YAWARA!~2020 LOVE/WISH (いろいと)
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プロローグ
ずっと……
いつも不安と迷いが胸にあった。このままでいいのか、間違っているのではないか、後悔するのではないか。
「柔さん!」
この手を伸ばしたことは間違いじゃない。
「松田さん!」
差し出された手を握ったことに後悔はない。
まるで逃げる様に手を繋いで出て行った。握った小さな手は同じように強く握られ、二人は首相官邸を飛び出し、オンボロ自動車に乗り込んだ。
向かうのは成田空港。耕作は今日、アメリカに発つ。記者として力をつけるためしばらく日本に戻らない。
柔は国民栄誉賞授与式をめちゃくちゃにしたことなんて、どうでもよかった。
気になるのはもうすぐ訪れる別れの時。考えると胸が張り裂けそうになる。
搭乗手続きを慌てて済ませてその流れで送り出す。下手に時間があると余計なことを言いそうな気がする。
「俺、アメリカ行っちゃうけど、柔さんも四年後アトランタ行くよな‼」
「はい」
「絶対だぞ‼」
「絶対に‼」
耕作はこの言葉が聞けただけで十分だと思った。エスカレーターを降りてピースサインを掲げて、アメリカに行くだけ。試合の結果は編集部からFAXで送ってもらえばいい。それ以外のことは、恋人ができたとか結婚したとかそう言うことはきっと記事になるから黙っていても知ることになる。
――それでいいのか?
不意に聞こえた声に体は反応していた。降りたエスカレーターを必死に上る。ずっと見てきたのに、ずっと想っていたのにそのことを伝えないまま離れたくはない。下りのエスカレーターを上るのは思ったより大変で、必死に足を前に進めないといけなかった。
いくらでも言う機会があった。ただ意気地がなかっただけ。別れの前に言うなんて卑怯かもしれない。それでも、出会ってからの6年分の想いを伝えたい。さっき握り返してくれた手の力強さが勇気をくれた。
息を切らせて汗にまみれてカッコ悪い。でも、伝えたかった。
「ハァ……ハァ……」
「松田さん……」
◇…*…★…*…◇
エスカレーターを降りていく耕作を見送りながら、胸が張り裂けそうだった。もう、簡単に会えるわけじゃない。二人の間には何もない。元々、記者と選手という細く拙い繋がりしかない二人の糸がぷっつり途切れた気がした。
それもこれも柔に勇気がなかったから。アメリカに行くと聞いてから、自分の想いを伝えることは仕事を頑張ろうとする彼にとって重荷になるのではないか、そう考えた。
でもそれはいいわけだ。だからもう後悔している。涙があふれて止まらない。それなのに足も動かない。
エスカレーターから聞こえた、異常な音。思わず目を向ける。聞き覚えのある声。
戻ってきた耕作に柔は信じられない思いで声も出ない。
「俺……俺……ハァ、ハァ……」
息が上がる。言う言葉はもう決まってた。ずっと前から心にあった言葉。
「君が好きだ」
欲しかった言葉。欲しかった想い。
「あたしも……」
駆け寄る二人。
「ずっと好きだった!」
抱き合う二人。
別れの時はもう間もなくだというのに、時が止まったように離れない。離れられない。
だがそれから一分もしない内に、二人は照れくさそうに離れた。
「あのさ……」
「松田さん、乗り遅れちゃいますよ」
「へ?」
「飛行機です。早く行かないと」
「そうだけど……」
名残惜しそうにしている耕作に柔は笑顔を見せた。
「あたし、アトランタ目指して頑張りますから。松田さんもアメリカで頑張ってください」
「うん。そりゃ頑張るけど」
「アメリカに着いたら電話ください。住所も教えてください」
「それはもちろんするけど……」
何だか思ってた感じと違うような、とても冷静な柔の態度に戸惑う。
「アメリカでの暮らしになれるまで大変だと思いますけど、体調には気を付けてください」
「ああ、行ってくるよ」
耕作は再びエスカレーターの方へ歩き出す。急がないと本当にまずい時間だ。
「うわ!」
背中を押された気がした。違う。暖かさを感じた。
「松田さん……」
「な、なんだい?」
「今度はあたしが追いかけますから。待っていてください」
弱く小さな声だった。さっきまでの笑顔も送り出そうとする行動も、心配かけないため、安心してアメリカに行けるように精一杯見せてくれたものだったのだ。
「俺も頑張るから……」
「待ってないです。会いに行きます。だから安心してください」
「じゃあ、待ってるよ。いってきます」
「いってらっしゃい」
こうして二人は想いが通じ合ったその日、離れ離れとなった。でも、ここからが二人の物語の始まり。その幕は上がったばかり。
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1992年 クリスマス
vol.1 会いたい人
こんなに落ち着かないのも初めてだった。
小さな窓から外を見ると、眼下に霞んだ白い雲が浮かびその上を滑るように通り過ぎる。何度も見てきた風景なのに、胸がドキドキするのはこの航空券が安かったことで心配しているからではない。
そう、あと1時間ほどで会える人を思うと、夜も眠れないほど胸が高鳴った。本当なら眠っていたほうが、肌の具合や体力的には都合がいいのだが、そんなに心はいうことを聞いてはくれない。昨夜、消灯した機内でも柔は夢うつつの中、何度も幻の彼に会っていた。
「松田さん……」
小さなため息が混じるその声に返答する者は、今はいない。
◇…*…★…*…◇
ニューヨークでも朝は静かだ。人々がまだ家の中にいる内は街自体も起きる準備をしているように、落ち着いている。テレビで見るようなゴミゴミとした街並みになるのはもう少し時間が掛かるだろう。
窓から差し込む朝日が目に刺さり時計を見た。もう何度目かわからない。だが今回は書きかけの原稿を机に放りだし鞄の中に財布、ガイドブック、カメラなどを詰め込み肩にかけた。部屋を出る前、滅多に開けない窓を開けた。
真冬の冷たい風が入り込んできた。思ったよりも寒く、気持ちがピンとする。昨晩はとてもじゃないが眠れなかった。だけど、眠たいなんて思わなかった。
「柔さん……」
机の上にある写真立てにはバルセロナ五輪の女子柔道無差別級決勝で柔が宿命のライバルであるジョディ・ロックウェルを一本背負いしている写真が飾られている。この写真を見るたびにあの時の感動と興奮が蘇り、仕事にも一層熱が入る。
この写真を飾っているのはそのためだ。普段の柔の写真を見たら会いたくてたまらなくなる。そうなると仕事が手につかなくなる。折角のアメリカでの記者修業。いい加減な仕事は送り出してくれた全ての人を裏切ることになる。仕事はしっかりしなくてはいけない。だからこそ、この写真だ。
でも、今日は違う。すっかり青空になったニューヨークの空を見上げて思う。
――早く会いたい。
午前到着の便でニューヨークへやってきた柔は、海外へ一人で行くのは二度目。前回は親友ジョディの結婚式に出席するためにソウル五輪後、単身でカナダの地を踏んだ。
あの時は柔道をやめようと心に決めていた。それでもジョディの熱に押され、披露宴の余興でクリスティン・アダムスを相手に試合をした。本意ではなく行われた試合だが、クリスティンの強さに手が抜けず結局一本背負いで勝利した。そんな試合を見せた後にジョディに「柔道をやめる」と告げた時の哀しそうな顔を思い出すと、柔は今でも胸が痛む。でもあの時は本当に柔道をやめる決意をしていた。父である虎滋郎が家を出たのが自分のせいなんだと確信したことで、みんなを不幸にしたんだと思ったからだ。
「NEXT!」
突然聞こえた無愛想な男の声に柔はハッとする。入国審査官の恰幅のいい黒人男性が不機嫌そうに柔を見ている。慌ててパスポートをだし、提示した。
「滞在期間は?」
「三日間です」
「目的は?」
「観光です」
「泊まる所は?」
「テンプルトンホテルです」
「職業は?」
「会社員です」
「帰りのチケットはあるの?」
「はい」
「アメリカは初めて?」
「はい」
終始無愛想な入国審査官はじっと柔のパスポートを見て、首を傾げる。だが目の前の女性が何か悪いことを企てているとも思えないし気のせいだろうとパスポートを返した。仕事とは言え毎日同じことを聞いては同じような答えが返ってくるこの流れに、もう何年も前から嫌気がさしている。
「おい、今のヤワラ・イノクマじゃないか?」
隣にいた同僚が聞いてきた。
「ああ、パスポートにはそう書いてあった」
「なんだって!バルセロナ五輪のメダリストじゃないか!気づかなかったのか?」
「え?」
「ジュード―のメダリストだよ!あんなに小さいとは思わなかったな」
柔を担当した審査官は今はもう遠い柔の後ろ姿をながめて、思い出す。バルセロナ五輪での女子柔道無差別級決勝戦は見るもの全てを魅了した。どちらを応援していたわけじゃない。小さなアジア女性がカナダの重量級の選手と死闘を繰り広げているのをただ見ていたつもりだったが、気づけば立ち上がり拳を握り、家族総出でテレビにかじりつき見守った。
そう、あの時は久々に胸が熱くなったのを覚えてる。その後、金メダルを取ってアメリカのテレビでも特集されていて驚いたのが、物心つく前から柔道をやっていたと言うこと。すさまじい努力と熱意だと感じた。
それなのに自分は、ほんの10年ばかり入国審査をしているだけで、嫌気がさすなんて生ぬるいな。自嘲気味に笑うと男は声を張り上げた。
「NEXT!」
今までは柔道の試合で来ていたのであまり考えもせず、飛行機に乗ったり降りたりしていた。鶴亀トラベルに就職して、やっと搭乗の仕方や手続き何かを知ったが、入国審査を通ったり荷物を受け取ることを一人でやるのには戸惑い思いの外時間が掛かった。
荷物は大きなトランクケースが一つと手荷物が少々。柔はそれを抱えて出口へと急いだ。
小柄な柔は大柄なアメリカ人に埋もれてしまい、どこにいるかわからないはずなのだが耕作は長年培ってきた柔眼で瞬時に発見し手を伸ばした。柔もまたどんなに大音量の中でも聞き取れる、松田ボイスを聞き取り手を伸ばした。
「柔さん!」
「松田さん!」
もみくちゃにされた柔は、恥ずかしそうにセミロングの髪を整えると見上げるように微笑んだ。耕作も折角つないだ手を離して、頬を人差し指で掻くと照れたように笑う。
「ひ、久し振りだな」
「そ、そうですね」
妙に意識し合う二人は、選手と記者と言う関係から恋人同士になり初めて向かい合う。今までが今までだから、照れや恥ずかしさが大きいがそれでも二人はこの日を心待ちにしていた。
英語での会話文はフォントを変えています。
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vol.2 助手席からの景色
柔の荷物を耕作が引き受け、空港の駐車場に向かった。日本ではバイク移動が多かった耕作だがさすがにアメリカでは車移動となった。小回りがきくバイクの方が耕作としては便利なのだが、長い移動を要するアメリカでは車で寝起きすることもあるし、急な雨や風に左右されない車が重宝される。とはいっても、会社所有の車でとてつもなくボロい。乗り心地だってよくない。車検がないアメリカでは動けば乗れる車は、生涯現役なのだ。
「荷物はトランクに入れておくから、必要なものは持っておいて。パスポートとか現金とか」
「はい」
柔がバッグの中のものをチェックしていると、左の手首に見覚えのあるものが光った。
「あ、それ、付けてくれてるんだ」
「もちろんですよ。せっかくお誕生日に頂いたんですから」
柔は耕作から貰った腕時計を大切そうに触れる。小さな白い文字盤の淵はピンクゴールドの枠があり文字はローマ数字で書かれていた。バンドは細い革製で女性らしいワインレッドをしている。誕生日を知っていてくれたことにも感激だが、わざわざNYからプレゼントを送ってきてくれたことにも感激したのは、3週間ほど前のことだ。
「松田さん、あらためてありがとうございます」
「いや、柔さんと一緒に選べたらよかったんだけどそう言うわけにもいかなかったから。趣味とか全然わかんないし、好みに合わなかったら申し訳ないと思ったんだが」
「そんなこと気にしないでください。それにこの腕時計あたしの大好きなデザインです。色も素敵だし、本当に気に入ってるんですよ」
「そう言ってもらえると、こっちもうれしいよ」
耕作は照れて柔の顔をまともに見れない。誕生日がいつかなんて随分前からわかっていた。記者なら当然だ。
しかし、記者と選手と言う関係で誕生日にプレゼントを渡すのはちょっと違う気がしていた。友達や恋人、家族ならいいのだろうが。だが今年は念願叶って恋人になれて、耕作は柔のために慣れない買い物に出かけたのだ。忙しい合間を縫って必死に似合うものを探した。絶対に気に入ってもらえる自信などなかったが、出来るだけの努力はした。その努力も柔の笑顔で全て報われた。耕作は大満足だった。
「ところで時刻は合わせたかい?」
「はい、もうばっちりNY時間です」
「さすがだな」
得意げに笑う柔だが、実は日本にいる時からこの腕時計はNY時間なのだ。わざと時差をつけてこの腕時計の時間が耕作のNY生活の時間としている。この時計を見ては電話をしたり思いをはせたりしていることは耕作には内緒にしている。とはいえ、実際にNYに来たら時間もずれているのでさっき慌てて時計を合わせた所だ。
ボロイが大きな社用車は、見た目ほど悪くないなと柔は思った。それはきっと隣に耕作がいるからだと言うことはまだ気づいていないが。
空港から出て当然のことながら日本とは逆の右車線。柔は心なしかソワソワする。視界の流れが慣れないのだ。
「長旅疲れただろう?」
耕作はNYに来て3ヶ月。もうすっかり走り慣れた道のように運転している。
「いえ、そんなこと。飛行機には何度も乗ってますし」
「そう言えばそうだな。困ったことにはならなかった?」
「まあ、少しは。会社の人に色々聞いていたんですけど、実際その場面に遭遇すると結構パニックになりました。入国審査は慣れないですね」
「柔さんでも何か言われるのかい? 俺みたいな胡散臭い新聞記者なんかいつも因縁つけられては時間食ってるよ。スパイじゃないか? テロリストじゃないか?って目が言ってる」
「そんなことあるんですか?」
柔はクスクスと笑う。耕作は横目で柔を見て満足そうに微笑む。すると柔も耕作の方を向いて二人は目が合う。そして流れる照れた沈黙。車の窓だけがうるさく景色が変わる。
口を開いたのは柔。
「松田さん、車の免許持ってたんですね」
「あ、ああ。田舎出身者は車の免許持ってて当たり前な中で育つからな。大学で東京に出てくる前に、免許取っちゃうんだ。二輪の免許を取ったのは大学の時だけど」
「私も免許取ろうかな」
「柔さんなら直ぐに取れるよ」
「どうしてですか?」
「車もバイクも反射神経とセンスがあれば大丈夫。学科は大体誰でも受かる」
柔はじーっと耕作の横顔を見て、顔をほころばせる。
「やっぱりやめた」
「ええ、何で?」
「だって必要ないですから」
「そうかな?」
「松田さんがいるから必要ないですよ」
そう柔が言うと、車体が大きく横に揺れた。
「キャ!」
「ご、ごめん。ハンドル操作ミスった」
柔はやっぱり免許取ろうかなと一瞬思った。
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vol.3 ニューヨーク・ラプソディ
空港から15分ほど走ると大きな橋が見えてきて、今までの景色とは変わりNYらしい高層ビルも見え始めた。さらに15分ほど行くと賑やかな街並が柔の胸をくすぐった。
耕作はアパートの駐車場に車を停めた。当初の予定ではどこかいい感じの店でブランチでもして、柔の好きそうなショッピングなんかを計画していたが柔から、
「松田さんがいつも行っているお店に行ってみたいんです」
なんて可愛いことを言われたら従わないわけにはいかない。耕作は「仕方ないな~」なんて言いながら車を走らせた。日刊エヴリーが借りている駐車場は路上に停めるよりもはるかに安全だ。滑らかに車は駐車場に入り、耕作の右腕が柔がいる助手席の後ろに回されてものの数秒で綺麗にバック駐車は完了した。
「お疲れ~着いたよ。ん? どうした?」
「え!? あの、何でもないんです。お疲れ様です」
挙動不審な柔に首を傾げつつ、耕作は車を降りた。柔は胸に手を当ててさっきの耕作の凛々しい表情にやや興奮した気持ちを落ち着けていた。
――ずるいわ。あんな姿見たことないんだもん。
ニューヨークの街は東京とは全然違う。コンクリートの近代的な建物の中に、西洋風のオシャレな装飾が融合しそこに住む人々と同じように街にも個性が溢れている。しかも今日はクリスマス。街の装飾もド派手でいかにもアメリカと言った様子だ。日本でもイルミネーションや装飾はなされるが本場とは規模が違う。
目をキラキラさせながら隣を歩く柔はどこにでもいる女の子だ。とはいえ、23歳なので女の子という年齢ではないのだが、耕作は高校生の時から柔を見ているので時折見せる無邪気な笑顔に懐かしさを感じる。大人になったと言えば聞こえはいいが、無邪気に笑うことすら出来ない環境に彼女はずっと、そして今も居続けているのだ。
そう願ったのは自分なのに。それなのに、少し心が痛む。だからせめて自分と一緒にいる時は屈託のない笑顔でいて欲しいと願う。
「松田さん?」
「ん? どうした?」
「なんか、考え事でもしてたんですか?」
「不思議だなと思って」
「何がですか?」
「柔さんとニューヨークにいることがね、不思議なんだ。今までは東京以外だと試合会場ぐらいしか一緒だったことがないだろう。だから……」
「ソウルでは公園に一緒に行きましたよ」
「まあ、そうなんだけど」
「これからは、色んなところに行きましょうね」
キラキラの笑顔を向ける柔。耕作はそれだけで胸がいっぱいになる。
「そうだな。世界中、行ってみたいな」
耕作がよく行く店はいかにもアメリカ人が好みそうなハンバーガーショップだった。日本のものとは大きさも量も桁違いに大きい。国民性が出ているようでダイナミックなそのハンバーガーを見た途端、柔は絶句した。
「大きいだろう? 食べきれなかったら残していいから」
バケツみたいなカップに入ったコーラを飲みながら、耕作が言うと柔はガブリとかぶりついた。勢いよくいったつもりだったが、パティにすら辿り着いていない。何口目かにようやくパティとソースの部分が口に入ってきた。その途端、柔は美味しさに目を見開く。ほぼ無心で柔はその化け物みたいなハンバーガーを平らげた。
「はー美味しかったー」
「さすが、猪熊の血筋……」
「何か言いました?」
「いや、ははっ」
耕作でもこれを食べればお腹が苦しいくらいなのに、それをぺろりと平らげる柔。滋五郎の遺伝子は確実に柔にも存在している。柔道以外にも、確実に。
「そういえば短大行ってた時に、柔さんハンバーガーショップでバイトしてたよな」
「ええ、直ぐに辞めちゃいましたけど」
「ソウル五輪に三葉女子柔道部のこともあってバイトどころじゃなかったもんな」
「ええ、でもいい経験になりました。松田さんも来て下さったことありましたよね」
「ああ、全日本選手権の前に何してんだって……」
そうあの時くらいから、柔を取材対象だけではなく一人の女性として見るようになった。高校を卒業して女子大生になって、子供から大人に変わる様を身近で見ていたのは耕作だった。でも、耕作の中には長嶋や力道山に憧れてそんなスーパースターの記事を書きたいという夢もあった。記者として傍にいることも、一人の男として傍にいることを分けて出来るほど器用じゃない。だから遠回りした。
「腹いっぱいになったし、買い物でも行くか?」
「ホント!? 楽しみ」
柔の満面の笑みに耕作は心底幸せを感じる。だがアメリカに来て仕事三昧の耕作に、買い物、しかも女性が好む場所を知っているわけもなくこっそりガイド本を開く。英語はそこそこ会話程度なら出来るようになったが、文字はまだ読むのに時間が掛かる。手をこまねいていると、柔が不意に耕作の視界に入る。鞄に慌ててガイド本をしまおうとするが悲しくも地面に落ちた。
「あ! いや、これは」
「考えることは同じですね」
柔は日本で買ってきたガイド本を手ににこりと微笑む。
「松田さん、お仕事忙しいだろうし、お買い物とか興味もないんだろうなって思ったから」
「図星だが、情けない」
「そんなことないですよ。二人で初めて行くのも楽しいですよ。エスコートされるよりも新しい発見を二人で出来た方が思い出になります」
「そうかな」
「そうです!」
二人はさっそくガイド本に従い五番街へ向かう。その道中も柔は楽しそうにあちこちを見ながら、立ち寄りながら歩いていた。ところがいざ五番街へ行ってみると、思ったよりも混み合ってはいなかった。
「意外だな。クリスマスってもっと賑わってると思った」
「賑わってるのは昨日までのようですよ。当日は教会に行ったり家族と過ごしたりして、外出する人はあまりいないようです」
「日本の正月のようなものか」
「そう言われれば、そうですね」
活気と言う面では物足りないが、クリスマス装飾がされた五番街は特に美しい。各ブランドのウインドウはまるで芸術作品のようで見ていて飽きない。何を見ても「きれい」「かわいい」と感動する柔は本当にどこにでもいる女の子だ。
「お店はどこもお休みですね」
「そうだな。店とか関係ない場所ないかな」
「タイムズスクエアなんてどうですか?」
「タイムズスクエアか……」
「だめですか?」
「いや、行こう。せっかくNYまで来たんだから」
NYの観光スポットであるタイムズスクエア。数年前までは治安が悪くて近寄ることも出来なかったが、近年は市長の働きもあり徐々に治安は回復しつつある。しかし油断は禁物だ。ここはアメリカなのだから。
タイムズスクエアは巨大なビルボードやネオンで有名である。昼間に行ってももちろんビルボードの広告は色鮮やかに光り続けている。
「うわー」
柔は立ち止まって見上げて目を真ん丸にしていた。その横を何人もの人が通り過ぎ耕作はさすがに柔の手を引いた。
「危ないから」
突然のことに柔は「は、はい」と顔を赤くする。
車も行きかい、人も多い。いくら柔道の達人とは言え柔は小柄な女性だ。不意に何かされたら手も足も出ない。
「柔さん、そろそろ別のところに……」
「あー! ここ! 映画で見たところだわ」
瞳をキラキラさせながらそういう柔に耕作はこれ以上何も言えなかった。
柔は耕作の手を引いて、人ごみをかき分けて歩いて行く。そして気づくと明らかに人通りの少ない道を歩いていた。
「ここ! 『ニューヨーク・ラプソディ』のラストシーンの撮影場所だわ。松田さんも見たことあるでしょ。思い合う二人がすれ違いなかなか結ばれなかったけど、最後にここで再会して言うのよ。『最初からこうなる運命だった』って。素敵よね」
夢の中にいるような表情で小汚い路地を見上げる柔。耕作はその映画を何となく見たことはあったが、あまり興味を持っていなかった。だが覚えてるのは、ギャングの少年と大企業のお嬢様がこの場所で出会い、引き裂かれ、数年後にこの場所で青年実業家になった少年と実家の会社の倒産で行方不明になっていたヒロインを探しだし、娼婦になる寸前で再会を果たすというもの。
だからこの場所は特別治安が良くないのだ。人もまばらなのがいい証拠。耕作は辺りを警戒していた。
「Hey!Girl!」
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vol.4 タイムズスクエア
「Hey!Girl!」
野太い声がして、二人の前に大きな影が出来る。
「こんなところに来て、映画のヒロイン気取ってんのか?」
振り返ると、2メートルはありそうな大男が異様な目つきで立っていた。酒に酔っていのか薬物かはわからない。ただ、ここにいては危険と言うことだけがわかった。
「行こう。相手にしちゃいけない」
柔も無言で歩き出す。しかしいつの間にか背後にも男が二人いて、通り過ぎることが出来ない。
「すまない、通してくれないか」
「ダメだ。ここは俺たちの道だ。通りたきゃ金を払いな」
「松田さん、なんて言ってるの?」
「気にしなくていい。俺が何とかするから」
耕作はポケットから財布を取り出そうとした。すると後ろの男の一人が、柔の細い腕を掴んだ。柔は考えるよりも反射に近い速度で、その男を投げ倒した。倒れた男は不意を突かれたせいで受け身を取りそこね、道路で意識を失っていた。それに激昂したもう一人の男が柔に襲い掛かろうとしたが、耕作の前にいた大男が制止した。
「やめろ!もういい!」
そう言われ、柔に腕を伸ばしていた男は引き下がった。
「行け!もう二度とここには来るな!」
何が何だかわからないが、耕作は柔の手を引いてその場から立ち去る。早足で引っ張るように歩く耕作に柔はただ付いていく。耕作は柔の腕が小さく震えていることに気付いていた。怖い思いをさせてしまって、守ってもやれない自分が不甲斐なく、言葉も掛けられないまま無言で歩き続けた。
「松田さん……松田さん……松田さん!!」
柔の大きな声に耕作は我に戻り、柔の顔を見た
「ごめん……」
「どうして謝るんですか? あたしが勝手に裏通りに行っちゃっただけなんですよ。あたしが悪いのに、なんで松田さんが謝るんですか?」
耕作はただ俯く。自分の力が足りないこと以上に、柔に助けて貰ったことが情けなくて、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。せめてアメリカにいる時くらいは普通の女の子でいさせてやりたかった。それなのに……。
耕作は柔が腕を押さえていることに気付いた。自分が握っていた方の腕だ。
「痛かっただろう」
「そんなこと……」
「ごめん……ほんと、ごめん」
どうしてこんなことになってしまったのか。楽しいはずの観光、一緒にいるだけで幸せな気分になっていたのに今二人の間には自分を責める感情で塞ぎこんでいる。
そんな二人の間に突然、オレンジ色の風船の花が差し出された。驚いて二人は顔を上げる。そして腕の主の方を見た。
「わぁ~」
柔は驚きの声を上げる。
ピエロの格好で長い脚の大道芸人が笑顔で柔に風船の花を差し出していた。
「ありがとう」
思わず日本語で言ってしまったが、わかっていたようでニコッと微笑むと相方の方へ行ってしまった。
「俺たちの雰囲気を見て、いたたまれなくなったのかな」
「かもしれませんね」
柔と耕作は貰った風船を持ってピエロの方へ行くと丁度大道芸が始まったところだった。風船を使って人形などを作ったり、スティルトと呼ばれる竹馬に乗ってジャグリングをしたり、周囲の人の目を引き楽しませた。もちろん柔も耕作もその芸を夢中で見ていた。
一通り終わるとスティルトに乗ったピエロがかぶっていた帽子をひっくり返すと、チップを入れてとジェスチャーした。楽しませてくれたお礼に柔ももちろんチップを入れる。
「楽しかったわ、ありがとう」
さっきとは違う柔の笑顔に、ピエロも満面の笑みで答える。耕作も「Thank You」と慣れた感じで言うと、二人は手を取り合ってその場を立ち去った。ピエロはやれやれと言った様子で、再び仕事に戻った。
◇…*…★…*…◇
午後4時になった頃、耕作はそろそろ柔をホテルにチェックインさせようと考えていた。
「ホテルはどこを取ってるの?」
「テンプルトンです」
「ここから近いな。先にチェックインだけして、後から車で荷物を運ぼう」
「はい……」
先に歩いて行く耕作の背中を見ながら柔は俯く。
「どうかしたか?」
「いえ、なんでもないです」
柔は笑顔を作って歩いて行く。
テンプルトンホテルはここから歩いて10分程度の場所にあった。五年ほど前に建てられたので外観は近代的でセンスのいいホテルだった。しかし、ここで思いもよらないことが起こる。
「なんだって!どういうことだ?」
耕作がフロントスタッフにこんな強い口調になったのには理由がある。英語が流暢に話せない柔に変わって耕作がチェックインをしようとしたのだが、スタッフによると予約が入っていないという。代理店勤務の柔がそんなミスをするはずがなく、何かの手違いじゃないかと思いもう一度調べてくれと頼んだが、結果は同じだった。
「柔さん、ホテルはここであってるんだよな」
「ええ、でもあたしが予約したんじゃないんです。社の規定で自分の予約は他の人にしてもらわなきゃいけなくて、それで頼んだんですけど……」
「その時に、ミスったか、何か手違いがあったか」
頭を抱える耕作とは打って変わって、柔はとても冷静だった。なぜなら柔には少々心当たりがあったからだ。
今回のニューヨーク旅行は急きょ決まったものだった。格安航空券の空きが出て、しかも自分の休みも合いクリスマスというグッドタイミング。ダメもとで耕作に電話で確認すると、仕事も一段落するから遊びにおいでと言われ予約をしてしまったのだ。ホテルはさすがに取れないだろうと思っていると、昼休みに同僚の狭山が、
「もしかしたら一件キャンセルが出るかも」
と、言ったので空きが出たら予約して欲しいと頼んでいたのだ。
「もし、予約できなかったらどうするの?」
と、もう一人の同僚の塚本に言われると柔は困った顔をしたのだが狭山が
「会いに行く人がいるなら泊めて貰えばいいじゃない? ホテルだって無理矢理取らなくてもいいんじゃないの。その方が別にお金使えるわよ」
などと言うものだから柔は必死にそんなんじゃないと否定をした。友達に会いに行くのだと言えば言うほど二人の視線はニヤけてくる。
「授賞式の時のあの人でしょ?」塚本が言う。
「クリスマスイヴの前日に会社に来た人だよね?」と狭山。
全部図星の柔だが全力で否定した。
「そこまで否定するなんてあやし~」「秘密の関係なの?」などと散々遊ばれ昼休みが終わる頃には狭山から「ホテルの話、可能性は低いからもしもの時のことも考えておいた方がいいわよ」と冗談だが本気だかわからない言葉を掛けられた。
実際、本気の発言だったと今まさに柔はわかったのだが。
「どうしたらいいんだ」
うんうん唸る耕作の横で柔は涼しい顔をしていた。
「とにかく、ここから出ましょう。迷惑になりますし」
柔はフロントスタッフに軽く会釈をすると、出口に向けて歩き出した。耕作もそれに追随していった。それを見送るスタッフに声を掛ける人が。
「何かトラブルでもあったのか?」
「いえ、たいしたことではありません。社長が気にされることなど何も……」
「そうか……」
そう言って、柔と耕作を見つめる彼はこのホテルの社長。背が高く顔も整っていてセンスのいいスーツに身を包み不敵に微笑んでいた。その表情がまた美しく恐ろしかった。
「これからホテルを探して空きがあるか……いや、諦めちゃダメだ。しかし、クリスマスだ……」
耕作は深いため息を吐く。でもニューヨークはホテルが多い町だから一件ぐらいなら空きがあるかもしれない。そう思い、近場のホテルを片っ端から聞いて回ったがどこも満室。離れた所に行くしかないかと思った時、柔の表情が目に入った。
「ごめん、疲れただろう? 日も落ちて寒くなって来たし」
「いえ、あたしがしっかり確認してなかったからいけなかったんです。松田さんにご迷惑をお掛けしてしまって……」
「そんなこというなよ。迷惑なんて全く思ってないんだから。ただ、泊まる所が……」
「松田さんのアパートがあるじゃないですか」
「は? あそこは……」
「何か不都合でも?」
「いや……ないが……あるというか」
柔は首を傾げた。
「あ! また部屋が散らかってるんですね? そんなの全然気にしませんよ。片づければいいことですし」
「それもそうなんだが……」
「松田さんがダメだって言うなら、あたしこのまま野宿するしか……」
「わかったよ。野宿なんてさせられるわけないだろう。凍死するぞ」
お詫び 2020.2.6
ピエロが立ち去ったシーン以降が抜け落ちてしまっていました。
次のお話と続かなくて違和感を持たれた方もいたかもしれません。
申し訳ございません。
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vol.5 アパートの惨状
耕作は頭を掻きながら自宅アパートに向けて歩き出す。初めからこうしておけばよかったのだが、耕作の心には迷いがあった。恋人になって3ヶ月。空港で別れたきりで、たまに電話をしたり手紙を書いたりしただけ。恋人という雰囲気は今もって感じられない。
高校生の頃から六年間、記者として傍にいた。男として見てくれたのがいつからだったのか聞いたことはない。しかし、休みを使って会いに来てくれる柔は本当に自分を好きでいてくれるんだと思うと胸がいっぱいになる。恋人になったからと言って直ぐに恋人らしく振舞えるほど器用じゃない。そんな感じで理性が試される密室に一緒にいるのはあまりに過酷であまりに残酷なことだと耕作は肩を落とす。
その後ろを歩く柔。耕作の背中が僅かに困っているのを感じながらも、アメリカにいる間は離れていたくないというのが正直なところで、ホテルも取れてないならそれもそれでいいかと簡単に考えていた。柔は耕作を困らせるのがきっと好きなのだ。その間だけ、耕作は柔のことだけ心配し、優しくして、見てくれているから。無意識にやってきたこの行動をズルいという人もいるだろうが、柔がこんなことをするのは耕作だけ。それだけ自分を見て欲しいと思っているのだ。
「松田さん、荷物……」
どんどん歩いて行く耕作は駐車場を通り過ぎて行ってしまった。荷物はまだ車のトランクの中。さすがにこれがないと困る。
「あ、ああ。そうだった」
不機嫌と言うわけじゃないが、気がそぞろだ。柔のことを考えているのか、それとも別のことか。いつもまっすぐ見てくれる耕作ではない気がした。本当に迷惑なのかもしてないと思ったら、胸が苦しくなった。
「松田さん、迷惑ならあたし……」
「迷惑なんて思ってないよ。これっぽちも」
顔は笑っている。でも、曖昧な笑顔。柔には耕作の心の内が見えない。
耕作も柔の真意が見えない。選手と記者という関係性しかなかった今までとは明らかに変わったはずの今の状態。耕作の部屋に泊まるということが何を意味するのか柔は分かっているのだろうか。大人の男女が一つ屋根の下で眠るという現実を柔はどう考えているのだろうか。
アパートに入口の前は少し階段になっており、上るとドアがありエントランスがあった。右側のエレベーターは少し古く大きな音を立てながら降りてきた。二人は会話もなくただ待っていた。緊張のような張りつめた空気が二人にはあった。
キンッという機械音がしてドアが開く。大人が五人も入れば窮屈になりそうな狭い箱の中は、二人の距離を縮めたが十秒もしない内に七階まで上がり切った。エレベーターを降りて廊下を右方向に歩く。廊下の電気は付いていたけど、さほど明るくない。正面には小さな窓があったが、夜のためか何も見えない。一番奥の部屋まで行くと耕作は鍵を取り出す。重い鉄のドアを開けると、声も出ないほど散らかった室内が目に入ってきた。
「ごめん、ちょっと待っ……」
「何言ってるんですか!? こんなに散らかっててちょっとで済むわけないじゃないですか。二人がかりで片づけますよ!」
「いや、その……」
「なにか問題でも?」
「いえ、ないです……」
柔の想像をはるかに超えていた。きっとアメリカに来てから一度だって掃除なんてしたことないだろう。それ程、物が散乱し汚れとゴミがたまっていた。
柔はとりあえず荷物を部屋の隅の方に置き、ゴミ袋を受け取ると明らかなゴミから袋に詰めはじめた。レトルトやインスタントの空き箱やテイクアウトの容器など匂いの発生源ともいえるものは即刻ビニール袋に封印した。その間に耕作は仕事で必要なものなどを仕分けし、別の部屋に移動させた。
足元の掃除が終わるとキッチンに溜まった食器を洗い、シンクとコンロを磨いた。とてつもなく汚れていたが、とりあえずサッと取れる汚れだけ除去した。時間はあまりかけられない。まだ玄関入ってすぐのキッチンだけしか掃除してないのだから。この後、奥にあるリビングを片付けないとコーヒーだって飲むこともできないのだから。
黙々と片づける柔。耕作の部屋が汚いことは分かっていたし、そんなことで驚いたりはしない。ただ、ちょっとは期待した。以前みたいに突然来たわけじゃない。予告していたのだから、少しは掃除して迎えてくれるんじゃないかと。でも実際は違って、柔はこのアパートに来ること自体歓迎されているようではなかった。それは、恋人として見られていないということなのだろうか。
黙って掃除している柔に声も掛けられず、仕事で使うものを二つあるベッドルームの内の片方に運んでいく耕作。
このアパートは日刊エヴリーのオフィスも兼ねているので少し広い間取りになっている。玄関ドアを開けると左側にキッチンがあるが、リビングダイニングも同じなので見渡せるようになっている。キッチンの横にはバスルームがあり、リビングの左右に部屋がある。左側の部屋はアパートの端なので窓が二つありそこをベッドルームにしている。右側にもベッドがあるがそちらは仕事部屋兼資料室のようになっていて、書類が山積みされている。この部屋のベッドが使えれば問題ないのだが、長年使ってない上に物が乗っている。耕作の前任者もその前任者もベッドとして使用していなかったのは直ぐにわかった。
「ここは書斎? ですか?」
「いや、仕事部屋みたいなものだよ。資料とか地図とか色々置いてある」
「あ! また貼ってるんですか!?」
柔の視線の先には日本の耕作の部屋にも貼ってあった、柔がひったくり犯を巴投げした時の写真のポスターだ。下着が丸見えで恥ずかしい事この上ないのだが、今更騒いでも仕方がない。でも、部屋に飾るセンスはわからない。
「これは俺の原点というか、原動力みたいなものだからな」
「誰か来たときははがしてくださいね」
「顔写ってないからわからないよ」
「そういうことじゃないんです! どうせ貼るならもっといい写真がよかったわ」
「俺は柔道してる柔さんがいいけどな。これなんてあの時の感動がよみがえるようだろう」
バルセロナ五輪の無差別級決勝でジョディを一本背負いしている写真を指差した。
「それはそうですけど……」
何か腑に落ちない柔に耕作は呟いた。
「これから増やしていけばいいよ」
「何をですか?」
「二人の写真を」
照れ臭そうに言う耕作の柔は胸がキュンとなる。
埃っぽい仕事部屋を出ると柔はリビングの片づけに着手した。どんどん袋詰めされたゴミはキッチンの隅に寄せられていつ捨てにいってもいいようになっていた。耕作は柔を信用していたので、そのゴミ袋をチェックすることなくアパートの外にあるゴミコンテナに捨てに行った。何往復かして部屋に戻ると冷たい風が吹き抜け、まるで部屋そのものが変わったように綺麗に片づけられていた。
「これが本当に俺の部屋か?」
「それ、前にも二回言ってますよ」
「そうだったな。君が高校生の時と……」
この時、二人して思い出したのは同じ場面。一昨年の全日本選手権、柔を武道館まで送って行った耕作はバイクで転倒し骨折した。責任を感じた柔は後日、耕作のアパートを訪れたのだが、柔の突然の訪問に驚いた耕作は不自由な足のことを忘れて思い切りドアから飛び出し、柔に抱き着いてしまった。さらに足元に落ちたリンゴのせいで耕作はさらに体制を崩し、柔の胸に顔を埋めてしまう。しかし焦りと足の踏ん張りのきかないことにより、ついには柔を押し倒してしまうという失態を犯していた。しかも隣人に見られる始末。
「あははっ、あの時はまいったよな。お隣さんも助けてくれないし、何とか立ち上がれたけど……」
「ホント、そうですよ。でもあの後、楽しかったな」
柔は思い出す。食事を作って合間に掃除もして、柔道の話もしたけどそれ以外の話も沢山して一緒にご飯も食べて、そして……
耕作も思い出していた。柔が言った「泊まって行っちゃおうかな」の後、「本当に泊まっていくか?」と冗談半分、本気半分で言ってみた。あの時、柔は何を言おうとしたのか。聞いてみたいと思っていた。でも、その機会を完全に失い今に至る。耕作は柔の表情を伺うが、ちょっとむくれたような表情になっており聞くのは今じゃないなと言葉を飲み込んだ。
柔は耕作が「本当に泊まっていくか?」と言われた直後、邦子がお泊りセットを持って入ってきたところを思い出した。あの当時、耕作と邦子は恋人同士なのだと思っていた。半信半疑ではあったが、お泊りセットを持ってくる辺りそういう関係なのだろうとその時は思った。ついさっき「泊まっていくか?」と言ったのに彼女がいるのになんて不潔なのだろうと思った。
しかし、それでも柔の中で耕作と邦子が恋人同士であるイメージが浮かばなかった。邦子は幾度となく柔を牽制しに来たが、耕作は変わらなかった。恋愛には鈍感な柔は自分のカンを信じられなかった。なぜなら、富士子と花園の関係すら全く気付かなかったのだから。
「柔さん?」
耕作の声で我に返る。
「え?」
「夕食にしようか? さっき買ってきた」
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vol.6 夢のようなクリスマス
「夕食にしようか? さっき買ってきた」
ゴミを捨てに行ったにしては帰りが遅いなと思っていたら、食事の調達に行ったみたいだ。その間に細かい片づけと洗い物をして、窓を開けて空気を入れ替え、見違えるほど部屋は綺麗になった。
「もう遅かったからあんまり種類もなくて、好みに合うか分からないけど」
耕作が買ってきたのは紙のBOXに入ったお弁当のような物。中には鶏肉を焼いたものと小さな容器に豆のサラダやマッシュドポテトが入っていた。別の容器にはクラムチャウダーが湯気を立ていい香りが柔の鼻をくすぐる。そして最後に日本ではあまりなじみのない輪っか状のパンが出てきた。
「ドーナッツ?」
「これはベーグルって言うパンだよ」
「パンですか。まさか松田さんから食品について教えられるとは思いませんでした」
「どういうことだよ」
「だってラビオリもカンネッローニも知らなかったじゃないですか」
「ははっ、そうだった」
すっかり綺麗に片付いたテーブルの上に柔が盛り付けし直した、チキンやサラダを並べ耕作はワインを持ってきた。
「それは?」
「いつか一緒に飲もうと思って買っておいたんだ。NY産のワインだよ」
柔はさっきまで感じていた歓迎されてないんじゃないか、恋人と思われていないんじゃないかと言う不安な気持ちが一気に消し飛んだ。ビール好きの耕作がワインを買っているなんて、しかも一緒に飲もうと思って何て言ってくれるとは思ってもいなかった。
「うれしい。ありがとうございます」
「いや、これくらいしかできないから」
クリスマスだけどクリスマスらしい雰囲気の一切ない部屋で、二人は向かい合い赤ワインが入ったグラスを胸の位置まであげて「乾杯」と言った。慣れない二人はお互いに照れて耕作はワインを一気飲みしてしまった。
「ぷはー」
「甘くておいしい」
「ああ、ただ俺はやっぱりビールの方が……」
「ふふっ、そうでしょうね」
微笑む柔の目はうっすら潤んでいた。アルコールで酔ったのだろうかと耕作は思っていたが、本当は違う。柔は嬉しくて感動したのだ。ちっともロマンチックじゃないし、高校生の時に思い描いてきたクリスマスとは全然違うけど、好きな人と一緒にいるだけでこんなに幸せで涙が出そうなのだ。でも今は耕作を困らせたくないから堪えている。
二人は離れていた間に何があったのか、他愛ないことも全て報告し合った。もちろん会話の中には柔道のことも多く含まれたが、柔は今はちっとも柔道の話をするのが嫌じゃない。むしろ二人を繋ぐ大切なものだ。それに柔道の話をしている耕作はいきいきしている。それだけで十分なのだ。
「まだ、お腹はあいてる?」
「ええ、大丈夫ですけど」
「じゃあ……」
耕作は立ち上がり冷蔵庫から何か取り出した。
「柔さん、目閉じてて」
何が起こるのかわくわくしながら目を閉じる。耕作が部屋を歩く気配がする。椅子に座りテーブルに何かを置いた。
「目、開けていいよ」
柔はそっと目を開ける。揺らめくキャンドルが2本とあまり馴染みのない形のケーキが白い皿に乗っていた。
「あの、これって、クリスマスケーキですか?」
「それと、柔さんの誕生日ケーキ。一緒に祝えなかっただろう? ついでみたいで申し訳ないけど」
柔は首を横にふる。
「そんなことないです。とて……も……うれ……しい」
涙が溢れて声にならない。こういったことに無神経だと思っていた耕作が、こんなことをしてくれているなんて柔は不意打ちのプレゼントに涙しかでない。
「ど、どうした? やっぱり腹いっぱいだったか?」
首を横に振る。そして涙を拭いて耕作を見つめる。
「うれしくて、こんなにうれしいことって初めてで……だから涙が出るんです。ありがとうございます」
「そんなに喜んでもらえるとは思ってなかったよ。こちらこそありがとう」
こんなやり取りの間もキャンドルは短くなり続ける。
「吹き消す前に願いをかけるらしい」
「じゃあ、二本あるんで一つずつにしましょう」
「いいのかい?」
「もちろんですよ」
二人は少し沈黙した後、視線を合わせた。そして二人で一緒に火を吹き消した。耕作が部屋の電気をつけると柔は興味深そうに問う。
「何願ったんです?」
「それは、言えない。柔さんは?」
「あたしも言えません」
「何だよ、それ」
耕作が買ってきたケーキはブッシュド・ノエルという丸太の形をしたケーキだった。アメリカでは日本のようなホールケーキをクリスマスに食べる習慣はないようで、売っているのはこういう置物のようなケーキということらしい。
「見た目はロールケーキですね」
「チョコ味のな。しかし、強烈な甘さだな」
「そうですね。でも、おいしー」
夕食の買い物で外に出た時、一つだけ残ったこのケーキを見かけた。クリスマスなのに部屋の掃除なんてしてもらった上に、夕食がこんな残り物の惣菜しかなくてきっと柔はガッカリするだろうと思った。レストランで食事も考えていたが、店はやってないところも多く開いていても予約で一杯。急だったとはいえ、柔が喜びそうなことが何も出来ない。こんな時つい考えてしまう。風祭ならもっとスマートに柔を持て成せただろうにと。
こんなことを考える自分が情けなくて、耕作は今出来ることを精一杯やろうと思い、ケーキを買った。でもそれが大成功だった。泣くほど喜んで貰えるとは思ってもいなかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、時刻は午後10時を回った。二人で後片付けをして後は皿を拭いてしまうだけとなった。
「柔さん、先にシャワーつかっていいよ」
不意に言われたその言葉に柔は平静を装いつつも、心臓が飛び跳ねて信じられない速度で鼓動しているのを感じていた。
「は、はい。先に使わせていただきます」
「おう」
リビングの隅に置いていたトランクから着替えを取り出して、シャワールームへ向かう。あまりに普通に耕作が言うから、柔だけがそわそわしているのを感じ取られたくはなかった。しかし、これからのことを考えるととても平常心でいられる自信がない。
シャワーだけというのは落ち着かないが、これがアメリカだ。体を拭いて着替えて出てくると、リビングから賑やかな声が聞こえた。
「お先にいただきました」
そろーっと入ってくる柔に耕作は「冷えちゃうから早く入りな」と言った。柔が耕作の近くに行くと、ソファに座っていた耕作はテレビを見ていた。もちろん英語の放送なので柔はよくわからないが、クリスマスの賑やかな様子を放送しているようだった。
「ここ暖かいから」
ソファの近くにはストーブがあって確かに温かい。髪は一応洗面所で乾かしてきたが、まだ少し冷たい。ここにいれば乾きそうな気がした。
「じゃあ、俺もシャワー使うわ」
「は、はいっ」
変な返事をしてしまった。意識していると思われたら恥ずかしい。でも、耕作の行動の一つ一つに緊張する。それなのに耕作は全く変わった様子がない。
シャワールームに入る耕作は、ふーっと深いため息を吐く。柔のことを思えば自分が平常心でいるしかない。本当は全然落着けない。
なぜなら耕作はまだ決心できていないのだ。このまま成り行きに任せれば本当の意味で柔と恋人関係になるだろう。そうなることが嫌なわけではない。むしろそうなりたいと思っているが、今の自分で柔と釣り合いが取れているとは思えない。思いは誰よりも強い。しかし自分に自信がないのだ。記者としてある程度認められたからアメリカにいる。でも、まだ修行中だ。まだ三流記者だ。それに比べて柔は五輪の金メダリストで国民栄誉賞の受賞者だ。一体どうなればつり合いが取れるのかなんてわかりっこないが、今の自分ではダメだとどこかで声が聞こえるのだ。
あれこれ考えていると結構な時間、シャワーを浴びていた。結論は出ない。出せない。だから成り行きに任せるしかない。柔を傷つけない答えを出すしかない。そう覚悟をしてリビングに戻ると、ソファの上で柔はスヤスヤと寝息を立てていた。ホッとしたのが正直な気持ちだった。
柔は耕作がシャワーに行ってからソファでぼんやりテレビを見ていた。さっきまでは目が冴え冴えとしていたのに、部屋の暖かさとアルコールからか睡魔が何度も襲ってきた。その度にしっかりしなきゃと思うのだが、ついにはクッションを抱えて眠り込んでしまった。人の気配を感じた。誰かは分かっているが目が開かない。しばらくするとふわりと体が浮く感じがして、いよいよ夢の中かと思ったがその温もりと匂いがあまりにリアルに感じられた。柔らかい場所に下ろされて上から布を掛けられる。そしてそっと頭に触れる大きな手。
「お疲れ様。こんな遠くまで来てくれてうれしかった。おやすみ」
耕作の声だった。心が安らぐその声は、柔を深い眠りにいざなった。
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女神はツリーの前で
vol.1 朝目覚めたら
カーテンの隙間から朝日が差し込んで柔は目を覚ます。いつもとは違う景色に柔は飛び起きる。
「え!」
ここが耕作の寝室であることは瞬時にわかった。昨日ここも片づけたのは柔だ。でも、自分でベッドに入った記憶はない。
「どうして!」
自分自身をよく見てみる。しっかり服を着ている。体にも異変はない。つまり何もなかったのだ。
「うそ!」
信じられなかった。記憶の最後はテレビの画面。わけのわからない仮装をして騒いでいる人がいたのを覚えている。それからは……夢か現実か判別できないことばかり。
柔はベッドに眠るのが自分だけなら耕作はどこにいるのかと思い、そっとドアを開けた。もしかしてソファで眠っているのかもと思ったが、姿は見えなかった。冷え切った部屋は昨夜とは全く違う。なんだか寂しささえ感じた。
――松田さん、きっと呆れたわ。それどころか怒ってるかもしれない。
そう思うと柔は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。仕事部屋だというもう一つの部屋は片づけはあまりしないで欲しいと言われていたので、殆ど入っていない。恐らくそちらに耕作はいるのだろう。だからと言って入って行く勇気もない。扉の前で俯いて部屋に戻った。
◇…*…★…*…◇
ブラインドは閉じていなかった。容赦なく窓から朝日が差し込み、普段寝る事のない埃っぽいベッドで耕作は目覚めた。昨夜は柔がソファで寝てしまい、自分のベッドまで運んだがさすがに隣に眠るわけにもいかないので、しかたなくこのベッドの上を片付けた。寝心地は良くないが、寒さはしのげた。
大きな壁時計を見ると午前7時を指していた。寝坊したわけじゃなさそうだ。冴えない頭を起こして、ついでに体も起こす。
「うー、寒っ」
厚手の上着を羽織って、リビングに行く。静かなこの部屋は昨日柔が掃除したおかげでとても綺麗で自分の部屋じゃないようだった。耕作はストーブのスイッチを入れると、柔が起きてくるまでに温まればいいなと思いながら顔を洗いに行った。
あくびをして冷え切った水を恐る恐る触って、反射的に手を引っ込めてしまう。それと同時に玄関の方から音がした。耕作は体を強張らせる。昨日鍵は掛けたと思うが、ドアチェーンはしただろうか。ここは日本ではない。用心に用心を重ねないといけない。ましてや柔が来ているのだ。昨日のような恐ろしい目に遭わせたくはない。
しかし無情にもドアは開く。チェーンはしていない。アメリカは銃社会だ。もし拳銃なんか持って押し入られたら手も足も出ない。なけなしの金を渡して出て行ってもらうしかない。そう瞬時に考えていると玄関の人影の正体が判明した。
「柔さん!」
「あ、おはようございます」
「その格好、ランニング行ってたのかい?」
「はい。目が覚めちゃったので。この辺りをぐるりと走ってきました」
耕作は深いため息を吐いた。
「ここはアメリカで、君は土地勘もない。日本のように安全なわけじゃない。当たり前のように拳銃を持った人がいる国だ。わかってるのか!?」
語尾を荒らげる。あまりに普通に無防備に外出したことを気づかなかった自分にも腹が立った。
「この辺りは治安がいいって言ってたじゃないですか!? 昨日だって松田さん、夕食買いに出かけていたし……」
「俺はいいんだ。慣れているし、でも、君は女性だ。俺とは違うよ」
その言葉に柔は何も言えなくなる。しかも少しだけ嬉しいとさえ思った。
「君を責めているとかじゃなくて、ただ俺が気を付けていればいいことで。そもそもわかってたことだ。早朝に何らかのトレーニングをすることくらい。それなのに俺は何も気づかないで……何も怖いことはなかったかい?」
「何もありませんでした。外を歩いている人は少しだけどいましたし」
「そうか……今度からは声を掛けてくれよ。頼りないとは思うけど……」
耕作が俯き加減でそう言うと、柔は胸が苦しくなる。
「そんなこと……ないですから。頼りないなんてことないです」
柔はそう言って部屋に入って行った。耕作は少し強く言い過ぎたかと反省していると、寝室のドアが開き柔が出てきた。察しがついた耕作は洗面所の前から離れた。
「朝飯だけど、昨日の残りみたいなのでいい?」
すれ違いざまにそう言う耕作に柔は「はい」とだけ言うと、シャワールームに入って行った。
◇…*…★…*…◇
テーブルの上には昨日食べきれなかったチキンやベーグルが並べてある。一応、ベーグルはトーストしてチキンも温めなおした。耕作でも出来る料理の一つ、ゆで卵も並んでいる。それを見た柔は「わー」と感嘆の声を漏らす。
「そんなものしかないけど。あ、コーヒーでいい?」
「はい。でも松田さんゆで卵出来たんですね」
「それくらいはな。後も楽だし。持ってもいける。万能食材じゃないか」
「まあ、そうですね……」
でも、一日に何個も食べられるものじゃないし、これだけ食べてればいいってものでもない。
昨夜、冷蔵庫の中を見たが野菜は一切入っていなかった。入っていたのはビールとつまみになりそうなものがいくつか。後は、キッチンの棚の中に缶詰やスナック菓子などがいくつか。料理なんてする気がないのかとさえ思っていたが、一応はゆで卵を作ってはいたらしい。それでも、やっぱり心配だった。
「なんか元気ないけど、さっきのこと気にしてる?」
マグカップのコーヒーを見つめているわけじゃなかったが、耕作から見ればそう見えてしまうほどじっとコーヒーを見ていた。
「いえ、気にしてるのは食事です。松田さん、野菜食べてますか?」
「え? 昨日は食べただろう」
「少しですよね。アメリカ来てからずっとこんな感じの食事ですか?」
「まあ、売ってるものはこんなものばかりだからな」
今更自炊しようだなんて全く思っていないようだ。不規則で家にいないことも多い仕事だから仕方がないと言えば仕方がないが。
「心配です」
「いや……」
「心配です」
柔はじっと耕作を見る。何を言いたいのか目が語る。
「……これからは野菜を食べるよう、努力します」
「はい!」
にっこりとほほ笑む柔。でも本当なら自分がそばにいて作ってあげたいのだが、アメリカと日本は遠すぎる。出来る事は少ない。
風が窓を鳴らし二人は同時に外を見た。日差しは出ているし、雲も見当たらない。
「いい天気だな」
「そうですね」
「これから自由の女神でも見に行かないか?」
「そうですね! NYと言えば自由の女神ですね」
「だろ? じゃあ、飯食ったらさっそく出発だ」
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vol.2 柔の知らない耕作
身支度は比較的短い柔だが女性なので着替えただけで出て行けるほどではない。柔の準備が出来るまで耕作は朝食の片づけをしていた。いつも食べたら片づけるという習慣にしたらいいのだが、どうしても後回しにする癖がある。そのせいで、散らかり放題の部屋がいつの間にかできてしまうのだが。
「お待たせしました」
茶色のスカートに黒いタイツ、上はタートルネックのセーターを着た。どうせコートを着てしまうがちょっとでもおしゃれをしたかった。
「じゃあ、行こうか」
何の感想も言わない耕作だが、さっきまでとは何かが違って、可愛くなったことくらいは気づいていた。ただそれを口に出せるような性格じゃないのが残念なところだ。
大きな通りでタクシーを拾い、二人はバッテリー・パークへ向かう。
「松田さんは元々英語は出来たんですか?」
「いや、あんまり。片言英語で話せたくらいだな」
「でも、今は流暢ですよね」
「そんなことはないが、やっぱりこっちにいれば嫌でも身につくって言うか。記者やってると英語がわからなくて記事にできませんでしたじゃすまないしな」
「そうですよね。じゃあ、勉強したんですか?」
「まあ、そうだな。仕事だと思えば何とかなるっていうか。それに俺、山形出身なんだけど訛りないだろう。これも東京出てきたときに馬鹿にされたくなくて必死に練習したんだ。語学は得意なのかも」
わははっと笑う耕作。しかし柔は浮かない顔。
「知りませんでした」
「何が?」
「山形出身だったんですね」
「え? ああ、言ったことなかったけ?」
「松田さんはあたしのこと何でも知ってるのに、あたしは松田さんのこと何にも知りません」
「そりゃ、そうだろう。俺は記者だから取材対象のことは何でも知ってなきゃいけないから、調べたりしたさ。でも柔さんは違うだろう。一介の記者のことなんて知らなくて当然……」
「違います。今は記者と選手だけの間柄じゃないじゃないですか」
柔は言った後、自分で恥ずかしくなって顔を赤くした。耕作も同じだ。
「これから知ってくれればいいよ」
「じゃあ、お誕生日はいつですか?」
「8月26日」
「血液型は?」
「O型」
「山形はいつまでいたんですか?」
「高校まで。大学は東京に出てきてそのままずっと東京。大学は三流大学だよ」
「そこまでは聞いてません。松田さんは意外に自虐的ですね」
「そうかな」
「もっと自信を持てばいいのに。記者として認められてアメリカにいるんですから。大学なんて今更関係ないですよ」
「俺が一流大学出身だったら?」
「そうだったらあたしのこと見つけてないですよね」
「そんなこと……」
「それはあたしが柔道やってなきゃ、松田さんと出会えなかったことと同じですよ」
今があるのは今までがあるから。過去を恥じたり否定したりしたら、今を否定することになる。柔が言うことは正しい。耕作が一流大学を出ていたら、記者になってなかったかもしれないし、記者になっても別の誰かを取材していたかもしれない。あの、運命的な出会いは存在しなかったかもしれない。そう思うと、隣にいる柔の存在は奇跡だ。より愛おしく感じられる。
「あ、あそこにワールドトレードセンタービルが見えるぞ」
「どこですか?」
耕作の方の窓から二本の大きな柱みたいなものが見えていた。柔は身を乗り出して探す。柔との距離が近くて耕作は少々緊張した。
「わー大きいですね」
「東京タワーよりも高いからな。なんと110階建だ」
「そんなに! さすがにおじいちゃんもうさぎ跳びしようなんて思わない階数ですね」
「滋悟郎さん、そんなことしてるの?」
「昔はね。ところ構わずうさぎ跳びしてました。それにしても大きなビル。どんな眺めなんだろう」
「今度行ってみようか」
「いいんですか?」
「そりゃ、展望台くらいはあるだろうし、俺も見てみたいし」
「楽しみにしてますね」
二人が仲良く話しているのを割り込むように、運転手が何か言った。それを耕作が訳す。
「そろそろバッテリー・パークに着くって」
「そこから自由の女神が見られるんですか?」
耕作が運転手に訊くと、頷くが何やら長い会話になった。
「どうやら自由の女神は小さな島にあるらしく、今から行くバッテリー・パークから見えることは見えるが小さいらしい。チケットを買ってフェリーで行った方が断然迫力があっていいってさ」
「そうなんですね」
「行ってみるか?」
「いいんですか?」
「当然だろう。せっかくNYまで来たんだ。俺だって見たいさ」
タクシーを降りてバッテリー・パークに入るとまだ朝早いからか人はまばら。それでもここにいる多くの人は自由の女神観光に来ているので、何となく流れに乗って歩いているとチケット売り場に到着した。
「フェリーの時間までもう少しだって」
フェリー乗り場は当然、海辺にあり柔は朝日に煌めく水面を眩しそうに見つめた。
「わー綺麗―。あ! あれって自由の女神?」
指さす先には海に浮かぶように人の形が見える。
「そうだろうな。近くまで行ったらとんでもなく大きいだろうな」
自由の女神があるリバティ島まで約15分。フェリーも人はまばら。ゆったり座ってクルーズできた。
「『自由の女神』って本当は『世界を照らす自由』って名前なんだ。独立100周年を記念してフランスから贈られたもので元々銅色だったらしい」
「そうなんですね」
「それから右手にはたいまつ、左手にはアメリカ独立記念日である1776年7月4日の銘板を持ってて、足元には引きちぎられた鎖と足かせがある。これは全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴してる。女神がかぶっている冠には七つの突起がある。これは、七つの大陸と七つの海に自由が広がるという意味なんだって」
「物知りですね」
「一応調べて来たんでね」
自慢げに言う耕作だが、柔だってガイド本を読んでいたのである程度は知っていた。でも、知らないフリをした。
リバティ島は小さな島で到着する前から女神像が出迎えてくれる。フェリーは正面には停まらずに女神像の裏手に停まりそこから歩いて向かう。レンガ造りのゲートを抜け女神像の近くまで行くと、柔はあることに気付く。
「右足が見えるわ」
「おおー本当だ」
「来てみないとわからないことですね」
「ああ、しかもサンダル履いてる」
「前に進もうとしてるみたいですね」
「そうだな」
少し歩くと、多くの観光客が写真を撮っている場所があった。柔もカメラを取り出し何枚か写真の収めた。
「カメラ持って来てたの?」
「ええ、昨日は忘れてましたけど、今日はちゃんと写真に残します」
「俺も持って来てるよ。そうだ、写真撮って貰おう」
「え?」
耕作は近くを通ったカップルに話しかけカメラを渡すと、女神像が斜めに見える最高の撮影スポットで柔と二人で写真を撮って貰った。まだよそよそしい二人は少し距離を開けて並んで立つ。耕作と並んで写真を撮るなんて初めてだ。そう思うと、柔は照れたように笑ってその瞬間にフラッシュが光った。
「Thanks」
耕作がそう言ってお返しに写真を撮ってあげると、向こうも「Thanks」と言って手を振った。
正面に来ると二人して思い切り反り返り女神像を見上げた。
「大きいな~」
「大きいですね~」
ひっくり返りそうな柔だがさすがに柔軟性がありなんてことない。
「93メートルあるらしいぞ」
「だから遠くからでも見えるんですね」
「さあ、中に入るぞ」
松田さんの誕生日は勝手に設定しました。
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vol.3 手袋を買いに
「さあ、中に入るぞ」
「え? 入れるんですか?」
「ああ、あの王冠のとこまで行けるぞ」
台座の入口は裏手にあったので再び戻る事になった。台座の中は展示室になっており、実物大のたいまつや顔、足が展示されている。どれも大きさに圧倒され驚くばかりだ。暗い190段以上の階段を上った先は展望台にもなっていて外にも出られた。眺めはとてもいいが海風でとにかく寒い。二人はそうそうに中に戻った。
王冠部分に行くには狭い螺旋階段を上がらなければならない。あらためて女神像の中が空洞であることを思い知る。ここも薄暗いがとにかく上るしかない。
「大丈夫ですか?」
「き、君は随分楽そうに昇るな。さすがだな」
「運動不足なんじゃないですか? まだまだですよ」
上を見上げるとまだ階段は続いていた。もう太ももがパンパンだ。
「だー! もう無理だ!」
「松田さん、着きましたよ」
柔の声で上を見上げると、明るい場所に出てきた。狭いのは狭いがとにかく明るい。冠部分なので窓が斜めなのが奇妙であると同時に、像の上にいるという感覚を教えてくれる。上にいたスタッフによるとここに来るには全部で354段の階段を上るらしい。よくのぼれたものだと耕作は自分の足を褒めてやる。
「写真撮って貰いましょう」
柔がそう言うとスタッフにカメラを渡して写真を撮って貰う。今度は狭かったので二人はぴったりと寄り添った。耕作も柔も顔を赤くしていたがお互いの表情は現像するまで見ることはない。
下からどんどん観光客がやってくるので二人は息を整えて暫くしたら、下りの階段をおりはじめた。何だかもったいない気もしたが仕方がない。下りもそれなりに疲れて目が回ったが、やはり柔は平気そうだった。
「ちょっと休憩しよう」
下に降り切るとカフェがありそこでコーヒーをのんだ。二人が来たときよりも人が多くなり賑わっていた。朝早く来て正解だったらしい。
「これだけ観光客がいたら日本人もいるかもな」
「そうですね。色んな人種がいますけど、アジア人は少ないように感じますね」
ぼんやりと人々を見る柔に耕作は問う。
「俺たちのこと、公表しないこと後悔してないか?」
柔は耕作の方に向き直る。真剣で真っ直ぐな目を何度も柔は見て来ていた。本当に柔のことを考えてくれている目だ。
「授賞式の後、松田さんとの関係を聞かれてあたしこれ以上騒がれたくなくて嘘をついてしまったんです。警察の人にも記者の人にも」
「俺、暴漢だと思われてたんだよな。今思えば、よく出国できたな……はははっ」
「笑い事じゃないですよ。大変だったんですから。あれは誰だ、どんな関係だ、何をしに来たんだと怖い人たちに詰め寄られて、あたしとっさに知り合いですって言っちゃったんですから」
確かに知り合いだ。しかも授賞式の場所では家族以外では一番付き合いが古い知り合いだ。
「俺の方も編集長から何やってんだーって散々怒鳴られたっけ。他の新聞社が柔さんのところに取材に行く前に、謝罪記事載せるからって言われて適当に返事しちまって」
「あたしが怒ったと思いました? 取材対象でしかないって書かれたコメントを見て」
「正直言うと、あれ見た時、冷や汗掻いたよ」
柔はふふっと笑う。
「なんだ? 何かあるのか?」
「いいえ。でも、気にかけてくれてたのなら、嬉しいです」
「そりゃ、な」
やっと思いが通じたのに怒らせて嫌われたらたまらない。耕作に余裕などない。
「さてと、エリス島へ行ってから戻って飯だな」
◇…*…★…*…◇
帰りは地下鉄を利用した。治安が悪いと噂されているNYの地下鉄に乗ることに多少の不安を感じていた柔だが、いざ駅に行ってみると日本のように綺麗ではないが想像していたよりも全然マシな様子で安心した。
「昔は相当危なかったらしいけど、整備して今はそれほどでもないんだ。でも、全く安全ってわけじゃないから、勝手にどこかに行ったりしないでくれよ」
「はい」
二人が下りた駅はアパートの近くではなく、買い物が出来るエリア。昨日は店が殆ど閉っていたが今日はそこそこ開いているようで、通りも賑わっていた。柔は昨日買い物できなかったことに不満はなかったが、やっぱりこういう場所に来るとウキウキするようで終始笑顔で服やアクセサリーを見ては試着していた。
「いいのか? 買わなくて?」
「ん~、やっぱりなんか派手って言うかあたしには似合わないかなって思ったんですよね」
柔が何度も手に取っては悩んでいたのはペンダントだった。シルバーのチェーンのトップには淡いピンクの花があり、その中央には小さな透明な石が付いていた。耕作の目から見ても派手と言うわけではないが、柔は店を出て行こうとしていた。
「次のお店に行きましょう」
そう言いながら耕作越しにさっきのペンダントを見ている。
「柔さん、さっきのあれ……欲しいなら……」
「いいんです。あれはなんて言うか、あたしにはまだ早いんです」
「そうかな……」
正直よくわからない。欲しいなら買えばいいのに。というか買うけど、と耕作は思っていたが柔は頑として欲しいとは言わない。
「さすがに夕方になると寒いですね」
店の外で空を見上げると茜色に染まっていた。道を歩く人たちは家路を急ぐように早足に感じられた。柔は細い指に自分の息をかける。白い息がふわっと立ち上がる。
「手袋、持ってこなかったのか?」
「松田さんに頂いたのは置いてきました」
「いや、あれじゃなくても持ってるだろう」
「他は持ってないです」
去年、バスの窓に放り投げた安物の手袋。クリスマスだってことも忘れて一方的に会う約束を取り付けて、プレゼントもないんじゃかっこ付かないと思って急きょ買ったプレゼントの手袋を柔は冬の稽古の時には愛用している。耕作は使ってくれていることは嬉しいと思っているが、もっといいものを渡せたらよかったのにと柔にお礼を言われた時に後悔した。
「そうだ! 手袋買いに行こう」
「は?」
「俺も実は持ってなくて欲しいと思ってたんだ」
「え? ちょっと」
さっきまではただ付いてきているという感じでいた耕作だったが、急にやる気を出してあっちこっちの店に入っては手袋を物色し始めた。
「あの、松田さん。あたし、手袋は頂いたものがあるので十分ですよ」
「言っただろう、俺のが欲しいんだ」
そう言いつつ見てるのは女性ものばかり。前にプレゼントしたのは普通の毛糸の手袋だったが、今度は通勤でも使えるようなオシャレなものを選ぼうと思っていたが、耕作には女性もののオシャレが全く分からなかった。
「松田さん、これどうです?」
「え? どれ?」
柔が見せてきたのは男物だった。革製の茶色の手袋は手にしっかりフィットしそうな素材だった。
「いや、これ男物だろ」
「でも、松田さんの手袋探してたんですよね?」
「いや、柔さんの手袋を探してたんだよ」
「そうなんですか? だったら、交換しませんか?」
「交換?」
「一日遅いクリスマスプレゼントです。お互いに選んだものを交換するんです」
「そりゃいいアイディアだ」
この後数件店を回って、二人は満足げに紙袋をぶら下げていた。
「松田さん、一日遅いですけどメリークリスマス」
「こちらこそ、メリークリスマス」
耕作は言った傍から照れてしまう。こんなことをさらっと言えるキャラじゃない。
「開けてもいいかな?」
「もちろんです。あたしも開けていいですか?」
「ああ、どうぞ」
二人はお互いに袋を開けて手袋を取り出す。柔が選んだのは黒い革製の手袋。薄手だが手に馴染むいい素材だった。耕作が選んだのも革製のブラウンの手袋。ただ手首の辺りにファーが付いており女性らしいデザインのものだった。
「お! かっこいい手袋じゃないか。手も動かしやすいし、気に入ったよ。ありがとう」
耕作はそう言うと、柔は嬉しそうに微笑む。そして耕作が選んだ手袋を付けると何度も眺めては嬉しくて笑顔になる。
「どう? 通勤の時に使えそうか?」
「ええ、もったいないくらいです。でも大切にしますね。ありがとうございます」
耕作は去年のこともあってやっと肩の荷が下りたような気がした。
「そろそろ飯食いに行くか?」
夕日が落ち始めて、辺りがオレンジ色になる頃に耕作は言った。
「何か食べたいものはある?」
そう言われ柔はガイド本に載っていたレストランの名前を挙げた。本に載ってるくらいだから入れないかもしれないけど、一回見てみたいといい二人は向かった。
案の定店は満席だった。だが、少し待てば案内出来ると言われ二人は店の外で待った。
「ロブスターで有名なお店なんですよ」
「へー知らなかったな」
「どうせお肉ばかり食べてたんじゃないですか?」
「そ……んな、こともあるかも」
大きな赤いロブスターはニューヨークの名物のようで、運ばれてきたときは二人とも目を丸くして驚いた。豪快に食べる耕作を見ていると、楽しくて仕方がなく柔はずっと笑顔でいた。
「はー、美味しかったな」
「そうですね。あんな大きなハサミ食べたことないですよ」
「俺も。まだまだニューヨークは奥が深いな」
仕事が忙しくて街を見る暇もないのだろう。耕作の仕事は全米に渡るのだから。
「今度はさ、俺に付き合ってよ」
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vol.4 クリスマスツリーの前で
「今度はさ、俺に付き合ってよ」
辺りは真っ暗で息は白くとても寒い。けれど二人は新しい手袋をして、手を握る。手袋越しだけど温かい。
ニューヨークも東京と同じで夜でも明るい。賑やかな通りを軽やかに歩く耕作がどこに向かっているのか柔はさっぱりわからない。
「どこにいくんですか?」
「行けばわかるよ」
それからしばらく歩いて一段と人が多くなってきたと思ったら耕作は立ち止まる。
「ここだよ」
ビルとビルの間の道の先に大きなクリスマスツリーが立っていた。色とりどりのライトが光り、一番上には星が光る。背の低い柔でも見えるほど大きくて立派なツリーだ。
「綺麗」
うっとりとした表情で柔が言うと、耕作は人をかき分けながら進む。
「もっと近くに行こう」
ここら辺一帯はとにかく人の数が違う。クリスマス当日ならもっと多かったかもしれないが今日は一日過ぎた26日。それでも歩くのがやっとだ。
何とかツリーの近くまで行くと、真下にはスケートリンクがあり優雅に滑っている人もいた。
「わー近くで見たらもっと綺麗ですね。ツリーだけじゃなくて辺りもライトアップされて夢の中にいるみたい」
柔の瞳は輝いていた。ライトが反射しているんじゃない。心がときめいているのだ。
「柔さんに見せたかったんだ。綺麗だと思ったから」
「松田さ……きゃっ」
「うわっ」
人ごみで誰かが柔にぶつかった。その勢いで耕作の胸に飛び込んでしまった。
耕作の心臓がとても速く動いているのを柔は感じていた。柔もまた同じだった。
柔は耕作を見上げた。すると耕作と目があった。今までの二人の間に流れたことのない空気。柔の瞳が潤んでいる。言葉はいらなかった。
二人の最初のキスはとても暖かく優しいキスだった。ロックフェラーのクリスマスツリーの前で、まるで映画の主人公のようなロマンチックな思い出となる。
「柔さん、好きだよ」
「あたしも、大好きです」
耕作の中にもう迷いはなかった。愛おしい人を胸に抱きしめ、キスをした。ここにいるのはただ自分が好きで自分を好きでいてくれる人。自信がないとか、釣り合わないとかそんなことをうじうじ考えていることがアホらしくなった。
「帰ろうか……」
「はい」
手をつなぐ手は二人とも妙に緊張していた。会話らしい会話もなくてお互いを意識し合っているようだった。それがとても幸せだった。
アパートの近くに来るころには雪が降り始めた。静かなこの夜がとても神聖なもののように感じられた。
部屋の鍵を開ける。今日は片づけはいらない。二人だけのゆっくりとした時間を過ごせる。はずだった。
「げ! なんだこのFAXの量は!」
仕事部屋にいた耕作がそう言いながら、赤い点滅が嫌な予感を振りまく留守電を再生すると、東京の編集長からの声が聞こえた。最初は普通の電話のような声だったが、何度目かの電話で遂に怒りが頂点に達したようで電話が壊れるんじゃないかってくらいの怒号が聞こえた。
「何やってんだ‼ 松田‼ クリスマスはもう終わったぞ‼ 連絡しろ‼」
「ひっ!」
最後の留守電の時間は5分前。耕作は受話器を取ろうとしたが、柔の方を振り返った。
「あたしのことは気にしないでください。お仕事ですよね」
怒ってはいない。ただ気の毒そうな心配するような顔をしていた。
「しかし、せっかく柔さんが来ているのに」
「編集長さんは知らないことじゃないですか。それよりもお電話しなくていいんですか」
「あ、ああ……」
ごくりと唾を飲み、耕作は東京に電話する。電話は直ぐに繋がった。
「あの、編集長、松田です」
「何、フラフラ出歩いてんだ! 試合もないから引きこもってるって言ってただろう!」
「そうなんですけど、ちょっと用事が」
「まあ、いい。仕事だ。前に話してた特集を急きょ載せることになった。原稿を至急FAXしてくれ」
「あれは、載せる予定がないって」
「予定がないだけで、載せないとは言ってないだろう。原稿を用意してさっさと送れ! いいな!」
「は、はい!」
ふーっと息をついて椅子に腰かける。大リーグで日本人は活躍できるのかどうかの記事を、現地にいる耕作が直接その実力を見て記事にまとめたいと申し出たのが二ヶ月前。その時は編集長に相手にされなかったが、何の心境の変化か急に新聞に載せると言い出した。嬉しいことなのだが、タイミングが悪い。
その時、デスクの上にマグカップが置かれた。コーヒーのいい匂いが鼻をくすぐる。
「柔さん……」
「急なお仕事なんですよね。あたしは邪魔しないようにしますから」
「邪魔なんて思わないよ。でも、ごめん」
何で記事を書き上げておかなかったのか自分を呪う。書いてさえいればFAXするだけでいいのに。しかも昨日、積み上げた書類の中から途中まで書いたものを探してから書くか、それとも初めから書くか。どちらにせよ直ぐに終わる仕事ではなかった。
時間は刻々と過ぎ去る。リビングへ続くドアは開けてあった。一人ぼっちにしないようにいつでも声を掛けていいように。でも、柔は二杯目のコーヒーを届けた後、「先に休みますね」と言ってドアを閉めた。
◇…*…★…*…◇
目が覚めたのは午前10時を過ぎていた。原稿をFAXしてそのまま倒れるように眠った。誰もないベッドは余計に冷たく感じられた。
リビングに行くと柔はコーヒーを飲んでくつろいでいた。
「あ、おはよう」
「おはようございます」
耕作は柔が怒っているのではないかと思ったが、意外にも清々しい顔であいさつをしてくれた。
「何か食べますか?」
「え? ああ、何かあったっけ?」
「ええ、すぐ準備しますか?」
「いや、ちょっと待って。シャワー使うから」
耕作は昨日帰って来てから仕事してたので、シャワーも浴びずにいた。普段なら一日くらい体を洗わなくても気にはならないが、今は柔がいるから気にする。臭いと思われたらたまらない。
10分くらいしてバスルームから出てくると耕作は、上半身裸のまま洗面所に立って髭を剃り始めた。
「そろそろ準備はじめてもいいですか……きゃ」
柔は思わぬ姿の耕作に顔を赤らめ顔を逸らす。
「あ、ごめん。いつもの癖で髭剃ったらちゃんとするから」
「ちょっと驚いただけですから平気ですよ」
そう言うと柔はキッチンで食事の準備に取り掛かった。しかしすぐ近くで耕作が髭を剃っている姿に思わず見惚れていた。
「どうした?」
「いえ、初めて見るから何かつい見入っちゃって」
「? そうか……」
柔が5歳の時に父親である虎滋郎が家を出てから、男は祖父の滋悟郎だけとなった。滋悟郎は立派な髭を生やしていて、その手入れを柔には見せたことがない。だからめずらしいのだろう。男性が鏡の前で髭を剃っている姿が。
髭の薄い耕作はサッと髭剃りを終わらせるとTシャツを着てテーブルに着く。柔が用意した朝食が既にならんでいた。
「サラダ? こんなものあったっけ?」
「すみません。さっき近くのスーパーまで買い物に。昨日、あれだけ言われたのに声も掛けずに出てしまって」
「いや、しょうがないよ。俺、死んだように寝てたし。危ない目に合わなかった?」
「松田さん、心配しすぎですよ。この辺りは、平和そのものです」
朝食はサラダの他に、小さなパンとスクランブルエッグ、そしてコーヒーだった。
「うまい! やっぱり柔さんは料理上手だな」
「そんな、これくらいで褒めないでくださいよ。誰でもできますよ」
「いやいや、この絶妙な柔らかさは熟練の腕がないと」
「もーおだてても何も出ませんよ」
何事も無かったから、いつもの調子で二人は会話した。それが少し悲しいと感じたのは二人とも同じだった。
「今日、日本に帰るんだよな」
耕作は切り出す。
「はい……午後の便で」
柔は寂しそうに答えた。窓の外を見ると、今朝積もっていた雪は既に溶けて、昨日のことが嘘のようなそんないつも通りの街に戻ってしまった。
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vol.5 『柔へ』
「忘れ物はないか?」
「はい、大丈夫です」
「そうか、じゃあ行こうか」
オンボロの社用車に乗り、二人は空港に向かう。二日前に乗った時はワクワクとドキドキが止まらない状態だったが、今はただ寂しい。昼を過ぎたころから空には雪雲がのしかかり今にも降りそうな気配がしていた。
雪が降って吹雪になれば、飛行機が飛ばなくなるのに。
そんなことを考えていると、耕作が口を開いた。
「日本に帰ったらもう正月だな」
「ええ、準備が大変で……今年はお父さんも帰ってくるみたいなんですよ」
「そうか! 親子水入らずの正月になるな。よかったな」
長年消息不明だった虎滋郎は8月のバルセロナ五輪で柔の前に姿を現した。決勝で戦ったマルソーのコーチをしている虎滋郎は、柔の成長を見届け自分の役目は終えたというように現在の住所を明らかにした。
「でも、緊張するんです。お父さんには帰って来て欲しかったけど、いざ目の前にいると何を話していいのかわからなくて」
「何でも話してみるといいさ。虎滋郎さんは無口だけどちゃんと聞いてくれる人だよ。それに君のことずっと見守って来た人だから」
「松田さんはお父さんと話したことがあるんですか?」
「ああ、ソウル五輪の時に」
「そんな前に? あたし全然知らなかった」
柔の声が明らかにトーンダウンした。ショックを受けているのだろう。
耕作はこれを話すかどうか実はずっと迷っていた。ソウル・オリンピックの時に接触していたということは、四年もの間、柔に秘密にしていたということになる。さやかのコーチの件は取材して知っていたにしても、会って話をしていたということを黙っていたのは柔の怒りをかうことにならないか。でも、言わざるを得ない。
「君がベルッケンスと試合をしている時だった。俺は会場内でせんべいをかじる音を聞いてその人に声を掛けたんだ。するとその人は振り向きもせずに走りだして会場の外でやっと追いついたんだけど、見事な一本背負いで投げられたんだ」
「お父さんに?」
「ああ。同じだったよ。君に投げられた時と同じだった。俺は何とかしがみついたら虎滋郎さんは俺のことを知っていてくれて、それで話をしてくれたんだ」
「どんな話を?」
「何故家を出たのか。何故帰らないのか。何故柔さんの前に姿を見せないのか……」
外の景色は過去に逆戻るように流れ、二人の間の空気は恋人でも友人でもない不思議なものが漂っていた。
「松田さんは、四年前からあたしが知りたいことの全部を知っていたってことですか?」
「そうかもしれない」
「じゃあ、何故教えてくれなかったんですか?」
耕作は何も言えなかった。何を言っても言い訳にしかならない。ただ何度も今まで何度も言いたくても言えなくて、堪えていたのも事実だ。
「松田さん……あたし、松田さんがあたしのために力を尽くしてくれたことを知っています。だから今何を聞いても怒ったりしませんから、何故教えてくれなかったのか教えてくれませんか?」
耕作は自分の中の思いの正体が未だにわからなかった。柔のためだったのか自分のためだったのか。
「虎滋郎さんは『柔よく剛を制す』の極意を極めようとしていた。全日本で優勝し山下さんに勝ったが、その後山下さんとの二度目の試合に敗れしまい柔道の厳しさに気付かされたと言っていた。そしておごり高ぶっていた自分を恥じたとも」
「じゃあ、家を出たのはやっぱり山下さんが原因?」
「いいや、虎滋郎さんが修行の旅に出たのは五歳の君に投げられたからだと言っていた」
「やっぱり……あたしのせいで……」
「でも、柔さんが思うような悪い理由じゃないんだ。五歳の娘に投げられてショックで、倒したいとかそう言うことじゃなくて」
「じゃあ、何なんですか?」
「感動したんだって言ってた」
「感動?」
「虎滋郎さんは滋悟郎さんも柔さんも『天才』だと言ってた。自分にはない天性の素質を持った人間がこんなに近くに、しかも自分の娘だったことに感動したらしい。凡人の自分が天才に近づくためには、百倍千倍の努力が必要だと言ってた」
「だから修行の旅に出たんですか?」
「そうだ」
「でもそんなこと家にいても出来るんじゃ……やっぱり帰りたくない理由があったんだわ。あたしに会いたくなったんだわ」
「違うよ。本当に違うんだ。虎滋郎さんが家に帰らなかったのは、柔さんの前に姿を見せなかったのは君に柔道を続けて欲しかったからなんだ」
「柔道を?」
「君はデビュー戦以前はごく普通の女の子として学校や友人たちの前で過ごしていた。ご近所さんの前でもそうだっただろう?」
「それは、おじいちゃんが柔道のことは言いふらすなっていうから」
「でも君も成長するにつれて柔道やってることを人に知られたくないって思うようになっただろう?」
「それは、みんなと違うことをしてることを知ってしかも格闘技だったから、女の子は普通はしないことをしてることを知られたくはないです。好きで始めたわけじゃないし、人に言ったらいけないことをしてるんじゃないかっていう不安も小さい時にはありましたし」
「虎滋郎さんは気づいていたんだ。柔さんが柔道を嫌って遠ざけていることを。それでも続けているのは虎滋郎さんとの最後の絆だと思っているからだと。だから自分が家に帰ったら柔さんの前に現れたらきっと柔道をやめてしまうんじゃないかって虎滋郎さんは思っていたんだ」
「松田さんが言えないでいたのは、あたしがこのことを知ったら柔道を辞めちゃうかもしれないと思ったからですか?」
「……否定はできない。でも、会えないと言っている虎滋郎さんの思いを伝えても意味がないと思ったのも事実だ」
柔は黙っていた。四年前、もしこのことを知っていたら柔道を続けていただろうか。柔道を続けさせるために家に帰らないのなら、とっくにやめていたかもしれない。帰ってこないとやらないとまで言ったかもしれない。それでもきっと虎滋郎は帰ってこなかったような気がする。それどころか些細な接触すらもなくなっていたかもしれない。
「松田さん、あたしは松田さんに感謝しています」
「な、なんだ突然」
「あたしが柔道辞めようとしたとき、何度も引き留めたり戻したりしてくれました。松田さんがいなかったらあたしはきっと柔道を捨ててたと思います。それどころか憎しみすら感じていたかもしれません」
「そこまでは……」
柔は首を横に振る。
「本当です。あたし、短大で富士子さんに出会って、一緒に柔道を始めるまでは心から信頼できる友人がいなかったと思います。柔道のことも内緒にして、家庭内のことも言えなくて心を許せる人がいなかった。だからと言って彼女たちとの友情が嘘だったわけじゃないんです。だけどいつも違和感を持っていたんです。そんな違和感をいつか彼女たちにも知られてあたしは一人ぼっちになっていたかもしれない。おじいちゃんがあたしのデビューを画策して、友達もいないあたしは言うこと聞いていたかもわからないし、聞いていたとしても柔道を嫌っていたらきっと強くもなれずにおじいちゃんからも見放されて、本当にひとりぼっちになって……」
「柔さん……」
「大丈夫です。泣いたりしません。今は幸せですから。勝手にありもしない未来を想像して恐れて泣きたくはありません」
耕作は今すぐにでも柔を抱きしめたかった。小さなころから他の友達とも他の家とも違う自分の境遇を受け入れようとして、寂しい思いをしていたのだ。友達に秘密を持つことは大小あるだろうが、柔は自分の人生の多くを占めていることを言えない負担は大きかっただろう。それを思うと、耕作は胸が痛む。
「あたし、松田さんに出会えて本当によかった」
「俺も、柔さんを見つけられてよかった。君を一人にしないでいられることを今はほっとしているよ」
そう言いながら耕作は柔の手を握る。その手を柔はそっと包み込んだ。
「でも、今から日本に戻るんですけどね」
「そうなんだけど、そうじゃないって言うか」
「冗談です。わかってますから。あたしはもうひとりじゃないですから」
こんな話をしているとあっという間に空港についてしまった。雪は一片も落ちてはこない。
柔は荷物を預けて搭乗までの時間を耕作と過ごした。あと少しで二人は離れ離れになってしまう。ちょっとは恋人同士のような時間を過ごせただろうか。柔にはよくわからない。
「柔さん、これ。今更だけど」
耕作はジャンバーの胸ポケットから手紙を取り出した。
「ソウル五輪で虎滋郎さんが君に宛てた手紙だ。会ったことも言えなかったから渡せなかったんだけど……」
封筒には大きく「柔へ」とあり、封は開けられている。そこから柔は手紙を取り出す。すると柔はクスリと笑った。
「お父さんからだったんですね」
「ああ、テレシコワの裏投げに気を付けろって教えてくれたんだ。でも、手違いで柔さんの手には渡らなくて俺が開封して伝えた。ごめん」
「謝らないでください。伝わってましたから。投げられちゃったけど、ちゃんと松田さんの思いもお父さんの思いも伝わってましたから」
テレシコワに裏投げをされて、脳しんとうを起こした柔を目覚めさせたのは耕作の声だった。あの時、耕作の声が父の声に聞こえたのはきっとここに理由があったのだ。
「よかった」
「何が?」
「なんでもないです」
柔が耕作を好きなのは父の面影を見ていたからなのかも知れないと思ったことがあった。でも、あの時以降、耕作から父の空気を感じることもなかったし、面影の気配も理由はわかった。
別れの時間が迫っていた。騒々しい空港であっても、この時ばかりは二人の耳に互いの声以外入ってくる音はない。出国ゲートの前で柔は悲しそうに問う。
「今度はいつ会えますか?」
「……ごめん、わからないんだ。日本に帰る予定は今のところなくて」
項垂れる耕作に柔は言う。
「松田さん、覚えてますか?」
「へ?」
「松田さんがアメリカに発った日。お別れの時、空港であたし言いましたよね?」
「覚えてるよ。しかし……」
「また、言います。何度でも言います」
柔は満面の笑みを耕作に向ける。
「今度はあたしが追いかける番ですから。覚悟してくださいね」
「ああ、心しておくよ」
「浮気しちゃダメですよ。アメリカの女性は魅力的ですから」
「しねーよ。そんな余裕があったら手紙を書くよ」
「野菜もたべてくださいね」
「ああ、意識してみるよ」
「部屋の片づけもたまにはしてくださいね」
「それは……努力します」
「ふふっ。出来なかったらあたしが片づけます。大丈夫です。掃除は好きですから」
「面目ない」
「だからなるべく早くにまた来たいです」
「待ってるよ」
「もう! もっと何か言ってくださいよ」
耕作はちょっと考えてから柔を見つめた。そして腕を取って抱きしめた。
言葉はいらない。お互いのぬくもりが惜しむ別れを伝え合う。離れたくないが今はまだ一緒にはいられない。
そして二人は再び、遠く離れた。
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1993年 お正月
vol.1 富士子へお土産
NYから帰国した柔は、そのまま会社も休みに入ったので一日休んで翌日の29日にお土産を持って富士子のアパートへお邪魔した。
「いらっしゃーい。どうぞ上がって」
相変わらず背の高い富士子だったが、満面の笑みで迎え入れてくれてその姿勢はいつも人より低いくらいだ。結婚当初から住んでいるアパートは1DKで体格のいい花園と富士子では手狭のようにも思えたが、特別不自由は感じていないようだった。
「あれ? フクちゃんは?」
「花園くんがお散歩に連れて行ってるの。しばらく戻って来ないと思うわ」
たまには育児をお休みして、女友達で楽しく話をしたい。そう思って富士子は花園に頼んでいたのだ。
柔はお菓子や雑貨などのお土産をいくつか渡すと、富士子は一通り感想を言っていよいよ本題と言わんばかりに身を乗り出す。
「で、松田さんとイチャイチャできたの?」
突然の富士子の言葉に柔は目をパチクリする。
「イチャイチャってそんな直ぐには出来ないわ。あたしたちおつきあいを初めてからすぐに離れ離れになったんだから」
「それはそうだけど、ずっと想い合ってきたんじゃない。こう、情熱が高ぶってしまったみたいなことにはならなかったの?」
柔は俯いて首を横に振る。
「富士子さんが想像するような大人な関係にはなってないわ」
「じれったい二人は、恋人同士になってもじれったいってことね。それが二人らしいけど」
「そうかな……」
「でも少しは甘えて来たんでしょ」
柔は何かを思い出したようで、顔がにやけた。
「あやしい~何を思い出したのかしら?」
「あのね、松田さんがねロックフェラーのクリスマスツリーに連れて行ってくれたの」
「有名なツリーよね。イルミネーションが綺麗なのよね」
「そうなの。あたしまさかそこに向かってるとは知らなくて、突然目の前に現れた輝くツリーにびっくりしたんだけど、松田さんに手を引かれてツリーの近くまで行くと誰かに背中を押されて松田さんの胸に飛び込んじゃったの」
「それで、それで」
「それでね、あたしドキドキしたんだけどとっても幸せで、松田さんはどうかなって思って顔を上げたら松田さんがじっとこっち見てて」
「うん、うん」
「それでね、キスをしたの」
「キャー。ロマンチック~」
「そうでしょう。それだけで、十分よ」
柔は幸せそうな顔をしていた。しかし寂しそうな顔もしていた。耕作がいないことの寂しさや不安を富士子たち友人では取り除くことはできないのだ。
「そう言えば猪熊さんがNYへ行った次の日に家に荷物が届いたの」
富士子は立ちあがると、タンスの上に置いていた小さな白い袋を柔の前に置いた。
「これは?」
「松田さんからよ」
「え?」
「段ボールで来たんだけど、届いたら開けてくれって書いてあったから開けたの。そしたら中にその袋と別の箱があってそっちフクちゃんにクリスマスプレゼントってことでおもちゃが入ってたわ」
富士子は木製のおもちゃを見せた。角がなく、口に入れても安全なおもちゃだった。
「じゃあ、これは?」
「猪熊さんのに決まってるでしょ」
困惑したように柔は富士子を見る。でも富士子はニヤニヤしてるだけ。
そもそも、花園家に耕作から柔宛ての荷物が来ることは初めてじゃない。それどころか手紙はいつもここに郵送される。原因は滋悟郎だ。以前送られてきた耕作からの手紙は、取材だと思い開封してしまったのだ。この時は幸いにもNYの住所や近況などが書いてあったくらいだが、内容は思いきり見られている。それに激怒した柔だったが、滋悟郎が手紙を勝手に開封したり隠したりするのはいつものことなので何を言っても意味はない。玉緒がいれば防げるがいつも必ずいるわけじゃないし、パリに行っている間はどうしようもない。
そんな時に、富士子から「ここに届けて貰えばいいじゃない」と提案を受けたのだ。最初は遠慮して断ったが、滋悟郎監視網をすり抜けることは容易くなく富士子に甘えることになった。
柔はその白い袋を開ける。以前は柔の誕生日プレゼントとして時計が入っていた。今回は何だろうか。NYにいた時に耕作は何も言っていなかった。
「マフラー……じゃなくてストールかしら」
袋からスルスルととりだされたのは暖かそうなストール。色はグレーで手触りがとても気持ちよかった。
「何か落ちたわよ」
富士子がそう言うと、柔の足元には小さなカードが落ちていた。
『メリークリスマス & ハッピーニューイヤー』と書かれていた。
柔はストールを抱きしめると、幸せそうに微笑んだ。
「クリスマスプレゼント用意してくれてたんだ」
◇…*…★…*…◇
暫くすると花園と富薫子が帰ってきた。
「おー猪熊久しぶりだな」
「あ、花園くん、フクちゃんおかえり」
「だー‼」
そう言いながら富薫子はてとてとと柔の元に歩いてきた。
「もうすっかり歩けるようになったわね」
「そうなの。あちこち歩き回って大変よ。足腰は強い子のようだわ」
「その方がいいんだ。柔道には足腰が重要だから」
二人の富薫子を柔のように育てる計画は着々と進んでいるようだった。
少しの間だが富薫子と遊んだ柔は夕方前にはアパートを出た。
「富士子さん、花園くん。松田さんの手紙いつもありがとう」
「何言ってるの。私たちの方が猪熊さんのお世話になってるんだからこれくらいなんてことないわ」
「そうだ、気にするな」
「そう言ってもらえると楽になるわ。じゃあ、またね。フクちゃんもバイバイ」
富薫子は小さな手を広げて横に振る。1歳になって少し表情も出てきた富薫子は微笑んでいた。
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vol.2 お前が跨いでいい敷居などないわ!
「ただいま~」
柔は玄関を開けると、滋悟郎のとは違う大きな靴を見つけた。虎滋郎が帰ってきているのだ。だが、柔は直ぐに会いに行くことはせずに、台所にいる玉緒のところへ向かった。
「あら、早かったのね」
「うん。お父さん帰ってる?」
「ええ、さっきね。それでおじいちゃんに道場に連れて行かれちゃったわ」
「どうして!?」
「けじめだって言ってたわね」
道場には滋悟郎と虎滋郎親子が道着に着替えて向かい合っていた。その様子を柔は陰からこっそり見ていた。
「よくもぬけぬけと帰って来たな。お前が跨いでいい敷居などないわ!」
虎滋郎は黙っている。
「お前は父として、夫としての責務を果たさず、家を空け本来守るべき者らを傷つけた。その罪は重い!」
虎滋郎は無表情でまだ沈黙している。
「わしはそんな息子に育ててしまったことが心から悔しい! わしはお前を許すわけにはいかん。例え玉緒さんや柔がお前の帰りを歓迎したとしても、わしがお前を許すことはない!」
「それは家を出た時から覚悟していた。許して貰おうなどとは思っていない」
「ならば出ていくがいい!」
「やめて二人とも!」
柔は二人の間に割って入った。緊迫した道場の空気が変わる。
「なんじゃ、お前には関係ない話ぢゃ!」
「関係あるわ! お父さんが帰って来たのよ。どうしておじいちゃんが勝手に色々決めちゃうの!?」
「わしはこの家の大黒柱として、放浪息子を家に入れるわけにはいかんと言っとるんぢゃ!」
「でも、あたしは帰って来て欲しい! 一緒にご飯を食べたり話したり、柔道をしたいの」
「なぜじゃ! あれだけお前を悲しませたこの男をなぜ許せる!?」
「お父さんだからよ。ずっと、ずっと待ってたもの」
「柔、いいんだ。俺はお前を傷つけたんだ。身勝手に家を出て心配させて、本阿弥さやかのコーチになってお前をどん底まで苦しめた。だから、本当のことを言え」
虎滋郎の言葉に柔は迷うことはなかった。なぜなら理由をNYで耕作から聞いていたから。
「辛かったのも悲しかったのも本当。でも本当に悲しんだのはお母さんだもの。あたしがお父さんを投げたあの5歳の時、お母さんは道場の陰で泣いてた。こうなることがわかっていたのかもしれない。探し歩いて見つからなくていつも明るく振舞っていたけど、どこかでお父さんが死んでるんじゃないかって心配してた。だからあたしはお母さんが許すならいいの。あたしはお父さんのこと恨んでないから」
「柔……」
「お母さん! 聞いてたの?」
「ええ。ありがとう。そんな風に思ってくれて。でも私も全然お父さんを恨んでないわ。だから遅くなったけど家族みんなでお正月を過ごせたらいいなって思うの。ねえ、お義父さん」
穏やかな微笑みで滋悟郎を見る玉緒。
「う、うむ。玉緒さんと柔がいいと言うなら、家に入ることは許そう」
「おじいちゃん!」
「じゃが、虎滋郎! 二度目はないぞ!」
「ああ、すまない」
何とか和解したような二人は結局対戦することはなかったが……。
「柔! 道着に着替えんか! 稽古の時間ぢゃ!」
「ええー! 今から家族水入らずの時間でしょう」
「何を言っとるんじゃ! 遊んどった分を取りもどさんといかん!」
柔は押し黙ると「はーい」と渋々道着に着替えに行った。
その後、道場に残った三人は顔を見合わせ笑っていた。
◇…*…★…*…◇
稽古はしっかり2時間は行われた。いつもと違ったのは虎滋郎も一緒だったということ。フランスチームのコーチをしている虎滋郎がいてもいいのかという細かいことは気にしない。久しぶりに柔は稽古が楽しかったし、すっきりとした気持ちになれた。
夕食後、柔は玉緒と一緒に後片付けをしていた。
「ねえ、柔」
「なに?」
「さっき、道場であなたが五歳の時にお父さんを投げた時、私が道場の陰で泣いていたって言ってたでしょう?」
「う、うん」
柔は母の涙を見ている。その事は今も心に引っかかってる。
「あれはね、嬉しくて泣いたのよ」
「え? どういうこと?」
玉緒は穏やかに笑っている。
「私は柔道が好きなの。おじいちゃんもお父さんもみんな柔道をやってた。おばあちゃんもやってたのよ。とても強かったみたい。でも私は柔道をしたことがないの。向いてないって言われて」
「誰に?」
「お父さんに。実際、運動神経も、闘争心もないから諦めたのよ。その後、あなたが産まれて、私は少し不安だったの」
「不安?」
「もしかしたら運動神経のないような私に似た子供が産まれたんじゃないかって」
「お母さんはそこまで運動神経ないわけじゃないでしょ」
「体動かすのは好きだけど、スポーツはからきしよ。何やっても上手くいかなくて。だからあなたが柔道を始めた時は嬉しかったし、どんどん上手になって行くのを見て本当に喜んだわ。そしてあの日、あなたがお父さんを投げた時、私は猪熊家にふさわしい子供を産めたことを心から嬉しく思ったし、感動したの。柔道のことはよくわからないけど、楽しそうに柔道をするあなたは輝いていたし、その相手をするお父さんも楽しそうだった」
「でも、それをあたしが投げたことで壊したのよ。あたしが普通の女の子だったらお父さんは家を出なかっただろうし……」
「それは関係ないわ。お父さんはきっと何があっても家を出ていたと思うの」
「どうして?」
「昔からそんな気がしてたから。柔ならきっとわかるわ。いいえ、もうきっとそう感じたことがあるはず」
どういうことかよくわからない柔。耕作に聞いていたのは、自分の修業のためと柔を柔道から遠ざけないために姿を暗ましていたということ。
修業だけなら家でも出来る。むしろ滋悟郎と一緒の方がいいはずだ。それなのに家を出たのは柔に才能が有りそれは虎滋郎にはないものであることを知ったから。そしてより修行を厳しくするために家を出て、虎滋郎が家を出たことで柔道を遠ざけている柔に柔道を辞めさせないために、家に戻らずライバルを育成するという残酷なことをしたのだ。
「あたしにはわからないわ」
首を傾げる柔を玉緒は見つめる。その目はとても穏やかだった。
「ところで、柔。NYは楽しかった?」
「え? あ、まあ楽しかったわ」
突然の話題に柔は動揺する。
「へー、一人旅っておじいちゃんには言ってたみたいだけど、向こうで誰かと会ってたのかしら?」
「そんなこと、あるけど……」
「大丈夫。おじいちゃんには黙ってるから」
「うん。ごめんね。まだ、言うタイミングじゃないと思うから」
「二人のことだもの、二人で決めたらいいわ。でも、おじいちゃんは何も言わないんじゃないかしら」
「そんなことないわ。絶対、何かと口出ししてくるもの。今までもずっとそうだったし」
柔は思い出す。高校の先輩の錦森のこと、そして風祭のことなど滋悟郎は様々に手を使い柔との距離を遠ざけた。柔道に専念させるために、五輪で金メダルを、そして国民栄誉賞を取るために。だがそのどちらの夢を果たした今、滋悟郎は柔に何を言うのか柔自身もわからない。だから怖いのだ。この恋だけは絶対に手放したくない。そう強く願っている。
当の滋悟郎は久々の家族団らんで気分を良くしたのか、酔っぱらってこたつで眠っている。もちろんその横で、虎滋郎も同じように眠り女二人は心置きなく会話が出来ていた。
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vol.3 さみしい年越し
猪熊家の台所からはいい匂いが家中に漂っている。おせちの準備をする玉緒は忙しそうにしているが、その傍らには柔の姿はない。
大掃除は前日に終わらせ本来なら玉緒の手伝いをしないといけないのだが、柔は仕事で家を出ている。仕事と言っても鶴亀トラベルではなく別の仕事だ。
夕方になり、道場に姿を現さない柔に滋悟郎は怒りを抑えられずに家中を歩き回った。
「あのバカ娘は稽古の時間になっても姿も見せん! 調子に乗って遊び歩いてるんぢゃろ!」
「まあまあ、お義父さん。柔はお仕事で出かけるって言ってたじゃないでないですか」
「わしは聞いとらん!」
「一昨日は随分、お飲みになってましたものね」
「そ、そんなことはないぞ。あれくらいでどうにかなるわしぢゃない!」
「まあ、だったら柔の話も聞いていましたでしょ」
「そ、そうだったな」
ふふふっと笑う玉緒を虎滋郎は感心したような顔で見ていた。あの滋悟郎を手玉に取られるのは玉緒以外もういないだろう。
午後7時を回った辺りで、玉緒はテーブルにおつまみをいくつか並べお酒の用意を始めた。稽古を終えた滋悟郎と虎滋郎は順番に風呂に入ると、ホカホカの体で酒を飲みはじめテレビをつけた。
「あのばか娘はまだ帰らんのか!」
「ええ、遅くなるって言ってましたわ」
「ふん! こんな年の瀬に仕事なぞろくなものぢゃないわ!」
『さあ、今年も始まりました紅白歌合戦』
テレビから聞こえてきた声に滋悟郎は無意識に顔を向ける。三波晴夫も島倉千代子も出ない紅白に見る価値はないと思っていたが、他に見る番組もなく毎年何となく紅白を見ている。紅白を見ないと大晦日じゃない気がして、年が越せないのだ。
「お蕎麦は後でいいですか?」
「そうじゃな。今は酒ぢゃ」
「ああ」
その言葉に玉緒は腰を下ろす。ひと息ついてテレビを見ていると、審査員の紹介が始まった。次々と紹介される審査員。そして滋悟郎は見つけた。
「柔!?」
『バルセロナ・オリンピック女子柔道48kg以下級と無差別級で金メダル、そして国民栄誉賞を授与された猪熊柔さんです』
テレビに映る柔はいつも通り曖昧な笑顔でお辞儀をした。
「まあ、綺麗なお着物ね」
「知ってたのか?」
虎滋郎も驚いていたが、玉緒だけ平然としていた。
「もちろん、聞いていましたよ」
「ぐぬー、わしを差し置いて紅白の審査員ぢゃと! わしよりも目立ちおって!」
今にでも出て生きそうな勢いで立ち上がる滋悟郎。しかし、大人しく座り再び酒を飲み始めた。
「あら、会場には行かれないんですか?」
「呼ばれてないところにわざわざ行くこともあるまい」
玉緒と虎滋郎は顔を見合わせる。今までだったら呼ばれてないところにも堂々と乗り込んでいたはずなのだが。何か心境の変化でもあったのか。
「うん! んまい! この煮しめ絶品ぢゃの。さすが玉緒さんぢゃ」
滋悟郎の顔は綻んでいる。今日はこのまま三人で団欒となるだろう。
一方、NHKホールの柔はステージの歌手たちに聞き惚れ、見入っていた。しかし元々、こういうテレビの仕事は苦手で滋悟郎がいないものには殆ど出たことがないが、国民栄誉賞と頂いたことで出ないわけにはいかない空気となり引き受けた。滋悟郎がいると段取り通りに進まなくなる恐れがあり、それは大勢の歌手やスタッフに迷惑をかけることになるだろうと判断した柔は、滋悟郎には紅白のことは秘密にしておいた。事前に知っていたら絶対に乗り込んで来ていたはずだからだ。
「今日は滋悟郎先生は来てないの?」
バルセロナ五輪男子柔道71kg級で金メダルを獲得した甲賀が柔の隣に座っていた。怪我を克服しての金メダルに国民の皆が涙したのだが、翌日からの連続の金メダルを獲得した柔に話題をさらわれた形になったのは否めない。しかも国民栄誉賞も貰っている。スター性で言えば柔の方が上だ。
「はい、今日はさすがに……」
「そうなんだ。さっきは見かけなかったけど、会場のどこかにいるのかと思ってた」
「入り込んでもわからないかもしれないですね。この混雑ぶりでしたら」
「ところでさ、今度食事でもどうかな。今後の柔道界を考えるためにゆっくり話したいんだけど」
「え? 今後の柔道界ですか?」
正直柔には興味がない。それにこんなところでそんな話をするのも何か非常識だ。すると、会場から歓声が上がり少年隊がステージに現れた。第二部の始まりだ。柔は甲賀に返事はせず、仕事に戻る形でステージを見ていた。少年隊はかつて大ファンだったグループで、楽しみにしていた。
紅白は続き、柔も何度かコメントを求められ何とか仕事を終えた。疲れ切った表情でスタッフに促されるまま、バックステージに誘導されひと息つこうと思ったがどこもかしこも人だらけ。審査員の控室には甲賀がいるし、柔はあてもなく廊下をウロウロしていた。
「あれ? 猪熊柔じゃない?」
騒々しい中でも自分の名前は耳に入る。最近では街中でも聞こえてきては、振り返らずに逃げ切ることが得意になったがここでは無理だ。声を掛けられなきゃいいんだけど、と思っていると男性が二人柔の前に現れた。
「ねえ、猪熊柔ちゃんだよね?」
見覚えのある二人。さっきまでステージで歌っていた歌手だった。
「テレビで見るより小さいね」
「これであの巨体を投げてるんだ。すごいや」
興味深々という表情で柔を見ている。
「あの、ステージ素晴らしかったです。感動しました」
柔に言われて二人は歌手の顔に戻る。
「ありがとう。これから打ち上げなんだけど、一緒に来る?」
「それよりも、連絡先交換しよう。今度、ご飯でも食べよう」
「お前ズルいぞ。俺も交換してよ」
「あの、そう言うのはちょっと……うちにはおじいちゃんがいて」
「ああ、あの元気なじいさんか。大丈夫、大丈夫。ね、交換しようよ」
強引に詰め寄ってくる二人。背の低い柔は壁際にいたので逃げ場がない。
その時、フラッシュが光り男二人は背後を振り返った。
「スクープ、撮ったぞ!」
「お、おい。何もしてないだろう。仲良く話してただけで、スクープはないぞ」
「そうだ、そうだ。じゃあ、お疲れ様、猪熊さん」
男性二人はそのまま立ち去って柔はほっと肩を撫で下ろす。
「余計なことしたかな、柔ちゃん」
聞き覚えのある声に振り返ると、パイナップル頭の鴨田がいた。
「あ、鴨田さん。お久しぶりです。助けていただいてありがとうございます。でも、どうしてここに?」
「審査員お疲れ様。僕は紅白の取材だけど、柔ちゃんはこんなところでどうしたの?」
「ちょっと居場所がなくて……」
「控室は? 迷子になったの?」
「そう言うわけじゃないんですけど。居づらくて」
「遠慮しすぎだよ。柔ちゃんは今やスーパースターだよ」
「そんなことないですから……」
「あ、そうだ。柔ちゃんそこに立って」
白い壁の前に柔を立たせる鴨田。柔は言われるがまま移動した。
「写真撮るよー」
「え? 写真?」
「ポーズとって」
そう言われてもモデルじゃないからポーズなんてとれない。しかし柔は笑顔を作って写真に納まる。
「良い写真が撮れたよ、ありがとう」
「いえ、そんなものどうするんですか? 新聞には載せないですよね」
「記念だよ。折角、綺麗な着物を着てるんだし。現像したらあげるから。じゃあ、また」
鴨田はそう言うとさっさと帰ってしまった。辺りはまだスタッフが入り乱れて仕事をしていて、柔はふーっとため息を吐いた。腕時計はとっくに12時を回っていて、いつの間にか1993年を迎えていた。なんだか虚しい年越しとなった。
帰宅したのは深夜だった。着替えてタクシーに乗って自宅に戻ると、家の灯りは消えており冷えた空気の廊下を歩いた。沢山の人がいたけど、寂しい年越しだった。こんなことなら虎滋郎もいる家でみんなでわいわいしてた方がよかった。
「おかえり」
玉緒が声を掛けた。
「お母さん、起きてたの?」
「まさか何時だと思ってるの? ちょっと水を飲みに起きただけよ」
「そうよね。驚いたわ」
「疲れてるでしょう。早く寝なさい」
「はーい」
静寂に包まれる猪熊家。母子の会話を別の部屋にいた祖父と父も聞いていて、無事に帰って来た娘の声を聞いた再び眠りについた。
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vol.4 初詣
元日の朝はとてもよく晴れていた。早朝から道場では滋悟郎と虎滋郎が稽古にいそしみ、玉緒はお雑煮の準備に取り掛かっていた。柔は昨夜の疲れからまだ眠りから覚めない。
滋悟郎たちの稽古が終るころ柔も起きて来て、こたつに入り込んだ。
「いつまでも寝ておって、たるんどるぞ!」
「仕方ないじゃない、夕べ遅かったんだもん」
「まあまあ、新年から何を言い争っているんですか? お雑煮のおもちはいくつにします?」
「五つもらおうか」
「おじいちゃん、そんなに食べるの? あたしは二つ」
「俺も五つ」
「はい、わかりました」
玉緒は賑やかな食卓に目を細めながら、台所へ向かう。家族がそろったお正月なんて何年振りだろうか。胸がいっぱいで幸せだった。
午前10時少し前。柔は電話の傍にいた。朝食も終えて滋悟郎たちは初詣に出かけ柔だけ残っていた。それにはもちろん理由がある。
玄関前にある黒電話がけたたましくベルを鳴らす。柔はそれをお得意の反射神経で素早く取ると「もしもし、猪熊です」と相手がわかっていながら言ってみた。
「あけましておめでとう、柔さん」
「あ、あけましておめでとうございます。松田さん」
NYを発つ前に二人は約束していたのだ。年が明けたら電話すると。でも、柔は紅白に出るから日本時間での年明けには電話が出来ない。だったらNYでの年明けにかけて来てと。それを柔は待っていたのだ。
「今年もよろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「昨日の紅白はどうだった?」
「贅沢な体験をさせてもらえましたよ。一流の歌手のステージを間近で見られたんですから」
「だろうな。毎年何となく見てた紅白を見られないのは何とも寂しい気持ちだよ。NYも年越しは盛大にやるんだけど、お祭り騒ぎみたいで情緒がないんだよな。しんしんと雪が降る寺を見ながら除夜の鐘を聞くってのが乙だよな」
「案外、古風なところがあるんですね」
「そりゃな。初詣も行けないし、餅も食えない。正月らしさはNYには皆無だな」
一人NYで年越しなんて柔だったら寂しくて堪らない。そんな状況にいる耕作に何もしてあげられないことが悔しい。
「柔さん? どうした?」
「いえ、あたしも昨日は紅白のどさくさでいつの間にか年越ししてて……あ、そうそう鴨田さんに会いましたよ」
「NHKホールでか?」
「そうです。取材に来てるって言ってました」
「そういや毎年、年末は紅白だって言ってたな。芸能担当も大変だな」
「そうですね。慌ただしくしてました。でも、ちょっと助かりました」
「何かあったのか?」
「いえ、知ってる人がいると安心って言うか……」
「男子柔道の甲賀選手もいただろう?」
「そうですけど、甲賀さんとは親しくないですし」
「そっか。鴨田もたまには役に立つもんだな」
「何言ってるんですか。いつも助けられてるじゃないですか」
「そうだった。はははっ」
「あの、クリスマスプレゼントありがとうございました。素敵なストールで使うのが勿体なくらいです。お礼が遅くなってすみません」
「いや~安物で申し訳ない。こちらこそマフラーありがとう。NYは寒いから重宝してるよ」
「そんな、使っていただけるだけで嬉しいです」
「俺もそうだよ」
二人はお互いにクリスマスプレゼントを用意していたのだが、それを言い出せずにいてNYで手袋交換をしてしまったのだ。だから柔は自分が使っていたベッドルームにプレゼントをそっと置いて部屋を出たのだ。そしたら日本には耕作からのプレゼントが届いており、二人してプレゼントがあることが言えないでいたことがわかり、柔はとても嬉しくて暖かい気持ちになれた。すれ違っていたと思っていた気持ちが実は同じだったとわかったのだ。
「おはようございまーす」
突然玄関から声がして音を立てて戸が開いた。柔は驚いたが玄関の前にいたのは、親友の富士子とその夫の花園、そして娘の富薫子だった。
「あれ、猪熊さん電話中?」
「あ、うん」
受話器の向こうから聞き覚えのある声がして富士子の顔がにやりと笑う。
「松田さんね~お邪魔したかしら?」
「そ、そんなことないわ。もう、切るとこだったし」
「本当かしら……あ、でも松田さんならちょっと替わって貰ってもいいかしら?」
「うん。どうぞ」
受話器の向こうの耕作は何となく聞こえてくる情報しかなく、突然聞こえてきた富士子の声に少々驚いた。
「あけましておめでとうございます、松田さん」
「あ、おめでとう、富士子さん」
「フクちゃんのクリスマスプレゼントありがとうございました。毎日遊んでますよ」
「そりゃよかった。おもちゃなんて選んだことないからわからなくて」
「松田さん、NYでお忙しいみたいですしあまり気を遣わないでくださいね」
「いや~富士子さんたちにはお世話になってるし、ほんの気持ちだよ」
「気持ちだけでありがたいですし、二人の役に立てるならあたしたちはそれで満足ですよ」
後ろにいる花園も笑顔でうなずいている。そして富士子は柔に電話を替わった。
「あの、松田さん」
「ああ、そろそろ切るよ。そっちはこれから初詣だろう。俺はもう寝るよ」
「そうですね。おやすみなさい」
「おやすみ」
そっと受話器を置く柔。それを二人はニヤニヤしてみている。
「何よ、二人とも」
「別に~」
◇…*…★…*…◇
初詣は近所の神社へ出かけた。ここでは数年前に晴着の切り裂き魔が出てさやかが取り押さえて話題にもなった場所だ。実際は柔が投げたのだがそれはその場にいた人しかしらない事実。それ以降、さやかはここには来ていないようだが柔は毎年ここに初詣に来ている。
参拝客はそこそこいるが露店などもないので、人の流れはスムーズだ。
「滋悟郎先生はもうここへ?」
「ええ、お父さんとお母さんも一緒に出たから。多分、お神酒をいただいてるんじゃないかな」
鳥居をくぐり参道を歩いていると、人々のざわめきがより一層大きくなったような気がした。
「あれ、猪熊柔じゃないか?」「猪熊だ」「柔ちゃんよ」「花園もいるぞ」などと言う声がそこかしこから。近所の人は柔が初詣に来たくらいでざわつかないが、普段は見かけない人も来るのが初詣。少々、パニックになりつつある。
柔たちは早足で拝殿に向かい、手を合わせる。そして裏手に回り滋悟郎たちを探す。
「おじいちゃーん」
拝殿の脇でお神酒をいただいている滋悟郎は柔の声に振り返る。
「お、ノッポのねえちゃんたちも来てたのか」
「あけましておめでとうございます」
二人は師匠である滋悟郎に挨拶をして頭を下げる。
「ねえ、お母さんたちはどうしたの?」
「もう帰ったわ」
「えー入れ違いになったのかしら」
「おまえがぐずぐずしてるからぢゃろ」
「そんな~」
「花園とノッポのねえちゃんは一杯やってくか?」
「フクちゃんがいるので、お酒は控えています……」
「そうか、つまらんの。甘酒ならどうだ?」
「それならいただきます」
柔たち三人は滋悟郎がいる拝殿の脇に上った。富薫子は歩きたいと足をバタつかせたので花園は自分の腕から下ろすと途端に歩き回った。さすがに神社なので慌てて追いかける花園。やっと追いついたかと思ったら参拝客が見える場所まで来ていて思わず眺めていた。
「人が沢山いますね~フクちゃん」
「だー!」
拳を振り上げるがそれは同意ではなく、歩かせろの意思表示。癇癪を起す前に花園はその場を後にして富士子の元に戻った。
「花園くん、フクちゃん見ておくから甘酒頂いたら?」
「ん? ああ、いいのか」
花園は滋悟郎の横に座ると、柔が紙コップに入った甘酒を持ってきた。
「どうしたの、花園くん」
「いや~さっきから何か引っかかってて、気持ち悪くて」
「小骨?」
「そう言うんじゃないだが……」
「なんぢゃ、腹が減っとるんぢゃないのか?」
「もう、おじいちゃんじゃないんだから」
「いや、腹は減ってるぞ」
「ほれ! ははははっ」
滋悟郎の笑い声に引き寄せられるように富薫子はたどたどしく歩いてきた。それを滋悟郎は抱きとめると、優しく頭を撫でた。その様子を見て柔は目を細めた。
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vol.5 モーリス
耕作は一人で年越しを迎えた。柔に電話した後、実家にも電話した。数年前に倒れた父親もそれを支える母親も元気そうで何よりだった。面倒なことを聞かれる前に、深夜だから寝ると言って切った。柔のことはまだ何も言っていない。
初日の出は当然見ていない。起きたのは午前8時。良く寝たとカーテンを開けると、濃い澄んだ青空が広がっていて耕作は散歩に出かけた。朝食もどこかで済まそうと適当な店に入ろうと思ったが柔を思い出し、野菜を食べれる店を探してさ迷い歩いた。街はクリスマスで盛大に賑わい、だんだん落ち着きを取り戻している。その影響か開いてない店もある。耕作は歩き疲れて行きついたのが、ニューヨーカーの憩いの場であるセントラル・パークだった。ベンチに腰を下ろしこの際、ハンバーガーでもいいかと思うほど腹ペコで立ち上がる気力も失いかけていた。
「Hey!Boy!」
聞き覚えのある声頭上からした。太く低い声だ。肌が泡立つのを感じた。
「今日は彼女はいないのか?」
「ああ、ところで何のようだ?」
耕作は顔を上げた。気配は一人だと思うがもし万が一仲間がいて、この前の報復などされたら最悪死ぬかもしれない。血液が物凄い速さで体中を駆け抜ける。寒いのに汗が出る。
「NYを嫌いになったのか?」
耕作の目はいっぱいに見開いている。思わず口も開いた。
「そんなことはないが、あんたあの時のギャングだよな?」
「正解。だがギャングじゃない。見たらわかるだろう」
「……警察官なのか?」
「正解」
目の前の黒人の彼は紛れもなくNY市警の制服を着て、真っ白な歯を見せて笑った。笑顔はとても愛嬌があるが、耕作はそれどころじゃない。
「じゃあ何であんなこと!」
耕作は不機嫌気味に言い放つ。彼のしたことは警察官としてあるまじきことだ。
「あの時は本当にすまない。あんなことになるとは思ってなかったんだ」
「どういうことだ?」
「君達が入り込んだ地域の奥は本当に危険な場所なんだ。映画の影響で何も知らない観光客がギャングにつかまっては金品を取られたり、暴行されたりする事件が相次いで起きているんだ。俺たちは、あの時にいた仲間は全員警察官なんだが非番の日にボランティアであの場所に入り込む観光客を脅して退去してもらってる」
「なんで脅す必要があるんだ?」
「NYは無防備に遊べる場所じゃないって自覚してもらう必要がある。観光客は浮かれて周りを見ない。いつ誰が狙っているかわからない。危ない場所に行かないように自分で気を付けて欲しいんだ」
柔はあの時、本当に無防備に路地裏に入り込もうとしていた。あのまま奥まで行ったらどうなっていたかわからない。いくら柔道が強くてもガタイのいい男が数人で取り囲めばひとたまりもない。耕作だって無事では済まない。
「そういうことか……すまない。危害を加える気がない人を投げたりして」
「仕方ないさ。まさかあんな細い女性が男を投げるなんて思いもよらないから、あいつ投げられて少し気を失っていたよ」
「大丈夫だったか?」
「もちろん。曲がりなりにも警官だ。体は鍛えてるよ」
耕作は安心した。緊張が解けてさっきよりも腹が減って、盛大に腹の虫が鳴る。
「何だ?腹減ってるのか?」
「ああ、朝から何も食べてない。そうだ、あんたNY詳しいだろう。ここら辺でヘルシーな食事を出す店って知らないか?」
「ここはNYだぜ。ジャンクフードが一番うまいよ」
「それはもうわかってるんだが、彼女が体の心配をしててな。野菜も食べろって言うんで探してたんだが、店がない。見た所、あんたは警官とは言えガタイがいい。鍛えてるのは分かるが、食事も気遣ってるんじゃないかと思ったんだが」
男は驚きそして口角を上げて笑う。
「すごい観察眼だな。オレは元海兵だ。そして今も格闘技の訓練は欠かさないし、体も鍛えている。もちろん食事も気を付けてるよ。で、あんたはNYで欲望の赴くまま食べてその体か」
「恥ずかしながら、正解だ」
着ぶくれている服の上からはわからないと思っていたが、見る人が見れば耕作のだらしない腹の肉は見えているのだろう。そうなると柔の目にも見えていたということになる。
「さらに彼女を守れなかったことも気にしていると?」
「ああ、日本は平和だ。そして彼女は強い。俺は勢いでだけで生きてきた。だけど彼女の傍にいようと思えば、それだけでは不十分だとこの前思ったよ」
「強くなりたいか?」
「もちろん。それが男ってもんだろう。……ん?」
男は耕作の前に右手を出した。
「オレはモーリスだ」
「俺はコウサク・マツダ。新聞記者をしている」
耕作は握手をして立ち上がる。モーリスはいい笑顔で腕を引き抱き寄せる。鍛え上げられた筋肉が固く鎧のようだった。あまりの力強さに耕作はなすすべがなかった。
「いい店がある。行ってみるといい」
モーリスは住所を言うと仕事に戻った。
でも、ここから少し離れている。
「あー腹減った」
見上げた空は青く澄みきっていた。
新キャラ「モーリス」は以前も登場しましたが、あの時はモブっぽかったのでここで紹介しませんでした。
彼は黒人でNY市警の警察官で元海兵です。
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それぞれの日々
vol.1 鶴亀トラベル新年会
一月下旬。寒さもまだまだ緩むことがないが、柔の勤める鶴亀トラベルではこの時期に毎年新年会が催される。柔は入社三年目で初めて参加した。毎年誘いは受けるものの、門限や滋悟郎の世話などがあり参加できないでいた。しかし今年は家には玉緒がいるし、門限も緩和されて少しだけ自由が許された。柔は初めての新年会を楽しみにしていたが、同僚の狭山たちはあまり気乗りしていないようだった。
「酔っぱらったおじさんたちの相手するのって疲れるのよ~」
「無礼講とか言いながら触ってくる奴もいるし、本当に気持ち悪い」
柔は引きつった笑顔で断ればよかったかなと少々後悔しつつも、会場である店に向かった。会社近くにある居酒屋の座敷を貸し切ってやる新年会は毎年恒例となっている。
「あ、猪熊くん。こっちこっち!」
羽衣が既に店に入っており柔に声を掛けた。直属の上司と言うことで柔は当然隣に座る。狭山と塚本も向かいの席に腰かけた。その後、支店長らも来店し新年会は始まった。そして柔は直ぐに後悔することとなった。
「オリンピックはすごかったねー」
「一時はどうなるかと思ったけど、金メダルと国民栄誉賞おめでとう」
「何で柔道やめてたの?」
「なんでまた始めようと思ったの?」
酒が入って普段聞けないようなことを遠慮なく聞いてくる、会社の同僚や上司をあしらうのがとても面倒で柔の笑顔も引きつっていた。
「もう、やめてあげてくださいよ」
向かいの席の塚本が言うと、男性上司から「いいじゃないの~。無礼講だよ」と肩を抱かれた柔は久しぶりに背筋が震えた。
「おっと、一本背負いは勘弁してよ」
柔の笑顔も張り付いていたが、何も言えない自分にも嫌気がさしていた。いつからこんな風に言いたいことも言えなくなったのだろうか。高校生の時はもう少し自分を出していたはずだと思っていた。
「おーい、猪熊くん、ちょっといいかな」
トイレに行っていた羽衣が入口の辺りから柔を呼んだ。柔は天の助けと言わんばかりに立ち上がった。
「はい、羽衣課長代理。何かご用ですか?」
「お店の人がね、君がいることを知って一緒に写真を撮りたいって言うんだが、いいだろうか?」
「あ、はい。構いませんけど」
「じゃあ、呼んでくるから待ってて」
羽衣は厨房の方へ行くと、柔はふーっと一息ついた。本当に大変だ。もう来年からは参加しないと決めた。
その後、写真を撮って色紙にサインをして席に戻ったが、羽衣が隣にいる間は他の社員たちはさっきのように柔を質問攻めにしたり、体に触れることもなくなった。
しかし、新年会が終え店の外に出た時、羽衣は立っていられないほど酔いつぶれてしまっていた。
「猪熊さん、二次会行くよー」
他の部署の男性社員が柔に声を掛けた。正直、名前も知らない。しかし路上でフラフラになっている羽衣を誰も介抱せず二次会に行こうとすることに柔は腹立たしさを感じた。
「猪熊さんは明日も練習があるから」
「そうそう。羽衣課長代理、大丈夫ですかー」
狭山と塚本が声を掛けた。
「猪熊さん、向こうの通りにタクシー待たせてるから、とりあえず一緒に課長代理乗せよう。このままここに置いて行ったら死んじゃうわ」
「そうですね」
「そういうことなんで、先に行っててもらえますか?」
「ああ……」
思いっきり冷めた目で、近くにいた男どもを見ていた狭山と塚本に誰も何も言えずそして誰も手を貸してはくれなかった。男性を運ぶのは並大抵のことじゃないが、僅かな距離なので何とかなった。白いシートに思い切り腰かける羽衣は、酔いのせいか意識が虚ろであった。
「猪熊さんはどうする? あたしらは帰るけど」
「あたしも帰ります」
「じゃあ、お疲れ様~。課長代理はタクシーに任せちゃえばいいわよ」
二人は駅に向かって歩き出していた。置いて行かれた柔はタクシーの中の羽衣を見て息をついた。だらしなく寝息を立てる上司をこのまま放ってはおけない。
「すみません、行先は……」
タクシーは寒い夜道を走り出した。羽衣は相変わらず眠っているようで、隣に座っている柔は流れる景色を眺める事しか出来なかった。
「お客さん、着きましたよ」
運転手に言われて柔は目を覚ました。久しぶりにお酒を飲んで稽古の疲れから眠ってしまったようだ。辺りは見知らぬ場所だが、目の前のコンクリートの団地はどうやら羽衣の自宅のようだった。隣で眠っている羽衣をさすがに一人では運べないので運転手の助けを借りて、羽衣の部屋まで運ぶことにした。羽衣自身は完全に寝ているわけじゃなく、夢うつつのような状態で足元はおぼつかないが多少歩けるようだった。
「お客さんも大変ですね。酔った上司を送っていくなんて。普通は男性社員がこういうことするんですよ」
「そんなこと……日頃お世話になっているのでこれくらいはなんとも」
運転手は隣で酩酊している羽衣を見て「良い部下を持ったね」と呟くと、心なしか羽衣は笑った気がした。
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vol.2 羽衣の妻
夫の帰りを待つ妻なんてそんな可愛らしいこともう何年もしていない。帰ってこようとこまいと、どちらでもいいとさえ思っていた。連絡がなく遅く帰ってくることがあっても心配もしていない。彼女の中の夫の優先順位はかなり下だ。いつからこんな風に思うようになったのか、今はもうわからない。
午後9時すぎ。テレビを見ていた彼女は玄関に気配を感じた。狭い団地に長年いると何となくわかるようになる。頼りない夫を持てばなおさらのことである。
案の定、呼び鈴が鳴る。鍵を持っているのだから勝手に入ってこればいいのに、酔っているとわざわざ手間を掛けさせる。彼女はイラつきながらドアを開けた。
「自分で開けて……」
想像していた顔じゃない顔が目の前にいた。しかも若い女だ。
「羽衣課長代理の部下の猪熊です。新年会で飲み過ぎて歩けなくなってしまったようなので送ってきました」
「え、ああ。ごめんなさいね。さあ、どうぞ」
「すみません、お邪魔します」
柔は運転手と一緒に部屋の中に入り寝室の布団に寝かせた。すると羽衣はいびきをかいて眠り出した。その姿に彼女はとても恥ずかしくなる。
「御迷惑をお掛けして本当に申し訳ありません」
「気にしないでください。それではあたしは……」
「ちょっと、待ってください。タクシー代をお支払いしますわ」
「そんな、いいんですよ」
「そう言うわけには行きませんから」
彼女は財布からお金を出し、運転手に渡す。運転手はお釣りを取りに戻り、柔はその場に立ち尽くした。失礼とは思いながらも部屋の中をつい見てしまう。なぜなら、この部屋はあまりに殺風景で殆ど物がないのだ。
「もしよろしければ、少しお話しませんか?」
ふくよかな顔の細い目には表情があまり感じ取れない。柔は突然の誘いにうまい断り方が見つからず「少しなら……」と返事をしてしまった。
お釣りを持ってきた運転手は帰りも客を乗せれると思っていたのだが、空振りに終わり肩を落として車に戻って行った。
「帰る時にはまたタクシーを呼びますね」
「いえ、大通りに出れば大丈夫ですから」
「そう言うわけには行きませんよ。あなたは強いかもしれないけど、女性ですし」
「あたしのこと……」
「もちろん直ぐにわかりました。さきほどの運転手さんはお気づきじゃなかったみたいですけど」
柔は国民栄誉賞を受賞してから、街で声を掛けられることが多くなった。顔を隠すことはあまりしたくないが、人ごみに出る時は眼鏡をかけることもある。一人一人の声にこたえられないならば初めから声を掛けられないようにすればいい。そのため、出来るだけ身を潜め正体がわからないようにする癖がついた。だから柔はあらためて自己紹介をした。彼女もまた、名前を名乗った。
「どうぞ、インスタントですけど」
彼女はコーヒーを出した。柔はありがたくいただく。
「猪熊さん、ありがとうございます」
「え? 突然どうされたんですか。あたしはお礼を言われるようなことは何も……」
羽衣をタクシーで送ってきたことは既にお礼を言われている。他に思い当るところはない。
「主人はずっと窓際でした。仕事が出来ないのか、やる気がないのかわかりませんが在籍年数だけで係長になったようなものです」
「そんなことは……あたしは入社以来ずっとお世話になってますし」
彼女はふっと笑う。
「出世こそが男の道だとは言いませんが、ただ会社に行って何となく仕事をして帰ってくる人生を主人は続けていたんです」
柔はもう何を言っていいのかわからない。こんな話を聞いていいのかもわからない。
「あなたが入社してくるまでは」
「どういうことでしょうか?」
「三年前に主人が大きな仕事をしてきたと自慢したことがありました。口数は少ないですが、たまに冗談は言う人でしたのでその時も冗談だとばかり思ってました。でも、本当のことで主人は出世しました」
北海道での接待ゴルフだ。加藤忠商事とトヨ産自動車の接待ゴルフを鶴亀トラベルが請け負って、その添乗員に羽衣と柔が付いた。先方は柔だけ来てくれればいいと言ったが、新入社員を1人で行かせられるわけもなく羽衣も同行した。
しかし、二日目は全日本選手権と重なり本来なら柔はそちらに出場しないといけないが、何故か仕事を取ったのだ。絶対に来ないと思っていた柔が空港に来たとき、羽衣は自分の首が繋がったことに安堵したが今度は別の思いが込み上げた。こんなところで仕事してる場合じゃないと。そして羽衣は柔を朝一番の便で東京に帰し、試合に出場させた。このことでクビになるかと思いきや、やけくその接待でトヨ産自動車の専務を大いに喜ばせ仕事は無事成功し、会社に多大な利益をもたらした。その仕事を評価され、係長から課長代理に昇進したのだ。
「それ以降、主人は仕事に多少なりともやる気を出し始めたんです。いままでは目立ちもせず邪魔もしないような存在でしたのに、どういうわけかやる気を。柔道部設立の一員にもなったと言ってました。そのことも随分よろこんでいました。一時期とても落ち込んでいた時もありましたが、去年はずっとやる気に満ちていたように感じます」
羽衣が落ち込んでいたのは柔が柔道をしてなかった時期だろう。直属の上司の羽衣には随分会社内から厳しい声が飛んでいたことだろう。それを柔に一度だって言ったことも、態度で見せたこともなかったが。
「猪熊さん。あなたのお陰なんです」
「どうして、あたしの?」
「主人は仕事はきちんとする人です。ただ自発性がない。流されて生きてきたと言ってもいいでしょう。私と結婚したのもそうですし。でも、北海道の仕事以降は自発的に何かをしている様子でした。仕事もその他も。それはきっと好きな柔道とあなたに関わることが出来たからだと思います」
「それは買いかぶりすぎです。あたしこそ流されて生きてきたところがあって、課長代理には助けて貰うことも多くて。今日だってこんな状態になったのはあたしのせいなんです」
「どういうこと?」
「新年会で普段は接点のない社員とも話すことが多くて、あたしが困っているのを課長代理がわかっていてその人たちを遠ざけてくれてたんです。そのせいで、お酒をたくさん飲んでしまったようです」
「そういうことだったの。本当に仕方ない人ね」
この人はそう言う人だ。自己主張もなければ存在感もない。空気みたいな人。邪気がなく、人を陥れたり、裏切ったりしない人。物足りないし刺激もないけど、真面目で家族を大切にして不満の一つも言わない。出世と言う欲もなく彼女とは描く将来の温度差もあったけど、それでも彼なりに頑張ってここまで来たのだから感謝しないといけないのかもしれない。
「息子が中学受験に合格して、柔道を始めたんです。正直、柔道に興味があったことも知らなかったんです。学校も柔道部がある所を選んだみたいで」
「そうだったんですね。全然、知りませんでした」
「この人はそう言うこと話さないでしょうね。でも、息子にはよく柔道やらないかと言っていて、三年くらい前に大学の試合を見に行ったみたいで衝撃を受けたようなんですよ」
柔には心当たりがあった。花園が男気を見せるために猛特訓して臨んだ試合だ。準優勝と言う結果には終わったが、その熱意や強さは伝えたい人には十分伝わった。今は花園の妻になっている富士子には。でも他にも影響を与えていたようだ。
「息子は柔道の才能があるかはわかりません。でも今は楽しいと言って励んでいるんです。勉強とテレビゲームばかりやっていたのに、最近は目に見えて快活で充実しているように思えます。息子に柔道のきっかけをくれたのもやっぱり猪熊さんだと思うんです。バルセロナの試合は息子と二人で見ていました。自分にも出来るんじゃないかと思ったみたいであの子の心に火を点けたんです」
「そんな、あたしなんか……」
「夫と息子が熱意をもって日々を生きているのを私は冷めた目で見ていました。でも、心の中では彼らを羨んでいたんです。そして……あなたに……」
彼女の顔色が変わった。氷のような硬い表情に別の熱を帯びた意思が見えた。しかし深いため息を吐いてその意思を捨てたように見えた。そして作った笑顔を見せた。
「ごめんなさいね。こんなおばさんの話を聞いても何も面白くはないわね。時間を取らせて申し訳なかったわ」
彼女はこんなことを言うつもりはなかった。本当に感謝していることを伝える気だったのだ。それなのに段々止まらなくなった。自分では変えられなかった家族の心をこの人は変えた。そんなすごい人に会ってみたかった。話をしてみたかった。それだけなのに、目の前に座る世界的スターはどこにでもいるような若い女性にしか見えず、いつしか心の奥にしまい込んだ感情が滲み出ようとしてきた。これ以上話していたら傷つけてしまうかもしれないと思ったら、もう向かい合ってはいられなかった。
「タクシー呼びますね。お引止めしてすみません」
「待ってください。奥さまは何か勘違いをされています」
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vol.3 託された夢の先
「待ってください。奥さまは何か勘違いをされています」
「どういうこと?」
「課長代理と息子さんを動かしたのはあたしじゃありません。北海道の件をどのようにお聞きになっているか分かりませんが、あたしは柔道より仕事をとりました。全日本選手権には出ないつもりでした。そうしないと契約が結べないと思っていたからです。でも、課長代理はあたしを東京に帰しました。そして試合には間に合い、優勝しました」
「でも仕事は上手くいったと言っていたわ」
「そうです。柔道ファンだった先方はあたしが北海道に行くことで契約をしてくれるはずでした。そのあたしが途中で帰って本来なら何もかもが終わりになるはずだった。会社の皆もそう思っていました。しかし、翌日出社した課長代理は契約を取って仕事は大成功に終わりました。多分、あたしがいただけじゃあんな大きな契約は取れませんでした。あれは課長代理が柔道の試合を取引先の方と一緒に見て、楽しんでくれたおかげなんです」
「だったらやっぱりあなたのお陰じゃないかしら」
「違うんです。あの日、課長代理があたしを東京に帰したのは、あたしに柔道をさせるのが目的でしたけど、そう思わせたのは新聞記事なんです」
「新聞? この人が毎日読んでいるあのスポーツ新聞?」
「はい。日刊エヴリーです。その中であたしの記事を書いてくれる記者が松田さんです。課長代理は松田さんの記事をとても高く評価して、その上であたしのことを知って下さったんです。松田さんが書く記事は熱意があり毎日の楽しみだと言っていました。松田さんの記事があったから、あたしに仕事じゃなくて柔道をしろと言ったんです」
「でも、自分のクビのことは考えなかったのね。それは私たちのことをないがしろにしたってことじゃないかしら。結果的には昇進したけど、一歩間違えたらクビよ」
「それは、否定できませんがそのどうにでもなれって言う解放が、課長代理の本来の力を出したんだと思ってます」
柔が帰った後、何もせずただ平謝りしていたら仕事は失敗し、クビは飛んでいただろうが羽衣は全てを取っ払い、立場も考えずにただ柔道観戦を楽しんだ。それが功を奏したのだ。
「息子さんの件も同じです。あたしが試合をしたのを見て興味を持ったんじゃないですよね。大学の柔道の試合です。あれは男子柔道です。しかも重量級でした。迫力が違っていたと思います。どうしてそこにいたのかわかりませんが、息子さんは彼らの迫力ある試合に感銘を受けたんだと思います」
「バルセロナ五輪での試合も息子は食い入るように見てましたわ」
「そもそも柔道が好きじゃなきゃ見ないですよね。そのきっかけは大学柔道であり、それに連れて行ってくれた課長代理です」
柔の試合は多くの人を感動させた。だれかの勇気や原動力になったかもしれない。でも、全てじゃない。そんな影響力が自分にはないと柔は思っている。
「あたしは物心つく前から柔道をやっていて、自分が強いことも知らなくていつの間にかこんな風になってたんです。柔道の才能があるとか、環境がいいとか言われましたがあたしはそれを望んだことはありません。これを言うと贅沢だと言われそうですけど、本心です。あたしは金メダルも国民栄誉賞も望んでいたことじゃないんです。望んでいたのは祖父ですから。あたしは祖父の夢を叶えただけなんです。あたしには別の夢があります。本当に平凡なものですけど、それを叶えさせてくれる環境じゃなかったんです。だからその夢を叶えている人をあたしは心から羨ましく思います」
「ないものねだりかしらね」
「はい。人は自分にはない物を羨ましく思うものです。あたしは自分が望むものを得るためには、祖父の夢を叶えなくてはいけないと漠然と感じていました。柔道よりもしたいことをするためには祖父の夢をあたしが叶えなくてはと。祖父もまたあたしを羨んでいたんだと思います。自分ではなし得なかったオリンピックの夢をあたしに託したんです。本当に勝手なことですけど」
「人の夢を託されるのは辛いことよね?」
そう言う彼女も息子に私立受験をさせたのは、息子のためと言いながらも結局自分のためだった。自分が望む学校を受験しないと言った時、激しく動揺した。息子のためなら息子が行きたい学校でいいはずなのに、それを受け入れるのにとても時間が掛かったのは中学受験の合格を自分の夢にしていたから。息子は言い出しにくそうに母に言った。このことが母親を傷つけるかもしれないと分かっていたら。母の夢を裏切ることになるかもしれないと感じていたから、辛そうに顔をしかめて言葉を発したのだろう。
「ええ、でも人は多かれ少なかれ人の夢を背負って生きているものではないでしょうか。あたしの柔道にはたまたまそう言う人が多かったけど、普通にあることだと思います」
耕作の夢も虎滋郎の夢もその他、柔に関わった多くの人の夢を柔は背負っていた。それに気づいたのは最近になってからだが。柔道と向き合い多くの声を貰うようになってその考えに辿り着いた。
「普通に、ある?」
「課長代理は言ってました。北海道での仕事が上手くいった時に『私立受験もマイホームも何とかなりそうだ』と。電話でしたが泣いていたようにも聞こえました。課長代理にとっての夢だったかもしれないですけど、この二つはどちらかと言えば奥様の夢だったのではないでしょうか。それに……」
柔は辺りを見渡す。ずっと不思議に思っていたこの部屋。何となく察しがついた。
その時、玄関で鍵を開ける音がして扉が開いた。
「ただいまー」
「勝男どうしたの。今日はお友達の家に泊まるっていってたじゃない」
勝男は荷物を置いてこちら側に背を向けて靴を脱ぎだした。
「そうしようと思ったんだけど、明日引っ越しだから気になって帰って来た。父さんも新年会でどうせ飲んでくるだろうし。母さんだけじゃ心配だろうって、お客さん?」
玄関にあるパンプスを見て勝男は思わず言った。
「お邪魔してます。お父さんの部下の猪熊です」
「え! 猪熊ってあの猪熊柔?」
「勝男失礼でしょ。ちゃんとごあいさつしなさい」
柔は二人のやり取りを微笑ましく見ていた。三年前、まだ小学生だった頃の勝男とは会ったことがある。その頃はわがままでやんちゃな男の子と言った感じだが、今は体も大きくなり落ち着いた男の子になっていた。
「父さん、こんなところで寝てるの?」
「いいから着替えてきなさい」
「はーい。あ、猪熊さんあとでサインちょうだい。ね、いいでしょ」
「ええ、構いませんよ。あたしのでよければ」
「やりー、あいつらに自慢してやろ」
勝男は奥の部屋に入って行った。急に賑やかになった部屋にさっきまでの緊張感は消えてなくなった。
「猪熊さん。今日はありがとう。私はあなたのことを羨ましく思っていたの。才能に恵まれたあなたが私の家族を変えていくことを羨ましく思ってそして嫉妬した。自分には何の力もないし、何のとりえもないから。ただ、日々を平和に過ごしていくことしか出来なくて、二人は毎日楽しそうだし私ばかりが取り残されていくようで……」
「そんなことはないぞ」
寝ているはずの羽衣の声がした。
「あなた起きてたの?」
「ついさっきな。うちを牽引しているは母さんだ。母さんがいないと私も勝男も安心して出て行けない。母さんが家にいるから安心して帰って来れる。母さんは私たちを楽しそうに見えたのならそれを作っているのは母さん自身だ。どこにも取り残されてなんかいない」
「そんなこと、言われたの初めてよ」
「そりゃ、口に出したことなんてないさ。酔ってるからな、今晩は」
羽衣と妻は見つめ合って微笑んだ。
「父さん起きてたの。ねえ、猪熊さんにサイン貰うけどいいでしょ」
「ああ、猪熊くんがいいのなら。でも、学校で自慢したりするなよ。サイン頼まれても父さんからは頼まんからな」
「なんでだよ。ケチ」
「あの、サインくらいなら別にいいんですけど」
遠慮がちにいうと、羽衣は急に上司の顔つきになった。
「ダメだ、ダメだ。一度引き受けると自分も自分もって皆頼みたがる。自分だけじゃなくて、親戚や友達の分まで書く羽目になるぞ。会社からもそう言うことは厳しく言われているから守らないと、クビが飛ぶ」
「そうなんですね。じゃあ、息子さんの分だけで」
「ま、しょうがないか。じゃ、お願いします」
出してきたのはノート。新しいもののようだが逆に書いていいのか躊躇う。
「勝男! あんたそんなものに書いてもらおうなんて失礼よ」
「猪熊くんすまない。今度、色紙渡すからこっそり書いてくれんか」
「ええ、構いませんよ。マイホームへの新築祝いも一緒にお持ちします」
「気づいていたの?」
「そうじゃないかと思ってました。夢が叶いましたね」
「大変なのはこれからだけど、何だかやっていけそうな気がするわ。ねえ、あなた」
「あ、ああ……」
相変わらず覇気のない声で羽衣は答える。頑張る活力にはなるが、重責になるのは御免だ。もっともっと頑張らないと妻の夢を奪うことになる。
「じゃあ、あたしはそろそろお暇します」
柔がそう言うと、妻は慌ててタクシーに電話して来てもらった。時刻は午後十時半過ぎ。最近は滋悟郎の監視がゆるくなったとはいえ、家に帰ったらかなり遅い時間になりそうだ。タクシーに乗る柔はどうにかこっそり帰れないものかと考えながら、ため息を吐いた。
「今日も疲れた」
窓から見える景色は随分暗く感じたが、空には星が一つ輝いているだけの寂しい空だった。
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vol.4 スパイス・ガーデン
2月に入ったがNYはまだまだ寒い。息も白く凍る中、耕作は柔に貰ったマフラーを巻いてと「スパイスガーデン」と言うレストランに入った。やや薄暗い店内はオレンジ色の間接照明が柔らかい雰囲気を作っている。その雰囲気に相反するように、スパイスの刺激的な香りが鼻をつく。最初はなれなかった耕作だが、1ヶ月の間に何度か通う内にもう慣れてしまった。
「コーサク、こっちこっち」
店の奥に見慣れた顔が手を上げた。ボサボサの金髪で眼鏡を掛けて表情がよく見えないが、前髪の奥は愛嬌のある笑顔で微笑むとまるでハリウッドスターのようだと、耕作は思っていた。本人には「コーサクは目が悪いの?」と心配された。
「久しぶりだな、デイビッド」
「コーサクこそ忙しかったのか?」
「それなりにな。冬でもアメリカはスポーツ大国だから何でもやってるよ」
「大変だな、でも仕事があるのはいいことだ」
「まあな。ところでイーサンはそんな端っこで何をしてるんだ?」
店の隅のテーブルの更に端っこで壁に向かってイーサンは丸まっていた。黒い癖のある髪はいつもなら綺麗に整えてあるのだが、今日は目に見えて無造作にしている。
「そっとしておいてやれ、コーサク。イーサンは昨日、見事なまでに……」
「フラれたんだよ~‼」
突然の大声と顔のアップに耕作は椅子から落ちそうになるが、何とかこらえてイーサンを見つめた。
「良い感じになったと思ってたんだ。告白するならバレンタインがうってつけだと思って、花束を買って思いを伝えたら……友達としか思えないなんてー‼」
イーサンの顔はみるみる崩れて行った。デイビットの話によると、店に入るなりこの調子で黙って死んだようにしているか、泣き喚いてているかどちらかなのだそうだ。
「そう落ち込むなよ。女の子は他にもいるよ。君の魅力がわからない子なんて時間の無駄さ」
「それでも、好きだったんだ」
デイビットはお手上げと言った様子で耕作に視線を送る。耕作も苦笑いしかできない。
「ところでコーサク。店に入ってきたときからとてもニヤけた顔をしてたけど、君の方は上手くいったということかい」
イーサンは顔を上げて、大きな目をギョロリとさせて耕作を見た。彫の深い顔に更に深い影が出来て、迫力満点だ。
「い、いや。そういうわけじゃ」
「嘘を吐くと、俺はもっと泣くぞ」
耕作はイーサンの眼力に逆らえず……と言うよりは、元々話すためにここに来たのだからニヤけた顔全開で話しはじめた。
「昨日、バレンタインだっただろう。日本にいる彼女からこれが届いたんだ」
自慢げに見せたのは茶色のバッグ。丈夫で軽い素材の布を使用し、大きさも程よく記者の耕作が使いやすいようなショルダー型のバッグだった。
「なんで彼女からバッグが届くんだ?」
「チョコはさすがに送れないって言うから、チョコ色のバッグにしたって言ってたけど」
「なんでチョコを贈るんだ?」
「は?」
耕作とデイビットの間には何かが食い違っている。お互いにかみ合わない何かを感じながら首を傾げている。
「バレンタインは男が恋人や好きな人に花やお菓子をプレゼントする日だぞ。お前はそんな日に彼女に物を貰うなんてどういうつもりだ」
恨み言でも言うようにイーサンはテーブルのうつ伏せになったまま言う。声は心なしか低い。
「に、日本では女の子が好きな男にチョコをあげて告白するんだよ。アメリカは違うのか」
「違う!逆だ、逆。男から女にプレゼントをするんだ。恋人や好きな人に。だから俺はこんな風に落ち込んで……それなのにお前は幸せそうで……」
「わーごめん。そんなつもりなかったんだ」
「本当か?」
「ああ、まさかイーサンがこんな状態とは知らないから……」
「だったら、今日は俺を慰めるために奢れ!」
「え?まあ、一杯くらいなら」
イーサンはニヤリと笑うと、元気よく店員を呼んでオーダーした。その姿に耕作はあっけにとられる。
「お、今年はコーサクがイーサンに奢る羽目になったか」
黒人の大男モーリスが白い歯を見せて笑う。その目にはコーサクへの哀れの気持ちが滲み出ていた。
「どういうことだ?」
「イーサンは毎年バレンタインに告白してはフラれて、誰かに酒をたかるんだ」
「去年は僕さ」
「一昨年はオレ」
「その前は私」
と、突然会話に入ってきたのは耕作は見たことがない人。長い赤毛のストレートに大きな魅惑的な瞳、すらっとした鼻、赤くセクシーな唇。体は細身で足は長い。女優のようなその人はニッコリとほほ笑んでいる。
新キャラ複数登場しました。
「デイビット」は金髪メガネでよく見るとイケメン。
「イーサン」はユダヤ系アメリカ人でお調子者。
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vol.5 新しい相棒?
「久しぶり!ジェシー」
デイビットはジェシーとハグをした。イーサンもそれに続く。
「あら、あなたは見たことない顔ね。私はジェシーよ。よろしく」
「俺はコーサクだ。去年からNYで暮してる」
「ワオ!じゃあ、まだあまり慣れてないのね。それなのにここに辿り着くなんて、センスあるわ」
「俺が教えたんだ」
「モーリスが?どういう風の吹き回し?あなたはここに同僚ですら一緒に来ないでしょ」
「同僚だからだよ。彼らとは別の店に行くんだ。ここはそれ以外の仲間と飲む場所と決めてる」
「その考えはわからないでもないわ。私もここに家族は連れて来たくないし」
瞳に影が出来る。何を思ってそう言ったのかはわからない。
「ところで、コーサク!あなた新聞記者なんだって?」
「ああ、日本のスポーツ新聞の記者だ」
「でも、アメリカにいるってことはそれなりにすごい新聞社でしょ?そしてあなたもそれなりにすごい記者なんでしょ?」
物凄い期待の目で見られるが、耕作は目を逸らす。
「いや、三流新聞の三流記者さ」
ジェシーはニッコリと笑い、自信満々で耕作に言い放つ。
「じゃあ、私がコーサクを一流の記者にしてあげる!」
「何を言って……」
「今、写真はどうしてるの? 相棒がいるの?」
「いや、うちの会社にそこまでの予算がないから俺が撮って送ってる」
「カメラの腕はいい方なの?」
「いや、素人レベルだよ」
「それだから、ここでいい記事を書いても写真付きで載せてくれないんじゃない。いい記事といい写真があれば大きく紙面を取れてあなたはもっと評価される。違うかしら?」
「日本人はさほどアメリカのスポーツに興味がないみたいで、紙面はあまりさけないんだ」
「それでもあなたがここにいるってことは、興味ある人もいて知りたい人もいるってことよね? その人たちを満足させられる記事をあなたは書いてる?」
耕作は気づく。ただ伝えるだけじゃだめだ。アメリカのスポーツをどれだけ熱く面白く伝えそして日本人の興味を向けさせるか。興味がないなら持たせればいい。かつて女子柔道が男子柔道の陰に隠れていたが、柔の存在によりあっという間に日本中は熱狂し大ブームとなった。それに少なからず貢献したのは、耕作だ。
「いや、書けていない。アメリカに来てスポーツのレベルの違いに圧倒されてはいるが、それを伝えることはまだできてない」
ジェシーはニヤリと笑う。そして耕作に詰め寄る。
「私と組まない?」
「どういうことだ?」
「私、カメラやってるの。どこにも所属はしてなくて気の向くままに写真を撮ってきた。対象は主に、動物や虫。動く生物が好きなの」
「俺は人間をしかもスポーツ選手を撮って欲しいんだが」
「もちろんわかってるわ。私は今、人に興味がある。しかも、スポーツ選手。アメリカ内だけでも様々なスポーツが開催されてて、各地に行っては写真を撮ってる。彼らの本気の表情や一瞬の技、悔しそうに歪む顔の全てが愛おしいわ」
「だから仕事にしたいってか?そんな甘いもんじゃない」
「わかってるわ。でも、私にも何かを伝えることが出来るんじゃないかと思ったの。何かを変えることが。コーサクは日本の記者だって知って、私の写真が日本人に見られるならそれは素晴らしいと思ったわ。だって、アメリカのスポーツをもっと他の国の人にも知って欲しいもの。そうすればきっとお互いにレベルが上がるわ。知らなければ変えられないもの」
耕作はジェシーの言葉に耳を傾ける。その熱意は本物かどうか。
「オリンピックを見たわ。身体的な能力はある。アジア人と欧米人ではやはり体格差は歴然だし、それを埋めるために何をしたらいいか私にはわからない。でも女子柔道を見た?日本の小柄な女の子が倍以上も体重がありそうな女性を背負って投げたのよ。信じられないわ。あの瞬間、電気が走ったの。体が震えたのよ。越えられない壁はない。身体的な問題をクリアできるだけの技や工夫をしている。それは柔道だけに当てはまるものじゃないはずよ。その第一歩は情報。アメリカの選手がどんな記録を持っているか、どんなトレーニングをしているか、それをしればアジア人も別のアプローチをして越えて行けるわ。そのための手助けがしたいのよ」
ジェシーのいつになく熱い演説に、耕作以外の面々も思わず聞き入っていた。そして耕作は一言言った。
「写真が見たい」
「え、ええ。もちろんそうよね。これだけ大口叩いて酷い写真だったら間抜けだものね」
ジェシーは鞄の中からファイルを取り出すと、テーブルの上に載せた。相当な量があったがこれは一部だという。
パラパラとめくる耕作。最初は主に動物と虫、鳥、レーシングマシンなどだった。その後からアメフト、陸上、野球、自転車などのスポーツ関連の写真が出てきた。
「うちの会社は三流で人を雇う余裕はないんだ」
「じゃあ……」
「日本は好景気の時代が終わって不景気となって、新聞も売れなくなってきている。特にスポーツ新聞は売れないし、日本のスポーツ新聞ってのは大半が芸能人のゴシップとかでまともにスポーツを伝えるのは、プロ野球の時期とかオリンピックとか大きな大会がある時くらいだ」
「そうなの……」
「アメリカの記事も少なく、写真を必要としないことも多々ある。だから俺が一人でこっちに来ている」
ジェシーは目に見えて落胆している。写真がダメだったのか。
「ただ、君の写真はとてもいい。さすが動く被写体を撮り慣れているだけある。いい部分を切り取って写真に残している。俺としては君の写真は俺の記事と通じるものがあるし、一緒に掲載できれば相乗効果は見込めると思う。だから、最初は写真だけを買い取らせてくれないか?」
「どういうこと?」
「俺はカメラマンじゃないから、いい写真がない時は写真を買ってるんだ。写真を売る専門のカメラマンがいて、その写真を世界中の人が買える会社がある。だから君がそこに所属すれば一番手っ取り早いんだろうけど、君の写真を他の記者に渡したくない!それだけいい腕を君は持ってる!」
「と、言うことは、私と組んでくれるってこと?」
「当面はいい写真だけを買い取るってことでどうかな? いい写真が君のだと分かれば会社が正式に雇うかもしれない。保証は出来ないけど」
「ええ、構わないわ!私はどこかの知らない人が私の写真を使うのは嫌なの。同じ志を持った人じゃないと私の写真も死んでしまうから」
「でも、交通費や宿泊費は出せない。車で一緒に行けばいいけど、飛行機や列車は申し訳ないが無理だ。ただ記者と一緒ならスタジアムには入れる」
「そんなの、全然構わないわ!スタジアムに入れさえすれば。いい場所でカメラを構えられればいいのよ!」
「話しはついたようだな。じゃあ、ジェシーも飲むか?」
「もちろんよ。今日はお祝いよ!あ、注文お願-い」
有頂天のジェシーは勢いよく手を上げると、それがファイルに引っかかり耕作の方へ滑り落ちてきた。しっかりファイリングされている写真は落ちる心配はないと思っていたが、一枚だけひらりと落ちた写真があった。
「これって?ジュードー?」
デイビットがそう言いながら写真を耕作に見せる。その写真には子供たちが柔道着を着てみんなで畳の上で集合写真を撮っているものだった。真ん中には先生なのか体格のいい女性と小柄な男性が映っていた。
「あ、それは知り合いに頼まれて撮ったのよ。集合写真なんてつまらないけど、頼まれたら断れないじゃない」
そう言うと、ジェシーは写真をすばやくバッグにしまう。
「ジェシー、アメリカでは柔道人口がそんなに多くないって聞くんだが、道場や大会なんかはあるんだろう?」
「え?そうね。NYにも道場はあるわ。大会も。そう言えば今度の日曜日に学生大会があるみたいよ」
「へー、行ってみるかな。ジェシーも行くだろう?」
「私はその日はちょっと……」
「まあ、急だからな。取材って言うよりは個人的な興味だから構わないけどな」
「仕事はちゃんとするわ。どこにでも行くし!」
「ああ、頼むよ」
耕作はNYでの暮らしに慣れて友達も出来た。しかし彼らにも柔のことは言っていない。モーリスは知っているが意識的なのか柔の話題は出さない。打ち明けるタイミングは耕作に任せているということだろう。耕作の心の準備が出来るまでは……。
新キャラ登場しました、
「ジェシー」は赤髪のカメラマンです。カメラの腕はまあまあです。
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vol.6 英会話レッスン
東京、神保町。鶴亀トラベル神保町支店では終業時刻となり、次々と社員たちが帰路に着き始めた。柔も例外ではないが、最近では定時に上がっても寄っていく場所ができた。
「Thank you for the lesson」
言い慣れたように柔が言うと、目の前にいた白人男性が返事をする。
「Have a nice weekend」
「You, too」
「See you soon」
「Good bye」
柔は1月から仕事の後に毎週金曜日は英会話のレッスンに通っている。これは会社の社員レベルアップ講座の一つで、希望者だけ受講すればいいのだが柔は望んで英会話レッスンを受けている。
去年、NYに行ったときに自分が習ってきた英語では全く通じない上に、耕作任せになり不甲斐なく感じたからだ。少しでも英語が話せれば仕事でも役に立てるし、もっとコミュニケーションんがとれて世界が広がると感じたからだ。とはいっても、まだ初めて1ヶ月ほど。レッスンも週1回。この45分のレッスンが終るととてつもない疲労が襲う。
「ヤワラ! この後、食事はどうかい?」
廊下を歩いていた時、レッスンを担当してくれるパトリックに声を掛けられた。柔のことを金メダリストだと最初のレッスンの時から知っていたパトリックは、話が聞きたくて食事に誘うのだが柔はあまり夜に外出できないのでお断りをしている。
「つれないな~。じゃあ、別の日はどう? レッスンのない日でもいいよ」
「レッスンがない日は家で稽古がありますから」
やや面倒そうにしていると羽衣がやってきた。
「猪熊くん、駅まで送るよ」
「ありがとうございます」
羽衣も柔と一緒にレッスンを受けている。最初はもう自分に英語は無理だと渋っていたが、少しでも話せれば今度のアトランタ五輪でも添乗員を任されるかもしれない。そう思えば一部会社のお金で通える今の機会を逃す手はない。しかしながら、衰え始めた脳に新しい言語は入らないものでいつも同じことの繰り返しのようなレッスンになっていた。
「ん? 猪熊くん、どうした?」
立ち止まってキョロキョロしている柔。
「あ、いえ。聞き覚えのあるような声が聞こえたんで」
「会社の誰かがレッスン受けてるんじゃないか」
「そうかもしれませんね」
「猪熊くんは耳がいいね」
「そんなことないですよ」
建物を出ていく二人の背中を見つめる二つの陰。その存在に柔はまだ気づいていない。
「毎回、よい週末をって言われるけど、僕たちは土日仕事だからね」
「そうですよね。不況で休んでいられなくなりましたよね」
「ああ、この業界は厳しいぞ。旅行は娯楽だ」
「そうですよね……でも、この日常から抜け出せるのも旅行ですから。そのお手伝いが出来るように、明日もお仕事頑張りましょう」
「前向きだね」
柔は笑顔だった。悩みもあるが、以前に比べれば小さいことだ。耕作と会えないことはもちろん寂しいが、仕事の応援をすると決めたから我慢できる。新聞で近況がわかるから、平気だ。そう、思い込んでいるだけかもしれないが、今の柔にはそれしか出来ない。柔道以外の何かに熱中して、気を紛らわせているだけなのかもしれない。
「お疲れ様です」
羽衣とは駅で別れる。電車に揺られながら景色を見ていると、この街のどこにも耕作はいないんだと思う。昔はいつもそばにいたのに。追いかけてくれたのに、支えてくれたのに今は遠い異国の地にいる。東京よりも刺激的で賑やかで、忙しい街で彼は柔のことを思い出してくれるだろうか。
そんなことを考えていると、胸が震えて泣いてしまいそうになる。柔は目を閉じた。心を閉じたと言ってもいい。寂しさは募るばかりだ。その人に会えない限り。
新キャラ登場です。
「パトリック」は英会話教室の先生で日本語もできて、イケメンです。
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Today is another day
vol.1 ワールドトレードセンター爆破事件
2月26日、早朝稽古が長引いて出社がギリギリになってしまった。走って会社に入るといつもと雰囲気が違っていた。電話はひっきりなしにかかり、あちこちで大声が聞こえる。そう思ったら、安堵の声も聞こえたり状況の把握が出来ない。お客様が来店される前からこんな状態の会社を、柔は入社以来見たことがない。
「あの、何かあったんですか?」
朝から既に疲弊している羽衣が虚ろに顔を上げた。
「猪熊くん、テレビ見てないの?」
「ええ、朝は稽古で忙しいので」
「テロだよ。爆破テロがあってうちのツアーで行ってるお客様の安否確認に深夜から追われてる」
「深夜って!」
「一度帰ってから呼び出された。午前3時くらいかな。テロが起こったのは正午ごろで、向こうの添乗員と連絡が取れなくてね、でもお客様の家族はジャンジャン電話してくるしもう大変だよ」
「それが今も続いてるってことですか?」
「そう。やっと電話がNYと繋がったから安否確認できてるんだけど」
柔は耳を疑う。昨日、羽衣に耳がいいと言われたこの耳を疑った。間違っていればいいと思った。
「あの……テロはどこで?」
「NYだよ。ワールドトレードセンター。詳しいことは分からないけど、現場はパニックみたいだ。ん? 猪熊くんどうした? 顔が真っ青だ。まさか知り合いでもいるのか?」
羽衣は柔と耕作の関係を知らない。選手と記者と言う関係で少々仲がいいというくらいの認識だ。
「あの、日刊エヴリーの松田記者がNY駐在で……」
「なんだって! 松田記者はNYにいたのか。彼とは長い付き合いなんだろう。心配にもなるな。よし、日刊エヴリーの電話番号はわかるな?」
柔は頷く。手は震えている。
「私が電話しても教えてくれないだろうから、君が電話しろ。仕事はそれからでいい」
「は……はい」
柔は鞄から手帳を取り出すと、震える手でページをめくる。上手くめくれなくて落としてしまう。それを羽衣が拾うと、「ごめん」と言ってページをめくる。そして電話を掛けた。受話器を持った柔はコール音と心臓の音しか聞こえない。
――どうか、無事でいて。
「はい、日刊エヴリー」
聞き覚えのある声だ。邦子だった。
「あの、邦子さん? 猪熊です」
「柔ちゃんどうしたの?」
声が少し小さい。気を遣ってくれているのだろうか。でも、何の用でかけてきたか分からないはずもないだろうに。
「NYのテロのこと知りました。松田さんは、無事ですよね?」
「耕作……? 耕作なら大丈夫よ。さっき電話があって別の取材でNYにはいなかったみたいなの」
あっけらかんとした、邦子の声に柔は心から安心してその場に座り込んでしまった。
「そうですか。連絡が取れてるなら心配ないですね。ありがとうございました」
「ううん。じゃあね」
邦子は電話を切った。少し強引だったかもしれない。でも、この混乱したオフィスの状況を柔に知られたくはない。
「おい! 松田とは連絡とれたのか?」
「いえ、昨日は家にいたと思うんですが」
「あのバカ! どこほっつき歩いてんだ! 早く連絡寄越せよな」
悪態をつきながらもみんな心配していた。耕作とはテロの一報が入ってから一切連絡が取れない。まさかワールドトレードセンターに行っていたとは思えないが、万が一と言うこともある。偶然居合わせて巻き込まれたということが絶対ないわけじゃない。
邦子は嘘をついた。それは柔を心配させないためについたもの。耕作が元気でいれば、嘘は嘘にならないから、大丈夫。そう言い聞かせて自分もここにいる。無事でいて欲しいと、誰もが思っていた。
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vol.2 テロは卑怯だ
柔は邦子の言葉を信じて、仕事に戻った。
不安な一夜を過ごしたご家族がいるはずだ。少しでも力になれたらと、電話応対をしていると気づけば外は夕方の色をしていた。
「猪熊くん、もう上がっていいよ」
ヘロヘロでボロボロの羽衣がそう言うと、柔は「そんなことできません」と言うが辺りを見れば女子社員の多くは帰り支度を始めていた。
「もう、大方連絡はついたし大丈夫。あとは私達の仕事だから」
「でも……」
「心配いらない。君は稽古もあるし、早く帰りなさい」
柔は渋々帰り支度をした。会社に残っている男性社員は倒れてしまいそうなほど疲れ切っていた。それでも帰れないほど、混乱は続いている。
NYはもっとひどいのだろうか。タクシーから見たワールドトレードセンターは遠目なのにとても大きくて驚いた。東京にも大きなビルはあるがそのどれとも比べ物にならないほど、大きくて立派だった。NYの象徴のようなそんなビルだ。
多くの人がいただろう。多くの悲しみが生まれただろう。言葉にするのは簡単だけど、その悲しみは計り知れない。柔は悔しいとさえ思った。卑怯なテロ行為に生み出すものなど憎しみしかないのではないか。悲しみしかないのではないか。
柔の歩く足が止まる。辺りは土曜日だけあって人は多い。ここでもしテロがあったらと思うと、本当に恐ろしい。理由もなく殺されるなんてあってはいけない。柔は今まで自分がそんな世界で生きているなんて思ったこともなかった。いかに安全で平和な国に生まれて、その優しい人たちに囲まれていたかを実感する。
一方、会社では羽衣はデスクの上で眠っていた。と言うよりも気絶に近いかもしれない。午前3時に起こされてからずっと起きてる。その上、食事もとっていない。
「羽衣課長代理。おにぎり買ってきました。何がいいですか? 梅、昆布、ツナマヨ、おかかとありますよ」
幻聴かと思って起き上がると帰ったはずの柔がいた。
「どうしたんだい? 忘れ物か?」
「いえ。もう、帰ります。でも、みなさん食事もしないでいますので。差し入れです。お茶も入れますね」
「ありがとう」
柔はお茶を入れると会社に残った社員たちにも声を掛けた。
「ありがたい」
「助かるよ」
口々にそう言われて柔は役に立てたことへの嬉しさが込み上げる。自分は無力だ。でも、これくらいは出来る。これくらいのことなら。
今度こそ、柔は家に帰った。玄関を開けるなり玉緒が飛んできた。
「おかえり柔。お昼ごろにね、松田さんから電話があったのよ」
柔の心臓は大きく鼓動する。
「それで、なんて言ってたの?」
「無事でいるから心配しないでって」
「実はあたしも日刊エヴリーに電話して安否確認はしたの。それで無事だって聞いてたんだけど、本人からの電話ならより安心ね」
それでも声が聞きたかった。玄関先にある電話を見つめる柔。電話をしてみようか。でも、今は寝てる時間かもしれない。
「松田さんはそんなことで迷惑に思う人じゃないでしょ」
「な……お母さん、あたし何も言ってないし」
「見てればわかるわ」
「おじちゃんお風呂に入ってるから。かけるなら今よ」
柔は受話器を取った。メモを見なくても覚えている番号。国際電話はお金がかかるから、いつもは耕作から掛けることになっていた。耕作の電話は日刊エヴリーが支払いしてるからかけ放題なのだという。でも、柔からも何度か掛けたことがあるが、それを咎められたことはない。
コール音が聞こえる。いつもより大きい気がする。
「ハロー」
耳に耕作の声が聞こえる。直ぐ傍にいるみたいに感じる。それだけで胸がドキドキする。
「あの、松田さん?」
「ん? その声は柔さんかい?」
「はい。あの……」
「無事だよ」
「え?」
「NYは混乱してるけど、俺は無事。怪我もしてない」
「本当に……? どこも痛くないですか?」
「痛いよ」
「やっぱり怪我を?」
「違うんだ。NYで出来た友人があのビルで働いてて、ちょっと怪我したんだ。病院に付き添ったんだけど、病院もそこら中で泣き声や叫び声がして、地獄絵図のようだった。俺は日本で暮してNYに住んでもテロとか他人事だって思ってて、治安の悪さには警戒してたけどあんなことが起こるなんて信じられなくて。現場に行ったときあまりの悲惨さに胸が痛んだ。それなのに何もできなかった。怪我人を助けることも、励ますことも、出来なかった。俺は無力だなって思ったら、眠れなくて」
「あたしも今日、会社で旅行中のお客様のご家族と連絡を取ってたんです。みなさんとても心配されてて、でもあたしには何も出来なくて、会社の人は一生懸命現地と連絡を取ってるのにあたしは何もでき……」
柔は泣いていた。さっきも思った無力感。耕作も同じ思いを抱いていた。現地にいる彼がそう思えるほど、NYは混乱しているのだろう。
「柔さん……みんなそうさ。テロは卑怯だ。人が人を殺すのに理由があっても許されないが、理由がないのはもっと許されない。個人的な恨みとか憎しみじゃなく、主義主張のための大量殺戮は何も生み出さない。残るのは悲しみ、憎しみ、無力感さ」
「松田さん、あたしは怖いです。またテロがあって今度も巻き込まれずにいれる保証はないでしょう。だから……」
「柔さん、それはどこにいても同じだよ。NYではテロは起こった。日本で起こらないとは限らない。俺も怖いよ。でも、怯えてても仕方ないから」
「そうですよね……」
「でも、寂しい時も怖い時も俺は君の声で安心できるから。電話するよ」
「あたしも! あたしも電話します。声が聞きたい時には電話します」
「うん。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
受話器を置くと、滋悟郎の陽気な声が聞こえてきて一気に日常に戻った気がした。柔は疲れ切った体を引きずって着替えに部屋に入って行った。
それからは滋悟郎にも耕作のことを話題に出され、富士子からも電話で耕作の安否を聞かれた。皆が心配している。でも、無事だったからよかった。
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想いの行方
vol.1 加賀邦子
テロ事件の騒動が一旦終息した日本の3月の初め。まだ春の気配は昼間の陽気だけで、夕方にもなればまだまだ寒さが沁みる。柔は夕食の約束をしていたので、足早に退社して待ち合わせの場所に向かった。駅前には既に彼女が来ていて、遅れたかと思い腕時計を見るとまだ5分前だ。
「柔ちゃーん!」
邦子はよく通る声で柔を呼ぶ。すると周りにいた人たちが聞き覚えのある名前に、邦子の視線の先を見る。その時に、しまったという顔をした邦子だが直ぐに柔の傍に駆け寄り腕を引いた。
「ごめんね、まさかこんなに周りが反応するとは思ってなくて」
「いえ、そこまででもないようですよ」
少し歩いて路地を曲がって振り返ると、誰かが興味本位でついて来ている様子もなく静かなものだった。
「はーよかった。でも、柔ちゃんも有名人になったわよね。昔からそうだったけど国民栄誉賞とってからは別格だわ」
「そんなことないですよ。あたしはあたしですから」
「まあ、そうね。あ、ところで夕食は焼肉でいいかしら?」
「はい」
「じゃあ、行きましょう」
邦子はまた柔の腕を引いて店を目指す。誰彼構わず腕に絡み付くのはもしかしたら癖なのかもしれないとこの時、柔は思った。
「着いたわよ」
駅から直ぐ近くの焼肉屋に邦子は慣れた様子で入って行くが、ここは結構な高級店だ。
「邦子さん、ここってあの……」
「ああ、大丈夫よ。ここはパパの友達のお店だから安く食べられるのよ。さすがにあたしも定価では食べられないわよ。おじさま~」
邦子の声に店の奥から恰幅のいい男性が出てきて、まるで姪と久々に会ったかのように優しい笑顔になった。そして柔の顔を見るなり大きな掌で握手された。
「猪熊さん、オリンピック見てましたよ。興奮しました。素晴らしかったです!」
「あ、ありがとうございます」
「今日は何でも食べて行ってください。御馳走しますから」
「え! ホント! ラッキー」
邦子がそう言ってニヤリと笑うと、
「邦ちゃんは払うんだぞ」
「ええー」
「冗談だよ。二人ともしっかり食ってけ。いい肉入ってるぞ」
「ありがとー」
邦子は店主に抱き着いた。誰にでも気安く接することが出来るその性格が柔は時に羨ましく思う。柔は自分の感情を押し殺してしまう癖がついてしまったから。
店主の計らいで個室に案内されて二人は一先ず落ち着いた。通ってきた店の方は黒い壁で薄暗い装飾だったが、個室の方は意外にも明るく壁に掛かったどこかの景色の絵も良く見えた。
「柔ちゃん、お酒飲めたよね? 何飲む? あたしはビール」
「じゃあ、あたしも同じものいただきます」
「お肉は食べれないものとかある?」
「いえ、好き嫌いはあまりないので」
「じゃあ、おまかせで行こう。ここのお肉本当に美味しいから、苦手だったやつも食べれたりするから不思議よ」
「そうなんですね。楽しみです」
程なくして店主がやって来て、オーダーをとると得意げな顔をして「焼肉の本気見せてやるぞ!」と言いながら出て行った。それから五分もしない内にビールとキムチなどが運ばれて来て二人は「お疲れ~」とジョッキをぶつけた。
「ぷはー、美味しいー」
ごくごくと飲む邦子に対して柔はちょこっと飲んでジョッキを置いた。
「ビール、苦手だった?」
「そんなことないです。おいしいですよ」
「そう、ならいいけど。柔ちゃんって言いたいこと飲み込むじゃない。だから心配なのよ」
「気づいてたんですか?」
「そりゃね。何年も見てたもの」
柔はあらためて思う。耕作だけじゃない。邦子だってずっと柔のことを見てくれていた。写真に収めてくれていたのだ。
「お肉が来る前に渡しておくものがあるの。忘れちゃうといけないもんね」
邦子は鞄から封筒を取り出した。手紙を送るサイズくらいの封筒だ。
「これ柔ちゃんに上げようと思って」
「ありがとうございます。手紙……ではないさそうですね」
手紙にしては重さも厚みもあった。
「写真よ。開けてみて」
邦子のことをまだ完全に信用できない柔は、恐る恐る写真を取り出した。何か変なものを見せられるのだろうかと、頭の片隅にあったのだが、写真を見た途端何かわかった。
「これ全部、松田さんですか?」
「そうよ。フィルムが余った時に撮ったの。正面から撮ると嫌がるから隠し撮りみたいなものなんだけど」
デスクで原稿を書いている姿、ヒーローインタビューをしている姿、必死に声を上げている姿など様々な耕作がそこにはいた。フィルムが余ったというけれど、そうでもないようなものも何枚か混じっていた。
「これね、何の試合の時かわかる?」
邦子が指さすその写真の耕作はいきいきとして、楽しそうにそして必死に応援している。その姿、その様子を柔は知っていた。柔の試合をいつもこんな風に応援してくれていたことは目の端に入っていたけど、この時ほどこの応援を欲したことはなかった。だから覚えてる。
「ユーゴスラビアの世界選手権ですね」
「正解。さすがね。この時、耕作のお父さんが倒れて取材には来ない予定だったのに、どういうわけか自費で来ちゃったから驚くわよね。ま、あたしもバルセロナには自費で行ったんだけど」
「そうだったんですか!」
「そうよ。あたしの場合は分かってるとは思うけど、柔ちゃんと耕作を近付けさせないため。耕作は柔ちゃんを応援するために行ったんだと思うわ。決勝にだけ間に合うとか、ほんと、奇跡よね」
ユーゴスラビアの世界選手権では柔はいつもの調子がでなかった。その理由は耕作がいないことだと、心のどこかでは分かっていたのに認めたくなかった。それなのに寂しくて心細くて耕作を探している自分がいた。この時にはもう耕作が好きだったのに、柔は素直になることができなかった。
「もっと早くに渡したかったんだけど、去年は柔ちゃんも忙しかったじゃない。あたしは今年に入ってから忙しくなってなかなかね。テロのこともあったし。出し渋ってたわけじゃないのよ。本当よ。こんなものあたしが持っててももう意味がないし。でも捨てちゃうのももったいないかなって思って。柔ちゃんなら貰ってくれると思ったんだ」
「はい、松田さんのこんな姿、あたしじゃ見れないですから」
耕作が他に取材に行っている様子や新聞社での様子は柔には見れないものだ。だから邦子はそれを自分だけのものにしようと思っていた。写真を渡すのを正直、ためらっていた。自分だけの唯一の思い出をあげてたまるかと。でも、写真を見るたびに、見なくても持っているだけで心に引っかかって前に進めないような気がした。
だから柔に託そうと決めた。その時、本当に心からすっきりとした気持ちになった。完全に吹っ切れたと感じた。
「お待たせ~」
店主の男性が肉を運んできた。カルビにホルモン、タンなど様々だがどれも上質なものだ。邦子がトングで網に乗せるとジューっといい音がして煙が上がる。柔も思わず見入ってしまう。
「この前はごめんね」
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vol.2 和解の時
「この前はごめんね」
突然の謝罪に柔は何のことだかわからない。邦子の丸メガネに炎が揺らめく。
「NYのテロの時のこと。あたし、柔ちゃんに嘘ついたの。電話してくれた時、本当は耕作、連絡が取れてない状態で編集長もいろんな伝手を使って安否確認してたんだ。でも、あたしあの時、大丈夫って言っちゃって」
「なんとなくわかってました」
「柔ちゃん、あたしの嘘のつき方の癖でも見つけたの? でも、それでも不思議じゃないわよね。長年あたしが嘘をついてきたのは事実だし」
「そう言うことじゃないんです。電話で邦子さんの声震えてたから。もしかしたら何かあったのか、何もわからないのかのどちらかも知れないって思ったんです。でも、邦子さんなら松田さんに何かあったら絶対に教えてくれるだろうから、あたしは邦子さんの言葉を信じたんです。実際に、あたしがNYに行ったところで何も出来ませんし」
「耕作は、あの日ねNYのアパートにいたんだって。テロの一報が入って直ぐに取材にでたんだって。その時に友達が怪我してるのを知って病院まで付き添ったりしてるうちに時間が過ぎて、会社への連絡が遅れたって言い訳してたらしいの。皆どれだけ心配したと思ってるんだか」
「松田さんらしいですよね」
「そうなのよね~優しいから放っておけないのよ。あたしをギャングから助けてくれた時もそうだったわ」
「ギャング?」
「あれ? 聞いてない? バルセロナであたし誘拐されて売り飛ばされそうになってたところを、耕作が助けに来てくれたの」
邦子は楽しげに話す。当時は恐ろしい出来事だったが助かった今では、貴重な体験をした自慢話みたいになっている。
「それって……」
柔の言わんとしてることは邦子にもわかった。
「あ、うん。あの夜の前だから48kg以下級の日……」
その日、柔は天国と地獄を繰り返した。耕作がいないことで不安はあったが、プレスカードの写真に勇気づけられ金メダルを獲得し、虎滋郎と再会を果たした。
その夜、柔は耕作に会いにホテルまで行くものの、バスタオル姿の邦子と鉢合わせし、二人の深い関係を見せつけられ耕作に会えることに浮かれていたことがバカらしく感じながらも、涙が止まらず大雨の中を傘も差さずに歩いていた。
しかし途中で邦子と再び出会い、今までの耕作とのことは全て嘘だと打ち明けられた。邦子は嘘を本当にしていきたいと思っていたみたいだが、耕作の気持ちは邦子には向いていないことを知って諦めたのだ。そして耕作の気持ちが柔にあることもこの時、邦子の口から聞かされ柔は信じられない気持ちでいっぱいだった。
「柔ちゃん!」
「は、はい」
「あたしのこと可哀そうとか思ってない?」
「思ってないです」
「気の毒なことしたなって思ってない?」
「思ってないです」
「あたしのこと嫌いだって思ってない?」
「思ってないですよ」
柔は微笑んでいた。
「ほんと? よかったー」
ずっと苦手だった。敵対心を向けられているのは分かっていたけど、その理由が当初は分からなかったから。嫌われるようなことをしたのだろうか。でも、心辺りはなかった。次第にその理由が耕作にあると知った柔は、誤解だと思っていた。二人の仲を壊そうとなんてしてないし、邪魔しようとか思ってなかった。でも敵対心を向けられれば向けられるほど、気になってしまうのだ。自分の行動が耕作の気を引くためのものだと思われるということは、邦子の目からは柔は耕作に好意があり、それが邦子にとっての脅威だったのだ。
柔は自分の行動が耕作によって変わっていることを信じたくはなかった。そんなことは好きじゃなきゃありえない。でも、柔は頑なに耕作への好意を認めなかったのだ。本当はずっと前から好きだったのに。
「あたしの方こそ、はっきりしなかったせいで邦子さんを傷つけてしまって申し訳ないと思ってます。邦子さんがいなかったらあたし、自分の気持ちに気づけなかったかもしれない」
「え? じゃあ、あたし自爆したの?」
「そう言うわけじゃないと思いますけど」
「あ~いいの。こういうこと結構よくあるのよ。あたし、思い込みが激しくて突っ走るタイプだから自分では色々考えてるつもりが結果、悲惨な結果に終わることなんてよくあることなの」
言ってて悲しくなる。酒も進んで口も饒舌になる。
「あたしさ、一人っ子なんだけど柔ちゃんは大切に育てられたって感じだけど、あたしはただ甘やかされてきたタイプ。特にパパへのおねだりの方法ってわかってて、パパもわかっていながらつい甘やかすのね」
柔は幼い頃に父が家を出て祖父に厳しく育てられたせいで、人に甘えることが苦手だ。だから邦子のことが苦手だったけど、羨ましいとも思った。
「わがまま言って手に入るものは何でも手に入れてきたの。さやかさんも同じタイプだけど、あっちは財力があるからもっといろんなものを手にできたと思う。でもその分、むなしさも感じていたみたいね。あたしはそこまでじゃないし、どうにかしたら手に入るものには必死にしがみついてたような気がする」
柔から何か言うことはできない。
「誤解しないでね。未練があるとかじゃないの。あの頃のあたしって本当に子供みたいに駄々こねてわがままいえばどうにかなるって信じてた。今までがそうだったから。耕作のこともそうやって手に入れようと思ってた……無理だったけど」
「邦子さん……」
「思い込んだら意地でも欲しくなって、好きだったけど変なプライドもあって、結局玉砕したってわけ。耕作はさ、損得考えずに動くタイプだからあたし勘違いしちゃったんだよね。優しくしてくれたのはあたしのことを好きだからって。でも、そうじゃなかった。鴨ちゃんと同じだった。同僚よね。仕事上の相棒。既成事実を作っちゃえばこっちのものだって思ってたけど、そんなことにもならなかったわ。あたしが誘ったのに、一切見向きもしなかったのよ! ありえないでしょ」
ビールをグイっと飲むと、邦子は続けた。
「誠実で真面目でよく記者なんてやってるなって思うわ。あんな汚い世界で熱意だけでやってる。あたしと最初に仕事した時、耕作はあたしの写真をダメだって言ったの。熱意が感じられないって。ピントや構図はいいのに熱意や執念が見えないって……説教されたわ」
「漠然としたものですね……」
「そうなの! その時は全然わからなかった。耕作はね、これから自分と組むからには柔ちゃんを撮ることになる。柔ちゃんが放つ一瞬の輝きをその時のあたしには撮ることが出来ないって言ったの」
「松田さん……」
「その時、あたし、耕作のこと好きになったの」
「え?」
「初めて男の人にそんな風に怒られたの。甘やかされてチヤホヤされてきたでしょ、いやらしい目で見られることもあったけど怒られた事ってなかったから新鮮だった。この人には下心のない熱意がある人だって思った。同時に、絶対欲しいって思ったの」
柔は言葉が出ない。どんな顔をしていいのかもわからない。
「それにあたしはうぬぼれてたから、絶対に耕作もあたしを好きになると思ってた。耕作が夢中なのはスーパースターの柔ちゃんで女性としては見てないって思ったんだけど、初めて柔ちゃんに会った時、『あ、この子は耕作のこと他の記者とは違う目で見てる』って感じたの」
「そんなこと……」
「ううん。あたしが入社する前に何かあったでしょ。あたしには知らない過去が二人にはある。それだけであたしには脅威なの。憧れから恋になることはよくあるわ。だからあたしは柔ちゃんを攻撃対象にしたの」
申し訳なさそうに柔を見つめる邦子。
「邦子さん、あたし……」
「5年かしら。本当にひどいことしたと思う。でも柔ちゃんってあたしが何か言っても困ったような顔をしても、敵意を向ける事ってなかったわよね」
「それは、二人が付き合ってると思ったからあたしのほうが邦子さんを不快にさせているなら申し訳ないと思っていたので」
「でも、たった一度だけあたしに敵意を向けたことあったわよね」
柔は驚く。気づかれていないと思っていたのに。
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vol.3 柔を信じた男と信じなかった男
「でも、たった一度だけあたしに敵意を向けたことあったわよね。バルセロナの夜。雨の中で柔ちゃんがが泣いてる時、あたしが現れたでしょ。あの時、自分のしてきたことも棚に上げて思いっきり柔ちゃんに嫌味を言ったわ。フラれた腹いせもあるけど、初めて柔ちゃんが言い返してきたから何か色々爆発しちゃって……」
「あたしそんなつもりじゃ……」
「いいのよ。柔ちゃんはいつも自分を押さえて、正直な気持ちがわからないって思ってたの。耕作のことが好きなのに認めないし、風祭さんに気があるように見せてもいたでしょ」
「それは風祭さんは憧れの人でしたし、紳士的で頼れる人だったので」
「揺れていたってことよね。でも、二人に一歩踏み出せなかったのは相手がいたからよね。あたしとさやかさんが」
図星だ。風祭を好きだった時、さやかと婚約した彼をこのまま好きでいていいのか悩んだ。親が決めた仲だと言われ風祭にはその気はないと言いながらも、婚約を解消しなかったのは家のことや将来があったからだろう。そういう考えが大人になると分かって来て、心のどこかでこの人とは恋人になれないと思った。だからと言って耕作には邦子がいて他に柔の周りには男性がいなかった。
「さやかさんはそう言う点では、本当に自分の欲しい物を手に入れることが出来たのよね。柔道では柔ちゃんに勝てないけど」
「そんな、さやかさんとても強くなって今度試合したらあたし勝てるかわかりません」
「そう! それ! 五輪前の体重別で風祭さんがね、もしさやかさんが勝ったら柔ちゃんにプロポーズするって言ってたのよ」
「冗談ですよね?」
「まさか! 風祭さんってさやかさんに愛情なんて微塵もないもの。地位と名誉のために結婚したんだから。でも、柔ちゃんのことは本気で好きだったみたいで、さやかさんは柔ちゃんに勝ったら結婚することにしてたみたいだからあの体重別の時はそうなりそうだったでしょ、だから風祭さん顔真っ青になってて、万が一の時はプロポーズして逃げるつもりだったのよ!」
柔を信じつづけた耕作と、信じられなくなった風祭の命運がここで別れたと言ってもいい。
「どうしたの? 変な顔して」
「どうしよう、あたし、冗談だと思ってたから」
「何が?」
「プロポーズ」
「まさか! されたの?」
「はい……バルセロナで。48kg以下級の試合の前に。返事は試合後にって言われて」
「きゃあああ。で、断ったから風祭さんさやかさんと結婚したのよね。え? あれ? 試合後ってあの時よね? じゃあ、返事は?」
「色々あって忘れてて、でも後でさやかさんと披露宴を挙げたって聞いたからやっぱりリラックスさせるための冗談だったんだって思って特に何も……」
「間が悪かったわね。耕作のことで頭が一杯だった試合後にはもう風祭さんのことなんか入る余地もなかったってことよ。決定的よね」
「悪いことしちゃったな。あの日、雨も降ってたし」
「大丈夫よ。風祭さんはどこでも生きていける人よ。滋悟郎おじいちゃんが言ってるじゃない?」
「何て?」
「風ミドリって。風向き次第で態度を変える人だもの、あの人は。あっち向いたりこっち向いたりして結局、自分の土台になる大きな存在のさやかさんから離れらなかったのね。皮肉だわ」
「それを言ったらあたしも優柔不断で……」
「でもそれは地位や名誉、お金じゃなくて自分の気持ちがわからなかっただけだもの。意味合いが違うわ。風祭さんは人間的にどうかしてたもの」
「邦子さんそれは……」
「言い過ぎかしら? でも、そうよ。柔ちゃんにはあまりそう言う面は見せてなかったみたいだけど、あの人はかなり女好きだし扱いにも慣れてる。ただ、紳士的だから相手の女が大ごとにしないまま去っていくんだと思うわ」
耕作が風祭と一緒にいると危ないって言った意味がやっと分かった。下心なんかなくただ優しくしてくれてると思ってたけど、大きな間違いだったのだ。
「クリスマスイヴに食事に誘われたことがあるんです。まさか……」
「そのまさかよ! 当然行かなかったんでしょ」
「はい。別の用事が出来て。待ち合わせはホテルのバーだったような気がします」
「あっぶない。行ってたら完全に朝帰りコースよ」
柔は考えただけでも鳥肌が立つ。憧れの人で一時は恋心もあったはずだけど、今はそんな風には思っていない。
「あたし、考えが足りない部分があって……そのくせ頑固だし。もっと大人にならなきゃ」
「いくら強くても男に力ではかなわないもの。それに風祭さんは有段者でしょ。気を付けなきゃだめよ。いくら耕作のものになったとはいえ、自分の身は自分で守らないとね」
「え? 松田さんのものって?」
二人は顔を見わせた。
「は? だって柔ちゃん去年のクリスマス、NYに行ったって聞いたけど」
「行きましたよ」
「耕作のアパートに泊まったのよね?」
「はい……え! まさか、そう言う意味ですか?」
「そうよ。恋人同士が一つ屋根の下にいて何もないわけないじゃない。それに二人は長い年月を掛けてやっと結ばれたのよ、思いが溢れて何もしないでいれるわけ……あれ?」
柔は俯いている。邦子が想像していた表情ではない。暗い表情だ。
「何もありませんでした。邦子さんが想像するようなことは何も」
「何もって、何も? 一泊ってことないでしょ。海外だもの」
「二泊しましたが、何もなかったんです」
「まさか、耕作って男としての機能が……」
「やめてください。何か色々タイミングが悪くて、そうならなかったんです。多分……」
これ以上の詮索は傷つけるだけだ。邦子は話題を変える。
「あ、そう言えば今度ね新人が来ることになったの」
「記者の方ですか?」
「そうよ。耕作の後に誰も入って来なくて唯でさえ人手不足で困ってたんだけど、やっと後任が決まってね」
「どんな人ですか?」
「若い子よ。まだ25くらいで可愛い顔の男の子」
「へー、それは見てみたいですね」
「いずれ会えるわ。あたしと組むんだもの。柔道の取材にも行くしね。そうね、多分4月の全日本辺りかしら? 出るんでしょ?」
「はい。エントリーはしてるみたいですけど」
「相変わらずね。耕作はいないけど、勝ちなさいよ」
「がんばります」
「あ、そうそう。鴨ちゃんからも何か預かってたんだ」
バッグをごそごそと漁る邦子。また封筒が出てきた。
「さっき一緒に渡せばよかった。自分のことだけでいっぱいだったから忘れちゃってた」
「ありがとうございます」
「手紙じゃないわよね。写真かしら?」
柔は封を開けると中からやはり写真が出てきた。それを見て一瞬ぎょっとしてしまう。
「何、何? 何の写真?」
「あの、これです」
「わー綺麗じゃない。紅白の時のお着物ね。あたしも見てたわ。全然気の利いたこと言えてなかったわね」
「苦手なので、ああいう仕事は」
「甲賀選手が隣にいたけど、あの人に何かされなかった?」
「え? どういう意味ですか?」
「あの人も、なかなか女好きよ。あたしのこといやらしい目で見るもの」
「それは、みんなそうなんじゃないですか。あたしでさえも最初は見ちゃいましたし」
「そう? でも、あの人には気を付けなさいよ」
既に柔の中では警戒人物に入っているから大丈夫だ。でも、わかる人にはわかるのだろう。これが経験の差ってやつか。
鴨田がくれた写真は良く撮れていた。記念撮影をする時間も気力も無かったから本当にあの時会えてよかったのだ。
「ねえ、本当に耕作とのことは公表しないの?」
「え? ええ、松田さんに迷惑かけられないですし」
「そっか~。なんか残念。でも、いつかは公表するわよね」
「そうですね。いつかはしたいです。でも、そのタイミングは二人で決めようと思ってるので」
「わかってるわ。誰にも言わないわ。言っても信じて貰えないしね」
「すみません」
「別にいいんだけど~そうなると柔ちゃんに寄ってくる男が増えるんじゃないかと思ってね。今までは一応、ナイトが二人いたけど二人ともいなくなったわけで」
「おじいちゃんがいるんで」
「家や試合会場ではね。会社帰りとかテレビの仕事の時はノーマークでしょ。危ないわ」
「心しておきます」
「その意気よ。さあ、デザート食べて帰ろうか」
「え、ええ……」
邦子の食欲はすごかった。しゃべりながら食べて、柔とはペースが違う。その上、デザートも食べようとしていることに驚いてしまう。
でも、邦子とこんな風に食事が出来て、話が出来るとは思ってなかった。昔話も聞けてわだかまりも消えてやっと正面から向かい合えるような気がした。
「また食事いきましょうね」
「うん! あたしは耕作と違って仕事とプライベートきっちり分けるから」
「信用してますよ」
「まかせて!」
胸を叩く邦子。味方になったら心強い彼女にも、封筒の中に残ったもう一枚の写真だけは絶対に見せてはいけない。柔だってまともに見れないこの写真を邦子が見たら、何て思うか。柔は紅白の時の写真と一緒にバッグにしまう。これは誰にも見られてはいけない写真だ。
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vol.4 1993年全日本女子柔道選手権大会
バルセロナ五輪以来久々の公式試合に出場する柔は、いささか不安を抱えながら武道館に入った。
今年は昨年までとは何もかもが違う。オリンピックでの二冠と国民栄誉賞受賞という国内外からの期待と関心が集まっている。ソウル五輪の時も金メダルを取ったがこれは正式種目ではなく公開競技であったためメダルも数に含まれないということで、柔の中ではそこまで大きな意味を持っていなかった。
しかし、バルセロナ五輪での二冠は国民栄誉賞にも繋がり柔の中でも多少は、自分の役割や背負っているものの大きさを自覚してきたようだった。しかし本人の性格上、過度の期待を掛けられてもそれを自分のこととは思えない他人事のような感覚が今もってしている。これは天才故なのか柔道と言うものをただの日常としていて、たまたま金メダルが取れただけという気持ちなのか。柔の中で柔道よりもそれによって得られた賞よりも大切なのが、それ以外のごく普通の生活なのだ。
「猪熊さ~ん」
富士子が富薫子と一緒に柔の元に来た。
「富士子さん、来てくれたの?」
「もちろんよ。猪熊さんが出るんだもの、フクちゃんにも見せたいし」
富薫子は一歳半になり、歩く速度も上がり身長も伸びていた。さすが花園夫妻の娘だ。
「おーフクちゃん元気にしておったか」
滋悟郎は赤ん坊の頃から見ている富薫子をとても可愛がっており、その可愛がり方は恐らく孫娘の柔以上かもしれない。
「じー!」
そう言って、滋悟郎の胸に飛び込むところがまた堪らないのだろう。滋悟郎もすっかりにやけた顔つきになる。
「花園くんはお仕事?」
「ええ、日曜は引っ越しも多くて休めないのよね」
「せっかく大学も卒業して、教員免許も取れたのに……」
「仕方ないわ。採用試験はまた別だもの。体育の先生は特に狭き門で、今年試験を受けてもなれるかどうか。でも、あたしもサポートするしきっと大丈夫よ」
「そうよね!」
「なーにが、『そうよね!』ぢゃ。おまえはおまえの心配をしろ。最近は稽古にも身が入っとらんし、一回戦で負けなんてことも起こるやもしれんぞ」
滋悟郎は厳しい言葉を掛けてどこかへ歩いて行った。恐らく売店に菓子でも買いにいたのだろう。
「猪熊さん、気にしちゃダメよ。いつも通りやれば大丈夫よ」
「ええ」
富士子は柔の表情を見ながら不安を覚えていた。なぜならここに耕作がいないからだ。NYにいる耕作は柔の試合だからと言って、おいそれと戻って来られるわけじゃない。いつもいた人がいないのが心細いことくらいわかっているが、今回ばかりはどうすることも出来ない。
「そういえば、この前の松田さんの記事がテレビで話題になってたわよ」
「え? そうなの?」
「お昼のワイドショーだったんだけど、NYテロの現場での記事と写真は、他社を圧倒するものだったとかで」
「すぐに駆け付けたって言ってたわ。最初は記事にするつもりがなかったけど、誰かが書かないと伝わらないからって。よその国の話ってだけで終わるのはいけないって言ってたの」
「そうなのね。だから多くの人にその思いが伝わったのね。スポーツ新聞では異例の扱いだったって言ってたから」
「うん……」
柔は嬉しくなる。多くの人が耕作の記事を読んで何か受け取って欲しい、それだけの力がある記者だから。
「ん? 猪熊さん何見てるの?」
「あ、何でもないの」
柔はバッグの中に入れていた写真を見ていた。邦子に貰った柔を応援する耕作の姿だった。
「猪熊さん……もーいいもの持ってるじゃないの」
「う、うん。お守りみたいなものよね」
「そうそう、大丈夫。松田さんもNYで応援してるわ」
廊下の奥からざわめきが聞こえる。今日は本阿弥さやかも出場する試合だ。会場に到着したのかもしれない。
ざわめきに目を向けると不意に声が聞こえた。
「本阿弥さやかの欠場が決まったんですよ」
柔と富士子は振り向く。そこには若い男性と邦子の姿があった。
「初めまして、日刊エヴリーの野波といいます。以後、柔道関連の取材は僕が担当しますのでよろしくお願いします」
小柄で童顔の男性だった。邦子が可愛いと言った理由がよくわかった。
「おはよう、柔ちゃん、富士子さん」
「あ、おはようございます。あの、欠場ってどういうことですか? 怪我か病気ですか?」
「違うのよ、ねえ、野波くん」
「はい。本阿弥さやかは海外でトレーニングをしてました。一昨日帰国の予定でしたが、度重なるアクシデントにより未だ日本に戻って来ていないようです」
「アクシデント?」
「飛行機の遅延から天候不良ですね」
「珍しいでしょ~。なんでもできるお嬢様がこんなことで遅れちゃうなんて」
「さすがにさやかさんでも、天候まではどうにもできませんよ」
完全無欠で出来ないことはないようなさやかだが、やはり天気には抗えない。今頃は飛行機の中で苛立ちを隠しきれずに、徳永に無理難題を押し付けているかもしれない。
「なんぢゃ、さやか嬢は出ないのか。今回はノッポのねえちゃんも出ないし、あのデカいねえちゃんも出ないからのお。つまらん大会になりそうぢゃ」
「トドさん、引退しちゃったものね」
藤堂由貴はオリンピック後に引退を表明し、今は西海大で指導者として柔道に携わっている。教え子が今日も試合に出るようだが、まだ柔の対戦相手としては不十分だろう。
「さあ、柔。さっさと試合を終わらせてうまいもんでも食いに行くぞ!」
「はい!」
変わり始める柔の周囲。柔道界も選手が入れ替わり、柔はすっかりベテラン勢だ。でもまだ衰えを知らないその体に、期待する人は多い。
この日、全日本女子柔道選手権は柔の優勝で幕を閉じ、さやかとの決着は次回に持ち越された。
新キャラ登場です。
「野波」は松田の後任の日刊エヴリーの記者です。若いです。
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アメリカの柔道
vol.1 アメリカ高校柔道大会
貿易センタービルの爆破テロの少し前、耕作はとある試合会場に来ていた。小さな体育館のような場所に畳が敷いてあり周りには大勢の観客がいた。
「やってるな」
ジェシーに教えて貰った柔道の大会を見に来ていた。日本で言うところの高校生の大会だ。出場者は16人のトーナメント戦。男子の試合なのだが、どの選手も体格がいい。10代ともなると、大人と変わらない体格をしている。特にアメリカ人は日本人と違って大きな体をしているから迫力がある。しかし、素人のような選手が何人か混じっているのは見てわかる。
「なんだ?あいつ?」
観客がそう言うと、端から小柄な選手が現れた。ブラウンの髪の少年と言った感じの選手だ。この少年は一回戦でかなり苦戦したがなんとかポイントリードで勝ち進み、二回戦では上手く技が決まり一本勝ちしたが、次の試合では抑え込まれ負けてしまった。
「あんな小さいんじゃ無理だよ。ちゃんと階級分けされた試合にでないと」
「お遊びみたいなものだからな。オリンピック見て触発された、初心者がいっぱいいてそんな奴らでも出れる試合って言うのを開催したんだけど、やっぱり勝ち進むのは長年トレーニングしてきたやつばっかだな」
耕作も試合を見ていてそう思った。基礎が全然できてない選手ばかりだ。中には受け身すらとれない選手もいたほどだ。指導者は何をしているのか。受け身が出来なきゃ怪我をするのに。
お祭り騒ぎの会場では決勝が行われた。観客が言うには、小さい頃から柔道をやってきた二人でジョンとクライヴだ。実力はお墨付きのようで白熱した試合が展開され、最終的にはクライヴの大外刈りで一本となった。
「へーなかなか」
そう言いながら耕作は別の選手を探していた。三回戦敗退のブラウンの髪の小柄な少年だ。表彰式が行われ選手は帰ってしまう。耕作は人をかき分けて少年を探し、ついに見つけた。
「やあ、いい試合だったよ」
少年は道着のまま会場裏の壁にもたれていた。遠目で見た時も思ったが、やはり小柄で子供らしさが残っているようだった。
「みんな帰ってるけど君は帰らないの?」
「おじさん、誰?」
「おじっ……俺は柔道好きの日本人、コウサクだ。仕事でNYに来てて、柔道の試合があるって聞いたから見に来た」
「ふーん。僕はまだいいんだ。迎えが来たら帰る」
「じゃあさ、俺とちょっと話しないか?」
「は?なんで?」
「君の柔道、凄くいいよ。素質がある」
「三回戦で負けたけど」
「違うよ。三回戦まで行ったんだ。あの体格差で二回勝った。それはすごいことだ」
少年は照れたようで、顔を背けた。
「柔道は体格が問題じゃない。小柄な選手でも重量級の選手を投げることが出来る」
「ジュウヨクゴウヲセイスだろ」
「知ってるのか?道場で教わったのか?」
「叔父さんが教えてくれた。柔道も叔父さんから教わった」
「へー、他に教え子はいるのか?」
「いるんじゃないかな。一緒に稽古はしてないけど。叔父さんは普段は普通に働いてるから、教えてくれるのは休みの日だけなんだけどたまに遅く帰ってきたり、休日に出かけたりするんだけど必ず道着を持っていくんだ」
「そりゃ、まだ教え子がいるな。君のライバルでも育ててるんじゃないのか」
「違うよ。僕は落ちこぼれだからそんなもの必要ないし、叔父さんのもう一人の教え子は女だよ。長い金髪が道着に付いてたことがあったんだ。しかも何回も。だからきっと叔父さんの教え子は金髪の女」
「君は柔道初めてどのくらい?」
「半年」
耕作は驚く。半年であの技のキレを持ってるなんて、末恐ろしい少年だ。
「それ以前は何かスポーツを?」
「…………」
「言いたくないならいいんだよ。ただ、見事だと思ったから。君は柔道の素質があるよ」
「あんたに何がわかる?」
「俺は日本で本物の柔道を見てきた。君よりも長く身近で。だからわかるんだ。君は光るものを持ってる」
「ふ、ふん!」
この年頃特有の照れ隠しだろう。可愛いところもある。
「あ、叔父さん」
少年が見る先には40代半ばほどのバランスのいい体格の男性がいた。一見ごく普通のどこにでもいそうなアメリカ人男性なのだが、金髪の短い髪が整えられ上等なコートを羽織っている。
「グレン、早く着替えなさい」
「はーい」
グレンと呼ばれた少年は会場内に入っていった。耕作はグレンの叔父と対面した。
「初めまして、コウサクといいます。グレンの試合見てましたが、素晴らしかったですよ」
「初めまして、ロイドです。グレンはまだまだですよ。ところであなたは日本人ですか?」
「ええ、そうです。仕事でNYに来ていて」
「そうですか。アメリカの柔道はまだまだだと思いましたか」
「正直いうと、少し思いました。でも、逸材はいそうですね。グレンもそうですよ」
「それはありがとう。彼は柔道をやるのを逃げだと思っている節があります。柔道は素晴らしいのに、認めないんですよ」
「でもやっているのは、あなたの指導のたまものでは?」
「いえいえ、家に居づらくて家に転がり込んで来たから、家にいるつもりなら柔道をしろと言っただけですよ。嫌なら出て行けと」
「そこまで柔道をされるあなたにも興味がわいてきましたよ」
耕作の表情が生き生きしだした時、グレンの着替えが終り戻ってきた。
「お待たせ。帰ろう」
「ところで一勝ぐらいは出来たんだろうな?」
「そりゃな」
「なら、いい。ではコウサク、失礼します」
「バイバーイ」
グレンはロイドに小突かれながら去って行った。耕作は二人を見送りながら、興味がわいた。久しぶりだ、こんな気持ちになるのは。会場に残っていた関係者にグレンについて取材したが、想像以上に何もわからなかった。それどころか「彼は何者だ?」「どこの道場の人か?」と逆に質問された。この試合は誰でもエントリーできたから特に推薦や道場名がなくても出られたらしい。しかし、グレンが二回戦で勝った相手は柔道歴7年の有段者だ。しかも体も大きく、経験もある。そんな彼が名もないグレンに負けたことを関係者は驚いているのだ。
耕作はその足で図書館に行き、新聞を読み始めた。しかし手がかりなく手当たり次第に新聞を読んでも何も見つけられなかった。
新キャラ登場です。
「グレン」と「ロイド」は甥と叔父の関係です。
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vol.2 デイビット
アメリカ高校柔道大会の夜、夕食のために「スパイスガーデン」へと向かった。約束したわけでもないが、何となく耕作の知り合いが一人か二人はいる。今日はデイビットがいつもの席に座っていた。
「ハイ!コーサク」
「ここいいかい?」
「もちろんだとも」
席に着く前にカウンターでビールを頼んだ耕作は席に着くなりそのビールをごくりと飲んだ。外は寒いがビールはうまい。
「今日は何してたんだ?」
「僕は映画を見て読書して、散歩してここさ」
「良い休日だな。俺は柔道の試合を見てたよ」
「前に話してた?」
「ああ、なかなか楽しかった。いい選手もいたしな」
「取材したかい?」
「少し。でも、記者として接触はしてないから取材とは言えないかもな。ところでデイビットはNYでの知り合いは多い方だろう?」
「まあ、ここの出身だしね。でも入れ替わりの多い街だからね。誰か、探してるの?」
「ロイドって柔道家知ってるか?40代でいい身なりだったからそれなりの収入がある仕事をしてると思うんだが」
「ロイド……聞いたことないな。その人が何かあるのかい?」
「柔道を教えてる人なんだが、情報が全くない。試合の関係者も知らないというし」
「柔道って直ぐに出来るスポーツじゃないだろう。テレビで見たけど広い場所がいるし、隠れてトレーニングできるとは思えないけどな」
「まあな。本格的にやろうと思えば広さも畳もいる。隠れて出来るとは思えないんだが」
「わかった。知り合いに聞いてみる。どこかで繋がるかもしれない」
「助かるよ。俺ももちろん調べるが、伝手がなくて」
「手がかり掴んだら……」
「おごるよ。もちろん」
そう言って乾杯したデイビットは、2月のワールドトレードセンターのテロに巻き込まれて怪我をした。命に別状はないが、足を怪我して動けないようだった。病院まで付き添った耕作は眠っている友人の痛々しい姿に胸を痛める。怪我人が次々運ばれてきては、現実離れした映画のような光景に思考が停止してしまっていた。悲鳴、泣き声、怒号。ここは現実ではなく地獄なのかと思う光景だった。
あの日、病室から窓の外を見ていた。夕闇が迫ってきていた。
「コーサク?」
デイビッドの掠れた声がした。耕作は自分が病室にいることを思い出し、デイビッドに向き直る。
「今、先生呼ぶから」
「ああ、すまない」
耕作は廊下に出て大きな声で医師を呼ぶ。しかし戦場のような忙しさの中、直ぐに来てくれる気配はない。
「コーサクは何でここにいるんだ?怪我したのか?」
「いや俺は無傷だ。巻き込まれたわけじゃないからな。ただ、爆破が起こったと知ってデイビットのオフィスの近くだから気になって駆け付けたんだ」
「コーサク、君はなんて愚かなんだ」
思わぬ言葉に耕作は少しだけ眉を寄せる。
「爆発した場所に何の装備もないような奴が駆け付けるもんじゃない。まだ他に爆弾があるかもしれない。一緒に吹っ飛びたいのか?」
そういうことか。心配して言ってくれた言葉だった。
「すまない。そこまで気が回らなかった」
「いや、僕の方こそごめん。心配してくれたのに、こんなこと言って」
病室内は静かだった。比較的軽症な人がこの病室にはいたようだが、付き添いの人は耕作以外来ていない。
「取材はいいのかい?」
「いいんだ。俺の新聞はスポーツ新聞だから。それに爆発の悲惨さや混乱具合はもうわかったよ。日本ではありえない光景だった。正直、恐ろしかった」
「僕だってそうさ。あんなことアメリカだからよくあるわけじゃないよ」
「そうだよな。あんなことあってはいけないんだ」
「うん……」
耕作はその後、デイビットの家族らしきが来て交代するように病院を出た。アパートに戻ると赤く光る留守電と大量のFAXが床に転がっており、再び嫌な予感がした。
案の定、編集長からの電話だったが仕事の依頼や記事の催促ではなく耕作の安否確認のための連絡だった。ビルの爆破から8時間以上経過していた。その間、連絡をしなかったことで日刊エヴリーの皆は巻き込まれたんじゃないかと思って不安になっていたという。
「生きてるならいい。怪我もないならいい。仕事できるならいい」
編集長からそう言われ、自分の置かれている立場を理解した。一人で突っ走っても日本では怒られて終わりだが、ここNYでは離れてる分、目が届かず心配を増やすのだ。巻き込まれたわけじゃなく、怪我もないから連絡何てしなかったが、きっと心配してる人はまだいる。
時計を見てまず電話したのは実家だった。耕作の声を聞いて母親は明らかに安堵した声を漏らした。そしてしこたま怒られた。連絡が遅いと。父親は電話に出なかったが、心配していたと聞かされた。
そしてもう一人。柔に電話した。コール音がし始めてから、この時間には仕事に行ってる頃だと気づいたが時すでに遅く「はい、猪熊です」と女性の声がした。
「お久しぶりです。松田です」
「松田さん! ご無事でしたか? よかったわ」
実家の母親と同じく、安堵の声がした。
「ご存知でしたか」
「日本でもテレビで報道されてますから。柔からもさっき電話があって松田さんから連絡はないかって聞かれたばかりですの」
「ご心配をおかけしました」
「無事ならいいんです。柔はまだ帰って来れないし、こちらかも電話は出来ない状況みたいで松田さんのことを伝えるのは随分遅くなりますが……」
「旅行代理店も大忙しでしょうね。柔さんが帰ってきたら伝えてくれると助かります」
「ええ、もちろんですとも」
力強い玉緒の声に安心した耕作は電話を切った。柔が帰ってくる時間にもう一度かけてみようか。そう思いながら窓の外を見る。いつもと変わらない風景だ。ワールドトレードセンターとは距離が離れてる。ここまで帰ってくるのにも随分かかった。しかし近所に来たら、何も変わらない日常の風景にさっきまでのことが夢だったんじゃないかと思った。
柔に貰ったバッグをずっと肩にかけていた。ずっとだ。ワールドトレードセンターに着いた時もデイビットを見つけた時も、病院にいた時も、今日本に電話を掛けた時も。その事にやっと気づいた。バッグをデスクに置いて、中からカメラを取り出した。本格的なカメラは使い方がわからないから、いつも簡単なカメラしか使ってない。今日も持って行った。記者だから当然だ。そのカメラを耕作はデスクの端に追いやった。
「俺は最低だ」
地獄絵図と表現しても物足りない現場でカメラを構えてた。写真を撮ってたんだ。怪我人を助けることもなく、記者として写真を撮り続けてた。そしてそのレンズがデイビットを捕えたのだ。レスキューのテントの下にいた彼を見つけて、自分の手にあるカメラを顔から離して現実を見た時、自分自身にとてつもない嫌悪感を持った。そしてカメラをバッグにしまったのだ。
デスクの端にあるカメラには、現場の様子が写っている。現像して日本に送るべきなのだろうがそんな気分にはなれない。耕作はスポーツ記者だ。スポーツ選手の熱い試合や苦悩、勝利の喜びを伝えることに誇りを持っていた。それなのに、全く真逆の世界に興味本位で踏み入り、一端の報道マンのような顔をして現場にいた。会社としては正しい行動だったかもしれない。NYにいる耕作が取材して新聞に載せることは、間違いじゃない。でも、こんな記事は書きたくなかった。
それから数時間。日本から電話はない。編集長から取材に行ったのなら記事を書けと言われるかと思ったが、未だにその要求はない。
代わりに柔から電話がかかってきた。耕作はその優しい声に思わず涙が出そうになる。遠くにいるのに近くに感じる。柔との会話の中で、二人は同じく「無力感」を覚えていた。でも柔は現地の旅行社と日本に残ってる家族を繋ぐ役割をした。それは必要なことで誰かの力になったはずだ。無力なんかじゃない。
耕作は気づいた。無力だというのなら、力にしたらいい。自分に出来る事は記事にして多くの人に、この愚かな行為を伝えなくてはいけない。テロなんてものがまかり通る世界を作ってはいけない。スポーツは平和の象徴だ。世界が平和でないとスポーツは行われないのだ。現に、1940年に開催予定だった「東京オリンピック」は日本と中国の情勢が悪化したことで中止したことがあった。そんなことは選手には関係ないことだが、政府が決めたことに従う他なく、悔しい思いをした選手は大勢いただろう。
「俺は俺に出来る事をする」
その思いで耕作はペンを取る。一気に記事を書きあげると、今度はジェシーに連絡を取った。
「こんなに早く何?仕事?」
「頼みたいことがあるんだ。フィルムの現像って出来るか?」
「何言ってるの?当たり前でしょ」
耕作はいつの間にか登り切った太陽を眩しそうに見ると、バッグとデスクの端に追いやったカメラを持って出て行った。街はいつも通りに見える。でも、そんなわけがない。この街の人の心にも深い傷を残している。それを遠い異国のことだとして、他人事のように見過ごしていいわけがない。知っているのなら伝えなくてはいけない。それが義務だと思った。
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vol.3 灯台下暗し
NYも4月に入ると寒さは緩み、ダウンやマフラーは不要となっていた。日も長くなり外で活動する機会が多くなってきたようだ。
耕作はここ1ヶ月ほど、時間があればとある公園に来ていた。アパートからは結構離れているので最初は車で来ていたが駐車場がないために自転車を使って来ている。正直しんどいが耕作を動かす何かがここにはあるのだ。しかし、約1時間自転車をこいでくるとさすがに息が切れて目的の人物を探すどころじゃない。
「だー疲れた!」
バイクが恋しいがここで買うほどの余裕もない。日本には鴨田に預けているバイクがあるが、戻った時に乗れるか不安だ。
温かくなり公園で散歩する人、ランニングする人、日向ぼっこする人も増えもしかしたらあの人もここに来るかもしれないと思い始めた。とりあえず、いつも座るベンチに腰を下ろしひと息つく。広すぎる公園は池もあれば植物園、動物園もある。中では馬にも乗れるようで、知らずに遭遇した時はあまりの大きさに息を飲んだほどだ。今では背後を馬が通っても知らぬ顔できるが。
そもそもこの公園に通い始めたのには理由がある。それを思えば耕作は本当に運がいい。事の起こりは病院だった。
「デイビット、調子はどうだ?」
「ああ、まあまあさ」
テロの後、耕作は取材の帰りなどでよくデイビットの見舞いに行った。忙しいのだから来なくてもいいというが、負担になっているわけじゃないのだから好きにさせてくれと言う耕作にデイビットは嬉しそうに笑う。
そんなある日、デイビットは耕作を見るなり得意げに笑う。
「何だ?そんな顔して」
「良い情報だ。知りたいだろう」
「何だよ。もったいつけずに教えろよ」
「そんな態度でいいのか。折角、探し人ロイドの情報を得たって言うのに」
想像もしてなかった言葉に耕作は耳を疑う。いい情報は退院のことだろうと思っていた。
「何でここでその名前が?」
「僕だって、日がな一日何にもしてないわけじゃない。それにここには不特定多数の人が入れ替わり立ち代わりやってくるだろう。情報収集にはもってこいだ」
「そうだが、どうやって?」
「ナースに聞くんだ。ナースはいい情報持ってるぞ」
耕作はデイビットが案外口が上手くて、隠れ色男なのを知っていた。スパイス・ガーデンではダサい格好でいることが多いが、以前にとんでもない美人と親しげに話しているのを見たことがある。
デイビットならリハビリと称し院内を歩行しても怪しまれないし、雑談程度なら付き合ってくれるナースもいるだろう。テロの被害者なら皆邪険にはしない。
「それで、どんな情報だ?」
「ああ、なんと彼はここの医師だ」
「え?医師?ここの?」
「そう。灯台下暗しだよ。僕を最初に診察したのは彼だったようだ。骨が折れてないのを知ると別の医師が処置をしてくれたんだ。つまり彼は整形外科医だよ」
「身なりの良さからそれなりの職業だと思ってたが、医師だったとは」
「あんまりあっさり見つかったんで、他にも聞いてみたんだ。すると不思議なことに、彼のことを知っている人はあまりいない」
「どういうことだ?透明人間みたいな言い方だな」
「実態はあるさ。でも、私生活は一切わからない。趣味も好きな食べ物さえも謎に包まれている」
「雑談しない人ってことか。確かに、話好きには見えなかったな。じゃあ、これ以上は情報はなしか」
「いや、だからこそ覚えてたんだ。ナースの一人が、ブルックリンの公園でロイドを目撃した。それだけでもレアな話だが、なんと彼はスーツに似合わないスポーツバッグを持っていたそうだ」
「家が近所とか?」
「いいや、彼の家はマンハッタンの方だ。つまりセントラルパークの方が近い。それなのにこんなに遠い公園に行くなんて意味があるとしか思えないだろう」
耕作はグレンの言葉を思い出す。教え子は金髪の女。そうか、どこかに稽古に行っていたのかもしれない。
「デイビット、ありがとう。やっと糸口が見つかりそうだ」
「さっそく会いに行くのか?」
「いや、本人は教えてくれそうにないから調べるんだ。公園にも行ってみるよ」
「じゃあ、僕はもう動かない方がいいね。警戒されたら公園に行かなくなるかもしれないし」
「ああ、すまない」
「いいんだ。これでナースと普通に楽しいおしゃべりができる」
「……頑張ってくれ」
「コーサク、貸しだからな」
「わかってるよ。退院したらおごるよ」
◇…*…★…*…◇
デイビットに教えてもらって以来、耕作は公園に通っている。しかし1ヶ月経ってもロイドは現れない。入れ違いになっている可能性もあるし、広い公園ですれ違っている可能性もある。聞き込みをしようにも写真の一枚もないと伝えにくい。
もう一人、ロイドの教え子と思われる長い金髪の女性ももしかしたらここに来ている可能性がある。ロイドの教え子ならきっと強い柔道家に違いない。グレンを短期間であそこまで鍛えた人だ。今後、日本女子柔道の脅威になりかねない。とはいえ、長い金髪の女はここNYにもこの公園にもゴロゴロいる。どちらにせよ容易く見つかるわけもない。
それにしても広い公園だ。正直甘く見ていた。やはり日本とは規模が違う。自転車で回って入るが、一周するのに随分と時間が掛かる。耕作は休憩するためにベンチに腰かけた。目の前は広い湖が広がっている。水面の揺れるさまを見ていると長閑すぎて、目的を忘れそうになる。
すると隣のベンチに初老の男性が座った。アジア系で小柄ながらがっちりとした体格のようだ。近所の人なのだろうか、手ぶらだった。
「良い天気ですね」
突然話しかけられた。耕作が同じアジア系だから親近感がわいたのだろうか。
「そうですね。それにここはあまり観光客などはいないようで、穏やかで静かですね」
「観光地というわけではないですからね。昼間は静かですね。私のような年寄りが多くなりますから」
「そうですか……若い人は休日に利用するんでしょうか?」
「ええそのようですね。近所の人は早朝ですね。ジョギングしてる人は多いみたいですよ。学生や社会人は時間が限られてますから」
盲点だ。ロイドは社会人だが不定期の休みだからと適当な時間に来ていたが、もしロイドの教え子が学生か社会人でこの辺りに住んでいるならジョギングするのは早朝の可能性が高い。
「あの、この辺りに柔道場か柔道できる場所はありませんか?」
「昔は公園の外のYMCAで教えていたみたいだが、今はもう教えてないんだ」
「そうですか」
気づくと辺りは少し日が落ち、冷たい風が吹いていた。もう直ぐ夕暮れ時だ。
「それでは気を付けて……」
男性がそう言うと耕作は「ありがとうございます」と返事をした。暮れゆく空をボーっと眺めていた。鳥が飛び立って水面に波紋が広がる。
「あ! 日本語!」
男性の姿はとっくにない。耕作は日本語で話しかけられて日本語で返した。彼は日本人だ。
「くそー、柔道のことも知ってたし手がかりじゃないか。俺はなんてバカなんだ」
項垂れる耕作は、重い足を引きずって自転車に乗った。アパートまで1時間。長い道のりはまだ続く。
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vol.4 アリシア・クラーク
NYの早朝。日が昇った頃合いに耕作は再び公園に向かった。仕事までまだ時間がある。公園は朝の清々しい空気で一杯で、男性の言っていたように若い人がジョギングをしたり犬の散歩をしたりして昼間とは違う空気だった。
「さて、金髪の女の子は……」
やはり珍しくもなく沢山いる。しかしみんなが長い髪と言うわけじゃない。自転車で探しながら昨日、男性と会ったあのベンチに行きついた。この辺りは人気が少なく、静かな場所だった。ジョギングコースから外れているからかもしれない。だからよかった。聞き覚えのある音が聞こえたのだ。
ギュッ、ギュッ。
力を込めて引っ張るゴムの音だ。これはよく柔や富士子が道場や屋外でやっていた稽古だ。ゴムチューブを壁や木に固定して、打ち込みの練習をする。一人でもできるその稽古は相手がいないときに重宝する。
耕作は音がする方に歩いて行った。この公園には大きな木は沢山ある。使いたい放題だ。でも人目をはばかるように森の奥でそんなことをしているのは、あまり見られたくないからだろう。だとすると、予想はつく。そして耕作の前に現れたのは長い金髪の若い女性だ。練習に熱中しているようで耕作の存在に気づいていない。しかし、その稽古の様子は長年見てきた柔のそれに匹敵するような切れ味だった。
五分くらい経っただろうか。女性はゴムチューブを片付けリュックサックに入れると、ジョギングコースに戻って走り出した。耕作も急いで自転車に乗り追いかけた。彼女も柔と同様、走るのが早い。しかし自転車なのですぐに見つけることが出来た。彼女は公園を出て住宅街に入って行った。知り合いがいれば声を掛け、黙々と走り続ける。ポニーテールの髪が左右に揺れる。
彼女の動きが緩やかになり、白い壁沿いの門の前で足を止めた。インターフォンに何かを言うと人が出入りできるような小さな門が開き彼女は入って行った。アメリカには表札がないのでここが誰の家なのかわからない。門が大きすぎて奥にあるであろう屋敷すら見えない。
「あら、あなたそこで何をしているの?」
品のある女性の声がして耕作は振り返る。
「おはようございます。自転車でこの辺りを走っていたら、とても綺麗な白塗りの壁と美しい門があったので見ていたんですよ」
「クラークさんの家は、この辺りでは一番美しいですからね」
「門の向こうはかなり広いのですか?」
「門から屋敷までまだまだありますよ。お庭も美しいですし、屋敷自体も芸術品のような美しさですよ。でもあなた、興味があっても侵入なんかしちゃダメよ。警察に捕まってしまうわ」
「そんなことしませんよ。それよりさっきここに女性が入って行くのを見たんですが」
耕作は苦笑いをした。彼女には耕作がどのくらいの年齢に見えているのか。
「アリシアね。ここのお嬢様よ。とっても優しくていい子だわ。まさかあなたアリシアに気があるんじゃないでしょうね?」
「まさか、そんなことはないですよ。さっきちらっと見ただけですし」
「そう、ならいいわ。アリシアは大切なお嬢様なのよ。変な虫でも付いたら最悪だわ」
「はははっ、そうですね」
――それって俺のことか?
耕作は若く見られたり、虫に見られたりと散々だった。しかしこの家のお嬢様のアリシアが柔道をやっているのは間違いない。これ以上、このマダムから何か聞き出すのは危険だ。変に思われてアリシアに耕作のことを知られるわけにはいかない。
「では、ご親切にありがとうございました」
「いいえ。では、気を付けて」
耕作はニコニコとしながら、自転車を漕いだ。とりあえずアパートに戻らないと仕事にも行けない。約1時間の道のりの中、耕作は「アリシア・クラーク」の稽古の風景が頭から離れなかった。
「どんな試合をするのか見てみたい」
耕作は自分の柔道を見る目には自信がある。それ故に、彼女の実力は本物だとわかった。
しかし、耕作の記憶の中でもアメリカ代表に彼女の名前は見たことがない。一体どういうことだろうか。
新キャラ登場です。
「アリシア」は金髪のお嬢様です。
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いつもそこに君がいた
vol.1 全日本実業柔道団体対抗大会
5月のGWを終え、旅行代理店は少しだけ息をつくことが出来る。それも束の間ですぐに夏休みに旅行に行くための予約が入るようになる。だが、不景気となった今はどの時期も昨年よりも売り上げは悪い。景気が悪くなれば、旅行に行く人は減る。だけどどうにかお客様を獲得するために、鶴亀トラベルは手を打った。
「本当にいいのかい?」
羽衣が不安そうに言うが、柔はあっけらかんとした表情でいる。
「仕事ですよね。あたしが柔道の試合するのは仕事ですから」
「でも、実業団の団体戦だよ」
「いいじゃないですか。その方が、皆のやる気も上がると思いますよ」
柔は道場に稽古している部員たちを見た。柔に憧れて、柔と一緒に柔道がしたくて鶴亀トラベルに入ってきた子たちだ。一時期は柔が柔道から離れていたために不安にさせたが、バルセロナ五輪での見事な金メダルに部員たちも奮起し、ますます稽古に励むようになった。
「せっかくそういう大会があるなら出るべきですよ」
「猪熊くん、君も出るんだぞ」
「それが何か?」
「いや~いいのかなって思って。君を宣伝に使うみたいで、おじい様に怒られないかと……」
「そんな心配いりませんよ。あたしは鶴亀トラベルの社員ですし、CMに出るわけでもないんですから。ここで一緒に稽古した皆と試合に出られるのなら、あたしは全然かまいませんよ」
「そうか。じゃあ、頼む」
「はい。羽衣課長」
羽衣は春に課長に昇進した。家も引っ越して順風満帆だったが、相変わらず自信なく何となく仕事をしているようだが、柔道だけはしっかり見ている。だから今回の実業団試合は社長命令で柔が出るべき試合ではないと知りながらも、仕方なく話に行ったら案外すんなり了承してくれた。万が一、断られたらどうしようかと思ったが心配いらなかった。
「今更、出ませんって言われてももうエントリーしちゃったからどうしようもなかったんだけど……」
ぶつぶつ言いながら、廊下を歩く。道場からは気合の入った声が聞こえ、肩を撫で下ろした。
◇…*…★…*…◇
5月下旬。全日本実業女子柔道団体対抗試合が兵庫県の尼崎市で開催された。鶴亀トラベルの部員たちと羽衣、そして名誉顧問である滋悟郎も当然同行した。東京から離れていることなどから前日の夜には神戸の方に宿泊していた。
「尼崎の名物はなんぢゃ?」
駅に迎えに来た兵庫支店の社員に遠慮なく聞く。ここからは車で移動する。
「もーおじいちゃん、いきなり失礼でしょ」
「何が失礼ぢゃ。わざわざ来たんだ。うまいもんでも食わんと帰れんぞ」
いつも通りの滋悟郎で柔は顔を赤らめる。今日は柔道部の皆も一緒に来ていて、いつもの調子だと分かっていても恥ずかしい。それでなくても、昨晩は中華街でとんでもない量の食事をしたという。柔は、減量中なので夕食には同行しないで、ホテルに籠っていた。
名物の食事は試合後のお楽しみとなり、まずは会場入りした。大きな体育館には畳が敷いてあり、お客さんも沢山入っていてざわついていた。
「結構、賑わってますね」
柔の後輩で52kg以下級の千原がそう言うと、突如現れたスーツを着た白髪交じりの男性が返事をした。
「今年は特に多いですよ。それも猪熊さんのお陰です」
「あの……」
「はじめまして。私、全日本実業柔道連盟会長の三橋といいます」
「会長さんでしたか。失礼しました」
「いや、こちらこそいきなり声を掛けて申し訳ない。この賑わいは猪熊さんのお陰だというのを是非ともお知らせしたくて、ついご挨拶もなしに声を掛けてしまいました」
「あたしはまだ何もしてないですが……」
「何を言ってるんですか。あなたがここに来たというだけで、大盛り上がりですよ。金メダリストで国民栄誉賞受賞者ですから」
「はあ……」
そんなこと言われても……と思いながら曖昧な返事しか出来ない。柔は相変わらず自分の人気には無頓着だ。
実業団対抗の柔道団体戦は様々な業種の柔道部が参加し、日本一を決める。試合は勝ち抜き戦ではなく点取り試合だ。以前、柔が鶴亀トラベルに入社できるかどうかを賭けた試合もフランスチームとの点取り試合だった。あの時は、耕作が滋悟郎の策略にはまり格上のチームをわざわざ連れてきて、大ヒンシュクを買った。皆が耕作を責める中、柔は一言も責めることはなかった。
「おい、柔なにをボーっとしとるんぢゃ」
「あ、ごめんなさい」
◇…*…★…*…◇
計量が終わると開会式そして試合といつもの個人戦とは違い、仲間と一緒に柔道をするのを柔はとても好きだった。自分の勝ち負けにはあまり興味がないが、頑張って稽古をしてきて皆が一生懸命試合をして勝つのは金メダルを取るより嬉しいのだ。
昼休憩の時、柔は思わぬ人と出くわした。
「ヤワラ」
頭の上から聞こえた声に柔は振り返る。
「テレシコワさん!」
相変わらず表情のない彼女だが、薄く笑った気がした。
「久しぶり。いい、試合だった」
「どうしてここにいるんですか?」
「オリンピックの後、日本企業が柔道部のコーチとしてまた声をかけてくれた」
「じゃあ、テレシコワさんのチームも出てるんですか?」
「ああ、たぶん決勝であたる」
「そうですか。手ごわいですね……。フルシチョワさんもご一緒ですか?」
「フルシチョワは別の国に行った。日本、景気悪くなって二人は無理だといわれた」
「寂しいですね……」
「おお、なんぢゃ、テレちゃんぢゃないか」
滋悟郎がお菓子を抱えて声を掛けた。
「おまえさん、やっぱり日本に来ておったのか」
「はい……お世話になりました」
「どういうこと?」
「わしゃ、なんもしとらん。テレちゃんが強いから声が掛かっただけぢゃ。さあ、午後も試合があるぞ」
滋悟郎は去って行った。
「先生が私を日本企業に紹介してくれた。それで就職できた」
「おじいちゃんが……」
「お世話になったのに、あいさつも行けなくてすまない」
「暮らしに慣れるまで大変だもの。おじいちゃんだって気にしてないわ」
「それならいいが」
テレシコワの暗い表情が少し明るくなった。
「じゃあ、あたし行きますね」
柔は部員たちがいる所へ戻って行った。選手として引退をしたテレシコワだが、コーチとして選手を鍛え柔を倒すことを目標に今後は力を注ぐと決めた。柔はまだ若い。現役選手でいる期間もまだある。いつかチャンスはある。
午後の試合ではテレシコワの言った通り、鶴亀トラベルとオオマツ重機が決勝でぶつかった。柔以外の選手の力量は差がないと思えたが、滋悟郎指導の猪熊柔道の精神を持っている鶴亀トラベルに今年は軍配が上がった。
部員たちは大いに喜び、マスコミも例年以上に押し寄せ取り上げた。そこにはもちろん日刊エヴリーも来ていて、邦子も新人の野波の姿があったが柔と個人的に接触はなかった。
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vol.2 遠距離のもどかしさ
NYは7月に入り、からりとした気候で太陽の熱も激しくなり、耕作は殆ど半袖で過ごしている。仕事の取材で全米を飛び回っている耕作はアパートにいることがめっきり減り、NYに戻って来てもアリシアの取材に出かけることが多い。そのため、柔とも電話で話す時間が減り、手紙すらまともに書けなくなっていた。気になることもあったが、時間的な壁により話をすることすらできないでいた。
「愛されてると思ってほったらかしにしてると、いつの間にか捨てられてるのが男だよ」
毎年フラれているイーサンの言葉は重い。耕作は不安を覚え、NYに戻るなり記事を書きあげる前に電話をした。しかし出たのは最悪の相手。
「もしもし、猪熊じゃ」
「あ、日刊エヴリーの松田ですが。柔さんは?」
「柔なら今風呂に入っとる。取材ならわしが受けよう」
「いや、取材と言うか……」
「取材じゃないのに何で柔に用がある?」
「それは……」
「わかった! とんでもない選手を見つけたんじゃな。それで柔に警告でもだそうってことか。じゃが、そんなものは不要じゃ。わしが教える『柔よく剛を制す』は2メートル近い相手であろうとも、投げ飛ばすことが出来る。どんな猛者が現れようとも柔の敵ではないわ。かつてわしが投げたデベソもその……」
「おじいちゃん、お風呂開いたわよ……って電話?」
「そう言うわけじゃから松ちゃんよ、心配無用じゃ」
柔は滋悟郎が言う「松ちゃん」が耕作だと分かると、走って電話を取り上げた。
「何するんじゃ?」
「松田さんからでしょ」
「そうじゃが、お前はでんでもいい」
「どうしてよ、あたしに用があったんじゃないの?」
「用はわしがきいておいた」
柔は頭を抱える。すると天の助けとも言える声が聞こえた。
「お義父さん、お風呂にはまだ入られませんか? 美味しい干物を今から焼こうと思ってますが出る頃には丁度いいかとおもいますよ」
「お! 干物じゃと。こりゃいかん」
滋悟郎は風呂場に走って行った。玉緒はニコリとすると柔は受話器を取ってやっと話が出来た。
「ごめんなさい、おじいちゃんが……」
「いや、変わらない様子で安心したよ。久しぶりだね、柔さん」
「あたしのこと忘れちゃったのかと思いました」
嬉しいもあったが、電話も手紙もないことに少々苛立っていた柔はその思いを隠すことが出来なかった。
「悪い。大リーグの取材が立て込んでてなかなかNYに戻れなかったんだ。アメリカの広さが恨めしいよ」
「わかってますよ。でも、寂しかったんです」
受話器の向こうの柔の声は小さく、悪いことしたなと耕作は胸を痛める。
「最近調子はどう?」
「……悪くはないです」
「その言い方だと、良くはないってことか。体重別に出なかったのはそのせい?」
「知ってたんですか?」
「もちろんだよ。柔さんのことは逐一知らせて貰ってるし、不十分なら問い合わせもする。5月の実業団の団体戦はいい試合をしてたようだけど」
「それも知ってたんですね。松田さんはあたしのことあたし以外から知ることが出来ていいですけど、あたしは松田さんのこと新聞の記事でしかわからないんですよ」
「ごめん。俺ってそう言うところ気が回らなくて」
悪いなって気持ちもあったけど、そこまで気にかけてくれてることが耕作にとっては何よりも嬉しく感じた。自分のことなんか生きていればいいくらいに思ってるんじゃないかって勝手に思っていた。
「電話したんですよ」
「え? いつ?」
「一昨日。でもいないみたいで」
「その日は取材でカリフォルニアに行ってたよ」
「その前もいませんでした。その前も……」
泣きそうな柔の声が聞こえて耕作は動揺する。
「どうしたんだい? そんな声出して。何か話したいことでもあったのかい?」
「あったから電話したんです。でも、いなくて。あたし、怖くて……」
「怖いってどうしたんだ?」
「松田さんまでいなくなっちゃったんじゃないかって思って……」
「俺もってどういうこと? 誰かいなくなったのか?」
柔は完全に泣いていた。すすり泣く声が聞こえても、抱きしめる事さえ出来ない。バルセロナ五輪でのテレシコワ戦直前に泣き出した柔に、何も言えず何も出来なかったころと何も変わっていない。
「柔さん……どうしたんだよ」
「富士子さんが静岡に引っ越しするんです」
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vol.3 置いて行かれる人
「富士子さんが静岡に引っ越しするんです」
思わぬ答えに耕作も驚きを隠せない。
「え!? どういうことだ? 花園と上手くいってないのか?」
「そうじゃないんです。花園くんは無事に卒業も出来て教員免許も取れたんですけど、すぐに先生にはなれなくて今も引っ越し屋さんで仕事してます」
「じゃあ、何で?」
「東京はお金がかかって、生活が大変みたいなんです。花園くんの実家は大家族でまだ下には兄弟もいるから甘えることは出来ないし、富士子さんもフクちゃんがいるから仕事もできないみたいで」
「そうか……それで富士子さんの実家に行くってことか」
「はい。花園くんは東京でも静岡でも教師になれればどこでもいいって言ってるみたいだし、静岡の方が先生にはなりやすいみたいなんです」
「それじゃあ、引き留めることなんて出来ないよな」
柔は沈黙する。富士子は引っ越しのことを柔に打ち明けた時には、もう決めていたようで「相談」ではなく「報告」だった。富士子は悲しそうにしていたが、意志は固く柔は「寂しくなるな」と言うのが精一杯だった。
「こんなこと想像もしてなかったから、あたしどうしたらいいかわからなくて」
「親友だもんな。柔道のことも含めて相談したり、励ましたり、ずっと一緒に頑張ってきた親友だよな」
「ええ、あたしをいつも支えてくれたんです。こんな友達、他にはいないわ」
耕作は柔と富士子のことはずっと見てきた。富士子は耕作の理解者でもあった。柔が柔道を辞めた時、出産直後の大変な時期にも関わらず協力してくれた。緊張しいで自信もないけど、努力家でその強さは耕作も驚くほどだった。柔道が好きだと言った。本当にそうなんだと思えるほど、楽しそうに柔道をした。そしてその傍らには柔がいた。
「富士子さんにとっても苦渋の決断だったと思う。柔さんと柔道をするのが大好きだったから。今は柔道を休んでるけどいつかは戻る気でいたと思う。それだけの根性はある人だから」
「そうかもしれないけど……」
「そう、でも静岡に行ったら難しくなる。それでも富士子さんは母親として妻として決断したんだ。苦しかったと思うよ」
「友達ってこういう時に何もできないのね」
「そんなことはないよ。富士子さんは柔さんが柔道してるのを見るのが好きだから。君が柔道をやっていればきっと心の支えになる。かつてバレエで挫折してた時に、勇気を貰ったと言っていただろう」
「また、柔道ですね。あたしにはこれしかないのかな」
「これしかじゃない。柔道があるんだ。他の人にはこんな強力な武器はないよ。柔さんの柔道は多くの人を励まして熱狂させるだけの力があるんだ。日々の暮らしの中で退屈に感じている思いを明るく照らす光があるんだ」
「そんな力は……」
「あるんだ。俺が言うんだから間違いないよ」
「…………松田さんが言うなら信じてみようかな」
「それに俺たちは常に変化をしている。君の周囲が目まぐるしく変わった昨年から、今の状況はそれ以前とは違うはずだ。日々変わる環境の中、前に進むことを止めることは出来ない。君自身も、新しいことを始めたり新しい出会いがあったんじゃないか?」
柔の中に邦子とテレシコワの姿が浮かんだ。そして柔道部のみんなと行った団体戦では新たな一歩を踏み出せたと思った。そしていつか役に立つと始めた英会話。それも身についてるかはわからないが、楽しくレッスンを受けている。
「でも変わらないものもあっただろう」
「え?」
「富士子さんとの友情だ。むしろ深まったかもしれない。だから静岡に行ってもそれは決して変わらないよ。それが友達だ」
「うん……」
「君が泣いていたら富士子さんは静岡で新しい生活を送れない。違うかい?」
「違わないけど、あたしはいつも置いて行かれるの。お父さんも、松田さんも、富士子さんも……みんないなくなった」
「虎滋郎さんは帰って来ただろう」
「松田さんには置いて行かれる方の気持ちはわからないわ」
沈黙する松田。柔は泣いている。そばにいれば抱きしめるのに、それも出来ない。
「…………置いて行かれてるのは俺の方だよ」
「え?」
「柔さんはいつも俺の前を歩く。どんどん遠ざかる。俺はそれを追いかけるので精一杯だ……たまに振り返る君が笑ってくれていれば俺は頑張れる。君が柔道をして輝いていれば道は開ける」
「松田さん?」
「ゴメン、変なこと言った。忘れてくれ。でも、富士子さんを困らせないように見送ってやれよ。友達だろう」
「うん……そうですね」
柔は涙を拭った。自分のことばかり考えるのはやめようと思った。耕作の零した言葉は柔にそう思わせた。
いつの間にか干物の焼ける匂いがしてきて、滋悟郎が歌いながら廊下を歩く音がした。柔は見つかると煩いからと電話を切った。ざわついていた心が静かになった。
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vol.4 引越しの日
7月の良く晴れた土曜日に富士子の引っ越しが行われた。引っ越し屋のバイトをしている花園はスタッフの一人としてトラックへの積み込みを行った。元々そんなに荷物は多くないので、予定よりも早く片付いた。
「あれ? もう終わっちゃったの?」
丁度、トラックの扉を閉めたころに柔がやってきた。
「猪熊来てくれたのか?」
「でも、遅かったみたいね。富士子さんは中にいるの?」
「おお、掃除してるぞ」
相変わらず大きな体で暑苦しい笑顔を見せる。高校の頃から変わらない。人が良くて素直で優しい。花園は一時期、柔に恋していたが富士子と出会ってその想いは消え去った。柔に対する想いは憧れや尊敬が大きかったのだ。柔道の強さは高校生男子以上だった。武蔵野高校柔道部を救ってくれたスターだった。
「花園さん、今の、猪熊柔ですか?」
引っ越しスタッフの一人が信じられないと言った様子で聞く。
「本物だぞ」
「さすが奥さんがメダリストなだけありますね。今朝、奥さんに会った時も驚きましたけど」
「知らなかったのか? 俺の奥さんが五輪にでたこと」
「噂には聞いてましたけど、冗談か嘘かと……」
「そんな嘘、誰が得するんだよ」
花園が豪快に笑ってると、もう一人陰から背の高い男性が出てきた。
「強い強いって言っても男には敵わないでしょう。あんなに小柄で、重量級の選手を倒すことだって不可能に近いはずだ」
「猪熊は強いよ。俺は高校の時に試合してもらったし、大学の時も短期間だが一緒に稽古をしたことがある。男の俺でも倒れそうな稽古の後に平気な顔して仕事に行くし、男だろうと関係なく投げれる強さがある。猪熊はそういう柔道をする人だ」
「そうは見えないけど」
やっぱりどうにも信じられない。小さい体で細い腕でどうして花園のような大男を投げれるのか。
「昔から知り合いなんですか? 奥さんつながりで知り合ったんじゃ?」
「いや、高校の同級生なんだ。その後、俺は猪熊関連で奥さんに知り合った」
意外や意外と言わんばかりに、花園を見やる二人。
「なんだ?」
「握手とかお願い出来ないですかね?」
「聞いてみるけど他ではするなよ」
花園は二階へ上がっていく。
「おーい、猪熊?」
「何、花園くん?」
富薫子と遊んでいる柔が振り返ると、引っ越しスタッフ二人と一緒に花園がいた。事情を聞くと柔はそんなことくらいならと快諾した。
「それじゃあ、少し早いけど静岡へ向かうんで、あとよろしく」
「ええ、気を付けてね」
富士子が見送ると花園はトラックに乗って出発した。
「免許、持ってたの?」
「必要になるだろうからって取ったのよ」
「富士子さんは一緒に行かないの?」
「後で新幹線で追いかけるの。トラックにはもう乗れないし、こちらでも少し手続きがあるから。でも、思ったより早く終わったからまだ管理会社の人は来ないわね」
「そっか……じゃあ少し話もできるね」
「ええ。何もないけど座りましょうか」
ガランとした部屋には本当に何もない。引っ越しと並行して掃除もしてたからもう殆どピカピカだ。その光景がどうにも寂しさを増幅させる。
「とうとう行っちゃうんだね」
「うん。寂しくなるわ」
「それあたしのセリフ」
二人は顔を見合わせて笑う。
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vol.5 一緒に柔道できてよかった
「猪熊さんが松田さんと上手くいって本当に安心したわ」
「どうしたの? 急に?」
「だって本当にやきもきしたもの。猪熊さんは自分の気持ちを認めないし、松田さんは思いを押し殺して自分は記者だって言い聞かせているようだった」
「でもそれは仕方ないのよ。あたしは松田さんのせいで騒がれて大変な思いもしたし、松田さんは……よくわからないけど」
「松田さんはね猪熊さんがスターになっていくことを望んでいたけど、それと同時に自分から遠ざかっていくと思ってたんでしょうね。自分が相手にされるわけがないって。身の程知らずって思ったんじゃないかしら」
「どうしてそんな風に思うのかしら。自分でそうさせたのに。それにあたしはあたしよ」
「花園くんが言ってたの。大学のレギュラーになるために猪熊さんと稽古してたじゃない? あの時に松田さんにラーメン御馳走になって取材したいって言われたんだけど、花園くんは断ったの。結果が全てだから。頑張ってるところなんか見せたくないって。あたしにふさわしい男になりたいって」
富士子は自分で言って照れていた。
「花園くん、強くなるまで会わないって言ってたわ」
「その時にね松田さんも真剣な顔をして何かを考えてたみたいなの。それがね猪熊さんのことじゃないかって花園くんは言うの」
「まさかー」
「あたしもそう思うわ。猪熊さん特別だから、男の人はプライドが邪魔をして思いきれないのよ。花園くんも……あたしが言うのも変だけどそうだったみたい」
釣り合うとかそんなことどうでもいいのに。好きだって言ってくれればそれだけで、心は満たされるのに。そんな簡単なこともさせられないほど柔はスターになってしまった。
「でもそんなプライドかなぐり捨てて、松田さんは告白したんでしょ。アメリカに行く前にきっと勇気を出したのね」
「うん……」
思い出す。柔はあの時、邦子から聞いていたからきっと両思いなんだと思ってた。でも、気持ちを伝えるタイミングがなくて、いつでも言えると思っていたら先延ばしにしていた。気づいたときには遅すぎて、足元から崩れ落ちそうになった。耕作がNYに行くと聞いたときには。
押し込めていた思いはもう既に胸にとどめるには大きすぎた。国民栄誉賞の授賞式なんてどうでもよかった。それなのにこの時も、優柔不断の柔が足を重くした。でも耕作が突然現れて、会場は大騒ぎになったけどそのおかげで抜け出せた。空港で何も言わずに別れた時、自分の勇気のなさに腹が立った。
でも、耕作は戻ってきた。エスカレーターを一生懸命昇って。そして耕作の思いを聞いて、柔は人生で一番幸福な時を迎えた。後から来る別れを忘れるくらい。
「猪熊さんってずっと不安そうな顔してた。何かに迷っている顔」
「そうかな……」
「いつも何かと柔道を天秤にかけてた。お父さんのこと、学校、仕事、恋愛、友情……」
「結局いつも柔道をやって解決しちゃうんだけどね」
「でも、その天秤が最近は安定してると思うの」
「不安も迷いも減ったから。お父さんの所在もわかって、仕事も恋愛も上手くいってる」
「あたしがいなくなることがその天秤を不安定にさせるんじゃないかって思ったわ。自意識過剰かしら?」
「そんなことない! 富士子さんが引っ越すって聞いてあたし、不安だった。試合会場には松田さんはいないし、富士子さんもいない。一人ぼっちな気がしてた。でもね、試合が終わったら一緒にご飯食べようとかお茶に行こうとか考えると楽しかった。でも、それももうかなわない」
「あたしもね、不安だったわ。いつも不安だった。試合では緊張しちゃうからいつもの力が出せなくて、みんなに迷惑かけて期待を裏切って……でもね、それでもあたしは柔道が大好きだから続けてきたの。今はお休みしてるけど、いつかはまた始めたいなって思うの。柔道はあたしにとって宝物だから。絶望の淵にいたあたしに生きる希望をくれた。友達も、旦那様も、五輪の銅メダルも……そして最高の親友のあなたと出会わせてくれた」
富士子は泣いていた。柔に出会って人生が変わった。東京に出て来ただけじゃ、これだけ変わることはなかった。きっと今も適当な会社でOLして無為な人生を送っていたと思う。バレエの代わりになりえたのは柔道だけ。他の何でもない。そして一緒に歩んできた柔がいたから大切な宝物になった。
「富士子さん……あたしも富士子さんに会えてよかった。一緒に柔道できてよかった。いつも一緒にいてくれて頼もしかった」
「ごめんね、勝手に決めて。相談したらきっとあたし、決断できなかった。猪熊さんと一緒にいたかったもの。でも、無理だから……あたしがもっと器用に生きていければよかったけど……」
「そんなことないわ。富士子さんも花園くんも頑張ってたもの。誰のせいでもない。だからあたし、笑顔で見送ろうと思ったの。それにね気づいたの。住むところは離れても、心ではみんな繋がってる。応援してるし、応援してくれてるって信じてるから」
「強くなったのね。それが松田さんのお陰なのよ。確かな絆で結ばれていれば、顔が見えなくても信じられるもの。不安だって言葉にしたら軽くなるから。飲み込んではダメ。伝え合うのよ」
「うん。って、いつの間にか松田さんとあたしの話になってるわ」
「ほんとだ! やっぱりお節介焼きたくなるのよね。あなたたち見てると」
「もー、富士子さんったら」
富士子は柔の手を取った。
「本当にありがとう。楽しい五年間だった。離れても応援してる。何か言葉にしたいことがあったら電話して。あたしもするから」
「あたしこそありがとう。富士子さんがいたら今のあたしがあるの。富士子さんこそ、結構重大なことを黙ってることあるじゃない。今度はもう少し早めに教えてよね」
「はい……あら?」
富薫子が二人の手の上に小さな手を置いた。柔らかくてかわいい手だ。
「フクちゃんにも猪熊さんみたいな親友が出来るといいな」
「きっとできるわ。富士子さんの子供だもん。いい子に育つに決まってる」
「強い子になっても欲しいの。あたしたち夫婦で上がり症だから」
「気にするほどじゃないわ。今までのフクちゃんと見てるとその心配もなさそうだけど」
「柔道をさせるつもりなの。無理強いはしないけど」
「それがいいわ。もしかしたらバレエをしたがるかもね。あたしはバレエの方が素敵だと思うわ」
「あたしたちの子よ。身長が伸びるわ。苦しい思いをさせるから……」
「でも、やりたいって言ったら?」
「もちろん、やらせるわ。そしてもし挫折することになったら、一緒に次の道を見つけるわ。あたしが柔道と出会ったように」
「だー!!」
富薫子も気合十分だ。未来は果てしなく広がっている。どうなるかはわからないけど、今はこの時間を大切にしたい。
「富士子さんの淹れたお茶が飲めなくなる前に、淹れ方教わっておけばよかったな」
「今度会った時に教えるわ」
「じゃあ、またね」
タイミングよくチャイムが鳴り、管理会社の社員がやってきた。そして他の業者もやって来て手続きの全てが終わり、富士子はタクシーで東京駅に向かう。柔はタクシーには乗らずその場で見送った。遠ざかるタクシーを見送る。もう戻って来ないのに、その場所が恋しくて離れがたい。
涙を堪えて空を見上げると、無性に耕作の声が聞きたくなった。柔は振り返ることもなく、家に帰った。
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絵画のような湖畔で
vol.1 ジョディ・ロックウェル引退
東京からNYまで飛行機でおよそ12時間。前回よりはリラックスした気持ちで乗っていられたものの、胸の高鳴りは消えることはない。耕作に会ったら話したいことがたくさんある。そのことを思うだけで柔自身も浮き上がってしまいそうだ。
空港に到着し、相変わらずごった返している中、二人は引き寄せあうように見つけることが出来る。柔は人ごみをかき分けて耕作の元に向かう。以前とは少し様子が変わったように感じる耕作だが、優しさとか熱意の度合いは変わってない笑顔を見せていた。
第一声は何だろうか。きっとロマンチックなことは言わないだろうから「久しぶり」とか「元気だった」とかそんなことだろう。それでも嬉しいのだが。
「松田さ……」
「荷物はそれだけ?」
「え? ええ」
「じゃあ、行くよ」
「え?」
耕作は柔の手を引いて以前行った駐車場とは違う場所に歩き出した。よく見ると耕作も大きな荷物を持っている。肩には柔がプレゼントしたバッグもかかっている。
空港内は広く柔は何も言い出せないままただ付いていく。握りしめられた手が熱い。
やっと到着したのは出発ゲートだ。
「松田さん! どこに行くんですか?」
「へ? カナダだよ」
「どういうことですか?」
「もしかして手紙届いてないのか? ジョディから」
「ジョディから? 来てませんけど」
「あちゃー、だからそんな顔してたんだな。でも、時間がないから出国する。話は飛行機の中で。はい、チケット」
柔は何が何だかわからないまま受け取ると、再び出国手続きをして飛行機の中へ。時間ギリギリだったみたいで、席に着くとすぐに出発のアナウンスが流れた。上空での安定飛行に入るとやっと柔は気が抜けた。ふと、横を見ると耕作がいる。肘おきには大きな手があって、さっきまでこの手に握られていたかと思うと顔が熱くなる。
「ごめん、柔さん。ドタバタしちゃって」
「いえ、あの、なんでカナダへ? ジョディと会うんですか?」
「ああ、まあ。本当に手紙見てないの?」
「はい。もしかしたらまたおじいちゃんが持ってるかもしれないですけど」
「あー、そう言うこともあるか」
「それで、ジョディは何であたしと松田さんをカナダへ?」
耕作はしばらく言葉を噤んだ。柔はじっと耕作を見ている。心のせめぎ合いの末、耕作は事情を話した。
「ジョディから伝えることになってたんだ。俺はちょっと前から知ってたけど、手紙か電話で伝えるって言ってて、それで柔さんがアメリカに来るって知ってせっかくだから今日、会見しようってことになったんだ」
「全然、話が見えません」
「ごめん。俺が言ってもいいのか迷ってて。でも、言うしかないな」
意を決したように耕作は柔の方を向く。
「ジョディが引退する」
「え?」
「引退会見を今日、昼からトロントで行う。一緒に来て欲しいって言われてる」
「引退……どうして? 去年、また試合したいって言ってたのに」
同じ空の上なのにさっきまでとは全然違う感情が柔を襲う。寂しさも苦しさもある。それとまた取り残されたような悲しさ。
「俺が聞いたのは、足の怪我がまた悪くなったらしいということ。きっと他にもあるはずだからそれは直接聞いた方がいい」
「そうですね……」
柔は明らかに動揺していた。次のオリンピックでも試合出来ると思っていた。それだけ努力をするつもりだった。富士子もいない、ジョディもいない。心の支えとなる良きライバルたちは皆、畳を去る。柔は不安しかない。
その時、柔の冷たい手に大きく温かい手が覆う。思わず耕作の方を向くと、優しく微笑んでいた。言葉にしなくて気持ちは伝わった。
トロント空港へは一時間半ほどで到着した。柔は二度目となるトロント。以前はジョディと夫のルネが迎えに来ていたが、今回はそう言うわけにもいかずタクシーで会場に向かった。
「会見まで時間があるからジョディと話すといいよ。俺は記者として会場に入るから、一緒にはいけないけど」
俯いていた柔は勢いよく顔を挙げて耕作を見る。不安が顔中に広がっている。
「大丈夫、ジョディには話をしてあるからルネが待っててくれる。一緒に行けばいい。会見にはもしかしたら日本からも記者がいるかもしれないから、俺たちの接触は最低限がいいと思う」
柔は頷く。耕作はこんな表情の柔を見たことがない。富士子の引っ越しで寂しい思いをしてる中、ジョディの引退は精神的に堪えてるのだろう。
「柔さん、ごめん」
耕作は柔を抱き寄せた。
「こんなことしてどうにかなるわけじゃないとは思うけど、不安そうだから」
柔は思わぬ事態に、一瞬驚いたが直ぐに耕作の胸の中で安らぎを感じていた。一人じゃないんだと思えた。柔も耕作の背中に腕を回し、ぎゅっと抱きしめた。
「や、柔さん?」
「もう少しだけ」
「あ、うん」
自分からやっておきながら耕作は心臓がドギマギしていた。それは思いっきり柔にも伝わっているのだが、柔はその心臓の音が聞こえるほどそばにいることに幸せを感じた。
「もう、大丈夫」
柔は耕作の胸から顔を上げる。にこりと笑う柔に耕作は再び抱きしめたい衝動に駆られるが、抑えこんで何食わぬ顔をした。
ホテルの裏手で柔を降ろしルネに預けると、耕作は正面の方に向かった。ジョディはカナダではスーパースターで結婚式の時も盛大に祝われたほどだ。その彼女が現役引退をするとなれば、スポーツ界の一大事。国内の記者は元より、バルセロナ五輪での死闘も記憶に新しい中、海外からの記者も大勢詰めかけていた。
ざっと見た所、アジア人記者は何人か見える。知った顔はいないが、日本人か日系人か、他のアジア系かパッと見では区別できない。柔とは出来る限り一緒にいない方が後々を考えれば賢明かもしれない。
ホテルの係員に誘導されて会場に入る耕作。カメラは後方、記者は前方に着席した。会見まではまだ時間がある、控室では今まさに柔とジョディが引退について話している頃かも知れない。
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vol.2 引退パレード
「ヤワラー! 久しぶりだわさー」
「ジョディ!」
ジョディは駆け寄るなり柔を抱きしめた。大きなジョディに柔は埋もれてしまう。
「ヤワラ、来てくれてうれしいね。手紙は届いたんだわね」
「届いてないの。さっき松田さんから事情を聞いて……」
「Oh 悪いことしたね」
「そんなことないわ。ジョディの大事な時に一緒にいられるのは嬉しいわ」
「そうだわね。でも、マツダと一緒の時間、とってしまった。ごめんだわね」
柔は顔を赤くした。
「否定しないだわね。マツダとはステディになったんだわね」
「それは、そうなんだけど。まだ内緒なの」
「わかるだわね。ヤワラ、スター。騒がれるとめんどうね」
「う、うん。そんなことより、ジョディ、どうして引退するの? また試合しようって言ったのに」
ジョディはルネの顔を見る。
「足の調子は良くないだわさ。バルセロナから帰ってトレーニングして、昔の傷が痛みだしたんだわね。でも、そんなものは一時的なもので、治るって先生言ってただわさ」
「じゃあ……別に理由が?」
「赤ちゃんが欲しいのね。私、もう若くない。次のオリンピックまで待ってたら30歳過ぎてしまうだわさ」
「富士子さんみたいに産休するって言う道も……」
ジョディは首を横に振る。
「フジコは若かった。私、自信ない。体ももうボロボロ。ヤワラより重いから、負担大きいね。それに……」
日本語のわからないルネはただ二人の様子を見守っている。ジョディはルネを見て微笑む。
「ルネは私を支えてくれたね。自由にさせてくれたね。今度は私の番。ルネの願い叶える。子供沢山欲しいって言ってただわね。それ出来るの私だけね」
ジョディは結婚して5年になる。ルネはジョディを支え続けた。競技は違えど同じスポーツ選手としてその喜びも苦しさも理解し分かち合えた。でも、そろそろ夫婦としての将来を考えなければいけない段階に来たのだ。
「ヤワラとの約束はバルセロナで果たせたね。また試合するのもオリンピックでなくてもいいだわね」
「そうだね。あたし、そう言うことなんにも考えてなかった」
「仕方ないね。マツダとは離れて暮らしてるね。結婚もしてないね。それにヤワラはまだ若いね」
「結婚、出産を考えて23は若いかしら」
「若いね」
「みんないなくなって行っちゃうわ。あたしも……」
「NO! ヤワラは柔道続けるね。理由もないのに引退何て引退したみんなが許さないね」
「そんな勝手な」
「出来る事なら柔道続けたいね。でも、みんな事情ある。続けられない事情があるね。ヤワラは続けられるなら、続ける。それがみんなのため。ヤワラのため」
「あたしの?」
「後悔しないためにね」
控室のドアが開いた。関係者の人がルネに声を掛けた。そしてジョディに何か言った。
「そろそろ時間ね。ちょっとここで待ってるね」
「うん」
一人取り残された柔。こうやってみんないなくなる。また寂しさで足元が震えた。
会見が始まりジョディは引退の報告と感謝の言葉を述べた。無差別級では銀メダルだったが歴史に残る試合を見せたこと、78kg超級での金メダルはカナダでの人気を更に高めた。それ故に、今回の引退はカナダ国内では大きく取り上げられることとなった。
「引退後はどのような道を歩むでしょうか?」
カナダ人の記者が訪ねる。
「休養を取って、望まれるならばコーチなどをしていきたいと思ってます」
ジョディが話し終わると、多くの記者が質問をするべく挙手した。その中には耕作の姿があった。
「マツダ! 何が聞きたいね?」
いきなり名指しされた耕作は手をひっこめそうになるが、そこはひるんではいられない。
「日本の日刊エヴリーです。ジョディ、バルセロナ五輪での無差別級。自分ではどのように分析していますか?また、猪熊柔にこのことは伝えましたか?」
流暢な英語で耕作が質問すると、ジョディも目を見開いて驚いたが嬉しそうに目を細めた。
「バルセロナでの無差別級は全力を出した試合でした。体力的にも肉体的にも最高の状態で試合に臨みそして負けました。出し切ったといってもいいでしょう。楽しい試合でした。またいつか試合出来たら嬉しいです。引退のことは伝えました。ヤワラとはソウル五輪の前から親交があり、ライバルです。まだ心の整理がついていないようでしたが、きっと彼女は立ち上がるでしょう。支えてくれる人がいるから」
そう言ってジョディはウインクした。耕作は息を飲む。お願いだからそう言うのはやめてくれ。
会見終了後、耕作はホテル関係者から隙を見て控室の方に案内された。そこには柔もいて、耕作を見つけるなり駆け寄ってきた。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま。会見見てた?」
「少し。だって見てもわからないもの」
「そっか……」
二人だけの空気が流れているがここにはジョディもルネもいる。
「マツダー!! 会いたかっただわね」
「ジョディ、俺には英語でいいよ」
「そんなことしたら、ヤワラがのけ者みたいね。だめね」
「それもそうか。でも、ルネは?」
「ルネは気にしないね。二人はお客様だわね」
ムキムキのマッチョのルネは相変わらずいい笑顔でみんなを見守る。
「そろそろパレードがあるね」
「え? 引退パレード?」
「ヤワラは今度も一緒に乗るね?」
「あたしはいないことになってるし、ここにいるわ」
「それじゃつまらないね。そうだ、マツダ、一緒に連れてくね」
「それは……まずいよ。柔さんがいたらそれだけで世界中の記者が大騒ぎさ。記事になる」
「だから変装するね」
「変装?」
それから30分後、トロント市庁舎の前からオープンカーに乗ったジョディが、観衆の中を通りぬけていく。手をふって感謝を伝える。本当にファンが多く、パレードの数百メートルは人でごった返している。
柔は少年のような服を着て帽子をかぶって、耕作の横にいた。正直言って何も見えない。しかしここは長年取材をしてきた耕作の経験で、人ごみを華麗にかき分けながら最前列に行くことが出来た。もちろん柔の手を引いて。
「大丈夫?」
「はい。なんとか。でもすごい人ですね」
「ああ、ジョディはこれだけ愛されてるんだ。そして君も同じくらいいや、もっと世界中にファンがいる。正真正銘のスーパースターだ」
「あの、あたしは……」
「来るぞ」
背中から一気に歓声が上がり、音で押されそうになる。オープンカーに乗るジョディは柔に気付くと手を振った。それを耕作は逃さずカメラに残す。ゆっくりとはいえ車だから一瞬である。気づけばもう後ろ姿だ。
「戻ろう、ここにいたらもみくちゃにされるぞ」
「はい……」
再び耕作は柔の手を引いてホテルに戻る。人の流れも穏やかになり、耕作は柔の手を離した。それを残念そうに見つめる柔。
「さっき、何か言いかけなかった?」
「さっき?」
「パレードの少し前」
「あの……」
「ん?」
「あたしはスターなんかじゃないって思ってたし、普通の女の子でいたいって思ってたんです。でも、もう無理なんですね」
「そんなことはないさ。ジョディはこれから普通の女性になる。ただ、オリンピックのメダリストって言うのは一生ついてくる。それがいいか悪いかは今後の人生でしかわからない。でも、誇れるものがあるって言うのは人生の励みになるぞ」
耕作の笑顔に柔もつられて笑う。まだ良く意味が理解できない。いつか分かる時が来るのだろうか。
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vol.3 ステディ??
ジョディは普段はトレーニングがしやすいように、トロントに住んでいるようだが別宅が田舎の湖畔にあり柔と耕作をそちらに招待した。都会での観光もいいが、東京とNYにいる二人ならそこまで驚くこともないだろうと、どうせなら大自然を見せたいとルネが提案したのだ。もちろん二人は大賛成して車に乗り込んだ。
「起きるだわね! ヤワラ」
柔は驚いて飛び起きる。車は既に止まっていて窓からジョディが顔をのぞかせていた。
「え? 着いたの?」
「よく寝てたね。飛行機では眠れなかった?」
「うそ、あたし、また?」
自己嫌悪に陥りながら車を降りる。何でこんなに気が抜けちゃうんだろう。
「寝てたっていっても1時間くらいだわさ」
それでも寝てたことに変わりない。しかも耕作の肩で。
「ジョディ、何で起こしてくれなかったの?」
「起こしたね。でも、起きなかっただわね。マツダのそばで安心したね」
「そ! そんなこともあるけど……」
チラッと耕作を見る。荷物を運び入れいているのに気付くと、柔は手伝いに行った。
「荷物これだけだよね」
「あたし、自分でやります」
「いいのいいの。トランク閉めてくれると助かるよ」
「はい……」
バタンと車のトランクを閉めて耕作のあとを追う。さっきはよく見てなかったが、耕作の背中が変わった気がする。腕も大きくなったような。
「マツダはたくましくなっただわね」
「ジョディ、わかるの?」
「ルネが言ってる。バルセロナで見かけた時よりもたくましくなってるね」
「そうかもしれないけど、理由はわからないわ」
「鈍いね。ヤワラ」
ジョディは柔を残して家に入った。
「どういうことかしら?」
ジョディの家にはゲストルームが一つあり、そこに荷物を入れるように言われたが、耕作は緊急でジョディと話をした。柔は何を話しているのかわからないので椅子に座って見ていた。耕作の必死の言葉にジョディはニヤけたりしたが最後には驚きで声を上げた。その声にルネも驚く。
「何? どうしたのジョディ?」
「何じゃないだわさ。どうしたのじゃないだわさ。こっちのセリフだわね。二人はステディだと言ったからてっきり……」
ジョディの驚きの理由を察した柔は顔を紅葉みたいに赤らめる。その反応を見てジョディも真実と知り、耕作に同情の目を見せた。それはルネも同様だ。
「ヤワラはゲストルームで私と寝るね。松田は……」
「俺はソファで十分だよ。慣れてるし」
実際耕作は取材で遠方に出かけた時に、車中泊を良くする。アパートでも椅子に座ったまま寝てしまうこともあり、そこまで苦に思わない。
「ルネと一緒に寝てもいいだわよ」
「検討するよ」
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vol.4 星空のウイスキー
夕食はジョディと柔の手料理となった。日本食の材料などもちろんないが、柔は洋食も好んで学んでいたので何とかある材料で料理が出来た。
時刻は午後7時。まだ空は青い。
「変な感じね、夕飯食べてるのに外が明るいわ」
「日本は夏でも夜が早いね?」
「そんなことないけど、このくらいだともう暗いわ。それに夏なのに涼しい」
「トロントも東京よりは涼しいね。ここはもっと涼しいね」
「オーロラ見れるかしら?」
ジョディはルネに聞いているようだ。二人は何か話し合って柔にはわからない。
「ねえ、松田さん。何て言ってるんですか?」
「ん? オーロラのことはよく知らないみたいだよ。二人とも少ない情報をすり合わせてるような感じかな」
「意外ですね。カナダって言えばオーロラなのに。現地の人が知らないなんて」
「そんなもんじゃないか。俺たちも日本の気象現象とか観光地って隅々まで知らないだろう」
「そう言われればそうですね」
「ヤワラ、待たせたね。オーロラはここでは見れないね。イエローナイフ辺りで見れるらしいだわよ。私たちは寒い時期に寒いところには行かないので、よくわからないね。申し訳ないだわさ」
「そんな、いいのよ。ここは景色もいいし、見れたりするのかなーって思っただけよ。気にしないで」
「そうか! 景色はいいね。明日はボートに乗って湖を回るのもいいね。マツダなら漕げるだわね」
「そうだな。明日乗って見ようか?」
「はい」
可愛らしく返事をする柔をジョディとルネはニヤニヤしてみていた。
空はまだうっすら明るいが、午後8時を過ぎている。外にはほかに民家は見当たらなくて、静かで都会育ちの柔には少々怖さも感じる。
「お風呂なくてごめんだわさ」
「シャワーがあれば大丈夫よ。ありがと」
「ヤワラの料理、ルネ美味しい言ってたね。後で作り方教えてだわね」
「うれしい。ジョディの料理も美味しかったわ。教えてね」
「OKだわね。ん?」
「どうしたの?」
リビングでは耕作とルネがウイスキーを開けていた。流暢な英語で談笑する耕作はやっぱり日本にいた時とは比べ物にならない位、かっこよくなった。身振りが外国人に似たからなのか、何かやっぱり変わった。
「二人でお酒。ずるいね」
「ジョディもどうだい?耕作が用意してくれたいい酒だ」
「私の引退祝いのお酒じゃないの?マツダ」
「そのつもりでもあったけど、お世話になりますって持ってきたものでもある」
「じゃあ、食事の時に出してくれればよかったのに」
「忘れてたんだよ。さっきシャワーの時に荷物から出てきて思い出した」
ジョディが呆れて、経緯を柔にも話すと同じように呆れてそして笑った。
「松田さん、ウイスキーなんて飲むんですね」
「酒は何でも飲むよ。ビールが手軽でうまいけどな。柔さんもどう?」
「あたしはウイスキーは……」
「ヤワラ、ワインなら飲めるね?」
「ジョディ、いいのよ。お酒飲まなくても別に……」
「せっかくだわね。前に日本に行ったときはヤワラ、お酒飲めない年齢。それに試合前にも飲めない。今がいいタイミングね」
そう言われればそうか。ジョディとは少しの間だけど、一緒に暮らしてたが受験で夜遅くまで勉強してた柔は、無理矢理起こされては稽古に連れて行くジョディを疎ましく感じていた。食事も沢山食べて作るのが大変だった。ゆっくり食事をしたり、おしゃべりした記憶はない。
ユーゴスラビアの世界選手権では買い物なども楽しんだが、試合前なので食事は制限していたしお酒も飲めるような状況じゃなかった。
「うん、あたしもいただくわ。ワインなら飲めるだろうし」
「その調子ね。チーズ、サラミ、サーモンジャーキー、ナッツにチョコレートもあるだわさ」
「そんなに出さなくても……」
「遠慮は無用ね」
「そう言うわけじゃなくて……」
ジョディは沢山のおつまみをかごに入れて持っていくと、大きなソファに腰かけた。柔も耕作の横に座る。
「チョコレートって合うのか?」
「マツダ! ウイスキーとチョコレートの相性は抜群ね。試すといい」
恐る恐るチョコを口に含む耕作。その後に、ウイスキーを一口。チョコの苦味と甘みがウイスキーの香りと相まって何とも言えない美味しさとなる。
「これ、凄く合う!」
ルネは満面の笑みだった。この飲み方がお気に入りなのだという。
「柔さんも試してごらんよ」
「うん」
ウイスキー自体初体験なんだけど……と、思いながら口に入れる。甘いチョコとウイスキーが本当に良く合って、柔はとろけそうな気持になる。
「あ! これって知ってるわ」
「どうしたね?」
「ウイスキーボンボンだわ」
「なんだいそれ?」
「チョコの中にウイスキーが入ってるお菓子ですよ。知りませんか?」
耕作は首を傾げる。甘いものは食べるが店でわざわざチョコレートを購入するほどではないから、チョコ売場へ行ったことがないのだ。
「子供の頃にお母さんにちょっとだけってもらった思い出があるんですよね。甘くて苦い思い出です」
「アルコール入ってるよね?」
「ええ、だからちょっとです。でも、フワッとした記憶があります」
軽く酔ってたんだなと耕作は推察する。
「そろそろ、外に出てみようだわさ」
「こんな時間に?」
「こんな時間だからね」
四人はほろ酔い気分で外に出る。夏とは思えないほど涼しくそして暗い。だけど見上げれば満天の星空。空を埋め尽くさんばかりの無数の星の集合は柔を圧倒する。
「なんて……綺麗な景色なの。あたし、初めて見るわ」
「ここ暗い。星良く見えるね」
「すごいわ。星ってこんなにあるのね。あ! 流れ星。見た? ねえ、松田さん」
「ああ、見たよ。願い事はしたかい?」
「え? 出来っこないわ。一瞬だったもの。松田さんは?」
「俺は……」
「ヤワラ! マツダ! こっちで飲むだわさ」
ジョディが外にある木のテーブルに酒とつまみを用意し、星空を肴にもう一杯と考えているようだ。部屋の灯りは消して外には柔らかいランプの灯りだけになる。手元は危なっかしくなるが、星は良く見える。
「贅沢だな。こんな酒飲んだことないよ」
「あたしも。ジョディ、ルネありがとう」
「こちらこそありがとうだわさ。ヤワラとの出会いは私の柔道を人生を楽しくしてくれた。感謝ね」
ジョディは柔を抱きしめる。すると柔はまた涙が流れた。
「酔ってるのね。何か涙もろくて嫌だわ」
「私も酔ってるね」
柔の頭にポタポタと何かが落ちる感覚があった。それが何かわかると、柔は寂しさで胸が苦しくなる。
その様子を耕作とルネは目を細めながら見ていた。
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vol.5 霧の湖畔
朝は少し冷えるジョディの別宅。昨夜は夜更かしをしたが、朝の稽古のために早朝には目を覚ました柔。ジョディと一緒にランニングをしようと思っていたが、隣のベッドで気持ちよさそうに眠っているのを起こすのもしのびなく柔は一人で部屋を出た。
「おはよう、早いね」
耕作がリビングにいた。まさか起きているとは思ってなかったので驚いた。
「おはようございます。今から走りに行ってきます」
「あ、待って俺も行くよ」
「でも……」
正直、柔は耕作とじゃ走る速度が違うから走りにくいなと思っていた。でも、カナダに来てまで本気の稽古でもない。体がなまらない程度にほぐすのもいいだろう。
「お待たせ。さあ、行こう」
白いTシャツと黒いジャージのズボンで現れた耕作。
「持ってきたんですか?」
「ああ、ランニング行こうと思って」
「そうですか。意外です」
「そうか? さあ、行こう」
二人は別宅を出て走り出す。霧がかった湖にひんやりとした空気。今が8月とは思えない。
「松田さん、何か雰囲気変わりましたよね」
「そうか? 日焼けしたのは間違いないが。他はそうでもないぞ」
「んーでも変わりましたよ」
「どこが?」
「わかりません。あ! 走るの早くなりましたね。昔、取材で来た時一緒に走りましたけど、松田さん付いてくるのがやっとでした」
「あの時は、不甲斐なかったよ。今は、全米飛び回って走りまわってるから結構体力もついたし、足も速くなったかも。記事を書くスピードもあがったぞ」
「ジョディのことは書いたんですか?」
「もちろんさ。今回は写真はないけど記事だけは、トロントのホテルからFAXしたよ」
「あの時ですか? それは仕事が早いですね」
「だろ? 仕事が残ってるとゆっくりできないもんな」
昨日は随分と遅くまでルネと話していたようだった。英語の会話なのでよくわからなかった。柔も英会話は習っているがまだ本格的な英語は全然聞き取れない。英語が話せたら、ルネとも話が出来たのに。柔は残念に思う。
ランニングを終えると、柔は良さそうな草の上で受け身の練習を始める。その様子を耕作は懐かしそうに眺める。
「松田さんもやりますか?」
「俺?」
頷く柔。今まで何度も耕作を投げてきた。もっと上手に受け身が取れれば体を痛めることもなかったはずだ。柔道には詳しいが柔道をしたことがあまりないのだろう。別にやりたくないわけじゃないのなら一緒にやってくれると柔も嬉しい。
「じゃあ、教えて貰おうかな。柔先生に」
「やめてください」
「冗談だよ」
柔は見本を見せて、耕作はそれにならい指導を受ける。くるくると回っているうちに耕作は目が回ってきた。
「ちょっと、待って。目が回る」
「まだ始めたばっかりですよ」
「相変わらず君は平気そうだな。やっぱり三半規管が常人とは違うな」
「また人をネコみたいに言って」
二人は顔を見合わせて笑った。初めて遊園地に行った時にも同じような会話をした。あの時はまだ柔が高校生で、恋やオシャレをしたいのに柔道柔道と騒がれてしかも滋悟郎がさやかのコーチになるかもと言う報道も出て、柔道をやめたくて仕方なかったのだ。落ち込んでいる柔に耕作から遊園地に遊びに行こうと誘った。ジェットコースターの回転で目を回した耕作に対して平気な顔の柔。まだ子供っぽかった柔のふくれっ面は今思い出してもかわいいなと耕作は思った。
草の上に寝転がる耕作は思い切り深呼吸した。東京からNYへ行ってあまり自然に触れ合うことがなかった。ここは山形の実家とよく似ていて何だか落ち着く。
「隣いいですか?」
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vol.6 カタツムリ、エスカルゴ
「隣いいですか?」
「ん?」
柔は耕作の隣に寝ころんだ。そして思ったより距離が近くて、思ったより恥ずかしいことに気づいた柔は顔を赤くする。
「空青いなー」
「そう……ですね」
「柔さんは東京生まれで東京育ちだからこんな景色あんまり見たことないよな」
「はい。こんな風に土の上に寝ころんだこともあまりないです」
「虫とか苦手そうだもんな」
「得意ではないです。蝶々やテントウムシ、カタツムリくらいなら平気ですけど」
「蜘蛛やムカデはもちろんダメか?」
「あんなの平気な人っているんですか?」
「いるよ。俺は結構そっちの人間。ムカデは危ないから追い出すけど」
「あたしは絶対に無理ですから、もし出たら追い払ってくださいね」
「おーまかせとけ」
頼もしいんだかわからない返事だった。でも、虫は気持ち悪い。何かあったら頼る以外ない。
「フランスでカタツムリ食ったか?」
「え? ええ……」
このタイミングで聞かれると何が複雑だった。
「玉緒さんと春に行ったんだろう?」
「はい。エッフェル塔を見たりシャンゼリゼを歩いたりしましたよ。エスカルゴ以外にもフォアグラとかなんだかよくわからないけど、おいしいもの沢山食べました」
「親子水入らず、いい時間が過ごせたんだな」
「はい。おじいちゃんは留守番でしたけど」
バルセロナ五輪の48kg以下級決勝戦の後、柔のもとに虎滋郎が姿を現した。17年ぶりの再会は思いがけないものだった。その時に、家族三人でカタツムリを食べようと虎滋郎と約束をしたのだ。
「松田さんはご実家に帰ってますか?」
「俺は日本にいたころは取材で山形に行けば顔を出してたけど、正月も特には帰省しないしな。一昨年に帰ったきりかな」
「そんなに帰ってないんですか?」
「息子ってのはこんなもんだろう。仕事もあるし、別に用事もないのに帰らないよ。結婚でもして子供がいれば別だろうけど」
いつか柔を連れて行けたらと、そんな風に思うことはある。きっとまだ先の話になりそうだが。
「ところで柔さん」
「はい?」
「君の体に虫がいるけどそれは平気なのかい?」
柔の体はまるで石のように固まる。そして視線を向けると、そこには足が長くて細い謎の虫が這っていた。
「きゃー!!」
柔は起き上がると思わず耕作の上に乗ってしまう。
「取ってください! こんな気持ち悪いの早く取ってください!」
「落ち着け。動くなよ」
胸元にいる虫を耕作は慎重につまむとポイっと放った。
「はー、よかっ……」
安心していると、視線の下にいる耕作と目が合う。そしてまた体が固まる。
「あの……ごめんなさい。つい、思わずこんなところに」
「いや、仕方ないよ。怖かったんだろう」
「でも……」
「二人とも、こんなとこにいただわさ」
ジョディの声が突如聞こえた。柔は耕作から離れたが、ジョディは見逃していなかった。
「お邪魔だっただわね」
「そんなこと……」
「離れ離れの二人。距離詰めるのここしかないね」
「そんなんじゃないってば」
「ランニングに行ってここで受け身の練習してたんだよな」
「そんな風には見えなかっただわね」
「休憩してたのよ。そしたら虫があたしの体を這ってきて。それで怖くて」
「虫? それってマツダのて……」
「ジョディ! そこらへんにしてくれよ。柔さん困ってるだろう」
「ごめんヤワラ」
「いいの。大丈夫。何も言わずに出かけたあたしも悪いし」
二人は立ち上がると砂を払った。
「ジョディはあたしたちを探しに来てくれたの?」
「そうね。朝ご飯出来てるだわさ。早く来るね」
ロッジに戻る途中、ふと湖を見るともう霧は残っていなかった。
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vol.7 ボートに揺れて
朝食の後、昨日約束したボートに乗るために湖畔へ向かう。木製のボートにオールが2つ。桟橋に括り付けられたロープの先でボートは揺れている。
「いってらっしゃいだわね」
「いってきまーす」
ギーギー音を出しながらオールを漕ぐ耕作。波がほとんどない湖では操作は容易だ。湖の中央辺りに行くと漕ぐのをやめた。
「やっぱり疲れるな。ボート漕ぐなんて何年振りだろう」
「お疲れ様です。見てください松田さん! 綺麗な景色!」
見上げると、鮮やかな緑色した木々に囲まれ、遠くには山もある。水の透明度は限りなく高く、水が青く見える。
「おおーカナダっぽいな」
「カナダですから」
柔は湖に手を少しつけたり、空を仰いだりしていたがあまりに静かで心地よくて、話すことも忘れてただ耕作と二人きりのこの空間を漂っていた。
「今、この世界に俺たちしかいないみたいだな」
「そうですね。静かで穏やかで……」
小さな鳥が水面に近寄ると、鮮やかに小魚を咥えて飛び立った。木々の間には動物の気配がしていて、小枝が折れる音や葉が揺れる様子も見てとれた。人の声や人工物の音がない世界で二人はただぼんやりしていた。
暫くして大きな雲で太陽が隠れ、二人がいる場所も影となった。思わず見上げると、濃い青空に白い雲がふわりと浮かんでいた。
「昨日の星空綺麗でしたね」
「ああ、さすがカナダだな」
「もしかして松田さんってあんな星空見たことありました?」
「ん? そうだな。実は山形の田舎では見れたんだよ。だからいつか柔さんにも見せたいなって思ってたんだけど、ジョディに先を越された」
「そんな! ここと山形とではきっと違いますよ」
耕作は気づいてないが、柔は耕作が自分を実家のある山形に連れていきたいと考えていることに喜びを感じた。
「そうかな。星は星だぞ。カナダでも山形でも同じさ」
またしばしの沈黙。柔は心の中で耕作の言葉が反芻された。
――星は星だぞ。同じさ。
「夜に暗いことなんて当たり前なのに、東京は明るすぎて星って見えないんですよね。強い光のものだけが少し見えるくらいで……」
「スピカやシリウスって言われる一等星は見えるよな」
「あたしはその星と似ていますか?」
「どうしたんだ、急に?」
「よくみんなが言うじゃないですか。スーパースターだって。あたしは東京でも見える星みたいな存在なのかなって」
「もちろんそうさ。みんなが憧れ、目標にする星さ。どんなに地上が明るくても決してその輝きは消えない。そう言う星は、本当に特別さ。一等星は21個しかないんだから」
耕作は熱く語る。天才と呼ばれる人は普通とは違う光を放つ。その光をより多くの人に伝えるのが記者たる自分の仕事だとも思っている。
「でも、昨日は沢山の星が見えました。一等星の隣にも沢山の星が。その全てがあたしはそれぞれ個人の光る才能だと思いました」
「それは暗かったから見えたんだ。明るいところでも見えることが重要だと俺は思う」
「でも夜が暗いのが本来の夜空ですよね。邪魔するものがなければ、人は誰しも空に輝く星なんです。あたしはそう感じました」
一等星の横で光る無数の星。その数の多さに、柔はどういうわけか賑やかさを感じた。東京の星は寂しい。でも、この静かで暗い夜空はとても賑やかなのだ。
「松田さんも文章を書いて思いを伝える才能があります。邦子さんにはカメラが。お母さんには料理や家事。みんな何か持っているんです」
「俺は君とは違うんだ。凡人で特別じゃない。俺くらいの記者はごまんといる」
「でもさっき言いましたよね。星は星、どこで見ても同じだって。それは星に差がないって言ってるようなものですよね」
「それは見上げる星のことで、比喩としての星じゃ……」
「あたしは都会の空で輝く星よりもここみたいにみんなが輝く中で見つけて貰いたいです。その人にだけでもあたしが特別に輝いて見えればいいんです」
普通でありたい。ただ大切な人の特別であればそれでいい。
――あたしはそう言う人をもう見つけたわ
耕作は寂しげに水面を見つめる柔を見つめる事しか出来なかった。ここまで言わせて耕作はやっと柔の真意を理解した。頭では分かっていたことだ。柔は柔道をしてないときは普通の女性であること。それでも特別扱いしてしまうことがある。それは自分のプライドのせいだ。NYに行く前から彼女は特別だと言い聞かせることで、踏みとどまることが出来る。それがまだ続いているのだ。恋人になった今も、一歩踏み出せないのはそうやって特別視しているからだ。
「柔さ……」
「おーい、二人ともいつまでそこにいるね!? ランチの時間だわさ」
ジョディの声が湖の岸で聞こえる。静かなのでよく聞こえた。
「ジョディが呼んでる。行きましょう」
耕作は柔に声を掛けられないままボートを漕ぐ。重い空気がボートを沈めそうで早く岸にたどり着きたかった。だが情けない自分をこのまま湖に沈めてやりたいような気持ちにもなった。
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地上のダークマター
vol.1 トロントでパンケーキ
「随分長いこと漂っていただわさ。寝てたのか?」
「そんなわけないじゃない。湖の上って本当に静かで心が落ち着くわ」
「楽しんだならいいだわさ」
ランチは軽くとジョディは言ったが、実際はとても量の多いランチとなった。お腹いっぱいで洗い物も出来ないでいると、ジョディが元気よく言った。
「二人とも荷物をまとめるね。トロントに戻るだわさ」
「え? 今から?」
今日もここで一泊するとばかり思っていた二人は、ジョディの急な話に困惑しつつも荷物をまとめた。そしてルネが運転する車に再び乗りこみトロントに向けて走りだした。
「デザートはトロントで食べるね。美味しいもの沢山ある」
「まだ食べるの?」
「まだまだね。ちょっと観光もするといいね」
再びトロントまで戻ってまずはジョディの自宅に荷物を降ろした。そして柔は帽子をかぶって軽く変装してトロントの街に繰り出した。
「マツダ、元気ないね。楽しくないか?」
「そんなことないさ。考え事してただけ」
「そんなの後にするね。ヤワラがいる時はヤワラのこと考えるね」
ジョディの言葉にハッとする。そうだ、貴重な時間を無駄にするわけにはいかない。
「ありがとう、ジョディ」
「がんばるね! マツダ」
親指を立てて応援するジョディ。耕作もこたえる。
「うわー大きいー」
柔は思い切り体を反らして見上げた。あまりに見上げたためにちょっと足元がぐらついた。
「おっと、気をつけろよ」
耕作が後ろから柔を支えた。
「あ、すみません……」
「前にもそうやって見上げてたな」
「自由の女神ですね。もっと高いです。東京タワーよりも高いですね。これ……」
「CNタワーだよ。世界一高いらしいよ」
「あの、松田さん……」
「どうした?」
「手、大丈夫ですか?」
「怪我してないぞ」
「違います。つないだままでいいんですか? ここにはまだ記者の人がいるかもしれないですよ」
「大丈夫さ。カナダの記者はジョディたちには気づいても俺たちには気づかないよ」
「それならいいんですけど……」
「嫌なら、離すけど」
「嫌じゃないです!」
柔は手を離さなかった。大きな耕作の手に柔の小さな手はすっぽり収まってしまう。力を入れたら壊れてしまいそうなほど、柔らかくて小さい。
「タワーには後でのぼるだわね。甘いもの食べにいくだわさ」
さすがにジョディもトロントでは帽子をかぶっている。真夏なので多くの人が帽子をかぶっているので違和感はない。ただ体の大きな夫婦が歩いているのは目立つのではと思ったが、ここはカナダ。そういうカップルは案外いる。
ジョディが案内したのはパンケーキのお店。メープルシロップの産地なだけあってパンケーキも大人気のようだった。ジョディはおすすめがあるからとメニューも見せずに注文した。ワクワクとドキドキの中運ばれてきたのは、とんでもなく大きなものと薄くて小さいのが何層にも重なったもの、そしてクリームとフルーツがどっさり乗ったパンケーキだった。
「どれも美味しいね。好きなの食べるといいね。それともシェアするね?」
「そうね、どれも試してみたいわ」
一人で食べきる自信は全くない。まだランチがお腹に残っている。層になったパンケーキにはバターとたっぷりのメープルシロップがかけてあり、バターの塩気と合ってとても美味しい。他のパンケーキもそれぞれ特徴があり、美味しいのだが甘さが限界値を越えすぎてて進んで行かない。
「二人とも小食ね」
「ジョディ、日本人はこんなに食べないわ」
「そうだぞ。それに日本のデザートはこんなに甘くない」
まだ半分近く残っている。頑張って食べてはいるが、とにかく減らないのだ。
「私、食べてもいいだわさ?」
柔と耕作はどうぞどうぞという仕草を取り、ジョディはエンジンがかかったかのように食べ始める。その様子は日本にいる滋悟郎を思い出させる。ルネも若干引き気味で見ているがそれは甘いものが苦手なのだからだろう。
パンケーキの店を出てからは買い物タイムに入り。柔は一生懸命お土産を選んでいるようだった。耕作もカナダへは初めて来るし、モーリスたちにも何か買って行こうかと思い物色し始める。その間にも柔はカメラで記念写真を撮り、思い出を残して行った。もちろんCNタワーを入れて耕作とのツーショットも撮っていた。
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vol.2 地上の星とダークマター
楽しい時間は速く過ぎて結構な時間が経っているのに気づかなかった。柔も耕作もカナダの夜が明るい事に全然慣れない。
「もう、7時だわね。ディナーの時間ね」
「え? もうそんな時間なの?」
「そうだわさ。CNタワーでディナーよ」
「ええー! あの上?」
「そうだわさ。レッツゴー!」
いつの間にか予約してあったようで、タワーに上るのもスムーズだった。レストランは円を描いたような360°窓があり、景色がどこからでも楽しめた。
テーブルに案内されて着席した。コース料理はあらかじめ予約してあったので、お酒だけ注文し乾杯した。
カナダの有名人であるジョディが来ていることを周りも気づいているようだったが、騒いだり話しかけに来ることもなく穏やかにディナーは進んだ。
美しい夕焼けから夜へと変わり、トロントの街は光輝く。高いところから見る夜景はとても美しい。それにこのレストランは床が回転しているのでいつも景色が違う。それも魅力の一つだ。
「マツダ、どうした?元気がないようだが?」
ルネが心配そうに聞く。耕作はぼんやり窓の外を眺めているようだった。
「東京でもNYでもこんなにゆっくり夜景って見たことなかったなって」
「高いところは苦手かい?」
「そんなことないさ。ただいつも俺は地上を走りまわってる。あの光の隙間を走っているんだなーって思って」
「マツダは自虐的だな。知ってるか、宇宙にはダークマターって言う未知の物質があるんだ」
「ダークマター?そりゃまたとんでもない名前が付いたもんだ」
「そうさ。でも悪いことをしようとしてるわけじゃない。いや、何もわからないというのが正しいな」
「何もわからない?」
「宇宙にあるとされる物質さ。銀河を保つ上で必要な重力を持っているが、光を吸収することも反射することもなく観測も出来ない。でも、そこに存在し必要な物質」
「詳しいな。天文学でも学んでたのか?」
「いやいや、友人がよく話すんだ。受け売りだよ」
耕作は地上を見下ろす。夜景の間の暗い部分。星のように光るライト達の隙間には自分と同じような人がいる。その人たちはここからでは見えないし存在もわからないけど、必要な人だ。この世界を保つために必要な人たちだ。いらない人なんかいやしない。
「松田さん?」
「トロントの街が星空みたいだなって思って」
「本当だわ。地上の星ね」
「そうだ、地上の星だ」
――これなら俺にもなれるかもしれない。
ディナーを終えて、四人はジョディの自宅に向かった。ほろ酔い気分でジョディのマンションに入ると、リビングには体の大きな二人がくつろげるほどのソファがありベランダに続く窓は広く開放的だ。ここにもゲストルームは1つあり、今夜も柔とジョディは同じ部屋だ。柔の荷物を運び入れゲストルームの窓を開ける。気持ちいい風が通った。
「すごいわ、ジョディ。こんな広いところに住んでるの? それに夜景も綺麗よ」
「そうね。トレーニングするのにここが最適。安く住める」
「羨ましいわ。うるさいおじいちゃんもいないし……ルネともいつも一緒だし」
「オー、ヤワラもいつかマツダと一緒に住めばいいだわさ」
「な! 何言ってるの? 松田さんに聞かれたらどうするの?」
「どうもしないだわさ。気になるな……」
「柔さん、ジョディ、ちょっといいか?」
突然の耕作の声に柔は飛びあがる。ジョディはにんまりとしているが、耕作の表情は硬いものだった。
「どうしたね、マツダ? そんなおかしな顔して」
「おかしい顔は否定しないが。ちょっと相談があるんだ」
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vol.3 松田の夢
長方形の大きなテーブルには4つ椅子があり4人はそれぞれ座った。ルネがコーヒーを淹れてくれていたので、ゆっくり話が出来そうだ。
「実はルネには昨日の夜に相談したんだ。だからこれから話すことは知ってるからジョディは無理に通訳しなくても大丈夫」
「OK。必要なら通訳するね」
「すまない」
耕作は不安そうにしている柔を見つめる。
「俺は記者だ。記事を書くことしか出来ない。その中で柔さんのことは誰よりも取材してきたし、誰よりもそばで見て来たからきっとよくわかってると思ってる。もちろん全部じゃないが」
柔は静かに聞いている。
「NYに行ってからちょっとずつ書いていたものがある。柔さんのことをまとめた記事と言うか記録があって、それを本にしたいと考えてる」
「本ですか? 新聞に載せるのではなく?」
「そう。1冊のノンフィクションの書籍として世に出したいと思ってる」
「なぜですか?」
「理由はいくつかある。まず、NYで出会った人は俺が日本人だと知ると、君のことを聞いてくる。『ヤワラ・イノクマを知っているか?』と。そして彼らは君のことを魔術師か何かだと思っているようで、どんなことをして自分の倍はありそうな人間を投げられるのかと問うんだ。俺はその質問の度に柔道とは何かと言うことを説明する。柔さんがどれだけの稽古をしてきたのかを。でも、彼らは理解しない。力以外で人を投げることなどありえないと思っているから」
「だったら柔道を教えたらいいだわさ」
「そうだな。でも、彼らは柔道をしたいわけでも知りたいわけでもない。ただ『ヤワラ・イノクマ』という小柄な女性がどんなことをしてあんな技を出せるのか、そしてそこに至るストーリーを知りたいんだと思う。柔さんのプライベートなことは海外では報道されない。日本国内でも興味本位な記事は出るが、それが真実かどうかはあやふやで日本人でさえも知らないことが多い」
「あたし、あまり話しませんからね」
滋悟郎が前に出て話すので柔は相槌を打つか、当たり障りのないことくらいしか言わない。インタビューもあまり答えない。これは柔の性分かもしれない。自分のことを語るのは苦手なのだ。
「それで俺は柔さんが国民栄誉賞を取ったのをいい区切りと思って、出会った時から受賞までをまとめたんだ」
それ以外にも、恋人同士となって別の一面が見える前に記者と選手と言う関係であったころのことをまとめたいと思った。特別な感情が文章に滲み出る前に。
「俺が知っている柔さんの苦悩や葛藤、喜びや怒りなんかを残しておきたくて最初は本当に趣味みたいなもので、誰かに見せようとは思ってなかったんだ。でも、書いてるうちに勿体ないなと思った。柔さんのことを普通の人じゃない選ばれた特別な人だと思ってる人は多い。俺だって未だにそう思う。でも、だからと言って何も考えずに、悩まずに柔道してきたわけじゃないってことを知ってもらいたかった。テレビの向こう側にいる別世界の人ではなくて、同じ世界にいる同じ人間なんだってことを」
柔は何も言わない。悩んでいるのか怒っているのかさえ不明な表情。
「ヤワラを利用する気だわね。本を売ってお金稼ぐつもり」
ジョディの強い言葉に柔は直ぐに否定しようとした。そんなことじゃない、と。
「そうだ。俺はいつも柔さんを利用してる。自分が書きたい記事のために嫌がる彼女に柔道をさせた。俺はそれを分かっていたし、卑怯だと思っていた。それでも俺は俺の夢のために、きれいごとを並べては柔さんを説得して柔道をさせた。俺は酷い男だ。自覚している」
「マツダ! 見損なったね。あんなに応援してたのも、ユーゴスラビアまで駆け付けたのも、全部、記事が書きたいからだわね? 夢のためだわね?」
「そうだ。その通りだ。今回の本のこともそう捉えて貰っても構わない。でも、俺は柔さんを傷つけたいわけじゃない。だから……」
「……う……そんなの……」
「ヤワラ?」
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vol.4 メダリストとお金
「……う……そんなの……」
「ヤワラ?」
「どうしてそんな言い方するんですか?」
柔の声は震えていた。
「松田さんが記事のためにあたしを追いかけていたことなんてわかっていました。それで何度もあたしはがっかりしましたから。でも、松田さんが自分の夢のためというのなら、何であたしが嫌がるような記事は書かないんですか? スター性がなくなるからですか? 違いますよね。あたしのことを思ってくれたんですよね。記事だってとてもいい記事でした。人に勇気を与えるような記事です。それだって自分の夢だけで書けるものじゃないと思うんです」
「でも、俺はいつも無理矢理君に柔道を……」
「思い出してください。デビュー戦の時、松田さんあたしに言ったんですよ。『わざと負けるんだ』って。あたしの境遇や思いを知ってそんなこと言ってくれたじゃないですか。もしあの時、ああ言ってくれなかったらあたしは松田さんを信用することはなかったです。記者として仕事を放棄しても、自分の夢を捨ててもそう言った松田さんをあたしは信じてますから」
耕作が敢て自分のすることを美化せず、わざと責められるように言ったのかを柔は理解していた。断る口実を与えたのだ。柔は今朝、耕作の背中を押した。その事もあって言い出したのだが、もし書籍化なんてことを嫌だと思っていても断りにくくなってしまう。汚い部分も知って貰うことで決断して欲しかったということを柔は分かっていた。
「あたしのこと、本にしてください」
「いいのかい? 虎滋郎さんのことも書くことになる。それでも構わないのか?」
「あたしに出さないでって言って欲しいんですか? でも、あたしは言いませんよ。それに日本では何度もあたしのことを本にしたいって言う依頼があったんです。子供向けの本は許可しましたが、大人が読む伝記のようなものはお断りしていました」
「どうして?」
「あたしのことを一番分かっている人がいるのに、その人は文章も書けるのに他の誰かに書いてもらう理由がないじゃないですか」
「はなから俺に期待してたのか?」
「期待と言うか、書きたいと言われれば断らないということです。松田さん以外の人にはあたしのことを書く権利はありませんよ」
にこりと笑う柔に耕作は赤面して俯く。
「なんだ心配したね。ヤワラはマツダの思いをしっかり理解してたんだわね」
「ジョディこそ、急にあんなこと言うから驚いたわ。松田さんと口裏でも合わせていたの?」
「NO! マツダ関係ない。ルネに聞いたね。もしそう言う話出たら、ヤワラ断れない。でも、後悔して欲しくないから悪いこと言った。マツダ、ごめん」
「いや、助かったよ。ジョディも色々あったんだろう。ルネが守ってくれてるみたいだけど」
「そうね。だから言ったね。ヤワラはもっと自分を理解しないとダメね。自分がどれだけの価値があって、お金が動くということを」
「そんなことは……」
「メダリストにはいろんな人が近寄ってくる。いい人も悪い人も。ヤワラの周りみんないい人。それは奇跡だわね。利用しようとする人、大勢やってくる。利用されてお金を取られることもある。信用してた人も裏切る。気を付けないとダメね」
「ジョディの言うことは正しい。日本で君の本を書きたいと言った人は、心から柔道を理解し柔さんのことを知りたいと思った人かわからない。でも、確実にお金になるから話を持ってきた可能性はある。少しでも疑ったりしたかい?」
書籍のことに関しては疑ってもいなかった。メダリストや国民栄誉賞をいただいた責任からインタビューには答えていて、雑誌や新聞に載ることはあった。その流れで頼まれては断っていたのだ。裏でお金が動くことを考えもしなかった。
「あたし、警戒心薄いのかしら?」
「そう思うよ。俺は滋悟郎さんがいてくれて安心してるんだ。鼻がきくからな、柔さんにとって不利益になりそうなことは避けてくれる」
「そうかしら?」
「柔道以外と付け足しておくか。でも、実際君に知られる前に処理してくれたものは多いと思うぞ」
耕作はその筆頭に「風祭」のことを考えていた。滋悟郎が程よく圧力をかけていたことで、あの女たらしの風祭が柔には手を出さずにいたのだ。それこそ奇跡に近い。だが、不意に思う。風祭は本当に柔に手を出していないのだろうか……。
変な妄想を振り払い、耕作はバッグから茶封筒を取り出した。
「それは?」
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vol.5 トロント最後の夜
「それは?」
「これが原稿さ。言っただろう、書いてるって」
「結構な量ですね」
「書きたいことが多くてね。でも、もっとまとめていくつもりさ。それに、柔さんのことを書くけど、他の人にも許可取らないといけないからね」
「許可?」
「勝手に書いて後から文句付けられたくないからね。それに本の出版はアメリカでする。これを英語に書き直して、出版するんだ」
「アメリカ、訴訟大国ね。変なこと書くとすぐ訴えられる。用心するのはいいことだわね」
「でも、誰に許可を取るんですか? 結構沢山の人と関わってますけど」
「そりゃ、最初は君さ。出版の許可は貰ったけどまだ内容に関しては許可貰ってないから下書きが出来たら読んでもらうよ。書いて欲しくないところや事実と違うところは訂正して欲しい。それから本阿弥さやかやジョディだろう、富士子さんに花園。そして柔さんの家族さ」
一番難しいのはここかも知れない。家族内のことを世間に知られるのは誰だって抵抗がある。しかし柔の柔道人生を書く上で、父親のことは外せない。
「既に公表されている事実は許可は無くても書けるけど、個人的な事情や感情が挟むことには一応許可を貰っておきたい」
「私はマツダが書くものなら信用してるからいいだわね。時間もったいない。他の人のところいくだわね」
「じゃあ、後で簡単にインタビューさせて欲しい。聞きたいことは沢山あるんだ」
「OK!」
「あたしの家族からはあたしが許可を貰いましょうか?」
「いや、そこは俺が行くよ。滋悟郎さんと虎滋郎さんは今度の世界選手権には行くだろう? ハミルトンであるから俺も取材に行くことになったんだ。その時に時間貰って話をしようかと」
「あの、その事なんですけど」
「どうした?」
「あたし、世界選手権出られないかもしれなくて……」
思わぬ言葉にジョディとルネは息を飲む。出られない理由がわからない。だが耕作はその理由に心当たりがある。
「体重別か……」
「はい……」
「どういうことだわね?」
「柔さんは体重別選手権に出場しなかった。それは世界選手権の出場をかけた試合だったんだ。それに出ないってことは選考から漏れていても不思議じゃない」
「ヤワラが強くてもか?」
「そうだ。でも、まだ望みはある。無差別級の選手として選ばれる可能性は十分にある。全日本に優勝してるからな。それに、富士子さんは強化選手として行って出場した経験もあるし」
「あの時は富士子さんも体重別に出てましたからね。今回のケースとは違いますよ」
「でも、こんな重要な試合なのにどうして滋悟郎さんは柔さんが出ないことを許したんだ?」
「わかりません。出たくないなって言ったらあっさり『よかろう』って」
「思惑があるのか、ただ単に」
「ボケたのかしら?」
「そんなわけ……」
滋悟郎がボケる姿を誰も想像が出来ない。きっと何か理由があるのだろうが、誰にもその理由はわからない。
「マツダ! 明日はNYに戻るのだわね?」
「その予定だけど……」
耕作はまだNYの観光地に柔を連れて行くことに抵抗があった。爆破テロがあってから警戒態勢は強化されているが、いつ何が起こるとも限らない。出来るだけ人の多い観光地には柔を近付けたくないのだが、いつまでもカナダにいるというわけにもいかない。
「ナイアガラの滝は見ただわね?」
二人は首を横に振る。ナイアガラはカナダとアメリカの国境となる滝で、その迫力と美しさはよくテレビでも取り上げられるほどだ。
「オーそれは勿体ない。トロントからNYに向かう列車があるね。それに乗ればナイアガラの滝見れる」
「へーそれはどのくらいの時間が掛かるんだ?」
「12時間くらいだわさ」
「12時間!」
飛行機で行けば1時間半から2時間。列車だとそんなにかかるのだ。
「松田さん、どうしますか? あたしの方は大丈夫ですけど、お仕事は……」
「俺は明日いっぱいまで休みで、仕事は明後日からだから別にどちらでも構わないよ」
「お仕事はNYですか?」
「いや、イリノイ州へ行くよ」
「そーですか……じゃあ、列車で戻りたいです」
「じゃあ、って何?」
「気にしないでください。あたしの都合です」
「そう……」
「決まったね? じゃあ、さっさと片付けて寝るね」
「まだ早いわよ」
「朝の8時には駅に行く。早起きだわさ」
時刻は午後10時。荷物をまとめたり、シャワーを浴びたりしたら直ぐに日付をまたぎそうだ。柔は手際よく準備をしてもう寝るだけの状態となった。
「ジョディそろそろ……」
リビングでは耕作がジョディに取材しているようだった。柔のことを話しているのは明白だから、割って入るのも気が引けそのままベッドに入った。少し寂しい気もしたが、耕作を応援したいという気持ちは本当で、そのためには我慢することもあることは覚悟の上だ。胸がモヤモヤとしつつも、トロント観光で疲れた体はベッドの心地よさに吸い込まれ気づいたときには朝を迎えていた。
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vol.6 ユニオン駅へ
「ヤワラー! 起きるだわさ!」
「んージョディ、おはよう」
窓の外は青い空。気持ちのいい朝だ。身支度を整えて、リビングに行くとソファの上に横になっている耕作の姿があった。柔は足音を立てずに近づいて、じっとその顔を見ていた。こんなに近くで顔を見るのは、去年のロックフェラーのクリスマスツリーを見に行ったあの時以来だ。そう、あの時はその後……。
「そんなに見ても何も出ないぞ」
突然そんなこと言うから柔は後ろにのけ反って尻餅をついた。
「起きて……」
耕作は起き上がると、あくびをして体を伸ばした。
「今起きた。柔さんがいるような気がした」
赤面している柔は耕作の顔がまともに見れなくて、洗面台の方へ逃げて行った。
「マツダ、テーブルの上、片づけるだわね」
「あーすぐやる」
テーブルの上にはノートやメモが広げられていて、食事を出来るような感じじゃない。昨日はジョディとルネに取材をして、その後文章をまとめていた。眠ろうと思っても書きたくて、眠れない。ならいっそ書き上げてしまえばと思っていたが、さすがに体は休息を望みソファに横になった途端、意識を失った。
目が覚めた時も、窓からの光が眩しそうで瞼を開けられなかった。扉が開く音がして歩く気配が近寄って来た。ふわりと香る甘い匂い。柔だということは直ぐに分かっていたが、目を開けられなかった。また眩しくて目を閉ざしてしまいそうだったから。
ユニオン駅はCNタワーからもほど近い歴史を感じる美しい駅舎だ。特に内部は映画に出てくるような装飾で見て歩くだけでも心が躍る。しかしそんな時間は二人にはなかった。
「松田さん、早く!」
「ちょっと、待ってくれよ」
時刻は午前8時を過ぎている。列車の発車まであと数分。柔は焦っていた。しかし無情にも列車は出発し二人はただ取り残された。
「間に合わなかっただわね」
ジョディの声がして顔を上げられない二人。幸いにもチケットを買う前に時間切れとなったので無駄にならずにはすんだが、ナイアガラの滝が見れないことは二人とも残念だった。
「飛行機でNYに戻ろう。それがいい」
「そうですね」
姿を消していたルネが戻って来て、二人に満面の笑みを見せる。そしてジョディとこそこそ話した後、ジョディもわかりやすく喜んだ。
「二人ともナイアガラの滝見にいくだわさ」
「いや、もう無理でしょ。列車も行っちゃったし」
「そんなことないだわさ。ナイアガラの滝までここから車で1時間半から2時間。一緒に行くだわさ」
「え! そんな悪いわ」
「そうだ、もう二日も世話になっててそこまでしてもらわなくても……」
「遠慮はいけないね。二人がカナダに来る滅多にないだわさ。私たちも嬉しい」
「でも、ジョディもルネも予定があるでしょ」
二人は顔を見合わせる。そして……
「予定はないだわさ。気にすることない」
「どうしますか?」
「俺は正直、ナイアガラの滝見たいけどな」
「あたしも!」
「決まりだわね!」
とんだアクシデントで4人でナイアガラの滝を見に行くこととなった。柔もどうせなら皆で行った方が楽しいだろうと思った。車はスムーズに進み予定通り、10時半ごろにはナイアガラの滝に到着した。車は駐車場に停めて、4人は徒歩でナイアガラの滝に向かう。
すると想像とは違う景色に柔も耕作も思わず声が出る。
「なんか遊園地みたいですね」
「ああ。なんか自然の中に滝があるだけって勝手に思ってたけど……」
「せっかく人が集まる滝があるのに、何も作らないのおかしいだわね」
「それもそうか」
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vol.7 ナイアガラの滝
ナイアガラ・フォールズはテーマパークのような活気に満ち、お店やアトラクションが立ち並んでいる。街を歩く観光客は飲み物や食べ物を片手に楽しげな表情を見せる。
「それにしても暑いな」
「滝の近くなのに涼しくないですね」
「柔さん、大丈夫? 具合悪くなってない?」
「大丈夫ですよ。体力だけはありますから」
「そうだったな……」
4人は楽しく話ながら街を進むと突然、轟音と共に開けた場所に出てナイアガラの滝が目の前に広がる。2つある滝からは煙のように水しぶきが上がり、その規模の大きさが目で見て伺える。
「いつ見ても大きいだわね。左のがアメリカ滝、右のがカナダ滝。ここ国境」
ジョディの冷静な言葉に反応できないほど二人は言葉も出ない。
「テーブルロックに行くだわね」
ルネとジョディは慣れた様子で歩き出す。二人もそれに付いていくが次第に大きくなる滝の音に柔は思わず耕作のシャツの裾を握る。
「どうした?」
「なんだか怖くて……」
俯き加減でそう言う柔に耕作は裾にあった手を握る。
「俺もだよ」
そう言いながらも笑顔を見せる耕作に柔の恐怖心は薄くなる。力強い手が安心感を与えるのだ。
「二人とも何してるだわね。さっさと行くね」
すたすたと歩くジョディを二人は手を繋いで追う。すると霧のような水しぶきで辺りが白くなり、目の前には見たこともない量の水が流れ落ちている。その迫力と轟音たるやまたしても二人の度肝を抜く。
「今日はいい天気。見るだわさ」
ジョディの指差す向こうには綺麗な半円の虹が浮かんでいる。まるで雲の隙間にあるように見えるその虹に一羽の鳥が潜り抜ける。
「すごいわ! なんて景色なの! ねえ、松田さん」
「ああ、さすがというか規模が日本とは違う」
「二人とも記念撮影するだわね」
柵が思いの外低く背を向けるのが怖いくらいだが、二人は寄り添って笑顔をカメラに向けた。ジョディは渾身の出来栄えと言うが、見れるのは日本に帰ってからだ。しばらく滝を無心で見続けていた柔と耕作だが、ルネが声を掛けて来て現実に戻ってきた。
「さあ、探検の始まりだ」
ルネに案内されてテーブルロックにある建物に入ると、そこには受付があって少しだが人が並んでいた。
「今なら空いてるから行くだわね。私たち前に行った。二人で行くね」
よくわからないまま受付を済ませてチケットを受け取ると、奥に進んで黄色いビニールを貰う。説明ではこれはレインコートだという。とにかく周りに従って二人もレインコートを着てエレベーターで下に降りる。扉の先には薄暗いトンネルがあり進んでいくと、バルコニーがあったが物凄い水しぶきで前が見えないほどだ。
「ここまさか、滝の横ですか?」
大きな声で柔が言うと、耕作もそれに大声で答える。
「そうらしい。しかし、雨みたいに降ってくるな」
カッパはすぐにびしょびしょで意味があるのかないのかわからない。風も強くて音も大きい。長くいられるような場所ではなさそうだ。案内板もあったが顔にあたる水しぶきが痛くて見ていられないと、耕作は早々にギブアップした。
柔は何かに吸い寄せられるように滝を見上げている。ただ水が落ちてくるその光景を見続けている。顔はもう水で濡れているが気にならないのか呆然と見上げている。その姿を耕作は思わず写真に撮った。背景には青い空と虹、そして霧と滝。不思議な一枚となった。
観光客の団体が入って来て柔は我に返ったのか振り返ると、耕作の元に戻ってきた。
「そろそろ行きますか?」
「随分見ていたけど、何か思うことでも?」
二人はバルコニーから別の道に進んでいた。水で濡れて滑りやすい道はここも薄暗い。
「自然ってこんなにも大きいんだって思ったんです。日本にいるとあまり感じないじゃないですか」
「それは、柔さんが東京生まれで東京育ちだからかもな。俺は山形だろう。毎年降る雪は本当に厄介で雪の壁が出来るほどだったよ。それに蔵王山の樹氷はまるで雪男のようで気味悪いと子供の頃に思ったな」
「樹氷ってなんですか?」
「木に水蒸気がくっついて凍ったものだよ。冬の間にどんどん大きくなるんだ。大きな不格好な雪だるまみたいなものだよ」
「そんなものがあるんですね。あたし、本当に何も知らなくて……」
「別にそれが普通じゃないのか。俺の知らないことを柔さんが知ってることもある。二人が知らないことは一緒に知ればいいじゃないか。ナイアガラの凄さは二人で体験できただろう」
「はい!」
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vol.8 ジョディとルネとのお別れ
二人は歩みを止める。その先には穴があいていて、ただ真っ白で何もわからない。耕作は聞き耳を立ててここが何だかわかった。
「滝の裏側だって」
「ここが? 何かさっきより迫力ないですね」
「そうだな」
二人は思わず笑い出す。拍子抜けもいいとこだ。
「実際来てみないと分からないことってあるよな」
「ええ、一番滝に近いのに一番迫力がないなんて」
「でも、来てよかったな」
「はい!」
二人は手を繋いで地上に戻った。するとジョディが待っていてくれて、水で濡れた二人にタオルを渡してくれた。
「楽しかっただわね?」
「ええ、とっても。ありがとうジョディ、ルネ」
「いい経験になったよ」
「喜んでくれたなら来たかいがあったってもんさ」
ルネが白い歯を見せて笑う。二人も笑顔を返す。
滝から少し離れてまた暑い日差しが照りつけ、濡れた髪もすぐに乾きそうで安心したのもつかの間、楽しかったカナダ旅行もそろそろ終わりを迎える頃だ。
一旦車に戻ってアメリカに繋がる橋、レインボーブリッジまで四人で向かった。駐車場に車を停めて四人でとる最後の食事をして別れの時が来た。
「三日間ありがとう。ジョディの引退だったのにあたしたちの観光のお世話してもらって本当に……」
「ありがとうは私が言うことね。三日間とても楽しかった。でもヤワラと会ったこの六年、私の柔道とても楽しかった。本当に、楽しかった」
ジョディの目には涙が溢れていた。
「あたしも本当に楽しかった。ジョディと試合出来たこと、一緒に稽古したことも全部全部。ジョディがいなかったらあたし……」
「ヤワラ! 負けちゃダメね」
「え?」
「柔道もだけど、心に負けちゃダメね。心は自分。自分に負けるのは楽すること。その先には何もないだわね」
「ジョディ……」
「マツダ!」
「はい!」
ジョディの大きな声に思わず背筋が伸びる。
「ヤワラを泣かせたら許さないね」
「もう泣かせたりしないよ。前にも約束したろう」
「覚えていたんだな!」
ルネが耕作に言った。
「もちろんだよ。でも俺はあの後も柔さんを泣かせてばかりだったけど」
「でも、今は幸せそうだ。それもマツダがしたことだ」
「そうかな」
「そうさ。だから支えてやるんだ」
「そのつもりさ」
二人はがっちり握手をした。
「二人で何話してるの?」
柔は男同士の話に割って入ってきたが、内容はわからないようだった。
「これは俺たちの約束だから」
「ふーん」
車から荷物を降ろして柔と耕作は、もう一度二人に別れを告げて橋の入口にある建物に入る。そして橋を渡るための支払いをして外に出ると、コンクリート製の橋が伸びていて滝を右側にして歩く。五分ほど歩くと国境がありブロンズのプレートが張り付けてある。
「ここが国境らしいぞ」
「ここが! 歩いて国を越えるなんて初めてです」
「俺もだ!」
ちょうど通りかかった老夫婦に写真をお願いした。柔はカナダ側、耕作はアメリカ側に立って手を繋いでいるところを撮って貰う。老夫婦は二人がとても若いカップルに見えたようで、孫を見るような目で見てくれた。特に柔は幼く見えたかもしれない。
その後、橋を進んでアメリカ側で入国手続きをして無事にアメリカに入ることが出来た。そしてアメリカ側からアメリカ滝を見学して、二人はバスに乗ってバッファロー空港へ向かう。
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vol.9 頬に別れのキス
「カナダ側の賑わいを見た後で、アメリカ側に行くととてつもなく寂しい感じがするな」
「そうですね。両方賑わっているとばかり思ってました」
「でもここも一応ニューヨーク州なんだぜ」
「え! ここも?」
「そうそう。なんか不思議だな」
「やっぱり規模が日本とは違いますね」
車窓からは田舎の自然あふれる風景が流れていて、耕作が住んでいる辺りとは全く違う空気だった。日本でも東京都心と多摩の方では雰囲気が違うのと同じか。でも、ナイアガラの滝は世界的に有名な観光スポットなのだが。
椅子に座ってリラックスした気持ちでいると、耕作が静かに口を開く。
「柔さん、ありがとな」
「急にどうしたんですか?」
「いつも俺に付き合ってくれて強引で困るだろう」
「そんなことないですよ。あたしの方こそわがままで困らせてばかりです」
「わがままか……柔さんが柔道するのは自分のためじゃない部分が多いだろう。だからやりたくないと思ってそれを口にすると、わがままだと捉えられてしまうんだよな。みんなが応援してるのに、何で試合に出ないのかってね。俺もそう思うことがあるよ。事情を知っている俺でさえね。でも、それをわがままっていうのは違う気がするな」
「そうですか? あたしが勝手に柔道しないって決めたあの体重別の時もそう思いました?」
「虎滋郎さんのことを知ったら柔道辞めるだろうなとは思ってたよ。だから隠してたんだから。柔さんの家のことと気持ちの問題と、柔道の試合に出ることは正直言って別問題なのに世間は区別しない。なぜなら試合することが当たり前で、それを見ることを楽しみにしているのが世間ってものだからな。事情も何もあったもんじゃない。って、俺が言うなだな」
「わかってくれる人がいるだけでいいんです。楽しくて始めた柔道がいつしかみんなの期待とか義務を背負って押しつぶされそうになりそうになるんです。あたしは柔道が嫌いだと口にしていても、いつの間にか畳の上にいた。期待されてそれに応えることが、いいことだと思っていたんです。柔道じゃなく世間やおじいちゃんと戦うことを諦めて、結果を出して自由を得ることにしたんです」
「ごめんな……俺のせいだな。俺が柔さんを追いかけたりしなければ」
「やめてください! 松田さんのせいじゃないです。あたしは松田さんがいたから柔道を続けてこれたんです。もし松田さんがいなかったらきっと本当に身勝手な人生を歩んでいたと思います」
「それが普通のことだよ。やりたいことをやるのが普通だ」
「反発から柔道をしないことはやりたいこととは違いますよ。それに今はあたし、柔道は嫌いじゃないですから。あたしとみんなと繋げてくれた大切なものですから」
耕作は優しく微笑む柔を見つめる。
「大人になったな……」
「あたしはとっくに大人です」
「ははっ、そうだったな」
子ども扱いしていたのは自分か。守って道を示して来たつもりだったが、そんなことはなかった。耕作の方がわがままで自分勝手だった。記者は遠慮何てしていたら仕事にならない。身勝手だと怒られても進み続けなきゃいけないのだ。例え嫌われても。
「柔さんは優しいから時々不安になるよ。誰かの為に試合に負けてしまうこともあるんじゃないかって」
「そんなことしませんよ。試合に勝つことはあたしの自由の代償です」
「その代償が必要なくなった時、負けてあげてしまうかもと思ったんだ」
「それは引退の時ってことですか?」
「ああ。負けたから引退するのと、引退のために負けるのとでは違うからな」
「じゃあ、約束します。あたしが負けることが今後あったら、その時は全力を出しても敵わなかった時。本当の負けであると」
「できればそんな日が来ないといいな」
「そればかりは分かりません。さやかさんも強くなってます。フランスのマルソーさんも強いです。他にも出てくるかもしれません。まだ出て来てないだけで」
耕作の頭に一人の女性が浮かぶ。今後、柔を脅かすかもしれない柔道家。でも、まだその存在は明らかに出来ない。
バッファロー空港に着くとJFK空港行きのチケットを取って搭乗した。およそ1時間半ほどで一昨日一瞬だけ降り立ったJFK空港へ到着した。相変わらずの人の多さと賑わいでカナダの静けさがもう恋しくなる。
「あとどのくらい時間ある?」
「1時間くらいですね」
「そう……って、あと1時間って!」
耕作は慌てる。柔の言っていることはちょっとおかしい。
「あと1時間って午後5時だろう。列車で行ってたら間に合わなかったんじゃないか?」
「あ!」
「どういうことだ?」
「単純に間違えただけです」
柔は背を向けて話を終わらせたが、耕作は何か腑に落ちない。こんなミスをするだろうか。しかし今までも柔は試合の日程を忘れたこともあったしうっかりすることも無くはないかと納得させた。
空港で買い物してたらあっという間に1時間。また二人は別れの時を迎える。
「今度はすぐ会えるな。来月の世界選手権。またカナダだ」
「出場できればですけど……」
柔の声は小さい。離れたくない寂しいが滲み出ている。
「出れるさ。君が出なくて誰が出るんだ」
「…………」
「どうした?」
柔は辛抱できずに耕作の胸に飛び込む。驚いた耕作だったが直ぐに柔を抱きしめた。
「不安だよな……俺が一緒にいてやれればいいんだけど」
「松田さん……その言葉だけで十分です」
今回の旅行は二人きりと言う時間はあまりなかったが、それでも沢山話して沢山気持ちを知れた。離れている分すれ違ったりすることもあるが、たまにこうしているだけでも柔は十分満たされる。鼓動が聞こえる距離に、温もりが感じる距離にいることが必要だけど今はまだそれが毎日というわけにはいかない。
「松田さん……そろそろ」
「ああ、ごめん」
慌てて離れる耕作に柔はなごり惜しそうにしていたが、髪を整えた。そしてバッグから小さな箱を取り出す。
「これ早いですけどお誕生日プレゼントです」
「え? 誕生日?」
「8月26日ですよね?」
「そうだけど……いや、驚いたよ。何かもらえるとは思ってなくて」
「お誕生日にプレゼント貰いませんか?」
「子供の頃はもらってたけど、大人になってからは記憶にないな」
「邦子さんからも?」
「加賀くんから? どうして? 欲しい欲しいとは言われたけど、貰ったことなんてないよ。そもそも俺の誕生日なんて知らないだろうし」
「そうなんですね……」
ちょっと嬉しくなる。
「開けてもいい?」
頷く柔に耕作はその小さな箱を慎重に開ける。
「腕時計か……しかもデュアルタイム型じゃないか」
「アメリカと日本に時間が直ぐにわかると思って」
「こりゃ便利だ。それにかっこいい!」
耕作は直ぐに腕に付けて見せた。ちょっと大きいかと思ったが、実際つけてみるとバランスも良く似合っている。
「ありがとう。大切にするよ」
新しいおもちゃを手にしたみたいに腕時計を見ている耕作に、柔は横から頬にキスをした。
「な……」
顔を真っ赤にする耕作と柔。
「あたしのこと忘れないでくださいよ」
「わ、忘れたりするもんか。絶対にない。毎日思ってるよ」
「あたしも毎日松田さんのこと思ってます」
柔は出発ゲートに入って行った。耕作はその様子をいつまでも見守っている。一度だけ振り返った柔は遠慮がちに手を降って見えなくなった。
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柔の周りで事は動く
vol.1 世界選手権出場決定
柔が日本に帰って来た時には空は暗かったが、まだ深夜と言う時間ではなく家に帰れば滋悟郎がテレビを見ているところだった。
「ただいま、おじいちゃん」
「ようやっと帰って来たか。待ちくたびれたわい」
「あたしを待ってたの?」
「そうぢゃ。喜べ柔。世界選手権の出場が決定したぞ」
「え? どうして? あたし体重別出てないのに」
「そんなもの関係ないわ。全日本で優勝したことで無差別級の出場が決まったも同然ぢゃ。他の誰が出られるものか」
「でも、いいのかしら?」
「いいも悪いも、決まったことぢゃ。合宿は今月末からぢゃ。準備は怠るな」
「はい……」
部屋に戻ろうとする柔。すぐに耕作に会えると思えば嬉しいが、何か腑に落ちなくてモヤモヤする。何か引っかかる。
「柔!」
「は、はい!」
「土産はどうした?」
「あ! そうだったわ」
モヤモヤの正体はこれだったのかと、柔は鞄から土産を出した。
「なんぢゃ、アメリカに行っとったんぢゃないのか? カナダのも混じっとるぞ」
「カナダにも行ったの。ナイアガラの滝って知ってる? それを見たの」
「トリガラの滝ぢゃと。随分うまそうな」
「もーいいわ。ところでお母さんは?」
「夕方頃、急いで出て行ったぞ」
「どこに?」
「さあな」
それから30分もしない内に玉緒は帰って来た。
「柔、帰ってたのね。ごはんは?」
「食べて来たわ……」
「そう。それならよかった。今日は何も用意してないから」
滋悟郎は外食をしたようで台所は綺麗なものだった。
「どこ行ってたの?」
「昔お世話になった人が昨日亡くなったの。それでお通夜に行ってきたのよ」
「そうだったの」
「ごめんね、柔。お母さん、疲れちゃったからもう休むわ」
どこの誰が亡くなったのか結局わからなかった。そもそも柔は母の交友関係をあまり知らない。母は時間が出来れば父を捜しに行っていた。友達の話などは出たことがない。
◇…*…★…*…◇
8月30日から9月4日まで世界選手権の強化合宿が行われた。まだまだ暑さが残る中、男子選手も合同で行われる。しかしそこにさやかの姿は無かった。
さやかが世界選手権を辞退したと聞いたのは合宿の一週間前。理由は特に明かされなかったが、体重別で優勝してその強さからメダルも期待されていたので関係者は落胆していた。
「どうせ、お前の方が目立つことに我慢ならなかったんぢゃろ」
「おじいちゃん、何言ってるの?」
「無差別級と48kg以下級は同じ日ぢゃ。どう考えてもお前の方に注目が集まるぢゃろ。それにお前は特例中の特例での出場だ。気に入らないのではないか」
「特例って……」
選考会である体重別に出場してなくて柔は代表に選ばれた。前回のバルセロナ大会には体重別をすっぽかした柔は出場していない。前回と今回とで大きく違うのは正式種目となったバルセロナ五輪で二階級制覇をしたということと、国民栄誉賞を得たこと。実力は十分だがそんな特例があってもいいのか、柔自身が疑問だった。
「お前はそれだけの実績を残してきた。誰からも文句を言われる筋合いはない。むしろ出場してくださいと頭を下げてもいいくらいだ」
「そんなの嫌よ」
「とにかく、選ばれた以上は優勝ぢゃ!」
滋悟郎とさやかは似ている部分がある。目立つことが大好きだからこそ、他の誰かが目立つのが気に入らない。しかも自分のライバルが注目されているところで試合するなんて耐えられない。それにさやかが柔道をやっているのは柔を倒すため。それも出来ない試合に出る理由はどこを探してもない。
結局、体重別で準優勝をした選手を代表にして合宿をしている。彼女も強い選手だが柔とさやかがいるこの階級では影が薄い。今回頑張って優勝したら、新たな注目株となるだろう。
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vol.2 本阿弥夫妻
NYの耕作はとある人に会いにホテルに来ていた。超一流ホテルのフロントは声を掛けるだけでも緊張する。それに相手が会ってくれるかもわからない。
部屋に電話をしたフロントマンは耕作に少し待つように言い、暫くするとエレベーターから見知った顔が出てきた。
「お久しぶりですね。1年ぶりですか?」
「ああ、そのくらいだな」
二人はホテルのラウンジでコーヒーを頼んだ。
「忙しそうだな、風祭……いや、もう本阿弥か」
「今まで通り風祭でいいですよ。松田さんの方こそこっちで忙しそうじゃないですか」
「まあな。人手不足なんだよ。その割に仕事も多いし、距離もある。いや、そんな話をするために呼び出したわけじゃないんだ」
風祭はドキリとする。耕作がわざわざ風祭を呼び出して話すことなどそんなにはない。あるとすれば柔関係のことだ。しかしそれも今では風祭は殆ど接触してない状態なので、よくわからないことくらい知っているだろうに。
「さやかも一緒だろう?」
「ええ、もちろんですよ。でも、今回は柔道じゃなくて仕事です」
「そうか。世界選手権出場しないんだってな」
「さすがにお耳が早いですね。さやかさんは試合とかメダルに興味はないので、出ないと言ってましたよ。柔さんと戦えるなら別でしょうけど」
「お嬢様らしいな。ところでちょっと頼みがあるんだが……」
「なんですか、松田さんが頼みなんて」
風祭はいつ耕作と柔のことを聞かされるのか気が気じゃなかった。できるなら決定的なことを聞かないでおきたかった。国民栄誉賞の授賞式で二人は手を取り合って会場から姿を消した。その後、二人の関係については長い付き合いの記者と選手と言うことでそれ以上でもそれ以下でもないということが発表された。それが嘘か本当かは確かめてはいない。すでに既婚者の風祭だが、まだ心のどこかでは柔に気持ちがある。女性で唯一自分に落とせなかった女性がこんな三流新聞の三流記者に取られたとなると、プライドがズタボロになる。それだけは避けたい。
「今度、本を出そうと思ってるんだ」
「本ですか? 何の?」
「柔さんのことを書いた本で、本人にも許可は貰ってて原稿もほぼ出来上がってる」
「本人って柔さんに会ったんですか?」
「え? いや、電話だよ」
「あーそうですよね。松田さんは忙しくて東京には戻れませんし、柔さんがわざわざNYに行く理由もありませんしね」
「そうそう。それで、柔さんのことを書くにあたってどうしても避けて通れないのが、二人のことなんだ」
「さやかさんはともかく、僕は書かなくてもいいでしょう」
「そう言うわけにはいかない。柔さんの名前を一気に広めるきっかけは、お前を投げたことなんだからな」
蘇る記憶。さやかのコーチに就任して、ライバルの柔が風祭が敬愛する猪熊滋悟郎の孫だと知って偵察していたのだ。柔は柔道の気配など感じさせないまま風祭と会っていたが、それにしびれを切らせた風祭が猪熊家に忍び込んだところを柔に投げ飛ばされそれを耕作と鴨田がスクープしたのだ。
このことで柔の名前は一気に広まった。
「それはあまり書いて欲しくない出来事です。出来る事なら記憶からも消したい」
「油断してたんだし、相手があの柔さんだ。仕方ないだろう。俺も何回か投げられたことあるよ」
「あなたはいいでしょうけど、僕は一応有段者でさやかさんのコーチなのだし」
「でも、書かないで出版するとそれはそれでかっこ悪いぞ。誰が見てもそっちが圧力かけたってわかるからな。それなら快く本に載せて懐の大きさを見せた方がいいんじゃないのか」
「それもそうですが、写真は載せないでくださいね」
「ああ、わかった。それでそのことも含めて、原稿を抜粋して持って来てる。二人のことを書いたところだけな。目を通して問題がなければこの紙にサインをして送ってくれないか」
耕作は一枚の書類を見せた。承諾書と書かれたその紙の最後にはサインをする場所があいている。
「用意周到ですね。後から訴えられないようにですか?」
「そりゃそうさ。怖いのは主にさやかお嬢様だからな。後から難癖つけてきたら俺は勝てるわけがない」
「優秀な弁護士が本阿弥には付いてますからね」
「まあな。だからこそのこの承諾書だ」
「二枚ありますけど」
「そりゃ、おまえのとさやかのだよ」
「僕もですか?」
「当たり前だろう。問題がありそうな部分は訂正してもいいぞ。でも、そのように書き換えるかは保証しない。書かないってこともあるからな」
「わかりました……さやかさんには僕から話しておきましょう。以上ですか?」
「ああ、用事はこれだけ。よろしく頼むな」
耕作は鞄から原稿の入った封筒を取り出しテーブルに置いて席を立つ。耕作の影が風祭の視界を暗くする。そして引き留めるでもなく、ただ思わず声が出た。
「柔さんとは、どうなんですか?」
耕作は一瞬固まるが、直ぐに平静を取り戻す。向き合っていたら誤魔化せなかったかもしれない。
「どうって、どうもないさ。見ただろう、新聞の謝罪記事」
「しかし、二人して出て行ったじゃないですか?」
「いや、あれはむしろお前のせいだろう。俺を暴漢呼ばわりして混乱させて、柔さんは俺が飛行機に乗れるように自分を盾にしてくれたんだ」
「何でそこまでするんですか」
「それは……本人に聞けよ。俺にはわからない」
「いいんですか? 日本で柔さんに会いに行きますよ」
「俺の許可がいるか?」
「二人の関係次第ですけど」
「関係はないよ。今まで通りさ。いや、今までよりも遠いだろうな」
その言葉に風祭は笑顔になる。この二人は何もないと確信したのだ。柔がこんな男を好きになるわけがないとホッと胸を降ろす。
「じゃあ、忙しいところ悪かったな。あれ、伝票は?」
「そんなものありませんよ。支払いはいいですから」
「そういうわけには……」
「いいんですよ。スイートの宿泊客は無料です」
「あ、そ。じゃ、早めに頼むな」
風祭はどこか雰囲気の変わった耕作の背中を見送り、部屋に戻る。もちろんコーヒーが無料なわけがないがこんなところで言い合っているのもかっこ悪いので嘘をついた。
◇…*…★…*…◇
「どなたとお話しなさっていたの?」
「言いませんでしたか? 松田さんですよ」
「松田さん? あの記者の?」
「ええ、今はNYにいるんです」
「どうりで最近見かけないと思いましたわ」
「ええ、日刊エヴリーの柔道記事も随分大人しいですし」
「私の記事はもっと派手にしていただいてもよろしいのに。みなさん遠慮していますわね。それで、その松田さんが何のご用だったのかしら?」
風祭は本の出版についてとその承諾書のことをさやかに話す。さやかは思いの外、穏やかにそのことを聞いていた。
「またあの人は物好きなことで。どうせ書くなら私のことを書けばよろしいのに」
「さやかさんのことを書くには松田さんじゃ腕が足りないかと。もっと一流の書き手がさやかさんのことを書きたがっていますよ」
「それもそうね。日本に戻ったら自伝出版の準備をしましょう。徳永! 徳永!」
「なんでございましょう」
「日本の大手出版社に連絡しなさい。私のことを書くことが出来るほど腕のいい作家を見つけて、私の華麗なる半生を書かせてあげますと」
「かしこまりました」
さやかに長年仕えている老人の徳永は今も従順だ。時にはそのわがままに困惑することもあるが、基本的にさやかの言うこともすることも否定はしない。それが非常識なことであっても。
「それでサーヤ、原稿のチェックと承諾書なんですが」
「原稿は読む必要はありません。承諾書にはサインします」
「内容の確認はしなくても?」
「ええ、必要ありませんわ」
風祭はさやかの真意を見抜いていた。なんだかんだ言ってもさやかと耕作も付き合いは長い。さやかと言い合える記者は耕作くらいしかいない。それをさやかは許しているし、不快に思ってもいない。それは耕作を認めているということ。自分に耳痛いことを言う人を排除するほどさやかは愚かではない。
さやかは承諾書にサインをして、もうこのことに興味を失ったかのようにディナーに着て行く服選びに取り掛かった。そして風祭もサッと内容を見るとサインをして直ぐにフロントに郵送の手配をした。仕事は早く片づける。それが一流というものだ。
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vol.3 パトリックとカフェへ
世界選手権の合宿を終えると、柔はいつも通り英会話スクールへと向かった。いつもは会社帰りに行くのだが今日は合宿帰りだ。日時変更の連絡をしていたので、体が辛くても行くしかない。それにカナダに行ってからというもの、早く英語を話せるようになりたいという気持ちが強くなった。
「ハイ!ヤワラ」
「こんばんは、パトリック。今日もよろしく」
「こちらこそ。おや、今日はあの上司はいないのかい?」
「ええ、日時を変更したので」
「そうかい。そりゃいい」
レッスンはいつもよりも軽快なリズムで進む。一人と言うのもあるが、カナダで英語を聞いていたこともあってパトリックの英語がすんなり入ってくる。ただ、理解するのに時間はかかるが。
1時間のレッスンを終えると、柔はいつも通りパトリックに食事に誘われる。いつもなら断るのだが、もう少し英語を話したいと思ったので承諾したが食事ではなくお茶に行くことになった。試合前だからあまり好きに食べられないのだ。
スクールの近くにあるオシャレなカフェに二人は入った。照明はやや暗いが雰囲気のいい店だ。コーヒーの香りが店中に流れていて、とても心地い空間になっている。当然、二人もコーヒーを注文した。
「ヤワラ、随分英語が上手になりました。何かあったのですか?」
「カナダに行ってました」
「それはいい経験です。常に英語のある場所に行くと耳が馴染んでよく聞き取れるようになります」
「それでもパトリックみたいにゆっくり話してくれないと、何言ってるのかわからなかったです」
「その内きっと聞き取れるようになりますよ」
「そうなればいいけど」
「カナダへは観光で?」
「友達に会いに行ったんです。ジョディ・ロックウェルって知ってますか?」
「もちろん!バルセロナの決勝戦は忘れることが出来ない位、素晴らしい試合でした。でも、ジョディは引退を表明しましたね。世界中が驚きました」
「あたしもです。でも、ジョディは元気だったし引退後の人生を考えての決断だからあたしはいい判断だったかと思います」
パトリックはニコニコしながら柔を見ていた。
「いい旅だったんですね」
「ええ!ナイアガラの滝を見ました。見たことありますか?」
「そりゃあね。僕はNY出身なんだよ」
「そうなんですか!今度NYに行くときには美味しいお店教えてくださいね」
「行く予定でも?」
「はっきりした日付は決まってないですけど、今年中には行きたいなと」
「NYは冬も美しいからね」
「そうですね。ロックフェラーのツリーは綺麗でした」
「見たのかい?」
「ええ、去年見ました」
「だったら今度は春か夏に行くのもいいね。セントラルパークで散歩したり、買い物したり」
「考えるだけで楽しみです」
「誰かと一緒に行くのかい?」
柔は一瞬間を置く。
「そうですね、友達か母か……一人旅もいいですね」
「恋人はいないのですか?」
「いませんよ」
「そうは見えませんが。穏やかな目で遠くを見ているようです。その視線の先には誰がいるのでしょうか?」
「パトリック……誰にだって言いたくないことはあるわ。大切な人が全て恋人とは限らないし、会いたくても会えないこともある。女が言わないことを聞き出すのはスマートじゃないわ」
「そうだね。失礼をしてしまった」
「いいえ、こちらこそすみません。ではそろそろ帰ります。ありがとう」
柔は席を立った。パトリックは少し強引なところもあるが人間的に悪いようには感じない。レッスン中のような会話をしてくれたことには感謝をしていたが、やはり柔のことを色々聞きたいと思う気持ちは止められないのかもしれない。恋人のことさえ聞かれなければもう少し話していたかった。英語のレッスンにもなるし。
パトリックは駅まで送ると言ったが、駅までも何も駅はもう目の前。ちょっと裏通りのような場所にはあるが、危険を感じるような場所でもないからと断られた。この後、授業さえなければ一緒に駅に行ってもう少し話もできたのだが。
スクールに戻ったパトリックは日本人スタッフに迎えられ、次の授業についてのことを少し話した。彼女は優秀で英語も話せるが、殆ど表には出てこない。入会説明の時と困った時くらい。ここでは出来るだけネイティブな人が表に立ち、レッスンをするべきだという方針がある。日本人スタッフは極限まで少なくすることで、ここをアメリカやイギリスのような場所として欲しいのだ。
「話しは出来たの?随分、早かったけど」
「地雷を踏んだのかも。恋人のことを聞いたらあっさり帰っちゃったよ」
「そりゃそうね。彼女、有名人だからそういう話題は避けるのよ」
「でも、いるかいないかだけでも知りたいよ。大切な人が恋人とは限らないとか、会いたくても会えないとかってまるで詩人のようじゃないか」
「そんなこと言ったの?」
「ああ。でも、他言しないでくれよ」
「もちろん……」
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vol.4 打ち合わせ
ハミルトンへ出発する前日、柔と耕作は電話で話していた。選手は試合の数日前には現地入りし、調整して試合に臨む。日本からの取材陣はその翌日にはおおよそ現地入りするので、NYから向かう耕作は柔と同じ日にハミルトンへ行き、虎滋郎と玉緒に本のことについての許可と取材に行く予定になった。そのためいつもは家で観戦している玉緒も現地で応援することにした。
「試合前に無茶言ってごめん」
「何言ってるんですか。あたしは松田さんが会場にいてくれるだけで百人力です。それに試合前にってお願いしたのはあたしなんですから」
試合が始まれば日本の取材陣が殺到してホテルの前も警戒される。特に耕作の姿を見つけたらいつも以上に記者が貼り付き、柔と耕作の決定的瞬間を撮ろうと躍起になるだろう。公式否定した二人の関係だが、記者たちはあまり信じていないのだ。ただ、耕作がNYにいて二人が接触しないので記事にならないだけ。もし少しでも怪しい動きをしたら即座に記事にする用意はできている。
試合を取材に来たのか熱愛をスクープしに来たのかわからなくなっている。だからハミルトンでは二人きりでは会わないようにしようと約束をした。でも、耕作が柔の両親に会いに行くということだけでもスクープになる。結婚のあいさつかと書かれても不思議じゃない。だからこそ、取材陣が現地入りする前に用事は済ませておきたいのだ。
「そう言ってもらえると助かるよ。俺のわがままでごめん」
「わがままじゃないです。あたしは協力してるんですから。本が出来るの楽しみにしてるんですよ」
「ああ、絶対にいい本になる。そしてみんなが読んで君を知るんだ」
「あたしのことはいいんです」
「そんなわけにいくかよ。君の本だ」
「松田さんの本ですよ。あ、そろそろおじいちゃんお風呂から出そうなので切りますね」
「ああ、じゃあハミルトンで」
「はい、お仕事頑張ってください」
「頑張るのは君の方さ」
柔は電話を切る。そしてタイミングよく風呂から出てきた滋悟郎が縁側の方へ歩いて来て、火照った体を冷やしている。
「明日はカナダへ出発ぢゃ。夜更かしせんとさっさと寝んか」
「はーい」
子供扱いは変わらない。でも柔は素直に返事をして、台所にいる玉緒のところに行った。
「無理言ってごめんね」
柔が申し訳なさそうにいうと、玉緒はいつもと同じ明るい表情を見せた。
「何言ってるの。柔の試合いつもはテレビで見てたけど、今回はジョディさんにも会いたいし虎滋郎さんも行くから楽しみなくらいよ。それに松田さんの頼みですもの。よろこんでお話をさせていただくわ」
玉緒の中での松田の評価は高い。デビュー戦で最初に接触し、短大の合格を玉緒に教えたのも松田だ。いつも柔のために走り回り、心のこもった記事を書いていることを玉緒は知っていたのだ。
「それに柔の大切な人なのだから、ちゃんとご挨拶もしたいと思っていたし」
「お母さん……」
赤面する柔。耕作との仲を知っているのは家族で玉緒だけ。滋悟郎に言うタイミングはまだ計りかねているところで、今回は虎滋郎には打ち明けようと考えていた。
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vol.5 夜明け前のジェシー
NYの夜明けはまだ少し先。空は暗いはずなのに、地上からの光が雲に反射して少し明るく見える。夏の暑さも息を潜めはじめる9月末。朝は少し冷える。
受話器を置いて机の原稿に目を落とす。柔のことを書いた原稿はまだ完全とは言えない。書きたいことも知りたいこともありすぎて、書き進めることが出来ない。手書きの原稿は束になっているものと、丸めて捨てられているものとでごった返している。柔と話したことで少し整理がつき再びペンを取ろうとしたとき、背後から声がした。
「んん~さむ~」
長い赤髪がベッドからムクリと起き上がる。
「そんな格好で寝てるからだろう。起きたんなら家に帰れよ」
「そんなつれないこと言わないでよ、コーサク」
埃っぽいベッドから飛び出してきたジェシーは耕作に抱き着く。肌寒い朝なのに限りなく薄着で無防備だ。
「私たちの関係ってそんなドライなものだったかしら?あんなに熱い夜を過ごしたって言うのに……」
耕作はペンを置くことも無く、冷静に口を開く。
「確かに暑かったな。先月のイリノイ州での試合は」
「もーノリ悪いな。ところでさっき、誰と電話してたの?」
「日本の知り合いだよ。時差の関係でこんな時間にしか電話出来ないんだ」
「ふーん、不便ね。でも会話の中で何度か『ヤワラ』って出てたわね。やっぱり世界選手権のことを話していたの?」
「そうだよ。明日にはハミルトンに行くからな」
ジェシーは脱ぎ捨てていた上着を着るとやや不満そうな顔をした。
「どうして私は行けないの?世界選手権楽しみにしてたのに」
「仕方ないだろう。今回は日本からカメラマンが来ることが決まったんだ」
「私の写真、結構いいと思うんだけどな。日本での評判はどうなのかしら?」
「悪くはないと思うぞ。ただ、柔道に関しては実績あるカメラマンが必要なんだ。新聞の一面を飾るんだからな」
「確定事項なのね?」
「ああ。猪熊柔が優勝するのは決定だよ」
ジェシーはそうじゃないって思いながらツッコむこともせず、淡々と身支度を整える。
「今回は諦めるわ。私は柔道は初心者だし、上手く撮れる自信もないもの。それにコーサクからの頼まれごともあるしね」
耕作の手が止まる。そして椅子をくるりと回し、ジェシーを見た。
「面倒なこと頼んですまない」
「いいのよ。あなたに恩を売っておけば、後で何かと役立つと思うし」
「俺には何の力もないよ」
「それでもきっと助けてくれるわ。コーサクは優しいから」
「そんなことないさ」
「じゃあ、帰るわ」
「写真ありがとう」
ジェシーは手を振って出て行った。鍵を閉めて再び机に向かうと、外からバイクの音がして走り去っていった。ジェシーは単独の移動の時はバイクを使う。日本ではバイクで行動していた耕作は懐かしそうにその音を聞く。バイクには何度も柔を後ろに乗せた。取材陣が学校に押し寄せてパニックになっているとき、葉山に行ったとき、初めての全日本の後に武蔵山高校柔道部の試合に行くとき、羽田空港から武道館への行ったとき、そして柔の不敗神話が途絶え不戦敗が決まった体重別選手権の日に一緒に行った遊園地にも行った。
懐かしい思いでは耕作の口元を緩める。頬杖をついてペンを走らせるが、この思い出は本に載せるかはわからない。大きく「保留」と書いてまた束の上に乗った。
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少女時代
vol.1 虎滋郎の過去
カナダのオンタリオ州ハミルトンは8月に柔と耕作がトロントからナイアガラフォールズに行くときに通り過ぎた街だ。ただ海沿いの高速道路を通っただけなので街には入っていない。
今回、世界選手権の会場となるコップス・コロシアムはハミルトンの中心地にあり、建物も大きい。バルセロナ五輪での女子柔道への関心から、多くの取材とファンで辺りは騒然としている。
そんな中、耕作は人目を忍ぶように会場から少し離れたホテルへと入って行った。選手は各々調整に入っているので先発でカナダ入りした取材陣はそちらに集まっている。その隙に、玉緒が宿泊する部屋へ訪問した。部屋番号は聞いている。静かな廊下を歩きながら、久しぶりに会う柔の両親に思いの外緊張していた。深呼吸して、ドアをノックすると暫くしてドアがゆっくり開く。
「お久しぶりですね。松田さん」
相変わらず優しい玉緒の笑顔が出迎えてくれる。そして部屋の中に入ると、これまた5年ぶりぐらいに会う虎滋郎が椅子にどっしり腰かけていた。
「松田くん。久しぶりだな」
「虎滋郎さん、ソウル以来ですね。お久しぶりです」
挨拶はこのくらいで耕作も用意されていた椅子に座る。広くはない部屋だが、三人がいて窮屈と言うほどではない。ここは虎滋郎も宿泊しているフランスチームがとっている部屋なのだ。
玉緒はお茶の用意をしてから腰かけた。出されたのはコーヒーだったが、耕作はその方がリラックスできると感謝した。
「柔から話は聞いてます。柔の本を出したいそうですね」
「はい。内容としては柔さんがどんな人生を歩んで、何を思ってきたかと言うことを書いていきたいと思ってます。その中で家族、友人との繋がりを書かないわけにもいかずこうやってお二人にもお話をと思いまして」
「うちはちょっと変わった家族ですからね」
「書いて欲しくないこともあるでしょうし、俺が知っていることが真実とも限らないので確認させていただきたいと」
玉緒は虎滋郎を見る。微動だにしない虎滋郎は耕作を見ている。
「俺は何を書かれても構わん。松田くんは柔道をよく理解し、柔を導いてくれた。そこらへんの記者とは違うということは分かっている」
「ありがとうございます……では、さっそくですが73年に山下選手と試合をして勝利し、その後、全日本選手権で優勝した。この試合がデビュー戦で間違いないでしょうか?」
「ああ、山下くんと試合をして勝ったこともあり、全日本に出場した。そこでの優勝は間違いなしと確信したからな」
「それは滋悟郎さんの思惑ですか?」
虎滋郎の顔が少々歪み沈黙する。何か考えを巡らせているのか、声を出すのに時間が掛かった。
「俺は柔と同じで学校でも柔道をやっていることを話すことはなかった。それはすでに看板を下ろした道場の息子が、未だに柔道をやっていることを世間に知られるのが恥ずかしいと親父に言われてそうしただけだった。だが山下くんに勝ったのなら一度実力を試したらどうだと親父に言われて全日本に出場した」
「滋悟郎さんは優勝したことで随分喜んだんじゃないですか?」
「もちろん喜んでいた。自分が築いた五連覇の記録を塗り替えるくらいの気合で来年も挑めと言われた。だが俺はああいうものにはあまり興味がなかったんだ」
「順位を付けたりする試合にですか?」
「ああ。俺は柔道を極めたいと思っていた。生れてから親父としか柔道をしたことがなく、親父以上の相手を見たことがなかった。親父は体も小さく柔道の極意とも言える柔よく剛を制すを体現している人物と言えた。俺もそうなりたいと思っていた。山下くんをはじめ、全日本の代表と戦ってその極意を掴めそうなところまで来ていたが、柔の存在であっさりと認識をひっくり返したよ」
「天性の素質ですか……」
「以前にも話したな。その通りだ。親父と柔にある天性の素質に俺は敵わない。俺が二人を越えるのは努力と運に恵まれた時だけ。しかし、そうしたところで俺に何が残ると思った」
「修行の最中にですか?」
「ああ。ふと思ったんだ。俺が強くなって家に帰ってそして何があると。ただ自分の為だけに家を空け、そして成したことが誰のためにもならない強さだけ。家族に迷惑を掛けてまですることだろうかと」
「その時、家に帰ろうと思わなかったのですか?」
虎滋郎は玉緒を再び見る。静かに話しを聞いていた玉緒は突然向けられた視線に、少しだけ笑顔を見せる。
「帰ったんだ。柔が小学校五年生くらいの時か。その時には既に柔道に対して違和感を持っていたようだった。柔は女の子だ。俺と違って強さのために柔道をするわけじゃないだろう。むしろ強くなることを嫌うのではないか。柔道の仲間でもいたら違っただろうが、柔は普通の子供として育って普通の友達しかいない。友達がしないことをしている自分をおかしいと感じて柔道を遠ざけようとしているのではないかと感じたよ」
「そうですね。俺が知り合った頃には普通の女子高生でした。柔道を嫌っていました。でも、柔道をすることをやめなかったのは……」
「俺との繋がりのためだろう。俺は柔の優しさを利用したんだ。家に帰れば柔は柔道をやめるかもしれない。続けていてもここまで育ったかはわからない。天才ではあるが本人のやる気がなければ勝てるものも勝てない。天才は神ではないのだから」
「虎滋郎さんが家を出ている間、滋悟郎さんがマンツーマンで柔さんに稽古をした。柔さんに才能を見出したから、虎滋郎さんがいなくなったことで柔さんが寂しがる穴を埋めるためか……」
「その両方じゃないでしょうか?」
黙っていた玉緒が口を開いた。
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vol.2 柔のライバル
「お義父さんは厳しい人ですが柔を大事に思っています。たった一人の孫娘が可愛くないはずがないですよ。自分の夢のために強くしたのだと柔も言いますが、お義父さんがいたから柔はまっすぐ成長できたのですよ」
「そうですね。二人は反発し合いながらも、お互いの気持ちを良く理解し続けていたように思います。最初は滋悟郎さんが反対していても結局最後は折れる。その中で柔さんも強くなる。いい関係です」
「そうだ。だから俺は帰らなかった。自分の柔道を極めることも続け、そして柔のライバルになりうる選手を育てたいと思うようになった。親父が柔自身を育て、俺はその相手を育てることでより高みへと進むことになるだろうと思ったんだ。日本中を歩いて探して、強い選手もいたが年齢的に柔のライバルにはなりえない選手ばかりだった。柔の強さは規格外で日本では敵なしだっただろう。ただ、海外には強い選手がいる。日本から出て海外で戦った時、柔は負けるのではないかという危機感があった」
柔にとって幸運だったのは、日本に強い選手がいるという情報が流れたことでジョディが会いに来てくれて実際試合をしたことだ。海外の選手の実力を知り、そして試合をする喜びを知ったのだ。
「海外へも行かれたのでしょうか?」
「もちろん行ったとも。87年の西ドイツの世界選手権で俺はテレシコワの強さを知り、マークしていたのだから」
「テレシコワ自身も柔さんを完全に射程に入れたトレーニングをしてましたね。ジョディを負かして、怪我を負わせてもお構いなしの機械人間のようでした」
「まさにその通りさ。機械人間のテレシコワは完璧なトレーニングと完璧な肉体で隙のない柔道をしていた。彼女は柔のライバルになりえるが柔が彼女に興味を持つかがわからなかった。しかしロックウェルに怪我を負わせたことで柔に火を点けた」
「柔さんの中で何でもない人から、ジョディを傷つけた人に変わったわけですね」
「そうだ。そうなれば柔は必死に試合をする。柔は試合をするのに理由がいるんだ。なぜなら柔道に興味がないからだ」
「ジョディほど強い相手だと分かっていれば、試合をする気にもなるだろうけど、わからない相手とは最初からエンジンがかからないんですよね」
「松田くんも良くわかっているな。柔は柔道に無関心なんだ。それが日常でそれが普通じゃないと知っているから」
耕作は気づく。柔が柔道をする理由を作らなくてはいけない。それを虎滋郎は作っていたのだ。
「だから、本阿弥さやかのコーチを引き受けたのですか?」
虎滋郎は耕作をじろりと見た。
「まさにその通りだ。しかし本阿弥もまだ柔のライバルに足る素質を持っていなかった。むしろ持っていたのは花園富士子の方だった」
「富士子さんですか?」
「彼女が柔道を始めて2ヶ月の時に、様子を見に行ったことがあった。2ヶ月とは思えないほどの素質が見えた。それは直感ではなく、目で見て分かったことだ。親父に指導されていたとは言え、そこまで上達するとは思えない。実際他の部員たちは素人同然だっただろう」
「ええ、その通りです。富士子さんだけが別格でした。バレエ経験があるとはいえ、全く違う分野です。熱意と根性だけではあそこまで上達はしません。それに結果的におよそ4年で、産休を挟んでオリンピックで銅メダルを取るほどの逸材です」
「俺は彼女がもっと小さい時から柔道をやっていれば、いい柔のライバルになりえたと思った。しかし始めたのも遅くしかも柔の友達になるのが先だった。これではライバルにはなれない。だがいい起爆剤にはなった」
「さやかが富士子さんと戦って引き分けたあの試合ですか?」
「よくわかったな。あの試合で本阿弥は自分の実力を知った。現実逃避していたが、紫陽花杯の決勝で柔が筑波女子を五人抜きしたのを見て、表情が変わった。口に出すことはないがわかってはいるのだろう。柔道では柔の方が才能に恵まれていることを。それを自覚したことが分かってから俺は本阿弥の稽古を開始した、それまでは本阿弥のお遊びのような柔道では一生かかっても柔の足元にも及ばず、ライバルにもなりえないと思った」
「さやかを見出したのは滋悟郎さんですが、育てたのは虎滋郎さんってことですね」
「そうなるだろうな。だが誤算もあった」
「柔さんが柔道をやめてしまったことですね」
虎滋郎は厳しい顔をしていた。
「俺はそこまで考えが及ばなかった。自分との絆で柔道を続けていると考えていながら、ライバルを育てることで柔がそこまで傷つくとは思っていなかった。俺を嫌い本阿弥を倒しに掛かると思っていたのだが……」
「そうはなりませんでしたね。柔さんはショックで柔道をやめました。復帰は絶望的だと思っていました。俺はもし柔さんが復帰しなかったら記者をやめるつもりでいました」
「まあ、そこまで考えてくださってたんですか?」
玉緒が思わず口に出す。
「でもおふくろに怒られまして……途中で投げ出すな、最後までやり遂げろ。ユーゴスラビアまで行ったやる気はどこに行ったんだって。それで俺はもう一度柔さんに会いに行ったんです。俺にはその責任があったから」
「柔は復帰した。君のお陰だ。俺も柔を動かせるのは君しかいないと思って、手紙を書いたかいがあった」
「手紙ですか?」
「君と一緒にいたカメラウーマンに渡したんだが……」
耕作は貰った覚えがない。でも結果オーライなのでそこは追及しないでおくこととなった。
「でもどうして柔さんがあの時復帰したのか未だにわからないんですよね。前日までは聞く耳すらなかったのに……」
「その辺りは本人に聞くのがいいだろう。俺たちじゃわからない」
男二人の頭上に「?」マークが飛び交う中、玉緒はクスリと笑う。
「きっと二人にはいつまでたってもわからないでしょうね」
「玉緒さんはご存じなんですか?」
「ええ。直接聞いたわけではないですが、よくわかります。でも教えません」
また男二人の頭上に「?」マークが飛ぶ。
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vol.3 痕跡をたどるように
「その話は保留にして、玉緒さんにも聞きたいことがあります。いつごろから虎滋郎さんを探すようになったんですか?」
「虎滋郎さんが家を出た時には柔は五歳でしたから、もちろん家を出ることはできませんでした。でも柔が小学校一年生の時に長良川で水害が起こったとテレビで見て、万が一にもそこに虎滋郎さんがいたらと思ったらいてもたってもいられず短期間でしたが家を空けました。それが最初です」
結果的に長良川には虎滋郎はいなかった。玉緒はほっとしつつもいつも不安に襲われるようになった。事故は日常どこでも起こっている。その中に虎滋郎が巻き込まれていないとは限らないのだ。
「柔が中学に上がる頃には、あの子は自主的に料理なども覚え始めて私は長期的に家をあけることも多くなりました。柔は分かっていたのでしょう。家事が出来るようになれば私が虎滋郎さんを探しに行くことが出来る。だからその手助けをしてくれていたのです」
「どういったところを探されたんですか?」
「柔道場があるような場所や山ですね。関係者の方と仲良くなっていると、手がかりがあった時に教えてくれるんで本当に助かりました。全て後手には回りましたが案外外れていなかったんじゃないでしょうか?」
虎滋郎は誤魔化すようにそっぽを向く。玉緒が自分を探していることは知っていた。わざと痕跡を残し、生きているということを伝えていたのだ。
「お二人はとても仲が良く、深い信頼で結ばれているように思いますが差支えなければなれ初めなんかを聞いても……」
さすがにこの話題は虎滋郎には耐えがたく、お菓子を持ってバルコニーの方へ出て行ってしまった。
「ごめんなさいね。あの人、こういう話苦手ですから」
「わかりますよ。俺も本の為じゃなきゃ聞いたりしませんから。男なら誰だってこういう話は照れます」
耕作は頭を掻きながら照れたように笑う。本来なら聞き出すようなことじゃない。
「長い話になります」
そう言いながら玉緒は遠い空を見るように話す。
「私の実家は今ある猪熊の家の川向こうにあったんですが、実は猪熊の家も以前はそちらにあったんです。あの頃は『求道館』の看板がありお弟子さんなのか沢山の人が出入りしていたと聞いています。昭和16年に太平洋戦争が始まって、猪熊の家は戦火に焼かれ焼失し戦後今の家を建てて移り住んだと言うことです。幸いにも私の実家周辺は戦火は広がらずそのまま残りました」
「『求道館』のことはどのくらい知っていますか? 滋悟郎さんは今では殆ど弟子をとりません。その頃は弟子がいたと言うことでしょうか?」
「すみません。わからないんです。『求道館』は元々は牛尾馬之助というカネコさんのお父様が開いていた道場で、お義父さんはその弟子として山形から上京されたと聞いています。でも、お義父さんが上京された時には馬之助さんは亡くなっていて直接指導されたわけではないようなんです。でも一人娘のカネコさんが道場再建に奔走されお義父さんもそれをお手伝いしていたそうなんです。だからその時その道場にいたのが、お義父さんのお弟子さんなのか馬之助さんのお弟子さんなのか分からないんです。よく目立っていたとは聞いていましたが」
「弟子ではなく同士の可能性もあるということですね。しかし、今の家に越してきて『求道館』の名も上げず『牛尾』の姓も名乗ってないですね」
「その辺りも私はよく存じません。お義父さんはそう言うことはお話なさらないですから」
主に自慢話しかしない人だ。それも嘘か本当かわからない。
「実家と言いましたが私は生まれは横浜なのですよ。両親はそちらに住んでいました。しかし流行り病で相次いで両親が亡くなると私は東京の祖父母の家に引き取られました。私はまだその時13歳でした。両親がいない寂しさを私は知っていましたが、同じ思いを柔にもさせてしまったことは今でも申し訳なく思っています」
玉緒は沈痛な面持ちでそう言った。しかしわかっていながらも虎滋郎を探すことをやめられなかったのには理由があるのだろう。
「私が14の時に祖父が亡くなりました。家計は火の車です。私は早朝に知り合いの仕出し屋さんでお仕事をさせて貰うようになりました。そこは仕出し弁当の他にも昼からは定食屋さんもやっていてお店の従業員もいい人ばかりでとても楽しい職場でしたわ。今は問題になるかもしれませんが昔は早朝でも夜でも14歳の少女が働いても何も言われませんでした」
「辛くは無かったですか?」
「もちろん朝早いのもお仕事も辛いことは沢山あります。でも、それはどこにいても何をしてても同じです。私は恵まれていました。それに楽しみもあったんです」
チラッと外にいる虎滋郎を見る玉緒。
「お店に行くときには必ず川沿いの土手を通るんですが、そこで毎朝ランニングをしている人を見かけていました。同じ年くらいの男の子です。彼が何のために走っているかは知りませんでしたが、一生懸命走っている姿に勇気を貰っていました」
その人が誰なのかは察しがついていたが耕作は黙って話を聞いていた。
「祖父が亡くなった翌年、祖母も他界しました。私はいよいよ窮地に立たされました。親戚はいましたが、彼らも生活が苦しく私を引き取る余裕はなさそうでした。それに私はもう中学を卒業していましたから一人で生きて行けるだろうと思われていました。実際に働いてもいましたし。でも家だけは手放したくはなかった。思い出の詰まったあの家にいさせてくれれば私は一人でもよかったのですが、遺産相続の問題で家も土地も売り払うことになりました。そんな時に声を掛けてくれたのがカネコさんでした」
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vol.4 玉緒と虎滋郎
「カネコさんとはもともと知り合いだったんでしょうか?」
「知り合いと言うほどではないですが、カネコさんのことは知っていました。それにカネコさんと母はお友達だったんです。結婚や戦争、引っ越しにより離れ離れになってしまいましたが、カネコさんは私の母のことを妹のように思っていてくれて、風の噂で私が東京にいることや祖母と二人暮らしであることを知って気にかけていてくれたようなんです」
「優しい人だったんですね」
「ええ、優しくて強くて憧れの人でした。カネコさんは家を失った私に一緒に住まないかと言ってくれました。居候みたいなものですね。私はカネコさんと母のことを知らなかったので、最初は戸惑いましたが私自身にも少しだけカネコさんとはご縁があったので喜んでその申し出を受けました。でも一つ気がかりだったのが、息子さんの存在です。もちろん今になっては虎滋郎さんだってわかっているので何の問題もないですけど、当時は年頃ですし心配でした。でもごあいさつに伺った時に虎滋郎さんを見て私は運命を感じたほどです」
「それはどういう?」
「気づいてますでしょう。早朝のランニングの人が虎滋郎さんだったんです。だから私、最初は戸惑って上手く話すことも出来なくて嫌われてしまったのではないかと思っていました。カネコさんの配慮で私は二階の今の柔の部屋に住まわせてもらっていて、虎滋郎さんの部屋とも離れていて接点はありません。そうなると食事の時以外ではあまり顔を合わせませんので、虎滋郎さんの様子を知ることが出来ませんでした」
「ということは、その時にはまだ友達未満のような関係だったと」
「そうですね。虎滋郎さんは普段は無口な人ですし、道場にいることが多かったので私たちは会話もすることはなかったですね。でも、ある日お店で急に人手が必要になって普段はいない時間まで仕事をして、お店を出たのが遅い時間になったことがありました。お店を閉めて時間も経っていたので油断をしていたのだと思います。お店でよく絡んでくるお客さんが闇夜に紛れていることに気づきませんでした」
昭和のこの時代はまだ外灯も少なく、全体的に今よりも暗い夜だっただろう。それに人通りもないような場所では女性の一人歩きはとても危険だ。
「お客さんは酔っていました。そして私が猪熊家にいることも知っていて、色々と変な想像をしていたみたいでその逆恨みのようなことを言っていました。でもまだ十代の私には十分すぎるほどの恐怖で声も出せずにいたところを、虎滋郎さんが助けてくれたんです」
耕作はホッと肩を撫でおろす。
「虎滋郎さんは私の帰りが遅い時にはいつも稽古だと言って走りに出ては、私に気付かれない距離で家まで付いて来てくれてたんです。この時まで私は本当に気づかなくてでもとても助かったので感謝しているんです」
「その当時から隠密行動をとっていたんですね」
「ふふっそうですわね。その一件以来、私は虎滋郎さんに夢中になりまして、その様子をカネコさんも知って成り行きで結婚したわけです」
「成り行きって……二人は深い絆と信頼で結ばれているように見えますが」
「私が一方的に恋に落ちて、カネコさんと二人で無理矢理結婚に持って行ったんですよ。虎滋郎さんにどういう風に話がされたのかはわかりませんが、気づいたら結婚式の日取りと新婚旅行が決まっていました。私が二十歳の時ですね」
「カネコさんはその後……」
「柔が生まれた翌年に亡くなりました。穏やかで笑顔が素敵な人で、病気で倒れてからも家族への気遣いは失くさずいつもお義父さんと虎滋郎さん、柔と私のことを気にしてくれていました」
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vol.5 女子柔道の歴史
「俺も会って見たかったです。病気とは言え早すぎる死ですね。まだお若かったでしょう」
「ええ。もっと柔と一緒にいて欲しかったですね。60歳で亡くなったのはとても残念です」
「え? 60歳ですか?」
「ええ、カネコさんはお義父さんよりも年上なんですよ」
「そう言えば、仏壇に写真があるのを見たことがあります。結構お年を召した方だと思った記憶が……」
「苦労されましたから。戦前も戦後も。虎滋郎さんの前にも子供がいたそうですが、流産したことがあってようやく授かった子だと言って大切に育てていたようです」
そう言って穏やかに微笑む玉緒に耕作は気づく。
「きっと玉緒さんだから安心したんでしょうね。猪熊の血を引く二人の男を玉緒さんなら広い心で支えてくれると思ったんじゃないでしょうか。実際にそうですし」
「私なんて沢山わがままをさせていただいて、感謝申し上げたい気持ちです。カネコさんもお義父さんも虎滋郎さんも柔にも」
「そんなこと気にすることはないぞ」
バルコニーから虎滋郎が戻ってきた。お菓子の袋が空っぽで暇になったのだろう。
「お前は十分すぎるほどよくやっている。柔の精神的支えになり、親父の暴走を止めてもいる。料理上手で強いいい妻だ」
「虎滋郎さん……」
玉緒は恥ずかしさに堪り兼ねて洗面所の方へ走って行った。夫婦だけど離れていた期間が長すぎて、その想いは色あせることはなかった。むしろ恋人期間もなく結婚したことで今、恋人期間をやり直しているような新鮮な感覚を味わっているようだった。
「ところで松田くん、君は女子柔道の歴史を知っているか?」
突然の話題変更に耕作は戸惑いながらも答える。
「1978年に初めて全日本女子柔道選手権が開催されていますね。今の体重別に相当する試合です。それ以前は、試合と言うほどの試合はされていないようでしたが」
「その通りだ。78年と言ったら柔が9歳の時だ。そんな時に日本の女子柔道はやっと産声を上げたと言っていい。諸外国はその頃、とっくに試合をしていたし80年には世界選手権も開かれている。かつて日本の女子柔道は今のような戦う武術ではなく、形の美しさと力強さに重きを置いた勝ち負けのないダンスのようなものだったのだよ。日本の女子柔道界は長年その流れの中にいて、男子柔道のような稽古も試合もないままだった。しかし女子の中でも時代と共に考えが変わり、やっと78年に公式な試合をすることができたんだ」
「たった15年前なんですよね。でも、そうなると柔さんが物心つく前から柔道の稽古をしていたのは異例中の異例なのでは?」
「そうだ。しかし、俺の母親もその異例の中にいた。道場をやっていた祖父の元、母は男子柔道を教えられていた。もちろん試合するわけでも、誰かに教えるわけでもないが見事な技を掛けられたと親父は言っていた。親父は女性が柔道をすることに対して、何の違和感も反発も偏見も持ってなかった。むしろ美しいとさえ思っていただろう。だから柔が生まれて女の子だと知ってとても喜んでいたし、柔道を教えることにためらいもなかった」
「万が一、柔道界の流れが変わらず試合をする機会が無かったらどうするつもりだったと思いますか?」
「そうだな、きっと海外に連れて行っても試合に出しただろうな。だが時代の流れは確実に女性にも目を向け始めていた。86年には男女雇用機会均等法まで施行されたんだ。外国に比べて遅いくらいだが、ソウル五輪で公開競技になったらさすがに日本だって重い腰を上げただろう。日本が発祥の武道なのだから」
「柔さんが幼い時から柔道をやっていることを誰にも言わないでいたのは、滋悟郎さんに口止めされていたこともあったけど、時代の流れもあったということですね。女子が柔道をやること自体偏見があった可能性があるということですね。じゃあ、玉緒さんは娘の柔道に反対はされなかったのでしょうか?」
「本人に聞いてみたらいいさ」
玉緒は平静を取り戻して変わらぬ笑顔で現れた。
「柔が柔道することに私は一度だって反対したことありませんよ。だって私は柔道が大好きですから。柔道をやっている虎滋郎さんは誰よりもかっこよかった。娘だけどその凛とした美しさは武道の中で手に入れられると思っていましたから」
明るく笑う玉緒はとても可愛く、柔によく似ていた。柔が年を取ったらこんな風になるのかと思うと何だかうれしくなる。
「しかしこれから女子柔道界は変革の時を迎えるだろう」
「どういうことですか?」
「花園、ロックウェル、テレシコワが引退し柔のライバルとして残ったのは本阿弥くらいだ。新しい選手は出てきてはいるが、柔のレベルまでの選手は国内外でもそうはいない」
「マルソーはどうですか? 虎滋郎さんが鍛えているし、今回の世界選手権にも出場していますよね」
「彼女は元々柔のコピーとして鍛えた選手だ。本阿弥の練習相手として柔のようなスピード、バネ、技のかけ方などを徹底的に仕込んだがバルセロナでは柔に負けてその格の違いを思い知ったようだった」
「経験不足と天性の判断力の差ということですね」
「ああ。悪い選手では決してない。柔がいない時代ならば彼女も金メダルを取れただろうが、凡人たる彼女はよほどの強運に恵まれない限りは柔を越えることはないだろう」
「なら、さやかに期待するしかないということでしょうか?」
「本阿弥はあらゆるスポーツの才能に恵まれ、頂点に君臨してきたプライドを捨て去ってからは本当に強くなった。本阿弥は努力の達人だ。柔に勝つためならどんな苦しい稽古も文句を言いながらもこなしてきた。正々堂々と戦って勝つのが彼女の流儀なのだろう。ただ、本阿弥は柔道を楽しんでいるのではなく、柔を倒すという目的のみで柔道をしている。だからそれが果たされれば本阿弥はあっさりやめてしまうだろう。執着がないのだよ」
「でも、勝てるかどうかは運次第なんですよね」
「そうだ。今もきっと稽古をしているだろう。柔と倒すという目的のために。次に戦うことがあれば結果がどうなるか正直わからない。本阿弥も去年とは気持ちが違うだろうから」
「気持ちが違うとは?」
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vol.6 本阿弥さやかの今後
「気持ちが違うとは?」
「本阿弥はスポーツをすることはただの暇つぶしにすぎないのだよ。熱くなれる相手がいれば熱くなるがいないならばその競技には見向きもしない。ただその暇つぶしも永遠に続くわけじゃない。彼女は大人になり家を継がなくてはいけないのだから」
「さやかが本阿弥グループの総帥になるということですか? 風祭ではなく?」
「そうだと思っているよ。俺は実際にあの家にいてあの家のことを見ていた。風祭くんは本阿弥の婿だ。決してグループのトップに行くことはない。それに本阿弥の方がビジネス的な素質は持っている」
「ちょっと想像できませんね。あのお嬢さまが経営のトップに立つなんて」
わがままで高飛車で自尊心が強く人の心なんて全く分からない人間だ。耕作の中のさやかの印象はそんなものだ。
「優しいだけでは会社は動かせない。先を見る目、人を見る目、時に冷酷であることも必要になるだろう。それが本阿弥にはある。会社のために何かを切り捨てる力も、それを背負い力に変えることもできるだろう。自分の力を信じてる人だから。だが風祭くんにはそれがない。ビジネスセンスや交渉力はあるが、いかんせん自分を最優先にしたがるくせに強いものに抗えない。優柔不断な男だ。それがあがり症として出ているのではないだろうか」
「人前で上がってしまう原因の一つに自信のなさがありますね。風祭は多くの面で自信家ですが、恐らく一対一で対応できる時のみ。大勢の人の前で大勢の思惑と期待が入り乱れると何を優先していいか分からなくなるんでしょうね」
「よく分析しているじゃないか。俺もそう思っていたよ。あがり症でなければいい柔道家になっていただろうが、とても残念だよ」
「グループのトップになったらさやかはもう柔道はしなくなるのでしょうか? 今までもなんだかんだと理由を付けては柔道をしたりわがまま放題だったのに急にやめるなんて……」
「現・本阿弥総帥はとても娘に甘い。それはいつか来る本阿弥家のトップと言う鎖につながれる前の短い時間を、自由に過ごさせるためのものだろう。経験は買えない。娘のしたいことを助け楽しい少女時代を送らせることが目的なのだろう。でも、本阿弥は自ら茨を歩む人だ。何も心配する必要はないと思う。しかしその性格ゆえに一度決めたことは覆さないだろう」
「虎滋郎さんはさやかの評価が高いですね。教え子は別格ですか?」
「そういうわけじゃない。ただ俺には俺の思惑があって、それに利用したのは間違いない。それを知っていてもなお、本阿弥は稽古を投げ出さずに精進した。そして強さを手に入れたことには感服するところさ」
そういう虎滋郎に玉緒は口を挟む。
「柔が聞いたらどう思うでしょうね」
「松田くん。ここら辺のことは書かないでくれよ」
「ええ、もちろん。でもあと何回、柔さんとさやかの試合が見れるか分かりませんね」
「ああそうだな。本格的にグループの仕事に就く前に恐らく大仕事を終えてから取り掛かるだろうから、そんなに長くはないと予想してるがな」
「大仕事ですか?」
玉緒がくすくすと笑い、耕作は首を傾げる。
「出産ですよ。さやかさんは女性ですし、旦那様もいらっしゃるんですから子供を産んでから仕事をした方が、何かと都合がいいのではないでしょうか」
「そうか。跡取りを生むことも仕事の一つか。富士子さんのケースもあるから、出産後復帰する可能性もなくもないか」
「柔に勝利することへの執着が消えなければ復帰もあるが、守るべきものが増えて本阿弥の中で何かが変わればどうなるか……」
「人は変わります。変わらないといけないときもある。それを誰かが引き留めることは難しいですね」
「だが、悔しいものだな。きっとどこかに才能ある柔道家がいるはずなのに、見つけられない。天才が一人いてもそれは進歩にならない。二人いて高め合い、技を磨き、心を鍛えるものなのだ。天才が同じ時代に二人いるのは難しいかもしれないが、それに匹敵するほどの実力を持った者すらも柔道から離れつつある。寂しくなるな」
耕作は虎滋郎の言葉に触発されるように、口を開く。その声は重い。
「才能があってもそれに気づかない人もいる。気づいても様々な事情から高めることが出来ない人もいる。そして才能の価値を分からずに遠ざける人もいる。いくつもの偶然が重なって、天に導かれた才能を持った人を『天才』と呼ぶのでしょうね。だから柔さんという存在は奇跡に近い」
そう口にする耕作に玉緒は悲しげな顔をした。
「私は柔のことをそんな風に思ったことはないですよ。あの子は産まれてからずっと私の娘。普通の子供よりも辛い思いをさせたかもしれないけど、親想いでおじいちゃんを大切にする、優しい子です。どうか、松田さん。その事だけは決して忘れないでくださいね」
玉緒の言葉に耕作は我に返ったようだった。
「はい。肝に銘じておきます」
「ところで、松田くん。柔とは交際しているのか?」
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vol.7 柔の両親に交際宣言!
「ところで、松田くん。柔とは交際しているのか?」
あまりにも脈絡のない突然の虎滋郎の問いに、耕作は凍り付いたように固まる。
「え? あの……ご挨拶が遅くなり申し訳ありません!」
頭を深々と下げる耕作に虎滋郎と玉緒は顔を見合わせて笑う。
「そんなことを気にすることない。そもそも俺には何もいう資格もないんだから」
「そんなこと言って……松田さんなら安心だとか、適任だとか言ってたじゃないですか。でも二人のことだからって黙ってたのよね」
虎滋郎はあさっての方向を向いて照れた様子で「うむ」と言う。娘が心配なのは愛情があるから。どこの馬の骨に持って行かれても何も言えない立場上、自分も認める耕作と交際している事実は正直嬉しい。
「公表はしないことにしてるんですよね?」
「ええ、今はまだマスコミがうるいですから。って、俺もマスコミなんですけど。だからこそわかることなんで。それに柔さんの希望でもありますし」
「東京とNYで離れているし、隠していても見つかることはないでしょうね」
「ええ。ただ今回の世界選手権ではあまり接触はしないつもりです。不自然なほど接触しないのも怪しまれますから今までと変わらないくらいに接しますが、二人きりにはならないようにするつもりです」
恋人同士になったとはいえ、あまり会えない二人は特別恋人らしい雰囲気を漂わせることもない。しかし二人のツーショットを撮ろうとしているマスコミはまだいる。柔は容姿もいいし、世界中で名前を知られる柔道界のヒロインだ。恋の行方は芸能人並に気になる話題のようだ。
「お義父さんには言ってないのよね? インタビューはされないのかしら?」
「滋悟郎さんには柔さんから時期を見て言うみたいですけど、今のところは言ってないですね。ついテレビで言ってしまう可能性がありますから。でも、試合後にちょっと時間を貰ってインタビューはするつもりです」
「そうですか。いい本が出来上がることを願っています」
「精一杯書かせていただきます」
耕作が本を出すことの意味を虎滋郎と玉緒は分かっていた。柔の隣に居続けるための自信を付けて、誰からも釣り合わないなどと言われないための耕作なりの手段なのだ。虎滋郎も玉緒も今までの耕作を見ていればそんなこと微塵も思わないが、これは周りが何を言っても耕作が納得しなければ意味がないこと。だから力になれることは力になり、耕作には全力を出して欲しい。そしてできれば世間がこの本を認めて欲しいと願っている。
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世界選手権 in CANADA
vol.1 鶴亀トラベルの柔応援ツアー
1993年9月30日から10月3日までカナダのハミルトンで柔道の世界選手権が開かれた。バルセロナ五輪後初めての世界選手権。柔の二階級制覇も記憶に新しく、柔の試合を一目見ようと世界中からマスコミやファンが押し寄せハミルトンは今までにないほどの賑わいを見せている。
柔の出場する無差別級は最終日。それまでは日本選手の応援と自分の調整に入る。マスコミもほぼシャットアウトで柔と耕作の接点はほぼない。でも、近くにいることが分かっているので、それだけで力になる。
軽量級から試合は開始され、日本選手も随分健闘しメダル数はどの国よりも多く獲得した。残すは無差別級のみ。否応もなく期待が高まる。
その試合の前日。ハミルトンのホテルに鶴亀トラベルの羽衣はいた。
「みなさん、昨日からのカナダ観光お疲れ様でした。本日はこのホテルでお休みいただきます。そして明日はいよいよ猪熊柔の無差別級試合観戦となります。全力で応援するためにも本日は無理なさらないようにしてください」
羽衣は「猪熊柔応援ツアー」の添乗員をしている。不景気となった今、旅行業界は大打撃を受けているが、このツアーは大人気で申し込みが殺到した。しかし数に限りがあるため、ここにいるのは運のいい客と言うことになる。
「柔ちゃんに激励したいのだけど会えないの?」
ブランドの服と大きな宝石を付けた中年の女性が羽衣に言う。
「申し訳ありません。試合前は精神集中のためできませんが、試合後にツアー参加者様のための時間をご用意してますのでご容赦ください」
「仕方ないわね。我慢しますわ」
苦笑いの羽衣はツアー客にホテルの鍵を渡し、一旦解散となる。ふーっと一息ついていると、再び声を掛けられた。
「困りましたね。ああいう俄かファンは、試合と言うものを分かっていない」
「西野さまほどの柔道ファンばかりだとこちらも助かるんですけども……」
「僕はそんなでもないですけど、試合前は遠慮するものでしょう」
ツアー客は大体数人で参加するものだが、この西野は単独で参加している。長身で眼鏡を掛けて色白で一見不健康そうにも見えるが、肌つやはよく感じのいい客だ。それにバルセロなの時も参加していて、羽衣もよく覚えていた。
「夕食までは自由時間なのですよね? この辺りに観光地はありますか?」
「そうですね。バスで一時間ほど行くと有名なナイアガラの滝があります。時間的に厳しいですが、行ってみるのもいいかもしれませんよ」
「それはいいこと聞きました。市内観光よりもそちらの方が興味あります」
「ではバスのこととか聞いてみましょう」
「いえ、それには及びません。僕が勝手に行くんで自分で何とかします。これも旅の醍醐味ですから」
「そうですか。西野さまは英語も堪能でしたから心配ないでしょうが、もし何かありましたらホテルか鶴亀トラベルのカナダ支店の方までご連絡を」
「ええ、ありがとう。では、一度部屋に行ってから出ていきます。お疲れ様でした」
軽く会釈をして西野はエレベーターに乗った。羽衣は今度こそひと息ついて、ソファにドカッと腰かけた。ツアーの本番は明日なのに、わがままな客の相手でへとへとだ。バルセロナの時はもう少しマシだったが、今はお金と時間があるのはこういう俄かファンの金持ちくらいだ。
「試合後に会ってもらうのも申し訳ないな」
鶴亀トラベルの社員の柔は自分の名前でツアーが組まれ、その最大の売りが試合後のグリーティングであることも承知している。柔は会社には多くのわがままを聞いてもらった。恩返しがしたいと思っているしこんなことくらいならと快諾した。しかし、今回何かあればそれも考えなくてはいけないなと羽衣は窓の向こうの青い空を見ながら考えていた。
新キャラ登場しました。
「西野」です。柔のファンです。
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vol.2 試合と仕事
世界選手権最終日。
無差別級の試合が始まり、会場は満員御礼となった。柔がでるのはこの試合のみ。チケットの確保も難しくツアーを組める人数も今回はとても少なくなった。その少ない席を見事勝ち取ったツアー客は幸運ともいえる。
柔は相変わらず圧巻の強さを見せ、ジョディとテレシコワがいない世界選手権は今までの世界大会の中で最も容易く勝利できると思っていたが、決勝で対戦したカナダのクリスティンは強敵で残り30秒のところで隙をついて一本背負いを仕掛け勝利できた。滋悟郎からは「鍛えなおしじゃ」と言われたが、金メダルは柔の首にかけられた。
試合後、応援に来ていたジョディと再会する場面が会場で見られ、バルセロナの感動再びと言わんばかりに歓声が上がった。それを照れくさそうにしている柔は相変わらずだった。
メダルの授与式が終わり、暫くすると柔はスポーツ選手らしくジャージでとあるホテルにいた。そこは鶴亀トラベルのツアー客が宿泊するホテルで、試合後に応援のお礼を言うために各部屋を回る。大きな会議室のようなところでいっぺんに出来れば早いのだが、海外のホテルではなかなかそう言った場所もなく、部屋数もそんなに無いので柔が回ることとなった。もちろん羽衣も一緒について行くが、優勝の興奮が冷めやらぬ客たちはなかなか柔を解放してくれず、随分時間が掛かった。
「次が最後だぞ。もう少しだ。頑張れ」
「は、はい」
正直、試合よりも疲れるなと柔は思っていた。カナダまで応援に来てくれる客は会社的にはお得意様だし、柔としてもありがたいので無下には出来ないが限度はある。プライベートな質問や日本に帰ったら一緒に食事でもと言われても困るだけだ。もちろんそんな客ばかりではない。
「最後の人は西野さまと言ってバルセロナも応援に来て下さったお客様だ。柔道のことも詳しくて、紳士的な方だから緊張することないと思うよ」
「それなら助かります」
最後の部屋をノックすると、出てきたのは長身の男性で優しげに微笑むと羽衣を先頭にして中に入る。
「西野さまお待たせしました」
「いえいえ、大変だったでしょう。試合後でお疲れなのに、申し訳ないです」
優しい言葉に柔は心からホッとする。
「こちらこそ、お待たせして申し訳ありません。西野さまの応援があって優勝できました。本当にありがとうございます」
「そう言ってもらえると、嬉しいよ。でも応援よりも日頃の鍛錬の成果だと僕は思うよ。猪熊さんは負けなしの選手だけど、それは厳しい稽古の賜物。僕たちの応援なんて何の役にも立たないよ。むしろプレッシャーじゃないかい?」
「とんでもないです。海外では日本語の応援はとても耳に届きます。応援があるから頑張れるんです」
「そうか。それなら本当にうれしいね。ところで、アトランタ五輪はもう目指しているのかい?」
「そうですね。このまま何もなければアトランタも視野に入れたトレーニングになると思います」
「怪我がないことを願うよ。猪熊さんは日本の宝なのだから」
「そんなことは……でも、頂いた賞や応援に恥じない試合はしたいと心掛けています」
「あの……そろそろ写真撮影に映ろうか思うのですか」
羽衣が気弱な様子で口を挟むと、西野は感じよく返事をした。
「今回はそんな企画があったんですね。カメラは僕のを使うのですか?」
「いえ、こちらで用意したカメラで撮影させていただきます。写真は日本に帰ってから現像してご自宅にお送りしますので」
「そうですか。じゃあ、お願いします」
羽衣はカメラを構えツーショットで撮影する。西野は優しげに笑っている。
「それではこれで終了となります」
西野は手のひらを出した。
「握手、いいですか?」
「はい、もちろん」
西野は柔と握手をしてその手の小ささに驚く。そして鍛錬を積んだ手の厚さに強さを感じる。
「ありがとう。これからも応援してるよ」
柔はお礼を言って部屋をでた。これで仕事は終了だ。
「感じのいい人でしょ」
「そうですね。みんな西野さまみたいな方だといいですね」
「それだと楽だな。ところでこの後は選手のホテルに戻るんだよね」
「はい。明日の飛行機で帰国なんで準備をしないといけないし……」
「ああ、そう言えば松田記者いたよな」
「え!?」
思わず出た耕作の名前に柔は大きな声を出してしまう。
「そんなに驚かなくてもいいだろう。松田記者は最近はアメリカのスポーツ記事ばかりで柔道の話題がなくて寂しかったが、世界選手権は取材に来てたのは嬉しいな。日本で新聞を読まないとな。楽しみだな。きっとまた熱のこもったいい記事を書くぞ」
「久しぶりに松田さんが柔道の記事を書くんですよね。あたしも楽しみです」
世界選手権の間、耕作とは最初の約束通り、記者と選手という立場を崩さない程度に接近していた。日本から来ている記者たちは何かと怪しんでいるのが見てとれたが、耕作のそばには常に邦子がいて彼女のようにしていたので記者たちは「やっぱり思い過ごしか」と納得しつつ取材をしているようだった。記者たちの間ではどちらかと言えば、耕作と邦子が恋人同士であるというのが長年の認識なのだから当たり前と言えば当たり前だ。
しかし、耕作が柔のスクープをいつも取っていたことも事実で、それに理由があるのかもしれないと思うこともある。だが自分が発掘した選手に張り付いて、信用を得てスクープを取るというのもある手段なので一概に恋愛関係ともいえないところだ。今回の取材では二人の関係を決定づける出来事は何もなかったと、帰国の準備を始めていた。
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vol.3 ハミルトン郊外で食事会
柔と耕作はとあるレストランにいた。ハミルトンの郊外にあるレストランは辺りに観光地もなく人通りも少ない。地元の人が行くような素朴な店だ。そこに滋悟郎、虎滋郎、玉緒、そしてジョディも含めた食事会が行われていた。
「ヤワラ、優勝おめでとう!」
ジョディの合図で乾杯する。とはいえ、お酒を飲んでいるのは滋悟郎と虎滋郎くらいで他はジュースや水で乾杯した。耕作はまだ仕事があるし、玉緒と柔は飲んでいる二人を案じて飲まず、ジョディも帰りのことがあるので飲まなかった。今回、ルネが他の用事で来られないということでジョディは車でトロントまで帰らなくてはいけないのだ。
「決勝ではクリスティンとヤワラのどっちを応援していいか分からなかっただわね。でもどっちが勝っても嬉しい試合だわね」
「そうね。クリスティンさんは前よりも強くなってたわ」
「前に試合した時にヤワラの強さを知ったクリスティンは、トレーニング方法を見直して変わっただわさ。フジコがいない今、ヤワラを目指しているだわね」
食事が始まってまるで掃除機のごとく食べる滋悟郎と虎滋郎に様子は店員も驚かせた。ここは個室と言うことではないが、会話は主に日本語なのであまり気にすることも無い。
「して、何故に日刊エヴリーがここにいるんぢゃ?」
たんまり食べてお腹が落ち着いたのか、今頃そんなことを聞く滋悟郎。その事に柔も呆れてしまう。
「私が呼んだね。マツダとは友達。一緒に食事したいだわね」
「ジョデーが呼んだのか。なら仕方ないの。こんなところまで取材に来たのかと思ったわい」
「半分当りですよ。滋悟郎さんにお話を伺いたくて来たんですから」
「わしにか! 何でも話してやろう」
滋悟郎はとても機嫌よくいつもよりも饒舌だった。耕作は他愛ない話から初めて核心に迫る質問をした。
「滋悟郎さんはなぜ弟子を積極的に取らないんですか?」
「ん? 教え子は多いではないか」
「ですが、道場に看板を置いているわけでもありませんし。滋悟郎さんに教えてもらいたい人は多いと思いますが。それに過去にも弟子をとったと聞いたことはありませんし」
「弟子を取ったら、柔のことが見つかってしまうぢゃろう。それじゃあ、華々しくデビューする計画が丸つぶれじゃ。まあ、どこかの誰かさんがそれを壊してくれはしたがの」
苦笑いをする耕作。そこに虎滋郎からの援護が入る。
「おふくろの実家が元々は柔道の道場だったんだろう? そこの道場を継ごうとは思わなかったのか?」
「なんぢゃ、お前まで。カネコのお父上は牛尾馬之助先生と言う立派な先生で、わしは元々山形から先生の弟子入りを希望して上京したんぢゃ。ところが訊ねてみれば馬之助先生は既に他界しわしは牛尾道場に居候させて貰うことになったんぢゃ。道場再建に奔走するカネコを助けるために力を尽くした」
「ならなぜ道場再建をしなかったんだ?」
「わしは牛尾先生の指導は受けてはおらん。そんなわしが牛尾道場を掲げるわけにはいかんぢゃろう。道場に来ていたものは牛尾先生の門下生。わしとは共に奔走した同士じゃ。しかしな、カネコがわしと結婚を了承してくれた時にはカネコの中には牛尾道場を再建する意志はなくなっていたようだ」
「それは何故だと思いますか?」
「知らん。ただ戦争も始まって生きることに精一杯で、柔道もGHQにより規制が入って思うように出来ない時代があった。わしらはそんな中でも柔道を忘れないように守っておった。人に教えるほどの余裕などないわい」
この後、滋悟郎はもう昔のことは語ろうとはしなかった。戦争の話は暗く重い。滋悟郎なりに気を使ったのかもしれないが耕作にはまだ聞きたいことがあった。しかし、頑固な滋悟郎が一度口を閉ざしたらもうしばらくは話はしないだろう。それを察した耕作は今回は諦めた。
それから1時間ほどして柔は店を出た。会計をしている人だけ残して、ジョディと玉緒はあいさつをしていた。
「ジョディさん。今日はわざわざ来ていただいてありがとうございます」
「ヤワラのママ、遠慮はいらない。トロントからハミルトンは近いだわね。会える時に会わないと次いつヤワラに会えるかわからない。ジゴロー先生にも」
「そう言っていただけると嬉しいです。私もジョディさんに会いたいと思っていましたので、お会いできてとても嬉しかったです。それにとても美味しいお料理でしたし」
「気に入ってくれてよかったね。今度はタマオの料理食べたいだわね」
「そんなものでよければいつか日本で」
二人の会話を微笑ましく見ていた柔は空を見ながら歩いていると、唐突に日本語で声を掛けられた。
「猪熊さん?」
柔は振り向くとそこには今から4時間ほど前に会った、西野がいた。
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vol.4 記念撮影
「猪熊さん?」
柔は振り向くとそこには今から4時間ほど前に会った、ツアー客の西野がいた。
「西野さま? こんなところで何を?」
「散歩……でしょうかね」
「こんなところを?」
見渡す限り特に目立った観光名所もない、ただの田舎の風景が広がっている。しかも今は夜でほぼ何も見えない。
「ええ、静かなところに行きたくてタクシーで適当に来たらここに。近くのレストランで食事をして散歩してたところで、日本語が聞こえたので来てみたら猪熊さんがいて驚いたよ」
それは柔も同じだ。ここには日本人がいないつもりでいた。だから安心していたのだ。
「あれ! もしかしてジョディ・ロックウェルさん?」
「ええ、夕食を一緒にとっていたんです」
「試合も観戦してたよね。ライバルであり親友って言うのは本当だったんだ」
「ええ」
「横にいるのは?」
「母です」
「それは珍しい。今回はお母様も応援に来てたんだね」
「そうです」
「あの、ここで会ったのも何かの縁。写真を一枚お願いしても?」
「はい。じゃあ、母を呼びますね」
そう言って柔は玉緒に声を掛けた。するとジョディも何事かとやって来て結局、西野を挟んで左右に柔とジョディがいるという構図で写真を撮った。シャッターを切ると同時に滋悟郎が割って入り、写真がきちんと取れたのかもわからない。
「もーおじいちゃん、邪魔しないで」
「なんぢゃ、写真撮影じゃろう。わしも……お前誰ぢゃ」
「こちら西野さまと言って世界選手権の応援に来て下さった日本の方よ」
「そうか、そうか。それはご苦労ぢゃな。だから柔言ったぢゃろ。応援してくれとるファンがお前にはいるんぢゃと」
「そんなことも言われましたね。忘れていませんよ」
「なんぢゃ……」
「西野さま、すみません。もう一枚撮りましょうか?」
柔がそう言うと西野は恐縮したようにお願いした。今度は綺麗に三人が収まった。
「ありがとうございます。では僕はホテルに戻るので」
大通りに向かって歩き出す西野。そこに行けばタクシーも捕まるだろう。
「あやつこんなところまで何しに来たんじゃ」
「散策って言ってたわ。ツアーのお客様がこんなところまで来るなんて珍しいわ」
「へー」
耕作の声がした。店から出て何か起こっていると察したが、近づくころには相手は立ち去った後。事情を聞いて耕作は少々不機嫌になる。
「そんなツアーに柔さんを巻き込んだのか。あの社長は」
「変な言い方しないでください。試合後に少しだけお話しただけです。不景気の今、旅行代理店は厳しい状態なんですよ。あたしが少しでも手助けできればそれでいいんです」
「それでもな……」
「マツダはやきもち妬いてるね」
「なにを……」
「ヤワラが他の男と話してたから、やきもちね」
「そんなこと……」
耕作はあたふたしながら否定もしないまま、期待したような目で見る柔に目をやる。
「そうだよ。楽しげに笑顔でいたからちょっと面白くなかったんだ」
その言葉に柔は満足そうに笑う。ここに両親や祖父がいなかったら直ぐにでも抱き着きたかったがさすがにやめておいた。
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vol.5 ジョディの気遣い
ジョディの車に柔と耕作が乗り、他の3人はタクシーでホテルに戻った。
ジョディはちょっと気を利かせて、遠回りをした。
「おじいちゃん、あんまり話してくれませんでしたね」
「そうだな。戦争のことってみんなあまり話したがらないよな。あの時代は何を話しても戦争に結びつくからな。はぐらかしたり、嘘を交えるのはそのためかもな」
「日本に帰ったらまたおじいちゃんに聞いてみます。何か聞けるかもしれないし」
「そんな、悪いよ」
「いいんですよ。あたしも聞きたいですから。おばあちゃんのこととか、あまり聞けてないですから。お父さんからも聞ければいいんだけど」
「虎滋郎さんからは聞けたんだけど、やっぱり親のことは知らないことが多いみたいだ。カネコさんも虎滋郎さんに話すこともなかったらしい」
「そうですか。じゃあ、やっぱりおじいちゃんに……」
突然、視線を感じる。ジョディがバックミラー越しに柔を見ている。
「どうしたの?」
「せっかく、遠回りして時間を作ったのに何の話してるだわね」
「本の話よ」
ジョディは盛大なため息を吐く。
「恋人同士が久しぶりに会って、甘い言葉の掛け合いもしないだわね。そんなのおかしいだわね」
「だって、ジョディがいるし。甘い言葉って何よ」
「マツダならわかるだわ」
「な! 俺にふるな。俺がそんなこと人前で言えるような男に見えるか!」
「……見えないだわね」
折角の気遣いも無駄になり、柔をホテルに送り届けたあと残った耕作にジョディは檄を飛ばす。
「何やってるね! マツダ! ヤワラのこと愛してるなら抱きしめてキスよ。誰がいようと関係ないね」
「いや、俺たち日本人はそう言うのは人前ではしないし」
「でもまた離れ離れ。ヤワラも寂しい。あのままじゃ、浮気するだわね」
「うわきーー。そんな馬鹿な」
「相手はいくらでもいるね。世界のヒロイン。さっきの男も柔に気があるね」
「ぐぬ~。しかし、俺たちは……」
「わかってるだわね。ナイショの関係。だからこそ男が黙ってない。しっかり手を握っておかないと、どこかに行ってしまうだわよ」
車はホテルに着くとジョディを見送った。耕作だって不安だ。離れているから変な男が柔に近づいても気づけないし、追い払うことも出来ない。柔は魅力的な人だ。今まで男が言い寄って来なかったのは滋悟郎の庇護下にいたことが大きかっただろう。しかし最近はそれも弱くなっているという。そうなると隙をついて来る男は多いかもしれない。
耕作は再びタクシーに乗ってホテルへ向かおうとした。しかし今から行っても到底会わせてもらえるわけがないと冷静になり部屋に戻った。そして部屋の電話から柔の部屋に電話を掛けた。相部屋だと言っていたが、もしかしてその相手がでたらどうしようかと思っていると受話器から声がした。まさかの声だ。
「もしもし、誰ぢゃ」
「滋悟郎さんですか? 松田です」
「さっき会ったのに何の用ぢゃ」
「あの柔さんは?」
「風呂ぢゃ」
柔は柔道界ではさほど友人もおらず富士子がいなくなってからは、誰と相部屋になるのか気になっていたが祖父の滋悟郎と聞いて厄介だと思いながらもホッとしたのは事実だ。特に今回は、試合後出かけるし、余計なことを聞かれると返事に困る。祐天寺の計らいか何かだろう。
「のう、松ちゃんよ」
「なんですか?」
「おぬしは何が聞きたかったんぢゃ」
「え?」
「さっきぢゃ。昔話などさせて、何を知りたかったんぢゃ」
いつもと声のトーンが違う滋悟郎。耕作はこれはいい機会だと思い書籍のことを話す。
「柔のことを書く為にわしのことを知りたいということか?」
「はい。滋悟郎さんは謎が多い人です。もちろん知られたくないことくらいあるでしょうけど、今の柔さんを作った滋悟郎さんの半生を知りたいと俺は今回本を書くにあたって強く感じました」
「それならばわしの本を読めば解決ぢゃろう」
滋悟郎の自伝「柔の道は一日にしてならずぢゃ」のことだ。この本を読んで柔道を始めた人もいるくらい、柔道界では名の知れた名著だ。
「もちろん読みました。私生活のことも書かれていましたが、ほとんどが柔道のことです。俺は柔道以外のことが知りたいんです」
「わしの口からは言えん。言えることは本に書いてある」
電話は切れた。ここまでして語りたくないこととはなんだろうか。受話器を見つめる耕作。
「あ!」
耕作は柔に電話したはずなのに、滋悟郎と話して終わってしまった。もう一度かけたとして同じ部屋に滋悟郎がいるんじゃ、柔も落ち着いて話せないだろう。ジョディの言葉も気になるが今回は諦めて、柔が日本に帰ったらあらためて電話をしよう。
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三葉女子短大柔道部
vol.1 三葉女子短大のお友達
ハミルトンから帰国して1週間後。柔は都内の怪しげな店に恐る恐る入っていた。室内は暗く、照明は所々色がついていて不気味だ。半個室のようなソファとテーブルには薄いカーテンがあり、人がいるのかさえわからない。店内の音量も大きく、近づかないと声も聞こえないような場所だ。
そんな店内を通り抜け、柔が向かったのは完全な個室。VIPルームと書かれたその場所の先はゆったりとしたソファと比較的明るい照明と観葉植物が安心感を与えてくれた。
「柔ちゃ~ん。こっちこっち」
いつ見ても零れ落ちそうなバストが目につく小田真理ことマリリンが手を振る。その横には南田陽子がいて向かいには相変わらず細く小さい日陰今日子とその三倍はありそうな四品川小百合がいる。ソファが早百合の方が埋もれてキョンキョンが浮き上がって見えるのは不思議だ。柔は開いている席に座った。
「遅れてごめんね。部屋に入るまでここで合ってるか不安だったわ」
「こんないかがわしい場所を選ぶなんて。あんた何考えてるのよ」
「煩いな~いいじゃない。ここだと人目気にせず話せるもの。あたしはこれでも女優だからいつ誰が聞き耳立ててるかわからないから怖いのよ」
「心配なのは猪熊さんです」
キョンキョンがそういうと早百合も南田も頷く。
「あたしも心配してよ~」
「で、ここは何なの?」
「ここはあたしの知り合いの知り合いの店なの。今日はあたしのために部屋を貸してくれたのよ。感謝しなさい」
そんなこと言われても明らかに怪しい店でくつろぐことは難しい。特に柔と言う有名人がいるので何かあってからじゃ、取り返しがつかない。
「そんなに怖がらなくても平気よ」
マリリンはウインクしてワインを一口飲んだ。こういう場所にいることが不自然でもなければ、違和感もないのだろう。だが他の四人は居心地悪そうにワイングラスを持ち上げ、小さく乾杯をして口に入れた。
「ところで、今日は何の用事なの?」
南田がそう言うと柔はグラスを置いた。そして耕作が本を出そうとしていることを説明し、そのためにみんなの協力がいることを話した。
「松田さんからはこの前、下書きが届いたの。みんなのところを抜粋してふせんしてあるから読んでほしいの。何か違ってるところとかあれば訂正して欲しいみたい」
一部しかない下書きだが、小百合から今日子、南田と順に読み最後にマリリンの手に渡る。
「え~これだけ~」
「突然大きな声ださないでよ」
相変わらずマリリンに鋭い南田。
「だって~あたしのことほんの数行しかないじゃない。もっと活躍したでしょ」
「あんた! 何をもって活躍したなんて言えるのよ」
「応援もしたし、練習相手にだってなったじゃない。それにカメラを沢山向けさせたわ」
「それはあんたのイヤらしい体にむいただけよ。そもそもこれは柔ちゃんの本なんだから、あたしたちの出番が少ないのなんて当たり前でしょ」
「それでも悔しい~」
「書いてもらえるだけありがたいと思わないといけませんよ」
小さな声で今日子が言う。
「あたしは何でもいいけど。何か食べ物頼んでいい?」
相変わらずの小百合に、場の雰囲気が変わる。小百合はメニュー表を貰って手当たり次第注文する。ここの支払いがマリリンのカードだと知ってもう規制するものはないようだ。
「ところで柔ちゃん。松田さんとはやっぱり付き合ってるの?」
南田の質問は柔も予想していたことなので、ここでは素直に頷く。
「えーやっぱりそうなんだ!」
マリリンがうるさいが、他三人は特に驚くことも無い。
「授与式であんな騒ぎ起こしたのに『知り合い』ですますんだもの。でもまあ、仕方ないわよね。あの時、恋人ですなんて言ったらそれこそ大騒ぎ。松田さんも仕事どころじゃなくなるわね」
「うん……ごめんね。みんなにも言い出せなくて。松田さんにも迷惑がかかるからまだ内緒なの。知ってるのは本当に限られた人だけ」
「猪熊さんは松田さんを守ってるんですね」
「そういんじゃないけど。どうせ離れてるんだし、言う必要もないと思って。日本にいたらすぐに記事にされるから、公表もしただろうけど」
「寂しくないですか?」
「寂しいけど、仕方ないもの。松田さんのお仕事を応援したいし、あたしは柔道を頑張りたいし」
「どっちから告白したの~?」
「え!? それは松田さんの方から……」
「やるわね! もう絶対言わないんだと思ってたわ」
「あたしも~」
「あたしもです」
小百合はピラフを口に流し込みながら無言で頷く。
「どうして?」
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vol.2 松田を分析する女子たち
「どうして?」
「だって、松田さんはずっと柔ちゃんしか見てなかったのよ。多分、短大に入る前から。あたしたちを見る目と柔ちゃんを見る目は全然違うもの」
「取材対象の域を超えてるように見えることもありましたね。でもどこかで自制しているようにも見えました。取材対象以上にしないようにわざとふるまってるようなこともありましたし」
「そうそう、わざわざ柔ちゃんが怒るようなこと言わなきゃいいのにさ、松田さんって不器用で真っ直ぐだから言っちゃうんだよね」
「優しさが伝わりにくいんですよ。鶴亀トラベルの社長さんに厳しいことを言った時も、松田さんは猪熊さんの金メダルの記事を書きたいと素直なことを言っただけで、それが猪熊さんのことを考えての発言だったのに伝わりませんでしたね」
「風祭さんのせいよ~」
「横やりいれたものね。あたしだってあの時、柔ちゃんの就職を応援してたから嬉しかったけど、今社会に出て思うのはやっぱり鶴亀の社長さんもビジネスだったんだなってこと。あんな場所で会見開けば、柔ちゃんの宣伝効果で会社の評判は上がるのは目に見てるものね。その上、広告塔にでもして柔道を疎かにさせたら松田さんからしたら許せないことよね」
「そうですよ。猪熊さんを見つけたのは松田さんですから」
「でも、あの時本当にあたし傷ついたの。あたしの傍にいてくれるのも、応援してくれるのも自分の記事の為かと思うとあたしって何なんだろうって。松田さんのために柔道やってるわけじゃないし、あたしには柔道しかないのかっなって」
「松田さんはそう言う人よ。記者なのに言葉足らず。だから告白なんてしないと思ってた。松田さんが誰よりも柔ちゃんを神聖視してたから」
「でも猪熊さんは素直すぎて意地っ張りだけど、そういうところを見せるのって滋悟郎おじいちゃんと松田さんくらいじゃないですか? そういう素の部分に触れて松田さんはだんだん猪熊さんを女性として好きになったんだと思いますよ」
「だから離れるきっかけで告白できたのね。松田さんがずっと日本にいたら、きっと二人とも何も言わないままだったかもね」
「そんなことないわ。あたしだって色々行動してたもの」
「例えば?」
「会社に電話したり、アパートに行ったり……」
「アパートに行ったことあるの~?」
マリリンの声が大きくなる。興味津々と言った様子だ。
「へぇ、やっぱり部屋はぐちゃぐちゃ?」
「ええ。よくわかるわね。過去、松田さんの部屋に行くといつも片づけしてから、食事の準備」
「ごはんは何作ったの?」
「えっと、ビーフストロガノフとかラビオリとか、みそ汁とごはんかな」
「食器はどうだったの?」
「普通の白い食器よ」
「そうじゃなくて枚数よ」
「二組ずつあったわ」
マリリンと南田は目を合せる。
「どうしたの?」
「いつも部屋は汚かったの?」
「ええ、足の踏み場もないほど」
「じゃあ、柔ちゃんと出会う前か」
「え? 何が?」
「彼女がいたのがよ。じゃなきゃ、一人暮らしの男の部屋に食器が二つずつあるわけないじゃない」
そんなこと想像もしてなかった。食器がいくつもあることなんて当たり前だと思ってた。
「だって~私たちよりも5歳くらいは年上じゃない。過去に色々あっても不思議じゃないじゃない」
「でも、その様子からすると柔ちゃんと出会ってからは特定の彼女はいないってことね」
「特定のって……?」
「遊びの女ぐらいいたでしょ。じゃなきゃ、どうするのよ」
「松田さんに限ってそんな……」
「男なんてみんなそんなものよ。風祭さんがいい例」
「邦子さんも前にそんなこといってたけど……みんなは何かあったの?」
「あたしのことはイヤらしい目で見たわよ」
「それは男なら全員そうよ。でも、そうか何もないからいけないのか……」
柔は首をかしげる。
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vol.3 男の本能って……
「だから~風祭さんはね、さやかさんのお友達にも手を出してたのよ。紫陽花杯に出てたお嬢様たち。それってさやかさんのことを婚約者として大切に思ってなかったってことでしょう。でもあたしたちには何もしなかった。こんなに魅力的なあたしにもよ。つまり、柔ちゃんには本気だったってこと」
「マリリンあんた余計なこと言わなくていいのよ。今更風祭さんのことを知っても柔ちゃんには関係ないし、風祭さんは柔ちゃんを本気で好きだった間でもとっかえひっかえ女と遊んでたのは分かり切ってることだもの」
「男の人ってそう言うものかな……」
柔は不安になる。
「松田さんは違うと思いますよ」
今日子が静かに口を挟む。
「あんなに一生懸命猪熊さんを応援して来た人ですから。後ろめたいことがあったらそんなこと出来ないと思います。だから信じていいんじゃないでしょうか」
「キョンキョン……」
「だから~男の性欲なんて何の後ろめたいことも無いんだってば。動物的本能よ。定期的に処理しないとそれこそ問題よ。いつも一緒のカメラウーマンなんかべったりしてたし、いい相手だったんじゃないの」
「それはないです。邦子さんとは何もないです」
「本当~」
「前にそんなようなこと言ってたので。はっきり聞いたわけじゃないけど」
「松田さんにだって過去に女の一人や二人はいたはずだし、それを聞いたからって嫌いになるわけじゃないでしょ。問題なのはこれからよ。付き合ったはいいけど離れ離れで、浮気するなんてこともあるから。自分の物になった途端、男は彼女を大切にしないものよ」
「それはナンダの彼氏だけでしょ。あたしは大切にされるもん」
「うっさい!」
「猪熊さん、花園くんを見たらわかると思いますが一途に人を思う人もいます。だから松田さんもそうだとおもいますよ」
「あたしもそう信じてる。ありがとう、キョンキョン」
今日子は優しく微笑む。影が薄い子だったけど、今ではみんなの癒し役のようになっている。
「やっぱりみんなと会うと元気でるな。富士子さんがいないのが残念だけど」
柔はしみじみ思う。柔道を通してできた友達は、卒業しても変わることなく応援してくれるし柔自身も大切に思える。
「富士子さんは静岡の実家に帰ったんでしょ。花園くんと一緒に。それもそれですごいわよね。富士子さんのご両親、結婚に反対だったじゃない。こんな風に実家に帰ること快く思ってないんじゃないの」
「どうだろう。なんだかんだでフクちゃんは可愛いだろうし、花園くんも学校の先生になるために試験とか受けてて頑張ってるし。そんなに悪く思ってないんじゃないかしら」
「だと、いいけど」
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vol.4 楽しい時間
その後、食事をしながら最近の仕事や恋愛の話題になり、短大時代に戻ったような楽しい時間を過ごした。そしてどういうわけかまた柔道の話題に戻って南田が最後の試合のことを持ち出した。
「ねえ、あの卒業記念試合覚えてる? 松田さんが滋悟郎おじいちゃんに騙されてすごい強いフランスチーム連れて来ちゃって、すごい反省してたわ。相手のデータまでくれて必死だった」
「あの時はナンダが松田さんをすごい剣幕で責めてたわよね。ああいうところが男にモテないところなのよ」
「うるさい! 言うべきことは言わないと男は分からないのよ」
「松田さんは結局、猪熊さんが西海大に編入することを望んでいたけど、あたしたちの頑張りや猪熊さんの気持ちを知って協力してくれましたよね」
「あーなんだかんだで結局、松田さんっていい人だったのよね。マスコミの人なのにお人好しって言うか、汚い部分がないって言うか。あたし、この業界にいるからわかるんだけど、ニコニコしていいことばかり言う人って信用できないのよね。松田さん、全然タイプじゃないけど1回ぐらい……」
「マリリン! 何言おうとしてるの! それに松田さんがあんたなんかになびくわけないじゃない。柔ちゃん一筋なのよ!」
「そーいうナンダも狙ってたりして!」
「バカ言うな! ありえないわ。柔ちゃん安心してね。そんなこと微塵も考えてないから」
「う、うん」
そう言いながらも何だか心配になる。今更、ここにいる友達が恋のライバルになるのは何だか変な感じだからできればやめてほしい。
「色々ありましたが、どれもいい思い出です。こんなあたしが柔道やってしかも試合に勝ったなんて言うと、職場のみなさんも驚いてくれてひ弱そうで気を使われなくてすむんですよ」
「そうよ。あたしも警察学校では基礎をやってたから柔道は楽勝だったし。その柔道通じていい出会いだってあったわ」
「あたしも柔道には感謝してるのよ。今のあたしがあるのはやっぱり短大で柔道やってたおかげだもの。胸が大きいだけじゃなくて引き締まったお尻とお腹がより体の線を強調してね……」
「もーいいから黙ってマリリン」
「あたしも! 柔道やってたっていうと沢山食べても仕方ないって思われて、お菓子貰えるのよ」
「みんな短大の1年半の柔道部の思い出や経験が今も何かの役に立ってるんだね。あたしはそれだけでもうれしいわ」
「富士子さんはその最たる人だもんね。結婚もオリンピックのメダルも手にしたし。柔ちゃんは幸運の女神よね」
「だから今度は猪熊さんが幸せになってください」
「松田さんと!」
小百合もさすがに食べる手を止めた。するとマリリンが席を立った。
「ちょっとトイレに行ってくるわ~」
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vol.5 マリリンの大切な物
マリリンが部屋を出ていくと、南田が口を開く。
「マリリンってさ、あのビデオの出演も天職だって思ってるみたい。あたしたちとは感覚が違うけど、それも仕方ないわ。でもね柔道を大切に思ってるのは本当で、どんなことがあってもマリリンはあのビデオに柔道を利用しないのよ」
「どういうこと?」
アダルトなビデオのことは知っているが実際にどういうことがされているのか柔はよく知らない。柔道を利用するとかしないとかってあるのだろうか。
「柔ちゃんの友達だし、柔道経験者だから絶対に企画の中で柔道がでるはずよね。例えば道場で道着を着たままはじめちゃうみたいな。でも、そう言う内容のビデオってないのよ」
「チェックしてるんですか?」
「違うわよ。マリリンが言ってたの。多分、ちょっと酔ってたのよね。送り届けてるタクシーの中で『ビデオに柔道は使わない』って言ってたの。なんでか聞いたら『あの場所は神聖だから』だって。あの子にとってもいい思い出なのよ」
「そうなんだ……」
みんなの中で短大時代の柔道の思い出が、輝いていることを柔はとても誇りに思う。自分は柔道をやっていたことを高校も短大でも隠そうとするほど嫌っていたのに。
「あー柔ちゃんが泣いてる! 誰が泣かしたの?」
戻ってきたマリリンが大きな声で言うと、一斉に柔の方を向いた。
「ごめんね、なんか嬉しくて。みんなが柔道を好きでいてくれてよかったなって思ったの。あたし柔道を通じた友達ってみんなが初めてで、何年か経ってやらなきゃよかったなんて思ってたら悪いなって思ったから」
「もう、バカね。そんなこと思うわけないじゃない」
「そうですよ。感謝してるくらいです」
「あたしも。あの時が人生で一番痩せてた」
「柔ちゃんは真面目に考え過ぎよ~。もっと楽しく生きなきゃ損よ」
「あんたはもっと真面目に考えなさい」
こういうやり取りさえも愛おしい。都内に住んでいながら会えるのは年に一度くらい。今回は富士子もいなくて寂しいが、やっぱり集まれば楽しい。またみんなでおしゃべりできたらいいなと柔は笑う。
「あ、柔ちゃん笑ってるわ」
「あたしのお陰よ~」
柔たち5人は時間も時間なので、店を出ることにした。怪しげな店内を歩いて外に出ると、夜風が少しだけ冷たい。もう秋は目の前だ。
「お会計は本当にマリリンに頼んでもいいの?」
柔は心配そうに聞く。怪しげな店で個室の貸切は結構高くなりそうなのだが、それが申し訳ない。
「いいのよ~あたしのお金じゃないもの。気にしないで~」
屈託なく笑うマリリン。甘えても大丈夫な様子なので御馳走になる。とりあえず駅に向かうかタクシーに乗るかを話しながら歩き出すと、正面から長身の男性が歩いてきた。道路を塞ぐように歩いていた5人を今日子が避けて歩くようにいい、すれ違いざまに声が聞こえた。
「猪熊さん?」
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vol.6 不気味な影
「猪熊さん?」
「は、はい!?」
人通りが多いわけではないこの道で、偶然出会ったのはハミルトンに応援に来たツアー客の西野だった。
「あーやっぱりそうだ。偶然だね。お友達と食事会?」
「ええ、まあ」
「三葉女子のみなさんじゃないですか?」
「あたしたちのこと知ってるの?」
「そりゃ、猪熊さんのファンなら当然ですよ」
「ふーん」
「それじゃあ、夜道気を付けてくださいね。猪熊さん、柔道頑張って」
「ありがとうございます」
西野は夜の闇に消えるように遠ざかる。まさかこんなところで会うなんて思わなかった。案の定、どんな関係なのか聞かれたので「お客様」とだけ言った。何か不穏な空気を感じたのか、マリリンがタクシーを止めて柔を強引に押し込んだ。
「これ、タクシーチケットね。じゃあね~」
「え? マリリン。どうしたの、急に?」
「丁度タクシー来たからよ。早く行かないと渋滞しちゃうわ」
柔が窓から出した顔を引っ込めるとタクシーは発車した。手を振るマリリンを柔は困ったように見つめた。
マリリンは笑顔で見送り、その後ろから南田が小声で話す。
「あんたも気づいたの?」
「当然じゃない。あんな目つきのやつ、そうはいないわ」
「冴えてるじゃない」
「この業界にいるとよく出くわすの。ああいう怪しいヤツ。だんだん目つきでわかるようになるわ」
「あたしも署内で見るわ。あの目は危ない。あ、ごめん。二人にはよくわからないわよね」
南田の作り笑顔に反するように、今日子と早百合の顔は硬直していた。
「あの人、見たことあります。幼稚園の行事で何度か見かけました。園児の父親かと思ってたんですけど……」
「あたしもデパートで見かけたことあるわ。妙に印象に残ってるの」
今日子も小百合も西野を見たことあるという。しかも印象に残るほど、異質なものを感じたようだ。
「目がよく合うんですよ。普通は自分の子供を見てるじゃないですか。でも、あたしはよく目が合うなって思って……」
「あたしもそうよ。よく目が合うの。でもね何も買って行かないからおかしいなって思うの。一人でいるし食べ物にも興味なさそうにしてるのよね」
「今日も偶然かしら?」
南田のその言葉に全員背筋が凍る。熱狂的なファンと言うのは存在する。マリリンもそう言う経験があるからこそ、気づいたのだ。そして南田の警察官としての勘も動く。
「柔ちゃんに警告だけでも出しておいた方がいいわよね」
マリリンが提案する。だが、本当にただの偶然でただ目つきが悪いというだけかもしれない。下手に怖がらせてしまうのも良くないと言う今日子と小百合だが、南田はマリリンに賛成する。
「柔ちゃんは確かに強いけど、不意に男に掴まれたら、しかも悪意を持って襲われたら抵抗できないかもしれない。有名人になって警戒してるかと思ったけど、おっとりした性格はそのままだったわ。危ない目に遭う前に言っておくべきだわ。あたしが警官として注意だけは促しておく」
「そうね。それがいいわ」
西野が歩いて行った方向を見ながら、寒気を覚えた。本当に暗い道だ。どこに向かって歩いているのかわからない。一人でフラフラ歩くような場所ではないのだ。
「こんな時に松田さんがいたらよかったんですけど……」
「肝心な時にいないのが松田さんよ」
いない人を頼っても仕方ない。今出来る事をしようと、全員で決意し今日は解散した。
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ロサンゼルスの奇跡
vol.1 日系二世
耕作は今、ロサンゼルスにいる。10月といは言え日中気温は25度ほどあり、日差しも強い。半袖から伸びる腕は、また黒く日焼けし始める。ドジャースを取材するためにはるばるNYからやってきたのだが、目的はもう一つあってそれは次の日に時間を取っていた。
日本を離れて1年以上。耕作が歩くこの街はどこか懐かしいが、どこか違う。それも仕方のないことだが一緒に歩くジェシーはワクワクを隠し切れない様子で、あちこち首を動かしては楽しそうに街を見ている。
ここはドジャース・スタジアムから南に数キロほど言ったところにある、リトル・トーキョー。19世紀の終わりから日本人が移住を始め、街を作った。一時期はゴーストタウンと化したこの街は戦後、再び活気を取り戻したが日本の好景気が終焉を迎えると同時に観光客が激減し街の雰囲気は変わってしまったようだ。
「コーサク、ここよ」
路地裏の古い建物をジェシーは指さす。夏のような暑さだから仕方ないが、あまり薄着だと先方にも失礼じゃないかと耕作は不安になる。しかし耕作も人のことは言えない。救いは今回同行してもらっている「リテラリーエージェント」のスミスがきっちりとしたスーツを着ていることだ。
リテラリーエージェントとはアメリカで本を出版するときに、出版社に原稿を売り込んだり、契約や交渉、著作権を管理する代理人のことだ。日本とは違う出版事情を知った耕作は「スパイス・ガーデン」で相談を持ちかけジェシーがスミスを紹介してくれたのだ。
そのスミスの案内でやってきたこの場所こそが耕作の本を出してもいいと言ってくれた出版社「パイン・フラット社」だ。建物自体は大きいが古く、コンクリートで出来ている外壁に、いかにもアメリカらしい造りの外階段が目に入る。その三階部分にオフィスを構えているようで、階段で三人は上がった。
「やあ、いらっしゃい」
出迎えてくれた男性は白髪交じりの髪をオールバックにして、良く焼けた肌に笑い皺が浮かぶ目じりで笑顔であいさつした。歳は50代半ばくらいだろうか。スミスとジェシーにあいさつをして握手をした後、彼は驚くことに日本語であいさつをした。
「初めましてコーサク。私はシゲル・マツダイラ。日系二世でこの会社の社長をしています」
あまりに流暢な日本語に耕作は驚きを隠せない。日系人とはいえ日本語を話せない人は多い。特にアメリカで産まれ育って日本との繋がりもない人は日本と言う国の場所さえもわからないという。だがシゲルは日本人と同じような日本語を話す。
「日本語がお上手ですね」
「父に叩きこまれました。日本人たる者、日本語を忘れてはいかんと。父も言葉を大切にする職業でしたので尚更です。ささ、立ち話もなんですから中にお入りください」
まるで日本のような出迎えと案内だ。だがオフィスは普通にソファとローテーブルがある、いかにもオフィスと言った様子で何人かの社員はデスクで仕事をしているようだった。
「今は日本の映画や文学を紹介する冊子を作っているんです。このリトル・トーキョーでも日本らしさを忘れないために、常に日本の今を見つめては取り入れているんですよ」
「翻訳をされているということでしょうか?」
「少しですが。日本の文学は優れているのに、英語に訳す能力が低くてアメリカ人に伝わりにくい。内容が難解であるのに、書いてあることがわからないんじゃ誰も手に取りませんからね」
「日本の英語力はあまり上がってないですからね。俺もこっちに来るまではカタコトでしたよ。今も上手とは言えないですけど」
「だったらうちの会社が役に立ちますよ。出版予定の原稿は全文英語で書かれるということですが、私とあと二名、日本語と英語がわかるものがおりますので校閲をかねて誤訳があれば訂正していきます」
「それは助かります。まだまだ勉強が足りないので。ところで、どうして俺の本を出してくださるんですか?」
「不思議ですか? 私は日系人ですよ。しかもリトル・トーキョーの住人だ。日本を愛しているし、私に流れる日本の血を誇りに思っています。だからこそ去年のバルセロナ五輪の女子柔道には胸が熱くなりました。あんな小さな女性が自分の倍以上はあるだろう、西洋人を投げ飛ばすんです。日本人の血が騒ぎますよ。そんな彼女の生きてきた道を知りたいと思うのは当然のことです」
「彼女の柔道は魔法ではありませんよ。彼女の長年の鍛錬の成果です。それを俺は多くのアメリカ人に知って欲しいと思いました」
「わかります。私の父も柔道には詳しかったですが自分がやるわけじゃないから、柔道とは何かを伝えることが難しいとよく言っていました。ヤワラを見ていると父がよく言っていた『柔よく剛を制す』を見た気がします。しかしそれも伝えることが難しい。でも、長年ヤワラを取材し続けてきたコーサクならそれが出来ると思ったんです」
「俺自身もそう思います。柔さんのことを書けるのは俺だけだと。ところでお父さんも出版業をなさっていたのでしょうか?」
「ええ。コーサクと同じくスポーツ記者ですよ。日本で記者をしていてとある柔道家に出会い、そしてその圧倒的な強さに度肝を抜かれたと言っていました。そしてその彼に師事したアメリカ人が36年のベルリン五輪のレスリング代表で出場したんですが、あえなく準優勝に終わりその世界の強さを知ったと言っていました。だから父は渡米し、スポーツを取材したと」
戦前の日本人がアメリカに渡るということは今とは比べ物にならないほどの、決意が必要だっただろう。それでも取材したいと思った海外のスポーツ事情はいずれ日本が勝つために必要になるだろうと考えたからだろう。記者は伝えるだけだが、それを受けとる側がその情報をどう利用するかは勝手だ。相手の強さや戦略、稽古の仕方などを知り参考にすることが強豪国に近づける近道だ。
「ですが、その後戦争がはじまり帰国のタイミングを失いました。父はこのままアメリカに残ることを選び、日本人向けのフリーペーパーを作ったりしながら待っていたんです」
「一体何を?」
「オリンピックで柔道が行われるその日を。そしてそれが念願かなって64年の東京オリンピックで追加されると聞いたときには、父は泣いて喜んだと言います」
「そこまで思い入れがあったんですね」
「もちろんです。父は幻に終わった40年の東京オリンピックで柔道が追加されると思っていました。そしてそこで父が圧倒された柔道家がその強さを世界に知らしめる舞台になると思っていたからです」
表情を曇らせるシゲル。1940年の東京オリンピックは支那事変の影響により開催権を返上し、アジア初のオリンピックは実現せず、東京五輪はそれから24年後に開催されることとなった。あの時涙した国民にとっては悲願の五輪だったことだろう。
「でも、64年の東京五輪に彼はもう出場できません。父はとても残念がっていました。もう一度彼の勇姿を見たかったと言っていましたから」
「あの、先ほどから出ている柔道家とは一体誰のことなんでしょうか?」
シゲルは耕作を見て、得意げに微笑む。その目には輝きが宿る。
「ジゴロー・イノクマですよ」
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vol.2 繋がる人の輪
「ジゴロー・イノクマですよ」
耕作は一瞬息が止まった。ここに来てその名前。何かの導きとしか思えない。
「滋悟郎さんとシゲルさんのお父さんは知り合いだったんですね」
「ええ、いつも一緒にいて取材していたと言います。全日本柔道選士権で初優勝した時にもその場で取材していたと言っていました」
「それから五連覇するんですよね」
「そうです。でもその前に父は渡米しましたが……」
「ねえ!盛り上がってるところ悪いんだけど、そろそろ英語で話してくれない?」
ジェシーが苛立った様子で口を挟んだ。まだまだ話したいことはあるが、仕事の話を先にしておかないとスミスにも悪い。耕作は英語でシゲルと会話を始める。
「柔さんの本を出してくれる理由はわかりました。俺もこの偶然に何かの導きすら感じます」
「私もです。スミスから電話を貰った時、最初は柔道を良く知りもしないアメリカ人が書いたのだろうと思ったのですが、私が日本に行ったときに購入した新聞の記者と同じ名前だったこともあり是非にとお受けしました。うちは小さな出版社ですから、最初はそんなに部数は多く出せませんし置いてもらえる書店も少ない。それでも構わないでしょうか?」
「ええ、もちろんです。出していただけるだけありがたいです。実を言うと、もう何社も断られてまして、出版は不可能かと思っていたところなんです」
「そうでしょうね。アメリカはまだまだ差別的なところもありますし、ビジネスには厳しい。柔道もさほど人気のスポーツではないから売れないかもしれないと思うのでしょう。五輪の直後ならまだしも、もう一年経って出版する頃にはもっと経ってます。人々の記憶から消えてしまっています」
「そうなんです。残念ですがそれが現実です。だから俺はもう一度、アメリカ人に日本人の強さを知って貰いたい。柔道は、滋悟郎さんの柔道は一本を取る柔道。勝てばいいだけじゃない。いかにして勝つか。その内容も問われ、例え勝ったとしても見苦しい試合をしたならばそれは勝ちではない。心で負けたということなんです」
「その通りです。私もそう言った精神的な部分をもっと世界中に知って欲しいと思っています」
「だから俺はこの本で一本とるつもりでいます。誰も見向きもしなかった本だけど、きっと多くの人に読んでもらえると信じています。だからご協力をお願いします」
頭を下げる耕作に、シゲルは握手を求める。目指す場所は同じ。柔道を知って貰うために、力を尽くすこと。今は柔のことを書くだけだが、後々にはもっと深い柔道の本を書くのもいいかもしれない。滋悟郎の「柔の道は一日にしてならずじゃ」を翻訳するのもいいかもしれない。とにかく、進まなければ意味がない。
この後、スミスとシゲルは契約についての話が行われ、耕作が不利になるようなことは一切ない公平な契約を結ぶことが出来た。そして時間の許す限り耕作はシゲルから父親のことを聞いて、そしてあるものを手渡されオフィスを出た。外はとっくに夕暮れ時で、少し風が冷たいくらいだ。
「話しは終わった?もう帰るよ」
ジェシーがそう言うと、耕作は頷いた。その瞳はまっすぐ前を見つめていた。
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vol.3 松平の思い
NYに戻って直ぐに猪熊家に電話を掛けた。柔から貰った腕時計を見ると、まだ日本は昼間だとわかる。柔は当然仕事に言っているだろうが、滋悟郎はいるだろうか。期待を込めてコール音を聞いていると、いつもの調子で電話に滋悟郎が出た。
「もしもし、猪熊ぢゃ」
「あ、あの、日刊エヴリーの松田です。滋悟郎さんですよね」
「そうぢゃが、なんの用ぢゃ。昔のことはもう何も話さんと言ったぢゃろ」
「そうなんですが、確認しておきたいことがあって。あの、朝讀日々新聞の松平と言う記者を知っていますか?」
電話の向こうから返事がない。切れたのかと思うくらいの沈黙が流れるが、何も聞こえないことが通じていると言うことだ。
「……知っておる。わしが若い頃にわしに引っ付いて取材しておった記者ぢゃ。そやつがどうした?」
「彼の息子さんに会いました。そしてお話を伺いました」
滋悟郎は再び沈黙する。それは友を案じていたからこその沈黙だ。
「そうか。アメリカで生きておったか。戦争が始まってどうなっておったかと思ったが、生きておったのか」
いつもと様子の違う滋悟郎に耕作は話を続けるべきか一瞬迷ったが、言っておいた方がいいことだと思い続けた。
「松平さんはアメリカでも記者をしていたそうです。日本のスポーツ界のために出来るだけのことをしようとしていて、特に力を入れていたのが女子柔道だったそうです」
「どういうことぢゃ?」
「日本の女子柔道は長いこと今のような試合をする柔道ではなかったと聞きました。しかしアメリカも含め、海外ではすでに女子も男子と同じく試合をして勝ち負けを決める柔道をしていたそうです。現に第一回の女子の世界選手権はアメリカで行われています。松平さんはこの事だけでも日本の遅れを危惧し、そして女子柔道が世界的に普及する、つまりオリンピックの競技種目に加えられるには日本人が目覚めるしかないと思っていました」
「なぜそこまで女子柔道に力をそそいだのぢゃ。あやつはわしを取材しておったのに」
「カネコさんですよ」
「カネコぢゃと」
「相当お強かったと聞いています。ですがあの時代、女性の柔道は違うもの。でもカネコさんは男子柔道を馬之助先生から教わっていたんじゃないですか。それを松平さんは知っていたんです」
「そうぢゃ、カネコはダンスのような柔道ではなく本当の柔道を学んでいた。馬之助先生直伝のキレのある美しい柔道ぢゃ。柔なんぞ足元にも及ばんわい」
「カネコさんは松平さんに言ったことがあるんです。『いつか女性でも試合に出れる時がくるんでしょうか』と。どういう気持ちでそれを言ったのかはわからないそうですが、ただ寂しそうにつぶやいたと言います」
時代が時代ならカネコもオリンピックで金メダルを取れたかもしれない。でも、カネコはメダルが欲しかったわけじゃないだろう。
「アメリカ人女性の柔道家にも女子柔道を広めたいと思う人がいて、彼女と共に行動を起こしていたと言います。主に彼女が先頭に立っていたようですが、松平さんも手を貸して世界選手権の開催にもこぎつけたと言っていました。その後のソウル五輪での公開競技やバルセロナ五輪での正式種目となった時もとても喜んだといいます」
「陰で力になってくれておったのぢゃな」
「そうです。松平さんはソウル五輪での柔さんの活躍を見て、日本の女子柔道界の変化に歓喜しそしてバルセロナ五輪での柔さんの二階級制覇という偉業に震えるほどの興奮したと言います。もちろん柔さんが滋悟郎さんの孫だと言うことも知っていたそうです」
「取材にこれば良かったものの。何をしておったんぢゃ」
「松平さんは数年前から病に倒れて、去年、柔さんの国民栄誉賞受賞のニュースを知って微笑みながら亡くなったそうです」
「そうか……もう松ちゃんはおらんのか……」
「滋悟郎さん?」
「松ちゃんはの、わしを最初に取材した見る目のある男ぢゃった。最初こそわしの強さを疑っておったが、わしのあまりの強さに度肝を抜かれて連日取材しに来ておった。カネコとの仲も取り持ってくれての、家族のようにしておったんぢゃ。ところが突然、アメリカに行くと言いおってな。その度胸の大きさにわしは驚いたほどぢゃ」
昔のことは話さないと言っていたが、滋悟郎の口からはいつもとは違うトーンで昔話が語られる。そこに嘘や演出は聞こえない。
「わしがたまにお前さんを松ちゃんと呼ぶのは、お前さんが松平に似ておったからなんぢゃよ」
「俺が?」
「そうぢゃ。最初の頃はただのゴシップ記者にしか見えんかったがの、柔を追いかけている姿はかつてわしを取材しておった松平によう似ておる。だから時々、松ちゃんと言ってしまっておったのぢゃ。名字も似ておるし、今思えば顔も似ておるような気がするの」
「偉大な先輩に似ていると言われて俺も光栄です」
「じゃが、お前さんはまだまだぢゃ。松ちゃんほどの記者になった時、わしはお前さんを『松ちゃん』と正式に呼んでやろう」
「そう呼んでもらえるよう努力します」
「要件はそれだけか?」
「あと、もう直ぐそちらに荷物が届くと思います。中には松平さんの手記のコピーが入っています。是非、滋悟郎さんに読んでほしいと息子のシゲルさんが言いましたので送りました」
「松平の息子はシゲルと言うのか。そやつも記者をしておるのか?」
「いえ、彼は出版社の社長をしています。今度俺が出す本の出版元になります。ちなみにシゲルさんの漢字名は滋悟郎さんの『滋』でシゲルというそうですよ」
「お前はまたそういうことをサラリというのう……」
「すみません。では要件はこれだけですので……」
「おお。達者でな、日刊エヴリー」
電話は切れた。いつもの滋悟郎とは違った様子であったことは、電話越しでも伝わった。それほどまでに影響力のあった人だということだ。松平という記者は。
滋悟郎が話す昔話はおおよそ自慢話と演出過多で真実が見えにくいことが多いが、悲しみを隠すためにそうしていることもあるのだ。きっと滋悟郎は悲しい話は好きじゃないのだ。明るく楽しく、強さを求めて生きる人生だったから。きっとカネコが亡くなった時も、人前では決して弱気な姿は見せずにいただろう。そうすることで、より精神が鍛えられたのかもしれない。
◇…*…★…*…◇
数週間後、耕作のNYのアパートに小包が届いた。送り主には「猪熊滋悟郎」と筆で書かれた後、横に「Jigoro Inokuma」と恐らく受け取った運送業者の受付辺りが書き加えた可愛い文字が書いてある。耕作は慌てて蓋を開ける。中には厳重に包まれた冊子があり、手に取るとそれが日記であることがわかった。
『カネコの日記ぢゃ。わしのことも書いてあるぢゃろう。わしは読んだことはないが、お前さんになら読まれても構わないとカネコも言うと思って送った。失くしたら羽交い絞めにするから覚悟しておけ』
同封された手紙にそう記されていて、思いがけない過去への道しるべを見つけて耕作はその手が震えた。そして既に目を通していた松平の手記と合わせてカネコの日記を読み、滋悟郎の過去を知ることとなる。
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ミラクル・ガール
vol.1 武蔵山高校のお友達
柔は今とても好調だった。仕事も柔道も、英会話も友人関係も上手くいっている。唯一不満を上げるなら恋人の耕作と会えないことで、それが精神面に最大に影響を及ぼす。しかし11月に入った今、去年と同様にクリスマスに会いに行くつもりでいることを耕作に伝えると、とても喜んでくれたことでもう少しだけ精神的安定を延長出来た。
「柔、電話よ」
日曜日の午後。部屋でファッション雑誌を読んできた柔は、階下から聞こえる玉緒の声に「はーい」と返事をして階段を下りた。
「誰から?」
「多分、高校のお友達の清水さんじゃないかしら?」
「清水? 何だろう? ありがとうお母さん」
受話器を受け取る柔。清水とは高校の同級生で細身で長い黒髪が印象的な柔の友達だ。高校を卒業してからも何度か会ってはいたが、短大で富士子と出会い柔道部を始めてからは何かと忙しく、会うことはなくなった。年賀状だけは毎年送っていたが、特別連絡を取ることはなかった。喧嘩したとかそう言うことではないが、会う努力をしないと人ってなかなか会えないものなのだ。
「もしもし、清水? 久しぶり。どうしたの?」
「あ、柔。久しぶり。突然、ごめんね。あのね、ちょっと相談があって」
「何?」
柔はこの時、ジョディの言葉が頭をよぎった。
『利用しようとする人、大勢やってくる。利用されてお金を取られることもある。信用してた人も裏切る』
でも柔はそんなことはないと振り払い、清水の話に耳を傾ける。
「あのね、かおりのこと覚えてるわよね?」
かおりとは柔とよく一緒にいた、大柄な体格の友達だ。ひったくり犯を巴投げした記事が出て、学校で大騒ぎになった時もかおりは体を張って柔をかばってくれた。優しくて姉御肌で柔にとっては頼もしい友達だった。
「もちろんよ。ここ数年は会ってないけど、年賀状のやり取りはしてるわよ」
「そのかおりの様子が最近おかしいらしいの」
「様子がおかしい? どういうこと?」
「あたしもね最近は会ってなくてね、状況はよくわからないの。和美から聞いた話だし。それでね、柔も交えてかおりの今を話したいって思ってるの。柔は忙しいだろうから無理かもしれないけど、かおりと一番仲良かったのは柔だからかおりのこと一緒に考えて欲しいんだけどどうかしら?」
「今はそんなに忙しくないから構わないけど……そんなにかおりに変化があったの? 心配するような何かが?」
「和美が言うにはそうらしいわ。でも電話で話すような内容じゃなくて、会って話したいっていうの」
和美は大きな眼鏡をかけたショートヘアーの友達だ。彼女とも年賀状のやり取りをしている程度で、ここ数年は会うことはない。
「わかったわ。いつ、どこに行ったらいいの?」
「うん、それがね……」
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vol.2 風祭進之介
約束は日曜日の午後7時。場所は都内のホテルを指定された。これだけでも不可解なのだが更にラウンジではなく部屋を取っているから、そこに来て欲しいと言われた。
さすがに柔も理由を尋ねた。
その日はホテルで和美が仕事をしていて、部屋を借りているから都合がいいという。それに柔は有名人で誰が聞き耳を立てているかわからない。デリケートな話題だからできれば聞かれたくはないという。話の内容を知らない柔はそこまでのことなのかと深刻に受け止め、承諾した。
家を出る時には玉緒に行先を告げて出て行った。夜も遅くなりそうだから、先に寝てていいからと言うと玉緒は「わかったわ」とほほ笑む。
そして電車を乗り継いでやって来たホテルを柔は見上げる。てっきりビジネスホテルだと思っていたが全くそんな雰囲気はなく、高級感漂う綺麗なホテルだった。
柔は指定された部屋に向かい、扉の前で立ち止まる。ここはどう考えてもシングルルームではないし、普通のツインというわけでもない。旅行代理店に勤めている柔はホテルの部屋にも詳しい。都内のホテル事情には疎いが、造りはどこもそう変わらないので階が上がれば高級になることは分かっている。和美が仕事をしていたというが、こんなところで何の仕事をしているのだろうか。この時柔は3人の今を何も知らないということを、不安に思った。
ホテルの廊下は静まり返っているがいつ誰が来るかわからない。立ち尽くしていても怪しいだけだと思い、チャイムを押した。少しして扉がゆっくり開いた。想像していた顔と全く違うが、見知った人が目の前にいた。
「柔さん!?」
長身で色素の薄い髪、細身だがしっかり筋肉はある体つきの男性。
「風祭さん!?」
二人とも立ち尽くす。言葉が続かないほど、驚いて固まる。その時、エレベーターの音がして歩いてくる足音がした。風祭はとっさに柔の腕を取り、部屋の中に入った。
「すみません。誰かに見られたら困ると思って」
「いえ、風祭さんの方こそ困りますよね」
風祭は名残惜しそうに手を離し、中に入る。上着は脱いでいて寛いでいたのか、少しアルコールの匂いもする。
「柔さん、そんなところにいないでこちらへどうぞ」
いつも通り紳士的な振る舞いの風祭。でも、柔は風祭と言う人の一部分だけを信じて憧れていた。だが別の顔があることを知った柔は、風祭を無条件で信用できる人とは認識していない。
「どうして風祭さんがここにいるんですか?」
扉の前で俯く柔は、どうしても聞いておかないといけなかった。ここに来たのは清水達と話をするため。それなのにその二人の姿はなく、風祭がいた。理由が知りたい。
「僕は知人に呼び出されまして、それで来たんですよ。まさか柔さんが来るとは思いませんでしたが」
「知人って、誰ですか?」
「数年前に知り合った人です。最近は連絡を取ってなかったんですが、先週相談があると言ってここに呼びだされました」
「あたしと同じです。あの、その知人ってあたしの……」
柔は顔を上げると、風祭がティーポットとカップをお盆に乗せ、柔の方を見て優しく微笑んでいた。
「そんなところにいないで、お茶でもしましょう。お互い外で会うには人目が気になりますから、こんなチャンスは滅多にないですよ」
相変わらずの笑顔。憧れの人はいつも柔の力になってくれた。欲しい言葉をくれて、いつも紳士で優しかった。でも、さやかのことははっきりしなくて、そのことで柔も自分の気持ちがはっきりしなかった。
バルセロナでプロポーズされたが、その時には耕作が好きではっきり返事が出来なかったことで罪悪感もあった。さやかと結婚したと聞いたときには、やはり冗談だったのかと肩の荷が下りたような気がしたが、彼がいつも言っていた「親同士が決めた結婚」だと言うことが引っかかっていた。もしかして、望まない結婚をしたのではないかと。
柔は廊下を進んで部屋に入る。大きなベッドが部屋の中央にあり、奥の窓側にソファとテーブルがあった。窓の向こう側には東京の美しい夜景が輝いていた。シックな内装は清潔に保たれており、ベッドも誰かが腰を掛けた形跡すらない。ただテーブルの上にはウイスキーのボトルとグラスが置いてあった。
「どうぞ、ここにあったものですけど」
「ありがとうございます」
柔はまだ警戒しているが、窓を眺める風祭がいつもと何か違う気がした。でも、一年ぶりに会う人の雰囲気が変わっていても、それは不思議なことじゃない。聞きたいことだけ訊いたら帰ろうと思っていた。しかし、先に口を開いたのは風祭だった。
「この前、NYで松田さんに会いましたよ」
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vol.3 紳士の裏の顔
「この前、NYで松田さんに会いましたよ」
この場所、この状況で聞くとは思わなかった名前に柔はドキリとする。悪い事をしているわけじゃないはずなのに、後ろめいたいような気持ちが鼓動を速める。
「そうなんですね。お元気そうでしたか?」
「ええ。柔さんの本を出すから、僕やさやかさんのことを載せてもいいかと許可を取りに来ましてね」
「そうみたいですね。お仕事もあるのに大変ですよね」
「ええ、アメリカは広いですからね。取材だけでも一苦労じゃないですか。それなのに柔さんの本を書くなんて、とても僕には真似できません」
「風祭さんもお仕事大変そうじゃないですか。景気が悪くなって本阿弥グループも影響が出てるんじゃないですか?」
「どの業種も苦しいですね。今までのやり方を変えないと、得るものも得られない。力の見せ所ですよ。柔さんも柔道は順調のようですね。世界選手権の優勝おめでとうございます」
「ありがとうございます。出場すら怪しかったのに、どういうわけか出れたのでホッとしました。ジョディとも会えて楽しい試合になりました」
警戒心が徐々に解け、柔は以前のように笑顔を見せた。その表情に風祭は胸を締め付けられる。本当に欲しかったものは手に入らなかった。いつもそうだと、風祭は思う。
柔道が好きで厳しい稽古にも耐えたのに、試合では緊張して力が出せずいつも負けていた。勉強は得意で誰にも負けないと自信があったが、なりたかった生徒会長にはなれなかった。壇上に上がって演説できないことが分かってたから、立候補すらしなかった。本当は自分の力を試すためにやってみたかった。なんでも器用にこなして何でも手に入れてきたと思われがちだが、本当のところは何も手に入れてないのだ。
学生の頃は親に従順だった。今はさやかに従順に生きている。それが生きるためだと思ったから。
でも、まだ手に入れることが出来る可能性が一つある。何かに従順に生きていた自分を解放すれば、手に入る。だがそれは同時に失うということなのだ。
「このホテル覚えてますか?」
「ここですか? いえ、初めてきましたけど」
「一昨年のクリスマス・イヴに僕と待ち合わせたホテルですよ」
柔が柔道をやめていた時、クリスマス・イヴとは知らずに風祭の誘いを受けたのだが、耕作の記事を読んで絶対に記者をやめて欲しくないから、約束を断って耕作のいる喫茶店に走った。あの時の風祭と待ち合わせをしたホテルはこのここだったのだ。
「行きつけのバーがここにあって、あの日は本当に楽しみにしていたんですよ。雪も降って来てロマンチックな夜になると思ってました。あの日はどうして来られなかったんですか?」
柔は言葉が出ない。とても言えるような理由じゃない。言ってはいけないと思ったのだ。
「質問を変えましょう。どうして、あの翌日から柔道を再開したんですか?」
「それは、あたしの中で柔道をする理由ができたからです」
「それは松田さん?」
柔は目を見開く。風祭は相変わらず笑顔だ。
「そんなに驚かなくていいじゃないですか。お二人は付き合っているのでしょう。もうあの頃からそうだったんですか?」
「いえ。付き合ってなんかいません。何を勘違いされているんですか」
「そんなこと言ったら松田さん怒りますよ。NYでお二人の関係は聞いています。大丈夫ですよ。誰にも言いませんから」
仮面のような笑顔は崩れない。柔はそんなことはないと知っていた。耕作から電話があって何も話してないと聞いていたから。
「風祭さんの方こそ、勘違いされてます。あたしと松田さんは何でもありません」
「そうですか。ではNYで松田さんがとても魅力的な女性と、仲睦まじそうに歩いていたことをお伝えしても問題はないですね」
「え? どういうことですか?」
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vol.4 追い詰められた柔
「え? どういうことですか?」
柔の胸がざわつく。離れているからわからないこともある。でも彼に限ってそんなことはと、思いながら柔は松田耕作という男の何を知っていて、何を知らないのかわからない。
「松田さんと会ったその日の夜に、偶然見かけたんですよ。赤い髪の美しい人でした。あちらでも楽しくやってるんだと思いました」
「そ、それはいいことじゃないですか。日本を離れて1年以上。寂しいと思うこともあるでしょう。仲のよい友人がいても不思議じゃないです」
柔は平静を装って笑顔を見せた。動揺するところを見せたら付け込まれるかもしれない。風祭のいうことを信じてはいけない。そう胸に置きながら話す。
「友人ですか。そうしておきましょう。実を言うと、僕が柔さんと会うことは松田さん知ってるんですよ」
「そうですか。でもそれは今日ではないですよね?」
「ええ、今日ではないですが別にいつでもいいと思いますよ。今日はどういうわけかこんな風に会うことが出来た。天の導きとは思いませんか?」
「いえ……」
「柔さん。僕はどうしてもあなたに聞かなきゃいけないことがあります」
「なんでしょうか?」
「バルセロナでどうして、公園に来てくれなかったんですか? 僕は待ってました。雨に濡れてもずっと……」
今ここで聞かれるとは思ってなかったし、行かなかったことが答えだと思って欲しかった。
「もし、あなたの気持ちが僕にあるとしたら僕は全てを捨てても構わない。そうでないなら、僕はもうあなたへの気持ちを断ち切ります」
バルセロナの時と同じ顔をした。決意を込めた強い目だ。本当の風祭がいると思った。仮面を捨てた風祭が。
「あたしは風祭さんを頼りになる人だと思っています。でも、それは恋ではありません」
「そうか……そうだよね。僕はこんな風に言っても既婚者だし、絶対にさやかさんから離れられない」
永遠に籠の中の鳥となる道を選んだのだ。欲しかったのもとは違うけど、人がうらやむものを手にしている。地位も名誉も手にした。
でも、自分の力じゃない。与えられたものだ。欲しかったものはこれじゃない。
「僕は本気だった。柔さんを本気で愛してた。柔道をしている姿は美しく、普段の姿は優しくどちらも輝いていた」
「そんなこと言われても困ります。あたし、もう失礼しま……」
「待って!」
風祭は柔の腕を掴む。その手は今まで感じたことがないくらい力強い。
「離してください」
振り払おうとするが、強い力で握られて離れない。
「無理だよ。僕は今、とんでもない幸運をつかんでるんだから。おあつらえむきな状況にあるんだ。ずっとフラれ続けてきたけど、今この手を離さなければ一番欲しいものは手に入る」
「そんなことありません! あたしは……」
風祭は柔の腕を引き寄せ、胸の中に抱きしめる。そして柔は顎を上げられ、かつて恋をしていたかもしれないその人が、当時と変わらない紳士的な笑みを見せて柔は悲しくなる。
「どうして泣くんですか? 僕に幻滅しました? でも、これが僕です。色んなものを諦めて来たけど、女性だけは手に入れてきた。手に入らなかったのは柔さんだけ」
「だったらそれは愛じゃないです。手に入らなかった物への執着です。あたしを愛してるんじゃない」
「そう思っても構いません。でも、あなたは僕の腕の中にいる」
柔にははっきりとした思いがある。かつてここで待ち合わせていたクリスマス・イヴとは違う。あの時は、もう大人だったから雰囲気次第ではどうなるかわからないとさえ思っていた。それが嫌でもなかった。でも、今は……。
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vol.5 優しさと誤解
「柔!」
扉の方から声が聞こえると同時に、風祭は床に倒れていた。柔は一か八か一本背負いを仕掛けたのだ。風祭は有段者で男だし、柔の柔道を良く知っている。投げられないかもしれないと思ったが、簡単に空を舞った。
「相変わらず、いい投げっぷりですね」
風祭は笑っていた。
「あの……大丈夫ですか?」
「気にしないでください。僕が悪いんですから。ところで柔さんのお友達が心配そうに見てますよ」
「え?」
顔を上げると、目の前には清水と和美が青い顔をして立っていた。
「柔……ごめん。あたし、てっきり……」
「和美が悪いんじゃないわ。あたしだってそう思ってたんだもの」
状況が全く掴めない。風祭は立ち上がってソファに腰かけると、ウイスキーを一口飲んだ。そして立ち尽くす3人の女性を見ていた。
「どういうことなの? 何でこんなこと……誰が……」
相変わらず黒のロングヘアーの清水は泣きそうな顔で言った。
「あたしたち勘違いしてたの。柔は高校の時からずっと風祭さんを好きだったじゃない。さやかさんと婚約したときもショックで泣いてた」
「あの時は、そうだったけど……」
本人が後ろにいるのに、さっきもう想いはないことを言ったばかりなのに話をぶり返されるのは辛いものがある。
「高校を卒業しても柔と風祭さんの関係は変わらなかった。近づいているようだったけど、そうでもなかった。さやかさんがいたからなのか、タイミングなのか分からないけど」
「どうしてそんなことわかるの?」
今度は和美が話す。眼鏡を外してコンタクトに変えた和美は、ベリーショートな髪型がオシャレだったが今は表情が暗く映えない。
「あたしたちだって柔のこと見てたもの。テレビで見ることの方が多いけど、狭い街だからたまに見かけることだってあった。偶然みたんだけど短大の卒業式の後、二人で食事してたでしょう。でも、同じ日にさやかさんともテレビに出てた。柔はきっと悩んでるんだと思ったけど、口を出せなかったの……遠い存在になった気がして」
「あたしね、今年のお正月に神社で柔を見かけたの。花園くんと一緒にいたでしょ」
「ええ。富士子さんとフクちゃんもいたわ」
「あの時に、花園くんの家族をとても眩しそうに柔が見ていて、それが悲しい恋をしてる目に見えたの。望んでいるものを得られないような悲しい目よ」
「そんな風に見てたかな? 全然、覚えてないけど……」
「無意識にそうさせたのよ。それであたし、和美に相談したの」
「清水から相談を受けて、もしかしてまだ柔は風祭さんに思いがあるんじゃないかと思ったわ。だって柔は恋人を作ってないようだし、それに英会話まで初めてわざと忙しくして淋しさを埋めてるんじゃないかと思ったの」
「どうして英会話習ってるの知ってるの?」
「あたし、柔の通ってるスクールの日本人スタッフなのよ」
「嘘! 見たことないわよ」
「日本人スタッフはあまり表に出ないのよ。雰囲気が壊れるから。それに柔は会社からの申し込みで殆ど事務手続きはしてないじゃない。あたしの出るとこなんてなかったわ」
「和美、話ずれてる」
「ああ、ごめん。それから、柔のことは気になってても何も出来ないでいた時、パトリックから聞いたの。柔が『大切な人が恋人とは限らない。会いたくても会えない人がいる』って。それって風祭さんのことじゃないかと思って……」
結婚した風祭とは、決して恋人にはなれないし、会いたくても会えない。そう和美は解釈した。
「それは、違うのよ」
「ええ、よく考えればいろんな人に適用される言葉よね。でもあたしたちは勝手に結び付けて、柔を応援しようとした」
「それでこんなことを……」
万が一、風祭が本気で柔を自分の物にしようとしたら、きっと柔は逃げられないだろう。そしてそれが友人たちが悪意なく仕組んだことだと知った時、柔は深く傷ついても友人らを責めることもできない。でも、人を信用できなくなる。そう思うと体が震えた。友達だからと呼び出され、警戒していても部屋には入った。何かあっても言い訳できない。
「ごめんね。もっとちゃんと考えればこんなことしなかった」
「何事も無くて良かった」
「もういいわ。でもどうして途中で入って来てくれたの? そういうことなら今ここにいないでしょ?」
「それは……」
二人は薄暗い廊下を振り返る。壁の陰から彼女は現れた。スラリとした長身にサラリと長い茶髪。短めのジャケットとロングスカートは白く雑誌のモデルのような美人だ。
「かおり!?」
風祭が驚きの表情でその人の名前を言った。だが、驚いたのは柔たちの方だ。
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vol.6 かおり
「かおり!?」
風祭が驚きの表情でその人の名前を言った。だが、驚いたのは柔たちの方だ。
「かおりなの?」
「え? 柔さんはかおりを知ってるんですか?」
「え? だってかおりは高校の同級生ですよ。でも、あまりに姿が変わって自信がありませんが」
目の前のかおりは悲しげに微笑んだ。
「かおりよ。二人が今、頭の中に浮かべたかおりはあたし」
「かおり……何があったの?」
「あたし、変わったでしょ。自分で変えたの。一生懸命ダイエットして、綺麗になる努力をした。だって『ダイエットしたら世の男性の何人もの人生を狂わすことになる』って言ってくれた人がいたから」
かおりはチラリと視線を外す。薄く微笑むと柔を再び見た。
「あたしね、高校の時、あたしよりも小さく非力で気が弱い柔を守ってるつもりでいた。でも本当の柔は柔道が強くて誰よりも輝く存在だった。自分の希望を叶えて女子大にも行って、オリンピックで金メダルも取ったわ。あたしは柔のことを何も知らなかった。それが悔しかった。情けなかった。何も話してくれないほど頼りないのかと思ったわ。高校を卒業して、柔はまた新しい世界を広げてあたしのことは忘れちゃったみたいで」
「そんなことないわ……」
「いいのよ。だって柔は一緒に柔道をする友達を見つけた。紫陽花杯を見に行ったの。とても楽しそうだった。あたしたちには見せたことない顔よ」
「それは、かおりたちとは柔道をしてなかったから」
「わかってる。今更あたしは柔道をしようと思わなかったけど、また一緒にショッピングに行ったりお茶に行ったりすることは出来るかなと思った。それで思い出したの。いつも柔と一緒に洋服を買いに行ってもあたしはサイズが大きくて全然買えなくて、それを柔は気にしてくれてたじゃない。清水や和美だけなら気にしないでいいことを、あたしがいるばっかりに遠慮して……」
「そんなこと……」
「だからあたしダイエットしたの。もちろん、それだけが理由じゃないけど、自分を変えるためには必要なことだった。短大に入って周りのみんなはキラキラしてて、あたしは何も変わってなくて失うばかり。それがとても怖くて堪らなかった」
優しかった高校の同級生たちと離れて、自分がいた場所がとても暖かい場所だと改めて知った。その場所に戻りたいと思ったけど、それは叶わないこと。だったら自分を変えないといけないと思った。
「短大二年の夏にはほぼこの姿になったわ。恋人も出来て楽しかった。でも、就職して暫くして別れて、そんな時に風祭さんと再会したの」
二人の間に何かあるとは思っていた。風祭が呼び捨てで呼ぶ女性など、関係を持った女性くらいしかいないだろう。
「あたしのこと全然気づいてなかった。それは好都合だった。高校の時からちょっと軽いなとは思ってて、探りを入れるつもりで近づいた。向こうもまんざらでない様子で、口説いて来てあたしたちは割り切った付き合いをはじめた」
この告白には柔以上に清水も和美も驚きを隠せなかった。そして一人よそ者のように座る風祭に視線が集まる。
「いや、その、大人の付き合いってやつですよ」
邦子や三葉女子の友達に聞いてはいたけど、実際に風祭と関係を持った人が目の前にいるというのは衝撃だ。しかも相手は柔の友達のかおり。
「高校の時はみんな風祭さんに憧れていたわ。でも風祭さんは柔を特別に思っていたから、あたしたちは大人しく身を引いたの」
風祭の表情が僅かに明るくなる。
「その特別はやっぱり本物で、付き合い始めてからそのことがより一層感じられた。だから見てて不憫だった。この人は本当に好きな人とは結ばれないのかなって。自業自得だけど、柔には関係のない話。でも一昨年のクリスマス・イヴ、二人は千載一遇のチャンスが訪れたわ。あたしはこの時から風祭さんとの関係を終わらせて、二人を応援しようと思ったのに柔はここには来なかった」
「そこまで知ってたの……」
「ドタキャンされて一人ぼっちになった風祭さんから、留守電が入ってたのよ。その頃あたしはイタリアにいたから、どのみち無理なんだけど」
風祭は思い出す。バーで女の子に電話を掛けた中に、かおりはいた。そして誰とも連絡はつかず、ドライマティーニを一人で飲んだ苦いクリスマス・イヴを。
「その前から柔は柔道をやめてて何かあったんじゃないかとは思ってた。それは楽しいことじゃないことだってことも想像はついてた。だからこそ、ここで二人は結ばれるべきだと思ったのよ。傷ついた心に寄り添う、大人の男が柔には必要だと思ったの」
「ご期待には応えられませんでしたけどね……」
風祭が自虐的に笑う。
「それなのに、翌日から柔は柔道に復帰したじゃない。もう、何が何やらわからなかったわ。そうこうしてるうちに、風祭さんは結婚しちゃうし柔はあの記者と噂になっちゃうし」
「それは……まあ、色々とあったりなかったりというか」
「記者との関係は否定してたから、きっとまだ風祭さんのことが好きだけど言えないでいるんだと思っていたの。だって既婚者でしょ」
「それでこんな手の込んだことを考えたってわけね」
「ええ。きっかけが必要だと思ったの。二人には、何かきっかけが。でもね、清水と和美と三人でさっき下でお茶してて気づいたの。もしかしてあたしたちの思い過ごしで、柔は風祭さんに気持ちが全くなかったとしたらそれは危険なことじゃないのかと。だって、風祭さんは柔のことまだ好きだと思うし」
「それで乗り込んできたわけね」
「ええ。まだ、間に合うと思ったから」
かおりだからわかるのだ。風祭のベッドへ誘うまで、そしてその後のパターン。
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vol.7 懲りない男
柔は大きくため息をつく。こんな危ないことを計画して、3人もいて誰も事前に止めないなんて恐ろしい。思い込みは確認を怠るのだ。
「僕だってバカじゃない。誰かが仕組んだかもしれないこの状況の中、相手の思うつぼになると思いますか? 誰が見てるかもわからないのに。あなた方のように、乗り込んでくるかもわからないのに。いくら目の前に柔さんがいても、僕は理性ある大人ですよ」
「そう思ったわ。でも、このホテルなら警戒も緩むと思ったの」
「なおさら警戒しますよ。ここを知ってる人は限られた人だ。僕を調べて突き止めたか、一緒に来たことがあるか。そのどちらも警戒すべき人物となります」
「でも、柔に投げられたのはどうして? 変なことしようとしたんでしょ」
「ええ。それで柔さんが逃げ帰ってくれればいいと思ったんです。しかし、3人とも。僕が類まれなる紳士だったこと、柔さんが柔道の達人だということで危険な事態は免れましたが、一歩間違えばとんでもないことになりかねないですよ」
「はい……」
3人は風祭の言葉にしゅんとしている。本当に浅はかで危険な行為だ。
「で、でも、みんなあたしのことを心配してくれたんでしょ。それは、うれしいわ。やり方には賛成できないけど」
「ごめん、柔」
「ごめんね」
「ごめんなさい」
かおり、清水、和美の順であらためてかぶりを下げる。すると、風祭は立ち上がりジャケットを羽織って鞄を持った。
「そろそろ僕は帰るよ。ここにいても邪魔になりそうだし」
「あの、風祭さん。お気持ちは嬉しかったです。それから、バルセロナでのことは本当にすみませんでした。お返事もしないままは、失礼でした」
「こちらこそ、お気を悪くなさらないでください。バルセロナの件にしても、僕の方があまりに急で自分勝手でしたから、気になさらないでください」
柔はそう言われて、肩の荷が下りた。気にしてなかったわけじゃないのだ。ただ、話を蒸し返すのも気まずいし、電話で話す内容でもない。会わないでいたのをいいことに何も言わないでいたのが、心に引っかかってた。
部屋からドアまでの短い廊下で、風祭とかおりは対峙していた。
「信じられないよ。君があのかおりだなんて」
「別にどうでもいいじゃない。あたしは進ちゃんと少しの間でも付き合えて幸せだった。女癖悪いけど優しいもの。でも、あたしが一番じゃないことくらい直ぐ分ったわ。だから気を付けなさいよ」
「何を?」
「奥さんにもばれてるかもしれないわよ」
「な、何を言ってるんだい。そんなことあるわけ……」
「女の勘は思ってる以上に鋭いわよ。それから、あたしに呼び出されてノコノコここに来て、未練でもあるのかしら?」
「そりゃ、君ほどの女はそうはいない。番号は変わってないかい?」
「どうかしら?」
「そう。また電話するよ」
かおりは出ていく風祭を手で払うような仕草で見送ると、ドアを閉めた。部屋に戻ると3人とも無言で座っていた。
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vol.8 わだかまり
「どうしたの? 空気重いけど」
「一番とんでもないこと打ち明けたあんたがどうして気楽な顔してるのよ」
清水が言うと、柔も和美も頷いた。
「未だに信じられないんだけど。かおり、変わり過ぎ」
「変えたかったんだもの。いいじゃない……で、柔どうしたの?」
「あたし、みんなに謝らないといけなくて」
「何を?」
「柔道のこと」
柔はどうして柔道のことを話さないでいたのか、卒業後積極的に連絡を取ってなかったのかを説明した。その間、3人は真剣に柔と向き合っていた。
「あたしにとって、高校生のあの時間は、普通の女の子としてすごせた掛け替えのない時間だった。今は柔道をやっていることを恥ずかしいとは思わないし、嫌でもないけど当時は本当に嫌で出来る事なら試合にも出たくなかった。でも、様々な要因が重なってあたしは柔道界に居続けてその中で大切なものも沢山得たわ」
耕作やさやか、風祭との出会いも、富士子と共に柔道した日々も。ジョディとの試合は本当に楽しかったし、かけがえのない友情を育んだ。
「でもね、やっぱり思い出すの。みんなと一緒にショッピングに行ったり、学校の帰りにアイスを食べたりしたあの日々を。アイドルの話や恋の話をして楽しかった。汗臭い柔道のことなんか微塵もなくて、理想通りの女子高生だった」
「柔……」
「今は柔道も好きだし楽しいって思ってる。だから何も後悔はしてないの。ただ、みんなのことは心に引っかかってたから、今回こんな形でも会えて話せたのは嬉しいわ」
「ないしょにされてたのは少し寂しかったけど、柔らしいって思ったわ。おしゃれ大好きでミーハーだったものね」
「そうそう錦森先輩にぞっこんだったわよね」
「あれは、そういう時期だったのよ」
その時、部屋にチャイムの音が鳴り和美が出ていくと、ホテルのスタッフがテーブルとイスがセッティングされその上に料理とお酒が並べられた。
「あの、頼んでないですけど……」
和美が遠慮がちにそう言うと、その場を仕切っていた男性から、
「風祭さまからの贈り物です。どうぞ、ごゆっくりおくつろぎください」
そう言われ四人は途端に笑顔になる。全ての料理が運ばれて来て、スタッフが出ていくとさっきの男性が柔の方を向いた。
「猪熊さま。お帰りの際はフロントまでお越しください。お手紙をお預かりしています」
差出人は風祭だろう。何か言い忘れたことでもあるのだろうか。でも、柔は目の前にいる友人と美味しそうな料理で胸がときめいてさほど気にもしていなかった。
「ねえ、今みんなは何をしてるの?」
柔のその声に高校生に戻ったように、女4人は話す口も食べる口も止まらず楽しい時間を過ごした。何もかもが上手くいっている。
そう、思っていた。
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母親の秘密
vol.1 松田の知らない柔
柔は早朝稽古を終えると、食事や身支度を整えて出勤する。身支度の合間に日刊エヴリーのアメリカスポーツコーナーには目を通す。そして記事の最後の「松田耕作」の文字を見て、一日のエネルギーを貰うのだ。
アメリカスポーツのコーナーは元々そんなに大きく誌面を使ってはいなかったが、耕作の記事の面白さからだんだん大きくなり最近は写真までついて掲載される。記事が認められた結果なのだが、仕事が忙しくなると電話も少なくなり最近はあまり声すら聞いていない。話したいことが沢山あるのだが、NYと日本じゃ時差もあり思うようにはいかない。
午前中は神保町支店で仕事をする。羽衣にあいさつをすると、毎朝必ず耕作の記事の話になり盛り上がる。羽衣も相変わらず耕作のファンなのだ。
「松田記者にはやっぱり柔道の記事を書いて欲しいな。いや、アメリカのスポーツのこともよくわかるし、勢いもあるんだけどね。やっぱり柔道に向ける思いはより大きいと思うよ。そう思わないかい?」
「え? ええ、そうですね。でも、この前久しぶりに世界選手権の記事を書いてくれましたよね」
「あれは、熱かった。久々に素晴らしい記事を読んだよ。あの新聞はまだ残してるくらいだ」
「そうなんですね」
「しかし、ハミルトンに松田記者がいたのなら是非あいさつしたかったな。猪熊くんは会ったのかい?」
「はい。でも、課長。以前、紹介しようとしたとき『あいさつなんかいい』って言ってたじゃないですか」
「あの時はだね。松田記者がゴシップ記者だと思ってたからね……ってそんなことはいいんだ。午後はまた本社ビルでトレーニングだろ。それまでにここの仕事は終えるように」
羽衣は席を立った。柔道部やその関係の仕事は熱心だし、成果も出すが他は相変わらずだ、本人はやる気をだしているようだが、結果は急には出ない。
午後に本社ビルでの稽古が終ると、外は暗く息も白くなっていた。それもそのはず。もう今日から12月なのだ。街はクリスマスムード全開でイルミネーションが輝く。ウキウキとした街の様子と人々の中、柔は浮かない顔で歩く。
家に帰ると玉緒が柔宛ての荷物が来ているといい、手渡した。送り主は耕作。柔は急いで部屋に持って行って開封した。
「ついに完成したんだ」
中から出てきたのは、耕作が書いた柔の本の原稿。タイトルは「YAWARA!」とあり、日本語で書かれていた。ペラペラとめくる。手書きのコピーが送られてくると思っていたが、ワープロで書かれたものだった。柔は密かに「松田さんってワープロ使えたんだ」と感心したが、ページの所々に付箋があり質問があった。書いている内に出てきた疑問や書いてもいいのかどうかの許可を求めるものだった。その中で目に留まったのは「ユーゴスラビアの世界選手権の不調」と「1991年のクリスマスからの柔道復帰」だ。どちらも耕作絡みで柔の心が動いた出来事なのだが、当の本人はそのことを知らない。
階下から玉緒の声がした。どうやら電話のようだ。急いで降りると、「松田さんからよ」と耳打ちする。柔は「うん」と曖昧に微笑む。
深呼吸をして受話器を耳に当てる。
「もしもし?」
「あ、柔さん? 今、電話大丈夫?」
「はい。あの、今日原稿届きました」
「え? 今日? そっか、もっと前に届いてると思ってたんだけど」
「そのことで電話を?」
「ああ、付箋をいくつかつけてただろう。その事について聞きたくて」
「今手元にあるんで見ますね」
「ああ、疲れてるところごめん」
「いいんですよ」
付箋があるおかげでページは直ぐにめくれる。赤い線も引いてあるし、チェックに時間はかからない。順番にこたえていく。受話器のむこう側でメモを取る音が聞こえ、遠く離れてるのに同じ作業をしている気がする。
「あと2つ。ユーゴのことと、柔道復帰についてなんだけど……」
「それは……」
「言いにくいことなのかい?」
「はい。いつか松田さんにもお話するつもりですが、今は言いたくありません。どのみち、本にも載せて欲しいことではないので……」
「そっか。それなら仕方ないな。いつか話してくれるのを待ってるよ」
「はい……」
「柔さん、どうかした? 元気がないようだけど」
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vol.2 風祭のメッセージ
「柔さん、どうかした? 元気がないようだけど」
耕作は気づいていた。声の様子から柔が普段と違うことを。
「そんなことありませんよ。だってこの前も久しぶりに高校の同級生と会ってとても楽しい時間を過ごしたんですから」
「同級生って、あの三人?」
「覚えてたんですか。かおりと清水と和美です。三人ともすっかり変わってて、かおりはダイエットして痩せてとても綺麗になってて今、ファッションデザイナーの勉強をしてるんですよ。それから清水は美容部員として化粧品会社に入社したけどメイクのプロになりたいって勉強しているみたいで。それから和美は英会話教室の事務員をしててアメリカ人の恋人がいるんですって」
「そっか。柔さんの中にあったわだかまりみたいなものは解消した?」
去年、柔が耕作に話したことを覚えていたのだ。
「ええ、素直に話しました。お互いに誤解もあったけど、帰る頃には昔と変わらない関係に戻っていました」
「それはよかった。元気がないのは俺の思い過ごしか」
「そうですよ。ところで、クリスマスは本当にNYに行ってもいいんですか?」
「もちろんさ。何でそんなこと聞くの?」
「いえ、お仕事が忙しそうなんでお邪魔じゃないかと思って」
「そんなことはないよ。急な仕事が入らなきゃ去年と変わらないんだし」
「それならよかった。あたし、とても楽しみにしてるんです」
「俺もだよ。あ、そうそう原稿は滋悟郎さんにも見せてね」
「あ、はい。でも、おじいちゃんに見せたら色々うるさいですよ」
「まあ、内容が違うって言うなら書き換えもするけど出番が少ないとかは却下だけどな」
「そうですね。あ、おじいちゃんが何かうるさいんで、そろそろ切りますね。それじゃあ、また」
「うん、また電話する」
柔は受話器を置くと、ふーっと息をはく。本当は聞きたいことがあった。でもそれを聞くと自分の中にある様々な感情があふれ出てきそうで怖かった。電話越しで喧嘩したら、直ぐに会いに行ける距離じゃない分すれ違って心が離れてしまうかもしれない。我慢することは良くないけど、まだ聞くタイミングじゃない。
柔は思い出す。かおり達と会ったホテルで帰りにフロントから受け取った手紙。相手はもちろん風祭で、文面は簡単なものだった。
『NYで見たものは真実ですよ。柔さんには関係のないことだと思いますが』
風祭がNYで見たものとは、耕作が赤髪の女と一緒に歩いていたと言うこと。柔はそれを聞いたときはさすがに頭に血が上りそうだったが、その人が耕作とどんな関係かもわからないし、その後の展開で風祭の嘘だと勝手に思っていた。でも、念を押すように言われると気になってしまう。本人に聞くのが一番早いのだが、柔はその勇気がいつもでない。こんな時に富士子がいてくれたら、きっと背中を押してくれたのに。
「おい、柔!」
「何よ」
「玉緒さんの様子が変じゃ」
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vol.3 不安な夜
「おい、柔!」
「何よ」
「玉緒さんの様子が変ぢゃ」
「え!?」
滋悟郎と柔は玉緒がいる居間へ走った。こたつに座っていたはずの玉緒は、ごろんと横になって眠っていた。普段なら絶対にありえない姿で眠っている玉緒に滋悟郎が驚いても無理はない。
しかしただ眠っているだけということもある。柔は揺さぶって起こしてみるが、全く起きる気配がない。それどころか顔は青白く手は冷たい。それに台所では料理の最中のようでコンロに火がついている。そんな状態で眠るなんてありえない。柔はただ事でない様子を察知し、立ち上がった。
「救急車呼んでくる。おじいちゃんはお母さんを見てて」
冷静でいないといけない。そう言い聞かせて柔は電話をした。コール音より心臓の音の方が大きく聞こえる。一体何がどうしてこうなったのかわからない。さっきまで元気だった。元気に見えていただけで、実はどこか悪かったのか。でも、何も気づかなかった。母親のことなのに何も気づかなかった。
電話の後、直ぐに救急車は到着し区立病院へと搬送された。柔が同行し、滋悟郎は後から駆け付けた。夜の病院は寒くて寂しい場所だ。不安ばかり煽る。
処置室のドアが開き、中に入ると医師からの説明があった。
「過労です。お母さんは随分、無理をされていたようですね」
「過労ですか……」
「安心するのは早いですよ。過労も甘く見ると取り返しがつかない事態があります。今は休養を取って、体を元に戻すことを考えた方がいいでしょう。二日は入院してください」
「はい……」
「今日は、ご家族はお帰り下さい。病院にはいられませんので、明日、またお越しください」
「玉緒さんは目が覚めるんぢゃろうな」
「ええ、大丈夫です。休養していれば、時期に目覚めるでしょう」
柔は医師にお礼を言って退室した。
猪熊家にはあまり病気の気配がない。特に滋悟郎と柔は風邪一つ引いたことがない健康体だ。玉緒に関しても、柔が知る限りでは数年に一度程度風邪を引くくらいで、大きな病気の兆候もないはずだ。
「お母さん、無理してたのかな」
帰りのタクシーの中で柔は滋悟郎に言う。
「そんな風には見えんかったがの」
「でも、知らないところで無理してたんだわ。お父さんも去年やっと見つかって、もう肩の荷が下りたと思ってたのに」
「気が緩んだだけかもしれん。医者が大丈夫だと言ってるんぢゃから、大丈夫ぢゃ」
「うん……」
その日は何もする気が起きなくて、静かな夜となった。ベッドに入っても眠れず、心配でたまらない。目を瞑ると柔は玉緒との思い出を振り返ったり、最近の様子を思い返したりした。頭の中の玉緒はいつも笑顔で、苦労を見せたことも無い。本当は大変だったに違いないのに。
柔は起き上がって、耕作の原稿を取り出した。耕作本人が一緒にいてくれれば心強いのだが、それは叶わないこと。電話を掛けて声を聞いたら、自分の心が崩れて頼ってしまう。どうしようも出来ないのに、どうにかしようとする耕作の姿が目に見える。無理をさせたら玉緒と同じことになりかねない。ただでさえ、仕事と原稿で手が一杯なのに余計なことで心配を掛けたくない。
耕作の書いた原稿を読んでいる内に、自分でも忘れていたことや知らなかったことが出てきて驚いた。特に両親や祖父母のことはわざわざ聞くようなことでもなかったので、時折玉緒が思い出話をするときに耳を傾けていたくらいだ。知らないことはまだきっとある。沢山話さなくてはいけない。誰かが話して残さなくては、思い出は消えるのだから。
原稿を頭で読む声は耕作の声に聞こえ、いつの間にか心は落ち着いていた。こんなにも想ってくれていることがわかる文章に柔は顔が熱くなる。これは発表してもいいのか。ただの思い過ごしか。柔はラブレターを貰ったような気がして、恥ずかしくなった。
机の引き出しを開ける。小さなアルバムがあってそこには耕作の写真がまとめられていた。まだ日本にいたころのものやNYで撮ったもの。落ち込んだときや寂しい時にはいつも写真を見て元気を貰った。今日も同じように見ているのに、涙が溢れてしまう。
――そばにいて欲しい……。声を聞きたい……。抱きしめて欲しい……。
叶わない願いを口にはしないが、柔は自分自身をぎゅっと抱きしめた。椅子の上で膝を抱え小さく抱きしめる。
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vol.4 遠距離の難しさ
クリスマスのイルミネーションが眩しいNYの夜。
耕作は渋い顔で歩いていた。最近は仕事にも慣れて来たし、日本での評判も上々。本の原稿も英語にするのにあと少しと言ったところまで来ていた。順調すぎるほど順調なのに、たった一つだけ上手くいかないことがある。
柔との関係だ。出会ったころから疎まれながらも傍にいて、言いたいこと言って怒らせることもあった。二人は記者と選手という関係でも友人でも、もちろん恋人と言う関係でもないのに、お互いを信頼しているのは何となくわかっていた。
それが恋人同士という関係になり、もっと信頼して話をしてくれるんじゃないかと思っていたが、柔は何でもないことはよく話すが悩みや不安をあまり口にしない。耕作が読み取れないだけかと思ったこともあったが、記者をしている耕作が聞き逃したり見過ごすわけがない。
柔は内に秘めるタイプなのだ。それを無理矢理聞き出すことは出来ない。自然に自分から口に出して貰うことが必要なのだ。だがそれも電話だとなかなか出来なくて、様子がおかしいとは思いながら核心に触れられない。いっそ、クリスマスに来た時に聞いてみようと思ったが、先日柔からクリスマスにNYに行けなくなったと言われ望みを絶たれた。
様子がおかしい理由が玉緒が倒れたことなのかとも思ったが、それだけじゃないような気もした。心配で不安なのはわかるが柔が抱える別の何かが耕作には全く分からないのだ。
「コーサク!こっちこっち」
スパイスガーデンではいつものメンバーが待ち合わせもしてないのに、当たり前のようにいて当たり前のように耕作を呼ぶ。そして耕作も自然に合流する。
「シケタ顔してどうした?この前まで顔全体にウキウキ感が出てたって言うのに」
「うるせー。クリスマスに彼女がこっちに来るって言ってたんだけど、お母さんが倒れて行けなくなったって連絡があって」
「それで落ち込んでるのか?」
「それだけじゃないけど、遠距離って難しいなって思っただけさ」
イーサンはちょっと前に彼女が出来て、余裕が出て来たのか耕作にも優しい。肩を叩いて慰める。
「彼女だけが女じゃないさ。周りを見渡せばいい女は沢山いる」
「いや、彼女以上の女はそうはいないよ。俺は6年片想いしてたんだ」
「マジかよ!そんなに!じゃあ、いっそ結婚しちゃえよ」
「は?」
「聞き取れなかったのか?結婚だよ。遠距離で不安って言うなら彼女を妻にしてNYで暮せばいい。てっとり早いだろう」
耕作はイーサンをじっと見て、その呑気な発想に笑ってしまう。
「無理だね」
「なんで?彼女は日本にどうしてもいたい理由があるのか?」
「いや、俺が彼女は日本にいて欲しいんだ」
「わからないな~」
「いいんだよ。これも俺のわがままだ」
「だったら、会いに行ったらどう?」
デイビットが口を開く。相変わらずズボラな髪型で今日は無精ひげまで伸ばしている。テロで負った怪我はとっくに治り、すっかり普段と変わらない日常を過ごしている。
「そうしたいんだけど、仕事の都合上勝手に帰国すると仕事を失う恐れがある」
「そもそも一人でこのアメリカのスポーツを取材するのは無理あるぞ。そこんところ会社はわかってるのか?」
「そりゃね。だからこそ日本人が好むスポーツに焦点を当てて取材してるわけで」
「何か理由を作ったらいいじゃないか。仕事のことでも何でも。もう1年以上は帰ってないだろう?」
「そうだな……考えてみるよ」
「そういえば、コーサク。アリシアとはその後どうだ?」
「どうもこうもないよ。公園で会えば話はしてくれるけど、稽古の様子は見せてくれないし、試合も出ないって言ってる。強情なお嬢様さ」
「誰の話してるんだい?」
「前に話しただろう。コーサクが追ってる女性柔道家のアリシアだよ」
「あ!思い出した。強い指導者がいて彼女もかなりの腕前だって」
「かなりの腕前だろうと予想してる。なにせ彼女は試合に出ない。練習も一人でしてるところしか見れない。何のために柔道をしてるのかわからないんだよ。でも、その体の動きはキレがありスピードがある。勿体ないよ」
「いいのかい?大きなアメリカ人の選手が出てきて力を付けたら、日本人はオリンピックで金メダル取れなくなるぞ」
「各国の選手が強くなることはいいことだ。日本だってその分つよくなれる。それに柔道は力技じゃない。体格のいいアメリカ選手が出てきても脅威じゃないが、アリシアはきっとそれを分かってると思う」
耕作はアリシアの身のこなしが時々柔と重なることがある。アリシアに柔道を教えているのはロイドだが、彼もまた相当な腕前だと思うが何故表舞台に出てこなかったのか。疑問は深まるばかりだ。
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vol.5 アリシアの傷
翌日、早朝。耕作は自転車でアリシアが練習している公園に向かった。いつもいるわけじゃないが、最近はその傾向もわかって来たしアリシア自身が教えてくれることもある。
「おはよう、アリシア。調子はどう?」
「おはよう、コーサク。普通よ」
長い金髪をポニーテールにして、ジョギングをしてきたのか頬が赤くなっている。NYの冬は寒いがアリシアは夏と変わらないメニューをこなしている。
ここでこうやって稽古を見ていることも、話しかけて答えてくれるようになったのも夏ごろからだ。それまでは無視され続けていた。下手なナンパだと思っていたと、後にアリシアは言った。だが耕作はまだ自分が日本の新聞記者だと言うことは打ち明けていない。記者だと知ればもうここには来てくれないかもと思っていたからだ。
「君はどうして柔道をしてるんだい?」
「5月に会ってからずっとその質問ね。あたしは護身のためと心を磨く為に柔道をしてるの。試合に勝つためじゃないわ」
「試合に出たいとは思わない?強い相手と戦いたいとは思わない?」
「思わないわ。あたしは体を動かすのが好きでたまたま柔道に出会って、それが合っていたから続けてるの。自分のためだもの。別に試合の必要はないわ」
小柄なアリシアは太い木にゴムチューブを結ぶと、いつもと変わらず稽古を始めた。ゴムを引くたびにその目の強さが柔を思い起こされる。これだけ鍛錬をしていて実力を試してみたくないわけがない。何か理由があるのだろうか。だがアリシアはそれを決して言わないだろう。耕作は何となくわかっていた。
「ヤワラ・イノクマを知ってるか?」
ゴムの音が止まる。ふーっと吐く息が白い。アリシアは俯いていた。
「知ってるわ。世界チャンピオンだもの」
「君と同じくらいの体格で無差別級も制覇した。彼女は強いよ」
「わかってるわ。バルセロナ五輪を見てたもの。マルソー、テレシコワ、そしてジョディの試合は何度も見た。あんなに激しくてあんなに楽しそうな試合をあたしは今まで見たことがないわ」
「ああ、バルセロナは彼女にとって柔道が楽しいと思えるようになって、最初の試合だったと思う。日本でライバルのさやかに勝った時、楽しかったと言ってた。柔道を遠ざけてきた彼女が自ら望んで試合に出た。本気の試合だった」
アリシアは黙っていた。その表情は険しく手は少し震えていた。
「帰るわ」
「お、おい!」
耕作はがっくりと肩を落とす。どうして、こんなに頑固な女性ばかりがまわりにいるのだろうか。でも収穫はあった。アリシアは試合をしたいのだ。でも、そうしない理由があるのだ。それを探っていけば試合に出るきっかけになるかもしれない。
しかし、翌日の朝にアリシアの姿はなく代わりにロイドがベンチに座っていた。
「あの、おはようございます。こんなところで奇遇ですね」
「おはよう。奇遇?違いますよ。あなたを待っていたんですよ」
「俺を?」
耕作はベンチに座った。アリシア関係の話であることは明白だ。でも、ロイドとももう一度話してみたいと思っていたから好都合だ。
「アリシアに近づいた理由は何ですか?」
「唐突ですね。単なる好奇心ですよ。あなたほどの柔道家が教える人がどのくらいの腕前なのか知りたくて近づきました」
「私はそんな大した柔道家じゃないですよ。それで、わかりましたか?」
「いいえ。稽古だけでは何とも。試合に出ないのには理由があるんでしょうか?」
「ええ。アリシアは失うことを恐れているんです」
「試合に出ることが失うこと?それは負けるのが怖いということでしょうか?」
「そんな臆病者じゃないですよ。アリシアが恐れているのは、自分が負けた相手がその後二度と試合に出なくなることです。再戦できなくなることが辛いと言ってました」
「以前にもそんな経験が?」
「テニスと乗馬、水泳もやっていたそうです。しかしジュニアの国際試合でアリシアはどれも二位どまり。その上には必ずある人がいて、その人は優勝するとその競技に興味を失い引退。アリシアは再戦することも敵わず、ただ永遠の二位のままで居続けていたんです」
「それで、もう二度とそんな思いをしたくないから柔道の試合に出ないと言うことでしょうか?」
「その通りです。柔道はアリシアが幼い頃から習っていたものです。そのライバルは柔道には見向きもしなかったので、アリシアは安心していました。その頃は別の理由で試合には出ていませんでしたが、高校に入ったら試合に出てみようという気になってくれたんですが今度はあのライバルが柔道を始めたと知って試合に出ることも、柔道をやっているということも秘密にし始めたのです」
「そういうことでしたか。確かに負けっぱなしで再戦も出来ないでいるのは辛いですね。しかもあらゆる競技でそれをされたら、もうやる気すらなくなります。唯一残ったものを侵されないように守っているということも理解できなくもない。しかし……」
「勿体ないとお思いでしょうか?あなたがどうしてそこまでアリシアに拘るのかわかりませんが、あの子を試合に出すのは並大抵の努力ではできませんよ」
「でも、それがわかってよかったです。試合をしたくないわけじゃないということなら、何とかなるかもしれません。それに俺が試合をして欲しい相手は、優勝したから直ぐに引退するような卑怯者ではないですから」
「言いますね」
「そりゃね。でも、年を取れば取るほど引退する可能性は高くなる。勝ち逃げとかではなく、純粋に体力の問題で引退はありますから。できれば早くにアリシアには公式戦に出て貰ってアメリカ代表にはなって欲しいですね」
「コーサクは一体誰とアリシアを戦わせたいんだ?」
「ヤワラ・イノクマですよ」
「世界チャンピオンじゃないか!?」
「アリシアにはその実力がある。ないのは実践経験だけ。経験を積むのも早い方がいい。なるだけ多くの人と試合をしないと、得られないものもあります」
ロイドは笑う。鋼のような顔に笑い皺が浮かぶ。
「面白いですね。アリシアに試合をして欲しいと私ももちろん望んでいますが、まだそこまでとは思っていませんよ。アメリカ代表になるほどの実力なんて」
「俺には分かります。本気で取り組めば必ずアリシアは代表になれます。素質は十分です」
自信に満ち溢れた表情で耕作は言い切った。
「言いたいことは分かりました。ただ私は協力は出来ないです」
「なぜですか?自分の弟子が世界を相手に試合をして欲しいとは思いませんか?」
「アリシアは正確に言えば私の弟子ではありません。元々、アリシアを教えていた人が病気で教えられなくなり私にその依頼が来たんです。私は柔道をやりますが、試合には殆ど出たことがないので知っている人も少ない。それに今は医者をしています。専門は整形外科ですが、そんなのは言わなければわからないんです。いい目くらましなんですよ」
「前にアリシアを教えていた人とは?」
「それは言えません。言ったら私は解任されます」
まだ何か秘密がありそうだが、これ以上は聞き出せないだろう。耕作は背もたれに倒れて空を仰いだ。
「アリシアに伝えてください。話し相手くらいにはなるぞって」
ロイドはまた笑う。
「面白い人だ」
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vol.6 窓に映る姿
家で倒れた翌日、区立病院で玉緒が目を覚ますと、外は明るく穏やかに晴れていた。個室だったようで人の気配はしない。静かすぎて夢の中にまだいるような気がした。そう言えば見ていた夢は虎滋郎に出会ったばかりの頃の夢だった。土手を走る虎滋郎といつもすれ違っていた。お互いに認識してると知ったのは結婚後。新婚旅行先でそれとなく聞いたら、恥ずかしそうにうなずいた。あまり思いを口にしない人だけど、表情や仕草で読み取れる。それもまた面白い。失踪してからもわざと痕跡を残して、生きてると教えてくれた。玉緒はその痕跡を探して旅をした。わかりにくい、本当にわかりにくい手紙を受け取ったような気がした。でも、わかると嬉しい。こんなふざけた両親を持った娘は大変だっただろうと、今更ながら柔に申し訳なく思う。
ナースコールを押すとスピーカーから声がして、直ぐに行きますと言うので黙っていた。よくわからないがこのままでいいようだ。
看護婦は医師を連れて入って来て、玉緒は頭がぼんやりする以外特に異常はないようだった。だがまだ自分の状況が把握できていない。看護婦に昨日のことを聞かされて、柔と滋悟郎に心配を掛けてしまったことを深く反省した。
「たまには心配させてあげた方がいいのよ。お母さんって頑張って当たり前って思われるでしょ。でも、年も取るし人間だし限界もあるってわかって貰った方がやりやすいわ」
いかにもベテラン看護婦がそう言うと、玉緒は幾分か気が楽になったが家のことをやって疲れが溜まったわけじゃないことには後ろめたさも感じた。
午前11時頃、ノックの音がして入って来たのは滋悟郎だった。玉緒が起きているのを見て明らかにホッとしたように表情が崩れた。
「起きて大丈夫なのか?」
「ええ、大丈夫です。先ほど、先生にも診ていただきましたから」
「そうか。それならいいんぢゃ」
「お義父さん。ご心配お掛けして申し訳ありません」
「何を言っておる。家族なんぢゃから当たり前ぢゃ。それに玉緒さんにはうちのバカ息子が何年も心配をかけた。その事もあって今回のようなことがあったんぢゃろう。謝るのはわしの方ぢゃ。すまんかった」
「お義父さんが謝ることじゃありませんよ。今回のことはわたしに原因があります。ですが、以後気を付けますので気にしないでください。あの、柔はどうしてますか?」
「あやつは今朝も普通に稽古をして、仕事に行きおった。帰りに病院に行くとは言っておったから、来るとは思うがの」
「そうですか。それならいいんです」
滋悟郎は柔に持っていくように言われた荷物を置いて、出て行った。長くいてもすることがないし、午後からは鶴亀トラベル柔道部の指導がある。顔を出さないわけにはいかない。
お昼ご飯は普通に運ばれて来たが、味がいまいちなのもあるが食欲があまりなくて殆ど食べられなかった。それからぼんやり窓の外を眺めたり、眠ったりしながら過ごしているといつの間にか外は暗くなっており窓には自分の姿が写っていた。
――年を取ったわね。
そう思っていると、ドアがノックされ開いた。入ってきたのは柔だった。
「お母さん、起きてて平気なの?」
「ええ、何もしないって言うのは落ち着かないわね」
「そんなこと言って、休まないと体が元に戻らないわよ」
「そうね、ごめんね」
「お母さん……あたしの方こそごめんなさい。お母さんが倒れるほど疲れてたなんてわかってなくて。あたしもおじいちゃんも体力だけはあるから気づかなかったの」
「違うのよ。何も家事だけしてて倒れたわけじゃないわ。実はねそのことも踏まえて柔にお願いしたいことがあるの」
「お願い?」
「看護婦」と書いているのはこの時代ではそうだったからです。
ご了承ください。
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vol.7 真田屋
翌朝、午前8時ごろ猪熊家より徒歩20分程離れた場所にある仕出し屋「真田屋」では、お弁当と昼からの定食屋の準備に大慌てだった。それもそのはず、今年の8月にここを仕切っていた女将が急逝したことと手伝いに来ていた人が2日間も無断欠勤しているのだ。それでも弁当は作らなくてはいけないし、店も開けなくてはいけない。やることは山のようにある。
「玉緒さんはどうしたんでしょうか?」
30代後半でちょっとふくよかで気の強そうな女性がから揚げを揚げながら、先代の娘である現女将に尋ねた。
「昨日電話を掛けてみたんだけど、昼も夜もつながらなかったわ。手伝いに来るとは言って来てくれてこなかったことはないんだけどね」
「そもそもそう言う勤務条件っていいんですか? 働きたい時に働くって都合よすぎじゃないですか?」
から揚げを網で返すと、じゅわーっと音を立てた。まだもう少し揚げないと火が通らない。
「そう言わないの。玉ちゃんはね中学卒業した時からここで働いてて、途中、結婚とか出産で辞めてたけど人手が足りないって時は手伝ってくれたし、一生懸命お店のために頑張ってくれたの。それに最近は母さんが亡くなったからっていつもよりも沢山働いてもらってたのよ。こっちが申し訳ないくらいよ」
から揚げに程よく火が通って油を切るために、一旦網の上に上げた。この従業員は知らないかもしれないが、このから揚げの下味を考案したのは玉緒だ。
「それでも無断で休むのはどうかと思いますよ。何かあったにせよ家族の誰かが連絡してくるものじゃないですか?」
「玉ちゃん、ここで働いてること家族に言ってないからね」
「どういうことですか?」
「家族に心配かけたくないって家族がいない時間だけここに来てるの。それを先代は許してた。事情を知ってたからね。わたしももちろん了承してたわ」
「事情って……」
厨房の中にはこの2人を含めて5人いる。全員ここで働き出して5年以上なのでベテランなのだが、それでも事情を知らない。知っているのは女将と最年長者の2人だけだ。不満を持っていることはわからないでもないが、人の家の事情を勝手に話すことも出来ない。今は堪えて貰うしかない。
忙しさが緩んだ午前10時。定食屋ののれんはまだ中にあったが、ドアを開ける音がしたので揚げ物担当の従業員が出て行った。
「ごめんなさい。まだ開店前で……」
「あの開店前にすみません。店長さんはいらっしゃいますか?」
見たことある顔。聞いたことある声。想像より小さいしテレビで見るよりきれいだった。
「どうしたの?」
女将が奥から出てくる。そして入口にいる人の顔を見て驚いて、駆け寄る。
「玉ちゃんに何かあったの!?」
「え!? あの、女将さんですか?」
「そうよ。玉ちゃんに何かあったの? 柔ちゃんがここに来るなんて何かあったとしか思えないわ」
戸惑う柔だったが、とにかく事情を説明しなくてはいけない。
「一昨日の夜に倒れて入院しました。ご迷惑をお掛けしてすみません」
「入院って……どこか悪かったの?」
「いえ、ちょっと疲れが出たみたいで……」
女将は柔を椅子に座るように促し、コップに入った水を置いた。
「まだお茶の準備が出来てなくてごめんね」
「いえ、ありがとうございます」
「玉ちゃん、最近頑張ってたのよ。ウチの先代が8月に亡くなって、その穴を埋めようとしてたのよね。先代は80歳だったんだけど体はよく動いてね、いなくなったらもう店はてんやわんやで。でも玉ちゃんが沢山手伝ってくれたから、随分楽になったの。それに甘えてたのね」
「あたしは母がここで働いていることも知りませんでした。昨日聞かされて、事情を説明に行って欲しいと言われて初めて知ったんです」
「玉ちゃんね、虎滋郎さんが失踪してからここで少しずつ働いてお金貯めてたのよ。探しに行くようになってからも、東京に戻ってきたらここで働いてた。わたしらからすると、ずっと働いて欲しいと思ってたけど目撃情報が入ると暫く帰ってこなかったじゃない。それでしばらくして電話があって、見つからなかったからまた働きたいって言うの。一緒に働けるってことは玉ちゃんにとってはいい結果じゃなかったってことだけど、ここで働く玉ちゃんは楽しそうだったわ」
「そうだったんですね。全然、知りませんでした」
「内緒にしてたからね。心配かけたくないって言ってた。おじいさんもきっと知らないはずよ」
「そうですね……」
柔は不思議に思っていたことがあった。父親が失踪して祖父の接骨院の稼ぎだけで生活してた。それも余裕があるわけじゃない。だったら父の捜索資金はどこから出ているのだろうかと。母はこっそり働いてその資金を作っていた。そんなことも知らずに柔は生きてきたのだ。
「虎滋郎さんが見つかってからもお手伝いには来てくれてたのよ。フランスに行く資金をためなきゃって言ってた。嬉しそうでまるで少女のようだったわ」
母の秘密は母の聖域だったのかもしれない。母でも嫁でない一人の人間としていられる場所。自分の力でお金を稼いでそれを手に夫を探す。ここは自分だけの場所だったのだ。そんな場所を守りたいと思った。
「あの、あたしお邪魔じゃなければお手伝いさせてください」
「柔ちゃん?」
「母が戻ってくるまであたしがここで働きます。沢山は出来ないですけど、早朝なら出来ます。お願いします」
「あの、ちょっと待って。玉ちゃんが元気になったらここでまた働いてもらうのは構わないのよ。だから柔ちゃんが代わりに働かなくても……」
「お邪魔ですか?」
正直言うとオリンピックの金メダリストで国民栄誉賞を取った人をどう扱っていいかわからない。人手は欲しいがそんな人がここで料理をしているのも変な話じゃないか。それに彼女は柔道の練習と会社もある。
「会社と柔道の稽古はどうするんだい?」
「会社は行きます。柔道は早朝稽古を暫く取りやめます。どうせ午後から稽古があるのでいいんです」
「でもね……」
「平日は朝の6時から8時。休日はここが開店するまでの間。さすがにお店に出ることはできませんが少しでもお手伝いできればと思ってます」
「いいんじゃないですか」
揚げ物担当がそう言うと、他の3人も頷いた。
「金メダリストと一緒に働くことなんて出来る事じゃない。それに人手は本当に足りてないですよね」
「まあね。うーん……じゃあお願いしちゃおうかな。玉ちゃんのことも心配だから状況は知っておきたいし。ただし洗い場と、お弁当の盛り付けが主な仕事ね」
「はい、お願いします」
その後、ここで柔が働いていることは秘密とされ決して口外しないことをみんなが約束した。働いていることが世間に知られると、騒がれることもあるし鶴亀トラベルに見つかると面倒だ。あくまでお手伝いという位置づけだ。
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vo.8 家族でクリスマス
玉緒が倒れたと聞いた虎滋郎はクリスマスごろの帰国を繰り上げ、12月の半ばには家にいたが柔からすると世話をする人が増えただけだった。退院した玉緒は寝てばかりいたら余計に悪くなると、色々やろうとするが滋悟郎と虎滋郎に止められて、でも二人が出来る事など限られているので結局柔がすることになる。
虎滋郎が出来るのは風呂掃除。滋悟郎が出来るのは庭掃除くらいだ。皿洗いぐらいしてくれたら楽なのだが、それはしないようで玉緒も手伝いつつ柔がやっている。家事は好きだから特別苦ではないが、疲れているときはさすがに手伝って欲しいと思うこともある。
クリスマスごろになると玉緒も本調子に戻って来てたので、一緒にささやかなパーティの準備をした。
「ごめんね、柔。本当なら松田さんのところに行く予定だったのでしょう」
「いいのよ。この家に、お母さんだけにしていけないもの。おじいちゃんもお父さんも何もできないし、結局お母さんが全部やることになるじゃない」
「でも、数日位ならよかったのよ。柔だって休みたいでしょう」
「いいの、あたしは。それにこうやって家族でクリスマスを過ごすのだって何年振りかしら。結構、楽しみにしてるのよ」
「それならいいけど」
笑顔の柔に玉緒は申し訳なさそうに表情を曇らせた。ずっと多くのことを我慢させてた娘が、大好きな人が出来て想いが通じ合った途端、離れ離れになってしまった。なんて運命のいたずらだろう。それでも健気に耕作を思う姿を見ていると、切なくなる。
玉緒自身も結婚生活の多くは夫とは一緒じゃなかった。今も離れている。離れて暮らすことの寂しさは玉緒自身が一番わかってる。
でも、今、柔と耕作が離れているのは二人が納得の上だ。口出しは出来ないが、応援は出来る。何とか出来る事なら何とかしてやりたいと思う。
「あー! おじいちゃんもお父さんももうはじめちゃってる。しかも、クリスマスに日本酒なんて……」
「何を言うか。酒と言えば日本酒ぢゃ」
「もー台無しだわ」
折角、用意したチキンもローストビーフもワインに合うものをと思ってたのに、勝手に開けてはじめちゃう。
「じゃあ、こちらも召し上がってください」
玉緒が出したのはほうれん草の白和え。わさびの風味も加えた定番の逸品だ。
「相変わらずうまいのう。玉緒さんの白和えは」
「そう言ってくれると作り甲斐がありますよ」
「んまい!」
虎滋郎もそう言って箸を進めた。だが虎滋郎は柔の料理も同じように、うまいと言って食べていく。その様子を見て、柔も嬉しくなる。
台所に戻ってお盆に料理を乗せる柔と玉緒。
「白和えなんていつ作ったの?」
「お昼にね。ちょっとこういうのがあるといいかと思ったの。洋風のおつまみやおかずだとおじいちゃんは口に合わないかもしれないし」
「そんなことないわよ。なんでも食べるのがおじいちゃんよ」
「そうねぇ。でも好みはあるじゃない。二人とも和食が好きだから、ちょっとあると落ち着くのよ」
「そんなものかしら。クリスマスなんだから気分を味わえばいいのに」
「柔も和食の勉強はしておいて損はないわ。男の人はなんだかんだでご飯に合うおかずが好きなのよ」
思い起こせば耕作も、豪快に食べる人で柔が作った物を美味しいと言って食べてくれる。でも、好みを聞いたことはなかった。日本にいた時は耕作の好きなものを作ってあげようとか、考えたことも無かったのだ。
「あたしって本当に何も知らないんだわ」
またちょっと落ち込んだ柔だが、居間から滋悟郎が呼ぶ声で戻るとこたつにご馳走があって、家族がそろっているこの状況が愛おしくて笑顔に戻る。
家族で過ごすクリスマスは、子供の頃とは違うけど子供に返ったみたいに楽しくて最後に食べたケーキも甘く優しく感じられた。
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1994年 お正月
vol.1 嬉しい訪問者
一年が経つのは本当に早い。去年も慌ただしく過ぎ去り、変化の多い一年だったと膨らむ餅を見ながら思っていた。
12月から手伝いに行っている「真田屋」もさすがにお正月の三が日はお休みと言うことで、柔は家にいるが正月は正月でやることがある。特に年初めの柔道の稽古は滋悟郎の肝いりで特に厳しいものになる。それの上、柔道に関しては虎滋郎の方が厳しいくらいで柔は朝からへとへとだった。
おせちとお雑煮を食べてしばらくすると、郵便配達の音がしてポストに年賀状が投函された。柔が取りに行ってあまりの量の多さに他の家のが混ざってるのではと思うが、ほぼ滋悟郎宛てなので柔は素知らぬ顔ですべてを一旦滋悟郎に預ける。
「ほれ、おまえのぢゃ」
差し出された年賀状は毎年少しずつ増えている。知り合いが増えているからなのだが、住所を教えるほどの知り合いが増えたかどうかは疑問だが、誰から聞いたのか年賀状は届く。
高校の三人組、三葉女子短大のみんな、富士子、藤堂、羽衣などと混じって風祭からも来ていた。もちろん名字は本阿弥となっていた。後は、柔道、仕事関係の人だったが一枚不可解な年賀状が混じっていた。
住所は途中までしかないが、近所に「猪熊」は柔の家だけなので届いたのだろう。表面には送り主の住所や名前はなく、裏面を見るとごく普通の年賀のあいさつがあり端の方に「N」と書かれていた。柔に直ぐに思った。これは「西野」の「N」ではないか。でも、なぜ住所を知っているのか。なぜ年賀状を送って来たのか。
誰かが単純に名前を書き忘れたという可能性も否定できない。不安を覚えたが内容はごく普通の年賀状だ。大騒ぎするほどのことではないと、束の中に混ぜた。
午前中に家族で初詣に行き、昼には家でゆっくりしていると嬉しい訪問者があった。
「あけましておめでとうございます」
富士子の通る声がして柔は二階から早足で降りてくる。
「富士子さん!」
玄関にいたのは富士子と夫の薫、娘の富薫子だ。去年の7月に静岡に引っ越して以来の再会となる。富薫子は2歳となりさすが背の高い富士子、体の大きな花園の子であるとでも言うように大きな女の子になっている。歩く足もしっかりとして2歳児には見えない。
居間へ行くと滋悟郎と虎滋郎が将棋を指していた。富士子らは挨拶をしたが、勝負に真剣になり過ぎて耳に入ってないようだった。するとそこに富薫子が割って入り、将棋の駒をぐちゃぐちゃにかき回した。
「おーフクちゃんぢゃないか。また大きくなって」
「だー」
負けていた滋悟郎は勝負がつかなくなったことに喜んだが、虎滋郎は唖然としている。子供のしたことだから仕方ないが、負けていたはずの滋悟郎の勝ち誇った顔が釈然としない。
「おじいちゃん、お父さん。富士子さんたちがあいさつに来て来れたんだからしっかりしてよ」
「おーすまんの」
「すまない」
「気にしないでください。勝手に押しかけたんですもの。ところでそちらにいるのは……」
「あ、富士子さんたちは初めて会うよね。お父さんです」
柔は気恥ずかしそうに虎滋郎を紹介した。無表情で威圧感のある虎滋郎に圧倒される花園だが、富士子はそんなこともなかった。
「その節はありがとうございました」
「どういうことぢゃ?」
「昔、短大時代に一人で稽古をしていた時に指導してもらったんです」
「そういえば、言ってたわね。柿の種のおじさんって」
「覚えていたのか……」
「もちろんですよ。あれからあたし、上手になったんですもの」
「調子に乗りおって!」
「君にはセンスがあった。それだけのことだ。さあ、俺はちょっと道場に行ってくる」
虎滋郎が部屋を出ていくと玉緒がお茶を運んできた。
「富士子さんのお茶には遠く及びませんが、どうぞ」
「そんなことありませんよ。ところでお体の調子は?」
「心配かけてごめんなさいね。もうすっかり元通りよ」
その言葉に柔はあきれる。
「そんなこと言って。まだ休んでていいのに」
「何もしないほうが、体に悪いのよ」
柔は富士子とこの数か月のことを話した。滋悟郎たちがいるので耕作のことを深く聞けないことにもどかしさを感じていたが、久し振りにみる柔は楽しそうに見えた。
高校の同級生の話になると、花園が話しに入ってきた。
「あの3人か。仲良かったよな」
「うん、でも短大にいって会わなくなったからどうしてるかなってずっと思ってたんだ」
「あ! そう言えば去年の初詣で見かけたのって清水だったのか」
「そうみたいね。あたしは全然気づかなかったけど」
「俺もなんか見たことある人がいるなとは思ってたが、誰かまでは分からなかったな」
「女の子は変わるからね。その点、花園くんはあまり変わらないね」
「そうかー?」
「あ、そうだ。見て欲しい物があるの」
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vol.2 朗報
「あ、そうだ。見て欲しい物があるの」
柔は部屋に走った。持ってきたのは耕作の原稿だ。
「これ、松田さんの?」
「うん。下書きみたいなものなのかな。少し読んでみてよ」
富士子と花園は2人で原稿を読み始める。ゆっくりとは読んでいられないが、花園は高校の時の一連の騒動を思い出し、富士子は短大からの4年間を振り返る。懐かしい思い出になっているこの現状に寂しささえ感じる。
「松田さんも苦労したわね。きっともっと書きたいことがあったはずなのに、この量にしなきゃいけなかったんだもの。それに本当によく猪熊さんのこと見ててくれたのね」
「そうね。あたし、松田さんがいなかったらとっくに柔道やめてたかも。これ読んでそう思ったわ」
不満そうな滋悟郎は何も言わず酒を飲む。この原稿を当然、滋悟郎も読んでいる。自分が知っていること、知らないことが沢山あった。これを柔が訂正した箇所はなく、事実だと認めなくてはいけない。滋悟郎は文字で読むことで、客観的になり自分の強引さを突き付けられたような気がしていた。だからと言って、それが間違っていたとは思っていないが。
「先生、実はご報告がありまして」
花園が姿勢を正して滋悟郎に言った。
「この春から中学校の教員に採用されました」
「おお、それはよかったではないか」
「これも先生に柔道の稽古をつけて貰って、大学で結果を出したことで目に留まったんじゃないかと思います」
「どうして?」
「体育の教師兼柔道部の顧問の空きがあったんだ。その中学に採用になったからな」
「そういうことね。よかったわね、花園くん」
「ああ、猪熊もあの時はありがとう。2人がいなかったら俺は、何もかも失っていたよ」
「そんなことはないと思うけど……」
「何にしてもわしのおかげぢゃ。お前さんじゃちと不安ぢゃが、柔道を広める活動は大いに意義のあることぢゃ。励めよ」
「はい!」
賑やかだった猪熊家も富士子たちが帰った後は、火が消えたような静寂が訪れる。夕方の茜色の空も相まって、その寂しさは柔の心にぽっかりと穴をあけたようだった。
出来るだけ考えないようにしていた。特に一人でいる時は、思い出すと涙が出ることもある。こんなにも依存していたのかと思うほど、耕作に会えない状況は柔の精神にダメージを与える。
電話で話しても辛くなる。耳に残る耕作の声は優しく、どうしてもっと早くに思いを伝えなかったのか何度も後悔した。何かと理由を付けて自分の心を省みないのは、柔の常とう手段だ。特に恋愛関係に関しては、心を偽ることになれている。それでも、柔は寂しさに押しつぶされそうになっていた。
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vol.3 気が紛れるから
1月半ばになると、柔も仕事と真田屋のお手伝い、柔道と英会話など目まぐるしい忙しさが戻ってホッとしていた。柔にとっては恋愛ごと以上に精神的に影響を及ぼすことはない。考える時間が短くなれば、その分思い悩む時間は減る。
「柔、お母さん来週から『真田屋』のお手伝いに入ろうと思うの。虎滋郎さんもフランスに行ってしまったしちょっと退屈なのよ」
一人で夕飯を食べていると、用意してくれた玉緒が言い出した。過労で倒れたことなどなかったように、玉緒の体力は回復し元に戻ったように見えた。
「まだ、早いんじゃ……」
「もう大丈夫よ。柔はもっと自分のことを大切にしなさい」
母には全て見抜かれていたのだ。耕作のことを考えないようにするために忙しくしていたが、夜眠れないことだってあった。いくら体力に自信がある柔でも、疲労は蓄積されそれが現れていた。
玉緒は湯呑を置いて柔の向かいに座る。
「お母さんがね、『真田屋』のことを黙っていた理由を話してなかったわね」
「うん……」
「昔は今の柔と同じ理由。虎滋郎さんがいなくなって淋しかったの。家のことをしてても気づくと考えていたわ。どうして出て行ったのか、どこで何をしているのか。あたしの何がいけなかったのかって。昼間なんて地獄よ。一人でいる時間が多いから嫌でも考えちゃうもの。そんな時に、『真田屋』に言って先代の女将さんに話を聞いてもらって働くことになったの」
「気が紛れた?」
「ええ、好きな仕事だったしみんないい人だった。でも、おじいちゃんには言えなかった」
「やめろって言われると思ったから?」
「そんなんじゃないわ。心配を掛けたくなかったの。ああ見えて、おじいちゃんは虎滋郎さんがいなくなったとき、あたしを心配してくれたの」
「信じられないわ。あの、おじいちゃんが」
「本当よ。でも、働いていてお給料を貰えてたから虎滋郎さんを探しに行くことも出来たからとても助かったわ」
「最近はやっぱり先代の女将さんが亡くなって人手不足だから、多く働いていたの?」
「ええ。お世話になったから。何か役に立ちたくてね。もう、柔に言ってもよかったんだけど今更言うのも変かなって思ってる間に倒れちゃったから」
柔が真田屋で聞いた話によると、虎滋郎が見つかる前は昼から夕方まで働いていたが、見つかってからは先代の女将から続けるかどうかは自分の判断でと言われていてそのまま同じように働いていた。フランスに行く時以外は、平日に4日間程度仕事をしていた。女将が亡くなって人手が減り、その穴を埋めるべく玉緒は柔と滋悟郎が家を出た直後から働きに出ていた。
家のこともきちんとしなくてはいけない。柔に頼ればよかったと思うが、耕作がいないことで落ち込んでいたり、富士子が引っ越して淋しい思いをしていることも知っていた。だからあまり負担はかけたくないと無理をしていたことで倒れたのだ。
「あたし、あのお店大好きよ。最近は野菜を切ったりしてるの。手際がいいのはお母さんの娘だからかしらって言われて……」
「ありがとう。でも、このままってわけにはいかないから。それに柔はちゃんと自分の気持ちに向き合わないと。折角話を聞いてくれる人がいるんだから。お母さんの時とは違うでしょ」
「うん……」
「松田さんは柔をずっと見てたのよ。気づいてるわ。柔の様子がおかしいことも。お互いに何に遠慮してるのかわからないけど、何も言わないでいて勝手にこじれるのは最悪よ。自分の気持ちをちゃんと伝えなさい。松田さんは嫌ったりしないわ」
「そうかしら。面倒だって思わないかしら?」
「思うならとっくに思ってるわ。でも、そんなことないじゃない。今もこうやって原稿を送ってくれたり、クリスマスもプレゼントいただいてたでしょう。思いの大きさは測れないけど、信じてもいいんじゃないの」
「わかったわ。お店も今週で終わりにする。でも、無理そうだったらあたしが代わりに行くから」
「うん、ありがとう」
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vol.4 エトワール
真田屋のお手伝いに行かなくなって1週間。休日に時間が余って仕方がない。ショッピングに行く気にもならず、かといって家にいると余計なことを考えてしまってよくない。
柔はかおりから聞いていた、美味しいケーキ屋さんに行ってみようと電車に乗った。マフラーと帽子で顔をかくしているので、誰にも声を掛けられることなく目的地に到着した。
ケーキ屋「エトワール」は大きな店で販売の他にも喫茶スペースが奥にあった。柔はそこへ行くとケーキセットを頼み、ケーキを選びにショーケースを見に行った。そこには色とりどりのケーキが並び、どれも綺麗で美味しそうだ。
「随分変わったのね」
柔がどれにしようか悩んでいると、聞いたことある声が聞こえて振り返った。
「あら? 猪熊さん?」
相手も柔に気付き驚いた顔をしていた。
「時間があるなら一緒にどう?」
「はい」
「あたしはチョコレートケーキとコーヒー。奥で頂くわ」
長い黒髪がつややかで、いつも見るよりも化粧も綺麗にしてあって柔は一瞬本当に誰だかわからなかった。でも、声はいつも聴いてた。ちょっと低いけど、通る声で柔のことを気にかけてくれていた。的確な指示と指導により柔はみるみる上達したのだ。彼女は真田屋の揚げ物担当の浅野だ。柔よりも一回りは上くらいの年齢だからか、姉のように感じていた。
「ここ、家から遠いんじゃないの?」
「ええ。友達に教えて貰って来てみたんです。とっても美味しいって聞いて」
「そうなの。じゃあ、大丈夫ね」
「あの、浅野さんは……」
「あたし、結婚前はケーキとかパフェとかを食べ歩いてはノートにまとめたりして、みんなに紹介してたの。今はね自分で稼いだお金でこうやってたまに食べに来るの。それでここはちょっと思い出の店で最近思い出して来てみたら随分店の様子もケーキも変わってて驚いたわ」
テーブルにケーキとコーヒーが運ばれてきた。お皿に盛られたケーキは美しく装飾されて食べるのがもったいないくらいだ。
「去年、先代から店を受け継いで改装したんですよ」
ウェイトレスがそう言うと、浅野は質問をした。
「ケーキも全て一新したんですか?」
「いいえ。先代のケーキをお好みのお客様もいらっしゃるので、一部人気商品は今も作っていますよ。ケースにある商品名の横に星マークがあるのが昔からあるケーキですよ」
「それは安心しました。ここのケーキは本当に美味しくて、昔はご褒美に食べてたんですよ。だから今も思い出すんです」
「ありがとうございます」
「家が遠くなってからはなかなか来られなくなったんですけど、これからはまた来たいと思います」
「お待ちしております」
ウェイトレスが去っていくと、浅野はケーキを眺めてメモを取っていた。
「猪熊さんのは、苺タルトね。とても綺麗だわ」
浅野はそう言いながらノートにメモを取っていた。サラサラとペンを走らせ美味しそうなイラストも描いていた。
「お上手ですね」
「ありがとう。写真はお金がかかるからイラストにしてるの」
「イラストの方が可愛くて、記憶にも残りますね」
「そうなの。でも、急がないとケーキがどんどん美味しくなくなっちゃうの。よし、できた。さあ、たべましょ」
「はやいですね」
「慣れよ」
ケーキは聞いていた通り美味しくて、柔は幸せな気分になる。
「いい表情するのね」
「そ、そうですか」
柔は恥ずかしそうに俯く。
「褒めてるのよ。美味しい物を美味しく食べれる人は幸せよ」
浅野は微笑む。
「猪熊さん……柔さんって呼んでいいかしら?」
「はい」
「じゃあ、柔さん。あたし、誤解してたの。玉緒さんがあの店で自分の都合だけで仕事してると思ってた。女将さんたちに気に入られてそれに甘えてるんじゃないかって思ったの」
「でも事情を知らないならそう思っても仕方ないですよ。それに実際、以前はそんな風に働いていたわけで。あたしも、母が働いていたことは知らなくて……」
「柔さんの家だとも知らなかったから事情を察することも出来なかったけど、あなたが来てくれるようになってからはテレビや新聞で事情を知ることもあって玉緒さんが言えなかった理由もわかったし、あたしもまだまだ子供だなって思ったわ。いい年したおばさんだけど」
「そんなことないです。うちは色々複雑と言うか、変と言うか」
「お父さんがいなくなって、お母さんが探しに出て行ったこと?」
「はい」
「その娘がオリンピックで金メダルを取って、国民栄誉賞まで受賞したこと?」
「……はい」
気まずそうに柔は返事をする。面と向かってそんなことを言われたことはない。
「あたしは、とても普通の人生を送って来たよ。高校卒業して短大に行って就職して、この頃からケーキを食べ歩く趣味をやってたの。周りのみんなは結婚のために着飾ってたし、そのために就職したの。大体、20代の半ばくらいで結婚ね。そうじゃない人もいてそう言う人は極稀で、仕事が物凄く出来る人よ。あたしは、そのどちらにもなれなかったの」
「どうしてですか?」
「できればね、仕事で自立していきたいと思ってたんだけど、そこまで出来は良くなかったし、お給料もそんなに貰えないから無理だったの。結構早い段階で気づいたんだけど、今更後輩たちに交じって着飾ってコンパとか行きにくいし、意地はってたんだけどなんだかんだで彼は出来たし安心してたの」
「それで……その人と結婚を?」
「ううん。それでもいざ結婚って言われるとなんか、踏ん切りがつかなくて別れてね。年上は向こうも適齢期だからすぐ結婚しようとするのよ。その後何人か付き合ったけどみんなそう。だから気の合う後輩が誘ってくれたコンパに行ったときに出会った年下の彼と付き合ったわ」
「年下ですか。それなら直ぐに結婚ってならないですね」
「ええ。あたしは年上ってことで押しかけ女房的に彼の世話をしてたし、彼もそれに甘えてたと思う。それでよかったの。しばらくはね」
「どういうことですか?」
「あたしは自分の好きなことをしたいとか、人と同じ道を歩みたくないって心の奥で思っていながら、やっぱりそう言う生き方が怖くなってたの。取り残されていく怖さって言うのかしら。気づいたら友達も後輩もみんな会社を辞めてた。寿退社ね。そしてあたしは28になってた」
遠い目をする浅野。彼といるときは楽しかった。忙しい人だったけどたまの休日に公園に行って、ボートに乗ったりした。腕が痛いと言いながら一生懸命池の真ん中まで行く姿がかわいいと思っていた。
「それで結局、あたしのほうが彼に切り出したの。『結婚の意志はあるのか』って。そしたらね、彼は『今は結婚する気はない』っていうのよ。仕方ないわよね。彼は年下でまだ仕事初めたばかりだもの。でも当時のあたしはそれでプツリと何かが切れてね、この人じゃダメだって思ったの。それで別れて親が薦める縁談で結婚。彼と別れて1年後にはもう名字が変わってた。おかしいでしょ」
ケラケラと笑う浅野に柔は戸惑う。笑っていい所なのか。
「今からもう10年くらい前のことよ。今は夫との間に子供がいるし、またこうやって趣味もはじめられてあの時結婚してよかったなって思うわ。あたしにはこの生き方しか出来ないみたいだし」
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vol.5 一方通行の想い
柔の周りにはあまり普通の人がいない。だからなのか、浅野の生き方は柔にとっては普通とは思えない。
「憧れます。結婚して子供がいて、趣味を楽しむ人生っていいですね」
「ないものねだりよ。あたしは、柔さんのように特別な人って羨ましいわ。多くの人がそう思うわ」
「そういうものでしょうか……。じゃあ、もしその年下の彼が待っていて欲しいって言ったら待ってました? 適齢期から更に遠のいて、果たされるかわからない約束を待っているという選択肢は普通とは違うと思いますけど」
浅野は思わぬ質問だったのか、驚いた表情を見せた。
「待たないわ。あの頃のあたしはもう、みんなと同じでいないと不安だったもの。あの時の彼を支えて献身的な女でいる事の意義を失っていたから、結婚という見返りがなきゃ尽くせないと思った。でも、その意思がないと言われたら心が離れたわ。これで見返りもなく尽くせたらあたしは普通ではない女になってたけど、愚かな女になってたかもしれないわ」
「見返りが必要ですか?」
「そうじゃないときもあるし、必要な時もある。あたしが彼と同じ年だったら何も言わなかったし、数年は結婚という見返りはいらなかった。ただ無条件で人を愛せる人は少ないと思うわ。それこそ恋愛初期くらいかしら。だんだん人は欲が出るから。お互い様だけどね」
欲が出る。その言葉にドキリとする。耕作に対して欲が出てきた。電話が少ないとか、用件だけで終わるとかそんなことを思うようになっていた。前は電話してくれるだけでも嬉しいと思っていたし、それで満足だったのに。
柔が柔道をやっている理由の半分は、耕作だ。それなのに柔道をやっても以前のような満足度が低いのは耕作が近くで応援してないからだろう。出来ないことは分かっているのに、それが時折とても不満に思う。何のために柔道をやっているのかわからなくなる時がある。
「こう言ってもあたしも旦那には見返りを求めてるわ。今日、こうやって外に出られるのも旦那が子供を見ててくれるわけだし。そのために、家事育児を頑張ってるの」
「優しいご主人ですね」
「そうね。わがままだと思ってるかもしれないけど、あたしにはあたしの自由があると思ってるから、やるべきことをやったらその自由を行使してもいいんじゃないかなって。旦那はそれを理解してて、許してくれてるから優しいのよね」
結局最後はのろけていた。幸せそうな笑顔は柔の望む笑顔だ。ないものねだりとはよくできた言葉だ。本当にそうなのだから。
お土産のケーキを買って柔は駅に向かう。浅野は他にも行くからと店の前で別れた。その顔は嬉しさが全面に出ていた。
電車の中で見返りのない愛とは何かと考えていた。好きな人に好きになって欲しい。好きでいて欲しいと願うことはいけないことか。でも想いが報われなかった時、その愛情の行先はどこなのだろう。一方通行の愛を見返りのない愛というのなら、それはとても虚しい愛ではないか。
浅野の言ったことの意味が分かった。結婚という見返りがない相手と一緒にいても意味がない。だから別れた。愛情の一方通行だった。相手の愛情もまた浅野に届かないままだったのかもしれない。でも、浅野は言葉にして答えを求めた。だから別れる決心がついた。でも何も言わずにいたら、一方通行の二人はどんどん気持ちが離れていたかもしれない。気づいたときにはもう手遅れなくらいに。
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vol.6 予期せぬ訪問者
「ただいまー」
玄関にみしらぬ靴。滋悟郎の客はよく来ている。柔は挨拶だけして部屋に籠るのだが、最近は一緒にどうかと言われて困ることがある。話すことなんて特にないのに。それよりも今は耕作と話がしたい。心のもやもやとどうにかしたい。気持ちを口に出さないでいたことで、傷つけた人もいた。気持ち悪いことを抱えたまま過ごすのは自分にもよくない。だから柔はここ数日、何度か電話を掛けているが耕作は忙しいのか全く電話に出ない。時間帯が悪いかもしれないと思ったので、今日はお昼ごろにも掛けたがやっぱり出ない。不安は募るがどうしようもない。一応と思って玄関のそばにある電話の受話器を取って、電話をしてみる。
やっぱりでない。ため息をついて受話器を降ろす。
廊下の向こうから笑い声が聞こえた。滋悟郎が上機嫌でいるのが伺えた。柔道関係者がやっぱり来てるんだと、またため息をつく。手に持っているケーキを見て、お客さん用じゃないのになと思いながら居間の障子を開ける。作り笑い全開で柔はあいさつした。
「こんにち……え?」
こたつでくつろいでいたのは、予想もしない人物だった。
「ま、松田さん!?」
耕作は笑顔で何でもないことのように言った。
「おかえり、柔さん」
「なんで……?」
立ち尽くす柔をよそに玉緒はこたつから立ち上がる。
「お義父さん、そろそろ源さんのところに行く時間じゃないですか?」
「おーそうぢゃったの。日刊エヴリーよ、今度はちゃんと連絡入れてくるんぢゃぞ」
「はい、すみません」
バタバタと出ていく滋悟郎。そう言えば、何か集まりがあるとか言っていたのを思い出す。
「さて、あたしもお買い物に行ってくるわね」
「お、お母さん……」
玉緒はすれ違いざまに柔にウインクする。気を使わせてしまったようだ。
「柔さん? こたつはいらないの?」
コートを脱いでとりあえず横に置いて、柔は耕作の座る斜めの席に座る。暖かいこたつに足を入れると、冷え切っていた足がじんわり温かくなる。
「どこか行ってたの?」
「ええ、ちょっとケーキを食べに……って、松田さんこそどうしてここにいるんですか!? あたしずっと電話してたんですよ。全然でないからてっきりお仕事で留守にしてるんだとばかり思ってました」
「ご、ごめん。仕事で留守っていうのは間違いじゃないよ。仕事で日本に帰って来たんだ。かなり急なことだったから連絡できなかったんだ。ごめん」
「……いつまでいられんですか?」
むくれた顔で柔は聞く。
「明日の便でNYに戻るよ」
「そんな! もっとゆっくり出来ないんですか?」
「来週の日曜にはスーパーボウルがあってアトランタに取材に行かなきゃ行けなくて……」
「そうですか……お仕事なら仕方ないですね」
柔は笑顔で言う。でも耕作にはその表情が無理して作っているものだとすぐにわかった。
「何かあったのか? 電話でも様子がおかしかった。今もそうだ」
作り笑いが固まる。耕作の目は真っ直ぐ柔を見ていた。
「わかるんですか? 離れてるのに。見えないのに」
「それくらいはわかるよ。何年君を見て来たと思うんだ。俺は6年も君を追い続けてたんだ」
言いたいことを言えばいいだけ。それだけなのに口が重い。言葉を飲み込む癖がここに来て障害となる。
「玉緒さんのことじゃないんだろう。見た所、もうお元気そうだった。柔道のことか? 仕事か? 友達の事か?」
首を振る。どうして自分のことだと思わないのだろうか。
「去年、風祭さんに会いました」
「へ? 風祭?」
不意に出たその名前に、耕作は僅かに動揺を見せた。まさかここでその名前を聞くとは思わなかった。
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vol.7 言ってくれなきゃわからない
「後で誰かに聞いて誤解されたくないので先に言いますが、風祭さんと会ったのはホテルです」
耕作の表情は彫刻のように固まった。瞬きも忘れるくらいだった。
「風祭さんに呼び出されてホテルの部屋に行ったわけじゃないですから。あたしもそこまでお人好しじゃないですから」
「あ、ああ。でも何でそんなとこで会うことになったんだ?」
「実は清水たちに相談があるって呼び出されて、内容も聞かれたくないしあたしがいると目立つからってホテルで話そうってなったんです。ところが当日、行ってみると部屋には清水たちは居なくて風祭さんだけがいて引き返そうと思ったんですが、タイミング悪くエレベーターのドアが開いて誰かに見られると厄介だからと風祭さんがとっさに手を引いて部屋に……」
「それで……」
「とにかくあたしも事情が分からないので部屋の奥へ行きました。もしかしたら清水たちがいるかもと思ったんです。でも、誰もいなかったんです」
「まさか、風祭の策略とか」
「いいえ。風祭さんも清水たちに呼び出されて来ただけのようです。呼び出したのは風祭さんとかつて付き合っていたかおりだったんですけどね……」
「一体どういうことなんだ?」
「清水たちはずっと勘違いをしていて、あたしが未だに風祭さんに憧れていると思っていて、でも風祭さんはさやかさんと結婚してあたしを不憫に思ってお膳立てをしたようなんです」
「なんて危険なことを……」
「あたしもそう思ってきちんと注意しました。あ、清水たちは直ぐに勘違いに気付いて部屋に駆け込んできてくれたので、本当に何もありませんでしたから。安心してください」
「あ、ああ……それは信じるよ。ただ、今後は男と二人きりで密室にいるのは勘弁してくれよ。いくら柔さんが柔道できると言っても、相手が男だと何かあってからじゃ遅いんだから」
耕作は急に不安になる。柔は強さゆえに、無防備なところがある。隙が多いと言ってもいいかもしれない。今までは耕作や風祭、富士子がいたことで免れていた危機がそのまま柔に襲い掛かるかもしれない。滋悟郎という鉄壁の防御も仕事に行っている日中やその後にはあまり効果がない。
「柔さんの周りに何か変化はない?」
「変化ですか? どういった?」
「率直に言うと、男に声を掛けられやすくなったとか」
「ナンパってことですか? それはないですね。街では声をかけられますけど、老若男女問わずですから」
「そうだよな。いや、変な奴が声をかけてこないとも限らないから、注意して欲しいなって思ったんだ」
「はい。そこらへんはお母さんにも言われてるので大丈夫です」
「そっか。それならよかった」
笑う耕作に柔は心配をしてくれてるんだと思い、嬉しくなる。でもそれと同時に思い出す。風祭が言った言葉を。
「あの、松田さん……」
「どうした?」
「風祭さんがNYで松田さんに会ったと言ってました。それは聞いていたので特に反応もせずにいたんですけど、風祭さんはNYで……」
口を閉ざす。本当に言ってしまっていいのだろうか。その時、さっきまで考えていたことを思い出す。一方通行な想いはいつかすれ違ってしまうのだと。だから勇気を振り絞る。
「風祭さんはNYで松田さんが女の人と一緒に歩いてるところを見たと言ってました。あたし、それを聞いて不安で……でも、それを電話で言ったらいけないと思って」
「どうして? 言ってくれれば直ぐにでもその人のことを話したのに」
「嫌われたくなかったから……自分で見たわけでもないのに人の言うこと鵜呑みにして、疑うようなことを言うあたしを松田さんは呆れて嫌いになるんじゃないかと思ったんです」
俯く柔の頭を耕作の大きな手がそっと撫でる。
「そんなことあるわけないじゃないか。不安なことがあれば言って欲しい。それが俺に関することなら問題は直ぐに解決するだろう」
「でも……怖いんです」
「何が?」
「決定的なことを言われたらとか考えると。何も言わないでいたらそのままで居られるって考えちゃうんです」
頭をよぎるのは想いが通じる前の日々。柔は耕作と邦子が付き合っていると思っていた。それを耕作の口から聞いたことはなかった。訊ねたこともなかった。それは肯定されることを恐れていたからだ。耕作の口から聞かなければ現実を突き付けられないまま、何事も無いように日々を過ごせる。そう思ってきたのだ。
「柔さん。君がどうしてこんな風に言葉を飲み込みようになったのかよくわからない。俺は6年も近くで見て来たけど、まだわからないことだらけだ。出会ったころの君は思いをどんどんぶつける子だった。大人になったと言えば聞こえはいいけど、それを俺にまでする必要はないよ。俺は記者だから君の変化に気付くことは出来る。でもその理由まではわからない。それは俺が鈍いってのもあるけど、言ってくれないと男っていうのはわからない生き物なんだよ」
思い返せば今までもそうだった。耕作は柔の変化を感じ取っても、その理由を察することはなく余計にこじらせたりしていた。耕作は耕作の思うままに発言し、柔はその発言に落胆する。そんな言葉が欲しいわけじゃないと。でもそれは柔自身が何を欲しているかを話したことがなかったからだ。鈍い人にそれを察してくれといっても無理な話だ。
「松田さん?」
「ん?」
柔は顔を上げた。その表情はさっきまでとは違ってちょっと明るいが目がきりっとなる。
「誰なんですか? その赤毛の女性は」
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vol.8 カメラマン
「誰なんですか? その赤毛の女性は」
「お、急に戻ったな」
「松田さん!」
「うん、あの人はカメラマンだ」
眉がピクリと動く。カメラマンなんて柔のトラウマみたいな職業だ。
「でも、ハミルトンには来ていませんでした」
「正確に言うとウチの社員じゃないんだ。カメラの腕はあるけど、ウチには雇うだけの金がないから写真だけを買い取ってる。俺は写真の腕はイマイチだから。ハミルトンには柔道を撮ることに実績のある加賀くんが会社から派遣された。だからいなかった」
「でも、取材には一緒に行くんですよね。アメリカは広いです。何日も一緒ってこともありますよね」
「ああ、そりゃな」
「そ、そんな当たり前みたいに言われてもあたし……そんなに心広くないんですよ」
「いや、だからって別に何かあるわけじゃないし。俺もむこうも仕事上の相棒であって何もそれ以上の感情があるわけも……」
「でもいつその人が松田さんを好きになるかわからないじゃないですか。邦子さんだってずっとそうだったんだし。松田さんはそういう力があるんですよ」
「あのさ……柔さんは重大な思い違いをしているから言っておく。俺はまずモテない。いや、そういうと柔さんに悪いけど風祭みたいに顔がいいとかでもないし、金もない。甘い言葉を掛けてやることもできないし、そこまで熱心にもなれない。器用じゃないんだ。柔さんのことを考えるだけでいっぱいなんだよ」
「松田さん……」
「それから風祭がどう言ったのか知らないけど、俺はその赤毛の人を何て言った?」
「カメラマンだって」
「そう。カメラマンだ。ジェシーっていうんだけど、ジェシーは男だ」
柔はポカンとする。耕作が嘘を言っているようには見えないが……。
「でも、風祭さんは女性って言ってました。見間違えるはずがないですよね」
「ジェシーは性別を超越した存在と俺は思ってる」
「どういうこと?」
「生まれた時は男として育てられた。でもずっと自分は女だと思って生きてきた。だから見た目を女性らしくしてるから、一見女性に見える。俺もそう思ってた」
「それってニューハーフって言われる人のことですよね?」
「ひとくくりには言えない。誰だって個性や好き嫌いがあってそれを一つの型にはめることが出来ないだろう。ジェシーの場合は心は女であっても、体を女性にしたいとは思っていない。そのままでいいんだけど、髪を伸ばしたり化粧をしていたいらしい。語弊はあるかもしれないが、女装ってことだな」
「テレビで聞いたことありますけど、自分の体に違和感があってそれが許せないみたいなことは?」
「ないんだって」
「じゃ、じゃあ恋愛対象は男性じゃないですか!? 心が女性なら」
「そこに引っかかるよな。これが俺がジェシーが性別を超越してるっていう理由なんだけど、ジェシーの恋愛対象は女なんだ」
「は?」
「摩訶不思議とはこのこと。一見、スレンダーな女優のような見た目だけど、体は男。でも心は女。それなのに恋愛対象は女。複雑だろう」
耕作は笑っていた。柔は困惑した表情を見せる。
「だから俺は柔さんの方が危ないと思ってる」
「どういうことですか?」
「ジェシーは小柄な女がタイプなんだって。しかもスポーツをする闘争心溢れた女が。もちろん柔さんのことも知ってるし、いつか会ってみたいって言ってたよ」
「そうなんですね……」
「怖がらなくても普段は妙に明るいアメリカ人って感じだから大丈夫だよ。だから俺のことも何とも思ってないし、俺もジェシーを恋愛対象として見ることはないよ」
「でもそんな話をどうして松田さんは知ってるんですか?」
「一応、相棒としてアメリカ各地を回ることになるだろう。出会った時は女だと思ってたからそれなりに配慮がいると思ってたんだけど、ジェシーの方からその必要はないって言われて理由を聞いたらそう教えてくれた。それに基本的にジェシーはバイク移動だし現地集合が多いんで試合会場以外では一緒にいることはあんまりないよ」
「そうですか……」
「安心した?」
「はい……でも、そんな大切な話をあたしにしてもよかったんですか?」
「本人から許可は貰ってるよ。俺には日本に彼女がいることも知ってる。その彼女が自分の存在のせいで不安を覚えることがあってはいけないから、必要なら話をしていいって。ジェシーは女に優しいんだよ。男には、特に気を許してない男や女を馬鹿にする男、それから遊び人には厳しいけどね」
柔は耕作の口から出た「彼女」という言葉の余韻に浸っていた。誰かの「彼女」になったことは初めてだし、そういう扱いをされたこともはじめただ。
「柔さん?」
「え? あの、もう安心です。あたしもいつかジェシーさんに会いたいです」
「その時はくれぐれも気を付けるように」
「はい」
作り話みたいなジェシーのことを柔は信じた。嘘だとは思えなかったから。
「でもよ、何で風祭はそんな意地の悪いことを言ったんだろうな。自分は結婚してもう人のことに構う必要なんてないのに。俺に言うならまだしも、柔さんに言うなんて何か魂胆でもあったのか」
お茶を飲みながら耕作がいう。話が随分前に戻ったようだ。
「それは……」
「心当たりでもあるのか?」
真っ直ぐ見つめる耕作の視線を外してしまった柔。それに耕作が気づかないわけがない。
「柔さん!?」
「はい。あの、実は、風祭さんにプロポーズされたことがありまして……」
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vol.9 バルセロナの夜
「プ! プロポーズ!? 初めて聞いたけど」
「初めて言いますから。でも、随分前なんですよ」
「いつのこと?」
「バルセロナ五輪の48kg以下級の試合前日……」
「あ!」
耕作は覚えていた。選手村でトレーニングをしていた柔を風祭がさらって行ったと、鴨田から聞いていたのだ。その時はいてもたってもいられず、探しに行こうかと思ったが鴨田に止められたのだ。
「でも、あたし最近までずっと冗談だと思ってて」
「冗談?」
風祭が柔を好きだったことを耕作も知っていた。いつも何かと柔にちょっかいを出し、気を引こうとしていた。だから冗談なんかで言うはずがない。
「OKなら試合後にモンデュイックの丘に来て欲しいって言われて……もちろんお受けするつもりはありませんでしたが、万が一待っていたら申し訳ないのでお断りしに行かなきゃとは前日までは思ってたんですけど、あたし試合後すっかりそのこと忘れてたんです」
「忘れ……プロポーズされたのに?」
「はい……」
「まあ、金メダル取った後だもんな。疲れて寝ちまうわな。それに翌日も試合があるんだから、忘れても無理はない。はははっ」
耕作は風祭を初めて気の毒な奴だと思った。一世一代のプロポーズを忘れられたなんて、考えただけでも虚しい。
「部屋で寝てたわけじゃないんです。あたし、あの夜に……」
じっと耕作を見た。急に見つめられて耕作は、何かあったかとでもいうような顔でいた。
「ホテルサルバドールに行ったんです」
「へー、ホテルサルバ……って、俺が泊まってたホテルじゃないか」
「はい。鴨田さんにホテルを聞いて試合後に行ったんです」
「え? 俺、夜は居たと思うけど。いや、でもすぐ寝ちゃったからな。いや、待てよ。出かけたな、買い物に。しかし、何の用があったんだい?」
鈍すぎる耕作に若干むくれる柔。耕作に会いに行ったなんて言ったら、喜ばせるだけだ。
「プレスのIDカードを返しに行ったんです」
「そう言えば、鞄に括り付けといたIDカードが部屋にあったな。あの時、鴨田も帰って来てないのに不思議だなとは思ってたんだけど、柔さんが届けてくれたのか。ん? 何でIDカードなんか持ってたんだい?」
「松田さんが富士子さんに預けたんじゃないですか。今は行けないからお守り代わりにって……結局、来てくれなかったみたいですけど」
「俺そんなこと頼んでないけど……それにあの日は加賀くんを誘拐犯から救出してたから会場には行けなかったんだ」
「邦子さんから聞きました。とても怖い思いをしたとか」
耕作は加賀邦子誘拐事件について柔にあらためて説明した。
邦子は仕事を放りだして誰にも言わず自費でバルセロナに乗り込んだが、様々なトラブルに巻き込まれ最終的にギャングに誘拐監禁された。日本では連絡の取れなくなった邦子を心配して、もしかしたらバルセロナに行ってるかもしれないと耕作に連絡があったが見かけてはいなかった。
柔の試合当日にユーゴスラビアでお世話になったタクシー運転手と再会しその車内で「日刊エヴリー」を見つけ邦子が乗っていたことを確信する。そして耕作は誘拐されたかもしれない相棒を助けに裏街に乗り込んだのだ。
「その最中に君の試合を見たよ。加賀くんが監禁されている部屋の上にパメラって女の人がいて、試合を見てたんだ。しかも救出にも協力してくれてとても感謝してるんだ。彼女がいなかったら加賀くんも俺たちも助からなかっただろうな」
「そんなに危険だったんですか?」
「そりゃそうさ。相手はギャングだぞ。拳銃だってバンバン打ってくる。屋根を伝って逃げて、まるで映画さ。打たれる寸でのところで助かったんだ。あの時はもう死を覚悟したね」
邦子からも話を聞いていたが、ここまでとは思ってなかった。一歩間違っていたら、この世にいなかったかもしれない。
「そんな事があってホテル帰った時はもうヘトヘトで。加賀くんの荷物はないから着替えを買いに行ったりしてて、その時に来てくれたのか?」
「……ええ。邦子さんにもお会いしましたが、誘拐とか監禁とかそんな空気微塵も感じませんでした」
「話したのか?」
「はい。じゃないと、IDカード渡せないじゃないですか」
「…………誤解しないでくれよ」
なにかを察した耕作は柔に言われる前に言っておこうと思った。
「加賀くんがきっと妙な格好で対応したんじゃないかと思う」
「バスタオル一枚でした。直前まで松田さんが一緒だったと言ってました」
「あー、それは本当なんだけど、加賀くんはシャワー浴びてて俺は部屋で電話してたんだ。それで買い物に出て帰ってきたら加賀くんが腹が痛いなんて言うから、変なもの食わされたのかと思って心配して声をかけたらその……」
「何があったんですか?」
柔はちょっと怒っているように見えた。
「襲われたんだよ。全裸の加賀くんにベッドに引き込まれて……」
「それで」
「逃げたさ。加賀くんは俺が助けに行ったのが加賀くんを好きだからだと勘違いしてて、前から俺に好意を持ってくれてるのは分かってたけど、それを俺は真剣に受け止めたことはなくてでも、そこまで女性にさせてはっきりしないわけにもいかないからちゃんと自分の気持ちを伝えたんだ……信じて欲しい」
「はい。信じますよ」
「そんなあっさり……」
「だってその後すぐにあたし、邦子さんに会いましたから。何もなかったこともわかりましたから。邦子さんに怒られました。二人ともはっきりしないからいけないんだって。あたし、それで頭がいっぱいで風祭さんのことは本当に全く思い出しもせず部屋に帰ったんです」
「そういうことか。でも、加賀くんと柔さんの間でそんなことがあったなんて知らなかったな。もしかして加賀くんって今までも何か柔さんに言ったりした?」
「え、ええ。まあ、色々と言われましたが……」
「何を?」
「それ言わなきゃだめですか。もう終わったことなので言いたくないです」
「そうか……わかったもう聞かないよ。でも一つ確認しておきたいんだけど、俺と加賀くんの間には何もない。記者とカメラマンってだけだ。だからその、骨折した時に加賀くんが来てくれただろう。あれも別に深い意味はなくて、あの後すぐに帰ったから」
「お泊りセットのあの時ですね」
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vol.10 チョコレートケーキ
「お泊りセットのあの時ですね」
「やっぱり覚えてたんだ」
「当然じゃないですか。あの時あたし、本当に失望しました」
「え?」
「だって、邦子さんがくる直前まであたしと楽しくお話してて、しかも泊まっていくかなんて真剣な顔で言ったのに、邦子さんは当たり前のようにお泊りセット持って来てたんですよ。松田さんって何考えてるんだろうって思いました」
「正直あれには俺もまいったよ。あのタイミングであんなもの持ってくるなんて。ちなみにあのバッグの中は、スポーツジムのタオルとか着替えとかって言ってたな」
「聞いたんですか?」
「加賀くんが言ったんだよ。君が驚いて苦笑いで帰ったことにいいわけするように。加賀くんとしてはからかっただけのようだけど」
「からかいにしても強烈でした。あの頃、あたしは松田さんと邦子さんは付き合ってるんだと思ってたので」
「なんで、そんな誤解を」
「そう聞いてたので」
「誰に?」
「…………言いたくありません」
耕作には察しがついていた。邦子がそう柔に吹き込んでいたのだ。
「なんか、色々気づけなくてごめん。柔さん、辛かっただろう」
頷く柔。泣きそうだけど、堪えた。今泣くと、とめどなく甘えてしまいそうだ。
「でも、もう大丈夫です」
「そうか……ん? なんか忘れてるような気がするな」
「あ! ケーキ!」
折角買ってきたケーキをほったらかして話に夢中になっていた。幸いにも縁側の冷えた場所に置いていたので、クリームが溶けたりすることはなかった。
「松田さん、ケーキ食べます?」
「あ、いいのかい? 俺、突然来ちゃったから数合わなくなるんじゃ」
「おじいちゃん用に二個買ってるんで大丈夫です」
「じゃあ、いただこうかな」
「待っててください。コーヒーも淹れますね」
台所に向かう柔を見て耕作はホッとした。最初の話から飛び回って上手く着地したような気がするが、何か忘れているような気がしてならない。
「あ! 風祭だ」
柔にジェシーのことを教えた風祭が何でそんな意地悪をしたのか考えていたんだ。その流れでプロポーズだの、誘拐監禁だのと話が逸れに逸れてなんかケーキ食べる流れになった。でも、風祭の行動の理由を耕作は何となくわかった。
「フラれた腹いせか……」
「なんですか?」
「いや、何でもないよ」
そう思えば風祭も可愛い奴だと思える。それにあの日のバルセロナは雨で、後から知った話だがさやかとの披露宴に遅刻した上に、びしょ濡れだったという。その時は逃げ切れなくて捕まったのかと思ったが、それ以上の深い悲しみを抱えての披露宴だったわけだ。今まで遊んでたツケが返って来ただけのことだ。
「何か楽しいことでもあったんですか?」
「え?」
「顔が笑ってますよ」
「いや、美味しそうなケーキだなって思って」
「そうでしょう。かおりに教えて貰って行ってきたんです。ちょっと遠いんですけど、行く価値はありますよ。『エトワール』ってお店なんですけどね」
「へー、星か」
「よく知ってますね。フランス語ですよ」
「前に聞いたことあって」
「そうなんですね。あ、チョコでいいですか?」
「何でもいいよ」
「じゃあ、チョコで。あ、日本に来るって知ってたらヴァレンタインチョコ、用意したのに」
「これでいいよ」
「ダメです。また何か送ります。楽しみにしててください」
「そっか……じゃあ、楽しみにしてるよ」
柔はチョコケーキを皿に置いて、残りは冷蔵庫に入れた。そしてコーヒーを持って戻ってきた。こたつに座る時、耕作は柔の胸元に光るものを見つける。
「それ、つけてくれてるんだ」
「え? あ、はい。いつもつけてますよ。ありがとうございます」
「もう、迷いはないのかい?」
「え?」
「それ、買うかどうか悩んでて結局買わなかっただろう。まだ自分には早いって」
一昨年のクリスマスの翌日に、二人でNYの店を回っていた時に柔が見つけたペンダントを耕作は覚えていてホワイトデーに贈ってくれたのだ。些細なことを覚えていてくれることに柔はとても嬉しく感じたのと覚えている。
「松田さんが贈ってくれたってことは、あたしに似合うと思ったんですよね。だから迷いはありません」
「そうか。それならよかった。カナダでは付けてなかったから、余計なことしたのかなって思ってたんだ」
「とんでもないです。とても気に入っているんですよ。それにこのペンダントはお守り代わりなんです」
チラリと耕作の方を見る柔。その意図を汲み取って耕作は照れくさそうに微笑む。
「あーだから今日は付けてるのか」
「はい……」
「ならいいんだ。ケーキ、いただきます」
耕作はチョコケーキにフォークを入れる。柔かいスポンジがすっと切れる。
「うん、うまい」
「そうでしょ。他にも美味しそうなケーキが沢山あって、また今度行こうかなって思ってるんです。試合前はおじいちゃんに怒られちゃいますけど、たまにはいいかなって」
「…………」
「松田さん? どうしました?」
「いや、そうそう渡すものがあったんだ」
ごそごそと鞄を漁る耕作。茶色の袋を取り出すと中には本が入っていた。
「これって……」
「君の本だよ。ついに完成した」
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vol.11 すれ違う想い
「君の本だよ。ついに完成した」
「もう、松田さんの本じゃないですか。おめでとうございます」
「ありがとう。これは見本みたいなもので、最終チェックを入れて問題ないようなら印刷所にまわす予定なんだ。向こうでの発売は3月くらいになるかな」
「じゃあ、今回日本に来たのもその関係ですか?」
「半分は。さすがにそれだけじゃ帰国させて貰えないよ。でも編集長とはこの本の話をしなきゃいけないから時間とって貰ってるんだ」
「いつですか?」
「明日の午前中。その後、直ぐにNYに発つよ」
「今日は、ウチに泊まって行ったらどうですか?」
「いや、さすがにそれはできないよ。それにもう泊まる所は確保してるし」
「そうですか……」
「ごめんな」
会えないことを自分ばかりが辛いんじゃないと、耕作の表情を見て柔は感じる。恋人同士になって何度も別れを繰り返した。ただ家に帰るんじゃない。電話して来れる距離じゃない。飛行機で10時間はとても遠い。でも、心の火は消えない。それくらい愛おしい。
「そろそろ、行くよ」
「え! もう!?」
「うん。約束があって。ケーキとコーヒーありがとう」
「いえ、なんのお構いもできなくて……」
「十分だよ」
立ち上がる耕作は障子を開けて縁側を歩き出す。その後ろを柔は追いかける。大きな広い背中。この背中に昔はしがみついたことがあった。バイクの後ろに乗せて貰って、色んなところに行った。試合会場、遊園地、葉山……耕作のアパートにも行った。あの時はこんな気持ちはなかった。だから背中に触れられた。でも今は、遠く感じる。手の届く距離なのに。
「松田さん」
「ん? おわ!」
柔は耕作の背中に思い切り抱き着いた。その勢いで耕作は一歩前に足が出る。
「どうした?」
「なんでもありません。ただ、こうしたかっただけです」
淋しさが溢れる。会いたくて会いたくて、やっと会えたのにまた離れることに慣れることなんてない。より一層辛くなる。
柔の小さな手が強く耕作を抱きしめる。その力強さに「行かないでほしい」という意思が見えた。口に出さないのは優しさか我慢か。
「柔さん、離してくれ」
「あ……ごめんなさい。あたし、困らせるつもりじゃ……」
「違うよ」
今度は耕作が振り返り、柔を抱きしめた。耕作の胸の中にいる。一昨年の冬の時と同じように、お互いの熱を感じられ、鼓動が聞こえる。
「俺だって離れたくないんだ。このまま連れて行きたい。でも、出来ないから。今の俺では出来ないから」
耕作の気持ちを柔は分かっている。でも、気持ちがまだ整理出来ない。
「柔さん。俺はいつまでも昔のままでいる気はないんだ。三流記者でいるつもりはないんだ。そう思わせてくれたのは君なんだ」
「松田さん?」
「記者になって記事が書ければいい。俺はスポーツが好きでみんなを興奮させるワクワクさせる一握りのスターに憧れた。俺はそういう存在にはなれなかったけど、その輝きを伝えることは出来るんじゃないかと思った。君を見つけた時、俺にははっきりその使命が見えた。俺は君を伝えることが使命だと。そのために俺は強引なこともしてきた」
柔を見つけた時、絶対に自分の手で世の中に知らせたいと思った。こんなスターが日本にはいるんだと。その意に反して本人にやる気がなく、耕作は焦るばかりだった。普通の女の子のようにする柔に苛立つことさえあった。
正体が知られ多くの記者に追い回され、初めて一対一でゆっくり話した時、耕作の心の中に「罪悪感」が生まれた。自分の気持ちを優先して、相手の心をないがしろにした。ポスターの長嶋や力道山と一緒に見ていた。世に出ることを、多くの人の歓声を浴びることを望んでいるんだと。でも、違った。
目の前に座る女子高生の猪熊柔は普通の女子高生だった。その普通を耕作が取り上げた。もう戻れないほどに遠くの道に連れて行った。柔をスーパースターにしたのは柔かもしれないが、そのきっかけを作ったのも、やめたいと歩みを止めたその足を何度も戻してきたのも耕作だ。
柔を女性として見て、恋をした時、自分が望んだ道を歩く柔をとても遠く感じた。隣を歩くことは決して出来ないと。そうさせてきたのは自分なのに。だけど、耕作は決して後悔はしなかった。それだけはしてはいけないと分かっていた。だったら自分がその道に少しでも近づける努力をしなくてはいけない。
だから、三流記者でいるつもりはないのだ。いてはいけない。
そんなこと、柔にとっては何の意味もないことかもしれない。でも、それが耕作なりのけじめであり責任の取り方であり、愛情の証なのだ。
「俺は世間が望むように誘導し、柔さんは反発しながらもなんとか折り合いを付けながら柔道を続けてくれたことに感謝してる。だから今度は俺が君のために戦わなくてはいけないんだ」
「あたしのため? それは松田さんのためですよね? あたしはただ一緒にいたいだけなのに。それも叶わないのなら柔道なんて……」
「柔さんにとって柔道をするのに理由がいることは分かってる。それが決して自分じゃないことも。そして今、その理由も薄くなっていることも」
父の居所もわかった。ジョディとの約束も果たした。滋悟郎の夢であった、オリンピックでの金メダルに国民栄誉賞も貰った。残る理由は、耕作がそう望むから。でももし柔道のせいで耕作といられないのなら、柔は柔道を捨てることをためらったりはしないだろう。
「柔道がずっと嫌いでした。あたしを邪魔ばかりするから。でも掛け替えのない物をくれたのも柔道です。わかっているんです。でも、あたしは柔道より大切なものがあるから。そのために柔道を辞めることにためらいはありません」
「ダメだ。それはダメだ。俺は望まない。たとえそうして俺のそばにいてくれたとしても、俺は君と正面から向き合うことができない」
「だったらいつまで……いつまであたしは独りでいたらいいんですか?」
「独り? どうしてそう思うんだ。君はまた……」
耕作は悲しげな顔を見せる。それは柔が泣いているからじゃない。自分が支えられないからじゃない。
「いつか来るかもしれない未来をただ待つことはしない。それは何もしないことへのいいわけだ。弱いことを認めず、成り行きに任せることは簡単だが何も前に進まない。俺は進まないといけない」
耕作は柔から離れた。案外、あっさりとその腕は耕作を解放したが、顔を上げることはなかった。
「それじゃあ、俺は行くから」
耕作は出て行った。その姿を見ることも出来ずにただ、床の模様を眺めていた。置いて行かれたような気がした。父の時のように。
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スタンド・バイ・ミー
vol.1 心の空白
言わなきゃよかったなんて思いたくない。淋しいから、離れたくないから出た言葉。それは嘘ではないけど、本気でもない。
あの日から柔道の稽古をしていなかった。夕方に道着に着替えて滋悟郎の待つ道場に行った。本当はそんな気分じゃなかったけど、これで稽古に行かなくなったら本当に柔道をしなくなるような気がしたのだ。
それなのに、滋悟郎は稽古を途中で終わりにした。
「なんぢゃその態度は。全く身が入っとらんではないか!」
「す、すみません」
柔は耕作の事ばかり考えていた。怒らせたかもしれない。もう、呆れて嫌われたかもしれない。柔の目を見て笑ってくれないかもしれない。そんなことばかり頭をよぎっていた。
「もう、よい! 稽古はしばらくなしぢゃ!」
「え? おじいちゃん?」
「そんな気持ちで道場に入るでない。今すぐ出て行け!」
どれだけ怒ってもこの言葉だけは言われたことがなかった。柔が自らの意思で道場を離れたことはあるが、滋悟郎はいつどんな時でも柔を突き放すようなことは言わなかった。
あまりに早く稽古が終り、玉緒は声を掛けようとしたが柔は部屋に閉じこもってしまった。
それから日々が変わった。柔道の稽古もなくなり、日刊エヴリーを読むことも無くなった。羽衣との会話も減り、柔道部への稽古も回数が減った。滋悟郎に見つかると厄介だと思ったが、会社の方には来てないみたいだった。
英会話には通い続けた。これは自分のためになると思っていたから。でも、半分はいつか耕作と一緒に世界を旅したり、アメリカの友人に会った時に話が出来るようにしたかったからだ。
でも、それももう無意味かもしれない。
2月の下旬。凍てつくような寒さは柔の心も冷たくする。稽古がなくなったから真っ直ぐ帰る必要もないので、寄り道をすることが増えた。滋悟郎とも顔を合わせるのが辛いのも理由にある。
誰か誘えばいいのかもしれないが、誰を誘っていいのかわからない。突然言われても迷惑かもしれない。そう思うと柔は一人で店を回ったり、映画を見たりして時間をつぶしていた。
最近見つけた映画館は、最新の作品ではなく古い物を上映していて、柔は白黒映画や子供の頃に上映していた懐かしい映画をそこで見ていた。映画を見ているときだけ何も考えずにいられたのだ。
今日も映画館に行った。昨日とは作品が変わっていた。それは柔の大好きな映画だ。
「ニューヨーク・ラプソディを1枚」
窓口からチケットを渡され中に入る。まばらにしか人がいない映画館。居心地がいい。いつもの席に座り、ただスクリーンを見つめる。
身分違いの恋を描いたこの作品を柔は高校生の時にかおり達と一緒に見に行った。ラストシーンでは周りが引くほど泣いた。障害のある恋の果てのハッピーエンドはいつだって涙を誘う。
でも今日は別の意味で涙が出た。ラストシーンの場所は、耕作と行ったことがある場所だ。いい思い出ではないけれど、耕作と二人で行った数少ない場所。思い出すことすら今は辛い。
エンドロールの間、柔は涙を拭っていた。照明がついて前から歩いてくる人にどこか懐かしさを感じて見てしまう。
「猪熊さん?」
厚ぼったい唇に肩までの髪。思い出の中の姿よりも痩せているが、きっと間違いなかった。
「…………まさか、藤堂さん?」
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vol.2 藤堂由貴
「…………まさか、藤堂さん?」
バルセロナ五輪で引退した藤堂由貴は、柔のデビュー戦の相手だ。大きな体で威勢が良くて柔をライバルだと言っていたが、いい友達でもあった。会うのはバルセロナ五輪のあとはじめてた。藤堂は選手を引退し、試合会場で見ることはなくなった。
近くの喫茶店に入る二人。レトロな装飾の店内は薄暗く、煙草の匂いがツンと鼻を刺激した。客は少なく、常連らしき人が新聞を読んだり、読書を楽しんでいるようだった。
コーヒーとアイスティーを注文しておもむろに藤堂が話し出す。
「よく行くの? あの映画館?」
「ええ、最近は」
「そう、あたしはこの前たまたま見かけて、好きな映画やってたから時間作って来たのよ」
「ニューヨーク・ラプソディですか。あたしも大好きです」
「かっこいいよね。あの俳優」
「レオナルド・ダヴィドって言うみたいですよ」
「舌噛みそうな名前ね」
柔は久しぶりに笑った。
「藤堂さん、随分様子が変わりましたね」
「痩せたでしょう。現役引退して太ることはあっても痩せるのって珍しいでしょ」
食べる量は変わらないのに運動量が減って太ることはある。ましてや藤堂は重量級で食欲も旺盛だ。痩せることはないはずだ。
「何かあったんですか?」
「心配そうな顔しないで。病気じゃないわ。ただのダイエット。食事の量を減らしたの。運動はそこそこしてね。それだけ」
「安心しました」
「そうでしょ。だったら今度ショッピングに行かない。前行ったときはあまり楽しめなかったから」
「ソウル五輪の前ですね。そう言えば一緒に行きましたね」
「オシャレしなきゃとか言うから行ったけど、サイズがなかったのよね」
「そうそうそれで藤堂さん、別のお店に行っちゃってはぐれて、挙句の果てに夕立まで降って……」
思い出してしまった。その時、雨宿りのために入ろうとした電話ボックス。手を伸ばすと同じタイミングで伸びてきた手に掴まれた。それが、耕作だった。二人とも妙に意識して狭い電話ボックスで夕立が止むのを待った。不思議な空気だった。
小降りになった頃、外を走る藤堂を見つけて柔は外に出ようとした。だが耕作が呼び止めて「五輪後、独占インタビューをさせてくれ」と言ったことに柔はどこかガッカリした。仕事ばかりでたまには違うことを言って欲しかった。そうだ、もうこの時にはそんな期待を抱いていた。確実に心に耕作はいた。ただ傷つきたくなくて気づかないようにしてたのだ。
――独占インタビュー、結局してくれてないな……
「どうしたの? ぼんやりして」
「ううん。何でもないです。藤堂さんは今は何をなさってるんですか?」
「柔道の指導をしてるわ。あたしはそれしか能がないから」
「そんなことないですよ」
「本当よ。あんたみたいに就職でもしてればよかったんだけど、柔道ばっかりでそれ以外したことがないんだもの。でも、柔道があってよかったとも思うわ」
「どうして?」
「あたしには柔道があるの。オリンピックにまで出たのよ。そんな経験した人あんまりいないじゃない。他の職業はあたしじゃなくても出来るけど、柔道の指導は誰でも出来る事じゃないから。あたしは柔道があってよかったわ。あんたもそうでしょう?」
「あたしは……」
「まだ現役のあんたに言っても仕方ないわね。ところであんたは調子はどうなの? もうすぐ全日本よね」
「実はあまりよくはないです」
藤堂は柔の様子を見て何かわかったようだった。
「あんたは体は丈夫そうだけど、心が弱そうよね」
「そうですか? あたしは自分では割と平気なんですけどね」
「忘れてないわよ、ユーゴスラビアでは酷かったわね」
耕作がいなくて試合を始めて怖いと感じたあの世界選手権。本当に調子が悪くていつもの柔道が出来なかった。みんなの期待の大きさを痛感して、自分の心の弱さを知った。
「気づいてましたか……」
「当たり前じゃない。あれは結局何か原因があったのかしら?」
「ええ……まあ」
俯いて苦笑いする柔。
「あんたはどうしてかそんな顔するわよね」
藤堂はじっと柔を見ていた。その目は相変わらず鋭い。
「自分に自信がないような、困ったような顔。そのくせ、柔道だけは誰にも負けない」
「そんなことは……」
「現役の時、あんたのその態度にあたしはイラついてたわ。柔道なんてやりたくないって顔に書いてあって、無理矢理試合に出てそれで勝っちゃうんだもの。あたしは必死にトレーニングして、研究してあんたを倒すこと、五輪で金メダルと撮ることだけに青春をささげて来たのに……」
柔は言葉もない。藤堂の言っていることは本当のことだ。出来れば柔道をやりたくなかった。普通の女の子のようにオシャレして恋して生きていきたかった。その事で誰かを不快にさせているなんて思ってもいなかった。
「でも、あたしは好きでやってただけだしそのために辛い思いをしても、それは強さに繋がるから苦じゃなかった。人はそれぞれ求める物が違って、あんたはあたしの欲しい物を持っていただけ。その圧倒的な柔道の強さ」
藤堂は笑う。
「それから運の強さ」
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vol.3 柔道のない人生
「それから運の強さ」
「運?」
「そうよ。あんたはそうやって柔道を遠ざけたりしながらも、自分の望むものは手に入れてきたじゃない。希望の短大、就職先って人生の道を決める分岐点ではそうやって自分で選んできた。柔道とは関係ない道に行っても、強さは変わらなかった。違うわ。もっと強くなった」
「それは……」
「希望を通すために、弱くなるわけにはいかなかったのよね。あんたのじいさんを黙らせるにはそうするしかなかった」
「ええ」
「その結果、全部いい方向へ転がったってことね」
「そんなことはないですよ」
「ふーん。でも、負けたことない人は負けた人の気持ちはわからないわよ」
藤堂は柔に勝ったことはないし、さやかに負けたことがある。
「でも負けない辛さはあたしにはわからないのよ。あんたは頑張ってるわ。自分の人生を自分の幸せのために生きる努力をしてるのね。あたしが柔道で頑張ってきたのと同じように。道が違うだけね」
「あたしは自分の意思で柔道を始めたわけじゃないので、楽しいと思えたのは随分経ってからなんです。その楽しいもほとんどが誰かと一緒に試合をした時に感じました。自分が試合する楽しさを実感したのは、バルセロナの前、体重別でさやかさんと戦ったときなんです」
「本阿弥さやかか……あのお嬢さまも頑張るわね。すぐにでも辞めちゃうかと思ったけど、根性が普通の女とは違うわ」
「そうですね。さやかさんは普通じゃないですから」
「あんたはわかってないわ。お嬢様の普通は天才である自分なのよ。あらゆる才能に恵まれた自分が普通で当たり前。それを崩したのがあんたなの。だから努力なんて似つかわしくないものをし続けている。あんたを倒すために。あんたが柔道以外を欲しているのと同じように、お嬢さまは柔道であんたを倒すというただ一つの目標に向けて努力してる。天才だと思っている女がする努力をなめたら痛い目に合うわ」
「もしあたしが負けたら、みんなあたしにガッカリするでしょうか」
「あんたも案外普通だったのねって思うかも」
柔は沈黙する。かつて藤堂の対戦したデビュー戦を思い出す。わざと負けて柔道を辞めようとしたこと。
「変なこと考えるんじゃないわよ」
「え?」
「お見通しなのよ。あんた、あたしと最初に戦った時、負けようとしてたでしょ。あんなに圧倒的な力を持っていながら、技もかけずにいたのは不自然だった。それなのに突然、投げ飛ばした。自分でもそうするつもりはなかったと言わんばかりだった」
「あの時は、そうすることで日常に戻れるんじゃないかって思ったんです」
「あんたの日常は柔道ありきでしょ。認めてしまえば楽になるのに。いつまでもグチグチ悩んでバカみたい」
「藤堂さんにはわからないんです。あたしの気持ちなんて」
「そんなもの誰にもわからないわ。あんたはそうやってわかって貰えないと、自分だけが我慢して苦しんでると思ってる。でも、あたしから見ればわがままで自分勝手な女よ。いい加減自分のことを受け入れたらどうなのよ」
「わかってるんです。そんなこととっくの昔に。でも、どうしても柔道のせいであたしはあたしのしたいことを邪魔されている気がしてならないんです」
「逆に考えてみたらいいじゃない。柔道のお陰で今の自分がある。その全てを好きになれなんて言わない。でも、人との出会いもあんたの歩んできた人生も柔道があったから。それを否定することは、これまでの人生を否定することでしょう」
「それはそうですけど」
「想像してみなさいよ。柔道のない人生を。きっと背筋が凍るほど怖いわ」
街行く人々を見ながら想像を膨らませる。柔道が無かったら父はきっと家にいた。滋悟郎とは普通の祖父と孫という感じで、言い争ったりはしなかっただろう。母も家にいて家事もしないでよかったはずだ。部活に入ってドラマみたいな青春をおくれたかもしれない。部活を通じて出会いもあって、普通に恋人が出来て進路に悩んで短大を受験してまた就職で迷ってそして……。
ふと思い出す。NYで耕作が言ったこと。
「俺が一流大学出身だったら?」
その時、柔は答えていた。
「そうだったらあたしのこと見つけてないですよね」
あの時からわかっていたのだ。わかりきっていたのだ。柔道人生を否定したら、周りの出会ってきた全ての人を否定することになる。
今まで柔道を通じて出会ってきた全ての人の存在がなかったと想像した。柔の周りに沢山いた大切な人たちが消えてしまったら、きっと暗闇の世界になっていただろう。
その代わりに誰かが一緒にいるから大丈夫なんてこと、簡単には言えない。言ってはいけない。誰も代わりになれる人なんていないんだから。
「あたしは柔道を否定することはできません…………」
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vol.4 影響力
「わかってるじゃない。あんたが欲する何かは今までのあんたの人生から生まれたんだから、否定したらそれも失うことになるのよ。だから大切にしないとダメよ」
「はい…………」
「それに、あんたと出会ってからあたし、柔道が本当に楽しかったの。前にも言ったけど本当よ。あんたは自分の評価が低いみたいだから言っておくけど、結構みんなあんたに引っ張られてるわ。あんたの持ってる力は想像以上よ」
「あたしにはわかりません…………」
「花園さんも本阿弥さやかもあんたがいなきゃ柔道やってないわけで、あんたがいなきゃ今の旦那と出会えてないわけよ。それだけ見てもあんたの影響力は強いわ」
アイスティーをグーッと飲む藤堂。氷がかなり解けて薄くなっていた。
「あたし現役の時は自分の力を信じてそれだけで試合してた。勝っても負けても自分の力だから自信になるし誰のせいにもしないですむ。でも、バルセロナの時は違ったの」
「岡崎さんですか?」
一瞬、間が開く。藤堂が少し驚いた顔をしている。
「よく覚えてたわね。そう、岡崎さんがいてくれたから本当の心強かったの。誰かを頼ったのはあれが最初で最後。最後だから頼ったのかもしれないわ。そうすることで何かが変わるかもしれないと思ったのね。独りじゃないって思うことで、力が増した。一緒に戦ってるようなものよ」
「一緒に……独りじゃない?」
つぶやくようにささやかな柔の声に藤堂は優しく微笑む。
「独りで戦っていると思っていた時も、気づいてないだけで大勢の支えがあった。わかっていたから畳に上がれたのよ。それを当たり前だと思って省みることもなかったけど、コーチも仲間もいたし親や友達だっていつだって力になってくれた。でも初めてバルセロナで岡崎さんに頼った時、自分の心の弱さを実感して力を分けて欲しいと思った。花園さんの前では強がってたけど、本当は怖かった」
藤堂は当時のことを思い出すように外を行きかう人々を眺める。
「バルセロナ五輪では女子柔道が正式種目になって初めての大会。その代表に選ばれたんだもの緊張もするし怖くもなるわ。でも、あたしが怖がってたらみんなが不安になるじゃない。それに女子柔道の最初の階級だもの、勝って弾みを付けたいと思っていたし、その重責に耐えるだけの心の強さが欲しかったわ」
「それで岡崎さんに電話を」
「驚いたでしょ」
「ええ、藤堂さんも誰かに頼ったりするんだって、正直思いました」
「独りで極められる強さもあるけど、柔道は相手がいるものだから。試合するのはあたしだけどその相手は他の誰か。それだけでも独りでは決してないわ。だからこそ技よりも心の強さが勝敗を分ける時がある。勝利に執着する心でも、他の思いでも」
「藤堂さんは何のために柔道をやっていたんですか?」
「好きだから。それから倒したい相手がいた。そして強くなるため。負けないため」
「多いですね」
「あんたはどうなの?」
柔は考える。きっと最初は楽しかったはず。父との遊びの延長だから。次は父親との絆のため。滋悟郎のため。デビュー戦は日常を取り戻すため。受験や就職のためもあったが、ジョディや富士子、花園、風祭のためもあったが、近年一番の理由は耕作のためだろう。耕作の夢のために柔道をしていた。耕作はジョディとの約束と言っているが、それを理由にして本当の理由を自分でも誤魔化していた。
「自分のためではなさそうな顔ね。でも、誰かの為にやるのも力になるわ。さっきの映画もそうだったわよね」
ニューヨーク・ラプソディは恋した女性との身分の違いから一度は諦めたが、彼女が家のことで苦しんでいることを知った街の悪ガキだった主人公。彼は猛勉強をして大学へ行き最終的には会社を興して大成功した後、彼女を迎えに行く話だった。誰かの為に出す力は自分の実力以上の力が出せるという、よくある話だがそれは決して嘘ではない。
「でも、結局、誰かの為が自分の為にもなるんだから。だったらお得な誰かの為を選んだ方がいいと思うわ」
「お得って……」
「そうじゃないの。幸せは2倍よ。ううん、もっとかも」
「でも、負けたら相手は悲しむんじゃないですか?」
「バルセロナではあたしはあたしのために柔道をしたわ。岡崎さんの力を借りたけど、彼のために柔道をしたわけじゃなかった。それでも、帰国したあたしを彼は慰めてくれた。それだけでもよかったと思ったわ。それだけでもあたしは救われた。柔道やっててよかったって思った」
藤堂はにこっと笑う。優しく穏やかな表情だ。今まで見てきた中で一番、素敵な笑顔。
「あたしは本当に運がいいです。こんなに心が弱くても勝つことが出来たんですから。ユーゴスラビアではその弱さで柔道の試合が怖いと思ったんです」
「でも、その時にわかってしまったんでしょう。何かがなければ試合をすることに不安があることを。自覚してしまうと厄介よね」
頷く柔。バルセロナ五輪の48kg以下級の試合でも耕作の姿がみえないだけで、不安を覚えた。
「人は二通りの人がいる。あんたみたいな誰かの支えが必要な人と本阿弥さやかみたいに自分の足で立つことしか出来な人。どちらにせよ必ず限界が来る」
柔はドキリとした。藤堂の言うことは正しい。柔の心は既に限界に来ている。
「そんな時はどうするんですか?」
「反対の行動をとってみたらいいのよ」
「どういうことですか?」
「支えられないと立てないなんて本来ならありえない。自分の足があるじゃない。その力があるじゃない。支えなんてなくても生きられるように心を強くする。反対の場合は誰かに頼る。どちらも大変だとは思う。特にあんたと本阿弥みたいな重症な部類は」
「重症って……」
「一般の人はそこまで極端じゃないもの。傾きはあってもバランスを取ってどちらにもよれると思う。無意識にそうしてるでしょうね。でもあんたら二人は極端よね」
いつからそんな弱くなったのかわからない。子供の頃から父がいなくて母も家をあけることが多かった。心配を掛けまいと自分のことは自分でやったし、祖父のいうことも聞いて家事もこなした。柔は自分である程度は出来ると思っていた。母がいなくて淋しいと感じることはあったが、暫くすると帰ってくるのでそれだけで安心だった。
転機はやっぱり柔道だ。柔道が柔の外の世界にまで広がって、それを心のどこかで拒否していたけど耕作や風祭、富士子の後押しで試合に出ることになった。そういう時は平気だが、世界選手権のように出場を決められて出る大会は心の拠り所がなく不安になる。不安になると支えてくれる人を探す。それが耕作だった。ソウル五輪の時の呼びかけの声から、心の奥で必要になっていた。
「一人で立つにはどうしたらいいんでしょうか……」
「そんなの、自分で考えなさい。答えはきっともうわかってると思うわ」
藤堂は夜の街に視線を向ける。歩く人の姿はまばらだ。
「あ! もう、何やってるのよ」
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vol.5 想いの大きさ
「あ! もう、何やってるのよ」
独り言のように声を出す藤堂は何かを見ていた。立ち上がって手を振っている先を見ると一人の男性がいた。その人は店に入ってくると息を切らせて藤堂に言う。
「やっと見つけた。どうしてどこか行っちゃうの?」
「ごめん。あんまり遅いからもう来ないかと思って」
「そんなわけないだろう。あ、コーヒーひとつ」
水を運んできた店員に言うと男性は初めて柔の存在に気付いた。
「あの、もしかして……」
「そうよ。彼女は猪熊柔よ」
「やはりそうでしたか。僕、黒百合女子で講師をしてます、岡崎と言います」
「はじめまして、猪熊です」
気まずそうに挨拶する柔。以前聞いていた容姿とは少し違うように思うが、気弱そうだが整った顔をしていた。髪も無造作でだらしなさが感じられたが、不潔と言うわけではない。
岡崎は藤堂の横に座ってひと息ついていた。どうやら二人は待ち合わせをしていたようだ。
「映画は見た?」
「見たわ。そこで猪熊さんに会ったの」
「そうなんだ。面白かった?」
「面白いから一緒に見ましょうって誘ったのに」
「ごめん……」
「で、論文は書けたの?」
「それはもちろん。あとは確認作業だけ」
「そう、よかった」
藤堂は優しく笑う。怒っているわけではない。
「お二人は付き合ってるんですか?」
「え!? まあ、そうね」
「う、うん。あらためて言われるとなんか照れるね」
急に落ち着きなくなる二人は視線を泳がせる。
「あたし、トイレに行くわ」
藤堂が立ち上がり席を離れた。居心地悪くて空気を換えようとしたのだ。
「由貴ちゃん、何か言ってました?」
「藤堂さんですか? いえ、特には」
「そうですか。怒ってたりは?」
「そうも見えませんでしたけど……」
「よかった~。僕、何かに集中すると周りが見えなくなることがあって、その度に由貴ちゃんに注意されるんですよ」
「藤堂さんの存在も忘れるくらいですか?」
「ええ、お恥ずかしながら。今日も映画の約束してて気づいたらついさっき。慌てて飛び出してきましたよ。間に合いませんけど」
「その気持ちだけで嬉しいですよ」
岡崎は曖昧に笑う。
「この癖、直したいんですけどなかなか直らないですね。決して、由貴ちゃんをないがしろにしているというわけではないんですけど、集中していると思い出せないというか」
「仕事って大切ですか?」
「そりゃ、仕事しないと生きていけないですから。猪熊さんは実業団に所属してますよね。普段はお仕事されてますよね?」
「ええ、旅行代理店で事務系の仕事をしてます」
「だったらわかるんじゃないですか。職種はそれぞれですけど、仕事は大切です。でも、それを理由に約束を破るのは最低ですね」
落ち込む岡崎。そこに藤堂が戻ってきた。入れ替わるように岡崎がトイレに立つ。
「何? どうしたの?」
「藤堂さんのことを気にしてましたよ。怒らせたんじゃないかって」
「まあ、怒ってないわけじゃないけど、今はもう別にって感じね。それにあたしは彼の仕事の邪魔をしたくないから、無理はして欲しくないの。行けないなら行けないって、あらかじめ言ってくれればいいのにって思うだけ。待つ方は結構色々考えちゃうじゃない。来る途中に何かあったのかなって」
「そうですね。家を出る前くらいに電話でもくれればお互いに気も楽でしょうね」
「でもいつものことだから。あたしは性格的に誰かの言うがままに生きられないし、彼くらい心の広い人と一緒の方がいいのよ。だから時間に遅れるくらいは問題ないわ。それが惚れた弱みよね」
「告白したのは藤堂さんからですか?」
「ま、まあそうね。だからなのか、あたしのほうが彼を好きなんじゃないかって思うわ。気持ちなんてはかることもできないのにね」
告白した方が気持ちが大きいというのは違うと柔は思っていた。空港で耕作に告白されたけど柔だってあの時は耕作のことが大好きだった。ただ勇気がなかっただけ。
勇気の分が大きさと言われると、かなわないのかもしれない。でも、今はどうだろうか。離れてしまった分、気持ちが小さくなったかと言われたらそれは違う。そうなったらこんなに悩まないし、淋しくない。耕作の方は分からないけど、柔の気持ちはあの時以上に膨らんでいる。
岡崎が戻って来たので、柔は席を立った。ここからは二人の時間だ。藤堂に連絡先を渡して、今度ショッピングに行く約束もした。そして藤堂と話をしたことで、見えてきたものがあった。
帰宅して柔は真っ先に滋悟郎の元に向かう。そして畳に指をつき、頭を下げた。
「あたしに柔道の稽古をしてください。これからは心を入れ替えてちゃんとします」
滋悟郎はしばし無言で柔の姿を見ていた。いつまでも頭を上げない柔に滋悟郎は重い口を開く。
「わしの稽古はもっと厳しくなるぞ」
「はい!」
「ついて来れるか?」
「はい!」
「よろしい。明日から始める。遅れるでないぞ」
「はい!」
顔を上げる柔の目には輝きが満ち溢れ、滋悟郎も満足そうに笑っていた。そしてその様子を玉緒が優しい目で見ていた。
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松田の不安と葛藤
vol.1 押せない番号
NYは3月と言えども寒くまだ上着が欠かせない時期だ。特に今年は寒いのか、1月の日本を思い出すような、冷たい風が身に染みた。
何度も受話器を取っては柔の家に電話をしようとしたが、何を言っていいのかわからずに受話器を降ろした。悲しませたことは事実だ。泣いていたのも、その理由もわかっている。
守りたいと思って努力しているのに、悲しませるのはやり方が間違っているのかもしれない。でも、耕作には記者として記事を書き、認められることしか自分の力を見せることができない。それしかつり合いが取れないと思っている。
そばにいてくれるだけでいいなんて普通なら嬉しいことなのだが、そんな男が柔の隣にいるなんて耕作自身が許せない。相手はオリンピックの金メダリストで、国民栄誉賞だ。
「それとこれとは関係ない」
そう言った鴨田の言葉は耕作を動かすのに一役買った。そのおかげで思いがけず行動に出て、告白した。だけど、その後を考えないほど子供じゃない。世間の心無い声を耕作は嫌というほど知っている。そんな声を聞かせたくない。その原因が自分であることはあってはいけない。
「今日も元気がないのね」
待ち合わせをしているわけじゃないが、時間があればここに来る。アリシアは耕作との繋がりを絶つことはなかった。ロイドに相談し、その真意を聞いた上でまだ切っていい相手とは判断しなかった。柔道の話を出来る相手はアリシアには貴重だし、日本人ということがよかった。
「まあ、いいわ。どうせ話してはくれないんでしょう。コーサクはあたしにはいろいろと質問する癖に自分のことは話してくれないんだもの。フェアじゃないわ」
「俺の事なんか知っても何も面白くないぞ」
「それはあたしが判断することよ。そもそもいつもいつもここにいるけど、仕事はしてるの?まさかここに住んでるとか言わないでよね」
「そんなこと言うかよ。そもそもこんな管理された公園に人が住めるのかよ」
「じゃあ、何してるの?」
耕作はずっと仕事のことは黙っていた。言ったら相手にしてもらえないかもしれないと思ったからだ。でも、本が発売されれば素性は知られる。その前に本をアリシアが手に取るかもわからないが、柔を書いた本なら可能性はとても高い。
「俺は新聞記者なんだ」
「記者?どこの担当?政治?経済?芸能?」
「スポーツだよ。ちなみに日本の新聞で今はアメリカのスポーツの取材をしている」
アリシアはトレーニングの準備の手を止めた。怒って帰ってしまうかもしれない。
「じゃ、じゃあ、ヤワラには会ったことあるの?」
「もちろん。ずっと取材してた」
アリシアの瞳は輝いていた。
「ヤワラはこれからも試合に出るかしら。日本で大きな賞を貰ったって聞いたわ。それで引退何て事はない?」
「それはないと思うけど……なぜ?」
「だって、ヤワラは憧れよ。まだその試合を見たいじゃない。それに次の五輪はアメリカのアトランタ。絶対に見に行くつもりよ」
「見に行くの?」
「ええ。絶対に行くわ。どんな手を使っても」
「自分が出場しようとは思わない?試合してみたいとか」
黙り込むアリシア。急に険しい表情になる。
「試合はいいわ」
「彼女は勝ち逃げするような人じゃないぞ」
「わかってるわ。でも……」
「柔さんも17歳までは試合に出たことがなかった。無名の柔道家だったんだ」
「あれほどの人がなぜ!?」
「コーチである祖父のいいつけさ。彼女も最初の試合は非公式なもので相手は強豪校の男子選手4人。さすがに試合後はへとへとだったらしい。実践を経験してなかったから、力の配分も上手くできなかったようだ」
「男子4人を相手に……」
「それからは大小いくつもの試合に出て勝ち続けてる。不戦敗あったが畳の上で負けたことはない」
「まさか……そこまでなんて……」
アリシアにさえも柔の偉業は届いていなかった。それ程、この国の人は柔道に関心がないのだ。
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vol.2 身分違いの恋なんて
「詳しくは今度俺が出す本を読んでくれよ」
耕作は満面の笑みで宣伝した。
「本?あなた記者でしょう?」
「そうなんだけど、本を出すことになった。タイトルは『YAWARA!』文字通り、柔さんの取材記録からの本になってる」
「それって非公式なものでしょう?」
「まさか。本人に許可は貰ってるよ。ぜひとも本屋で買って読んでくれよ」
「わかったわ。で、最近元気がない理由は何?本が売れるか心配ってわけじゃないでしょう?」
忘れてくれてなかったことに耕作は苦笑いをする。柔とのことを名前を出して相談なんて出来ないし、ましてや年下のお嬢様に言うなんて男がすたる。
「アリシアってお嬢様だよな?」
「急にどうしたのよ。お嬢様かどうかは知らないけど、家は大きいわ」
「だったら聞きたいんだけど、もしアリシアの好きな人が何のとりえもない貧乏で不釣り合いな男だったらどう思う?」
「悩みって恋愛?あたしはあまり経験豊富ってわけじゃないから……」
「いいんだ。アリシアはどうかって聞いてるんだ?不釣り合いな男を好きになったらどする?」
「別にいいんじゃないの。お互いが好きなら一緒にいたら」
「周囲の声は気にならないか?親や友達がきっと何か言うだろう」
「心配していうでしょうね。でも、ずっと彼もそのままってわけじゃないでしょうし、変わってくれるかもしれない。それに、好きならそのままでもいいかも」
「じゃあ、それ以外の人の声は?近所の人や親の知り合いとか親戚とかあんな男何てって言うだろう?結婚なんてことになったら尚更その声は大きくなる」
アリシアは必死に言う耕作を冷静な目で見ていた。美しい顔は氷のように冷たく耕作は動きを止めた。
「身分違いの恋なんて、映画や小説ではロマチックに描かれるけど実際はありえないわ。そもそも何の取り柄もない人なんていないし、一目惚れみたいな恋は冷めるのも早いのよ。だから一瞬、熱に浮かされて駆け落ちみたいなことをしても、結局熱が冷めれば終わりよ」
「なかなか手厳しい意見だな」
「当たり前じゃない。身分違いだけじゃなく、不倫も同じよ。自分たちが幸せならいいなんてまるで子供。この世界は自分以外の方が多いのだから。その声が気にならないなんてことは絶対にないし、その声を聞きながら幸せになることも出来ない。かといって全世界の人全員に祝福されることもありえないけどね」
「大人だね……」
「一般論よ。ただ、本当に愛してるなら守りたいって思うわ。それに傷つく人が少ない方がいい。身を引いて相手が幸せになるならそれも選択肢の一つ。あたしに出来る事は精一杯やって、結論はそれからよね」
「相手には何も求めない?」
「求めないわけじゃないけど、気づいて欲しいわ。どうしたら幸せになれるかを考えて、実行する人じゃなきゃきっと想いは遠ざかる」
「強いな、アリシアは」
「そうじゃなきゃいられない環境なの。生まれた時からそうやって自分と言うものを持って、多くを学んで家族が恥ずかしくないように自分が馬鹿にされないようにきただけ」
さやかもきっと同じように生きていたのだろう。持ってうまれたものもあるが、努力をしないで得られないものはない。本人がそれを努力と思っているかは別だが、普通の人とは違う苦労はあるだろう。
だが柔は普通の女の子として育ち、周囲もそう言う目で見てた。そして自分自身もそう思っていたし、そうありたかった。だけど、ある時から特別な人間になり感情が置いて行かれた。周囲の望む「猪熊柔」と自身の中の「猪熊柔」にズレが生じたのだ。アリシアみたいに強くいられるわけもない。
「コーサクはお姫様にでも恋してるの?あ!まさかあたし?」
「なに、バカなこと言ってんだよ。俺の悩みは本のこと。売れなきゃ申し訳ないし、俺の苦労が水の泡さ」
「少なくとも1冊は売れるから安心してよ」
「はははっ、ありがとう。じゃあ、俺そろそろ取材に行くから」
耕作は自転車でアパートに帰った。今度こそ電話をしよう。受話器を取って久しぶりにボタンを押す。第一声はどうしようか、何を話そうか。そう考えながら番号を押し終わると、呼び出しのコール音ではなく話し中の音が聞こえた。日本時間は午後九時くらいだろうか。誰かと電話していても不思議じゃない時間だ。
タイミングが悪かったと思って耕作は受話器を置いた。
それから二週間後。耕作の書いた「YAWARA!」がロサンゼルス・NY・ワシントンなどの書店に並び始めた。初版の部数はかなり抑えてあるが、興味を持った書店は思ったよりも多く在庫は今のところないという連絡がスミスからあった。一先ずホッとしたが、相変わらず柔とは連絡が取れていないことに、焦り始めそして諦め始めてもいた。
なぜなら柔からも連絡が一切ないからだ。
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vol.3 【YAWARA!】発売
アメリカで「YAWARA!」が発売されて間もなく、日本の記者の間でも話題になった。その理由は元々噂の合った耕作が書いたということで、もしかして中に二人のことが語られているのではないかと憶測が飛び取材が来た。しかし、柔は「内容に関しては書いてある通りです」と言い続け、記者たちはアメリカで本を購入し翻訳をしてもらい確認した。当然だが、二人の事には触れることはなかった。
面白くないと期待した記者たちは言うが、それに反してアメリカではじわじわと話題を呼んだ。なぜなら、日本人記者を始めアメリカに滞在している日本人が聞きつけ購入し書店からは本がなくなり直ぐに重版がかかったのだ。その重版情報もあり、今度はアメリカの柔道関係者、スポーツ関係者が注目し発行部数を伸ばして行った。
その一連の流れで耕作にも少しだけ取材が入り、柔との仲も勘繰られることがあったが、本当に何と答えていいのかわからず記者と選手の関係とだけ言うにとどまった。
そんな中、日本から寄せられたニュースに4月の全日本女子柔道選手権大会に柔は出場し、決勝戦でさやかを下し優勝したと伝えらえた。日刊エヴリーの記事もFAXが送られてきて読んだ。2年ぶりのさやかとの試合は鬼気迫るものがあり、序盤に技ありを取られた柔は巻き返しを狙い一本背負いを仕掛けるも不発。しかし、その後さやかお得意の寝技を掛けられ万事休すかと思われたが、逆に柔が袈裟固めを完璧に仕掛け一本勝ち。前回、苦しめられた寝技で勝利する辺り、さやかは苛立ちそうだが柔にその意図はないようで写真には笑顔で表彰されるところが写っていた。
何で一本勝ちしたところじゃないのだろうかと、思ったが寝技での一本勝ちでは写真に迫力がなくボツになったのかもしれないと推測した。でも、耕作は笑顔でいる柔を見て少しだけ安心した。柔道を続けてくれてよかったと心から思う。
仕事がひと段落してスパイス・ガーデンへと行った耕作は久しぶりにイーサンとデイビットの顔を見た。最近は忙しいのかあまり会うことがなかったのだ。
「よー久しぶり。元気だったか?」
イーサンはジョッキを片手に耕作に言うと、デイビットは本を掲げて笑っている。
「あ!デイビット、本買ってくれたのか?」
「本屋で見かけたんだ。まさかコーサクが書いたとは思わなくて、正直驚いたよ」
「俺もさ。何で教えてくれないんだよ」
イーサンも持っている。だが読んでいるようには見えない。
「何か恥ずかしいだろう」
「一生懸命書いたものが恥ずかしいものなわけないだろう。まあ、俺はゆっくりじっくり読むタイプだから内容はまだ知らないんだけど」
「おいおい、イーサン。まさかここで俺に本の内容を話させるつもりじゃないだろうな」
「それでも構わないよ。俺はそれでも楽しめるタイプさ」
「嫌だよ。買ったんなら読んでくれよ。きっと損はしない」
「そこまで言うなら、読んでみるかな」
耕作が笑いながらビールを飲んでいると、ジェシーが現れた。今日は取材じゃないので一緒じゃなかったが、なんだかんだでいつも顔を合わせているような気がしていた。
「ハイ!みんな元気?」
お決まりのあいさつから入り、ジェシーもビールを持って席に着く。テーブルの上にある本を見つけると、ニヤリと笑う。
「みんな買ってくれたんだね。どんどん周りに薦めて、どんどん買って貰おう!」
「なんでジェシーがそんなこと言うんだよ」
イーサンの意見はもっともだ。しかしジェシーには野望があった。
「沢山売れたら、そのお金であたしを日本に連れてって!」
「は!?日本に?なんで?」
「何でって、そんなの決まってるじゃない。ヤワラに会うためよ」
耕作は何も言えなかった。そんな約束は出来ない。
「コーサクなら会えるでしょう。こんな本出すくらいの仲なんだもの」
「向こうも忙しいからな。どうだろうな」
「もー、いいのよ。行けば会えるわ」
「まずは売れないと話にならないな」
デイビットの言うとおりだ。だが、売り上げは順調だと連絡が入ったばかりだ。ジェシーの願いを叶えないといけなくなるかもしれない。
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vol.4 かわいそうなイーサン
「ところで、デイビットは最近ここに来なかったけど忙しかったのか?」
耕作が話題を変えようとふると、デイビットは疲れた笑みを零す。
「まあな。今度、まとまった休みを取ろうと思ってそのために仕事を片付けてたんだ」
「旅行でも行くのか?」
「そんなとこさ」
あまり深入りしないのがここでのマナーだ。聞いて欲しくなさそうな話題になった時はそれとなく話題を変える。
「そう言えば、イーサンは彼女とはどうなの?」
ジェシーがそう話題を振ると、さっきまで元気だったイーサンは思い切り沈んだ表情になる。その途端、その場に誰もが「しまった」と顔に出す。
「とっくに……とっくに別れたさ!」
「へー知らなかったな」
「そりゃそうさ。彼女と別れたとき、みんなここには来なかった。オレは一人で泣き続けたさ」
料理を運んできたウェイトレスが、肩をすくめる。店の中で泣いていたようだ。
「なんて迷惑な……」
「何か言ったか、コーサク」
「いや、何てかわいそうなんだと思っただけさ。ちょうどみんな忙しかったんだな。俺も本のことでバタバタしてたし。でも、ここに来てなかったわけじゃないんだぞ。タイミングが合わなかっただけだろうな」
みんなが頷く。フラれたばかりのイーサンに絡まれるのは正直、面倒くさい。
「いや、いいんだ。もう、俺は立ち直った。なあ、コーサク」
「ん?なんだ?」
「お前、この前、ブルックリンで赤毛の女性と話していただろう」
「赤毛の女?ジェシーじゃないのか?」
「違う違う。髪はショートでちょっとくせ毛だったな。にこやかに話しているようだったけど、彼女は何者だ?」
「まさか、彼女を狙っているのか?」
「友達の知り合いなら信用もある。直ぐに連絡が取れなくなるなんてことも無いだろう。なあ、紹介してくれよ」
耕作は口一杯に入れたチキンを強引に飲み込んだ。折角の料理が台無しになりそうなほど、イーサンは必死に耕作を見つめる。しかし、耕作はその人を紹介できない。
「悪いな、イーサン。彼女は既婚者だ。紹介は出来ない」
「な、なんだって!」
「それにな、年齢だって君の母親くらいだと思うぞ」
イーサンは言葉を失う。街でナンパしても結局フラれ、職場での出会いもなく、いっそのこと友人を頼るのもいいかと思ったのだがそれも叶わず。
「俺よりもデイビットの方が顔が広いし、いい女を知ってるんじゃないか?」
席の奥の暗がりでウイスキーを飲むデイビットは、くちゃくちゃな髪の毛から見える目がにやりと微笑むがイーサンは首を振った。
「いや、いい。デイビットの知り合いは僕には難しいよ。あーどこかにいい女いないかな。お!今、入ってきた二人組、いい感じだな。ちょっと声掛けてくる」
やれやれと言った様子で見送る3人。
「イーサンは彼女が欲しいのはわかるけど、誰でもいいのかしら?恋をしたいってわけじゃないのかしら?」
「両方じゃないか。恋をしたいから彼女が欲しい。でも、イーサンは寡黙そうな容姿のくせに話し好きだからそれに女性は辟易するのかもな」
「優しい奴なんだけどな。残念だな」
憐れみの表情で女性に声を掛けに行ったイーサンを見ていると、フラれたようで肩を落としながら戻ってくるところを3人は苦笑いで迎えた。また今晩も面倒な夜になりそうだ。
耕作は人の事よりも自分と柔の関係をどうにかしないといけないと思いながら、長年患ってきた意気地なしが全面に出てきて何度も電話する勇気がもてない。その状況で人を励ますことなんてとてもできそうにない。申し訳ないが、ここはジェシーとデイビットに任せるしかなさそうだ。
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vol.5 連絡できないまま
5月下旬。朝から降り続いていた雨が弱くなってきた夕方過ぎ、柔は邦子に久しぶりに呼び出された。
「お待たせ~」
相変わらず、胸を強調した服装で甘えたような声で話しかける。相手が女だろうとそれは関係ないようだ。
「お久しぶりです」
「ここいい感じの喫茶店でしょう。程よく人もいなくて、程よく距離感があって」
柔もこの店に入った時からそう思ってはいたが、邦子があまりに大きな声で言うから何となく気まずくなった。しかしそんなことお構いなしの邦子は水を持ってきたウェイトレスにケーキセットを注文するとさっそく話始めた。
「この前の体重別はさやかさんがいなくて、あっさり優勝だったわね」
「そんなことないですよ。みなさん強くなってきてますから、あっさりなんてありませんよ」
「そんなこと言って~結構トレーニングしてたんでしょう」
「ええ、まあ」
邦子はカメラウーマンだが記者の野波と試合前になると良く取材に来ていた。以前は猪熊家で取材されることが多かったが今は日中の稽古は会社の柔道部で行っているので、そちらに取材が来ることが多い。
稽古も滋悟郎だけを相手にするよりも、色んな相手と稽古した方が経験になる。柔道部ではそれが出来るので今まで以上に力の入った稽古が出来るようになった。
「ところで、最近はどーなの?」
「何の事ですか?」
「もう、耕作のことよ」
柔の表情が一気に硬くなる。今、一番聞かれたくない話題を聞かれたくない人にされた。
「え? なにその表情。上手くいってないの?」
「いえ、その、上手くいくとかいかないとかでなくて、全然連絡を取ってない状態で」
「えー!! 何やってるの!?」
店内に響き渡るような大きな声で邦子が言うと、数少ない客と店員が一斉に邦子を見つめる。しかし、その誰もが視線で注意すると邦子は苦笑いをした。すると何事も無かったかのような店内に戻った。
「どういうことよ? 連絡取ってないっていつから?」
「今年の1月からです」
「もう4、5か月くらいってこと?」
こくりと頷く柔。
「喧嘩でもしたの? それとも耕作が何かやらかしたとか? え? 浮気?」
「あたしが悪いんです。松田さん、多忙な中、帰国して会いに来てくれたのにあたしがわがままを言ったから怒らせてしまったんです」
「そう言えば1月に帰って来てたわね。編集長と話してるのを見た気がするわ。でも直ぐにNYに戻って……うーん耕作が怒るなんて考えられないけど」
「もしかしたら、呆れて冷めてしまったのかもしれません」
邦子は不安そうに微笑む柔を見ていて胸が痛む。
「そんなことないと思う。だって耕作はずっと柔ちゃんのこと見てたのよ。ずっと、ずっと見てたの。6年以上も見てて、ずっと好きだったんだから。呆れるとか、嫌うとかそんなことあるわけないわ」
「でも、あたしは松田さんが一番聞きたくない言葉を言ってしまったかも知れなくて」
「何を?」
「一緒にいられないなら引退してもいいって……」
それには邦子も言葉もなかった。耕作にとって柔と柔道は二つで一つのようなもので、いずれ来るであろう引退の日まではその二つを大切にして行こうと思っているはずだ。
「でも、柔ちゃん、柔道辞めてないじゃない? それどころか絶好調な気がするけど」
「それは、色々考えて松田さんがいないからって柔道できないとかやりたくないとか思うのは松田さんの負担になるんじゃないかと思って、あたしは心を強くしようって決めて日々稽古してるんです」
「そっか……だったらきっと大丈夫よ。耕作は柔ちゃんと一緒で怒ってるかもって思って連絡しにくいだけよ」
「そうでしょうか?」
「そうよ。だから連絡してみるといいわ」
「はい……」
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vol.6 さやかの調子
ケーキを食べながら、2人はしばし柔道とは関係ない会話をしていた。そんな中、邦子が風祭のことを聞いてきた。
「最近、会ったりしてる?」
「いいえ。風祭さんも結婚されてからお忙しそうですし、それによく考えたらライバル会社の社長さんですから。そんなに軽々しく会うことなんてできませんよ」
「じゃあ、食事に誘われたら行く?」
「いいえ、行きません。さやかさんもいたら別ですけど、2人きりではもう会いませんよ」
「そうよね。フった人だものね」
「そんな……でも、そうか、全日本の時、違和感があったのは風祭さんがいなかったからなんですね」
「どういうこと?」
「さやかさんの試合の時には必ず、風祭さんは来てたんですよ。いなかったことなんてないんじゃないですか。でも、4月の試合の時にはいなかったんです」
「そう言われれば見かけなかったわ。仕事でもあったのかしら?」
「そうかもしれませんが、だからさやかさん調子が悪かったのかもしれません」
「調子悪かったかしら?」
「ええ。少しいつもと違いました。いつも見てくれている人がいないって結構、心のバランスが崩れることがあるんですよ。あたしもユーゴスラビアではそうでしたから。さやかさんももしかしたらそのせいで、集中力を欠いてしまったのかもしれません」
「それくらい、あっさり勝てたってこと?」
「いえ、珍しく隙が多いなとは思いました。気丈な人ですから、あまり表には出ないですけど組んでみるとよくわかります。何かチグハグだなってことが」
「だから体重別には欠場したのかしら」
「そうかもしれないですね。本阿弥トラベルもこの不景気の影響を受けているはずですから風祭さんがまた応援に来られない可能性もありますし」
バブルが弾けて、日本の景気は一気に悪くなった。旅行業界は大打撃を受けた業種の一つだ。旅行は行かなくても生活に支障がない部類の商品だ。生きることを優先に考えたら、旅行でお金を使うのは順番としては下の方となる。業績が落ちればそれは社長の手腕を問われる。今、必死になっているのは風祭とて同じだろう。
「全然、気づかなかった。でも、そもそもあの政略結婚でさやかさんは風祭さんを手に入れたけど、風祭さんは籠の鳥だものね。結婚したからこそ、何か二人に変化があっても不思議じゃないわよね。調べてみようかしら」
「調べても何もわからないと思いますよ」
「あーそうよね。あの二人は隠し事が上手だから」
特にさやかは他人に弱みを見せる人じゃない。いつも自信と誇りと気品を持って生きている。息苦しさを感じないのかと思うこともあるが、それをとやかく言えるような間柄ではない。それはきっとこの世界の誰もがそうなのだろう。
邦子と柔が店を出たのは、それから30分もしない内だった。会社に用があると言って駅で別れた邦子はさっきまでとは違い真剣な表情になる。
空は暗くなり、建物の灯りが煌々と照らしその中を滑るように歩いた。日刊エヴリーのドアを開くと、まだ編集作業で忙しい室内は慌ただしくしていた。デスクにかじりついて記事を書くもの、電話で連絡をとるものと誰もが自分のことで手いっぱいだった。
邦子はその隙間を縫って無人の会議室に入った。用があるのはそこにある電話。メモ帳に書かれた電話番号を見てプッシュする。電気もつけず、身を隠すように邦子はコール音を聞く。
――早く! 早く!
心で願うのとは裏腹に相手はなかなか出ない。
「もしもし……」
ホッとしてつい大きな声になってしまう。
「耕作! 一体何してんのよ!」
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vol.7 邦子の不安
加賀邦子から電話があったのは、午前6時を過ぎたくらいだ。耕作はまだ眠りの中にいた。日本では朝刊の編集作業の真っ最中なので、電話で起こされることはあるが相手が邦子だったことは一度もない。だから耕作は頭が一瞬真っ白になった。
「ちょっと、聞いてる?」
「え? ああ、まだ寝ぼけてる」
「もう、いい加減にしなさいよね。よく眠れるわ」
「何かあったのか!?」
ここまで怒っている邦子に耕作は日本で何か重大な事件でも起きたのではないかと思って、一気に目が覚めた。
「あったのはそっちでしょう」
「は?」
今度はNYで何かあったのかと思い、カーテンを開けるがいたって平和な薄明るいNYの朝の光景が広がっている。
「柔ちゃんの事よ」
「あー」
状況はつかめた。何か聞いたのだろう。
「『あー』じゃない! ただでさえ、遠距離ですれ違ったら永遠にすれ違える距離にいるのに、何で連絡してあげないの! 柔ちゃん、淋しがってたわよ」
「え!? 本当に?」
「嘘言ってどうするのよ!」
耕作を怒鳴りながら邦子は会議室の外を気にしていた。相変わらず、騒々しい編集部は邦子がここにいることに気付いていないようだがいつ誰が入ってくるかわからない。
「まあ、2人のことは2人で何とかしなさいよ。とにかく、あたしが聞きたいのは風祭さんのこと」
「風祭~? それならそっちの方が詳しいだろう」
「そう言うことじゃなくて、柔ちゃんと風祭さんのこと、何か聞いてる?」
「何かって……去年の秋に会ったって言ってたな」
「どこで?」
「確か、ホテルの部屋で」
「何で?」
「変な勘繰りするなよ。どうやら柔さんの高校の友人が何か壮大な勘違いをしていて、2人の仲を取り持とうとしたらしいんだ。でも直ぐに勘違いだってわかって部屋に入って来たから何もなかったって」
「そのこと、他に誰か知ってる?」
「どうだろうな。その時いたのは風祭と友達3人って言ったかな。で、それがどうしたんだ?」
邦子はしばし沈黙する。鞄をちらっと見て受話器を握りしめた。
「その時の写真があるの」
「え? どの?」
「だから、風祭さんにと一緒に部屋に入って行く柔ちゃんの写真よ」
「どういうことだ?」
「あたしだってよくわからないわよ。でも、さっき柔ちゃんに会って話して風祭さんと何かあるようには見えなかった。だけど耕作とは微妙な感じって言うし、どうしたらいいかって悩んだけどやっぱり心配だし……」
「その写真はどこから入手したんだ?」
「それがね……それが一番不可解で」
「いいから、誰が持ってたんだ?」
邦子はもう一度、暗い会議室から編集部を見る。明るい室内を人がせわしなく動く様が見える。その中に、いるだろうか。
「野波くんよ」
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vol.8 疑惑の野波
「野波くんよ」
耕作は一瞬誰の事かわからなかった。そう言えば一度も会ったことがない。
「俺の後任の、野波か?」
「ええ。新人だけど有能って皆言ってる、野波くん。柔ちゃんとの関係も良好で誰かと敵対するようには全く見えないんだけど……」
「それをどうして加賀くんが持ってるんだ?」
「偶然よ。手帳から何か落ちて拾ったらその写真で、拾ったのがあたしだったからよかったけど他の誰かに見られたらと思うととても怖くて」
「で、写真を今は、加賀くんが?」
「うん。持ってる」
「野波は写真がなくなったこと気づいて……」
「ないと思う。でも、あれを野波くんが撮ったとは考えにくいの」
「どうして?」
「写真には日付が付いててその日はあたしと取材にいってて、東京にはいなかったの。だから不可能」
「ということは、同業者かホテルの客か……」
「それでも、それを何故野波くんが持ってるかがわからない。それと何故誰にも言わないのか。野波くんってヘラヘラしてて何考えてるか分からないところもあるけど、スキャンダルを狙うタイプには見えない。もし、写真のことで悩んでるなら力になりたいとも思うんだけど、何か思惑があったりしたらとも思うし」
邦子の持つ野波のイメージは少し頼りない後輩って感じで、何故か世話を焼きたくなるタイプだった。そう思わせるのは、結構ドジだったり、他の記者に馬鹿にされても笑ってやり過ごしているからだ。目が大きくて天パの茶髪でかわいいという言葉が良く似合う。そう言うところが、邦子の母性本能をくすぐるのかもしれなかった。
「下手に動かない方がいい」
「どうして?」
「もし何か企んでいたとしてまだ何もわからない。この数か月何もしてないということは、公表することが目的とは限らない」
「でも、このままってわけにはいかないでしょう」
「そうだけど……君はあまり動かない方がいい。相棒の様子が変わると不審に思うものだ」
「そうなの?」
「特に何か企んでる奴は、警戒心が強いから。君はいつも通り相棒としてそばにいておかしなことがあったら俺に報告してくれ。電話がつながらないときはFAXでいいから」
「う、うん。そんなことでいいならするけど」
「いいかい。いつも通りにしてるんだ」
耕作に念を押された邦子は腑に落ちないまま受話器を置いた。ひと息ついてからこっそり会議室を出て編集部に何食わぬ顔をして混ざっていた。
「邦ちゃん、野波はどうした?」
「さあ? 戻ってないんですか?」
「いや、記事だけ置いてどっか行っちまった」
「え~どういうこと?」
嫌な予感がする。誰にも何も言わずに出ていくことん何てありえない。邦子は慌てて変種部を出ると、買い物袋をぶら下げた野波がこちらに向かっていた。
「どうしたんですか?」
「野波くんがいなくなったっていうから……」
「買い出しに行ってたんですよ。ほら、これ」
白いビニールを顔の位置まで上げると、ニコッと笑う。その笑顔が子供みたいに可愛くて、何か企んでいるようには到底思えない。でも、写真を持っていることは紛れもない事実だ。
邦子は野波の持っているビニールに見覚えがあった。朝食でよく利用する近くのパン屋だ。
「ここのパン美味しいですよね。この時間に行くと、安くなってるんですよ」
「そうよね。売り切りたいんでしょうね」
「だから狙って行くんです。みんなの分もありますよ」
ドアを開ける野波は袋一杯のパンをみんなに配り始めた。
「パンなんて腹にたまんねーよ」と言いながら、みんな口に放り込む。片手で食べれるパンは仕事を止めることなく食べれて便利だ。野波はその様子を見てヘラヘラ笑っている。
邦子はまた複雑な気持ちになる。
◇…*…★…*…◇
受話器を置いた耕作は仕事部屋にある、日刊エヴリーのFAX記事を読み始めた。常にデスクに置いているのはやはり柔の記事で、その内容をチェックせずにはいられない。自分は日本にいないし、試合も見てないから記事が書けないことは分かっているが最初はもどかしい思いをしていた。
これじゃあ、試合の興奮が伝わって来ない。これじゃあ、柔の強さが見えないと。
でも、それを電話でごちゃごちゃいうほど、耕作も暇ではなくただ送られてくる記事と写真を眺めては日本へ思いを馳せるだけだった。
しかし、最近の野波の記事には違和感を覚えていた。文章に棘がある。柔の試合内容は申し分ないにも関わらず、皮肉めいた文言が書かれていることがある。
「さすが女王」「あっさりと勝利」「アトランタも余裕か?」
無くもないフレーズだが、初めの頃の記事と違い過ぎて本当に同じ記者が書いたのかと思ったくらいだった。
ーー敵意を持っているのは、野波か?
耕作の中にそんな考えが浮かんだ。しかし、邦子から聞く印象では好青年と言った様子だ。何者かが新聞社に写真を持ち込んで、それを野波のところで止めている可能性もある。しかし、新人が誰にも言わないで隠し持っているのもおかしい。
とにかく、NYで出来る事なんてたかが知れている。そのたかがをするために、耕作はもう一度受話器を取った。そしてもう何度もかけた猪熊家の番号を押した。
何と言って謝ろうか。それだけ考えて受話器を耳にあてた。しかし、呼び出しのコール音がするだけで誰も出ることはなかった。受話器を降ろして椅子に勢いよく腰かけた。
「この時間に誰もいないなんてことあるのかな……」
日本は午後7時半過ぎくらいだろう。普段ならこの時間には玉緒か滋悟郎はいるはずだ。誰も電話に出ないなんてことほとんどない。
耕作はもう一度かけてみるが結果は同じで、何か嫌な予感がしていた。
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陽炎の二人
vol.1 アメリカ独立記念日
5月の下旬から耕作は時間を見ては柔の家に電話を掛けている。しかしいつかけても一向に誰も出ない。不自然だ。滋悟郎はいつどんな時でも電話が鳴ればでるはずなのに。
連絡が全く取れないまま6月を迎え、仕事で全米を飛び回りアパートに帰っても記事を書いて送って、また取材に行っての繰り返しで状況は全く変わらなかった。しかし、アパートのFAXには邦子からの柔の近況報告のようなものが送られていることがあった。
先週のFAXは雑誌の記事で、内容は柔の高校の先輩である錦森と対談しているものだった。バルセロナ五輪の頃の話から昔話まで特に問題のない対談だった。錦森はアイドルとして華々しくデビューした後、どんどん後輩たちに追い抜かれ仕事も激減したが昨年からは活躍の場を舞台に移し有名演出家の目に留まり再び輝きを見せ始めているようだった。その事を事前に聞いていたであろう柔はさりげなく会話に盛り込んでいるようだった。
記事の最後に対談の場所について書かれており、柔が最近お気に入りの店「エトワール」だと書かれていた。
耕作はその店に覚えがある。最後に柔に会ったあの日に、彼女が買ってきたケーキは「エトワール」のものだ。お気に入りで今も行っているということは、あの日のことを思い出すことが辛くないと言うことか。
それとも、もう忘れてしまったということか。そう思うと、胸が苦しくなる。たった一言、たった一つの行き違い。それで失うものの大きさは計り知れない。
耕作は、滋悟郎に読まれるのを承知でエアメールを送っていたが、それに関しても返事はなかった。
そして、柔とのことは何一つ解決しないまま、前進もしないまま7月を迎えてしまった。さすがの耕作も焦りを覚えて頻繁に猪熊家に電話をかけるが、一向に繋がらない。不自然に思えるほど電話が繋がらないことが、耕作を拒否しているように感じられて眠れないこともあった。NYにいることがこれほど、じれったいと感じたことはない。仕事を放りだして東京に戻ろうかと思ったこともあったが、その結果フラれたんじゃ悲しすぎる。そういう悪い方向にばかり想像が膨らんで、今に至る。
耕作は空を見上げた。NYの空は濃い青色だ。清々しいほどの雲一つない空があまりに眩しくて、思わず下を向く。仕事に行かなくてはいけない。今日はアメリカの独立記念日。各地で独立を祝うイベントが行われている。NYでも大勢の人が浮かれた様子で街を歩き、笑顔で独立を祝っている。
日本人である耕作はこの熱狂に付いていくことが出来ないなと、去年も思っていたが今年は尚更そう感じた。そして、周りとは全く違う感情が渦巻いていることでより孤独に感じ、より周りが眩しく見えた。
「あー日本に帰りたいな」
そんな日本語の独り言に誰も返してくれるわけもなく、耕作は取材のためにスタジアムに向かう。こんな時でも試合はあるし、取材は行かなきゃいけない。このお祝いムードには困惑するが、騒がしいことや仕事があることで幾分、気が紛れる。それだけが救いで取材に向かった。
試合は昼から行われ、試合後にはイベントが開かれた。そこまで取材して、やっとスタジアムを出たが人の多さに圧倒される。これからマンハッタンの方では花火が打ち上げられるなどの恒例イベントが行われ、人々はそちらに移動するようだった。しかし耕作は夕食を買って真っ直ぐアパートに戻った。
ドアを乱暴に開けて、ヘロヘロのままソファに腰かけていると、仕事部屋のFAXが音を上げ紙を吐き出した。いつものことだと思い、気にもしないでコーヒーを淹れて座っていた。緊急の用件なら電話があるはずだ。
すると、思った通り電話が鳴ったが相手は耕作の想像していた人ではなかった。
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vol.2 崩れる世界
「ハイ!コーサク。独立記念日おめでとう!」
「ああ……おめでとう」
返事に困るなと思いながらも、とりあえず言ってみたがアリシアは電話の向こうでちょっと笑っていた。
「で、どうかしたのか?」
「どうかじゃないわよ。ビッグニュースよ」
明らかにアリシアは興奮していた。独立記念日だからというわけではなさそうだ。その自分との温度差に耕作はカップをデスクに置いてFAXを確認し始めた。何枚か何気なく見ていると、アリシアの声が耳から消えた。
世界が真っ暗になるとはこの事なのか。窓から差し込む僅かな光でもその記事は読むことが出来た。警戒していたこととは違うが、それ以上の破壊力はあった。
『猪熊柔、熱愛発覚! 相手はアメリカのホテル王子 レオナルド・ダヴィド』
2人が一緒に歩く写真と共に書かれたその見出しは、すでに新聞として完成しているものであるのは明らかだ。そしてその新聞は「スポーツ東京」だった。
「コーサク?どうしたの?コーサク?」
これは当然の報いなのかもしれない。寂しいと言った彼女を突き放すようなことをしたことへの。連絡が取れなかったのはこのためか。もう、話もしたくないということなのかもしれない。柔程の有名人なら世界の有力者と知り合うこともあるだろう。その関係で出会っていても不思議ではない。そう、今まで誰も言い寄って来なかったのが不思議なのだ。
久しぶりに見る柔の顔は柔道家の顔ではなかった。地位も名誉も財産もある、その上、誰もが振り返るような美形のアメリカ人にときめかない人などいない。
それに柔は彼のファンだった。ハリウッド映画の主演をしたのはもう随分前だが、柔はその作品も主演の俳優も好きだと言っていた。そんな彼に出会った柔を耕作は黒い瞳で見つめる事しかできない。
「俺の事なんか忘れるよな……」
呟く言葉は日本語で受話器のむこうのアリシアには分からなかったが、耕作の様子がおかしいことは気づいていた。
「コーサク!ねえ、どうしたの?」
「いや……ちょっと頭が真っ白になった。ごめん」
「電話かけなおした方がいい?」
「いや、ビッグニュースって何?」
正直、どうでもよかったが何か話していた方が気持ちが紛れるような気がしていた。
「うん、あのね……あたし、非公式だけど試合することにしたの」
「あ、そうなんだ」
「コーサク?本当に大丈夫?」
「ああ、続けて」
「うん……兄が相手と交渉して、明日にもアメリカに来るの。試合自体は明々後日になるだろうけど、コーサクに見に来て欲しいと思って」
明日は仕事だが、明々後日はちょうどNYにいるし時間もある。だけど、この状況で柔道の試合を見るのは辛い。
手に持ったFAXを眺めていた。見出し以外も目を通した。そして気づいた。
「アリシア?」
「なに?」
「アリシアの家ってホテル経営してたよな」
「そうよ」
「それってテンプルトン・ホテルか?」
「ええ。兄が社長をしているわ」
「お兄さんってクラークじゃないのか?」
「なに言ってるの?クラークよ。でも、世間の人はみんなこういうわ」
「「レオナルド・ダヴィド」」
耕作は妙な感覚に陥った。ここで何かがはまったような感じがした。
「知ってるんじゃない。兄は昔、俳優をしていてその時に名前が知られたからその名前でビジネスしてるの」
「いま、日本に行ってるのか?」
「ええ、だから交渉できたの」
「まさか、相手は……」
「猪熊柔」「ヤワラ・イノクマ」
ここは合わなかったが同じ名前を言ったのは伝わる。
「知ってたの?そうか、コーサクはヤワラと知り合いなのよね」
「いや、新聞で2人が日本で会ってるところがスクープされて、それでもしかしたらって思ったんだ」
「へー。さすがヤワラね。そんなことが記事になるんだもの」
「アリシアにとってもただの兄かもしれないが、世間的に見れば大物だからな。話題にするのに十分すぎるよ」
「そんなものかしら?」
好意的に見ればレオナルドが妹のために柔と接触し、偶然にもその現場を写真に撮られたってことにもなる。記事を読むと、柔はオリンピック後何度かNYに行っていることも書かれているが、それは耕作に会いに来ていたので二人の密会というわけではない。熱愛というのは言い過ぎのような気もするが、柔からの連絡もなく、自分の連絡にも応答がないということはそう言うことなのかもしれない。
アリシアの話では明日には柔はNYについて、明々後日に試合。非公式のような観客のいない試合を滋悟郎は殆ど許さない。それなのに試合はされるということは、滋悟郎との関係も良好ということなのだろうか。
「柔さんの他に一緒に来る人はいるのかい?」
「たしか、ジゴローが来るって。ヤワラのグランパね」
耕作はいよいよ自分の立ち位置の不安定さに目眩を起こしそうになる。もう、猪熊家では自分がいない存在なのかもしれない。今年の1月に訪問した時には、滋悟郎も玉緒も快く迎えてくれていたというのに。
「試合見に行くよ。その時はカメラマンも連れて行くけどいいか?」
「取材ってこと?記事にしないならいいわ」
「もちろんしないよ。きっと向こうも望んでないだろうし」
「だったらいいわ。時間は午後4時。場所はウチの道場。コーサクが入れるように言っておくから」
「わかった。頑張れよ。それから相手には俺のことは言わないで欲しい」
「どうして?もう知ってるんじゃないの?」
「いや、連絡もないし。知らせたくないのかもしれない。でも俺はアリシアの試合を見たいから」
アリシアは耕作の様子から何か察したようでこれ以上は詮索しなかった。
「うん……コーサクも元気出してね」
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vol.3 不自然な行動
「うん……コーサクも元気出してね」
アリシアは電話を切った。もっと喜んでくれると思っていたのに、耕作の反応はいまいちだった。だけど、せっかく兄がおぜん立てした試合をみっともないものにはしたくない。アリシアは興奮が冷めないうちに道場へ向かう。普段はトレーニングをしない時間だが、今は体を動かしたくて仕方ない。
その一方で耕作は思い切り落ち込んでいた。柔がNYに来ることになっても連絡もしないということは、完全に見放されたということに違いない。それどころか新しい恋人まで作っている。いや、でも、もしかしたら何かの間違いかもしれない。でも、こんな新聞が出て何の連絡もないなんて……。
頭を抱えて考えていると、また電話が鳴った。もしかして柔かもしれないと思い受話器をとると、また違う人だった。
「耕作! 大変よ!」
邦子の甲高い声が耳に痛い。
「柔さんのことか?」
「そうよ。連絡でもあったの?」
「…………」
「なかったのね。でも、どうして知ってるの? 新聞が出たのは今日よ」
「今日? 今日って今日か?」
「なにわけのわかんないこと言ってるのよ。数時間前のスポーツ東京の朝刊に載ってたの。柔ちゃんの記事が。でも何で耕作が知ってるのよ?」
「誰かが俺にFAX送っただろう。それ見て知ったんだよ」
「え? 誰よ。そんなことしたの?」
「しらねーよ。でも確かに届いてる。時間は……あれ、この時間にそっちに誰かいるのか?」
FAX用紙の端には着信日時が出ている。そこには午後15時12分と出ていた。これはもちろんNY時間だ。
「耕作、聞いてる?」
「え? 何?」
「だからさっき出社前に柔ちゃんの家に行ったの。心配だったから。そしたら誰もいなくて」
「朝早くて寝てたんじゃないのか?」
「そんなわけないじゃない。朝稽古してる時間よ。でも誰も応答もなかった」
「玉緒さんも?」
「そうよ。新聞のこと知って居留守使ってるのかわからないけど、誰も出てこなかった」
「電話は?」
「かけたけど、繋がらない。それに最近、柔ちゃん家の電話繋がらないのよ。昼間だとたまにおじいちゃんが出てくれるけど夜はダメ。でもさっきは朝だったけど繋がらないわ」
電話が繋がらないのは自分だけではなかったのか。それともマスコミ対策で何か導入したのか。ただ、柔と滋悟郎はNYに向かっているからいないのは分かるが、玉緒までいないのはよくわからない。虎滋郎が見つかってからは、家をあけることは殆どないという。一体何が起こっているのか。
「加賀くん、昨日、編集部に誰が残ってた?」
「えっと、昨日は野波くんがいたわ。他はみんな帰ったわ」
「野波? それで今は」
「それが休みを取っていないのよ」
「FAXの時間を見ると、午前4時頃まではそこにいたはずだ。送ったのが野波なら。でも、何で休んでるんだ?」
「お母さんが倒れたって。それで実家に帰りたいって。あたしもさっき聞いて驚いたわよ。だって、野波くんの実家ってNYなのよ」
「何だって?」
「NYよ。そんな急に帰れるのかと思ったけど、飛行機に空きがあって乗れそうだって電話があったらしいわ」
耕作は嫌な予感がした。野波が持っていた柔と風祭の写真。その事を未だに誰にも話していない内に出た、柔の別のスキャンダル。その記事を耕作に送り付け、期を同じくしてNYに来る柔と野波。何かが動いているような気がする。
「すまない、加賀くん。野波の顔写真を送ってくれないか?」
「え? 何に使うのよ」
「もしかしたら接触してくるかもしれない。顔がわかってないと不安だ」
「わかったわ。すぐに送るわ。でも、耕作、野波くんよりも柔ちゃんと連絡取りなさいよ」
「ああ……その当てはあるから」
電話を切ると数分してFAXが動きだし、野波をはじめて見ることになる。その顔を目に焼き付け、耕作は急いで記事を書きあげた。外の喧騒が聞こえないほどの集中力を持て仕事を片付けた。
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vol.4 クラーク邸
柔がNYに来ていると思われる7月5日。耕作は午後からNYを離れていた。夏になると、スポーツが各地で開催されて休む暇もない。だが、日本のスポーツも盛況になるので紙面はそこまでさけない。取材も要所を押さえておけば出来る事を耕作は学んでいた。
深夜になってNYに戻ると記事を書いてFAXする。そして意識を失うようにして眠った。連日の寝不足と仕事の忙しさのお陰で、柔に会うことへの緊張を考える前に眠れた。
会いたいけど、会いたくない。でも、会いたい。ぐるぐる考えては眠れないこともある。体は疲れているのに、頭が冴えてしまう。友人たちに本気で心配されるほど、目の下のクマが酷いこともあった。でもそれも、終わりになる。会って、話せば全てが収束する。
翌日は取材でまたNYを離れたが、夕方には戻って来れた。それからすぐに記事を書いてFAXしてスパイス・ガーデンへ食事に行った。こんな日に限って誰もいない。でも、アパートにいると余計なことを考えそうだったから、かなり長居してしまった。
ジェシーには昨日連絡をしていて、アリシアの非公式の試合を取材することを快く引き受けてくれた。耕作がずっと興味を持って取材していた選手を見れることが嬉しいような言い方だった。相手が柔だと言うことはまだ言っていない。
試合の日も雲一つない快晴だった。午後からの試合で耕作はジェシ―を連れて、高級住宅街の更に豪邸であるクラーク邸に向かう。ジェシーはバイクで近くの公園まで来ていたが、耕作はいつも通り自転車に乗っている。自転車は公園の駐輪場に預けて、クラーク邸まではジェシーのバイクに乗せて貰う。
高級住宅街の更に高級な場所にある、高い壁の前でジェシーはバイクを停めた。
「ねえ、コーサク。本当にここなの?ここでジュードーやるの?」
「そうだよ。俺も入ったことはないが、どうやら道場があるらしい」
「へー」
興味深げに塀を見上げるジェシー。今日は肌の露出は控えた服を着るようにとあらかじめ言っておいたので、半袖のシャツにジーンズで長い赤髪もまとめていつもよりカメラマンに見えた。そのためすれ違う人から奇異な目で見られることはなく、クラーク邸に到着した。
「もう相手はいるのかしら?」
「どうだろうな。さあ、押すぞ」
チャイムを押すと、門が開いてスピーカーから「どうぞ中へ」と聞こえたので二人は進んで行った。バイクは門の付近に停めておくように言われたので、そのようにした。
想像通り入って直ぐには建物は見えない。美しい庭園の長いタイルの歩道を歩いて行くと、アリシアが緊張した顔をして立っていた。
「あ!コーサク!」
アリシアが駆け寄ってくる。試合までもう少しあるが既に道着を着ていた。
「今日はありがとうな。想像通りの広さで驚いてるよ」
「そんな事よりも、あたし緊張しちゃって」
「見るからに不安そうだ」
そう言う耕作も不安で胸が押しつぶされそうだった。それを悟られないように笑顔を作っていた。
「はじめまして、アリシア。あたしはジェシー。カメラマンしてるの」
「あ、はじめまして。ごめんなさい、ごあいさつが後先になって。その、緊張してて」
「見たらわかるわ。気にしないで。今は自分のことだけ考えればいいのよ」
「は、はい」
いつもは生意気なアリシアはジェシーの前だと妙に素直だ。頼れるお姉さんだとでも思っているのかもしれない。半分正解だが、半分はずれだ。
「ところで相手は?」
「来てるわ。道場はもう少し奥にあるからそっちで待機してる。ウォーミングアップもしなきゃいけないし」
「挨拶した?」
「もちろんよ。だからこんなに緊張してるの。わかってたのよ。あたしとそんなに体格が変わらないことくらい。でも、あんなに小さいなんて。それで自分の倍以上の体重のある人を投げるんだもの。想像も出来ないわ」
「そう言う人さ。彼女は。すごいんだよ」
アリシアはとにかく混乱していた。そして興奮していた。
「ねえ、そろそろあたしにも誰と試合するのか教えてくれてもいいんじゃない?」
「え?言ってないの?」
「ああ、諸事情により直前まで言うのはよそうと判断した」
「なによ、諸事情って。あたしが何かするとでも思ったの?」
「ある意味……」
耕作はじっとジェシーを見た。仕事の時は真面目にしていてくれるから安心だが、仕事以外だと何をするかわからない。柔に対して予想不能なことをされて止めれるかわからない。自分も今日は、何をするかわからないから。
「あたしと試合してくれるのは、なんとあの、ヤワラよ!」
「え?ヤワラってあのヤワラ?」
「ええ、オリンピックチャンピオンの」
「ワォ!どんな裏ワザ使ったの?」
「兄が交渉してくれて……」
ジェシーは「ふーん」とちょっと意地の悪い目でアリシアを見た。これだけの財力と権力があれば、非公式のチャンピオンと試合することも可能ということか。ジェシーはきっとお金が動いたんだろうと考えたが、アリシアは実のところ何も知らないのだ。
「さあ、とにかくアリシアは試合の準備だ。俺たちは取材の準備」
「ヤワラに会いに行くの?」
「いや、そっちは後でいい。俺は試合開始まで相手とは接触するつもりはない」
「何でよ?」
「いいだろう。ジェシーも試合前は控えろよ。聞きたいこととかあるかもしれないけど……」
むーっと口を尖らせるジェシー。
「だったらあたしも試合までは会わないわ。カメラのセッティングだけしてくる」
3人は道場に向かう。広い庭園は花も色とりどり咲いていて、小鳥や蝶も飛び交っている。吹き抜ける風は木々の隙間を通り抜け、ひんやりと気持ちいい。
道場と言ってたから、学校にあるような最低限の設備の道場だと思っていたが、それは思い違いだった。道場と言うには広く豪華で美しい作りで、おおよそ柔道をやるようには見えない。
「ここはね、スポーツをする場所なの。フェンシングとかバスケとかいろいろね。でも今は年中畳が敷いてあって、柔道しかしてないわ」
そういうアリシアは入口のドアをあける。中には誰の姿もなかった。
「あれ?誰もいないじゃない」
「道場には別室があってそこで待機してるのかも」
「それは好都合ね。あたし、カメラセッティングしてくる」
アリシアは小走りで道場に入り、良さそうな場所にカメラをセットした。そしてまた小走りで出てきた。
「ミッション完了。ささ、次はどうする?」
「試合は午後4時だから、あと15分だわ。あたしはちょっと体をほぐしておくから、2人は適当にしてて。あ、迷子にならないようにね」
そう言われると、道場から離れる気にはなれず、道場から見える位置にあるベンチに座り風に揺れる木の葉を眺めていた。
「何か様子が変よ」
「あ?」
「コーサク、何か隠してるでしょう」
「そうか?」
「間違いないわ」
「そうか。でも、今は言えない」
「なによ、それ」
「ジェシーの方も様子がおかしいぞ」
「どこが?」
「さあ、よくわからないけど。ただ、全然動じてないな。この場所に」
「は?なにそれ」
「まあ、いいさ。あー緊張するな」
それだけとは思えないような厳しい表情をする耕作に、ジェシーはこれ以上何も言わなかった。様子がおかしいのは耕作だ。
非公式の練習試合みたいなものとはいえ、柔とアリシアの試合に水を差すようなことはしたくない。出来れば試合後まで、耕作は自分の存在を柔に気付かれないようにしていたかった。
NYとは思えない長閑で美しい場所に、現実味を感じない。耕作はふーっと息を吐いた。
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vol.5 柔vsアリシア
クラーク邸の庭園を歩く足音が聞こえる。レオナルドは自慢の庭園を柔に見せようと案内をしていた。試合の前だからどうしようかと思ったが、柔もNYにいることの現実味が感じられずにいたので、気がまぎれるかと思ったのだが逆にあまりのレベルの違いに圧倒されるばかりだった。
「とても綺麗なお庭ですね。広くて手入れも行き届いて」
「ありがとう、ヤワラ。普段、あまり客人を招待しないのでこうやって案内出来る事が嬉しくて堪らないよ。この庭はとても歴史のある庭なんだ」
「そうですか……」
流暢な日本語で話し、キラキラの笑顔で言われると眩しくて、こんな素敵な場所なのに道着を着て歩いていることが不釣り合い過ぎて悲しくなる。
道場へ戻る道を歩いていると、さっきまで誰もいなかったベンチに腰掛ける人が2人、背中しか見えないがこのクラーク邸で働いている人とは思えない。
「さあ、こちらですよ」
柔は視線を戻すと、何か引っかかるものを感じながら道場に入った。すると中にはカメラがぽつんとセットされ、とても違和感があった。
「あの、カメラが……」
「アリシアが友達を招待したようです。カメラマンをしていて記念に撮って貰うと言ってました。構いませんか?」
「ええ。外に出さないで頂ければ」
「それは約束します」
その言葉に柔は安心した。結局、NYにいることを耕作に知らせることが出来ないでいる。もしかしたらこのまま帰国することにもなりかねない。万が一、どこかからこのことが漏れて耕作の耳に入ったらなんと思われるだろう。薄情な女だと思うかもしれない。それは避けたかった。
「なんぢゃ、カメラの用意をしておったのか」
滋悟郎が騒々しく道場に入ってきた。庭園には全く興味のない滋悟郎は控室として用意された部屋で食事をしていたようだ。
「ええ、アリシアさんの友人が来ているみたいで」
「そうか。なんならもっと派手に呼んでもかったんぢゃぞ」
「それは次回ということで」
すると入口に人影が見えた。赤毛のその人はカメラの方へ真っ直ぐ歩いて行き、手を振った。特に紹介はないがアリシアの友達だろう。当のアリシアは試合前で集中していているようだった。アリシアにとっては本気の公式戦のようなものなのだ。
試合用に境界線を引いてある赤い畳に滋悟郎が入る。今日は審判を務めることとなった。そして柔、アリシアが続く。アリシアは最初に握手をした時とは全然別人のように目つきが鋭く、落ち着いていた。
静かな道場で滋悟郎が審判をするこの感じ。ジョディをはじめて自宅の道場で試合した時を思い出した。あの時は境界線の代わりに耕作と鴨田が隅に座ってくれていた。
ジョディの怪我で決着がつかなかったあの試合。約束を交わしたことで柔は柔道をし続けていたとも言える。あの頃にその約束がなければ、柔道をやめていたかもしれないと思うときがある。
ジョディとの決着がついたのはそれから5年後、バルセロナ五輪での無差別級の決勝。長い長い約束のあと、柔は柔道を辞めなかった。柔道が大切だと思った。柔道が好きだと感じた。そう思わせてくれたのは多くの人だけど、そこまでの道を拓いてくれたのは一人だ。
「礼!」
滋悟郎の声が響く。お互いに礼をする。
「はじめ!」
少しのにらみ合いをして先に動いたのはアリシアだ。奥襟を取って技を仕掛けるが柔はそれを交わして一本背負いに持ち込む。しかしそれもタイミングが合わず不発に終わる。その後もアリシアは攻め続けるが柔はそれを受けながすようにしていた。決して手を抜いているわけじゃないが、本気と言うことでもない。
まるで、指導しているような試合だ。世界で戦うということを教えるかのように、柔はアリシアの技を返している。
そして試合開始から1分半。アリシアは腰車を仕掛けようとしたとき、柔はいつものように相手の懐に入り込み目にも止まらぬスピードで一本背負いを決めた。
畳にたたきつけられたアリシアは呆然とした表情で天井を見ている。そこに柔が覗き込み手を差し出す。
「大丈夫?」
アリシアは驚いたまま柔の手を取る。そして思わず抱きしめる。
「すごいわ!こんなの初めて!ヤワラ、全然本気じゃないのにあたし手も足もでないもの。世界の壁はこんなにも高いのね」
興奮冷めやらぬアリシアに滋悟郎は礼をするように言い、アリシアは慌てて礼をした。
「本当にどう言ったらいいのかしら。すごいの!今までやってた柔道は何だったのかって思うほど感覚が違うわ」
「それはいつも同じ人と試合してたからね。対戦相手はそれぞれ違うからその相手によって戦術が変わるものだから」
「経験って必要なのね。でも、あたしはこれで十分よ」
「本当?世界で戦ってみたいとは思わない?アリシアさんはもっと強くなると思うわ」
アリシアは悲しそうな顔をする。閉じ込めていた想いが飛び出してしまいそうになる。
「そうかしら……でも、あたしはこれ以上は無理よ」
柔はなぜアリシアが公式戦に出ないのか理由を知らないからこれ以上何も言いようがなかった。しかし、レオナルドはアリシアをこのままにはしておけないと思っていた。
「ヤワラは逃げないぞ」
「え?」
「もしこのまま君が柔道を辞めたら、一生ヤワラとは戦えない。でも、ちゃんと試合に出てアメリカ代表にでもなればまたヤワラと戦える。そうだろう?」
「そうだけど。あたしがアメリカ代表何て……」
「何もしない内から無理だと諦めてるのか。君らしくもない」
「あたしらしいって何よ。あたしはずっとこんな風にいろんなものを諦めてきたわ」
「それは家や親のためか?」
「そうよ」
「僕のためでもあるか?」
「…………関係ないわ」
「アリシア、聞いて欲しい。僕のわがままで君に沢山迷惑をかけてきた。それは自覚してる。だからこそ、君が諦めずに続けている柔道を君が望むように続けて欲しい」
「あたしは、これで満足だって言ってるじゃない」
「一度だけヤワラと戦えて満足かい?それは嘘だ」
「嘘じゃない。これであたしは吹っ切れる。柔道を辞めて……」
「結婚出来るかい?」
新キャラ登場です。
「レオナルド・ダヴィド」名前だけ何度も出てますね。ホテル王子でアリシアの兄です。元映画スター。日本語が話せるので柔と滋悟郎には基本的に日本語で話します。
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vol.6 新しい約束
「結婚出来るかい?」
思わぬ単語に柔は驚く。そんなことは聞いてない。
「あの人が見つけてきた相手だろう。君は彼を愛しているのかい?」
アリシアは拳を握る。眉間に皺を寄せて悔しそうにしていた。
「愛してなんかいない。でも、愛せるかもしれない」
「アリシア、正直にならなきゃだめだ」
「今更無理よ。もう、元には戻れない」
二人の会話は平行線をたどり、収拾がつかない。
「二人とも、いい加減にしなさい!みっともないわ」
そう言いながら道場に入って来た人は、長い金髪でスラリと綺麗な体型で、まるで女優のように美しい人だった。
「そうだ、お客様の前でやめなさい」
続いて言ったのはシルバーの整えた髪に、一見地味だが仕立ての良い紺のスーツを着た40代後半くらいのダンディな男性だ。
「パパ、ママ。帰ってたの?」
「今日帰ると知らせていたけど」
レオナルドを見る母・オリビアはキツイ目線を送る。それに対してレオナルドは素知らぬふりをしている。
「聞いてないわ……」
「それよりも、アリシア。あなたまだ柔道をしていたの?」
その言葉にアリシアの表情は曇る。
「あの、これは……護身術だから続けてるだけなの。それで世界チャンピオンのヤワラが試合してくれるって言うから、今日はこうして試合してるだけよ」
「でも、柔道は辞めてないのね」
「ええ……」
「ママが何て言ったか忘れたの?」
「『女の子がやるものじゃない』」
とても言いにくそうにアリシアは言う。隣にいる柔は英語がわかるようだから、ごまかしがきかない。チラリと見ると、悲しげに微笑んだ。
「そう、覚えてるじゃない。だったらどうして辞めないの」
「だから護身用に……」
「もう十分でしょ。辞めなさい。こんなことが彼に知られたら、結婚の話もなくなってしまうわ。これはあなたの為なのよ」
「はい……ママ」
悲しそうなアリシア。高圧的なオリビアに誰も何も言えない。
「お前さん、何を言っとるんぢゃ!」
そこに割りこめるのは一人しかない。そして思い切り日本語で言う。ここまでを通訳していたのは柔だ。そしてオリビアのあまりにいいように滋悟郎の堪忍袋の緒は完全に切れた。
「柔道をただの格闘技だと思ったら、大間違いぢゃ! 柔道とは鍛錬の中で体を鍛え、技を磨くのはもちろん、精神を養い己に打ち勝つ修行の道ぢゃ! 試合に勝っても驕ることなく、負けても屈することない心を作るものぢゃ。この心があれば並大抵のことで、心が折れることはなくあらゆる困難に立ち向かって行ける精神力を得られるのぢゃ。柔道とはそういう尊いものぢゃ」
一生懸命通訳するレオナルド。最初は聞く耳を持たなかったオリビアは途中から明らかに表情が変わった。そして夫のライアンは食い入るように滋悟郎の言葉を聞いていた。
そして柔も滋悟郎のそんな言葉をはじめて聞いたので、ちょっと驚いている。
「だ、だからと言ってアリシアは十分心も強くなったでしょう。これ以上は……」
「馬鹿者! そんなことはお前さんが決める事ではないわ! のう、アリちゃんよ。お前さんはどうしたい。このまま、母親の言いなりで柔道をきっぱりやめるか、ここで思いをぶつけて柔道を続けるか。選択肢は二つぢゃ!」
アリシアは困った顔をしていた。頭の中で今までの柔道に関わる全てが渦巻く。兄と共に始めた柔道はやっていくうちにどんどん夢中になった。練習相手が兄しかいなかったが、コーチを招いてトレーニングをする内にまた強くなれた気がした。試合に出てみようかを思ったが、過去のトラウマのせいでそれができなかったが、ソウル五輪の柔の活躍を見て震えた。そしてその後の国際試合とバルセロナ五輪は手に汗握る試合だった。心の奥で聞こえた声に、耳をふさいで抑え込んでトレーニングに打ち込んだ。母親は反対するけど、普段あまり家にいないのをいいことに、辞めると言って辞めなかった。辞めれなかった。
そして今日の柔との試合。初めての感覚だった。世界の強さを全身で感じた。
アリシアは拳を強く握った。
「あたしは、柔道を続けたい」
「彼はきっと嫌がるわ」
「そんな人、こっちから願い下げよ!」
道場中に響く声。
「よう、言った! 柔道ことがわからんようなアンポンタンなぞ、こっちから切り捨ててしまえ!」
「お、おじいちゃん。無責任にそんなこと言わないで」
「何を言うか! 娘の将来を勝手に決めて悲しませるようならそれは己の欲望をかなえるための道具としてしか見ておらんと言うことではないか」
「それ、おじいちゃんが言う?」
「なんぢゃ、文句でもあるのか?」
散々、柔の将来をめちゃめちゃにしてきた人がそんなことを言うなんて。呆れて何も言う気が起きない。
「ママ、あたしは柔道がしたいの。今日、それがわかった。ヤワラと試合をして本当に楽しかった。まだまだヤワラのいる場所には遠く及ばないけど、それに向けてトレーニングをすることが今のあたしのしたいこと。そしていつかヤワラとまたちゃんとした場所で試合をしたい」
「アリシア、ママは意地悪を言っているわけじゃないの。アリシアの将来のために言ってるの。ママは昔、お金で苦労をしたからそんな風にさせたくない」
「ありがとう、心配してくれて。でもね、大丈夫。あたしはもう負けない。さっきジゴローが言ってたでしょ。心を鍛えるのも柔道だって。あたし、柔道を続けてきて強くなったと思う。心も体も。だから、もう言わないで」
アリシアは本心を打ち明ける。今まで、母親の顔色ばかりを見て言葉を選んできたけど、それはもう終わりにしたい。子供じゃないから。自分の道を歩んでいきたいから。
「オリビア、もういいじゃないか」
「あなた」
「私はこれからのアリシアがどうなるかとても楽しみだよ。自分の道を見つけた人はとても強く美しくなる。かつての君みたいに」
オリビアは一瞬狼狽えたが、すぐに顔はクールな表情に戻った。
「あちらには私から話しておきます。まだ、未熟者で結婚など出来ないと」
「ありがとう!ママ」
オリビアもどこかでわかっていたのだ。こんな風に、親が娘の将来を決めることが娘のためにならないということを。でも、若い時の苦しい経験が娘にそんな思いをさせてはいけないといらぬ世話をやいてしまったのだ。
「ねえ、ヤワラ。聞いてもいいかしら?」
「何かしら?」
「五輪で二階級制覇をして、日本では大きな賞も貰ったんでしょう。今後の目標は何かしら?もしかして、もう柔道を辞めようとか思ってない?」
不安そうに見るアリシア。たった今、柔道を続ける決意をしたが、柔が引退となるとその決意も揺らぎかねない。
「全然、思ってないわ。あたしはまだまだ鍛錬が足りない。だから自分の意思で柔道を続けて、そしてアトランタ五輪を目指すの。だからね、アリシアさん……」
柔は思い出す。そう、ジョディと日本で戦ったあの日のことを。約束という名の呪縛。でも、それは柔をいつも導いた。
「約束よ。アトランタ五輪でまた戦いましょう」
「アトランタ五輪……」
「そうよ。あたしは必ず代表になるわ」
これは耕作と交わした約束。
「あたしも……あたしも代表になる。沢山トレーニングして、また柔と戦うわ」
二人は固い握手を交わす。
ジョディ、テレシコワなど多くの選手が引退をした今、女子柔道界には新たな風が必要だ。その一陣にアリシアがなれればいい。
「まとまったところで、アリシア。お友達のカメラマンがいないようだけど」
レオナルドがそう言うと、アリシアは振り返ってカメラが建っていた場所をみた。そこには三脚もカメラもなくなっていた。アリシアは急いで道場の外に出た。
「ジェシー!!」
その声に返事をする者はなく木々が揺れているだけだ。
新キャラ登場しました。
「ライアン」アリシアとレオナルドの父親。なんかいろいろ経営している人。
「オリビア」アリシアとレオナルドの母親。貧しい少女時代を過ごしたために、子供に厳しくしている。特にアリシアには苦労をかけたくないと思いが強い。
多分、今後出てくることはありません。
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笑顔を探して
vol.1 七夕の雨
柔道場から離れた門の手前。ジェシーは耕作に声をかけた。
「いいの?会って行かなくて」
「構わないよ。俺が聞きたい言葉は聞けた。柔さんがアトランタを目指すと言ったんだ。だからもう思い残すことはないよ」
「なに、それ?」
「そう思わせてくれる何かがあったか、誰かがいたってことだろう。でもそれは俺じゃないわけで……」
正直、柔とレオナルドが並んでいるところを見ているのが辛くて仕方なかった。お似合いの二人だ。水を差さない方がお互いの為だと思いその場を離れた。
耕作とジェシーは門を抜けた。
「アリシアからは俺から連絡しておくから、ジェシーは写真の方をよろしく頼むな」
「ええ。でも、コーサク。本当に大丈夫?」
「情けないよな。誰にでも、なんにでもツッコんでいく記者がこの様だ。話も出来ずに逃げ出すように背を向けたんだ。俺はもう会わせる顔がないよ」
「……なぐさめて欲しいの?」
愚か者を見るような目でジェシーは言う。
「そんなつもりはないよ。じゃあ、頼んだ」
「わかったわ。また連絡する」
ジェシーはそのままバイクに乗って行ってしまった。耕作は自転車のある公園に向かって歩き出すが、久し振りに見た柔と柔道のことが頭から離れない。その姿を振り払うように歩き続けて、どれくらいの時間が経っただろうか暑さで汗がシャツが貼りつく。
公園に入って来て、いつも座るベンチに座ると涼しい風が吹いた。
「今日は二度目だね。コーサク」
振り返ると、初老の日本人男性がいた。以前、ここで出会った人で、それから何度か出会うことがあって、他愛ない話をした。彼は30年前に渡米して以来NYに暮らしている、耕作の大先輩だ。今朝もここで雑談をした。
「量助さん、散歩ですか?」
「まあね。涼しくなる頃だから、ちょっと出てきた。そしたら君があんまり元気なくベンチにいるから声を掛けずにはいられなかったよ」
優しく笑う量助は耕作の父親と同じくらいの年齢で、勝手に父親のように感じていた。張りつめていた心が緩みそうになる。
「今日は日本で言うところの七夕だね」
思わず空を見上げる。数時間前まで晴れていた空は今は厚い雲に覆われている。日本では大抵、雨が降る七夕。織姫と彦星はアメリカの空でも会えないのか。そう思うと、切なくなる。
「俺はね、日本にいたある日、友人にアメリカで柔道を教えないかと言われて直ぐに渡米したよ」
自分語りはほとんどしない量助の話を耕作は不思議そうに聞いていた。
「当時、柔道から離れていてその生活が物足りなくて、友人に誘われた時は仕事もしてたけどアメリカ行きを迷いなく決めたんだ」
「俺もそうでした。俺は仕事でしたが、好きなことで力を試せるなら迷い何てなかった」
「男ならそんなものさ。でも俺はね、もう一つ理由があったんだ」
「理由ですか?」
「日本で出会った女性がアメリカにいて、彼女に会いたくてね。まあ、妻なんだが……」
自分から話しておきながら照れている。量助もなぜこんなことを話しているのか自分でもわからないようだった。
「さっきも言ったが、日本にいる理由がなくてね。彼女はこの先、日本に行く予定もなかっただろうしそうなると今生の別れと言うことになる。そう思うと、堪らなくてね」
「だから渡米した……」
「タイミングだね。自分の中の二つの思いが動かした。柔道がしたい、彼女を諦めたくない。彼女との結婚には多くの障害があったけど一つずつクリアしていったさ。俺は彼女こそがたった一人の人だと思ったから。彼女の全てを、彼女の愛するもの全てを守ろうとおもったんだ。そのためには待ってたんじゃだめだと思った。まあ、七夕伝説みたいに約束してたわけじゃないから、日本にいたら本当に会えないままだっただろうけど」
「なんでその話を俺に?」
「コーサクの背中が日本にいたころの俺に見えたんだ。それだけだよ」
「あの、奥さんは量助さんのこと……」
「ああ、もちろん想っていてくれたさ。まあ、賭けみたいなものだったけど」
「賭け……」
「男ならたまには賭けに出るのもいい。それで負けても今よりずっと気が晴れるさ」
量助は腰を上げると耕作の肩にポンと手を置き、「グッド・ラック」と言い去って行った。そして量助の足音が消えたころ、耕作の頭に雫が落ちてきた。見上げると、灰色の雲は雨を落とし始めたようだったが、耕作は勢いよく自転車に乗り走り出す。
目的地はクラーク邸。雨に勢いは増し、体はずぶ濡れ。雨を吸った服は重くそれでも必死にペダルを漕ぐ。緩やかな坂が憎い。滑るグリップのせいで力が入らない。でも、真っ直ぐ前を向いて進む。
「俺は、諦めたくなんだ!」
その声は雨音にかき消されたがその思いは消えない。消せない。
新キャラ登場しました。
「量助」は初老の日本人男性です。この人にはモデルがいます。
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vol.2 雨に濡れたNY
クラーク邸に着くと、チャイムを押して最初にアリシアを呼び出した。しかし、アリシアは不在でここにいるのは使用人ばかりだという。耕作はどこに行ったのか聞くと、テンプルトン・ホテルにいることを教えてくれた。
思い出す、一昨年のクリスマス。柔が初めてNYに来た日。テンプルトン・ホテルに予約が取れてなくて愕然とした。高級ホテルにいることの気まずさ、自分の覚悟のなさなど様々な思いが交錯したあの日。柔は確かにそばにいて、笑ってくれた。あらためて存在の大切さを知ったし、守りたいと思った。
――俺を選んでくれたのに、俺は突き放した。嫌われても仕方ないけど、まだチャンスがあるなら、間に合うなら話がしたい。
雨の中、自転車を漕ぎ続ける。雷鳴が轟きNYにしては珍しい天気だ。それでも耕作は諦めなかった。
ずぶ濡れのまま、高級ホテルのフロントへ走り込む。ベルボーイが慌てて止めに入るが、振り切ってフロントスタッフに聞いた。
「ヤワラ・イノクマがいると思う。呼んでくれないか」
「申し訳ございません。出来かねます」
「松田が来たと言ってくれればいいんだ」
「申し訳ありません」
「じゃあ、レオナルド社長がいるはずだ。彼に繋いで……」
そう言って、虚しくなる。ホテルのフロントスタッフがそんな要求をのむわけないのに。頭のおかしい奴だと思われても仕方がない行動をとっている。下手した警察に通報されるかもしれない。
「マツダ様ですね。社長より伝言をお預かりしております」
「へ?」
「コーサク・マツダ様ですよね?」
「はい……」
ポカンとする耕作。何が何だかわからない。
「『ヤワラはここにはいない。思い当るところは他にはないのか?』だそうです」
「どういうことだ?」
「もう一度、お聞きになりますか?」
「いや、ありがとう」
絨毯をびしょ濡れにしながら耕作はホテルを出た。放り出した自転車もすみの方に立てかけてあり、仕事をしていたベルボーイに謝罪して出て行った。
――ここにいないってどういうことだ? ホテルが違うのか? でも、さっき聞いたから間違うわけがない。
耕作は再び自転車を走らせた。柔との思い出。NYではそんなに多くはない。思い出さないようにしていたけど、耕作は柔との楽しい日々を思い出す。
「自由の女神……」
雨はまだやまない。薄暗い中、バッテリーパークに向けて自転車を走らせた。雨が顔に当って痛む。目に雫が入るたびに目の前が滲む。
バッテリーパークはこんな天気だし、夕方なだけあって人影はまばらだ。自転車に乗ったまま柔を探すが見当たらない。まさかリバティ島に行ってるなんてことはないだろう。小さく霞んで見える自由の女神に少しだけ、願いを書けるように見つめ耕作は再び走り出した。
買い物に行った場所。食事をした店。でも、一番の思い出はあの場所だ。
もうすでに自転車を二時間近く漕いでいる。その場所に着いたときには足がガタガタだ。
「はぁ……はぁ……ロックフェラー……センター」
夏のこの時期にクリスマスツリーなどない。スケートリンクだった場所はレストランになっているが、あいにくの雨でそれも今日はないようだ。
自転車を降りて柔と背格好が似た人を見ていくが、ここにもいなかった。
「入れ違いになったのか……」
ビルの隙間から空を見上げる。高層ビルが耕作を嘲笑うように見下ろす。強い雨に灰色の空は耕作の心のようだった。
もう一度、ホテルに行く気力もなくし力なく自転車に跨り、自分のアパートに向かう。体が重い。こんなにも、前に進むことが辛いと感じたことがない。
アパートに着いてびしょ濡れなのも構わず、自転車を引いてエレベーターに乗った。大きな音がする古いエレベーター。酷く揺れる内部はいつも冷や冷やしていたが、今日は何も感じない。
ドアが開く。廊下の照明は先週から切れかかって、チカチカしている。誰も何もしないのだろうかと思う。そういう、耕作も何もしない。天井から視線を自分の部屋に戻すと見慣れないものがある。
基本、部屋の前には物は置かない。でもそこには膝を抱えてうずくまる人影が見えた。顔は見えなかったが、耕作の願望がその名を呼んだ。
「柔さん……?」
その人影は声に反応するように顔を上げた。そして立ち上がる。
「松田さん……」
耕作は慌てて駆け寄る。自転車は廊下の壁に倒れた。
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vol.3 沈黙の部屋
「柔さん、どうして……それにこんなに濡れて」
「松田さんの方こそ、びしょ濡れですよ」
「俺はいいんだ。でも……とにかく中に入って」
ドアを開ける。埃と湿気の匂いがする。照明を点けると、意外にも片付いていた。
「夏とは言え濡れたら寒いだろう。シャワー使うといいよ。タオルと着替えは用意しておくから」
「松田さんの方が酷い濡れ方ですよ」
「俺はいいんだ。さあ、早く」
強引にシャワールームに柔は押し込んで、耕作はタオルと着替えを扉の前に置いた。床に滴る雫に気付いて自分もタオルを頭からかぶる。
「まさかここにいるなんてな……」
NYに柔がいる時、いつも耕作は一人で出かけることを危ないと言っては制限していた。その思いは今も変わらないが、だからこそ柔はここに来たのかもしれない。都合のいい解釈に頭を振る。レオナルドの伝言といい、わからないことだらけだ。
考えがまとまらず、ぐるぐると思考がめぐる中、柔がシャワールームから出てきた。
「ありがとうございます」
「いや、ごめん。随分、待たせたみたいで」
柔の服は濡れてはいたが、びしょ濡れと言うことはなくちょっと乾き始めているようだった。アパートに来て相当の時間が経っていたということだ。
「そんなことないです。あたしが勝手に来ただけですから。それよりも松田さんの方がびしょ濡れじゃないですか。シャワー使った方がいいんじゃないですか」
「あ、ああ。とりあえずそうさせて貰う。飲み物とか好きに飲んでいいから」
「ありがとうございます」
耕作は着替えを持ってシャワールームに入った。シャツを脱いで絞ると染み込んだ雨が滝のように流れた。冷えた体を温めてこの後のことを思う。
別れの宣告はもう直ぐだ。優しい彼女は自然消滅を望まず、けじめを付けに来たんだ。そう思うだけで胸が痛くなる。アパートに戻って来なきゃよかったと思うほどだ。そうしたら会うことも無く、何となく終わったかもしれないのに。
耕作は体を拭いてシャツを着た。まだ肌が湿ってべたっとするが、雨に濡れたいた時に比べれば気持ちがいいくらいだ。
部屋では柔が椅子に座って耕作が来るのを待っていた。髪はまだ濡れていた。首にかけたタオルに雫が流れる。
「何か飲むかい?」
突然言われて柔は顔を向ける。
「あの、お構いなく」
「そう言うわけにはいかない。コーヒーでいい?」
「いただきます」
インスタントのコーヒーは香りが弱く、一瞬の後には消えてしまう。
「ミルクと砂糖は?」
「いえ、大丈夫です」
テーブルに二つのマグカップ。そして流れる沈黙。お互いに言葉が出てこない。
窓の外は雨音、時計の針が進む音も聞こえる。聞きたいことはある。言いたいこともある。でも、声が出ない。
その時、ドアをノックする音がして耕作が応答すると、隣人の老婆が廊下にいた。
「コーサク。自転車を動かしてくれないかしら」
放置したままの自転車のせいで廊下が狭くなっている。耕作は慌てて自転車を中に入れた。雨で濡れた自転車だが、少し時間も経って乾いて来ていた。室内に入れても床がびしょ濡れになるようなことはなさそうだった。
再び柔の前に座る耕作。そして意を決して言葉を吐く。
「「ごめん」なさい」
二人の声は重なった。そして二人とも顔を合わせて首を傾げる。
「何に謝ってるんだい?」
「松田さんこそ、何を?」
何かがかみ合わない二人。先に話しはじめたのは柔だった。
「松田さん、あたしがNYに来てたこと知ってたんですよね?」
「ああ。まあね。知らせなかったことを謝ったの?」
「ええ。急だったんで電話も出来なくて。でも、電話出来る時間があったとしても、かけていたか分かりませんが」
「どうして?」
「松田さん、あたしのこと……もう……嫌いになったんじゃないかと……」
泣きそうな柔のその言葉に、耕作は耳を疑う。
「どうして俺が君を嫌うんだい?」
「だって、電話もくれないし手紙もないし。あたしのことなんか、もう見限ってしまったんだと」
「待って! 俺は電話もしたよ。手紙も書いたよ。そりゃちょっと気まずくて頻繁にしたわけじゃないし、手紙も一通だけだけど」
「電話何てなかったです。手紙も。お母さんに聞いたけど、見てないって。それに手紙もおじいちゃんが持ってるかもしれないから、いないときに探してみたけど何もなくて……」
「いや、確かに電話をしても誰かが出たわけじゃなくてコール音しかしなかったけど。でも、それがずっとだったから……俺の方こそ避けられてるんだと思ってたよ」
「手紙は届いてませんか? 1ヶ月ほど前に書いたんですけど」
「いや、届いてないよ」
「そう……ですか」
柔はコーヒーを一口飲む。苦い味が口に広がる。
互いに嘘を言っているとは思えない。だから電話も手紙も何か不運が重なったせいかもしれないと思い、これ以上はこのことを深堀しなかった。
「松田さんは何を謝ったんですか? 試合に来てたのに顔も見せなかったことですか?」
「気づいてたんだ。俺が今日見に行ってたの」
「はい……試合前にお庭のベンチに座ってましたよね。もしかしたらって思ってて、アリシアさんがジェシーさんの名前を呼んで確信しました。でも、声も掛けないで帰ってしまったのであたしのこと、本当に嫌いになったのかなって……」
「さっきから俺が君を嫌うって思う理由が見当たらないんだけど。どうしてそんな風に思ったの? 俺の方こそ、君を突き放すようなことを言って完全に見捨てられたんじゃないかと思ってたくらいだよ」
「見捨てる……? そんなことありません! 松田さんが言ったことは正しかった。あたしの方が甘えていたんです。そんなあたしを面倒だと思って、見限ってしまっても不思議じゃないって思ってたから……」
「俺が君を見限ることなんてありえないよ。俺は俺のわがままでアメリカに行ってるのに、柔さんの淋しいって気持ちを受け止められない小さい男で、そんな俺を君が見捨てても仕方ないって思ってたんだ。だから今日も顔を出さなかった。いや、出せなかった」
「やっぱりあたしがNYに行くこと言ってなかったから。そんな勘違いをしてしまったんですね。でも、本当に急に決まって。気づいたら飛行機に乗ってたんです」
「ちょ、ちょっと待って。NYに来たのは何のため?」
「アリシアさんの試合のためですよ」
「よくそんなこと引き受けたな。滋悟郎さんもそうだけど」
「あたしも驚きました。おじいちゃんはこういうこと絶対に断るのに、レオナルド社長が直談判しておじいちゃんを説得したみたいなんです」
「え? 君に頼んだんじゃなく?」
「もちろんあたしにも話は来ましたけど、あたしだけで判断出来る事じゃないし。おじいちゃんの許可がないと……って言ったら許可は貰ってるっておっしゃったので」
「それいつのこと?」
「日本を発つ前日です」
「それ以前に、レオナルドとは知り合いだったの?」
「まさか! うちの社長の命令で会食してそこで知り合ったんです」
「ちょっと待ってて」
耕作は仕事部屋に行ってみたくなくて伏せていたFAX用紙を持って戻った。
「これ見て」
その記事を見た途端、柔は驚いて目を丸くした。そして耕作の方をみた。
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vol.4 ほどける心
「こんなのでたらめです。熱愛なんて、だって、会ったのは2回だし……1回目は昼食をご一緒しただけで……」
「じゃあ、こっちは?」
2枚目の記事は昨日届いたものだ。写真付きの記事には「柔、お見合い。相手はあの社長」と出ていた。社長とはもちろんレオナルドのこと。でも、これは昨日の熱愛記事の元になったディナーの前日の出来事とされ、お見合いから翌日熱愛と言うのは辻褄が合わない。
「2枚目の方は日刊エヴリーが書いたものなんだ。柔さんが着物を着てる写真を手に入れて取材したらしい。前日のスポーツ東京の記事は間違いじゃないかと言う、指摘を交えたスクープみたいなものなんだけど」
柔は困ったような顔をした。その表情を耕作は見逃さなかった。
「これを見て、俺は終わったと思ったよ」
「え!?」
「俺は見捨てられて柔さんは新しい道を進み始めたんだって。そんな矢先にNYに来ることを知って、しかもそれがこの写真の男と一緒だと知ったんだ。だからそう思っても無理はないだろう」
「この記事は間違いです。あたしは確かにレオナルド社長とお見合いしました。でもそれはうちの社長の命令で……そう言うと、松田さんまた怒るでしょう。でも、会社も大変な時期にあってあたしは出来る事はしたいと思ったから」
「それがお見合いか……そう思える心境にあることこそ、俺の存在が希薄になってるってことじゃないか」
「違うわ! お見合いって言うのは表面上で……レオナルド社長が日本の映画を見て一度やってみたかったと言うからそれに応えただけ。この時も、翌日の夕食会も別に何かあったわけじゃないし」
「でも、君は彼のファンだろう?」
「そうだけど……だからって何か期待するなんて考えられないわ。例え松田さんからの連絡が無い状態だとしても」
「少しも心が動かなかった?」
「当たり前です。それよりも、松田さんの方こそどうしてアリシアさんと知り合いなんですか?」
「それは柔道をやってる無名女子選手を発掘することが俺の使命と言うか」
「あたしとは終わったと思って、今度はアリシアさんですか?」
「そんな風には見てないよ。柔道家として、試合にも出ないでいることがもったいないと思ってたまに会って話をしてた程度さ」
「あたしのときもそうでした。しつこく付きまとって、試合に出させて……」
「アリシアは柔道が好きだけど、試合に出られない、出たくない理由があったんだ。だから俺はそれをクリアできればいいと思って……」
邪な思いはこれっぽっちも無かった。ただ一つあったのは、柔道と言うものに触れている時間が欲しかった。
「随分、親身になってたんですね」
「だからそれは、選手として出てこれば柔さんのライバルになりえると思ったからさ。ジョディ―やテレシコワ、富士子さんの引退で女子柔道界は少し力が弱くなったように感じたから。それに、君と連絡が取れなくなってこのまま柔道から遠ざかったらいけないとも思ったんだ」
「あたしだって連絡しようと思ってました。でも怖くて出来なかった。また松田さんに背を向けられたらもうあたし、立っていられないと思ったから。だから柔道も身が入らなくて、おじいちゃんにも怒られて。そんな時に、松田さんにまた見て貰える人になりたいって思って頑張ったんです。あたしは自分の精神力が弱いことを自覚してましたから、心を鍛えることをはじめてそれで、昨日、勇気を出してここに来たんです」
「へ? 昨日?」
「そうです。アパートの場所だって知ってたし、NYで試合するなら見て貰いたかった。だから来たけど松田さん、いなくて……」
「昨日は仕事で……帰宅は深夜だったんだ」
間が悪いとはこの事だ。柔は今日みたいにドアの前で膝を抱えて耕作の帰りを待っていた。でも帰ってくる気配はなく、柔は諦めてホテルに戻ったのだ。
「でも、今日はこうやって会えたからよかったです」
柔が笑う。とても健気で世界で戦う女性とは思えないほど、優しく柔らかく微笑む。
「全部、誤解だったんだな。記事のことも、連絡が取れなかったことも」
「はい。あたしも誤解してました。松田さんとアリシアさんのこと、本当はさっきまで疑ってたんです。それでアリシアさんの顔を見るのが辛くて、松田さんとはっきりさせたくてホテルを出て来たんです」
「俺も同じさ。柔さんとレオナルドが一緒にいるところを見るのが耐えられなくて、挨拶もしないで帰ってしまったよ。あの時は本当に堪えたな。でも、諦めきれなくてホテルに行ったよ」
「そうだったんですか?」
「でも君はいなくて、あちこち探したよ」
「それで、あんなに濡れて……」
「ははっ。最初に来るべきはここだったって君の姿を見て思ったよ」
二人の中にあった疑いや思い違いはここで全て晴れた。残ったのは以前よりも想いが深まった二人。確かめ合ったお互いの気持ちが照れくさくて、柔は顔を赤くする。
その表情を見て耕作は胸が締め付けられる。
「あの、もう…………」
唐突に柔は立ち上がる。そしてドアの方に向かって歩き出す。だけど耕作が柔の腕を掴んだ。
「あ……」
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vol.5 見つめ合う二人
「帰らないでほしい……」
「あ……」
耕作は柔を背中から抱きしめる。
「今日はこのまま一緒にいて欲しい」
流れる沈黙。聞こえるのはお互いの鼓動、そして雨音。
「松田さん……」
そう言いながら柔は肩に巻きつく耕作の腕に触れる。
「離してください」
「あ、ごめん。いきなり言われても困る……」
言い終わる前に柔は耕作と向かい合わせになり抱きしめる。
「柔さん?」
「あたしも……同じです」
「え?」
「離れたくない……」
「柔さん……」
見つめ合う瞳。
二人の気持ちが重なる。目を見ればわかる。二度目のキスは前とは違う。
耕作は柔を抱きかかえて、隣の部屋に向かう。耕作の胸の中で緊張した顔をする柔に耳元で囁く。
「大丈夫。俺も緊張してるから」
耕作の鼓動が近くに感じる。とても速い。
柔をベッドにゆっくり下ろすと再びキスをした。さっきよりも甘いキス。お互いを感じることが出来る絡み付くようなキス。
次第に吐息が荒くなる。こんなキスをしたのは初めてだ。次第に体の力が抜けてベッドに横になる。
恥ずかしさで顔を赤くする柔が可愛くて、見つめてしまう。
「ま、松田さん?」
「可愛いなって思って」
「そんな……恥ずかしい……」
顔を赤くする柔。困った顔もまた可愛い。
白くやわらかな頬に触れてまた軽くキス。見つめ合うその瞳の中に映るのがお互いだけであることが不思議と安らぎすら感じる。
「好きだよ、柔さん」
「あたしも、大好きです」
耕作の肌のぬくもりが柔の身体全体を包む。優しい手とキスに耕作の想いの大きさを知る。
ベッドで何度も耕作を目が合った。きっと耕作は柔が耕作を見る以上に柔を見ていただろう。だから気づいた。
「泣いてるの? やめる?」
柔は首を振る。目には涙が滲み、瞬きすると目じりから涙が零れた。
「なんか、信じられなくて。ついさっきまでもう松田さんはあたしのこと、嫌いになって他の人を見ていると思っていたから」
「俺だって同じさ。諦めそうになってた。だからこそ、俺もいま君が俺だけを見てくれてることが、とても現実とは思えない」
勝手な勘違いで離れそうになっていた二人。だからこそ、再び見つめ合った時に想いが溢れて抑えられなくなった。
思い描いていたロマンチックなものではないが、きっとこれ以上ないほどの幸福感に包まれた。
その心地よさに痛みすら忘れて、耕作の腕の中で眠りに落ちた。
◇…*…★…*…◇
ふと目が覚めると、外灯の光が窓にぼんやり映っている。まだ夜は明けていないようだった。
柔は少し肌寒さを感じ掛けてあったコンフォーターを顔の辺りまで押し上げた。その肌触りが心地よく、そして同時に自分の有様を自覚して一気に目が覚めた。
数時間前、初めて耕作と肌を重ねた。恥ずかしくて怖くて、でも幸せで心が満たされた。
柔はそろりと隣で眠る耕作を見た。しかし、そこには耕作の姿がなかった。
「松田さん?」
部屋の中に気配はない。閉じられたドアの隙間から光が漏れていた。柔は傍らにあったシャツを着てそっとドアを開けた。
いきなり目が合う二人。恥ずかしさで赤面し、思わず目を逸らす。
「ごめん、うるさかった?」
「いえ……姿がなかったので何してるのかなと思って」
「ああ、ちょっと腹減って。適当に食べてた」
そう言う耕作の前にはパンと牛乳が置かれていた。
「柔さんも食べる?」
時計を見ると午前3時。さすがに柔は遠慮した。耕作の正面に座るのが何だか気恥ずかしくて、柔は隣に座る。すると距離が近くてそれもそれで緊張した。
「昨日、七夕だったんだって。知ってた?」
「そう言えばそうですね。大人になると忘れちゃいます」
「俺もそうだったんだけど、昨日知り合いに言われて気づいたんだ」
柔は立ち上がって大きな窓のある方へ行った。窓の前にはソファがあってそこに膝立ちになって窓の外を見上げる。
「あ、晴れてますよ」
「そ、そうみたいだな」
柔は耕作が貸したシャツと下着しか着ていない。だから膝立ちで前かがみになると、太ももやその奥までも見えそうになって、耕作は視線に戸惑う。それにも気づかず無邪気な柔は夜空を眺めている。
「やっぱりNYでも天の川は見えませんね」
振り返る柔。耕作は慌てて視線をテーブルに戻し、素知らぬふりをするが柔は異変に気づき赤面した。
「松田さんのエッチ」
「いや、そんな無防備でいる方が……って、まあ、俺の前だけにしてくれよ」
「はい……」
耕作は立ち上がって柔の隣に座る。さっき結ばれたからと言っていきなり、何もかもが今まで以上になるわけもないが精一杯の男気を振り絞り柔を腕の中に抱いた。
「なんか、緊張しますね」
「俺だってそうさ。でも、同じソファに座ってて離れてるのもおかしいだろう」
「そうですね」
「ところで、いつ日本に戻るの?」
「えっと、今日です……」
「……そうなんだ……何時の便?」
「午後です。夕方の便です」
「そっか……またしばらく会えなくなるな」
「はい……」
「淋しくなるな」
「え?」
「淋しいって言ったんだ」
「本当ですか?」
「そうだよ。おかしいか?」
「いえ、そう思ってるのはあたしだけかと」
「そんなわけあるか。ただ俺は俺のわがままでアメリカにいるからそんなこと言う資格がないと思ってたんだ」
「資格なんて……言ってくれなきゃわからないです。同じように淋しいならあたしは耐えられると思う。独りじゃないって思えるだけで頑張れるんです」
「それは俺も思うよ」
耕作の手に力が入り柔をぎゅっと抱きしめる。
「柔さん、英語勉強したの?」
「え?」
「アリシアの英語聞きとって滋悟郎さんに通訳してただろう。前にNYに来た時には殆ど聞き取れてないようだったのに」
「はい。会社が社員のためにいくつか講座を用意してくれて、その中で英会話があったからいい機会だと思ったんです」
「へーそりゃいいな。先生は外国人?」
「ええ、NY出身って言ってました。それで、おすすめのレストランや観光地も教えて貰ったんですよ」
「明るくなったら行ってみるか?」
「…………」
「柔さん?」
「明日は一緒にいたいから出かけたくありません」
「ここにいるのかい?」
「はい」
「何もないよ」
「松田さんがいるじゃないですか」
「そりゃそうだけど」
上目使いで耕作を恥ずかしそうに見る柔。それが愛おしい。耕作は理性を保って笑顔を見せる。
「じゃあ、ちょっと寝坊出来るな」
「え、あの……」
「大丈夫。何もしないよ」
そう言ってまた柔を抱きかかえてベッドに行く。耕作の腕に抱きしめられ胸の中で眠る。幸せすぎるその時間がいつまでも続けばいいのにと柔は思っていた。
そして耕作もあらためて胸の中で小さく呼吸する柔に、愛しさと自分が果たすべき使命を感じる。
守らなくてはいけない。泣かせてはいけない。幸せにしたいと。
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見えてきた影
vol.1 幸せな朝
夜が明けてNYの街が動き始めたころ、柔はテンプルトン・ホテルに電話をかけた。滋悟郎に繋いでほしいと頼んだのだが、伝言を預かっていると言われ聞くと柔は驚いて固まってしまった。
「どうしたの?」
その様子に耕作が受話器をとると、相手が困っていたのでとりあえずお礼を言って電話を切った。
「柔さん?」
「レオナルド社長がおじいちゃんにあたしはアリシアさんと一緒にいるということにしたって。今日も飛行機の時間まではアリシアと観光してるって言ってあるから、ご自由にって」
「は? じゃあ、滋悟郎さんは俺のところにいること知らないってことか?」
「そうみたい。でも、どうしてレオナルド社長がそこまでしてくれるのかしら? あたしと松田さんのこと知ってるわけないのに」
「いや、昨日も俺がホテルに行ったとき伝言があるって言われて不思議だったんだ。面識のない俺に何で伝言なんかって。俺がホテルに行くことも想定してたのか」
柔はあまりの恥ずかしさに顔を手で覆う。
「え? どうした?」
「だって、あたしが昨日からここにいるってレオナルド社長は知ってるんですよ。しかも帰らないことも想定してたってことは……」
二人がどうなったかも予想されてたわけだ。でも、何故知っていたかということがわからない。
「事前調査でもしてたのか……アリシアと試合させるために、調べていたということも考えられる。滋悟郎さんがすんなり試合を受け入れた理由もわからないし、何か弱みでも……あ!」
「どうしたんですか?」
耕作は思い当ることが一つだけある。
「俺の後任の野波ってどう?」
「どうしたんですか、急に?」
「いや、ちょっと気になって」
「どうって別に他の記者さんと変わらないですけど。松田さんほど取材に来ることも無いですし。試合会場と柔道部で少し話すくらいですね」
「ああ、そうなんだ。いや、俺は会ったことないんだけど記事は読むんだ。それでなんか結構棘のあるやつかなって思って」
「棘? そんなの感じたことないですよ。いつもニコニコしてるイメージです」
「ああ、そうなんだ。じゃあ、プライベートなこともあまり話さない?」
「はい。いつも邦子さんが一緒ですし、松田さんのことも話したことはないですよ」
「そうなんだ……」
野波がこのタイミングでNYにいることが耕作は引っかかってた。柔の口ぶりからだとNYでも接触はなさそうだ。もしかしたら野波とレオナルドが共謀しいて何か企んでいるのかもしれないとまで考えたが、思い過ごしだったかもしれない。
「松田さん?」
「何でもないよ。ちょっと得体の知れないところが気味悪いなと」
「野波さんですか?」
「いや、レオナルド社長さ。きっとアリシアと柔さんを試合させるために、日本に行って鶴亀の社長に会食をセッティングさせたんだろうと思う。熱愛記事までは彼の予定内だったのかはわからないけど。そもそもたった2日間しか会ってないのにどうやってあんな写真を撮れたのか。これも偶然居合わせたのか。そんなに人目の多い場所だったの?」
「そんなことはないと思いますよ。ディナーの場所も当日に知らされたというか、連れて行かれただけなので」
「連れて行かれた?」
「ええ。仕事と柔道部の稽古が終って着替えに帰ろうと思ってたんですけど、秘書の方が迎えに来て下さって洋服も用意されてたのを着てお店に行ったんです」
「ということは、店のことを知ってたのはレオナルドサイドのみか」
「そういうことになりますね。でも、もしかしたらおじいちゃんは知ってたかも」
「どういうこと?」
「アリシアさんとの試合のこと、あたしは自分の独断では決められないと言ったらもうおじいちゃんには許可貰ってるって。家に帰って確認したらそうだって言って、その翌日には飛行機に乗ってました。会社には事情を話して休暇を貰ったと言ってました」
「手回しのいいことだな。でも滋悟郎さんが店を知っていたとしてもそれを記者に言うわけがないからな」
「それに正確な名前も場所もおじいちゃんは覚えてるわけないですし」
「それもそうか」
横文字には疎い滋悟郎がフランス料理店の名前を憶えている方が不思議だ。
「あの、シャワー使ってもいいですか?」
「ああ、いいよ。服乾いてるといいけど」
柔がシャワーに行ってる間、耕作は日刊エヴリーに電話をした。出たのは知り合いの記者だが直ぐに邦子に代わって貰う。
「もしもし、どうしたの?」
「野波は?」
「まだ戻ってないわ。それどころか連絡もないわ」
「スポーツ東京のあの記事の詳細ってわかったか?」
「それがね、なんかおかしいのよ」
「おかしい?」
「うん、あのね……」
邦子から聞かされたことはあまりに不可解なことだった。耕作の中に疑念がまた深まる。
「ところで柔ちゃんがここ数日行方不明なのよ。家の電話は前から繋がらないけど、家にもいないし会社にも行ってないの。熱愛記事が出て雲隠れしたにしてもおかしいじゃない。もう、どうなってるのかしら?」
「それなら心配いらない」
「何でわかるの?」
「柔さん、NYにいるから」
「は? どういうこと?」
「事情は言えないけどNYにいて、ちゃんと話もしたから」
「そう言うことならいいんだけど。おじいちゃんもお母さんもいるの?」
「滋悟郎さんは一緒だけど、玉緒さんはまたフランスへ行ったようだよ」
「それなら安心だわ」
「でも日本に戻ってから大変だろうな」
「それは大丈夫よ」
「どうして?」
「昨日、レオナルド社長と鶴亀の社長さんが連名でマスコミにFAXを送ってきて、二人の間には何もなくただ食事をしただけだって言ってくれたの。それを信じられる根拠もあってマスコミも世間も落ち着いたわ」
「そうか。それなら安心だ」
「じゃあ、忙しいから切るわ。柔ちゃんによろしく~」
全て見透かすような口調で邦子はそう言って電話を切った。耕作はさっきの柔の慌てようを実感した。察しがついている状態で何も言われないことがとてつもなく恥ずかしいし、言われても恥ずかしい。
「松田さん?」
「おわ! どうした?」
「シャワーありがとうございます。服も乾いてました」
見ると柔は着替えていた。
「じゃあ、飯でも食いに行こうか」
「はい」
それから二人は近くの店で朝食を食べて、散歩しながらゆっくりアパートに戻った。手を繋いで幸せな時間をかみしめるように。
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vol.2 不機嫌なアリシア
コーヒーを片手に二人はいろんなことを話した。柔は藤堂と再会したことや浅野のことなど柔道以外のことも何でも伝えておきたかった。
「手紙に書いたんですけど。ジョディ、赤ちゃん産まれたんですよ」
「知ってるよ。俺も書いたよ。女の子だろう。あの2人の子なら元気で大きくなるだろうな。それで柔道もやるんだろうな」
「柔道をさせたいって書いてありました。幸せそうな笑顔の写真も入ってました」
手紙には柔の子供と五輪で試合させたいとも書いてあった。この手紙を見たときには、耕作との仲がうまくいってなかったので、なんだか複雑な気持ちになっていた。
耕作も本の出版の事やNYの友達のこと、取材先での面白い話など尽きる事のない会話をしていたが、進む時計の針は止められず午後を過ぎた。
「そろそろリミットかな」
「一度、ホテルに戻らないと」
「俺も行くよ」
「そんな、いいんですよ。おじいちゃんに見つかったらうるさいし」
「いや、滋悟郎さんには隠さなくてもいいと思ってるし」
「でも、面倒ですよ」
「味方に付けたら心強いよ」
「口が滑ったって記者さんに言っちゃいますよ」
「でも、いつかは知られることだし」
「だったらあたしは自分のタイミングで言いたいです。もう、おじいちゃんにめちゃくちゃにされたくない」
過去のことを思えばそう思っても無理はない。
二人は大通りでタクシーを拾いホテルに行った。あと少し……その時間を惜しむように手を握った。それが今二人に出来る唯一のことだ。
ホテルの正面玄関に行くと、昨日耕作と一悶着あったベルボーイが出迎えてくれた。耕作に気付いて顔が固まったが、さすが一流ホテルの従業員なだけあって屈託のない笑顔を見せた。
「そろそろ来るころだと思ったわ」
ホテルのソファに座っていたアリシアが二人を見つけて近寄って来た。それを見てベルボーイは目を丸くする。
「ここだと迷惑になるから中に入って」
アリシアは二人をホテルのロビーに招き入れ、あまり機嫌のよくない表情で二人を見ていた。
「そう言うことだったの?」
顔を見合わせる耕作と柔。
「まあ、そういうことだな」
「聞いてないわ」
「言ってないからな」
「ずるいわ!あたしからは色々聞き出したくせに、コーサクは何も言わないなんて」
「それが記者だしな。それに柔さんのこと言ったって信じなかっただろう」
「それもそうだけど、本が出た後なら信じたわ」
「悪かったよ。それでここで何してるんだ?」
アリシアはさらに怒った。顔が怖くて耕作は一歩後ずさる。
「ヤワラはあたしと観光に行ってることになってるんでしょ。だったらお土産の一つでも必要だと思うじゃない」
「それでわざわざ届けてくれたのか?」
「そうだけど、違うの。これは試合のお礼のプレゼント。だから気にしないで、ヤワラ」
「そんな悪いわ。迷惑かけたのにプレゼントまで」
「いいの、いいの。でもわかったわ。ここ数ヶ月コーサクが元気なかった理由も。二人の関係がぎくしゃくしてたのね」
「何言ってんだよ。元気ないことなんか……」
柔は期待するような目で見ている。
「そうだよ。落ち込んだり考え事したりして元気何てなかったよ」
「素直が一番よ。それで、ここでヤワラとはお別れなの?」
「ああ。空港へは滋悟郎さんが一緒だし俺は付いて行かないよ」
「そう、じゃあ思う存分別れを惜しんで。あたしはその辺にいるから」
そんなことを言われてもこの国の人たちみたいに、イチャイチャできるわけもなくただ言葉を掛ける。
「今度はいつ会えそうですか?」
「これから忙しいからな。スポーツ大国だから一年中試合があるんだ」
「じゃあ、いつ来ても同じですね」
「まあ、そうかな。でも、NYにいないときもあるし」
「その時はその時です。電話はもしかしたら調子悪いかもしれないので確認しておきます。手紙は会社に送って貰ってもいいかもしれません」
「そっか、色々すまない。帰ったら一度電話してくれないか。繋がるかだけでも確認しておきたいし」
「はい。わかりました」
にっこり笑う柔に耕作はなんか吹き出してしまう。
「何がおかしいんですか?」
「だって、今の会話、会社員の会話みたいじゃないか。別れを惜しむカップルって感じじゃ全然ないな」
「仕方ないですよ。ここは沢山人がいるので」
「いや、柔さんがいつまでも俺に敬語だからそう思うのかも」
「あ……そう言えばそうですね」
「徐々に失くしていければいいと思うよ」
「はい……あの。松田さん」
「ん?」
「わがまま聞いてもらってもいいですか?」
「なんだい急に?」
「ぎゅってしてください」
「ここで?」
「はい……」
耕作はちょっと考えた後、柔を包み込むように優しく抱きしめた。
もう言葉はいらない。二人はただお互いの鼓動と体温を感じあい、そして静かに離れた。
「じゃあ、もう行きます。一緒にいてくれてありがとうございます。楽しかったし、幸せでした」
「俺もそうさ。ありがとう」
柔は涙を拭いて手を振った。ロビーの端で待つアリシアの元に行くと、呆れ笑いをしていた。エレベーターに乗るのを見届けたら耕作は再びタクシーに乗りとある場所へ向かった。
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vol.3 滋悟郎、吠える!
「おじいちゃん、迷子になってないかしら?」
「ジゴローは目立つから例え迷っていても、すぐに見つかるわ」
JFK空港の片隅で柔とレオナルドの秘書であるステファニーは談笑していた。日本で洋服を用意したり、往路で利用したプライベートジェットでの身の回りの世話もしてくれて柔は友達のように打ち解けていた。
ここにレオナルドはいないが、柔と滋悟郎だけにしておくことも出来ない。自分たちの都合で渡米させた以上、日本に着くまで責任を持って送り届けなければ行けない。柔は今では世界的なスターだ。本人の自覚が足りない分、周りが注意しなくてはいけない。
もうじきNYを離れて東京に行く。そう思うと寂しいが、昨日までの不安と比べればなんてことないと柔は笑っていた。この7ヶ月間の苦しみが柔を精神的に強くした。昔の柔だったらとっくに心が折れていたか、耕作のことを忘れていたかもしれない。でも、自分の想いを自覚して、この人しかいないと思ってでも、自分の想いだけを押しつけて勝手に悲しんで苦しんだことが柔を成長させた。
晴れやかな顔で日本に帰れる。そしてまた会いに行こうと空を見上げる。
そんな柔の背後から、気配を消すように人影が近寄ってくる。騒がしい空港内で、一人異質な空気を纏いキャップを深々とかぶり鋭い目つきで歩く。男が手を伸ばし、柔に話しかけようとしたとき男の肩に強い力を感じた。
「何してんだ?」
男は慌てて逃げだそうとしたが、また別の強い力により取り押さえられる。
「おぬし、何者ぢゃ」
「滋悟郎さん!」
「日刊エヴリー! おぬしこそこんなところで何を!?」
耕作と滋悟郎は目を見合わせ驚いているが、滋悟郎はしっかりその不審者を捕えている。
「とにかく、ここじゃ柔さんに見つかるから離れましょう」
「うむ。そうぢゃな」
空港の警備員が来る前に3人は柔の目や耳に入らない場所に移動した。幸いにも空港は騒々しい場所なので、さっきの声も届いていないようだった。
滋悟郎に自由を奪われたものは観念するしかなく、男は大人しく付いてきた。万が一の時に備え、耕作もすぐに動けるようにしていた。
「この辺りでいいぢゃろう。おぬし、何の目的で柔に近づいた」
「なんのことだか。僕は金メダリストの猪熊柔がいたから声をかけようと思っただけです。ただのファンです」
「なーにがファンぢゃ! あんなまがまがしい気配で近づいて、もう一歩近づいておったら柔にさえ気づかれておったわ」
「危害を加えようとか思ってたわけじゃないんです。ただ声をかけようと思ってただけで」
「おぬし、日本でもそうやって柔に近づこうとしたのではないか?」
「なんのことですか? そんなことありませんよ」
「しらばっくれるでないぞ! 毎日、無言電話を掛けて来てるのは分かってるんぢゃぞ」
想像もしてない言葉に耕作は驚く。
「僕はそんなことしてません」
「じゃあ、何で嘘をついた?」
耕作が男を強い目でにらむ。
「嘘?」
「どういうことぢゃ?」
「お前、野波だろう。日刊エヴリーで俺の後任になった」
そう言われて滋悟郎はハッとする。そしてかぶっていたキャップを取る。
「どこかで見たと思ったら、試合会場で見たんぢゃ」
「記者ですから、取材くらいは行くでしょう。でも、さっきファンだと嘘をついた」
「記者だって言ったら話がややこしくなるかと思ったんですよ」
「もうすでにややこしいわ! で、おぬしが無言電話の犯人ではないのか?」
「だから、違います。僕はただ話をしたかっただけで」
「なんのぢゃ? 取材ならわしが受けよう」
「いえ、個人的なことと言いますか」
口ごもる野波。その表情を耕作は見ていた。
「そのポケットの中はなんだ?」
「な、何のことですか?」
「さっきから、上着のシャツの裾を頻繁に触ってる。本当はもっと上が気になってるんだろうけど、触ると怪しまれるか触れない。でも気になる。違うか?」
野波は手を放すと一瞬耕作を見た。その目はとても鋭かった。
「出して見せてみろ。やましいものじゃないなら平気だろう」
「これは……見せられません」
「ええい! じれったい。さっさと見せんか!」
滋悟郎が強引にポケットに手を入れてその物を取り出す。それはひらりと空を舞い、耕作の足元に落ちた。
「見たらいけません。見たら後悔しますよ」
「しないよ」
拾って見るそれは写真で、耕作の想像通りのものだった。
「わしにも見せてみろ。ん? これは……これはなんぢゃー!!」
滋悟郎の声が空港に響き渡る。一瞬静寂に包まれるが、すぐに賑やかさは戻りでも滋悟郎は顔を真っ赤にして写真を見ている。
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vol.4 野波の情報
「落ち着いてください。これにはわけがあるんです」
「日刊エヴリー! なんでお前はそんなに落ち着いとるんぢゃ! 柔が風ミドリと密会しておるではないか」
「これについては柔さんから話は聞いてます。二人には何もないんです。この後すぐに友人たちが来たそうですから。ただ、問題なのはこれを撮ったのが誰かと言うことなんです」
「こやつが撮ったんぢゃろ!」
「いえ、野波はこの日、取材で東京を離れていました。だから写真を撮るのは不可能なんです」
「なんでそんなことまで知ってるんだ?」
「さて、何ででしょう。まあ、少し考えればわかると思うけど」
「加賀さんか……」
「正解。で、この写真の出所は?」
「言えない。ネタ元は言えないことぐらいわかってるだろう」
「まあね。でも言わないとここから離れられないぞ」
「脅しですか?」
「取引だよ」
野波は黙り込む。耕作は次の一手を打つ。
「会社を休んでまで、NYに来た理由は?」
「聞いてるんでしょう。母が倒れて」
「君の母親は元気だったよ」
「なんであんたにわかるんだ?」
「さて何ででしょうか。でもそれも事実。一つ言えるのは嘘をついて帰国し、母親には休暇だと言っていること。俺は会社の同僚だと言ったら快く家に入れてくれたし、話もしてくれた。だから俺が君が嘘をついていることを母親に話したらどんなに悲しむか」
野波はNYに来た初日に、母親に会いに行っている。その時はいつものように迎え入れてくれて変わった様子はなかった。耕作が何をどこまで知っているのかわからない中、下手なことを言うのは得策じゃないと感じた。
「僕はこの写真のネタ元と無言電話は同じ人だと思う」
「なぜぢゃ?」
「危険な男だと思ったから。それは直感じゃないです。目で見てそう誰でも思います」
「で、誰なんだ? 無言電話もかかって来てて、これからエスカレートする可能性だってあるのに」
「言っておくが、無言電話だけぢゃないからの」
「他にもあるんですか?」
「怪文書が送られてきた。柔宛ての手紙はわしがチェックしてるんぢゃが、同じ人物からの手紙が頻繁に来るようになって内容も次第に不気味なものになっていっての」
「そのこと柔さんは?」
「知るわけなかろう。そのためにわしが水際で食い止めておるんぢゃからな」
耕作はもしかしてというか、ほぼ確信を持って聞いた。
「あの滋悟郎さん。電話ってもしかして変えました?」
「なんぢゃ、気づいたのか」
「ここ数ヶ月全然つながらないじゃないですか。それに今の聞けば誰だって気づきますよ」
「そうぢゃ。ぢゃがな、元々自宅の電話番号で使ってた方を接骨院の方に使って、新しい番号を自宅に変えたんぢゃ」
「そのこと柔さんは?」
「知るわけなかろう」
「滋悟郎さんの心配は分かりますが、連絡つかなくなったってわかったらみんな心配しますよ」
「何を言っておる。ノッポのねえちゃんや虎滋郎には伝えておる」
「鶴亀トラベルは?」
「教えとらん。接骨院の方にかかるんぢゃから問題ないぢゃろう」
「そりゃそうですけど」
「それはいい対策ですよ」
「どういうことだ?」
「付きまとったり嫌がらせをするようなおかしなやつは昔から少なからずどこにでもいたんですが、彼らは電話番号を変えて拒否されたり引っ越しなんかされると逆上して何をするか分かりませんから。自分が否定された気がして、好きな気持ちが憎しみに変わるらしいんですよ」
「危ない奴もいたもんだな」
「そこら辺の男相手なら柔の方が強いに決まっておるが、常軌を逸した変態は何をするか分からんからのわしと玉緒さんで警戒はしておる」
「でも当の本人が知らないんじゃ……」
「怖がらせて下手に避けるよりも、知り合いみたいにしてた方がいいかもしれません」
「ん? ということはそいつは柔さんの知り合いってことか?」
「ええ、まあ……」
「吐け! 誰だ!」
二人に詰め寄られる野波。だが、彼も目的があってNYに来た。それを忘れてはいなかった。
「教えます。でも条件があります」
「なんぢゃ」
「猪熊さんに会って欲しい人がいます」
「わしにか?」
「いえ、お孫さんの方に……」
「柔にか。誰ぢゃ」
「それは……」
野波の真剣な表情に耕作は察しがついていた。
「ラスティじゃないか?」
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vol.5 ラスティ
「ラスティじゃないか?」
耕作がそう言うと野波は勢いよく振り返る。
「なんで……」
「俺だって記者さ。お前よりもはるかに経歴が長い。NYに来て何もしないでいたと思うのか。女子柔道の最大の功労者である彼女を取材しないわけないだろう」
「でも、新聞には全く記事もでなくて」
「本当は日本でもっともっと取り上げられるべき人だし、知っておかなきゃいけない人なのにほぼ無名さ。知る人ぞ知るってやつだ」
「そ……そんな。じゃあ、猪熊さ……柔さんも?」
「いや、柔さんは会ったことないよ。でも、俺が話したからまたNYに来た時に会いたいって言ってた」
「そっか……そうなんだ。僕はラスティのことも知らないで自分が女子柔道を牽引しているみたいな彼女を認めたくなかった。誰のおかげでバルセロナ五輪で女子柔道が開催されたのか、誰のおかげで今の女子柔道があるのか。それを知らないで金メダルだの国民栄誉賞だと言って欲しくはなかった」
「その気持ちは理解できる。俺もラスティを知った時、心底驚いて自分の無知さ加減に落胆した。世界の女子柔道の礎を築いたのは彼女だったんだと感謝したほどさ」
「そんなことも知らんかったのか、松田よ」
滋悟郎があきれ顔で言う。だが野波はこの老人がラスティのことを知っているのが信じられなかった。
「猪熊さん、知ってたかのような口ぶりですね」
「当然ぢゃ。ラステーが日本に来た時、凄いおなごがアメリカから来たと話題になっての。わしもカネコと見に行ったんぢゃ」
「たしか、虎滋郎さんも一緒に行ってますね」
耕作はカネコの日記を読んでラスティを知り、NYで居場所を探したのだ。
「そうぢゃ、そうぢゃ。ラステーは男子に交じって稽古をしておった。大きなおなごでな根性もあって誰よりも稽古に励んでおった」
「だったらなぜ、あなたも日本の柔道家たちもラスティにもっと感謝しないんだ。彼女はとてつもない努力で今の女子柔道の環境を整えてきた。誰もなし得なかったことだ。そのおかげで柔さんもオリンピックに出られたし、名声も得た。まるで日本のもののような扱いだが、その発展を進めたのは誰でもないラスティというアメリカ人だというのに」
野波は納得いってなかったのだ。日本での女子柔道の扱われ方は、ラスティと言う存在を無視しているかのようだ。さも自分たちの力と努力でオリンピックへの公式種目へ選ばれ、それを盛り上げているかのように見えた。
「野波よ。多くの日本人がラステーを知らないことは無理もないことぢゃ。なぜならお前らのような職業のものでさえも知らないものが多い。そしてそれを伝えることをしないからぢゃ」
「どうしてしないんですか? あなたは知っているのに」
「わしが言う必要がどこにある。自分のしたことを自慢したいなら、自らの口で語ればいいぢゃろう。それをしない者のことをわしがベラベラ話す必要はないぢゃろう」
「ラスティはそういうことを、自分から話す人ではないです」
「だったらそれでいいではないか。知っている人が知っていればいいということではないか?」
「でも、僕は日本人が誰もラスティのことを知らないでいることが許せない」
野波の言葉に耕作は静かに問う。
「じゃあ、アメリカ人はみんなラスティのことを知ってるのかい? そして日本人があまり知らないことにみんな腹を立てていると?」
野波は黙り込む。アメリカではさほど柔道は人気がなく、女子柔道に関しても日本ほど盛り上がる競技ではないのだ。
「アメリカで柔道はまだマイナースポーツで、バルセロナ五輪で柔さんとジョディのあの試合で始めて認知した人もいるはずだ。だがそれだけで終わってしまうんだ。アメリカには多くの刺激的なスポーツがあって、小さな柔さんが大きなジョディを投げるのは見ていて面白いがそれをアメリカの柔道家が出来るわけでもない。そうなると次第にその興味は薄れてしまうだろう」
「じゃあ、もっとアメリカ国内で柔道人気を上げればラスティの名も知られ、日本にも届くということか?」
「そうかもしれない。でもな、ラスティがそれを望んでいるかはまた別の話さ」
「望んでないと?」
「わからないよ。でも、アメリカ人ってお前みたいに誰かの行った偉業とか大好きで、すぐにテレビや映画にして感動させようとするだろう。でも、そう言うことがないってことは本人があまり望んでないようにも感じるんだ」
チラッと滋悟郎を見る。この人は、何かと自分の本を宣伝するほど自己顕示欲が強いが、世の中そう言う人ばかりではない。
「なんぢゃ? 松田」
「いや、別に。で、野波、お前の望みはラスティのことを日本人に知って貰えればいいのか?」
「そうです。それが望みです」
「よし、わかった。今度柔さんの本を日本でも出版することになったから、その中にラスティのことを入れようと思う。もちろん本人がそれを許可してくれればだけど」
「本当ですか?」
「ああ、だからもう少し待っててくれないか?」
「わかりました」
「まとまったところで、柔にちょっかいかけておる愚か者が誰か吐いて貰おうか」
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vol.6 西野の異常性
滋悟郎は野波を睨み付ける。本題はこれからだ。
「あの、まず写真を手に入れた経緯をお教えします。僕は柔さんと接触してラスティのことを知って貰おうと思ったんですけど、なかなかどう切り出していいか分からずにいたんです。試合会場や練習場では言い出しにくいし、自宅に取材を理由に行って話そうと思ってたんです。その時に門の前に男が立っていて記者か何かかなと思ってたんですけど様子がおかしくて物陰に隠れて見てたんです。そしたら手紙を郵便受けに入れて立ち去ったんです。それが今年の初めごろかと思います」
「滋悟郎さん、手紙に心当たりは?」
「ある。家に届く手紙はわしが管理しておる。柔が有名になってから少なからず、気味の悪い手紙も来るようになったからの。柔の目に触れさせんように扱っておる」
「あの男は直接投函してたので、消印もない物だと思います」
「心当たりはある。差出人がなくて、不審だったからわしが開封した」
「内容は?」
「最初はファンだの、応援しているだのと書かれておったが、去年の秋くらいから変なことが書かれ始めたかの」
「変なこと?」
「わしの口からは言えんが、恋文のようなものぢゃな。だがどれも一方的な思いのたけが綴られていた」
「やはりそうでしたか。僕は彼の後を追いました。ただ事ではないと感じたからです。そして彼がいない隙に部屋に侵入した」
「は?」
耕作は思わず声が出た。記者とはいえ犯罪行為はしてはいけない。不法侵入何て洒落にならないことをあっさりいう野波に、少し怖くなる。
「悪いことだってのは分かってますよ。でも、僕のカンがあいつは危ないって言うんです。それでまあ、昔習得した技で鍵を開けて中に入ったわけで」
「お前、見た目に寄らず相当悪かっただろう」
「そこは詮索しないでください。まあ、NYでいろいろありましたけど、今は善良な一般市民ですよ」
善良な一般市民は家主のいない家に勝手に入ったりはしない。
「それで中には何があったんぢゃ?」
「写真ですよ」
「この風ミドリの写真か?」
「実を言うと、それは現像して初めて男性の方が本阿弥社長だと気づいたんです。壁に貼られていた写真には社長の方は押しピンで穴を開けられて誰だか判別も出来ないほどでした」
「げ! そんな状態だったのか。まさに異常だな。でも現像したってことはネガは……」
「持ってきました。ネガの扱いはかなり雑だったんで、少し無くなっても気づかないでしょう」
「それはナイスな判断だ」
「そうでもないです。彼の部屋の壁や天井にはいたるところに柔さんの写真が貼られていました。そのどれもが、恐らく盗撮したもの。通勤途中や休日のショッピング、柔道の稽古のものもありました」
そう言いながら鞄から取り出した部屋の写真を二人に見せる野波。それを見た二人は言葉を失う。あまりに異常な光景でよく今まで何事も無かったと思うほど、相手は異常者だと判断できた。
「危ない奴だと思った僕のカンが当たってたんです。で、この中で一番いい位置にあった写真がこれです」
写真にはジャージ姿の柔と男が映っていた。野波はさらにもう一枚写真を見せる。
「これはあの時の!」
滋悟郎が写真を奪い取って食い入るように見る。
「去年の世界選手権ぢゃ! 松田、お前もおったぢゃろう。晩飯食いに行って柔のファンとか言う男と写真を撮ったんぢゃ。ジョデーも映っておるから間違いない」
「まさか……西野?」
「松田さんも知ってるんですか?」
「いや、俺は遠目で見ただけだし夜だったから顔までは分からないけど、ハミルトン郊外でそんなことがあったのは西野くらいだし。その後、柔さんから西野についても聞いたのは聞いたけど、怪しい人と言う認識ではなかったけどな」
「世界選手権が九月末だったから怪文書が来るようになったのはその後と言うことになりませんか。西野の中で何か変わったということですよ。ただのファンから異常者になる何かがあったということです」
「あ! 風祭との密会じゃないか。もしあの写真を撮った後すぐにホテルを出てしまっていたら、事情は察するに余りあるでしょう。勘違いしてしまった可能性もある」
「風ミドリのせいでこんな面倒なことになったのか! 日本に帰ったら一度、羽交い絞めにして……いや、西野とやらの居所がわかっているのならわしが直接出向いて話を付けに行こう」
「滋悟郎さんあまり軽率な行動は相手を逆上させて何をするか分かりませんから、ここは慎重に」
「何を悠長な! 柔に危機が迫っておるのぢゃぞ。手を打たねば安心して稽古も出来んぢゃろ」
「そうなんですけどね……こんな異常者を俺も相手にしたことがないのでちょっと手を間違えると何が起こるかわからないと言いますか」
「あの……大変言いにくいのですが」
「なんぢゃ?」
「西野の行方はわかりません」
「は?」
「この前、アパートに行ったんですけどもう引っ越した後で、大家も不動産屋も引っ越し先は分からないと言ってました。なので今、居所不明です」
ますます危険になった柔の周囲。耕作は当の本人は何も知らないままでいいのかと思っていた。
「手はまだある。柔にこのことは言うでないぞ。二人ともよいな!」
「しかし最初に想像していたよりはるかに危険な奴ですよ」
「言っておるぢゃろう、手はあると!」
NYに残る耕作にこれ以上何かをいう資格がない。ここは滋悟郎の考える手立てに従う他ない。
「よし、そろそろ飛行機の時間ぢゃろう。わしは戻るとするか。野波よ、おぬしくれぐれも日本で余計なことするでないぞ。あと取材はわしを通せ!」
「は、はい」
「松田よ!」
「はい!」
滋悟郎は耕作をじっと強い目で見る。何もかも見透かしたような目で耕作は息が止まる。
「柔のことは心配無用ぢゃ!」
「はい。滋悟郎さんがいれば百人力ですね」
「当りまえぢゃ!!!!」
柔の元に戻る途中、滋悟郎は何かを思い出したようで耕作のところにやって来た。
「どうしたんですか?」
耕作は内心ヒヤヒヤしている。もしかして滋悟郎に柔との仲を気づかれたのではないか。
「お前にはこれを渡しておく」
手渡されたのは電話番号が書かれた紙。
「あのこれって」
「自宅の番号ぢゃ。誰にも教えるでないぞ」
「は、はい!」
滋悟郎は気づいているのかいないのか。あまりよくわからないが、敵として見ているわけではなさそうだ。
滋悟郎が柔の元に戻ると、かなり時間が差し迫っていたようで慌てて出国ゲートに方へ走って行った。同じ飛行機に乗る野波も同じで耕作だけが取り残された。
日本に戻れないことがこんなにも悔しかったことはない。危機が迫っているのに何も出来ないなんて、不甲斐なくて怒りさえわく。
「仕事がそんなに大事か?」と、心の中のもう一人の自分が問う。「大切な人を守れないような仕事なんか辞めてしまえばいい」と、聞こえる。記者としての夢はバルセロナ五輪での柔の記事を書いたとき、果たされたと思う。でも、それだけじゃない。もっと伝えていきたい、もっと知りたい。そう言う思いは今も薄れることがない。でも、それと柔を天秤にかけて柔の方が軽いわけじゃない。
飛行機が離陸する。不安で堪らない。今すぐ追いかけたい。
「柔のことは心配無用ぢゃ!」
滋悟郎の言葉が頭に蘇る。柔の事で強引なことばかりするが、柔に対しては深い愛情があるのは見ていればわかる。誰よりも信用のおける、ボディーガードだ。耕作はとりあえず自分が出来る事をするしかないと、誰もいないアパートに帰った。
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負けるな女の子
vol.1 静岡へ
身も心も満たされて日本に戻ってきた柔は、耕作たちの心配も知らず日常生活に戻っていた。NYにいた数日の間に熱愛記事騒動が起こっていたが、すでに沈静化して記者に追いかけられる心配はなかった。
会社と柔道部の女性たちからはレオナルドについて訊かれることもあったが、熱愛の真相よりもどんな人だったのかなどミーハーな質問ばかりだった。
7月下旬になり、学生は夏休みに入りそろそろ旅行代理店はお盆休みで忙しくなる時期になる。柔も社員なので他人事ではないが、やはり柔道が優先であるのでそこまで事務仕事や接客には関わらないので他の社員に比べればのんびりとしている。そのタイミングで柔は富士子に会いに静岡へ行った。
東京からは2時間とかからない距離で富士子の地元である伊東駅に到着し、柔はこじんまりとした駅から外に出た。夏の直射日光が眩しいロータリーには南国感溢れる植物が植えられていて、東京育ちの柔には不思議な感覚だった。しばらくすると一台の白い軽のミニバンが滑り込んできて柔の前で停まった。
「猪熊さん、こっちよ」
助手席の窓が開いて高いよく通る声が聞こえた。そして懐かしいあの富士山みたいな髪型の富士子が笑顔で出迎えてくれた。
「富士子さん、免許……」
「とったのよ。田舎は免許がないと不便だから。それよりも乗って乗って」
助手席に乗り込む柔。シートベルトをしてエアコンの涼しい風に息をつく。
窓からの景色は何となく寂しく、歩く人の影もまばらだ。
「田舎で驚いたでしょう」
「そんなことは……」
「いいのよ、気を遣わなくて。だってあたしが東京に出た時、人が多くて驚いたし」
「そっか……」
富士子はこの街に合わせているのか、東京にいた時よりも落ち着いたファッションで短大生の頃とはお互いに変わってしまったんだと感じてしまう。
「花園くんとフクちゃんは元気?」
「もちろんよ。病気一つしないわ。強いのよね。あ、そうそう家に行く前に寄り道していいかしら?」
「ええ、どこに行くの?」
「花園くんの職場よ。水筒忘れちゃって」
「夏休みでも学校か……先生も大変だね」
「そうなの。新任だし花園くん自体も張り切ってるから応援したいじゃない」
「わかるわ……ん? どうしたの? 富士子さん、そんな顔して」
富士子は前を向いてはいたが、ニヤリと笑っていた。
「猪熊さん、わざわざこんなところまで来て、何かあったんでしょう。しかもいいこと。さらに松田さん関連!」
「す、鋭いわ!」
「で、何があったの? 今さら言えないなんて言わないでよ」
「あの……ね……」
柔は照れながら今までの耕作とのことを話した。今年の初めのことは既に電話で話していたが、その後については特に話すことも無く富士子も聞くことはなかったが心配はしていた。だからこそ、二人の仲が上手く言ったこと、更にやっと結ばれたことを知って富士子は涙を流して喜んだ。
「富士子さん、そんな、泣かなくても」
「何言ってるの……こっちがどれだけ……じんぱいしたとおも……って」
「ごめんね、いつも心配かけて。でも、もう大丈夫よ。あたしも松田さんも……」
「そうね。でも、松田さんはいつまでアメリカにいるのかしら?」
「わからないわ。松田さんもアメリカでの暮らしに慣れてまだまだ記者として向こうにいたいみたいだし」
「結ばれても離れ離れじゃ、寂しいわね」
「うん……でも、また会いに行くから」
「そうね。猪熊さん、随分強くなった気がするわ。前は松田さんがいないと試合もままならなかったのに」
「あの頃は自分に素直じゃなかったし、不安も多かったから。孤独だったのかもしれないし」
「孤独か……今もそう言う気持ちがあったら、あの社長さんとどうにかなってた?」
「社長ってレオナルド社長?」
「そうよ。新聞見て驚いたもの。猪熊さんの熱愛記事なんて松田さん以外でないと思ってたのに、まさかあんな有名人と出るなんて」
「あれはね、ウチの会社の接待みたいなものだから。レオナルド社長が日本の映画か何か見てお見合いしてみたいって言って、形式だけなんだけどそうしたの。あたしと食事したかったのも理由があってね、そのおかげでNYに行けたんだから感謝したいくらいよ」
「結果オーライってやつね」
そんな話をしていると車は坂を上っていって、セーラー服を着た学生とすれ違った。友達と楽しそうに話しながら、それがとても眩しく見える。
「学生っていいわね」
「あたしもたまにここに来るけどそう思うわ。でもそう思ったらもう大人なのよね」
富士子は来客用の駐車スペースに車を入れる。
「ちょっと行ってくるわね。エンジンかけたままの方がいい?」
「ううん。切っていいよ。何かあってもあたしじゃわからないから」
「そう? 暑いわよ」
「ドア開けておくから平気よ」
「鍵置いていくから我慢できなくなったら、エンジンかけてね。鍵さして回せばいいから」
「ありがとう」
富士子は後部座席から荷物を取って校舎の方へ走って行った。
柔はぼんやりと外を眺めている。学校に来るのなんて何年振りだろうか。初めて来るところだけど懐かしく感じる。校庭の広さとか生徒の声はどこもそんなに変わらない。中学生の時はまだ柔道のことを家族以外で知っている人はいなかった。普通の中学生として楽しく過ごしていた。でも、部活はしてなかった。特に興味もなかったのだが、柔道の稽古があったからそんな時間がなかったのだ。
「あれ、花園くん?」
富士子が向かったのと逆の方から道着姿の子供とそれを追うように花園が道着姿で走り過ぎた。何か言っているようだが聞こえない。このままいけば富士子ともあるはずだったのだが、今度は富士子が荷物を持って戻ってきた。そのままウロウロして逆の方へ向かって行った。これではすれ違ってしまうと思ったので、柔は外に出て車に鍵をして富士子を追いかけた。
「富士子さーん」
富士子が柔の方に顔を向ける。
「花園くん、逆方向に行ったわよ」
「え? さっき行ったら誰もいなくて」
「うん、すれ違ったんじゃないかしら? 学生さんと向こうへ走ってたけど」
「そうなの? もう、何してるのかしら」
柔は富士子の方へ駆け寄り、花園が向かった方へ追いかけた。
「道場にいると思ったのよね。部活の時、花園くんはいつもそこにいるから」
「さっき見かけたときは子供たちも道着を着てたから、道場に行ったんじゃないかしら」
「でも会わなかったのよね」
不思議そうに空を見る富士子。
そう言いながら歩いていると、小さいが歴史を感じさせる道場が姿を現した。しかし開け放たれた窓から、何やらただならぬ雰囲気の声が聞こえて、二人は覗き込む。中には花園と生徒が五人。何か揉めているようだった。
「先生は無謀です。僕たちの実力を知らないからこんな試合受けてくるんですよ」
五人の中で一番大きな体の内山が言った。
「何を言ってるんだ。お前たちはこの二年間一生懸命稽古して来たんだろう。その成果を試してみたいとは思わないのか!」
「負けるってわかってる試合に出たいと思う奴がいますか? それに僕は柔道初めてまだ3ヶ月ですよ」
今度は一年で背の低い皆藤が言った。
「負けることが決まってるわけじゃないだろう」
「決まってるんですよ。僕たちが体も小さいし、力も弱い。去年までは先輩がいたけど卒業してからは僕らしか残ってなくて、無理なんですよ」
背だけがひょろりと高い河合が言う。
「体の大きさも力も関係ない。それが本来の柔道だ。まだそれを習得できてないかもしれないが、投げられないとわからないこともある。負けないと越えられないものもあるんだ」
「きれいごと言うなよ。先生は背も高いし体も大きい。どんだけ頑張っても上手くならない俺たちの気持ちなんてわからないんだ!」
「遠山……お前、部長じゃないか。それなのにそんなこと言うのか」
一番体つきもしっかりしている部長の遠山ですら、試合には乗り気ではないようだった。でも、その言葉とは裏腹に目には熱があり、拳も握られていた。その事に違和感を覚えたのは窓から見ていた柔。
「とにかく試合は出来ません。実力差があり過ぎます」
「そんなことはないぞ。みんなの練習を見てたし相手にもなった俺が言うんだから間違いない。君達は強い。自信を持っていい」
その場にいた生徒たちはみんなその言葉に顔を一瞬輝かせた。嬉しかったのだ。でも、誰も試合に出たいと言わない。
「みんなごめん!」
黙って立っていた最後の部員が声を上げた。
「お前は黙ってろ。俺たちが何とかするから」
遠山がそう言ったが、黙ることはなかった。
「もう誤魔化せないよ。正直に言ってそれであたしも試合にでるよ」
「どういうことだ? それにその声……」
「先生。あたし、二年一組の沢井佳恵です。二組の沢井恵一の双子の妹です」
新キャラ登場です。中学校の生徒です。
「遠山」二年生(男子)部長
「内山」二年生(男子)大柄
「河合」二年生(男子)長身
「皆藤」一年生(男子)小柄な初心者
「沢井佳恵」二年生(女子)柔道経験者
「沢井恵一」二年生(男子)佳恵の双子の兄
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vol.2 花園先生
「先生。あたし、二年一組の沢井佳恵です。二組の沢井恵一の双子の妹です」
花園は驚いてまじまじと佳恵を見る。そう言われれば体つきも細く、顔のつくりも女の子っぽい。
「似てるけども、どうして入れ替わったりしたんだ?」
「恵一がお腹下して起き上がれなくて、でも今日は試合だからあたしが代わりに来ました。あたしも柔道できるし、恵一のせいで試合出来なくなるの申し訳なくて」
佳恵は俯いていた。双子とは言え責任を感じる必要など全くないのに、佳恵はみんながどれだけ頑張って練習してきたか知ってるから、試合に出られないことを自分の事のように申し訳なく感じていた。
「試合なんていいんだよ。女子の佳恵が試合に出たら俺たち笑いものだ」
「そうだ、女子に頼らなくきゃいけないほど部員もいないなんて馬鹿にされる」
そういう言葉が出るたびに、佳恵は辛そうに眉を歪ませる。
「お前たち、優しいな」
花園は目を潤ませる。
「何言ってんですか。僕たちは佳恵が試合に出るなんて迷惑だって……」
「お前たちの気持ち俺にはよくわかる。俺も昔同じ思いをした。高校の柔道部の部員はたった五人。その内の一人が試合会場に現れなくて、試合を断念せざるを得なくなった時、柔道経験のある女子がやって来て急きょ試合に出てもらった。俺は何としても彼女を試合させまいと奮闘したが、相手の強さに敵わず敗北した」
「高校の男子柔道に女子が混ざったんですか?」
遠山が信じられないと言った様子で質問した。
「そうだ。彼女は強かった。俺たちよりも強くてその後、強豪校の男子生徒を相手に四人抜き。自分の目で見た物が信じられない光景だった」
「そんなこと出来るわけない……」
「もちろん公式に記録にあるわけじゃないけど、彼女のその素晴らしい結果を俺たちは決して忘れない。だがそれと同時に、女子に戦わせてしまったことへの罪悪感も忘れてはいない。俺が強ければそんな事にはならなかった」
「じゃあ、先生だってわかるだろう。佳恵に試合させたらだめだってこと」
「それもそうだな……でも、もし沢井さんがでないならお前たちが試合に出てもいいって言うのか?」
男子4人は目を見合わせた。そしてやはり口を開いたのは遠山だった。
「そりゃ、俺たちだって練習頑張って来たんだし試合してみたいけど、やっぱり先輩たちがいない今自信ないですよ」
「遠山の言う通りさ。先生は先輩たちのこと知らないからわからないと思うけど、凄かったんだぜ。僕達の憧れだったんだ」
「確かに俺は卒業生のことは知らないけど、お前たちがどれだけ練習してきたかはわかる。それにそんなすごい先輩たちと同じような練習をしてたなら、きっと強くなってる。それに負けても次がある」
男子たちの心は揺れ動いていた。本音を言えば試合に出たいのだ。でも、今まで試合に出たことがないから怖いというのもある。
「あたしは出るわ!」
佳恵が言い切る。誰よりも強い意思を持った目をしていた。
「いやいや、お前はいいって」
「ううん! あたしがでる! 恵一の代わりに出る! だからみんなも出よう!」
「男子の中に女子がでられるわけないだろう」
「さっきの先生の話忘れたの? 出来ないことはないんだよ」
「それはなんていうか、稀な話だよ。先生の友達がかなり強いか、相手がかなり弱かったか。でも俺たちが試合する、東中は強豪だぞ」
「向こうだって強豪の先輩が卒業してるんだし、立場は一緒よ」
「何が一緒だよ。向こうは三年。僕たちは二年だ。体格差もある。経験も違う」
「よし! わかった!」
五人は一斉に花園を見た。
「試合はしよう。五人で。沢井は大将だ。大将戦まで行かなきゃいい。遠山が相手の対象を倒せばいい話だ」
「そんな……」
「みんなもいいな。沢井の試合にならないように全力を尽くせ! とにかく自分を信じろ。今までの練習を思い出せ」
まだ迷いがあるのか返事がない。
「みんな! 大丈夫! 恵一のせいでみんなの決意が揺らいだのはわかるけど、練習してきたことは揺らがない! だから頑張ろう!」
佳恵のその言葉に男子は顔を見合わせ、頷く。
「そうだ、俺たちが頑張ってきた。頑張って来たんだ!」
「やろう! 何もしないでいるよりは試合した方がいい」
「何事も経験ですね」
「そうだ! 僕たちのしてきたことは無駄にしたくない!」
五人の意思が固まったところで、軽く稽古が始まった。そのタイミングで窓からのぞいていた富士子が声を掛けた。
「ちょっと、花園くん!」
「富士子さん、どうしたんだ?」
「ちょっと出てこれる?」
花園は道場を出た。
「あ、猪熊。久しぶりだな」
「久しぶり。花園くん、すっかり先生だね」
「俺なんかまだまださ。生徒との接し方が難しくてな」
「さっきのいいと思うけど」
「そうか? ところで富士子さん、どうしてここに?」
「水筒忘れたでしょう。届けに来たの」
大きな魔法瓶の水筒を手渡すとどこからか声が聞こえた。どうやら対戦校の生徒たちがやって来たようだった。
「そろそろ試合なんで俺は行くんで」
道場の戻る花園に手を振る二人。そして顔を見合わせる。
「気になるわよね?」
「ええ、富士子さん」
二人は道場の裏手側に移動し、木陰から様子を伺うことにした。すると、先ほどの声の主たちがぞろぞろと道場に入ってきた。
「東中柔道部です。今日はよろしくお願いします!」
部長らしき学生が言うと、花園率いる西中の生徒たちが集まった。
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
そして礼をした。東中の部員たちは道場の端で道着に着替えて、体を動かし始めた。練習試合で格下を相手にするのに、どう見ても一軍選手だ。そして何よりも顧問の高田がいかにも体育会系の厳つくて体の大きな先生で、とても強そうに見えた。
顧問同士があいさつし、今日のことについて打ち合わせした後、ホワイトボードなどが用意され試合は直ぐに始まった。試合形式は勝ち抜き戦。審判は東中顧問のが行高田うことになり、花園は時間を見る役割を与えられた。
先鋒は西中が一年の皆藤が出た。柔道歴3ヶ月の新人は、顔に緊張が見えて足も少々震えていた。相手はどう見ても柔道歴は皆藤より長そうで体格も大きい。
決着は直ぐについた。皆藤は何も出来ずに小外狩りを掛けられ一本取られた。呆然とした様子の皆藤だったが、まだ柔道歴3ヶ月なら仕方ないのかもしれない
次鋒は背の高い河合が出た。皆藤とは違い去年一年、先輩と一緒に練習をしていた。皆藤が悔しがるのを見て闘志に火が付く。
試合が始まると、東中の先鋒は相手を甘く見てさっきと同じように仕掛けてくるが河合はそれよりも早くに大外狩りを仕掛け見事に一本取った。
しかし、次の試合では東中に敗北し、西中は大きな体格の内山が試合した。寝技に持ち込み見事勝利したが、次の試合ではもっと大きな選手と対戦し寝技で負けてしまった。
残る試合は西中が二人と東中が三人。しかし西中は実質一人なのだが。
「遠山頑張れよ!」
河合、内山に言われ遠山は気合を入れる。佳恵は強い瞳で遠山を見つめ頷く。
「大丈夫。絶対勝つよ」
遠山は頷いて立ち上がる。そして対戦相手と対峙する。内山を寝技で抑え込める選手だ。絶対に寝技にかけさせてはいけない。
ふと花園を見ると、佳恵と同じような目で頷いていた。その目は初めて道場で練習を見た時も見せた目だった。先輩が卒業し、顧問の先生も定年退職で学校を去った。その事もあって去年二年だった先輩二人は柔道部に在籍はしているが顔は出さない。三年になって受験もあるし、結果を残せないならいても仕方ないと諦めたのだ。
そんな中、新しく顧問になったのが新米教師の花園。正直言って、期待などしてなかった。前顧問はベテランだったこともあり、指導はとてもうまく西中を強豪とまで言わしめた。しかし、その分練習もきつく新入部員は次々に辞めて行った。その中で残った者の根性を認め、より実践的な指導をしては成果を上げた。厳しいながら信頼していた顧問と先輩を失ったことは残されたものには不安しか残らなかった。
だから部員たちは認めなかった。口も利かず、実力も知ろうとせずただ無視していた。しかし、花園はそんな生徒に頭を抱え放り投げることはしなかった。毎日道場に来ては指導した。聞いているかわからない生徒相手に的確な指導をし続けたのだ。
そしてある日。新入部員であった皆藤が河合を相手に技を決めた。小さくて度胸もない皆藤が自分より大きくて力の強い河合を畳みに背を付けさせたのだ。
それをみんなが見ていた。あっけにとられた。本気じゃなかったとはいえ、柔道経験のない一年が何故と思っていると、皆藤は花園に駆け寄って喜びを伝えたのだ。
この時わかったのだ。部活のあと、皆藤に頼まれて花園は自主練に付き合っていて短期間で形にしたのだと。それからは言うまでもなく部員たちの態度は変わった。そのことがとても嬉しかった花園は涙ながらに喜んだ。
暑苦しい先生だけど、嫌いじゃない。遠山は今もそんな印象だ。そして遠山は花園から大外狩りを教わっていた。今までも得意技としていたが、無駄のない力の入れ方とタイミング。それを学んで一回り強くなった気がした。だからあの花園の目を見て「出来る!」と思った。これは確信だ。
新キャラ登場です。
「高田」東中学校の柔道部顧問。
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vol.3 ルール違反
「はじめ!」
その声と共に遠山は相手の袖を取り技を仕掛ける。息をつく間もなく、相手は天井を見ていた。遠山は息も切れていない。
「すごい……遠山くん、いつの間にあんなに強くなったの?」
佳恵は驚きで目が離せない。実は遠山と沢井兄妹は同じ柔道クラブに入っていたのだ。遠山は部活で手一杯になりクラブは辞めていたが、佳恵は続けていた。恵一を通じて話は聞いていたが、ここまで強くなっているとは思ってもいなかった。
東中の副将が出てきた。遠山とは昔何度か対戦したことがある選手だ。ジュニアの大会ではいつも遠山が負けていた。だから相手選手は余裕の笑みを浮かべていた。
しかし、遠山もいつまでも昔のままじゃない。なめてかかった相手選手は序盤に遠山から技を掛けられ、ポイントリードを許していた。それに焦ったせいで、結局技は決まらず遠山のポイント勝ちとなった。
「次は大将ね。大丈夫! 勝てるわ!」
「ああ……」
自信なさげに相手を見ると、東中三年の部長でもある大将は物凄い形相で遠山を見ていた。向こうは卒業した先輩たちとは何度か試合をしているし、大体五分五分くらいの成績だった。それを遠山は覚えていたからとても勝てる気がしないと、苦笑いをした。
「そんな顔するな、遠山」
「先生……」
「どんなに強い選手でも隙はあるものだ。それを見逃さずに技を掛ければ一本取れる。お前なら出来る!」
強い目が暑苦しいが、とても頼もしい。遠山は気合を入れなおし、試合場に向かう。相手の顔なんて花園に比べれば可愛いものだ。
「はじめ!」
激しい組手争いからの技の掛け合い。しかしどちらも決定的なものにはならない。ポイント差もなく、残り15秒で「待て」がかかる。遠山は花園直伝のもう一つの技をかけようとタイミングを見ていた。息が切れる。ここで勝たなければ負けが決まる。だから絶対に勝たなければ。
試合再開。時間はあまりない。遠山は焦っていた。それに気づいていなかった。だから隙が生まれた。遠山が技を掛けようとしたとき、逆に仕掛けられ気づいたときには畳にたたきつけられていた。
見慣れた天井が見える。今日は見たくなかったのに。
「一本! それまで」
実力差はないように感じた。向こうにあったのは運なのかもしれない。礼をしてみんなのところを戻る。西中はもう終わった気でいるが、東中の大将は西中大将の沢井が出てくるのを待っていた。
「大将、前へ」
高田がそう言うと、みんな一様に困った顔をした。花園に助けを求めるような目すら見せた。しかし、誰かが何かを言う前にすでに佳恵が畳に上がっていた。
「お、おい!」
佳恵はニコリを微笑んだ。その笑みは不敵だった。
「礼、はじめ!」
佳恵は自分より10センチは大きな大将に臆することなく、飛び込む。小さいからこそできることがある。それを佳恵は知っていた。タイミングを見逃さないように全身の感覚を研ぎ澄ます。必ず隙はある。それを捕えれば、相手は勝手に畳に沈む。
「くっ!」
わかっていたけど力が強い。軽い佳恵の体は宙に浮きそうになる。でも、それだって想定済み。奥襟なんてつかめない。だったら狙うは袖しかない。
相手が力尽くで技を掛けようとしたその時、佳恵は狙っていた技を仕掛ける。
「なっ!」
東中大将は防ぐことも出来ずに、宙を舞い畳に背を打ち付けた。
「……い、一本!」
間が空いたのはまさか負けると思っていなかったから。これだけの体格差で、まさか自分の教え子が負けることはないと思っていた。
礼をして沢井はみんなのところに駆け寄る。四人とも佳恵の強さに声も出ずただ茫然としていた。
佳恵はニコッと勝利の笑みを見せていたが、突然東中の副将が声を上げた。
「この試合は無効だ!」
「どういうことだ?」
高田が問うと、副将は佳恵を指さした。
「西中の大将は女だ。当初予定してたメンバーと違う。だからこの試合は無効だ」
佳恵も他の部員たちも顔が固まる。
「女? 本当か? 花園先生」
「申し訳ない。当初予定してた沢井が腹痛により出られなくなったので、双子の妹が代わりに出ることになったんです」
「知っていて出したと?」
「はい」
「男子に交じって女子が試合するなど、何を考えているんだ!」
「怪我の危険があればすぐにでも止めに入るつもりでした。しかし、事前に言っておくべきでした」
頭を下げる花園に高田はまだ収まりが付かないのか声を荒げる。
「言っておけばこちらが許可すると思ってるのか? こんな試合は最初から無効だったんだ!」
「しかし、他の部員たちは正規の部員で何の問題もないじゃないですか?」
「強豪と言われた西中が今やこのありさま。確かに男子三人はよくやった。しかし、女子に頼らなきゃ試合すらできないとは顧問が変わって随分力が落ちたものだ」
「自分の指導が行き届いてないのは認めますが、彼らは強い。それは東中の皆さんがよくわかっているじゃないですか?」
互角の戦いだった。どちらかが圧勝できるほどの実力差はない。恵一が出ていたとしてもそれは変わらないだろう。
「だが、ルールはルール。女子に試合させたことは試合そのものを無効とする。それが筋ってものだろう」
「それは、そうですが……」
「それにその女子と試合したうちの大将も組んだ時に、女子だって気づいたから負けたんだ。じゃなきゃ、女子なんかに負けるはずがない。なあ、そうだろう?」
「……はい」
「ほらな。女子が男子に敵うはずがない。体格差、力の差、それに柔道は格闘技だ。女子には無理だ」
佳恵は怒りの形相で高田を睨み付ける。女子と言うだけでここまで言われる筋合いはない。
「女子柔道なんてものは世間に対して男女差別をしてないっていうアピールに過ぎないんだ。そもそも女子は柔道をするべきではない。相撲のように男子のみで行い、畳の上にも女子を入れるべきではない。女子の柔道は所詮お遊戯さ。隅のほうで踊っていればいんだ」
あまりの差別発言に東中の生徒は俯く。こういう強い言葉を彼らは日常的に聞き、そして逆らうことが出来ないのかもしれない。
「その発言は撤回してもらいたい」
「なんだ? 不服か?」
「女子柔道が柔道じゃないなんて、柔道家の言葉じゃない!」
高田は真っ赤になって怒る花園を鼻で笑う。
「本心を言ったらどうだ? お前が今その場所にいるのは本意か? 違うだろう?」
その場にいた生徒たちは顔を見合わせる。
「お前はオリンピックに出られるほどの力を持っていながら、柔道を辞め社会に出た。その原因がまさに女だ」
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vol.4 女性差別
「お前は五輪に出られるほどの力を持っていながら、柔道を辞め社会に出た。その原因がまさに女だ」
「なっ! 生徒に誤解を与える言い方はよしてください。確かに選手を引退したのは結婚したからですが、俺は五輪に出られるような選手ではなかったですし、それに今こうして若い世代に教えられることで柔道と関われることは幸運だと思っています」
「幸運だと? お前の嫁が五輪に出てお前は目指すことすら出来なかったのに。子供が出来て女は休んで男は働いて、産んだらもう五輪を目指して……全くいいご身分だ。悔しくなかったのか!?」
高田は花園と富士子のことを知っていた。花園は富士子の妊娠を期に選手を引退したのに富士子は出産後、早々に現役復帰。その事に違和感を覚えた人がいないわけがないとは思っていたが、面と向かって言われたのは初めてだった。
花園は不思議と怒りがわいてこなかった。ここまで言われて、でもここまで言われたから冷静になれた。滋悟郎に稽古をつけて貰っていた時によく言われた言葉がある。
「力にたよるな。間合いぢゃ」
この言葉は柔道以外でも役に立つ。怒りにまかせて口論になる前に、冷静になり相手をよく見る。日常生活でも我を忘れた方が負けるのだ。
「俺に柔道を教えてくれて、そこそこ出来るようになったのは猪熊先生のお陰でした。妻はその猪熊先生の愛弟子で俺は恩を仇で返すような真似をしてしまいました」
「責任を取ったのか。だが、嫁はどうだ? 男が夢を捨てたのに、嫁はまた夢を追いかけた。おかしいじゃないか」
富士子の出産直後の現役復帰には理由があった。柔道を辞めていた柔を再び柔道へ戻すために、耕作と滋悟郎が富士子に頼んだのだ。今までそうやって柔を柔道にひきもどしてきた。だからあの時も、柔の復帰は富士子にかかっていた。産後の子供との時間を大切にしたい時に、無理を言って復帰させたのは滋悟郎と耕作で富士子や花園がそう願ったわけじゃないのだ。
でも、そのことをここで言っても仕方がない。
「妻の妊娠が分かった時、俺は五輪よりも妻と子供が笑顔でいられる家庭を作りたいと思った。それが柔道を続けるよりも大切なことだったんです。後悔なんてどこにもありません」
高田は眉間に皺を寄せて軽蔑するような目で見ていた。
「こんな腑抜けに稲垣は苦戦したというのか……」
90年の正直杯の関東地区予選で高田は花園と稲垣の試合を見ていた。稲垣は西海大学の後輩で一年しか関わりはないものの、その実力と才能に高田は自分の選手としての終わりを確信した。稲垣の強さは目を見張るものがあり、同年代では敵なしと言ったところだ。それが高田の誇りでもあった。
それなのにあの正直杯の決勝で全く無名の蛯天堂大学の花園は稲垣を追い詰めた。どんな選手なのかも知らない。どんな試合をしてどんな技を使うのかもよくわからない。ただ、強かった。勝つための執念が見えた。負けられないという強い思いが技に現れていた。
勝ったのは稲垣だったが、あと1秒早く花園が技を仕掛けていたら花園は勝っていた。それだけ花園は強かった。あとから調べると花園は高校の時から試合に出ても、初戦で勝つことはあれどその後勝ち上がることなんて到底出来るような選手ではなかった。そんな選手が何故ここまで稲垣を追い詰められたのか理由はわからない。
新聞に載っていた「名コーチX」が誰なのか結局明かされなかったが、さっきの花園の言葉で猪熊滋悟郎と言うことはわかった。だったら尚更、五輪を目指すべきだっただろうと思う。
「高田先生、あなたは少し誤解をしています。妻は自分の夢のためだけに出産後柔道を始めたわけじゃないんです。詳しくは言えませんが様々な状況と理由があって柔道に復帰したんです。俺も彼女も出産後に柔道復帰何て考えてもいませんでした。彼女は母親になり育児に専念するつもりでいたんですから」
「だったらお前が復帰すれば……」
「俺ではダメだったんです。彼女じゃなきゃダメだった。そういう理由があったんです」
「理解できんな……」
「いいんです。人にはそれぞれ事情があるんですから」
花園は生徒の方を振り返る。
「みんなすまない。俺が不甲斐ないせいでこの試合は無効となる。ただ、この試合で得た経験はなくならない。きっと今後に繋がるだろう」
生徒たちは花園のプライベートなことや妻のことを初めて知り、何とも言えない処理の追いつかない様子でいた。しかし、佳恵だけは違っていた。
「試合が無効になるのは仕方ありません。でも、女だからって馬鹿にされたことは許せません。そんな時代遅れみたいなことをいう人が教師であることをあたしは認められません」
佳恵の腹の虫はおさまらなかった。自分だけじゃなく、花園の妻である富士子のことも馬鹿にされたのだ。バルセロナ五輪の富士子の試合を佳恵は見ていた。初戦でのカナダ代表クリスティンとの対戦は圧巻だった。結果としては敗北したが、敗者復活で銅メダルを取る実力があったことを加味すれば初戦が決勝だったと誰もが思うはずだ。
「あたしは花園先生の奥さんの試合見てました。とても感動しました。何ヶ月も稽古をしてなくて出産後の復帰で五輪代表に選ばれて銅メダルですよ。どんなに辛い稽古に耐えて来たのか誰だってわかるはずです。それなのに女だからって認めないなんておかしいじゃないですか」
「俺は事実を言ったまでだ。女は男に敵わない。そうできてる。女は男を支えて行くものだ。出しゃばるべきじゃない。それはお前にも言えることだ」
「あたしは勝ったじゃないですか。女だと言わず女の格好もせず、気づいていたのなら言えばよかったじゃないですか。試合の最中でも。それなのに負けたから言うなんて、恥ずかしくないんですか!?」
あまりに勢いよく言うので、遠山が止めに入る。
「おい、佳恵、もうやめとけ」
「どうしてよ! こんなこと言われて何も言えないなんてあんたたちも結局そう思ってるってことでしょう。女は弱い。女は出しゃばるなって」
「そんなこと思ってないよ。でも……認めるわけないだろう」
遠山はチラリと高田を見る。偉そうにしている高田は、自分の発言に対して何も悪いと思っていない。それどころか、佳恵の発言に不快感すら見せている。
「とにかく、この試合は無効と言うことで我々は引き上げます。今度はちゃんとしたメンバーで試合しましょう」
高田は佳恵に背を向け自分の生徒たちに指示を出した。道場の中は何とも言えない重く気持ち悪い空気が充満した。
その時、閉めていた扉がゆっくり音を立て開いた。
「あの~すみません」
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vol.5 必要な試合
「あの~すみません」
逆光で誰だかわからないが、小柄な女性だ。それが誰だか花園は分かっていた。
女性はぺこりとお辞儀をして道場に入ると、真っ直ぐ高田の元へ向かった。
次第に見えてくるその顔に誰もが見覚えがある。
「高田さん……先ほどのお話全部聞いていました」
「え?」
「随分な言われ用です。女と言うだけでそれまでの努力や成果を否定なさるのですか?」
「いや、あの……」
「そこまでおっしゃるのであれば、あたしと試合してくださいませんか?」
「あの……」
高田はしどろもどろになる。変な汗も吹き出していた。
「自信がないというのですか? あたしはあなたの半分ほどしか体重もないし力も弱い女ですよ。勝てないはずないですよね?」
「それはそうですが……」
「では試合しましょう」
にこりと微笑む柔に怒りの表情が見えた。
西中の生徒たちからは誰だかわからない。その中で佳恵だけは感じていた。そこにいる人の常人でないオーラと強さを。
女性が西中の生徒たちの方に歩いてくる。次第に見えるその顔。佳恵の予想が確信に変わり、みんなが気付いたとき声を掛けたのは花園だ。
「猪熊……どうして?」
「あそこまで言われて黙っていられない。富士子さんのことだって原因はあたしにあるのにあんな言われようはないわ。それにこの子も……」
柔は佳恵を見る。短く切られた髪に強い瞳。でも表情にはどこか不安が見える。
「頑張ったわね。大人の男の人にあんなこと言うのがどれだけ勇気がいるか。あたしなら出来なかったわ。でもあなたは富士子さんのためにそしてここにいるみんなのために勇気を出した。とても出来ることじゃないわ」
柔はニコリを笑う。それに佳恵の目は潤む。
「沢井さん。それでお願いなんだけど。道着を貸してくれないかしら?」
「え?」
「今日は柔道するつもりで来てないから、道着は持って来てないのよ」
「はい!」
二人が倉庫で着替えをしてる最中、花園は高田と話した。
「どういうことだ?」
「よっぽどだったんじゃないですか。猪熊があんなに怒ってるのは久しぶりに見ましたよ」
「来ていることは知ってたのか?」
「はい。でも、帰ったとばかり思ってました」
高田は不満そうにしていたが、道場の隅で持って来ていた道着に着替えた。自分の思っていることに嘘はない。力も弱く体重も軽い女なんか直ぐに倒せる。だけどどういうわけか、柔と対峙したとき言いようのない恐怖を感じた。
倉庫で二人きりになる柔と佳恵。
「あの、本当にいいんですか?」
「なにが?」
「こんなところで試合しても」
「大丈夫よ。みんなが黙っていてくれればね」
見つかって面倒なのは滋悟郎だけだから、別にどこで何しようと何か問題になるわけじゃない。
「それにね沢井さんの一本背負いとても綺麗だったわ。あれを見てあたしもちょっと体動かしたくなったの」
「見てたんですか!」
「もちろんよ。あなたは筋がいいから、もっと強くなれるわ」
倉庫を出て軽く体を動かす柔。準備運動はしないと体に良くない。
花園が走って来て小声で言う。
「いいのか? こんなこと滋悟郎先生に知れたら……」
「だから内緒にしててよ。それにこれは必要な試合よ。誰も反対しないわ」
柔の気迫は物凄いものだ。ソウル五輪のテレシコワ戦の時のような怒りに満ちたものではなく、冷静さもその目にはあった。
対峙する柔と高田。背の高さだけでも20センチほど違いとても試合になるとは思えなかった。
佳恵は仲間の元へ戻る。
「本物の猪熊柔なのか?」
「うん。そうだった」
「五輪の金メダルの?」
「うん」
「国民栄誉賞だぞ」
「なんでこんなところにいるんだ?」
どこかしこから聞こえてきたざわめき。そしてテレビで見るよりも小さい柔。それに不安に思う西中生徒。
「礼!」
花園がそう言うと二人は礼をする。そして顔を上げて目が合う。高田は再びあの目に睨まれる。どう見ても高田が肉食動物で柔が草食動物なのに、当の高田は全くそうは思えなかった。
「はじめ!」
柔道をする者として高田も無知ではない。猪熊柔道を見ていた。だからこそ警戒する。むやみに飛び込んではいけない。だけどこんなに小さな女に投げられるなんてありえない。そう思った矢先に体が動いていた。
「だあ!!」
この時その場にいた誰もが息を飲んだ。柔の姿が消えたのだ。そう、まるで消えたように素早く高田の懐に潜り込んでそして気づけば高田は宙を舞っていた。まさに一瞬の出来事。
気づけば高田は畳に背を付け天井を見ていた。辛うじて受け身は取っていたようで意識はあったが、放心状態だった。
「高田先生、大丈夫ですか?」
花園の暑苦しい顔が視界に入り高田は我に返る。自力で起き上がると、柔は既に所定の位置に立っていた。
二人は礼をした。高田は未だに自分が立っているのかよくわからない。あの時、自分から技を仕掛けに行ったのに何もすることなく、何もさせてもらうことなくすべての勝敗は決していた。
「これでも女の方が弱いといいますか?」
柔は息一つ乱れていない。さっきと変わらない表情で高田に言う。
「それは……」
何も言えない高田。万全でないコンディションなのはお互い様だ。それでも高田はなす術なく負けた。完敗だ。
それ以上、柔は何も言わず再び倉庫に戻り着替えた。借りていた道着を佳恵に返すと柔は道場を出て行った。
「猪熊さん……」
富士子が不安そうにしていた。
「ごめんね、富士子さん。あたしどうしても我慢できなくて。今後の花園くんのこと考えたらこんなことするべきじゃなかったわ」
「ううん。ありがとう猪熊さん。あたし、すっきりした!」
富士子は高田の言葉を心を痛めながらも目を逸らさず聞いていた。苦しい辛い言葉が多かったけどそれを受け止めなきゃいけないと思っていたのだ。でも、それを見ていた柔は黙っていられなかった。富士子が出産後、柔道を始めたのは自分の為だから。それを富士子に言っても「それだけじゃないのよ」って言うだろうけどそれでもきっかけは柔だ。
「そろそろ行こうか」
歩き出す二人。そこに高田が走ってきた。
「待ってくれ!」
振り返る二人。
「すまなかった!」
高田は頭を下げた。
「差別発言は俺が全面的に悪い。それは認める。でも……」
拳を握る。顔は赤く汗が流れ落ちている。
「稲垣を追い詰めるほどの花園が五輪を目指さなかったことが、俺は勿体ないとしか思えない。俺の勝手な思いだけど、それだけの実力を持っていると今も思っている」
富士子の目は潤んでいた。そして高田に歩み寄った。
「あたしもそう思います。花園くんは強い。そう認めてくれる人が近くにいることが今素直にうれしいです。あたしの妊娠で花園くんの選手としての道は終わってしまったけど、今は五輪に出られるような選手を育てる事が夢だと言ってました。あたしはそれを全力で応援したいと思っています」
富士子は笑顔で高田に言った。その言葉に高田もこの夫婦の強い意志を感じだ。そして柔にも頭を下げた。
「数々の非礼、柔道家として本当に申し訳ない。猪熊さん」
「はい」
「あなたの強さは本物だった。世界の強さを身をもって感じた。女だからといって男に劣るということは決してないと痛感しました」
「本当はわかってらしたのでしょう」
「え?」
「沢井さんが勝った時、彼女が女子選手だとあなたは気づいていた。でもここで何も言わなければ東中の負けが決まり、それで試合は終了し大将の生徒のプライドを傷つけずにすんでいた。でも、生徒が女子選手だと発言したことで、かばわないといけなくなった。それがああいう発言に繋がったのだと思いました」
「買いかぶり過ぎです。例えそうだとしてもそれは俺から出た言葉。俺の心にあった言葉だ。生徒の前で人として最低なことを言った。それは事実だ」
「きっと生徒さんもわかってくれますよ」
柔の視線の先には心配そうに見つめる東中の生徒がいた。
「それでは失礼します」
柔と富士子はお辞儀をして戻って行った。
道場に戻る高田はまっすぐ佳恵の元に行き、謝罪した。佳恵は笑って許した。もう気は済んでいた。
そこに気まずそうに入ってきた佳恵の兄・恵一。
「あ、お前今頃何しに来たんだ!」
「腹痛が治まったから来たんだけどもう遅いよな?」
「当たり前だろう! 色々大変だったんだぞ」
「なあ、ところでさっきそこで猪熊柔に似た人を見たんだけど」
その場にいた人は顔を見合わせた。そしてニヤリと笑い声を揃えて言った。
「そっくりさんだよ」
「えー」
「ははっ、後でちゃんと教えてあげるから」
佳恵は笑って言うが、恵一は腑に落ちない顔をしていた。そして誰もがさっき見た奇跡のような試合を思い出す。本当の強さとはなんなのか見た気がした。
「花園先生!」
「なんだ!?」
「午後の部活は何時からですか?」
「午後は部活ないぞ」
「でも、やります」
「そうか!」
真夏の中学校で起こったこの出来事は、生徒たちの心に火を灯し忘れられない出来事となった。
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真夏のロサンゼルス
vol.1 LAで野球観戦
7月に思わぬ形でNYに行き、耕作との間にあった誤解やわだかまりを解消したばかりか初めて結ばれた日を柔は人生で最も幸福な日として記憶している。それは五輪で金メダルを取った時より、国民栄誉賞を貰った時よりも大切なことだった。
8月に入って仕事は忙しいがどういうわけか臨時の長期休暇を貰うことができた。羽衣に理由を聞くと「試合で土日が休めないことがあるだろう。その代わりなんだそうだよ」と納得できるような出来ないような答えが返ってきた。
何はともあれ、この休みを利用しない手はない。それにちょうど耕作の誕生日もかぶっている。柔は耕作に電話をしてトントン拍子に予定を組んで、旅行代理店の力を駆使して航空券を手配しあっという間に飛行機に乗った。
目的地はLA。耕作の仕事の都合でこの場所になったのだが、柔はどこでも構わないと思っていた。それに飛行機に乗っている時間はNYとそう変わらない。ただ空港はいつもと違うので戸惑いはあったが、英語を勉強してある程度会話も出来るようになっていたので最初にNYに行ったときよりもスムーズに入国できた。
荷物を取りゲートを出ると先に来ているはずの耕作の姿を探す。この空港も人が多い。様々な国籍で人種の人が入り乱れている。背の低い柔はどこへ行っても埋もれてしまう。
「柔さん!」
聞こえた声に胸が弾む。体の温度が上がる。真っ直ぐ手を伸ばすと、その手は温かく大きな手に包まれる。
「やっと見つけた」
「やっと会えた」
二人は照れたように笑うと、手を握ったまま歩き出した。そしてタクシーに乗ると真っ直ぐホテルへ向かう。とりあえず荷物はホテルに預けて身軽にしたい。
「せっかく来てくれたのに仕事でごめんな」
「そんな! あたしが急に来たんだからそんなの当たり前です。それに一度LAにも来てみたかったのでよかったです」
「そうか……」
「それでお仕事の間、あたしはどうしたらいいですか?」
「それなら考えてるよ。球場で野球を見るか、カフェかレストランで時間をつぶすか、ホテルにいるか」
「観光はしちゃダメなの?」
「LAのことは詳しくないからどこなら安心して観光できるか正直わからないんだ。だからできればあまり動かないで欲しいかな」
伺うように柔を見る耕作。あまり縛り付けるのはよくないが、アメリカはやはりまだ日本のように安全とは言えない。
「だったら野球が見たいわ。本場の野球なんてそう見る機会がないもの」
「そりゃいい! これも観光だしな」
30分程でホテルに到着し、すでに耕作がチェックインしていたので同じ部屋に荷物を運びこむ。今回は3泊するから荷物も多い。
「わーいい眺め」
窓からはLAの街並が一望できスタジアムも見える。NYとは違った陽気で明るい街が広がっていた。
「素敵なところですね」
「海の方もいい感じだぞ。まあ、そっちは明日行くとして。さあ、スタジアムに向かうぞ」
ホテルからは徒歩でスタジアムに行った。その大きさに柔は思わず目を見開き見上げる。試合までまだ1時間以上はあるが、すでに多くのファンの姿が見える。
「試合までまだあるけど、スタジアムには入れるんだ。選手が練習してるところとか見られるから、早くから行く人もいるんだ。チケット買ってくるから待ってて」
柔は道行く人々の会話に耳を澄ます。何となく何を言っているか分かるようになった。それがとてもうれしい。
「どうした?」
「いえ……たいしたことでは」
「そっか。じゃあこれチケット。いい席は売り切れたからそこそこの席だけど、迫力あると思うよ」
「ありがとうございます」
「ところで柔さん、野球のルール知ってる?」
「何言ってるんですか? あたしこれでもスポーツ選手ですよ」
「長嶋も知らなかったのに?」
「それはそうですけど、ホームランくらいは知ってます!」
「ホームラン? それ以外は?」
「さあ? でも大体わかりますよ」
不安はあったが記者席に連れて行くことは出来ないので一旦ここで別れた。柔はスタジアム内のショップで青いキャップを買い、それをかぶった。日差しが暑くて堪らなかったがこれで幾分か紛れた。喉も乾いたのでジュースとホットドックを買う。ホットドックはソースを自分でかけるタイプで柔はケチャップをたっぷり乗せた。
席についてジュースを飲みながらフィールド内の選手を見る。練習しているところが見れるというのは本当で、キャッチボールをしてる選手もいればストレッチしている選手もいる。その間に柔はホットドッグを平らげ周りを見る。なんだかとてもLAにいるという気がする。一人であることは寂しいが久しぶりにこんな青空の下で物を食べて解放感に包まれる。日本ではこんなことが出来なくなった。
暫くすると試合が始まり、周りの人の熱狂もすさまじくよくわからないが何度も見る内にルールを理解し、試合が終わる頃にはすっかり野球を楽しめるほどになっていた。
この日、ドジャースの勝利に終わったのはとても幸運だ。負けるとやはりファンの機嫌は悪くなる。わけもわからず喧嘩が始まることだってある。だが逆に勝つと上機嫌で誰彼かまわず話しかけたりすることもあるが、比較的安全にいられる。
耕作は仕事で来ているので試合が終わったからといって直ぐに帰るわけじゃない。スタジアムを出た柔は外で少し時間をつぶしていると、聞きなれた声だけど胸が少し跳ねる声が聞こえた。しかも至近距離だった。
「柔さん」
「どうしたんですか? そんな小声で」
「日本の記者がいる。そりゃいるんだけど、普段はあんまりいないから大丈夫かと思ってたけど見つかると面倒だから早めにホテルに戻ろう」
「ええ……」
柔は帽子を深くかぶり耕作について歩く。前で揺れる手を握りたくてでも、我慢した。
ホテルに着くと耕作は記事を書かなくてはいけないようで、申し訳なさそうにデスクに向かう。柔は邪魔をしないようにホテルの中を散歩したり、カフェでお茶したりした。
1時間程するとロビーに耕作の姿があり、フロントで会話をした後辺りを見渡した。ちょうど柔もその辺りにいたので二人はそのまま外に出て行った。
「大丈夫ですか?」
「仕事のことかい? それだったらもう終わったから」
「そうですか。だったら安心ですね」
一昨年、NYに行ったときには思いがけない仕事が入りゆっくり出来る時間がなかった。だけど今回は仕事は片付いたし、LAにいるので追加の仕事もないだろう。二人は久しぶりに楽しい時間を過ごせそうだった。
耕作はあらかじめ調べていた店に柔を招待し、夕食をとった。シーフードの専門店で気取らず普段着でも入れて味も最高。周りに日本人の姿もないので二人は気兼ねなく話をしていた。食事も終盤になり、耕作は明日のことを切り出す。
「明日は一緒に行って欲しいところがあるんだけど」
「もしかして、出版社ですか?」
「察しがいいね。ちょうどLAにいるし紹介したいからね」
「あたしも是非ご挨拶したいです。おじいちゃんとも縁があるようだし」
「そうだね。前の社長と滋悟郎さんは知り合いだったっていうのが驚くよな」
「話には聞いたことあったんですよ。新聞記者の知り合いがいていつも取材に来てたって。でも、とても信じられなくて。おじいちゃんの言うことなんで」
「滋悟郎さんってちょっとそういうところあるよな。話を大きくするって言うか」
「しすぎなんです。でも、今思えばその記者さんのことは後に誰でも知ってるあの人になったって言わなかったわ」
「どういうこと?」
「おじいちゃんの癖みたいなもので、自分と関わった人が実は誰でも知ってるあの人だったって付け加えることあるんですよ。川端康成とか貴の花とかベーブルースだったなんて」
「へーそりゃすごい」
「どこまで本当かわかりませんよ。話す相手によって変わってるんですから」
「じゃあ、逆に松平社長はちゃんと実在してたってことだね」
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vol.2 耕作の誕生日
「じゃあ、逆に松平社長はちゃんと実在してたってことだね」
「そうなりますね。あ、もう一人いました」
「誰だい?」
「デベソさん」
「デベソ?」
「はい……おじいちゃんの弟子になったって言うデベソさん」
「ああ……」
「心当たりでも?」
「少しね。ベルリン五輪のレスリングのアメリカ代表だろ」
「そうです。よく知ってましたね」
「滋悟郎さんから少々資料をお借りしたので、そこら辺は記録が残っててね」
「資料? 記録?」
「カネコさんの日記だよ」
「おばあちゃんの? 松田さん持ってるんですか?」
「本を書くときの参考にって滋悟郎さんが貸してくれてね。今度日本に帰る時に持っていくよ」
「あたしも見たかったな。おばあちゃんはあたしが生まれてすぐに亡くなってしまったから、どういう人かってあまり知らないの」
「そうだね。滋悟郎さんの許しがあれば見てみるといいよ」
柔は難しそうな顔をする。
「きっと無理ね。おじいちゃんはそう言うのあたしには見せないし」
「それじゃあ、仕方ないな」
「ズルいわ、松田さん。お母さんたちからも色々聞いたんでしょう?」
「取材だからね」
「でも、教えてくれないのよね?」
「そりゃ、口が軽い記者は信用できないだろう」
「そうだけど……」
「子供には恥ずかしくて話せないこともあるよ。第三者だから言えるっていうのはあるだろう?」
「ええ……じゃあ、松田さんは松田さんのご両親のことはあまり知らないんですか?」
「うちの親の事なんて知らないよ。興味もないし」
「そんなものですか?」
「そうだよ。うちは見合いだって言ってたからそれで終わり」
「お見合いですか。うちもお父さんを見てるとそんな気がしないでもないけど」
「どうだろうね」
「松田さん、やっぱりズルい」
むくれる柔が可愛くて耕作は思わず笑ってしまう。そして柔も顔が綻んで一緒に笑う。こんなに幸せなのが嘘みたい。でも、触れられる距離にいる。嘘じゃない。
「さあ、ホテルに戻ろうか」
「うん」
手を繋いでLAの夜を歩く。街がカラフルに色づき、夢の国のようだ。
耕作は突然、柔を自分の方へ引き寄せる。
「ま、松田さん!?」
「ちょっと気温が下がって来たから」
「そ、そうですね」
と言いつつも、柔の体は熱を帯びていた。きっと顔も赤い。耕作の大きくて暖かい手が腰にあるだけでドキドキが止まらない。
「少し酔ってる?」
「そうかな……そうかも」
うるんだ目で見つめる柔。ここにいること、耕作に触れていること、耳元で声が聞こえることすべてが夢みたいだった。ふわりと浮いたような気持が心地いい。
ホテルで抱き合う二人は夢に溶けるように交わる。体温も汗も吐息すらも視線と共に二人で一つになる。
浅い眠りから目覚め、隣で眠る耕作の姿が堪らなく愛おしい。うっすら生えた髭が見える距離。それだけなのに、胸が高鳴る。
「……起きたの?」
うすく目を開け耕作は柔を見た。眠そうに目を擦っている。
「うん。眠れなくて」
「時差ボケ?」
「ううん。幸せで落ち着かない」
「そう……だな」
耕作を上目づかいで見る柔の可愛さに耕作もドキリとする。柔はまだ色気よりも可愛さが勝る。だがそれが耕作にはたまらない。柔らかくて滑らかな肌が自分の肌に触れている。一般的な女性よりもたくましいのは仕方ないしそんなことを耕作は気にしたことも無いが、柔は耕作が触れるとどこか恥ずかしそうにする。それはただの恥じらいではなく、痣や擦り傷、筋肉の付いた体を見られて触れられることへの恥じらいだ。
「松田さん……」
「なんだい?」
「あ、間違えた。耕作さん……」
不意に呼ばれた名前に耕作の心臓がとてつもなく飛び跳ねた。
「い、いきなりなんだい?」
「お誕生日おめでとうございます」
「え? 誕生日?」
「そうですよ。日付が変わって今日は8月26日ですよ。だから一番におめでとうが言いたかったんです」
極上の笑顔を見せる柔に耕作は思わず抱きしめる。強く強く抱きしめると、柔が「苦し~」と言ったので腕を緩めた。
「ごめん、嬉しすぎて」
「あたしも喜んでもらえてうれしい」
耕作はそっと柔にキスする。
「プレゼント貰ってもいい?」
「今ですか? ちょっと待っ……」
言い終わる前に耕作は柔に深く口づける。そう言うことかと察した柔は耕作を受け入れる。息が荒くなる二人はまた夢のような時間を過ごす。
◇…*…★…*…◇
LAは1年のほとんどが晴れている。もちろんこの日も晴天で、窓の外は青い空が広がっていた。
「いいお天気ですよ」
朝から元気な柔はまるで子供のようだ。
「朝食は外で食べようか?」
「じゃあ、あたしご馳走しますよ」
「いや、悪いよ」
「今日はお誕生日ですよ」
「そうだけど……」
「任せてください! 調べて来てますから」
柔は上機嫌ではしゃいでいた。それだけで耕作は嬉しくなる。
二人は身支度を整えてホテルを出た。そんなに離れてない場所にあるカフェに向かう。ガイド本にも乗っているそのカフェはさすがに混んでいたが、10分程でテラス席へ案内された。
オシャレで綺麗な席に座っておすすめの朝食をオーダーする。柔の英語はばっちり通じていて耕作の出番はないようだった。久しぶりに気が抜けてぼんやり辺りを見ていた。まだそこまで気温が上がっていないので、夏だけど心地よかった。
「ん?」
注文が終って柔がホッと一息ついていると、耕作は何かを見つけて声を出した。
「ちょっとごめん。すぐ戻る。帽子深くかぶってろよ」
耕作は行きかう人々の方を真っ直ぐ見て、そう柔に言うとテラスから出て行った。
「え? ちょっと……」
何が何だかわからないけど、とにかく走って行ってしまった耕作を追いかけることが出来ずその場に留まった。言われた通り、昨日買ったキャップのつばを顔の方に下ろして俯いていた。
もしかしたら知り合いでもいたのかもしれない。声を掛けなきゃいけないほどの知り合いが、このLAにいるのだろうか。出版社の人だとしたら柔が顔を隠す必要などないし、この後会いに行く約束をしているから慌てて行く必要もない。
全く見当もつかないまま一人でテラスにいると、注文していた料理が運ばれてきた。野菜とローストビーフがたっぷり入ったサンドウィッチ。フレッシュジュースは生の果物と野菜を絞ったものでとても体にいい。でも、向かいの席は未だ空席。
「ごめん、何もなかった?」
突然、声が聞こえた。俯いていたからわからなかったが、耕作はもうすぐそこまで来ていたのだ。
「何もないけど、どうしてなのか教えて欲しいわ」
「ごめん、ごめん。あ、これ朝飯? うまそー」
「誤魔化さないでください」
「いや、そう言うわけじゃないんだけど。何て言うか、ずっと取材したいなって思ってた人がそこを歩いてたから、挨拶に行ってきた。俺の名前を憶えて貰いたかったから、ちょっと時間がかかった。すまない」
「そう言うことならいいんですけど……日本人ですか?」
「ああ。本当ならここにいる人じゃないから、相当驚いてたな」
「どういうことですか?」
「それはまた話せるときに話すよ。今は相手のこともあるから……」
「わかりました。じゃあ、食べましょう」
柔は笑顔で言った。
「え? ああ、いただきます」
今までならむくれてしばらくは機嫌が悪かったのだが、柔は特に不機嫌と言うわけでもなく美味しそうにサンドウィッチを食べている。
「どうしたんですか?」
「怒ってるかなって思って……」
「怒ってませんよ」
「そうか、だったらよかった。今度からは気をつけるよ」
柔はニコリと笑う。怒られるよりもなんか怖いと耕作は思った。
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vol.3 パイン・フラット社
約束は午前10時だった。少し観光をして二人は出版社「パイン・フラット社」に向かう。
リトル・トーキョーはパラレルワールドにある東京のような、不思議な感じがした。日本らしくしているがどこか違う。でも、それが面白い。
耕作は何度かこのオフィスに行っているの慣れた様子で階段を上ってドアを開けた。
「ハロー??」
中には待っていましたと言わんばかりに、シゲルが駆け寄ってきた。
「遅かったじゃないか?」
「早いくらいじゃないですか?」
「いやいや、ヤワラの本を出すのに本人に会うのがはじめてなのは遅いくらいさ」
「そういうことか。じゃあ、紹介します。彼女が猪熊柔さんです」
「初めまして、猪熊柔です。ごあいさつが遅くなり申し訳ありません」
ぺこりと頭を下げる柔の目の前に、大きな手が差し出される。柔はその手を握る。
「こちらこそ遠いところを来ていただいて恐縮です。私はシゲル・マツダイラ。さあ、こちらへどうぞ」
狭いオフィスの片隅にあるソファに柔は腰かける。他のスタッフもチラチラと落ち着かない様子だ。
「LAはいかがかな?」
「昼間は暑いですけど、日本に比べれば過ごしやすいですね。食事も美味しいですし」
「それはよかった。着いたのが昨日じゃあまり遊びにはいけてないだろうね」
「でも、野球も見ましたしビーチの方へも行きましたよ」
「泳いだのかい?」
シゲルは柔に問う。
「いえいえ、水着を持って来てないので浜辺を歩いただけですよ」
「水着くらい買ってやればいいじゃないか、コーサク」
「いや、本人が着ないって言ってるのを無理矢理着せるのはどうかと思うけど」
「本音を言ったらどうだ? 他の人に見せたくなかったって」
「な!!」
耕作はシゲルに全て見透かされているようでドキリとする。
「そ、そんなことはいいから仕事の話をしましょう」
「それもそうだな。それで、日本語版の方はどういう形で出版するんだ?」
「俺の勤め先である、日刊エヴリーから出すことで話はしています。ただ書籍の発売自体殆どしたことないからちょっと手間取って時間がかかりそうなんですよ」
「そうか。うちはアメリカ以外でも発売出来るしそのことで何か言うことはないけど、ヤワラはどう思ってるんだ?」
「あたしですか?」
「君の本だからね。今回、アメリカで出たこともどう思っているのかということは気になってはいたんだ」
「あたしが気にしていたのは、アメリカの人があたしのことなんか知りたいのかなってことです。本を出して全然売れなかったら申し訳ないですから」
シゲルは耕作を見てちょっと肩をすくめる。
「コーサクの言うとおりだね。ヤワラは自己評価がまるで低い。君がそこらへんにいる女性と同じだったらそんなこと言わないけど、君はヤワラ・イノクマだよ。オリンピックメダリストで日本で栄誉ある賞を貰った。みんな君に興味津々だよ」
「そうなんですね……」
やはりあまり自覚のない返事。柔は良くも悪くも周りを気にしない。自己中心的だと言う人もいれば、自分の意見を持っている人だと言う人もいる。
その後、オフィスにいたスタッフも混じりながら、1時間ほど談笑した。最初こそ、有名人といことで気を遣って話していたが、柔は気取ることもなく普通に話すのでみんなはそれにつられて仕事そっちのけで話してしまった。
「社長、そろそろお時間ですよ」
スタッフの一人が声を掛ける。
「あ、もうそんな時間か。すまない、次の予定があってね」
「YAWARA!」が出版されてからこの「パイン・フラット社」も忙しさを増している。とはいえ、出版物に関しては妥協したくないので著者とは必ず対面して原稿を読んでから決めている。それが信念だ。
「いえ、こちらこそ突然お邪魔してしまってすみません」
「何を言ってるんだ。こちらこそ無理言ってすまないと思ってるよ。ヤワラは忙しい身で渡米するのだって大変だろうに。そんな中、来てくれたんだ感謝しているよ」
「あたしもお会いしたいと思っていたので、このタイミングでごあいさつで来てよかったです」
「そうか?二人の時間を邪魔したんじゃないかな?」
シゲルは何もかも見透かしたような目で二人を見やる。柔と耕作は思わぬ言葉に動きが止まる。
「はははっ!バレバレなんだよ。そもそもコーサクの本を読んで誰もが疑っていた。それで二人一緒に来てその雰囲気でわからないわけないさ」
「そんなにわかりやすいですか?」
「まあな。私は普段のコーサクも知ってるから、その態度の違いなんかがよくわかる」
「こりゃ、気を付けないといけないですね」
「そうですね」
「秘密にするなら気を付けないとな。日本で本を出すときには発表するのかい?」
「そこまでは考えてないですけど……アメリカ版との違いを出すために何か考えなくてはいけないと思ってますよ。日本でもすでに知られている本ですから」
「そりゃ、いい。出来たら送ってくれよ」
「もちろん。じゃあ、そろそろ俺たちは失礼します」
耕作がそう言って立ち上がって挨拶すると、柔もそれに続き二人で外に出た。
お昼過ぎのLAはからっとした暑さで、誇りっぽい風が吹いていた。
「いい人たちでしたね」
「そうだろう。滋悟郎さんとの縁もあるし、NYから遠いけど運命的な出会いだと思ったよ」
「ところで、日本版の出版の際には何かやるんですか?」
「え? そうだな……それはまた考えるよ」
「そうですか。じゃあ、どこかでランチにしませんか?」
「ああ。この辺りだとなにがあるかな」
二人は歩き出した。その様子を、シゲルがオフィスの上から嬉しそうに眺めていた。
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暗躍する人々
vol.1 愛の証にふれて
LAで過ごした3日間は柔にとって夢にまで見た、耕作との甘い時間となった。初めてLAであることや自分の英語力が上がったことでより充実したのも確かだ。
日本に戻って来て夜の空港の外で残る暑さと湿気の多さに、現実に戻って来たという実感がわきため息をつく。楽しい時間を過ごしてきたからこそ、離れていることへの淋しさがまた募る。
タクシーを使って家に帰る。見慣れた大きな門も何だか懐かしい。
「ただいまー」
そう言って家に入ると、玉緒が出迎えてくれた。
「おかえり、柔。アメリカは楽しかった?」
「うん」
「松田さんは元気だった?」
「うん……」
「そう。疲れてるでしょうから先にお風呂にしたら?」
「そうだね。ありがとう」
柔は荷物を二階に運んで着替えを持って脱衣所に向かった。メイクを落として服を脱ぐ。
「あ……」
胸の辺りに赤い傷みたいなものがある。それを指でそっと触れる。それが傷でないことはわかっている。耕作からの愛の証。目立たないところに付けたのだろうけど、場所が場所だけに他の人に見られたら言い訳できない。
柔の目は少し潤んでいた。だが、自分の弱さを振り払うようにお風呂に入って顔を洗う。また耕作のいない日々を過ごさないといけない。それは仕方のないことだけど、今だけ少しだけ泣いていたい。
◇…*…★…*…◇
柔は日常に戻る。柔道をして仕事をして、柔道をする。たまに短大時代の友人と食事に行くこともあるし、雑誌の取材も受けることがあった。それでもどうも耕作がいない日々は色がないように思えて仕方ない。
「LAはどうでした?」
英会話スクールのパトリックに聞かれ、柔が思い出すのは耕作との日々。でもそれを言うことはできないので、食べた物や行った場所を話した。
「現地の人と話すことも出来ました」
「自信につながったんじゃないかな。実際、ヤワラの英語力は上がっているよ」
「ありがとう」
「ところで今日は、ハゴロモさんは?」
「課長は仕事が残っているとかで、今日は休むと言ってました」
「そうか。彼はもう少しレッスンが必要かもな」
羽衣は柔の付き添いみたいなものなので、英語力は一向に上達しない。それでも通い続けているので少し話すことはできるようになった。そんな羽衣が柔と一緒にレッスンを受けなかったのは過去に一度だけ。柔がレッスンの日を変えた時だけだ。だから予約を入れている日に急に休むというのは仕事で何かあったということだ。だが、柔には関係ないのか帰り際にトラブルなどの話は聞いていない。
レッスンを終えて外に出ると、真夏の熱気のせいで汗が噴き出る。だけど駅に向かって小走りをする。どこで誰が見ているかわからない。LAに行ったときも散々、耕作やシゲルに周りに気を付けるようにと言われた。強いことを過信してはいけない。柔は女性なのだと念を押された。
自分が女であることを忘れたことはないが、誰かに絡まれても何とかなると思っているのは確かだ。でも、フェアなことをしない輩もいることを忘れないようにと耕作に言われた。その目があまりに真剣だったから、日本に帰って来てから何かと周りを気にする癖がついた。
だから家に帰るとホッとして疲れがどっとでる。それなのに稽古だのなんだと滋悟郎がうるさいのがちょっと憂鬱なのだ。
「あれ? おじいちゃんは?」
それでも滋悟郎がいないことは気になる。玉緒に聞くと「源さんのところじゃないかしら?」とあっさり返事。いつもの事なので気にしないが、時間も時間なので少し心配になる。
「大丈夫よ。町内会のお祭りの事だから」
「そう言えば、そろそろよね」
「明後日よ。お仕事、休みなら行ってみたら?」
「あたしはいいわ。人が多い場所は行かないようにしているし」
「そうね。それがいいわね。なんか不便ね」
「だからあんな大きな賞は困っちゃうのよ」
「それだけじゃないでしょ。でも、柔はいつまでたっても柔よね」
「何それ? あたし以外の何になるって言うのよ」
「そのままでいなさいってことよ。さあ、夕飯にしましょう」
柔は二階に上がって着替えていると、耕作との写真が目に入る。LAで撮った写真は二人ともいい笑顔で写っている。LAから帰って来てから何だか、周りの様子が、特に会社関係がおかしい気がする。というか、もっと前からおかしかったのだが顕著になったような気がするのだ。
その理由がわかったのは9月に入って直ぐの事だった。柔は柔道部の稽古の前に羽衣に呼び出された。普段の仕事の指示だったらその場で口頭で言うところなのだが、会議室で周りに聞かれないように配慮して話すときは、ちょっと面倒なことが多い。錦森との対談やレオナルドとの見合いなど。
「実はね、レオナルド社長との契約が上手くいってね」
「そうだったんですか! じゃあ、テンプルトン・ホテルに優先的に予約できるということですね?」
「そうなんだ。だからそれに伴ってNY支店をリニューアルすることになってね」
「そうなんですね」
「それで、その手伝いに行って欲しいと思ってるんだ」
相変わらず遠慮気味に話す羽衣。柔は何を言っているのかわからない。
「誰が行くんですか?」
「猪熊くんだよ」
「え? あたしですか?」
「ああ。テンプルトン・ホテルとの縁を繋いだのは君だし、英語も上達してると聞いた。適任だと思うんだが」
「いえいえ、あたしなんか何の役にも立たないですよ。それに他にもっと社員はいるじゃないですか?」
「上層部とも話して決まったことだよ」
「決まったって……あたしは柔道がありますし。祖父が何て言うか」
「それなら話はしてある。名誉顧問も賛成してくれたよ」
「まさか!」
思わず口に出た言葉。でも、真実だ。
「祖父が、そんなこと許すわけありません。長期間日本を離れて柔道も満足に出来ない環境にあたしを置くことなんて考えられません」
「もちろん、柔道のことは考えている。レオナルド社長の妹さんが柔道をやっているそうじゃないか。彼女と一緒に稽古をすることを名誉顧問は提案しているよ。まあ、先方さえよければだけど」
柔は納得いっていなかった。もちろんNYに長期滞在できることになれば、こんな嬉しいことはない。だけど滋悟郎の思惑がわからない今、両手を振って喜ぶわけにはいかない。
「それは正式な辞令ですか?」
「いや、まだ内密なもので、こういう話もあるって程度なんだ」
「そうですか……一旦、祖父と話してみます。何か裏があるといけないんで」
「……名誉顧問は優しい人だよ」
ぼそりと羽衣は言う。
「え?」
「いや……話し合ってみるのもいいだろう。行くのは猪熊くんなんだから」
「はい……」
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vol.2 柔道と仕事と結婚と
家に帰ると滋悟郎は居間に座ってテレビを見ていた。まだ食事の時間には早いので、柔はここで話そうと決めた。
「おじいちゃん。今日、会社であたしがNY支店の手伝いに行くことを了承したって聞いたけど」
「何か不満でもあるのか」
「不満って……長期間日本を離れておじいちゃんもいないのよ」
「それがなんじゃ」
「柔道はどうするのよ」
「アメリカでよい場所を見つけておる」
「よい場所?」
「この前、試合したあの道場ぢゃ」
「あそこは、道場って言うかアリシアさんの家で……」
「何を言っておる。だからあの優男に許しを得たわけぢゃ」
「レオナルド社長に?」
「そうぢゃ。あの嬢ちゃんとお前と一緒に稽古すればよかろう。あの嬢ちゃんにも指導者がいるようぢゃし教えてもらえばお前も勉強になるぢゃろう」
滋悟郎の言っていることはわかる。でも、柔を他の誰かに預けて、自分の目の届かない場所に行かせることが不自然でならない。なんでも首を突っ込んで何でも自分の思い通りにするのが滋悟郎なのだ。
煩わしいと思うことは幾度となくあったけど、突き放されると淋しい。滋悟郎は話は終わったと言うようにテレビに向き直り晩酌を楽しんでいる。柔はとぼとぼと台所へ行くと玉緒に相談した。滋悟郎の様子がおかしいことに対して共感してくれると思った。だけど。
「いい機会じゃない、NY行ってきなさいよ」
「お母さんまで!?」
「何? 行きたくないの?」
「そう言うわけじゃないけど。おじいちゃんがこんなにあっさりあたしをNYに行かせることを承諾するなんておかしいじゃない。それにあたしは柔道部が出来てからは、旅行業の仕事はあまりしてないし多分職場の人もそれでいいと思ってると思うの。柔道をやっていればいいって」
「柔はそれでいいの?」
「え?」
「柔道するために就職したんじゃないでしょ。仕事をしたくて就職して、覚えることが多くて大変って言いながら楽しそうに仕事に行ってたじゃない。柔道も一段落ついたし、おじいちゃんも柔の将来を考えてそういう決断をしたんじゃないかしら」
「おじいちゃんが……」
二階に上がってストンとベッドに座って、柔はふと思う。自分の将来のこと。就職してからは学生の時のように将来を考えなくなった。結婚はしたいし、相手は一人しか考えられないけどそれはまだ先のこと。そうじゃない、一番考えなきゃいけない未来がある。
柔道を辞めた後のこと。
藤堂が言っていたことがる。「あんたみたいに就職でもしていれば」と漏らしていた。柔道しかしてなかったからこそ、世界に通用する選手になれるのだが選手生命はそんなに長くない。でも、決定的に柔道以外の経験値が少ないのだ。その点で言えば柔は仕事もして柔道以外の居場所を得ている。それは強みになる。
漠然と柔道を辞めたらそのまま鶴亀トラベルでOLしながら、柔道部の指導をしていつか耕作のお嫁さんになれればいいなんて思っていた。そしていつか子供を産んで普通のお母さんになる。そんな風にぼんやりとは将来を考えていた。でも、そこには夢とか理想が多く含まれていた。なぜなら、結婚という重要な出来事は柔だけで出来る事ではないし、今の段階でそれは難しい。耕作がNYにいてそばにいられないのに結婚はどこか違和感がある。
だったら仕事をしていた方が社会人としての経験値は増やせる。だがその代り柔道が疎かになるかもしれない。国民栄誉賞と言う大きな賞を貰ってから成績が悪くなっては多くの人に対して申し訳ない。
柔は結局、結論が出せなかったので耕作に相談してから決めようと思った。NYで暮すようになったらきっと何かと頼ってしまう。そうしないようにはしたいが、そこまで柔は強くない。
夕食後、タイミングよく耕作から電話があった。滋悟郎は自室にこもっているので柔は玄関前の電話のそばに座って話しはじめた。
「松田さん、相談があるんですが」
「あらたまってどうしたの?」
「あの、仕事でNYに行かないかと言われてまして」
「いいじゃないか、出張ってこと?」
「いえ、NY支社の手伝いで数ヶ月はいることになりそうなんです」
「ええ! 滋悟郎さんはなんて?」
「行けばいいって。柔道もNYでアリシアさんと一緒に稽古したらいいじゃないかって」
「つまり賛成していると?」
「ええ。あのおじいちゃんがそんなこと許すなんて。しかもあたしが相談に行く前に、すでに会社に許可を出してたみたいなの。何か裏があるんじゃないかと思って……」
この言葉に耕作はとあることが頭をよぎる。もしそれが当たっているのなら柔は出来るだけ早くNYに来るべきだと察した。
「松田さん?」
「あ、ごめん。アリシアも絡んでるならちょっと事情を聞いてみるよ。どういう風に話しが来たのかって。それ次第ではまた結論も変わるだろうし」
「そうですね。よろしくお願いします」
「ああ。ところで最近、調子はどう?」
「普通ですよ?」
「そっか。じゃあ、また電話するよ」
「はい。じゃあ、お仕事頑張ってください」
「ありがとう。柔さんはおやすみだな」
「はい。おやすみなさい」
時差の関係で活動時間の差があるが、それもそれで面白い。まったく合わない時間と言うわけでもないのが救いだ。
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vol.3 レオナルド・ダヴィド
NYの夕方。仕事を終えた耕作は「スパイス・ガーデン」へ向かった。待ち合わせなどしなくても友人や気の合う常連客の誰かがいる場所。モーリス、デイビット、イーサン、そしてカメラマンのジェシーは特に仲がいいが、この4人がいなくても耕作はここでなら楽しく食事ができる。そういう大切な場所だ。
でも、今日はその場所で一人友人を失うかもしれないと思っていた。ここでは基本的に相手のことを詮索しないことになっている。それが普通なのかもしれないが、デイビットとイーサンはどんな仕事をしているのか具体的には知らない。人種や宗教が入り混じるこのNYという場所で、個人を詮索する行為はナンセンスだ。そう思ってたから何も聞かないし、聞くつもりもなかった。でも、どうしても聞かなきゃいけないことがある。
オープンしたばかりの店のドアはいつものように開くが、少しだけ重く感じる。カウンターにいたマスターが笑顔で迎えてくれた。店内にはまだ客はいない。耕作はビールを持っていつもの奥の席に行く。
「こんな時間に珍しいな」
「ちょっと用事があってね」
「そうか。ゆっくりして行けよ」
音楽は流れているが、人の話し声がない店内では普段はこんな風にカウンターと奥の席とで話など出来ない。それくらいいつもは賑やかなのだ。
時間が経つごとに、一人二人と店に入ってくる。耕作を見かけては声をかけるが、別の席に行ったり、カウンターで一人で飲んだりと思い思いの時間を過ごす。30分程して、木製のドアがまた開いた。無造作な髪の毛にゆったりとした服を着た男が入ってきた。マスターは直ぐに彼に声を掛けて耕作を指さした。男は、耕作を見ると苦笑いを浮かべた。
「今日は早いな」
「デイビットもな。って言うかいつもこんな時間なのか?」
「いや、たまたまさ」
「そうか……俺はてっきり避けられてるのかと思ったよ」
デイビットの長いカールがかかった前髪の奥の目が驚いていた。そして呟く。
「そんなつもりはないさ」
「そうか?レオナルド・ダヴィド」
お互いに視線をぶつける。時が止まったように、にらみ合うように。
「ははっ、やっぱり気づいてたんだ。さすがだな」
「ここではお互いを詮索しないことが暗黙のルールだと思っていた。でも、調べるのはいいのか?」
「いや、友人としてしてはいけないことだったよ」
デイビットは髪を掻き上げて顔を見せた。それはついこの前、クラーク邸で柔とアリシアの試合を見たときに柔の隣にいた「レオナルド・ダヴィト」その人だった。
「どうして、こんなことを?」
「それはここにいること?それともヤワラと接触したこと?」
「全部だよ。俺と関わること全部知りたい。俺には聞く権利があるだろう」
「そうだな。コーサクの言うとおりだな」
薄暗い店内においてもデイビットの美しい容姿は耕作の目に輝いて見えた。そんな彼が俯き、長いまつ毛が揺れるたび耕作は失望させないで欲しいと願っていた。
デイビットがここへ来るのは純粋に息抜きだと言った。俳優でもなく社長でもなく兄でもない場所が欲しかった。だれも自分を何者か気にしないのに、数日顔を見せないと心配するようなそんな仲間や場所が欲しかった。そして見つけたのが「スパイス・ガーデン」だった。
最初に仲良くなったのは警官のモーリスだった。黒人への差別がまだ残るアメリカで彼はとても明るく前向きだった。どんなことを言われてもされても、NYで生まれ育ったんだからこの街を嫌いになれないだろうと笑った。そして映画の舞台になったタイムズスクエアの路地を自主的にパトロールしていると聞いて、デイビットはモーリスを尊敬しいつの間にか一緒に飲むようになった。
その後、イーサンとも出会い素性が全く分からないが話の面白い奴だとあっという間に仲良くなった。
他にも数名、話の合う奴や一緒にいると落ち着く奴など多くの仲間が出来た。ここはまるで魔法の国のような、デイビットがデイビットでいられる場所になったのだ。
「俺の素性を知っている人はきっと他のもいるさ。でも、誰もそれを言わないし、きっと店の外のことなど興味もないんだ」
仕事のことや家庭のことを話したければ話すし、話したくなければ別の話題で盛り上がる。それだけで、楽しいのだ。
デイビットは親から受け継いだホテル業は順調で、トラブルもなかった。ただプライベートでは妹のアリシアのことが気がかりだった。柔道が好きで日々トレーニングに明け暮れているのに、試合には出たがらない。己の技と心を磨くことだけに専念すると言うが試合に出ない理由も明らかでそれはトラウマと言ってもいい。兄として、妹の将来を考えどうにかしたいと思うようになった。
そんな時に出会ったのが耕作だった。デイビットは天の導きのように感じた。日本のスポーツ新聞の記者ということで、柔とも繋がりがあるだろうとは思っていた。会話の中から何か手がかりでもと思っていたが耕作は柔のことを話すことはなかった。しかし、モーリスと耕作の会話の中で一度だけ「ヤワラ」という言葉が出てデイビットは接点があると確信した。
素性を調査する会社に耕作のことを調べさせた。そしてデイビットは想像以上の二人の関係に驚き、そして戸惑った。日本では柔と耕作が恋人同士ではないかという疑いがあったが、すぐに双方が否定し沈静化している。その後、耕作が渡米したこともありそのことに触れるマスコミもいなくなった。日本での関係者への粘り強い取材でも、二人の関係をそれ以上知ることができずにいたのだが、思わぬところそれがわかった。
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vol.4 真相
1992年のクリスマスに柔を目撃した人がNYにいた。
まず空港関係者、そしてリバティ島への船の乗務員。そして柔のそばに耕作の姿もあったことが分かった。それにより二人が交際していると確信した。
それがわかったところで、デイビットは耕作にどう話を切り出そうか悩んでいた。アリシアのことを正直に言えば、自分の素性が知られる。
そんな時、NYの貿易センタービルでテロがありデイビットも偶然近くにいたために巻き込まれ怪我をした。この日は、社長として外出していたのではなかったので、秘書や運転手などもいなかった。
何の予兆もなく、突然の爆音に耳が聞こえなくなった。視界は灰色に変わり自分がいる場所もわからなくなった。しばらくすると悲鳴が聞こえ、サイレンも近付いてきた。状況は何となく察した。生きていることもわかった。でも、怖かった。このまま死ぬかもしれないと思った。そう思ったら、やり残したことが目の裏にどんどん浮かんでくる。
そうしてるうちに意識が途絶え、気づいたときには病院にいた。目を開くと目の前に耕作がいて涙が出そうになった。まだ知り合って2ヶ月ほどしか経っていないのに、家族よりも先に駆け付けそばにいてくれる。そんな友人が他にいるのか。
それなのに、誘導した。耕作が探している「ロイド」を追えば必然的に「アリシア」に辿り着くことは分かっていた。そもそもロイドと出会うきっかけの柔道大会はジェシーが持っていたファイルから落ちた写真がきっかけだった。
「あれは僕がジェシーに渡しておいた写真なんだ。コーサクのカメラマンになるなら柔道の写真の一枚でも持っていた方がいいって。だからあれはジェシーの写真じゃなくて、僕の写真なんだ」
「どうりで古い写真だと思った。一瞬だったけど写っていた女性は、最近会ったラスティより若かったし」
「ジェシーはこの件には無関係だよ。ただ、写真を貸しただけ。でも、みんなの前で見せないでくれと言っていたのに写真が落ちて、僕はそれを隠すよりも利用した方がいいと思ったんだ」
「何となくわかるよ」
柔道着を着たアメリカ人の集合写真を見たら耕作がアメリカの柔道に興味を持つのは明白だった。そして間近の柔道大会に行ってグレンに目を付けることは予想で来ていたから、ロイドまで興味を持つことは計算内だった。ただ、NYでの情報網があまりない日本人の耕作にとって柔道家を探すのは容易ではないはずだから、頃合いを見てデイビットはロイドの情報を渡すつもりでいた。しかしロイドが勤務する病院に入院したことであまり不自然にならずに情報提供できた。
ロイドを探してアリシアに辿り着くまで、そこまで時間はかからなかった。グレンがあらかじめ耕作にアリシアのことを匂わせていたからだ。
デイビットは一縷の希望を抱いていた。耕作との出会いでアリシアの心境に変化が生まれ、試合に出場してみる気にならないかというものだ。
アリシアの心には明らかな変化が生まれていた。柔道を語り合える友人は今まで皆無に近く、柔道をやっていることすら友人たちは知らないだろう。だから耕作と過ごす僅かな時間がアリシアにとってとても楽しいものになっていた。でもそれだけだった。
デイビットは時折実家に帰ってはアリシアと話をした。耕作の話は出たが、柔道の話をする日本人に出会ったと言う程度だった。
しかし、ハミルトンで行われた世界選手権をテレビで見ていたアリシアは明らかに今までと違っていた。
耕作から耳にタコが出来るほど聞いていた柔の試合は圧巻だった。他者を寄せ付けないほどの王者の強さ。その強さにアリシアは震えていた。怖さじゃない。試合をしてみたいと言う純粋な思いだ。それを押し殺して、押し殺してまだ溢れる思いが震えとして出てしまっているのだ。
デイビットは兄としてどうにかしたいと思った。妹を助けたいと思った。
できれば耕作には知られずにアリシアと柔を試合させたかった。自分の本来の立場を使えば出来なくもないことだ。ただ、アリシアを日本に連れて行く理由も、柔をNYに招く理由もなく、しかも柔がNYに来たら必ず耕作に声がかかるだろう。そうなれば自分の正体が知られてしまう。すべてが明るみになり、友情も信用も失うかもしれなかった。
どこまでも自分のわがままを通そうとするあまり、全くいい手だてが思い浮かばないまま数ヶ月。耕作と柔の関係に溝が出来始めた。
これは好機だと思った。
「そんな風に思った途端、僕は自分に失望した。友人が真剣に悩んで苦しんでいるのに、僕はそれを利用しようとしたんだ」
「でも、俺たちのことも考えてくれたんだろう?わざと写真に撮られて記事にしたり」
「それもコーサクを傷つけることは分かっていたけど、それくらいしないと君は動かないようなきがしたから」
「よくわかってるな……」
「ごめん」
「野波とはどういう知り合いなんだ?」
「ラスティのところで知り合ったんだ。僕も実は柔道を昔やっていて、ラスティに教えて貰っていた。その縁で時々遊びに行ってたんだ。そこでジョージ……君にはノナミと言った方がわかるか。その彼とも知り合った。彼はラスティを実の母のように慕っていた」
「母親は健在だろう?」
「そうなんだけど、仕事で家をあけることが多くてノナミはあまり母親と過ごす時間がなかったらしい」
「だからあんなにラスティに固執してたのか」
「ああ。ノナミは日本の大学に通っていたんだけど、日本人がラスティのことを知らないことにとても憤りを感じていたんだ。女子柔道をここまで成長させたのはラスティなのに、日本人はそれを自分たちの功績のように思っていると」
「野波は柔さんとラスティを会わせたいと思っていたようなんだ。それも計画の一部だったのかい?」
「そうさ。僕はノナミに連絡を取って、ヤワラとディナーに行くことを伝えてその場面を写真に撮るように仕向けた。本当なら新聞に載る予定ではなかったんだけど、ケンは他の記者につけられていることに気付かなかったと言ってた」
「だからスポーツ東京に載ったわけか」
「すまないと思ってる。あれは完全にこちらのミスだ。写真だけをFAXで君に見せるつもりだったんだ。試合を見に来ることまでは想定していたけど、ノナミの計画を遂行するにはヤワラをフリーにしてラスティに会わせなきゃいけなかったんだ。でも予定外に記事になり余計に混乱させてヤワラも傷つけた」
「確かにあれはまいったよ。かなりショックだった。それに一度は背を向けたんだ。試合後に顔を見せずに帰った。でも、君は俺に伝言を残した。正体を知られる可能性が高くなるのにあんなことをしたのは、罪滅ぼしか?」
「そうかもしれない。コーサクが悩んでいたのも知ってたし、二人は離れるべきではないとも思ったから。それに見ていられなくて、二人とも思い合っててすれ違って」
「そうか……じゃあ、もう借りは無しってことでいいよな」
「借り?」
「ああ、ロイドの情報をくれた時、これは貸しだって言っただろう」
「そんなことも言ったな。そんな資格もないのに」
「いいさ。これでまた元通りさ」
「コーサク?」
「俺たちもアリシアのことも上手くいった。誰も不幸になってない。それどころか日本で柔さんの置かれている状況もわかった。俺にとってマイナスなことはなかったよ」
「そう言ってもらえると気が楽だよ」
「それで、あらためて聞きたいことがる」
「なんだい?」
「柔さんがNYに転勤してくるらしいが、これは何か意図があるのか?」
デイビットは笑った。
「わかってて聞いてるんだろう?」
耕作も笑う。
「ああ、一応な。滋悟郎さんと話がついてるのは本当か?」
「もちろんさ。柔道が出来る環境かどうかを見定めにはるばる日本から来たんだから」
「あの時からもう計画が?」
「ああ。僕はヤワラの周辺を調べていたんだよ。危険な影がヤワラに近づいていることは、わかっていた。それにジゴローも気づいていた。でも、真正面から来ない相手にジゴローは対処のしようがなかったようだ。そんな時に、ちょっとうちの道場のことを話したら、乗ってくれた。さらにツルカメの社長と社員を交えて、ヤワラを日本から離れさせようという流れになった。僕はアリシアとヤワラの試合を望み、ジゴローは安全にトレーニングができる場所。そしてツルカメはヤワラの身の安全を考えた。そもそもあの男とヤワラを繋げたのは会社なのだろう。それなりの責任はあるだろう。そしてNYならコーサクもいる。ヤワラが拒否する理由はどこにもない」
「それもそうだが。柔さんは疑っててな」
「疑う?」
「これまで滋悟郎さんに騙されてきたからな。何か裏があるんじゃないかって思ってるんだ」
「それは気の毒としか言えないね。説得するのは得意だろう?腕の見せどころじゃないか?」
「簡単に言ってくれるなよ。柔さんはああ見えてかなり頑固なんだぞ」
「そんなところが可愛いんだろう?」
耕作は顔を赤らめて、そっぽを向いた。その姿にデイビットが笑っていると、イーサンが店に入って来て、「何の話?」なんて言うからデイビットは「さあ?」ととぼけた。
耕作はカウンターにビールを取りに行って一息つく。
「話は出来たのか?」
マスターが言うと耕作は嬉しそうに言った。
「ああ、心配かけたな」
「そんなことにないさ」
ビールを受け取ると、イーサンがまたやかましく何か言っている。それすら楽しく感じる。
「なんの話?」
「イーサンがふられた話」
「あー」
「なんだその憐れみの目は!自分は幸せだからって」
「否定はしないが……」
「なにー!!」
今夜もまた楽しい時間が始まる。人種も国籍も性別も宗教も思想も仕事も何もかも違うけど、ただ楽しいからいる。それだけでいい。
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vol.5 ブルックリンへ
10月のNYは朝と昼の寒暖差があり、重ね着などして調節しないと風邪をひきそうだと耕作は言うが、柔は産まれてこの方、風邪を引いたことがないからわからない。ただ、朝と夜は肌寒く耕作に貰ったストールを巻いて過ごしていた。
柔は1週間前にNYに来た。突然の転勤にバタバタと荷造りをして、会社が用意したアパートに送って様々な手続きをしてよくわからないままNYに降り立った。
会社から転勤に関してあまり口外しない方がいいと言われ、それには柔も余計な詮索などされたら面倒なので了承した。
連絡先を教えたのは友人では富士子だけだった。そんなに長くいるわけじゃないし、他の友人たちに教えたところで連絡を取るわけじゃないなら教えない方がいいかもと思ったのだ。それに用事があれば家にかけるだろうから、その時には玉緒の方から説明があるだろう。
柔道関係に柔は全く関知してないので、日本にいる滋悟郎に任せている。
邦子には耕作の方から情報が伝わっているようだったが、柔から電話をして知らせた。それでも声を上げて喜んでいた。それに柔はどんな反応していいかわからなかった。
支店での仕事は覚えることが多く、手伝いというには想像よりも大変だった。でもそれくらいの方がやりがいもある。耕作の本のお陰で柔のことを知っている人も多く、現地スタッフの柔道への理解も得ていたが、柔は仕事の方が楽しかった。
しかし柔道も仕事の内なので、滋悟郎から言われているメニューをアリシアと一緒に行った。柔にとってはいつものメニューだが、アリシアは付いてくることも出来ずにヘロヘロになっていた。
「全然慣れないわ。ヤワラはいつからこのトレーニングを?」
「子供の頃からだけど?」
アリシアは絶句する。
「ヤワラの強さの秘密がわかったわ」
それでも日本でのメニューの半分程度しかしていない。それに大きな大会の前になるともっと別のメニューが増える。それはアリシアには黙っていた。
「ところで、コーサクには会ってるの?」
休憩時間に水分補給をしていると、アリシアが不安そうに問い掛けた。
「実は会えてなくて」
「信じられない!こっちに来てもう1週間じゃない?」
「うん。でも、松田さんも忙しいみたいだし」
「それもそうかもしれないけど、せっかく会える距離にいるのに何のつもりかしら?」
柔は困ったように笑う。耕作は取材でアメリカ中を飛び回っている。電話はしてくれるが、なかなかNYに戻って来れないし戻って来ても深夜だったりして会いに行けない。柔はそのことを理解していたのでアリシアが思うほど怒ったりはしていない。日本にいる時に比べれば、近いのだから。
「でもね、明後日に会う約束をしてるの」
「そうなの?じゃあ、まあいいわ。どこへ行くの?なんならいい店教えるわよ」
「ちょっと会いたい人がいて」
「コーサクじゃなくて?」
「うん。アリシアはよく知ってると思うけど。ラスティさんに」
「ラスティって?ラスティ・カノギ?」
「うん。松田さんから話を聞いて会ってお話したいと思って。そしたら松田さんが会わせてくれるって言うから」
「そっか。ラスティは素敵な人よ。強いの。柔道も精神も。そして優しくて大きな人であたしの師匠」
「そうなの!?楽しみだわ」
柔は立ち上がると帯を締めなおす。
「さあ、休憩はここまで!次行きましょう」
「はい!」
柔はアリシアに稽古をつけているみたいだった。今後、自分の前に立ちはだかる強敵になるかもしれないのに、柔は楽しんでいた。
◇…*…★…*…◇
2日後、耕作は初めて柔の住むアパートにやって来た。鶴亀トラベルが借りているアパートは耕作のアパートよりも綺麗だが少し手狭だ。セキュリティは万全でオートロックで簡単には入れない。
「お待たせしました」
ちょっとおしゃれをした柔がアパートの玄関から出てきた。いつもと違うシチュエーションで二人は何となく照れ笑いを浮かべる。
「じゃあ、行こうか」
耕作は会社のボロイ車で来ていて、それに乗ってブルックリンにあるレストランへ向かった。久しぶりに耕作の横に座る。前にこの車に乗った時よりも、緊張している気がした。
「柔さん?」
「は、はい」
「どうした? 緊張してるのか?」
「え、ええ」
「怖い人じゃないから大丈夫だよ。それよりも、先に言っておきたいことがあるんだ」
「なんですか?」
「今回、ラスティと会って話すことを本に入れようと思うんだ」
「日本版のですか?」
「ああ。ラスティのことを知らない日本人は多いから。それは君のことを知らなかったアメリカ人に君のことを教えるために本を書いたのと同じように、ラスティのことを日本人にも知って貰いたいと思ったんだ。急で悪いんだけど……」
「構いませんよ。ラスティさんが許可してくれるならそれでいいですよ」
「それならもう話はしてあるんだ。柔さんと同じことを言ってたよ」
「そうですか。じゃあ、変なこと言わないようにしますね」
「なんだよ、変なことって?」
柔はクスクス笑う。車はアリシアの家とは別の方角に進み、レンガ造りの建物が並び映画の中で見るような昔のアメリカと言った風情の街に出た。可愛いアパートや庭に柔は目を奪われていた。小さな店も点在し歩いて回ったら楽しいだろうなと思っていた。
対談場所のレストランは古くからブルックリンにある店のようで、建物もドアも歴史を感じた。中に入るとチーズのいい匂いがして、テーブルにいた客が美味しそうにピザを食べていた。
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vol.6 ラスティの過去
NYは移民が多い街でイタリアからの移民も多く、本格的なピザも手軽に食べられる。
耕作は店員に話しかけると、奥へ行くように促されそちらに向かう。ちょうど壁で仕切られた向こう側にテーブルがあり、二人の男女が腰かけていた。二人とも60歳ほどだがとてもそうは見えないほど、若々しい。
「お待たせしてすみません」
耕作がそう言うと、二人はにこやかに言った。
「時間通りだよ」
「紹介しますね。こちら……」
「コーサク、紹介はいいわ。有名人ですもの。はじめまして、ヤワラ。あたしはラスティ・カノギよ。会えて光栄だわ」
立ち上がり右手を差し出すラスティ。ここにいる誰より背が高く大きな体をしている。だけど、笑顔からあふれ出る優しい空気に緊張していた柔の顔は綻んだ。
「はじめまして、猪熊柔です。こちらこそ、会えて光栄です」
握手を交わす二人。そしてもう一人、傍にいた小柄な男性。
「こんにちは、俺はラスティの夫の鹿乃木量助。今日はよろしく」
「日本語? 日本の方ですか?」
「まあね。意外かい?」
「はい……」
「そうだろうね。俺も不思議さ。まさか自分が日本からはるばるアメリカに来て、アメリカ人と結婚するんだから。でも、出会ってしまったんだから仕方ないよ。ラスティが柔道と出会ったのと同じさ」
日本語のわからないラスティは微笑んでいたが、話を止めた。
「長い話になるから先に注文しましょう。お店の人が待ってるわ」
ラスティに促されてメニューを見る柔と耕作。そして看板メニューのピザなどを注文した。
「料理が来る前に写真いいですか?」
耕作がそう言うと、ラスティと柔は承諾しツーショットの写真を撮った。
二人並ぶとその体格差がまた明らかになる。でも、この二人が女子柔道界を変えた伝説と言ってもいい。耕作は抑えきれない興奮を覚えた。
◇…*…★…*…◇
「私の両親は移民でとても貧しい暮らしをしていたの」
そう話しはじめたラスティは昔を思い出すように目を細めた。その目は美しい思い出を映す瞳ではなく、辛く悲しいもののように見えた。
コニーアイランドで生を受けたラスティは働かない父と文字の読めない母、そして兄と暮らしていた。仕事をしない父の代わりに母が働きに出るようになった時、いつも一人で部屋にいて外に出てはいけないという言いつけを守って淋しく家にいた。遊び相手は飼っていた雑種の犬だけだった。
両親とは喧嘩が絶えず物を投げ合ったりすることがあった。例えその物が当たったとしても両親はラスティを心配などしてくれなかった。幼い娘に困ったことが起こっても自分で解決しなさいと言うほどだ。
しかしラスティもただ指をくわえていたわけじゃなく、問題を解決する術を学び逞しく成長していった。
12歳の頃には他の女の子に比べると体も大きくなり、8歳年上の兄のようなたくましい体が欲しくて鍛えるようになった。性格も勝気で腕力もあり、非行グループに入るのに時間もかからなかった。たけど、黒人グループとの決闘の際に仲間だと思っていたものは誰一人として現れずラスティ一人でグループを相手に戦った。もちろん勝てるはずもなかったし相手は拳銃を持っていた。絶体絶命かと思った時、パトカーが来てその場にいた者たちは散り散りになった。ラスティは警察に一切何も言わずに帰って顔を洗い、自分が仲間だと思っていたメンバーの家に行った。そして威勢のいいことを言っていざとなると怖気づいた彼女たちを殴りそして一人になった。
その後も荒れた生活を送っていたが、16歳になると就職したが非行少女を卒業したわけではなかった。仕事も面白くやりがいもあったが、パイロットをしている兄に憧れていたので女性空軍の試験を受けてとてもいい評価を得ていたのだ。しかし、ラスティはその夢を捨てたのだ。
当時、とてもハンサムな恋人がいた。空軍に入ったら別れようと思っていた。しかし彼はラスティにプロポーズをしてラスティは、まるで映画のワンシーンのようなその光景にパイロットになる夢など消し飛び結婚することを選んだ。
しかし彼はアルコール依存症でラスティの手に負えなくなった。離婚も考え始めたころ、妊娠が分かり、堕胎の難しい当時のアメリカでは産む以外の道はなく長男を出産した。
以前勤めていた会社に復職し、育児もしながら精神的に追い詰められていたころ柔道にであったのだ。柔道を知らないラスティは初めて軽々投げられたその時の興奮を今も忘れていない。そして柔道に魅了されたのだ。
柔道を学びたいと思ったが、ブルックリンでは子供も大人も女性は柔道をしていなかった。それで引き下がるような性格でもなく、伝手を頼って強引に柔道を学ぶことになった。その時に役だったのが大きな体だった。そしてついに柔道を学ぶことが出来たのだ。
最初こそ差別もあったが、みるみる成長していく彼女を見て次第に敬意を払うようになった。そしてラスティ自身も変わっていた。
そんな時、NY州の柔道選手権が開かれラスティの所属するチームが決勝トーナメントに出場することになった。当然、男性しか出場していない試合だ。ラスティは出場すらできないと思っていたが、キャプテンから「戦いたいか?」と聞かれた。まさか自分がでられるとは思っていなかったのでラスティはとても驚いた。相手選手は全て格上だったが、ラスティは試合に出た。もちろん女性であることを隠していて、キャプテンからは引き分けに持ち込めとも言われていた。目立ってはいけないということだ。しかしラスティは勝ってしまった。チームは優勝しメダルとトロフィーを授与された。
しかし、秘密はバレてラスティはメダルを返せばトロフィーはそのままでいいと言う大会責任者の言葉に従う他なく、首にかけていたメダルを返還した。チームのみんなは自分たちもメダルを返そうと言ったがラスティはそれを拒んだ。本来であれば男性から一本をとったラスティは称えられるべきなのに、「女性」というだけで罰を受けたのだ。勝ったのに敗北したのだ。
NYに柔道が少しずつ広まっていく中で、間違った柔道をしている人や日本人でもなじめない習慣を押し付けてくる人もいた。その事もあってラスティは日本に行って柔道を学びたいと思うようになった。
そしてついにラスティは日本へ行き、柔道を学んだ。しかし当時の日本の女子柔道は戦うものではなく形の美しさと力強さを競うものだった。ラスティが学びたかったのは男子柔道だった。だから男子に交じって稽古をしたのだ。
この時に量助とであったのだ。だがこの時はまだ恋愛感情などなくただ道場であいさつをする程度。柔道に夢中だった彼女は自分の気持ちに気付かずにいたのだが、帰国の日に量助からこっそりもらった美しいプレゼントと手紙を読んで特別な感情に気付いたのだ。
ラスティが帰国して暫くして、量助は知り合いからアメリカで仕事をしないかと言われ、考えた末に渡米しそしてラスティと再会する。まだ既婚者だったラスティだったが、量助との交際を始め離婚の手続きをして二人は晴れて結婚した。
その後、一年余りで長女が生まれてラスティは再び日本へ行った。量助の実家のある熊本へ行ったのだ。そこで盲目の柔道家から柔道を学び、帰国後夫と共に道場を開いた。
その頃、ラスティは自身も国際大会に出たいと思うようになっていた。豪州や欧州には女子の柔道チームがあったがアメリカにはまだなかった。ちょうどこの年に、男子の全米選手権が開かれることが決まっていたので女子の試合も開きたいと直談判した。当然、最初は反対されたが粘りに粘ったラスティは遂に女子柔道の全米大会開催に持ち込んだ。
ラスティは選手兼コーチとして大会に出場するつもりだったが、教え子との試合を避けるために階級を落とし無理なダイエットをしたせいで試合が出来なくなった。血を吐いて棄権したその大会で教え子は金メダルを取ったが、自分の選手としての限界を感じ指導者としての道を歩むことになった。
ラスティは全米チームのコーチとして、全英オープンに出場したが米国の柔道連盟などは非協力的で資金集めからラスティは始めなければいけなかった。
この時からラスティは女子柔道を五輪で開催できないかと考えるようになった。そして見えてきた五輪への道のためにラスティは世界選手権を開くことを決意した。
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vol.7 女子柔道の母
柔道は日本のスポーツなのだから日本で世界選手権をやる方がいいと思っていたが、まだ古い考えが沁みついてた日本ではそれは不可能だった。でもラスティは諦めずに世界選手権を開催できる、してくれる都市を探した。そしてその熱に動かされたのがニューヨークだった。ラスティは組織委員会を立ち上げて、委員長に就任した。
しかし再び資金集めに奔走したが上手く集まらず、ちょっとしたトリックを使って資金を集めたがまだ足りず、状況も悪くなる中、ラスティに差し伸べられる手があった。
テレビ局や日本の柔道家、米国や日本の大企業を訪ねてはスポンサー協力を要請した。
それ以外にも出場してくれる国と地域が25か国必要であったので、世界中の柔道家に手紙を書いた。
そしてようやく世界選手権は開催され、国際柔道連盟の会長がラスティとその家族、仲間たちの熱意で開催されたことを称えた挨拶にラスティは涙が零れた。
日本チームももちろん出場していたが、どの国からも日本は負けるだろうと思われていた。競技化が遅れ試合にならないと思われていたからだ。だが、その中で最年少選手であった日本人が銀メダルを獲得し日本の女子柔道界は変わった。国際大会で試合も出来るし勝てるんだと思ったのだ。
世界選手権を成功させたラスティは五輪を見ていた。しかし、道のりはまた遠くその後、8年かかりソウル五輪で公開競技となり4年後のバルセロナで正式競技となる。
この8年間、ラスティは交渉し、策を練り、法律を味方にして戦ってきた。怒りを覚えることもあったし、誤解や差別もあった。しかし女性差別を武器に戦ってきたことでIOCを動かすことに成功し女子柔道は五輪種目へと決定した。
ラスティはソウル五輪の開幕式で行進に参加している。ラスティにとってはこれが表彰式だった。全米チームの成績はまずまずといったところだった。メダルの数が重要なのではなく、この女子柔道の開催をきっかけに女性スポーツに新しい時代が到来したのだ。今後、次々と五輪種目になっているのはラスティの功績によるところが大きい。
「五輪開催の交渉の際には無差別級はやらないと言われたの。やるなら女子柔道は開催しない。二択よね」
「それで無差別級を諦めて五輪開催を取ったと」
耕作がそう言うと、ラスティは悲しげに頷いた。
「でも、日本でジゴローがIOCのタマランチ会長に直談判して無差別級の開催にこぎつけた。私はとても興奮したわ。柔道は無差別級あってこそ。そしてそれを世界に示したのが、ヤワラ、あなたよ」
「あたしはそんな……」
「相変わらず日本人女性は控えめね。こんなに偉大なことをしているのに、決して驕らないもの。自覚がないのかしら」
「その分、滋悟郎さんが何倍も自慢するんで、いいバランスですよ」
柔はその言葉に苦笑いする。
「コーサクに一つだけお願いがあるの」
「なんですか?」
「こうやって私とヤワラを引きわせてくれて感謝しているし、私のことを日本人に知って貰うのは嬉しいことだわ。でも、事実を正確に書いて欲しいの。私は自分のしてきたことが誇張されてまるでヒーローみたいに伝わるのは本意ではないの」
「アメリカはそういう伝え方が好きですよね。いい意味でも悪い意味でも」
「ええ。いいことはちょっとくらいなら大げさにしてもいいと思ってるのかしらね。でもねそれは時に嘘になる。多くの人が関わったことだから、嘘で傷つく人もいるかもしれないから、事実以外、事実以上のことは書いて欲しくないの」
「それは伝える側としても常に気を付けていることですから、もちろん事実以外は書くつもりもありません。信じてください」
「信じているわ」
ラスティは優しく笑うと、柔に言った。
「今度はあなたの話が聞きたいわ」
「あたしですか?」
「ええ。コーサクの本は読んだからそれ以外のこと。そうね、二人の事なんか聞きたいわ」
からかうように二人を見るラスティ。明らかに動揺する柔と耕作。
「本気にすることないよ。ラスティの冗談さ」
量助がそう言うと、あからさまにホッとした。
「え?そうなんですか?」
「半分はね。でも、あなたの話は聞きたいわ」
「そんなに楽しい話はないんですけど」
「金メダリストが何言ってるの。さあ、まだ時間はあるわ」
その後、一時間ほど話をして店を出た。ラスティと量助を見送ると、二人は歩き出した。
近くの店をのぞいては二人であれこれと言いながら、買い物を楽しんだ。
雑貨屋で、猫のマグカップを見つけて見ていると「これ家に置く?」と耕作が言って柔は「うん」と頷いた。
通りすがりに小さな公園を見つけた。ベンチが開いていたので二人は座って休んでいた。
「いい街ですね」
「そうだな」
「ねえ、松田さん?」
「ん?」
「さっき思い出したんですけど。ソウル五輪の時にこうやって公園で話してたじゃないですか?」
「ああ、虎滋郎さんのことを知った時のことだよな」
「ええ。あの時、松田さんあたしに独占インタビューしてもいいかって言いましたよね。でも、あたしあの後すぐに眠ってしまって……」
思い出すだけでも恥ずかしい思い出だ。試合後とはいえ、話の途中で居眠りしてしまうなんて。しかも、男性の肩を借りて。
「そうだったな。目が覚めた時の柔さんの慌てぶりは可愛かったな」
「え!? あの、そうじゃなくて、独占インタビューはあの後も無かったからいいのかなって思ったんですけど」
「あー、まあ、いつも独占インタビューさせて貰ってたようなものだしな」
「そうですか? でもあの時、何か言いませんでした?」
耕作の顔は変なまま固まる。出来る事なら言わずにいたかった。
「どうしても聞きたい? なんて質問したか」
「ええ。今更答えても遅いとは思いますけど」
「そんなことはないんだ。実は、四年後に答えを貰ってんだよ」
「そうなんですか? あたし、何言ったんですか?」
口ごもる耕作。聞きたがる柔。
「いいか、一度しか言わないぞ」
「はい」
柔はただ耕作を見た。あの時、あのタイミングで何を言われ、自分は何を四年後に答えたのだろうか。
「俺、キミが好きだ。キミは?」
空を見て照れている耕作を、柔は真ん丸に目を開いて見つめている。
「あの、あたしも好きです」
「知ってるよ。ありがとう」
耕作は微笑む。
「本当にあの時、言ってくれたんですか? あたし全然覚えてなくて」
「気にしなくていいんだ。きっとあの時、言われても困っただけだろし、俺もきっと後悔しただろうから」
「今みたいな関係にはなれなかったかもしれないと?」
「そう思うよ。柔さんは俺のこと、記者だと思ってたから近くにいても何とも思わなかったかもしれないけど、自分のことが好きな男だって思ったらきっと別の気持ちがあっただろうし」
「そうでしょうか……」
「そうだよ。距離を置いてたと思う」
「じゃあ、遠回りも意味がないことじゃなかったってことですね」
「ああ。さてと、帰ろうか」
「はい」
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雨にキッスの花束を
vol.1 柔の誕生日
柔がNYに来て約3ヶ月。仕事も人間関係も慣れてきてちょっと一息ついたころ、日本からおめでたいニュースが飛び込んできた。
『本阿弥さやか、妊娠!』
耕作からFAXを見せて貰った柔は驚きと喜びで言葉にならなかった。
「出産予定は来年の5月みたいだ」
耕作は英語で話しかける。ブルックリンに行った後、二人で決めたことがある。二人きりでも極力会話は英語でということ。柔の英語力はまだまだ発展途上で、出来るだけ英語に慣れておいた方が仕事も生活も苦労がなくなるだろうと思ったからだ。
「ということは、全日本も体重別も出られないですね」
「淋しいかい?今、日本で君の相手になるのはさやか以外いないだろうしね」
柔はそんなことは考えていなかった。さやかが出ようと出まいと柔は試合に出るわけで、ただ結婚し子供を産むさやかが羨ましい。さやかの普通は柔の思い描く普通ではないけど、それでも幸せなんだろうと想像出来る事が羨ましい。
「柔さん?」
「あ、お手紙とか書いた方がいいですかね?」
「そんな必要はないよ。どうせ嫌でもいつか会うんだし。それより、柔さんは正月はどうするんだい?」
「一応、日本へ帰ろうと思ってます。おじいちゃんやお母さんも心配だし。でも、仕事が休めるかわからないですけど」
「そうだな。でもクリスマスはいるんだろう?」
「はい。今年もロックフェラーのツリーを見に行きましょうね」
「前見たのは一昨年だったっけ」
「そうですよ。折角NYに来たのに、あたし疲れて寝ちゃうし」
「俺は仕事で」
「だからロックフェラーのツリーは大切な思い出です」
そう言って笑う柔に耕作は胸が締め付けられる。NYに来てよく会うようになっても、何度も腕の中で眠る顔を見てもこの想いが薄れることがない。それどころかますます愛おしい。
「さ、さあ、行こうか」
「はい」
今日は柔の誕生日だ。初めて二人でお祝いする。柔がNYに来た時にはレストランを予約していた。ちょっと奮発してオシャレで美味しい有名店だ。
プレゼントは店に行く前に渡した。耕作らしくムードも何もなく、迎えに行って直ぐに「はい、誕生日おめでとう」と差し出した。あっけにとられる柔だったが、もう慣れたもので直ぐに笑顔になって受け取った。小さな紙袋の中に入っていた箱を開けると、綺麗なピンクの石が付いたシルバーのペンダントで柔はさっそく首に付けた。今日来ている服によく合っていた。
「どう?似合う?」
「あ、ああ」
その照れた反応だけで柔は分かる。それに似合わないものをプレゼントしないだろう。いくらオシャレや女心に疎い耕作と言えども。
そのペンダントが胸元で光って今日も柔は幸せそうだった。それを耕作も嬉しそうに見ていた。
◇…*…★…*…◇
一方、日本では柔が日本にいないことが既にマスコミには知れ渡っていた。猪熊家に取材に行っても姿もなく、鶴亀の柔道部にもいないことは直ぐにわかることだ。ただ、どこにいるかということは極秘にされ、社内でも限られた人しか知らない。
さやかの妊娠がわかり、コメントを求めようにも柔の所在が分からないでいると、一部のマスコミは柔も海外で極秘で出産しているのではないかと憶測を言い始めた。だが、滋悟郎がそんな根拠のないことをいう記者を一喝したので、年末にはその話はデマということで消え去った。
「余計な騒ぎは勘弁してほしいですね」
「同業者のお前が何を言うか、野波」
滋悟郎はやれやれと言った様子でお茶を飲む。
「まあ、そうなんですけどね。ただ、西野の所在が分からない今、変に刺激してもいいことなんてないじゃないですか」
「それにしても、西野とやらはどこへ行ったのか」
「前の会社や元同僚にも聞いたんですけどね、全く手がかりがないんですよ」
「家族はいないのか?」
「独身ですし、両親はすでに他界してるみたいで」
だから怖いのだ。誰かと関わり楽しくしていれば大丈夫だろうが、もし一人で思い詰めていたら何を考え行動するかわからない。
「柔さんの帰国の予定はあるんですか?」
「正月には戻ると言っておった」
「そうですか。僕が前に見たのは正月付近なので警戒は怠らないようにした方がいいですね」
「言われんでもわかっておるわ!」
野波はそそくさと猪熊家を出て行った。12月の風が首をかすめ、冷たさに身震いした。曇った空から雪が降って来て頬で溶ける。マフラーを巻いて会社に戻る。
◇…*…★…*…◇
ドアをノックする音がした。とても静かな雨のクリスマスの朝だ。
「松田さん?」
デスクの上には書きかけの原稿。少し開いた引き出しを見つめていた耕作は、柔の声に顔を上げた。
「ああ、直ぐ行くよ」
昨日、耕作のアパートに泊まった柔は出かける準備をしていた。少しだけ仕事が残っていた耕作は原稿を書こうと思っていたのだが全く手に着かなかった。昨日のクリスマス・イヴにはレストランに食事に行って、ロックフェラーのクリスマスツリーを見てアパートに帰って来た。一昨年とは違って甘い夜を過ごした二人だったのだが、耕作は浮かない顔をしていた。
「どうしたんですか?」
「いや、雨だなって思って」
「そうですね。こんなに寒いのに雪じゃないんですね」
「せめて雪ならよかったのにな」
「その方がロマンチックですね」
二人は街に出かけた。店が開いてないことは分かっていたが、クリスマスの雰囲気を味わうために出かけたのだ。部屋にいてもよかったのだが、柔は半分仕事も兼ねてよく外に出ていく。
NYに住んでわかったことだが、ニューヨーカーは雨の日に傘をさす人が少ない。雨に濡れても気にしないようだ。雨が少ない都市だからかもしれないが、それでもびしょ濡れで平気な顔で歩いてるのを見るのは不思議だった。
そんな中、二人は日本から持って来ていた傘をさして歩いていた。
「NYの暮らしには慣れたかい?」
「ええ。最近はやっと英語ばっかりの中にいる事にも慣れました」
NYに来て直ぐは落ち込んでたり、不安な顔をしていることもあったけど今は笑顔でいることが多い。柔は確実に自分の世界を広げている。それが自信になっていることは耕作の目から見ても明らかだった。
だから考えるのだ。このままでいいのかと。ポケットの中にしまい込んだ物を耕作は昨日、出すことが出来なかった。いくら本がアメリカで話題になって売れても、それは耕作というよりも柔への興味で自分の功績とは言えない気がした。そういう感情をデイビットに話した時、「考え過ぎだし、コーサクはもっと自信を持つべき」と言って励ましてくれた。自分が柔を支えて、応援していたころと状況が変わった。柔は自分の道を歩むことで別のものを見つけてしまうかもしれない。それを素直に喜べないことで器の小ささを実感してしまった。
赤い傘をさした柔がどんどん前に進んでいく。置いて行かれるような気分になるのはこれが初めてではないが、恋人同士になって柔が無邪気に笑って頼ってくるようになってからは耕作はその距離を詰める努力をしていた。それなのに、柔はNYで立派に生活して耕作が手を貸すこともあまりなくなった。それがやけに寂しい。
「松田さん!」
振り返って満面の笑みで耕作を見る柔をこんなにも愛おしく思うのに、これ以上を望むことを恐れている。
「どうしたんですか?」
「いや、どうしようかと思って」
「これからですか?」
「ああ、店はあんまりやってないし」
「街を歩くの好きですよ。雨は残念ですけど」
「そっか、じゃあ適当に歩くか」
本文中にも書いてありますが、柔と耕作のNYでの会話はほぼ英語です。ただ、名前はいつまでたっても「松田さん」と「柔さん」です。前後の会話が英語の場合は「松田さん」「柔さん」と日本語で読んでいますが、フォントは変えています。
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vol.2 ローラとモーリス
ウインドウショッピングをしていると、一昨年を思い出す。あの時に比べれば、耕作はいくらか自信につながることをしてきたと言える。それなのに何故いつも一歩前に踏み出せないのか。
「あら?コーサク?」
すれ違いざまに声を掛けてきたのは、書籍発売の時に世話になった書店の店主だった。50代の女性店主は自分の好みに合う本を選んで陳列し、作者を招いてはイベントを開催していた。耕作の書いた本を読んだ彼女は気に入ってくれて、サイン会を開催してくれた。彼女も他のニューヨーカーにもれなく傘をさしていない。
「久しぶりローラ。最近顔を見せずにいて申し訳ない」
「忙しいのでしょ。いいことよ」
スラリとした長身で、ブロンドのストレートヘアーがいつも綺麗にまとめられている。きっちりとした性格を表すような隙のない装いがかっこいい女性だ。
「日本でも本を発売することになってね、加筆やら修正やらあって……」
「まあ、加筆するの!?それは英語にはするのかしら?」
「残念ながらその予定はないよ」
「じゃあ、日本から取り寄せないといけないわね」
「出来上がったら持っていくよ」
「ありがとう。ところで、そちらは?見たところヤワラにそっくりだけど?」
赤い傘をさした柔は少し離れた所で、大人しく待っていた。ローラと目が合うと、軽く会釈をしたがそれはアメリカで正解だったのか。
「紹介するよ」
耕作は柔の方を向いて手招きする。小走りで駆け寄ってくる柔は、ローラから見ればまだ子供のように見えるかもしれない。
「ローラ、彼女は察しの通りヤワラ・イノクマだよ」
「ワオ!やっぱり!会えて光栄だわ。私はローラ。書店で仕事をしてるの。あなたのことを書いた本がとても評判が良くて、コーサクとはその縁で知り合ったの。でも、まさかヤワラまでNYにいるなんて思っても見なかったわ」
「はじめまして。あたしも仕事でNYに来てるんです。お世話になったのにご挨拶が遅くなってすみません」
「そんなこと全然気にしないで。あーすごいわ。実物は小さくてとてもかわいいわ」
ローラは何かを察したように耕作を見る。その表情に耕作も察してそっぽを向く。
「二人は……まあ、いいわ。今度は二人で店に遊びに来てね」
「ああ。そうさせて貰うよ」
ローラは手を振って笑顔で去って行った。
「他にもお世話になった書店ってあるんですか?」
「そうだな。無名で日本人の俺の本を置いてくれる店なんてあんまりなくて、直談判で売り込んだからな」
「あたしも挨拶に行った方がいいかしら?」
「そんなことはしなくてもいいよ。君が行ったらみんな驚いちゃうし」
「そうかしら?」
「本を読んで君のファンになった人は多いからね。ローラもそうだよ」
「じゃあ、今度ローラさんのお店に行ってみようかしら?」
「そうだな。きっと喜ぶよ」
柔は嬉しそうに笑った。本当に心から嬉しそうに笑った。その笑顔が耕作の目に焼き付く。
雨がひどくなったので二人は近くのカフェに入った。暖かい店内にホッとすると、柔の頬はみるみる赤くなった。逆に耕作は鼻水が垂れて来て何だか恰好がつかない。
テーブルの上にはコーヒーとカフェラテ。それからケーキが一つ。
「松田さんは食べないんですか?」
「俺はいいよ。そんなに好きなわけじゃないし」
「そうなんですか!?でも、前はよく食べてたじゃないですか?」
「そうか?」
「そうですよ。ブッシュドノエルにパンケーキにチョコレートのケーキ」
「ああ、どれも美味しかったな」
「あたし、松田さんは甘いもの好きなんだと思ってました」
「ええ?そう思うほど食べてたかな。イベントとか観光で食べるのはあるけど」
「日本でもいつも食べてたじゃないですか。パフェとかアイスとか」
柔が高校生の時、喫茶店で二人で話すときにはいつも耕作の前には甘いものがあった。それをバクバクと食べていたのが印象的だった。大人の男性ってかっこつけて食べないものだと思っていたから。
「ああ、あの頃のあれは癖みたいなものかな」
「癖?」
興味深げに耕作を見つめる柔。耕作はコーヒーを一口飲んだ。
「記者やってるとメシ食えないこと多くな。頭も使うし体力もいる。効率的に栄養補給が出来るって信じてたんだよ」
「じゃあ、わざわざ食べてたんですか?苦手なのに?」
「いやいや、苦手じゃないよ。嫌いでもないし。ただ、毎日食べたいとは思わないだけ。だって昨日食べただろう?」
「あ……」
そう言えばそうだ。柔は甘いものが好きだから毎日だって平気だけど、男の人はそうじゃないのかもしれない。
「よう、コーサク!」
名前を呼ばれて振り返ると、そこにはモーリスが家族と一緒にいた。5歳の娘と3歳の息子、美人の奥さんが笑顔で手を振った。
「奇遇だな。クリスマスだから教会にでも行ってたのか?」
「その通りさ。コーサクは違うのか?」
「俺はクリスチャンじゃないからな」
「そうか……じゃあ、デートか?」
ドキリとしたがモーリスには既に二人の関係は知られている。
「ああ。言っただろう?彼女、NYで仕事してるって」
「そうだったな。よろしく、ヤワラ。俺はモーリスだ」
大きな手が差し出されて柔はそっと手を握る。
「初めまして。ヤワラです」
モーリスはニカっと笑った。
「初めましてじゃないよ。これで二度目さ」
「え?」
耕作の方を見ると、頷いていた。
「最近どこかでお会いしましたか?」
「いや、会ったのはもう随分前さ。二年前だよ」
「そんなに!ん?ってことは……」
優しく微笑むモーリスをよく見ると、どこかで見覚えがあった。そして二年前の出来事を思い返してみると、柔は大きな声を出さずにはいられなかった。
「えー!!あ、ごめんなさい」
モーリスも耕作も笑っていた。
「そう言う反応も無理もないさ。あの時とは全然違うから」
「でも、どういうことですか?悪い人じゃないんですか?」
「違う違う。モーリスは警官だよ。あの時は俺たちを守るためにあんなことしたわけ」
「あの時は怖がらせてすまなかったね」
鮮明に蘇る記憶。柔はタイムズ・スクエアの裏通りに入った時に声を掛けられた。その時は英語が殆どわからずただ怯えていた。でも、柔が一本背負いでその場にいた3人を投げ飛ばすと残った1人は手を上げたので2人で逃げた。
「思い出しました。警察官って本当ですか?」
「ああ。こう見えてね」
記憶の中のモーリスとは違って今目の前にいるのはとても優しい顔の男性だ。
「あの時の皆さんは大丈夫ですか?」
「気にしてくれるのかい?でも、大丈夫さ。彼らも訓練を受けたプロだから。怪我もしてないよ」
「それならよかった」
「でも、とても驚いてたけど。まさかこんなに小柄な女性に投げられるなんてって」
「すみません」
「いやいや、光栄さ。五輪のメダリストだもんな。俺はあの後、すぐに気づいたよ」
「そんな……打ち所が悪かったら怪我をしてたかもしれないので。本当にごめんなさい」
「全然気にしなくていいよ。むしろ、ヤワラだと知ってあいつらも興奮してたくらいさ」
「そうだったのか?」
静かにしてた耕作が口を挟む。
「勘違いするなよ。俺が言ったんじゃないぞ。コーサクの本を読んで気づいたんだよ」
「写真が載ってましたからね」
「いやいや、あいつらも気になってたんだ。どうして投げられたのか。そんな時に、コーサクの本が話題になって手に取って気づいたんだ。柔道で投げられたって。その後、ヤワラに気づいたみたいだけど」
「そんなに読んでいただいてるんですか?」
「話題になったからね。特に五輪を見てたやつは気になってただろうから」
「実はあたしもNYで生活するようになってすぐの頃は結構声を掛けられたんです。なんでかなって思ったら本を読んだって言ってくれる人が多くて驚いたんですよ」
「そうなのか!?」
また耕作は口を挟む。
「そうですよ。松田さんといる時はあんまり声を掛けられなかったんですけど」
「囲まれたりしないかい?」
「平気ですよ。それに最近はちょっと変装をしてますし」
「変装?」
「眼鏡をかけてます。それに仕事用の服だと気づかれにくいみたいです」
イメージが柔道着なのだろう。それに欧米の人はアジア人の区別がつきにくいとも言う。
「ヤワラはコーサクのせいでアメリカでも人気者になったからな。まさかNYにいるなんて誰も思ってないからそんなに騒ぎにならないけど、もし広まったらテレビ出演の依頼も来るだろうな」
「そんなことないですよ」
「いやいや、こんなに英語が話せるんだからあるさ」
「はは……」
そんなことになったら面倒だなと困り顔。
「ま、コーサクが守ってくれるだろうから大丈夫さ。な!」
「お、おう!」
「頼りにしてます」
「じゃあ、俺はもう行くから。またな」
モーリスは家族がいるテーブルに戻った。
「驚きました」
「俺も最初に会った時は驚いたし、警戒したよ。でも、本当に良い奴だし信頼してるんだ」
「お友達なんですね」
「まあね。世話になりっぱなしだよ。他にもNYで友達になったやつがいるしまた紹介するよ。ジェシーともまだ正式に顔を合わせてないしな」
「楽しみにしてます!」
新キャラ登場しました。
「ローラ」50代の書店店長。優しい人。
「モーリスの家族」妻と娘と息子がいる。
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vol.3 プロポーズ
店内にあるテレビが天気予報に切り替わり、これから大雨が予想されるとアナウンサーが言っている。外は既に雨が降って残念なクリスマスだと言うのに、まだ降るのかと思うとうんざりする。
店を出て人通りが多い中、傘をさして歩く。せめて雪ならよかったのにと、足元の水たまりを見つめる耕作。
「どうしたんですか?」
耕作をのぞきこむ柔。その表情はこんな天気にも関わらず明るく、楽しそうだ。
「雨だなって思って」
「朝からですよ」
「雪ならよかったなって」
「それも朝に話しましたよ。でも今年の冬は暖かいってことですよね。それに雨のクリスマスもいいじゃないですか。夜には雪になるかもしれないですよ」
天気予報ではその可能性は否定された。それどころか今から大雨だ。早く帰った方がいいのではないか。柔は明日の昼の便で日本に帰る予定だ。荷造り等はしているだろうが、来ている服がぬれたら洗濯したりと面倒も多くなる。
「松田さん、覚えてますか?」
「何を?」
「ソウル五輪の前のことです」
「なんかあったっけ?」
「もー忘れちゃったんですか?急に雨が降って電話ボックスに二人で雨宿りしたじゃないですか」
五輪合宿の時だった。休みの日に藤堂と服を買いに出かけたのだが、通り雨に降られてとっさに電話ボックスに手を伸ばすと、ちょうど耕作も同じように手を伸ばして柔の手を握った。
「思い出した。あの日も雨だったな」
「はい。あの時、何考えてました?」
「俺?俺は……緊張してたよ。好きな子があんなに近くにいたから」
「松田さん……」
「柔さんは何を考えてた?」
「あたしは……あたしも緊張してました。意識、してたのかもしれないです」
「そっか……あの時はちょっとだけ同じ想いだったんだな」
「そうですね」
耕作は明確に柔に想いを抱いていたが、柔はまだそこまで耕作に対して恋心を意識はしていなかった。仕事の事しか頭にない耕作に柔は何度もがっかりしてきた。柔に優しくしてはくれるが、欲しい言葉をくれる人ではなかった。でも、気になる人。
何度も言葉を交わし、何度も助けられ、何度も心が揺れた。それでも4年もかかった。お互いの想いを伝えあうまで、4年の時間を費やしたのは間違いじゃない。
それは耕作も同じだ。大人になっていく柔を間近で見て想いは少しずつ膨らんでいく。それは今も変わらない。だから今、伝えなきゃいけない言葉がある。
「なあ……」
ビルの隙間の空を眺めていた耕作は近くにいると思っていた柔がいないことに気付いた。小柄だけど傘をささないニューヨーカーの中で赤い傘をさしているから直ぐにわかると思っていた。
「柔さん?」
耕作の心臓は鼓動を速めた。傘をさしているからいざというときに技をかけるのが遅れる。小さい体を抱えられてどこかに連れて行かれてもわからない。雨音で周りは想像以上にやかましい。声を上げても聞こえないかもしれない。
最近のNYはそんなに危険な街だと耕作は感じないが、モーリスからよく聞かされていた。観光客や女性、子供を狙った犯罪は起きている。ドラッグ中毒者や精神異常者が理由もなく人を刺したりするのだと。
耕作は辺りを見渡し走り出した。赤い傘は見えない。路地を覗き込む。傘は見えない。耕作の手が震えてきた。体が寒くなる。怖くなった。想像をすることすら恐ろしいことを心の奥で考えてしまい、怖くなった。
車の音がうるさい。人の歩く音がうるさい。雨音がうるさい。聞こえない。柔の声が聞こえない。
目の端に見えた鮮やかな赤い傘。耕作は目を離さないように走った。ただ、走った。
「柔さん!」
耕作は柔の左手を掴んでいた。
「え!?」
驚いた顔をしていた。ひとりで歩いていたことに気付いてなかったのかもしれない。
ちょうど信号が青に変わって人々が波のように動き出す。その中で動くことのない二人。
「松田さん?」
少し困った顔をしている柔。耕作はそれほど必死に走って、青ざめるほど心配した。怖かったのだ。失うことが。この手を離れてしまうことが。
「柔さん」
「はい?」
「結婚しよう」
柔は目を見開いたまま動かない。
「え?」
「俺と結婚して欲しい」
道行く人が二人を見ている。今、二人は日本語で話している。横断歩道の前で微動だにしない二人を怪訝な顔で見てる。
「松田さん? どうしたんですか?」
「ずっと考えてた。いつ言おうか考えてた。俺は不器用だからタイミングとか考えてたら言いそびれて、それでもまたいつか言えたらなんて考えてたんだけど……」
柔の赤い傘が開いたままポトリと落ちた。雨に濡れることも気にならない。
「あたしでいいの?」
「君しかいないよ」
向かい合う二人。柔の左手の薬指に大きな雨粒がポトリと落ちて、輪になって流れた。もう全身濡れているのにそれだがくっきりと見えた。柔は迷わなかった。だって答えはもう決まってる。
背伸びして腕を伸ばす。涙を流す柔は耕作にキスをした。こんな人の多い場所で自分からキスするなんて絶対にないと思っていたのに、抑えきれなかった。嬉しくて胸が張り裂けそうだ。
耕作は自分の青い傘を離してしまい道路に転がった。二つの傘が風に揺れる花のように見えた。
怪訝そうに見ていたニューヨーカーたちも二人の様子から幸せな気配を感じたのか、立ち止まって拍手をする者や笑顔を送る者もいた。でも、その声もタクシーのクラクションの音も二人には聞こえなかった。
聞こえるのはお互いの鼓動だけだ。
そして二人は見つめ合って、照れて笑った。
このプロポーズのシーンは今井美樹さんの曲でアニメYAWARA!の二代目OP曲でもある「雨にキッスの花束を」をイメージして書きました。
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1995年 激動の年
vol.1 哀惜
年が明けて1995年になった。この年は悲しい出来事で始まった年だと言ってもいい。
1月17日の午前5時46分、後に阪神淡路大震災と言われる地震が発生し、近畿地方に大規模な被害が出た。予期せぬ震災と突然の別れ。日本は衝撃と哀しみに包まれた。
柔はこの時にはNYに戻っていたが、NYでもテレビで報道されていたので被害の甚大さを知り心を痛めていた。詳しい情報は耕作からも知らされて、同じ会社で働く日本人も伝えた。旅行会社ということで日本中に支店があり、かつて共に働いたものもいる。安否が確認されるまで心が休まることはなかった。
こんな日本において、再び人々を絶望と哀しみに陥れる卑劣な犯罪が行われた。3月20日、その第一報を聞いた耕作は知らせてくれた邦子の電話を強引に切ると、すぐに柔の家に電話を掛けた。日本時間で午前10時頃のことだ。
電話に出たのは玉緒だった。
「松田です。柔さんは無事ですか?」
「まあ、松田さん。落ち着いてください。柔は無事です。さっき連絡がありました」
「そうですか。一先ず安心しました」
「ええ、被害に合われた方がかなりいらっしゃるようで、まだあちこち騒然としているようです。柔もいつ帰れるかわからないと言うことで」
「それもそうですね。東京の地下鉄なんて巨大な交通網を攻撃されたんですから」
3月に入って、柔はNYから東京に戻った。4月の全日本選手権に出るための調整ということで、転勤の前から決まっていたことだった。
「日本でこんなことが起こるなんて……」
「とても恐ろしいですわ。まだあまり情報がないので被害の大きさも目的もわからなくて。電車も動くか分からないので、柔がいつ帰って来れるかわかりませんが、戻り次第こちらから連絡させますので」
「こんな時間に突然すみません」
「いえ、心配してくださってありがとうございます。それから松田さん」
「はい?」
「二人の今後のことですが、二人の事ですから周りの意見に惑わされることなくお互い納得のいくようになさってください」
「あの、聞いて……?」
「ええ。でもまだお義父さんの耳には入ってないと思いますが」
「そうですか。4月に改めてごあいさつに伺いますので」
「楽しみにしていますわ」
電話を切って耕作はテレビをつけた。日本の地下鉄で起こった未曽有の出来事はNYでも報道され始めた。まだ犯人も目的もわからない。ただ苦しむ人々とそれを助けようとする救助隊や警察の姿に耕作は声もなく食い入るように見ていた。
再び襲う無力感。NYでのテロの時も先日の震災の時も感じた。何も出来ないことへの苛立ちと悔しさ。記者とはなんなのか。
柔から電話があったのはそれから数時間の後だった。デスクで仕事をしていた耕作はワンコールで受話器を取るクセが付いてしまい、この時もすぐに電話に出た。
「ハロー」
「あの、松田さん?」
「柔さんか? 無事でよかったよ」
「ええ、路線が違ったので大丈夫でした。何が起こったのか正直よくわからなくて、テレビで知ったくらいなんですよ」
「目的とか犯人ってわかったのか?」
「いえ。でも、電車にまかれたのは劇物のサリンと言うものだと言ってました」
「サリン! 化学兵器じゃないか。これは完全なテロ行為だ。まさか日本でこんなことが起こるなんて」
「亡くなった方もいるようです。病院に運ばれた方も多くいて……」
「こっちでも報道されてる。情報は少ないけど、化学兵器が使用されたと知れば世界が衝撃を受けるだろうな」
「どうして?」
「世界初だからさ。それが奇しくも日本で行われたんだ。テロとは無縁のような国で」
二人は沈黙する。幸いにも柔の知り合いに被害者は出なかった。でも、今も苦しんでいる人がいると思うと喜んでもいられない。
「大丈夫か?」
「ええ。一昨年、NYでテロがあって今度は東京。人ってどうしてこんなこと出来るのかしら。無差別に命を奪うなんてどうして……」
「人じゃない。もう、そんなことする奴らは人じゃないんだ。自分で判断できないんだ。誰かの指示だったり、何かの教えだったりとにかく人を殺すことに罪悪感がない。そんな奴らはもう人じゃない」
「うん、そうだよね。でも、そんな人たちがどこにいるかわからないから」
「怖いよな」
「怖いわ。でも、あたしは負けない」
「強くなったな」
「松田さんがいるから」
「そばにいないじゃないか」
「ううん。いるわ。心配してくれて話を聞いてくれて一緒に心を痛めてくれる。それだけで心強いの」
言い聞かせるように柔は言った。声には元気はない。自分のすぐ近くで起こった恐ろしい出来事を整理するのにはまだ時間がかかる。それでも進むために声に出してるのだ。
「4月に日本に一度帰ることになったんだ」
「そうなんですか。どのくらいいられるんですか?」
「具体的には分からないけど数日はいれるよ。その時に君のご両親と滋悟郎さんにあいさつに行くつもりだ」
「お父さんはいないかもしれないですよ」
「そうなったら電話でもするよ。それからうちの実家にも行って欲しいんだけど」
「え! あ、そうですよね。はい、もちろん伺います」
「緊張とかしなくていいから。気楽にいけばいいよ」
「そう言うわけにはいかないですよ。ちなみにいつですか?」
「そんなの決まってるだろう。全日本が終った後だよ。俺も応援に行くし」
「そんな! あと1ヶ月もないじゃないですか。あたし、緊張して試合どころじゃないかも」
「だから緊張はいらないって。いつも通りでいいんだよ」
自分はとっくに柔の両親や滋悟郎とも顔なじみだからいいけど、柔は今まで一度だって会ったことも無いのだ。緊張しないわけない。
「何を着て行けばいいかしら?」
「いつも来てる服でいいよ」
「そんないい加減な」
「似合ってるんだから」
「もう……さらっとそんなこと言わないでください」
最後は少し和んで電話を終わることが出来た。世の中が変わり始めているのか、ただ一時的に物騒になったのかはわからないが今年は緊張する出来事が多く続きそうだった。
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vol.2 久しぶりの日本
耕作の帰国は一部の関係者にしか知らされていなかった。国民栄誉賞授与式で柔と共に会場を出て行って交際報道まで出て、それを否定してNYにいることが分かって騒動はすぐに沈静化した。しかし「YAWARA!」がアメリカで発売になると、日本でも話題になりその著者が耕作だと分かると再び交際を疑う声が出てきた。それにはっきりとした答えを出さないでいたのだが、その後出た柔の別の熱愛報道とその否定報道により何となく沈静化した。
今年に入ってからは阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件のことを報道することでいっぱいで、柔の交際報道など消え去っていた。
それでも二人の接触を写真に撮られたりするのはよくないと考えた耕作は、極秘に帰国して隠密活動のように仕事をして全日本選手権の応援に行く予定を立てていた。
「余計怪しくないですか?」
そう言う柔に松田は笑って言った。
「用心するに越したことはないんだよ。なんせ俺はマスコミの人間だから、彼らの鼻の良さは嫌ってほど知ってる。犬並みさ」
耕作はマスコミ以外にも警戒する人物がいることをわかっていたから、こんな面倒なことをしたのだ。
『西野が姿を消した』
去年の7月に野波から聞いたとき、恐怖と不安を感じた。滋悟郎は万が一のために繋いだレオナルドとのパイプを日本に帰り次第使うことを躊躇わなかった。だからこそすぐに柔をNYに転勤させるように鶴亀トラベルと協議した。鶴亀トラベルの上層部の一部は柔を取り巻く異常事態を認識していたし、守るための決断に迷いはなかった。
耕作の帰国の目的は主に書籍の日本版に向けての最終チェックで、編集長と書籍担当者に会えば済む話だ。二人とも信用のおける人だから安心できる。
4月15日、耕作は1年以上ぶりに日本の地を踏んだ。迎えなどは一切断っていた。知り合いにばったり会う前にタクシーに乗り込んで、日刊エヴリー本社に行った。しかし待ち合わせたのはその近くの喫茶店だった。
電話ではよく話している編集長と久々に会ったところで、何の感慨もない。すぐさま、仕事の話になった。
編集長と書籍担当者と打ち合わせやチェックなどをして数時間が経った。
「じゃあ、これで印刷に回すから。でもこんなこと書いて大丈夫か?」
編集長は疲れた顔をしていた。忙しい合間を縫っての書籍の打ち合わせに、少し申し訳ない気持ちになる。
「ラスティのことですよね。日本の柔道界を敵に回すかもなって思ったけど、柔さんが対談してくれたからそこまで怒り心頭にはならないと思いますよ。それにこれは真実だから」
「まあ、それならそれでいいんだけど。これが最終でいいんだよな」
念を押すように編集長は言う。隣の担当者はどういうことだ? という顔をしている。
「実はもしかしたら加筆するかもしれなくて」
「ふーん。相手はなんて言ってるんだ?」
「いや、一応了承してますけど、家族の許しがないと……」
「もう少しなら待ってやれる。ちゃんと話して来いよ」
「はい……」
ホテルにチェックインした耕作は時差ボケの頭を解放して、そのままベッドに横になる。明日は野波と会う約束をしてる。実家にも電話をしなくてはいけない。もちろん柔にも電話しなくては……と思いながら眠りに落ちた。
翌朝目が覚めたのは、窓からの光があまりに眩しかったから。その光にちょっと苛立ちながら目を背け、ふーっと息を吐いてお腹が空いていることに気付いた。
昨日は何を食べたかな。そう考えていると、自分が日本に帰ってきていることに気づいた。そして電話を一切してないことにも気づいた。時刻は午前7時。耕作は慌てて受話器を取り、柔の家に電話を掛けた。数コールの後、聞きなれた声が出たがその声は少し怒っていた。
「あの、松田だけど……」
「はい。随分飛行機が遅れたんですね」
「いや、そう言うわけじゃないんだけど。ごめん! 編集長と打ち合わせしてホテルに行ったら寝ちまった」
柔は無言だった。その沈黙を耕作は怯えて、次の言葉を探す。
「ふふっ」
「え?」
「おかしいもの。松田さん、そんなに慌てて電話して謝って」
「君が心配してると思って」
「心配はしてました。でも、飛行機が遅れたとかましてや事故を起こしたなんて聞いてないから、日本に無事についてるんだろうなと思ってましたよ。それにお仕事をすることも知ってましたから、そのままホテルで寝てしまったんだろうなってことも想定してました」
「お見通しってわけか」
「ええ。でも、こんな風に電話してくれて嬉しいです」
「直接行ければいいんだけど」
「お仕事があるんですよね。それに、明日応援に来てくれるからいいんです」
「そうか……」
「だって、取材じゃなくて応援ですよね」
「あ、ああ」
何が違うんだ? と、耕作は思ったが柔の声は嬉しそうだ。
「明日、あたし頑張りますから!」
「おう! 久々に柔さんの試合が見れるんだ。俺も、今から楽しみだ!」
「あ、そろそろ朝食なんで失礼します」
「ああ。この後も、稽古だろう?」
「ええ、明日に向けて最終調整です」
「本当に楽しみだ」
「あ! 言い忘れてましたけど、お父さん帰ってますよ」
「え! 何で? フランスは?」
「さあ? 気まぐれで帰って来たのかも。ちょうどよかったじゃないですか」
「そ、そうだな……」
結婚の承諾を得るための訪問は全日本選手権の翌日にした。玉緒には既に柔から話がされていて、後は滋悟郎だけだと思っていたのだが虎滋郎までもいるとなると緊張は増すばかりだ。
受話器を置いて、今度は山形の実家に電話を掛ける。民宿を営んでいるので必ず「はい、民宿まつだですが?」と母の声が聞こえる。久々のその声に耕作は胸が暖かくなる。
「あ、俺だけど」
「なんだ? NYに行って年に一度しか電話もしてこねー親不孝息子が何のようだ?」
「それに関しては申し開きも出来ないが、急で悪いんだけど明々後日帰るから」
「あ? 急に何言ってるが?」
「だから言っただろう。急で悪いって。それでその時、紹介したい人連れて行くから」
「紹介したい人? まさかやっと結婚する気になったか?」
「ま、そういうことだよ」
「NY行って見つけて来たってことは、加賀さんじゃないってことか?」
「加賀くんは同僚だよ。それ以上の関係はないよ」
「そうか。じゃあ、一泊ぐらいするのが?」
「そのつもりだけど、部屋ないならホテルでもとるけど」
「あいてる。平日だし、スキーももう終わり時だしな。相手のお嬢さんが良ければ家に泊まればいいさ」
「じゃあ、頼む。それから俺が帰ることとか結婚のことはまだ近所には言ったりしないでくれよ」
「そうか……わかった。食事は洋食の方がいいか?」
「なんでもいいよ」
「口に合わなかったら申し訳ねえだろう」
「大丈夫だよ」
「それならいいんだが。じゃあ、気を付けて来るんだよ」
「うん。親父にもよろしく言っておいてくれ」
電話を切った。母親は完全に連れて行く人がアメリカ人だと思っているようだ。まあ、それならそれで勘違いしておいてもらえればいい。柔を連れて行くことを事前に言えればいいのだが、何となく言えなかった。
父親には以前、柔はやめておけと言われた。国民的英雄になってしまう彼女と自分じゃ差がありすぎると。自覚はしてたし、その差を埋める努力もした。まだまだ人の目から見ればつり合いのとれない、格差のある夫婦になるだろうけど当の本人たちはそんなことは感じていなかった。柔自身が自分をスーパースターだとも特別な人間だと思っていないし、そうなりたくないと思っているからだ。
耕作はとりあえず、シャワーを浴びて食事をしに出かけた。
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vol.3 西野の年賀状
部屋で仕事をしていると昼過ぎには野波がホテルに尋ねて来て、西野のことについて報告があった。
「結局所在不明か?」
「はい。恐らく部屋に入ったことがばれたんじゃないかと思うんです」
「なぜ?」
「僕が部屋に入ったあと直ぐに消えたんで」
「写真の持ち出しも知ってるかもしれないってことか?」
「そうですね。ネガも気づかれているかもしれません」
そうは言ってもあの写真とネガは回収しておかないと、後々何が起こるかわからない。
「怪文書もたまにだけど送られてきているみたいですよ。でもどれも郵送されてるようで、しかも消印の住所がめちゃくちゃだって言ってました」
「用意周到だな。何を考えているのまったくわからんな」
「わかったら怖いですよ。ところで、正月のことは聞きました?」
「正月? いや……」
「西野の年賀状が直接投函されてたそうです」
「は!?」
「年賀状って輪ゴムで束にして送られてくるみたいなんですけど、その年賀状だけ一番下に一枚だけあったようなんです」
「つまり郵便が来る前に投函されたと?」
「正確に言えば新聞より前です」
「そんな早くに……」
考えただけで背筋が凍る。大晦日から日付が変わる頃までは、住宅街と言えども人気がある。新聞が来るのが午前3時くらいだとすると、その2時間くらいの間に誰の目に触れずにことに及んだと言うことだ。
「しかも、赤く色が塗られていてそれが不気味で」
「年賀状はわりと赤いの多いと思うけど」
「朱色じゃなくて赤くて少し黒いんですよ。血液みたいで気味悪かったです。それが裏面に隙間なく塗られてるんです」
想像するとおめでたい雰囲気とは正反対な色だ。もう狂気の沙汰と思ってもいい。
「野波、俺、実は結婚するんだ」
耕作は俯きながら、低い声で言った。
「え? それはおめでとう……って大丈夫ですか?」
「そうなんだよな。今はきっとあいつも俺の事なんて知らないと思うんだけど、結婚ってなれば公表するしどう感情が動いて何をするか全く予想も出来ない」
「せめて居場所でもわかればわからせることもできるのに」
「わからせる?」
「ええ、やり方はいくらでもあります」
ニコッと笑う野波の笑顔が冷たく、若い頃に何をしてきたかを物語っていたがあえてそこは聞かずにおいた。
「公表のタイミングは編集長と相談するとして、これなんだけど」
耕作は封筒を渡した。
「これは?」
「原稿のコピーさ。ラスティの功績をまとめたものと柔さんとの対談を加筆した。原稿自体はもう編集長へ渡してある。君の満足いく内容になってればいいんだけど」
「本当に約束守ってくれたんですね」
「そりゃね。それにラスティのことは日本人なら知っておかなきゃいけないと思うし。それから何か違うなって思うところがあったら言ってくれ。まだ、少しだけ時間があるからなおしは出来るよ」
「一度持ち帰って読まさせていただきます」
野波は仕事が残っていると言うことで、会社に戻って行った。耕作は久しぶりの東京の街を歩いた。去年来た時は時間も無くて空港と会社と猪熊家しか行っていない。劇的に何か変わったわけじゃないけど、耕作の知る東京とは違う気がする。
派手に騒いで浮かれていた日本はそこにはない。耕作がNYに行っている間に日本の経済は大きく変化した。その影響で人々は慎重になり、どこか暗い空気が漂っている。
喫茶店に入ってコーヒーを飲んでいると、テレビで明日の全日本選手権のことを報道していた。柔は去年の体重別から試合には出ていない。約一年ぶりの試合に日本中が期待している。元々、試合数の少ない柔は出場すると言うだけで注目され、チケットも売り切れる。それにさやかが出場するとなると、更に入手は困難となる。だが今回はさやかの出場はないので比較的簡単にチケットはとれた。
「今年も猪熊の優勝ですかね」
「どうだろう。去年の試合は酷かったじゃないか。ギリギリ勝ってるようだった」
「それは感じましたね。やはりバルセロナがピークだったんですかね」
「年々、若い選手も出て来てるし猪熊だって年は取るだろう。負けたことがないけどいつかは負けるんだよ。誰だってそうさ」
耕作は黙って聞いていた。ここでもめ事を起こしても仕方がない。それに彼の言うことは間違ってはない。柔の強さは本物だけど、楽勝で勝って来てるわけじゃない。天才と言えども何かを間違えば負けることもある。
でもそれは明日じゃない。
耕作は会計を済ませ立ち去り際に言った。
「猪熊は絶好調ですよ」
「え?」
ドアを開けて外に出ると、綺麗な夕焼けが見えていた。
◇…*…★…*…◇
翌日は雲一つない快晴だった。続々と会場入りする選手たち。柔も道着に着替えて体を温めはじめていた。
「柔ちゃーん」
甘えた声を出したのは邦子だった。その後ろから野波の姿も見えた。
「あ、邦子さん、野波さんお久しぶりです」
「調子はどう?」
「いつも通りですよ」
「そんなこと言って、絶好調なんでしょ」
邦子はニヤリとして柔を肘で押す。
「ええ、まあ」
「で、どこにいるの?」
「観客席にいるようです」
「なんで?」
「色々、面倒なんで今日は静かに見るって言ってました」
「そう。その方がいいかもね。取材はあたしたちが頑張ればいいものね。野波くん」
「え、ええ」
邦子に話しかけられるまで野波は険しい顔で辺りを見ていた。それは観客席にいた耕作も同じだった。
帽子をかぶって少し変装をしている耕作は、早くに会場に入って辺りを歩いていた。もしかしたら西野が来ているかもしれないからだ。しかしあまりの人の多さに判別が出来ないでいた。
柔の近くは滋悟郎もいるし警備員もいる。危険はないはずだ。
試合が始まり、柔の登場になると物凄い歓声が上がる。特に目立つのが男性ファンの多さだ。さやかにも男性ファンが多いが、柔の控えめな性格と愛らしい容姿で徐々に男性ファンは増え続けている。メディアにあまり出ないことなどもあり、試合となれば全力で応援するスタイルは他の応援客が驚くほどだった。
柔は喫茶店の客の予想をはるかに裏切る結果を出した。全部の試合を開始一分以内で一本勝ち。どの選手も柔対策はしていたはずなのに、誰も歯が立たなかった。柔はバルセロナ五輪のころより進化している。
その結果に記者たちも興奮してなかなか柔を解放してくれなかった。滋悟郎が中に入って質問に答えようとしたが記者は意に介さず、柔にばかり質問を続けた。これではらちが明かないので更衣室に無理矢理入った柔は急いで着替えて、滋悟郎の手を引いてタクシーに乗り込んだ。
「まったくしつこい連中ぢゃ!」
「こんなことになるなんて思っても見なかった。あ、運転手さん、テンプルトン・ホテルへ行ってください」
「なんぢゃ、祝勝会でもやろうっていうのか?」
「言ったでしょ。試合の後に大切な用事があるって」
「わしも行くのか?」
「もちろん」
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vol.4 猪熊家に結婚のご挨拶
東京のテンプルトン・ホテルは5年前に開業した。東京の一等地にある立派な建物でサービスや食事などは超一流の高級ホテルだ。
正面玄関にタクシーが到着すると、ドアマンがにこりと微笑んでドアを開けベルボーイが引き継ぎ小声でささやいた。
「猪熊さまですね。ご案内いたします」
落ち着いた雰囲気のフロントを通り過ぎ、エレベーターで15階まで上った。
「全日本優勝おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
「なんで知っておるんぢゃ。おぬし、仕事をさぼってテレビでも見ておったのか?」
「そんなわけないじゃない。すみません」
ベルボーイはニコリを微笑んだ。もちろんさぼってなどいない。柔が来ることを知っていた別のスタッフに、状況を把握するために見ていたテレビの情報を教えて貰ったのだ。
エレベーターのドアが開いてレストランの個室へと案内された。中に入ると耕作はもちろんだが、玉緒と虎滋郎が席についていた。
「あ、柔さん」
「遅くなってごめんなさい」
「なんぢゃ? 日刊エヴリーが何でここにおる?」
「それはこれから説明するから。座って」
滋悟郎はドシドシと歩いて見るからに高そうな椅子にドシンと座った。それに続くように柔と耕作も並んで座る。
高級ホテルのレストランってだけでも緊張するのに、豪華な装飾で目が眩みそうな場違い感が耕作をより緊張させた。でも、耕作はありったけの決意と勇気をもって口を開いた。
「ここにお集まりいただいたのは……」
目の前にいる滋悟郎と目が合う。鋭い目つきはとても老人とは思えない。だがそれに臆するほど耕作は滋悟郎を知らないわけじゃない。
「僕と柔さんの結婚を認めていただきたく……」
チラリと滋悟郎を見る。表情に変化はない。それをどうとらえていいかわからない。
「あの……滋悟郎さん?」
「なんぢゃ?」
「柔さんとの結婚を認めていただけますか?」
「柔がいいと言っているならいいではないか。それに玉緒さんがいいならわしはいうことはない」
「おじいちゃん?」
「反対するとでも思ったのか?」
「はい……」
「相変わらず何もわかっとらんな。お前がどうしようもない男ぢゃったらわしはとっくの昔に、柔から遠ざけておるわ」
「それもそうね……って、そんな風に誰かに何かしてないでしょうね」
「言わぬが花ぢゃぞ」
そういって笑う滋悟郎に安堵した耕作。そして続いては虎滋郎の方へ向く。
「あの、虎滋郎さん……」
「俺は何も言う権利はない。ただ松田くんなら安心だ」
「そうですよ。柔のことをずっと見ていてくれたんですもの」
玉緒がそう言って微笑むと耕作は泣きそうになる。柔も安堵の表情を浮かべる。
「さあ、飯ぢゃ、飯ぢゃ」
「もう、おじいちゃんったら、食事の事しか興味ないの?」
「用事は済んだのぢゃろ。だったら腹ごしらえぢゃ」
すっかり緊張も解けた耕作は普段通りに戻って、全日本の興奮を熱く語る。オリンピック以来の柔の公式戦だっただけに、語りつくせないほどだった。柔は褒められているのがとてもくすぐったくて、でも耕作のいきいきとした表情に胸がきゅんとする。
「ところで、松田さん」
「なんでしょうか」
玉緒が様子を見計らって言葉を挟んだ。このまま楽しく食事をして終わりでもいいのだが、耕作はアメリカに戻らなくてはいけない。それまでに話さなければいけないこともある。
「結婚のこと、いつ公表するのですか? 交際していることも秘密にしていますでしょう」
玉緒は心配そうに尋ねた。自分の娘が国民的ヒロインになったことをあまり自覚してなかったが、レオナルドの件で少しだけ理解した。芸能人のように恋人の噂が出ただけで騒がれると言うことを。
「それはね……」
柔は耕作を見た。二人は目が合い耕作は頷く。そして口を開いた。
「今度、アメリカで出した本の日本版を出版することになりました。その際に日本人にとっては必要ない部分は削除して、その分加筆したこともあります。本は日刊エヴリーから出しますので、発売の前日には日刊エヴリーに結婚のことを記事にして貰います」
「本の宣伝も兼ねているということぢゃな」
「はい」
「柔はそれでいいの?」
「うん。どうせ記事になるなら日刊エヴリーがいいし、本も出すなら同時期の方がいいと思うの」
「他の新聞に書かれるのも複雑だものね。結婚式はどうするの?」
「富士子さんみたいな式も素敵だけど、今の状況を考えると派手にするのは避けたいわ」
震災、テロと続き日本の傷はまだ癒えていない。そんな中でおめでたいことをすることで、元気づけられる人もいるだろうが不謹慎だと反発する人もいる。だからと言って、全ての人がおめでたいことを自粛するのも何か違うと思うのだ。だから柔はささやかに式を挙げようと考えていた。
「教会で式をして、レストランで食事をするだけでもいいと思うの。家族と友達と親しい人でお祝いして貰えればいいわ」
「日本は景気も悪くなっているし、派手にするのはやはり世の中の流れに合ってないと思うんです」
滋悟郎は黙っていた。派手好きで目立ちたがり屋の滋悟郎は、柔の結婚式には報道陣も入れてテレビ中継などを考えていたかもしれない。それなのに先手を打つように二人がどういう式にするかをほぼ固めてきてしまっていた。
「仕事はどうするの?」
「会社に相談して決めたいと思ってるの。出来れば続けたいけど、迷惑になるようなら辞めることも考えてるわ。それにしばらくはアメリカにいたいとも思ってるし」
「そうね。新婚早々離れ離れってのも寂しいわよね」
玉緒にそう言われ、柔と耕作は顔を赤くして狼狽える。
「とにかくそう言うことだから、おじいちゃん、発表までは他言しないでね」
「無論ぢゃ。わしはそんなに口が軽くはないわい!」
その場にいた誰もがただ冷たい目で滋悟郎を見ていた。虎滋郎がさやかのコーチになったことをテレビでつい漏らしたのはどこの誰だったのか。
「なんぢゃ、その目は」
「いいえ、約束は守ってよね」
「本の発売は7月半ばを予定してます。式はその前までに日本で挙げようと考えてます」
「好きにしたらいいわい!」
あっさりと滋悟郎は二人の結婚も式も許してくれた。目立ちたがり屋で派手好きなのに、どういう心境の変化なのか。柔は首を傾げるばかりだが、耕作はその理由を察することが出来ていた。
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山形へ里帰り
vol.1 民宿「まつだ」
テンプルトン・ホテルで柔の両親と滋悟郎に結婚の許しを得た耕作は一先ず安堵した。元々、猪熊家とは良好な関係を築いていたので、強い反対をされるとは思ってなかったが滋悟郎が何を言いだすかがわからなかった。ただ柔の恋愛に対しては、バルセロナ五輪が終わるまでは御法度と言うこと以外、相手の条件などはなかった。あまりにも不釣り合いな男を連れて来たら反対するつもりだったかもしれないが、滋悟郎も耕作のことはわかっていたので何も言わずにいたようだった。
「おはようございます」
耕作の隣で眠っていた柔の声がした。ふかふかの大きなベッドはさすが一流のホテルで二人ともぐっすり眠れた。
「おはよう。疲れはとれたかい?」
「はい。もう時間ですか?」
「ああ、そろそろ起きないと」
今日は山形の耕作の実家に行くことになっている。だから昨日はあらかじめ柔の荷物をここに運んで貰い、耕作も最初に泊まっていたホテルをチェックアウトして移って来ていた。
そもそもテンプルトン・ホテルのレストランや宿泊に関しては当然社長であるレオナルドのプレゼントだった。耕作が柔の両親と食事をする話をしたら、部屋と一緒に予約を入れてくれた。これは新聞記事にしてしまったことで傷つけた柔へのお詫びだと話したが、柔はそのことを知らないので伝えようもなかったが粋な計らいとして受け取っていた。
朝食をとって身支度を整えて二人はチェックアウトをしてタクシーに乗った。東京駅から新幹線に乗って山形へ向かう。柔は緊張して口数が減っていたが、耕作も何故か無口だった。
帽子と眼鏡で変装をしていた柔は乗客に気付かれることなく、無事に最寄りの駅に到着した。
「ちょっと寒いですね」
「あ……うん。だからコートとかあった方がいいって言っただろう?」
「そうですね。持って来て正解でした」
淡いピンクのスプリングコートを着た。風がふわりと吹いて同じ色の花びらが柔の目の前で揺れた。
「桜……? まつ……耕作さん、桜の花びらですよ」
名前を呼ばれたことで耕作はびくっとした。
「今が時期だからな。ついこの前、雪が溶けたばっかりで……あー名前で呼ばれるの慣れないとな」
「すみません。あたしがいつまでも名前で呼べないでいたせいで……」
「いや、いいんだよ。これからずっと一緒にいるんだし」
そう言って二人とも顔を赤くする。いつまでたっても照れてしまうのは性分かも知れない。柔が耕作を名前で呼んだのは去年の耕作の誕生日の時だけ。NYに長期間いた時も、その高い壁を超えることが出来なかった。
タクシーを使って耕作の実家「民宿まつだ」へ向かう。長閑な田舎道を柔は興味深げに見ている。都会育ちの柔には何もかもが新鮮だ。遠くの山にはまだ雪がかぶり、青い空とのコントラストが美しい。
「田舎だろう?」
「でも、綺麗なところですね」
程なくして実家の前にタクシーが停車すると、柔はいよいよ緊張して心臓が口から飛び出そうになった。その反面、耕作はただの里帰りなのでとても気楽なのだが少し元気がないように思えた。
「緊張しなくていいよ。普通の田舎のおじさんとおばさんだから」
「そんなわけにはいきませんよ。あたしは御両親と初めて会うんですから」
柔はもう一度大きく深呼吸をした。試合前でもこんなに緊張しない。心を落ち着けようと耕作を見るともう玄関ドアに手を掛けていた。
「え? ちょっと……」
「ただいまー」
民宿の玄関をガラッと開けると右側に靴箱、その奥に階段、廊下を挟んで左にフロントがあった。フロントには玄関側から人が出入りできる場所はなく、奥の部屋へ続く扉とその部屋を出入りする扉が階段の横にあった。その扉が開いて細く小さな女性が顔を出した。
「あら、早えっけな。もう少し時間かがると思ってだ。ん?」
「新幹線降りてすぐにタクシー乗ればこんなもんだろう。親父は?」
「あ……ああ、奥にいるよ」
耕作はやれやれといった感じで靴を脱ぎ始めるが、柔は意を決して口を開いた。
「あ、あの。はじめまして。猪熊柔といいます」
思いの外大きな声が出た柔は自分でも驚いて顔を赤くして俯く。耕作も思わず振り返る。そして奥からドタドタと音がして、四角い顔の男性がフロントに出てきた。
「今、何て言った?」
「え? あの、猪熊柔です。本日はお時間をいただきありがとうございます」
そう言って頭を下げる柔。耕作の両親は二人とも目を丸くして柔を見ていた。
「柔さん、靴脱いでここに置いてスリッパにかえるといいよ」
「はい」
両親は未だに目の前にいる人が柔だと信じられなくて言葉もなく、柔の行動をただ見ていた。
「荷物どこに置けばいい?」
耕作の言葉に我に返った二人。
「耕作は自分の部屋に。や……あなたはこちらへ」
母親がそう言って柔を客室のある二階へ案内した。耕作の部屋は隣の敷地に増設した自宅の一階なのでそちらへ向かう。
「お、おい、耕作!」
「なんだ?」
「なんだじゃねえ。あれは本物か?」
「柔さんの事か? 同姓同名が二人いるような名前じゃないだろう。それに顔も知ってるだろう?」
「そうだが、まさかお前……」
父親は昔、耕作に「猪熊柔はやめておけ」と忠告したことがあった。それは柔という人がこれからスターになることが分かっていたので、耕作じゃ釣り合わないからみじめな思いをすることもあるだろうからそう言ったのだ。それに耕作の片想いが成就するなんて思ってもいなかった。
ただ、国民栄誉賞の授与式で二人が手を取って逃げた映像は日本中に発信され、この時ばかりはもしかしたらと思ったくらいだ。しかし、その後正式に交際を否定し騒動も沈静化し、去年には柔に大富豪との熱愛報道まで出て両親の頭から柔のことは国民的柔道家という認識しかなくなっていた。
二階に上がった柔と母親はしばらく無言だった。部屋に通された柔は荷物を置くと周りを見渡す。
「ここは宿泊用のお部屋ですか?」
「古くて狭いでしょ」
「いえ、とても素敵なお部屋です。でも、あたしが使ってもいいんですか?」
「それは構わないよ。今日はお客さんいないから」
「ありがとうございます」
「あなた、本当に猪熊柔さんなの?」
「え? ええ、猪熊柔です」
「柔道の?」
「はい」
「オリンピックで金メダル獲ったのよね?」
「はい」
「国民栄誉賞も貰ったのよね?」
「僭越ながら」
「そう、間違いないのね」
母親の心は複雑だった。耕作は自分の好きな人を射止めたのだが、その相手があまりに立派過ぎて今後の生活が想像もできない。その思いが表情に出ていたようだった。柔の表情も沈んでいた。
「入るよ」
耕作の声がして二人はドアの方を振り返る。
「何してるの、二人して」
「ちょっと耕作!」
母親は耕作の腕を引っ張って廊下に連れ出す。
「なんだよ」
「紹介したい人って彼女なんだろ?」
「他に誰がいるんだよ」
「わかってるけど、頭がおっつかねえ。付き合ってたのかい?」
「ああ、まあ」
「いつから?」
「アメリカ行く直前からかなって、なんでこんなことおふくろに言わなきゃいけないんだよ」
「じゃあ、あの否定記事はなんだ?」
「あれは騒動を沈めるための嘘だよ」
「親にも何も言わずにか?」
「別にいいだろう」
母親は責めたいわけじゃないのだが、感情が追いつかないのだ。可能性の中に全く無いわけじゃなかったが、ほんの1%ほどの可能性の人物が来てしまってどうしていいのかわからない。そのまま何も言わずに階段を下りて行ってしまった。
山形弁わかりません! 間違っていたらというか、間違ってます。申し訳ございません。
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vol.2 松田家に結婚のご挨拶
耕作は柔のいる部屋に入ると、柔は不安そうな顔で見ていた。
「どうした?」
「ご迷惑でしたでしょうか?」
「そんなことないよ。ただ、戸惑ってるんだ」
「急に来たから……」
「うちは民宿だからお客さんが急に来ることで戸惑ったりしないよ。でも君が来たことには戸惑いがね……」
普段自分が五輪のメダリストだとか国民栄誉賞をいただいたことなどを気にしたことはない。いい意味で無関心なのだが、今回ばかりはそうも思えない。
「あたしが普通のOLだったらこんなことにはならなかったですよね。きっともっと喜んでくれたんですよね」
「それは違うよ」
「え?」
「君が普通のOLだったら俺たちは出会ってもいないんだから。俺は柔道をしている柔さんだから見つけられたし、追いかけた。こんな話、前もしたな」
そうは言っても柔の表情は晴れない。大歓迎されると思っていたわけじゃないけど、普通に迎え入れてくれると思っていた。
「俺は今まで彼女とか家に連れて来たことがなくて、最初が柔さんだろう? だから心の準備が出来てなくてちょっと混乱してるんだ。もう少ししたら何でもないような顔で、声を掛けて来るさ」
耕作は部屋の窓を開けて風を通す。少し冷たい風が、部屋の中の重い空気を一緒に消し去ってくれればと思った。だけどそんなに人の気持ちは簡単に変わらない。
ドアがコンコンと音を立て開いた。
「お茶が入ったけどどうかしら?」
母親が余所行きの声をだして顔だけ見せてそう言うと、耕作は笑いを堪えながら「すぐ行くよ」と返事をした。
「大丈夫だよ。戸惑ってるのはみんなそうだから」
「ま……耕作さんも?」
「そりゃそうだよ。俺は反対の意味だけど」
「反対?」
「それはまあ、気にしないで。さあ、お茶にしよう」
「ええ……」
ぎしっと音がする階段を下りて、廊下を歩いて奥の勝手口を抜ける。すると別棟と繋がっており、そちらは自宅として使っているスペースのようだった。縁側を歩いて開いた障子の奥にテーブルがありお茶とお菓子が用意されていた。
座布団が並んで置いてあり柔と耕作は隣同士に座った。
父親は未だに信じられないと言った様子で柔をじっと見ていた。その様子に柔は戸惑いながらも笑顔を見せたが、耕作がたまらず口を開いた。
「どうしたんだよ。俺が柔さん連れてきたのが信じられないのか?」
「そう言うわけじゃないんだが。なんだか不思議だなって思ってな」
「は?」
「テレビで見てた人が目の前にいるって言うのは不思議だろ?」
「それもそうかもしれないけど……」
母親がお茶を柔の前に置いた。
「あ、ありがとうございます」
「いいえ。失礼なことだってわかってるんだけどな、どうしても信じられねくて。それに、耕作がNYに行ってから見つけてきた子だと思ったからてっきり金髪で青い目の女の子かと思ってたんだけど、それ以上に驚く相手だったがら」
「すみません……」
「謝ることはねえよ。勝手な勘違いだがら」
「いえ、秘密にしようと言ったのはあたしなので」
「なすて?」
「色々とご迷惑がかかると思ったので……」
「でも、実家に言わないでいたのは俺の判断だから」
「そうけ」
母親はそう言ってお茶をすする。
「で、二人は結婚するのが?」
父親がそう言うと、耕作は「だから紹介に来たんだ」と言う。
「あの!」
「ん?」
三人が柔を見る。すると決意の目をした柔が言った。
「不束者ですが、よろしくお願いします」
頭を下げる柔に母親は「こっつこそ、よろしく」と笑う。父親も笑顔でうなずいた。
それで柔の表情は一気にやわらかくなった。
「それでな、現実問題生活はどうするんだ?」
「急だな」
「そりゃ気になるだべ。大切なお嬢さんいただくのに、どだいな将来ば描いてるのか考えてねずんじゃあ、示しがつがない」
「わかってるよ。とりあえず二人で話し合った今後は、7月に式を挙げて届も出すことになってる」
「世間様にはいつ言うんだ?」
「その後だよ。アメリカで出した本を日本語にしたものを出す予定で、その中でも結婚について書こうと思ってる。だけどその前にウチの新聞には載るだろうけど」
両親は訝しげに眉を寄せる。
「柔さんはそれでええのか?」
「ええ。どのみち、新聞には載るなら日刊エヴリーがいいですし、それで後で出す本に何もないのは買っていただいた方にも申し訳ないですから。それにその頃にはあたしたちはNYにいるんでさほど騒ぎにはならないかもしれませんが、こちらには記者の皆さんが押しかけて来るかもしれません」
猪熊家も何度も記者が家の前に来て大騒ぎになったことがある。そうなると本当に迷惑だし、ご近所にも申し訳ない。そういう思いを耕作の実家でもされると思うと胸が痛む。
「それはしゃあねえべ」
父親がそう言う。
「今日の事なんかばをすこす話して、それ以上何もないと分かればすぐに帰るだべ。それにこっちも宣伝させて貰えればお釣りがくるくらいだべ」
「そうだべ。だけども騒ぎになる前にはお客さん入れねえようにするから、ちゃんと日付だけは教えておいてくれねえと」
「わかってるよ。全くいい根性してる」
二人でにんまりと笑う。そして母親は何か思い出したように言った。
「ところで、柔さん、仕事してなかったが?」
「はい、鶴亀トラベルでお仕事させて貰ってます。実は去年から今年の3月までNYで勤務してて、試合のために戻ってきたんですけど式までは日本で仕事させてもらって、その後またアメリカへ行きます。会社からは来年の2月くらいまでいて欲しいと言われているので」
「そりゃ、二人にとってはよい機会だな。オリンペックは?」
「もちろん五輪に向けて柔道は続けます。NYでもいい練習場所がありますし、こうなったら祖父も渡米して稽古つけると思うので。日本での試合前には帰国して調整しなきゃいけないので、その間は耕作さんには不便をかけてしまうと思いますが」
「俺のことは気にしなくていいよ」
「んだ。耕作は頑丈に産んだから平気だ。それより柔さんが心配だ」
「あたしですか?」
「平気だよ。アメリカの環境もいいし、いい練習相手もいる。柔道に関しては心配いらないよ」
「住まいはどうするんだ?」
「あたしが借りていた部屋は退去して耕作さんの部屋に荷物を入れることにします。祖父は一人では何もできないので、知り合いの家に居候させていただくことになります。その代わり柔道の指導をするみたいです」
「アリシアを鍛えるってことか。ライバルに塩を送ることになるな」
耕作が少し心配するが柔はなんてことない表情をしている。
「そうですね。でも、アリシアとは階級が違いますから」
「無差別級に出ないつもりかな」
「どうでしょうね」
和やかに話す二人に両親はホッとしつつも、あまりに自分たちはかけ離れた未来像に想像するのが難しい。
「耕作は仕事はどうすんだ?」
「俺? 俺は日刊エヴリーにいるよ。NYでの仕事も慣れて、野茂が大リーグに行っただろう、今後も彼に続いて日本人がアメリカで活躍するようになるよ。それを俺は取材したいんだ」
「柔さんのサポートはしねえのか?」
「それは……」
耕作に顔は曇って俯く。
「お前はいつも自分の事ばかりでないべか! 結婚するってことは女が男ば助けるだけじゃないんだ。柔さんの方が大変ならお前が助けてあげないと。それが夫婦ってものじゃないか」
母親はそう言って声を荒げた。しかしそれに柔が答えた。
「あたしのことはいいんです。耕作さんはお仕事を頑張って欲しいですから。それにあたしはいつも助けられてますから」
「そうは言っても。日本中の期待を背負った柔さんと結婚して応援するだけなんで、そんな不甲斐ない夫がいるけ?」
「耕作さんにはお仕事続けて欲しいです。あたしのサポートは別の誰かが出来ますけど、耕作さんの記事は耕作さんにしか書けませんから」
にこやかに言う柔に両親はもう何も言えなかった。
「そこまで柔さんが言うなら、こっつから言うことはもうないけど」
複雑な顔の母親はまたお茶をすする。
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vol.3 松田母と柔
「あ、お父さん。そろそろ時間でねがい?」
「お? おお、そうだそうだ」
「なんだ? 用事か?」
「久美子の家の手伝いに行く約束してんだ。親父さんがぎっくり腰やったもんで」
「そりゃ大変だな。俺も行くよ」
「いや、お前が行ったら柔さんが……」
「あたしは平気ですよ。気にしないでください」
「本当にいいの?」
「ええ」
柔は笑顔で送り出し、部屋の中に母と二人になってしまった。沈黙でいるのもおかしいので話題を探していると、耕作の母が口を開く。
「オレンペック見てたよ。特に無差別級の決勝は食堂でお客さんたちと手に汗握って見てたんだべ」
「ありがとうございます。ジョディとオリンピックで試合することは念願で、あの試合は特別な思いがありました」
懐かしむような顔をしていたが、少し悲しみの影が見える。それはきっとジョディが引退したからだろう。
「柔さん?」
「はい?」
「変な事聞くようだけど、本当に耕作でええのか?」
一瞬何を言われているのかわからなかった。でも、その心配そうな表情を見て柔はすぐに返事をした。
「もちろんです。むしろ耕作さんじゃなきゃダメなんです。あたしは長いこと気づかなかったんですけど、あたしの周りの人達はあたしが耕作さんがいないとダメな事見抜いてておつきあいをはじめたというと安心したって言うんです」
「耕作は柔さんと追っかけまわしてただけでねえのか?」
「確かにそうです。高校生の時には正直迷惑してたこともありました。でも、耕作さんは他の記者さんとは違ってちゃんとあたしのことを考えてくれてたんです」
「そうかね? 自分の夢のためだったんじゃないかい?」
「そう言う面も否定できません。でも、それだけじゃないから励ましてくれたり、心配してくれたり怒ってくれたりしたんですよね。あたしはそういう優しさに気付くのが遅くてとても遠回りしてしまってそれでも耕作さんは大きな心で受け止めてくれたんです。あたしは耕作さん以外の人のことなんて考えられません」
穏やかな表情で耕作への思いを語る柔に母は胸がいっぱいになる。この子は本当に耕作が好きなんだと感じた。義理や情で耕作を選んだんじゃない。柔にとって耕作は掛け替えのない存在なのだ。
「ありがとうね。そこまで耕作を想ってくれて。やっぱり俄かには信じられなぐてね。あの子は何年も前に柔さんの事を話してくれてね、その時はバカなこと言ってんじゃないって思ったんだけっど……」
「あたしの事、話してたんですか?」
意外だった。さっき両親にも交際していることは話してないと言っていたのに、柔のどんなことを話していたのだろうか。
「いやね、あれはいつだったかな。前の前のオリンペックの時べか。耕作が取材でこっちに来ててその時に邦子さんも一緒でね……」
「邦子さんも?」
「誤解しねえでね、取材でちょびっと寄ってすぐ帰ったんだけっど、私たちはてっきり彼女ば連れ来たんだと思ったの。でも、耕作は邦子さんのことは同僚でそういうんじゃないってきっぱり言ってね」
柔はホッとした。でも、少しだけ胸にもやもやしたものが残る。
「相手がいねえのなら見合いでもしねえかって言ったの」
柔は驚いた。耕作とは年齢差があるから両親がそう言う心配をしていても無理はない。
「お見合いしたんですか?」
「いやいや、断ってくれって言われたよ。でも、彼女いるなら別だけどいねえなら見合いしろって言ったんだけど、頑なに拒否するから理由ば聞いたら……」
ここで黙ってしまった。柔はまだ自分がその回想に登場していないことが気になった。
「あの、その理由があたしですか?」
「あ~そうなんだげっどね、耕作には秘密だべ」
「はい。言いません」
「耕作ね『相手ならいるよ』って言うの。それはね好きな人って意味なんだべうけど、言い方がもう心に決めた人って聞こえて」
「心に……」
柔は赤面する。時期はどうやらソウル五輪の前。以前に耕作から聞いたソウルのオリンピック公園で告白をしたと言うのは嘘じゃなかったのだ。
「金メダル獲って、世界選手権で優勝して柔さんはどんどん遠い人になっているように感じてね、耕作も諦めるがなって思ったのよ。実際、記者やめようがななって言ったこともあって」
「それって、バルセロナ五輪の前の年ですよね?」
「んだんだ。取材で帰って来ててその時にねぽろっとこぼしたのよ。その何年か前にお父ちゃんが倒れたのもあって記者やめてここば継ぐとかって言い出してね」
柔はその話を邦子を通して聞いた。だからこそスクラップしてあった耕作の記事を読んで、この人は絶対に記者をやめちゃいけない人なんだとわかった。自分が柔道をすることで辞めないでいてくれるなら柔道をしようと思ったほどに。
「それで、耕作さんにはなんて?」
「バカこくでねぇ! って柿投げつけたよ」
「柿!?」
柔は想像すらしてなかったことに思わず声が出る。
「そうさ。ユンゴスラビアの時にお父ちゃんが倒れて取材に行けなくて、でもどうしても行きたいって言うから金貸して送り出したのにほだなこと言うから頭来て、思わずね」
そう言った笑う母に柔も思わず笑う。でも、その目には涙が溢れていた。
「どうしたの? 邦子さんの事なら全然気にしねえでよ」
「いえ、違うんです。嬉しくて。あたし本当に鈍くて気づかないことが多くて、お義母さんたちがいたから柔道続けてくれたんだなって思うと何だか胸がいっぱいで。ユーゴスラビアの時も耕作さんがいなくて心細くて、決勝でもし耕作さんが来てくれなかったらあたしきっと負けてました。それにバルセロナの前年の秋にお義母さんが耕作さんを突き放してくれたおかげでこんなあたしを辛抱強く説得してくれたんだと思うんです。だから今日はお話聞けて本当によかったです」
「そうかい。それならええんだけっど。あ、そうそうアルバムでも見るかい?」
「アルバムですか……?」
「耕作の小さい時の写真とかあるのよ。あの子、上京する時全然持って行がなかったから全部ここにあるの。んだけども見たことないでしょ」
「それは是非見たいです」
母は部屋を出ると暫くして3冊ほど分厚いアルバムを抱えて戻ってきた。
「これ見て、生まれたばかり」
「わー可愛いですね」
「今とは大違いでしょ。んでこっちが初めてかまくらに入った時。んで……」
「これは柔道の道着ですか?」
薄暗いところで撮った写真なのであまり鮮明ではないが、畳の上に座る小さな耕作が写っていた。周りには他にも子供がいて、真剣なまなざしで何かを見ていた。
「これはね、ここに引っ越してくる前にいたどごで数か月だけ柔道ばやってたのよ」
「聞いたことないですね」
「あの子も覚えていねずのよ。たまたま近所に道場があって試しに行ってみようってなって、それで受け身くらいは出来るようになって引っ越したから」
「ああ、だから……」
「どうかした?」
「い、いえ……」
思い返せば、過去に数回耕作を投げ飛ばしたことがある。素人だったらきっと気を失っていたかもしれない。でもそんなことを耕作の母には口が裂けても言えない。
アルバムには他にも耕作の成長の記録が保存され、小学生の生意気そうな顔や中学校入学式の大きな学ランで照れて写るもの、そして高校の卒業式で満面の笑みを見せる耕作がいた。どの表情も全て柔には新鮮でもし同じ学校に耕作が先輩でいたらどんな感じだっただろうかとか考えるだけで楽しい。
「大学は東京に行きたいなんて言いだした時には驚いたわ。しかも新聞記者になりたいとか言うんだもの」
「反対されたんですか?」
「少しな。あの子は昔からスポーツ選手ばテレビや新聞で見ては目を輝かせてたからスポーツ関係の仕事に就くだべなとは思ってたけど、まさか記者になりたいとは思ってなかった」
ページをめくると高校生くらいの耕作が陸上競技のユニフォームを着てピースサインをして写っていた。
「これはね高校二年生の時、市の大会に出た時のもの」
「競技は何だったんですか?」
「ハードルだっけのがな。結果は特によくなかったけど、そこそこ足が速くてジャンプも出来たみたいよ」
思い返せば、耕作はよく走っていた。記者と言う仕事柄、取材対象を追いかけるものかもしれないがバイクがない時は自分の足で走った。柔が特に覚えているのは91年のクリスマス・イヴ。柔が乗るバスと並走してプレゼントまで投げ入れるという芸当も見せてくれた。運動神経は悪くないとは思っていたが、天才的な柔に比べると普通と言わざるを得ない。
「これはお誕生日の写真ですか?」
「ああ、耕作が8歳の時がな。誕生日くらいは好きなものばと思って色々とご馳走ば作ったのよ。普段はあまり構ってあげられねえから」
テーブルの上にはケーキやから揚げ、巻きずしなどが乗りその中で異彩を放っていたのがどんぶりに入った野菜あんのようなもの。
「あの、これは何ですか?」
「ああ、これは『だし』って言うのよ。多分、この辺の料理んだけども知らねえかもね。夏野菜ば細かく刻んで醤油なんかで和えるのよ。ご飯や冷奴に乗せて食べると美味しいの。これも耕作の好物だっけな」
NYにいてもきっと東京で一人で暮してた時も、ハンバーガーやカップ麺などの即席の高カロリー食品をとっていた耕作がこんな健康的な料理が好きだったとは驚きである。しかも子供の頃に好きなら今も好きに違いない。
「あの、『だし』の作り方って教えて貰えませんか?」
「へ? あんなものでよければ教えるけど」
「ありがとうございます!」
柔は満面の笑みでお礼を言う。野菜不足の耕作にはうってつけの食べ物だ。NYで手に入る野菜でも出来そうだし、ご飯のお供になるがまたいい。
柔は一生懸命メモを取った。
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vol.4 松田家での夕食会
軽ワゴンに乗って植田旅館に向かった耕作と父。村はのどかでそこかしこに桜が咲いて、道端にはたんぽぽが黄色く揺れている。
「この辺はあんまり変わんねえな」
「まあな。道が綺麗になったくらいだべうか」
人も車もあまり通らない道の脇には、サクランボ畑があり今まさに収穫時期で赤いかわいい実が鈴のようにぶら下がっている。
「未だに信じられねえ」
「んあ?」
「お前があの猪熊柔ば連れて来るなんて」
「親父にはやめとっけって言われたもんな。俺だってあの前からずっと自分とは釣り合わないことも、もっとその差が開いちまうことも分かってたんだけどな」
「諦めきれねかったのか?」
「最後のチャンスに賭けたってとこだな。アメリカに行く前にけじめつけようって思ったら上手く行ったんだよ」
国民栄誉賞授与式から逃げるように空港に行った日、自分の手を取って一緒に走ってくれたことに一縷の望みを賭けた。長年追い掛け回しても見えなかった気持ちの片鱗が見えた気がした。
「案外、普通の娘だったな」
「そうだろ。でも、柔道は強いんだ」
民宿の組合長でもある植田家は車で数分の距離なので、雑談に花が咲く前に着いてしまった。ぎっくり腰をやった組合長は起きることもままならず、妻が出迎えてくれた。
「すみねえ、松田さん。無理言って来てもらって。お体は大丈夫だべか?」
「いや、こっつも久美ちゃんには助けてもらったけばお互い様だべ。それに今日は耕作が帰って来てるからこき使ってくれ」
「あら! 随分逞しくなって。アメリカにいるって聞いてたけど、帰って来てたの?」
耕作の記憶よりも随分歳をとっていたが、優しい笑顔は変わっていなかった。
「お久しぶりです。仕事で帰国したんでついでに顔見せとこうと思って」
「そりゃ嬉しかったね。ああ~前もって知ってれば久美子にも言ってたのに」
「久美ちゃんは今日はいねえのか?」
父がキョロキョロする。
「泊まりで出かけてるんだず。帰ってくるのは今日の夜か明日の朝がな」
「旅行か、ええな」
「いやいや、お使いで東京に行ってもらってるんだわ。ついでに遊んでええかって言うから、そうしなって言ったんだ」
「入れ違いだったんだな。で、手伝いって何?」
立ち話もそこそこに仕事に取り掛かる。この民宿植田はこの地域では一番古い民宿で建物のあちこちにガタが来てる。本格的に修理するのはスキーシーズンが終わった5月中旬以降なのだが、その前に応急処置は必要なのだ。それを手伝って欲しかったようだ。
2時間ほどで終えると、お礼のお酒をいただいて帰路に就く。外は夕焼け色に染まっていた。
「植田の長男がな今年の夏には帰ってくるみたいだな」
「だから改修工事をやるんだな。おじさんも張り切って片づけて腰やったんだろ。で、兄ちゃんはどこに行ってたんだ?」
「東京で勤めてたらしい」
そういう父に耕作は何も言えなかった。いつかは実家を継ぐなんてことを考えたことはなかった。ただ逃げ道に使おうとしたことはあったが。
「お前はほだなこと考えなくてええ」
「え?」
「ウチば継ごうとか考えなくてええってことだ。そのつもりもなかったんだ」
父の表情からそれが本位かどうかわからない。でも、耕作はもう記者として生きていくことを決めているし山形に戻るつもりはない。それにもう一つ耕作はずっと考えてきたことがある。それはあまりに突拍子もなくて、でも自分にとっては最善だと思っていることだが一人では決められない。
「なあ、親父、ちょっと相談なんだけど……」
先延ばしにはできないことだから、この機会に言っておかなくては。車から見える景色に懐かしさを覚えながら、耕作は自分の思いを口にした。
「おかえりなさい」
エプロンを着けた柔が台所から出てきた。耕作の母と一緒に料理をしていたようで、とても楽しくしていたことがその声からも伺えた。
「二人とも風呂入っちまいな。夕飯はその後だ」
「柔さんはお客さんだし最初の方がいいんじゃないか?」
「いえ、あたしは後でいいです。もう少しお料理教わりたいので」
「柔さんは普段から料理してるんだね。手際がええ。耕作はええお嫁さんば貰うよ」
「そんな……これくらい普通ですよ」
世辞じゃなく本心で言う母の言葉に、照れて赤くなる柔。いつの間にか距離を縮めた二人を喜ばしく思うが耕作の心中は複雑だった。
父と耕作が風呂に入ったあと、居間のテーブルには溢れんばかりの御馳走が並びお祝いの用意が整っていた。
「これやすげぇや」
これだけの料理を用意するのに前日から準備していたのかもしれない。それだけ母は耕作が彼女を連れてくることを心待ちにしていたのだ。どんなお嬢さんが来ようともてなそうという母の心に耕作は胸が熱くなる。
「これ、なにボーっとしてんだず。さっさと座れ」
父もやって来て全員がテーブルに着くと食事が始まった。お酒もふるまわれたが、6年前に脳溢血を患った父もいたため控えめな祝い酒となった。
「久しぶりの『だし』だ。でも、この時期に珍しいな」
そう言って耕作はご飯の上にだしを乗せ食べた。そしてそれを固唾をのんで見守る柔と母。
「あーやっぱりだしはご飯に合う」
「おいしい?」
母がそう聞くと不思議そうに耕作は「ああ、うまいよ」と返す。
「聞いた柔さん」
「はい。耕作さん、それあたしが作ったんですよ」
「え! そうなの? おふくろのと変わんない味だと思うけど」
「そりゃ教えて貰いながら作ったんですから。あまり変わらないとは思いますよ。それに作り方は覚えたので調味料さえあればNYでも作れます」
「じゃあ、上手い白米を用意しないといけないな」
「アメリカにはなかなかないですからね」
和やかに話す二人を優しく見つめる両親は心からホッとしたようだった。そして父が無意識に何度も箸を伸ばす料理がある。
「父ちゃん、随分気に入ってるみたいだな」
「ああ、これうまいな。初めて食べるけど」
「それも柔さんが作ってくれたんだ」
「そうなんだべか? へーこれが東京の料理か……」
「これはうちの定番で。祖父が山形出身で好んで食べていたから、こちらの味と似ているのかもしれないですね」
「おじいさんってあのよくテレビに出る人だべね? 山形だったのかい?」
「ええ。祖父が言うにはそのようです」
「里帰りなんかはしねえのかね?」
「私は見たことがありませんね。親戚の話なんかも聞いたことがないです」
実際、滋悟郎が山形の親戚と話しているとところは電話でも見たことがない。柔が有名になってもそれは変わらないようだった。
「そう言えば、昔住んでたどこの近くに柔道の道場があったな。案外、そこに若い時に通ってたりしてな」
ほろ酔いの父が思い出す。
「いや~それはないだろう。滋悟郎さんは山で修行して熊を相手にしてたんだぞ」
「ちょっと、耕作さん……そんな話、嘘ですよ。熊なんて人間が敵うわけないじゃないですか。真に受けないでください」
「ごめん、ごめん。でも、滋悟郎さんならあるかもなって思うじゃないか」
「ないですよ。猪でも無理です」
「そうかあ?」
「そうですよ」
二人が楽しそうに話す様子がとても自然で両親はあらためて、耕作と柔の共に歩んできた道のりを感じられた。一方的に思うのではなく、お互いに思い合っていることが傍から見ても分かるのだ。
「なあ、明日は何時に東京に戻るんだ?」
夕食も終盤に差し掛かった頃、母が訊ねた。
「お昼の新幹線で戻る予定です。ねえ、耕作さん?」
「あ、うん……」
「なんだあ? 東京に戻るのが嫌になったか?」
「そんなわけないだろ。ただ……」
耕作はさっきまでの緩みきった顔から真面目な表情へと変わった。
「ただ、なんだ?」
「あのさ、ちょっと相談というか聞いて欲しい話があるんだ。柔さんに言ってから明日、母ちゃんにも言おうかと思ってたんだけど、やっぱり今聞いて欲しい」
「なんだべ?」
「ずっと前から考えてたんだけど、俺、柔さんには猪熊のままでいて欲しいんだ」
柔は耕作の言っていることの意味がよくわからない。でも素直に受け取ると見える答えはこれしかない。
「え? それは結婚しないってことですか?」
「違う、違う。俺が猪熊の姓になるってことだよ」
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vol.5 耕作の提案
「違う、違う。俺が猪熊の姓になるってことだよ」
今度は母が驚く。だけど隣に座る父の表情は変わらない。
「つまり婿養子になるってこと」
「なんで、そんなこと……意味が分かりません」
「そりゃそうだよな。でも、ずっと考えてた。柔さんが俺と結婚して松田になっても試合には猪熊で出られるから問題ないけど、俺としてはこの先も柔道と言えば『猪熊』っていう姓が残って行って欲しいんだ」
「子供のことけ?」
「ああ。将来的に子供が生まれて俺は本人が拒否しない限りは柔道をさせたいと思ってる。試合に出る時に『猪熊』の姓を名乗って欲しいんだ」
「どうして……」
「滋悟郎さんが確立した『猪熊柔道』は後世にも残すべきだ。一本勝ちを信条とする柔道はこれからもっと必要になる」
「でも、そうしたらこの家はどうなるんですか? 耕作さんは一人っ子で……」
「それは気にしなくてええ」
黙っていた父が口を開いた。
「この民宿は俺が好きで始めたものだ。それに母ちゃんも付いて来てくれたんだ。んだけども俺はこの民宿ば耕作に継いでもらおうとか思ったことはないし、松田の姓に関しても兄貴や弟がいっから消えてなくなるわけじゃないし」
「そう言われればそうね。うちが長男家系なら残したいとは思うけど、父ちゃんは四男だし、長男さんには跡取りもきちんといるしね」
「だろ。でも、猪熊は柔さんが残さないと消えちゃうんだ。親戚はいるだろうけど、付き合いがなくて柔道に関係ない家だったら失くしてしまうのはもったいないと思ったんだ」
「でも……そんなこと考えたことも無かったから」
「すぐに決めて欲しいわけじゃないんだ。俺も言い出すのが急になって申し訳ないって思ってるし。でも、いざ結婚が見えてきたら俺としては『猪熊』の姓がとても重要に思えたんだ。親父たちには悪いけど」
「だから気にしなくてええ」
柔はそういう耕作の父と母の表情をまともに見れなかった。本当に考えたことがなかった。結婚したら当たり前のように「松田」になると思っていたし、試合にも「松田」で出るつもりだった。かつて富士子がそうしたように。
夕食の片づけが終わり、柔はお風呂に入った。何をしていても、頭の中で「猪熊」の姓が離れない。自分がどうしたいのか選択肢を投げられて戸惑っている。
二階に上がって部屋に戻ろうとしたとき、食堂に灯りが点いていた。
「柔さん、お茶でも飲まないかい?」
耕作の父がいた。
「あ、ありがとうございます」
風呂上りなので冷たいお茶を貰うと、二人向かい合って座った。
「耕作が急にあだなこと言いだして混乱させたね」
「いえ、ただ考えたことも無いことだったので驚いてしまって。それにやはりこの民宿や松田という姓についても考えてしまって」
父は申し訳なさそうにささやかに笑みを浮かべた。
「随分前んだけっど、耕作は記者になりたいと言って東京に無理矢理出て行ったんだ。母ちゃんは反対してたけど、俺はそうでもなかったんだ」
「どうしてですか? 民宿継いでもらおうと思わなかったんですか?」
父は何かを思い出すように微笑む。その表情が耕作に少し似てた。
「子供の頃からあいつは野球だプロレスだマラソンだってスポーツが好きでね。自分でやってたのは陸上だったけど、才能がないことはすぐにわかったんだ。でも、スポーツに対する情熱が消えることはなくていつかここから出ていくんじゃないかって思ったんだ。ここはあまりに狭いからね。そう思っていたら継いでもらおうなんて思わないだろう。さっきも言ったけど、俺がここば作ったから耕作には関係ないんだ。耕作が進みたい道があればそれでええ」
「でも、一人息子じゃないですか」
「別に親子の縁ば切るってわけじゃないんだ。柔さんのこともこれからは本当の娘のように思うし、世間体の事を考えているならウチの事はもう気にしねえでくれ。ただそちらが気になるのなら話は別んだけども」
柔はあらためて耕作の父を見ると、自分の父とは違って随分小さく、随分弱く見える。それは歳が上なのもあるが病気をしたこともあるのかもしれない。
「ウチのことは家族に聞いてみないとわかりませんが……」
「そうだべ、相談してから決めてもええと思う」
「はい……」
暫く続く沈黙。柔も何を話していいのかわからない。時計の針の音だけが聞こえる。
「あのさ、柔さん」
「はい?」
「俺が病気したのは知ってるかい?」
「はい、6年程前ですよね」
忘れもしないユーゴスラビアの世界選手権の時。試合会場に耕作がいなかったことが柔の心に大きく影響した。
「そうだ。その時に耕作は仕事ばほっぽりだして山形まで来てくれた。そりゃ嬉しかったけど、記者になるって東京に出てずっと追いかけてたあんたの試合ば見届けねえでどうするんだって思ったよ。でもな、あの時の耕作はもう柔さんに記者以上の気持ちがあったようなんだ」
昼間に耕作の母から話は聞いていた。でもここは黙って聞いていた。
「ソウル五輪の前に帰って来た時に、好きな娘がいるようなこと言っててなその娘がオレンペックに出るって言うからもうあんたしかいないって思うだべ」
柔はどう返事していいのかわからない。
「俺は倒れた時に耕作が仕事放り出して来て、柔さんに対する気持ちはその程度かと思ったんだ。んだから耕作に言ったんだ。『あの娘はやめとけ』って」
柔の表情が固まる。
「耕作は昔から長嶋や力道山たちスポーツ選手の活躍に興奮してたんだべ。それはただのファンで柔さんに対しても同じなんだと思ったから、『やめておけ』と言ったんだべ。それでも、あいつはユンゴスラビアに行ったんだべ。それにはさすがに感服したべ。まあ、母ちゃんがけしかけたのもあるようだけっど」
記者として追いかけているのか、ファンとして見てるのか、一人の女性として見ているのかそれは耕作自身にしかわからないが、きっと耕作もまだはっきりしていなかったのだろう。
「俺は、その時に柔さんは国民的英雄になったら、お前なんかが釣り合うわけがないと言って目を覚まさせようとしたんだ。倒れた父親がそこまで言ってもあいつはあんたば諦めなかったんだ。んだけもら俺は耕作が決めたことに反対するつもりはない。あいつの信念はもう決まってる。ただ、柔さんに無理強いすることはないと思うが」
「そうですね。耕作さんは自分の主張もしますけど、最終的にあたしのことを考えて結論を出してくれます。受験の時も就職の時もそうでした。結局いつもやさしいんです」
「そう言ってくれるなんてありがとうな。母ちゃんにも言われたんだ。釣り合いが取れねえかもしれねえってこっちで勝手に思ってるけど、柔さんだって普通の女の子だから大丈夫だって。実際、会って見てそうだなって思った。料理が好きでよく笑う普通の女の子だっけのな」
「もう女の子って歳でもないんですけど……」
「俺たちからしたらまだまだ子供だべ。耕作も柔さんも」
穏やかな笑みを浮かべる耕作の父に柔の心がじんわり温かくなる。様々な思いがある中で相手の気持ちを考えて選ぶことができるのは優しくて強い証。今日、初めて会うのに柔とその将来のことまで考えてくれる耕作の父に心から感謝した。
「話はそれだけだ。後悔がないように二人で決めてくれ。じゃあ、おやすみ」
重い腰を上げて立ち上がると、ゆっくりとした足取りで階段を下りる。すると、階下には耕作の母が物知り顔で立っていた。
「何話してたんだべ?」
「ちょっとな」
「そう。じゃあ、もう寝るべ」
食堂から部屋に入った柔は窓から空を眺めた。そこには東京では見る事が出来ないほどの、星々が輝いていた。きっともっと山の方に行けば沢山の星が見えるのだろう。でも、ここでも十分美しい。
その中でも一層輝いている星がある。それを耕作は柔のようだといった。いつも一番輝いている星。みんなの目標になる星。でも柔はそれを望んでなったわけじゃない。誰よりも輝きたいとか思ってないし、いつまでも目標でいられる自信もない。もし柔が負けてしまうようなことがあればあの星は変わってしまうのだろうか。
柔が得てきた名誉の数々は消えることなくそこにあるだろうが、何かが変わり何かを失うような気がして不安を覚えた。
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vol.6 当たり前を考える
朝日が差し込み目が覚める。いつもと違う部屋、違う布団で現実に戻ってくる。
日課である、ランニングをするためにジャージに着替えてそっと民宿を出た。お客がいないので耕作の両親もまだ眠っているようだった。
「おはよう、柔さん」
「おはようございます。やっぱり起きてたんですか?」
「そりゃね。君が日課のランニングに出るのはわかってたから、この辺の案内も兼ねて一緒に行こうと思って」
「ありがとうございます」
「でも、目立たないように行くから。近所の人こそ見つかると面倒なんで」
平日の早朝とあって外に出ているのはお年寄りばかりで、数も多くない。それに二人のランニングの速度はかなり早くあっという間にいなくなってしまうのだ。
「昨日、色々考えたんです」
「そうだろうなって思った」
耕作も走りながらの会話も最近は慣れてきた。それに今日はそのつもりもあった。
「いつから考えてたんですか?」
「そうだな……具体的にいつってわけじゃないけど、本を書いていた時に滋悟郎さんとカネコさんのことを知った辺りからかな。漠然とだけど頭の片隅にあって、それがだんだん違和感になっていった」
「あたしは十代の時には『猪熊』って名字が大嫌いだったんです。男の子から猪と熊だから気が強いとか男っぽいとか言われて、その上新聞に載った時には真っ先にあたしを疑って。でも、いつか結婚したら名字が変わるしって思ってたんです。実際、富士子さんが『伊東』から『花園』になった時は羨ましいと思いました」
田んぼと畑が広がる農道を走る。畦道にはタンポポが咲き、田んぼにはレンゲの鮮やかなピンク色が風に揺れていた。
「なんていうか、普通はそう思うしそれが当たり前みたいなところが日本にはあるよな。女性は夫の籍に入ってこそ幸せになるみたいな。でもさ俺はそうは思わない。どこに籍があろうと、幸せになれるしそう努力しなくちゃいけない。人がそれぞれ違うように、それぞれの夫婦にはその二人に合った幸せや生活があると思う」
「それが耕作さんは『猪熊』の姓を残すことなんですね」
「それだけじゃないけど、それも大いに関係するってこと。でもそれは俺が一方的に考えたものだから柔さんには柔さんの考えがあって当然だから一度考えてみて欲しいと思ったんだ。当たり前を何も考えずに通り過ぎる時代はもう、終わったんだよ」
バブル経済が終了し、大きな災害と前例のないテロ行為。変わりゆく日本の社会は過去の習慣を考え直すいい機会なのだ。
民宿に戻ってくると、耕作の母は朝食の準備を始めていた。
「おはようございます! すみません、何か手伝うことはありますか?」
「おはよう。朝ご飯なんてちゃちゃっと出来るものしか作らないからええんだべ。それよりお風呂入っておいで」
「でも……」
「ええんだよ、普段はもっと沢山の朝食を父ちゃんと二人で作ってるんだ。これくらいなんてことないべ」
口調から怒っているようではないし、本心なのだろうが柔はとても気にしていた。
「そうだよ、柔さん。気にすることないよ。それより風呂入っておいで。俺も後で入るから」
「いえ、耕作さんが先に」
「いいんだって。さあ、行った行った」
押し切られるように台所を追い出された柔。頼りない気が利かない嫁だと思われたら、耕作に申し訳ない。失敗しないように気をつけていたが、上手くいかないこともある。
朝食後はしっかり後片付けをして、居間に戻る。すると縁側で耕作と父が庭を見ながら話していた。広い庭じゃないが松やツツジの木があり手入れされた綺麗な庭には、両親の民宿に対する誠意が見える。
「ここで親父に遊んでもらったんだよな」
「そうだっけ?」
「近くの公園でキャッチボールしたりしたよな」
「お前がせがむからな。忙しいってのに、すこすだけって。兄弟でもいればよかったんだべうけどな」
「近くに友達もいたし、別に淋しいなんて思ったことないよ。好き勝手やらしてもらってるし」
「昔は子供が沢山いたもんな。今は随分減ったが」
「やっぱりみんなここを離れて行ったのか?」
「そりゃな。ここは冬しか儲からねえし、兄弟が沢山いても宿屋にそんなにはいらないしな。都会に出て働いた方がええって思うだべ」
「植田の兄ちゃんは戻ってくるんだろう」
「ああ、あそこは跡取りだからな。そういう約束だったんだろう。外での経験も何かの役に立つだべうし」
「そうだといいな。で、今年の冬はどうだった?」
「いまいちだな。景気が悪くなって真っ先に切られるのは娯楽だ。しかもスキーってのは金がかかるらしい。お客さんは随分減ったよ」
「そっか……」
「でも、食っていけねえわけじゃないからお前が気にすることはねえ」
「二人とも、そんなところでボーっとして。耕作、そろそろ支度しねえと」
柔の後ろから母が言う。マンガみたいにびくっとした二人は振り返り、耕作は重い腰を上げた。
新幹線までまだ時間はあるが、せっかく山形まで来たので近くの桜の名所にまで足を運ぶことになった。今が見ごろだと聞いたら行かないわけにはいかない。
車で10分程の場所に、川に沿うように桜の木があり淡いピンクの桜が満開を迎えていた。遠くに見える山との景色も素晴らしいが、赤い鳥居が何本も並ぶ中に咲く桜もまた美しい。
「わー綺麗ですね。東京の桜とはまた違った趣がありますね」
「田舎だからな。それに今日はあまり人もいないし」
とは言っても、柔は有名人なので帽子と眼鏡で変装はしている。山形で目撃情報が出れば耕作との関係を蒸し返されることにもなるし、そうなると色々と厄介なのだ。
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vol.7 植田久美子
思えば日本でデートをするのは初めてだ。二人は手を繋いで桜並木を散策した。暖かい風が吹いて、春の香りがNYでの暮らしの喧騒を忘れさせる。
「あ! カメラ忘れた!」
耕作が不意にそう言って手を放す。
「取ってくるから待ってて」
車の後部座席に置いたままにしていたのを思い出す。走って行けばそんなに時間もかからない。柔は桜の木の下でぼんやりとこの穏やかさを満喫していた。
一方、駐車場まで走った耕作はカメラを持って引き返す。折角、山形まで来て桜も満開でカメラもあるのに撮らないなんてもったいない。急いで戻ろうとしたとき、聞き覚えのある声が聞こえた。
「耕ちゃん!」
一瞬自分を呼んだ声だと思わずそのまま走り去ろうかと思ったが、ここは山形。幼い頃には自分をそう呼ぶ人が少なからずいた。耕作は振り返って声の主を確かめた。
「ねえ、覚えてる? 私、久美子」
長い黒髪をなびかせた、少しぽっちゃりした女性がそこにいた。黄色いワンピースが春らしく、幼さの残るかわいい瞳をしていた。
「久美子? 植田の?」
「そう。耕ちゃんだよね?」
「ああ、でもどうしてここに?」
「おばちゃんに聞いたの。昨日、耕ちゃんが帰って来てるって母ちゃんが言ってて、まだいっがなって尋ねたらここに行ったって言うから」
「久美子は昨日は泊まりの仕事だって聞いたけど」
「うん、今朝帰ってきたの」
話ながら二人は近づく。耕作が最後に久美子と会ったのは多分大学進学が決まった時。久美子はまだ中学生だった。そのころに比べると大人っぽくはなったが、やっぱり中学生の時の面影が見える。
「耕ちゃん、随分変わったね。最後に会ったのは14年くらい前だよね。全然、帰って来てくれねえんだもん」
「たまには帰ってたさ。でも、仕事とか親父の事とかでなかなか顔出せなかったんだ。ごめんな」
「別にええんだけっど」
拗ねたように口を尖らすのは昔と変わらない。久美子の兄とは歳が近くよく遊んでいたが、その傍らに久美子がよくいたが女の子で小さかったからよく置いて行かれては泣いていたのを思い出す。
「あのさ、親父が倒れた時、民宿の手伝いしてくれたんだって。ありがとな。俺、何も出来なくて」
「そんなことくらいお安いご用よ。この辺りは皆助け合って行がなきゃいけないんだから。でも、帰って来てたんでしょ。それだけでもきっとおばちゃんたちも安心したんじゃないかしら」
「その後、すぐに仕事に戻って申し訳なかったな」
「ユーゴスラビア? だっけ? 記事読んだわ。間に合ってよかったわね」
「ああ。ギリギリな」
今、思い出してもあの試合に間に合ったのは奇跡としか思えない。タクシーのおじさんは元気にしているだろうかと、ふと思い出すことがある。
「写真、撮るの? 桜、綺麗だもんね」
「ああ、またすぐにNYに戻るし思い出にな」
「いいなー東京に出ただけでも羨ましいのに、今はNYでしょ。暮らしにはもう慣れた?」
「そりゃな。でもな俺は人がうらやむような生活はしてないぞ。アメリカは広いからNYにいないことの方が多い。それに飯も量が多いし、やたら味が濃いしくどい。日本人にはきついぞ」
「でも、何か逞しいよね? アメリカの人みたい」
「体力がないと続かないからな。それなりにトレーニングはしてるよ」
「そうなんだ……」
久美子の表情はさっきまでのものと変わった。目線を逸らして、口ごもっただが意を決したような強い目をして耕作に一歩歩み寄る。
「どうして、お見合い断ったの?」
「は? なんだ、急に?」
「随分前に、私とのお見合いの話が出たでしょ。知ってるわよね?」
「あ……ああ。でも、あれは話が進む前に止めたはずだが」
「でも、私は……楽しみにしてたの。耕ちゃんに会えるの楽しみにしてた。東京に行く覚悟だってできてた」
「なんでそこまで……」
「わかんないの? 私、ずっと耕ちゃんのこと好きだったんだよ。東京に行くって聞いてショックだったけど、いつか大人になったらきっと振り向いてくれるって思ってた」
「幼馴染で仲は良かったけど、妹みたいに思ってただけだし」
「わかってる。でも、今もそう? あの頃とは違うでしょ」
「そりゃ、違うけど。俺は……」
「ごめんね。困らせるつもりじゃなかったの。お見合いの話が出て断られて、やっぱりそう思ってたのは私だけなんだってわかったから、今はもうただの思い出なの」
耕作は何と言っていいかわからない。幼い頃に何か約束したわけじゃないし、付き合っていたわけじゃない。久美子が抱く思いを気づかなかっただけ。
「それに私はここが合ってるし。東京は住みにくいわ」
「慣れればどこも同じさ」
「この田舎の狭い世界から連れ去ってくれる人を待ってた。それが耕ちゃんだと思ってた。勝手な話だけど。でも、違った。だって耕ちゃんはもっと広い世界に出て行ってしまったもの」
久美子の目線が耕作の後ろに向けられた。振り返る耕作の目には柔が迷いながら近づいているのが見えた。
「久美子、俺にもその気持ちは少しわかる。俺の世界を広げてくれた人がいたんだ。俺はその人と一緒に行くって決めたから」
「そう……だから山形に帰って来たのね」
「うん。だから……」
「気にしないで。私にもいい人はいるの。ただ、一目会いたくて、会ったら文句が言いたくて、八つ当たりだけど、それだけよ」
さっきまで数メートル離れていた柔はじわじわと距離を詰めていた。声を掛けてもいいのかいけないのか。耕作は振り返って認識はしているようだけど、何も言ってこないってことは声を掛けない方がいいのか。でも、何やら怪しい雰囲気に柔は思わず声を掛けた。
「耕作さん? お知り合いですか?」
「あ……待たせてごめん。そう、幼馴染なんだ」
「初めまして、植田久美子です」
柔よりは少し年上の、可愛い雰囲気の女性。柔は一度、耕作を見ると頷いて合図をくれたので向き直った。
「こちらこそ、初めまして。猪熊柔です」
「え! あの、猪熊柔?」
「こら、呼び捨てだぞ」
「ごめんなさい。え? でも、なんで? 二人は付き合ってないって新聞に」
「あれは嘘だよ。騒動を静めるための嘘」
「そうなんだ……」
久美子は何か納得したような顔をして柔和な笑みを見せた。
「でもよかった。耕ちゃん、フラれたんだと思ったから」
「はあ?」
「だって絶対好きだったよね。記事見てれば誰だってわかるもん。それであの授賞式の後の交際否定記事見て、玉砕したんだと思ったの」
「そんなにわかりやすいか?」
「うん。あの、猪熊さん」
「はい」
「耕ちゃんを選んでくれてありがとう。不器用だし暑苦しいけど、優しさは誰よりもあるから幸せにしてあげてね」
突風が吹いて久美子は顔を背ける。その時、涙が光っていたのを柔は見逃さなかった。
「ありがとうございます。これからも二人で支え合いながら歩んでいきます」
「あ! そうだわ! 写真、撮ってあげる。ツーショットなんてあんまりないでしょ」
久美子は強引に二人を桜並木まで連れて行き、鳥居の横で写真を撮った。レンズ越しに見る二人は本当にお似合いで、そして遠い存在のように思えた。
「そろそろ帰らないと。新幹線の時間が」
「もう帰るの? 慌ただしいのね」
「仕事があるからな。明日の夜には空の上さ」
「ご苦労さまね。でも、そんな離れ離れの生活でどうやって結婚まで至るのか不思議だわ」
「まあ、色々とな」
駐車場で久美子と別れ二人は民宿まつだに戻る。何か微妙な雰囲気に耕作は耐えきれなくなって口を開いた。
「あのさ、久美子はさ昨日俺と親父が手伝いに行った旅館の娘で、子供の頃によく久美子の兄と一緒に遊んだんだ。久美子はちょろちょろしてただけなんだけど……」
「耕作さん」
「なに?」
「あたしを選んでくれてありがとう」
「どうしたんだ、急に」
「さっき久美子さんに言われたでしょ。でも、あたしだけが言われていい言葉じゃないもの。耕作さんだって色んな人が過去にはいたでしょ。その人たちじゃなくあたしを選んでくれたから今ここにいる。だからうれしいの」
「過去って……そんな華やかな過去はないけどな。でも、柔さんこそ俺を選んでくれてありがとう。君の周りはいつだって君を狙う男が沢山いたからな。俺はヒヤヒヤしていたよ」
「沢山いたの? 全然気づかなかったけど。あ、おじいちゃんが追い払ってたのかしら」
「そうさ。だから俺は滋悟郎さんにも感謝してる。あ、もしかして後悔した?」
「してません。する必要なんてないもの」
そう言って柔は耕作の腕に絡み付く。
「お、おい。危ないだろう」
一本道には車は一台もなく、歩く人もいない。迷うことなんて何もない。障害物もない。これから二人は真っ直ぐ進むだけだ。
「植田久美子」登場です。この人は原作にも名前だけ出てましたので、新キャラではないのですが性格とかは勝手に考えました。
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思考の迷宮
vol.1 松田と羽衣
山形から東京に戻ってきた日の夜、柔と耕作はとある和食料理店にいた。狭いが個室を予約し、とある人を待っていた。
ドアが開き入ってきたその人は、相変わらずうだつの上がらない顔をしていたが耕作を見るなり目を輝かせた。
「すみません、課長。こんなところにお呼び立てして。紹介しますこちら……」
「松田記者だろ! 知ってるよ」
「え? 俺のこと知ってるんですか?」
国民栄誉賞授与式の時の映像は今でも珍事として放送されるが、耕作の顔はモザイクがかけられている。当時、リアルタイムで見ていても一瞬しか映っていないので、名前は知っていても顔まで知っている人は少ない。
「そりゃ、あなたのファンですから。松田記者の書く記事の熱のこもりようは、まるで試合を見ているかのようですよ。特に柔道が素晴らしかったが、アメリカに行ってからというものあらゆるスポーツの記事に独自の見解を示し、誰が読んでもわかりやすくそして興味を引く内容になっています。いや、本当に素晴らしい!」
褒められ慣れていない耕作は困惑気味だが、柔はニコニコ笑っている。
「さあ、課長、耕作さん、とにかく座りましょう。お料理が来ますよ」
3人が席について暫くすると、彩が綺麗な食事が次々と運ばれて来てテーブルの上は一杯になった。
「会話を遮られたくなかったので出来るだけまとめて用意してもらったんです」
「わかるよ。いい所で店の人が来ると、何か黙っちゃうからね。で、今日は何の会なの?」
羽衣はここに呼ばれた事の意味を全く察していないようだった。
「ご報告がありまして。あたしたち結婚することになりました」
「へー結婚……え!! 結婚って結婚? でも、二人は交際は否定していたし、それに松田記者にはあの豊満な彼女が……」
柔が怪訝な顔をしているが、耕作もまた同じ顔をしていた。
「課長は何を言ってるんですか? 耕作さんに会うのは初めてですよね?」
「いや、実は一度日刊エヴリースポーツに行ったことがあってね、そこで松田記者を見たんだ」
「そうだったんですか。でも、何のご用だったんですか。お会いした記憶がないんですが」
「いや、加藤忠の大仕事を終えた後、猪熊くんの様子がおかしくて。たまたま昼食の時の会話を聞いてしまったんだよ」
柔と耕作は顔を見合わせる。あの時、耕作は足を骨折していて柔がお見舞いに行った。その時、邦子が乱入して来てややこしいことになったが、そのことを同僚に話したことはない。
「女性が数名集まればおのずと出る話題だろう。恋愛事情についてのことで悩んでいるんだろうと思ってね、私はそう言うことには疎いけど力になりたいなって思ったんだ」
「それでなんで俺に会いに来てくれたんですか?」
「記事を読めば猪熊くんに特別な思いがあることはわかります。だから二人はもしかして何かあるのではないかと思って、それで猪熊くんが悩んでいるのではないかと思って訊ねたんですけど……」
「俺、不在でしたか?」
「いや、どの人が松田記者だろうと思って近くにいた女子社員に聞いたんです。そしたら自分の彼氏だって言うから、猪熊くんは三角関係で悩んでるのかって思うとなんか私には対処できないというか」
「それって、丸い眼鏡の胸の大きな人じゃないですか?」
「そう、その人。もう直ぐ結婚かなんて言ってて、何が何だかって思ったんですよ」
「それは間違いなく加賀くんだね。そんな嘘を言って回ってたのか」
「嘘? あの人は私に嘘を言ってたんですか?」
「なんていうか、思い込みの激しい人で願望を現実だと思っていたというか……」
「そうでしたか、それならよかった。いやね、松田記者が猪熊くんをしつこく取材するのは恋愛感情からかと思ってたけど、彼女がいるならなんでだろうと思ったんですよ。その時に、日刊エヴリーでちょうどゴシップ記事を良く取り上げててもしかしたら……」
羽衣は口ごもる。これはさすがに言ってはいけない。
「もしかしたらなんですか?」
耕作が気になって問いかける。羽衣は柔の方に目を向けるが、首を傾げているだけだった。
「あの……猪熊くんは本阿弥社長、当時の風祭社長とも知り合いなんだろう?」
「ええ、高校生の頃に知り合って、さやかさんのコーチになってもよくしてくれました。でもそれがどうしたんですか?」
「会社で絵葉書を拾ってそれが風祭社長から猪熊くん宛てで、まさかこの二人が交際してるのかと思ったんですよ。でも風祭社長は婚約者がいてそれはライバルのさやか嬢。これが公になれば大変なことになる。もしかして松田記者はそれを狙ってるんじゃないかと思ったんですよ」
「絵葉書……? ああ、そう言えば貰いました。でもおつきあいとかそういう関係ではないですよ」
「俺もゴシップは不本意だけど、人手が足りないから書かされてただけで本当なら書きたくないんですよ。それに風祭と柔さんのことはそれとなくわかってましたから。目を光らせてはいましたよ。風祭が余計なことをしないように」
「そうなんですか?」
「俺は書かないけど他社は分からないだろう。でも、風祭もさやかがいる手前下手なことはしないだろうと思ってたけどな」
二人の話を聞いて羽衣は心底ホッとした。
「あ!」
「どうしました? 課長」
「だったら、あの大学柔道の時に松田記者とあいさつしとくんだった。あの時はゴシップ記者だと思って猪熊くんを遠ざける事しか頭になかったから」
花園が準優勝したあの試合だ。柔も協力し花園の強化に努め、富士子のために勝ち抜いたが決勝では一歩及ばずだった。
「ああ、あの時はそう言うことだったんですね。風の如く去って行ったのは覚えてますよ」
苦い思い出だ。柔に自分の決意を伝えようとしていた矢先に、攫われるように柔を連れていてしまったのだから。
「あ!」
「今度はどうしました、課長」
「結婚おめでとう!」
「え?」
「まだ言ってなかったから。結婚おめでとう。二人はとてもお似合いだよ」
「ありがとうございます」
そう言って乾杯した。すっかり料理は冷めていたが、誰も気にしない。
「ところで、猪熊くんは何に悩んでいたんだい?」
「え? あの時は……富士子さんが元気がなくてその原因が花園くんだったんです」
「あの時か。富士子さんに釣り合う男になるために必死に努力してたもんな」
「そうです。でも、あの時は花園くんが浮気してるんじゃないかって思って、それでもやもやしてたんです」
耕作も羽衣も納得していたが、実際は違う。耕作と邦子の事で苛立っていたし、風祭の絵手紙で舞い上がっていた。でもそれはここで言わなくてもいいことなので黙っていた。
「それで、課長。あたしは結婚後も仕事は続けたいんですけど、今はNYじゃないですか、今後はどうなるのかって誰に聞いたらいいのか……柔道部のこともありますし」
鶴亀トラベル柔道部は名誉顧問に滋悟郎を置いているが、柔がいない柔道部ではほとんどその姿を見かけない。コーチは別にいるので問題ないが、柔も滋悟郎もいない状態でいいのか不安に思ったのだ。
「社長に相談だろうね。猪熊くんは普通の社員じゃないから直属の上司じゃなくて、社長判断なんだ」
「社長だってー」
耕作は鶴亀トラベルの太田黒社長とは仲が悪い。何かと柔を巡ってトラブルになっていた。
「結婚の事は出来るだけ口外したくないので、社長に言うにしても他言しないことを約束してもらわないといけないですね。さすがにないとは思いますが」
「わかんないぞ、あの人は会社の利益の為なら何でもするぞ。どうせ柔さんが北海道出張の時も、会社の利益を選んで呼びもどさなくていいって言ったんだろう? 羽衣さん」
「あ、いや……」
「あなた言いましたよね。会社の人間は信用できないって。それは社長命令がでているからですよね」
「はい。あの時は猪熊くんの試合よりも会社の利益を取ったんです。でもそれが経営者ですから」
「あなたは違った。柔さんの上司だけど、試合の重要性を分かっていた。だから俺に電話を掛けてくれたんじゃないですか。
「それは松田記者の記事を読んでいたからですよ。猪熊くんは試合に出なきゃいけない。絶対にそうしなきゃいけないって思ったんですよ」
二人はよくわからないが硬い握手を交わした。記者と読者の気持ちが通じ合った瞬間だったのだ。
「二人の前途を祝して!」
気分がいい羽衣は上機嫌で祝杯を挙げる。そして夜は更けて行った。
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vol.2 さやか出産
耕作は仕事のためNYに戻ったが、柔は5月に体重別選手権があったのせそのまま日本に残っていた。耕作との別れ際に結婚後、どちらの姓を名乗るかちゃんと考えると約束し、見送った。
体重別選手権ではさやかは妊娠中で欠場したため、柔は特に危ない場面に陥ることなく見事優勝を決めた。弱かったメンタルも耕作との仲が上手くいっているため、乱れることはなく冷静に取り組むことが出来た。
柔の優勝で世間が騒いでいる中、イギリスからビッグニュースが伝えられた。
「本阿弥さやか 出産! 元気な女の子」
そんな見出しがスポーツニュースの一面を飾ると、さやかが出産した病院である「セント・メアリー病院」前には沢山の取材カメラが並び騒然とした。イギリス王室御用達の病院であるため、何も知らないイギリス国民は王族がお忍びで出産するのではないかと憶測がささやかれたほどだ。
出産のニュースが出た2日後には夫の進之介と共に赤ん坊を抱いたさやかが登場し、相変わらずの美貌と高慢な姿が日本中に放送された。
「ほーっほっほっほっ!! みなさん、お待たせいたしました」
「出産後だというのに、お元気そうですね」
「当然ですわ。最高の医師と最高の設備、そして最高の肉体を持っているこの私が出産ぐらいで変わるはずもありませんわ」
「ということは、柔道界に復帰も……」
「当然ですわ! 今の私は最愛の人との結婚、そして出産し思い残すことはただ一つ。猪熊柔! 私がいない今、柔道界の頂点を謳歌していたでしょう。しかし、私が復帰するからにはそうはいきません。せいぜい、泥臭いトレーニングを積んで、待っていなさい!」
「おおー!! 打倒猪熊宣言!」
ふっと笑うさやかは待たせておいた車に乗り込み、カメラに向けて笑顔を振りまく。どこぞの王族のような振る舞いだ。
「さやかさん、あんなこと言って大丈夫なんですか?」
「進之介さん。私は必ずや猪熊柔を打ちのめします。ご安心ください」
「そうではなくて……」
「徳永! 専属のトレーナーと設備の準備は整っていますか?」
「はい、お嬢さま」
「結構」
「さやかさん、僕はあなたの体が心配なんです。産後にそんな無理をして何かあったら」
風祭がそう言ってみるが、さやかは自信に満ちた笑顔でこたえる。
「何も心配はありませんわ。私は強い。子供を産み、更に強くなった。今までとは違うのです」
そう言うと、自分の腕に抱いたわが子を愛おしそうに見つめる。母になり少しは心境の変化があったようだ。でも、打倒猪熊柔を諦めるわけにはいかない。
◇…*…★…*…◇
イギリスでのさやかの様子を日本の夜のスポーツニュースでも大々的に伝えられた。偶然にもそれを見ていた柔はさやかの柔への挑戦状よりも、出産という大役を果たしたことへの労いの気持ちの方が大きかった。そしていつか自分も耕作の子供を産みたいと思うようになっていた。
「お嬢様は相変わらずじゃの。その方がおもしろいからいいんぢゃけどな」
滋悟郎が上機嫌で笑っているが、出産後の復帰というのも大変なものだろう。富士子が試合に復帰したのはおよそ半年後。さやかは柔だけを射程に入れているなら来年5月の体重別にのみ焦点を当てればいいが、試合のカンを戻すのは試合しかないのでもしかしたらもっと早くに復帰する可能性もある。
「さやかさんも少し見ない間に随分雰囲気が変わったわね」
玉緒がお茶を飲みながらしみじみ言うと、柔は「そうかしら?」と首をかしげる。
「風祭さんがそばにいるのがいいのかしらね。以前から不思議な関係だとは思ってたけど、今はとても距離が近い感じがするわ」
「夫婦になったからってことかしら?」
「それもあるだろうけど、それだけじゃないわね。お互いの信頼関係が出来ているからこその雰囲気のような気がするわ」
「風ミドリはさやか嬢の婿になって、籠の鳥のように腑抜けになるじゃろうと思っておったが、案外うまくいっているようぢゃな」
「おじいちゃんに何がわかるの?」
「わかるとも。わしはお前たちよりも長ーくいきておるんじゃぞ」
「でもそれもそうね。風祭さんはプレイボーイだから、結婚して、相手はあのさやかさんでしょ、自由のない生活に息苦しさを感じて元気がないと思っていたんだけど」
「お母さんまでそんなこと。二人には二人の幸せの形を見つけたのよ。風祭さんもお仕事が忙しいだろうし、そんな遊んでばかりはいられないわよ」
「それもそうね。でも柔、今まではさやかさんが一方的に風祭さんを好きで束縛していたようだけど、今は違うということは心の持ち方が変わるということよ。さやかさんは強いけど、もっと強くなるんじゃないかしら」
玉緒がそんなことを言うのは珍しく、だからこそそれが現実になりそうで柔は息を飲む。
「それにね虎滋郎さんが言ってたの。凡人たるさやかさんが柔に勝つには『99%の努力と1%の運』だけなんだって。その1%をもしかしたら掴むかもね」
「怖いこと言わないでよ。でも……」
「でもじゃないわ! そんな弱腰でどうする! さやか嬢が本気を出すと言っておるんぢゃ。こちらも本気でかからんといかんぢゃろ。明日からみっちりしごいてやる。覚悟しておけ!」
滋悟郎は部屋を出て行った。柔は深いため息をつく。
「どうしたの? 何かあったの?」
「あのね、ずっと考えててやっぱり結論が出なくて。おじいちゃんに言うと、何かおじいちゃんの意見に引っ張られそうで言えなくて」
「松田さん関連?」
「うん。あのね、松田さんがね、結婚したら猪熊姓になりたいって言うの」
さすがにそれは玉緒も驚く。やはり予想もしていなかったことなのだ。
「色々ね理由は聞いたわ。でも、あたしは考えたことも無くて、むしろお嫁に行くってことは相手の籍に入って姓も変わるってことを疑問に思ったことも無かったから。むしろそうあるべきで、それが幸せな事なんだって思ったから」
「そうね。でも、さやかさんのところは風祭さんが本阿弥になったじゃない」
「あそこは別格じゃない。それを前提での婚約だったんだもの。でもあたしは違うじゃない。今、耕作さんが猪熊になったらなんか……」
「言いたいことはわかるわ。世間がどう思うかは目に見えてる。でもね、そんな事はどうでもいいじゃない。結婚するのは二人だし、親しい人たちは別に松田さんが猪熊になってもそれで松田さんが尻に敷かれてるとか、陰に隠れてるなんて思わないもの。釣り合いなんてものは外から見た勝手な秤よ。本人たちには全く関係ないわ」
「そうかしら。耕作さんが嫌な思いしないかしら?」
「それはするかもしれないわね。でも、覚悟の上でしょ。何も言わなければ松田になってたのにあえてそういう提案をしたんだもの。きっと柔よりもずっと考えてるわよ」
「そうよね……」
結局、この時も結論が出せなかった。
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vol.3 富士子へ相談
うじうじ考えるのが柔の悪いところなのだが、今回ばかりは答えがなかなか出せずにいた。あまりに頭がパンクしそうなので富士子に助けを求めた。
「話はわかったわ」
電話の向こうから親友の声がして、それが柔を安心させた。結婚後の名字に関することを一通り話し終えると少しの間沈黙が流れた。
「『猪熊』の姓はあたしから見てもとても大きなものだと思う」
ぽつりと富士子が言った。
「猪熊と言えば柔道。柔道と言えば猪熊。みたいに日本国民が感じているのは間違いないわ。それだけの偉業を成し遂げたんだもの。だから猪熊さんが松田に変わってもそれが消えるなんてことはないし、結婚後も猪熊で出るなら問題はないと思うの。ただ、子供がどう思うかよね」
「耕作さんは柔道をさせたいっていうの。でも、だったら尚更、猪熊の姓は重圧になりかねないじゃない」
「何を言ってるの? 子供が疑問に思うのは『なんで猪熊じゃないの?』っていうことよ。滋悟郎先生がいて、猪熊さんがいて、柔道をやっていて、民宿も継いでないのに『何で松田なの?』って言われて説明できる? それが当たり前だからなんてことは納得しないともうわ。当たり前じゃない本阿弥さやかという見本がいるんだもの」
「そうよね。じゃあ、富士子さんは猪熊の姓を残すべきだと思うのね?」
「それは何とも言えないわ」
「ええー」
そこまで言ってそれはないでしょって思った。
「あのね、猪熊さん。あたしの家ってお茶屋さんなの知ってるわよね?」
「もちろん。いつも美味しいお茶飲まさせて貰ってるもの」
「それであたしは一人っ子なの。店を継いでほしいとは言われたことはないのよ。何故だかわかる?」
「ううん」
「あたしは継がなくていいけど、お婿さんを貰ってその人に継いでもらえばいいって思ってたらしいの」
「でも、実際は違ったよね」
「うん。花園くんは見ての通り体育会系で繊細な作業には向いてないし、お茶の事も全然わかんないから。それにね、妊娠したのは花園くんだけが悪いわけじゃないでしょ。なのに花園くんは柔道を諦めて仕事をしてあたしと生まれてくる子供のために一生懸命になってくれたの。それなのにうちを継いでくれなんて言わせなかった」
柔の知らないところで富士子も将来を考えて悩んで戦っていたのだ。
「ご両親はどんな反応をしたの?」
「そうね、がっかりしてたわ。それでなくてもあたしが結婚前に妊娠したでしょ。世間体が悪いじゃない。それに選手としてこれからって時で、親は柔道をすることを受け入れるのも時間がかかったから余計にショックだったのかも。その上、家は継がないっていうんだもの。がっかりされても仕方ないわ」
「今は一緒に暮らしてるでしょ。花園くんにお茶のことを教えたりとかはしないの?」
「簡単なことは教えるというよりは、自然に学んでるとは思うわ。それにお父さんはもうきっと吹っ切れてるわ」
「どうして?」
「フクちゃんがいるから。孫は可愛いものよ。特にお父さんはフクちゃんに甘くてお母さんが呆れるくらい。その孫娘にこの店を守って貰おうとかきっと考えてない。もっと自由に生きて欲しいと思ってるから。だからお父さんの代で店を閉める覚悟なんだと思うわ」
学校へ行く道に茶畑があって、それは個人宅の小さな茶畑で4月になると新芽が伸びて、顔を近づけるとお茶の匂いがした。5月になる頃には店に新茶が入り、その新鮮な香りのお茶を楽しみにしていた。富士子の思い出の中にはいつもお茶があり、それが当たり前だったのだ。
だからと言ってその風景を守らせたいなんて思わない。富士子にもその覚悟がないのに娘に背負わせることは出来ない。
「バレエの道を閉ざされたあたしが新たな道を見つけたことで、両親の世界も広がったんだと思うの」
「バルセロナにも行ったしね」
「そうよ。それで、店の事を次の世代に無理して任せようと思わずに両親も自由になれたのかも」
「耕作さんのご両親もそうならいいんだけど」
「そもそも松田さんが継ぐ気がないんだもの。とっくの昔に諦めてるでしょ」
「でも息子がまさか婿養子になるとは思わないでしょ」
「ねえ、猪熊さん。猪熊さんが結婚するのは松田さんよね」
「もちろんよ」
「松田さんが望むことと自分自身の思いを天秤にかけて悩むのはいいけど、ご両親の思いを乗せるのは何か違うと思うわ。家族になるからといってそこまで気持ちを考える必要ってある? 考えるべきは自分たちと生まれて来るであろう子供とその将来。そしてその後に、親のことじゃない」
「何かその考えって淋しくない?」
「そうかもしれない。でも、恩返しは別の方法でもいいのよ。子供の将来を考えられるのは親だけ。あたしはフクちゃんの事を一番に考える。それと同じようにうちの親はあたしのことを考えてくれてるって思う。親だから子供のことを考えてキツイことも言うけど、それは愛情あってのもの。それに本当に望むのならご両親は松田さんに言ってるだろうし」
「そうかなぁ」
富士子は親と娘の気持ちが両方理解できるが、柔はまだそうじゃない。ぐちぐち悩むのが柔なのだが今回は一生を左右することだから更に悩みは大きくなる。
「じゃあ、猪熊さん。猪熊さんが『猪熊』の姓じゃ嫌な理由ってあるの?」
「嫌だなんてことはないわ。今までもそうだったんだもの。でもね、勇ましい名字じゃない。それが学生の頃は嫌だったなと思ったの」
「可愛くないってことね。でも、松田だって可愛くはないわ」
「それもそうなんだけど」
今は別に猪熊が嫌だとか、可愛くないから好きになれないなんて子供みたいなこと言わないけどどうしてかすんなり受け入れられない自分がいるのだ。
「世間が色々言うのは無責任でほんの一刻。あたしはねあたしたちの結婚の経緯とかその辺の事が将来フクちゃんがどう受け止めるかが心配なの。そのために胸を張って何でも答えられるようにしたいって思ってるの」
「経緯か……女の子は知りたがるかもしれないわね」
柔は父が幼いころから家を出ていたので、母になれ初めなどを聞くこと自体を躊躇っていた。でもずっとどんなふうに知り合って結婚したのか聞いてみたかった。だから耕作が本を書くにあたって両親にインタビューして、なれ初めを聞いてくれたのはとても嬉しかったのだ。
「それにね最近、お父さんを見て思うの。滋悟郎先生は猪熊さんを本当に大切にしてるんだなって」
「ええー、それは納得しがたいわ」
「孫娘って本当に目に入れても痛くないほど可愛いらしいの。その分、とても心配になるみたい。だからね、滋悟郎先生は猪熊さんを守るために柔道を教えたんじゃないかなって思うのよ」
「身を守るための柔道なら感謝もするけど、あたしのは完全に格闘技だもの。秘密にしろとか言われるし、おじいちゃんや柔道のせいでずっと恋人も出来なかったし」
「それが鉄壁のガードなのよ。滋悟郎先生はかわいい孫娘が妙な男に泣かされないように守ってたの。中途半端な気持ちで近寄ってくる男は沢山いるわ。でも、その中で本当に猪熊さんを大切にしてくれる人を見極める手段として柔道があったのよ」
「いいようにとらえ過ぎよ。おじいちゃんはただ目立ちたいだけなんだから」
「でも、松田さんとの結婚を反対しなかったのはきっと滋悟郎先生も認めてるからよね。それは猪熊さんの全てを受け入れて愛してくれる人だって見極めた結果だと思うのよ」
富士子の言うことも分かる。柔道のせいで人並みの恋愛は出来なかったけど、深い絆で結ばれたたった一人の最愛の人には出逢えた。
「話がそれたわね。猪熊さんはもっと自分の家族や家の事を知るべきじゃないかしら? 女だから名字が変わるなんて固定概念はもう取り去るべきよ。世界を見てきたあなたならきっと答えが見つかるわ」
「ありがとう、参考になったわ」
柔は電話を切ると、ふーっとため息が出る。全然、考えがまとまらない。というよりも、自分がどうしたいのかわからない。どうしても松田になりたんだって言う理由もないし、猪熊のままでいたくない理由もない。だったら日本の風習に従って松田になればいいのだけど、そうなると耕作が納得する理由を示さなきゃいけないがそれも見つけられない。
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vol.4 滋悟郎とカネコ
「柔? 電話は終わったの?」
玉緒の声がして見上げると、心配そうに見つめていた。
「うん。電話使う?」
「ううん。ただ、その顔じゃ結論が出なかったのね」
「意見を聞けば聞くほど混乱するの。でも富士子さんからもっと家の事を知るべきって言われて……」
玉緒は「そうねぇ」とちょっと考えた後、台所に一緒に来るように言われついて行った。
テーブルにお茶とお菓子を用意すると、二人は向かい合って座った。
「おじいちゃんがいるとなかなか言えないから、今話しておくわ」
滋悟郎は近所の源さんの家に行っている。しばらくは帰ってこないだろう。
「あらたまって何?」
「私と虎滋郎さんの事はきっと松田さんから少し聞いてると思うけど、おじいちゃんの事は知らないと思って」
「そうねぇ。耕作さんは何か知ってるみたいだけど、あたしには教えてくれないし」
「だから信頼できるのよね。情報は漏らさないのよ」
「それで、お母さんは何を知ってるの?」
「これはね松田さんにも話してないことなんだけどね、おばあちゃんのカネコさんから聞いた話よ。実はねおじいちゃんはカネコさんと結婚するとき、牛尾の姓を名乗るつもりだったらしいわ」
「え!? 嘘でしょ」
「そもそも牛尾先生に柔道を教わりに山形から東京に出てきたわけだし、東京での暮らしとか家なんかもカネコさんがいなきゃ成り立たなかったしね」
「でも、あの時代の人でそういう考えって」
「おじいちゃんは長男じゃないし、山形には立派な跡取りがいたから好き勝手出来たのよ。じゃなきゃ何のあてもなく東京に出てこないでしょ。それでね、カネコさんは悩んだ末に猪熊になったの」
「どうして?」
「おじいちゃんが婿に来ても牛尾道場の看板はたてられないし、それにおじいちゃんの柔道も素晴らしかったから新たに道場を建てるなら猪熊にした方がいいと考えたのよ」
「でも結局、一度も道場を開くことも無かったわよね。あんなに目立ちたがりなのに、強い弟子が沢山いればもっと長い間、目立てたのに」
滋悟郎は虎滋郎が全日本に出場するまで、そしてその後柔がデビューするまでただの「ほねつぎ」の老人として過ごしていた。
「それも少し聞いたことがあるわ。山形の実家にはね沢山の兄弟がいるのよ。おじいちゃんは下から二番目だったかしら。とにかくね、兄弟が多いとあんまり構って貰えないじゃない。それでおじいちゃんは目立とうとしたらしいの。そうでもしないと、誰もみないんだって。まるで空気のような感じよね」
一人っ子の柔にはわからない悩みだ。父は不在だったが、母も祖父も柔を大切に育ててくれた。
「結婚の報告に行った時にもカネコさんがいうには『ああ、そう』くらいな感じだったらしいわ。しかも、カネコさんが男子の柔道をやると聞いた家の人は野蛮な人間を見るような目をしたらしいの」
「えー!! 考え過ぎじゃない」
「そうでもないの。おじいちゃんが山で熊と戦ったとか、そういう逸話を残してて嫁に貰う人も同じかって実際言われたらしいの。戦前の田舎で女性が人を投げ飛ばすなんて、考えられなかったんでしょ。とんだじゃじゃ馬扱いだったらしいわ」
「今だって人を投げ飛ばす女の子は奇異の目を向けられるわ」
「それもそうね」
柔が口を尖らせると、玉緒はクスッと笑った。
「カネコさんはね、別に山形に住むわけじゃないし滅多に会うことも無いからあんまり気にしてなかったんだけど、おじいちゃんが結構ご立腹のようで」
「そりゃお嫁さんをバカにされたんなら、怒って当然よ」
「それだけ、おじいちゃんはカネコさんが大切だったのよね。それに加えて、おじいちゃんも家族の反対を押し切って東京に出て行ったのに、結局牛尾先生の指導は受けれずにいたことに、親類の中からは自由に生きて何もなさずにのこのこ顔を出せたと、嫌味を言う人もいたのよ」
「ひっどーい。何も知らないくせにどうしてそんなこと言えるのかしら」
「おじいちゃんは特別自由人だったから。家に縛られてる人に取って見たら、羨ましかったのよ。だからね、おじいちゃんは親戚の皆をあっと言わせる方法を探しててあんな方法をとったのよ」
「あんな方法?」
「おじいちゃんが山形から出てきて、全日本選手権で初出場で初優勝して、五連覇を遂げたことはさすがに御実家に伝わっていたのね。新聞とかから。でも、結局それも山形で培ったものだから山形にいても出来たわけでしょ。でも、その強さに誰もが目を見張り、称賛されたことを実家の皆さんはわからなかったの。でもおじいちゃんはこれだって思ったのね」
「秘密に特訓するって方法ね」
「そうよ。虎滋郎さんに柔道を教えていることやかなりの上級者であることを、虎滋郎さん含めて口外禁止したのね。だからあのデビューがセンセーショナルで話題をうんだの」
新聞の一面になるほどのニュースは山形にも伝わったかもしれない。しかし、翌年には虎滋郎は全日本選手権には出場しなくなった。始まったばかりの伝説はここに終焉を迎え、虎滋郎や猪熊の名は時代の流れ中に消えて行った。
「あたしにも人に言ってはいけないっていたりしたのはそのせいね」
「そうね。まだ時代が時代だったから柔にとっても内緒にしておいた方がよかったと思うわ」
「でも結局、耕作さんがスクープしちゃったんだけどね」
日刊エヴリーにパンチラ巴投げ写真が掲載されたのは、柔にとって最大の汚点だ。そしてその写真を長い間、部屋に貼っていた耕作もどうかしている。
「おじいちゃんの思惑通りにはいかなかったのよね。この時、私は家にいなくて新聞を見てびっくりしたのよ。制服が武蔵山高校だったから柔じゃないかなって思って」
「学校でもこの名字だけであたしじゃないかって男子に言われて、あの時ばかりは猪熊って名字が嫌だったわ」
「でも、柔だったから間違いじゃなかったものね。それで別人だったらそりゃ困っただろうけど」
「それもそうね」
今思えばなんてことないことでも、あの多感な時期に男子にからかわれるのは精神的に辛いものがあった。そう思えば、猪熊でいることで将来的に産まれてくる子供が特別な目で見られることもあるかもしれないし、そのことで嫌な思いをするかもしれない。
「おじいちゃんの長年の思惑は柔が国民栄誉賞を貰ったことで、成就したと思うわ。山形の親戚から電話や手紙が来ていたようだから。それに女子柔道の地位も上がったし、カネコさんが受けた屈辱を晴らせたんじゃないから」
その言葉を聞いて柔は、猪熊としての役目は終わったのかもしれないと思った。
「柔、色々聞いて混乱しているとは思うけど、当たり前のことを立ち止まって考えるのはいいことだと思うわ。あなたはアメリカにもお仕事で行ってるし、英語が堪能になって世界も広がったわ。後悔のない結論を出して気持ちよく結婚しなさい」
玉緒が優しく微笑むと柔も笑顔でうなずいた。家族や富士子から意見も聞いたし、自分の立場も分かっているつもりだ。その上で出す結論が何であろうと耕作は受け入れてくれるだろう。ただ、面倒になって投げやりなことはしたくない。時間が許す限り自分と向き合って考えていきたい。
自室に戻ると机の引き出しを開けた。そこには真っ白な小さな箱があり、中には耕作から贈られた「婚約指輪」が入っていた。
――こんな小さなのしか買えなかったんだけど……
プロポーズしてくれた日の夜にそう言いながら指に付けてくれたことを、今、思い出しても嬉しくて胸がいっぱいになる。
シンプルなデザインだけど美しい銀色の指輪。真ん中には小さなダイヤが光っていたけど、とても大きな輝きに見えた。
この指輪は耕作の決意だ。柔を幸せにするという決意。
だから柔は考える。耕作にとっての幸せを。夫婦になるとはそういう事じゃないのか。お互いの幸せを考え、行動する。さやかと風祭、富士子と花園のように築きあげて行かなければいけないのだ。一つずつ。丁寧に。
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May Love Bloom Forever!
vol.1 Happy Marriage!
誰もが空を仰いで奇跡だと言った7月7日の晴天、静かに母は娘にベールを被せる。
真っ直ぐな白い床の横に鮮やかなグリーンの植物の装飾。ピンクや黄色の花も可愛く、何よりも正面の大きなガラスの窓には外の木々が空の青色と相まってとても美しく室内を演出した。
「The Rose」が静かに流れ始めると、扉が開く。入ってきたのは父と娘。揃ってお辞儀をすると一歩前に歩き出す。
煌めく白い道を柔は真っ白なウエディングドレスを着て、虎滋郎の腕を組みちょっと俯き加減でゆっくりゆっくり進む。もちろんその道の先に待っているのは白いタキシードを着た耕作。その様子を左右から見守る家族、友人、知人たち。
この短い歩みの中でそれぞれが思い出を振り返り、そして涙する者もいた。特に富士子はこの二人の恋模様を間近で見ていたし、柔が恋に悩み苦しんでいたところも見ていたから今日のこの式を無事に向けられたことに誰よりも喜んでいた。そして柔の数メートル後ろにベールガールとして富薫子が緊張した顔をしていても、しっかりその大役を果たしていることにも涙が止まらない。
耕作の前で歩みを止める二人。虎滋郎は右手を差し出すと、その腕を耕作は力強く握り返す。言葉はいらない。それだけで虎滋郎の思いは伝わるし、耕作の強い意志も伝わる。
虎滋郎は柔の手を取り耕作へと託した。父親らしいことなど何一つしてこなかったのに、バージンロードを一緒に歩いて欲しいと言われた時は驚いたし、断ろうと思っていた。自分よりふさわしい人はいるだろうと、頭の中には滋悟郎の顔が浮かんでいた。しかし、柔は父親である虎滋郎がいいと言った。
柔の手を取る耕作はそのまま祭壇の前へ。外国人の牧師の言葉の後に二人は愛を誓い、指輪の交換を行う。そして柔は膝を曲げ耕作がベールを上げる。今まで隠れて見えなかった顔が見えると、あまりの美しさに息を飲む。それなのに、柔が見上げて耕作と目が合うと、潤んだ瞳で微笑んだ。
「誓いのキスを」
そう言われて、耕作は我に返りそっと柔にキスをした。
チャペルを出てフラワーシャワーで祝福してもらうときには、方々から声がかかりとても賑やかで楽しい雰囲気になった。
そして隣のレストランへ移動する前に大きなイベントがあった。それを待ち望んでいた女性たちが、特に南田が殺気立った目をして待っていた。
「幸せのおすそわけを貰いたい方は是非前へお越しください」
式場のアナウンスが入り、数名の女性が前に出てきた。南田を始め、マリリン、邦子とかおりの姿もあった。
しっかりドレスアップしたその4人の目は互いを牽制し、火花が散っていた。
「ナンダは貰っても無駄だから、どいててよ~」
「あんたこそ、よりどりみどりなんでしょ」
「二人ともここは年長者に譲りなさいよ」
「柔、こっちよ!」
背中で感じるその圧力に柔はブーケを握る手が震える。
「じゃあ、いくよー。えい!」
小さなブーケを青い空に弧を描き、すーっと落ちてくる。醜い争いを制したのは、全く戦いに参加してなかったアリシアだった。
「え? なんで?」
ポカンとしつつもしっかりブーケは握っている。
「なんで~」
睨み合っていた4人は同じセリフを吐き、肩を落とすが次の瞬間には笑っていた。
同じ敷地内のレストランに移動する道には、外部と完全に遮断するように、木々が生い茂り整備された庭には色とりどりの花が咲き乱れていた。
「こちらをご記入の上、中にお入りください」
ゲストブックに記帳後、レストランへ向かう。
そこは庭が一望できるように全面ガラス窓になっていて、7月の気持ちのいい光が優しく射しこんでいた。
円卓に着席すると、暫く歓談の後、披露宴が始まった。
「本日は、誠におめでとうございます。お二人のお支度が整われたようでございます」
司会進行の声がして招待客は扉の方を向く。すると柔と耕作が照れたようにはにかみながら、入ってきた。柔は先ほど来ていたウエディングドレスからグリーンのドレスへと変わり、大きなリボンが腰についてまるで妖精のようだった。頭には花のヘッドドレスが上品につけられていた。
一礼すると二人は正面の席に座った。席からは招待客全員の顔が見えるほど近かった。
国民栄誉賞を貰った人の式にしては小規模ではないかと思われるかもしれない。でも、柔は派手なことは好きではないし、本当に祝って欲しい人達に祝ってもらえればいいので、小さくても構わないと思っていた。
「えー本日はお忙しい中お越しいただきありがとうございます」
新郎のスピーチが始まった。慣れない場で緊張している様子が見ていて新鮮だった。
「先ほど、チャペルにて挙式し、夫婦となりました。これもひとえに皆様のおかげです。ここにいらっしゃるのは私たちの大切な友人、知人、家族です。ささやかな席ではございますが、どうぞゆっくりお楽しみください」
言い終わると、耕作はどさっと椅子に座る。大勢の前で話すなんてとても慣れない。滋悟郎や本阿弥さやかが難なくなっていることが、不思議だった。
新郎の主賓として日刊エヴリースポーツの編集長が、新婦の主賓として羽衣課長があいさつをして続いてはケーキ入刀を行った。
三段重ねのケーキは全部食べられるものでイチゴやメロンなどのフルーツがふんだんに使われたカラフルなものになっている。柔と耕作はケーキナイフを握りゆっくりと刃を入れる。その瞬間に邦子と鴨田を始め、カメラを持った数人がシャッターを切った。耕作は自分が写真を撮られる側になるのも慣れず、どんな顔をしていいのかわからない。プロが二人もいるんだからいい表情を切り取ってくれることを願うばかりだ。
ケーキ入刀の後はファーストバイトでお互いにケーキを食べさせ合う。
「柔さん、いくよ」
小さな口を開けてケーキを待つ柔。その姿が異様に可愛くて耕作は思わず沢山ケーキを取って持って行くが、入るはずもなくボロボロとドレスに落ちた。
「ご、ごめん……」
柔はモグモグとケーキを食べながら笑っていた。
「じゃあ、今度はあたしからね」
柔も沢山ケーキを乗せて耕作の口に運ぶ。案の定、零れ落ちたケーキに会場は笑いに包まれる。
乾杯の後に食事をして、歓談の時間が設けられた。そうなると次々と柔と耕作の元に招待客がやって来て、挨拶をしたり写真を撮ったりして休まる時がなかった。
やっとお色直しの時間になり、席を外す二人はほっと肩を撫で下ろした。
「なんか異様に緊張するな。柔さんは平気?」
「あたしだって緊張してますよ。でも、みんな知ってる人だし、そこまでじゃないわ」
「さすが、オリンピックに出た人は違うな」
「関係ないと思うけど」
二人がいない間、会場では食事の時間が設けられていた。優雅な音楽が流れる中、円卓に座るのは見知った人ばかりで会話も弾んでいた。
「和美、その人は?」
赤いドレスのかおりの視線の先には外国人の男性がいる。
「パトリックよ。あたしの彼」
「何でここにいるよの」
少々、失礼な言い方だが極秘の結婚式にいることに違和感があった。
「こんにちは、かおり。ボクはパトリック。ヤワラの先生をしてました」
「先生??」
「イングリッシュのね」
「ああ、和美もそう言えば英会話教室のスタッフだって言ってたわね」
「そうなの。パトリックは柔の先生であたしの彼だから来てもいいって」
「アメリカでは結婚式にはカップルで来るもの。だからボクも一緒で当然だと思ったけど……」
周りを見渡すとそうでもないことがすぐにわかった。
「日本は違うのよ」
「そうみたいデスネ」
「ねえ、清水はどうしたの?」
「今日の柔のメイク、清水がしたって知ってた?」
「え、知らない。ってことは、今もやってるの?」
「そうよ」
「でも、結婚式のメイクと普段のメイクって違うじゃない。出来るの?」
「そこはプロがいるし、何とかしてるんじゃないの」
「そうよね……」
三人は心配そうに扉の方を見つめていた。
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vol.2 To a precious and dearest friend...
「ねえ、ナンダ。あの事はどうなったの?」
「あの事?」
「柔ちゃんの……」
「ああ! 特に変わりないわ」
「ふーん。あたしもあれ以来見てないし、何だか怖いわ」
マリリンがそう言うと今日子と小百合も頷いているが、小百合の食べる手は止まらない。
「ねえ、何の話?」
隣の円卓にいた富士子が入ってきた。花園と富薫子もいるのでさすがに短大時代の友人円卓には入れないでいたが、近くなので声は聞こえていた。
「あの、何でもないんですよ」
今日子が富士子を心配させないように気を遣ったが、富士子はそれでわかってしまった。
「警察官の南田さんが関わってるってことは、まさかあの猪熊さんに付きまとってる人の事?」
「なんで知ってるの!?」
マリリンが驚いて思わず大きな声を出してしまう。一気に注目を浴びるが色気たっぷりのポーズをとってごまかした。
「富士子さんも何か知ってるの?」
南田が小声で話すと、富士子も小声で答えた。
「少しだけね。でも、猪熊さんは知らないみたいだから何も言ってないけど」
「ナンダ、柔ちゃんに話しておくって言ってたじゃない?」
「実はね滋悟郎先生のところに相談に行ったんだけど、柔ちゃんには言わない方がいいって言われてそのまま。でもね、滋悟郎先生が対策してくださってるみたいで……」
「アメリカに行ったのもその対策みたいよ」
富士子がそう言うと南田もマリリンも驚いた目をした。
「そうだったの。知らなかったわ」
「日本にいるよりもアメリカの方が安全って思えるところ、その付きまとってた人の怖さが感じられるけど」
空気が重くなる。晴れの日に話す内容ではないが、心配なのは変わらない。すると、マリリンの頭に風船の冠が乗せられた。
「何よ、これ~」
「ありがと!」
富薫子にもかわいい犬の風船が渡された。さっきから席を回りながら、芸を見せてくれるピエロがいたのだが、ここで深刻な話をしていた数名は全く目に入ってなかった。
ピエロは白と赤のストライプの派手な服を着て、コミカルな動きをしながら扉の方へ歩いて行った。
そうしてる内に、お色直しが終わり新郎新婦の再登場のアナウンスが流れた。
「ちょっと、あのピエロ邪魔よね」
南田がそう言うと、マリリンたちもその人を見た。
「そうね。なんであんなところにいる必要があるの?」
「今日って余興は無しって話じゃなかったですか?」
「ええ、そう聞いてるわ」
富士子の返事を聞く前からキョンキョンの顔が青ざめていた。一瞬見ただけだと誰かわからない。それに白くは塗ってないがピエロの鼻をつけていてはっきり顔が見えなかった。
「ん?」
特別メニューに舌鼓を打っていた滋悟郎も異変に気付く。
「なんぢゃ、あやつ」
奇妙な動きのピエロは手に何か持っている。滋悟郎と虎滋郎は同時に立ち上がる。それと同じくらいに扉が開き、そしてピエロが前に進む。と、同時に後ろから滋悟郎、虎滋郎、花園がピエロに襲い掛かった。
「どわー!!」
ピエロもろとも倒れ込む三人。何事かと皆が見ていると、お色直しを終えた柔と耕作が目を丸くして床に転がるピエロとそれを押しつぶす3人を見ていた。
「なにしてるの、おじいちゃん」
「妙なやつがいたんでな」
「妙なやつ??」
柔と耕作は踏みつぶされているピエロを見つめる。ピエロは苦笑いをして風船の花を差し出す。
「受け取るんぢゃない!」
滋悟郎の言葉を無視して、柔はその風船を受け取った。
「結婚おめでとう、コーサク、ヤワラ」
英語だったがさすがに滋悟郎も意味はわかった。
「なんぢゃ、こやつは」
「まさか、あの時のピエロさん?」
「なんでここにいるんだ?」
滋悟郎と虎滋郎に踏みつぶされて苦しそうなピエロはニコニコとしている。すると、招待客の一人であるデイビットがやって来た。
「気づかないのかい?彼はイーサンだよ」
「イーサンだって!?君、ピエロだったのかい?」
「あはは、そうだよ。コーサクは知らなかったみたいだからこうやって驚かせることができたよ」
「いや、本当に驚いたよ。てっきり金融系の会社に勤めてると思ってたから」
以前、スパイス・ガーデンでそんなことを言っていた気がした。詮索しないことが暗黙の了解のあの場所では本人が言わないことは訊かないことになっているので、知らないことも多い。
「勤めてるよ。でも、ピエロもしてるんだ。これは趣味。ところで僕はいつまでこうしてるんだい?」
押しつぶされたイーサンは苦笑いを越えてぐったりしていた。
「おじいちゃん、お父さん、花園くん、この人は耕作さんのお友達だから大丈夫よ」
「日刊エヴリーの?」
「松田くんの?」
「松田さんの?」
「すみません。俺も彼がピエロやってるなんて知らなかったんで、驚いてしまったんですけど間違いなく知り合いです」
滋悟郎と虎滋郎はイーサンを自由にすると、手を差し出した。
「すまなかった。余興があるとは聞いてなかったもので」
「妙な格好をするでないぞ」
「申し訳ない」
3人が席に戻ると、柔もあらためて謝罪した。
「おじいちゃんたちが本当にごめんなさい。お怪我はないですか?」
「大丈夫、大丈夫。今日の君はとても幸せそうだから、僕は心から嬉しいよ」
「タイムズスクエアではお恥ずかしいところをお見せしてしまって……でも、あなたがいたからあたしたちあの後、楽しく過ごせました。ありがとうございます」
「まさかあのピエロがイーサンだったなんて、驚きだよ。じゃあ、俺とヤワラさんのこと知ってたのかい?」
「いいや。ヤワラの事は覚えてたけど、コーサクの事は全く覚えてなかったからさっきヤワラを見て繋がったってわけさ」
「なんだよ、それは。でも、ピエロで楽しませようとしてくれたことは嬉しかったよ」
友人同士な和やかな会話をしているが、結婚式の最中だ。何事かとざわざわしいている。そこでまたピエロのイーサンが余興でみんなを笑顔に変えた。その頃には司会者にも事の全てが伝わっていたので、
「新郎の御友人のピエロさん、ありがとうございました」
と、想定済みの事のように紹介した。
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vol.3 Sweets are forever.
お色直しを終えた柔は赤を基調とした白い百合柄の和装で、頭にも同じく百合の髪飾りを付けていた。先ほどまでのドレスとは雰囲気ががらりと変わって大人っぽく見える。耕作の方は黒い紋付でタキシードよりは似合っていた。
テーブルラウンドが始まり、明るいレストランなのでキャンドルサービスではなく耕作が好きなコーヒーチェーンのドリップコーヒーと柔が選んだNYのお菓子の詰め合わせを配りながら席を回った。
「松田、猪熊さんおめでとう。それからありがとう」
日刊エヴリースポーツの編集長は結婚式なので、正装していつもと雰囲気が違う。いつも怒鳴ってるイメージしか持ってない耕作からすると、新鮮だった。
「よしてください、編集長。ご迷惑をかけるのはこちらです」
「記事を出させてくれることを承諾してくれて、猪熊さんたちご家族には感謝しかありません」
「いえ、そんな当たり前じゃないですか。他社の記事になるなんてありえませんよ」
「それもそうだな」
豪快に笑う編集長。その横では緊張した顔の羽衣が座っていた。
「猪熊くん、松田記者おめでとう。さっきあいさつしたときに見えた顔ぶれがすごすぎて未だに震えてるよ」
「リラックスしてください。日刊エヴリーの編集長さんもいらっしゃるから、お話なさったらいいですよ。大ファンじゃないですか」
「そうだったんですか? それはありがとうございます」
「毎朝楽しみにしてるんですよ」
会話が弾みだし、表情もやわらいできた。
そしてその横には西海大の祐天寺監督が座っていた。柔は直接指導を受けたことも無いし、西海大に在籍したことも無いが何かと世話になったというか、振り回してしまったこともあり今回は招待したのだ。人望も厚く頼りになる人なのでこれからも滋悟郎含めて付き合いがあるだろう。
「おめでとう、柔さん。私は何度もあなたにフラれてますが、松田記者は見事その心を射止めたんですね」
「そんな……」
「ああ、気にしないでください。私にとってあなたや滋悟郎さんと出会えたことはとても幸せなことだったんです。女子柔道界にとって奇跡のような二人に出会えて、そして共にその世界にいられた。柔さんは西海大には来てくれませんでしたが、柔道を続けてくれました。それだけで私は満足ですよ」
「ありがとうございます」
プレゼントを渡しして二人はお辞儀をした。
「コーサク、ヤワラおめでとう。私まで呼んで貰ってよかったのかな」
「もちろんですよ、シゲルさん。書籍の件では随分お世話になったし、何よりも滋悟郎さんとの縁が分かって是非日本に来ていただきたかったんですよ。ゆかりの地なんかも歩かれましたか?」
「昨日、滋悟郎さんと回ったよ。思い出話も沢山聞かせて貰って、父の情熱のルーツが見えたような気がしたよ」
「滋悟郎さんは人を引き付ける不思議な魅力を持った人ですからね。きっとお父さんも魅了されたんですよ」
「でしょうね。君は孫娘のほうだったんだろうけど」
「はははっ」
照れ笑いをしていると鴨田が声を掛けた。
「そろそろ写真撮りますから、集まってください」
テーブルごとに写真を撮ることになっていて、カメラマンとして鴨田が駆り出されている。カメラマンは三人いるが、一番付き合いの古い鴨田に頼んだ。
次に行ったテーブルはカナダからのお客様がいた。
「おめでとう、ヤワラ!」
「ありがとう、ジョディ!」
相変わらず大きな体のジョディは満面の笑みと薄ら滲む涙で迎えてくれた。
「んもー、二人ともここまで来るのにどれだけヤキモキしたか」
「面目ない」
耕作が申し訳なさそうにしていると、ルネがぐわっと肩を掴んで言った。
「ヤワラを泣かせたら許さないぞ」
「もう、大丈夫だよ」
「あれ?エマちゃんは?」
ジョディは昨年生まれた女の子のエマがいるのだが、式場に姿は見えない。
「式場のスタッフが預かってくれただわさ。まだ一歳で泣き虫だからここにいると台無しね。でもちゃんとおめかししてるから後で写真撮ってちょうだいね」
「もちろんよ。エマちゃんかわいいもの」
「ヤワラもベイビー欲しくなったかね?」
「え!」
顔を赤らめて動揺する。
「でも、ヤワラはまだね。次のアトランタはワタシも楽しみにしてるね。ベイビーはその後ね」
柔と耕作は顔を見合わせる。
「そうね、オリンピックが最優先よね」
「ヤワラはまだ若い。いくらでもチャンスはあるね」
「そうよ。ヤワラ」
同じテーブルにいたアリシアが声を掛けた。
「まだ私との公式な試合をしてないんだから、産休に入るのはやめてよね」
「ええ、アリシアと試合するのとても楽しみにしてるわ」
アリシアが満足そうに微笑むと、耕作の方を向いた。
「二人ともおめでとう。コーサク、取材もいいけどちゃんと構ってあげないとヤワラは魅力的な人なんだからすぐに誰かに取られちゃうわよ」
「わかってるよ。俺だってそこら辺は理解してる」
「そこら辺って?」
ジョディの横やりに耕作は慌てる。
「そ、そんなの決まってるだろう。柔さんが魅力的だってことだよ」
「なに言ってるんですかー!!」
柔は突然そんなこと言われるもんで恥ずかしくて堪らない。
「もう、行きますよ」
テーブルにいた3人と写真を撮って次へ。
「おめでとう、コーサク、ヤワラ」
デイビット、イーサン、モーリスそしてジェシーが順番に祝福してくれた。
イーサンはピエロのままだが鼻の飾りは外していた。
「デイビット、色々ありがとう。君がいなかったら今日、日本で式は出来なかったよ」
「なんのこれくらい。俺も君たちの式には出たかったし、それに宣伝も兼ねてるからいいんだよ」
「もちろん、ここの事は新聞に載るからきっといい宣伝になるさ」
「もー二人ともそんな話はあとでいいでしょ。あーヤワラ、とっても綺麗だわ」
相変わらず派手なジェシーだが控えめにドレスアップしてもスラリとした美しい姿に誰もが注目する。
「あ、ありがとう。ジェシーも綺麗よ」
柔がNY滞在中に何度かジェシーとは会っていたが、その度に抱き着かれては頬にキスされて少し扱いに困っていた。耕作が言った通り柔はある種、身の危険を感じた。
「デイビットは今日はデイビットなの?ダヴィドなの?」
ジェシーが隣に座るデイビットに聞く。
「今はデイビットさ。コーサクの友人なんだから。スタッフの中でも気づいてない人はいるんじゃないかな。日本の事は日本専任スタッフがいて彼らに任せているからね」
「モーリスも忙しいのに来てくれてありがとう」
黒人でガタイのいいモーリスだがこの円卓自体が目立っていたので、物静かなモーリスは逆に目立たない存在だった。
「こちらこそ呼んでくれてありがとう。二人が幸せそうな顔を見れて俺は心から嬉しく思うよ」
優しい表情のモーリスとは初対面の印象が悪かった。でも、今では頼りになるお兄さんとして柔も一目置いている。
続いては富士子、花園、富薫子、藤堂、岡崎テーブルへ。
「猪熊さーん、おめでとう。ああ、なんてきれいな着物なの」
「ドレスもいいけど、和装もしたくて。欲張っちゃった」
「いいのよ。一生に一度のことだもの。あたしも悩んだわ。着れる物に限りもあったし」
富士子が結婚式を挙げた時にはお腹に富薫子がいたから、ドレスも妊婦が着てもいいものからしか選べなかった。
「松田さん、おめでとうございます。やっぱり二人はお似合いっスね」
「どうしたいきなり」
「俺はずっと思ってたっス。猪熊には松田さんが必要で松田さんには猪熊が必要だって。ねえ、富士子さん」
「そうよ。そばで見てたあたしたちはずっとわかってたのに、二人ともじれったくて。バルセロナの時にはもうダメかと思ったけど、なんだかんだで上手くいって心底ホッとしてるわ。あら、フクちゃんどうしたの?」
富薫子はちょっと不機嫌そうに顔をしかめている。かわいいドレスを着てご機嫌だったのに、どうしたのか。
「マツ! マツ!」
そう言って腕を伸ばす。耕作は自分の事かと思い、富薫子を抱きかかえる。すると富薫子は満面の笑みを浮かべて抱きしめる。
「そういえば」
滋悟郎がパスタをすすりながら入ってきた。
「フクちゃんは、松田がお気に入りだったの」
「そうなの?」
「そう言えばそうよ。松田さんよくフクちゃんのお世話してたもの。その時はフクちゃんご機嫌なことが多くて。あーそういうことね」
「なにが?」
耕作が不思議そうにしている。
「やきもち妬いてるのよ。猪熊さんが松田さんの横にいるじゃない。しかも二人とも幸せそう。結婚式ってことも分かってないだろうけど、大好きな松田さんを取られちゃうからやきもち妬いてるのよ」
「そんな、バカな」
「女は生まれた時から女よ。罪作りな人ね」
そうやって茶化す富士子とは違い、花園は後ろで鼻息が荒い。
「自分は認めないっス。まだフクちゃんには早いっス」
「花園、何熱くなってるんだよ。俺は柔さんと結婚するんだから、何もフクちゃんを嫁にくれって言ってるんじゃないんだぞ」
「そんなことわかってるっス。でも……」
花園と耕作がわけのわからないやり取りをしていると、同じテーブルの藤堂が声をかけた。
「おめでとう、猪熊さん。呼んで貰ってなんか悪いわ」
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vol.4 Smile, always as ever.
「おめでとう、猪熊さん。呼んで貰ってなんか悪いわ」
「何言ってるんですか。藤堂さんが現役の時にはあまり話も出来なかったけど、引退されてからは悩みを聞いてくれたりして本当に助かりました」
「え? トドさん? 随分変わったし、二人ともいつの間にそんなに仲良くなったの?」
「藤堂よ! そもそもあたしの方が早く知り合ってたし、ソウル五輪の前には一緒に買い物も行ったのよね」
「ええ……」
「でも、あたしたちはライバルだったから馴れ合いはしなかったの。お友達じゃ本当の試合はできないからね」
「由貴ちゃん、そのくらいでいいじゃないか。おめでとう、猪熊さん」
「岡崎さんも今日はありがとうざいます。お二人もご結婚が決まったと聞いています。おめでとうございます」
「え? トドさんの彼? 随分、弱そうだけど、結婚するの?」
「あんたまあまあ失礼ね」
「確かに僕は非力だけど、由貴ちゃんと一緒にいるととても強くなれる気がするから、僕には彼女必要なんだよ」
藤堂は顔を赤らめて岡崎の背中をドンっと叩く。その勢いに思わず咳き込む。
「なあ、そろそろフクちゃんと花園をどうにかしてくれよ」
耕作が困り顔で言うと、富士子が富薫子を抱えて席に座って花園も続いた。
「やっとこっちに来た~」
マリリンが待ちくたびれたと言わんばかりの声を出す。相変わらず露出の多いドレスは誰もが目を見張る。
「おめでとう柔ちゃん、松田さん」
南田、今日子、小百合も順番に祝福をした。
「ちょっと見ないうちに松田さん逞しくなったんじゃない?」
南田がそう言うと、今日子も頷いた。
「アメリカに行くと、マッチョになりたがるの?」
「違うよ。アメリカが広すぎて取材取材で飛び回るとこうなるんだよ。それにしても変わらないな君たちは」
「ひっどーい。大人っぽくなったって思わないわけ?」
「そりゃそうだろうけど」
「やめな、マリリン。松田さんはどうせあたしたちの事なんか見てないから。もうずっと柔ちゃんしか見てなんだから」
「そうですよ。松田さんは猪熊さんしか見てません」
小百合も頷く。もちろん口は食べ物で占拠されて声は出ない。
「な! 俺は取材の時はきちんと全員を見てたさ。だから富士子さんの強さも分かったし、君達の努力だって見て来たよ」
「じゃあ、今度新聞に載せてよ」
マリリンがそう言って胸を寄せるが、耕作は「無理」と断る。
「そう言う交渉は、向こうに編集長がいるから後でそっちとやってくれ」
「いいわ」
マリリンの目が編集長のロックオンされると、隣のテーブルの邦子が出てきた。
「色仕掛けは通じないわよ」
「なんですって?」
「編集長には色仕掛けは通じないって言ってるの。別の方法考えた方がいいわよ」
「おい、加賀くん」
「何よ耕作。今更、おしいことしたなんて思ってお遅いのよ。ねえ、柔ちゃん」
「そうですよ。邦子さんは魅力的ですけど、よそ見したらあたし許しませんよ」
「そんなことするかよ」
余裕の笑みで返す耕作。邦子じゃなくても他のどんな女性でも耕作の心を動かせる人なんてもういない。柔以外には。
「明日の朝刊は荒れますよ。一面がこれですからね」
野波がニヤリとした。二人の結婚の第一報は日刊エヴリーの朝刊というのは決まっているし、もう野波の中には原稿が出来上がっている。
「写真付きで載せるからデマだとかって言われることもないですしね」
「そうだな。写真は後で撮るのにしてくれよ。ここでのは……」
「わかってますよ。ところで柔さん」
「はい」
「改めてお礼を。ここでいうことでもないんですが、なかなか話す機会もないので」
「ラスティの事ですね。それならこちらの方こそお礼を申し上げたいです。教えて下さらなかったらきっと知らないままでした。それはあまりに失礼ですから。それにラスティに出逢えてあたしは本当に強い人ってこの人の事を言うんだってわかったんです。NYで頼れる数少ない友人だと思っています」
「そう言ってくれると、ラスティも喜ぶよ」
「ちょっと……ねえ、二人とも」
「ん?」
「鴨ちゃんが……」
ずっと写真係だった鴨田が疲れと空腹で酷い顔をしている。
「大丈夫か鴨田。ついいつものようにこきつかって。おーい、ジェシーちょっと」
離れた席にいたジェシーを呼ぶと、軽やかに近づいてきた。
「なーに?」
「悪いけど、鴨田の代わりにカメラお願い出来るか?」
「いいわよ。でも、カメラ持って来てないわ」
会場のカメラの持ち込みは制限されていて、鴨田と式場スタッフのみとしていた。どこから情報が流出するかわからないから厳重な管理を強いていた。
「僕の使うといいよ。使いにくいかもしれないけど」
鴨田が愛用のカメラを差し出すと、ジェシーは嬉しそうに構えた。
「じゃあ、最初はこのテーブルから撮るわね」
笑顔になるみんな。鴨田もこの時は笑っていたが、後は席で食事をしながら休んでいた。
「最後はここね」
柔が向いたのは高校時代の友人がいるテーブル。メイクをしてくれた清水ももう席に戻っていた。
「おめでとう、柔」
和美、清水、かおりそしてパトリックが祝いの言葉を言うと柔は高校時代を思い出して胸がいっぱいになる。
柔道をやっていることを言えなかったし、言いたくなかったあの頃。普通の女の子として学校へ行って放課後にはお買い物やアイスを食べたりした。女の子らしい会話を楽しみいつか好きな人が出来て恋人同士になってなんて夢を語った。あの頃は風祭に憧れていた柔もそれはアイドルに憧れるのと同じなんだと気づいて、いつもそばで見守って支えてくれた耕作の存在を大きく感じた。
「実を言うとね」
かおりが耕作に向けて話し出す。
「あたし、あなたが許せなかった。柔を無理矢理柔道に引っ張っていって、やりたくないって言ってるのに、試合させたり新聞の載せたり。柔はさ、あたしたちよりもずっと女の子らしくて料理も得意だし恋したりオシャレしたりして普通の女の子でいたかったんじゃないかなって思うの」
耕作は何も言えなかった。高校時代を激変させたのは耕作の記事が原因だということは、自覚している。
「でもね、今こうやって結婚式してドレスとかお着物を着て笑顔でいる柔を見ると、普通かどうかなんてどうでもいいのかなって思うの。だってここにいるのは普通の幸せな花嫁だから」
かおりの目は潤んでいた。一時は途切れた友人関係も、思えば自分から距離を置いていたような気がした。どんどん有名になっていく友人とその周りには大人の男性がいて、自分が入り込む隙もない。友達として支えたり励ましたりしなくても、沢山柔の周りにはいる。淋しいと思う前に距離をとった。
「かおり、ありがとう。あたしのことずっと心配してくれて。見守っていてくれて。あたし、今幸せよ」
「うん。知ってる」
和美が泣きそうになっている横でパトリックが号泣して、その様子を清水が横目で見て涙が引っ込んでしまったようだった。
最後に行ったのが親族がいるテーブルだ。式の前に両親と滋悟郎にはあいさつをした柔だが、あらためてこの場で向き合うと込み上げてくる複雑な感情。家族として一緒にいた時間は短いし、バラバラではあったけどお互いがお互いを思い合っていたことだけは今は分かっている。それでも、今でも父の顔を見ると安堵する。母がそばで笑っているのを見ると、嬉しくなる。そして祖父が沢山食べているのを見ていると、安心する。
「綺麗よ、柔」
眩しそうに見上げる玉緒の目には涙が溢れていた。普通の家庭よりも母らしいことをしてあげられなかった。それなのにまっすぐ育ち、優しく人の痛みに寄り添える子になったことを誇らしく思う。それはオリンピックの金メダルや国民栄誉賞よりも母としては嬉しい。
「ありがとうお母さん」
耕作の事で苦しんでいるのを横で見ていたからこそ、この日を迎えられた喜びは誰よりも感じている。ぶつかって悩んだからこそ、この晴れやかな表情なのだ。
「松田さん……いえ、耕作さん」
「はい」
「知っていると思うけど、柔は柔道は強いけどその他の事は結構ウジウジしたタイプなのよ。それがね柔道にもよく出てしまうから気を付けてね」
「もー、お母さん。こんなところで言わなくても」
「重々承知してます。これからは一緒に悩んで解決していけたらと思ってます」
「ありがとう」
隣の席では食事よりも酒を飲む虎滋郎がいた。ワインよりも日本酒がいいと急遽、持って来てもらったものだ。
「お父さん、さっきはバージンロード一緒に歩いてくれてありがとう」
虎滋郎は黙々と酒を飲み、つまみを口に運ぶ。
「俺でよかったのか?」
ぼそっと言うと、柔は微笑んだ。
「もちろんよ。お父さんだもん」
「そうか……」
「なにが、『お父さんだもん』ぢゃ。こんな放蕩親父は親父じゃないわい」
「そんなことないもん。あー! さてはおじいちゃん、あたしとバージンロード歩きたかったんでしょ」
「なーにを言っておる。あんなじれったい歩き方なんぞできるか!」
「あれはそう言うもんなんです。あ、すみません、煩くしてしまって」
同じテーブルの耕作の両親はそのやり取りを微笑ましく見ていた。
「気にすることないさ。家族なんだから」
「そうだ。賑やかで羨ましいよ。耕作は早くに家ば出たし、家ではあんまり話す方ではねえしな。その点、女の子はええね」
「男で悪かったな。でも俺が家でなんでもかんでも話すような息子だったらそれはそれで鬱陶しいと思うぞ」
想像する両親。
「それもそうだな」
「お義父さん、お義母さん」
「なんだい?」
「これから沢山ご迷惑をおかけするかもしれませんが……」
「そのことならもうええんだよ。承知の上だし、何かあっても耕作が何とかするだろうし」
「そうだな。だから柔さん気にすることないよ」
「そんな顔しねえで。今日はお祝い。晴れの日。これからの事は考えない。さあ、写真撮りましょ」
ジェシーがカメラを構えて7人が写真に納まる。これが初めての家族写真となった。
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vol.5 Yesterday, Today, Forever...
柔と耕作が高砂に戻ると、祝電が読み上げられた。
『ご結婚おめでとうございます
長年お二人の事を近くで見ていたものとして
これほど似合いのカップルはいないとおもっていましたので
まさに運命の相手と出会い結ばれたのだと感じております
末永くお幸せに
本阿弥進之介』
名前を読み上げられた時、柔と耕作は驚きながらも安堵した。なぜなら結婚式の事はほぼ外部には言っていないことで、祝電が来ること自体ありえないと思っていたのだ。でも、風祭ならどこかで情報を手に入れて祝電をしてもおかしくはない。
「それではもう一通ございます」
『ご結婚おめでとうございます
柔さん 幸せ気分は今日だけになさい
来年の体重別選手権が決着の時です
首を洗って待っておいでなさい
本阿弥さやか』
会場が凍りつく。何と言う祝電。恐らく読んだ司会者も初めてだったのではないだろうか。
「さやか嬢、やる気ぢゃの!」
滋悟郎がにやりと笑う。
「ず、随分個性的な祝電でしたね。それでは新郎新婦よりご両親への花束が贈呈されます」
耕作は大きな花束を自分の両親に贈る。
「沢山心配かけたし、迷惑もかけたけど助けてくれてありがとう。これからも体に気を付けて長生きして欲しい」
「まだ死ねるか」
「そうよ。まだまだこれからなんだから」
涙ぐむ両親。立派に育った息子を誇らしく、そして淋しく感じる。
柔も両親に花束を渡す。
「今日まで大切に育ててくれてありがとうございました。娘としてはまだ何かしてあげられたことがないので、これから少しずつ親孝行していきたいと思います」
「ありがとう、柔。自慢の娘よ」
「今まですまなかったな。ありがとう」
「それからおじいちゃん」
黒の紋付を着て堂々としたいでたちでいる滋悟郎はこの時ばかりは静かにしていた。
「今まで言えなかったけど、柔道教えてくれてありがとう。女の子が柔道なんてってずっと思ってけど、柔道やってなかったら耕作さんにも出会えなかったしここにいるみんなにも出会えなかったかもしれない。すぐ調子に乗るおじいちゃんだからあんまり言いたくないけど、あたしを大切にしてくれてたことは伝わってるよ。強引なところもあるけど、あたしのことも考えてくれてた。だからね……」
柔は目に涙が浮かんでいた。瞬きしたら涙が零れそうだ。
「なんぢゃ」
「長生きしてね」
「わしはまだ死なん!!」
「わかってるわよ」
そう言って柔は金メダルを滋悟郎の首にかけた。それはソウル五輪のでもバルセロナ五輪のでもなく柔が自作したちょっと不格好な金メダルだった。
「な……なんぢゃこれは」
「おじいちゃん、東京オリンピックに出られなかったって言ってたから」
1940年の幻の東京五輪は支那事変の影響により開催を返上した。もしこの時開催されていれば、公開競技ではあったが滋悟郎は間違いなく柔道で金メダルを取っていただろう。そしてそれは世界に衝撃を与える事となったに違いない。
「開催してたら金メダルだったよね」
「あ……あたりまえぢゃ」
その時、カメラのフラッシュが光る。カメラを構えていたのはジェシーではなく、シゲルだった。
「松ちゃん……」
「父が生きていたらきっと滋悟郎さんの勇姿をこうやってカメラに残したはずですから」
滋悟郎は若い時のことを思い出し、胸にこみ上げる。カネコが生きていて、自分も柔道にまい進し輝く未来が待っていた。戦争と言う影が落ちる中でも、柔道があったから強く生きてこれた。カネコや虎滋郎がいたから踏ん張れた。家族が増えて、玉緒が嫁になり柔が生まれてカネコを亡くしそれでも自分が出来ることは柔道しかなかった。貫いてきた自分の道を疎ましく思われても、残したかった。自分の力と技を。独りよがりだとしても、嫌われても構わないと思っていたのに。
「こ……こんなものよりも、アトランタ五輪の金メダルの方がよっぽど嬉しいわ!」
そう言いながら涙を流す滋悟郎を柔と耕作は涙と笑顔で見つめた。
「皆様、新郎よりお礼のごあいさつがございます」
司会者に言われて耕作は慌てふためきながらマイクを取る。そして深呼吸をして柔を見ると不安そうにしていたので、笑顔を作り余裕を見せた。余裕もないのに。
「本日はご多用の中、二人のためにお集まりいただきありがとうございました。皆さまからのたくさんの身に余る祝辞をいただき感謝の気持ちでいっぱいです」
耕作はまた一呼吸置いた。格式ばった物言いに違和感を覚えた。自分の言葉で言わなきゃいけないことがある。
「今日、結婚式が出来たのは柔さんの頑張りによるものです。俺はアメリカにいて殆ど何も出来ませんでした。準備期間も短く本当に頑張ってくれたと思います。ありがとう」
柔の方を向くと、戸惑いと喜びが表情に滲み出ていた。
「それからみなさんも急な式だったのにもかかわらず集まってくれて本当に感謝しています。特にデイビットはこの場所の提供とアメリカからみんなを連れて来て、祝ってくれて俺はいい友人を持ったなと心底感じています。そして鴨田」
奥の席でぐたっとしていた鴨田は急に名前を呼ばれて耕作を見た。
「無茶なお願いを承諾してくれてありがとう。お前の写真の腕は信頼してるし、お前がいなかったらきっと俺はここにいなかったと思う。ありがとう」
「いや~それほどでも」
「そして一つだけ皆さんにお話ししておきたいことがあります」
耕作の雰囲気が変わり、何を言うのかと全員が注目する。
「今日、俺たちは結婚して夫婦になりました。籍を入れて、俺が猪熊になります」
会場がざわめく。
「どういうことだ、松田?」
編集長が代表して聞いた。
「猪熊という姓を残したかったんです。俺も柔さんも一人っ子でどちらにしてもどちらかの姓が消えるわけで、普通に考えれば男の名字に女がなるものだって思うかもしれない。でも、俺は猪熊柔道の素晴らしさとか将来性を踏まえて、残すべきだと思ったんです。もちろんうちの両親にも相談して納得の上での結論です」
耕作の両親は頷いている。
「俺は記者でペンネームでも仕事が出来るからこれからも変わらず『松田』で仕事をしていくつもりです」
「柔ちゃんはどう思ってるの?」
邦子の声を聞いて柔もマイクを持つ。
「耕作さんからこのことを相談されてあたしはずっと考えてました。あたしは結婚したら夫の姓になるものだって、それが幸せなんだって思ってました。逆にそうしない家は妻の力が強くて夫が肩身が狭い思いをしているのではないかと言う偏見すら持っていました。でも、耕作さんはあたしに別の道を示してくれて考えさせてくれました。常識とか当たり前を見つめなおす時間をくれて、自分と家族と向き合いそして気づいたんです。あたしが背負っているものはとても大きくて、それを耕作さんが半分肩代わりしてくれようとしてるんだって」
滋悟郎の金メダルを作ってる時、今までの試合の事を思い出していた。メダルもそうだがカップや賞状類も柔は興味がなく部屋に置いてもいない。全て滋悟郎が管理しているはずだ。それなのに自分は滋悟郎に金メダルを贈ろうとしている。それが大きな意味を持つ物であることを自覚した。滋悟郎が大切に守っているのは、そう言う形あるものじゃなく自分のしてきた歴史そのものなのだとわかった。
そしてその最たるものが国民栄誉賞と言う大きな、大きすぎる賞。それはあまりにも柔の背には大きくて重い。でも放り出すことも無かったことにもできないし、手放したくはない。
「もしあたしの姓が松田に変わったとしても、あたしのしてきたことが変わるわけじゃないと言ってくれた人がいました。それもそうだなと納得しました。将来、子供が生まれてその子が柔道をしたとき猪熊と松田の両方の想像をしてみたら、結局親の事を言われるんですよね。だったらもう松田になった方がいいのかもしれないとも思いました」
会場を見渡す。柔道を通じて出会えた人たち、柔道をしていると知っても友達でいてくれた人たち。そんな人たちが真剣なまなざしで柔を見ている。
「でも、これからの日本の柔道界の事や女子柔道の事を考えたら『猪熊』の一本取る柔道は必要だと思ったんです。柔よく剛を制すの信念のもと日本の柔道を伝えて行けるのはおじいちゃんが確立した『猪熊柔道』だけなんだって思いました。耕作さんがあたしが背負っているものを半分持ってくれるなら、あたしはもう少し背負えるかなって思ったし、耕作さんも一緒に背負ってくれるから名字を猪熊のままにしようと思いました」
頷いている両親たちとは違って滋悟郎はポカンと口を開けて柔を見ている。
「実はこのことをおじいちゃんは知りませんでした。ね?」
「わ……わしは聞いておらん」
「今更反対してももう遅いのよ」
「反対なんぞせんわ!」
「そう言うと思った」
滋悟郎は耕作の両親の方へ歩み寄る。
「本当によろしかったんですか?」
「もちろんです。同じ山形出身として猪熊先生の偉大さは誇りに思うところです。だからこちらこそ、光栄に思います」
滋悟郎は遠い目をする。若い頃に成し得なかったことがある。名声を山形までとどろかせること。親族を驚かせること。後者は成し遂げた。そして今、残った一つを成し遂げた気がした。
「ありがとう」
滋悟郎はしっかりと握手を交わした。
その後、結婚式はお開きとなりゲストを見送って柔たちも控室へもどった。
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vol.6 Thanks for all our encounters.
二次会は開かれなかったが、別の部屋にデザートが用意されていてそこで暫く談笑することが出来た。普段あまり接点のない人が集まるこの場で式だけして終わりというのも勿体ない。だからと言って、結婚式そのものが極秘で二次会の会場を見つける事出来ずにいたら式場から提案を受けてこの形をとった。柔と耕作は少しラフな服装に着替えて会場に入った。
テーブルにいた時は知ってる者同士ででしか話せなかったが、今はあちこちで数人のグループに分かれて柔たちの事や仕事や恋愛の事などを話していた。
特にイーサンは日本人女性を口説こうと声を掛けに行ったが、英語が堪能な人が和美とかおりしかおらず、和美に至ってはパトリックがいるのでかおりに声を掛けたがあまり相手にされてないようだった。
アリシアは少し日本語が出来るので、富士子や今日子たちと楽しく話しているし、邦子とジェシーは最初は敵対していたが今は二人で仲良くお酒を飲んでいた。
そんな中、耕作と編集長が二人で深刻そうな話をしていたかと思ったら、野波の元へ行き二人は会場を出て行ってしまった。
「仕事に戻ったんだよ」
耕作がそう言って柔は頷いた。明日には記事になる。承知の上だが、やはり世間に発表するのは気恥ずかしい。
とりあえず明日、耕作は午前中の便でアメリカに戻り、柔は世界選手権も近いので日本の極秘の練習場で滋悟郎と共に稽古に励む。玉緒と虎滋郎も明日、フランスへ戻るので猪熊家からはコメントが取れないだろう。しかし松田家にはマスコミが押し寄せる事が予想される。
「うちの事は気にしなくてええよ。民宿もしばらく休んだし、せっかく東京さ出て来たから観光してから帰ることにしたんだ。そのことは旅館組合にも話してある。詳しくは話してないが上手くやってくれって頼んできた」
「ホテルの手配は大丈夫ですか? まだお済でないならあたしがしますけど」
「ありがとう。でも、もうホテルもとってるし行く場所も決まってるんだ。ねえ、父ちゃん」
「ああ。鎌倉とか箱根とか行こうかと思っているよ」
「東京じゃねーじゃん」
「うるさい! 耕作!」
母にどやされて肩をすくめる耕作。すると近くにいた羽衣が声を掛けた。
「松田さん。もし、何かお困りごとがあったら私に連絡ください。旅行代理店なんで力になれると思います」
そう言って名刺を渡した。
「いろいろとありがとうございます」
柔は会場を見渡すと藤堂とデイビットことレオナルド社長が話しており、憧れのスターを目の前にして緊張しているのがわかるがとても楽しそうだった。パトリックはモーリスとNYのことについて話し故郷を懐かしんでいるようだ。ルネはイーサンと、ジョディは和美と話している。清水は富士子と今日子と家事や育児の話をしているし、岡崎はスポーツ医学を研究していて滋悟郎の特殊な塗り薬について質問をしているようだ。ジェシーと邦子、鴨田は恐らくカメラを話をしているのだろう。ジェシーは耕作と仕事をするようになってから少しずつ日本語を学んでいて、少しなら話せるようになっていた。
「ねえ? 編集長は?」
甘えた声で耕作に声をかけたマリリンは相変わらず、露出の多い服を着ている。思わず胸元に目が行く耕作だが、すぐに視線を戻す。
「仕事に戻ったよ。今日の事は記事になるんだし」
「記事になるの!? じゃあ、あたしのことも載せてくれるの?」
「それは俺にはわからないけど、きっと取材は行くと思う」
「えー、困っちゃうな~」
そういうマリリンは全く困った様子はなく、むしろ喜んでいた。
「ちょっと、あんた、式の事や柔ちゃんたちの事ペラペラしゃべるんじゃないよ」
「どーしてよ」
「ごめんね、マリリン」
柔が会話に入ってきた。
「誰が出席してたとか、どんな式だったとかってあんまり公表したくないの」
「えー」
「この式はね、お世話になった人たちの恩返しのつもりで開いたの。それでも沢山の協力があって出来たんだけど、今日ここにいる人たちだけで共有できる思い出にしたいから、外部の人にはあんまり知られたくないのよ」
「わかってあげなよ」
南田がそう言ってマリリンの肩を叩く。
「うん。取材がきても言わないわ。大丈夫。口は閉じておく」
「ありがとう」
「ねえ、小百合の食べる手が止まってない?」
怪奇現象でも見るように南田が遠くを見ている。そこには小百合と虎滋郎という異質な二人が話していた。
「あの二人って接点あったっけ?」
耕作も不思議がっている。するとそこに松平も加わった。ますますわからない会合に興味を持った四人は近づいてみた。
「そーなんですね。勉強になります」
小百合の声がした。虎滋郎の声はまだ聞こえない。
「へー、一度食べてみたいです」
また小百合。どうやら食べ物の話をしているらしい。
「なんの話をしてるの?」
「あ、すごいのよ柔ちゃんのお父さん。フランスのね、美味しいお店色々知ってて、それどころか世界中の美味しいお店知ってるみたいなの」
「美味しいお店? お父さんが?」
「コーチをしてあちこち食べ歩いたからな。特に、本阿弥のコーチをしているときはなかなか食べられないような豪華なものを食べていたぞ」
「今度、あたしねデパートの食品バイヤーになるのよ」
「何それ?」
「各地の美味しい物を買い付けてデパートで販売するのよ。それがね日本国内だけじゃなくて、海外も対象だから色んな人に話を聞いているところだったの。でも案外海外だとガイドブックに載ってるような店のことくらいしか教えてくれなくて、困ってたんだけど柔ちゃんのお父さんを見て思い出したの」
「放浪してたこと?」
「そう! 海外にも行ってたみたいだしもしかしたらって。そしたら松平さんも加わってくれて」
「LAの美味しいものならある程度は知ってるよ。日本人にとっては珍しいものもあると思うよ」
「世界の美味しいものを調べていつか日本で流行らせるわ!」
「ティラミスみたいに?」
「そうよ! 今まで食べる事だけに情熱を傾けてたけど、これからは美味しい物をみんなに届けることに情熱を注ぎたいの! そのために勉強してるところ」
小百合のやる気は満ちていて、メモ帳に店の名前をメモしては目を輝かせて話を聞いていた。
「じゃあ、NYのことは知りたくない?」
玉緒と話していたアリシアがその輪に入った。アリシアもさやか同様にお金持ちのお嬢様だ。美味しい店は沢山知っているはず。小百合は力のこもった目をして「もちろん」と握手をした。
ふと会場の隅を見ると、祐天寺と羽衣が外を眺めながら話しているようだった。西海大と鶴亀トラベルはかつて柔争奪戦をしたこともあったが、柔の気持ちは就職にありやはり祐天寺は見向きもされずにフラれた形だ。そんな二人が何を話しているのか疑問だが柔はそっとしておいた。
会場を見渡すと、柔と耕作の知り合いだけど今日まで会話もしたことがない人が集まったと言うのに、もうそれぞれで気が合う人見つけては会話を楽しんでいる。思い出を語ったり情報交換をしたり、今の現状を相談し合っている様子もうかがえた。
その光景が不思議で幸せだった。
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vol.7 I’m really glad I met you
さっきまで隣にいた耕作は花園と富薫子がいるテーブルに移動しており、一緒にデザートを食べている。富薫子は相変わらず耕作がお気に入りで、膝の上に乗ってご満悦の様子。それを耕作も優しい笑顔で受け入れている。
「妬ける?」
玉緒が冗談めかしにそう言うと柔は「そうね」と返事をした。
「まあ、正直ね」
「だって、あんな顔みたことないもの」
「自分たちの子供で最初に見たかった?」
「……うん」
「だったら大丈夫よ」
「どうして?」
「きっと、もっと優しくていい顔を見せてくれるわ」
「そういうものかしら?」
「当たり前じゃない。自分の子供が一番かわいいものよ」
「お父さんもそうだったかな」
「柔が生まれた時には泣いて喜んだわ。寒い日に生まれたから病院から家に帰る時も厚着させてモコモコでカネコさんに叱られてた。危ないし汗をかくから減らしなさいって」
「あのお父さんが?」
「そうよ。足の力が強い柔はすぐに布団とか毛布を蹴っててね、それを虎滋郎さんはすかさず元の位置に戻すの。そしてまた柔が蹴っての繰り返し。ちょっと大きくなると柔が喜ぶからゼリーをね沢山買って来てまたカネコさんに怒られてたわ。虫歯になるからほどほどにしなさいって」
「意外だわ」
「だからね、これからもっと松田さんの意外な一面が見れると思うから、楽しみね」
「うん」
母子が会話をしているのを耕作は見ていた。幸せそうな顔をしている柔を見るのは耕作も嬉しい。
「やっぱりって感じっスね」
「何が?」
「二人が結婚したのはですよ」
「花園ならそう思うよな」
かつて花園は柔道を始めた富士子がみるみるその才能を開花させ、大会でも成績を残していく姿に不甲斐なさを感じていたことがあった。花園は小さい時から柔道をしていたが、全く上達せず大学の柔道部でもレギュラーすら入れなかった。練習は誰よりも真面目にしているのに、試合では自分より小さい選手に負けることだってあった。
そんな中で輝きを放つ富士子に追いつこうと猛特訓を始め、柔と滋悟郎にも協力してもらってレギュラーを獲得し、大会では準優勝することが出来た。その猛特訓のことを耕作に知られてしまったが事情を聞いた耕作は記事にしないでいてくれた。富士子に対する花園の気持ちと当時の耕作が柔に抱いていた気持ちは似ていた。どんどん高いところへ登って行ってしまう柔を誇らしくも嬉しく思うが、見上げる先が眩しすぎて目がくらんだ。自分のいる場所があまりに冷たくて寂しい場所のように思えて釣り合いが取れないし隣に並ぶことも出来ないと思った。
でも花園は努力した。出来る限りの最大限の努力をして富士子と向き合った。そして二人は同じ歩幅で並んで歩いている。
「あの時のラーメン、うまかったっスね」
「ああ、また行こうな。あれは女性には受けないから男だけで」
「そうっスね」
膝の上にいた富薫子が不満そうに頬を膨らませる。自分も一緒に行きたいとでも言っているようだった。
「フクちゃんはケーキがいいよな」
耕作はショートケーキを少しとると、富薫子に食べさせた。白いクリームが頬についてそれを取るとき子供らしいすべすべでもちもちした肌に触れてしまった。
「すごいな、子供ってこんななのか?」
「すごいっスよね。まるで餅みたいっスよ」
「へー、気持ちいいな」
「松田さんと言えど、あんまりフクちゃんに触らないでください」
「本人は喜んでるのに?」
富薫子は嬉しそうにされるがままだった。
「松田さんもいつか子供が出来たらわかるっス。特に女の子だったらこの気持ちはわかるっスから今度は自分がその子の頬をモチモチしてあげるっス」
「は……はっはっは……」
耕作はそっと手を放した。娘を持つ父親ってこんな感じなのか。こりゃ将来を考えると娘の父になるのは大変だなと思った。
それから30分程して二次会もどきはお開きとなった。柔はジョディや富士子とも沢山話したし、みんなの楽しむ姿が見れてとても満足していた。そして柔はホテルへ向かった。
「疲れたなー!」
シャワーを浴びた耕作はホテルのベッドに勢いよく腰かける。
「そうですね。でも、みんな喜んでくれたみたいでよかった」
先に部屋に戻っていた柔は散らかした部屋を片付けたり、服を畳んだりしていた。
「頑張ったもんな柔さん。本当にありがとう」
「ううん。あたしのほうこそありがとう。あたしがしたかったことに付き合ってくれて、楽しかったわ」
耕作の隣に座った柔は、耕作の逞しい腕に絡み付く。シャンプーのいい香りがふんわり香る。
「明日にはもう一緒にいられないなんて本当に織姫と彦星みたい」
「七夕に結婚したいって言ったのは柔さんだぞ」
「だって記念日だし……」
ボソッと小声で言う柔に耕作は一瞬何のことか分からなかったが、すぐに思い出した。去年の七夕は二人が初めて結ばれた日だ。
「なあ、知ってるか。織姫と彦星ってあんまり仲が良くて仕事を疎かにしたから、離れ離れになったんだそうだよ」
「そうなの? 知らなかった」
「だから、俺たちはしっかり仕事をしていれば一緒にいる時間ももっと増えるんじゃないかな」
「耕作さんが仕事がんばると、家にいないじゃない」
「あ! そうか。でも、それが近道がと思うんだ」
「じゃあ、あたしは世界選手権を目先の目標にしていればいいのね」
「そうだね。ところで、柔さん」
「なあに?」
「少し、飲まないかい?」
部屋にあったシャンパンを開けた。細く上品なグラスにゴールドのシャンパンが注がれ、泡が綺麗に上がる。二人は窓辺に座り乾杯する。ホテルから見える東京の夜景はとても美しく、ロマンティックだった。
窓に映る左手の薬指にはお揃いの銀の指輪がやけに光って見えた。
「どうかしました?」
「いや、指輪見てるとさ、結婚したんだなってあらためて思うって言うか」
柔はそっと左手で耕作の左手に触れる。ゴツゴツとした太い指に光る指輪はまだそこにあるのが慣れないようで、居心地が悪そうにも見えた。
「指輪をすることにあたしもまだ慣れてないし、耕作さんがしていることも不思議な感じがします。きっと、これからこれが当たり前になるんですね。それが結婚なんでしょうね」
「そうだな。一緒にいるのが当たり前ででもお互いを大切にしあって行く夫婦や家族でありたいな。でも虎滋郎さんや玉緒さんのような夫婦もいいよな。離れてても思いは一つみたいな」
「もうきっとそうなってますよ」
「結婚したばかりなのに?」
柔は耕作を見つめた。
「試合の時、耕作さんがいなくて不安になることがなくなったの」
「どういうこと?」
「ユーゴスラビアの世界選手権の時、あたしとても不調だったでしょ。原因がわからなかったんですけど、決勝で耕作さんが来たのがわかると安心していつものように試合ができたんです」
「そうなの!?」
耕作は驚きと嬉しさで変な顔をした。
「バルセロナ五輪の48kg以下級の時もそうだったんです。だから富士子さんが耕作さんのプレスカードを持ってきてくれてそれで力が出たんですよ」
「そりゃ嬉しいな。俺なんて何の役にも立ってないと思ってたから」
「そんなことないですよ。耕作さんはずっとあたしの心の支えだったんです。今もそうですけど、今は試合に来れないときも不安じゃなくなりましたから。それが離れてても思い合っているって勝手に思ってるんですけどね。でも、だからってあたしを置いていなくなるのはやめてくださいよ」
「そんなことしないよ。最低限、所在は明らかにするし」
「もう! そう言うことじゃなくて」
「どういうこと?」
「ずっと……これからずっと、ずっと手を繋いでいられる距離にできるだけいて欲しいってことです」
そう言って柔は耕作の手を握る。二人とも顔を赤くして照れているが見つめ合ったまま。そして重なる唇、早くなる鼓動。
「なんだかとても緊張します」
「俺もだよ。きっと一生慣れる事なんてないよ」
夜景の見える窓にはカーテンが引かれ、照明を落とした部屋で互いの愛に触れ合う。ここまでの道のりは長かった。でもこれが二人の近道。これからの人生を思えばまだほんの一歩に過ぎない。でも、その一歩を踏み出せた幸せを今は噛みしめている。
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世界選手権 in JAPAN
vol.1 大騒動の結婚報道
恐らく世界中の人が驚いたそのスクープを報じたのは当然日刊エヴリースポーツだ。あまりに突拍子もないスクープだと、裏取りが出来ているのかと激しく問い合わがあるが今回ばかりは裏取りの必要もない。なぜなら柔の相手が日刊エヴリーの記者だからだ。
「おい! いたか?」
「ここにはいないみたいだ」
案の定、猪熊邸がある閑静な住宅街には早朝からマスコミが押し寄せていたが、そこには誰一人としていない。近所に人に話を聞くと、昨日から姿が見えないと言っていたから記事が出ることを想定して雲隠れしたんだと悔しがった。
耕作のふるさとでもある山形にも記者はきた。始発の新幹線で民宿に押し寄せたが、やはりもぬけの殻。近所の宿屋に聞いても知らぬ存ぜぬ。宿泊してくれたら何か思い出すかもなんて言い出す宿屋もあったようだ。
富士子が静岡の実家に帰ったことは知られていて、そこにもマスコミは来ていた。あいにく、富士子も花園も帰宅してないので話は出来ないと言われ、また肩を落とす記者たち。
その後、マリリンたち三葉女子の面々や鶴亀トラベルにもマスコミがやって来たが誰も何も話さなかった。
「くそー! 戒厳令でも敷かれてるのか! 誰も何も言いやしない」
スポーツ東京の記者がそう言って新聞を地面にたたきつけると、ふとその新聞の端っこが目に入った。
「そ……そうか」
急いで向かった先は「日刊エヴリースポーツ」本社だ。
記者たちの相手をしたのは編集長だった。
「松田記者はいないんですか?」
「いないな」
「アメリカですか?」
「そうとも言えるしそうとも言えない」
「じゃあ、猪熊は?」
「それは知らん」
「家族全員いないんですよ。あの目立ちたがりのじいさんまでいないんですよ」
「そうやって追いかけるから隠れてるんだろう。もう、そっとしておいてやれよ」
「それおたくがいいますか? 騒いでほしくて記事にしたんでしょ」
「いいや。騒いでほしくないな。結婚したことはいずれ言わなきゃいけないけど普通に考えてウチで記事にするだろう。松田はウチの記者なんだし。公表してもしなくても騒がれるなら公表してこれ以上話さないってことにしたんだよ」
「そんな、不公平だ!」
「手段の一つだよ。それにもっと知りたいなら来月出る松田の本でも読んでくれ。一応そこには結婚の事も書かれてるから」
「ということは、あなたは知っていたのですか? 二人の交際を」
「ああ」
「新聞で否定記事出しましたよね」
「あの時は知らなかったしな」
「じゃあ、松田記者が嘘を言ったと? それとも猪熊側から秘密にして欲しいとでも言われたんですか?」
「そういうことはないな。松田も嘘を言ったと言うよりは、まだ本当の事か信じられないと言った感じだったらしい。なんせすぐにアメリカに行ったんだからな」
「夢だと半分思っていたと?」
「そういうことらしい。それくらい松田にとっては現実味のない出来事だったんだろうな」
「じゃあ、いつから現実になったんですか?」
「そんなこと俺が知るか。二人の仲を知ったのは最近だ」
これは嘘だ。編集長が二人の仲を知ったのは去年の初め。日本語版の書籍発売に向けての話し合いのために耕作が帰国した際に問い詰めたら自白したのだ。だがその時も喧嘩でもしたのかはっきりしない返事が返ってきた。
「俺が言うのも変だがな、猪熊はスポーツ選手だ。アイドルじゃないんだよ。結婚したところでいちいち報告する必要もないし、コメントを出す必要もないだろう」
「国民栄誉賞を貰ったんだから公人に近いと俺たちは考えてますけど」
「それは勝手な言い分だ。国民栄誉賞はその人の功績を称えた賞であって、それは国が与えたものだろう。その国も国民の反応を見てふさわしいと思ったから授与したんだ。素晴らしい功績を残した国民が貰う賞なんだから公人じゃないだろう」
「ですが、税金が投入されているじゃないですか」
「賞金は渡されてないし、記念品程度でごちゃごちゃいうなよ。競技に関しての税金投入だって猪熊は結果を残してるんだから問題ないだろう。それよりも税金を使って作って使われない箱ものの方が無駄遣いだと思うぞ」
「それもそうですが……って話がずれてます。猪熊はコメントは出さないんですか?」
編集長は時計を見る。午後1時。そろそろか。
「出すぞ。マスコミ各社にFAXを送ると言ってた。もうすぐじゃないか」
「なんで、こんな中途半端な時間に! あ、海外にいるんでしょう。そうなんですね」
「だから知らないって。ただな、わかってくれ。今年の9月には世界選手権、来年は五輪だ。大切な時期なんだから結果を出してほしいなら追い掛け回してストレスを与えるなよ」
「は! おたくもこっちの立場なら同じことしてたでしょう? こっちはこっちのやり方があるんでお構いなく」
記者たちはゾロゾロとビルを出て行った。怒りも焦りもわからんでもないが、仕方ないことだ。耕作は日刊エヴリーの記者なんだから他社にスクープを取らせるようなこともしないし、結婚を機にフリーになるなんてありえない。まだまだ磨いて磨いて、輝いてもらわないと。世間の見る目が変わるほどに。
「前途多難だな……」
午後3時頃になると、マスコミ各社に柔のコメントFAXが送信された。実を言うとこれを送信したのは鶴亀トラベルからで柔は前日に直筆の文章を羽衣に渡していた。
『いつもお世話になっている皆様へ
突然ではございますが、私、猪熊柔は7月7日に日刊エヴリースポーツの記者松田耕作さんと入籍いたしましたことをご報告申し上げます。
本来であれば、皆様の前で会見をしたいところではありますが、間近に控えた世界選手権への影響を考えコメントのみとさせていただきましたことお許しください。
夫は記者ではありますが一般の方ですので、関係者への取材などは御遠慮いただきますようお願いいたします。
入籍は致しましたが、夫が海外赴任中でございますので、暫くの間は別居と言う形をとりお互いに精進していく所存です。
未熟者ではございますが、これからもご支援賜りますようよろしくお願いしたします。
猪熊柔 』
期待して待っていたマスコミ各社はあまりに定型文なコメントに肩を落とす。今までも柔は殆どコメントを出してない。オリンピックで金メダルを取っても国民栄誉賞を授与されても会見では滋悟郎が話し、柔は苦笑いを浮かべているくらい。もちろん、今回のような定型文的な挨拶はするが、自分の本心を公の場で発言したことなんて殆どないかもしれない。
近寄りがたい選手という印象が記者の中にはあった。さやかとは違い、サービス精神が乏しくいつも困り顔をしていた。そんな選手をどうして松田記者は射止めることができたのか、記者仲間の中でも疑問でしかない。アメリカで出版された「YAWARA!」を読んだ記者も、耕作がデビュー前の柔を見つけそれ以降も追いかけていたと言うことはわかっても、それだけじゃ彼女の心を動かすなんて到底不可能だと思った。
猪熊柔と言う選手はスポーツ記者たちの中でも、扱いにくい選手だった。ある意味、普通すぎるのだ。どこにでもいる普通の女の子が柔道をしていて、凄く強いということだから世界と戦う意気込みとか負けられないという強い意志はあまり感じられない。何のために柔道をやっているのかもあやふやなのだ。
「NYにはいないみたいです」
スポーツ東京編集部にかかってきた電話は、アメリカ支局の記者がNYの鶴亀トラベルに取材に行った結果の報告だった。NYにいないならどこにいるのか。世界選手権が近いのに他国で練習と言うのもおかしな話だ。やはり国内か。でも、心当たりは探した。でも、どの記者も情報は得てない。
「日刊エヴリーが唯一の手がかりか……」
それからとても奇妙な出来事が起こり始めた。鴨田や邦子は誰かに付けられているような感覚を覚え、何度も振り返ってみるが誰もいない。編集長も同様の事が起こったが、理由は明白なので気にしないで過ごすことにした。
「同業者を追いかけて何が楽しいんだか……」
真夏の炎天下の中、会食に出かけた帰り視線を感じて振り返る。蝉の鳴き声と室外機の音が耳鳴りみたいに聞こえた。体を戻して編集部に帰ろうとしたとき、生い茂った大きな木の隣に背の高いほっそりとした男が立っていた。
「日刊エヴリーの編集長さんですか?」
「あ、ああ。あんたは?」
「山形新聞の記者をしてます。海藤といいます。松田記者の事をお伺いしたいのですが」
「松田はアメリカにいる。記者のプライベートまでは把握してない」
「山形では随分話題になってまして。あの猪熊柔が嫁に来るって。ぜひともコメントをいただけないかと思ってるんですが、窓口がなくてですね」
「両親がいるだろう。プライベートなことなんだからそこから頼めばいいじゃないか」
「そうしたんですが、忙しくしてるからなかなかつかまらないと言われまして。だったら仕事で毎日連絡を取っている編集部なら繋いでくれるかと思いまして」
「そういうことなら、うちは無理だ。諦めてくれ」
「わかりました。お手間をお掛けしました」
海藤は白い顔に笑みを見せて編集長を見送った。この暑さの中、編集部まであと10分程かかるだろう。角を曲がってふと振り返る。海藤の姿はない。
「あいつ何でこんなところにいたんだ?」
ボソッと聞こえるか聞こえないかの声で言った。編集部からも遠いこの場所で編集長に会えるなんてあまりない。そもそもここは普段通らない道なのだ。
あらためてあの細くて白い顔を思い出すと妙な寒気がした。
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vol.2 柔の潜伏場所
9月28日から千葉県の幕張メッセで世界柔道選手権が行われる。そのおよそ1ヶ月前、日本の選手団も合宿練習に励んでいた。その中にもちろん柔の姿もあった。
「猪熊さん、日本にいらしたんですか?」
鶴亀柔道部の選手が柔を見つけて駆け寄ってきた。彼女もまた代表選手だ。
「千原さんご迷惑かけて本当にごめんなさい。実はずっと日本にいたのよ」
「迷惑なんてないですけど、報道では会社にも西海大にも自宅にいないと言われてましたので」
「秘密の練習場があってね、会社の許可も貰ったからそこでおじいちゃんと練習してたの」
「名誉会長もそちらに? さぞ厳しいトレーニングを積まれたんですね」
「ええ……まあ」
実を言うと、柔は都内にいた。道場があって隠れられる都合のいい場所はそうはなく、結局藤堂が所属している黒百合女子大の寮に住まわせてもらっていた。事前に荷物を運びこんで2ヶ月間お世話になる代わりに、滋悟郎が黒百合の選手のコーチとなったのだ。そして何よりもここで稽古をすることは柔の特訓にも繋がる。
なぜ外部に漏れなかったのかは奇跡としか言いようがないが、藤堂がいなくなった黒百合は強い選手を輩出出来ずにいたために、マスコミのマークからも外れていたし、藤堂と柔が現役の頃から仲が良かったわけじゃないからそもそも藤堂にもマークはついてなかった。
滋悟郎を大人しくさせる事が出来たのは、なんだかんだと言って女子大であり現役の藤堂のようなたくましい女性よりも、細身で清楚な女性が多く滋悟郎は鼻の下を伸ばしっぱなしでいたためだ。
それに加えて、岡崎と知り合ったことも大きい。滋悟郎は自分の持っているスポーツ医学を科学的に分析して、後世にも残せるようにしたいという岡崎の熱意を買い研究に協力していた。とはいえ、滋悟郎の民間療法のような薬や処置が何の役に立つのか柔には全く理解できなかったが。
そして玉緒はというと、虎滋郎と共に世界一周旅行に出ていた。五輪まで1年を切っていたがフランスとの契約更新に至らず時間もあったので、本阿弥家から貰った多大なコーチ料を持って夫婦水入らずの旅行に出かけていたのだ。
「こらーもたもたするでないぞ。さっさと着替えてこんか!」
滋悟郎の怒声が飛ぶ。バルセロナ五輪の合宿にも参加していた選手は、背筋がピンとするとともにこれからの練習の厳しさに恐怖すら感じていた。
5日間続いた地獄の合宿で柔はバルセロ五輪の頃よりもいい状態であることがわかった。耕作は今はここにいないけど、それでも心の安定が取れているのはきっと想いが通じ合っているからだ。不安な事なんて何もない。
◇…*…★…*…◇
千葉の幕張メッセに行くのは初めてだった。海辺の開けた場所にある近代的な建物で多くの人でにぎわっていた。
今回の大会は柔が結婚発表後、初めて公の場所に出てくるということで世界中からマスコミが押しかけて来ていた。そして何よりも耕作とのツーショットと撮ろうと殺気立っていた。
先月発売された「YAWARA!」の日本語版は書店で山積みにされてもすぐに完売するほどのベストセラーになっている。主な内容な長年柔を追い続けてきた耕作の視点から強さの秘密を解き明かしているような感じだが、猪熊家や女子柔道の歴史という深いところまで掘り下げているところが好評を得ていた。特にアメリカ人のラスティの事は多くの日本人の知る所ではなく、なぜ今まで柔道関係者が言わなかったのかと疑問視する声も上がった。
しかしながら、誰もが期待してページを開いたのは、描き下ろしの柔のページだろう。その中に書かれていたことは「記者と言う立場を越えて支えてくれたこと」「いつも真っ直ぐ向かい合ってくれたことへの誠意に感謝している」と言ったことでいつから恋愛感情があったとか、どんな付き合いをしてきたとかは一切書かれていない。それは至極当然の事なのだが、期待した人は少々がっかりしただろう。
だが、最後のページには結婚式での柔と耕作のツーショット写真が載せられておりそれだけでも見る価値はあると言われた。そしてテレビなどでは極秘に行われた結婚式に関しても、華美で豪華な結婚式が今年の情勢に似つかわしくないと考えた、優しい二人の配慮によるものだと好意的にとらえてくれてますます二人の好感度は上がった。
世界選手権は五輪同様、重量級から試合が行われる。その理由は最終日の無差別級を考慮してなのだが、48kg以下級と無差別級は同じ日に行われるので柔はどちらかしか出られない。しかしそれを決めるのは柔ではない。
「ヤワラー!」
人が行きかう通路の奥から聞き覚えのある声が聞こえた。
「アリシア!」
「結婚式以来だから3ヶ月ぶりくらいかしら」
「ええ、調子はどう?」
「もちろん絶好調よ。ところでヤワラ、階級はどこに出ることになったの?」
「48kg以下級よ」
アリシアの顔は喜び綻んだが、次の瞬間には緊張感と戦意の混じった目になった。
「公式戦では初めてね。絶対、勝つわ!」
「え?アリシアは52kg以下級じゃなかったかしら?」
「公式戦で試合したいから、階級を変えたの。無差別級は難しいけど、こっちならできるって思ったわ」
「そこまでしてくれたならあたしも、全力で戦うわ」
握手をして別れた。試合は4日後。それまでは他の選手の応援をしなくてはいけない。
「さすが、英語お上手ですね。それで彼女誰ですか?」
柔の会社の後輩である千原が声を掛けた。彼女もまた代表選手なのだがまだ出番は先だ。
「アメリカ代表のアリシアよ」
「そんな人がどうして猪熊さんと知り合いなんですか?」
「まあ、ちょっと色々あってね。彼女の強さは分かってるから気合入れて行かないと」
「猪熊さんがそこまで言うならよっぽどの選手ですね」
何もかも吹っ切れたアリシアは去年試合をした時とはけた違いに強くなっている。アメリカの公式戦に初めて出た時はまるで柔のデビュー戦のように誰もが驚きと興奮を覚えた。そして容姿の美しさから瞬く間にアメリカのニューヒロインになったのだ。
「あー柔ちゃん見つけた」
「邦子さん。お久しぶりです」
「もーどこに隠れてたのよ。心配したのよ。まさか、NYにいたの?」
「いえ、日本にいました」
「え! じゃあ、新婚早々離れ離れなの?」
「ええ」
「一度もNYに行ってないの?」
「そうです」
「はー何してるんだか。で、今日は耕作は?」
「まだ来てないんじゃないですか。あたしの試合までには日本に戻るって言ってましたから」
「そんな悠長な。でも柔ちゃんは余裕の感じね」
「そうでもないですけど」
少し淋しいけどもうすぐ会えるならそれももう気にならない。それくらい強くなれた。でもそれは決して耕作がいなくても平気なわけじゃない。
「あ! 猪熊がいたぞ!」
他の記者が柔を見つけて近づいてきた。柔は邦子に挨拶をして控室に逃げるように戻って行った。
4日間の日程で最後に試合をする柔は他の選手の応援のために会場に来ていたが、あまりにも記者が押し寄せるようなら行かない方がいいかと思ったが初日に滋悟郎からきつく言われた記者たちは今は大人しく世界選手権の取材をしている。
今回の世界選手権は日本での開催ということで、メダルを期待されていた。男子は順調にメダルを獲得していたが、女子は調子が悪く最終日での成績では72kg以下級で銅メダルという結果となっている。だから柔への期待度は高く、最高に会場は盛り上がっている。
「さあ、世界柔道選手権大会最終日。女子48kg以下級が始まろうとしています。本日は特別ゲストとして猪熊選手のおじい様でいらっしゃる猪熊滋悟郎先生を放送席にお招きしております。そしてもう一人、解説は犀藤仁さんにお願いしております」
「わしぢゃ!」
「よろしくお願いします」
「大歓声が聞こえるでしょうか。一回戦はもう間もなく始まろうとしていますが、猪熊選手の人気は増すばかりですね」
「当然ぢゃ。何よりも今回の女子の試合の不甲斐ない結果にわしも落胆しておる。世界のレベルは柔が金メダルをとったこととで格段に上がっておると言ってもよいぢゃろう」
そう思うことで情けない結果に終わっていることを消化するしかない。男子は金メダルこそ2つだけだが、その他の選手も銀か銅のメダルを獲得している。
「そうですね。カナダのジョディ・ロックウェルやロシアのテレシコワなどの引退により元気がなくなったと思われた女子柔道界でしたが、新たな勢力が台頭し新しい時代になったと言っても過言ではないでしょう」
犀藤がそう言うと、選手が会場に入ってきた。
「お! あそこにおるのはマルちゃんではないか?」
「フランスのマルソーですね。確か彼女も猪熊選手のお父上である虎滋郎氏がコーチをしたと噂されていましたが」
「その通りぢゃ」
「ということは、猪熊選手の強敵としてまた立ちはだかる可能性があると言うことでしょうか。順当にいけば決勝でぶつかりそうですね」
「いや、今回はどうなるかわからんぞ」
「それは猪熊選手の圧勝と言うことでしょうか? あ、マルソーの対戦相手であるアメリカのアリシア選手の姿が見えましたね。どちらも大変美しい選手ですが闘志は燃えているようですね」
「ところで滋悟郎先生、全国民が聞きたがっている話題を今聞いてもよろしいでしょうか?」
「なんぢゃ。わしの武勇伝か? あれは……」
「いえ、それは後ほどということで。猪熊選手の結婚の事なんですが」
「柔の結婚の事なんど聞いて何が楽しい? それよりもわしの……」
「それは後のお楽しみということで、猪熊選手の結婚に関して滋悟郎先生はどう思われましたか? 以前は男女交際に関しては厳しくしていたようですが」
「柔ももう25だ。早すぎると言うこともないぢゃろう。それに相手の男はわしもよく知る男ぢゃし特に反対などはせんかったが」
「滋悟郎先生のおめがねにかなったと言うことでしょうか?」
「今のところはと言っておこうかの。ん? そろそろはじまるぞ」
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vol.3 決勝戦
畳の上に上がったマルソーとアリシア。二人とも金色の髪が美しいが瞳はまるでサバンナの豹の如く鋭い。
「アメリカのアリシア選手ですが昨年、彗星の如く登場した強敵とデータにはありますが、犀藤さんは御存知でしたか?」
「いえ、今まで公式戦には出ていなかったと言うことでしたが、噂にもなったことがないと言うことで、一体どこの誰に指導を受けていたのか。まるで猪熊選手を彷彿とさせますね」
「ふん! あやつは柔とは違う。ぢゃが強さは本物ぢゃ。マルちゃんよ、勝てるかな」
試合が始まる。バルセロナ五輪の前、さやかの練習相手として柔のコピーとして鍛えられたマルソーの得意技は一本背負いだ。その速さとキレは虎滋郎仕込みなだけあってさすがとしかいえず、バルセロナ五輪のときは柔も苦戦した。
「はじめ!」
合図とともに二人は組み合う。すぐさまマルソーの一本背負いが飛び出すも、アリシアは予想していたかのようにそれをかわし自分の体勢に持って行く。そして目にも止まらぬ連続技を繰り出し、技ありをとる。そして寝技に持ち込んだが外されて、再び対峙する。
アリシアはマルソーには最大の警戒をして試合に臨んでいた。柔のコピーとも言えるマルソーだったが、五輪の後再び虎滋郎氏のコーチを受けて更に強くなったと言われた。アリシアは自分がまだ世の中に知られてないことを武器にするしかないと思った。幸いにも初戦の相手だ。勝機は十分にある。
試合終了10秒前、仕掛けたのはマルソーだった。いいタイミングの一本背負い。しかしアリシアの方が上手だった。その一本背負いに入るタイミングで技を抜けたアリシアは逆に背負い技をかけ気づいたときにはマルソーは背中を畳みに付けていた。
「うそ……」
自分がもし負ける事があるなら柔だけだと思っていた。五輪のあと、それだけ厳しいトレーニングを続けてきた。フランスのコーチに残った虎滋郎には初心に戻ってトレーニングをするようにと言われ、基本から徹底的にやり直した。それなのに……。
マルソーは立ち上がると上がった息を整える間もなく礼をした。するとアリシアが同じように荒い息遣いのまま握手を求めて手を差し出した。
「ありがとう。楽しかったわ」
英語がわからないマルソーは何を言ったのかわからなかったが、笑顔のアリシアに笑顔で握手を返した。
会場はまさかの結果に唖然とした様子だ。柔の決勝戦の相手はマルソーだと思って疑ってなかった。それなのに一回戦敗退とは想像を越えすぎている。
「アメリカのアリシア選手。一体何者なのでしょうか。物凄い強さを見せてくれましたが」
「まだまだぢゃ。技の入りが荒いし、タイミングも悪い」
「とはいえ、まさかの結果です。これは初戦から波乱の展開」
アリシアの結果に日本選手団も驚きを隠せない。無名選手の台頭に脅威を感じた。
「ねえ、猪熊さん。あの人って知り合いって言ってなかったですか?」
千原がそう言うと、その場にいた全員が柔に注目した。
「ええ、彼女はアメリカにいた時にあたしの練習相手になってくれた人よ。それ以外にも色々お世話になったし」
「ええー!! なんで敵に塩を送るようなことをしたんですか?」
「それは彼女は52kg以下級だったし、元々強かったの。あたしと少し柔道をしたくらいで何も変わらないわ。指導者がすばらしいのよ」
「そんな人がアメリカにいるんですね」
「ええ。強敵であることは間違いないわ」
柔も初戦に向けて控室を出て、会場に向かう。廊下には相変わらず人がひしめいている。各国の選手やトレーナー、コーチなど様々な人が自国の選手のケアにあたっている。
柔は耕作を探していた。昨日には日本に戻っているはずなのに、マスコミ対策として柔の自宅にはいかなかった。だからと言って外で待ち合わせる事も出来ずにいたが、会場に来たら会えると思っていたが姿は見えない。邦子にも聞いたが見てないと言う。
「猪熊さん?」
千原が声を掛けてくれた。いつもこのポジションには富士子がいて、記者の中には耕作がいてそれで安心した。でも今日は二人ともいない。
廊下でマルソーとすれ違った。悔しさで顔が歪んでいた。まだ自分の中で納得できていないようだった。恋人である男性がマルソーを見つけると駆け寄って抱きしめた。それを横目に柔は一呼吸置いた。
ふと、右手に何かが触れた。それは柔の右手をぎゅっと握るとするりと離した。
「え?」
振り返る柔。
「どうしました?」
「ううん。何でもないの」
人ごみの中に隠れてしまったが、あれは間違いなく耕作だった。記者の時とは違う服装で変装でもしているようだったが柔にはわかった。あの手の感触は耕作のもの。間違えるはずがない。
柔はその後、初戦から一本勝ちで勝ち進み誰もが予想したとおりに決勝へと進んだ。そして相手はあのアリシアだった。
「いよいよね、ヤワラ」
「ええ」
決勝の前に行われた敗者復活戦でマルソーは見事銅メダルを獲得し、面目を保てた。しかしながら今は誰しも柔とアリシアの試合を固唾をのんで待っている。
「滋悟郎先生、アリシア選手は順調に決勝へと進みましたがどう見ますか?」
「よい仕上がりぢゃと思うが、実践経験の少ないアリちゃんは柔とどう戦うか」
「そうですね。対する猪熊はベテランですし、世界チャンピオンですからね」
「経験がないから予想もしない技を出すこともある。それが怖いと思いますね」
「嫌な事いいますね、犀藤さん」
「そう言うときもあるのは否定できん」
会場が歓声に包まれる。柔とアリシアが登場した。いつもは自宅のテレビで観戦している玉緒も今回は千葉で開催と言うことで、久し振りに柔の試合を見に来ていた。その事にテレビ局のカメラも気づいていて意図的に映していた。柔の夫である耕作が応援に来ているのではと思って何度か映していたが、玉緒の横には富士子と花園、富薫子がいてその周りには三葉女子の4人がいただけで耕作は現れてはいない。
「もー松田さん何してるのかしら? とっくに帰国してるんでしょう」
「お仕事がいそがしいのよ。柔も気合十分だし、平気よ」
「そうだといいけど……」
富士子は不安げに柔を見た。ユーゴスラビアの時のようなことにならなければいいのだがと、遠くにいる自分にも歯がゆさを感じた。
柔とアリシアは畳に上がり、開始線の前で止まる。去年試合した時は、柔の圧勝だった。だが今はどうかわからない。柔は自分の心に中に、強い相手と試合出来る喜びが芽生えていた。
「はじめ!」
最初に仕掛けたのはアリシアだった。払い腰で一本狙ってきたが柔はそれをかわして、一本背負いに入ったが不発に終わった。
「今ので決められんとは、なにをしとるんぢゃ!」
その後も、互いに技をかけていくが得点にも繋がらず、体力だけが削られて行った。
――ヤワラはやっぱり強い。一筋縄ではいかない。でも、もうどうしたらいいのかわからない。
その時、歓声の上がる会場にひときわ大きな声が聞こえた。
「アリシアー!!ファイトー!!」
記者席でカメラを構える赤毛が見えた。世界選手権なので様々な国籍、人種の人がいるから全く気にしてなかったがよく見ると知ってる人だ。
「ジェシーさん?」
富士子がそう言って目を離していると、一際歓声が大きくなった。
「なに? 何があったの?」
「アリシアさんが内股を仕掛けて、猪熊に技ありを」
「なんですってー! 猪熊さーん! がんばってー!!」
柔は真っ直ぐアリシアを見ていた。柔道が大好きで大好きでたった一人でもやり続けた。その情熱は柔とは違う強さをうんだ。孤独の中で精進する技は一つ一つが丁寧だ。
そう、まるでお手本のような柔道なのだ。
試合再開。柔は技ありを取られたことに焦りを感じていなかった。自分でも不思議なくらい心が穏やかだ。この会場のどこかに耕作がいる。そう思うだけで心はもっと強くなる。
「いけー!! 柔さーん!!」
聞き覚えのある声。間違えるはずがない声。ずっとずっと応援し続けてくれた声。
柔は試合中なのに、にこりと微笑んだ。それをアリシアは見逃さなかった。でもそれがいけなかった。
「あーーーーー!!!!」
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vol.4 クマと赤い糸
「あーーーーー!!!!」
気づいたときには空を飛んでいた。羽が生えたような感じがした。そうだ、これが柔道だ。
畳に背をつけるアリシア。一瞬の静寂の後に柔の顔が見えた。
「大丈夫?」
「ええ、ありがとう」
柔はアリシアの手を取ると立ち上がる手助けをした。
礼をして、握手をする。アリシアは泣いていた。悔し涙じゃない。これは感謝の涙だ。
「ありがとう、ヤワラ。私をここまで連れて来てくれて。こんな素敵な場所で柔道させてくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。楽しかったわ。また試合しましょうね」
「敵わないな柔には」
「え?」
「まだ本気出してないんだ」
そう指摘された柔は曖昧な表情で微笑んで、畳を降りた。
放送席の滋悟郎は「鍛えなおしぢゃ」と言いながらも、顔がほころんでいた。
表彰式の後、短い時間だが記者会見の時間が設けられた。結婚発表後、初の記者会見に記者たちはいきり立っていた大方の予想通り滋悟郎の独壇場となった。
しかし、柔もこの場所にいる事の自覚はあるので最後に一言だけ言った。
「日本で開催された世界選手権は沢山の歓声が励みになりました。ありがとうございました」
「最後に1つ。ご結婚されて最初の試合でしたが、ご主人は応援に来ていたんですか?」
去り際に聞かれたその質問に柔は満面の笑みで返した。
控室に戻った柔は着替えを済ませ出てくると、滋悟郎が仁王立ちで待っていた。
「なにをちんたらしとるんぢゃ。さっさと行くぞ」
滋悟郎について関係者出口に向かう。まだ選手も関係者も沢山行きかってとても騒々しい。マスコミもまだ撤収してないので、捕まったら面倒だ。二人で足早に出口に向かった。
遅れてなければ外に車が来ているはずだ。今朝、花園が運転するレンタカーで猪熊家と富士子と富薫子が会場にやってきた。帰りも同じように車で帰ることになってる。
鉄の扉を開けてまだ明るい空にほっとしつつ、歩き出す。きっと車には耕作もいるはずだろう。その事だけでも嬉しくて歩く足が早まる。
出口から少し離れた場所に車が見えた。周りにいた人たちは、柔だと気づくと振り返ってはいたがさすがに声を掛ける者はいなかった。そんな時、5才くらいの女の子が柔のスカートの裾を掴んだ。
「こんなところでどうしたの?」
「これ」
女の子は柔の手におさまる程度のクマのぬいぐるみを差し出した。
「くれるの?」
女の子は頷く。そしてまわれ右をして走って行った。すると、赤い糸が女の子のポシェットの金具に引っかかりどんどんぬいぐるみがほどけていく。
「あ! 待って!」
柔は追いかけた。女の子は振り返ったが、どうして追いかけて来るのかわからずに止まることなく加速した。
「お願い止まって。お人形が壊れちゃうわ」
女の子は振り返って状況が分かったようで、ピタリと足を止めた。柔はすぐに追いつき、ポシェットから糸を外す。茶色いクマの首から赤い糸がほどけていたが、どうもおかしい。リボンがあるわけでもなく、何で赤い糸なのか。
「猪熊柔さん?」
背後から低い声がした。まだちょっと距離があるようで長い影の頭の部分が柔の足元に見えた。
「はい?」
振り返る。逆光でよく見えないが、長身の男がいることはわかった。
「お久しぶりですね。覚えていますか?」
柔はじっとその人を見ると、顔が見えて答えた。
「はい。西野さまですね。今日も応援に来てくれたんですか?」
「まあ、そうですね。ところで結婚されたんですね?」
「ええ」
「それ……」
西野が指さすのはクマのぬいぐるみ。今はもう首が半分撮れて、綿が出てきている。
「あ! さっきのおじちゃん。あたし、おつかいできたよ」
「え?」
柔が女の子の方を向くと、その場の空気が変わった。再び西野の方を向くと、その手にはナイフが握られためらうことなく柔めがけて走ってきた。とっさに柔は近くにいた女の子を庇うように抱きしめ背を向けた。逃げるほど時間はない。
もう、だめだ。そう思った。そう思うと、いろんなことが思い出された。そしていろんなことを悔やんだ。
ドスン!
自分の背中に感じるはずの痛みはなく、鈍い音だけが聞こえた。
「きゃー!!!!」
近くを通りかかった女性が叫び声をあげた。我に返った柔は恐る恐る振り返る。
「おい! もう、観念しろよ!」
「離せ! なんで、お前が! 離せ!」
西野は地面に押さえつけられ必死にもがいていたが、その拘束が解けることはなくじたばたしていた。
「こ……こうさくさん?」
「柔さん、怪我はない?」
頷く柔。女の子もなさそうだ。放心状態の柔は体が動かなかった。
「柔、どこぢゃ!」
滋悟郎たちが騒ぎを聞いて走ってきた。その場には三葉女子の同級生の姿もあり、耕作は南田に言った。
「警察呼んでくれ。それから拘束できる何かを持って来てくれないか」
「あ、はい!」
南田は建物の方へ走って行った。
耕作の足元にはナイフが落ちていたことから、状況は大体察しがついた。でも、女の子がいる事と耕作が取り押さえていることなど不明な点も多い。
「どういうことだ、日刊エヴリー?」
「滋悟郎さん、とりあえずナイフを手の届かないところへ移動させてください。それから虎滋郎さん、こいつが他に何か持ってないか確認お願いします」
滋悟郎は耕作の横に落ちていたナイフを拾い上げた。虎滋郎は西野の上着やズボンなどを触り他に危険物がないか確認した。
「何もないな」
「そうですか。それならよかった」
「くそっ! 何なんだよ! お前! どうして!」
西野は往生際悪くもがき吠える。
「どうして柔さんを狙った? 狙うなら俺だろう?」
「裏切ったのは柔だ。僕はずっと応援してたのに、ずっと見て来たのに。なんで、こんな男を選んだんだ! 僕の方がふさわしい」
「可愛さ余ってってやつか。話にならない」
まだ青い顔をしている柔に耕作は笑顔を見せた。
「大丈夫だよ。そんな怖がらなくてももう、終わった」
「でも、こ……耕作さん、血がでて……」
「こんなのかすり傷さ」
程なくして警備員を連れた南田が戻ってきた。倉庫にあったトラロープを西野の手首と足に巻き付けとりあえず、耕作は力を抜いた。
駆け寄った柔は耕作の右前腕から出血しているところをハンカチで押さえた。
「そんな顔するなよ」
柔は不安と恐怖から顔が白くなっていた。手も震えていて、今にも泣き出しそうだった。
「だって……だって……血がこんなに出て」
「大丈夫だよ。それより君に怪我がなくてよかった。で、あの子はどこの子?」
柔がかばっていた女の子はわけもわからず、ただその場にいた。すると母親らしき人が人ごみをかき分けて入って来て女の子を抱きしめた。
「どうしてママの後ろを付いてこないの?」
「だって、クマちゃんが呼んだから」
「クマ?」
「すみませんが、警察が来たら少し話をしてもらいたいのでこのままいて貰ってもいいですか?」
「え? 警察? え?」
母親はこの時初めて、耕作の手の傷や柔の存在、そして拘束されている西野を見た。事情が全く分からないまま不安そうにしていると、玉緒が母親のそばに寄り添い背中を撫でた。
それから警察が到着すると、西野は連行され同時に救急車が来ると耕作は病院へと搬送された。もちろん柔は妻として同行し、滋悟郎たちも花園が運転する車で病院へ向かった。警察の対応は南田に任せたが、彼女も詳しくは知らないので後ほど病院で事情を聞くことになった。
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vol.5 事情聴取
日曜日の病院は静かで、まばらについた照明が不安をあおった。それに加え、柔は病院と言うところに縁がない。病気もしたことがなく怪我をしても滋悟郎が治してくれるので、総合病院のようなところに来たのは富士子の出産の時と玉緒が入院したときくらいだろうか。玉緒の時以上に、心臓の激しい鼓動が今も鳴りやまない。
処置室から出てきて耕作の右腕には包帯が巻かれていた。一緒に出てきた医師の説明によると浅い切り傷だが、場所が悪ければ大量出血していた恐れもあると言われた。
「どうしてそんな無茶したんですか。ナイフを持った人を相手に下手したら本当に死……」
柔は言葉にするのも恐ろしかった。
「ごめん。なりふり構っていられなかったんだ。西野がまっすぐ君にナイフを向けたから」
「でも、でも……」
涙が止まらない。目を真っ赤にして柔は耕作を見ていた。ヘラヘラと笑う顔がまた余計に気持ちをかき乱す。
「耕作さんは無茶ばかりする。あたしの気持ちも考えないで、いつも無茶ばかりする」
耕作は柔を抱きしめる。震える柔がいじらい。
一方、柔は耕作の胸から聞こえる心音に次第に落ち着きを取り戻していく。
「ゴホン!」
静寂の中、不意に聞こえた咳払いに二人は慌てて離れた。
「私、千葉県警の陣内です。お話よろしいでしょうか?」
柔と耕作は離れた場所で事情を聞かれた。傷害事件と言うことで捜査はされているが、柔に対して殺人未遂も視野に入っているようだ。
「怪我はいかがですか?」
陣内は耕作を気遣っていたが、気にはしてないようだった。
「かすり傷ですから。ところで西野は今どうしてます?」
「西警察署で取り調べを受けていますよ。多少、怪我などもしてますがあなたに比べれば軽いものです。それで、何があったのですか?」
「もう聞いてるとは思いますが、会場を出てきた柔さんに西野が話しかけてナイフを握って向かって行ったんです」
「その時、あなたはどこに?」
「茂みの中にいました。いい具合に隠れる所があったので」
「なぜ隠れていたのですか?」
「西野をおびき出すためです。西野は絶対ここで仕掛けてくると思いました。俺も柔さんも大会まで居場所がわからなかったはずですから、狙うなら確実にいる世界選手権だろうと思いました」
「では西野が初めから柔さんを狙っていると思ったのですか?」
「いえ。西野の憎悪の矛先は男の方でした。だから俺の方に向けてくると思っていたので、外に出るまでは身を隠していたんです。試合中は柔さんの周りは関係者がいて近付けないでしょうし、俺もいないなら何かするなら帰る直前だと予想してました」
「でも、柔さんの方にその殺意が向けられたのは計算外でしたか?」
「少しは想定してました。もしあの時、西野が何もしてこなければ俺が割り込んで状況を見てみようと思ってたんです。憎悪の対象が俺なら何かしてくるだろうと思ったんです。でも、まさかあんなナイフを持っているとは思いませんでしたが」
西野が持っていたのは刃渡り10センチほどの鋭いナイフだ。あんなもので刺されたら命がなかったかもしれない。
「では、あなたは以前から西野をご存じで、その危険性も認識していたと?」
「ええ。俺だけじゃないです。多分、あの場にいた俺たちの知り合いは皆知ってたんじゃないかな」
「どうして警察に相談しなかったんですか?」
耕作はしばし沈黙する。
「相談したらなにかしてくれましたか? 警察は事件が起きないと動かないですよね。情報だけあげておけば、何かあった時迅速に動けるっていうのはすでに何かあってるわけで守ってくれないじゃないですか」
「ですか、今回のような命に係わるような事件が起こったわけで」
「もちろん、こちらも手をこまねいていたわけじゃない。柔さん本人は何も知らないけど、その代わり滋悟郎さんたち家族や友人たちはその危険度を把握していましたし、会社にも伝えていました。俺はアメリカにいて何も出来なかったですけど、信頼のおける同僚に様子を見るように頼んでもいました。そして一時的にですが、柔さんを仕事でNYに転勤させて西野とは距離を取りました」
「そこまでするほど、何か危険を感じたんですか?」」
「最初は無言電話と直接投函された気味の悪い手紙。柔さんの居場所を把握しているような行動などがありました。それから柔さんの友人の職場にも現れています。南田さんは警官ですから何かおかしな雰囲気を察知していましたし、マリリンもそういう男を見る目はあって警戒するように滋悟郎さんに言っていたようです。ただ、去年柔さんに熱愛報道があったのをご存知ですか?」
あまりにも普通にそういう耕作に陣内は「え、ええ」と変な返事をしてしまう。
「変な誤解をしないでくださいね。あれは熱愛とかではなく、ただの会食ですから。でも、普通に記事を読んでいる人からすればあの時一緒にいた男性と柔さんが熱愛関係にあると思っても仕方がないですよね」
「そうですね」
「西野もそう思ったんです。熱愛報道の相手はホテル経営者のレオナルドです。彼は報道を知る前にNYに戻ってますが、その直後から日本のテンプルトン・ホテルでは無言電話や嫌がらせが暫く続いたようです。それは警察として把握していますか?」
「いえ……警視庁管轄ですのでこちらには情報は……」
「でしょうね。ホテル側は警察にも届けているし、嫌がらせは暫くしたら治まったので騒ぎ立てるつもりはないと言ってました。それからもう一人、柔さんとの仲を疑われた男がいました。彼の会社にも同様の嫌がらせがあったと聞きました」
野波がそれとなく風祭と接触し、聞き出したのだがあまりにもテンプルトンホテルと似ているので西野の犯行だと推測した。
「さすが記者と言うべきか、でもそこまで把握し危険性を感じていながら警察に相談しないことには心底疑問を感じます。友人にも警官がいたといいますが、その人も何も言わなかったのでしょうか?」
「南田さんはもちろん敏感になっていました。でも、俺や滋悟郎さんが柔さんには西野のことは伏せておこうと決めたので本人が気づかなければ相談も被害届も出ませんので」
「なぜ本人に黙っていたのでしょうか? 一流の柔道家ですから警戒心があればとっさに対処もできたでしょう」
「今回、背後から襲われて彼女は逃げられたかもしれない。でも一緒にいた少女はどうなりますか? 柔さんは優しい人だから子供を見捨てて自分だけ助かろうなんて思わない。だから西野はあの女の子に近づいたんですよ」
「どういうことですか?」
「女の子は直前に行ってました。『おつかいできたよ』って。つまり何かを頼んだ。それは柔さんに近づき気を引くことだったんじゃないでしょうか」
陣内は苦い顔をする。そこまでの執念を持って襲うなんて一体どれほど猪熊柔という人物に執着していたのか。
「柔さんに西野のことを言わなかったのは、彼女は案外精神的に脆い部分があるからです。意外に思われるでしょうが、自分の会社の客が自宅に無言電話をかけてきたり、盗撮なんかしているのと知ったら不安になるでしょう」
「盗撮?」
「あ……」
耕作はしまったという顔をした。
「俺も職業柄、人の事は言えませんが西野は柔さんをつけては盗撮をしていたようなんです」
「なぜ知ったのですか?」
「それらしい写真を見たからです」
「どこで?」
「それは言えません。情報提供者のことはいえませんから」
陣内は狼狽える耕作を注視し、ふっと息を吐く。
「まあ、そこら辺は西野の部屋を家宅捜索すればわかることでしょう。ですが、今回は奇跡的にかすり傷ですんだんです。普通ならあなたが刺されても不思議じゃない。二度と、こんな無茶はしないように」
「はいはい」
柔に危険が及べばどんな無茶もやる。命の危険があってもそれは問題じゃない。事情聴取が終わりロビーへ行くと、柔は滋悟郎たちと一緒にお通夜みたいな顔で座っていた。
「お待たせ。さあ、帰ろうか」
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vol.6 真相を知る柔
富士子たちは警察の聴取が終わると、先に東京へと帰って貰った。富薫子もいるし翌日の仕事もあるだろうからと玉緒が配慮したのだ。
柔たちは警察が東京の自宅まで送ってくれることになったが、家の前にはマスコミがいて近付けなかったのでビジネスホテルへ泊まることとなった。
「まず飯ぢゃ」
ホテルにチェックインして滋悟郎はすぐに夕食に行くことを決め、近くの焼き肉店へ入って行った。
「ほれ、どんどん食え!」
滋悟郎は肉をどんどん網に乗せる。炎が勢いよく上がって肉が焦げ炭になっていた。
「お義父さん、お肉がもったいないですよ」
「だったら炭になる前に食え。柔、試合の後なんぢゃからもっと食わんか」
滋悟郎は焼けた肉をどんどん柔の皿に置いて行った。さっきから全然手を付けてないその肉は冷えて固まっていた。
「柔さん……食欲ないの?」
「あるわけ……あるわけないじゃない! だっておかしいじゃない。あたしだけ何も知らなかったなんて。どうして言ってくれなかったの? どうして……」
柔は声を荒げた。半個室のような賑やかな焼き肉店で、その声はその場にのみ響いていた。
「ごめん……」
うなだれる耕作。
「あたしは……あたしには知る権利があったはずでしょ。ううん。知っておかなきゃいけなかった」
「あなたを守るためにそうしたの」
玉緒がそう言ったが柔は納得しない。
「子供扱いしないで。あたしはもう大人なのよ。自分の事は自分で決めるし、自分で守ることだって出来る。今日のことだって知ってれば……」
「知ってればなんだ?」
虎滋郎が低い声で柔に問う。思わぬ声に柔は何も言えずにいた。
「背後から近づいてきたナイフを持った男をお前はどうにかできたというのか? 小さな子供がそばにいてそれでも何かできたと言うのか?」
「何もできなかったかもしれないけど、知っていれば一人にならなかったかもしれない。そうすればこんなことには……」
「いんや。それは甘い」
「おじいちゃん」
「甘い! あんみつに黒蜜をかけてアイスを乗せるよりも甘い」
「なによ、それ」
「お前は日ごろからぼけーっとしすぎなんぢゃ。すこーしばかり柔道が出来るからと言って、油断している節がある。そんな隙だらけのお前なんて誰だってなんとでもできるわ」
「なんですって! そんなにぼんやりしていません! NYで一人暮らしもしたし、人並み程度には警戒心だってもって歩いてます。でも、おじいちゃんがそんなに言うならなおの事なんで教えてくれなかったのよ」
滋悟郎はじとーっと柔を見るが、何も語らない。
「おじいちゃんはね、相手の人を下手に刺激しないほうがいいと考えたのよ。ただでさえおかしな人なのに、柔の態度が変わったりしたらもっと危ないことになるんじゃないかって思ったのよ」
「そうなの?」
「柔さん、それは本当だよ。アメリカでは西野みたいなやつのことをストーカーっていうんだけど、ストーカーは自分で嫌われるようなことをしておいて実際拒絶されたりすると逆上して殺したりすることもある。だから柔さんには西野のことを警戒しないでいて欲しかった。態度を変えないでいてくれれば、きっと過激なことはしないと思ってたんだ」
「でも、とんでもないことになったわ」
「それは俺の存在が明るみになったからだろうな」
「結婚したことが原因だっていうの? でも、そんなこと気にしてたら」
「そう、柔さんに自由はない。実を言うと、西野の存在を認識していたけど、所在が分からなかったんだ。それで俺たちも危機感を覚えて対策を取ってたけど何もなかった。西野はもしかしたら柔さんの事を諦めたのかもしれないという、楽天的な考えさえ出たほどさ」
「でも、違ったのね。あの人は試合会場に現れた」
大勢の人の中にいたのかと思うと、柔は背筋が寒くなる。どんな顔でどんな思いで柔を見ていたのか。
「俺は身を隠して西野が会場に来るのを待った。でもあれだけの人がいてとても見つけられなかった。西野は絶対に来ているはずなのに。だから俺は試合中に一度だけ柔さんに声援を送った」
「決勝戦ね」
「ああ……俺は賭けに出た。君ことを柔さんと呼ぶのはあまりいないだろう。だからそれを聞いた西野はきっと俺が来てることに気付くだろうと」
「近くにいなかったらわからないわよね?」
「だから賭けなんだ。ずっと言って回ったら怪しいし、見せつけるように出て行ったらマスコミに囲まれてしまう。そうなるとまた西野は姿を消すかもしれない」
「とにかく姿を見せて貰わないことには何もできなかったということ?」
「うん。柔さんを危険な目に合せてしまい申し訳なかったけど、どこかで何かをしないと一生怯えるような暮らしをしないといけないのはよくないから」
来年にはオリンピックを控えている。大事なタイミングで怪我をさせられたり、精神的にダメージを与えられたくない。
「それでも、耕作さんは無茶をし過ぎです。ナイフを持った人を相手にするなんて。かすり傷なのが奇跡なんですよ」
耕作は申し訳ないと言うように笑った。
「それでどうやってあんな奴をしとめたのぢゃ?」
「え?」
「運がいいだけでナイフを持った男を取り押さえることなんかできるはずがないぢゃろ。おぬし、何をしたんぢゃ?」
「滋悟郎さんには敵いませんね」
「無論ぢゃ。あやつに何をした?」
「実はアメリカの友人から戦闘術を教えて貰いました。俺は格闘技の経験もないし、勢いだけで今までやって来れたけどそれだけじゃダメかなって思って。友人に、元軍人がいて彼が基礎の基礎だけど、教えてくれたんですよ」
「だから以前よりも体つきがよくなったのかい?」
虎滋郎がまじまじと耕作の体を観察する。耕作の変化には柔も気づいていたが、重い荷物を持ってアメリカ中を飛び回っていたからだと思っていた。
「ある程度は筋肉がないと打撃も防御もできませんから。でも、この様ですよ」
情けないと言うようにヘラヘラとしていたが、柔は少し悲しい顔で右手の包帯を見ていた。右手に何かあればペンを持つのも取材に行くのも不自由になる。命があっただけいいとは言うが、耕作にとって記者であること記事を書くことは、生きることそのものなのだ。それを柔はよくわかっていた。
食事を終えて、ホテルに戻るとベッドに座る柔が何か思いつめたような顔をしていることに、いくら鈍い耕作でも気づいてそっと声を掛けた。
「心配かけてごめん。でも、もう大丈夫だから」
耕作も腰を下ろし柔の頭を撫でると涙が流れた。
「あたしはいつも……いつも何も知らない。久しぶりに耕作さんに会えると思って浮かれてたの。富士子さんやみんなも来てくれるって言うから、本当に楽しみで。試合なんて早く終わればいいのにって思ってたの」
「うん……」
「でも、みんなあたしのこと心配して来てくれて、一歩間違ったら他の誰かが怪我してたかもしれないくて……」
「みんな君の事が大切なんだ」
「それは金メダル獲ったから? 国民栄誉賞を貰ったから? あたしが普通のOLだったら狙われることも無かったし、みんなを危険な目に合せることも無かった」
「それは違うよ。みんな君の友達だから心配したんだ。もし君が普通のOLでもきっとみんな同じように心配したし警戒してたよ」
「そんなことないわ……」
「じゃあ、君はキョンキョンが狙われていても知らんふりするのかい?」
「しないわ! だって……友達だし、あたしは柔道できるから」
「同じだよ。みんな、友達だから君を危険に晒したくなかった。柔道の達人でなくてもそこにある思いは同じさ」
「でも、誰も教えてくれなった。おじいちゃんがああ言ってもあたしは身を守ることすらさせて貰えなかった」
「それは……」
「いいの。みんながいう理由も理解してるわ。でも、今度からはちゃんと教えて欲しい。あたしは守られてばかりじゃ嫌なの。あたしだって耕作さんやみんなが大切なの。思いは同じでしょ」
「そうだな。これからは何でも相談するし、何でも話すよ」
「あたしも、そうする」
柔は耕作の左側に抱き着き、ぎゅっと抱きしめた。
「いたた……すごい力だな」
「だって怖かったんだもん。耕作さんがいなくなったらと思うとすごく怖かった」
「俺も同じさ。柔さんがいなくなったらどうやって生きて行けばいいのかわからない」
「じゃあ、ずっと一緒にいようね」
「ああ、約束するよ」
二人はそっとキスをした。でもそれ以上は出来ない。もどかしい思いをしながら二人は何度もキスをして、抱きしめた。
「あ! そうだ。何でも言うって約束したから一つだけ」
「何?」
「明日、滋悟郎さんに紹介したい人がいる」
「誰?」
「それはね……」
柔の耳のそばで小さく言う。それを聞いた柔は目を大きくさせて驚いた。
「明日が、楽しみね」
「そうだろう」
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vol.7 会って欲しい人
新聞の一面は柔の世界選手権優勝と過激なファンの襲撃がダブルで一面を飾った。しかし二人を何よりも驚かせたのは、スポーツ東京が独占スクープした耕作が犯人を捕まえる際に見せた技が綺麗に写真に撮られ一面の端っこに載っていたのだ。
「な! なんだよ、これは!」
思わずホテルの横にあるカフェでそう叫んでしまうほど、耕作は不本意極まりない記事だった。
「あら、柔。なんか楽しそうね」
玉緒は柔が笑っているのを見逃さなかった。
「だって、新聞に載って狼狽えてる耕作さんが面白くて」
「どういうことだよ」
「突然、新聞に載る気持ちがわかったかなって思って」
耕作が柔を最初に見たのは、町でひったくりがあってその犯人を柔が巴投げで仕留めたところだった。それを写真に撮って新聞に載せたことから柔の人生は一変した。それは今この幸せがあるから笑えるけど、そうじゃなかったら悲劇以外の何物でもない。
「おい、松ちゃんよ。わしに用事があると言っておったが、すぐに終わる用件なんぢゃろうな」
耕作はいつもの「日刊エヴリーや「松田」じゃなく「松ちゃん」と呼ばれたことで笑顔になる。以前、滋悟郎は言った。
――松ちゃんほどの記者になった時、わしはお前さんを松ちゃんと正式に呼んでやろう
「滋悟郎さん!」
「なんぢゃ、記者としてはまだまだぢゃが、柔の婿としては合格ぢゃ」
「俺……」
涙ぐむ耕作。邪険にされているとは思ってなかったが、何となく認められていないような感じはしていた。柔を守る存在としては不十分だと。
「ああー! うっとうしい! 質問に答えよ」
「すみません。嬉しくて。午前中はかかるかと思います。ちょっと用意するものもあるので」
「それは私たちもいた方がいいのかしら?」
玉緒は柔にきいた。
「できればいて欲しいかな。お父さんも……まだ時間ある?」
「もちろんだ。フランスに発つのは明日の予定だ」
「そう、よかった」
「ではみなさんは朝食の後にテンプルトン・ホテルへ行ってもらいます。そこに会って欲しい人がいますので、ロビーで待っていてください。ホテルにはアリシアにも来てもらってますので、合流してください」
アリシアはアメリカ代表出来ているので、さすがにその輪を離れて自分だけ高級ホテルに泊まるなんてことはしてない。それに今まで柔道友達が殆どいなかったアリシアだが、同じアメリカ代表の選手と仲良くなって選手団から離れたくないようだった。その上での呼び出しなのだが、こちらの用事もアリシアにとってとても胸が躍ることなので協力してくれたのだ。
午前10時頃、テンプルトン・ホテルのロビーに柔を除く6人が集まった。耕作が滋悟郎に紹介したい人は部屋にいるので、柔が戻ってくるのをしばしここで待つことにした。
コーヒーを注文し、すわり心地のいい椅子に腰を休ませ相変わらず豪華な装飾のホテルに少々居心地の悪さを感じながら待っていると、柔が用事を済ませて戻ってきた。
「お待たせ。間に合ったかしら?」
「ええ、まだ彼らは来てないわ。さて、あたしたちは移動しましょうか」
アリシアが先導をしてエレベーターで上階に上がっていく。一体何が起こるのか知らされていない滋悟郎たちは落ち着かない様子だ。
「客室じゃなくて会議室にしたわ。兄に話したら面白がって、なんで自分も呼ばないんだって大騒ぎしてたの」
「忙しいだろう。軽々しく呼べるかよ」
「ねえ、コーサク。ジェシーは? ここにはいないの?」
「ジェシーは編集部に行ったよ」
「じゃあ、正式契約なの?」
「安月給でもいいのか? って随分言ったんだけどな」
「わあ! めでたいじゃない! 今度お祝いしなきゃ。あ、ここよ」
長机が中央に置かれた会議室は、普通の味気ない会議室とは違い一々豪華で緊張感がある。
「適当に座ってすぐ来ると思うから」
そう言って間もなく、ドアがノックされアリシアが開けると、ホテル従業員がいてヒソヒソ話をしていた。そして廊下を確認すると、振り返って耕作にも合図を出した。
「来たみたいです」
耕作の言葉にみんなが一斉にドアの方を注目した。一体どこの誰を紹介したいというのか。皆目見当もつかない。
アリシアが楽しそうにドアを持って入口を大きくしていると、部屋に入って来たのは二人の人影。一人は長身の男性。もう一人は小柄な少年。
「ん? あの少年は?」
虎滋郎は見覚えがあった。でも、面識があるわけじゃない。
「なんじゃ、会わせたい人って言うのはこやつのことか?」
「ええ。滋悟郎さんはお会いしたことありますよね。確かアリシアの自宅の道場で」
「その通りぢゃ」
連れてこられた二人も何故ここに呼ばれたのか理解してない様子で困惑していた。
アリシアに来客の方の通訳を任せ、耕作は滋悟郎たちに紹介をする。
「こちらの二人は柔道関係者で、背の高い彼がロイド。そして少年がグレン。二人は叔父と甥の関係に当ります。そしてロイドはアリシアに柔道を教えていた先生でもあります」
アリシアの柔道を目の当たりにしていた虎滋郎はその師匠でもあるロイドに深く興味を持った。そして隣にいるグレンにも同じように関心を持っていた。
「こちらの彼は今回の世界選手権の男子代表で60kg以下級の優勝者でもあります」
「やはり代表のグレンくんだったのか!」
虎滋郎がそう言うと柔をはじめみんな驚いていた。
「ご存じだったんですか?」
「同じ会場で試合してたんだから目に入る。それにいい柔道をしていたからな」
「そうなんですよ! 彼は俺がNYで見つけて絶対いい選手になるって思ってたんですよ」
「鼻が利く奴ぢゃな」
「褒め言葉と聞いておきます。でも、本当に驚いたんです。彼の柔道はアメリカのパワーを主体としたものじゃなく、柔よく剛を制すに近いものを感じたんです。そして彼がいたからアリシアにも辿りつけたんです」
グレンを見つけて、ロイドとアリシア、そしてラスティと繋がった。女子柔道を世界的に広め向上させた貢献者に出会えたことは、耕作にとっても柔にとっても意味のあることだった。
「それで優勝者同士のインタビューのために家族を巻き込んだわけじゃないんだろう?」
虎滋郎に言われ耕作は自信ありげな顔で頷く。
「もちろん。二人の柔道のルーツはロイドの父親なんですが、その父親に柔道を教えた人がすごかったんです」
状況がまだ飲み込めない滋悟郎、虎滋郎、玉緒。
「ところで立ち話もなんですから、座りませんか?」
「突然、なんぢゃ」
「お茶を用意してますから」
そう言うと、部屋の隅にいたホテル関係者が静かに部屋を出て行った。柔、滋悟郎、虎滋郎、玉緒が横並びに座り、耕作、ロイド、グレン、アリシアが向かい合わせで座る。すると、ドアが開き先ほど出て行ったホテル関係者がワゴンを引いて戻ってきた。
一人一人、給仕をすると速やかに部屋から出て行った。
「この緑のお湯、なに?」
グレンがそう言って変なものを見るように匂いを嗅ぐ。
「臭いは悪くないな」
初めて見る煎茶を不思議がっていたが、その隣にある白い物体に方がもっと得体がしれなかった。
「滋悟郎さん、これ何だかわかりますか?」
耕作は白い物体を指さす。滋悟郎は当然と言わんばかりに答える。
「豆大福に決まっておろう」
「そうです。これは扇屋の豆大福です。柔さんにさっき買って来てもらいました」
滋悟郎の表情が少し変わる。何かに気づき、それが確信に変わろうとしていた。
「彼らの名字はデービス。滋悟郎さん、覚えてますか? 彼らはあのアーノルド・デービスの息子と孫なんですよ」
滋悟郎、虎滋郎、玉緒は驚いて驚きすぎて目を見合わせて声も出せずにいた。反対にロイド、グレン、アリシアは何の事か分からず、ポカンとしていた。
今度は耕作が英語で事情を説明した。
「1936年ベルリン五輪。レスリングヘビー級の銀メダリストである、アーノルド・デービスは日本にいた時期があった。その時に彼は道場破りのようなことをしていたんだけど、とある道場でとてつもなく強い人に出会い弟子入りした。それがここにいる猪熊滋悟郎さんなんですよ」
「父から聞いたことがあります。五輪の直前にトレーニングのためにレスリングと似た柔道を学びに日本へ行った。体の小さな日本人は父の敵じゃなく、拍子抜けだったらしい。でも一人の偉大な日本人に出会い、全ての常識が一遍したと」
「それがジゴローなの?」
アリシアが未だに信じられないと言った顔で耕作を見ている。でも耕作の表情は自信ありげに笑っていた。
「デベソの息子なのか?」
声が震えていた。滋悟郎がまだ結婚前。若い時に出会った、大きな体の外国人。力もスタミナも根性もある男で、滋悟郎最初の弟子と言える。彼はレスリングの選手だが強くなるために日本に来て柔道を学んだ。そして滋悟郎に出会い、世界が引っくり返った。小柄な滋悟郎に簡単に投げられ、その強さを知りたいと思ったのだ。
「まさか、ジゴロー先生が父の先生だったなんて」
ロイドは滋悟郎の方へ駆け寄り、手を取った。そして握手をすると、抱き寄せて涙を流した。
「な、なんぢゃ」
「父はもう他界してますが、その直前まで日本でのことを懐かしそうに語っていました。父にとって日本での出会いはかけがえのないものだったのだと知ったときには、詳しく事情を聴くことができない状態でした。私は父の教えで柔道を始めました。柔道家として花開くことはありませんでしたが、グレンと言う後継者を育てる事が出来ました」
「デベソはもういないのか……あんなに大きくてよく食うデベソが」
「父はヤワラがソウル五輪で金メダルを獲ったのを見て、泣いて喜んでいました。その理由が今、わかりました。思い出していたのですね。日本での日々を。そしてジゴロー先生の柔道を見れたことに感激していたんですね」
デービスはレスリングの選手でオリンピックに出場したものの、修行の甲斐なく銀メダルに終わった。せっかく教わった柔道を発揮することもできず、負けたことで不甲斐ない気持ちが心の奥にあり続けた。だから柔道にまつわる思い出は極力話さなかったのだろう。でも、柔道が好きだったから息子にも孫にも教えた。いつか日本で試合をしてまたつながりができれば、いつかどこかでその名前を聞く日が来るかもしれないと思ったのだ。「猪熊滋悟郎」という偉大な師の名を。
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vol.8 扇屋の豆大福
「ソウル五輪でヤワラが小さな体で大きな選手を投げ飛ばしていく姿は息を飲むほど美しく刺激的で、そこからグレンもちゃんとトレーニングをしてくれるようになったんです」
「何言ってんだよ! 俺はずっと真面目にやってただろう」
「なあグレン。何でおじいちゃんがお前をレスリングじゃなくて柔道を教えたか分かるか?」
「才能がなかったからだろう。俺は他の兄弟や従弟たち違って体も小さいし、レスリングは向いてないと思ったんだろう」
「いいや、違う。お前には柔道の才能があったから柔道を教えたんだ。柔道の達人と試合をしたことがある人だからわかったんだろう。お前とジゴロー先生に似た部分があることを」
体が小さくて俊敏で負けず嫌い。だからこそ使える相手の力を使って勝つ方法。無意識にグレンはやっていた。それをデービスは見逃さなかった。
「それは俺も思いました」
通訳をしていた耕作が思わず会話に入る。
「初めてグレンを見たとき、猪熊柔道に似たものを感じました。パワーで戦うアメリカの柔道ではなく、相手の力を利用して投げる柔道に俺は希望が見えました。虎滋郎さんはいかがです?」
「俺も同意見だ。だからこそ目を引いたし、勝てたんだと思う。アメリカでは珍しいタイプだとデービスさんも思ったから柔道を教えたんだろう。俺もきっと同じことをすると思う」
「なーにがわしと似てるぢゃ。全然違うわい!」
「滋悟郎さん?」
「まだまだ鍛え方が足りん! あの浮ついた足、反応の遅さ、引きの甘さ。何もかもが違う。まだまだぢゃ」
アリシアは困惑顔で通訳するか迷っていたが、耕作や柔が笑っているのを見てグレンに滋悟郎の言葉を伝えた。それを聞いたグレンはあからさまに不貞腐れたが、なぜか目の前に座る耕作たちは笑っていた。
「なに笑ってるの?」
「ごめん、ごめん。馬鹿にしてるわけじゃないんだ。ただ、なんだかんだ言って滋悟郎さんもしっかりグレンの試合を見てたんだなって思って」
「え?」
「じゃなきゃ、あんなこと言えないだろう。滋悟郎さんが思わず見てしまうほどの柔道を君はしていたんだ。普段なら、絶対に興味のない柔道をする選手を見たりはしない人だよ」
そっぽを向いていた滋悟郎はグレンの方に目だけ向けると、微笑んだ。
「デベソの孫ならついでにわしが教えてやる」
「じゃあ、あたしの家でやればいいわ」
「浮かれるんぢゃない。お前さんは鍛えなおしぢゃ」
「は、はい!」
「ぢゃが、その前に腹ごしらえぢゃ。それを食べてみなさい」
指さす先には豆大福。アメリカ人の3人は初めて見るもので、なかなか手を伸ばさない。
「デベソが食べたいと言っていた扇屋の豆大福ぢゃ。でも、なんで柔がこれを買ってきたんぢゃ?」
「耕作さんに頼まれたの」
「かねこさんの日記に書いてあったんですよ。滋悟郎さんが豆大福を食べるたびに思い出しては話していたことを。だから今回、いい機会だと思って柔さんに買ってきてもらいました」
「ふんっ、余計なことを。ぢゃがな、あの頃よりは小さくなってしまったが、味は変わらずうまい。優勝祝いとして食べるといい」
ロイドとグレンはその奇妙な白くて丸いボールのようなものに、黒い豆が付いていることが若干気味悪く思いながらも手で持ってみると信じられないくらい柔らかくて思わず落としそうになった。
「なんだよ、これ。柔らかすぎだろ。しかも粉ついてるし」
グレンは恐る恐る口に入れる。柔らかい餅としょっぱい豆、そして甘いあんこが口に広がりなんとも言えない感覚に襲われる。
「こんなの食べたことない」
夢中で食べるグレンはのどに詰まらせそうなるが、緑茶をぐっと飲むと事なきを得た。
「この緑の苦い飲み物ともよく合う。不思議な食べ物だな」
「父も食べたかっただろうな」
ロイドはしみじみと父を思う。レスリングも柔道も愛した、強くて優しい父を。
「大福はこれだけか?」
「ええ……」
「なんでもっと買ってこんのだ! デベソの息子や孫ならどんぶり一杯食うぢゃろう」
それを聞いた二人は必死に否定した。ロイドはスリムな体系だし、グレンは重量級ではない。食事量はそんなに多くはない。
「おじいちゃんじゃないんだから、普通の人はそんなに食べません」
「なんぢゃと! まるでわしが規格外の大食らいのような言い方しをって!」
「その通りじゃない」
柔と滋悟郎の掛け合いにグレンは思わず吹き出す。アリシアは通訳していなかったけど、雰囲気だけでわかる。
「いいな~こんなにぎやかなところで柔道出来たらよかったのに」
グレンはレスリングの才能がないから、柔道をさせられていると思っていた。父も兄弟たちも同じ練習場で共に練習しているのに、自分は一人で柔道をしていた。祖父は元気なうちは相手をしてくれたが、年にはかなわず次第に相手はロイドになった。ロイドも異端だったから、家族から遠のいた気がした。それでもつながりを断ちたくなくて柔道をした。アメリカではマイナーなスポーツの柔道は注目もされない。誰からも相手にされない。
グレンは孤独だった。でもやめなかったのは、祖父が喜んでくれたから。偉大な祖父がレスリングと同じくらい柔道を愛していることを身をもって知っていた。それだけがグレンの誇りだった。
「ねえ、グレン」
アリシアが声をかけた。
「今度からあたしと一緒に練習しましょう。その方がきっと楽しいわ」
「女と一緒なんて嫌だよ」
「一人でやってもたかが知れてるわ。あたしはずっと一人でやってきたからわかるの。強くなるには一人じゃできない。五輪で金メダル取るには今まで以上の鍛錬が必要よ」
「でも、優勝したし」
「無名だったからね。でも、今回の優勝で各国が目をつける。対策を考えてくるわ。そうなれば経験が多い方が有利だもの。それに相手はあたしだけじゃないわ。ねえ?」
アリシアは滋悟郎と柔を見た。
「あたしもNYにいるときはアリシアと一緒に練習するし、おじいちゃんもおまけで付いてくるわ。グレンやアリシアがもっと活躍してアメリカに柔道を広めてほしいの。そしてラスティのことをみんなに知ってほしいわ。アメリカには偉大な柔道家がいることを、みんなもっと知るべきなのよ」
ロイドは柔の言葉に胸が熱くなる。子供のころに父以外に柔道を教えてくれたのは、ラスティだった。近所の子供を集めて柔道をいっしょにやった。とても楽しい思い出だ。父はやはりレスリングに力を入れていたから、相手にしてくれることは少なかった。グレンの気持ちはよくわかる。
「……考えてみるよ」
グレンはうれしくてたまらないが、ここでその感情を出すほど子供じゃないし、正面切って感謝できるほど大人でもない。でも、世界チャンピオンの柔がここまで言うならと承諾したような形をとった。
「ヤワラ!」
急にアリシアが大きな声を出した。
「な、なに?」
「来年はいよいよ五輪よ! 今回は負けたけど次は負けないわ」
「あたしも、負けないわ」
「なーにが『負けないわ』ぢゃ。あんな腑抜けた試合しおって。二人とも鍛えなおしぢゃ!」
新たなライバルのアリシアとの再戦を誓い、アリシアたちとは別れた。だけど柔はその前にしなくてはいけないことがあることを、忘れてはいなかった。
「出てくるぞ、本阿弥さやかが」
虎滋郎が低い声で言った。誰も忘れていないし、忘れるはずがなかった。柔の最大のライバルは今や本阿弥さやかだけ。アリシアはまだその位置にいない。
五輪の前に立ちはだかるその壁は着々と力をつけていた。出産して衰えるような人ではない。それどころかより強くなっているに違いない。
「本阿弥さやかの情報は日本で野波や加賀くんが取材してるはずだが、なかなか尻尾を出さない。虎滋郎さんの手を離れてどんな練習をしているのか」
「外国にでもいるんぢゃないのか?」
「海外なら虎滋郎さんは何か聞いてないですか?」
「出産したイギリスに残っている可能性もあるだろうし、独自のチームを作って柔対策を練っている可能性もある。いずれにせよ気を抜くなよ、柔!」
「はい!」
◇…*…★…*…◇
日本某所。
畳の上で静かに正座をする人が一人。美しい姿勢で目を閉じ、凛とした空気があたりを包む。
「来年3月が勝負ですわ。猪熊柔」
本阿弥さやかは今も柔のみに焦点を絞っていた。それが彼女の柔道だから。
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1996年 体重別選手権
vol.1 松田と風祭
世界選手権が終わり、柔を取り巻く問題も解決したことと、オリンピックイヤーになったこともあって年明け早々柔はNYの転勤の任を解かれ、2月には日本へ帰国した。荷物はとりあえずまとめて必要なものは日本へ送り、急ぎでないようなものは耕作のアパートへ入れ込んだ。
そして寒い冬も終わりを迎えた3月。桜が咲き始めたこの日、代々木体育館はかつてないほどの熱気に包まれていた。
オリンピック代表選考に大きくかかわる試合が開かれるというのもあるが、何よりも2年ぶりの「猪熊柔対本阿弥さやか」を日本中が心待ちにしている。
柔は国内外の試合に何度か出場しているが、さやかは出産もあり公式試合は2年ぶり。そしてこの間のトレーニングなどは一切非公開。どのような進化を遂げたのか全く情報はない。各国の道場やぶりに行っていたのではないかとか強力なコーチを雇い極秘で特訓をしていたなど今までとあまり変わらないような記事が出た程度だった。
日刊エヴリーの野波もどうにかして情報を手に入れようと、あらゆる方面に探りを入れたが手掛かりすら得られなかった。
「面白いではないか!」
滋悟郎は相変わらず両手にお菓子を抱え放送席にいた。実況と解説の二人がさやかについて話している間に入り込み、袋を開けた。
「さやか嬢は毎度面白いことをしてくる。今まで通りの稽古では敵わんと思えばやり方を変えるぢゃろう。こちらが予想もできんような方法をな」
「しかしそうなると柔さんが負けてしまう可能性もあるという事でしょうか?」
「試合何ぞ、やってみなきゃわからん。ぢゃが、柔はさやか嬢の上を行く厳しい稽古をしてきた。負けることなぞありえん!」
相変わらずの滋悟郎節は健在だが、いつもと違ってさやかを警戒しているのが伺えた。
開会式が行われ、久しぶりに柔はさやかと目が合った。にらみ合いなどそんな次元の低いことはしない。胸に引っかかるものもない。お互いにこれまで培ってきた力をぶつけるだけ。だから今更、威嚇も牽制もいらない。
本気を出して戦うだけ。今、持っているすべてを出し切るだけなのだ。
「放送席から見てもわかります。二人から流れる緊張感のある空気はどちらが優勢という感じもしません。本阿弥の稽古の結果がどう出るのか楽しみですね」
◇…*…★…*…◇
成田空港には耕作の姿があった。本当なら前日に到着していた飛行機が、トラブルにより出発が遅れ到着も遅れてしまった。柔には仕事の関係でギリギリでしか間に合わないと伝えていたものの、まさかここまでとは思っておらずタクシー乗り場へ全力ダッシュした。
何台かタクシーはいるものの立ち止まる。気づいてしまったのだ、財布にはあまり日本円が入っていないことを。そもそも現金をそんなに持っていないので、途中で現金をおろしたとしても成田から代々木体育館までタクシーで行ったらどれだけ金がかかるか考えると震えた。
「バイクがあったら……」
電車を使って間に合うか。それとも高速バスがいいか。そんなことを考えていると、背後から声をかけられた。
「松田さんじゃないですか?」
耕作はその声が誰か振り向かずともわかった。だからこそ助かったと思った。
「行き先は代々木だろう?」
「え? ええ。松田さんもですよね?」
「そうだ。一緒に連れていけ!」
半ば強引に耕作は風祭に付いて行った。もちろん風祭はタクシーではなく、お抱えの運転手が運転する車で代々木体育館へ向かう。
「いやー本当に助かったよ。到着が遅れて間に合わないかと思ったんだ」
「僕もですよ。まさか同じ便に乗ってたんですか?」
「お前もNYからか?」
「ええ」
「へーいいよな、社長さんは。ファーストクラスなんだろう。俺はエコノミーで体が固まっちゃってるよ」
そう言って伸びをする耕作に風祭は遠い目をする。
「そんなことありませんよ。僕だけの時はビジネスクラスに乗りますよ」
「え? ファーストじゃないの?」
「ええ。あの時とは時代が違いますから。社長といえども経費を無駄遣いできません。そりゃビジネスクラスでも贅沢だと言われたらそれまでですけど、仕事に行く上でコンディションを整えておくことも必要ですし。到着してすぐに仕事に取り掛かれないなんて、何しに何時間もかけて行ったのかわかりませんからね」
風祭はすっかり社長の顔をしていた。いけ好かない女好きで保身ばかりして、柔をめぐって争うこともあったが、4年前にさやかと結婚したと聞いたときはついに観念したと思った。さやかに目をつけられたらどうあがこうと、風祭に自由な未来はない。そう思っていたのだが、今目の前にいるこの男からはそういった息苦しさを感じない。
「お前、変わったな。前にNYで会った時とも変わった」
「色々ありましたからね」
柔道は強かったが人前に出ることが苦手で実力を出せなかった風祭は、社長になっても受難は続いたが今はとてもさっぱりとした顔をしている。何かを乗り越えたのかもしれない。だがそれは耕作にはわからないことだった。
「子供生まれたんだろ? おめでとう」
「ありがとうございます。松田さんの方こそ、柔さんとの結婚おめでとうございます」
「おお、ありがとう。あらたまって言われれると何か照れるな」
「今は住まいは別々ですか?」
「今年からな。去年までは柔さんもNYで仕事してたから一緒にいたけど、あのストーカーが逮捕されたこともあるし、オリンピックイヤーだしで2月から日本に戻ったよ。その方が練習にも集中できるし。そっちは? 姿をくらませてどんなトレーニングをしてたのか興味あるけど」
「さやかさんがどんなトレーニングをしてるのか、実は僕もあまりよく知らないんですよ。この不景気で僕も仕事が優先になりましたし、子供の世話もありますしね」
「さやかは子供の世話しないのか?」
「しますよ。それなりに、可愛がってますよ。でも、やっぱり今の焦点は柔さんですから。かなりストイックなトレーニングをしているようです。柔さんはいかがです?」
「そりゃ、今日に合わせて滋悟郎さんと稽古を重ねてるはずだし対策も考えてるだろうよ」
「それは楽しみですね」
「まあな」
今回は耕作も風祭も身近で柔とさやかを見ていない分、どんな試合が行われてどんな結果になるか予想もできなかった。もちろん耕作は柔の勝利を疑ったことはないが、さやかの柔に対する執念からくる努力を長年見てきた。その成長の早さは目を見張るものがり、侮れないことは誰よりもわかっていた。
「今日は子供はどうしてるんだ?」
「会場に行ってると思いますよ。徳永さんの姪が世話係をしてくれてるんですよ」
「へーまたわざわざ大変なところに就職したもんだ」
「徳永さんはご結婚されてたんですけど早くに奥様を亡くされて、さやかさんを娘のように思ってたみたいなんですよ。僕らの結婚式の時も号泣されて」
「娘ってより孫じゃないか?」
「そうかもしれないですね。でもその仕事の姿勢を見ていた彼女が数年前から手伝いに来てくれて、信頼もしていたので息子の世話をしてもらってるんですよ」
「他にもたくさんいただろう?」
「ええ、でも今はあの時ほどいませんよ。贅沢してると何言われるかわかりませんから」
「クビにしたのか?」
「そうですけど、新しい勤め先を紹介した上でですよ」
「そりゃ、しっかりしてるな」
「もちろんですよ」
日本のバブル崩壊の余波は本阿弥グループも無関係というわけにはいかなかった。事業の縮小せざるを得ないところもあり各グループ会社の社長は苦しい決断をしたはずだ。もちろん本阿弥家も王族のような生活を同時に見直している。しかしその暮らしぶりが宣伝であったために、いきなり引っ越したりできなかったので人員の整理を行ったのだ。本阿弥邸で働いていたと経歴はどこへ行っても重宝される。無事に求職者は仕事を得ることができた。
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vol.2 日本文化と海外
「なんだか不思議ですね」
「ああ、お前が父親だなんてな」
「それもそうですけど」
「じゃあ、俺が柔さんと結婚したことか?」
「ええ。松田さんはバルセロナ五輪の時にこうなるなんて思ってもいなかったですよね?」
「当たり前だろう。俺なんて相手にされてないと思ってたよ。むしろお前の方が優勢だと思ってた」
「僕もです」
「正直だな」
「でも、焦ってたんです」
「さやかか?」
「いえ、柔さんの心は揺れ動いていました。決定的に僕に向いていたのはたぶん高校生の時くらいじゃないでしょうか」
「そりゃお前は何かっていうとさやかとのことがあったじゃないか」
「それは松田さんも同じじゃないですか。邦子さんが随分つついてたみたいですよ」
「知ってたのか?」
「女性のことは経験上わかりますよ。でも邦子さんも焦っていた。僕たちは同志だったんです。お門違いではありましたが」
「はあ?」
「邦子さんは松田さんと。僕は柔さんと。そうやって未来予想図を描いていたんです。でも、そういう話を邦子さんとしているときお互いに焦りがあったんですよ。だって邦子さんが松田さんを捕まえてくれれば柔さんは松田さんの方を向かない。邦子さんからすると僕と柔さんが手を取れば松田さんは柔さんを諦めて邦子さんの方を見てくれる。そうやってお互いに期待してたんです。自分の力だけで振りむかせる自信はあったはずなのに、いつの間にかその自信が揺らいで誰かに期待した。気づいてなかったのは本人たちぐらいで、外野はみんなわかってたんです」
「そういうもんか?」
「認めたくなかったのは僕と邦子さんくらいですよ。表彰式の時、邦子さんは吹っ切れてたようですけど僕はまだ諦めきれなくて」
「そういえばお前が俺を暴漢呼ばわりしたせいで、会場がめちゃくちゃになったんだよな」
「はははっ。それは申し訳ないと思いますが、あの場で何を言う気だった知りませんけどあのまま普通に式が終わるわけないじゃないですか」
「それもそうか。でも、今のお前は随分さっぱりした言い方だな。もう未練はないのか?」
「それを松田さんが聞きますか?」
「聞いても平気そうだったからな」
「記者ってのは恐いですね。もちろん、未練はありません。僕が今大切にしているのは家族と仕事です。夫婦仲も良好ですよ」
「下僕みたいになってないか?」
「ないですよ。努力しましたから」
「そうか、ならいいよ。なんだかんだでお前とも長い付き合いだしな」
「一度、ゆっくりお酒でも飲みながら話したいですね」
「そりゃいい。NY来たときは連絡くれよ」
「ええ、いい店紹介してくださいね」
「お前が行くような高い店なんか知らないけど、いい酒を出す店は知ってるぞ」
「それは楽しみですね」
「そういえばお前の実家って酒造会社じゃなかったか?」
「ええ、よくご存じで」
風祭酒造は伝統ある会社だが、日本酒離れの影響もあり早々に本阿弥グループの傘下に入ることにより会社は今も存続している。だがグループに入るために両親は一人息子をさやかへ婿養子に出し会社自体の跡取りは今もいないままだ。
「俺の行きつけの店のマスターが日本酒に興味を持っててな、今度店に持っていこうと思ってるんだ」
「NYにですか? 珍しいですね」
「ああ。結構色んな国の酒を集めてて、酒に合う料理を出す店で日本の酒は飲んだことないっていうもんで紹介しようと思ってな。俺は日本酒とかあんまりわかんないから欧米人の好みとかもさっぱりで」
「わかりました。その辺は父に相談します。松田さんは日本酒はあまり召し上がらないんですか?」
「俺はビールだよ。そういうお前はワインだろう? 酒造会社の息子なのに」
「そうなんですよ。日本酒も好きなんですけどね、やっぱりワインの方は飲みやすいというか」
「かっこつけてんだろう。日本人は欧米のものを取り入れてはかっこつけるところがある。まあ、ビールもドイツが発祥だから人のことは言えないか」
だが実際、女性を口説くとき日本酒で誘うことはない。レストランにしろバーにしろワインやカクテルを使う。その方が若い女の子は好むし、スマートだ。日本酒はやはりおじさんの飲み物のような感じで、格好悪いと思う女性が多いのも事実だ。
「だけどな、俺は思うんだよ。日本の文化っていつかきっと海外に大きな影響を与える。日本人メジャーリーガーが誕生して彼らが持ち込むだろう。日本の映画や歌、伝統がいつか向こうでクールって言われる時がくると俺は思う」
「それは住んでみた実感ですか?」
「ああ。案外、日本って国はミステリアスで興味を持たれやすい。まだ侍がいると思ってる人もいるかもしれないが、もっと情報を発信していけばきっと日本を知りたくなるはずだ。だって、俺が書いた柔さんの本が結構売れたんだぞ。柔道っていう日本のスポーツはまるで魔法のように小さな女の子が自分の倍以上ある人をいともたやすく投げ飛ばすんだ。それを前の五輪で目の当たりにした。だからもっとテレビなんかで宣伝でもしたら、日本は世界に出ていける。そう思わないか?」
「確かに、日本人は英語ができないことで保守的になりがちですね。島国特有のあの感じがチャンスを逃しているような気はしています。僕だってそうだ。英語ができて仕事で海外に行っているのに、あまり文化とか食事に関して紹介しようとも知ってほしいとも思わなかった。これはいいビジネスチャンスですよ」
「そうか? 俺は書くことしかできないけど、お前はもっといろいろできるだろうな」
「これから世界はもっともっと近づきます。日本が取り残されないように、目を光らせて行かないと、あっという間に他国に差をつけられますね」
風祭の目を輝いていた。不景気真っただ中の日本において、何かに挑戦することは無謀だといわれるかもしれない。でも現状維持では未来はない。未来を見て手を打たなければ、会社は発展しない。発展しなければ衰退する。
「ありがとうございます。松田さん!」
「お? おお」
耕作は自分で感じたことを伝えただけだ。それをどう受け取り、どうするかは風祭次第だ。
その後、会話はなくなり耕作は仮眠をとり、風祭は考え事をしていた。バブル崩壊後、目まぐるしく変わる経済状況。そして自分の周囲も四年前とは大きく変わった。以前のような経営方法ではいずれ歪がうまれ崩壊するかもしれない。新しいことを考えなくてはいけない。
車の乗り心地はとてもよく考え事に向いていたが、気づいたら会場近くまで来ていた。
「松田さん、そろそろ代々木ですよ」
「ああ……」
眠い目をこすりながら外を見る。久しぶりの東京は相変わらず人が多い。でも、なんだかホッとする。
「裏口から入ります。手はずは整っていますので」
「そりゃありがたい」
二人とも記者に見つかれば面倒なことになる。風祭はそうでもないが、耕作は柔を射止めた男とであり柔を守った男として日本でも大注目されていた。自身が記者であるのに記者から逃げるのはあまりに滑稽だと笑う。
「ところで時間は間に合ったのか?」
二人は顔を見合わせた。
「早く行かないと!」
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vol.3 柔vsさやか
群衆はある一点だけ見つめている。その間をかき分けるように進む。小さな体であったことに感謝した。嫌な顔をされることがないくらい、人々は集中していた。だからこそ早くこの目に姿を焼き付けたいと思った。
開けた場所に出てかなり遠い場所だったが、はっきり見えた。
猪熊柔が投げられ、畳に背を付けたのだ。
信じがたい光景に会場は静まり返っていた。息をするのを忘れたんじゃないかというくらい、静まり固唾をのんでいた。
「お嬢様――!!」
徳永のその叫びに目覚めたかのように人々は歓声を上げた。落胆の声も聞こえるが喜びの声もある。さやかには多くのファンがいて彼らもさやかが柔を倒すことを期待していたのだ。
だが、当のさやかからは喜びの感情が見えない。そしてようやく審判が口を開く。
「それまで!」
会場がざわつく。なぜ「一本」じゃないのか。
そしてさやかは呆然と畳に背を付けた柔の手を取る。そして柔は立ち上がると、道着を整えながら白線まで歩きさやかと向かい合う。その表情はとても硬い。
主審手は柔の方に上がった。
信じられないという顔で主審を見る柔。会場もざわついていたが、さやかが何も言わずに畳を降りると間違いではなかったのだと感じた。
「時間切れだよ」
誰かが言った。その声は徳永の耳にも届いていた。年老いた足で走って階段を登ってきたせいで息はあがり足も震えていたが、その言葉は聞き間違いではないと確信していた。さやかは畳を降りるとき、一瞬徳永の方を向いた。そして寂しそうな目をしたのだ。長い間見てきたからわかる。さやかの微妙な表情の変化。負けたのだとわかった。
徳永は同じ道をトボトボと歩き車に戻った。
しかし、さやかは車に戻ってこなかった。不安でまた飛び出そうと思ったとき、風祭がやってきた。
「心配しなくて大丈夫です。もう少ししたら戻りますから」
優しく微笑む風祭に何も言えなかった。この軽薄で女にだらしない男を徳永はあまりよく思っていなかった。さやかがこの男に惹かれていることは誰の目からも明らかだし、その思いが成就することを願っていたが、心の底から応援したい気持ちにならないかったのも事実だ。
でも、今は違う。二人の間に何かありそれは徳永の知るところではなく、二人にはとても深い愛情と信頼とで結ばれている。子供が生まれたからではない。それ以前から何かが変わった。
徳永はさやかが好きなCDを用意していつでも出発できるように、静かに待った。
礼をして畳を降りた柔は記者やスタッフに囲まれる前に、逃げるように出て行った。さやかを探したが人ごみに紛れて見つからず、いつの間にか人気のない場所へと来てしまっていた。
これは柔が一人になりたいと思ったからかもしれない。滋悟郎に叱られる前に、どうしても一人にならないといけなかった。
「柔さん……」
耕作の声がした。やはり最初に見つけるのは耕作なのだ。どれだけ離れてても、探してくれる人。
廊下の奥から人の声がした。記者の様な口ぶりだったから、耕作は思わず近くのドアを開けて柔の手を引いて中に入った。ただの倉庫のように狭くて暗い場所。でも、ここでは二人きりだった。
「行ったようだ」
ドアに耳を当て様子をうかがっていた耕作。
「耕作さん……」
部屋の奥で背を向けたままの柔。
「あたし……勝ったの?」
「ああ、勝ったよ。技あり一つ分優勢だった」
「おじいちゃんに怒られちゃうな。一本勝ちしなかったんだもの」
「そうかもな。鍛えなおしぢゃって言われるかもな」
「…………」
「柔さん?」
まだ耕作のほうを向かない柔は肩が小さく震えていた。
「あたし、負けたと思ったの。あの時、投げられて背中から落ちて天井が見えたの。眩しいライトが見えて、真っ白になって何も聞こえなくて。ああ、負けたんだって思ったの」
「俺も一瞬そう思ったよ。でも、投げられる前に試合は終わってた」
「それでも! あれはさやかさんが勝ってた。ほんの一秒! たったそれだけであたしは負けてさやかさんは勝ってた」
「そうさ。その一秒が運命を分けた……柔さん?」
「怖いの。あたし、初めて負けることが怖いと思った。今までそんなこと考えたこともなかった。ジョディやさやかさんとの試合の中で楽しさは感じてたけど、負ける怖さを感じたことがなかったの。それはきっと心のどこかであたしは負けないって思ってたから。あたしはとんでもなく傲慢だった」
「それはみんな同じさ。俺も見ている皆も柔さんは負けないと思ってた。絶対女王なんだと思って期待して安心して見ていた。でも、よく考えたら負けないなんてことはないしそうなら他の選手の努力は無意味じゃないか。それを俺は忘れていた。さやかは確かに強くなったけど、きっとまた柔さんには勝てないだろうと思ってた。実際そうなったけど、一秒あれば勝っていた。それはもう運の世界だ」
「お父さんが言ってたの。99%の努力と1%の運があればさやかさんはあたしに勝てるって。その1%があたしは怖いの」
「負けたくないって思った?」
柔は頷く。
「それはさやか以外にも?」
また頷く。すると柔の背が暖かくなりそっと抱きしめた。
「悔しくて泣いてるの? 怖くて泣いてるの?」
「どっちも……」
「無神経だと思うかもしれないけど、俺はうれしいよ。だって君はもっと強くなる。負ける怖さは強さに繋がる。負けないために強くなる」
「でもさやかさんはもっと強くなる。あたしは物心つく前から柔道しかしてないから強くて当然じゃない。でも、さやかさんは色んなスポーツで頂点になり、高校生の時から柔道を始めたのにあたしと変わらないくらい強いわ。いいえ、あたしよりも強いかもしれない。あたしはそんなさやかさんに今後勝てる気がしない」
「彼女は努力の天才だ。柔道を始める以前は何をやらせても完璧で頂点に立てた。柔道以外は天才だった。でも柔道ではそうはいかず、努力をした。最初こそ見栄を張った上辺だけの努力が、君に何度も負けるうちにプライドを捨て泥にまみれて努力し続けた。そしてここまでたどり着いたんだ。きっかけは君だ。だから今度はさやかが君のきっかけになる」
「あたしは柔道を真剣勝負で挑んでいたけど楽しい方が勝っていて、ジョディやさやかさんの試合の前でも早く試合したくてたまらなかった。心のどこかで遊びみたいに思ってたのかな」
「それが悪いことだと俺は思わないよ」
「どうして?」
「さやかは君に勝つことが目標で、ジョディは五輪で君と試合することが目標だった。でも、君は強い相手と試合をすることが楽しかった。それは幼い頃から柔道をしてきたのに、そのことを公表せず滋悟郎さん以外の人と稽古をしてこなかったから、外の世界を知って自分の本心に気づいたことで生まれた感情なんだ。楽しんで試合をすることを、悪いことだと思わない。でも、今、負けたくないと思った気持ちも悪い事じゃない。まだ前に進むことができるという事なんだと俺は思う」
「あたし、まだ強くならなきゃいけないのかな……」
「君の背を追う人がいる。彼女たちは君を倒そうとするだろう。それに全力で向き合うためには強くあり続けることが必要だと俺は思う」
「それは記者としての考え?」
「ああ。俺個人も半分はそう思ってる」
「じゃあ、もう半分は?」
耕作はぎゅっと抱きしめる。柔の夫となり記者と選手という関係からもっと深くなったとき、柔個人の将来や家族としての未来を考え始めた。楽しそうに家事をする姿も、一生懸命仕事をする姿も見ていた。だから感じることがある。でもそれは……
「今は言えない」
「ずるいわ。耕作さんの思いが知りたいのに」
「俺の思いなんてどうでもいいんだ。それに言っただろう。俺は個人の半分と記者としては強くなってほしいって。五輪で金メダルを獲ってほしい」
「耕作さんってそういう人よね。あたしの柔道に一生懸命」
「そ……そんなことはないさ。君のこともちゃんと考えてるよ」
慌てる耕作に柔は思わず吹き出す。
「なんだよ。笑うことないだろう」
「なんか面白くて。耕作さんって昔からあたしにとても気を遣ってくれてるなって思ったの。柔道の事ばかり言うと怒ったりするから、誤魔化したりしてたけど言うべきことはちゃんというものね。あたしが聞く耳を持たなかっただけで」
「まあ、そうだな。俺が言わなきゃ誰が言うんだよ」
「そうね。ありがとう、耕作さん。あたしこれからきっともっと強くなる。ならなきゃいけないのよ」
「おお、一緒に頑張ろう」
「うん!」
外の廊下から声がした。
「猪熊ー! 猪熊ー! 表彰式始まるぞー!」
二人は顔を見合わせる。
「ほら、行っておいで」
「うん。ちゃんと、もらってくるから」
倉庫を出て柔は走って戻る。その背を耕作は見送ることしかできない。
トボトボと歩く廊下。あの時、自分の隠した本心を言ったらどうなっただろうか。
「もう、君の望む道を歩めばいいんだよ」
そんなことをいう耕作を柔はどう思うだろうか。驚きながらもうれしく思うのか、柔道家として存在意義がなくなったと思い落胆するのだろうか。誰よりも近くで一番見てきたからこそ、言いたくても言えない言葉。
「俺はズルいな」
会場に入る表彰式は始まっていた。大歓声の中、並ぶ姿が二つ。
耕作はもう一度、よく目を凝らした。
柔がいるのは当然だが、毎回準優勝のさやかは早々に帰宅するので授賞式にはいない。しかし今回はしっかり柔の右隣にさやかの姿があった。しかめっ面でもなく、微笑んでいる様子で記者の写真撮影に応じていた。
「槍でも降るんじゃないか!?」
困惑してるのは耕作だけじゃない。柔も記者もいつもと違うさやかに不気味さすら感じていた。ただいつも通りなのは一度も柔の目を見ないことだ。
「一体どんな心境の変化だ? まさか引退!」
「それはないですよ」
「急に出てくるなよ、驚くだろう」
「すみません。先ほどもさやかさんは記者にそう聞かれてましたけど、それはないときっぱり断言してました。まあ、お二人はどこかへ行っていたようですけど」
「いや、まあ、そうだな……って! じゃあなんだよ。お嬢様があんなことするわけないだろう。替え玉か!」
「そんなわけないでしょう。その答えもいずれわかりますよ。では、また」
颯爽と会場を出ていく風祭はいけ好かない様子ではなく、どこかすっきりした様子だった。
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vol.4 滋悟郎の予言
大会終了後、場所を猪熊家に移し、柔の優勝と五輪内定を祝う宴が催された。前回とは違い耕作もいるので、記者は入ることができない状態で始まった。そして言うまでもなく柔は滋悟郎から説教をされたが、その後は応援に来ていた富士子と花園たちとさやかの様子の変化やどんな稽古をしたのかで話題は盛り上がった。
少し落ち着いて来た頃、富士子から思わぬ発表があった。
「今日は猪熊さんのお祝いなのにこんなこと言うのは場違いかもしれないですけど、あたし、二人目を妊娠しました」
照れた様子で寄り添い合う富士子と花園。皆が驚いたと同時に拍手で祝福した。
「フクちゃん、おねえちゃんになるんだよ! すごい?」
4歳の富薫子も立ち上がって胸を張って誇らしげに言った。
「おーすごいぞ!」
そう言って頭を撫でる耕作に富薫子は顔を赤らめる。赤ちゃんの頃から耕作には懐いていたが、今もお気に入りの様だ。
「いつが予定日なの?」
「実はね、また10月10日なの」
「え? フクちゃんと同じじゃない」
「そうなのよ。偶然って怖いわ。でも、予定日通りに産まれるとも限らないし。ただね、オリンピックの応援には行けそうもないの」
残念そうに富士子は言う。
「無理しないで、日本で応援して」
「悔しいわ。せっかくアメリカに行けると思ったのに」
「行ったことなかったっけ?」
「そうなのよ。アトランタに行くのとても楽しみにしてたけど、もう一つ楽しみがあったの」
「もう一つ?」
「NYにも行きたかったのよ。二人がどんなところに住んでるのか見てみたかったのよ」
「会社が借りてる部屋だから全然大したことないよ」
耕作がそう言っても富士子は熱を持って話す。
「それでもあこがれるじゃない。NYに住むなんてとてもできないわ。映画みたいだもの。猪熊さんの話を聞いてとても興味がわくけど、英語もできないし機会もないし。だから五輪がいい機会になると思ったのよ」
「すまん! 富士子さん! 俺が不甲斐ないばかりに!」
突然湧いた花園の大声に全員顔が引きつる。
「いやね、花園くんのせいじゃないわよ。こればっかりは、タイミングだもの」
「そうぢゃ! ノッポのねえちゃんは引退したからいいが、お前は五輪が終わるまでは許さんぞ!」
「わ……わかってるわよ」
すごい剣幕の滋悟郎に柔も耕作もたじろぐ。それにこれから柔は全日本選手権があり合宿後は選手団で渡米しまた稽古に入る。耕作と子作りなんてする時間なんてない。
「あーもう少ししかないじゃない!」
「邦子さん!」
「特別に入れてもらっちゃった。あたしは記者じゃないからね」
「屁理屈だな。で、写真は?」
「もちろん、とってもいい写りの一枚を編集部に預けてきたわ。それで野波くんが今、必死に原稿書いてるところ」
「それで君はここで夕食でもってわけか?」
「いいじゃない。お祝いは皆でした方が楽しいでしょ。ねえ、柔ちゃん?」
「ええ、もちろんですよ。ありがとうございます」
邦子は言いながら寿司をリズミカルに口に入れ、あっと今に近くにあったものは無くなった。他にもから揚げや煮物など玉緒が用意した料理をつまみながら「おいしー」と感激していた。
「よく食うな……」
呆れたようにいう耕作に邦子の動きが止まる。そして意地悪そうな顔で見つめた。
「いいのかしら? そんな口をきいても」
「なんだよ」
「あたし、知ってるのよ」
「何をだよ?」
その場にいた皆が固唾を飲む。邦子は長年耕作と仕事をしてきた。何か弱みを握っていても不思議じゃない。柔に言えないような、滋悟郎に聞かせてはいけないような何かを握っているのかもしれない。
「実はね……さやかさんのことよ」
「はーー??」
誰もがそう思ったが、今、一番興味のある話題はこれかもしれない。
「野波くんが独自取材で突き止めたんだけど、さやかさんのトレーニング方法って謎だったじゃない? 柔ちゃんもあと少しで負けそうだったし」
「おい!」
「いいのよ。本当のことだもの。それでさやかさんのトレーニングって?」
「最新のコンピューター技術で柔ちゃんの柔道を分析してその特徴とか癖とかを見つけて対策をとったみたいよ。もちろんさやかさん自身の分析もして自分の弱い部分なんかを強化したらしいの」
「何が、コンペートーぢゃ。そんなのに何がわかるんぢゃ」
しかし耕作は神妙な面持ちで口を開いた。
「でもそれが最終手段だったのかもしれない」
「どういうことぢゃ?」
「虎滋郎さんの教えを受けても勝てなかった。それ以前にも様々なトレーニングをしてきて勝てなかった。そうなると当然、世界一のコーチである滋悟郎さんの教えを請いたいはずだがもちろんそんなことはできない」
「まあ昔断っておるからな」
「そうです。さやかからすると、柔さんに勝つこともだけど滋悟郎さんに勝つことも目標に入ってるんだと思います。だから世界一のコーチが手に入らないなら、最新の技術を使うしかない。本阿弥は不景気になった今でも財力はありますし、このノウハウは今後も生かせる」
「どういうことぢゃ?」
「柔道以外のスポーツにも転用できる可能性があります。詳しくは調べてみないとわからないですけど、今よりもゆっくりと再生できる機械があれば細かく体の動きや目線、癖が見える。陸上や野球のフォームはうまい人の動きをまねしていくことで上達するじゃないですか。それと似た感じでより最適な動きをすることで強くなる。そしてシューズやウエアなどの細かな部分でも改良をしていけば日本人選手はもっと強くなる」
「そして、お金になるー」
邦子がお茶をすすりながらそう言うと、全員が納得したような顔をした。
「でも、加賀くん。そこまで野波は知っていてなぜ記事にしなかったんだ?」
「知ったのはさっきみたいよ。さやかさんの関係者の中に専門家がいるのを見つけたって言ってたわ。野波くんはNYでその人を見たことがあってどんな研究をしてたのかも知ってたの。それでさっき問い合わせたら専属契約を結んで日本に行ってると言われたから間違いないって思ったらしいわ」
「これからのスポーツはそうなってくるだろうな。科学が入ってより繊細な部分で戦うことになる」
「どういうことっスか?」
中学校で体育の教師をしている花園が興味深げに聞いた。これからのことは子供たちに大いに関係する。
「俺の勝手な意見だけど、人間の限界に近付きつつあるってことかな。つまり体の小さな日本人も食事とか生活習慣の影響で欧米人に体格が近づいてきている。海外で活躍できる選手もこれからもっと増えてくると思う。体格差がなくなったら力は均衡するだろう。そうなったとき個人の努力とかはすでに当たり前で何で差をつけるかって言うと、細かい部分での微調整のようなことだと俺は思う。そしてそういうことを天性でできた人をみんなが天才と呼んでいた。つまりこれからは天才を作ることができるってことじゃないか」
「馬鹿馬鹿しい! わしのような天才を作ることができるわけがなかろう!」
「今は無理でしょうけど、これからはそうなっていくと思います。人間の限界を越えられるのは天才だけでしたが、それを科学的に突き止め凡人でもできるようにする。もちろんできることとできないことはありますし、経験による反射や対応などはそう簡単ん得られるものではありませんし、技術自体もまだ何十年も先のことだと思いますが」
「岡崎さんのスポーツ医学もその一つかしら?」
藤堂の夫である岡崎は大学でスポーツ医学を教えている。体の機能や動かし方、心理面などを効率的に鍛えることでよい成果を生む研究をしているのだ。
「そうだよ。これからは未知の領域に入っていくだろう。練習方法も多様化して、高レベルの戦いが始まるんだ」
人間は確かに日々精進して、新記録を生む。だがそれがいつまでも続くことなのか疑問に思う。人間は体の機能を100%使っていないといわれている。普段は80%ほどしか使うことができず、危機的状況になると残り20%を使うことができる。火事場の馬鹿力と言われる力だ。だがそれを試合の時に使うことができれば圧倒的に有利になる。天才と言われる人たちは意図せずその力を使っているのかもしれない。
一時的に力が増したり、視力が上がったり、俊敏に動けたりするのがそれかもしれない。だがそんなことをしていると、体に異変が生じはしないか。なぜ脳がセーブしているかを考えると、常時それを使えば生命維持に不具合が生じるからではないか。
「松ちゃんよ、急に静かになってどうしたんぢゃ?」
「いえ……もうすぐ21世紀ですから。どんな未来になるのだろうと思って。スポーツ以外にも何かが変わることに俺たちはついていけるのだろうかって……」
「そんな急激に変わるかしら?」
「わからんぞ。今でもわしが産まれた時代では考えられんようなことができたりするぢゃろう。あっという間に、変わるものぢゃ」
「空飛ぶ車!」
「自動調理器!」
「月への移住!」
花園、富士子、柔が思いつく未来を言っていると突拍子もない声が聞こえた。
「不老不死は?」
邦子がそう言うと、滋悟郎の方を向く。寄る年波には勝てない。今は元気だがそれが永遠に続くわけじゃない。でも、いつまでも元気でいてほしいと誰もが願う。だが滋悟郎はにやりと笑う。
「そんなものより、東京五輪ぢゃ!」
「えーもうやったじゃない。それに別に未来っぽくないし。やるなら今度は大阪とか名古屋とか札幌もいいわね」
「いんや! もう一度、東京ぢゃ。わしにはその未来が見える。それを見るまで死なん!」
「一体いつになるのかもわからないのに」
呆れ顔で柔は言うが、耕作は笑っていた。
「長生きしないといけませんね。ちなみに次の2000年の五輪はシドニーですよ」
「どこにあるんぢゃ?」
「もー忘れちゃったの。オーストラリアよ」
「おぬしらが新婚旅行に行った国か」
「そうよ。お土産沢山買って来たでしょ」
「ふん! あんなもの食ったうちに入らん!」
柔と耕作は年明けの休みを利用してオーストラリアへ新婚旅行に出かけていた。お互いに忙しい身なので、長期滞在はできなかったが五輪選考前のリフレッシュを兼ねて訪れていた。
「耕作さん、南半球での夏季五輪? 冬よね向こうは?」
「1ヶ月ほど開催時期を遅らせれば大丈夫じゃないかって話だけど、どうなるかな」
「柔ちゃん、もう次の五輪の心配してるの? 余裕ねー」
「そんなんじゃないですよ。ただの興味です」
柔は笑顔でいたが内心は不安だった。負ける事への恐怖を感じたことを忘れられなかった。
3月の肌寒い夜はまだ春の訪れの安らぎを届けてくれることはなかった。
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vol.5 手繋ぎデート
気持ちのいい午後だった。日差しが暖かくて、花の香りも微かにした。柔と耕作は二人で出かけた。まだ記者がいるかと思ったが、彼らもそこまで暇ではないようでいつもの静かな住宅街に戻っていた。
河川敷を歩く二人。柔は昨日の疲れなんてないみたいに、颯爽と歩いていた。逆に耕作の方が飲み過ぎてぼんやりしているようだった。
「それでどこへ行くの?」
「どこでもいいの?」
「遊園地とか映画館はつらいかも」
「じゃあ、ケーキは?」
「喫茶店?」
「ううん、ケーキ屋さん」
「いいよ。甘いもの制限してたんでしょ」
「やったあ」
試合前は体重測定があるから柔の場合は48kg以下に調整しておかなきゃいけない。甘いものは特に食べないように滋悟郎からもきつく言われていた。
「結婚してから日本でデートしたことなかったよね?」
「そう言われればそうだな。俺はほとんどNYだし、日本だと柔さんが目立って大騒ぎになるしな」
「だから今日は少し変装したんでしょ」
レンズのない黒縁メガネと帽子で少しだけ変装している。じっと見ればわかるかもしれないが、すれ違ってわかる姿ではない。
「耕作さん?」
「どうした?」
「手、繋いでいい?」
「え?」
上目づかいで言われると弱い。本当は恥ずかしくてそんなこと拒否したいが、柔が甘えたいときには耕作は笑顔で受け入れる。
「いいよ。手ぐらい繋ぐよ」
耕作は力強く柔の手を握る。いつも思う。こんなに小さな手で戦っているのかと。
「富士子さんの赤ちゃん、フクちゃんと同じ日に産まれたら面白いね」
「そうだな。なんかあの二人ならそんな偶然が起こりそうな気がするな」
「うん。富士子さん、また大変になるんだろうな」
「羨ましい?」
耕作の口からそんなこと言われるなんて思ってもみなかったから、柔は驚く。
「今はそんな風には思ってないわ。目の前の目標は五輪でのメダルだもの。そのあとはわからないけど。耕作さんはどう思ってるの?」
「俺は柔さん次第って思ってる。産むのは君だし。もちろん子育ては二人でするものだけど、お腹で育てて産むまでは一番大変なのは母親だからね」
「妊娠したら柔道できなくなるわ」
「そうだな。ブランク期間ができてしまう」
「それでも富士子さんやさやかさんは復帰したわ。そして強くもなった。あたしはそうなれるかしら」
「それだけの熱意があればだろうな」
「そうよね……」
手を繋いで歩いているのに、どこか寂しく感じた。耕作は以前とどこか態度が違う。以前ならもっと熱を持って会話をしたし、背中を押してくれた。
「ね……」
「店ってどこ? 電車乗る?」
「あ……うん」
「どうした?」
「なんでもない」
二人は平日昼間の空いた電車に乗り車窓を眺めていた。
「電車に乗るの初めてだな」
「何言ってるのよ。カナダから乗ったじゃない」
「いや、日本で二人でってこと」
「そうよね。いつもバイクだったものね。自転車だったこともあるわ」
「あれはバイクが壊れたから」
「まだしてないことってあるのね」
「俺たちは普通の夫婦よりも多いだろうな。二人とも忙しいし、離れてるし」
「でも、これからの楽しみになるわ」
電車を降りて店に向かう。「エトワール」という大きなケーキ屋は以前来たことがあり、それからは柔のお気に入りになった。
「この店……」
「知ってるの?」
「店の感じは違うけど何年も前に来たことがある。記者になりたての時だったかな」
「へー、誰と来たのかしら? こんなにおしゃれなところ、男性同士では入らないわよね」
「取材だよ。それにたまには俺も甘いもの食べたくなるし」
「それで、誰と来たの?」
困惑する耕作に柔は悪戯ぽっく問い掛ける。きっと昔の恋人と来たんだろうと察しは付く。それを嫉妬するほど柔は子供じゃない。
店のガラス扉が開いて男の子とその父親が出てきて、少ししてから知った顔が出てきた。
「浅野さん!」
「あら、お久しぶり。元気だった? って、昨日の試合見たもの。元気に決まってるわね。猪熊さんもご褒美のケーキ?」
「はい。減量終わったんで、ちょっとだけ。来月にまた試合なんですけどね」
「今日くらいいいわよね。あ、五輪出場おめでとう」
「ありがとうございます。精一杯頑張ります」
「怪我しないようにね。ところで、こちらがご主人?」
浅野は耕作の方を向くと、ニコリと笑う。
「あ……はじめまして、松田耕作……です。いつもつ……妻が……お世話になってます」
照れているのか言いなれなくてなのか、言葉がうまく出ないみたいだ。
「こちらこそお世話になってます。それからご結婚おめでとうございます」
「あ……ありがとうございます」
「今更だったかしらね?」
そういう浅野に柔は笑顔で返す。
「そんなことないですよ。ありがとうございます。今日はご家族でケーキですか?」
「ええ、平日だけど二人とも休みで誕生日も近いし」
「おかーさーん!」
遠くから浅野の息子が呼んでいた。
「もう行かなきゃ。じゃあ、五輪頑張ってね。応援してるわ」
「頑張ります」
浅野は微笑むと家族の方へ歩き出し、柔は店へと入っていった。
「耕作さん?」
柔に声をかけられてハッとする。
「ああ、ごめん。家族でケーキっていいよなって思って。あの人のご主人も甘いもの平気みたいだし。きっと幸せなんだろうなって」
「浅野さんはケーキの食べ歩きが趣味で可愛いイラスト付きで記録してるのよ。いつかまとめて本にしてほしいくらい。耕作さん、そういう伝手はないかしら?」
「言っただろう? ウチは出版部はないんだって。それに俺は殆どNYで無責任に紹介はできないよ」
「そうよね、残念だわ」
再び店に入る柔。耕作はそれを追うように店に入り、安堵したような笑みを浮かべた。
「ねえ、何食べていい?」
「どれだけでもどうぞ」
「いいのかしらそんなこと言って?」
「もちろん。ただ後で苦しまなきゃいいけど。俺はそうだな、この星の付いたチョコレートケーキを」
「前にも食べたじゃない」
「だからこれなんだよ」
「おいしかったってことね」
「そうだよ」
「じゃああたしもチョコレートケーキとチーズケーキと……」
「おいおい、まだ食べるのか」
「あと一つ。苺タルト」
あっけにとられる店員に柔は満足そうな笑顔で奥の席に座る。コーヒーも注文して二人はご褒美の甘いひと時を楽しんだ。
「あーさすがに食べ過ぎたわ」
「そりゃあれだけ食べれば十分すぎるだろう」
「たまに甘いものをたくさん食べたくなるのよ」
帰りの河川敷には犬の散歩をしている人や川を眺めている人などがぽつりぽつりといて、二人はゆっくりまた手を繋ぎながら歩いていた。
「買い物とか行かなくてよかったの?」
「あたしはいいのよ。耕作さんはいいの?」
「俺も特にはないな」
「何か欲しいものがあったら送るわ」
「ありがとう。でも、NYにいてたまに恋しくなるのがラーメンだよな」
「ラーメン?? お味噌汁じゃなくて?」
「そう。俺は一人暮らしで自炊なんてしてなかったからいつもラーメンで手軽に食べれるのがよかったんだよな。向こうだとハンバーガーとか結構重いし」
「カップ麺もって行く? あんまり食べてほしくはないけど」
「だよな。でも、少し持っていこうかな」
水面がキラキラと光って鳥が空を飛んで、平和そのもの。でも、明日には耕作はNYへ行きまた離れ離れ。
「来月、全日本だな」
「うん。あたし、勝てるかしら?」
「勝てるよ。当たり前だろう」
「でも、怖いわ」
「君のしてきた柔道は負ける恐怖に押しつぶされるほど、軟弱な物じゃないはずだ。根拠のない自信で畳に上がってたわけじゃないだろう。今までしてきた稽古や努力は誰にも負けない。負けるはずがない」
「そうよね……」
「不安に思っていることは俺もわかってるよ。重圧だってあるだろう。でも、一人じゃないよ。みんなが応援してる。それは背中を押すものだろう」
家族、友人、会社の同僚、柔道部のみんな、そして今まで試合してきた世界の柔道家たちの顔が浮かぶ。そして最後にさやかの顔も浮かんだ。彼らは柔を奮起させてもくれたが、気持ちを軽くしてくれる存在でもあった。
「あたし、もう大丈夫だわ」
「本当かい?」
「あたしが柔道やってる理由ってバルセロナ五輪までは、お父さん、ジョディそして耕作さんだったの」
「俺?」
「そうよ。邦子さんにも言われたことあるの。耕作さんの気を引きたくて柔道をやめたりはじめたりしてるんでしょって。あたしはそうじゃないって否定してた。でも、お父さんが帰ってきて、ジョディとも試合してその後、引退して、耕作さんとは結婚してじゃあ今のあたしを動かすものって何だろうって思ったの。その答えが今わかった」
柔は大空を仰いで深呼吸した。
「ずっと近くで見守ってくれた家族や富士子さんたち友達、会社の人たち。みんなはあたしの背中を押してくれた。もちろん日本中の期待は重たいけみんなはそれを軽くしてくれる。あたしを倒そうそ世界中の選手が一生懸命になってくれるけど、あたしはまだ負けたくない。そうはっきり思えた」
手に力が入る。柔が柔道に対してこんなに強い前向きな感情を持つのは初めてかもしれない。
「あと、さやかさんには負けたくないわ」
「本人が聞いたら喜ぶだろうな」
「そうかな」
「そうだよ。今まで君はあまりさやかを相手にしてない感じだったし」
「そんなことないわ」
「でも、虎滋郎さんやかざ……のことがなければ気にもかけなかっただろう」
「あたしそんなに冷たい人間じゃないわよ」
「そうか?」
「何よ、心当たりでもあるの?」
「90年の全日本は仕事を取っただろう? 北海道の接待」
「あれはいろいろ相談した上で決めたのよ。それに結局試合には出たじゃない」
「誰に相談したんだよ。羽衣さんは違うだろう?」
「風祭さんに相談したら仕事を取るべきだって言われて……」
「なにー!! あいつ俺たちには柔さんに試合を優先するようにとアドバイスしたって嘘を!!」
「耕作さんは怒る権利ないわ」
「なんで?」
「あたし、耕作さんに相談しようとしたのよ。でも、全然話を聞いてくれなくてそれで風祭さんに……あの頃の耕作さんって本当に柔道しか頭になくて時々がっかりしてたわ」
そう言われたらもう何も言えない。
「ごめん……」
「いいの。あの頃はあたしも自分の気持ちがはっきりしなくてフラフラしてることが多かったから、ちょっと態度がおかしくみえたのかもしれないわ」
柔道と仕事、耕作と風祭。どっちも大切だからどうしたらいいかわからなかった。
「耕作さん。今日は何が食べたい?」
「もう、夕飯の話? おなか一杯じゃないの?」
「お腹空いてから考えても遅いから。材料買って帰らなきゃ」
二人は手を繋いだまま歩く。二人でいる短い時間を精一杯楽しむように。
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vol.6 予想外の五輪代表
4月の全日本女子柔道選手権大会は柔のオール一本勝ちで幕を下ろした。体重別の時にはひやりとする部分もあったが、さやかが出場しなかったからか何事もなく勝ち進んだ。
その後、毎回注目されるのは五輪の無差別級開催についてだ。IOCのタマランチ会長は過去二回の大会で無差別級を開催した人物だ。今回も早々に無差別級開催を発表し、世界中が歓喜した。
柔道の代表選手の発表が行われる中、思いがけない人の姿が目に入る。それに記者たち含め柔も滋悟郎も首をかしげる。
「女子代表選手から発表を行います」
司会者がそう言うと祐天寺監督が緊張した面持ちで読み上げる。
「48kg以下級代表、本阿弥さやか」
会場がざわめく。誰もが代表は柔だと思っていたからだ。さやかは姿を現し、カメラの前に立つ。そして余裕の表情で席についた。その後も次々代表が発表された。
「無差別級代表、猪熊柔」
ここでも会場がざわめく。誰もが柔の二階級連覇を期待していた。だがまだ男子の発表が続き発言ができない。
やっと会見の時間になり、祐天寺は記者質問の前に発言した。
「前回の五輪でもそうでしたが、無差別級は最終日に決められており、重量級から行われる試合日程上、猪熊に二日連続で出場することは困難であるとの判断をした上で無差別級のみの代表とさせていただきました。本阿弥に関しては先の体重別での成績や過去の国際試合を見ても代表に選ばれるべき選手であることは明白であり、日の丸を背負って戦える十分な選手であると判断し今回はこのように代表選出をさせていただきました」
この説明に怒りをあらわにしたのが滋悟郎だった。
「そんな話は聞いておらんぞ!! 二日連続で試合してどうにかなるような鍛え方はしておらんぞ!」
「わかっておりますが、柔道競技は一日かかるものです。体力的にも集中力的にも一つの協議に集中していただいた方が、よりよい結果を残せると思いこのような決定をさせていただきました」
柔の強さを疑っているわけじゃないが、一つでも多く金メダルを獲るためにはそうした方がいいのだ。そして柔を無差別級に出場させ、日本の柔道を世界にアピールすることも目的に入っている。
「私では何かご不満でも?」
さやかはマイクを持つ。一斉に視線が集まる。
「私の強さは体重別でもご覧になったでしょう? それともそれが気に食わないとでもいうのでしょうか?」
滋悟郎はじっとさやかを見据える。何かを見定めるようにさやかを見て、それにさやかは視線を逸らすことなく応じる。
「よかろう。ぢゃが、出るからには金メダルぢゃ! わかっておるだろうな」
「当然ですわ! 私には金以外似合いませんもの。ほーほっほっほ」
この前、銀メダルだったのにとは誰も言えなかった。
◇…*…★…*…◇
耕作からの電話がかかってきたのは帰宅後すぐのことだった。
「今回は無差別級だけだったみたいだね」
さすがに情報は速い。
「ええ、48kg以下級はさやかさんが出場するの。あたしは別にいいと思うんだけど、おじいちゃんがちょっと怒ってたわ」
「ちょっと?? そんなもん?」
「すぐに静かになったの。やっぱりあたしの体力とかを心配してくれたのかしら」
「それならいいけど。なあ、滋悟郎さんはいる?」
「ええ、代わる?」
「できれば」
「待ってて」
柔は廊下を走って滋悟郎の部屋に行った。少しして滋悟郎が受話器を取った。
「なんぢゃ、わしに用か? 取材なら……」
「いえ、取材じゃなくてちょっと聞きたいことが。48kg以下級代表の事ですが滋悟郎さんは納得されてるんですか?」
「しておるわけなかろう。しかし、全柔連の決めたことに逆らえるわけもないからの。それにさやかお嬢様は強くなった。ソウル五輪では悔しい思いをしたぢゃろうから今度こそ金メダルを獲らせてやるのもいいかもしれんのと思ったのもあるがの」
「強さはお認めになると?」
「あれだけの執念とあれだけの努力をしてきたんぢゃ。柔には及ばないが日本の柔道界を背負って立つことができる選手であることは間違いないぢゃろう」
「そうですか。これはアリシアとの試合が楽しみになりますね」
「アリちゃんも出場は決定したのか?」
「ええ、48kg以下級です。本人は柔さんとの試合を楽しみにしているみたいですが」
滋悟郎はニヤッと笑う。
「滋悟郎さん? どうかしました?」
「松ちゃんよ、いい考えがある。アリちゃんにそれとなく伝えよ」
「なんですか。妙なことには手を貸しませんよ」
「妙ではない。ただ、妙案ぢゃ」
コソコソと電話口で何かを伝える滋悟郎。それを聞いた耕作は一瞬、あまりにも卑怯じゃないかと思ったが見てみたいとも思った。
「伝えますけど、アリシアがそうするとは限りませんよ」
「あやつならやるぞ。よろしく頼むぞ」
ガチャンと受話器を置く。その音に柔は飛んできた。
「電話切っちゃったの?」
「要件は終わった。ほっほっほ。楽しくなりそうぢゃの」
嫌な予感しかしない笑いに柔はいぶかし気に見つめた。
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アトランタ五輪
vol.1 さやかに忠告
たくさんのファンや友人たちに見守られながら、アメリカのアトランタに飛び立った選手団。さやかはもちろんこの飛行機には乗っておらず、別便のファーストクラスで向かうようだった。
開会式の2日前、柔のもとに思わぬ人物がやってきた。
「ヤワラー!!」
「ジョディー!!」
選手村の食堂で再開した友人は相変わらず大きな体と、大きな声だった。そして力いっぱい抱きしめると、柔は喜びを痛いほど感じた。
「久しぶりだわねー。調子はどう??」
「絶好調よ」
「それはうれしいね。クリスティンも喜ぶ」
「まさか、無差別級のカナダ代表って?」
「察しの通りクリスティンよ。ヤワラと戦うために苦しいトレーニングやってきた。試合を待ち望んでるだわよ」
ハミルトンでの世界選手権では苦戦を強いられた。そのクリスティンが再び立ちはだかる。
「あたしも負けないわ」
「その意気ね。でも、48kg以下級に出場しないのには驚いたね。代表のエミリーもがっかりしてたね」
「でもさやかさんは強いわよ。油断してると大変よ」
「おー怖い。あと強敵はアメリカ代表のアリシアだわね?」
「ええ、彼女も強いわ。そしてフランスのマルソーさん」
「でもみんな柔と試合できなくてがっかりね」
「そんなこと思う暇がないくらい、さやかさんは強いわよ。そう伝えておいて」
ジョディはカナダ代表のコーチの一人としてアトランタに来ていた。子供はルネに見てもらいこの五輪に力を注いでいる。
「あー!! ヤワラ!!」
呼ばれて振り返ると、金髪のポニーテールを揺らしながらアリシアが走り寄ってきた。
「久しぶりね。アリシア、元気だった?」
「もちろんよ。準備もしっかりしてきたし」
「気合入ってるだわね。柔と試合できないのに」
「それは残念だけど、仕方ないわ」
「約束は次回に持ち越しね」
「二人とも何の話ね?」
顔を見合わせて微笑む。
「あたしねサヤカと試合するの、とても楽しみなのよ」
「強いわよ。大丈夫?」
「ええ。ある意味最高のコーチに教えてもらったわ」
「ラスティさんやロイドさんじゃなくて?」
「ええ。サヤカのこともよく知ってる人。そして短い時間だったけど分析チームも作って研究したわ」
「すごい。それで誰なの?」
「内緒。思わず言っちゃうところだった。でも、ヤワラも日本代表だから言ったらダメね」
「別にいいじゃない。今更どうこうなるわけじゃないし」
「うーん、そう言われればそうね。ていうか、ヤワラ知らないの?」
「ええ。あたしの知ってる人?」
「だってコジロウよ」
「お父さん?? どうして?」
「ジゴロウの提案よ。コジロウのフランスでのコーチ契約が去年切れてて更新してないこと教えてくれたの」
「なんか、新しいコーチと契約したとか言ってたわ。お父さん、その人と合わなくて辞めたのよ」
「でも、それがラッキーだった。それなら交渉できるって思ったの。サヤカに挑むにはコジロウの力が必要だって思ったわ」
あの時の電話での滋悟郎の顔はそういう事だったのかと納得した。そこまでしてさやかを倒したいのかと思ったが、滋悟郎はきっと五輪を盛り上げるために考えた策だろう。目立ちたがりなさやかを安易に目立たせないために、刺客を差し向ける。白熱した試合展開になればそれだけ盛り上がるというわけだ。
「試合は7日目の26日よね。楽しみにしてるわ」
「あたしもヤワラの無差別級が見れるなんてとても楽しみ。でも、その前にさやかを倒すわ。彼女を倒さないとあたしはまた……」
「アリシア?」
ただならぬ雰囲気に柔は思わず声をかける。アリシアとさやかの間に何かあったのだろうか。
「ところでヤワラ、コーサクには会ったの?」
「耕作さん? いいえ、たぶんそろそろアトランタに来てるはずだけど」
「五輪が始まったらなかなか会えないんじゃないの。会っていた方がよくない?」
「そうだけど、あたしも時間がなくて」
「何かあるの?」
「開会式の旗手を務めるのよ」
「わお! 大役じゃない!」
「ヤワラはそれだけやってきただわさ」
「そんな……でも、なんだか緊張しちゃって」
「じゃあ、どこかで会ったら声かけておくわ」
「ワタシもそうするね」
「ありがとう、じゃあね」
耕作はアメリカ在住なので今回の五輪の記者を務めることになっている。野波と邦子も日本から取材に来ると聞いた。ジェシーを含めて二手に分かれての取材になるようだが、耕作は柔道の試合すべて任されている。しかし、まだ姿は見ていない。
でも、どこかにいると思えば心強い。開会式も取材でセンテニアル・オリンピックスタジアムに入ると言っていたからきっと柔の勇姿を見てくれるはずだ。
◇…*…★…*…◇
7月19日、アメリカ南部の蒸し暑い夜に開会式は始まった。1時間ほどパフォーマンスが行われ、選手入場。柔は少し照れながらでも誇らしげに国旗を持ち入場した。その後、式辞やオリンピック宣誓などを経ていよいよ聖火がともされる。誰がその大役を担うのか明かされてこなかったが、聖火台に立ったのはボクシング界のスーパースター、モハメド・アリだった。引退後、パーキンソン病を患い震える手で聖火を灯し、アトランタ五輪は開幕した。
大会7日目。どこかでトレーニングをしていたさやかがようやく柔道会場であるジョージアワールドコングレスセンターに姿を現した。もちろんジャージではなく、ブランドのスーツを身にまとい、風祭と共に颯爽と会場に入って行った。
着替えを済ませて勝手に作った寛ぎスペースに座って紅茶を飲んでいると、大きな体の女性が話しかけてきた。
「調子はどう?」
「絶好調ですわ」
「私はラスティ、よろしく。あなたの活躍はアメリカにも届いているわ。美しく無駄のない動きととてつもない強さは脅威ね」
「当然ですわ。私は強く美しいのです。だから今日も私に最も似合う色のメダルをいただきに来ましたの」
「ゴールド?」
「ええ、それ以外は必要ありませんし、それ以外になる可能性もありませんわ」
「随分、自信があるのね。ヤワラ以外は相手じゃないと」
「今や猪熊柔も相手ではありませんわ」
「それは恐ろしい。でも、思わぬ強敵がいるかもしれませんよ」
「ありえませんわ」
「そうですか。では、油断しないよういい試合を見せてくださいね」
ラスティは笑顔で去っていった。さやかは少々、棘を感じながらもあまり気にならなかった。
「今の人、ラスティ・カノギですよ。女子柔道の母と言われる」
「存じていますわ。彼女の功績ももちろん」
さやかは紅茶を含み、微笑んでいた。騒々しい周囲の状況とは次元が違うかのように、穏やかな空気が流れていた。
「さやかさんの相手になりそうなのはフランスのマルソーくらいでしょうか?」
「何をおっしゃいますの。マルソーなんて相手になりませんわ。今の私に立ちふさがる選手など存在いたしませんわ」
「それはどうかな」
無精髭とメガネ、パーカーを来た白人男性が立っていた。その風貌の怪しさから風祭はさやかの前に出た。
「大丈夫ですわ。この人は知り合いですの」
「知り合いですか?」
「ええ、あなたレオナルドでしょう?」
「よくお分かりになりましたね、サヤカ」
「その姿、幼い頃と変わりませんわね。とても個性的」
「今日は妹の応援だからね。目立ちたくないもので」
「そんなことなさらなくても、微塵も目立つことなどなくお帰りいただくことになりますわ」
「見くびっているね。アリシアは強いぞ」
「それは怖い怖い。でも、敵ではありません。あなたの妹はいつもそうでしたから」
そう言ってレオナルドを見るさやか。その目にははっきりアリシアのことが見えているようだった。
「進之介さん、徳永の戻りが遅いようです。探してきてくださらない?」
「え? ええ。おひとりで平気ですか?」
「心配していただいてありがとう。でも、大丈夫ですわ」
さやかは穏やかに微笑む。それに風祭も安心してそばを離れた。
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vol.2 本阿弥さやか
「トクナガはまだ君のそばにいるんだね」
「ええ、でももう歳だからそろそろ暇を与えようかと思っていますの」
「寂しがるだろうね。ずっとサヤカの成長を見てきたんだから」
使用人の一人でしかないが、あまりに近くに長年いたのでさやかにとって家族以外で最も情を感じる人かもしれない。
「サヤカ、結婚、出産おめでとう。彼が夫だろう?」
「ありがとう。そういえば紹介してなかったわね。失礼したわ。先ほど、一緒にいたのが夫の進之介よ」
「君のお眼鏡にかなった人なんだね」
「ええ。彼は私の運命の人ですわ」
「もし君が柔道をしてなかったら彼とは知り合ってないだろう。そうなったら僕にもチャンスがあったかい?」
さやかは澄ました表情で答える。
「ないですわ」
「どうして?」
「あなたじゃ、釣り合いませんわ」
「僕はこれでもアメリカでいくつもホテルを経営するオーナーなんだけど」
「存じております。ですから釣り合いませんの。おわかりになって」
レオナルドはさやかの冷たい表情から理由を察した。
「相変わらずだね。君は大切なものをわかっている。だったらアリシアの事、ちゃんと相手してやってくれよ」
「相手になればですが」
「柔道歴はサヤカより長い。そして素晴らしいコーチを迎えてトレーニングをしてきた。いい勝負になると思う」
「素晴らしいコーチ?」
「ああ、コジロウさ」
さやかは一瞬驚いたが、声を出して笑った。
「今更あの人が出てきたところで、今の私にかなうほどの選手を育てられるはずもありませんわ」
「でも、サヤカのことをよく知ってる」
さやかの目つきが変わる。虎滋郎は長年さやかのコーチをしていただからその癖や弱点を知っている。
「それでも、あの頃の私ではありませんので、負けるなどということはありませんわ」
にらみ合う二人。そこに空気の抜けるような声が聞こえた。
「お嬢様、遅くなり申し訳ありません」
「徳永、迷子にでもなっていたの?」
「いえ、あの……」
「いいんですの。あら、進之介さんは?」
「あちらに知り合いがいたようでして」
「そう。出番はまだかしら?」
「もうじきでございます」
さやかの前にレオナルドの姿はなかった。だが、静かだったさやかの胸に少々熱を灯すだけの材料を置いて行った。
「そこまでした私が目立つのが気に入らないのかしら。どこまでも忌々しい猪熊家の人間ですわ。しかし、構いませんわ。完膚なきまでに打ちのめして差し上げますわ!!」
◇…*…★…*…◇
「松田さん! お久しぶりです。どこ行ってたんですか?」
「お前! 風祭! それはこっちのセリフだ。さやかとどこにいたんだ?」
「船ですよ。特設の道場を作ってそこでトレーニングをしてました。そして今朝、ヘリでこちらへ」
「おー優雅なもんだな。こっちは朝から晩までへとへとで仕事してるんだぞ」
「いいことじゃないですか。その合間を縫って柔さんともお会いになってるんですか?」
「いや。すれ違うことは何度かあったけど、向こうも忙しそうだからな。特に話はしてないな」
「いいんですか?」
「いいも悪いも仕事だっての! 柔さんの出番は明日だし、今日にでも少し話すよ」
「そうしてください。試合前は平気なふりして不安なものですよ」
あさっての方向を向いて風祭が言う。柔のことを言っているのかと思ったが、違う。
「さやかもそうなのか? あの高飛車なお嬢様が試合前には不安になるのか?」
「高飛車って……そりゃ人ですからね。いろいろな面を持ってますよ」
「おー、なんだか夫婦って感じだな」
「夫婦ですよ。そっちはそんな感じがしませんけど」
「うるせー。これからだよ。じゃあ、金メダル期待してるって伝えとけ」
「言われなくても、金メダル取りますよ」
もうすぐ一回戦が始まる。耕作は慌てて取材場所に戻った。忙しくて立ち話もろくにできない。
さやかのもとに帰った風祭はただならぬ空気に一瞬、しり込みするがここは引いてはいけないと思い声をかける。
「どうしました?」
「進之介さん。私、絶対金メダル取りますわ」
「ええ、誰も疑っていませんよ。あなたが一番です」
「当然ですわ! さあ、参りますわよ!」
選手通路を通ってさやかは大歓声の中を歩く。体重別の時よりも強くなったし、調子もいい。負けるなんてことはありえない。でも不安はある。虎滋郎の存在は大きいしアリシアの執念はきっと大きなものだ。
畳の上に上がる。礼をしてさやかはいつもの微笑みを消し去り試合に挑む。初戦のベラルーシ代表は難なく倒し二回戦に進出した。その後も勝ち進み、準決勝でマルソーと対戦することとなった。そのことにさやかは少々、嬉しそうにしていた。
「マルソーは前回大会で猪熊に苦戦を強いた相手だ。油断するなよ」
日本の選手団のコーチがそう言ったが、孤高の存在のさやかは誰の声も耳に入らない。
さやかにとっては今のマルソーを柔よりも早く倒し強さを誇示したいのだ。
試合開始の合図とともに両者激しい組手争いとなり、先に仕掛けたのはマルソーだった。柔に似た一本背負いにさやかは難なく対処した。似ているだけでやはり本物ではないのだ。そしてさやかの内股に倒れこみそうになったがマルソーもこれを回避。交互に技を掛け合い、それのどれも決まらない状態が続いていたが、二分半が経過したころさやかが寝技に持ち込み一本を決めた。
「筋はよろしいようでしたわ」
さやかが何を言ったのかわからないマルソーは、愛想笑いをしていた。礼をして畳を降りる頃、大歓声が上がりさやかの相手が決まった。
アメリカ代表アリシアとカナダ代表エミリーは、合わせ技一本でアリシアが決勝進出を決めた。さやかはアリシアを一瞥すると、自分の席に戻り汗をぬぐい、髪を整えた。
決勝が始まるまでの間、さやかと風祭、徳永は穏やかな時間を過ごしていた。周りの喧騒が聞こえないみたいに、ティータイムを満喫していた。
「アリシアとは柔道以外で何度か対戦したことがありますの」
「さやかさんが以前やっていた水泳ですか?」
「ええ。水泳、乗馬、テニスですわ。あの子は年下でしょう。私が始めるよりも遅く始めて、追い付く頃には私がその競技に飽きてしまうのでいつもあの子は二番でしたの」
「そうでしたか。でも、よく覚えていましたね」
「なぜでしょうね。必死に追いかけてくる姿が面白かったのね。でも、私はそんな彼女を待つ気にはなれなくて進み続けていました。でもいつの間にかいなくなっていましたの」
ジュニア時代、さやかを脅かす存在など存在せず、それはアリシアでも同じだった。ついてくる姿は愛らしいが、自分を目標にすることはないと思っていた。自分の道を進むことが強さになる。でも、今ならわかる。柔という倒したい相手がいて猛特訓した。今までしたことのない努力を長年していた。それでも届かなかったことへの苛立ちはあれど、あきらめは感じたことはなかった。でもそれは、柔が前を歩いてくれていたからだ。
そんな人がある瞬間いなくなったら、どうなっていただろうか。
アリシアはそんな思いをもう三度味わってきた。柔が柔道を辞めていた数か月。さやかは絶対に戻ってくると信じていた。だから女王の座を守っていた。
「さやかさん……」
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vol.3 さやかvsアリシア
「さやかさん……」
大勢の人が行きかうこの場所で、すべての人間は景色の様だった。その中で声をかけてきた柔。さやかは少々驚いた。
「ごきげんよう猪熊さん。調子はいかがかしら?」
「あたしのよりもさやかさんはどうですか? マルソーさんとの試合でどこか痛めたりしませんでしたか?」
「ありませんわ。絶好調ですもの。それよりも要件は何かしら?」
「あの……アリシアは決勝の相手のアリシアはとても強いです。だから……」
「そうでしょうね。あなたたちが私の金メダルを妨害するために、あの手この手で強くしたんですもの」
「違います。そんなんじゃないです」
「どうかしら? 今は仕方なく日本代表だから私の応援をしているでしょうけど、本心はご友人の彼女の応援をしたいんじゃなくって?」
相変わらずの柔嫌いと言うか、ひねくれてものを考える人だと柔は思った。
「いいえ。あたしがここに来たのは、さやかさんに勝ってほしいからです」
「まあ、そんな勝手なことをよく言えたわね」
「本当です。だって、さやかさんはあたしの……あたしのライバルですから。こんなところで負けてもらっては困ります。五輪で金メダルを獲ってまたあたしと試合してください」
その場の空気が止まる。さやかは瞬きも忘れて柔を見ていた。試合の時に見せる本気の瞳を柔はしていた。嘘を言っているのではない本心だ。
「自分のライバルは金メダリストでないと釣り合わないとおっしゃるのね。いいでしょう。必ず金メダル獲って見せましょう」
さやかは立ち上がる。ふわりと上質な香水の香りが鼻をくすぐる。
「だからあなたも明日、金メダル獲りなさい」
「はい!」
さやかは会場へ向けて歩き出す。柔の横を通っていく風祭はそっと耳打ちした。
「ありがとうございます」
何か様子がいつもと違うと感じた。でも、さやかのいつもをどれだけ柔は知っているのか。ただ今は、決勝をただ見守ることしかできない。さやかでもアリシアでもどちらを応援していいのかわからない。ただ全力で挑んでほしい。それだけのためにあの言葉を選んだ。
「ライバルか……」
そう呼べる人はもうさやかしかいないのは確かだ。ジョディも富士子もテレシコワもいない。マルソーはまだそこまでじゃない。アリシアも同じだ。
会場から湧き上がる歓声。柔は急いで応援席に向かった。
◇…*…★…*…◇
畳の上はいつも空気が張り詰めている。この感じがさやかは好きだった。真剣勝負の世界には普段得られないものが多くある。刺激が欲しかった。何の苦労もない人生だからわざと自分を追い込んで、人生の刺激を与えた。
「礼!」
頭を下げる。自然と呼吸が整う。
「はじめ!!」
両者一旦にらみ合う。相手を見据えて動きを読む。がむしゃらに動くことは隙をつくることになる。
最初に仕掛けたのはアリシアだった。いい位置を取り大内刈りを仕掛けた。しかしさやかには全くきかなかった。すぐに反撃され今度はアリシアの体が宙に浮いた。
危うく一本になりそうだったが、技ありになった。
その後、二人は攻防を繰り返した。アリシアはさやかの寝技を返し抑え込むが一本にはならず技ありとなる。ポイントは同じ。試合は残り1分となった。
アリシアの闘志は燃えていた。長年のトラウマのような存在と五輪で戦えるなんて、夢のようだと思っていた。トレーニングは積んできた。十分かと言われるとそれは違うが、今できることを精一杯出し切って挑むことが前に進むことになる。
思わぬ強さにさやかは苛立ちすら感じた。世界のレベルは日々上がっている。その上を歩いている自負があった。結果も出してきた。それでも目の前のアリシアはその道を阻む存在となった。マルソーより強いと感じている。
お互いに一瞬だって気が抜けない。会場の歓声すら聞こえない。残り5秒。ポイントはさやかが有効一つ分勝っている。このまま逃げ切れば金メダルだ。しかし……
――あたしのライバルですから。
柔のあの言葉が頭をよぎる。どこかで見ているこの試合。みっともないところは見せられない。
さやかはアリシアの隙を見つけ、そこに足をかけた。しかしアリシアもされるがままではない。必死に抵抗しそして裏投げを仕掛ける。
「やあああっ」
畳に打ち付ける音が響く。審判の判定は……
「有効!! それまで!」
二人とも息が上がってしばらく起き上がれない。ほどなくしてさやかが立ち上がりアリシアに手を差し出す。
「《font:》いい試合でしたわ《/font》」
「《font:》こちらこそ、ありがとう《/font》」
勝敗は判定となる。主審と副審二人が優勢の方に旗を揚げる。運命の瞬間だ。
スッと挙げられた旗は二つがさやか、一つがアリシアとなった。
アメリカの観客が多い中、この審判に少なからずブーイングはあったが白熱した試合におおよそのアメリカ人は受け入れている世だった。
そしてそれはさやかも同じだった。アリシアは強かった。それだけのことだ。
「《font:》おめでとう、サヤカ《/font》」
「《font:》ありがとう、アリシア《/font》」
握手を交わすと二人は畳を降りた。そしてアリシアは兄のもとに行き、さやかは風祭のところへは行かず徳永からバッグを受けとるとトイレへ駆け込んだ。インタビューも受けず誰とも目を合わさず。
数分後、完璧なメイクをして現れ、メダルの授与式に出ていき、真ん中の一番高いところでファンの声援にこたえるように手を挙げた。満面の笑みだった。最も美しいメダリストとして大きく報道され、栄光を称えた。
◇…*…★…*…◇
さやかの金メダルは日本でも大きく取り上げられ、五輪特番ではさやかと同日に銀メダルを獲った男子の選手が登場した。さやかの希望もあり、日本の各テレビ局に短時間だが出演し金メダルの喜びを伝えた。それに付き合う男子選手も大変そうだが、そこに文句は言えないと言った様子でしたがっていた。
最後の出演が終わると、カメラの前でさやかは言った。
「これからテンプルトンホテルで緊急の記者会見を行います。よろしければ記者の皆さん、お越しください。時間はそれほどかかりませんわ」
テレビ局のスタッフも何事かといった様子でさやかを見ていたが、さっそうと車に乗って行ってしまった。しかしさやかが何かを発表するとなると、取材に行かないわけにはいかない。オリンピック関連の記事をやっと書き上げた記者たちはやっと休めると思ったのに、思わぬ告知に行かないわけにはいかないと日本のみならず海外の記者もテンプルトンホテルへ向かった。
耕作も原稿を書き終え滞在中のホテルに戻ったころ電話が鳴った。仕事の電話はもう終わったはずなのに一体何だろうかと思ったが、案の定編集長からだった。
「松田! お前まだ寝るなよ!」
「なんですか、仕事は終わりましたよね」
「いいや、本阿弥が記者会見をするってさっきテレビで言ってたんだ。今すぐカメラ連れて向かえ。いいな」
「記者会見!! 何を言うつもりなんだ?」
「それを聞きにお前が行くんだ! いいな!」
電話は切れた。これからシャワーを浴びて柔のいる選手村に行く予定だった。一応時間は決めていて思ったより早く仕事が終わったので、一旦部屋に戻れた。それなのに、こんなことになるなんて。
選手村へ個人的に連絡を取る手段がない。柔はポケベルも持っていないし待たせてしまうかもしれない。明日には無差別級があるのに体調にもよくない。なんとか連絡を取る手段がないかと考えていると、再び電話が鳴った。
「ハロー」
「あの耕作さん?」
「ああ、柔さんいいタイミングだ」
「さやかさんの取材行くのよね?」
「知ってたの? 急に記者会見って何考えてるんだか」
「日本の柔道関係者の皆さんは大騒ぎして、おじいちゃんも何だかワクワクしてるようなの」
「ということは、全柔連も知らないってことか」
「ええ、でもさっき会場で会ったラスティが言ってたの。さやかさんは何か決意していると」
「ラスティに会ったの? さやかとも接触してたのか」
「初戦の前とアリシアの試合の直後にトイレで会ったと言ってたわ」
「そう言えば試合後すぐにトイレに駆け込んでたな」
「ラスティが言うには泣いているようだったけど、すぐに顔を洗ってメイクを始めたって。とても心の強い人って言ってたわ」
「泣いてたのか。アリシアに負けたと思ったのか。それとも何か別の意味があるのか」
「ねえ、耕作さん?」
「ん?」
「今日はあたし、我慢して明日のために早く休むわ。だから明日、そっちへ行ってもいい?」
「え? ああ……いいよ。なんなら明日の試合後に鍵渡しておくよ。俺の方が遅くなりそうだし」
「ありがとう」
「柔さんはなんだかんだで記者たちから逃げるのうまいもんな」
「素早さは特技なので。じゃあ、気を付けてね。もう、夜も遅いし」
時計を見ると午後10時を回っていた。
「じゃあ、おやすみ。明日頑張れよ!」
「はい!」
電話を切ってすぐに部屋を出る。そして少し離れた部屋の扉をノックする。
「なーに? 夜這い? 柔ちゃんに言うわよ」
邦子が出てきた。少しアルコールが入っているようだった。
「何言ってんだ。ジェシーはいるか?」
「どうしたのコーサク?」
ひょこっと出てきたジェシーはまだシャワーを浴びたところいった様子だった。
「仕事だ。準備しろよ」
「えー何の仕事? もう髪も洗ったし」
「つべこべ言うな。バイクは俺が運転するからさっさと着替えて準備しろ」
ジェシーは昨年の世界選手権から日刊エヴリーの専属カメラマンとなった。結婚式の時に編集長と直接話し、協議した結果、採用となったのだ。主にアメリカ駐在の記者と行動を共にしてもらうことになるが、世界選手権の時は耕作が日本にいたこともあって一緒に来日し、契約に至った。
だから編集長の言うことは絶対だし、期待されてるなら応えたいと思った。
「何事?」
「さやかが緊急記者会見を行うって告知してきてな、編集長から行けって命令があった」
「んな! じゃあ、あたしが行くわ」
「そんな様子の君じゃ行っても追い返されるだろうし、カメラだって上手く操れないだろう」
「そんなこと……」
「急遽決まった会見だ。何を言うかはわからんが、記者として行かないわけにはいかないからな。まあ、君には明日の無差別級の方に期待してるから今日は休んでくれ」
「……はーい」
「おまたせ。場所はどこ?」
ジェシーはライダースーツに身を包み、髪もまとめてすっきりとした様子でやってきた。機材一式も抱えて準備万端だ。
「テンプルトンホテルだと」
「ほほー、何とも言えない場所を選んだものね。アリシアは知ってるのかしら?」
「さあな。選手村にはある程度情報は行ってるみたいだけどな」
「じゃあ、加賀くん行ってくるから戸締りしっかりするんだぞ」
「相変わらず優しいんだから……」
「なんか言ったか?」
「何も。ここオートロックだから平気よ」
耕作とジェシーはバイクに乗ってテンプルトンホテルへ向かった。夜のアトランタは五輪開催中ということもあって、にぎわっている。特に今日はオリンピック公園でコンサートがあるとかで、プレスセンターからホテルに戻る途中も沢山の歓声が聞こえていた。お国柄だな~と感じながら足早にホテルに戻ったのにまた出ていく羽目になるとは。方向は全く逆で、選手村の横を通りかかったときには思わず見上げてしまった。
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vol.4 記者会見
テンプルトンホテルに着くと、大勢の報道陣でごった返していた。見知った顔もチラホラいたが、海外メディアも多くいた。
耕作はいい位置を確保し、さやかが出てくるのを待っていた。
その舞台裏で出番を待つ間さやかの姿があった。いつも自信に満ち溢れ何にも臆することのないさやかの背中が少しだけ寂しそうに見えた。
「大丈夫ですか?」
風祭が声をかけ肩を寄せた。
「ええ、もちろんですわ」
「ではあなたの言葉で伝えてきてください」
「行ってきますわ」
「陰ながら応援しています」
暗いバックヤードから光溢れる場所へ向かうさやか。カメラのフラッシュが目に痛いほどだ。
「お集りの皆様、お待たせいたしました。本阿弥さやかでございます」
相変わらず艶やかで豪華な衣装はまるでファッションモデルの様だった。
「本日、急遽お集りいただきましたのは、私、本阿弥さやかの今後についての発表をさせていただくためでございます」
記者たちがざわめく。そのざわめきをかき消すようにさやかは言った。
「私は本日をもって柔道界から引退いたします」
「引退だって! なぜです!?」
どこからともなく聞こえたその声は瞬く間に全員の口から出ていたが、さやかは態度を変えることなく淡々とマイクを持つ。
「17歳のころから柔道を始め今年で10年になります。私の目標は常に猪熊柔さんを倒すことでした。どんなスポーツも簡単に頂点に上り詰めてしまう自らの才能に恐怖すら感じることもありました。彼女の存在を知ってそれまでの人生がひっくり返るような過酷な10年でした。しかし私がスポーツをやっていたのはそもそも暇つぶしです」
会場の空気が止まる。
「語弊があるかもしれませんが、すべてにおいて完璧な私には夢中になれるものがなく何もかもが退屈でした。しかし柔道に出会い、目標ができ、努力を重ねたこの10年は本当に充実していました。猪熊柔さん、おじいさまには感謝申し上げます」
美しく頭を下げる姿に海外の記者からは感嘆の声が聞こえたが、日本人記者はいままでのさやかを知っているのでどこか嘘くさい気がしてならなかった。
「先の体重別ではほぼ私の勝利でしたが、感覚のズレでしょうか、勝利者は彼女になりました。しかし、私の中であの瞬間に区切りがつきそしてこのような結論を出すことを考え始めました。五輪に出たのも引退を考え最後に有終の美を飾るべく記念の様な形で出場することを承諾いたしました」
「相変わらずだな」
小声で耕作は言う。もちろん聞こえはしない。
「金メダルもいただき、これ以上ここにいる必要もありませんので各国の記者の方が集まっているこの機会に引退会見をさせていただきたいと思いました」
「ご質問があればどうぞ」
司会者がそう言うと続々と手が上がる。
「今後はどうなさるおつもりですか?」
「家業がありますのでそちらへ力を注ぎます」
「柔道とは一切かかわりを持たないと?」
「いいえ、経営者としてできるだけサポートをしていきます。柔道部の設立も考えておりますが、私が指導することはありません」
「ご主人もですか?」
「ええ」
「子育てのためではないのですか?」
「優秀なベビーシッターもおりますので、私は私にしかできないことをするまでです」
「日本は不景気だと聞きます。それも影響しているのではないでしょうか?」
本阿弥グループも不景気のあおりを受けていないわけじゃない。そして国民の心に余裕がなくなると、さやかのような金持ちを疎ましく思い嫌われることもある。そのせいで会社に影響が出る前に、表に出ることを控えた方がいいのではないかという意見もないこともない。
「全く見当違いですわ。不景気だと思うから不景気になるのです。本阿弥グループはそのような心配は一切ありませんわ」
その後も質疑応答は続いた。さやかは丁寧に答えていたが、もうかなり時間もたちそろそろ終了という空気が出てき始めた。
「決勝の後、トイレで泣いていたという情報があるのですが、それは引退することへの寂しさからの涙でしょうか?」
さやかは声の主を探す。そんなことを知っている人などいないはずだ。しかし手を挙げていたのは日刊エヴリーの松田耕作。さやかは観念した。
「確かにトイレに駆け込みました。メイクを整えるためです」
「そうですか、ありがとう」
これ以上、突っ込んできかなかった。だがこのことでさやかもやはり人の感情があったのだと誰の心にも残ったに違いない。
「最後にもう一つございます」
マイクを持ち直し、立ち上がるさやか。
「今年のクリスマスに私の自伝が全世界で発売となります。生まれてから今までのことをまとめた誰もが知りたかった私の過去と思いが詰まった一冊になりますでしょう。私からのクリスマスプレゼントですわ。ぜひ、お読みになって。それではごきげんよう」
さやかは出て行った。あっけにとられる記者たちはしばらく静止していたが、さやかの引退をいち早くまとめてしまおうと再びプレスセンターへと戻って行った。
◇…*…★…*…◇
時刻は午前一時を過ぎていた。
「ジェシーは現像したら帰っていいよ」
「コーサクはまさか、ここに泊まるの?」
「いや、終わったらもちろん戻るよ」
「わかったわ。じゃあ、さっさと終わらせようっと」
さやかの引退には耕作も驚いたが、ありえないことではないと感じていた。体重別で時間切れになったことでの抗議もなく、五輪代表に選出されると素直に出場した。不自然な点は多いけれど、それも何らかの変化を言えばそう捉えることはできる。
「こんなことなら風祭にもっと聞いておけばよかったな」
頭を掻きむしりながら記事にまとめる耕作。するとジェシーがやってきて写真を何枚かデスクに置いて行った。
「よく写ってるのを何枚か選んできたけど、どうかしら?」
「ああ、よく撮れてる。もう遅いからジェシーは戻っていいよ」
「コーサクは?」
「FAXしたら編集長に電話してくる」
「わかったわ。お疲れ」
ジェシーが帰ると、耕作は電話をかける。
「松田か。本阿弥引退だってな。日本じゃ大騒ぎだ」
「そうでしょうね。急な会見で何を言うかと思えば、引退ですから」
「お前の嫁さんは何か言ってたか?」
「今何時だと思ってるんですか。午前1時20……」
この時、ドンっという衝撃音と共に地面が揺れた。
「な……なんだ?」
「どうした、松田?」
「今、地震が……いや……」
耕作は受話器を放り出して辺りを見渡す。外国人の記者たちが同じように「何事?」と言わんばかりにキョロキョロしている。その時、誰かが叫んだ。
「爆発だ!オリンピック公園で何かが爆発した!」
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vol.5 無差別級試合開始
「爆発だ!オリンピック公園で何かが爆発した!」
一瞬、青ざめる耕作。だが受話器から聞こえる編集長の声に気が付き我に返る。
「どうした!? 何があった!?」
「近くのオリンピック公園で何かが爆発したようです」
「なんだって!!」
「今日はあそこでコンサートがあって沢山人がいるはずなんです」
「おい、そりゃ本当か?」
「ジェシー……ジェシーがさっきバイクで帰ったんですよ。現像が終わってホテルに戻ってもらって。公園の横を通るはずです」
「嘘だろう。あーなんでこんな時にそんなことが起こるんだよ!」
「とにかくジェシーを探しに行かないと」
「待て! まだ安全が確認できてないだろう。何が原因かわからん以上、まだ爆発する可能性もある」
「しかし!」
耕作が大声を上げると、そっとデスクにコーヒーが置かれた。差し出した人を見るとそこには帰ったはずのジェシーがいた。
「ホテルに戻ったんじゃ……」
「そのつもりだったけど、コーヒー飲むかなって思って。ねえ、爆破って言ってるけど何事?」
不安そうにしているジェシーだったが、耕作は安堵したようで椅子にどさっと腰かけた。
「編集長、ジェシー無事でした。まだプレスセンターにいました」
「そうか……よかった。取材はもう少し待て。警察とか来るだろう。それからでいい。お前は明日の猪熊柔の取材に集中しろ」
「はい……」
「じゃあ、こっちは本阿弥の引退で号外作るから。一旦切るぞ」
「お疲れ様です」
電話を切る。様々な声が耳に入る。その中で一番多いのが「テロ」の言葉。耕作は深いため息と悲しみが押し寄せる。
「何でこんな時にテロなんて」
NYでのテロを思い出す。あの時は地獄絵図だった。けが人も大勢いて悲しみとやるせなさが湧きだす。怒りよりも理解できな人間の行動に恐怖を感じた。
「俺はここに残る。会場にはここからの方が近いから、規制なんかかけられて身動き取れなくなるのも怖いしな」
「じゃあ、あたしも残るわ。止めないでね」
「ああ、明日の試合もジェシーに頼むよ」
「クニコは?」
「野波と行ってもらう。俺たちも柔道の試合が終わり次第、他の取材に行くけどな」
「オッケーよ!絶対いい写真撮るから!」
プレスセンターには休憩室はあっても仮眠室などなく、二人は適当に壁にもたれかかって休んだ。体力は温存しておかないと、何が起こるかわからないから。
◇…*…★…*…◇
翌日、眩しい朝日で目を覚ます柔。同室の滋悟郎はすでに起きていて部屋を出ているようだった。さやかの緊急会見の内容も知らないまま寝てしまったが、誰かに聞けばわかるだろう。柔は顔を洗って着替えると、部屋を出て食堂へ行った。
いつも賑やかな食堂は今日も変わらずだが、何か様子が違う。
「猪熊先輩! おはようございます」
振り返ると鶴亀トラベル柔道部の後輩である千原がいた。彼女も五輪代表選手ですでに銅メダルを獲得していた。
「おはよう。ねえ、昨日のさやかさんの会見の内容って知ってる?」
「ええ、先ほど聞きました。本阿弥さん引退するそうです」
「え!? 引退……」
「何やら家業を継ぐとかなんとか」
「そうね。さやかさんは本阿弥グループがあるのものね。でも……」
あらためて周りを見るとそのことで大騒ぎしているわけではなさそうだった。食堂のテレビが目に入る。五輪のニュースではなく別のことを伝えているようだった。近寄って聞いてみると、柔は言葉を失う。
「なんて言ってるんですか?」
「テロが……」
「え?」
「オリンピック公園で爆弾テロがあってけが人が100人以上いて死者もいると……」
「そんな……オリンピック公園って会場の近くじゃないですか。今日の無差別級大丈夫なんですか」
千原がおろおろしていると、柔は一目散に走りだした。
「先輩、どこへ?」
柔が向かったのは公衆電話だった。耕作が泊っているホテルに電話をした。だが出ない。日本の日刊エヴリーにもかけたが繋がらなかった。テロが起こった時刻が深夜だから大丈夫だと思うけど、さやかの記者会見の時間によってはいてもおかしくない時間だ。
居ても立っても居られない柔は選手村を出てホテルに向かおうとした。
「どこへ行くんぢゃ!」
「おじいちゃん、あのね、公園で……」
「テロのことは知っておる。試合も予定通り行われる。お前は何も心配する必要はない」
「耕作さんと連絡がとれないの」
「なんぢゃと! それでやつが泊ってるホテルに行こうとしたんぢゃな」
「うん。だから……」
「ならん! お前は大切な試合がある。松ちゃんのところへは別のものを向かわせる。お前はしっかり準備をして備えろ」
「でも……」
「でももかかしもないわ。お前にはお前のするべきことがある。松ちゃんとてそれを望んでおるぢゃろう。それに案外会場に行ったらヘラヘラしながら待ってるかもしれん」
「そうね……」
もし何かあったとしたら妻である柔に情報が来ないなんてことはないはずだ。そうだ、前の時とは違う。夫婦になったのだから日刊エヴリーも教えてくれるはずだ。
「わかった……ご飯食べたら準備するわ」
「それでよい。わしはちょっと電話する用事があるから離れるが、一人でフラフラ外に出るなよ」
「うん」
信用するしかない。柔は日の丸を背負って試合に臨まなくてはいけないのだ。
「集中しなきゃ」
◇…*…★…*…◇
選手村から会場まではバスで移動した。その車中で滋悟郎から耕作がホテルにいないことを聞いた。朝食でも食べに出てるのではないかと思われたが、昨日一緒に出て行ったジェシーも帰ってないことも分かった。柔はさらに不安になった。
しかしその不安も長くは続かなかった。会場に入ると、耕作が疲れた顔でジェシーと一緒に姿を見せたのだ。
「おはよう、柔さん。調子はどうだい?」
「調子って……心配したのよ」
今にも泣きそうな柔。そのことに何が何だかわからない様子の耕作。
「おい、松ちゃんよ。どこへ行っておった。ホテルにも帰ってないようぢゃったが」
「昨日はプレスセンターで待機してたんですよ。テロがあったじゃないですか。交通規制とか大会の日程変更とあればすぐに対応したいですから」
「編集部にも電話したんです」
「編集長は知ってただろう。なんで聞かなかったの?」
「繋がらなかったのよ」
「忙しいからな……」
申し訳なさそうにしている耕作に柔は心から安心した。本当なら抱き着いてしまいたかったが、周りの目が多すぎてそれはやめておいた。
「さやかの引退は聞いた?」
「ええ。びっくりしました。でも、納得もしました」
「俺も。今日は彼女の話題と柔さんの話題で持ちきりになるだろうと思ったのに、テロがあったから世界中はそっちを向いちゃったな」
「なんでテロなんか……」
「柔さんは気にすることないさ。テロなんてやるやつの思いなんか考えたって何の役にも立たない。今は試合に集中!!」
「はい!」
気持ちを入れ替えて柔は試合にだけ集中した。無差別級は殆どが重量級の選手で構成される。そのなかで柔は最軽量の選手だろう。疲労も大きくなる。できるだけ体力は温存しておきたい。
試合が始まる前、会場には羽衣率いる鶴亀トラベルの「柔応援ツアー」の団体が観客席に着いた。近くにはNY支店の仲間の何人か姿が見えた。
そして各国の選手や関係者も柔の試合を見ようと集まっていた。ラスティの姿も見えた。書籍の出版に協力してくれた松平もスミスも来ていた。
そしてレオナルドはデイビットとしてイーサンとモーリス、そしてロイドとグレンはアリシアの応援のために昨日から来てくれていた。
もちろんジョディの姿もあり、とても心強かった。富士子がいない五輪は不安もあったけど、これだけ応援してくれる人がいることが力になる。
無差別級の試合は大歓声の中始まった。柔の初戦の相手は韓国のジアン、二回戦のメキシコのガブリエラ、三回戦のロシアのヴェロニカまでは難なく開始数秒で一本勝ちした。
「柔!」
通路を歩いていた柔に声をかけた来たのは、父・虎滋郎だった。
「あ、お父さん。アトランタにいたのね」
「アリシアのコーチだからな。ところで準決勝のフランスのルイーズには気を付けろ」
「どういうこと?」
「彼女はお前が無差別級代表に決まったときからおそらくマルソーを柔に見立ててトレーニングをしてきたはずだ。それに俺がコーチをしていたころから、力だけじゃない柔道をしていた選手だ。素早さや肉体の鍛え方が異常だった。前回大会ではまだ頭角は現してなかったが、近年は目覚ましい成長を見せている。油断するなよ」
「はい!」
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vol.6 無差別級決勝
虎滋郎の言葉もあり柔はさらに気合が入る。そんな時、会場から大きな歓声が聞こえた。前回のバルセロナの時と同じように、IOCのタマランチ会長とさやかが揃って会場に入ってきたのだ。
「相変わらずの目立ちたがりだ」
耕作がそう言うと、隣にいたジェシーはカメラを向けて一枚。
「最後かもしれないじゃない」
「そうかな~」
元来目立ちたがりのさやかはきっと柔道界を退いても何か別の手段で目立つことをするに違いない。あれは生きるためのエネルギーなのだと耕作は理解している。
準決勝が始まる。姿を見せた柔に歓声が上がる。
「いけー柔さーん!!」
聞こえないと思っていたがいつも柔は振り向いてくれる。
「すごい聴覚よね。ヤワラって」
「びっくりするよ」
試合開始直後、ルイーズは慎重な姿勢を見せた。力任せに突進していっては思うつぼだ。まずは組手争いでいい位置をとる。そして慌てずに技をかける。そう考えていた。しかし、柔はそんなに悠長に待ってはいない。大きな選手とも戦いなれている。わずかな隙間を狙って技を仕掛け、一本勝ちした。
ルイーズは声も出ないほど驚いて、畳から起き上がれない。
「大丈夫ですか?」
英語で問い掛ける柔に、ルイーズは目をぱちくりさせて起き上がる。
これで決勝進出が決まった。対戦相手はもちろんカナダのクリスティンだ。彼女とはジョディの結婚式の余興で対戦したことがある。あの時は柔の方が格段に強かったが今はどうかわからない。柔とジョディの試合以降、女子柔道のレベルは上がった。目標ができたからだろう。
決勝の前、かなり時間が空いていたので柔は人気の少ない場所へ行って富士子から借りていたカセットを聞いた。くるみ割り人形は昨日の夜も聞いてそのまま眠ってしまっていた。曲でリラックスできるというよりは、富士子がそばにいるような気がして気が休まるのだ。
「柔さん!」
「耕作さん!」
やはり柔の耳は耕作の声をどんな雑踏にいても聞き分けられるだけあって、音楽を聴いていてもわかった。
「いよいよ決勝だね。緊張してないかい?」
「してるような、してないような。わからないの」
「それはきっとしてないな。今回もカナダ代表だな。クリスティンも強い。油断するなよ」
「ええ、わかってるわ」
柔は辺りを見渡す。見たところ日本人も知ってる人もいなさそうだ。
「耕作さん……」
ちょっとだけ寄り添ってみる。
「おわ! どうしたの? こんなところで珍しい」
「いいじゃない。昨日会えると思ったのに会えなかったし、今朝もすごく心配したし」
「ごめん。でもほら、今日はこうやって君だけのために俺は来てるわけで」
「取材でしょ。お仕事だものね」
「まあ……」
「ねえ、今日試合が終わったらホテルで待ってるから」
「ああ、そのことだけど俺いつ部屋に戻れるかわかんないぞ。記事書いて送ってOKもらわないといけないし」
「いいの、待ってる」
「でも、危ないだろう」
「大丈夫よ。タクシー使うわ」
「ならいいけど。いやタクシーも危ないか」
「じゃあ、走っていく。ダメ?」
また甘えた声で上目遣いをする。確信犯だとわかっていながら逆らえない。
「わかった。気を付けてきてくれよ。鍵渡しておくから入って待ってて」
鞄からホテルの鍵を出すと柔に渡した。
「なくしたらおしまいだぞ。俺も入れない」
「誰かと相部屋じゃないの?」
「そのつもりだったんだけど、3部屋取って俺と野波が相部屋の予定だったんだがどういうわけか、加賀くんとジェシーが意気投合して一緒の部屋になっちまって」
「大丈夫なのかしら?」
「ああ、ジェシーは加賀くんのこと仲間とかそんな風に見てるらしい。それにカメラマン同士話も合うんじゃないか。だから俺と野波は一人で部屋を使えるってわけ」
「邦子さんって英語話せたかしら?」
「いや、でもジェシーが日本語そこそこ話せるようになったから。それに仕事で帰ってきてシャワー浴びて寝るだけだから支障はないんじゃないのか。一週間経ってるけど部屋を代わってくれって言われないしな」
「それならいいの。じゃあ、試合後会いに行くから」
「その前に決勝頑張れよ」
「もちろん!」
随分機嫌がいい柔。時間になったので会場に入る。この時にはいつもの真剣な眼差しに戻っていた。
大歓声の中、無差別級決勝戦が始まった。クリスティンは最重量級の選手ではないが、柔よりも20kg以上も重い選手だ。背も高くジョディの時とは違った威圧感がある。
「はじめ!」
合図とともにお互い組み合う。しかし長くは組み合えないので、先にクリスティンが仕掛ける。しかし柔は素早い反応でかわし、逆に仕掛けてみたが不発に終わった。
その後も技の応酬となったが決定打には至らず。お互い息を切らせて向き合った。残り30秒のところで、柔は一瞬の隙を付いて背負いそれをこらえたクリスティンだったが、左一本背負いで返し一本をとり試合終了した。
「はあ、はあ……やっぱり強いなヤワラ」
「クリスティンさんも、強かったです」
相変わらず、気持ちのいい投げっぷりに会場に来ていた観客からは大歓声が送られ、IOCのタマランチ会長もご満悦の様子だった。
表彰式に登場した柔に再び盛大な拍手と歓声が送られ、偉業達成の喜びに日本国民は感動に包まれた。
そして例にもれず、柔も試合後は各メディアの出演が続きそのほとんどが滋悟郎の独壇場ではあったがいないわけにはいかないので、笑顔だけ見せて座っていた。
解放されたのは午後10時を過ぎていた。滋悟郎は祝勝会と言って日本選手団の監督たちと食事に出かけたが、柔は早々に引き上げて一旦選手村に帰った。
「早く行かなきゃ」
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vol.7 アトランタの夜
「早く行かなきゃ」
ジャージから私服に着替えて滋悟郎が帰ってくる前に部屋を出た。もちろん書置きはしている。はやる胸を押さえながらタクシーを拾い、耕作の泊っているホテルに急ぐ。途中、軽く食べれるものを買って部屋に入った。
シングルベッドが二つあるそこまで広くない部屋だが、窓の外にはアトランタの街並みが見えて立地は悪くない気がした。でも、相変わらず部屋の中は散らかっていて、覚悟はしていたが片付けから始めた。
そうこうしてる内に、ドアがノックされた。
「柔さんいる?」
耕作の声を聴き間違えるなどありえない柔はすぐさまドアを開けて抱きついた。
「おかえりなさい!」
「ただいま。無事に来れてよかったよ」
「もう、子供じゃないんだから大丈夫よ」
二人は部屋の中に入る。
「おおー綺麗になってる」
「忙しいのはわかるけど……」
「はははっ。じゃあ、俺シャワー使うわ。もう、汗でベトベト」
「どうぞ」
金メダル獲った後なのにそんなこと全く感じない柔はある意味すごいなと改めて思う。そう言うところを耕作はバルセロナ以降、身近で見てきた。
「はー……どうしたらいいんだろ」
バスルームから出るとき、着替えがないことに気づいてそろーっと出ていく。
「着替え持っていくからそのままでいて」
「え?」
柔は洗濯したての綺麗な服を差し出した。
「どうしたの、これ?」
「ホテルのコインランドリーで洗濯したのよ。さっき乾燥が終わったからちょうどよかった」
「何から何まですみません」
「好きでやってることだもの。気にしないで。じゃあ、こっちへ早く」
狭い部屋のテーブルの上にはさっき買ってきた食べ物とワインが用意してあった。
「お祝いよ」
「金メダルを獲ったのは君なのに」
「金メダルのじゃなくて、結婚記念日のお祝い。今年は離れてたから当日にはできなかったでしょ。だから今ささやかだけどしておきたいなって思ったの」
7月7日は二人の結婚記念日。今年のこの日は五輪前ということもあって、全く時間が取れなかった。耕作はアメリカ、柔は日本。選手村に入っても試合までは滋悟郎がそんな浮かれたことに許可を出すわけがないから、二人は諦めていた。
「それなら言ってくれればよかったのに。帰りに何か買ってきたし用意したし」
「だって思い付きだもん。本当は五輪が終わってもっとゆっくりできるときにお祝いしたいなーって思ったんだけど、きっと日本に帰ったらまた数ヶ月は自由がないだろうし富士子さんが出産したら赤ちゃんい会いに行きたいしって考えたら、きっと冬になるわ」
「そうなったら誕生日にクリスマスか」
「だから今がチャンスなの!」
「こういう形もいいかもな。金メダル獲ってダブルでお祝いだ」
ワインをグラスに注ぐ柔。二人は乾杯をして久しぶりに顔を見て話をした。だがそうもゆっくりしていられない。日付が変わったのがわかると、耕作は立ち上がる。
「タクシー呼ぶよ。選手村に帰らないと」
「今日はここに泊まる」
「え? 滋悟郎さん待ってるだろう?」
「書置きして来たから大丈夫。あたしたち夫婦だしいいじゃない。試合も終わったし、明日は朝一番で戻るから。ねえ、いいでしょ」
「しかしな……」
「お仕事の邪魔にならないようにするから」
淋しそうな顔をする柔。帰国したらまた離れ離れの生活になる。そう思えば、これくらいのことはわがままにも入らないだろう。
「いいよ。今日はお祝いだもんな」
そうは言っても耕作も男だ。愛する妻が同じ部屋にいて、寄り添ってこられたら我慢できるかわからない。そんなことは柔にはどこ吹く風。暑いと上着を脱ぎだしたり、耕作の太ももの上に座ったりと試されているかのような態度をとる。
「や……柔さん。あの、俺……」
「ん?」
「俺……今日は無理っていうか。準備してないっていうか……」
「準備?」
「ああ、こんなことになるとは思ってなくて、その……持ってきてないから」
柔は「ああ!」とわかったような顔をして、ベッドに置いていある自分のバッグを探る。そして小さな四角形のものを取り出す。
「コレのこと?」
「え? 何それ?」
柔は恥ずかしそうに耕作に手渡す。五輪のマークの付いたそれは大人のアイテム。
「何でこんなものが」
「選手村に置いてあるの。バルセロナの時もあったんだけど、あたしはいらないと思って置いて来たんだけど、今回はもらって帰ろうって思って」
「聞いたことあるぞ。選手村に置いてる話。ただの噂話だと思ってた」
「あんまり聞けないものね。でも、だからと言って何であるのかはよくわからないけど」
「外国の選手も多いし、奔放な国の人もいるからそういう人のためかもな」
「で、コレがあればいいの?」
「そうだな。これがあれば君にもっと触れられるよ」
耕作は柔にキスをした。この数時間前まで試合して金メダルを獲った選手とこんなことをすることに少々後ろめたさがある。妻だけど、離れている時間が長くて選手として見ていた。でも、目を潤ませて見つめてくる柔はやっぱり耕作の妻で、愛する人だ。
耕作はカーテンの隙間から射し込む朝日の明るさで目を覚ました。隣にはほとんど裸の状態の柔がいる。やはり試合の後で疲れていたのか、愛し合った後そのまま眠ってしまったのだろう。耕作も同じで、連日の取材と前日のプレスセンターでの睡眠じゃ体が休まらない。ただ、柔が金メダルを獲った興奮状態と久しぶりの夫婦の時間にその間だけは疲れなんか忘れていた。
ベッドを出る耕作はシャワールームへ。汗を流し目を覚ましたところで出ていくと柔がベッドの上でなぜかシーツにくるまって体育座りをして思いつめたような顔をしていた。
「おはよう、どうしたの?」
「おはよう……ございます。シャワーいいですか?」
「うん……」
風のようにすり抜けていく。昨晩の事でも思い出して恥ずかしくなったのだろうか。柔にしては大胆な誘い方をしてきたことはもちろん記憶にある。
10分ほどして出てくると、真っ赤な顔をしていた。
「あの……昨日はなんか、はしたないことを……」
「疲れてて酒がよく回ったんだろうな」
「あれはその……わざとではなく……」
「嬉しかったよ。柔さんもそういう気になってくれるのはとても嬉しい」
「そうですか。でも、恥ずかしいので……期待はしないでください」
早朝の時間帯。まだ外は静かで若干涼しかった。
「こっちこっち」
耕作に連れられ向かうと、黒いバイクがそこにはあった。
「これジェシーのやつ。鍵借りたからこれで送っていくよ」
「いいの?」
「タクシーより安全だと思うけど」
柔はにこにこして耕作の背中にしがみついた。昔は何度かこうやって耕作の後ろに乗せてもらうことがあったが、ちょっと遠慮気味に乗っていた。でも今ならそんな必要はない。
「おいおい、そんなしがみつかなくても」
「だって、嬉しいもの。耕作さんの運転は荒っぽかったけど、あたし結構好きだったの」
「そうか。でも荒っぽかったのは君のせいでもあるぞ」
「わかってますよ」
「じゃあ、行くぞ」
ヘルメットを二つ借りると言ったら、ジェシーは察しがついたみたいでニヤッと笑った。戻ったらきっと冷やかされるのかと思うと、憂鬱で仕方ない。
選手村はさほど遠くないのですぐに着いた。柔は軽やかに降りるとヘルメットを返して見送った。
「気を付けて、残りの取材も頑張って」
「ああ、お疲れ様。日本戻ったらゆっくりしろよ」
「うん」
柔はこっそり選手村の自分の部屋に戻る。滋悟郎はまだいびきをかいて眠っていたが、柔は眠る気にはならず部屋で白鳥の湖のテープを聞いてぼんやりと外を眺めていた。
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YOU AND I
vol.1 親友に会いに
アトランタ五輪が無事に閉会し2ヶ月余り。柔は案の定、テレビやイベントに引っ張りだこで会社での仕事もできず、プライベートな時間もあまりとれない状況だった。
耕作の誕生日には電話をしたし、プレゼントも送ったがお互いに会える予定は立てられない状態だった。その上、柔は9月に入ってからとても体調がすぐれないことが多く、稽古も休みがちだった。このことからもよく取材で「引退説」が出ていたが、滋悟郎がその都度否定してきた。
ちょうどそのころ、富士子から電話が入った。
「久しぶり、猪熊さん。毎日テレビで見てるわよ」
「富士子さん! 久しぶり。体調はどう?」
「すこぶるいいわ。猪熊さんの方がよっぽど心配だわ」
「五輪で疲れたのかしら。何だかぼんやりすることが多くて。体調もすぐれないのよ」
「頑張った人をこれでもかって働かせるこの風潮、本当によくないわね。ねえ、もしよければ静岡に遊びに来ない?」
「でも、ご迷惑にならないかしら? もうすぐ予定日よね?」
「予定日まであと一週間。早く生まれるかもしれないし、フクちゃんと同じかもしれないし。でも、あたしをだしに息抜きに来てもいいのよ。滋悟郎先生もそれなら許可するんじゃないかしら。それとももうスケジュールはいっぱい?」
「そうね。再来週まではなんだかんだと予定があるけど、それ以降なら何とかなると思う。赤ちゃんを見て、温泉でも入ってゆっくりしようと思うわ。ありがとう富士子さん」
そう約束をして1週間後、富士子は予定日である10月10日に第二子の男の子を出産した。このことは、あまり知られることはなくひっそりと仲間内だけで情報が伝わった。
そしてその1週間後、柔は早朝に静岡に向けて出発した。10月下旬の肌寒い風が吹く中、向かう足は軽やかだった。
そしておよそ2時間後には伊東駅に到着した。
「おーい、こっちだ!」
声がする方を見ると、大きな体が車の窓からあふれんばかりの花園が手を振った。
「花園くん! ごめんね、大変な時に迎えに来てもらって」
「いや、構わんさ。それより電車で大騒ぎにならなかったか?」
「大丈夫。結構、変装名人になったから」
「そうか。じゃあ、行くか」
富士子はすでに退院していて、赤ちゃんと実家へ戻ってきている。今日は日曜日だから花園の学校も休みで柔の迎えに来れたのだ。
以前、静岡に来た時には富士子の実家に泊まらせてもらった。その時は、富士子の両親から盛大にもてなしを受けて恐縮しっぱなしだったが、今日は旅館を手配している。生まれたばかりの赤ちゃんに会って、富士子と話したらそこに向かうことにしている。だから少し気が楽だった。
富士子の実家はお茶屋なので、近くを通るといい匂いがする。お茶の葉にはリラックス効果があるのかもしれないと感じながら、お邪魔する。すると富士子が一目散に玄関先までやってきた。
「いらっしゃーい。遠いところをありがとう。一人で大丈夫だった?」
「大丈夫よ。それよりおめでとう富士子さん。男の子だって」
「そうなのよ。大きな子よ。名前は士郎っていうの」
「それはまた勇ましい名前ね」
「ええ、だってこの子には柔道をやって欲しいから、強そうな名前にしたいと思ったの」
「そうだぞ。五輪に出場できるような選手になって欲しいんだ」
「おじいちゃんが喜ぶわ。だってこの前言ってたじゃない。東京五輪はまたあるって。士郎くんが大きくなるころにはそんな未来が本当に来てるかもしれないもの」
「そうだな!!」
花園は鼻息を荒くする。自分が果たせなかった夢を息子に託すのは間違いかもしれないけど、あえて避けるようなことはできない。
「おじいちゃん、幻の東京五輪に出られなくてとても残念がってたし、戦後にあった東京五輪には出られなかったから思い入れが強くて、夢を見てるのよ。そう何度も同じ都市で五輪なんてないわよね」
「ないこともないぞ。ロサンゼルスやパリは二度やってると思うぞ」
「そうなると、東京の二度目もあり得るわね!」
「そうかしら」
「夢は大きく持たないと! 滋悟郎先生の夢を俺たちの子供が果たせたらそれは本望だ!」
「そのためにはしっかり稽古しないとな!」
何だか熱くなってる二人を横目に柔はすやすや眠る士郎を見ていた。ふくふくしたほっぺに小さな手を握り締めていた。
「かわいいわね」
「でしょー。フクちゃんとはまた違った可愛さよね。あたしに似てるのかも」
「そういえばフクちゃんは?」
家の中にいる気配がない。お店の方にいるのだろうか。
「柔道教室に行ってるのよ。あたしも妊娠前には行ってたところなんだけど、子供もできる教室もあってフクちゃんも興味ありそうだったから教えてもらってるの。家に道場があればあたしたちが教えるんだけど……」
「普通は道場なんてないわよ。でも、フクちゃんも柔道好きになってくれるといいんだけど」
「でもね、女の子だからなのかバレエの方にも興味があってね」
「可能性が広がるわね」
花園がお茶とお菓子を持ってきてしばらく近況報告などをした。五輪の事とか富士子たちの事とかいろいろ話した。
「猪熊のところは子供のことはまだ考えてないのか?」
「うちは離れてる時間の方が長いから。それに柔道のこともあるし」
「そうよね。アトランタでは少しは話せた?」
「それはね、時間を作ったから。でも、あたしは試合が終われば後は帰国するだけなんだけど、耕作さんはずっと仕事だから」
「やっと結婚したのに寂しいよなあ」
「まあ……ね」
お茶をすする柔。寂しさは感じているけど、どうしようもないことだとも思ってる。
「そう言えば、本阿弥さやかの引退に日本中が驚いたわよね。猪熊さんにもマスコミが押し寄せたんじゃないかしら?」
「ええ、コメント求められたり、あたしの引退時期についても聞かれたわ。特に決めてはいないけど。それに次の五輪についても目指すのかどうかって聞かれたけど、終わった直後に言われてもまだわかんないし」
「そうよね。最近体調もすぐれないって言ってたし、そこは大丈夫なの?」
「心配かけてごめんね。ただの疲れよ。今日から温泉入ってゆっくり休むわ」
話し始めて1時間ほどたった頃、花園は富薫子を迎えに行くと言って出て行った。
「お茶のおかわり入れるわね」
「あたしも手伝うわ」
二人で台所に立つ。この感じは久しぶりだった。
「ねえ、猪熊さん。体調が悪いって言ってたけど、眠気とか頭痛とかそういうのもあるのかしら?」
「テレビの収録なんかしているととても眠い時があるわ。頭痛も時々あるわね。体も痛いことがあって、おじいちゃんにいろいろしてもらったけど、あまりよくならなかったの」
「そうなの。熱が出るとか風邪のような症状は?」
「微熱が結構続いててそれもあって眠気と頭痛なのかなって」
富士子はうーんと考え込んだ。
「もし可能性がないならはっきり否定してほしいんだけど、結構あたしの時と似てるから言うわ」
「うん、なあに?」
「妊娠してるんじゃないの?」
「え? そんなはず……ないとは言えないかも……」
「アトランタで何かあったのね」
「無差別級が終わった夜に耕作さんの泊ってるホテルにいったのよ。そこで、まあ……」
「したのね」
富士子は顔を近づて言うもんで、白状せざるを得ない。
「……ええ。でもね、生理はあったの」
「少しじゃない? しかもちょっと予定より早くなかった?」
「うん。それこそ疲れやストレスからかなって」
「妊娠の初期症状に似てるわ。一概にそうとは言えないけど、心当たりがないわけじゃない上にその様子だとありえなくもない。それに少しふっくらしたようにも見えるけど」
「そうなの。甘いものが無性に食べたくて、でもだるさもあって。何が何だかわからないの」
「柔道の稽古はどうしてるの?」
「実はそんなにしてないの。おじいちゃんも息抜きが必要って思ってるのかもしれなくて、あんまり言わないし。だから太ったのかもとは思ってたの」
「滋悟郎先生は気づいていたかもしれないわ」
「おじいちゃんが??」
「アトランタで外泊をしたのを知ってるのは先生だけでしょ。同じ部屋だったんだものね。もしかしたらって思っても不思議じゃないわ。だから無理な稽古をしなかったんじゃ……」
思い起こせばそんなきもするけど、それなら柔は滋悟郎が黙っていなんじゃないかとも思った。
「なんにせよ一度、病院に行った方がいいわ。万が一ってこともあるし。松田さんにも相談した方が」
「でも……まだ、決まったわけじゃないし」
「何を言ってるのよ。夫婦でしょ。間違っててもいつかそういうことになるんだし、一緒に考えてもらわないと。猪熊さんだけが悩んだりすることじゃないのよ」
「うん……でもね……ちゃんと赤ちゃんできないようにしてたのよ」
「でも、失敗することはあるわ。絶対なんてことはないもの。実はフクちゃんを妊娠した時もそうだったの。お互い初めてだったからよくわからなくて。もちろん着けてはいたけど実際妊娠したわけだし」
「そうよね。そういうこともあるわよね」
「だからね、そんなことを考えるよりも事実を確認して話し合いよ。ちょうど五輪も終わって時期はいいし、不安に思うならなるべく早く病院行った方がいいと思うわ。不安にさせたのはあたしなんだけど」
「うん……」
士郎が泣き出した。慌てて富士子が見に行く。士郎を抱く富士子を見ていいなと思う。それは富薫子の時にも思った。交代でミルクをあげて泣いたら抱っこして。その時に、耕作が取材に来て富薫子をあやしてくれた。ミルクをあげる柔に耕作が「いつ赤ちゃんが生まれても安心だな」なんて言うからあの時は照れて「相手もいないのに」と答えていた。でも、あの時はもう耕作に思いがあったから、疑似夫婦みたいになって楽しかった思い出がある。
「富士子さん、あたし本当は羨ましかったの。フクちゃんがいてさらに妊娠した富士子さんが。どんどん家族になっていく姿が羨ましくて。あたしたちは結婚しても離れ離れで子供を産むことも二人だけの問題じゃないし。窮屈だなって思ったの」
「隣の芝生は青く見えるってやつよ。あたしは、猪熊さんたちの二人だけの結婚生活にも、結婚前のNYで生活にも憧れた。年上で頼りになるのも羨ましい時もある。だからといって花園くんに不満があるわけじゃないのよ。あたしの実家で同居もしてくれて、教員にもなってくれて結構幸せなの。でも、時々思うの」
富士子はバルセロナ五輪の表彰式の写真と銅メダルを見て思う。
「あの時、フクちゃんがいなかったら勝てなかったかもしれない。でも、いなかったら銀メダル以上を獲れたかもしれない。柔道ももっと続けてもっと強くなれたかもしれない。花園くんも五輪に出て一緒にメダルを獲れたかもしれないって、どうしようもないことをふと考えてしまうことがあるの」
士郎を愛おしそうに見つめる富士子。
「でもね、そんなこと考えるだけ無駄。なるようにしかならない。運命ってことじゃないの。結局、人ってなりたい自分に向かって進むの。時期はめちゃくちゃかもしれないけど、結果は同じよ。二人目が欲しいねって話してたけどずっとできなくて、でもやっぱり産まれた。もしこの子を妊娠してなくても、きっと考えを変えて別の未来を夢見るのよ」
「人生は思い通りに行かないけど、思い通りに向かわせることができるってこと?」
「そうよ! 滋悟郎先生なんてその最たる例よ。自分の夢をかなえることができたもの。猪熊さんがどれだけ嫌がってもね」
「そうね。おじいちゃんの力は凄まじいから、みんな引っ張られるの」
「だから大丈夫。世間が何を言おうとも、滋悟郎先生が何とかしてくれる。守ってくれる。松田さんもそうよ。あたしたちも、みんなそう。応援する気持ちは変わらない。あなたに貰ったものを返させてほしいの」
「貰ったもの?」
「かけがえののないものよ。それは言葉では言えないし、物でも返せない。そういうもの」
優しい笑顔で富士子は柔を見る。柔は富士子を救ってくれた。バレエができなくなって心が空っぽになったときに柔道に出会わせてくれた。夢中にさせてくれた。五輪にも行って一緒に泣いた。
「じゃあ、妊娠してたらいろいろ教えてね」
「もちろんよ! 先輩ママに何でも聞いて!」
柔は士郎を抱っこさせてもらう。小さな体は腕に収まる。暖かくて柔らかい。大きな瞳が柔を見て笑う。それを見て胸が暖かくなった。
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vol.2 おめでた
花園が帰ってくると、5歳になった富薫子が柔道着のまま走ってきた。
「柔お姉ちゃん、こんにちは」
「こんにちは、フクちゃん大きくなったわね」
「うん! 5歳になったの。プレゼントありがとう。すごく嬉しかった」
誕生日の10月10日には毎年何らかのプレゼントを贈っている。最近はアニメのおもちゃが欲しいようで久しぶりにおもちゃ屋さんに行ったりした。
「着替えてからお話ししなさい」
「はーい」
富士子と富薫子が部屋を出ていくと、入れ替わる様に店の方から富士子の母親が顔を出した。
「あ、お邪魔してます」
「猪熊さん、金メダルおめでとう。テレビで興奮しながら見てましたよ」
「ありがとうございます」
「今日は宿をとってるんだって?」
「ええ、温泉にでも入ってゆっくりしようかと」
「たまにはいいよね。五輪の後、ずっと忙しそうだし」
「おかげさまで」
「薫くんが送ってくれるんでしょう?」
「そうっス」
「そんな、いいのよ。タクシー使っていくから」
「遠慮はいらんぞ」
「そうそう、遠慮するような仲じゃないでしょ。あ、お店に戻るわね。ゆっくりしていってね」
富薫子が戻ってきて、士郎にもあいさつしてほっぺをプニプニしてにこっと笑うのを見ると、安心したのか柔の方へやってきた。
「オリンピック見たよ。すごいね。お姉ちゃん小さいのに大きな人を投げて。パパのことも投げたって本当?」
柔は花園の方を見た。そんなこと言ったの? と言わんばかりの形相だ。
「あたしはね嘘だと思うの。だってパパ大きいもの。さすがにお姉ちゃんも無理でしょ」
「そんなことないわよ~。猪熊さん、本当の事教えてあげて。じゃないといつまでも嘘つき呼ばわりなのよ」
富士子が入ってきた。
「フクちゃんが産まれる前のことだけどね」
「ホント! すごい! あ、もしかしてパパ弱かったの?」
「ああ、あの時はとっても弱くてお姉ちゃんや滋悟郎先生に強くしてもらった」
「そうよね。今のパパとっても強いもの」
誇らしげな顔の富薫子は見ていて微笑ましい。
「フクちゃん、ママも強いのよ」
柔がそう言うと、目を輝かせた。
「知ってるよ。少しだけ覚えてるから。ママが試合してるの見たことあるの」
「じゃあ、ずっと覚えていてね。ママが強かったこと」
「うん!!」
それから1時間後、柔と花園が車に乗り込んだ時富士子の父親が窓を叩いた。
「間に合ってよかった。荷物になるけど、お茶持って行って。今年一番の出来のやつ。うちの金メダルだから」
「ありがとうございます。伊東さんのお茶、おいしいので嬉しいです」
「またいつでもおいで。おいしいお茶淹れてあげるよ」
車は走り出す。旅館まで30分ほどの道を走っていると、ラジオから懐かしい歌が聞こえてきた。
「この曲、錦森先輩よね」
「懐かしいな。あの人、一時期全然見なかったのに、また最近見るようになったよな」
「あたし、雑誌で対談したことあるわよ。高校生の時、ファンだったし」
「人気あったなあの頃は。今は、武蔵野高校の卒業生で一番の有名人は猪熊だけどな」
「そんなことないわよ。ねえ、武蔵山高校の柔道部のみんなとは連絡とってる?」
「おお、頻繁にはとってないけど年賀状は出してるぞ」
「みんなどうしてるかな」
「畑山は自動車ディーラーで河野は商社に、富岡は家の酒屋を継いで安井は不動産屋で頑張ってるよ」
「それぞれ頑張ってるのね。須藤くんは?」
「須藤は高校卒業してからずっと寿司屋で修行してる」
「えー意外だわ。お寿司屋さんなんてとても大変なところじゃない。須藤くんって短気なところあるから大丈夫かしら」
「あいつなりに頑張ってるんだろうな。いつか行ってやってくれよ。喜ぶと思うぞ」
「ええ。お店の名前と場所を教えてくれる?」
花園が教えてくれた店名と住所をメモ帳に書いた。赤髪リーゼントのヤンキーだった須藤が柔道部に入って更生し、今は寿司職人。何だか信じられない気持ちだ。
旅館に到着すると玄関先まで車で乗り付け降りた。花園にお礼を言うと仲居が出迎えに来てチェックインした。もちろん名前を事前に言っていたので柔が来ることは知られていたが、大騒ぎをするでもなく普通の客と変わらぬ対応をしてくれた。
「先ほどお車を運転していたのは、花園先生でしょうか?」
部屋でお茶を淹れながら仲居が尋ねた。
「そうです。ご存じですか?」
「息子の部活の先生だったんです。花園先生になってから随分熱心に部活に取り組むようになって去年、中学の柔道大会の静岡代表になったんですよ」
「それはすごいですね」
「結果は、一回戦敗退でしたが子供たちはとてもいい顔をしていました」
「今は高校生ですか?」
「ええ、おかげさまで柔道で推薦を受けて入学しまして毎日頑張っているみたいです」
お茶を出すと部屋を出て行った。食事は午後7時。それまでは予定もないのでゆっくりできる。温泉に入って疲れを取るとぼんやりとテレビを眺めていた。誰の目も気にせず、誰とも話さず、一人の時間を過ごすことがとても癒しとなる。それだけ目まぐるしく過ぎたこの一年。
「なんだか申し訳ないな」
耕作のことを考えると、自分だけ温泉に行ってることが申し訳なく思う。でも、耕作なら「ゆっくりしておいで」と言ってくれるだろう。
海が近い伊東市では海の幸の料理が沢山出てきた。お刺身に天ぷら、煮つけはどれも絶品であっという間になくなってしまった。妊娠の可能性があったのでお酒は飲まずにいたので、食後にもう一回温泉に入って体を温めた後眠りについた。
温泉旅館で体を温め、心を癒した柔は午前中にチェックアウトをして東京に戻った。よく眠れたお陰で、電車では風景を楽しむ余裕さえ生まれた。
東京に戻ってくると、少しだけ変装をして電車に乗ってとある場所へ向かう。数年前に行ったことがある場所。あの時はまさか自分がここに事になるとは思いもよらなかった。
『植田産婦人科』は富士子が最初に行った産婦人科だ。その時は柔も同行していた。
診療時間終了間際のため、あまり人はいない。初診のため書類を記入すると、受付が少し慌てているのが見えた。柔は「どうか大騒ぎしないで」と祈っていた。
最後の患者が出ていくと柔は名前を呼ばれて診察室に入る。優しそうな女医が丁寧に話を聞き、検査をした。
「おめでとうございます。妊娠4ヶ月です」
医師のその言葉に柔は言葉が出ない。嬉しくて涙で瞳が潤む。
「それからもう一つ」
「もう一つって?」
「双子を妊娠されています」
想像もしていなかった。喜びも不安も2倍になった気がした。
「母子手帳、もらってきてくださいね」
「はい!」
◇…*…★…*…◇
NY深夜。耕作は夢の中にいた。五輪が終わっても忙しい日が続く。アメリカは一年中、スポーツで賑わっている。それを追いかけて取材して文章にする。とても疲れるがやりがいがある仕事だ。
だからへとへとになってベッドに入ればすぐに眠りにつく。でも今日は眠りが浅い。
夢にはアトランタ五輪女子柔道無差別級決勝戦の様子がありありと蘇り、授賞式の様子までもが見えていた。柔は満面の笑顔を世界に見せていた。それが耕作はとても誇らしく感じていた。
その夜のことは久々に妻として柔に触れられたことは至福の時間だった。でも、夢のような時間は本当に夢だったのか、現実だったのか未だにわからないでいた。
電話のベルが鳴る。ベッドから起き上がって受話器を取る。
「ハロー……」
「耕作さん!」
寝起きの突然の大声にいささか心臓が止まりそうになる。
「ど……どうしたんだい?」
「ごめんなさい。そっちは夜中よね。でも、どうしても報告したくて」
「どうしたの?」
「あのね……あたし、子供ができたの」
「ふーん……ん? なんだって?」
「耕作さんとの子供ができたの。病院にも行って確認してきたわ」
「本当かい?」
「本当よ。間違いないわ」
「や……やったー!!」
信じられないという思いがありながらも、心当たりがないわけでもないので耕作は純粋に喜んだ。
「喜んでくれるの?」
「当たり前だろう。喜ばない理由なんてどこにもないじゃないか」
「だって柔道できなくなるわ」
「そりゃ記者としては残念だけど、俺は柔さんの夫だから子供ができてうれしいに決まってる。柔道に関しては休むか引退か考えなきゃいけないな。柔さんはどうしたいと思ってるの?」
「あたしはまだそこまで考えてなくて。だってね、赤ちゃん双子なのよ」
「双子! そりゃ大変だ。出産予定日は?」
「4月18日よ」
「そうかー俺も父親になるんだな」
34歳の耕作は、年齢的にはいい頃だ。
「公表の時期とかどうしようか?」
「そのことなんだけど、ちょっと相談したくて……」
「なにか考えがあるんだね」
「うん、でもそれはまた今度にするわ。耕作さん、疲れてるでしょ」
「何言ってんだよ。目が覚めたよ。うちの親にも言っておきたいし、とりあえず聞かせてよ」
「あのね……」
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vol.3 武蔵山高校柔道部
東京もクリスマスを過ぎると、少しだけ落ち着きを取り戻したようだ。街中のクリスマスソングは消え去り、イルミネーションだけが夜を彩る。
「クリスマスに来れなくてごめんな」
「でも、一生懸命仕事終わらせて来てくれたんでしょ」
「まあな」
「それだけで、嬉しいわ」
耕作の腕をぎゅっと抱きしめる柔。東京の街中でこんなに密着したことがないから、なんだかそわそわする。
「挨拶もそこそこで出てきちゃったけどよかったのか?」
「いいの。どうせおじいちゃん耕作さん捕まえてお酒飲む気だったから、あのままいたら家を出れなかったわ」
「そうか、明日付き合えばいいか」
「ほどほどにしてね」
「ところで、行きたい店ってどこなんだ?」
「確かこの辺に……」
近くまではタクシーで来たのだが、渋滞にはまったので降りて歩いている。凍えるような寒さだが、二人は寄り添って歩いた。
「あ、ここよ。『浜寿司』って書いてある」
「寿司屋? いつものところじゃないよな」
「あそこは近所のおじいちゃん行きつけだからね。ここはね、懐かしい人がいるところなのよ」
店の引き戸をガラガラと音を立てて開く。暖かい空気が流れてきて、店内から威勢のいい声がした。
「いらっしゃいませ!」
数席のカウンターとテーブル席が三つの小さな店だ。カウンターの中の店員は60代くらいのふくよかな男性で、その横にもう一人30代くらいの男性がいた。
「あの、予約してた松田ですけど」
柔がそう言うと、耕作は首をかしげた。
「お待ちしてました。こちらへどうぞ」
コートを脱いで鴨居掛けのハンガーにかけると、二人はカウンター席に座る。客はいたが満席というわけではなかった。
「おまかせでよかったでしょうか?」
大将と思われるふくよかな男性が笑顔でそう言った。柔も耕作もこういう店に来慣れていないので緊張した様子で「はい」とだけ言った。
耕作にはビールを注文してすぐに突き出しも出てきた。そしていいタイミングで寿司が出てきた頃、耕作は柔に訊いた。
「懐かしい人って誰なんだい?」
柔も店内を見まわしたがそれらしき人がいないので、今日は休みだったのかもしれないと思った。こんなことなら「猪熊」で予約しておけばよかったと。でも一応店の人に訊いてみた。
「あの、すみません。こちらに須藤って人がいると聞いたんですけど」
30代くらいの店員に訊いたら、そばにいた大将も振り返った。
「ええ、いますよ」
「今日はお休みですか?」
「いえ、今日は裏の方で仕事してるんです」
「そうなんですね。普段もお店の方には出られないんですか?」
「そんなことはありませんよ。今日は、人手が足らなくて裏に行ってもらってて、普段は店に出ています。お知り合いですか?」
「ええ」
「呼んできましょうか?」
「お願いします」
「懐かしい人って須藤か。彼、ここで修行してたのか」
「花園くんが教えてくれたの。それで様子見てみようと思って」
裏の方で何か話声が聞こえて、戻ってきた店員の後ろに昔と印象がまるで違う須藤がいた。
「須藤くん……?」
「あ、久しぶりス。柔ちゃんと松田さん」
「なんか雰囲気変わったわね」
柔の記憶の須藤は赤い髪のリーゼントで生意気でスケベで明るいヤンキーだった。柔道部に入って更生した時は本当に嬉しかった。そんな彼が今では黒髪で角刈りのいかにも職人という風体になっていた。
「そっちこそ、結婚なんかしちゃって。ズルいスよ、松田さん」
「いや、そんなこと言われても」
「それに来るなら言ってくれればよかったのに」
「驚かせようと思って。ごめん、迷惑だった?」
「そんなことないスよ」
笑顔でいるがどこか寂しそうにも見える。
「須藤、お前に任せてもいいか?」
大将がそう言うと、須藤の顔が明るくなる。
「いいスか?」
「ああ、知り合いなんだろう。お前がしっかりやってるところ、見せてやれ」
「はい!」
須藤は以前のような明るい表情で寿司を握り始めた。
「松田さんは、今もアメリカなんスか?」
「そうだよ。さっき帰ってきた。だから本当に、寿司ってうまいなって思うよ。向こうじゃ食べれないからね」
「ハンバーガーばっかりスか?」
「まあね。とにかくさっぱりしたものが少ないんだよ。毎日肉とか無理だろう」
「自炊、したらいいのよ」
柔の突っ込みに耕作は諦め顔をする。
「できれば苦労しないよ」
「柔ちゃんがアメリカ行けばいいんじゃないスか?」
「簡単に言うなよ。わかるだろう」
「そうスけど。寂しくないスか。結婚しても離れ離れなんて」
「そんなこと考えてくれるようになったの。大人になったわね」
「まあ、それなりに」
「須藤くんは、いい人はいないの?」
「俺は柔ちゃん一筋だったんで、そんな人いないスよ」
はにかむ須藤に横やりが入る。
「嘘言うなよ。彼女いるだろう」
「何で知ってるんスか。マサオ兄さん」
「みんな知ってるよ」
大将もニヤッと笑っていた。
「いるんじゃない。結婚しないの?」
「まだ修行中なんでそんなの無理スよ」
「厳しい世界なのね」
「柔ちゃんも柔道小さい時からやってて今があるわけじゃないスか。本読みましたよ」
その言葉に反応したのは耕作だった。
「お! ありがとう。サインでもしようか?」
「いいス。柔ちゃんの方が欲しいス」
「あ、そう」
「あたしの場合は、強制的にやらされたみたいなものだから。自分で決めて進んだわけじゃないのよ。だから自分でお寿司屋さんに修行に入って頑張ってるのは本当に偉いわ」
耕作もうなずいている。
「柔道部の他のみんなとは会ってるの?」
「いや、全然会ってないス。柔ちゃんは?」
「あたしも全然。花園くんにはこの前会ったけど」
「静岡に引っ越したって聞いたスけど」
「そうなの。向こうで学校の先生してるわ」
「それっぽいスね。あ、ちょっといいスか」
須藤がそう言って裏の方へ行ってしまう。
「あいつ、最近元気なかったんですよ」
マスオがそう言うと、ちらっと裏の方を見た。
「寿司職人って修行期間長くて俺もまだ修行中なんですよ。そう思うと、彼女との将来とかを不安に思うのかもしれないですね」
「それであんな感じだったんですね」
「お待たせしましたス」
おいしい寿司はこの後も堪能しいよいよ帰る時間となった。
「ご馳走様。とてもおいしかったわ」
「頑張れよ。努力すれば必ず報われるものだよ」
「ありがとうございます」
店を出るとまた大通りまで歩きだす。寒さは増していたが体は暖かい。
歩道を走ってくる人がいる。暗い道で柔にぶつかったら危ないので手を繋いで、隅に寄った。しかしその人影は次第に増えて気味悪さも感じた。
数人の足音が目の前で止まった。ちょうど街灯の下で彼らは息を切らせていた。
「間に……あった」
「猪熊せん……ぱい」
「もしかして、柔道部のみんな?」
「はい。須藤から連絡もらって来たんです」
「須藤くんが……」
粋な心遣いに柔はますます須藤の成長を感じた。
「花園と富士子さんの結婚式以来だから5年ぶりくらいか」
「そうです。あの時、松田さんに結婚はしないんすかって聞いたのに、答えてくれなかったのってこういう事だったんですね」
河野が柔の方を見る。
「いや、あの頃は何にもなかったよ。それにしてもよくみんな来れたな」
「みんなで忘年会した後に、俺の家で飲みなおしてたんですよ。この近くなんで須藤に連絡もらって走って来ました」
安井がピースサインしながら言うと、柔は笑顔になる。
「ありがとう。嬉しいわ」
武蔵山高校で弱小柔道部と一緒に柔道したことが柔にとって、柔道を楽しいと思えた最初の記憶かもしれない。幼い頃は遊び感覚でやっていたが、父が失踪してからは滋悟郎の言われるがまま柔道をしていた。。楽しいとか楽しくないじゃない。ただ、日課としてやっていただけなのだ。
「花園くんから聞いたわ。みんな頑張ってるって」
「でも、柔道はやめてしまいました」
畑山が申し訳なさそうに言った。
「そんなの気にしないでよ。みんなそれぞれ人生があるんだから。ただ、柔道をやってたことは忘れないでくれたら嬉しいわ」
「もちろんです。一生の宝物です」
まだ息が切れている太めの富岡は持っていた手提げを差し出す。
「これうちから持ってきた酒です。もしよかったら正月に飲んでください」
「いいの? これからみんなで飲むんじゃないの?」
「いいんですよ。結婚お祝いです」
「ありがとう。富岡くんの家って酒屋だったのね」
「そうなんです。何かご入用の時はぜひ」
「お前ここで商売するなよ」
「たまたまだよ。でも、会えてよかったです」
泣きそうになる男4人。それに柔はうろたえる。
「実家にいるんだから会いにいつでも来てくれたらよかったのに」
「迷惑かなって思って」
「そんなことないわ」
白く息が立ち上る。妊婦の柔にここの寒さは堪える。
「柔ちゃん!」
須藤の声がした。息を切らせて走ってきた。
「ありがとう、柔ちゃん。俺、柔ちゃんに会えて本当によかった。俺、修行辛くてやめようと思ってた時に、バルセロナの無差別級見て勇気もらったんだ。柔ちゃんも頑張ってるんだから俺もまだ頑張れるって」
「俺もそうさ。不景気の就職難で将来に絶望してたけど、猪熊先輩の試合見て頑張ろうって思ったんだ」
「僕もそうです。夢とか希望とか諦めないといけないのかなって思ってたんですけど、諦めちゃいけないんだって思ったんです。試合見て感じました」
安井と河野が目を潤ませながら言った。
「僕もさ、家業継いで楽そうってよく言われるんですけど、親から継いだものを存続して繋げていくって結構きつくて。できて当たり前みたいな感じがプレッシャーになるんですよ。猪熊先輩もきっと辛かったんだろうなって思います」
「それに先輩は仕事までしてたじゃないですか。俺なんか、仕事がうまくいかなくて悔しくて思い出したんです。柔道部でのこと。俺たちは弱小で諦めてたから負けたんだって。でも、先輩に教えてもらって諦めずに稽古を重ねたから勝てたんだって。だから俺、諦めずに仕事、頑張ろうって思えたんです」
富岡と畑山はもう号泣してた。見ると他の3人も号泣してた。
「みんな、いろいろあったのね」
「乗り越えられたのは、猪熊先輩と花園さんに鍛えてもらったからです」
「花園くんも喜ぶわ」
柔も泣けてきた。
「あたしもみんながいたから柔道を楽しいって思えたの。それまでは全然楽しくなかったし、むしろ嫌だったわ。でも、みんなで稽古して試合に勝っていくことが本当に嬉しかった。あたしの方こそ、力を貰ったわ。ありがとう」
彼らとの出会いから柔の柔道家との人生が始まった。いがぐり頭の高校生だった彼らはすっかり大人になって、もう10年も前のことを覚えていてくれるだけじゃなく力になったと言ってくれる。柔は本当に嬉しくて、幸せで涙が止まらない。
「松田さん」
「なんだい?」
「俺たち松田さんにも感謝してて……」
「俺に? なんで?」
「先輩を見つけてくれたし、俺たちの試合の時も協力してくれたじゃないですか。アドバイス入りのカセットテープ。あの後、みんなでダビングして今でも持ってるんですよ」
「そんなことしてたのか」
「それに、毎朝の新聞は本当に元気を貰うんです。松田さんの記事を読んで僕たち仕事始めるんです。先輩の記事じゃなくても、松田さんの書く記事には勢いとエネルギーがあって、助かってます!」
「ありがとう。まさか俺にまでそんなこと言ってくれるなんて思ってなかったよ」
「松田さんって自己評価低そうですよね」
「うるせーよ。これでも必死なんだ」
その場のみんなが笑う。
「じゃあ、そろそろ行こうか。冷えてきた」
「ええ、走ってきてくれてありがとう。富田くん、畑山くん、河野くん、安井くん、須藤くん。またいつか花園くんも交えてお話ししようね」
二人は大通りに出てタクシーを拾う。5人は見送って少し寂しくなる。
「須藤、ありがとな」
「俺だけ会ったら恨まれると思って」
「そうだな。ってお前店はいいのか?」
「いけね。戻りまス」
走って戻って行く背中を見ていると、安井がポツリと言った。
「案外、ちゃんとやってるみたいだな」
「俺たちも、愚痴ばっかり言ってないで頑張りますか~」
「おおー!」
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vol.4 出産計画!
年が明けて1997年になった。柔は年末年始にも沢山のテレビの仕事のオファーがあったが、すべて断っていた。そのことで様々な憶測がなされたが、一番多かったのが「引退」と「活動休止」の二つだ。そのことでも電話や家の前で取材を受けることがあったが、すべて沈黙を貫いていた。
1月3日になると、花園家族が年始の挨拶にやってきた。耕作は予行練習と言わんばかりに士郎を抱っこしていた。
「慣れたもんっスね」
花園の膝の上には富薫子が座っていた。まだ慣れないようでおとなしくしている。
「フクちゃんの時に結構抱っこしたからな。でもまだなんか小さくて怖いや。子育てに関しては花園の方が先輩だからな、なんか不思議だ」
「なんでも聞いてください。お風呂もおしめも食事も遊びも何でもしましたよ。お腹が大きい時は掃除、洗濯、買い物、ごみ捨てなんて当たり前っス」
耕作は言葉がない。苦手なことばかりだ。
「いいのよ、耕作さんにそんなことしてもらおうとは思ってないわ」
「いや、しかし……」
「そもそもできないでしょ」
「そんなことは……」
頼りない耕作に富士子は思わず言ってしまう。
「そんなんで大丈夫なの? 猪熊さんもNYに行って」
「な、なんとかなるわ」
柔は温泉旅館でもし妊娠していたらどうしようかずっと考えていた。このまま日本で出産したらきっと玉緒がいてサポートしてくれるから楽だと思う。でも、耕作とは離れ離れになる。赤ちゃんが生まれてからの飛行機はきっと何ヶ月も無理だし、耕作だってそんな頻繁には日本に帰って来れない。そうなると早めに渡米して向こうで出産準備をして出産した方がいい。アメリカでの出産だと、金銭面もそうだがサポート体制や普段の生活に困りそうだと思った。でも、家族が離れ離れになるのは避けたかったのだ。
柔の切実な思いを聞いた耕作は、考えてみると電話を切って。その一週間後に時期や病院、サポート体制などの提案をして話し合いの結果、年明けには二人で渡米して準備をして、出産予定日が近くなったら玉緒に来てもらうということになった。
「お母さんには苦労かけちゃうけど、日本で産むといろいろうるさいかもしれないから」
「苦労だなんて思わないわ。だって初孫だもの。楽しみで仕方ないわ。アメリカには虎滋郎さんもいるし、楽しみなくらい」
「まだアメリカでコーチを?」
「そうなのよ。アリシアさんを鍛えてるみたいよ。孫が産まれたらいきなり鍛え始めそうで怖いわね」
「無理強いは嫌だけど、環境さえ整っていればさせてみるのもいいかもしれないわね」
「なーにをのんきなことを言ってるんぢゃ。お前の時と同じように、鍛えるに決まっておろう」
「決まってなんでいません」
「せっかく双子が生まれるんぢゃ。お互いに稽古もできる、環境は整ったではないか。のう、松ちゃん、おぬしは賛成ぢゃろう?」
耕作は士郎を抱きながら、あいまいな笑顔をしていた。
「いや、俺は柔道のことはわかりませんから」
「わからんわけなかろう。おぬしもすっかり柔の尻に敷かれておるようぢゃのう」
「そんなことないもん! おじいちゃんはデリカシーがないのよ。あたしたちの子供なんだからあたしたちが決めるわ」
「おー好きにせい」
「そうします!」
滋悟郎は出て行ってしまった。柔がNYで仕事をしていた時は一緒に渡米したが、暮らしと食があまり合わなかったようで、柔が柔道の稽古をしない内はNYには行かないと言い張ったのだ。だから玉緒がギリギリまで日本にいることになったのだ。滋悟郎も手がかかるから。
「おじいちゃんも寂しいのよ。柔がNYへ行ったら道場で一人でしょ。だから未来をちょっと夢見ちゃったのよ」
「わかるけど。ここで甘やかすと、してやったり見たいな顔するじゃない」
「それもそうね。柔道するにしてもまだまだ先の話よ。まずは出産に備えなきゃ」
「そうよ猪熊さん。万全の体制を整えなくちゃ。それでいつ、NYへ行くの?」
「明後日の夜には空の上よ」
「でも大丈夫なの? 飛行機に乗っても」
「まあ、大丈夫じゃないかなって。別に制限があるわけじゃないし、先生にも相談したし。それに今回はちょっとラッキーだったから」
「どういうこと?」
「レオナルド社長がちょうど来日してて、ついでに帰りに乗せてくれるっていうのよ」
「自家用ジェットに?」
「うん!」
「それなら安心ね。ゆとりもありそうだし」
荷物も運ばせてもらえるということで、耕作のバイクをいよいよアメリカに持っていくことになった。鴨田に預けていたから不安はあったが、久しぶりにキーを回すと無事にエンジンはかかった。
「荷造りはもうしたの?」
「前にちょっとはNYに運んでたからさほどないのよ。本当に必要な物だけもっていかないと、部屋がパンクしちゃうもの」
「そうよね、あたしも大変だもの」
「富士子さんも?」
「実はね、花園くんが名古屋の私立中から柔道のコーチ兼教員になることが決まってね」
「すごいじゃない!」
「そうなのよ。悩んでたんだけど猪熊さんもNYに行くっていうし、あたしたちも新しいところで頑張ってみようかって話し合って決めたの」
花園は大学時代の正直杯の成績や教員後の弱小柔道部の再建など評価されたために引き抜きされたようだ。今の学校の生徒を置いて行くことに随分悩んだようだが、公立の学校にいてもいずれは転勤があるわけなのでそこは割り切るしかないと腹をくくったようだ。
「じゃあ、静岡の生徒さんとはお別れになっちゃうのね」
「ええ。でも、公立の教師って数年で転勤もあり得るし、だったら同じ学校にずっといられる私立の方がいいかもしれないって思ったのよ」
「それもそうかもね。でも、名古屋って遠いよ」
「それを言うならNYのほうがずっと遠いわ」
「海の向こうだものね」
遠くを見つめる柔。富士子とは沢山思い出がある。変わった人と思ったこともあったけど、優しくて情に厚くて柔をいつも励ましてくれた。
「大丈夫よ、猪熊さん」
「え?」
「子供が産まれたら淋しさなんて感じる暇なんてないもの。その子の未来を考えるだけでウキウキしちゃう。それが二人分でしょ。きっと毎日大変よ」
「そうよね……」
「大変だから、頼るのよ。一人で抱え込んではダメよ。あなたの周りには助けてくれる人が沢山いるからきっと大丈夫」
「富士子さん……」
「あたしももちろん力になるわ」
「頼りにしてるわ。先輩ママ」
「まかせなさい」
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vol.5 ページをめくると
花園一家が帰った後、柔は自室で荷物の最終確認をしていた。お腹も少しだけ大きくなってきたので、今までのように動けないのはもどかしい。それでも何とかあらかたまとめ終えて、ベッドに座ってアルバムを見ていた。
するとドアのノックが聞こえた。
「俺だけど、入ってもいい?」
「どうぞ」
耕作がそろりと入ってきた。
「どうしたの?」
「いや、俺今まで柔さんの部屋に入ったことないなって思って」
「そう言えばそうかも。でも、もうあんまり物がないけど」
ガランとした部屋にはベッドと机、タンスなどの大型家具があるだけ。
「荷造りは大体終わったようだけど、何してたの?」
「これ見てたの」
柔は1冊のアルバムを見せた。写真屋で貰う簡単なアルバムだった。
「アルバム? 見ていい?」
「うん。全然まとめてなくて乱雑なんだけど」
NYに行ってからゆっくり写真とコメントを入れてまとめて行こうと思っている。バルセロナ五輪後からの柔と耕作の記録だ。
最初のページには自由の女神と柔、耕作の姿があった。恋人同士になって初めてNYでデートをした。そして着物姿の柔。
「これって……」
「紅白の審査員やったときに着させてもらったの。鴨田さんが取材で来ててついでに撮ってもらったのよ。素敵な着物でしょ」
「とても綺麗だよ」
「着物が? あたしが?」
「そりゃ柔さんが」
聞いておきながら欲しい答えが返ってくると照れてしまう。言った耕作も照れている。
93年全日本で優勝した時の写真や初の実業団での試合の写真が続き、なぜかテレシコワとも写真を撮っていた。
「邦子さんに撮ってもらったのよ。この後に、東京戻ってからおじいちゃんと3人であんみつ食べに行ったのよ。テレシコワさんって結構甘いもの好きみたいで、おしるこ食べたときも気に入ったみたいだし」
「おしるこ? それっていつの事?」
「92年の全日本の前かしら。ソビエトが崩壊して五輪に出られなくなったから、試合して欲しいって会社に訪ねてきたの」
「それで、どうしたんだい?」
ちょっと興奮気味の耕作に柔はあきれ顔。
「試合したわよ。でも、テレシコワさんはそれまでトレーニングをあまりしてない状態だったんで、あたしも本気を出せなかったの。それでおじいちゃんに発破かけられて、五輪に向けてトレーニングする決意をしたみたいで就職を蹴って帰ったのよ」
「それが真相かー!! せっかく日本で就職できたのになんで帰国したんだろうと思ったんだよ。二人とも内緒にしてたんだな」
「だって、テレシコワさんのことなんで勝手に話すわけにはいかないじゃない」
「それもそうか。あ、これはカナダに行ったときのだな」
湖でのツーショットやジョディとルネとの写真もある。ジョディの引退会見後なのだが、マスコミに追われることもなく穏やかに過ごせた。
「あ! これ!」
耕作は声を荒げる。というのも、写真には着物姿の柔とレオナルドが写っていたからだ。
「例のお見合いの写真だろう! 随分、嬉しそうに写ってるけど」
「やきもちやいてるの?」
「そんなんじゃ……」
「そりゃ、仕事とはいえ綺麗なお着物着せてもらってあのレオナルドさんと会えたんだもの、嬉しいに決まってるじゃない」
「そんなもんかね」
「耕作さんも憧れの人に出会ったらそうなるわ」
「憧れの人ね……」
「聞いたことないけど、女優さんとかアイドルとか興味ないの?」
「ないなー。俺のスターはみんなスポーツ選手だから」
「ふーん」
「なんだよ、信じられないってっか?」
「部屋にあったあの雑誌とかビデオは何だったのかなって」
「あの雑誌? ……あ!」
思い当たるのは日本にいたときに部屋に置いてあった、沢山の成人雑誌。柔は高校生の時と社会人になってからの二度、耕作の部屋を片付けていてそれを見ている。
「あれは鴨田が持ってくるんだよ。断じて俺のじゃない。その証拠にNYにはなかっただろう?」
「そうだけど、あれはファンだから持ってたわけじゃないのね」
「まあ、なんというか違うな」
「じゃあ、男の人は何のためにあんなもの持ってるの?」
「いや、それは……」
子供のような瞳でなんてことを聞くのだろうかとうろたえていると、柔は急に笑い出した。
「からかったのか?」
「ごめんなさい。でもね、あたしあの時は本当にわからなかったのよ」
「高校生の時?」
「うん。だってもしそれをわかっていたら、アパートに泊まると思う?」
「泊まらないな」
「でしょ。高校生だけどかなり世間知らずなところがあったから。巌流寺高校と試合したときも言いようのない気持ち悪さはあったけど、それが何かはわからなかったし」
「思い起こすとそんな感じだな。最初にひったくり犯を巴投げした時も、パンツ丸見えだったしな。結構無防備だなって思ってた。まあ、俺が紳士だったからよかったけど、そうじゃない男だったらどうなってたか」
「守っていただいてありがとうございます」
柔は自覚はないだろうが、お嬢様で箱入り娘だった。思春期ごろには母親は不在なことが多く、祖父は柔道と生活態度以外に口は出さない。恋愛に関しては目を光らせていたが、柔が男女のことについて夢を見ているのならそのままでよいと考えていたのではないか。祖父が教えるようなことではないし。
「俺が骨折した時にも片付けてもらったよな」
「あの時はさすがにわかってましたよ。短大に入ってちょっと大人の世界に触れて……」
「何それ、聞いたことないけど」
「え? それはその……富士子さんとねサークルでディスコに行ったのよ。その時に一緒に行った先輩がお尻を触って来て」
「なんだって!」
「でもね、あたしとっさに一本背負いしちゃって」
「は?」
「逃げるように出て行ったの。もう、本当に恥ずかしかった」
「気の毒な奴がいたもんだな」
「それから、マリリンの仕事の事とか会社の同僚の話とか聞いて知っていったのよ。だから耕作さんん部屋にあった雑誌やビデオの意味もわかってたけど仕方ないのかなって思ってた」
「ご理解いただいて感謝します」
「いいえ。できれば目につかないところにおいてくれると、助かります」
「だからNYの部屋にはないよ」
「本当に?」
「本当だ」
アルバムはアリシアとの試合の写真と続き、富士子と茶畑での一枚もあった。
「静岡に行ったときに撮ったのよ。お茶摘み体験もさせてもらって……」
「学校の先生、投げ飛ばしたんだろう?」
「そうなんだけど……なんで知ってるの?」
「花園から聞いたよ。富士子さんや花園のために戦って。子供たちにもいい影響を与えたって花園が興奮気味に教えてくれたよ」
「もー恥ずかしいから黙ってたのに」
「いいじゃないか。俺はそういう柔さんもいいと思うけど」
「またそんなこと言って。耕作さん、アメリカに行って性格変わったんじゃないの?」
「悪い方へ?」
「ううん。いいと思う」
柔は立ち上がりクローゼットを開ける。耕作は残りのアルバムをめくり、結婚式やアトランタ五輪の写真を見て微笑んだ。そして最後のページに挟まっていた写真がひらりと落ち、拾い上げると写し出されていたものを見て驚いた。
「な!」
「ねえ、これ覚えてる?」
明日の投稿で本編最終話となります。
エピローグもありますので、終了まであと2話ということになります。
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vol.6 柔の願い
「ねえ、これ覚えてる?」
耕作は見ていた写真をとっさに隠してしまう。
「ん? なに?」
「これよ」
白いフリルの付いたブラウスと赤いロングスカートを見せた。
「ああーもちろん。葉山で買った服だろう?」
「耕作さんが柔道着のままバイクで連れ去るから、あたし恥ずかしくてわがまま言って買ってもらったのよね」
「そうだったなー」
給料日前の苦しい時期だったが、無理矢理連れ出したしとても似合っていたのでプレゼントした。
「あの時はさやかが死に物狂いでトレーニングしているのを見て、柔さんにも本気になって欲しかったんだけどなんか悲しませちゃったよな」
「……わかってたの?」
「あの後な。俺の言うことも聞こえてなくて無言でバスに乗って帰っただろう。それで気付いた」
柔は俯く。あの時は風祭に淡い恋心を抱いていた。大人で紳士で優しい人。理想の男性だった。そんな人がさやかと二人きり、夕日の浜辺でトレーニングをしていた。二人とも柔道着でさやかは鉄下駄に腰にロープで大型タイヤまで付けていたのに、まるで絵画のように美しく入り込む隙間もないほど完璧に見えた。
「今更隠しても仕方ないから言うけど、あの後風祭さんにデートに誘われて言われたの『柔道をやってる君は美しい』って。それでね、全日本に出ようって思ったの」
「俺に言われても全然出る気なかったもんな」
「だってそれはあたしのことを見てなかったから……」
「確かに、俺は柔さんを柔道家として見ていた。一人の取材対象として日本スポーツ界の救世主だと思って追いかけてた」
「わかってたわ」
「この時まではな」
「え?」
「葉山で君が風祭に気があることを知ったよ。それから俺は無自覚だけど君を女の子として見るようになったんだと思う。でも、高校生だし俺の個人的な感情は邪魔になると思ったから気づかないふりというか、意識しないようにしていたんだ」
「そうだったの……」
風祭に柔を説得するように頼んだのは耕作だ。二人のデート現場を見て心がざわついた。風祭がキスしそうになった時には思わず飛び出していた。寸前で柔が風祭から離れたからよかったが、あのままキスしている現場を見たらどうなっていただろうか。
「風祭さんにああ言われても何だか信用できなかったんだけど、お母さんがね柔道をしているお父さんは輝いていたって言っててあたしは確かめたくなったの。本当にそうなのかなって」
柔道をやってる自分を客観的に見たこともなければ、考え方もいつも悪い方だった。格闘技なんてやってるなんて知られたくないし、可愛くないと。でも、もし本当に輝いているのなら悪くないと思った。
「それで結果はどうだったの?」
柔はにこっと笑う。
「そんなことすっかり忘れてたの」
「え?」
「だってあの時は柔道部の試合のことで頭がいっぱいで、自分の事なんかどうでもよかったの。ブレーキの利かないバイクに乗せされたり、花園くんがピンチだったりして」
「そっか……」
「でもね、随分後であの時の答えがわかったの」
柔は山積みになったスクラップブックから1冊取るとページをめくった。
「これって……」
「そう、あの日の翌日の記事。日刊エヴリーだけがあたしの涙の写真だった。これはあたしが試合に勝って流した涙じゃないけど、みんなで柔道を頑張って勝利して出てきた涙。柔道が繋いだ絆みたいなものかなって思ったの。耕作さんにはあの時のあたし、どう見えた?」
「とても綺麗だったよ。君自身が柔道をしている時よりも、優しい表情で柔道にも前向きだった。だから思わず写真を撮ったんだ」
「それが答えなのよ。耕作さんの記事やこの写真にはあたしへの思いが溢れてる。輝いてるかどうかはわからないけど、あたしを見てくれる人は確かにいてその人はあたしにとってとても大切な人だって気づいたの」
耕作は照れ臭そうにしているが、その思いを受け取ってくれたのならこれほど嬉しいことはない。
「そのことにに気づいたのが91年のクリスマス」
「91年ってバルセロナ五輪の前年……あ!」
「そうなの。前に言ってたでしょ。なんで柔道復帰したのか、わからないって」
「ああ、全然わからなかった。喫茶店に来てくれって言った時も、聞く耳持たずって雰囲気でダメもとで行ったようなものだし」
「あの時ね、お父さんはさやかさんのコーチをしているショックもあったけど、耕作さんが記者を辞めるって聞いて胸がモヤモヤしていたの。そんなのあたしには関係ないことって割り切って風祭さんとデートの約束してたんだけど、部屋を出るときおじいちゃんが置いたあのスクラップの山にぶつかって崩れたの」
ページの隙間からはみ出た切り抜きの記事の最後には(松田耕作)と書かれていた。見るつもりはなかった。でも、思わず手に取った。
「あの時、初めてしっかり自分の記事を読んだわ」
「初めてだって!」
「恥ずかしいじゃない。自分の事を書いてる記事を読むなんて。でもね、全く読んだことないわけじゃないのよ。羽衣課長が絶賛してたからそれからは、読むこともあったんだけどやっぱりあんまり読んでなかったわ」
「そういうもんか」
「それでね、最初に記事になったときからデビュー戦、全日本ってずっと耕作さんの記事を読んだわ。時間も忘れて読んでた。そしたら聞こえてきたの」
「何が?」
「歓声よ。記事から試合の時の歓声が聞こえたの。あたしのことずっと見ててくれたから、あんな風に書けるんだと思ったの。だから絶対記者を辞めて欲しくなかった。それから……」
柔は言葉が出なかった。あの時に明確に意識した。この人が好きだと。でも、恋人がいるからこの恋は成就しないと思っていた。でも……。
「繋がりを断ちたくなかった。あたしと耕作さんの繋がりは記者と選手というだけだったから。耕作さんが記者を辞めたらあたしの事なんてすぐに忘れてしまうと思ったの」
「だから記者を辞めないでって言ったのか」
邦子が柔に妙なことを吹き込んでいたことは耕作も知っている。きっとこれもそうなのだろうと察しはつく。だがこの事に関しては感謝したいくらいだ。
「迷いはまだあったの。お父さんのことは何も解決してなかったし。でも、だから耕作さんとの繋がりが欲しかったのかもしれない」
耕作の気を引くために柔道を始めたんじゃないかと邦子に言われたことがあった。否定したけど半分は当たってたと思う。貰った手袋の暖かさに救われたけど、胸が痛むこともあった。叶わない想いだと知っていたから。
「そんな風に思ってくれてたなんてあの頃の俺は想像もしてなかっただろうな。俺はさ、柔さんにとってただの記者じゃなくて、うるさくて面倒な奴だと思ってたから。もちろん俺は俺なりに考えていたけど、伝わってる自信は全くなかったし。だからあの日、バスで柔さんが柔道やるって言ってくれた時は本当に嬉しかった。俺にとって最高のクリスマスプレゼントだったよ」
「そのことを言っていたの?」
「ん?」
「バスに向かってずっと叫んでたけど全然聞こえなかったの。何を言ってくれてたのかずっと気になってたんだけど」
「ああ、別に大したことは言ってないよ」
「教えてよ」
そう言って耕作は立ち上がり、柔を向かい合う。思い出せる限り、あの日の言葉を伝えた。途中、むくれるような場面もあったが概ね嬉しそうに聞いていた。
「じゃあ、俺も聞いてもいいかい?」
「取材かしら?」
「そうだよ。とっても重要な質問さ」
柔は姿勢を正した。
「何でも聞いてください」
「ゴホン。では質問します」
「はい」
「俺が骨折して君が食事を作りに来たあの時、俺が『ほんとに泊まっていくか?』って言ったあと。返事に間があったけど何を言うつもりだったのですか?」
あの時の事は邦子が乱入してきて、返事もできずにうやむやになっていた。もしあの時、邦子が来なければ柔はどんな返事をしただろうかと耕作は気になっていた。
柔はすました顔で答える。
「ノーコメントです」
「するいな、何でも聞いてって言っただろう?」
「言いません」
「じゃあ、もう一つ」
「はい」
「柔さん」
名前を呼ばれて振り向くと、耕作が優しい瞳で見つめていた。
「あなたは素敵な恋をして、普通のお嫁さんになっていますか?」
柔は驚いて目を見開く。そして涙で潤んだ。
「覚えて……くれてたの……」
高校生の時に柔が言った理想の将来像だ。耕作は五輪で金メダル獲った後にできると断言した。だから耕作は確認したかった。
「はい。素敵すぎる恋をして、普通の幸せすぎるお嫁さんにさせてもらいました」
柔は涙を流す。覚えていてくれたことも嬉しいけど、描いていた未来よりもはるかに幸せな未来を今歩んでいる。これから出産してどんな未来になるかわからないけど、自分の心に正直にそして一緒に歩む人の気持ちに寄り添いながら、幸せな未来を築いていきたい。
「それならよかった」
出会いは突然で、耕作にとっては一目ぼれに近い状態だった。それは恋愛ではなくヒーローを見つけたときの高揚感。自分だけが知っている彼女を世間にも知って欲しいと、少々強引なこともした。嫌われるようなこともしてきた。それでもいつの間にか、その思いが恋になった。そして今、その想いはもっと大きくなる。
「柔さん……愛してるよ」
「あたしも耕作さんのこと、ずっと愛してます」
口づけ、抱き合う二人の傍らには、空港で抱き合う二人の写真が。あの頃よりも強い想いと強い絆と、確かな未来がそこにはある。
これで本編は終了です。
明日、エピローグで小説は終了です。
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エピローグ
東京2020
2020年、夏の東京は例年以上に暑かった。世界各地から人々が訪れ、スポーツの祭典が始まるのを待ち望んでいた。
度重なる苦難を乗り越えて、迎えた東京五輪。午後8時からの開会式はまもなく始まろうとしていた。
「じゃあ、行ってきます!」
慌ただしく玄関を飛び出した彼女は、家族に声をかけると風のごとく駅に向かう。金曜日の夜。ただでさえ人でごった返す電車に揺られて目指す場所は、新国立競技場。
駅を降りたらまた走り出し、小さな体ですり抜けるように中に入った。
「リサ、こっち」
「タクト! 間に合ってよかったー」
ほっと肩を撫でおろす。
「自分から言い出したことなのに、忘れるとかありえないんだけど」
「うるさい! 間に合ったからよかったでしょ」
「お! やっと揃ったな猪熊兄妹」
「あ! 士郎くん。心配してくれたの?」
「そりゃあ、姿が見えなきゃ心配するだろう。間に合うかハラハラしたよ」
「ごめん」
士郎は190cmを超える長身でガタイもいい。対するリサは150cmほどしかなく小さく、大きな瞳の童顔なので並ぶと子供みたいだった。その間を埋めるよなにタクトは170cmの筋肉質な体系とクールな表情が世間では話題になっている。
「士郎はこんなところにいていいのか? 試合は明後日だろう」
「大丈夫だよ。それに日本での五輪だからどうしても出たかったんだ。親もチケット取って見に来てるしな」
「フクちゃんは?」
「姉ちゃんも来てるよ。今度は北京に見に来なさいって言われてる」
「次の冬季五輪は北京か。あたしも行きたいな。フクちゃんのフィギュア大好きだもん」
「じゃあ、みんなで応援に行こう」
「うん!」
スマホで時間を確認したタクト。
「なあ、リサ。家に父さんと母さんいたか?」
「いなかったよ。パパは取材で早くに出たじゃない。ママは知らないけど」
「士郎の親と一緒にいるのかな」
「いや、さっき連絡した時にはそんなこと言ってなかったけどな」
「パパと一緒にいるんじゃないの」
「そうかな……」
タクトは何か思うところがあったが、ここで言うこともないだろうと黙っていた。
「それより、二人は大丈夫なのか?」
「「何が?」」
双子なのでよくハモることがある。
「だって、今大会……」
急に大歓声が響き渡る。何が起こったのかわからないけど、空気の振動が分かるほどの大歓声だ。
「始まったみたいだな」
◇…*…★…*…◇
東京2020開会式が始まった。名だたるアーティストによる演出により、日本の伝統と文化を世界中に見せつけた。その美しさと繊細さ、力強さに世界が感動に酔いしれていることだろう。
パフォーマンスが終わり開催国の国旗の掲揚と国家の斉唱が行われる。先ほどまでの熱を一旦落ち着かせるような、静かで厳かな「君が代」が競技場を包み込む。
その後、オリンピック賛歌の合唱とオリンピック旗の掲揚が行われ、いよいよ選手入場となる。
五輪発祥国ギリシャを先頭に五十音順で行われる。有名アスリートの登場も楽しみだが、各国代表の衣装にも毎回注目が集まっている。かなり時間を要する選手入場だが、各国のファッションなどを見ていると案外時間は過ぎ去っていくものだ。
テレビ中継のアナウンサーはそれぞれの注目選手や見どころも挟みつつ、国の紹介をしている。
「イギリス代表が入ってきました」
「今大会、予想外とも言える選手が代表に選ばれていますね」
「あの二人ですね」
「実力は十分なのですが、まさかイギリス代表で出場とは思いませんでした」
「本阿弥アリスと本阿弥ケントの姉弟は、イギリスで産まれて学生生活のほとんどがイギリスだったこともあり、日本よりもイギリスに愛着があるのでしょうね。二重国籍だったころは日本の大会にも出ていましたが、イギリス国籍にしてからは国際大会のみの出場となりましたが、今回は代表に選ばれましたね」
「ええ。アリス選手は48kg級出場で日本代表の猪熊リサとの戦いが楽しみですし、弟のケント選手は81kg級の出場でメダル有力選手とも言われていますね」
二人の母親は本阿弥さやか。誰もが知る柔道界のスターである。アトランタ五輪48kg級で金メダルを獲った後、引退宣言をして本阿弥グループをまとめる重要な役目を果たしている。
風祭もさやかを支えると共に、実家の風祭酒造が造る日本酒を海外に売り込み話題を呼んだ。その日本酒が逆輸入の形で日本に伝わり、今は品薄状態となっている。
その二人の子供である本阿弥姉弟は日本でも大変人気がある選手だ。その強さはもちろんだが、俳優のような整った顔立ちの姉弟は度々ファッション雑誌やテレビにも出演しファンも多い。
公式インスタグラムには500万人ものフォロワーがいる。アスリート以外でも注目を集める姉弟なのだ。
「カナダ代表の姿が見えましたね」
「注目選手はやはり92年のバルセロナ五輪の女子柔道無差別級決勝で猪熊柔と対戦したジョディ・ロックウェルの娘エマ選手は78kg超級での出場ですが、さすがに明日の試合ということもあって開会式には来ていませんね」
「ええ、日本の岡崎由実子との対戦も楽しみですが彼女も開会式には出ずに、明日に備えてるようですね」
エマは94年に産まれ、両親の愛情と柔道の英才教育を受け成長した。体格はジョディと似ており、重量級だが身のこなしは速くスタミナも多い。前回のリオ五輪では金メダルを獲得している。
一方、岡崎由実子は藤堂由貴の娘であり階級も同じ78kg超級の代表である。同階級では敵なしと言われるほど強く、今回の金メダル有力候補となっている。
そして選手入場は続き、残り3ヶ国となった。
「アメリカの選手団の入場です。アメリカは2028年のロサンゼルス大会開催国ということで、今回は最後から3番目の入場となりましたが、相変わらずすごい人数ですね」
「ええ、注目選手は数多くいるのですがなんと言ってもジェシカ・クラークでしょうね。女子柔道48k級代表で猪熊リサと本阿弥アリスのライバルでもあります」
ジェシカはアリシアの娘だが父親の存在は明らかにされていない。アリシアはアトランタでさやかに敗北してからもトレーニングを重ね、2000年のシドニー五輪で柔と決勝で戦うものの負けてしまう。その翌年、ジェシカを出産し再び五輪に向けトレーニングをはじめアテネで見事金メダルを獲得し引退した。現在は実業家として手腕を振るいつつ、柔道指導にも力を入れている。兄のレオナルドは98年に女優と結婚したが、2年後に離婚。その翌年に知り合ったカフェ店員と現在は再婚しており、二児の父親となった。
「ジェシカ選手の母親のアリシアさんは彗星のごとく柔道界に登場し、その強さと美しさに日本のファンも大勢いましたね」
「日本語もできましたしね。それにあのラスティさんの愛弟子であることも大きく影響しました。ベストセラーになった松田氏の書籍に登場して以来、日本でも彼女は有名になりましたしね」
「ええ、ラスティさんはその上、2008年には旭日小を受章し、2009年には以前はく奪された金メダルを返還されたことでも話題になりましたね」
「そのジェシカ選手の姿が見えました。母親に似て美しいですね。隣には男子66kg級代表のエドワード・デイビス選手の姿も見えます。彼はシドニー五輪、アテネ五輪で金メダルを獲得しグレン・デイビスの息子です。若干17歳での代表入りです」
「猪熊ケント選手のライバルとしても知られています。油断ならない相手です」
アメリカの選手団は一番人数が多い。それだけスポーツが盛んで実力もあるということだ。
「フランスの選手の姿が見えました。フランスは次回2024年パリ大会開催国ということで最後から2番目の入場となりましたが、さすがおしゃれな衣装を着ていますね」
「各国の衣装を見るのも楽しみの一つですからね。そしてここでも注目選手は柔道です。フランスは柔道大国で選手の数も多いです。その中で代表に選ばれるのは至難の業ですが、男子90kg級代表のヴィクトーの強さは脅威とも言えます。花園士郎選手の最大のライバルとも言えるでしょう」
ヴィクトーはかつて柔とも試合をしたマルソーの息子である。マルソーはアトランタ五輪後に引退を表明し、当時交際していた男性と結婚しすぐにヴィクトーを産んでいる。しかし3年後には離婚し、バルセロナ五輪のコーチでもあった元恋人と復縁しヴィクトーに柔道を教え込んだ。マルソーには猪熊柔道の血が入っていたため、ヴィクトーは幼少のころから頭角を現していった。
「さあ、いよいよ日本選手団の入場です」
陸上、水泳、体操などメダル候補の選手が笑顔で歩いてくる中、柔道選手団も姿を見せ始めた。
「花園士郎の姿が見えました。90kg級代表です。母親はバルセロナで銅メダルを獲った花園富士子ですね。花園選手は先の世界選手権では見事優勝をしています」
「その隣には安西ユーリがいますね。彼はロシア代表だったテレシコワを母に持つ81kg級代表ですね。テレシコワはバルセロナ五輪後日本の実業団のコーチとなり日本人男性と結婚したと聞きましたね」
「その息子が五輪に日本代表で出るのは何か面白いですね。あ、二人の横には猪熊兄妹がいますね。紹介は不要だと思いますが、国民栄誉賞を受賞した女子柔道界のレジェンド、猪熊柔の双子の子供ですね。猪熊柔は過去五輪でのメダル総数はソウルを入れると6個となります。アトランタの翌年の妊娠発表では引退もささやかれましたが、出産後のコメントでシドニーを目指すと宣言。そして見事48kg級と無差別級の二階級での金メダルを獲得し、引退を表明しましたね」
「アトランタでは無差別級だけでしたので、シドニーもそうなるだろうと予想されてましたがまさかの二階級出場。そして期待を裏切らない金メダル。彼女は日本中いや、世界中に興奮と感動をもたらしましたね」
「その後、引退を表明し表舞台から姿を消しましたが、テレビでもたびたび放送されますし若い世代も知らない人はいないのではないでしょうかね」
「そんな猪熊の子供たちはアメリカで産まれたということもあり、どの国籍を選ぶかが話題になってましたがやはり日本を選んでくれましたね」
「猪熊兄妹の父親であるスポーツジャーナリストの松田耕作氏は、独立後も選手に信頼される存在となり日米野球の架け橋にもなってくれましたね。特に、野路選手とは長年家族ぐるみの付き合いをしているようです。今では世界中を飛び回り日本以外でもアメリカやオーストラリアなどにも記事を書いているようですね。兄妹が小さい内は一緒に行動していたこともあるようですが、学校に入る年齢になるとLAに数年拠点を構え、高校入学を機に日本に戻ったという事ですよ」
「その間に、柔道の英才教育を受けていたという事でしょうね。二人の祖父の虎滋郎氏や曽祖父の滋悟郎氏ももちろんサポートに入ったことでしょう」
「その滋悟郎氏が熱望し実現した無差別級も、IOCのタマランチ会長の退任により廃止されいまいち盛り上がりに欠ける五輪が続きましたよね」
「ええ、ですが今回東京での五輪開催ということで柔道無差別級の復活が発表されその代表にあの猪熊兄妹が選出されました。もちろんタクト選手は66kg級、リサ選手は48kg級の代表でもありますが、母親の猪熊柔のように兄妹で二階級制覇してくれると期待しますね」
日本での柔道ブームはやはり柔が活躍した時代に最盛期を迎えた。その後も人気はあったが、柔やさやかのようなスターも出ず五輪でもメダルに届かないこともあった。
国際試合でのルール変更に泣かされる日本人選手もいたが、近年はその変化に柔軟に対応できる次世代の選手が育ってきたおかげで強さも人気も取り戻している。
その最たる選手が猪熊兄妹なのだ。「JUDO」と表記されるほど「柔道」とはかけ離れてしまった柔道を再び一本勝ちの武道に戻せる選手だと言われている。
「あれ? 猪熊リサは何か手に持っていますね。なんでしょうか。スマートフォンではなさそうですが」
大歓声が響く中、手を振る選手団。入場のフィナーレは開催国日本。盛り上がりは最大級となる。そんな中、リサは大事そうに抱えるものが放送席で注目されているとも知らず、手を振っていた。
「見てくれてるかな。ひいおじいちゃん」
「見てるに決まってるだろう。予言までしてたんだろう」
リサの手の中には滋悟郎の写真があった。
「そうだよね。ひいおじいちゃんだもんね」
「ああ。しかし、母さんの姿が見えないな。父さんは記者席にいたようだけど」
「そうなの!? よく見えたわね。手を振っておけばよかった」
「大丈夫だよ。ジェシーがいたから」
「そうよね。ジェシーの腕は確かだわ。でも、ママ。どこ行ったのかな」
ようやく選手団の入場が終わると、式辞や開会宣言、オリンピック宣誓などが続いた。
「時刻は午後11時になろうとしています。この新国立競技場は熱気に包まれておりますが、もうじき開会式も終わりです。そろそろ聖火が入ってきてもいい頃だと……」
薄暗い競技場に赤い炎が見えた。トラックを走ってくるその人が最終ランナーかと思われたが、途中で聖火を別の人に渡した。
「あれは!」
「まさか、あれは!」
「猪熊柔だ! 秘密にされていた聖火最終ランナーは猪熊柔だ!」
聖火を持って競技場を走る柔。モニターに映し出されたその顔に、歓声が上がる。日本人で知らない人はいないだろう。世界でもその名は広く知られている。
選手引退後は殆どメディアに出ることはなかったが、柔道は続けていて自分の子供の指導をしていた。時には他の道場に出向いて子供たちに稽古をつけたりして、柔道の面白さを教えたり、安全に行えるような環境整備をしてきた。
「ママ!」
「やっぱり母さんがそうだったんだな」
誰もが納得する人選。五輪前になると必ず特集が組まれるほどの、伝説となった猪熊柔という人物を今、世界中が固唾をのんで見守っている。
柔の動きが止まり、聖火台に火が灯された。小さかった赤い炎は大きな渦になり、夜空を照らした。
「東京2020オリンピックの開幕です!!」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ここでこの物語はおしまいです。
明日の更新はあとがきになりますので、もしよろしければ読んでみてください。
興味ない方はスルーしてください。
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あとがき
ありがとうございました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
生まれて初めての小説投稿で色々ご不便をおかけした部分もあるかと思いますが、何とか終わらせることができました。
最初は誰も読んでくれないんじゃないかと思っていましたが、YAWARA!のファンで二次を許容してくださる方がいらっしゃったのでよかったと思います。
実はこのあとがきを書くのは二度目なのです。
最初は2月に書いていたのですが、事情が変わったことでそれを投稿することができなくなってしまいました。
お気づきとは思いますが、新型コロナウイルスの影響で東京2020が延期になってしまったからです。
この小説は今年の元日から東京2020の開会式前日で終わる予定でした。
エピローグが開会式なのもそのためです。しかしそれは叶わず来年になってしまいましたね。
しかし、このYAWARA!の世界の中では予定通り始まったということにしておきました。
この小説を書き始めたのは2017年です。ずっと頭の中にあった柔と松田のその後を文章にしたいと思ったのです。
それはただ単に自分の中の妄想を吐き出さないと、モヤモヤしたままになってしまうと思ったからです。少しずつ書き始め途中で行き詰まり中断し、再開し、中断しの繰り返しでした。
しかし2019年の秋ごろに来年はオリンピックイヤーだと気づいたときに、へたくそでもこの小説を世に出したいと思ったのです。ネットもあまり詳しくなく、SNSも不慣れだけどいい機会だと思ったわけです。でも五輪が延期になりこの連載も中断すべきか悩みましたが、やり始めた以上は続行しようと決めました。
小説を書くにあたって女子柔道について調べていくうちに、一人の人物を知りました。
「ラスティ・カノコギ」さんです。作中に出てきたラスティはこの人がモデルです。というか、ほぼこの人です。
日本ではあまり知られていないですね。私も数年前に知りました。ラスティがいなかったらソウル五輪もバルセロナ五輪も女子柔道はなかったのです。それだけ偉大な人です。
このことを知ったとき、自分が書く小説にも登場させたいと思いました。なのでちょっと無理やり感があったかもしれませんが……
マンガではスルーされがちな実際の事件なども入れてみました。賛否あるとは思いますが、その時、その場所にいて何もないのは不自然だと思ったのです。そこから何かが生まれても不思議じゃないと。
(新型コロナウイルスは最終話を書いた後に発覚したことだったのでさすがに入れられませんでした)
ここからはちょっと反省点などを書いていきます。
まず、本阿弥さやかの出番が少ないです。ファンの方がいたら申し訳ないです。
本編の中に実はさやかと風祭のストーリーもあったのですが、これは柔と松田の物語なので入れませんでした。
マンガでもそこまで深く描かれていない二人なので必要ないかなと思いました。
小説の中でさやかが「進之介さん」と呼んでいるのは、「何か」があったために人前ではそう呼ぶことにしたというだけです。間違って書いているわけではないんです。
二人きりの時は「進ちゃん」と言っていると思います。
二つ目が試合シーンの少なさです。
私は柔道に全く詳しくありません。試合を見るのは好きだけど、技とか全くわからないのです。
ですので、試合シーンはごくシンプルに書いています。ありえない技のかけ方などがあるかもしれませんが、その時はスルーしてください。
三つ目は時代背景が曖昧なことです。
90年代のことを今思い出すのはとても苦労します。ネットで調べてわかる範囲で書いています。
携帯電話はまだ主流じゃなかったので、柔と松田の連絡方法は固定電話かエアメールとさせていただきました。FAXは猪熊家にはなさそうだったので。
インターネットもまだ普及する前なら電子メールも不可能かと。ポケベルに関してはあまりよくわからなかったので、使わないことにしました。
言葉に関しても「アスリート」や「ストーカー」という言葉が広く使われるようになったのはいつからかわかりませんでした。私の印象では2000年以降な気がしました。
※本編で松田のエアメールが届いてなかったという場面があったのですが、無事にその後配達されました。遅くなることもあったようですね。
四つ目はタクシーのおじさんの出番がない事です。
小説にはマンガで登場したキャラクターをできるだけ出そうと決めていました。そしてオリジナルキャラクターは極力出さないようにしようと。
しかし、マンガでかなりキャラの濃いタクシーのおじさんを出す場面がどこにもなかったのです。
忙しい二人がスペインに旅行なんて行くはずないし、新婚旅行では英語の通じるところに行くかなと思ったのです。おじさんがNYや日本に行くというのも現実的でないかなと。
でもきっといつか二人はおじさんに会いに行くと信じています。
五つ目はタイトルです。
各章と各話のタイトルはあまり考えて付けていません。もう少し考えたらよかったなと今更ながら反省しております。
でも今のところこのままにしておきます。
他にいろいろありますが、この辺りでやめておきます。
考えだしたらキリがなかったので。
ただ、私はYAWARA!が大好きでこの中に出てくるキャラクターも全員好きで、みんな不幸になって欲しくなくて想像した結果を書きました。
違う意見もあるとは思いますが、私の中のYAWARA!の物語はこういう結末になったという話です。
それでは長い連載を読んでくださって本当にありがとうございました。
次回作の予定は今のところありませんが、また何か書いたときには投稿するかもしれませんので興味があるものでしたら一度読んでみていただらけたらと思います。
来年の東京五輪が無事に開催されることを願って終わりにします。
ありがとうございました。
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