甘い話 (サンダーソード)
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1話

「はー…………はは」

 よく晴れた公園のベンチ、身を切る冷たさと抜けるような青空が言外に季節を主張する。季節柄か少子化の影響か見渡す限りに人影はない。子供は風の子、なんて今でも言うのかね。

 吐く息が白く立ち上り、幽かな風にも抵抗せずに揺らめき空に溶ける。

 座ったばかり木の板もまだ冷たく、分厚いズボン越しに体温を奪っていく。

「ふー…………ふふ……ふふふ、フヒ」

 だが、その程度誤差でしかないと言わんばかりに身体の奥底から熱が湧き上がってくる。

 傍から見たら気持ち悪い笑いこぼしてるんだろうなあとか思いつつも、唇の端がひくつくのを制御できない。

 十二月二十五日、クリスマス。あの地獄のクリスマスイベントを雪ノ下と由比ヶ浜のおかげでどうにかこうにか乗り切った翌日。

 その過程で超ド級のトラウマをこさえてしまった記憶もあるが、それは毎夜布団の中で後悔しているから今はいい。

 由比ヶ浜の提案から雪ノ下の籠絡、俺の意思を無視した決定までの一連を通り、本日クリスマスパーティーを開催することと相成った。

 具体的にどこで何をするかはあの後二人が二人で決めた。その中身を俺はまだ聞いてない。昨日の夜に時間と待ち合わせ場所の指定と、三人だけでパーティーをする旨を装飾過剰にしたメールだけが飛んできた。

 ――願ったはずのものは虚ろの箱となり、それすらも一度は失いかけた。だが、上滑りしていた空間にはトラウマを経て血が通うようになり、箱は紅茶の香りと暖かさで満たされるようになった。

 大事なものは替えが利かない。かけがえのないものは失ったら二度と手に入らない。そうならなくて、本当に、本当に、良かったと。

 信条を歪めてまで自分に嘘をつき、そうまでしてもなくしてしまいそうになったあの日々を失わずに済んで、嬉しくないわけないだろうが。

 ぶっちゃけ昨日の夜は楽しみでろくに眠れなかったまである。トラウマでじゃなくて楽しみでだ。もし今日のパーティーに俺だけ呼ばれなかったら家でこっそり泣いてたんじゃないだろうか。

 また一つ大きく息を吐く。多分口角は上がってるし頬は勝手に緩んでる。なお小町には既に気持ち悪いとの太鼓判を押されてしまった。

 なんか昨日の非日常の感覚がまだ残ってるのかもしれん。こういう普段押し殺してる、傍から聞いたらドン引き必至なことを素直に考えてるのが多分その証明。待ち合わせも一時間くらい早く来ちゃってるしな。

 いくらなんでも早く来すぎだろうとは思ったけどこんな緩んだ顔見せたくないし、ある程度間かけて真顔作る練習したいからまあちょうどいい。

 まあクリスマスも非日常だしね! イベントも祭事もハレの日だ。ほら、文化祭の時みたいに。ちょっとくらい判断間違えちゃうこともあるしね。きっとね。

 失いかけた箱の中での彼我の適当な距離のとり方も、感情の適切な処理の仕方も分からなくなってしまったけど。

 それでも、きっと。間違っていても。もう一歩くらいは、踏み込んでみたいとうひゃぇあっつっ!?

「っ!?」

 あっつい! 何!? なんぞ!? ほっぺあっつい!

 声にならない声が喉に詰まる。反射的に首を熱から離しながら左のほっぺた押さえようとしたら柔らかくなめらかな感触が手に当たり、頬の熱との違いを認識する。

 ひゃ、という小さな声が聞こえた気がしたが、びっくりどっきりで割とそれどころじゃなかったので気がしただけかもしれない。

「缶?」

 横目に見たそれは、スチールの缶コーヒーとそれを持つ白魚のような手指。そしてその綺麗な手指を包み込むように抑える俺の掌。

 その持ち主を辿っていくと、そこには。

「あ、はは……」

 待ち合わせの相手、由比ヶ浜結衣が顔を赤くさせて立っていた。

 硬直して見つめ合い、呼吸を止めて一秒。握った手が由比ヶ浜のものだと気付いた瞬間に反射的に離して発条仕掛けの人形のごとくベンチから跳ね上がる。

「あ……」

 なんかちょっと残念そうな声が聞こえてきた気がしたけど錯覚だ。間違いなく錯覚。

 由比ヶ浜も錯覚の元を隠すように口元を右手で覆う。

 対面となって再び硬直。時間経過で由比ヶ浜の顔が更に赤くなっていく。そうだねなんか気温上がってきてるよね暑いもんね。身を切る冷たさどこ行っちゃったの? もうちょっと季節さん頑張ってガッツ見せて。

 左手にはまだ柔らかな感触が残っている。その感触に押されるように、由比ヶ浜が突き出したままにしている左手を無意識に見てしまった。無遠慮な俺の視線の動きに由比ヶ浜が気付いたことも、彼女の見開かれていく目から察することができた。

 由比ヶ浜が一気に朱に染まる。握った手の感触を反芻してるとかいう、雪ノ下ならノータイムで通報モノの気持ち悪さがバレて羞恥と気まずさでここから消えたくなる。だってすっげえやわっこかったんだもん。

「あ、あー……その、早かったな。来るの」

 由比ヶ浜の左手から必死で目を離して、なんなら由比ヶ浜自身からも目を外して、どうにかこうにか話のきっかけを探す。

「えっ? あ、そ、ひ、ヒッキーも早いよね」

 左手を背中に隠して、右手でお団子をくしくし弄りながらしどろもどろに問い返してくる。

「ん……あー……まぁ、そう、だな」

 そうだよね同じ時間に同じ場所にいるんだから当たり前だよね何だこの自爆。顔に熱が迫り上がってくるのが実感として分かってしまうんだがこれ楽しみにしてたのモロバレじゃってちょっと待て。

 ……由比ヶ浜も、そうなんだろうか。

 嬉しくて、夜も眠れず、約束の時間まで待ちきれず。この場所に来てしまったんだろうか。

 そんなにも楽しみに、していたんだろうか。

 そむけた顔からこっそり横目で由比ヶ浜を窺うと、彼女はじっと俺を見ていて、思いっきり目が合ってしまう。

 左手から不思議な熱が広がってきてまた身体が熱くなる。だから季節さんもうちょっと自己主張してもいいのよ?

 そうこうしてると由比ヶ浜の方から口を開いてきた。

「……や、やっはろー、ヒッキー。おまたせ」

 真っ赤な顔でぎこちなく笑って、ベンチ越しに右手をふりふり。間に物があるのが気に入らなかったのか、ベンチを一瞥した後回り込んでくる。

 薄いベージュのカーディガンに胸元の赤いリボン、青灰色のコートに白いマフラーが映える。短いチェックのスカートが寒風に揺れて、なんとなく見ちゃいけない気がして目を外した。

「……おぅ。いや、待ってねーし時間もまだまだだけどな」

 そっぽ向いたまま答えるけど、大丈夫だよね声震えてないよね?

 ほんの数歩で隣に並んだ由比ヶ浜は、若干ぎこちなさを軽減させた笑顔で左手を差し出してくる。

「ヒッキー、はい」

 さっき頬に押し当てられた缶コーヒー。そこから現在に至るまでの過程が脳裏に浮かんで、また左手が熱を持つ。

「……これが何よ?」

「だから、はい」

 右手に左手を取られ、両の手で包み込むようにして押し付けられる。そして俺の左手に残るはあったか~いスチール缶。

 渡して一歩下がった由比ヶ浜は、えへへーと照れ笑いしながら後ろ手に組んで前屈む。だからそういう仕草はですね、もう少し考えてやってもらわないとですね、世の男子は単純ですからによってああもうちくしょう。

「……えっと?」

「あ、その、ほら。待たせちゃったし、寒いし、差し入れ」

 またお団子に手をやりながら、視線をそらして答える。

「……いや、だから待ってねえよ」

 赤くなったほっぺたとかマフラーで見え隠れするつややかな唇とか、そういうのが俺もなんとなく直視できなくて目を背ける。

「あはは……。や、なんかさ、ドラマみたいなのやってみたいと思ったんだけど。難しいね」

 いやそれ夏に冷たいジュースでやるもんじゃないの? 新一かと思って振り向いたらコナンくんじゃないの? そもそもそういうのって恋びそうじゃなくてえええええええ。

 いい加減にしろ俺。幾らなんでも思考がアウトに傾きすぎだろ。もう一歩踏み込むとかいう次元三段跳びで超えてるわ。目を閉じ三回中学時代と繰り返せ。中学時代中学時代中学時代。ほらこれでフラッシュバックと共にいつもの俺がインスタントに完成。涼し気な目元が超クール。雪ノ下だったら超グールって言いそうだな。いや超は言わねえか。雪ノ下だし。

「……お前も寒いだろ。やっぱこれは由比ヶ浜が飲めよ」

「あ、ううん。あたしのもあるの」

 由比ヶ浜がコートのポケットをゴソゴソとまさぐる。取り出だしたるはお馴染み黄色いあんちくしょう。珍しいな、由比ヶ浜がマッカン飲むの。

「……そっか、あるのか。いくらだった? 百二十円?」

「あ、いいよ。差し入れだし」

「……前も言ったろ。俺は養われる気はあるが、施しを受ける気はない」

 唇の端を意識的に引き上げる。手に持った缶コーヒーは、外気に晒されて少し冷めてきていた。

 だが、由比ヶ浜は俺の答えに少しだけ表情を消して、じっと俺の目を見つめた。

「…………じゃあ、養われる気はあるの?」

「なあっ!?」

 いきなり何言っちゃってんのこの子!? 無理! いつもの俺(笑)とか光の速さで吹っ飛んでったわ! つーかそもそもそんな簡単に切り替えられるなら一晩眠れなくてとか感情の適切な処理方法が分からなくなってとかそんなんなってないですし。さすが俺、何という鍍金の薄っぺらさ。軽く爪で引っ掻くだけでも剥げるんじゃないの?

 全身硬直で由比ヶ浜の問いになんと答えるか全力で頭を空転させてると、由比ヶ浜がほんの僅か眉をハの字にして、ヘニャっと笑った。その笑顔に、少しだけ胸がしくりと痛む。

「……ほら。あたしが初めて奉仕部に来たときのこと覚えてる?」

「……ああ」

 覚えている。忘れるはずがない。俺たちの二度目の始まり。俺と、こいつと、あいつの。

 由比ヶ浜がクッキーを作りたいと奉仕部の扉を叩き、いきなり俺たちはキモいだのビッチだの死ねばだのぶっ殺すぞだの言い合って。木炭を錬成して嘆くこいつに、雪ノ下は辛辣に正論をぶん投げて。それを真正面から受け止めたこいつに、俺は。……まあ、最終的にはそんなこいつの決意を、俺のやり方で終わらせちまったんだが。

「あの時さ。ヒッキーがカフェオレくれたよね。……これは、そのお返し。同じのはなかったんだけどね」

「む……」

 最後に舌を出して照れる由比ヶ浜の言葉に、俺の言葉が奪われる。が、それでもどうにか何かを捻り出す。

「……あそこの自販機、レアな謎ジュース多いんだよ。っつーか、よくそんなことまで覚えてたな」

 今から考えると由比ヶ浜に買ってったのが男のカフェオレとか、当時の俺底抜けの馬鹿だったんじゃないの?

「……忘れないよ。忘れるわけないじゃん」

 由比ヶ浜は目を閉じて、何かを噛みしめるように呟く。その姿に、また俺は言葉をなくす。

「……そか」

 そっぽ向いて、喉にへばりついたそれだけをどうにか押し出すように答えるが。

「ん、そだ」

 そんな曖昧な相槌は、照れたように笑って返す彼女に到底敵うものではなく。

 その笑顔に引き寄せられるように、俺もいつの間にか笑ってしまっていたようだった。

「じゃ、飲もっか」

「そだな」

 改めてベンチに座って、缶コーヒーのプルタブを開ける。ところでガハマさん少々その距離がなんというかええ。ねえ? だから適当な距離のとり方が分からなくなってるって言ってるだろ! あれってこういう物理的な意味じゃなかったんだけどなあ……。急募:腕を動かさずにプルタブを開ける方法。

 そんな俺に頓着することなく、由比ヶ浜は堂々と接触しっぱなしの腕を擦り合わせながらカシュっと小気味よい音を立てる。厚い服越しに柔らかなものが動く感触が、普段の三倍くらい感覚器が働いてそうな右腕に感じられる。そのな、プルタブ開けるときに力込めたのか知らんけどこんな至近距離で『んっ……』とかいうの、ちょっと健全な男子高校生には刺激が強すぎると思うの。あ、なんかもう由比ヶ浜が息吸って吐いてるだけでエロく感じてきたヤバイ。これは大分頭やられちゃってますね……。

「? 飲まないの?」

「いや……もらうわ」

 強張った腕を軋ませるように動かして俺もプルタブを開き、一口飲む。

 マッカンほどには甘くもなく、さりとてブラックほどに苦くもない、普通の缶コーヒー。でも。

「……あったけえ」

「うん」

 何がそんなに嬉しいのか隣で由比ヶ浜がニコニコしてて、俺の動悸が止まらない不具合。カフェインって強心効果あったっけ?

 由比ヶ浜は俺が飲むのを待ってたのかどうか、開けたまま両の掌に包んでいたマッカンをちびりと一口飲む。そしてちょっとだけ顔をしかめて。

「あまーい」

「ばっかお前それがマッカンのいいとこじゃねえか」

 甘くないマッカンなんてマッカンじゃねえよ。塩気のない塩みたいなもんだろそれ。今日が誕生日のおっさんもそんなもんに意味はないって言ってたろ。

 由比ヶ浜は正面を見たまま、また少しだけ飲んで。

「ヒッキーいっつもこんなの飲んでるんだね」

「人生は苦いからな」

「……今日は、きっと苦くないよ」

「…………おう」

 俺もまた缶コーヒーを一口呷る。右隣にいる由比ヶ浜の静かな笑顔のせいか、それとも今しがた貰った言葉のせいか、今日はこのさして甘くもないコーヒーがとても旨く思えた。

 由比ヶ浜がまた僅かに缶を傾けて、息をつく。これだけ近くにいると、嚥下するときの艶めかしい喉の動きとか、寒さで赤く染まっている頬とか、厚着してても分かるほど大きい一部分の存在感とか、そういうのが見ようとしなくても伝わってしまう。

 なるべくそういうのを意識しないように前を向いて、コーヒーで唇を湿らせる。やっぱ旨い。何だろ、これどこのメーカー? ……あれ、ここの缶コーヒーってこんな旨かったっけ。おっかしいな。

 そうやって左手に持った缶をためつすがめつ首を傾げていると、由比ヶ浜が俺の左手に意識を向けたのがなんとなく分かった。挙動不審が気になったんだろうか。

 由比ヶ浜はまた少しだけマッカンを飲んで、ちらりとこちらを窺う。どうにも左手と口元を行きつ戻りつするような視線を感じる。でもそういうものをここまで具体的に感じてる時点で俺の意識と視線がどこ向いてるかなんてバレバレかもしれないどうしよう。

 ちらり、ちらりとこっちを窺ってくる由比ヶ浜に、それをくすぐったく思いつつも彼女を視界の端で捉えようとする俺。どうにもむず痒くなってきた感触を祓うように、左手を大きく傾けて缶の半分くらいを一気に呷る。

「あ……」

 と、すぐ右から縋るような声が聞こえて、反射的にそっちを向いてしまって右腕が柔らかい。

「どうした?」

「や……なんでも……ないけど」

 途切れ途切れに呟きながら視線を逃がす。口元を隠すように両手で握ったマッカンを咥えたせいで、彼女の台詞の後半が少し篭って聞こえた。でもこれで本当になんでもなかったらぼくびっくりですよ……?

 手持ち無沙汰を缶コーヒーで誤魔化そうとしたが、どうにも由比ヶ浜の意識がそこに向いている気がして左手を動かしにくい。俺も由比ヶ浜もその体勢のままなんとなくお互いを探るような空気になる。なんか由比ヶ浜のこのポーズ一色が好きそうだよな。あいつ練習とかしてそう。マグカップとかで。しかしあいつがやるとあざといの一言で終わるのにガハマさんだと自然に見えるのはどうしてでしょうね?

「……そのコーヒー、おいしい?」

 空気に耐えられなくて半分くらい現実逃避してると、由比ヶ浜が口火を切ってくれた。マッカンを盾にしたままちろりと缶コーヒーを見て、そんなことを聞いてくる。

「あ、ああ……そうだな。旨いわ」

 慮外の美味しさに感謝を込めて素直に返答したのだが。

「あれ? ……そうなの?」

 何故か由比ヶ浜の返答は当てが外れたような疑問符だった。

「え? ああ……」

「あれー……そうなんだ……」

 え? 旨いと駄目なんですか……? あえて不味いコーヒー渡そうとしたの? ちょっとへこむというか心が痛いんだけどなんでだろ……なんか嫌われるようなこと……あっれ心当たりがありすぎてなにこれヤバイ。

 職場見学や夏祭り、修学旅行にクリスマスイベントの記憶が頭の中を巡り、列を成して自らを責め立てる。記憶って自分の思い通りにならない最も身近な自分だよな……。

「え、えっと、それってこれより?」

 と、由比ヶ浜は両手で包んだマッカンを目線で示す。

「は? あ、いや、どうだろ」

 また角度の違う質問が飛んできて、受け損なう。いつもならマッカン一択だろうが、今日は甘くなくてもいいって思えてしまっている。でもそう感じられる理由を説明するのはちょっと難易度が高いというか、俺にもよく分かってないし……分かってないってことにさせてくださいお願いしますなんでもしますから。

 でもまあきっと甘いものがまずくなってるってわけじゃないし。千葉の人工甘味料ことマッカンを俺が嫌うわけないしな。

「まあ……そっちのが旨いんじゃねえの? ……多分だけど」

 しかし返した返事は曖昧さに磨きをかける口籠ったそれ。精神が肉体を凌駕したとでもうのか。そんなわけあるかです。

 だがそんな返答でも由比ヶ浜のお気に召したのか、マッカンに隠れきれてない表情がパッとほころぶ。

 そして。

「じゃ、じゃあさ」

 由比ヶ浜は。

「こ……こうかん、しない?」

「…………は?」

 とんでもない爆弾を放り投げてきた。

「…………なにを?」

「これと、それ」

 手元のマッカンを掲げ、俺の缶コーヒーを目線で示す。

 好感。鋼管。交歓。高官。どう考えても交換ですねわかりますけど何言ってるのこの子。さっき手が接触事故起こしたのを超える勢いで顔真っ赤じゃねえか。あ、思い出したらまた俺も熱くなってきた。

 無意識に力のこもった左手が握ったスチール缶の抵抗を存分に受けて、由比ヶ浜の発した交換という単語と結びつき上乗せで熱を生産する。

「ヒッキー甘いの好きだし、いっつもこれ飲んでるし……」

 右手でお団子をもてあそび、ガハマさんは言葉を繋げていく。でも正直半分も頭に入ってないんじゃないかなこれ。交換の単語が頭の真ん中にどっかり居座って働きを阻害する。

「ほ、ほら、飲み比べ! 比べてみればどっちのがおいしいか分かるし!」

 思いつきに背を押されたのか由比ヶ浜のテンションが上がり、それでも遠慮がちにマッカンを差し出してくる。

「……ど、どうかな?」

「どう、って……」

 由比ヶ浜のぷるんとした唇に目が引き寄せられてしまい、意識が釘付けになる。俺の返答一つで由比ヶ浜との間接なアレが成立してしまうことに、本来の意味でのテンションが高まる。テンションのエクステンションでフリーズしてしまったじゃないかプリーズヘルプミー。

 なんて脳内で馬鹿やったところで目の前の状況が解消されるわけもなく、由比ヶ浜は期待と不安の入り混じった目をこちらに投げかけてくる。俺の硬直時間に比例して不安の度合いが高くなってきて、その変化していく様が俺に動け動けとせっついてくる。踏み込んできてくれた由比ヶ浜を後悔させたくないと、俺の中の何かがやかましく喚き散らす。

「や……まあ……お前が、嫌じゃないなら……………………いい、けど」

「っ! うん、交換!」

 こんな途切れ途切れの俺の言葉なんかに向日葵のようにぱぁっと花笑み、嬉しそうにマッカンを両手でギュッと握りしめる。そして大切なものを捧げるように俺に差し出してきた。

 今は甘くなくてもいいから別にいい、とか。マッカンはいつも飲んでるから交換しなくても分かる、とか。飲み比べるなら新しい缶コーヒー買ってくるわ、とか。そういうことを言うこともできたのだろう。だが、俺の中の何かはそれを許そうとはしなかった。その結果がこの笑顔なら、きっとそれは悪いことではないはずだ。

 受け止めきれない笑顔の代わりに、包んだ両手に触れないよう細心の注意を払ってマッカンを受け取る。マッカンから伝わってくる熱が由比ヶ浜の体温のように感じられて、少し背徳的な気分に浸される。俺も左手の缶コーヒーを努めて無造作に差し出し、由比ヶ浜が受け取るわけだがその際に接触事故を起こして一瞬ビクッとなってしまった。にこにこ顔のガハマさんがちょっと直視できなくて、明後日に視線を逃してしまった。ほんと、今日は暑い日だ。冬のはずなんだがな。

「じゃ、じゃあ……いただき、ます」

 由比ヶ浜はそう言って、交換した缶コーヒーをゆっくりと口に近づける。焦らされているような感覚に陥り、落ち着かない。我知らず手元の飲み物で紛らわそうとして、それが落ち着かない元凶であると即座に気づき動きが停止する。

 由比ヶ浜の唇が、缶コーヒーの飲み口に触れた。見てはいけない、と思うのに目が離せない。液体が喉を通るときの蠕動。んっ、んっ、と小さく漏れる由比ヶ浜の声。

「ぷはっ」

 体感的には長時間を超えて、由比ヶ浜が缶コーヒーを口から離す。そのときにちらりと見えるピンク色の舌が、再びスチール缶の飲み口に近づいて、ちろりとその縁をなぞるように舐めあげる。流し目を送る由比ヶ浜の仕草の艶やかさに、背筋にゾクリと震えが走る。

「……こっちも、甘いね」

 そう感層を述べる由比ヶ浜の表情は、赤くはあれどいつものそれに戻っていた。んですけどもうこれ心臓バックバクで頭真っ白、触覚は右腕とマッカン持った掌に集中しっぱなし。目は離せないし距離のせいか甘い匂いはするし幽かな息遣いや衣擦れまでも聞こえてくる。

 どうしようもなく、五感に由比ヶ浜を感じる。

「……ヒッキー?」

 その呼びかけで、金縛りが解ける。心臓の高鳴りは止まらないが。ああうん、止まったら死ぬよね。

「お、おう……なんだ?」

「飲まないの?」

「……………………」

 反射的に由比ヶ浜の唇を見てしまう。赤くつややかで、少しだけ濡れている。手元のマッカンに視線を移す。さっきまで由比ヶ浜が咥えていた部分に奪われた目が少しだけ付着したリップクリームを見つけて、なけなしの平静が更に削られる。込み上がる熱で頭がくらくらして、喉が渇いて仕方なくなる。自分で呼吸が荒くなっているのが分かる。俺の変調に、隣から緊張する気配が伝わってくる。どうしようもなくのぼせ上がって、俺は。

「あ、あれ?」

 ――そっと立ち上がった。

「……そろそろ行こうぜ」

 肩透かしを食らったような顔をする由比ヶ浜に、そっぽを向いて促す。

「……あっ、逃げた!?」

 ごめんなさいちょっと脳みそが酸欠気味でよく聞こえないの。

 由比ヶ浜も遅れて立ち上がり、これまでのケの日よりも近い隣に並ぶ。

 いつかのハレの日に言われた、『待たないで、……こっちから行くの』という彼女の言葉。今度は間違えたくないと思い、きっとあの頃よりは近づいたのだろう適当な距離を思い、彼女の言葉を出来るだけは受け止めたいと思う。……けど、ちょっとこれは難易度がね?

「行こうぜ、ってヒッキーどこに行くかも分かってないでしょ? ゆきのんちだよ」

「そっか……あの部屋で、三人で、やるのか」

「うん……三人だけで、ね」

 由比ヶ浜は嬉しそうにしっとりと微笑んで、お団子をくしくしと弄る。そんな由比ヶ浜を見て、俺も似たような感情が揺さぶられる。……まぁ、端的に言えば嬉しくなる。

「なんか、必要なもんとかないのか?」

「あ、そうそう。幾つか足りないもの買ってくるようにゆきのんに言われてたんだ」

「お前、それ忘れてったら凍土の眼光で烈火の如く怒られるぞ。俺が」

「ゆきのんはお家で準備してるって」

 ゆっくりと、自然に歩調を合わせて歩いて行く。二人で、もう一人のところまで。

「まぁ、荷物持ちは妥当なとこだろうしな。で、何処行くんだ? ケーキ屋か?」

「それはあたしたちが作るよ!」

「…………お前がか」

「なにその嫌そうな顔!? 昨日部室でゆきのんと一緒に作るって言ったじゃん!」

「ああ、言ってたなそういや……大変だなあいつも」

「どーゆう意味だ!」

 ころころと表情を変える由比ヶ浜。それを隣で見ているのは、きっととてつもない贅沢なんだろう。

「数はあんまりいらないけどクラッカーとか、アロマキャンドルとか、あとはお昼と夜の材料とか、シャンメリーとかの飲み物かな」

「お……夜までやんのか?」

「やるよ? 当たり前じゃん」

「当たり前なのか……」

 俺男なんだけどな……夜まで家に上げてて大丈夫なんですかね……?

「で、ヒッキー飲み比べはいつやるの?」

「え゛……」

「荷物持つんなら片手塞がってたら無理だよね?」

「…………」

「缶開いてるからしまえないし」

「……あー、由比ヶ浜」

「あたしはもう喉は渇いてないかな」

「…………」

「…………捨てるの?」

「……………………いや」

「そっか」

「…………」

 俺たちは二人で歩いていく。冬なのに全く寒くないよく晴れた空の下、雪ノ下に繋がる道を。

 そこに伴う感情はまだすぐには飲み込めないけど、ゆっくりゆっくり時間をかけて噛み砕いていこう。差し当たっては、三人の適当な距離を測り直すところからか。そうだな、買い物ついでに湯呑みの返礼でも考えてみるか。

 ……飲み比べ? ああ、きっと甘かったし旨かったんだろうな。千葉を代表する素敵糖分、MAXコーヒー様だし。

 

 

 

 

 ……………………あんなもん、味なんて分かるわけないだろ。

 



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