

 ばつが悪そうに頬を掻いた彼女は、誤魔化したかったのか、不自然に姿勢を伸ばし、

 

「そういえば、地球って丸いらしいよ」と意味不明なことを口にしていた。唇を尖らせ、口笛を吹き始める。が、実際はふしゅうと空気が抜ける音がするだけだった。あまりに分かりやすすぎる。

「ところで萃香様」気まずくなった私は、彼女のご所望通りに話題を変えた。

「一つ聞きたいことがあるのですが」

「おお。なんだ」

「以前おっしゃっていた、賄賂の件っていったいどうなってたのですか?」

 

 話が逸れる好機だったからか、それとも元々触れてほしい話題だったからか、ぴょんと飛び跳ね、目を輝かせて振り返った。その顔には、よくぞ聞いてくれた! と書いてある。

 

「いや、色々探ってみたんだけどね。中々に笑えないことになってたよ」

「笑えないこと、ですか」

「多分、私に情報を伝えてくれた奴は、本当に風の噂で知っただけだったんだよ。妖怪の山のお偉いさんが賄賂をしてるんだって、と言われたら、あり得るかもなって思うだろ。そのくらいの、世間話の一つだったんだ」

「だった、ですか」

 

 彼女の嬉しそうな口ぶりが、どこか不穏に感じられ、私は狼狽える。にこやかに話をしているだけなのだが、不安がふつふつと浮かび上がってくる。彼女のその笑顔は、強敵と喧嘩をしているときと同じだった。

 

「そう。だったんだよ。だが、調べれば調べるほど、濃くなっていったんだ」

「濃くって、何がですか」

「闇だよ」背筋が冷たくなる。曖昧な彼女の言い回しが、余計に神経を逆撫でた。

「私って、こう見えて隠れて行動するのが得意でさ。人気のない草原から、天魔の家まで調べてみたんだけど、まあ、うん。分かったことと言えば」

「言えば?」

「とても新聞にはできないってことだけだね」

「何ですか、それ」酷くもどかしい終わり方をする彼女が嫌みに見え、腹が立ってくる。「そこまで言って、それはないですよ」

「いいか。世の中には知らない方がいいこともあるんだよ」

「鬼が豆に弱いこととか、ですか」

「知らない奴いないだろ、それ」

 

 それ以降、何度追及しても、彼女は答えてくれなかった。のれんに腕押し、ぬかに壁、萃香様に正論、だ。これでは新聞大会の記事にできない。また、一からネタを探さなければならなくなった。

 

 うなだれていると、「まあ、いいじゃないか。お詫びに、一つ面白い話をしてやろう。男と皿の話だ」と萃香様が笑いかけてくる。どうして自分の小話がお詫びになると思っているのか。その傲慢さを少しでも分けてほしかった。

 

 ますます深く項垂れた私などお構いなしに、萃香様は楽しそうに言う。

 

「むかし、ある人間が、こんな実験をしたらしいんだ。男に一枚の皿をプレゼントして、これは三銭の価値があると伝える。その後で、別の奴が、そのプレゼントをもらった幸運な男に、その皿を、十銭でもいいから売ってくれ、と頼むんだ」

「言うほど幸運ではないと思いますけれど」

「まあ実験だからな。それで、だ。その幸運な男は、無料でもらった三銭の皿をどうしたと思う?」

「売ったんじゃないんですか?」

「十二銭なら売るって突っぱねたんだ。実際に十二銭出すと言っても、やっぱり気が変わってと言って、結局売ることはなかった」

「へえ」

「つまり、だ。私が何を言いたいかと言えば」

「人間は愚かと言うことでしょうか」

「それもある」と彼女は肯定した上で「自分が手に入れたものは、価値があると勘違いするんだ。それが物だったら高価であると思うし、情報だったら、それが正しいと信じる」と続けた。

「実際に価値があるかはどうでもいいんだよ。ただ、自分が苦労して手に入れたものは、価値があると思わないと、やっていけないんだ」

「でも、その男は無料でもらったんですよね。苦労していないじゃないですか」

「してたんだよ、きっと。人は誰だって苦労しているんだ」

 

 だから、お前も頑張れ。彼女はそう締めくくった。今の話を聞いて、頑張れるわけがない。むしろ、気力が幾分か減ってしまった。

 

「どこかで、何か目新しい事件でも起きればいいんですけどね」

「なんなら、今から起こしてやろうか。お前の家を壊すとか」

「止めてください。そういうのじゃなくて、もっとこう、インパクトがあるようなことが起きればいいんです。センセーショナルで、同情を呼んで、なおかつ目を惹くような」

「季節外れの赤いモミジとかどうだ」ちょうど私たちの間に振ってきた一枚の葉を指差し、彼女は笑う。「センセーショナルで、同情を呼ぶぞ」

「いったい誰の同情ですか」

「ああ。こんなに早く色づいてしまうなんて。人生苦労されたのねって」

「白髪と同じ扱いにするのはどうかと思います」

 

 それに、人生ではなく葉世だ、と指摘しようと思ったが、止めた。あまりに下らない。もういっそのこと、伊吹萃香の名言集と評して、普段の会話をそのまま載せてやろうか。いや、だめだ。それはもう新聞ではなく、独白録になってしまう。

 

「まあ、上を向いて歩けば何とかなる」無責任なことを言った萃香様は、有言実行とばかりに上を向いた。私も、まさか本当に上を向けばなんとかなると思ったわけではないが、彼女につられて空を見上げた。そうしなければ、怒られるような気がしたせいでもある。

 

 真っ青な空は、私たちを侮辱するかのように、陽光を送り込んでくる。太陽の光が目を刺し、視界が一瞬奪われる。目を閉じてもなお残像が消えない。何度か瞬きをするうちに、段々と視界が戻っていった。

 

 最初は近づいてくるその影に気がつかなかった。視界の端に僅かに黒い物が見えた。まだ視力が戻っていないかと目を擦るも、その影は消えない。それどころか、ますます大きくなっていった。

 

「お、おい」

 

 萃香様が戸惑いの声を上げ、ようやく影が現実のものだと気がついた。何かが落ちてくる。咄嗟に私はカメラを取り出していた。萃香様は、落下物を受け止めようと両手を広げている。

 

 ばさり、と一際大きな音と共に何かが萃香様の手の上に飛び込んでくる。いや、何かだなんて誤魔化さなくても、私には何が落ちてきたのか、はっきりと見えていた。が、認めたくなかったのだ。意味が分からず、うろたえる。幻覚じゃないかと、もう一度目を擦った。

 

 落ちてきたのは、全身を血で真っ赤に染めた椛だった。

 

 状況が飲み込めず、私たちは唖然としていた。音が消える。視界がきゅっと狭まり、世界が暗くなる。

 

 椛は微動だにしなかった。元々真っ白だった椛の肌も、服も、髪も、すべてが真っ赤に染まっている。四肢は真逆へと折れ、皮だけで繋がっているのか、落下の衝撃でぷらぷらと揺れていた。顔は歪み、ぶくぶくと血の泡が口から噴き出している。腹は破れ、黄土色の内臓が剥き出しになっていた。生きているのか、死んでいるのか。それすら曖昧だ。

 

「なんなんですか」

 

 ぽつりと零れた私の嘆きに、答えてくれる存在はない。ぽたり、と音がする。萃香様の手を伝い、椛の血がしたたり落ちていた。

 

「なあ、文」

 

 幾重の死体を見たはずの萃香様の声も震えている。泣き笑いのような表情で私を見上げ

る彼女は、鬼の四天王とは思えないほどに焦燥していた。

 

「こいつは、記事にいいんじゃないか」

「え?」

「季節外れの赤い椛。センセーショナルで、同情を呼ぶぞ」

 

 明らかに取り乱している萃香様は、カメラを構える私を見て、心底不安げに目を伏せた。そしてそのまま、ぼんやりとした目で「今日の晩ご飯はカレーだな」とぽつりと呟く。私は何も返事をすることができない。血塗れの部下へとカメラを向け、ボタンを押す。プリントされた部下の顔が目に入り、自然と押す力が強くなる。

 

 カシャリと小気味よい音が私たちを包み込んだ。

 

 

 



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約束されたお使い

──神と鴉──

 

 

 今日の晩ご飯を鍋にしようと思ったのに、大した理由はなかった。じめじめとした暑さが、鍋から吹き上がる湯気を思い起こしたのか、それとも早苗さんの緑髪が新鮮な白菜を思い起こしたのか、気づけば「鍋にしましょうか」と口走っていた。

 

 このとき、私には二つの誤算があった。一つは、鍋という言葉を聞き、早苗さんが「キムチ鍋がいいです!」と、当然のように鍋は友人で囲むものとして認識しており、一緒に食べる気になっていたこと、そしてもう一つは、夏の季節に葉物が手に入らず、代わりの野菜を探さなければならなくなり、そしてこれまた当然のように「だったら、キュウリを入れればいいじゃない」とにとりが言い出したことだった。

 

「いやあ、夏に鍋ってのもいいですね!」

 

 見るからにうきうきな早苗さんは、かき氷を食べたとき以上にはしゃいでいた。私の家をなめ回すように見ている。彼女にとって、鍋を食べるという事実以上に、私の家で、にとりや私と共に食事をとる、という行為そのものが喜ばしいのだろう。贖罪ではないが、あれだけ焦っていた私とにとりも、彼女の『みんなで鍋をつつく』という思い込みを否定することはなかった。都合がよかったというのもあるが、単に、私たちもお腹がすいていたのだ。

 

 机に置かれた鍋の蓋を、にとりが恐る恐る開く。ぐつぐつと煮えた鍋から湯気があふれ出し、部屋が一瞬白くかすむ。無意識のうちに、布団へと目をやっていた。誰の姿もない。それもそうか、と息を吐く。

 

「いや、暑いよ! やっぱり」その湯気を一身に受けたからか、にとりは悲鳴を上げた。「どうして夏に鍋なんて食べないといけないんだよ」

「あややや、いいじゃないですか。明日は冷やし中華にするので、問題なしです」

「私たちに明日はあるのかねえ」

「そりゃ、ありますよ!」早苗さんは、自嘲気味に呟くにとりを笑い飛ばした。三枚の小皿に鍋を取り分けながら「にとりさんって、けっこう悲観的なんですか?」と軽い口調で訊ねる。

「悲観的と言うよりは、現実的なんだよ。本当なら、今すぐ帰って、布団を被って寝るべきなんだろうけどさ、どうしてこんなことしているのか」

「少なくとも、このキュウリ鍋を食べきるまでは帰っちゃ駄目です」

 

 鍋から菜箸でキュウリをつかみあげた早苗さんは、それをぷらぷらと揺らした。ふやけたキュウリは、出汁が染み込んで茶色く変色している。

 

「にとりさんが帰っちゃったら、このキュウリ、どうするんですか」

「どうって、食べればいいだろ」

「あんまり美味しくなさそうで」

 

 心配そうに自分の皿にキュウリを入れた早苗さんを、じっと見つめる。彼女の言う通り、煮込まれたキュウリは美味しくなさそうだった。だが、だからこそ言わずにはいられない。

 

「早苗さん。二人で食べればどんなご飯だって美味しいって、言ってたじゃないですか。だから、きちんと食べてくださいよ」

「でも、今は三人なので」

「にとりが帰ったら二人になりますが」

「にとりさーん。絶対帰っちゃ駄目ですからね」

 上半身だけでにとりに抱きついた早苗さんを、私はカメラに収める。

「にとりさんが帰っちゃったら、私はたぶん寂しくて死んじゃいますよ」

「そんなんで死んでたら、幻想郷で生きていけないよ」

「そうかもですけど」

 

 ぷくー、と頬を膨らませた早苗さんの脇をつつき、その膨らみを破る。そして私は、自分でもうんざりするほど元気に振る舞い、口を開いた。

 

「にとりが帰ったら、たぶん早苗さんは本当に死んじゃいますよ」

「そうですよ」にとりの方を向き、早苗さんも同意する。「死んじゃうんです」

「死にはしないよ。死にそうになるかもしれないけどさ」

「見捨てないでくださいよー」

 

 喜怒哀楽が激しい。彼女の面倒を見ている二柱の神も苦労しているのだろう。子煩悩な彼女たちは、きっと、早苗さんが帰ってこなかったら心配するに違いない。

 

「早苗さん、そういえば、守矢神社に連絡を入れなくてもいいんですか? もしかしたら晩ご飯を作って待っているかもしれません」

「ああ。それは大丈夫です!」私の懸念を振り払うかのように、彼女は明るい笑みを見せる。「しばらく出かけると伝えましたので」

「よく許してもらえましたね。いつ帰るかも、どこに行くかも伝えずに」

「そりゃ許してもらえますよ。子供じゃないんですから」子供じゃないんですから、の部分だけ、やけに強く彼女は言った。

「文さんは私のことを子供扱いしますけど、もう立派な大人ですからね。ちゃんと一人でトイレにも行けますし、お使いもできますよ」

「それは子供でもできると思いますが」むしろ、そんなことを自慢げに話すこと自体が子供っぽかったが、そこには触れないでおく。

「でも、子供が一番守らなければならないことを、早苗さんは破ってますよ」

「え、何ですか。たしかに勉強はサボりがちですが」

「よく言われているはずですよ。怪しい奴の言うことを信じてはいけないと」

 

 早苗さんはきょとんとしていた。にとりでさえ首を傾げている。私もだ。どうして自分がこんなことを言おうとしているか、理解できない。が、口はそのまま進む。

 

「だってほら、早苗さんは今、こうして私の家に来ているじゃないですか」

「それが何か?」

「鴉天狗なんて、怪しい奴ランキング優勝ですよ。そんな妖怪の家に、鍋につられてノコノコ来るなんて、酷い目に遭っても文句言えませんからね」

「そんなランキングがあったんですか」早苗さんはまた、きょとんとした。が、にとりは首を傾げない。鋭い目つきで睨んでくる。悪趣味、と確かにその口は小さく動いた。その通りだ。だが、河童に言われたくない。

「もう少し、早苗さんは警戒心を持たないといけません。人を疑うことを覚えたほうがいいです。推理小説でも読んで下さい」

「別に推理小説を読んでも、疑い深くはならないですって」

 

 それに、と彼女は嬉しそうに手を叩く。と、机の上に置かれた小皿をこちらに差し出してきた。茶色のキュウリがこんもりと盛られている。

 

「文さんだからこそ、ですよ。私だって、知らない妖怪の家にほいほいと着いていったりはしません」

「親しき仲にも嫌疑ありって言うじゃないですか」

「嫌な諺ですね」

 

 いただきます、と手を合わせ、早苗さんは私に目を向けたまま、キュウリを口の中へと入れ、べぇっと舌を出した。美味しくなかったのか、それとも私の説教に対するささやかな反抗なのか、分からない。分かったのは、彼女は相変わらず上機嫌だということだけだった。

 

「そろそろ本題に入ろうじゃないか」どこかつまらなそうに、にとりが口を開く。

「本題って?」

「早苗が何を調べていたか、だよ」

 

 心なしか空気が凍った気がした。早苗さんは相変わらずニコニコしているし、にとりだって、そんな早苗さんを見て苦笑している。単に、私が緊張しただけだと気づくのに、そう時間はかからなかった。知らず知らず小皿に載せられたキュウリに手を伸ばしている。美味しくはないが、食べられなくはない。微妙な味だ。

 

「どうしたんですか、文さん」早苗さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。

「そんなにキュウリ、美味しくなかったんですか」

「え、ええ。そうですね」本心からの言葉なのに、不思議とどもってしまう。自分の翼を見る。ほんの少し、右上に動いているような気がして、戸惑う。

 

 箸を置いて、小さく息を吐く。大丈夫、と自分に言い聞かせる。そして、そんなことをしている自分に嫌気が差した。にとりの言うとおりだ。いったい、どうして。

 

「まあ、キュウリは微妙ですが、きっと私の話を聞けば、それも些細なことになりますって」つとめて、早苗さんは元気に言ってくる。「ですよね、にとりさん」

「ですよね、じゃないよ」

「え?」

「微妙なキュウリなんて存在しないんだ。どんなキュウリも、完璧なんだよ」

 

 腐ったキュウリも完璧なんですか、と嫌みをぶつけようとするが、やめる。気が滅入っていたからではなく、にとりなら、腐ったキュウリさえも好みそうだな、と本気で思ったからだった。

 

 苦笑した早苗さんは、饒舌に話し始める。

 

「文さん達と別れた後、私は見張りの白狼天狗に訊ねて回ったんです」

「訊ねたって、何をです?」

「この写真についてですよ」懐から、ビニール袋で包まれた写真を取り出しひらひらと振った。「少し、気になることがあったんで、聞いて回ってたんです」

 私は恐る恐る「どうだったんですか」と訊ねる。にとりも身を乗り出し、耳をそばだてている。

「それが、皆さん微妙な反応をしまして。なんか、まともに取り合ってくれなかったんですよ。鼻で笑ってくるというか、慰められるというか。そんなのあり得ないって、言うんですよ」

「まあ、そうなるだろうな」

 

 にとりの言葉に、私もうなずく。おそらく、妖怪の山の誰もが同じ反応をするに違いない。すでに結論は出ているのだ。

 

 だが、その結論を知らない早苗さんは、不服げに言葉を続ける。

 

「鴉天狗の人に話を聞こうと思ったんですけど、中々みつからなくて。はたてさんにも会えなかったんですよ! むしろ、こっちの方が異変っぽいですよ」

「たしかに」

 

 はたてはその時、決勝の舞台にいた訳だから、家にはいなかった。早苗さんの驚く姿が目に浮かぶ。騒がしい彼女のことだから、家の前で何度も叫んだに違いない。

 

「結局、鴉天狗の皆様には会えなかったので、仕方がなく、河童の方々にも聞いたんですけど、あまりいい情報は手に入らなくて。しぶしぶ、頑張って勇気を出したんですよ」

「勇気、ですか」

「勇気があれば何でもできるんです。知らないところに一人で行くことも、目上の方々に頭を下げることも。そして」

「そして?」

「真犯人に出会うことも」

 

 自然と背筋が伸びた。おそらく早苗さんは、わざと含みを持たせた言い方をし、私たちに期待を持たせようとしている。そんなことは分かっていた。それでも動悸が激しくなり、息が詰まる。名探偵早苗の推理ショーは、酷く滑稽で、泣けてきた。

 

「真犯人って、いったい誰なんだよ」半ば儀礼的に、にとりが訊ねる。「勿体つけないで、教えてくれ」

「まあまあ、焦らないでください」いつの間にか早苗さんは立ち上がっている。「まずは、これを見てほしいんです」と取り出した写真を、机の真ん中、鍋のすぐ横に置いた。件の、ビニール袋に包まれた写真だ。間違いなく、にとりが落としたものだった。

 

 正面に、にとりが映っている。笑みは引きつり、強張っている。その手には真っ二つに割れたキュウリが握られていた。何度見ても間抜けで、みっともない。

 

「この情けない写真がどうかしたのですが?」新聞大会にでも使えそうなほど、よく撮れている写真を、私はピンと指で弾き、早苗さんの前へと滑らせる。

「にとりの愚鈍さなら分かりましたが、それだけです」

「よく見てください」

 

 ここですここ、と早苗さんは写真の右上、木陰になり、暗くなっている箇所を指差した。綺麗に整えられた爪先が、ぺしぺしと写真を叩く。

 

「ほら、暗くて見えにくいですが、誰か映ってますよね」

 

 角度を変えてじっと見る。と、たしかに人影が映っていた。黒く見づらいものの、全く見ないわけでもなく、複数の人の姿がぽぅっと浮かび上がる。彼らの手元にある何かが、カメラのフラッシュに反射したかのように、一部だけ光っていた。

 

「私、これを見て気がついたんです」

「気がついたって、何をだよ」

「にとりさんが誰かに襲われた理由です」簡単な推理ですよ、と彼女は胸を張る。

「もしかしたら、にとりさんが襲われたのは、見ちゃいけないものを見てしまったからではないか。そう思ったんです」

「見ちゃいけないものって何ですか」

「賄賂ですよ賄賂!」

 

 まるでそれが魔法の言葉であるかのように、彼女は繰り返す。

 

「ほら、よく見てください。この手前の人が奥の人に金を渡していますよね。見るからに怪しいじゃないですか。ですから、多分この写真に写っている人が、にとりさんを襲ったと思ったんです。そうしたら、奇跡が起きたんですよ!」

 

 奇跡。一般人ならば、子供でもない限り易々と口にできないほど、馬鹿らしい言葉だ。才能に恵まれなかったものが無根拠にすがりつき、偶然をさも自身の努力によるものと勘違いをする。そんな下らない言葉。けれど、早苗さんの言う奇跡という言葉は、おそらく普通の人とは違った意味を持つのだろう。だが、今回に限って言えば、それは奇跡ではないはずだ。

 

「なんとですね。この賄賂を受け取っている妖怪にたまたま出会ったんです! もうびっくりでしたよ」

「出会って、早苗さんはどうしたんですか?」

「当然、自分の推理を披露しました」

 

 にとりが、口に入れたキュウリを吹き出した。そのままゴホゴホと咳き込み、顔を真っ赤にしている。背中をさすってやると、段々と落ち着き始め、今度は真っ青な顔になり、ガタガタと震え始めた。忙しいやつだ。

 

「推理を披露して、どうなったんですか?」

「これまた典型的なことを言ってましたよ」

「なんですか?」

「証拠はあるのかって。ほら、なんかもう、むっちゃ犯人っぽいじゃないですか。だから、私はありますって言ってやったんです。なんて言ったって、この写真が動かぬ証拠ですからね」

 

 もし、その写真が本当に証拠になるのだとしても、あくまで賄賂の証拠にしかならないし、にとりを襲っただという根拠にもならない。そもそも、にとりを襲った奴が、他の襲撃犯と同一だとは限らないのだが、早苗さんは何の疑いもなく、全ての悪事はその、賄賂を受け取った妖怪だと信じ切っているようだった。

 

「やっぱり、正義のヒーローなんていなかったんですよ。ただの、賄賂を隠そうと犯行を繰り返す、酷い奴が犯人だったんです。きっと、口封じで倒された妖怪が、たまたま悪いことをてただけだったんですよ。これが、襲撃事件の結論です!」

 だが、そんな根拠に欠けた推理でも、そこそこ的を得ているのは、やはり彼女が奇跡の申し子であるからなのだろうか。

 

 しばらく、私たちは無言で鍋をつついていた。正確には、なおもまだ早苗さんは楽しそうに何やら話していたが、その声は耳を通り抜け、宙に霧散してしまっていた。美味しくないキュウリに四苦八苦している、といった風を装い、心を落ち着かせる。にとりがぽんと箸を机の上に投げ捨てた。「さじじゃないけどね」と卑屈に笑い、「腹をくくったよ」と曖昧に笑みを浮かべる。

 

「私も腹をくくりました」にとりの言葉に私も頷く。

「お腹でもこわしたんですか?」心配そうに訊ねる早苗さんから目をそらし、私は片手をあげ、玄関の扉を開いた。

「努力をしたんですよ」

「努力って、なんの?」

「絶望する努力です。絶望する努力をしなければ、世の中は生きていけません」

「それって、この美味しくないキュウリを食べきる努力ってことですか」

 

 私は曖昧な笑みを浮かべ、そのまま早苗さんの方を見る。

 

「早苗さん、少しお願いがあるのですけれど」

「お願い? 何ですか?」

「お使いを頼みたいのです」

 一瞬ぽかんとした彼女だったが、すぐに破顔し、子供のように顔をくしゃりとさせた。「任せてください!」とぽんと自分の胸を叩いている。

「お使いは得意なんです!」

 

 彼女はどこまでも純粋で、素直で、分かりやすい。喜怒哀楽が激しく、嘘をつけない性格だ。天真爛漫で、太陽のように明るくて、鴉天狗である私ですら驚くほどに美しい。だからこそ、私はその笑顔が大好きで、羨ましいのだ。

 

「でも、こんな夜更けにお使いだなんて、どこに行けば良いんですか?」

 

 早苗さんは当然の疑問を投げかけてくる。大きく息を吸い、吐く。残ったキュウリを一気に口に頬張り、もごもごとさせながら、私は口を開いた。

 

「いつも私がいる場所、覚えていますか? 川の畔にある、開けた場所です」

「ああ、さっき行った場所ですね。にとりさんが待っていた」

「そうです。そこで、行商の方と待ち合わせをしていまして。代わりに買い物を行ってきてほしいのです」

「何を買えばいいんですか?」

「そうですね。喧嘩と顰蹙でも買ってきてください」

「なんですか、それ」

 

 くすくすと早苗さんは笑う。私も彼女を真似て、同じように笑った。

 

「そうですね。まあ、傷薬でも買ってきてください。どんな怪我でも治る薬を」

「そんなもの売っているんですか」

「売っていたらでいいです」

「あ、でも」玄関を出かけたところで、早苗さんは立ち止まり、振り返った。焦らすかのようなその所業に、私もにとりも渋い顔をする。

「行商の人も、文さんの姿がなかったら、帰ってしまうのではないでしょうか。私を見ても、客とは思わないかも」

「あ、ああ」そこまで頭が回るのにどうして、と思わずにはいられない。大丈夫ですよ、と声をかけようとしたが、それだけだと淡泊な気がして「だったら、私が客ですと叫んでください」と余計なことを付け加えてしまった。

「そうすれば、さすがに気づいてくれると思います」

 

 なるほど、と頷いた早苗さんは、お使いだというのに、金を受け取ることなく家から飛び出してしまった。私とにとりが部屋に取り残される。ぐつぐつと鍋の煮える音だけが部屋を包んでいた。

 

「私は知らないからな」ぽつりとにとりが呟いたのは、私が鍋の中のキュウリを全て早苗さんの器に移し、自分の分をにとりに勝手に押しつけていたときだった。

「やるべきことはやるけどさ」

「十分ですよ。むしろ、あなたは勝手なことをしないでください。いつもそれで台無しにするんですから」

「うまくいくのか?」臆病な彼女は、酷く不安そうな声を出す。

「このまま無事に帰ってくる可能性が半分、帰ってこない可能性が半分ですかね。夜の妖怪の山は危険です。まあ、早苗さんは強いので、木っ端妖怪に襲われることはないはずですが」

「本当につれるのかい?」

「つれなかったら、その時はその時です」

 口ではそう言ってたが、私は確信していた。早苗さんならば大丈夫だ。

 

 どこか落ち着かないのか、にとりはしきりに帽子をいじり、どこからか取り出したキュウリを頬張っていた。先ほど食べたばかりだというのに。だが、キュウリは精神安定剤にはならないのか、その体はブルブルと震えている。

 

 すると、唐突にその震えが一際大きくなり、その場でにとりは大きく跳躍した。座ったまま跳ぶ姿を初めて見たかもしれない。ツインテールが逆立っているようにすら見えた。

 

 にとりはガサゴソとポケットを漁る。ピー、ピー、と甲高い音が響き、バイブによる重

低音も相まって、不快な音に聞こえる。

 

「防犯ブザーだ」にとりは焦りつつも、しっかりとした声で言った。

「早苗が防犯ブザーを鳴らしてる。何かあったんだ」

「何か、ね」顔を引き攣らせるにとりの肩を掴み、頷く。

「絶望する努力をしないと、ですね」

 

 私の呟きのせいで、にとりの顔にまた青色がさす。それはとても魅力的に思えた。

 

 



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馬鹿になるのは難しい

──狼と鴉──

 

 

 

 文さんはまだ半人前ってところですかね。

 いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、部下にそう言われたことがある。たしか、椛がちょうど哨戒天狗として、部隊長とやらに選ばれたときだ。

 

 まだ寒さの残る初春の頃だった。桜の蕾がはち切れんばかりに膨らみ、今か今かと待ち構え、草原がざわめき立っている。こういう時期には、のどかな花畑に触発されたのか、頭の中まで花畑になり、間抜けなことを言う馬鹿が増えるのだが、例に漏れず、椛も訳の分からないことを口にした。

 

「私は今日から、哨戒天狗として一人前になったわけですが、文さんの新聞はいつまでたっても、下らないじゃないですか」

「そんなことないですよ」

「ありますって」

 

 一人前の哨戒天狗は上司を唐突に馬鹿にしたりはしない。そう目で訴えるも、彼女は気づかなかった。一人前ではないから気づかないのだ、と内心で毒づく。

 

「私はずっと努力してたんです。努力して、ようやくこの立場に立てたんですよ。でも、文さんは努力してないじゃないですか。新聞だって、滅茶苦茶なこと書いてますし、ほとんどが自作自演って、酷すぎです」

「努力の賜物ですよ」

「方向性が違いすぎです。バンドマンだったら解散してますよ」

「何ですか、それ」やはり、彼女の頭は花畑になってしまっている。

「さすがに下らなすぎです。おお寒い。急に冬が戻ってきましたよ。そんな下らないことばかり言っているから、いつまでも、半人前なのです」

「私はもう一人前ですよ」

 

 私はわざとらしく鼻で笑った。肩をすくめ、そのまま足下の石を川へと蹴飛ばした。ぽちゃんと小気味よい音が響き、水面に幾重もの輪が広がる。椛の顔が、その川に反射し、いびつに歪んだ。

 

「椛はまだ半人前ですよ」その、歪んだ彼女の顔に私は語りかける。

「テケテケも驚くほどの半人前です」

「部隊長になったんですよ? 文さんもよく、立場を考えろ、って言ってたじゃないですか。ようやく良い立場になれたんです」

「部隊長ごときじゃ一人前を名乗れませんよ」

 

 椛の真っ白な髪が逆立ち、目が大きく見開かれる。馬鹿にされたと思ったに違いない。正解だ。私は馬鹿にしたのだ。

 

「部隊長なんて、生きていれば誰でもできますよ。オタマジャクシが蛙になるのと一緒です」

「一緒じゃないですよ。なら、私はどうやって一人前になればいいんですか」

「そうですね」私は腕を組み、両目を閉じた。うーん、と唸り、考え込むふりをする。つまり、実際には何も考えていなかった。私が椛を一人前だと認めることなど、絶対にあり得ない。どうあがいたところで、彼女は不出来で、不完全だ。

 

 だが、そう伝えると、ガミガミとしつこく噛みついてきそうだったので、適当に「勝てばいいんですよ」と返事をした。

 

「映画とかで見たことありませんか? 弟子がなんやかんやで師匠を打ち倒した後、死にゆく師匠が最後の力を振り絞って『お前もこれで一人前だな』って伝えるという、新鮮味のない陳腐な展開」

「陳腐ではないですけど」

「あれですよ」

「あれって、どれですか」

「椛が一人前になるには、師匠を倒さないといけないんです」

 

 自分で言っておきながら、苦笑してしまう。なんだそれは。師匠だなんて、そんな奴いないじゃないか。きっと、椛も鼻を鳴らしてくるだろうな、とため息を吐く。 が、予想外なことに「なるほど」と妙に真剣な顔つきで椛は笑った。

 

「なら、私が一人前になるためには、文さんを倒さないといけないんですね」

「え」

「そうと分かれば、特訓しないと」

「あやややや。いつから私が椛の師匠になったのですか。勝手に弟子を気取るだなんて、寒気がするほどおこがましい。椛を弟子にとるくらいであれば、まだオタマジャクシかテケテケの方が幾分かマシです」

「仕方ないじゃないですか」べえっと舌を出し、渋々と息を吐く。

「だって、師匠を倒して、死ぬ直前に『お前は一人前だ』って言われなければならないんですよね。殺しても心が痛まない上司なんて、文さんだけですもん」

「もんじゃないですよ」

「あ、でも」ぽん、と広げた左手の上に拳を打ち付けた椛は、そういえば、と目線を左上にあげた。

「まえ、文さんに勝ったことありましたよね。昔、私と訓練しているときに」

「そうでしたっけ」

「てことは、私はもう一人前ですね。ほら言ってください。お前は一人前だって」

「私はまだ死にそうになっていませんし、そもそも、それはノーカウントです」

「どうして」

「だって、本気を出していませんから。本気の師匠に勝たないと意味ありません」

「文さんが本気を出したとこなんて、見たことありません」と椛は生意気にも、不満そうな顔をする。「そんなんじゃ、絶対に一人前になれないじゃないですか」

「もし一人前になったら、ご飯でもおごってあげますよ」

「メリットが少なすぎます!」椛は情けない声を出した。

 そんなんだから一人前になれないのだ、と思わずにはいられない。

 

 この調子では、せっかく持ってきたこれも台無しだな、と私は椛に隠すように翼で隠していたそれを掴みあげる。すると「それ、なんですか?」と椛が訊ねてきた。

 

「さっきから気になっていたんですけど、宅配便でも始めたんですか」

「始めませんよ」

 持っていたのがバレていた気恥ずかしさと、退路を断たれた動揺を隠すために、早口でそう言い、そのまま川原へと投げ捨てる。

「これはプレゼントです」

「プレゼントって、誰の」

「あなたへの、ですよ」

 

 茶色く煤けた麻袋だ。先を縄でくくりつけてあるだけのそれは、確かにプレゼントとは言いがたい見た目をしている。ぱっと見では配達物に見えても仕方がない。 が、椛が驚いたのは、その無骨な袋にプレゼントが入っているということではなく、私が椛にそんな物を用意していた、という方らしかった。

 

「なんでプレゼントなんか」

「部隊長になったお祝いですよ。ほら、早く開けてみてください」

 

 不安そうな顔になった椛は、恐る恐る袋口のロープを解き、中を覗き込む。そして、え、と戸惑いの声をあげた。私と袋とを交互に見比べ、袋の中の物を取り出す。

 

「私はてっきり、どっきり箱みたいになってると思ったんですけど」

 喜ぶべきか、安心するべきか分からなかったのか、彼女は微妙な顔になっていた。「まさか本当にプレゼントだとは。え。何でですか。何を考えているんですか」

「普段のお礼ですよ」

「なんか怖いんですけど。文さんが剣と盾をくれるだなんて、びっくりです」

 

 最初こそ、おっかなびっくりとしていた椛だったが、罠ではないと分かると、右手に剣を、左手に盾を持ち、こちらに構えた。真顔になろうと努力しているが、頬は緩んでいる。彼女の給料では買えないような立派な武具だ。きっと、私がそんな物を善意でくれると思わず、驚いているに違いない。だが、残念なことに、私はそこまでお人好しではなかった。

 

「せっかくなんて、写真を撮ってあげますよ。椛の晴れ姿です」

「どうしたんですか。何か悪い物でも食べたんですか?」

「食べてませんよ」

 

 はいチーズ、と一方的に言い、シャッターを切る。椛の顔には少し動揺が浮かんでいたものの、剣を振り上げ、勇ましいポーズをしっかりきめていた。吹き出しそうになるのを、必死にこらえる。

 

「ばっちりですよ、椛」私は口元を押さえながら、近づく。

「新聞の一面に相応しい写真が撮れました」

「一面にするんですか」

「きっと、人気が出ますよ」

 

 えへへ、と珍しく照れ笑いをした椛は、手に持った剣と盾を裏返し、まじまじと見た。見て、固まった。顔が一気に赤くなり、目が鋭くなる。私は笑いをこらえきれず、噴き出す。らしくもなく、腹を押さえて爆笑してしまった。

 

「なんですか、これ」椛が酷く情けない声を出す。

「何って、見て分かるじゃないですか。盾と剣です」

「そうじゃなくて、ガラですよ! 河童の仕業ですね! 酷すぎです。うわぁ、なんで気がつかなかったんだろう」

 

 椛の剣と盾を、もう一度見る。それぞれ、大きくキュウリが描かれ『九里の道は河童から』と意味不明な格言じみた文字が彫られていた。あまりに不格好で、使えた物じゃない。ださすぎだ。

 

「本当は私が使うために、河童に頼んだんですよ。が、にとりに頼んだのがいけなかった。案の定、余計なことをしやがって、使えなくなってしまったので、椛にあげることにしたんです。記事にすれば元も取れそうでしたし」

「こんなの、私だって使いたくないですよ」

「半人前には相応しいですよ。一人前になるまで、使い続けてください」

「いやです」

「まあ、椛は正義感だけは一人前ですけどね」私はカメラをゆらゆらと揺すりながら、鼻を鳴らす。「真面目過ぎるから、こうなるんです」

「真面目なのはいいことですよ。私の唯一の取り柄なんですから」みっともない武具を持ったまま、椛は胸を張った。どうして自分に取り柄があると思い込んでいるのか、理解に苦しむ。

「真面目は大事です。不正をせず、必死に頑張って、真面目にやってきたから部隊長になれたんです。きっと、私が死んでも、受け継がれると思いますよ」

「受け継がれるって、何がですか?」

「犬走椛は真面目だった、という言伝です。一人前の真面目だったってね」

「てことは、一人前の馬鹿ってことですか?」

「なんでそうなるんです」

「馬鹿真面目って、よく言うじゃないですか。馬鹿は真面目。略して馬鹿真面目」

「そういう意味じゃないですよ」

 

 結局の所、彼女は新しい武具を新調したのか、その河童製の剣と盾を一度も使わなかった。もうすでに捨てられてしまったのだろうか、とそれらに思いを馳せているところで、大丈夫か、と声が聞こえた。世界がぐらぐらと揺らぎ、頭が痛くなる。大丈夫か。大丈夫か。いつの間にか、椛の顔がぐにゃりと歪み、彼女の身体から血を噴き出す。お前のせいだ。そう声が聞こえた。誰の声か。誰の声でもない。目を閉じているはずなのに、視界は変わらない。大丈夫か。空から落ちてくる。私は目を伏せる。伏せることすら、できない。

 

「大丈夫か! おい!」

 

 耳元で大きな音が響き、私は飛び起きた。頭がぐるぐるとし、考えがまとまらない。辺りを見渡し、自分の体を見る。そこで、ようやく先ほどのが夢だったと気がついた。懐かしい感覚と、薄ら寒い恐怖が頭にこびりついている。私は寝ていたのか。いったい、いつの間に。直前に何があったのか思い出そうとするも、上手くいかない。掛け布団を蹴り飛ばし、立ち上がる。私の家だった。なぜかベッドではなく床で寝ていた。

 

「やっと起きたか」すぐ前から声がし、ぎょっとする。萃香様が、げっそりとした顔で私を見上げていた。「お前は鯉の物真似をしないんだな」

「いま、何時ですか」

「もう朝だよ」彼女は時計を指差す。七時にちょうどなろうとしていた。

「寝過ぎだって」

「私はいつの間に」

「覚えてないのか」

 

 やけに額が傷む。手で押さえると慣れない感触がした。包帯が巻き付けられている。どうして。怪我をした覚えなんてないのに。

 

「おまえ、倒れたんだよ。まったく、鴉天狗が情けない。そのせいで、私は二人も背負って医者に行かなきゃならなかった」

「二人?」

「椛とお前だよ。空から落ちてきただろうが。血塗れの椛が」

 

 その一言で、記憶が甦っていく。見るも無惨な姿になった椛の姿が鮮明に甦り、同時に吐き気が襲ってくる。えづき、口を押さえる。生気がなくなり真っ赤に染まった彼女の顔を、原型が分からないほど潰れて骨が飛び出した彼女の足を、剥き出しの贓物がぬめりと光る彼女の腹を、思い出してしまう。

 

「大丈夫か」萃香様が、心配そうに声をかけてくる。彼女のそんな声を、初めて聞いたかもしれない。「どこか痛むのか」

「大丈夫です。それより、椛はどうなったんですか?」

「どうって、お前」

「死にましたか?」

 萃香様は、ぶんぶんと首を横に振る。「いや、死んでないよ」

「そうですか」

 

 ほっと胸をなで下ろし、すぐに下ろした胸を元に戻す。私が椛を心配しているなんて、冗談でも萃香様に思われたくなかった。

「それで、椛は今どこに? 病院ですか」

「気づいていないのか」

「気づくって」

「後ろだよ」

 

 後ろ? 後ろがどうしたというのか。ゆっくりと振り返る。振り返り、唖然とした。私のベッドの上で、椛が横になっていたのだ。私が床で眠っていた理由がようやく分かった。

 

「萃香様」

「なんだよ」

「椛ではなく、私をベッドで寝かせてくださればよかったのに」

「怪我人だぞ。それに、お前も椛が怪我して、ショックを受けていたじゃないか」

「受けていませんよ」

 

 椛を見る。いつの間にか治療が施され、包帯でぐるぐる巻きにされていた。が、真っ白だっただろう包帯も、既に血が滲み、赤く染まっている。腕の位置や足の向きも正しい方向へと直っているが、それでも不自然だった。顔にも包帯が巻かれているせいで、表情は分からない。

 

「ショックなんて受けていません」私はもう一度繰り返す。同じことを二度言うと、余計に嘘くさく感じると分かっていたのに、それでも言葉は勝手に零れ出る。

「前にも言いましたけど、私にとって椛は、鬱陶しい蚊みたいなものなのですよ。やっと蚊が潰れて、清清しています」

「でも、お前は虫愛好家なんだろ?」

「虫愛好家だなんて」いるわけない。そうだ。そんな奴はいない。馬鹿で、何も考えず、ただひたすらまっすぐな彼女のことを好む奴などいない。どんな下らないことでも真剣勝負にこだわる彼女のことを好む奴などいない。些細な不正も許さないと、反吐が出るほど無意味な正義感を滾らせる彼女のことを好む奴などいない。だから彼女は襲われた。四肢を引き裂かれ、腹をえぐられた。そういうことなのか。

 

「でも、まあ。許されはしないってよ」萃香様は、私の肩を叩き、言う。

「許されないって、椛の傲慢さがですか?」

「予断だよ」

「え」

「予断は許されない。今は息があるけど、いつ死んでもおかしくない、らしい」

「らしいって」

「医者が言っていたんだ」

 

 だったら、どうして、と私は叫び声を上げそうになる。大きく息を吸い、吐く。落ち着いて言葉を発しようとするも、ひっく、としゃくり上げてしまう。わざとらしく咳払いをし、無理やり口を開いた。

 

「そんな危うい状況なら、どうしてここに連れてきたんですか。入院させといてくださいよ」

「無駄だからだろ」萃香様は短く、ぶっきらぼうに言い放つ。

「治療をしても意味ないから、入院させてくれなかったんだろうさ。きっとね」

 

 私は医学に詳しくもないし、興味もない。だが、普通に考えて。重篤患者を家に帰すのは、手の施しようがないと病院から追い出すのは、諦めざるを得ないからではないのか。命を、見捨てなければならないからではないのか。

 

 口の中に何か渋い物が上がってくる。視界がゆがみ、慌てて上を向いた。そのまま何も言わず、玄関の扉を開く。

 

「どこに行くんだよ」そう言う萃香様も、私のすぐ後ろに着いてきていた。

「少し、頭を冷やしてきます」

「私が今から出かけるから、椛の面倒を見てやってくれよ」

「どこに行くんですか?」

「頭を冷やしに行くんだ」冗談めかして彼女は笑い、「なんてな」とすぐに真顔に戻る。「そんなの、犯人捜しに決まってるだろ」

「犯人って」

「椛をあんなにした犯人だよ。決まってるだろ。それとも何か? お前はあれも、着地に失敗して、こけた怪我だとでも言うのか?」

「い、いえ」

「それに、目星はついている」平然と彼女はとんでもないことを口にした。

「だから、そいつをぶっ飛ばせばいいだけだ」

「目星って、誰ですか」

「言わないよ。私が何とかするから、文は椛の面倒を見ておいてくれ」

 

 妙に突き放す言い方をした萃香様は、そのまま勢いよく飛び立ち、あっという間に姿を消した。別に、追いつこうと思えばできなくもないが、そこまでする意味も、元気もない。椛は誰かに襲われたのだろうか。萃香様は目星はついていると、そう言っていた。だったら、私は。いや、関係ないはずだ。椛がたとえ誰かに痛めつけられようと、殺されかけようと、私が首を突っ込む理由はない。そう分かっているのに、胸の中の鬱憤は晴れない。

 

 おずおずと自室へと戻り、ベッドで眠る愚かな部下を見下ろす。

 

「まったく、情けないですね」

 彼女の肩を軽く叩く。腕がベッドから落ち、だらりと垂れ下がった。元の位置に戻そうと手を握る。包帯越しにもかかわらず、氷のように冷たい。

「上司の前で安眠を試みるだなんて、いい度胸じゃないですか」

 そう笑うも、椛はうんともすんとも言わなかった。

 

 

 

 

 

 私は家を出て、集会場へと向かった。

 萃香様に椛の面倒を見てくれと頼まれてはいたが、医者ですら匙を投げた彼女の面倒の見方なんて分かるはずもなく、そもそも、どうして私が椛の面倒を見なければらないのか、と馬鹿らしくなり、逃げ出すように家を飛び出した。見るも無惨な椛の姿を直視しできなかったというのも、理由の一つだ。

 

 集会場に来た理由は特になかった。とにかく、日常に戻りたかった。私のよく知る、予想通りの世界に戻りたかった。だから、新聞であふれるここに来た。

 だが、ここでも予想を裏切られることになる。

 

「文は美学が強すぎるんだよ」

 

 聞き覚えのある、腹立たしい声が聞こえた。驚くが、昨日今日と驚きの連続が続いたせいで、顔には出ずにすんだ。無視して進もうとするが、肩を掴まれる。仕方がなく、振り返った。

 

「久しぶりですね、はたて。いつぶりでしょうか」

「この前会ったばっかじゃん」

「そうでしたっけ」いつものように返事をしようとするも、言葉がたどたどしくなる。にっと頬を吊り上げ、無理やり笑う。「美学が強すぎて分かりませんでした」

「何よそれ」

 

 いったい、はたては何をしに来たのか。彼女の新聞はすでに掲示されている。

よっぽどのことがない限り家から出ない彼女が、気まぐれにここに来たとは思えない

 

「もしかして、私の新聞の偵察に来たんですか?」

「え?」

「ですが、残念なことにまだ出来ていないのです。ファンには申し訳ないですね」

「謝らなくていいよ。そんな奴いないから」

 

 そうじゃなくてさ、と彼女は目を泳がせる。「他の連中と同じだよ」とはたてらしくなく、同調圧力に屈するかのようなことを言った。

 

 集会場を見渡す。先日来たときより、はるかに妖怪の姿は多い。鴉天狗も、河童も、それどころか白狼天狗すら数え切れないほど来ている。哨戒任務に支障が出ないのか、と心配になった。嫌な予感がする。

 

「他の連中って、ここに来ている妖怪達のことですか?」

「それ以外ないでしょ。まったく、度しがたいよ」

「はたてに言われるとは、可哀想ですね」

「他の連中にじゃない。私自身に言ったんだ」

 

 背筋が凍った。はたての顔に目を注ぐ。先ほどまで楽しげだったのに、急に真顔になった彼女は、低く、平坦な声を出した。はたてが自虐するなんて、あり得ない。

 

「こう見えて、私は自信があったんだ。周りに流されない自信がさ。でも、今回ばかりはさすがに、ね」

「今回ばかりって、何かあったんですか?」

「まさか、知らないの?」

「だから何の話ですか」

「それは、いや。百聞は一見にしかずって言うし、見た方が早いよ」

「見るって何を」

「新聞を」

 

 私は肩に置かれたはたての手を振り払い、踵を返した。怖かったのだ。真面目なはたてほど、不気味なものはない。

 

 追ってくるはたてを振り払いたくて、早足で人混みを掻き分けていく。こんなにも多くの人が新聞大会に来たことなんてなかったはずだ。いったい何があるのか。

 

 遠目で見ただけでも、掲示されている新聞の数が異常なほど増えていることが分かる。昨日の二倍くらいだ。その新しく貼られた新聞の前には、どこも人だかりができていた。そのうちの一つ、もっとも人を集めている新聞へと足を進める。

 

「最悪だよね」すれ違いざま、見知らぬ河童の声が聞こえてきた。「私、武闘大会の優勝者、彼女だと思って、賭けたのに」

 

 大会? 例の武闘大会がここまで注目されていたのか。不思議に思いつつ、新聞を見る。見て、息が止まった。今度こそ、驚きを顔に出してしまう。目の前にある現実を理解できなかった。見間違いではないか、と目を擦る。まだ夢を見ているのではないか、と頬をつねる。だが、現実は変わらない。薄々、予想はできていた。やけに白狼天狗の数が多い理由も、そして、センセーショナルな出来事にも、心当たりがあった。だが、だからといって。これは予想外だ。

『極悪白狼天狗、金で買った部隊長の地位。犬走椛、退治される!』と大きな見出しが目に入る。

「退治」

 

 私の前にいた白狼天狗を強引に退け、新聞にかじりつく。長々と様々な情報が

書かれているが、そのどれもが荒唐無稽で、一笑に付すべきものだった。

 

 つまり、犬走椛は極悪人だった。だから、名も知られていない、力ある正義感の強い誰かが、彼女は人知れず退治した。そういうことらしい。

 

「なんですかこれは!」

 

 すぐ後ろにいたはたてに掴みかかる。そんなことをしても無意味なのは明らかだ。だが、こうでもしないと気が休まらない。

 

「この記事はなんなんですか!」

「私だって知りたいよ。それに」

「それに、何だというのですか」

「他の新聞も、大体似たような内容しかない」

 

 はたてを突き飛ばし、他の新聞を見ようと歩く。どういうことだ。いったい、どこの馬鹿がこんな記事を。でっち上げるにしても、酷すぎる。こんな嘘と分かるものを作っても、どうしようもないではないか。椛が極悪人? 金で買った立場? なんだそれは。下らない。

 

 人の波を強引に進み、新聞を見る。椛の悪口が書いてある。進む。見る。悪口が書いてある。進む。見る。悪口が書いてある。進む。見なくとも、悪口が書いてあると分かった。床を蹴る。拳を握り、自分の頭を強く叩いた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。どうして私が動揺する必要があるのか。

 

 集会場の端、一番奥にある新聞は、文字ではなく、大きな写真が掲載されていた。目が留まり、足も止まる。動くことができなかった。はたてが何か言ってくるが、耳を通り抜けていく。

 

 写真には椛が映っていた。真っ白な短い髪も、その印象的な赤い瞳も、間違いなく椛のものだ。だが、浮かべている嫌みな笑みに見覚えはない。顔の半分に影がかかった彼女は何かを踏んでいる。よく見ると、それは子供の白狼天狗だった。土下座する少年の頭を踏みつけ、右手で剣を振り上げている。左手には一枚の小判が握られていた。額に書かれた犬という文字ですら、影のせいで恐ろしく見える。写真の左下には、『病気の親への薬を買うための金を強奪する犬走椛』と不穏なフォントで書かれている。

 

「なに、これ」しんと静まりかえった集会場に、私の声はよく響いた。

「なんですか。どうして。これはいったい!」

 

 あの椛がこんなことをするか。するわけがない。あの腑抜けには、そんなことをする勇気も気概も根性もない。そんなの、少し考えれば分かるはずだった。だというのに、誰もが冷静に、吐き気がするほど落ち着いて見ている。

 

「ショックですよね」

 

 茫然自失としていると、近くにいた白狼天狗が声をかけてきた。萃香様が山へ侵入してきたと、私たちに伝えに来た白狼天狗だ。

 

「まさか、あの犬走さんがこんなことをするなんて」青ざめた表情のまま、彼女はとうとうと言葉を続けた。周りの連中も、どこか頷いているように見える。気のせいであってくれ、と願うが、そうではないことは、私が一番分かっていた。

「失望しましたよ。でも、自業自得ですよね」

「自業自得? 何がですか」

「新聞に書いてある通りです。犬走さん、正義のヒーローに退治されたんですよね。悪いことをたくさんしていたから」

「せいぎのひーろー」鸚鵡返しに言葉をなぞった。言葉の意味がよく理解できない。

「悪い奴を人知れず倒してる妖怪がいるらしいですよ。どの新聞にもそう書いてありました。初めて知りましたけど、そういう良い妖怪もいるんですね」

「あなたは、何も思わないんですか」

「え?」

「上司がその胡散臭い正義のヒーローに倒されて、何も思わないんですか?」

「だって」白狼天狗は不思議そうに首を傾げる。

「子供を脅して、金を奪い取るのは駄目ですよ。退治されても文句言えないです」

 

 何の疑問もなく言う白狼天狗を見て、ぞっとする。周りを見る。どいつもこいつも、一切の悲しみを浮かべていなかった。ショックを受け、動揺しているものの、涙を見せる奴はいない。椛がどうなったかなんて、心配している奴はいない。いるかもしれないが、顔には出せないような、そんな空気になっている。あのはたてですら、その空気に従ってしまうほどに。

 

「笑えますね」私の声は、自分でも驚くほどに淡々としていた。本当に、笑えるじゃないか。彼女の今までの努力は、人生は、こんなものだったのか。いったい彼女は何のために真面目に訓練をして、部隊長になったのか。なんのために、皆のために奔走し、頼られる白狼天狗になったのか。真剣勝負ですよ、と生意気なことを言う椛の顔が頭に浮かぶ。

 

 アハハ、と笑い声が聞こえた。いったいどこからか、と耳をそばだて、そしてすぐに気づく。笑っているのは私だ。押さえようとするも、腹の底から笑いが噴き出してくる。

 

 滑稽だったのだ。何者かに襲われ、蹂躙された挙げ句、知らない間に椛自身が一番嫌悪していた、卑劣な妖怪だと見なされているだなんて、笑えずにはいられない。傑作じゃないか。ざまあない。まったくもって。

 

「愚かだ。虫唾が走る。椛に相応しい末路ですよ」

 

 彼女の信用は、たかがこの程度のものだったのか。その通りだ。椛のことを好む奴なんていないに決まっている。そうだ。そんな奴はいない。馬鹿で、何も考えず、ただひたすらまっすぐな彼女のことを好む奴などいない。どんな下らないことでも真剣勝負にこだわる彼女のことを好む奴などいない。些細な不正も許さないと、反吐が出るほど無意味な正義感を滾らせる彼女のことを好む奴などいない。

 

『きっと、私が死んでも、受け継がれると思いますよ』椛の言葉が頭に響く。

『犬走椛は真面目だった、という言伝です。一人前の真面目だったってね』

「前から半人前とは思っていましたが」私は懐からカメラを取り出し、周りの群衆へと向ける。そして、そのままシャッターを切った。

「まさか、一人前の馬鹿にすらなれないとは思いませんでしたよ」

 

 カシャリと小気味よい音が私たちを包み込んだ。

 



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深夜の密会

──神と鴉──

 

 

 

 深夜に出て行った早苗さんが、防犯ブザーをならしたんですよ。

 

 もし他の妖怪にこう伝えたら、いったい、どのような反応をするだろうか。また早苗が何かをやらかしたのか? と、ある神は言うだろうし、早苗なら大丈夫でしょ、と博麗の巫女はぶっきらぼうに言い放つだろう。私も同意見だ。彼女はトラブルを起こす側であって、巻き込まれる側ではない。防犯ブザーをならしたのだって、何かをやらかしてしまったからではないか、と普段であれば思う。まあ、普段は防犯ブザーなんて持ち歩いていないだろうが、とにかく、気楽にのんびりと紅茶でも飲みながら、早苗さんが大変そうですよ、と話の種にするだけのはずだ。

 

 だが、今回だけはそういう訳にもいかなかった。

 

「にとりはここで待っていてください」

 私は、全身真っ青になっているにとりに、ゆっくりと語りかける。

「椛の面倒をよろしくお願いします」

「椛? どこにいるんだよ」

「あ、ああ。そうでしたそうでした」

 

 早苗さんが来ると聞いて、急いで移動したことを、すっかり忘れていた。別に隠すようなことでもないように思えたが、早苗さんは椛のことについて一切知らないようであったので、隠したのだ。知ってしまえば、絶対に根掘り葉掘り聞いてくるだろうし、自分でも調べるに違いない。別にそれも私にとっての害にはならないが、なぜだか避けたかった。

 

 部屋の一番左奥、来客用の布団がしまわれている押し入れを開ける。普段は使わないからか、埃にまみれている。が、今の椛であれば文句は言わない。バレたら怒られるだろうが、そもそも、バレる日が来るかどうかも微妙だった。

 押し入れに敷かれた布団の上で小綺麗な包帯で包まれた椛が眠っていた。のぞき込んだにとりも、すぐに顔を逸らす。嘘じゃなかったんだ、と言葉を零している。

 

「本当は、文と椛が元気に喧嘩でもしていると思ったんだけどなあ」

「元気な椛だったら、絶対に家に泊めませんよ」

「元気じゃなかったら泊めるんだな」

「だって」

 

 顔が強張った。忌々しい新聞の記事と、それを真に受ける連中の姿が頭に浮かぶ。

 

「いま、椛を匿うことができるのは、彼女と仲が悪い私ぐらいじゃないですか」

 にとりの顔が、また悲しげになった。

 

 最近、妖怪の山で、人知れず悪い妖怪を打ち倒している正義のヒーローがいるらしい。妖怪の山襲撃事件と銘打ったものの、ほとんどの連中は、襲撃事件だとは思わず、そう信じていた。因果応報、自業自得。それはまさに、神の落とす天災のようなものだと、そう思い込んでいる。

 

 だが、実際の神は早苗さんのような純粋な奴らばかりではないし、そもそも神の仕業でもない。が、その思い込みは根強く、それにより、椛の立場は地に落ちていた。彼女は今や、その正義のヒーローとやらに打ち倒され、行方をくらました悪役へと成り下がったのだ。

 

 まあ、もともと椛の立場なんて大したことないのだから、落ちたとしても誤差には変わりないが、それによって私に迷惑をかけるのは勘弁してほしかった。

 

「いったい、どこまで襲撃犯がしつこいのか分かりませんが、私が椛を匿っているだなんて、思わないはずです。私たちの仲の悪さは筋金入りですから」

「どうして得意げなんだ」

「さあね」

 

 椛の体を持ち上げる。かなり軽くなっていた。一ヶ月近く何も食べていないので、当たり前かもしれない。栄養剤では限界がある。

 

 綺麗に整えられたベッドの上に、乱雑に彼女の体を落とす。腕と足がたらりと落ちるが、骨はくっついたのか、だいぶ自然な動きになっていた。包帯を隠すように、掛け布団をかける。

 

「優しいんだな」にとりが見当違いのことを言ってくる。「掛け布団をかけてあげるだなんて」

「嫌がらせですよ」

 

 本心で言ったにもかかわらず、にとりはそう受け取らなかったようで、腹の立つ笑みを浮かべていた。が、椛の姿を見て、その笑みを消した。「いつ目を覚ますの?」と分かりきったことを聞いてくる。

 

「分かりません。早苗さんが、行商からどんな怪我でも治す薬を持ってきてくれれば、今にでも目を覚ますでしょうが」

「そんな薬があれば、永遠亭が黙っていないよ」

「それに、勿体なくて椛には使いたくないですしね」

 

 もし椛が目を覚まさないのであれば、私たちの努力は水泡に帰す。いや、違う。私は椛のためにやっているわけではない。ただの自己満足だ。私のためにやっているのだ。だから、彼女は関係ない。個人的な恨みを晴らすための、私の戦いだ。

 

 カメラを構え、椛の写真を撮る。情けない写真だ。酷く哀愁に帯びていて、見

ているこちらが悲しくなるほどの、残酷な写真。椛を嫌う私ですらそう思うのだから、よっぽどだ。

 

「それなら、行ってきます」私はそう言い、扉を開ける。それが、にとりに向けたものなのか、椛に向けたものなのかは、私にも分からない。

 

 

 

 

 いつもは寝苦しいほどの残暑なのに、今日は妙に涼しかった。秋が近いのもあるだろうが、それにしても異常だ。額や背中から汗は噴き出してくるものの、体は冷えている。かなり速度を出していて、生暖かい風が体を包み込んでくるのに、その冷たさは消えない。緊張しているのか。それとも恐れているのか。きっと、両方だ。

 

 ぽつぽつと明かりの灯った家が木の隙間から見えるが、数は少ない。妖怪がもっとも活動する時間である夜なのに、木っ端妖怪もどこか落ち着いているように見えた。例の正義のヒーローの影響なのだろうか。悪事をしたと心当たりのある妖怪が、怯え、恐れ、身を潜めている。おそらく、そういうことなのだろう。そしてそれは、腹が立つことに、想定通りに違いなかった。

 

 件の川原へは思ったよりもはやく着いた。時間的にはいつも通りなのだろうが、考え事をしていたせいで、気づけば着いていたのだ。心の整理がつかず、一度その場から退き、辺りを旋回する。そして意を決し、降り立つ。暗くてよく見えない。人の気配もなかった。腹をくくらなければ。にとりですら腹をくくったのだ。

 

「早苗さん、いますか?」

 

 声をかけるも、返事はない。肝が冷える。最後の最後で予想を、予測を外したのか、と後悔に襲われるも、視界の端に緑色が見え、ほっとする。そして、急いで緩んだ気を整え直した。慎重に足音を忍ばせ、近づく。

 

 暗くて視界が悪いが、それでも早苗さんの姿をじっと見た。と、彼女が椅子のようなものに座っていることに気がついた。どうして川原に椅子があるのか、と戸惑う。近づくにつれ、それがただの椅子ではないと分かってきた。声を出しそうになり、慌てて口を押さえる。こんな物まで用意していたのか、と驚いた。

 

 それは、拷問用の固定椅子だった。

 

 腕と体をビニール紐のような細い何かでくくりつけ、身動きを取れないようにしている。川原にぽつんと椅子が置かれているのは何とも不自然だが、それが残酷さを助長させていた。素直に縛って転がしておけばいいのに。

 

 早苗さんは元気なく椅子に深く座り込んでいる。意識はあるようだが、生気はない。よく見ると、彼女の体は傷だらけになっていた。縛られたまま暴れたせいで、紐が体を切り裂いたのだろう。なるほど。そういう狙いがあったのか。

 

 早苗さんを襲った奴が周りにいないか、と意識を集中させる。させて、舌打ちを零しそうになった。木の影で、こちらをのぞき見ている存在に気がついた。私に気づき、一度は身を隠したのだろう。そして、あえて身をさらした。なぜか。最悪の場合、私も処分してしまえば良いと思っているから。なるほど。やはり、向こうの方が一枚上手と言うことか。最悪だ。

 

「早苗さん」その存在を極力見ないようにしつつ、私は声をかけた。

「こんなところで、何やってるんですか」

「あ、あやさん」らしくもなく、彼女は自嘲的な笑みを浮かべた。

「すみません。お使い、失敗しちゃいました」

 

 どうして、この状況でそんなことを気にすることができるのか。明らかにお使いなんかより気にしなければならないことはある。

 

「いったい、どうしたんですか」

「いえ。行商の人が見当たらなかったんで、叫んだんですよ。私が客ですよって」 そう口にしている最中にも、背中から視線が突き刺さる。いったい、どういった目的で私に威圧感を与えているのか、分からない。どこまで知っている。いや、私がどこまで知っていると、知っているのか。

「そうしたら、ですね」途中で、ゴホゴホと早苗さんは咳き込んだ。喉の奥を切ったのか、吐血している。外傷がない。ということは、助けを求めるために、ずっと叫んでいたのか。叫んで疲れて、それでこんなことに。

「そしたら、いきなり後ろから襲われて。抵抗したのに、あっけなく負けちゃいましたよ。殴られかけたんですけど、急に止めて。それで椅子に縛られたんです」

 

 なぜ、そのまま殴らなかったのか。早苗さんの後ろにある守矢神社を恐れたのか。それもある。私が来たことに気づいたからか。それもあるだろう。だが、きっと。見極めたいのだ。本当に腹が立つ。まんまと陥れられた早苗さんにも、そして、私自身も気に入らない。

 

 よく見ると、彼女の緑の髪も少し黒ずんでいる。白い肌は赤く滲み、爪先は剥がれていた。それよりも酷いのは、彼女の顔だ。本人は気づいていないようだが、唇は腫れあがり、目元は真っ赤になっていた。川原に顔面をぶつけたせいで、泥が傷跡に入り、化膿しかけている。

 

「でも、文さんが来てくれて、襲ってきた奴はどっかに行ってくれました。本当にありがとうございます」

「そうですか。それは一安心ですね」翼が右上にあがらぬよう気をつけながら話す。

「ですが、残念ながら、安心はまだできませんよ」

「え?」

「私は別に助けに来たわけじゃありませんから」

 

 翼を一度、大きく羽ばたかせ、早苗さんと距離をとる。危機的状況から逃れられると安心したからか、早苗さんは体をぐでんとさせていた。強張った頬を必死にほぐし、緩めている。安堵が彼女を抱きかかえている。早苗さんはきっと、私の部屋に戻って、酷い目に遭いましたよ、と笑い飛ばし、いやいやとキュウリ鍋を食べるつもりなのだ。だからこそ、拘束されているのに、こんなにも希望に満ちた顔をしている。それはとても美しく、可憐だった。

 

 だからこそ、私はその顔を崩さなければならない。

 

「早苗さん」

 

 自分が解放されると信じてやまない彼女は、可哀想に背中を伸ばし、紐を切り易くしていた。私はその紐を掴み、そして離す。それでも彼女はその体勢をやめない。

 

「私はこれでも優しいので、ヒントをあげたつもりだったのですが、残念です」

「ヒント? いつの間にクイズ大会が始まっていたんですか?」

 そう笑う彼女の顔にも、幾分か元気が戻っていた。

「たしかに、ホラー映画とかでよくありますけどね。捕まって、クイズされるの」

「そうですね」私は適当に返事をし、気を引き締める。背中の翼が、無意識のうちにバタバタと暴れ始めた。

「では、問題です。子供が一番守らなければならないことって、早苗さんは何だか分かりますか?」

「ええ、本当にクイズをするんですか。それより、紐を切ってください」

「答えは、怪しい奴に着いていってはいけない、ですよ」

 

 月の光が、真上から降り注ぐ。空を見上げると、満月が憎らしく光っていた。照らすのであれば、もっとマシな奴を照らしてほしいものだ。

 

「では、怪しい奴ランキング一位の妖怪はなんでしょうか」

「えっと」

「鴉天狗ですよ。そんな妖怪の家に、鍋につられてノコノコ来るなんて、酷い目に遭っても文句言えませんからね」

 急にどうしたんですか、と間延びした声で訊いてくる。が、私は無視した。

「もう少し、早苗さんは警戒心を持ったないといけません。人を疑うことを覚えたほうがいいです」

「文さんが疑いすぎなんですよ」

 

 私は捕まっている早苗さんの懐をまさぐった。薄いビニールの感覚がし、それを一気に引き出す。写真だ。見覚えのある、写真だ。

 

「これが噂の写真ですか」

「噂?」

「白狼天狗や河童に聞き回っていた、曰く付きの写真かと聞いているんです」

「まあ、そうですけど」彼女は不思議そうに首を傾げる。私が何を言い出すのか、と困惑していた。彼女が口を開く前に、続けて言う。

「この奥にいる天狗が賄賂をしている、そう言うことですよね」

「え、ええ」

「それで、この写真こそがその証拠である、と」

 

 あえて、襲撃事件の犯人だ、と早苗さんが豪語していることには触れなかった。触れる必要もないし。そうしてしまえば、ボロが出てしまいそうだったのだ。 

 

「どうしたんですか、文さん。なんか変ですよ」早苗さんは無理に笑いながら声を絞り出してくる。「はやく、助けてくださいよ」

「よくないですよ、早苗さん」

 

 私はつとめて笑顔で言った。早苗さんの言っていたことを思い出す。私は怒ると、笑顔で暴言を吐くといった、あれだ。

 

「常識的に考えてください。賄賂なんて、こんな白昼堂々と行われるわけないじゃないですか。こんな写真インチキですよ」

「でも、現に私は今、その人に」

「たかが守矢の小娘のくせに、調子に乗るなと言っているのです」

 

 ビニールから写真を取り出した。怒りを込め、ビリビリと破る。微妙な笑顔のまま固まる早苗さんを無視し、木っ端微塵にする。

 

「何やっているんですか」早苗さんの声に怒りはなかった。ただただ困惑している。

「どうしちゃったんですか、文さん」

「天狗に対する明確な敵対行為です。到底許されることではありません」

「え」

「偽りの写真を用い、妖怪の山の秩序を破壊しようとする明確な反逆行為ですよ。信じていたのですが、残念です。これだから能無しの守矢は厄介なんだ」

 カメラを取り出し、パシャリとシャッターを切る。そのまま私は言葉を続けた。

「そうですね。では、最後のクイズとしましょうか」と三文役者のようなくだらない台詞を吐く。

「さて、今から私は何と言うでしょうか」

 

 言うって、どういうことですか。早苗さんは不安げな声を出す。が、黙っている私が恐ろしかったのか、無理に笑って、口を開く。 

 

「アイラブユーとか、ですか?」

「そんな訳ないじゃないですか」

 

 自分でも驚くほどに、その声は冷たい。平坦で、生気が宿っていなかった。顔に手を当てる。いつも浮かべていた微笑みは消え去り、表情筋が死んだかのようにぴくりとも動かない。笑えない。まったくもって、笑えない。

 

「答えは、ですね」

「何ですか?」

「人の上に座る、ですよ」

 

 早苗さんの腹付近めがけて、右足を突き出す。気の抜けた早苗さんは、避けるそぶりすら見せず、そのまま鈍い音がした。椅子ごとひっくり返り、ごほごほと咳をしている。唇を切ったのか、血が流れていた。

 

「やめてください」混乱と動揺が収まらないのか、目を日開きながら、小さな声を出す。その目には、まだ親愛が浮かんでいた。笑えない。

「文さん……やめて」

「暗黙の了解ですよ」

「え?」

「言ってたじゃないですか。やめろって、言われたら、しっかりやらないといけないんですよね」

 

 鳩尾を狙い、かかとを落とす。内臓を押し潰す嫌な音がした。私と早苗さんとを切り裂く音だ。もう二度と、私は彼女の笑顔を見ることはできないのではないか。そんなことは分かっていた。彼女の笑顔など、大したものではない。

 

「努力をしてください」

 

 倒れた早苗さんの髪を引っ張り、つかみあげる。自身と椅子の重さのせいで、頭皮がめきりと剥がれる音がした。悲鳴が聞こえる。声にもならない、哀れな悲鳴だ。

 

「さあ早苗さん。絶望する努力を」

 

 今度は椅子を蹴飛ばす。よっぽど強く固定されているのか、彼女は不自然な格好のまま転がっていった。左腕の関節が外れたのか、ぷらりとだれさがる。

「あ、文さん」

 

 早苗さんは突然の出来事に目を丸くし、うずくまっている。そのまん丸になった目には、薄く涙が浮かんでいた。

「助けてください」涙を流しながら、彼女は言う。「食べ物こぼしのよしみで」

 

「早苗さん」

「なんですか?」

「やっぱり、早苗さんは可愛いですね」

 早苗さんの小さなうめき声に、わずかに嗚咽が混じった。

 

 彼女の綺麗な緑色の目に、絶望の色が差す。それはとても魅力的に思えた。



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飼い犬は手を噛まない

──狼と鴉──

 

 椛さん、前から怪しいと思っていたんですよ。

 

 いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、部下にそう言われたことがある。たしか、椛の悪行とやらが多くの新聞で報道され、彼女の信用など元から無かったかのように打ち砕かれたときのことだ。

 

 私はそのことを記事にしようと、たくさんの妖怪に聞き取りをしていた。椛と仲が良かった河童から、彼女と親しかった鴉天狗、そして、彼女を尊敬していた白狼天狗、つまりは目の前の幼さの残る女性の白狼天狗に至るまで、今日一日で各所を巡り、訊ね回っていた。だが、結果は散々だった。誰もが判を押したかのように同じことしか言わないのだ。例に違わず、目の前の彼女も、同じことを口にした。

 

「たしかに、椛さんは格好良かったですよ。ですが、なんか危うかったんですよね。格好よすぎて嘘くさいというか。そもそも、鴉天狗である文さんに暴言を吐くだなんて、あり得ませんよ」

「まったくです」私は大きく頷く。心の底に浮かぶ落胆を隠し、その通りと頷いた。

「あんな生意気な白狼天狗は、椛くらいしかいませんよ」

「もしかしたら、文さんのことも、金で買えると思っていたんじゃないんですかね」おずおずと、彼女は言った。「なんか、人里の人間も金で買って、自作自演をしていたらしいですし」

「自作自演?」

「妖怪の山に来るよう伝えて、それをいち早く捕まえて、手柄を立てるって、感じでやっていたそうです。酷いですよね」

 

 酷いのはお前の頭の方だ。そんなことをする理由も、利益もないだろうに。そもそも、人間が妖怪の山にひとりで無事にたどり着けるわけないじゃないか。そう思いながらも、私は満面の笑みで「椛らしいですね」と笑った。

 

「椛ならやりかねません」

「文さんは見抜いていたんですか? 椛さんと仲が悪いとは噂で聞いていましたけど、その本性を見抜いていたんですか?」

「もちろんです」

 

 これもまた、定番の質問だった。白狼天狗や河童、そして鴉天狗ですら、椛と敵対していた私を賞賛し、尊敬してくる。意味が分からなかった。どうして彼女を嫌っていただけで褒められるのか、理解できない。

 

 椛が賄賂をしている書かれた新聞大会の記事はただの切っ掛けに過ぎなかった。子供から小判を奪い取っている写真のせいで、椛は金にがめつく、そして金で全てを解決していた、という雰囲気が漂っていた。普段はまともそうだったが故に、それが裏目に出たのだ。実は裏では、という暴露話は、面白いし、盛り上がる。そして、根拠がないからこそ、信憑性が上がってしまうのだ。巧妙に隠していた、と言い張れば、椛の負の印象が高まる。

 

「ショックではなかったんですか?」私は、自分に問いかけるように、訊ねた。

「あなた、椛のことを尊敬していたのですよね。そんな彼女が悪党だと知って、落胆しなかったのですか」

「まあ、確かにショックでしたけど」

 

 けど。その一言で、私は次に続く言葉を予想できてしまう。口の中にたまった唾を飲み込む。こみ上げてくる吐き気を、必死に抑えた。

 

「それより、椛さんを倒した妖怪の方が気になっちゃって。正体が分かっていないんですよね。でも、悪い妖怪を夜な夜な倒しているそうじゃないですか」

 

 彼女の目はキラキラと輝いていた。椛に向いていた尊敬の心が、そのまま、正義の妖怪などという薄ら寒い存在へと持っていかれてしまったようだ。そのせいか、行方不明になった椛の行き先や、生死にすら全く興味を持っていない。少なくとも、私にはそう見えた。

 

「夜な夜な、ですか。私、色々調べて回っているのですけれど、あなたの言った情報の真偽が未だつかめていないのですよね」

「そうなんですか? あれですよ。集会場にある新聞を読めば、たくさん載っていますよ」

 

 善意で伝えてくれたのだろうから、私は優しく、そうですか、と言う予定だった。だが、口が動かない。

 

「その新聞が嘘だとは思わないのですか」やっと出た私の言葉は、意図に反し、否定的な言葉だった。「鴉天狗の新聞は嘘ばっかりですよ」

「でも」彼女は椛のような、子供の時の椛のような、屈託のない笑みを浮かべる。

「あれだけたくさんの新聞が言っているんだから、たぶん本当のことですよ」

「不老不死の法則ですか」

「なんですか、それ」

「どんなに意味不明なことを言っても、たくさんの人が、当然のようにそれを言い出したら、信じてしまう法則ですよ」

 

 よく分からなかったのか、彼女はきょとんとし、そして頭を下げた。この白狼天狗には、一切の邪念もない。だというのに、どうして。

 

 湿り気を帯びた、じめりとした風が吹いた。空を見上げる。薄い雲が空を覆い、太陽の光が拡散していた。もうそろそろ、本格的な夏が来る。いつもであれば、新しい季節の到来に喜びの声を上げるところだが、今年に限っては、それもできそうになかった。

 

「あの、文さん。私、そろそろ出かけてもいいですか」

 

 取材対象を前に、ぼうっと突っ立っていたからか、白狼天狗はたどたどしくそう言ってきた。椛のせいで麻痺していたが、本来の白狼天狗は鴉天狗に怯え、恐縮する存在だと言うことを思い出す。

 

「ええ。大丈夫ですよ。ご協力ありがとうございました」

 

 ぺこり、と繰り返し頭を下げ、去って行く。彼女も駄目か、とため息を吐いた。何が駄目なのか。記事だ。とても先ほどのインタビューを載せるわけにはいかない。

 

 新聞とは、常に真新しく、革新的でなくてはならない。読者が予想もできない真実を突きつけなければならないのだ。椛に対する罵詈雑言など、もはや真新しくもない。そして何より、椛が取るに足りないだなんてことは、それこそ彼女が生まれたときから私は知っているのだ。改めてそれを書こうだなんて、歴史的文献ですか? と訊ねられてしまうほどに遅れている。たとえ、誰も私が椛について言及することを望んでいるのだとしても。私が椛に対して普段ぶつけているような悪口を、冷たい態度を、そのまま新聞に載せてくれることを、誰もが期待しているのだとしても、私は絶対に書かない。書いてやるものか。読者の期待を裏切らなくて、新聞を名乗れるはずがないではないか。

 

「あ、あの」

 

 薄くなった雲の隙間から零れ出る日光を避け、木陰に移動しているところで、声をかけられた。先ほどの白狼天狗だ。急いで戻ってきたのか、肩で息をしている。

 

「忘れ物ですか?」私は辺りを見渡しながら、訊ねた。

「それとも、言い忘れたことが?」

「あ、あの。言いづらいですし、鴉天狗である文さんに、大変失礼なことを言うかもしれないんですけど」

「何ですか?」

「さっき、私が言ったこと、新聞に載せないでください!」

 

 その場でぴょんと飛び上がり、そのまま膝で着した彼女は、おもむろに額を地面にこすり始めた。「どうかお願いします!」

 

「あややや。別にそんなことで土下座しなくていいですよ。それに、元々載せるつもりもありませんでしたので、大丈夫です」隠す必要も感じず、私は正直に言った。

「そうなんですか。よかった」おずおずと立ち上がった彼女は、心配そうに、「でも、大会に提出する記事は書けるのですか?」と聞いてきた。余計なお世話過ぎる。

「何とかなりますよ。何か面白そうなことあったら、教えてください」

「だったら、にとりさんとかどうです?」

「にとりがどうしたんですか?」

 

 教えてください、とは言ったものの、まさか返答があるとは思っていなかったので、驚いた。「にとりって、河城にとりのことですよね」

 

「そうですそうです。何でも、妖怪の山武闘大会のことについて、賭け事をたくさんしていたらしいんですが」

「ですが?」

「椛さんが不戦敗だったので、なんかもう勝ちが確定したとかで成金みたいになってました」

「あやや。なるほどなるほど。情報提供ありがとうございます」

 

 下らないな、と素直に思った。河童が賭け事で勝って、得意げになっている姿など、何も面白くない。そこからの転落劇だったらまだ絵になる。いっそのこと、私が奪ってやろうか。

 

 それでは、と今度こそ去って行く白狼天狗に手を振り、カメラを構える。と、一つの疑問が浮かんだ。訊ねようかと迷ったが、白狼天狗相手に躊躇する理由も思いつかず、「あの、一つ聞きたいんですが」と声をかけた。白狼天狗はぴたりと止まり、顔だけでこちらを振り返る。

「さっき、新聞に自分の発言を載せてほしくない、と言っていましたが、何か理由があるのですか?」

「あ、ああ」彼女は自分の体を抱きしめ、少し顔を青くした。

「ほら、もし椛さんにバレたら、怒られちゃうじゃないですか」

「え?」

「椛さん、怒ると怖いんですよ。どうせなら、お金で頬を叩いてほしかったんですけど、椛さんは目で刺してきますから。今思えば、びた一文やらないぞってことだったのかもしれませんね」

 

 それでは、と私の返事を聞かず、彼女は去って行く。私はその姿を、ぼうっと見つめていた。自分の上司のことを、幼子から金を奪う奴と軽蔑しているくせに、他の妖怪と同じく、椛のことなど、もはや死んだものとして扱っているくせに、それでも彼女は椛が帰ってくると思っているのか。そして、自分が椛の部下であり続けると、そう思っているのか。だったら、もう少し、椛に好意的な発言をすれば良いのに。いや、むりか。今の妖怪の山で、椛の肩を持てば、それこそ同類扱いされかねない。実際にされるかは分からないが、そう思ってしまうような状態になっているのは確かだった。

 

 私は椛の姿を頭に浮かべる。そして、付随するかのように萃香様の顔が浮かんだ。彼女は、襲撃犯をぶっ飛ばす、と意気込んでいたが、その割には連絡が遅い。彼女であれば、その日のうちに、「椛と同じ目に遭わせてやったよ」と意気揚々と帰ってくると思っていたのだが、未だ音沙汰はなかった。

 

 萃香様に任せておけない、というわけではないが、私は椛を襲った襲撃犯を探そうと試みていた。たかが白狼天狗を一匹屠っただけで、英雄扱いされているのが気に入らない。その化けの皮を剥がし、カメラに収めてやろうと、そう思ったのだ。だが、手がかりがない。何か無いかと必死に頭を回すも、思い浮かぶのは椛のアホ面だけだった。彼女がもっとしっかりしていれば、私もこんな苦労することも、あんな新聞が大会で猛威を振るうこともなかったのに。萃香様の賄賂疑惑と、彼女の妖怪の山武闘大会での健闘という二枚看板が消えたのは、私にとって痛手だった。

 

「妖怪の山武闘大会、ね」

 

 いまだ出場者は出揃っていないらしいが、それでも優勝候補は椛で間違いない、と言われていたらしかった。詳しくは知らない。が、白狼天狗を中心とした参加者では、それも仕方がないだろう。椛の実力は折り紙つきだ。そんなこと、誰だって、分かっているはずなのに、それすら金で買ったと信じることが出来る愚鈍さが羨ましいくらいだった。

 

 だから、河童の賭け事でも、大半の連中は椛に賭けた。そういうことだろう。調べずとも、にとりが大儲けをした理由が分かる。

 

 が、少し引っかかりを覚えた。喉奥に引っかかった小骨のように、ささやかに疑問が主張してくる。一度気になってしまえば、そればかりが頭に浮かび、疑問が疑惑へ、そして確信へと変わっていった。汗が垂れる。あり得なくはないな、と思えた。気づけば、私は大空へと飛び上がっていた。太陽はいつの間にか薄い雲に再び覆われている。その雲を吹き飛ばす勢いで、私は飛んだ。が、当然、雲はそんなことでは微動だにしない。

 

 

 

 

 幸運なことに、目的の妖怪、河城にとりはすぐに見つかった。というより、ちょうど私がぐるりと大まかに妖怪の山を一周し、見当たらないなと焦っていると、元いた場所、例の川原にいたのだ。入れ違いだった。飛んで火に入る夏の虫ならぬ、飛んで川に入る夏の河童だな、と意味不明なことを考えていると、いきなりにとりは川に飛び込んだ。いったい何をしているのか。もしかして、私の存在に勘づいたのか、と一瞬焦るが、すぐに理由は分かった。分かってしまった。馬鹿らしくて、ため息が出る。

 

 彼女はなぜ川に飛び込んだのか。川上からキュウリが流れていたからだ。それを捕ろうと、必死に泳ぎ、手を伸ばしている。キュウリのために体を濡らす、といった彼女の言葉に嘘はなかった。そこまでキュウリが好きなのか。そもそも、どうしてキュウリが魚のように川を流れているのか。すべてが謎だが、今はどうでもいい。 にとりに気づかれないよう、慎重に近づく。彼女はキュウリをやっとのこと捕まえ、満足げに頷いていた。いつもの、青いリュックサックを背負い、川原へと戻ろうとしている。隙だらけだった。

 

 急降下し、リュックサックを地面へと叩きつける。反動でにとりの体が浮かび、足が宙に浮いた。突然の事態についていけていないのか、にとりの表情に変化はなかった。

 

「おっと」浮いたにとりの足を右手で掴み、捻る。空中で一回転した彼女の太ももを強く踏みつける。

「痛い痛い痛いタンマタンマまって!」

 

 にとりはバタバタと、陸に打ち上げられた小魚のように無様にもがく。いったい、どういう状況に自分が陥っているかは分かっていないようだが、体に走る痛みで、誰かに襲われている、ということだけは分かったらしく、「ごめんささい。許して! お金もあげるって!」と、命乞いを始めた。

 

「この世に生まれてきてごめんなさい!」と訳の分からない謝罪すらしている。

「そんなに喚かなくても大丈夫ですよ」私はゆっくりと、諭すように声をかける。

「殺しはしないので、安心してください」

「その声は文だよな。落ち着いてくれ。とりあえず、痛いから、離して」

「あやややや。私は落ち着いていますよ。鴉天狗はいつだって冷静なんです」

 

 にとりの足にかける力を強める。「折れる折れる!」と喚くにとりに、私は慈愛に満ちた声をかけてあげた。

 

「にとりの方こそ、落ち着いた方が良いですよ。私は優しいですから、体を引きちぎったり、四肢を全部逆の方に折ったりはしません」

「まって」

「正直に答えてくれれば、無事に返してあげますよ」

「答えるって、私が何をしたんだ」

「妖怪の山武闘大会についてです」

 

 にとりが息を呑んだ。今まで、理不尽な、といった感じで強気に出ていたのに、急に静まりかえり、カタカタと小刻みに震え始める。何のことか、と惚けることすらしない。それは、もはや認めたと同然じゃないか。嘘でしょ、と叫びたくなる。

 

「聞きましたよ。妖怪の山武闘大会でも賭け事をしていたらしいじゃないですか」

「そりゃ、するでしょ」小さな声で、ぼそぼそと言う。「しないわけない」

「大半の河童は椛に賭けたんですよね。でも、お前は違った。なぜですか?」

 にとりは答えない。ただ、ばたつかせていた腕をだらりとさせただけだった。

 

「優勝候補である椛に賭けなかったのには、何か明確な理由があったんですよね。にとり、言っていたじゃないですか。勝負ってのは絶対に勝てると分かっている時しかやっちゃいけないんだって」

 

 にとりは力なく、こくりと頷いた。自然と手に力が入る。彼女が金にがめつく、そして人を欺くのに長けていることは知っていたが。まさか。

 

「そして、こうも言ってましたよね。ただ勝つよりも、ずるして勝った方が楽しいじゃないか。ズルは正義だよって、馬鹿みたいに」

 

 ずるして、妖怪の山武闘大会の賭けに勝つ。ずるとは何か。大半の河童が椛に賭けた中、確実に勝つ方法とは何か。私ならどうする。勝負という不安定な要素を信じるか。いや、信じない。信じなければ、どうするか。

 

 優勝候補を事前に潰す。大会に間違っても参加が出来ないように、棄権させるようにする。そうすれば、絶対に賭で負けることはない。だから、椛をあんな目に。そういうことではないのか。

 

 つまり私は、にとりが椛を襲った襲撃犯ではないのか、と疑っているのだ。

 

「だから、あなたは手を打った。ズルをした。確実に負けない方法を思いつき、実行に移した。そういうことですよね」

「そうだよ」あっさりと、にとりは認める。

「でも、そこまで怒らなくてもいいじゃないか」

「え」

「文にとっては、大したことではないでしょ」

 

 掴んでいたにとりの足を離し、一歩退く。いてて、と足をさすりながらも、よろよろと彼女は立ち上がった。にとりの顔を見る。痛みに顔をしかめているが、それでも、邪気はない。いつも通りの、生意気な顔だ。

 

 彼女の言うとおりだった。椛がどうなろうが、私の知ったことではない。たとえ、全身が打ち砕けようが、皆に嘲笑され、馬鹿にされ、彼女の築き上げてきた誇りと立場が、下らない新聞によって一瞬で水泡に帰そうが、私に何の不都合もない。むしろ、願ったり叶ったりではないか。やっと、鬱陶しい部下の子守から解き放たれ、自由に新聞作成に打ち込める。だから、私が動揺する必要なんてない。その通りだ。

 

「だけど、それでも駄目なんですよ」

「駄目って?」

「たしかに、椛がどうなろうが、私には関係ありません。だけど、やり方が気に入らないのですよ」

「やり方?」

「いくら何でも、やりすぎですよ。にとり。私はあなたのことを買っていたのですが、そこまで落ちぶれていたとは。残念でなりません。たかが賭け事のために、友人を犠牲にするだなんて、見損ないました。私は別に構いませんよ。椛がどうなろうが、知りません。ですが、このままだと妖怪の山の風紀に関わります。今の異様な雰囲気を断ち切らなければならない。それに、記事にもなりますしね」

「どうしたんだよ、文。落ち着けって」

「だから、私は落ち着いていますよ。落ち着いていないのはあなたです。まさか、賭け事のために、椛を殺そうとするなんて」

「は?」

「馬鹿げています」

「待て待て待て。話が見えない。馬鹿げているのはそっちだよ」

 

 にとりの顔に、血の色が戻っていく。バタバタと手を振ってはいるが、先ほどのような、闇雲なものではなかった。

 

「なんで私が椛を殺さなきゃならないんだ」

「椛を倒せば、賭けで勝てますよ」

「そこまでしないよ。というより、椛に返り討ちに遭う確率の方がずっと高い」

「なら、あなたはどうやって賭けに勝とうとしてたんですか」

「文だよ」彼女の口にしている言葉の意味が分からず、呆然とする。私? 私が何だと言うのか。

「はたての新聞読んだんだろ? 本人から訊いたよ。そこには文も映っていたじゃないか」

「それが何か?」

「おかしいと思わなかったのか? 妖怪の山武闘大会の記事に、どうして自分が載っているのか、と」

「知りませんよ」

「出場するからだよ」

 

 出場する。にとりの声はまだ恐怖のせいか震えていたが、それでもしっかりと聞き取れた。聞き取れたからこそ、私は呆然とする。そして、段々と理解できてきた。何をか。私が失態を起こしたことを、だ。

 

「文の許可を取らずに、勝手にエントリーしたんだ。極力秘密裏にね。だから私は椛に賭けなかったんだよ。さすがの椛も、文には勝てないだろ?」

「そんなことが許されると?」

「だから、はたての新聞でも、すごく小さく載せておいたんだよ。一応載せないと、後でクレームが来ると思ったから」

「私からのクレームは予測していなかったんですか」

「していたさ。だから、文がいきなり襲ってきても、ああ、ついにバレたなって思ったんだよ。なのに、どうして私が椛を殺さなきゃいけないのさ。常識的に考えなよ。いくら、私が賭け事が好きだからって、親友を殺したりしないし、河童の力じゃ無理だ」

 

 訊きたいことはたくさんあった。が、とりあえず。にとりが襲撃犯ではないと知り、ほっとする。冷静に考えれば、たしかにあり得ない。賭け事のために、友人を殺すなんて、ギャンブル依存症でも稀だろう。それに、臆病なにとりが、そんな大それたことをするわけない。どうかしていた。なぜ、そんな結論に至ったのか、と自分を自分で罵る。

 

「やっぱり、文は椛が絡むと面倒くさいね。天邪鬼くらいに」

「椛は関係ないですよ。ただ、記事に出来そうだなと思っただけです。というより、私も言いたいことがあるんですけど」

「何さ」

「なに勝手に私を武闘大会に参加させているんですか」

 

 にとりを勝手に襲撃犯扱いしていたことを誤魔化したかったこともあり、私は強い口調で訊ねた。彼女を非難できる立場でないことは重々承知していたが、だからこそ、問い詰める。「さすがに身勝手すぎます」

 

「それは私に言われても困るなあ」

「どういう意味です?」

「私は別に、文を妖怪の山武闘大会に出してくれだなんて誰にも頼んでいないし」

「じゃあ、誰が頼んだんですか」

「椛らしいよ」

 

 予想外の返答に、言葉を失う。「椛って、あの椛?」と訊ね直してしまう。

 

「そうだよ。文の嫌いな椛だ」

「どうして。どうやって」

「武闘大会のチラシの裏、あれ申込書になってるんだけど、そこに文のサインがあったから、許可したらしい。椛本人に聞いたら『まさか書いてもらえるとは』って驚いていたよ」

「あれか」

 

 記憶をたぐり寄せ、埋もれていた情景を思い浮かべる。たしかあれは、椛が訓練してくれ、と頼み込んできた時だったはずだ。彼女は最初から、私を出場させようとしていたのか。まんまとサインしてしまった自分が情けない。あの椛に一本取られた、という事実が歯痒くて仕方がない。これも、金の力でした、と言い張ってしまいたいくらいだった。

 

「そんな、私の意思に反したエントリーなど、無効ですよ。私は棄権します」

「え、ちょっと。それは困る」

 

 にとりは、襲われたショックから立ち直り、落ち着いてきたところだったが、また顔を青くした。「話が違う」

 

「話?」

「椛が言ってたんだよ。『文さんは、絶対に参加しますよ』って」

 

 いったい、何を根拠に椛はそんなことを。本人に訊ねたいが、できない。後で眠っている彼女に悪戯してやろうと決意する。まあ、眠っているというよりは、死にかけていると言った方が適切かもしれない。

 

「まったく、椛はどうして私を武闘大会に出そうとしたんですかね」

 彼女なりの悪戯だろうか。それにしては回りくどい。

「彼女は優勝を目指していたはずですよ。私が出てしまったら、障害が増えるだけじゃないですか」

「だよなー。でも、本気で挑もうとしていたのは確かだよ」

 

 木陰へ足を進めたにとりは、そこに敷かれていた布をめくりあげた。どうや

ら、私が彼女を発見するより前にここにいたらしく、背負っていたリュックサックも同じく置かれていた。流れていたキュウリを見つけ、川に出たところを私に発見されたようだ。布の下には、見覚えのある、けれども予想外の物が置かれていた。どうしてこんなところに。

 

「手入れを任されていたんだ」にとりは、ふふんと自慢げに鼻を鳴らす。

「まだ壊れていないのは、私のおかげなんだからな」

 

 それは、剣と盾だった。椛がいつも使っているものだ。たしかに、以前見たときよりも塗装がしっかりとされ、錆も消えている。

 

「なんか、この大会が晴れ舞台って言ってたんだよ。この剣と盾を使う、最後の舞台だってね」

「新しいのに変えるのですかね」

「そのつもりだったんじゃないか?」

 

 だからか、と私は息を吐いてしまう。間が悪すぎる。もし、椛が装備をしっかりと調えていれば、あそこまで一方的にいたぶられはしなかっただろうに。

 

 これは記事に出来るだろうか、と一応写真を撮っていると「これ、文がプレゼントしたんだろ?」とにとりが言ってきた。

 

「椛は押しつけられたって言ってたけど」

「え?」

「ほら、以前、私に頼んだじゃないか。剣と盾を作ってくれって。九里の道も一歩からって、書いてあったあれだよ」

 

 覚えている。たしかに、あのダサい剣と盾は椛に押しつけた。だが、目の前のそれと、記憶の中でのダサい武具とは大きく異なっていた。

 

 にとりの持っている剣と盾を触る。形や色、全てが変わっているが、手触りは同じだった。よく見ると、赤い椛の塗装の下に、わずかにくぼみがある。新たに金属を流し込んだのか、つぎはぎのようになっていた。間違いなく、例の下らない格言じみた言葉のあとだ。

 

「やっぱ、椛は馬鹿ですね」

 

 ふっと息が零れる。何の息かは自分でも分からなかった。わざわざ、上から色を塗り直して、文字を強引に潰してまで使わなくてもいいじゃないか。そこまで金に困っているわけでもないのに。愚かだ。まったくもって、下らない。

 

「にとり、一つ聞きたいのですが」

「なんだよ」

「椛が、何のためにこの大会に出るか、言っていたりしませんでした」

 

 一瞬、怪訝そうな顔をした彼女だったが、ああ、とすぐに頬を緩めた。

 

「なんか、妙なことを言っていたよ」

「何を言ったんです?」

「この大会で夢を叶えるんだって言ってたな。ドリームだって」

 

 夢。ドリーム。緩んでいた記憶の袋から、椛の声が聞こえてきた。私は耐えきれず、噴き出してしまった。腹から湧き出る笑いが収まらず、その場に座り込み、腹を押さえる。

 

「お、おい」にとりは困惑して、変な声を出した。「なんだよ。夢って、なんなんだ」と私を揺さぶってくる。それでも、笑いは止まらない。なんて馬鹿で、間抜けで、下らないのだろうか。椛らしい。口を閉じ、笑い声を出さないようにするも、すぐに決壊してしまう。

 

「あややや。なるほどなるほど」

「何がなるほどなんだよ」

「そんなにご飯をおごってほしかったんですか、椛は」

 

 椛がなぜ、こんな回りくどいことをしてまで、私をこの大会に出場させようとしたのか、分かってしまった。彼女は一人前になろうとしていたのだ。あんな冗談を真に受けるだなんて、どれだけ馬鹿真面目なのか。

 

「一人前になるには、どうしたらいいか分かりますか?」

「なんだよ急に。大人になる、とかか?」

「師匠を倒さなければならないんですよ」私は、かつての椛の姿を思い浮かべながら言う。「本気の師匠に勝たないといけないんです」

 

 私にそう言われた彼女は、そんな戯れ言を信じてしまった彼女は、考えた。足りない頭で、必死に考えたのだ。師匠を倒す方法を。つまり、本気の私を倒す方法を。

 

「力士は強敵を土俵に引きずり込む、ですよ」

「なんだよそれ」私の呟きに、にとりは首を傾げていた。「暗号か?」

「椛の言葉ですよ。イワナみたいなレアな奴は、なんとかこっちの戦場に引きずりあげないとって。あくまで真剣勝負のために、正面切って、本気の勝負をするためですって、言ってたじゃないですか。アホ面で馬鹿みたいに」

「どういうことだよ」

「椛は、本気の私と戦うためだけに、わざわざ私を出場させようとしたんですよ」

 

 文さんは面倒くさいんですよ。うんざりとした、椛の言葉が頭に響く。『本気を出さないくせに、中途半端に負けず嫌いだから、衆目を浴びている場では本気で勝ちにいくじゃないですか』

 

 なぜ椛が、優勝賞品を担保にしてまで、私に訓練を頼んできたのか。本番で私を倒したかったからだ。相手を研究しておきたかったから。そうに違いない。そこまでして、私に勝ちたかったのか。そこまでして、私に一人前と認めてもらいたかったのか。なぜ。どうして。そんなのは、もう分からない。まさか、私を尊敬していたのか。あり得ない。あり得ないはずだ。

 

 笑いが止まらない。笑いすぎて、目に涙が浮かぶ。膝にひびを入れながらも、それでも彼女は出場しようとしていた。なぜか。私を倒すためだ。一人前だと認めてもらうため。本当に、そんなので私が一人前と認めるかどうかなんて、分からないじゃないか。やはり、どう取り繕おうが椛は馬鹿だ。けれど、もはや彼女の望みは叶わない。絶対に叶わない。たしかに彼女は努力していた。腹が立つほど、憎らしいほど日々訓練し、血反吐を吐いて訓練に勤しんでいた。だが、そんな些細なことは、理不尽に崩れ去ってしまった。ざまあない。笑えるじゃないか。白狼天狗なんて、どんなに頑張ろうが、認められない。そういうことなのか。目に浮かんだ涙が零れる。もう既に笑いは止まっていたのに、それでも溢れたのだ。

 

「私の夢は」

 私はくるりとその場で回り、ピンと指を立てた。

「上司をぎゃふんと言わせることです」

 

 なんだよそれ、と乾いた笑い声をあげるにとりに顔を背け、こっそりと顔を拭った。それでも、世界は薄暗いままだ。

 

 

 もし、相手に落ち度があった場合は、徹底的に追求すべし。

 間違っても、子供には教えられないような理屈だが、厳しい世の中を生きていく中で、悲しいかな、大人というものは自然とそのように物事をとらえてしまう。敵対している相手は当然ながら、身内や友人、挙げ句の果てには上司にすら、隙につけ込み、利益をふんだくらなければならない。厳しい妖怪の世界では、そうしなければ生きていけないのだ。もしかすると、人間たちでも同じかもしれない。

 

「それで、いきなり私を犯人扱いした文は、どう責任を取ってくれるのかな?」

 

 だから、にとりのその要求は真っ当なものであるし、受け入れるべきものだ。そう頭では理解していたが、それでも身体は勝手に拒絶してしまう。

 

「あややや。いいじゃないですか。正義のヒーローと勘違いしてしまっただけですって」

「いきなりヒーローを組み伏せる奴がいるか」

「私、悪役側なので」

「どちらにしろ、人違いなんだから責任は取ってくれよ。そうじゃないと、皆に言いふらすぞ。文が椛が襲われたことに怒って、私を殴ってきたって」

「それは勘弁してほしいですね」特に、椛が襲われたことに怒って、という部分が駄目だ。私が怒っているのは、椛が襲われたからではない。単に、ムカつくだけだ。

「でも、本当なのかよ」にとりは広げていた剣と盾を拾い、リュックサックに詰めた。よっこらせ、と持ち上げながら、神妙な顔つきで訊いてくる。

「椛が襲われて大怪我だなんて、想像もつかない」

「知らなかったのですか?」

「椛が大会を棄権したことは知ってたけどね。ずっと、椛の剣と盾の補修をしてたから。というより、正義のヒーローってなんだよ」

 

 いつの間にかポケットからキュウリを取り出し、突きつけてくる。

 

「貧しい人々にキュウリを配り歩いてるのか?」

「それはただの不審者ですよ。そうじゃなくて、妖怪の山で悪さをする妖怪を、バッタバッタと倒しているって噂の妖怪のことです。椛も、そいつにやられたと」

「椛が? なんでさ」ぐいぐいと頬にキュウリを押しつけてくる。あまりにしつこいので、囓ってやろうと思ったが、噛みつく直前でにとりは手を引いた。キュウリを食べられそうになったからか、それとも椛に対する思いからか、彼女はむすっとしたまま言葉を続ける。

「そいつは悪い奴を倒しているんだろ? 椛はどっちかって言えば、むしろ正義だろ。悪事を毛嫌いするような」

「でも、今そう思っているのはごく僅かですよ」

「なんでさ。椛の頭の固さなんて、みんな知っているだろうに。まだ、鬼に喧嘩を売られたって言われたほうが現実味がある」

「何でもかんでも鬼のせいにするのはよくないですよ。気持ちは分かりますが」

「きっと、最近キュウリの値段が高いのも、服の乾きが悪いのも、鬼のせいだ」

 

 さすがにそこまで責任をなすりつけてはかわいそうだとは思ったが、本当にそうかもしれない、と信じそうになってしまうのが、鬼の恐ろしいところだ。

 

「そんなことができるのであれば、鬼を頼れば何でも解決できそうですけどね」

「鬼に会うっていう前提がきつすぎるよ。私だったら舌を噛むね」

「諸刃の剣って奴ですか」

 

 にとりなら、本当に舌を噛みかねないな、と思った。

 

 深く息を吐いたにとりは、鬼という言葉を一刻も早く頭の中から押し出したかったのか「結局、どうして椛が悪い奴だってことがまかり通ってるんだよ」と早口で訊いてくる。

 

「私の知らない間に」

「新聞ですよ」

 

 私はそこで、新聞大会の異様な状況をにとりに伝えた。つまり、無数の新聞がこぞって、椛の悪評と闇討ち妖怪の勇敢さを書き連ねている、ということを、少しばかりの誇張と私の偏見を織り交ぜながら、話した。

 

「なるほどねえ」にとりはさして驚いた様子もなく、へー、ふーん、と興味なさそうに頷いている。

「その、誰もが新聞を見て、信じてしまっているんですよ」

「でもさ、おかしくないか?」

「おかしいって」むしろ、おかしくないことが一つもなかった。

「文はさ、新聞を書いているから分からないかもしれないけど、こんな短期間に、たかが鴉天狗の新聞だけで、あの椛に対する印象がここまで変わるとは思えない」「でも、現に変わってしまいました」

 

 集会場につどっていた白狼天狗の姿を思い浮かべる。それだけで、吐き気がした。彼らは熱心に新聞を読み、しきりに首を縦に振り、そして眉根に皺を寄せていた。椛があんなに酷い奴だなんて、と。椛が示してきた生き様は、高々あんな下らない紙切れに敗れ去ったのだ。

 

「一枚の新聞でなく、無数の新聞が同じことを書いていたのですよ。それはもう、真実だと思いこんでも仕方ないですよ」

「そうか?」にとりは妙に譲らず、首を捻る。

「鴉天狗の新聞なんて、信じる奴の方が稀だろ。きっと、他の要因があったんだ」

「他の要因?」

「もっと別の角度から、椛が悪い奴だっていう印象操作が行われていた、とか。それとも、元々椛が嫌われていたか、とかかな」

「後者の方がまだあり得ますね」

「いや、ないよ」にとりは即答した。有無を言わさず「それはない」と言ってくる。

「椛の悪い噂なんて、聞いたことないもん。文の悪い噂なら流れてくるけどね」

 

 私は黙り込むしかなかった。たしかに、その通りだ。私と椛が一緒にいるところを誰かに見られると、大抵、椛に同情を孕んだ目つきをやり、曖昧な笑みを浮かべて去っていく。どうせ、上司に理不尽に叱られる部下、だとしか思っていないのだろう。あながち待ち合っていないが、理不尽ではなく、真っ当に叱っているのだから、文句を言われる筋合いはない。

 

 しかし、にとりの言った「別の角度」とやらが何か、と言われても、思い当たる節がなかった。あるとすれば、やはり、新聞の件だけだ。

 

「私がにとりを疑ったのには、賭け事以外にも理由があるのですよ」

「あ、そういえば責任」

 

 聞こえていたが、頭を回すことに精一杯です、といった表情を作り、無視する。

 

「実はですね、その馬鹿げた新聞の中に、写真を用いているものがありまして」

「まあ、新聞だからね」

「そこに、椛が少年から金を奪い取っているものがあったんですよ」

「はあ」

 

 私は天秤にかけたのだ。椛が少年から実際に金を奪った可能性と、あの写真が、にとりの手によって作られた、偽物の写真である可能性とを比べた。比べて、後者を選んだ。あんな都合のいい、そして非現実的な写真が実在するとは思えない。

 

「にとり、前に新聞の写真を捏造していたじゃないですか。はたての新聞ですよ。合成、でしたっけ。あんなことができるのは、にとりだけだと思いまして」

「私がそんな写真を作るわけないじゃないか」

 

 美学がないよ美学が、とにとりは突っかかってくる。また美学か、と呆れる。そんなもの、ドブに捨ててしまえばいいのに。まあ、私は捨てないが。

 

「それに、合成なんて、河童じゃなくても、やろうと思えばできる。現に、はたてだって、ほとんど自分でやっていたんだし」

「私にもできますかね」

「できると思うけど、やり過ぎるなよ」

「大丈夫ですよ。やってもいない悪事をでっち上げる時にしか使いませんから」

 

 椛のことが念頭にあったからか、微妙な笑顔を浮かべたにとりは、その表情のまま「もしかすると」と指をピンと立てた。

 

「写真の少年が、実際に金を椛に奪われた、とか言ったりしてるんじゃないか?」

「え?」

「誰かから、それこそ金を貰っていたり、脅されたりして、言ってるかもしれない。証言人がいたら、ぐっと信憑性は高まるだろ。まして、子供の言うことなら尚更」

「そんなことしたら、親が黙っていないと思うんですけど」

「まあ、そうだね」

 

 結局のところ、椛が誰に襲われたのかも、どうして陥れられているかも、分からなかった。分かったことと言えば、実際に椛が社会的にも身体的にも死にそうになっている、という事実だけだ。

 

 ずっと河原にいてもよかったのだが、ただ黙って何の変化もない箇所にいることが、どういうわけか落ち着かず、「聞き込みにでも行ってきます」と私は半ば無意識でにとりに手を振っていた。

 

「とりあえず、にとりが襲撃犯ではないと分かったので、満足です」

「文は一人で聞き込みしないほうがいいよ」

「なんでですか」

「私ですら疑われたんだったら、多分、全員が怪しく見えると思うよ。文は病的に疑い深いからね」

「そんなこと」

「それに、やけに熱心じゃないか」

 

 はじめ、にとりが何を言おうとしているか分からず、困惑する。私が記事作りに熱心なのはいつものことで、別に取り立てて言うほどのことでもない。だが、意味ありげに目を寄越す彼女を見て、その意図に気がついた。

 

「そんなに椛を襲った奴のことを許せないのかい?」

「馬鹿な」

「やっぱり、文と椛が仲良くできるかって賭けは、私の勝ちで間違いないな」

「間違いですよ。私はただ、記事を書きたいだけです。いつも通りですよ」

「いつも通りかあ?」

「いつも通りですよ」

「いつも通り、行き詰まっているわけだね」

 

 猪口才なことを言うにとりの口を翼で覆う。少し口をもごもごとさせ、身じろぎしていた。

 

 確かに、私たちは行き詰まっている。有力な情報も、そもそも事態の全体像すら見えていない。だが、私には奥の手があった。行き詰まった現状を無理やり打破してくれる切り札の存在を頭に思い浮かべる。

 

「では、行きましょうか」私は翼でにとりの身体をぐいぐいと押した。

「お、おい。行くってどこに」

「諸刃の剣のところですよ」

 私は笑顔で、彼女の口を引っ張った。

「舌を噛まないで下さいね」

 

 まさか、と青ざめるにとりの手を引っ張る。目指すのはもちろん、萃香様のところだ。

 

 

 

 

     

 神出鬼没って言うけど、あの言葉、気に入らないんだよね。

 萃香様はよく、こんなことを言っていた。

 

「どうして神は現れる前提なのに、鬼は没しないといけないんだよ。鬼差別だ」

 

 きっとそれは、人間たちの切実な願いだったのではないでしょうか。つまり、神には来て欲しいけど、鬼にはいなくなってほしいという願いだったんですよ。そう内心で思ったが、口にしなかった。

 

「まあ、鬼の目にも涙なんて諺よりは百倍マシだけどな。私たちをなんだと思っているんだ。鬼だって、泣く時は泣く。鬼出神没じゃなきゃ嫌だよーってね」と意味不明な言葉を続ける萃香様の目には、もちろん涙なんて浮かんでいなかった。 

「これが、鬼出神没って奴ですか」

 

 けれど、今になって、ようやく彼女の口にしていた言葉の意味を理解した。鬼出神没とはつまり、来て欲しくない時には必ず現れるくせに、いざ捜すと全く見つからない、という意味だったのだ。

 

 空を飛んでいるからか、強めの風が髪を撫でてくる。だが、本格的な夏を思わせるじめりとした風は、不快感しかもたらしてくれなかった。

 

 たしかに、妙だとは思っていた。椛を襲った犯人に心当たりがある、と出て行ってから、丸一日経っている。昨日の夜、全身包帯まみれの椛と二人きりで萃香様の帰りを待つだなんて、地獄もびっくりの状況を作り出した彼女は、てっきり、妖怪の山のどこかで、未だに犯人を甚振って遊んでいるのだろう、と思っていたのだが、にとりと共に妖怪の山を探し回っても萃香様は一向に見つからなかった。

 

「もう帰ったんじゃないのか」にとりは、半ば投げ遣りに言う。

「きっと、疲れて帰っちゃったんだよ」

「帰るって」

 

 私の家にですか。それとも博麗神社にですか。そう訊ねようと思ったが、できない。何となしに下ろした視界の端に、気になる物が見えたのだ。

 

 私たちはちょうど妖怪の山の中腹辺り、木々がもっとも鬱蒼としていて、視界が悪いところに来ていた。こんな何もないところに萃香様はいないだろうし、そもそも彼女が暴れれば木々はなぎ倒されているはずなので、詳しくは見ていなかった。だが、その木々の一つから、見覚えのある角が見え隠れしている。枝かとも思ったが、それにしては大きい。それに、とても自然の物とは思えないほどに捻れていた。

 

「にとり、あれ」

「あれ? どれだよ」

「中央の楓の木から出ている角、あれ萃香様の角ですよね」

 

 返事はない。返事をする間もなく、にとりは背を向け、逃げようとしていた。服を掴み、強引にたぐり寄せる。

 

「一人で行ってくれよ!」

「いいじゃないですか。私たちは一蓮托生です」

「嬉しくない!」

 

 騒ぎ出したにとりの手を引っ張り、ゆっくりと地面へと下りていく。周りに他の妖怪の姿はない。弱小妖怪が隠れていてもおかしくないような場所なのに、だ。

 

 木々の青々とした葉をくぐると、日光が遮られ、急激に薄暗くなった。ガサガサと何本かの枝が引っかかり、鬱陶しい。

 

 ねじれた角のような何かは、上空で見ていたときよりも探しづらく、細い枝と同化し、ぱっと見ではどこにあるのか分からなかった。が、にとりが必死に逃げようと足を進めている反対側に進んでいると、ちょこんと木の幹から捻れた角が、本物の枝のように生えていた。安堵と恐怖の入り交じった微妙な感情に襲われる。

 

 ゆっくりと近づいていく。別に、萃香様は理性を持たない畜生じゃないのだから、普通に行けばいいのだが、それでもつい身構えてしまう。にとりなんて、ガクガクと小刻みに震えていた。いつぞやの椛を思い出す。

 

 と、緊張しすぎていたせいか、にとりがバランスを崩し、手前の木に突っ込んだ。大きなざわめきと共に、無数の葉が降ってくる。何をやっているのか、と呆れる。

 

「誰かいるのか」

 

 どこからか、鋭い声が聞こえた。無意識的に体が震える。特に理由も無いのに、その場に跪き、許しを請いたくなった。どうやらそれは私だけではないらしく、にとりは目を閉じ、涙を流している。何も泣かなくてもいいのに、とは言えない。その声は萃香様のものだったからだ。しかも、かなり怒気が含まれている。

 

「あややや。私です。射命丸文です」

 

 そう声をかけるも、角は動かない。ただ、声には変化があった。「何だよ、文かよ」とどこか気の抜けた萃香様の声が響く。

 

「びびらせるなよ」

「帰りが遅いので、お迎えに参りました」

「お迎えに参ったって、ヤクザじゃないんだから」

 

 とりあえず近う寄れ、とどこか弾んだ声で言ってくる。鬼なんてヤクザみたいなものではないか、と言いたくなるのをこらえ、死にそうになっているにとりの頬を叩き、正気に戻す。

 

「再会を期して酒でも飲もうじゃないか」

「再会って、そんな大げさな」

 

 私はそこで、おや、と思った。どことなく違和感がし、落ち着かない。その違和感の正体に気がついたのは「おーい、はやく」と萃香様が催促してきたときだった。

 

 その声がしたのは、ここからやや西側、低地からだった。目の前にある角と、萃香様との位置が一致しない。

 

 おそるおそる、その角に手を伸ばす。と、想像以上の軽さに驚愕とする。萃香様の角ではなく、本当に枝だったのか、とその時は思っていた。こんなに似ている枝もあるのだなあ、と感心してすらいた。

 

 だから、地面に寝そべっている萃香様を見つけたときも、私はそれが彼女だと、すぐには理解できなかった。

 

 ぬかるんだ地面に大の字で寝転ぶ彼女の目は閉じられていた。遊び疲れて眠ってしまった子供のように、肩で息をしている。赤色のワンピースが汗で湿っていた。萃香様の声がなければ、私は本当に子供だと勘違いしただろう。なぜか。

 

 彼女の頭に生えていた角が、根元から折れていたからだ。

 

「どうしたんですか、萃香様」そのあり得ない事態に、私は滑稽なくらいに動揺した。「萃香様の角って、鹿みたいに生え替わるのですか」

「そんな訳ないだろ」萃香様は微動だにせず、口だけで答える。

「油断したんだよ」

「油断?」

「ここまでで酷くやられたのは三百年ぶりだ」

 

 にとりが悲鳴を上げた。萃香様に恐れをなし、その恐怖が限界を迎えたのかと思ったが、違った。

 

「血が」

「ち?」

「萃香様、血が出てますよ」

 

 そんな馬鹿な。私はにとりの妄言を笑いとばし、彼女を宥めようとした。が、できなかった。あの鬼が血を流すだなんて、絶対にあり得ない。鴉天狗が束になって襲いかかろうが、右手一本で振り払えるほど強大な彼女が怪我をするだなんて、信じられなかったのだ。世界が滅んでも、鬼だけは無傷でいられると本気で思っていたのに。

 

「豆にやられたんだよ」

 

 萃香様は、寝転んだまま口を開く。一見して、血なんて流れていないように見えたが、やっと気づいた。彼女の服が濡れていたのは、汗のせいではない。血のせいだ。赤い服ではなく、血で真っ赤に染まっているだけだった。

 

「あいつ、私が賄賂について調べているの、気づいてやがったんだ。それで、こんなことを」

「いったい何があったんですか」

 

 知らず知らずのうちに、私はカメラを取り出していた。シャッターを押そうと、ボタンに手を近づける。

 

「やめろ」

 が、萃香様がぴしゃりと言ってきて、その指は止まった。

「撮っちゃ駄目だ」

「あややや。失礼しました。さすがに無礼でしたよね」

「そうじゃないよ」萃香様は首を振り、そうじゃない、と繰り返す。

「いいか、よく聞け。私を倒せるような妖怪に、お前らが勝てるわけない」

「え?」意味が分からなかったのか、にとりが震える手で私の肩に手を置いてくる。「鬼って倒せるの?」

「豆だよ。豆。鬼は節分の豆に弱いって、常識だろ?」

「でも、そんな簡単に萃香様が倒されるだなんて」

「一万」

 

 え、と今度は私が声を零した。何を意味する数字なのか、分からなかった。

 

「あいつは、私たちが地底に封印されてから、ずっと鬼に効果のある物を集めてたんだよ。莫大な霊力が込められた豆とかをな。おそらく、博麗の巫女のも混じってたはず。懐かしい感じもしたし霊夢のもあったかもしれない。それが全部で一万」

「それは、一万個ってことですか」

「いや」彼女は首を振ろうとしたのか、小さく身じろぎした。が、全く動けていない。「普通の鬼なら、一万回死ぬほどの威力だったってことだ」

 

 冗談でしょ、とは言えなかった。萃香様をここまで怪我させるには、それほどのことは必要であるはずだ。だが、現実的ではない。普通の鬼を一万回殺せるほどの豆などを、いったいどこの誰が集めたというのか。そもそも。

 

「鬼に手を出すだなんて、どれだけ命知らずなんですか」

 

 私は萃香様の目の前だというのに、そう叫んでいた。「気が狂ったとしか思いませんよ」

 

「どういう意味だよ」萃香様は、力なく言う。「私はそんなに陰湿じゃない。仕返しだなんて、考えないさ」

「そうじゃありませんよ。鬼に喧嘩を仕掛け、もし負けたりしたら、生きて帰れませんよね。というより、実際に萃香様は生きて返さなかったじゃないですか」

「昔の話だよ」

「でも」

「それに、勝つ自信があったんだろ。それか、勝たなければならなかったのか」

 とにかくだ、と萃香様は戸惑う私たちに向かい、はっきりと言った。

「お前達は関わらない方がいい」

「いったい、何にですか?」

「椛を襲った犯人を捜しているんだろ?」

 

 にとりが、ひぃ、と声を上げた。余計な詮索をするな、と叱られていると思ったのか、それとも、萃香様に図星を当てられ、それだけで恐縮したのかもしれない。

 

「あいつには手を出さない方がいい。碌な目に遭わない」

「でも」

「いいか。これは忠告でも、お願いでもない。命令だ。手を出すなと言っているんだよ。もう、調べるのを止めろ」

 そこで、彼女はゴホゴホと咳をした。口元が血で濡れる。汚ないな、と愚痴るその声も、どこか細い。

「私は、案外お前のことを気に入っているんだよ」

「え?」

「そんな奴が犬死にするところなんて、見たくないんだ」

「犬死にするのは私ではありませんよ」

「じゃあ、誰なんだ」

「椛です」

 

 萃香様の顔が強張った。実際に変化があった訳ではないが私にはそう見えた。喋るのも本当は辛いだろうに、気丈に振る舞っていたのか、苦しげに息を整えている。

 

 萃香様は、何かを言おうと口を開いたが、もごもごとさせ、黙り込んでしまった。体力的な限界が近いのか、それとも言葉を発したくないのか、おそらく両方だ。

 

 彼女の足下に新聞が落ちていると気がついたのは偶然だった。萃香様の血で所々赤くなっているそれが、ちょうど吹いた風で巻き上げられたのだ。目の前でゆらゆらと揺れるそれを掴み取る。とって、驚いた。驚きのあまり、すぐ後ろのにとりに勢いよく見せてしまう。目の前で、かつての上司が瀕死になっているのに、だ。

 

「これですよ! 以前、にとりにも言ったじゃないですか。集会場に貼ってあった例の新聞です」

「例のって」

「椛が少年を脅してるっていう、あの写真が載った新聞ですよ」

 

 あー、と呆れ声ともうめき声ともとれる音を発した萃香様は「貰ったんだよ」と無理やり笑ってみせた。「集会場の壁に落ちてたからな」

 

「壁に落ちてるってなんですか。貼ってあったんですよ」

 

 今頃その新聞を作った天狗は泣いてるだろうな、と同情を覚えるが、それよりも、喜びの方が勝っていた。胸が空くような気持ちとはこのことだ。

 

「これ、たしかに合成かもね」にとりは、新聞の写真をじっと見つめていた。集中しているのか、鬼の前だというのに、ため口になっている。

「影とか光の加減が不自然だよ。こりゃ素人の仕業だ。頑張ってはいるけどさ」

「分かるんですか?」

「まあね。プロだから」

 

 別に、写真合成のプロではないはずだが、指摘するのはやめておいた。にとりの後ろから新聞をのぞき込む。こんなにも嫌みな顔をする椛なんて、見たことがない。あったかもしれないが、少なくとも覚えてはいない。腹の奥底から、自分でも消化できない怒りがふつふつと湧いてきて、目を逸らす。が、逸らした後ではっとし、また目を戻した。嘘だと分かっていながらも、見ているだけで嫌悪感を抱く写真をまじまじと見つめる。動悸が激しくなる。文は疑い深い。にとりの言葉が頭に響く。もしかして、今回も勘違いではないか。内なる自分が警告してくる。根拠なんて、ほとんどない。私の偏見ではないか。だが、一度考えてしまえば、そうとしか思えなくなる。それに、訊ねるだけなら問題ないはずだ。

 

「萃香様、ひとつ訊きたいことがあります」

「なに」ない、とも聞こえる曖昧な言葉を吐いた萃香様に近寄り、新聞を見せる。

「この新聞の写真についてです」

「それが何だ」

「椛の額に、犬と書かれていますよね」

 

 萃香様の口が動いた。それがどうした、と言ったようにも見えたが、か細い声は私の耳にまで届かない。

 

「おかしいじゃないですか」

「おかしい?」

「私は椛の額に、鬼って書いたんですよ。萃香様にも、そう伝えたはずです。でも、この写真には犬と書かれています。ほら、おかしいじゃないですか」

「おかしくはないでしょ」返事をしたのは萃香様ではなく、にとりだった。いくら大怪我をしているとはいえ、鬼に詰め寄る私を見て、肝を冷やしているのだろう。「おかしくないって」とどこか焦りながら言ってくる。

「そもそもが合成された、偽物なんだから、おかしくはないでしょ」

「そうじゃないんですよ、にとり」

 

 頭の中で、カチャカチャと無数に散らばったパズルがはまっていく。そのパズルが、はたして本物なのかは分からない。が、一度組み上がったそれを、意味なく壊すほどの勇気を、私は持ち合わせていなかった。

 

「そもそも、私が椛の額に落書きをしていると知っている妖怪は、ごく僅かしかいないんです。もしかすると、実際に椛の額に書かれたものを見た奴がいるかもしれませんが、だとしたら、鬼と写真に合成するはずです」

 

 そうだ。椛の額に書かれた文字が犬だと、そう思い込んでいた妖怪は僅かしかいない。私が咄嗟についた嘘を知っていたのは、目の前で倒れている萃香様と椛自身。

 そして。 

 

「そして、大天狗様くらいしか、いないんですよ」

 

 そうだ。萃香様と椛が大天狗様に会いに行った時、椛の額の落書きについて暴露された、と椛が怒っていたではないか。犬と書かれたと大天狗様にまで知られてしまったと、子供のようにヘソを曲げていた。

 

「萃香様が、やけに調べるのを止めろって言うのは、そういうことですよね。私たちのような、妖怪の山の支配体制に組み込まれた只の鴉天狗や河童が、大天狗様に逆らったらどうなるか。火を見るより明らかだから、止めた。止めて、ご自身でどうにかしようとした」

 

 して、返り討ちに遭った。たしかに、大天狗様ほどの立場があれば、豆や鬼に対する兵器を無数に持っていてもおかしくない。鬼がいなくなってから、妖怪の山の上層部が、また鬼による支配が来ないように、と対策するのは当然に思えた。

 

「でもよ、文」

 

 萃香様は、先ほどのか弱い声なんて嘘かのように、はっきりと言う。

 

「なんで大天狗が、わざわざ木っ端の白狼天狗を倒さないといけないんだ」

 

 そもそも、私の言葉を否定しない時点で、それが真実だと言っているようなものではないか。そう言いたいのをぐっと堪える。

 

「萃香様って、賄賂について色々調べていたんですよね」

「それが、椛と何の関係があるんだよ」

「賄賂をしていたのは大天狗様だったんじゃないですか? そして、大天狗様は、それが露見することを恐れていた。そうですよね?」

 

 根拠も証拠も何もなかった。萃香様がしらばっくれてしまえば、これでこの話は終わりだ。あの大天狗様を疑うだなんて、とにとりに馬鹿にされるだけだろう。だが、私は知っていた。鬼は嘘を吐かない。つまり、それが真実だった場合に、否定することはできないのだと。

 

 そして案の定、萃香様は何も言葉を発さなかった。疑惑が確信へと変わっていく。

 

「だから、新聞に載せるのを止めろ、と私に注意したんですよね。鴉天狗の新聞を確認している大天狗様に、私が何かを知っている、と思われてしまってはいけないから」

「だから、何だよ」萃香様は、ぶっきらぼうに鼻を鳴らす。往生際が悪い。

「椛と賄賂と、何の関係があるんだ」

 

 では、なぜ椛はあんな目に遭ったのか。真面目で純粋な彼女が、どうしてあんなおぞましい姿へとなり果ててしまったのか。いったい、それは誰のせいなのか。考えなくとも分かる。悲しむ理由なんて何一つないのに、きゅっと胸の奥が詰まった。「私が口を滑らせたんですよ」

 

「え」

「萃香様が大天狗様と話をしていた、と椛から聞き、早とちりをして、賄賂のことを、椛に言ってしまったんです」

「だから、それが」

「真面目な椛が、そんな重要なことを小耳に挟んでしまえば、どうするか、想像に難くないですよね」

 私は空を見上げる。も、青々とした楓の葉が視界を覆い尽くすだけで、太陽の光など、まったくなかった。それでも、さも眩しいかのように、私は手で目元を覆い、こっそりと拭った。

「レタスですよ」

「レタスって」

「白狼天狗は些細なことでも上司に判断を仰がないと駄目なんです。つまり、椛は大天狗様に、賄賂について、馬鹿正直に伝えに行ってしまった」

 

 大天狗様はさぞ焦っただろう。千里眼を使い、賄賂に関する何らかの事情を見抜かれてしまったのではないか、と戸惑ったはずだ。戸惑って、実力行使に出た。

 

 お前のせいだ。どこからともなく、声が聞こえる。お前が余計なことを言ってしまったから、椛はこんな目に。

「そういうことなんですよね、萃香様」

 

 返事はない。ばつが悪そうに頬を掻こうとしてのか、手がピクリと動かしている。

「そういえば」

 ふっと息を吐き、萃香様は笑う。その笑みは、鬼らしくない卑屈なものだった。

「そういえば、地球って丸いらしいよ」

 

 唇を尖らせ、鳴らない口笛を吹き始めた萃香様を前に、私とにとりは顔を見合わせていた。椛を襲ったのは大天狗様だと、確信してしまったのだ。この、何とも絶望的な状況を受け入れることができない。大天狗様あいてでは、どうしようもないじゃないか。きっと、どんなに大天狗様が憎くても、私は彼を目前にすれば、媚びへつらい、取り入ろうとしてしまうだろう。鴉天狗としての性だ。それに逆らってまで、椛についての記事を書く勇気はあるか。ない。あるわけがない。

 

「それより、お前らさ」険しい声で、萃香様は声をかけてきた。絶対に足を突っ込むなよ、と忠告してくるのかと思ったが、違った。

「私の心配も少しはしてくれよ」

「え」

「とりあえず、病院に連れて行ってくれ」

 

 ああ、と声を漏らす。心配をしていないわけではなかった。ただ、鬼に情けをかけるのか、と怒られそうに手を出せなかっただけだ。

 

 血塗れの鬼を担ぐのには抵抗があったが、やるしかない。なぜなら私は鴉天狗だから。上司に刃向かうなんて、鴉天狗である私がするわけがなかった。



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鴉に舌はない

──神と鴉──

 

 

 上司に歯向かうなんて、鴉天狗である私がするわけがなかった。

 

 それがたとえ、自分の気に入らない奴であっても、死んでくれと心から願っている奴であっても、妖怪の山に属している以上、何があっても上司には逆らってはいけない。相手を確実に打ち倒せるのならば逆らってもいいのかもしれない。が、もし万が一失敗してしまえば、上司に逆らったと、皆に知れ渡ってしまえば、さらし者にされた挙げ句、殺されるだろう。面目が丸つぶれになった上司の鬱憤を晴らすがごとく、怒りをぶつけられるのだ。

 

 だから、私は上司の命令には絶対に従うし、逆らわない。それが例え、無言の圧力だったとしても、だ。

 

「残念ですよ、早苗さん」

 私は椅子ごと無様に這いつくばっている早苗さんの腹を、もう一度踏みつけた。

「本当に残念ですよ」

 

 下駄の歯を思い切り彼女の腹へと叩きつける。ぐぅ、とくぐもった声を出した彼女は海老反りに背中を曲げようとした。が、椅子に縛られているせいで、できない。ただ苦しそうにうめき、血を吐き、涙を流すだけだ。

 

「やめて、ください」

「だから、やめてって、言ったらやらなきゃいけないんですよ。もう何も言わない方がいいです。ほら、言うじゃないですか。口は災いの元って」

 

 そうだ。余計なことを言ってもらっては困る。

 

「分かりましたか、早苗さん」

 

 今度は、私の声にも反応しなかった。ショックのせいで、呆然自若としている。ためしに顔を軽く蹴飛ばしてみたが、うんともすんとも言わなかった。

 

 あと少しで、早苗さんの心は完全に折れる。大きく足を上げ、彼女の腹を蹴ろうとする。

 

「その辺にしておけ」

 

 振り下ろす直前、嫌な声が耳元で響いた。早苗さんの服に爪先が当たったとき、私の足は止まった。意図的ではない。その声による恐怖のせいで、身体が固まったのだ。いつの間にすぐ後ろに。まったく気がつかなかった。

 

「これ以上は守矢との関係に悪影響が出る」

「ですが」

「しつこいぞ、射命丸」その声は、以前よりも迫力があり、恐ろしかった。

「身の程をわきまえろ。ふざけていると殺すぞ」

「申し訳ありません」反射的に死んだフリをしそうになり、必死に耐える。頭を垂れ、地面に膝をついた。早苗さんが視界の端に映るが、目をそらす。

「申し訳ありませんでした、大天狗様」

 

 顔を上げようとするも、威圧感のせいで身体が動かない。こいつが椛を。萃香様をやったのだ。憎き敵だ。だが、だからといって。とても逆らう気にはなれなかった。逆らえば、一瞬でやられる。前回、椛と共に叱られた時には、ここまで恐ろしくなかったはずだ。つまり、彼も私たちと同じで、実力を隠していたのだ。

 

「率直に訊ねるぞ、射命丸」

 微動だにできない私の肩に手を置き、大天狗様は耳元で囁いてくる。

「お前はどうして、守矢の風祝を蹴っていたのだ」

 

 ただの質問だと分かっていても、言葉が詰まる。滑らかに返答しなければならない。そう思えば思うほど舌が震え、声が出ない。大丈夫だ。私は冷静だ、と自分自身に言い聞かせ、その時点で自分が冷静でないことに気がついた。

 

「どうしてって、それは」

「それは?」

「彼女が、捏造された写真を用いて、大天狗様が賄賂をしていたと触れ回っていたからですよ」

 

 ふうん、と腕を組み、私をまっすぐに見下してくる。今すぐにでも首をはねられるのではないか、と恐怖が走る。逃げ切る自信はあったが、それも、身体が動かなければ意味がない。

 

「嘘は言っていない、か」

「え?」

「射命丸、お前は嘘を吐くと鼻が少し膨らむのだ。精進しろよ」

 

 私にかかっていた威圧感がふっと緩んだ。肺に空気が入り込み、胸が軽くなる。そこで、やっと私は自分が息を止めていたということに気がついた。

 

 無意識のうちに、自分の鼻を触っている。萃香様といい大天狗様といい、嘘を見抜くのが上手すぎる。もしかして、自分がわかりやすいのではないか、と不安になった。早苗さんを見る。目を閉じ、微動だにしない。気絶してしまったようだ。本当によかった、と心から思った。

 

「この前のお前の新聞、読ませてもらったぞ」

 話は終わり、とばかりに、大天狗様は言った。声もいつもの調子に戻っている。どこか腹立たしく、傲慢さに満ちた顔を向けてきた。

 

「珍しく、真新しくもなかったな。余計なことを書くよりは百倍マシだが」

「お褒めいただき光栄です」

「お前はどう思う?」

「どう、とは」

「例の襲撃犯は、いったい誰だと思う」

 

 背筋が凍った。どうしてそんなことを聞いてくるのか。もしかして、好機ではないか? それとも、あえて誘い出そうとしているのか。考えが頭の中でぐるぐるとし、混乱する。

 

「あの、いいと思います」

 

 混乱のあげくに出た言葉は、自分でも驚くほどに抽象的なものだった。え、と自分で自分の言葉に驚く。いいと思うって、いったい何がだ。

 

「いいと思うって、何がだ」

 

 当然、大天狗様も同じ疑問を抱いたようで、訊ねてくる。本当に何なんでしょうね、と同意したかった。この鴉天狗は、いったい何を言いたいのでしょうね。

 

「襲撃犯が誰であっても、いいと思うんですよ」

 苦しみ紛れに、私は言葉を絞り出す。

「ほら、やっぱり格好いいじゃないですか。悪い奴らをバッタバッタと倒していくなんて正義のヒーローみたいで。だから、私はそれが誰であっても歓迎しますよ」

 

 そんな正義のヒーローは存在しないと、私が一番分かっていた。あれは、大天狗様が、ご自身に歯向かった奴を保身のために倒していただけで、それがどういうわけかヒーローの仕業だと言われているに過ぎない。そんなことは分かっていた。

 

 だから、大天狗様が、「正義のヒーローとは我のことだ」と胸を張った時、驚きのあまり、変な声を出してしまった。そして、すぐに冷静になる。そうだ。私の中では、椛を襲った襲撃犯は、それすなわち賄賂をしていた奴、という図式が出来上がっていた。だが、よくよく考えれば、そもそも賄賂の話自体が秘密中の秘密で、一般的には広まっていないのだった。

 

「射命丸。お前にだけ特別に教えてやろう。犬走とかいう金にがめつい白狼天狗を打ち倒したのも、その他の悪どい妖怪を倒していたのも、我だ」

 

 金にがめついのは間違いなく大天狗様のほうであるし、悪どい妖怪というのも間違いなく大天狗様のことだ。そもそも、その他の妖怪とやらが、本当に実在するのかどうかも怪しい。彼の一挙手一投足が鼻につく。あれほど強かった恐怖や威圧感も、怒りのせいか霞んでいた。だが、逆らってはいけない。そう肝に銘じるも、反射的に怒鳴り声を上げそうになり、戸惑う。

 

「お前が、その守矢の風祝の暴走を止めたことの報酬として、教えてやる」

「は、はい」

「我が悪い妖怪を打ち倒していたのは、真に妖怪の山の秩序を守るためだ。そして、こうしてお前にその事実を告げているのも同じなんだよ」

 

 だからどうした、と冷めた気持ちで見ていると、「以上のことを記事にしろ」と言ってくる。はい、と一旦は返事をした後に、「はい?」と聞きなおしてしまった。

 

「たしか、新聞大会はまだやっているだろ。ぎりぎりな。そこで、我のことを記事にしてもいい、と言っているんだ。きっと、正義のヒーローの正体が我だと書けば、優勝間違いなしだ。そうだろ?」

「たしかに、そうかもしれないですね」

 

 へらへらと笑みを浮かべながら、私は頷いた。なるほどなるほど、と。

 

 これで、新聞大会のからくりが分かった。どうしてあそこまで、一斉に椛の悪口についての記事が出てきたのかが、分かってしまった。

 

 きっと、今のように、大天狗様が鴉天狗に伝えていたのだろう。お前だからこそ教えてやる。実は、犬走椛という白狼天狗は、このような悪事をしていたらしい、といった感じで、情報を与えていたのだ。鴉天狗とすれば、たしかに魅力的なネタであるし、そして何より、大天狗様に書いてくれ、と暗に言われている中で、それ以外の記事を書く勇気のある奴などいない。自然と歯ぎしりをしてしまい、咄嗟に「やった」と小さく拳を握った。さも、喜びのあまり口をかみしめてしまった、といった感じで頬を緩める。だが、それだけでは不安で「さすが大天狗様です」と口を開いてしまった。

 

「あの愚劣な椛を退治するだなんて、さすがですよ」

「そうだろ?」

 なぜ、こんな見え透いたお世辞ですら受け入れられるのか、理解できない。

「やっぱ、凄いですね。私も前々から椛については腹が立っていたのですが、まさか、いともたやすく。しかも」

 

 もしかすると、私は浮かれていたのかもしれない。これで、大天狗様の信用を得られたと、憎き相手の信用を得られたと、そう勘違いしていたのかもしれない。だから、つい、口が回る。このままだと口を滑らせるぞ、と分かっていながらも、止まらなかった。

 

「しかも、あの萃香様まで退治してくださるだなんて」

 

 空気が凍った。大天狗様は無言で、じっとこちらを見ている。聞こえてくるのは、早苗さんのうめき声だけだ。

 

「お前、萃香様に会ったのか」大天狗様は、訥々と訊いてくる。

「どうして私が萃香様を倒したことを知っている」

「あやややや」

「お前、もしかして聞いたな?」

「聞いたって?」

「賄賂のこと、知っているだろ?」

 

 どう反応していいか分からなかった。何のことですか、と惚けるべきか、それとも、それがどうしたのですか、と受け流すべきか、分からない。いや、本当は分かっていた。惚けるか、受け流すかするべきだったのだ。だが、できない。たしかに恐怖もあるし、威圧感はますます強くなっている。が、それでも腹底に溜まった怒りが破裂しそうだった。どうして、私はここまで怒っているのか。

 

「知ってますよ」気づけば、私は私の意思に反して、勝手に話し始める。

「大天狗様の賄賂の件は知っていますよ」

「ああ、そうか」

 

 予想に反し、彼は平然としていた。てっきり、血眼になって責めてくると思っていたので、拍子抜けし、頭が冷めていく。と、同時にチャンスだとも思った。何の? 何のチャンスか。

 もちろん、大天狗様に取り入るチャンスだ。

 

「でしたが、私は別にそれが悪いことだとは思いません」

 ほう、と大天狗様は息を吐いた。嘘ではない、と小さく呟いて、後ろ手に隠していた剣をしまい込んでいる。息を呑む。返答を間違っていれば、危なかった。

「たしかに、私は萃香様からお話をお伺いしましたよ。大天狗様が賄賂をやっていたことを。ですが、それだけで大天狗様への信用は揺るぎません」

「そうか」

「私、こう見えても長生きなのです」

 

 胸が高鳴る。期待と希望が溢れかえってきた。先ほど浮かんだ怒りなど、どこかへ消え去ってしまっている。私はただ、自分の思い描く未来に向かって、突き進むだけだ。

 

「もしよければ、私を使ってくれないでしょうか」

「使う?」

「大天狗様の、いわば悪い噂を消す作業をお任せいただけないでしょうか」

 

 今まで賄賂を知っていることを隠し通していた怪しい部下の誘いを易々と受け入れるはずがない。けんもほろろにそう断られ、首を切られることも覚悟していた。が、大天狗様は考え込んでいる。これが、本心からの願いだと伝わったのだろうか。

 

「いいだろう」

 しばらく経ったのち、大天狗様は勇ましい声でそう叫んだ。

「射命丸文。お前を信用しようじゃないか」

「よろしいのですか?」

「お前が取り入りたいと言ったんだろ」大天狗様はその場に座り込み、少し警戒を緩め、隙を見せた。殺そうと思えばできたかもしれないが、もちろん、手を出したりはしない。

「それに、言ったろ? 我には嘘が見抜けるんだ。萃香様直伝で教わったんだよ。お前が何か企んでおったら、すぐに分かる」

「はあ」

 

 見抜けていないじゃないか、と言いそうになるのを我慢する。優秀な手駒が入ったからか、大天狗様は機嫌が良かった。ここまで急激に信用されると、逆に怪しく感じてしまう。が、どうやら本当に私のことを信用して下さっているようだった。椛は賄賂について知っただけで殺されたのに、私は殺されない。なぜか。

 

「射命丸、お前、そこの風祝と仲良かっただろ」

 訝しんでいることがバレたのか、どこか晴々とした顔で、大天狗様は笑った。

 

「上司の悪口を言う友人をそこまで痛めつけるとは、見上げた根性じゃないか。それに、だ」

「それに、何ですか?」

「犬走は、不正を許すタイプではない。そうだろ? 我の賄賂を糾弾しに来たに決まっている」

 

 決まっていなかったが、客観的に考えて、そう捉えてもおかしくはない。椛は、そういう奴だ。腹立たしい、正義の味方だ。

 

「だが、お前は違う」

 

 大天狗様の表情は変わらない。相変わらず、気に食わないにやけ面だ。だが、心なしかほくそ笑んでいるようにも見えた。

 

「お前みたいな、打算的で陰湿で、そして非情な奴は、かえって計算できる」

「日頃の行いのおかげですか」

「そうだな」

 

 つまりは、真剣勝負とやらにこだわるような単細胞な椛よりも、それこそ、悪役っぽい私の方が賄賂という悪事に寛容だと、そう思っているのか。なるほど。確かに、その通りかもしれない。

 

「当然ですよ。大局を見据えて、妖怪の山の利益になることをしなければ、ここまで生きてこれてません」

 

 そうかそうか、とその後ろになでつけられた黒髪を撫でた大天狗様は「その礼だ。ひとつ褒美をやろう」

 

「褒美、ですか」

「前金だと思ってくれていい」

「なら」

 私はおずおずと頭を下げ、言った。

「真実を教えていただけませんか」

「真実?」

「椛を倒したのは、彼女が悪事を働いたからではなく、賄賂の事実を知られてしまったから。そうですよね」

「どうしてそんなことを言わなければならない」

「ジャーナリストは、記事にできなくとも、真実を追い求めてしまうんですよ」

 そういうものなのか、と頷いた大天狗様は、「そうだ」と何の躊躇もなく言った。

「我の賄賂を犬走に知られたから、口封じをしたのだよ」と平然と言う。あれだけ苦労していたものが、こんなに簡単に手に入っていいのか、と驚く。

「それがどうかしたのか」

「別に、椛を打ち破ったことに異存はありませんが、その後の対応は必要だったのでしょうか。あの後、椛は数々の悪行をしたと、多数の新聞に書かれておりましたが、あれも大天狗様の差し金ですよね」

「そうだが、何だ。犬走の肩を持つのか」

「いえ」

 

 そうではありません、とはっきりと言う。正真正銘、こればかりは本当の、心の底からの本心だった。

 

「ただ、無意味に思えまして。生死を彷徨うほど、しかも闇討ちで襲ったのならば、そのまま放置しておいた方が露見する危険性も減るのではないでしょうか」

「分かってないな、お前は」

 大天狗様は、ふんと鼻を鳴らし、嘲笑してくる。どうして嘲笑われたのか理解できなかった。

「ただ倒すだけでは、勿体ないだろ」

「勿体ない?」

「焚き火と同じだよ。お前の新聞で焚き火をするのと一緒だ。どうせ倒すのなら、犬走が悪事を働いたということにして、それを我が成敗してやったと民衆に思わせた方が、効率がいい。言っただろ?」

「言ったって?」

「いらん情報を漏らさんようするついでに、我の機運も高める。一石二鳥ならぬ、一ゴミ二鳥だな」

 

 返事をすることができない。感情を顔に出さないように、必死にこらえる。

 

 それはつまり、椛はゴミだと言うことなのか。大天狗様が今まで上げていた武勲は、そのようにして生み出されていたものだったのか。数々の疑惑が頭を覆い尽くす。身体が固まり、動くことができない。落ち着かなければ。冷静になれ。大天狗様の言っていることは正しい。まったくの正論だ。椛がゴミであることなんて、よく知っているだろ。出来損ないの白狼天狗がどうなろうと、たとえ、勝手に尊敬していた上司にぼろくそに言われようと、私の知ったことではない。私のあげた武具を長年使い続けていたとしても、どうでもいいじゃないか。親しみを感じる必要はない。そもそも、椛は私を水とするならば、油のような存在じゃないか。絶対に混じり合うことなく、それでいてしつこく、くどい。そのはずだ。

 

 そのはずなのに、どうしてだろうか。今までため込んでいた不満が、収まりそうになかった。

 

「大天狗様」   

 

 私はいつの間にか立ち上がっていた。折り畳んでいた翼を広げ、懐からカメラを取り出す。そして、私の急な挙動に呆気に取られている大天狗様に見せつけるように、懐からキュウリを取り出した。武闘大会でにとりが渡してきた奴だ。

 

「やっぱ、キュウリには塩ですよね」

 

 こちらを見つめる大天狗様の目に、少しの疑惑がさす。それは、とても魅力的に思えた。

 

 



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オーマイゴッド

──狼と鴉──

 

 

 やっぱり、諦めるしかないんじゃないか。

 

 いつの日だったか、妖怪の山のほとりに流れる小川で一休みしている際、友人にそう言われたことがある。たしか、私と河童の河城にとりの二人で将棋をしながら語り合っていた時のことだ。

 

 昨日、萃香様を病院に運んだ後、私たちは、その病院の待合室で一夜を過ごした。単純に萃香様の様態が気になったのと、あとは、頭を冷やしたかったのだ。

 

 笑えたのは、血塗れの萃香様を見た医者が、分かりやすく動揺し、そして、体内に弾丸のように残った豆を取り除こうとメスを使った結果、そのメスの方が折れ、結果的には、一夜明けたら、豆が勝手に体外に排出され、驚くことに角も再び生え、傷跡も綺麗さっぱりなくなっていた。

 

「寝たら治ったよ」

 

 と朗らかに笑う萃香様はピンピンとしており、まあ、大体予想はしていたものの、それでもほんの少し心配していたので、その気苦労を返して欲しかった。

 

 笑えなかったのは、萃香様が、今回の件について、手を引くと言って聞かないことだった。

 

「余計なお節介は、かえって状況を悪くするだけだよ」と鬼らしくもなく消極的なことを言い、とっとと博麗神社に帰ってしまった。ボコボコにされ、やる気を無くしてしまったのかもしれない。鬼である彼女ならば、復讐に燃えると思っていたのだが、大誤算だ。

「大天狗様が相手だったら、分が悪すぎるって」

 

 にとりは、将棋の駒を適当な場所に置き、沈んだ声を出した。

 

「大人しく、何も見なかったフリをした方がいい」

「たしかに、そうですね」

「そうだよ。そうしないと、私たちまで」

 

 言葉尻が段々と小さくなっていったせいで、にとりがなんと言ったのか、最後まで聞き取れなかった。が、予測はできる。私たちまで、同じ目に遭ってしまう。そう言いたいに違いない。

 

 自分の持ち駒である歩兵をピンと指で弾く。くるくると回転しながら空へ舞い上がった駒は、風に流され、川まで飛んでいってしまった。空を見上げる。一面を覆う黒い雲が、かなりの速さで流れている。夏の嵐の気配が濃くなっている。それでも、私もにとりもここから動く元気はなかった。

 

「私だったら、何とかなりませんかね」

 

 言葉こそ疑問形だったが、にとりに訊ねているわけではなかった。いったい誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。

 

「私が新聞に、椛の悪行はでっち上げで、大天狗様が賄賂をしていたと、そう書いたら、どうでしょうか」

「どうでしょうかって」にとりは語気を強めた。

「それはただ、文が妖怪の山にいられなくなるだけだよ。文の新聞なんて、誰も信じないし、大天狗様には目を付けられる。最悪だ」

「なら、どうすればいいんですか」

 

 どうすればいいか。答えは簡単だ。諦める。そうだ。別に、諦めても何の問題もない。ただ、椛の名誉は戻らないだけだ。大天狗様も意外と悪い妖怪だったんだね、と世間話をし、これは絶対に誰にも言えないぞ、と心の箱にしまい込めば、この話は終わり。それよりも、新聞大会について考えた方が、よっぽど有意義だ。

 

「でも、新聞大会もおかしくなってしまったんですよね」

「そうだな」何となしに口に出た言葉だったのだが、にとりは神妙な顔で頷いた。

「優勝とか、そういうのじゃなくなった。どれも同じ内容だよ」

「まあ、優勝は私ですが」

「それはないよ。というより、文はそっちじゃなくて、もう一つの大会に力を入れたほうがいいと思う」

「もう一つの大会、ですか」

「武闘大会だよ」

 

 ああ、と気の抜けた声を零してしまう。そういえば、参加することになっていたのだった。

 

「私は文に賭けたんだから、優勝してもらわないと困る」

「面倒なので、棄権しますよ」

「困るって」

「いいじゃないですか。困って困って、そうやって成長していくのです」

「成長する前に破産するんだよ!」

 

 にとりは半泣きになっていた。いくら賭けに負けるとは言え、そこまで感情を露わにしなくても。

 

「大丈夫ですよ。賭けに負けても、出すものさえ出せば、何とかなります」

「出せるのは不渡りだけだ」

「というより、いったい何を賭けていたんですか?」

 

 にとりの様子から、勝手に金銭をかけているものだとばかり思っていたのだが、椛が棄権したことにより、彼女は既に多くの金を持っているはずだ。貪欲に、もっと多くの金を手に入れようと企んでいるとも思えたが、にとりらしくはない。

 

「何って、いろいろだよ」

 

 案の定、彼女はどこか恥ずかしげに鼻を擦り、そしてすぐに憂鬱そうな表情に戻った。大天狗様について、正確には椛についてのことを忘れようとしているのに、嫌でも思い出してしまう、といった顔だ。

 

「機械のこととか、キュウリのこととか、いろいろだ。私は審判もやってるからね。その関係で、色々面倒なんだよ」

「審判?」

「やっぱ、賭けをやると、白黒はっきりしないこととかあるだろ? そういう時にどっちが勝ったかを決めないといけないんだ」

「にとりにそんなことできるんですか?」

 

 むしろ、にとりに頼むと不正が横行しそうで怖かった。

 

「できるというか、やらされるというか」

「やらされる?」

「その賭けに極力関係ないような奴を審判にするんだよ。そうすれば、不正が減るだろ? 第三者って奴だ」

 

 意外と考えているんだな、と感心し、そしてすぐに、その知識をもっと他に生かさないのか、と呆れる。これでは、武闘大会の管理も案外ずさんかもしれない。いや、ずさんだったからこそ、私がエントリーされてしまったのだろう。

 

「第三者、か」

 

 なんとなく、にとりの言葉が引っかかった。特に理由があったわけではない。その語感と響きの良さが頭に残り、繰り返し木霊していただけだ。だから、ふと思いついたそのアイディアも、大した算段があったわけではなかった。だが、カチカチと、頭の中で未来が出来上がっていく。もしかすると、いけるのではないか、といった算段だ。

 

「あ!」

 

 にとりが叫び声を上げたのは、その時だった。また何か起きたのか、と慌ててカメラを構え、反射的にシャッターを切る。切って、後悔した。そのしょうもなさに、むしろ尊敬を覚える。

 

 にとりが叫んだ理由は単純だった。ポケットから取り出してのであろうキュウリが、彼女の手の上で真っ二つに折れてしまっていたのだ。撮った写真を確認する。キュウリに目を落とし、悲しそうに口を開けているにとりの顔は傑作だった。

 

「何やっているんですか」

 

 私の声もつい弾んでしまう。もしかすると、希望の光が見えたからかもしれない。

 

「たかがキュウリが折れただけで、そんな悲しそうな顔しなくても」

「たかがって。キュウリは丸かじりするのが一番おいしいんだよ。折れたら、喜びも半減だ」

「そんなことはないと思いますけど」

 

 これでは、いつか鍋にもキュウリを入れろだなんて言い出しそうだな、と肩をすくめ、そしていいことを思いついた。カメラに表示された、にとりの間抜け面を見る。もしかして、これは使えるのではないか。

 

「ねえ、にとり」

「なんだよ」 

「武闘大会、出てもいいですよ」

「え」

 

 ぽかんと、にとりは不安そうに見つめてきた。急な心変わりを怪しんでいるのだろう。何か企んでいるのではないか、と疑っているに違いない。そして、それは当たっていた。

 

「優勝賞品って、たしか、河童の技術力でできる範囲なら何でもしてくれるんでしたよね」

「あ、ああ。そうらしいね」

「それって、どの河童に頼んでもいいんですか?」

「私に頼みたいってこと?」

 察しのいいにとりは、人差し指で自分の鼻を突いていた。

「別にそれはいいけど、何をさせるつもりなんだ」

「協力してください」

 私はにとりの目を見て、はっきりと言った。まさか、断るわけないですよね、と念を押す。

「協力って、何にだよ」

「作戦です」

「作戦?」

「大天狗様の悪事を衆目に晒す作戦です」

 

 にとりは固まった。生き物はこうも微動だにせずに佇むことができるのか、と驚くほどにピクリともしない。

 

「止めたほうがいい」

「いえ、にとりには迷惑をかけはしませんよ。失敗しても私が殺されるだけです」

「殺されるって」

「大丈夫ですよ。私を信じてください。というより、協力してくれなければ、武闘大会には出ませんよ」

 

 折れたキュウリを頬張ったにとりは、ガシガシと頭を掻いた。はぁ、と溜め息を吐き、そしてまだ息を吸っていないのに、もう一度溜め息を吐いている。はぁはぁ、と自らの内に巣くった不安と恐怖を吐き出すかのように、何度も何度も吐き出した。

 

「分かったよ」

 俯きがちに言ったにとりの声は、思ったよりも明るかった。

「やるよ。私も、このままだと嫌だしね」

「あややや。いい判断です」

「それで? いったい、作戦って何をするんだよ」

「とりあえず、この写真に合成をして欲しいんですよ」

 

 私は手に持ったカメラの画面をにとりに見せた。先ほど撮ったばかりの、情けないにとりが映し出されている。

 

「そうですね。この木陰の辺りに付け加えて欲しいんです」

「付け加えるって何を」

「怪しげな顔で金銭を受け取る大天狗様とか、どうでしょうか」

 

 はぁ? とにとりは顔をしかめた。何を言っているんだ、と馬鹿にするような表情だな、と思っていると「何を言っているんだよ」と実際に口を尖らせてくる。

 

「椛が捏造の写真で貶されているからって、その報復のつもりかい? たしかに上手くいくかもしれないけど、間違いなくバレて怒られるよ。それに、失敗する確率も高い。誰も信じないよ。私だって、萃香様の言葉じゃなかったら、大天狗様が賄賂をしただなんて、信じられないさ」

「まあまあ、落ち着いてください。早とちりは駄目ですよ。急がば回れ、です」

「それを文が言うのか」

 

 呆れるにとりを前に、私は頷いていた。そうだ。こんなものでは大天狗様が賄賂をしたと、そして無意味に椛を甚振ったとは信じてもらえない。もっと、決定的な証拠が必要だ。写真以外の、決定的な証拠が。そのためには、些細な犠牲には目を瞑らなければならない。

 

「この写真は、あくまでも誘導のためです」

「誘導?」

「そうですよ。きちんと防水用に袋に入れて、持ってきてください。あとは、そうですね。私も誘導用の新聞を作りますよ。妖怪の山襲撃事件! と銘打って、さも悲劇的な異変が起きているように」

「待て待て。話の全体が見えてこない」

「にとり、冷静になってください。説明しますから」

 いいですか、と私は指を立てて、笑う。

「一つだけ、冴えた方法があるんですよ。私もにとりも、極力被害を被らずに、事態を明らかにする方法が」

「なんだよ」

「第三者に解決してもらうのです」

 にとりはピンときていないようで、どこか上の空だった。

「いいですか。もし、誰かが賄賂について熱心に調べていると大天狗様が知ったら、絶対にくいつきます。くいつけば、何かしら証拠を残すはずです。そこを、私たちが抑えるんですよ」

「でも、それだと」

 

 にとりはやっと、額の皺を解いた。かわりに眉根を下げ、悲しげな顔になる。

 

「その、第三者とやらは危険な目に遭うんじゃないか?」

「カナリアですよ」

「え?」

「炭鉱のカナリア。聞いたことありますよね」

「あるけど、それが?」

「カナリアは繊細なんです。だから、炭鉱に連れて行って、カナリアが鳴くのを止めるのを見て、人間は毒ガスの有無を察知していたんですよ。まあ、そんなことしていたら、カナリアはすぐに死んでしまいますが」

「だから、それがどうした」

 

 私は息を吐き、思い切り吸った。これが非情な選択だと言うことは分かっている。だが、現状これしか選択肢がないのも確かだった。努力をしなければ。いずれにせよ絶望するのなら、まだ、被害が少なくなる選択肢をとったほうがいい。

 

「理には適っていると思いませんか? 誰だって自分が大事ですから。危険性を他者になすりつけられるのであれば、積極的にそうするべきです。カナリアは必要経費なんですよ」

 

 私はにとりに背を向けた。彼女が何かを小さく呟いているが、うまく聞き取れない。気にせず、私は言葉を続ける。

 

「いいですか。私が、第三者に何とかして、妖怪の山襲撃事件を解決してくれ、と頼みます。頼んで、やる気にさせます。そしたら、にとりは、大天狗様が賄賂をしている合成写真を落としてください。ああ、そうですね。にとりも、その襲撃犯に襲われた、と言った方がいいかもしれません。そうすれば、賄賂と襲撃についての関連性が強調されますし」

「ちょっと待ってくれ」

「きっと、その写真を拾ったら、気になるはずです。この賄賂をしている妖怪は怪しそうだ。もしかすると、襲撃事件に関係があるかもしれないと。あとは、勝手に調べてくれるはずです。調べて、大天狗様に勘づかれてくれるはずです」

「ちょっと待てって!」

 

 にとりが大声で声を挟んできた。横目でチラリと様子を窺う。パクパクと口を動かしていた。言いたいことがありすぎて、戸惑っているように見える。

 

「だったら、大天狗様が怪しいと思うから調べてくれ、と直接頼めばいいじゃないか」やっと口に出した言葉は、戸惑いに満ちていた。

「どうしてそんな」

「それだと、私たちが情報源だとバレたら大変じゃないですか。あくまで、自分で探し出した、と思ってくれないと。それに」

「それに?」

「男と皿の話、知っていますか?」

 

 にとりは動かない。知らないのだろう。当然だ。私だって知らなかったのだから。

 

「むかし、ある人間が、実験をしたらしいんですよ。男に一枚の皿をプレゼントして、これは三銭の価値があると伝える。その後で、別の奴が、そのプレゼントをもらった幸運な男に、その皿を、十銭でもいいから売ってくれ、と頼むんです。それでも男は、結局売ることはなかった」

「だから、それが」

「つまり、です。私が何を言いたいかと言うと」

「言うと?」

「自分が手に入れたものは、価値があると勘違いするってことですよ。それが物だったら高価であると思うし」

 

 私はそこで言葉を切った。振り返り、にとりを見る。

 

「情報だったら、それが正しいと信じるんですよ」

 

 私は頭の中で、その第三者は誰が適任であるかを考える。あくまで、大天狗様を恐れているのは、妖怪の山の支配体制に組み込まれている我々だけだ。例えば博麗の巫女に、真実を明らかにしてくれと頼めば、権力なんて気にせず解決してくれるはず。だが、霊夢には頼めない。もしそうすれば、確実に萃香様に止められる。

 

 そもそも、彼女が妖怪の山の賄賂について、私に情報提供を求めた主な理由が、霊夢を巻き込みたくない、だったはずだ。それなのに、私とにとりが頼み込めば、いい顔をしないに違いない。それに、そもそも足を突っ込むなと忠告されている以上、萃香様の周りの人間や妖怪には頼みづらい。

 

「でもさ、そんなうまくいくか?」

 

 にとりはまた、眉間に皺を寄せた。このままずっと険しい顔をしていると、一生その皺が取れなくなるのでは、と心配になる。

 

「文の力になって、それでもって、写真一枚で、大天狗様の賄賂について熱心に調べるような奴はいるのか」

 

 私の頼みを聞いてくれるような優しさを持つと同時に、合成写真から大天狗様への道のりを推理する地頭の良さと、実際に解決しようとする行動力を併せ持つ人物。それでいて、我々の支配体制の外にいて、万が一襲われた場合にも対処できる強さと背景をもつ人物。そんな都合のいい人は。

「困った時の神頼み、ですよ」

 

 そんな都合のいい人は、早苗さんしか思いつかなかった。

 



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鴉天狗は分からない

──神と鴉──

 

 

 

 私の計画は大凡うまくいっていた。

 

 私に同情した早苗さんは、時間を使いすぎたとはいえ、解決に乗り出してくれたし、にとりの写真の違和感に気づき、大天狗様が賄賂をしている、と聞き込みを行ってくれた。まさか、本人にまで会ってしまったのは驚いたが、それでも、計画の範囲内だ。

 

 予想外だったのは、早苗さんの様子を見る。つまり、賄賂についての決定的証拠を見つけようと様子を窺い、十分だと判断したら早苗さんを助けるつもりだったのに、それ以前にまんまと大天狗様に見つかってしまったことと、そして、想像以上に私が感情を抑えることが苦手だったことだけだ。そして、それが致命的だった。

 

「どういう意味だ射命丸」大天狗様はゆっくりと立ち上がった。

「それに、どうして怒っている」

「怒っていませんよ」

 

 怒っていた。久しぶりに自分が怒っていると自覚したかもしれない。表情には出ていないはずだが、それでも気を緩めれば、口から暴言が飛び出しそうになる。私がすべきなのは、早苗さんを回収し、逃げ去ることのはずだ。なのに、頭が沸騰する。控えめに言って、錯乱していた。

 

「大天狗様は浅はかですね」

「なんだと?」

「白狼天狗相手に、何をそこまで。武勲を上げる? 正義のヒーロー? 向いてないですよ。そういう腹立たしい称号は、地道に努力をして、無様に地面を這いつくばっているような奴にこそ相応しいんです。お前みたいな老年の爺には向いていないんです」

「お前って、お前、誰に向かって口を開いているのか、理解しているのか」

「分かってますよ」

「上司に逆らうというのか」

「部下と上司は対立する運命なんですよ。私が上司に歯向かうのは、自然の摂理なんです」 

 

 鴉天狗は上司に逆らえない、と言ったのはどの口なのか。どうせ歯向かうなら早苗さんは何のために巻き込まれたのか。自分で自分を叱責する。が、仕方がない、とどこかで割り切っている自分がいた。もうやるべきことはやった。なら、後はどうなってもいいじゃないか、と。それに、早苗さんがいなければ、未だにつかめていなかったはずだ。

 

 懐から、団扇を取り出す。ただの団扇ではない。一振りで嵐を起こす、よく言えば伝説の、悪く言えば曰く付きの団扇だ。楓で出来たそれは、天狗の秘宝だった。

「やり合うつもりなのか」

 

 大天狗様も、私と同様頭に血が上っているのか、その場でじたばたと足踏みをし、声を荒らげた。

「この我に逆らうというのか!」

 

 パン、と乾いた音がした。大天狗様のあまりの声の大きさに鼓膜が破れたかと思った。世界がゆっくりと傾く。真っ暗な空が視界を覆い尽くした。ああ、暗いな、と場違いなことを考え、そしてすぐに疑問がよぎる。どうして、私は空を見上げているのか。

 

 それは、私が倒れているからだった。

 

 右足に鋭い痛みが遅れてやってくる。理解できぬまま手をやると、ぬめりとした感触がした。血だ。血が出ている。いったい、いつの間に。この私が見えないだなんて。頭に血が上っていたせいか。

 

 右手を軸に立ち上がる。翼を広げ、宙に浮いた。右足だけがだらりと垂れ下がり、バランスが取りづらい。だが、高々その程度だ。

 

 音の正体は、大天狗様の手に握られた武器のようだった。銃のようにも見えるが、先が広がっている。よく分からないが、分からなくても問題ない。

 

 バサリ、と自身の翼がはためく音と、風を切る音がする。世界がゆっくりになり、大天狗様しか目に映らない。翼を狭め、一気に加速する。団扇を持った手を上げ、振り下ろそうとする。殺すつもりはなかった。殺せるだなんて、思っていなかった。相手を怯ませ、そして少しでも痛みを与えられればいいと、そう思っていた。

 

 だが、まさか掠り傷すら与えることはできないとは考えていなかった。

 

 私の渾身の一撃は、たしかに直撃した。肉を裂き、骨を断ちきる確かな感触がした。が、それでも大天狗様は平然と私の腕を掴んできたのだ。その顔に一切の歪みはない。にやり、と笑ってすらいた。

 

 まずい、と思った時には既に遅く、腹に鈍い痛みが走る。胃液がこみ上がり、その場に吐瀉物を吐き出してしまった。顔を上げる間もなく後頭部を殴られる。河原に顔面を強く打ち付け、目に火花が散る。ツンとした刺激臭が鼻を突いた。自分の吐瀉物の上に倒れ込んでしまったのだろう。ねちょりとした嫌な感触がする。

 

「常識的に考えろよ、射命丸」

 

 頭上から嫌な声がした。が、その大天狗様の声ですらどこか遠くに聞こえる。起き上がろうとするも、平衡感覚が保てず、うまくいかない。脳が揺れたのだろうか。

 

「我は大天狗だぞ。それが名誉だけで務まるわけがないだなんて、知っているだろ。お前は馬鹿だな。馬鹿で、間抜けだ」

 

 その通りだ。私は馬鹿で間抜けだ。感情に支配され、上司に逆らうだなんて、愚かとしか言えないじゃないか。だが、それでも。

 

「椛よりはマシですよ」

「何がだ」

「あの生意気な部下は、情けないことに、愚かなことに、お前を本当に尊敬していたんですよ。笑えますよね。正義のヒーローだなんて言っていたんです。賄賂だって、大天狗様ならその疑惑の真偽を含め、解決してくれるとそう思い込んでいたんですよ。泣けますよね」

「泣けない」

「ずっと昔の、下らない約束を守るような、そんな馬鹿な犬っころなんですよ、椛は。何が半人前だ。何が一人前だ。馬鹿じゃないの。そんなもの、適当に言っただけだったのに」

 

 なぜ、私は怒っているのか。椛のことなんて嫌いだ。一緒にいるだけで吐き気がするし、顔を見るだけで嫌気が差す。どうしてここまで愚かな妖怪がいるのか、とこの世の中を嘆きたくなる。だが、それでも、だ。

「それでも、椛は私の部下であることには変わりないのです。いわば、所有物なんですよ。それを侵害されるのは、度しがたく、許しがたいんです」

「うるさいぞ射命丸」

 

 はなから私の言うことなんて聞く気がなかったのか、大天狗様はそう言い、腹を強く蹴飛ばしてきた。全身に痛みが走り、もはや怪我をしていないところを探す方難しい。河原をゴロゴロと転がったからか、鼻血が出ていた。隣を見る。椅子に縛られたままの早苗さんが目に入った。やけに静かだと思ったら、目を閉じ、寝息を立てていた。気絶していたはずなのに、いったいいつの間に。なんで友人に殴られた後に眠れるのか、理解できない。が、いずれにせよ窮地であることに変わりはなかった。

 

「まあでも、いいじゃないか」

 大天狗様はその場から動かない。動かずに、淡々と言った。

「部下も上司も、似たもの同士だったってことだろ。だったら、同じような目に遭わせてやればいいだけだ」

 

 身体を動かそうとするも、うまくいかない。大天狗様が手を大きく振り上げる。目を閉じる。なぜか瞼の裏に得意げな笑みを浮かべる椛が映った。衝撃に備え、身体を縮こまる。無様だ。どうして私がこんな目に。全部椛のせいだ。

「出てこい」

 

 大天狗様の険しい声が響く。恐る恐る目を開く。と、いつの間にか大天狗様は私たちに背を向け、じっと川を見つめていた。早苗さんの頬を叩き、起こそうと試みる。寝ているのではなく、まだ気絶したままなのかもしれない、と思ったが、ううん、とうなり声をあげたのをみると、本気で眠っているようだった。

 

「出てこいと言っているんだ」

 

 大天狗様が繰り返した。と、川からぶくぶくと泡が現れ、人影がぬっと現れる。背中に見覚えのある大きなリュックサックを背負ったそいつは、青い帽子を脱ぎ、深々と頭を下げた。どうしてここに。家で待っていろっていったのに。

 

「河童か」

 

 大天狗様は、嫌悪感に満ちた目で、河童、すなわち、にとりを見下した。彼女の顔はよく見えない。が、恐怖と絶望で顔を青くしていることは容易に想像できた。

 

 彼女の足音が近づいてくる。大天狗様に対してなのか「申し訳ございません」と謝っている。顔を上げ、にとりの顔を見ようとするも、血を流しすぎたせいか、視界が霞んでよく分からなかった。

 

「何やってんだよ、文」

 にとりが耳元で、小さく囁いてくる。

「大天狗様に逆らうだなんて、命知らずにもほどがある」

 なにしにきたんですか。そう口を開いたつもりだったのだが、出たのはうめき声だけだった。

「あの、大天狗様」

 

 もごもごとする私を無視し、にとりは大天狗様と向かい合う。跪き、リュックサックを差し出した。いったい何を考えているのか、分からない。

 

「どうか、これで穏便に済ましてくれないでしょうか」

「なんだ」

「文と早苗の無礼を、どうかお許しいただけないでしょうか!」

 

 語調が強かったのは、自らの恐れを誤魔化すためなのか、ぶるぶると貴刻みに震えながら、彼女は叫ぶ。

 

「これは何だ」大天狗様の怪訝な声が聞こえる。

「貢ぎ物です!」それをかき消したかったのか、にとりは大声で答えた。

「我々河童の持ち物の中で、もっとも価値のあるものをありったけ集めて、持ってきました!」

「ほう」

 

 大天狗様の声色が変わった。油断したのかと思い、もがき動こうとすると、左足に痛みが走る。ひぃ、と悲鳴を上げてしまった。ピントの合わない目を必死にこらす。と、右手をあげた大天狗様の手に、例の謎の武器が握られていた。視線すらよこさず、狙い撃ちしてきたのだ。

「あの、これを全部差し上げますから、どうか。どうかお許し下さい」

 

 そんな私を見たからか、にとりの声に焦りが混じった。私に駆け寄り、抱きしめてくる。大天狗様とだいぶ距離があるが、それでも彼は近づいてこようとはしなかった。遠距離でも、私たちを殺せると、そう思っているからに違いない。なめられている。

 

「それを差し上げますので、どうかご慈悲を!」

 

 川に潜んでいたからか、彼女の身体は濡れていた。顔が濡れているのは、きっと川に入っていたからではなく、涙のせいだろう。恐怖で泣き出している。

 

「このリュックサックの中に、河童の秘宝が入っているというのだな」

 大天狗様はどこか楽しそうに言った。

「それを献上するから、射命丸を許してほしいと」

 

 無理だ。秘宝とやらが何か知らないが、それがこの場にある以上、私たちを生きて帰す意味がない。秘宝も奪い、ついでとばかりに、私たちの命を奪うに決まっている。

 

 大天狗様は、慎重にリュックサックの口の封を外した。ごくりと、にとりが息を呑む。右足と左足が動かない。翼を広げようとするも、にとりに止められる。このままでは、全滅だ。

 

「なんだこれは」

 リュックサックを開いた大天狗様は、唐突に間の抜けた声を出した。そしてすぐに「なんだこれは!」と怒りに満ちた声に変わる。

「こんなキュウリが、河童の秘宝なのか!」

 

 その場でリュックサックをひっくり返した。と、緑色のキュウリがこれでもかと出てくる。

 

「当たり前ですよ」

 

 にとりは、それは虚勢に違いなかったが、先ほどまでの泣き声ではなく、はっきりと言った。

「河童にとって、一番大切な物はキュウリと、そして」

 

 そこで、彼女は帽子のヘリの部分をつまんだ。そのまま、真横に指を動かし、何やらいじくっている。カチリと不穏な音がした。

「そして、機械なんですよ!」

 

 ぴかりと、一瞬だけ光が見えた。と、同時に爆音が鳴り響き、五感が消え去る。凄まじい暴風に煽られ、吹き飛ばされる。何が起きたか分からなかった。全身に衝撃が走り、視界が光に包まれる。

 

「キュウリ爆弾だ!」

 

 薄れゆく意識の中、にとりの、キュウリでも洗って出直してきな、という勇ましい声が聞こえたような、そんな気がした。

 

 

 

 

 目を覚ますと、号泣するにとりと、椅子に縛られたまま足をばたつかせる早苗さんの姿があった。

 

 頭が酷く痛み、目もあまり見えない。足からは血が流れているし、両手を見おろすと、擦り傷で酷い有様だった。気持ち悪さは残っているし、内臓が傷ついたのか、鈍い痛みが腹の奥に留まり続けている。

 

 が、そんなことを忘れてしまうほど、現状は混沌としていた。意味が分からず、私は夢を見ているのではないか、と一瞬だが本気で思った。

 

 たしか、私は大天狗様に喧嘩を売り、そして敗れたはずだ。そこまでは覚えている。そこから、どうなったのか。空を見上げると、東はすでに明るみ始めていた。どれほど気を失ってしまったのかすら分からない。

 

 そして、空に向けていた視線を河原に戻し、川辺を見た時、あまりの惨状に言葉を失った。そして、記憶が戻っていく。そうだ。そうだった。

 

 川辺の河原は吹き飛び、大きな穴ができていた。心なしか、プスプスと煙が出ているような気さえする。川の水が入り込んで、茶色の池ができていた。そうだ。にとりのキュウリ爆弾の爆発によってできた大穴だ。明らかに火薬の量に悪意がある。よくもまあ、この距離で私たちは無事で済んだものだ。確実に、至近距離にだけ影響が出るように仕組んであったに違いない。地形に影響を及ぼすなんて、鬼ですら怯むといった彼女の言葉に嘘はなかった。

 

「あ、文。やっちゃったよ」

 

 私が目を覚ましたことに気づいたのか、にとりが抱きついてきた。満身創痍だったので、彼女の体重すら支えきれず、地面に叩きつけられる。

 

「あややや。痛いです。ちょっと」

「大天狗様に喧嘩を売っちゃった」

「喧嘩を売っちゃったというか、殺しかけたというか」

 

 私は辺りを見渡す。が、大天狗様の姿はどこにもなかった。もしかして、死んでしまったのか、と死体を捜すも、それも見たらない。

 

「大天狗様は、どこへ」

「さあ」

「さあって」

 

 あれほどの爆発をくらえば、いくら大天狗様でも一溜まりもないはずだ。生きているか、死んでいるか。少なくとも、しばらくはまともに行動できないに違いない。

 

「というより、やりすぎですよ、にとり」

 

 想像よりも私の怪我は酷く、痛みが引かない。だというのに、気分は想像よりも晴れやかだった。もはや引き返せない。そう分かっているのに、だ。

「あんなに爆弾を持ってこなくても」

「いやだって、文が全然帰ってこないから。一応と思って、川を泳いで向かったんだよ。そしたらさ」

 どこか非難するような目つきで、にとりは言ってくる。

「文が殺されそうになってたから、焦ったよ。なんで喧嘩売ってるのさ。隠れているって話だったじゃないか」

「いや、つい」

「ついじゃないよ!」

 

 まあまあ、とにとりを宥める。ついで殺されそうになったのだから、怒る気持ちは分かる。が、その怒りに対処するほどの元気は私には残されていない。

 

「あのお」

 

 にとりを引き剥がし、痛む身体を無理やり起こしていると、申し訳なさそうに早苗さんが声を発した。

 

「すみません。助けてもらってもいいでしょうか」

「あ、はい」

 

 いやあ、死ぬかと思いましたよお、と椅子から解放された早苗さんは、朗らかに笑った。死屍累々の私たちとは対照的に、元気満タンだ。

 

「いや、あまりの怖さに気絶しちゃいました」

「いや、早苗は寝てたよ」にとりは、ひっくとしゃくり上げながら言う。

「どうしてあの状況で眠れるのか分からない」

「現実逃避ですよ。人間は、あまりの恐怖を覚えると、眠ってしまうんです」

 

 そんな話は聞いたこともないし、そもそも早苗さんは現人神であるので、関係がないはずだ。だが、そんなことは口にできない。それどころか、早苗さんの顔を直視することすらできなかった。

 

「とりあえず、お願いがあるんですけど、二つほど」

 

 自身の腹を押さえ、すこし顔をしかめた早苗さんは、歌い上げるようにそう言った。まだ、腹が痛むのだろう。顔を背けるが、それでも圧迫感は消えない。胃が痛い。大天狗様にやられたせいか、それとも早苗さんのせいか。

 

「一つ目のお願いというのはですね、いったい何があったのか、教えていただきたいんですよ」

 

 にとりの方を向き、早苗さんは微笑んだ。そして、その緩んだ頬を微動だにさせず、私の方へ向ける。目尻は垂れていたが、その奥の瞳に光がなかった。

 

「そして、もう一つのお願いというのはですね」と、そのまま淡々と言ってくる。

「文さんって、足を怪我してますね」

「そうですが」

「だったら、とりあえず」

 ピンと指を立て、彼女はのんびりと言う。

「とりあえず、正座してください」

 

 ああ、これは怒っているな、と確信する。大天狗様に殺されかけた時よりも、よっぽど恐ろしかった。

 

 

 

 

 にとりは早苗さんに、一連の出来事を手際よく説明した。そもそも、例の襲撃事件の犯人が大天狗様だと分かっていたことから、私の部下が酷い目に遭ったということ。大天狗様から情報を得ようとしたこと、結局のところ、目論見は上手くいかず、敵対して争いになってしまったこと。そして、にとりのキュウリ爆弾のことまで、全てを洗いざらい話した。

 

「なるほどなるほど」

 

 早苗さんは、しきりに私の方を見て、頷いた。笑顔だ。笑顔で糾弾してくる。これならいっそのこと、軽蔑し、絶縁してくれた方がましだった。というよりも、私はてっきり、そうされるとばかり思っていた。

 

「それで、文さんはどうして私を痛めつけたんですか?」

 その、嫌な笑顔のまま早苗さんは言ってくる。

「話を聞いている限り、その必要はなかったんじゃないかと思うんですけど」

「早苗さんが言っていたじゃないですか」

「え?」

「大天狗様に見つかって、これでは目的が達成できないと思ったから、奥の手を使ったんですよ」

「奥の手?」

「敵のフリ作戦ですよ」私は自信の服をちぎり、足に巻き付けながら言った。正座は正直、かなり辛い。

「味方を敵に回したら、相手は、あ、こいつはこっちの味方なんだなって思うんですよ。そして相手は油断する。ですよね? その油断を突こうと思ったんですよ」

「なんですか、それ」

 

 早苗さんは肩をすくめた。怪我をしたばかりの私の足を突いてくる。脱臼したはずの彼女の肩は、もうすでに治っていた。

 

「まあでも、分かってましたけどね」

「え?」

「文さん、結構顔に感情が出るタイプなんですよ。だから、あ、これは本気で怒ってはいないなって、殴られながら思っていました。まあ、それでも友人から殴られるのは悲しかったですが」

 

 ですが! と彼女は力強く言った、そして、胸を張る。

 

「今回だけは許してあげます」

「え?」

「そうですね。この前行列が出来ていていけなかった、あそこのご飯をおごってください。それでチャラです」

「チャラじゃないですよ」

 

 ただですら早苗さんを危険な目に遭わせた上に、あんなことまでして、たかがご飯をおごるだけで許していいわけがなかった。

 

「いいんですよ、文さん」

「なんで」

「だって、格好いいじゃないですか?」

「え?」

「友人の過ちを全て許すって、クールだとは思いませんか? 思いますよね。私、そういうのに憧れていたんですよね」

 

 開いた口が塞がらなかった。そんなくだらない理由で、あんな非道な行いを許していいのか。いいわけがない。いったい彼女はどこまでお人好しで、どこまで愚かなのだろうか。だが、それでこそ早苗さんだとも言えた。

 

「早苗さんって、格好いいって言えば、全てのことを許してくれそうですよね」

「そんなことはないです」

 

 ぷくー、と頬を膨らませる早苗さんを見る。彼女はどこまでお人好しなのだろうか。とりあえずは、彼女の恐ろしい保護者には謝りにいかなければな、と考えていると、急に早苗さんは膨らませていた頬を縮め、眉をハの字にした。「でも、それじゃあ」と顔を青ざめさせながら言う。

 

「お二人は大丈夫なんですか?」

「大丈夫、とは」

「だって、大天狗とかいうあの妖怪に恨まれちゃいましたよね。妖怪の山にいられなくなっちゃうかもしれないですよ」

 

 それに、と早苗さんは私を見つめながら言う。許すと言った割りには、まだその目には怒りが混じっているような気がした。しばらくは、彼女の言いなりにならなければ、許してもらえないかもしれない。が、そもそも、許してもらえるだけでも感謝すべきだった。まあ、早苗さんが許したところで、守矢神社が許してくれるかは怪しいところだが。

 

「ほら、結局、大した証拠ももらえてないんですよね。私、殴られたのに」

「大丈夫ですよ」私は強く頷いた。心配そうにしているにとりのポケットに手を突っ込み、それを取り出す。ひっくり返し、スイッチを押した。

「なんですか、それ」

 早苗さんは、怪訝そうな表情をする。

「ただの石ころのように見えますけど」

「まあまあ、耳を澄ませておいてください」

 

 耳? と首を傾げる早苗さんに、それを近づける。ザザというノイズが聞こえた後、はっきりと低い声が聞こえた。大天狗様の声だ。

『我の賄賂を犬走に知られたから、口封じをしたのだよ』『どうせ倒すのなら、犬走が悪事を働いたということにして、それを我が成敗してやったと民衆に思わせた方が、効率がいい。言っただろ?』と、声が再生される。

 

「何ですか、これ」

 驚いたのか、早苗さんが私に駆け寄ってくる。先ほど浮かべていた怒気など忘れたかのように、抱きついてきた。

「イッシーだよ」

 いつの間にか泣き止んでいたにとりは、腫れぼったい目を擦り、笑う。

「水につけておけば、声が録音できるんだ。どうだ? 動かぬ証拠だろ?」

 

 凄いです! と目を輝かせる早苗さんを前に、すっかり調子づいたにとりは、つい数時間前まで殺されそうになっていたと言うことも忘れ、はしゃいでいた。

 

「これで、賄賂の真実を、椛の濡れ衣を果たせるはずだよ」

「そうだといいですね」

 

 イッシーをいじくり、そうであってくれ、と願う。と、手に持った録音機から、またノイズが聞こえてきた。聞き慣れた声が流れ出てくる。間違いなく、私の声だ。『それでも、椛は私の部下であることには変わりないのです。いわば、所有物なんですよ。それを侵害されるのは、度しがたく、許しがたいんです』と、必死な声が聞こえてくる。

 

「おっとっと」

 ニヤニヤとした早苗さんが顔をのぞき込んでくる。と、にとりも同じような顔で、私を見つめてきた。

「賭けは私の勝ちだね」

「え?」

「文と椛が仲良くできるかって賭けだよ。やっぱり、仲いいじゃないか」

 

 そんなことはない、と否定するも、彼女たちは信じてくれそうになかった。だが、まあ。それも悪くないかだなんて、そんなことすら考えてしまう。



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命が射す

 

 大天狗様が姿を消してから、一ヶ月が経った。

 

 彼の行方を知る人物は一人もいない。どこに行ってしまったのか、そもそも妖怪の山にいるのかどうかすら分かっていない。分かっていることと言えば、彼がまだどこかで生きているということと、そして賄賂を行い、罪もない妖怪を夜な夜な口封じしていた、ということだけだ。

 

「だってさ、文」

 

 はたての書いた新聞を読んだにとりは、私の家だというのに、寝そべりながらそう言った。顔色も、完全に以前と同じように戻っている。始めこそ、いつ大天狗様が襲ってくるかと肝を冷やしていたが、今ではその心配すらせずに、むしろ、大天狗様をやっつけたのは自分だと自慢してさえいた。その気軽さに、呆れる。

 

「でも、感謝してくれよ」

 そして、その気軽さを保ったまま、うざったらしく言ってきた。

「文の新聞が優勝したのは、私のおかげなんだからさ」

 壁に掛けられた賞状を見たにとりは、へへんと鼻を鳴らした。

 

 私の新聞は、かつてないほどの評判だった。椛についての記事しかなかった中、大天狗様についてのスクープは、それなりに目を引いたが、それはあくまでも、何を適当なことを書いているんだ、といった冷めた目であって、むしろ嫌悪されてすらいた。載せられた写真も、はなから合成だ、と糾弾され、危うく撤去されそうになったこともあった。

 

 が、そうはならなかった。なぜか。

 

「音の鳴る新聞を作れるのは、私だけだよ」

 

 にとりの手によって、例の、大天狗様の音声が新聞に組み込まれていたからだ。はたての新聞と同じく、私の新聞にも、音声が流れるようにしてもらったのだ。その効果は絶大だった。間違いなく大天狗様の声で、それも明らかな悪事を宣言したのだから、それも当然かもしれない。大天狗様が行方をくらましていたのも、私たちの追い風になった。おそらく、大天狗様は、傷を癒やし、そして私たちを処分する予定だったのだろう。が、出るに出られなくなってしまった。予想外なことに、取り返しのつかないまでに、彼の悪事は露見してしまったのだ。

 

「ただまあ、納得いかないのは椛のことですね」

 

 いまだ、私のベッドで眠っている椛の鼻をつつく。開けっぱなしになっていた扉が風で揺すられ、ぎぃと音を立てた。

 

「あまりの手のひら返しにびっくりしましたよ」

「そういうもんだよ」

 にとりは頬杖を突き、笑いかけてくる。

「悪口を言って、決まりが悪かったんだろ。だから、それを取り返すように、逆のことを言うんだ」

 

 椛が賄賂をしたというのは出鱈目だった。そう分かってからの、鴉天狗の反応は早かった。椛と元々面識がない奴でさえ、私は分かっていましたよ、といった態度を突き通し、大天狗様に命令をされたのだ、と見事なまでの責任のなすりつけ方をしていた。まあ、それもある意味では事実であるので、仕方がないのかもしれないが、少なくとも、そのような新聞が大会で優勝することはなかった。はたてだけは、頑なに武闘大会について書いていたが、残念なことに、そもそも、誰もそんなことに興味を持っていなかったらしく、票が集まらなかったらしい。

 

「ずるいよ文は」

 私の新聞を見たはたては、ぶーぶー、と文句を言ってきた。

「私も誘ってくれれば協力したのに」

 

 そもそも、はたてが家から出るだけで大事件なのだから、誘えるわけがなかったし、個人的にも誘いたくなかった。が、そうは言わず、「次は誘いますよ」と、次なんかあるわけないのに言って、誤魔化した。

 

「でも、やっぱり、椛についての気持ちの強さに負けたと思えば、仕方がないね」

 

 親しみだよ親しみ、と意味不明なことを言った彼女の目には、嫉妬と共に、どこか晴れやかなものも混じっていた。

 

「まあでも、よかったじゃないか」

 

 開きっぱなしになった扉を閉めようとしていると、にとりが声をかけてくる。彼女も私に習ったのか、椛の鼻をぽんと叩いた。

 

「これにて一件落着って感じか?」

「そうですね」

 

 家から一歩出て、空を見上げる。夏はもう終わり、綺麗な秋空が見えていた。赤く染まった葉っぱが風に舞い、家へと入り込んでくる。が、それも気にせずに、私はじっと空を見ていた。

 

「あ、文」

 ぼうっと空を見上げていると、にとりが少し強張った声を出した。

「言いたいことがあるんだ」

「なんですか」

「あー、えっと。そうだな」

「早く言って下さいよ。もったいつけないで」

「いいけど、口から心臓を吐くなよ」

「にとりがそういうときは、大抵しょうもないことなんですよね」

「目を覚ましたんだ」

「え?」

「椛が目を覚ましたんだよ!」

 

 私は扉を開けたまま、ベッドへと振り返る。唖然とするにとりと、こちらをぼんやりと見つめてくる椛が目に映った。が、なぜだか視界がぼやけて、よく見えない。

 

「あ、文さん」どこかのんびりとした声で椛が口を開く。

「なんで泣いているんですか」

「泣いてませんよ」

 

 扉から、綺麗な赤い楓の葉が入り込み、部屋をひらひらと飛び回る。そして、椛にとびっきりの悪口を言おうと、ベッドに近づいた。

 

 綺麗な椛の赤い瞳に命が射す。それは、とても魅力的に思えた。

 

 



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