自分を星輝子だと思いこんでいる一般人 (木木木登美彦)
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偽者(1)

 午後四時であった。

 昼とも夕方ともつかぬ微妙な時間帯に起きた私のジャージが、妙にぶかぶかであった。最初は寝相の所為で脱げてしまったのかと思ったが、私の寝相は普通の範疇であるはずだった。奇妙な違和感に、私は「は?」と呟いた。芸もなにもあったものではない、つまらない一言であった。すうと、体温が引いていくようであった。

 

「は?」

 

 もう一度、呟いたが、事態はなにも変わらない。

 いつもはぐだぐだといつまでも布団に包まっている私であったが、引きちぎるように布団を剥いだ。

 結論として、私の身体はもはや男ではなかった。

 ぶかぶかになり、すっかりずり下がってしまったボクサーパンツの下には、あるべきものがない。長年の相棒は、どうやらいつまでも童貞であった私に愛想が尽きてしまったらしい。うっかり落とすような代物でもないのに、布団を捲っている私は相当なマヌケである。ポケットの小銭を探すコント芸人のようにぺたぺたと全身を触っても、当然ながら相棒の影も形もなかった。尻や胸元にあるはずがないし、あったら怖い。

 観念した私は、ジャージをずるずると引きずりながら、鏡のある洗面台へと向かった。

 ジャージ姿の「星輝子」が立っていた。

 フランツ・カフカの「変身」のように、毒虫にならなかったことを喜ぶべきか、とうとうある種の精神障害を患ってしまったのかと悩むべきか、私には分からなかった。夢であれば、まだいい。これが妄想や幻覚の類であれば、私は精神科の病棟にぶち込まれてしかるべきであるし、ドラッグやクサをキメていないことを祈るばかりである。五感もしっかりしているし、これが夢であるならば「マトリックス」や「インセプション」でもあるまいし、もはやなにが現実かも分からない。夢でもないし、妄想でもないと仮定するほか私にはない。

 不幸中の幸いか、私は無職のひきこもりであり、私の身体が突如として星輝子になってしまったというトンチキな事態を説明しなければならない交友関係も一切ないということであった。

 ニートでよかったー!

 よかねえよボケ。

 ともあれ、星輝子。

 輝子ちゃんである。

 まず妄想や幻覚を疑ってしかるべきであったことをご理解いただきたい。

 現役アイドル。

 十五歳。

 かわいい。

 ちっちゃい。

 かわいい。

 最高。

(私であるという以外)最高。

 テンションブチアゲ。

 俺は星輝子だ。

 誰が何を言おうと星輝子なんだ。

 興奮のあまり、完全に我を失っていたし、星輝子になってしまったので実際に失っている。

 私はノリでツイッターのアカウントを新設していた。

 

 ほぼ輝子@syoko_O6O6

 やあ。

 

 渾身の自撮りも貼ったので、これで私も輝子ちゃんのそっくりさんとして一躍有名人である。失った愚息の代わりとばかりに、承認欲求という魔物がぎちぎちに勃起していた。

 

「フヘ」

 

 妄想逞しい私の口元が、マヌケにも緩んだ。

 

 ●

 

 翌日、私はすっかり「やむちゃん」になっていた。

 なぜか。

 渾身の自撮りツイートが一切バズらなかったからである。

 冷静になれば、誰もフォローしていないし、フォロワーもいないから当然である。それでバズると思っていた私はとんだ阿呆である。完全に浮かれていただけであった。

 普段はほぼ輝子(これも冷静になればしょうもないギャグであった)とは別のアカウントでツイッターをしているから、それで十分なのである。ほぼ輝子は裏アカウントのようなものであった。それにほぼ輝子で誰かフォローしたとしても、現状では得体も知れないなりきりアカウントでしかない。私だったら絶対にフォローバックしない。

 結局、まずは輝子ちゃんを筆頭に、本アカウントでもフォローしているアイドルの公式アカウントだけフォローすることにした。本アカウントでいつものようにしょうもないツイートを二、三してから、私はほぼ輝子でもツイートをした。

 

 ほぼ輝子@syoko_O6O6

 自分を星輝子と信じて止まないひきこもりが、ピザとコーラで優勝する動画です。

 

 まさかの二番煎じである。

 独創性の欠片もない無産オタクの末路であった。

 自撮りツイートはバズらなかったが、しかしこれでよかったかもしれないと私は思っていた。なにせ、もはや私は輝子ちゃんとなにもかもが瓜二つなのである。私がピザとコーラで優勝しているだけで、輝子ちゃんがピザとコーラで優勝しているのである。「いっぱい食べる君が好き」というキャッチコピーがあったが、全面的に同意したい所存である。どうしてもちゃもちゃなにかを食べているだけでこれほどかわいいのか。輝子ちゃんだからなのか。

 犯罪的である。

 背徳的である。

 かわいい。

 最高。

(私である以外)最高。

 動画編集はクソ面倒で、ゴミみたいなクオリティーになってしまったが、私はこれまで人生で味わったことのない多幸感に包まれていた。輝子ちゃんがもちゃもちゃピザを食っている姿を延々と観ていられる幸せを、それが動画編集の為であったとしても貴君は味わったことがあるのか。いや、ない。

 ないよね?

 私はある。

 羨ましいか。

 羨ましいだろ。

 羨ましいと言ってくれ。頼むから。

 フォロワーがいないので、今回も当然ながらリツイートもいいねもなかった。

 優勝したカロリーを消費する為に、筋トレをしてから私は不貞寝した。

 

 ●

 

 私にはお金がない。

 いや、あるにはある。

 数年ばかり働いていた頃の貯金が、私の生命線である。どうにも心許ない生命線であるが、長時間労働ですっかりフヌケになってしまったオタクヂカラのおかげで財布の紐はかちかちである。細々と生活するだけの余裕はあった。かつては単位を犠牲にバイトをしてライブに赴いていた現地参戦オタクであったが、もはやただの在宅オタクである。私が無趣味オタクというどうしようもない存在であるかは、読者諸兄の判断に任せたい。無職という時点で既にどうしようもないのは、疑う余地もない。

 賢明な方々はもう分かっているかもしれないが、お金を得なければならない私は「好きなことで、生きていく」ことにした。いわゆる動画配信者である。もっと俗な表現をすれば、YouTuberである。ただ、「YouTube」である必要もない。「ニコニコ動画」や最近では「OPENREC.tv」「Mildom」という動画配信プラットフォームも新興している。輝子ちゃんの容姿ならば「FC2」「Pornhub」でアダルト配信をしてもいいかもしれないぜと、煩悩に忠実な幻影ジョニーの意見を、私は紳士的に却下した。

 BANが怖いのではない。

 ものまね芸人として芸能界での地位を確立している松村邦洋が、よくものまねしている方々にお歳暮を贈っているという逸話が有名である。「ものまねさせていただいている」という、相手へのリスペクトが重要なのである。私の破廉恥な失態によって、輝子ちゃんの名を汚すことは断じて許されない。

 

「許せ、ジョニー」

 

 完璧な論理武装によって魔王ジョニーの尖兵に辛勝した私であるが、いつまたジョニーの魔の手に襲われるかも分からぬ。桃色の脳細胞たる私も、さすがに内なるリビドーを発散しているときのサボテンレベルになってしまった脳味噌でジョニーに対抗できるか分からない。もはやどこにもいない相棒ではあるが、きっと草葉の陰で私を監視しているはずだ。常に手綱を握らなければならないと、私は決意を新たにした。

 妄想逞しい私であったが、無難に「YouTube」で配信することにした。まず知名度や利用しているユーザー数がダンチである。私の類稀なる叡智が、長いものには巻かれるべき、さらにいわゆる「VTuber」と呼ばれる方々がスーパーチャットという文化の敷居を下げてくれたのならばそれを利用しない手はないと判断したからであった。

 万年床でしっかりと精神統一をし、「ライブ配信を開始」をクリックした私の手は武者震いをしていた。

 どーんといこうや。

 

 ●

 

 はい。

 はいじゃないが。

 輝子ちゃんと寸分違わぬ愛らしい容姿と声、私の溢れんばかりの輝子ちゃんへの愛、ラジオやライブ映像から徹底的に研究し、輝子ちゃんを完璧に理解した私の天才的なトークスキルによって訪れてしかるべき栄光のYouTuberライフを夢想していた私は、やはり施しようのない阿呆であった。

 配信はまるで視聴されていなかったし、アーカイブもまるで再生されていなかった。

 敗因は歴然としていた。

 配信している私が、ほとんど無言だからである。

「League of Legends」「Fortnite」「大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL」などのオンライン対戦ゲームにありがちなことであるが、私もすぐに「あったまって」しまうのが欠点であった。恥ずかしながら、興奮してつい暴言を吐いてしまうことなどもはや星の数ほどであるが、輝子ちゃんの姿である以上、それはもう許されないのである。しかし、なかなか直せないのだから仕方がない。

 私は比較的、紳士的にプレイでき、かつコンテンツヂカラのある「モンスターハンターワールド:アイスボーン」をチョイスした。

 

 ほぼ輝子@syoko_O6O6

 自分を星輝子と信じて止まないひきこもりが、野生と戯れる配信です。

 

 以下、約一時間の配信における私の発言である。

 

「ほぼ輝子です。ひと狩りします」

「フヘ」

「輝子ちゃんに似ている自信はあります」

「ラージャン行きます」

「捕獲するか」

「フヘ」

「お疲れさまでした」

「キノコ発見」

「お疲れさまでした」

「なかなか眠らないスね」

「お疲れさまでした」

「お疲れさまです」

「じゃあ、また」

「フヘ」

 

 以上である。

 やる気あるの?

 ないなら帰っていいよ?

 

「グエー」勝手にトラウマを抉られた私は、陸の上のジュラトドスのようにびちびちと悶絶した。「死んだンゴ」

 

 これはだめかもわからんね。

 弁解の余地をいただきたい。

 私は石橋をしっかりと叩きながら入念にチェックし、最後には叩き壊してしまい、渡らずに正解であったと判断するほどの慎重派である。私は輝子ちゃんのイメージを壊さないように配慮を尽くしていた。配慮するあまりにまるで発言できなかったことは反省すべきであるが、彼女のイメージを壊さないという目標は達成したと私は確信している。キノコを発見、採取したときのコメントと、最後のお別れの笑顔はまさに筆舌に尽くしがたい。見事に輝子ちゃんを演出している。「輝子ちゃんはそんなこと言わない」とのコメントを頂戴したが、前向きに検討していきたい所存である。

 散々ではあったが、配信終了直前にスパチャ(二五〇円)*1を頂戴していた。本当に直前であったので、返信できなかったのは無念この上ない。誰か分からぬが、誠に感謝である。

 私はなにがしに足を向けて眠らぬよう、テキトーに就寝した。

 

 ●

 

 反省するだけなら猿でもできる。

 反省からなにを学ぶかが、叡智の結晶たる我々人類には肝心なのである。

 私は先人に倣うことにした。

 砂塚あきらちゃんである。

 輝子ちゃんも所属しているプロダクションとしては新顔のアイドルであるが、アイドルになる前から動画配信者として活動しているという歴戦の猛者である。あきらちゃんの主戦場は「First(F)-Person(P) Shooter(S)」である為、私は寡聞にして拝見したことがなかったが、ここは参考にしてしかるべきである。初回の配信は能ある鷹が爪を隠しすぎてしまったが為に失敗してしまったが、万全を期す為にも爪をより研鑽すべきである。

 要チェックや!

 

「いざ!」カチッ。

 

 ほーん。

 へえ。

 はー……。

 なるほどなあ。

 んー。

 把握。

 理解した。分からないということを完全に理解した。

 嘘、ホントは分かっているからちょっと待って。

 マジ。

 マジで。

 あきらちゃんは特別なことをなにもしていなかった。プレイもトークも、普通なのだ。平凡なミスもするし、無言になることもある。それでも普通なのである。より言語化するならば、あきらちゃんは常に自然体であった。誰だってミスをするし、誰だって無言になることもある。あきらちゃん、ともすれば他の配信者にとって、配信も単なる日常の一ページにすぎないのである。

 私に足りぬものは、これであった。

 

「それができれば誰も苦労しないんだが?」

 

 なにせ星輝子になっていること自体が、私にとって非日常的なのである。ハミガキをしながらぼけーとしていると、ふとした拍子に以前の私が鏡に映っているのである。無論、これは幻覚であり、次の瞬間には星輝子がハブラシ片手によだれを垂らしながら呆然としているのである。酷いときには、以前の私と星輝子がヘドロのように渾然一体となりながら、道頓堀の底でカーネル・サンダース人形とワルツを踊っている悪夢に苛まれる始末である。夢であったとしても、輝子ちゃんに申し訳が立たぬ。

 ともかく、この身体を「日常」とするには、多大な時間が必要に思われた。

 結局、配信は場数を踏むしかないという無難な結論にソフトランディングしたが、あきらちゃんの動画に注目すべき点があったことを追記したい。あきらちゃんは反応すべきコメントの取捨選択が、とにかく早いのである。平凡なプレイをしているように思われたが、プレイしながらも常にコメントを追っている。周辺視野の把握に優れているのかもしれない。あきらちゃんの視線は意外と忙しないが、それでもプレイやトークは淡々としている。

 残念ながら、女性配信者は下世話なコメントに晒されかねないという現状が背景にあるのかもしれない。ホモ・サピエンスにあるまじき低俗な連中が存在してしまうのは、ネットもリアルも同じである。それに反応すると連中の思う壷であるが、あきらちゃんは冷静であり、コメントの取捨選択は実に妙技であった。

 これは大いに参考にすべき点である。

 しかし、これで十五歳か……。

 辞書の破廉恥な単語に蛍光マーカーが引かれていないかチェックしていた私の十五歳とは雲泥の差であった。比較するのも失礼千万であるというご指摘があれば、コメントお願いします。よれけばグッドボタンとチャンネル登録してくれると嬉しいです。

 

「……」

 

 無理があるのは私にも分かっている。

 私とて、とっとと配信に慣れたいのである。苦肉の策だとご理解をいただければ幸いである。

*1
なお、スーパーチャットを設定するにはチャンネル登録者数など一定の基準があり、実際とは異なっている。ご指摘、感謝であります。



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星輝子(1)

 所属しているプロダクションで、私が実は双子なのではないかという噂が広がっていた。

 寝耳に水だ。

 私は双子でも三つ子でもないし、生き別れや腹違いの姉妹もいない。一応、お母さんにも確認したが「寝耳に水ねえ」と呑気に笑っていた。

 親友によれば、どうやらあるネットユーザーが私に瓜二つらしい。

 

「ちょっと、違うとこもあるけど……、とっても似ているね……」

「ボクもかなり似ていると思いますよ」

 

 情報共有の為にも確認してほしいと親友から渡された動画データを、私と一緒に観ていた小梅ちゃんと幸子ちゃんが驚いていた。あまり実感はなかったが、やはり似ているらしい。

 

「まるで、ドッペルゲンガー、だね!」

「え、縁起でもない」

「小梅ちゃんが、よ、喜んでくれるなら、嬉しい……」

「輝子さん……」幸子ちゃんが呆れていた。「他人事じゃないんですから……」

 

 他人事。

 幸子ちゃんの言葉に、私は妙に納得していた。

 まるで他人事だった。

 

「フヒ」

 

 ノートパソコンのモニターには、私に似ているという少女が映っていた。どの動画でも、「彼女」は熱心に私を演じているようだった。これまでアイドルを続けてきて、まだ自覚はほとんどないけれど、やっぱり私は「アイドル」なのだなと思った。

 望む望まないに関わらず、アイドルにはチカラがある。

 それは純粋に凄いことだと私が思うのは、親友が私へのファンレターやプレゼントを確認しているように、プロダクションがインターネットを監視しているように、プロダクションと親友が私を守ってくれているからだ。

 私が誰かの悪意に晒されない為に。

 

「なにもなければ、それでいい。ただ、あれだけ似ている子が輝子の名を騙ったら……、最悪、訴訟になるかもしれない」

 

 親友の言葉も、なるほど納得だ。

 でも、大袈裟だなと私は思った。

 まるで他人事だった。

 私だけが薄靄に包まれているかのように、現実感がない。

 それは、私がアイドルになったばかりの頃にずっと味わっていたものだ。私がアイドルに慣れてきて、すっかり忘れてしまっていた感覚だった。

 ふと、懐かしいなと思った。

 

 ○

 

 プロダクションが彼女を知ったきっかけは、どうやらりあむさんらしい。

 ふと、ツイッターで私について検索(パブリックサーチというらしい)していたりあむさんは、botやハッシュタグ、ファンアート、膨大な数のツイートに埋もれていた彼女のアカウントをたまたま発掘してしまった。

 

 ほぼ輝子@syoko_O6O6

 自分を星輝子と信じて止まないひきこもりが、ピザとコーラで優勝する動画です。

 

 りあむさんは激怒した。必ず、この邪知暴虐のケダモノを除かなければならぬと決意した。

 

「神聖不可侵にして尊いアイドルの名を穢すなど、不届き千万。呆れたファンだ。生かしておけぬ。やむちゃんが成敗してくれよう」

 

 が、彼女は瓜二つだった。

 りあむさんの想像以上に。

 

「実質輝子ちゃんだこれ」りあむさんはぷるぷると悶絶した。「ジェネリック輝子ちゃんじゃんズルだよー……」

 

 りあむさんの正義の鉄槌は早々に矛先を失ってしまったが、「おいしすぎて、お、大石泉ちゃんになった」には、さすがのりあむさんも激昂した。「ぶち殺されたいのか?」

 

 ほぼ輝子@syoko_O6O6

 自分を星輝子と信じて止まないひきこもりが、野生と戯れる配信です。

 

 たまたま配信中だった。

 もちゃもちゃと餃子で優勝しながら、りあむさんは彼女の配信も観ることにした。コメントはない。視聴者もほとんどいなかった。それでも、ぽつぽつと必死にアイドルを演じている彼女に、りあむさんは地下アイドルを応援している心地だった。近頃はレッスンや仕事に追われ、なかなか「現場参戦」できていなかった。遠い昔のようだと、りあむさんは思った。

 りあむさんは、餞別とばかりに彼女にスパチャ(二五〇円)をし、ツイッターの裏アカウントで彼女のアカウントをフォローをした。

 という話を、りあむさんは興奮しながら、同期のあかりさんあきらさんにした。

 頻繁に炎上しているので、りあむさんは裏アカウントを禁止されていた。すっかり忘れていたりあむさんは、ちひろさんにがっつり怒られた。

 

「お願い許して!」ちひろさんの足元に縋りつき、りあむさんは懇願した。「裏垢ないとぼく生きられないよう!」

 

 おんおんと野犬のように号泣していたりあむさんのアイドルにあるまじき姿は事務所で注目の的となり、発端でもある彼女の話もプロダクションに広まってしまったらしい。幸い、りあむさんの裏アカウントはフォロワーもほとんどいない鍵アカウント(いわゆる愚痴アカウントらしい)だったので、彼女はネットでも話題にならなかった。

 あれから私も彼女の動向を確認していた(ツイッターでフォローされているのは知らなかった)が、ぽつぽつと他愛もないツイートや動画の投稿、配信をするばかりだった。

 親友がいなければ、お前はぼっちのままだったと言われているようだ。

 

「きっと、ぼっちのままだった、な」

 

 もし、親友がいなければ、私はどうしていただろうか。

 

 ○

 

 悩んでいるときは、素直に、頼れる先輩であるまゆさんに相談しようと思う。

 まゆさんは机の下という奇妙な隣人同士であり、「アンダーザデスク」というユニットで一緒に活動している仲だ。アイドルになった時期はほとんど変わらないけれど、アイドルになる前から読者モデルとして活動していたまゆさんは、芸能人としての先輩だ。身近で、かつ歳も離れていないまゆさんは、日陰のキノコのような私にとって貴重な存在だった。

 

「遅かれ早かれ、輝子ちゃんはアイドルになっていたと思いますよ」

「ま、まさか……」

 

 が、あまりにも直截なまゆさんに、私は言葉を失った。

 まゆさんは微笑んでいた。

 

「アイドルとして大成するほどのひとを、世間は放っておかないと思うんです。早いか、遅いか。それだけです」

 

 まゆさんの嘘偽りない言葉でも、やはり私には信じられなかった。

 

「私って、アイドルとして、た、大成しているのか……?」

「もう、そこからですか?」

 

 まゆさんに呆れられた。

 が、ぷりぷりとしているまゆさんは、とてもかわいい。眼福だ。やはりまゆさんのようなひとが、アイドルとして成功していると私は思うのだが。

 

「だって、親友がいないと、なにもできない……」

「もしかして、輝子ちゃんは……、ありきたりな表現ですけど、アイドルとしてのこれまでが、プロデューサーさんにすべて敷かれたレールだと思っていませんか?」

 

 親友に敷かれたレール。

 なるほどと思った。だから他人事だったのかと納得した。私の薄靄に包まれるような感覚を、的確に表現したまゆさんはやはり凄い。

 

「ち、違うのか?」

「敷いたのがプロデューサーさんだとしても」まゆさんは断言した。「これまでずっと走ってきたのは、努力してきたのは、輝子ちゃん自身です」

 

 まゆさんの言葉には、熱がある。瞳は、まっすぐとしていた。

 私にはないものだ。私がアイドルとして成功しているはずもないと思う最たる理由だった。

 眩しいな、と思った。

 俯いた私に、まゆさんは、ただ、頭を撫でてくれた。

 

 ○

 

 仮にもアイドルの端くれなので、私にもツイッターやインスタグラムのアカウントがある。

 が、ほとんど更新できていない。私がネットに疎いというのもあるが、まずなにをすればいいのか分からなかった。ときどき、幸子ちゃんや美玲ちゃんに呆れられてしまうが、分からないものは仕方がない。ユニットでお仕事したときに、みんなで撮った写真を投稿する(これも幸子ちゃんや美玲ちゃんがよくしてくれる)のがほとんどだ。私をよく知っている親友が代わりにすればいいと思うが、親友によれば「ファンは輝子のありのままの姿を知りたい」らしい。

 日陰のキノコを知りたいのか、私には疑わしいのだが。

 

「それで……、な、なにをすればいいんだ?」

「え、えー……?」

 

 私の疑問に、ボノノちゃんが困惑していた。

 ボノノちゃんはもう一人の、机の下の隣人である。「アンダーザデスク」のほかにも「サイレントスクリーマー」、「インディヴィジュアルズ」などのユニットとして一緒に活動している。いわゆる公私ともに仲のいい友達のひとりだ。

 

「輝子ちゃんがあんまりツイートしないのって……」

「なにをすればいいか、わ、分からないんだ」

「えー……」アイドルとしていまさらな話に、ボノノちゃんは呆然としていた。「なにって……、それは輝子ちゃんの自由だと思いますけど……」

「なら、ツイートしないのも、じ、自由ってことで」

「詭弁ですけど!」

「フヒッ」

 

 ボノノちゃんに叱られ、私は呻いた。

 が、ぷりぷりとしているボノノちゃんもまたかわいい。

 

「怒っているキミも、かわいいよ」

「貴方って、嘘ばっかり」

「嘘じゃない」

「ホントに?」

「本当さ」私はボノノちゃんに微笑んだ。「僕がキミを愛しているように、ね」

「きゃっ」

 

 鴨川に等間隔で並んでいるという唾棄すべきリア充の真似をしながら、私はボノノちゃんと他愛もない会話で戯れた。やがて小芝居に飽きた私達は、机の下でみんなのアカウントを話の肴にしていた。

 

「炎陣のみなさん、昨日は焼肉に行ったんですね……」

「焼肉……、ボノノちゃんはなにが好き?」

「シロコロ」

 

 私とそれほど更新頻度が変わらないボノノちゃんも、ときどき、イラストを載せている。絵本作家になる夢があるらしい。まゆさんはツイッターに手作りのお弁当(誰の為に作ったかは、乙女の秘密だ)を、インスタグラムにはファッションコーデを載せていて、男性向け女性向けを意識しているようだ。比奈さんはツイッターがメインで、美嘉さんはインスタグラムがメインだ。番宣や告知以外は、プロデューサーとアイドルの裁量に任されていて、それぞれの特徴があった。

 私はほとんどをプロデューサーと友達に任せている。

 だから他人事なのかもしれない。

 変わりたいと思った。

 

「あの……、ボノノちゃん」

「……?」

「一緒に、お、お、オフショット、撮らないか?」

 

 これは人類にとって小さな一歩だが、私にとっては偉大な飛躍である。

 ボノノちゃんとの机の下のツーショット自撮りは、どうにか無事に投稿できた。「一緒になら……、いい、ですけど……」ボノノちゃんはオフショットを了承してくれたが、私もボノノちゃんも自撮りを碌にしたことがなかった。慣れない自撮りに悪戦苦闘しながら撮影できたまともな一枚も、私の笑顔はへなちょこだし、ボノノちゃんの視線もどこに向いているか分からなかった。

 

「これはこれで、私達らしいかもしれないですね」

「フヒ」

 

 内緒話をするかのように、私は机の下でボノノちゃんと一緒に笑った。

 

 ○

 

 翌日。

 今日は小梅ちゃん幸子ちゃんとレッスンだ。

 最近では「アンダーザデスク」や「インディヴィジュアルズ」としても活動しているが、私がもっとも活動しているのは小梅ちゃん幸子ちゃんとのユニットだ。二人とも、私の大切な友達だ。世間でも私は小梅ちゃん幸子ちゃんの「カワイイボクと142's」で認識されていると思う。なぜかずっとユニット名がなかったのだが、理由は私にも分からない。

 私が所属しているプロダクションのアイドルは、レッスンが充分に確保され、余裕があると言われている。

 創業したばかりの頃は映画の制作会社だったらしいが、俳優のマネジメントを筆頭に事業を拡大していき、今ではテレビや映画、ラジオにコマーシャルなど、あらゆるメディアコンテンツを企画、制作する一大芸能プロダクションとなっている。所属しているモデルや歌手、アイドルを自社コンテンツで起用、宣伝できるので、それだけスケジュールの確保、管理がしやすいらしい。

 実際に、私は「六本木ヒルズ」や「お台場」にほとんど行ったことがない。

 

「お、おはようございます」

 

 余裕があるというレッスンスケジュールの恩恵をまさに受けている私は、挨拶をしながら呑気にレッスンルームに入っていた。

 

「おはよう……」

「おはようございます」

「……」

「フヒ……?」

 

 小梅ちゃんに睨まれていた。

 不機嫌な小梅ちゃんもかわいいが、どうすればいいのか私には分からなかった。困惑している私に、幸子ちゃんは呆れていた。さながら私がすたみな太郎でキノコばかり焼いていたときの拓海さんのようだった。「肉も焼け、肉も」

 幸子ちゃんが笑った。

 

「小梅さん、乃々さんに妬いているんですよ」

「……」

「イタ」幸子ちゃんは、トマトのように赤面した小梅ちゃんにぽかぽかと叩かれていた。「わ、分かりました、分かりましたから……」

 

 仲睦まじい二人の姿にほんわかしていると、小梅ちゃんにも呆れられた。

 なぜ。

 幸子ちゃんが私に囁いた。

 

「乃々さんとのツーショットをツイートしていましたけど、今までプライベートでは全然撮らなかったのに、どうしたんですか?」

「フヒ」私は自信たっぷりに笑った。「人類にとって小さな一歩だが、わ、私にとっては偉大な飛躍だ」

「はあ?」

 

 幸子ちゃんの剣幕に、私の心のニール・アームストロング船長は月面着陸に失敗していた。

 

「お、怒らないでくれ……」

「怒っていませんって……」幸子ちゃんは嘆息した。「ご自分で更新するようにと、ずっと言ってきましたからね。やっと分かっていただけたようでなによりです」

「フヒ」

 

 幸子ちゃんの言葉に喜んでいた私の肩が、むんずと掴まれた。

 小梅ちゃんだ。

 小梅ちゃんが幽鬼のように佇んでいた。さながら「シャイニング」のジャック・トランスのようだった。

 

「フ、フヒ……?」

「撮ろう。オフショット。私と、一緒に」

「あ、え、レッスンのあとで、いいんじゃないか?」

 

 私はレッスンウェアの裾を抓んだ。小梅ちゃんはいつもの袖の余ったパーカーも着ていたが、レッスンウェアはあまりにもシンプルな格好だった。自撮りをするなら私服のほうがいいんじゃないかと思うのだが。

 

「今」小梅ちゃんは決然としていた。「すぐに」

「う、うん」

 

 どうにか頷いた私に、小梅ちゃんはすっかりご機嫌になっていた。なぜかは分からないが、小梅ちゃんが喜んでいるなら、それでいいかなと思う。私は小梅ちゃんと一緒に自撮り(小梅ちゃんのピースは、パーカーの袖に隠れていた)をした。「フヒ」私が笑うと、小梅ちゃんも微笑んだ。

 笑顔の小梅ちゃんも、やっぱりかわいい。

 

「ハァ……」

「……?」

 

 どうして幸子ちゃんは呆れているのか、私には分からなかった。



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偽者(2)

 輝子ちゃん界隈に激震が走っていた。

 輝子ちゃんがプライベートなツイートをしていたからである。

 だからどうしたと思われるかもしれないが、輝子ちゃんのツイートはこれまでオフィシャルなものがほとんどであった。輝子ちゃんのプロデューサーが代理で更新しているというのが、ファンの間での見解であった。アイドルの動向、趣味や嗜好を知りたいのがファンの常であるが、プロダクションが炎上やストーカーの対策をしているのならば、むべなるかなである。

 が、乃々ちゃん、小梅ちゃんとのツーショットは、まさに青天の霹靂であった。

 東の輝子ちゃんファンは歓喜のあまりにスカイツリーによじ登って横断幕でパラセーリングをし、西の輝子ちゃんファンはすしざんまいの木村清人形を道頓堀にぶち込んで狂喜乱舞した。北はニシンの漁獲高が過去最高を記録し、南はヤンバルクイナが大繁殖した。数多の輝子ちゃんファンが母なる大地に五体投地をし、ホクト株式会社の株価は史上最高を更新した。

 輝子ちゃんは、それからぽつぽつとプライベートなツイートをするようになった。

 幸子ちゃんとのツーショット。

「アンダーザデスク」でのレッスン。

 ランチのきのこパスタ。

 美玲ちゃんとのツーショット。

 キノコの原木。

 キノコの鉢。

 キノコ。

 キノコである。

 プロダクションのプロフィールにも趣味は「キノコ栽培」と書かれている輝子ちゃんである。輝子ちゃんの同僚のアイドル達からも、断片的に「キノコが好きらしい」という話はあった。輝子ちゃんのデビューシングル「毒茸伝説」やライブ衣装のモチーフ、アクセサリーなどから、ファンの間でしばしば話題にもなった。ただ、出演したメディアで輝子ちゃんがキノコの話をすることはほとんどなかった。

 輝子ちゃんはかつて陰湿な番組プロデューサーに「キミ、キノコの話になると早口になるね」と嘲笑され、以来、キノコへの愛に蓋をしてしまったからである。私は口さがない番組プロデューサーに憤慨し、輝子ちゃんの不幸な境遇に涙した。

 無論、これはすべて私の妄想である。

 輝子ちゃん界隈の狂乱とは裏腹に、私の日常はなにも変わらなかった。中年のサラリーマンが思春期の娘さんに蛇蝎のように嫌われ、講義をサボった腐れ大学生どもが徹夜で麻雀をし、酔っぱらった楓さんがダジャレを連発するように、私はYouTubeの底辺で喘いでいた。

 ツイッターもまるでバズらなかった。

 ほぼ輝子のフォロワーは「り」という鍵アカウント、一人だけである。「り」のアイコンは得体の知れない錠剤の山であった。私は「バーティ・ボッツの百味ビーンズかしらん」と思った。東のメンヘラは東京ディズニーランドを、西のメンヘラはユニバーサル・スタジオ・ジャパンを愛していると相場が決まっている。「り」のフォローバックは保留とした。

 

 ほぼ輝子@syoko_O6O6

 自分を星輝子と信じて止まないひきこもりが、カルボナーラで優勝する動画です。

 

 バズらない、独創性の欠片もない二番煎じな動画だとしても、三日坊主だと思われるのも癪なので、私はどうにか動画を更新していた。ただ、私は一週間に一回ほどしか更新できていなかった。これにはマリアナ海溝よりも深い事情があることを、読者諸兄は留意していただければ幸いである。

 私の動画が二番煎じである以上、やはり本家にはリスペクトを払わなければならない。綿密な研究、分析に私が多大な時間を費やしてしまった事実は否定できない。本家のくじら氏や土師孝也氏のものまねは特筆すべき点であるが、まず第一に、調理動画なのである。本家が調理動画として優れているのに、お手軽にデリバリーピザで優勝している私はいかがなものか。ドミノ・ピザに罪はない。諸悪の根源は、アプリひとつでピザがデリバリーされてしまう現代社会である。

 ともあれ、私も料理をすることにした。

 身体中の水分がもはやカップヌードルのスープで構成されている私であるが、栄光ある大学生だった頃は業務スーパーの食材の山をどう活かすか、四畳半の片隅で辣腕を揮っていたほどだ。私の類稀な料理スキルに、誰もが滂沱の涙を流した。ただ、私がいかに卓越した料理人であれど、編集の腕は一向に上がらなかった。きのこ鍋(輝子ちゃんらしい絶妙なチョイスだと自負している)で優勝しようとしたときには、カメラのレンズがすっかり曇っていたのでボツになった。私は不貞寝した。

 配信もしながらぐだぐだと編集していると、あれよあれよと一週間が経っている。

 これが私の日常であった。

 

 ●

 

 私が「SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE」で無様に頓死しながら配信をしていると、リスナーからコメントがあった。「ホヘ?」あまりコメントもされないので私はマヌケにも呆然とし、私の「狼」が見事に惨死していた。

 

「カラオケ配信とかしないんですか?」

 

 なるほど妙案かもしれない。

 なにせ私は輝子ちゃんと瓜二つである。歌声もまた、輝子ちゃんと瓜二つでしかるべきはずだ。まず第一に、アイドルを模倣するならば、歌かダンスではないのか。なぜ私はゲーム配信や料理動画を投稿しているのか。もしや阿呆なのかと読者諸兄は思われたかもしれないが、阿呆なので異存はない。

 

「カラオケか……、す、するかも、しれないスね……」

 

 プレイしながらの雑談はどうにも慣れない。どうにか返事をしたが、それからは「狼」さながらにほとんど無言のまま、配信は終わっていた。

 ともあれ、カラオケである。

 カラオケなど何年も行っていなかったが、配信するとなれば、これを機に通うのもいいかもしれない。出費が痛手にはなるが、問題ない。輝子ちゃんがカラオケしている姿を観られるならば、スパチャが徳川埋蔵金のようにがっぽがっぽ贈られると確信しているからだ。ゲームをしている輝子ちゃんは二五〇円しかスパチャされなかったかもしれないが、それは些細な問題である。

 問題は私の実力である。

 輝子ちゃんになるという、人類史上、類のない確変が私の身に起きているが、以前の私の歌唱力は筆舌に尽くしがたいほど普通であった。声が似ていたとしても、歌唱力がお粗末であれば、リスナーはきっと納得しないし、私も妥協を許すような男ではない。輝子ちゃんのトークを研究、分析したように、歌もまた、研究が必要だと私は判断した。

 翌日。

 私は秋葉原を訪れていた。無論、ヒトカラをする為である。遊ぶだけなら他の繁華街もあるのだが、日陰者である私にとってやはりアキバがホームタウンである。JRで一本というのもありがたかった。

「Amazon」で新調した、キッズサイズ同然の黒のジャージ。現状、これが外出するときの一張羅である。

 黒のニット帽。

 伊達眼鏡(晶葉ちゃんモデルである)に、マスク。

 ノートパソコンやデジタルカメラを入れた「THE NORTH FACE」のリュックサック。通称、ホモランドセル。

 もし私が輝子ちゃんだと誤解されたら風評被害もはなはだしい、不審者同然の格好である。事実なので否定しない。私はあらぬ誤解を招かぬよう、常に警戒を怠らなかった。それを挙動不審と表現するのは簡単であるが、正論ではなにも解決できない。諸君には建設的な議論をお願いしたい。

 オタクデビューしたばかりの地方の学生のようにアキバを歩き、私は「アドアーズ秋葉原店」に入った。アドアーズ秋葉原店はワンフロアのヒトカラエリアがあり、設備も充実している。それだけ割高ではあるが、長居するつもりもないので支障はない。支障があるとすれば、珍妙な格好の私をスタッフがどう思ったか、である。

 ヒトカラのブースはカラオケというよりネットカフェの個室であった。ブースに入った私は、輝子ちゃんの身体ならエスパー伊藤ごっこができるほどのサイズのホモランドセルを、難儀しながら下ろした。

 

「あー、疲れた……」

 

 ドリンクバーでコカ・コーラを入れ、私はどっかりとブースのチェアーに座った。がぶがぶとコカ・コーラに溺れ、まるで一仕事終わらせたかのような心地の私だが、なにも終わっていない。数分ほど、診察を待つ病人のようにぼんやりとしてから、私は重い腰を上げた。

 今日は輝子ちゃんもカバーした「紅」を中心に、「X JAPAN」の楽曲を練習するつもりである。「紅」を筆頭に、凡百の歌唱力であったかつての私では、歌おうなどと地動説が覆ったとしても思わなかった数々の楽曲。それを、今ではシャワーをしながらフンフン諳んじている。感動的ですらあった。

 ありがとう。

 輝子ちゃんに、ありがとう。

「iTunes」で数フレーズを聴き、復唱するように、音程やリズムを練習する。前述したように、私は石橋をしっかりと叩き、最後には叩き壊してしまい、石橋を確認する為に用意した金槌で新たな橋を建造するほどの慎重派である。万全を期す為に何度も練習し、のども温まってきた。私はマイクをオンにし、ヘッドをぽんぽんと叩いた。

 ン、ン。

 ア。

 マイクチェ、マイクチェ。

 ア。

 アー。

 …………。

 ヨシ!(現場猫)

 撮影する為のカメラもセットし、いざ本番である。

 

 ●

 

 カラオケ配信はしないことにした。

 私の歌唱力が、あまりにも微妙だったからである。

 練習が功を奏していたのか、音程やリズムは申し分なかった。ただ、抑揚というか、まるで歌に感情がなかったのである。輝子ちゃんの魅力のひとつである、いわゆる「ヒャッハー」が微塵もない。さながらお経であった。どうにか感情を意識しようとすれば、音程やリズムがズタボロになった。あれやこれやと試行錯誤していると、一瞬で二時間が経っていた。なんの成果も得られなかった調査兵団のように、とぼとぼアドアーズ秋葉原店を退散した。傷心の私は「アクティブAKIBAバッティングセンター」で汗を流して忘れようとしたが、自打球で悶絶した。満身創痍に帰宅した私は、泥のように不貞寝した。

 カラオケ配信を断念した私であるが、金曜日の夜に調理を撮影し、土曜日に動画を編集、日曜日の昼に動画を投稿、日曜日から木曜日の夜にテキトーなゲームを配信するという寸分の隙もない完璧なルーティンを確立させていた。輝子ちゃんの身体だからなのか、どうにも夜更かしができないので、いつからか、午前二時頃には就寝し、午前十時頃に起床する生活習慣が勝手にできていたのは嬉しい誤算である。まだ甘いと読者諸兄は思われるかもしれないが、ニートにあるまじき規則正しい生活だと、私は豪語したい所存である。

 

 ほぼ輝子@syoko_O6O6

 自分を星輝子と信じて止まないひきこもりが、「冒険しながら、フィットネス。」する配信です。

 

 健康優良児のニートである私は「リングフィット アドベンチャー」を配信しながら、健康的に汗を流していた。

 ひきこもりという地位に甘んじている私であるが、かつてはスポーツで汗水流していた元気な風の子であった。武蔵坊弁慶の幼少時代もかくやとばかりに逞しい身体で、郷里の少年野球チームでは湘南のアダム・ダンと、敵にも味方にも恐れられていた。それがなぜこのような有様になったのかは諸説あるが、私はスポーツが好きだったが、スポーツは私を好きではなかったのである。

 つまりは体育会系のノリが合わなかったという話であった。

 

「オタクくんさぁ……」

 

 オタク、筋トレしがち説(水曜日のダウンタウン)を立証しながら、私はリングくんと上腕三頭筋や腹直筋などで戯れていた。私の配信は、やはり過疎っていた。それでも毎日のようにゲーム配信をしていたおかげか、数人ばかりだが、固定リスナーもできていた。当初は下世話なコメントをされるかもしれないと危惧していたが、どうやら類は友を呼ぶのか、私のリスナーは誰もが実に紳士的であった。シャイ、またはコミュニケーションが苦手だと表現してもいい。最初にスパチャをしてくれた「ガブリアむ」さんを筆頭に、誰もがたまにしかコメントしないし、私もたまにしか発言しなかったが、私にとっては心地よい沈黙であったように思う。

 

「晩ご飯はなに食べました?」

「か、カップヌードル」

 

 仔鹿のようにぷるぷるとプランクをしながら、私はガブリアむさんのコメントに返事をした。

 

「そればっかじゃん」

「ガブリアむさんは?」

「餃子です」

「フヘ」つい笑ってしまった私は、プランクからべちゃりと床に潰れた。どうやらガブリアむさんの身体の七割は、餃子で構成されているようだった。「そればっかじゃん」

 

 斯様に私達は、牧歌的に、教室の片隅に集まったオタクどものような配信をしていたが、いつしか状況は一変してしまった。どうも、とあるまとめブログが、私の動画や配信アーカイブをニコニコ動画に投稿したらしい。いわゆる、無断転載であった。アイドルと瓜二つな配信者は話題にもなり、チャンネル登録や再生数、ツイッターのフォロワーも急増していた。薔薇色のYouTuberライフへの第一歩として喜ぶべきはずなのだが、この穏やかな配信になかば満足していた私にとってこれは不穏な事態であった。オタクという難儀な存在は、いつだって余所者(つまりは、リア充や陽キャ、DQNである)に己のテリトリーが侵されることをなによりも忌避しているのである。

 ほぼ輝子という日陰者が、ついに白日の下に晒されていた。



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星輝子(2)

「L.R.S」のレッスンから戻ってきた夏樹さんと柑奈さんが、騒然とした事務所に呆然としていた。「なにかあったんでしょうか?」柑奈さんが怪訝としていたが、当然ながら夏樹さんも分からなかったようだ。

 事務所のソファーに座っていた私は、二人に頭を下げた。

 

「お、おはよう、ございます……」

「おはようございます」

「おはよ、輝子」私に挨拶をしたが、やはり夏樹さんは困惑しているようだった。「なにがあったんだ?」

「フ、フヒ……」

 

 夏樹さんとは涼さんと三人で「ハードコア☆ヘヴンズドア」というユニットを組んでいて、プライベートでもとてもお世話になっている。なにがあったのか、私が口下手だから上手に説明できたか分からないけれど、夏樹さんならきっと大丈夫だと思う。柑奈さんは、ちょっと自信がない。

 プロダクションでも話題になっていた、私と瓜二つの子。

 彼女がついにネットニュースになってしまったらしい。

 私は親友に話をされたばかりで詳しいことは知らないし、たぶん親友もまだ全部は分かっていないと思う。親友や、プロダクションの社員さん達は事実確認や、ぽつぽつとあるプロダクションへの問い合わせの対応をしていた。

 事務所の片隅では、りあむさんがなにやらちひろさんと話をしていた。

 彼女がネットニュースになった発端は、とあるまとめブログ(まとめブログというものを、私はよく知らないけれど)が、彼女の動画や配信を無断でアップロードしたからだ。当然、りあむさんはまとめブログの管理者でもないが、ちひろさんに絞られてからもどうやらりあむさんは彼女と関係があったらしい。ちひろさんは彼女の素性などをりあむさんから確認しているが、配信を観ていただけだからと、りあむさんも詳しいことは知らないようだった。

 

「うへー、ちかれたー……」

 

 またちひろさんに説教されるのかと戦々恐々していたが、解放され、ソファーでたれぱんだ(菜々さんが好きらしい)のようだったりあむさんも嬉々としていた。

 

「無断転載するなら、ボクだったらもっと上手くやるけどね!」

 

 余計な一言はりあむさんの愛嬌かもしれないが、ちひろさんには許されなかった。ちひろさんの「可哀相だけど明日の朝にはお肉屋さんの店先に並んでいる」養豚場のブタを前にしたような表情に、りあむさんは正座をしながら「ぶひぃ……」と呻いていた。

 親友達が情報収集に追われているときにも、事態は悪化していた。

 最初は動画が無断転載されたニコニコ動画を運営する、ドワンゴのネットニュースだけだったが、スマホひとつあれば、ネットに疎い私でも情報を拡散できる時代だ。後発のネットニュース、SNS、匿名掲示板(ときどきニュースにもされているそれを、5ちゃんねるという名前だと私は知らなかった)にまとめブログと、次々に彼女の動画が拡散されていた。

 彼女に非はない。

 問題は、彼女が私だと誤解されたときだ。私が勝手にネットで活動しているということになるからだ。

 親友は「プロダクションの、アイドルへの管理意識が、世間から問われかねない」と危惧していた。ときおり、ネットで炎上しているアイドルとしてりあむさんが話題になっていることも一因かもしれない。りあむさんにも非はないけれど、どうにも彼女はいつもタイミングが悪かった。ちひろさんにまたも怒られ、りあむさんは事務所の片隅でふごふごと泣いていた。

 

「この方が、私は輝子ちゃんじゃありませんって、言ってくれればいいんですけど……」

 

 言葉とは裏腹に、柑奈さんの表情は悩ましかった。たぶん、それは難しいと分かっているのだと思う。

 彼女が私と別人だと証明すれば、事態はたぶん簡単に終息すると思うが、やはりネックになるのがネット社会だ。彼女の個人情報が拡散され、プライバシーが脅かされるかもしれない。彼女もそれを恐れないはずがないと、柑奈さんも理解していた。

 能天気なのはりあむさんだけだった。

 

「ウチで囲ったらいいじゃん」

「ん?」

「うひ」

 

 夏樹さんにメンチ切られたと思ったのか、りあむさんは呻いた。

 

「だ、だってだって、輝子ちゃんに似てンだよ。ばつ牛ンに。スカウトしない手はないってぼくは思うな」

 

 正論ではあるが、楽観的なりあむさんらしいなと思った。夏樹さんの苦々しい表情が、なによりも雄弁だった。「それができれば、誰も苦労しない」

 

「いや、いいかもしれないな」

 

 重苦しい沈黙を破ったのは、ワイシャツの上にブルゾン姿の、小柄な男のひとだった。背丈は柑奈さんよりも低いかもしれない。彼はなにやら思案しているようだが、体格の所為か、あまり威厳はなかった。

 唐突に現れた彼は、呆然とする私達を余所に、ぶつぶつとなにか呟きながら唐突に去っていた。

 

「誰?」

 

 りあむさんの疑問は、もっともだった。

 

 ○

 

 小柄な男のひとは、キッズアイドルを中心に活動している部署のプロデューサーだった。彼は「マルチ(M)チャンネル(C)ネットワーク(N)の部署を新設し、彼女をストリーマーとしてスカウトするのはどうか」と提案したらしい。マルチ……とはなにかと思ったが、親友によれば動画配信者をタレントとしてプロダクションがマネジメントする体制らしい。

 あらゆるメディアコンテンツを企画、制作する一大芸能プロダクションでありながら、まだYouTubeを開拓できていない。これを機にYouTubeでもコンテンツを展開し、彼女をスカウトできれば私の疑惑も払拭される。「まさに一石二鳥だ」彼は気炎を上げていた。彼が担当しているキッズアイドルもよくYouTubeを観ているから、YouTuberの影響力を馬鹿にはできないと生まれたアイディアだった。それはプロダクションの上層部も同じだったらしい。とんとん拍子にMCN部門が新設されていた。

 後日。

 設立のきっかけになった私達は、新調された部屋に集まっていた。元は倉庫だったらしい。綺麗にされていたが、名残があった。

 

「いやただのトカゲの尻尾切りでしょ」りあむさんが嘆息した。「もしこのプロジェクトが失敗したらあのちっこいのは責任者として切られるね。上は責任の所在ってのが欲しかっただけだよきっと。俺は詳しいんだ。汚いなさすが大人きたない」

「#陰謀論に自信ニキ #イキリオタク #オタク特有の早口」

「グエー」あきらさんに繊細なハートを抉られたのか、りあむさんは悶絶した。「死んだンゴ」

 

 集まっていたのは当事者である私と、ある意味で関係者のりあむさん。それと、りあむさんの同期の砂塚あきらさんだった。MCN部門を設立したのに配信者がいないのでは意味がないと、アイドルになる前から動画配信をしていたあきらさんにどうやら白羽の矢が立ったようだ。二足の草鞋は大変ではないかと思ったが、あきらさんはアイドル砂塚あきらとしてオフィシャルに配信できるのを喜んでいた。

 

「Japanese小池サンに会いたいデスね」

「誰?」

 

 りあむさんの疑問は、もっともだった。

 あきらさんによれば、Japanese小池さんはFPSのプロゲーマーだった。彼が主に活動している「コール オブ デューティ」シリーズでは、国内で負けなしと評されるほどの伝説的なプレイヤーらしい。「へえー」饒舌なあきらさんに、りあむさんは相槌をしていたが、視界の隅の飛蚊を追っているかのような表情だった。

 

「興味ないデスね?」

「うん!」

 

 満面の笑顔で返事をしたりあむさんは、あきらさんにぶん殴られていた。仲睦まじい二人の姿に私がほんわかしていると、部屋のドアがノックされた。「はーい」カーペットのようにぺちゃんこに潰れているトムりあむさんの上で、ジェリーあきらさんが返事をした。

 入ってきたのは、MCN部門を担当することになった親友だった。

 

「あれ? 尻尾ってちっこいのじゃないの?」

「しっぽ?」

「りあむサン」

「ごえ」

 

 失言に、りあむさんはまたあきらさんにぶん殴られていた。幸いにも、親友はどうやらりあむさんの言葉の意味を分かっていなかった。分かったらそれはそれで勘がいいってレベルではないと思うが。

 まずは、親友のブリーフィングから始まった。

 もともとMCN部門を設立するついでに彼女をスカウトする魂胆だ。もっとも都合がいいのは私のプロデューサーである親友だった。親友が私と彼女のスケジュールを一括に管理すれば、二人は同一人物だという疑惑も払拭しやすいはずだとプロダクションが判断したからだ。

 

「それはいいんデスけど、このひとに断わられたら元も子もないんじゃ?」

 

 あきらさんの疑問にも、親友の表情は変わらなかった。「彼女からは既にいい返事を貰っている」とのことだった。さすがのあきらさんも驚嘆しているようだった。

 

「早いデスね、仕事」

「ほぼちゃんもこの状況、困ってたっぽいし」

「ほぼチャン?」

 

 私も「ほぼちゃん」はどうかと思うが、りあむさんの言葉に追従するように、親友が頷いていた。無断転載から陥ったこの事態をどうにかしたいと、彼女もプロダクションの提案を了承するつもりのようだった。まだ悩んでいるが、彼女と「ガブリアむ」というアカウントで連絡を取っているりあむさんによれば「あともうちょい」らしい。この事態に、別アカウントをちひろさんに許されたりあむさんは無敵だった。

 途端に、あきらさんの眉間に皺が寄った。

 

「信用ならないんデスけど」

「いや大丈夫だって絶対」

「りあむサンの絶対はマジで信用できないデス。プロデューサーサン、このひと外したほうがいいデスよ、プロジェクトから。ホントに」

「やむ!」

 

 この事態の関係者ではあるが、彼女をスカウトできたらりあむさんはお役御免だった。ネットで炎上ばかりしているりあむさんが、あきらさんのようにMCN部門を兼任することはもともと検討されていない。一緒に呼ばれていた為か、どうやら二人とも早合点していたようだ。

 親友の話に、あきらさんは安堵していた。

 りあむさんは絶望した。

 

「ぷ、プロデューサーサマ! ぼくもゲームしてオタクどもにチヤホヤされたい! だからお願い! なんでもしますからぁ!」

 

 ゲームをすれば仕事になるという夢のような環境が絶たれ、親友の足元に縋りつきながらりあむさんは慟哭した。あきらさんの表情には軽蔑があった。

 実に平穏な、MCN部門の第一歩だったと思う。

 

 ○

 

 彼女の返事を待つ日々だったが、意外と不安はなかった。能天気なのはりあむさんだけだと思っていたけれど、私もかなり能天気なようだった。

 ただ、親友はどうなのか分からなかった。

 私を心配して、不安になっているかもしれないと思った。MCN部門の担当になったのも、もし私を守る為だったら嬉しいけれど、それだけ親友の仕事を増やしているということでもあった。私が不安になれば、きっと親友の負担にもなる。それだけは嫌だったから、能天気でよかったのかもしれない。

 親友が無理していないと、嬉しいな。

 今日は小梅ちゃん幸子ちゃんとのレッスンだった。

 モデルとしても活躍しているまゆさんや、バラエティー番組に出演している幸子ちゃんのように、ソロでメディアに出演することが、私にはあんまりない。レギュラー番組があれば、それを軸にスケジュールが組まれるので、私のスケジュールは基本的に流動的だった。ソロでライブやイベントに出演することもあるけれど、私は「カワイイボクと142's」や「ハードコア☆ヘヴンズドア」のような、ユニットでの活動がほとんどだ。

 

「フヒィ!」

 

 ふと、休憩していた私の首筋に、冷たいものが触れていた。私は、たぶんアイドルにあるまじきマヌケな悲鳴を上げていた。お茶目なイタズラを成功させた小梅ちゃんが、ペットボトル片手に笑っていた。ポカリスエットだった。

 幸子ちゃんも一緒だったが、小梅ちゃんに呆れていたようだった。

 

「随分と上の空でしたねえ」

「フヒ……」

 

 図星だ。

 幸子ちゃんは微笑んだ。子を心配する親のような、優しい表情だった。バンジージャンプやスカイダイビングをさせられている姿からは想像もできないかもしれないが、きっと仲間である私達しか知らない表情だ。プロダクションの後輩でもあるシンデレラプロジェクトのひとがロケで苦戦していたときも、この表情をしていたと友紀さんが話していた。ひとつ年下だけれど、幸子ちゃんは私よりもよっぽどオトナだ。

 

「プロデューサーさんが心配ですか?」

「う、うん。……で、でも、いつも通りなのが、一番だなって……。親友も、心配しないと、お、思うから……」

 

 私の言葉に虚を突かれたような幸子ちゃんだったが、満足したとばかりに頷いた。

 

「分かっているじゃないですか。さすがは輝子さんです」

「フ、フヒ……」

「フフーン」

 

 赤面した私に、幸子ちゃんはいつものように笑った。私も一緒に笑った。

 

「フギャ!」

 

 ふと、幸子ちゃんがアイドルにあるまじきマヌケな悲鳴を上げていた。目を白黒させながら、幸子ちゃんは首筋をしきりに触っていた。お茶目なイタズラを成功させたのかは分からないけれど、小梅ちゃんがなぜか不機嫌になっていた。手はいつもの袖口の余ったパーカーに隠れ、なにも持っていなかった。

 幸子ちゃんは顔面蒼白になった。

 

「小梅さん!」仔鹿のようにぷるぷるしながら、幸子ちゃんが叫んだ。涙目だった。「あの子はダメっていつも言っているじゃないですかあ!」

「知らない」

「小梅さん!」

「知らない、もん」

 

 かわいい。

 デートをすっぽかされた女の子と、男の子のワンシーンのようだなと思った。「フヒ」必死になっている幸子ちゃんの姿とさっきまでのギャップに、私はつい笑ってしまった。

 二人から睨まれた。

 

「ゴ、ゴメン……」

 

 私は、二股がバレた男のワンシーンのように謝った。



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偽者(3)

 まとめブログ。

 それは、コバエのような品性のブロガーが、一部のネットユーザーから蛇蝎のように嫌われ、血で血を洗うような蠱毒さながらの様相を呈しているこの世の地獄の底である。

 ほぼ輝子を無断転載したまとめブログは、女性配信者関連を中心に更新していたが、アクセスを稼げないと判断したのか、最近ではVtuber関連に比重を置いていた。実に浅ましい根性であるが、噂に違わぬ独自の嗅覚で、輝子ちゃんに瓜二つというセンセーショナルな存在のほぼ輝子をキャッチしていたのは、恐るべき執念である。

 まず私が疑ったのは数人ばかりの常連さんであるが、可能性は低いように思われた。常連さんを疑うという、紳士にあるまじき所業を私が許さなかったのもあるが、我々はYouTubeの底辺で一ヶ月は戯れていた。常連さんが、もし餌になるネタを常に探しているハイエナならば、いまさらなタイミングであると桃色の脳細胞たる私は確信していた。私は、孤島ミステリー第一の被害者のように、易々と疑心暗鬼に陥るような男ではないし、まとめブログの管理者はアドレスやアカウントを公開している。仮に常連さんのひとりが犯人だったとしても、それに凸すればいいだけの話である。推理を展開するまでもなかった。

 ただ、迂闊に凸をするほど、馬鹿な私ではない。荒らしはスルーすべし。「古事記」にも書かれている、由緒正しき方法である。配信をせず、我々は事態を様子見していた。ツイッターのダイレクト(D)メッセージ(M)で招待コードを送った常連さんとともに、私は冬を越すヒグマのように「Discord」にひきこもっていた。

 ほぼ輝子とは誰なのか、よもや輝子ちゃん本人なのかと、ほぼ輝子のツイッターの通知欄は随分と賑わっていたが、我々のDiscordはいつものように、冬眠しているヒグマもいない、冬の禿山のように森閑としていた。Discordでの配信も試したが、環境が変わったからとて配信スタイルは変わらなかった。我々は、配信者と視聴者一体となってほとんど無言という、硬派なストロングスタイルを貫いていた。雑談はほとんどテキストチャットであった。歴戦の猛者である我々は、CGIチャットの呪縛から逃れられなかったのもあるし、ボイスチャットで異性と雑談するのは憚られるという、紳士的な常連さんの確固たる意思を尊重していた。

 

 ● 

 

 Discordでの配信はやや難儀であったが、避難所生活も慣れれば都であった。濁流のようなツイッターの通知も、ほぼ輝子のアカウントに触らなければ問題もない。

 ただ、ついには私の本アカウントにもほぼ輝子の話題がリツイートされていたのがやや問題であった。

 

「どうしたもんかなあ……」

 

 私は呻いた。

 意識的にシャットアウトするのにも限界がある。

 私はほぼ輝子がどのように話題にされているかを確認することにした。なお、これは私の溢れんばかりの知的好奇心を満たす為である。短絡的な愚行かどうかの判断は、諸君の自由である。

 ニコニコ動画を運営するドワンゴのネットニュースから、後発のネットニュース、SNS、5ちゃんねる(この名前に、私はいまだ慣れない)にまとめブログと、次々に動画が拡散されているのは、私も小耳にしていた。5ちゃんねるにどのようなスレがあるのかも興味はあったが、ツイッターへのリプライかニコニコ動画のコメントを確認するのが、やはり手短に思われた。

 ニコニコ動画は「草」を生やしていればコミュニケーションが成立する、密林のジャングルである。ウホウホとドラミングしているゴリラ達のほうがよほど高尚にコミュニケーションをしている。いわゆるクソリプによる精神的ダメージを考慮し、まずはニコニコ動画のコメントをチェックする為に、我々調査隊はアマゾン奥地へと向かった。

 

「嫌いじゃないけど好きじゃないよ」

「大物YouTuber」

「奈落シチュー」

 

 YouTuberとして活動する以上、インターネットでおもちゃにされるのも想定していたが、いざ直面するとなかなかのダメージであった。拙い編集技術から、外見相応の子どもと思われているのはやや釈然としないし、私の独創的にして革新的なチキンカレーが地の底(アビス)の産物にされるとは、よもやである。

 度し難い。

 ただ、ほぼ輝子があまりにも瓜二つだからか、輝子ちゃん本人かも分からない相手に、直截な中傷コメントをするのはどうやら憚られるようであった。おもちゃにはされているが、誹謗中傷はほとんどなかった。共通の話題で騒げればそれでいいという土壌がインターネットにあるように、ほぼ輝子が誰であるか、関係ないのかもしれなかった。

 懸念は、ほぼ輝子が5ちゃんねるでどう思われているか、である。

 5ちゃんねるに囚われると、全感覚の喪失、それに伴う意識混濁、自傷行為に陥るという。さらには人間性をも喪失し、やがて死に至る、現代の深界五層である。5ちゃんねるでは、人間性を失った成れ果てどもによって形成された数多のスレッドが地層のように堆積している。なかでも悍ましいのが、いわゆるアンチスレである。

 恥ずかしながら、私もかつてはイベント会場で迷惑行為をしていた厄介オタクを叩いていたものだが、それでも温情である。もっと理不尽に誰かをディスっているスレなど、枚挙に暇がない。令和のガンジーたる寛大な私も、おもちゃにされるならまだしも、サンドバッグにされるのはさすがに御免である。私は5ちゃんねるから退避した。

 敵前逃亡ではない。戦略的撤退である。

 無事に撤退した私は、布団を被りながら、ぷるぷると武者震いをした。

 しかし、数日もすれば、徹底した静観が功を奏したのか、だいしゅきホールドの起源を主張して嘘松認定された作家や、ワニくんはどう死ぬのかがトレンドになっていたのか、ツイッターのオタクどもはほぼ輝子にほとんど興味を失っているようであった。

 好都合ではあるが、やや釈然としない。

 ただ、なにやら5ちゃんねるの一部の強硬派が、ほぼ輝子を輝子ちゃん本人と断定(残念ながら早計である)していた。プロダクションはアイドルの管理責任を果たしていないと声高にロビー活動をし、あきらちゃんの同期である新人の夢見りあむちゃんがネットで炎上していた。りあむちゃんは頻繁に炎上していることで有名である。プロダクションがアイドルを管理できていない筆頭だと思われているようであった。

 まさに対岸の火事である。

 しかし、私の所為でプロダクションが批難されているのは事実である。声がデカいだけの、ほんの一部のアンチの仕業だと思われているのが不幸中の幸いであるが、輝子ちゃん一人の汚名云々の話ではない。プロダクションがどのように対応するのか不安であった私は、夜しか眠れなかった。

 

 ●

 

 翌日。

 ほぼ輝子のアカウントに、プロダクションからDMが届いていた。

 私は呆然とした。

 

「マジか」

 

 さながら嵐のようであったほぼ輝子のツイッターの通知もすっかり収まっていたから、それはまさに晴天の霹靂であった。なにかの悪戯ではないのかと私が疑ったのも無理からぬ話であるが、正真正銘、プロダクションの公式アカウントであったし、エイプリルフールは一ヶ月以上も先の話である。ほぼ輝子とワンチャンむにゃむにゃしたいのか、理性の欠片もないセンシティブなリプライを送ってきた野獣どものアカウントを次々にミュートしてから、私の心はやっと冷静になったように思われた。

 私は深呼吸をし、DMをクリックした。

 大企業らしい、実に格式あるビジネスメールに、私は労働アレルギーの発作に襲われていたが、つまりは「プロダクションでもストリーマー部門を発足させる。ほぼ輝子を配信者として配属させたい。話はできないか」という用件であった。

 私は「ほんまかいな?」と思った。

 嬉しいが、疑わしいのも本音である。輝子ちゃんばりの優れた容姿でバズったが、YouTuberとしてのほぼ輝子はただのペーペーである。話題性も、じゃがりこに爪楊枝を混入させたとして数年前に逮捕されたYouTuberと、もはや大差はなかった。実は輝子ちゃんと双子でしたーという設定でアイドルとしてデビューさせるほうが、まだ真実味があった。なにか裏があるな、と頭脳明晰な私は判断していた。他人の厚意をまず疑うへそ曲がりだと表現してもよい。

 もしプロダクションがほぼ輝子を管理下に置きたいとすれば、やはりほぼ輝子の迂闊な行動がプロダクションや輝子ちゃんの不利益になると判断したからか。

 不本意ではあるが、私が輝子ちゃんの不利益となれば、ファンとして恥ずべきことである。DMで謝罪をすればいいのかもしれないが、誠意を示すためにも件の担当者と会うべきだと私は思った。既に話題も下火になっているから、再燃の火種にしかならない、プロダクションへの配属だけは断ればいいように思われた。

 私は「プロダクションの方から話がしたい」というDMがあった、会うべきか迷っていると、常連さんに相談することにした。これは多角的な判断をする為であり、優柔不断ではないと諸君にご理解いただきたい。新部門の発足やスカウトの件は伏せている。プロダクションは炎上(というか小火である)の件について話がしたいのだな、と聡明な常連さん達ならば理解すると信頼していた。

「絶対、話をしたほうがいい」と、ガブリアむさん。随分と積極的であった。なにか誤解をしているのかもしれない。

「一旦、保留にしたほうがいい」は、官能コイルさんとサム・ライミ8さん。消極的であるが、ほぼ輝子のバズりもほとんど沈静化しているから様子見は妥当である。

「人間はなにかを選択したとき、選ばなかったほうを後悔するようにできているので、どちらでもよい」と、八つ折作戦さん。論外である。一見、論理的で心理学的な知見であるが、なにも解決していない。「今度のデート、どこにする?」「どこでもいい」というレベルである。童貞か。さすが「シン・ゴジラ」が好き(ハンドルネームからの憶測である)なだけはある、なかなかの愛すべき偏屈野郎であった。絶対、理想主義的な矢口蘭堂より、現実主義的な赤坂秀樹派である。

 常連さん(私は勝手に四天王と呼んでいる)の意見も考慮して、カップヌードルが完成するまで慎重に悩んだ末、私は担当者と会うことにした。やはり誠意は示すべきであると思った。もし失敗したとしても、ガブリアむさんと八つ折作戦さんの所為にすればよい。私はカップヌードルを貪り、昼寝をしてから返信した。

「ご足労いただいた際には、交通費と、わずかばかりではありますが、謝礼をご用意いたします」という言葉がDMにはあったが、私の決断に一ミリも関係はない。

 

 ●

 

 後日。

 指定されたのは、渋谷のとある喫茶店であった。ジャージ姿で担当者と会うのはさすがに憚られたので、私は「GU」でジーンズとパーカーを新調していた。

 担当者によれば、仮に私が東京都民でなかったとしても、全国各地にプロダクションの支社があるから問題はないが、対応しやすいに越したことはないという話であった。秘密の花園たるプロダクションの社屋に入れるのではないかという淡い期待もあったが、こればかりは仕方がない。

 喫茶店があるのは、ドブの匂いがすると評判の渋谷の歓楽街からはやや離れた高級住宅街の一角であった。渋谷という土地に圧倒的なアウェーである私は、喫茶店の脇にある公園で、待ち合わせの三十分前から店の様子をじっと敵情視察していた。お昼時を外しているからか、客はスーツ姿の男二人と年配の女性だけであった。

 スーツの二人組がたぶんプロダクションの方であるが、一人は随分と大柄であった。さながら金剛力士像である。喫茶店でスーツ姿の金剛力士像が窮屈にちょこんと座っている姿を想像したらなかなかに痛快であったが、怒らせたら肉団子のようにボコボコにされ、浅草仲見世通りの人形焼の材料にされるかもしれないのでほどほどにした。不埒な妄想逞しい私に、公園を散歩していた若奥様のヨークシャー・テリアが「きゃん」と鳴き、私は仔犬のような悲鳴を上げた。

 ヨークシャー・テリアから逃げるように喫茶店に入った私に、もう一人の男が店員さんより先に「お待ちしておりました」と微笑んでいた。強面の大男とは対照的に、アイドルとして活躍していても不思議ではない、やや細身の優男であった。優男はさながら二十年来の友人か、はたまた歌舞伎町のポン引きかのような人懐っこい笑顔をしていたが、ツラのよい男は腹黒と相場が決まっている。これは歴然たる客観的事実であり、私の個人的な感情とはまるで関係ない。

 

「では、私はこれで。失礼します」

 

 奇妙な沈黙を破ったのは、大男であった。渋いバリトンボイスである。どうやら優男が担当者であるらしい。無骨ながらもぶきっちょがどこか愛らしい(私の勝手な妄想である)大男が担当者ならば、どれほどよかったか。私に会釈をしてきた大男は、やはりどこか窮屈にしながら喫茶店を去っていった。

 孤立無援である。

 私は決然と優男を威嚇したが、優男はまるで仔猫を前にしたかのように飄々としていた。



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偽者(4)

 優男と大男が座っていたのはカウンター席であったが、優男は自然とテーブル席に移っていた。事前に話を通していたのか、店員さんはなにも言わなかった。壁際に座った優男に促され、私もテーブル席に座った。

 

「ストリーマー部門を担当しております。本日はよろしくお願いいたします」

「あ、はい、どうもッス」

 

 優男のプロデューサー氏は、場末のホストのような風貌とは裏腹に、実に丁重な物腰であった。プロデューサー氏から丁寧に名刺を渡された私は、パブロフの犬さながらの生理学的宿命か、つい条件反射的に頭を下げていた。微笑むプロデューサー氏は、アイドルの足元でうごうごしている有象無象の私には、眩いほどであった。エネルギッシュで精悍な若人は、私がもっとも苦手とする人種である。好青年であるプロデューサー氏を前にして、きっと順風満帆な青春を送ってきたのだなと、私はどす黒い感情を鬱屈とさせていた。「爆ぜろ」と無意味にプロデューサー氏を呪っていたが、先に破裂するのはヘドロのような感情でぱんぱんになった私である。

 

「まずはご足労いただき、誠にありがとうございます」

「え、あ、はい」

「また、騒動以来、活動をお控えしていると伺っています。おかげで事態も徐々に収まっており、手前勝手ながら、ご協力、感謝申し上げます」

「それは、なによりッスけど……」

 

 早々に、どうにも赤裸々な話である。

 怪訝な私に、プロデューサー氏は鷹揚と頷いた。

 

「貴方は実に聡明で理知的な方ですから。私としても、貴方と腹の探り合いは望んでいません」

 

 聡明で理知的である私は、プロデューサー氏の慧眼に脱帽した。

 能ある鷹は爪を隠すとあるが、ずっと隠していたが為に鈍刀になってしまわぬよう、私は隠した爪を丹念に研鑽してきた。研ぎすぎた所為ですっかり川底の小石のようになってしまった私の良識と才能も、大手プロデューサーともなればやはり分かるものなのである。

 プロデューサー氏は実に優れた審美眼であった。信頼に値すると、私は確信した。

 

「正直に申し上げますと、私個人としては貴方を配属させようとは思っていません。賢明な貴方なら、きっと危惧されていると思いますが、それは再燃の火種にしかなりませんし」理路整然としたプロデューサー氏の言葉に感服するように、私は頷いた。「なにより、貴方に配信者としての魅力はありませんから。単純に実力不足ですね」

 

 グエー死んだンゴ。

 綿菓子のようにふわふわとして甘い私の心が、唐突に現実という鋭い刃で一閃され、私は悶絶した。

 私にYouTuberとしての実績がないのは、純然たる事実である。辯舌たる私にも反論できない。しかし、事実だからとて、それを声高に糾弾していいという理屈はどこにもない。法治国家にあるまじき許されざる所業に、私は悪鬼羅刹のごとき形相で血涙を流していたが、プロデューサー氏はやはり飄々と微笑んでいる。敏腕のプロデューサー氏は、どうやら血も涙もないゲイのサディストでもあるらしい。

 むしゃくしゃした私は、喫茶店オススメの日替わりパスタ(大盛り)とコーヒーのセットをプロデューサー氏の経費でむしゃむしゃと貪ってやった。断ろうと思っていたのは事実であるが、釈然としない。それとこれとは別腹である。私はデザートにカスタードプディングも経費で注文した。

 プロデューサー氏が苦笑した。私の風貌にあるまじき健啖ぶりに、驚嘆したのかもしれない。

 

「配属させるつもりがないなら、なぜ話をしたいと思ったんですか?」

「他の事務所に掻っ攫われる前に、貴方が芸能界に興味があるのかだけでも確認したかったんです。安心しました。もし興味があるようなら、強引にでも囲わなければならなかったので」

 

 プロデューサー氏の表情は実に泰然としていた。

 しかし、こいつにはやると言ったらやる……「スゴ味」があるッ!

 もしも私が芸能界に興味を示していたら、プロダクションの最奥部に重鎮している大蛸のような巨漢から不可解な選抜試験を課せられ、最期は渋谷のスクランブル交差点の隅にあるガムの跡のように、どす黒いシミの一部となっていたかもしれない。

 あまりに繊細微妙な妄想に襲われ、私は一人勝手に戦慄した。のどがひりひりとした。私はコーヒーをおかわりした。

 

「もし他の事務所にお断りすることがあれば、私の名刺を出してください。お相手も、我々が先にコナかけていると分かっていただけますよ」

 

 優男の外見らしからぬ、不穏当なプロデューサー氏の言葉に、私は「イタリアの片隅でギャングでもしていたのかしらん」と思った。どうやら私はプロデューサー氏にしっかりマークされてしまったらしい。抗議しようかと思ったが、私は寛大なのでフルーツたっぷりのミルクレープを経費でお土産にすることで許した。

 ただ、私には、プロデューサー氏の「私個人としては貴方を配属させようとは思っていません」という言葉が疑問であった。

 これはプロデューサー氏の独断なのか?

 

「はい」プロデューサー氏は截然と頷いた。「貴方を管理下に置きたいというのが本音でしょう。先程も申し上げたように、貴方の実力不足、再燃の火種になりかねないという点から、私は反対ですが。それに、ストリーマー部門を設立している暇はないですからね」

「……?」

「ダイヤモンド・プリンセス号の一件はご存知ですか?」

「あ、はい。それは、さすがに」

 

 台湾やベトナム、沖縄などを周遊していたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」を下船したある乗客から、世界各地で感染が拡大している新型コロナウイルスの陽性反応が検出された一件である。二月の頭に横浜港大黒埠頭沖に停泊し、約二週間の検疫が終了したばかりなのは記憶にも新しかった。ひきこもりである私も当然ながら知っている。

 それが私とどう関係あるのか、私には分からなかった。

 

「既に数々のツアーやライブ、イベントの中止が決定されています。我々も他人事ではありません。既に世界的にも感染が広まっていますが、私はより事態が悪化すると予想しています。悠長にストリーマー部門という新しい体制を整えられる猶予は、もうないでしょう」

 

 大袈裟だなと私は思ったが、プロデューサー氏の目は鷹のように鋭かった。

 

「貴方は、配属に前向きですが、保留ということにしておきましょう。放っておけば、きっと、有耶無耶になりますから」

「あ、はい。じゃあ、それでお願いします。はい」

 

 猛禽類に睨まれた仔鼠さながらに、私は頷いた。

 満足したようにプロデューサー氏は微笑んだ。ツラのよい男は腹黒であるという定説は、やはり歴然たる事実であった。しかしながら、人懐っこい笑顔の裏でしたたかに爪を研いでいるプロデューサー氏の徹底した腹黒ぶりに、私はもはや好感をも抱いていた。プロデューサー氏が裏も表もない純粋な好青年でなかったことに喜んでいるというのも否定できないが、私は「このまま貴方の覇道をひた走れ」と熱いエールを送った。

 できれば、私の知らないところで。

 

 ●

 

 プロデューサー氏の懸念は、現実のものとなっていた。

 私が抱いていた「どうせ大したことないっしょ!」というふざけた幻想は見事にぶち殺されていた。かつてのSARSウイルスも日本にはそれほど被害を齎さなかったから、と完全に油断していた格好である。

 しかしながら、楽観視していたのはきっと私だけではあるまい。いや絶対に私だけではない。お前らもだ。逃がさねえからな。私はあれから、「スウィートホーム」の山村氏の最期のように優男の仮面がドロドロに崩れ、「ガンバの冒険」のノロイさながらの形相で牙をひん剥きながら笑っているプロデューサー氏にケタケタと小馬鹿にされるという悪夢に苛まれているのである。お前らも私と一緒に苦しんでいただきたい。たぶん、フルーツたっぷりのミルクレープをプロデューサー氏の経費でお土産にした呪いかなにかである。

 私はプロデューサー氏の名刺に「なむなむ!」と土下座をした。

 ほとんどのライブやイベントが中止となったエンタメ業界は苦境に立たされ、プロデューサー氏が予期していたように、私がストリーマー部門に配属する話はおじゃんになっていた。しかし、氏の話によれば、ストリーマー部門の設立として準備されていた予算や設備は、アイドル達の配信活動に流用されているらしい。輝子ちゃんのプロダクションは、この事態にも一足先に順応していたのである。やはり簡単には転ばぬ、末恐ろしき男である。早急に袂を分かたなければならぬと思うが、プロデューサー氏から定期的に連絡があるのはなぜか。

 新型コロナウイルスの蔓延に、世界各地は狂乱に陥っていたが、汚いワンルームにどっしりと根を張りながらも、地に足つけず、世間から数センチメートルふわふわと浮いている私は、恐るべき克己心によって堂々と紳士的態度を維持していた。あるいは阿呆の骨頂である。

 依然として、私の生活の中心は四天王との、鳥貴族の片隅でうごうご蠢いているコミケ帰りのオタクどものような雑談であった。

「プロダクションの方と話をしてきた。穏当に終わった」という旨を報告したときには、どうやら官能コイルさんとサム・ライミ8さんはとても心配していたようで、私の堂々たるオタサーの姫ムーブぶりに、私は思わず感涙した。「どうだった?」と、ガブリアむさんは詳細を知りたいようだったが、八つ折作戦さんに「不躾ですよ」などとボコボコに論破されていた。ガブリアむさんは「やむ」と消息を絶ったが、三分後には現地参戦するつもりだったライブが中止になったと憤慨しながら戻ってきた。

 それは、あきらちゃんやりあむちゃんも出演する、プロダクションの新人主体のライブであった。

 

「三ヶ月も先なのになあ」

「席、どの辺?」と、サム・ライミ8さん。会社でいつも呑み会の幹事にされているという、生粋の苦労人である。

「あー……、」やや間があった。「ま、前のほう」

「マジか」

「どんまい」

「悪い、やっぱ辛えわ」

「そりゃ、辛えでしょ」

「ちゃんと言えたじゃねえか」

「聞けてよかった」

 

 仮にも、我々はドルオタの端くれである。ガブリアむさんの心境は、誰もが痛いほどに理解していた。

 

「新人、誰推し?」

「あかりんご」

「黒白」

「久川颯でしゅ☆ はーちゃんって呼んでくだしゃい☆ ぴぃす☆」

「は?」

「キレそ」

「ぶち殺されたいのか?」

「許さねえ」

「ゴメンて」

 

 誰が盛大に滑ったかは、個人の名誉の為にも伏せさせてもらうが、私ではないということだけはどうかご理解いただきたい。

 この事態にも、厳しいひきこもりによって鍛錬された自粛精神を、私は冷静に発揮していた。たまに深夜のコンビニでぶらぶら買いものをしながらワンルームに籠城した私は、長期戦も覚悟していたが、新型コロナウイルスの特効薬が開発されたことであっさりと終息に向かっていった。

 これにはさすがのプロデューサー氏も予測できなかったはずである。あのプロデューサー氏が動揺しているかもしれないと想像すると、ただのカップヌードルも極上の味のように思われた。

 

 ●

 

 特効薬を開発したのは、一ノ瀬という生物科学の研究者であった。数年前からSARSウイルスの再来を提唱していたという。

 優れた研究者であったが、十数年前に所属していた研究機関から出奔して、独自に研究をしていたらしい。出奔した理由は不明である。一説には「シン・ゴジラ」の間邦夫のモデルとされている彼は、一ノ瀬志希ちゃんの肉親とも噂されているが、これまた真偽は分かっていない。かつて、それを取材しようと執拗に志希ちゃんに迫ったある週刊誌の記者は、原因不明の水虫と腋臭に悩まされ、ついには退職したという。

 報道された一ノ瀬氏は、志希ちゃんの肉親と噂されるのも無理はない、随分な美形であった。顎のラインが志希ちゃんに似ているかもしれない。イケおじ、謎多き経歴、特効薬の開発、救世主と、一ノ瀬氏は一躍センセーショナルな時代の寵児となっていたが、私はすっかり世間から忘れられていた。あれだけ私をおもちゃにしていたまとめブログやキュレーションサイト、ネットニュースももはや一ノ瀬氏一色である。

 

「今、話題の一ノ瀬氏とは? 経歴は? 資産は? 調べてみました!」

 

 ぶち殺されたいのか?

 忘れられるのはいいが、それとこれとは話が別である。私の心境の問題である。のこのこと現れた不運なゴキブリは、私の鬱憤のすべてをぶつけられ、汚いワンルームのシミの一部となった。

 特効薬の開発により、被害がそれほど甚大ではなかった日本の日常は、緩やかに戻ってきていた。

 私がストリーマー部門に配属されるという話は有耶無耶になったまま、戻らなかったのだが。

 プロデューサー氏によれば、アイドル達による配信がなかなか好評を博しており、ストリーマーを配属させる必要性は現時点で薄いと上層部が判断したらしい。賢明な判断である。私が関わっていなければもっと喜ばしい話であった。

 件のアイドルの配信は、大和亜季ちゃんがウェイトトレーニングをしていたり、五十嵐響子ちゃんが料理をしていたり、柊志乃さんがただお酒を呑んでいたりと実に様々であったが、アイドルの飾らない姿が間近で観られるとどれも評判であった。私も観ている。輝子ちゃんの配信がないのは残念であったが、仕方あるまい。

 ゲーム配信ということもあるのか、あきらちゃんの配信がなかなかに人気であった。あきらちゃんはキッズに人気のある「Fortnite」や「スプラトゥーン2」で、自宅待機しているマセガキどもの心をがっしりと掴んでいた。YouTuberとしてのキャリアがあるのも、安心である。同じゲーマーである三好紗南ちゃんを筆頭に、様々なアイドルとのコラボを積極的に企画しているのも、YouTuberとしての年季を思わせた。

 私が好きなのは、ウサミンとのコラボ回である(隙自語)

 あきらちゃんは「自分を得意なゲームでぶん殴りに来やがれ」という、なかなかに無頼漢なコラボを展開しているが、ゲストのウサミンが用意したのはまさかの「魔界村」であった。「は?」あきらちゃんの唖然としたレアな表情は、必見である。よもやのレトロゲーにさしものあきらちゃんも苦戦し、それを応援するウサミンの姿は、まるで孫と祖母であった。冷えピタをおでこに貼っ付けながらどうにかクリアしたが、あきらちゃんは満身創痍である。ほんまにウサミンは「魔界村」が得意なのかと疑心暗鬼なあきらちゃんを尻目に、いつものアタシポンコツアンドロイドぶりはどこへやら、ひょいひょいとクリアするウサミンの勇姿は実に圧巻であった。

 

「実はウサミン星ではニンテンドークラシックミニが流行っているんですよ!」

「#知らんがな」

 

 ウサミン、渾身のドヤ顔でフィニッシュである。

 ともあれ、様々なアイドルが配信をしているから、実に飽きないのである。我々のDiscordでも、アイドルの配信はしばしば話題になった。

 

「聞いてくれよー、友達がゲームに誘ってくれないんだけど! ぼくハブ!」

「知らんがな」

「やむ」

 

 ガブリアむさんの女々しい愚痴を、私は一蹴した。



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星輝子(3)

 不幸中の幸いか、私の大きなライブは、新型コロナウイルスの脅威が本格化する前の、二月の中旬だった。私のレッスンは無駄にならなかったが、それ以降のライブやイベントはほとんどが中止になっていたので、素直には喜べない。当然ながら、それはプロダクション全体の問題となっていた。

 親友と、MCN部門を発案したあの小柄なひとが、部門の再編に尽力して、アイドル達は活躍の舞台をネットへと移すことになった。それは、新型コロナウイルスの特効薬が無事に開発され、猛威がひと段落してからも変わらなかった。生真面目なありすちゃんが文香さんとのレッスンの様子を配信している一方で、お酒を好きなひとの配信はただお酒を呑んでいる。数々の配信は実に自由奔放だったが、どうやら、アイドルのありのままな姿が観られると好評のようだった。

 私もなにか配信をしたほうがいいのかな……?

 

「ぼくにも出演させておくれよー、一緒にゲームしよー?」

「ゼッタイ炎上するんでヤです。#リスクマネジメント」

「やむ!」

 

 MCNからライブストリーム部門となった一室では、次はどのような配信をしようか企画しているあきらさんに、りあむさんが戯れていた。

 ライブストリーム部門の担当でもある親友は、当然ながらこの部屋でも仕事をするから、打ち合わせに呼ばれたりと、私はすっかりここの一員のようになっていた。ライブやイベントがないのを口実に、私はここの机の下ライフを満喫してしまっていた。

 あきらさんが企画している、アイドルの用意してきた得意なゲームに挑戦するというコラボは、なかなかに人気のようだった。ゲーマーアイドルとして知られている紗南ちゃんや、私の後輩でもあるシンデレラプロジェクトの杏さんを筆頭に、菜々さん美世さんに晶葉ちゃん、小梅ちゃんも「SIREN」「零」シリーズで何度か参加していた。

 なぜかジェンガを用意してきたみくさん(杏さんの同期でもある)は、見事に却下されていた。

 

「それにりあむサン……、得意なゲームとか、あるんデスか?」

「ない! よ!」

「……」

 

 論外だとばかりに、あきらさんは絶句していた。

 ライブストリーム部門にある親友のデスクの下でもキノコのようにひきこもるようになっていた私は、変な話かもしれないが、むしろ交友関係が広がっているように思う。

 あきらさんりあむさん、二人とユニットを組んでいるというあかりさんからはときどき林檎を貰っている(愛梨さんと一緒にアップルパイにしている)し、三人と同時期にデビューしたちとせさん千夜さん、凪ちゃん颯ちゃんには、お近づきの印にきのこパスタをご馳走したこともある。

 

「凪が語り掛けます。うまい、うますぎる」と、凪ちゃん。

「フヒ……」よく分からなかったが、たぶん、喜んでいたと思う。「それは、よかった……」

 

 あきらさんりあむさんあかりさんと四人は、プロデューサーが同じだという。件のプロデューサーさんは、たまにライブストリーム部門であきらさんと打ち合わせをしているが、西洋の血もあるのか、色白でとても綺麗なひとだった。あきらさんとコラボ動画を撮っていた菜々さんは、「メリー・ポピンズみたいな方ですねえ」と言っていた。

 誰だ……?

 あきらさん達のプロデューサーさんも、親友が新型コロナウイルスの対応に苦慮したように、中止になった新人主体のライブの後処理や次善策に追われていたが、もっとも多忙だったのが、志希さんのプロデューサーさんだとプロダクションではもっぱらの噂だった。

 新型コロナウイルスの特効薬を開発したのが、志希さんのお父さんらしいという話は、もはやヒョウくん(小春ちゃんのペットのイグアナである)でも知っている。微妙な関係なのか、志希さんはあまり家族の話をしないのだが、当然ながらマスメディアには関係のない話である。連日のように、志希さんへの取材の申し込みが殺到しているというが、彼女のプロデューサーさんがすべて断っていた。かつて、家庭事情を取材しようとしていた週刊誌の記者が原因不明の病に侵され、ついには退職したという与太話を、志希さんのプロデューサーさんはまるで疑っていないのか、彼女というよりもマスコミの方々を守る為に奔走しているようだった。外出自粛の制限が段階的に解除されているが、それでも近頃はほとんど「失踪」していない志希さんに、「志希ちゃんなりにプロデューサーさんに感謝しているのかもね」とは、美嘉さんの言葉だった。

 ほぼ輝子さん(どうも背中がむずむずする)の一件から、なにかと多忙な親友に私も感謝したほうがいいのかもしれないな……。

 いや、したほうがいいからと感謝するのも、打算的で、なにか嫌だ……。

 違う。

 私が親友に感謝したいから、するんだ。

 

「フ、フヒ……」

 

 な、なんだか、照れるな……。

 机の下で、私は一人勝手に赤面していた。

 早速、親友が好きな(た、たぶん……)缶コーヒーを買ってきた私は、メッセージを書いたポスト・イットと一緒に、デスクの片隅に置いた。

 

「親友へ

 いつもありがとう」

 

 恥ずかしいあまりに爆発(ヒャッハー!)してしまう前に、私はライブストリーム部門から退散した。あきらさんとりあむさんは、なにやらキャットファイトが白熱していた。私は「二人にバレませんように」と、デーモン閣下に祈った。

 もしバレていたら、私はミサに招待した二人を蝋人形にしなければならない。

 

 ○

 

「配信デスか?」

「う、うん……」

 

 無事に蝋人形にならなかったあきらさんに、私も配信をしようかと、相談していた。

 普段はなにかと先輩であるまゆさんに相談しているが、配信ならあきらさんも立派な先輩なので、なにも問題はない。先輩として情けないかもしれないが、私が立派にアイドルしているかどうかは微妙なので、今更な話だ。

 

「無理にするものでもないと思いますけど……、あー……、でも今は配信が仕事みたいなトコ、ありますからねえ……。仕事ないデスし」

「だから、わ、私もなにかしようかなって……」

「輝子サンなら……、山歩きとかいいと思いますし、コロナ収まってからでいいんじゃないデスか? #Stay_Home」

「……」

「やっぱり輝子サンの好きなこととか、したいと思ったことを配信するのが一番じゃないかと。今のニーズは、アイドルのありのままの配信だと自分は思うんで」

「フ、フヒ……」

 

 あきらさんに圧倒され、私は朦朧としたが、ともあれ、陶芸の様子を配信している肇さんや、空手の稽古を配信している有香さんのように、好きなことを配信すればいいというのは、実に単純明快だった。

 ただ、私のありのままを、誰が観たいのかというのが疑問だ。

 

「ぼくも餃子焼いてただけだし、テキトーでいいのに」

「それはどうかと思うんデスけど」

「でもでも、オタクども、ケッコー観てくれてたよ?」

「りあむサン、知名度と胸だけはありますからね」

「トゲあるな!」

 

 りあむさんは右頬が痒いのかしらと思ったが、どうやら笑ったらしい。不格好で、私に似ているかもしれないと思った。

 

「あ、だから……、えっと……、ぼ、ぼくでも大丈夫なんだから、輝子ちゃんはもう全然オッケー、問題なしだって! ふ、へへへへ!」

「キョドりすぎでしょ」あきらさんが呆れていたが、棘はなかった。「ギョーコサンで慣れたとか言ってませんでした?」

 

 ほぼ輝子さんには「ギョーコ」というあだ名(偽の輝子だかららしい)が、プロダクションで定着していた。誰が最初に呼んだか、都さんが調査をしているが難航しているという。例外は、「ほぼ輝子さん」と呼んでいる親友と私、「ほぼちゃん」と呼んでいるりあむさんや一部の年長アイドルだけであった。

 

「や、ほぼちゃんは違うっていうか、別っていうか……、二郎がラーメンであってラーメンじゃない豚の餌みたいなさっ?」

 

 豚の餌はあんまりではないかと思ったが、りあむさんと付き合いのあるあきらさんには、繊細微妙なニュアンスが分かったのかもしれない。「あー……、ジャンクフードってことデスかね?」やや呆然としながらも、あきらさんは納得していた。りあむさんはいつものように能天気に笑っていた。これでも悪気はないのが、りあむさんの大物たる所以かもしれない。

 

「まずは、レッスンの様子を配信するのが無難デスかね。あとは、あつ森って、手もありますけど。最近、人気デスし」

「うん……」

 

 前述したように、ありすちゃんを筆頭に、かなりのアイドルがレッスンの様子を配信している。ありすちゃんはレッスンしている姿をただストイックに流しているし、美嘉さんはレッスンの合間にファンと雑談もしているという。普段、アイドルがどのようなレッスンをしているのか、なにをしているか知りたいという需要もあるのだとか。

 

「話は聞かせてもらいましたよ!」

 

「どうぶつの森」はあまり知らないから、レッスンの配信をするのが無難かもしれないなと私も思ったとき、ライブストリーム部門に颯爽と現れたのは、幸子ちゃんだった。

 

 ○

 

「ボクもレッスンの様子を配信しようと思いましてね」

「ウチも、いい機会だと思ったからさ」

 

 私はライブストリーム部門を訪れた幸子ちゃんと美玲ちゃんに、「ロズウェル事件」のリトル・グレイ(有名な写真だが、後年の捏造だと判明している)のようにずるずると引きずられていた。友達である幸子ちゃん達とのレッスンは嬉しいが、どうして連行されているような格好なのか、私には分からなかった。

 

「引きずり出さないと、輝子さんははずっとひきこもっていますからねえ」

「フ、フヒ……」

 

 私がライブストリーム部門の机の下にひきこもっていたのは事実なので、面目次第もない。

 でも、親友の管理の下、私はノルマであるレッスンをしていたし、ときどき、ライブストリーム部門でゴロゴロしていたあきらさん達とも自主レッスンをしていた。私もそれほどひきこもっていないんじゃないかと思うのだがと反論したが、二人には呆れられた。

 

「ショーコは鈍感だなッ」

「鈍感ですねえ」

「フヒ……?」

 

 どうやら私は鈍感らしい。もしやひきこもっていたから匂うのかなと思って、私は身体をすんすんと嗅いだがやはり分からない。またも二人に呆れられながら、私はレッスンルームへと連れられていった。

 レッスンルームの片隅では、小梅ちゃんがノートパソコンとウェブカメラで配信の準備をしていた。随分と手際のいい小梅ちゃんに、私は「ほえー」と感心したが、ボノノちゃんも小梅ちゃんの隣で「ほえー」となっていた。小梅ちゃんがあきらさんの企画に何度か参加していたのは、この為だったのかもしれない。私は小梅ちゃんの先見の明に脱帽した。

 

「どうだ?」

「だ、大丈夫、だと思う」

「アングル、確認しましょう」早速、幸子ちゃんがレッスンルームの中央でステップを踏んだ。「どうでしょう?」

「オッケー、だよ」

 

 小梅ちゃんの言葉に、幸子ちゃんは揚々と頷いたが、「ほんとにするんですか……?」とボノノちゃんは弱腰だ。レッスンの様子が全世界に配信されるのだから、無理もないと思う。アイドルの配信に需要はあるのかもしれないが、机の下のひきこもりの配信に需要が本当にあるのか、はなはだ疑問だからな。

 

「ボノノちゃんも一緒に、わ、私と、見学し」

「レッスン、するよ……!」

「フヒッ」

 

 小梅ちゃんにむんずと掴まれ、私は問答無用に引きずられていった。このまま黄泉の国に攫われるのではないかと思うほどであった。

 配信は、カワイイボクと142'sとインディヴィジュアルズの合同レッスンという名目だった。つまり、私のレッスンは二倍である。予期せぬシゴキに、私はアイドルにあるまじきびしょびしょの濡れ雑巾のような姿を、全世界に配信していた。ひんやりとして冷たいレッスンルームの床と、トモダチになれた気分だった。

 虫の息の私を尻目に、主に幸子ちゃんと美玲ちゃんが、交互にリスナーさんとの雑談を担当していた。美玲ちゃんによれば、リスナーさんは、幸子ちゃんのいないときだけ「カワイイ」「カワイイ」と絶賛していたらしい。どうせアーカイブで確認されるのだから意味はないと思うのだが、これがインターネットのノリというものかもしれない。

 

「おつかれさま」

「お、おつかれ、さま……」

 

 レッスンが終わっても床にべったり潰れたままの私の鼻面を、小梅ちゃんが余った袖でぺしぺしと叩いてきた。

 

「く、くすぐったいよ」

「ふふ」

 

 イタズラに満足したのか、小梅ちゃんは上機嫌に笑っていた。

 

 ○

 

 外出自粛の制限が全面的に解除され、かつての日常も戻ってきた後日。

 さまざまな猫カフェを探訪しているみくさんの配信に、私が映っていたという。映っていたのは十数秒だったが、あまりにも微妙に心理的距離のあるみくさんと私の会話に、ネットではアイドルの不仲説が面白半分に謳われていた。

 だが、厳密には私ではない。ほぼ輝子さんだった。

「あの偽物ではないのか」という声もあったが、どちらにせよ話のネタにできればそれでいいという雰囲気が、やはりネットにはあるようだ。

 りあむさんほどではないが、彼女もなかなかにトラブルメーカーらしい。

 なにやら不機嫌な小梅ちゃんの隣で、私は苦笑した。



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偽者(5)

 輝子ちゃんの配信(ユニット単位ではあるが)にまたも界隈が熱狂している一方で、活動を再開していた私は出鼻を挫かれていた。

 ある猫カフェで猫ちゃんと戯れていた私が、さまざまな猫カフェを探訪している前川みくちゃんの配信に映ってしまったのが発端である。咄嗟の出来事に、私はアイドルの握手会に参加したオタクくんが高確率で発症する、突発性の言語障害に襲われていた。私とみくちゃんの会話には、あまりにも微妙な心理的距離があったが、ネット上では例によって輝子ちゃん本人と誤解され、面白半分に「アイドルの不仲説」が謳われる始末であった。四天王や一部のリスナーからは、「どうせお前だろうな」と一定の理解も示されていたが、同時に「お前、なにやってんの?」という、女子に掃除をサボっているとチクられたときの小学校の学級会のようなムードも漂っていた。

 みくちゃんはシンデレラプロジェクトからデビューしたアイドルのひとりである。輝子ちゃんの後輩でもある。シンデレラプロジェクト主体のライブでも共演していたという輝子ちゃんが、プロジェクトのアイドルと不仲であるという与太話は、またもそれなりにネットを賑わせていた。

 シンデレラプロジェクトは発足から一年ほどで躍進した、プロダクションの成長株である。シンデレラプロジェクトが躍動していたのは、長時間労働で心身ともに窶れた私がすっかりリビングデッドのようになって、なかばドルオタを引退していた頃であったが、リビングデッドのようにドルオタに復帰したばかりの私でも、活躍している彼女達を知っている。アイドルと唐突に遭遇した私の動揺を、諸君にも察していただきたい。

 

「というか、なんで猫カフェ?」

「乙女とは、ふはふはして、繊細微妙で夢のような美しいもので頭がいっぱいなのが相場だ。つまりは、猫ちゃんである」

「は?」

「輝子ちゃんはそんなこと言わない」

「輝子ちゃんの真似してるって自覚あるんですか?」

「設定を忘れるな」

「意識低い」

「もっと輝子ちゃんの顔見ろ」

「ゴメンて」

 

 私の冗談は四天王にボコボコにされた。

 かつてのオタサーの姫のような貫禄はどこへやら、私と四天王の関係はどんどん雑になっているように思われたが、これはツイッターで湯水のように貼られている漫画にあるような、一緒にゲームをする女友達(子供の頃は男友達だと思っていたというオプション付きである)という、オタクくんも大好きな関係性である。誤解なきように。

 なお、無料コンテンツの、安い女という意味ではない。

 

 ●

 

 回想である。

 私は優男のプロデューサー氏から頂いた謝礼(約五〇〇〇円)を片手に、夢でもあった猫カフェを訪れていた。

 猫カフェなら勝手に行けばいいのではと読者諸兄は思われるかもしれないが、想像していただきたい。この世に生を受けて四半世紀になんなんとするむさ苦しい男が、猫カフェの砂糖菓子のような甘い雰囲気を滅茶苦茶にしている光景を。威力業務妨害で通報されてしかるべき、悪夢のような光景である。猫カフェとは、黒髪の乙女と優雅に手を繋ぎながら訪れるべき、麗しのデートスポットである。男の一人猫カフェなど、人間として、道義を外れてしまっている。クリスマスに一人でケンタッキー・フライド・チキンのパーティバーレルを貪るような暴挙である。

 これまで一人焼肉一人映画館一人遊園地と難攻不落の城を幾度と攻略してきた私をも断念させた一人猫カフェであるが、輝子ちゃんの姿となった今なら自意識過剰に苛まれる心配もない。

 以上の理由で、私は猫カフェに訪れていたのである。

 件の猫カフェは、一階が古書店になっている雑居ビルの二階にあった。上の三階フロアはオフィスになっており、猫カフェの社員が事務作業をしたり、備品の倉庫になっているという。書籍や雑誌がずらりと並べられ、カフェというよりオシャレな図書館のような趣である。椅子とテーブルの隙間を縫うように、愛らしい猫ちゃん達が自由にお散歩をしていた。

 艶かしい情景に、私は興奮なかば朦朧とした。

 変装はしていたが、輝子ちゃんと思われたのか、それとも突如として猫ちゃんに興奮するヘンタイと思われたのか、どこか怪訝な店員さんに案内され、私は隅のテーブル席に座った。猫カフェのだいたいの猫ちゃんはひとに慣れているので、遊んでほしいときは自然と寄ってきてくれるという。私も猫ちゃん達の尻尾を無遠慮に追い回すような軟派な行為を潔しとしないジェントルマンなので、注文したコーヒー片手にアイドル雑誌を読んで、猫ちゃんを優雅に待っていた。

 が、待てど暮らせど、猫ちゃんは寄ってこなかった。

 どうして(電話猫)

 不安に駆られた私は、次に読む雑誌を探しているという技巧的で自然な演技をしながら、店内の様子を確認していたが、猫ちゃん達は私など眼中にないかのように寛いでいた。私は、以前、裏路地で露店をしていた「週刊ストーリーランド」のような老婆から買わされた、猫ちゃんにモテモテになれるというお守り(マタタビの匂いがするという)を胸に忍ばせていたが、どうやら見事に不良品を掴まされていたようである。

 ぷりぷりしながら、演技の為に持ってきた雑誌を手にテーブル席へと戻ってきた私は、困惑した。

 椅子に、ラグビーボールが置かれていたからである。無論、店員さんのイタズラではない。正確には、ラグビーボールのような巨体の猫ちゃんが鎮座ましましていた。メインクーンさながらの体躯であるが、猫カフェの名簿によれば、平凡な雑種らしい。名は「チョビ」という。どこに「チョビ」という要素があるのかも分からぬ仔猪のようなメスの猫ちゃんであったが、ふはふはとしたチョビ氏に私はすっかりメロメロであった。

 しかしながら、私が座れないのは困ったものである。

 動かざること山のごとしなチョビ氏を前にして、私の内なる悪魔が囁いてきた。

 

「退かすには持ち上げなければならない。持ち上げるには触らなければならない。これは猫ちゃんを合法的にもふもふできるチャンスだ」

「なんと破廉恥な! 貴様には紳士としての誇りはないのか!」

 

 内なる悪魔のあまりにも身勝手な主張に猛然と抗議した私は、チョビ氏に「さ、触るよー? いいのかー?」と紳士的にアプローチしてから抱っこをした。抱っこされてもまるで動じなかったチョビ氏だが、なかなかに外見相応であった。

 つまりは重かった。

 

「お、重いな……!」

 

 呻いた私に、チョビ氏はなにやら憮然とした表情になった。

 どうやらチョビ氏は、レディーに体重の話はご法度という、紳士としてあるまじき初歩的な失態をした私にご立腹のようである。私は「ゴメン」「許してくれ」と浮気をしたヒモのように、ばたばたと暴れるチョビ氏を必死に抱っこしていたが、ついには潰され、足蹴にもされた。「ふぉおおお」チョビ氏にぎうぎう潰されながら、ふっくらとして温かい感触に、私はマヌケにも恍惚としていた。香ばしい匂いがした。

 斯様に、牧歌的に猫カフェを満喫した私が退店しようとしたときである。

 顔面をチョビ氏の毛玉まみれにさせた私と、みくちゃんがばったり遭遇していた。いつものように猫耳をしたみくちゃんが、猫カフェの店員さんとなにやら話をしていた。隣には、カメラを持った若い女性(動顛していて分からなかったが、美波ちゃんであった。よくシンデレラプロジェクトの配信の裏方をしているらしい)が立っていた。どうやらインタビューをしていたようである。

 

「あれ……、」ふと、みくちゃんが笑った。「輝子ちゃん!」

 

 本来ならば私ごときに向けられるはずもない純度の高いみくちゃんの笑顔に、眩暈がした。

 

「え、あっ、はい……、な、なんでしょう」

「にゃんか珍しいね、誰かと一緒に来たの?」

「ひ、一人……、一人です、はい」

「よかったら、輝子ちゃんもあとで動画観てね!」

「あ、はい、み、観ます……応援、してます……」

「……?」

「あ、いや、す、すみません……、し、失礼します」

 

 危ない危ない。

 私の咄嗟の機転により、どうにか致命傷で済んだはずであったが、現在に至っている。

 一体なにがダメだったんでしょうかねえ……(大物YouTuber)

 

 ●

 

 ネット上では「Syamu_game/鈴木ゆゆうた/ほぼ輝子」などと五七五の軽快なリズムでおもちゃにされるようになった私であるが、かつて、Hikakin氏に憧れてインスパイアされたYouTuber達が、Hikakinチルドレンなどと呼ばれていたように、ついにほぼ輝子チルドレンともいうべき、ある一人のYouTuberが彗星のように現れていた。

 それが「雑永涼」であった。

 売れないバンドマンで、松永涼ちゃんがバンドマンや路上ライブをしていた頃からの熱心なファンだという。当時の涼ちゃんとも何度か話したことがあるらしいが、証拠はない。浅黒の肌。コンプレックスだったので整形したという、整った鼻筋。力のある目元は、メイクを駆使しているらしい。顔はかなりに似ている。

 なぜ、雑永氏が話題になったのか。

 雑永氏は男であった。

 正真正銘の、男であった。

 ウィッグやメイクがなければそれほど似ていないとは本人の弁だが、リスナーには関係ない。涼ちゃんと瓜二つという耽美的な顔面とは裏腹に、郷里大輔氏を髣髴とさせる暴力的なバリトンボイスが、「脳味噌をバグらせる」「バンドリを観ていたと思ったら、装甲騎兵ボトムズが始まっていた」と評判である。また、一部の輩は、「涼ちゃんにチンコついているかと思うと興奮する」「ぎゃおおおおん!」とハッスルして、BANされていた。

 雑永氏の主なコンテンツは、これまでバンドマンとして培ってきたベースやギターによる弾き語り(アイドルソングをカバーしていても、布施明氏の楽曲のようになるが、それもウケている)と、ホラー映画が好きという涼ちゃんに倣ってのホラーゲームの実況プレイやホラー映画の鑑賞リアクション動画だが、当の雑永氏はホラーが大の苦手だという。涼ちゃん似のツラのいい男がホラーにひんひん喚いているというギャップには、愛嬌があるとも好評であった。

「爆ぜればいいのにな」と、私は論理的に思った。

 それなりに評価されている彼の裏で、私がもはや雑永チルドレンにされていた。

 無論、それは私よりもエンタメとして優れているのが歴然だからである。

 バンドマンとしては燻っていたものの、長年、ある種の「表現者」として活動をしていた雑永氏には、動画配信者の素質も備わっているように思われた。涼ちゃんやアイドルへの愛を語っているときの雑永氏は少年のように天真爛漫で、臆面もない。バンギャとちんちんかもかもしてきたであろう雑永氏は自信に溢れ、スクールカーストの上位で生きてきた者特有の雰囲気を「BURBERRY」のトレンチコートのように悠然と纏っていた。

 対する私はどうか。

 これまで述べてきたままである。

 なにかを表現してきたこともない無産オタクである私は、話をしながらだと集中できないと言い訳をし、ヘタクソだと馬鹿にされるのを恐れてヘタではないと思っているゲームを黙々とプレイしているばかりである。輝子ちゃんやアイドルの話をするときも、一介のオタクごときが恥を知れとばかりにどこか自虐的である。四半世紀、白州蒸溜所のウヰスキーのように骨の髄までたっぷりと熟成されてきた卑屈っぷりが、私のありとあらゆる毛穴から芬々と漂っていた。

 これで評価されるようなら、それはきっとこの世の終わりである。

 輝子ちゃんの姿。

 それだけが、私の価値でもあった。

 事実、トチ狂った私は、何度か定点カメラで私の生活の一部始終を配信したことがあるが、それが最もインプレッションを稼ぎ、スパチャもされていた。私の一挙手一投足に、理性を失ったケダモノどもの下世話なコメントが溢れ、私は「逆転マジックミラー号かなにかか?」と思った。輝子ちゃんへの愛がない行為に、「あんまりしないほうがいいと思う」とガブリアむさんらしからぬマジレスも頂戴しており、実際、なかなかに低評価もされていた。

 これが承認欲求の成れの果てである。

 賢明な読者諸兄は、ぜひとも反面教師にしていただきたい。

 

「ゴロゴロしているだけでお金になるなら、しない手はない」

「わかる」

「わかるわ」

「けどそれは杏ちゃんの領分では?」

「それ」

「やっぱ意識低い」

「もっと輝子ちゃんの顔見ろ」

「やかましい」

 

 それは私も分かっている。しかし、誇れるものがなにもない私に、いったいどうしろというのか。

 不貞寝をした私に、古き良きオタクどもである四天王が「乳酸菌とってるぅー?」とアドバイスしてきたので、参考にした。

 

 ほぼ輝子@syoko_O6O6

 ほぼ輝子・ランチ

 

「おい」

「パクるな」

「ふざけてんのか」

「真面目にやれ」

「チッ、うっせーよ。反省してまーす」

 

 ツイッターにきのこパスタとヤクルトの写真を投稿した私は、四天王に和気藹々とボコボコにされていた。

 

 ●

 

 恐るべき低空飛行にあった私の人生に輝子ちゃんの姿になるという激動が訪れてから数ヶ月にもなるが、それで人生が好転したと思われるのは、いささか早計である。カレーは二日目がうまいという話もあるが、どす黒いなにかを後生大事にとばかりに熟成させ、もはや腐っている私が易々と人生を好転させられるはずもないのは自明の理である。

 エイプリルフールの朝に元の身体に戻った私の下に、ベビーウエハースのようなドアをぶち破り、「ドッキリ大成功」の看板を持ったビール腹の中年男性の集団が現れ、小馬鹿にされるというオチの妄想も迸らせていたが、依然として私は輝子ちゃんの姿のままであったし、現実はネットの住民に小馬鹿にされている。

 いつものように午前十時頃に万年床から毒虫のように起床した私は、朝昼食を摂った。

 逆転マジックミラー配信(ガブリアむさん他から苦言を呈されているが、私は毎週土曜日の朝から日曜日の朝まで定点配信をしている。だいたいゴロゴロしているだけである)でカップヌードルばかり啜っている私を憐れんだリスナーさんから「もっといいもの食べろ」とスパチャをお恵みいただいているので、最近はカップヌードルビッグで贅沢をしている。いつかは毎食、キングを頂きたいものである。

 博愛主義者の私がジャンキーなお味のスープも残さずに堪能していると、あの優男氏から連絡があった。

 逆転マジックミラー配信に、私はプロダクションや優男氏からお小言を頂戴すると思っていたが、意外にも静観されているようであった。法的根拠がなければ企業も個人の活動にあれこれ制限できないのも当然ではあるのだが、私がなにかデカいポカをする機会を虎視眈々と待っているかのようにも思われ、私は優男氏の連絡に「ひん」と呻いていた。

 一方で、私は存外に冷静になっていた。

 先日は承認欲求の成れの果てに、心が荒んで思春期の中学二年生のような破滅的思想に陥っていた。紳士として、というか二十むにゃむにゃ歳にもなるオトナとしてあまりにも恥ずかしい醜態に、私はプロダクションから介錯されるのをなかば望んでいた。

 

「頼むから殺してくれ」私は喚いた。「これ以上、恥を晒す前に」

 

 優男氏の要件は「シンデレラプロジェクトのプロデューサーが話をしたいと言っている」との旨であった。

 いにしえのインターネッツ時代を生きてきた歴戦の猛者として面倒な話題にはバナナが耳に詰まったフリをしながら無視してきた私の多大な努力が実を結んだのか、ただの一過性の悪ノリでもはや興味もないのか、「アイドルの不仲説」はなかば鎮火していたが、プロジェクトのプロデューサー氏が迷惑を被ったのは事実である。「落とし前をつけろ」という話なら、バッチコイである。スケベブックで予習をし、もはや身体で払うのも、やぶさかではない。

 無敵のひとと化していた私は、粛々と了承した。

 プロジェクトのプロデューサー氏との待ち合わせは、渋谷にあるあの喫茶店であった。

 待っていたのは優男氏と一緒であった、金剛力士像のようなあの大男であった。二メートル近い巨体のインパクトは忘れられるはずもないし、いざ対面すると人相も若い頃の高倉健さながらである。プロデューサーというのは嘘で、プロダクションが擁する荒事専門の用心棒かと私は疑った。カタギらしからぬ風格に、やはりスケベブックのような展開に突入するのかとも私は思ったが、几帳面に渡された名刺には「シンデレラプロジェクトプロデューサー」と印刷されていた。

 

「シンデレラプロジェクトを担当しております。本日はよろしくお願いいたします」

「あ、はい……、お、お願いします」

 

 大男のプロデューサー氏は、場末のヤクザのような風貌とは裏腹に、実に丁重な物腰であった。デジャヴである。

 

「……」癖なのか、大男氏はやや首を摩っていたかと思うと、真摯に私と相対した。「今……、貴方は楽しいですか?」

 

「宗教勧誘かなにかか?」と私は思った。



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偽者(6)

「今……、貴方は楽しいですか?」

「え、えっと……?」

 

 私は困惑していた。

 大男氏の言葉は新手の宗教勧誘のようであった。大男氏は荘厳なまでに渋いバリトンボイスなので、私はなにか高尚なオペラでも観賞しているかのような心地になったが、ただの錯覚である。大男氏の表情は実に真剣であったが、それがあまりにもミスマッチであった。

 

「貴方は今……、夢中になれるなにかを、心を動かされるなにかを、持っておりますか?」

「ぐ」

 

 大男氏の言葉はロビン・フッドの矢のように、誇れるものがなにもない私の繊細なハートを鋭利に貫いていた。

 図星であるが、余計なお世話でもある。

 夢中になれるなにかも、心を動かされるなにかもない私に、大男氏はいったいなんの用があるのか。

 大男氏は、憮然としている私からも目を逸らさなかった。真摯な大男氏の姿が、私には余計につらかった。

 

「あるひとに、頼まれました。貴方が……、自棄になっているようで、心配だ。どうにかできないか、と。私も、同じように焦ってきた方を……、嫌というほど、知っています。私も、貴方が、心配なのです」

 

 落とし前の話をされると思っていたら、よもや心配されているとは私も予想外であった。母親をババアと呼ぶ反抗期の少年のように荒れていた私の心は、朴訥とした大男氏の言葉に、不覚にも毒気を抜かれ、冷静になっていた。

 

「もし、貴方が夢中になれるなにかを探したいと思っているのなら、一歩、踏み込んでみませんか? きっと、別の世界が広がっています」

「は、はあ……」

「アイドルに、興味はありますか」

「え……、」私は狼狽した。「いや……、わ、私には、む、無理です」

 

 私ごときがアイドルになるなど言語道断、アイドルに失礼であるのは疑う余地もない。

 不躾にも咄嗟に断ってしまった私であるが、大男氏の口元は柔らかい。ややもすれば、微笑んでいるのかもしれなかった。

 

「貴方ならきっと断るだろうとも、あのひとは言っていました。似ているから、と」

「……?」

 

 大男氏に頼んできたあのひととは誰なのかと私は思ったが、それは話の本筋ではないようであった。

 

「私はアイドルのプロデューサーですが、なにもアイドルである必要はありません。本日は、資料をご用意しました」

 

 大男氏は、プロダクションのロゴが印字された角2封筒を何枚か、足元のビジネスバッグから出していた。当然ながら、どれもパンフレットやリーフレットが封入されていた。アイドル部門の封筒もあったが、プロダクションは大手の総合芸能事務所である。他にも、歌手や俳優、さまざまな部門の封筒も用意されていた。

 

「弊社で特に人気なのは、俳優部門による週一回の養成コースです。実力に応じて、初級、中級、上級とレベル別に演技指導が受けられます。同様に、歌手部門による週一回の養成コースも人気です」

 

「おや?」と私は思った。宗教勧誘ではないが、これではただの営業である。

 

「……」

 

 訝しんだ私に、大男氏はただ首を摩っていたが、沈黙がなによりも雄弁であった。なにやら困ったときの癖のようである。カタギらしからぬ風貌であるが、どうやら嘘が苦手で不器用な大男氏に、私は好感を抱いていた。大男氏が、バーニーズ・マウンテン・ドッグのような、愛らしい大型犬のように思われてきた。風貌とは裏腹に、意外と若いのかもしれない。

 なにも誇れるものがないと私が無意味に腐っていたのは事実である。実直な大男氏に免じて、なにかするのもいいかもしれないと私は思っていた。ただ、問題は私の懐事情であった。私は用意されたパンフレットをぱらぱらと捲っていたが、どれもなかなかのお値段である。

 うんうん唸っている私に、大男氏が囁いていた。

 

「私のようなプロデューサーのスカウトや推薦があれば、招待生として割引される制度もあります。今回なら適用できますが……」

「ぐ」

 

 狙っているかは分からないが、なかなかにしたたかな男であった。

 

「お……、」私は頭を下げていた。「お願いします……」

 

 大手芸能事務所の指導を格安で受けられるチャンスであったが、誤解しないでいただきたいのは、これは私の人生をより良くする為の重大な第一歩である。割引されなかったとしても、私はきっと決断していたはずである。たかが割引で人生を左右されるような尻軽な男と思われるのは、はなはだ心外である。聡明な読者諸兄ならば、迂闊な誤解はしまいと私は信じている。

 なお、具体的にどれほど割引されるかは、ノーコメントとさせてもらう。

 

 ●

 

 さんざん、四天王からも「設定を忘れるな」「意識が低い」と怒られているし、YouTuberとしての活動にもなにかプラスになるかもしれないと、私は人気だという俳優部門による週一回の養成コースを体験することにしていた。一回だけだが、無料体験ができるという。それから検討してくれればいい、とは大男氏の言である。もう入会する腹ではあったが、石橋があるのに叩かないというのも、お尻がどうにもむずむずしたので、私は了承していた。

 体験当日である。

 養成コースは土曜日であった。今頃、逆転マジックミラー配信は無人の部屋を配信しているはずである。私の生活の一部始終を定点配信するのが主旨であるが、外出も生活の一部なので嘘は言っていない。

 私生活を赤裸々に配信していてなにをいまさらと思われるかもしれないが、私は緊張していた。芝居に関して門外漢であるのも勿論だが、古きインターネッツの森に生きてきた黄泉の国の戦士である私は、リアルでの交流が不本意ながらやや不得手である。どれほどのひとが集まるのか分からないが、私が緊張するのも無理はないとご容赦いただきたい。

 私はぷるぷると武者震いをしながら、いつものように変装(伊達眼鏡に、死ぬ母親の髪型と言われるルーズサイドテールである)をして、プロダクションが運営するスタジオへと向かっていた。

 

「おはようございます!」

「お……、おはよう、ございます……」

 

 スタジオは、城塞のようなプロダクションの社屋の目と鼻の先にあった。

 想像以上に元気ハツラツとした参加者の方々にすっかり萎縮した私は、コメツキバッタのようにペコペコ挨拶をしながら、スタジオの隅にちょこんと座っていた。新参者である私に無数の視線が向けられているように思われ、隠れるようにサン=テグジュペリの「夜間飛行」を読んだ。

 参加者は、無理矢理、親に通わされているような年少の男児から、両国国技館での相撲観戦を趣味にしているようなご年配の方々まで、老若男女、実にバラエティーに富んでいる。なにも接点のないようなひとびとが一堂に会している光景は、なかなかに新鮮であった。

 参加者が雑談をしていたが、どうやら参加者の一部が、昨今のパンデミックの影響か、退会や休会をしているらしい。あの大男氏が慣れない営業をしていた理由は、これなのかもしれない。今も汗水流しながら奔走しているかもしれない大男氏に、私は「なむなむ」とエールを送った。

 私は、入会して日の浅い二人の参加者とのグループで体験することになった。私と同様に体験入会の少女(淡い桃色という破廉恥な髪をしていた)と、入会して三回目の受講になるという、戦国武将のような凛々しい眉をした若い女性であった。我々を担当したのは「Wii_Fitトレーナー」のような逞しい身体をした、若々しい男性であった。腹式呼吸でバフしたあとの下り空Nからのコンボは非常に火力が高いので要注意である。トレーナーはもとより、受講生まで顔面偏差値が高いとは、恐るべき最大手芸能事務所のマンパワーであった。

 私は一人勝手に戦慄していた。

 肝心の内容であるが、基礎的で、地味な講習であった。私がずぶの素人なので、当然ではある。

 まずは、アニマルフローストレッチであった。動物の身体動作を模した体幹トレーニングの一種であるが、要するに芝居をする上で、思うように身体を動かす技術が肝心であるという旨であった。私は「おやおや?」と思った。「どうやら意外と体育会系らしいな?」

 次は、発声練習であった。いわゆる、腹式呼吸という、演技には必要不可欠な技術である。こことは別に芝居の心得でもあるのか、おピンク少女はトレーナーさんから評価されていたが、私とおつやの方の二人は「あー」「うー」唸りながら、四苦八苦していた。腹式呼吸に重要な下腹(丹田というらしい)をより意識する為に、レッグレイズを中心とした腹筋トレーニングもしたが、これまた見事に体育会系であった。おピンク少女がひんひんと喚き、おつやの方は一言も余裕がないのか、無言である。健康的なニートとして普段からリングフィットしている私でもどうにかというレベルである。二人は完全にグロッキーになっていた。麗しい乙女が喘ぎながら、汗を流してぶっ倒れている。艶めかしい光景であった。

 

「意外と体幹がしっかりしていますね」

「フヘヘ……」

 

 トレーナーさんに褒められ、私は一人赤面した。

 意外と、とはどういう意味だと思ったのは、帰宅してからであった。私も疲労困憊だったのである。

 最後は外郎売という、滑舌や発声の古典教材のようなものであったが、あまり記憶にない。我々はトレーナーさんが朗読するのを真似、復唱するように朗読をしたが、疲れていた私はトレーナーさんの優れた口上に「ほえー」と感心しているばかりであった。

 

「お疲れさまでした」

「ありがとうございましたー……」

「ありがとう、ございました」

「あ、がとう、ございます……」

 

 私の体験は無事に終了していた。

 まだ、芝居の「し」の字も教わっていないが、私は満足していた。芯から身体を動かして、声を出しているような感覚が、私には存外に新鮮であったからである。日頃から筋トレはしているが、まるで別の感覚であった。私は「新しいパンツをはいたばかりの正月元旦の朝のよー」に、清々しい心地にもなっていた。

 あまりにも単純な私であった。読者諸兄は、どうか笑っていただきたい。

 

 ●

 

 以来、おつやの方とよく話をするようになった。彼女以外とほとんど話していないともいう。

 彼女は歯科衛生士として働いているという。大学時代の知り合いが映画サークルを主宰しており、ふと、演劇に興味を抱いたのが入会したきっかけであった。「彼はどっぷりハマっていたけど、私には分からないわね。気分転換にはなるけど」とは彼女の弁であったが、抜群の社交性を発揮して養成所では一定の地位を確保していた。私はコバンザメのように、彼女のおこぼれを与っているばかりであった。

 おピンク少女は入会しなかった。おつやの方曰く、彼女は声優の養成所に通っているので、演技のプラスになることはなんでも試しているのだという。一度、会ったばかりの関係なのにそれほどまで話をしていたのかと、彼女達の恐るべきコミュニケーション能力に私は慄然とした。

 おつやの方のコバンザメである私は、養成所でやや浮いているように思われた。ほかの受講生と碌にコミュニケーションしていないのもあるが、私が芝居にそれほど積極的ではなかったから無理もない。私は身体を動かしたり、腹の底から「あー」「うー」と声を大にするのを楽しんでいたが、はいはいしている乳幼児と大差がない。ちんまい身体とは裏腹の、意外にある体力と、意外に馬鹿デカい声には定評があったが、演技はぼちぼちである。

 おつやの方も興味が薄いのは同様であるが、私とは社交性に歴然たる差があった。彼女が私と話をしてくれるのも、芝居に興味がないという、ある種の同志と思ったのかもしれない。あるいは同情である。

 しかしながら、私も無為に時間を過ごしていないと自負している。

 私はもっぱらトレーナーさんや受講生の演技の観察に尽力している。「これは!」という演技があればメモをし、脳裏で反芻させる。なぜこのような演技をしたのかを咀嚼して、幾度と模倣する。やはり物事の上達には、誰かを模倣するのがイチバンである。大手芸能事務所に所属している優れたトレーナーさんや、俳優を志して研鑽している受講生の方々という、絶好のお手本がゴロゴロしているのだから、ずぶの素人である私がそれを利用しない手はない。

 私の演技は天狗の鼻のようにぐんぐんと伸びていったし、私は天狗になっていた。

 

「フヘ……藻のみなさん、こんにちは……。キノコの国の星輝子です……」私の渾身の演技である。私は自信たっぷりに笑った。「どうよ?」

「ちょっと齧っただけでイキるな」

「調子乗ってんじゃねえ」

「誰が藻だコラ」

「もっと輝子ちゃんの顔見ろ」

「はい」

「はいじゃないが」

 

 四天王に叩いてもらったので、有頂天であった私の鼻はどうにか凹んで元に戻っていた。

 ただ、私が浮かれているのも無理はないと、読者諸君にはご理解をいただきたい。無意味に腐ってでろでろのヘドロになっていた私も、養成所に入会してからは、無事にヒトとしての形に戻っていた。生活にメリハリも生まれている。ニートにメリハリもクソもあるかというご批判はもっともであるが、非常に高尚で文化的な生活を送っている私には、ご批判を真摯に頂戴する心の余裕まである。養成所の日々は、配信するときの話題になっているし、演劇の素養は確実にYouTuberとしての活動にもプラスになっていた。

 万々歳であった。

 だが、好事魔多し、油断は禁物である。足元を掬われぬように、私は愚直にYouTuberとしてのルーティンを守っていた。

 具体的には、ミソッカスな料理動画の投稿や、ミソッカスな配信を続けているということである。

 だが、結局はこれが私なのである。

 三つ子の魂百までというのに、やがてこの世に生まれて四半世紀になんなんとする立派な青年が、いまさら己の人格を変革しようと努力をしてどうなるというのか。ガチガチになって虚空に屹立している人格を無理にねじ曲げようとすれば、ぽっきり折れるのが関の山である。

 現時点での己を引きずって、生涯を全うせねばならぬ。

 純然たる事実に、私は断固として目を瞑らぬ所存である。

 だが、恥ずかしいとは思わない。これが私なのだと、堂々としていればいい。私が私を愛さねば、誰が私を愛するというのか。

 

「でも、安心したよ」

 

 唐突に、ガブリアむさんがコメントをした。

 

「安心って、なにが?」

「いや、ちょっと心配してたっていうか……」

「わかる」

「俺も心配だった」

「売れないAV女優みたいな配信してんなって思った」

「それ」

「それな」

「やかましい」

 

 私をボコボコにしていたのはお前らではないかと思ったが、私は寛大なので許した。

 

「お芝居かー」ガブリアむさんが呟いた。「ほぼちゃんならいつかオファーもあるんじゃない?」

「またまたご冗談を」

 

 ガブリアむさんの世迷言を私は一蹴した。



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偽者(7)

 自虐的心理闘争の末に、二歩下がって三歩進展しながら、私はYouTubeの地の底をずりずりと邁進していた。

 私のYouTubeチャンネルは幾度かのバズりや小火によって、一時はチャンネル登録五〇〇〇人も間近であったが、あまりにも貧相なコンテンツに呆れられたのか、現在は一〇〇〇人強となっている。それでも凡百のオタクである私には望外であるのは百も承知だが、凄いかと言われれば微妙なラインのようにも思われるし、ニコニコ動画に無断で投稿されている私の配信の切り抜き動画のほうが再生されている始末(例のまとめブログは私ではアクセスを想定より稼げないと判断したのか、早々に撤退している。実に賢明である)であった。

 逆転マジックミラー配信では同時接続が最大一〇〇人弱である。リスナーはどれだけ女に飢えているのかと、やや心配である。主にリングフィットでひんひん喘いでいるとスパチャをされるのだが、ときおり、シャワーをしている物音や無防備な寝相などにもスパチャがされるので、あまりにもいじましい妄想を展開させているリスナーに、私は涙していた。いつかは幸せになっていただきたいが、私にスパチャするお金があるならば、上野動物園でお昼寝しているシャンシャンを見ていたほうがよほど幸せかと思われる。私が動物園の檻の中の見世物かのように読者諸兄は思われるかもしれないが、真にケダモノなのは品性を失ったお下劣なリスナーどもである。

 なにやらチープなリアリティーショーのようであった。

 なお、普段のゲーム配信では同時接続はだいたい十人前後でしかない。「大乱闘スマッシュブラザーズ_SPECIAL」では、たまたま官能コイルさんと実力が拮抗していたので、ときどき対戦しているが、「Mr.ゲーム&ウォッチ」ミラーというなかなかに泥沼な争いを配信している。また、あきらちゃんに憧れたのか、ガブリアむさんから「Apex_Legends」に誘われたが、右も左も分からない初心者二人、八割方は芋っているだけであった。会敵すれば数秒で殺されるからか、ガブリアむさんは「無理!」「わからん!」と三日で飽きたので、それからはFPS経験者の八つ折作戦さんにときどき付き合っていただいている。頭が上がらない。ネット麻雀をしたこともある。驚異的なビギナーズラックで調子に乗っていたガブリアむさんであったが、結局はサム・ライミ8さんにボコボコにトバされていた。日頃から接待麻雀で鍛えられているという苦労人であった。ガブリアむさんは麻雀も三日で飽きた。

 斯様に、四天王を中心に形成された、ぼんやりとした繋がりのコミュニティーであった。場末のオタクサークルのような私の配信には、これが分相応であるし、身の丈に合っている。YouTubeのメンバーシップ制度で新たに二人がDiscordに加わっていたが、私がただのダメ人間だと分かってきたのか、ときどき、一部のメンバーからボイスチャットもされるようになった以外は特になにもない。

 大した特典もないのに酔狂なものであると、我々は新たな偏屈家どもを歓迎した。

 

「特典って、なにすればいいと思う?」

「メンバーディスコも特典だと思うけど」

「オフ会とか?」

「オフ会かあ……、あんまりなあ……」

 

 これまでさんざんしょうもない小火を起こしてきた私である。あまりいい予感はしなかったし、それは四天王も同意見のようであった。

 

「オフ会するにも、まず遠いしねえ」と、新潟のサム・ライミ8さん。

 

 ガブリアむさんは東京らしいので近いかもしれないが、官能コイルさんは兵庫、八つ折作戦さんは岡山在住である。新メンバーの二人も「静岡です」「愛媛」と、見事にバラバラである。オフ会は前向きに善処するという方針になった。

 それからは、スマブラSPのオフ大会にも参加しているという愛媛の「ディオ・ブランデー」さんとの対戦を配信した。「スネーク」使いであった。私と官能コイルさんはいっちょ新参者を揉んでやるかとイキっていたが、官能コイルさんが勝率五分、私は三割弱と逆に揉まれていた。官能コイルさんと実力が拮抗していると思ったのでメンバーに加入したという。切磋琢磨したいというディオ・ブランデーさんに、オフ大会になかなか参加できないらしい官能コイルさんは喜んでいた。

 

「俺は?」と、私は思った。

 

 ●

 

 土曜日。

 養成所が終わった夕方である。

 受講生の方々がこれからどこで呑もうか、和気藹々としているのを尻目に、一人帰り支度をしていた私は、Wii_Fitトレーナーのようなトレーナーさんに呼ばれていた。私が受講しているコースでは一番の若手トレーナーなのか、色々と雑用もさせられているようであった。具体的には、いまだに滑舌も覚束ない私の面倒などである。

 

「貴方と話をしたいという方が来ていまして……、お時間、空いていますか?」

「あ、はい、大丈夫ですけど……」

「分かりました。では、付いてきてください」

 

 雑談していた受講生の方々は、なにかあったのかと怪訝な表情をしている。晒し者にされているかのように思われ、私は取調室に連行される容疑者のように俯きながら、足早にトレーナーさんに付いていった。私が案内されたのは、スタジオの事務所の奥にある応接室であった。

 トレーナーさんが応接室のドアをノックした。

 

「失礼します。お連れしました」

 

 堅苦しい口調であった。いよいよ私が容疑者かのように思われた。

 応接室のソファーには、フリルのある派手なドレスシャツの男性が座っていた。当然、面識はない。私はトレーナーさんの様子を窺っていたが、トレーナーさんはドレスシャツの男性に一礼をすると、早々と退室してしまった。私は左顧右眄とした。

 

「座ったら?」

 

 ドレスシャツの男性は、ガタイとは裏腹にイヤに色気のある口調であった。

 

「あ、はい」私はペコペコと頭を下げながら、男性の対面に座った。「失礼します」

 

 ドレスシャツの男性は、なかなかにインパクトのある風体をしていた。さながら「ヘンダーランドの大冒険」のマカオとジョマのような男性である。より直截な表現をするならば、オカマのような大男であった。

 オカマ魔女氏が、懐から名刺を出していた。

 

「アタクシ、プロダクションで番組プロデューサーをやっております」

 

 オカマ魔女氏はかつて他局のディレクターとして働いていたが、現場での実績を買われ、プロダクションにヘッドハンティングされたという。肩書きは番組を企画、考案するプロデューサーであるが、現在も、ときどき、ディレクターとして現場で指揮を執っているらしい。ディレクター時代には、我那覇響ちゃんとも仕事をしたことがあるという。

 どうやらオカマ魔女氏は随分と話好きのようであった。

 

「そ、それで……、私に話とは……?」

「あらヤダ、ゴメンなさいねえ」

 

 キャラクターが濃ゆいのは、どうやらアイドルだけではなかったらしい。げに恐るべきプロダクションのマンパワーである。私は圧倒されていた。

 

「あるドラマの役者を探していてね。アナタの噂を耳にしたものだから」

 

 オカマ魔女氏が手元のビジネスバッグ(メンズともレディースとも判然としなかった)から、なにやら紙の束を出していた。企画書のようである。表紙にはドラマの題字らしきものが印刷されていた。読んでもいいらしいので、私は渡された企画書をぱらぱらと確認していた。主人公が子どもの頃に遊んでいた三人の幼馴染、男だと思っていたが実は女の子だったという青春ラブコメディーである。ツイッターにゴロゴロ転がっているような設定であったし、実際にツイッターから書籍化された漫画が原作であった。

 オカマ魔女氏が探しているのは、幼馴染の子ども時代の役者であるという。

 ただ、かなり小柄な輝子ちゃんは、実際、女性らしい起伏もそれほどないが、男の子っぽいとまでは思わないのだが。

 

「輝子ちゃんってインディヴィで中性的なブランディングもされてるから、もしかしたら合うかもって思ってね。あんまり期待はしてなかったんだけど、想像以上だったわ。アナタ、ぜんぜん女の子っぽくないもの」

 

 やかましい。

 当然である。二十むにゃむにゃ歳にもなるむさ苦しい男が女の子ぽかったら、それはヘルマン・ヘンキング以来の性染色体の遺伝学的研究に対する冒涜に他ならない。

 輝子ちゃんの姿になってからも、私は女の子らしい実益のあることなどなにひとつしていないと断言しておこう。異性との健全な交際、美の追求、女子力向上、花嫁修業など、社会的有為の女性となる為の布石の数々を、当然ながら無視してきた。あるとすれば、女性用の洗顔料や除毛クリームを買ったこと(男性用は肌への刺激が強すぎたからである)か、あるいは輝子ちゃんも愛用しているというボディーソープやリンスインシャンプーで身体を洗っていることだけであるが、それは私が男であったときからしている。いや、誤解しないでいただきたい。断じて、倒錯的偏愛行為ではない。輝子ちゃんのファンとして当然の、応援の一環である。

 オカマ魔女氏も企画書をぱらぱらと捲っていた。

 

「端役だから、できれば無名の役者がよかったの」

 

 企画書によれば、主人公や三人の幼馴染の配役は既に決まっているようで、どうやら新進気鋭の若手俳優のプロモーションという側面の強いドラマであった。子ども時代は、回想シーンで一言、二言、セリフがあるかないかという案配である。私のようなぺーぺーが選ばれるのも納得ではあるが、私である必要性も薄いように思われた。

 オカマ魔女氏には申し訳ないが、硬派な私は浮ついたトレンディードラマなどに興味もなかった。

 

「さいですか」

「実は続編の構想もあるんだけど……」

 

 つまりはまた呼ばれるかもしれないということである。

 ほぼ輝子の名を全国に轟かすビッグチャンスに、私は即断した。

 

「ぜひ」私は番組プロデューサー氏に深々と頭を下げた。「よろしくお願いいたします」

「やっぱり女の子っぽくないわねえ」

 

 現金な私に、オカマ魔女氏が苦笑した。

 

 ●

 

 翌週。

 私はオカマ魔女氏とともに、ある出版社を訪れていた。

 ドラマの関係者の打ち合わせがあるという。出版社で打ち合わせをしているのは、版権元である出版社の担当者の都合であるらしいが、それは些細な問題であった。重要なのは、なぜ私が関係者の打ち合わせに同行しているか、である。

 

「配役は、監督やみんなの意見も聞かないとね」

 

 オカマ魔女氏によれば、ただの顔合わせらしいが、それではもはやオーディションである。

 最悪、却下されるかもしれないのであれば、話が違う。私が頭を下げた意味もないではないか。

 私はぷりぷりとしたが、オカマ魔女氏は飄々としている。柳に風であった。私は動物病院を前にした仔犬のようにずるずると引きずられながら、会議室へと入っていた。

 

「おはようございまーす。お待たせしました」

「お、おはよう、ございますっ」

「おはようございます」

 

 会議室には四人の男性が座っていた。

 四人を代表するように挨拶をしてきたのは、ブロータイプの眼鏡に、ロマンスグレーの髪、ストレートパートとアンカーのお鬚がダンディーなジェントルマンであった。四人にヘコヘコと挨拶していた私に、男性が柔和に微笑んでいた。風貌に相応しい、実に紳士的な男であった。「バーテンか喫茶店のマスターかな?」と思ったが、どうやらドラマの監督であるという。このダンディーな監督に却下されるのならば、それはもう仕方あるまいと私は思った。

 ダンディー監督が、三人を紹介した。それぞれ、ドラマの脚本家、原作者、出版社の担当者であった。

 

「しかし、実に似ていますねえ」ダンディー監督が微笑んでいた。「眉唾でしたが」

 

 ダンディー監督はさながら水谷豊氏のようである。つまりは杉下右京のような口調であった。

 

「似ているって、誰にです?」と、原作者さん。顔一面が剛毛に覆われた、漫画家というよりマタギか山賊をしているような髭面の男であった。

「アイドルの星輝子さんですよ」

「あー……、メタルアイドルとかいう?」

 

 ダンディー監督が頷いていたが、ヒゲモジャ漫画家はあまり理解できていないようである。それは他の二人も同様であった。

 ネット上で叩かれながらも、なぜほぼ輝子がそれほど話題にならなかったのか、私はようやっと氷解していた。アイドルにさほど興味がない大半のパンピーは、まず輝子ちゃんを知らないか、知っていてもなぜかデスメタルかなにかの恰好をしている奇抜なアイドルという印象しかないのである。オタクくんにありがちな、我々が興味あるものは誰もが知っているはずであるという、あまりにも初歩的な盲点であった。養成所でもさほど話題にされなかったが、なるほど道理である。いやはや、メタルアイドルとして活動している輝子ちゃんの、ギャップのある素朴な姿が実に愛らしいというのに、世間の皆様方は人生の半分を損している。

 アイドルに詳しいのは、どうやらオカマ魔女氏とダンディー監督だけのようであった。

 

「さて、配役にあたって、何個か質問をさせてもらいますが、よろしいですか?」とダンディー監督。

 

 いよいよ本番のようであったが、「なにかスポーツはされていますか?」「お芝居の経験はどれほどですか?」「ウィッグを被れるように、髪を切ってもらいたいのですが、大丈夫ですか?」「好きな俳優はどなたですか?」などなど、最初は私も緊張していたが、ダンディー監督の紳士的な雰囲気のおかげか、終始、他愛のない世間話のようであった。

 

「結構です」ダンディー監督が、なにか納得したかのように頷いた。「申し訳ありません、我々は貴方の仕草や口調を見たかったのですよ」

 

 まるで探偵かのようなダンディー監督の言葉に、「やっぱり杉下右京かなにかか?」と私は思った。

 

「いいんじゃないですか?」と、老けた高橋一生氏のような、淡い茶髪の脚本家さん。「仕草も随分と女性的ではなかったようですし」

 

 やかましい。

 だが、不本意な理由であれど、それでデビューできるのであれば、やぶさかではない。

 異論は誰からもないようであった。ダンディー監督が微笑んだ。

 

「では、これからよろしくお願いします」

 

 よもやガブリアむさんの世迷言が現実になるとは思わなかった。私は、拍手をしている一同に、「ありがとうございます」「ありがとうございます」「フヘヘ」と、何度も頭を下げた。

 安堵している私に、オカマ魔女氏が囁いた。

 

「阿部寛が好きなの?」

「え、いいじゃないですか、結婚できない男」

「いや、いいドラマだけどね……、アナタ、ホントに女の子?」

 

 鋭い、と私は思った。

 オカマが切れ者なのは、フィクションだけにしていただきたい。



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偽者(8)

 棚ボタで端役ながらドラマに抜擢された私であるが、ふと冷静になると、いまさらながら不安になっていた。私のようなトーシロがドラマに出演するという、なかば非現実的な事態に、私はなにかしていないと、お尻がふわふわとしているようで仕方がなかった。逆転マジックミラー配信で汚部屋云々と馬鹿にされていたのでちまちま断捨離をしたり、発掘した「最終兵器彼女」「グミ・チョコレート・パイン」を懐かしんだり、のこのこと部屋に現れた不運なゴキブリとアシダカ軍曹の死闘を観戦したり、坐禅の真似事をしたりしながら、私は無意味に時間を浪費していた。

 これほどまでに不安になっていたのには理由がある。ドラマの初稽古が間近に迫っているからであった。

 私のような若輩者は、きっと生意気な新人として先輩方からボコボコのタコ殴り、「築地銀だこ」の具にされ、悪辣な番組関係者の甘い言葉に惑わされれば、今後も仕事が欲しいのならとスケベブックのようなハレンチ営業をさせられ、私は業界の闇という闇にどっぷりと糠床のキュウリのように漬けられてしまうのである。

 私は妄想でいっぱいになった脳味噌をアドバルーンのようにふわふわとさせていたが、ふわふわと生きているのは平生からではないかと思うと、「すん」と冷静になった。

 なにを不安になる必要があるのか。

 私がいかなぺーぺーであれど、私と芝居をするのは子供である。ヘンテコな生態系をしている私は別として、ほかに主人公達の少年時代を担当している役者は、正真正銘の小学生であるとオカマ魔女氏から頂いた資料にも書かれていた。まだママのミルクが恋しいガキんちょどもを、なぜ年長者たる私がビビらなければならぬのか。雑念が払われるかのような感覚に、私はさすが坐禅であると感服していた。

 無我の境地に至った私は、坐禅をしたまま、すやすやと眠っていた。

 数日後。

 身体の節々がなぜか凝っていた私は、全身から湿布の匂いを芬々とさせながら、稽古をするプロダクションのスタジオへオカマ魔女氏と一緒に向かっていた。オカマ魔女氏によれば、出番も限られている子役組は、稽古というよりも顔合わせや、なかば稽古の見学であるという。将来有望であるという若手俳優達の演技を間近で見学できるのは素直にありがたいが、なにやら不安になっていた私が阿呆のようであるし、実際に阿呆ではある。

 

「ほかの子も経験は浅いし、まずは慣れさせたいのよねえ」オカマ魔女氏は苦笑した。「アナタほどは、緊張していないと思うけど」

 

 余計なお世話である。

 だが、私が不安で碌に昼寝もできていなかったのは事実なので、紳士的に反論しなかった。ほかの出演者のプロフィールや当面のスケジュール、パンケーキがおいしいオススメのお店など、他愛のないあれやこれや、やはりおしゃべりなオカマ魔女氏の背中を、私は雛鳥のように追っていた。

 

「稽古が終わったら、なにか予定はある?」

「え、や、ないですけど」

「なら、予約するから、ヘアサロンに行きましょ」

 

 輝子ちゃんの姿になってから数ヶ月であるが、私は一度も散髪をしていない。腰元まであった髪も、もはや尾骨まで達している。お風呂上がりに全裸で涼んでいると、髪の毛がお尻にさわさわとして擽ったい。ダンディー監督にも髪を切ってほしいと頼まれているし、未知の感覚に私のお尻が開発されてしまうのも時間の問題である。

 ただ、私は近々散髪するつもりだったのだが。

 

「予約でもしなきゃ、どうせ行かないでしょ。勘だけど、アナタ、誰かにお尻叩かれないと動かないタイプね」

 

 私という男が即断即決、どれほど行動力に優れているか、どうやらオカマ魔女氏は知らないらしい。いかに熱弁しようかと思ったが、子どもの屁理屈と思われるのが関の山のようにも思われ、私は冷静に撤退した。私が無駄な戦をしない平和主義者であるのは、読者諸兄もご存知のはずである。一説によれば、ただの腰抜けであるという見解もある。

 やはり鋭いオカマである。

 さらに、お節介なオカマも、どうやらフィクションの存在ではなかったらしい。人間関係の機微に疎いひきこもりの私でも、オカマ魔女氏は随分と面倒見がいいようであると分かっていた。

 

「アタシが拾ったようなものだし、右も左も分からない新人の面倒を見ないほど、アタシも薄情じゃないわよ」

「姐御……」

「あねご?」

 

 オカマ魔女氏でなければ、惚れていたかもしれない。

 元男とオカマの恋物語は、さすがの私も守備範囲外である。

 

 ●

 

 子役の方々の輪にはまるで入れなかったが、初稽古も無事に終わっていた。私は、オカマ魔女氏が予約したヘアサロン(プロダクションが経営しているヘアサロンで、ヘアスタイリストの卵が所属しているという)で、お尻まであった髪をばっさりとカットしてもらっていた。男の子っぽい髪型にしたほうがいいのかしらんと思ったので、私は「結城晴ちゃんのようにしてください」と美容師さんにお願いした。オカマ魔女氏から事前に話があったのか、輝子ちゃんと瓜二つでも本人とは誤解されなかったが、美容師さんからプロフェッショナルとして丁寧なカットと小粋な雑談をされ、私はフヘフヘしながら天井にあるオシャレなシーリングファンライトをじっと睨んでいた。ハンドミラー片手に美容師さんが仕上がりを確認していると、オカマ魔女氏が私のセットチェアーに寄ってきた。「晴ちゃんって、ちょっと安直じゃない?」とのお小言はあったが、どうやらドラマへの支障もないようであった。

 オカマ魔女氏と美容師さんにペコペコ頭を下げながら、ヘアサロンのハイカラな雰囲気から命からがら敗残してきた私は、いつものように配信をしていた。

 

「髪切りました?」

 

 コメントがあったのは、ディオ・ブランデーさんと彼の知り合い(ディオ・ブランデーさんがなにかと知り合いに紹介してくれるおかげで、逆転マジックミラー配信以外ではスマブラSP配信が最も安定して同接されていた)の対戦を観戦しながら、ぐだぐだと雑談しているときである。

 新メンバーである「ひよこっこ」さんからであった。

 ひよこっこさんは静岡の大学生で、やはりアイドルオタクである。大学の劇団サークルに所属しているが、会員が減少してなかば活動を休止しているらしい。外部の劇団や養成所を探しているときに、私がプロダクションの養成所に所属している噂を耳にし、配信を観るようになったという。私のしょうもない話を参考にされると、プロダクションの営業妨害にならないか不安である。

 

「かわいいです」

 

 ひよこっこさんのコメントはいつも丁寧で、物腰が柔らかい。きっと実に奥ゆかしい黒髪の乙女である。異性の髪型の話になると、やれ失恋した、新しい男の趣味だと下世話な連想ゲームしかできない、情緒の欠片もない童貞どもでないのは明白である。

 

「晴ちゃんぽいね」

「かわいいけど、それはちゃうやろ」

「アホ毛なかったら面影ないじゃん」

「解釈違い」

「輝子ちゃんはどうした」

「まーた設定を忘れたのか」

 

 奥手な童貞どもは誰かが髪型の話をするのを窺っていたのか、梅雨明けのボウフラのようなコメントが湧いていた。

 オタクどもには私が輝子ちゃんの髪型を軽視しているように思われたかもしれないが、これは役者としての、実にプロフェッショナルな役作りの一環である。ときとして、輝子ちゃんがツインテールになるのと同義である。ルーズサイドテールにはならないかもしれないが、それは些細な問題である。重要なのはこれが役作りであるという一点である。

 当然ではあるが、私はドラマの一切の情報を公開しないよう、オカマ魔女氏から何度もお小言を頂戴している。おかげでタコの肥大化した私の耳がダンボのようになっていないか、心配である。ソーシャルネットワーク時代の黎明期を生きてきた私が、ネットリテラシーに精通していないはずもないのだが、オカマ魔女氏からあまり信用されていなかった。ほぼ輝子としてしょうもない小火を幾度と起こしているので、それは実に正しい。オカマ魔女氏はやはり慧眼であった。

 

「髪型は関係ない」ドラマを言い訳にできない私は嘯いた。「大事なのは心、私の輝子ちゃんを想う心である」

「詭弁!」

「詭弁だ!」

 

 教室の片隅で馬鹿話をしている小学生男児のようないつもの我々であったが、ふと「おや?」と私は思った。いつもなにかとチャット欄を賑やかしているガブリアむさんが、なぜか髪型の話の輪には入っていなかったが、別に気分ではなかっただけかもしれないし、たまたまお花を摘んでいるのかもしれない。

 

「ま、ええか」と私は思った。

 

 それからも何度か配信で髪型について弄られていたが、ガブリアむさんがコメントすることは一度もなかった。

 

 ●

 

 レッスンと稽古以外は基本的に時間感覚に乏しい、薄味な日々を送っているので、いつの間にかドラマの撮影が始まっていた。いわゆるクランクインである。

 なにかと私の世話をしていたオカマ魔女氏も、本格的に番組プロデューサーとしての仕事に追われるようになっていたが、私の為に代わりのプロデューサーを用意してくれていた。いつものようにおしゃべりなオカマ魔女氏のおかげで、私はプロデューサーのバックグラウンドをだいたい把握していた。

 かつては番組のアシスタントプロデューサーとして、芸能界の大物である黒井崇男氏とも仕事をしていたが、なにかポカをしたのか、干されていたらしい。閑職に左遷させられ、燻っていた彼を、一緒に仕事をしていたオカマ魔女氏がプロダクションに推薦したという。動物バラエティー番組に携わっていた関係か、プロダクションでは番組ディレクターとして動物タレントやペットモデルの管理や手配を任されていた(オカマ魔女氏とは立場が逆転していた格好である)が、以前からアイドルやタレントのプロデュースやマネージメント業務への転属を希望していた。大物プロデューサーでもあるかの黒井崇男氏に憧れているからか、もっと別な理由があるのかは分からないが、それが私のプロデュースを任された一端でもあった。

 ただ、希望が叶ったと思っていたら、実情はなにも知らない新人のお守りである。

 ご愁傷様である。

 先日、私との顔合わせに現れた彼は「なぜ俺がこのような小娘の面倒を見なければならんのか」という表情をしていた。「仕事はできるけど、性格が玉に瑕なのよね」とはオカマ魔女氏の言であったが、なるほど納得である。「電撃!ブタのヒヅメ大作戦」の悪役バレルを彷彿とさせる、小物という概念を限界まで濃縮したような男であった。

 いかに小物であれどお世話にはなるので、礼儀として私は深々と男に頭を下げた。

 

「フン」小悪党氏は、お手本かのように鼻を鳴らした。「私にはお前のような小娘のプロデュースがお似合いということか」

 

 それでも小悪党氏はオカマ魔女氏を引き継ぎ、十全に仕事をしていた。頭の先から足の裏まで、細胞という細胞から濃密な小物臭を芬々とさせていても、大手芸能事務所で働いているほどの男である。ひきこもりの私には想像もつかないバイタリティーと上昇志向があった。

 プロデューサーへの転身を望むだけはあるなあと、私は他人事のように感心した。

 意外と有能な小悪党氏に引きずられながら、私はドラマのロケに向かっていた。ロケ地は坂本金八と、生徒である三年B組どもが青春を謳歌しているような河川敷である。

 私が演じるのは「昆虫が好きな、内気な少女」である。

 読者諸兄も小学校のクラスメイトの一人や二人は、無駄に昆虫や恐竜に詳しかったはずである。教室の隅で黙々と図鑑を読んで、網を片手にひとりで野原や草藪を歩き回っている少女。それが彼女である。しかも昆虫が好きなのに、コンクリートジャングルである都会に生まれてしまったという、なんとも難儀な少女であった。私も人生に難儀しているひとりであるが、彼女が可哀想なので一緒にはしなかった。

 ひとりで昆虫を探していた彼女を男の子と勘違いしたまま、一緒に遊んだのが主人公である、というベタな設定であった。

 どうにか撮影が終わっていた私の目の前では、メインキャストによる河川敷のシーンが撮影されていた。いつものように子役達の輪に入れなかった私は、ひとりで撮影を見学して勉強したり、差し入れのバウムクーヘンを貪ったり、渡されていた台本で撮影されているシーンをチェックしたり、衣裳である網を片手に童心に帰ったり、エキストラとして参加している少年野球チームの子どもとキャッチボールしたりしていた。

 

「……」

「あ、お疲れさまでふ」

 

 小腹が空いたので失敬していたバウムクーヘンをむしゃむしゃしていた私は、仕事の合間に現場の様子を確認していたオカマ魔女氏に呆れられた。

 

「どうだった?」

「それはもうバッチリですよ」

「嘘つけ」小悪党氏は私の言葉を一蹴した。「バカみたいにガチガチだったじゃあないか」

 

 私がどのような醜態を晒したかは、名誉の為にノーコメントとさせてもらう。

 担当している小娘がお荷物だと分かったら、野心家の小悪党氏がどうなるのか、私は心配であった。しかし、トーシロっぷりを存分に発揮していた私にも、プロデューサーである小悪党氏は「フン」と鼻で笑うばかりである。

 

「フフフ」小悪党氏が、やはりお手本かのように不気味に笑った。「この小娘で成功すれば、私のプロデュースは本物ということになる……。私を虚仮にしたあの男……、必ず後悔させてやる……。フフ、フハハハハ」

「大丈夫なんですか、あれ?」

「たぶんね」と、なにか知っているのか、オカマ魔女氏は苦笑するだけであった。

 

 私は、小悪党氏が私のヘンテコな人生に巻き込まれた被害者だと思っていたが、実際はどうやら逆でもあったようである。誰かをけちょんけちょんにする妄想でもしているのか、呆れている我々を余所に、小悪党氏はなおも悦に浸っていた。さながら脱獄に成功した「ショーシャンクの空に」のアンドリュー・デュフレーンのようである。小悪党氏のほうが芝居に向いているのかもしれない。

 私の肩をぽんと叩き、ダンディー監督に挨拶する為か、オカマ魔女氏が去っていった。小悪党氏はなかなか妄想から戻らないようなので、私も挨拶をして帰ろうかなと思ったときである。

 

「あ、あの」

「んあ?」

 

 それは、サイズがブカブカなTシャツに、ジーンズというラフな格好をした女であった。

 読者諸君は地味な格好のように思われたかもしれないが、ヴィレッジヴァンガードに陳列されているような珍妙なプリント(「生きとったんかワレ」と叫んでいる浜田雅功氏)のTシャツに、紛争地帯から拾ってきたかのような濃色のダメージジーンズ。脳味噌までクライナーファイグリングかコカレロに侵されているパリピがしているようなハート型のサングラスに、目深に被ったモスグリーンのSuperdry極度乾燥(しなさい)のキャップ。ショッキングピンクに、スカイブルーのインナーカラーの髪は、まるでコストコで売られているアイスクリームのようである。

 つまりは、実に奇抜な女であった。

 というか、りあむちゃんであった。なぜここにりあむちゃんが。

 呆然としている私の腕を、りあむちゃんがむんずと掴んだ。やや強引だったので、私は「柔道でもするのかな?」と思ったが、ただの握手だったのかもしれない。りあむちゃんの掌は、汗でしっとりとしていたが、柔らかかった。

 

「ほぼちゃん! ぼく、推してる! から!」

 

 私は困惑した。

 私をストーキングしているとは、どうやらアイドルもよほど暇らしい。



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偽者(9)

 優男氏や大男氏のように、プロダクションの関係者が私の動向を把握しているのはなかば予期していたが、よもやアイドルであるりあむちゃんまで把握しているとは予想していなかった。ただ、私とりあむちゃんは俳優とアイドル、部署は違うが同僚のようなものであるし、りあむちゃんは各地のライブハウスから出没情報が寄せられている重度のドルオタでもある。輝子ちゃんの偽者として5ちゃんねるのアイドル関連スレを冬場のドアノブに触ったときの静電気程度には騒がせていた私を知っていたのかもしれない。

 だが解せないのは、なぜ赤丸急上昇のアイドルであるりあむちゃんが、ひよっこ同然の新人俳優である私のスケジュールをも把握しているのかという点である。

 ストーキングの可能性が濃厚であれど、りあむちゃんは仮にも業界の先輩である。呆然としながらも、私はどうにか頭を下げた。

 

「お、お疲れさまです、夢見さん」

 

 たまたま不良グループの先輩に会ってしまった地方の中学生のような挨拶が精一杯であった私にも、りあむちゃんは無邪気な幼児のように笑っていた。状況がなにも分かっていないようでもあった。私の掌は、いまだりあむちゃんに握られたままである。

 

「えへへ」

「フ、フヘヘ」

 

 りあむちゃんは、さらに空いている左手で私の掌をふんわりと包むように握ってきた。さながら握手会であった。常日頃から爆発炎上しているイロモノであるのが嘘のような、無垢な笑顔である。「りあむちゃんも立派なアイドルなのだなあ」と、私はいまさらながら実感していた。

 

「おい」

「ひん」

 

 不意に肩を叩かれ、私はマヌケな悲鳴を上げた。小悪党氏であった。どうやら妄想からは戻ってきたらしい。

 憮然としたような小悪党氏を前にしても、りあむちゃんは私の手を離さなかった。嬉しかったが、状況が状況なので、私の視線はウィンブルドンの観客のようにりあむちゃんと小悪党氏の間で右往左往していた。りあむちゃんはやや呆然としていて、表情が「誰コイツ」と雄弁に語っていた。小悪党氏の目は、悪党の面目躍如とばかりに鋭かったが、りあむちゃんは実に呑気であった。いつもはやむやむうるさいりあむちゃんであるが、土壇場ではなにかと度胸があると評判であった。もこもこのファーショールばりの毛皮の心臓が、りあむちゃんの大物たる所以かもしれなかった。あるいはただの阿呆である。

 固まったままの我々に、小悪党氏は不承不承とばかりに名刺を出していた。

 

「お疲れさまです、夢見りあむさん。私は、ほぼ輝子のプロデュースをしております。以後、お見知りおきを」

「はあ」と、りあむちゃんはお手本のような生返事。「どうも」

 

 小悪党氏から渡された名刺を、りあむちゃんは「くまのプーさん」のようにのたのたと尻ポケットに入れていた。格好が格好なので仕方ないのかもしれないが、あまりにも無造作である。ジーンズを洗濯するときに忘れていないか心配になったが、もはや二、三人殺しているのではないかと思われるほどの小悪党氏の形相が、私にはなによりも不安であった。

 私は「とっとと退散したほうがいい」とアイコンタクトしたが、なにを誤解したのか、りあむちゃんはふにゃふにゃと能天気に笑うばかりである。あまりにもかわいいのでもうちょっと拝んでいたかったが、小悪党氏の無言の圧に、私は失敬していた差し入れのバウムクーヘンをボディバッグから出していた。ホワイトチョコが白馬八方尾根スキー場の白銀のゲレンデのようにコーティングされていて、私にはまず縁もないお上品なバウムクーヘンである。

 

「お、お近づきの、印に。フヘ。ま、また、会いましょう」

「う、うん! またね!」

 

 邪念の欠片もないりあむちゃんの笑顔は、まさに純真無垢の権化であり、かぐや姫の赤子時代もかくやと思われるほどに愛らしかった。かつて郷里の山野を愛の光で満たしたともされるそれは、あまりにも眩しかった。「ぐお」化けの皮が剥がれれば、ただのむさ苦しいひきこもりである私は、なにかりあむちゃんを騙しているようにも思われ、滅せられるバケモノかなにかのように呻いた。ただの差し入れであるバウムクーヘンを後生大事とばかりに胸に抱き、何度も私に振り返りながら去っていったりあむちゃんの姿は、健気ですらあった。

 りあむちゃんが去ってから、小悪党氏が深々と溜息をした。

 すわ怒られるかと思ったが、どうやら違うようであった。私は安堵した。

 

「お前がなにも漏らしていないのは、俺も確認している。確かに、お前の動向をほかのプロデューサーとも共有はしていたが、あいつまで知っているのは、……俺も知らん。あいつらの管理はいったいどうなってるんだ」

 

 悪態を吐きながら、小悪党氏は誰かに連絡していた。なにか悪事が窮地に陥ったときの悪役さながらの小悪党氏は、不謹慎ながらやや愉快であった。さすがにこれは本当に怒られると思ったので、私は小悪党氏の隣でじっと黙っていた。小悪党氏の会話から推察するに、相手はどうやらりあむちゃんのプロデューサーのようである。小悪党氏はりあむちゃんと相対しているときよりよほど冷静な表情ではあったが、なにやら飄々と躱されているようであった。残念ながら、小悪党はレスバに弱いと相場が決まっている。

 苦虫を噛んだような表情で、小悪党氏が電話を切っていた。

 

「クソ。あの女狐が」

 

 あまりにも小悪党らしかったので、台本でもあるのかなと私は思った。

 

「あいつの評判は、お前も知っているだろうが……。もはや放火魔だ。付きまとわれないように注意しておけよ」

 

 随分と辛辣な表現に、私は苦笑した。

 

「りあむちゃんもそこまで暇じゃないかと」

「だといいがな」

 

 結論として、小悪党氏の予感は的中することとなった。

 私とりあむちゃんは、微妙な関係のまま、長い付き合いになっていった。

 

 ●

 

 ドラマでは大した出番もないので稽古や撮影もほとんどなかったが、小悪党氏の愛の鞭でなにかとレッスンを入れられ、私はそれなりに忙しい日々を送っていた。プロダクションが経営している貸しスタジオの一室をモップで磨きながら、私はむにゃむにゃと欠伸をした。

 プロダクションではタレントの卵である養成コースの学生やフリーターに、撮影のエキストラ、ライブやイベントのスタッフ、保有している施設のスタッフなどのアルバイトを紹介、斡旋しているという。かつて無名だったウサミンがプロダクションの社屋に併設されたカフェで働いていたという話も、ファンの間では有名である。私も、小悪党氏からスタジオの受付スタッフの仕事を紹介されていた。

 

「金があれば退会もされづらいし、我々は人手を確保できるからな。お前は、単純に手元を離れられると困るってのもあるが」

「ぐえー」と、いまだ厄介者の私は呻いた。

 

 ただの親切ではない、実に打算的で裏のある話であった。ただ、安定した収入のない私にはありがたい話でもある。白亜紀ぶりの労働に不安もあったが、私は小悪党氏の話を承諾していた。

 これが、私がスタジオを掃除している経緯である。

 

「第一ルームのチェック、終わりました」

「はい、ありがとうね」

「うス」

 

 社員である店長は、全てを受け止め、包み込むような大きなひとであった。つまりは縦にも横にもデカい、マシュマロマンのような大男である。日本体育大学の相撲部出身という、バリバリの体育会系エリートでもあった。輝子ちゃんの身体になってから、大男氏を筆頭になにかと巨漢に縁があるが、店長は実に圧巻の一言であった。どのようなトラブルにも対応できるような強靭な肉体に、恵比寿様のようにいつも温和で優しい人柄と、私との絵面がもはや犯罪的である以外は、実に頼れるありがたい存在であった。

 恵比寿店長の巨体にすっぽりと隠れるように、奥のデスクで経理を担当しているのが、スタドリさんである。栗色の髪を編み込んでサイドに流している。綺麗な女性なのだが、いつもスタドリという得体の知れない栄養ドリンクを飲んでおり、疲れているのか、表情にはやや陰があった。ほかのスタッフは、親戚が本社で働いており、それに劣等感を抱いているのではないかと噂をしていた。スタドリは、かの親戚からなにかと送られてきているという。

 アルバイトであるほかのスタッフは、デビューしたばかりの歌手や無名の俳優など、私と似たような境遇であるらしい。スケジュールが流動的な彼らはシフトも変則的で、私はまだほとんど顔と名前が一致していなかった。なお、スケジュールが一番空いているのは、私である。

 輝子ちゃんと瓜二つである以前に女子小学生と大差ない背格好の私に、アルバイト当初は困惑していたようであったが、彼らのサポートのおかげで私も業務には慣れてきていた。斯様に、環境や人間関係に恵まれ、私の日常はかつてでは想像もできないほどに変化していた。

 一方で、変わらないものもあった。YouTuberとしての私である。

 ガブリアむさんはまた「怒られ」があったのか、いつものように「やむ」と元気に消息を絶っていた(戻ってきたのは、最長記録の二日後であった)し、ディオ・ブランデーさんと官能コイルさんはいつものようにスマブラSPで私のチャンネルというちっぽけなお山の大将の座を熾烈に争っていた。仕事のストレスがついに限界に達した苦労人のサム・ライミ8さんは哺乳瓶に入れたストロングゼロで泥酔し、理知的な八つ折作戦さんと暫定黒髪の乙女のひよこっこさんはりあむちゃんのメンヘラがファッションか否かという不毛な議題を白熱させていた。ドラマの情報も公開され、私が名実ともにデビューしたあともなにも変わらない四天王どもに、皮肉にも安心していた。もし万が一、役者として成功したとしても彼らは変わらないと、私はなかば確信していた。レッスンやバイトに追われているが、毒にも薬にもならないしょうもない配信をこのまま続けていきたい所存である。私がもはや蚊帳の外にされているかどうかは、実に些細な問題である。

 問題があるとすれば、このままだと私はプロのアルバイターになってしまうことである。こればかりはレッスンを積んで、小悪党氏の天命を待つほかなかった。

 

 ●

 

 りあむちゃんが近頃はあまり炎上していないと評判であった。

 以前は歴戦のツイッター廃人として、日夜、心ないネットユーザーとのレスバで炎上し、南でガチ恋しているオタクくんを「オタクは鏡を買う金もないのか?」などとぶっ叩いて炎上し、北では常にアイドルの恋愛無用論を説いて炎上していたが、最近はなにか興味が別にあるのか、廃人と表現するにはいささか大人しいものであった。それはそれでりあむちゃんの個性が失われているのではないかという身も蓋もない意見も散見されていたが、諸々の事情で中止になっていた新人主体のライブも再度、開催されること(以前とは知名度も違うからか、規模も拡大されていた)となり、りあむちゃんの活動もなにかと軌道に乗っている現状に、プロダクションも悪名をさほど必要としていないようであった。

 先日、恵比寿店長から諸注意があった。

 基本的にプロダクションに所属しているタレントは、社屋に併設されているレッスンルームで自主レッスンをするのだが、ときおりプロダクションの所有する貸しスタジオでもするという。社屋や寮に近いスタジオでするのがほとんどであるが、遠慮をして、やや遠い我々のスタジオを利用することも稀にあるらしい。新人ならなおさらである。なにやら世知辛い内情もあったが、つまりはライブを前にアイドルがこのスタジオで練習するかもしれないから、留意するようにとの旨であった。

 輝子ちゃんを前にしたら、さすがの私も興奮して我を失ってしまうかもしれないが、このバイトを失ってしまうのがオチである。私が一介のドルオタとしての節度や、貴重な収入源を失うリスクも理解できぬ無知蒙昧の輩でないことは、読者諸兄も重々ご承知のはずである。紳士として、アイドルが相手でも、私は粛々とバイトをするだけである。

 ふと、私の脳裏には、赤子のように無防備なあの笑顔が蘇っていた。

 

――いやいや、まさか。

 

 小悪党氏の言動から推察するに、誰から漏れたかは分からないが、りあむちゃんが私のスケジュールを把握していたのは確かなようであった。ストーカー規制法に片足を突っ込んでいる所業であったが、私のバイト先まで把握しているともなれば、四十二度のお湯にしっかり肩まで浸かっているレベルである。んな阿呆なとは、私にも断言できなかった。なにせ誰某の追っかけがストーカーで捕まったらしいという噂は、アングラで閉鎖的な地下ドル界隈では日常茶飯事であったからである。私の知り合いの知り合いは、水尾某というアイドルの行動パターンを綿密に観察し、曜日別に記録した「研究成果」を参照して熱烈に追っかけをしていたらしいが、それを追っかけと表現していいのかは、はなはだ疑問である。一介のドルオタであるりあむちゃんにも、斯様な「素質」がある可能性を私には否定できなかった。

 私の被害妄想的な杞憂で終わればいいものを、この世におわします八百万の神々はオモチロイことをご所望のようであった。

 

「#ユニット名募集中様が十七時からご利用ですね、かしこまりました」と、どこかと電話をしていた恵比寿店長。

「うぇ」

 

 トンチキな悲鳴を上げた私を、スタドリさんが訝しんでいた。当然ながら事情を知らない恵比寿店長は、「珍しいこともあるもんだねえ」と呑気に笑っている。

 私自身はりあむちゃんへの悪感情をそれほど抱いていないが、小悪党氏は別であった。あの一件に憤っている小悪党氏は、随分と神経質にもなっていた。小悪党氏の懸念が現実のものともなれば、ストレスで十円ハゲになった小悪党氏が発狂して、東京大学本郷キャンパスにある赤門の袂で落単した大学生の髪の毛を毟ってカツラにする狂人になってしまうのも時間の問題であった。私は、ユニット単位での練習ならば、りあむちゃんはもしやいないのではないかという、無理筋な一縷の希望に縋るしかなかった。

 私は無意味にレッスンルームを掃除したり、デスクの下に隠れて現実逃避をしていたが、恵比寿店長に「仕事をしなさい」と両脇をむんずと掴まれ、軽々と引っ張り出されていた。恵比寿店長の丸太のような腕に掴まれ、抱っこされた仔猫のように観念してぶら下がっていると、スタジオの出入口には無情にも#ユニット名募集中の三人が立っていた。



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偽者(10)

「#ユニット名募集中」とは、辻野あかり、砂塚あきら、夢見りあむの三人によるユニットである。

 ご覧のようになぜかまだユニット名が決まっていない上に、もはや「ユニ募」という略称がなかば定着してしまっている、難儀なユニットでもある。りあむちゃんは幸か不幸かなにかと注目されていたが、デビューシングルも貰った同期の「miroir」や「VelvetRose」の華々しいデビューに比べれば、残念ながらユニ募はユニットとしての印象が薄かったように思われる。四天王によれば、ユニ募推しの興味は目下、合同ライブでユニット楽曲がお披露目されるかどうかであるという。

 ユニ募でのレッスンをするともなれば、俄然、楽曲がお披露目される可能性も高まるが、私にそれを喜んでいる余裕はなかった。三人の視線がちくちく刺さっているようで、無数の矢を受けて死んだ武蔵坊弁慶のように立ったままゲロを吐いてしまうかに思われた。恵比寿店長の巨体を壁に隠れようかと思ったが、なにやらユニ募のプロデューサーらしき女性を応対していたので、私はホワイトボードに貼られたマグネットを無意味に整理して、好奇の視線から逃れなければならなかった。りあむちゃんもなにを遠慮しているのか、恋する乙女のようにもじもじとしているだけである。先日のようにストーカーばりの凸をされたほうが、私もえへえへ低頭していればいいだけなのでまだ精神的に楽であった。これでは針の筵である。

 

「ほんとに似てるねえ」と、あかりちゃん。

 

 小声であったが、興奮しているのか、それは私にもしっかり届いてしまっていた。仮にも現役のアイドルが、似ているだけの一般人に興奮しないでいただきたい。隣のあきらちゃんもあかりちゃんの言葉に頷いているようであったが、いつものようにマスクをしているので、表情は判然としなかった。なにを思っているのかも分からないので、私は不安に駆られるばかりであった。5ちゃんねらーならまだしも、アイドルに疎まれているともなれば、私が東尋坊の崖の上で綺麗に脱いだ靴の写真をツイートしてバズを狙う邪悪なメンヘラになるのも時間の問題である。

 ひんひん呻いていると、恵比寿店長によるプロデューサー氏への説明がやっと終わっていた。実際はたったの一、二分であったが、私には船越英一郎主演の火曜サスペンス劇場に匹敵するかのように思われた。

 

「ほら、行きますよ」

「んあ」あきらちゃんに引きずられ、りあむちゃんが呻いた。「もうちょっと拝ませてくれよう」

 

 プロデューサー氏に連れられ、レッスンルームに去っていったユニ募の面々に頭を下げ、私はなにもしていないのに四十九ラウンドを戦ったサム・マクヴェーのように満身創痍になっていた。「こいつはなにをしているんだ」というスタドリさんの視線はまるで澱んだ井戸の底のようであったが、いつも疲れているような目をしているのでさほど大差はなかった。同情されたのか、それとももっと働けという催促なのか、私はスタドリさんから例の得体の知れないスタドリを何本か頂戴した。どうやら相当余っているようであった。

 

「アイドルにあれだけ言われるんなら、ほんとに似ているんだねえ、キミ」と、恵比寿店長はやはり太平楽である。

 

 精神的にどっと疲れ、ふにゃふにゃとクラゲのように仕事をしていた私の前に、ふとプロデューサー氏が戻ってきていた。胡乱な表現をするならば、まるで気配もなかったので、私は「んへ」とマヌケな悲鳴を上げていた。

 若い頃のマギー・スミスを髣髴とさせる、実に神秘的で美しい女性であった。黒のストールがさながらケープコートのようにも思われ、私は「ホグワーツから迷い込んだのかな?」と思った。

 これほどの美貌をした魔法使い氏が有能でないはずがない。私は論理的に確信した。この美しい魔法使い氏を「女狐」と呼んでいる小悪党氏が、母胎に大切なものを色々と忘れてきてしまったのは確実である。きっと小悪党氏は有能な魔法使い氏に嫉妬しているのである。男の嫉妬ほど醜いものはないと、かのマハトマ・ガンディーも『わが非暴力の闘い』に記している。

 

「な、なにか、ご用ですか?」

「あのひとはお元気?」と、魔法使い氏は私に微笑んだ。

「……?」

 

 誰の話かさっぱり分からなかった私は困惑していたが、どうやら小悪党氏の話のようであった。気配も唐突なら、話題も唐突である。なにか凡人ならざる、神の使いか天女のように超然としている女性であった。

 

「いつも元気に毒を吐いていますよ」

「変わらないのね」

 

 私の冗談に、魔法使い氏は鈴を転がすように笑った。かの表現は、まさに彼女の為にあるのかもしれないと私は思った。

 

「あのひと、不器用だから。なにか相談したいことがあったら、気軽に連絡してくださいね」

「あ、これはどうも」

 

 あの小悪党氏を「不器用」の一言で表現してもいいのかはなはだ疑問であったが、地層のようにそれ以外のなにかが脈々と山積していたとしても、有能な魔法使い氏が評価するならきっと不器用なのであるし、私も異論はなかった。

 魔法使い氏から名刺を頂戴した私は、「ほぼ輝子」の名刺を無意味に交換した。

 魔法使い氏はケイトスペードの名刺ケース(余談であるが、私の名刺入れはドン・キホーテで購入したものである)に入れ、「では、二時間後に戻りますので」と、スタジオを去っていった。私は名刺を手に呆然としていたが、恵比寿店長が頭を下げていたので、私もわたわたと頭を下げた。

 

 ●

 

「で、お前はデレデレと女狐の名刺を貰ってきたということか」

「失敬な」と、私は小悪党氏の悪態を一蹴した。「デレデレなどしていません」

「どうだか」

 

 数日後。

 小悪党氏が私のアパートを訪れていた。

 私がほぼ輝子でなければ、不吉な顔をした男二人がむさ苦しい四畳半でむっつりと膝を突き合わせているという地獄のような光景が広がっていたはずである。実情は別として、実質輝子ちゃんと至近距離で会うことができている小悪党氏は、ぜひとも神の悪戯に感謝していただきたい所存である。

 しかしながら、小悪党氏の眉間はしっかりと寄っていたので、微塵も感謝していないのは明白である。

 

「男の匂いをさせるなとは言わんが」小悪党氏は呻いた。「やはり男の匂いしかしないな、この部屋は」

 

 やかましい。

 ほんの数ヶ月前まで私と苦楽をともにしてきた四畳半は、まさに汗と涙と男汁の結晶である。芬々と漂っている男の匂いはさながら怨念であり、お部屋の消臭元や無香空間ごときで到底成仏させられるものではない。

 小悪党氏が私の部屋を訪れるのは、これが何度目だったか。

 芸能プロデューサーがスカウトやプロデュース、マネージメントなどを包括的に担当する職業となったのは、かつての日高舞氏の成功に倣ったとも言われている。しかしながら、よもやお部屋のお掃除までされるとは私も思わなかったが、YouTuberとして部屋も映しているのだから、プロデュースの一環だと小悪党氏が判断したのかもしれない。

 かつてはあの黒井崇男氏とも繋がりがあったと豪語するだけはあるのか、小悪党氏はなにかと「顔」だけは広かった。小悪党氏がどこからか雇ってきた映像エディターさんも、ときどき部屋を出入りするようになってしまったので、綺麗にしないとなあとは思っている。なお、小悪党氏がエディターを雇ったのは、仮にもプロダクションに所属しているタレントが、あまりにも「お粗末」な動画を投稿しているのはいかがなものか、という理由からであった。

 なるほど納得ではあったが、誠に遺憾である。

 それはそれとして、若いタレントにとってネックになるのが男女関係であるが、小悪党氏に懸念されるまでもない。私は、誰にも束縛されない、実に自由な交友関係を築いている。私よりも、小娘の部屋に出入りしている人相の悪い男が、女衒かなにかと誤解されて通報されないかどうかを心配したほうがよいと思われる。

 

「それで、あの女狐と……、ほかに話はしたのか?」

「え、いや、特には……」

 

 名刺を頂戴したが、魔法使い氏がスタジオに戻ってきたのは、私が退勤したあとであった。残念ながら現状ではなにも困っていないので、私もあれから魔法使い氏に連絡はしていなかった。困っているとすれば、今後もユニ募が自主レッスンを定期的にスタジオでするかもしれないという話が恵比寿店長からあったのだが、りあむちゃんがストーキングしているのではないかという疑念も、いまだに払拭できていないという点だけである。

 

「あのずる賢い女狐がわざわざお前に接触してきたのには、なにか理由があるはずだ。お前を餌にして、厄介な夢見りあむを管理しようとしていると俺は睨んでいる」

「はあ」

 

 小悪党はんは随分と頭が回るんどすなあ、と私は思った。

 ずる賢い小悪党氏は、嫉妬に駆られるあまり、妄執に囚われているようであった。魔法使い氏のような美しい女性は、苺のショートケーキのように、ふはふはとして繊細微妙で夢のような美しいもので頭がいっぱいであり、悪知恵や謀略という社会の隅にこびりついているバッチイものとは一切無縁である。妄想に苛まれた小悪党氏が、いつか発狂して山奥で虎か猩々になったときは、魔法使い氏に相談しようと思った。

 

「信じてないな?」

 

 まさか。私はプロデューサー殿を信じておりますとも。

 

「はい」

「コノヤロ」

「あ!」

 

 私の前に江戸かるたのように置かれていた魔法使い氏の名刺を、小悪党氏が奪おうとした。私は必死になって小悪党氏を阻止した。犬も食わぬ激闘の末、無事に名刺を死守した私は、小悪党氏にあっかんべえをした。煮蛸のようになった小悪党氏は実に痛快であった。読者諸兄がご覧になれないのがとても残念である。

 後日。

 小悪党氏にレッスンを増やされた私は、報復として、小悪党氏の革靴の紐を破廉恥な薄桃色にした。小悪党氏も、私の唯一無二の友であるカップヌードルビッグサイズを、クノールカップスープと交換するという卑劣な兵糧攻めを展開した。小悪党氏のネクタイを吉良吉影デザインのものにしたり、私の寝間着のスウェットが破廉恥な薄桃色をしたジェラートピケになっていたりと、私と小悪党氏の自虐的戦争は泥沼の様相を呈していった。

 

 ●

 

 誰にも束縛されない、自由な交友関係の一人が、おつやの方である。

 抜群の社交性と愛嬌で養成コースの中心的な存在になっているおつやの方であるが、食事、特に酒の席にはなぜか誘われていなかった。酒癖が悪いのか、酔っぱらって盛大に粗相をしてしまったとか、酔うと相当な奇行に(はし)ってしまうとか、かなりの酒豪で誰も彼も潰してしまったとかという話で、皆から遠慮されているようであった。吞兵衛であるおつやの方も、男どもから堅苦しいフレンチに誘われるよりは、と好都合に思っているのか、だいたい暇している私と、しばしばとある屋台ラーメンに行っていた。屋台ラーメン「のーちらす」は、いつ営業しているかも判然としない、神出鬼没のラーメン屋であった。

 おつやの方の旧友という店主は、台風に遭った燕の巣のような頭をした、仙人のような男であった。大学を卒業してから世界各国を旅してラーメンを研究してきたというが、世界各国にラーメンが存在するのかはなはだ疑問なので、実に眉唾であった。しかし、味は無類である。店主やおつやの方が大学時代に通っていた、ある屋台ラーメンの味を再現しているという。

 

「猫でダシを取っているって噂があってね」

「まさか」

 

 私はおつやの方の冗談に一笑した。

 おつやの方は手酌している瓶麦酒を水のように吞んでいたが、これでも彼女の酒癖を知っている仙人店主が適度にセーブしているのだという。恐るべき蟒蛇を尻目にしながら、私が夢中でラーメンを啜っていると、おつやの方は「よく食べるでしょう」と仙人店主に微笑んでいた。「いっぱい食べる子も、私は嫌いじゃないがね」と、仙人店主はフォローなのかも分からない。ハムスターのように頬をまんまるにさせながら、私は赤面した。

「のーちらす」は非常にうまいのだが、問題があるとすれば、仙人店主とおつやの方の関係性である。

 宴も酣になると、おつやの方がなにやら妖艶としてきて、場末のラーメン屋台のはずが、男と女の情欲がむんむんしている夜景の美しいバーラウンジのような雰囲気になる。蠱惑的なおつやの方に私は困惑するが、仙人店主は慣れているのか、実に泰然としている。お二人はただの旧友であるはずだが、かつての「愛の劇場」ばりの複雑な恋愛模様を想像した私は、背中がむずむずとして辛抱ならない。蜜月さながらの甘ったるいムードに、私はいつも「にんにくラーメンチャーシュー抜き」「フカヒレチャーシュー大盛り」などとふざけた注文をして、水を差してばかりいる。ひとの恋路を邪魔すると馬にドロップキックされるというが、ここに馬が突撃してきてすべてを滅茶苦茶にしてくれるならば御の字であると私は思っている。結果として、お二人にただただ食欲旺盛と思われるばかりであった。

 なにやらオトナな雰囲気のお二人に萎縮しながら、いつものように私は二杯目のラーメンを黙々と啜っていた。

 

「お隣、よろしいですか」と、渋い男の声。

「もうも」

 

 私はラーメンをもごもごしながら会釈をしたが、箸で掴んでいた麺をつるんとスープに落としてしまった。

 男は、大男氏であった。

 なぜここにと私は思ったが、大男氏も困ったように首を摩っていた。森でばったり少女と遭遇してしまった童謡「森のくまさん」の熊さながらの大男氏は「ご無沙汰しております」と頭を下げてきた。「ど、ども」と、私も恐縮しながら頭を下げたが、ペットショップのオウムのほうがよほど上等な返事をするはずである。

「ラーメン大盛りに味玉、それとチャーシュー丼を」と注文して、大男氏はのっしりと座った。常連の風格が漂っていた。大男氏は、スケジュール帳になにか几帳面にメモをした。スカウトしているアイドルの原石、穴場のおいしい飯屋、芸能界のあれやこれやがびっしりと羅列されているのかもしれないと、私は妄想していた。

 

「このあと……、」スケジュール帳片手にじっと座っていた大男氏が、ふと口にした。「お時間よろしいですか?」

「ん……」

 

 大男氏の言葉に、どう返事をすればいいのか、私には分からなかった。私は大量の麺を箸で掴んだままだったので、呑気にずびずびと啜ってしまった。動揺していたのである。

 酔っぱらって潰れていたおつやの方が、私の隣で「ふが」と呻いた。



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