そんなことは、分かっているんだ。 (uparu)
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1話

俺には、欲しいものがあった。

けれどそれを欲しがっていた自分はどこへ行ってしまったのか。

いつしか、そんな自分は居なくなっていた。

 

 

 

時は高校2年、文化祭最終日。

 

知らぬ間に文化祭実行委員にされていた俺は、祭りの終わった後の体育館で黙々と後片付けの作業に従事していた。もちろん一人で、だ。色々面倒ではあったが、ようやくそれも終わる。先生のお眼鏡には適いましたかね?まったく…要所要所で絡んでくるんだよな。俺に気を遣ってくれているのが分かるぶんタチが悪い。突き離そうとすると引いていく。こんな俺だけどさすがに、キレて学校を辞めるという選択には躊躇いがある。何せ、家族が悲しむからな。……ほんと、引き際がとんでもなく上手いんだよなあ、あの先生……。

 

黙々と仕事に励む俺の周囲からはヒソヒソと、しかしハッキリと。四方八方から俺への罵詈雑言が耳に届く。別に突き刺さりはしない。心は微塵も動かない。そんなものはもう慣れた。

 

だから、不意に話しかけてきた先生の言葉に驚いて、

つい、表情を崩してしまった。ほんの一瞬だけだったけど。

 

 

「比企谷……君が傷つくことを痛ましく思う人が居ることを忘れないでほしい。」

 

 

悲しそうに、辛そうに。どこか、諦めたように。

 

そんな短い言葉を俺に擦り付ける。その手を俺の頭にぽん、と、優しく置いて。

 

 

……本当に、卑怯だ。

 

 

俺のことをを心底気遣う声音を、頭に残る優しい感触を。

否応なしに感じてしまった。

 

ありがとうございます、先生。心配してくれて。本当に心底、心配してくれて。

家族以外の人間からこんなことをされたことがあっただろうか。

 

……あいつだけだよな。俺に優しい他人なんて。それも、もう……。

 

俺は、教師から嘘の無い真っ直ぐな言葉を掛けられたことがない。上辺だけの言葉なら散々聞かされてきた。本当にウンザリするほどに。他の奴には分からなくとも、俺にはそんなものが通用するわけがなかった。

 

だけど、先生のその言葉と行動に込められた想いは、真っ直ぐに俺を貫いた。

 

俺は家族と、もう一人。それ以外の人間とは、俺が大切に思う人意外とは、『必要なとき以外、一切の言葉を発しない』。そう、一切、だ。話すということをしないのだ。

……この時の俺は頭に置かれた先生の手を乱暴に払いのけ、間髪入れず先生の言葉を否定した。

 

「それが事実だとしても、俺がそんなこと望むと思いますか?それにそもそも、俺みたいなのに同情する人間なんているわけないじゃないですか。もしされても迷惑なだけですよ、先生。そんなんだから結婚できないんじゃないですか?もっと現実見たほうがいいですよ。もっとも、周りの連中はよーく分かってるみたいですがね。俺へ向けられてる言葉、先生にも聞こえてたでしょ?」

 

俺は周りの人間に聞こえるように、ちょっと大きな声でそう言い放った。

静まり返る体育館。直後聞こえてくる、遠慮のない罵声。

 

利用させてもらいましたよ、先生。

先生は走り去っていった。涙を流しながら……。

 

ごめん。本当にごめんなさい、先生。これだけは……これだけは言いたくなかった。結婚のことだけは。ホントだよ?今回は、らしくなく動揺してしまったな…。ま、相手に見る目が無いんですよ先生。そのまま強く生きてください。…あ、それじゃ結婚できないか。強すぎるんだわ先生。もう、同性と結婚すれば?めっちゃモテてるみたいだし。今の時代なら全然アリでしょ。

 

先生は、優しすぎるんですよ。

 

まあとにかく、先生に俺の表情の変化を気付かれていなければいいが。動揺で表情を動かされたのは久しぶりだな。

 

しかし…先生にバレてしまった。先生のあの言葉と行動は、先生なりに確信に近いものを得たからだ。やっぱり甘かった。あの時、相模を体育館に連れ戻すために葉山を使ったのは間違いだった。いつも通り自分だけでやるべきだったんだ。俺の目的は相模を体育館に戻し、文化祭実行委員長として閉会挨拶の舞台にに立たせることだった。葉山が屋上に現れたとき、俺がラクをする選択肢を思いついてしまったんだ。葉山に相模を連れて行かせよう、と。

 

………さっさと、終わらせたかったんだ。

 

その結果俺の目論見通り相模は体育館に戻り、文化祭は恙なく終了する運びとなったわけだが。やり方を失敗してしまった。まあ、俺以外のヤツが取り返しのつかないほどに傷つかないのならば、どうでも……。

 

「やっぱり君はどうしようもない最低な奴なんだな。もう一切、俺のクラスメイトに関わらないでくれないか。迷惑なんだよ。」

 

最初からそんな気はねーよ葉山。安心しろ。…てかお前、俺とクラス一緒だろ?「みんなの葉山くん」が、俺にクラスから完全に孤立しろってか?そんな言葉も吐けるんだな、お前。ちょっとだけ見直したわ。

ところで葉山。俺、クラスでもどこでも最初から孤立してるし関わってもねぇと思うんだが?上手くやったはずだったんだがなあ……はぁ。

 

……あの先生、どんだけ俺を贔屓目で見たら気が済むんだよ。普通に考えたら俺のやったことなんてただの鬼畜の所業じゃねーか……。

しかし、変に勘ぐられるような隙を俺から先生に与えてしまったのも事実。

 

やはり、俺の世界に余計な人間を入れるもんじゃないな。ほんと、まったく……。

 

まあ、俺のことで先生がそんな突拍子もない思考に飛ぶに至ったのは、俺のことを理解しようと踏み込んできた先生だからこそ、なんだろう。あの先生は俺を理解しようとしている。そんな変人、そうそう居るわけがないのに。事実そんな人は今まで、家族しか居なかったのだから。

あともうひとり居るか。いやもう、居た、だな……。だからもう家族だけか。

 

そうだ。忘れもしない、中学校の入学式の前日の夜。忘れるわけがない。あの時は俺が小学校でいじめられていたのが母さんにバレて、泣かせてしまったんだ。

 

「何かあったら母さんに言ってね、八幡。お願い、お願いだから…っ……!」

 

……いや。ずっと前からバレていたんだ。当たり前だよな。小学生に隠し通せるもんじゃなかった。しょっちゅう傷だらけで帰ってきてたし、ランドセルは壊されてボロボロだった。だからあの日入学する前の、俺を取り巻く環境が変わるあのタイミングで、母さんは俺にあんなことを言ったんだ。その時の俺は…全力で逃げた。自分の部屋に閉じ籠った。頭の中が真っ白になって、どうしていいか分からなかったから。

今でも本当に情けない。動揺した自分が。

大好きな母さんを、あれほどまでに心配させてしまっていた自分が。

 

別に俺は、両親に愛されていないわけでも、小町に蔑ろにされているわけでもない。むしろ、仕事で多忙な両親はそれでも俺と小町に寂しい思いをさせないようにと昔からかなり気にかけてくれているし、小町も俺のことを心底慕ってくれている。ちょっとブラコンすぎるのでは?と、心配してしまう程度には。

 

だけど母さん。俺が通う中学校は公立校だったんだ。今まで俺を虐めてきた奴らが他のところから来た連中と一緒になって俺を虐めるようになるだけだ。いじめが激化こそすれ、決して治まることなんてない。何よりも卒業する前から、いじめてくる奴らが散々俺にそんなことを言ってきてたしな。

 

オヤジも分かっていたんだと思う。それは俺の小学校最後の冬休みのこと。オヤジがそれとなく俺に、転校を勧めてきたことがあった。もうすぐ転勤の話があるんだが俺と一緒に来るか?って。本当にオヤジが希望すれば転勤できたんだろう。オヤジもいいタイミングだと思ったんだろうな。それは小町と俺にではなく、俺だけに向けた提案だった。そして。

 

「八幡。苦しい時は頼っていいんだ。むしろ頼れ。それが家族ってもんだぞ。」

 

これはその後続けて、オヤジが俺に掛けてくれたもうひとつの言葉。

あのとき俺へのいじめがあれほど凄惨なものだと分かっていたなら、オヤジは引き摺ってでも俺を転校させたんだろうな……。

その言葉を聞いた俺は、茶化して誤魔化した。

 

「小町と俺を離れ離れにさせる気か!この鬼畜!」

 

……と。凄まじく動揺していたことを覚えている。

道化を演じていなければ俺は、泣いてしまっていたかもしれない。情けなくて悔しくて、どうして大好きなオヤジにこんな思いをさせているんだ、何が悪かったんだと、頭の中ではぐるぐると思考が空回りしていた。

 

オヤジの提案は本当に嬉しかった。その魅力的な提案に靡きそうにもなった。

だが小町は筋金入りのブラコンだ。ヤバい、あれはヤバい。俺が居なくなったらどうなるか分かったもんじゃない。それに俺は、今の学校が楽しい楽しいと、毎日ニコニコキラキラしながら俺や家族と話す可愛い小町が大好きなんだ。愛する小町を置いてはいけない。俺も大概なヤバいシスコンだった。

 

先生。先生の言葉も本当に本当に、嬉しかったんですよ。

 

俺が傷つくことを痛ましく思う人、か……。

そう…ですね。その通りだよ。平塚先生。

 

 

そんなことは、分かっているんだ。

 

 

俺が何年、いじめを受けてきたと思ってるんだ。

そんなことは、頭と体に深く深く刻み込んでいるんだ。

 

もし俺を愛してくれる家族が傷ついたら。

それに、あいつが傷ついたら。

俺は耐えがたいほどに痛ましく思うに決まってるじゃないか。

 

俺の数少ない大好きなものくらい、大事にさせてくれよ。

それがこんな俺をずっとずっと、支えてくれているんだよ……。

 

何年、両親を、小町を、欺いてきたと思ってる?

俺がガキだった所為で隠しきれてはいなかったが高校生になった今では、それなりに上手くやっているつもりだ。いま家族の目には、俺が日々楽し気に過ごす様子が映っているはずだ。もうガキなんかじゃない。失敗はしない。もう、絶対に…。

 

俺の所為で大好きな人たちを心配させたくない。泣かせたくない。

笑っていてほしいんだ。ずっと。

 

そのためならなんだって、いつまでだって、我慢してやる。

だから何が何でも、大切な人達に気付かれないように、心配させないように。

何度か失敗したとはいえ、その一心で必死になって地獄のような日々を過ごしてきた小学校時代。

壊れた椅子、画鋲が刺さったボロボロの上履き。そういうものを小町に見せないように、学校では俺のせいで小町がいじめられないように。小町やその友達、周囲の子たちには絶対に弱い自分を見せないように。細心の注意を払ってきた。必死に取り繕って、痛みを我慢して。

 

這い上がることのない地獄の底で過ごした、中学校時代。

小学校での俺へのいじめ発覚。それ以降、奴らはいじめのあからさまな証拠を残すことを恐れるようになった。巧みに隠蔽する。教師連中が、俺に対するいじめを見過ごせないことになるような決定的な証拠は残さない。本当に狡賢い。まぁこの言葉は今の俺が言えたもんじゃないが…。それに、その点は安心もできた。いじめが発覚すれば親にも小町にもバレていたからな。

家でも学校でも、両親にも、小町にも良い兄であり続ける。俺はそうあらなければならない。そのために極力、家の外では他人の目に触れないようにと…そして、悪い噂なんて吹き飛ばせるよう強くあるようにと、必死に耐え忍んできた。死ぬことは絶対に許されない。家族が悲しむからな。小町なんて、わたしも死ぬなんて言い出しかねないし……。本当に心配になってきた。あのブラコンはダメだ。早くなんとかしないと。

それでも小、中学校時代は同じ教室で日々過ごすクラスメイトの人間、もっと言えば同じフロアにいる同学年の人間にまでも、俺がいじめを受けていることは公然の秘密と化していた。当然だ。俺は幼稚園の頃からずっと、何をしても目立つ同年代トップカーストの奴らからいじめを受けていたのだから。そのメンバーは多少変わっていったが、俺の立場は何も変わらなかった。そんな状況に長く置かれていた俺だったが。

 

次第に俺は、俺ではない何かに変わっていったのだと思う。

 

見て見ぬふりをするクラスメイト。

いじめは無いと言い張る教師、大人達。

 

 

小学校で、俺は諦めた。

 

中学校で、俺は表情を消した。

 

そして高校で俺は、話すことを止める。もう、止めよう……。

 

 

小学校では、助けてくれと親や教師に泣き縋った。

親は全力で助けてくれた。教師も話を聞いてくれた。

両親は教師に、いじめの加害者たちに厳しい言葉を投げ付け、必死に俺を守ろうとしてくれた。

 

でも、いつも側に居てくれるわけではない親には、どうしようもない限界がある。

一時的にいじめは止まる。それも初めのうちだけだった。また、すぐに始まる。

 

もっと酷くなって。

 

エスカレートするいじめ。教師は俺のことを見なくなった。

いつしか俺は、頼ることをやめた。

もう、家族にも頼れなかった。頼りたくなかった。

俺が唯一大切にしている人達を悲しませただけだったことに気付いたから。

 

 

俺は、諦めた。

 

 

中学校では、加害者達は俺が顔に恐怖や絶望の色を浮かべるたび、喜々として攻撃してきた。怖い。本当に怖い。今でも。暴力よりも、あの笑顔が本当に怖かった。

……本当にあれは、人間の顔だったのか?

 

俺が怖がっている所為なのか?だからあいつらは、あんな顔になるのか?

だったら俺は、反応しないようにしよう。あんな恐ろしい顔はもう、見たくない。

恐怖で、おかしくなってしまいそうだった。

 

 

俺は表情を消した。

 

 

 

 

 

 

……話すことは、やがて俺という人間を理解されることに繋がっていく。

俺が必死に隠して深い深い奥底にしまい込んだものを、暴かれてしまう。

事実今日のように、先生のような変人に心配されることになった。

……それと、あいつのように。

 

それは今後も、俺にも大切なものが増える可能性があることを意味する。

理解されてしまったら。同情されてしまったら。俺の味方になってしまったら。

そんな人は、あいつのように大切にしたいと思ってしまうじゃないか。

 

もう要らないんだ。大切なものは。これ以上は欲しくないんだ……。

 

傷つけてしまうから。泣かせてしまうから。

だったら、そんなものは最初から無いほうがいい。

そうだ。無い方が良かったんだ。分かっていたのに……。

 

 

だから、もうあいつとも話さない。

 

……あいつをこれ以上、傷つけないためにも。

 

 

 

高校2年の文化祭が終わった、その3日後。

 

 

俺は、話すことをやめた。

 

 

 

 

 




読んで頂き、ありがとうございました。

前書き後書きはあまり書きたくないですが、この場だけ失礼します。今後予告なく各話の加筆修正をすることがあります。申し訳ありません。誤字脱字の修正はもとより、細かい描写の加筆修正、余計だなと思う個所を削るといったことがあるかと思います。物語の大筋を壊したり改変したりすることはありません。


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2話

俺は大切な人を傷つけたくない。

 

俺が傷つくことで大切な人も傷つく。逆もまた然り。何よりも大切な人の為に、今の状況は絶対に避けなければならない事態だったはずだ。

 

 

上手くやってきた筈だった。俺はある事情により入学式に出ることは出来ず初登校が3か月ほど遅れてしまったが、やがて学校に通えるようになってしばらくして、俺はこの総武高校には俺がいじめられていたことを知る人間がひとりも居ないようであることを知った。この事実を知った俺は、生まれて初めて本当に運が良かったと、こんな幸運があってもいいのかと、学校で表情を崩してしまったのを覚えている。

 

それ以来、俺は手に入れたその日常を絶対に手放さないように必死に努力した。孤立はするが、いじめの種を自ら蒔かないように。他人に踏み込ませないように。そうしてただただ同じ毎日同じ日常を繰り返すように、目立たないように、自分を戒めながら日々を過ごしてきた。そうしてようやく俺は人生で初めて、平穏な学校生活を過ごしていけるようになっていた。

 

悪くない日々だった。学校に敵が居ないというのは本当に幸せなことだった。家族と過ごしていても何も隠さなくてよかった。両親や小町の前では本当の自分で接することができているんだと、そんな恥ずかしいことまで思ってしまっていた。俺にとっては天国のような日々だった。学校でも、徐々にそれほど警戒もしなくていいんだと思い始めた。こんなにずっとずっと気を張らなくても良いのだと。家以外では絶対に休まることがなかった俺だったが、ここでも休んでいいんだと、勘違いしてしまった。

 

だから、考えてしまった。もう、大丈夫なんじゃないか、と。平穏な日常を過ごすうち、小学校、中学校では絶望に染められていた俺の頭の中だったがこの高校では、別のことを考える余裕が生まれてしまったから。俺の深い深い奥底にあったものを思い出してしまったから。俺は何も変わっていない、どうしようもないガキだったんだ。

 

 

だから、手を伸ばしてしまった。自分が、壊れてしまうとも知らずに。

 

居なくなってしまったいつかの俺が、希ったものへ。

 

 

  

 

 

 

文化祭が終わってから最初の登校日。

 

 

登校してすぐさまステルスヒッキーを発動しつつ教室に入った俺は、流れるように自分の机に突っ伏して寝る体勢に入った。なんてことはない、普段の俺のルーティンだ。よし。いつも通り空気になる。俺は空気だ、空気……。

しかし今までは完璧であった俺の渾身の擬態はこの日この瞬間から、空しいものとなった。俺がその一連の動作を終えるまで、朝の喧騒がぴたりと止んでいたのだ。イヤな予感がした。いや、確信か。クラス内は不気味なほどに静まり返っていた。

 

それも、長くは続かなかった。

 

静寂を切り裂き聞こえてきたのは、俺に対する容赦の無い誹謗中傷。…まあ、そうだよな。文化祭の片付けのときに体育館で、先生を傷つけてまで俺に止めを刺したのは、他ならぬ俺自身なのだから。これでまたさらに、周囲は俺に近づかなくなるだろう。俺にとって大切な人ができるのを、そういう人が傷ついてしまうことを、それを阻止できたんだ。もう誰も俺に、踏み込ませてはならない。

  

そんなことはもうとっくに、分かっていたはずだったのに。 

 

しかし、あっけないもんだなあ……俺の平和な日常の終わりは。

俺は机に突っ伏したまま、罵詈雑言をBGMのように聞き流しながら溜息を吐いた。

 

また、あの地獄のような日々が始まる。

 

俺はそれを自覚し、机に突っ伏しながらも一気に警戒度を上げた。手出しをしてきそうな奴は……居ないな。とりあえず大丈夫か。懐かしい感覚だ。

 

………?これから俺は限りなく近い未来に確実に酷い目に遭うというのに、懐かしいだなんて感傷に浸れる余裕があるんだな……。もう長いこと、俺は身体への暴行による痛みを感じていない。早くまた慣れなければな。あとは…表情にも気を付けよう。恐怖や絶望を、絶対に表情に出してはいけない。出してしまうと、あいつらはそれに呼応するかのように必ずあの表情になる。あれは殴られるより怖いからな。あの、俺をいじめてくる奴らの笑顔は。 

 

他人事のように、達観したようにそんなことを考えていた。近いうちに確実に自分の身に降りかかる恐ろしい事態のことを考えていれば、動揺して取り乱したり、呼吸が速くなったりするのが普通なんだろうが……。なぜ俺は落ち着いていられるんだろう。どう考えても異常だ。客観的になりすぎている。本当に他人事のようだ。久しぶりのこの状況に遭って、俺は壊れてしまったのだろうか……?

 

聞こえてくる俺への中傷には、体育館の時のようなヒソヒソとした遠慮はもう微塵も無かった。今はまだ言葉だけで留まっているが、無表情で、自分から人と関わろうとせず、何を考えているか分からない俺のことを警戒しているのだろう。直接俺に手を出してくるような奴は今は居ないようだ。まあ、時間の問題だろうけどな…。

 

相模と平塚先生を傷つけてしまった。それと……あいつも。何があっても傷つけたくないだなんて、出来もしないことをいつまでやろうとしてたんだ、何人傷つければ気が済むんだ。何様のつもりだったんだ、俺は。だから人と関わっちゃいけないと、ずっとずっと、そうやってきたのに。 

何もかも台無しだ。だからと言って、相模や葉山の所為になんてできない。なにより、先生やあいつとの出会いを、過ごした日々を、俺は否定したくない。それがそもそも俺の考えとは相反するものなんだけど、何故かそれだけはしたくなかった。もう、自覚してしまっているから。

 

それを否定してしまったら。俺は……。

 

だけど、もう……先生とも、あいつとも、関わらないようにしなければな。ここは家とは違う。いじめをする人間と、俺が大切にしたいと思ってしまった人間が同じ空間に居る。俺が傷つくことを、そんな人たちに絶対に隠し通せるわけがない場所なんだ。この学校と言うところは。

それに先生は大丈夫だとしても、あいつは俺と一緒にいるところを他の奴に見られたら、あいつにまで危険が及ぶ。それだけは絶対に避けなければいけない。

 

 

仕方ない。全部、俺が悪いんだ。これは罰なんだ。

 

 

……ああ、そうか。さっきの感傷は、俺がこの状況を俺への罰だと定義付けたからだ。俺は罰を受けて許されたいのか。それを願っているから落ち着いて居られたのか。

 

……そんなことしたって、無駄なのに。無駄なんてもんじゃない。いじめられる俺を見ても、罪悪感を抱いた俺を見ても、諦めてしまった俺を見ても、俺の色の無い表情を見ても、あいつは傷つく。何をしたって、どうしたって。やっぱり傷つけてしまうだけじゃないか。

家族にだってそうだっただろ。俺は必死に隠して。それでも隠しきれずに何度も何度も傷つけて。平和な日常に甘えすぎて、溺れすぎて。そんなことも忘れてしまっていたのか……。

 

 

違う。忘れていたわけじゃない。甘えたんだ。

 

 

俺は勝手に、土足であいつに踏み込んだんだ。踏み躙ったんだ。あいつなら分かってくれると勝手に決めつけて。押し付けて。あいつは俺を理解したいと、傷つけないよう、優しく裸足で踏み込んでくれたのに。そうして、俺のことをたくさん知ってくれたのに。どこまであいつに甘えてるんだ。俺は。

 

そうだ。勝手に、あいつの側に俺の居場所を作ろうとしてたんだ。

あいつの隣を、俺が偽りのない俺のままで居られる場所にしたかったんだ。 

 

俺の居場所をあいつの側に新しく作るのではなく。

あいつの世界を壊しながら、あいつの側に泥だらけの俺の居場所を作ろうとしたんだ。 

 

俺と同じ場所に、引きずり込みたかったんだ。あいつのことを。でもあいつは家族じゃない。あいつはそんなこと望んでいるかなんて、分かってもいなかったのに。家族なら、引きずられても引きずり込んでも笑っていられる。なのに確認もしていないのに勝手に分かってくれていると思い込んで、やり方を間違えて。俺もあいつも傷つくようなことをして。

 

これはお互いが傷つけあっているんじゃない。分かり合ってとか、そんな優しい傷じゃないんだ。俺の傷を、あいつにも擦り付けただけだ。俺は取り返しのつかないことをしたんだ。挙句の果てに、俺が登るのではなく、あいつに俺のところまで降りてくることを望むだなんて。なんて浅ましくて傲慢で身勝手で、自己中心的な考えだろう。どうしようもないバカだ。気持ち悪くて仕方がない。 

 

あいつはもう、俺の中で家族と同じくらい大切なものになってしまっていたのに。

守りたかったのに。俺が初めて家族以外に本当に大切にしたいと思ったのに。

あいつもきっと、俺のことを大切に想ってくれていたのに。 

俺があいつを、どうしようもなく一方的に傷つけていただけじゃないか。 

土足で踏み込んでおいて、何が、俺が傷つくことであいつが傷つくだ。ふざけんな……!

 

そんなことは分かっているんだなんて、嘘だった。

  

何にもわかっちゃいなかったんだ。本当に、なにも。   

 

 

俺は勢いよく立ち上がった。教室を飛び出す。 

 

背中から、俺への罵声が聞こえる。いつの間にか居た先生が、俺を呼び止める声がする。

 

関係無い。ひたすら走る。表情が歪む。ただただ、独りになりたかった。

 

 

俺は俺の奥底から湧き上がる感情を、抑えつけることが出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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3話

教室を飛び出した俺は、いつの間にか屋上に居た。

あいつのお気に入りの場所に。無意識に足が向いてしまったのか。 

 

俺はもっと強くならなければ。逃げ出してる場合じゃねぇだろ……。

間違えてしまった俺が、取り返しのつかないことをしてしまった俺が、あいつのことを土足で踏み躙ってしまった俺が逃げてどうする。全部俺の所為なんだ。あいつのためなら俺は何だって耐えなきゃならないんだ。大切な家族に対しての俺と、同じように。

 

もう絶対に間違えてはいけない。きちんと問い直さなければ。俺の答えを。

……ここは学校だ。家とは違い、俺とあいつと俺の敵が同じ場所に居る。敵は徒党を組んで俺に迫ってくる。家族への対応とは全く違う対応を迫られる。

家では隠し通すだけでよかった。小、中学校のとき俺がいじめを受けていたことは家族も知っている。でも学校でどんなに苦しくとも、学校でのその姿を家族に見られることは無かった。

小学校のとき、家で俺の怪我や壊された物などが見つかったりして何度か失敗はしたが、俺が諦めてしまってからは、家では俺が傷ついている素振りを見せることで家族を傷つけるようなことは少なかった……はずだ。あれ以来、俺は家族を傷つけないよう必死で隠していたのだから。

そして中学の時はある理由から、あからさまな怪我も、物を壊されるようなこともほぼ無かった。俺へのいじめが無くなったわけでは無かったが。

そして高校に入ってからはそもそもいじめを受けていない。高校からは、俺の所為で家族を傷つけるようなことは無かったと思っている。高校に入ってからも他人を拒絶する俺や、学校では表情の無い俺を、家族は知らないのだから。

 

そしてあいつも、俺がいじめられていた過去を知っている。俺が頑なに他人を拒絶している理由も、表情を消している理由も。そういう点においては、実際に学校での俺を見て知っているあいつは、直接学校での俺を見たことが無い家族よりも俺のことを知っていると思う。

それでも、それは本当の理由ではない。それは俺がいじめから逃れたい、いじめに遭いたくないからという理由だ。もうひとつのもっと大きな理由は、家族にも、あいつにも言っていない。

 

俺にとって俺よりも大切な人を、俺が傷つけてしまうような存在をこれ以上増やさないため。そのために俺は俺に踏み込んでくる人間を何よりも拒絶している、ということは。

 

俺が説明した通りにあいつが受け取っているのならば、俺という人間はいじめによるトラウマの所為で人付き合いを極端に恐れてしまっている、という認識が全てだろう。

あいつには友達も居る。その人たちの目もある。あいつが俺がいじめられている現場を目撃せずとも、俺がいじめを受けることをあいつに絶対に隠し通せるわけがない。俺が何をしたって、何をされたってあいつを傷つける。それでも、俺の所為であいつをいじめに巻き込むことだけは絶対に避けなければならない。あいつに取り返しのつかない傷を負わせるわけにはいかない。

 

俺が受けたような取り返しのつかない傷を。決して消えることのない傷を。

 

ならば俺の取れる手段は、ただひとつ。

あいつのことを徹底的に突き放し、俺との関係を完全に無くす。

 

俺があいつを拒絶し傷つけることで、悪意によってあいつに消えない傷が付くことを回避する。

それは俺にとって耐え難い苦痛だ。大切な人を傷つけるという選択。絶対にやりたくなかった。

けれど俺は、やらなければならない。あいつの、この先の未来のために。

そこに俺は必要無い。あいつには、心配してくれる人達がたくさん居る。俺が家族の存在に何度も救われたように、あいつにも家族が、友達が居る。あいつのことはその人たちに任せよう。

 

辿り着いた答えは、あいつに出会った時と変わらない。

けれど、決定的に違う……。本当に俺はどうしようもないバカだ……。

 

今度こそ俺は、あいつを傷つける。

 

俺を救ってくれたあいつのあの笑顔を、この先ずっと曇らせることがないように。

何度問い直しても俺の答えは変わらない。全部バカな俺の所為。

そして、現実は甘くない。俺が嫌と言うほど経験してきたことだ。

 

 

そうだ。だからこれで良いはずなんだ、これで……。

 

 

俺は決意を新たにし、寝転んで空を見上げる。今日は良い天気だ。空が高い。

薄くたなびく白い雲が映える。

あいつが好きな、ここから見える空。俺はそこに向かって手を伸ばす。

 

その秋の空はどこまでも高く、浮かぶ雲はどこまでも優しげで。

 

 

その空はどこまでもどこまでも、遠かった。

 

   

 

 

 

 

「はぁ……。」

 

空を見てたら少しだけ落ち着いてきた。

 

………てか考えてみたらさっきの俺、クラスでの罵詈雑言に耐えられず逃げ出したみたいになってません?あんなのそよ風なのに。弱味を見せたと勘違いされていじめが加速したらどうすんだ?完全にやっちまったのでは…?平塚先生も居たような……なんか俺のこと呼んでた気がする。よりによって先生の授業だったとは。確実に後で呼び出されるよな。今日はさっさと逃げよう。鞄は教室に放置。いたずらされても仕方無いということで。このまま逃げようそうしよう。

 

 

……………どうしよう。

 

 

どっ、どどどどうすれば、どうすんだよオレ!どうすんのこの先?動揺してる場合じゃねえのに!

よく考えなくてもメチャクチャ恥ずかしいことしてんじゃねーか!なんでいきなり走って逃げちゃったの?そうだよ!連れ戻すのをあの人に頼まれたとはいえ、そのやり方を間違えて相模に酷いこと言った!だってあの時はそうしないと後で話しかけられたりして困ると思ったんだもん!相模が俺の言葉で傷ついてる姿を見てるのが辛くなっちゃったんだもん!体育館では自分の為に先生を利用して傷つけるようなことも言っちゃったんだよ?2人とも同じクラスに居るんだよ?先生、担任だよ?なのに今さらどこからどう見たって罵詈雑言に耐えられなくなって逃げたとしか考えられないマネを……バカじゃねーの?バーカバーカ!メチャクチャ目立ってんじゃねーか!ステルスヒッキー(笑)だよ!死にたい!死にたいよおおぉ!学校辞めたいよおおぉ!辞めさせてくれええぇ!

……いや、死なないけどね?「お兄ちゃん死んじゃうの?じゃあ小町も死んじゃう!」とか言いそうで怖いし。死んでも学校辞めても親が悲しむし。「じゃあ小町も学校辞めるからずっと一緒に家に居よ?お兄ちゃん!」とか本気で言いそうで怖いし。……あれ?それ最高じゃね?ずっと小町と一緒とか天国だな!よし、辞めよう。

………いや、や、辞めないけどね?トリップしてたわ。退学届け貰いに行こうとしてたわ。屋上の扉のノブに手を掛けてたわ。スーパーブラコン恐るべし。スーパーブラコンって性能良さそうなPCみたいだな。マイナスイオンとか出てそう。千葉の兄妹にツンは不要。ただひたすらにデレるのみ。ふっ……勝った。

 

俺は自分のテンションがぶっ壊れていることを、何となく自覚していた。学校でこんなことになったのは当然初めてのことだ。いじめを受けていなかった高校での平和な年月は、ここまで俺を弱くしてしまっていたのか……。学校に居る間、常に気を張り警戒していた小中学校の頃から一変した、安息の日々。俺にとっては文字通り、世界が変わったくらいの変化だ。俺は表情こそ取り繕ってはいたが、敵の居ないその環境はいつの間にか俺の強固で揺るぎなかった仮面を内側から、薄っぺらいものに変えてしまっていたようだ。家での俺との境界が近付き、だから学校での俺に感情の爆発なんてことが起き、さらには公衆の面前で走って逃げるなんてことまでやってしまったのか……?

 

いや、違うな。それこそ取り繕っている。この思考を否定する俺が居る。だけどそれは……。

俺はその思考を頭から追い出した。これ以上、考えてはいけない……。

 

……ただでさえ俺は今、あいつのことで精一杯だ。そこにきて恥ずかしすぎる今の俺の立場を自覚してしまった。脳がオーバーヒートしてしまったかのように、何も考えられなくなってしまっている……そういうことなんだ。

今の俺は、家やあいつと2人っきりで居る時の、素の俺だ。学校での俺がいつもしているはずの、表情を消すなんてことは出来ていないことを自覚している。こんなところを学校の誰かに見られたら終わりだ。黒歴史現在進行形の俺を。でもしばらく学校八幡モードには戻せません。時間を下さい。ちなみに俺は今、屋上の日の当たらない冷たい壁際で俯いて体育座りをしています。これなら顔を見られず安心。俺に相応しい場所だ。俺はゴミだゴミいちゃんだ……。産まれてきてごめんなさい。…嘘ですごめんなさい父ちゃん母ちゃん小町。 

 

はぁ……。今日の晩御飯、何かなあ。

小町にハンバーグ、作ってもらおうかな……。 そういや、あいつもハンバーグ好きって言ってたな。お子様かよ!……あ、俺もだった。

はぁ。現実逃避、楽しいな……。

 

あいつがこの時間に居る場所は決まっている。ちょっと屋上借りてるよ。ごめんな。

ほんとに、ごめん。 

もう2人でここに来れないんだなぁ。ダメだ。また泣きそう……。

 

 

「アンタ……大丈夫?」

 

 

不意に頭の上から降る声。反射的に顔を上げる。

死角になっていた給水塔の上、そこに一人の女子生徒が居た。

 

「アンタ、なんかさっき泣い……ね、寝っ転がったり赤くなったり頭抱えてゴロゴロしたり、ニヤニヤした後校舎に戻るのかと思ったら戻ってきてシュンとしたりしてたけど…大丈夫?」

 

「……………。」

 

「………。ちょっとアンタ、ホントに大丈夫なの?もしかして、頭打ったりしてない?」

 

梯子を使って給水塔から降りてくる彼女。……あ、パンツ見えた。黒!レース!

 

「ねえ、聞こえてんの?……保健室、行く?」

 

彼女の気遣いを含んだ声音に反応した俺は、ようやく再起動した。

 

「くろのれーす……あ、いやその……ほ、ほ、ほけんしつはちょっと」

 

再起動に失敗しました。こりゃ買い替えだな。誰かこの中古ノートPC、買ってくれないかな……。名前はHK-80000。通称ヒッキーハチマン。すぐフリーズするしカメラレンズ曇ってるし音もまともに出ないけど。バッテリーもすぐ切れるからお家で常時電源接続推奨。おまけにキモいし。キモいノートPC、そんなのあんのかな。需要あるかもなあ。ストレス解消に破壊するとか。フヒ。

 

「は?くろ……?何言ってんの?ホントに頭打ったの?もういいからホラ、行くよ!」

 

本日2度目の現実逃避はネガティブすぎて俺は脱力していた。

そのせいで俺は、何の抵抗も出来ずにいきなり彼女に手を引かれてしまった。

 

「ちょ……」

 

「いいから早く!やっぱりおかしいよアンタ。ほんとに大丈夫なの?」

 

彼女になすがままにされ、屋上から校舎に戻り保健室に連れて行かれる俺だった。はあ……。なんか知らんけど心配かけたのか。ほんと、普段ならありえねぇわ……ほんと弱ってるんだな。俺。

 

「フラフラすんな!ちゃんと歩きな!まったく……。なにがあったらああなるのさ……ずっと居られたらあたしが降りられないでしょ。その上あんな苦しそうな顔あたしに見せるし。見てしまったのはあたしだけどさ。まったくいい迷惑だよ。はぁ……」

 

何かブツブツ言いながら俺の腕をグイグイ引っ張っていく謎のお姉さん。怒ってますね、これ。それにしてもメチャクチャ握力強いなこの人。何なの?類人猿なの?逃げたいんですけど?痛いんですけど?俺は抗議の視線を向けた。

 

「アンタ今、失礼なこと考えてたでしょ」

 

睨まれた。目元に泣きぼくろ。わー美人さんだなー……めっちゃコワい。しかもエスパーだった。あと1秒目を合わせてたら確実に殺られていた。ダメだ、絶対に逆らえない。逆らったら殺される……。

 

てか、このタイミングでか……いやホントにまだ何にも考えてないんです……。

保健室だけは、保健室だけはダメなんです。絶対に絶対にダメなんです……。

 

「あ、ありがとうございましゅ……」

 

そんな願いも空しく、あれよあれよという間に保健室のベッドに寝かされた俺。なんだこれ。ほんと、なんだこれ。

 

「いいよ気にしないで。………お大事に。じゃ、ごゆっくり」

 

彼女はそう言って保健室を出て行ってしまった。俺は壁側に向き寝たフリをする。

面倒見がいい人だったなあ。なんであんなに優しいんだ。あんたは俺の姉ちゃんか。あ、でもあの人もサボってたんだよな。やっぱり怖い人だったのか?睨まれたときヤバかったもんな。誰かは知らないけど俺のこと知らないんだろなー……知ってたら、こんなことしてくれないだろうし。

 

………ってかバッチリ全部一部始終、見られてたんじゃねーか!ふふふ……俺の道化っぷりは、お気に召されましたかね?(白目)恥ずか死ぬ!死んじゃう!

こうして俺の黒歴史にまた新たなる1ページが刻ま…… 

 

「………で?八幡?何やってんの?絶対病気じゃないよね?それ」

 

あーあ、もうムリ………いやまだだ!まだ寝れる!まだ終わらんよ!

 

「ふーん。そうゆうことするんだ。あっそ。そうだよね。あんなに素敵な人に手を引かれて保健室に来るんだもん。さっきの川崎さんだよね?ぼく、ジャマだったよね。その……ゴメンね?」

 

終わった。いや、知ってたけどね?俺、終了。俺は観念して向き直る。 

 

「………あー、いや、その、なんだ……居たんか戸塚」

 

「いたよ!いつもいるよ!知ってるくせにひどいよ八幡!」

 

 

俺の、家族以外で初めてできた大切な人。戸塚彩加。

 

 

 

俺を、救ってくれた人だ。

 

 

 

 

 

 

 

 



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4話

俺が戸塚と出会う前、中学生だった頃。

 

俺はいじめを受けていた。小学校でもいじめを受けていたが、中学校で受けたそれは考えられないほど陰湿で陰険で、陰惨なものだった。

 

 

俺は総武高校へ入学する日の朝、車に轢かれそうだった犬を助けて事故に遭い、3か月余りの入院を余儀無くされた。

 

俺の身体には、その当時両親も把握するところのものであった小学校のときに受けたいじめによる暴行の古傷があった。それとは別に、両親も知らない中学で受けた暴行の傷痕もあった。だが、事故に遭い全身の怪我の有無を検査され入院したにもかかわらず、俺が中学で受けた暴行の痕跡は発見されなかった。俺がそれを申告せず隠したのは当然だが、紛れもなく暴行の傷痕はあったのだ。しかし小学校時代に付けられた古傷と、事故によって負った骨折という大きな怪我に覆い隠されたその小さな、しかし残虐な傷痕は、医師も看護師も、ずっと俺を心底心配してくれていた家族でさえも、終ぞ気付くことは無かった。 

 

俺が通っていた中学は公立校だった。小学校のとき俺をいじめていた奴らも同じ学校に進学した。中学に進んだところで、俺へのいじめが無くなる可能性は限りなくゼロに近かった。むしろ悪化する可能性のほうが高く、事実そうなってしまったのだが……。オヤジもそれを心配していたからこそ、小学校の卒業前の時期に単身赴任の話があったオヤジに付いて行き俺だけ転校する、という提案をしてきたのだろう。そしてそんな話を俺にしたということは、母さんもその単身赴任と転校の話をオヤジと話し合い了承したということだった。俺へのいじめが中学校でも続いてしまうことを、両親も危惧していたのだ。その時の俺は、極度のシスコンである俺は小町と離れたくない、という体裁を取り……体裁とは言い難いが……両親をそこまで心配させ傷つけてしまっていた自分の不甲斐なさと罪悪感に苛まれながら、それでも俺は俺と離れ離れになることで重度のブラコンである小町を傷つけないようにと、その提案を拒否した。

 

全ては小学校のときいじめを受けていた俺の所為だったのに家族を心配させ傷つけてしまっていて、さらにこの先も俺がどちらを選んでも家族を傷つけてしまうことになる。俺にはそれが耐えられなかった。転校すれば小町を傷つけ、ここに残ればいじめを受ける俺を見て家族が傷つく。そう考えた俺は選んでしまった。最低で最悪な選択肢を。

 

 

 

 

 

………この時の俺は、どうしようもなく愚かだった。俺は、俺が誰も傷つけないで済む方法を、自分だけが傷つけば済むという方法を選んだ。

 

俺へのいじめが続くとしてもそれを隠し通せばいい。そうすれば家族が傷つくことは無い、と。

 

そんなこと、出来るはずが無かったのに。

 

この時俺は、オヤジに付いて行き転校すべきだった。たとえ誰よりも大切で傷つけたくない存在であった妹を、小町を傷つけてしまうことになっていたとしても……… 

 

 

 

 

 

中学生になっても、俺は友達の家に遊びに行ったり、誰かが俺の家に遊びに来たりということは当然、一度も無かった。外出先で奴らと遭遇することを恐れていた俺は、放課後も休みの日も1人で出掛けることをほとんどせず、ずっと家に居た。そんな俺の様子を見て、親が不審に思わないわけがなかった。俺は本当に稚拙だった。必死に隠していたつもりだっただけのガキだった俺がそのうえ、両親の前で隠しきれずに溢れさせてしまっていた影のある表情、態度。俺は決定的な証拠だけは示さないようにひた隠していたが、俺が2年になった頃には、両親は俺が中学でもまたいじめられていることに気付いていたと思う。

 

もし当時両親が俺へのいじめの実態を知っていたなら、絶対にあんなに悠長に構えてはいられなかっただろう。俺が小学校でいじめを受けていたとき、全力で庇い助けようとしてくれた両親だ。中学生になった俺へのいじめの気配を感じ取ったときは、本当に心配を掛けたんだろうな……我ながら情けなく思うが。

 

親からは再三探りを入れられたが、俺はそんな家族を傷付けまいと頑なにいじめの存在を否定した。親から学校に連絡を入れるようなことがあれば、必然的に教師から生徒へいじめの有無の確認を取られ、俺のことが知れ渡る。小学校でいじめられていた俺はそれを切欠に、本当にまたいじめが始まってしまうかもしれない。学校への確認だけは絶対に止めてくれと、釘を刺すことも忘れなかった。

 

俺は小学校の時のように、ひと目で暴行を受けたと分かるような怪我をしたり物を壊されたりして家に帰ってくることは無くなっていた。両親は俺へのいじめはあるのだと確信しながらも、戸惑っていたのだと思う。だから両親は、俺へのいじめを確認するような行動を起こさなかった。小学校の時とは違い、両親から見てはっきりと目に見える実害が俺に無かったこと。自分達の介入によって、俺へのいじめを悪化させるかもしれなかったこと。そして何より、頑なに否定している俺のことを気遣ってくれていたのだろう。 

 

しかし俺は、中学校でもいじめによる暴行を受け続けていた。だが高校の入学式、事故で入院した時には俺が受けた中学のときの暴行の傷痕はほぼ消えていた。消えない傷もあったが、治ってしまえば大多数のその傷痕は分からなくなるものだった。傷痕が殆ど目立たないのだ。中学時代の俺には、いじめによる暴行ではよく耳にする打撲による痣や切り傷、火傷といった傷痕はほぼ無かった。その代わり、いくつもの刺し傷が増え、そして消えていった。 

 

 

俺は、身体に針を突き刺されていた。何度も何度も。何箇所も、何十箇所も。 

 

 

奴らは衣服に隠れる場所を突き刺してきた。多い時は一度に5カ所ほども。1か所でも激痛と出血が伴った。刺し傷は身体の深くにその爪痕を残し、痛みは長く持続した。それに当然、清潔な針などではない。それは学校にある画鋲や、家庭科の裁縫の授業で使う裁縫針やミシン針だった。

 

雑菌が入ったのか、傷口が赤く腫れ上がることもあった。その所為で一度高熱を出してしまい学校を休んで病院に行くことになり、親に心配を掛けてしまったことがあった。当時腫れ上がった右肩の傷痕は今も残っている。後遺症だろう、右腕は肩までしか上がらなくなってしまった。その時は自分がふざけていて思い切り刺さってしまったのだと誤魔化した。いくらなんでも苦しい言い訳で、両親も医者もかなり怪しんでいたが、さすがに中学生がここまで残虐な暴行には及ばないとの考えからだろう。一応納得してくれたようだった。家族を心配させてしまって酷く落ち込んでいた俺の様子が、図らずも俺の苦しい誤魔化しを助けてくれていたのかもしれない。

 

そのとき医者にも刺し傷の怖さを諭されたがその話を思い返すにつけ、よく3年もの間、破傷風などの重篤な症状を回避できていたなと思う。そのことがあってから殺菌消毒薬と絆創膏を携帯するようになったことが、少なからず俺の自助になっていたのだろう。

 

俺はいつも痛みに耐えながら、トイレの個室で傷口の処置をしていた。その度に惨めで情けない自分を呪いながらそれでも、俺のこんな姿を家族に見られて傷つけることだけは絶対にあってはならない、これが俺が選んだ道なのだと、何度も何度も自分に言い聞かせながら。

 

 

奴らは映画に出てくる、囚人に暴力を振るい甚振り悦に入る獄吏のようだった。初めの頃は、恐怖と痛みでどうにかなってしまいそうだった。自分の身体に容赦なく突き刺さる針。それを見せられる恐怖。背中に画鋲で掲示物を張り付けられたこともあった。針治療などと言い、裁縫用の針を深く刺し込まれたこともあった。それが今も残る右肩の傷痕だが……。どうしてあんな残忍なことばかり思い付き、笑いながら実行に移せるのだろう。奴らは俺が苦しめば苦しむほど喜んだ。俺は必死に耐え忍び、恐怖や絶望の色を顔に出さないようになった。そんな俺の様子に奴らはイラついたり気味悪がったりしていたが、そんな顔のほうがあの笑い顔を見せられるよりも遥かにマシだった。

 

腹部や胸部、背中を蹴られたり殴られたりもしたが、それは少なかった。小学校のとき俺への暴行が発覚し大きな制裁を受けていた奴らは、俺の身体に痣などの跡が残りそれが明確な証拠となることを徹底的に避けるようになっていた。いくら俺が隠していても、俺に目立つ傷を付けてそれを教師や俺の家族に見られてしまえば、言い逃れることが難しくなると考えていたのだろう。奴らが、傷口が目立たない針という凶器を使ったのはそういう背景があったからだ。さらに俺が小学校のときに奴らから受けた暴行の古傷にその小さな刺し傷を紛れさせるなどして巧妙に隠蔽した。奴らが針を刺す場所や深さに留意していたのも、一度に大量に針を刺すことをしなかったのも、俺が大量の出血や臓器の損傷などの重大な事態に陥ることで、この凶行が発覚してしまうことを恐れたのが理由だった。

 

俺にとっては、奴らのそういうところこそ恐ろしかった。発覚しないよう慎重に、しかしギリギリまで痛めつける。奴らはそうやって冷静に思考する理性的なところがありながら、俺への残忍で非道な、狂気としか思えない行いを決して止めようとはしなかった。およそ感情に流されがちであろう中学生の所業とは思えなかった。そして小学校のときのような殴る蹴るの暴行をしなくなった代わりなのか、俺に対してありとあらゆる幼稚で陰湿ないじめを執拗に繰り返すようにもなっていた。

  

そんなあからさまな状況であっても、周囲の生徒も教師も進んで俺を助けようとはしなかった。教師は初めのうちこそ俺に声を掛けて確認してくることはあったが、それも形だけのものであることは明らかだった。助けようという気は全く無い、上っ面だけの態度。我が校にいじめは無いと言っているも同然の、腫れ物を扱うような態度。小学校のときにそういうものを散々見せられて、いろいろなものを諦めてしまった俺にとって、それはただただ鬱陶しいものでしかなかった。俺は適当にあしらっていた。教師に対してそんな態度だった俺は、次第に教師にも疎んじられる存在になっていった。

 

そして奴らは、学年でもトップカーストに属する人間だった。小学校のとき俺へのいじめが発覚し、制裁を受けた奴らが俺を逆恨みしたことで激化した、陰湿で執拗ないじめの数々。それを日々目の当たりにしていた同級生たちが、奴らを敵に回してでも俺を助けるなんてことは出来なくて当然だった。俺へのいじめは3年間、公然の秘密と化していた。

 

 

奴らは俺が諦めてしまったことを、何があっても助けを求めないことを知っていた。

俺には耐えることしか選択肢が無いのだということを。

 

 

殴られたり蹴られたり切りつけられたり、火傷を負わされたりするほうが余程恐ろしいのかもしれない。しかし俺はそうは思わなかった。暴行の発覚を徹底して避けようとする理性的な姿勢。狡猾で陰湿で陰険で執拗なネチネチとしたいじめの数々。針という小さな、しかし恐ろしく鋭利な凶器を使って俺を笑いながら突き刺し甚振る狂気。俺はそんな醜悪極まりないモノに日々晒されて、精神がおかしくなってしまいそうだった。まだ殴られたり蹴られたりナイフで刺されてしまったりしたほうがスッキリするのではないか。そんなふうに考えてしまうほど、俺の精神は疲弊していった。それはまさに地獄のような3年間だった。家族という大切なものが無かったら、俺はとっくに自殺していたかもしれない。

 

あいつらにとってはただ画鋲や裁縫針という学校に普通にあるものを使い、極力傷痕を残さず俺を甚振ることを思いついただけのことだったのだろう。それに加えて、相手が陰湿で狡猾で残忍で最低な奴らだったというだけだ。しかし、いじめを絶対に隠し通すいうことに関して、俺と奴らの利害は一致していた。

 

奴らは自己保身のために。俺は俺が傷つくことで大切な人達を、家族を傷つけないために。

 

本当に最低で最悪な利害の一致だった。

 

 

 

 

 

……本当に、最低で最悪だったな。奴らも……俺も。だって同じだろ?結局俺も、奴らと同じ。

 

ずっと自分のことばかり考えていたんだ。今まで、ずっと。

 

ほんと、バカだよな……。こんな単純なことに今さら気付くなんて……。

 

 

 

 

 

これが、中学生だった俺が両親や小町を決定的に傷つけるに至らなかった理由。

俺が中学校のときの壮絶ないじめを、親に誤認させることが出来ていた理由。

事故で入院したにもかかわらず、中学でのいじめによる傷が発覚しなかった理由。  

 

そして、笑いながら俺に針を突き刺す奴らの狂気、恐怖、絶望から逃れるために。

 

 

俺が、表情を消した理由。

 

けれど、悪いことでも無かったのかも知れない。

 

 

 

表情を消すこと。それは他人を拒絶するのに有用な(すべ)で。

 

俺にとって大切な人を増やさないための、有用な術となったのだから。

 

 

俺が戸塚と出会ったのは、そんな地獄のような中学校生活を終え、迎えた総武高校入学式の1週間後。事故に遭い入院していた、俺の病室でのことだった。

 

 

 

 

 

 

 



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5話

「ただいまー!買ってきたよお兄ちゃん」

 

 

勢いよくガラガラと開かれる病室の扉。早い。まさか走って行ってきたんじゃないだろな?

 

 

「おう早かったな小町。おかえり。いきなり開けたらビックリするでしょ」

「どうせお兄ちゃんしか居ないんだから良いでしょ。はいお茶」

「いや看護師さんとか…ま、ありがとさん。でも俺マッカン頼んだ気がするんだけど」

「ダーメ。動けないのにあんな甘いのばっかり飲んでたら病気になっちゃうって言ったでしょ」

「大丈夫だ。病気になってもここ、病院だしな」

「はぁー……。脛の骨のついでにその残念な頭もボルトで締めてもらえば良かったのに」

「いや俺、フランケンシュタインじゃないからね?」

「あーはいはい。お兄ちゃんはゾンビだもんね。知ってる」

「いや俺モンスターじゃないから。一応人間だから。ん…小町、電話鳴ってないか?」

 

小町の鞄の方から規則的に聞こえてくる、ブーン、ブーン、というバイブレーションの微かな音。ちゃんとマナーモードにしてたんだな…さすが小町。俺、耳は良いんだよな。良すぎて俺への悪口が聞こえすぎるのが玉に瑕だが。

 

「ん?…電話?………あ、お母さんだ。なんだろ?ちょっと出てくる」

「了解。行ってら」

 

「はーいもしもしお母さん?………うん。どしたん電話とか?………」

 

小町は通話しながら病室の外に歩いていった。すぐ近くの通話可能エリアに向かったのだろう。電話、母さんからか……。病院で通話しながら廊下歩いたら怒られるぞ。マナーモードは忘れなかったのに…さすが小町。あと、ここで通話しても良いって看護師さん言ってたぞ…今思い出したわ。

……まったく、なんで個室の病室なんだろな。ありがたいんだけど俺が車に突っ込んだようなもんなんだから、何もここまでしてもらわなくて良いのに……。

 

 

 

 

総武高校の入学式から1週間。俺はいま、交通事故による怪我で入院している。

 

 

診断結果は、端的に言って重傷。右太腿部筋挫傷(だいたいぶきんざしょう)及び亀裂骨折、右脛骨(けいこつ)1か所及び腓骨(ひこつ)2か所の骨折、左手首骨折、頭部打撲、擦過傷(さっかしょう)多数。事故直後に意識も失っていた。4時間ほどだと聞いたが…。目覚めてからは、折れた右脛や左手首よりも、打撲と亀裂骨折を負った右太腿の痛みが酷かった。こういう体の痛みには慣れていると思ってたんだけどな…。

右脛の骨折が、骨が大きくずれてしまうような骨折ではなかったこと。車に撥ねられ、体を道路に叩き付けられ、頭を強打したにもかかわらず、臓器損傷や脳挫傷などの深刻な事態にはならなかったこと…それらは不幸中の幸いだった。

入院期間はおおよそ3カ月。ちなみに骨折が太腿か脛のどちらか片方だったら、1か月ほどで退院、自宅療養という形にできたそうだ。左手首はともかくとして、右足のリハビリは相当大変なものになるだろうと、医者に脅されてしまった…そうだろな。今、右足の膝も足首もほとんど曲がらないし…。まあ、高校ボッチデビューを果たすには良い出遅れっぷりだ…と、そう言えれば良かったんだけどなあ……。

 

入院5日目には、折れた脛骨と腓骨をそれぞれボルトとプレートを使って固定する手術を受けた。手術までに5日間の時間が必要だった理由は、右太腿の腫れと痛みを落ち着かせるため、それと、頭部の検査では問題無かったが万が一、頭を打って意識を失っていた俺の脳へのダメージが時間を置いて現れることが無いか…その判断をするためだった。

 

迎えた4日目の再検査。俺は手術を受けることに問題は無いとの判断が下され、翌5日目に全身麻酔を伴う手術を受けることが決まった。この再検査は念のための確認という意味合いが強かったため、OKならば翌日に手術だということは再検査を受ける以前から聞いていたのだが……。

 

家族はかなり心配していた。筋挫傷と亀裂骨折を抱える右太腿が、一時期信じられないくらいパンパンに腫れ上がっていたのを家族も見たというのもある。手術を受けるのは、同じ右足である脛部だ。

しかしそれよりも、俺が事故直後に意識を失ってしまったことが家族にとって俺の考える以上に大きなショックだったようだ…。俺が麻酔でとはいえまた意識を失ってしまうことに、大きな葛藤を抱いていたようだった。

 

……心当たりはある。入院3日目、医者が俺に投げかけてきた言葉。

 

『ご両親は君の傷を見て否定しましたが、その古傷は虐待の痕ではないですか?』

 

普段は怒ることなんて殆ど無い俺だったが、その時の俺はそのあまりの言い草に怒りを覚えた。まあその誤解はすぐに解け、医者から謝罪も受けたのだが…。いくら何でも安直に結び付けすぎで軽率だと思ったが、謝罪を受けて分かった。この人はこういう傷を幾度となく診てきたのだろう、と。それはともかくとして。

 

俺が意識を失っている間に、小学校時代に受けた古傷を両親に見られてしまっていた……。

 

家族は俺が小学校時代に付けられたこの傷痕のことは知っていた。知られてしまった後も、極力見られないように気を付けてはいたが……。けれど今回は悪いことが全て重なってしまったかのようなタイミングで、この古傷をまざまざと見てしまったんだ。

 

意識を失っている俺。事故で負った傷の応急処置を施された身体。そこに刻まれている、両親にとって耐え難い出来事であったはずの俺へのいじめによる暴行、その古傷。そんな姿の俺を見られてしまったのだろう。しかもその時医者には、この古傷は虐待によるものではないかと疑われて。

 

小学校のときの、あの時の取り乱した両親を思い出す…そうだよな。いくらなんでも、冷静で居られるわけがない。俺の知らないところで医者と両親の間にどんなやりとりがあったのか、想像もつかない……。

 

意識を失った俺が…それを含め、これまでの俺がどれほどの心配を家族に掛け傷つけてきたのか。俺は改めて嫌というほど痛感させられることになった。

 

中学校で受けた傷痕が誰にも見つからなかったことは本当に助かったと思う。知らない人間にとってはかなり注意深く見ないと分からないだろうけど…事故で負った目立つ傷が幾つもあったことと、古傷のこともあったから、見過ごされたのだろう。まさかその上、こんな傷があるだなんて思いもしないだろうしな。もしこんなものが幾つも見つかってしまっていたら、もっと大変なことになっていたに違いない……。

 

両親でさえそんな様子だった。だから小町が「ごまぢもにゅういんずるゔうぅ!」と号泣しながら目覚めたばかりの俺にしがみ付き、しばらくの間離れてくれなかったのは仕方無いことだと思う。俺は兄として本当にダメな奴だ……。両親も医者もオロオロしていたけど俺は大丈夫だからと、傷の痛みに堪えながら小町のなすがままにされていた。せめてそれくらいはやらなければと。スイッチが入るとスーパーブラコンになってしまうところ、ほんと昔から変わらないな……。

 

 

……ほんと、変わらない。あの時と同じだ。だから俺は……。

 

 

…その帰り際、後ろ髪を引かれるように俺の病室を後にする両親と、やっとのことで落ち着きを取り戻し、それでも涙目で俺を振り返りながら両親に付き添われていく小町。あのときの皆の顔を思い出すと、傷の鋭い痛みが蘇ってくる。あの日は高校生になった初日だったというのに、また俺は家族を…小町を悲しませてしまった……。

 

 

 

俺はあの時、事故が起きてしまったあの瞬間、どうしていれば良かったのだろう?意識を失ってしまっただけでも、あれほどまでに家族に心配を掛けてしまった。もし俺が命を落とすようなことになっていたら、取り返しのつかないほどに家族を傷付けてしまっていただろう……。

 

大切な人を深く傷付けてしまうこと。それは俺がどんな目に遭おうとも、今まで必死に避けてきたことだったはずなのに……。それなのに……。

 

 

それなのにあの時の俺は、その全てを忘れてしまうほどの何に動かされたんだろう?立ち竦むでも傍観するでもなく、なぜ俺は全く関係の無い見知らぬ犬を助けようと、後先考えず全力で走り出したんだろう?

 

正直、犬を助けたいと思ったわけじゃない。そんな時間の余裕は無かった。当然、俺が怪我をすれば家族が悲しむかもしれないと考えている余裕も。意識して思う前に、考える前に体が動いていた。どうしていれば良かったのかだなんて、分かるわけがないよな……。

 

……いや。きっと事故直後に意識を失った所為で記憶が曖昧になっているだけだ。あの瞬間、犬を助けたいという意識が俺にはあったのだろう。怪我をせずに助ける自信もあったはずだ。それを読み間違えた結果が、これなんだ。

 

 

それ以外の理由なんてあるわけがない。俺に、あるはずがないのだから……。

 

 

助けた犬は少し怪我をした程度だったことと、迷子の飼い犬だったのだろう。飼い主が、手術を終え麻酔で眠っていた5日目に俺の病室にお見舞いに来て何度も何度も感謝の言葉を口にしていたと、その時に居合わせていたオヤジから聞いた。よくやったな、誇りに思う、という言葉と共に。それが家族を悲しませてしまった俺にとっての、僅かな救いだったのかも知れないな……。

 

 

 

「小町、遅いな……」

 

 

小町を待つ俺はヒマを持て余してしまい、選ばれしボッチの固有スキル「ただひたすらに過去を振り返り後悔する」を発動中だ。生憎、小町に持ってきてもらった本は読破してしまったうえ、今日持ってきてもらった本は恐らくまだ小町の鞄の中。時間があると色々考えてしまう。「ただひたすらに」というところがミソだ。このスキルを発動したところでロクな結果にはならないのだが、これは小町専用お兄ちゃんスキル同様、条件が揃えばオートで発動してしまう。発動条件はヒマであること。つまり俺が選ばれしボッチである限り、この呪われしスキルは外せないのだ……。

 

ちなみにこの基本スキルからの派生で「脳内のフラッシュバックに反応しオートで独り言を発する」という恐ろしいスキルもある。もちろん取得済み。最近は学校に行かなくなって気が緩んでいるのか、無意識にいきなり言葉を発してしまうことがある。スキル発動条件は一人の時だから誰かに聞かれることは無いと思うけど。学校に行っていた時、こんなことは滅多に無かった。フラッシュバックって要は、トラウマってやつなのかしらん…そんな自覚無いんだけど……。

 

小町は初日から今日の入院7日目まで、毎日見舞いに来てくれている。ちょっと来過ぎな気もするが、この1週間は俺の手術のこともあったしな…俺と小町が逆の立場なら、小町が退院するまで病院に泊まり込もうとして追い出されるまである。追い出されちゃうのかよ。

 

小町は一見元気そうに振る舞ってはいるが、無理をしているのが一目瞭然だった。楽しそうにニコニコキラキラしながら、学校であったことや友達のことを話してくれるいつもの小町とは程遠い。俺を気遣いながら、心配しながら、それでも俺の前ではいつも通りであろうとしてくれている小町。

 

そもそも小町がここまでのブラコン…心配性になったのは、両親が仕事で小町と過ごす時間を十分に取れなかったことで、俺が出来得る限り小町と一緒に居たこと。それに加えて、俺がずっといじめを受けていたことが大きな要因の一つだ。小町は昔から家族には我が儘放題言うけど、大事なところでは必ず自分を後回しにしようとする。そしてそれを譲らない。

 

仕事で家に居ない両親。いじめを受け、それを頑なに隠し続ける俺。それでもそんな環境の中、自分が両親や俺に心配を掛けることがないようにと過ごしていたのだろう。普段はあれほど明るい小町だ。その自覚は無かったのだと思う。それは裏返せば、自覚することが出来ないほど無意識に刷り込まれていた、ということなのかもしれない……。

 

小町は感情がコントロール出来なくなったときの反動が大きい。俺が入院した初日のときのように、スイッチが入ったような状態になる。それは間違いなく、ずっと小町に自覚の無い我慢を強いてきた所為だろう……。それなのに、俺は未だに小町を安心させてやることも出来ず気遣わせて、心配させてしまっている……。

 

 

 

……あの日…小雪が舞うあの公園で、家出した小町を見つけたときから、ずっと。

 

 

 

俺がいつものようにうじうじと後悔し始めていたとき、また唐突に病室の扉が開かれた。

 

 

「ただいまー!ごめん遅くなっちゃった。もーお母さん話長いんだもん!仕事サボって娘に長電話とかやめなさいって言っちゃった」

「おおう…おかえり。だからいきなり開けるとびっくりするって…それとちょっと言いすぎなんじゃねえの。母さん泣いちゃうよ?」

 

母さんも小町とお話したかったんだよ…小町にそんなマジ説教喰らったら、俺かオヤジだったら間違いなく夜、枕を濡らすことになる。

 

「子供じゃあるまいし泣くわけないでしょ。ちょっとだけ落ち込んでたみたいだけど」

 

母さん……。それはたぶんちょっとじゃないぞ小町よ。

 

「そ、そうか……。で、何だったの?」

「…あー、なんか今度の土曜、家に友達連れておいでってさ。お兄ちゃんの入学祝いの予定が無くなっちゃったから、用意した食材が余っちゃうんだって。いつも頼み過ぎなんだよねほんと」

 

…確かにいつも食い切れた試しが無い。しばらく豪華すぎるメシが続くことになる。いつも家に居ないぶん、こういう記念日や祝い事なんかにはここぞとばかりに注ぎ込むんだよな…まあ、ありがたいけど。

 

「…そうか。まあ、そうだよな…母さんたちには悪いことしたな…。小町も、すまんかったな。いっぱい友達呼んでやってくれよ。俺も居ないことだし」

「はぁ……小町のことはいいって言ってんのに…。それよりそこで自分が居ないからって言うのはお兄ちゃんくらいだよ?今回は確かにそうだけどさ。そんなの、ちょっと顔出して挨拶する程度でいいのに…この前のだってそう……」

「……まあそのうち前向きに検討して善処する」

「アーハイハイソウデスカ。小町そろそろ帰るから」

「小町が冷たい……」

「何言ってんの。お兄ちゃんもうすぐ夕飯の時間でしょ。小町もお腹空いたの」

 

そう言いながら、持ってきた何冊かの本を俺に押し付ける。さっさと帰り支度を済ませ、俺に背を向け扉へと歩いていく小町。

 

 

「ありがと。…ほんとズルいよねお兄ちゃんって。ね、お母さん」

 

 

「ん?何か言ったか小町?」

「…なんでもない。じゃあ、またね」

 

 

 

病室の扉を開け、俺に向き直り弱く微笑む小町。しかしそれも一瞬のことで、少し呆れたようないつもの表情で小さく手を振ったあと、静かに扉を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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6話

小町が病室を出てしばらく。小町が持ってきてくれた本をぺらぺらと捲っていると、不意に枕元にあるスマホが着信を知らせてきた。

 

 

……きたか。さて、何を言われるやら……

 

 

骨折を免れた右手でスマホを手に取り、通話ボタンを押す。

 

 

『あーもしもし八幡?母さんだけど。今いい?』

 

「おう、大丈夫」

 

 

 

いつもより少し焦りを感じる口調だ。職場から電話しているからだろうか…聞こえてくるザワザワとした環境音も相まって、一層余裕の無さを感じさせる。母さん、メチャクチャ忙しいだろうに…それでもやっぱり、すぐ電話してきてくれるんだよな。別に急がなくていいのに…。

 

 

『…ん?あー…。ゴメン八幡、ちょっとだけ待って』

 

 

俺がその言葉に返事をする間もなく、電話の向こうの母さんの気配が遠くなる。…てか母さん、ホントに電話してて大丈夫なのかこれ?なんか、怒号が飛び交ってるように聞こえるんですけど?

…あ、いま母さんが指示出してるっぽいな。こんな様子じゃ、長電話するなって小町に怒られるのも無理ないわ…申し訳ねえ…。

 

 

 

『…ふぅ。ゴメンねこっちから電話したのに。もう本人から聞いたと思うけど小町、食事会やるって。だから後は任せなさい』

 

 

戻ってきたと思ったらまた俺の言葉を待たずに、いきなり本題。そして至ってシンプルな報告。さらに「後は任せなさい」ときた。俺に余計なことは言わせない…そんな意思を感じる。仕事が忙しいから手短に…というわけではなさそうだ。これ以上は譲歩できない、おとなしくしてろ…きっと、そういうことなんだろな。

 

 

「………分かってるって。サンキュ、母さん」

 

『…返事にだいぶ間があった。アンタ、ホントに分かってんの?』

 

「分かってるって」

 

 

…まあ仕方ないか。それだけの心配を掛けてしまった自覚はもちろんある。それにしても…さっきは仕事が忙しくて焦ってるのかと思ったけど、何か違う気がする…もしかして母さん、テンション高い?…イヤな予感がするんですけど。

 

 

『んー…でもアンタ、ズルいからねぇ。お父さんの若い頃そっくりで』

 

「いやズルいって言われても…俺動けないし、何もしてないと思うんだけど。準備はずっと母さんとオヤジに任せっきりだったし。あとオヤジそっくりとかやめてくれ。将来社畜になりそう」

 

『何も、してない…?アンタ本気で言ってんの?小町のためにあんな食事会企画しといて。入院初日だったってのにそれを寝ずに考えて。翌日にひっどい顔しながら、心配してる親に向かって色々頼みごとしといて。それからも手術も控えてたってのにロクに寝ずに食事会を成功させることばっかり考えてたでしょ。今から社畜の素養十分過ぎるのも心配だわ。お父さんもそう言ってたわよ』

 

「………。」

 

 

……ぼく…夢は専業主夫なんですけど…現実はボッチだ何だ言いながら進学して就職して、結局ボッチのまま社畜道に堕ちるんだろなと思ってます。エリート社畜の両親に、こんなに早くお墨付きを頂けて光栄です。フヒ。

 

不用意な発言のせいで長々と捲し立てられた結果、ぼくはスタンと混乱の状態異常にかかってしまいました。それを察してか、母さんは更なる追撃を仕掛けてくるようです。予測可能回避不可能。通常攻撃が状態異常攻撃で連続攻撃のお母さんは好きですか?(白目)

 

 

『…ねえ八幡。結局、なんで小町のためにそこまでする必要があったの?いくら小町のことが心配でも…いくら小町が頑固で分からず屋でも…こんなやり方、普通じゃないでしょ?母さんたちじゃダメだったの?』

 

「いや、ダメって言うか…俺は別に小町のためというより、自分の合格祝いのために用意してもらった一級品の食材がキャンセルされてしまうくらいなら、それらを使って小町らに料理してもらって食べてもらったほうが、小町の料理レベルが上がって今後俺もさらに美味いメシが食えるし、あわよくば、その食事会で作った料理のおこぼれにも与れるかもと思っただけでだな…」

 

 

…この質問は想定内。よかった即答出来る質問で。我ながら長いだけのゴミすぎる回答で惚れ惚れする。小町命名「ごみいちゃん」を、甘く見ないでいただきたい。

 

 

『…ふーん。へぇー。やっぱり何にも教えてくれないのね。ズルいわー。母さん傷付くわー』

 

「…や、教えるもなにも……あ、そういや仕事、そろそろ戻ったほうがいいんじゃね?」

 

『んー?そうだねぇ…まだ大丈夫。八幡?もしかしてぇ…逃げたかったの?まだまだ逃がさないよー?』

 

「なっ……」

 

 

…なんだそれかわいいなオバチャン。まあ、うちの母さん年のわりに童顔で、割と冗談抜きでかわいいとは思いますけどね?小町も母さんそっくりだし、将来あんなふうに…ってダメだ!小町はあんな酔っ払いにはさせない!今のだって、家で酒飲んで俺にウザ絡みしてくるときのセリフだからね?ってか母さん、なんでそんなにテンション高いの?ふしぎなタンバリンでも使ってんの?そのテンションは想定外なんですけど?俺、どうすりゃいいのん?

 

母さんの謎のハイテンションに気圧され、まごまごしてしまっているのを自覚する。想定外過ぎて言葉が出てこない。まごまごする…まごまごが加速する!さまようたましいになっちゃう!

 

 

『ねえ八幡。この際聞いとくけど…小町の誕生会でアンタ、何やらかしたの?』

 

 

思わずビクッとしてしまい、一昨日手術したばかりの右脛に鋭い痛みが走る。まごまごしてたらやっぱり3撃目が来ちゃったじゃねえか!

 

 

「…いや、やらかしたって…何にもしてないと思うけど。そもそも俺、出てないし」

 

『それがダメだったんじゃないの?小町、今年の誕生会は八幡の高校合格祝いも一緒にやるんだって張り切ってたけど、結局アンタ出席しなかったでしょ。アンタが事故に遭った後はともかく、その前から小町の様子が少しおかしかった原因、そのへんにあると母さんは思ってるんだけど。小町に訊いてもはぐらかされて、教えてくれないのよね…』

 

「…………。」

 

『あ、勘違いしないでね。言い方はアレだったけど、八幡が悪いって言ってるわけじゃないの。八幡にだって、どうしてもイヤなことはあるでしょ?母さんにだって、お父さんにだって、もちろん小町にだって…どうしてもイヤなのとはあると思うもの。ただ、小町が落ち込んでる原因が分からないとね…』

 

「……そうだな」

 

 

…ほんとに、母さんはズルい。いつでも平等に…俺や小町、オヤジのことも見てくれる。当たり前なのかもしれないけど、俺にとっては、本当に…涙が出るほどに嬉しいことだ。

 

俺の所為にするのは簡単なはずなのに。誰がどう考えたって、俺が小町の誕生会に出席して、一緒に「祝い」をしなかったことに原因はあるのに。その後の小町の態度からも、それは明らかなのに…。

 

今ほど露骨じゃなかったけど、小町の様子がいつもと違うことには、周囲の人のほとんどが気付いていただろう。それが小町の誕生会が終わったあたりからだということも。元凶である俺なんか、1週間以上小町に無視されてたし。あれは本当に地獄だった…。一応、両親が居る前でだけは俺に反応してくれてたんだが…事務的過ぎて、無視されるより辛かった。あんな小町見たら、小町が何も言わずとも、何でもないと言い張ろうとも、事情を知ってる人間ならすぐに理由を察することができてしまう。

 

でも、母さんはそこは問題ではないと言う。嫌がる俺に出席を強要した小町にも非はあるのだと。きっと、小町にも同じような話をしたんだろな…。

 

 

 

……けれど…やっぱり全部俺が悪いんだよ、母さん。

 

だって俺は、小町のお兄ちゃん、なのだから。

 

 

どんなに理詰めで俺の正当性を主張してくれても、どんなに正論で擁護されても……やっぱり俺は、小町の「お兄ちゃん」でありたいんだよ。妹を甘やかせるのは…妹の理不尽な我が儘に付き合えるのは…お兄ちゃんの「特権」なんだぜ?放棄してたまるかよ。

 

…小町は小町で…母さんに何も話していないようだ。本当に…何も。だったら、母さんには悪いけど…俺も話すわけにはいかない。と、言うか…俺はそこに踏み込むことを許されていない。小町の…大切な妹の、どこまでもまっすぐな願いを踏み躙ってしまった俺なんかが、踏み込んで良いわけがない…。

 

それに、厄介なことに…いま小町があんな状態になってしまっている理由は、小町の誕生会を巡る一件だけが原因、というわけでもない。

 

 

 

むしろもう一つの件のほうが間違いなく、小町にとって……

 

 

 

『……ちまん…ちょっと八幡!聞いてるの?どこか痛むの?』

 

 

………。母さんに時間割いてもらってるのに、俺がぼーっと考え事して心配させてどうすんだ。

 

 

「…ごめん、大丈夫だ。聞いてる」

 

『ならいいけど…気分が悪くなったらすぐ言うのよ?』

 

「や、だから大丈夫だって」

 

 

…さっさと話戻さないとな。

 

 

「あー、いくら俺の合格を祝ってくれるからって、女子が集う小町の誕生会に俺が出るとか絶対ムリなのは、母さんも分かるだろ?小町だって当然分かってくれてるし、俺が出席しないのは想定の範囲内だろ。毎年そうだったんだから。そこまでショック受けることか?」

 

 

…こんなの、大ウソだ。今年に限っては。…でも、ああ言っとけば大丈夫なはず。

 

 

『…問題は、何故今回に限って、ってとこで…八幡の合格祝いは、小町にとってそれほどまでに重要なイベントだったのか、ってとこなんでしょうけど…ま、いいわ。小町が教えてくれないことを、八幡から聞けないしね。八幡も言わないだろうし。なんたってズルいからねえ八幡は』

 

「あーそうですね、どうせ俺はズルいですよ」

 

 

……恐ろしいまでに鋭い…けど、チャンスだ。このまま流れでごまかし……

 

 

『やっと認めたわね。八幡は色んなズルさを使い分けるところもズルいのよねー。今のもズルかったし』

 

「……は?…や、そんなこと……」

 

 

……あーそういえばさっき、小町も俺のことズルいって呟いてましたねー。これ女子の間で俺の悪口で盛り上がったやつだわー。「はちまんくんって、ズルいよねー」「そうだよねー」ってやつー。悪意は微塵も無いけど。母さんは女子じゃないけど。…それと、小町は俺に聞かれてないと思ってるだろうけど。俺もああいう時は聞こえない難聴系主人公になりたかったのになー。なんで俺、物音に敏感なゾンビになっちゃったのん?

 

 

『ふふっ…。八幡、あとは皆に任せるんだよね?…今からは、自分の怪我を治すことだけ考えなさい。…いいわね?』

 

 

散々遊ばれ見透かされ、軽く凹んで現実逃避していた俺の耳に、一転して幼子に言い聞かせるような優しい声が届く。電話口の向こうから聞こえていた職場の喧騒が、そのときだけは聞こえなくなったような気がした。

 

 

「……うす」

 

『…あのね、八幡。色々と言ったけど…母さんね、久しぶりに八幡が頼ってくれて嬉しいの。あと今回、アンタが自分以外の誰かに「任せる」って決めたことも…ほんとに、嬉しいのよ』

 

「………。」

 

 

テンション高かったの、それでかよ…。やっぱズルいわ、母さんは。

 

 

『…ただ!もうこんなムチャなことはやらないこと!いいわね!今度やったら…(むし)るから』

 

「む、毟る!?何を?ねえなに毟られんの?」

 

『うふふ…さぁ?何だろねぇ?』

 

 

…ヤバい。ヤツは本気だ。なんかゾクゾクしてきた。…変態か俺は。

 

 

『…ああ、それと申し訳無いけど、これからまたちょっと忙しくなると思うから八幡のお見舞い行く時間減っちゃうかもしれないけど…着替えとか必要なものは小町に持ってってもらうように頼んどいたから。ちゃんとお礼言いなさいよ』

 

「……おう」

 

 

小町に、お礼……か。まったく…母さんのほうが俺の万倍ズルいじゃねえかよ。

 

 

『…さて!そろそろ仕事戻らないと。小町にも怒られたし…じゃ、またね。今日からは、ちゃんと寝なさいよ』

 

「…はいよ。電話、忙しいのにごめんな」

 

 

 

通話を切って、窓の外の夕景を眺める。小町はもう家に着いただろうか…しかし入院してから、こうやって黄昏ることが多くなったなあ…黄昏ると言っても俺の場合、端から見たら物思いに耽っているというより、目の前にある終わりに刻々と近付いているように見えるらしい。…そっちの黄昏じゃないからね?看護師さん、黄昏てる俺見て「ひっ」とか言わないでね?…確かに、目は黄昏済みですけど。

 

 

「はぁ…」

 

 

…やっぱり、母さんには敵わなかったか。これだけコテンパンにやられたのは何年振りだろな…。だから母さんに情報を与えるのは怖いんだよ。頼りたくなかったんだよ…。ヘタすりゃ、俺の…絶対に知られちゃいけないことまで知られてしまって…傷つけてしまうかもしれないから。でもまあ…今の俺には他に方法も、時間も無かったしな。こんなのは今回だけだ。今回だけ……

 

 

 

「今回だけ…今回だけは、一緒に……か。」

 

 

 

(『この前のだってそう……』)

 

 

さっきこの病室で小町が少しだけ口にした言葉と、その時の翳った表情が頭を過り、俺は思わず独りごちた。小町は、『この前』の…誕生会のことを、そのときに一緒に出来なかった俺の祝いのことをずっと気にして、今も引きずっている。当然だが、母さんにもずいぶん前からバレバレだった。

 

けれど小町は皆にバレているのを承知の上で、それでも今も取り繕うことを選んでいる。誕生会のことを出来る限り話題にしないようにまでして。小町のためにたくさんの友人が集まってくれて、心から祝福してもらったはずなのに…去年までは毎年、その時の様子を楽しそうに話してくれていたのに…。

 

なぜ小町がそんなふうになってしまっているのか…理由は簡単だ。今いちばん大変な目に遭っていて、誰よりもケアしなければならないのは俺だと、小町の中で優先順位が確定してしまっているからだ。

 

誕生会の件も、そして…あの雪の日の公園でのこと、俺が入院した日のことも…まだ引きずってるけど、そのことを考えてしまうと気分が落ち込み表情にも出てしまう。周囲にそんな自分の姿を見せてしまうことで、皆に心配を掛けるわけにはいかない。とにかく今は、自分がしっかりしなければ…そんなふうに小町は思っているのだろう。それで、一応何事も無いかのように隠してるつもりなんだろうけど、小町、分かりやすすぎるんだよな…。その姿がかえって痛々しくて、周囲は何とかしてあげたいと思うんだけど…それでもこういう時は、自分のことは後回し。それを頑として譲らない…それが小町だ。

 

だから今回、俺が企画した食事会に小町を出席させるのにも、伝え方やタイミング…その他諸々、細心の注意を払う必要があったんだよな…考えるの、苦労したわ…。

 

 

『お兄ちゃんが入院して大変な時なのに何言ってんの?小町だけ友達と楽しく食事会とかムリ』

 

 

……とか、普通に言いそうだし。てか、何の策も無く小町に食事会のことを伝えたら、間違いなくこうなってただろな。…ほんと、厄介な妹だ。

 

…一応、こんなことになってしまう前…俺が事故で入院する少し前、小町に立ち直りの兆しはあった。少しずつだけど、小町にいつものような自然な笑顔が見られるようになってきていた。きっと、両親と…小町の友人たちのお蔭だったのだろう。誕生会のことも、少しずつ両親に話すようになっていたようだ。俺には全く、何も話してくれなかったけど…。うう…。

 

……俺が事故に遭った…いや…事故を起こしてしまったのは、そんな時のことだった。俺は大怪我を負い、一時は意識すら失い、入院し…そして家族が、小町が居る自宅には3カ月も帰ることが出来なくなった。小町が今のような状態になったのは全部、俺の所為だ。誕生会の一件で小町を傷付け…それでもやっと立ち直ろうかという時に、俺が酷く傷を負った姿を小町に見せてしまって…またあの日のことを…あの公園でのことを、小町に思い出させてしまった…。

 

 

 

 

(『ねえ!どうして!……どうして…おにいちゃん……』)

 

 

 

(『どうして!どうしていつも…お兄ちゃんは……』)

 

 

 

 

……なにが「傷つけたくない」だ。

 

そのための俺の行動はいつも、大切な人を…家族を、逆に傷付けてしまってばかりじゃねえか。

 

 

でも…俺が本当のことを言えば、全てを曝け出してしまえば…小町や両親…大切な人たちが、もっと傷ついてしまう。それこそ、取り返しのつかないほどに。

 

俺はどうすれば良かったんだ?小町の誕生会のときも、今回の食事会のことも、事故のときも、入院した日のことも、そして…あの日…小町が家出した日のことも。誰も傷つけないで済む方法が…もっと上手いやり方があったのか?

 

 

 

……誰か…誰か、教えてくれよ…。

 

 

 

……ダメだ。最近気が付くと、この思考に陥っている。ボッチが人に頼ろうとするな。今回、両親に頼ったのは、それしか方法が無かったから。今回だけ…今回だけなんだ。

 

思考を振り払うように、5階の病室の窓から見える夕景に意識を向けた。真っ先に目に飛び込んできたのは、夕陽に染まる桜並木の道。そこに幼い兄妹、だろうか…手を繋いで歩いているのが見える。

 

……あの妹ちゃん、落ちてくる桜の花びらが気になるらしいな…綺麗だもんな。兄が手を引いて、時々立ち止まって頭を撫でて言い聞かせながらでないと、ちゃんと歩いてくれないようだ……暗くなる前に、妹を家に連れて帰るんだぞ?千葉のお兄ちゃんならできるはずだ。

 

 

 

――あの子たちなら、答えを知っているのかもしれない。

 

 

 

ふと、そんな考えが頭を過った。何故なのかは分からない。振り払ったはずの思考が戻ってくる。ずっと前に、どこかに置いてきてしまった何かを見つけられそうな気がして、見知らぬ幼い兄妹に目を凝らす……

 

 

「痛っ!」

 

 

不意に右足に激痛が走った。無意識に少しでも窓に近いところで見ようとして、ベッドの上で無理な体勢になってしまったようだ。いってぇ……

 

 

………。ふぅ。なんとか痛みは引いてきたな。まったく、何やってんだか。

 

気を取り直して、再びあの兄妹を見ようと窓のほうに目を向けた。

 

 

…しかし今度は、窓に映った腐った目の男に視線を奪われ、思わず固まってしまった。まるで鏡に映った自分の目を見て石化するメドゥーサみたいだ。こんなこと小町に言ったら「お兄ちゃんはフランケンでもメドゥーサでもなくてゾンビでしょ」とか言われるんだろな…いや、石化といえばアナコン○ィだぞ小町。ぷいきゅあ、がんばえー。…そもそも両方、男じゃないけど。

 

 

「はぁ……」

 

 

自分のアホな妄想に今日何度目かも分からない溜息を吐きながら、窓に映った腐った目の男から目を逸らす。そして今度こそあの兄妹を見ようと、窓の外の桜並木の道に目を向けた。

 

 

 

変わらず穏やかな夕陽が射すなか、散りゆく桜の木々だけがゆっくりと風に揺れている。

 

 

 

 

兄妹の姿はもう、見えなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第7話 前編

総武高校入学式の日…俺が事故で入院した日から遡ること、1カ月。

 

 

これは小町の誕生会と、俺の高校合格祝いを巡る顛末。

 

 

 

 

 

 

                 ― ― ― ― ―

 

 

 

 

 

今日は、2月22日…総武高の受験日まであと10日と迫っている。ついでにネコの日らしい。

 

 

「ただいまーっと」

 

「あーお兄ちゃん、おかえりー。ほら、カーくんもおかえりーって」

 

 

学校から帰宅しリビングに入ると、小町が「にゃんにゃんにゃーん♪」とか言いながら、膝の上に乗せたカマクラの前足を手に取ってこちらにフリフリしてきた。小町は既に部屋着に着替え、のんびりしていたようだ。カマクラも気持ちよさそうにフスフスと鼻を鳴らしている。2人とも、ご機嫌だな。

 

 

「今日はカーくんの日だもんねー。いっぱいモフモフしてあげるからねー。うりうりー」

 

「あー、今日はネコの日か。よかったなカマクラ。記念に撮ってやろう」

 

 

その姿を見た俺はいそいそとスマホを取り出し、撮影を開始した。…もちろん小町しか撮っていない。俺は悪くない。小町がかわいすぎるのが悪い。

 

一通りのアングルで盗さ…撮影しまくった後、小町にバレないように努めて平静を装いながらお宝画像をチェックしていると、カマクラをモフる手を止めた小町が話しかけてきた。…ビックリして危うくスマホを落としそうになりました。いや別に変な画像は撮ってないけど、こっそり撮っていたのは事実なわけで…見つかったら、妹に冷たい目で「…変態。」と罵られてしまうかもしれないですね。あらやだ…いいかも。

 

 

「ねーねーお兄ちゃん。お兄ちゃんの高校の合格発表って、3月5日だったよね?」

 

「おおぅ…あ、ああ、そーだな。別にお兄ちゃんが所有する高校じゃないけどな」

 

「なにビックリしてんのさ…ちょっとキモかった。あと所有とかそういうのいいから」

 

 

おぅふ…これはこれで…。いや俺は断じて変態ではない。……たぶん。

 

 

「はい、すいません。…で?俺の合格発表がどした?」

 

「……あのさ、お兄ちゃん。今年の小町の誕生会、3月7日なんだけど…そこでお兄ちゃんの合格祝い、一緒にやってみない?」

 

「…は?一緒に?なんで?それに俺、まだ試験受けてもねーのに気が早いんじゃねえの?」

 

 

…この子、にゃに言っちゃってんのかニャ?一緒に?俺が?小町の誕生会に?女子が集う中に?

 

 

「つべこべ言わない!お兄ちゃんは合格するからいいの!…あ、いまの小町的にポイント高い!」

 

「そうね、高いね」

 

「わーテキトーだなー。お母さんの準備もあるから一応、早めにと思って」

 

「あー…確かに母さん、祝いの料理作る食材準備するのに、すげぇ時間かけるもんな」

 

 

一度母さんにツッコんだら「普段やんないんだから、お祝いの時くらいマジになるわよ!」とキレられた。なんか、すみません…。

 

 

「そうだよ!で、一緒にやるの?やるよね?けってーい!」

 

「ちょ、やらねえっての!なんでそうなる?」

 

 

…おかしい。いくらワガママ小町でも強引過ぎる。

 

 

「えーいいじゃんやろうよー。ダブルお祝いだよ?やろうよーねーねー」

 

 

ソファに座る俺にずいずいと接近してきていた小町が、今は隣でねーねー言いながら俺の左肩をゆさゆさと揺らしてくる。えーいやめなさいかわいい鬱陶しいかわいい照れ臭い。どうせならねーねーじゃなくてにゃーにゃーにしなさい。ネコの日だし。ちなみにネコミミ装着推奨。…カマクラ、隣でにゃーにゃー言ってるけど小町の援護か?かわいいなおい。

 

 

「やらねぇよ…小町も分かってるだろ?俺がそういうの苦手だって。それに、やるって言っといて落ちたらカッコ悪すぎるだろ。もし合格祝いやってくれるのなら、俺が合格してから考えてくれればいいから。な?」

 

「…それじゃ理由が無くなっちゃうから言ってんじゃん…」

 

 

そのまま俺の左隣にちょこんと座った小町が、ぽしょりと呟いた。

 

 

「ん?なんて?」

 

「もー!なんでもない!お兄ちゃんのアホ!オタンコナス!…えっと…その…アンポンタン!」

 

「珍しいチョイスだな…」

 

 

俺のことを罵倒しながらも、小町が俺のすぐ左隣から離れる様子は無い。普段なら俺と距離を取るところだろうけど…小町を追ってきたカマクラが膝の上に乗っているから、気を遣って動けないようだ。怒っても優しいとか、やっぱ天使だなー。

 

 

「…なにニヤニヤしてんのキモい」

 

「うっ」

 

 

…ヤバい。今のはかなり…いやそうじゃなくて!これ以上はマジで怒らせてしまう。

 

 

「いや、スマンって。俺もビックリしたんだよ。小町、そんなこと今まで一回も言ったことなかったろ?俺もああいう場は苦手だし、いきなりそんなこと言われたら戸惑うって」

 

 

すぐに怒った表情を引っ込め、シュンと俯く小町。うーん…いきなりそうなっちゃいますか…。もう一回くらい、ガーッと来ると思ったんだけど。やっぱなんか違うな。

 

 

「……うん。確かに小町も急すぎたかも。…ごめんなさい」

 

「いや、謝んなくてもいいぞ。気にしてないから」

 

「え、それじゃあ…」

 

「や、それはムリ」

 

「ぶー!ケチー!」

 

 

今度はぶーぶー言い出した。うーん…小町にしちゃ、やり方がバカ正直というか…あまりにも正攻法で俺の許可を取りに来てるというか…いつもならもっと搦め手から攻めてくるんだけど。母さんとかオヤジ使ったりして。さすがに俺が本当に嫌がるようなことで、そういう手は使わないか…。

 

横で俺に文句を言ってる小町を無視して、TVを観る体勢を決め込む。小町のこれ、長いんだよなあ…ヘタレだのごみいちゃんだの、ヘタレだの…。ボキャブラリーが貧困すぎて同じことばっかり言うのがかわいいから相手してもいいんだけど、今度ニヤニヤしたら完全に怒らせてしまうだろうし…逃げるとそれはそれで怒るし…近くにいて適当に相槌打ってるのが、いちばんダメージが少ないんだよな…。

 

しばらくTVを観ていたら小町は俺に文句を言い尽くしたのか、静かになっていた。観ていた番組も終わったし、頃合いかな。さて部屋に戻る前に、小町に何か飲み物でも取ってきてやりますかね。

 

 

「小町、なんか飲む……」

 

 

声を掛けながら隣を見ると…TVを観ているとばかり思っていた小町は、丸くなって眠るカマクラを膝の上に乗せたままじっと俯いていた。横顔が髪で覆い隠されていて、あまり表情が見えない。どうやら、あまり良い状況とは言えないようだ…。

 

 

「……どした?体調悪いのか?」

 

 

俯いたまま、小さく首を振る小町。…まるで小さい頃に戻ったようだ。これは…あれだな。言いたいことはあるんだけど、待っててもなかなか言ってくれないやつだな…。

 

 

俺はぽん、と小町の頭に手を乗せ、できるだけ優しく話す。

 

 

「言いたいことあんだろ?いいから言ってみ?」

 

 

…まあ、今さら一つしか無いだろうけど。それでも、聞かないとな。

 

 

「……お兄ちゃん。やっぱり…ダメなの?」

 

「…ん?」

 

 

小町は俯いたまま、小さな声で言葉を紡いでいく。

 

 

「どうしても、ダメ?…お兄ちゃんがそういうのすごく苦手なのは充分分かってる。イヤなこと頼んでごめんね?…でも、それでも…今回だけでいいから…今回だけは、一緒に……」

 

「………。」

 

 

……分からない。俺の合格祝いは、小町にとってそれほどまでに大切なことなのか?確かに俺が受かれば、いいタイミングで祝い事が重なる。こんなことは今までにも無かった。俺がこんなのでなければ、小町の誕生会で友人たちと一緒に小町を祝い、俺の高校合格もついでに祝ってもらうことも何ら不思議なことではないのかもしれない。けれど…俺はそういう場に出ることを極端に苦手としている。毛嫌いしていると言っていい。それを承知のうえで、俺に本気で嫌がられてまで…?

 

それに小町の友人たちにとって、俺はほぼ他人…お互い、顔を見知っている程度の存在でしかない。俺にとって、祝ってもらう謂れが無いのだ。なのに突然、うちの兄の高校合格を一緒に祝ってくれだなんて言われたら、向こうだって困るんじゃないのか?…小町の友人たちなら、そんなこと考えないのかも知れないけど…。人付き合いをしない俺には、そのへんは分からないことだらけだ…。

 

 

…ダメだ。考えても全く思い当たる理由が無い。小町も言いたくないのか、俺が納得出来る理由を話してくれる気は無いらしい。想いが軽ければ、口も自ずと軽くなる。言わないということは、それだけ想いが強いということなんだろな……。

 

 

小町は俯いたまま。相変わらず、今の位置関係だと髪に隠れて表情がよく見えない。

 

かわりに気付いてしまった。膝の上で眠るカマクラの背中に乗せた、小さな…少し震える両手に。

 

 

 

……これは俺の負けだな。我ながらチョロいとは思うけど。

 

 

 

「…あー、小町。その、だな……今回だけな」

 

 

刹那、俯いていた小町の顔が勢いよく跳ね上がった。膝の上で寝ていたカマクラが飛び起きるようにして逃げて行ったが、小町はそれに気付く様子も無い。少し赤くなっているが、キラキラした目で俺のことを見つめている。感極まったのか、言葉も出ないようだ。

 

…ちょっと小町ちゃん?そこまで嬉しいことなの?てかそんな目で見られたらお兄ちゃん、浄化されちゃうから!とてもじゃないけど目を合わせられん!見ないで!光になるうううぅ!

 

 

「…こ、小町?」

 

「……ほんとに…?ほんとにいいの?」

 

「お、おう」

 

「ほんとのほんとに?イヤなんじゃないの?それでもいいの?」

 

「だから良いって。そんなに気にすんな。…な?」

 

 

俺はもう一度、隣に座る小町の頭の上に、ぽん、と右手を乗せた…その瞬間、俺は横からの衝撃を受けてソファに倒れ込んでしまった。ちょっと小町ちゃん?今日、マジで色々とおかしくない?

 

 

「ありがと!お兄ちゃん!」

 

「うおっ!ちょ、小町、くっつくなって!」

 

「えへへーいいじゃん!うれしいくせにー!」

 

 

 

 

……結局何故かは分からんままだけど…まあ、いいか。こんなに喜んでくれるなら。なら俺は、何としても合格できるように…精一杯頑張るとしますかね。

 

 

 

 

 

                

                  ― ― ― ― ―

 

 

 

 

 

 

あれから10日が経った。俺の第一志望校である総武高校の受験も終わり、その合格発表を2日後に控えた3月3日の夜。今日は小町の13歳の誕生日だった。

 

今日ばかりは早めに仕事を切り上げてきた両親も揃い、久しぶりに家族全員が揃った夕食となった。母さんが作ったいつもより少し豪華な料理と、オヤジが買ってきた高そうなケーキを頬張る小町を見ていると、こっちまで幸せな気分になってくるのを感じた。

 

夕食後。友人たちを招いた誕生会が週末の7日に開催されるため、学校では祝福の言葉と、ちょっとしたプレゼントを貰った程度らしかったが…数えきれないほどの小物類やメッセージカードををテーブルに広げながら、これは誰から、こっちはあの子からと、ひとつひとつ説明しながら話す小町は、本当に楽しそうだった。

 

 

今はそれも終わり、俺は自室で寛いでいる。ベッドの上に寝転がりながら本を読んでいるのだが…

 

 

……緊張してきた。まだあと2日あるが、明後日は俺の合格発表の日だ。そこで俺が合格しなければ、7日に開かれる小町の誕生会に、俺も合格祝いの主役として出席するという…小町との約束も破ることになってしまう。自己採点では結構いい線行ってると思うんだけど……

 

…すべり止めで受かった高校、家からメチャクチャ遠いんだよな。総武より遥かに遠い。うちの中学からは誰も受けなさそうで、レベルもそこそこの高校が他に無かったから仕方ないんだけど、もしあんなところに通うことになったら…。

 

小町、俺が総武に落ちても、すべり止めの高校の合格祝いするから予定通り出席してくれ、とか言いそうだけど、そんなの絶対ムリだぞ…

 

…ってダメだ。きっと大丈夫なはずだ。小町にもさっき言われただろ。お兄ちゃんなら絶対大丈夫だよ、って。何の保証も無い、たったそれだけの言葉だったけど…俺の合格を微塵も疑っていないことが伝わってきて、本当に嬉しかった。

 

てかそもそも、小町はすべり止めの高校の合格祝いのことなんて一度も口にしたこと無いじゃねえか。冗談でも言われたことがない。やるならとっくに俺に伝えてるはずだろ。勝手に想像して、決めつけようとして…どうしようもないバカ兄だわ。

 

結局、どうして小町があそこまで俺の高校合格祝いに執着しているのかは未だ分かっていない。あの時の小町は、明らかにいつもと違っていた。あの、悲しそうに俯いて座る姿…あれはまるで、小さい頃に小町が家出したときの、あの雪の日の公園のブランコに座っていた…あの時の小町のような…。

 

俺は文字列を目で追っていただけだった本を閉じ、電気を消して布団の中に潜り込んだ。まあ、当日になったら分かることだよな。……たぶん。

 

 

 

 

 

 

「おーいお兄ちゃーん!遅刻するよー!小町もヤバいからもう行くからー!鍵よろしくねー!」

 

 

遠くで小町らしき声がする。玄関のドアが閉まるような音が…ん?いま何時だ?

 

手探りで枕元のスマホを手に取り、画面をタップする。3月4日、8時3分……瞬間、意識が覚醒した。昨日、寝るの遅くなったんだった!

 

 

「やっべ!遅刻ギリギリじゃねえか!」

 

 

飯は…ムリだな。小町の作った朝メシが…

 

ジャージを脱ぎ捨て、制服に着替える。この間僅か12秒。なかなかのタイムだ。

 

鞄の中に適当に教科書を突っ込み、ついでに財布とスマホも突っ込んで…準備完了。

 

部屋を出て階下へ駆け下り、洗面所へ。一応、寝癖もチェックしておく。ヒキガエルのくせに寝癖ついてるプークスクスとか。…ほっとけ。でも余計な攻撃材料を与えてしまった結果、目立ちたくないからなあ…。目はどうしようもないけど…よし、OKだ。

 

テーブルの上に転がっていたガムの容器から1個取り出し、口の中に放り込む。歯を磨きたいのは山々なんだが…。テーブルの上にあった味噌汁用のお椀を棚に戻し、サラダにラップをかけ冷蔵庫に入れる…帰ったら食うからお許しを、小町様。ダッシュで玄関へ。鍵をかけて…と。

 

 

「…いってきます」

 

 

誰にも聞こえない。言う意味も無い。けれど、これと「ただいま」だけは言うようにしている。小町に言われたからな。それを言わなくなったら、誰か家に居てもそのうち言わなくなっちゃうから、と。

 

 

「さて…行くか」

 

 

学校に向かって歩き出す。学校までは急いで15分弱。何とか間に合いそうだな…今日もいい天気だ。雨だったら遅刻確定だったな。

 

 

 

学校に近付くにつれ生徒の数が多くなってきた。そろそろ校門だ。学校モードに切り替えだな…

 

俺は表情を消し、下を向いて誰とも視線が合わないようにしながら早足で校門を通過する。そこに立って挨拶をしていた、生徒指導の見知った教師も俺には何も言わない。パッシブスキル・ステルスヒッキーは今日も発動してるようだ。…これはただ避けられてるだけだろうけど。あんたにゃ都合悪い存在ですもんね、俺。

 

教室の前に来ると、ボロボロの机と椅子が一組、廊下に置いてあった…いや、捨ててあった。いつもの光景だ。奴ら、俺へのいじめが教師にバレないようにはしてるんだけど…これは習慣みたいになってんのな。よく分からん…。

 

俺はそれが自分のものであることを確かめると、それらを持って教室に入った。最前列、いちばん廊下側。そこが俺の机の位置だ。選択権など無い。気付いたら勝手に決まっていた。ドアからいちばん近いから、持ち運びもラクでいいんだけど…それって、向こうも廊下に出すのがラクってことなんだよなあ…はぁ。

 

俺は慣れた動作で机と椅子を元に戻すと、すぐに座って机に突っ伏した。俺が教室に入ってここまでの、1分にも満たない時間…この間は決まって朝の教室の喧騒が途絶える。ここまでがいつものルーティン。その後思い出したかのように、教室に朝の喧騒が戻ってきた。

 

俺はそれを確認し、俺への直接的な行動が無いことに少しだけ安堵すると、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

そして昨日同様、今日も何事も無く放課後になった。ボッチの一日なんて何の変化も無い。最近は平和過ぎるくらいだ。ほんとありがたいわ。学校来て寝て起きて授業受けて、昼は誰も居ないところでメシ食って寝て…以下略。…さて。さっさと帰るか。

 

帰りの挨拶が終わると同時に俺は鞄を引っ掴み、教室の外に出た。いちばん早く教室から出られるのが、この席の大きなメリットだ。まあ、だからすぐ逃げられる、っていう単純な話でもないんだけどな…俺を引き留める方法なんて幾らでもあるし。「逃げんなよ」これだけで詰みだ。

 

だが、最近は受験があったり、卒業を間近に控えていることもあってか、俺に対して直接的な危害を加えようとは考えていないようだ。進路が決まったなら、それを台無しにしてしまうような行為は避けるだろうからな。まさか、奴らの狡猾で慎重なところが、俺に利するときが来るなんてなあ……。

 

昇降口で袋から靴を出し、それに履き替える。特に隠されたり汚されたりはしないけど、上履きも下履きも、持ち歩かないと画鋲が入ってたりゴミ入れられたりするんだよなあ…まったく、めんどく……

 

 

 

 

 

「ようヒキタニぃ、ちょっとツラ貸せよー」

 

 

 

 

 

不意に背中から声が聞こえた。

 

罪人を甚振る悪徳獄吏のような…ねっとりとした悪意に塗れた声。

 

 

 

息が止まる。一瞬で身体が硬直して、イヤな汗が噴き出す不快な感覚が押し寄せてくる。

 

 

 

「俺ら全員受験も終わったことだし、久しぶりにお前と遊ぼうと思って急いで来たんだよ。お前も受験終わってんだろ?遊ぼうぜ」

 

 

 

周囲を他の生徒たちが通りすぎていく。まるで、俺たちのことが見えていないかのように。

 

 

 

「おーい、聞いてんの?遊ぼうぜって言ってんだけど?」

 

 

 

……俺は何を思い上がっていたのだろう。俺に平和な学校生活なんて、あるわけがないのに。

 

 

 

「……はい」

 

 

 

俺は俯いたまま振り返り、一言、返事をする。

 

…いや、まだ暴行を受けると決まったわけじゃない。嫌がらせとか、最悪、金を奪われる程度で……

 

 

 

 

「いいもん作ったんだよ。卒業記念スタンプ。お前に捺してやろうと思ってさ」

 

 

 

 

奴らのうちの一人が、ポケットから何かを取り出した。

 

それを見た瞬間、自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。

 

…落ち着け……顔に出すな……

 

 

 

「さ、いつものとこ行こうぜ。久々だからテンション上がっちまってさー、こんなもんができちゃったんだよなあ。楽しみだわー」

 

「ウッソお前、なかなかエグイもの作るなー。これ、どっちかっていうとBCG注射じゃね?太さも長さも全然違うけどw」

 

 

 

俺はふらふらと、体育館裏に向かう奴らの後に続く。奴の手には、卒業記念スタンプなんて言うにはあまりにも似つかわしくない…禍々しい形状のものが握られている。

 

 

 

 

……それは、何本ものミシン針が貫通した何かだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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