12歳の春 (諸星おじさん)
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優秀すぎる教え子を持つのもどうかと思う

「先生、食べないんですか?」

岡崎はショートケーキを食べながら私を見た。天才少女、岡崎夢美。物理学界でこの名を知らぬものはいないだろう。私は、何を間違えたのか、そんな彼女を指導する立場にある。

「学生に合わせて食べてたら、私は太ってしまうよ。そういう歳なんだ」

「そうですか」

岡崎はつまらなさそうにケーキの上のイチゴをつついていた。イチゴは彼女の大好物、これは必ず最後に食べる。苺を頬張るその瞬間の笑顔だけは、年相応の少女のそれだ。しかし、この12歳の少女の頭の中には、きっと小さな宇宙が詰まっているに違いない。

「食べ終わったところで、続きをやろうか」

岡崎は口元をナプキンで拭くと、チョークをもって黒板の前に立った。狭い教室。ここには私と岡崎の二人しかいない。8人座れば満席になるゼミ用の小さな部屋。二段式の黒板だけは最大限おおっくて天井まである。けれど、黒板は10分もすれば岡崎の字で埋め尽くされ、無数の数式で満たされた。

「なので、この場合でも、可能性空間は存在できるわけです」

「はい、いいでしょう。質問だけど、可能性空間の存在は明らかになった。でも、可能性空間はいくつ存在していると言えますか? あるいは無限にありますか?」

岡崎の答えによどみはない。

「後藤方程式が正しければ、宇宙に存在する電子の数だけ、可能性空間は存在します。膨大な数ですが有限です」

岡崎が私の研究室に配属されて2年。彼女は既に画期的な論文をいくつも発表している。私が彼女を『指導』するなど、もはやおこがましいとさえ思えた。

 

私たちの専門分野『可能性空間論』、いわゆるパラレルワールドと呼ばれる存在を科学的に証明することを目的とした理論だ。宇宙はふとしたはずみで分岐し、Aという歴史とBという歴史をたどる世界に分かれるという。簡単に言えば、織田信長が本能寺の変で殺されなかった世界があるということだ。

SFの世界では随分と昔からこのような説がささやかれていたが、あくまで想像上の産物。しかし、それを数式の上で示して見せたのが、わが師『後藤次郎』。けれども、後藤先生をもってしても、具体的に観測することはできなかった。私たちの研究は、後藤先生が為せなかったこと。つまり、可能性空間の観測である。

 

「よし、今日はここまでにしよう」

「はぃ、おつかれさまでした……」

短期集中型の岡崎は、ゼミが終わると立ってるのもやっとという状態まで消耗してしまう。そのままふらふらとした足取りでエレベーターで一階まで向かった。私は岡崎を見送ると自分の研究室に戻る。研究室とは言っても、八畳ほどの小さな部屋だ。資料や書籍、学部の学生たちのレポートなどを置いたらほぼいっぱいになる。その割に窓は大きく、建物の下まで良く見えた。

「あ」

コーヒーを片手に窓から外を眺めると、岡崎の後ろ姿が見えた。燃えるような赤髪は遠くからでもよくわかる。服も赤いから目立って仕方ない。学校中の有名人だ。このキャンパスで彼女を知らない学生はいない。大抵は口もきいたことない連中だろうが、もしひとたび話したならば、その強烈な個性でもっと忘れられなくなるだろう。

岡崎はふらふらと家路につく。私は、彼女の長い三つ編みが風に揺れて、時々見える小さな背中から目が離せなくなっていた。岡崎の背中はひどく小さく見える。きっと、彼女は私よりも何歩も遠くを歩いているのだろう。後藤先生もそうだった。私に物理を教えてくれたあの人に、もう会うことはできない。天才というものは私なんかを置いて、ひたすら学問の道を突き進んでいく。

 

 

 

次の日、岡崎は約束の時間に1時間も遅刻して私の研究室に現れた。

「先生ごめんなさい」

「まあ岡崎の遅刻はいつものことだから。僕ももう慣れました。それより、眠そうだけどどうしたの?」

「実はこれを書いてて」

岡崎はA4で2枚ほどのレポートを私に差し出した。こんな課題は出した覚えがない。

「『可能性空間における統一理論の成立条件』……」

「これを書いてて朝までかかりました」

岡崎は目元に真っ黒な隈を作っていた。声もどこか掠れて、生気がない。

「そうか、お疲れ様」

題名だけで心臓が飛び出そうなほど高級な内容だ。きっと読むだけで一苦労だろう。情けない話だが、岡崎の論文を読むときは、他の教授に手助けしてもらうことも多々ある。

「今日休んでいいですか?」

「ゼミは休んでもいいけど、講義のTAはダメです。僕と岡崎だけの問題じゃなくなるからね」

私と一緒に、岡崎は息も絶え絶えに教室へ向かう。岡崎は私の研究室の学生なので、大学院生の義務として私の講義のTAを頼んでいる。厳しいのであまり評判はよろしくない。一部の男子学生からは、よからぬ性的趣向を期待されているという噂も聞いた。叱られるのが好きだという、そんなモノ好きがこの世には存在しているらしい。

 

教室に来ると、年端もいかない学生たちが席についていたりいなかったり。大学生というのは、私が学生だったころと随分様変わりした。目の前の学生たちは、まだ9歳だ。

「では、今日は重力についてのお話です」

近年大規模な教育改革があり、大学は11歳、大学院は13歳で卒業する。大学入学は9歳。あどけなさの残る、いや、はっきり言って幼い顔立ちの学生たち。岡崎もそんな彼らの一人だった。天才を輩出しやすいシステムだと聞いていたが、まさか岡崎ほどの存在が現れ、しかも自分の手元で預かることになるなんて想像できなかった。

私の担当する講義は『統一理論入門』という。物理学はニュートンの時代で既に一応の完成を見て、アインシュタインがぶち壊した。その後も紆余曲折あり、今ではあらゆる事象が『大統一理論』で説明がつくとされている。入門と言いつつ、かなり難しい内容なのだが、9歳の大学生たちは意外にも理解が早い。

 

「というわけで、重力も見た目は違いますけど、一つの力として記述できるわけです」

講義の最中、岡崎は私の授業のノートを取っている。黒板を使って授業を進めるなど、我ながら古風なスタイルだ。黒板はしゃべる内容が決まってないゼミなどの場合は未だに有効だが、講義で黒板を活用しているのは物理学科で私ぐらい。だから記録係として板書を取る必要があるのだ。そして去年のこと、岡崎のノートが他の先生の目に止まり、その先生から出版社に話が通り、あれよあれよという間に本ができた。

著者名は私だが、実際に本を書いたのも、本にするために色々頑張ったのも岡崎だ。そして今では私の無視できない収入源として存在感がある。これがあるので私は岡崎に頭が上がらない。だからせめて、ゼミのたびにショートケーキを差し入れるのが私の恩返し。

 

「先生、お疲れさまでした」

「お疲れ様、岡崎もありがとう」

「研究室で寝ていいですか?」

「寝る場所なんかないけど」

「じゃあ寝袋買ってください」

「床に寝る気? 汚くないかな、あんまり掃除してないし」

「もう何でもいいです。とにかく寝たくて」

岡崎は私にもたれかかってきた。まだ学部生たちも教室にいるし、男女で引っ付いてたら色々問題なんだけど、岡崎はそういうところお構いなしなんだよなぁ。

「ああわかった、わかったよ。蔵元研あたりに聞いてくるから、先に研究室に行ってて下さい」

 

岡崎はまたフラフラと教室を後にした。線の細い後ろ姿は、ただのか弱い女性に見える。もちろんそんなことはない。彼女は体力の配分が不得意なだけで、それ以外のところは誰よりも優秀だ。私が保証する。

さて、講義が終わった足で『蔵元研』へと顔を出す。物理学科の中でも居残り・徹夜上等で実験を行うのが彼ら。院生の中には数か月単位で家に帰ってないものもいるらしい。そんな彼らなら、きっと寝袋の一つも持っているだろう。そう期待して、院生の詰め所へ向かう。

勘違いしないでほしいが、別にこれは悪口ではない。むしろ褒めているのだ。物理学は実験をしてなんぼなので、本来この姿勢が正しいと私は思う。けれど、私たちの専門分野である『可能性空間論』ではそうも言ってられない。なにせどのような装置を使えば可能性空間が観測できるのか、その一切が不明だからだ。存在だけは後藤先生の天才的手腕で証明できたが、どんな観測装置をくみ上げればよいかさえわかっていない。実験など不可能である。

 

蔵元研は物理学科の入っている建物の一階に実験室を構えている。物理学科内では一番待遇の良いところだ。

「失礼するよ」

「あ、おはようございます」

蔵元研の扉をくぐると、学生の一人が私に気づいて頭を下げた。彼は南部君と言って、蔵元研のエース。ま、岡崎ほどじゃないが。性格は非常に温厚でとてもいい人だ。けれどお昼過ぎもいいところなのに、寝ぐせのままでおはようございますもないだろう。生活リズムがめちゃくちゃだ。それはウチの岡崎も似たようなものか。

「寝袋が余ってたりしないかい?」

「使うんですか?」

「ああ、岡崎がどうしても欲しいと」

「ええ、岡崎ですか……」

岡崎の名前を出した途端、南部君の顔が曇る。そういえば、南部君は岡崎に苦手意識があるとか言ってたっけ。

「岡崎に変な物渡すと後から散々罵倒されますから」

そうか、君も岡崎の犠牲者なのか。岡崎は結構口を鋭く他人の間違いを指摘するきらいがある。私の講義では時々具体的な問題を解く時間をとる。その際に岡崎も私と一緒に学部生たちのペンが止まっているところに声をかけ、質問を受けたりするのだ。けれど、岡崎は数いる院生の中でもとびきり厳しいと評判で、授業アンケートを取ると岡崎の悪口で埋め尽くされている。

「なるべく綺麗で匂いが無かったりするものを探します」

「頼むよ」

南部君は研究室のロッカーやら荷物置やらを漁り、なんとか彼のお眼鏡にかなった寝袋を引っ張り出してきてくれた。少なくとも見た目は綺麗だし、これで何か文句を言うならば、私からも一言言ってやろう。

 

 

研究室に戻ると、岡崎は私の机で伏せっていた。小さな寝息が、狭い室内によく響く。妙な緊張感が流れた。岡崎を起こしてはいけない。せっかく持ってきた寝袋だが、使う機会はなさそうだ。しかし、今後どうしたものだろう。岡崎を起こさないのはいいが、この後も事務仕事やら今後の授業計画やら、そして自分自身の研究やら、やりたいことはあるのに。岡崎に遠慮して自らの部屋を出ていくというのは少し違う気がした。

そうだ、この前事務方に頼んでおいたものがあるのを忘れていた。私は部屋の隅の、普段は影になっているところからそっとパイプ椅子を引きだした。この部屋には椅子が一つしかなかったが、それが不便なのでとりあえず椅子をもう一つ、と。そう頼んだらしばらくはこれで我慢してくださいと言われて、とりあえず受け取った。ちゃんとした椅子は来週に届くらしい。

これまた簡易なテーブルを広げて、なんとか最低限のスペースは確保できた。さて、やるか。

 

と思ったところまではよかったのだが、岡崎が寝息を立てるたびに、私の集中はひどく削がれた。いびきがひどいのではなくて、むしろ小さい。ただ、そのかすかな音が、岡崎の存在を雄弁に物語っている。この小さな寝息が聞こえるほどに近くにいるというのが、なんだか不思議な気分だった。私はこういうとき、ふと岡崎の顔を眺めてしまう。

赤い髪、澄んだ肌、小さくふるえる唇。背も女性の平均より小さい。12歳という年齢を考えると、たぶんこれ以上は伸びないだろう。どこから見てもただの女の子なのに、学問においては既に私よりも高い次元にいる。そんな存在と同席しているのが、なんだかむず痒いような、そんな気がしてならない。

岡崎を見ていたら、なんだか少し寒そうに見えたので自分が着ていた上着をちょっとひっかけてみた。なんで自分はこんなことをしているのだろう。もし私が学生の頃、後藤先生の机で寝ていたのなら、後藤先生からたたき起こされたに違いない。後藤先生も厳しい人だったからそのくらい当然だ。私もその程度には厳しくしていいと思うのだが、どうして岡崎には甘くなってしまうのだろう。本の印税の為だろうか。いや、それはきっと本質じゃない。おそらく、私は本能的に岡崎を畏れている。一人の学者として、たぐいまれなる才能を持つ岡崎に余計な干渉をしたくない。そんなことを心のどこかで思っているんじゃないだろうか。

岡崎はぐっすり寝ているが、この体に触って揺り起すのにもかなり抵抗がある。別に性的な意味ではなくて、私ごときが触れていい存在だと思えないのだ。岡崎に対してはいつもこうだ。何故か変なブレーキをかけてしまう癖がある。

 

 

 

「あ、おはようございます」

「おはよう」

窓の外はすっかり暗くなり、夕暮れのオレンジさえ地平線の彼方となった。私がようやく岡崎の寝息に慣れてきたころ、岡崎は目を覚ました。

「ジャケット、ありがとうございます」

「いいよ別に」

私はいそいそと岡崎の肩から自分のジャケットを回収すると、またパイプ椅子に座り、ノートとにらめっこを再開した。今やっているのは、先ほど提出された岡崎のレポートの確認作業。たった2ページだが私の専門外の知識が多く要求されているので、実際のところは他の先生に相談する部分の洗い出しである。

「先生の机で寝ちゃってすいません」

「大丈夫ですよ。岡崎の勝手はいつも面白いから」

面白いと思っているのは本当、厄介だとも思っているけど。

「あの先生、実はちょっと考えてたんですけど」

「何?」

「いつも先生に査読をお願いして、それで先生は自分の研究の時間が取れないんじゃないかって」

「確かに君の論文は難解で読むのが大変だけど、それが僕の仕事だから」

「でも、せめて何かできないかと思って」

「何か?」

「今度の1年生の中間テスト、私が問題作ります」

「ほう」

正直ありがたい。しかし、それをやると岡崎の時間もまた失われるし、何よりテストの問題を作ることについては私に『責任』がある。諸手を挙げて任せるわけにはいかない。

「そう言ってくれるのはすごく嬉しいけど、講義を持ってる人がその責任でテストはしなくちゃいけないから」

「じゃあ、私が何問か用意するので、先生がその中から選ぶのはどうですか」

「なるほど」

「それなら、先生が作ったテストになりますよね」

「そう……だね」

「じゃあ、全部で10問作ってくるので、その中から5問。一問20点で考えましょう」

「うん」

結局、押し切られてしまった。

「そしたら私、家で考えてきます」

岡崎は立ち上がると、荷物をまとめて帰り支度に入った。

「過去問のデータいる?」

「先生が学部の頃に出してくれた問題は全部覚えてます」

岡崎はそう言い残すと、研究室を後にした。扉が閉まる音がしたあとは、岡崎が早足でエレベーターまでかけていく音だけが聞こえる。

 

私はパイプ椅子とテーブルをしまうと、自分の椅子に座り直した。椅子から窓を眺めて、下の様子を見る。岡崎の後ろ姿は、寝ていた分元気そうだ。

 

「全部覚えてます……」

岡崎の言葉を繰り返す。少しだけ心が熱くなった。学者をしていれば、一生忘れられない問題に出くわすことがある。そういった問題は自分の学問の転機として、学者を続けていくうえで大事な思い出なのだ。岡崎の場合、優秀すぎて雑多なことまで覚えているだけかもしれない。しかしそれでも、自分の作った問題が彼女の中に息づいている。あの天才の中に、私自身の足跡も確かにあるのだと思ったら、こんな凡人が学者をしていた意味もあったのかもしれない。

 

 



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変人と言うけれど、具体的にどこが普通と違うのか?

次の日、岡崎はやや上機嫌で私の研究室にやってきた。

「先生、できました」

約束通り、岡崎は中間試験用の問題を作って私に見せてくれた。全部で10問。ここから5問選ぶわけだが、甲乙つけがたい。表面上過去問と内容が変わっている。けれど聞いている内容は結局同じ。過去問を見ただけで解けるような問題ではテストの意味がない。かといって、大事なことはそう多くない。本質をつかんでいるかを問える問題は、そうバリエーションがあるわけではないのだ。

その点で岡崎は、一見すると違うことを聞いているようでしっかりと本質を突いた設問をしている。これはとりもなおさず、岡崎本人が高いレベルで物事を理解している証拠だ。

「よし、じゃあこの中から決めることにするよ」

「今決めなくていいんですか?」

「全部いい問題だから、じっくり考えて決めるよ」

「ありがとうございます」

じっくり考える、というのは正確ではない。私だって仮にも大学で教鞭を執っている。良問悪問の区別はすぐにつけられるけれど、すべてが良問に見えた。だから岡崎の目の前で問題の選定をしたくなかっただけ。きっと私は、問題の本質とは全く異なるところで、重箱の隅をつつくような選び方を強いられるはずだから。

 

 

今日の講義も終わり岡崎を見送ると、私は私の仕事をしなければいけない。

「蔵元先生、失礼します」

「入りたまえ」

仰々しい言葉で迎え入れてくれたのは、物理学科長の蔵元先生。専門は統一理論の基礎研究。岡崎が私の研究室に配属になる前、いち早くその才能を見抜き、あの手この手で勧誘をしていた。

「岡崎さんのことだろう?」

「その通りです」

私は先日岡崎が持ってきた論文を差し出した。

「ほう、こりゃまた」

「可能性空間のことはともかく、統一理論のかなり踏み込んだ内容に触れているので、僕だけではちょっと」

「いや恐れ入った。驚異的なペースだね。これで論文何本目だっけ?」

「五本ですね」

「そうか、君も指導教官として大変だろう」

蔵元先生は冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、私にくれた。

「普通は在学中に一本仕上げるだけで十分なんだけどねぇ」

「やる気があるうちに、やりたいことをやらせてみようと思いまして」

「熱血だね。君も後藤先生によく似てるよ」

「そうですか?」

「そうとも。指導教官というのは、弟子に人格的影響を与えるものだ。良くも悪くもね。だから君は後藤先生によく似ているよ」

あまり自覚のないことだった。自分は後藤先生などと比べて、目劣りする部分が多々あると、それくらいしか考えたことはない。

「岡崎くんもきっと、君に似ているよ」

「僕に、ですか?」

「そうさ、岡崎くんは君が思っている以上に、君のことを見ている」

身につまされる思いがした。岡崎を『導く』などと思い上がったことを言うつもりはないが、彼女が大成するまでを支えるのが、きっと私の使命なのだろう。岡崎にとって、恥ずかしくない存在でなければならない。

「とにかく、この論文は確かに受け取ったよ。なにぶん忙しくて少し時間がかかるだろうが、必ず返事をする」

「よろしくお願いします」

 

 

 

それからしばらくして、中間試験の日がやってきた。期末試験は全部の講義が同じタイミングで行うが、中間試験をいつ行うかは各々の裁量に任されている。元々この講義は後藤先生の担当で、私はそれを引き継いだ形だ。後藤先生の頃からの慣習で、『統一理論入門』のテストは五月の第三週に行われる。

 

「それでは、始め」

私の合図とともに一斉にペンが走り出す。時代が進んでも、テストと言えば紙と鉛筆だ。私が大学教員になりたての頃、紙をなくそうというキャンペーンが繰り広げられたが、高度な情報社会においては、情報の漏洩を防ぐということもまた課題。紙媒体は漏洩のリスクがデータよりも少ないため、大学という世界はアナログをあえて残している。

ただ、岡崎はこの風潮に否定的。そもそも紙が偉いとされるのは、たった一つの事故のせい。

すべてのやり取りをデータ上で行おうとして、入試でさえもデータのやり取りで行うことになった。そして本来送られないはずの答えのデータまでもが送信されてしまい、国立大学の入試が軒並み中止に追い込まれた。それ以来大学は殊テストという点では『紙』を崇めるようになってしまった。

事故は事故で仕方ないが、それを根本的に解決せず原始的な方法に回帰するのみで議論を先に進めないのは愚かである。と、岡崎はのたまう。私もその通りだとは思うけれども、いざ自分が失敗してしまったらと考えると、改革に踏み出せない程度には私も俗物である。

 

私は教壇から学生たちの様子を見ている。岡崎はTAとして学生たちの机の周りを巡視していた。そんなことをする肝の据わった学生はいないだろうが、一応はカンニング対策のため。けれど、肝心の私は学生たちよりも岡崎に目がいっていた。

岡崎は机の間を縫って歩いているとき、不意に足を止める。そして学生の答案を上からのぞき込むのだ。学生のプレッシャーは半端ないだろうが、実は岡崎が気に入った回答に対して行う動作。昨年テスト終わりで一緒に採点をしていた時のこと、岡崎は覗き込んだ学生の答案を見つけては「素敵だわ」とうっとりしていた。

きっと今回も、岡崎好みの回答を見つけたのだろう。しかも今回は岡崎が自分で作った問題だから感動もひとしおのはず。あまりに一か所に留まるので私が目くばせをすると、岡崎は少し早足で机の間を潜り抜けていく。夢中になるとすぐこれだ。

 

「それでは30分経ちました。解き終わった人は退席しても構いません。その場合は静かに手を挙げて、答案が回収されるまでは席を動かないように」

テストの決まり文句。なにせ全部やったら2時間たっぷりとってあるテストだ。途中退席くらいは認めなくては。さて、岡崎の渾身の問題を30分で解き終わるような猛者はいないだろうが、さて、一番乗りは誰になるか。

私は椅子に深く座り直し、今一度教室を眺めた。ん? 奥の方で手を挙げている? まさかな。岡崎がすかさずその学生の元に向かうと、学生は静かに席を立ちそのまま荷物を持って退席した。岡崎は事前に打ち合わせた通り、私に答案を持ってきた。ところどころ空欄はあるが、落第はしない程度にちゃんと埋まっている。体調不良でもなさそうだし、これは解ききったということだろう。

名前は……、北白河ちゆり。他の先生が問題児だと言ってたな。テスト嫌いで赤点ギリギリの点数を出してすぐに教室を出るとかなんとか。それだけコントロールできるんだから優秀なんだろうが、ちょっと自信過剰かなと私は思う。けれど、大学はいろんな学生がいるので、別に否定するつもりはない。

一方、岡崎は不服を隠しきれていない表情していた。眉をひそめ、口元を固く結んでいる。まあそうだろう。自分が作った問題にこんな形で応えられたらなんだか虚しくもなる。気持ちはわかるが、一問一問を大事にしてくれるのはむしろ岡崎くらいなんだ。

岡崎はまた学生たちの机の間へと戻った。さっきよりも気迫に満ちている。もしここでカンニングでもしようものなら、殺されるだろうな。自分が学生の立場でなくて良かったと心底思う。

 

一時間ぐらい経ったところで、もう一人別の学生が手を挙げた。今度は満面の笑みで答案を持ってくる岡崎。答案用紙はびっしりと埋まり、一見しただけでもかなり勉強したことが伝わってくる。途端に機嫌がよくなった岡崎は、現在問題を解いている学生の答案をのぞき込むのを隠そうともしない。せめて少しは配慮しろと、私はまた目くばせをする。岡崎は「はいはい」とでも言いたげに視線をそらして教室を静かに練り歩いた。

 

「それでは、鉛筆を置いてください」

結局最期まで残った学生は半分程度。ひねった問題ではないから、勉強している学生にはさして難しくもないはずだ。残り人数もこれくらいが妥当だろう。客観的にも良い問題だった証拠だ。

答案を回収し終わると、岡崎は途中退席の分も含めて一つの大きな封筒に入れ、手さげにしまった。

「おつかれさま」

「お疲れさまでした」

岡崎はまるで自分の子どもかのように大事そうに答案の入った手さげを抱えていた。

「自分が何かしてるわけでもないのに、なんだか疲れました」

「テスト監督も大変だよね」

「お腹すきました」

「じゃあ何か食べようか」

「上田食堂の唐揚げがいいです」

上田食堂とは学校の西門を出てすぐ向かい側にある定食屋。私の学生時代からあり、安くて多くてうまい。

「答案を置いてくるので、先に行っててください」

岡崎は一人研究室に向かう。岡崎には研究室の合鍵を渡していた。事務方からは、防犯の都合上合鍵をつくってはいけないと言われている。だがそういった決まりは、こういうとき何かと不便だ。

 

西門で待っていると、岡崎はすぐにやってきた。小さな体で早歩きをしてやってくると、たったすぐそこなのにもう肩を上下している。その様子を見ていて私は少しばかり不安になった。岡崎よ、いくら何でも運動不足じゃないか? 私がイチゴショートを差し入れすぎたからだろうか、最近は少し『ふくよか』になってきたような。

「先生、どうかしましたか」

「いや、なんでもない。行こう」

こんなこと口が裂けても言えるわけがない。失言を犯さぬうちに、用事を済ませてしまおう。

 

「いらっしゃいませ」

上田食堂のおばちゃんは愛想よく私たちを迎えてくれた。お昼時をやや過ぎた店内はちらほらと空席がある。

「唐揚げ定食を下さい」

「僕は生姜焼き定食を」

「はい、かしこまりました」

隣の学生3人組は全員ご飯を大盛で頼んでいる。大盛もおかわりも無料、学生には天国のような店だ。私が学生の頃は、割烹着のおばちゃんもお姉さんであったから、天国そのものだった。あの頃のおばちゃんはいわゆる看板娘で、私たち学生の間でひそかにファンクラブがあったほど。

「先生、どうしたんですか?」

「ああ、おかみさんがね、相変わらず美人だなと思って」

「先生が学生の頃からここってあるんでしたっけ?」

「そうだよ。あの頃から学生に大人気だった」

「へぇ、よく来てたんですか?」

「週で一回は来てたかな。時々、僕も後藤先生に連れてきてもらったりしてたよ」

 

「はい、お待ちどうさまでした」

頼んで5分としないうちに食事はやってきた。岡崎の唐揚げは握りこぶしくらいあって、それが4つ。昔は私も食べてたが、今の私だったら食べきれないだろうな。対して私の生姜焼き定食は、ご飯が少なめ。学生と年配の先生が同時に来ることが多い食堂ならではの配慮だ。

「いただきます」

岡崎は少し食べるのが早い。これは完全なる私の私見だが、勉強ができる人は大食いで早食いだ。健康のために、あえて速度と量を調整することはあっても本来はそう。頭を使うにはスポーツ選手顔負けのカロリーが必要だし、食事を済ませて次の勉強に取り掛かりたいという気持ちが無意識に働いているのだろう。私はそう考えている。

 

私たちはほぼ同時に食べ終わると、すぐに席を立った。会計はもちろん私。岡崎は会釈を一つ。

「1500円ね」

私がお金を渡すと、岡崎はおばちゃんを興味深そうに見つめていた。

「おばちゃんは、『先生』のことって覚えてますか?」

「おばちゃんね、年は取ってるけど、お客さんのことだけは忘れないわよ」

快活な返答だった。

「じゃあ、学生の頃の『先生』はどんな人でしたか?」

「いつも目つきの怖いおじいちゃんに怒られてた」

後藤先生のことだ。後藤先生は左目に斜視が入っていたので、目つきが悪く思われがちだった。

「あんまり恥ずかしいこと言わないでくださいよ」

「ごめんね、けど今でも来てくれて嬉しいわ」

「ここはいつもおいしいですから」

 

店の外に出ると、春の陽気でつい眠くなってしまう。岡崎は腕を空へ上げて背中を伸ばしていた。

不意にケータイが鳴る。相手は……事務室からだ。

「はい、はい、えぇ、あぁ、わかりました」

「どうしたんですか」

「事務室に行かなくちゃ」

「また面倒な用事ですか」

「この前の研究費の申請書類に不備があったから来てくれって」

岡崎はややうつむいて、口元をすぼめた。手続きをするのは私なのだけれど、私の研究費の内実をよく知っている岡崎は、この手の出来事にこうして同情を示してくれる。

「じゃあちょっと行ってくるから、先に部屋に戻ってて」

「はい」

私は岡崎と別れ、事務室のある中央棟へと向かった。岡崎もまた、早歩きで物理棟へ進んでいく。

 

 

 

……

…………

………………

 

私は、エレベーターの数字が増えるのをじっと見ていた。物理学科のある4階まではすぐなのに、今日はいつもより長く感じてしまう。ポーンと音が鳴り扉が開いた。走らないように、でもなるべく急いで、『先生』の研究室へ向かう。合鍵はいつもスカートの右ポケット。素早く取り出しガチャリと回せば、ここは学問の間。たった八畳だけれど、世界と通じている。

 

「ふぅ」

ついため息が出た。まだ『先生』はいないけど、ここは私にとって特別な場所。空気がまるで違う。ここだけが現世と切り離されてるような、そんな気分。

私は『先生』の机に陣取ると、少しわくわくした気分で封筒を開けた。さっき実施した中間テストの答案が入っている。空欄も下らない誤答もたくさんあるけど、やっぱり簡潔な答えが書いてあったらそれだけで舞い上がるほど嬉しい。わかってくれたのかな、そんな気分になる。

逆に、誤答の中には、一体どうしてそんな考えになったのか、一人一人呼び出して問い詰めたいものもあった。

ああ、イライラする。この人はどうしてこうバカなんだろう。

お前はどうして物理科にいるのか問いたい。問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。

『先生』だったら、そんなこと気にするなって言うんだろうな。あの人優しいから。けど、つい怒っちゃうのよね。私って、短気なのかな?

でも『先生』は、短気なのは悪いことじゃないって言ってた。だって、それだけ勉強に熱意があるってことだから。短気でも良いなんて、普通言わないよね。

この部屋の空気が違うのは、もしかしてそれが理由かも。ここは、短気になってもいい場所。私が自分の好きなことに、一番一生懸命になれる場所。

 

 

 

 



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教え子には与えるものではなくて、むしろこちらが色々と貰ってる

 

私が研究室に戻ると、岡崎は既に中間テストの採点に取り組んでいた。

「あとちょっとで終わりますから」

どうやら学生たちを見回っている間に大体の点数付けの目星がついていたらしい。少し横を通ってチラリと見えただけで、恐ろしい理解力と記憶力だ。

私も担当教員として責任があるので、間違ってることはないだろうが、一応岡崎の丸付けが終わった解答用紙にざっと目を通す。まあ問題ない。丸の付け方で岡崎の感情がわかる。丁寧に丸が付いているのは、岡崎としても非の打ちどころがない解答だ。

一方、合ってればいいんでしょとでも言いたげな投げやりな回答には、下線を引いたりして粗を探した痕跡がある。

ただ、その手の回答でもツッコミどころがなければ渋々と言った具合に点数をあげているし、回答の『巧拙』では贔屓していない。あくまでもテストでは『正誤』のみが重要だ。『巧拙』については学者の間でも好き嫌いが分かれるところ。私や岡崎といった、たった一人の個人が〇×を判断してよい部分ではない。

「ふぅ、終わりました」

「お疲れさまでした。ありがとう」

私がコーヒーを差し出すと、岡崎は添えてあったミルクを二つ、シュガースティックを二本溶かして、ぐるぐるとかき回す。

「楽しかったです」

晴れやかな笑顔、人間のこんな表情を見るのは久しぶりかもしれない。

「よし、一時間休んだら、ゼミやるか」

「はい」

「僕はちょっと出かけてくるから、先に教室に行ってて下さい」

私は研究室を後にした。結局採点に至るまでほとんど岡崎任せになってしまったし、いつもより豪華な苺のケーキを用意してやらねば。

 

 

 

一週間後、中間テストの返却日がやってきた。このテストで成績の50%が決まる。単位取得の最低ラインは60%。もしこのテストで0点でも取ろうものなら、その時点で落第が確定だ。もっとも、そこまで落ちこぼれた学生は私の見る限りいなかった。点数の低い者でも、努力次第で巻き返せるだろうなと思う程度にはこの学年は優秀。

 

「テストの解説などは特にしません。皆さん自分で見直して、採点ミスなどがあった場合は申し出るようにしてください」

テストの結果で教室全体はがやがやとしていて、落ち着くまでは静観することにした。

「先生、ここなんですけど」

最前列に座っていた学生が私を呼んだ。テストについての質問だろうか。岡崎も他の学生の質問に捕まっていた。

「ああ、惜しいねぇ。『重力』ってちゃんと書けてれば良かったんだけど」

学生は肩を落とした。こんなテストの結果で一喜一憂する必要なんてないけれど、それはこの苦しみを乗り越えた先にいるから言える台詞だろう。テストには卒業がかかっている。教育カリキュラムが変わってから留年という制度はなくなり、必要単位に満たない場合は即退学となる。このプレッシャーは、10歳そこそこの学生たちにとって、やや酷なものかもしれない。

 

「あの、先生」

もう一人、私を呼ぶ声がする。金髪の髪を二つにしばっているのは、例の北白河ちゆりだった。

「なんで、この回答でバツなんですか?」

私は北白河の点数をちらりと見た。40点、自信満々の割には低いな。他の先生からの噂通りなら、もっと点数を貰えると思ったが。

「ああ、そうだなぁ」

最初の大問が全てバツになっていた。部分点もなし。気になる粗もいくつかあるが、そこまで眉を顰めるほどの物だろうか。これが合ってればギリギリ合格圏か。悔しいだろうな。

「まあちょっとこれは厳しいかもね」

私はちょうど学生から解放された岡崎を呼んだ。こういうときは、まず採点した人間と話をするのが手順だ。

「ここ、少し厳しくない?」

「そうですか? だってこの回答、最初から重力と電磁気力を混同してるように読めますよね」

「あぁ、はい、そうだね。そう、読めるね」

「この問題は、重力と電磁気力が一致することを示す問なのに、最初から一緒だと読める書き方するっておかしいですよね」

「はい」

「ということは、その途中経過の記述も、全部虚構ですよね」

「その通りでございます」

私は北白河に向き直った。

「やっぱりダメだって」

それを言った瞬間、北白河の表情が豹変した。色白の顔が一気に赤くなって、髪の毛も逆立っているように見える。

「は? なんでですか? 先生が良いって言ったのに」

「あんたさ、誰に口聞いてるの? 私が間違ってるって言ったら間違ってるんだよ。あんたに反論の余地ないから」

岡崎はその小さな体で、もっと小さな北白河を恫喝していた。私は黙って、北白河を見つめるしかない。学問においては、正しいやつが偉いのだ。ぱっと見とはいえ、答案の致命的なミスを見抜けなかった私に、岡崎に意見する資格はない。北白河も気迫では負けてないが、学問においては、岡崎に敵わない。

「大体、『混同して読める』って何ですか? 主観じゃないですか」

「わかってる人なら、ちょっとでも混同して読める書き方は避けるよ。当たり前じゃん」

「じゃあもういいです」

そういうと、北白河は乱暴に答案を投げ捨てて、自分の席に戻っていった。

「なにアイツ? 意味不明なんだけど」

私は咳ばらいをして、とりあえず教壇にあがった。テストについての質問も出きったようなので、今日の分の講義に入る。

 

 

 

「さっきのやつ、ほんと何なんですか? 何もわかってないくせに」

講義が終わっても、岡崎の怒りは収まらない。

「まあその辺にして。あの手のは居るんだよ。色々と器用にこなしてきたから、自信もたっぷりあるわけ」

「でもおかしくないですか。それにしては論理がめちゃくちゃで」

「一年生の中じゃ、あの子が一番優秀だっていう先生もいるくらいだよ」

「そんなの絶対おかしいのに」

 

岡崎はその後、講義の度に北白河を蛇蝎のごとく嫌い、その態度を隠さなくなった。北白河のほうも、負けじと目つき鋭く岡崎を睨み返していた。授業中、特に問題を解く時間は一触即発の空気が流れているが、案外これでいいのかもしれない。心なしか、北白河の授業態度が改善されたと他の先生から噂が聞こえるようになった。何かしらの反骨心に火をつけたのかもしれない。着火剤は間違いなく岡崎だ。

 

岡崎の笑った顔は講義ではもはや見られない。ゼミの度に私の差し入れを食べる様だけが、私の心のオアシスとなっていた。勉学については自他ともに厳しい岡崎だから、一度でも不真面目な態度を取った北白河はどうしても許せないだろう。かといって、このままでは余計なストレスが双方にかかることになる。岡崎は言わずもがな、北白河も学年内ではトップレベルの才覚があるので、できればのびのびと勉強をさせてあげたいところだ。

 

そんな悩みを抱えていたころ、一回だけ講義を休むことになった。可能性空間論に関する勉強会が開かれるためだ。会場は大阪、全4日間行われる会合は『可能性空間論ゼミ』と題されている。元々は後藤先生が音頭を取って結成した会合なので、私は絶対に出席しなければならない。私の兄弟子や弟たちも全国から集まってくる。可能性空間論を専門としている私や岡崎にとって非常に重要な勉強会だ。ある意味で物理学会よりもこちらのほうが大事。

「先生、大阪のホテル取りました?」

「まだだよ」

「これから生協の観光課に行くので、ついでに取ってきましょうか」

「ああ、ありがとう。あ、そうだ。岡崎には学生の渡航費補助が出るから、7万円以内だったらタダになるよ」

「あれ? 去年は10万円だったような」

「額が変わったらしいから気を付けて」

「はい」

岡崎は不服なのを隠さず表情に出す。こればかりは私も当然だと思う。勉強会に出席させることについて、学生に金を出させるなどあってはならない。7万なんて一年で一回どこかに遠征すれば二回目は無理な金額だろう。学生に負担をかけたくはない。特に岡崎のように優秀な人間には、いくら金をかけても構わないと私は思う。

 

 

平日だったのでチケットはすんなり取れた。私たちが普段いる京都から大阪までは電車で30分程度の道のりしかない。私は窓の外を眺めながら今日の勉強会のことを考えていた。岡崎とは別行動。自由席の代金しか大学は出してくれないので、偶然出会わない限りは隣の席になるということはない。それよりも、座りやすさを考えて端から待ち合わせなどせずに現地で落ち合うほうが楽だ。

今日の勉強会は特に若手が集まる会合だ。発表会ではなく勉強会なので、学部では触れないけれども、研究者としては当然知っておくべきことを確認するというのが一番大きい。自分で勉強しろという話ではあるんだが、この手の刺激がないと、完全独学では基本的な誤解を残したまま学問を進めてしまう危険もある。指導教官も一から十まで本人の理解を確認するわけでもない。それに、ここで交流しておけば将来的に研究者同士の人脈もできる。

岡崎の発表もあるけれども、新たなものではなくて基本的な部分について述べる手はずだ。講義をする側になるというのも大事な経験。現状のままで行けば、確実に大学で職に就くだろう。その時のための予行演習として、私は位置付けている。

 

 

大阪の活気あふれる人込みをかき分け、ようやく会場の大学に着いた。都心にあるキャンパスはやたら縦に高い。案内図を今一度確認する。会場はこのビルの20階だ。エレベーターで上がる途中、眼下に見えた人がどんどん小さく見える様に少し足のすくむ思いがした。

「ああ、おはようございます!」

「入間くん、お久しぶりです」

エレベーターが開いた瞬間、関係者が目の前にいた。この少し小太りなメガネの男は入間くん、私の弟弟子にあたる。今回の勉強会の主催者だ。

「岡崎さんはいつ来ますかね? 一応発表の仕方とかについて確認しておきたいと思って」

「さあ、けど、もうじき来るでしょ」

私は時計を見た。もうすぐ正午、勉強会は初日のみ午後2時スタートなので、そろそろ来るだろう。

 

私はとりあえず会場となる教室に荷物を置いて、既に会場に来ていた他の研究者の先生方にあいさつをして回っていた。そうこうするうちに時間は午後1時半、少し不安になってきた頃、あの燃えるような赤髪はやってきた。

「おはようございます」

「おはよう、今日は遅刻しなかったの」

「他の先生たちもいますから」

「僕なら遅刻してもいいみたいな言い方だけど」

「だって、先生は許してくれるじゃないですか」

ぐさりときた。まるで見透かされているように、的確なところをついてくる。

「ああ、岡崎さん待ってたよぉ」

「入間先生、お久しぶりです」

岡崎はやや下を向いていた。

「まあいいから、機材の説明とかあるからこっちにきて、ね!」

入間くんは小走りで会場の前のほうに岡崎を連れていく。なんだかめんどくさそうについていく岡崎、態度に出るのはいつものことか。

入間くんは正直言って少しズレている。たった一分かそこらで終わる説明でも手順を踏まなければ気が済まないタチで、しかも岡崎の発表は今日じゃない。そんなあくせく説明しなくても当日でいいのに。なんでこう、『私は忙しいです』、『仕事してます』みたいな雰囲気を醸し出すのだろう。岡崎はそれが嫌で、つい表情や態度に出てしまう。幸い入間くんはそういうのに鈍いので問題にしないが、他の先生方に同じことをすると大変だ。やはりどこかでちゃんと注意すべきだろうか。

 

「お疲れ様」

私は岡崎に会場の外で買った缶ジュースを差し出した。

「いちご牛乳! 珍しいですね」

「だよね、中々見かけないから買ってみた」

「ありがとうございます」

岡崎は笑顔でプルトップを開け、口を付けた。少しは機嫌が直っただろうか。いや、機嫌を直すとか問題はそこではなくて、機嫌が表に出てくるのがダメだとはっきり言わなくては。

「そういえば

「あの、岡崎夢美さんですか?」

「そうですけど、あなたは?」

「僕は名大高橋研の神田竜司といいます。実はこの間岡崎さんの論文を読みまして」

私が話そうと思ったのに、岡崎は二人で話し始めてしまった。まさにこういう若い交流が主目的なので、無下にするわけにもいかない。私は結局、岡崎が話しているのを横で見ているしかなかった。

「それでは、そろそろ始めたいと思います。開会宣言がありますので、一度席についてください」

入間くんの間延びした声が、スピーカーに乗って会場に響き渡る。

「じゃあ、僕はこれで」

神田くんも自分の席に戻った。

「今の人、知ってます?」

「ああ、高橋先生のところの神田くんだね。岡崎と同い年だってよ。信じられないくらい優秀だって聞いたことがある」

「そうですか、そんなに」

本人に会ったのは私も初めて、第一印象でもやはり聡明な若者に見えた。まぁ、岡崎ほどじゃないが。ここ一年くらいで頭角を現している。論文も確か一本あったはず。岡崎がいなければ、間違いなく可能性空間論で世代のトップに立てたであろう逸材だ。

「彼の発表が今日と明日とあるみたいだよ」

「楽しみですね」

 

 

開会のあいさつ、入間くんの話は下らなかったので省略する。

 

 

「只今ご紹介いただきました神田です。それでは僕のテーマ『可能性空間上における三角圏』について、今日と明日を使ってお話していこうかと思います」

入間くんの話が終わったところで、いよいよ本題にバトンタッチ。神田くんは手慣れた様子で発表を始めた。このテーマは非常に基礎的な内容でありながら学部では触れられない。自習するしかない分野なので、痒い所に手が届くといった内容になっている。

横に座っている岡崎も、心なしか真剣な眼差しを前に向けていた。

 

「……なので、これら三つの座標を結んだ三角形の内側だけが、可能性空間の成立条件を満たすわけです」

会場からいくつかのため息が聞こえた。これは感心せざるを得ない。神田くんは独学でこの理解にたどり着いただけでなく、それをこうもわかりやすく説明して見せたのだ。参加している他の学生たちは、きっと昨日と今日でこの話題についての理解度が段違いだろう。

「なるほど」

岡崎も思わず感心している。いくら岡崎が優秀とはいえ、こういうことがなければ連れてきた意味がない。実に心地よい気分で一日目はお開きとなった。

 

「先生、行きましょう」

岡崎は踊りだしそうなくらいソワソワしていた。今日貰った刺激はそれだけ貴重だったということだろう。

「神田くんの発表、面白かったです」

「流石だよね」

「最初の導入から、考え方が違うというか」

「そう、あれは元々渡辺流の考え方だから」

私たちが後藤流というなら、神田くんは渡辺流。渡辺先生ももう鬼籍の方だが、後藤先生とほぼ同時期に可能性空間の存在を証明した。同じ学問ではあるがアプローチが違う。ありていに言えば、流派が違うのだ。一刀流と二刀流のようなもの。違う流派だからこそ、受けるものも多くなる。

 

何かを急いでる岡崎の歩調に合わせると、自然と早歩きになってしまう。大阪の喧騒を颯爽と駆け抜けて、私たちはホテルについた。

「荷物置いたら夕食でも食べる?」

「そう……ですね」

どこか上の空だ。私は、岡崎に準備ができたら部屋に来るように言って、自分の部屋に向かった。302号室。岡崎は303号室。

 

………………来ない。

まあそんなとこだろうとは思った。きっと今まで積み上げてきたものを渡辺流で見直しているのだろう。学問の交流は旅に似ている。同じ出発点、同じ目的地でも、道程が異なれば学問も異なる。歩いて見える世界と、自転車に乗って見える世界は違う。世界の見え方ひとつで、理解の仕方も変わる。新しい視点を手に入れたときは、まるで生まれ変わったように世界が違って見えるのだ。

そのときめきは、初恋にも似てあらがい難い。きっと今の岡崎は、新しい世界に一人酔いしれているに違いない。

 

私は既に渡辺流を知っていたのでそれほどの感動はなかったが、それでも得たものは多い。さて、今日の神田くんの発表を基に、三角圏のノートを作ってみるか。どの道、岡崎の次の学生を受け入れたら使うことになる。若いもんにやる気で負けてたまるか。いや、そんなセリフは、まだ早いかな。



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