幻想々話 - 雪月花 魂の行方 (荒木田久仁緒)
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円環のほとりにて - 四季映姫・ヤマザナドゥの場合
一 過去からの視線  



 

「────よって、焦熱地獄に落とす。以上」

 

  法廷を静かに震わせて、低く重い判決が響き渡った。

  言い渡された亡者は、がっくりと(こうべ)を垂れながら、地獄の扉へと警吏に曳かれてゆく。

 

  裁判長席に座る声の主は、閻魔の長たる十王のひとり、都市王猊下。

  現在は十王全員が閻魔王を名乗っているので、正確には、もと都市王、なのだが、体制が変わって間もないからか、あるいは単に紛らわしいからか、今でもそう呼ばれることが多く、そして任官ずみの閻魔の数がまだ足りないために、こうして自ら裁判長を務められることも、しばしばあった。

 

「では、次。さて貴様の罪は……」

 

  猊下の手元の大きな鏡に、新たに連れられてきた亡者の生涯、犯した罪が映し出される。あますところなく。

 

「生前は詐欺師。盗み、妄言、淫行……といったところか。

 ……四季よ、お前の意見は」

 

  猊下は軽く頭を傾け、裁判長席の隣、陪席の椅子に座っている私に向かって、そう問いかけた。

 

「はい。……行状そのものは、懲罰刑ほど。しかしその性根、行いの根源にあるところ、嫉妬、強欲……現世への執着はなはだしく、矯正のため、黒縄(こくじょう)地獄が相当……かと」

 

  冷静に、慎重に罪を吟味し、適切と考える答えを返す。

 

  私は、ちょうど養成課程の最終段階にあった。

 

  地蔵の身から募集に応じ、数々の教程、試験を踏んで、ひとまず裁判官の資格は得たが、まだ法廷を与えられた裁判長ではない。今は補佐として裁判に参加しつつ、時にはこうして意見を求められ、その見識を測られる。

 

「うむ、よかろう。では意見のとおり、黒縄地獄とする、以上。では次────」

 

  どうやら、今の意見は合格点を頂けたようだ。ため息というほどでもない吐息を、ゆっくり胸から押し出す。

 

  これまでのところ、大きなミスなく務めてきたと自負してはいる。担当教官でもある猊下から、経験十分と太鼓判を押され、晴れて正式に閻魔を名乗れる日も、そう遠くはない……はずだ。

 

「……盗みに嘘、酒好に粗暴その他もろもろ、ついには浅慮にて早世、か。よくもまあ、こまごまと罪を重ねたものだが……」

 

  そこまで言って猊下は、ちらりと目の前の新たな亡者に、視線を投げた。

 

  裁判中、ほとんどの亡者は、おぼろげではあるが、生前の姿を取り戻す。

  自らの行いを思い出させられるからだろうか。特に罪深き者、未練多きものは。

 

  けれど、この亡者の姿は、また随分とぼんやりしていて、およそ現世への未練などなさそうに見えた。

  その生涯は、とても天界に行ける者のそれではないけれど。

 

「いずれも微罪、執着も薄く、地獄に落とすには及ばず。ただ罪の数だけ、この場にて打ち据えて……なんだ、貴様どこを見ている?」

 

  怪訝な声が、亡者へと飛んだ。

 

  亡者は、猊下を見ていない。

  多くの罪人がそうするように、うなだれて床を見ている……わけでもない。

 

  ただじっと、裁判官席を見上げていた。

  猊下の視線が、亡者の視線を追い。

  二つの視線は……私の顔の上で、一致する。

  そして。

 

 

────いえ、別に……ただ……────

 

 

  死人に口なしと言うとおり、亡者は言葉を発することはない。

  けれど、私たち冥府の仕事に携わるものならば、その魂から発する気質を捉え、霊の想いを聴くことができる。

  そして、その声が心に届いた。

 

────ただ、美しい方だな、と思いまして────

 

 

 

 

 

  背筋に、冷たい震えが走った。

 

  なんだ、これは。

  この亡者の、この視線。この表情、この言葉。

  気のせい? いや、もしや────

 

 

「……あの、猊下」

「うん? どうした」

「ちょっと、この者の来歴を、確認したいのですが……宜しいでしょうか」

 

  努めて声と顔を平常に保ち、私はそう求めた。

 

「……いいだろう。許可する」

 

  はい、と返事をし、手元の四角い鏡、まだ裁判長でない者が使う貸与端末に、指を走らせる。

  この者の前世、死、そして裁判記録……あった。

 

「これを、見てください」

 

  見つけた記録を、猊下の鏡へと転送する。

 

「ふむ、これは……」

 

  虚言、怠惰、飲酒……微細な罪を重ねたのち、若くして事故死。

 

今生(こんじょう)と、まったく同じ、か……。生き急ぎ……いや死に急ぎの業があるな」

 

  猊下はそう言って、手にした悔悟棒(かいごぼう)でとんとんと自分の肩を叩いた。そして、

 

「……判決を変更しよう。魂の(ごう)()にて、宿業を焼き落とし、その後に転生とする。以上!」

 

  叫喚地獄にある、魂の業炉。通常の責めでは清めがたい業を、高温で熱し、蒸発させる施設。

  焼かれる亡者の苦しみも、それに比して大きなものであるはずだが、根深い罪業を抱えたままでは、何度でも同じ罪を繰り返してしまう。それを(そそ)ぐためだから、仕方のないことだ。

  ……仕方ない、ことなのだ。

 

  亡者は、警吏に曳かれ、地獄の扉へと連れられてゆく。

  判決の意味を、理解しているのかどうか。その顔には怯えも、悔恨の色もなく。

 

  ただその視線は、ずっと私の顔を見つめ続けていて。

  そして私は、注がれ続ける視線から強く、目をそらし続けていた。

 

  閉ざされた扉の向こうへ、その視線が消えるのと、ほぼ同時に。

 

「……む? この裁判……お前も参加していたのか」

 

  先ほどの記録を見返していた猊下は、そう私に声をかけた。

 

「はい。まだ、書記として務めていた頃ですが。それで覚えており……」

「……罪の類似に思い当たったか。なるほど、な」

 

  ふむ、と顎髭をひねってから、都市王猊下は次の亡者を呼ぶ。

 

  そしてまた、罪が読み上げられ、判決がくだり、そのまた次の亡者が現れる。繰り返し、繰り返し、地獄の裁きの風景は、滞りなく流れてゆく。さっきの亡者のことなど、誰も忘れたように。

 

 

 

  ひとつ、猊下に言わなかったことがある。

 

  思い出したのは、罪が似ていたから、だけではない。むしろ、それは瑣末なことで。

  抱いた既視感、その本当の理由は。

 

  あの時も。

  あの亡者は、私を見上げ、声なき声で、こう言っていたのだ。

 

 

────いえ、美しい方だな、と思いまして────

 

 




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二 消せない罪  


 

  ごんごん、ごうごうとあちこちから、道具の動く音、炎の吹き出す音が、薄暗い廊下の壁に響く。

 

  冥府の矯正施設の一、叫喚地獄。

  時代に合わせて拡張近代化はしたものの、亡者の増加はなお著しく、相変わらず処理は滞りがちと聞く。

  ここの地下にあるはずの、魂の業炉。その様子を見に行くため、私は一人、廊下を奥へと進んでいた。

 

  仕事として……ではない。今日は課程の合間の、休息日。本当は、過去の判例集でも読みこもうかと思っていたのだけど。

 

  ただ、業炉に送られたあの亡者のことが、どうにも気にかかっていて。

  なんとはなしに、足がここへと向いてしまったのだ。

 

 

 

  案内板を頼りにたどりついた、長い下り階段を歩みながら、もう一度あの者の生を、前世まで含めて、思い浮かべる。

 

  ……確かに、いくつもの罪を重ねてはいるが、それらはいずれも小さなもので。

  それも、欲望に突き動かされて、と言うよりは。

  まるで、他人から嫌われようと、わざと犯したような。

 

  そして、死因も。さして強くもない酒を無闇にあおり、増水した川で泳ごうとして、溺死。

  事故死、となってはいるが、あれは、ほとんど自殺だ。

  当然、その死を悲しむ者も、ごくわずかだった。

 

 

  なぜ、そんなことをしたのか────?

 

 

  その疑問の答えは、さっきからチラチラと、頭のすみに見え隠れしているけれど、私はまだ、それに白黒をつけることができずにいた。

  そんなことをした理由が、仮にそれだとしても。その理由の、さらに元になる理由、それがわからなくて。

 

  いや……そもそも、そんなことを気にかけて、どうなるのだろう?

 

  どうせ間もなく、あの魂も業炉の炎に焼き上げられて、そんな理由も何もかも忘れ、まっさらな白玉になってしまうというのに。あるいは既にもう、そうなってしまっているかもしれないのに────

 

 

 

  考えているうちに、階段が尽きた。

 

  地下の通路を、さらに奥へと進み、業炉管理室と書かれた部屋の扉を開く。

 

「ん? どちらさま……あっ!? あなたは……」

 

  背は低いが恰幅のいい一人の獄卒が、私の方を振りかえり、驚いた表情で声を上げた。身なりからすると、主任級のようだけれど。

  いや、それよりも。

 

「……私のことを、ご存知で?」

 

  初対面のはずなのだが。

 

「あー、いや、存じていると言いますか、なんと言いますか……しかし、ちょうど良かった。こちらからも、ご報告しようかと思っていたところでして」

 

  話の流れが見えない。いったい何が起きているのか。

 

「あ、わたくし、ここの鬼長を務めている者で。とにかく、直接見ていただくのが早いかと……」

 

  いぶかしむ私を尻目に、業炉の鬼長を名乗った獄卒は、部屋の真ん中に鎮座している、巨大で真っ黒なかたまりへと歩み寄った。

 

「これが……」

 

  知識はあったが、実物を見るのは、初めてだ。

  それは、あちこちから管のようなものが突き出した、涙型の壷のようにも見える。その中では、宿業そのものを焼きつくす、始原の炎が燃えさかっているはずだ。地獄でも有数の灼熱を秘めた炉は、近づくだけでもその熱気をじりじりと肌に感じさせる。

 

  鬼長は、炉の扉についている小さな丸い板の取っ手をつまみ、かちゃりと横へずらした。その下に現れた小窓から、中の様子を見るよう、目で私に促す。

 

  わずかに感じた寒気(さむけ)を、頭のすみから振り払い、私はその小窓をそっと覗きこんだ。

 

 

「────!?」

 

 

  その光景に、思わず息を飲む。

 

  赤……いや金色がかって踊り狂う、炎の海。

  その上で(あぶ)られ、ふらふらと揺れる、青白い球体。

  そして、その球体から噴き出している、熱せられた蒸気。

  それは、魂より蒸発する宿業そのものであり、そこには執着の根源が形となって現れるという。

 

  ゆらめく蒸気の中に、映し出されていたのは────

 

「……そん、な」

 

  静かな微笑をたたえた、女性の顔。

  短めの、左右非対称の髪型。

 

  紛れもなく、私自身の。

 

「ごらんのとおり、これが……いくら焼いても、一向に燃え尽きる気配がなく、どうしたものかと……」

 

  鬼長の言葉を耳で受け止めつつも、私はそれに返事もできず、ごうごうと燃えさかる炉の前で立ちつくしていた。

 

  この魂が、なぜ? 私の、こんな表情を、いったい、いつ、どこで?

  馬鹿な。こんなこと、あるはずが……いや……

 

  ……思い、出した────

 

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

  ────それは、私が是非曲直庁(ぜひきょくちょくちょう)に入って、まだ間もない頃。

  書記ですらない、雑用係として、法廷の末席に立っていた日。

 

  裁判長は、閻魔募集の初期に入った先輩。

  一人一人、亡者が引き立てられ、判決がくだり、あるものは地獄の扉へ、がっくりと(こうべ)を垂れながら、あるいは激しく取り乱しながら、またあるものは冥界の扉へ、ほっとした表情を浮かべながら、警吏に促され、流されていく。

 

  これが冥府の裁判というものか。そう感慨に浸りながら、たいした仕事もなく、ぼんやりとそれを眺めていた私の前を、一人の地獄行きの亡者が、通りすぎようとした。

 

────嫌だよ──怖いよ────

────どうしてこんな──そりゃ確かに悪いことしたけど────

 

  声なき声が、心に届く。

 

────辛く短い人生、いいことなんて何にもなかった。死んでさえ、長く苦しい地獄なんて。嫌だ。怖い。怖い、怖いよ。怖い。誰か、助けて────

 

「……大丈夫ですよ」

 

  はっとした表情で亡者が顔を上げ、私を見る。

 

「地獄は魂を清める場所。少しの苦しみの先には、まっさらな新しい生。今までもこれからも……永い円環の先に、いつか救いはあります。だから……」

 

「そこ!! 何をやっている!!」

 

  がん、と裁判長席から怒声が降ってきた。

 

「亡者と余計な関わりを持つな! さっさと連れていけ!」

「あっ……も、申し訳ありません!」

 

  慌てて振り向き、頭を下げる。

  まったく、と鼻を鳴らして、裁判長は次の亡者を呼ぶ。私は肩と首を縮め、小さくため息をついてから、そっと頭をめぐらせた。

 

  さっきの亡者は、改めて警吏に曳かれ、地獄へと連れられていく。

  扉をくぐる間際、あちらもふと、私のほうを振り向いて。

 

  一瞬、視線が合い。

  どこか安らいだ穏やかな顔が、ばたんと扉の向こうに消えた。

 




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三 いつか、その日まで  


 

「まさしく、お前の言うとおり。地獄は魂を清め、あとくされ無く来世へ送るが仕事。だからこそ、それに携わる我らは、亡者と縁を作らぬように心がけねばならん。……事前の学科でも最初に教えられたはずだな?」

 

  大きな椅子に大きな身を沈め、私を冷ややかな目で見下ろしながら、都市王猊下は重々しく言った。

 

「はい……仰るとおり、です……」

 

  業炉で見たもの。思い出したこと。あのあと猊下の執務室を訪ね、すべてを包み隠さず報告した私は、ただうなだれて、そう言葉を返した。それしか返せる言葉はなかった。

  恥じいるなどという言葉で表せるものではない。ほんの気まぐれの偽善から出た言葉が、ひとつの魂の運命を狂わせ、多くの罪を犯させたのだ。地獄に落ちるに値する重罪人──それが私だった。

 

「したことの意味は理解しているか。で、どうする」

 

  私から視線を外して、ぐるりと椅子を回し、横を向いたまま猊下は問いかける。

 

「……取り返しようも、改めようもありません。閻魔を目指すものとして、ありうべからざる失態、ただちにお役御免と……」

 

「たわけ」

 

  みずから身を処したつもりで下げた頭に、ぱこんと言葉が投げつけられた。

 

「……は?」

 

「お前ひとりをここまで育てるのに、どれだけ予算と手間をかけたと思っておるのだ。簡単に辞められてたまるものか。失態は失態、反省は必須。その上できりきり働いてもらうぞ。いかに未熟とて、同じ過ちを繰り返すほど、お前も愚かではなかろうが」

 

  横目で私を見据えながら、胸の前で両手の指を組んで、ふんと鼻を鳴らす。

 

「し、しかし……! 罪を裁くべき者が罪業を生むなどとは、部下になる者にも、組織としても示しが……!」

 

「罪業……な。

 だが、果たしてどうかな?」

 

  そう言って猊下は椅子から立ち上がり、壁にかけていた上着を羽織る。

 

「え……それは、どういう……?」

「それを今から確かめにいくのよ。お前もついてこい」

 

  つかつかと部屋を出て行く。私も慌てて後を追った。

  向かう先は、叫喚地獄地下、魂の業炉。

 

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

「これは猊下。状況の報告については……そちらのかたから、お伝え頂いているかと存じますが」

 

  さっきと同じ、ごうごうと燃える炉の前で、業炉の鬼長は、うやうやしく頭を下げてそう言い、ちらりと私のほうに視線を向けた。

 

「うむ。一応、直接それを見せてもらおう」

「は。ではこちらを……」

 

  炉の小窓が、再び小さな音を立てて開く。

  灼熱の炎の中で、やはり変わらずそれは燃えていた。噴き出す蒸気に、私の顔を映して。

  直視できず、つい、それから顔をそむける。

 

  猊下はしばらく炉の中を見ていたが、やがて口を開いた。

 

「……ふむ、なるほどな。

 確かに宿業深く、地獄の責めをもっても(そそ)ぎがたし。

 よって、この魂魄は転生の()に戻せぬものと判断し……」

 

  ああ、やっぱりそうなるのか。

  噛みしめた唇が、ぶつりと音を立て、口に苦い味が広がる。

  ごめんなさい。私が余計なことをしたせいで、貴方は────

 

「……本庁規則の第三百四十八条、第三項を適用する」

 

  そう、三百四十八条の────え?

 

  第三項?

 

  慌てて顔を上げ、猊下を見上げる。

 

  ほう、と鬼長が首をひねった。

 

「第三百四十八条、輪廻(りんね)除籍の措置に関する条項……でございますな。たしか第一は、焦熱地獄の覚由業炉による完全焼却、つまり魂の破壊……」

 

「そうだ。第二は奈落の底にて、この世の終わりまでの冷凍刑。そして第三は……」

 

  そこまで言って、猊下は言葉を切り。

  すいと横目で私を見下ろした視線が、その先を述べるよう、静かに促す。

 

「第三項、は……その魂に、地獄の住人たる、新たな器を与え……」

 

  かすれた声が、渇いた喉から言葉を搾り出した。唇が震える。

 

「……是非曲直庁の監視下に置くと共に、その一員として、任に当たらせる……」

 

「その通り。炉を開けよ」

 

  がこんと硬い音を響かせて、扉が開く。

 

  あふれ出す、灼熱の業火。

  金色の輝きが、瞳を焼く。

 

  吹き出した猛烈な熱風に、思わず私は腕で顔を覆う。しかしそれを意にも介さず、猊下は無造作に炉の中へ手をつっこみ、その魂をつまみ出した。

 

  すぐに釜の蓋は閉じ、腕を下ろして息をついた私の前に、

 

「この者の扱い、お前に委ねる」

 

  青白く焼けた炎の玉が、言葉と共に突きだされた。

 

 

「え……私、が……」

 

「これはお前の罪、お前の業。故に背負うのも、お前以外には無い。違うか」

 

  低く重く、響く言葉。私を強く見据える視線。

 

  一瞬、目を逸らしかけた、けれど。

 

  私は強く口を結び、両手を前に差し出した。

 

 

  うむ、と小さく頷いて、猊下はつまんだ魂を私の手の上に置く。

 

  その熱に手のひらが焼け、指が震える。

  いや、震えは熱さではなく、その重さゆえか。

  吹けば飛んでしまいそうなほど、はかなく軽いのに。

 

  背負い続けられるだろうか。この熱さを、この重さを。

  今もこんなに心が揺れる、小さく頼りない私が。

 

 

「……なに、そんな深刻な顔をすることもない。

 現世に放てば罪業なれど、常世(とこよ)に在ればただの腐れ縁。

 善も悪も、所詮は同じ事実の別の切り口に過ぎん。

 三途の果てに向かう道は、その階梯から跳躍した場所にある」

 

  頭の上から、言葉が降ってくる。

  重々しく、そして柔らかく、心の底にしみいる声。

 

「それの処遇を決めたら、必要な書類をまとめて持って来い。それと同時にそなたを裁判長の列に加え、正式に法廷に配属する。よいな」

 

「えっ!? そんな、まだ私は……」

 

  驚きに顔を上げ、声を上げようとした。こんな未熟者などが、と。

  しかし、

 

「問答無用。儂が資格十分と認めたのだ。そなたに自信があろうとなかろうと、な。

 ……ま、本当はもっと別な仕事が向いているのかも知れんが……いやどうして、なかなか見事な慈悲の微笑み(アルカイク・スマイル)だったぞ! 伊達に路傍で長年つとめてはいないといったところか! わはは!」

 

  目を細め、大声で笑う。

 

「げ、猊下! そんなお戯れを……!」

 

  業炉に照らされた時よりも熱くなった顔を、慌てて伏せる私に背を向け、あっはっはと高く笑いながら、都市王猊下は去っていく。私は、いまだちりちりと燃える魂を両手に抱いたまま、その姿をただ見送った。

  業炉の鬼長はしばらく所在なげにしていたが、やがて、じゃあ私はこれで、と言って仕事に戻っていった。

 

 

  ごんごん、ごうごうとあちこちから、施設の働く音が響く部屋の中に、私は長い間一人で……いや、一人と一つで佇んでいた。

 

  真理は善悪から跳躍した所にある、か────

 

  私ごときでは、まだまだそこに至れそうもない。もしかしたら永遠に。

  ならせめて、この事実をただ受け止めること。それだけがきっと、私がやるべき最初の仕事。

 

  まだ、覚悟、なんて大層なものはない。それでも。

 

「……ふふ」

 

  今の自分なりに観念ができたか、つい唇のふちが緩む。その半分は苦笑いだけど。

 

  手の中で燃える炎の玉が、ぱあっと明るくなったように見えた。

 

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

  (  )怠慢(  )

  (  )居眠り(  )

  (  )職場放棄(  )

 

  三つの罪を書き(しる)し、その分だけ重くなった悔悟棒を、私は思いっきり振りかぶり、桜の木によりかかって寝ている死神の脳天に叩きつけた。

 

「んぎゃっ!?」

 

  もんどりうった弾みで顔面から地面に落ちた彼女は、やや間を置いて、頭と顔をさすりながら体を起こし、私を見上げる。

 

「痛たたた……。あ、四季様……」

 

「あ、じゃありませんよ小町。なんですかこれは」

 

  小町。そう名づけた死神──三途の河の渡し守の、おでこを追加でぺちぺちと叩いてから、棒で岸辺のほうを指し示す。

  うっすらと霧のただよう河のほとりは、幽霊でひしめきあっていた。

 

「あ~……。いや、その、ですね。別にサボるつもりとかなかったんですよ? でもここ数日、急に他の区域からの流入が増えてて、それでちょっと休憩……」

 

(   )言い訳(   )(   )責任転嫁(   )と……」

「うわわわわ、ごめんなさい! サボってました! すみません!!」

「まったく……」

 

  ああ、最初のころはもっと、まじめな奴かと思っていたのに。

  私の目が届かないと、すぐサボる。いや、正しくは、私の顔が見えない場所だと、か。

 

  かといって、あまり近くに置いたら置いたで、私の顔ばかり見て働かないのがこいつなのだ。近すぎず、遠すぎず。これくらいの距離で飼いならすのが、どうやら丁度いいらしい。

  こうして、いちいち様子を見に来ないといけないのは、なんとも面倒だけど。自業自得だから、仕方ない。

 

「……反省や、謝罪を述べたところで、減刑にはなりませんよ?

 自分の仕事を果たしなさい。それが貴方の積むべき善行です」

 

  小さくため息をつきながら言う。

  と、小町の顔が急に、ぱあっと明るくなり、ぴょんと勢いよく立ち上がる。

 

「あっはい! やります! すぐやりますからね! じゃんじゃん運びますから待っててください、大船に乗った気分で!」

 

  いけない、やってしまった。つい、笑みが出ていたらしい。

 

「何が大船ですか。泥舟がいつ沈まないかと、戦々恐々ですよ、いつも」

 

  内心の焦りは隠して、顔を引き締め、仏頂面に戻す。

 

「え~ひどいなあ。それなら、そろそろ舟の新調……」

「で、すぐ、というのは何日先のことですか?」

「今! 今です! 今すぐに!」

 

  いまー、と叫びながら小町は河原を駆けてゆく。途中で目についた幽霊をひっつかむと、乱暴に舟に放りこみ、勢いよく漕ぎ出して、すぐに河霧にかすんで見えなくなった。

 

「……困ったものですね、本当に……」

 

  小町が、ではない。私がだ。また同じことを繰り返してどうする。確かに効きすぎるくらい、よく効くのだけれど。

 

  反省したところで、成してしまった事は取り返しがつかない。未熟者め。

 

  ともあれ、ようやく小町もやる気になったようだし、亡者の列も動き出すだろう。私も戻って裁判の準備をしなければ。

  腕を頭の上にあげ、うーんと大きく伸びをする。

 

「さて……仕事、仕事っと」

 

  そうやって、この広大な魂の円環のほとりを、悩んで、苦しんで、笑って、歩いていけば。

  きっといつか、この腐れ縁も切れるのでしょう。

  世界が終わる、その日までには────

 




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同じ焔を抱いて - レミリア・スカーレットの場合
一 時の棺  



 

  カーテンに閉ざされた暗い部屋の中を、ランプの明かりだけが淡く照らしている。

 

  その炎と、ときおり本のページをめくる私の指の他には、動くものの姿はここにない。

 

  ソファの前のテープルには、冷えきった空のティーカップ。

  昼すぎに小悪魔がそれを持ってきてから、どれくらい経っただろうか。少なくとも、日はとっくに落ちているのは間違いないけれど。

 

  テーブルの反対側に置かれた、もう一つのカップの中身は、口をつけられた形跡もないまま、赤黒く固まった表面を見せている。

 

  その向こう、こちらに背を向けて置かれた小さな椅子の上に。

  小さくうずくまる、レミィの背中があった。

 

 

  どれだけ見つめていても、その幼い後ろ姿は、凍りついたように動かない。

 

  そして、彼女の見つめる先、ベッドの上に横たわる、咲夜(さくや)の体も。

  まるで眠っているように、動かない。

 

 

  いつまで、そうしているの────?

 

  幾度となく問いかけ、答えの返ってこなかったその言葉を、また私は幾度目か、喉の奥に飲みこんだ。

 

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

  それは、二週間前の昼下がり、物干し場の近くの花壇で起きた。

 

  そのとき私は、いつものように図書館で本を読んでいた。

  美鈴(メイリン)は、いつも通り門の前に立っていた。

  レミィは、前夜の宴会で盛大に騒いだ疲れか、自室で寝ていた。

 

  ともかく、その瞬間を見ていたものは、誰もいなかったから。

  何が起きたかは、推測によるのだけれど。

 

 

  おそらく、咲夜は洗濯物を干したあと、ここ数日の暖かさでほころびかけた花のつぼみに目をとめ、しゃがみこんでそれを愛でていたのだろう。

 

  その花壇の脇にある、大きな木の梢に、それは引っかかっていた。

  たぶん何日か前、やはりいつものように本泥棒が侵入したときの騒動で、たまたま割れた窓の、片付け損ねが。

 

  そして、偶然に────全くの偶然に、少し強い風が吹き。

  何の音も、光も、ひとかけらの殺気すらもなく。

 

  落ちてきたガラスの破片が、咲夜の頚動脈を切断した。

 

 

 

  ……時空を操るという、およそ人間離れした能力を持ってはいるが、やはり咲夜は人間に過ぎない。

 

  それでも、ほんの少しでも、警戒する要素があったなら、きっとその能力で……いや、それすらも、今となっては願望でしかないだろう。ただ事実として、彼女が自分の身に起きたことを理解し、何かをしようとするよりも早く、激しくあふれだした血の量が、その機会を永遠の彼方に押し流してしまったのだ。

 

 

 

  その異常を私に告げたのは、一瞬にして目の前に押し寄せた本だった。

 

  本、本、本、それと本棚。見回す全てが、本と本棚の壁。

  彼方から聞こえる、それらに挟まれ押しつぶされた小悪魔の悲鳴。

 

  刹那、頭が真っ白になり、次の瞬間に悟る。

  咲夜の力で拡張されていた館と図書館が、本来の大きさに戻ってしまったことを。

  咲夜の身に、何かが起こったことを。

 

  しかし、ただちに咲夜の元へ向かうべく、図書館を飛び出そうとした私の行く手には。

 

  周囲を埋め尽くす、山のような蔵書と本棚と。

  その一つ一つに掛けた保護術式と。

  それらを解除し、焼き払い、なおかつその炎から私と小悪魔と、さらに館をも守る障壁を張りながら出口へ向かわなければならないという、厄介きわまる作業が立ちはだかっていた。

 

 

 

  ────愚劣!!

  なんたる愚劣!!

 

  この世の事象に、慈悲や手心は無い。

  故に、想定しうる最悪の事態には、決して備えを怠ってはならない。だというのに。

 

  『咲夜なら大丈夫』

 

  そんな、信頼という名でくるんだ怠惰の誘惑に酔い、当然なすべき対策を怠った。

  これを愚劣と呼ばずして、何と呼ぶのか────

 

 

 

  ────呪いの言葉を吐きながら、私が大事な本を焼き進んでいる間に、最初に咲夜の元へ駆けつけたのは、美鈴だった。

 

  私の次に異常に気づいた妖精メイドたちの騒ぎと、私の使う魔法の波動で、館の異常を察知し、館の変化によって咲夜の異常を察した彼女は、持ち前の俊足で館を、庭を駆け回り、すぐに血溜まりに倒れた咲夜を見つけ、その知識と力とで、精一杯の救命を試みた。

 

  けれど、それに遅れること数十秒、ようやく図書館を脱出した私が現場にたどり着いた時には。

 

  もう、決定的な瞬間が、咲夜の時間の上で過ぎ去ってしまっていたのだ。

 

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

  ランプの炎の揺らめきが、動くもののない部屋の中で、それらの影だけを微かに揺らしている。

 

  私は視線をレミィの背中から、横たわる咲夜の顔へと移し、そしてまた手元の本へと戻した。いったい何の本を読んでいたのだったか、思い返しながら。

 

 

  厳密には────咲夜は、まだ死んではいない。

  咲夜の魂は、まだ肉体から離れていない。

  その寸前で、全てが停止しているのだ。

 

  だいぶ前に、咲夜本人の協力も得て、その能力を研究したことがあった。

  結論は、それは彼女自身を媒介とした彼女固有のものであり、他人がそれを利用することはできないか、ごく限定的な場合に限る……というものだったが。

 

  その実験の折、咲夜の中に作らせてもらった、魔力回路(バックドア)

  消さずにこっそり残しておいたものの、役立てる当てもなく半ば忘れていたそれを使って、私はとっさに彼女の時間を止めた。

 

  そうして事象の進行が止まっている間に、傷を修復し、失われた血を補い……咲夜のすべてを、元の状態に戻した。肉体的には。

 

  だけど、治療している最中には、もう気づいてしまっていた。

  咲夜の肉体と魂との結合が、ほとんど切れていることに。

  その千切れかけた糸を結い直すことは、もはや出来ないということに。

 

  このまま咲夜の時間を動かしても、もう彼女が目を覚ますことはないのだ。ただ、傷ひとつない肉体から魂が抜け出し、彼岸へ飛んでゆくだけだ。

 

 

  ……結局、私の研究も、思いつきの試みも、何の役にも立たなかった。いつものことではあるけれど。

 

  そして、そんな私の益体もない研究を、いつも面白がってくれていたレミィは。

  全てが終わってしまった後で、私の説明を聞き……それからずっと、ああして座りこんでいる。

  私とも、誰とも、何の言葉も交わそうとしないまま。

 

  そして私もまた、そんなレミィを見守りながら、その後ろでずっと座りこんでいる。

  咲夜にかけた時間の枷を、外してやることもできないままで────

 

 

 

 

 

  ページをめくる音だけが響く静寂が、どれほど続いただろう。

 

  今、めくりかけた指を止め、本から顔を上げた、目線の先で。

  ほんの僅かに、レミィの羽が動いた。

 

  私は本を閉じ、ソファから立ち上がる。

 

「やっぱり来た、か……」

 

  隠しもしない、強烈な威圧感。

 

  屋敷の門前へ、避けられない運命の使者が、ゆっくりと近づいてきていた。

 




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二 後悔  


 

「地獄の閻魔様が、いったい紅魔館(うち)に、何の御用で?」

 

  ……あまりに答えのわかりきった質問だとしても。

  招かれざる客にはそれを問うのが、他の誰でもない、門番(わたし)の役目だった。

 

  乾いた唇から吐き出した言葉は、不恰好に引きつり、少し震えていたけど。

 

「ええ。この屋敷で、死者の魂が不正に留置されているとの報告があったので、その確認です」

 

  審判の紋章を擁した、大きな帽子。手には、神罰を下す笏を携えて。

 

  四季(しき)映姫(えいき)・ヤマザナドゥ。冥府の裁判長が、そこに立っていた。

 

  今日は新月。夜を照らすのは、星明りと小さな門灯だけ。

  深い闇の中に浮かぶその表情は、左右非対称の髪型のせいか、笑みにも、冷徹にも、怒りのようにも見えた。

 

「……生憎ですけど」

 

  ひとつ唾を飲みこんで、私は言葉を続ける。

 

「通してよい、と言われてませんので。今日のところは、お引取り願えますか」

 

「そうは行きませんね、私も仕事ですから。許可が無いなら、もらってきてください」

 

「……出ませんよ、許可なんて」

 

  出るわけがない。お嬢様の、あの様子では。

  私なんかじゃ、咲夜さんの部屋に入ることさえ、ためらわれるというのに。

 

「出ませんか。なら、押し通るしかありませんね」

 

  あっさりと、軽い調子で言い放つ。

  雨降りだから家にいましょうとか、服が汚れたから洗濯しましょうとか、そんな感じで。

  実際、軽いことなんだろう。この人にとっては。

 

「はあ……」

 

  やるしかない、か。

  止められるとは、とても思えないけど。

 

  腰を落とし、気をまとって小さく構える。

 

  と、屋敷の扉が開いた。

 

「構わないから、通しなさい」

 

  振り向いた先には、大きな本を手にした七曜の魔女。その陰に隠れるように、小悪魔の姿も見える。

 

「パチュリー様……それは、お嬢様が?」

 

  一応、それを聞く。無いだろうな、と思いながら。

 

「いいえ。でも、いずれこうなることは分かっていたのだし……それに、たとえ拒んだところで帰りはしないでしょう、その人は」

 

  ため息まじりに、強引さには定評のある客を見ながら言う。

 

「無闇に事を構えても、うちの立場が悪くなるだけ。通しなさい、案内は私がするから」

 

「……そう、ですね……」

 

  しょうがないこと、なんだろう。

  生死の巡りは、天地の(ことわり)。それを乱すことは……少なくとも是非曲直庁は、決して許さない。

 

  どうせ私には、動かしようもないこと、か────

 

  私も小さくため息をついて、言われたとおり、身を引こうとした時。

 

 

「自己評価が低い」

 

 

  笏の向こうから不意に飛んできた言葉が、耳に突き刺さった。

 

 

「……え?」

「それが貴女の、罪の根源ですね。そうなったのは、その生まれゆえですか」

 

  首筋の毛を、ぞくりと冷たい風が揺らす。

 

「何の……話ですか?」

 

「自分は取るに足らない存在だ。大したことなどできない。与えられたこの仕事も、さして価値のあるものではない。……そう思っているから、簡単に気が抜け、手も抜ける。そういう話です」

 

  その声は、どこまでも淡々として、だけど割れたガラスみたいに鋭かった。

 

「違っ……私はっ……」

 

  今度は、はっきりと喉が震えていた。それを支える肩も、膝も。

 

「だから特に、手強いと思った相手には、あきらめが先に立つ。単に突破されるのみならず、時には気づかぬふりで通した。結果、あのガラスの破片が生まれ、その運命を与えられるに至った」

 

「それはっ……! お嬢様が、あの人間をそれほど問題にしてなくてっ……!!」

 

  駄目だ。無駄だ。抗弁など、何もかも。

  だって、この人には、すべてが見えているんだから。

 

「そして、あの日も。貴女が立ったまま居眠りなどしていなければ、もう幾らかは早く屋敷の異常に気づいて、そうすれば」

 

「やめろっ!!!!」

 

 

  認められない指摘を、渾身の叫びで、打ち消そうとしても。

  吐いたその気と一緒に、私から全ての力が逃げさっていく。

 

「やめ、て、ください……」

 

  指摘されるまでもなく、とっくにわかってたこと。

  ただ、認めたくなかっただけ。

 

「因果は所詮、根源たる陰陽の踊りに揺らぐもの。ことの責任が本当に貴女にあるかどうかは別の話です。ただ、結果はどうあれ、貴女は自分が成すべきことをしなかった。故に」

 

  びしりと、その手に持った笏が突きつけられる。

 

「貴女は今、その罪の重さに裁かれているのです」

 

 

 

  冷たい瞳が、私を見下ろしている。

 

  さっきよりずっと高く、空の上から。

 

  高みから?

  違う。私が落ちているんだ。大地に向かって。

 

  両膝が、土にめりこむ音がした。

  地面が持ち上がって、私の目の前に迫ってくる。顔までがそこに叩きつけられようとするのを、伸ばした両の手のひらで、かろうじて支える。

 

「認めたところで、救われはしませんけどね。

 犯した罪は、決して消せない。

 それを(ゆる)せる者も、今はいない」

 

  頭の上から、言葉が降ってくる。

  その鋭い(やいば)で、私の首を落とすかのように。

 

「よって、貴女の評定は、黒。そういうことです」

 

 

 

 

 

「……は……ははっ……」

 

  乾いた笑い声。

  唇からこぼれ、地面に落ちる。

 

  すみません、咲夜さん。

  もう二度と、あなたに褒めてはもらえない。

  頑張ったのねって、言ってもらえない。

 

  こんな日がくる前に、もっともっと、頑張っていればよかったのに。

  閻魔様の言うとおり。いまさら後悔したって、何もかも遅い。

 

  だからもう、私には。

 

  ひたすら頑張る道しか、ない。

 

 

 

  土を押さえつけていた(てのひら)を、(こぶし)に変える。

  くずおれた膝を立て、地面を踏みしめる。

 

『お前は出来損ないだ』

 

  そうだ。昔、ずっと昔、そう言われたっけ。

 

『お前は龍には成れない』

『だが、お前にしか成れないものもあろう』

『その勤めを、精一杯はたせ』

 

  立ち上がり、顔を上げたその先で、招かれざる客の唇が動いた。

 

「そう、それが今の貴女の積める、善行です」

 

  ひゅう、と音を立て、強く、深く、息を吸う。

  全身に気が満ち、心臓に熱い火が入る。

 

  後ろでパチュリー様が何か言っている。

  でも、これが私の仕事ですから。

 

「自分の成すべきことを、成しますか?」

「無論」

「結構。始めましょうか」

 

  私は門番。紅魔館(こうまかん)の門番、紅美鈴(ホンメイリン)

  何者だろうと、黙って通しはしない。

 




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三 通告  


 

「本気だったの?」

 

  先に立って廊下を歩みながら、私は三歩うしろをついてくる客に問いかけた。

 

「先ほどの決闘ですか? もちろんです。手加減する理由などありませんし」

 

「そう。……有難う」

 

「礼を言われる筋合いも、ありませんけれどね。それにしても、ずいぶん時間がかかってしまいました。なかなか大したものです、あのタフさは」

 

  本気で感心しているのか、どうなのか。この人の言葉は率直だが、その真意はいまいち読み取れない。

 

「まあ、それが一番のとりえみたいなとこ、あるし」

 

「ところで、貴女も客分とはいえ、紅魔館の一員。私を阻みはしないのですか?」

 

「私は……美鈴ほど、強くはないから」

「そうですか。それもまた、結構」

 

  美鈴の手当ては、小悪魔に任せてきた。今頃は目を覚ました彼女に、追い払われているかもしれないけど。

  どうしようもなく、一人になりたい。そんな気持ちになることは、容易に想像できる。

 

  さっきの裁判長の言葉は、私自身にも、深く刺さっていたから────

 

 

 

 

 

  さして長くもない旅程が終わり、辿りついた咲夜の部屋の扉を、私は出来るだけ静かに開いた。

  そんなことをしたところで、何か意味があるわけでもないが。

 

  レミィは相変わらず、こちらに背を向けて、じっとしている。

  ただ、さっきまでと違うのは。

 

  その身からほとばしる、峻烈な妖気。

  望まぬ来訪者を、威嚇するかのような。

 

「……レミィ、お客様。地獄のほうから、閻魔様が」

 

  言わずとも分かっているであろう言葉を、それでも口から押し出す。

  そうしなければ、私自身が、圧されて部屋から出てしまいそうで。

 

  無形の強風に逆らって扉をくぐる私に続き、するりと閻魔が部屋に足を踏み入れた。

  その時。

 

  レミィが、動いた。

  頭だけ。ゆっくりと、こちらを振り向く。

  そして、その唇が。

 

「……それで? 地蔵ふぜいが、私に……咲夜に、何か用でも?」

 

  久しぶりに聞くレミィの声は、細く、低く、静かで……あまりにも、刺々しかった。

 

  椅子に片膝を立て、ぎらりと私の背後を睨む。

  その瞳には、燃えさかる灼熱の焔が見えた。背筋をぞわりと冷たいものが這い落ちる。

 

「レミィ……」

 

  魔術書を持つ手に力が入り、じっとりと湿り気を帯びる。ありったけの防御(   )緩衝系の魔術を準備状態でセットしてはあるが、もしも(  )そんな事態(  )になってしまったなら、どれほど効果があるものかはわからない。こんな、新月の夜でさえも。

 

  もう一方はといえば、いたって涼しい顔で、そんな気はおよそ無さそうに見えるのが救いだった。だが。

 

「誰にも用はありませんが。ちょっと現状を見に来ただけです」

 

  そう言って、止める間もなくするりと前に出てくる。咲夜が寝かされている、ベッドのすぐ横まで。

 

  つまり、レミィのすぐ隣まで。

 

  ざり、と音がした。私の口の中から。

  がさがさと、歯と歯が小さくこすれあう音。

 

  喉が異様に渇く。心臓がティンパニのように鳴っている。膝が笑い、砕けそうになるのを必死にこらえる。網膜の裏が沸きたち、熱く紅い。

 

  レミィは、無遠慮に隣に立つ閻魔の、すました横顔を睨みつけている。

  閻魔は、横たわる咲夜をじっと見下ろしている。

  私は。

 

  何も、できない。

 

  やがて、永遠のような数秒が過ぎ去った後。

 

「……成る程、確かに報告のとおりのようです。それでは」

 

  くるりとベッドに背を向けると、彼女は行きと同じようにすたすたと私の横を通りすぎ、部屋から出て行こうとした。

 

「え? そ、ちょ……」

 

  振り向いてその後を追おうとした体がふらつき、壁に背中が当たる。

  言葉が、うまく出ない。

 

「何か?」

 

  扉の前で足を止め、そんな私を横目で見ながら問う四季映姫。

  ごくりと唾を飲みこみ、呼吸を整える。

 

「……それだけ、なの?」

「私は現状を把握しに来ただけ。先ほど言ったとおりです」

 

  手に持った笏で口元を隠しながら言う彼女の顔に、表情はない。だけど、わずかに微笑んでいるような気もした。

 

「そう。……てっきり、魂を徴収しに来たのかと思ったけど」

 

「閻魔を何だと思っているんです? 魂を取りたてるのは死神の仕事ですよ。……ただの地獄の下級役人であるところの、いわゆる死神ではなく、本物の死神のことですが」

 

  また、ぴし、と空気が鋭くなる。

 

「……それは、鬼神に属する実力部隊、ということかしら」

 

「実力、というと語弊がありますが。冥界の亡霊のように、死をもたらす力があるわけではないので」

 

「もう少し、詳しい話を聞いても?」

 

  状況はまだ緊迫したままだけれど、頭はだいぶ落ち着いて、冴えてきた。少なくとも、もう足は震えていない。

 

「構いませんよ。

 ……その仕事、その能力は、死者の魂を回収すること、ただ、それのみ。それ以外には何もできませんが……同時に、何者もそれを止めることはできない。死者が常世(とこよ)へ渡ることを妨げる、あらゆる障害を越えて、魂を河の向こうへ強制的に送るもの。……そう、丁度このような事例のときに、おはちの回ってくる仕事です」

 

  空気が、更に冷える。今はもうベッドだけを見つめているレミィの背中から、ゆらゆらと陽炎のように紅い冷気が立ちのぼっている。

  また、舌の根が強張るのを感じる。だが聞いておかなければならない。

 

「それで……いつ、来るの? その、死神は」

 

  脂汗と一緒にしぼり出した言葉は、

 

「さあ?」

 

  しかしあっさりと、流された。

 

「さあ、って……」

「まだ出動要請の書類を出してませんので。出せば、すぐにも動くはずですが」

 

  はあ、と思わずため息が出る。一体どこまで本気なのか、この人は。

 

「それは……その書類を出さなければ、来ることもないってことなの?」

「いえ、魂を回収しない、ということはありません」

 

  ふと口に出した希望もまた、あっさりとその言葉に砕かれる。

 

「担当区域の閻魔が、該当の事象を確認したその時から七日以内に、回収を完了しなければいけないことになっています。ですから、遅くとも七日後までに、ということです」

 

  しばらく、沈黙が落ちる。

  部屋の冷気は一段と濃い。けれど、レミィが動く気配もなかった。

  何を言おうか迷っているうちに、先に口を開いたのは閻魔のほうだった。

 

「まだ、何か? なければこれで帰りますが」

「そう、ね……もうひとつ、聞かせてもらえるかしら。咲夜が死……」

 

  咳払いをして言葉を切り、言い直す。

 

「……事故に遭ってから、今日あなたが来るまで、半月も経ってるけど。それには何か理由が?」

 

「担当の死神……これは寿命記録係のほうですが……それが事態に気づいてから、上司である閻魔に報告書類を提出するまでの期限が七日。そして閻魔が報告を受けてから、事実確認を行うまでの期限が七日だからです。……このところ、やたらと忙しかったもので」

 

「そう……なるほど、ね」

「それでは、これで失礼。ああ、見送りはいりませんから」

 

  そう言って、楽園の最高裁判長は扉の向こうへと消えた。小さな足音が廊下を遠ざかっていく。

 

「……聞いた? レミィ。あと七日ですって」

 

  返事はない。

  さっきまでの冷気は消えたが。ただ、元に戻っただけだ。

 

  また、大きなため息をついて、私は。

  ただソファに腰を沈め、二人を見守ることしかできなかった。

 


 

 

 


 

  霧の湖は、夜のとばりに包まれて静まりかえっていた。

 

  おそらく普段なら、この時間であろうと宵っぱりの妖怪や妖精が、いくらかは遊びまわっているのだろうが、今は湖面をかすかに揺らす細波(さざなみ)しか、自らの存在をあたりに知らせるものはない。

 

  湖のほとりに立つ館から発せられている、四半周も離れたこの場所でも感じ取れる重苦しい妖気のせいか。あるいは閻魔(わたし)の説教を忌避して、いち早く逃げ去ったのか。

  おそらくは、その両方なのだろう。そして、それが今は都合が良かった。

 

「……では」

 

  湖を見つめたまま、私は静かに言葉を発する。

 

「この件については、特にそちらからの要請はない、ということですね?」

 

  あたりは星明りだけが照らす深い闇。草木のほかは、何者の影もない。だが、

 

「ええ、その通り」

 

  闇と影の隙間から、声がした。高く細い、少女の声。

 

「彼女……というより紅魔館は、幻想郷の勢力争いからは、少し離れた存在ですから。(   )普通に(   )処理して頂いて構いませんわ」

 

「……わかりました。では(   )普通に(   )処理します」

「うふふ。お仕事お疲れ様……」

 

  からかうような含み笑いは、ほどなく闇の中に吸いこまれ、そのまま気配も消え失せた。

 

「……あと七日、か」

 

  私は独り、星を見上げて呟く。

  きっと、何事も無くは終わらない。そんな予感が胸を占めていた。

 




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四 届かぬ手  


 

  七日は、あっという間に過ぎた。

 

  今日も厚いカーテンに覆われたままの窓の向こうには、薄暗く赤い空の気配が横たわっている。それも間もなく、月と星だけが照らす闇へと変わるだろう。

 

  本のページをめくりながら、私はきょう何度目か、部屋に張り巡らせた結界に意識をつなぎ、その働きをチェックした。

  私とレミィと、そして咲夜だけがいる空間を包む、七種複合、二十八層の遮蔽壁。それは今も間違いなく、正しく機能し続けている。

  でも……

 

  目を閉じ、頭によぎった考えを振り払う。やれることは、すべてやった。それだけだ。

  ティーカップの底に薄く残っていた液体で、ほんのわずかに喉を潤す。

 

 

 

  推測どおり、あの閻魔は期限の今日まで、何者も遣わせてこなかった。

 

  温情からか、それとも何か意図あってのことか、もしくは単に事務が面倒だからなのかは分からないが。冥府の内情までは、私もそう詳しくはない。

 

  しかしいずれにせよ、敢えてこちらに期限を伝えてきた意味は一つだろう。

  その時までに、整理をつけておけ……と。

 

 

  けれど、当然ながら、何も変わりはしなかった。

  ただ、紅い冷気が日ごとに重く、深く、部屋に満ちていっただけ。

 

 

  ……私にできることは、もう無いのだろうか。

 

  本当にもう何も、すべきことは────

 

 

 

「ねえ、レミィ……。咲夜を、解放しても、いい……?」

 

  この一週間、毎日問いかけていた言葉を、私はまた、レミィの背中に投げかけた。

 

  本当は、それが一番いいはずなのだ。

 

  咲夜は死ぬ。

  死んで、常世(とこよ)の彼方へと去る。

  その結末が、変わらないのなら。

 

  その時は辛くても、あきらめはつく。

  是非曲直庁とも、余計なしこりを残さずに済む。

 

  だけど、やっぱり今日も、その言葉に返事は返ってこない。

 

 

  ────解放して、しまおうか────

 

 

  ふと、そんな考えが頭に浮かぶ。

  レミィの了解など得ず。私だけの意志で、咲夜を。今すぐに。

 

  そうすれば……レミィは、私をなじるだろうか?

 

  罵ってくれるだろうか?

 

  あの日、そして今日まで、ただの一言も私を責めなかった彼女でも、流石に。

  そして、あるいはもっと苛烈な罰を……私に下してくれるだろうか────?

 

  そうするべきではないのか。

  もしかしたら、それこそが今、私の成すべき、ただ一つの────

 

「……私は」

 

  椅子の上から、声がした。

 

  小さく、弱々しい声。

  一週間ぶりに聞く、レミィの声が。

 

  思わず息を飲み、ソファから立ち上がる。

 

「ただ、私は……」

 

  続く言葉を聞き逃すまいと、精いっぱい耳をそばだてる。

  視線の焦点は、椅子に座るレミィの背中。

  それ以外の部屋の風景は、ベッドも、ベッドの上に眠る咲夜も、その向こうの人影も、すべてがぼやけて見えて。

 

  だから、そいつに気づくのが遅れた。

 

「……っ!?」

 

  白い着物を着た、長い髪の女。

  弾かれるように顔を上げたレミィの向こう、咲夜のすぐそばに立った、そいつが。

  冷たい目で、咲夜を見下ろしながら、音もなくその胸に向かって、手を伸ばし。

 

「触るなっっっ!!!!」

 

  叫びと共に椅子が蹴り飛ばされ、私のすぐ横を吹き飛んで壁にめりこむより速く。

 

  咲夜の体の真上で、飛びかかったレミィの鋭い爪が、そいつの体を、何の抵抗もなく、すり抜けた。

 

「なっ……!?」

 

  爪だけではない。レミィの体自体も、そいつを通り抜けて、宙返りしたその足がベッドの向こうに着地する刹那、振り向きざまに空を薙いだ、真紅の槍も。そして、遅れて私が放った幾つもの、拘束用の光輪も。

 

  そいつの着物の裾すら、揺らすことはできなかった。

 

「ぐっ……!!」

 

  レミィが顔をゆがめ、呻く。

 

 

  やはり、位相が違う────

 

 

  いま目に見えているソレは、この世界に落ちた死神の影にすぎない。本体は、世界の壁の向こう側にいる。

  レミィの爪も、私の術も、そこには届かない。

 

  巫女か、あるいはあの境界の支配者なら。だが今またそんなことを考えたところで遅い。

 

  まるで私たちなど存在しないかのように、死神の腕が、咲夜の胸の中へ突き入れられた。そしてゆっくり引き抜かれたその手と一緒に、つかまれた何かが、咲夜の体から抜け出していく。

 

  咲夜の魂。

  うっすらと、けれど確かに、咲夜自身の面影を残した幽霊。

  その目は肉体のそれと同じく閉じられ、やはり眠っているかのように見えた。

 

  駄目だ。持っていかれる。

 

「待て!

 待って!!

 咲夜っ!!!」

 

  何かをつかもうとするレミィの手が、中空に伸ばされる。

 

「私は! まだ、言わなきゃいけないことがっ……!!」

 

  かすれ、割れかけた声に。

  ほんのわずか、咲夜の幽霊が、目を開きかけたように見えた直後。

 

  その姿は、死神ごと、跡形もなく消え去っていた。

 

 

 

 

 

  静寂の長さは、何秒ほどだったろうか。

 

  レミィの腕が、ぱたりと力なく下ろされるのを見届けてから。

  目を閉じ、深呼吸をして、そしてゆっくりと口を開こうとした、その瞬間。

 

  爆発的な力の奔流が、レミィを中心に渦巻いた。

 

「っ!?」

 

  とっさに魔法で窓を開け放つ。

  ほぼ同時に、灼熱に燃える真紅の矢が、その隙間を雷光のごとく(はし)り抜け、夕闇の空の彼方へと飛び去った。一瞬遅れて轟と風が鳴り、私と咲夜の髪を、服を、ランプの炎を、カーテンを、あやうく粉々になる運命をまぬがれた窓を、ばたばたと大きく揺らしたが、それもすぐに止んだ。

 

「レミィ……!」

 

  窓に駆け寄り、赤と青の半々に染まった空を見上げる。けれど、もはや彼女の姿も、その痕跡も、どこにも見ることはできなかった。吸血鬼レミリア・スカーレットの、遠慮も加減もない、本気の飛翔だ。追いつくことなど、誰にもかなわない。

 

  もっとも、行き先はわかっている。今からでも、追えば彼女をそこで見つけることはできるはずだ。

 

  しかし、仮にそこに行ったとて、いったい私に何ができるだろうか。

  そう……きっと、何もできはしないのだ。

  ならば――――

 

 

  暮れてゆく湖の景色を、しばらく見つめた後で。

 

  窓枠から、無意識に跡がつくほど握りしめていた手を離す。そっと窓を閉め、床に放り出していた本を拾って、私はまたソファに腰かけた。

  親友の、帰りを待つために。

 




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五 助け舟  


 

「咲夜ぁぁぁぁあ!!」

 

  (さい)の河原に、バカでかい声が響き渡った。

 

  ええい、どこのどいつだ。こんな静かな場所で大声だして、あたいの安眠……じゃない、休憩を邪魔するのは。

 

「咲夜! 返事をしなさい! 咲夜ぁ!!」

 

  返事したくったって、できゃしないよ。幽霊は人や妖怪のようには喋れない。死人に口なしと言うとおりだ。

 

  尖った牙と爪。真紅の瞳。背中には悪魔の(あかし)の、蝙蝠の羽。

  間違いない、紅魔館の主だ。そして間違いなく、例の件がらみだ。ああもう、厄介なことになってきたなあ。ちゃんと話は通したんじゃなかったんですか? 四季様。

 

  絡まれる前に逃げるか。

  そう思ったけど、ぐるりと巡らされた顔と目が合った瞬間、とっくに手遅れだったことに気づく。

 

  跳ね起きて駆け出す間もあらばこそ、一足飛びに目の前に迫ったそいつの手が、あたいの胸ぐらをがっしり掴んでいた。

 

「待て待て待て! 落ち着け! ストップ!」

 

「答えなさい。咲夜はどこ?

 ……まさかもう、お前が向こう岸に渡したって言うんじゃないでしょうね……」

 

  じわりと力が込められる手と、その声は、かすかに震えていた。

 

「オーケー、オーケーわかった穏便かつ率直に済ませよう。あたいはあんたの従者の魂を運んでない。本当だ」

 

「じゃあ、まだ咲夜はここにいるのね!?」

「いないよ」

 

  ぎり、と襟首が悲鳴を上げた。おいやめろ! 着物が裂ける!

 

「……どういうこと……?」

 

「四季様から聞いてないのかい? 今回……十六夜咲夜だっけ? あいつの魂は、うちの特別徴収係が持ってった。直行便でね。通常の亡者のルート、つまり三途の河は通っていないんだ。今頃はとっくに河の向こっうわああああああ!?」

 

  体が浮いた。

  ものすごい力で、引っ張り上げられている。耳元で鳴る、風切り音。

 

  こいつ、人を掴んだまま空飛んでやがる!

 

  そう思ったとたん、ぐるんと視界が逆さまになる。

  そこに疑問を差しはさむ間もなく、あたいと小さな吸血鬼は、頭から冷たい水の中に突っこんで、直後に、ごん、という鈍い音が、頭蓋骨いっぱいに響き渡った。

 

()っっっっってぇぇぇぇぇ!!!!』

 

  まだそう深くない川底の石に、したたかに頭を打ちつけたあたいは、そう叫ぼうとしたけど、もちろんゴボゴボゴボと口から泡が吹き出しただけだ。いや痛い、マジで痛い。死神じゃなかったら死んでるとこだ。

 

  痛みをこらえて、なんとか体の上下を入れ替え、膝と腰を伸ばしたら、頭は容易に水面に出た。胸まで水に漬かっちゃいるが、足は届く。……だから痛いんだけどな!

 

「ぶあっ、は!!

 げっほ、ごほ……あ~、くっそ……。いきなり何しやが……って、あれ?」

 

  あたりを見回した目に、少し離れた水中を流されていく、白っぽい影が映る。

 

  一瞬、ほっとこうかとも思ったけど。

 

「はぁ……ったく」

 

  距離を縮めて服をつかみ、水面に引っ張りあげてやる。別にそんな義理はカケラもないけど、なんとなく、ほっとけない気もした。我ながら、お人よしが過ぎる。

 

「ぶはっ! げふっ、げふ……。

 ぐっ……わあああああ……!!」

 

  あたいの腕の先で、ずぶ濡れの少女が、水をしたたらせながら叫び、体をこわばらせ、背中の羽をばたばたと激しく、けれど弱々しく動かしている。

 

  飛ぼうとしている。それはわかる。だけど、さっきの暴風のようなベクトルは、一向に生まれる気配がない。

  そりゃあそうだ、だってここは、境界を定める流れ水の上。そしてこいつは。

 

「何やってんだよ、あんたは。吸血鬼が三途の河を飛び越えられるわけないだろ……」

 

  ざぶざぶと岸に上がり、濡れ雑巾みたいになった紅い悪魔をその辺に放り出してから、舟に腰かけて、ひとまず息をついた。

  まったく、どうしてくれようか。そう思って、うずくまる影を見下ろしたけど。

 

「うっ……ぐっ……ふぐっ……」

 

  うなだれ、歯噛みしながら、河原の石をがりがりと引っかいている。そんな姿を見ていると、なんかこう、怒る気もなくなってきた。

 

「あきらめなよ。河を越えたところで、連れ戻せるわけじゃないんだし。それに人間なんて、どっちみち百年もしないうちに……」

「……乗せて」

「え?」

 

「乗せろ! お前の舟で、私を向こう岸まで運べ!」

 

「……はああああああ!? バカ言うんじゃないよ! 吸血鬼なんか乗せてみろ、あたいも舟ごと沈んじまうよ!」

「うるさい! やれ! 殺すぞ!」

 

  おー、やれるもんならやってみろ。そう言おうとした声が、口から出るより前に。

 

「向こう岸へ、行きたいの?」

 

  細い少女の声が、横合いから響いた。

 

「なっ……あんたっ……!」

 

  空間の隙間から湧き出した影。

  紫のドレスに、揺らめく長い金髪。幻想郷の、管理責任者────!

 

八雲(やくも)(ゆかり)……」

 

  呆けたようにそいつを見上げる吸血鬼の、口からその名がこぼれ落ちた。

 

「……いったい、こんなところに何の用だい? こいつの従者の一件なら、うちが普通に処理するってことになってるはずだけどねえ……まさか」

 

  問いただしつつ、木に立てかけてあった大鎌を手元に引き寄せる。つっても、これあんまり武器としては役に立たないんだけど。まあ、無いよりマシだ。

 

「ええまさか、地獄の沙汰に手出しも口出しも致しませんわ。ただちょっと、裁判の行方が気になったので、これから傍聴しに行くところですの」

 

  広げた扇子をゆったりと動かしながら、幻想郷の賢者は笑う。ころころと、と表現するかもしれないね。こいつの本性を知らないやつなら、だけど。

 

「は? いやいやいや傍聴ってあんた、そんな勝手に」

「……河を、越えられるの?」

「もちろん、私の能力なら。一緒に行きます?」

「連れていって! お願い!」

「了解」

 

  にっこり笑って、ぱちんと扇子を閉じるスキマ妖怪。

 

「ちょっとまてぇ! んな無茶苦茶なこと、されてたまるかぁ!」

 

  慌てて間合いを縮め、腕を伸ばす。

  けれど一瞬遅く、目の前で開いた空間の裂け目が二人を飲みこむと同時に掻き消え、捕まえようとした手は空を切った。

 

「くっそ……あ~、も~……」

 

  前代未聞だぞこれ。どーすんの?

 

 

  ……まあ、いいか。あたいのせいじゃないし。仕事の範疇でもないし。不可抗力、不可抗力。知ーらない。

 

  濡れてしまった足袋と下駄を脱ぎ、舟の舳先(へさき)にひっかける。服は……うーん、幽霊ばっかとはいえ、ここじゃ流石に、なあ。そのうち乾くでしょ、たぶん。せめて裾を絞って、できるだけ水気を落とす。

 

  やれやれ、今日は散々だ。ため息をつきながら、ごろんと舟の上に寝転がる。と、幽霊が一魂(ひとたま)よってきた。

 

────あの~。舟は、まだ出ないんでしょうか?────

 

  死人に口はないが、言いたいことはわかる。こちとら腐っても死神(プロ)だからね。

 

「まだだねぇ。だって見ておくれよ、アレのおかげで濡れネズミだ。こいつが乾くまで運行は見合わせ、再開の目処は立っておりませーん、ってね」

 

────はあ……────

 

  ふらふらと、幽霊は離れていった。まったく、どいつもこいつもせっかち過ぎるんだよ。もっとこう、のんびり行けばいいのにさ。まあ、誰かに会いたくてたまらないって気持ちは、わからなくもないけどね。

 

  ……はて、あたいは誰に会いたかったんだっけ?

 

  ちょっと、何かが気になったけれど。

  思い出そうとする意識に、眠気が圧勝した。

 




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六 分かれ道の果て  


 

  裁判を始める前から、十六夜咲夜の姿は、生前に近いかたちを現していた。

 

  自分が死んだことを認めたくないが、亡霊にもなりそこなったような亡者は、よく人としての姿を保った幽霊になる。だが彼女の場合は、それとはまた違うもののようだった。

 

  おそらくは、生前の行いへの、完全な肯定。

  誰に何を言われようと、自分は揺らがぬという確信ゆえに。

 

  実に、罪深い。

 

 

「では、次」

 

  そして、その番が来る。

 

  このような者の行く末が、果たしてどうなるものか────

 

  ちらりと浮かんだその考えを、ゆっくり瞬きをして頭から追い出す。

  閻魔(わたし)の仕事は、公正に判決を下すこと。それだけだ。

 

 

  その罪を映し出そうと、鏡を手にとった時。

 

  法廷の端に、見覚えのある人影がふたつ。

 

「……なっ!?」

 

  紅魔館の主、レミリア・スカーレット。なぜ、彼女がここに。

  その後ろには、紫のドレスに、扇子を携えた────お前の仕業かっ!

 

「うわっ!? なんだ、こいつらっ!?」

 

  周囲から上がったどよめきの中を、ずぶ濡れの服から雫を飛ばしながら、吸血鬼の影が走った。

 

「咲夜っ!!」

 

  その名の亡者に向かって、一直線に。

  しかし。

 

「ぬぅん!!」

 

  重く風を切る音が、左右からその影の上に振り下ろされる。

 

「ぐっ……!」

 

  二人の警吏の金棒を、その細い腕一本ずつで受け止めて、レミリアの動きが止まった。

 

  警吏はそのまま、力任せに押し潰そうとするが。

 

「ぬぬっ……こいつ」

 

  ぎりぎりと、床をきしませながらも、吸血鬼は退がらない。そして。

 

「咲夜ぁっ!!」

 

  歪んだ口が、なおその名を叫んだ。

 

 

「八雲紫! どういうつもりですか!」

 

  力と力が激突している後ろで、ひらひらと警吏から逃げ回っているスキマ妖怪に、身を乗り出して問いただす。

 

  確かに、何かが起きそうな予感はあった。それでも、おそらく巫女か、あるいは冥界の管理者あたりを介してだろうと思っていたのに。

  まさか直接、本人を乗りこませてくるとは!

 

「いえいえ、お気になさらず。私たちはただ、裁判を傍聴しに来ただけ。どうぞ普段どおりに、お続けくださいな。裁きの邪魔は致しませんから」

 

「……っ……!」

 

  ────(  )普通に(  )というのは、これも含めて、のことか────!

 

  彼女は、私の前では決して嘘を言わない。同時に、自分から全てを話すこともしない。

  真と偽の境界を知りぬき、なおそれを飛び越えて、外から内から他者を動かす────厄介きわまる、相手だった。

 

 

  私は悔悟棒を振りかぶり、平たく机に叩きつけた。

  硬く乾いた音が、法廷に響き渡り、皆の動きが止まる。亡者も、警吏たちも、そして招かれざる者たちも。

 

「……なんと言おうと。特別の許可なき越境は、誰にも認められません。まして法廷に乱入など言語道断。よって……」

 

  椅子に身を戻して、一度、息を吸い。

  二人を取り囲んでいる、警吏の鬼たちに告げる。

 

「貴方たちは、その者らが裁判中おかしなことをしないよう、しっかり見張っていなさい」

 

「はい! 今すぐ引っとらえ……はっ?」

 

  こっちを振り向いた顔が、ぽかんと口を開けた。

 

「幻想郷でもそれなりに力のある妖怪二匹。

 今ここで大捕物(おおとりもの)を演じるとなれば、亡者や業務に影響が出かねません。

 ひとまずは、この裁判の進行を優先します。

 とにかく、そこから動かさないように」

 

「は、はぁ……」

 

  気の抜けた返事を返しつつ、狼藉者の上からどけた金棒で、こちらとの間に柵を作る。

 

「何が、おかしなことだっ……お前たちこそ、咲夜に何かしてみろ、私がっ……!」

「おやめなさいな」

 

  低く唸るような声に、後ろからやんわり声が被さる。

 

「紫っ……!」

 

「理性派、穏健派が多い司法庁とはいえ、ここは鬼の本拠地。

 こちらが不利な状況下で、まともに戦うべきではない。

 ……わかっているでしょう? あなたなら」

 

  唇を噛み、沈黙する吸血鬼。

 

  その言葉に、間違いはない。たとえ幻想卿の巨頭であろうと、ここは是非曲直庁の領分。まともにやりあうなら、容易に鎮圧できる。

 

  しかし……それは裏を返せば、()()()()()()()()ならば────戦う、とまでは行かずとも、こちらを困らせることは出来る、ということ。

  そして恐らく、その用意があるということ。

 

  それが嫌なら、(  )普通に(  )裁判を進めなさい……と、その混沌の瞳が言っている。

  単純な力ではなく、そういう手練手管こそが、この妖怪の本領だった。

 

  忌々しい話だけれど、穏やかに済むならそれに越したことはない。ここは彼女の意に沿っておくのが無難だろう。

 

  ともあれ、傍聴人は静かになり、それと入れ替わるように、声なき声が聞こえた。

 

────閻魔様────

 

  十六夜咲夜の魂。それが私に訴えている。

  自分の声を、主人に届けてほしい、と。

 

  けれど、その訴え──いや、どちらかと言えば要求といった感じではあるが。まったく、どこまでも図太い亡者だ。とにかく、私はそれを無視した。

  地獄では亡者に発言権はない。閻魔が亡者に便宜をはかることも、その情状を()むこともない────してはならない、ことなのだから。

 

 

「では、始めます」

 

  私は、被告の罪を鏡に映し出す。

  生まれてから、あの館に来るまでのこと、来た後のこと。そして────

 

「……殺生、妄語、邪見。本来あるべき道を捨て、妖怪の側に(くみ)した罪。人間を刻み、その血肉を妖怪に供した罪……」

 

  読み上げるたびに、視界の端、金棒の向こうで、紅い悪魔の表情が動くのが見える。

  顔を、口を歪め、震える手を握りしめ……なにか吐き出したい言葉を、こらえている様子で。

 

  その一方で、十六夜咲夜は、揺らがない。

  すべての罪を認め、すべての行いを肯定している。心から。

 

  これでは、およそ救われようが無い。そう思えるほどに。

  けれど。

 

「……そして、与した妖怪との交わりにより、彼らに自身の命を(とら)えさせ、生死の法を乱させた罪」

 

  その最後の罪を、読み上げた時。

  かすかな後悔に、その魂が揺らいだ。

 

 

  そのこと自体が、罪深さではあるけれど。

  それでも、揺らぐ隙間があるのなら────いつか、輪廻(りんね)には戻れるだろう。

 

  だから私は、普通の判決を下した。

 

「……よって、無間地獄に落とす。以上です」

 

 

「待てっ!!

 ……その裁き、私が代わりに受ける!

 私を、咲夜の代わりに、地獄に落とせ!!」

 

  傍聴人が、一歩踏み出し、大声で叫んだ。

  おそらく言うだろうと思っていた、その言葉を。

 

「有り得ません。

 貴女は地獄に落とされるべき存在ではない。

 落ちるのは、衆生(しゅじょう)に属するもの、輪廻の中にあるものだけ。

 すなわち、そこの亡者だけです」

 

「そんなバカなことあるかっ!

 咲夜に仕事を命じたのは私!

 その供物を受け取ったのも私!

 それなのに、なんで!!」

 

  片手で顔を覆う、その隙間から、つと光るものが漏れ落ちた。

 

「咲夜だけが、地獄で罰に苦しまなきゃならないんだっ……!!」

 

 

 

「……よく誤解されていますが」

 

  ひとつ、深い呼吸をしてから、私は口を開いた。

 

「地獄は、罰を与えるための場所ではありません」

 

「な……」

 

  うつむいていた顔が振り仰がれ、乱れた眼差しが、私を見つめる。

 

「……何を……言って……」

 

「地獄は、魂の汚れを落とす場所。それに伴う苦しみが、罰でもあるに過ぎません。

 罰とは、天地自然の(ことわり)に従い、罪から生まれいずるものです。犯した罪は、いつか必ず何ものかに裁かれ、罰に苦しむことになる。それはたとえ、地獄に落ちなくても変わらない。現に」

 

  まっすぐに、悔悟棒を指す。その先にある、涙に歪んだ顔に向かって、私はゆっくり言葉を落とした。

 

「レミリア・スカーレット。貴女は今まさに、自らが犯した罪によって、深く苦しんでいるではないですか」

 

 

「……あ……」

 

  半開きに固まった口から、かすれた声が漏れた。

 

 

「短い時を生きる魂は、短い地獄の苦しみを繰り返す。対して、貴女のような存在は、その永い時間の中で、より永く苦しみ続けることになるでしょう。罪が同じならば、罰の大きさも同じ。ただ、苦しみ方が違うだけです」

 

  静かに言葉を注ぐ私を、見上げる濡れた紅玉の瞳。

 

  それはやがて苦しげに、ひしゃげ、潰れて。

  小さな手が、胸元をぎゅっと押さえる。

  その中心に突き刺さった何かを、奥へ押しこもうとするように。

 

  そして、かすかな嗚咽がその口から押し出され。

  細い膝の落ちる音と共に、磨かれた法廷の床に響いた。

 

 

「……いずれにせよ、判決は先のとおりです。連れて行きなさい」

 

  私はそう言って、護送の警吏を促した。

 

  警吏は頷いて、罪人を曳いてゆく。

  法廷の端、地獄の扉へと。

 

「待って! 咲夜っ!!」

 

  制止する金棒の柵から身を乗り出し、罪人の(あるじ)が叫ぶ。

 

「咲夜! ごめんなさい、咲夜! 私がっ……私の、せいでっ……!!」

 

「それで、いいの?」

 

  灰色の影から、声がした。

 

  八雲、紫。

  たった今まで、レミリアの背後に黙って佇んでいた、その少女が。

  幼い吸血鬼の耳もとに、そっと唇を寄せて。

 

「本当に、その言葉で。

 あなたが伝えたい言葉は……本当にそれで、よかったのかしら?」

 

  そう囁く。そしてちらりと、その目が私を見上げた。

 

  『閻魔さまでは、立場上、促せないでしょう?』

 

  ……そんな風に言いたげな顔で。

 

  だから私は、その視線に、気がつかなかったふりをした。

  ああ、まったくもって、厄介な相手だ。

 

 

「さく……咲夜っ……私……私はっ……」

 

  声を、喉を震わせて、幼い吸血鬼は、その胸から言葉を吐きだす。

  伝えたかった、伝えられなかった想いを。

 

 

「咲夜……私の、ためにっ……

 本当に、ずっとっ……

 ありが、とう……っ!!」

 

 

  その言葉に、十六夜咲夜だったものの気質が、ふわりと揺らめく。

 

  いずれ消え行く、はかない想い。

  その声なき声は、主人に伝わったのだろうか。

 

「さく、や……っ!!」

 

  見開いた目から、また涙が落ちる。

 

  きっと、伝わったのだろう。

  言葉ではなく、その笑顔だけで。

 

 

「……連れて行きなさい」

 

  私は改めて、警吏を促す。

  警吏は改めて、亡者を曳いてゆく。

 

「……咲夜……」

 

  その背中に、声がかけられる。

 

「咲夜っ……」

 

  背中は、遠ざかってゆく。

 

「咲夜ぁぁぁぁああああ!!!!」

 

  扉が、ゆっくりと閉じられて。

  低く、重い音と共に、メイドの姿は消えた。

 

 

 

 

 

「さく、や……ぁ……うっ……あ……ぁぁっ……」

 

  床にくずおれた、小さな小さな影が、なおも小さな声を上げていた。

 

  そんな彼女を横目に見ながら、ふと、それを言うべきかどうか、迷う。

 

 

  いや。閻魔の裁きは絶対であり、それは常に正しい。よって、そこに迷いなどはないし、あってはならない。

 

「余談ですが」

 

  私は視線を扉に戻し、そう口を開いた。

 

「貴女たちは、いつかまた巡り逢うでしょう」

 

 

「え……?」

 

  伏していた顔を上げ、こちらを見上げる気配がする。

  その表情にはきっと、驚きと、困惑と、そして希望が。

 

「縁がありますからね。共に罪を犯し、同じ業を背負ったものは、おのずから引かれあう定めにある。それでも人間同士ならば、地獄で業を祓うことで、その因縁を薄れさせ、断ち切ることもできますが……人ではない貴女の罪は、そう容易には消え去らない」

 

  そう。だからこそ、人にあらざる者の罪は重い。

  他でもない、私自身がよく知っている。

 

「罪が消え失せないかぎり、彼女との縁も切れることはない。

 故に……貴女たちは再び巡り逢う。

 そしてその時、また同じ罪を繰り返すかどうかは、貴女たち次第です────

 

 

 ────さて」

 

  私は椅子を回し、正面に向き直る。

 

「以上で、この件は終わりです。では次の亡者を」

「ちょっ……ちょっとお待ちください四季様! この侵入者どもの処遇は……!」

 

  さっきから待ちぼうけを食わせていた警吏が慌てた声を上げる。が、

 

「侵入者? 侵入者とは?」

 

  彼の指差す先には、もう誰の姿もない。

 

「えっ!? あれ!?」

「用は済んだから、さっさと退散したのでしょう。そもそも越境事案への対処は入管部の仕事です。我々は滞りなく、我々の仕事を。いいから次を呼びなさい」

 

  まあ多分、こっちに渡し済みの亡者は、そんなに溜まっていないだろうけど。在庫が尽きたら、また怠け者をひっぱたきに行くまでだ。

 

「……それもまた、新たな罪……か」

 

  ため息と共に、つぶやきを宙に捨てる。

  本当に、腐れ縁というものは。そう簡単には切れそうにない。

 




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七 永久の灯  


 

「……伝えられたのね。なら、良かった」

 

  談話室の窓際のテーブルで、レミィの話を聞き終えた私は、本のページをめくりながらそう言った。

  彼女と言葉を交わすのは、ほぼ一月ぶりだ。咲夜の寝室以外の場所で、声を聴くのも。

 

  あのあと、無言で館に戻ったレミィは、また数日間、咲夜の前で座りこんだままだったけれど、それがようやく、こうして彼女の部屋から出てきて、私に話をしてくれた。館を飛び出してからの顛末を、ぽつりぽつりと。

 

「とにかく追えば、なんとかなる道は見えてた……でも、まさか八雲紫が出てくるとは、思ってなかったな」

 

  揺らめく赤いランプの明かりと、凍てつく青い月の光が、同時に照らすレミィの横顔は、その境界がひどく曖昧で、ふと目を離せば消えてしまいそうなほど、儚げに見えた。

 

「貸しを作ったつもりはない、そう言ってたけどね。あいつのことだから、忘れた頃にしれっと何か言ってくるかも」

 

「そう。まあ、その時のことは、その時に考えましょう」

 

  咲夜の遺体は、まだそのままになっている。そのうち荼毘(だび)に付し、館の敷地内に葬る予定ではあるけれど。

  そのうちね、とレミィの言うその日は、きっとずっと遠い。時間はまだ必要だ。彼女にも、私にも、誰にも。

 

「ごめんねパチェ。色々と気を遣わせちゃって」

 

「別に……。私は特に、何かできたわけじゃないし。ただいつも通り、やりたいようにしていただけだから」

 

  その言葉には嘘はない。私は義理や義務感で何かをしたことはない。今までも、これからも。

 

「それにしても……あの閻魔様は、意外と優しい方なのかしらね。また巡り逢うだなんて……あなたを慰めるようなことを、わざわざ言うとは、ね」

 

  なんとはなしに、その感想を口にする。あるいは単に、レミィをすんなり退廷させるための方便だったのかもしれない、とも思った。しかし、

 

「そう? 私は違うと思う。冷酷なやつだよ、あれは」

「……どうして?」

 

  意外な答えに、本から顔を上げて彼女を見る。もとからほとんど読んではいないけど。

  くふ、と口から紅い息を吐いて、レミィは言葉を続けた。

 

「だってもし、もう二度と逢うことはない、なんて思ったら……いつか咲夜のことなんか忘れてしまって、この痛みも、苦しみも、それっきりになってしまうかもしれないじゃない?」

 

  思わず目を見開く。ちらりと横目にこちらを見るレミィと視線が合う。

  奇妙に歪んだ目と口元。その嘲笑の向く先は、私か。かの裁判長か。レミィ自身か。あるいは彼女の運命にか。

 

「きっとまた逢えると思えばこそ、私はその日まで……いや、その日が訪れない限り、苦しみ続ける。希望こそは最大の災厄である……か。よく言ったものだよね」

 

  背もたれに頭を預け、宙を見上げるレミィの顔は、確かに笑っていた。そして同時に、確かに彼女は泣いていた。

 

「でもいいのさ。一つ、間違いなくわかったことがある。

 私は私のために苦しむんじゃない。

 咲夜のために苦しむんだ、って。

 だから……どんな永い苦しみにだって、耐えられる」

 

  ────冷酷なる裁きの神にいわく。全てのものは、生きているだけで罪を犯す。罪を犯したものは、等しく罰に苦しむ。すなわち生きることは苦しみである、と。

  しかしそれでもなお、全てのものは生きる。生きて、苦しんで、死んで、苦しんで、何度でも生き返り、望んで生と苦しみを繰り返す。ならばつまり、苦しみとは────

 

  私は、月とランプに照らされたレミィの横顔を、じっと眺めていた。

  それは気高く、悲しく、ひび割れていて、美しい。

 

  その中心に焔を抱いた、一輪の薔薇。焔は常に花弁を焼き続け、薔薇は焼かれるはしから花弁を伸ばし続ける。永劫の責め苦。けれど薔薇は決して、その焔を手放そうとはしないだろう。それこそが求めて止まない、永遠の輝きだから。

 

「お茶、煎れるけど。飲む?」

 

  ページの進まぬ本を閉じてテーブルに置き、椅子から立ち上がる。

 

「……煎れるって、あなたが?」

「ええ。最近、美鈴に習ってるの。中国茶だけどね」

 

  数瞬の後。

  ぼんやりした眼差しで私を見上げていたレミィの顔に、ふわりと笑みが浮かぶ。

 

「そうね、お願い。……ありがとう、パチェ」

 

  その笑顔、その言葉が、私の胸に温かい火をともす。

  それと一緒に、焼けるような痛みも。

 

  今ならよくわかる。

  あの閻魔が、私を裁こうとしなかった理由。

 

  私のような、賢しい愚か者には、それが相応しい罰なのだと。そしてきっと、せめてもの慈悲でもあるのだと────

 

「どういたしまして」

 

  私も軽く笑って、お茶の支度に取り掛かる。

  何もできない私が、今ただ一つ、できること。

 

  ここから始まる永く遠い道へ、痛み悼む日常を、共に往くのだ。

 

  そう、私もまた、彼女たちと同じ焔を抱いて。

 




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花は宴と共に - 二ッ岩マミゾウの場合
一 嘘散る里  



 

「おぅい、何やってんだよ、こんなとこで」

 

  長い石造りの階段を登ってきた中年の男は、その少し先、鳥居の向こうで佇む若い男に、そう声をかけた。

 

「……ハナ」

 

  呼びかけられた背の高い男は、石畳の道の横、上のほうを見上げたまま、奇妙な発音で一言、独り言のように答える。見慣れぬ異国の風貌は、色黒で、彫りが深い。水色の作業着に、黄色いヘルメット。中年の男も、同じ出で立ちだ。

 

「花ぁ? ……ああ、こりゃなかなか見事だな。こんなとこにも桜があるのか」

「サクラ……」

 

  草が生い茂った広場のような場所、その傍らに、大きな山桜の木が幾本か並んでいた。いずれも満開に花を開き、晴れた青い空の下、地上の雲のように輝いている。

 

「キレイナ、ハナ。ワタシノクニ、コンナハナ、ナイ。デモ、ドコカデミタ、ハナ」

 

「いや、そうじゃなくてな。勝手に変な所に入りこまんでくれよ。どこの誰のもんだか分かんなくなっちゃいるが、いちおう私有地なんだから。面倒ごとが起きちゃかなわん」

 

  二人が立っている道の先には、古い神社の社殿があった。草ぼうぼうの境内は、二人のほかに人影も、人が立ち寄っている気配もなく、ここが既に打ち捨てられて久しいことを匂わせる。ただ、その割には社殿も鳥居も、石畳も崩れた様子はなく、時が止まったまま古びたかのような、奇妙な厳かさを漂わせていた。

 

「そろそろ休憩時間も終わりだ。ほら、仕事に戻るぞ」

 

  色黒の男は、なおも満開の山桜をぼうっと見上げている。その唇が開き、小さな呟きが漏れる。

 

「ネガワクバ……ハナノモトニテ……」

 

「なんだ、お前さん西行なんか知ってるのか」

 

「……サイギョー?」

「名前は知らんか。この世でいちばん綺麗な景色の中で死にたいっつって、その願い通りに死んだ、幸せな男の話さ」

 

  ざあっと音高く、一陣の春の風が、花咲く梢を揺らしていった。

 

 

 

  ──── 境界監視記録 六八二四四三号 六刻

 


 

 

 


 

(  )博麗の巫女 代替わりの儀

 並びに祝賀の宴のご案内(  )

 

  目の前に突き出されたチラシには、そう書いてあった。

 

  紅白の服を着た少女は、それを見てため息をつきながら、右手のお祓い棒を振り上げる。

 

「てぇいっ!」

 

  気合と共に打ち据えられたチラシは、たちまち大きな木の葉へと変わり、女の手から離れて地面に落ちた。

 

「……ええっ!?」

 

  驚きの声を上げる女に向かって、

 

「見てのとおり、これは妖怪のしわざ。タヌキかキツネか……とにかく、そいつらが撒いたデマだから」

 

  うんざりしたような顔でそう言い、当代の博麗の巫女──霊夢は再びため息をつく。

 

「ええ~。せっかく、こんなところまで歩いてきたのに……」

 

(   )こんなところ(   )って……まあ、いいけど。

 だけどね、変だと思わなかったの? 何の前触れもなく、巫女が代替わりするなんて」

 

「うーん、そうですねえ……でもなんとなく、そういうものかなって……」

 

  腕組みをして問う霊夢を前に、ぽりぽりと頬を掻く。その顔に、鋭い声が飛んだ。

 

「そう、それ!」

 

「ひゃいっ!?」

 

「そうやって、ぼんやりした考えで生きているから、こういう嘘を簡単に信じこむの。それは心に芯が通っていないせい。芯が通っていないというのは────」

 

  びしり、と女の鼻先に、お祓い棒が突きつけられた。

 

「つまり、信心が足りないの!」

 

「は、はぁ……?」

 

  のけぞって目を白黒させる女に、さらに言葉を浴びせる。

 

「信心が足りないと、神様の力添えもない。

 そういう人は、詐欺や妖怪に騙されやすくなる。

 そして、騙されてとはいえ、神社(ここ)に来たのも何かの縁。

 二度と引っかからないように、しっかり拝んでから帰りなさい!

 ……もちろん、お賽銭もしっかりね!!」

 

  まくしたてる勢いに、はい、はい、と何度も頭を下げる。

  そんな女の様子に、よろしい、と満足げに頷いて、霊夢は縁側に腰を下ろすと、飲みかけだったお茶を一口すすった。

 

  が。

 

「……ん?」

 

  はたと眉根を寄せると、

 

「ねえ、ちょっと待って!」

 

  去ろうとした女の背中に声をかける。

 

「はい?」

「あなたの少し前にも、そのチラシ持った人が何人か来て、追い返したんだけど……。ここまで登ってくる途中、その人たちから、これがデマだって聞かなかったの?」

 

  呼び止められた女は、えーと、と考えこんで、

 

「いえ……誰とも会いませんでしたよ。

 なんだか変な……獣……?……だか、犬だかとなら、すれ違いましたけど……」

 

「……はぁ?」

 

  首をひねる霊夢を尻目に、こちらも首をひねりながら、女は拝殿のほうへと引き返していった。

 




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二 花の下に狸の居る事  


 

  鳥居のわきで、二人の女が、昼日中(ひるひなか)から酒を飲んでいる。

 

  一人は着物に丸眼鏡の若い女。もう一人は黒いワンピースの、むしろ少女と呼べる年頃の娘。

 

  茣蓙(ござ)に座って重箱をつつく、頭上は一面の桜色。

  境内のすみに並んでいる、幾本かの山桜が、弥生の空に咲き誇っていた。

 

 

「ほれ、次がくるぞい、ぬえ」

 

  拝殿のほうから歩いてくる人影を目にした眼鏡の女が、そう黒服の娘に声をかける。

 

「わかってるって」

 

  ぬえ、と呼ばれた娘は小声で返事をすると、二人のそばを通り過ぎて鳥居をくぐろうとしている人影──先ほど霊夢にチラシを落とされた女の背中に、得体の知れない何かを投げつけた。

 

  すると、投げつけられた女の姿も、得体の知れない何かへと変わり、しかし当人はそれに気づきもせず、人里へと向かう石段を降りていく。

 

  正体不明の種。

  人でも物でも、仕込まれたものの姿を、なにやらよくわからないものへと変え、その正体を包み隠す力。

  それが、(  )ぬえ(  )(いにしえ)から呼びならわされる妖怪の能力だった。

 

「よし、よし。まだしばらくは、バレなさそうじゃのう」

 

  そう言って徳利(とっくり)から酒を注ぐ眼鏡の女も、やはり姿どおりの人間ではない。

  幻想郷一円の化け狸を束ねる頭領、二ッ岩マミゾウ。木の葉のチラシを用意したのは、彼女であった。

 

「へへへ。やっぱり、こういう(たぶら)かしこそ、妖怪の本領って気がするよ。妖力の美しさを競うのも、悪くはないけどさ」

 

  にかりと笑って、ぬえは団子をひとつ頬張る。

 

「あ、これイケるね……人里で作ってるやつじゃないな、(   )(   )のヤツ?」

 

「うむ、このあいだ里帰りしたついでの土産じゃよ」

 

  マミゾウも同じ団子をつまみ、口に放りこんで顔をほころばせた。

 

「あー、それにしても……やっぱりこの季節はいいねぇ。

 暖かい日差し、爽やかな風、咲き乱れる桜。

 平安の都のころから……何も変わらない」

 

  まだ、世界が混沌に満ち、人以外の多くのモノが未知の化物(ケモノ)であった時代。

  それを知り、今もその力を宿す小さな大妖怪は、目を閉じ、木に背中を預けて、その遠い風景を思い出しているようだった。

 

年年歳歳(ねんねんさいさい)花相似(はなあいにたり)歳歳年年(さいさいねんねん)人不同(ひとおなじからず)……なんて歌もあったがのう」

 

「それ唐のオッサンの詩? けど、いかにも人間の詠む歌って感じ。私たちから見れば、人間だって大して変わりゃしないのにね」

 

「いかにも。とはいえ、花の色が少しずつ移ろうように、人も少しずつ変わるがな。じゃから儂らは……今、(   )ここ(   )におる」

 

  言って、くいと(さかずき)を空ける。

  そんな彼女もまた、ぬえと同じ混沌の系譜に連なり、他の多くのケモノがただの動物となった後でも、なお奇怪なモノで在り続けた者の一人であった。

 

「あー、やなこと言うなぁ。まあ私たちは、まだ結構(   )(   )でも名が通るからマシだけどね。それもいつまでやら……。ハツデンショだっけ? 全部ふっとばしたら、また妖怪の天下が来るかな?」

 

「はは、やめとけ、やめとけ。いまさら人間に、喧嘩を売ったところで……」

 

「そぉぉぉおぉぉぉねぇぇぇ。神社に喧嘩を売るのも、なかなかいい度胸だけどねぇぇぇ」

 

  響いた声に、ぬえはぴゃっと奇声を発して飛び上がると、一目散に姿を消した。

  一方のマミゾウは、悠然と振り向いて、

 

「おや、霊夢。どうじゃな、お前さんも一杯」

 

「おや、じゃないでしょ! やっぱりあんたらか! わけわかんないデマ飛ばさないでよ!」

 

  バシバシと、お祓い棒でマミゾウの頭をはたく。

 

「あ痛っ! 痛い痛い、わかった、わかったからやめい!

 ……まったく、ちょっとした冗談じゃろうに、心が狭いのう……」

 

「冗談だろうがなんだろうが、怪異は怪異! 余計な手間かけさせんな!」

 

「しかし、おかげで幾らか賽銭も入ったじゃろう?」

 

「う……そりゃ、まあ……。

 でも、際限なく続くのは困るの! 今すぐやめさせなさい!」

 

「安心せい、もう新しいのは撒いとらん。

 じゃが、すでに撒いたのが多分まだまだ……痛っ!」

 

  再三、マミゾウを引っ叩いた霊夢の背後から、

 

「あのー、代替わりの儀って、どこで……」

「てぇーい!!」

 

  声をかけた若い男が手にしたチラシを、振り向きざまに張り飛ばす。

 

「うわっ!?」

「そいつはデマ! 代替わりなんかしないから! 宴も祭りも屋台もナシ!」

 

  噛みつくように叫びちらしてから、ずんずんと鳥居のほうへ歩いてゆく。

 

「おや、どこへ行くんじゃ?」

 

「まだ来るんでしょ!?

 こっちから里へ向かって、道すがら追い返すの!

 ついでにデマだってキッパリ宣言してくる!」

 

  お祓い棒をぶんぶん振りながら、霊夢は早足で石段を下りていった。

 

「やれやれ、相変わらず気短(きみじか)じゃのう……ん?」

 

  杯に口をつけなおしたマミゾウの視線が、すいと横へ流れる。

 

 

  視線の先には、人影がひとつ。

 

  つい今しがた、霊夢にチラシをはたき落とされた、若い男が。

  突っ立ったまま、じっとマミゾウを見ていた。

 

 

「……なんじゃ、儂に何か用かの?」

 

「あ、いや、その……」

 

  不意に、空を流れていた雲が切れ、さあと(まばゆ)い光が差した。

 

  陽光が二人の姿を輝かせ、くっきりとした影がふたつ、他に誰もいない境内に落ちる。

 

「……ちょっと、お願いが」

 

  男の声が、静かに響く。

 

  頭上を覆うのは、一面の花の雲。

  あたりを包むのは、暖かい春の風。

 

  ざわざわと枝を揺らす、満開の桜の下で────

 

 

「────を、教えてくれませんか」

 

 

  そう唇が動き、その言葉が、マミゾウの耳に届いた。

 

  そして。

 

 

「……は? 酔っとるのか? おぬし」

 

  数秒の()のあと、眉をひそめて、マミゾウは聞き返した。

 

「え? いえ、素面(しらふ)ですけど……」

「ふぅん……」

 

  男を横目で見ながら、くいと杯をあおり、

 

「……つまり、儂を口説いとるんじゃな? それは」

 

  半眼で、にやりと笑う。

 

「ええと……まあ、そういうことに、なりますか……ね?」

 

「そうか、そうか……ふん、なんとも物好きな。

 ま、教えてやってもいいが……」

 

  つと余っていた杯を拾い上げ、男に向けて投げ渡す。

 

「ただで教えるのも、つまらんからの。

 ちょっと、儂と勝負をしてみんか?」

 




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三 ある賭けの勘定  


 

「どうじゃ~? まだ、いけるか~?」

 

  指先で煙管(きせる)をくるくる回しながら、地面に仰向けにぶっ倒れた男の顔を覗きこみ、マミゾウはのんびりと問いかける。が、

 

「う……ぐ、う……」

 

  真っ赤にゆで上がった顔から返ってきたのは、そんな呻き声だけだった。

 

「ふふ、無理そうじゃのう。儂の勝ちじゃな。というわけで約束どおり……」

 

  すぱっと一息、煙管をふかしてから、こちらもそこそこ酔いの回った顔で、男のふところを探りだす。やがて財布をつかみ出し、開いて中身をあらためると、

 

「ほほ~、なかなか持っとるじゃないか。どれ、ひーふーみーよー……あ痛ぁ!?」

 

  脳天に叩きつけられた衝撃に、後ろを振り向けば。

 

「……なにやってんの、あんたは!」

 

  夕焼け空を背にして、霊夢が立っていた。

 

「おお、お帰り。意外と遅かったのう」

「なにが、お帰り、だっ! この、こそ泥、がっ!!」

 

  ばしばしばしばし。お祓い棒の雨が降る。

 

「痛っ! 痛いぞ! やめい! これは泥棒ではない、賭けの対価じゃ!」

 

「……賭けぇ?」

 

「そうとも、呑み勝負のな。

 儂が勝ったら、この場の酒代もろもろを頂く。そういう賭けじゃ。

 嘘じゃあないぞ、なんならこいつに確かめてくれ」

 

「ふーん……まあ、そんならいいけど」

 

  うさんくさそうに見下ろしながら、霊夢はお祓い棒でとんとんと肩を叩き、

 

「ちなみに、あんたは何を賭けたの?」

 

「ん? それはな……。

 ……秘密、じゃ」

 

「はぁ? なにそれ」

 

  目線を逸らしてうそぶくマミゾウに、霊夢が眉をひそめた時。

 

「う……」

 

  ごろりと転がりながら、男が起き上がった。

 

「おお、起きたか。ほれ、財布は返すぞ。賭け金はきっちり貰ったからの」

 

  ばさりと投げられた財布を、もぞもぞと拾って懐に納めると、ゆっくり立ち上がろうとして。

 

「うおっ……」

 

  バランスを崩した体が、また地面に転がる。

 

「ははは、情けないのう」

 

  それを見て笑う頭の上に、今度は声が降ってきた。

 

「……ちょっとあんた。こいつ、里まで送っていきなさい」

 

「……はぁ!? なんで儂が……」

 

  抗議の声を上げたマミゾウの耳が、ぐいと引っ張られる。

 

「痛っ! 痛い、痛い!」

 

  悲鳴を無視してその耳に口を寄せ、霊夢は小声でひそひそと、

 

「……あのねえ! 今日はこれから宴会でしょ、ここで!

 もうそろそろ、妖怪(みんな)が集まってくる時間!

 里の人間が残ってるのは困るの!」

 

  そう早口でまくしたててから、突き放すように指を離した。

 

「それでなくても、酔いつぶしたのは、あんたの責任!

 さっさと家まで送ること、無事にね! ほら、早く!」

 

「わかった、わかった! 運べばいいんじゃろ! まったく……」

 

  ぶつぶつ文句を言いながら男のそばへ寄り、肩を貸す。

 

「ほれ、立てるか? よい、せっ……と」

「あー……う、すみませ……うぷっ」

「ああ、こら! ここで吐くな! 我慢せい!」

 

  なんとか抱えあげると、二人は夕日に赤く染まった鳥居をくぐり、ふらふらと石段を降りていった。

 

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

「おい、ここでよいのか? おぬしの家は。戸くらい自分で開けい」

「あ、はい……どうも、すいま、せん……」

 

  人里の片隅にある、小さな家の前。

  宵闇へと変わりつつある夕暮れの中、マミゾウに寄りかかったまま、男は玄関の戸をのろのろと引いた。

 

「はー、疲れた……どっこいせっと」

 

  転げこむように、男の体を板の間へ放り出す。

  障子の向こうに見える奥の部屋は、暗く静まり返っていて、他に誰かが住んでいる気配もない。

 

「まったく、手間をかけさせよって。

 ま、これに懲りたら、勝負を挑む相手はよく見極めるんじゃな」

 

  ふん、と呆れたような鼻息が、後頭部に吹きかけられる。

 

「はあ……。

 あ……もし、よかったら、上がってお茶でも……」

 

  そう言いながら起き上がり、振り返った玄関先には、もう誰の姿もなく。

 

  ただ、ひゅうとひとつ風の吹いた後に。

  山桜の花弁が一枚、男の足の上に落ちていた。

 




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四 仲々諦めぬ彼奴  


 

「なんじゃ、また来よったのか。しょうのないやつじゃのう」

 

  鳥居によりかかって煙管(きせる)を吸っていたマミゾウは、石段を登ってきた人影に目をやると、呆れかえった表情でぷうと煙を吐いた。

 

  あの日から毎日のように、(さかずき)を手に挑んできている男のほうは、軽く手を上げ、嬉しそうに笑う。

 

「ええ、自分でも、諦めが悪いとは思いますけど。……まだ、咲いてますよね」

「まあ、一応は……な」

 

  横目に見上げる山桜の枝には、なおぽつりぽつりと遅咲きの花が残っていた。

 

  と、地面のほうから、

 

「へえ、こいつが噂の物好きか」

 

  大きな帽子をかぶった金髪の少女が、座りこんで男を見上げていた。

 

「あれ? あなたは確か、霧雨の……」

 

「いやあ、今ならタダで酒と団子にありつけるって聞いたからさ」

 

  自称普通の魔法使い、霧雨魔理沙は、そう言ってにかっと笑う。

  その手は早くも重箱の中へ伸び、団子がひとつ口の中へと消えた。

 

「……お前さんの分は、賭けに入っとらんぞ」

 

「いえ、構いませんよ。俺が負けたら、一緒で」

 

「おーっ、太っ腹!」

 

  そして今日も、物好きたちの宴が始まる。

 

 

 

 

 

「で? で? こいつのどこが気にいったんだ? なあ」

 

  魔理沙は魚の干物をかじりながら、興味津々といった表情で、男を肘でつついて問い詰める。

  勝負の盤外から身を乗り出すその顔は、もうだいぶ酒が回ったふうだった。

 

「うーん……どうしてでしょうね。やっぱりいわゆる、一目惚れ……かも」

 

  注がれたばかりの酒の香りを嗅いで、男がそう答えると、

 

「お、お~……ひとめぼれ……そ、そうかぁ~」

 

  居心地悪そうに目線を泳がせながら、ぽりぽりと赤くなった頬を掻く。

 

「なんで、お前さんが照れとるんじゃい」

 

  そんなマミゾウのツッコミを聞き流しつつ、

 

「うーん……いや、熱い、熱いねー……」

 

  そう言ってうんうんと一人うなずいていたが、不意にぱんと男の背中を叩くと、

 

「でもなあ、こいつはやめといたほうがいいと思うぜ?

 淑女然とはしていても、百戦錬磨の古狸。

 たぶらかした男は数知れず、だからな!」

 

  いつもとまったく変わらぬ調子で。

  陽気に、どこまでも陽気に、魔理沙は笑う。

 

  しかし。

 

 

  ────ぞわり、と(わず)かに。

 

 

「……利いた風な口をきくでないぞ。

 貴様(きさん)が儂の何を知っとると言うんじゃい、小娘が」

 

 

  漏れ出た妖気と共に、薄寒く細まった眼光が魔理沙を────見据えることすらなく、切りつけた。

 

 

「おっ……と、と……。じゃあ、私はこのへんで。ご馳走さん!」

 

  軽薄ではあるが、決して鈍くはない魔法使いは、跳ねるように箒に飛び乗り、空の彼方へ姿を消した。

 

 

 

 

 

  二人だけになった境内に、いくらかの時と酒が流れた後。

 

「ま……やめといたほうがいい、というのは、魔理沙の言う通りじゃがな」

 

  そっぽを向いたまま、マミゾウはそう言った。

 

  男は杯を傾けながら、はは、と小さく笑う。

 

「霊夢さんにも、同じこと言われましたよ。たぶらかされてるだけだって」

 

「あやつめ……いや、まあ、よいわ」

 

  軽く眉をひそめながら、ふんと鼻息を吐き。

  差し出した手に持った杯に、男の手から酒が注がれる。

 

「……お前さんが一体、どんな夢を見て儂に言い寄っとるかは知らんがな。きっと、そんな望みどおりにはならん。生憎じゃがな」

 

「そうですかねえ」

 

「そうじゃよ。あやつらの言葉じゃないが……たぶらかされて、泣くのがオチじゃろ」

 

「たぶらかす気なんですか? 俺を」

 

「やかましい、言葉のあやじゃわ。

 分不相応な夢を見れば、残るは失望と後悔だけ、と言っとるんじゃ」

 

  唾を吐きつけるような声が飛ぶ。

  けれど、浴びせられた当人の口から出た言葉は、場違いなほどに穏やかだった。

 

「あとに何を残すかなんて、自分しだいですよ」

 

「……はあ?」

 

「たとえ願いが叶わなくても……追いかけていた自分を、不幸だと思わなければ、それは素敵なことじゃないですか?」

 

「……ふん、なんとも幸せそうな考え方じゃのう」

 

  冷笑と共にくるくると、手の中で杯と酒をもてあそぶ。

 

「しかし……まあ、確かに、な。何事も、見方によって姿は変わるもの。そのうち(いず)れが本当なのか……それは、あるいは神仏にすら分かりはせん。じゃから……」

 

  ────じゃから妖怪(わしら)は、なお、ここにおる────

 

  そう言いかけた言葉を、杯の中身と一緒に飲みこんでから、男に向かって徳利(とっくり)を差し出す。

  そんな言葉を知るはずもなく、男は杯でそれを受け、

 

「ええ、それなら……だからこそ、自分の望む世界こそが、自分にとっては真実なんだって……俺は、そう思うんですけど」

 

  言って、かすかに笑ってみせた。

 

「望んで足を踏み出した先が、もしかしたら断崖絶壁だとしても、かの?」

 

「信じていれば、そのまま空も歩いていける。そういうことも、あると思いませんか?」

 

「……ふ、そうじゃな。確かに(   )ここ(   )では、そういうこともあるんじゃろうなあ」

 

  杯を干す男を見つめつつ、彼女もふと柔らかく笑い────けれどその笑みは、どこか自嘲ぎみだった。

 

「自分の望む世界、か……」

 

  また酒を注がれながら、独り言のように、マミゾウは言葉を続ける。

 

「もう儂には、よう分からん。皆の求めに応じて取り繕い、立場に相応しい色を塗り重ねた、今のこの自分と、それを囲む世界が、自ら望んだものなのか、そうでないのか……。

 もはや自分だけしか憶えておらぬ、あの日の自分は────本当に存在していたと言えるのか……な」

 

  手の中で揺れる水面(みなも)をぼんやりと眺め、それに口をつけようとした、その耳に。

 

「……よくわかんないですけど。

 俺にとっては、いま目の前にいるあなたが、本当のあなたですよ」

 

  暖かい風に乗って、その言葉が届き。

 

  はたと上げられた顔の真ん中で、マミゾウの目が、その眼鏡のように丸くなる。

 

 

  ひらり、と花びらがひとつ、舞い落ちるほどの時間が過ぎて。

 

 

「ぷっ……。

 ……くく、くはは、あははははは!!」

 

  突然に、春の空を仰いで、高らかに笑う。

  それを見て、今度は男の目が丸くなる。

 

「何か、おかしなこと、言いました?」

 

「ははは、は……。

 いや本当に、幸せそうな男じゃと思って、な……」

 

  目じりを軽く指でぬぐいながら、マミゾウは杯に口をつけなおした。

 

「……はい」

「褒めとらんぞ」

「はい」

 

  男はただそう返し、ただ穏やかに笑っている。

 

 

 

  またしばらくの間、静かに酒を勧めあう時が流れ。

 

「……なあ、お前さん……」

 

  不意にぼそりと、口から言葉がこぼれた。

 

「んー……? なんです?」

 

「もしかして、以前、どこかで……」

 

「……え?」

「いや、なんでもない」

 

  ぼやかして杯を干し、男の杯に酒を注ぐ。

 

  男はそんな彼女の顔を、もうだいぶ酔いのまわった瞳で見つめながら、ややゆっくりと杯を空け、また徳利を傾け返す。

 

  注ぎ、注がれ、行きかう杯。

  桜の花が、またひらりと散った。

 

 

 

 

 

 

 

    …

 

 

 

── もう 会えんのか

 

 

 あたし (たば)ねに成らねばならんで

 

 

── せめて お前の……

 

 

 教えん どうせそれも 消えて()ぉなる

 さらばじゃ

 

 ……それと その

 あの事ぁ 誰にも

 

 

── あの事 ……ああ 粗相の

 

 

 言うな

 

 

── (おら)ぁ 気にしとらんが

 

 

 忘れぇ 忘れとくれや どうか……

 

 

 

    …

 

 

 

 

 

 

 

  どこかから流れてくる風に乗って届く、何かの香り。

  やや近くで感じる、ほのかな人暖かさ。

 

  ゆっくりと目を開けば、薄く赤みの差した空と、丸眼鏡の顔が目に映る。

 

「ようやく起きたか。今日もやっぱり、儂の勝ちじゃな」

 

  軽く笑って煙管をふかし、マミゾウは寝転がる男の胸に財布を投げ落とした。

 

「まだまだ、ぺぇす配分が甘いのう。だいぶ慣れてはきたようじゃが、な」

 

「……そう、ですね……」

 

  起き上がり、財布をしまってから、しばらく座りこんで宙を見上げていた男は、やがて軽く頭を振ると、ふらつきながら立ち上がる。

 

「では行くか。ほれ」

 

  そう言って、今日も肩を貸そうとしたマミゾウの腕は、やんわりと押しのけられた。

 

「いえ……一人で、歩けます、よ……。そんなに、何度も送られる、なんて、情けないです、し……」

 

「……ふん、そうか。ま、気をつけてな」

 

  頼りない足取りで鳥居をくぐり、石段を下っていく男の背中を、しばらく見送って。

 

  ぴゅうと吹き鳴らした口笛に、小狸が一匹、草むらからひょっこり顔を出す。

 

「里の入り口まで、見守っておけ。……何か起きたら、また霊夢がうるさいからの」

 

  その言葉に小狸はこくりと頷き、男の後を追って参道へと消えた。

 

 

 

  静まりかえった境内には、マミゾウの姿だけが残された。

 

「なかなか頑張ったが……残念ながら、時間切れじゃな」

 

  すっかり散ってしまった山桜を見上げ、独り笑う。

  酒と夕日に赤らんだその顔は、どことなく寂しげに見えた。

 




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五 吟じられた望み  


 

「はぁ~るぅ~こぉ~おぉ~ろぉ~おぉ~のぉ~、

 はぁ~なぁ~のぉ~えぇ~ん~~、っとぉ……おや」

 

  季節は巡り、新しい春。

  柔らかな風の吹く昼下がり。開き始めた、山桜の下。

 

  博麗神社の境内で、独り徳利(とっくり)を傾けていたマミゾウは、ころりと首を傾げて、石段のほうを見やる。

 

「おー、また来よったか。久しぶりじゃのう……確か、秋ごろ以来かの」

「ええ、あの時は、紅葉を肴に……」

 

  鳥居の下に、あの後も幾度か呑み比べをした、その男が立っていた。

 

「もうそろそろ、咲くころかなって、来てみました」

「ちょうど、暖かくなったからの~。しかしまだ咲き始めというに、随分と準備がいいのう」

 

  くいと指で押し上げる丸い眼鏡に、男の手に提げられた酒瓶と重箱が映る。

 

「それは、あなたも……というか、一体いつから飲んでるんです?」

 

「お互い様か、はは、は。

 ……それにしても、やっぱり、春はこれじゃな。こいつなしでは、始まらん」

 

  まだ薄く寒さを残す空の中、浮くように輝く花を見上げて、マミゾウは笑っていた。

 

「綺麗、ですよね」

「ああ。じゃがそれは、ただ色や形の美しさではない」

「え?」

 

「ま、霊夢からの受け売りじゃがな……」

 

  (さかずき)にひとつ口づけてから、物語るように、言葉を紡ぐ。

 

「────いわく、季節の巡りは、命の巡り。

 三精、四季、五行の中で、何度でも世界は生まれ変わる。

 古来より、変わることなく……桜の花は、その象徴。

 ゆえに命もつ誰もが、この花に引き寄せられてくるのじゃろうて」

 

  花と枝の間に遊ぶ妖精を眺めつつ────そしてもう一言を、付け足した。

 

「もちろん、お前さんも、な」

 

「……そうなんでしょうか、ね?」

「ふふ、花より団子が目当てかの? まあ、いいわい。しかし……」

 

  火照った眼差しで男を見つめたマミゾウは、再び桜を見上げ。

 

  その唇が、おもむろに風に(うた)う。

 

 

 

  願はくは

    花の下にて

      春死なむ

  その如月の

    望月の頃

 

 

 

「……それは?」

 

「むかーし、むかしの坊主の歌じゃよ。死ぬなら満開の桜の下、この世でいちばん美しい景色の中で……とな」

 

  杯の中にわずかに残っていた酒を、すいと飲み干して、マミゾウは語りを続けた。

 

「ちなみにそいつは、その願いどおりに死によった。強い意志が運命を引き寄せたのか、その謡った言葉が願いを叶えたのか。あるいは、単なる偶然かもしれんがな。ただ……」

 

  空いた杯を、男のほうに突き出し、にやりと笑う。

 

「強く想い、引き寄せようとせぬ願いは、決して叶うことはない。

 さて、いつかの願いは叶うかどうか。

 今年も勝負といってみようかの?」

 

 

 

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

「言ったじゃないですか、先に飲んでた分の差が、不公平だって」

 

  神社から人里へと向かう、赤く日の暮れかけた道を、柔らかな荷物を背負って、男は歩いていた。

 

「いや~、あれくらいなら大丈夫と思ったんじゃがの~。そう、ほら、あれじゃよ。はんでかっぷ、というやつじゃ~」

 

  男の背にぐってり身を預け、眼の閉じかけた真っ赤な顔を左右に揺らしながら、マミゾウはのろのろと言葉をこぼす。

 

「勝負なしでいいですよ、今日のは……」

 

「ふん、生意気なことを、言うでないぞぉ。始めた以上、勝負は勝負。後からひっくりかえすほどぉ、落ちぶれちゃ~おらん。

 ……が、しかし……」

 

「しかし……なんです?」

 

「うーむ……ちょっとばかり、まずいことにぃ、なってきたのぅ……」

 

  背中にしがみつく力が、ほんの少し強まる。

 

「だから、なんなんですか」

 

「いやぁ~、今日はたくさん呑んだからのぉ~。その水気が、ちと……漏れそうなんじゃ、下から」

 

  男の耳元で囁くように、そう言いつつもマミゾウの腕は、なおしっかりとその背に抱きついていた。

 

「え!? ちょ、ちょっと待ってください、今、どこか草むらに……!」

 

  慌ててあたりを見回す。だが、

 

「いや、間にあわん。漏れる」

 

「ええ~……。しょうがないなぁ……」

 

  マミゾウを背負ったまま、立ち尽くす男。

  しがみついたまま、動きを止めるマミゾウ。

 

 

  ややあって。

 

「……なんじゃ、放り出さんのか」

 

  ぼそりと男の耳に、声が吹きかかった。

 

「いやぁ……あなたのなら、別にいいかなって……」

 

「酔っとるな? お前さん」

 

「そりゃあ、まあ……俺だってかなり呑みましたし。

 って、余裕あるんなら、いま降ろしますけど」

 

「……ふん、冗談じゃよ、冗談。

 子供じゃあるまいし、そんな簡単に漏らしたりせんわ。

 ところで、そこ川じゃぞ」

 

「えっ?」

 

  言われて見下ろした足元は、すぐ目の前に小川の流れる草むらだった。

 

「あ、あれ!? さっきまで、道の真ん中、歩いてたはず……!?」

 

「ははは、小水ではなく、小川の水で、びしょ濡れになるところじゃったのう。ほれ、橋はあっちじゃ、あっち」

 

「ううん……」

 

  酔いに揺れる頭を振りながら、男は橋に続く道へと歩みを戻した。

 

 

 

 

 

  ◆ ◆ ◆

 

 

 

 

 

  やがて、野道も尽きて。

  薄暗がりの中、小さな門をくぐったその少し先で、男は足を止めた。

 

「ほら、里に着きましたよ。家は、どっちです?」

 

  とっぷりと日の暮れた街角で、背中の荷物に問いかける。が、

 

「う~ん、どっちじゃったかの~。呑みすぎたせいか、よく分からんわ」

 

  男の肩の上であごを転がすマミゾウから返ってきたのは、そんな返事だった。

 

「ええ……?」

 

「なんなら、ここに置いていってもいいぞ~い。

 そのうち酔いも覚めて、思い出すじゃろ~」

 

  ぐでぐでと耳に入ってくる言葉を追い出すように、男は首を振る。

 

「いや、こんな時間、こんな場所に、女性一人で置いてくなんて……」

 

  人通りのない里のはずれは、すでに夜の底。

  暗くぼやけた道を照らすのは、ところどころに置かれた灯篭の、頼りない明かりだけだった。

 

「そうじゃなぁ。もしかすると、通りがかった狼に、襲われてしまうかもしれんなぁ」

 

  その闇には不似合いに暢気(のんき)な声と、男の口から漏れる、小さな溜息。

 

「そうですよ、だから家まで……」

「うむ、じゃからな」

 

  声をさえぎり、頭と頭をくっつけて。

  そっと、囁く。

 

「……今宵は、お前の家に、泊めてくれ」

 

 

 

  宵闇に包まれた、人里の片隅で。

 

  ほんの少しの間、静かに時が流れた。

 

 

 

「……俺だって、突然、狼になるかもしれませんよ」

「お前さんに襲われるなら、別にいいかのう」

「酔ってます?」

「勿論」

 

 

  溜息のような、あるいは深呼吸のような、大きな息を吐き。

  男は、彼女の体をしっかり背負いなおすと、自分の家を目指して、町並みの中へ消えていった。

 

 

 

 

 

────そろそろ、教えてください

 

────何をじゃ?

 

────まだ、名前を聞いてません

 

────ふふ、覚えとったか

 

────だって、それが俺の、願いですから

 

────そうじゃったな……儂の、名前は、な……

 

 

 

 

 

  花に酒。開き、散る輝きと、新生する季節への喜びを。

  月に酒。夜風に寄り添う肩の間で、杯に映る真円の餅を。

  雪に酒。白く凍る静寂の中、触れ合う手と体の温もりを。

 

  巡る、巡る、巡る季節。

  そして────

 




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六 遠いお別れ  


 

  秋風が、くすんだ空の下をひょうひょうと吹き抜けていく。

 

  ざわざわとさざめく枯れ野に、ゆらりと煙草の煙がたなびき、たちまち空へと溶けて消える。ときおり落ち葉の踊る中、たたずむ一匹の化け狸。丸い眼鏡の見つめる先で、遠く小さな人の列が、棺桶をひとつ担いで墓地の方へと、ゆっくり歩みを進めている。

 

  やがてくわえた煙管(きせる)を一息、大きく吸うと、ぷうと吐き出す煙の後に、マミゾウはのんびり言葉を継いだ。

 

「……人の一生、実にせわしないもんじゃな。目まぐるしく生きて死んで、生きて死んで……そりゃ、あんた達も、さぞ忙しかろうて……なあ?」

 

  問いかけ、振り向く背後に、いつの間にか音もなく立つ人影があった。

 

  威厳に満ちた大きな帽子に、手には罪人を打つ悔悟の棒。左右非対称の髪の房が、風に吹かれて揺れている。地獄の神の一柱(ひとはしら)、幻想郷の担当閻魔。楽園の最高裁判長、四季映姫・ヤマザナドゥ。

 

「……で、なんの用じゃ? 説教の押し売りならお断りじゃぞい」

 

「代金を取った覚えはありませんけどね。それとも取ってみましょうか。どこぞの廃品回収業者よりは、稼げる自信がありますよ」

 

「あの御仁は、そもそも商売する気ないじゃろ……って、閻魔は副業可なのかえ?」

 

「禁止する規定はありませんね。まあ、これは私の趣味ですから……それはともかく」

 

  風に乱れた髪を手で払うと、かすかに浮かべていた笑みを消し、すっと真顔になる。

 

「昨日、こちらに来た死者について。貴女に伝えておくことがありまして」

 

  全ての真偽を見透かすその瞳で、まっすぐにマミゾウを見据え、映姫はそう言った。

 

「はて……何のことかな。儂に何か、関わりがあるとでも?」

 

  こちらは薄笑いを保ったまま、言葉を返すマミゾウ。もっとも、目は笑っていない。視線と視線が静かに打ち合い、絡み合う。

 

「ええ。こちらで魂の来歴を追跡しました。あの者は……ずっと以前から、幾度も貴女と関わりがあります。知っていましたね?」

 

「知らんよ。人の顔ならともかく、魂なんぞ見とるわけないじゃろ。……まあ、どっかで会ったような気は、しとったけどな……」

 

  また一息、煙管を吸ってぷはっと煙を吐き、さらに言葉を吐き出す。

 

「というか、それがどうしたと言うんじゃい。是非曲直庁は、そんなことにまで口出すようになったのか? 経営難で、みかじめ料の新規開拓かい? ご苦労じゃのう」

 

  歯をむき出して、ぎらりと笑う。わずかに漏れ出した妖気が膨れ上がり、うっすらと辺りに満ちる。

 

  だが映姫は、表情も気配も変えず、それを受け流した。

 

「いいえ。これは幻想郷からの要請と、協定に基づくものです」

 

「……なんじゃと?」

 

  虚を突かれ、眉をひそめて問い返すマミゾウ。

 

「貴女に関わりのある者の魂が、貴女を追って幻想郷に入ってくる。只人(ただびと)の一生にとどまらず、魂の引継ぎを経て、なお末永く貴女に惹かれる者。それは里の人間と貴女との間に、特別なパイプができることを意味する。しかも、一人二人では済まないかもしれない。そういった関係を黙認することは、幻想郷の力の均衡、あるいは成立基盤すら揺るがす恐れがある────彼らが危惧しているのは、そういうことです」

 

  ぱちん、と悔悟棒で軽く手を叩き、映姫は言葉を終えた。

  しばし、草木を鳴らす風の中に沈黙が落ちる。

 

「……いいがかりじゃな。邪推もいいとこじゃ」

 

「邪推もまた、見方を変えれば他者からの正当なる評価の一端。貴女たち化け狸の一団は今や、天狗や河童とも肩を並べる幻想郷の一大勢力と言える。貴女はその長である重みを、もっと自覚するべきです。そう、貴女は少し奔放すぎる。一定以上の力あるものは、些細な言動であれ周囲に大きな影響を及ぼし得るが故に、それに伴う責任をいつ如何なる時にも……」

 

「説教は結構。まあ、どうでもいいがな。邪推は邪推、実など無い。どう転んだとて、そんな危惧が現実になることもない……で、どうすると?」

 

  ひらひらと手を振って話をさえぎり、細めた目で映姫を見すえて、マミゾウは問う。口調は軽く。言葉は重く。

 

「転生先を、飛ばします。この国の外、遥か遠くの地へ」

 

  投げ返された閻魔の答えは、ひどく単調で、事務的だった。

 

「……ほう?」

 

「この地の輪廻(りんね)から遠ざけ、生あるうちに貴女と再び接触することがないようにする。その次の生も、そのまた次の生も。そうするうちに縁も薄れ、やがては消えることでしょう」

 

「意外と穏当な手段を取るものよの。魂ごと焼いてしまう、くらいはするかと思っていたぞい」

 

  ふん、と鼻を鳴らして、かすかに笑う。先ほどまでの剣呑な気配は消え、その表情はどこか安心したようにも見える。

 

「別に、大罪を犯した魂というわけではありませんので。繰り返しますが、我々があの者をどうこうしたいわけではなく、あくまで幻想郷の側の都合です」

 

「ほいほい。しかしまあ、そんなことをわざわざ言うために裁判長みずからとは。まったくご苦労様じゃな」

 

「伝えることも仕事のうちですから。もっとも、私が直接来たのは、ただのついでですけど」

「ついで、かの?」

「ええ、いつもの見回りのついでです。それと、伝えることは、もう一つ」

 

  そう言ってまた、ぱちん、と悔悟棒を打ち鳴らした。

  マミゾウの瞳も、また(わず)かに細まる。

 

「……なんじゃな?」

 

「私が今の話を貴女に伝えたこと、つまり貴女があの者の処遇を知っているということは、幻想郷の賢者たちにも伝わります。そしてその上で……」

 

  一息、()を入れて、映姫は言葉を続けた。

 

「仮に。今後、貴女が幻想郷と外界とを行き来したとすれば……彼らの疑念はより深まり、あるいは確信に変わるかもしれない。ですので、身の振りお気をつけて。それだけです」

 

  ちっ、と舌打ちの音が、小さく響く。

 

「なるほど、のう……。色々と考えよるわ。いや……放埓(ほうらつ)のツケは我が身に返る、と言ったところか。今更に染みるわい」

 

  苦々しげに口元をゆがめ、それでもにやりと、マミゾウは笑った。

 

「改めて、私の説教を聞く気になりましたか? 何なら今からでも構いませんが」

「金もらっても遠慮するぞい。話はそれで(しま)いか? とっととお帰りな」

 

  火の消えかけた煙管を思い出したようにくわえ、ひらひらと手を振る。

 

「ええ、終わりです。それでは」

 

  楽園の最高裁判長はくるりと(きびす)を返すと、現れたときと同様、音もなく飛び去った。

 

 

 

  秋風が、くすんだ空の下をひょうひょうと吹き抜けていく。

  葬列はすでに遠く、野の彼方へと去っていた。枯れ野に残るのは、風に舞う落ち葉と、くゆる煙草の煙と、一匹の化け狸。

 

「……すまんかった、なあ……」

 

  ぼそりと漏れた言葉も煙のように、風に流されて消えていった。

 




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七 願はくは、花の下にて  


 

「むむっ、侵略ですか!? 令夢さんなら留守ですよ! 帰ってくるころにまた来てください! 私じゃ相手になりませんからね!」

 

  参道の真ん中に仁王立ちになって、頭のてっぺんに角の生えた少女が、情けないことを威勢よく叫んでいる。

  狛犬の化身、高麗野(こまの)あうん。博麗神社その他の守護者である。自称だが。

 

「なんじゃい物騒な。神社にも令夢にも、お前さんにも用はないわい。用があるのは、こっちじゃよ」

 

  のっそり石段を登って鳥居の下に現れたマミゾウは、くいと首をひねると境内のすみへ目をやった。

 

  ようやく暖かくなってきたものの、まだ冬の気配を残す風の中、すっかり葉を落とした木々が立ち並んでいる。さざめく枝のそこかしこに顔を出している芽は、膨らみつつもなお固そうで、ほころびるまでには今しばらく日が必要なようだった。

 

「あ、桜ですか? ここのはまだまだですねえ……いま満開なのは無縁塚でしたっけ」

 

「あそこで騒ぐと彼岸の石頭が口うるさくてのう。ま、知ったこっちゃないが……」

 

  そう言いながら木々を見上げる目線は、どこかもっと遠くを見ているようだった。

 

「前にも、こんなことありませんでした?」

 

「ん? そりゃあ……年ごとに微妙に違うし、遅咲きの年も何度もあるわな」

 

「そーじゃなくて、マミゾウさんがここに桜の様子を見にきたことですよ。っていうか毎年来てません?」

 

「はて、どうじゃったかな……気のせいじゃろ」

 

  うそぶいて、すいと目を細める。

  口元から白く湧き上がる息に、丸い眼鏡が僅かに曇っては、また風に吹かれて透明に戻るのを繰り返す。その向こうに見え隠れする桜の枝を、じっと見つめながら。

 

 

「……花は、変わらんよなあ」

「そりゃ、年が代わっても花は花ですからね。たまに異変とかありますけど」

 

  ぼそりと呟いたマミゾウに、生真面目に答えるあうん。

 

「そうじゃな。妖精も、妖怪も、神も変わらん。……人は、変わるか?」

「えー? そうですねえ……変わんないんじゃないですか、やっぱり」

 

  腕を組み、あごに拳を当てて、大きな丸い目をくりくりさせながら、マミゾウと同じ方向を見やる。木々の梢の背後に遠く、白い雲がゆっくりと空を流されていく。

 

「令夢さんも、魔理沙さんも……まあ、なんか大きくなったりシワが増えたり、変わってってる気はするかな。でも大体おんなじでしょう? 死んだって、子供はまた生えてきますし」

 

「そうか。それなら……」

 

  ――――儂のほうなんじゃろうな、変わったのは――――

 

  声には出さず、口の中でそっと独りごちる。

  ざざ、と音を立てて、乾いた風が吹き抜けた。風は梢を揺らし、髪を揺らし、唇を揺らして、唇から漏れた言葉を、遠く空の果てへと吹き流していく。

 

「……願はくは、花の下にて、春死なむ……か」

 

  こぼれ落ちたその(うた)が、かすかに空を震わせた。

 

「なんですか? それ」

 

「なに……昔むかしな。この世で最も美しい光景の中で死にたいと詩って、その望み通りに死んだ……」

 

  詩い手は、木々の梢を見上げたまま、御伽語りのように答える。

  枯れ木のような枝ぶりの向こうに見える、空と雲。

  そして、もう一つの空、もう一つの花が、はるか彼方を見つめる瞳の中に重なる。

 

「幸せな、男の話さ」

 

 

  風が光った。

 

  一陣の、暖かい春の風。

 

  渦巻く光と共に(はし)り抜ける風の中で、見る間に花が、葉が開く。

  満開の山桜。あの日と同じ。

 

  光を背に、男が立っている。

  色黒で背が高く、異国の風貌をまとって。

 

  男を見つめ、立ち尽くす彼女の五歩ほど先に。いや、三歩先、一歩先、もう目の前に、歩み寄る。その眼鏡のように丸く目を見開き、ぽかんと口を開けたままの彼女を、迷わずその両腕で抱きしめる。強く。そして、

 

 

「マミ」

 

 

  小さく叫ぶように、その名を呼んだ。

 

 

「……なんじゃ……また、来よったのか。しょうのない、やつじゃのう……」

 

  目じりと唇が、くしゃりと歪む。それは笑顔なのか、泣き顔なのか。

  細い腕が、男の背中をそっと包みこむ。

 

  幻のような光は雲の彼方に去り、ただ花と風だけが、二人を包んでざわめいていた。

 

 

 

 

 

「あーあ……やれやれ」

 

  そんな二人から遠く離れた、木の枝の上。

  大きな鎌を背負った人影が、独りぼやいた。懐から、二つに折りたたまれた細長い板を取り出し、ぱちりと開いてその端を耳と口に当てる。

 

「あーもしもし? ……ええ、やっぱり戻ってきちゃいましたよ。困ったもんですねえ……どうするんです? 是非曲直庁のツテで無理やり送還するんですか? それともまた転生の時に……え? それはどういう……」

 

  しばし、板の向こうの声に耳を傾ける。

 

「……はあ、なるほど……仙人にしてしまえば人里との関係はなくなるし、何か問題が起きたときに魂を取りたてる名分も立つと……。けど、それで上が納得……あ、もう先に話は決まってたんですか。しかしまー、そこまでして監視下に置くってのも、逆に面倒な気がしますけどねえ……。

 

 ……は!? それあたいがやるんですか!?

 ちょっと待ってくださいよ! なんでそんな……!

 似たもの同士ぃ!? いったい何の話、あっちょっ……四季様ー!?」

 

 

 

 

 

「が、が、外来人!? えーとえーと、どうしよ!? れ、令夢さんに知らせないと……」

 

「あー、そんな騒がんでもいいぞい。こいつはな……儂の知り合いじゃ」

 

  わたわた慌てるあうんを、ひらひらと片手を振って黙らせる。入れ替わるように、男が口を開いた。

 

「アナタ、ワタシノコト、シッテルデスカ」

「うん? おお……長いこと前からな」

 

「ワタシ、シラナイ。アナタノコト。コノバショノコト。デモ、シッテル。アナタノ、ナマエ」

 

  肩を抱く腕に、力がこもる。

 

「マミ。ワカラナイ。デモワカル。ワタシ、アナタ、サガシテタ。ズット」

 

「おう、おう。……まあ、ゆっくり語って聞かせてやるぞい。

 じゃが、とりあえずは……」

 

  肩と首をひねり、視線を横へ、上へと向ける。

  ひかれて男も見上げる空に、一面の桜色。輝く花の雲。

 

「見てみい、満開じゃ。……今宵は、宴じゃな」

 

  抱き合ったまま、からからと笑う。男も笑みを浮かべ、改めて彼女を抱きしめる。

 

  巡る季節、巡る宴。

  花も人も、変わらない。

 




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