鬼滅の刃―鬼眼の少女― (竜華零)
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プロローグ

 ――――雨が、降っていた。

 冷たい雫が地面を打ち、暗闇の中で木々の葉が擦れる音が響く。

 夜の森に降り注ぐ雨は、昼間のそれよりも一層寒々しく感じられた。

 雨雲は闇をさらに濃くし、この世の何もかもを夜の(とばり)の内に閉じ込めてしまおうとしているかのようだった。

 

「――――!」

 

 その時だ、獣の咆哮にも似た音が森に響き渡った。

 それは雨の静寂をかき乱すには十分すぎるもので、恐ろしく、おぞましさすら感じるものだった。

 暗く深い闇の中で、おぞましい咆哮が反響していた。

 

 光。

 

 次の一瞬、暗闇を拒絶するかのような光が、その場を照らした。

 ()()()

 火焔とすら表現できそうな程に強烈なそれが収まると、どたり、と何か重いものが地面に転がる音がした。

 そして再び、暗闇と雨音だけの世界が戻る。

 

「……哀れな娘だ。せめて安らかに眠るがいい」

 

 男がいた。

 明るい色の、燃えるような髪色の男だ。

 独特の癖があるのか、その髪はまるで獅子の(たてがみ)のように波打っていた。

 男の手には、1本の日本刀が握られていた。

 これだけ雨が降っているというのに、不思議なことに刀身は一切濡れていなかった。

 

 そして足元。

 男の足元で、女が(うずくま)っていた。

 両膝を地面につけ跪くように上体を倒した女の身体には、あるべき頭部が無かった。

 どうやら、男に(くび)()ねられたらしい。

 しかしそこで、不思議なことが起こった。

 

「む……」

 

 ()()()()()

 ボロボロと音を立てて、女の身体が細かな塵となって消えていく。

 塵は雨に流され、地面と混ざり合い、やがて女が着ていた着物だけが残った。

 この世のものとは思えない光景だが、男は全く動じず、むしろ祈るような仕草さえ見せた。

 そして刀を腰の鞘へと納め、その場から立ち去るべく歩き始めて……。

 

 ――――ギャ、ア――――

 

 声が、聞こえた。足を止めた。

 男以外に誰もいないはずのその場で、確かに声がした。

 最初は、ざあざあと降り注ぐ雨の音を聞き間違えたかと思った。

 足を止めた男は、その場で注意深く耳を澄ませた。そして。

 

 ――――ギャアッ――――

 

 やはり聞こえた。

 酷く弱々しく、くぐもっているが、間違いない。

 確かに聞こえる。それも、すぐ近くからだ。

 

 ――――ギャア、オギャア、オギャア!――――

 

 私はここだと、世界中に訴えかけるような声。

 その声に、よもや、と呟いて、男は再び刀を抜いた。

 振り向き、雨と泥と塵に塗れた女の着物に手を伸ばす。

 そして。

 そして――――……。




お読み頂きありがとうございます。
恥ずかしながら「鬼滅の刃」のハマり、戻って参りました。
およそ1年半ぶりの二次創作作品となります。

リアルの都合もありますので、以前のような定期更新は難しくなっておりますが、何とか完結まで続けられればなと思います。

それでは、またお付き合い頂ければ幸いです。
また次回お会いしましょう。


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第1話:「臆病者の夜」

 久しぶりに会った部下のやつれ具合に、三郎は言葉を失った。

 彼は警察官となって日が浅いとは言え、真面目な性格で、三郎も自ら警察官としてのいろはを手ほどきする程に期待していた男だった。

 それが派出所に配属となって1か月と経たずに休職状態になったと聞き、驚きを隠せなかった。

 

 連絡を取っても返信がなく、いても立ってもいられなくなった三郎は直接会いに行くことにした。

 部下の下宿先を訪ね、10日粘って行きつけの店で会うことが出来た。

 しかし、その変わりようは三郎の想像を超えていた。

 三郎が記憶している限り、彼はがっちりとした身体つきの青年だった。

 

「まあ、思ったより元気そうじゃないか」

 

 白々しい言葉だった。

 頬は骸骨と見紛(みまが)う程に痩せこけて、目は落ち窪んで生きた屍のようだった。

 あの精悍な青年が、と三郎はショックを隠せなかった。

 手塩にかけて育てた部下の変貌(へんぼう)ぶりは、それ程のものだった。

 

「体調はどうだ。人生いろいろある。俺も若い頃は、仕事から離れたいと思った時もあった」

「…………」

「そういう時にはな、美味い酒を呑むもんだ。そうすりゃ、大抵の悩みはどうでもよくなる」

「…………」

 

 しかし何を話しかけても、部下はほとんど返事を返してこなかった。

 相槌すら打つこともない。

 以前の溌剌(はつらつ)とした姿を知っているだけに、三郎の戸惑いは増した。

 それどころか、彼は出てきた酒にも料理にも手をつける様子はなかった。

 

「……なあ、お前いったいどうしたっていうんだ」

 

 しばらくしても部下の様子が変わらないので、痺れを切らした三郎はついにそう切り出した。

 そもそも、酒や肉で吹き飛ばせるような悩みではないというのは最初からわかっていた。

 まさに、人が変わった、としか言いようがなかった。

 心配以上にショックだった。何故、という疑問の感情が強い。

 

「何があった。お前みたいな真面目な奴が1か月も休むなんて、普通じゃない」

「…………」

「頼む、話してくれ。俺で力になれることなら何でもする」

 

 そこで、初めて部下は反応を返した。

 酒や料理には相変わらず手をつけようとはしなかったが、じっと三郎のことを見つめてきたのだ。

 その目もやはり以前とは違う気がして、三郎は息を呑んだ。

 しかし、たじろぐわけにもいかない。やっと返ってきた反応なのだ。

 

「……信じて貰えないかも、しれないですけど……」

 

 そしてようやく、ぽつりぽつりとだが、部下は話し始めてくれた。

 1か月前、彼――鈴木武雄の身に起きた事件のことを。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その日は朝一番に通報があり、武雄は彼が住む町でも有名な商家の屋敷に向かった。

 盗人(ぬすっと)でも入ったかと思っていたが、現場に通されて、そんな生易しいものではないとすぐに理解した。

 

「これは、酷いな……」

 

 武雄の四畳半の下宿とは比べ物にならない、十数畳もあるだろうその部屋は酷い有様だった。

 まず床はいくつも人の頭ほどの穴が開いている上に、畳そのものが吹っ飛んでいる部分もあった。

 それどころか天井や壁にも同じような穴が開いており、庭に面した襖や雨戸に至っては砕け散って外に散乱してしまっている。

 幕末の池田谷事件も、はたしてこれ程だったかと思える程だ。

 

「いったい何があったんですか?」

 

 天井にまで飛び散っている血痕にぞっとしながら、武雄は家人にそう聞いた。

 家人と言っても、この商家には年老いた母親と使用人数名しかいない。

 あとは店を実際に切り盛りしている息子2人がいるということだが、まだ出てきていなかった。

 

「奥さん」

「はい。はい……あれは、あれは本当に恐ろしい叫び声でした」

「叫び声? 悲鳴ということですか?」

 

 相当に恐ろしかったのだろう、母親の顔は青ざめていた。

 胸を押さえて、女中に身体を支えられている。

 よほどショックだったのだろう。

 あまり無理に話を聞きだすのも良くないかもしれないと、武雄は思った。

 

「いえ、いいえ。あれは、そう、まるで猛獣(けだもの)のような」

「猛獣、ですか」

「猛獣じゃないなら、化物、怪物よ。それこそ鬼のような……」

「はあ、そ「何だお前はっ!!」れって、は。じ、自分のことで」

「何で警官が私の屋敷にいる!?」

 

 その時だ。どかどかと現場の部屋に壮年の男性がやって来た。

 立派な着物を着込んだその男は、部屋に入るなり武雄を睨みつけてきた。

 顔を真っ赤にして、まさに烈火のごとく怒っている様子だった。

 

「誰が呼んだ!? 私はそんなことを許した覚えはないぞ!?」

「い、いや自分は」

「私が呼んだんです!」

「母さん! 私に任せておいてくれと言ったはずです!」

「あんなことがあって、黙っておれますか!」

「はっ、いやっ、お2人とも落ち着いて……」

 

 どうやら店を切り盛りしているという息子の1人のようだ。

 武雄を挟んで母子で口論を始めてしまった。

 使用人達も口を挟むことが出来ないのか、いつの間にか距離を取って様子を窺っている。

 逃げることも出来ない武雄としては、落ち着くように言うしかない。

 

 その時、ふと武雄は息子の首元に包帯が巻かれていることに気付いた。

 真新しい傷なのか、まだ血が滲んでいる。

 武雄が見ていることに気付いたのか、着物の襟をぐいと引き上げると、吐き捨てるように言った。

 

「とにかく出ていけ! 警官ができることは何もない!」

「何もないわけないでしょう! 私は見たんですよ!」

 

 母親も退かない。気のせいか顔色も良くなってきていた。

 激高して血の巡りが良くなっているのだろうと、武雄はそんなことを思った。

 

「刀を振り回した黒い服の女が、あの子を……正二を追いかけて行ったのを!」

「母さん!!」

 

 どうやら、厄介で深刻な事件に巻き込まれたようだ。

 武雄は、今後のことに何一つ安心材料がないことに溜息を吐いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 結局、通報については有耶無耶になったまま、屋敷を追い出された。

 最低限の話は聞けた。総合すると、どうやら強盗事件ということらしいことはわかった。

 ただおかしな点もいくつかあった。

 

 まず強盗が狙ったのは弟の方――正二という名前らしい――だったということ。

 店を切り盛りしていると言っても、財産を持つのは長男である兄だ。

 どうして弟を狙ったのだろう。それに盗られたものもないという。

 そして何より弟がまだ家に戻っていない。これが1番のおかしな点だった。

 

「ダメだ。おかしなことばかりだ」

 

 普通に考えるなら、強盗から逃げて家の外に飛び出してまだ戻っていないなら、生存しているとは考えにくい。

 だがそれなら、それこそ警察に通報するだろう。しかし兄は警官である武雄を追い出した。

 母親が見たという強盗についても、よくわからない。

 

 廃刀令下のこのご時世で、刀など持っていれば目立つだろう。

 まして強盗は女だと言う。

 そして黒い服。話を聞いた限りは黒い詰襟らしい。

 刀を振り回す黒い詰襟の女?

 

「そんな見るからに怪しい奴、いないだろ……!」

 

 そう言って、武雄が頭を抱えていた時だ。

 

「あの、すみません」

 

 そんな武雄に、声をかけてくる人物がいた。

 派出所勤務の武雄は、市井の人々に声をかけられることも少なくない。

 だから武雄は「ああ、はい。何でしょう」と応じ、顔を上げた。

 すると、だ。少女が1人、武雄の前に立っていた。

 

「すみません。ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが」

 

 奇妙な格好の少女だった。

 容姿の話ではない。むしろ武雄が知る女の誰よりも目鼻立ちが整っている。

 眉が少し太いのが気になるが、それも少女の美しさを損なうものではなかった。

 長い黒髪を一束ねにして右肩の前に垂らしているのも、清楚さを感じて好印象だった。

 

「……あの、もし?」

 

 問題は、服装の方だ。

 白地に臙脂(えんじ)色の風車をあしらった羽織、この時点で相当にヤバい。

 腰に竹の水筒、背中に被り笠。まるで「旅人」といった風だ。

 100歩譲って、ここまでは許容するとしても。

 ――――黒。

 

「このあたりで、昼間でも()の当たらない建物ってありますか?」

 

 ()()()()の少女が、武雄の前に立っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

(いた――――っ!?)

 

 現場の間近で、被害者の目撃談と合致する人物が現れたらどうするか?

 普通、その場で確保である。

 しかし武雄は躊躇した。

 彼は賢明にも、あるいは愚かにも、格好が合致しているからと即座に拘束するタイプの警官ではなかった。

 

(刀……も、持っていないし)

 

 さっと見た限り、少女は刀らしきものを持っていなかった。

 当たり前と言えば当たり前だった。

 廃刀令下で、帯刀して警官に話しかける馬鹿はいない。

 まして強盗犯が、警官の制服を着ている自分に一切の邪気なく話しかけてくるとも思えない。

 

「あのー」

「え、あっ。ああっ、いや無視したわけじゃないんだ。すまない」

 

 赤みがかった大きな瞳が、こちらを覗き込んできていた。

 年下の少女に対して、どぎまぎとしてしまった。

 手を振って1歩離れて、改めて少女を見つめる。

 少女は、邪気のない様子で首を傾げていた。

 

「ええと、どこに行きたいって」

「はい。昼間でも陽の光が当たらない場所、です」

「陽の光?」

「正確には陽が入る窓もなくて、この近辺で、夜までいても誰にも見咎められない。そんな場所です」

 

 普通、そんな道の尋ね方をするだろうか。

 決めつけて拘束するのも躊躇するが、しかし潔白と見逃すにはやはり怪しかった。

 昼間に太陽の光が射さない場所。

 はっきり言って、そんな物の考え方をしたことがなかった。

 

「どこかご存じですか?」

「いや……」

 

 したことがなかったが、ここで否と答えれば少女はどこかに消えてしまう気がした。

 尾行しようと思えばできるかもしれないが、年下の少女の後を尾けるというのも気が引けた。

 見逃すのは論外、となれば、(おの)ずから答えは決まっている。

 全て武雄の直感のようなものだが、この少女はあの商家の事件と何かの関係があるという、奇妙な自信があった。

 

「いや、わかった。俺で良ければ心当たりを案内する」

「わっ、やった。助かります。地図を読んでも良くわからなくて」

「あ、ああ」

 

 少女は、手を打って喜びを表現してきた。

 それがいかにも少女らしい仕草で、武雄の方が気恥ずかしさを覚えてしまう。

 この年齢まで、付き合いらしい付き合いを異性としたことがなかったのが不味かった。

 同僚からは硬派で通っているが、単に女慣れしていないだけだ。

 

「きみ、えっと……」

「……? ああ、はい」

 

 おかげで名前を聞こうとして失敗するという、余りにも格好の悪いことが起こった。

 しかし気にした様子もなく、少女は変わらぬ笑顔のまま、胸に手を当てて、鈴を転がすような声で告げた。

 

「私は煉獄(れんごく)瑠衣(るい)といいます。お気軽に瑠衣とお呼び下さい、警官さん」

 

 ――――ガアッ。

 どこかで、鴉が鳴いていた。

 少女の自己紹介と共に聞くには、いかにも不吉だと武雄は思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 とりあえず、商家の保有する倉庫が集まる地区を案内した。

 常に荷運びや警備がされている倉庫もあるが、中にはほとんど使われていないものもあり、いわゆる潜伏向けの場所だった。

 最も、そういうところも外から何らかの施錠がされているものがほとんどだが。

 

「この町にはいつ来たんだ?」

「一昨日です」

 

 倉庫の錠前を1つ1つ確認する瑠衣の背中に、武雄は問いかける。

 尋問の真似事のようなものだった。

 だが瑠衣は本当に邪気のなさそうな娘で、武雄のそうした問いの1つ1つにきちんとした答えを返してきた。

 例えば、1人で旅をしていること。

 

 年は17歳で、出身は東京であること。

 母親はすでに亡くしているが、父親と兄と弟がいるということ。

 この町に来たのは初めてで、人を探しているということ。

 それから、地図を読むのが苦手――何故か日本地図を所持していた――であること。

 

「昨日の夜はどこにいたんだ?」

「今日と同じですよ。人を探してました。一瞬だけ見つけたんですけど、捕まえられませんでした」

「夜に1人で?」

「危ないですよね、ごめんなさい。でも、どうしても」

 

 がちゃ、と、瑠衣の手にした錠前が音を立てた。

 開けられた形跡のないそれを指先で撫でて、小さく息を吐く。

 無駄足を嘆いている、というのとは違うように見えた。

 

「どうしても、見つけないといけない人なんです」

 

 その横顔の真剣さに迫力のようなものを感じて、武雄は言葉に詰まった。

 どうして詰まったのか、わからなかった。

 

「このあたりではなさそうですね」

 

 はっと顔を上げると、瑠衣が申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

 どうやら話している間に、大方の倉庫は確認してしまったらしい。

 

「ごめんなさい。わざわざ案内までして頂いたのに」

「あ、いや」

 

 大きな瞳が、真っ直ぐに自分を見つめている。

 声をかけてきた時もそうだったが、瑠衣は話す時に人の目をきちんと見る。

 人間、意外と「目を見て話す」ができていないものだ。

 武雄もそうで、いざ目を見て話をされるとどぎまぎしてしまうのだ。

 

「じゃあ、その、別の場所に行ってみるか」

「いいんですか? 私が言うのもおかしいですけど、お仕事の途中だったんじゃ」

「ま、まあ、どうせ見回らなきゃならないからな」

「うわあ、本当に助かります。ありがとうございます、警官さん!」

 

 どうかしている、と武雄は思った。

 自分はこの少女を疑わしく思って、行動を共にしているはずだ。

 それが、こんなわずかな時間で離れ(がた)い気持ちにさせられている。

 にこにこと笑う瑠衣の顔を見ながら、武雄は自分自身に戸惑っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 はあ、と、大きな溜息が漏れた。

 警官――武雄が帰った後の、あの商家の屋敷である。

 母親が、廊下を歩きながら額を押さえていた。

 

「まったくあの子ったら、何を考えているのやら……」

 

 あの子というのは、兄のことだ。

 弟が強盗に襲われたというのに、警察を呼ばないなど信じられなかった。

 もちろん母親も、家や店の名誉は大事にしたい。

 しかし、それにも限度というものがあるだろうと思っていた。

 

 それにしても、昨夜は本当に恐ろしかった。

 今も耳に残っている、あのおぞましい声。

 思い出しただけで、身も心も震えが止まらなくなる。

 しかも、弟――正二は強盗に追われて未だに行方知らずなのだ。

 あの強盗、黒い服の女。本当に許せないと思った。

 

「……あら?」

 

 自然と足が向いていたのだろう、いつの間にか正二の私室のあたりに来ていたようだ。

 普段から過保護、というわけではないと思うが、こういう時だ。

 母親の本能というものであろうか、などと考えていると。

 

「……?」

 

 私室の扉が、僅かに開いていた。

 正二が行方知れずなのに、誰かが入ったとも思えない。

 使用人が掃除でもしたのだろうか?

 まさか、こんな時にまで。

 それに、我が家の使用人が扉を開けっ放しにしていたことなど今までなかった。

 

「何かしら、これ」

 

 扉の縁に、何かがこびり付いていた。

 恐る恐る指先で触れてみると、ぬめりのある液体で、母親は「いやだ」と顔を(しか)めた。

 触ったことをすぐに後悔しつつ、指先を目の前にまで持って来る。

 それは、赤く、鼻につく臭いを放っていて……。

 

「……正二……?」

 

 その時、室内に気配を感じた。

 息遣いのようなものが聞こえた気がして、ゆっくりと扉を開ける。

 大きくなった隙間から中を覗き込むと、明かりがついておらず、暗かった。

 しかし、室内からも扉を開けた母親の存在に気が付いたのだろう。

 

「かあ、さん……?」

 

 聞き慣れた息子の――正二の声に、母親が甲高い声を上げた。

 

「正二! 正二、あんた戻って来てたのかい!?」

 

 そう叫んで、母親が室内に飛び込んでいった。

 しばらく、部屋からは物音が続いた。

 やがて、静かになった。

 何の音も、聞こえなくなった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 結局、夕方まで瑠衣に付き合うことになった。

 派出所に戻れば先輩警官にどやされるだろうが、何となく別れるタイミングを逃し続けてしまった。

 

「うーん。どこにもそれらしき場所はありませんでしたね」

「あ、ああ。そうだな……」

 

 瑠衣は、表情がころころと変わる少女だった。

 と言って自己主張が強いわけでもなく、笑う時も口元に手を添えて小さく笑う。

 武雄の知る女性は、家族以外では「そういう」仕事の女性がほとんどだ。

 男所帯の職場であるし、付き合いというのもある。

 

 正直、この頃になると瑠衣への疑いの気持ちというのはかなり薄れていた。

 服装こそ奇妙――これは本当に庇いようがない程に奇妙――だが、悪事を、それこそ強盗のようなことを働くような人間だとは思えなかった。

 むしろ瑠衣の言う「見つけなければならない人」という存在こそが、怪しく思えてきた。

 犯人ではないが、犯人を庇っているのではないかと。

 

「煉獄……さんは」

「瑠衣で構いませんよ」

「あ、ああ」

 

 やはり格好がつかなかったが、ごほんと咳払いをしてごまかした。

 

「瑠衣さんは、その探し人を見つけたらどうするつもりなんだ」

 

 もう陽も沈みかけてきているというのに、ガアガアと鴉が鳴いている。

 今日はやけに鴉が多いなと、そんなことを思った。

 だがこちらを振り向いた瑠衣の顔を見て、そんなことは気にならなくなった。

 

「う……」

 

 思わず、妙な声が出てしまった。

 瑠衣は夕陽を背に、こちらを振り向いている。

 身体の輪郭が赤い輝きを放っているように見えるのは、おそらく錯覚だろう。

 それでも一瞬、あのこちらを真っ直ぐに見つめる瞳に、何かが揺らいだような気がした。

 

「もし、私が探している人が見つかったら……」

 

 これは、何なのだろうか。

 2人のいる通りは、夜を前に家路を急いだり、あるいはこれから夜の町に出ようという人間で溢れ返っている。

 だがその喧噪も、どこか遠い。

 

「その時は――――……」

 

 そして、瑠衣が言葉を発そうとした、その時だった。

 

 

 

「ガアァ――――――――ッッ!!」

 

 

 

 突然だった。

 鴉の大きな鳴き声が、空から降ってきたのだ。

 それは通りの人間達がざわつく程で、町中に響き渡ったのではないかと思える程だ。

 今日はやけに鴉が多いと思っていたが、気も立っているのだろうか。

 ――――陽が、沈もうとしていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鴉の鳴き声を聞いた瞬間、瑠衣の様子が変わった。

 と言うのも、(きびす)を返して駆け出してしまったのだ。

 それは少女のものとは思えない程の速さで、武雄はついて行くのがやっとだった。

 人込みの中、人々を押しのけるように瑠衣の背中を追いかける。

 

「おい! どうした!?」

 

 返事はなかった。

 それにしても速すぎる。

 人込みの中をジグザグに走って、どうしてあんな風に駆けることが出来るのか。

 

 ガアッ! ガアッ! ガアッ!

 

 ああ、鴉がうるさい。

 今日に限って、どうして行く先々で鴉に会うのか。

 まさか、同じ鴉がついて回っているわけでもないだろうに。

 

「ここは……」

 

 見失うかと思った時、ある屋敷の前で瑠衣に追いついた。

 そこがあの商家の屋敷だということには、すぐに気付くことが出来た。

 そのことに落胆する気持ちがあって、自分で驚いた。

 やはり、瑠衣は商家の事件と何らかの関係があったのだ。

 

「あっ、け……朝に来てた警察の人だろ! この子を何とかして下さい!」

 

 門前にいた使用人が、困惑し切った顔で武雄に助けを求めてきた。

 気を取り直して、瑠衣の肩を掴んだ。

 

「瑠衣さん! 何をしているんだ!」

「すみません警官さん! 火急につき、お話している時間がないんです!」

 

 かなり強い力で掴んだはずだったが、いつの間にか瑠衣は武雄の背後にいた。

 どうやって抜けたのか、どうやって動いたのか、わからなかった。

 わかっているのは、瑠衣が相当に焦っているということだ。

 一刹那の後、武雄の視界に影が差した。

 

「長治郎! 刀を!」

 

 1つは、瑠衣の身がふわりと宙を舞い、屋敷の塀に飛び乗ったもの。

 そしてもう1つは、甲高さと濁りを同居させたような鳴き声を発して、鴉が飛来したものだ。

 鴉――瑠衣の言葉通りなら長治郎という名前らしい――は細長い何かを投げ落としてきた。

 2尺ほどの長さのものを、鴉などが良く運べるものだと感心しそうだった。

 刀だった。

 

「警官さん!」

 

 黒い詰襟、女、そして刀。

 それら全てを持った少女は、塀の上から武雄に言った。

 額に汗を滲ませ、焦りの表情のままに。

 

「屋敷には誰も入れないで下さい!」

 

 次の瞬間、瑠衣は塀を飛び降りて屋敷の敷地に入っていった。

 武雄の視界から、少女の姿が消えた。

 使用人が「どうする」と言わんばかりに自分を見ているが、そんなことは武雄にもわからなかった。

 それでも、瑠衣から悪意は感じ取れなかったから。

 

 最後に武雄を見た瑠衣の瞳が、あの真っ直ぐだった目が、罪悪感の色を浮かべていたから。

 だから武雄は、使用人を押しのけて、自分も屋敷の中に駆け込んだのだった。

 陽はとっくに沈み、夜になっていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()()()

 男は、食事をしていた。

 一心不乱に何かを口元に運び、咀嚼(そしゃく)していた。

 座り込んだ床に水溜まりができていたが、気にした様子もない。

 

 何かよほど硬いものを食べているのだろうか?

 咀嚼の度に何かを噛み砕き、にちゃにちゃとすり潰す不快な音がする。

 お世辞にも行儀が良いとは言えないが、しかし男の手元を見れば、それも納得だった。

 何故なら、男が喰い付いているそれは。

 

「――――私の責任、ですね」

 

 ぴた、と、男が動きを止めた。

 顔を上げると、私室の扉が開いていた。

 すでに夜になっているのだろう、廊下に明かりが灯っていて、逆光で相手の顔が見えにくかった。

 しかし男は視覚に頼らずに、それが誰なのかを正確に理解した。

 

「私が昨夜、貴方を斬れていれば。その人は死なずに済みました」

 

 人、と言った。

 人が死んだのかと、男は思った。

 それは悲しいことだなと、そう思った。

 けれど今は腹が減って、腹が減って喉が渇いて仕方がないから、食事をさせてくれと言った。

 

「……貴方は今、何を食べているのですか?」

 

 ボリボリと咀嚼を続けながら、男は首を傾げた。

 返って来たのは、どこか悲し気な溜息だった。

 

「それすらも、わからなくなってしまったのですね」

 

 キン、と、何かの金属音がした。

 

「ならば」

 

 逆光の中、腰のあたりから、鋭く煌めく何かを抜くのが見えた。

 あれは何だろう。とても嫌な感じがする。

 今の自分が最も忌避するものと、似た気配を感じる。

 そうして、ぞわりとした何かを感じた時だ。

 

「待ってくれ!」

 

 別の誰かが、扉のところに立っていた誰かを押しのけて、部屋に入って来た。

 その人物は両手を広げて、自分の前に立った。

 視界に、どこかで見た気がする背中が広がった。

 あれは、誰だっただろうか。

 

「待ってくれ! 頼む、見逃してくれ!」

「どいてください。昨日、貴方がその人を逃がさなければこんなことにはならなかった」

「腹を満たせば落ち着くんだ。大丈夫なんだ!」

「その人が何を食べているのか、わからないわけがないでしょう」

「母は……母は、知らなかったんだ。仕方なかったんだ」

 

 母?

 ごくんと、嚥下しながら、首を傾げた。

 母がどうかしたのだろうか。心配だった。

 しかし、母親とは誰のことだろう。

 そもそも、母親とは何だったのだろうか。思い出せない。わからない。

 

「…………」

 

 それよりも、良い匂いがした。

 あれだ、目の前で背中を晒している()()()

 首元の包帯。その下から、良い匂いが――――。

 

「――――逃げてッ!!」

「え?」

 

 ()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 悲鳴が聞こえた。

 武雄がそちらの方へ駆け込んだ時、すでに事は起こっていた。

 まず見えたのは、商家の兄の姿だった。

 そして次に、男――兄が悲鳴の間に正二と呼んでいて、弟とわかった――が、兄に馬乗りになって、首に噛み付いていた。

 

「え、え……ええ?」

 

 何だ、何が起こっているんだと混乱している間に、事態がさらに動いた。

 瑠衣だ。

 刀を手に持った瑠衣が、正二を蹴り飛ばした。

 あの細い体躯(たいく)のどこにそんな力があるのか、正二の身体が床を転がっていった。

 

「大丈夫ですか!?」

「ぐ、うう……っ」

 

 瑠衣が引き起こした兄は、首の後ろを手で押さえて呻き声を上げていた。

 血がぼたぼたと床に零れていて、素人目にも医者が必要だとわかる。

 そうして武雄が動けずにいると、別の呻き声が聞こえた。

 いや、呻き声というより、唸り声だ。

 そう、まるで猛獣のような。

 

「え……」

 

 正二だ。正二が手足を獣のように床につけて、武雄を見ていた。

 猛獣がそうするように「ううう」と唸り、口からは(よだれ)をとめどなく滴らせている。

 ぞっとした。

 何故なら正二の顔は真っ赤な血で染まっていて、にちゃにちゃと何かを咀嚼していたからだ。

 兄を見る。首の血。まさか、そんな、喰――――。

 

「う、うわあああああああああっ!?」

 

 視線を戻した時、悲鳴を上げた。

 正二が、自分へ飛び掛かって来ていたのだ。

 人間離れした跳躍で、対処できず、その場に尻もちをついてしまう。

 正二の顔は、愉悦に歪んでいた。獲物を前にした猛獣のように。

 血走った目、飛び散る涎、口の端にちらつく歯は鋭く尖っていて。

 

「警官さんっ!!」

 

 次の一刹那、武雄はさらに現実離れした光景を見た。

 瑠衣が、跳んだ。

 そして次の瞬間には、自分の目の前で背中を晒していた。

 遅れて、壁と天井が頭大に爆ぜたのを視界の端で捉えた。

 

(ああ、現場で見た穴はこれか)

 

 死の間際だというのに、そんな馬鹿なことを考えた。

 すると、不思議な音が耳朶を打った。

 突風が耳元を掠めているような、大きく、長く、深い、そんな音だ。

 そして、その音が瑠衣から聞こえているのだと気が付いた時。

 

 

 ――――全集中・風の呼吸――――

 

 

 あ? と声を上げたのは、誰だっただろうか。

 瑠衣が刀を振り上げたと思った瞬間、室内にも関わらず強烈な風が渦を巻いた。

 それは数秒で収まり、突風に閉じた目を開けた時、武雄の視界に入ったのは。

 

「ごめんなさい、警官さん。私、1つだけ嘘を吐きました」

 

 どたりと、床に落ちる正二の身体。首から上がなかった。

 あるべき頭部は、別の場所に転がっていた。

 それと、瑠衣の背中。ふわりと待った羽織の奥に、「滅」の一字。

 明かりの下、瑠衣の持つ刀は深緑に煌めいていた。

 

「私が探していたのは、人じゃありません」

 

 正二、と兄が声を上げていた。

 床を這うように弟へと近付き、頚を失った身体に縋りつく。

 だがその身体も、ぼろぼろと()()()()()

 あまりにも現実離れした光景に、武雄は自分の呼吸が荒くなっていくのを感じた。

 

 これはいったい、何なのだ。

 自分はいったい、何を見ているのか。

 嫌な汗が止まらない。

 こんなことが、現実だというのなら。

 

「この人殺し! よくも私の弟を……! 誰か、誰か来てくれ――ッ!」

 

 兄が、何事かを叫んでいる。

 人殺しと。

 瑠衣が、あの真っ直ぐな目の少女が人を殺したのか。頚を刎ねて殺したのか。

 だがあれは、あの時の正二は、人だったのか。

 

「……私が、探していたのは……」

 

 哀しそうに笑って、瑠衣は()()()を告げた。

 そして、武雄は――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 武雄は全てを話し合えた後、すっかり温くなった酒を一息に飲み干した。

 それでも刺激が強かったのか、顔を顰めている。

 

「……あの後すぐに妙な連中が来て、他言しないように言われたんです」

 

 武雄の証言を聞く者もいなかった。

 書き上げた報告書はそもそも受理されなかったし、商家は屋敷ごとどこかへ消えた。

 休職扱いになったのも彼自身の意思ではなく、周囲が荒唐無稽な証言を続ける彼を煙たがったせいだった。

 武雄にはもう、戻る場所もなかったのだ。

 

「虚しくなりました」

 

 頭を抱えるようにして、武雄は言った。

 

「俺は警官として、人々を守っているつもりでした。それなのに……」

 

 正直、三郎は武雄の話の全てを信じたわけではなかった。

 だが、彼が強い挫折感を感じているのはわかった。 

 何か言葉をかけてやりたかったが、上手い言葉が見つからなかった。

 

「本当に守っていたのは、彼女のような存在だったんです」

 

 無力感、というやつだろうか。

 この世には自分が思っている以上の悪意があって、自分はそれを何も知らず、警官として市民を守っていくのだと調子の良いことを考えていた。

 しかもそれは、自分にはどうすることもできないことだった。

 

「だから、警官でいたくなくなったのか?」

 

 ぽん、と肩を叩いた。

 

「だがな、お前のやってきたことだって……」

「……違うんです」

「なに?」

「いえ、それもあります。でも俺が許せなかったのは……」

「許せなかったのは?」

「何も、言えなかったんです」

 

 言ってあげられなかった、と武雄は震える声で言った。

 

「あの時、商家が彼女を人殺しと罵った時……俺、何も言ってあげられなかったんです。正直、何が起こったのかわからなかったけど。でも彼女が俺を救ってくれたのは間違いがなかったはずなんです」

 

 商家の兄が瑠衣を罵った時の、彼女の哀しそうな顔が忘れられない。

 あの時、武雄はあまりの恐怖に震えていることしかできなかった。

 どうして言えなかったのだろう。

 きみは人殺しなんかじゃない。助けてくれてありがとう。

 

 今、外は夜だ。

 彼女は今も、どこかで正二のような存在から人々を守っているのだろうか。

 あの、「鬼」という化け物と、戦っているのだろうか。

 願わくば、願わくば彼女に救われた人々が、自分のような臆病な人間ではありませんように。

 彼はせめて、それだけを祈ったのだった。

 

 ――――どこかで、鴉が鳴いたような気がした。




最後までお読み頂きありがとうございます。
早速ですが、今作の読者投稿キャラクターを募集します。

名付けて「お館様の剣士募集」及び「無惨様の鬼募集!」(違)
皆さんはお館様と無惨様のどっちが好きですか!?

共通項目:性別・容姿・年齢。
※性格・背景もあればイメージがしやすく助かります。

剣士の場合:使用する呼吸。

鬼の場合:血鬼術の有無。その内容。

また「死に方」の希望があれば教えて下さい。

条件:
・投稿はメッセージのみでお願い致します、それ以外は受け付けませんのでご了承ください。
・締切は2020年1月17日の正午きっかりです。それ以降は受け付けませんのでご了承ください。
・ユーザーお1人につき剣士・鬼は1人ずつ(合計2人)迄です。

注意事項:
・投稿キャラクターは必ず採用されるとは限りません。採用・不採用のご連絡も致しません。
・原作的に投稿キャラクターも死ぬ可能性があります。
・投稿・相談は全てメッセージにて受け付け致します、それ以外は受け付けませんのでご了承くださいませ。
・私の描写力により「あれ? 自分のイメージと違う」的なことも起こり得ますが、予めご了承下さい。
以上の点につきまして、予めご了承下さい。

それでは、今作でも皆様の応募をお待ち致しております。


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第2話:「鬼狩り」

早速ですが原作との相違点があります。
ご注意下さい。


 鬼、と呼ばれる存在がいる。

 人間よりも遥かに強い力を持ち、時として人間に害をなす存在として、古くから恐れられてきた存在である。

 しかし時は大正。

 鬼は多くの神や妖怪同様、子供騙しのお伽噺に過ぎなくなっていた。

 今や大人も子供も「そんなものいるわけがない」と笑い飛ばしてしまう。

 

 しかし、鬼は実在する。

 

 彼らは今も闇に潜み、人を襲い、喰らっていた。

 神隠し。未解決の誘拐事件。その多くは鬼の手によるものである。

 そんな鬼の魔の手から、人々を守るべく戦う者達がいた。

 背に「滅」の一字を背負い、日輪の刀で鬼を斬る。

 彼らの存在を知る人々は、畏敬の念を込めて彼らをこう呼んでいた。

 

 ――――鬼狩り、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ちゅんちゅん、と、小鳥の鳴く声が聞こえる。

 障子越しに柔らかな光が部屋に差し込んでいて、陽がすっかり昇り切っていることを教えてくれる。

 8畳の広さの部屋には畳特有のい草の香りに加えて、部屋の主のものなのだろう花の香りが微かに漂っている。

 桐箪笥や鏡台等の家具類の他、古びた市松人形と女性の色が見える一方で、刀掛けに置かれた日本刀が異彩を放っていた。

 

 それから、布団だ。

 こんもりと膨れたそれは中に誰かがいるのは明白で、しかもスースーという規則正しい寝息まで聞こえていた。

 枕のあたりで長い黒髪が乱れ散っていて、女性らしいというのもわかった。

 やがてそれはもぞもぞもと動き出し、ごろりと寝返りを打ったようだった。

 

「う――……ん」 

 

 寝返りの拍子に布団から顔を出し、眠たげに目を擦る。

 すると障子越しの陽の光が顔にかかり、うっと小さく声を上げた。

 そこで初めて薄目を開けて、自室の天井をぼんやりと眺め始める。

 しかしそこまでだったようで、障子に背を向ける形で再び寝返りを打ち、目を閉じた。

 いわゆる二度寝というやつで、すぐに規則正しい寝息が……。

 

「…………うわあっ!?」

 

 聞こえたところで、掛け布団が跳ね上がった。

 中から飛び出してきたのは、薄い花柄の襦袢を着た少女だった。

 背中にかかる程の長い黒髪に、赤みがかった瞳。

 瑠衣だった。

 

 彼女は陽がすっかり高くなっていることに気が付くと、見るからにあわあわと慌て出した。

 それでもこうしてはいられないと思い立ったのか、布団を畳み、部屋の隅へ運ぶ。

 鏡台に座って櫛で髪を梳かして、襦袢を変えて着物を用意し、と大忙しだ。

 驚きなのは、それらの動作を大した足音も立てずに行っていることだろうか。

 

「えーと……」

 

 それまで手早く身支度を整えていた瑠衣だが、ふと手を止めた。

 着替えを済ませて髪をまとめる段になって、小箱の前で人差し指を前後左右に揺らす。

 どうやら、髪留めを選んでいるらしい。

 細工はそれぞれに違うが、瑠璃色の髪留めというのは共通していた。

 やがて1つを選び取ると、鏡の前で髪を一束ねにし、右肩の前に垂らした。

 

「よしっ」

 

 胸の前で握り拳を作り、身嗜みが整ったことに満足げな表情を浮かべた。

 そこから数歩移動して、刀掛けに置かれていた日本刀を手に取った。

 それなりの重さのはずだが、そうは感じさせない手の動きだった。

 僅かに抜くと、刃毀(はこぼ)れ1つない深緑の刀身が現れた。

 

 刀身に映る自分の顔。

 白い顔だ。大人びているようでもあり、幼いようでもある。

 そこに何かを見るように目を細めて、刀身を鞘に戻した。

 そして刀を持ったまま振り向いて――――ゴッ、と、足先を箪笥にぶつけた。

 あっ、と思った時には、もう遅かった。

 

「~~~~~~~~ッッ!!」

 

 声にならない悲鳴が、響き渡った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼殺隊(きさつたい)

 人喰いの鬼を狩る「鬼狩り」達の集団。

 その原型は戦国の世には出来ていたともされる、政府非公認の組織。

 数百人の隊士からなる巨大な組織だが、その存在を知る人間はほんの一握りである。

 

 そして煉獄家は、その鬼殺隊における名門ともいうべき家である。

 鬼殺隊の黎明期から現在まで「炎の呼吸法」を伝えており、その歴史の長さ、そして()()という点において他の呼吸法の追随を許さない。

 隊の最高幹部を示す称号「柱」。その一席が煉獄家の指定席とすら言われるのはそのためだ。

 瑠衣は、その煉獄家の一員として鬼殺隊に属しているのだった。

 

「おかわりだ!」

 

 広々とした居間に、若い男の声が響いた。

 獅子の鬣のように波打つ明るい色の髪に、相当に鍛えているのか胸板は厚く、身長も相まって威圧感さえ感じられる。

 煉獄杏寿郎(きょうじゅろう)、年は20。

 笑顔で突き出されたお茶碗を受け取り、瑠衣はしゃもじ片手に笑った。

 

「兄様、もう8杯目です。朝から少し食べ過ぎですよ」

「そうか! だが瑠衣の作ってくれた飯が美味いからな!」

 

 正座した瑠衣がお(ひつ)からよそうのは、さつま芋ご飯だった。

 瑠衣は口では食べ過ぎを心配して見せたが、8杯目のそれを嬉しそうに受け取る杏寿郎の顔を見ると、それ以上は止める気にならなかったようだ。

 一口食べる事に「うまい!」と褒められるのも、満更ではない様子だった。

 

「でも姉上。昨日は遅くに任務から戻ったばかりなんですから、今日くらいは休まれていても良かったのに。食事の支度なら僕でもできますから」

 

 瑠衣にそう言葉をかけたのは、杏寿郎をそのまま小さくしたかのような少年だった。

 煉獄千寿郎(せんじゅろう)、杏寿郎と瑠衣にとっては弟に当たる。

 こちらは顔立ちにまだあどけなさをはっきりと残していて、口元にご飯粒までつけていた。

 米粒を指先で取ってやりながら、瑠衣は言った。

 

「そんなヤワな鍛え方はしていないから、大丈夫。それより、千寿郎はあと3杯は食べなきゃダメよ。小食じゃ立派な剣士になれないんだから」

「姉上だって1杯しか食べないじゃないですか」

「女子は小食でも立派な剣士になれます」

「それはちょっと理不尽なような……」

 

 長男(杏寿郎)長女(瑠衣)鬼殺隊士(鬼狩り)で、次男(千寿郎)はいわば隊士見習いというのが、煉獄家の子供達だった。

 鬼殺隊には入隊する者はそれぞれに多様な事情を抱えているが、「家業だから」という理由で、生まれた時点で入隊が決まっている者は稀だ。

 そして瑠衣達自身もまた、己が鬼狩りとして生きていくことを微塵(みじん)も疑っていない。

 

「3人とも」

 

 しかしだ。そうは言っても若造に小娘、そして子供だ。

 剣士としても、人間としてもまだ未熟だ。

 鬼狩りの名門・煉獄家の人間として、鬼殺隊の支柱となるにはまだまだ早い。

 今はまだ、彼らの代ではなかった。今は……。

 

「仲が良いのは良いことだが、もう少し落ち着いて食べなさい」

「「「はい」」」

 

 3人が素直に頷いた先、上座に1人の男が座っていた。

 杏寿郎や千寿郎によく似た――というより、2人がこの男性に似ていると言うべきか――男で、2人が年を重ねればこうなるだろう、という容姿だった。

 彼の名は煉獄槇寿郎(しんじゅろう)

 瑠衣達3人の父親にして、鬼殺隊において「炎柱(えんばしら)」の称号を持つ男である。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 柱とは、数百人いる鬼殺隊士の中で最も位の高い剣士である。

 人数は最大で9人。まさに鬼殺隊を支える支柱ともいうべき存在だ。

 炎の呼吸法を伝承する煉獄家は、代々炎の柱、すなわち「炎柱」を輩出している。

 今の代の炎柱こそが、この槇寿郎というわけだ。

 

 齢はすでに40を数え、さらに柱となって10年を超えている。

 引退した隊士達を除けば、槇寿郎は鬼殺隊最古参の剣士と言っても過言ではなかった。

 年齢を重ねても剣技に衰えの色は見えず、頸を狩った鬼も百や二百ではきかない。

 全鬼殺隊士の尊敬を一身に集める父・槇寿郎のことを、3人の子供達も一様に尊敬していた。

 特に瑠衣はそうだった。

 

「あの、父様。おかわりはいかがですか?」

「そうだな。貰おうか」

 

 ほう、と、瑠衣は溜息を吐いた。

 片手にしゃもじを持ったまま、もう片方の手で頬を押さえている。

 気のせいか、微かに頬の赤みが増しているようだった。

 

(父様、今日もカッコ良いなぁ)

 

 杏寿郎や千寿郎の親だけに、槇寿郎もまた整った顔立ちをしている方だ。

 鍛えているせいもあるのか、肉体も年齢による衰えを感じさせない。

 数年前に妻――瑠衣達にとっては母にあたる――に先立たれてから、再婚話も毎年のように持ち上がって来る程だ。最も、もちろん槇寿郎はその全てを断っていたが。

 ただ、瑠衣が見ているのはそういうところではないようだった。

 

(またお(ひげ)が残ってる……)

 

 顎の下、その左右である。他は綺麗に剃られているのにそこだけ数本の剃り残しがあった。

 見えにくい位置だ、不器用な人間には辛いところだろう。

 そこにいるだけで空気が緊張する感すらある槇寿郎だが、よくよく見てみると、そういうところがちらほらと見えていた。着物の衿とか。

 

 そんな父の不器用(ダメ)な部分が気になって仕方がないのか、瑠衣はもじもじとしていた。

 理解していない顔の父、生温かい目で見守る兄弟。

 穏やかな時間。

 こういう何でもない時間が、瑠衣は好きだった。

 

「父様、今日は」

 

 手を打って、瑠衣が槇寿郎に話しかけた時だった。

 

「ガア――――――――ッ!」

 

 外から、けたたましい鴉の鳴き声がした。

 瞬間、その場にいる全員の表情が変わった。

 杏寿郎が立ち上がり、勢いよく障子を開けると、廊下に1羽の鴉がいた。

 ()はそのまま室内に飛び込んでくると、また鳴いた――いや、()()()

 

「任務――ッ。杏寿郎! 瑠衣! 任務デアルッ。ソレゾレ指定ノ地ニ向カエッ」

 

 鎹鴉。

 鬼殺隊士の連絡手段であり、特別な教育を施された鴉だ。

 中でも煉獄家の鴉は個々人につく一般の鴉と違い、いわば血統書付きの鴉だ。

 同じ血統の鴉が連綿と煉獄家を担当していると言えば、わかりやすいだろうか。

 

 そして鎹鴉の告げる任務とは当然、鬼狩りである。

 鬼殺隊士はいついかなる時であろうと、鴉に任務を告げられれば従わなければならない。

 ()()()()()()()()()()()、だ。

 鬼を野放しにすれば、人が死ぬ。それを防げるのは鬼殺隊士だけなのだから。

 

「任務か、承知した! 瑠衣、10杯目はまた今度にしよう!」

「はい兄様。それでは父様、行って参ります」

「うむ」

「あ、後片付けは僕がやっておきます。兄上も姉上もお気をつけて」

「ありがとう、千寿郎」

 

 床に伏して父に礼をし、笑顔を浮かべて千寿郎に礼を述べて。

 そして、杏寿郎の背を追った。

 

「瑠衣! 長治郎によると俺は南、お前は北のようだ!」

「はい、兄様」

「お前なら特に心配はしていないが」

「わかっています、兄様」

 

 兄の言葉に、瑠衣はにっこりと笑って言った。

 

「見鬼必滅。鬼は見つけ次第に頚を斬ります」

 

 鬼を逃がせば人が死ぬ。

 そのことを、瑠衣は身をもって知っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼殺隊士の移動は、基本的に徒歩である。

 理由としては、鬼殺隊が政府非公認の組織であることが大きい。

 今は廃刀令の時代、帯刀して堂々と移動することは難しい。

 なるべく目立たないよう、密かに移動するに越したことはないのだ。

 

「これはまた、自然豊かというか何というか」

 

 もちろん、それだけが理由ではない。

 鬼も普段は人の目を忍んで生きるので、都市部からは離れた場所に縄張りを持つことが多い。

 要するに駅があるような大きな町は、食事には困らない代わりに見つかるリスクも高いのだ。

 大勢の人間に見つかってしまうと、不死身の鬼と言えど色々と不都合が出てくる。

 

 そうなると、鬼殺隊士の任務も地方でのものが多くなってくる。

 例えば瑠衣が今いるような――数軒の人家と田んぼがあるのみの――寂れた農村だ。

 こういう場所では、人が鬼に襲われても「野生の動物の仕業だろう」ということで済まされることが多く、鬼殺隊に情報が伝わらないということもままある。

 当然、鉄道の駅などはない。

 あるいは最寄りの町までは鉄道を使ったとしても、最後は結局徒歩になるのだ。

 

「カア――ッ! コノ村周辺ノ山ニ、鬼ガ潜ンデイル!」

 

 すぐ頭上で、鎹鴉の長治郎が鳴いている。

 この農村は四方を山に囲まれていて、人の往来も少ない。

 木造の古びた家々以外には、のどかな自然が広がっているばかりだった。

 

「夜毎ニ鬼ガ啼ク! 村人達ガ怯エテイルッ、カア――!」

「鬼が啼く……? どういうこと?」

「不明! 不明! 調査ガ必要ッ!」

 

 調査となると、まず聞き込みから始めなければならないだろう。

 まあ、幸か不幸か小さな農村だ。

 そう時間はかからないだろうと、そう思った時だった。

 

「うん?」

 

 道を進んでいると、誰かの後ろ姿が見えた。

 村人かと思ったが、すぐに違うとわかった。

 瑠衣と同じ、背中に「滅」の一字を背負う黒い詰襟を着ていたからだ。

 鬼狩りの刀を腰に差しているのも見える。

 

 鬼殺隊士だ。

 基本的には1人で行動することが多い鬼殺隊士だが、時として共同で任務に当たりことがある。

 相手の鬼が強かったり、捜索範囲が広かったり、理由は色々だ。

 そしてその後ろ姿は、瑠衣の知っている人間だった。

 

「――――獪岳(かいがく)さん!」

「ああ?」

 

 こんな場所で呼び止められると思っていなかったのだろう、その青年は不審げに振り向いた。

 ツンツンと跳ねが強い黒髪に、どこか皮肉そうな色を浮かべた瞳。

 首元に勾玉の飾りをつけていて、陽の光を反射していた。

 顔立ちは整っている方だと思うが、険しく立てられた眉のせいかキツい印象を受ける。

 瑠衣が傍まで駆け寄ると、表情はさらに険しさを増した。

 

「お久しぶりです、獪岳さん。最終選別以来ですね」

 

 最終選別というのは、隊士見習いの卒業試験のようなものだ。

 鬼のいる山で7日7晩生き抜くというのがその内容で、突破率は良くて3割というところだ。

 瑠衣はその最終選別の際、この獪岳という青年と一緒だった。

 わかりやすい言い方をすれば、鬼殺隊の同期である。

 

「……獪岳さん?」

 

 最も、同期だから任務まで一緒になるというわけではない。

 会わない時は会わないもので、実際、瑠衣と獪岳は今日まで任務を共にしたことがなかった。

 しかし再会を素直に喜んで見せる瑠衣に対して、獪岳は険しい表情のままだった。

 そして、不思議そうに首を傾げる瑠衣にこう言った。

 

「気持ち(わり)い奴」

 

 ビキッ、と、どこかから音が聞こえたような気がした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 一瞬、空気が死にかけた。

 しかしすぐに持ち直して、瑠衣は口元に手をやって微笑んだ。

 

「獪岳さんもお元気そうで何よりです」

 

 どうやら聞かなかったことにしたらしい。

 それはそれは完璧な微笑みで、大抵の者が今の瑠衣を見れば、悪い気にはならないだろう。

 しかし、獪岳は違ったようだった。

 

「気持ち悪い」

 

 二度目だった。

 流石に繰り返されると思うところもあるのか、瑠衣の眉がピクリと動いた。

 しかし微笑みは崩さない。

 それを見て、獪岳はようやく振り向いた。

 こちらの表情は皮肉そうな、どこか人を見下すようなそれだった。

 

「何だ、お前。その気持ち悪い喋り方はよ。そもそも俺に気安く話しかけてくるんじゃねえ」

「……(たしな)みですよ。獪岳さんは、選別の時から変わっていませんね」

「ハッ、嗜みね。まあまあ良い(トコ)のお嬢さんらしくなったってことか。俺を獪岳()()とか気持ち悪い呼び方をするところなんてよ」

「同期同士にも礼儀は必要でしょう?」

「同期同士?」

 

 上空で、2羽の鴉が飛んでいた。

 瑠衣の鴉と、獪岳の鎹鴉だろう。

 地上の2人とは違って、親し気な様子で鳴き合っている。

 お互いの近況でも話し合っているのだろうか。のどかなことだ。

 

 瑠衣は、目の前の獪岳をじっと見つめていた。

 今の会話でも十分だったが、この同期の青年はどうも口が良くない。

 昔からと言えばそうだが、これでは……。

 

「ハハッ。まさかお前、自分が俺と同格だとか思ってんのか?」

「……ッ」

 

 突然、口元に当てていた手を掴まれた。

 動きが速く、避ける間もなかった。

 手首を強く握られて、流石に痛みに顔を(しか)めた。

 ぎりぎりと、骨が軋む程の力だった。

 

「こんなに弱いくせに?」

「……痛いです。手を放してください」

「痛い? この程度で痛がってる奴が鬼を狩れるのかよ。良い家のお嬢さんはそれでも出世できるんだからな、楽で羨ましいぜ。炎の呼吸の家に生まれて、でも()()()()()使()()()()のにな」

「…………獪岳さん」

「お? 怒ったのか?」

 

 瑠衣の顔を覗き込むようにして、獪岳が哂った。

 微かに、本当に微かにだが、腕が瑠衣の側に動いていた。

 瑠衣が、腕を引いている。

 

藤襲山(ふじかさねやま)の最終選別もそうだったな、お前は……」

「……()()

「ハハッ、怒ったのかよ? いいな、久しぶりに見せてみろよ。本性をよ」

「いい加減に」

 

 互いの腕から、不穏な音がして。

 ――――その時、2人の間におにぎりが差し入れられた。

 

 ◆  ◆  ◆

 

 おにぎりを差し入れて来たのは、瑠衣や獪岳と同じ詰襟を着た女性だった。

 腰に刀もある。鬼殺隊士だ。

 流石に3人目の隊士がいるとは、予想していなかった。

 

「まあまあ、2人とも落ち着いてください。おにぎりでも、どうぞ」

 

 そして、おにぎりである。

 竹の皮で包んだそれは、良いお米を使っているのだろう、白く輝いているように見えた。

 その女性は、それを瑠衣と獪岳の間に差し出していた。

 あまりにもいきなりだったので、瑠衣も獪岳も面食らっている様子だった。

 

 毒気を抜かれたのか、獪岳が舌を打って瑠衣の手を放した。

 おにぎりには手をつけず、そのまま背を向けてしまう。

 女性隊士はそれに少し傷ついた様子で、瑠衣に縋るような目を向けてきた。

 

「おにぎり……」

「えーと……はい、いただきます」

 

 断るのも忍びなくなって、瑠衣はおにぎりを1つ手に取った。

 期待に満ちた眼差(まなざ)しの圧力を感じつつ、おにぎりを口につけた。

 すると。

 

「あ、美味し……」

 

 と、思わず口をついて出てしまった。

 程よい固さに握られたお米に、口に含んだ途端に竹の風味が広がって、そして控えめな塩の味。

 正直、自分よりも上手だと瑠衣は思った。

 ちらりと女性隊士の顔を見ると、とても明るい笑顔を浮かべていた。

 どやさ。 

 

「初めまして。私の名前は祭音寺(さいおんじ)柚羽(ゆずは)と申します。よろしくお願いしますね」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。煉獄瑠衣、お気軽に瑠衣とお呼びください」

 

 おにぎりを食べ終えた後、改めて自己紹介を交わした。

 なお、獪岳は背を向けたまま無視していた。

 

「村の皆さんへの聞き込みは私の方で終わらせてあります。私はお2人よりも1日早く到着したので、その間に」

 

 柚羽は、左目に眼帯を着けていた。

 見えないのか怪我なのかはわからないが、鬼殺隊士は互いの傷に触れないのが不文律だ。

 だから瑠衣は聞かなかったし、柚羽も説明はしない。

 ただ(あら)わになっている右目は、紫水晶のように美しい瞳だった。

 

 それから、瑠衣と同じように羽織を着ていた。桜柄の可愛らしい羽織だ。

 2つに分けられた長い髪は、髪先が陽に当たると蒼く透けて見える。

 おにぎりには面食らったが、話しているとこちらまで優しい気分になる。

 そんな女性だった。

 

「それによると、どうも鬼は複数体いるようなのです」

「複数?」

 

 柚羽の言葉に、瑠衣は首を傾げた。

 鬼は基本的に群れを作らない。

 生き物としての習性なのか、縄張り意識が強いのか、鬼同士が同じ場所にいると争い始める。

 だから複数の鬼が同じ場所にいるのは、非常に珍しいことだった。

 

「私も昨晩、確認しました。確かに複数の鬼の声が明け方まで断続的に聞こえてきました」

「ハッ、鬼がいるのをわかっていて狩りに行かなかったのか。カスだな」

「…………獪岳さん」

「ああ? 何だよ、本当のことを言って何が悪い?」

「いえ、ちゃんと話を聞いてたんですね」

「…………」

 

 などというやり取りをよそに、柚羽は指を3本立てた。

 3体。

 それが、この地に巣食う鬼の数だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 山は思ったよりも険しく、森は深かった。

 太い幹の木々がいくつも並び、道らしい道もない。獣道くらいだ。

 幸い陽光は木々の隙間から十分に漏れていて、足元を確認しながら進むことができた。

 邪魔な枝や蔓は、村で借りることができた鉈を振るって切り落としていく。

 

「長治郎のおかげで、帰り道の心配がないのだけは有難いけど」

 

 ともすれば道に迷ってしまいそうだが、鎹鴉の支援があればまずそんなことは起こらない。

 しかし鉈で道を切り開かなければならない程に、人が通った形跡がない山だ。

 農村の者達も、鬼を恐れて近付かないのだろう。

 まあ、村人達が言っているのは伝承や言い伝えとしての鬼だが。

 

 あの後、3体の鬼を1人ずつ相手にしようということになった。

 3人で1体ずつ相手すれば良いと思うかもしれないが、できない理由がいくつかあった。

 まず、獪岳が瑠衣や柚羽と協力して鬼を狩ることを拒否したこと。

 1体を狩れば他の2体が逃げてしまうことが考えられるので、なるべく同時に狩る必要があったこと。

 

「それにしても……人もだけど、鬼も通った形跡もないなんて」

 

 鬼は基本的に人間と同じ姿をしている。

 身体能力は比較にすらならない程に高いが、夜毎に啼き喚くような鬼が、痕跡を残さないように移動するような警戒心を持っているとは思えない。

 というか、そもそもどうして夜に啼くのか? それも3体もだ。

 

「うーん……」

 

 しばらく進んでいくと、瑠衣はあるものを見つけた。

 山の岩肌に深い亀裂があり、中はどうも洞窟になっているようだった。

 見上げると木々の間から青空が見える。まだ陽は高い。

 鬼は陽の下を歩けないので、昼間はどこか陽光の射さない場所に籠る習性がある。

 太陽の下に晒されれば死ぬ。それが鬼だ。

 

「絶好の隠れ場所、ですよねえ」

 

 亀裂の端に、何かで引っ掻いたような傷もあった。

 近付いて中を覗くと、思ったよりも深く、暗そうだった。

 調べないわけにもいかないが、同時に背筋が冷たくなる程の危険も感じる。

 幸いマツの枯れ枝には困らなかったので、火打袋――煉獄家の家紋つき――から道具を取り出して、松明を作った。

 

「さて……」

 

 洞窟の中に光源はない。松明の光も頼りない。

 正直、かなり入りたくない。

 ふう、と息を吐いて、瑠衣はそれでも一歩を踏み出した。

 陽が落ちればそれこそ危険だ。躊躇(ちゅうちょ)している暇はなかった。

 

 洞窟は、奥に進む程に広くなっているようだった。

 剥き出しの岩が四方にあり、圧迫感を強く感じる。

 狭い場所が苦手な人間なら、ものの数分で発狂しかねなかった。

 まあ、そういう人間はそもそも洞窟になど来ないだろうが。

 

「うわっ」

 

 ばさばさと音がするから何かと思えば、天井のあたりに蝙蝠が張り付いていた。

 山の洞窟なので当たり前と言えばそうだが、それでも気味が悪かった。

 しかも洞窟はまだ先がありそうなのに、松明の火が揺らいできていた。

 もう一本、作っておけばよかったかもしれない。

 そんなことを考えた時だった。

 

「ん……」

 

 また、ばさばさという音が聞こえた。

 今度は先程よりも大きい、距離が近いというよりは、音の源が()()()

 瑠衣が()()の気配に気付き、はっとした時には。

 

「――――ッ!」

 

 バシンッ、と、松明を持つ手に衝撃が走った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そもそも、何故3体の鬼がこれほど近い3つの山に巣食っていたのか。

 3体の鬼の1体――土の中に潜んでいたので土鬼と仮称しよう――が、相対した柚羽に対して、それはもうベラベラと話してくれた。

 一言で言えば、縄張り争いだったらしい。

 

「ゲーゲッゲッ。あの村には俺が一番最初に目をつけたんだ! それを後から来たアイツらが邪魔しやがったんだ!」

 

 土鬼は陽光を避けて地中に潜んでいるようで、話すのも地中からだ。

 だから姿は見えないが、空腹だったのだろう、通りがかる形になった柚羽を狙った。

 地中に穴を掘っており、柚羽を引きずり込んで喰うつもりなのだ。

 まあ、生きるために獲物を必死に探すというのは生きとし生けるもの全ての共通事項だ。

 

 これが狐や狼であったなら、あるいは柚羽も自然の摂理というものを感じたかもしれない。

 しかし相手は鬼であり、そして柚羽は鬼殺隊士だった。

 だから彼女は、刀を両手で振り被った。

 その口から、風が逆巻くような独特の音が響いている。

 次の瞬間、柚羽の足元が崩れた。土鬼が穴を掘り、土を崩したのだ。

 

「貴様も俺のエサになれえッ!!」

「馬鹿も休み休み言いなさい。誰が貴方のエサになどなるものですか」

 

 ――――水の呼吸・捌ノ型『滝壺(たきつぼ)』。

 しかしその時には、すでに柚羽は斬撃を繰り出していた。

 遥か高所より水流を叩き付けるような、まさに滝の如く重い一撃が、穴の底でぎょっとした顔をする鬼の顔面に叩き込まれる。

 

「貴方に食べさせる御飯はありませんよ」

 

 地の底から、この世のものとは思えない断末魔が響き渡る。

 柚羽の涼やかな顔に、鬼の血が飛び散った。

 

「手間をかけさせるんじゃねえよ、ゴミが」

 

 ――――雷の呼吸・弐ノ型『稲魂(いなだま)』。

 一方で、獪岳は相手の言うことをごちゃごちゃと聞くつもりはなかったらしい。

 山中の崩れたお堂に潜んでいた鬼を見つけるや、一言も発さずに刀を抜いた。

 そして、抜いた時には鬼の四肢と頚がバラりと床に散らばった。

 瞬きの間に連続の斬撃を繰り出し、鬼の身体をバラバラに切り裂いたのだ。

 

 獪岳の刀身は黄色く、また稲妻のような独特の紋様が走っていた。

 彼の刀と瑠衣の刀は「日輪刀」という括りでは同じ刀だが、持ち主の性質によって色や紋様が変わることがある。だから日輪刀は「色変わりの刀」とも呼ばれる。

 太陽に最も近き山、陽光山の鉄で打たれた特別な刀だ。

 超越生物である鬼を倒せる、ほとんど唯一の武器とされている。

 

「ちっ。こんな雑魚鬼じゃあ、いくら狩ったって意味がないぜ」

 

 鬼は陽の光を浴びると溶けて消える。

 日輪刀は陽の光を吸収する特殊な鉄で打たれているため、これで頚を斬られると、鬼は陽光を浴びたかのように消滅するのだ。

 獪岳が斬り捨てた鬼も、ボロボロと崩れて消えていく。

 

「これで瑠衣(あいつ)の方に大物が出ていたら、やってられねえよ」

 

 超常の鬼を一蹴したというのに、喜んだ様子もなく。

 むしろ不満そうに鼻を鳴らして、獪岳は刀を鞘に納めるのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

(ケケケッ、馬鹿が! ノコノコ入って来やがった!)

 

 その鬼は、両腕を蝙蝠の羽のように変形させていた。

 そして暗闇の中でも周囲の様子を探れるようで、松明を叩き落とされて固まっている瑠衣の様子も、彼には手に取るようにわかっていた。

 人間は本当の暗闇では、何もできないのだ。

 

 彼――蝙蝠鬼と呼ぶが――は、瑠衣が洞窟に入った段階で彼女の存在に気付いていた。

 年若い娘の肉は、鬼にとってご馳走である。幸運だと思った。

 まさに垂涎の心地で待ち構えて、隙を見て松明を叩き落とした。

 案の定、明かりを失った瑠衣はその場から動けずにいる。

 

(そのまま、死ねえッ!!)

 

 油断か過信か、あるいは空腹のせいか、蝙蝠鬼は一拍も置かずにトドメを刺しに行った。

 フェイントも何もなく、瑠衣の急所を狙う。

 結果的には、それが不味かった。

 

(…………何だ?)

 

 瑠衣との距離が縮まるにつれて、蝙蝠鬼の聴覚は奇妙な音を捉えた。

 突風が吹き荒ぶような、長い音だ。

 空気の(よど)む洞窟の中で、突風が吹くなどはあり得ない。

 ならば、どこから聞こえるのか。

 

()()()()()()()

 

 全集中の呼吸。

 それは鬼殺隊士が習得する、特殊な呼吸術のことだ。

 強靭な心肺により脈拍と血流を速め、鬼に匹敵する身体能力を得る技術である。

 そこへ鬼を狩るための剣術を加えたものを、流派に合わせて炎の呼吸や水の呼吸と呼び分けている。

 

 柚羽が使ったものが「水の呼吸」、獪岳が使ったものが「雷の呼吸」だ。

 それぞれに特色があり、習得には何年にも渡る鍛錬が必要となる。

 ただ人間が不死身の鬼と渡り合うためには、必要不可欠な技術だった。

 そして瑠衣が使用する剣術と呼吸法は、その内の1つ――風の呼吸法。

 

(――――まず)

 

 蝙蝠鬼が気付いた時には、何もかもが遅かった。

 その時にはすでに、瑠衣は刀を抜いていた。

 風の呼吸の適性を示す深緑の刀身、蝙蝠鬼の視界にそれが映る。

 そして刀身が映った次の瞬間、蝙蝠鬼の視界がいくつにも()()()

 

 ――――風の呼吸・肆ノ型『昇上(しょうじょう)砂塵嵐(さじんらん)』。

 瑠衣の足元から、不可視の斬撃が四方八方に吹き上げた。

 風が触れたと蝙蝠鬼が感じた瞬間には、彼の顔と肉体は、鎌鼬(カマイタチ)に裂かれたかのように幾本にも切断されていた。

 もちろん、頚と胴も離れている。

 

「次はもっと上手くやれるといいですね」

 

 次などないとわかっている癖に。

 何て嫌な女だ。

 そしてそれが、蝙蝠鬼が感じた最後の思考だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――瑠衣が任務に出かけて10日後の正午、煉獄邸・門前。

 門前を箒で掃き清めていた千寿郎は、酷くそわそわとしていた。

 落ち着かない様子で道の向こうを眺めていたかと思えば、すでに掃き終えた門前をまた掃いたりしている。

 そして鴉の鳴き声が聞こえると、ぱっと顔を上げて。

 

「姉上!」

 

 箒を抱えたまま、駆け出した。

 鎹鴉の長治郎がガアガアと鳴き声を上げる中、道の向こうから瑠衣の姿が見えたのだ。

 瑠衣の方も、駆け寄ってくる千寿郎の姿を認めると、明るい表情を浮かべて手を上げた。

 

「姉上、おかえりなさい! お怪我はありませんか?」

「ただいま、千寿郎。大丈夫、この通りピンピンしてるよ」

 

 むん、と腕を掲げて見せると、千寿郎は安心した表情を浮かべた。

 実は蝙蝠鬼を斬った後、松明を失い、長治郎の鳴き声を頼りに洞窟の外へと這い出ることになった瑠衣。

 蝙蝠のフンやらなにやらで色々と大変だったのだが、そこは姉として包み隠した。

 できれば弟の前では格好をつけたいし、父や兄に格好の悪い話は聞かせたくない。

 

「兄様も帰ってきてる? 父様は?」

「あ……」

「千寿郎?」

 

 槇寿郎と杏寿郎のことを聞くと、千寿郎は表情を暗くした。

 悲壮なものは感じなかったので、万一のことがあったというわけではないのだろう。

 ただ心配事というか、懸念というか、そういうものがあるという顔だった。

 姉として何年も過ごしているのだ、それくらいはわかった。

 身を屈め、千寿郎の頭に手を置いた。

 

「父様と兄様はどうしたの?」

「あ、その。父上は今日は半年に1度の柱合(ちゅうごう)会議に出席されていて。少し前に1度お戻りになったんですが、またすぐに出かけられました。兄上もそれに着いて行ってしまって」

 

 柱合会議というのは、鬼殺隊の最高意思決定機関である。

 9人の最高位の剣士「柱」が集まって、()()()の御前で情報交換や鬼殺隊の運営等について話し合う会議だ。

 基本的には半年に1度だが、緊急の場合は臨時に開かれることもある。

 ただそれ自体は別に変った話ではなく、瑠衣は先を促した。

 

「その時、父上と兄上の話をたまたま聞いてしまったんです。それが……」

 

 自身も理解が追いついていない、という表情で、千寿郎は言った。

 そしてそれは、瑠衣にもすぐには理解できない内容だった。

 

 

 

「鬼を連れた隊士がいるんだそうです――――」

 




読者投稿キャラクター:
祭音寺柚羽(才原輪廻様)
ありがとうございます。

最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。

炎柱・煉獄槇寿郎いまだ現役!
タグもつけていますがひたすら煉獄家です!
煉獄家は槇寿郎さんが剣士をやめなければもっと凄かったはず!
何でやめてないかはその内に話中に出てくると思います!

そして善逸より先に獪岳、獪岳です!
実は私、彼がとても好きなキャラクターです。
正直、彼の妹を作って主人公にするか悩んだ程です。

それでは、また次回。
剣士・鬼の募集もまだ続けていますので、よろしければご参加下さい。


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第3話:「柱」

 鬼殺隊士の死亡率は高い。

 最終選別を突破した者の内、半分は最初の1年で鬼に殺される。

 そして次の2年間で、さらに半分が死ぬ。

 ばたばたと、死んでいく。

 

 例えば隊士見習いが100人いたとして、最終選別の突破率が3割ならば新人隊士は30人。

 そこから3年後まで生き残るのは、ほんの7~8人ということだ。

 そしてこれはあくまで「良い方」の人数であって、最終選別の突破率が低かったり、例年より鬼の出没が増えればそれだけ死亡率も上がる。

 気が付けば同期は()()()()()()誰も残っていなかった、などということもざらにある。

 

 ただし、例外がいる。

 一般の鬼殺隊士がばたばたと死んでいく中で、けして死なない者達がいる。

 鬼に殺されず、鬼を殺す者達がいる。

 鬼殺隊で最も高い位を9名の剣士。(はしら)と呼ばれる者達。

 

 炎柱・煉獄槇寿郎。

 岩柱・悲鳴嶼(ひめじま)行冥(ぎょうめい)

 音柱・宇髄天元。 

 水柱・冨岡義勇。

 風柱・不死川(しなずがわ)実弥。

 蟲柱・胡蝶しのぶ。

 蛇柱・伊黒小芭内(おばない)

 霞柱・時透(ときとう)無一郎。

 恋柱・甘露寺(かんろじ)蜜璃(みつり)

 

 彼らこそが、本当の意味で「鬼狩り」と呼ばれるべき存在だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 木刀と言えど、打たれれば痛い。

 相手の実力が常人を遥かに超えていれば、なおのこと痛い。

 今まさに、瑠衣はそれを実感していた。

 

「オラオラァどうしたァ! お(うち)じゃ1発入ったら止めて貰えんのかァ!!」

 

 左の胴、脇腹を打たれた。

 痛みを堪えていると続け様に怒声を浴びせられて、次の一撃が来た。

 顔だった。

 しかしそれは、2歩後退することで寸前でかわした。

 鼻先を、比喩でなく木刀の切っ先が掠めていった。

 

「逃げてんじゃねえぞォ!」

 

 ところが、避けたはずの木刀が()()()

 喉を目掛けて突き出されてくるそれに、意識よりも先に手が出た。

 全集中の呼吸、深く長い呼吸音が瑠衣の口から響く。

 

 ――――風の呼吸・陸ノ型『黒風(こくふう)烟嵐(えんらん)』。

 下方からの斬り上げ、相手の木刀を弾くことに成功する。

 室内にも関わらず強い風が吹き上げる。それは瑠衣の斬撃の威力を物語っていた。

 喉への圧力が消えて一息を吐いたその刹那、またも左脇腹に衝撃が来た。

 

「それで凌いだつもりかァ?」

 

 無数の帯革(ベルト)が巻かれた足が、胴を抉っていた。

 本当に骨が軋む音が聞こえた。

 視界が回転し、次の瞬間には道場の床を転がっていた。

 体内の空気が蹴りの衝撃で全て外に出てしまったが、それでも咳き込み続けた。

 唾と涙がとめどなく溢れ、正直、年頃の少女として見せたくはない醜態と言える。

 

「オラ立てェ、鬼は待っちゃくれねぇぞォ」

 

 そして瑠衣をそんな目に合わせているのは、彼女の師だった。

 性格を表すように跳ねの強い髪に、長身で、詰襟の隊服に「殺」の字が描かれた白い羽織を着ている。

 何故か隊服の前を開けていて、首元から腹部までを露出させているのだが、顔も含めて目に入る場所の全てに大小の傷跡がついていた。

 彼を見て、まともな人間だと思う者はいないだろう。

 

 名前は、不死川実弥。風柱である。

 瑠衣の父・槇寿郎と同じ、鬼殺隊最強の剣士の1人だ。

 繰り返すが、彼は瑠衣の「風の呼吸」の師である。

 それが今、木刀を肩に瑠衣を見下ろしている。

 

(お、鬼の方がマシ……っ!)

 

 どうしてこんなことになっているのか。

 それを説明するには、時を少しばかり遡らなければならない。

 具体的には、千寿郎の話を聞いて、父と兄の姿を求めて鬼殺隊の本部――。

 ――産屋敷邸に、足を運んだ時のことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()の御前で行われる柱合会議。

 普段はさしたる混乱もなく行われるそれが、今日に限っては大荒れに荒れた。

 もっとも、厳密に言えば柱合会議()()()()()()()()

 

「今日の柱合会議はなかなかに派手だったな」

「何が派手だァ。あんなガキの言うことを本気で信じてんのかァ?」

「信じちゃいないが、お前の顔に一発入れたな」

「……冨岡の野郎ォ」

 

 柱合会議が行われていたその屋敷――産屋敷(うぶやしき)(てい)と呼ばれる、鬼殺隊の本部――から、3人の男が連れ立って出てきていた。

 全員、鬼殺隊を代表する柱の地位にある人間だった。

 先頭で出てきたのは不死川と、音柱の宇髄である。

 

 宇髄は6尺を優に超える長身で、鍛え上げられた筋肉質な身体つきをしていた。

 隊服を肩口で切り落としていて、分厚い二の腕が露になっている。

 また煌びやかな装身具と左目の派手な化粧も相まって、見る側に酷く賑やかな印象を与えていた。

 不死川もかなり個性的な見た目をしているが、宇髄もかなり個性的と言える。

 

「久しぶりに会ったんだ、今夜どうよ」

「嫁さん達はどうしたァ」

生憎(あいにく)、今日は出払っててな。だから派手に飲み明かそうぜ」

「店に迷惑がかかるだろうがァ」

「そういう意味じゃねえよ」

 

 そして、彼ら2人の後をとぼとぼとした足取りで歩いているのは、霞柱の時透だった。

 若い。

 宇髄も不死川も若いが、輪をかけて若い。まだ少年だった。

 女のような長い黒髪に茫洋とした表情、一回り大きな隊服を着ているためか、全体的にだぼっとした印象を受ける。

 

「……? どうしたァ?」

 

 2人の後をついて歩いていた時透が不意に立ち止まったのを感じて、不死川が振り向いた。

 しかし時透はそれに返事をするでもなく、ぼんやりと他所を向いていた。

 自然、不死川達もそちらを向くことになる。

 

「おっ、あれは煉獄サンとこの」

 

 片手を額のあたりにかざして、宇髄が道先を歩いてくる相手を見つけた。

 その相手は不死川達が自分に気付いたことを知ったのか、その場に立ち止まり、深々と一礼した。

 まとまった黒髪が、するりと地面の方に垂れるのが見えた。

 それに対して、不死川が片眉を上げる。

 

「あんなところで何してんだァ、あいつは」

「任務帰りに、愛しの師匠に会いに来たんじゃねえの」

「馬鹿言ってんじゃねぇよ」

 

 宇髄の軽口に、不死川はそう応じたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何故かはわからないが、不死川が不機嫌そうだった。

 本当に、何故だかわからない。

 自分はただ、不死川達への挨拶を述べた後に。

 

「あの、父はまだ……?」

 

 と、聞いただけなのだ。

 それだけなのに、その瞬間に不死川の機嫌が急降下したのを瑠衣は感じた。

 まるで、そこだけ温度が急激に下がったのではないかと錯覚する程だ。

 ついでに言えば、宇髄が両手で口を押さえてプルプル震えているのも何故なのかわからない。

 

 ちなみに槇寿郎はまだお館様との話し合いを続けているという。

 槇寿郎は柱の中でも別格の存在だ。他の年若い柱達とは一線を画していると言っても良い。

 時折、お館様と2人で何事かを話し合うこともある。

 つまり、今回の柱合会議ではそれだけ重要な議題が出たということだろう。

 

(千寿郎の言っていた「鬼を連れた隊士」の件かな……)

 

 とは言え、不死川達に聞く気にもならない。

 柱に対して柱合会議の内容を尋ねるなど出来るはずもないし、まして不死川の機嫌は絶賛低空飛行中だ。

 気にはなるが、やはり槇寿郎達が屋敷に戻ってくるのを待っていた方が良いだろう。

 

「じゃあ、僕もう行くから」

「おう、そうか」

 

 その時だった、時透がふらりと歩き出した。

 止める気もなかったのか、宇髄が気楽に道を譲る。

 すると必然、時透は瑠衣の前に出てくることになる。

 

「ご無沙汰しております、霞柱様」

 

 道を譲って頭を下げ、そう挨拶した。

 瑠衣は一般隊士、柱との間には明確な地位の差が存在する。

 とは言え、煉獄家の娘であるため他の隊士よりは柱と顔を合わせる機会も多い。

 例えば毎年正月には、柱を含む高位の隊士が槇寿郎に新年の挨拶に来たりするのだ。

 

 また、時透の扱う「霞の呼吸」は不死川や瑠衣の「風の呼吸」と関わりが深い。

 霞の呼吸は、風の呼吸から派生した呼吸法なのだ。

 鬼殺隊士が使う全集中の呼吸は、炎・水・風・岩・雷の5つが基本の呼吸で、他は全てこれらの呼吸から枝分かれしてできたものだ。

 時透は他の隊士と交流の深い方ではないが、不死川とは比較的交流のある方だった。

 要は、不死川の弟子にあたる瑠衣の顔くらいは。

 

「……誰だっけ?」

 

 覚えているはずもなかった。

 時透無一郎、()()

 刀を握って僅か2か月で柱にまで上り詰めた天才剣士。

 弱冠14歳にして、すでに鬼殺隊士始まって以来の才能と謳われている。

 

 しかし天は二物を与えずと言うが、時透にも欠点はあった。

 いわゆる、記憶障害である。

 関心が低いのか、あるいは体質なのか、人や物事を長く覚えていられないのだ。

 口さがない者は、やっかみも込めて「頭が霞がかってる」などと表現していた。

 ただ一方で、お館様や同僚の柱のことなどは覚えているわけで。

 

「…………失礼致しました」

 

 落ち着け、と瑠衣は自分に言い聞かせた。

 ここで「前に会ってます……」と言う方が屈辱だと、自分に言い聞かせた。

 別にこれが初めてのことではなく、毎度のことじゃないかと、さらに自分に言い聞かせた。

 

 宇髄のプルプルがさらに大変なことになっているが、瑠衣は耐えた。

 この程度のことに耐えられなくて、煉獄家の長女は名乗れない。

 視界の端から時透の隊服の裾が消えるまで、瑠衣は礼をした姿勢のままでいた。

 生温かい不死川の視線が、逆に辛かった。

 

「柱の方が十二鬼月を斬ったと耳にしました」

「お、流石に耳が早いな」

 

 露骨な話題転換だったが、宇髄は乗ってくれた。

 有難いやら恥ずかしいやらだが、しかし重要な話題ではあった。

 この話題については特に隠されておらず、ここに来る途中で他の隊士達が噂しているのを聞いたのだ。

 逆に、隊士の士気を上げるために積極的に情報を発信している節すら見える。

 

 なお十二鬼月とは、鬼の首魁「鬼舞辻無惨」直属の配下である。

 いわば鬼における柱のような存在であって、全部で12体いるとされる。

 もちろん詳細はわかっていないし、瑠衣も実物を見たことはないが、目に()()が刻まれた非常に強力な鬼ということは知られている。

 柱の就任条件の1つに、「十二鬼月を倒す」という項目がある程だ。

 

「斬ったのは冨岡の奴だ」

 

 そして前言撤回、話題の選択を間違えた。

 重ねて前言撤回、宇髄はまだプルプルしている。

 冨岡とは、水柱の冨岡義勇のことだ。

 では、何が問題なのか。

 

 十二鬼月を、敵の幹部を斬ったのだから、冨岡は称賛されて然るべきだろう。

 もちろん、そうに決まっている。

 しかしこの場ではまずかった。この場で冨岡の名前は出てほしくなかった。

 なぜならば。

 

「……まあなァ」

 

 不死川の機嫌が、さらに急降下していた。

 彼は、冨岡と犬猿の――というか、不死川が一方的に嫌っている――仲だ。

 そんな彼の前で、冨岡を褒めるようなことを言うと。

 

「おい馬鹿弟子ィ、暇ならちょっと付き合えェ」

 

 こういうことになる。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 杏寿郎は緊張していた。

 端からは緊張とは程遠い人間と思われている杏寿郎だが、もちろんそんなことはない。

 彼とて緊張する時は緊張する。

 例えばそれが、鬼殺隊のトップ3と同席している時などはだ。

 

「炎柱の継承を行いたく存じます」

 

 よもや、と杏寿郎は目を見開いた。

 平伏したままだったため、他の者には顔色の変化を悟られずに済んだだろう。

 しかし父の発した言葉は、杏寿郎にとってはまさに「よもや」であった。

 炎柱の継承、すなわち槇寿郎が就いている地位を杏寿郎に譲ろうというのである。

 

「おお……また急なお話。あの少年の件と何か関係が……?」

「直接の関係はない、悲鳴嶼君。以前から考えていたことなのだ」

 

 驚いた――外見は全く動じているようには見えないが――声を上げたのは、岩柱の悲鳴嶼だった。

 額に大きな傷跡があり、まさしく筋骨隆々というべき巨体に、詰襟の隊服と阿弥陀経を描いた羽織を着込んでいる。

 まるで高僧と言った居住まいだが、その強烈な威圧感は隠しようもなかった。

 

 ちらり、と、杏寿郎は父の背中を見た。

 襖が閉ざされた薄暗い空間に、4人の男がいる。

 父と自分、悲鳴嶼、そして――――()()()

 

「関係はないけれど、何か感じるものがあった……と、いうことかな。槇寿郎」

 

 本名を、産屋敷輝哉(かがや)という。

 両側に日本人形のような娘2人を座らせて、黒い着物に白い羽織を肩にかけている。

 容貌は、なかなかに独特だった。

 元は美しい顔立ちだったのだろうが、何かの病なのか、顔の上半分に焼け爛れたようになってしまっていた。

 

「お館様のご慧眼には感服するばかりでございます」

 

 あの父が、煉獄家当主が平伏している。

 しかしそれも当然、相手は鬼殺隊の当主の家柄だ。

 言うなれば、煉獄家は産屋敷家を主家とする家臣の家柄なのである。

 このお方が、自分が生涯を通じてお仕えする方なのかと、杏寿郎は思った。

 

「槇寿郎が感じた通り、あの少年と()()()()()()()の出現は、何かの(きざし)だと思う。実際、あの慎重な鬼舞辻が彼らに追手まで放って来た。これはこの千年で、初めてのことだろう」

「……なるほど。お館様も煉獄殿も、その兆は無視すべきではないと……」

「私はお館様程に先を見通しているわけではない。ただ、準備はしておきたいと思う」

「そうだね。準備はしておくべきだね……杏寿郎」

「はっ……!」

 

 急に呼ばれて、返事が引き攣ってしまった。

 これは父から後で叱責を受けるやもしれぬなどと思いつつ、顔を上げた。

 

「そう緊張しなくても良いよ、杏寿郎」

 

 産屋敷の顔は、優しかった。

 彼の声は耳に心地よく、胸にすとんと落ちてくる。

 他人の声にここまでの心地よさを感じるのは、家族を除けば初めてのことだった。

 

「でもそうだね、杏寿郎。私もそうだったけれど、親から地位を受け継ぐというのは、自分で何かを勝ち取るのとはまた違う難しさがある。君はこれから、それに立ち向かわなければならない」

「はい」

「できるかい、杏寿郎」

 

 できるか、と問われれば、杏寿郎の答えは決まっていた。

 自分は、父の全てを継ぐために鬼殺隊士となったのだから。

 どん、と胸を叩き、杏寿郎は言った。

 

「はっ! 若輩ながらこの煉獄杏寿郎! お館様のため、鬼殺隊の同志達のため、鬼の脅威に怯える人々のため、己の責務を全うする所存です!!」

 

 尊敬すべき人達にこう言えることが、どれだけの幸福か。

 そしてだからこそ、杏寿郎は気になった。

 尊敬すべき人達――産屋敷に、父に、悲鳴嶼に、こうまで気にかけられる()()()()とは、いったいどのような少年なのだろうか。

 あの少年――竈門炭治郎という少年は。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 厳密に言えば、瑠衣の第1の師は父である槇寿郎だ。

 煉獄家の当主は代々柱であるから、当主自身が子を鍛え育てるのが習わしだ。

 槇寿郎も先祖の例に漏れず、3人の子供達を自ら鍛えている。

 しかしそれでも、()()()()()はどうすることも出来ない。

 

 色変わりの刀、日輪刀。

 代々炎の呼吸を伝えてきた煉獄家の人間の刀の色は、赤色だ。

 しかし瑠衣の刀は緑色に変わり、炎の呼吸の適性がないことがわかった。

 それを見た父は、すぐに「不死川君に相談してみよう」と言った。

 不死川と瑠衣の師弟関係は、そうして始まった。

 

「オイコラどしたァ、そんな様じゃ十二鬼月は斬れねぇぞォ!」

(誰も斬りたいとか言ってません!)

「軟弱なこと言ってんじゃねぇぞォ!」

 

 声に出していないのに!

 思いながら、瑠衣の身体は動き続けている。

 その動きは不死川の攻撃から逃れるために、道場全体に及んでいた。

 身を低くし、不死川の剣筋をよく見て避ける。できなければ打たれるだけだった。

 

「あのクソガキに先を越されやがったら承知しねぇぞォ!」

(何の話ですか!?)

 

 ――――風の呼吸・弐ノ型『爪々(そうそう)科戸風(しなとかぜ)』。

 木刀を振り上げた体勢から、一息に振り下ろす。

 連撃。

 風を纏った鋭利な斬撃が、多方向から不死川に襲い掛かった。

 

 ――――風の呼吸・弐ノ型『爪々・科戸風』。

 瑠衣は驚きに目を見開いた。不死川が全く同じ技を返してきたからだ。

 しかも瑠衣の放った連撃の全てを、一方的に弾き返されてしまった。

 同じ技のはずなのに、剣速も威力も比べ物にならなかった。

 

「遅ェんだよォッ!」

「――――――――ッ!?」

 

 ――――風の呼吸・陸ノ型『黒風烟嵐』。

 やはり先に瑠衣が使った技、それをわざわざ選んでくる。

 連撃を弾かれてのけ反ったところに、下からの斬り上げが来た。

 

(ヤバい――――ッ!!)

 

 風の呼吸、というより不死川の剣速は異常だ。

 いや剣に限らず、拳でも蹴りでも、触れたものを切れる程に速いのだ。

 もちろん、ただの木刀でも例外ではない。

 不死川がその気になって振った木刀は、ただ打つだけではなく、瑠衣の身体を斬れる。

 女性の柔らかな喉など、いともたやすいだろう。

 

(上げ、ろ……!)

 

 身体の部位を動かすのに、これほど明確な命令を送ることがあるだろうか。

 出来なければ死ぬ、確信に近かった。

 必死で、腕を上げた。

 その甲斐あってか、不死川の剣が瑠衣の喉を打った時、その間に自分の木刀を差し込むことに成功した。

 

「きゃ」

 

 しかし、それだけだった。

 喉を打った木刀は離れることなく――むしろ、頸を刎ねかねない勢いで――そのまま振り抜かれる。

 してはならない類の音――木刀に罅が入るのが、はっきりと見えた――が響き、瑠衣の身体が()()()()()()()

 とんでもない浮遊感が、瑠衣を襲った。

 

「おー、ド派手に吹っ飛ばされたなー」

 

 見物の宇髄が、のんきなことを言っている。

 しかし瑠衣はそれどころではなかった。

 あり得ないことに、不死川に打ち上げられた瑠衣は、天井まで吹っ飛ばされていたのだ。

 天井の木目がはっきりとわかる距離で、今から同じ距離を落ちるのかと思い、ぞっとした。

 

 不死川との訓練は、いつもこんなものである。

 基本的に実戦主義というか、ひたすらに打たれる。

 痛い思いをしたくなければ勝て、と言わんばかりだが、不死川は柱だ。

 基準が高すぎて泣きたくなってくる。

 いっそ、このまま床に叩きつけられて気絶した方が楽になれるだろうか……。

 

「どうしたァ、そんなもんかァ?」

 

 その時だ、不死川が声が聞こえた。

 

「煉獄っても、大したことねぇなァ」

 

 ――――身を、縦に回した。

 打ち上げの威力のまま、()()()()()

 木刀を腰に添えて、抜刀の構え。

 ()()

 そして――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「いや、やり過ぎだろ」

「テメェにそう言われちゃおしまいだなァ」

 

 折れた木刀を道場の端に放り捨てながら、不死川は言った。

 それに対して宇髄は呆れたような、あるいは面白そうな視線を向けている。

 彼らは道場の真ん中あたりにいて、不死川はしゃがみ、宇髄は腕を組んで立っていた。

 すでに陽が傾き始めて、道場の内部は暗くなりつつあった。

 

 瑠衣の姿はない。

 ちょっとした――不死川の感覚で――打ち込み稽古だったので、時間自体はそれほどかかってもいない。

 鬼を討ち漏らして被害を出したという話を聞いていたので、少し喝を入れてやった。

 まあ、その程度のことだった。

 

継子(つぐこ)にはしねえの?」

「俺の一存じゃ決められねェだろォ」

 

 継子とは柱の直弟子で、事実上の次期柱候補のことだ。

 柱自身が才能を見込み鍛えるので、一般隊士とは比較にならない実力がある。

 ただ今の柱には、1人を除いて継子を指名している者はいなかった。

 理由はいろいろあるが、それに見合う人材自体が稀ということもある。

 

 不死川も、弟子を取るような性分の人間ではなかった。

 そもそも人が近寄って来ない。

 面倒見は悪くないのだが、見た目と言動でほとんどの人間は逃げてしまうのである。

 瑠衣のことは、()()煉獄槇寿郎に頭を下げられてしまって、断り切れなかったという方が正しい。

 

「つーことは、したいとは思ってるわけか」

「ほとんどの奴は、俺らの稽古について来れもしねェ」

「最近の隊士は質が悪すぎるからな」

「剣の腕前だけなら、今の風の呼吸の使い手の中で1番マシだろうなァ」

 

 煉獄家で幼少期から訓練されていただけに、瑠衣の実力は継子として申し分ない。

 それは不死川も認めるところで、瑠衣の剣捌きを見て流石と思うこともある。

 不死川は手取り足取り教えるタイプではないので、先程のような打ち込み稽古の他は、キツい基礎体力向上訓練(筋トレ)をひたすら繰り返すだけだ。

 これだけで大抵の者は逃げ出すが、瑠衣は違った。だから今も師弟を続けている。

 

「ただあの馬鹿は、なァ……」

 

 それ以上は不死川は言葉にはしなかったが、宇髄も何となく察してはいた。

 しかしそれに言及するのは出すぎのような気がしたし、何より自分のことではないので、黙っていた。

 それから、稽古の激しさを表すように()()()()()()()()道場を見た。

 天井、壁、床、人の頭ほどの大きさの穴がボコボコと開いている。

 ――――折れた木刀の数は、2()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 酷い目にあった。

 胸中でそう毒吐きながら、瑠衣は帰路を急いでいた。

 すでに陽が落ちかけて夕方になっており、足元の影は長く伸びている。

 早く千寿郎の待っている家に戻り、父と兄が帰って来る前に夕食を作らなければならない。

 

「すっかり遅くなってしまいました……」

 

 買い出しに出ていたのか、瑠衣は大きな荷物を背負っていた。

 米俵一俵と、野菜等を詰めた籠を2つほど。

 幸い母が生きていた頃から付き合いのある店があり、遅い時間でもまとまった量を買うことが出来た。

 千寿郎は食事の支度はできるが、補充まではまだ気を回せない。

 

 年若い少女が米俵を背負って歩くというのはなかなかの絵だが、当の瑠衣に苦しそうな様子はない。

 全集中の呼吸は使用者の身体能力を飛躍的に高める。

 瑠衣はその全集中の呼吸を常日頃から行っていて、筋力に関しても並の少女とは比較にならなくなっていた。

 だから米俵も運べるし、自分よりも大きな体の鬼とも対等に渡り合えるのである。

 

「うう、身体中が痛い……」

 

 それでも不死川との訓練では、ほぼ一方的に殴られることになる。

 女だからという理由で不死川が手加減することはない。

 鬼は手加減してくれないからだ。

 だから、瑠衣も不死川のことを「師範」と呼んでいる。

 

「うん?」

 

 ようやく煉獄邸の門が見えてきた時だった。

 3人ばかり誰かが立っていて、1人は千寿郎だった。

 ぺこりと頭を下げているところを見ると、どうやら見送りに出ているらしい。

 来客か。しかし今日は来客の予定はないはずだった。父が不在なのだ。

 

「あ――――っ、帰って来たあ!」

 

 きん、と耳に響く声だった。

 瑠衣の存在に気が付くと、女性が子供のようにぶんぶんと手を振りながらこちらに駆けてくる。

 そしてその女性を、瑠衣はよく知っていた。

 

「こ、恋柱様……」

 

 鬼殺隊の恋柱――冗談ではなく、「恋の呼吸」の柱だから恋柱だ――甘露寺蜜璃だった。

 長身、女性的魅力に溢れた豊満なスタイル、すれ違えば誰もが振り返るだろう整った顔立ち。

 肩口までが桜色で毛先は草色という独特な髪の色をしていたが、彼女の美貌を補いこそすれ損なうものではなかった。

 むしろ極端にスカート丈が短く、乳房を半ば露わにしたような前開きの隊服の方を気にするべきだろう。

 着ている人間の正気を疑うし、この隊服を作った人間の正気はもっと疑う。

 

「瑠衣ちゃん、久しぶりー! 元気してた?」

「ええと、ご無沙汰しております。恋柱様」

 

 途端、甘露寺が悲しそうな顔をした。

 それはもうこの世の終わりかのような表情で、世の女性の理想を全て詰め込んだかのような美女がそんな顔をすると、言いようのない迫力があった。

 それに対して、珍しいことに瑠衣は顔を(しか)めていた。

 苦虫を嚙み潰したような顔というのは、まさにこのような顔のことを言うのだろう。

 

「み……蜜璃ちゃん……」

「うん!」

 

 絞り出すような瑠衣の言葉に、甘露寺はそれはそれは明るい声で応じたのだった。

 その時の笑顔は、同道していた男性隊士曰く「光り輝いていた」という。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣には苦手な人間が2人いる。

 1人は時透無一郎。()()

 ただしこれは瑠衣に限らない。時透に対して苦手意識を持つ人間は少なくない。

 むしろ、仲が良い人間がいるなら教えてほしい。

 

 しかし、もう1人は違う。

 天真爛漫(てんしんらんまん)を絵に描いたような彼女。

 彼女を嫌う人間がいたなら、「どこが嫌いなの?」と間違いなく聞くだろう。

 瑠衣が苦手なもう1人は、そんな、誰にも好かれるような存在だった。

 そう、鬼殺隊の恋柱・甘露寺蜜璃である。

 

「わあ、蜜璃さんは相変わらずたくさん食べるんですね。僕も見習わないと」

「え? そうかな、今日はそんなに食べてないけど。人様のお家だし……あっ、ご、ごめんねっ。私もしかして食べ過ぎちゃった!?」

「いや、大丈夫だ甘露寺。今日は確かに少なめだ」

 

 弟である千寿郎と、甘露寺が楽しそうに瑠衣が作った夕食を食べていた。

 凝った料理というわけではないが、大根たっぷりのお味噌汁は自信作だった。

 それを美味しい美味しいと食べて貰えるのは悪い気はしないが、甘露寺の前にうず高く積み重ねられた皿や丼の数を考えると、そうも言っていられない。

 五、十……いや、二十は重ねられているだろうか。全て甘露寺が1人で平らげたものだ。

 

 今さら驚きはしないが、久しぶりに見ると圧倒される。

 自分や千寿郎が一皿を食べている間に、甘露寺は十皿目に手を伸ばしている。

 彼女は、鬼殺隊……いや、もしかしたらこの国一番の健啖(けんたん)家だ。

 それでいて不作法ではない。箸の持ち方も綺麗で、きちんとした所作で皿を空にしていた。

 

「蛇柱様、お茶のおかわりはいかがですか」

「ああ、有難う」

 

 甘露寺の健啖ぶりを横目に、瑠衣はもう1人の客人に玉露のお茶を出していた。

 おかっぱな黒髪の、見るからに線の細い青年だった。

 不思議なことに彼は料理に手をつけておらず、口元を白い包帯で覆ってしまっていた。

 ただその声音は優しく、色の違う――右が琥珀色で左が翡翠色――瞳を細めて瑠衣を見ていた。

 彼もまた鬼殺隊の「柱」だ。蛇柱の伊黒小芭内。

 

「しかし甘露寺ではないが、どうにもその「蛇柱様」というのは他人行儀に聞こえるな。何とかならないのか」

 

 ネチネチとした物言いに、瑠衣は苦笑を浮かべた。

 するり、とそんな瑠衣の顔の近くに寄って来たのは、伊黒の首に巻き付いている白蛇だ。

 彼は名前を鏑丸といって、常に伊黒と行動を共にしている。

 シューシューと鳴いて、伊黒の代わりに不満を示しているようだった。

 

(拗ねてる伊黒さん、可愛いわ)

 

 そのやり取りを見ていた甘露寺は、丼片手にそんなこを考えていた。

 

「でも会えてよかった。今夜にはまた()たないといけなかったから、次いつまた会えるかわからないものね。出来れば師範にもお会いしたかったけど……」

 

 空にした丼を置いて、甘露寺がそう言った。

 瑠衣もそうだが、柱である甘露寺や伊黒はそれ以上に多忙だ。

 柱合会議でもなければ本部にいることも稀で、普段は各地を飛び回っている。

 だから、食事を共にできるというのは貴重な機会だった。

 

「……千寿郎君も元気そうでよかった!」

「はい、僕も蜜璃さんに会えて嬉しいです!」

「きゃっ、そんなに喜ばれたらキュンてしちゃうわ!」

 

 きゃっきゃっと喜び合う千寿郎と蜜璃の姿に、瑠衣は複雑そうな視線を向けた。

 会えて嬉しいと言われて、喜びがないわけではない。

 誰がどう見ても甘露寺は良い人間だし、そんな彼女を優し気に見つめる伊黒もまた悪人ではない。

 そんなことは、十分すぎる程に知っている。

 そっと胸元に手を添えて逡巡(しゅんじゅん)した後、意を決して顔を上げた。

 

「み、蜜璃ちゃん」

「え、あっ、なに? なになになにかしら!?」

 

 瑠衣ちゃんが話しかけてくれた、と喜色を浮かべる甘露寺。

 

「わ、私も……」

 

 そんな彼女に何事かを言おうとした、その時だった。

 

「やあ、随分と賑やかだと思えば……甘露寺君に伊黒君か。良く来てくれたな」

 

 襖が開いて、槇寿郎が顔を出したのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実を言うと、伊黒と甘露寺は煉獄邸で過ごしていた時期がある。

 伊黒は幼少期のほんの一部を、甘露寺はつい最近の1年余りを。

 だから杏寿郎ら3人にとって――千寿郎は幼過ぎて伊黒のことは覚えていないかもしれないが――伊黒と甘露寺の2人は、家族に準じる存在だと言えた。

 

「よもやよもや、2人が来ていようとは。食事を共に出来なかったのが残念だ!」

「煉獄、お前までいたら妹の食事支度が間に合わないだろう。己の食う量を考えろ」

「や、やっぱり食べ過ぎちゃった……かしら……」

「いや甘露寺。今日は十分に遠慮していた。大丈夫だ」

「ははは、相変わらずだな小芭内は! 蜜璃も」

 

 食事の後片付けを済ませて瑠衣がやって来た時には、父だけでなく杏寿郎も戻っていて、客間で談笑していた。

 お盆――お茶を出してくれていたのだろう――を抱えて座っていた千寿郎が、瑠衣の姿を認めて席を空けてくれた。

 杏寿郎と千寿郎の間に、瑠衣がちょこんと座った。

 それを横目に、上座に座った槇寿郎が口を開いた。

 

「2人とも、今日の柱合会議はご苦労だった。それに2人の活躍は本部でも良く耳にしている、頑張っているようだな」

「恐縮です」

「いえっ、そんな私なんて。色んな人に迷惑かけてばかりだし……」

 

 程度の差こそあれ、伊黒も甘露寺も、まるで親に褒められた子供のようだった。

 特に伊黒は静かな分、むしろ甘露寺よりもそういう気配を感じさせた。

 無理もないと、瑠衣は思う。

 詳しいことは瑠衣も知らないが、伊黒は槇寿郎が鬼から救った子供だった。

 鬼殺隊士にとって「鬼から救ってくれた相手」というのは、すなわち神に等しいのだ。

 

「いや、謙遜することはない。2人とも、私などより立派に柱の務めを果たしている」

 

 2人は、槇寿郎が育てた鬼殺隊士だった。

 伊黒は呼吸の違いから――瑠衣と同じように――最終的には先代の別の柱の下で修業をしたが、甘露寺は槇寿郎によって長く指導をされていた。

 というか、甘露寺は杏寿郎と共に槇寿郎の継子だった。

 

 強い炎の呼吸の適性を持っていたからだ。最も独自性が強すぎて独立してしまったが。

 槇寿郎の下、杏寿郎の兄妹弟子として1年余りを切磋琢磨していたのだ。

 瑠衣はそれを、ずっと見ていた。

 ずっと。

 

「2人とも。そして杏寿郎も、私の自慢だ」

 

 その時、瑠衣は自分が掌を握っていることに気付いた。

 かなり強い力で握っていたらしく、服に皺ができてしまっていた。

 隣の杏寿郎と千寿郎に気付かれなかっただろうか。

 

「瑠衣」

 

 槇寿郎に呼ばれて、瑠衣は初めて自分が俯いていたことに気付いた。

 

「千寿郎も。杏寿郎や伊黒君達を見習って、精進しなさい」

「はい!」

 

 千寿郎は、素直な返事を返していた。

 父の視線に瑠衣は顔を上げて、微笑みを作った。

 

「はい、父様。兄様や蛇柱様、恋柱様のお目を汚さぬよう、これからも精進いたします」

 

 その時、ふと甘露寺と目が合った。 

 すぐに朗らかな笑顔が返って来て、瑠衣もそうしようとした。

 上手く微笑みを作れたかどうか、今度はわからなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――深夜になった。

 柱合会議に合わせて一時的に本部に集まっていた鬼殺隊士達も、方々に散っていく。

 獪岳も、その1人だった。

 

「どけ、邪魔だ」

「あ、ああ……」

 

 同僚と話をしていた他の隊士を押しのけるようにして、獪岳は歩いていた。

 さっと道を譲った隊士を見下しながら、その横を通り抜ける。

 整った顔立ちでそうされると、思わず視線を逸らしてしまうような迫力がある。

 実際、獪岳に睨まれた隊士は、蛇に睨まれた蛙のように縮み上がってしまっていた。

 

 愚図が。獪岳は本当にそう思っていた。

 実際、彼は他の一般隊士と比べて遥かに強い力を持っていた。

 同僚が次々に鬼に殺されていく中で、彼だけは鬼を狩っていく。

 まるで、柱のようにだ。

 

「……なんだよ、アイツ……」

「……偉そうによ……」

 

 後ろで、先程の隊士達がそう言っているのが聞こえて来た。

 しかしそれも、不意に獪岳が振り向けば、怯えた表情を浮かべてどこかへ消えるのだ。

 つまらない奴らだと、獪岳は思う。

 自分の力だけではまともに鬼を斬ることはおろか、何を成すことも出来ない連中。 

 同じ「鬼殺隊士」だと呼ばれることが、獪岳には耐え難い程だった。

 

(俺は、テメェらとは違う)

 

 柱になりたい。それは獪岳にとって、渇望にも似た想いだった。

 何故なら、自分は他の隊士とは格が違う存在だから。

 雷の呼吸の、()()()()()()()()

 

「……何の音だ?」

 

 獪岳が夜道を歩いていると、奇妙な音が聞こえた。

 何かが風を切る音、空気を叩く音。

 どこかで聞き覚えがあるような音でもある。ただ、妙に不規則だった。

 

 不審に思い音の方へ足を向け、しばらくすると広い空間に出た。

 三方を山林に囲まれ、丘もあり、小さな窪地のようになっている。

 丘には小さな花々が咲いており、月明かりの下で花弁を輝かせていた。

 丘を登って窪地を覗いた時、獪岳は音の正体を知った。

 

「あれは……」

 

 結論から言えば、それは素振りの音だった。

 振っているのは日輪刀、つまり隊士だ。場所が場所だけに当たり前ではあるが。

 しかしただの素振りではなく、動き回っている。音が不規則なのはそのためだろう。

 刀を振るい、駆け、汗を散らせているのは――――瑠衣だった。

 

 何のことはない。鍛錬だ。

 煉獄邸に立派な道場のある彼女が、なぜ人目を忍ぶようにして鍛錬しているのかはわからないが、特に珍しいということはなかった。

 時間を無駄にしたか、獪岳はそう思いかけたが。

 

(何をやっているんだ?)

 

 瑠衣の動きに、疑問を覚えた。

 風の呼吸の技かと思ったが、どうも違うようだ。

 何というか、真剣、いや無様なのだ。

 大きく跳躍したかと思えば、地面にごろごろと転がる。身を捻り、髪を振り乱す。

 刀の振りも攻撃というよりは、襲い掛かる何かを捌いているような振りだった。

 

(……鬼か? いや、違うなアレは……)

 

 何かと戦っている――想定を、している、ようだ。

 ただ、何を想定しているのかがわからなかった。

 回避のための跳躍の範囲が広く、やたらに身をよじったり反らしたり。

 まるで鞭か何かが相手のようだ。

 相手は剣士ではないのか、しかし攻撃の捌き方は刀のそれだった。

 

「ふん」

 

 真剣に考え込み始めた自分に気が付いて、獪岳は誤魔化すように鼻を鳴らした。

 瑠衣から視線を外さずに横を向いて、その場から離れる。

 他人なんて、どうでもよかった。

 しかしそれでも、気にはなった。

 瑠衣は、はたして何と戦っていたのだろうか?

 

  ◆  ◆  ◆

 

 月が、高く昇っていた。

 

「くそ、完全に迷っちまったな……」

 

 隊服を着た1人の青年が、毒吐きながら辺りを見渡していた。

 夜の危険性を知っている彼は、腰に差した刀の束に常に手を添えていた。

 緑深いどこかの山中、鬼殺隊士ならありがちな任地だ。

 しかし夜が更けてしまうと、明かり1つない山中は恐怖を増幅させる。

 人は本能的に、闇を恐れるものだから。

 

「お……?」

 

 だから建物を見つけた時、彼は心底ほっとした表情を浮かべた。

 かなり古いのか、塀が半ば崩れかけていた。

 それでも、人工物の存在はそれだけで安心材料だった。

 特に山中で道に迷っている時などは、なおさらだろう。

 

 ほどなくして、入口を見つけた。

 やはり古く、石材の部分などは苔むしていた。

 もしかしたら、今は使われていないのかもしれない。

 それでも野宿よりはマシだと思ったのか、隊士の青年はそのまま門をくぐった。

 ()()()()()()()()

 

「……くすくす……くすくす……」

 

 嗚呼、どこからから嗤う声が落ちてくる。

 夜闇から逃れて入り込んだのは、さらなる恐怖の胃袋。

 それと知らずに迷い込んだエサに、嗤う声はさらに高くなる。

 

「また1人、エサが来た」

 

 空に昇るは、()()()()

 闇に光るは、血の色の眼。

 その眼には、文字が2つ。

 ――――「下肆」。




最後までお読み頂き有難うございます。

改めまして、たくさんのキャラクターを投稿頂き有難うございます。
某三十七歳刀鍛冶の如くお礼を申し上げたいと思うます。

よくも折ったな俺のプロットを…!(え)

できるだけたくさん登場させたいので、プロットの再考を余儀なくされました。
嬉しい悲鳴とはまさにこのこと。一緒に物語を作っていって頂けたらなと思います。

ところで某下の四番目の鬼って、特に設定なかったですよね。
だから大丈夫ですよね、ね(何がだ)

それでは、また次回。


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第4話:「下弦の肆」

 その廃寺は、山中にひっそりと建っていた。

 元は立派な山門だったのだろうが、塀も含めて半ばから崩れてしまっていた。

 辛うじて残っている建造物も草木の蔓や苔が生い茂っていて、遠目には山に呑み込まれてしまっているようにさえ見えた。

 

「前任の隊士と連絡が取れなくなったのはこのあたりなのぉ?」

 

 相棒である少女の声に、肩に止まった鎹鴉が「ガアッ」と肯定の声を上げた。

 

「ガァッ、隊士ガ入ッテ出テコナイッ、3日経ッテイルッ」

「3日か……急がないといけないわねぇ」

「急ギ調査シッ、事ノ次第ヲ報告ウッ、急ゲ榛名アッ」

 

 鎹鴉に榛名(はるな)と呼ばれたその少女は、改めて山門を見上げた。

 整った顔立ちだが、目鼻立ちがはっきりしているせいか中性的に見えるのが特徴だった。

 陽に当たると端が赤く透ける黒髪で、腰まで伸びたそれを頭の後ろで高くまとめている。

 藤の花が描かれた着物の上に隊服を羽織るという独特の服装で、日輪刀を2振り身に着けていた。

 左腰と、何故か背中にも1本。

 

「貴方はここにいて。半日経って出て来なかったら、応援を呼んで頂戴」

「ガアッ、一緒ニ行クウッ」

「駄目よぉ。何があるかわからないものぉ」

 

 地面に鎹鴉を下ろして、その頭を撫でる。

 古来より多くの人間がそうであるように、鬼殺隊士もまた自身を担当する鎹鴉と特別な絆を通わせる者が多い。

 それは明日の生死すらわからぬ中で、鎹鴉だけが常に自分と行動を共にしてくれるからだ。

 鎹鴉もまた、誇りを持って鬼殺隊士に尽くす。

 

 そして賢い。

 榛名の鎹鴉も、万が一の連絡役としての自分がいかに重要かをきちんと理解している。

 だから榛名の言葉に一度は抵抗したが、二度は言わなかった。

 榛名の掌に自身の頭を擦りつけると、羽音を立てて飛び立った。

 彼が付近の木の枝に止まったことを確認すると、榛名も立ち上がった。

 

「さて、行きますか」

 

 山門をくぐると、当たり前だが廃寺が存在する。

 中は酷いものだった。

 石畳らしきものが足元に覗いているが、雑草が膝のあたりまで生い茂り地面との境界がわからない。

 元々は本堂や講堂等の建物がいくつかあったのだろうが、長い年月放置されていたのか、ほとんどの建物が建物としての機能を果たしていなかった。

 

「……………………」

 

 左腰の刀に手を添えて、榛名は奥へと進んでいった。

 その背中を、鎹鴉だけが見つめていた。

 ――――1日経っても、榛名は帰って来なかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「姉上、大丈夫ですか?」

 

 千寿郎の声に、瑠衣は「え?」と顔を上げた。

 早朝の、炊事をしている時だった。

 割烹着姿の瑠衣が竹の火吹き棒を手に顔を上げると、弟の千寿郎が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。

 

「煮立ってますけど……」

「え? あ、わっ。ご、ごめんごめん!」

 

 吹き過ぎたのか、(かまど)の火がごうごうと燃えていた。

 汁物の鍋がぐつぐつと音を上げていて、慌てて火を調節した。

 無心で吹き込んでいたので、気が付かなかったらしい。

 瑠衣にしては珍しい失敗で、千寿郎のおかげで朝食を一品ダメにせずに済んだ。

 

「姉上、疲れているならお休みになられた方が良いですよ。炊事なら僕1人で出来ますから」

「いやいや、大丈夫大丈夫。ちょっとぼうっとしてただけだから」

「でも……」

「本当に大丈夫。千寿郎は優しいね」

 

 心配そうな顔をする千寿郎の頭を、瑠衣は撫でた。

 それでも心配そうな顔をする弟に、困ったような笑顔を見せる。

 心配させてしまったのは申し訳ないし、心配してくれるのは嬉しいが、これは自分の仕事だという思いがあるからだ。

 数年前に母が亡くなってから、家の中のことは娘である自分が、と思い定めている。

 

 父と兄は家事ができないし、千寿郎も全てをこなせるわけではない、というのもある。

 瑠衣がいない時には知人に頼んでお手伝いを寄越して貰っているが、いる時には炊事や洗濯は――薪割りだけは父と兄の方が異常に上手いが――瑠衣が率先してやっていた。

 ただ姉の手伝いを買って出ている千寿郎としては、家事が()()()だと知っているからこそ、剣の稽古と並行して家事をやっている瑠衣のことを心配するのだろう。

 

「さっ、出来た。父様に声をかけて来てくれる?」

「……わかりました」

 

 瑠衣の言葉に素直に頷いた千寿郎だったが、まだ心配そうな顔をしていた。

 弟にこんな顔をさせるなんて、姉失格である。

 そうだと閃いて、瑠衣はにんまりとした笑顔を浮かべた。

 千寿郎の背中に飛び掛かる。

 

「えっ!? うわっ、姉上っ!?」

「ほーらっ、そんな顔しない! 笑って笑って!」

「あ、ちょ……あはっ、あははっ。くすぐった、あはははっ」

 

 後ろから抱き着いて、脇腹のあたりをくすぐった。

 笑い声というのは不思議なもので、笑っている側も聞いている側も、じゃれている内に明るい気分になってくる。

 そうやって千寿郎の顔から心配の色が消えた頃、和やかな炊事場に似つかわしくない音が響いた。

 

「ガア――――――――ッ!!」

 

 鎹鴉の長治郎だった。

 鴉がここに来るという意味をよく知っている千寿郎が、また表情を曇らせてしまって。

 瑠衣は鴉の焼き鳥は美味いのだろうかと、一瞬だけ考えた。

 長治郎が、怯えたように距離を取っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 基本的に、鬼殺隊士は単独行動が多い。

 全国津々浦々に散って鬼から人々を守るには、人手が余りにも足りないからだ。

 数百人で数千万人を守らなければならない。

 鬼の出没地点が事前にわからない以上、仕方がないことだった。

 

 そのためか、鬼殺隊士はいわゆる「連携」が得意な者が少ない。

 時折、共同任務という形で戦場を共にすることもあるが、それは討伐する鬼の数が多かったり、被害地域が広範に渡っていたり、要は単純に「人手が必要だから」以上のものではなかった。

 まあ、つまり、何が言いたいのかと言うと。

 ――――鬼殺隊士は、()()の強い者が多い、ということだ。

 

「えー……っと、ですね。まずは自己紹介でもどうでしょう、獪岳さん」

 

 瑠衣は、努めて笑顔を浮かべていた。

 笑顔は人間関係を円滑にする。だから笑えるなら笑った方が良い。

 

「俺に気安く話しかけるんじゃねえ、カスが」

 

 ただ、それも相手によるだろう。

 例えば獪岳は、瑠衣が笑顔だろうが何だろうが態度を変えないだろう。

 というより、他人というものを信じていないという風だった。

 まあ、それは同期の瑠衣も良く知っているところで、今さら驚いたりはしない。

 問題は……。

 

「チョーあり得ないんだけど」

 

 瑠衣達は今、山中の川辺にいた。鎹鴉に導かれた集合場所だ。

 瑠衣は開けた場所に立ち、獪岳は木の幹を背に立っていて、そしてもう1人が大きな岩に足を伸ばして座っていた。

 腕を組み、顎に手を添えて、高い位置からこちらを見下ろしている。

 

「何でこのわたしが、こーんな弱そうな人達と組まなきゃいけないわけ? 意味がわからないんだけど」

 

 鮮やかに山吹色に輝く髪を簪で結い上げており、淡水色の瞳が水面の光を反射して煌めいていた。

 水色と黄色の折り鶴の描かれた着物の上に、隊服を羽織っている。

 防御という点では隊服をきちんと着用すべきだが、不思議とそれを言うという気にはならなかった。

 瑠衣よりも年下に見えるが、すでに貫禄のようなものを感じる。

 

「おい。コイツはともかく、俺を弱いと言ったのか?」

「あ、聞こえちゃった? ごめんなさいね。思ったことがすぐに口に出ちゃうのよ、わたし」

「テメェ……」

 

 ちろり、と、少女の赤い舌先が唇を舐める。

 悪戯っぽい仕草だが、どことなく妖しい色香も感じる。

 それを獪岳は侮辱と受け止めたのか、木から背を放していた。

 よもや殴りかかることはないだろうが、空気が緊張して張り詰め始めた。

 

一葉(いとつば)(みそぎ)です」

 

 その時だ、第4の人物が姿を現した。

 鎹鴉を連れたその女性隊士は、岩の上の少女を視線で指しながらそう言った。

 左目に眼帯を着けた彼女に、瑠衣は見覚えがあった。

 つい先日、獪岳と共に共同任務をしたことがある。

 

「その()の名前は、一葉禊と言います。以前、任務を共にしたことがあります」

「祭音寺さん!」

「柚羽で結構です。どうぞお気軽に」

 

 勝手に名前を言われたのが不満だったのか、岩の上の少女――禊が、唇を尖らせていた。

 加えて、獪岳は相変わらず禊を睨みつけている。

 そんな中での柚羽の出現は、瑠衣にとっては救いの神のように感じられた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――同時刻、産屋敷邸。

 鬼殺隊本部を兼ねたその屋敷に、杏寿郎は呼び出されていた。

 父・槇寿郎を伴わない参内。初めての経験だ。

 内々に炎柱継承が決まっているとは言え、それを知るのは杏寿郎自身と槇寿郎、そして悲鳴嶼とお館様――産屋敷だけだ。

 

「よく来てくれたね、杏寿郎」

「はっ」

 

 産屋敷は、屋敷の縁側に座っていた。

 その両側を娘2人に――白髪おかっぱの童子――支えられていたが、背筋は伸びており、弱々しさは感じなかった。

 纏う雰囲気は柔らかく、高みから見下ろしていても威圧感のようなものはない。

 

 そして杏寿郎は、そんな産屋敷の前で膝をついていた。

 玉砂利が敷き詰められた庭で、庭師の腕が良いのか瀟洒な造りになっていた。

 そんな庭に、鴉が一羽まぎれ込んでいる。

 もちろん鎹鴉だが、杏寿郎の知らない鴉だった。

 

「実はここの近郊の山に、鬼が出没したようなんだ」

 

 産屋敷が自分に任務を与えようとしている。

 杏寿郎はこの瞬間にそれを確信した。

 産屋敷自らの命令を与えられるのは、柱か、あるいはよほど特別な事情がある場合だ。

 

「私の剣士(こども)達が2人、山に入って戻って来ていない」

 

 つまり、強力な鬼が出没している可能性が高い。

 そして杏寿郎は鴉のことも得心した、戻って来ない隊士の鴉なのだろう。

 

「那田蜘蛛山のこともあるから、もしかしたらそこにもいるのかもしれない」

「と、申しますと」

「うん、十二鬼月かもしれない。行ってくれるかい、杏寿郎」

 

 十二鬼月。鬼舞辻無惨直属の鬼だ。

 つい先日、那田蜘蛛山において水柱・冨岡がその内の1体を斬っている。

 それが今、こうも続け様に出没――あるいは遭遇――するとは、鬼殺隊の歴史を紐解いても数える程しかないだろう。

 人智の及ばぬところで、何かが動き出そうとしているかのようだった。

 

「十二鬼月を倒しておいで、杏寿郎。そうすれば皆、杏寿郎を新しい炎柱として認める」

「承知いたしました。この煉獄の(あか)き炎刀にかけて、お館様のご期待に応えて見せましょう!」

 

 いわばこれは、杏寿郎の柱就任の試練でもあるわけだ。

 柱になる条件は2つ。まず第1階級である「(きのえ)」であること。

 そして鬼を50体以上斬るか、あるいは十二鬼月を斬る、のどちらかだ。

 槇寿郎の後継である杏寿郎の炎柱就任においては、後者がほぼ絶対視されていると言って良いだろう。

 

「それとね杏寿郎、これから杏寿郎が行く山なんだけど。その近辺を担当する柱が、どうしても同道したいと言って来ていてね」

「同道?」

 

 一般隊士と異なり、柱は自分の警備担当地区というものを持っている。

 頂点の剣士なればこそで、広大な地区を分担して鬼殺を行っているのである。

 そして、杏寿郎がこれから向かう山を含む地区の担当は……。

 

「よもや」

 

 その場に現れた柱に、杏寿郎は驚きの声を上げた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 見たところ、ただの廃寺のようだった。

 放棄されてかなりの年月が経っているのか、今となっては草木や苔に覆われた何かと化している。

 どこにでもある、打ち捨てられた場所としか見えなかった。

 しかし何故か、嫌な感じがした。

 

(ここだけ、空気が変だ)

 

 風の呼吸を扱うからか、空気の変化には敏感な方だった。

 瑠衣が見上げているのは、いわゆる本堂で、寺の御本尊が祀られる場所だ。

 他の建物は半ば崩れ落ちてしまっているのに、この建物だけは比較的に形を保っている。

 空気の乾いた場所から湿った場所に移動したような、奇妙な感覚だ。

 

 例えば、そう、雨風を凌ぐべく誰かがここを訪れたとしたら、まず間違いなくこの建物を目指すだろう。

 他は崩れてしまっているのだから、当然、そうなる。

 そこに、瑠衣は奇妙なわざとらしさのようなものを感じたのである。

 気にしすぎと言われれば、それはその通りなのだが……。

 

「ねえ、本当にこんな最低な場所に行方不明の隊士がいるわけ?」

 

 と、後ろから声をかけて来たのは禊だ。

 獪岳もいるが、わかりやすいもので禊が口を開いている時は絶対に喋らなくなってしまった。

 そして獪岳が喋る時は、逆に禊が喋らなくなる。

 この2人が素直にここまでやって来ているのは何故かというと、瑠衣が頑張ったからだ。

 それはもう、頑張ったからだ。

 

「はい。長治郎……鎹鴉の情報によれば、5日前にこの周辺で姿を消した隊士と、2日前にそれを探しに来た隊士。最低でも2名の隊士が消息を絶っています」

 

 とは言え、2人は基本的に瑠衣の説得は完全無視だった。

 任務なので結局はこの廃寺に来たかもしれないが、2名の隊士が行方不明になっている状況で、バラバラに目的地に向かうのは避けるべきだった。

 まして、すでに夜になっている。

 それでも行動を共にしようとしない2人に対して、瑠衣は最後にはこう言った。

 

「はあ、わかりました。では私と柚羽さんでまず見てきますから、お2人はここで待っていてください」

「「行かないとは言ってない(だろ)(じゃない)」」

「……………………そうですか」

 

 天を仰いで叫びだしたくなったが、耐えた。

 どうして自分がこんなことをしなければならないのかと嘆いたが、堪えた。

 私は煉獄家の長女だと、心の中で3回唱えた。

 頑張れ私、負けるな私と、自分を鼓舞もした。

 

「何でわざわざカスを助けに行かんきゃならないんだよ」

 

 本堂の周辺を確認していると、今度は獪岳がそう言った。

 半ば舌打ちするような、声の調子だった。

 そう言いながらも任務には従うというあたりが、獪岳という男の複雑さを表してもいる。

 それに、実力はあるのだ。最終選別の時から、それは良く知っていた。

 

「やはり周囲には何もありません。隊士はおろか人がいた痕跡も、それから、鬼の気配も」

 

 他を見て回っていた柚羽が、そう言った。

 崩れた建物の中も特に奇妙な場所はなかったという、瑠衣の側も同じだった。

 余りにも何もなさ過ぎて、ますますきな臭かった。

 しかし、本堂に入らないというわけにもいかなかった。後は、ここだけなのだ。

 

 他の3人も、自分を見つめていた。

 念のため、灯りを用意した。本堂の中は暗いはずだ。

 本堂の前に立つと、流石に誰も喋らなくなった。

 しかし通路の木材ですら軋む状況では、口を閉ざす意味はあまりなかったかもしれない。

 

「…………」

 

 本堂の扉に、錠はついていなかった。

 錆び付いているようだが、開閉に支障はないようだった。

 気になるとすれば、開けた形跡が見えないということだ。

 行方不明の隊士は、ここには来ていないのか?

 

 手で、合図を送った。頷きが3つ。

 ゆっくりと、本堂の扉を開いた。

 ぎい、と、甲高い音が響いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 本堂の中に入った瞬間、えも言えぬ匂いが漂ってきた。

 空気が腐ったようなとでも言おうか、かび臭い、鼻につく匂いだ。

 その上、酷い湿気のせいか生温くすらある。

 一言で言えば、不快だった。

 

「……何も、ありませんね」

 

 灯りを左右に振ってみれば、外観よりも広く感じた。

 廃寺になる際に多くの物は持ち出されていたのか、殺風景な空間が広がっている。

 ただ、やはり壁や床の保存状態は悪く、歩く度に音を立てる。

 しかも床板が駄目になっているのか、沈み込んだり、逆に盛り上がったりしている部分もあって、歩くだけで気を使った。

 

 そして、探索である。瑠衣の言葉通り、何もない。

 足元に木材の欠片のような物が落ちているくらいだ。

 時折まとまった大きさと量の木材が散らばっていて、もしかすると天井の梁や天板の木材だったのかもしれない。

 もしそうなら、長時間中にいるのは危険だが……。

 

「……奥」

「え?」

「寺だろ、ここ。だったら本堂の奥に本尊を祀ってる空間があるだろ」

 

 そう言ったのは、獪岳だった。

 辺りに何かないかと探っていた瑠衣は、いささか意外な面持ちで彼を見つめた。

 

「……詳しいんですね?」

「うるせーぞ、カスが」

 

 取り付く島もなかった。

 ただ言葉の割に、獪岳が本堂を眺める眼差しは、厳しさとは違う色を浮かべているような気がした。

 だから、それ以上は瑠衣も何も聞くことが出来なかった。

 

 思えば、瑠衣は獪岳が鬼殺隊に入る前にどこで何をしていたのかは知らない。

 もっともそれは獪岳に限った話ではなく、鬼殺隊士は己の過去を話そうとはしない者が多かった。

 大抵の場合、悲しい過去になってしまうからだろう。

 誰にとっても、そうだった。

 

「……行きましょう」

 

 いずれにせよ、さらに奥があると言うなら見に行く必要がある。

 本堂の奥へ進んでいくと、なるほど確かに扉があった。

 暗かったので、入口のあたりからは壁と判別することが出来なかったのだ。

 瑠衣の後を、獪岳、禊、柚羽の順に移動した。

 

「何この臭い、チョー最悪……」

 

 奥に近付いていくにつれて、匂いが強くなっていった。

 

「開けますよ」

 

 扉に手をかけて、他の3人に合図を送った。

 そして耳を傍立てつつ――引き戸だった――ゆっくりと開けた。

 何年も籠っていたのだろう、むっとした臭気が鼻をついた。

 鼻の良い者なら、まさに「鼻が曲がる」と悲鳴を上げていたかもしれない。

 

 はたして、扉の奥には獪岳の言う通り別な空間があった。

 御本尊、いわゆる仏像が確かにそこには安置されていたのだろう。

 今では、様々な仏具が置かれていたのだろう壇が僅かに残っているばかりだ。

 もちろん、行方不明の隊士の姿もなかった。

 

「誰もいない……?」

 

 困惑を隠せなかった。

 誰かがこの廃寺にいたという痕跡すらも見当たらない。

 どうしようもなく、嫌な予感を覚えた。

 何もない。安堵すべきその情報が、瑠衣の警戒心を逆に高めていた。

 ()()()()()()()()

 

「外に」

 

 出ましょう、と言おうとした、その時だった。

 首の後ろに、鋭い痛みが走った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 どうにも嫌な予感が拭えずに、千寿郎は何度も空を見た。

 道着姿で煉獄邸の庭に出て、手には木刀を持っている。

 どうやら、鍛錬をしていたようだ。

 

「千寿郎、集中しなさい」

「あ、はい! すみません父上っ!」

「鍛錬の時は、師範と呼びなさい」

「はい! 師範!」

 

 そんな千寿郎を指導しているのは、もちろん槇寿郎だった。

 縁側に座り、木刀を玉砂利の地面に立てている。

 槇寿郎は、木刀を振り始めた千寿郎に厳しい視線を向けていた。

 千寿郎は父の視線を感じているのか、素振りに集中しながらも緊張していた。

 

 父親に見られて緊張しない息子はいない。

 しかも槇寿郎のそれは、同時に師弟としての色も帯びている。

 少しでも気を逸らせば、いつ落第を言い渡されるかわからないのだ。

 だというのに、千寿郎は胸中に生まれた靄のようなものを消せずにいた。

 そうした雑念は、剣先にはっきりと出てしまうものだ。

 

「……千寿郎」

 

 嘆息が聞こえて、千寿郎はびくりと肩を震わせた。

 木刀を手に槇寿郎が立ち上がるのが見えて、額に汗を滲ませる。

 鍛錬の時の父は厳しい。

 身を入れて鍛錬していないと思われれば――実際、心ここにあらずだった――厳しい罰を与えられてもおかしくはない。

 

「…………ッ」

 

 目を閉じて、身を竦ませた。

 しかし覚悟したものは来ず、代わりに頭に大きなものが乗ったのを感じた。

 おそるおそる目を開けると、次の瞬間には千寿郎はきょとんとした表情を浮かべた。

 槇寿郎が、息子の頭に手を置いていたのである。

 

「杏寿郎や瑠衣のことが心配か?」

 

 見抜かれていた。

 千寿郎の顔が、かっと熱くなった。

 

「兄上は、ここのところ帰ってきません」

 

 先日の柱合会議の日から、杏寿郎は任務の頻度が明らかに上がっていた。

 一方で、それまで家を空けることの多かった槇寿郎が任務に出ることが少なくなった。

 まだ直接聞いたわけではないが、千寿郎にも察するところはあった。

 

「姉上は、あまりお休みになっていません」

 

 そして瑠衣。

 千寿郎は、瑠衣が毎日のように夜半過ぎまで鍛錬に打ち込んでいることを知っていた。

 それでいて鬼殺の任務もこなし、家にいる時は家事に打ち込んだりする。

 心配だった。ただ、姉の身体が心配だった。 

 

 そんな千寿郎のことを、槇寿郎は良く理解していた。

 千寿郎はきっと、母親の血が濃いのだろう。

 強さよりも優しさの方を、より多く受け継いでいる。

 

「大丈夫だ、千寿郎。お前の兄と姉は、お前が思っているよりもずっと強い」

「……はい」

「2人とも任務を終えて、すぐに帰って来る。鍛錬が終わったら、買い出しに行くとしよう。2人ともきっと腹を空かせて帰って来るだろうからな」

「……はい!」

 

 明るい笑顔を浮かべた千寿郎に、槇寿郎も笑みを浮かべて見せた。

 鬼殺隊士である以上、危険は付きものだ。避けることは難しい。

 待っている人間に出来ることは、普段通りに迎えてやることだけだ。

 ただそれだけで気持ちが救われるのだということを、槇寿郎は良く知っていた。

 

「あ、でも父上は厨には近づかないでくださいね!」

「…………むう」

 

 それが、信じるということなのだ。

 槇寿郎は、息子達が今も立派に鬼殺隊士としての責務を果たしていることを疑っていなかった。

 きっと今も、雄々しく――瑠衣は女子だが――戦っていることだろう。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 今すぐ家に帰って、弟を抱き枕にして癒されたい。

 そう思った。

 

(い゛っ……!)

 

 かなり痛い。首の後ろだ。

 何かが首の後ろに突き刺さり、しかも痛みは体内に()()()()()()()

 注射針、が表現としては近いだろうか。

 身体の内側に、皮膚を破って異物が入り込んで来る感覚。

 

 何だ、と思う前に瑠衣が取った行動は2つだ。

 まず1つは、全集中の呼吸。呼吸を深くして血の巡りを遅らせる。毒対策だ。

 そしてもう1つは、日輪刀を構えて振り向くことだ。

 敵は後ろにいると、そう思ったからだ。

 

「…………ッ!?」

 

 しかし後ろを振り向いたところで、瑠衣が見たのは敵の姿ではなかった。

 視界に飛び込んできたのは。

 

「木、じゃない……根っ!?」

 

 天井からだ、砂色の根のような物体が幾本も垂れ下がっていた。

 いったい、いつの間に。全く気配に気付かなかった。

 だがそれ以上に問題なのは、異常に俊敏な動きによって、根が瑠衣達に襲いかかっているということだ。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』!

 

 躊躇しなかった。

 風の刃を纏って突進、天井から垂れ下がっている根の大半を斬り飛ばした。

 それで、獪岳や禊達に襲いかかっていた根も含めて排除することができた。

 振り仰いで、瑠衣が声を上げた。

 

「大丈夫ですかっ!?」

 

 それを見て、畜生が、と思ったのは獪岳だ。

 今の瑠衣の攻撃は彼から見てもなかなかのものだったが、獪岳の実力をもってすれば瑠衣に先んじることも出来たはずだ。

 それが出来なかったのは、瑠衣が首に受けた()()を、獪岳は右腕――利き腕だ――に受けていたからである。

 

「ちいっ、何だよこれは!?」

 

 獪岳の右手の甲に付着したそれは、傍目には()()()()のように見えた。

 濃い紫色をしていて、表面はザラザラとしており、気のせいでなければピクピクと動いている。

 強く手の肉に喰い込んでいるようで、力尽くで引き剥がすのは得策ではないように思えた。

 しかも異物感は手の甲から手首へと徐々に広がって来ていて、悪化していることがまさに「肌で」感じられた。

 

「あの気持ち悪いのもまた生えてきてるし……!」

 

 禊は左足だった。

 ふくらはぎの辺りから膝、太ももにかけて、蜘蛛の巣のように紫色の線が走っている。

 白く肉付きの良い足だけに、痛々しい。

 そして禊の言葉通り、瑠衣が切り飛ばした根は再び天井から伸び始めていた。

 

 明らかに、攻撃されている。

 普通の状況ではない。

 その時だ、瑠衣達の前に何かが音を立てて落ちて来た。

 鈍い音を立てて床に跳ねたそれは、刀だった。水色の刃。

 

 ――――柚羽の、日輪刀だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 日輪刀は、鬼に対抗するほとんど唯一の武器である。

 だから鬼殺隊士は、何を捨てても日輪刀だけは絶対に手放さない。

 それでも、手放す時とは?

 ――――血の気が、引いた。

 

「アハハハハハハハハハッ」

 

 声が落ちて来た。

 上だ。

 見上げると、根の節々に突起物があり、仄かな光を放っていた。

 暗闇の中、紫色の輝きは不気味としか言いようがないが、視界はマシになった。

 

「……っ」

 

 まず、柚羽の姿が見えた。

 ほっとしたのも束の間、柚羽が全身を根に絡めとられているのを見ると、すぐに緊張した。

 その柚羽の傍に、()()がいたからだ。

 

 色素の抜けた白髪、血の色の眼に紫玉の瞳、鋭い牙と爪。

 首に巻かれた何かの毛皮、血液をぶちまけたかのような赤い着物、黒い帯。

 額の、2本の角。人間ではない、鬼だ。

 鬼が、そこにいた。

 

「柚羽さん!」

 

 柚羽は瑠衣の呼びかけに応じようとしたようだったが、鬼の手が喉に伸びていて出来なかった。

 その首に、獪岳の手や禊の足にあるものと――そしておそらく、瑠衣の首にあるものと――同じ、奇妙なできものがあった。

 鬼の手は、そのできものを撫でているようだった。

 

「鬼狩りって、底抜けの馬鹿ばっかりよねえ」

 

 そうしながら、鬼は――女の鬼だ。見た目は瑠衣達よりも幼く見える――喉を鳴らして嗤った。

 

「1人捕まえたら、何もしなくても次々にやって来るんだもの。しかも、ぞろぞろやって来る奴に限って弱い」

 

 次の瞬間、瑠衣の視界に禊の後ろ姿が飛び出していた。

 右足一本で跳んでいて、どこから取り出したのだろう、長槍――日輪刀は「刀」に限らない――を持っていた。

 届かないと思っていたが、どういうわけか刃が()()()

 明らかに鬼の顔を狙っていたが、より高い場所に移動されてかわされた。禊の舌打ちが響く。

 

 そしてその後に、もう1人。獪岳だ。

 彼は空中で身を捻るようにしながら、左手に持った日輪刀を振り回した。

 利き腕でないせいか、いつもより荒っぽい斬り方だったが、それでも柚羽に絡みついた根を切断するには十分だった。

 力なく落ちて来た柚羽を、瑠衣が受け止めた。

 

「酷いことをするわ」

 

 獲物を奪い返されたというのに、あっさりとした声が落ちて来た。

 鬼は自分を睨みつける3人に対して、嘲るような目を向けている。

 いや、実際に嘲っている。

 

「そんなに乱暴に根を斬って、聞こえない? 痛い痛いって、泣いているのが」

「はっ、植物が泣くわけねえだろ。啼くのはテメェだ、ゴミが」

「……()()()()()?」

 

 鬼の口が、三日月の形に歪む。

 そうして、誰も喋らなくなった時だ。微かに聞こえて来た。

 泣き声……いや、これは呻き声だ。

 誰かが苦し気に、呻いている。

 

 鬼の傍に、根の塊が下りて来た。

 その塊は人の形をしていて、そこからシュルシュルと幾本かの根が離れていった。

 はらり、と外に出たのは、赤みがかった黒髪だ。

 根が離れて外部に露出した部分から、僅かに黒の隊服が覗いている。

 うう、と、呻き声が聞こえた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 行方不明の女性隊士――旭榛名という名の――だと、すぐにわかった。

 だから瑠衣は、再び根を斬ろうと刀を構えた。

 しかし、それ以上は動けなかった。

 

「こうすれば、動けないんだもんねえ。アンタ達は」

 

 ニヤニヤと、いやらしい笑みを浮かべていた。

 柚羽にしていたのと同じように、榛名の首を掴んでいる。

 先程と違うのは、高さだ。

 天井に近いところにいるので、一息で跳んで助けるということが難しい。

 しかも、「根の痛み」だ。

 

「この根はね、わたしの血鬼術(けっきじゅつ)で作り出したもの」

 

 血鬼術。鬼の異能。

 鬼は基本的に人間を喰えば喰う程に力を増し、さらに選ばれた鬼は異能の力――血鬼術を得る。

 時として自然現象すらも捻じ曲げる、人智を越えた力だ。

 

「わたしが植え付けた種子は、宿主の血と肉で発芽する。そして発芽した根は、宿主の体そのもの」

 

 つまり、この根を傷つけることは榛名を傷つけるということだ。

 根を斬るということは、榛名の手足を斬ることに等しい。

 しかも、榛名は明らかに生きていた。

 いや、()()()()()()()

 

 人質。盾。そのために。

 鬼の下まで跳び、斬る。これはそう難しいことではない。

 だが、まだ生きている仲間を無視できるか。

 榛名は、できなかったのだろう。

 

「本当に馬鹿よね、こいつも。先に捕まえたエサを盾にしたら、簡単にやられてくれたもの」

「……先に捕まえていた人は、どうしたんですか」

「食べたわ」

 

 もう喰った。

 口角を歪めて、あっさりと、そう答えた。

 戸棚の饅頭でも食べたかのような、そんな口調だった。

 声が落ちてくる。

 

「楽しかったわあ。こいつの目の前で食べてやった」

 

「そうしたら、みっともなく泣いてね。その人を食べないで、食べないで……うふふふふふ」

 

「次は自分が仲間を釣るエサになると知って、暴れるのも面白かった。無駄だったけど」

 

「それから、わたしの種子が根を張っていくのを見ていたわ。わたしはこれが好きなの」

 

「体の自由が少しずつ奪われて、意識さえもなくなっていく、あの恐怖と絶望で少しずつ引き攣っていく顔ときたら」

 

「うふふ、うふふふふ……アハハハハハハハハハハハハハハハッ」

 

 ……とんでもない下種(ゲス)だと、獪岳は思った。

 鬼というのは大体そうだが、こいつは格別だ。

 同時に、斬ろう、と思った。

 あの女性隊士には悪いが、こんなところで死ぬつもりが獪岳にはなかった。

 

「…………」

 

 とん、と、床を蹴る音がした。

 それは跳躍のためのものではなく、足運びのそれだ。

 とんとん、とんとん、と、拍子を打つように何度も繰り返されている。

 その音を聞いて、獪岳は動きを止めた。

 

 同時に、ヤバい、と思った。

 獪岳はこの音を、かつて一度だけ聞いたことがあった。

 最終選別の時だ。

 ()()が、出てきている。

 ()()()()()()()()()()()

 

()()

 

 低い声だった。

 誰の声か。

 

「……はあ? 何か言った?」

「――――()()()()って言ったんだよ、このクソ鬼が」

 

 瑠衣だった。

 握り締めた日輪刀の柄が、ミシミシと音を立てている。

 小柄な体躯が、大きく膨らんだようにさえ見える。

 怒らせた両肩からは、蒸気でも吹き上がりそうな錯覚さえ覚えた。

 罪のない者を嗤って殺す悪鬼に対する、それは純粋な怒り。

 

「殺す? 面白いことを言うじゃない、このわたしに――――()()()()()()()()

 

 さらりと髪をかき上げると、鬼の左目が赤く輝いた。

 浮かび上がる「下肆」の二字。

 下弦の肆。

 十二鬼月、と、禊が口の中で呟くのが聞こえた。

 

「宣言してやる、クソ鬼」

 

 父・槇寿郎は、師・不死川は、自分にこう教えた。

 見鬼必滅。

 悪鬼、滅殺。

 鬼は――――即座に斬れ!

 

「お前は、この煉獄の風刃に骨まで八つ裂かれて死ぬ」

 

 とんとん、と、瑠衣の体が小さく跳ね続けていた。

 とんとん。

 ――――とん、とん。




読者投稿キャラクター:
ひがつち様:一葉禊
グニル様:旭榛名
投稿ありがとうございました。

最後までお読み頂きありがとうございます。

第4話を「第肆話」にするか死ぬほど悩みました(え)

話もちょっと難産でした、下弦の肆のキャラクターに悩んだからです。
何しろ原作が原作ですからね…!
血鬼術も名前から考えてみましたが、大丈夫かなあ。

はあ…どうやって瑠衣達をピンチにしようかなあ(え)

それでは、また次回。


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第5話:「零余子」

 十二鬼月・下弦(かげん)()――――名を零余子(むかご)

 数多いる鬼の中で最強の1体。

 数多くの人間を喰い、鬼狩りでさえ屠ってきた鬼だ。

 その彼女が、今はただ戸惑っていた。

 

(あの鬼狩り(瑠衣)、どこへ消えた?)

 

 瑠衣を、見失っていた。

 小さく、()()()()と跳んでいた瑠衣が、いきなり姿を消したのだ。

 鬼は瞬きをしない。瞳が常に潤っているためだ。

 まして十二鬼月である自分が見失うなど、あるはずがない。

 ないはずなのに。

 

「……?」

 

 音。

 まず、音が来た。

 ドンッ、という、衝撃を伴う強い音だ。

 音を追うと、いつの間にか別の場所でとんとんと跳ねる瑠衣を見つけた。

 

 この音が()()()()()()なのだと気付くのに、少しかかった。

 そして強く踏み込んだ次の瞬間、瑠衣の姿が目の前から消える。

 足元の床板が砕けて、人の頭ほどの大きさの穴が開いていた。

 数瞬の後、別の方向からまた音がした。

 

「速……」

 

 呟く間に、さらに別の方向から音が聞こえてくる。

 やはり目が追い付く前に、瑠衣は消える。

 一歩につき10尺(約3メートル)は軽く移動しているか。

 いや、それ以上に移動している時もある。逆に短い時もある。

 それが何度も繰り返された。本堂の床に、瑠衣の「足跡」が次々に刻まれていく。

 

 無論、零余子もただ見ていたわけではない。

 根を向かわせる。しかし話にならなかった。

 追いつけない。仮に追いついたと思っても、次の一瞬には擦り抜けてしまう。

 触れることすらできない。

 音はもはやドンッ、という単発から、ドガガガ、という連続したものに変わりつつあった。

 

「あ……」

 

 単発ではダメだ。仕留め切れない。

 そこまで考えて、零余子はハッとした。

 ()()()()()()()

 今、自分は何を考えたのか?

 

 十二鬼月である自分が、たかがエサに過ぎない人間を相手に、事もあろうに。

 仕留め切れないだと?

 鬼が、人間を仕留め切れないとは何だ。

 怒りが急激に高まり、それは容易に沸点を越えた。

 

「ああ、ああああああもうっ、鬱陶しいっっ!!」

 

 余りにも苛立ったのだろう、人質(榛名)の首からも手を放してしまった。

 両手を眼下で跳び回る瑠衣へと向ける。

 そして力の集中を表すかのように、両手がメキメキと音を立てていた。

 ――――血鬼術!

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――血鬼術『百腕(ひゃくわん)肉芽(にくが)』。

 天井と、床。

 上下から100本に及ぶ砂色の根が湧き出し、()()()ながら瑠衣に襲い掛かる。

 それはまさに視界を埋め尽くさんばかりで、蟻の這い出る隙間もなくなるのではないかと思えた。

 

「アハハハハハハハハッ! 調子に乗るのもここまで――」

 

 その時だ、零余子は見た。

 100本の根に迫られながら、瑠衣が笑ったのを。

 この期に及んで、と、零余子は顔面に血管が浮かぶ程の怒りを感じた。

 

「――――死ね!!」

「死ぬのはお前だ、クソ鬼」

 

 …………は?

 次の瞬間、零余子は目が点になっていた。

 瑠衣が言葉を発したと同時に、また姿を消したのだ。

 瑠衣の踏み込みによって砕け散った床板の破片が、ゆっくりと落ちていくのが見えた。

 ――――鬼の本能か、左手を上げた。

 

「へえ、やるじゃないか」

「こ……の……!」

 

 その左手に、瑠衣の日輪刀が振り下ろされた。

 重い音が響く。

 刃は表皮を僅かに斬ったのみ。

 血鬼術発動のために力を腕に集中していたから、斬れなかった。

 だが、零余子の受けた衝撃は大きかった。

 

「家族以外で、私の()()()()をまともに受け止めたのってお前が初めてだよ。凄いね、褒めてあげる」

「な、な、な」

 

 ()()()()()

 人間が、鬼を、褒める?

 何という傲慢。高慢。増上慢。

 

「舐めるなあっ!!」

 

 右手を振るった。

 左手を同様に硬く、当たれば頭蓋を砕いただろう。だが。

 

「結構、速いね。凄い凄い」

 

 身を捻り、瑠衣は回避した。

 しかも右足で零余子の脇腹を蹴り、そのまま距離を取ってしまう。

 馬鹿め、と、蹴りの痛みを堪えながらも零余子は笑った。

 足場などない。真っ逆さまに落ちてしまえ、そう思った。

 しかし次の瞬間、零余子の笑みは凍り付いた。

 

 ()()()()()()()()()

 

 零余子の『百腕肉芽』の根は、大きいものであれば人間の腕くらいの太さがある。

 瑠衣はそれらを蹴り、それらの上を駆けていた。

 根は衝撃で弾かれはするが、切られてはいないので、人質のダメージは最小限に抑えられる。

 零余子も今まで何人かの鬼狩りを見て来たが、こんな動きが出来る人間は初めてだ。

 

(これが人間の動き!? 冗談でしょっ!?)

 

 余りにも人間離れした芸当に、零余子は戦慄した。

 ちらりと、何かを確認するように斜め下へと視線を向けた。

 何を見たのかわからなかったが、瑠衣はその機を見逃さなかった。

 身を捻って根の攻撃を紙一重でかわし、一際太い根に足裏を叩きつけた。

 深く高い呼吸音。噛み締めた歯の間から漏れ聞こえてくる。

 

「ヒッ……!」

 

 日輪刀を腰に構えた、抜刀の姿勢。

 そのまま高速で突進してきた瑠衣に、零余子は息を呑んだ。

 斬られる、と、本気で感じた。

 瑠衣の眼光が「斬る」と告げていた。

 

 

 頚に、灼熱感が走った。

 

 

 ――――はっとして、零余子は頚を押さえた。

 左側、人間で言えば頸動脈の部分が浅く――それでも、血が噴き出していたが――斬られていたが、頚を斬り落とされてはいなかった。

 どっ、と汗が溢れ出て来た。斜め下に視線を向ける。

 人質の鬼狩り(榛名)が、うう、と呻き声を上げていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣の舌打ちが、ここまで聞こえてきそうだった。

 

「ちょっと、外したわよ!」

 

 禊の甲高い声は、それだけ今の一撃が惜しかったことを意味している。

 そして外した理由を、獪岳は正確に見抜いていた。

 

(足場が悪かった)

 

 固い床ではなく、()()()根だったので、踏み込みの力が足りなかったのだ。

 それから、体に打ち込まれた種子だ。

 獪岳の利き手もそうだが、呼吸で侵蝕を押さえているとは言え、痛みと異物感は徐々に増してきている。

 しかし、それでもなお、だ。

 

(相変わらず、えげつねえ技だ)

 

 その凄まじさを最も理解していたのは、獪岳であったろう。

 呼吸の剣技ではない。体術と足運び――歩法、いや()()とでもいうのが正しいか。

 理屈は簡単だ。

 全集中の呼吸で力を足に溜めて、踏み込みの際に解き放つ。これを繰り返すだけだ。

 だがそのためには、尋常でない程の脚力が要る。

 

 また、それに耐え得るだけの強靭な足腰や体幹も必要だ。

 さもないと、踏み込みと移動の衝撃に耐えきれずに上半身が砕けるだろう。

 どちらも一朝一夕に身に着くものではない。

 雷の呼吸にも、似たような技はあるが……。

 

(……本当に、気に入らねえ女だ……)

 

 ぎり、と、獪岳は奥歯を噛み締めた。

 最終選別の時から、獪岳は瑠衣を嫌っていた。

 最も、彼はほとんどの人間を嫌っているのだが。

 

「それにしても、あの瑠衣さんがあれ程に怒るとは思いませんでした。もちろん私も怒りは覚えましたが、鬼気迫るとはあのような姿を言うのでしょうか」

 

 獪岳の隣で瑠衣を見上げていた柚羽が、そんなことを言った。

 そんな柚羽に対して、獪岳は思った。

 

(何もわかってねえな)

 

 瑠衣は、確かに怒っている。これ以上はない程に怒っている。

 だがその怒りの理由は、少なくとも柚羽が思っている理由ではない。

 獪岳はその理由を知っている。

 獪岳は瑠衣が嫌いだが、瑠衣のその怒りの理由、すなわち()()()()()()()()()()()

 

「おい、何してる」

「……あの根」

 

 柚羽が己の手を、日輪刀の柄に括りつけていた。

 どうやら握力を失っているらしく、端を歯で噛みながら、手拭いで縛っている。

 

「あの根に捕らわれると、血を吸われます。上手く手に力が入らないので、縛っています。そうすれば少なくとも刀は振れます」

 

 よくよく見て見れば、柚羽の隊服のところどころに染みが出来ていた。

 血流は全集中の呼吸と密接に絡んでおり、血を吸われるというのは致命の要素だ。

 おそらくあの根は、血を栄養として成長しているのだろう。

 

「相手は十二鬼月です。難しいですが、全員でかかれば」

「は? チョー意味不明なんだけど」

 

 そんな柚羽に、禊が不愉快そうな表情を浮かべた。

 

「手を柄に縛らなきゃ刀も振れないような奴の隣で戦うとか冗談でしょ、邪魔」

「しかし」

「邪・魔・よ」

「あ、ちょ」

 

 ビッ、と柚羽の手から手拭いを奪い取り、わたわたと揉み合ったりしている。

 努力して見れば仲睦まじいようにも見えるかもしれないが……。

 

「うるせえよ、どっちも邪魔だ」

「……は?」

 

 禊は獪岳を睨んだが、彼は全く意に介していなかった。

 元より他人にどう思われるかなど、気にしていない男だ。

 むしろ、そんな彼が禊や柚羽を止めているのは「親切」と言っても良い。

 

 ちょうどその時、瑠衣が彼らの目の前に下りて来た。

 しかしすぐにあの「とんとん」という小さな跳ねが始まり、次の瞬間には迫りくる根を打ちながら姿を消した。

 床板が弾け飛び、穴だけが残る。まるで。

 

「今のアイツは、ただ目の前の鬼を斬ることしか考えてねえ」

 

 まるで、獪岳らのことなど見えていないかのように。

 いや、実際に意識の外に追いやっている。獪岳にはわかる。

 不用意に近付けば、まかり間違って味方をも斬りかねない。

 だから柚羽の言うような「皆でかかる」ようなことは出来ない。

 まあ、瑠衣の本性を知らない人間には言っても無駄だろうとも思う。

 

「まあ、黙って見てろよ」

 

 獪岳は笑みを浮かべた。

 

「もしかしたら、面白いものが見れるかもしれねえからよ」

 

 その目は、零余子を捉えていた。

 瑠衣の攻撃を紙一重でかわしながら、ある方向をチラチラと確認し始めている鬼の姿を。

 

  ◆  ◆  ◆

 

(こ……こいつ! この人間!)

 

 零余子は、もうはっきりと恐慌状態に陥っていた。

 目の前の鬼狩りの余りの異常さに、

 柱2人の教えを受けた瑠衣の実力は、並の隊士とは比べ物にならない。

 だが零余子は恐れているのは、剣の腕前ではなかった。

 

「……っ!」

 

 また、頚の側面から血が噴き出した。

 瑠衣の姿はやはり追えない。零余子の目が追えても根が追い付かないのだ。

 そして頚の傷は確実に、徐々に深くなってきていた。

 このままあと何度か交錯を繰り返せあ、その内に本当に頚を落とされかねない。

 

(ひ、人質を……)

 

 榛名を使うという手がまず浮かんだが、恐怖が残った。

 もし榛名の首を掴んで人質に取ったとして、瑠衣は止まるのか、という恐怖だ。

 今の瑠衣の目には自分しか映っていない。

 もしかすると人質を無視して攻撃を続行してくるかもしれない。

 万が一そうなった時、頸を斬られないという保証はない。

 

(クソッ、クソッ!)

 

 何だ、何なのだと、零余子は思った。

 こんな人間は初めてだ。

 こいつ、と瑠衣を睨んだ時、零余子は気付いた。

 瑠衣の首元、自らが打ち込んだ種子の状態に気付いた。

 ニヤリと、零余子は笑みを浮かべた。

 

「……!」

 

 零余子がこちらに手を向けるのを、瑠衣は見た。

 しかし、関係なかった。

 相手が何をどうしようと、瑠衣がやることは変わらないからだ。

 そう思って、再び日輪刀を構えた時だ。

 

 身体の中で、何かがぎしり、と音を立てた。

 具体的には首の後ろ、体内に伸びた種子がいよいよ致命的な場所にまで伸びつつあるらしい。

 一瞬、瑠衣の動きが止まる。失速する。

 鼻腔と口の端から、赤い血が垂れる。

 

「アハハハハハハハハッ、今度こそ終わりよ! クソ人間っ!!」

 

 ――――血鬼術『担根(たんこん)薯蕷(じょうよ)』!

 視界一杯に、粘性のある白い液体が噴き上がった。

 それは周囲の根から放たれたもので、瑠衣を覆い包むような形で放たれていた。

 どのような効果かはわからないが、触れない方が良さそうというのは明らかだった。

 

 しかし、それでも瑠衣の目はただ1つのものだけを見据えていた。

 鬼の頚。

 ただ、その1点だけ。

 だから瑠衣の次の行動は、回避でも迎撃でもなく。

 

「アハハハハ――――は?」

 

 零余子は唖然とした。

 瑠衣が、零余子の放った粘液などまるで気にせず、そのまま跳んだからだ。

 真っ直ぐ、こちらに突っ込んできた。

 頭がおかしいのではないかと、零余子は本気で思った。

 

 しかし結果として、それが瑠衣の命を救うことになった。

 もし後ろや左右、上下に移動していたのであれば、粘液の膜とも言うべきそれは、瑠衣を押し包んでしまっただろう。

 だが正面に跳んだことで、膜が閉じ切る前に脱出することが出来た。

 

「そ、そんな馬鹿なっ!」

 

 それでも全ての粘液をかわせたわけではなく、ジュッ、と、粘液の雫が隊服を溶かした。

 鬼殺隊の隊服は並の鬼では傷つけることも出来ない。

 それが溶けるということは、やはり零余子は力ある鬼なのだろう。

 だが、零余子にとっては何の慰めにもならなかった。

 

「私の任務対象を、よくも殺したな」

 

 そして瑠衣にとっても、零余子の受けた衝撃など関係なかった。

 今度こそ。擦れ違いざま、零余子の頚を狙う。

 服を溶かした粘液が肌を焼こうと、頸の種子が血を流そうと、構わない。

 日輪刀を、振るった。

 

「…………っ!?」

 

 振るった日輪刀に、手応えが無かった。

 零余子が自身の身に根を巻いて、真下に身体を下げたのだ。

 瑠衣の刀が斬ったのは、髪の数本に過ぎなかった。

 反撃が来るかと思ったが、来なかった。

 何故なら、零余子が()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 零余子が鬼の頂点の1人に立てた理由は2つある。

 第1に強い。並の鬼であれば何体か束になったところで彼女には勝てない。

 そしてもう1つ、見切りの速さ。

 すなわち、()()()()()

 

 そもそも鬼にとって人間は食料に過ぎない。

 今時、よほど飢えていない限り食事()()()に命は懸けられない。

 だから零余子は、戦況が芳しく無ければ逃げる判断を躊躇わない。

 戦闘狂でもあるまいし、まして戦いに美学を求めたりもしない。

 例えば目の前の鬼狩りが柱であれば、零余子は姿さえ見せずに最初の段階で逃げていただろう。

 

(柱でもない奴に……!)

 

 十二鬼月としては屈辱だが、命あっての物種だ。

 零余子はもはや人質にも瑠衣達にも目もくれずに、本堂の出口へと駆けた。

 まさに一目散。人間に追い(すが)れるはずも。

 

「よお、待ってたぜ」

 

 ――――雷の呼吸・参ノ型『聚蚊(しゅうぶん)成雷(せいらい)』。

 ぐるん、と、零余子の目の前で黒い何かが回転した。

 獪岳だった。

 雷の紋様が刻まれた刀身が、零余子の肩と喉元を掠めた。

 

「な――――何で!?」

「はっ! あれだけチラチラ出口を確認してたら、馬鹿でも逃げようとしてるってわかるだろうぜ!」

 

 利き腕が使えない分、精度が落ちていた。

 そうでなければ零余子は、より深く傷を負っていただろう。

 傷自体はすぐに治癒するが、零余子が精神的に受けた衝撃は計り知れなかった。

 逃げ道を塞がれた。しかも、この男(獪岳)は瑠衣と実力にほとんど差がないと見える。

 

 ならば別の道だ。

 何も律儀に扉から出ていく必要はないのだ。

 ばっ、と、両手を獪岳へと向ける。

 ――――血鬼術『百腕肉芽』。

 

「ちっ……!」

 

 ――――雷の呼吸・弐ノ型『稲魂』。

 殺到する根を雷速の剣技で捌く、その間に零余子は背中を見せていた。

 そしてその駆け出した先には。

 

「……!」

 

 柚羽がいた。無論、根に血を吸われた影響は抜け切っていない。

 刀を構えているが片手の握力が弱く、振るのは難しい。

 いっそ投げでもした方がマシかもしれない。

 と、そんな2人の間にゆらりと立ち入って来た者がいた。

 

 禊だった。

 羽織った隊服の隙間から、着物の折り鶴が顔を覗かせている。

 まるで無数の鶴が零余子を見つめているような、そんな錯覚を覚えた。

 もちろんのこと、その手には槍が構えられているが。

 

(間合いに入られたら槍なんて邪魔なだけじゃない!!)

 

 零余子が速度を緩めなかったこと、禊が途中で割って入ったこと。

 これらが重なって、接近した時にはすでに零余子は禊の懐深くに入り込んでいた。

 こうなれば、単純に力の強い方が勝つのは道理と言える。

 嵩に懸かって繰り出された零余子の拳を、禊は何とか槍の柄で受けた、

 だが鬼の膂力(りょりょく)に耐え切れるはずもなく、日輪刀の槍は甲高い音を立ててバラバラに砕け散った。

 

「アハハハハハハッ、頼みの刀を壊されてどんな気ぶ」

 

 ――――欺の呼吸・壱ノ型『石跳び』。

 

「んグえ」

 

 ごぼ、と、逆流した血液が零余子の口から噴き出した。

 何事かと思い眼球が下を向く、すると。

 

「あはっ、イ~イ顔♪」

 

 零余子の喉を、槍の穂先が刺し貫いていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 系統としては、水の呼吸の派生に当たる。

 水系統の呼吸特有の流れるような動作に、禊が生まれ持つ優れた空間認識力を合わせた独特の呼吸法。

 周囲の空間を余さず把握し、時には己の隙すらも利用して敵の隙を穿つ。

 数いる鬼殺隊士の中で、禊のみが使用する呼吸法だ。

 

「人呼んで、(あざむき)の呼吸」

 

 誰も呼びはしないけどね、と禊は笑った。

 彼女がやったことは、言葉にすると単純だ。

 まず日輪刀。彼女の槍は()()()()()であり、普段は部品ごとに隠し持っている。

 つまり零余子の攻撃を受けた際に砕けたように見えたが、実は禊が自分で解体していたのだ。

 

 そして宙を舞った穂先の部品を掌底で叩き、零余子の喉に叩き付けたのである。

 だがこれは、まさに「言うは易し」の典型と言える。

 鬼の間合いの中で、一瞬とは言え隙を晒し、さらに一瞬とは言え獲物を手放すのである。

 しかも返しの一撃を外せば、当然ながら超至近距離で鬼の反撃を喰らうことになる。

 並の神経では出来ることではないが、幸か不幸か、この禊という少女は並ではなかった。

 

(こいつ、穂先を……!)

 

 禊の手が穂先を握る。短刀のようにも扱えるということか。

 喉を貫かれた状態で横に振られれば、頸を斬られることになる。

 

「ガアアッ!」

 

 床板を蹴り抜き、禊が離れるのに合わせて後ろに跳んだ。

 喉から穂先が抜ける。

 その時、根を捌いて迫っていた獪岳が後ろから横薙ぎに刀を振るった。

 だがそれも、零余子は高く跳躍することでかわしてしまう。

 

「ゴぼっ……!」

 

 喉に穴が開いたぐらいでは死なない。

 今はそんなことを気にしている場合ではない。

 早く逃げなくては。早く。

 ()()が。()()()が、迫ってきているのだ。

 

 近付いてくる。

 根を蹴り、宙を駆けるようにして近付いてくる。

 踏み込みの音。

 零余子が振り向いた時、すでに瑠衣は刀を大上段に振りかぶっていた。

 

(舐めるな……!)

 

 当然、零余子は迎撃の構えを取る。

 最大の脅威である瑠衣に、全ての意識を向けた。

 そしてそのために、零余子は()()()()()()に気付くのが遅れた。

 塞ぎかけた喉の穴に、そうはさせじと刃が突きこまれる。

 

 獪岳だった。

 

 柚羽が声を上げた。

 瑠衣が振り下ろしのモーションに入ったところでの攻撃で、タイミングとして最悪だったからだ。

 要は、このままでは零余子ごと瑠衣に斬られかねない。

 だからこそ零余子も獪岳を意識を向けなかったわけだが、それでも危険な行為だった。

 何故、彼がそこまでして攻撃に及んだかと言えば……。

 

(十二鬼月を斬れば、俺が柱だ!)

 

 十二鬼月の討伐は柱就任の条件の1つに過ぎないものの、一方で最重視される条件とも言える。

 鬼殺隊がその特性上、実力主義を採らざるを得ないからだ。

 素行が全く考慮されないわけではないが、鬼を斬る腕前の方がより重要だった。

 十二鬼月の討伐者というだけでも、他の隊士から一目置かれ、認められる存在になるのだ。

 

 獪岳は瑠衣が零余子と戦い始めてから、ずっとこのタイミングを待っていたと言って良い。

 だからこそ、先程も逃走する零余子を先回りすることが出来た。

 そして今も、零余子の虚を突く形で喉を貫くことに成功している。

 空中で跳び退くことは出来ず、根も間に合わない。

 零余子にも、逃れる術はなかった。

 

「ガッ……ッ」

 

 獪岳の刀が、零余子の頚を斬り落とそうとしていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 山の中で、地面を掘っていた。

 

 非力な少女だった自分は、着物を汚していくら掘っても、途中で折ってしまってばかりいた。

 

 それでも、他に食べ物を得る方法を知らなかった。

 

 ああ、ダメだ。

 

 こんなに細くて、小さくて、しかも折れてしまっているものじゃダメだ。

 

 早く、もっと大きくて、もっと成長したものを。

 

 上手く掘り出して、持って帰らなければ。

 

 持って帰るんだ。

 

 持って……帰る……?

 

 ()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 零余子の両手が、刃を握るのを見た。

 獪岳がいくら力を込めても動かず、しかも指が切れることもなかった。

 

「ガアアアアアアッ!!」

 

 文字通り血を吐きながら、零余子はそのままの(刺さった)状態で上半身を回した。

 人間の肉体ではあり得ない可動域とバネ、そして力だった。

 刀を握る獪岳の方が振り回されてしまう。

 しかも、狙っていたのだろう。獪岳の身体は刀を振り下ろさんとしていた瑠衣にぶつかった。

 

 獪岳の口から、蛙が潰れたような呻きが漏れた。

 だが零余子にとっても予想外だったのは、瑠衣が血を吐いたことだ。

 零余子の種子はずっと瑠衣の身体を蝕んでいたが、無理矢理呼吸で抑え込んでいた状態だった。

 それが今、ついに限界を迎えたのだ。

 

(か……)

 

 勝った、そう思った。だが。

 

(か……か、刀を……刀、で……!)

 

 獪岳の刀の、峰の部分。

 そこに、瑠衣が己の刀を打ち付けていた。

 零余子まで刃が届かないと悟り、代わりに、獪岳の日輪刀を打ったのだ。

 そのまま、血反吐を吐きながら、満身の力を込めて。

 

「ガ、アア、アアア、アアアアアアアアアアアアアッッ!!」

「うううあああああああああああああああああああっっ!!」

 

 獪岳の刀が、刃が、押し込まれていく。

 だが、足場が悪い。いや足場がない空中だ。

 純粋な腕力で鬼に勝てるわけがない。

 刃はある地点で拮抗し、止まる。そこへ。

 

「ガッ、は」

 

 斜め下から、脇腹に槍が突き刺さった。

 禊だった。

 バラバラになった槍を組み立て、投擲(とうてき)してきたのだ。

 意識の外だったため、力を集中しての硬化も間に合わなかった。

 

 ぐらりと視界が傾いた。筋力が失われる。

 咆哮。

 瑠衣のものか、零余子のものか。凄まじい叫びだ。

 そして次の瞬間、肉の斬り千切れる音と共に、獪岳の刀が振り抜かれた。

 頚を。

 

(――――()()()()()()()()!)

 

 まさに、首の皮一枚。

 喉を刺し横に薙ぐということは、反対側が残るということだ。

 零余子の頚は今、首の右側の皮と肉で辛うじて胴体と繋がっていた。

 足場のない瑠衣と獪岳は、一度下に降りるしかない。

 禊の槍も刺さったまま、柚羽に攻撃の余力はない。

 

(今なら、逃げ切れる……!)

 

 零余子はそう思ったが、彼女も限界だった。

 特に頚の傷が不味い。

 ここまでの損傷となると、再生に相当のエネルギーを要する。

 ()()()()()()

 

 そう考えた零余子は、人質――榛名を手元に引き寄せた。

 これはもうほとんど本能的な行動と言って良く、飢餓寸前の状態の彼女にとって、安全に食すことが出来る食料がそれしかなかったのだ。

 しかし結果として、それが彼女の運命を決定付けた。

 

「複雑ですね」

 

 柚羽の声。零余子の横を何かが通り過ぎて行った。

 

「結局、縛らない方が良かったわけですから」

 

 零余子の優れた動体視力は、それが柚羽の日輪刀であることを見抜いていた。

 振ることは難しくとも、投げることは出来る。

 しかし零余子からは大きく外してしまっている。

 だが柚羽の表情からは、「外した」と口惜しさが全く感じられなかった。

 

「わかりませんか? 呻き声を上げているということは、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 首を振る、という行為が今の零余子にはできない。だから目だけで後ろを見た。

 そこには零余子自身が引き寄せた榛名がいて、零余子の力が弱まったせいか、根による拘束がかなり緩んでいて、そして。

 そして、榛名の手が柚羽の日輪刀を掴んでいた。

 呻き声が、ちゃんとした呼吸に。

 

「な」

 

 ――――炎の呼吸・弐ノ型『昇り炎天』。

 切り上げの斬撃が、零余子の頚の右側を狙っていた。

 しかし零余子もさるもの、咄嗟に両腕を頚の横で交差させた。盾だ。

 普段なら表皮で刃は止まる。しかし零余子も弱っていた。

 刃は易々と腕に喰い込み、肉を裂いて行った。

 

「よくも姉さんを傷つけたな、汚らしい鬼め」

 

 榛名がそんなことを言っていたが、零余子は聞いていない。

 人間の戯言(たわごと)などに付き合っていられる状況ではなかった。

 両腕が斬り飛ばされる。

 だが頚は守った。

 補給は諦めるしかないが、まだ操れる根を使って逃げるしかない。

 

(この場さえ離れられれば……!)

 

 と、零余子が思った時だ。

 ()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 床を蹴り、根を駆けて、刀を構えて突進する。

 頚が千切れかけ、両腕さえも失った零余子にかわす術はなかった。

 振り下ろされた深緑の刃が、残った肉と皮を音を立てて切断した。

 今度こそ、零余子の頚が胴から離れた。

 

(ああ、ああっ。身体が、再生、できない)

 

 鼻から口から、顔中から血を流している状態の瑠衣が、回る。

 頚を落とされたから、視界がぐるぐると回っているのだ。

 その間も身体を動かそうと、あるいは再生しようと試みるが、出来なかった。

 陽光を浴びた鉄で打たれた日輪刀で、鬼殺の刃で頚を斬られれば、鬼でさえ死ぬ。

 

 死ぬ。

 その事実に、零余子の肌が総毛だった。

 死にたくない。

 だって、あんなに。

 

(あんなに、大きく、育ったのに)

 

 根を探さなくては、と、それだけを思った。

 ぐるぐると回る視界のどこかに、あったはずなのだ。

 探して。見つけて。

 持って帰って。食べさせてあげなければ。

 わたしの。

 

「かあさ」

 

 斬った。

 縦に1回、横に2回。頚を細切れに切断した。

 発されようとした言葉は、斬撃の音に掻き消されてしまった。

 

「さっさとくたばれ、クソ鬼」

 

 それで、終わりだった。

 零余子の胴体がばっと塵に変わって消えた。

 着ていた着物だけが、はらりと床に落ちた。

 鬼は死体も残らない。

 

 術の主である鬼が消えたことで、瑠衣達を犯していた種子も消えた。

 傷口から血が溢れ出したが、呼吸で破れた血管を探り応急的な止血を施した。

 術者を失ったせいか、天井からボトボトと根が落ちている。

 軋むような音がそこかしこから聞こえてきていて、早めに外に出た方が良さそうだった。

 

「……ッ」

「瑠衣さん!」

 

 刀を杖代わりにして、膝をつくことだけは堪えた。

 心配した柚羽が傍に寄ったが、それも手で制した。

 顎先から滴り落ちる血を手の甲で拭い取って、血に汚れた手を見つめた。

 

「……情けない……」

 

 本当に悔しそうな顔をするので、柚羽はどうして瑠衣がそんな顔をするのかわからなかった。

 十二鬼月を斬ったのだから、もっと違う反応をしても良いと思うのだが。

 

(畜生……!)

 

 そしてそんな瑠衣を、獪岳が歯噛みしながら見つめていた。

 日輪刀の柄をみしみしと音を立てる程に握り締めながら、畜生、と呟いている。

 自分が斬るはずだった頚を、瑠衣が斬った。

 

(俺が、負けたってのか?)

 

 身体が震える程、屈辱を感じた。

 そんなことは認められない。

 絶対に、認められなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 外に出ると、もう幾何(いくばく)もしない内に夜明けだろうという時刻だった。

 瑠衣達もそうだが、数日に渡り零余子の根に囚われていた榛名の消耗は激しかった。

 瑠衣と柚羽の羽織を地面に敷いて――獪岳は羽織を着ていないし、禊は貸さなかった――その上に寝かせた。

 

「大丈夫ですか……?」

「う……あまりぃ……」

 

 水筒の水を飲ませると少しは意識がはっきりしてきたらしく、掠れた声で返事をしてきた。

 衰弱は隠しようもない。

 根に血を吸われながら、極限状態で呼吸を絶やさなかったのだ。当然だろう。

 

「ありがとうございました。貴女が最後に腕を斬ってくれたおかげで、鬼の頸を斬れました」

「……なんのことぉ……」

「いや、だから最後の」

「……ごめんなさい。わからないわぁ」

 

 記憶が混乱しているのだろうか、話が通じなかった。

 意識が朦朧とする中での、反射的な行動だったのかもしれない。

 鬼殺の技は、無意識にでも出てしまうくらいには繰り返し鍛錬しているものだから。

 

「ああぁ……あの人、助けられなかったわぁ……」

 

 それでも、目の前で鬼に喰われた隊士のことは覚えているのだろう。

 鬼殺隊士なら誰でも同じような経験がある、というのは慰めにならない。

 それがわかっているから、瑠衣は何も言えなかった。

 出来ることと言えば、休ませること。そして1人にすることだった。

 

 そう思って立ち上がると、話し声が聞こえた。

 柚羽と獪岳だった。

 それも、あまり良い雰囲気ではなさそうだ。

 少し離れた位置に禊もいたが、彼女は2人のやり取りにそもそも興味がない様子だった。

 何やら小道具を出して、爪を磨いていた。

 

「どうしてあんな無茶を……」

「しつけえな。あいつが来てるなんて気が付かなかったんだよ」

「気が付かなかったって……まかり間違えば、互いに斬り合っていたかもしれないんですよ」

 

 どうやら2人は、先程の戦いの終盤のことを言い合っているようだった。

 と言って、柚羽も詰問しているという風ではなく、どちらかと言うと心配している様子だった。

 もっとも、どちらにせよ獪岳は聞く耳を持たなかっただろうが。

 嘆息一つ落として、瑠衣は2人に近付いた。

 

「柚羽さん、大丈夫です」

「でも……」

 

 獪岳の顔を見て、瑠衣は笑顔を浮かべた。そして言う。

 

「獪岳さんはわざとそんなことをする人じゃないですし。それに戦いの中での出来事ですから、私も気にしていません」

 

 獪岳の眉がひくついた。

 射殺さんばかりの視線で、瑠衣を睨みつける。

 眉に皺を寄せて、歯さえも剥き出しにしていた。

 

「……良い子ちゃんぶってるんじゃあねえぞ」

 

 わかっているんだ、と、獪岳は言った。

 

「てめえだってあの時、俺のことが見えてなかったんだろ? もしあの鬼が俺をてめえにぶつけなかったら、俺ごと斬ってたくせによ」

 

 柚羽が「言葉が過ぎる」と非難めいた視線を向けたが、当の瑠衣の表情は変わらなかった。

 困ったように微笑んで、小さく首を傾げるだけだ。

 それがまた、獪岳を苛立たせるとも知らずに。

 

「はっ、祭音寺さんよ。てめえがどれだけこいつのことを買っているか知らねえが、こいつはてめえや俺のことなんてこれっぽっちも考えてないんだ。こいつはな!」

 

 瑠衣を指差しながら、続ける。

 

「自分の家族以外の奴らを、カスだと思っているんだからな!!」

 

 今度こそ、柚羽が非難の声を上げた。

 目の前で本当に言い争いを始める2人に、瑠衣は困ってしまった。

 自分は()()気にしていないのに、と、どう収めるべきか悩み始める。

 その内に鴉が来て、今後のことについて指令が来るはずだ。

 だからそれまでには落ち着いていないとと、そう考えた時だ。

 

 声が聞こえた。

 獪岳達の声ではないし、禊や榛名が何か言った様子もない。

 しかし、確かに聞こえた。

 獪岳達の言い争いの声に混じって、そう、山門の方から……。

 

「ヒイイイイイ」

 

 何だ、と、瑠衣は山門の方を見た。

 最初は暗くて良く見えなかったが、月にかかっていた雲が晴れて、見えた。

 誰かが、崩れかけた山門の陰からこちらを窺っている。

 

「恐ろしい、恐ろしい……」

 

 老人。多分、男だ。

 やけにしわがれた声なのが気になるが、それ以上に気になるのは額。

 額に、赤子の頭程もあろうかという大きな(こぶ)があった。

 だがそれ以上に目を引いたのは、やはり頭の両側に生えている、禍々しい角だ。

 この老人は。

 

「恐ろしい。どうしてこんなところに鬼狩りがいるんじゃ……ヒイイイ」

 

 ――――鬼だった。




最後までお読み頂きありがとうございます。

ヒイイイ、どうして私はこいつを登場させてしまったんだ。

正直、面白そうだからやりました。

下手したら次で最終回になるかもしれないけど、後悔はありません。

だって、面白そうだったから(どやさ)

それでは、また次回。

次回から後書きでは瑠衣以外の主人公候補でも公開しようかなと思っています。

あ、心配しないで下さい。

全員、妹キャラなんで(え)


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第6話:「上弦の肆」

 夜明け前に、ふと目が覚めた。

 ずっと目を閉じていたせいだろうか、暗がりでも視界が真っ暗になるということはなかった。

 病衣姿で寝台(ベッド)に横になっていたその少年は、寝たままの姿勢で頚だけを動かした。

 痛みがあるのか、う、と小さく唸ってしまってから、唇を引き結んだ。

 

 年の頃は15ほどか、今は暗がりで見えないが黒い髪と瞳に僅かに赤が混じっている。

 赫灼の子と言って、火仕事をする家では縁起が良いとされる。

 しかしそれ以上に特徴的なのは、左額の大きな痣だ。

 初対面なら誰でもまず目が行くだろうが、不思議と醜いという印象にはなっていない。

 寝台の名入れに「竈門(かまど)炭治郎(たんじろう)」と書かれていて、それが少年の名前だとわかる。

 

(皆は……)

 

 そこは病室のようで、周囲には同じ形の寝台が15ほど並んでいた。

 その内の、炭治郎から見て右側の2つには、彼の友人が眠っていた。

 この2人も、炭治郎に負けず劣らず特徴的な少年だった。

 

(良かった。苦しそうじゃない……)

 

 まず手前の寝台に眠っている少年、嘴平(はしびら)伊之助(いのすけ)

 炭治郎と同じ病衣姿で眠っている彼だが、顔が見えない。

 包帯でぐるぐる巻きにされているとかではなく、被り物をしているのだ。

 猪頭の被り物。作り物ではなく、本物の猪の頭を使ったものだ。

 その由来は炭治郎も知らないが、大切なものなのか、彼はずっとそれを被っていた。

 

 そしてもう1人が、我妻(あがつま)善逸(ぜんいつ)

 こちらは動物の毛皮を被っていたりはしないが、髪が鮮やかな黄色だった。

 炭治郎も故郷の山から下りて色々な人に出会ったが、彼のような髪色の人間には初めて会った。

 2人とも炭治郎の同期で、最終選別を生き残り、そして下弦の鬼と戦った任務を共にした仲間だった。

 まあ、そのせいで3人揃って入院の憂き目にあっているわけだが。

 

「…………」

 

 それから、炭治郎は反対側に首を回した。

 寝台の傍に、背負い紐のついた大きな木箱が置かれていた。

 金属の枠で補強を施された箱で、小さな子供くらいなら入れそうだ。

 炭治郎がその箱を不思議と優しい目で見ていると、その視界に誰かの足が入って来た。

 ぎ、と音を立てるそれは、車椅子だった。

 

「あ……ありがとうございます」

 

 口元にそっと水差しを差し出されて、静かにお礼を言った。

 自分が思っていたよりも喉が渇いていたのか、喉を通る水の感触が心地よかった。

 そんな炭治郎を、車椅子の女性は慈しみに満ちた表情で見つめていた。

 蝶の柄の羽織を着ていて、長い黒髪の両側にやはり蝶の髪飾りを着けている女性。

 

「カナエさん」

 

 カナエと呼ばれたその女性は、炭治郎ににっこりと笑いかけてくれた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――土の味。

 土の味で、瑠衣は目を覚ました。

 その際に口元の砂を吸い込んでしまい、咳き込んでしまった。

 

「う……」

 

 咳き込むと、左の脇腹に鈍痛が走った。

 起き上がることが出来ず、腹を抱えるようにして(うずく)った。

 軋みと痛みがじわりと広がってくる感覚。

 肋骨が、2本――悪くすれば3本は折れているかもしれない。

 

 刀は、と頭の片隅で考えたが、気が付けば手に持ったままだった。

 意識を飛ばしても、これだけは手放さなかったらしい。

 そこまで来ると、霞がかったようだった意識もはっきりとしてきた。

 呼吸で鎮痛を図りながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

「そうだ……私、飛ばされて……」

 

 顔を上げると、不自然に枝が折れていたり、葉が散っていたりする木がいくつか見えた。

 それは瑠衣の頭上の木――太い枝が1本、ぼきりと折れている――まで、まっすぐに続いていて、まさに何かが通り過ぎた跡、という風だった。

 その何かとは、瑠衣自身だ。

 

 思い出してきた。

 そう、飛ばされた。()()()()()()()

 全身を暴風に包まれる感触、それが肌に甦ると、直前の光景まで浮かび上がってくる。

 ()()()の姿も。

 

「そうだ。皆……!」

 

 その時だ、羽音が聞こえた。

 聞き慣れた鴉のものとは明らかに違う、もっと大きくて、力強い音だ。

 そして、瑠衣の上に影が差した。

 

「カカカッ、思ったよりは近くにおったのう。木にでも当たったか、手間が省けて喜ばしい」

 

 それは、鳥の類ではなかった。

 癖の強い黒髪に、頭から大きく伸びた2本の角。猛禽類のような手足と羽根。

 間違いなく、鬼だ。

 いつか見た蝙蝠鬼に似ているが、放っている鬼気と威圧感はその比ではなかった。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 その鬼が空から飛来した瞬間、瑠衣は攻撃に動いた。

 螺旋状に刻みながらの突進、並の鬼であれば屠れる技だ。

 しかし、その瑠衣の攻撃を。

 

「何じゃ、お前! 意外とすばしっこいのう! カカッ」

 

 4本指の鬼の足が、あっさりと受け止めてしまった。

 鉤爪で掴まれた刃がギリギリと音を立て、ともすれば刀の方が折れてしまいそうだ。

 と、鬼が口を開けた。

 鬼らしい鋭利な牙と、「喜」と書かれた舌が見えた。

 

「さあ、もう少し俺を楽しませてみせろ!」

 

 そして、鬼の目の()()が見えた。

 左目に「上弦」、右目に「肆」――――十二鬼月・上弦の肆。

 ()()()()

 瑠衣が何故、ひとりそんな鬼と戦っているのか。

 それを説明するためには、少しばかり時間を遡る必要がある――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 山門にその鬼が姿を見せた時、瑠衣達は呆けたような反応を示した。

 誰も彼もその老人が鬼だとわかっていながら、同時にこう感じていたのだ。

 ()()()()()()()()

 先程まで戦っていた下弦の肆・零余子に比べれば、肌に迫ってくるような威圧感もない。

 

 ただのはぐれ鬼、そう思った。

 とは言え鬼は鬼だ。見つけたのなら、人を襲う前に討っておこう。

 そう思って瑠衣が刀を抜いた時、獪岳がすでに飛び出していた。

 鬱憤(うっぷん)を晴らすように日輪刀を振るい、鬼の頚が宙を舞った。

 

「ヒイイイ! 斬られたあああっ!」

 

 ここまでは、流石は獪岳と思った。

 しかしすぐに、瑠衣は眉を寄せた。

 何故なら、頚を斬られていながら鬼の身体が崩壊を始めなかったからだ。

 

「何だ……?」

 

 最も近くにいる獪岳は、よりはっきりと怪訝(けげん)の色を浮かべていた。

 何故なら、彼が斬った鬼の頚。

 その頚の傷の断面が、うぞうぞと蠢めいてた。内側から肉が盛り上がっている。

 ()()()()

 

 頚の断面から、あっという間に新しい体が生えてきたのだ。

 獪岳は、いや全員が驚愕した。

 鬼は頚を斬られれば死ぬ。頚を斬られて死なない鬼はいない。いないはずだ。

 それなのにこの鬼は、体を再生させた。それも(まばた)き程の間にだ。

 これ程の再生の速い鬼を、獪岳は見たことがなかった。

 

「獪岳さん、後ろ――――っ!」

 

 瑠衣の声。獪岳は「馬鹿か」と思った。

 鬼は彼の正面にいる。この状況で「後ろ」とは何だ、と。

 それよりも正面の、頚から再生した鬼だ。姿が違う。

 先程のような老人の姿ではなく、まるで天狗のような装束を着た若い男の姿になっている。

 

「カカッ、別れるのは何年ぶりかの。積怒(せきど)

「……話しかけるな馬鹿が。可楽(からく)、貴様のせいで不意を討てなくなったではないか」

 

 背後。声。

 混乱した。

 鬼は自分の目の前にいるのに、どうして後ろから声などするのか。

 

「獪岳さん!」

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 獪岳の背後にいる鬼――可楽という鬼が積怒と呼んでいた――に、瑠衣は突進した。

 先程の老人の鬼の身体に頚が生えて、積怒になったように見えた。

 手に錫杖のような物を持っていたが、構えるでもなく瑠衣のことを静かに見つめていた。

 その頚に、迷うことなく日輪刀を振り下ろした。

 

(――――斬れた!?)

 

 余りにもあっさりと頚を斬れてしまって、瑠衣は驚いた。

 見れば、獪岳も正面の鬼――可楽の頚を刎ねていた。

 宙を舞う2つの頚、しかし、やはり体は崩れなかった。

 2つの頚と胴体が、再び再生する。()()()()()だ。

 

「おおっ、4人に別れるのは久方ぶりじゃのう! 喜ばしいのう、哀絶(あいぜつ)

「儂はひたすらに哀しいよ、空喜(うろぎ)

 

 作務衣姿の鬼・哀絶に、鳥の姿をした鬼・空喜。

 舌にそれぞれ喜怒哀楽の文字が見える。

 いや、それ以上に問題なのは目だった。

 両目に刻まれた「上弦」「肆」の文字――――上弦の肆!

 

「じ……上弦だと」

 

 十二鬼月は最強の12体の鬼だが、実は「階級」が存在する。

 肆という数字はもちろん「上から何番目」かを示すものだが、それ以前にまず上弦と下弦がある。

 上弦の壱が最上位で、下弦の陸が最下位だ。

 そしてここ100年余り、鬼殺隊が上弦の鬼を討ったという記録はない。

 100年無敗の鬼。零余子と比べて大したことがない? とんでもない勘違いだった。

 

「危ない!」

「なっ……てめ」

 

 相手が上弦という事実に、獪岳は固まってしまっていた。

 そこへ瑠衣が跳び出してきて、しかしだから防御が遅れた。

 哀絶が手に持っていた十文字槍を横薙ぎに振るい、瑠衣の左脇腹を打った。

 嫌な音がして、瑠衣は顔を顰めた。

 

「カカッ、何じゃお前? 面白い女子じゃのう」

 

 可楽の手には八つ手の葉の団扇があり、彼はそれを瑠衣と獪岳に向けて縦に振った。

 猛烈に嫌な予感がして、瑠衣は獪岳を突き飛ばした。

 獪岳が何事かを叫んでいたが、それを聞き取るよりも先に、暴力的な風が瑠衣を包み込んだ。

 耐え切れずに、体が吹き飛ばされた。

 視界が回転する――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そして、今に至る。

 

「ほれほれ、どうした小娘!」

 

 空喜が両足の爪を交互に繰り出してきて、瑠衣はそれを刀で受け流し、両側に逸らすことで何とか回避していた。

 だが、一撃が重い。

 爪と刀が火花を散らす、強度で負けているのは刀の方だった。

 しかも空喜には余裕があり、戦いを楽しんですらいた。

 

 爪の連撃を凌ぎ、日輪刀を袈裟切りに振るった。

 羽根を羽ばたかせて容易にかわされ、空中で回転、そのまま突進してくる。

 速い。

 いつかの蝙蝠鬼とは比べ物にならない。

 

「……っ!」

 

 左肩、血が噴き出た。

 同時に後ろに跳ぶ、狙いはまだ振り向いていない空喜の背中だ。

 ――――風の呼吸・陸ノ型『黒風(こくふう)烟嵐(えんらん)』!

 

 風を纏った、下からの切り上げの斬撃。

 攻撃直後の空喜に反応できるものではなかったはずだが、彼は下からこちらを覗き込み、そのまま縦に回転してきた。

 足の爪が、瑠衣の刀を蹴る。

 しかし瑠衣は踏み込んだ、蹴りの勢いに負けずに斬り抜ける。

 

「カカカッ、小娘のくせにやりおるのう。退屈せずに済んで喜ばしいぞ!」

 

 空喜の右足が、踵の辺りから膝までが斜めに裂けていた。

 しかしその傷は、2つ数えるよりも先に治ってしまった。

 裂かれた肉が張り付き、傷の線すら消えてしまう。

 

(何て再生の速さ、これが上弦……!)

 

 鬼は不死身だ、陽の光を当てるか日輪刀で頚を斬らない限り再生する。

 しかし雑魚鬼なら、いや下弦の鬼ですら、再生までに一定の時間がかかる。

 現に零余子は頚や腕の再生が間に合わず、瑠衣達に頚を斬られた。

 しかしこの鬼、上弦の肆にはその時間が全くと言って良い程なかった。

 

(再生するよりも速く、連続で斬るしかない!)

 

 ――――風の呼吸・弐ノ型『爪々・科戸風』。

 振り下ろしの斬撃、爪状のそれが空喜に襲い掛かる。

 空喜はそれを左手で半分、右足で半分撃ち落とした。

 鋭利な金属が擦れ合うような、嫌な音が響く。

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯(こが)らし(おろし)』。

 その間に跳び上がっていた瑠衣が、空喜の頭上から突き下ろしの一撃を放つ。

 壱ノ型同様、風の刃を纏ったその突進は、真っ直ぐに空喜の喉元を狙っていた。

 ふわっ、と空喜の身体が浮き上がる。羽ばたいている。

 まるで暖簾を刺すように、瑠衣の刀の切っ先は表皮以上に届くことがなかった。

 間近で嗤う空喜の顔に、ぞっとしたものを感じた。

 

「……ッ。参ノ型……!」

 

 その時だ、上の方から轟音が聞こえた。

 空喜から距離を取る。

 遊んでいるつもりなのか、彼は追ってこなかった。

 

「おおっ、向こうも楽しんでいるな」

 

 カカ、カカ、と空喜の哄笑が聞こえる。

 どこまで吹き飛ばされたかわからないが、空喜が言っていたように廃寺からさほど遠くはないのだろう。

 獪岳達も零余子との戦いで負傷している。衰弱した榛名もいる。

 ここでいつまでも空喜と戦っているわけにはいかない。だが、すぐに倒せそうもない。

 

「お? 何じゃそれは、何のつもりだ?」

 

 とんとん、と、瑠衣が小さく跳ね始めた。

 空喜はそれを楽し気に見つめている。

 そして次の瞬間、瑠衣は跳んだ。

 空喜の方ではなく、上――廃寺に向かって、地面を、木を蹴って駆けた。

 

「おいおい、それはなかろう! もう少し俺と遊べ!」

 

 背後、思いのほか近い声に、跳ぶ。

 縦に回転し、後ろからの空喜の爪を刀で弾く。

 そしてその衝撃を利用して、また跳ぶ。そして駆ける。

 空喜と戦いながら、瑠衣は駆けた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 駆け続けていた。

 人通りのない、谷間の道だ。

 月明かりだけを頼りに、杏寿郎は駆けていた。

 

「ガアア――――ッ!!」

 

 頭上を飛ぶのは、煉獄家の鴉・長治郎だ。

 彼の道案内で、杏寿郎は現場に急行しているところだった。

 十二鬼月かもしれない鬼がいる、という情報に従ってのことだ。

 同時に、杏寿郎の炎柱就任のための試練でもある。

 最も、それは公言されているわけではないが。

 

(……妙だ。どうしてか落ち着かない)

 

 冷静な顔で駆け続けながら、杏寿郎はそう思った。

 緊張とは違う。

 もちろん緊張はしているのだが、体が固くなっているというわけではなく、集中と言った方が正しい。

 事実、杏寿郎の足取りは力強く、また軽やかだった。

 

 それが胸騒ぎだと気付くのに、それほど時間は必要なかった。

 その胸騒ぎは、これから向かう場所に瑠衣がいると聞いた時から続いている。

 ざわざわとした、落ち着かない感覚がずっと胸につかえているのだ。

 何故か、と、冷静な部分が呟く。

 

(瑠衣がいるのなら、まず問題はない)

 

 杏寿郎は、瑠衣を信頼していた。

 それは瑠衣が妹だからということではなく、鬼殺の剣士としての瑠衣の実力を知っているからだ。

 柱に指導される継子が並の隊士より遥かに強いように、幼少時より槇寿郎――杏寿郎が知る限り最強の柱――の指導を受けていた瑠衣もまた、並の隊士よりも遥かに強い。

 鬼狩りの一族は伊達ではないのだ。

 

『杏寿郎』

 

 だが、何故だろう。

 

『何故、自分が兄として生まれたかわかりますか?』

 

 今は亡き母親との会話が、思い出されてならない。

 どうして今、そんなことを思い出してしまうのだろうか。

 ()も言えぬ焦燥感に駆られる。

 知らず、足が速くなっていった。

 

「焦るな」

 

 その時だった。杏寿郎の前を行く背中が声を落としてきた。

 

「焦れば焦るだけ、逆に速度は遅くなる。その程度のことがわからないお前ではないだろう」

 

 その通りだった。

 呼吸は極めれば様々なことが可能になるが、逆に言えば、呼吸を乱せば何も出来ない。

 故に冷静さと集中が要る。

 その集中をどこまで続けることが出来るかで、剣士の強さは決まると言って良かった。

 

「見えて来たぞ。夜明け前には着く」

 

 ネチネチとした物言いの割に、不意に気遣いを見せたりする。

 ふとおかしな気分になって、杏寿郎は口元だけで小さく笑った。

 その気配が通じたのか、もう声が落ちてくることもなくなった。

 

 長治郎がまた鳴いた。

 目的の、十二鬼月が巣食う山が見えて来た。

 足に力を込めて、杏寿郎は駆けた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 頚を斬っても死なない鬼など、柚羽は初めて見た。

 どうすれば良いのか、わからなかった。

 

「カカカッ、どうした。もう技はないのか?」

 

 体中を、切り刻まれていた。

 頬、首、肩、腕、胴、太腿、手。

 ただどの傷も浅く、僅かずつ血が滴る程度に抑えられている。

 それがわざとだと言うことは、容易に想像が出来た。

 

 可楽、と呼ばれていたか。この鬼は。

 柚羽の目の前で団扇を持った手をゆらゆらと動かしながら、楽し気に嗤っている。

 獲物を傷つけ、弱らせていくことを楽しんでいる様子だった。

 血と汗を流しながらも、柚羽は深く呼吸をした。

 ――――水の呼吸・参ノ型『流流(りゅうりゅう)()い』。

 

「つまらんのう」

 

 移動しながらの連続切り。

 しかし、可楽は素手で柚羽の刀を掴み取った。

 信じられないという顔をする柚羽に、団扇を振り上げて見せる。

 刀を捨てて逃げるべきか一瞬迷い、その間に。

 

 ――――(から)の呼吸・壱ノ型『空裂(からざき)』!

 可楽を背後から無数の斬撃が襲った。

 それは特に団扇を持つ腕に集中しており、いくつもの裂傷が走るのが見えた。

 榛名だった。衰弱が激しい中、柚羽を助けるべく飛び込んできたのだ。

 

「何じゃ、お前?」

 

 しかし、意味がなかった。

 裂傷など気にも留めず――というか、ものの数秒で再生してしまって――団扇を、柚羽と榛名の頭上に振り下ろした。

 鈍い悲鳴と共に、2人とも豪風に()()()()()()()

 地面が、八つ手の葉の形に陥没した。

 

「哀しい程に弱いな、お前の仲間は」

「は? 仲間? 誰が?」

 

 哀絶という鬼は、武器を持っていた。十文字槍だ。

 禊の日輪刀も槍であり、自然と相対することになった。

 横走りしながら互いの突きを弾き、時に薙ぐ。

 鋭い金属音が何度となく廃寺に響き渡り、禊と哀絶の位置も幾度も入れ替わった。

 

「あんな連中、どうでも良いわ。わたしが興味あるのは――――あんたの頚だけよ!!」

 

 踏み込む。哀絶の喉元を狙う一撃。それを哀絶は(しのぎ)の部分で受け止めた。

 禊の身体ががくんと揺れる。ぎりぎりと嫌な音が日輪刀の柄から響いていた。

 鬼の力は凄まじく、全く動かなかった。

 

「身の程を知らぬとは哀しいな」

「身の程? チョー心外なんだけど」

 

 ぐん、と、槍を持ったまま腕を回した。

 金属が擦れる甲高い音が響き、鎬から外れた穂先を、哀絶の槍に添わせるようにして突いた。

 2本の槍の影が、瞬間的に1本に重なった。

 ――――欺の呼吸・参ノ型『独楽旋槍』。

 

()った――――!)

 

 頚を斬っても死なない。

 ならば()()()()()()()()()

 

「何を遊んでいる哀絶、苛々させるんじゃあない」

 

 側面で何かが光った。衝撃を伴った閃光。

 それが雷だとわかったのは、打たれて吹き飛ばされた後だった。

 視界の中で、錫杖持ちの鬼・積怒。あの鬼がこちらを見ていることに気付いた。

 簪が砕け散り、己の髪が散らばるのが見えた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 獪岳は、刀を握ったまま動けずにいた。

 上弦の鬼との遭遇。

 しかも、頸を斬っても死なない。

 この事実を前に、身が竦んでしまっていたのだ。

 

(どうする……どうすれば良い)

 

 あの3体――瑠衣を追って行った鬼を含めると4体――の鬼は、先ほど戦った零余子とは比べ物にならない程に強い。

 1体なら何とかなったかもしれないが、4体。

 しかもそれぞれに厄介な能力を持っている。

 

 そもそも、上弦の肆が4体いるということはどういうことか。

 最初の老人の鬼は何だったのか。擬態だったということなのか。

 4体1組で「上弦の肆」なのか、あるいは何かの血鬼術なのか。

 そうだとして、頸を斬っても死なない理由がわからない。

 急所が別にあるということか?

 

「さて」

 

 そう、色々と考えていると、積怒が獪岳の方を向いて来た。

 獪岳の肩がギクリと震える。

 あの錫杖の攻撃は強力だった。雷を放つ血鬼術。

 雷など、回避する術がない。

 

「まったく腹立たしい。あやつめ、鬼狩りなぞと遭遇しおって」

 

 舌の「怒」の文字が恐ろしくて仕方がなかった。

 冷や汗が溢れて止まらない。

 今まで何体もの鬼を斬ってきたし、鬼に怯えて戦えない隊士を軽蔑したこともあった。

 その自分が、今はこの様だった。

 

 どうする、積怒が近付いてくるぞ。

 どうする、錫杖を掲げているぞ。

 どうする。どうする。どうする。

 ――――どうする。

 

「た……」

 

 その時だった。聞き覚えのある音がした。

 先程まで散々聞いたその音は、徐々に近付いてきていた。

 そして不意に、塀の一部が爆発した。

 巻き上がった土煙の中から、刀を構えた姿勢のまま飛び出してきたのは――瑠衣だった。

 

 それだけではなく、空喜と切り結んでいた。

 両足の爪を受け流し、驚異的な足捌きで腕の鉤爪を避ける。

 ああやって戦いながら、ここまで移動してきたのだということがすぐにわかった。

 その証拠に、隊服の至るところが破け流血している。

 零余子に受けた傷の止血も、戦いに呼吸を集中しているせいか緩んできていた。

 

「遅くなりました」

 

 しかし、声から力は失われていない。

 額に汗と血を滲ませたまま、言った。

 

「獪岳さん……獪岳さん?」

「な、何だよ」

「柚羽さん達はどうしましたか?」

「……やられちまったよ」

 

 見れば、可楽と哀絶の足元に倒れているのが見えた。

 僅かに動いているので、とどめを刺されてはいない様子だった。

 ほっとする反面、次の瞬間に殺されない保証はない。

 

「空喜! 貴様まだ遊んでいたのか!」

「あの娘は俺の獲物だ! 誰も手を出すな!」

「もういい、儂が突き殺そう」

「カカカッ、あっちの方が面白そうじゃのう!」

 

 こうして見ると、4体は個別に自我を持っているとしか思えなかった。

 今も言い争いのようなことをしている。

 人間の喜怒哀楽が具現化すれば、あんな風になってしまうのかもしれない。

 そんな鬼達に、瑠衣は言った。

 

「全員」

 

 深く力強い呼吸を繰り返しながら。

 

「全員、まとめてかかって来い」

 

 4体の鬼の目に、苛烈な色が宿った。

 瑠衣は、それを真っ直ぐに睨み据えていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 賭けだった。

 しかし瑠衣は、上弦の肆がこの挑発に乗るという確信に近いものがあった。

 ――――カチ、と、詰襟の留め具を外した。

 

(何……してんのよ。あいつ……)

 

 辛うじて意識のあった禊が、それを見ていた。

 獪岳も、見ていた。当然、鬼も。

 瑠衣は詰襟の留め具を外した後、そのまま隊服の前を開いた。

 と言うより、脱ぎ捨ててしまった。

 

 刀を口に咥えて、隊服の上着を投げ捨てる。

 すると、ただの衣類にしては随分と重々しい音がした。

 地面に落ちた際、鈍い金属が擦れる音が確かに聞こえた。

 重りだった。

 積怒が目を細めて、それを冷ややかに見つめていた。

 

「何のつもりだ? まさか、それ(重り)を外せば儂を倒せるとでも言うつもりか?」

「上下合わせて10貫(約37キロ)程度です。大して変わりませんよ」

 

 言う間に、革帯(ベルト)を外していた。

 洋袴(ズボン)を脱ぎ、やはりこれも投げ捨てた。

 重々しい音が聞こえて、言葉通り重りが仕込まれていることがわかった。

 残すは首元と肩の辺りが血に染まった白いシャツだけだ。

 裾から肌着と下穿きの僅かに覗いていて、白い肌と肉付きのよい太腿が露になっている。

 

「まさかとは思うが」

 

 苛立たしそうな表情を、積怒は隠そうともしなかった。

 

「この儂に色仕掛けでもするつもりか? だとすれば腹立たしいことこの上ない」

 

 そんなわけはなかった。

 この場合の色仕掛けには2つの意味――食欲と性欲――があるが、瑠衣はそのどちらも狙ってはいなかった。強いて言えば前者に微かな期待を持っていた程度か。

 後者については考慮さえもしていない。むしろこんな貧相な身体に欲情する男がいるのかとさえ思っている。

 

 そうではなく、ことここに及んで瑠衣は全力を攻撃に注ぐことにしたのだ。

 鬼殺隊の隊服は濡れにくく頑丈で、一定程度の鬼の攻撃なら防いでくれるという利点がある。

 隊服というより鎧と言った方が良いだろう。製法も特殊で職人にしか縫うことが出来ない。

 しかし、だからこそ「万が一、鬼の攻撃を受けても」という甘えが生じる。

 これからの一連の攻撃で、瑠衣はその甘えを捨てたかった。

 

「……どうしました?」

 

 瑠衣の師、不死川実弥。それから、いわば姉妹弟子に当たる甘露寺蜜璃。

 この2人は隊服の露出――甘露寺が聞けば憤慨するだろうが――という点で共通項がある。

 思えば、理由の1つに「防御への甘えを捨てる」という考えもあったのかもしれない。

 だいたい、上弦が相手では隊服の防御など紙切れ同然だ。

 着ても着なくとも同じなら、いっそ捨ててしまった方が潔く攻めに転じられる。

 

「まさか……いえ、私の勘違いであれば本当に申し訳ないのですけれど」

 

「まさか上弦の鬼ともあろう者が、私のような小娘が怖いのですか?」

 

「まあ、そうですね。怖いのなら仕方ないですね。私も鬼じゃありません」

 

「無理なことを言って申し訳ありませんでした。どうぞ聞かなかったことにしてください」

 

 100年不敗の鬼、上弦の肆。

 文字通り無防備な女子に刀を向けられて、こうまで言われて、なお黙っていられるか?

 答えは。

 

「――――――――小娘がッッ!!」

 

 否、だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 肌が痛い。喉の奥がヒリついて、胃の腑から何かがこみ上げてきそうだ。

 積怒が、顔面に血管が浮き出る程の怒りを見せていた。

 狙ってやったことだが、いざ剥き出しの敵意を向けられると、その鬼気の凄まじさに圧倒されてしまいそうになる。

 

(怯むな)

 

 自分を、叱咤する。

 

(私は煉獄だ。こんな奴に負けるわけがない)

 

 深緑の日輪刀を、腰の横に構える。刃を立て、柄を強く握り締めた。

 4体の鬼が、じりじりとこちらへと迫って来る。

 瑠衣は、下がらなかった。距離が詰まって来る。やはり下がらなかった。

 

「……おい」

 

 獪岳が話しかけて来たのは、そんな時だった。

 

「何をする気だ?」

「頚を斬ります」

「頚って、お前……馬鹿か!? あいつは頚を斬っても死なない。お前も見ていただろう!?」

()()()()()()()()()

 

 4体の頚を同時に斬り落とす。

 獪岳は、頭でもおかしくなったのかコイツ、という表情を隠そうともしなかった。

 

「思い出したんです。私の家には、歴代炎柱の遺した膨大な量の記録があります」

 

 戦国時代から鬼狩りを続ける煉獄家。

 後世のため、子孫のために、炎の呼吸を伝え続けて来た。

 そして遺されたものの中には、歴代の炎柱が戦ってきた鬼の情報も含まれる。

 幼少時から、瑠衣や兄弟達はそれらを絵本代わりに読み込んできたのだ。

 

「鬼の中には、分裂したり、自分の代わりに人形を戦わせたりする類の血鬼術を使う者もいるそうです。他にも、幻覚を操る者とか……」

 

 上弦の肆は、瑠衣達の目の前で()()()()

 そして先祖が倒したという分裂の血鬼術を持つ鬼は、共通の弱点というか、倒し方がある。

 同時に頚を斬ることだ。正確には、同時に頚のない状態にする。

 幻覚だとどうしようもなくなるが、同時に斬るだけなら事は単純だ。

 後は、剣士の技量次第ということになる。

 

(私に、ご先祖様と同じことが出来るかどうか……!)

 

 上弦の鬼4体の頚を同時に斬る。瑠衣にその技量があるかどうかだ。

 

「……また分裂したらどうする?」

 

 獪岳の思考もまた、鋭いと言える。

 4体が最大数である保証はどこにもない。

 最悪の場合、4体が8体に増えるだけ、ということもあり得るのだ。

 

「だったらそれも斬ります。8体になろうと、16体になろうと。32だろうと64だろうと」

 

 鬼は強力な存在だが、無限の力を持っているわけではない。

 いつかは限界が来る。力の限界が。

 上弦の肆の力の限界が何体なのかはわからないが、斬り続ければいつかは届く。

 その()に、刃が届くはずだ。

 

「だから獪岳さん、お願いします。私が斬り損ねた頚を、斬ってください」

「う……」

「呼吸の剣技で最も速い、風と雷ならやれます。きっと倒せます」

 

 そうだ、きっとやれる。勝てる。

 獪岳に言っている言葉は、その実、自分を鼓舞するためのものだ。

 煉獄家の人間として、恥ずかしくない戦いをしろ、と。

 

 4体の鬼が、集まっている。

 狙い通りだった。柚羽達から引き剥がせた。

 それにまとめて頚を斬るためには、近くに固まっていて貰う必要もあった。

 

「話し合いは終わったか?」

 

 積怒、錫杖を掲げている。

 

「頚を斬るとか聞こえたぞ。カカッ、面白いのう!」

「未だかつて、儂の頚を全て落とした者はおらん」

「身の程知らずもここまでくると、哀しくなるな」

 

 他の3体も、にじり寄って来る。

 瑠衣は、呼吸を深く、集中した。

 頬を伝い、顎先から汗が一滴、落ちていった。

 地面に、落ちた。

 

「――――いきます」

 

 駆けた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』!

 螺旋の斬撃を纏いながらの突進。

 もう、今日は何度呼吸の剣技を繰り出しただろうか。

 これだけの長時間、全力で戦闘を続けたのは初めての経験だった。

 

「カカカッ、まずは俺か! 良いぞ!」

 

 瑠衣がまず向かったのは、空喜だった。

 空喜もまた、猛禽類が獲物を狙うかのように、上空から突進した。

 回転しながら、足の爪を繰り出してくる。

 それを見て、壱ノ型の突進の最中、瑠衣は地面を蹴った。

 

「おおっ!?」

 

 蹴り足にかなりの衝撃が走り、嫌な音がしたが、成功した。

 空喜の爪を掻い潜って、その中に乗ったのだ。

 しかし高速で交錯していることに変わりはなく、乗る、というよりは。

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』。

 空喜を踏み台に、空中で加速した。

 突き下ろしの突進。瑠衣の狙いは空喜ではなかった。

 可楽だった。

 

「扇をッ……!」

 

 しかも狙いは頚ではなく、可楽の持つ団扇だった。

 刀が団扇を貫き、可楽の右手から奪い取った。

 着地と同時に駆ける。半身を回すようにして、可楽の背後に回った。

 独特の足捌き。さしもの可楽も一瞬、目が泳いで反応が遅れてしまった。

 

 可楽の背後で、真上で跳ぶ。

 両手で刀を振り上げていて、柄が軋む程に力を込めた腕は血管が浮き上がり、膂力の程を窺い知らせた。

 そしてそのまま、可楽の頚の右側に刀を叩き付けた。

 

(行ける……!)

 

 皮を裂き、肉を切り、骨を砕く感触。

 確かな手応え。

 そのまま、刃が反対側へと抜けていく。

 可楽の頚が落ちる。しかし落とすだけではダメだ。

 

 転がり落ちて来た頚を、瑠衣は思い切り蹴飛ばした。

 すぐに再生されてはダメなのだ。

 頚を斬っても可楽の体は崩れない。だから頚を出来るだけ遠くに飛ばした。

 しかし、そのせいで可楽の腕が瑠衣の肩を掴んでしまった。

 

「カカカッ、手を放すなよ可楽!」

 

 空喜が戻って来た。

 凄まじい速度で瑠衣へと迫り、爪を振り上げている。

 可楽の体に掴まれていて瑠衣は逃げることが出来ない。

 

 空喜の足の爪が、右肩に喰い込んできた。

 次の一瞬には、肉ごと削がれるだろう一撃。

 その一刹那、ほぼ同時に片手で刀を振り上げた。

 狙いは、空喜の顔面。

 

「カッ……!」

 

 目を狙ったのだが、少しズレて口を斬っただけに終わった。

 しかし結果として、それが瑠衣を救った。

 何故か、口――舌を斬られた空喜が、明らかに怯んだのだ。

 肩に喰い込んだ爪が外れる。隙が出来る。見逃さない。

 

 ――――風の呼吸・肆ノ型『昇上砂塵嵐』!

 斬り上げの斬撃、連続で放った。

 可楽の腕と、空喜の翼を斬り飛ばした。

 舌を再生させた空喜だったが、翼を失って地面に膝をついていた。

 まるで罪人を斬首する処刑人のように、瑠衣は空喜の頚に刃を振り下ろす。

 

(2体目……!)

 

 この時点で、瑠衣は己の身体が鉛でも背負ったように重くなるのを感じた。

 折れた肋骨の、脇腹の痛みはもはや尋常ではない。

 しかし、どうやらさらなる分裂はしない様子だった。

 それがわかっただけでも行幸だ。さらに舌を斬ると怯むこともわかった。

 

 ――――血鬼術『激涙(げきるい)刺突(しとつ)』。

 背後から、哀絶の槍の刺突が来た。

 空喜の頚を斬った直後、振り抜きの終わり、身体が硬直する一瞬を狙われた。

 己の足を叱咤する。走れ。しかし間に合わず。

 

「後ろだ哀絶!」

 

 ――――空の呼吸・参ノ型『空割(からわり)』!

 ――――水の呼吸・漆ノ型『(しずく)波紋(はもん)突き』!

 積怒の声。

 しかしその直後には、大上段から振り下ろされた榛名の日輪刀が哀絶の槍を地面に叩き付け、柚羽の突きが哀絶の胴を貫いていた。

 

「楽に死ねないとは哀しいな」

 

 力尽きたのか、勢いが余ったのか、榛名はそのまま転がっていった。

 しかし柚羽は刀を突き刺したまま、哀絶の胴に抱き着いた。

 哀絶の手が、柚羽の頭を握り潰そうとする。

 

「ちょっと、何してんのよ」

 

 ふわり、と、影が落ちて来た。

 

「あんたの相手は、わたしでしょうが」

 

 ――――欺の呼吸・弐ノ型『面子』。

 禊が、短槍2本を両手に舞っていた。長槍を分割したものだ。

 哀絶が顔を上げた時には、すでに必殺の間合いに入っていた。

 簪を失った山吹色の長髪が、風に流れていた。

 肩、そして舌――見ていたらしい――から、頸へ。流れるような6連撃。

 

「何をしている、この馬鹿者共が!!」

 

 激怒した積怒が、錫杖を振り下ろした。

 雷が走る。

 それは哀絶の周囲に群がっていた鬼狩り達を打ち払い、吹き飛ばした。

 同じ上弦の肆である哀絶は無傷で、彼は禊に落とされた頚を拾おうとしていた。

 

「あんな小娘共にこうまで手こずるとは、腹立たしい」

 

 そして再び、錫杖を掲げて。

 

「お前もそう思うだろう、のう?」

 

 自身の背後に忍び寄っていた獪岳に、じろりと視線を向けた。

 ぐ、と、獪岳は歯噛みした。

 しかしすぐに、冷や汗をかきながらも、口元に笑みを浮かべた。

 何がおかしいと積怒が目を細めれば、やはり冷や汗をかくままに、獪岳は応じた。

 

「死ねよ、カスが」

 

 積怒の顔面に血管が浮き出るのと、()がするのは同時だった。

 何だ、と積怒が視線を向ければ、そこには地面を砕きながら駆ける瑠衣の姿があった。

 哀絶を見ていた積怒は気付かなかった。

 あの時、地面を転がっていた榛名が、雷が放たれた瞬間、瑠衣を庇ったことを。

 

「風の……呼吸……奥義……!」

 

 一瞬だった。

 

「捌ノ型……『初烈(しょれつ)』……『風斬(かざぎ)り』――――ッ!」

 

 豪、と、風が吹き抜けた。




最後までお読み頂きありがとうございます。

原作を知る方であればおわかりかもしれませんが、我ながら今回の話はえげつないなと思っています。
と言うか、書いていて改めて思ったのですが…。

原作の主人公同期組がチート過ぎるんですよ…!


というわけで、前回もちょっと話題にした瑠衣以外の主人公候補をちょろっと公開。

その①「朔大納言」
鬼舞辻無惨の妹。この世で2番目の鬼。「上弦の零」。
人間時代の本名は鬼舞辻輝子(兄が嫌いな名前らしいのでまず名乗らない)。
他の鬼と違い、平安時代に兄と同じ薬を服用して鬼となったもう1人の「鬼の始祖」とも呼ぶべき存在。そのため「呪い」による無惨の支配を受けていない。
いわゆるのじゃロリキャラ(え)。血鬼術はきっと髪とか使う。

性格は極めて我儘(兄と違い取り繕うこともしない)
事あるごとに「あ~、暇じゃ。退屈に殺される……猗窩座! あーかーざー!」と兄の部下を呼び出しては退屈しのぎを命じたりする。

初恋は継国縁壱(え)。お気に入りは上弦の壱(え)。
たぶん炭治郎にトゥンクする(えええ)。

採用されなかった理由…竜華零に平安時代の知識が足りないから。


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第7話:「炎の呼吸」

4月4日に肆の話を終わらせておきたかった。


 ――――斬った。

 4体目の頚を斬った。

 他の3体も頚を繋げていない。新たな分裂もしない。

 ぜひゅっ、と、瑠衣の口から大きな呼気が漏れた。

 

(で、できた……できた……ご先祖さま……)

 

 身体の負傷もそうだが、何より心肺が軋みを上げていた。

 全力疾走した時に起こる、口から心臓が飛び出しそうな程の脈動。

 視界が暗く狭まり、身体が酸素を求めているのに、肺が受け付けてくれない苦悶の感覚。

 足取りは情けなく、まさにたたらを踏んでいた。

 

「か……っ。……っ」

 

 目の前の獪岳に話しかけようと思ったが、声が出なかった。

 身体が「何もするな」と言っていて、ともすれば全集中の呼吸が途切れてしまいそうだ。

 正直なところ、ここまで消耗したのは初めての経験だった。

 だがそれも良い。

 鬼さえ、鬼の頚さえ斬れているのであれば、他のことはもはやどうでもよかった。

 

「……?」

 

 そこで、瑠衣は気付いた。

 狭窄(きょうさく)する視界の中で、獪岳の顔を見た。

 笑っていない。

 いや、獪岳の笑顔など見たことはないが、とにかく緊張した表情だった。

 どうしてそんな顔をするのかと、思った次の瞬間だった。

 

 

 背中が、焼かれたように熱くなった。

 

 

 次いで、口から何かが噴き出した。

 唇の端から溢れたそれは、ボタボタと音を立てて瑠衣の胸元を濡らし、足元に滴り落ちていった。

 何かが、背中の肉を裂いて掴んでいる。

 瞳を震わせながら、瑠衣は後ろへと視線を向けた。

 

「カカカ――――やはり喜ばしいのう」

 

 空喜だった。

 当然のように、頸が再生している。

 分裂はしていない様子だが、それはこの際、何の慰めにもならない。

 空喜の足の爪が、瑠衣の背中に深々と突き刺さっていた。

 

「肉を抉り取る感触は」

 

 ()()()()と音を立てて、爪が離れていく。

 2歩、いや3歩、瑠衣は歩いた。

 足元で、水をぶちまけたような音がした。

 それに比例して、身体が冷えていくような心地があった。

 人間の肉体から、漏れ出てはいけない何かが流れ出ていく感触。

 

「あ、あ」

 

 呼吸を、と、瑠衣は思った。

 全集中の呼吸を維持しなければと、それだけを思った。

 しかし、いくら努力しても、呼吸は続かなかった。

 駄目だ。眠るな。目を閉じるなと、自分自身に命じる。

 自分自身に命じて、そして――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 俯いた瑠衣の顔がどうなっているのか、獪岳にはわからなかった。

 というより、余裕がない、と言った方が正しい。

 

「何じゃ、立ったまま逝ったかのか?」

 

 上弦の肆の4体が、全て頚を繋げていた。

 日輪刀がカタカタと震えていて何だと思ったが、何のことはなく、獪岳自身が震えているのだった。

 気づいてしまうと、震えは全身に広がっていった。

 どうすることも出来ない恐怖が、獪岳を覆い尽くしていた。

 

 瑠衣は、立ったまま動かない。

 柚羽達も、今度ばかりは起き上がってくる気配がなかった。

 ひとりきり。

 誰かを頼るということをしない獪岳も、その事実にぞっとした。

 

(クソが……っ)

 

 何に対してか、獪岳は胸中で悪態を吐いた。

 瑠衣に対してか、あるいは上弦の肆に対してか。

 それとも、もっと他の何かに対してなのか。

 

「目障りなやつ。哀絶、さっさと頭を潰してしまえ。苛々する!」

「いちいち怒鳴るな、哀しくなる」

 

 哀絶が十文字槍を振るっている。

 あれで瑠衣の――まだ生きているらしいが、気絶しているのか、ピクリとも動かない――頭を殴り潰してしまおうと言うのであろう。

 そして獪岳は、次は自分の番だと言うことを明確に理解していた。

 

(く……!)

 

 戦っても勝てない。というより、倒し方の見当もつかない。

 そして、逃げられるはずもない。

 一方で勝てもしない相手に挑む程、愚直にもなれない。

 死にたくない。

 どんなに無様を晒したとしても、命あっての物種(ものだね)なのだ。

 

「た……」

 

 だから、そう、()()は恥ではない。

 決して、恥ずべき行為などではないのだ。

 獪岳は、そう自分に言い聞かせた。

 

「助けて……ください……!」

 

 刀を投げ出して、その場に跪く。

 土下座。命乞い。降伏の姿勢である。

 鬼殺隊士が狩るべき鬼に赦しを乞う。あってはならないことだった。

 上弦の肆の笑い声が聞こえる。

 

「何じゃ? 何じゃ、お前? 面白いのう、ええ?」

「哀しい程に無様だ……」

 

 何とでも言え、と、獪岳は思った。

 地面に何度も頭を擦り付けながら、額から血を流す程に頭を下げ続けながら、生き残る最後の可能性に懸けた。

 死んでしまったら何にもならない。それは獪岳にとって信念に近い。

 

 ちら、と、立ったまま動かぬ瑠衣を見た。

 自分は、あいつとは違う。

 瑠衣とは鬼殺の()()()()が違う。

 生き残るのだ。何としても――――……!

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――暗い。

 冷たい。

 そんな場所に、瑠衣はいた。

 その闇は果てなどないかのように広がっていて、どこまでも続いていた。

 

 とても、寒い。凍えそうだ。

 ざばっ、と音がするのは、腰のあたりまで水に漬かっているためだ。

 他には、何もない。何も見えなかった。

 どこへ向かえば良いのかも、わからない程に。

 

(……どこへ行けば、良いの……)

 

 瑠衣は、途方に暮れてしまっていた。

 どこかへ向かわなければならなかった。

 それなのに、向かうべき先がわからなかった。

 それに酷く疲れていて、足が鉛のように重かった。

 

 いつの間にか、身体が子供のように小さくなっていた。

 衣服も身に着けていない。

 裸身のまま、冷たい水の中に身体を浸している。

 いつしか瑠衣は、目を閉じてしまっていた。 

 

(眠ろう、もう……)

 

 眠ってしまおう、と、そう思った。

 そうすれば、もう寒くも苦しくもない。

 だから。

 

「……い……」

 

 だからもう、考えるのはやめよう、と。

 

「……さい……」

 

 そう、思った時だった。

 声が、聞こえた。

 どこか、聞き覚えのあるような気がした。

 誰の声だっただろうかと、そんなことを考えた時。

 

 

「起きなさい、瑠衣」

 

 

 その声が余りにも厳しくて、反射的に顔を上げた。

 すると水面に立つ形で、つまり瑠衣が見上げる位置に、1人の女性が立っていた。

 着物を着た、瑠衣と同じように前髪を肩の前に垂らした女性。

 その女性を、瑠衣は良く知っていた。

 

「母様」

 

 煉獄瑠火(るか)。母だった。すでに故人である。

 ならば、ここはあの世なのだろうか。

 不思議と恐れはなく、安らぎのようなものすら感じる。

 だが、母の声は厳しかった。

 

「瑠衣」

 

 そうだった。母は――もちろん、父もだが――昔から、厳しかった。

 甘えというものを、簡単に許そうとはしない人だった。

 そうだ。母は決まって瑠衣にこう語った。

 

「貴女は何故、煉獄家に生を受けたかわかりますか」

 

 鬼狩りの名門、煉獄家。

 そこに生を受けた者は、すべからく1つの使命を負う。

 弱くても良い、不甲斐なさ情けなさに打ちのめされてしまっても良い。

 ただ、使命だけは忘れてはならない。

 

 歯を食いしばれ。

 歩け。

 前に、一歩――いや、半歩でも前に。

 熱い。炎の血を持って進め。

 

「瑠衣」

 

 そう。

 

「起きなさい。起きて、為すべきことを為すのです」

 

 それが。

 

「煉獄瑠衣」

 

 ――――心を、燃やせ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ……何の音だ?

 獪岳はそう思った。

 跪いた体勢のままである。

 

(何だ……?)

 

 耳に集中すると、その音の出所がわかった。

 

(あいつ、生きて……!?)

 

 瑠衣だった。

 いつの間にか唇が薄く開いていて、音はそこから来ている。

 呻き声ではない、それは呼吸音だった。

 だがそれは、今までの瑠衣の呼吸とは明らかに違う。

 

 上弦の肆も、気付いたようだった。

 これまでの、まさに風切り音のような鋭さと繊細さを感じさせる呼吸とは違う。

 より力強く、激しく、それでいて。

 何よりも、()()

 

「カカッ、何じゃ小娘。まだ生」

 

 全集中。

 

「きて?」

 

 獪岳が瞬きをした直後、瑠衣の姿は空喜の後ろにあった。

 そして、空喜の頚が落ちていた。

 何が起こったのか、獪岳には見ることも出来なかった。

 

 しかし瞬きをしない鬼には見えていた。

 瑠衣が瞬きの間に空喜に迫り、袈裟切りに空喜の頚を斬り落としたのだ。

 凄まじい踏み込みの速度だった。

 あの縦横無尽に駆け回る脚力の全てを、たった一歩の踏み込みに込めたかのようだ。

 

(か、風じゃねえ……!)

 

 瑠衣はもう、走らない。

 今の斬撃も、速度による攪乱というよりは両腕と腰の力で斬り落とすような斬り方だった。

 戦い方が変わった。いや、()()()と言った方が正しい。

 むしろ瑠衣の身体に染み付いているのは、この剣技であり、この呼吸なのだから。

 これぞ……。

 

「何をやっている空喜。儂がとどめを……」

 

 これぞ、()()()()

 

「む……!」

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火(しらぬい)』。

 踏み込み、そして上体ごと逸らしての袈裟切り。

 一歩を踏み出した哀絶の虚をつく一撃、咄嗟に槍を立てなければ頚を斬られていただろう。

 

「ハハッ、楽しそうじゃのう。儂も混ぜてくれ!」

 

 ――――炎の呼吸・弐ノ型『(のぼ)炎天(えんてん)』。

 可楽が団扇を振り上げたその瞬間、瑠衣の刀が閃いた。

 斬り上げの一撃は、団扇を持った可楽の片腕を肘から縦に斬り裂いてしまった。

 団扇も例外ではなく、縦に真っ二つに切断されていた。

 

 耳に聞こえる程の歯ぎしりをしたのは、積怒だった。

 どいつもこいつも何をやっているのかと、憤激していた。

 その怒りのままに、錫杖を掲げる。

 雷を放った。

 今まで誰も防ぎ得なかった雷撃が、瑠衣に襲い掛かる。

 

「何ィ……!」

 

 ――――炎の呼吸・肆ノ型『盛炎(せいえん)のうねり』。

 後方に跳び、同時に日輪刀を円の形に薙いだ。

 剣圧の壁が、雷撃を打ち払う。

 刀と雷が打ち合う歪な音が、その場に響き渡った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 もちろん、全てを防ぎ切れたわけではなかった。

 積怒の雷撃は、確実に瑠衣を削っている。

 だが雷撃による負傷以上に問題なのは、呼吸だった。

 

(肺が……()い……!)

 

 久しぶりに使ったというのもある。

 しかし何よりも深刻なのは、()()()()()ということだった。

 瑠衣の身体は、炎の呼吸に向いていない。だから日輪刀は赤色ではないのだ。

 何よりも慣れ親しんだ呼吸なのに、身体がついてきてくれない。

 

 歯痒かった。悔しくて堪らなかった。

 意識が蘇った直後、無意識に身体が選ぶ程に身に着けた呼吸だというのに。

 自分では、父や兄のようにはなれない。

 だが、それでも。

 

「しつこいぞ、小娘。いくら頚を斬ったところで、儂には勝てぬ」

 

 諦めることだけは、出来ない。

 

「……だから、何だ」

 

 頚を斬っても死なないから、何だというのか。

 それは、困難の証明に過ぎない。

 諦めていい理由にはならない。

 

「私は、お前達の頚を斬る! 必ず斬る!」

 

 日輪刀を両手で持ち、振り上げる。

 峰を肩に当てて、両足を広げる。

 幼い頃から何度も見て来たその構えは、やはり自然に出て来た。

 心肺が熱い、焼けるように。

 

「私は……私は、鬼狩りの一族、煉獄家の娘だ! 鬼になんか、お前になんか、絶対に屈さない!」

 

 もし鬼に屈してしまったら、それこそ煉獄の先祖達に顔向けできない。

 父も、祖父も、そのまた父祖も、鬼狩りとして生き、そして死んでいった。

 戦国時代から幾百年、一度たりとも鬼に屈さなかった人間達。

 彼ら彼女らが、鬼に屈する自分を、許してはくれない。

 

 戦え、と。

 煉獄家の者として恥を残すなと、瑠衣に語りかけてくれる。

 嗚呼、と、事ここに及んで瑠衣は思った。

 先祖代々――そう、一族というものは本当に、何と有難いものなのだろう。

 こんな時に自分を支えてくれる。安心して戦うことができる、と。

 

「私は、私の使命を果たす! 覚悟するのは、お前達の方だ……!」

 

 たとえ、たとえ自分が敗れてしまったとしても。

 死んでしまったとしても。

 父が、兄が、そして弟がいる。煉獄の、鬼狩りの血は絶えない。

 後を託せる誰かがいる。仇を討ってくれる誰かがいる。

 ――――何と。

 

「炎の呼吸……伍ノ型……!」

 

 何と、幸福なことか!

 

「……炎……虎……ッ!」

 

 燃え立つ闘気。

 虎の一撃。

 上弦の肆に向けて、瑠衣はまさしくの渾身の力を振り絞った。

 大上段から振り下ろされた日輪刀が、哀絶が防御に掲げた槍に衝突した。

 

 それは鬼の腕力すらねじ伏せて、槍の防御を押し下げて刃を肩にまで届かせる。

 衝撃で、地面が割れるのが見えた。

 槍に添わせるように刀を横滑りさせて、頸を狙った。

 哀絶が身を引いて刃をかわすと、勢いに逆らわずに横薙ぎに回転した。

 

「……ッ」

 

 足が滑る。踏ん張りが効かない。気力では体力は回復しない。

 頚を再生させた空喜が高速で飛来し、ギリギリで刀で受けた。

 しかし衝撃で仰向けに倒されてしまって、瑠衣はやはり勢いに逆らわずに自分で転がった。

 一瞬前に顔があったところに、積怒の錫杖が突き刺さるのが見えた。

 そして、雷撃に打たれる。

 

「死ね」

 

 吹き飛ばされて、地面を何度も跳ねた。

 それでも膝をついて起き上がったところへ、哀絶の槍が来た。

 血鬼術によって放たれた無数の突き。起き上がりの体勢では回避は不可能だった。

 諦めるなと、自分を鼓舞した。

 

(無様に死ぬな)

 

 一瞬、全ての時間が止まったような錯覚の中で。

 

()()()()()……!)

 

 ――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎(えんこ)』。

 瑠衣が刀を振ろうとしたその瞬間、横から、先程の瑠衣が放ったものと同じ技が、しかしそれ以上の威力でもって哀絶を襲った。

 実際にあるわけではないのに、肌が、熱風に煽られた気がした。

 

「よくやった、瑠衣」

 

 大きな背中が、視界一杯に広がった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その背中を、瑠衣は良く知っていた。

 黒い隊服に、燃えるような髪色。

 そして、赤い日輪刀。

 

「遅くなってすまない!」

「……兄様」

 

 杏寿郎だった。

 僅かだが額に汗の痕が見えて、それに瑠衣は泣きそうになった。

 あの怪物級の体力を持つ兄が、汗を流してまで駆けつけてくれた。

 それが瑠衣には何よりも嬉しく、頼もしく思えたのだ。

 

 情けないやつだと、そう思う。

 つい今しがた死まで覚悟したというのに、杏寿郎の顔を見ただけで緊張の糸が切れてしまったのか、全身が脱力してしまった。

 刀を手放さなかったのは、せめてもの矜持だろうか。

 

「何じゃ、お前は。蟻のように湧いて出おって、苛立たしい」

 

 いきなり横から登場した杏寿郎に、積怒は不快そうな顔を向けていた。

 そして、そんな積怒に対して顔を向けた杏寿郎の顔に、瑠衣は息を呑んだ。

 杏寿郎が、真顔で積怒のことを見ていたからだ。

 あの常に快活な表情を浮かべている兄が、鬼の前ではこんな顔をするのかと思った。

 

「後は任せろ」

 

 それだけ言って、杏寿郎が無造作に足を進めた。

 兄様、と何とか声を上げた。

 

「そいつらは、頸を斬っても死にません! 気を付けて!」

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 迅い。力強い踏み込みからの突進、一瞬にして積怒の懐に飛び込んでいた。

 袈裟切りの後、即座に切り返しての2撃目。

 積怒の腕が、錫杖を持ったまま宙を舞っていた。

 

「カカカッ、素早いやつ! あの小娘より楽しめそうじゃ!」

「面白がるな。面倒が増えて哀しいだけだ……」

 

 そこへ、空喜と哀絶が襲いかかった。

 杏寿郎は哀絶の槍をいなし、空喜の翼を打って距離を取った。

 

(なるほど、厄介だ)

 

 そしてそれだけで、杏寿郎は上弦の肆の術を概ね見切っていた。

 4体がそれぞれに個別の能力を持っていること、再生が極めて速いこと。

 頚を落としても死なないという、妹の情報。

 そこから導き出される答え。

 

 積怒が錫杖を振るい、雷撃を放った。

 この雷は哀絶達には効かない。故に雷撃の最中、彼らは自由に動けるということだ。

 空喜が、妹の方へ行くのが見えた。

 彼女にはもう戦う力が残っていない。杏寿郎は跳んだ。

 

「カカッ、そう来ると思ったわ!」

 

 直後、空喜が縦に回転した。

 杏寿郎の眼前に足の爪が走り、前髪が数本散った。

 背後に哀絶が迫っているのも見えて、杏寿郎は剣技を放とうとした。

 その時だった。

 

「下がっていろ、煉獄」

 

 ――――蛇の呼吸・弐ノ型『狭頭(きょうず)の毒牙』。

 杏寿郎と鬼の間を縫うようにして、縦縞の羽織が舞った。

 彼は不思議な足運びと共に刀を振るい、哀絶に背後から斬りかかった。

 流石に哀絶はその奇襲にも反応したが、防御に突き出した槍に刀は触れなかった。

 

 斬撃が、()()()()と曲がったのだ。

 呼吸を表すように、蛇のような、うねり曲がる斬撃。

 ()が扱う日輪刀も、蛇の形を模したわけでもないだろうが、刃がうねる特殊なものだった。

 哀絶が、斬りつけられた頚を押さえながら飛び退いた。

 

「相手が上弦ならば、柱である俺が出張るのが筋だろう。お前は妹の面倒でも見ていろ」

 

 伊黒小芭内。蛇柱。

 自ら志願して杏寿郎に同行した、鬼殺隊の最高戦力の1人。

 柱が志願するというのはよほどの事態だが、結果的には、その()()()の事態に相応しい人選と言えた。

 

「ふん……」

 

 ちら、と瑠衣にも視線を向けて来た。

 居住まいを正す瑠衣だったが、伊黒は特に何も言わなかった。

 それから、積怒を睨んだ。

 伊黒の首元で、蛇の鏑丸がちろちろと舌を出して頭を上げていた。

 

「次から次へと……柱だと? それがどうした、儂の前では大して変わらぬ。今まで何人も喰ってきたわ」

 

 だが、伊黒はそんな積怒の言葉には全く反応を示さなかった。

 シューシューと鳴く鏑丸に視線を落として、ただ一言。

 

()()()()()()

 

 とだけ、言った。

 効果は覿面(てきめん)だった。

 それまで何をしても何を言っても反応しなかった上弦の肆だが、その伊黒の言葉には反応した。

 4体全員が、笑みを消して伊黒を見たのだ。

 肌がヒリつく程の殺気が、その場に充満した。

 

 ――――そして、光が射し込んだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 いつの間にか空が白んでおり、山の向こうから蒼天の気配が近付いて来ていた。

 夜明けが近いことの証左だった。

 太陽の光は、いかなる鬼であろうと共通の弱点だ。

 

「……!」

 

 夜明けを察知した4体の上弦の肆の反応は、素早かった。

 積怒が錫杖を振り下ろし、地面を打ったのだ。

 雷が四方に走り、土煙があたりを覆い尽くした。

 風圧に身体が吹き飛ばされるそうになり、瑠衣は地面に伏せた。

 

 先程まで充満していた鬼気が、殺気が、急速に薄れていくのを感じた。

 鬼が、去っていくのだ。

 その証拠に、どこからともなく積怒の声が響き渡る。

 

「口惜しい。腹立たしい。よもや、儂が獲物を仕留め損ねるとは」

 

 舌打ち混じりの声に、肌を刺すような敵意を感じた。

 

「夜毎に儂を思い出すが良い。もし次に会うことがあったなら……その時は必ず……骨の欠片1つ残さず……喰って……やる……ぞ……」

 

 ゆめ忘れるな、という言葉を最後に、鬼の気配は消えた。

 そして朝日が昇り、本格的に陽光が射し込む頃、土煙も晴れた。

 上弦の肆の姿は、影も形も残っていなかった。

 

「た、助かった……のか」

 

 はあっ、と大きな息を吐いて、獪岳がその場に蹲るのが見えた。

 それを横目に、瑠衣もまた大きく息を吐いた。

 助かった。

 確かに、そうだと思った。

 

 言葉通りとしか、言いようがなかった。

 瑠衣は助かったのだ。命が、助かった。

 身体も至るところが怪我をしているが、五体満足だった。

 手足の一本や二本、失っていても少しもおかしくなかった。

 むしろ、そうならなかったのが不思議なくらいだ。

 

「あ……え?」

 

 息を吐いて視線が下がると、日輪刀を握る自分の手が見えた。

 感覚がなくなる程に強く握っていたため、肌が白くなる程だった。

 日輪刀からぎこちなく手を放した時、()()が来た。

 

「わ、え、え」

 

 ()()()

 手が震え出して止まらなかった。

 いや、手だけでなく、身体全体が震えて止まらなかった。

 冷たい汗が止まらなくなり、呼吸の間隔が短くなり、視界がチカチカと光り始める。

 

 止まれ。

 吐き気さえ感じる中、己の身体を抱きしめて「止まれ」と念じた。

 止まれ、止まれ、止まれ――――……止まらなかった。

 歯がカチカチと音さえ立て始めて、瑠衣は混乱の極みにあった。

 

(ちょ、いやいや。いや、え……ええ?)

 

 初めての経験だった。

 訓練でも実戦でも、今までこんな風になったことはなかった。

 これは不味い。非常に不味かった。

 何が不味いかと言えば、こんな様を見られるわけにはいかないのだ。

 

(止まれ、止まれ……止まれ……!)

 

 ぎゅう、と力を込めて、自分自身を掻き抱いた。

 その時だ。

 とん、と、額に何かが触れた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 杏寿郎が、瑠衣の前にしゃがみ込んでいた。

 右手人差し指が、瑠衣の額の中央に当てられていた。

 燃えるような瞳が、瑠衣を見つめていた。

 

「落ち着け、瑠衣」

 

 ああ、と、思い出した。

 全集中の呼吸の訓練を始めた当初は、こうして兄に()()をしてもらっていたことを。

 指を当てられた1点に意識が行くので、集中しやすくなるのだ。

 炎の呼吸を使うからというわけではないだろうが、体温が高めなのも良いのかもしれない。

 ほんの指一本のことなのに、温かく、安心する。

 

「集中」

 

 目を閉じて、深く呼吸を続けた。

 次第に浮つくような感覚は消えていき、それに伴って震えもなくなっていった。

 感じていたのは、額のぬくもりだけだ。

 次に目を開いた時には、汗も引いていた。

 

「よし、出来たな」

 

 目を開けた瞬間に兄の明るい笑顔があって、少し面食らってしまった。

 そして、それに苦笑して見せる余裕も戻っていた。

 額から杏寿郎の指先が離れた時、寂しさのものを感じてしまって、それは慌てて打ち消した。

 精神面まで幼少期に戻るわけにはいかない。

 

 自分のことが落ち着くと、ようやく周りを見る余裕が生まれた。

 獪岳は蹲ったままだが、柚羽達は無事だろうか。

 とどめは刺されていなかったはずだが、酷い怪我をしているかもしれない。

 

「安心しろ、全員無事だ! 怪我はそれなりにしているが、命に別状はないだろう!」

 

 先に杏寿郎に答えを言われてしまった。

 そして、ふわり、と肩に兄の隊服をかけられた。

 そう言えば、まだそのままの格好だった。

 

「お前はよく戦った!」

 

 くしゃ、と頭に手を置かれて、ぐりぐりと動かされた。

 撫でるというには、少し乱暴だ。

 しかしそれが、どうしようもなく嬉しかった。

 

「だが、半裸で戦うのは流石にどうかと思うぞ!」

「……うぐ」

 

 そしてそんな様子を見て、密かに胸を撫で下ろしている者がいた。

 獪岳だ。彼は蹲りながら、瑠衣達の会話に注意深く耳を傍立てていた。

 しかし危惧していたようなことを、瑠衣は言わなかった。

 やはり気を失っていたのか、と、安堵の吐息を漏らした。

 

「おい、お前は怪我はしていないのか」

「あ……はい、大丈夫です。すみません」

「…………そうか」

 

 伊黒の絡みつくような視線に、獪岳はしまったと思った。

 ほとんど反射的に、顔を伏せた。

 身体が辛かったのは本当で、そうしていても不自然ではない。

 しかし、伊黒の視線の温度は変わらなかった。

 

「……煉獄、いつまでそうしている。他の怪我人を早く……」

 

 伊黒が視線を外した後も、獪岳はその場に蹲り、顔を伏せていた。

 その時、彼がどんな表情を浮かべていたか。

 それは、神のみぞ知ることだった。

 ――――獪岳自身を、除いては。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()

 琵琶の音色の響くその場所は、不思議な場所だった。

 無数の戸、窓、回廊、階段が幾重にも重なり、どこが床でどれが壁なのかも判然としない。

 逆さまのようでもあり、横向きのようでもある。

 

 およそこの世の法則を無視したかのような、無秩序で、整然とした、矛盾だらけの空間。

 その中心に、長い黒髪を方々に垂らした奇妙な女がいた。

 前髪が顔の半分以上を覆っているため、表情を読むことは出来ない。

 時折、手に持った琵琶を「べべべんっ」と奏でている。

 

「――――下弦の鬼は解体する」

 

 そして、女がもう1人いた。黒髪を髪飾りで結い上げた、黒い着物の女。

 白面の、この世のものとは思えない程の美貌を備えた女だった。

 切れ長の瞳にすっと整った目鼻立ち。

 それでいて女性特有の柔らかさはなく、むしろ迫力さえ感じる。

 その眼光は、何もかもを見下しているかのように冷然としていた。

 

「…………」

 

 ()()の周囲は、血に塗れていた。

 彼女が立つヒノキの床には、赤い塗料でもぶちまけたかのような血溜まりがいくつも出来ていた。

 不思議なのは、その血の主の姿が()()()()()()()()ことだった。

 最初からそんな存在はいなかったかのように、何もない。

 

「……『半天狗』め……」

 

 どこか明後日の方向を向きながら、彼女は呟きを発した。

 低い声だった。まるで男のような声だ。

 静かで、耳にするだけで平伏してしまいそうな、えも言えぬ威圧感を感じる声だった。

 とても、見た目通りの年若い女性とは思えない――――と、言うより。

 

 彼女は、()()()()()()

 

 というより、もはや性別そのものに意味がない、と言った方が正しいだろうか。

 声は確かに男性のそれで、どちらかと言えば男性に寄っていると言えるだろう。

 ただそれは、単に「最初がそうだった」という程度の意味しかないのかもしれない。

 いずれにせよ、言えることはただ1つだ。

 

「……まあ、良い。それよりも……」

 

 彼女()が、そういった人の理を超越した存在である、ということだけだ。

 

「最期に何か言い残すことはあるか?」

 

 眼前に平伏する者を見下ろしながら、言う。

 相手は、その声をまるで天上から落ちてくる神の言葉か何かのように仰ぎ見るのだ。

 それはまさしく、両者の関係を表していると言えた。

 そして。

 

「下弦の壱」

 

 ――――()()()




最後までお読み頂きありがとうございます。
自宅にいる間の暇潰しにでもなれば幸いです。

妹候補その②「甘露寺茉莉(まつり)」
恋柱・甘露寺蜜璃の実妹。甘露寺家の次女。得意料理は桜餅。
呼吸は炎。本当は恋の呼吸を習得したかったが身体が硬くて無理だった。
具体的には長座体前屈測定で30センチを超えない。
姉が大好きで、姉が満足するまで料理を作り続ける。
鬼よりも食材を切ることの方が多いことから「炎の料理人」の二つ名で知られる。
炎の剣技で作られる料理は某炭焼き小屋の息子からも「火加減ばっちり」と評判。

実は瑠衣の前はこの子が主人公になる予定だった。そのため色々と共通点が多い。
強いて違いを上げるとすれば瑠衣の方が柔軟で、茉莉の方が色々と「柔らかい」。

採用されなかった理由…竜華零に料理の知識が乏しいから。


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第8話:「蝶屋敷」

 蝶屋敷、と呼ばれる邸宅がある。

 元々は柱に与えられる邸宅の1つだったのだが、先代の柱の意向で治療所として開放されたものだ。

 現在では鬼殺隊にとってなくてはならない医療施設として、本部からも重宝されている。

 俗称の由来は、屋敷の庭にたくさんの蝶が生息していること。そして…。

 

「はい、もう服を直して結構ですよ」

「ありがとうございます」

 

 そう言われて、瑠衣は衣服のボタンを留め始めた。

 首から胸元、というか上半身全体に白い包帯を巻かれており、怪我の程度を教えてくれる。

 隊服ではなく病衣姿で、今は医者に診察して貰っているようだ。

 ただこの場合、医者の方が特殊だった。

 

「流石は煉獄家のお嬢さんですね。普通では考えられないくらいの快復速度ですよ」

 

 酷く華奢な女性で、それほど上背のない瑠衣よりもさらに小柄だ。

 そして、恐ろしい程の美人である。

 蝶の髪飾りでまとめた黒髪に、白磁という他ない白くきめ細やかな肌、整った眉に大きな目。

 瑠衣が知る限り、美貌という意味では鬼殺隊で……いや、日の本で五指に入るだろう。

 なお瑠衣の心の美人ランキング第1位は母・瑠火である。

 

 しかしこの女性の特異なところはその美貌ではなく、そして女性でありながら医者というところでもなく、彼女が鬼殺隊最高位の柱の1人という点だ。

 すなわちこの治療所――いわゆる蝶屋敷の主人、ということになる。

 蟲柱・胡蝶しのぶ。それがこの女性の名前だった。

 柔和な微笑みを浮かべて、しのぶは感心したように言った。

 

「呼吸が上手いんでしょうねえ。普通はこんなに早く骨折が治ったりはしませんよ?」

「いえ、父や兄には及びません」

「成程。まあ、あのお2人がここに来るところは想像できないので、拝見することはなさそうですね」

 

 それには、瑠衣も「確かに」と思った。

 槇寿郎や杏寿郎が、鬼との戦いで大きな負傷を負ったことはない。

 蝶屋敷は負傷した隊士の治療所なので、負傷しないあの2人が来訪することはない。

 自明の理というべきだが、それだけに自分が治療を受けているのが情けなくもある。

 

「この調子なら、もう退院できそうですね。あと2日ほど様子を見て、治療は終わりにしましょうか」

「はい」

「ただ、首と肩は傷が深かったので……」

 

 申し訳なさそうに眉を寄せるしのぶに、瑠衣は、ああ、と気の抜けたような声を返した。

 女性らしい気遣いだが、鬼狩りである以上は避けられないことだ。

 他の女性隊士も、多かれ少なかれあるものだ。

 ……傷痕の、1つや2つは。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 情けない。

 実のところ、瑠衣の考えてることはそれだった。

 自分の弱さが情けなく、不甲斐なさに蹲りたくなる。

 しかし、それも出来ないということも良くわかっていた。

 

「おい、あれ……」

「ああ、炎柱様の……」

 

 当たり前の話だが、蝶屋敷には多くの鬼殺隊士が治療を受けに来る。

 入院している隊士も多く、こうして病棟を歩けば目にもとまる。

 瑠衣にしてみれば、恥を晒して歩いているような心地だ。だが……。

 

「下弦の頸を斬ったって……」

「上弦の鬼と戦って、生き残ったんだろ……」

「それどころか、1人も死なせなかったって……」

 

 やめてくれ。強くそう思った。

 まるで何か偉業を成し遂げたかのように、皆が自分を見ている。

 堪らなかった。耐え難かった。屈辱すら感じた。

 あの日の自分は、本当は何も成し遂げられていないのだ。

 

 下弦の肆の頸を斬れたのは、獪岳達がいたからだ。

 自分はただ、怒りに駆られて斬りかかったに過ぎない。

 人はその行動さえ称賛するだろうが、その点、獪岳の指摘は鋭かった。

 反論する術もなく、曖昧に笑って誤魔化しただけだ。

 

「凄いよな……」

「やっぱ、俺らみたいなのとは違うよなー……」

 

 上弦の肆との戦いも、杏寿郎達が来なければ死んでいた。

 いや柚羽達がいなければ、杏寿郎達が来るまで持ち堪えることも出来なかった。

 100年不敗の、歴代の柱達をも屠って来た上弦の鬼と戦って生き残ったのだから、「凄い」と持て(はや)したくなる気持ちも、わからなくもない。

 けれど、それでも、情けなかった。

 

 そうは言っても、表には出せなかった。

 常に胸を張り、背筋を伸ばして、しっかりとした足取りでいなければならない。

 どんな評価も当然のような顔で受けて、礼の1つも言えなければならない。

 煉獄家の人間は、理想の鬼殺隊士でいなければならないのだから。

 

(……中庭にでも行こう)

 

 病棟にいると息が詰まる。

 人目を避けるように、瑠衣の足は中庭に向かっていた。

 元が柱に与えられる邸宅であったため、蝶屋敷の庭はかなり広い。

 鯉のいる池や、藤を始めとする花々や草木。無数に舞っている蝶々。

 まるで絵物語の中のような場所だった。

 

「はあ……」

 

 池の側に立って悠々と泳ぐ鯉を眺めながら、溜息を吐いた。

 餌でも持っていれば、無心でパラパラと撒いていただろう。

 

「うん?」

 

 風に乗って、何かの音――声が聞こえた気がして、瑠衣は顔を上げた。

 それは中庭の奥から聞こえてきていて、そちらには訓練のための道場があるはずだった。

 誰かが道場を使っているのかもしれない。

 それにしても、いやに騒がしかった。若い男女の声のような気もするが……。

 

「瑠衣」

 

 その時だった、聞き覚えのある声が瑠衣を呼んだ。

 びくりと、肩が震えた。

 振り向くと、想像した通りの人物がそこにいた。

 

「ここにいたか」

 

 父、槇寿郎だった。

 瑠衣が今、最も会いたくない相手だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣が入院してから、槇寿郎が蝶屋敷を訪れたのは初めてのことだった。

 2週間である。

 事の経緯は鎹鴉の長治郎が知らせてくれたはずだが、特に返信もなかった。

 そんな槇寿郎が最初にしたことは、瑠衣に細長い包みを渡すことだった。

 

 それは、絹の刀袋に丁寧に納められた日輪刀だった。

 瑠衣が入院している間、煉獄家専属の刀鍛冶に新しく打たれたものだった。

 上弦の肆との戦いで、いくらか刃毀(はこぼ)れがあったのである。

 上弦の鬼の強度が、戦闘後の刀の状態からでもわかろうというものだった。

 

「良い仕上がりだ」

 

 ぽつりと槇寿郎が呟いたのは、瑠衣が刀を抜いた時だ。

 日輪刀の刀身が、鍔元から深緑に染まっていく。

 これが日輪刀が「色変わりの刀」と呼ばれる所以(ゆえん)だ。

 握った者の呼吸の適性に合わせて色が変わり、才の大きさによって色の深さが決まる。

 そして一度染まった刀は、二度と別の色になることはない。

 

(……緑色)

 

 日輪刀が緑色に染まるのは、持ち主に風の適性があることを示している。

 しかもこれだけ鮮やかで、深い緑色はそうはいない。

 少なくとも瑠衣は、不死川以外の風の剣士で自分よりも深い緑色の刀を持つ者を見たことがなかった。

 才がある。恵まれている。ただ、瑠衣が望んだ色ではなかっただけだ。

 

「あ……」

 

 不意に槇寿郎が背中を向けたので、瑠衣は思わず手を伸ばしかけた。

 ただ、何を掴むでもなく、その手は宙を泳いだ。

 

「父様」

 

 槇寿郎は、一度も瑠衣と目を合わせなかった。

 瑠衣の記憶する限り、そんなことは()()()()()()()()()()()

 何か言わなければ。

 そんな感情に突き動かされて、瑠衣は遠ざかる父の背を2歩追った。

 3歩目は、踏み出せなかった。

 

「つ、次……次こそは、斬ってみせます!」

 

 父の背に、そう叫んだ。

 

「次こそは、あの上弦を斬ってみせます! 必ず斬ります! 煉獄家の剣士として、恥ずかしくない戦いをしてみせます!」

 

 たとえ100年不敗の上弦が相手だとしても、生き残っただけで褒められるのは並の隊士までだ。

 柱や、継子。そして古くから鬼狩りを輩出する家の一門ともなれば、それ以上を求められる。

 その意味で、瑠衣は己のことを落第だと思っていた。

 だから、他の隊士からの称賛の眼差しが辛くて仕方がないのだ。

 

「たとえ、たとえこの命に代えても……!」

 

 無様に生き残るくらいなら、立派に死んだ方が何倍も良い。

 100年不敗の上限を斬るためならば、自分の命など惜しみはしない。

 そう、たとえ。

 たとえ、刺し違えてでも頸を斬ってみせる。

 なのに。

 

「……う」

 

 それなのに、振り向いた槇寿郎の眼差しは、冷たかった。

 あまりにも冷たくて、瑠衣はそれ以上は何も言うことが出来なかった。

 どうして父がそんな顔をするのか、わからなかった。

 槇寿郎は、しかし何も言わなかった。

 

 何も言わないままに、再び瑠衣に背を向けた。

 歩き、遠ざかっていくその背中に、瑠衣は何も言えなかった。

 何かを間違えた。

 ただ、何を間違えたのかがわからない。

 そんな気持ちだけが、瑠衣の胸中を覆い尽くしていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「何か言葉をかけてあげなくて良いのですか?」

 

 中庭を抜けたあたりで、槇寿郎はそう声をかけられた。

 しのぶだった。

 瑠衣の診察の直後に(おとな)った槇寿郎を、ここまで案内したのは彼女だった。

 父子の会話の邪魔をするのも悪いと気を遣ったのか、中庭に入りはしなかったらしい。

 

 それでも流石に瑠衣の声は聞こえていたのか、不思議には思ったのだろう。

 何故、槇寿郎は瑠衣に何も言わなかったのだろうか。

 そう思ったからこそ、先程のような声のかけ方になったのだ。

 もっとも、聡明な彼女は何となく察してもいるのだが。

 

「胡蝶君」

 

 とは言え、だ。

 

「娘を治療してくれたこと、改めて礼を言わせてほしい」

 

 階級は同じ柱とは言え、槇寿郎はしのぶよりずっと目上の人間だった。

 そんな最年長の柱に率直に頭を下げられてしまうと、しのぶとしても対応に困ってしまう。

 それこそ、親子ほども年が離れているのだ。

 両手を向けて、頭を上げてほしいと言う他なかった。

 

「負傷した隊士の治療は私のお役目です。私は自分の役目を果たしただけです」

「それでも、1人の父として礼を言うのは当然のことだ」

「それは……」

 

 そう言われてしまうと、反論の余地はない。

 ただ、少し()()()と思ってしまうだけだ。

 ()()()()は、礼の1つも受け取ってくれなかったのに、と。

 身内の恩という意味ならば、しのぶの受けた恩義の方が大きいと、少なくともしのぶ自身はそう思っていた。

 とは言え、そう言ってもこの男は聞いてくれないのだろうとも、わかっていた。

 

「……娘さんにも、そういうところを見せれば良かったでしょうに」

 

 代わりに口にしたのは、やはり瑠衣のことだった。

 あながち嘘というわけでもない。

 しのぶの目から見ても、瑠衣は酷くショックを受けている様子だった。

 まさに親に捨てられた子供のような目で、槇寿郎の背中を追っていたのだ。

 そういう気持ちは、しのぶにもわからなくはないものだった。

 

「瑠衣は……娘は、煉獄の女だ。かえって、あれを甘やかすことになる」

 

 一方で、槇寿郎の言葉も冷たいものだった。

 名門らしく、肉親の情よりも優先するものがある、ということだろう。

 

「それにあれも、もう立派に独り立ちしている。私のような老兵よりも、見るべきものは他にあるだろう」

 

 しかし不意に浮かべた表情は、瑠衣と良く似ていた。

 ああ、親子なのだなと、しのぶがそう思えたほどだった。

 

(不器用、ですねえ)

 

 もっとも自分は不器用な男しか見たことがないが、と、そんなことを思った。

 槇寿郎がどうして瑠衣に優しい言葉の1つもかけないのか、その理由も何となく察していた。

 そうやって意識的に厳しくしていないと、つい、言ってしまいそうになるのだろう。

 ――――戦いをやめろ、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 千寿郎は心配していた。

 父・槇寿郎のことである。

 千寿郎は家の門の前で掃き掃除をしていたのだが、芳しくはなさそうだ、

 むしろ箒を手に何度も道先を窺い、そわそわとしている様子だった。

 

「大丈夫かなあ……」

 

 時折、空などを眺めてはそんなことを呟いた。

 千寿郎はこうして、空に言葉を呟いてみる時があった。

 何故かと言えば、そうしていると母に聞いて貰えるような気がするからだ。

 母である瑠火は千寿郎が物心ついた時にはすでに亡くなっていて、顔などはあまり覚えていなかった。

 

 ただ、お日様のような温もりを何となく覚えているだけだ。

 それに杏寿郎や瑠衣は良く、自分達の母親は遠い空の向こう国に行ったのだ、と話してくれた。

 もちろん、そんなものは幼かった自分に母の死を納得させるためのものだったと理解している。

 とは言え、だ。幼い頃に得た癖はなかなか直るものでもなかった。

 だからこうして、たまに空に向けて呟いてみるのである。

 

「むっ、千寿郎。そんなところにいたのか」

「あ、兄上」

 

 ひょい、と、玄関から杏寿郎が顔を出してきた。

 掃除に出たまま戻らない千寿郎を心配したのだろう。

 杏寿郎は弟に笑いかけると、近くまで歩み寄っていった。

 

「どうした、また母上に何か話していたのか?」

「そ、そういうわけじゃありません」

 

 杏寿郎の言葉に、千寿郎は気恥ずかしそうな表情を浮かべた。

 母への甘えに恥ずかしさを覚える年になったかと、杏寿郎は感慨深くなった。

 しかしすぐに心配そうな表情を浮かべた弟に、訝し気に問いかける。

 

「どうした千寿郎! 何か心配事か?」

「あ、ええと……実は姉上のお見舞いに行った父上のことなのですが」

「む? おお! 新しい日輪刀も持って行ったのだったな! 瑠衣も喜ぶだろう!」

「はあ……」

 

 杏寿郎は首を傾げた。

 いったい、千寿郎は何を心配しているのだろうか。

 2人の父である槇寿郎は、鬼殺隊を背負って立つ偉大な人物だ。 

 優れた人格者でもあり、多くの隊士から尊敬されている。立派な人物だ。

 息子に心配されるようなことなど、何もないはずだが……。

 

「でも、鬼殺以外のことは全然じゃないですか」

 

 ……なのだが、急に杏寿郎も不安になってきた。

 いや、と杏寿郎は思い直した。

 よもやよもや、あの父に限って。繰り返すがよもやよもやである。

 よもや、見舞いに行って落ち込ませるわけでもあるまい。

 心配のし過ぎであろうと、杏寿郎は思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 やらかしてしまった。

 父が去った後、瑠衣は内心ひどく落ち込んでいた。

 内心、というのは、外に吐露できないからだ。

 人目がある蝶屋敷で、落ち込んだ姿は見せられない。

 

 だから病棟の方に戻って来る頃には、瑠衣は少なくとも傍目(はため)には普段通りに振る舞っているように見えた。

 刀袋も、鬼殺隊士しかいない中ではさほど目立つ要素でもない。

 堂々と歩いていれば、奇異の目で見くる者もいない。

 

(……父様……何が駄目だったの……)

 

 とは言え、所詮(しょせん)は外側だけのものだ。

 いくら取り繕ったところで、悩みが消えてなくなるわけではない。

 内心で悶々としながら、病棟を歩く瑠衣。

 そんな瑠衣に声をかける者もいない――そう、思っていた時だった。

 

「あらぁ、貴女……」

 

 楚々として、しかし足早に通路を歩いていると、すれ違いかけた誰かが声をかけてきた。

 それがやけにおっとりしたものだったため、そのまま通り過ぎかけた程だ。

 足を止めて振り向くと、相手は松葉杖をついた状態だったが、にこやかに手を振って来た。

 

「榛名……さん?」

「覚えててくれたのねぇ。嬉しいわぁ」

「それは、もちろん」

 

 榛名だった。

 下弦の肆、そして上弦の肆との戦いの、その大元は彼女を救出するためのものだった。

 そもそも、忘れられるような体験ではない。

 そしておっとりした様子を見せているが、榛名はまだ痛ましい姿をしていた。

 

 病衣の襟元や裾からは、まだ薬品の匂いの染み付いた包帯が覗いている。

 足の骨も負傷したのか固定されていて、松葉杖でようやく出歩けている状態だ。

 それでも生来の性格なのか、榛名自身は辛そうにしている様子はなかった。

 むしろ、朗らかに笑ってさえいる。

 

「そう言えば、まだちゃんと言えてなかったかもしれないわぁ」

「はい?」

「ありがとう」

 

 きょとん、とした顔を浮かべる瑠衣に、榛名はまた笑ってみせた。

 見る者の心を温かにさせる、そんな微笑みだった。

 任務の際などに瑠衣が浮かべるそれとは、温度が違う。はっきりとそうわかった。

 

「助けてくれて、ありがとう」

 

 一瞬、言われた意味がわからなかった。

 いや言葉の意味はわかるが、あえて言う意味がわからなかった。

 同じ鬼殺隊士で、任務だった。そこに瑠衣の意思は関係がない。

 だから救出は当たり前のことで、礼を言われることではないのだ。

 

「それでも、貴女が来てくれなければ、わたしは死んでいた。きっと、あの鬼に喰われていたわぁ」

 

 だから、礼を言いたいのだ。

 そう言って笑う榛名の顔に、瑠衣は何も言えなかった。

 

「あ、あらあらぁ?」

 

 それどころか、困らせてしまって。

 自分は本当に未熟だと、瑠衣はそう思ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 禊は、苛立っていた。

 何故かと言えば、苛立つようなことしかなかったからだ。

 まず、怪我である。

 この自分が醜い鬼ごときに――上弦やら下弦やらは禊にとっては関係がない――怪我を負わされたということが気に入らない。

 

 そして、入院だ。この自分が他の隊士と同じ場所に押し込まれるのが気に入らない。

 禊はこの2週間、誰よりも遅くまで起き、誰よりも早く起きている。

 見回りがくればその時も起きている。頭の一部を常に緊張させていれば可能だ。

 何故そうしているのかと言うと、他人に寝顔を見られるのが嫌なのである。

 おかげで寝不足であり、それがまた不機嫌さに拍車をかけていた。

 

「と言うか……」

 

 それから、同じ病棟――というか、両隣の寝台――に柚羽と榛名がいることだ。

 まあ、負傷と入院のタイミングが同時だったのだから当然ではある。

 だが四六時中、話しかけてくるのは本当に苛立った。

 しかもやたら親し気に。返事をしなくても続くので、かなりうんざりしている。

 

「何でアンタまで来てんのよ」

「いや、何か成り行きで……」

 

 そして、瑠衣である。

 負傷の具合は似たようなもののはずだったのだが、先に治っている。

 それがまた気に入らない。

 病棟が別で顔を見なくて済んでいたのに、どういうわけか榛名が手を引いて連れて来たのである。

 何でだよ。

 

「仲良くお喋りがしたいなら、アンタ達だけでどっか行きなさいよ……」

「あらぁ、それはダメよぉ」

 

 視線だけで問いかけると、榛名は手を合わせて言った。

 

「だって、貴女ともお喋りしたいものぉ」

 

 背景に花でも飛ばしそうな朗らかさが、そこにあった。

 見る者に安心感と好意を与えるだろうその姿に、しかし禊は別の感情を覚えた。

 ずばり、殺意である。

 

「足の怪我も治りきっていないのだから、ここでお喋りするのが一番よぉ」

 

 確かに、禊が下弦の肆の血鬼術で受けた足の傷はまだ完全には治癒していない。

 榛名にとっては配慮にあたるそれを、禊は別のものとして受け取った。

 殺意おかわりである。

 

「アンタさあ」

「まあまあまあまあ、落ち着いて下さい。おやつにしようと思って、お昼時に厨を借りておにぎりを握ってあるのです。おひとつどうぞ。榛名さんは鮭はお好きですか?」

「あらぁ、ありがとう。いただくわぁ」

 

 繰り返しになるが、柚羽と榛名は禊の両側の寝台である。

 よって柚羽が榛名におにぎりを渡した目には、禊の寝台の上で腕を伸ばさなければならない。

 自然、禊の目の前で柚羽は前屈みのような体勢になることになる。

 結果、どうなるか。

 

「…………」

 

 当たり前の話だが、禊たちは今、隊服ではない。

 いわゆる病衣である。着用者が楽なように緩やかに作ってある。

 そう、楽。例えば隊服着用時には固定してある部分も緩やかになる。

 例えば胸元とか。

 

 今、禊のまさに眼前に、固定(サラシ)から解放された状態で()()がある。

 それは緩やかな病衣に包まれているにも関わらず、はっきりと自己主張していた。 

 目の前でこれでもかと柔らかさを見せつけるそれに、禊は自分の頭の中で何かが切れるのを感じた。

 掌底かと見紛うばかりの動き、かつ握り潰す勢いでそれを鷲掴みにした。

 

「ひゃんっ」

 

 びくんっ、と身体を震わせて、柚羽が声を上げた。

 その際におにぎりの器を落としてしまうが、それは榛名が「おっと」と言いながら器用に受け止めていた。

 

「いたっ、いたたたたたたっ。あっ、無体! ご無体はやめてください!」

「っさいわね! 目の前でプラプラゆらゆらさせてんじゃないわよ、嫌みか!」

「指! 指がめり込むのが痛い! 本当に痛いんですって!」

「何がおにぎりよ、この……この、もちもちして……もち、餅女ぁっ!」

 

 急に賑やかになった彼女達を、瑠衣は半ば呆然と見ていた。

 榛名が「食べる?」とおにぎりの器を差し出して来たが、もしかするとこれが平常運転なのだろうか。

 正直なところ、榛名に連れられて来たものの、会話に混ざれるような気がしなかった。

 どこから入り込めば良いのかわからない。

 そこで、あれ、と疑問が浮かんだ。

 

 ――――次の瞬間、病室の窓ガラスが砕け散った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 片手が鯉口の位置に下がる。

 日輪刀を持っている瑠衣はともかく、柚羽達を含む何人かは刀を持っていなくとも、自然とそうしていた。

 条件反射とでもいうべきか、職業病とでもいうべきか。

 

 病室の窓ガラスを突き破って、何かが飛び込んできた。

 それは鬼でもなければ獣でもなく、人間だった。

 ただし、ただの人間かというと判断に困った。

 頭が獣だったからだ。

 

「……猪?」

 

 猪頭、だ。

 より具体的に説明するなら、猪の毛皮を被った人間の男、だ。

 病衣を着ているので隊士だとは思うが、猪頭の隊士など聞いたこともない。

 何故か病衣の前を開けていて、鍛え上げられた上半身が覗いていた。

 いや、それ以前にだ。

 

「きゃああああっ!」

 

 誰かが叫んだ。

 猪頭の男――そう、男だ。男性が女性の病室に飛び込んできた形だ。

 それは叫ぶだろう。鬼に対するのとはまた別種の恐怖だ。

 というか、常識とすら言える。

 

「何ですか貴方! ここは女性病棟ですよ!」

「ああん?」

 

 声、低っ!

 その場にいる誰もがそう思っただろう。

 男性なのだから声が低いのは不思議ではないが、それにしてもドスの利いた声だった。

 

「ここが雌の溜まり場だから何だ? 俺には関係ないね!!」

「め、雌……溜まり……ええ!?」

「それより、お前」

 

 余りの言葉に絶句していると、猪頭が瑠衣を指差してきた。

 気のせいでなければ、猪頭の目の部分も笑みの形に歪んで見えた。

 

()()()()、お前。()()()ヤツだな?」

「は?」

「俺と、戦え!」

「え?」

 

 次の瞬間だ。猪頭の身体が沈んだ。

 床スレスレの位置まで頭が下がっており、猪頭の目だけがこちらを睨んでいる。

 肌を刺すような戦意を感じる。闘志とはまた違う気がする。

 人間を相手にしている感覚が、何故か希薄だった。

 

 明らかに突進の体勢を取っている猪頭に、誰もが緊張していた。

 まさに、猪の突進の予兆を感じ取った猟師の気分だ。

 刀は持っていないが、だから安心とはいかない。

 そう思い、誰もが固唾を呑んで状況の推移を見守っていると。

 

「……あ!」

 

 と、猪頭が何かを思い出したように声を上げた。

 がばっと身体も起こし、心なし焦りの気配を漂わせている様子だった。

 

「お前、隊士だよな?」

「ま、まあ……そうですけど」

「ぐがっ、じゃあダメじゃねえか! 隊士同士の……ええと、アレはご法度だからな!」

「私闘?」

「うるせえな、わかってんだよ! シトーがご法度だってな! 馬鹿にすんじゃあねえ!!」

 

 ここまで常識知らずの行動を取っておきながら、何故そこだけ常識的なのだろう。

 いや、言っていることは正しいのだ。

 正しいのだが、何か釈然としなかった。

 

「何をしているんですか!!」

 

 その時だった。廊下側から隊服の上に看護衣を着た少女が駆け込んできた。

 耳に残る甲高い声の主は、ツカツカと猪頭に近付いていった。

 

「あらぁ、アオイちゃん。その子と知り合い?」

「はい。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」

 

 蝶の髪飾りで黒髪を2つ括りにしたその少女の名はアオイと言って、ここ蝶屋敷の実務を管理している少女だった。

 きっちりとした角度で会釈をするあたり、生真面目な性格が滲み出ている。

 そして、誰もが怯える猪頭に対してキツい視線を向ける。

 意外なことに、猪頭は怯んでいた。

 

「伊之助さん、ここは男子禁制ですよ!」

「な、なんでだよ」

「女性病棟だからです! しのぶ様にも男子は行けない場所があると言われていたでしょう!?」

 

 凄まじい剣幕である。

 女性を雌と――悪意ある表現というより、男女という呼称に不慣れなように感じる――言っていた猪頭、伊之助という名らしいが、しかしアオイに対しては強く出られないらしかった。

 作法はともかく、その様に対しては、可愛らしいとすら思った。

 言えば、おそらくそれこそ凄まじい剣幕で拒絶されただろうが……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――奇妙な1日だった。

 夜になって振り返ってみても、そう思った。

 奇妙というか、色々あったと言うべきなのか。

 

「ふっ!」

 

 夜半、瑠衣は槇寿郎と会ったあの中庭に来ていた。

 何をしているのかと言えば、刀の素振りである。

 入院の間に感覚を忘れてしまっているので、刀の感触を身体に覚えさせるためにやっている。

 打ち直されたばかりの刀だから、特に念入りにしなければならない。

 

 もちろん、蝶屋敷の者に見つかると少々面倒なことになるかもしれない。

 しかしこの場所はちょうど人目を遮る位置でもあり、隠れて素振りをするには都合が良かった。

 病室に見回りが来るまでの間に戻れば、大丈夫だろう。

 それに、だ。

 

(もっと、強くなろう)

 

 流石に父や兄よりも強くなれるとは思えないが、2人の足元に届くくらいには、強くなりたかった。

 それから、弟の千寿郎が恥ずかしく思わない程度の位置にはいたいと思った。

 上弦から生き残った程度で褒められる。そんなことではダメなのだ。

 あの上弦の肆を斬ってしまえるくらいの強さ。

 

(そうすれば、父様だって……)

 

 脳裏に浮かぶのは、甘露寺や伊黒の姿だ。

 あの2人と杏寿郎を、自分の自慢だと言って笑った父の顔だ。

 そして、この中庭で自分に向けてきたあの目だ。

 ――――素振りの風切り音が、静かな夜を切り裂いた。

 

「…………?」

 

 不意に、誰かが近付いてくる気配を感じた。

 風向きのおかげか、姿が見える前に声が届いて来たのだ。

 見回りかとも思ったが、話し声がして、複数人だとわかる。見回りではない。

 多分、2人か。話し声にしては、一方の声がやけにくぐもっていて変にも思うが。

 さて隠れるか、どうするか……と考え始めた、その時だ。

 

「ふぎゃっ」

 

 と、盛大な声がした。

 何かあったのだろうかと、声の方へ足早に進み、物陰から様子を窺うことにした。

 するとだ、花壇のあたりで少年が1人倒れ込んでいた。

 やけに明るい髪の色――黄色の髪など、初めて見た。異人というわけはなさそうだが――で、月明かりの下でもやけに目立つ。

 

「あ……」

 

 大丈夫ですか、そう声をかけようとした。

 明るい髪色の少年の傍に、女の子が立っていた。

 桃色の麻の葉柄の着物。市松柄の帯に、黒い羽織。

 そして、恐ろしく美しい。

 鴉の濡れ羽色の髪、白絹のような肌――月明かりに映えて天女のようだ。

 

「……お」

 

 ()()()()()()()()()()

 

「鬼……?」

 

 間違いなく、鬼だった。あの眼、そしてあの気配。間違えるはずもない。

 何故、こんなところに鬼が。

 ここは鬼殺隊本部、蝶屋敷。

 鬼がいるはずがない。いるはずのない存在がいる。

 

 鬼の少女が、動く。

 地面に倒れ込んだままの少年に、手を伸ばす。

 鬼が、人間に、手を伸ばす。

 ()()()()

 

「――――ッ!!」

 

 手首を返し、日輪刀を構える。

 駆け出した。

 鬼が瑠衣に気付く。

 そして――――……。




最後までお読み頂きありがとうございます。

今はいろいろと大変ですが、皆さんご一緒に。

心を燃やせ。

一緒に頑張りましょう…!
私の作品が一時の退屈しのぎにでもなれば幸いです。


妹候補その③「継国ちよ」
継国兄弟の妹。蝶よ花よと育てられた武家のお嬢様。天真爛漫で底抜けに明るい性格。
勤勉な長男や天才の次男を敬愛しており、末の娘という地位を利用して縁壱と遊んでも叱られずに交流できた。
後に煉獄家に嫁入りする。つまり原作の煉獄家先祖の剣士に嫁ぐ。
ぶっちゃけ瑠衣の先祖。週1更新の場合は物語はこの「ちよ」と瑠衣の2段構成になるはずだった。
しかし現実には月2更新のためちよから始めていていたら完結までかかり過ぎるため、実現しなかった。


採用されなかった理由…戦国時代がわからないから。


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第9話:「竈門炭治郎」

※ねずこちゃんの「ね」の字が変換できないので「禰」で代用しています。


 我妻(あがつま)善逸(ぜんいつ)は、幸福の絶頂にあった。

 女性に騙されて借金を背負わされた時も、育手(そだて)の下で地獄のような鬼殺の訓練を受けさせられた時も、最終選別に無理やり参加させられた時も、そして鬼殺隊士として鬼の前に放り出された時も、何度も「もう無理!」と思ったものだ。

 しかし今、善逸は幸福であった。

 

「良い夜だねぇ、禰豆子(ねずこ)ちゃん」

 

 何故なら、彼の想い人が傍にいるからだ。

 想い人を連れて夜の散歩。その事実に善逸は酔いしれていた。

 ほんの少し前であれば、自分にそんな幸福があるなどと信じられなかっただろう。

 実際、善逸と共に蝶屋敷の庭を歩いている少女は、美しかった。

 

 月明かりに輝く長い黒髪に、はっとする程に透き通った肌。

 白面の顔に宝石のような瞳が2つ、整った眉に高めの鼻梁(びりょう)

 背丈は善逸より頭1つ分ほども小柄だが、背筋はぴんと伸びてしっかりとしている。

 まるでこの世のものではないような、どこか人間離れした美しさ。

 どことなくぼんやりとした表情を浮かべているが、それがむしろ彼女を神秘的にさえ見せていた。

 

「あ、見て禰豆子ちゃん。花壇のお花がまだ咲いてるよ。今日は暖かいからかなあ」

「…………」

 

 善逸が指差した花壇を見て、少女がこくんと頷いた。

 ただそれだけのことで。

 

(か、可愛すぎるよ禰豆子ちゃあああああああんっっ!!)

 

 表向き平静を装っているが、善逸の内心は大騒ぎだった。

 

「も、もう少し近くで見てみようか!?」

 

 声がどもりまくっていたが、少女は気にした様子もなかった。

 ただ善逸の方にぼんやりとした目を向けて、こくん、と頷きを返した。

 善逸の心は有頂天である。

 思わず少女の手を引こうとして、しかしその直前に、はっとした顔で。

 

「えっ、あ! ごめんねごめんね違うんだよ禰豆子ちゃん! つい連れていってあげようって、いやそんな勝手に触ったりしないよ!? しないからさ!」

「…………」

「あ、そうだよねお花だよね!? うん見よう見よう近くで一緒に……」

 

 あ、と思った時には、すでに遅かった。

 よほど慌てていたのか足がもつれてしまい、気が付いた時には地面と抱擁していた。

 しばし、静寂。

 先程までの有頂天ぶりはどこへやら、善逸は急速に元気を失った。

 

(どうして俺はいつもこうなんだ)

 

 何をしても上手くいかない。

 たまに上手くいったかと思えば、すぐに舞い上がって失敗する。

 想い人の前で転……膝をつくなど、格好悪いことこの上なかった。

 穴があったら入りたいとはまさにこのことだ。

 いっそこのまま蹲りたいと思ったが、不意に影が差して、顔を上げると禰豆子が覗き込んでいた。

 

「禰豆子ちゃん……」

 

 ゆっくりと差し出された手に、善逸は自分が情けなくなった。

 彼女は何も気にしていないのに、いや気にするような子ではないと知っているのに、何をウジウジとしているのか、と。

 禰豆子に気を遣わせるな。自分をそう叱咤して、善逸は禰豆子の手を取ろうとした。

 

 そして、気付いた。

 

 中庭を、一陣の風が吹き抜けた。その時だ。

 風に乗って、禰豆子の背後にそれはやって来た。

 月夜を背に、長い黒髪をたなびかせながら、片腕を振り上げた女。

 無表情に振り上げられた手には、深緑に輝く日輪刀――――。

 

「禰豆子ちゃんっっ!!」

 

 ――――意外なことに。

 その女性は、善逸が声を上げたことに驚いたようだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 どうして声を上げるのか。

 助けようとした少年――善逸の反応に、瑠衣は困惑した。

 しかし、すでに振り下ろしのモーションに入ってしまっている。

 止めることも出来ず、そのまま刀を振り下ろした。

 

「……!」

 

 頚を狙った一撃は、しかし当たらなかった。

 ()()()

 鬼の背が縮んだ――いや、()()()()()

 少女か童女へ、一瞬にして身体の年齢が若返ったかのようだ。

 

 そのため刀は頚を斬ることなく、空を切った。

 不意打ちだったはずの攻撃は、かわされた。

 善逸の声がなければ、外れるはずのない攻撃だった。

 跳躍の慣性のまま地面を滑り、鬼の姿を目で追った。

 

(口枷……?)

 

 その鬼の少女は、口枷をしていた。

 枷と言っても竹で作られた手製のもので、それほど「枷」という感じはしない。

 しかし鬼が口枷とは、いったいどういうことなのか。

 不意に、鬼の姿が隠れた。

 何故なら、善逸が両手を広げて瑠衣と彼女の間に飛び出してきたからだ。

 

「な、何やってんだああああお前えええええっ!!」

 

 怒鳴られた。

 きょとん、とした表情を浮かべてしまうのも、仕方ないだろう。

 

「お、お前が誰だか知らないけど、美人だからって、禰豆子ちゃんを傷つけようとするなんて許さないぞ!」

 

 なかなか勇ましいことを言う。

 しかし顔色は蒼く、手足はこちらが心配になる程に震えていた。

 余りにもガクガクと震えるものだから、姿がブレて見える程だ。

 いや、震え過ぎだろう。

 

「えっと、大丈夫ですか……?」

 

 思わず、心配してしまった。

 

「いきなり斬りかかられて大丈夫なわけないでしょっ!?」

「いえ、斬りかかったのは貴方じゃなくてそっちの鬼……」

「禰豆子ちゃんに斬りかかったら駄目だろ……!」

 

 ……自分が悪いのだろうか。

 それは、確かにいきなり斬りかかったのは不作法だったかもしれない。

 だが斬りかかったのは鬼で、善逸ではない。

 何ら間違った行為ではないと思うのだが。

 と、瑠衣が色々と考えていると。

 

「――――何をしているのですか」

 

 不意に、言葉をかけられた。

 振り向いてみると、しのぶがそこにいた。

 どこか呆れたような、そんな表情でこちらを見ている。

 それからもう1人、しのぶに良く似た、しのぶより年上らしき女性が1人。

 

 その女性は、車椅子に乗っていた。

 長い黒髪で、蝶の髪飾りをしている。

 こちらも眉を寄せて、瑠衣達を困ったような表情で見つめていた。

 しのぶに車椅子を押されて、夜の散歩、という風体だった。

 

蟲柱(しのぶ)様……」

 

 そしてもう1人の女性のことも、瑠衣は知っていた。

 

「……花柱様」

 

 鬼殺隊・()花柱。

 蟲柱・胡蝶しのぶの実姉。

 胡蝶カナエ。

 彼女は瑠衣に、柔らかく微笑みかけたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 機能回復訓練。

 簡単に言えば、入院中に動くことの少なかった身体を解し、再び任務に就ける状態にするための訓練である。

 もっと簡単に言えば、運動である。

 

「がんばれ!」「がんばれ!」「がんばれ!」

 

 蝶屋敷そばの道場。

 そこに、道場に似つかわしくない少女達の応援の声が響いていた。

 おさげの可愛らしい女の子が3人、道場の中央で駆け回っている2人を応援していた。

 いずれも蝶の髪飾りを着けていて、蝶屋敷に属している少女だとわかる。

 

 入院中に瑠衣も話したことがある。なほ、きよ、すみ、という名前の女の子達だ。

 その傍に、昨日会った少年2人もいた。

 猪頭の少年と、黄色い髪の少年。伊之助と、善逸である。

 そして彼らに見守られながら、道場の中央で走り回っているのが……。

 

「カナヲは知っていますね?」

 

 1人は、やはり蝶の髪飾りを着けた少女だった。

 年は瑠衣より1つか2つ下で、頭の横で一結びにした長い黒髪が目を引いた。

 小さく愛らしい造りの顔に、紫水晶の如き大きな瞳。

 栗花落(つゆり)カナヲ。

 後輩にあたるが、幼い頃から蝶屋敷にいたので、名前はすでに良く通っていた。曰く。

 

(蝶屋敷の天才少女、か)

 

 しのぶの言葉に頷きながら、そんなことを思った。

 天才。

 もちろん、あの時透無一郎ほどではないが、前々から噂にはなっていた。

 曰く、柱の技や呼吸法を見様見真似で体得してしまう天才がいる――――と。

 

 そして、継子(つぐこ)だ。

 蟲柱・胡蝶しのぶの後を継ぐ者として、その名は鬼殺隊に知れ渡っていた。

 話したことはないのでどんな人物なのかはわからないが、実力は確かだ。

 今もかなりの速度で走り回っているが、汗ひとつかいていない。

 

「で、あちらが昨日お話した……」

 

 そのカナヲを相手に機能回復訓練をしている少年。

 こちらはカナヲと違い、汗を散らせて全力で走っているという感じだ。

 赤みがかった黒髪と瞳で、顔立ちにどこかまだ幼さを残している。

 左額に大きな赤い痣があり、初対面ならまず目を引かれるだろうと思った。

 

「炭治郎君、ちょっと良いですか?」

「はい!」

 

 元気の良い返事が返ってきた。

 快活で、それでいて耳障りではない。

 まさに腹の底から声を出している、という風だ。

 目の前までやって来ると、ぴしっ、と背筋を伸ばして。

 

「しのぶさん、こんにちは!」

「はい、こんにちは。今日も元気ですね」

 

 にこりと微笑んで、しのぶは瑠衣の方へ手を向けた。

 

「こちらは煉獄瑠衣さん。柱合会議の時の、炎柱の煉獄槇寿郎さんは覚えていますか? 彼女は彼のご息女です」

 

 紹介されると、炭治郎という少年はじっと瑠衣の目を見つめて来た。

 力強い目だ。そう思った。見つめていると引き込まれそうな気さえする。

 気力が満ちている、とでも言えば良いのだろうか。

 そして不意に、炭治郎が頭を下げて来た。

 

「はじめまして、竈門炭治郎です。よろしくお願いします!」

「……はじめまして」

 

 返礼。正直、あまりない経験だった。

 それでいて、形式だからではなく、本気で挨拶しているのだと言うことが話していてわかる。

 不思議な少年だった。礼儀正しいというのも、少し違うような気もする。

 

「さて」

 

 そんな2人を見て何を思ったのか、ぽん、と手を打って、しのぶが言った。

 

「それじゃあ、炭治郎君。次は彼女と訓練してみましょうか」

「え」

 

 聞いていないんですけど……と言わんばかりの視線をしのぶに向けると、片目を閉じ(ウインクし)て来た。

 上の階級だが、少しだけ張り倒したくなった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 全身訓練――要は鬼ごっこだ。

 瑠衣が鬼役となり、炭治郎がそれを捕まえれば勝ち。ルールは単純だ。

 単純だが、だからこそ差が出やすいとも言える。

 

「……!」

 

 最初の一手。

 炭治郎が飛び出し、瑠衣が後ろに跳んでかわした瞬間だ。

 両者共に、直感した。

 瑠衣の身体と炭治郎の手の間に出来ている、この距離。

 これが縮まることはない、と。

 

(驚いた。この子、常中ができるんだ)

 

 常中とは、全集中の呼吸を四六時中やり続けることで、身体能力を飛躍的に高める技術だ。

 全集中の呼吸は元々身体能力を高めるが、それだけでは一時的な強化に過ぎない。

 極端な話、呼吸をしていない時に鬼の攻撃を受ければ対処できない、ということになる。

 だから全集中の呼吸を四六時中やり続けることによって、身体強化にムラをなくすのだ。

 

 だがこの技術、口で言う程に簡単ではない。

 四六時中というのは、食べる時も眠る時も、ということだ。

 しかも生半可な鍛え方では、全集中の呼吸を10分続けるだけで心肺が限界に達する。

 鬼殺隊でも、柱を除けばこの技術を会得している隊士は意外と少ない。

 瑠衣が知っているだけでも、1割いるかいないかだろう。

 

「くっ……!」

 

 もう一歩、炭治郎が跳んで来た。

 瑠衣は左に跳んでかわす。すると、すぐに炭治郎も追いかけて来た。

 瑠衣の軸足が外に向いた瞬間にはすでに腕が反応していた。反射神経が良い。

 

 そしてその腕から、瑠衣はさらに左に跳んで逃げていく。

 炭治郎を中心として、瑠衣はその周囲を左へ左へと回り続ける形だ。

 炭治郎は必死に瑠衣を追いかけるのだが、目や腕はともかく、身体の全部が瑠衣の移動について来れていない。

 

(……覚えたてかな)

 

 炭治郎の常中は、どこか不安定だった。

 おそらく常中を体得したばかりで、()()()コツを掴み切れていないのだろう。

 上手くいっている時とそうでない時で、動きの善し悪しがモロに表れていた。

 

(蟲柱様は、どういうつもりで……?)

 

 ちら、と、他の面々と並んで観戦しているしのぶの方に視線をやった。

 しのぶは相変わらず微笑むばかりで、何かを示すことはなかった。

 そんなことを思っていると、ずだんっ、という大きな音がした。

 炭治郎が、回転について来れずに転んだ音だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 いけない、と炭治郎は思った。

 瑠衣の動きを目では追えているが、身体が、特に足がついて行けていない。

 強かに打ち付けた鼻先を撫でながら、炭治郎は顔を上げた。

 

「大丈夫ですか?」

「あ……」

 

 その眼前に、瑠衣が手を差し出してきた。

 心配の()()を感じて、炭治郎は少しその手を取った。

 そして、瑠衣の掌の感触に内心で少し驚いた。

 

(……ほとんど消えかかってるけど、怪我の痕が一杯ある……)

 

 女性らしい柔らかさと同時に、皮膚の僅かな感触の違いを感じた。

 あの、と声を上げると、不思議そうに小さく首を傾げて来た。

 

「もう一度、お願いします!」

「……わかりました。良いですよ」

 

 ちらりとしのぶの方を窺い見て、瑠衣は了承した。

 なお、しのぶは両手で丸の形を作っていた。

 あれで意外と茶目っ気があるのだ。

 とにかく、もう一度だ。

 

 瑠衣の前に立って、炭治郎は深呼吸をした。

 さっきの一回だけで、瑠衣が自分よりもずっと先にいることは良くわかった。

 いわば練度の()()が違う。

 どちらかと言うと、柱の方に近い匂いだ。

 

「――――始め!」

 

 しのぶの開始の合図と同時に、炭治郎は飛び出した。

 手を伸ばす。

 しかし、届かない。

 ちょうど一歩分の距離を残して、瑠衣が後ろに跳んで逃げてしまう。

 

(違う、これじゃ駄目だ!)

 

 同じやり方をするな、と自分を叱咤した。

 もう一度跳ぶと、瑠衣は右か左に円を描くように避けていくだろう。

 たぶん、わざとそうしているか、それで十分だと思われている。

 それを失礼だとは思わない。こちらは胸を借りている立場なのだ。

 

 重要なのは、同じ失敗を繰り返さないこと。考えることだ。

 自分は瑠衣より遅い。直線ならともかく、曲がりが入ると追いつけない。

 跳ぶ。手を伸ばす。来た。瑠衣が左へ左へと逃げていく。

 それを追いかければ、炭治郎はまたぐるぐる振り回されて、最後には転ぶ。

 

(考えろ……!)

 

 つい手を伸ばしてしまい、目で瑠衣の身体を追ってしまう。

 なまじ視界の端に瑠衣の姿を捉えてしまうからだ。

 考えろ。自分には、考えることしかできない。そう念じて考え続けた。

 次の瞬間、足がもつれかけた。

 

 やばい、と思った。

 追いつけないものを追いかけて、すでに足が限界に来ている。

 瑠衣は左へ左へと避け続けながら、徐々に速度を上げているのだ。

 だから、気付かない内に足がもつれる。

 

「え……」

 

 足がもつれるのを耐えた時だ。

 瑠衣の姿が視界の端からも消えた。炭治郎が止まったから当然だ。

 問題は、瑠衣がその場で止まったことだ。ちょうど、炭治郎の真後ろあたり。

 炭治郎が体勢を立て直して、どちらから追って来るか見ていたのだろう。

 

「…………」

 

 再開する。また左へ左への追いかけっこだ。

 やはり瑠衣は、炭治郎の視界の端から消えることがない。

 一定の速度と距離を維持している。ぐるぐると、だ。

 そこまで察した瞬間、炭治郎は思い切った。

 

(追い……!)

 

 ずだんっ、と床を強く踏んで、自分の身体を止める。

 

(……かけるな!)

 

 瑠衣の姿が、視界の端から消える。

 戸惑った匂い。真後ろから感じる。

 

(跳べっ!!)

 

 そのまま、()()()()()

 背面跳び、とでも言おうか。背中を床に向けたまま跳躍した。

 逆さまの視界で、瑠衣の驚いた顔が見えた。

 動きを止めている。距離が縮まる。チャンスだ。

 

(触……)

 

 触れる、という瞬間だ。炭治郎の顔に影が差した。

 それは、高く跳躍した瑠衣の影だった。

 折り畳んだ足が見えて、ああ、と思った。

 上に跳ばれることを考えていなかった、と。

 

「ぐっ……!」

 

 空中で、それでも無理やりに手を伸ばした。

 咄嗟に跳んだから、あるいは高さが足りないかもしれない。

 しかしこの時点で、炭治郎はもう1つのことを失念していた。

 それは、下――炭治郎の方を見た瑠衣が。

 

「――――危ない!」

 

 と、叫んだ時点で炭治郎も気が付いたのだが。

 その時には、彼は床に背中と後頭部を強かに打ち付けてしまっていた。

 それは、目から星が飛び出るような痛さだったらしい。

 なお、長男だから我慢できたが次男だったら我慢できなかった、らしい。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「どうでしたか?」

 

 しのぶにそう問われて、瑠衣は曖昧な表情を浮かべた。

 道場の真ん中では、炭治郎の周りにわらわらと人だかりが出来ている。

 心配しているなほ達に、炭治郎が無事を伝えていた。

 例外はしのぶと、彼女の傍に控えているカナヲくらいだろう。

 

「いきなりだったのはすみません。ただ、言葉で紹介するよりずっと良いと思ったんです」

 

 昨夜、瑠衣が斬りかけた鬼は名前を竈門禰豆子という。

 今しがた瑠衣と鬼ごっこをした、炭治郎の実の妹だった。

 鬼の妹。

 鬼を連れた隊士がいるというのは聞いていたが、実際に見たのは初めてだった。

 まさか、何の監視もなく――善逸は監視に数えられない――散歩しているとは夢にも思わなかった。

 

「炭治郎君は、どうでしたか?」

「……そうですね」

 

 ひたむきだ。そして、性根が真っ直ぐでもある。

 それは、向き合ってみて良くわかった。

 だが、信じ難くもあった。

 

「あの……竈門君の妹さんは、本当に?」

「ええ、鬼です。昨夜に見た通り。そして……そして鬼になってから2年間、人を襲っていないそうです」

 

 鬼にされた者は、まず強い飢餓症状に襲われる。

 そして近くにいる人間を、喰う。それが家族や友人であることも少なくない。

 隊士の中には、まさに家族や友人が鬼にされた者もいるのだ。

 鬼にされたら、頚を斬るしかない。

 

 だから、2年間も人を喰わずにいる鬼というのは前代未聞だった。

 あり得ないと言って良い。

 しかし実際に人を喰わない鬼が存在し、その兄が隊士として認められている。

 そして、炭治郎には一切の(よこし)まさが感じられない。

 

「というより、不死川さんから聞いていませんでしたか? 煉獄さんとか……」

「師範からは何も。父さ……炎柱様からは、少しだけ。ただ、その、中庭を散歩しているとは思わなくて」

「ああ、それはお館様の意向で……なるべく自由にさせておくように、と」

 

 鬼を、鬼殺隊の本部で自由にさせる。

 もちろん昼間は出歩けないだろうが、それにしても解せない対応ではあった。

 しかもしのぶの話では、柱と元柱の2人が「もしもの際には腹を切って詫びる」とまで誓約したとか。

 柱以外の隊士に情報が公開されていないのは、混乱を避けるためだろうが……。

 

(お館様はいったい、どういうつもりで……?)

 

 首を傾げていると、道場に誰かが入って来るのが見えた。

 膝にいくつかの水筒と手拭いを抱えたその女性は、車椅子で、少し苦労しているように見えた。

 

「カナヲ、姉さんを手伝ってあげてくれる?」

「はい」

 

 それまで一言も話さなかったカナヲが、静かにカナエの下に向かった。

 

「あれで、かなり快復したんですよ」

 

 カナヲの背中を見送りながら、しのぶが言った。

 

「足は、多分もう。でも、生きていてくれるだけで良い……」

 

 遠い目をしていた。

 ここではないどこかを見ているような、そんな目だ。

 しかし次の瞬間には、元通りの微笑みを浮かべていて。

 

「煉獄さんには、本当に感謝しているんですよ」

 

 瑠衣には、今のしのぶに何かを言うことは出来なかった。

 ただ、知っていた。

 父である煉獄槇寿郎が、(すんで)のところでカナエの命を鬼から救ったこと。

 しかし深い傷を負い、花柱を辞したこと。車椅子での生活を余儀なくされたこと。

 そして。

 

「本当に」

 

 瑠衣は、何も言うことが出来なかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 善逸は、複雑な気分だった。

 まず昨夜のこと。

 禰豆子に斬りかかったことは許せない――一方で鬼殺隊士なら無理もないとも理解している――が、どう考えても自分がどうこうできる相手ではなかったので、挑みかからなくて良かったとも思った。

 炭治郎が無理なら自分も無理だ。確実に。絶対に。

 

 それに昨日はそれどころではなかったし薄暗くて良く見えなかったが、こうして見るとかなり整った顔立ちをして……いやいやいや。

 自分は禰豆子一筋である。あるはずだ。

 ぶんぶん、と首を振る善逸に、伊之助が訝しそうな顔を向けた。

 

「紋壱お前、なに変な顔をしてんだ?」

「善逸だよ。いい加減に人の名前くらい覚えろよ、お前……」

 

 山育ち、というか野生児と言った方が良いか、伊之助は人の名前を覚えるのが苦手だ。

 炭治郎のことですら権八郎とか読んでいる。どんなだよ。

 

「炭治郎、大丈夫か?」

「ああ、大丈夫だ。ちょっとこぶが出来たかもしれないけど……」

 

 なほ達にちやほやされているところは気に入らないが、そこは今はぐっと堪えて、善逸は炭治郎の心配をした。

 炭治郎は後頭部を撫でていたが、本人が言う通り、大したことはなさそうだった。

 

「で、どうだった?」

 

 奇しくも、しのぶと同じような問いかけだった。

 どう、というのは、瑠衣のことだ。

 実は善逸は、昨夜のことを炭治郎に話していない。

 しのぶに口止めされたというのもあるが、炭治郎に余計な心配をかけさせたくなかったのだ。

 

 禰豆子も、たぶんそれは望んでいなかったと思う。

 それにもしもの時は自分が命がけで禰豆子を守れば良い、とも思っていた。

 絶対に敵わないだろうが、それでも、それについては「それでも」だ。

 ただ、炭治郎にはバレているだろうな、とも思っていた。

 炭治郎は鼻が良いし、()()だから、と。

 

「そうだなあ」

 

 そして、善逸の心配は杞憂だったようで。

 

「優しい人だよ」

 

 端的に、炭治郎はそう言った。

 そして炭治郎は、善逸に笑いかけた。

 

「ありがとう、善逸。心配してくれたんだよな」

 

 これだ、と思った。

 この炭治郎という少年は、俗っぽい言い方をすれば「良いやつ」だ。

 良いやつなのだが、いかんせん性根が真っ直ぐに過ぎて、言わなくて良いことを言ったりするのだ。

 普通、こういう場合は何も言わないものだろうに。

 こっちが恥ずかしいじゃないか、と。

 

「優しくて、努力を続けて来た人だと思う。ただ……」

「ただ?」

「……いや、何でもない。とにかく、悪い人じゃないと思う。それに、とても勉強になった」

「お前は本当にそればっかりだな」

 

 呆れたように善逸が言うと、炭治郎は照れくさそうに笑った。

 善逸はもう一言二言なにか喋ろうとしたのだが、その時、カナエとカナヲがやって来た。

 

「手拭いと水」

 

 カナヲの言葉は簡素なものだったが。

 

「う、うわああありがとおおおぉございます!!」

 

 善逸はこの瞬間、炭治郎のことは忘れた。

 カナエのたおやかな微笑みを前にして、さらに我を忘れた。

 絶世の美女と美少女を前にして、しかも手拭いを貰う際にぎゅっと手も握れて――これについては、なほ達の厳しい目に晒されたが――一気に上機嫌である。

 だから、炭治郎の「ただ」の先を聞くことはなかった。

 

 そんな善逸をよそに、炭治郎はしのぶと話す瑠衣の姿を見つめていた。

 炭治郎は、嗅覚が人並外れて優れている。

 匂いで相手の人柄や虚実を判別することができる程だ。

 だから炭治郎は、瑠衣のことを「良い人」だと判断することが出来た。

 善逸が言わなかったことも察しつつ、だ。

 ただ。

 

(何だろう。ただ……)

 

 ――――ただ、何かに苦しんでる。

 そう、思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 面倒なことになった、と不死川は思った。

 お館様――産屋敷に屋敷に来るように、との召喚を受けた時である。

 もちろん不死川はすぐに産屋敷邸へ向かい、部屋に通された。

 そして話を聞いて、やはり「面倒なことになった」と感じた。

 

「どう思うかな。槇寿郎、実弥」

 

 不死川の他に、槇寿郎も呼ばれていた。悲鳴嶼もいる。

 娘2人に支えられるようにして座る産屋敷は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。

 しかし不死川と槇寿郎に話した内容は、不死川としても予想外の内容だった。

 

「瑠衣を柱に加えるべきと思うかい?」

 

 煉獄瑠衣を、柱の階級に引き上げるべきかどうか。

 もちろん、柱の定員は埋まっている。

 しかし槇寿郎は杏寿郎に炎柱を継がせるために、柱を辞すことになる。

 つまり、一時的にしろ柱に空席が生じることになる。

 

 杏寿郎が十二鬼月に遭遇するまでその空席を維持すべきか、というのは、意外と難しい。

 もちろん煉獄家の事実上の()()()なのだが、瑠衣もまた煉獄家の人間だった。

 風柱は不死川だが、同じ呼吸の剣士が同時に柱になってはならないという明確な決まりはない。

 要するに、杏寿郎ではなく、まがりなりにも十二鬼月の頚を斬った瑠衣を先に柱に加えるべきなのではないか、という声が鬼殺隊内部で上がっているのである。

 

「瑠衣のことを一番良く知っている2人の意見を聞きたいんだ」

 

 本当に面倒な議題だ。

 ちら、と不死川は槇寿郎の横顔を窺った。

 蝋燭の灯りに照らされた槇寿郎の顔に表情はなく、さざ波一つ見えなかった。

 槇寿郎は畳に手をつき、深く頭を下ろしながら。

 

「畏れながら……」

 

 合わせて、不死川も頭を垂れた。

 そんな中、槇寿郎の声が耳に届いてくる。

 

「畏れながら、その議には賛成致しかねます」

「どうしてそう思うのかな? 下弦の頸を斬り、上弦から生き残るというのは並の剣士(こども)には出来ないことだと思うけれど」

「それは……」

 

 槇寿郎は、反対した。

 まず下弦との戦いは、鴉の報告によれば、お世辞にも他の隊士と連携したとは言い難かった。

 隊士をまとめ導く指揮官として、柱として不適切であること。

 そして上弦から生き残ったのは、蛇柱・伊黒と杏寿郎の介入がなければ難しかったこと。

 それが反対の理由だった。

 

「それに(きのえ)の階級にない者を一足飛びに柱に昇らせることは、いらぬ考えを隊内に呼び起こしましょう。ここは賢明なご判断をお願い申し上げます」

「ふむ。そうだね……」

 

 反対の理由としては、無理ではない。

 不死川はそう思った。

 しかし何故、瑠衣を柱になどという話が急に出て来たのか。

 そこだけが、わからなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「煉獄殿の立場は、非常に微妙なのだ」

 

 会合の最中は一言も喋らなかった悲鳴嶼だが、部屋の外に出ると、開口一番にそんなことを言った。

 もちろん、槇寿郎が産屋敷邸を辞してからの会話である。

 その言葉の意味するところを、不死川は推し量ることが出来なかった。

 槇寿郎の立場が微妙とは、どういうことか。

 

 煉獄槇寿郎は、鬼殺隊を代表する鬼狩りである。

 柱の中の柱、と呼ぶ者もいる。不死川もその評価には異論がなかった。

 もし仮に柱に序列があるとすれば、槇寿郎は間違いなく9人の柱の筆頭だった。

 この悲鳴嶼でさえ、槇寿郎を前にすれば一歩を譲るだろう。

 

「煉獄殿は、多くの隊士に慕われている……」

「はあ、そうですね」

「……お館様と比べても、遜色のない程に」

 

 そこまで言われて、不死川も察した。

 悲鳴嶼は仏僧がそうするように両手を合わせて、その手の間で数珠が音を立てた。

 光のない悲鳴嶼の目から涙が流れ――涙もろい性格なので、これは別に珍しくないが――頬を滴り落ちていった。

 

「煉獄殿は非の打ち所がない。実力も、家柄も。人格も実績もだ」

「悲鳴嶼さんだって、負けてはないでしょう」

「ふふ……そう言って貰えるのは有難いが、私は人に好かれるような性分ではない」

「そんなことは……」

 

 盲目。額を真横一文字に裂く大きな傷跡。巨漢。そして念仏。

 深く付き合えば悲鳴嶼という人間に誰もが惹かれる。だが人間、なかなかそうはなれない。

 悲鳴嶼と槇寿郎が並べば、どうしてもそうなる。

 

「柱の中には、煉獄殿ゆかりの者も多い」

 

 伊黒と甘露寺だ。そしてしのぶも槇寿郎には大恩がある。

 不死川もまた、娘の師だ。槇寿郎の縁者と見ることも出来るだろう。

 要するに、派閥だ。

 煉獄派とでもいうべきか、あるいは()産屋敷派というべきか……。

 

 不死川にも覚えがある。

 何もせず奥に座しているだけの「お館様」に、反発する層がいるのだ。

 不死川も一度、食ってかかったことがある。今は反省しているが。

 だが産屋敷と直接会ったことのない隊士の中には、そういう人間もいるのだ。

 無理もないことだ、とは思う。

 そこまで考えて、不死川ははっとした。

 

「まさか、さっきの話も……?」

「無関係ではない」

 

 派閥争い、に近い。

 産屋敷に反発する層が、槇寿郎を期待の眼差しで見ているのだ。

 槇寿郎自身が関与していないから、明確な抗争にはなっていない。

 しかし、()()()()()()()

 

「だから煉獄殿が炎柱を辞すことにした理由の1つには、それもあった。身を引くことで災いを除こうとしたのだ。しかし……」

 

 ああ、と不死川は頭を掻いた。

 面倒だ。面倒過ぎる。

 自分はただ鬼を斬りたい。鬼を滅ぼしたいだけなのに。

 どうしてこう、人間というのは無駄なことをしたがるのだろうか。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――竈門兄妹と出会ってから、10日余り後。

 瑠衣は任務に復帰し、指令を受けて鬼狩りを遂行していた。

 

「ギャアアアアアッ!!」

 

 頚を()ねられた鬼が、醜く断末魔を上げる。

 宙を舞うその頚に、瑠衣は日輪刀を閃かせた。

 切っ先が口先から頸椎の辺りまで貫き、鬼の断末魔を止める。

 次の瞬間には、地面に倒れ伏した鬼の身体がボロボロと塵となって消えていった。

 

 日輪刀に貫かれていた鬼の頚も、同じように崩れていく。

 恨みがましい視線に鼻を鳴らして、瑠衣は刀を横に振った。

 鬼の血と塵を払い、刀を納める。

 そうしていると、横からぱちぱちと手を打つ音が聞こえて来た。

 

「お見事ね、惚れ惚れしちゃうわぁ」

「いえ、そんな……」

 

 榛名だった。今日の任務は、彼女との共同任務だったのだ。

 その任務も、鬼を斬ったことで終わった。

 後は帰還するなり、鴉が次の任務を運んでくればそちらに向かうことになるだろう。

 

(うーん……)

 

 改めて、瑠衣は榛名の日輪刀を見た。

 薄い青色。水の呼吸の適性がある証だ。

 厳密には榛名の呼吸は「(から)の呼吸」、水の呼吸の派生だ。

 実際、何度か見た戦闘や訓練でも榛名はその呼吸法を用いていた。

 

「どうかしたかしらぁ?」

「ああ、いえ。榛名さんは普段は炎の呼吸は使わないのですね」

「ええ?」

 

 下弦の肆との戦いの最中、榛名は確かに炎の呼吸を使っていた。

 それ以降は上弦の肆との戦いも含めて、ずっと空の呼吸である。

 炎と、水の派生。全く違う呼吸法で、珍しい剣士もいるものだと思った。

 ただどういうわけか、当の榛名はきょとんとした表情を浮かべていた。

 

「わたし、炎の呼吸なんて使えないわぁ」

「え」

「刀だってほら、青いしぃ」

「えええ……」

 

 いや、使ってたじゃないですか。

 そう言いたかったが、榛名の目が余りにも無垢だったため、言えなかった。

 もしや煉獄家に生まれながら風の呼吸を使う瑠衣を気遣って、というわけでもなさそうだ。

 

「変な瑠衣ちゃんねぇ」

「ちゃんはやめてください」

 

 本人が違うと言っているのだから、深入りすべきではない。

 そうは思うのだが、炎の呼吸である。

 無視しろというのも、難しい話ではあった。

 

「ガアア――――ッ!!」

 

 思い悩んでいると、頭上で鴉の鳴き声がした。

 鎹鴉。長治郎だ。

 

「任務――――ッ。任務ッ、新タナ任務デアルッ。瑠衣、榛名ァ!」

「あら、わたしもなのぉ?」

「続け様の共同任務は珍しいですね」

「また一緒で嬉しいわぁ」

 

 手を打って喜んで見せる榛名に、瑠衣も小さく笑った。

 榛名は素直な性格なので、瑠衣も付き合いやすかった。

 

「汽車ニ乗レェッ。汽車ァッ!」

「汽車?」

 

 汽車、鉄道である。

 もちろん移動手段として使ったことはあるが、徒歩が基本の鬼殺隊士としては、これも珍しい。

 

「乗客ガ消エル汽車ニ乗リ、鬼ノ痕跡ヲ探セッ。探セッ。探セェッ!!」

 

 しかも移動手段ではなく、汽車そのものが任務の場所と来た。

 乗客が消える汽車、か。

 無辜(むこ)の民に危害を加えるのであれば、ただちに滅さなければならない。

 それが、鬼狩りだ。

 

「行きましょうか」

「はぁい」

 

 腰の鞘に刀を納めた榛名が、機嫌良さそうに鼻歌など歌いながら、歩き始める。

 その横顔を見つめながら、瑠衣も歩き始めた。

 お喋り好きな榛名は言葉が尽きるということがないから、どうやって返事を返そうかと、そんなことを思っていた。

 

 そしてもう1つ。先程は長治郎が入ってきて聞きそびれてしまったことを考えていた。

 それは、榛名の背中の日輪刀のことだ。

 呼吸法と同じく、榛名は普段は腰の日輪刀を使っている。背中のは二振り目ということだ。

 使われることのない、二振り目の日輪刀。

 あれはいったい、何のためなのだろうか、と……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 草履の履き心地を確かめて、杏寿郎は立ち上がった。

 煉獄邸の玄関である。

 隊服姿の彼はうむと頷くと、後ろを振り向いた。

 

「では、行ってくる!」

「兄上、ご武運を」

「うむ!」

 

 後は弟の千寿郎から刀を受け取り、出立するだけだ。

 しかし千寿郎は刀を持ったまま、俯いていた。

 不思議に思った。

 今まで何度もこうして見送って貰ったが、こんなことは初めてだった。

 

「どうした、千寿郎」

「いえ……その……」

 

 急かしはしなかった。

 長男ゆえの感覚とでも言おうか、こういう時に急かすのはかえって良くないのだ。

 だから杏寿郎は、弟が話すのを待った。

 元より千寿郎が聡明な子だと知っているので、理由もなしに自分を困らせることはないと信じているからだ。

 

 つまりこれは、千寿郎にとって何らかの理由があることなのだ。

 だから杏寿郎は兄として、千寿郎が話し始めるのを待った。

 そうしていると、やがて千寿郎も意を決したように口を開いた。

 

「すみません……その。何だか、胸騒ぎがするんです……」

 

 胸騒ぎ。

 要は不安ということだろう。

 出発に際して弟に不安を与えてしまうとは、兄として不甲斐なし、と杏寿郎は思った。

 杏寿郎は千寿郎の肩に手を置くと、いつものように快活な笑顔を浮かべて。

 

「心配するな千寿郎! 兄は何があろうとも帰って来る!」

 

 鬼狩りだ。何があるかわからない。

 次の任務で生きて帰れる保証など、どこにもありはしない。

 現に直近の任務では、瑠衣があわや命を落としかけたところだ。

 だから、千寿郎の不安は何ら根拠のないものではない。

 

「いつも通り、美味しいさつま芋を用意して待っていてくれ」

「兄上……」

「焼き上がる頃には、俺は帰って来ている!」

「それは無理だと思います」

 

 むう、難しいな!

 そう思ったが、千寿郎の不安はいくらか薄れたようだった。

 笑顔で差し出された愛用の日輪刀を、力強く握った。

 そしてもう片方の手で、千寿郎の頭を撫でる。

 千寿郎はくすぐったそうにそれを受けた。

 

「では、行ってくる!」

「はい! さつま芋をたくさん買っておきます!」

「うむ、楽しみだ!」

 

 千寿郎の見送りを受けて、外へ出る。

 透き通るような青空と、陽光を降り注がせる太陽に目を細めた。

 一点の曇りもない。

 その温かさに、杏寿郎は笑みを浮かべた。

 

「前途洋々だ!」

 

 曇りなき青空の下、杏寿郎は歩き始めた。

 行き先は、夜だ。

 夜の中に、杏寿郎は進んでいくのだった。




最後までお読み頂きありがとうございます。
炭治郎と善逸のキャラクターが意外と難しい……。

というわけで、原作でいうと6巻まで消化。
いよいよ7巻。映画よりも先に入れて良かったです。
映画が楽しみなのですが、何分、こんなご時世ですからどうなることやら…。
そして私が描きたいシーンの1つがこの7巻でした。
まあ、だからこそ煉獄家のキャラクターを主人公にしたわけですが。

いつもなら妹主人公候補を続けるところですが、そればかりするのも芸がないかなあ、とも思います。
そろそろまた何か募集してみるかなあ…サイコロステーキ先輩みたくやられ役とか…(え)

それでは、また次回。


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第10話:「無限列車」

祝・原作完結!


 造り物の笑顔。

 凍える空気。

 その余りの冷たさに喉と肺が潰されて、呼吸が止まる感覚。

 そして、それを上回る()()――――。

 

「…………」

 

 目を開けると夕焼けの光が顔に差していて、眩しそうに目を(しばたた)かせた。

 病棟の薬品室。清潔そうな空気。ただ、仄かに医薬品の匂いを感じる。

 薬品棚に囲まれたその空間の中で、窓から見える外の景色だけが、窓枠で切り取られた絵画のように浮かび上がって見えた。

 

 どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 額に腕を当てて、車椅子の背に身体を押し付けた。

 ぎし、と車椅子が音を立てる。

 そうやってから、カナエは大きく息を吐いた。

 

「……姉さん?」

 

 声がした。幼い頃から聞き慣れた声だ。

 親しげで、一方でどこか不安の色がある。そんな声。

 不意に、膝に重みが――重みと言える程に重いわけではないが――来た。

 視線を下に落とすと、蝶の髪飾りが目に入った。

 

「また、あの時の夢?」

 

 妹が、しのぶがカナエの膝に顔を(うず)めていた。

 頭の後ろに着けた蝶の髪飾りが、こちらを窺うように微かに揺れている。

 小さな嘆息の後、カナエは手を伸ばした。

 しのぶの髪に触れて、()くように撫でた。

 

「大丈夫よ、姉さん。姉さんは……姉さんは、私が絶対に守るから」

 

 慰めている側と、慰められている側。

 これではどちらがどちらなのかわからない、と、カナエは思った。

 

(もしかしたら私は、あの時に死ぬべきだったのかもしれない)

 

 酷いとは思いつつも、そう考えてしまうことがある。

 中途半端に生き残りなどするから、どうしても歪になってしまう。

 家族を鬼に殺されて、さらに唯一の肉親を失いかけて、歪にならない方がおかしい。

 

「…………」

 

 不意に、部屋の扉が僅かに開いていることに気付いた。

 しのぶが入って来る時に、閉め損ねたのだろう。

 ただそこに、見覚えのある羽織の端が見えた。

 硝子玉のような紫の瞳が、じっとこちらを窺っていた。

 嘆息がひとつ、形の良い唇から零れた。

 

 窓の外に目をやると、夕焼けの赤が消えて、夜闇の黒に塗り潰されようとしていた。

 じきに、夜になるだろう。

 夜になると、()()鬼の嗤う声が聞こえるような気がする。

 その嗤い声は、あの日からカナエの頭から離れることがなかった。

 

「……ねえさん……」

 

 また、眠れない夜が始まる。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鉄道は、文明開化の象徴だ。

 長く続いた徳川の時代が終わり、激動の明治を経て、現在(大正)では日本中に網の目のように鉄道が敷設されて、広く人々に受け入れられている。

 今や鉄道は、多くの人々にとってなくてはならない移動手段となっていた。

 

「えーと、私達が乗る汽車は……」

 

 駅は、多くの人で賑わっていた。

 汽車の乗る者、見送りに来た者、あるいは迎えに来た者。

 肩が触れる程とまでは言わないが、不用意に走ると誰かにぶつかる程度には混んでいる。

 鎹鴉の長治郎が持ってきてくれた切符を手に、瑠衣はホームを歩いていた。

 

 汽車の名前は、無限列車というらしい。

 何とも奇妙な名前だが、都会ではそういうものが流行っているのかもしれない。

 もしかしたら、その内に建物や子供にとんでもない名前をつける人間も出てくるのかもしれない。

 そんなことを考えつつ歩いていると、目的の汽車を見つけたのか。

 

「ああ、榛名さん。ありましたよ、あれが……って、あれ? 榛名さん、どこですか?」

「ええぇ、そんなぁ」

「榛名さん?」

 

 先程まで隣を歩いていたはずだが、いつの間にか、別の場所にいた。

 きょろきょろとあたりを見渡していると声が聞こえて、幸いすぐに見つけることが出来た。

 ただ、何故かしょんぼりした様子だった。

 

「どうかしたんですか?」

「うう、聞いてよぉ瑠衣ちゃん。お弁当屋さんを見つけたんだけど、売り切れだってぇ」

「な、なるほど」

「ついさっき、全部買って行ったお客さんがいたって。酷い話だわぁ」

「団体客か何かだったんでしょうか」

 

 仮に1人で買い占めたのだとしたら、非常識というか健啖が過ぎるというか。

 めそめそと落ち込む榛名を慰めていると、笛の音が聞こえた。

 そう離れていない距離で聞こえて来たので、少し驚いてしまった。

 

「刀を持っているぞ!」「警官だ。警官を呼べ!」

 

 何しろ、刀という単語が聞こえて来たのだ。

 現在は廃刀令の時代。これだけの人の中を、刀を持って歩くことは出来ない。

 当然、刀は隠している。だから見つかったのかと思ったが、どうやら違うらしかった。

 騒がしさは少しずつ離れていって、やがて聞こえなくなった。

 

「何だったんでしょう……?」

「さあ、他に鬼殺隊の誰かがいたのかしらぁ」

「隊士が刀を見せびらかして歩いているわけないじゃないですか」

「まあ、そうよねぇ」

 

 今時、鬼殺隊士以外で刀を持ち歩くのは、よほどの変人だけだろう。

 何にせよ、関わらない方が良い。

 瑠衣は榛名を連れて、そそくさと列車に乗り込んだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 酷い目に合った。

 何とか列車に乗り込んだ後、善逸は改めてそう思った。

 まさか、あんな騒ぎになるとは思わなかった。

 いや、この2人と一緒なら想定しておいて然るべきだったのかもしれない。

 

「がははははっ。こいつ馬鹿だぜ。腹の中に入られても気が付いてねえ! このままぶちのめしてやるぜ!」

「いや伊之助、俺達を迎え入れてくれたのかもしれない。いきなり攻撃するのは良くないと思う」

 

 これである。

 伊之助は列車を「この土地(バケモノか)の主(何か)」と認識しているし、炭治郎は列車自体が初めてだった。

 要するに、ドがつく程の――善逸もそれほど都会の出身ではないが、2人よりは世の中を知っている――田舎者なのだった。

 野生児の伊之助はともかく、炭治郎が列車すら知らないのは全くの誤算だった。

 

「それにしても、さっきはどうして警察を呼ばれてしまったんだろう」

「そりゃあ、刀を持ってたからだろ」

「鬼殺隊なのに?」

「あー……鬼殺隊(俺達)は政府公認の組織じゃないからな」

 

 炭治郎も廃刀令については何となく知っているが、鬼殺隊の中にいると、隊士は世間に帯刀を認められているような感覚になってしまうのだろう。

 善逸も、その気持ちはわからなくもなかった。

 何しろ死ぬような思いで訓練をして、さらに死にそうになりながら鬼を狩り、人々を守っているのだ。

 

 しかし、それでも鬼殺隊は政府非公認の組織だ。

 一般人に鬼の存在を語ったところで理解されないだろうし、政府公認となってしまうと呼吸法や隊士が政治に利用されてしまう可能性もある。

 世の人々の混乱を防ぎ、剣士達を守るという意味でも、非公認でいた方が良いということだ。

 

「ところで、お前が会いたがってる……煉獄さんだっけ。本当にこの列車に乗ってるのか?」

「ああ、匂いがするから間違いない。俺は鼻が利くから」

 

 実をいうと、善逸は今、任務を受けていない。炭治郎も伊之助もだ。

 ただ炭治郎が炎の呼吸について聞きたいことがあると言うので、ついて来ただけだ。

 しのぶに相談したらしいのだが、どうも炭治郎の質問は炎の呼吸の核心に触れるようなことらしく、並の使い手では駄目らしい。

 炎の呼吸を極めた者――鬼殺隊においては、煉獄槇寿郎と杏寿郎の父子しかいない。

 

 だが、炭治郎には2人に対するツテが何もなかった。

 禰豆子に関する裁判の時、槇寿郎の顔を見たのが全てだった。

 まさかその程度の関りで「どうも」と敷居を跨ぐわけにもいかない。

 そこで出たのが、先日訓練で会った瑠衣に紹介を頼むことだった。

 正直、善逸は気が進まなかったが、炭治郎の意思は固かった。

 

(話がこじれないと良いけど……)

 

 と、善逸が一抹の不安を感じた時だ。

 

「うまい! うまい! うまい!」

 

 山積みの弁当を食べている、派手な髪色の男がいた。

 ――――うわあ、変な奴がいる。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 この世は、勝利こそが全てだ。

 勝てば全てを得て、負ければ全てを失う。

 それがこの世の真理だと、禊はそう思っていた。

 

(やっと身体がまともに動くようになって来たわね)

 

 掌を開閉させながら、禊は自分の身体の調子を確認していた。

 蝶屋敷の病棟、その寝台の上で上半身を起こしながらである。

 左右の寝台はすでに空になっており、榛名と柚羽がすでに退院していることがわかった。

 ちなみに2人と瑠衣が任務や退院の挨拶に来た際、先に退院される屈辱に禊が震えていたことを瑠衣達は知らない。

 

 とは言え、上弦の肆との戦闘で受けたダメージはほとんど癒えた。

 程なくして、禊も退院して任務に復帰することになるだろう。

 禊は寝台から降りると、窓に近付き、開けた。

 もちろん、他に入院している隊士に許可を求めたりはしない。そもそも寝ている。

 

「ここにいると、苛々して仕方がないわ」

 

 瑠衣達もそうだが、他の隊士も似たようなものだ。

 しのぶを始めとする蝶屋敷の人間は、負傷した隊士に分け隔てなく労わってくれる。

 入院している隊士も、より負傷の重い隊士を励ましたりする。

 榛名や柚羽のように、何かにつけて絡んで来る人間もいる。

 

 まるで、ぬるま湯の中にいるような感覚だ。

 普通の人間ならそれで癒されたり喜んだりするのだろうが、禊は違った。

 まともな感性の人間が、自らの呼吸を「(あざむき)の呼吸」などと称したりはしない。

 呼吸の名前だけで、禊の性質が良くわかる。

 

「こんな温い空気の中にいたら、そりゃあ弱っちくなっていくわよね」

 

 瑠衣は上弦の鬼から生き残っただけで持て囃されることを憂いていたが、禊も同じだった。

 違う点があるとすれば、瑠衣は自分の不甲斐なさに憤っていて、禊は周囲の情けなさに苛立っている、ということだった。

 屈辱と言っても良い。

 勝利こそが全てと断ずる禊にとって、敗北を褒められることは屈辱以外の何ものでもなかった。

 

「……嫌な風ね」

 

 外からの風が、禊の髪を揺らす。

 その風が思ったよりも温く、不快に感じた禊は、やや乱暴な手つきで窓を閉めた。

 大きな音で何人かの隊士が目を覚ましたようだが、気にした風もない。

 というより、他人に配慮して静かに閉めるような気遣いをするような性格はしていない。

 

 叩き起こされた形の他の隊士達が何だ何だとなっていたが、もちろん、それを気にするような禊ではなかった。

 すたすたと寝台に向かうと、そのままシーツに潜り込んで寝てしまった。

 他の隊士達の「ええ……」という空気を気にすることは、もちろんなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 なかなか見所のある奴だ、と、宇髄は思った。

 彼はたまたま蝶屋敷女子病棟の屋根の上――たまたまで歩くような場所ではないが――にいて、さらにたまたま女――禊のことだ。女というより少女だが――の気配に足を止めたのだ。

 窓が閉まる音がしても、宇髄はしばらくそのまま動かなかった。

 

 さて、と月を見上げながら考え込んでいる様子だった。

 彼は別に蝶屋敷に用があったわけではない。もちろん女子病棟を覗きに来たわけでもない。

 こう見えて()()()な彼は、妻以外の女性には関心が薄かった。

 宇髄は、蝶屋敷――というより、鬼殺隊を調()()している。

 

(どうも、良くわからん)

 

 考えていたのは、杏寿郎のことだった。

 あの煉獄槇寿郎の息子で煉獄家の嫡男。だが今は、それはどうでも良かった。

 問題は、その任務の地にあの竈門炭治郎とその妹を向かわせたことだ。

 しのぶが産屋敷に伺いを立ててのことだが、腑に落ちなかった。

 

(まあ、お館様のことだ。何か深いお考えがあってのことだろう)

 

 宇髄は、産屋敷を疑っているわけではない。

 むしろ心から信じているが故に、それが鬼殺隊にとって必要なことなのだろう、と思うだけだ。

 竈門兄妹を杏寿郎の任務に同道させることが、おそらく必要なのだ。

 あるいは柱合会議の際に言っていたように、鬼舞辻無惨への撒き餌にするつもりなのか。

 

 わからないのは、もう1つだ。

 何故、杏寿郎の妹を、瑠衣を同じ任務に就けているのか。

 そこがわからなかった。

 これもまた、産屋敷の意思なのだろうか。

 

(あるいは、別の誰かか……)

 

 鬼殺隊の頂点はもちろん産屋敷だが、だからと言って、何百人からなる隊士全ての任務を彼1人で出しているわけではない。

 むしろ、産屋敷が自らどうこうするのは柱級の任務くらいなものだ。

 当然、実務的に鬼殺隊の運営を行っている者達が別にいるわけだ。

 

 悲鳴嶼から頼まれた鬼殺隊内部の調査だが、この時点で、宇髄はきな臭いものを感じていた。

 元忍としては本領発揮とも言える使われ方だが、それでもだ。

 こういう問題は、まず間違いなく良い方向に着地しないとわかっているからだ。

 思わず溜息を吐きかけて、余りの地味さに止めた。

 

()()()の方は、しばらく嫁に任せるしかねえな)

 

 調査には、まだ少し時間がかかる。

 別の任務に従事している妻の下に行けるのは、しばらく先のことになりそうだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 窓の外を、景色が後方へと流れていく。

 それを眺めながら、一方で瑠衣は周囲への警戒を怠っていなかった。

 何しろ「人が消える列車」である。

 

「列車に乗るのって、久しぶりだわぁ」

 

 ふと、榛名がそんなことを言った。

 視線を向けると、榛名は穏やかな笑顔を向けて来た。

 

「子供の頃、一度だけ家族と乗ったことがあるの」

「そうなんですか」

「藤の家だったの。昔から鬼殺隊を支援していた」

「……そうなんですか」

 

 藤の家とは、鬼殺隊を支援する施設のことだ。

 かつて鬼狩りに救われた者の一族によって運営されており、藤の花の家紋が目印となっている。

 怪我をした隊士が休息したり、任務の拠点として無償で利用することが出来る。

 榛名の家は、その藤の家()()()

 

 そう、過去形だ。

 瑠衣は榛名が過去形を話したのを聞き逃さなかった。

 藤の家の子である榛名が隊士となっている。それだけで事情も察することが出来た。

 鬼狩りの実情を知っている分、藤の家は子息を隊士にしたがらないからだ。

 

「……駅から離れました。そろそろ行きましょうか」

「鬼を探すのねぇ?」

「いえ、その前に兄を探します。てっきり駅で合流できると思っていたのですが、私達が列車を見つけるのが遅かったのかもしれません」

 

 鎹鴉の長治郎は、瑠衣達の他に杏寿郎も同じ任務を受けていることを教えてくれていた。

 だから、まず合流する必要がある。

 この列車には200人以上の乗客が乗っているから、それだけの人を鬼から守るとなれば、頭数が必要という判断がされたのだろう。

 瑠衣としても、杏寿郎の存在は心強かった。

 

「お兄さんか、兄弟って良いわよねぇ」

「榛名さんは……」

「弟がいるわぁ。1人」

 

 聞いて良いものか迷ったが、弟については過去形ではなかった。

 そのことに少し安堵しつつ、瑠衣は席を立った。

 少しばかり不便だが、刀は羽織の下に隠している。

 二振り持っている榛名はもっと大変だが、周囲もまさか刀を持っているとは思っていないので、堂々としていれば何とかなるものだった。

 

「切符……拝見……致します……」

 

 そんな時だった。

 席を立った瑠衣に、詰襟姿の男性が声をかけてきたのだ。

 隊士ではない。制帽を被った車掌だった。

 やけに頬がこけた、痩せた男性だ。

 言葉の通り切符の確認に来たのだろう。間が悪いとはこのことだろうか。

 

「はい」

 

 と言って、拒否する理由もない。

 瑠衣は懐から切符を取り出すと、それを車掌に示したのだった。

 パチン、と、鋏の音がした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 一瞬、嫌な匂いを感じた。

 炭治郎は、顔を上げた。

 

「どうかしたのか、竈門少年!」

「いえ……」

 

 鬼の匂いがしたような気がした。

 ただ余りにも微かな匂いで、動物並に鼻の利く炭治郎でさえ、具体的なことはわからなかった。

 だから、隣に座っていた杏寿郎の言葉にも曖昧にしか答えられなかった。

 炎の呼吸について教わっていた時のことだった。

 

 杏寿郎は、気さくな人物だった。

 炭治郎の質問にもきちんと答えてくれたし、炎の呼吸についても教えてくれた。

 何でもこの列車に出没するという鬼の調査に来たらしく、炭治郎は手伝うつもりだった。

 伊之助も鬼と聞いて張り切っていた。一方で善逸は「降りる」と騒いでいたが……。

 

「……切符を……」

 

 そんな時だ。前の車両から車掌がやって来た。

 妙に頬がこけた、見ているこちらが心配になりそうな男だった。足取りもどこか頼りない。

 炭治郎は汽車に乗るのが初めてで知らなかったが、切符の確認ということだった。

 

「うん?」

 

 すん、と鼻を鳴らして、炭治郎が車掌の男を見た。

 車掌は、どこか虚ろな目で俯いている。

 切符を取り出すべく懐に手を入れていた杏寿郎が、不思議そうに炭治郎を見た。

 

「どうした、竈門少年」

「いえ、あの」

 

 炭治郎は、気になったことをそのまま口にした。

 

「あの、もしかして前の車両に俺達のことを探している人がいませんでしたか?」

 

 車掌は、答えなかった。

 

「俺達と同じような、こういう服を着ていた女の人がいたと思うんですけど」

「……………………いえ」

 

 繰り返すが、炭治郎は鼻が利く。

 それは物の匂いだけではなく、人が微かに発する感情の匂いを嗅ぎ取れる程に。

 そして炭治郎の嗅覚は、車掌の言葉の真偽を的確に見抜いていた。

 

()()()()()()()()()()()()?」

 

 他の乗客のことをみだりに口に出来ないからだろうか?

 いや、違う。

 だったらもっと、違う匂いがする。

 この車掌は、明らかに嘘を吐いている。

 

 職務から来る事務的なものではなく、意識して嘘を吐く時特有の匂い。

 そして、もう一つ。

 普通の人間なら持たないものの匂い。

 ――――()()だ。

 

「う……うわあああああああああああああああっっ!!」

 

 突然、車掌が豹変した。

 切符を切るための鋏を振り上げて、炭治郎に襲い掛かって来たのだ。

 まさかいきなり襲われるとまでは思っておらず、炭治郎の反応は遅れた。

 致命傷を与えられるような道具ではないが、当たりどころによっては怪我をするだろう。

 

「失礼する!」

 

 しかし車掌が炭治郎に危害を加えるよりも早く、杏寿郎が車掌の腕を捻り上げてしまった。

 蛙が潰れたような声を上げて、車掌が座席に身体を押し付けられる。

 背中側に捻り上げられた腕から、鋏が音と立てて床に落ちた。

 なおももがく車掌を、杏寿郎が腕力だけで捻じ伏せている格好だった。

 ざわざわと、俄かに周りの乗客が遠巻きにこちらを見ていた。

 

「大丈夫か、竈門少年!」

「だ、大丈夫です。ありがとうございます」

「黄色い少年、猪頭少年! 周囲を警戒しつつ、乗客を落ち着かせてくれ」

「へ!? あ、はい!」

「お、おう!」

 

 さて、と、杏寿郎は自らが押さえつけている車掌へと目を向けた。

 

「色々と話を聞かせて貰いたいのだが、宜しいだろうか」 

 

 言葉とは裏腹に、その声には有無を言わせぬ凄みがあった。

 実際、杏寿郎には有無を言わせる気はなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 動きが見えなかった。

 猪頭の下で、伊之助の表情は戦慄の色を浮かべていた。

 先程の、車掌を押さえ込んだ杏寿郎の動きである。

 

(とんでもねえ化物だぜ、こいつは)

 

 乗客を遠ざけながら、伊之助は杏寿郎の強さを肌で感じていた。

 山育ち、それも野生児。

 向かい合った相手の強さを計るというのは、自然界で生きる者の必須能力と言って良かった。

 全身で山を、風を、大地を感じて生きて来た彼は、それを本能のレベルで身に着けている。

 

 そんな伊之助をして、杏寿郎の力量は「化物」だった。

 今まで踏み台にしてきた鬼など、杏寿郎と比べれば物の数ではない。

 あの炭治郎達と行った那田蜘蛛山の任務で出会った柱――冨岡やしのぶ――と比べても、遜色ない()を感じる。

 自分と杏寿郎の間には、まさに大人と子供ほどに力量差がある。そう直感した。

 

「さて、車掌さん。どうして竈門少年を――いや。我々を襲ったのだろうか」

 

 杏寿郎が、車掌を尋問している。

 捻り上げられた腕がよほど痛いのか、車掌は青ざめた顔で、額には脂汗が滲んでいた。

 

「素直に話してくれれば、これ以上の危害は加えない」

 

 話さなければさらなる()()を加える、と言外に込めて、杏寿郎は言った。

 しかし、車掌は腕の痛みに表情を引き攣らせながらも何も言う気配はなかった。

 強情、とは違う気がする。

 

(何だ? この匂い)

 

 車掌から嗅ぎ取った匂いに、炭治郎は困惑した。

 恐怖に近いが、どこか違う。何か、より切実な匂いを感じる。

 自分の腕が折られかけていることなど、気にもしていない様子だった。

 何故か、切羽詰まった顔であたりを見渡している。

 

「……た」

 

 唇をワナワナと震わせて、何事かを呟いている。

 やはり、杏寿郎の言葉は聞こえていないようだった。

 そして不意に、顔を上げた。

 

「失敗してしまいした! 申し訳ございません!」

 

 虚空に向けて、そう叫び出した。

 そして、暴れ始める。

 かなり強い力で暴れていて、杏寿郎の方が車掌の腕を折らないか気にかける程だった。

 

「ですが私は最善を尽くしました! 前の車両は全員眠らせてきました! ですから、ですからどうか!」

 

 何だ。何の話をしている。

 というか、誰に向かっての言葉か。

 最後には涙さえ流して、車掌は叫び続けた。

 まるで、信じる神に救いを(こいねが)うかのように。

 

「どうか、私も()()()()()()()()

 

 匂いが、した。

 重くどす黒い、不快な匂い。

 それが、急速に車内に充満し始めていた。

 鬼の匂いだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それは、炭治郎が過去に出会ったどの鬼よりも強い匂いだった。

 鬼舞辻無惨の血が濃ければ濃い程に、この匂いは強くなる。

 つまり、強力な鬼がすぐ傍にいる。

 

(どこだ……!?)

 

 炭治郎は、座席の下から刀を取り出した。

 善逸も伊之助も、すでに耳と肌で鬼の気配に気が付いているはずだ。

 刀を持ち出した炭治郎達に、乗客が悲鳴を上げる。

 申し訳ないとは思うが、今は一刻を争う事態だった。

 

「む!」

 

 いつの間に拾っていたのか、杏寿郎が車掌の落とした鋏を投げた。

 それは一直線に車両の隅へ飛び、右隅の屋根、開いた窓の側に当たった。

 近くにいた乗客が悲鳴を上げた。

 しかし、炭治郎は見逃さなかった。

 

「ぎゃああああああっ」

 

 善逸が悲鳴を上げた。

 彼の足元近くに、何かがボトリと落ちて来たからだ。

 それは腕だった。左手の、手首から先。

 親指と人差し指の間に目があり、手の甲に口がある。

 そして、至るところに「夢」の文字が書かれていた。

 

「気持ち悪っ、いや本気で気持ち悪いな!」

 

 善逸が全員の気持ちを代弁していた。

 しかもその手が不気味に笑い声を上げるものだから、余計に気持ち悪かった。

 

「ようこそ、鬼狩りの諸君。俺の列車はお気に召して頂けたかな?」

 

 手が喋る。非現実的な出来事に、乗客が悲鳴を上げて隣の車両へと逃げ出した。

 しかし出入口が狭く、扉付近で乗客同士が互いを押し潰しあう形となってしまう。

 慌てて炭治郎は乗客を止めようとしたが、その前に。

 

「うるさいなあ」

 

 ――――血鬼術『強制昏倒催眠の囁き』。

 お眠り、と、手の口が告げた瞬間だった。

 炭治郎達以外の一般乗客が、その場に崩れ落ちていったのだ。

 折り重なるように倒れていく人々を見て、炭治郎は鬼の手を睨んだ。

 

「乗客の人達に何をした!」

「眠って貰っただけだよ。今頃、()()()()()()()()

 

 前の車両の鬼狩りと同じでね、と、鬼は言った。

 その一言で炭治郎は、やはり前の車両に瑠衣が乗っていたのか、と確信した。

 鬼への怒りが沸々と胸中を焦がしたが、ふと杏寿郎を見やった。

 車掌も眠ってしまったために、杏寿郎も自由になっていた。

 

 瑠衣は、杏寿郎の妹だった。

 妹。それは炭治郎にとって今や()()だ。

 禰豆子を傷つけられて平静でいられる自信は、炭治郎にはなかった。

 実際、柱合会議前の裁判で不死川が禰豆子を刺した時、激高して頭突きを見舞った程だ。

 杏寿郎は、どうか。

 

「なるほど、他者を眠らせる血鬼術か!」

 

 杏寿郎は、日輪刀を手にしていた。

 その表情は力強く、口元には笑みさえ浮かべている。

 しかし、空気が痛い。

 人並外れて感覚が鋭い伊之助などは、杏寿郎の「刀を抜く」という動作だけで、戦慄さえ覚えていたかもしれない。

 

「強力な術だ。我々が眠らなかったのは対象を選別できるのか。しかも、お前は本体ではない!」

 

 杏寿郎の髪が、燃えるように広がっているような気さえした。

 まるで、彼の放つ気に呼応しているかのようだった。

 

「しかし! 罪なき人々に牙を剥こうものならば」

 

 赤い。炎の如く赤い日輪刀。

 それを鞘から抜き放ちながら、杏寿郎は言った。

 

「この煉獄の(あか)き炎刀が、お前を骨まで焼き尽くす!!」

 

 まるで、車内の気温が上がったような。

 そんな錯覚を、炭治郎は覚えたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――異様な光景だった。

 20人か、30人か。

 それだけの人間が、同じ空間で眠りこけている。

 しかも中には椅子から床に落ちてしまっていて、それでも眠り続けている者もいた。 

 

 そしてその中に、瑠衣と榛名の姿もあった。

 2人は座席に座り、安らかな寝顔を浮かべている。

 周囲が恐ろしい程に静かなため、2人が立てる寝息でさえ聞こえてきそうだ。

 寝息。そして列車の走行音。それが以外の音は何一つ聞こえて来ない……。

 

「……眠ってる?」

「ええ、すっかりね」

 

 聞こえた。誰かが話している。

 足音を押さえながら、声の主達は瑠衣と榛名に忍び寄っていった。

 それは若い男女で、手には縄を持っていた。

 どこか暗い表情を浮かべた彼らは、それぞれ瑠衣と榛名の隣に――身体がぶつからないように注意しながら――座った。

 

「縄で繋ぐのは腕?」

「そう。身体が触れないように注意して。勘のいい人間は起きることがあるって、()()()に言われたでしょう」

「わかった」

 

 その縄の端に輪を作り、瑠衣と榛名の手首に巻いていく。

 そして反対側にも同じように輪を作ると、それは自分の手首に巻いた。

 1本のロープを通じて、相手を繋がる形になる。

 慎重に様子を窺って、瑠衣と榛名が目を覚まさないとわかると、ほっと息を吐いた。

 

「後は目を閉じて、ゆっくり呼吸するだけよ。深呼吸。数を数えながら」

 

 彼らもまた、眠ろうとしているようだった。

 目を閉じて、頭の中で数を数え始める。

 

「これで私達も、幸せな夢を見られる……」

 

 やがて、彼らも規則正しい寝息を立て始める。

 そしてまた、車両に動く者はいなくなった。

 規則正しい呼吸音と、列車の走行音だけが聞こえてくる。

 静寂が、すべてを深く、深く呑み込んで――――……。




最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
そして原作完結おめでとうございます!
最終話の内容的にもう少し読みたかったですが、もう少し読みたい、と思わせてくれる原作はまさに名作だと思います。

というわけで、原作完結記念に読者募集を(全く関係ない)。

詳細は活動報告をご確認頂きたいのですが、今回の募集は4つあります。

①鬼殺隊士(2回目)
②鬼(2回目)
③刀鍛冶
④やられモブ隊士

それでは、皆様のご参加をお待ち致しております。


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第11話:「幸福な夢」

 ――――目の前で、火が燃えていた。

 (かまど)の火だ。

 汁物の鍋がぐつぐつと音を立てていて、瑠衣は火掻き棒で火を調節していた。

 片手には竹の火吹き棒も持っていて、割烹着姿で、炊事の最中のようだ。

 

「ふうー」

 

 暑いのだろう。額に滲んだ汗を手の甲で拭っていた。

 しかし瑠衣は、疲れを感じさせない笑顔を浮かべていた。

 炊事が、というより、単純に家事が好きなのだろう。

 調理台の上には大量のさつま芋があり、大きな米櫃がいくつも置かれていた。

 

 窓から外を見ると、夕方なのか、赤焼けた空が見えた。

 ただ空の半分程はすでに夜闇の気配を漂わせており、そう時間の経たない内に夜になるだろう。

 まさに夕飯時だ。

 そう思って、瑠衣が火炊き道具を置いて立ち上がった時だ。

 

「瑠衣」

 

 炊事場に、瑠衣と同じく割烹着姿の女性がやって来た。

 長い黒髪を一束ねにして、右肩の前に垂らしている。

 細い面に切れ長の瞳。凛とした美しさを備えた女性だ。

 

「ここはもう良いですから、道場に行って槇寿郎さん達を呼んで来て頂戴」

「わかりました、母様」

 

 瑠衣の母、煉獄瑠火だった。

 彼女は笑顔で返事をする瑠衣に表情を綻ばせると、お願いね、と言った。

 はい、としっかりとした声で返事をして、瑠衣は割烹着を脱ぎながら母の脇を擦り抜けた。

 母の匂い。仄かに香るそれが、何故か胸に染みた。

 

 住み慣れた煉獄邸の廊下を歩いていると、ふと柱が目に入った。

 何でもないただの柱だが、所々に切り付けたような傷があった。

 背比べの後だ。目の前近くまでの物もあって、つい最近まで続いていたとわかる。

 ふと笑って、通り過ぎた。

 

「父様、兄様、千寿郎。食事の支度が出来ましたよ」

 

 そのまま、煉獄家の道場に向かった。

 竹刀を打ち合う音が外にまで響いていて、威勢の良い掛け声も聞こえる。

 戸を潜り、瑠衣は道場の中に呼びかけた。

 するとそこには、燃えるような髪色の男性が3人いた。

 年齢の差こそあれ、そっくりだった。父子だから、当たり前なのかもしれない。

 

「おお、もうそんな刻限か」

 

 父・槇寿郎。

 

「うむ! 今日の献立は何であろうか!」

 

 兄・杏寿郎。

 

「お腹が空きましたね、兄上!」

 

 弟・千寿郎。

 振り向き方までそっくりで、瑠衣はくすりと笑った。

 道着姿の3人は汗まみれで、でも、瑠衣はそれを不快には感じなかった。

 むしろ、何か尊いもののように思えた。

 

「今、何か汗を拭くものをお持ちしますね」

 

 ぱたぱたと、手拭いを取りに行く足取りも軽い。

 瑠衣は今、幸福だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――人間の心は、この世で最も強靭なものである。

 魘夢(えんむ)という名のその鬼は、そう思っていた。

 身体能力で圧倒的に劣る人間が鬼を討つ。

 そういう()()は、心の力なくしてあり得ないことだと。

 

 しかし同時に、彼はこうも思っていた。

 人間の心ほどに脆く、硝子細工のように繊細なものも存在しない、と。

 心の力を得て強くなる人間は、心の力を失うと途端に弱くなる。

 そして夢とは、人の心を最も露わにする。

 

「ねんねんころり、こんころり」

 

 そして魘夢の血鬼術は、まさにその夢を操る力だった。

 どれだけ強い人間でも、寝込みを襲われればひとたまりもない。

 ただ鬼狩りの中には、鬼の気配や殺気で目を覚まし反撃してくる者もいる。

 だから魘夢は、あの哀れな車掌のように人間を使って術に嵌めたりとどめを刺させたりするのだ。

 

(参ったなあ)

 

 そんな魘夢にとって、想定外のことが起きた。

 もちろんそれでみっともなく取り乱したりはしないが、やはり困りはする。

 そして、腹立たしい。

 わざわざ愚図な人間共を宥めすかして手駒にして、回りくどい手段で眠らせようとしたのに。

 

「お前が本体か! なかなかの鬼気だ……十二鬼月だな?」

 

 それなのに、もう見つかってしまった。

 石炭を積み、濛々と蒸気を吐き出しながら走る先頭車両。

 屋根の上に、魘夢は立っていた。

 右の瞳に「下壱」の文字。十二鬼月が「下弦の壱」だ。

 その刻印は、彼が上弦を除けば最強の鬼であることを示すものだった。

 

(流石に想定外だ)

 

 やはり人間など当てにするものではない。

 まあ、最初から当てになどしていなかったが。

 しかし、それにしてもだ。

 

「そういうお前は、今までの鬼狩りとは気配が違うね」

 

 まさか、ここまで強い気配を漂わせる鬼狩りに見つかるとは。

 まるで燃え立つような、激しさを孕んだ気だ。

 

「柱かな?」

「いいや! 俺は柱ではない」

 

 おまけに、柱ではないと言う。

 鬼狩りの人材の層は魘夢が思っているよりも、実は厚いのかもしれない。

 

「だが俺は、柱を継ぐ者だ。次代の柱として、十二鬼月よ! 無辜の者達を悪しき術に落とすお前の頚を斬る。そのためにここに来た!」

「良いね。嫌いじゃないよ、お前みたいな()()()()()()()()

 

 鬼狩り――杏寿郎が、刀を振るう。

 鬼――魘夢が、腕を掲げる。

 そして次の瞬間、2つの影が交錯した。

 

 

 ――――血鬼術『強制昏倒睡眠・眼』。

 ――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎』。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 始まった。

 列車全体が揺れる程の衝撃に、炭治郎はそう思った。

 先頭車両で、杏寿郎が鬼と戦い始めたのだ。

 炭治郎は背中の箱――禰豆子が入っている――の背負い紐を握り締めると、後ろの2人に顔だけ向けて。

 

「良し、俺達も行こう」

 

 炭治郎達は、まだ最初の車両にいた。

 本当は杏寿郎と共に鬼の下へ向かいたかったのだが、列車では幅が狭く、戦う空間が少なすぎた。

 要するに多人数で戦うには向かない。

 そのため、最高戦力である杏寿郎自身が鬼を抑えに行ったのだ。

 

 ちなみに、鬼の居場所を探り当てたのは伊之助だった。

 彼は肌感覚、簡単に言えば触覚に優れていて、呼吸を使えば遠くの敵の位置も察知することができる。

 そして炭治郎の鼻と善逸の耳も、索敵面で非常に有用だった。

 

「開けるぞ」

「おいコラ! 親分は俺だぞ!」

 

 そして炭治郎達の役割は、鬼の術で眠らされた人々の救出だった。

 血鬼術に嵌まっているということは、人質に取られているも同然だ。

 今のところその兆候はないが、鬼が眠らされた人々を何かに利用するかもしれない。

 それを防ぐために、炭治郎達は血鬼術の最中にある隣の車両に向かおうとしたのだが……。

 

「待て!」

 

 その時だった。善逸が2人を呼び止めたのだ。

 伊之助の肩と炭治郎の羽織の裾を掴んだ彼は、真剣な表情でもう一度「待ってくれ」と言った。

 

「あ? 何だよ」

「怖い」

「は?」

「怖いんだよ! わかるだろ!?」

 

 何でわからないんだ、と言わんばかりに、善逸は手を振った。

 

「だってお前、この扉の向こうは鬼の術がかかってるんだぞ!? そんなところに飛び込んで、本当に大丈夫なのかよ!」

「そんなもん、行ってみなけりゃわかんねえだろ」

「わかった時点で手遅れなんだよ! お前らはいいよ強いから! でも俺はな、弱いんだ。もうすげー弱い! 入った瞬間に死ぬ気がする!」

「何を言ってんだお前。気持ち悪いやつだな」

「はあ――――あっ!? そんな被り物したやつに言われたくないね!」

 

 そんな2人を尻目に、炭治郎は扉を開けた。

 伊之助は怒り、善逸は悲鳴を上げた。

 だが、こうしている間にも杏寿郎は鬼と戦っているし、乗客は鬼の術の中にいる。

 だから炭治郎は扉を開けて、先に隣の車両へと足を踏み入れた。

 

「うっ、酷い臭いだ」

 

 鬼の気配が濃い。鼻が曲がりそうな臭いに、炭治郎は顔を顰める。

 しかしそれを我慢して、車両の中を見渡す。

 炭治郎達の車両と構造は一緒で、当然、そこまで広くない。

 だから、すぐに見つける。

 

「いた……!」

 

 座席に座ったまま、隊服を着た女性が眠っていた。

 瑠衣だ。周りを警戒しながら近づくと、炭治郎は妙なことに気付いた。

 腕に、縄の輪が。それは瑠衣の隣に座る女性の腕にも結ばれていた。

 これは何だ、と、炭治郎は首を傾げたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 父と兄弟達が、庭で鍛錬をしていた。

 それを、瑠衣は母と共に縁側に座って眺めていた。

 槇寿郎が炎の呼吸の型を見せて、杏寿郎と千寿郎が実践して見せる。

 千寿郎はまだ身体が小さいので、父や兄のようにはいかないようだ。

 

「千寿郎、頑張って!」

「はい! 見ていてください、姉上!」

 

 瑠衣が応援の声をかければ、千寿郎は汗に濡れた笑顔を返してくれた。

 そうやって竹刀を振り始める千寿郎を、家族皆が見守っている。

 こういう時間が、瑠衣はたまらなく好きだった。

 穏やかだった。本当に、心が穏やかだ。

 

 こんなにも穏やかに過ごせるなんて、()()()()()()()()

 ……うん?

 瑠衣はふと、内心で首を傾げた。

 何か今、妙なことを考えたような気がする。

 

「瑠衣」

 

 母に呼ばれて、瑠衣は沈みかけた思考から顔を上げた。

 瑠火が、瑠衣のことを見つめていた。

 

「もう少ししたら、お夕飯の買い出しに行きましょう」

「はい。母様、今日の献立は何にしましょう」

「そうですね……」

 

 父達の鍛錬を眺めながら、母と夕食の献立を考える。

 これ以上の幸福を、瑠衣は思い描くことが出来なかった。

 先ほど感じた違和感は、きっと何かの勘違いだろう。

 

「農家の方から頂いたさつま芋がまだまだありますし」

「む!」

「集中を切らすな、馬鹿者」

 

 さつま芋の名前に気を引かれたのか、杏寿郎が父に面を打たれていた。

 それに、瑠衣や他の面々が思わず笑い声を漏らした。

 杏寿郎が「よもや」と気恥ずかしさに頭を掻いている。

 夕飯の一品は、さつま芋料理で決まりのようだった。

 

 そうと決まれば、早速、夕食の準備に取り掛からなければ。

 瑠衣がそう思って立ち上がった時、こつん、と足先に何かが当たるのを感じた。

 何だろうと思い足元を見ると、長い棒状の物が落ちていた。

 それは、刀だった。

 鞘に納められた日輪刀がそこにあって、瑠衣は一瞬、驚きの色を浮かべた。

 

「……あれ?」

 

 しかし(まばたき)きの後、それは消えていた。

 代わりにあったのは、踏石だ。足先を軽くぶつけただけだ。

 何度も目を(しばたた)かせて、それを見つめる。

 どうして、こんな物を刀と見間違えたのだろう?

 刀など、()()()()()()()()()()

 

「瑠衣、行きますよ」

「あっ……はい、母様!」

 

 瑠火に呼ばれて、瑠衣は慌てて母を追いかけた。

 変な見間違いだと、内心で首を傾げながら。

 自分を見つめている()()に、気付くこともないまま――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その女性は、列車の車両で瑠衣と縄で自分を結んだあの娘だった。

 煉獄邸の敷地を小走りに駆けて、どこかへと向かっている。

 

「危なかった。本体(瑠衣)から離れないと……」

 

 何故、この娘がこんな場所にいるのか。

 それは、彼女が――そして瑠衣がいるこの世界が、現実ではないからだ。

 下弦の壱・魘夢が見せる夢だからだ。

 そしてこの娘は、魘夢の力で瑠衣の夢の中に忍び込んでいるのだ。

 

 瑠衣は、そのことに気付いていない。

 というより、胡蝶の夢に気付ける人間など存在しない、と言っても良い。

 魘夢の作り出す夢の世界は、それだけ強力で精緻なのだ。

 術に落ちてしまえば、まず浮上できない。

 

「あった、()()()

 

 ある地点まで進むと、()に突き当たった。

 風景はさらに向こう側まで続いているのに、それ以上は壁があるかのように進むことが出来ない。

 魘夢の夢の世界は無限ではなく、本体――この場合は瑠衣――を中心に円形に広がっている。

 それは一定の範囲に限られていて、その外側には無意識の領域と呼ばれる場所がある。

 この娘が目指しているのは、そこだった。

 

「早くコイツの()()()()を壊して、私も幸せな夢を見せて貰うんだ……!」

 

 懐から千枚通し――眠り鬼・魘夢の骨を削って作ったものだ――を、振り上げた。

 振り下ろす。

 障子紙が破れるかのように、空間が()()()

 縦に音を立てて引き裂かれると、煉獄邸とはまるで違う光景が広がっていた。

 

「これが、コイツの無意識領域……」

 

 無意識の領域とは、いわば夢の主の内面世界である。

 その人物の、本質が現れる世界だと言っても良い。

 すなわち、煉獄瑠衣という人間を象徴している場所なのだ。

 それを見て、娘は。

 

「……な、に……よ。これ……これ、こんな……」

 

 瑠衣の無意識領域に一歩足を踏み入れた後、その場に立ち(すく)んでしまった。

 無意識領域の中には、多くはないが、他者を圧倒してしまうものもある。

 例えば心の清らかな者の無意識領域は、どこまでも広がる青空の世界を現したりもする。

 そのような無意識領域を前にして、逆に影響を受けてしまうこともある。

 

 だがこの娘の反応は、そういう美しいものに対する圧倒感とは全く違った。

 顔中に、いや身体中に汗をかいて、両手を胸の前で握り、唇を半開きにしたまま、忙しなく上下左右を見渡している。

 今にも叫び出しそうな、そんな様子の娘の顔は、ありありとこう告げていた。

 ()()()()()()()()、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その門に刻まれた藤の花の家紋にどんな意味があるのか、青年には知りようもなかった。

 いや、そもそもとして、夢の主の女性の名が榛名であることも知らない。

 彼はただ魘夢という鬼の指示通り、榛名の夢に侵入し、()()()()を破壊するだけだ。

 それ以外のことに、関心はなかった。

 

 千枚通しを使って、目の前の空間を引き裂く。

 藤の花が描かれた門より少し前が破れて、向こう側の世界が見えてくる。

 榛名の無意識領域だった。

 すっとするような花の匂いが、青年の鼻腔をくすぐった。

 

「何だこりゃ、花弁?」

 

 夜のように暗い空間。しかし月も星もない。

 ただ紫色の花弁が、ひらひらと舞い続けている。

 儚く美しい光景だ。

 だが青年の目的は、美しい光景にはない。

 

 むしろ延々と降り注ぐ花弁を鬱陶しそうに振り払いながら、周囲を見渡す。

 そうしている内に、どうやら目的のものを発見したらしい。

 それは、宙に浮いていた。

 どうやらその地点が、無意識領域の中心なのだろう。

 

「あった。精神の核だ……!」

 

 人の頭よりも少し小さい、それくらいの大きさだ。

 水晶玉というのが最もわかりやすい例えだろう。

 薄い青色の光が内側から明滅していて、どこか神秘的だ。

 それは、精神の核と呼ばれるものだった。

 

「こいつをぶっ壊せば……」

 

 この精神の核を破壊されると、夢の主は廃人になる。

 心を失い、ただの肉の塊になる。

 殺される時ですら、何の抵抗も見せなくなるのだ。

 それが眠り鬼・魘夢の鬼狩り()()のやり方だった。

 

 そうして、青年が精神の核を破壊しようと千枚通しを振り上げた時だ。

 彼は、背筋に何か冷たいものを感じた。

 背後の空気が揺らいだような。いや、もっと有体に言えば。

 すぐ後ろに、()()()()()()()()()()()……!

 

「えっ!?」

 

 そこに立っていたのは、藤柄の着物を着た女性――榛名だった。

 表情がない。真顔だ。感情の色すら読み取ることが出来ない。

 青年は驚いた。無意識領域には通常、誰もいないはずだからだ。

 驚いて、反射的に千枚通しを榛名へと向けてしまった。

 

 それが不味かった。

 

 榛名の手には、日輪刀が握られていた。赤い刃の日輪刀が。

 青年があっと声を上げた時には、もう遅かった。

 壱の太刀で千枚通しを弾き飛ばし。

 そして弐の太刀で、青年の頚が宙を舞っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 外出着に着替えて、煉獄邸の門を潜ろうとした時だ。

 瑠衣は、不意に誰かに手を引かれたように感じた。

 余りにも不意の出来事だったので、えっ、と声に出してしまった。

 

「瑠衣、どうしました?」

「あ、いえ」

 

 (つまず)くというのはまだわかるが、手を引かれると言うのは何なのだろう。

 首を傾げながら後ろを振り向いても、誰もいない。

 当たり前だった。と言うか、誰かいたら怖すぎる。

 それでも、腕には引かれた感覚が残っていた。

 

 何だか気味が悪かったが、母を待たせていた。

 だから瑠衣は引かれた腕を擦りながら、瑠火の下へ行こうとした。

 しかし、擦った手首に違和感を覚えてた。

 視線を落とすと、手首に縄が巻かれていたのだ。

 

「え……?」

 

 縄で作った輪だ。

 もちろん、瑠衣はそんなものを手首に巻いた覚えなどなかった。

 しかし確かに、瑠衣の手首には縄が巻かれていた。

 いや、待て。そもそもだ、この縄はいったい。

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 と、瑠衣がぞっと背筋を凍らせた瞬間だった。

 熱が来た。

 手首の縄から、()()()()

 轟、と炎が噴き上がり、瑠衣の全身に瞬く間に燃え広がった。

 

「瑠衣っ!?」

 

 母の悲鳴が聞こえる。

 だが、それだけでは無かった。

 母の声に重なるように、何か、別の声が聞こえた気がした。

 誰の声だろうか。知らない声だ。

 

『…………!』

 

 炎は、不思議と熱いと感じなかった。

 揺らめく炎の向こうで、母が火を消そうと父を呼んでいる。

 その姿に、別の光景が重なって見える。

 いや、炎の中に何かが見えている。

 そして声。やはり知らない――いや、聞いたことがあるような、気もする。

 

『……んっ! ……いさんっ!』

 

 ゆらり、と、誰かの姿が見えた。

 黒髪。市松模様の羽織。年下の、男の子。

 表情は、必死だ。

 何をそんなに必死になっているのかと、思った瞬間。

 

『瑠衣さんっ!!』

 

 頭を、殴られたかのような。そんな気がした。

 その衝撃は瑠衣の意識を一息に駆け抜けて、貫いてしまった。

 吐き気が、こみ上げて来た。

 ()()()の瞬間の、一瞬の混乱。

 

 ばしゃん、と、頭から水を被った。

 母が、瑠衣の火を消そうと水をかけたのだ。

 反射的に、目を閉じてしまった。

 そして、次に目を開けると。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 お湯、だ。

 ふと視線を下ろすと、自分は裸で、そして手桶を持っていた。

 風呂場だ。髪を洗い、湯を被った直後のようだった。

 もちろん、そんなことをした()()()()()

 

「瑠衣」

 

 びくっ、と、肩を震わせた。

 脱衣所の方から、母の声がした。

 

「お湯加減はどうですか? 着替えはここの置いておきます」

「はい」

 

 返事をしたのは、ほとんど反射だった。

 口をついて出た。

 ただ、それだけのことだった。

 手桶を足元に取り落とし、そのまま両手で顔を覆った。

 

 畜生、と、唇の中で呟いた。

 何というのだったか、こういう現象を。

 気付くのは本当に一瞬だ。そして気付いた瞬間に、ああ、と思ってしまう。

 明晰夢(めいせきむ)。すなわち。

 

「これは、夢だ」

 

 ここは煉獄邸(我が家)ではない。

 汽車だ。汽車の中だ。自分は座席に座っているはずだ。

 さっき自分を呼んでいたのは、炭治郎だ。

 どうして汽車に乗っているのかはわからないが、現実の自分の傍にいるのだろう。

 そして、呼びかけてくれていた。

 

「さっきの火は」

 

 いや、今はそれも良い。

 気が付けば、瑠衣は自分の腿に爪を立てていた。

 引っ掻き傷。唇も噛んでいて、こちらも切れているようだった。

 瑠衣の胸中を覆っていたのは、屈辱感だった。

 

 この夢は普通の夢ではない。おそらく鬼の血鬼術だろう。

 自分はまんまと術に嵌まり、あまつさえ後輩の隊士――それもなりたての新人に――に助けられようとしていると。

 それは瑠衣にとって、これ以上ない程の屈辱だった。

 何という、情けなさか。

 

(恥を知れ。こんな様で、何が煉獄家の剣士だ……!)

 

 穴があったら、入りたい。

 だが今は穴を探している場合ではない。一刻も早くこの夢から覚めなければ。

 醒めなければならない、のだが。

 問題は、その方法だった。

 

 普段なら、朝になれば目覚める。当然、夢もそこで終わりだ。

 しかしこれは血鬼術だ。

 鬼の力で夢の世界に繋ぎ留められている以上、通常の方法では目覚めることは出来ないだろう。

 つまり、術を抜け出す何らかの条件があるはずだった。

 

「そう言えば、さっき……」

 

 玄関から風呂場へ移った時、水をかけられた。

 もしかしたらと手桶を拾い、浴槽からお湯を入れる。

 それを両手で持ち、瑠衣は目を閉じた。

 音を立てて、お湯を頭から被った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 結論から言うと、駄目だった。

 確かに風呂場は消えた。だがその代わりに……。

 

「うまい! うまい! わっしょい!」

 

 杏寿郎の声が聞こえて、はっとした。

 汽車ではない。煉獄邸のままだ。

 そこには家族が揃っていて、いつの間にか夕食を取っているようだった。

 さつま芋のお味噌汁を片手に、杏寿郎がうまいうまいと料理を絶賛していた。

 

「やはり母上と瑠衣の作る料理は天下一品だな!」

 

 兄に褒められて嬉しいという感情を、瑠衣は気力で抑え込んだ。

 これは夢だ。脱出できていない。

 夢だと気付けていても、目覚められなければ意味がない。

 いったい、どうすれば目を覚ますことができるのか。

 この血鬼術を破る条件とは、いったい何だ。

 

「姉上」

 

 その時だ、千寿郎が不思議そうな顔でこちらを見てきた。

 米粒を頬につけたままの弟は、次にこう言った。

 

「どうしてそんな格好をしているんですか?」

「え?」

 

 言われて、瑠衣は自分の身体を見下ろした。

 そこにあったのは、着物に包まれた自分の身体ではなかった。

 黒い隊服、見慣れた羽織、そして腰に刀――日輪刀。

 手に持った箸とお椀の方が、浮いている程だった。

 

 確信する。

 夢という自覚を持ったことで、自分は確実に覚醒しつつある。

 あと少しだ。

 あとほんの少し、何かのきっかけがあれば目覚める。そんな確信があった。

 

「瑠衣、どうしたのです。食事中ですよ」

 

 母の咎める声。幼い頃は、この声に逆らうことなど出来なかった。

 逆らおうとすら、思わなかった。

 しかし今、瑠衣は瑠火の言葉を聞かずに立ち上がっていた。

 食事中に立ち上がるなど、現実では絶対にしなかっただろう。

 

「何かあったのか、瑠衣」

 

 父と、目を合わせた。

 夢の中でも威厳がある。ただ、身嗜みの隙が見えなかった。

 母が生きていれば、きっと、()()だったのだろう。

 そして現実の槇寿郎よりも、ほんの少しだけ、表情が柔らかい。

 

「瑠衣!」

「姉上!」

 

 膳を蹴倒すようにして、瑠衣は部屋を飛び出した。

 障子を開けて縁側に出て、庭に降りて、駆け出していく。

 杏寿郎と千寿郎の驚く声が背中を打つ、そして。

 

「瑠衣!」

 

 母の声に、後ろ髪を引かれた。

 

「行ってはなりません! 戻りなさい!」

 

 ――――畜生。

 霞む視界の中で、呻くように呟いた。

 今すぐに立ち止まって、振り向いて、戻って。

 そして母の腕の中に飛び込めたなら、そうできたのなら、どれほど幸せだろう。

 

 どれほど、どれほど――――どれほど!!

 まだ見ぬ鬼に対して、瑠衣は思った。

 お前が土足で踏みつけにしたものが、()()()()のものか。

 ()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 反応が変わった。

 粘り強く呼びかけた甲斐があったのか、瑠衣が反応を見せたのだ。

 

「う……夢……覚める……」

 

 ただ、まだほとんど寝言に近い。

 やはり血鬼術、普通に眠っている人間とは勝手が違うのか、外部からの刺激ではこれ以上のことは期待できないのかもしれなかった。

 ぶつぶつと苦し気に呻く瑠衣の顔を、炭治郎は固唾を呑んで見つめていた。

 

「だあっ、鬱陶しい! ぶん殴れば起きるだろ!!」

「いやいやいや! 女の人にそんなことしたら駄目だろ!? というか静かにしろよ鬼が来たらどうするんだよ!?」

 

 伊之助と善逸は、榛名の方を見ている。

 だが、あまり芳しくない様子だった。

 瑠衣と榛名に違いがあるとすれば、やはり()()だろうか。

 

「むー!」

 

 禰豆子だ。

 先程から炭治郎の手を掴み、自分の頭に置いている。

 撫でろ褒めろと雰囲気でわかる。

 苦笑して、炭治郎は禰豆子の頭を撫でた。

 

 視線を落とすと、瑠衣の腕が見える。

 その腕には縄が巻かれていたのだが、今は切れていた。

 正確には、()()切れていた。

 燃やしたのは禰豆子だ。禰豆子の血鬼術で焼いたのだ。

 

(日輪刀で切るのは何となく嫌な予感がしたから……)

 

 結果的には、その直感が正しかったのだろう。

 縄を焼き切った瞬間から、明らかに瑠衣の反応が変わったからだ。

 今にも目を覚ましそうだ。そう思える程に、瑠衣の意識を感じる。

 

「禰豆子、もう一本の縄も……」

「うわっ!?」

 

 榛名の縄も焼き切ろうとした時だ。

 善逸が声を上げて尻もちついていた。

 ただ、転んだわけではない。

 通路側に倒れた青年を受け止めていた。

 

「おいっ、こいつ大丈夫か? 泡吹いてんぞ!?」」

 

 その青年は白目を剥き、口からぶくぶくと泡を吹いていた。

 生きてはいるようだが、医者に見せた方が良さそうな状態だった。

 そして、手首の縄。

 縄の先には当然……。

 

「う、何だこの音……」

 

 青年を受け止めたまま、善逸が呻いた。

 彼は耳が人並外れて優れている。

 その聴覚は周囲の音はもちろん、心音でさえ聞き分ける程だ。

 自らを「弱い」と称する善逸がここまで生き残れた理由の1つには、この耳の良さがある。

 その善逸が、顔を顰める程の音。しかもそれは間近に存在した。

 

「お……」

 

 そして、伊之助の目の前で立ち上がった彼女。

 榛名だ。

 目を閉じたまま――いや、半ば目を開けている。

 倒れた青年と未だに縄で繋がるその手で、榛名は日輪刀をゆっくりと抜いた。

 

 鬼の匂いはしない。しかし、炭治郎は異様な雰囲気を感じ取っていた。

 何か、どこかおかしい。

 泡を吹いて倒れた青年。鬼の気配はしないのに刀を抜く榛名。

 何か、不味いことが起きているような気がする。

 

「うおおおおおおおっ!?」

 

 突然、伊之助が声を上げた。

 その眼前に、刃が迫っている。

 榛名が、日輪刀を振るったのだ。

 よもやの事態に、炭治郎は2人の間に割って入るべく飛び出した。

 

「伊之助――――っ!!」

 

 列車は、轟音を上げて走り続けていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 煉獄邸の外に出ることができない。

 家族の制止を振り切って飛び出したは良いものの、状況が改善したわけではなかった。

 不思議と家族が追いかけてくることはなかったが、外に出れなければ、いや夢から覚めなければ意味がないのだ。

 

「参ったなあ……」

 

 門の外に出ようとすると、見えない壁に遮られてしまう。

 おそらく瑠衣が夢を自覚したことと無関係ではないだろう。

 気持ち悪い。まるで薄い膜の中にいるようだ。

 

 夢から目覚める方法。真面目に考えると意外と難しい。

 普段眠りから覚める時はどうだったかと考えてみても、意識したことがなかった。

 これは血鬼術。鬼の力で生み出されたものだ。

 ならば、鬼の力が失われれば解けると思うのだが……。

 

「と言っても、外の鬼が倒されるのを待つわけにもいかないし」

 

 もし兄がいるなら、倒してくれるだろう。

 だが杏寿郎の足を引っ張りたくはないし、何より助けを待つだけというのは首肯し難い。

 何とかしなければ。

 気持ちばかり焦るが、落ち着かなければ……。

 

 ()()()()()()()()

 

 日輪刀に手をかけた。

 一瞬、家族かもしれないと思った。

 だから抜くまでは出来なかったが、それが良かったのかどうかはわからない。

 しかし視界を覆った誰かの手指は、家族のものではないとすぐにわかった。

 

「瑠衣」

 

 女の声。知らない声だった。

 両目を覆った手つきは、どこか優しかった。

 声音も穏やかで、敵意は感じなかった。

 

「鬼の倒し方は、わかっているでしょう?」

 

 目から、頬。そして頬から、頚へ。するりと動く女の手。

 瑠衣はその手を振り払うようにして、後ろを振り向いた。

 誰も、いなかった。

 あの声はいったい、誰のものだったのだろう。

 

(鬼の、倒し方)

 

 無意識に、首元を撫でていた。

 先程の手指の感触は、まだ残っている。

 鬼の倒し方。

 鬼の力を失わせる方法。血鬼術を解く方法。

 

「…………」

 

 日輪刀を、抜いた。

 鬼の倒し方。知り過ぎている程に知っている、その方法。

 確証はない。鬼が見せた罠かもしれない。

 だが、どうしてだろう。

 あの声は、信じられると思った。

 

「そう言えば、落ちる夢とか見ると起きるよね……」

 

 自嘲気味に呟いてみたが、笑えなかった。

 頚に、冷たい刃の感触。

 額に汗が滲み、呼吸が緊張に引き攣る。

 今まで色々な修羅場を潜ってきたつもりだが、()()は流石に初めてだ。

 鬼の倒し方を、()()()()()()()

 

「――――ッ!」

 

 鬼の倒し方、それは。

 ――――()()()()、だ。




最後までお読み頂きありがとうございます。

また今回も多くのキャラクター投稿ありがとうございました。
おかげでまたプロット(予定)が狂いました。
何ということをしてくれたのでしょう(え)

原作映画の無限列車編は10月ということですが、今から楽しみですね。
とりあえず、本作の無限列車編を何か…こう…いい感じに終わらせたいです(目逸らし)。

それでは、また次回。


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第12話:「旭榛名」

 頚に冷たい異物が押し込まれ、そこから命が噴き出す。

 鬼の死を追体験した気分だ。

 つまり、瑠衣は最低の気分で()()()()のだった。

 

「――――っ!」

 

 座席の上で跳ね起き、最初にしたことは自身の頚を確認することだった。

 片手を頚に当てると、頚が繋がっていることを確認できた。

 ほっと息を吐く。

 生きている。そして、現実に戻って来ることが出来たようだ。

 

 瑠衣は変わらず列車の座席に座っていて、周りには眠りこけたままの乗客がいる。

 頚に触れていた手に、縄の輪が巻かれていることに気付いた。

 しかも、焼き切られている。

 これは何だと思っていると、強い風に髪を煽られた。

 

「うん?」

 

 空気の流れに違和感を覚えて、上を見上げた。

 すると、そこにあるはずの天井がないことに気付いた。

 車両の天井に小さくない穴が開いていて、そこから風が侵入してきていたのだ。

 破片が外側に逸れているから、内側、つまり車両から外へ何かが飛び出したように見えた。

 

「……榛名さん?」

 

 向かい側に座っていたはずの、榛名の姿がなかった。

 しかし、上から人の気配がした。それも複数人。

 瑠衣は縄を投げ捨て、日輪刀を手に取ると、座席を蹴って跳躍した。

 破片で怪我をしないように手をかけて、腹に力を込めて身体を跳ね上げた。

 

 外に出ると、より強烈な風が身体を打った。

 周囲の光景が高速で背後へと流れていく。

 列車はまだ、速度を上げているようだった。

 さて榛名はどこだろうかと、思った時だ。

 

「危ない!」

 

 咄嗟に反応しかけた腕を止める。

 何故なら、危険を訴えて飛び込んできた相手が炭治郎だったからだ。

 炭治郎を両手で抱き留める。そして、自分でも後ろに跳んだ。

 そうしなければ車両の中に背中から落ちていたし、炭治郎が意味もなくそんなことをする人物ではないと思っていたからだ。

 

 結果として、それは正しい判断だった。

 視界の端に煌めくものが見えて、瑠衣は己の胸に炭治郎の頭を深く抱いた。

 その腕の肌一枚、そして鼻先一寸を、刃が通り過ぎていった。

 剣閃は、うっすらと赤く見えた気がした。

 背中から車両の屋根に落ちて、その反動を利用して後転し、瞬時に体勢を立て直した。

 

「榛名さん!?」

 

 そこにいたのは、榛名だった。

 瑠衣と炭治郎に向けて刀を振るった相手が榛名だと知って、瑠衣は困惑を覚えた。

 しかし当の榛名は瑠衣の声に応じる様子もなく、半目で瑠衣を見つめていた。

 その表情は、どこか虚ろだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 助けようとしたはずが、最終的に助けられた気がする。

 瑠衣の胸に掻き抱かれたまま、炭治郎はそう思った。

 

「大丈夫?」

「い、いえ」

「貴方達が起こしてくれたんですね……ありがとう」

 

 微かに、不甲斐なさを感じている匂いがした。

 しかしそれを表情に出すようなことはなかった。

 

「ムー!」

 

 そうやっていると、禰豆子がいつの間にか傍にやって来ていた。

 眉を八の字にして、炭治郎の羽織を引っ張っている。

 瑠衣から離れてぽんぽんと頭に手をやると、満足したような表情を浮かべていた。

 

「だあああああっ!!」

 

 伊之助の声。

 そちらを見やると、2本の日輪刀――藍鼠色で、ノコギリのように刃こぼれが酷い――を構えた伊之助が、同じく刀を抜いた善逸と2人で榛名を挟んでいた。

 どうやら伊之助はかなり苛立っているようで、今にもその場で地団駄を踏みそうな勢いだった。

 

「何なんだこいつは! 何で俺達を攻撃してくんだ!? 隊士同士でやり合うのはご法度なんだろォッ!?」

「落ち着け伊之助! 様子がおかしい。鬼に操られているのかもしれない!」

 

 そんな伊之助に、酷く凛とした声で善逸がそう言った。

 いつもの善逸からは想像もできない程にしっかりしているが、様子がおかしいというのであれば、稀もまたおかしかった。

 ()()()()()()()

 と言うか、あれはもしかして寝ているのではないだろうか……?

 

「榛名さん……!」

 

 鬼に操られているのか。

 聞き取れないが、榛名は何事かを呟いている様子だった。

 止めなければと、瑠衣が膝を上げかけると、榛名も動いた。

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 またもや炎の呼吸。

 榛名が通常使う呼吸ではない。

 飛び込み、そして斬撃。

 

(あの縄は?)

 

 悲鳴を上げて回避する伊之助と善逸。

 しかし瑠衣の目を引いたのは、榛名の手首に巻かれた縄だった。

 瑠衣が先ほど投げ捨てた物と同じ物だろう。

 

「竈門君、あの縄は?」

「え? あ、ええと、この列車にいる鬼の術に関係している物だと思います」

「なるほど……」

 

 反対側に、輪がもう1つ。

 おそらくだが、あの縄で繋がると何らかの干渉が可能になるのだろう。

 そうだとすれば、榛名はまだ夢を見させられている状態なのではないか。

 つまり、操られているというのは正しくない。

 

「竈門君、もう1つ教えて下さい」

「はい!」

「兄は……煉獄杏寿郎は、どこに?」

「……先頭車両で、鬼と戦ってくれています」

 

 これだけの強力な血鬼術を、これだけの範囲で行使する。

 並の鬼には出来ない。相当に強力な鬼だ。

 十二鬼月。

 いかな杏寿郎とは言え、一筋縄ではいかないはずだ。

 早く、加勢に行かなければ。

 

「竈門君、お願いがあります」

 

 炭治郎の目を見て、瑠衣は言った。

 そんな2人を、禰豆子がじっと見つめていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 善逸の()()を何と呼んでよいのか、良くわからない。

 本人ですら己の状態を自覚していないのだから、無理もないことではある。

 ただわかっているのは、善逸は極度の緊張や恐怖に晒されると()()()()ということだ。

 眠りに落ちることで緊張や恐怖から解放されて、善逸は彼本来の才能を発揮することが出来る。

 

「伊之助、刀だ! 日輪刀を取り上げて無力化しよう!」

「でもアイツ、刀を2本持ってるぜ! 何でか2本目は使わねぇけどよ!」

 

 確かにそうだと、善逸は思った。

 目を閉じて眠っているというのに、善逸は良く視えていた。

 榛名は刀を2振り持っているが、伊之助のように二刀流というわけではないようだ。

 だが、いずれにせよ武器を奪ってしまえば。

 

「善逸! 伊之助――――っ!」

 

 炭治郎の声。

 彼は手を振って、こちらに声を張り上げていた。

 

「その人をこっちに誘導してくれ――――っ!」

 

 意図はわからないが、炭治郎が言うことだった。

 

「伊之助!」

「紋壱が俺様に指図すんじゃねえ!」

 

 ――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂(へきれき)一閃(いっせん)』。

 車両を踏み抜かんばかりの踏み込み。瞬きした直後には、彼の姿は彼方へと消えていた。

 剣戟の音が遅れて聞こえてくる程の速度で、善逸は榛名の刀を弾き上げていた。

 

 通常の状態ならわからないが、今の榛名は足元も覚束ない程だ。

 今の善逸なら、それくらいは難しいことでははなかった。

 宙を舞う赤い刃の日輪刀。

 しかし、何故か榛名はもう1振りに手を伸ばそうとはしなかった。

 

「隙アリイイイイッ!」

 

 ――――獣の呼吸・壱ノ牙『穿ち抜き』。

 ノコギリのような二刀を重ねて、伊之助が全速で突いた。

 鬼ならば喉を狙うところだが、流石の伊之助もそれが駄目なことはわかっている。

 スレスレのところを狙い、榛名の体勢を崩した。

 たたらを踏んで、榛名が後退していく。

 

「すみません!」

 

 そこへ、炭治郎が来た。

 彼は大きくのけ反ると、榛名の頭めがけて自らの頭を振った。

 頭突きである。

 ただ、それは榛名も回避して見せた。

 

 代わりに、榛名はより不利な体勢を余儀なくされてしまう。

 その背中に、瑠衣が飛びついた。

 そして瑠衣は、そのまま()()()へと榛名を引きずり込んだ。

 車両の中へと、落ちていく。

 

「……っ!」

 

 榛名が身をよじり、瑠衣の眼前を肘が掠めた。

 そのまま、2人折り重なるようにして車両の床に落ちる。

 流石に隊士だけあって、無意識でも受け身は見事なものだった。

 そして瑠衣の手には、肘を掠めた時に取ったものがあった。

 あの、榛名に繋がった縄の輪である。

 

「押さえ込んで!」

 

 そこへ、炭治郎達も車両の中へと降りて来た。

 榛名の身体を押さえ込みにかかる。

 その隙に、瑠衣は輪に自分の腕を通した。

 ――――()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 藤の花の家紋。

 藤の家だ。

 もちろん列車にそんなものがあるはずもない。

 どうやら、上手くいったようだった。

 

「ここが、榛名さんの夢の中……」

 

 夜のように暗いが、空に星も月もない。

 藤の花弁が雪のように降り続いており、しかも仄かに光っている。

 光源はそれが全てのようで、藤の光が照らす神秘的な光景が目の前に広がっていた。

 それは屋敷ひとつ分の、箱庭のような世界だった。

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 そんな光景に見惚れていると、視界の端に赤い剣閃が見えた。

 見えた時には、瑠衣の身体はすでに腰の刀を抜いていた。

 赤い剣閃を、緑の一閃が打ち払った。

 

「榛名さん!」

 

 榛名だった。

 

「思った以上に鬱陶しい奴だ、お前は」

 

 いや、違う。

 顔は、そして体も榛名と全く同じだ。

 しかしこの目の前の榛名は、()()()()()()

 

「姉さんの心の中にまで、土足で踏み込んできて……」

「姉さん?」

「ああ、そうだ。ここは姉さんの心の中だ」

「……妹さん、ですか?」

「違う」

 

 不機嫌そうな顔と声音で、()は言った。

 

「僕は旭榛名の弟だ」

 

 弟がいる、と榛名は言っていた。

 確かに言っていた。

 どういうことだ。

 目の前にいるのは榛名と同じ姿の、つまり女性だった。弟とは。

 

(いや)

 

 ここは夢の中だ。何があっても不思議はない。

 瑠衣の夢に家族がいたように、榛名の夢に弟がいることも不思議ではない。

 榛名と容姿も性別も同じというのは驚いたが、今は重要なことではない。

 それこそ、榛名の心の中のことだ。

 

「貴方が榛名さんの弟さんだと言うのなら、どうして私達を攻撃するのですか?」

「お前達が邪魔をするからだ」

「邪魔?」

()()()()()()()()

 

 当然のことのように、彼は言った。

 

「危険な場所から姉さんを遠ざけるんだ。お前達はその邪魔をした、だから攻撃した。簡単なことじゃないか」

 

 ……見えて来た、ような気がする。

 この「弟」とやらの行動の意図するところが、ほんの少しわかった気がした。

 しかし、だ。

 

 ――――炎の呼吸・弐ノ型『昇り炎天』。

 地面を掠めるような、斬り上げの一撃。

 斬撃は鋭く、込められた気も申し分なかった。

 鬼を斬るには十分。人を打ち倒すにも十二分。しかし。

 

「……私を誰だと思っているのでしょう」

 

 ――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐風樹』。

 斬り上げの斬撃を、上からの連続斬りで叩き伏せた。

 後ずさりし、手が痺れる程の威力に顔を顰める。

 そんな相手に、瑠衣は言った。

 

「私は煉獄家の娘ですよ。他の呼吸ならいざ知らず、炎の呼吸で私に斬りかかるだなんて。いささか甘く見過ぎではありませんか?」

 

 本心であり、事実でもある。

 こと炎の呼吸に関して、父や兄弟を除けば瑠衣の右に出る者はいない。

 技の出がかりを潰すことなど、造作もないことだった。

 これが榛名本来の呼吸法であれば別だろうが、炎の呼吸を使う限り、相性が悪いとしか言いようがなかった。

 

「くそ……!」

 

 榛名の弟は、瑠衣の言葉に悔し気に表情を歪ませた。

 それでも刀は下ろさない。闘志には僅かな陰りも見えない。

 呼吸も性格も榛名とは違うが、そこは共通していた。

 思ったよりも長い対峙が必要かと、そう思った時だった。

 

 悲鳴。

 

 屋敷の方から、耳を(つんざ)くような悲鳴が聞こえた。

 それは女性の声で、しかも聞き覚えがあった。

 瑠衣があっと声を上げた時には、すでに相手は背を向けていた。

 姉さん、と声を上げて駆けていく彼の背中を、瑠衣も慌てて追いかけた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 藤の家に入ってすぐに、瑠衣は違和感を感じた。

 土間から室内へと駆け込んだは良いが、部屋を2つ3つ通過したあたりでおかしいと思った。

 広すぎる。

 しかも部屋の構造はどれも同じで、畳に散らばった生け花に掛け軸が目についた。

 それから、壊れた桐箪笥。

 

 襖をいくつ潜っても終わりが見えない。

 それから、先に家の中に入ったはずの榛名の弟の姿も見えなかった。

 襖が閉ざされて、次に開けた時には見えなくなってしまった。

 血鬼術かとも思ったが、おそらく違う。

 これは、夢なのだ。

 

(ここは夢の中、現実とは法則が違うはず)

 

 常人の考えや行動をしていては、おそらく何かを見落とす。

 瑠衣は次の襖を開けるのをやめて、その場に立ち止まった。

 息を整えて、感覚を研ぎ澄ますことに集中する。

 全集中の呼吸は身体能力だけではなく、五感をも高めることが出来る。

 

「…………」

 

 瞬間的に、音が消える。

 最初の音が重要だった。

 次に音が戻って来る時の、最初の音である。

 そしてその最初の音を、幸運なことに瑠衣は聞き逃さなかった。

 

「……もしもし?」

 

 壊れた桐箪笥。

 外部からを強い衝撃を受けたのか、完全にひしゃげてしまっている。

 特に酷いのは側面から正面に向けてで、縦や横にいくつも裂けてしまっていた。

 原型を留めているのが不思議な程だ。

 

「大丈夫ですか?」

 

 その桐箪笥の陰に、小さな誰かが蹲っていた。

 どうして今まで気が付かなかったのだろう。

 あるいは、探そうとしなければ見つからない。そういう存在だったのかもしれない。

 膝をついて、瑠衣は()()と視線を合わせた。

 

()()()()

 

 年の頃は、10を少し超えた程だろうか。

 涙を湛えた大きな瞳が、瑠衣を見上げていた。

 藤の花が染め抜かれた青い着物を着ていて、この家の子なのだろうとわかった。

 そして、その容姿は瑠衣が知る人物に瓜二つだった。

 

「お名前を、教えて頂けませんか?」

 

 ゆっくりと、一つ一つの音が聞き取りやすいように、言った。

 しばらく、間があった。見つめ合うだけの時間が過ぎた。

 やがてぐすぐすと愚図りながらも、つっかえながらも、彼女は答えてくれた。

 

「……はるな……」

 

 その少女は、確かにそう言った。

 

「旭榛名」

 

 ああ、と瑠衣は思った。

 どうしてこう、当たってほしくない予想ばかりが当たってしまうのだろうか、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 榛名と同じ姿の弟が現れたかと思ったら、次は幼い姿の榛名が現れた。

 流石は夢というべきか、脈絡も何もあったものではない。

 そして瑠衣は、その幼い姿の榛名と手を繋いで藤の家を歩いていた。

 もちろん、例によって同じ構造の部屋が延々と続いている。

 

「ぐす……ぐす……」

 

 榛名は、まだ目を擦って愚図っていた。

 会話らしい会話はない。

 ただ、瑠衣の手を取ることに躊躇はない様子だった。

 

「どこなの……あさひ……」

「あさひ?」

「弟なの……はぐれちゃったぁ……」

 

 どうやら榛名は、あさひという名前の弟を探しているらしかった。

 瑠衣の前に現れた()が、そうなのだろうか。

 しかし、彼はどこかに失せたままだ。

 そもそも、家の中ではぐれるというのもおかしな話だ。

 

 あるいは部屋の移動に意味はなく、榛名を見つけた時のように立ち止まるべきなのか。

 だが当の榛名に立ち止まる様子がないため、歩き続けるしかなかった。

 それとも榛名には、このまま進むべきだという何かの確信があるのだろうか。

 そう思って、榛名を見下ろした時だ。

 

「ん……?」

 

 榛名は髪が長かったが、今は幼い姿のためか、おかっぱに切り揃えられている。

 だから、横から見下ろすと着物の襟から首元が見えた。

 何だろうと思い、視線を向けていると……。

 

 不意に、榛名が立ち止まった。

 身体が硬直し、表情が青褪めて目を大きく見開いていた。

 いったい何事かと思っていると、視界の端で何かが揺らぐのが見えた。

 いや、端どころではない。

 

「この煙は……?」

 

 薄い、白い煙が漂っていた。

 しかもそれは徐々に広がりを見せており、視界いっぱいに広がろうとしていた。

 

「うっ、ごほっ」

 

 鼻と喉の奥を刺激する独特の臭気。

 口元を押さえながら、瑠衣はこれが何であるのか理解した。

 火だ。どこかで燃えている。

 火事だ、これは。

 

「い……」

 

 そこで、榛名が瑠衣の手を放して駆け出した。

 

「いやああああああああああああああああああっっ!!」

 

 余りにもいきなりのことで、榛名を掴むことが出来なかった。

 不味い、と思った。

 榛名は襖に向かっている。このままでは、はぐれてしまうだろう。

 それは不味かった。

 だが、幸か不幸か瑠衣のそれは杞憂に終わることとなる。

 

 次の瞬間、榛名の向かった襖が吹き飛んだからだ。

 向こう側から、斜めに裂かれて、そしてこちら側へと吹き飛んだ。

 飛んできた襖を、横に跳んでかわした。

 かわしてから顔を上げると、尻餅をついた榛名の後ろ姿が見えた。

 そして、もう1つ。

 

「――――――――ッッ!!!!」

 

 咆哮が、来た。

 ビリビリと空気さえ揺らすその叫びは、人や獣のそれではない。

 ()()

 鬼が、そこにいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 鬼を視認した瞬間、瑠衣は斬りかかった。

 黒い霧を固めたような、靄がかった姿をした鬼だ。

 畳の床を抉り取りながら突進し、日輪刀を鬼の頚めがけて振るった。

 

「……っ!?」

 

 しかし、そこで不可解なことが起こった。

 瑠衣の刀は確かに鬼の頚を捉えたが、手応えがまるでなかった。

 刀が、鬼の身体を擦り抜けたのだ。

 霞でも斬ったかのような感触だった。

 

 ぎょっと目を見開く瑠衣の目前で、鬼が腕を振り上げるのが見えた。

 瑠衣は刀を立てて、防御の姿勢を取った。

 うなりを上げて、鬼の腕が振り下ろされる。

 だがまたしても不可解なことに、鬼の腕は瑠衣の身体さえ擦り抜けてしまったのだった。

 

「私もっ!?」

 

 攻撃や防御のための擦り抜けてはない。

 では何だ、と思った次の瞬間だ。

 

「きゃっ」

 

 鈍い悲鳴と共に、後ろで誰かが倒れる音がした。

 振り向く。

 榛名が倒れていた。

 その小さな背中から、(おびただ)しい量の血を流しながら。

 

「榛名さんっ!!」

 

 跳んで、そして助け起こした。

 うつ伏せの状態から胸に手を回して持ち上げると、切り裂かれた着物の下から、痛々しい切り傷が見えた。

 ぱっくりと肉が裂けてしまっており、傷口から止めどなく血が流れ出ていた。

 

 手当てをと思ったが、出来なかった。

 鬼が腕を振り下ろしてきたからだ。

 榛名を抱えて跳んだ。鬼の攻撃は空を切った、はずだった。

 腕の中で榛名がまた悲鳴を上げた。

 

「……っ。何で!?」

 

 榛名の背中から、鮮血が飛ぶ。

 それも同じ傷口からだ。

 傷はより深く切れていて、このままでは骨にまで達してしまいそうだった。

 混乱していると、鬼がまた腕を振り上げている。

 斬り払おうとしたが、刃は擦り抜ける。駄目だった。

 

「ごほっ」

 

 そして、煙だ。

 ますます室内を覆っていて、咳き込んでしまう。

 このままでは呼吸に支障をきたしかねない。

 

 鬼が腕を振るう。

 今度は榛名の背中は切れなかった。

 その代わりに、床に、壁に、天井に、獣の爪痕のような裂傷が走る。

 もしかしたら、先程の桐箪笥の破損もこのせいだったのかもしれない。

 

(ここにいたら不味い)

 

 榛名の怪我、通じない攻撃、火事の煙、そして迫る鬼の爪。

 とにかく、一旦この状況から脱出しなければ。

 そう思って、瑠衣は次の着地の瞬間に壱ノ型(塵旋風)を繰り出した。

 ただし今度は鬼への攻撃のためではなく、別方向の襖を突き破って隣室へ逃げるために放ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 部屋と部屋は繋がっていないのか、3つほど襖を開けて進むと鬼は追って来なくなった。

 煙も、幾分か薄まってきたような気がする。

 

「いやっ」

 

 今の内にと、榛名の手当てをしようとした。

 しかし、榛名は瑠衣の手を振り払って桐箪笥の陰に隠れてしまった。

 最初の状態に戻ったとも言える。

 問題は、背中の怪我を見せてくれないということだ。

 

「みないで……みないで……」

 

 うわ言のようにそう言って、背中を瑠衣から隠そうとしている。

 取り付く島もないとはこのことだ。

 だが榛名は子供の身体で流してはいけない量の血を流していて、放ってはおけなかった。

 

「榛名さん、せめて止血をさせて下さい。このままでは死んでしまいます」

「死なない」

 

 榛名の声だが、榛名ではなかった。

 驚いて振り向くと、そこに大人の姿の榛名が立っていた。

 いつからそこにいたのかはわからないが、酷く機嫌が悪そうな表情を浮かべていた。

 そして不思議なことに、幼い榛名はその存在に気が付いていないらしい。

 

「……()()()、さん?」

 

 試しに、そう呼んでみた。

 するとますます不機嫌な表情を浮かべたが、しかし否定はしてこなかった。

 返事もしなかったが。

 ただ、瑠衣の隣に膝をついて泣きじゃくる榛名を見下ろすと、悲しそうな表情に変わった。

 

「姉さん」

 

 やはり、弟の「あさひ」で間違いないようだった。

 ただ、榛名にはあさひの存在は見えていないようだった。

 

「あさひさん、ここはいったいどういう場所なのでしょう。そして、先程の鬼について何か知っているなら教えてくださいませんか」

 

 あさひは、答えようとしなかった。

 

「あさひさん」

 

 声に力を込めて、瑠衣は言った。

 

「このままでは榛名さんが」

「姉さんは死なないと言っただろう」

 

 ここは榛名の心の中なのだから、と、あさひは言った。

 いくら血を流したところで、死にはしない。

 だから榛名は大丈夫なのだ、と。

 

「ここは姉さんの夢の中なんだ。夢で人は死なない」

「でも」

「なんだ」

「でもこれは悪夢です」

 

 確かに、命は失われないかもしれない。

 だが、榛名は()()()()()()()

 ここが榛名の心の中だというのなら、ここで流す血は、そのまま心の傷を意味するのではないのか。

 それを「大丈夫」とは、瑠衣には言えなかった。

 

「教えて下さい、あさひさん。この悪夢のことを」

 

 あさひの目を真っ直ぐに見つめて、瑠衣はそう言った。

 榛名をこの悪夢から救うために。

 そして、諸悪の根源たる鬼を討つために。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――その姉弟に、血の繋がりはなかった。

 孤児だったのだ。

 この時代、珍しいことでもない。

 珍しいことがあるとすれば、まともな家に拾われたということだろう。

 そして、その家が「藤の家」であったことも。

 

「僕たちの養父母は、奇特な人だった」

 

 そして、優しい人達だった。

 何でも養父母の曾祖父は相当にお金にがめつい性格をしていたそうだが、鬼殺隊士に命を救われて以来、人のために財を投げ打つようになったらしい。

 自分の子孫にも、人助けの精神を説いていたようだ。

 

 養父母の代になっても、それは変わらなかった。

 それどころかその教えは善良な人間を生み、頑なな孤児の心を開かせる程になっていた。

 裕福ではなかったかもしれないが、恵まれていたとは思う。

 幸福だった。本当にそう思う。

 だがその幸福も、たった一晩で覆ってしまった。

 

「知っているだろうが、藤の家は鬼に狙われやすい」

 

 血のせいなのか、あるいは鬼の好む血なのか。

 一度鬼に襲われた家の人間は、不思議と鬼を引き寄せる。

 度々でも隊士が来てくれた方が、藤の家の者にとっても安心を得られるのだ。

 そして隊士がいない時でも鬼対策は万全で、榛名の家でも夜に藤のお香を焚いていた。

 だが()()()、藤の香は途切れた。

 

「失火か気候か、あるいは放火か。そんなことはもうどうでも良い」

 

 火事。香炉も藤の香りも、火の中へと消えた。

 そこを、鬼に狙われた。

 まず養父が家族を守ろうとして殺され、養母が姉弟を逃がすために囮となって死んだ。

 姉弟は、走った。ただただ走った。

 結果として、姉弟は()()()()()

 

「ここは、()()()()()()()()()()

「つまり榛名さんを外に連れ出すことが出来れば、この悪夢は終わる……ということですか?」

「そう、だな。そうかもしれない。ただ」

「ただ?」

「あの夜、姉さんは僕を探していた。でも僕はここにいる」

 

 だが、榛名はあさひのことが見えていない。

 見えていないものを、見つけることは出来ない。

 つまり、榛名は外に出ることは出来ない。

 弟を見つけるまで、榛名はこの家の中を彷徨い続けるだろう。

 

「この夢に本来関係のない私のことが見えているのに、どうしてあさひさんのことはわからないのでしょう」

「それは……」

 

 その時、視界の端に白い煙が立ち込め始めているのが見えた。

 瑠衣とあさひは、はっとして後ろを振り向いた。

 そしてそれを見計らったかのように、あの黒い霞のような鬼が、襖を突き破って室内に侵入してきたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 次の瞬間には、瑠衣は鬼の頚を斬っていた。

 

(――――駄目! やっぱり斬れていない!)

 

 だが、やはり手応えはない。

 しかも、同時に不味いことが起きた。

 

「――――ッ!」

 

 鼓膜を揺るがす鬼の咆哮。

 音の次に来たのは、衝撃だった。

 鬼の振るった腕が、瑠衣の身体を打ったのだ。

 擦り抜けない。その事実に二重の衝撃を受けた。

 

 鍛錬の賜物か、頭で思うよりも先に身体が動いていた。

 刀を立てて鬼の腕を受け止め、床に叩き付けられる前に受け身を取った。

 それでも、痛みは本物だった。

 畳の上を転がるようにして距離を取り、跳ね起きた。

 

「こ、の……!」

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』!

 床に足裏が着くと同時に、突進した。

 しかし同じことが繰り返されるだけだった。

 瑠衣は鬼に触れることが出来ない。

 

「よせ! ここは姉さんの悪夢の中だとお前が自分で言っただろう! その鬼だって現実の鬼じゃないんだ!」

「榛名さんの、夢の鬼?」

 

 鬼が振り回す腕を掻い潜りながら、瑠衣は考え続けた。

 こういう時に思うのは、やはり家族のことだった。

 槇寿郎や杏寿郎ならどうしただろう。

 あの2人なら、そもそもこんな状況に陥っていないかもしれない。

 千寿郎も、自分よりずっと賢いのだ。何か打開策を見つけるかもしれない。

 

(悪夢……榛名さんの、悪夢……)

 

 瑠衣は、異物だ。榛名の夢の登場人物ですらない。

 だから、榛名の夢に干渉することは出来ない。

 この世界の主は、あくまで榛名なのだから。

 

(榛名さんの……夢……)

 

 そうか、と、瑠衣の脳裏に閃きが走った。

 

「榛名さん!」

 

 桐箪笥の陰で未だ(うずくま)り続ける榛名に、瑠衣は叫んだ。

 

「これは夢です! 貴女の夢です!」

 

 どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのだろう。

 瑠衣はこれが夢だと知っている。あさひもこれが悪夢だと知っている。

 気付いていないのは、本人だけだ。

 

 夢は夢だと認識した瞬間に、夢ではなくなる。

 ああ、これは夢かと気付く、誰しもが経験したことがあるだろう、あの感覚。

 ()()()()()()()()

 

「榛名さん!」

「いや……いやだ……みないで……」

「榛名さん、聞いてください!」

 

 鬼が、榛名を見た。

 瑠衣の攻撃はやはり擦り抜けてしまう、鬼を止めることが出来ない。

 

「榛名さん、貴女は」

 

「貴女は、ここでは()()()()()()()()()!」

 

「榛名さん、貴女は鬼殺隊士です! 思い出してください。隊服の感触を、日輪刀の重さを!」

 

「本当の貴女は強い。上弦の鬼と戦って生き延びた! こんな鬼に負けるはずがないんです!」

 

 とんとん、と、規則的に小さく跳ねる。

 夢の中だというのに、瑠衣の額は汗に濡れていた。

 鬼が瑠衣を見ずに、榛名に向かっているからだ。

 

 跳ぶ。そして駆ける。

 畳や天井を砕きながら、瑠衣は走った。

 少しでも鬼の注意を引きたかった。

 嗚呼、だが駄目だ。止められない。

 

「榛名さん!」

 

 だから呼びかけた。必死だった。けれど。

 

「……むり、よぉ……」

 

 けれど、届かなくて。

 

「……みんな……みんな、死んでしまったわぁ……」

 

「……勝てるわけない……戦えるわけない……」

 

「……痛い、傷が痛くて……どうしようもないのぉ……」

 

 鬼が、腕を振り上げた。

 あさひが叫び声を上げて鬼の前に立ち塞がろうとしたが、鬼は意に介さなかった。

 榛名と同じで、この鬼もあさひのことを認識していなかった。

 飛び掛かったあさひだが、擦り抜けて向こう側に倒れただけだった。

 

 榛名は動かない。

 鬼を見さえしない。

 諦めたように蹲っている。

 鬼の腕が振り下ろされる。鋭利な爪が風を切った。

 

「榛名さんっ!!」

 

 次の瞬間、嫌な音が響き渡った。

 それは、肉が裂ける音だった。




最後までお読み頂き有難うございます。

せっかく頂いたキャラクターなので、今作は読者投稿キャラクターの掘り下げも出来たらいいな、と思っています。特に剣士。
ただ鬼滅的にはキャラクターの詳細が公開された時が一番危ないんですよね…(え)
なお私の描写力には限界がありますので、生みの親の皆様には出来れば温かい目で見て頂ければと思う次第で…(平身低頭)。

え、下弦の壱?
きっと杏寿郎さんと激しい戦闘を繰り広げているに違いない…!


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第13話:「ヒノカミ」

 炭治郎は、自分がどう行動するべきなのか判断がつかずにいた。

 目の前には、列車の座席に座った――床に寝かせるのもどうかと思って、座らせた――瑠衣と榛名がいる。

 2人の手はあの縄で結ばれており、瑠衣が榛名の夢に入って数分が経っていた。

 

 列車はまだ高速で走っていて、時折、巨人が足踏みするかのような衝撃が来る。

 杏寿郎が戦っているのだ。

 早く加勢に行かなければという焦燥感と、瑠衣達をこのまま置いていくわけにはいかないという義務感の間で、炭治郎は揺れていた。

 

「おい」

 

 杏寿郎からは、乗客を守りつつ、後は瑠衣の指示に従うようにとしか言われていない。

 炭治郎は鬼殺隊士としては下位の階級だから、先輩に当たる杏寿郎や瑠衣、あるいは榛名の指示というのは優先しなければならない。

 一方で、それだけが絶対だと思える程に思考停止しているわけでもない。

 

「おい……おい、三太郎」

 

 このまま瑠衣達が目覚めるのを待つだけで良いのか?

 床に正座したまま、膝の上で拳を固く握り締める。

 このままで良いのか。

 この事態の元凶である鬼を討つために、杏寿郎に加勢に行くべきではないのか。

 何か自分に、他に出来ることがあるのではないのか。

 

「おいっ!」

「……っ」

 

 不意に、肩を掴まれた。

 驚いて振り向くと、猪の顔があった。

 伊之助だった。

 彼は瑠衣達を指差すと、言った。

 

「こいつら本当に大丈夫か!? 何か唸ってんぞ!?」

 

 ほんの数瞬の間、炭治郎は伊之助を見つめた。

 この伊之助、前にも述べたが野生児である。猪に育てられたとも。

 初めて出会った時には、子供を踏みつけにし、無抵抗な善逸を殴ったりもした。

 その伊之助が他人を心配している様子に、炭治郎はあっけに取られたのだった。

 

 そして、同時に自分を恥じた。

 しっかりしろと、自分を叱咤した。

 傍らを見れば、当たり前の顔をして禰豆子が自分に貼り付いていた。

 長男として鬼殺隊士として、しっかりしなければ。

 

「大丈夫だ」

 

 気が付けば、言葉は自然に口をついて出ていた。

 見れば確かに、瑠衣も榛名も苦しそうに眉根を寄せていた。

 だがそれは、2人が戦っている証でもある。

 

「この人達は強い人だ。きっと鬼の夢に勝つ、信じよう」

「お、おう」

 

 信じて待つ。それも戦いだ。

 自分はその戦いに負けかけたのだと、炭治郎は思った。

 心の中で、炭治郎は伊之助に感謝した。

 

「そうだ、信じよう伊之助……ふがっ。むにゃむにゃ」

 

 善逸も同じ気持ちのようだった。

 ……たぶん。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――他に方法は無かった。

 こちらは鬼に触れられない。鬼はこちらに触れられる。

 そんな、いわば一方的に不利な条件の下では、他に方法は何も思い付けなかった。

 己が身体を、盾とする以外には。

 

「あ……あ……」

 

 榛名が大きく目を見開いている。

 瑠衣は今、榛名に半ば覆い被さるような体勢になっていた。

 片膝を床につけて、両腕を広げている。

 顔中に汗を滲ませていて、唇からは少なくない量の血が溢れている。

 それでも、瑠衣は笑顔のような表情を浮かべていた。 

 

「……っ」

 

 表情を引き攣らせながらも、立ち上がった。

 日輪刀は、放していない。

 鬼に向かって、構えた。

 夢だというのに、激痛と脱力感は現実そのものだった。

 

「う、あ」

 

 そして瑠衣が鬼に身を向けたために、榛名は見た。

 瑠衣の背中に刻まれた、鬼の3本爪の傷を。

 隊服が、いや肉が裂けて骨まで覗き、とめどなく流れる血が羽織を深紅に染めていた。

 足元の畳に、血の水溜まりが出来ている。

 

 瑠衣の背中と、足元の血。

 それらを何度も交互に見て、榛名は唇を震わせた。

 どうして、と、その瞳は問うていた。

 

「い……」

 

 気が付けば、想いは言葉になっていた。

 

「痛くないの?」

()()()()()()()

「怖くないの?」

()()()()()()()

「そんなの嘘だわぁ」

()()()()()()()()

 

 痛くないわけがない。

 怖くないわけがない。

 嘘ばっかりだ。

 それでも、瑠衣は刀を手に立ち続けている。

 

「どうして」

 

 いつしか、榛名の両目からは涙が零れていた。

 

「どうして、わたしを」

「共に、同じ任務を受けたからです」

「任務」

「この任務を、一緒に、生きて終えたいからです」

 

 任務、鬼殺の任務。

 はあ、と吐く息が、違ってきた気がする。

 肺が、胸が、熱くなってきたような気がした。

 

「どうして」

 

 胸を押さえながら、榛名は言った。

 目の前の、瑠衣の背中の傷を見つめながら。

 

「どうして、そんなに強いの?」

「強くなんて、ありません」

 

 振り向いて、そして、瑠衣は笑った。

 ああ、と、どこか安堵したような表情だった。

 

「貴女の方がずっと強いです、榛名さん」

 

 気が付いた時、榛名は自分の視点がぐっと上がっていることに気付いた。

 藤の花柄の着物の上に、黒い詰襟の隊服。背中と腰に、懐かしい重み。日輪刀。

 嗚呼、と、榛名は息を吐いた。

 ()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 心を無にせよ。

 自分の育手(師匠)は、良くそう言っていた。

 曰く「お前は雑念が多すぎる」。

 雑念は動きを鈍らせ、力みを生み、剣筋を乱す。

 

 心を(から)にせよ。

 散歩するように踏み込み、挨拶を交わすように刀を振れ。

 相手を見るな。ただ歩け。

 それだけで、その一振りは最強となる。

 

「本当だったわねぇ」

 

 ()()()()()()ボロボロと塵になっていく鬼を見もせずに、榛名は笑った。

 

「ここでは、わたしは何にだってなれるんだわぁ」

「はい、そうですよ。ここは榛名さんの夢ですから」

 

 良かった、と、瑠衣は思った。

 一時はどうなることかと思ったが、何とかなったようだ。

 榛名は自分を取り戻した。恐怖を乗り越えたのだ。

 それは、あんなにも無敵に近かった鬼が塵となって消えたことからもわかる。 

 とは言え、喜んでばかりもいられなかった。

 

「榛名さん、まだ外に鬼が……」

「わかってるわぁ。けど、少し待ってねぇ」

 

 一刻も早く現実に戻らなければならない。

 しかし榛名は、鬼の残骸を踏み越えて、少し歩いた。

 そして、立ち止まる。

 ()()()()()()

 

 姉さん、と呟くあさひに、榛名は両腕を回した。

 あさひの頭を、胸に抱きしめる。

 榛名は、あさひのことをしっかりと認識していた。

 それが榛名の変化を表しているのだろうと、瑠衣には思えた。

 

「やっと、見つけたわぁ」

 

 本当のところ、その言葉の意味は瑠衣にはわからない。

 ただ悪夢に落ちようとも、榛名が弟を探していたことは知っている。

 そこは、少しだけわかる気がした。

 同じ立場ならば、自分もきっと弟を探しただろうから。

 

「姉さん……!」

 

 あさひもまた、榛名の背中に手を回した。

 顔をくしゃくしゃにして榛名にしがみつくその姿は、なるほど、弟だと納得した。

 何だか、千寿郎に会いたくなった。

 次に家に戻った時、出会い頭に抱き締めてみようか。

 

(それにしても……)

 

 何故、榛名の夢はこんな悪夢だったのだろうか。

 瑠衣が記憶している限り、彼女が鬼に見せられたのは「幸福な」夢だった。

 思い返しても最悪な夢ではあったが、悪夢ではない、と思う。

 対象によって見せる夢を変えている、ということだろうか……。

 

「いや、姉さんも元々は家族と過ごす幸福な夢を見ていた」

 

 瑠衣の考えを察したのか、あるいは声に出ていたのか。

 榛名に抱き締められた体勢のまま、彼は言った。

 

「ああ、やっぱりそうなんですか」

「ただ、途中で変な奴が入り込んできた」

「変な奴?」

「ああ、そいつが来てから夢が変わったんだ」

 

 瑠衣は知らない。

 それが眠り鬼・魘夢に(そそのか)された人間ということを。

 そして彼が榛名の「精神の核」の破壊を目論んでいたことを、知らなかった。

 知らなかったのだが……。

 

「その変な奴というのは、どうしたのですか?」

「斬った」

「はい?」

「首を刎ねてやった」

 

 また随分と過激なことだが、今までのあさひの反応を思うと、不思議ではなかった。

 あさひならそういう対処をするかもしれない。

 

「姉さんも見ていたから、間違いない」

「はあ、なるほど……はい? 見ていたとは?」

「だから、そいつを姉さんの前で斬ったんだ。ちゃんと始末しないと姉さんも安心できないだろう」

「いや、それって……」

 

 ……それが原因なのでは?

 夢から覚める直前の言葉は、きちんと相手の耳に届いたかどうか。

 確かめる術はなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 下弦の壱。

 鬼の首魁・鬼舞辻無惨が、眠り鬼・魘夢に与えた位階だ。

 無数の鬼の中から選りすぐられた12体の鬼「十二鬼月」の、上から数えて7番目がそれだ。

 7番目――この数字をどう考えるべきだろうか。

 

 上から7番目、または下から6番目。何とも中途半端な数字だ。

 高いと見るべきか低いと見るべきか。

 あるいは、強いと見るべきか弱いと見るべきか。

 魘夢と対峙する杏寿郎の評価は、「厄介」というものだった。

 

(うむ、あの眠りの血鬼術は厄介極まりないな!)

 

 列車の屋根の上、目に見える光景が高速で後方に流れていく。

 そんな不安定な足場にあってなお、杏寿郎の構えには一部の隙もなかった。

 炎のように赤い日輪刀を両手で持ち、足を肩幅に広げ、腰を落とす。

 どっしりとした重厚な構えで、対峙した者は言い知れぬ圧力を感じるだろう。

 

(不甲斐ない! 未だ有効打を与えられないとは!)

 

 しかし、戦況は芳しくはない様子だった。

 対峙する魘夢には傷一つなく、杏寿郎の日輪刀に脅威を感じている風でもなかった。

 悠然と片手を杏寿郎に向けて、彼の動きを牽制している。

 杏寿郎が斬り込めば血鬼術で眠らせる、その繰り返しだった。

 炎の刃は、未だ一度も魘夢の身体に届いてはいなかった。

 

(うーん……参ったな)

 

 一方の魘夢。

 表面上は一切の揺らぎを見ていない彼だが、内心は苛立っていた。

 ()()が台無しにされたからである。

 

(こいつ、思ったよりも強い)

 

 元々の計画は、切符に仕込んだ血鬼術で鬼狩りを眠らせた上で、列車と一体化するというものだった。

 人間の(しもべ)が精神の核を破壊して廃人に出来ればよし、そうでなくとも、列車と一体化すれば車両は全て魘夢の()()()だ。

 200人からなる乗客諸共(もろとも)、喰ってしまえばそれで終わりだ。

 

 そうやって自身を強化している内に、より強力な鬼狩りが派遣されてくるだろう。

 柱だ。

 そしてもう1つの獲物までやって来れば、魘夢の目的は達成される――――はずだった。

 しかし現実には、杏寿郎のせいで列車との一体化さえ出来ていない。

 

(鬱陶しいなぁ)

 

 柱でもない癖に、と、静かな殺気を杏寿郎に向ける。

 杏寿郎も負けじと気迫を返し、2人の間の空気は震えんばかりに緊張していた。

 と、その時だった。

 

(む?)

 

 先に気付いたのは杏寿郎だった。

 魘夢に悟られぬよう、視線も動かさず気持ちさえ向けない。

 だが杏寿郎は、確かに気付いていた。

 客室車両と炭水車の間から顔を出した炭治郎が屋根によじ登り、魘夢の背後に立ったことに――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 奇襲でも仕掛けるのかと、杏寿郎は思った。

 魘夢は今も自分に集中しており、背後の炭治郎には気が付いていない。

 今ならば、反撃を受けずに頚を斬ることも――――。

 

「俺は鬼殺隊、階級・癸! 竈門炭治郎だ!! 今からお前の頚を斬る!!」

「……へぇえ?」

(よもや! 正直に名乗りを上げるとは!)

 

 ――――水の呼吸・肆ノ型『打ち潮』。

 杏寿郎が驚きと好ましさの入り混じった表情で見ている前で、炭治郎が魘夢に斬りかかった。

 炎や風とはまた違う、流れるような足運び。

 流麗だ。真面目に鍛錬に励んでいるのだろう。

 その刃が、魘夢の頚に届こうとした時。

 

『お眠りィィ』

 

 ――――血鬼術・『強制昏倒催眠の囁き』。

 眠りの血鬼術だ。

 杏寿郎は()()()を知っている。

 だが炭治郎は知らないだろう。だから杏寿郎は身を低くして駆けようとした。

 

 しかし、炭治郎は眠りに倒れることなく持ち堪えた。

 強く踏み込み、そのまま魘夢を斬ろうとする。

 よもや、と今度は純粋に驚いた。

 炭治郎は一瞬、確かに眠りに落ちた。しかし次の瞬間に()()()()

 

「おかしいなあ」

 

 炭治郎の流水の如き滑らかな斬撃を、魘夢は高く跳んでかわした。

 列車との速度差で着地が狂ってもよさそうなものだが、流石は超常の身体能力を持つ鬼。

 寸分違わずに、炭治郎が最初に立っていた位置に着地した。

 

「どうして、お前()には術が効かないのかな?」

 

 ――――獣の呼吸・弐ノ牙『切り裂き』。

 ――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃』。

 伊之助が頚を、善逸が足を狙っていた。

 しかし2人もまた、魘夢の血鬼術によって眠らされ、そして覚醒する。

 

(いや、おかしい)

 

 伊之助はそうだった。

 一瞬眠りに落ちたが故に狙いが逸れ、屋根に身体を打ち付けて転がり落ちた。

 下の方で「だあああっ、バレてんじゃねーか!」と叫び声が聞こえるので、どこかに掴まっているのだろう。

 いや、今はそれはどうでも良かった。

 

 問題はもう1人の方、善逸だ。

 善逸の狙いは全く逸れない。伊之助と違い眠りに落ちた様子がない。

 虚を突かれた形で、魘夢は驚きを持って善逸を見つめた。

 そして気付く。善逸が最初から目を閉じていることに気付く。

 

(こいつ!)

 

 そして気付いた時には、遅かった。

 次の瞬間、善逸の高速の居合いが魘夢の右足を斬り飛ばしていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 宙を舞う自分の足を、魘夢は他人事のように眺めていた。

 ぐらり、とバランスを崩しながら、善逸へと視線を向けた。

 眠りながら動く人間なんて、初めて見た。

 己の血鬼術が効かない、いや効いているが意味を成していない。

 

(術も解けていないくせに)

 

 雷鳴の如き居合切り。油断していた。回避できなかった。

 こんな子供に。

 こんな、術も解けていない奴に。

 腸が煮えくり返るような怒りに表情を歪ませながら、魘夢は足を再生させた。

 

「うおおおおおぉぉぉ――――っ!!」

 

 ――――水の呼吸・壱ノ型『水面斬り』。

 そこへ、炭治郎が正面から斬りかかって来た。

 さらに伊之助が屋根の上に戻ってきているのが見えて、善逸も再び構えを見せていた。

 自分の生命が脅かされているという事実に、魘夢は衝撃を受けていた。

 

 何だ、これは。何の悪夢だ?

 まさか、負けるのか?

 死ぬのか? この自分が?

 こんな、柱でもない小僧に頚を斬られるのか?

 そんな考えが頭の中を掠めた瞬間、魘夢の脳裏に去来したのはある場面だった。

 

『気に入った。私の血をふんだんに分けてやろう』

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 自分を除く下弦――肆と伍が鬼狩りに討たれた直後だった――の弐、参、陸は、下弦の弱さに失望した彼の主人、鬼舞辻無惨の手によって解体された。

 もちろん魘夢は他の鬼の死など気にもしなかったし、むしろ断末魔が聞けて幸福さえ感じていたが、まあ自分も殺されるのだろうとワクワクしていた。

 

『鬼狩りの柱を殺せ。私の役に立て』

 

 しかし、殺されなかった。認められたのだ。

 むしろ大量の血を与えられて、魘夢はより大きな力を得た。

 始祖の血の力は凄まじく、魘夢は大いなる全能感を友としてここへ来たのだ。

 主人の期待に応えて鬼狩りの柱を殺し、そして。

 

『耳に花札のような飾りをつけた鬼狩りを殺せば、もっと血を分けてやる』

 

 ああ、今まさに自分に斬りかかっている子供。

 花札の飾りを、日輪の耳飾りを揺らすこの子供こそ、主人の言っていた鬼狩りだ。

 この子供を殺せば、また大量の血を分けて貰える。

 

 そうしてもっと強くなれば、上弦の鬼に「入れ替わりの血戦」を挑める。

 自分はまだまだ上に行ける。強くなれる。

 それは希望であり、確信だった。

 しかしそれが今、否定されようとしていた。

 ――――そんなことは、許されない。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 悲鳴が、上がった。

 だがそれはその場にいる誰のものでもなかった。

 

「うっ……!」

 

 一瞬、腐臭がした。

 それはすぐに風に流れてしまって、炭治郎でなければ嗅ぎ漏らしていたかもしれない。

 そして炭治郎は、その臭いに覚えがあった。

 車掌が漂わせていた、微かな鬼の匂いに似ている。

 

 また、悲鳴が聞こえた。

 今度は、はっきりとわかった。足元だ。下の車両から聞こえて来た。

 まるで地響きのように、足裏から車両内の騒動を感じ取ることが出来た。

 魘夢の血鬼術で眠らされていたはずの人々が、起き出している。

 だが、明らかに様子がおかしかった。

 

「うふふふふ……」

「お前! 何をした!?」

「何をしただって? 起こしてあげたのさ、悪夢からね。親切だろう?」

 

 硝子の割れる音がした。

 車両の窓が、内側から割られたのだ。

 そしてそれは足元の車両だけでなく、他の車両にも広がっていっている。

 

「乗客達には同じ悪夢を見せてある。()()()()()()()()()()()()()()

 

 現実ではほんの一瞬でも、夢の中では時間は無限にも等しい。

 魘夢は乗客達に繰り返し繰り返し、隣席の乗客に惨殺される悪夢を見せたのだ。

 そして一斉に、解放した。

 目を覚ました乗客は、その時どんな反応をするだろうか。

 そこに思い至って、炭治郎は表情を青褪めさせた。

 

「うふふ、素敵だねその顔。いいねいいね、わかってきたかな?」

 

 夢と、悪夢と同じ状況で目が覚める。

 それも「目を覚ます」という状況も全く同じはずで、次の瞬間に襲われることが()()()()()()

 車両内は、混乱の坩堝(るつぼ)と化すだろう。

 今頃は、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されようとしているはずだ。

 

「禰豆子――――ッ!」

 

 まず、禰豆子のことを思った。

 危険だからと下に置いて来てしまった。

 だが、その次の言葉が出て来なかった。

 逃げろと叫ぶべきか、乗客を助けろと言うべきなのか、一瞬迷ったのだ。

 

「迷う必要などないぞ、竈門少年!」

 

 その時、ずい、と杏寿郎が炭治郎の前に出て来た。

 魘夢の策略を聞いても、その表情は露とも揺らいでいなかった。

 

「例えどのような状況に陥ろうとも、我々のすべきことは何も変わらない!」

 

 目的を定めたのなら、立ち止まらず、振り返らないことだ。

 脇道に逸れず、真っ直ぐに走ることだ。

 そして鬼殺隊士の目的は、いつだって1つだ。

 

「鬼の頚を斬ることだ!」

「ふうん。そのためなら、乗客200人がどうなっても良いってことかな? うふふ、まあ、嫌いじゃないけどね。そういう」

「いいや、そうはならない」

 

 自信に満ち溢れた表情で、杏寿郎は断言する。

 そうはならない、と。

 

「200人の乗客に犠牲が出る前に、お前の頚を斬ればいい」

 

 それに、と、杏寿郎は言った。

 

「お前は忘れているようだが」

 

 その時だ、何かを引っ掻くような甲高い音がした。

 同時に大きく列車が揺れ、その場にいる全員が膝をつくか踏ん張る体勢を取った。

 そして、見る間に後方へと流れていく景色の速度が落ちていく。

 これは……。

 

「俺達の仲間は、なかなかに強かだぞ」

 

 そして次の瞬間、列車は極めて危険な勢いで急停止を始めたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 すみません。

 そう言って、瑠衣は機関士の体を床に横たえた。

 機関室の後頭部には大きなこぶが出来ており、気絶させられたことが想像できた。

 そして今の状況で起きているということは、鬼に協力していたことも意味していた。

 

 だが、それを責める気はなかった。

 辛い現実と幸福な夢を天秤にかけられて、迷わない人間がいるはずがないからだ。

 誰だって、不満の1つや絶望の1つはあるのだ。

 責めるべきは、そんな人の心に付け込む鬼の方だった。

 

「榛名さん、どうですか?」

「う~ん、そうねぇ」

 

 後ろを振り仰ぐと榛名が運転台に立っていて、色々な機器を前に難しい顔をしていた。

 何をしているのかと言うと、列車を止めようとしているのだ。

 当然のことだが、瑠衣と榛名に蒸気機関車の知識などあろうはずもない。

 というか、機械というものにはとんと縁がない。

 

 実際、瑠衣は運転台に備えられている機器や計器のどれ1つとして知らない。

 だが、それでもこの列車を止めなければならない。

 鬼と200人の乗客を乗せたまま走り続けるというのは、余りにも危険だった。

 戦場にするにも、足場が悪すぎる。

 

「子供の頃、見せて貰ったことがあるのぉ」

 

 と、榛名はおもむろに何らかの握りに触り始めた。

 ちょうど石炭の火を横目に見る位置にあるそれは、どうやら左右に動く構造になっているようだった。

 かなり固そうだが、呼吸で身体強化している榛名には苦ではなさそうだ。

 

「ええっとぉ。確かここを……こうだったかしらぁ?」

 

 ガキッ、ガキッ、という金属音と共に、握り(ハンドル)が右へと動いていく。

 激しく空気の抜ける音が幾度もして、しかもこれが余りにも甲高いものだから、端から見ているしかない瑠衣は気が気でない様子だった。

 だが榛名の行動の結果か、独特の引っ掻き音と共に車両に制動がかかっている感覚があった。

 外を見てみれば、なるほど後方へ流れていく景色が先程よりゆっくりになっている気がした。

 

「榛名さん、何だか列車が遅くなってる気がします!」

「あら! じゃあ、やっぱりこれで良かったのかしらぁ?」

 

 それがいけなかった。

 瑠衣の言葉に喜々として応じた榛名。

 彼女はそれまで慎重に押し込んでいた握りを、一気に押し込んだ。

 一気に、である。

 

「あ、あらぁ?」

 

 一瞬の静寂。

 しかる後、来るべき衝撃がやって来る。

 高速で走っている最中、非常ブレーキが作動したのだ。

 その衝撃に、瑠衣と榛名は悲鳴を上げる嵌めになった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 己の呻き声で、炭治郎は目を覚ました。

 うう、と呻いたところで、はっとした。

 いけない、と身を起こす。気を失っていた自分を叱咤した。

 

「……っ。伊之助、無事だったのか!」

 

 ふと横を見ると、伊之助が刀を両手に持ったまま立っていた。

 見れば善逸が足元で倒れ()ている。伊之助が助けてくれたのかもしれない。

 禰豆子は、と周囲を見渡すと、止まった列車が見えた。

 止まったというより、機関車と最初の2両が脱線しているようで、それで止まったようだ。

 その衝撃のおかげなのか、あの異様な混乱は一時鎮まっているようにも見える。

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 地面が揺れた。そう思える程の踏み込みの衝撃に、炭治郎はそちらへと顔を向けた。

 杏寿郎が、魘夢と戦っていた。

 炭治郎を驚かせたのは、杏寿郎もだが、魘夢の強さだった。

 

「お前達のおかげで、俺の計画は台無しだよ。こんな気分になったのはいつぶりかな」

 

 杏寿郎の斬撃を、魘夢は腕で止める。

 もちろん振り下ろされた日輪刀は魘夢の腕を裂くのだが、肘まで切り裂いたあたりで、魘夢がもう片方の手で杏寿郎の腕を掴む。

 骨が軋む程の握力に、杏寿郎が顔を顰めた。

 

「む……!」

「捕まえた」

 

 回りくどい戦術と眠りの血鬼術のせいで勘違いしてしまうが、魘夢は「下弦の壱」だ。

 上から7番目と言えば中途半端に聞こえるが、鬼舞辻無惨と上弦の鬼を除けば、最強の鬼なのだ。

 普通に戦って、並の鬼に後れを取るはずもない。

 あの下弦の肆でさえ、魘夢に「入れ替わりの血戦」を挑もうとすらしなかったのだ。

 

「お前にはとびきりの幸福な夢を見せてやるよ。その後で悪夢を見せて、歪んだ表情になったお前を食べてあげる」

「そうか、それは恐ろしいな!」

 

 杏寿郎は刀から手を放さない。引く様子もない。

 鬼と伍する驚異的な膂力でもって、全力で押し込んでいる。

 このまま魘夢が血鬼術を使えば、彼の宣言通り、眠らされた上で喰われてしまうだろう。

 だが、杏寿郎に焦った様子はなかった。

 

「だが、そうはならない」

「強がりかな?」

「いいや、何度でも言おう! 俺達の仲間は強い!」

 

 魘夢を()()()()()()まま、杏寿郎は叫んだ。

 

「そうだな、瑠衣!」

「――――はい!」

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯(こが)らし(おろし)』。

 一陣の風が、2人を包むように吹き荒れた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 両手で持った日輪刀を、頚に叩き付けた。

 金属に金属を打ち付けたような、固い音が響き渡る。

 

(――――硬いっ!)

 

 完全に不意を突いたはずだが、頚の切断には至っていない。

 瑠衣の刀は魘夢の頚を捉えてはいるものの、刃がそれ以上進まなかった。

 何という強靭な頚だ。

 だが、チャンスは今しかなかった。

 

 杏寿郎が押さえつけている今が最大の好機なのだ。

 今、斬らなければ。

 そう思い、瑠衣は両腕に満身の力を込めた。

 絶対に斬るのだという強い意思が、魘夢の頚に刃を押し込んでいく。

 

「うああああああああああぁぁぁっ!!」

「グゥウウウオオオオオアァァァッ!!」

 

 瑠衣の口から裂帛の叫びが出て、魘夢の口からは抵抗の叫びが出た。

 斬れろと念じる瑠衣に、そうはさせじと身を固める魘夢。

 杏寿郎は血管が浮き上がる程の腕力でもって、魘夢を押さえ込み続ける。

 

 しばしの拮抗。

 だが飛び込みの勢いの分だけ、瑠衣の斬撃の方が優位だった。

 ぎし、と何かが軋む音と共に、瑠衣の刃が魘夢の頚に半ばまで喰い込む。

 行ける、そう思った時だ。

 

「……ッ!」

 

 魘夢の頬のあたりに、目玉が開いたのだ。夢の一字を刻まれた目だ。

 血鬼術だ。しまったと気付いた時には、すでに遅い。

 眠らされる、と、頭の中で血の気が引く音がした。

 起き方は承知しているが、それでも一瞬の隙が出来ることは免れないだろう。

 魘夢が今の状況から逃れるのには、十分な隙だ。

 

(駄目、逃げられる……!)

 

 せっかく、杏寿郎がチャンスを作ってくれたのに。

 

(……いいや! 諦めない!)

 

 頚は半ばまで斬れている。

 眠らされる前に、振り抜いてしまえ。

 何としても、何としても……!

 

『眠れェェ!』

(眠るなあああああああっ!!)

 

 急速に訪れる眠気に抵抗しようと、目を見開いた。

 すると、あるものが目に入った。

 

(――――え?)

 

 魘夢の向こう側、ちょうど瑠衣の反対側だ。

 そこに、1人の少年がいた。

 炭治郎だ。

 彼は日輪刀――刃が黒い。黒刀とは珍しいと思った――を両手で握り、腰を回して振り上げていた。

 それは剣技の型というよりは、舞のように思えた。

 軽やかで、堂々としていて、目を引く。

 

「おい! 今からお前の頚を斬るぞ!」

(な、何で自分から……?)

 

 馬鹿正直すぎる。不意打ちのチャンスを自ら不意にした。

 魘夢の意識がそちらへと向いて、瑠衣への血鬼術の圧力が弱まった。

 それによって、聞こえた。

 最初は何の音かわからなかったが、それが炭治郎が発している音だと気付くと、わかった。

 これは、炭治郎の呼吸音だ。

 

(水の……え、でも、この音は)

 

 この、燃え盛る()()()()()呼吸音は何だ。

 瑠衣が困惑した次の瞬間、炭治郎は刀を振るった。

 まるで円を描くように振るわれた刀は、魘夢の頚、まさに瑠衣と反対の位置に打ち込まれた。

 そして、まるで高熱で鉄を溶かすかのように。

 

 ――――ヒノカミ神楽『円舞』。

 

 魘夢の頚が、切断された。

 余りにもあっけなく、頚が胴から離れてしまった。

 宙を舞う魘夢の顔は、信じられないものを見るような目で炭治郎を見ていた。

 そして奇しくも、瑠衣もまた同じような表情で炭治郎を見つめていたのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

ようやく出せたヒノカミ神楽。
何か響きが良いですよね、ヒノカミ神楽。
やはり原作主人公こそ最強…!(え)

というわけで、無限列車編もクライマックスです。
劇場版より先に出来てよかった(え)

それでは、また次回。


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第14話:「上弦の参」

 ――――は?

 己の身に何が起きたのか、魘夢は咄嗟に判断が出来なかった。

 視界が一回転した。

 そして視界の中に、頚の無い燕尾服の男が立っているのが見えた。

 

 何だ、あれは?

 頭がないなんて変なやつだと、馬鹿みたいなことを考えた。

 しかしその直後に、気付いた。

 地面に強かに顔を打ち付けながら、魘夢はそれが己の胴体なのだと理解した。

 

「……………………は?」

 

 地面に顔を打ち付けた程度、気にもならない。

 それどころではない。

 自分の胴体が倒れているのが見えた。

 だが、その「倒れる」という感覚が魘夢に訪れることはなかった。

 それはすなわち、感覚の全てを失っていることを意味した。

 

(体が崩壊する……! 再生できない……!)

 

 敗北。

 死。

 その2つの言葉が心中に浮かぶや、魘夢の顔に浮かんだのは憤怒の色だった。

 頭が赤黒く膨れ上がって、血管が浮かび上がった。

 

(こんな、こんなことが、こんなはずじゃ……!)

 

 計画の(ことごと)くを潰されて、上弦に挑むことも叶わなかった。

 どうしてこうなった。

 誰がこんなことをと、魘夢は思った。

 

(あいつら……!)

 

 まず杏寿郎、あの男がいたために汽車と一体化する計画が台無しになった。

 それから伊之助と善逸、あの2人も鬱陶しかった。

 あの鬼の娘、禰豆子。鬼狩りに与する鬼。どうして()()されない。

 列車を止めた榛名に瑠衣、術をどうやって破った。

 

 何より、炭治郎。あの子供。

 杏寿郎と榛名、年長の鬼狩りが斬れなかった頚をあっさりと斬った。

 しかも頚の切断面の傷口が、焼けるような痛みを訴えている。

 それがまた魘夢を苛立たせる。

 何もかもが思い通りにならない不条理に、魘夢は歯ぎしりした。 

 

(畜生、ちくしょう……!)

 

 誰か1人でも殺してやれたなら。

 そう思うが、ついに視界がバラけ始めた。

 頭が崩壊する。死がやって来る。

 どうすることも出来ない。鬼狩りの刀で斬られた者の末路は良く知っていた。

 

 自分は選ばれた存在だと思っていた。

 あの方に、鬼舞辻無惨に不死を与えられて、血まで受けて、選ばれた鬼になった。

 いずれは鬼としての頂へ。その資格があると信じていた。

 それなのにこの様、ああ、ああ情けない。

 

(最期に見るのが鬼狩りの顔なんて)

 

 もはや閉じることすら出来ない視界の中、最期に見たのは己を斬った鬼狩りの子供だった。

 蔑むのか、勝ち誇るのか。

 そのどちらかなら、ずっと()()()()()

 鬼狩りの子供、炭治郎が浮かべていた表情に、魘夢は呻いた。

 

(鬼狩りに、()()()()()()()()

 

 ああ、何という悪夢か――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 力なく地面に落ちた燕尾服に、炭治郎は手を添えた。

 鬼は、死体も残さずに消える。

 こうして手を置いても、さらさらとした灰の感触が僅かにあるだけだ。

 何度経験しても、炭治郎はそれが哀しく思えてならないのだった。

 

「竈門少年」

 

 そんな炭治郎に、杏寿郎が声をかけた。

 地面に膝をついて、炭治郎の目を見つめた。

 

「竈門少年、鬼にあまり入れ込まない方が良い」

 

 見た目が人間に近かろうが、鬼は人間ではない。

 何人も何十人も、あるいは何百人も何千人もの人間を喰い、あるいは殺している。

 下弦の壱ともなれば、何十年何百年と生きていてもおかしくはない。

 人間の天敵。怪物、化物だ。

 

 化物に同情心など持つべきではない。

 そんなものを持てば、いざという時に剣先が鈍りかねない。

 それは自分の命を、ひいては守るべき命を危険に晒すことになる。

 だから、鬼に憐れみのような感情を持つべきではないのだ。

 

「殺された人達のため、これ以上の被害を出さないため……もちろん俺は鬼の頚に刃を振るいます」

 

 炭治郎は、鬼を憐れんではいなかった。

 ただ、人間だった()()を憐れんでいた。

 

「でも鬼は人間だったから。俺と同じ、人間だったはずだから」

 

 鬼は哀しく、虚しい生き物だ。

 何かを求めて鬼になったはずなのに、何を求めていたかを忘れてしまった。

 けして手に入らない何かを求め続けるその姿は、あまりにも哀しく、そして虚しい。

 

「だから俺は、鬼を斬るんです」

 

 むう、と、杏寿郎は唸った。

 彼が炭治郎個人に関心を持とうと思う瞬間があるとしたら、この時であっただろう。

 杏寿郎はこの時、初めて竈門炭治郎という人間に興味を持った。

 妹を鬼にされてなお、真っ直ぐな瞳で自分を見つめる少年に。

 

「あの野郎……やりやがった……」

 

 伊之助は、最初の位置に立ったままだった。

 切っ先こそ下ろしているがまだ刀は握ったままで、その拳が震えていた。

 猪頭で見えないが、伊之助は今、怒りと悔しさで震えていた。

 

 杏寿郎と魘夢の近接戦闘に入り込む余地が見えなかった、というのが1つ。

 彼は優れた肌感覚でもって、杏寿郎が己よりも遥かに高みにいること、そして下手に手を出せば邪魔にしかならないことを理解していた。

 だから手を出せなかった。だが……。

 

「くそ、俺は山の王だぞ……! それがビビって情けねえ、くそっくそっ!」

 

 だが炭治郎が果敢に斬りかかり、鬼の頚を取ってしまったではないか。

 子分なのに。親分なのに。

 地団駄を踏み、全身で悔しさを表す伊之助。

 もし猪の被り物をしていなかったら、真っ赤に膨れ上がった顔が見えたことだろう。

 

「…………」

 

 そして、もう1人。

 日輪刀を握ったまま、炭治郎から目を離さずにいる者がいた。

 

「……今のは……」

 

 瑠衣だった。

 彼女は目を真ん丸に見開いて、額に汗さえ滲ませて、下弦の頸を斬った後輩を見つめていたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 形の上では、共同討伐と言える。

 瑠衣が半ばまで斬っていた鬼の頚を、炭治郎が反対側からもう半分を斬ったのだ。

 もちろん魘夢を押さえ込んでいた杏寿郎の功績でもある。

 しかし、実態は違う。

 

(やられていた。確実に)

 

 炭治郎が斬りかかるあの瞬間、魘夢の血鬼術は瑠衣を捉えていた。

 魘夢は逃亡に成功しつつあったのだ。

 瑠衣は、魘夢の頚を斬れなかった。

 仮に共同討伐だったとしても、そこに自分は入らないのだ。

 

 そして何よりも、炭治郎の剣技だ。

 炭治郎の呼吸は水だったはずだが、水の型にあんな技はなかったはずだ。

 呼吸の音も全く違っていた。

 あれは、何だ。瑠衣の知るいずれの呼吸とも違う。

 

「竈門君」

「あ、はい!」

 

 気が付けば、瑠衣は炭治郎に声をかけていた。

 炭治郎は素直に返事をして、純真な顔で瑠衣を見上げてきた。

 そんな様に、瑠衣は一瞬言葉に詰まって。

 

「あ……いえ。怪我はありませんか?」

 

 と、別の言葉を口にした。

 

「はい! 大丈夫です。ありがとうございます!」

 

 炭治郎の返事は快活だった。

 心配してくれたことに心から感謝をしている、ということが、声音と表情ではっきりと伝わって来た。

 子供らしいというよりは、これは炭治郎の生来の気質なのだろうと思えた。

 

「い……」

「え?」

「妹さんを、探しましょう。榛名さんと、列車の乗客の無事も確認しないと」

「あ、そうですね! 善逸……は寝てるな。伊之助、列車の方を見てこよう!」

「うるせえ! 子分のくせに指図すんじゃねえ!」

「ごめん! ……っと」

 

 駆け出そうとした炭治郎だが、不意に足がもつれてしまった。

 瑠衣があっと思った時には、伊之助が横から腕を出して炭治郎を支えていた。

 

「おい、何やってんだよ」

「ご、ごめん。ヒノカミ神楽を使うと凄く疲れるんだ」

「ったく、仕方ねえな。俺様は親分だからな、子分の面倒を見るのも親分の仕事だからな」

 

 ヒノカミ神楽?

 炭治郎を助けようと伸ばしかけた手をそのままに、瑠衣は遠ざかっていく炭治郎と伊之助の背中を見つめ続けていた。

 あの剣技は何。あの呼吸は何。ヒノカミ神楽って、何のこと?

 その目は、千の言葉よりも瑠衣の気持ちを語っていた。

 

「いや! しかし大したものだ、竈門少年は!」

 

 杏寿郎も炭治郎や伊之助のことを見送っていたが、言葉通り感心の色しか見えなかった。

 自分とは違う。

 そう思うと、心臓を掴まれたかのように胸が締め付けられた。

 

「実に見事な剣技だった。あの若さで、行く末が楽しみだ!」

「そう、ですね」

 

 ああ、()()だ。

 過去にも、似たような()()があった。

 何と表現すべきか、言葉にするのは難しい。

 すると、黙り込んだ妹の様子をどう解釈したのか、杏寿郎が手を瑠衣の頭に乗せた。

 そのまま、ぽんぽんと軽く叩いた。

 

 瞬間、瑠衣の顔がかっと紅潮した。

 

 何か言われたわけではない。

 ただ何か、自分の未熟で邪まな部分を見透かされたような気がした。

 杏寿郎の手が髪に触れたのはほんの僅かな時間のことだったが、それだけで瑠衣の心は千々に乱れた。

 何という未熟。浅ましい。瑠衣の胸中に、己を罵倒する言葉が浮かんでは消えていった。

 それを聞く者が自分以外には誰もいないということだけが、唯一の救いだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼殺隊士にとって、深夜こそ1日の始まりと言える。

 故に、深夜に鎹鴉の召喚命令が届いたとしてもおかしくはない。

 だから槇寿郎は慌てずに身支度を整えたし、眠る千寿郎に気取られることなく屋敷を出た。

 

「――――柱稽古、ですと?」

 

 槇寿郎が通されたのは、会議の間ではなく、産屋敷の私室だった。

 産屋敷は加減が悪い様子で、布団に臥せっていた。

 病によって焼け爛れた顔は、いつにも増して青白く見える。

 しかしそれでも槇寿郎の顔を見ると、妻である産屋敷あまねに支えられながらだが、身を起こした。

 

 ふとあまねと目が合い、目礼した。

 あまねは白樺の木の精と見紛うばかりに美しい女性で、しかし当主の妻としての気構えと器を感じさせる女性でもあった。

 そのあたりは、今は亡き妻に少し似ていると槇寿郎は思っていた。

 いや、今はそれよりも産屋敷の話だ。

 

「最近、剣士(こども)たちを鍛えた方が良いという声が上がっているだろう?」

 

 産屋敷は、隊士のことを「こども」と呼ぶ。

 槇寿郎のような年上の隊士も例外なく「こどもたち」の1人として扱う。

 それは鬼殺隊の父として剣士達を守り導くという意思表明であり、ほとんどの隊士はそのように接する産屋敷のことを実の父か兄のように慕っていた。

 

「柱に隊士の訓練をさせようというお話でしょうか?」

 

 以前からそういう構想は何度か持ち上がっていた。

 特に最近は隊士の質の低下を指摘する声が柱からも出ていて、放置できない問題になりつつあった。

 ただ広範囲の鬼狩りを担当する柱は忙しく、継子以外の鍛錬までしている暇はなかなか作れない。

 他の隊士にしても、常時それぞれの任務に就いている。

 

「槇寿郎は杏寿郎に炎柱を譲った後はどうするのかな」

「は……」

 

 槇寿郎の頭にあるのは、引退の2文字だった。

 第一線を退き、後進の育成に。

 後進の育成。

 槇寿郎は、産屋敷の微笑を見つめた。

 

「……元()に稽古をさせるおつもりですか」

「流石は槇寿郎、鋭いね」

 

 育手。各地で隊士候補生を育てる元隊士達だ。

 しかし育手によって質には当然バラつきがあり、育てた候補生も最終選別で命を落とす者がほとんどというのが現状だ。

 そんな中でも、元柱が育てた隊士は比較的に実力のある者が多い傾向にある。

 おそらく、ほとんど継子と同じような扱いになるからだろう。

 

「何人かの育手を組織化して、隊士の育成と訓練をと思っていてね」

 

 育手個人ではなく、集団体制での育成と訓練。

 これもまた、過去に何度か出た構想ではある。

 ただ個々の育手は極めて職人気質が強く、いわゆる教育者とは違う。

 そのため、これも実際には実現したことはない。

 

「杏寿郎に炎柱を継承した後、槇寿郎にはその統括を任せたいんだ」

 

 だが、中心となるべき存在がいたとしたらどうだろうか。

 槇寿郎に対しては、職人気質の育手達も一目置くだろう。 

 それならば、もしかしたら上手くいくのかもしれない。

 ただ……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実のところ、槇寿郎は自分が安穏とした隠居生活を送れるとは思っていなかった。

 柱を辞しても煉獄家の当主であることに違いはなく、鬼殺隊への貢献が求められる。

 だが、それはあくまで裏方としての意味だった。

 まさか公的な役職を持って何かをしろとは、思っていなかった。

 

 槇寿郎は、1人の剣士でありたかった。

 剣士として生き、剣士として死にたかった。

 一方で、それが難しいことも理解していた。

 何もかもを投げ出すことが出来たなら、どれほど楽だろうか。

 

「……瑠火が聞いたら、怒るだろうな」

 

 産屋敷邸の廊下を歩きながら、月を見上げた。

 嗚呼、妻が死んだ時もこんな夜だった。

 月は妖しい美しさを湛えてそこにあり、鬼の啼く声が木霊する。

 喪失感と無力感に沈んだ夜。

 

『――――父様』

 

 ああ、そう言えばそうだった。

 あの娘が、自分のことを「父様」などと畏まって呼ぶようになったのは、あの時からだった。

 瑠火の、母の髪留めで髪を結い始めたのもあの時からだ。

 槇寿郎にとっては、あまり良い記憶とは言えない。

 

 だが()()がなければ、おそらく自分は駄目になっていたと思う。

 千寿郎は幼すぎたし、杏寿郎はきっと物分かりが良すぎた。

 つくづく自分は駄目な父親だったと、そう思った。

 たぶん、今もそれほど変わってはいないと思うが……。

 

「え、炎柱様!」

「お疲れ様です!」

 

 考え事をしながら歩いていたせいか、気が付けば産屋敷邸の門を潜っていた。

 その時、たまたま通りがかったらしい若い隊士を見かけた。

 緊張した表情で挨拶をしてきた彼らに、槇寿郎は答えた。

 

「ああ、山田君に増山君。これから任務かね?」

「あ、は、ははい!」

「そうか、良く務めるように。戦果を期待しているよ」

「は、はいっ!」

 

 特別なやり取りではない。

 少なくとも槇寿郎にとってはそうだった。

 

「す、すっげー。炎柱様と話ちゃったよ~」

「しかも俺達の名前を覚えててくれてるなんてな!」

 

 だが、角を曲がった後に聞こえて来た会話に、思わず嘆息を零した。

 もう一度、月を見上げた。

 剣士として鬼を狩っていた時は、あの妖しくも美しい月が鬼を呼んでいるようで、忌々しく思うこともあったものだが。

 今は、それが何故か懐かしく思えてしまうのだった。

 

(杏寿郎と瑠衣は、どうしているだろうか)

 

 槇寿郎は、剣士のままでありたかった。

 叶わぬからこそ、焦がれるのだろうかと。

 そんなことを、思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 思いのほか、怪我人も少ないようだった。

 最悪の場合を覚悟していただけの、その事実は炭治郎を安堵させた。

 

「禰豆子!」

「ムー!」

 

 脱線した列車のそばにいた禰豆子は、炭治郎の姿を認めるとトコトコと走り寄って来た。

 禰豆子の無事な姿に――日輪刀と太陽の光以外で死ぬことはないと頭ではわかっているが――ほっとした炭治郎は、飛び込んで来た妹を抱き留めた。

 見た目からは想像できない力強さに、内心で「うっ」と息を漏らした。

 

 周囲を見渡すと、乗客達がそれぞれに車両の外に出ているのが見えた。

 元気なものは、怪我をした乗客を助けていた。

 魘夢の血鬼術の効果は、完全に失われている様子だった。

 ただもしかしたら心に傷を負ってしまった者もいるかもしれず、それは心配だった。

 例えば……。

 

「大丈夫かしらぁ?」

 

 榛名が、列車のそばに座り込んでいる男女に声をかけているのが見えた。

 あの瑠衣達の夢の中に侵入した、魘夢に協力していた者達だ。

 鬼に協力した彼らは、今後どうなるのだろうか。

 

「……首を斬られて大丈夫なわけないだろ……」

 

 男の方は、顔色は悪いが喋れる程度には快復しているようだった。

 炭治郎は知る由もないが、彼は夢の中であさひに斬られたのである。

 ただ、鬼に唆されたからとは言え精神の核を破壊しようと――要は殺そうと――したのだから、首を刎ねられたことについて文句の言いようもないだろう。

 むしろ問題は、娘の方だった。

 

「……………………」

 

 青褪めた顔。乾いた唇。震える身体。肩を抱きしめる手指。

 膝を抱えたまま震える娘は、明らかに何かに怯えていた。

 榛名の言葉も聞こえていない様子だった。

 ただ榛名が膝をついて手を伸ばした時には、流石に存在に気付いたようだ。

 

「見ないで……!」

 

 その手を叩き払って、叫んだ。

 次いで炭治郎達のことにも気付いたのか、ひっと息を呑んだ。

 

「私を見るなあっ!」

「はあ? 何を言ってんだこの女」

「うううるさいっ、うるさい! 見るな、見ないでったらあっ!」

 

 恐怖の匂いがした。

 炭治郎や伊之助の視線を遮るように腕を振り回した後、娘は己の膝に顔を埋めた。

 そのまま頭を抱えて、こちらに対して完全な明確な拒絶を示してくる。

 

「……見ないで……」

 

 ――他人の夢に入るというのは、非常に危険な行為だ。

 夢は本人の意識が強く、侵入した側に強い心理的影響を与えてしまうことがある。

 あの魘夢でさえ、自ら他人の夢に入ろうとはしなかった。

 ただこの娘は、そうした警告は受けていなかった。

 

 当たり前と言えば当たり前だった。

 魘夢は娘を利用していただけで、リスクについて警告する義理などないからだ。

 結果として、娘は心に深い傷(トラウマ)を受けることになってしまった。

 

「目……目が、いっぱいあって……ああ、見ないで……みない、でえ……」

 

 人の視線が、恐ろしいのか。

 何と声をかけて良いのかわからず、炭治郎は立ち尽くしていた。

 例えば医学的な知識があるしのぶがこの場にいれば、効果的な対処ができたのかもしれない。

 人を救うということは、こんなにも難しい。

 わかってはいたつもりだが、炭治郎は改めてそう感じた。

 

「ん……?」

 

 その時だ、炭治郎は鼻先をひくつかせた。

 風上から、何か、良くないものの匂いを感じたのだ。

 何だろうと、より深く息をしようとした時。

 ――――身体が浮き上がるような衝撃が、音が、来た。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 大砲でも撃ち込まれたのかと、そう思った。

 

「……え?」

 

 炭治郎達の目の前に、()()は空から落ちて来た。

 紅梅色の短髪に、袖なしの羽織から細身だが筋肉質の身体が覗いている。

 一目で鍛え上げているとわかる肉体。

 その肌には、藍色の刺青のような紋様が幾重にも刻み込まれていた。

 

 一見すると、人間のように見えた。

 しかしすぐに違うとわかった。

 両の瞳に「上弦」「参」と刻まれていたからだ。

 鬼だ。

 ()()()()()

 

「――――お前か」

「え?」

 

 突然、話しかけられた。

 炭治郎は、間の抜けたような声を上げてしまった。

 そして次の瞬間、鬼の顔が目の前にあった。

 凄絶な笑みを浮かべたその鬼は、右拳を大きく振り上げていて。

 

 ――――空の呼吸・参ノ型『空割』。

 不可避と思われた一撃に対して、横から斬りかかった者がいた。

 榛名だった。

 しかし、彼女が上段から振り下ろした斬撃に対して、鬼の反応は素早かった。

 

「邪魔だ、女」

 

 炭治郎への攻撃のために突き出された拳を解き、掌を上にした。

 そこへ日輪刀を乗せたかと思うと、指の先で握った。刃を掴んだのだ。

 そして、刀の側面に膝を叩き込んだ。

 呆気ない音を立てて、榛名の刀が折れるのを炭治郎は見た。

 榛名の目が、驚きに見開かれる。

 

「な」

 

 声を発する間もなかった。

 鬼の足が榛名の胸元を捉え、遥か後方へ吹き飛ばした。

 列車の壁にぶつかっても止まることはなく、榛名の姿は列車を破壊しながら消えていった。

 そばに座り込んでいた、魘夢の協力者だった2人が、もつれあうように逃げていくのが見えた。

 

「榛名さん!!」

「安心しろ、殺してはいない」

 

 炭治郎は、鬼を見た。

 怒りを浮かべていたその表情は、しかしすぐに青褪めた。

 凄まじい()()()()がした。これまでに出会ったどの鬼よりも()()

 鬼舞辻の、血の臭い。

 

「弱い」

 

 言葉が落ちて来た。

 上位者が下位の者を見る時の、侮蔑の色に満ちた声だ。

 

「あの方が直接「殺せ」と命じられたから、どんな強者かと思えば……」

 

 何を勝手なことをと、言い返すことができない。

 巨大な手に肩を押さえ付けられているかのように、身体が重い。

 鼻の奥がツンと痛み、知らず、呼吸が乱れていた。

 本能が逃亡を訴えるのを、必死に押さえ込んだ。

 

「ウ――――ッ!」

「禰豆子ッ!?」

 

 炭治郎を守ろうとしたのだろう、禰豆子が飛び出した。

 爪を伸ばし、鬼に打ちかかった。

 しかし相手はそれを歯牙にもかけずに、ただ腕を伸ばし、当たり前のことのように禰豆子の頚を掴んでいた。

 宙に浮かんだ禰豆子の足が、じたばたと藻掻(もが)く。

 

「禰……」

「う、おおおおおおおおおおおおおおおぉぉっっ!!」

「……ッ。い、伊之助!」

 

 さらに、伊之助。

 何かを堪え切れなかったのか、あるいは振り払おうとしたのか。

 一直線に鬼に向かっていく伊之助の背中に、炭治郎は手を伸ばしかけたが。

 それ以上に、血の臭いが濃くなる感覚にぞっとした。

 

 鬼の目が、伊之助を見ていた。

 まるで羽虫が近付いてくるのを見るかのような、冷たい目だった。

 片手で禰豆子を掴みながら、もう一方の腕を伊之助に向ける。

 血の臭いが、むっと強くなる。榛名を攻撃した時にはなかったものだ。

 それは、恐ろしい程に明確な――――殺意だった。

 

「やめろおおおおおおおおおおっ!!」

 

 ようやく、炭治郎の身体が動いた。

 しかし、遅い。

 ヒノカミ神楽を使った影響がまだ残っているのか、手足に十分な力が入らない。

 鬼の攻撃は、炭治郎よりも遥かに速い。

 間に合わないと表情を歪ませた、その時。

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』。

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 

 頭上からの突進が禰豆子を掴む腕を捉え、直線に放たれた斬撃が伊之助を狙う腕を切断した。

 僅かに驚いた顔を見せて、鬼が後ろへと跳ぶ。

 両腕の傷は一秒と満たずに再生するが、血はまだ肌を伝っていた。

 その血の雫を舌先で弄びながら、鬼はにやりと笑った。

 

「少しは楽しめそうだ」

 

 その視線の先には、2人の男女。

 ほっとした表情を浮かべて、炭治郎は彼らの名を呼んだ。

 

「杏寿郎さん! 瑠衣さん……!」

 

 煉獄の兄妹はふと後ろを振り向くと、小さく笑った。

 そっくりだなと、炭治郎はそう思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 上弦の参。

 以前に遭遇した上弦の肆よりも、階級が上の鬼だ。

 上弦の肆(アイツ)よりも、強い鬼だ。

 日輪刀を握る掌に、知らず力が籠った。

 

「そこのお前」

 

 こちらを見て、上弦の参が声をかけてきた。

 だがその相手は自分ではなく、杏寿郎のようだった。

 

「柱か?」

「……いや、違う」

「そうか。柱でもないのに、それほどの闘気。見事なものだ」

「俺は煉獄杏寿郎。炎柱の継子だ」

「なるほど次期柱というわけか。どうりで鍛え上げられているわけだ。俺は猗窩座(あかざ)

 

 杏寿郎の一撃は、瑠衣のそれよりも深く鬼を、猗窩座を斬ったはずだ。

 しかし今や傷痕さえなく、再生してしまっている。

 やはり上弦の鬼の再生速度は、他の鬼とは比較にならない程に速い。

 

「しかし解せないな杏寿郎。それ程の力がありながら、なぜ今の攻撃で俺の頚を狙わなかった?」

 

 その答えは、杏寿郎の足元と瑠衣の腕の中にある。

 伊之助と禰豆子だ。

 彼らを無視して頚を狙っていたら、2人は殺されていた。

 禰豆子は鬼だから再生するとしても、伊之助は助からなかっただろう。

 

「惜しいな杏寿郎。お前のその甘さが強さを鈍らせる。強さに不純物は不要なものだ」

「不純物?」

「弱者だ。弱者に構う甘さこそが不純物。そんな不純物を取り除く素晴らしい提案をしてやろう」

 

 猗窩座は、杏寿郎に対して誘うように掌を向けた。

 

「鬼になれ、杏寿郎」

 

 …………数瞬の間が、あった。

 それは、猗窩座の言葉の意味を理解するための数瞬でもあった。

 瑠衣は猗窩座を睨んだ。

 今、この鬼は何を言ったか。言うに事欠いて「鬼になれ」だと?

 

 そして、杏寿郎を見た。

 兄の背中は何も語らないが、それでも()()()

 杏寿郎の答えが、感情の動きが、瑠衣には良くわかった。

 

「鬼になれば永遠を生きられる。老いることも衰えることもなくなる。お前の甘さも消える。強さの純度を高めることができる――――素晴らしいことだとは思わないか?」

「思わない」

「なぜ?」

「老いることも死ぬことも、人間という儚くも逞しい生き物の美しさだからだ」

 

 人は死ぬ。老いる。いずれ必ず衰える。

 だが、だからこそ一瞬の生が煌めくのだ。

 刻まれていく時間が、たまらなく愛おしくなっていくのだ。

 共に歩んでいく時間が、尊いものになっていくのだ。

 

 強さとは、肉体の強度や剣技の腕前だけを指す言葉ではない。

 不純物などない。

 そんなものは、どこにも存在しない。

 まして。

 

「ここにいる者で、不純物と呼ばれて良い者は1人もいない。侮辱するな」

「つまり、答えは?」

「俺は如何なる理由があろうとも鬼にはならない」

「…………そうか」

 

 ――――術式展開『破壊殺・羅針』。

 空気が、一気に張り詰めるのを感じた。

 猗窩座が何か、武術の構えらしきものを取っていく。

 何の武術かはわからない。だが、何かが切り替わったのは感じた。

 

「鬼にならないなら、殺すしかないな」

 

 鬼の牙を覗かせながら、笑みと共にそう告げた。

 直接当てられたわけでもないのに、明確な闘志と害意が瑠衣の肌を粟立たせる。

 

「瑠衣」

 

 そして真っ直ぐに猗窩座を見据えたまま、杏寿郎は言った。

 

「援護を頼む。どちらかが奴を止められたら、もう一方が頚を斬るんだ」

 

 ぎゅっ、と、日輪刀を握る手に力を込めた。

 自信は、正直なところあるとは言えなかった。

 けれど杏寿郎は、先程の()()を見ていながら、それでも瑠衣を信じてくれている。

 その信頼に、応えたいと思った。どうしても、そう思った。

 

「失望だな、杏寿郎。弱者を頼るとは」

「……鬼には理解できないことかもしれないが」

 

 嘲弄する猗窩座に、杏寿郎は力強い笑みと共にこう言い切った。

 

「誰かに背中を預けることが出来るというのは、幸福なことだ」

 

 杏寿郎と猗窩座は、ほぼ同時に地面を蹴った。

 月が、両者を妖しく、そして美しく照らし出していた。




最後までお読みいただき有難うございます。

いよいよ猗窩座戦です。
正直、猗窩座殿を出さない展開もあり得ました。でも私が我慢できなかった(え)

原作の雰囲気が出せているといいな……。

それでは、また次回。


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第15話:「責務」

 伊之助は、強さというものに誰よりも敏感だった。

 厳しい自然の中で――まさに野生児として――過ごして来た彼にとって、相手の強さを計るということは、まさに「生き残る」と同義語だったからだ。

 その彼だからこそ、思う。

 あの空間は、()()()だと。

 

 ――――『破壊殺・空式』。

 ――――炎の呼吸・肆ノ型『盛炎のうねり』。

 

 猗窩座が虚空に拳を乱れ打つと、拳圧が形を伴って杏寿郎に襲いかかった。

 杏寿郎は前面に刀を振るい、拳圧の嵐を薙ぎ払う。

 一撃の音が重い。まるで金槌で大木を殴りつけたかのような音が響く。

 そして伊之助には、猗窩座の放った拳圧のどれ一つとして目で追うことすら出来なかった。

 

(入り込む隙がねえ……)

 

 魘夢の時、動けなかった自分が許せなかった。

 だから猗窩座に対して、本能の警告を無視する形で斬りかかったのだ。

 しかし結果は、無様に庇われる始末だった。

 そして今、自分はまた戦いを眺めているだけだ。

 

(悔しいなあ)

 

 炭治郎もまた、禰豆子を抱えた状態で戦いを眺めていた。

 鍛錬を積んできたはずだった。

 それこそ、血反吐を吐くような思いだって何度もした。

 全集中の常中だって、必死に会得した。

 それなのに。

 

(俺はまた、見ているだけだ)

 

 その時、不意に炭治郎の視界を誰かが横切っていった。

 誰か、いや、わかりきっている。瑠衣だ。

 瑠衣が、駆けていた。

 

(瑠衣さん)

 

 凄い、と思った。

 炭治郎は知る由もないが、それは瑠衣が下弦の肆との戦いで見せた動きだ。

 地面を砕きながらひたすらに駆ける。

 善逸の壱ノ型に似ているが、あれよりも小刻みで、そして不規則だった。

 

 杏寿郎と猗窩座が戦い始めてから、瑠衣はああして駆け続けている。

 2人を中心に円を描くようにだ。

 蝶屋敷でやった追いかけっこは、当たり前だが、まるで本気ではなかったのだと改めて思った。

 そして、再びの衝撃。

 

「やはり素晴らしい強さだ、杏寿郎!」

 

 猗窩座の声。愉し気な気配を隠そうともしていなかった。

 

「だからこそ鬼にならないことが理解できない。この素晴らしい才能が醜く衰えていくことが耐えられない」

 

 衝撃は、猗窩座の踏み込みの音だった。

 炭治郎が声を追って姿を捉えた時には、猗窩座はすでに杏寿郎の目前で拳を振るうところだった。

 金属を弾く音。それは猗窩座が杏寿郎の日輪刀を打った音だ。

 榛名の時の光景が脳裏をよぎったが、折られはしなかったようだ。だが。

 

「死んでくれ杏寿郎、若く強いままで」

 

 ――――『破壊殺・乱式』。

 そして次の一瞬で、猗窩座はすでに攻撃を()()()()()

 至近距離での拳の乱打。刀を弾かれた直後で、杏寿郎は体勢が崩れていた。

 回避し切れない。炭治郎は青ざめた。

 

「杏寿郎さ」

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣のその突撃は、猗窩座を不快にさせた。

 まず杏寿郎との戦いの最中、()()に対応しなければならない。

 そして、女と戦うこと自体が彼を不愉快にさせる。

 だが自身の感情とは関係なく、無意識かつ正確に、猗窩座は腕を振るっていた。

 

「――――ッ!」

 

 回転切りの最中、瑠衣は猗窩座の左拳が自分を狙うのを見た。

 羽虫でも払うかのように、拳の裏で瑠衣を打ち払おうとしている。

 それで良かった。

 瑠衣の狙いは()()だったからだ。

 

(今……!)

 

 猗窩座の射程圏――瑠衣自身の射程圏でもある――に入る直前、強く踏み込んだ。

 全力の突撃を片足で止め、制動をかける。ミシミシと骨と筋肉が軋む音が体内で聞こえた。

 そのまま、瑠衣は跳ねた。まるで伸びきったゴムが反発で戻るような、そんな動きだった。

 当然、標的を失った猗窩座の拳は空を切ることになる。

 逃げたか。やはり弱者――と、猗窩座が頭の片隅で思考した時。

 

 ――――炎の呼吸・弐ノ型『昇り炎天』。

 やや崩れた体勢ながら、それでも鋭い斬り上げの斬撃が来た。

 だが斬撃の気配を感じた瞬間には、猗窩座はすでに回避行動を取っていた。

 胸を反らして身体を後ろに倒し、そのまま縦に回転しながら後方へと跳ぶ。

 

「…………」

 

 着地した後、猗窩座は顎先に触れた。

 僅かに切っ先が触れたのか、指先に血が付着していた。

 もちろん、そんな傷はすぐに治る。

 不意に、猗窩座に影が差した。

 

 杏寿郎が、日輪刀を振り下ろしていた。

 猗窩座の口元に、凄絶な笑みが浮かび上がった。

 ――――『破壊殺・鬼芯(きしん)八重芯(やえしん)』。

 

(何て速度。拳が見えない……!)

 

 一瞬の内に四発。左右で八発。常人では不可能な速度だ。

 距離を取っている瑠衣には、猗窩座の腕が僅かにブレたようにしか見えなかった。

 そしてその全てを、杏寿郎は迎撃した。

 その剣閃は、猗窩座の拳速に勝るとも劣らないものだった。

 

「素晴らしい反応速度! 素晴らしい剣技!」

 

 そこからの数秒間、杏寿郎の視界には猗窩座の拳だけが映っていた。

 右拳を、半身を捻ってかわした。耳元で空気が割れるような音が響いた。

 その腕を狙って、斬り上げる。肘を狙い、捉えた。

 肉を裂き、骨を断つ確かな手応えを感じた。猗窩座の右腕が宙を舞った。

 

 だが、猗窩座はそれを物ともしなかった。

 切断したはずの腕は宙を舞う間に猗窩座が傷口同士を合わせてしまい、そして即座に接着して見せたのだ。

 何事もなかったかのように元通りに動く腕を見て、さしもの杏寿郎も驚愕した。

 驚愕を浮かべるその顔に、猗窩座が再び右拳を叩き込みに行く。

 

「だが所詮は人の域! 人間のままでは鬼には勝てないぞ、杏寿郎!」

 

 ――――風の呼吸・弐ノ型『爪々・科戸風』。

 風を纏った斬撃が飛んできた。

 もちろん猗窩座はそれを察知していたが、今回は無視した。

 瑠衣は自分に対して踏み込んで来ないという判断からだ。

 

「鬼になれ、杏寿郎!」

 

 瑠衣の放った風の斬撃は猗窩座の右半身を打った。

 しかし、浅い。猗窩座にとっては蚊が刺したようなものだった。

 

(ああ……!)

 

 炭治郎が内心で悲鳴を上げた、次の瞬間。

 猗窩座の右拳が、杏寿郎の頭を撃ち抜いた――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 打ち下ろしの一撃。今度は確実に入った。

 猗窩座の右拳が、杏寿郎の頭を真っ直ぐに捉えた。

 完璧だ。だからこそ猗窩座はその()()()にすぐに気付いた。

 

(手応えがない)

 

 ()()()()()()()()()()()()

 拳で殴るというのは、見た目ほどに簡単ではない。

 踏み込み、腰の落とし方、胴体の筋肉の連動、腕への力の伝え方。

 それら全てが揃って、初めて必殺の一撃と呼ぶことが出来る。

 

 しかるに、どうだ。

 猗窩座の右拳は杏寿郎の顔面に届かず、彼が咄嗟に振り上げた刀の柄に当たっていた。

 刀の鍔が額を打ち、のけ反る杏寿郎。

 だがその目は野猪(やちょ)の如き鋭さで猗窩座を捉えている。

 ダメージがない。何故か。先に言った、力が腕に伝わっていないからだ。

 

「何……!」

 

 一瞬。猗窩座の右腕が、だらり、と脱力した。

 肩の後ろと、肘の上。

 2つ――いや、2つの斬撃を十字に重ねて二撃、合わせて4つの裂傷が猗窩座の肉体に刻まれていた。

 筋肉と靭帯。拳の先へ力を伝える箇所を、的確に斬っていた。

 

 瑠衣が、間合いの中にいた。

 踏み込みの足は猗窩座の足に触れそうな程に近く、手を伸ばせば羽織の端を容易に掴めるだろう。

 そんな距離で、瑠衣が刀を返すのが見えた。

 猗窩座が右腕の傷を再生させるのと、瑠衣が刀を振るったのは、ほぼ同時だった。

 

「ぐ、うぅあ……っ!?」

 

 ――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐風樹』。

 ――――『破壊殺・乱式』。

 竜巻を思わせる縦の連撃を、猗窩座は瞬時に撃ち抜いて来た。

 日輪刀を通じて伝わって来る()()に腕が痺れ、瑠衣の唇から呻き声が漏れた。

 

 ――――風の呼吸・陸ノ型『黒風烟嵐』。

 下がらされた一歩を逆に踏み込みとして、斬り上げの斬撃を放つ。

 それを、猗窩座は掴み止めた。

 片腕で、瑠衣が両手で、しかも渾身の力で振り上げた刀をあっさりと止めてしまった。

 

(化物にも程がある……!)

 

 ――――炎の呼吸・弐ノ型『昇り炎天』。

 その瑠衣の刀に、杏寿郎が己の刀を打ち込んだ。

 金属同士が打ち合う不快な音が、響き渡った。

 

(全集中、漆ノ、型!)

 

 ぞぶ、という音と立てて、兄妹の刀が猗窩座の手を斬った。

 猗窩座の指と血が宙を舞う。

 そして、瑠衣が跳び、杏寿郎が刀を振り上げる。

 

 ――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎』!

 ――――風の呼吸・漆ノ型『勁風(けいふう)・天狗風』!

 

 杏寿郎の轟撃に、暴力的な風の刃が重なる。

 それは猗窩座の肩に直撃し、袈裟切りに振り下ろされた。

 さらに形を伴った鋭利な風刃が、耳を、頬を、腕を、脇腹を、足を切り裂いていった。

 縦に回転する視界の中、瑠衣は猗窩座がその場に膝をつくのを見た。

 

「油断するな! 攻撃を続ける!」

 

 杏寿郎の声に、緩みかけた腕に力を込めた。

 

「はいっ!!」

 

 着地と同時に、壱ノ型で突っ込んだ。

 その時には、すでに兄も斬りかかっている。

 頚を、と。そう思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――あれ?

 気が付いた時、瑠衣の視界は横に倒れていた。

 頬に土の感触があり、身体の前面に圧迫感がある。

 地面にうつ伏せに倒れている。そのことに気付くのに、少しかかった。

 

(頚を……)

 

 猗窩座の頚を、と、直前までの思考が追い付いて来た。

 思考が現実を認識できていない。

 頭が、混乱している。

 いったい何が起こった。自分はどうして倒れているのか。

 

 這うように頭を動かすと、炭治郎達が視界に入った。

 青褪めた顔で目を見開いていて、何とも、情けない顔をさせてしまっていた。

 立て。早く。と、己の身体を叱咤した。

 先輩として、煉獄家の娘として、情けない姿を見せるわけにはいかない。

 

「か……ぎっ」

 

 つっかえ棒にしようと地面についた左腕に、激痛が走った。

 折れていた。

 そしてそれを契機として、やって来た。

 痛み。それも全身の至るところから。

 

「う、が、ああああぁぁ……っ!?」

 

 喉、胸、背中に鳩尾。およそ呼吸に関係する部分すべてに、そして四肢。

 無数の打撃が今まさに襲ってきたかのような激痛に、瑠衣は悶えた。

 そして、思い出した。

 先の一瞬、杏寿郎と共に、膝をついた斬りかかった刹那の瞬間。

 

 数十……いや、100発以上か。わからない。数え切れなかった。

 数える前に、全身を打撃されていた。

 瞬間的に意識を失い、地面に倒れた衝撃で覚醒した。

 だから感覚が鈍り、痛みを感じるのが遅れたのだ。

 

「ぐ、う……あ」

 

 何という、恐るべき鬼。

 上弦の肆との戦いで上弦の鬼は別次元と学んだはずだが、それ以上だ。

 そして猗窩座は、上弦の肆よりも、単純に強い。

 肉体的な強さが異次元だ。あれに打撃されて生きている方が不思議とすら言える。

 

(兄様は)

 

 痛む身体に鞭打って、杏寿郎の姿を探した。

 幸いなことに、そう時間を置かずに見つけることが出来た。

 思ったよりも離れていない位置に、2人はいた。

 

「兄……」

 

 声を上げかけて、思わず止まった。

 杏寿郎の背中が、見えた。

 辛うじて、立っている。日輪刀を持っている。

 しかしそれが形ばかりのものであることが、普段の杏寿郎を知る瑠衣には良くわかった。

 

(動け……!)

 

 折れた腕で、瑠衣は半身を起こした。

 杏寿郎のところへ、行かなければ。

 兄は言った。誰かに背中を任せることが出来るのは幸福だと。

 ならば、ならば。その背中を守って死ぬことが、せめてもの自分の役割のはずだった。

 

「杏寿郎」

 

 杏寿郎の目の前に、猗窩座が立っていた。

 立ち上がる。そして、前へ。刀を取り、駆ける。

 己の死に場所(兄の背中)へ向けて、飛び込め――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 見事だ、と、猗窩座は思った。

 目の前で日輪刀を構える杏寿郎は、すでに満身創痍だ。

 全身の打撲、骨折、出血――どれ1つを取っても、立っているのが不思議な程だ。

 それがどうだ。構えには一部の隙もなく、呼吸には僅かな乱れもない。

 

 素晴らしい精神力。素晴らしい闘気。

 やはり、この男は鬼になるべきだ。

 永遠という()()を得るにふさわしい、選ばれた強者だ。

 嗚呼、だが猗窩座は同時に理解してもいた。

 

()()()()

 

 この男の精神(こころ)を折ることは、出来ないだろう。

 自分の誘いに頷くことはない。

 躊躇(ためら)いを覚える程に惜しいと思う。

 

 ――――術式展開『破壊殺』。

 

 だが、誘いに乗らないのなら殺さなければならない。

 今まで自分が認めた強者達も、そうして来た。

 誰も自分の誘いに頷くことは無かった。

 本当に哀しい。辛いと、そう思いながら。

 

 ――――『破壊殺・滅式』。

 

 杏寿郎は、自身に迫りくる猗窩座の拳から目を逸らさなかった。

 おそらくは一撃で自分を(ほふ)るだろうその技は、防ごうとして防げるものでは無かった。

 そして、杏寿郎は本能的に理解していた。

 もしも助かる(すべ)があるとするなら、それは、防御ではない。

 

 ――――炎の呼吸、奥義。

 

 一瞬で、頚ごと猗窩座の肉体を粉砕する。

 日輪刀を両手で構え、身体を捩じり、大きく振り被る。

 それだけのことで、己が身体が悲鳴を上げるのが良くわかった。

 不甲斐ないと、それだけを思った。

 

 ――――玖ノ型『煉獄』。

 

 猗窩座の拳を、迎撃する。

 必殺の一撃と、全霊の一閃が交錯する一瞬。

 両者が己の一撃が相手に届き得ると確信する、その瞬間。

 すべての時間が停まるような、そんな刹那に滑り込むように。

 

「やああああああぁっ!!」

 

 瑠衣が、その驚異的な脚力でもって、両者の間に割り込んだ。

 伍ノ型(木枯らし颪)。しかし狙いは頚では無かった。

 瑠衣の狙いは。

 

(こいつ、腕を……!)

 

 猗窩座の腕だ。

 技の出がかり、振り上げの瞬間を狙った。

 斬るのではなく、刺突。片腕が折れていて斬撃が出来ないのだ。

 切っ先から鍔まで押し込み、そのまま身体を押し付ける。

 一瞬だが、猗窩座の動きを止めた。

 

「兄様……!」

 

 猗窩座の、上弦の頚を斬る。

 そのためになら、命だって惜しくはなかった。

 だから瑠衣は、杏寿郎に呼びかけた。

 自分ごと斬ってくれ、と。

 

(よもや……!)

 

 そして、煉獄杏寿郎は自問する!

 はたしてこのまま、この刃を振り下ろすべきなのかどうか。

 

(このまま俺の『煉獄』が完成すれば、猗窩座の頚を斬れるかもしれん)

 

 ただしその場合、瑠衣も無事ではすまない。

 飾らずに言えば、真っ二つになるだろう。

 妹の身体を両断して、猗窩座の頚を斬る。

 はたして、それを是とするべきかどうか。

 

 最悪の場合は、もちろんあり得ることだ。

 上弦の鬼を斬れば何百人、いや何千何万という人間を守ることが出来る。

 杏寿郎も含め鬼殺隊士は皆、鬼狩りの中で死ぬ覚悟くらいはとうの昔に出来ている。

 今さら命を惜しむ者などいるはずもない。

 

(俺は)

 

 家族の1人1人の顔が思い浮かんだ。

 父上、千寿郎。そして今は亡き母上。

 あるいは、炭治郎ら後に続く者達の顔が浮かんだ。

 

(俺は、俺の責務を全うする!)

 

 この場にいる最年長の隊士として、正しい判断をする。

 だから杏寿郎は、両手で握った日輪刀を。

 ――――振り下ろした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 あ、と声を上げたのは、誰だっただろうか。

 最も驚いたのは、瑠衣であっただろう。

 瑠衣の目の前では、猗窩座が頚から血を流していた。

 

「な……」

 

 しかし、()()

 切っ先が喉笛を傷つけた――それでも人間であれば大きな傷だが――だけで、猗窩座が身をのけ反らせて攻撃を回避してしまっていた。

 瑠衣の知る『煉獄』であれば、あり得ないことだった。

 

 玖ノ型『煉獄』は、家名を冠した炎の呼吸の奥義だ。

 他の炎の剣士には伝授されない、煉獄家一家相伝の秘奥義なのだ。

 けして、喉を僅かに斬り付ける程度の威力ではない。

 ならば、どうして猗窩座の頚を斬れなかったのか。

 

「なんで!?」

 

 杏寿郎が、途中で『煉獄』を止めたからだ。

 瑠衣に当たらないように、攻撃の軌道を変えたのだ。

 だから瑠衣は無事だ、が、それは瑠衣が望んだことではなかった。

 珍しく兄に非難の気持ちを持った瑠衣だったが、杏寿郎の目を見た時に息を呑んだ。

 

 杏寿郎は日輪刀を振り下ろしたが、むしろその眼光は苛烈さを増していた。

 刀を返し、足腰に力を溜めている。

 兄の意図を本能的に察し、猗窩座の腕を押さえ続けた。

 振り下ろした刀を、跳ね上げるように振り上げた。

 

「カッ……!」

 

 ――――炎の呼吸・参ノ型『烈火の連なり』。

 その一撃は、猗窩座の頚に届いた。

 鋼が打ち合うような鈍い音が響き、赫い日輪刀が頚に喰い込む。

 腕に、足に、全身に力を込めて、杏寿郎は刀を振るった。

 

「オオオオオオオォッ!!」

 

 大木に鋸を打ち込むように、刃が猗窩座の頚に埋まっていく。

 斬れる、と、瑠衣は直感した。

 杏寿郎の一撃は、確実に鬼の急所を捉えている。

 今までの攻撃とは違う。効いている。

 

 一方で、猗窩座は愕然としていた。

 上弦である自分が、鬼狩りに頚を斬られかけているという事実にだ。

 この100年余り、敵に生命を脅かされたことは無かった。

 それが今、20年そこらしか生きていない若造に頚を斬られそうになっている。

 それは、猗窩座の誇りを大きく傷つけた。

 

「う」「お」

 

 その時、猗窩座の()()に気付く者が少なくとも2人いた。

 炭治郎と伊之助だ。

 前者は鬼舞辻の血の臭いが増すのを感じ取り、後者は肌を刺すような鬼気に慄いた。

 そして次の瞬間、杏寿郎と瑠衣は猗窩座が上弦たる所以(ゆえん)を知ることになった。

 

(何?)

 

 その時、瑠衣は足元で何かが輝くのを見た。

 それは雪の結晶にも似た紋様で、地面に――いや、猗窩座の足元に浮かび上がっていた。

 これは何だと、思ったさらに次の瞬間。

 瑠衣の視界を、青と銀の光が埋め尽くした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その技は、破壊殺・終式『青銀(あおぎん)(らん)残光(ざんこう)』という。

 全方向に100発の乱れ打ちを放つ技だ。

 上弦の重い一撃を100発と言えば、その破壊力は説明するまでもないだろう。

 そして実際、どちらが勝者でどちらが敗者かは一目瞭然だった。

 

「流石だな」

 

 それでも最後まで、猗窩座は杏寿郎への称賛を忘れなかった。

 しかし、その表情は晴れない。

 強者との戦いの高揚も、勝利の充実も、そこからは読み取れなかった。

 称賛の言葉も、自然と口をついて出たと言った風だった。

 

 ただ、それ以上の言葉は出てこなかった。

 何故かと問われれば、おそらく猗窩座には答えられなかっただろう。

 知っているはずの答えがわからない。そんな表情を浮かべていた。

 仰向けに倒れた杏寿郎の姿を見つめながら、猗窩座は奇妙な思考に陥っている自分自身に戸惑っていた。

 

(何だ。この感覚は)

 

 杏寿郎。強者だった。これ程の剣士と出会うのは数十年ぶりだろう。

 炎の剣士の中では、あるいは最強であったかもしれない。

 それを打ち倒し、勝利の雄叫びを上げるべきこの時に、どうしてこんな思考をするのか。

 

「俺の技を受けてなお、致命傷を避けるとは。そして……」

 

 わからない。ただ。

 

「妹を守ったか」

 

 仰向けに倒れた杏寿郎は、気を失っているのか、全く動かない。

 隊服は破れ、刀は粉々に砕けてしまっていた。

 頭から口から、身体中から血を流していて、すぐに手当てをしなければ危険な状態だった。

 そしてその頭の傍に、膝があった。

 

 瑠衣の膝だ。

 彼女は両膝を地面につき、俯いていた。

 裂傷と打撃の痕が全身の至るところに見えて、彼女もまた満身創痍であることがわかる。

 刀も、根元から折れている。

 しかし、生きていた。肩で息をしていて、乱れた呼吸の音が聞こえる。

 

「理解できないな、そんな弱者を庇うとは。弱者のために強者が死ぬ。お前は強いが、愚かだった」

 

 嘲弄。しかし、猗窩座の表情はやはり変わらない。

 強いて言えば、声音にどこか苛立っているような印象を受ける。 

 それは、強者らしからぬ行動をした杏寿郎への苛立ちなのか。

 あるいは、他の何かか。

 

「……が……」

 

 その時、猗窩座の耳に言葉が届いた。

 見れば、瑠衣が動いていた。

 それは非常に緩慢な動きだったが、何故か猗窩座はそれを止めなかった。

 そうしている間に、瑠衣の手が杏寿郎に触れた。

 

 杏寿郎の頭を、己の腹に抱き込んだ。

 おそらくは、それが精一杯の動きだったのだろう。

 ごほ、と、嫌な音の咳をしていた。

 それでも、瑠衣は下から猗窩座を()め上げてきた。

 

「お、まえ……が、兄様……を、語る……な……!」

 

 何故かは、わからない。

 しかしその行為は、猗窩座をどうしようもなく不快にさせた。

 

(う……)

 

 その光景を見ていた炭治郎は、2人が殺されると瞬時に理解した。

 だが、動けなかった。

 あたりに充満する鬼気に、そして本能的に察する猗窩座との実力差に、動けなかった。

 動いた瞬間に死ぬということが、炭治郎、そして伊之助には良くわかっていた。

 

(動け、動け、動け……!)

 

 それでも己を叱咤して、日輪刀を取った。

 2人を救うために動けと、身体に鞭打った。

 誰かが介入しなければ、あの2人が死んでしまう。

 また目の前で誰かが死んでしまう。それは嫌だった。

 誰かが、何とか、しなければ。

 

(動けェ――――っ!)

 

 と、炭治郎が全身に力を込めた時。

 ――――空の呼吸・参ノ型『空割』。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 当然のことだが、猗窩座はその一撃を察知していた。

 しかも、折れた刀での一撃である。

 頭上から振り下ろされた一閃を、猗窩座は半歩下がるだけでかわしてしまった。

 その目の前に着地したのは。

 

「本当に虫酸(むしず)が走る」

 

 榛名が、折れた刀を手に猗窩座に斬りかかったのだ。

 隊服の上着はほとんど千切れていて、藤の花の着物は鮮血に染まっている。

 着地の瞬間、着物の端から血が飛び散る程だった。

 頭が割れているのか、顔中が血に塗れていた。

 

 傷つき疲弊しきっていることは、見ただけでわかった。

 立っているだけで限界なのだろう、膝はガクガクと震え、今にも崩れ落ちそうだ。

 それでも、榛名は猗窩座の兄妹の間に割って入っていた。

 わ、わ、と掠れた音が唇から漏れて。

 

「わ、たし……が! 相手だぁ!!」

 

 文字通り、血を吐くような叫びだった。

 だが、まともに戦える状態でないことは明らかだった。

 全集中の呼吸でさえ、もうまともに出来ていないかもしれない。

 

「弱者め」

 

 猗窩座は不快な表情を隠さなかった。

 弱者。弱者。弱者。

 彼にとって、弱者にまとわりつかれることほど不快なことはない。

 弱者を庇った杏寿郎も、杏寿郎を語るなと言った瑠衣も、榛名も伊之助も炭治郎も、禰豆子も。

 

 理解できなかった。

 弱者が、弱いやつが、どうして戦おうとするのか理解できなかった。

 庇おうと、守ろうとするのか理解できなかった。

 そんなことをしたところで、

 

「はああ……っ!」

 

 ――――空の呼吸・壱ノ型『空裂』。

 横薙ぎの一閃に、鋭さも切れも見られなかった。

 猗窩座はただの一瞥で榛名の攻撃を見切ると、手首を掴んで止めてしまった。

 

(榛名さん)

 

 鈍い、本当に鈍い音が響いた。

 榛名の腕の骨が砕かれた音だ。

 そのまま猗窩座に打たれ、榛名が倒れる。

 

(榛名さん……!)

 

 打たれてもなお、榛名は猗窩座の足にしがみつき、髪を掴まれても行かせまいと放さなかった。

 無様だ。しかしその姿に、瑠衣は涙を流さずにはいられなかった。

 いや、泣いている場合ではない。

 

 立て。鬼に膝をつくな。

 刀は根本から折れてしまっている。だから、刀身の方を直に持った。

 握り込んだ指から血が流れて、刀身の端から地面に雫が滴った。

 構わなかった。歩くことでさえ困難を伴ったが、それも構わなかった。

 

(何だ、こいつらは)

 

 猗窩座は、もはや不快を越えた別のものを感じ始めていた。

 はっきり言って、この場に猗窩座にとって脅威となるものはもはや存在しない。

 唯一彼に一矢報いる存在と思われた杏寿郎が倒れたのだから、そうなる。

 だから後は、「耳飾りの少年」ごと全員を皆殺しにすれば済む話だった。

 

 にも関わらず、猗窩座は今、追い詰められていた。

 追い詰められている自分が、信じられなかった。

 こんな弱者に。

 こんな、やつらに。

 

「伊之助――――! 動いてくれ、皆のために動けェ――――ッ!」

 

 一瞬の自失。猗窩座すら自覚しないその一瞬、鬼気と圧力が弱まった。

 そして、3人の人間が動いた。

 びしゃっ、と、猗窩座の顔に何かが降りかかった。

 それは血だった。ただ、人間の血ではなかった。

 

 ――――血鬼術『爆血』。

 

 それは禰豆子の血だった。

 禰豆子の血鬼術。己の血を爆裂させ、鬼を焼く異能。

 上弦である猗窩座でさえ、目を焼かれれば怯む。

 その一瞬の隙に、炭治郎と伊之助が飛び込んだ。

 

「……ッ!」

 

 鬼気が、膨れ上がった。

 

「舐めるなアアアアァァァッ!」

 

 ――――破壊殺・砕式『万葉(まんよう)閃柳(せんやなぎ)』。

 猗窩座の拳が、地面を砕いた。

 その衝撃が炭治郎と伊之助の攻撃を弾き、瑠衣と榛名を引き剥がした。

 そして禰豆子の血によって目を潰されているにも関わらず、猗窩座の追撃は正確に炭治郎を追った。

 

 よけきれない、と炭治郎が顔色を変えた。

 その時、炭治郎の前に飛び込んで来たのは瑠衣だった。

 だがそれが精一杯で、それ以上のことは出来なかった。

 猗窩座の一撃は止まらない。防御は不可能。

 だから瑠衣は握った刀身を逆手に持って、迎撃の構えを見せた。

 

「瑠衣さ……っ!」

 

 これで良かった。自分は正しいことをした。

 正しいことをして死んで行ける。

 それは瑠衣にとって、命を懸けるに値することだった。

 

(煉獄家の、娘として……!)

 

 きっと弟も、兄も、母も、そして父も。

 良くやったと、そう言ってくれるはずだ。

 そう信じて、瑠衣は剥き出しの刀身を振り下ろした。

 そして。

 

 ――――肉が潰れるような音が、した。




最後までお読みいただきありがとうございます。

正直に申し上げると、今、かなり悩んでいます。

何に悩んでいるかと言うと、一言で言えば私が原作者様のように某辻無惨になれるかということです(意味不明)
あー、どうしよう原作的に言えばハッピーエンドはあり得ないわけで(え)
人の心を捨てなければ…(え)

それでは、また次回。


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第16話:「目覚め」

2週間かけて書いたものを没にし、3日で書き直した。


 ――――鮮血が、舞っていた。

 (おびただ)しい量のそれが、瑠衣の顔と身体に降り注ぐ。

 しかしそれは、瑠衣の身体から出たものではなかった。

 

「あ……う、あ」

 

 瑠衣は、尻餅をついていた。

 唇が戦慄いて、意味のない音だけが漏れている。

 何と間抜けで、無様なのだろう。

 目の前で。

 

「は……榛名、さん……」

 

 目の前で、仲間(榛名)がその身を貫かれているというのに。

 あの瞬間、禰豆子に目を潰された猗窩座が炭治郎を攻撃したあの瞬間。

 瑠衣は、炭治郎を守ろうとした。

 鬼殺隊の先輩として、後輩を守るのは当然の責務だった。

 だが現実には、庇われたのは瑠衣の方だった。榛名が瑠衣を突き飛ばしたのだ。

 

「貴、様……!」

 

 何故かはわからないが、猗窩座も衝撃を受けている様子だった。

 自分が貫いたモノを見て目を見開いた後、これ以上はない程の不快さを込めた表情を浮かべていた。

 榛名の身体を押しやるようにして、引き離した。

 嫌な――本当に嫌な音を立てて、榛名と猗窩座が離れた。

 

 ゆっくりと、榛名が仰向けに倒れる。

 瑠衣の、目の前に倒れる。

 受け身も何もない、本当に脱力した倒れ方だった。

 鈍い音を立てて跳ねた頭、力なく投げ出される四肢、花を咲かすように流れ広がる赤い血。

 

「――――――――なんで?」

 

 口を突いて出た言葉は、それだった。

 自分でも驚く程、冷えた、乾いた声だった。

 だが、だからこそ、それは本心だった。

 

「なんで、こうなるの?」

 

 わからなかった。

 何で、どうしてこうなるんだ。どうして、どうしてだ!?

 違うだろう。こんなはずじゃない。こんなのは違う!

 そこに倒れているのは、私でなければならなかった! 間違っても榛名じゃない!

 

 それとも、それ程までに、駄目なのか?

 煉獄家の内で剣士としての英才教育を受け、外で不死川の修練を受け、鬼狩りとして各地を転戦して、鍛錬にも耐え、屈辱にも耐え、ただただ走って。

 それでも、それでもなお、足りないのか。及ばないのか。

 兄に、父に――――父の教えを受けた者達に、追いつけないのか。

 

(何のために)

 

 何のための努力。何のための鍛錬。何のための、生。

 わからなくなってくる。

 叫び出したい衝動に、身を焼かれる思いだった。

 

(何のために、私はいるの……っ!?)

 

 もう嫌だ。耐えらない。

 自分自身の無能に耐えられない。

 ()()()()()()()()()()

 

『――――駄目ヨ』

 

 ――――いきなり。

 いきなり、身体が強張るのを感じた。

 頭が痛い。目が、熱かった。何かがこみ上げて、視界が酷く歪んでいた。

 

『貴女ニ死ナレルト、私ガ困ルノ』

 

 声が聞こえた。身体の内側から。

 とうとう駄目なのかもしれない、そう思った。

 幻聴まで聞こえて来た。

 

『私ガ何トカシテアゲル』

 

 五月蠅(うるさ)い。()()()()心の弱さに泣きたくなる。

 

(何とかできるなら、やって見せてよ……!)

 

 何だって良い。もう、何もかも。どうでも良い。

 身体? そんなもの。身体だって、命だっていらない。

 だから、だからせめて。

 せめて――――……!

 

  ◆  ◆  ◆

 

 猗窩座にも、異変が起こっていた。

 それは内面の話で、表向きは何の変化もないように見えた。

 しかし実際は、猗窩座の内側は本人でさえ意図しない()()()に陥っていた。

 

(何だ?)

 

 悪寒が、止まらなかった。

 身じろぎ一つ、いや表情筋さえ固めて、猗窩座は立ち尽くしていた。

 その筋の達人が一目彼を見れば、猗窩座の取っている構えが()()()()()()()()でしかないことを見抜いただろう。

 それ程に、猗窩座は衝撃を受けていた。

 

 特に、最後に榛名を打ち倒した片腕、その拳だ。

 軽く握っているように見えるが、その実、猗窩座の脳が発する命令に従っていない。

 その形から、動かせないのだ。

 むしろその拳は、どこか震えているようにすら見えた。

 

(どうした)

 

 女を攻撃――いや。

 女を、()()()()()()

 猗窩座は、殺す相手を選ぶ鬼だった。

 それ自体は珍しいことではない。()()に好き嫌いはつきものだ。

 しかし猗窩座のそれは、鬼の中でもかなり珍しい部類に入るだろう。

 

(俺が、女を)

 

 猗窩座は、女は殺さない。女は喰わない。

 人間の半分を喰わないというのは、他の鬼からすれば理解できないだろう。

 彼の()()などは、むしろ女を喰うことを推奨しているくらいだ。

 その彼が、自分が、女を殺してしまったのか。

 

「グゥ……オ……!」

 

 突如、針で刺されたような頭痛が猗窩座を襲った。

 こめかみを抑えて呻き声を上げた猗窩座に、今度は他の者も気付いた。

 

(何だ、急に苦しみ始めたぞ?)

 

 炭治郎は、猗窩座が苦しむ様子を見た。

 チャンスか。今、攻撃を仕掛けるべきなのか。

 そう思い、刀を握り込んだ時だ。

 もう1つに、気付いた。

 

「あ……」

 

 その人物は、ゆらり、とまるで幽霊か何かのように立ち上がった。

 猗窩座の目の前だ。苦しんでいても、彼も気付いた。

 身体中の至る所に痛々しい傷が覗き、出血もしている。刀は折れ、刀身を直接握る有様だった。

 しかし彼女は、瑠衣は、確かに立ち上がって来た。

 

(え?)

 

 炭治郎は、眉を(しか)めた。

 すんすん、と鼻先を動かしている。

 何かがおかしい。何かが違うと、炭治郎は匂いでそう感じた。

 自分はいったい何を嗅ぎ当てたのかと、そう思った、次の瞬間。

 

「――――ッ!」

 

 瑠衣が、猗窩座に飛び掛かったのだった。

 ただ、その咆哮は、とても。

 とても、人が発したものとは思えなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 猗窩座は、瑠衣の攻撃に対応しようとした。

 しかし瑠衣の動きは、猗窩座の想像を超えていた。

 

「シィッ!」

 

 繰り出された右拳は、瑠衣の顔面を確実に捉えていた。

 それを瑠衣は、身体を前に倒すようにして潜り抜けた。

 猗窩座の拳に触れたのは、前髪の一房だけだ。

 野生の獣のように身を低くした瑠衣が、猗窩座の懐に入り込む。

 

 突き出した右拳を回し、斧のように振り下ろした。

 体勢を無理やりに変えて別の攻撃に変化させる。

 並の人間には真似の出来ない芸当で、瑠衣の頭を割りに行った。

 視界の外からの攻撃。

 

「見エテル」

 

 瑠衣が、猗窩座の下で身体を横に回転させた。

 握った日輪刀の刀身で、猗窩座の肘を打ち付けた。

 瑠衣の掌と猗窩座の肘から、鮮血が散った。

 

「ぐあ……っ!?」

 

 猗窩座は、衝撃を受けた。

 自分自身の肉体の脆弱さに衝撃を受けたのだ。

 手で握った刀身で殴り付けられた程度で破壊される自分の肉体の脆さが、信じられなかった。

 

(馬鹿な、何故!? ……いや! 今は考えるな。対応しろ……!)

 

 猗窩座は己の力に絶対の自信を持っていた。

 100年鍛えた己の拳を、武術を、肉体を信じていた。

 どれほどの不測の事態だろうと、対応する力が自分にはある。

 瑠衣はまた、あの不規則な走りで周囲を駆け回っている。

 

 人間にしては確かに大した脚力だ。それもあの負傷で。

 しかし、猗窩座の前では無意味だ。

 いかなる攻撃であろうと、猗窩座には()()()()

 どれだけ駆けて隙を窺おうが、何の意味もないのだ。

 次に攻撃を仕掛けて来た時が。

 

「貴様の、死ぬ……時……だ」

 

 その時、猗窩座の全てが止まった。

 踏み込んだ軸足が地面を砕いていたが、酷く虚しく聞こえた。

 今までと同じであれば、次の瞬間には猗窩座の必殺の拳が繰り出されていただろう。

 しかし、違った。

 ()()()()()()()()()

 

(馬鹿な)

 

 何度試みても、結果は同じだった。

 

()()()()()()

 

 技が出ない。

 血鬼術が使えない。

 何よりも、身体が動かない。

 身体の内側から押さえつけられているような、矛盾した感覚。

 その感覚に、猗窩座は混乱した。

 

(戦え、殺せ)

 

 次の攻撃が来る。

 脳が対応を命じても、身体は言うことを聞かなかった。

 しかし、戦わなければならない。

 自分に牙を向けて来るのであれば、どんな相手だろうと叩き潰さなければならない。

 

(たとえ、女であっても)

 

 その瞬間、再び針を刺したかのような頭痛に襲われた。

 身体が強張り、集中が途切れる。

 そして、頚に衝撃が来た。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 目の前に、瑠衣の顔があった。

 その両手は剥き出しの刀身を握り込んでおり、刃が掌や指の肉に食い込んでいる。

 一方で、もはや短刀の長さしかない刀身は、猗窩座の喉仏に深く、握り込んだ瑠衣の手が肌に触れる程に深く突き刺さっていた。

 ごぼっ、と、濁った音が猗窩座の口から響いた。

 

 何という脆さか。

 

 鋼のようだった頚が、見る影もなかった。

 だが、実のところ猗窩座の意識はそこには向かっていなかった。

 彼の視線は、自身に飛びつく形になっている瑠衣に向けられていた。

 その顔、いや、その目に。

 

(この目、この気配)

 

 瑠衣の瞳が、金色に輝いていた。

 赤みがかった大きな瞳、その光彩が金色に波打ち、瞳孔が猫の目のように縦長になっていた。

 異常な変化。人の身体でそのような変化は起こらない。

 何よりも瑠衣の身から放たれる気配に、猗窩座は覚えがあった。

 

「弱イナァ」

 

 ビキ、と、猗窩座の額に青筋が立った。

 

「遅イナァ」

 

 外側から、両腕で瑠衣の頭を狙った。

 虹彩の光が、線を引いて下へと抜ける。

 瑠衣の頭があった場所で、猗窩座は自らの拳を打ち付ける形になった。

 肉と骨の打ち合う音が響き、両の拳が砕けるのを見た。

 自分自身の攻撃力に、肉体が追い付いていない。

 

「コンナ奴ニヤラレテ泣クダナンテ」

 

 おかしい、と、猗窩座は思った。

 瑠衣の動きは、明らかにおかしい。

 常人離れした反応速度のことではない。()()()()の問題だ。

 

「困ッタ()ダヨ」

 

 足。蹴った。 

 しかし猗窩座の蹴撃を、瑠衣は大きく後ろに身を反らして回避した。

 瑠衣の顎先を猗窩座の足の指が掠める。それ程のギリギリの回避だ。

 まるで、そこに蹴りが来るのをわかっていたかのように。

 

「良ク見テオイテネ、瑠衣」

 

 その時、猗窩座は気付いた。

 瑠衣の手に、もう一本、日輪刀の刀身が握られていることに。

 赤い刃のそれを、いつの間に拾っていたのか。

 普段の瑠衣が浮かべないだろう類の笑みを浮かべて、()()は言った。

 

「一瞬ダカラネ」

 

 猗窩座の軸足を打ち、揺らがせた。

 そこへ瑠衣が飛びかかり、逆手に持った刀身を振り下ろした。

 それは、再び猗窩座の喉へと突き立てられた。 

 

(やはり、コイツは)

 

 ふわり、と瑠衣の身体が浮かぶ。

 黄金の光彩が、宙に線を引く。

 次の瞬間、瑠衣の足が猗窩座の喉に突き立てられた2本の刀身を、踏みつけた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 『羅針』。

 猗窩座は、自分の技――血鬼術『破壊殺』の基本技術――をそう呼んでいた。

 それは読んで字の如く、己の周りを羅針盤で囲む陣だ。

 相手の闘気を感知し、それによって敵よりもいち早く攻防に入ることが出来る。

 

(馬鹿……な……!)

 

 それが発動しなかった。だから瑠衣の攻撃への対応が遅れた。

 たとえそうだとしても、言い訳は出来ない。戦いの場で言い訳は何の意味も成さない。

 数百年間で培ったきた力と技があれば、『羅針』があろうとなかろうと、対応できないはずがないからだ。

 しかし現実に、猗窩座は対応できなかった。そして。

 

「や……やった!?」

「うお、うおおおおおおおおおおっ!」

 

 炭治郎と伊之助が、声を上げていた。

 それもそうだろう。

 自分達がまるで歯が立たなかった鬼の頚が、胴から離れるのを見たのだから。

 猗窩座の頚が斬られるのを、見たのだから。

 

(馬鹿な……馬鹿なっ!!)

 

 地面をゴロゴロと――頚から上だけで――転がりながら、猗窩座は「頚を斬られた」という事実を受け入れることが出来ずにいた。

 100年不敗の上弦の鬼。その参。最強の鬼の1体。鬼舞辻無惨の忠実なる僕。

 それが、10年と少ししか生きていない小娘に、人間に、鬼狩りに頚を斬られたのだ。

 信じられなくて、むしろ当然とさえ言えた。

 

 その頚に、不意に影が差した。

 転がりながらそちらを見ると、膝を曲げて宙を舞う瑠衣の足が見えた。

 両足を揃えて、こちらへと落ちて来る。あの虹彩の描く縁が、はっきりと見えた。

 おのれ、と思う間もなかった。

 

「グシャリ」

 

 声に出して、結果を口にした。

 瑠衣の両足が、地面を転がる猗窩座の頚を捉え、踏み潰したのだ。

 ココ、と、喉の奥で嗤う音がした。

 それもまた、普段の瑠衣がしないことだった。

 

「オヤ……?」

 

 その瑠衣が、首を傾げた。

 踏み潰した猗窩座の頭は塵となって消えた。鬼が死ぬ時の崩壊現象だ。

 しかし鬼の気配はまだ残っていて、それを肌で感じた。

 いったい、これはどこから発されているものか。

 

 瑠衣が振り向くと、そこには頚を失った猗窩座の胴体が仰向けに倒れていた。

 頚の断面からは生々しい肉と骨が覗いていて、未だ血が流れ出ていた。

 しかし、()()()()()()()()()

 崩壊現象が起きずに、存在していた。

 

「コレハ……」

 

 ()()()()()()()()

 そして再び動き出した猗窩座の肉体に、瑠衣は唇の端を歪めるのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 日輪刀で頚を斬られた鬼は、身体が崩れて死ぬ。

 これは鬼狩りの常識であり、拠り所でもある。

 もし頚を斬っても死なない鬼が現れたなら、絶望だろう。

 それは鬼狩りが、人間が鬼に本当に勝てなくなるということだからだ。

 

「オイッ、どういうことだアイツ! 何で頚を斬られたのに死なねえんだ!?」

 

 伊之助の動揺が、そのことを端的に表していた。

 頚を斬れば死ぬという条件は、鬼殺隊士にとってそれほどに重要なのだ。

 倒す方法がなくなるというのは、それだけ大事なことなのだ。

 

(頚の断面が閉じてる! いや、というかあれって)

 

 頚から上を失った猗窩座だが、胴体の切断面が塞がっていた。

 それどころか、肉が盛り上がり始めているのが見える。

 まさか、と炭治郎は思った。

 

(頭を、頚を、()()()()()()()()()……!)

 

 あり得ないことだと思ったが、実際に目の前で起きている現実だった。

 猗窩座は、頚を斬っても死なない。

 死なない生き物に()()()()()()()()()()()、と。

 

「流石ニ驚イタナア」

 

 さして驚いた様子もなく、瑠衣はその様を見ていた。

 すでに顎のあたりまで再生している猗窩座の姿を見つめて、目を細める。

 武器を使い果たし丸腰だというのに、落ち着き払っていた。

 

「物凄イ執念ダ」

 

 執念。死さえ拒絶する猗窩座の粘りを、執念の一言で表現して良いものかはわからない。

 ただ、興味を抱いている。

 そんな風に、金色に輝く瞳は物語っていた。

 はたしてこの猗窩座なる鬼を、こうまでさせる執念の元とはどんなことか。

 しかし、その関心のすべてが明らかにされることはなかった。何故なら。

 

「あっ」

 

 と、声を上げたのは誰だったろう。

 いつの間にか空の端が白んでおり、さらにその向こう側に光の気配が見えた。

 オヤ、と、瑠衣が口の端を持ち上げていた。

 時間切れだ。

 

 夜明けだ。鬼の時間が終わる。

 まだ目までは再生しきっていなかったが、太陽の気配に気付いたのか、猗窩座が跳んだ。

 炭治郎があっと声を上げる。猗窩座が逃げる。

 しかし瑠衣は猗窩座を追わず、むしろ手で制して炭治郎を止めた。

 

「……貴様……」

 

 猗窩座は、木の上へと逃れていた。

 再生させたばかりの、罅割れた口。

 その口で、猗窩座は酷くしわがれた声で言った。

 

「貴様の顔、覚えたぞ小娘……! 次に会った時、貴様の脳髄をブチ撒けてやる……っ!」

 

 それを最後に、猗窩座は何処かへと姿を消した。

 場に充満していた鬼気が消えて、清浄な朝の空気が流れ込んできた。

 炭治郎は、緊張した面持ちで瑠衣の背中を見つめていた。

 

 トドメは刺せなかったものの、上弦の鬼を撃退した。

 頚を斬っても死なない鬼の出現は憂うべきことだが、しかし、これは凄いことだった。

 100年ぶりの快挙と言っても過言ではない。

 だが、当の瑠衣は明らかに様子がおかしかった。

 

「ネエ」

「え? あ、はい!」

 

 その瑠衣に不意に声をかけられて、炭治郎は思わず返事をしてしまった。

 振り向いた瑠衣の、金色に輝く目を見て息を呑んだ。

 朝日を背景に、光を放つ光彩が美しく映えていた。

 まるで、この世のものではないような。

 

「後ハヨロシク」

「え?」

 

 そう言って、瑠衣は目を閉じた。

 炭治郎はその瞬間に非常に嫌な予感を覚えたのだが、結論から言うと、間に合わなかった。

 次の瞬間、いきなり全身が脱力したかと思うと、瑠衣はその場に倒れてしまった。

 ごん、と、頭を地面にぶつける音が響き渡った。

 炭治郎は、慌てて駆け出した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――こんなにも酷い現場は久しぶりだった。

 無限列車である。

 脱線した列車の数百人の乗客を保護し、必要なら救護を行う。

 黒頭巾に背中に「隠」の文字が染め抜かれた隊服を着た人間達が、そこかしこを忙しそうに駆け回っていた。

 

 彼らは背中に刻まれた文字通り「(かくし)」と呼ばれる人間達だった。

 鬼殺隊の戦闘のサポートや、戦闘後の事後処理を行う部隊だ。

 隊士としての訓練は受けているが剣技の才に恵まれず、剣士になれなかった者達が多く所属している。

 後藤も、その1人だった。

 

「流石に200人の乗客相手に事後処理ってのはキツいよなあ」

 

 他の隠と同じく顔と身体を隠しているため、容貌については良くわからない。

 それでも隊服越しにもわかる鍛え上げられたがっしりとした身体つきに、どこか世を達観したような眼差しは、彼が()()()隠であることを示していた。

 そして彼がぼやいたように、列車事故は鬼殺隊の戦闘としても規模が大きい方だった。

 これが無人の山中での出来事なら、事後処理はもっと楽だったろう。

 

「後藤さん!」

「おお」

 

 そうやって後藤が負傷者の間を回っていると、列車の屋根の上から身軽に着地してくる者がいた。

 それは小柄な少女で、頭の右側で結ばれた黒髪が揺れていた。

 

沼慈司(ぬまじし)、後部車両の方はどうだった」

「はい! 後部車両の乗客には怪我人はほとんどいませんでした。ただ、精神的な問題を抱えている人が何人か……」

「まあ、それはそうだろうなあ」

 

 聞くところによれば、列車全体に鬼の血鬼術がかかっていたと言う。

 十二鬼月ということだが、那田蜘蛛山の時と言い高位の鬼はやることの規模が違う。

 運よく生き残ったとしても、何らかの後遺症に悩まされることになる。

 鬼に関わった人間に、幸福な結末というものはないのかもしれない。

 

「隊士の方々は? 手当ては済んだのか?」

「はい、そちらは滞りなく。それにしても奇跡ですよね。これだけの規模の戦いだったのに」

 

 沼慈司はどこか関心したような、あるいは安堵したように言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

「……そうだなあ。だがよ、沼慈司」

 

 そんな隠の少女の頭を、後藤が軽く小突いた。

 あいたっ、と、可愛らしい声が上がった。

 

「頭巾はちゃんと被れ。あと、()()()はほどほどにしろ」

「はあい」

 

 舌を出して笑う少女に嘆息を零して、後藤はある方向を見やった。

 そちらには乗客は近寄らせていない。鬼の痕跡が根深く残っている場所だからだ。

 つまり、鬼と戦った隊士達がいる場所だ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 杏寿郎は意識を取り戻すと、自分の手当てもそこそこに、他の面々の無事を確認しようとした。

 戦いの最中で気を失うとは不甲斐ないと思いつつ、妹や後輩達のことが気がかりだったからだ。

 幸いなことに、炭治郎達は無事だった。

 

「竈門少年」

「あ、杏寿郎さん! 良かった、目が覚めて……って、早く手当てをしないと」

「俺は後で良い。それより……」

 

 炭治郎と禰豆子、伊之助や善逸は無事のようだった。

 ただそれなりに負傷はしていて、杏寿郎がやって来た時には隠の救護班によって頭に包帯を巻かれているところだった。

 そして炭治郎の気遣わしげな視線を追いかければ、そこに、いた。

 

 杏寿郎は片手を挙げて隠に後のことを頼むと、そちらへと向かった。

 そこには2人の人間がいた。

 1人は、畳まれた毛布の上に寝かせられていた。

 もう1人は、その前に座り込んでいた。

 

「あ、剣士様」

 

 困ったような顔で立っていた隠に、杏寿郎は軽く頭を下げて見せた。

 慌てたように首を振る隠に、どうかしたのかと問うた。

 すると、手当てを受けてくれずに困っているのだと言う。

 かなりの重症なので手当てが必要なのだが、頑として受け入れて貰えないと。

 杏寿郎は、任せてほしい、と言った。

 

「瑠衣」

 

 そして、座り込んでいる少女に声をかけた。

 瑠衣はびくりと肩を震わせたものの、顔を向けることも、返事を返すこともなかった。

 片足を引きずりながら、杏寿郎は瑠衣の傍に近寄っていった。

 ゆっくりとした動作で、隣に座った。

 それに対して、瑠衣からは何もなかった。

 

 瑠衣の前に横たわっていたのは、榛名だった。

 かなりの重症のようだが、こちらは丁寧な手当てがすでにされていた。

 生きている。

 榛名は、生きていた。顔色は悪いが、息をしている。

 

「お前が、助けたのか?」

「違います」

 

 杏寿郎の言葉に重ねるように、返事が来た。

 しわがれた、酷い声だった。

 打ちひしがれている、と言っても良い。

 

「私を、助けてくれたんです」

 

 瑠衣の姿は、酷いものだった。

 怪我はもちろんのこと、羽織も隊服もところどころが破れたり、千切れたりしていた。

 それから、膝の上に折れた日輪刀を持っていた。

 

「この人が、榛名さんが……」

 

 それは、瑠衣の日輪刀ではなかった。

 

「…………()()()()()が」

 

 その日輪刀の刃の色は、赤色だった。 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣は、比較的に早く意識を取り戻した。

 その時には隠たちがすでに活動を開始していたのだが、そちらには目もくれず、瑠衣は榛名の元へと向かった。

 這うようにして、榛名の傍に寄った。

 

 榛名は、隠により手当てされているところだった。

 ただ酷くぐったりとしていて、顔色は恐ろしく青白く、生気がまるで感じられなかった。

 瑠衣の気配を感じたのか、彼女は薄く目を開けた。

 まだ生きている。その「まだ」のいかに頼りないことか。

 

「……よ、かった、わぁ……」

 

 榛名は、瑠衣の顔を見てそう言った。

 いったい何が良かったというのか。

 少なくとも瑠衣にとっては、良いことなど何もなかった。

 けれど、榛名は安堵したように長く息を吐いた。

 

「……ごめん、なさい……ねぇ……」

 

 傷は、と思った。

 瑠衣と同じように傷は至るところに見えたが、一番まずいのは最後の一撃だった。

 猗窩座が放った一撃は、榛名の胸を貫いているように見えた。

 だから瑠衣は、榛名の胸元を確認しようとした。

 

 ところが、そこで瑠衣は違和感を覚えた。

 胸を貫かれる程の怪我をしている割に、胸からの出血が余りなかったのだ。

 違和感の正体は、榛名の手の中にあった。強く握っていて、今も手放さない()()

 赤い日輪刀。折れているが、間違いない。

 

「……()()()……」

 

 榛名の日輪刀ではなかった。()()()の日輪刀だった。

 彼女の左胸は隊服や着物の記事が千切れて露わになっていて、拳を打ち込まれたらしい場所が内出血を起こし、鎖骨のあたりが骨折のせいか僅かに陥没しているようにも見えた。

 表皮を裂かれて出血はしてたが、貫通ということにはなっていなかった。 

 

『謝らないで、姉さん。これでいいんだ』

 

 夢で繋がっていたためか、その声は瑠衣にも聞こえた。

 傍にいるようでもあり、遠くから聞こえてくるようでもあった。

 あさひの声は、どこまでも優しかった。

 

『僕はいつも、姉さんの傍にいるから……』

 

 あさひさん、と口に出してみても、その声が届いているかはわからない。

 そもそも彼がどのような存在であるのかさえ、瑠衣にはわからない。

 一つだけ確かなことは、彼が姉を想っていたということだけだ。

 そしてそれがきっと、すべてだったのだ。

 

 けれど、もうそれを問いかけることも出来ない。

 いなくなってしまったと、わかるからだ。

 彼はもう、どこにもいない。行ってしまった。

 たった1つ、姉の命だけを置いて。

 

「私は、また失敗した」

 

 あさひは、姉の命を守った。

 一方で、自分はどうだと瑠衣は思った。

 何も守れなかった。何も成し得なかった。

 何と情けなく、弱く、みじめなのだろう――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ……――――しばらく、沈黙が続いた。

 瑠衣が話した事のあらましに、杏寿郎は何も言わなかった。

 隠が、気遣わしそうな視線を交互に向けているだけだ。

 

「瑠衣」

 

 正面を向いたまま、杏寿郎は口を開いた。

 瑠衣は、俯いたままだった。

 

「なぜ泣く」

「……悔しいんです」

 

 何も出来なかった。

 煉獄家の娘なのに、誰を守ることも出来ず、逆に守られる始末。

 上弦の肆にも、上弦の参にも、()()()()()()()()()

 瑠衣は、自分の存在意義がわからなくなっていた。

 

 命など惜しくはないと、そう思っていた。

 任務を果たすためなら、責務を果たすためなら、命を懸けると。

 だが現実は、任務も責務も果たせていない。

 それなら自分は何のために存在しているのかと、瑠衣は苦悩した。

 

「瑠衣、泣いてはいけない」

「……はい」

「託された者は、泣いてはいけない」

 

 己の弱さや不甲斐なさに、(うずくま)りたくなってしまうこともある。

 しかし蹲って足を止めたところで、時の流れは止まらない。慰めてもくれない。

 己を、一振りの刀と見立てるのだ。

 何度も、何度も叩かれて、強靭な鋼へと変わっていく。

 

 どれだけ辛くとも、どれだけ悲しくても、どれだけ失っても。

 刀のように、鋼のように、打たれて叩かれて、強くなっていかなければならない。

 生きているから。生きて、歩いていくために。

 歯を食い縛って、前を向いて。生きていくために。

 

「心を燃やせ。託されたものを、繋いでいくために」

「……はい」

「頑張ろう、強くなろう……生きていこう! 辛くとも! 苦しくとも!」

「はい……っ」

 

 頭や肩を抱いて慰めるようなことを、杏寿郎はしなかった。

 それが、今の瑠衣にはむしろ有難かった。

 何か、自分よりも大きなものに包まれたい。そんな感情には逃げたくなかったからだ。

 

「燃えるような、情熱を胸に!」

 

 強くなりたいと、瑠衣は思った。

 任務を果たし、責務を果たす。そのための力が欲しいと思った。

 今の自分では、余りにも弱すぎる。

 とても、煉獄家の娘だと胸を張って言うことなど出来ない。

 

「強く、なります……!」

「ああ」

「強く! なります! 強くなって、きっと……きっと!」

「ああ!」

 

 妹の言葉に、杏寿郎は力強く頷いた。

 

「煉獄瑠衣を、兄は信じている!」

 

 そんな2人の会話を、炭治郎は遠目に見守っていた。

 声をかけたいが、今そうするべきなのかどうか、悩ましく思っていた。

 しかしその中でも、瑠衣の話を聞いていて違和感を覚えた。

 

(覚えていないのか……?)

 

 猗窩座の頚を斬ったことを、瑠衣は覚えていない。

 気を失ったまま動いていたのか?

 いったい、あれは何だったのか。

 わからないまま、炭治郎は煉獄の兄妹の背中を見つめ続けていた。

 

 ――――無限列車事件。

 鬼殺隊の中でそう呼ばれることになるこの戦いは、鬼殺隊の記録の中では死者はいないことになっている。

 ただ、それが正確な真実ではないことを数人の隊士は知っていた。

 それが多いのか、それとも少ないのか。

 それは、誰にも判断の出来ないことだった――――。




読者投稿キャラクター:
グニル様より「沼慈司李夢」。
ありがとうございました。

最後までお読みいただき有難うございます。

杏寿郎の兄貴は絶対に死なせない……!
映画は生存ルートがあると信じてる!(え)
きっと興行収入でルートが変わるんだ!(錯乱)

でも杏寿郎の兄貴が万が一やられたら、瑠衣ってどんな声で泣くのだろうか(ゲスぅ)。
それでは、また次回。


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第17話:「しきたり」

 その少年は、家族や女中に俊國(としくに)と呼ばれていた。

 年の頃は10歳ほどだろうか。

 しかし年齢相応の幼さはなく、知性を感じさせる面立ちをしていた。

 とある資産家の養子であり、勤勉で将来を嘱望された天才児。

 

 ()()()()

 

 資産家の養父に、自分の世話をさせているに過ぎない。

 それは世を忍ぶ仮初(かりそめ)の姿であり、演技に過ぎない。

 それも、数多くの演技の内の1つである。

 俊國などという少年は、この世のどこにも存在しない――――。

 

「……猗窩座」

 

 自分の肉体の軋む音を、猗窩座は確かに聞いた。

 自身を鬼たらしめている決定的な何かが、悲鳴を上げているのだ。

 砕ける寸前の硝子細工のようだ、と、どこか他人事のように考えた。

 

「先日のお前の戦いぶりには失望した」

 

 王に(かしず)く臣下のように、猗窩座は跪いていた。

 間違った表現ではなかった。

 彼は今、俊國という少年――に擬態した主人の前にいるのだから。

 すなわち、鬼の始祖・鬼舞辻無惨の前に。

 

「まさかあの場にいた鬼狩りを1人も始末できないとはな」

 

 養父の知人に「利発な子供」と評された少年の顔は、怒りに赤く染まり、醜く歪んでいた。

 主人は、無惨は、激怒していた。

 猗窩座が任務を果たさず、おめおめと逃げ帰ってきたからだ。

 しかし実のところ、無惨は配下に過度な期待はしていなかった。

 

 ただ自分の命令通りに働きさえすれば良く、それ以上もそれ以下も求めたことはない。

 それ故に、こう見えて無惨は配下に無理な命令を出すことはない。

 期待していないから。配下の能力を完璧に把握しているから。

 ()()()()()()()()()()()

 だから命令が完遂されなかった場合、烈火の如く怒りを見せるのだ。

 

「お前の()()にはほとほと呆れ果てた。上弦の参も堕ちたものだ」

 

 猗窩座は目から鼻から口から、全身から、血を垂れ流していた。

 身体の中で、無惨の血が暴れ回っているのだ。

 下手を打てば、鬼であっても死ぬだろう。

 無惨があのまま指を少し動かせば、そうなる。

 

「――――だが」

 

 不意に、無惨が放つ圧力が和らぐのを感じた。

 それでも顔を上げることはなかった。勝手な動きは死を招く。

 

「だが、お前は最低限の義務だけは果たしているようだ」

 

 猗窩座は、何も言わなかった。それどころか何も考えなかった。

 無惨は配下の思考を読む。

 だから無惨の前にいる時、猗窩座は己を無にする。

 

「より強くなり、私の役に立つという最低限の義務をな」

 

 ああ、そうだ。

 強さだ。強さが必要だった。

 誰にも負けない強さを求めて、猗窩座は修羅の道を選んだのだった。

 

「褒美をやろう」

 

 無惨が、片手を不気味に蠢かせていた。

 肉がうねり、血管が脈打つ。

 

「頭を出せ」

 

 メキ、と、不穏な音が響いた。

 強さが欲しいと、猗窩座は思った。

 強くなければ、()()を守れない――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 善逸には、記憶がない、ということが良くあった。

 別に記憶喪失を言い出すわけではなく、気が付いたら事が起こり、終わっているからだ。

 もっと簡単な言い方をすれば、寝ているために覚えていないのだ。

 

「蝶屋敷って蝶屋敷っていうだけあって、やけに蝶々が多いよな。庭も花壇も凄く手入れが行き届いているし」

 

 蝶屋敷の中庭をとぼとぼと散歩しながら、善逸は大きく伸びをした。

 こうして蝶屋敷で過ごしているものの、彼は今回の戦いでは大きな怪我は負っていない。

 だからいつでも蝶屋敷に滞在する必要はないのだが、次の指令が来るまではと留まっているのだ。

 炭治郎や伊之助もそうだが、何となく蝶屋敷が拠点というか、家のような感じになっていた。

 

「これはまた、禰豆子ちゃんを散歩に連れてきてあげないと」

 

 禰豆子、善逸の想い人だ。最初に見た時に一目惚れをした。

 まあ、善逸の恋路は一目惚れから始まることが常なので、それ自体は珍しいことではない。

 最もそれらの恋はすべて非常に残念な結果に終わったのだが。

 しかし今回は本当の本気だと善逸が思っているというのも、本当のことだった。

 

「おっ」

 

 その時だ、花壇の世話をしているらしい女性を見かけた。

 車椅子に座って水やりをしているその女性は、カナエだった。

 元柱という話だが、足が不自由になっているせいか、あるいは本人の穏やかな気性によるせいか、あまり強いという印象は受けなかった。

 そして何よりも、美しい。

 

(いや本当、めちゃくちゃに可愛いんだよなあ。もう顔だけで食べていけそうなくらい)

 

 正直なところ、善逸はカナエ程に美しい女性を――禰豆子は例外として――見たことがなかった。

 もしかしたらいたのかもしれないが、善逸が知る美人はほとんどが彼を騙した相手でもあるため、良い印象を持っていない。

 それに比べてカナエは優しい。こんな自分を含めて、誰にでも分け隔てなく接する。

 美しい上に人間が出来ている。完璧とはカナエのような人間のためにある言葉なのだろう。

 

「えへへ」

 

 今も声をかければ、カナエは笑顔で返事を返してくれるだろう。

 数秒後のことを想像して、善逸の顔は(やに)下がった。

 

「カ」

 

 カナエさーん、と、まさに声を上げようとした時だ。

 

「か……か……」

 

 声が続かなかった。息が詰まり、音を出せなかったからだ。

 突然、言葉に出来ない威圧感を感じた。

 その圧力は後ろから来ているようで、両肩に重しを置かれたが如く、動けなかった。

 善逸の頬に一筋の汗が流れる。それはまさに冷や汗だった。

 

「――――ああ、善逸君でしたか」

 

 いきなり張り詰めた空気は、風船から抜けるようにいきなり弛緩した。

 ゆっくりとした足取りで善逸の横を歩いて行ったのは、しのぶだった。

 彼女は姉に勝るとも劣らない美しい笑顔を浮かべて。

 

「こんにちは、良いお天気ですね」

 

 などと言って、そのまま姉の方へと歩いて行った。

 善逸は、青褪めた顔でその背中を見送った。

 まだ冷や汗が止まらない。

 ドッドッ、と、心臓が大きく脈打っているのが聞こえる程だ。

 

(き、気のせい……だよな……?)

 

 胸を押さえながら、姉と笑顔で話し始めたしのぶの横顔を見つめる。

 今は、普通だった。

 しかし先程の一瞬、善逸は確かに聞いていた。

 きっと気のせいだと思い込みたかったが、本能的に感じたものは消しようがなかった。

 

(あんな音、人間の出せる音じゃないよ……)

 

 善逸は耳が良い。心音や体の発する音を聞き分けてしまう程に。

 そんな善逸が聞いたのは、しのぶの音だ。しのぶの音のはずだった。

 だがその音は、余りにも――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――鬼殺隊が分裂する。

 という()()()を聞いたのは、いわゆる「無限列車事件」から10日が過ぎた頃だった。

 

「あァ?」

 

 言ったのは宇髄だ。

 不死川が道場で鍛錬をしている時にふらりと現れて、茶飲み話でもするかのように、そんなことをのたまったのだ。

 手拭いで汗を拭きながら――気のせいか、また傷が増えている――不死川は、胡散臭そうな視線を宇髄へと向けた。

 

「鬼殺隊が何だってェ?」

「言葉の通りだ」

 

 ふう、と息を吐いて、宇髄は言った。

 どこか遠くを見るような目だった。

 

「煉獄家の名声が高すぎる」

 

 以前にも誰かから似たような話を聞いた気がする。

 何と表現するべきか。あまり関わり合いになりたくない話だ。

 しかし無関係を決め込める話でもなかった。

 

「上弦と戦って死人がゼロ。しかも妹の方は2度目だ」

「本人が聞いたら否定するだろうなァ」

「違いねえな」

 

 くく、と一瞬だけ笑った。

 だが、笑いごとではなかった。

 以前から槇寿郎の名声は並々ならぬものがあったが、その子供までとなると話はさらに複雑になる。

 煉獄槇寿郎という個人ではなく、煉獄家という一族そのものが力を持つことになる。

 

「それとまだ内々の話だが、お館様は槇寿郎殿を炎柱引退後も要職に就けるというし」

 

 鬼殺隊の当主まで槇寿郎に――煉獄家に()()()()()()()

 何も知らない一般の隊士はそういう風に受け取るだろう。

 ()()()()()

 そう、問題になっているのは一般の隊士なのだ。

 

 機密と体調の2点の問題で、産屋敷は一般の隊士と直接的に関わることが少ない。

 産屋敷と言葉を交わせば誰もが彼に惹かれるが、裏を返せば、言葉を交わし続けなければ忠誠を維持できないということだ。はたして数百人の隊士相手にそれが出来るものか。

 つまり産屋敷は、いわゆる「御簾(みす)の向こう側」の人間なのだ。

 有名人に話しかけられて高揚するようなもので、そして高揚はすぐに冷めるものだ。

 

「それで?」

 

 手拭いで目元を隠して、不死川は言った。

 

「黒幕は誰なんだいィ? お館様に歯向かおうって馬鹿は」

 

 黒幕。

 煉獄槇寿郎を、煉獄家を立てて、産屋敷の地位を脅かそうと企む者。

 鬼殺隊を分裂させ、鬼狩りという崇高な使命に邪念を持ち込む者。

 叛逆者は、逆賊は、誰か。

 

「黒幕は――――」

 

 ()()()の名を、宇髄が告げた。

 その名前を聞いた瞬間、不死川は動きを止めた。

 目を見開き、呼吸を止め、手拭いを取り落とし、そして。

 その日、風柱邸の道場から、凄まじい怒号が響き渡ったという。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 杏寿郎は、母が死んだ時のことを思い出した。

 時間が経てばどんなに大切な故人であっても記憶が薄れていくというが、杏寿郎は未だにはっきりと母の顔を思い出すことが出来た。

 母の仏壇に手を合わせている父も、きっと同じなのだろう。

 

「む……」

 

 杏寿郎の姿を認めると、槇寿郎は立ち上がった。

 視線で促す父について、縁側まで歩いた。

 今日は弟妹がいないため自分が茶でも淹れようかと思ったが、台所の物に触るとその弟妹がうるさいので、やめておいた。

 槇寿郎もそのあたりは弁えたもので、特に何か言ったりはしなかった。

 

「父上、良い日和ですね!」

「ああ、あたたかだな」

「……」

「…………」

 

 むう、と杏寿郎は内心で考え込んだ。

 会話が続かない。というか、思いつかなかった。

 そもそも最初の一言が天気に関するものというのは、もうその時点で会話に窮している証拠だった。

 弟妹がいれば何かしら会話の種もあったのだろうが、ここには自分と父とかいないのだった。

 無理に会話を弾ませる必要もないのかもしれないが、無言というのも不味いだろう。

 

「……千寿郎のことだが」

 

 などと杏寿郎が考え込んでいると、驚いたことに、槇寿郎の方が先に声を発してきた。

 数瞬の間、杏寿郎は目を瞬かせた。それからはっとして。

 

「千寿郎がいかがいたしましたか!」

「いや、いかがという程でもないが……最近、めきめきと腕を上げていてな」

「左様ですか! 千寿郎は近所の方々にも評判が良いので俺も兄として鼻が高いです」

 

 杏寿郎はふと、父は千寿郎に最終選別を受けさせても良いと考えているのかもしれない、と思った。

 少し早い気もするが、千寿郎の才は確かなものがあった。

 懸念があるとすれば、気性が穏やかなところだろうか。

 しかし煉獄家のことを考えるのであれば、杏寿郎に万一があった時のために、千寿郎が剣士として成長していることは大事なことだった。 

 

「立派になった」

「はい、千寿郎は立派な男になるでしょう」

「千寿郎もだが、お前も立派になった」

「いえ! まだまだ未熟者です!」

 

 実際、自分はまだ未熟だと杏寿郎は思っていた。

 先日も上弦の鬼との戦いに敗れたばかりだ。命が助かったのは僥倖というものだろう。

 思い出してみても、肌が粟立つ。上弦との戦いの緊張感は相当なものだった。

 しかし生き残った。生き残ったということは、まだ成すべきことがあるということだろう。

 例えば、杏寿郎の場合は。

 

「炎柱継承の日取りが決まった」

 

 先達が守り培ってきたものを、後に繋ぐという役目だ。

 炎柱。文字にすればたった二文字に過ぎない。

 しかしその二文字には、100年の重みがある。

 

 隣を見れば、父の背丈が自分よりも小さいことに気付いた。

 幼い頃は見上げていた父親を見下ろすようになったことに、杏寿郎の胸に何かがこみ上げて来た。

 もちろん、まだ多くの点で槇寿郎に及ばないことはわかっている。

 しかしこれも己が引き受けるべき責務だと、杏寿郎は理解していた。

 

「炎柱の継承に当たって、お前に伝えておかなければならないことがある」

 

 その時だ。槇寿郎がそう言って、杏寿郎の方に身体ごと向けてきた。

 雰囲気の変化を敏感に察して、杏寿郎も居住まいを正した。

 そうして杏寿郎が聞く体勢を整えたことを見て取ると、槇寿郎は一瞬、僅かにだが、言いよどむような仕草を見せた。

 それは槇寿郎には珍しいことで、杏寿郎は俄かに緊張した。

 

「――――瑠衣のことだ」

 

 瑠衣?

 杏寿郎は、父の言葉に首を傾げたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「退院おめでとう」

 

 禊が病棟に私物を取りに来ると、包帯塗れの化物(榛名)が声をかけてきた。

 退院したと思ったらすぐに出戻って来た榛名――鬼殺隊の特性上、これは別に珍しいことではないが――だったが、何故かまた寝台が禊の隣だった。

 何の嫌がらせだと禊は思ったが、仲良くお喋りするのも業腹なので、何も言わなかった。

 

「任務に行くの? 気を付けてねぇ」

「…………」

「ちゃんとご飯を食べてねぇ、柚羽ちゃんが心配してたわぁ」

「…………」

「でも、お豆腐は食べ過ぎちゃ駄目よぉ。あれっておむ……成長には効果がないからぁ」

「張り倒すわよアンタ……!」

 

 つい反応してしまった。

 前々から思っていたことだが、会話に引き込む誘因力が強すぎる。

 と言うより、どうしてそんなに絡んで来るのか。

 べたべたと鬱陶しいが、まあ、それも今日までと思えば我慢も出来た。

 

 それにしても、と、禊は改めて榛名を見た。

 榛名の状態は、文字通り「包帯の人」である。

 病衣から覗く肌よりも包帯の面積の方が明らかに多く、首と手足は骨折治療のために固定されている。

 もはやまともに身動きも出来ず、動かせるものはそれこそ口だけという状態だった。

 

「もう無いと思うけど、任務で会っても声をかけないでよね」

「それは大丈夫よぉ」

「あっそう。わかってるなら良いのよ」

「というより、しばらく任務には行けないからぁ」

「……は?」

 

 見つめると、榛名は笑っていた。

 

「骨折が酷くて、もしかしたら背骨にも異常があるかもしれないって、蟲柱(しのぶ)様に言われたわぁ。内臓も痛めてるみたいだし、どこまで回復できるかわからないって話でねぇ……」

 

 これもまた、珍しい話ではなかった。

 鬼殺隊士――呼吸の剣士は、不死身でも超人でもないのだ。

 普通の人間よりほんのちょっぴり優れているというだけで、生身の身体なのだ。

 鬼と違って再生もしない。失ったものは戻らない。

 命があるだけでも、死ななかっただけでも僥倖(ぎょうこう)なのだ。

 

「だから、もしかしたら、もう任務で会うことはないかもしれないわねぇ」

「……あっそう」

 

 自分が使っていた寝台の上に、私物をまとめた鞄があった。

 それと、日輪刀。やはり寝台に立てかけられていたそれを、引っ掴むようにして手に取った。

 

「あっそう!」

 

 するとそのまま、榛名には一瞥もくれずにズカズカと歩き出してしまった。

 榛名は手を振ろうと思ったが、できないので、結局は目線で見送るだけに留まった。

 肩をいからせた背中を見送ると、疲れたのか、大きく息を吐いた。

 それから首を巡らせて、枕元に置かれた日輪刀の鍔を見つめた。

 失われた()()()に、想いを馳せながら――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 当然のことだが、上弦の参――猗窩座との戦いで負傷した瑠衣も、蝶屋敷に入院していた。

 複数個所を骨折する大怪我だったのだから、当然と言えば当然だった。

 しかし瑠衣自身が戸惑う程に、怪我の治りは早かった。

 

「待ちやがれ! 俺様と勝負しろおおおぉっ!!」

 

 こうやって、伊之助と追いかけっこが出来る程度には。

 

(い、いったいどうしてこんなことに……?)

 

 瑠衣は今、蝶屋敷の屋根の上を駆けていた。

 病衣姿でちらりと後ろを見やれば、そこに猪頭の少年がいた。

 彼は刀こそ持っていなかったが、全身から「やる気」を漲らせて追いかけてきていた。

 

 瑠衣には知る由もないことだが、この時の伊之助の思考回路は極めて単純だった。

 自分は下弦の壱や上弦の参に勝てなかった。瑠衣はそのどちらよりも――結果だけを見るなら――強かった。

 ならばその瑠衣を勝てば、自分は下弦の壱にも上弦の参にも勝ったことになる。

 そう考えて、伊之助は瑠衣と勝負をしたがっているのだった。

 

「待て伊之助! 隊士同士の私闘はご法度だって知っているだろう!?」

「ガハハハハハッ! バカな紋次郎だな! 訓練なら良いんだぜ!」

(み、妙な知恵をつけてる……!)

 

 炭治郎の制止も聞かない。

 確かに訓練や組手なら私闘とはみなされない。

 なるほど、なかなかの理屈を考えたものだ。

 ただ一点、当の瑠衣が拒否しているという点に目を瞑れば、だが。

 

「姉上ー!」

 

 その時、不意に下から聞き覚えのある声が聞こえて来た。

 それは千寿郎の声で、見れば、あわあわとこちらを見上げている姿が見えた。

 お見舞いに来てくれていたのだが、伊之助がやって来たのでそれどころではなくなったのだ。

 

 せっかく来てくれたのにこんなことになっていて、姉として申し訳ない。

 と、そこまで考えた時だ。

 瑠衣はふと、不思議に思った。

 

「勝負勝負ゥッ!」

 

 いや、何で逃げる必要があるんだ、と。

 

「猪突ゥッ!」

 

 伊之助が屋根を蹴り、高く跳躍した。

 獣が獲物を狩る、まさにそんな風に瑠衣に飛び掛かる。

 対して瑠衣は最後の踏み込みで足を止めると、その場で回転した。

 

「――――猛進んんっ!」

 

 飛び込んできた伊之助の身体を巻き込み、腰帯を掴んだ。

 うおっ、と伊之助が声を上げる。

 しかしその時には、彼の視界は天地が逆になっていた。

 そして鋭い呼吸音と共に。

 

「う、うおおおおおおおおっっ!?」

 

 伊之助の身体が、宙に放り投げられていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「ヒノカミ神楽?」

 

 蝶屋敷の塀の上で伸びている伊之助を横目に、瑠衣は炭治郎の用向きを尋ねていた。

 すると、炎の呼吸について教えてほしいということだった。

 どういう意味かと思っていると、出て来たのが「ヒノカミ神楽」という単語だった。

 あの時、下弦の壱の頚を斬った剣技である。

 

 正直、気になっていなかったと言えば嘘になる。

 しかし、ヒノカミ神楽。

 改めて聞いてみても、思い当たる節のない単語だった。

 

「あと、火の呼吸とか……」

「いえ、火の呼吸というのは存在しません」

 

 そこは即答した。

 

「え、ないんですか!?」

「はい。と言うより、炎の呼吸を火の呼吸と呼んではいけないしきたりなのです」

「えっと、それってどう違うんですか?」

「まあ、そうなりますよね……」

 

 良くある話ではあるが、身内では通じても端から見ると「何故?」ということはある。

 炎の剣士にとって「炎の呼吸を火の呼吸と呼んではならない」というのは常識であって、改めて聞かれるような話ではないからだ。

 実際、火も炎も同じだろ? となる気持ちはわからなくもない。

 

 炭治郎の説明によると、彼の父親――というより、竈門家に代々伝わる神楽があるらしい。

 その神楽の呼吸法が何故か全集中の呼吸に対応しており、剣技として振るうと絶大な威力をもたらすのだと言う。

 それがあの時の、下弦の壱を斬った時の剣技かと瑠衣はようやく得心した。

 確かに奇妙な話ではある。神楽が何故、鬼を滅する剣技に変わるのか。

 

(ヒノカミ神楽……)

 

 思い返してみても、見事な剣技だったと思う。

 何よりも威力だ。炎や他の呼吸と比べて、鬼に対する攻撃力がまるで違っていた。

 まるで、鬼を斬るために生み出された力のようだとさえ思えた。

 しかも炭治郎は、まだ剣士になって日も浅い。

 だと言うのに、十二鬼月が絡む戦果を次々に上げている。

 

(天賦の才……ってやつなのかな)

 

 もちろん、霞柱――時透ほどではないだろう。あれは別格だ。

 しかしこの炭治郎も、間違いなく天才だった。

 いや、善逸も伊之助も選別を通ったばかりの新人とは思えない程だ。

 そう言えば、あのカナヲとも最終選別の同期なのだったか。

 

 黄金世代。

 そんな安易な単語が脳裏を掠めてしまう程に、優れた新人達だった。

 嗚呼、全く本当に嫌になってくる。

 ()()追い抜かれるのかと思うと、本当に嫌になってくる。

 そして、そんなことを考える自分自身が、嫌で堪らなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 結論から言うと、火の呼吸あるいはヒノカミ神楽について聞くことは出来なかった。

 

「そっかあ、残念だな」

「うん、でも仕方ないよ。全集中の呼吸の中にないってことがわかっただけでも十分だ」

「ふーん。あっ、伊之助! 人のおかず取るなよってかやっぱ汚いな食べ方が!」

「ガファファファッ」

 

 炭治郎たち3人は、蝶屋敷の食堂で夕食を食べていた。

 すみ達3人娘も一緒で、もはや当たり前の風景になりつつあるのは、それだけ彼らが蝶屋敷に滞在することが多いということだろう。

 と言うのも、炭治郎――厳密には禰豆子の方か――は一応、しのぶ預かりということになっているからだ。

 

 また彼らは――善逸は激しく嫌がるが――任務も積極的に受けているせいか怪我の頻度も多く、待機期間中はどのみち蝶屋敷にいることが多くなる。

 まあ、どうせ入院するから最初から病院にいよう、というのが健全かどうかはともかく。

 道場もあって修行もしやすいし、何より居心地が良いというのもあるだろう。

 しのぶやすみ達を含む蝶屋敷の人間は、本当に心根が優しい。

 

「おかわりですー」「お茶ですー」「お顔お拭きしますー」

「わあ、ありがとう」

 

 すみ達は働き者で、まだ小さいのに炭治郎達の世話まで焼いてくれる。

 そのせいか善逸は溶けて消えそうなくらいにデレデレ笑っている。

 正直に言えば、気持ち悪かった。

 

「え、酷くないっ!?」

 

 閑話休題。

 

「休題しないで!?」

 

 善逸達との団欒(だんらん)に笑顔を見せながらも、一方で炭治郎は考えていた。

 瑠衣のことを考えていた。

 ヒノカミ神楽や火の呼吸のことは、本当に知らなかったようだ。

 炭治郎は匂いで真偽の判別ができるので、嘘や誤魔化しがあれば見抜いていただろう。

 だから炭治郎が瑠衣を気にするのは、もっと別の「匂い」からだ。

 

(……怒らせちゃった、な)

 

 ヒノカミ神楽のこととは別のことだ。

 先の上弦の参との戦いで、終盤で瑠衣は確かに猗窩座の頚を斬っていた。

 その時の様子がどうにも変だったから、聞いたのだ。

 だが、瑠衣は戸惑った様子で。

 

「何のことですか?」

 

 と、固い声で応じたのだった。

 表には出さなかったが、匂いは怒っていた。

 侮辱されたというよりは、傷ついた、そんな風だった。

 だから炭治郎も、それ以上は話を続けることが出来なかった。

 

(うーん、何が不味かったんだろう)

 

 考えてみても、わからなかった。

 思えば瑠衣とはまだ何回か話しただけで、良く知らない。

 それで何かをわかろうというのが、無理な話ではあった。

 

(また、話しに行こう!)

 

 だから炭治郎は、また会いに行こうと思った。

 立ち止まっても仕方がない。わからないなら、わかるようになれば良い。

 そういう愚直さなら、炭治郎には自信があるのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「――――ということがあったんですよ」

 

 夜、煉獄邸に戻った千寿郎は、父と兄に蝶屋敷での出来事を話していた。

 炭治郎が言っていた「ヒノカミ神楽」や「火の呼吸」についてだ。 

 夕飯時である。

 瑠衣がいない時は、家事は千寿郎の仕事だ。

 

 それはまだ戦いに出ない自分がすべきことだと思っていたし、何より槇寿郎と杏寿郎が家事をやると逆に仕事が増えるので、自然とそうなっていた。

 まあ、それは良い。

 千寿郎としては、蝶屋敷の瑠衣の様子を話すついでに、いわば話のネタとして炭治郎のことを話したつもりだった。

 

「そう言えば普段あまり気にしてなかったんですけど、炎の呼吸を火の呼吸って呼んじゃいけないのって、どうしてなんでしょう?」

 

 しきたりというのは、意外と本人達にも由来がわからないことが多い。

 わからないが、ずっとそうだったから続けている。そういう場合が大半だ。

 あるいは由来を理解していても、現代の価値観からすれば意味が失われている場合もある。

 炎の呼吸を火の呼吸と呼んではならない、というのも、そのどちらかだろうと千寿郎は思っていた。

 

「……兄上?」

 

 その時、ふと杏寿郎の様子が目に入った。

 箸が止まっていたからだ。

 いつもなら5杯や10杯はおかわりをしていてもおかしくはないのに、今日は大人しい。

 食の細さとは無縁の兄だ。

 いったい、どうしたのだろうか。まさか、どこか調子が悪いのだろうか。

 

「千寿郎」

 

 その時だ、槇寿郎が声をかけて来た。

 こちらはいつも通りの様子で、椀と箸を膳に置いているところだった。

 千寿郎は内心で疑問符を浮かべていたが、しかし何も言えなかった。

 いつもと変わらない様子のはずの父が、どこか、いつもと異なるように感じたからだ。

 

「膳を下げ終えたら、道場に来なさい」

 

 道場? こんな時間に?

 ますます疑問符を浮かべる千寿郎だが、父の次の言葉でさらに目を見開いた。

 それは、いつかは来ると思っていたこと。

 しかし、今日だとは思っていなかったこと。

 

「千寿郎」

 

 父の視線に、千寿郎は居住まいを正した。

 自然と、そうしてしまった。

 

「刀を取りなさい」

 

 刀を取る。

 煉獄家の人間にとって、それは重要な意味を持つ言葉だった。

 千寿郎の頬に朱が差すのを、杏寿郎は見た。

 数年前の自分を見ているようだと、そう思った。

 

(そう言えば)

 

 瑠衣の時はどうだったろうか、と。

 そんなことを、考えた。




最後までお読み頂きありがとうございます。

今回はちょっと筆休め回でした。
次回からまた瑠衣を酷い目に合わせます(え)

出来れば千寿郎を活躍させたい。
でも鬼滅って活躍=フラグだからな…(偏見)
というわけで、もしかしたら次回あたりで千寿郎に絡んだ募集をするかもしれません。

それでは、また次回。


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第18話:「蠢く者達」

 (きのえ)というのは、鬼殺隊士の最高位の階級だ。

 これより上には柱しかない。ただ「柱」は称号であって、階級とは別の概念と言える。

 だから階級としては、甲より上は存在しないということになる。

 そういう意味では、甲の階級は柱と同等の地位にあるとも解釈が出来るだろう。

 

「ぞっとしないなあ」

 

 己の手の甲に浮かび上がった「甲」の文字に、瑠衣はそう呟いた。

 藤花彫りという特殊な刺青で、鬼殺隊士の証だ。

 特定の言葉と筋肉の膨張によって、鬼殺隊士の階級を浮かび上がらせる。

 そして瑠衣の手に刻まれた文字は甲。彼女が最高位の階級に達したことを示していた。

 

 スピード出世、と言って差し支えないだろう。

 ただ瑠衣の場合は煉獄家の出自であることも加味されているはずなので、一概に他の隊士と比較は出来ないかもしれない。

 そしておそらく、ここ最近の十二鬼月との遭遇率の高さも考慮されているのだろう。

 柱に空席がないことを考えれば、極端な話、瑠衣はこの年で出世の頂点を極めたとも言える。

 

(あんまり、上に立つって感じではないと思うんだけどなあ。私って)

 

 甲ともなると、共同任務の際には下の階級の取りまとめも職務に入って来るようになる。

 要は指揮官や部隊長のような役割を求められるわけで、瑠衣としては不安しかなかった。

 自分の力量不足もさることながら、何しろ鬼殺隊士には個性的な人間が多い。

 例えば、そう。

 

「…………」

「……えっと」

 

 目の前で穏やかに、しかし物言わずに座っている1人の少女。

 栗花落(つゆり)カナヲなど、その典型の1人だろう。

 

「とりあえず、任務の説明を始めても大丈夫ですか……ね?」

「…………」

 

 何度かすれ違ったことはあるが、あまり話したことはなかった。

 実際、瑠衣もカナヲが蟲柱・胡蝶しのぶの継子で、蝶屋敷の秘蔵っ子ということしか知らない。

 実力は相当に高い。向かい合ってみれば嫌でもわかる。立ち姿にまるで隙がないのだ。

 隙が無さ過ぎて、本当に人間と向かい合っているのか不安になるほどだ。

 

(いや、せめて何か喋ってよ……)

 

 鬼殺隊士は個性派揃いとは言っても、最初の一歩から躓くとは。

 前途の多難ぶりに、瑠衣は内心で大きな溜息を吐いた。

 

「…………」

 

 そして当のカナヲはと言えば、そんな瑠衣を見つめて何を思ったのか。

 にっこりと、笑顔を浮かべたのだった。

 それはそれは、作り込まれた陶器人形のように完璧な笑顔だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その時だった。

 

「おにぎりでも」

 

 笹の葉に乗せたおにぎりが、ずい、と横から差し出されてきた。

 艶々の白米で握られたそれは、確かに美味しそうだ。

 しかしそれがカナヲの顔の横にあると、何ともミスマッチだった。

 

「お近づきの印に、おにぎりでもいかがですか」

 

 柚羽だった。

 薔薇の髪飾りが陽に照って美しく、眼帯に覆われていない右目が柔らかく笑んでいた。

 今回の任務は、瑠衣とカナヲ、そしてこの柚羽の3人で当たることになっていた。

 その顔合わせと打ち合わせのために、とある藤の家に集まったところだった。

 

「鮭と昆布、どちらがお好きですか?」

 

 ちなみに瑠衣はおにぎりの具では梅干しが好きだった。

 いや、今はそんなことは重要では無かった。

 このカナヲという人形じみた天才は、どちらが好きなのか。

 それが問題だった。

 

(いや、そんなこともないんだけどね?)

 

 などと考えていると、カナヲが動いた。

 羽織の下からそっと出した右手の平に、1枚の銅貨があった。

 お金ではなく、表・裏と刻印されただけのものだ。

 

 何だろうと思って黙って見ていると、キン、という音を立てて銅貨が宙を舞った。

 カナヲが指先で弾いたのだ。くるくると回りながら落ちるそれを、手の甲を打って受け止めた。

 何となく、緊張感が漂った。

 結果は、表。

 

「…………ありがとう」

 

 カナヲが、片方のおにぎりを手に取った。

 具は鮭だった。

 黙々とおにぎりを口にし始めたカナヲを前に、瑠衣はほうと息を吐いた。

 ……帰りたかった。割と切実に。

 

「……あ、ありがとうございます」

 

 眼前の柚羽の笑顔に押されるようにして、昆布のおにぎりを手に取った。

 まあ、腹が減っては戦は出来ぬと言うし。

 何より柚羽のおにぎりは美味しい。塩加減と握り具合が絶妙なのだ。

 瑠衣も料理は得意な方だと思っているが、自分でおにぎりを握ってみてもこうはならず、何が違うのか良くわからなかった。

 

「ちなみに柚羽さんの具は何ですか?」

「梅干しです」

 

 梅干し……!

 と、地味に衝撃を受けたことは巧妙に隠した。

 梅干しのおにぎり欲しさに動揺するなど煉獄家の娘にあるまじき行為である。

 いや、それよりもだ。

 

「まあ、食べながらでも結構です。任務の話をしましょう」

 

 そう、任務だ。

 甲昇進後の初任務。とは言え、いつもと変わるものではない。

 隊士が数人で組んでやる任務など、いつも同じだ。

 

「ここから山一つ向こうの村が、()()()()()()

 

 柚羽のおにぎり程に美味しい任務、とはなかなかいかないものだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 全滅と一言で言っても、色々とあるだろう。

 1人残らず全てという意味と、単に多数の人間が犠牲になったという意味だ。

 残念ながら、今回は前者だった。

 

「あ、鬼狩りの皆様。こっちでーす!」

「やめろ、観光じゃねえんだぞ」

「あだっ、何も叩くことないじゃないですか」

 

 藤の家を出て、現場の麓についた時には夕方になっていた。

 山に入るのは夜になってからだが、その前に現場の山を封鎖している隠の部隊と合流した。

 もちろん彼らは山には入らないが、見張りをしたり、無関係な人間が山に入るのを防止したりしてくれる。

 瑠衣達を山道の入口で出迎えたのは、後藤と沼慈司だった。

 

「お疲れ様です」

 

 瑠衣が声をかけると、後藤達は背筋を伸ばした。

 隠は鬼殺隊士の部下というわけではない。両者には実働部隊と後方部隊という違いしかない。

 ただ隠の多くは、鬼殺隊士――そもそも隠も鬼殺隊士だ――つまり、剣士を尊敬している。

 それは剣技の才がない彼らにとって、前線で命を張り続ける剣士達が眩しく見えるからなのかもしれない。

 

「近隣は我々が完璧に封鎖しています。この3日間、山に入った人間はいませんし、山を下りたやつもいません」

「つまり……」

 

 夕焼けに赤く染まる山の斜面を見上げて、瑠衣は言った。

 

「鬼はまだ、この山にいるということですね」

 

 大きく、高い山だった。

 頂上付近は雪に覆われており、低い位置の雲がかかっている部分もある。

 そんな山が2つ3つと隣接していて、まさに天然の要害と言った風だった。

 鬼の情報も少ない。これは、探すのに手間がかかりそうだった。

 

「い――――や――――アッ!」

 

 と瑠衣が考えていると、どこからともなく大きな声が聞こえた。

 それは断続的に続き、最初は何だと思っていたが、よくよく聞いていると聞き覚えがある声だと気付いた。

 声のする方を見やると、ある木の近くに2、3人の隠がいた。

 隠達は一様に木を見上げていて、そしてどこか困った様子だった。

 

 彼らは口々に「降りてきてください」だの「大丈夫ですから」だのと言っており、その度に木の上から悲鳴のような声が聞こえてくるのだ。

 近付くと、はっきりと声の主が見えた。

 彼は隠達の言葉に「ちょっと待って! ちょっとで良いから!」と叫び返していた。何故か泣き喚きながら。

 

「えっと……」

 

 そんな彼の真下まで歩いて行って、瑠衣は遠慮がちに声をかけた。

 

「ごきげんよう、我妻君」

「え? うわっ、美女!」

 

 我妻善逸が、太い木の枝に抱き着いてぶら下がっていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 善逸は、自己評価が非常に低かった。

 

(いや、だって高くなりようがないじゃん?)

 

 今だって女子3人が前を歩いている。

 鬼を探して、まず前情報のあった山村に向かっている。

 流石に瑠衣達が山に入る段になると「い、いいいい行きますよよよよ」と言って、最後尾ながら山に入ることにした。

 鎹鴉のチュン太郎――鴉というか雀――にも死ぬほど(つつ)かれた。

 

(だって鬼がいるかもしれない山だよ? 迷わずに入っちゃう方がどうかしてるって)

 

 炭治郎や伊之助もそうだったな、と、以前の任務で見送った2人の背中が脳裏を掠めた。

 あの時に比べれば、一緒に山に入っているだけ成長したと褒めてほしいくらいだ。

 いくら臆病者とは言っても、女性だけ行かせて麓で震えているだけ、というわけにはいかなかった。

 ……隠の目が痛かった、というのもあるが。

 

 とは言え、ガタガタ震えながら最後尾を歩いている自分の姿というのは、客観的に見て情けないものだろうと思う。

 特に同期のカナヲが全く怖じけた様子もなく――もっとも彼女については、普段から感情が読み取れないのだが――進んでいるのだから、嫌が応にも比較してしまう。

 これで自己評価を上げろと言っても、難しいと言わざるを得ない。

 

(しかも俺ってめちゃくちゃ弱いからね? もう、ほんとすぐ死ぬからね?)

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 そんな自分が他の隊士と同じようにしていちゃいけない。

 自分で言うのも何だが、もう少しこの「慎ましさ」を理解してくれて良いのではないかと常々。

 

「どうしました?」

「ひゅいっ!? 何何何何なにぐあっ!?」

 

 不意の声に、善逸は全力で驚いた。

 むしろそんな善逸に驚いた瑠衣だったが、彼女が見ていたのは善逸ではなくカナヲだった。

 後ろを振り向いた時、カナヲが立ち止まっているのが見えたからだ。

 カナヲは、地面を指差していた。

 

「……足、跡?」

 

 ちょうど植物に隠れる場所に、爪先で踏み込んだような跡があった。

 しゃがみ込んで確認して見れば、自然な土の盛り上がり方ではなかった。

 しかも素足だったのか、足指の形がわかる程だった。

 

「そのようですね。隠の話では誰も出入りしていないはずですが」

 

 柚羽が傍に来てそう言った。

 確かに隠の話と違うが、瑠衣が気になったのはそこでは無かった。

 

「それもそうですが、普通……」

 

 足跡は茂みの根元、しかも瑠衣達から見て反対側にあった。

 しかも夜。

 良く晴れて月が明るいとは言え、正直カナヲは良く見つけたなと思う。

 しかも良く見てみると、雑ではあるが、周りの地面にならしたように跡がある。

 

「普通、こんなところに足跡なんて出来ますか?」

 

 まるで、誰かがそこにしゃがみ込んでいたような。

 ヒイ、と、善逸が息を呑む音が響いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 村に到着したのは、月が頭上高くに昇り切った頃だった。

 2つの山に囲まれた山間部にあり、山の斜面には田んぼが広がっていた。

 自然豊かでのどかな山村だったのだろう。

 だが、今ではもう過去形でしか話すことが出来ない。

 

「酷い……」

 

 そこには、凄惨な光景が広がっていた。

 全滅という報告は受けていたから、覚悟はしていた。

 隠は鬼が倒されるか、去ったという確信が得られるまでは、現場そのものには入れない。

 だからこの村は、3日前に襲われた当時のままにされているということだ。

 

 20人ほどの、人間の頭。積み上げられていた。

 村人達だったのだろう。老若男女の区別なく、村の中心部に集められていた。

 首から下は、見当たらなかった。一部の頭は、異臭を放ち始めている。

 目を伏せて黙祷を捧げた後、村人達の首を見つめている柚羽に気が付いた。

 

「柚羽さん、どうかしましたか」

「……いえ」

 

 顔は青褪めているのに、拳は血が流れんばかりに握り締められていた。

 そして、答えは短かった。

 言葉を重ねようとしたが、カナヲがふらりとどこかに行こうとしているのが見えて、さらに善逸が転んでいるのも見えて、それも出来なかった。

 

「栗花落さん、ちょっと! 我妻君、大丈夫ですか?」

 

 柚羽はそれでも、村人達の首塚を眺め続けていた。

 村人達の表情は、どれも恐怖に引き攣っている。

 見ているだけで吐き気を催す光景だが、それを上回る感情がそれを押さえ込んでいる様子だった。

 それが、ふと緩んだ。

 

「……アイツじゃない……」

 

 その声は夜風に流れて、誰にも届くことは無かった。

 そして瑠衣はと言えば、窪みに足を取られて転んだ善逸を助け起こしていた。

 

「我妻君、立てますか?」

「す、すみません。えへ、えへへ……うん?」

「どうしました?」

「いえ、その……」

 

 瑠衣の手を握って助け起こされた善逸は、ニヤけていた顔を怪訝な表情に変えて、周囲を見渡した。

 心なし、耳がピクピクと小さく動いているように見える。

 

「何か……いや、気のせいかな……」

 

 何となく、瑠衣も周囲を見渡した。

 善逸の耳の良さは知っていたから、彼が何かを聞いたというなら、何かあるかもしれなかったからだ。

 しかし夜の山が風にざわめく様子が見て取れるだけで、瑠衣の目には何も見えなかった。

 瑠衣がカナヲのことを思い出して、慌てて追いかけたのは10秒後のことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 面倒を見るべき下が出来るだけで、こうも違うのか。

 心身ともにぐったりとして、瑠衣は溜息を吐いた。

 一晩かけて山村とその周辺を探索したが、村人の亡骸以外に見つかるものは無かった。

 まあ、それ自体は珍しいことではない。むしろ鬼の探索が難航することは良くあることだ。

 

(それよりも、あの2人まったく言うことを聞いてくれないんだけど……!)

 

 あの2人というのは、言わずもがな善逸とカナヲのことである。

 善逸は一晩中泣いていたし、カナヲは1人でふらりと消えることが多々あった。

 前者は性格の問題だとしても、後者は行動がコイン次第という博徒もびっくりなことをする。

 100歩譲って性格は読めるので対処できるとしても、コインの出目まで読んで対処しろというのは余りにも酷というものだった。

 

 と言って、まさか放っておくというわけにもいかない。

 2人を追いかけて連れ戻すということを何度かやる羽目になった。

 鬼殺隊士は個性派揃いとは言っても、ここまで来ると頭を抱えたくなった。

 と、そこまで思ったところで、だ。

 

「……ふーっ」

 

 手桶で、頭から水を被った。

 水浴び。早朝の川の水だ。かなり冷たかった。しかし目は覚める。

 

(不甲斐ない)

 

 確かに善逸とカナヲは個性的だ。しかし分別がないわけではない。

 それは無限列車の件で知っているし、本当に無分別なら継子になどなれるはずが無い。

 だからもし、2人が自分の言うことを聞かないのなら

 

(悪いのは私だ)

 

 実際、杏寿郎やしのぶの指示には従っていた。

 自分とは信頼関係を築けていないだけなのだ。

 

(まず、私が頑張れ……ですね)

 

 水の雫が前髪の毛先から滴り落ちるのを見届けて、瑠衣は立ち上がった。

 なお、瑠衣は隊服を岩にかけて肌着姿になっていた。

 水浴びを――鬼殺隊の隊服は濡れにくい素材で出来ている――していたのだから、当然ではある。

 白い肌着が水に濡れて、その下の肌さえも薄っすらと透けて見える状態だ。

 

「ちょ、ちょっとカナヲちゃんどこ行くのさ!? 勝手にどっか行っちゃ駄目だってさっきも言われてたでしょ!?」

 

 そんな状態の時に、付近の茂みが揺れた。

 まず顔を出したのはカナヲだった。

 瑠衣と同じく水浴びに来たのか、洗顔か、用向きはわからない。

 そしてそのカナヲを追いかけて来たのだろう、善逸が何も気付かずに茂みから出て来た。

 当然、瑠衣とも鉢合わせることになる。

 

「あ」

 

 声を発したのがどちらだったのかはわからないが、数瞬、時間が停まった。

 善逸が、目を丸くしているのが見えた。見る見るうちに顔面が紅潮していく。

 そして、瑠衣が手を動かそうとするのとほぼ同時に。

 

「ぶはっ」

 

 善逸が、鮮血と共に倒れ伏したのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 隠は、鬼殺隊士を支援する。

 それは情報収集や戦闘の後始末に留まらず、怪我人の救助から隊士の精神ケアまで多岐に渡る。

 鼻血を噴いて倒れた善逸も、すぐに適切な処置を施されて横にされた。

 

「我が一生に一片の悔いなし……」

 

 そんな善逸を横目に――苦笑いを浮かべながら――瑠衣は、女性の隠達に背中を押されていた。

 

「さあさあさあ、女性の剣士様はこちらへどうぞ!」

「は、はあ」

 

 目を白黒させながら押されるまま歩いて行くと、木の枝に布を引っかけて簡易の仕切りを作っている空間があった。

 その前には隠の少女、沼慈司が立っていて、彼女は瑠衣の顔を認めると。

 

「お疲れ様です!」

「お、お疲れ様です……?」

 

 と元気よく声を張り上げて来た。

 余りの元気さと屈託のなさに、瑠衣は若干押され気味だった。

 沼慈司は爛々と輝く大きな瞳で瑠衣を見つめて、手振りで後ろの布の仕切りを示して見せた。

 

「陽が昇っている間、お山は我々隠が見張ります! だからその間、剣士様にはこの中で休んで頂きます」

 

 鬼は夜に活動する。だから鬼狩りの剣士の活動時間も夜だ。

 いかに人間離れしていようと、人間は眠らなければならない。

 夜に活動するなら昼間に眠る。当然と言えば当然の理屈だった。

 そして眠っている間も隠が山を見張っていてくれるなら、こんなに有難いことは無かった。

 寝ている間に鬼はいなくなりました、では話にならないのだ。

 

「というわけで」

 

 うん?

 

「脱いでください」

 

 ――――うん?

 気が付くと、両側から別の隠の女性に肩と腕を掴まれていた。

 沼慈司は両手をわきわきと動かしながら、瑠衣に近寄って来ていた。

 

「え? え?」

「さあさあ脱いでください脱いでください」

「いや、え? え?」

 

 何だ何だと両掌を前に向けて抵抗の意思を示していると、あることに気付いた。

 それは仕切りが1つではなく、少なくともあと2つあるということだった。

 冷静に考えるのであれば、おそらく柚羽とカナヲの分であろう。

 先程、女性の剣士、と言っていたことからもそれは明らかだ。

 

 問題は、その内の1つがもぞもぞと動いているということだ。

 要するにすでに誰かが中にいるわけだが、カナヲの姿は先ほど見たので、柚羽だろう。

 よくよく耳を()ませて見ると、確かに柚羽の声らしきものが聞こえて来た。

 ただそれは、普段と調子が違っていた。

 

「ふあっ、ちょ、ちょっと待ってください、脱ぐってどこまで、そこまで? そこまで!? んあっ、ひゃっ、駄目だめ許してくださいおにぎりあげますからあああああああああ」

 

 という、何だか妙に艶っぽい声が漏れ聞こえてきていて。

 それを聞いているのかいないのか、沼慈司は「どやさ」という表情を浮かべていて。

 

「隠秘伝の疲労回復マッサージで、夜までに疲れのつの字も残さない勢いで回復させて頂きまっす!」

「い、いやっ、普通に仮眠を貰えれば十分というか……っ」

「まあまあ遠慮しないで! もう本当にスゴいんですから! 我々の支援なしでは戦えなくしてあげますから!」

「遠慮とかじゃ、うわ力強っ!? ちょ、ちょっと待って本気でいったん待ってえええええええええ」

 

 抵抗虚しく、瑠衣の悲鳴は仕切りの向こう側へと消えていった。

 ――――なお、カナヲは逃げた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 酷い辱めを受けた気がする。

 早朝ならぬ早晩、隠の用意してくれた食事を口にしながら、瑠衣はそう思った。

 身体はこれ以上ない程に回復していたが、代わりに失ったものは大きかった。

 

「おかわりはいかがですか?」

「頂きます」

 

 とは言え、これから山に入って鬼を探し、見つければ戦うのだ。

 どこぞの恋柱ではないが、食べないと体力が持たない。

 沼慈司がよそってくれた粥を口の中に流し込みながら、瑠衣はふと正面の柚羽を見た。

 2人は焚火を挟んで、向かい合って座っていた。

 

 柚羽は何事かを考え込んでいる様子で、箸と茶碗を手にぼんやりしていた。

 そう言えば、昨日も様子がおかしかった。

 鬼に襲われた山村で、村人達の亡骸を目にしてからだ。

 そうやって見つめていると、瑠衣の視線に気付いたのだろう。

 

「何でもありません」

 

 と言って、笑うのだった。

 とても「何でもない」とは思えなかったが、瑠衣は上手く言葉を作ることが出来なかった。

 

「……昨日の、村のことですが」

 

 結局、口を突いて出たのは任務のことだった。

 

「人間の亡骸をああいう風に扱う鬼というのは、初めて見ました」

「そうですか。私は初めてではないですね。鬼の中には、人間から見ると妙なこだわりを持つ者もいます。人間だった頃の名残りなのか、何なのか……」

「人の頭を、集める鬼?」

「いえ、私が知っている鬼は……」

 

 そこまで言ってから、柚羽は粥をかき込んだ。

 あまり行儀が良いとは言えなかったが、会話を中断したいという意思表示だろう。

 思えば瑠衣は、柚羽のことを良く知らない。料理が上手いということくらいだ。

 榛名の時もそうだった。隊士は自分のことや過去を語りたがらない者が多い。

 

 だがそれは、隊士の平均寿命の短さと無関係ではないだろう。

 自分のことを話しても良いと思えるようになる前に、その僚友は死んでしまうからだ。

 刹那の時を共にし、何も語り合うことなく、ただただ戦って死んで行く。

 煉獄家のような鬼狩り一族は、例外中の例外なのだ。

 

(家族以外だと恋柱様と蛇柱様、あとは師範(風柱)くらいかな……ああ、それと)

 

 脳裏に黒髪の同期が浮かんだ時、柚羽が箸を置く音が聞こえた。

 出発の時間だ。

 瑠衣は慌てて茶碗の中身を口の中に流し込み、自分もその場に立ち上がった。

 口元を拭いながら空を見上げると、陽が沈み、まさに夜闇が広がらんとしていた。

 側に立てかけてあった日輪刀を、手に取った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 この山は広かった。

 だから2日目は山村を境目として、2手に別れて鬼の探索を行うことにした。

 上は柚羽、カナヲ。下は瑠衣と善逸である。

 

「うひい、どうして鬼って山にばっかり潜むんだよ~」

 

 善逸は山というものに良い思い出が無かった。

 今までの任務の経験からそうなってしまうのは無理もないが、一方で鬼が潜む場所が人里離れた場所になってしまうのは仕方がないことだった。

 善逸だって、鬼の立場であれば人目を忍ぼうとするだろう。

 

 耳が良すぎるというのも、この場合は考えものだった。

 鬼を探すために耳を澄ますと言えば聞こえは良いが、裏を返せば木々の音や獣の吐息など、普通は聞かずに済むものが聞こえてくるということだ。

 善逸だからこそ聞き分けられるそれらの音は、恐怖心を呼び起こすには十分なものだった。

 

「我妻君、大丈夫ですか?」

「だ、だだだだだだいじょじょじょぶです」

「とてもそうは見えないのですけど……」

 

 炭治郎がいてくれたら、とこんな時に思う。

 あの太陽のような少年は、不思議と何とかしてくれるという安心感がある。

 もちろん禰豆子がいればもっと頑張れるが、それ以前に危険な目に合ってほしくはないので、禰豆子がこの場にいたら抱えて逃げる方を選ぶかもしれなかった。

 いや、まあ、今もすぐに逃げ出したい気持ちではあるのだが。

 

(流石に女の子を置いて逃げるっていうのはないよねえぇ)

 

 善逸は臆病者だが卑怯者ではない。

 男としての矜持というものも、少しは持っているつもりだ。

 むしろ、その「男としての矜持」のせいで騙されて借金を背負わされたことさえある。

 それに、と前を歩く瑠衣の背中を見つめて、朝のことを思い出した。

 

 水浴びに出くわした時だ。

 余り鮮明に思い出すとまた鼻血を噴きかねないので、光景を思い浮かべることはしなかった。

 綺麗だった、という印象がある。

 そして同時に、こうも思った。

 

(綺麗だったけど、でも……傷だらけだった)

 

 それはそうだよな、と思う。鬼と戦っているのだ。化物と殺し合っているのだ。

 無傷でいられるはずがないし、傷痕の1つや2つが残るのはむしろ当然だ。

 善逸だって、たった数回の任務を経ただけだが、それでも何度も深い傷を負った。

 カナヲのように傷一つない、という方がおかしいのだ。

 

(頑張ってる人、なんだろうな。頑張り続けられる人。ひたむきって言うか……まるで、()()()みたいだ)

 

 もっとも、自分が知る人物は瑠衣のように優しくはないが――――。

 

「……え?」

 

 善逸は、足を止めた。

 彼の聴覚が何かを捉えた。それは自然が立てる音では無かった。

 

「我妻君?」

 

 瑠衣が立ち止まって、こちらを振り向いているのが見えた。

 駄目だ、と思った次の瞬間。

 善逸の鼻先を掠めて、何かが物凄い速さで通り過ぎ、そして木の根元に突き刺さった。

 深夜の山中に、善逸の悲鳴が響き渡った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 木の根元に突き刺さったのがいわゆる竹槍だと気付いた瞬間、善逸は恐慌状態に陥った。

 え、竹槍って何? 農民一揆? 大正時代だよ今!?

 

「え――――え?」

 

 不意に大きな、否、()()()()が聞こえて、善逸は顔を上げた。

 そこは急な斜面になっていて――瑠衣と善逸は斜面に沿って歩いているところだった――見上げても木々と茂みで碌に見渡せないのだが、そこにいくつも蠢くものがあった。

 一見すると草葉が蠢いているようだが、良く見ればそれは植物や土の色の布を体に巻いた人間だった。

 

 隠ではない。もちろん、村人という出で立ちでも無かった。

 十数人はいそうだ。彼らは皆、手に持った竹槍をこちらに投げつけようとしていた。

 そして善逸があっと叫ぶ間に、それは実行された。

 あれ、もしかして死んだ? と善逸が考えた時、彼の前に細い背中が躍り出てきた。

 ――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐風樹』。

 

「うわっ!」

 

 轟、と風が舞い上がり、刃となって十数本の竹槍を斬り弾いた。

 数秒の後、ぼとぼとと地面に落ちる竹槍に「敵」から動揺の音が聞こえた。

 

「……何者です?」

 

 刀を振り抜いた体勢のまま、瑠衣が問いかけた。

 目の前の集団は、明らかに害意を持って攻撃してきた。

 善逸の聴覚をもってしても事前に察知できなかったところを見るに、ずっと地面や茂みに伏せて息を殺し、瑠衣達が来るのを待ち伏せていたということだろう。

 彼らは瑠衣の問いかけに答えることは無かった、が。

 

「……どうする……」

「さっきの……やばい……」

「……けど、あの……黄色い頭……人だ……」

 

 うん? と善逸は目を細くした。

 今、何か聞き逃せない単語が聞こえた気がしたからだ。

 確かに聞こえた。

 黄色い頭。それはつまり。

 

(え、俺!? 狙われてるの俺ェ!? こういう時は普通は女の子でしょ!?」

「あの、我妻君? そうしがみつかれると動きにくいのですが……あと声に出ていますよ」

 

 そうこうしている内に、「敵」に動きがあった。

 その気配に瑠衣は両手で刀を握り直したが、しかし次にやって来たのは攻撃ではなかった。

 むしろ逆で、波が引くように彼らは自然の中に再び姿を消そうとしていたのである。

 風に乗って、言葉が一つ聞こえて来た。

 

「……鬼の……に……」

 

 確かにそう聞こえた。

 

「待ちなさい!」

 

 追うべきか。しかし位置が悪い。「敵」の正体もわからない。

 この斜面を駆け上がって追いかける。容易いことだが、斜面の向こう側に何があるかわからない。

 それに善逸と離れるのも得策ではない。何故かは不明だが、彼らは善逸を狙っている。

 安易には動けなかった。

 

「な、何だったんですかあ、アイツら」

「……わかりません。ただ」

 

 ただ、どうやら事態は瑠衣達が思っている以上に、厄介な方向に進んでいるようだった。

 月が、中天で嗤っていた。




最後までお読み頂き有難うございます。

今年も残すところ3か月余りとなりました。
本当はサクサクと話を先に進めたいところですが、主人公と他のキャラクターの絡みを増やしたいなあという思いから、月2回という遅筆にも関わらずのんびりとしたテンポで話を進めております。

どうぞ長い目でお楽しみ頂ければ幸いです。
次の募集は色々と考えているところで、もうちょっとかかりそうです。

それでは、また次回。


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第19話:「鬼と人」

「――――人間?」

 

 瑠衣が想像した通りの反応を、柚羽は返してきた。

 鬼が潜んでいる山で十数人の人間がいて、しかも攻撃してきた。

 そんな話を聞けば、誰でも同じような反応を返すだろう。

 

「……山村の生き残りでしょうか?」

「いえ、そういう雰囲気ではありませんでした」

 

 風を切りそうな勢いで、善逸が頷いていた。

 何しろ竹槍だ。どう考えても「生き残り」などという可愛いものでは無い。

 鬼に襲われた山村の生き残りではないとすると、別の問題も出てくる。

 

 隠の封鎖は完璧だ。それこそ獣一匹だろうと通しはしない。

 前線で鬼と戦えないからこそ、隠は身命を賭して責務を果たそうとするからだ。

 その隠が「出入りはない」と言うのなら、絶対に出入りはない。

 そうなると、あの人間達は()()()()()()()()()()()()()()()

 

「山に慣れていれば、数日なら食べ物は何とかなるでしょう。水場もあるでしょうし」

 

 とは言え、瑠衣達が口にしているような粥飯などは望むべくもないだろう。

 実際、瑠衣と善逸が出会った人間達は、お世辞にも栄養状態が良いようには見えなかった。

 地面や茂みに扮していたせいもあるだろうが、月明かりの下で見えた目は、飢えた獣のようにギラギラとしていた。

 

「ど、どうするんです……か?」

「不確定要素が増えてしまったのは確かですが」

 

 空になった茶碗と箸を置いて、瑠衣は言った。

 

「いずれにせよ、鬼を討たない限り任務は終わりません」

 

 善逸が絶望したような表情を浮かべた。

 もちろん彼も任務が中止になるなどと考えていたわけではないが、改めて突き付けられると、現実から逃げたくなってしまうのだろう。

 木の上に登らないだけ、まだ自制した方かもしれない。

 

「とりあえず、今夜はまた4人で固まって探索しましょう。効率は悪いですが、慎重になった方が良いと思います」

「今夜も見つからない場合は?」

「3日探して見つからないとなると、どのみち探索方法を変えた方が良いです」

 

 瑠衣としては、夜の探索は今夜を最後にするつもりだった。

 鬼がこちらを警戒して隠れ回っているのであれば、いくら探索しても意味がないということもあり得る。

 その場合は、いっそ鬼の活動が制限される昼間に山に入った方が良いのかもしれない。

 あるいは応援を頼むなり、探索範囲を広げるなり、そういうことも考える必要がある。

 

「食事が終わり次第、山に入ります」

 

 キン、と、コインを弾く音が聞こえた。

 この数日ですっかり慣れたその音に、瑠衣達が視線を向けた。

 3人が見ている前で、カナヲが手の甲を打った。

 表か裏か。鬼が出るか蛇が出るか……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣は鬼の探索と同じくらいに、善逸とカナヲの2人のことを注意深く見つめていた。

 初日に2人に振り回された反省からだが、こうして数日間を共にしていると、だんだんと2人の性格というか、行動パターンがわかるようになって来た。

 慣れてきた、という言い方の方が正しいかもしれない。特にカナヲだ。

 

「…………表」

 

 例えばコイン。一見すると意味不明だ。

 しかし表と裏にはそれぞれ意味があるはずで、状況である程度は察することが出来る。

 例えば今のコインは、山道を上に進むか下に進むか、というものだ。

 事が2択問題だと思えば対処もいくらか楽になるし、そして初日の時点で呼び戻せば素直に従ってもいたわけで、全くこちらの言うことに耳を貸さないわけでもない。

 

「栗花落さん、どうして上だと思うんですか?」

「…………」

 

 こちらから聞けば、無視をしないこともわかった。

 今も地面を指差して、何か、理由を教えてくれている。

 

「足跡、ですね」

 

 善逸が聴覚に優れているように、カナヲは非常に目が良かった。

 今も茂みの根元に隠れていた足跡を見つけている。

 そしてこの足跡は、これまでも何度か似たようなものを見つけていた。

 あの集団のものだろう、と推測することが出来た。

 

「我妻君」

「え、あっ、はい!」

「近くに誰かいましたか? 人の気配はありましたか」

「えっと、誰の心音も聞こえませんでした」

 

 下唇に指先を添えて、瑠衣は考え込んだ。

 茂みの根元に足跡がついているということは、誰かがここに身を隠していたということだ。

 逃亡か監視。まずそれが考えられる、が。

 善逸の耳が捉えていないということは、少なくともその対象は()()()()()()()

 

 あの集団は瑠衣達を見るや攻撃を仕掛けて来た。

 何故だ。刀を持っていたから怯えられたのだろうか。

 仮にそうだとしても、集団で槍を投げる程だろうか。

 何よりも、あの攻撃には自衛の意思よりも害意の方が色濃く感じた。

 

「何かから逃げてる……?」

 

 この足跡の主の目的が、逃亡と監視の両方だったとすれば。

 もし、そうだとするならば。

 この足跡を追って行けば、あるいは――――。

 

「――――危ない!」

 

 バキバキと、頭上で何かが折れ砕ける音が聞こえた。

 柚羽の声が聞こえたのはそんな時で、反射的に瑠衣は身を引いていた。

 一瞬前まで瑠衣がいたその場所に、重量感のある大きな塊が落ちてきた。

 遅れて、折れた木の枝が数本、さらに落ちてきた。

 

「ひいいああああっ!? 何、何いっ!?」

 

 善逸が悲鳴を上げたのは、落ちてきたそれが、()を伸ばしてきたからだ。

 

「ひ、人お!?」

 

 人だった。人が空から落ちてきたのだ。

 一目で、助からないと思った。

 手足もそうだが、首の骨が曲がってはならない方向に曲がっていたからだ。

 男だった。彼は折れていない方の手を伸ばして、弱々しく何事かを呟いていた。

 

「……おや……た……何……で……」

 

 しかしそれも、長くは続かなかった。

 かひゅ、と、風船が破裂したような音を立てて、それ以降は一切の音が聞こえなくなった。

 

「え、死んだ?」

 

 善逸が言葉にしたその事実は、何故か間抜けに聞こえた。

 それほどまでに、あっけない死だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 今までにない状況だ。

 はたして、このような形の不測に見舞われたことがあっただろうか。

 事はもはや「鬼を見つけて狩る」という単純な話ではなくなってしまっている。

 

 滅びた山村。積み上げられた村人達の首。

 山に潜む者達。攻撃してきた者達。何かから逃げている者達。

 そして今、目の前で事切れたこの男。

 着ている衣服はボロそのもので、とても村人という風には見えなかった。

 

「上りましょう」

 

 退くべきなのかもしれない、と思った。

 鬼狩りの任務で人間の集団と接触したのだ、一剣士の範疇を超えている可能性がある。

 しかし、瑠衣は己の直感が全力で叫ぶのを聞いていた。

 今は背中を見せて退く方が危険だ、と。

 

「えっと、この人は?」

「……後で埋葬しましょう」

 

 何故そう思うのかはわからない。

 しかしこういう場合の直感は、無視すべきでは無かった。

 

「柚羽さん、この人がどちらから飛んで来たかわかりますか?」

「枝の折れ具合と位置関係からして、北側、つまり上からでしょう」

 

 やはり、上に何かがあるのだ。

 見ようによっては、瑠衣達は徐々にだが核心に近付いているのだと言える。

 上に行こう、と、瑠衣は繰り返した。

 

 4人で警戒しながら、山を登った。

 善逸は変わらず怯えつつも静かになり、カナヲも1人離れるということはしなかった。

 2人とも、瑠衣と同じことを感じているのだろう。

 上へ近付くにつれて、徐々に周囲の音が減り、空気が重く湿っていくように感じる。

 

(今日は、当たりだ)

 

 言葉にする必要はない。それは確信だった。

 

「……あ」

 

 いくらか登った後、善逸が何かに気付いたように顔を上げた。

 青褪めた顔でばたばたと手を振り始める。

 どうかしたのかと聞こうとしたが、必要なくなった。

 前方の茂みから、大きな影がいくつも飛び出してきたからだ。

 

「た、助けてくれえええっ!」

 

 彼らは異口同音に、そういうことを言った。

 先程の男同様、ボロを来たみすぼらしい男達だった。

 彼らはめいめいに瑠衣達に駆け寄ると、崩れ落ちるようにしがみついてきた。

 瑠衣達は、誰も何も言わなかった。

 

 それをどう受け止めたかはわからないが、男達はさらに騒ぎ立てた。

 瑠衣は膝をつき、自分に縋り付いている男の顔を見た。

 日焼けや垢か、赤黒い顔だった。

 

「何があったのですか?」

「ああ、ああ、恐ろしかった。それぁ恐ろしくて」

「何が恐ろしかったのですか?」

「それぁ、それぁあなあ……」

 

 男の手が、ゆっくりと伸ばされていった。

 隊服の胸元を掴む。そして。

 

「俺達のことだよオオオオォッ!!」

 

 振り上げられたもう片方の手に、鈍く輝く短刀が握られていた。

 次いで振り下ろされるそれを、瑠衣は静かに見つめていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鈍い音を立てて、短刀が木の幹や地面に突き立った。

 数は、4つ。

 

「オオオ……は?」

 

 男達は、それぞれ短刀を振り上げた体勢のまま固まってしまっていた。

 次の瞬間には瑠衣達の喉笛を切り裂いていただろう凶刃は、しかしその役割を果たすことなく、全てが男達の手から弾かれてしまった。

 そんな男達を飛び越えて、ふわりと、まさに蝶のようにカナヲが着地した。

 カナヲにしがみついていたはずの男は、どうして逃げられたのかさえわかっていない様子だった。

 

(末恐ろしい子だ)

 

 カナヲの手には日輪刀が握られていた。

 男達が隠し持っていた短刀を振り上げるよりも、カナヲが動く方が速かった。

 蝶のように舞い、蜂のように刺す。

 跳躍を始めてから着地までの間に、カナヲの剣は男達を無力化していたのだ。

 

 カナヲの日輪刀は、何というか、少女らしい意匠の刀だった。

 花模様が描かれた鍔もさることながら、淡い桃色の刃が少女めいた印象を強く与えている。

 あの色合いは、恋柱・甘露寺蜜璃の日輪刀の色に近い。

 よりにもよって、どうしてその色なのか。

 

「な、何でわかったんだ!?」

 

 男の声に、瑠衣は視線を戻した。

 よほどカナヲの動きが衝撃的だったのだろう。尻餅をついている。

 

「……指文字ってご存じですか?」

「ゆ、指……は?」

「知らないなら結構です。私も説明する気はありません」

 

 指文字。手指の形で作る符号だ。

 鬼殺隊士だけが知る共通の指文字は、声を出せない時、あるいは話をしている暇がない場合に使用される。

 男達が飛び出す直前、善逸が腕を振っていた。

 

(こいつらからは、嘘の音がした)

 

 善逸は嘘に敏感だ。

 だから彼は全員に「気を付けて」と咄嗟に伝えた。

 他の3人が信じてくれるかは自信が無かったが、信じてくれた。

 カナヲがコインを指先で弄んでいるのは気になったが、きっと信じてくれたに違いない。

 

「さて、お話を聞かせて頂いても?」

「ぐ、ぐ」

 

 瑠衣が首筋に日輪刀の刃を当てて問えば、返って来たのは歯噛みの音だった。

 しかし男は、脂汗に濡れた顔をすぐに笑みの形に変えた。

 そして首だけを明後日の方向に向けて、大声でこう叫んだ。

 

「親方ァ――――ッ! 異人のガキはこっちですぜェ――――ッ!!」

 

 異人!?

 何のことだと思っていると、足裏から振動を感じた。

 その振動は断続的に続き、しかも近付いてきている。

 それが何かの足音だと気付くのに、それほど時間はかからなかった。

 

「何か飛んでくる!」

 

 そして足音がいよいよ近付いてくると、善逸が叫ぶのが聞こえた。

 瑠衣達はその場から飛び退き、地面を削るようにして斜面の下に着地した。

 直後、瑠衣達のいた場所に太い木が()()()()()

 丸太だ。それも今、倒れたという風ではなかった。

 何者かが投擲した。そうとしか表現できなかった。

 

「ひいいいいいっ!? 何あの化物おっ!?」

 

 善逸の悲鳴の先、()()がいた。

 それは縦も横も、瑠衣の倍はありそうな巨漢の姿をしていた。

 枝葉を払うように木を()()、バキバキと音を立てながら木が倒れていく。

 人間に出来る芸当ではない。

 

(あれが、この山の鬼……!)

 

 日輪刀を構えた、が、その鬼が見ていたのは瑠衣ではなかった。

 見ていたのは、善逸だった。

 

「……西……洋……人……」

「違いますけどぉっ!?」

 

 鬼の言葉を、善逸は全力で否定したのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「お、親方ぁ……」

 

 絞り出すような声は、木の下から聞こえた。

 瑠衣達は間一髪で跳び退くことが出来たが、男達は無理だったようだ。

 と言うより「親方」と相手を――あの鬼を呼んでいるという事実は、2つのことを物語っていた。

 

 まず第1に、男達は鬼に協力しているということ。

 しかしこれは、残念ながらあり得ないことではない。

 先の無限列車の時も含めて、人間が鬼に協力することはままある。

 そして第2に、やはりこれも他の例に漏れないのだが、鬼は自分に協力する人間のことなど塵芥としか思っていない。

 

「おやぎゅえ」

 

 自分に協力的な人間でさえ、平気な顔で踏み潰す。

 気に入らなかったのか、用済みなのか、あるいは単純に機嫌が悪かったのかもしれない。

 鬼にとって、人間などその程度だ。

 

「うわあ、親方は相変わらず容赦がねえな」

「あいつらが馬鹿なんだ。確かに変な髪色だが、どう見たって異人じゃねえじゃねえか」

「まったく、使えねえ奴らだ」

 

 不思議なのは、鬼の後ろにいる者達の方だろう。

 あの風貌。あの時、瑠衣達に竹槍を投げて来た者達に間違いがなかった。

 仲間が踏み潰されたというのに気にした様子がない。

 自分達の扱いを知ってなお、鬼に従っているということなのか。

 

「……(オレ)は……巨械虚(きょかいこ)

 

 目の前に立たれると、こちらに影が差す。

 それ程の巨大だ。筋肉の発達も著しい。禿げ上がった頭でさえ筋肉を纏っている。

 そんな巨体を古びた軍服のような服に推し包んでいるばかりか、身体中に見たこともないような物品を身に着けている。

 所々に外国の文字が印字されている物があり、どうやらそれらは舶来品と思われた。

 

 しかしそれ以上に目を引いたのは、それらの舶来の品よりも、より武骨な武器の方だろう。

 瑠衣の身長程もある両刃の大剣を右手に持ち、さらには腰に2本も重厚な刀を差していた。

 鬼がわざわざ武器を使う場合、()()の持ち物か、あるいは気まぐれのどちらかだ。

 いずれにせよ、油断できるものではなかった。

 

「……死ね、鬼狩り……!」

 

 巨械虚と名乗った鬼が、大剣を両手で振り上げた。

 メキメキと音を立てているのは、筋肉か、あるいは握り締められた柄か。

 とてもではないが、正面から受け切る自信はなかった。

 ならば。

 

(受けなければ良いだけのこと……!)

 

 振り下ろされる瞬間、瑠衣は跳んだ。

 地面を砕き抉る巨械虚の一撃、その轟音と飛び散る土と木と肉の塊を視界に納めながら、別の木を蹴り、駆けた。

 瑠衣の踏み込みで足場が爆ぜる。

 巨械虚が振り下ろした大剣を持ち上げるよりも早く、瑠衣の身体は彼の頭の後ろに浮いていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 嫌な手応えがあった。

 頚の真後ろに振り下ろした刀から、実に嫌な感触が手に伝わって来たのだ。

 じん、としたこの感触は、鉄柱を棒で殴り付けた時のそれに良く似ていた。

 

「……無駄……だ」

 

 巨械虚の肩を蹴った。この鬼の肩幅にはそれだけの余裕があった。

 宙へと逃げた瑠衣の鼻先を、豪風が吹き抜けた。

 言うまでもなく巨械虚が振るった大剣だ。細かな罅割れまで見える程に近い。

 瑠衣の当たらなかった大剣は、そのままの勢いで近くの木に当たり、折り砕いた。

 斬るというよりは叩く・殴るに近いと、瑠衣は思った。剣というよりは鉄塊だ。

 

「貰ったアアッ!」

 

 着地の際、巨械虚の仲間――仲間という表現はおそらく間違っているが――の人間が、切れ味の悪そうな鉈を持って襲いかかってきた。

 何の訓練もされていない動き。

 大した脅威ではない。しかしだ。

 

 巨械虚の振り下ろした大剣が、鉈を持った男を叩き潰した。

 

 鉈の一撃を刀で受けていれば、瑠衣も巻き添えで潰されていたかもしれない。

 ぞっとしたが、一方で巨械虚がさほど素早くないことにも気付いた。

 筋肉の重さか大剣の重さか。あるいは単純に鈍重なのか。

 逆に瑠衣は、こうした閉鎖空間での戦いは大の得意だった。

 

「ちょこまか、と」

 

 地面を、木を、あるいは斜面を蹴り、縦横無尽に駆ける瑠衣の姿を巨械虚は追い切れていない。

 とはいえ、と、瑠衣は刀を見た。

 先程、巨械虚の頚を斬りつけた刀身は、微かに刃毀れしていた。

 不覚だ、が、違和感もある。

 

(まるで鋼の塊を殴りつけたみたいだった)

 

 上弦の参のように、頚が強靭というのとはまた違う感触だった。

 今も、頚を含めて腕や足を斬りつけているが、返ってくるのは鈍い金属音とビリビリとした痺れだけだ。

 

「……獲物……横取り……される前に……殺して……やる」

(獲物? 横取り?)

 

 意思疎通は難しそうだ。まあ、最初からその選択肢はないわけだが。

 

(何だろう、何かおかしい)

 

 そんな瑠衣と巨械虚の戦いを見つめながら、善逸は違和感を覚えていた。

 豪風と轟音が響き渡る戦場にあっても、善逸の耳はあらゆる音を聞き分けている。

 そして彼の感じている違和感もまた、巨械虚から来ていた。

 

(何だ、この音……)

 

 人間の音と鬼の音は全く違う。

 しかし鬼も生きている以上、例えば心臓は鼓動を打つ。

 仮に心臓が無くても、何らかの「生きている音」がするのだ。

 

(小さい?)

 

 と、首を傾げた時だ。

 

「大人しくしやがれえ!!」

 

 背後から、巨械虚の仲間が善逸を羽交い絞めにした。

 その瞬間、善逸の中の時間が止まった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 壱ノ型は攻防一体の技だ。攻撃と同時に離脱も出来る。

 持ち味の脚力と相まって、瑠衣が最も得意とする技だった。

 つまり、ほぼ一方的に攻撃を続けることが出来るということだ。

 

(やっぱり、おかしい……!)

 

 擦れ違い様、巨械虚の二の腕と太腿に斬りつけた。

 刀を握る手が痺れる。余りにも硬い。

 鉄を斬りつけた気分だ。刀の斬りつけた部位が刃毀れして、歪に歪み始めている。

 力の入れ方が誤っている証拠だ。正しい方向に振れていない。

 

 着地と同時に襲いかかってきた巨械虚の仲間を、刀の峰で殴り、気絶させた。

 十数人程はいたはずだが、すでに半分になっているようだ。

 ほとんどは巨械虚が自分で殺してしまっていて、残りの半分は怯えて遠巻きに見るだけになっていた。

 

「逃げる、な」

 

 逃げるという表現は心外だと、そんなことを思った。

 とんとん、と、立ち止まっている最中も小さな跳躍を繰り返す。

 これで隊服が白ければ白拍子のようにも見えたかもしれない。

 

 跳躍で間を取り、機を見て即座に次の動きが取れるようにする。

 父や兄、あるいは不死川との修練の中で、瑠衣が見出した戦い方だった。

 何しろ修練の相手が化物ばかりで、立ち止まった瞬間に潰されてしまうのだ。

 だから、()()()()()()()戦い方が必要だった。それだけのことだった。

 

「違う! そっちじゃない!」

 

 ――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃・六連』。

 瑠衣のそれとは比較にならない、雷鳴の如き大音。

 それは耳には一度の音として響くが、実際には六度響いている。

 足場にした木を一足で踏み砕きながら放たれたそれは、まさしく刀の形をした雷だった。

 

「我妻君!?」

「瑠衣さん、そいつは鬼じゃない! いや、鬼なんだけど、そいつは鬼じゃない!」

 

 一瞬、善逸の言っている意味がわからなかった。

 ただ相変わらず、目を閉じて――鼻提灯が見えるから、おそらく寝て――いながらに、俊敏な動きをしている。

 先の一撃、いや六撃など、音も姿も追えない程に鋭かった。

 

 そうして善逸の斬りつけた箇所を見つめていると、ある物がひらひらしているのが見えた。

 肘の、いわば関節のあたりだろうか。

 ひらひらしているそれが皮だと気付くのに、少しかかった。つまり。

 ――――少しの間、見ていても再生しなかったのだ。

 

「そいつは、鬼じゃない!」

 

 善逸の声が、良く通った。

 

「そいつは人形――――絡繰(からくり)だっ!」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 善逸の斬った皮の下には、キリキリと音を立てる無数の歯車が覗いていた。

 鋼鉄の骨組みに、()()()()()。吐き気を催す程に醜悪な絡繰人形だ。

 しかし同時に、硬度の高さに合点がいった。

 ただし、これほど精巧な絡繰は人間に――1つだけ例外を知っているが――作れるものではない。

 

「絡繰ということは、鬼はここにはいないということでしょうか」

「いや」

 

 柚羽の言葉に、善逸は目を細めるような仕草をした。

 目が閉じているのに細めるというのも妙な話だが、眉の動きはそうだった。

 

「鬼の音はする。ただ、小さいんだ」

 

 善逸が音を聞き逃すはずがない、というのは、もはや誰も疑わない。

 現に彼は巨械虚の絡繰を見破った。

 その上で、小さいという言葉の意味を考える。

 

 ――――花の呼吸・伍ノ型『徒の芍薬(しゃくやく)』。

 

 美しい連撃。カナヲが巨械虚の懐に飛び込んでいた。

 瞬きの間に九の斬撃を放った。花のように柔らかく、それでいて斬撃の音は情け容赦がなかった。

 瑠衣が注目したのは、カナヲの攻撃が全て巨械虚の胴体を狙ったことだった。

 カナヲは目が良い。何か瑠衣達に見えないものが見えているのか。

 

「柚羽さん、我妻君! 関節を!」

 

 ――――水の呼吸・参ノ型『流々舞い』。

 柚羽が流れるような動作で巨械虚の四方を斬り泳ぎ。

 

 ――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃・六連』。

 善逸がその空隙を縫って、再び四肢の関節を斬り打った。

 

(あれは絡繰、9尺の巨体だって形は人間)

 

 瑠衣は駆けた。

 柚羽と善逸が気を引いている間に、地面と木を蹴り、宙へ跳んだ。

 くるりと体勢を変え、大きめの枝に足裏を押し付けて足場にした。

 

(栗花落さんの攻撃は、たぶん()()だ)

 

 瑠衣には見えないが、カナヲにはきっと見えたのだ。

 だからその攻撃は正しくて、しかし斬撃ゆえに届かなかった。

 瑠衣の攻撃も、やはり斬撃であるが故に届かなかった。

 だから、正解は斬撃ではなく。

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型改『木枯らし颪・貫』。

 斬撃では無く、突き。

 善逸は言った。小さい、と。絡繰の内から小さな鬼の音がすると。

 つまり、答えは――()()()

 カナヲは正しかった。

 

(人間の形をしている以上、胴体が一番、隠れやすい……!)

 

 いかに巨体だろうと、手足に隠れることは出来ない。

 また絡繰を操るなら、その中心にいるのが最も効率が良い。

 柚羽と善逸に関節を斬られてよろめいた巨械虚の胴体、胸の中央やや下の部分に、瑠衣の日輪刀が突き立てられた。

 仮初の皮膚を貫き、絡繰仕掛けの間にねじ込むように刺し貫いた。

 

「ギ……」

 

 そして、結果はすぐに出た。

 

「ギャアアアアアアアアアッッ!!」

 

 悲鳴。生身の鬼の悲鳴が漏れた。

 しかしその次の瞬間、瑠衣は目を見開いた。

 自分が刺し貫いた巨械虚の手足や服の間から、鉄の棒のような物が無数に飛び出してきたからだ。

 それがいわゆる銃であることに気付いたのは、発射音が響くのとほぼ同時だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――早すぎるとは、思わなかった。

 14や15の年を数える頃に選別を受ける剣士はごまんといるし、物心ついた頃から剣士としての訓練を受けているのであれば、なおさら早いとは言えない。

 言い知れぬ緊張と高揚の最中に、千寿郎はいた。

 

「それでは父上、行って参ります!」

「うむ。藤襲(ふじかさね)山までは長治郎が案内してくれるから、道に迷うことはないはずだ」

「はい!」

 

 すっかり旅支度を整えた千寿郎が、煉獄邸の玄関口で槇寿郎の見送りを受けていた。

 鎹鴉の長治郎が、賛同するようにガアガアと鳴き声を上げている。

 言葉の通り、千寿郎は鬼殺隊士となるために最終選別に向かうのだ。

 腰には仮の日輪刀が差されており、服装も普段の道着ではなくしっかりとした旅装だった。

 

「良いか、千寿郎」

 

 槇寿郎は、千寿郎の肩に手を置いた。

 緊張した面持ちを見せる末の息子に、槇寿郎は言った。

 

「最終選別は訓練ではない、実戦だ。本物の鬼が相手になる。もちろん、道場とは違って山には他にも様々な危険がある」

 

 最終選別。読んで字の如く、鬼殺隊士になるための最後の関門だ。

 鬼狩りの名門・煉獄家と言えども、特別扱いされるわけではない。

 鬼狩りは家名ではなく、剣技の腕でするものだからだ。

 中途半端な人物に刀を与えれば、むしろ有害な結果を生んでしまいかねない。

 

 だからこその最終選別。杏寿郎も瑠衣も、通った道だった。

 槇寿郎は千寿郎の腕の程を良く知っている。

 自分自身が師となって鍛えたのだから、知らないはずがない。

 剣技は申し分ない。ただ、気性が優しかった。

 

「いかなる危機的状況でも諦めるな。けして折れるな。最後の一呼吸まで生き抜け、心を燃やせ」

「……はい!」

「良し。では行って来い。父はここでお前の帰りを待っている」

「わかりました。必ず選別を通り、帰って参ります!」

 

 軽やかな足取りで駆けていく小さな背中を、槇寿郎はしばらく見つめていた。

 杏寿郎も瑠衣も、ああして駆けて行ったものだ。

 そして自分自身も、若かりし頃、同じように鬼殺の世界へと足を踏み入れたのだ。

 懐かしく、そして眩しい。一瞬、そんな気分にさせられた。

 妻の瑠火が生きていたら、どんな会話をしていただろうか。

 

「父上――――っ!」

 

 と、角で立ち止まった千寿郎が手を振っているのが見えた。

 どうかしたのかと思っていると、千寿郎は言った。

 

「食事はしばらく店屋物にして下さい! 厨に入っちゃ駄目ですよ――――っ!」

 

 そう言って今度こそ駆け去っていく息子を、槇寿郎は微妙な表情で見送った。

 違うんだ瑠火、と、槇寿郎は心の中で亡き妻に釈明したのだった。




読者投稿キャラクター:
グニル様:巨械虚
ありがとうございます。

最後までお読みいただき有難うございます。
というわけで…。

千寿郎君の同期を募集いたします!

募集項目は性別・容姿・年齢。そしてお馴染み使用する呼吸です。
同じくお馴染み死に方の希望があればお願いします(え)
※性格・背景もあればイメージがしやすく助かります。

今回の締め切りは10月23日18時までです。
ネタバレ防止のため、投稿はメッセージ機能にてお願い致します。相談も同様です。

それでは、よろしくお願い致します!


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第20話:「蝶」

 ()()であれば、おそらくやられていた。

 巨械虚が無数の銃を突き出して来た時、瑠衣の身体は自然と動いていた。

 突き立てた日輪刀を引き抜き、そのまま振り上げた。

 ――――風の呼吸・肆ノ型『昇上砂塵嵐』。

 

 銃口が全てこちらを向いていたのは、瑠衣にとっては好都合だった。

 自分の防御に専念することが出来るからだ。

 そして瑠衣の全力の肆ノ型は、巻き起こした風によって文字通り砂塵を起こした。

 舞い上がった砂塵が、一瞬だが仲間達の姿を隠してしまう。

 

「キエエエッ! 死ね! 死ねエエェッ!!」

 

 しかし巨械虚は己を傷つけた瑠衣のことしか見えないらしく、続け様に発砲してきた。

 瑠衣の行動は変わらない。

 刀を振るい、斬撃と風の壁で防御するだけだ。

 発砲音と火薬の臭い、そして鋼を打ち鳴らす耳障りな音が響き続けた。

 

「おのれ! 何の価値もない雑草が! 食事にもなれぬ、路地の残飯にも劣る腐敗した肉め!」

 

 散々な言われようだ。そしていきなり良く喋るようになった。

 瑠衣は答えなかった。

 鬼の都合など関心はなかったし、何より()()()()()()

 

「おお?」

 

 ついに動きを止めた瑠衣に、巨械虚は身を乗り出した。

 この匂いを嗅ぎ間違えるはずもない。

 瑠衣の血の匂いに、巨械虚は気付いた。

 

(流石に、全部は避けられない)

 

 瑠衣は刀を握り、立っている。

 しかしよくよく見て見れば、黒い隊服のそこかしこに染みが出来ていて、羽織を濡らしていた。

 肩口などは、何かが擦過したかのように生地が弾け飛んでいた。

 ぽたぽたと、刀を握った手指や羽織の端から血の雫が地面に落ちていく。

 

 目の前であれだけ発砲されて、全てを回避できるとは瑠衣も思っていない。

 何発かは貰う覚悟をしていた。だから急所だけを守った。

 しかしその覚悟も、()()()()()()()()()()()()()

 かつて父が戦った鬼の話。父が二度戦った珍しい鬼――二度目に戦った時は下弦の弐だったとか――の話を聞いていなければ、覚悟する時間も無かっただろう。

 

「はは、ハハハッ! それはそうだ避けられるわけがない! 澄ました顔をしおってこの雑草が! トドメだ喰らえ、今度は急所さえも守れぬぞ!!」

 

 空気の抜けるような音がして、巨械虚が身を反らした。

 するとどうだ、巨体の中心部が外側に開き、円筒状の銃身に無数の銃口を備えた巨銃が姿を現した。

 いわゆる、回転式機関(ガトリング)(ガン)だ。

 そしてそれを持っているのは、小さな鬼だった。巨械虚に良く似た姿で、頭に一本角がある。

 

「血を弾丸として撃ち出す最強の銃だ! 我が血は鋼鉄でさえ焼き尽くす、肉片1つすら残しては置かぬぞ!」

「……その銃がどれだけ凄いのか、私にはわかりませんが」

 

 口の中で血混じりの唾が出るのを感じながら、瑠衣は言った。

 

「もう少し、周りを見た方が良いですよ」

 

 ――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃』。

 その一撃は、言葉よりも速かった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――花の呼吸・肆ノ型『紅花衣(べにはなごろも)』。

 絡繰の方の巨械虚の膝裏を善逸の剣閃が叩いた直後、カナヲが回転式機関銃を連続で斬りつけた。

 何て勇敢な子達だろう、と瑠衣は思った。

 自分の意図を咄嗟に察し、撃たれるかもしれない場所に自ら飛び込んで来てくれた。

 そして。

 

 ――――水の呼吸・捌ノ型『滝壺』。

 そして、柚羽も。上空からの斬撃が鬼本体の両腕を斬り落とした。

 瑠衣を狙うために身を乗り出していたから、狙うことが出来たのだ。

 善逸とカナヲが絡繰と武器を叩いてくれたから、柚羽の攻撃が本体に届いた。

 

「ギャッ!」

 

 鬼の悲鳴。

 こうして見ると、本当に小柄な鬼だった。瑠衣の半分あるかどうかという背丈だ。

 全集中・風の呼吸。

 

「『初烈風斬り』……!」

 

 駆け抜け様、巨械虚は風が己の顔を撫でたように感じただろう。

 しかしその風は、己の頚を斬る風だった。

 視界がずれ初めて、巨機虚は自分が頚を斬られたことを知った。

 そんな、と巨械虚は嘆いた。

 

 もっと異国の物を集めなければならないのに、と嘆いた。

 この国(日の本)で得られぬ物を集めて、()()()に捧げなければならないのに。

 あの方は、自分の絡繰を褒めてくれたのに。恩に報いなければ。もっと。もっと。

 自分と師に藩の軍事力増強に役立つ絡繰を作れと強要してきた武士共とは違って――――あれ?

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(音が、弾けた)

 

 塵になって消えていく巨械虚から、善逸は最期の音を聞いた。

 炭治郎がこの場にいたらどうしただろうと、そんなことを思った。

 そう思わせるような、音だった。

 

「大丈夫ですか?」

「大丈夫です。見た目は派手ですが、大したことはありません」

 

 そっと身体を支えてくれた柚羽に、瑠衣は礼を言った。

 弾丸は肩や脇を擦過しただけで、出血こそ激しいものの、致命傷ではない。

 呼吸で、応急的に止血もしている。

 銃を使う鬼がいると知っていたから、弾丸を斬り払うということが出来た。

 それに、と瑠衣はカナヲと善逸――いきなり仰向けに倒れて鼻提灯を出し始めたが――を見た。

 

 弱った姿を見せて、後輩に心配をかけるものではないと思った。

 これは瑠衣にとっても意外な発見だった。

 そんな見栄っ張りな感情が自分の中にあるとは思わなかった。

 ただ千寿郎という弟がいるから、あるいは不思議ではないのかもしれない。

 

(それと、もう1つ)

 

 巨械虚が、厳密にはその絡繰の残骸を見つめて、思った。

 この鬼を見て、瑠衣は1つ学んだ。本体を隠す鬼もいるのだ。

 本体を倒さない限り、巨械虚の絡繰や、そして血鬼術は消えない。

 ()()鬼も、そうだったのではないか。

 そんな風に、思ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 哀れに思うとすれば、巨械虚と共にいた人間達だ。

 どういう背景があったのか、瑠衣にはわからない。

 食うに困って追い剥ぎ紛いなことをする内に、巨械虚に囚われてしまったのだろう。

 時代錯誤と言われればそれまでだが、いつの時代も追い詰められた人間のやることは変わらないのかもしれない。

 

「あ……あ……」

 

 何人かは巨機虚の死を見て逃げ出したようだが――もっとも、そちらは隠が捕らえるだろうが――もう何人かは、巨械虚の銃撃の巻き添えを食ってしまっていた。

 瑠衣の目の前で仰向けに倒れている男も、その1人だった。

 胸から血を噴き出していたのだろう、上半身の衣服が赤黒く染まっていた。

 

「し……死ぬ……のか、おれ……は」

 

 善逸が寝ていて良かった。

 あの子は優しいから、きっと死にゆく人間の音は聞かない方が良いだろう。

 カナヲはどうだろうか。何の感情も読めない瞳で男を見下ろすばかりだった。

 

「ひ……」

 

 その時、男が怯えた眼差しをカナヲに向けて来た。

 カナヲの無表情に恐怖を感じたわけでもないだろうが、目を見開いて。

 

「ち……ちょう……いや、だ……」

 

 錯乱しているのか、と瑠衣は思った。

 いずれにせよ、善逸やカナヲをこの場にいさせるのは忍びなかった。

 

「栗花落さん。我妻君を隠のところへ連れて行ってあげてくれませんか」

「…………了解」

 

 相変わらずのコインを投げた後、カナヲは了承してきた。

 小柄な少女がひょいと肩に善逸を担ぎ上げる絵は、なかなかにシュールだった。

 常中を自然と身に着けているだけに、そこらの男よりよほど腕力はある。

 

 カナヲの背中を見送った後、瑠衣は男を見た。

 呼吸はすでに途切れ途切れで、いつ絶えてしまってもおかしくはない。

 胸の傷は深く、助けようもないと一目でわかる程だった。

 手当てをしようにも、すでに十分過ぎる程の血が流れ出てしまっている。

 

「し……ぬ」

 

 男の声も、ほとんど掠れてしまっていた。

 

「……っと……山……下りれ……思った……のに」

 

 山を下りようとしていたのか、と初めて驚いた。

 ただ、それならどうして上へ登っていたのだろう。

 やはり自分達を警戒してのことだろうか。

 だが自分達の動向を見張っていたなら、下りようと思えば下りれたはずだ。

 

 隠の包囲も、巨械虚がその気になれば強行突破できたはずだからだ。

 その巨械虚が、配下共々山の上に陣取っていた理由は何だろう。

 そこまで考えた時、はっとした。

 巨械虚達が警戒していたのは、見張っていたのは、自分達ではなかったのだとしたら。

 

「……あの……ばけ、も……の」

 

 男は、そのまま事切れてしまった。

 同時に、瑠衣は立ち上がった。

 ――――しまった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 四半刻もかからなかったと思う。それだけの速度で山を駆けた。

 巨械虚達が()()()来たのとは反対の方角だ。

 山を半周する形で、瑠衣達の拠点がある場所から見ても反対だった。

 その最も遠い場所に、瑠衣と柚羽はやって来た。

 

「遅かった……!」

 

 それを見た時、瑠衣は悲痛に表情を歪めた。

 隠の死体が、吊るされていた。

 頭だけだ。山村と同じだが、吊るされているのと、頭巾を着けたままな点が違った。

 首から下は、やはり無かった。

 

 迂闊だった。山村の惨状を巨械虚達の仕業だと思い込んでしまった。

 いや、巨機虚達の仕業には違いない。ただ彼らがやったのは()()()ことだけだ。

 異人が好み――色々な意味で――だという巨械虚のために、頭を1つ1つ見分しただけだ。

 山村の村人を全滅させた鬼は、()()()()()()

 気が付くべきだった。頭だけを残す意味など巨械虚にはないのだということに。

 

「ごめんなさい」

 

 死に濁った隠の目を見つめて、そう言った。

 言っても仕方がないことだが、口を吐いて出たのはそんな言葉だった。

 吊るされたままにはしておけない。瑠衣は隠の頬のあたりに手を添えた。

 

「……?」

 

 顔に触れた時、少しだが違和感を覚えた。

 頭巾の口元が少しくぼんでいて、べったりと濡れていた。

 どうやら口を開けているらしい。頭巾の内側で何かが噴き出したようにも見える。

 死人を暴くようで少し気が引けたが、口元を捲って、頭巾の下を見た。

 

「え……?」

 

 隠の口は、やはり大きく開かれていた。

 頭巾の内側もやはり血反吐に塗れていて、しかし長続きはしなかったのだろう、口元を濡らすに留まっていた。

 問題は、大きく開かれた口の中だった。

 目を逸らしたくなるような画だが、そうするわけにはいかなかった。

 

(舌が、ない)

 

 そこにあるべき部位が無かった。

 鬼が千切ったのか。いや、それなら頭巾がそのままなのは不自然だった。

 前歯に、赤黒い塊が付着していた。つまりこの隠は、自分で舌を噛み千切ったのだ。

 いったいどれほどの胆力があれば、そんなことが出来るのだろう。

 

 自決、ではないだろう。そもそも命を絶つ方法としては確実性に欠ける。

 まして隠。鬼殺に身命を賭している。

 鬼にどんな恐ろしい目に合わされようと、自決するような人間はいない。

 例え首だけになろうとも喰らい付く。それが……。

 

(嗚呼、そうか)

 

 隠の頭を、胸に抱いた。

 羽織に血がつくが、そんなことは構わなかった。

 舌のない彼を、誰よりも雄弁に物語ってくれた彼を、ただ労わりたかった。悼みたかった。

 頭だけになってでも、彼が遺してくれた言葉。唐突に、理解した。

 

「お疲れ様。後は、任せて下さい」

 

 ()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣達が鬼達との戦闘に入ったことは、隠達にも知れていた。

 巨械虚――もちろん、隠達は鬼の名前など知る由もないが――の銃撃や派手な攻撃は戦闘の気配を気付かせるには十分なものであったし、鎹鴉による伝令も飛んでいた。

 隠達は、まさに固唾を呑んで鬼狩り達の戦闘の推移を見守っていたのである。

 

 そして程なくして、瑠衣達の勝利が知らされた。

 隠達が歓声を上げるのを、沼慈司は笑顔で見つめていた。

 鬼殺隊士は鬼と因縁のある者も少なくない、隠も例外ではない。

 鬼が倒されて、しかも剣士達が無事となれば、歓声を上げるなと言う方が無理だった。

 

「おい、浮かれてんじゃねえ! 後始末がまだだろうが! 煉獄さんは怪我してるらしいし、我妻だって倒れてるんだ!」

「いや、我妻は倒れたっていうか寝たのでは?」

「それでもだ!」

 

 後藤が檄を飛ばして、隠達が慌ただしく動き始めた。

 実際、やることは山積みだった。

 鬼の痕跡を消さなければならないし、鬼に協力していたという人間も野放しにするわけにはいかない。

 山村の村人達の埋葬も、もちろんしなければならない。皆が気に病んでいたことだ。

 

「沼慈司、お前は近くの藤の家に連絡を入れてきてくれ。銃の怪我だ、医者がいる」

「わかりましたあ!」

 

 びしっと敬礼して、沼慈司は藤の家へと駆け出した。

 沼慈司は隠の中でも特に身軽な方で、足には自信があった。

 ただ気楽というか奔放な性格が災いしてか、とある()()があり、その点は後藤に良く叱られている。

 後藤曰く、有能な分タチが悪い、とのことだ。もちろん沼慈司本人は気にしていない。

 

(いやあ、だって気になるじゃない?)

 

 本当に凄いと思うのだ。

 鬼を倒すなんて、本当に凄いことなのだ。

 隠だからこそ、その凄さが身に染みてわかる。

 剣士を目指したからこそ、剣士、特に同性の剣士に対して、尊敬の念を禁じ得ないのだ。

 だからまあ、気になって覗いてしまったりするのも無理からぬことなのだ。

 

「カアァ――――ッ!」

 

 その時だった。頭上で鎹鴉の甲高い鳴き声が聞こえたのは。

 瑠衣達が鬼を倒したとの報からいくらも経っていない。

 何とも言えない不安を感じて、沼慈司は鎹鴉を仰ぎ見た。

 鎹鴉は、なおも甲高い鳴き声を発し続けていた。

 

「ガアッ、ガアッ! 警戒セヨッ、警戒セヨオッ!」

 

 月は未だ、夜空高くで、煌々と嗤っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 心というものについて、カナヲは考える。

 ある少年に心は原動力だと言われてから、ずっと考えている。

 しかし考えるという行為自体、長い間していなかったから、難しかった。

 いや、それも実は少し違うのかもしれなかった。

 

(心の声が小さいから)

 

 これも、同じ少年に言われたことだ。

 心も、考えることも、今までずっとしてきた。

 ただ声が小さくて、聞き取れなかっただけ。

 最近は、少しずつそう思えるようになってきた――気が、する。

 

 不思議なもので、心をいうものは一度意識し始めると、気になって仕方がなくなる。

 例えば、コイン。

 以前はコインで決めることに何の疑問も抱かなかった。

 ところが最近は、コインを投げた後に「表だったら良いな」と考えることが増えた。

 そして思った通りの結果になると、ほっとしている自分を発見するのだ。

 

「うう……ん。禰豆子ちゃあん……」

 

 例えば、今こうして担いでいる善逸。

 最終選別の時は――実のところ、カナヲは善逸が同期ということを覚えていなかった――こんな風に、肩を貸すとは思わなかった。

 まあ、担ぐことを「肩を貸す」と表現するか、というと微妙ではあるが……。

 

(もうすぐ、隠のいる拠点)

 

 あといくらもしない内に拠点、というところで、カナヲは視界の端に揺らめくものを見つけた。

 善逸の耳や炭治郎の鼻と同じくらいに、カナヲは目が良い。

 常人なら見逃してしまうような小さなものでも、見逃すことはない。

 

「……蝶」

 

 カナヲは、蝶が好きだった。

 名前そのままだが、蝶屋敷には多くの蝶が生息している。

 不思議と蝶屋敷の娘達に寄ってきやすく、カナヲもその例に漏れなかった。

 ついと指を伸ばせば、すぐにちょっとした数の蝶に囲まれてしまう。

 

 今も、その蝶はカナヲの指にとまっていた。

 カナヲの指先で羽根を休めながら、微かに触覚を動かしている。

 夜の蝶とは珍しい。血のように赤い蝶だった。

 もっと良く見ようと、手を少し上げた時だった。

 

「……ガ……ァ……」

 

 夜は静かだ。善逸ほどの聴覚がなくとも、確かに聞こえた。

 そしてカナヲは、見つけた。

 暗闇の中、地面の上で微かに蠢くものを見た。

 ひらひらと揺れているのは、同じ蝶だ。

 

 赤い蝶に群がられた鎹鴉が、泡を噴いて痙攣していた。

 

 手を振り、蝶を払った。

 そのまま腰に回した手で躊躇なく刀を握り、蝶を斬った。

 真っ二つに斬られた蝶は、しかし地面に落ちる前に雪のように消えてしまった。

 事ここに及んで、カナヲは確信する。

 ――――血鬼術だ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 花の呼吸は、水の呼吸の派生だ。

 派生とは言え歴史は長く、水・炎・岩・雷・風の五大流派を除けば、霞の呼吸と並んで多くの柱を輩出してきた呼吸術である。

 例えばカナヲの師――ほぼ見取り稽古だが――である胡蝶カナエは、元柱だ。

 

 ――――花の呼吸・肆ノ型『紅花衣(べにはなごろも)』。

 善逸を担ぎながらのため、片腕で刀を振るうことを余儀なくされた。

 しかしそれでも、カナヲの剣は十分過ぎる程の威力を持っていた。

 鎹鴉に群がっていた蝶を斬り飛ばし、鴉を救った。

 

「大丈夫?」

 

 隊服の(ボタン)をいくつか外し、弱々しく鳴く鴉を懐に入れた。

 やや不格好だが、気にしなかった。

 

「……! また」

 

 ――――花の呼吸・弐ノ型『御影梅(みかげうめ)』。

 ひらひらと無数の赤い蝶が近付いて来て、カナヲは周囲を斬り払った。

 蝶それ自体は脆く、カナヲに触れることすら出来ずにいた。

 しかし。

 

(数が多い)

 

 3匹や5匹ではない。10匹20匹の塊が、不意に現れては寄せてくるのだ。

 カナヲは常中を会得して長い。一刻でもニ刻でも刀を振るうことは容易い。

 しかし煩わしい。まして今は1人ではなく、万全の状態とは言い難かった。

 と言って、善逸や鴉を放り出せば、彼らは蝶の群れに囲まれてしまうだろう。

 

 おまけに、未だに蝶の正体が見えない。血鬼術と思われるが、鬼の姿はない。

 一時撤退。カナヲの頭に浮かんだのはそれだった。

 善逸を抱えたまま頭上の木に跳び上がる。難しいことではない。

 その後は木から木へと移動していけば良い。そうして、どこかで振り切る。

 

(木の上へ)

 

 カナヲは周囲の蝶を斬り払い、そして高く跳躍しようとした。

 しかし現実には、彼女は跳躍どころか、地面に膝をついてしまった。

 

「え?」

 

 唇から漏れたのは、呆けたような声だった。

 自分は今、確かに跳ぼうと足に力を込めたはずだった。

 それなのに、どうしてか膝をついてしまっている。

 意識と逆のことが起こったわけで、一瞬カナヲは混乱した。

 視界の端に新たな蝶の群れが見えて、反射的に刀を振るった。

 

「……ッ!?」

 

 鈍い。明らかに、剣速が遅かった。

 何とか蝶は斬り散らしたものの、掌にあるはずの刀の感触が酷く鈍かった。

 異常は手足だけでは無かった。目だ。肝心要の視界が、歪み始めていた。

 眩暈(めまい)を起こそうとしていると、すぐにわかった。

 

「ハハハッ、ようやく効いて来たようだなあ」

 

 不意に、茂みが揺れる音がした。

 カナヲがそちらを振り向くと、回転を始めつつある視界の中で、男が立っているのが見えた。

 髪は白い。長く伸ばしていて、後ろで束ねている。瞳は赤く猛禽類を思わせた。

 素肌の上半身に蝶柄の着物を羽織っていて、額には渦状に歪んだ角。

 

(鬼……!)

 

 力の入り切らない腕で、カナヲは日輪刀を持ち上げた。

 それを見て、鬼は嗤ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「お前」

 

 カナヲを指差して、鬼は嗤った。

 

「触っただろう、俺の蝶に」

 

 カナヲは答えなかった。

 カナエの教えでもしのぶの教えでも、話して良い類の鬼ではないと判断したからだ。

 そして、喋る力が惜しかったからだ。

 ()調()()()()

 

 鏡を見なくとも、自分の顔が青白くなっていることがわかる。

 額には汗が滲み始めていて、唇の色は薄くなっているだろう。

 口の中の唾液に粘り気を感じる。胸の下にずっと拳を当てられているかのような不快感がある。

 こんな感覚は、そう、()()()()()()

 

「そいつは俺が血鬼術で作った蝶だ。人間がそれに触ると、少しずつ侵食が始まる。後は血に乗って全身を巡れば、やがて動けなくなる」

 

 全集中の呼吸は、血の巡りを速くする。

 それは身体の強化に必要だからで、強い剣士であればある程そうだ。

 カナヲが蝶に触れてからさほど経っていないのに効果が表れているのは、そのためだろう。

 こうしている間にも、身体に力が入らなくなっている。

 いつの間にか善逸も肩からずり落ちていて、地面にうつ伏せになっていた。

 

「おっと、俺はお前に近付かないぜ。まだな、もう少し弱るまで待つ」

 

 厭らしい笑みを浮かべて、鬼がそんなことを言った。

 それなら弱り切るまで隠れていれば良いだろうに、と思った。

 おそらく、獲物が弱っていく様を見るのが好きなのだろう。

 嗜虐的だ。鬼らしい。いや、あるいは人の頃からそうだったのかもしれない。

 鬼は元々、人だったのだから。

 

「そおら、行け!」

 

 蝶の群れが来る。

 先程までは歯牙にもかけなかったが、今は脅威だった。

 力の入らない腕で刀を振るうと、一度で済むはずの動作を二度三度と繰り返さなければならなくなる。

 体を動かせば、当然、血の巡りは速くなる。

 

「花の呼吸……っ」

 

 ()()()()()()

 力を込めるために大きく息を吸った瞬間、視界が定まらなくなった。

 踏み込みの足で、たたらを踏んだ。

 振るった刀が思った位置からずれて、蝶が擦り抜ける。

 

 不味い。蝶に触れてしまう。

 ()()()()と回り始めた視界の中で、カナヲは思考した。

 このままでは不味い。打開しなければならない。

 だというのに、脳裏を掠めたのはあのコインだった。

 

(わからない)

 

 対処方法が、わからない。

 今まで何も考えずに言われるままに鬼を斬って来た。

 それで何とかなってしまったのが、この場合は不幸だった。

 考えなければならない場面で、それは如実に表れてしまう。

 

(姉さん)

 

 姉と、コイン。道を指し示してくれるもの。

 何の導きも基準もない。そんな感覚に、足元が失われたような気さえした。

 目の前に、蝶が迫る。

 その瞬間。

 

 ――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃』。

 轟、と、音が遅れて聞こえて来た。

 え?、と思い目を向けた先には、善逸がいた。

 刀を抜いた善逸が、眠ったまま目を開けていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 この時、善逸が目を覚ました――寝ているが――のは、彼の耳の良さによる。

 善逸は寝ている時でも、傍で話している人間の声を聞き取ることが出来る。

 知らないはずの話を知っていて、気味悪がられたこともあった。

 悪意ある鬼の声を、善逸は聞いた。

 

 そして何よりも、カナヲの()で彼は目覚めた。

 カナヲの音は、善逸からすると引くくらいに静かで、規則正しいものだった。

 それが不意に乱れて、たまらずに彼は目覚めたのだった。

 躊躇なく壱ノ型を放ち、カナヲに迫る蝶の群れに突進した。

 

「ちっ、貴様動けたのか!」

 

 蝶の群れ。善逸は瞬時に反応した。

 壱ノ型を連続で繰り出す。幸いここは山だ。足場には困らない。

 その点、瑠衣と戦闘スタイルが似ていた。

 強いて言えば善逸はより直線的で、そして鋭い。蝶など問題にしない。だが。

 

(蝶をいくら斬っても意味がない!)

 

 血鬼術で生み出された蝶には、限りというものがない。

 唯一の「限り」は、鬼の頚を斬ることだけだ。

 木の幹に()()した彼は、刀の柄を握ったまま顔を上げた。

 その視線の――繰り返すが、寝ている――先には、目指すべき鬼の頚があった。

 

 ――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃』。

 疾い。しかし、やはり直線的だった。

 目の前に蝶の群れが壁を作っていて、壱ノ型の途中で全てを斬り払うのは困難だった。

 

(――――六連!)

 

 地面を蹴り、軌道を変えた。

 木の幹を、枝を蹴り、鬼の頚に迫った。

 空中で身を捻りながら、刀を振るう。

 しかし鬼の頚を狙った刃は、甲高い音と共に弾かれてしまった。

 

「ぐっ!?」

 

 弾かれた刀を通して、腕が痺れた。

 着地して振り返ると、鬼が刀を持っているのが見えた。

 蝶と同じく、真っ赤だ。血で固めたように赤い。

 あれで善逸の頚への攻撃を防いだのだろう。

 

(掠ったか)

 

 それでも切っ先くらいは触れたのだろう、鬼の着物の端が斬れているのが見えた。

 しかしそれは善逸も同じで、頬に微かだが熱を感じる。

 あの血の刀が掠めたのだろう。一歩間違えればこちらの頚が飛びそうだ。

 逆に言えば、恐れずに踏み込めば相手の頚を取れるということだ。

 

(もう一度)

 

 と、そう思って壱ノ型を踏み込もうとした時だ。

 不意に身体から力が抜けて、善逸はその場にくずおれた。

 先程のカナヲと同じだ。だが、善逸はまだ蝶に触れていない。

 

「野郎が苦しむ姿は面白くねえなあ」

 

 そりゃ俺だって野郎より可愛い女の子のが好きだよ!

 と叫びたいところだが、状況は最悪だ。

 善逸も、カナヲも動けなくなってしまった。

 鬼が血の色の刀を手に近付いてくる。善逸が完全に動けない確信が今度はあるのか。

 

「……待て……!」

 

 結果から言えば。

 鬼が善逸に近付くことはなかった。

 何故ならば、そこに新たなる乱入者が現れたからだ。

 

 相当な距離を、同じく相当な速度で駆けて来たのだろう。

 その乱入者は傍らの木の幹に手を置いて、息が上がっていた。

 しかしその視線だけは、余りにも苛烈な色を湛えていた。

 

「やっと、見つけました」

 

 柚羽が、汗に濡れた顔で言った。

 

揚羽(あげは)……!」

 

 奇しくもそれは、蝶と同じ名だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣は焦っていた。

 鬼がまだ山中にいるとわかり、柚羽と東西に分かれて探すことにしたまでは良かった。

 時間をかけられないので、手分けするしかなかったのだ。

 しかし、どうやら瑠衣は外れを引いてしまったらしい。

 

「け、剣士様!?」

 

 山の反対側まで駆けると、まず無事な隠に出会った。

 ほっとしたが、それは鬼がここには来ていないことの証左でもあった。

 隠により遠くに退避するように言って、返事を聞く前に再び山に駆け入った。

 相手の隠も瑠衣のただならぬ様子を察したのか、呼び止めることはなかった。

 

 全集中の呼吸で体力が向上しているとは言え、どれだけの時間を駆け続けているのか。

 わからないが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。

 柚羽の方に鬼がいるのなら、すぐに加勢に行かなければならないからだ。

 あるいは柚羽が倒してしまうかもしれないが、それならそれで良かった。

 この場合は、文字通り無駄足を踏まされる方が良いのだ。

 

(嫌な予感がする……!)

 

 だが、妙な胸騒ぎがしてならなかった。

 胸の奥が締め付けられるような、そんな感覚だ。

 一刻も早く行かなければと、直感が告げているのを感じる。

 そして瑠衣の経験上、この手の直感は無視して良いものではなかった。

 

(もっと速く)

 

 呼吸を浅く多く、心拍数を上げ、血の巡りを加速させる。

 そうして力を蓄えた肉体は、爆発的な力を発揮する。

 とは言え、巨械虚との戦いで受けた傷も浅くはない。

 呼吸による止血は結局のところ一時しのぎで、いつまでもは保たない。

 その意味でも、急ぐ必要があった。

 

「う……」

 

 一瞬、思い悩むような表情を浮かべた。

 しかし迷っている時でもない。

 というわけで、瑠衣は決断した。

 

「鬼め……!」

 

 ()()で、多少なりと速度は上がる。

 気持ち程度のことだが、身体も軽くなったように感じる。

 上弦の肆との戦い以来だろうか。

 口に咥えていた羽織を着込みながら、瑠衣は鬼への闘志を燃やしていた。

 

「良くも、こんな恥辱を……!」

 

 そうして、瑠衣は夜の山中を、まるで無人の野を行くが如く駆け抜けていった。

 程なくして、これは全くの偶然なのだが、瑠衣が駆け去った後に沼慈司が姿を現した。

 鎹鴉の誘導で遠回りをしていた結果で、それ自体は大した意味を持たない。

 このまま山を下り、藤の家へと走るのだ。

 

「え、何これ」

 

 そのはずだったが、木の枝にかけられた()()を見つけて足を止めた。

 何かと思い手に取ってみると、やはりそれは思った通りのものだった。

 

「隊服? って、うわ重っ。何これ、重りでも入ってるの?」

 

 驚き、そして思った。

 いったい誰が、こんなところに隊服を置いて行ったのだろうか、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()というのは、えてして自分がしたことを覚えていないものだ。

 ましてそれが何年も前のことであれば、なおさら記憶は薄れていくだろう。

 しかし()()()()()は、けして忘れることはない。

 

「お前、俺のことを知っているのか」

 

 揚羽と呼ばれたその鬼も、例外ではなかった。

 鬼は人間だった頃に比べて欲望に忠実であることが多く、しかも果てがない。

 だから一時の充足を得たとしても、すぐに忘れて次に行く。

 振り返るとか、省みるということはまずない。

 

「お前のような肉付きの良い女は、一度見たら忘れそうにないが」

 

 というか、喰ってしまうのだが。

 と言って、次いで「ああ」と一人で得心したように頷いて。

 

「前に会った時は、そんなに肉付きが良くなかったのか?」

 

 などと言った。

 柚羽は、ゆっくりとした動作で刀を抜いた。

 呼吸は落ち着き、汗も引いている。

 しかし、瞳の苛烈さだけは変わっていなかった。

 

「そうですか」

 

 ぞわり、と、柚羽の音を聞いていた善逸は、鳥肌が立つのを感じた。

 何て音だ。

 人がこんな音を立てるのを、初めて聞いたかもしれない。

 そんな音だった。

 

「なら、もう死んでください」

 

 ――――水の呼吸・参ノ型『流々舞い』。

 流水というよりは、瀑布と言った方が良いかもしれない。

 それ程の勢いで、柚羽は鬼に近付いていった。

 誰の目から見ても、頚を落とすつもりだとわかる。

 

(だ、駄目だ。正面から行ったら……!)

 

 警告したかったが、舌まで痺れてまともに発声できなかった。

 もどかしさと焦りの中で、善逸は見た。

 柚羽が、あの赤い蝶の群れに突っ込んでいくところを。

 

 ――――血鬼術『舞華(まいはな)蝶血(ちょうけつ)』。

 揚羽の血鬼術は、いわば毒だった。

 神経毒のようなもので、触れた獲物を弱らせ、最後には死に至らしめる。

 そして今、毒血の蝶が柚羽に触れて。

 

「……ああ?」

 

 しかし、柚羽は止まらなかった。

 自身に舞い寄る蝶には目もくれず、跳ぶ。

 空中で、日輪刀を振るった。

 そして何事もなかったかのように、揚羽の後ろに着地した。

 

「お、は?」

 

 ブシッ、と音を立てたのは、揚羽の頚だった。

 頸動脈が斬れていた。人間ならば死んでいる。

 死ななかったのは、揚羽が鬼だからだ。

 頚の傷口を押さえて振り向くと、柚羽が立ち上がるところだった。

 日輪刀を振るって、切っ先についた血を払っている。

 

(ち、蝶に触ったのに、何で……え?)

 

 おそらく、気付いたのは善逸だけだっただろう。

 常日頃から音を聞く善逸だからこそ、気付くことが出来た。

 

(この人、音が)

 

 柚羽から、しているはずの音が聞こえなかった。

 その音が何なのかと少し考えて、善逸はすぐに理解した。

 何故ならそれは、彼らにとって最重要のものだったからだ。

 

 ()()()

 柚羽からは、鬼殺の剣士が発しているべき呼吸の音が聞こえなかった。

 つまり、()()()

 ()()()()()()

 

「貴方を討つために、会得した技です」

 

 断罪の時は今。

 日輪刀を手に、柚羽は再び駆け出した。




投稿キャラクター:
才原輪廻様:揚羽
ありがとうございました。

最後までお読み頂きありがとうございます。

描いてて思うんですけど、やっぱり善逸ってカッコいいですよね。
これで妹がいれば完璧だった(え)

千寿郎君の同期投稿もありがとうございました。
また何かあれば募集したいと思いますので、その際はどうぞよろしくお願いいたします。

それでは、また次回。


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第21話:「祭音寺柚羽」

残酷な描写注意です。


 全集中の呼吸。

 その名の通り「呼吸」こそが基本であり、全てである。

 この呼吸術で身体を強化しなければ、人間は鬼に太刀打ちできない。

 だから善逸が目にしているのは、前代未聞のことだった。

 

(無呼吸って、そんなのあり!?)

 

 柚羽が日輪刀を両手で握り、駆ける。

 低い位置から鬼の懐に入り込み、身体の伸び上がりと共に斬り上げる。

 呼吸音は、やはり聞こえない。

 鬼に肉薄する時、柚羽は呼吸をしていない。

 

 柚羽は一合、二合と斬り結び、素早く後ろに下がった。

 後ろに下がって距離を取ると、日輪刀を顔の横に構えた。

 その時、善逸の耳に音が聞こえた。

 ヒュウ、という、逆巻く風のような音だ。

 

(呼吸の音だ)

 

 それは確かに、呼吸の音だった。

 やはり呼吸はしている。だが、あの瞬間は確かに無呼吸だった。

 柚羽はいったい何をしているのか。善逸にはわからなかった。

 

 ――――水の呼吸・肆ノ型『打ち潮』。

 呼吸の型を使った。

 全集中の呼吸。呼吸の剣技。最大の威力を発揮するためには呼吸が必要だ。

 だから柚羽の斬撃は、振り上げから斜め下へと流れ、鬼の二の腕や太腿を斬りつけることが出来る。

 

「わからん。だからこそ興味深いぞ」

 

 当然のこと、鬼の揚羽はその程度の傷で怯むことはない。

 血の刀を振り下ろし、当然、蝶の群れも放ってくる。

 しかし蝶の群れを前にしても、柚羽は怯むということが無かった。

 触れれば終わりの毒蝶だ。実際、カナヲと善逸は身動きが取れなくなっている。

 

「お前にはどうして蝶の毒が効かない? 俺のことをどこで知った」

 

 ――――水の呼吸・参ノ型『流流舞い』。

 身体を横に回転させながら攻撃をいなし、背後へと回り込む。

 跳躍し、後ろから頚を狙う。

 しかし揚羽が咄嗟に頚を守り、柚羽の攻撃を弾いてしまった。

 くっ、と表情を歪めて、柚羽が距離を取った。

 

「ヒュウ――――」

 

 チリチリ、と、柚羽の髪飾りが音を立てていた。

 薔薇を象った精巧なものだが、戦いの場にはそぐわない物でもあった。

 それに目を止めた揚羽が、少し考えるような素振りを見せた。

 目を細めて髪飾りを見つめ、何かを思い出すように顎先を撫でていた。

 

「ああ……」

 

 そして、思い出したのだろう。得心したような表情を浮かべた。

 

「その髪飾り、見覚えがある。そう、そうだ。そうそう」

 

 つい、と柚羽を指差して。

 

「お前、あの村の……華慧村(かけいむら)の人間だな? 良く生きていたものだ、あの村の連中は」

 

 その名を聞いた柚羽の表情が、さらに険しさを増した。

 握り締めた力ゆえか、日輪刀の刃先が微かに揺れていた。

 

「――――全員、俺が喰ってやったと思っていたぞ」

 

 柚羽の奥歯が軋む音がした。

 それは、善逸でなくとも聞き取れるだろうと、そう思える程の音だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――その村の特徴を説明するのは、意外と難しい。

 特徴がないことが特徴というような、日本を探せばどこにでもあるような、小さな農村だった。

 これと言った特産品があるわけでも、これはと思う名所があるわけでもない。

 村人全員の顔が見えるというのが、自慢と言えば自慢だった。

 

「柚羽~?」

 

 祭音寺柚羽が育った村は、そんな村だった。

 そんな村で若者が多かろうはずもなく、同世代でしかも同性の存在は、もはや有人というよりは姉妹と言っても良かっただろう。

 柚羽にとっては、椿という名の少女がそうだった。

 

「これは何かしら?」

「えっと……」

 

 その日、2人は厨に立っていた。

 大きなお櫃の前にいくつも皿が並んでいて、その上には何故か米の塊が盛り付けられていた。

 いや、盛り付けられていたというより、乱暴に投げ置いたと言われた方がしっくりくる。

 

「……お」

「お?」

「お、おにぎり」

 

 おにぎり、らしかった。

 

「柚羽、これはおにぎりではないわ。駄目なお米よ」

「駄目なお米……!?」

 

 美しい少女だった。すっと通った目鼻立ちに、切れ長の瞳。西洋人顔負けの身体つき。

 お古らしい着物の縫い直した跡も、手仕事で荒れた手も、彼女の美しさを引き立てこそすれ貶めるものではなかった。

 柚羽は村の男衆全員が彼女に夢中だという噂を聞いたことがあったが、本当だったとしても驚かなかった。

 

 しかし今はその美しい眉を立てて、腰に両手を当てていた。

 それに対して、柚羽はしょんぼりとした様子で肩を落としていた。

 椿は溜息を一つ零すと、柚羽の隣に立って、掌にお米を乗せた。

 塩は指の間にひとつまみ、掌で柔らかくお米を包んだ後、その塊を何度か転がした。

 

「最初から形を整えようとしなくて良いの。何なら三角でなくても良いわ」

「でも、おにぎりは三角じゃないと」

「そういうこだわりはちゃんと握れてから言うものよ」

 

 うぐ、と呻く柚羽の前に、椿が握ったおにぎりを置いた。

 ふんわりと握られたそれは、艶々としていて見るからに美味しそうだった。

 同じ材料で握っていて、どうしてこうも違う出来になるのかと思った。

 椿が2つ年上とは言え、それだけではない気がする。

 そう、これはつまり。

 

「おにぎりの才能の差が」

「練習の差です」

 

 一刀両断だった。

 その時の柚羽の顔が面白かったのか、椿がクスクスと笑った。

 柚羽はむっとした表情を浮かべたが、その内に自分でもおかしくなったのか、同じように笑い始めた。

 

「さ、早く作ってしまいましょう。宴会が始まってしまうわ」

「うん」

 

 厨に、少女達の明るい笑い声が響いていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 柚羽の村は、宴会の機会が年に何度かあった。

 豊穣を祈る宴であったり、あるいは実りに感謝する宴であったり、大晦日や新年の宴もあった。

 お祭りという程ではないが、村人全員が楽しみにしていた。

 まあ柚羽が思うに、単に大人達が酒を呑む口実にしているだけだろうと思っていたが。

 

「やれ楽しや! 今年の豊作に感謝して!」

「いやいや! 来年の豊作を祈願して!」

「何の! 益々の長寿と新しい命の誕生を祝って!」

 

 実際、村の大人達は口々に適当なことを言って酒杯を傾けている。

 正直なところ、何のための宴会かは誰にもわからない。

 ただ、楽しい。それだけはわかった。

 

 そして柚羽は、こういう宴会が嫌いではなかった。

 村人達はお互いがお互いの顔を知っていて、村全体があたかも1つの家族のようで、温かだった。

 柚羽は、そんな村人達が――家族が、好きだった。

 

「いやー、椿ちゃんのおにぎりはやっぱり最高だな!」

「艶が違うよなあ。まー、別んとこの艶っぽさも凄えけどな!」

「柚羽ちゃんのこれは、何だい? 駄目な米だなあ!」

「まあ、あと3年も待てば艶っぽさも増すさ!」

「「ハハハハハハハッ」」

 

 いや、嫌いだったかもしれない。

 とりあえず、失礼な発言をした村人は泣いたり笑ったり出来なくしておいた。

 それはそれとして、柚羽も年配の女性が作ってくれた団子などに舌鼓を打ち、宴会を楽しんだ。

 全員で準備をして、全員で祝う。それがこの村の流儀だった。

 

「椿、お団子食べよう」

「そうね、いただこうかしら。ありがとう、柚羽」

 

 柚羽は、椿といつも一緒にいた。

 どちらかと言えば柚羽が椿の後をついて回っている感じだったが、椿も柚羽と一緒にいる時は笑顔が多かった。

 親友で、幼馴染で、姉妹。お互いがかけがえのない存在だった。

 

「きゃー、やだあっ」

「それ本当お?」

 

 その時、別の場所で女達の甲高い声が上がっていた。

 すると案の定そこには何人かの女がいて、さらにその中心に青年が1人いた。

 皆の顔を知っている村だから、柚羽はその青年のことも知ってはいた。

 村の女性に人気があるらしく、確かに整った顔立ちをしている。物腰も柔らかそうだ。

 

 その青年と、不意に目が合った。

 ただその視線が長く重なることはなく、何故だろうと思っていると、青年が見ているのが椿だからだと気付いた。

 別に珍しいことでは無かった。村の男は大なり小なり椿に目を奪われるからだ。

 ただ、何故だろう。嫌な感じがした。

 

「柚羽? どうかしたの?」

「ううん、何でもない」

 

 何となく、青年の目を遮るような位置に座った。

 しばらく、じっとりとした視線を背中に感じるような気がしまた。

 それでも椿とお団子を食べている内に、その内に青年のことは忘れてしまった。

 宴会は夜遅くまで続き、村人達も椿も柚羽も、大いに楽しんだ。

 何年か経っても思い出すことが出来る。その日は、柚羽にとってそういう日だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 宴会の後の夜は、村人達は誰もが深い眠りに落ちる。

 柚羽と椿も例外ではなく、宴会の後はすぐに眠ってしまった。

 だから柚羽が厠のために目を覚ましたのは、単なる偶然だった。

 

「……椿……?」

 

 その日、柚羽は椿の家に泊めて貰っていた。

 目を覚ました時、椿が布団にいないことに気付いた。

 椿だけでなく、椿の両親の姿もなかった。

 誰か1人というのならともかく、全員がいないというのはおかしかった。

 

 羽織を肩にかけて、柚羽は布団から出た。

 戸を引いて土間に出た時、何かを蹴ってしまった。

 籠か鍋か。何を蹴ってしまったのかと焦った。

 枕元から持ってきた灯りを、足元に向けた。

 

「ひっ」

 

 見開いた目が、こちらを見つめていた。

 

「お、おじさん」

 

 椿の父親だった。

 

「う……」

 

 灯りを逸らして、口元を押さえた。

 胃の中身が逆流してくるのを何とか堪えて、柚羽は椿の家から駆け出した。

 今、自分が見たものは何だ。

 そう思って顔を上げると、熱が来た。

 

 村が、燃えていた。

 家が、田畑が煌々と燃えて、夜だというのに真昼のように明るかった。

 手に持っていた灯りを、その場に取り落とした。

 灯りが音を立てて奇妙な方向に跳ねるのを見て視線を落とすと、椿の母親がいた。

 優しかったおばさんが、頭だけで柚羽を見つめていた。

 

「あ、あ」

 

 悲鳴を上げて、駆け出した。

 灯りは必要なかった。周囲は炎で明るい。村の半分が火の海だ。

 走って空気を吸い込めむだけで苦しい。胸が熱い。痛い。

 それでもゼエゼエと嫌な音の呼吸をしながら、柚羽は走り続けた。

 

「お父さん! お母さん!」

 

 柚羽の家は、まだ燃えていなかった。

 足をもつれさせながら、家に駆け込んだ。

 土間で転んだが這うようにして中に入って、そして。

 

「ああ、ああああ、あああ」

 

 そして、這ったまますぐに外に出た。

 中で何を見たのかは、もはや説明の必要はないだろう。

 涙なのか汗なのか、胃の内容物なのか、ぐちゃぐちゃになりながら。

 いつの間にか足を挫いていたのか、途中からは引きずっていた。

 

「椿、つばき」

 

 椿を探した。それだけが柚羽の心の支えだった。

 そうして最後に行きついたのが、村の寺だった。

 さほど大きな寺ではなく、村人が細々と繋いでいるような小さなものだ。

 子供の頃は、椿と良くかくれんぼをしていた。

 

「つばき」

 

 お堂の前で、椿を見つけた。

 あと10歩の位置から、柚羽は椿に近付くことが出来なかった。

 その場に釘で打たれたかのように、動けなかった。

 ただ両手だけが、何かを求めるように宙を泳いでいた。

 

 その時、ぐちゃり、という音がした。

 肩を怯えさせて、柚羽はあたりを見渡した。

 すると、その音がお堂の中から聞こえているとわかった。

 椿の顔から視線を上に上げると、お堂の扉が半分ほど開いていた。

 その隙間から、ぐちゃぐちゃという音が断続的に聞こえていた。

 

「あ、あ、う」

 

 舌が回らなかった。

 誰かの背中が見える。頭を上下に振るとぐちゃぐちゃと音がする。

 何かを貪り食っている。何を?

 頭では見るなと叫んでいるが、柚羽は目を放すことが出来なかった。

 目を合わしてきたのは、お堂の中で何かを貪っていた男の側だった。

 

 そう、それは男だった。

 恐ろしい形相で、口元をてらてらと光らせている。

 嗚呼、嗚呼。あの顔を柚羽は知っていた。

 その目が柚羽を捉えようとしたその時、柚羽の緊張の糸が切れた。

 

「――――ッ!」

 

 声にならない叫び声を上げて、柚羽は脇目も降らずに駆け出した。

 逃げ出した。

 両親も、家族のようだと思っていた隣人達も、姉妹だと思っていた少女も、見捨てた。

 何もかもを見捨てて、自分だけを抱えて、逃げ出したのだった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「あの日、私は死にました」

 

 祭音寺柚羽という少女は、あの夜に一度死んだのだ。

 夜明けまで山の中を駆け続けて、たまたま育手に拾われなければ本当に死んでいただろう。

 後日、事後処理をした隠を通じていくつかの遺品だけが手元に残った。

 村には、一度も戻っていない。

 

 恐ろしくて、とても故郷に戻る気にはなれなかった。

 鬼のことを知り、育手の下で剣を学んだ。幸運にも剣技の才に恵まれ、剣士になった。

 あの夜の鬼を探して、今日まで生きて来た。

 そして今日、見つけた。

 

「今となっては、何を言おうと無意味でしょう。貴方へ向ける言葉は1つだけです」

 

 なぜ鬼になった、とか。

 どうして村の家族を皆殺しにした、とか。

 そんな問答をしたところで、失った者は帰って来ない。

 だからもう、剣を振るうだけだ。

 

「貴方に生きる価値など無いのです。潔く死になさい」

 

 ――――水の呼吸・拾ノ型『生生(せいせい)流転(るてん)』。

 両腕と上半身の骨と筋肉が、軋みを上げた。

 全身のバネを使って、日輪刀を振るいながら突撃する。

 大振りに放たれた一撃は、揚羽の血の刀でいなされてしまった。

 

 しかし柚羽の軸足はブレることなく、そのまま回転を続けた。

 二撃、三撃とそれは続いた。日輪刀と血の刀の衝突で火花が散る。

 いや、四撃、五撃と続いても終わることはない。

 一撃ごとに、回転を重ねるごとに速さと威力が増していく。

 

「ぐ、おお……!」

 

 これは偶然だ――考えてみれば、あるいは当然かもしれない――が、揚羽の血の刀に罅が入り始めていた。

 おそらく揚羽の血で形成された刀が、日輪刀によって破壊されつつあるのだ。

 鬼の力で作られたものは、陽光を浴びた鋼に対して弱い。

 そこへ、砕けろと言わんばかりの一撃が重ねて打ち込まれる。

 

(行ける……!)

 

 音を聞いている善逸は、そう思った。今にも砕けそうな音だ。

 回転と共に満身の力を込めて日輪刀を振り下ろし続けている柚羽の背中を、祈るような心地で見つめた。

 蝶の毒が回り始めているのか、視界が霞んできている。

 カナヲの音も小さくなってきていて、弱ってきているのがわかる。時間は余り残されていない。

 

(――――砕けろ)

 

 血の刀に日輪刀を振り下ろしながら、柚羽は念じた。

 回転を1つ加える度に、歯を食い縛った。

 この拾ノ型は水の呼吸最後の型にして最強の技だ。それだけ身体への負担も大きい。

 それでも、渾身の力で日輪刀を振り下ろし続けた。

 

(砕けろ)

 

 日輪刀を振り下ろす度に、確かな手応えを感じる。

 手応えが大きくなっていくのを感じる。

 それを追って、一心不乱に手を伸ばした。

 

(砕けろ!!)

 

 そして、手が届く。

 揚羽の血の刀が日輪刀を受け止めた瞬間、とうとう半ばから折れ砕けた。

 全身の血が沸騰したようになった。

 あと一回転、あと一撃。

 

 最後の踏み込み。鬼の懐に飛び込んだ。たたらを踏む鬼。逃がさない。

 頭上に振り上げた日輪刀を、鬼の頚を目掛けて振り下ろした。

 皆のかたき。

 ヒュウ、と、風が逆巻くような音が聞こえた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 覚えはないだろうか?

 重い荷物を持つ時、あるいは全力疾走をする時。

 我々は、呼吸を()()()

 柚羽が会得した技術は、大雑把に言えばそういうものだった。

 

 元々全集中の呼吸には、血の巡りを操作する技術も含まれている。

 つまり、呼吸とは血流なのだ。

 呼吸を止める――全集中の呼吸の中断を意味しないのが肝だ――と共に血流を極端に遅らせて、毒蝶の効果を一時的に緩和していた。

 そう、()()なのだった。

 

「ごぼっ」

 

 鬼の頚に日輪刀が打ち込まれるのと、おそらくほとんど同時だっただろう。

 柚羽の肺と喉から濁った音が響き、唇から鮮血が噴き出した。

 日輪刀の刃は、揚羽の皮を裂き、頚の筋肉に食い込んだあたりで止まっていた。

 

「ぐ、う……!」

 

 限界は、不意に訪れた。

 訪れてしまった。

 結果論になってしまうが、連続攻撃を強いる生生流転を選んだのは不味かった。

 休む間もなく斬撃を繰り出し続けたために、呼吸のタイミングを誤った。

 結果として、蝶の毒を遅らせることが出来なくなった。

 

「……いやあ、危なかったなあ」

 

 おそらく、血鬼術の使用者たる揚羽にはわかっていたはずだ。

 己の毒蝶の効果が少しずつ、しかし確かに柚羽の身体を蝕んでいることに気付いていた。

 流石に、生生流転の一撃が頚に届いたことには肝を潰したかもしれない。

 しかしそれも、もはや過ぎたことだった。

 

「俺の蝶は皮膚からも浸透する。小細工したところで、触れれば終わりだ」

 

 日輪刀の刃を頚から外して、揚羽が立ち上がる。

 入れ替わるようにして、柚羽が崩れ落ちた。

 足に力が入らず、身体を支えることが出来なかったのだ。

 

 目だけが、苛烈な光を湛えたままだった。

 しかしその目も、揚羽が掌で顔を掴んでしまえば届かない。

 頭蓋が軋む音がした。

 

(まだ、です)

 

 毒蝶によって全身が蝕まれる中、柚羽の闘志は揺らいでいなかった。

 日輪刀は、固く握ったままだ。

 そして、呼吸。

 毒にやられる寸前、最後の一呼吸をした。

 その一呼吸で、腕に血流を回す。あと一動作なら出来る。

 

(水の呼吸、肆ノ型)

 

 ――――『打ち潮』!

 最後の一動作。当然、頚を狙った。

 そして、その斬撃は確かに頚に届いた。

 

「残念」

 

 だが揚羽の頚と日輪刀の間に、いつの間にか無数の血の蝶が寄り集まっていた。

 それが鎧となって、渾身の、しかし弱った柚羽の斬撃を受け止めてしまった。

 軋んだのは頭蓋骨か、あるいは心か。

 日輪刀を握る柚羽の腕を、鬼が掴んだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実のところ。

 カナヲも善逸も、実のところ見たことはなかった。

 何故なら任務で駆け付けた時には「手遅れ」か「間に合う」の2択しかないからだ。

 だから、今日が初めての経験だった。

 

「ぐちゃっ、ばきっ」

 

 ()()()()()()()()を見たのは。

 鬼は仰向けに倒れた柚羽に馬乗りになっていて、両手で持った何かにかぶり付いていた。

 それは、柚羽の右腕だった。

 二の腕のあたりから千切られたそれは、断面から骨と筋肉の繊維がぶら下がっていた。

 

 肉を骨ごと噛み砕き、咀嚼する音が何度も響く。

 骨を奥歯で磨り潰す音が余りにも生々しくて、毒で弱っているにも関わらず、カナヲも善逸も目を逸らすことが出来なかった。

 ぼたぼたと鬼の口の端から()()()()が落ちて、柚羽の顔や胸元を濡らした。

 腕を千切りやすくするためだろう、隊服も羽織も破られて上半身が露にされていた。

 

(……ああ)

 

 目の前で自分の腕を喰われるのを見つめながら、柚羽は喉を揺らした。

 

(これで……終わり……ですか)

 

 存外、悔しいという気持ちは湧いてこなかった。

 むしろ柚羽の胸に去来したのは、安堵だった。

 どこか、この結末に安堵している自分がいる。

 そしてそれを、不思議だとは思わなかった。

 

 毎夜、眠る度に悪夢にうなされる。

 ()()()()のおにぎりを握る度に、怒りに吐き気を抱く。

 寝ても起きても脳裏に浮かぶのは、恐怖と苦痛で歪んだ幼馴染(つばき)の顔。

 生きるということが、辛くて苦しくて仕方がなかった。

 

(やっと……解放される……)

 

 善逸とカナヲには、申し訳ないと思った。

 自分の失敗に巻き込んでしまう。それは、心残りだった。

 

「やはり女の肉は舌触りが良い」

 

 そう言って、揚羽は血に濡れた顔で嗤った。

 彼は柚羽の肩と胸を掴んで上体を起こさせると。

 

「かひゅっ」

 

 その喉笛に、喰らい付いた。

 柚羽の口から漏れたのは、まさしく最期の吐息だった。

 余りにも、余りにも痛々しく惨い音が、柚羽の喉元から聞こえて来た。

 残った左腕と両足が、柚羽の意思に関係なく何度か跳ねた。

 

(やめろ)

 

 全身を汗で濡らしながら、善逸は声にならない声を上げていた。

 

(死んじゃうよ)

 

 あのまま喉を喰い千切られたら、柚羽は死ぬ。

 そうでなくとも、右腕の傷口からの出血で死ぬ。

 柚羽が死んでしまう。

 

(誰か、神様)

 

 善逸が、神に縋り始めた時だった。

 ――――音がした。

 槌で岩を砕くような音が、徐々にこちらへと近付いてくる。

 その合間に呼吸の音が聞こえて、善逸は身を起こそうとした。

 

 しかし、毒が回って身体を動かすことが出来ない。

 それを見ていたカナヲは、善逸がしようとしていることに気付いた。

 すう、と、呼吸した。

 善逸よりも先に毒に犯されたカナヲは、もちろん身体を動かすことは出来なかった。

 呼吸したことでさらに毒が進むだろう。そんな彼女がやったことは。

 

「こ……! こ……!」

 

 音を、2つ。それが限界だった。

 そして、それで十分だった。

 ()が、善逸でなくとも聞こえる程に近くなった。

 

「――――あ?」

 

 今にも柚羽の喉笛を喰い千切りそうだった鬼が、不審な顔で頭を上げた。

 次の瞬間、暴風が彼の顔面を殴りつけた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼の巨体が吹っ飛ばされるのを、善逸は見た。

 肩から胸のあたりまでを袈裟切りにされているから、斬られたのだと気付いた。

 そして柚羽の身体を跨ぐように立っていたのは、瑠衣だった。

 

 何故か、半裸だった。

 より正確に言えば、隊服を脱いで、肌着の上に羽織を着ていた。

 普段の善逸であれば、鼻血の1つや2つを噴いていただろう。

 しかし、そうはならなかった。

 

「痛ぇな。何だ、お前は」

 

 揚羽は鬼だ。身体を斬られた程度では死なない。

 ミチミチと音を立てながら傷が再生していく。

 人間とは違う。失うということがない。

 

(不味い。アレが来る!)

 

 ――――血鬼術『舞華蝶血』。

 善逸が危惧したまさにその瞬間、毒蝶が放たれた。

 無数の毒蝶が瑠衣に向かっていく、しかし瑠衣はそれが毒蝶だとは知らない。

 だから善逸は、次の瞬間に瑠衣が毒に蝕まれて倒れる姿を想像した。

 

「……あ?」

 

 それは、誰が発した声だっただろう。

 毒蝶が瑠衣に群がらんとした時、瑠衣が刀を振るった。

 轟、と、音だけが耳に届いた。

 それで、()()()()()()()()()

 

 バラバラに引き裂かれた毒蝶が、空中に散っていた。

 いったい何をしたのかと、揚羽は訝しんだ。

 毒蝶が一匹も辿り着くことさえ出来なかったのだ。

 瑠衣はただ、日輪刀を一振りしただけだというのに。

 

「お前、何をしやがった」

 

 ――――血鬼術『舞華蝶血』!

 そんなはずはないと、再び毒蝶を放った。

 そして、今度は()()()

 

「シイイイィィ……!」

 

 呼吸音。周囲に聞こえる程の呼吸の音。

 そして、殺気だ。

 全身の肌が粟立つような殺気を、感じた。

 次の瞬間。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 揚羽は、今度こそ見た。

 瑠衣の斬撃――斬撃という言葉すら生温い――が、風を纏っていた。

 その風が毒蝶を吹き飛ばしていたのだ。

 そしてその事実に気が付いた時、瑠衣の日輪刀は揚羽に届いていた。

 

「ギャッ!」

 

 己の口から濁った悲鳴が上がるのを聞いた。

 次いで、身体に奇妙な衝撃があった。

 それは膝のあたりで足を切断されて、腿の切断面が地面に落ちた衝撃だった。

 手をつこうとして、出来ないことを知る。両腕も肘から斬られていたからだ。

 

「……ヒッ!?」

 

 顔を上げると、そこに瑠衣が立っていた。

 普段なら「美味そうだ」と涎を垂らすだろう太腿が、目の前にある。

 しかし今は、とてもそんなことは考えられなかった。

 それ程に、前髪の間から覗く目が冷たかった。

 

(あ、相性が悪すぎる……!)

 

 全集中の呼吸の中で、風の呼吸とその派生にしかない特徴が1つある。

 炎や水の剣技と違って、風の剣技は実際に()()()()

 炎だ水だと言ったところで、本当に燃えたり水が出たりするわけではない。

 優れた剣技を見た者が、「まるで濁流のようだ」とか「まるで炎のようだ」と感じているに過ぎない。

 しかし、風は違う。実際に暴風を起こし、敵を切り刻むことが出来るのだ。

 

 すなわち、毒蝶の如きは瑠衣に触れることすら出来ないということだ。

 瑠衣に届く前に、暴力的な風で吹き飛ばされてしまう。

 揚羽の血鬼術とは、まさしく相性が悪すぎた。

 瑠衣が刀を返すのを見て、揚羽は本能的な恐怖を感じた。

 死の恐怖を。

 

「ま、待ってくれ!」

 

 揚羽は言った。

 

「ど、どく。解毒……そうだ! 俺ならそのガキどもの解毒が出来る! だから待て!」

 

 実際、善逸とカナヲの状態はかなり悪いと言える。

 じきに毒が回り切り、血を吐くことになるだろう。

 そんな揚羽の言葉に、瑠衣の刃先が僅かに下がった。

 

「――――馬鹿がッ!」

 

 両腕が再生し、血の刀を出した。

 揚羽の血で作られたこの妖刀は、斬られた者に毒蝶と同じ効果を与える。

 瑠衣の胸と喉を狙って突き出されたそれが、瑠衣の皮膚に。

 

 届く前に、横薙ぎに斬り払われた。

 揚羽にとって誤算だったのは、彼は剣士ではないということだった。

 毒蝶で弱らせた敵としか剣を交わしたことがない。

 そんな相手に正面から斬り結んで負けるほど、鬼殺の剣士は甘くないということだ。

 

「シイイイィィ……!」

 

 ――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐風樹』!

 揚羽は、己の肉体に幾度も衝撃が走るのを感じた。

 衝撃が1つ抜けていく度に、再生した手足が、身体の部位が切り刻まれていくのを感じた。

 倒れると言うより、まさに落ちると言った風に地面に崩れる。

 頭の後ろで、何かが翻るような音が聞こえた。

 

「待っ」

 

 次の瞬間、揚羽は全ての感覚を喪失した。

 彼には、過去を省みる時間さえも与えられなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 最悪の事態だった。

 柚羽の右腕の傷口に羽織を押し当てながら、柚羽は唇を噛んでいた。

 右腕は、まだ良い。最低限の止血はできる。

 だが、もう1つは不味かった。

 

「柚羽さん、柚羽さん! 聞こえますか!? 呼吸をしてください、何とか……!」

 

 喉が、潰れている。呼吸使いには致命的だった。

 深く刻まれた歯形が痛ましく、当然ながら出血も激しい。気道を塞ぎかねない程だ。

 せめて呼吸で止血できればと思うが、柚羽は時折血を噴くばかりで、瑠衣の声が聞こえているのかさえ疑わしかった。

 

「我妻君、栗花落さん」

 

 善逸とカナヲも、危険な状態だった。

 意識が混濁しているのか、瑠衣の声に反応しない。

 呼吸、というか咳も濁った音をさせ始めていて、時間的余裕という意味では柚羽と大差が無さそうだった。

 

 鬼の毒は、瑠衣にもどうすることも出来なかった。

 あの鬼は解毒が出来ると言っていた。しかし瑠衣は躊躇なく斬った。

 その判断を後悔することはない。他の3人も、瑠衣の立場なら同じ決断をしただろう。

 ただ、焦る気持ちまで抑えられるわけではないのだった。

 

(どうすれば良い)

 

 3人はもう自力では動けない。

 しかし治療は要る。可能な限りすぐにだ。ここでは何も出来ない。

 この辺りを担当していた鎹鴉はカナヲの懐の中だ。彼も毒に犯されて飛べない。

 隠の拠点まで行って救護班を呼んでくる。瑠衣なら可能だ。だが3人は間に合わないかもしれない。

 

(落ち着いて。考えて)

 

 1秒の遅れも許されない状況だ。決断しなければならない。

 そうしなければ、部隊が全滅してしまう。

 何を諦めて、何を取るのか。

 

 普通に考えれば、柚羽を諦めるべきだろう。

 彼女の負傷は深く、片腕を失っては剣士としては死んだも同然だからだ。

 善逸かカナヲのどちらかなら、カナヲか。継子は次期柱として貴重な戦力だ。

 カナヲだけなら、拠点まで連れ帰ることは難しくない。

 

「つ、ゆ……」

 

 言葉を止めたのは、柚羽が目を開けたからだった。

 痛みか息苦しさか、意識が戻った理由はわからない。

 柚羽は何も言葉を発さなかった。喉が潰れて声を出せなかったからだ。

 彼女はただ、瞼を閉じて見せた。

 

 その行為の意味するところを、瑠衣は正確に理解した。

 やむを得ないことだと、柚羽も理解しているのだ。

 この選択は正しい。それなのに。

 どうして、足が動いてくれないのだろう。

 

『煉獄瑠衣を』

 

 その時、脳裏に色鮮やかに蘇ったのは。

 

『兄は信じている!』

 

 兄の言葉だった。

 杏寿郎は――父は、弟は、あるいは母は、きっと瑠衣の判断を責めることはないだろう。

 もし責める人間がいるとすれば、それは1人だけだ。

 だから瑠衣は、決断した。

 

「ぎ、ぎ……!」

 

 カナヲを、右腕で腰抱きにした。

 左腕で善逸を同じようにして、そして背中に柚羽を抱えて羽織と紐で縛った。

 結んだ紐の先端を口に噛み、顎の力で持ち上げる。

 ()()()()()()()

 

 呼吸だ。

 正しい呼吸なら、どれだけ重かろうが、どれだけ走ろうが関係ない。疲労しない。

 3人だろうと4人だろうと抱えて行ける。

 呼吸の精度を高め、血管ひとつ筋肉の繊維ひとつを認識する。

 

(集中しろ)

 

 柚羽が背中で何かもごもご言っているような気がしたが、無視した。

 瑠衣はただ、己の責務を全うするだけだ。

 煉獄家の娘が、同じ任務に立った仲間を見捨てるなど、あってはならない。

 

(心を燃やせ、諦めるな)

 

 一番余裕のある自分が、一番最初に諦めるな。

 手足の骨が折れようと、歯が砕けようと、誰も置いていかない。

 死なせない。

 絶対に、と、瑠衣は自分自身にそう言い聞かせた。

 夜空の月が、傾き始めていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 最終選別。

 鬼殺隊に入隊するために、剣士見習いの子供達が潜り抜けなければならない最後の関門だ。

 数十人が受けて数人しか残らない。1人も生き残らない時すらある。死の試練だ。

 しかし、今回は違った。

 

「大丈夫ですか?」

 

 燃えるような髪色の少年だった。

 しかし振り返ったその表情は柔和そのもので、炎というよりは陽の光のような印象を受ける。

 ああ、この少年こそ日輪の剣士に相応しい。

 彼に救われた子供の誰もが、そう思った。

 

 ()()()()

 そう、その少年は共に選別を受けた子供達を救った。

 それは文字通りの意味で、藤襲(ふじかさね)山に放たれた鬼の悉くから、その牙から、爪から、その少年は最終選別を受けた子供達を守ったのだった。

 最終選別で脱落者が出なかったのは、史上初めてのことだった。

 

(何て強さだ。とても見習いとは思えない)

 

 最終選別を受けた1人に、舟生(ふなせ)知己(ともみ)という少年がいた。

 きっちりと切り揃えられた髪が多少乱れているのは、最終選別の戦いのためだろう。

 地面に膝をついて、怪我をしているらしい少女の肩を抱いている。

 しかし、彼女を救ったのは知己ではなかった。

 

「その人のことをお願いします!」

 

 彼女()を救ったのは、煉獄千寿郎という名の少年だった。

 剣士見習いの子供達のほとんどは、鬼とまともに戦うことすら出来ない。

 上手く呼吸ができなかったり、極度の緊張から剣技の型を出せなかったり、理由は様々だ。

 だが、千寿郎は違う。

 

 呼吸の精度。体捌き。一太刀の威力。全てが見習いの域を超えていた。

 当然と言えば当然である。

 千寿郎の師は、当代最強の柱とも謳われるあの煉獄槇寿郎なのだ。

 最強の育手に優秀な血統。条件からして他の者とは違う。

 

(戦える……!)

 

 そして、千寿郎もそのことに気付きつつあった。

 最終選別の開始直後から東奔西走し、藤襲山に潜む鬼の大半を1人で斬った。

 最初の1匹は緊張した。肉を斬る感触に震えた。吐き気さえ催した。

 けれど助けを求める声に、気が付けば身体が動いていた。

 

(僕は、戦える!)

 

 父のように、兄や姉のように、鬼と戦うことが出来る。

 有り体に言えば、千寿郎は自分が強いということに気付き始めていた。

 煉獄家の中で一番下であったが故に、千寿郎は自分の強さに今まで気が付かなかったのだ。

 仮に家族の内で最弱であったとしても、外に出れば最強である。

 

 強さを計る尺度がまるで違うのだ。

 それはまるで、獅子の子が外界で初めて狩りをする時に似ている。

 獅子は解き放たれた。

 ――――その日、藤襲山で死んだ人間は1人もいなかった。




読者投稿キャラクター:
舟生知己:ひがつち様
ありがとうございます。

最後までお読みいただきありがとうございます。
描いててこれ鬼滅世界なんだなって思いました(え)

それはそれとして千寿郎君は最終選別をあっさり突破。
思うに継子や柱・元柱の弟子って他の子供とやっぱり相当に差がつくと思うんですよね。
伊之助は本当に例外中の例外なのだろうと思います。我流であれはどういうことなのかと。
原作で千寿郎君がそうならなかったのは、やはり槇寿郎氏のリタイアが大きいと思うのですよね。その意味では原作杏寿郎の凄さがより際立ちます。
あと何となく剣士千寿郎って鬼滅二次でも少ない気がして描きたい(本音)。


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第22話:「新たな任務へ」

 バキッ、と、木刀が折れる音がした。

 不死川と、道場の庭で稽古をしていた時のことである。

 打ち合いに耐え切れずに、お互いの木刀が折れてしまったのだ。

 

「チッ、道場の木刀が無くなっちまうなァ」

 

 柄だけになってしまった木刀を見て、不死川が舌打ちした。

 実際、不死川の言葉の通り、彼の足元には同じようになった木刀が何本か転がっていた。

 そしてまた、そこに1つ追加される。

 それを見ていた瑠衣も、自分の手にある木刀の柄をぼんやりと見つめた。

 

 不死川に稽古をつけて貰うようになってしばらく経つが、最近はこういうことが続いている。

 稽古が実戦的なせいもあるのだろうが、鬼殺隊用に頑丈に作られている木刀でさえ、しばらく打ち込むと折れてしまう。

 ただでさえ不死川は加減というものを知らないし、瑠衣も必死だから余計にだった。

 

(私は、成長できているのだろうか)

 

 柚羽達との任務から、2か月が過ぎていた。

 あれから何度か任務もこなし、こうして不死川の稽古も受けている。

 しかし任務で対した鬼はいずれもなりたての雑魚鬼で、不死川との稽古もこの調子だった。

 正直なところ、強くなれているという手応えが無かった。

 

「手拭いだ、しっかり拭いとけェ」

「あ、ありがとうございます」

 

 折れた木刀を見つめていると、不死川が手拭いを差し出してきた。

 こう見えて、面倒見が良いのだ。

 

(また馬鹿なことで悩んでやがんな)

 

 手拭いで顔を拭いている瑠衣を横目に、不死川はそう思った。

 彼は瑠衣が悩んでいることを知っていた。

 以前からはそういうところはあったが、最近は特に顕著だった。

 無理もない、とは思う。

 

 ()()()()()

 炎柱の家系に生まれ、呼吸の剣技の師も柱だ。

 自然と基準は高くなる。それでなくとも真面目な娘なのだ。

 思い詰めてしまうのも、わからないではなかった。

 

(悩んだって、どうにもならねぇだろうが)

 

 そう、どうにもならない。

 進むしかないのだ。悩もうと悩むまいと関係ない。

 しかしそうは思っても、不死川はそれを口にすることはなかった。

 

「……ああ?」

 

 不意に、不死川は上を見た。

 道場の屋根の方を見て、目を細める。

 雲一つない青空の真ん中に太陽が輝いていて、眩しかったからだ。

 しかしそれでも、見逃すことはなかった。

 

 宇髄がいた。屋根の上にいるのは、忍者らしいと言えばらしい。

 不死川と目が合うと、何処かへと姿を消した。

 あの様子だと、不死川に会いに来たというわけでもないだろう。

 

「師範?」

「……うるせェ」

 

 不思議そうに首を傾げる弟子の頭を小突いて。

 

「おら、続きだァ。さっさと代わりの木刀を取ってこい」

 

 悩んでいても仕方がない。

 それに、と不死川は思った。

 悩んでいようがそうでなかろうが、時は止まってなどくらないのだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 胡蝶しのぶは、煉獄瑠衣にある種の親近感を持っていた。

 もちろん、本人にそんなことを言ったことはない。

 言ったところで本人を困らせるだけだろう。

 それに、こんな自分に親近感を持たれて喜ぶ人間はいないと思っていたからだ。

 

「……はい。良いですね、喉は快方に向かっていますよ」

 

 しのぶは昼間の内は蝶屋敷で治療に当たっている。

 簡単な怪我や病気ならアオイ達で十分に対応できるので、自然、しのぶが診るのは難しい患者ということになる。

 例えば、鬼との戦いで治療困難な負傷を負った隊士などだ。

 

 寝台(ベッド)に横になっている柚羽も、その1人だった。

 2か月前、とある任務で片腕を失う大怪我を負った隊士だ。

 蝶屋敷に担ぎ込まれてきた当初は、まさに生死を彷徨う状態だったと言って良い。

 それでも何とか一命をとりとめて、生きている。

 ()()()()()

 

「…………」

 

 柚羽は、寝台の上で何も言わなかった。

 喉に大怪我を負っているのだから、当然と言えば当然だった。

 傷自体は塞がり、喉の状態も少しずつだが改善が見られる。

 ただ仮に喉が治り声を取り戻せたとしても、柚羽は沈黙を選んだだろう。

 しのぶには、それが良くわかった。

 

(死にたかったんですね)

 

 柚羽の抱えている、あるいは抱えていた事情は知らない。

 しかし、死に損ねたという思いは少しわかる。

 だから、そういう意味では。

 

「まあ、良かったわぁ。早くお喋りが出来るようになると良いわねぇ」

 

 そういう意味では、榛名のような、おっとりとした人間が同室なのは悪いことではないのだろう。

 榛名自身も未だ寝台からまともに起き上がれない状態だが、その朗らかな笑顔からは、そんなことは微塵も感じさせなかった。

微塵も感じさせなかった。

 自分のような()()の笑顔とは違う。見ていて癒されるような、そんな笑顔だ。

 自分には、自分()には出来ないことだ。

 

(本当に、よくわかりますよ)

 

 死に損なったと、本人がそう思っていたとしても。

 それでも生きていてほしいと、そう願う気持ちが。

 それで恨まれたって構わない。生きていてさえくれればと、思う気持ち。

 しのぶには、そんな瑠衣の気持ちが良くわかるのだった。

 

「……そろそろ流動食も飽きたでしょう。食事も少しずつ変えていきましょうか。そうですね」

 

 もちろん、口には出さない。

 それは、口に出してはいけないものだ。

 少なくとも、しのぶには言えない。

 

「……おにぎりでも、アオイに作って貰いましょうか」

 

 ぴくり、と、柚羽の眉が動くのを、しのぶは見ないふりをした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 たまに忘れてしまうが、死というのは突然やってくるものだ。

 蝶屋敷の人間として毎日を忙しく過ごしていると、本当にうっかり忘れてしまう。

 自分の大切な人が、ある日、突然いなくなってしまうこともあるのだと。

 

「カナエ様、お加減はいかがですか?」

 

 それでも喉元過ぎれば何とやらで、しばらく経つとまたすぐに忘れてしまうものだ。

 しかし中には、いつまでも引きずる人間というのもいる。

 例えば、そう、今こうして自分に話しかけて来ているアオイなどがそうだ。

 だからカナエは、出来るだけの笑顔を浮かべて大丈夫だと伝える。

 

 それでようやく、アオイは少し安心した顔になるのだ。

 なるべく傍にいてあげないと、と、カナエは思う。

 蝶屋敷にいる少女達は、鬼に身内を殺された者が多い。

 カナエやしのぶも両親を鬼に殺されている。だから気持ちは良くわかる。

 

(カナヲが怪我をして帰って来たのなんて、初めてだものね)

 

 アオイが動揺したのは、カナヲが負傷したせいだ。

 幸いすぐに快復したが、しばらくは、カナヲが蝶屋敷にいる時は傍を離れなかった。

 あのカナヲがまさか、という気持ちはカナエにもわかる。

 それ程までにカナヲは強かったし、どんな任務でも無傷で帰って来ると思い込んでいた。

 思い込み程、恐ろしいものはないというのに。

 

「あのう……」

 

 カナエがそんなことを考えていると、すみ――蝶屋敷の3人娘の1人――が困ったような顔でやって来た。

 どうしたのかと促すと。

 

「その……」

「えええ――――っ! この薬!? この薬を飲めば良いの!? というか俺の薬って何でいつもこんな苦いの!? 嘘過ぎでしょ!?」

 

 ふ、とカナエは思わず笑ってしまった。

 誰の叫び声かなど、もはや考えるまでもないことだった。

 もちろん善逸はカナヲが負傷した任務の時から入院しているわけではなく、別の任務で負った怪我を治療しているだけだ。

 

 善逸と、それから炭治郎と伊之助は蝶屋敷にいることが多い。

 炭治郎は名目上はしのぶ預かり――禰豆子を巡る裁判の結果は今も有効だ――ということになっているが、他の2人も成り行きなのか居心地が良いのか、蝶屋敷の活動の拠点にしているところがある。

 あの3人は強くなるだろうと、カナエは思っていた。

 もしかしたら柱に届くかもしれない。

 

「またなの!? あの人は本当にもう……! カナエ様、すみませんが失礼します!」

 

 それに、あの3人がいると不思議と蝶屋敷も賑やかになる。

 それはきっと、悪いことではない。

 カナエは、そう思うのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 不死川は指導者に向いている。

 これは瑠衣が勝手に思っていることなのだが、稽古を受けていると本当に良くわかる。

 不死川は手取り足取り教えるということはしない。ひたすら打ち合う。

 そしてその打ち合いの中で、()()()動き方に気付かせる。

 

 気付けなければ、顔面の形が変わるまで打たれるだけだ。

 そのあたり、相手が女子供だろうと不死川が斟酌することはない。

 流石に槇寿郎の人を見る目は確かだった。

 最初は何だこの人と思ったものだが、今は不死川が師範で良かったと思っている。

 

(師範に言ったら怒るかもしれないから、言わないけれど)

 

 向かう先は蝶屋敷だった。日が暮れてしまうと鴉が任務を伝えに来る。

 その前にと思って、足を向けたのだ。

 とは言っても、そのまま蝶屋敷の中に入った数は、実は多くなかった。

 大抵は、門の前を素通りする。

 いかにも不自然だが、入りづらいという気持ちが強かったのだ。

 

「あ!」

 

 だから今日も蝶屋敷の様子を窺いつつ歩き去ろうと思っていたのだが、門の前でばったりと知り合いに出くわしてしまった。

 

「瑠衣さん! こんにちは!」

「……こんにちは」

 

 炭治郎だった。

 任務帰りなのか隊服姿で、背には鬼の妹が入った箱を背負っていた。

 彼は瑠衣の姿を認めると、笑顔で挨拶をしてきた。

 本当に邪気のない子だと思いつつ、挨拶を返した。

 

「どこか怪我を?」

「あ、いえ! 待機中は蝶屋敷で修業していて……」

 

 この時、瑠衣は炭治郎と禰豆子がしのぶ預かりであることを思い出した。

 忘れていたわけではないが、炭治郎がそれだけ鬼殺隊に溶け込んでいるということだろう。

 炭治郎や、鬼の禰豆子に窮地を救われた者も少なくなくなってきている。

 いつの間にか、表立って炭治郎と禰豆子を悪くいう者はいなくなっていた。

 

 そして瑠衣が見る限り、炭治郎の常中は完璧だった。

 以前に蝶屋敷の道場で見た時は、まだムラがあった。

 しかし今は安定している。ごく自然に全集中の呼吸を維持できている。

 瑠衣が現在の炭治郎の状態になるまでには、おそらく倍以上の時間を要したはずだ。

 

(まあ、兄様はもっと速かったのですけどね……!)

 

 むしろ杏寿郎が常中の修行をしていたところを思い出せない。

 当時の瑠衣が常中を理解していなかったというのもあるだろうが、気が付いた時には普通にやっていたような気がする。

 杏寿郎との才能の差を感じたのも、そう言えば常中の修行を始めた頃だった気がする。

 同じことをして初めて、相手との差がはっきりしてしまうものだ。

 

(…………あれ?)

 

 と、一方の炭治郎は思った。

 何やら会話が止まってしまった。

 自分は蝶屋敷で寝泊まりしているからともかくとして、瑠衣は何か用があったのではないだろうか。

 しかし瑠衣は何も言わなかった。炭治郎は困った。困った末に。

 

「あ、千寿郎君が最終選別に通ったって聞きました」

 

 おめでとうございます、と、炭治郎は頭を下げた。

 千寿郎の最終選別のことは、鬼殺隊でもちょっとした語り草になっていた。

 何しろ選別に全員が通ったのだ。それも千寿郎がひとりで鬼をほとんど斬ったという。

 炭治郎も含めて、それがいかに難しいかは隊士の皆が知っている。

 

「ありがとう。まあ、もう結構たっていますけどね」

「あはは、なかなか会う機会がなくて」

「仕方ありません。隊士はほぼ任務で出ずっぱりですから」

 

 千寿郎の最終選別も、もう2か月前のことだ。

 すでに千寿郎は自分の日輪刀を持って、正式な剣士として認められている。

 嬉しそうな顔で選別突破の報告をして来た時の顔を、瑠衣は忘れられない。

 

「そういえば」

 

 瑠衣の気配が柔らかくなったのを感じて、炭治郎は言った。

 

「千寿郎君の日輪刀は、何色になりましたか?」

 

 その何気ない言葉に、瑠衣は笑顔を浮かべて見せた。

 色変わりの刀が何色になったか。隊士なら誰もが気にする共通の話題だ。

 だから瑠衣は、完璧な笑顔のまま言った。

 

「赤色ですよ」

 

 他の人間なら、それで問題なかっただろう。

 相手が、炭治郎でさえ無ければ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 赤い日輪刀は、炎の呼吸に適性を持つ証だった。

 父である槇寿郎も、兄である杏寿郎も日輪刀は赤色だ。

 だから自分の日輪刀が赤色に変わった時、千寿郎は本当に嬉しかった。

 本当は、飛び跳ねて喜びたかった。

 

「あ……」

 

 もし、その場に瑠衣がいなければ本当にそうしていたかもしれない。

 煉獄邸に千寿郎の日輪刀が届いた時、色変わりの瞬間を家族全員で見ていた。

 日輪刀を得ることはいわば一族の通過儀礼ともいうべきことで、当然と言えば当然だった。

 千寿郎も、杏寿郎や瑠衣の日輪刀が届いた時には同席していた。

 

 千寿郎がしまったと思ったのは、瑠衣を気にしてしまったことではなく、自分が気にしたことを瑠衣に気付かれてしまったからだった。

 父も兄も、そして自分の日輪刀の色が赤色なのに、瑠衣だけが緑色だ。

 千寿郎は覚えている。

 

『なんで……?』

 

 あの日、姉が最終選別を突破して、最初の日輪刀を手にした時。

 深緑の色に変わった日輪刀を見て、呆然としていた瑠衣の姿を覚えている。

 思えば最終選別を突破してから日輪刀が届くまでの2週間は、呑気なものだった。

 自分の日輪刀も当然赤くなると信じていた姉は、指折り数えて日輪刀が届くのを待っていたものだ。

 

「あの、姉上」

 

 だから、姉の反応が怖かった。

 そう思って瑠衣を見つめていると、不意に変化が来た。

 千寿郎はぎょっとした。

 じわりと瑠衣の瞳が潤んだかと思うと、ぼろぼろと涙の雫を零し始めたからだ。

 

「う……うわああああ良かったあああああああ!」

「え、え、うわっ!?」

「千っ、千寿郎よかった、よかったね赤色だよおわあああああ! あああああよがっ、よ゛がっだ! 千じゅ、 げほっ、うえっ」

 

 あの姉が、咽る程に感情を昂らせるところを見たことが無かった。

 というか、泣いていた。

 自分のことを力一杯に抱き締めて、我が事のように泣いて喜んでくれている。

 わあわあと声を上げて泣く姉の着物を掴んで、千寿郎は胸の奥からこみ上げてくるものを感じた。

 

「千寿郎」

 

 そんな千寿郎に、杏寿郎が声をかけた。

 槇寿郎は何も言わずに襖の向こうに消えていった。たぶん、母に報告に行ったのだろう。

 

「良かったな」

 

 気が付けば、千寿郎も泣いていた。

 嬉しかった。本当に。

 日輪刀が赤色に変わったこと。それを家族が喜んでくれること。

 こんなに幸福なことはきっと他にないと、そう思った。

 

「ふふ」

 

 ――――と、いうようなことを思い出して、千寿郎は腰に差した自分の刀を見下ろした。

 手には箒を持っていて、門前の掃き掃除の最中のようだった。

 正式に剣士と認められても、家にいる時にすることは変わらないらしかった。

 

 ともあれ、千寿郎は鬼殺隊士になった。

 これからは父や兄姉と共に戦うことが出来る。

 そして何より、父と兄の控えとして経験を積み、自分を鍛え上げなくてはならない。

 決意を新たに、千寿郎は鼻息荒くひとり頷くのだった。

 

「おい、何を地味に頷いてやがる」

 

 ()()()だったのに、声をかけられた。

 驚いて振り向くと、一瞬前まで確かに誰もいなかったのに、六尺は優にある大男が傍に立っていた。

 金剛石の飾りをつけたその男は、宇髄だった。

 彼は千寿郎をじろりと見下ろすと、こう言った。

 

「炎柱殿はご在宅かい?」

 

 呑み込まれるような空気を感じて、千寿郎はただ頷くことしか出来なかった。

 宇髄が言うところの、地味に、だ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 どうしてこんなことになったのだろう。

 瑠衣は思った。

 自分はあのまま帰ろうとしたはずなのに、何故か蝶屋敷の道場にいた。

 炭治郎に連れて来られたからだ。

 

「あれから修行したので見てくれませんか!」

 

 ということだった。

 修行を続けていたのは常中の精度を見ていればわかる。

 わかるのだが、炭治郎は瑠衣の腕を引いてずんずんと蝶屋敷の中へ入っていった。

 なかなか強引だが、それで不快に思わせないあたりは人徳なのだろう。

 

(それにしても……)

 

 それにしても、炭治郎の成長ぶりは凄まじいものがあった。

 道場での追いかけっこだ。

 前回ここで追いかけっこをした時は、彼を振り切ることは難しくなかった。

 

 理由は単純で、炭治郎の体が()()()いなかったからだ。

 駆け出し、あるいは制動。それらの動きのキレは足腰の筋力で決まる。

 筋肉が鍛えられていなければ動きはそれだけ鈍る。自分自身の動きの勢いに負けるからだ。

 ところがどうだ。今の炭治郎は。

 

(よおおおおおし! 追えてる! 動きを追えてるぞおおおお!)

 

 瑠衣はぐるぐると炭治郎の周りを――前回と同じように――駆けていた。

 以前の炭治郎であれば、自分の動きの勢いに負けて、瑠衣を追い切れなかっはずだ。

 しかし今は、制動から次の駆け出しの間にほとんど溜めがなくなっていた。

 その分だけ、瑠衣を追うことに力を集中できるということだ。

 

(無限列車の時から、そんなに時間は経ってないはずなのに)

 

 瑠衣の体感だが、1つの動作の反射速度が1秒から2秒は速くなっている。

 たかが1秒と思うかもしれないが、人間は身体機能はともかく反射速度が劇的に上がったりはしない。

 神経の伝達速度には個々人で差があり、それは鍛えることが出来ない。

 だからもし反射速度が上がったように見えるとすれば、それは()()のためだ。

 炭治郎は身体機能を鍛えると同時に、己の身体の動かし方に()()てきているのだ。

 

「う」

 

 何度目かの回避。伸びて来た炭治郎の手から、横にぐるりと回ることで避けようとした。

 すると炭治郎は瑠衣の予測を上回る速度で反応して見せて、無理やり横に方向転換してきた。

 呼吸で片足を強化して、跳んだのだ。

 

「……っ」

 

 問題ない。

 炭治郎が横に跳ぶのに合わせて、瑠衣は縦に跳んだ。

 宙返りをする形で、炭治郎の頭上を通り過ぎる。

 

 しかし炭治郎は、そこからさらに縦にも跳んだ。

 体内でミシミシと筋肉の繊維が音を立てるのを聞きながら、もう片方の足で地面を蹴った。

 それは文字通りの()()であって、炭治郎の体を跳ね上げさせた。

 

(届、くぞ!)

(触れられる……!)

 

 ぱんっ、と、乾いた音がした。

 瑠衣が炭治郎の手を叩いた音だ。

 自分に触れそうな程に伸びて来た手を、払ったのだ。

 

「いっだあっ!?」

 

 瑠衣を捉えるために無理な体勢だったせいか、炭治郎は次の瞬間には着地に失敗していた。

 挫いた足首から実に嫌な音がして、彼はそのまま道場の床に転がってしまった。

 一方で綺麗に着地しながら、瑠衣はそんな炭治郎を見つめていたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 炭治郎を弾いた自分の手を、じっと見つめた。

 まさに思わず、手が出てしまったのだ。

 

(負けた……)

 

 手を払わなければ、掴まれていたからだ。

 だが手を叩いてしまった時点で、追いかけっことしては負けだろう。

 言い訳は、したくなかった。

 自分が情けなくてたまらなく嫌だったが、さらに格好の悪い真似はしたくない。

 だから瑠衣は、足を押さえて痛がっている炭治郎の傍によって、手を差し伸べた。

 

「竈門君」

 

 すると、炭治郎は一瞬驚いたような顔をした。

 しかしすぐに破顔すると、瑠衣の手を取った。

 そして、言った。

 

「やっぱり瑠衣さんは凄いです! でも、もっと修行して、次は捕まえて見せます!」

 

 瑠衣は驚いた。炭治郎は自分が勝ったと思っていなかった。

 嫌味か謙遜かと思ったが、炭治郎の目は本気だった。

 何と真っ直ぐな少年なのだろう。

 そして、自分が定めた目標以外が見えない程に頑固だ。

 

「竈門君は……」

「はい!」

 

 そこで、瑠衣はふと止まった。

 助け起こした炭治郎に何か言おうとしたのが、言葉のかけ方に迷ったのだ。

 勝ち負けの話をすると拗れる。真っ直ぐだとか頑固だとか言うことも憚られる。

 無意識に口を吐いて出たので、続く言葉を全く考えていなかった。

 

「……我慢強いですね」

 

 自分の語彙力のなさに死にたくなったが、炭治郎は何故か「どやさ」と自慢げな表情を浮かべた。

 

「長男ですから!」

 

 長男は我慢強いらしい。

 良くわからない理屈だが、確かに杏寿郎が弱音を吐いているところは見たことがない。

 そして同時に、もう1つわかったことがあった。

 それは、炭治郎があまり器用な人間ではないということだ。

 

(気を使ってくれたんですね)

 

 鍛錬を見てほしいと言えば、瑠衣は断らないと思ったのだろう。

 そうやって自然な形を作って、瑠衣が蝶屋敷の中に入れるようにしてくれたのだ。

 優しい子だ。本当に心の清い子だと思う。

 鼻が利くと言っていたから、感情の動きもわかるのかもしれない。

 

(お見舞いに行こう)

 

 会いに行くのは辛いが、会いに行かないのはもっと辛い。

 生きている内に何度でも会っておくべきだと、そう思えるようになっていた。

 

「もしもーし」

 

 いつの間にそこにいたのだろう。

 気が付くとしのぶが立っていて、困ったような笑顔で2人を見ていた。

 

「修行熱心なのは非常に良いことだと思うのですけれど」

「え?」

「門限ですよ」

 

 外を示すしのぶの指先を追って行けば、窓の外はとっぷりと日が暮れていた。

 瑠衣は、あっと声を上げた。

 ――――お夕飯の準備が!

 

  ◆  ◆  ◆

 

 急いで煉獄邸に戻ると、どういうわけか千寿郎が門前に立っていた。

 もしかして自分の帰宅を待ってくれていたのかと思ったが、それにしては焦った様子だった。

 

「あ、姉上! やっとお戻りに!」

 

 千寿郎は瑠衣の姿を見つけるや、腕を引いて家の中に駆け込んだ。

 

「千寿郎、どうしたの?」

「ええっと、とにかく急いでください! 客間へ……」

 

 客間?

 誰かが自分に会いに来ているのだろうか。

 しかし正直なところ、煉獄邸(実家)まで自分を訪ねてくる相手には覚えがない。

 そう思っている内に、客間の前にまで辿り着いた。

 

「父上、姉上です」

「入れ」

 

 襖が開くと、上座の槇寿郎がいた。

 そしてもう1人、宇髄がいた。

 客というのは宇髄のことだったのかと得心したが、用件について心当たりが無いのは変わらなかった。

 

「よう」

 

 と、挨拶は気さくだった。

 床に指をついて礼をした後、瑠衣は客間に入った。

 座るのは父の側で、先に言い含められていたのか、千寿郎は入って来なかった。

 まあ、おそらく襖の向こう側で耳を傍立てているのだろうが。

 

「それで、きみの任務を手伝ってほしいとのことだったが」

 

 瑠衣が据わると、槇寿郎がそう言った。

 どうやら任務の話らしい。しかし、鎹鴉ではなく柱が口頭で話すというのは奇妙だった。

 そう思って宇髄を窺ったが、瑠衣にはその表情から考えを読むことは出来なかった。

 すると宇髄が居住まいを正した。こうして見ると本当に肩幅が広いと感じた。

 

「はい」

 

 しかしこう言うと失礼だが、目上に対している宇髄というのは奇妙な感じがした。

 瑠衣がそう考えたことを勘付いたのか、じろりと視線を向けて来た。

 慌てて取り繕うと、宇髄は改めて槇寿郎を見て、言った。

 

「俺が追っている鬼について、情報を集めるために女の隊士が必要でして」

「女性の隊士?」

「先に俺の女房が()()して情報収集に当たってくれていますが、なかなか尻尾を掴めないでいます。これ以上は鬼殺隊士特有の勘がないと難しいかと」

「ああ、確かきみの奥方は……」

 

 ここまで聞いて、瑠衣は宇髄の目的がようやくわかった。

 宇髄の妻については詳しくないが、要は潜入任務だ。

 とは言え、未経験の分野でもある。

 はたして自分に務まるものだろうか。

 

「もちろん、任務とあれば協力するのに否やとは言わん。もっとも、これも別に私の部下というわけではないので、そもそも私が許す許さないの話ではないだろう」

「まあ、今回は任務の場所が場所でして」

「ほう、どこだね」

()()

 

 …………うん?

 不穏な単語が聞こえて、瑠衣は何とも言えない表情で宇髄を見た。

 宇髄は真顔のまま、繰り返した。

 

「日本一色と欲に塗れたド派手な場所――――鬼の棲む、()()です」

 

 花街。遊郭。

 名家の令嬢がまず聞かないだろう単語だ。当然、瑠衣も例外ではない。

 だから瑠衣は、どう反応すべきか、かなりの時間迷うことになった。

 襖の向こうで、千寿郎が転ぶ音がした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――1週間後、瑠衣は東京は吉原にいた。

 今までの人生において、来たこともなければ行こうとさえ思ったこともない場所。

 宇髄に連れられて訪れたその場所は、どこか空気さえ違う気がした。

 

「まあ~! 綺麗な子だねえ!」

 

 変装した――要は飾りやら化粧やらを外した状態の――宇髄に連れられて、瑠衣はある場所に来ていた。

 一見すると料亭や宿屋にも見えるそこは、とある目的のために建てられたものだった。

 そしてそこで働くために、瑠衣は連れられて来たのだった。

 

 いや、連れられて来た、というのは語弊がある。

 より厳密に言えば、()()()()来たのだった。

 改めて考えると、なかなかに衝撃的な事実だった。

 

「是非この子はうちで引き取らせていただくよ」

「いや、"荻本屋"さん。こっちも助かるよ」

 

 細かい話は宇髄が進めてくれているので、瑠衣はただ立っているだけだ。

 まあ、立っているだけなのが役目とも言える。

 何しろまずは見た目という世界だからだ。

 その意味では、あっさりと()()()がついたことは良いことなのだろう。

 正直なところ、かなり複雑ではあるが。

 

「良いのよお、こんな綺麗な子を安く買えるなんてこっちもお得だもの」

 

 相場がわからないので何とも言えないが、どうやら自分は安く売られたらしい。

 やはり複雑だった。

 

「うふふふ。仕込むわよォ、玉鬘(たまかづら)に続く売れっ子にして見せるわよォ」

 

 瑠衣を買った女将は、腕をぶんぶん振り回しながら興奮している様子だった。

 見た限りでは悪い人ではないようだが、鼻息荒く興奮している様はちょっと怖かった。

 

「じゃ、後は宜しくやってくれ」

「え、ちょ」

 

 宇髄はと言えば、あっさりと手を振って行ってしまった。

 まあ、買い手がついた以上は宇髄がいつまでもいても仕方ない。

 とはいえ単独行動の任務ならともかく、知り合いが誰もいない場所に放り出されるというのは、任務とは違う緊張を瑠衣に与えていた。

 

「――――あら、女将さん。今わたしのことを呼んだかしら?」

 

 その時だ。まるで宇髄がいなくなるのを見計らったかのように、誰かがやって来た。

 通路を軋ませもせずに歩いてくるのは、折り鶴柄の着物を着た女だった。

 その顔を見て、瑠衣は思わずあっと声を上げそうになった。

 まあ、それより先に瑠衣を買った女将が「玉鬘花魁!」と声を上げたのだが。

 

「ああ、新入りさんね。()()()()()

(え、えええええええ!?)

 

 玉鬘――花魁(おいらん)と呼ばれたその少女は、着物の袖で口元を隠した。

 

「その顔、チョー最高」

 

 そこにいたのは、禊だった。

 下弦の肆や上弦の肆と共に戦った鬼殺隊の少女は、瑠衣を見て、クスクスと笑ったのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

ようやく次の章に進みます。
本当はもっと色々やりたかったのですが、月2回の更新だと話を進めないと終わりまで何年もかかってしまいます。
せめて週1更新できれば良いのですが、リアルの時間がなかなかに取れず…。

月2回って1年で24話しか進まないんですよね。
うーん、ままならない。

それでは、また次回。


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第23話:「吉原の鬼」

 柱に就任するための条件。

 十二鬼月を打倒するか、鬼50体を斬るか。

 そしてこの日、杏寿郎は後者の条件を満たした。

 

「ギャアッ」

 

 汚らしい悲鳴を上げて、頚を斬られた鬼が絶命した。

 地面に転がることも出来ずに塵となったそれが、杏寿郎の倒した50体目の鬼だった。

 もちろん杏寿郎は今までに倒した鬼の数など気にしたこともないが、鎹鴉の長治郎がガアガアと鳴きながら教えてくれたのだ。

 

「ガア――ッ! 杏寿郎ッ、五十体目! 鬼ノ討伐、五十体目ェッ!」

 

 それは取りも直さず、杏寿郎の炎柱継承の条件が整ったことを意味した。

 しかし杏寿郎としては、出来れば十二鬼月の打倒をもって柱昇格を決めたかった。

 ただ――当然、杏寿郎、いや鬼殺隊には確認のしようもないのだが――鬼舞辻無惨が下弦の鬼を解体してしまったために、「十二鬼月打倒」という条件は極めて実現困難な条件になってしまっていた。

 

 まず単純に数が半減してしまったため、十二鬼月との遭遇率がそもそも低くなってしまった。

 そして残った十二鬼月は、十二という名に反して上弦の6体のみ。

 歴代の柱でさえ過去100年打倒できなかった上弦の鬼。

 それを打倒しなければ柱になれないというのは、誰も柱になれないと言っているのに等しい。

 

「うむ!」

 

 長治郎の声に、杏寿郎はひとつ頷いただけだった。

 喜びや感想を表に出すこともなければ、口惜しさを表すわけでもなかった。

 そんな彼が日輪刀を鞘に納めた時、何かに気付いて振り向いた。

 

「むう! そちらも終わってしまったか、こちらを手早く終わらせて加勢に行くつもりだったのだが。よもやよもやだ!」

「…………」

「うむ? 何だ眠るのか! 疲れたのだろう。それなら後始末は俺と隠に任せて、早めに休むと良い!」

 

 そこには共同任務の相手がいて、杏寿郎は相手に休むよう告げた。

 それから、腕に止まった鎹鴉の長治郎に向けて。

 

「そう言えば長治郎。千寿郎と瑠衣も任務だったか」

「ガアッ、任務ゥ任務ゥ! 千寿郎ハ帝都・東京デ鬼ノ調査ァ!」

「ほう! 帝都で鬼の調査か! 帝都で目を回していないと良いな!」

「瑠衣ハ花街デ任務ゥ! 遊郭デ任務ゥッ!」

「ほう! 花街で任務か! 遊郭で…………何と?」

 

 その日、よもや!、という叫び声が、日本のどこかで聞こえたとか聞こえなかったとか……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――花街の朝は、二度やって来る。

 もちろん比喩だ。実際に朝日が二度昇るわけでは無い。

 花街の朝は、客の男達が妓楼()から帰るところから始まる。

 女達はその後に眠り、昼前に起きる。これが二度目の朝というわけだ。

 

「おい、何だあれ」

「あ? ああ、何だお前。知らないのか、最近入った子だよ。ほら、玉鬘花魁の……」

 

 つまりその二度の朝の間に、裏方は妓楼の全てを整えなければならないということだ。

 例えば遊女達の食べる朝食だ。

 豪勢ではないが、十数人の遊女が食べる量となるとそれなりになる。

 遊女達が起き出すまで余りなく、時間との勝負になる。

 

 そんな多忙な台所の中で、一際目を引く少女がいた。

 目にも止まらぬ包丁捌きに大根が舞い、鍋に味噌を溶かす菜箸の動きさえ素早い。

 三角巾に割烹着という姿は、奉公人の男衆の中で異色とさえ言えた。

 膳に並べるのはご飯にお味噌汁、少しの菜に香の物。典型的な一汁一菜だ。

 

「上がりまーす!」

 

 三角巾と割烹着を取ると、裾に絵羽模様をあしらった留め袖が表れた。

 膳に覆いをかけると、その少女は善を持って台所を後にした。

 そのまま土間を抜けると通路に出て、音も立てずに階段を上がって行った。 

 そこは、位の高い遊女達が生活する区画だった。

 

 基本的に、花街の遊女に自由はない。

 遊女の多くは親や元夫に妓楼に売られた()()であって、人間が当たり前に持っている自由というものが無い。

 しかしその中で例外的な存在が、いわゆる高級遊女だ。

 並の遊女と違い彼女達には個室が与えられ、衣食についても格段に良くなる。

 

「み……玉鬘花魁。朝食をお持ちしました」

 

 そして最も特別な存在が、花魁(おいらん)と呼ばれる女性だ。

 この女性だけは、ある意味で店主や女将よりも立場が上になる。

 何しろ店に莫大な利益をもたらす()()()()なのだ。気を遣われもする。

 その少女――瑠衣は、彼女が属する妓楼「荻本屋」に君臨する花魁に朝食を届けに来たのだった。

 

「……入りなさいよ」

 

 中から眠たげな声が聞こえて、瑠衣は音を立てることなく襖を開けた。

 灯りは消えたままだが、障子越しに陽の光が射していて暗くはなかった。

 だから布団の上でうつ伏せになり、肘を立てて瑠衣を見つめる少女の顔も良く見えた。

 その少女はニヤニヤとした表情を浮かべながら。

 

「良い格好ね、チョー気分が良いわ」

 

 ニヤニヤとそんなことを(のたま)う花魁――禊に対して、瑠衣は嘆息を一つ零した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 さて、ここで疑問が生じるだろう。

 それは鬼殺隊士である禊がどうして遊女を、それも最高位の花魁をやっているのか、という疑問だ。

 当然、瑠衣もまず最初に同じ疑問を抱いた。

 

「わたしはそもそも遊女(これ)が本職よ」

 

 そんな瑠衣の疑問に対して、禊はあっさりとそう答えた。

 

()()していたんだけど、復職したってわけ」

「遊女って休職制度とかあるんですね」

「あるわけないじゃない。あんたってホント鬼殺以外の物を知らないわよねえ」

「ええ……」

 

 心の底から呆れた顔で見てくる禊に、瑠衣は心外そうな顔をした。

 心底と心外。同じ「心」の一字を使う言葉でも、こうまで印象が違うとは思わなかった。

 

「ま、荻本屋(ここ)の旦那には貸しがあってね。そのツテで脅……頼んだだけよ」

「今、脅したって言いかけませんでした?」

「今度そんな生意気な口をきいたらその唇を縫い合わせる」

「ええ……」

 

 現在の吉原には、大見世(おおみせ)と呼ばれる大きな妓楼が3つあった。

 「ときと屋」に「京極屋」。そして「荻本屋」の3つだ。

 瑠衣と禊が属しているのが、その内の1つ「荻本屋」だ。

 つまり禊は、吉原三大妓楼の花魁の一角に座る遊女なのだった。

 

「何、どうかしたの」

「いえ、意外と綺麗に食べるなと思いまして」

「次は縫い合わせるって言わなかった?」

「今のは生意気な口じゃないと思うんですけど……」

 

 実際、禊の膳には米粒1つ残っていない。椀と皿まで洗われたように綺麗だ。

 箸の持ち方。姿勢に加えて食べ進める順も作法に則ったものだ。

 煉獄家の長女として厳しく躾けられた瑠衣だからこそ、そう感じた。

 

 花魁はその美貌だけでなく、芸事や教養も身に着けた特別な女性だという。

 だから禊がそうした作法を自然な形で身に着けていたとしても、何ら不思議はないのかもしれない。

 しかし瑠衣には、禊のそれが後から身に着けたもののようには思えなかった。

 

「……五月蠅くなって来たわね」

 

 気が付けば、2階全体が賑やかになっていた。

 そこかしこから女性の笑い声なども聞こえてきて、朝食を終えた遊女達が活動を始めたことがわかる。

 稽古でも始めたのか、三味線の音色も聞こえる。

 

「遊郭って、こういうところなんですね。何というか、毎日がお祭りみたい」

「ここはまあ、かなり緩い方ね。旦那がお人好しだからさ」

 

 そう言った禊の顔を見て、瑠衣はまた何かを言いかけた。

 しかし何も言わなかった。

 唇を縫い合わせられるのは御免だと、そう思ったからだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その時、天井裏からコンコンと音がした。

 瑠衣は禊に頷きを向けると、ひょいと跳び上がった。

 着物の少女が天井まで軽く跳んでしまうというのは、やはり強烈な絵面だった。

 天井の板を、瑠衣は指先で二度叩いた。

 

 そして瑠衣が着地した時、天井の板が1枚外された。

 そこから顔を出したのは、これもまた美しい女性だった。

 ただ瑠衣や禊よりは年上で、前髪だけを金髪にしている派手な髪型の女性だ。

 彼女は2人の少女以外に誰もいないことを確認すると、屋根裏から室内に下りて来た。

 

「ちょっと、埃を落とさないで頂戴」

「五月蠅いよ小娘。あたしが塵一つだって落とすもんか」

「まきをさん、お疲れ様です」

 

 その女性は、まきをという名前だった。2人と同じこの妓楼の遊女だ。

 しかし天井から入って来た時点でわかると思うが、普通の遊女ではない。

 彼女はあの音柱・宇髄天元の妻――妻は全部で3人いるそうだが――で、しかも()()()()だった。

 つまり忍者である。江戸の時代に絶えたとも言われるが、彼女はその生き残りの1人だ。

 

「さて、時間もないから話を進めるよ」

 

 どかっと瑠衣と禊の間に座って、まきをは指を1本立てて見せた。

 

()()()()についてだ」

 

 ここ数年、吉原では人の失踪や不審死が相次いでいた。

 元々治安の良い場所ではないし、「足抜け」で逃げ出す者もいないわけではなかった。

 しかしそれを加味しても、余りにも人数が多かった。

 そして何より、遊郭を巡る鬼は鬼殺隊にとっても懸案の1つだった。

 

「これまでの傾向から考えて、やはりこの鬼は『遊郭の鬼』で間違いない」

 

 遊郭の鬼。それは鬼狩りの柱ですら何人も屠って来た謎の鬼だ。

 100年以上前から決まって遊郭に現れては人を喰い、各地の花街に黒い噂を残している。

 異なる個体が同じ行動を繰り返すとは考えにくく、鬼殺隊では一個体の仕業と考えられている。

 しかし100年単位で活動し、かつ当時の柱達ですら犠牲になっていることを考えると。

 

「『遊郭の鬼』は、やはり上弦の鬼である可能性が高い。これは天元様も同じ意見だ」

 

 上弦の鬼。その一言で、瑠衣は緊張した。

 今までに遭遇した上弦の鬼の姿が脳裏を掠めて、この任務の危険度を実感したのだ。

 

「上等じゃない」

 

 しかし一方で、禊は緊張の色を少しも見せていなかった。

 むしろ顎を上げて、酷く挑発的な表情さえ浮かべていた。

 

吉原(ここ)はわたしの故郷(シマ)よ。クズ鬼の分際で人の留守中に勝手するなんて、躾が必要だわね。キッツい躾がね」

 

 瑠衣が吉原という場所にどういう意味を見出しているのか、瑠衣にはわからない。

 わかっていることは、禊が上弦の鬼に対しても変わらないということだった。

 気後れなどしている場合ではないと、そう教えられた気分だった。

 

(そうだ。気後れしてる場合じゃない。しっかりしないと)

 

 何故なら、これは瑠衣が自分で()()した任務なのだから――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――少し時を遡って、宇髄訪問時の煉獄邸。

 

「行きます」

 

 最初にそう言ったのは、瑠衣だった。

 宇髄が煉獄邸を訪れ、花街での任務への協力要請を聞いた父・槇寿郎が、何か言葉を発する前のことだった。

 

「音柱様の任務の助けとなれるのであれば。鬼殺隊のため、喜んでこの身を捧げる覚悟です」

 

 と、その時の瑠衣はいかにも格好の良い言葉を吐いた。

 襖の向こうで聞いていた千寿郎などは、もしかしたら姉の言葉に感じ入ったかもしれない。

 しかし実際のところ、瑠衣は怖かったのだった。

 是でも否でも、槇寿郎の口から答えを聞きたくなかったのだ。

 

 そしてそれ以上に恐ろしかったのは、槇寿郎と宇髄の間で奇妙な緊張が見えたことだ。

 なぜ恐ろしいと感じたのか、言葉にして説明するのは難しい。

 ただ、肌が粟立った。この場にいること自体が耐えられなかった。

 だから、行くという言葉はほとんど反射で出たようなものだった。

 

「そうか」

 

 そして瑠衣がそう言えば、槇寿郎はそれを否定したりはしない。

 内心はともかくとして、鬼殺隊の柱という立場ではそうなる。

 

「宇髄君」

 

 次に槇寿郎と宇髄の視線が交わされた時には、あの奇妙な緊張感はなくなっていた。

 胸中で、瑠衣はほっと息を吐いた。

 

「娘を頼む」

「委細承知」

 

 それで決まりだった。

 修行に任務にと、息つく間もないとはまさにこのことだろう。

 杏寿郎の炎柱継承と言い、千寿郎の最終選別と言い、まるで何かに突き動かされているかのようだった。

 

(それにしても、花街か……)

 

 宇髄の事務的な説明を聞きながら、瑠衣は自分がこれから向かうことになる場所について考えた。

 潜入任務ということは、それなりの期間をそこで過ごすことになる。

 1週間なのか1か月なのか、あるいはそれ以上なのか。

 それは宇髄が探している鬼次第、ということになるのだろう。

 

 そもそも鬼が人の集まる場所に好んで潜んでいるというのが良くない。

 この手の鬼は2種類に分けられる。

 まず経験の浅い鬼だ。餌が多い場所の危険を知らない。

 そしてもう1つが、危険を物ともしない、自分の力に強い自信を持つ鬼だ。

 もちろん、より厄介なのは後者だ。

 

(花街……)

 

 花街。

 花街に潜む鬼。

 これから瑠衣は、まったく未知の場所で、未知の鬼を探らねばならない。

 ……の、だが。

 

(えっと)

 

 花街って、具体的に何をするところ?

 格好の良いことを言ってしまった手前、聞くのも憚られる。

 淑女の行く場所ではないという印象だけはあるので、父の前で聞くのも気が咎める。

 宇髄が帰るまで、瑠衣は背中に冷たい汗をかき続けていたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「えっ、いないんですか? 杏寿郎さんも瑠衣さんも、千寿郎君も」

「ああ、今は皆が任務で出払っていてね」

 

 ある日、炭治郎は煉獄邸を訪れていた。

 彼はその日は妹の箱だけでなく、さつま芋の籠も持っていた。

 任務先で助けた人から貰ったものだ。

 余りにも量が多かったので、普段のお礼も兼ねて、こうしてお裾分けに来たのだった。

 

 ただタイミングの悪いことに、煉獄家の人間は全員が任務に出ていた。

 とは言え、まさか槇寿郎が対応してくれるとは思わなかった。

 そんなに面識があるわけではないので、さしもの炭治郎も緊張を隠せなかった。

 何しろ槇寿郎は、現在の鬼殺隊最古参の柱なのだ。

 

(何というか、1人だけ匂いが違うんだよな)

 

 こうして座って体面しているだけで、風格が漂っている。

 炭治郎が見る限り――もとい()()限り――悲鳴嶼を含めた他の8名の柱と槇寿郎の間には、言葉に出来ない差があるような気がした。

 それを歴戦というのか、年季というのか、どう表現すれば良いのかは炭治郎にもわからなかった。

 

「うん……?」

「どうかしたのかね?」

「あ、すみません。何か作ってるんですか? 焦げたような匂いが」

「ああ、まあ、気にしないでくれ」

 

 どうも厨の方から焦げ臭い匂いがしているようなのだが、槇寿郎が余りにも微妙そうな表情を浮かべていたので、炭治郎もそれ以上の追及はしなかった。

 そこでふと、炭治郎は槇寿郎の視線に違和感を覚えた。

 最初は自分のことを見ているのかと思ったが、どうも違うようだ。

 

 何を見ているのだろうと思っていると、槇寿郎が自分の耳飾りを見ていることに気付いた。

 日輪の、花札のような耳飾りだ。

 死んだ父から貰ったもので、父も祖父から受け継いだらしい。いわゆる先祖伝来の品だ。

 

「あの、俺の耳飾りが何か?」

「いや……すまない。不躾に見てしまった」

 

 男の耳飾りが珍しいとか、花札の形が珍しいとか、そういう視線では無かった。

 もっと、そう、まるでこの耳飾りが何か知っているような目だった。

 だからかもしれない。炭治郎は不意にこう聞いてしまった。

 

「あの、ヒノカミ神楽ってご存じですか?」

 

 ぴく、と、槇寿郎の眉が動いた。

 それをどう受け取ったのか、炭治郎はわたわたとした様子で説明を続けた。

 

「えっと、俺の父がやっていた神楽で。父は身体が弱かったんですけど、それでも肺が凍るような雪の中で一晩中踊れて」

「きみは」

 

 今度は、槇寿郎は炭治郎の目を見てた。

 その視線が余りにも真っ直ぐで、炭治郎は自然と居住まいを正していた。

 そんな炭治郎に、槇寿郎は逆に聞いたのだった。

 

「――――日の呼吸、という言葉に聞き覚えはあるかね?」

 

 から、と、耳飾りが音を立てた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 夜になると、花街は活気づく。

 むしろ夜になってからの方が本番なのだから、当然と言えば当然だった。

 吉原の妓楼に灯がともり、昼間よりもなお煌々と街並みを照らし出していた。

 眠らない町というのも、あながち誇張ではない。

 

「あんた、今日はもう良いわよ」

 

 そして客入りの時間になると、禊は決まって瑠衣を追い出す。

 女将などはかなり渋い顔をしていたが、禊が笑顔を向けると決まって押し黙るのだった。

 いったい吉原にいた頃の禊はどんなだったのだろうと、そう思った。

 

 とは言え、追い出される意味はわかっていた。

 だから瑠衣は皆が仕事で出払っている内に部屋に――もちろん、禊と違って個室ではない――戻った瑠衣は、誰もいないことを確かめてから、窓を開けた。

 花街の喧噪と共に、生温い夜風が頬を撫でた。

 

「ムキムキねずみさん、お願いします」

 

 すると、瑠衣の呼びかけに応じてこちらへやって来る影があった。

 やって来たのは、ねずみだった。

 それもただのねずみではなく、瑠衣の日輪刀を担いでいる。

 普通のねずみに出来ることではないが、実際そのねずみはやけに筋肉質だった。

 その名もムキムキねずみ。特別な訓練を受けた音柱・宇髄天元の忍獣だ。

 

「ええと、雛鶴さんと須磨さんからの定期連絡は……」

 

 雛鶴、そして須磨というのは、まきをと同じ宇髄の妻でくのいちだ。

 やはり妻が3人というのは印象が強烈だが、優秀な忍者であることは確かだ。

 毎日こうして、びっしりと情報の書かれた手紙を届けてくれる。

 

「……また1人、足抜け、か」

 

 2日か3日に1度は、誰かが消えたという情報が入る。

 もちろん中には本当に足抜けしていたり、酔っぱらって寝こけていただけというのもある。

 しかし鬼の関与が疑われる以上は、どれ1つとして無視することも出来ない。

 

「よし」

 

 着物を脱ぎ、手早く隊服と羽織に――これもムキムキねずみが持ってきた――着替える。

 そして腰に日輪刀を差すと、そのまま窓を乗り越えた。

 足を滑らせないように慎重に屋根の上に下りる。

 生温かい夜風に乗って、かぐわしい香の匂いが鼻腔を擽った。

 

「今日は南から、と」

 

 花街と同じで、鬼も夜に活動する。

 ならば必ず、何かしらの痕跡があるはずだった。

 人が消えた場所は最も疑うべき場所で、瑠衣は夜な夜なそれらの場所を調査しているのだった。

 今夜の月も、一等明るかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 当然と言えば当然だが、三大妓楼以外にも遊郭はいくつも存在する。

 人が失踪するのは大きな妓楼だけではなく、中小の店でも起きていた。

 

「雛鶴さんの手紙だと、このお店らしいけど」

 

 屋根から屋根へと飛び移りながら、瑠衣がやって来たのは吉原の南側だった。

 大通りからはいくらか外れた区画で、商売をするにはあまり立地が良いとは言えそうになかった。

 見る限り、鬼の気配はしない。

 

「だから! 本当に見たんだって!」

「しっ、馬鹿野郎。客に聞こえるだろ……!」

 

 不意に声がして、身を低くした。

 どうやら店の庭の方で、奉公人が話をしているらしい。

 

「この間の夜、用を足しに厠に行こうとしたんだ。そうしたら屋根がガタガタ音を立ててよ!」

「立て付けでも悪かったんだろ」

「ちげーよ! その音は女の子達の部屋の方まで続いてたんだ。おすみちゃんがいなくなったのも」

「おすみは足抜けしたんだ! いい加減にしねえとぶっ飛ばすぞ!」

 

 この店でいなくなった遊女の話らしかった。

 それ以上は彼らが店の中に戻ってしまって聞き取れなかったが、気になることを言っていた。

 屋根――この場合は天井か。不自然な音を立てていたという。

 鬼だろうか。膝をついて、足元の瓦を撫でた。

 

 天井が音を立てていたということは、その時、天井裏に鬼が潜んでいたということか。

 そこから遊女の部屋に行き、攫う。攫った後は、当然どこかへ連れていくはずだ。

 探せば、他に何かを目撃した人間もいるかもしれない。

 できれば攫われた遊女の部屋も見たいが、流石に難しいだろう。

 

「……!」

 

 一瞬、誰かに見られているような気がした。

 だが瑠衣が日輪刀の柄に手を添えてあたりを見渡しても、誰もいなかった。

 気配も、しない。

 花街の活気、とは違うような気がしたが、本当に一瞬のことだったので自信はなかった。

 

(……嫌な感じがする)

 

 遠巻きに獣に見られているような、そんな感覚だった。

 

(この町は、どこか変だ)

 

 花街という特殊さだけではない。

 何というか、薄い膜でも張り付けられているような、籠を被せられているような。

 夜毎、その空気は強くなっている気さえする。

 

 その膜とも籠とも言えぬ空気の中を、瑠衣はまた駆け始めた。

 屋根から屋根へと飛び移り、鬼が人を攫わぬよう、攫われても対処できるように見張るのだ。

 今はそれしかない。そして、おそらくそれが1番鬼が嫌がることでもあるはずだ。

 寝ずの番。それが瑠衣に与えられた役割だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 遊郭は、つまるところ商売である。

 そして商売をする上で最も重要なものの1つが、情報だ。

 吉原という狭い世界の中で客を取り合う以上、商売敵の動向を知ることは必須事項だった。

 

「荻本屋に入ったっていう新しい娘、綺麗なんだってね」

「でもまだ客を取ってないんでしょ? 芸事が出来ないんじゃない?」

「あの玉鬘に花魁を張らせるし。天下の荻本屋も落ちたわねえ」

 

 吉原三大遊郭のひとつ「京極屋」の一角で、高級遊女達が噂話に興じていた。

 一夜の逢瀬が終わり、早朝に客を見送ってから床に着くまでの僅かな合間のことだ。

 彼女達は自分についている客のあれこれについて話す傍ら、他の遊郭について噂しているのだった。

 

「それに比べて、ときと屋は凄いわね」

「中見世や小見世を併せて大きくなったうちと違って、本物の老舗だものねえ」

「それもあるけど、ほら、鯉夏花魁!」

「綺麗で芸事も達者で、それに気立てが良いからお店の人にも客にも大人気なんだってねえ」

「ときと屋の遊女で鯉夏花魁を慕わない娘はいないって言うじゃない」

 

 不思議なもので、妓楼という閉鎖的な世界にいながらにして遊女達の耳は達者だ。

 客や、あるいは昼見世の時に覗きに来る占い屋などを通じて噂に通じているのだ。

 あるいは、だからこそ高級遊女になれているとも言える。

 どこの世界でもそうだが、耳のない者は何かで出遅れるものだ。

 

「羨ましいわよねえ、本当。それに引きかえ、うちの」

「――――あら」

 

 その瞬間、さあ、とそれまで遊女達の話し声で華やいでいた空気が、一瞬で凍てついたような気がした。

 それは遊女達の顔色を見れば明らかで、健康的な朱色の頬が瞬時に白くなり、次いで青褪めた。

 原因は、通路の陰から声をかけてきた遊女にあった。

 日が差さない位置に立っているものだから、闇の中から声がしたかのように錯覚しそうだ。

 

 美しい――本当に美しい遊女だった。

 着物や簪も上等なものだが、それさえも彼女の美貌の前にはただの布切れであり、棒切れであった。

 日に当たれば透き通りそうな白い肌に、形の良い眉、切れ長の目、不思議な光を湛えた瞳。

 その瞳に上から冷然と見下ろされると、芯まで凍り付きそうな気分になってくる。

 

「わ、蕨姫花魁……」

 

 京極屋の花魁「蕨姫」。

 その名を呼ばれると、彼女は微笑んだ。

 

「いったい、何のお話?」

「い、いえ……その、別に、大した話じゃ」

「おや、そうかい。気になる名前が聞こえてきたものだから。邪魔したね」

「じ、邪魔だなんて。はは……」

 

 笑顔を浮かべようして失敗したような顔で笑う遊女に、蕨姫はあっさりとそう言って背を向けた。

 そのまま奥に消えようとする蕨姫を、高級遊女達がほっとした顔で見送った。

 

「ああ! そうそう」

 

 が、不意に蕨姫が声を立てて、高級遊女達が一様に肩を竦ませた。

 蕨姫は顎を立てて、頚だけで後ろを振り向きながら。

 

「1つだけ教えて頂戴。気になって気になって、眠れそうにないの」

「な、何でしょう?」

「簡単なことさ、さっきの続きを聞かせて頂戴よ」

「さ、さっき?」

()()()()()()()

 

 ひっ、と息を呑んだのは誰だっただろうか。

 蕨姫は瞬き一つもせずに、じっと遊女達を見つめていた。

 どういうわけか、全員が同時に目を合わされているような気を覚えていた。

 

「――――何だい?」

「え、いや」

「それに引きかえ、何だい?」

「あ、う」

「うちの、何だい?」

「わ、わらび」

()()()

 

 あ、あ、と、遊女の唇から漏れるのは、意味の無い音だけだった。

 誰も、何も話せなくなっていた。それどころか今にも窒息しそうな顔をしている。

 

()()

 

 日が傾いて、影が伸びていく。

 それはまるで、獲物を絡め取ろうとする蛇の舌先のようにも見えた。




最後までお読み頂き有難うございます。

妹が遊郭にいるとか気が気じゃないよね(妹の呼吸・壱ノ型『過保護』)

それでは、また次回。


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第24話:「遊郭の夜」

 ――――床に臥せていなければならない日が、少しずつ増えて来た。

 すでに目が見えなくなって久しいが、産屋敷は己の身体の衰えをひしひしと感じていた。

 例え医術に疎くとも、自分の身体のことである。

 ()()()()については、不思議と医者よりも良くわかるのだった。

 

「この膠着を、何とかこちらから破りたい」

 

 枕元から3歩の位置に膝をついて、宇髄は産屋敷の言葉を聞いた。

 掠れた呼吸音と共に聞こえてくる声は弱々しいが、聞く者の胸に染み込んで来るような、独特な響きは健在だった。

 最も元忍で音柱である宇髄の場合、他の者と違って声や音で受ける影響はほとんど無いのだが。

 

「今月に入って鬼による被害の報告をすでに7件受けている。これまでにない頻度だ。それでも私達は数多くの犠牲を払いながらも、ほとんどすべてに対応してきたと思う」

 

 鬼殺隊は鬼による被害を防ぎ切ることは出来ない。彼らはいわば防御側、受け手だからだ。

 逆に言えば被害が拡大する前、つまり初動で潰してきたということだ。

 鬼の側に立てば、鬼殺隊の存在はさぞや目障りだろう。

 だから産屋敷は現在の状況をあえて「膠着」と呼んだのだ。

 

「だが並の鬼を倒すだけでは、鬼の――鬼舞辻無惨の足元を揺らがせることは出来ない」

 

 膠着させるだけでは、事態は良くなることはない。

 鬼殺隊の目的が鬼の殲滅である以上、守るばかりでなく攻めることも必要だった。

 

「『遊郭の鬼』は、私達が辛うじて足取りを追えるほとんど唯一の上弦の鬼だ」

 

 (あまね)に支えられながら上半身を起こして、産屋敷は宇髄を見つめた。

 超人的な身体能力を持つ呼吸の剣士を束ねる男とは思えない。

 しかし産屋敷は、自分の病状を隠そうとしたことはなかった。

 鬼殺隊の当主・産屋敷が重い病であることは、鬼殺隊で知らぬ者のいない事実だ。

 

 ただそれは歴代の産屋敷家の当主全員がそうだった。産屋敷の男は酷く短命だ。

 それでもなお、鬼殺隊の長い歴史の中で当主を裏切った者はほとんどいない。

 ()()()()()を除いて、鬼殺の剣士が産屋敷一族に反旗を翻したことはない。

 そしてその数例も、一般の隊士は知らない。

 

「頼めるかな、天元」

「……御意」

 

 自分は結局、忍なのかもしれないと宇髄は思う。

 

「そろそろ吉原に戻ります。地味に調査も煮詰まって動きがある頃です」

「奥方達によろしく伝えてくれるかな」

「もったいないお言葉です。妻達も喜びます」

 

 忍の世界を飛び出してなお、こうして誰かに仕えている。

 ただ違う点があるとすれば、宇髄は忍として産屋敷一族に仕えているのではなく、音柱・宇髄天元として鬼殺隊に尽くしている、という点だった。

 こんな生き方は悪くないと、宇髄は思っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣達の定時連絡は、朝食時に禊の部屋でというのが暗黙の了解だった。

 これは禊が自分から動くのが面倒と宣ったこともあるが、花魁である禊が毎日いても不自然のない場所が自室しかなかったためだ。

 瑠衣は禊の世話という名目で、まきをは屋根裏から密かに来ることが出来る。

 

「雛鶴と連絡が取れなくなった」

 

 普段は禊が客から聞いた噂話をしたり、まきをが雛鶴や須磨と交換した情報を報告したり、瑠衣が夜の見回りについたり話したりするのだが、その日は様子が違った。

 宇髄の命で花街に潜入したくのいちの1人、雛鶴からの連絡の途絶。

 そういう場合は、普通は雛鶴の身を案じるところだが……。

 

「おかしいわね」

 

 行儀悪く箸先を揺らしながら、禊が言った。

 

「聞いた話じゃ、雛鶴()()は昨日も一昨日も客を迎えに出てるみたいだけど」

 

 花魁道中、と呼ばれるものがある。

 これは花魁が馴染みの客を迎えに行く行列(パレード)のことだが、つまり花魁としての活動を大っぴらに人に見られているということだ。

 もちろんそれは花魁の威厳を保つための活動なのだが、この場合は雛鶴の無事を知らせるものでもあった。

 

「身体的には無事なのに、連絡が出来ない。そういうことですか?」

「雛鶴はあたし達の中で一番腕が立つんだ。その雛鶴が何も出来ないってことは……」

()()()を引いた、ということでしょうか」

 

 当初、宇髄はこの「荻本屋」が怪しいと踏んでいたようだ。

 理由は、荻本屋の凋落ぶりにある。

 荻本屋は三大妓楼の1つに数えられる程の大見世だったが、ここ数年――禊が鬼殺隊に()()してから――有力な遊女が次々にいなくなり、客足が遠のいていた。

 

 鬼がいる可能性が高く、今はいなくとも()()だったことは間違いないと見た。

 だからまきをに加えて、禊と瑠衣の2人も送り込んで陣容を厚くしたのだ。

 しかし今のところ、荻本屋から鬼の足取りを追えるような情報が出て来ない。

 そして雛鶴が当たりを引いたというのなら、瑠衣達は外れを引いたということなのかもしれない。

 

「遊女ってさ、不自由なものよ」

 

 いきなり、禊がそう言った。

 

「湯屋くらいにしか出かけられないし、店の中だって好きに歩けるわけじゃない」

「それは、まあ」

「奉公人だってそれは同じよ。それに足抜けなんて続けば女将や楼主(店主)だって立場を失うでしょうね」

「……何が言いたいんだい?」

「わからないの? 頭が悪いのねえ」

 

 まきをが顔を引き攣らせるのを楽し気に見つめて、禊は立ち上がった。

 香の匂いか、所作と共にふわりと華やかな香りが舞った。

 見に行ってやりますか、と禊は言った。どこへと問えば、彼女はこう答えた。

 

「決まってるじゃない、()()()を見に行くのよ」

 

 ――――鬼の顔を?

 

  ◆  ◆  ◆

 

 とても、華やかな行列だった。

 陽が落ちても煌々と照らされる花街の通りで、それは余りにも煌めていて見えた。

 豪奢な着物と簪で飾り立てられた花魁()が、赤い禿と奉公衆を従えて大通りを歩いている。

 歩くのも苦労しそうな高下駄で、外側に大きく足を踏み出す独特な歩き方をしていた。

 正直、良く転ばずに歩けるものだと感心した。

 

「どういうつもりなんだい、あいつ」

「さあ……」

「さあって、共同任務やってる仲じゃないの?」

「いえ、禊さんは掴みどころがないというか、掴むところがないというか」

 

 まきをと瑠衣は、近くの建物の屋根の上からそれを見ていた。

 こちらの言葉が聞こえたわけでもないだろうが、禊がこちらを見やった気がして、瑠衣は口を噤んだ。

 しかし正直なところ、瑠衣にも禊の意図は読めなかった。

 

 鬼の顔を見に行く、と禊は言っていた。

 禊には「遊郭の鬼」の正体がわかった、ということなのだろうか。

 瑠衣には見えていない何かが、禊には見えたということなのか。

 仮にそうだとしても、この花魁道中にどんな意味があるのだろうか。

 

「うん?」

「まきをさん?」

「いや、何だ……いや、間違いない。()()()()()

 

 禊の花魁道中が半ばに差し掛かったところで、まきをの様子がおかしくなった。

 いや、まきをだけではない。

 見れば禊についている禿や奉公人も、何かに戸惑っているようだった。

 それを禊が無理やりに抑えて、花魁道中を続行させていた。

 

「道が違う」

 

 繰り返すが、花魁道中は「花魁が客を迎えに行く」ためのものだ。

 そして客が花魁を待つ場所は決まっている。()()()()だ。

 だから。

 

「――――え?」

 

 だから()()は、本来ならあり得ないこと。

 禊達の歩く先から、別の音が聞こえて来た。

 荻本屋とは違う音曲、花弁、そして色。

 ()()()()

 

 先頭に立っている遊女の、何と妖艶で美しいことか。

 禊も美しいが、こちらの美貌はどこか見る者に緊張を強いる美しさだった。

 目の前に立たれると背筋を伸ばしてしまいそうな、そんな印象だ。

 あの花魁は、誰だろう。

 

「すまないね、蕨姫」

 

 気まずそうに俯く荻本屋の面々をよそに、ただひとり顔を上げて、禊は言った。

 

「ちょいと道に迷ってしまってね」

 

 相手の花魁――蕨姫は、小さく首を傾けて禊を見つめていた。

 簪の飾りが音を立てて、それが不思議な程に周囲に響いた。

 

「いいさ」

 

 しばらくして、小さいが、やはり不思議と良く通る声が聞こえて来た。

 

「誰だって道に迷うことくらいあるだろうさ。ねえ、玉鬘」

 

 他に音を立てる者は、誰もいなかった。

 共に随一の美貌を誇る2人の花魁が笑顔で話しているというのに、和やかな空気は微塵もなかった。

 そして、瑠衣とまきをは確信した。

 ()()()()()()、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「どういうつもりだ、荻本屋のやつら!」

 

 京極屋の楼主が、苛立ったように声を荒げた。

 いや、苛立つというよりは、はっきりと怒っていた。

 それはそうだろう、自分の店の花魁が他所の見世に道中を邪魔されたのだ。

 普通ならあり得ないことだ。こんな無礼はない。

 

 だから楼主が怒るのも当然で、普通なら正式に抗議をして、相手の楼主に詫びを入れさせるところだった。

 しかしこの楼主は、この後に何日経っても相手――荻本屋に抗議をすることはなかった。

 そして声を荒げていた楼主も、ある人物が視界に入ると声を落とした。

 

「わ、蕨姫花魁。今日は災難だったな……」

 

 京極屋の花魁、蕨姫。

 花街でも一、二を争う花魁だが、その美貌からは表情が消えていた。

 顔立ちが整っている方が、真顔になった時に凄みが増して見える。

 少なくとも楼主が蕨姫を見る目は、美しい女を見る時のそれとはまるで違うものだった。

 

「――――災難?」

 

 花魁と言えど遊女に過ぎないはずの蕨姫が、楼主の部屋に顔を出している。

 それ自体がすでにおかしなことだが、楼主はそのことを咎めようとはしなかった。

 いや、はたして咎めるという発想がそもそもあったのかどうか。

 

「災難。ねえ、旦那さん。花魁が道を間違えるなんてあると思う?」

「い、いや、あり得ない。揚屋までの道を間違えるなんて」

「そうよねえ。あり得ないわよねえ。でもあの子は確かに言ったわ、道を間違えて悪かったって。ねえ、ねえ旦那さん。これってどういうことかわかる?」

「ど、ど……っ」

 

 空気が痛い。表情で、いや全身で楼主はそう訴えていた。

 しかし、蕨姫がそれに意を介する様子はなかった。

 ミシミシと音を立てているのは、何だ。

 ドンドンと屋根を打っているのは、何だ。

 

「舐めてるのよ、うちを、このアタシを」

 

 ああ、でも……と、蕨姫が何かを思い付いたように顎を上げた。

 すると、それまで響いていた音が消えて、空気も弛緩した。

 呼吸をすることを思い出した楼主が、胸を撫でていた。

 

「ああ、でも、あの子……綺麗だった。美しかった! そうね、美しい者は何をしても許されるものね……ククッ、フフフッ」

 

 荻本屋のやつらめ、と、楼主は胸中で再び悪態を吐いた。

 しかし今度のそれは、怒りではなかった。

 それは「余計なことをしやがって」という、どこか悲壮ささえ感じさえるような、そんな感情だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 荻本屋に戻ると、流石に楼主が禊に苦言を呈してきた。

 店の評判にも関わることだから、無理もないことだった。

 

「ごめんよ、旦那さん」

 

 意外なことに、禊は素直にそう謝罪した。

 それまで禊に耳元で何か囁かれるや顔を青くする楼主の姿しか見ていなかったし、禊が謝罪をするということ自体が稀有なことだった。

 そして何よりも、禊は酷く機嫌が良さそうだった。

 

「あ、ああ……気を付けてくれよ」

「ちょっとアンタ! またそうやって……!」

 

 楼主と女将のやり取りを他所に、禊は2階へと向かった。

 これから迎えに出た客との逢瀬の時間だ。客を余り待たせるわけにもいかない。

 まきをも自分の客を迎えに出ている。

 瑠衣はいつものように、隊服に着替えて夜の見回りをするつもりだった――のだが。

 

「ああ、あんた。ちょっと待ちなさいよ」

 

 不意に、禊が瑠衣を呼び止めた。

 何だろうと思って振り向くと、禊は事もなげに言った。

 

「あんた、今日はこっちに残って」

「え?」

「え?、じゃないわよ。今日はあんたも客を取るの」

 

 客を取る。その一言で、瑠衣は自分が一気に緊張したのがわかった。

 いや、瑠衣も遊郭(ここ)がどういう場所なのかは頭では理解していた。

 そして禊やまきをを始めとする遊女達が客と何をしているのかも、わかってはいた。

 わかってはいたが、それだけだった。

 

 しかしいざその時が来ると、身体が固まってしまった。

 そんな瑠衣の様子をどう思ったのか、禊がクスリと笑った。

 わっ、と腕を引かれて、気が付くと壁際に追い詰められていた。

 本当に、相手の隙を突いてくるのが得意な娘だと思った。

 

「簡単よ、男を取るなんて」

 

 唇が触れ合いそうな位置に、禊の顔があった。

 白粉(おしろい)に包まれた幼げな顔は、この世のものではないかのようだった。

 細い手指が鎖骨から首筋を通り、頬に触れて来る。肌がチリチリと痺れたように感じた。

 薬や毒を塗っているわけでもあるまいに、不思議な感覚だった。

 

「ここは遊郭、男共が一夜の夢を見る場所。夢を見せてやるのがわたし達の仕事」

 

 ごくりと、生唾を呑み込んでしまうのは何故だろうか。

 同性だというのに、妙な気を起こしてしまいそうだった。

 

「男を酔わせなさいな。あなたに。でもあなたが男に酔っちゃあ、いけないよ」

 

 男を酔わせろ。しかし、男に酔ってはいけない。

 そう言って嗤う禊の顔は、どこか作り物めいていて、言っていることのどこまでが本心なのかもわからない。

 本当に、掴みどころがあるのかないのか、わからなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 と、言ったところで。

 瑠衣の置かれた状況は何も変わることはないわけで。

 

「…………」

 

 白粉を塗りたくる――瑠衣の基準からすれば、まさに塗りたくるという表現が正しい――と、気のせいでなければ顔の重さが倍になった気がする。

 何しろ簪の量も半端ではない。近くに寄ると刺さりそうな程だ。

 ついでに言えば、着物だって隊服の3倍は重い。

 

 少々の食事とお酒まで用意されていて、手元には三味線とお琴だ。

 個室まで与えられているのは、客の要望か、あるいは禊の口添えがあったのかもしれない。

 そう、客だ。それが問題だった。

 瑠衣は客を取ったこともなく、遊女を指名するような常連客に知り合いもいない。

 だというのに、いったい誰が瑠衣を指名してくるというのだろう。

 

(ど……どうしよう……)

 

 言っては難だが、瑠衣は遊女としての教育を受けていない。

 この荻本屋に来てからは、下働きというか、玉鬘花魁の世話係的な立ち位置だったからだ。

 もちろん、これでも煉獄家の女子である。三味線やお琴の1つ2つは弾けるように教育されている。

 しかし殿方の相手となると、それはもう別次元の話ではないだろうか。

 

「お客様、お入りです~」

(き……来た!)

 

 どんな男だろうか、見当もつかない。

 余りにも不慣れな事態に、思考が高速回転(ぐるぐる)していることを感じる。

 落ち着け。ここは落ち着いて対処するべきだ。

 まずは相手と間合いを取り――いや、これは剣術ではないので間合いとかの話ではない。

 

(母様、瑠衣はいったいどうすれば……!?)

『瑠衣、落ち着くのです』

(母様……!)

『いざとなれば、こうです。こう(しゅっしゅっ)』

(母様!?)

 

 心の母が拳を振り始めたあたりで、瑠衣の混乱は頂点に達していた。

 そして、部屋の襖が開いたのもその時だった。

 反射的に膝を立てて、両の拳を握り締めた瑠衣の視界に飛び込んで来たのは。

 

「おお、よもやよもやだ! しこたま金を取られて連れて来られてみれば……」

 

 ――――うん?

 見間違えようもないその姿に、瑠衣は思い切り顔を顰めて見せた。

 しかし白粉に包まれた顔は、それを見事に隠してしまったらしい。

 相手は瑠衣の顔を見るなり、ふんふんと感心したように頷いて。

 

「息災か、瑠衣! 今日はやけに艶やかだな!」

「に……兄様!?」

 

 快活に笑いながらそこにいたのは、杏寿郎だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 千寿郎は困惑していた。

 何故ならば鬼殺の任務から帰って来た折、煉獄邸で父と兄が何かを話しているのを聞いてしまい、何やら姉が遊郭に売り飛ばされた――だいぶ語弊があるが――というではないか。

 まさに青天の霹靂。驚天動地とはまさにこのことである。

 

 そして父に対して「見損ないました!」と言葉を浴びせて家を飛び出して見れば、何のことはなく、鬼殺の任務の一環だという。

 考えてみればわかりそうなもので、千寿郎は顔から火が出る思いをしてしまった。

 兄が一緒に父に謝ってくれると言ってくれたが、正直に言ってどんな顔で父の前に出れば良いのかわからなかった。

 

(あ、兄上……)

 

 まあ、それはそうとせっかくだから瑠衣の様子くらい見て行こうじゃないかということになり、鎹鴉の長治郎の案内で瑠衣のいる「荻本屋」を探し出したは良いが、そこではたと思い付いた。

 瑠衣は遊女として潜入しているため、気軽に呼び出すことが出来ない。

 会うためには客として店に入るしかないのだが、杏寿郎も千寿郎も作法を知らない。

 たまたま杏寿郎を知っている隠がいてくれたので、何とか店には入れたのだが。

 

「フフ、どうなさったの? お箸が止まっていますわ、遠慮なさらないで?」

「い、いやあ、あのお」

 

 自分がここまで情けない声を出せるのだということを、千寿郎は初めて知った。

 できれば一生知りたくなかった情報である。

 

(というか、そもそもここって僕がいて良い場所じゃないんじゃ。色々な意味で)

 

 千寿郎の前には、慎ましやかだが豪勢な食膳が出されていた。

 刺身や焼き魚、煮物や鍋物に酢の物。

 いわゆる台の物と呼ばれる料理の数々だが、料理よりむしろ飾りの方が精巧に出来ていて、手をつけて良いものかどうかもわかりかねた。

 

「あ……!」

 

 緊張の余りか、食器がガチャリと音を立てて、鍋物の散蓮華(スプーン)を落としてしまった。

 

「ご、ごめんなさい!」

 

 すぐに謝って膝を上げかけた千寿郎だが、その前に白い細指が懐紙で包んで下げてしまっていた。

 折り鶴柄の着物を辿って行くと、白粉に包まれた鎖骨が目に入り、どぎまぎとしてしまう。

 そこを避けて視線を上げれば、淡水色の瞳と目が合った。

 どこか勝気そうな釣り目が柔和に細められると、千寿郎の顔面が朱色に染まった。

 

(あ、姉上、姉上~~~~っ!!)

 

 人生最大の危機に、しかし兄も姉も現れてはくれない。

 

(というかこの人、鬼殺隊士だよね!? どうしてこんなことに!?)

 

 そんな風に泡を食っている千寿郎に、玉鬘花魁――禊は、微笑を浮かべて見せた。

 

「アナタ様、宜しければお琴でも弾きましょうか」

 

 と、言う禊に、千寿郎は頷くことしか出来なかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 誰かに呼ばれたような気がした。

 が、すぐにそんなわけはないかと思い直した。

 それよりも、瑠衣には対処しなければならないことがるのだった。

 

「瑠衣! ところで遊女とは何をする仕事だ!」

 

 遊女として、杏寿郎の相手をすることだ。

 瑠衣は煉獄家の娘として、そして妹として、杏寿郎に半端な仕事ぶりを見せるわけにはいかなかった。

 と、いうわけで。

 

「兄様! お食事です!」

「うむ! 美味い! しかし量が少ないな!」

 

 荻本屋の仕出し料理を出した。

 見た目重視で料理の量自体は少ないので、杏寿郎には足りなかっただろう。

 

「兄様! 余興です!」

「うむ! 見事な三味線演奏だな! しかし曲がわからん!」

 

 基本的に遊郭に来る客は遊女の音曲にも詳しい。

 しかし杏寿郎は初めて聴いたためか、上手く音を楽しめなかったらしい。

 

「兄様! お布団です!」

「うむ! 何だもう寝るのか!」

 

 そうこうしている内に夜も更けて、丑三つ時だ。

 気が付けば荻本屋全体が静かになっており、他の部屋も()()しているだろう。

 行燈を残して灯りを消しても、杏寿郎の髪色ははっきりと見て取れた。

 

「ところで瑠衣、布団が1組しかないが!」

「へ?」

 

 そこで、瑠衣ははたと思い出した。

 この部屋には布団は一組しかない。当然と言えば、まあ、当然だ。

 ()()()()部屋だからだ。

 

(あれ? もしかして、もしかしなくともこれは不味いのでは?)

 

 急にそういうことに思い至って、瑠衣はかっと顔面を紅潮させた。

 衣掛にかけられた兄の衣服が妙に意味深に見えて、何となく肘に手をやった。

 そして、薄い寝間着(襦袢)の下が素肌であることを再認識してしまった。

 いやいやいや、と、瑠衣は胸中で首を振った。

 

 場に当てられて妙な考えに及んでしまった。

 自分達は兄妹である。そんなことになるわけもなかった。

 というより、杏寿郎のことだから布団は自分に譲ろうとするかもしれない。

 いやむしろそちらの可能性の方が高いだろうと、瑠衣は思った。

 さてそうなったらどうするかと、瑠衣が考えていると。

 

「瑠衣」

「はい、兄様」

 

 来たなと思い、用意していた答えを返そうとした時だ。

 

「おいで」

 

 ぽんぽん、と、布団を叩いて杏寿郎がそう言った。

 瑠衣がその言葉の意味を理解するには数秒を要した。

 そして意味を理解した時、瑠衣の思考は再び停止した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ほんの僅か、指一本分の距離に温もりを感じる。

 それがこれ程の緊張を強いるものだとは思わなかった。

 

「…………」

 

 仰向けで直立した体勢のまま、瑠衣は首だけを動かして隣を見た。

 薄暗さの中、闇に慣れた目は杏寿郎の横顔を見つめる。

 目を閉じているが、いわゆる寝息は聞こえない。常中のためだ。

 なので、寝ているかどうか判断が難しかった。

 と、杏寿郎がパチリと目を開けた。

 

「どうかしたか、瑠衣?」

 

 視線に気付かれたことが気恥ずかしくて、瑠衣は「いえ、何も」ともごもごと答えた。

 就寝時のためか杏寿郎が声量を抑えていることも、気恥ずかしさに拍車をかけた。

 それでいて声が近いという事実が、杏寿郎と布団を共有しているのだという認識を与えて来る。

 

 そのせいか、自分が緊張しているということが良くわかった。

 背中にじっとりとした汗をかき、心臓の音が大きく聞こえる。

 下手をすれば常中が乱れるのではないかと思える程で、瑠衣は身じろぎ一つ出来ないでいた。

 

「……うむ」

 

 そんな瑠衣を見てどう思ったのか、杏寿郎が体勢を横向きに変えた。

 隣で兄の温もりが動くのを感じて、瑠衣は肩を上げてしまった。

 そしてその緊張は、杏寿郎の手が自分の胸元に置かれた時点で頂点に達した。

 

(ひゃああああああああああぁぁぁ……あ?)

 

 ぽん、ぽん。

 胸元に置かれた杏寿郎の手が、規則正しいリズムを刻んでいた。

 心臓の鼓動に合わせるような、そんな音が布団越しに体内に響く。

 しばらくじっとしていたが、それはずっと続いた。

 杏寿郎の顔を見ると、優しい顔をしていた。それで瑠衣は兄の意図を理解した。

 

「……あの、兄様」

「うむ?」

「その、流石にこれは、子ども扱いし過ぎじゃないでしょうか……?」

 

 これでは何というか、あやされているようだ。

 それは、幼い頃はこうして寝かしつけられたこともあったかもしれない。

 しかしこの年になってこれは、流石に憮然としてしまう。

 そう言って唇を尖らせる妹に、枕に頬杖をついた杏寿郎は笑った。

 

「すまんな。ただ、懐かしくなってしまってな」

「それは、まあ、わかるような気もしますけど……」

 

 懐かしいと言って優し気に見つめられてしまうと、瑠衣はもう何も言えなくなってしまった。

 確かに、懐かしい。

 幼い頃は、特に千寿郎が生まれる前は、これが普通だったような気がする。

 千寿郎が生まれてからは「姉」の部分が出てきたし、母が亡くなってからはそんな余裕もなかった。

 

「懐かしいな」

「そう、ですね」

「さあ、もう寝よう。夜も遅い」

「いや、でも。いえ、はい」

「……懐かしいな」

「もう、今日の兄様はそればかり」

「そうかな」

「そう、ですよ……」

「ああ、そうだな。お前は……」

「…………」

 

 ぽんぽんと、心地よい音に身を委ねて。

 

「……お前は、俺の妹だ」

 

 ふふ、と、半分眠りながら、瑠衣は笑った。

 幸せな心地で、温もりに身を寄せる。

 温もりがこちらを抱き寄せてくれるのを感じながら、瑠衣は眠りに落ちていった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――翌朝、瑠衣は騒ぎの中で目を覚ました。

 荻本屋全体が、蜂の巣をつついたような、そんな騒ぎの中でだ。

 瑠衣が荻本屋に来てから、いや妓楼としてあり得ないことだった。

 遊郭の朝は、一夜の夢を見た男を静かに見送る時間だからだ。

 

「何でしょう……?」

「いや、わからん! 陽が昇るにつれて騒ぎが大きくなっていたような感じだ」

「兄様はここにいて下さい。私なら荻本屋の人達に話を聞くことも出来ますから」

「わかった! しかし何があるかわからん。気を付けろ!」

 

 身支度もそこそこに、瑠衣は部屋の外に出た。

 中には瑠衣と同じように不思議そうな顔をしている遊女もいたが、奥の方からは剣呑な空気が流れていた。

 足早にそちらへと向かうと、途中でまきをに出会った。

 

「まきをさん、何かあったんですか?」

 

 まきをは深刻な顔をしていて、何と説明すれば良いか迷っている様子だった。

 これは、ただ事ではない。そう直感した。

 

「……いなくなったんだ」

「え?」

「あの子が、いなくなった。昨日の夜に」

 

 あの子。

 この荻本屋でまきをがそう呼ぶ相手は、2人しかいない。

 1人は瑠衣だ。そしてもう1人は。

 

「それで……」

 

 と、まきをがさらに説明を重ねようとした時、奥の部屋から金切り声が聞こえて来た。

 それは荻本屋の女将の声だった。

 様子を見に行くと、何やら誰かと言い争っている様子だった。

 

「こいつよ! こいつがうちの花魁をどこかに攫ったのよ!」

 

 花魁。攫った。

 不吉な単語が聞こえて、瑠衣は女将の声がする部屋に駆け込んだ。

 そこは、そう、()()()――禊の、部屋だった。

 

 部屋は、特に荒らされた様子はなかった。

 ただ確かにそこにいるはずの禊の姿はなく、部屋にいたのは女将と、そして女将が襟元を掴んでいる()()だけだった。

 そしてその犯人の姿に、瑠衣は目を見開いた。

 

「あ、姉上……」

「せ、千寿郎!?」

 

 消えた禊。誘拐犯は千寿郎。

 事態は風雲急を告げる様相を呈し、瑠衣は己がいよいよ渦中に飛び込んだことを強く意識したのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

コロナ自粛に伴い妹に会えない余り、展開が意味不明になりました(え)
かっとなってやりました。今は反省しています(ええ…)。

それでは、また次回。


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第25話:「上弦の陸」

 この状況を、いかにして凌ぐべきか。

 荻本屋の一室で、瑠衣が考えているのはそれだった。

 女将は千寿郎が玉鬘花魁――禊を誘拐したと主張している。

 

 もちろん、そんなことはあり得ない。

 ただそれを、鬼殺隊とは無関係の人間に説明することは出来なかった。

 禊のおかげで鬼の正体は見えて来た。後は宇髄との合流を待って、と思っていた。

 しかしその前に、千寿郎の無実を証明しなければならない。

 

(最悪の場合は……)

 

 最悪の場合は、手がないわけではない。

 鬼殺隊は政府非公認の組織だが、それは「存在すら知らない」という意味ではない。

 そして鬼殺隊の長たる産屋敷一族は政財界にも影響力を持っており、鬼の事件によって官憲に逮捕された隊士を救うことも出来る。

 しかしそれはあくまで最後の手段であって、避けられるなら避けるべきだった。

 

「あんたも何をしてるんだい! 早く警察を呼んでったら!」

 

 女将の声が飛んだ先、部屋の入口に楼主が立っていた。

 警察という単語に、不味いと思った。

 しかし楼主は女将のように取り乱した様子はなく、それが逆に様子がおかしかった。

 楼主は静かに部屋に入って来ると、まず千寿郎を掴む女将の手を引き剥がした。

 

「あ、あんた?」

 

 何のつもりだと、女将が怪訝そうな顔を浮かべた。

 そんな女将に、楼主は言った。

 

「……玉鬘花魁は、休みだ」

「は?」

「玉鬘は体調が悪いんで、休みをとった。客にはそう伝えて、俺から詫びを入れる」

「は、はあ? ちょ……はあっ!?」

 

 頭がおかしくなったんじゃないかと言わんばかりの顔で楼主を見つめる女将だったが、楼主が言を翻すことはついに無かった。

 しかし瑠衣と千寿郎にとっても、楼主の言動は不可解だった。

 前々から禊に対して他とは違う対応を見せていた楼主だが、今回は禊自身が消えたという話であって、流石に違和感を覚えざるを得なかった。

 

「おい」

 

 と、楼主は何故か瑠衣に声をかけて来た。

 楼主は今日まで瑠衣に対して何かを言ったことはない。

 それが今日に限って何だろうと思っていると。

 

「お前はクビだ」

「え」

 

 解雇を宣告されてしまった。

 そして女将に対してそうだったように、やはり瑠衣に対しても楼主は二の句を継がせなかった。

 話はそれでお終いだと言うように背を向けると、楼主は禊の部屋から本当に出て行ってしまった。

 女将は千寿郎と瑠衣を憎々し気に睨みつけると、金切り声を上げて楼主を追いかけて行った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 けして望んで妓楼に入ったわけではないが、解雇を宣告されると考えるものがある。

 そんな感情を読まれたのか、合流した宇髄は瑠衣の顔を見るなり噴き出していた。

 

「何だお前、地味な顔してんなー」

 

 言葉の意味はわからないが、からかわれていることはわかった。

 

「うむ! 確かに瑠衣は派手な顔というわけではないな!」

 

 隣にいた杏寿郎が、何故か会話に乗って来た。

 派手という言葉の意味は図りかねるが、たぶん褒められてはいないだろう。

 杏寿郎に言われると、流石に少しは気にしてしまう。

 

「どちらかと言えば楚々としていて、人に安心感を与えてくれる。俺はその方が好ましく思うぞ!」

「そ、そうですか」

「それに昨夜の姿も良かったが、今の方が目元がよく見える。明眸(めいぼう)皓歯(こうし)とはこのことだろうな!」

「……いや、それは言い過ぎでは……」

 

 いくらなんでも、歴史上の美女と比べられると気恥ずかしい。

 というか、身内が他人の前で自分を褒める――しかも外見――というのは物凄く恥ずかしい。

 宇髄の目が「え、こいつ妹のこと好きすぎない? 気持ち悪い奴だな」と言っているように感じる。

 もちろん瑠衣の被害妄想だが、正直やめてほしいと思った。

 

「さて、嫁達の報告とお前の話で、鬼の居所は大体つかめた。だが……」

 

 『遊郭の鬼』の正体は、京極屋の蕨姫花魁で間違いない。

 後は仕掛けるタイミングだけだ。

 本来なら昼間に仕掛けるべきなのかもしれないが、京極屋は吉原でも一、二を争う大見世で、人が多すぎる。

 そして睡眠の必要がない鬼が、わざわざ部屋で夜まで過ごすとも思えない。

 

 昼間は、どこか別の場所に潜んでいる可能性が高い。

 むしろ狙うなら夜の方が確実だ。花魁としての仕事をしなければならないからだ。

 当然、夜は鬼の本領が如何なく発揮される。しかし小細工もしてこないだろう。

 上弦の鬼であれば、なおさらだ。

 

「問題は京極屋のいるはずの鬼が、どうやって荻本屋にいた隊士を攫ったのか、だ」

「……僕のせいです」

 

 そこで、それまで黙っていた千寿郎が口を開いた。

 膝の上で拳を握り込み、唇を噛んでいた。

 

「僕が、気付いていれば……!」

「地味隊士が何を言ってやがんだ。上弦かもしれない鬼相手に、お前みたいなちんちくりんが気付いたところで何も出来やしねえよ」

「でも」

「でもも何もねえ。というか任務も受けてねえ新人がいつまでもいるんじゃねえ。とっとと帰れ」

「そんな!」

 

 嗚呼、と、瑠衣は胸中で安堵した。

 鬼殺隊士として、煉獄家の娘として、あるいは姉としてあるまじきことだが、瑠衣は宇髄に感謝したのだった。

 上弦の鬼が相手かもしれない。そんな場所から、千寿郎を遠ざけることが出来る。

 そう、思ってしまったからだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 撤収。宇髄から届いた指示は明快だった。

 その指示が届いた時にまきをがまず思ったのは、雛鶴は難しいかもしれない、ということだった。

 自分と須磨は外れを引いたからで、当たりを引いた雛鶴は危機にある可能性が高い。

 しかし宇髄が雛鶴の苦境に気が付いていないわけがない、とも思った。

 

「それと、あの子のことだね」

 

 まきをは、禊の部屋に忍び込んでいた。

 部屋の主である禊がおらず、楼主の指示で誰も入らないように言われている。

 まきをとしてはすぐに撤収するつもりだったのだが、禊の消え方が余りにも納得できなかったので、こうして最後に調べにきたのだった。

 

 実際、不自然なのだ。

 部屋はほぼ今朝の状態のままになっているのだが、例えば窓は閉まっていた。

 もちろん千寿郎が寝た後、禊が1人で外に出た可能性もある。

 ただ、禊は客を放って行くことだけはしない。付き合いは短いが、まきをはそう思った。

 つまり、やはり禊が消えたのはこの部屋の中なのだ。

 

「あの子も鬼殺隊士だからね。あの性格だし。普通の遊女と違って、大人しく攫われるとも思えないんだけど」

 

 だが、争った跡はない。

 部屋は本当に綺麗なもので、人攫いの現場とはとても思えなかった。

 口元に手を当てて、まきをは考えた。

 

「鬼はどうやって、あの子を誰にも気付かれずに、しかも抵抗もさせずに攫ったんだ?」

 

 おそらく、何らかの異能持ちだろう。

 しかし離れた位置にいる人間を攫うのは、血鬼術であっても用意ではないはず。

 必ず、視認できる距離にはいたはずだ。閉ざされた密室の、この部屋で……。

 

「……おいおい、まさか……」

 

 まきをは部屋の中心に立ったまま、頭上へと視線を向けた。

 見上げたその先には、当然だが、天井があった。

 まきをは瑠衣や禊と密談をする時、()()からこの部屋へとやって来ていた。

 その、()()()から。

 

「……ッ」

 

 確証は何もないが、そうに違いないと直感が囁いていた。

 ぞわり、と、鳥肌が立った。

 まきをは毎日のように天井裏を通っていた。そこがこの部屋に通じる通路だった。

 人目につかない。そして、()()()()()()()()

 

「……行ってみるか」

 

 そう呟いて、まきをはあたりを見渡した。

 そして適当な足場を見つけると、自分がいつも使用していた天井板を外しにかかった。

 天井裏には、いつものように暗闇が広がっていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 日の呼吸。それは全ての始まりの呼吸。

 火も水も、風も、あるいはその他の呼吸は、全てその()()

 いや、あるいは派生という呼び方さえおこがましいのかもしれない。

 何故ならそれは、模造品、真似事に過ぎないのだから。

 

「恥ずかしい話だが」

 

 炭治郎の、というより竈門家に伝わる「ヒノカミ神楽」は、日の呼吸の型と同じだ。

 そう槇寿郎に教えられた炭治郎だが、中には良くわからない話もあった。

 例えば額の痣の話。

 日の呼吸の選ばれた使い手には、生まれつきどこかに独特の痣があるらしい。

 

 確かに炭治郎の額には痣がある。

 しかしこれは生まれつきではなく、弟を火鉢から庇った火傷の上に最終選別の負傷が重なり、今の形になっただけだった。

 父には薄い痣があったらしいが、自分は違う。

 だからきっと、自分は槇寿郎の言う「日の呼吸の選ばれた使い手」ではないのだろう。

 

「日の呼吸の存在を知った時、私は自暴自棄になってしまった時期があってね」

 

 歴代の炎柱が遺した口伝や手記から、槇寿郎は日の呼吸の存在を知ったらしい。

 400年前の戦国の世に存在した始まりの呼吸の剣士達と、その中でさらに特別な存在だった剣士のことを知った。

 これまで積み上げて来たものが模造品――それも粗悪な――に過ぎず、先祖に遠く及ばぬ自分の実力を目の当たりにして、槇寿郎は自信を失くしてしまった。

 そこへ最愛の妻の死が重なり、気が滅入ってしまったのだそうだ。

 

「……そんな私を見捨てずにいてくれた息子達には、いくら感謝しても足りない」

 

 少しわかるような気がした。

 形は全く違うが、炭治郎も家族を失った。

 もし、もし禰豆子がいてくれなかったら、自分を保てたかどうかわからない。

 本当に守り助けられているのは自分の方なのだと、痛感する。

 

「竈門君、きみの育手は鱗滝左近次殿だったね」

「はい、そうです」

「成程。どうりで足腰がしっかりしているわけだ。冨岡君もそうだが、流石に鍛えられている。かなり扱かれただろう」

「いえ! 鱗滝さんは俺が……俺達が生きる術を教えてくれました。おかげで今日までやって来れました」

 

 本心だった。

 訓練が辛くなかったと言えば嘘になるが、それ以上に鱗滝が自分と禰豆子が生きていけるようにと思ってのことだと、匂いでわかっていた。

 

「そうか」

 

 そして槇寿郎からも、鱗滝と似た匂いがした。

 

「私には日の呼吸は使えない。というより、きみ以外の誰も呼吸術を知らない」

 

 炭治郎は今、煉獄邸の中庭で槇寿郎と鍛錬を積んでいた。

 もちろん竹刀を使っているが、槇寿郎ほどの使い手になると竹刀でも十分な威力がある。

 気を抜けば、打撲どころでは済まないだろう。

 

「しかし型については、歴代炎柱を通じていくつかは私にも伝わっている。無論これも完全なものではないが、何かの手助けにはなれると思う」

「はい! ありがとうございます!」

「礼を言われることじゃない、これは……」

 

 槇寿郎は、教えるのが上手かった。

 杏寿郎や瑠衣を教えた人だ。それも当然なのかもしれない。

 

「……これは、我が煉獄家に伝わる()()なんだ」

 

 もしかすると、鬼殺隊には他にもこの人に教わった人がいるのだろうかと、そんなことを思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実のところ、煉獄槇寿郎に直接教えを受けた隊士は多くない。

 それは槇寿郎が現役の柱であり、他の柱と同じく継子以外の鍛錬を見る時間が基本的にない、という事情が原因だった。

 その意味で、甘露寺蜜璃と伊黒小芭内の2人は特別な存在だったと言える。

 

「あ、あのう……」

「何をしている。次を持ってこい」

「へ、へえ」

 

 伊黒がじろりと()めつけると、店主がとぼとぼと厨に引っ込んで行った。

 彼のテーブルにはこれでもかという程に空の丼が積み重ねられていて、力士が3人いてもここまでは食べないだろうという状態になっていた。

 言うまでもないことだが、伊黒自身は丼一杯すら食べていない。

 伊黒自身の前にはお茶が置いてあるだけで、口元を覆う包帯さえ取っていなかった。

 

「伊黒さん、何か言った?」

「いや、何も。気にしないで食事を続けてくれ」

「そう? あ、このえび天おいしいわ!」

「それは良かった」

 

 うって変わって優し気な笑顔を浮かべる伊黒。彼がこの類の表情を向ける相手も多くはない。

 2人はこうして、しょっちゅうというわけでもないが、時間が合う時は食事を共にすることが多かった。

 もっとも、基本的に食べている甘露寺を伊黒が見つめているだけなのだが。

 実際、食べている時の甘露寺の表情は本当に幸せそうで、見つめていたいという気持ちもわからなくはなかった。

 

 そんな2人の出会いは煉獄邸だった。

 甘露寺が煉獄家の世話になり始めた頃に、伊黒が槇寿郎に挨拶にやって来て、そこでたまたま出会ったのだ。

 初めて甘露寺の姿を見た時の伊黒の衝撃たるや相当なものだったようで、それを目撃した煉獄家長女曰く「人が恋に落ちる瞬間を初めて見てしまった」とのことだ。

 

「む、どうした鏑丸」

 

 伊黒の首に巻き付いていた白蛇の鏑丸が、ついと頭を外へと向けた。

 するとそこに鎹鴉がいて、伊黒は甘露寺に断って席を立った。

 鎹鴉の足に手紙があり、伊黒はそれを受け取って開いた。

 それを一読して懐にしまい込むと、テーブルに戻った。

 

「伊黒さん、どうかしたの?」

「いや……」

 

 任務ではなかった。報告だった。

 しかしその内容は非常に緊迫したもので、また伊黒にとっても気がかりなものだった。

 鎹鴉の報せには、こう書かれていた。

 

「大丈夫だ」

 

 ――――音柱・宇髄天元が上弦の鬼を発見。

 煉獄杏寿郎並びに煉獄瑠衣、甲隊士2名と共に今夜討伐開始――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――夜になった。

 瑠衣は宇髄に従って、京極屋という妓楼を視界に収めていた。

 荻本屋さえ凌ぐという大見世は、流石に豪奢だった。

 

「臭うな」

 

 しかし煌びやかな店構えを目にしながら、宇髄が言ったのはそれだった。

 京極屋からは享楽的とも言える甘い香りが漂っているが、臭いの元はそれではない。

 それとは別に、京極屋全体を包み込むような得体の知れなさがあった。

 まるで薄い膜に覆われているかのような、澱んだ空気の流れを感じる。

 

「どの部屋にいると思う?」

「いるとすれば北側の部屋だな。昼間でも陽が射さない」

「なるほど」

 

 杏寿郎の言葉に、宇髄が答えた。

 空の端を見れば、まだ夕焼けの名残りが見える。

 陽が沈んだ直後。まさに夜が始まったばかりの時間だ。

 鬼の時間であり、鬼狩りの時間だ。

 

 しかし、吉原遊郭という場所は厄介だった。

 やはり人が多すぎる。鬼と戦う場所としては甚だ向いていない。

 いや、鬼の側は人間の犠牲など露とも感じないだろうから、鬼狩り(こちら)が一方的に不利とさえ言えた。

 どうにかして、人気のない場所に誘き出せれば。

 

「俺は楼主に話をしてくる。地味に生きてる一般人をなるべく逃がす」

 

 鬼の巣食う妓楼。しかも遊女の頂点・花魁。楼主が知らないはずがない。

 宇髄は話をすると言っていたが、どう見てもそのような雰囲気ではなかった。

 いったいどんな話をするものか。

 聞かない方が良いだろうと、瑠衣は思った。

 

 そして同時に考えるのは、千寿郎のことだった。

 今頃は吉原を出ているだろうか。

 宇髄に追い立てられた形だが、杏寿郎も瑠衣も止めなかった。

 何と言うべきか、宇髄に憎まれ役を押し付けてしまったようなものだ。

 その分は働かなければならないと、そう思っていた。

 

「……あれ?」

 

 その時、瑠衣はおかしなことに気付いた。

 つい先程まで、京極屋のその部屋――瑠衣達が見張っていた北側の部屋――の窓は、全て閉め切られていた。

 それが何故か、ほんの一瞬目を離した隙に、1つ開いていた。

 開いた窓から、豪奢な造りの和室が覗き見えた。

 

「上だ、馬鹿!」

 

 ――――上?

 宇髄が楼主のところに行こうとした、まさにその瞬間の出来事だった。

 瑠衣が上を見上げる。すでに星空に覆われた空が見えた。

 その星空の中、瑠衣は確かに見た。

 2人の女が、空を飛んでいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「お前はグシャッと転落死さ」

 

 その言葉を聞いた時、京極屋の女将――お三津は、自分は死ぬのだと理解した。

 彼女は今、空を飛んでいる。

 自分の意思でそうしているわけでは無かった。

 お三津の体を掴み、無理矢理にそうさせている存在がいるのだ。

 

 この世のものとは思えない程の美貌。

 整い過ぎて不気味さすら感じる顔が、視界いっぱいに嗤っていた。

 開いた唇から覗く歯は、犬歯というには余りにも鋭すぎた。

 腰のあたりまで伸びた黒絹の髪に、額と頬に花の紋様が浮かび上がっている。

 胸部と下腹部だけを覆う赤黒の衣装は酷く煽情的で、肌の異常な白さが浮かび上がって見えた。

 そして、目。琥珀色の瞳に、文字が刻まれているように見える。

 

「わ、蕨姫……!」

 

 蕨姫花魁。あの京極屋一の花魁の正体が、()()だった。

 お三津は前々から蕨姫花魁のことを不審に思っていたが、楼主も他の遊女も見て見ぬふりをしていた。

 蕨姫花魁に目をつけられた遊女が自殺や足抜けで何人もいなくなったり、彼女が禿の娘の耳を千切ったりしても、誰も何も言わなかった。怯えていた。

 そして今日、我慢の限界が来て、問い詰めた。

 お前は何者だ、と。

 

「残念だよ、お三津」

 

 そして今、お三津は死のうとしている。

 蕨姫花魁は、いやこの化物は、人間ではなかったのだ。

 懐に忍ばせた包丁も、腕も、蕨姫花魁の帯に絡めとられていた。

 まるで生き物のように動く帯は、しかし解かれようとしていた。

 

「お前はもう少し、賢い女だと思っていたよ」

 

 後ろ、いや下を見た。遠くに地面が見えた。京極屋の屋根よりずっと高い。

 落ちれば死ぬしかないと、嫌でも理解した。

 

「さよなら、お三津」

「やめっ……!」

 

 浮遊感は、突然襲って来た。

 蕨姫花魁の手と帯がお三津を放した瞬間、自由落下が始まった。

 胃の腑を持ち上げられるような感覚に吐き気を覚えると同時に、頬や肌を撫でる空気の固さに絶望した。

 死ぬ、と、そう思った時。

 

「あぐっ!?」

 

 脇腹に衝撃が来て、唾を吐くはめになった。

 視界が横に動き始めて、何が何だかわからない内に、京極屋の屋根がみるみる近付いて来た。

 ぶつかる、と目を閉じたが、衝撃はいつまで経ってもやって来なかった。

 そもそも、屋根に足が、体がついていなかった。

 

「え……」

 

 恐る恐る目を開けると、黒い詰襟の制服を着た少女と目があった。

 その少女はお三津と目が合うと、ほっとしたような表情を浮かべた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何とか間に合った。

 投げ付けるのではなく、落としただけだから間に合った。

 そうでなかったら、この女性は今頃、地面に血の花を咲かせていただろう。

 

「あ、あんた、なに」

「落ち着いて下さい。後ろの窓から部屋の中に」

 

 助けた女性を背中へやって、窓から部屋に入るように促した。

 部屋の中が安全というわけではないが、屋根の上よりはマシだろう。

 そして外には。

 

「――――ッ!」

 

 ――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐風樹』。

 頭上から、着物の帯が襲いかかって来た。

 それは異常に長く、速く、そして強靭だった。

 風を纏った斬撃が、帯という布製の物体に弾かれている。

 ただの帯ではない。血鬼術だ。

 

「ひいいいっ!」

 

 帯は全て瑠衣ではなく、女性の方に向かっていた。

 日輪刀で帯の側面を打ち、軌道をずらした。

 そのおかげで女性は部屋の中に逃げ込むことが出来たが、驚くことに、帯は建物の屋根や壁を豆腐か何かのように切り裂いてしまった。

 

「鬼狩りの子?」

 

 その鬼は、すぐ傍に下りて来た。

 女の鬼は初めてではないが、ここまで妖しく美しい鬼は初めて見る。

 そして、何よりも。

 

(服装が破廉恥……!)

 

 何だこの服は、最低限の布地しかないではないか。これではほとんど裸で歩いているようなものだ。

 正直なところ、常識を疑う。恥じらいはないのかと言いたい。胸元も足も晒し過ぎだ。

 何かどこかの恋柱が「心外!」と憤慨する姿が見えたが、あちらはまだ人並の羞恥心がある。

 それに対してこの鬼は、むしろ自身の身体を誇ってさえいるようだった。

 

「来たのね。思ったより速い。何人で来ているのかしら、柱は来てる?」

 

 鈴の音を転がすような声、というのは、きっとこういう声を言うのだろう。

 ただ、纏っている空気が余りにも禍々しいが。

 それから、目だ。目に数字が刻まれている。

 

 刻まれた文字は「上弦」「陸」。上弦の陸だ。

 過去に会った参や肆よりは下だが、しかし上弦の鬼。

 こうして相対しているだけで、自分が緊張していくのがわかる。

 

「そんなに怯えなくとも大丈夫よ、私は不細工を食べたりしないから」

 

 じっと瑠衣の顔を、あるいは身体を見つめて、鬼がそう言った。

 

「ああ、でも顔は悪くないわね。頚から上だけ食べてあげる」

 

 まあ、好き勝手に言ってくれるものだ。

 瑠衣は別に自分が美人だとは――母や甘露寺やしのぶならいざ知らず――思っていない。

 むしろ、良くそこまで自分の造形に自信が持てるものだと感心する。

 そしてその上で、瑠衣は言った。

 

「とっととくたばれ、この不細工女」

「は?」

 

 鬼の額に血管が浮かび上がるのと。

 

「この餓鬼(ガキ)

 

 ()()()()()()()()のは、同時だった。

 

「が?」

 

 憤怒と疑問と驚愕がない交ぜになった表情を浮かべて、上弦の陸の頚が落ちた。

 轟、と、熱い風が通り過ぎて行く。

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 

「生憎だが」

 

 上弦の陸の頚を斬り落として、杏寿郎は言った。

 

「妹は自慢の美人だ!」

 

 それはやめて。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 現世と吉原を隔てる大門の前で、千寿郎は立ち止まっていた。

 吉原には珍しく、奇妙に静かな夜だった。

 ここを通れば吉原の外だが、その一歩を、千寿郎は踏み出せずにいたのだった。

 

「……兄上、姉上」

 

 兄姉と宇髄は、鬼との戦いを始めただろうか。

 宇髄は千寿郎がいても役に立たないと言った。階級が低すぎると。

 杏寿郎と瑠衣はそこまで言いはしなかったが、それでも宇髄を否定することは無かった。

 まだ早いと、それほど目が口ほどに言っていた。

 

 思えば、千寿郎は鬼狩りについては「まだ早い」と言われ続けて来た。

 それは千寿郎が家族で最も幼かったからだが、それでも最終選別には自分よりも年下の子供もいて、早すぎるということはないと思った。

 いつまでも守られ、気にかけられているだけというのは、納得できなかった。

 まして、禊は千寿郎のせいで――少なくとも千寿郎はそう思っている――鬼に攫われたのだ。

 

『アナタ様、宜しければお琴でも弾きましょうか』

 

 優しい人だった。

 遊郭のことを何も知らずに来た千寿郎のことを気遣って、琴を弾いてくれた。

 姉である瑠衣も琴の稽古などをすることもあったが、禊の琴は姉のそれとは違って、奔放な音色が印象的だった。

 あれはきっと、聞く人間を楽しい気持ちにさせるためにわざとそうしていたのだろう。

 

「僕のせいだ」

 

 あの夜、千寿郎が眠りこけていた時、鬼が来たのだ。

 そして禊は攫われた。千寿郎のすぐ傍で。

 その考えが、頭の中をずっとぐるぐる回って離れなかった。

 このまま吉原の外に出だとしても、千寿郎は自分がこの考えに押し潰されてしまうのではないかと、そんな風に感じていた。

 

(日輪刀)

 

 姉も喜んでくれた赤色の日輪刀。

 これを腰に差しているのは、いったい何のためだ。

 人を、仲間を守るためではなかったのか。

 少なくとも、尻尾を巻いて逃げ出すためではなかったはずだ。

 

「……ッ!」

 

 そう思って、千寿郎は(きびす)を返した。

 外に背を向けて、吉原の夜へと駆け戻っていく。

 命令違反になるかもしれない。だが、このまま外へは出れなかった。

 禊を、仲間をみすみす鬼に攫われた事実を抱えて、生きていくことは出来なかった。

 

 宇髄は怒るだろう。兄と姉も、こんな自分に呆れてしまうかもしれない。

 それでも、千寿郎は駆けて行った。煉獄家の男として成すべきことを成しに行くために。

 不意に、そう言えばと思った。

 兄と姉の言いつけを破るのは、これが初めてだ、と。




最後までお読み頂き有難うございます。

妹は世界で一番かわいい。
これこそがこの世の真理(え)

それでは、また次回。


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第26話:「上弦兄妹」

 100年不敗の鬼、上弦。

 人生、いや鬼生そのものが伝説であり、敗死した柱も1人や2人ではない。

 末席の数字である陸ですら、例外ではない。

 そしてその頚が、今あっさりと斬り落とされた。

 

 まず、瑠衣は警戒した。

 脳裏に浮かんだのは上弦の肆だ。あの鬼は頚を斬られる度に分裂した。

 上弦の鬼は、頚を斬られても死なないことがあると知っていた。

 だから瑠衣は上弦の陸の頚が落ちた後も、全身を緊張させていたのだが。

 

()()()()()()()

「うむ!」

 

 宇髄も杏寿郎も、あっさりと上弦の陸に背を向けていた。

 それは瑠衣が拍子抜けする程で、いっそ朗らかでさえあった。

 ()()とは、いったいどういうことだろう。

 

「ちょっと待ちなさいよ!」

 

 甲高い声が、低い位置から飛んで来た。

 上弦の陸の体が自らの頭を抱えていて、逆さまになった頭が杏寿郎を睨んでいた。

 

「どこに行く気!? アタシにこんなことして、タダじゃおかないんだから!」

「頭だけでギャアギャア五月蠅え奴だな。さっさと死ねよ、地味にな」

「はあ!? ふざけんじゃないわよ! ちょっ、戻りなさいよ!」

 

 上弦の陸が喚いた通り、宇髄などは彼女と会話するのさえ面倒という態度を見せていた。

 

「悪いが、お前みたいな地味女の相手をしてるほど暇じゃねえんだわ。これから上弦を見つけなきゃいけないんだからよ」

「アタシが上弦の鬼よ!」

「と地味女は主張しているわけだが、実際に上弦と戦ったご経験のある煉獄先生から見てどうよ?」

「うむ! 鬼気も動きも、上弦の鬼とは比べ物にならないな!」

「だってよ、じゃあな」

 

 言われてみれば、である。

 確かに並の鬼ではないが、かつて出会った上弦達と比べると、肌にヒリつくような威圧感は弱い。

 杏寿郎は鬼気という言葉を使っているが、瑠衣はそれを威圧感だと思っている。

 こちらに死を想像させるような圧力、とでも言おうか。

 この上弦の陸からは、なるほどそれが弱かった。

 

(まあ、参や肆に比べればって話だけど……)

 

 柱級の剣士にとっては、それが雲泥の差に感じるのだろう。

 

「あああああああっ! ムカつく! ムカつくムカつくムカつくううううううううっっ!!」

 

 それを無しにしても、上弦の陸の醜態ぶりは目に余る程だった。

 同じ女――鬼にもはや性別が意味があるかは不明だが――として恥ずかしくなってくる泣き喚き様だ。あれではまるで駄々っ子だ。

 地団太を踏むが如く殴りつけられた地面が砕けているのを見ると、余りにも危険な駄々だが。

 

「アタシは上弦の陸よ! 数字だって貰ってるのに! なのに、なのに! わあああああっ、わあああああああああああっっ!!」

 

 ――――違和感を、覚えた。

 いや、上弦の陸ともあろう鬼が泣き喚く様はそれ自体が異様だが、そういうことではない。

 頚を斬ってしばらく経つのに、上弦の陸が消滅する様子がないことだ。

 やはり何かの条件があるのだと、そう思った時だ。

 

「アンタ達なんか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!!」

 

 ()()()()()

 上弦の陸は確かにそう言った。

 そしてその次の瞬間、上弦の陸から発された――否。

 上弦の陸から()()()()モノの発した威圧感に、瑠衣は息を呑んだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 上弦の陸――と思っていた鬼――体の肉が盛り上がり、もう1体の鬼が出て来た。

 融合していたのか、それとも別の何かなのかはわからない。

 わかっているのは、美貌と対極にあるその風貌だった。

 

 骨の浮き出た体に長い手足、異様に痩せた腹部が骸骨を思わせる。

 全身に浮かぶ黒い染みは痣のようで、彼が体を動かす度に不気味に蠢いて見えた。

 彼の瞳には、杏寿郎に頚を斬られた女鬼と同じ数字が刻まれていた。

 

「泣いてたってなああ」

 

 己に向けて放たれたわけでもない言葉に、生唾を呑む程の緊張を強いられる。

 それはまさに、かつての上弦の鬼達と同じ威圧感だ。

 鬼気、迫る。

 

「しょうがねえからなああ。頚くらい自分でくっつけろよなあ」

 

 しかしその声音には、散らかし放題の妹に「たまには自分で片付けろよな」とでも言うような、そんな気軽さがあった。

 地面に落ちている妹の頭を拾い上げようと、身を屈める。

 やれやれという心の声が聞こえてきそうな、そんな動作だった。

 

 ――――音の呼吸・壱ノ型『轟』。

 その瞬間、宇髄が斬りかかっていた。

 身を屈めた妓夫太郎の頸椎のあたりを目掛けて振り下ろされたのは、出刃包丁を身の丈ほどに巨大化したような、独特な日輪刀だった。

 柄尻を鎖で繋いだ二本の刀。しかしより独特なのは、振り下ろした瞬間の()()だ。

 

(か、刀が爆発した!?)

 

 閃光と熱風に煽られながら、瑠衣は驚きを隠せなかった。

 いったいどういう仕掛けを施せば、斬撃の瞬間に爆発が起こるのだ。

 しかし威力は確かで、爆煙の後には陥没した地面があるだけだった。

 その中心に宇髄の姿を見つけて、そして。

 

「音柱さ……」

 

 ()()()()、と。

 音を立てて地面に落ちているのは、宇髄の血だった。

 額当ての金剛石の飾りが砕け散っていて、それも足元に散らばっていた。

 完全な不意討ちだった。にも拘わらず、宇髄は反撃を受けていた。

 

「へええ、やるなあ。殺す気で斬ったけどなああ」

 

 そして、相手は無傷だった。

 両手に血の色の、というより血そのもので出来た鎌を持っていて、幽鬼のように身を揺らしながら、ボリボリと嫌な音をさせながら顔を掻いていた。

 なまじ爪が強靭なためか肌や肉を裂いて――端から再生していく――見ているこちらが痛くなってくる。

 

「お兄ちゃんっ!!」

 

 キン、と耳に響くような、甲高い声がした。

 それは「兄」の足元で蹲っていた女鬼の発した声で、同時にボリボリという引っ掻き音も途切れた。

 

「こいつらみんな殺して! みんなみんなぶっ殺してよ!!」

 

 兄鬼の両腕が、背中側に異様に曲がった。人間なら骨が折れる角度だ。

 鎌を持った両手の筋肉が膨張し、骨が軋む嫌な音が聞こえた。

 風の呼吸を使う瑠衣には、彼を中心に黒い風のようなものが渦巻くのが見えた。

 

「死ぬときグルグル巡らせろ。俺の名は妓夫(ぎゅう)太郎(たろう)だからなああ」

 

 ――――血鬼術『飛び血鎌(ちがま)』。

 次の瞬間、どす黒い斬撃が瑠衣の視界を埋め尽くした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 妓夫太郎が放った血の刃は、辺り一帯を無差別に斬り払った。

 その威力は絶大であって、京極屋の一角が砕け、たまたま室内にいた遊女が腰を抜かしている様が見えた。

 しかし妓夫太郎の意識は、遊女や他の人間には向けられていなかった。

 

「お前ら、いいなあ。本当いいなああ、それなあ」

 

 ボリボリと頬や顎を掻き毟りながら、妓夫太郎は己の攻撃の結果を眺めていた。

 彼は先の一撃で3人ともを狩るつもりだったが、結論から言えば、誰1人として倒れてはいなかった。

 上弦の陸の放った血鬼術の攻撃を、3人の鬼狩り達は日輪刀で捌き、斬り、あるいは爆ぜさせて防いでいたのだった。

 

(……危なかった)

 

 背後に腰を抜かした遊女を庇いながら、瑠衣は息を吐いていた。

 日輪刀を握った両手には、まだ妓夫太郎の一撃の重みが残っている。

 掌の中心に鈍痛を感じる。それだけの衝撃が日輪刀を通じてやって来たのだ。

 

 そして、危なかった。

 妓夫太郎の攻撃がまず宇髄に向けられたから、瑠衣のところまで届くのに僅かな時間があった。

 空中で曲がり、標的に当たるまで続く血の斬撃。斬り捌くだけで全力を出さなければならなかった。

 もし最初の標的が瑠衣であったなら、同じように捌けたかはわからない。

 

「裏口から逃げて下さい」

 

 遊女が逃げていく音がする。

 本当は後ろを向いて、笑顔を見せて少しでも安心させたかった。

 だが、そんな余裕はなかった。

 

「格好いいなあ。お前なあ、きっと感謝されるんだろうなあ」

 

 妓夫太郎が、こちらを見つめていたからだ。

 1秒でも目を離すと死ぬ。そんな考えが浮かんで動けなかった。

 

「お前らもなあ、いい男だよなあ。上背もあって肉付きも良くて、顔も良くて。さぞや女に持て囃されるんだろうなあ」

 

 それにしてもこの鬼、先程からやたらと絡んで来る。

 顔が良いだの何だのと言っているが、口調から褒めているわけではないというのはわかる。

 これは、称賛や憧憬ではなく。

 

「妬ましいなあ、妬ましいなああ。死んでくれねえかなぁあ。苦しんで苦しんで、それからなぁあ」

 

 嫉妬だ。地獄の底から湧き出たような、どす黒い感情を感じる。

 

「ちょっとお兄ちゃん! 何やってんのよ、さっさと殺してよ!」

「……お前なあぁ」

 

 そんな鬼が、妹に対する時だけ、やけに人間臭くなる。

 まるで、心優しい兄そのものだ。

 何て、歪な兄妹なのだろう。

 

「頚がくっついたんなら、()()()()よなあ」

 

 そして兄の言葉に、「あ、そっか」という顔を見せる妹。

 背筋にぞわりと冷たい気配を感じて、瑠衣は京極屋から飛び出した。

 その直後、京極屋の屋根裏から何かが室内に雪崩れ込んで来た。

 天井板を切り刻んで粉砕したそれは、幾重にも重なりながら外へと飛び出し、しかし瑠衣のことは追わずに、そのまま上弦の陸――妹鬼の方へと向かった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それは、着物の帯だった。

 京極屋の屋根裏から、いや四方八方からやって来るそれらが、妹鬼の体へと取り込まれていく。

 妹は帯鬼。名を堕姫(だき)

 帯が取り込まれていくにつれて髪色が変わり、全身の肌に罅割れにも似た紋様が浮かび上がった。

 

「むう!」

 

 それが何かはわからないが、妹鬼――堕姫が強力になりつつあることはわかる。

 だからそれを阻止しようと一歩を踏み込んだ杏寿郎だったが、妓夫太郎に隙が無かった。

 こちらを牽制し、堕姫の邪魔をさせない。

 その間に、堕姫が全ての帯を吸収し終えてしまった。

 

 ゆらり、と堕姫が立ち上がる。

 そして口元が笑みの形に歪んだかと思うと、彼女の周囲で何かが揺れた。

 それは彼女の背から伸びた帯で、しかしそれは帯というには余りにも鋭すぎた。

 視界が、()()()

 

「アハハハハハッ、死ね! みんな死ね!」

 

 そう錯覚してしまう程に、京極屋が斜めに切断されてしまった。

 切断された部分がずり落ちて、地面にそのまま崩れてくる。

 分厚い建造物を障子紙のように切り裂いた。しかも射程が恐ろしく長い。

 

 悲鳴が上がった。

 それは瑠衣達のものではなく、堕姫の帯による斬撃に巻き込まれた人々の悲鳴だった。

 腕を千切られて蹲った男性。伴侶を真っ二つにされて泣き叫ぶ女性。

 人間の悲鳴に混じって聞こえてくる、鬼の哄笑。

 

「この……っ!」

 

 ――――風の呼吸・弐ノ型『爪々(そうそう)科戸風(しなとかぜ)』。

 風の斬撃。4つ放たれたそれは、さらに住人を襲おうとした帯の一角を弾き飛ばした。

 威力としては大したことはないだろうが、しかし堕姫の注意を引くには十分だった。

 額に青筋を浮かべた堕姫が、瑠衣を睨みつけた。

 

「本当、アンタ――――生意気だわ」

「それはどうも」

 

 誉め言葉として受け取っておく。

 そして、帯だ。やはり鋭く、速い。普通の刃にはないしなやかさがある。

 しかし、不思議と攻撃を当てるのは難しくなかった。

 

(上弦との戦いに慣れて来た、とか)

 

 ないとは言わないが、違う気がした。

 それが何なのかは、まだ言葉にすることが難しかった。

 どちらにせよ、これ以上被害を拡大させるわけにはいかない。

 もっと鬼の注意をこちらに引かなくては、と、思った時だ。

 

 堕姫の周囲に浮かぶ帯に、違和感を覚えた。

 より正確に言えば、帯の柄に違和感を覚えた。

 華やかな柄の帯だが、どこか奇妙な側が混ざっていた。

 そう、あれはまるで、人間を描いたような――いや。

 

「人間……!?」

 

 人間が描かれているのではない。人間だ。人が帯の中にいるのだ。

 ほんの僅かだが、動いている。

 クク、と。

 瑠衣の顔を見て、堕姫が狐のように喉を鳴らして嗤っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 なるほど、と杏寿郎は思った。

 杏寿郎の見たところ、帯に描かれた――囚われた人々は、健康な状態でそこにいた。

 ただ意識がなく、眠るように目を閉じている。

 ああして()()を保存しているのだろう。

 

 そして同時に、瑠衣にも理解できた。

 吉原を調査する中、遊女が攫われる直前には屋根や壁から奇妙な音がしていたと聞いた。

 あれはきっと、この帯のことだったのだろう。

 帯が入り込む隙間があれば良く、そして吉原中にこれが張り巡らされていたのだ。

 毎夜のように駆け回っても、被害を防げなかったわけだ。

 

「そうよ! 吉原をちょろちょろしてたアンタ達のことだって、最初からお見通しだったんだから!」

「だったらさっさと始末すれば良いじゃねえか。すぐバレる嘘を吐くんじゃねえよ。いちいち頭の悪いやつだな」

「はあああっ!?」

 

 宇髄の言う通り、おそらく広範囲を細かく把握することは出来ないのだろう。

 自分をこそこそと嗅ぎ回る相手がいることを知りながら、それが瑠衣達だとまでは特定できなかったのが良い証拠だ。

 ただそれは、能力というよりは堕姫の性格に拠るところが大きい気もする。

 

「頭の悪い妹を持って兄貴が可哀想になってくるぜ。なあオイ」

「…………まああ、妹は頭が足りねえからなあ」

「ちょっとお兄ちゃん、そんなやつの肩持たないでよ!!」

 

 そして、瑠衣は理解していた。

 宇髄が先程から、わざと堕姫を挑発していることに気付いていた。

 気を引こうとしていることに、気付いていた。

 

 だから、瑠衣も()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()

 正面をじっと見て、動かなかった。しかし。

 

「ひひっ、ひひひっ」

 

 妓夫太郎が、不気味に嗤った。

 そして鎌の先でひとつふたつ、みっつと帯を指していった。

 

「こいつと、こいつと……こいつ。それとこいつかあ?」

 

 雛鶴と、須磨。まきを。そして。

 

(禊さん……!)

 

 堕姫の帯の中に、禊と宇髄の3人の妻がいた。

 禊はともかく、まきを達まで囚われているとは思わなかった。

 撤退の指示が遅かったのか。あるいは元々堕姫に目をつけられていたのか。

 いや、この段階で理由などは余り意味がない。

 

 重要なのは、妓夫太郎に4人がこちらの仲間だと気付かれてしまったことだ。

 元々人質がいるようなものなのに、さらにやりにくくなった。

 並外れた観察眼だ。流石に上弦にまで到達する鬼は違う。

 もし彼女達を盾にされたら、どうすれば良いのか。瑠衣は思い悩んだ。

 

「ひひっ、図星だなあ? 知らねえ顔して気を逸らそうなんてみっともねえなああ、ひひひっ」

「へえ、そうなの。こいつら鬼殺隊だったの? どうりで変だと思った。綺麗めだから取っておいたんだけど、ふうん」

「したり顔で勘違いしてるんじゃねえよ、ボケ雑魚が」

「ひひっ、無理すんじゃねえよ。顔が引き攣ってるじゃねえかあ」

「無理じゃねえ、お前らごときを相手にするのはな、むしろ人質がいるくらいの枷があってトントンなんだよ」

 

 しかし妻を人質に取られた形の宇髄は、そう啖呵を切って見せた。

 

「人間様を、舐めんじゃねえ!」

 

 ――――嗚呼、宇髄。宇髄よ。

 杏寿郎は宇髄の背中に、それでも悲壮も絶望も見なかった。

 だから杏寿郎は、人から大きいと言われるその目をさらに大きく見開いて、相手を観察し続けた。

 

 そしてそれは瑠衣も同じだった。

 この状況を打開する手はないものか、帯から人々を救う手はないものか、と。

 その時だ、奇妙なものを見た。

 

(え……)

 

 帯の中で眠らされている人々の中で、1人だけ目を開けている者がいた。

 その少女は帯の中からじっと瑠衣を見つめると、唇を歪め、白い歯さえ見せたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 もちろん、最初に異変に気付いたのは堕姫だった。

 自分の血鬼術の異変なのである。気付かないわけがなかった。

 

(なに? この感じ)

 

 胸の奥で何かが(つか)えているような、嫌な感覚だ。

 鬼になって随分と経つが、こんな不快な感覚に陥ったことはない。

 何しろ鬼は飢えとも病とも無縁だ。「体調が悪い」などあり得ない。

 

 では、何だ?

 確かな苛立ちと共に、堕姫は原因を探った。

 しかし先に気付いたのは、堕姫ではなく、兄の妓夫太郎の方だった。

 

「なんだあぁ?」

 

 さしもの妓夫太郎も、半ば唖然としていた。

 何故なら、妹の帯の一部が不自然に盛り上がっていたからだ。

 堕姫は気付いておらず、彼女の意思でないことは明らかだった。

 盛り上がった部分がギチギチと音を立て始めて、ようやく堕姫も気付いた。

 

 そして堕姫が目を向けた次の瞬間、彼女の眼前に刃が飛び出してきた。

 それは槍の穂先に似ていて、()()()()から出てきていた。

 分厚い布地を引き裂く――反物を裁断するような――音が続き、出来た裂け目に指がかかった。

 裂け目が広がり、平面とも立体とも取れない不可思議な空間から1人の少女が顔を出した。

 

「――――こんばんは、蕨姫」

「あ、アンタッ!」

 

 その顔に、堕姫は覚えがあった。

 美しい人間のことは食べた人間のことまで良く覚えているし、何よりこの少女を帯に取り込んだのはつい最近のことだ。

 とびきり美しく、そして生意気だった。今も、生意気に自分を嘲笑している。

 

 あり得ないことだった。曲がりなりにも上弦の血鬼術である。

 自力で出てくるなどあり得ないし、あってはならないことだ。

 そもそも堕姫の帯の中で意識を保っていられるはずがないのだ。

 取り込まれた者は例外なく意識を失い、まさしく胃液に溶かされるが如く、自分を失う。

 そのはずなのに。

 

「玉鬘ッ! どうやって!」

「その顔、笑える。チョー最高」

 

 ――――欺の呼吸・壱ノ型『石跳び』。

 帯を切るのに使用した穂先――禊の日輪刀の物だ――を殴りつけて、堕姫の喉元を狙った。

 よほど衝撃が大きかったのか、堕姫の反応は遅れた。

 横から妓夫太郎が手を出さなければ、あるいは禊の一撃は堕姫の喉に届いていたかもしれない。

 

「俺の妹を刺そうとすんじゃねえよなあ」

 

 だから、緩んだ。

 それまで向けられていた注意が、牽制が、緩んだ。

 隙が出来た。

 その隙を、見逃さなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「帯だ! 瑠衣!」

「はい!」

 

 ――――炎の呼吸・肆ノ型『盛炎のうねり』。

 ――――風の呼吸・肆ノ型『昇上砂塵嵐』。

 剛柔斬撃。直線的な斬撃と曲線的な斬撃が、赤と緑の軌跡を描きながら四方を斬った。

 狙いは堕姫の帯、しかし人間の柄には当てないように斬った。

 

 帯の禊が出て来た場所は空欄になっていた。

 あくまで人間を保存するだけで、融合しているわけではないということだ。

 人間を避けて斬れば、術が解けてボトボトと人間が地面に落ちて来た。

 禊が鬼の注意を引いてくれたおかげで、間合いに飛び込むことが出来た。

 だが、これで終わりではない。

 

「禊さん、伏せてください!」

 

 ――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎』!

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』!

 地面に落としただけでは、助けた人々の安全を確保することが出来ない。

 だから距離を取らせるために、杏寿郎と瑠衣は上弦の兄妹にぶつかった。

 ()()()()()

 

「……ッ、こ、の――クソ餓鬼!!」

 

 刺突した日輪刀、それは堕姫の両手の平を貫いていた。

 咄嗟に防がれたようだが、突撃で距離を取るのが目的だったのでそれは良かった。

 ただ刺さった状態で日輪刀を握られると、流石に事情が変わる。

 憤怒の表情で堕姫が帯を伸ばし、頭上と背面から瑠衣を襲った。

 

「瑠衣!」

「行かせねえんだよなあ、曲がれ『跳び血鎌』」

 

 それを見て杏寿郎は助けに行こうとしたが、彼が対しているのは妓夫太郎だった。

 再びの血の鎌。赤い斬撃が生き物のように動く。

 当たるまで、いや当たってもなお追撃してくる斬撃に、杏寿郎は動けなくなってしまった。

 不味いと、杏寿郎が思った時だ。

 

「はっ、いいねえ!」

 

 ――――音の呼吸・伍ノ型『鳴弦(めいげん)奏々(そうそう)』。

 爆発する斬撃。突進と、爆薬仕込みの二刀を振り回して、血の刃と帯を弾き、吹き飛ばした。

 さしもの鬼も、というか杏寿郎も瑠衣も、こんな技は見たことがない。

 爆破・斬撃もさることながら、爆破による余波も凄まじい。

 

「良いじゃねえか、お前ら。気に入ったぜ。それじゃあ、一丁おっ始めようぜ」

 

 爆煙の中から姿を見せて、日輪刀を肩に乗せながら、宇髄は笑って言った。

 

「ド派手にな」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣は、宇髄が何か小さな黒い玉を投げるのを見た。

 そしてそれが宇髄の刀に打たれるや、爆発する様を見た。

 これが、宇髄の「爆発する斬撃」の正体。

 

「何人で来たって結果は同じなんだよなあ」

 

 その爆発する斬撃を、血の刃が迎撃した。

 爆発を抜きにしても、宇髄の膂力で繰り出される一撃は相当に重い。

 しかし妓夫太郎はその重さをものともしない。むしろ膂力なら鬼の方が人より上だ。

 幅広の日輪刀と血鎌が火花を散らしながら何度も打ち合う。

 

「死ね! このクソ野郎!」

 

 そこへ、堕姫の帯が来る。

 自由自在に飛ぶ血の斬撃。その合間を縫って、無数の帯が宇髄を狙った。

 しかしその帯が、不意にたわんだ。

 明らかに不自然な動きに堕姫がぎょっとした表情を浮かべる。

 

 何だと思って視線を向けると、()()()()()()()()()()

 あり得ないだろうと思ったが、事実だった。

 堕姫は気付いていないが、なまじ彼女の帯が強靭であったために、足場としてはちょうど良かったのだ。

 足場さえあれば全方位を駆けることが出来る、煉獄瑠衣という少女にとっては。

 

(このまま近付いて……!)

 

 しかし、血鬼術の帯だった。

 踏み込んだ足が帯の中に沈んで、瑠衣は唇を噛んだ。

 しまったと、そう思った時だ。

 

「頭を下げなさい!」

 

 声が飛んで来て、咄嗟に言う通りにした。

 たわんだ帯を巻き取るように槍が来て、回転し、捻じ切ってしまった。

 

「わっ」

 

 瑠衣の頭をわざわざ手で押さえて――半ば踏み台にして――禊が堕姫の下へ飛び込んでいった。

 すれ違う一瞬、禊が手にした日輪刀の槍からカチャカチャという不思議な音がした。

 前々から思っていたが、あの日輪刀も宇髄のそれに負けないくらい奇妙な構造をしている。

 

「玉鬘あ、前からアンタのことは気に入らなかったのよ!」

「あらそう? わたしはあんたのこと嫌いじゃなかったわ。……その不っ細工な嫉妬顔とかね!」

「~~~~っ! 殺す! 殺してやる!!」

 

 ――――血鬼術『八重帯斬り』!

 八方から13本の帯が飛来。禊の周囲を取り囲んだ。

 禊は頭上で槍を回転させて帯を巻き取り、絡め取ったまま槍を地面に縫い留めた。

 

 馬鹿が、と堕姫は笑んだ。

 それで帯を止めたつもりなら大きな勘違いだ。帯は瞬きの間に伸ばせる。

 しかし次の瞬間、禊の日輪刀が半ばから折れた。

 堕姫の帯に折られたのではなく、そもそも分解機構が備わっている。

 

(こいつ、ふざけやがって!)

 

 それで帯の攻撃をいなしたつもりかと、追撃をかけようとした。

 しかし追撃の前に、頚に再びの灼熱感が走った。

 

「なっ」

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 帯が瑠衣と禊に集中した隙を突いて、杏寿郎が日輪刀を振り下ろしていた。

 それは適切に堕姫の頸動脈に打ち込まれ、ほとんど抵抗なく反対側に斬り抜けた。

 堕姫の頚が飛び、その表情が驚きの色に染まる。

 

 ――――血鬼術『円斬旋回・飛び血鎌』。

 その顔の前に、血の斬撃が、いや渦が割り込んできた。

 先刻までの一撃とは威力が桁違いで、全力で刀を振らなければ弾くことすら出来なかった。

 血の刃に触れた腕が、捻じ切れそうだった。

 

「まああ、妹だけ狙おうったって、そりゃ無理なんだよなあ」

 

 血の渦が過ぎ去った後、そこには堕姫の頚を抱えた妓夫太郎がいた。

 

「俺達は、2人で1つだからなあ」

 

 妓夫太郎は片目を閉じていた。

 そしてそれに合わせるかのように、堕姫の額に新たな目が開かれていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

(動きが! 変わった!)

 

 堕姫の額に「陸」の目玉が開いた途端、動きが段違いに速くなった。

 速度だけでなく操る帯の本数も増えて、26本に達していた。

 それだけならまだしも、妓夫太郎の放つ血の刃も凶悪さを増している。

 帯を避けた先に必ず血の刃がいて、自分1人だったら確実に喰らっていただろう。

 

「この血の刃はやべえな! お前ら絶対に当たるんじゃねえぞ!」

「うむ! 互いの死角を庇いながら戦おう!」

「はいっ!」

 

 しかし、こちらは4人いる。

 いかに帯と血の刃の連携が凶悪だと言っても、物理的に――最も、血鬼術自体が十分に物理法則に反しているが――動く物である以上、誰かが阻止できる。

 重要なのは互いの距離と位置だ。その点、爆破という剣技を使う宇髄は苦しいかもしれない……。

 

「……って、ちょっ、禊さん!?」

 

 のだが、禊だけは瑠衣達を一顧だにすることなく、攻撃――概ね堕姫に対して――を続けていた。

 もちろんそんな彼女の背を帯なり血の刃が狙うわけで、瑠衣は速度の速い壱ノ型(塵旋風)伍ノ型(木枯らし颪)で度々禊の死角を守った。

 そうすると、決まって禊は不機嫌な顔で瑠衣を睨むのだった。

 

「禊さん、出すぎです。連携を……」

「っさいわね! 余計なことしてるんじゃないわよ!」

「ええ……」

 

 何という我の強さ。

 あるいは堕姫の帯から脱出できたのも、この我の強さがあればこそだったのかもしれない。

 とは言え、今は連携が必要な場面だった。

 1人ずつ戦っていては、各個撃破されてしまう。

 

「むう! きみ! 1人で先走るのは危険だぞ!」

 

 その時、杏寿郎がそんな声をかけて来た。

 しかしそれにも、禊は噛み付いた。

 

「ああ、もう。どいつもこいつも五月蠅いわね! わたしがどう戦おうとわたしの勝手でしょ!」

 

 一瞬、瑠衣はむっとした。

 兄様に対して、という気持ちが出たためだ。

 しかしそれも、次の杏寿郎の言葉で消えてしまった。

 

「なるほど!」

 

 得心した顔で杏寿郎は頷き、言った。

 

「自信がないのだな!」

 

 高速で戦闘を続けながらのことだから、あり得ないことだが、瑠衣は全てが止まったと思った。

 こちらを、杏寿郎の方を振り向いた禊に表情はなかった。真顔だった。

 美しい娘が表情を消すと、何とも言えない迫力があった。

 

「――――は?」

「大丈夫だ! 俺や瑠衣の方できみに合わせよう!」

「……はあ?」

「他人に合わせるのは相当の技術と経験が必要だ! 誰にでも出来ることではない! だから気にすることはない!」

「はあああああああああっ?」

 

 そしてその端正な顔に血管が浮き出る様を、瑠衣は見ていた。

 今にも杏寿郎に掴みかかりそうというか、斬りかかりそうな様子だった。

 というか、実際に杏寿郎の方へ向かって駆け出していた。

 

「ちょっ、禊さん!? ……うわっ」

 

 禊の槍が()()()、瑠衣の周囲に迫っていた帯を叩き落としていった。

 そのまま杏寿郎の下へ走り、回転を加えながら槍を突いた。

 杏寿郎は表情を変えることなく身を倒した。

 日輪刀の穂先が杏寿郎の鼻先を掠めて、血の刃を貫いた。

 それを斬り払いながら、禊は言った。

 

「やってやるわよ連携くらい! やれないわけないでしょ、ふざけてんじゃないわよ!?」

「うむ! 素晴らしい動きだったな!」

「いや、あと少しで私達に当たりそうだったんですけど……」

 

 その様子を横目に妓夫太郎と戦っていた宇髄は、思った。

 とんでもねえ杏寿郎だ、と。




最後までお読みいただき有難うございます。

やっぱり兄妹って良いよね!(え)
ちょこっとだけ我儘な妹を持つお兄ちゃんは、きっと炭治郎より妓夫太郎の方に感情移入すると思う(偏見)。
そうだなあそうだなあ言いながら妹を甘やかす。うん。素晴らしい(え)

それでは、また次回。


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第27話:「死闘」

 ――――奇妙な音で、目が覚めた。

 鬼殺隊士だからか、あるいは生来の眠りの浅さか、音や気配には敏感な方だった。

 柚羽が目を開けると、病室はまだ薄暗かった。

 窓の外へ視線を向けると、まだ月が高い。深夜だった。

 

「…………?」

 

 喉は、まだ声が出せる程には完治していない。

 だから寝台の上で頭だけを動かして、隣の寝台へと視線を向けた。

 するとそこにいるはずの姿が見えなかった。

 その代わりに、寝台の足元で何かが蠢いているのが見えた。

 

 柚羽は静かに寝台から下りると、床に倒れている榛名の肩に手を置いた。

 窓から射し込む月明かりが、榛名の額に滲む汗を浮かぶ上がらせる。

 それでも、榛名は柚羽の存在に気が付くと、笑顔を向けて来た。

 

「あ、あら、起こしちゃったかしらぁ。ごめんなさいねぇ。ちょっと、そのう、お手洗いに行きたくて……」

「…………」

 

 榛名の身体は、本人の自由にならなくなっていた。

 鬼との戦いで、背骨に深刻なダメージを負ったせいだった。

 負傷自体は治っても、後遺症は残る。柚羽の喉と同じだ。

 たとえ生き残っても何かを失う。それが鬼狩りだった。

 

「きゃっ」

 

 無言で、榛名を背負った。

 片腕では難しかったが、気付いた榛名も腕を回してきた。

 重み――本人に言ったら怒るかもしれないが――と温もりが、薄い入院着越しに感じられた。

 生きているのだから、当然と言えば当然だった。

 

「ふふ、温かいわねぇ」

 

 そして自分も生きている。だから温もりを感じるし、与えることが出来る。

 生きている実感というのは、人と触れ合うと良くわかるものなのかもしれない。

 そんなことを思いながら、厠に向かうために病室を出た。

 通路は、というより蝶屋敷は、静かだった。

 皆が寝静まっているのだから、それ自体は何の不思議もない。

 

(あの子は、大丈夫だろうか)

 

 ふと窓から外を見ると、変わらず月が天高くこちらを見下ろしていた。

 柚羽が今こうしているように、死のうとしていた自分を背負った彼女。

 今もこの月明かりの下、刀を振るっているのだろう。

 だが次の瞬間には、自分達のようにならない保証はない。

 

「きっと、大丈夫よ~」

 

 榛名が、まるでこちらの心を読んだようなことを言って来た。

 それに口元だけで笑んで、柚羽は歩いた。

 きっと大丈夫なんて、何の根拠もないけれど。

 そう信じたいと、思いながら。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 段々と、腕の感覚がなくなって来た。

 血の刃や帯と無数に打ち合い、時に鎌や爪と直接鎬を削った。

 刀を握る掌から出血しているのが感覚でわかる。マメが潰れたのだろう。

 

「ああっ、もう! しつこいのよ、不細工共!」

 

 視界のあらゆる方向、そして死角から帯が迫って来る。

 正面だけでなく、小さく頭を左右に動かした。

 可能な限り広い視界をカバーするためだが、瞬きすら出来ず、目が痛みを訴えている。

 下手に瞬きなどすれば、次の瞬間に死んでいる。

 

 上段から、下段。日輪刀を斜めに角度をつけて幾度も振るった。

 帯の硬度は鋼並みで、特別な鋼で打たれた日輪刀でさえ、斬り方を間違えれば瞬く間に刃毀れしてしまうだろう。

 刀は正しい方向に斬らなければ脆い。

 そしてこの状況においてそれは、極度の集中を要求されるということだった。

 

「させん!」

 

 頭の後ろで何かが擦過するのを感じた。

 杏寿郎が瑠衣の後頭部に迫っていた帯を斬り弾いたのだ。

 瑠衣の頭を豆腐のように細切れにしようとした帯が、視界の端で地面に落ちるのが見えた。

 そしてそのまま脇腹に衝撃が来た。杏寿郎が後ろから瑠衣を引っ張ったのだ。

 

「兄様……っ」

「んんん? お前ら、兄妹かあぁ?」

 

 鼻先を、血色の鎌が通り過ぎた。

 兄に身を引かれながらも、瑠衣は刀を振り上げた。

 その斬撃は妓夫太郎の顎を掠めたが、当然、そんな掠り傷に怯む相手ではなかった。

 

 手足を蟷螂(カマキリ)のように振り回して、妓夫太郎の斬撃が迫って来た。

 一撃一撃が速く、全てが瑠衣の急所を狙っていた。

 捌き切れない。すぐにそう悟った。

 妓夫太郎の攻撃は堕姫のそれより遥かに正確で、鋭かった。

 

「どけ、煉獄!」

 

 この場合の「煉獄」はどちらを指すのか。もちろん両方だった。

 極限状況の中で、いちいち呼び方を気にしてはいられなかった。

 妓夫太郎の斬撃に被さるようにして、宇髄の爆ぜる斬撃が来た。

 

「ドンドンドンドン騒がしい奴だなあぁ」

 

 血の斬撃と爆発する斬撃の衝突は、それだけで周囲の物を吹き飛ばしてしまう。

 鋼が打ち合う音の代わりに、花火を間近で聞くような轟音が周囲を揺らし続ける。

 味方でさえも近づき難いその空間に、しかしあえて飛び込む者もいた。

 宇髄の大きな体を盾に、禊が己が矮躯を斬撃の隙間に潜り込ませた。

 

 ――――欺の呼吸・弐ノ型『面子』。

 二つに分割した槍を短く持ち、無数の突きを繰り出す。

 しかしその突きの全てを、妓夫太郎は的確に迎撃してきた。

 僅かな隙を突いても、人間ではあり得ない角度に手足が曲がって防いでしまう。

 

「……っ」

 

 そして上弦と斬り結ぶ者の宿命として、それにかかりきりになる。

 僅かでも気を抜けば死ぬ。他を気にしていられない。

 それでなくとも上弦の凄まじい鬼気の前に立ち続けること自体、精神(こころ)を削る。

 不意に、両側から迫る帯に気付いた。

 

「気を抜くんじゃねえ!」

「……誰がっ」

 

 半ば禊に覆い被さるようになりながら、宇髄の日輪刀が両側に壁を作った。

 爆発が帯を吹き飛ばし、そしてそのまま宇髄も妓夫太郎との攻防に加わった。

 それを見た妓夫太郎が、大きく両手の鎌を振るった。

 

「そんな風にやる気を出してもなあ、やる気だけで勝てるわけじゃねえんだよなああ」

 

 ――――血鬼術『飛び血鎌』。

 放たれた後、自在に血の刃が宇髄の背後に回る。

 内に禊を庇い、外に妓夫太郎と斬り合っている宇髄は身動きが取れない。

 逃げ道がない、と、宇髄がそう思った時。

 

「はあああっ!」

 

 ――――風の呼吸・陸ノ型『黒風烟嵐』!

 血の刃の下から、風を纏った斬り上げの斬撃を放つ。

 正面から斬り払うには血鬼術が強すぎる。まともに打ち合えば負ける。

 だから軌道を逸らすだけだ。宇髄の背から攻撃を外せばそれで良い。そうすれば。

 

 ――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎』。

 そうすれば、炎の剛剣が血の刃を断ち切ってくれる。

 杏寿郎の渾身の一撃が血の刃を散らしたことで、僅かな間が出来た。

 その間を使って宇髄と禊は妓夫太郎から離脱し、瑠衣と杏寿郎が入れ替わりで前に出た。

 

「やるじゃねえかよ」

「不細工のくせに」

 

 それに対して、上弦の陸の鬼気はより大きく膨れ上がった。

 肌刺す鬼気の中で、瑠衣は再び瞬きの出来ない時間へと飛び込んだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 やべえな、と宇髄は思った。

 一見、宇髄達が上弦の陸と互角以上に渡り合っているように見える。

 実際、杏寿郎はもちろん、瑠衣も禊も彼の予想以上に奮闘している。

 しかしそれでもなお、未だ肝心の妓夫太郎に対して有効打を一撃も与えていない。

 

 鬼と人間ではそもそもの体力が違う。

 いつまでも全力疾走が続かないように、人間は疲弊する。

 消耗戦になれば、人間は鬼に絶対に勝てない。

 体力の続く内に、何としても決着をつけなければならなかった。

 

「お前ら、違うなあ。今まで殺してきた柱や鬼狩り達と違う」

 

 その時、妓夫太郎が言った。

 相変わらず、ボリボリと自らの体を掻き毟りながら、だ。

 

「お前らはきっと生まれた時から特別だったんだろうなあ。選ばれた奴なんだなあ。妬ましいなぁ、一刻も早く死んでくれねえかなぁ」

 

 特別な才能。選ばれた人間。妓夫太郎はそう言った。

 おそらく、彼とここまで戦い続けた鬼狩りがいなかったのだろう。

 ほとんどの鬼狩りは堕姫すら突破できず、堕姫の手に負えない鬼狩りも妓夫太郎の前にあっけなく戦死してしまったのだろう。

 そういう意味では、なるほど、宇髄達は特別なのかもしれない。

 

「なあ、煉獄」

「何だ」

「お前、自分が特別だって思ったことあるか?」

「いや! ないな!」

「だよなあ」

 

 くっと笑って、宇髄は妓夫太郎に冷ややかな視線を向けた。

 眉根を寄せる妓夫太郎に、宇髄は言った。

 

「恵まれたやつだな、お前」

「あぁ?」

「この程度で「特別」なんて言葉を使う時点で、お前がどれだけ狭い世界で生きて来たのかがわかるぜ。だから言ったんだ。()()()()()ってな」

 

 宇髄は、自分が特別だなどと思ったことはなかった。

 というより、鬼殺隊士の中で自分が特別だなどと思っている人間はいないだろう。

 戦っても、努力しても、仲間を、人を守れずに命が零れ落ちていく。

 そんな中で、自分が特別だとどうして思えるだろう。

 

「そうね、わたしは特別なんかじゃないわ」

 

 ただ、禊のその言葉は意外だった。

 

「何よ」

「あ、いえ」

 

 じろりと見つめられて、瑠衣は目を泳がせた。

 しかし禊は気にした風もなく、むしろ顎を上げて堕姫の方を見やった。

 

「わたしは特別じゃないわ」

 

 口元は、実に厭らしく笑んでいた。

 

「じゃあ、特別じゃないわたしに勝てないあんたは何なのかしらねえ。ねえ、蕨姫?」

 

 挑発が的確すぎる。

 堕姫は文字通り鬼の形相を浮かべている。もう禊のことしか見えていなそうだった。

 こういうやり方は、瑠衣にはできない。

 

 宇髄も杏寿郎も、堕姫よりも明らかに強力な妓夫太郎を相手に一歩も引けを取っていない。

 自分だけだ。自分だけが、何の役にも立てていない。

 役に立て。煉獄家の娘として、戦いに貢献しろ。

 そのためになら、死をも(いと)わない。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 禊への怒りに駆られた堕姫の攻撃と同時に、瑠衣も動いた。

 帯を足場に、呼吸による超人的な脚力で空中を駆ける。

 禊への攻撃を防ぎながら、帯伝いに堕姫への距離を縮めていく。

 

「こいつ、また!? どういう足してるのよ!」

 

 根だ帯だと、普通は足場になることはない。

 足場にこちらの力が伝わるよりも先に次の動きをすることで、普通は足場になることのない場所を足場にすることができる。

 この走法を会得するために、瑠衣はそれこそ足を血塗れにしながら修練を積んだのだ。

 

(潜れ、る……!)

 

 堕姫の帯の攻撃。厄介だが、慣れて来た。

 というより、知っていた。同じではないが、似た()()()を。

 ずっと違和感を感じていたが、ようやくわかった。

 刃のように鋭い布地。そして、()()()()()()()()()()

 目に、脳裏に焼き付いて離れない、あの()()

 

(コイツなんかより、あの人の剣の方がずっと凄い……!)

 

 攻撃の速度も、追い込み方も、全然違う。

 瞬きはしなかった。一瞬でも視界が切れれば動きが鈍るからだ。

 潜れ、と己に念じた。あの人の剣に及ばぬこの程度、潜ってみせろと。

 目の前、帯が最も密集している場所に飛び込んだ。

 

 一見密集しているように見えるが、その実、帯同士の接触を避けるために間が空いている。

 攻撃の間にだけ出来るその僅かな空隙に、突っ込む。

 帯が隊服と、そして肌を裂く感触を感じながら、抜けた。

 瞬間、体を回転。帯を半ばから全て斬り払った。

 

「上等。来なさいよ、帯なんかなくたって直接殺してあげるわ!」

 

 ――――風の呼吸・捌ノ型『初烈風斬り』。

 踏み込みの音が辺りに響く。それ程の力で、瑠衣は地面を蹴った。

 そして出し得る最高速度で、斬りかかった。

 ()()()()()

 

「おぉお?」

 

 妓夫太郎にとっても予想外だったのか、瑠衣の方向転換に驚いていた。

 しかしそこは上弦の鬼。瑠衣の攻撃にしっかりと反応してくる。

 瑠衣の渾身の一撃を、両手の禍々しい鎌で受け止めた。

 だが、受け止められることは織り込み済みだった。

 

 瑠衣は手首を捻って刃の向きを変えると、柄込み――鎌が柄に差し込まれている部分――まで日輪刀の刃を滑らせた。

 そのまま鎌を引っかけて、振り下ろしの要領で地面に叩き付けた。

 妓夫太郎の血の鎌が、瑠衣の刀によって地面に押さえつけられる形になった。

 

「おおっ……?」

「ちょっと、お兄ちゃん!?」

 

 まさに、大きな隙だった。

 宇髄や杏寿郎が見逃すはずがない程の隙だ。

 次の瞬間、誰かの刃が妓夫太郎の頚を落とす。

 瑠衣はそう思った。

 

「まあぁ、無理なんだけどなああぁ」

 

 鼻が触れ合いそうな距離で、妓夫太郎が嗤っていた。

 その顔が血の刃に遮られて見えなくなったのは、一呼吸後のことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣はここで、致命的なミスを1つ犯した。

 

(予備動作なしで、斬撃が! しかも範囲が広い!)

 

 それは妓夫太郎の血鬼術が、鎌から放たれていると誤認したことだ。

 これまでは、確かに鎌から血の刃が放たれていた。

 しかし「鎌からしか放てない」わけではなく、「鎌から()()放てる」というだけだった。

 鬼を見た目通りに判断してはならない。

 

 妓夫太郎の腕の血管から、血が直接噴き出した。

 それが渦を巻きながら瑠衣に迫り、襲い掛かった。

 妓夫太郎の両腕を鎌ごと押さえている瑠衣には、回避の方法がなかった。

 迫る殺意の塊に全身の産毛が逆立った。

 

(――――いや! 避ける必要なんてない!)

 

 それでも、妓夫太郎の両腕を拘束する。

 自分は死ぬだろうが、それで杏寿郎達が頚を斬れる。

 血の渦が振れる直前まで、瑠衣はそう考えた。そして次の瞬間。

 

「――――うぐっ!?」

 

 不意に襟元を掴まれて、呻いた。同時に刀が何かに打たれて、腕が跳ね上がった。

 そして、物凄い力で後ろに放り投げられる。

 何だと思って一瞬混乱したが、回転する視界の中、見覚えのある後ろ姿が2つ見えた。

 

 ――――炎の呼吸・肆ノ型『盛炎のうねり』。

 ――――音の呼吸・肆ノ型『響斬無間』。

 

 宇髄が刀を蹴り、杏寿郎が瑠衣を放り投げていた。

 そして妓夫太郎の血鬼術を、斬撃で壁を作ることで迎撃していた。

 普段の2人であれば、それで十分に受け切れただろう。

 しかし、そうはならなかった。 

 

「……一手。いやあ、二手かあ? 遅れたなあぁ」

 

 瑠衣が情けなく地面に落ちて、顔を上げた時だ。

 瑠衣は、杏寿郎の足と宇髄の肩から、鮮血が舞うのを見た。

 血を失っていないというのに、瑠衣は自分の血の気が引くのを感じた。

 ひゅっ、と、確かにそんな音が聞こえた気さえした。

 

「ひひっ、間抜けだなあ。弱いやつを庇ってなあ。俺の血鎌は猛毒がある。掠り傷でも死ぬぜ」

 

 猛毒という単語に、瑠衣は棍棒で頭を殴られたような衝撃を受けた。

 

「ひ、ひひっ。いい顔するなあ、お前。心配するな。お前もすぐ」

 

 に…と、妓夫太郎は二の句が告げなかった。

 何故なら彼が瑠衣の方を向いた次の瞬間、杏寿郎の刀が頚に叩き込まれたからだ。

 無警戒のところに突然の衝撃が来て、さしもの妓夫太郎も表情を歪ませた。

 

(どういうことだ!? 俺の血鎌で確実に斬ったはずだぞ!?)

 

 妓夫太郎の血鎌の毒は、ほんの数ミリで象さえ泡を噴いて倒れる程の猛毒だ。

 掠り傷でも死ぬというのは、けして誇張ではない。

 にも関わらず、杏寿郎は動いている。

 いや動くどころか、こうして妓夫太郎の頚に刃を突き立てている。

 あり得ない事態だった。それこそ過去に戦った鬼狩りならすでに終わっている。

 

「……ッ!」

 

 もう1人、宇髄も動いていた。

 こちらも確実に猛毒の血鎌で斬りつけた。本当なら死んでいるべきだ。

 しかし宇髄も信じられない速度で動き、二刀の日輪刀を妓夫太郎目掛けて振り下ろしていた。

 狙いは杏寿郎が打ち込んだ側と反対側、つまりは頚だった。

 

(何だ、こいつら)

 

 そんなことはあり得ないのだが、一瞬、妓夫太郎は杏寿郎と宇髄が同じ顔をしているように見えた。

 猛毒に青褪め脂汗を流しながら、歯を食い縛り、ギラギラした眼光で自分を睨み、頚を斬ろうと迫ってきている。

 

(毒が回っているんだぞ! それなのに動きやがる! どうしてだ!? ふざけんなよなああ!)

 

 妓夫太郎は鬼でありながら、しかも上弦でありながら、しかし確かに宇髄と杏寿郎に対してたじろいだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――血鬼術『輻輳(ふくそう)魍魎(もうりょう)』!

 妓夫太郎の口から、凄まじい咆哮が放たれた。

 それは鼓膜どころか、空気を、いや周囲の空間ごと震わせる程のものだった。

 

(――――不覚! この好機を逃すとは!)

 

 妓夫太郎の体中の血管から放たれた血の刃が、杏寿郎の全身を引き裂いた。

 本当なら踏ん張らなければならない場面だが、妓夫太郎の毒が予測以上に強力だった。

 呼吸で毒の進行を遅らせると同時に、一方で身体能力は高め続ける。

 この矛盾する2つを同時に行うことは、例え柱であっても難易度が高い。

 

(畜生、近付けねえ! 俺の方が煉獄より毒に耐性があるってのに……!)

 

 毒のせいで踏ん張りが効かずに、杏寿郎の刀が妓夫太郎から抜けてしまった。

 半ばまで斬れていたらしく、頸動脈のあたりから血が噴いていた。

 しかしその噴き出した血が、新たな攻撃となって宇髄に襲い掛かって来る。

 

 宇髄は忍の一族だ。ただそれを誇りに思ったことはない。

 自分の子供達を殺し合わせた父親、唯一生き残りながらそれを何とも思わない弟。

 同じような存在になることが嫌で、宇髄は家を出たのだ。

 しかしそこで得た耐性が、毒を受けながら戦うことを可能にしているのもまた事実だった。

 

(円斬旋回を全て弾きやがった! 毒が効いてるくせになああ!)

 

 妓夫太郎は胸中で毒吐いたが、同時に自分がじわじわと勝利に近付いていることも気付いていた。

 いかに耐性や呼吸があろうとも、限界はある。

 あるいは毒の遅延だけに集中すれば、朝までは体を保たせることも可能かもしれない。

 宇髄、そして杏寿郎にはそれだけの実力と技術がある。

 

「くそったれが……!」

 

 宇髄の呻き声に、ほらな、と妓夫太郎はほくそ笑んだ。

 いくら頑張ったところで所詮は人間。この程度だ、と。

 とどめのために鎌を振り上げる。

 しかし振り下ろしの瞬間、腕が消えた。文字通り、肘から先がなかった。

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』。

 瑠衣だった。妓夫太郎の腕を斬り飛ばし、着地と同時に返す刀を振るってきた。

 それは妓夫太郎の注意を引くには十分で、斬られていない方の腕が瑠衣へと向かった。

 

(これで……!)

 

 瑠衣は、視界の端で宇髄が動くのを見ていた。

 妓夫太郎の腕を落とし、もう1本の腕が自分を攻撃しようとしている。

 噴き出した血の刃も、大半が瑠衣に向けられていた。

 このまま自分が妓夫太郎の攻撃を引き付けておけば、宇髄が頚を狙える。杏寿郎も戻って来る。

 問題は、瑠衣がいつまで妓夫太郎の攻撃を捌けるか、ということだった。

 

「弱いくせに邪魔すんじゃねえよなあ!」

 

 ――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐風樹』!

 連続の斬撃。鋼の刃と風の刃でもって血の刃を迎え撃った。

 一撃を斬り払う度に、痺れるような感覚が両腕を襲った。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』!

 刀ごと自身を回転させて、突撃した。

 血の刃の隙間を縫い、跳んで、妓夫太郎の鎌を掻い潜った。

 ばさっ、と、音を立てたのは、瑠衣の隊服の上着だ。

 

「なあっ?」

 

 それが、妓夫太郎の顔の右側にかけられていた。

 妓夫太郎は左眼を閉じていた。堕姫の額に第三の目が開いてからだ。

 鬼と言えど視界はある。瑠衣の上着は、その視界を一瞬奪った。

 しかし、そこが限界だった。

 

 空中で、帯のような足場もない。

 身動きが出来ないその状況で、妓夫太郎の背中から血の刃が噴き出すのを見た。

 それでも、瑠衣は抵抗を続けようとした。

 妓夫太郎の気を引き続けることが重要なのだ。それ以外は自分の命も含めて二の次だった。

 

「あぐっ!?」

 

 だから、宇髄に蹴りを入れられた時、一瞬何が起こったかわからなかった。

 

「地味なことしてんじゃねえぞ」

 

 耳に届いた宇髄の言葉の意味も、わからなかった。

 わからないままに吹き飛ばされて――宇髄にも余裕がなく、肋骨に罅が入る程の蹴りだった――瑠衣は、背中でどこかしらの建物の戸を破壊して、その中に転がったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 上弦の参、猗窩座との戦いでもそうだった。

 あの時、兄は猗窩座の頚を斬るチャンスだったにも関わらず、『煉獄』を止めた。

 そして今、宇髄までもが同じことをした。

 それが何故なのか、瑠衣は今この瞬間も理解できずにいた。

 

「う……」

 

 肩から戸や桶の破片をパラパラと落としながら、瑠衣は頭を振った。

 軽い眩暈を感じたが、これは戦闘の反動だ。激しい運動の後に似ている。

 それでも日輪刀を放さなかったのは、体に染み込んだ鬼狩りとしての本能だろう。

 

「……音柱様。兄様!」

 

 戦いの気配がして、顔を上げた。

 外、それから上だ。

 

「禊さん……!」

 

 屋根の上でも戦いの気配がある。そちらは禊と堕姫だろう。

 一瞬、どちらの助勢へ行くべきか迷った。 

 禊1人で堕姫と戦うのは厳しい。しかし杏寿郎と宇髄は毒に犯されている。

 

 そう、逡巡した時だ。

 カタン、と、音がした。

 反射的に日輪刀を握り、そちらを振り向いた。

 

「え……」

 

 すると、そこに男がいた。

 若い男で、襟元に豪奢な刺繍の入った黒い洋装(ジャケット)を着ていた。

 室内だというのに洋物の帽子を被っていたが、不思議と奇妙には思わなかった。

 見るからに上流階級といった風で、花街の人間らしくはなかった。

 

 そしてそれ以上に、纏っている雰囲気が独特だった。

 静かだった。静すぎる程に。まるで男の周りだけ時間が停まっているかのようだった。

 それから、目だろうか。こちらを観察しているような目。

 まるで、蛇に睨まれているような心地だ。

 

「……どうしました?」

 

 男が、声をかけて来た。

 はっとする程に白い顔が、自分の方を向いていた。

 そこで、瑠衣は自分が極度に緊張していたことに気付いた。

 上弦との戦いで、気が立っていたのかもしれない。

 

「外が騒がしいようですが、何かあったのですか?」

「あ……外は今、危険なんです。だから避難を」

 

 男に避難するよう言おうとした時、頭上で何かが砕ける音がした。

 何だと思って視線を上に向けるのと、無数の帯が屋根を貫いて来るのはほとんど同時だった。

 瑠衣を狙ったものではなかった。禊を狙ったのだろう。

 その証拠に、帯は瑠衣に届く前に四方八方に動き、屋根を、梁を、柱を切断していった。

 

(崩れ……っ、倒壊するっ!)

 

 ――――風の呼吸・肆ノ型『昇上砂塵嵐』!

 男の前に飛び出し、瑠衣は崩れ落ちて来る瓦礫に対して刀を振るった。

 男は、そんな瑠衣の背中をじっと見つめていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 降り注ぐ瓦礫を、ひたすらに斬った。

 とは言え、全てを斬ることは出来ない。

 だから瑠衣は刀を振るいながら背後の男の腕を掴むと、そのまま建物の外へと跳んだ。

 

「ぐっ」

 

 肩をしたたかに地面に打ち付けて、顔を顰める。

 その直後、足の方――つまりはついさっきまでいた建物が倒れる音を聞いた。

 土埃が舞い、軽く咳き込んだ。

 

「だ、大丈夫ですか? すみません、乱暴で……」

 

 自分のことより、居合わせた一般人の方が気になった。

 だが瑠衣の手には、掴んだはずの腕がなかった。

 男が着ていた衣服の袖が、その切れ端が手の中にあるだけだった。

 混乱した。確かに男の手を掴んだはずだった。

 

 ばっと顔を上げて、土煙の収まりかけた倒壊現場を見やった。

 長屋だったそれが、いくつかの残骸の山と化していた。

 まさかと青褪めて、瑠衣は急いで立ち上がった。

 そうして瓦礫の山に駆け寄ろうとした瞬間、無数の帯が残骸に突き立ち、切り裂いていった。

 

「あ、ああ……っ!」

 

 瓦礫が細切れになって飛び散る様に、瑠衣は悲痛な声を上げた。

 それでも足は駆け寄ろうと動いたが、しかしそれさえも許されなかった。

 帯が、こちらへ矛先を向けて来たからだ。

 瓦礫に隠れながら進んで来るものもあり、足を斬られかけた。

 すぐに周囲を囲まれる。帯の全てが瑠衣を狙っていた。

 

「――――ッ!」

 

 歯を噛んで振り仰げば、崩れた屋根の先端に立ち、月を背にして嗤う鬼がいた。

 死も破壊も気にせず、ただ己が愉しむために全てがあると、そう主張しているかのようだった。

 何が楽しい。この瓦礫の山を、破壊された花街を見て何を笑う。

 

「ぼうっとしてんじゃないわよ!」

 

 帯。しなる槍が瑠衣の頭上からそれを打ち払った。

 禊だった。着物があちこち破れて朱に染まっている。

 傷は見えないが、負傷しているのだ。

 

「次は構わないわよ!」

「すみません!」

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 帯を斬り弾きながら、瓦礫の山を駆け上った。

 堕姫に刃先が届く寸前、足元から帯が飛び出して来た。

 鋼を削る独特の音を響かせてそれも斬り払い、跳躍した。

 

 壱ノ型の回転のままに日輪刀を振るい、擦れ違い様、頚を狙った。

 堕姫は反射的に頚を押さえて、着地する瑠衣を睨んだ。

 堕姫の指の間から血が流れていて、瑠衣はその血を目掛けて突進した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 堕姫は強力な鬼だった。

 しかし妓夫太郎に比べれば数段劣る。ここまでの戦いでそれは良くわかった。

 上弦の参や肆には、及ぶべくもない。

 

「わたしがこの街でまだ禿をやってた時なんだけどね」

 

 10歳、いや9歳の頃だったろうか。

 女衒(ぜげん)――少女を遊郭に売る業者――相手にスリをして、うっかりと掴まり、遊女になるはめになった。

 当時は自分ともあろうものがやらかしたものだと思ったが、やってみると遊女(これ)が意外と自分に合っていた。

 

 持ち前の利発さと美しさで引込禿に選ばれ、将来の花魁として教育を受けた。

 禊は物覚えが良く、一度教えられたことは教養でも芸事でもすぐに覚えた。

 路地裏でスリをしていた少女が、金持ちの娘でも受けられないような英才教育を受けることが出来たのだ。

 10歳を過ぎた頃には、まだ禿でありながらすでに客がついていたくらいだ。

 

「まあ、その時の客の1人が荻本屋の旦那さんなんだけれども」

 

 男というのは本当に馬鹿だと、禊は思う。

 遊女に入れ込む男というのは特にそうだ。馬鹿しかいない。

 あまつさえ数年ぶりに再会した女に何くれと世話を焼こうとする。便宜を図り、庇おうとする。

 嗚呼、何と愛すべき愚か者だろうか!

 

「わたしが禿をしていた時、鬼が来た。その時あんたはいなかったみたいだけど」

 

 後で知った話だが、その鬼は下弦の鬼だったらしい。

 討伐に来た男はあっさり死んだ。その男が鬼殺隊というのも後で知った。

 初めて鬼を見た時、素晴らしいと思った。永遠の生、不死身の肉体、強大な力。

 そして何よりも、そんな強い鬼を倒し、勝利する悦びに震えた。

 

 閨で男を()()()()時とは比べ物にならない。

 人間ごときに負けるはずがないと思っていた鬼が、自分のような非力な娘に頚を斬られた瞬間、信じられないものを見るような顔をする。

 自分が強者だと信じて疑っていない者が、死を自覚した瞬間のあの表情の変化。

 その時、禊は腹の下から脳天に突き抜ける程の快感を覚えるのだ。

 

「まあ、つまり何が言いたいかっていうと」

 

 帯の中に飛び込みながら、禊は言った。

 

「あんた、あんまり()くないって話」

「減らず口の尽きないやつ……!」

 

 帯の攻撃を受けて、禊の槍が砕けた。

 ――――欺の呼吸・壱ノ型。

 

「その技は何度も見たわよ!」

 

 しかし槍が砕けても堕姫は油断せず、攻撃を続行した。

 禊の槍が分割できることは何度も見ていて、いい加減に同じ手は喰わんとばかりに猛攻を重ねて来た。

 禊の手から槍の部品が次々に弾かれていき、ついには無手になってしまった。

 それを見て、堕姫はようやく踏み込んできた。

 

「死ね、玉鬘!!」

 

 嗚呼、と禊は思った。

 この()()()()が、自分は好きなのだ。

 

「壱ノ型」

 

 改め、()・壱ノ型。

 

「『器械人形』」

 

 禊が掌を握ると、帯に弾き飛ばされた日輪刀の部品が、何かに引き寄せられるように()()()()()

 それらはそれぞれ堕姫の肩や足に突き刺さり、刺された堕姫は驚愕に目を見開いた。

 槍が突き立った勢いで体が揺れ、それが糸に繋がれた人形のように見えた。

 

(い、糸!? いつの間に!)

 

 禊の日輪刀の部品には、全てに隠し刃が仕込まれている。

 そしてそれらを繋ぐのは極細で強靭な鋼糸。

 帯という立体的な攻撃の最中、糸というこれまた立体的な仕掛けを施せたのは、禊という少女の天性の器用さによる。

 そして、無防備になった堕姫の頚に。

 

「はあああああっ!」

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』。

 瑠衣の刀が、振り下ろされた。

 それは確実に堕姫の頚を捉え、瑠衣は刀を振り抜いた。

 しかし瑠衣の手に伝わって来たのは、肉と骨を断つ独特の手応えではなく、それこそ布を斬りつけたような不可思議な感覚だった。

 

「あ……アンタ達なんかに、アタシの頚、が」

 

 頚が、帯のように平たくなり、柔らかくしなっていた。

 斬撃の威力をしなって受け流し、切断を免れている。

 未だかつて、こんな方法で頚を守った鬼はいなかった。

 

「斬れるわけないでしょ……!!」

 

 堕姫の頚は切れることなく、()()()とぶら下がっていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 頚の帯化は予想外だったが、しかし瑠衣は慌てなかった。

 一度は頚を斬り落としているからだ。

 しなるよりも速く、あるいはしなっても受け切れない斬り方をすれば良い。

 そして斬撃の速度という点において、風は呼吸の中でも一、二を争う型だ。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』!

 堕姫の体にはまだ禊の日輪刀が突き立ったままだ。再生するには抜く必要がある。

 その(いとま)を与えない。連続で斬る。頚を斬り落とすまで。

 分厚い絨毯を斧で切断するように、帯化した頚を刃で何度も()()()()()

 

(き、斬られる)

 

 頚の筋肉の繊維が体内で悲鳴を上げていて、堕姫は背中に冷たい汗を流していた。

 頚が斬られても()()()()が、それでも日輪刀による頚の切断は鬼にとって本能的な恐怖だ。

 太陽の鉄が肌に触れる感触は、それだけでも不快なのだ。

 それが自分の急所を何度も斬りつけられるというのは、鬼の精神ですら擦り減らす。

 

「お、おに」

 

 ――――風の呼吸・捌ノ型『初烈風斬り』。

 堕姫の帯化した頚に微かに出来た裂け目、そこに両手で握り込んだ日輪刀を振り下ろす。

 渾身の力で振り下ろされる刃に肌を粟立たせて、堕姫は叫んだ。

 

「お兄ちゃあああああん助けてえええええええ!!」

 

 叫んだところで、妓夫太郎は来れはしない。

 宇髄と杏寿郎が押さえている。だから瑠衣は構わずに日輪刀を振り下ろした。

 しかしそれは、堕姫の頚に当たることはなく。

 

「俺の妹を泣かすんじゃねえよなああ」

 

 真っ赤な血鎌によって、受け止められてしまった。

 妓夫太郎。しかし何故と考える前に、瑠衣と禊は動いていた。

 先手を取る他に手がないからだ。だが妓夫太郎の速度は2人を遥かに凌いでいた。

 血の刃が目の前で渦を巻く。

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 その血の刃を、駆け付けた杏寿郎が斬った。

 彼は妹の腰を抱え込んで、技の勢いのままに妓夫太郎から離れた。

 

「兄様、すみません!」

「いや俺の方こそすまん! 奴を止めきれなかった!」

 

 杏寿郎の顔は、毒のせいか土気色になりつつあった。

 何度か血を吐いたのか、口元には拭った跡が見える。

 もう時間をかけてはいられなかった。

 そしてそれは、杏寿郎に続いて駆けつけて来た宇髄が一番よくわかっていた。

 

(くそったれ。毒が地味に効いてきていやがる……!)

 

 妓夫太郎と斬り合いながら、宇髄は自分の動きが少しずつ鈍ってきていることに気付いていた。

 口内にせり上がって来た血を、何度飲み込んだことか。

 指先の感覚がほとんど消えていて、技の精度が目に見えて落ちてきている。

 妓夫太郎の体から血が噴き出し、再び渦巻いて襲い掛かって来た。

 宇髄はそれらを全て迎撃したが、血の刃が消えた後、妓夫太郎の姿が消えていた。

 

「……!」

 

 妓夫太郎が向かったのは、禊だった。

 

「お前が俺の可愛い妹を泣かせたのかああ?」

「は? 何それキモい」

 

 言いつつ鋼糸を手繰ったが、日輪刀は戻らなかった。

 違和感に視線だけ向ければ、日輪刀の部品は堕姫の体に刺さったままだった。

 ()()()()。堕姫の肉が掴んで離さなかった。

 にやりと、堕姫が嗤っていた。

 

「死ね」

 

 ――――油断した。

 この時、禊が思ったのは「あーあ」だった。

 それ以上でもそれ以下でもなく、ただ「あーあ」と思った。

 

 これだから愚図と組むのは嫌なのだ、と。

 まあ、良い子ちゃんのあの子(瑠衣)と違って、杏寿郎や宇髄が自分を庇う義理もない。

 というか、自分が杏寿郎や宇髄の立場でも、自分のような者をあえて庇おうと思わないだろう。

 だから2人や瑠衣が必死そうな顔で動こうとしているのを見ても、やはり「あーあ」としか思わなかった。まして。

 

「玉鬘さんっ!!」

 

 まして、日輪刀を振り上げた千寿郎が飛び出して来た時などは。

 え、と思い。

 

「あんた何してんの!?」

 

 と、叫んだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 杏寿郎と全く同じ型。師も同じなら剣筋も同じ。

 違いがあるとすれば、練度だろう。

 

「何だあ、お前」

 

 杏寿郎の技でさえ物ともしない妓夫太郎に、通じるはずもなかった。

 千寿郎の斬撃は血鎌の一振りで弾かれ、返す刀でそのまま殴られた。

 ぎゃっ、と悲鳴を上げて、千寿郎が地面に打ち付けられる。

 

「ぐ……」

 

 それでも煉獄家の剣士、鍛え方が違う。気絶はしなかった。

 しかし手をついて顔を上げた途端、千寿郎は固まってしまった。

 妓夫太郎の発する鬼気に、全身を押さえ付けられるような錯覚を覚えたのだ。

 

 思えばこれ程の鬼気に、害意に、殺意に晒されたのは初めての経験だった。

 当然と言えば当然だ。千寿郎はまだ剣士になったばかりなのだ。

 いかに煉獄家で育ったとは言え、鬼狩りの経験は他の新人と大差がない。

 それなのに、いきなり上弦の前に出てしまった。金縛りに合うのも無理は無かった。

 

「千寿郎――――――――ッッ!!」

 

 瑠衣は悲鳴を上げた。

 血の気が引くとは、まさにこのことだった。

 このままでは千寿郎が死ぬ。しかし。

 

「千じゅ……ごほっ」

 

 動こうとした杏寿郎が、吐血して膝をついた。

 宇髄は攻撃を捌いた直後で体勢が悪い。禊は無手だ。

 自分しかいない。千寿郎を救えるとしたら自分しかいない。

 

 だが杏寿郎に救われたことによって、妓夫太郎のところまでは距離があった。

 壱ノ型をやるには回転が要る。伍ノ型をやるには高さが要る。最低でも二動作かかる。

 間に合わない。どう考えても妓夫太郎の方が一動作速い。

 一動作で、妓夫太郎のところまで行かなければ間に合わない。

 

(死ぬ! 千寿郎が死ぬ! 殺される! 駄目、駄目、駄目――――駄目ッ!!)

 

 最速が必要だ。

 妓夫太郎が血鎌を振り下ろすよりも、血鎌が千寿郎の頚を刎ねるよりも。

 その一動作よりもなお速く。だがそんな技を瑠衣は持っていない。

 どうすれば良い。どうすれば杏寿郎が自分を救ってくれたように、弟を。

 

 視界の中、妓夫太郎の腕が振り下ろされ始めたのを見た。

 

 その瞬間、瑠衣は己の中から感覚が消えるのを感じた。

 千寿郎、と、自分の口が発した音でさえ、聞こえなかった。

 思考も感覚も置き去りにして、肉体だけが突き動かされた。

 視界にいるのは千寿郎だけ、脳裏に浮かぶのは自分を救ってくれた杏寿郎の姿だけ。

 

 ――――風の呼吸。

 

(千寿郎、千寿郎千寿郎千寿郎――――千寿郎ッ! 助ける! 絶対に!)

 

 ――――壱ノ型。

 

(ああああああああああっっ!!)

 

()()()』。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 宇髄達が上弦の鬼と会敵。

 その報はすぐに鬼殺隊本部の産屋敷耀哉の下に届き、彼は病床よりすぐに指示を出した。

 それは、宇髄達への援軍の指示だった。

 上弦の鬼は柱でさえ倒せない。100年不敗はけして誇張ではないのだ。

 

 上弦の鬼との遭遇は、ほとんどが偶然だ。

 それ故に歴代の柱達は未知なる上弦の鬼に1人での対応を強いられ、敗れてきた。

 しかし今回は宇髄が入念に調査していたこと、それによって吉原という地域にまで絞り込めていたこと、隣接する地区を担当する柱を吉原側に()()()いたことで、援軍が可能となった。

 

「まったく、また上弦か。最近は鬼共の動きが目に余る。鬼に振り回されるなど不快極まりない」

 

 蛇柱である伊黒は、宇髄救援の命が出るやすぐに動き出した。

 というより、上弦との遭遇の可能性を聞いた段階で警備地区の境界線ぎりぎりまで出向いていた。

 最近はこういう役回りが多い。慣れたものだった。

 

「しかし杏寿郎も瑠衣も、よくよく上弦に縁があるのか。これも血の成せる業か。だとすれば因果なことだが」

 

 そんな伊黒の独白を聞くのは、ただ蛇の鏑丸だけだった。

 

「あら、伊黒さんはもう出発したのですか? それはそれは、随分とせっかちですねえ」

 

 そして今1人、産屋敷が援軍として送り込んだ柱がいた。

 蟲柱・胡蝶しのぶである。

 お館様の直命以外で蝶屋敷を離れることがない蟲柱。

 他の柱ではなく、その彼女が動くということは、単純な戦力とは別の面を期待されているということだろう。

 そしてそれは、しのぶ自身も良くわかっていた。

 

「それにしても、上弦ですか……上弦の鬼」

 

 吉原の花街を目指して駆けながら、しのぶは幾度か「上弦の鬼」という言葉を言の葉に乗せた。

 まるで年頃の娘が、舌の上で飴玉を転がしでもするかのように。

 何度も声に出して、上弦の鬼という言葉を繰り返した。

 その言葉が、しのぶにとっていかに重要な意味を持つのかが窺い知れた。

 

「私の探している鬼だと、良いのだけれど」

 

 しのぶは、ある上弦の鬼を探していた。

 探し出し、見つけ出して、そして頚を斬るために。

 だから今回の任務――宇髄の援護と上弦討伐――についても、冷静な見た目とは裏腹に、並々ならぬものを抱いていた。

 ただ表情だけは、いつも通りの柔らかな微笑に包まれていた。




最後までお読み頂き有難うございます。

上弦の陸戦はお気に入りのシーンなので、書いていてとても楽しいです。
そのせいでついつい長くなってしまうのですが、それもそろそろ終わりが近付いてきている感じです。
次回で決着させるつもりですが、どんな形にしようか悩むところです。

それでは、また次回。


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第28話:「上弦討伐」

 ――――今、何が起こったのか。

 100年不敗の鬼として君臨する妓夫太郎でさえ、己が身に起きたことについて理解が遅れた。

 片腕が斬り落とされた。事象としては単純だ。問題はそこではない。

 問題は、それを成した者の方にあった。

 

(こいつ、こんなに速く動けたのかあ?)

 

 何と言ったか。そう、確か瑠衣と呼ばれていた。

 ここまでの戦いで、この少女がここまでの速度と射程距離を見せたことはなかった。

 それが突然、この速度。この攻撃。

 しかし妓夫太郎が何よりも戸惑ったのは、速度ではなかった。

 

 ――――風の呼吸・弐ノ型『()()()()』!

 

 残った片腕で、下からの斬り上げの一撃を防いだ。

 これまでの戦いで、瑠衣の攻撃の威力の程は掴んでいた。

 だから瑠衣の両手での斬撃でも、片腕で受け止めることは容易い。

 容易いはずなのだが、何故か、妓夫太郎の腕が弾き上げられた。

 

(何だ、この()()は)

 

 ()()。瑠衣の攻撃が、重さを増していた。

 ここまでの戦いでは、周囲を跳び回りチクチクと刺す、いわば蜂のような戦い方だった。

 鋭いが一撃が軽く、妓夫太郎にとって脅威にはならなかった。

 だが今の瑠衣の攻撃はそれとは違い、腕が痺れるような衝撃を伴っていた。

 

「あ、姉上……」

 

 そして妓夫太郎以上に、千寿郎の受けた衝撃の方が大きかった。

 千寿郎は、瑠衣が使用している剣技の型が何であるのか理解している。

 炎の呼吸。壱ノ型『不知火』と弐ノ型『昇り炎天』だ。

 しかし同時に、瑠衣が炎の呼吸を使っていないことにも気付いていた。

 

「違う呼吸で、炎の型を……!?」

 

 ()()()()()()()()()()使()()

 そんなことが可能だと考えたこともなかった。

 何故ならば、それぞれの剣技はそれぞれの呼吸に合わせて開発された剣技だからだ。

 求められる能力も、鍛錬の仕方も違う。

 

 水の呼吸を極めたからと言って、雷の剣技を使えたりはしないのだ。

 しかし今、瑠衣は呼吸は風のままに、剣技は炎の型を使っている。

 普通なら呼吸と剣技の違いに動きがすぐにちぐはぐになり、まともに戦えないはずだ。

 こんな戦い方は、柱にだって出来はしないだろう。

 

(いったい、姉上に何が)

 

 驚愕に目を見開く千寿郎の前で、日輪刀を振り上げた瑠衣が駆け出していた。

 その後ろ姿はもはや蜂などではなく、野猪(やちょ)の如き闘気を放っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実のところを言えば、困惑の度合いは瑠衣も妓夫太郎や千寿郎と大差が無かった。

 千寿郎が殺されかけて、咄嗟に出た技が――()()()()による常中のままに――『不知火』だった。

 回転も跳躍も必要ない、単純な突進抜刀術。その技で、千寿郎を救えた。

 

「小娘が、調子に乗るんじゃねえよなああ!」

 

 ――――血鬼術『飛び血鎌』。

 極薄の血の刃が複数、瑠衣の視界を覆い尽くす勢いで放たれた。

 瑠衣の見る限り、それらは今までで最も大きく、そして速かった。

 それを見た瑠衣は、突進を止めて後ろに跳んだ。

 

 ――――風の呼吸・肆ノ型『盛炎のうねり』。

 斬撃が、風の盾が血の刃を弾き散らした。

 じんとした衝撃が両腕に伝わる。ただ、今でのように痺れるということはなかった。

 力負けしていない。その事実にまた瑠衣自身が驚いた。

 

(やれる、やれてる)

 

 上弦の鬼と、戦えている。その事実に瑠衣は高揚した。

 不思議だ。酷く調子が良かった。

 全身の血の巡り、毛細血管の先、筋肉の繊維の一本一本でさえ、はっきりとわかる。

 妓夫太郎との打ち合い。しかしその動きでさえ、何故かゆっくりとしたものに感じられた。

 

(身体が、軽い!)

 

 妓夫太郎の四方、いや八方。いやさらに十六方、三十二方。

 ありとあらゆる場所を駆け、瑠衣はあらゆる方向から妓夫太郎に斬りかかった。

 その速度は普段にも増して速く、まさに風の如き(はや)さだった。

 

 普通の鬼なら、仮に下弦の鬼であっても、ひとたまりもないだろう。

 しかし流石は妓夫太郎というべきで、瑠衣の攻撃の悉くを防御して見せた。

 人間ならば対処できない死角からの攻撃も、関節を反対側に曲げることで防いでしまう。

 まさに鬼ならではの防御方法で、これを抜くのは相当に困難だった。

 

(抜ける)

 

 しかし、今の瑠衣はそれを困難とは思わなかった。

 確かに妓夫太郎の柔軟な防御は脅威だが、()()()()()()()()()()のだ。

 妓夫太郎の防御よりも速く攻撃するか、あるいは攻撃を修正すれば良い。

 簡単なことだ。

 

「その簡単なことができねえで、鬼狩りはみんな死んでいったんだよなあ」

 

 妓夫太郎が、両腕を振り下ろしていた。

 血鎌。瑠衣の目はそれを捉えていた。右へ跳び、すぐに左に跳んで――さらに右。

 そこから前へ跳んで、半回転しながら左へ。

 目の前に、妓夫太郎の背中があった。

 

(チィ……ッ! また蜂に戻りやがったってかあ!?)

 

 妓夫太郎の腕の関節が異様な方向に曲がり、瑠衣の喉を狙った。

 それを認識した瑠衣は、さらに右へ跳んだ。

 そこからさらに右へ。右へ――右へ。跳ぶことを繰り返した。

 妓夫太郎を中心に、右へ。ひたすらに右へ跳び続けて、そして。

 

(いや! これ……は……!)

 

 振り切る。

 妓夫太郎の目と手を振り切り、何度目かの背中を目にした瞬間。

 瑠衣は最後の踏み込みを行った。

 狙いはただ1つ。妓夫太郎の頚だった。

 

 

 ――――()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それは、枯れ枝が折れるような音だった。

 瑠衣は()()でその音を聞いた。

 そして、異変はすぐに起きた。

 

「う、あ?」

 

 不意に体勢が崩れて、右手が地面についた。

 何が起こったのか、咄嗟には理解できなかった。

 しかし右足から激痛が来て、異変が何かを理解した。

 

 視線を右足に向けると、膝の下あたりに違和感があった。

 おそらく、腫れ上がっている。

 そして先程の音と、体の内側から金槌で殴られているかのような痛み。

 ()()()()()。右足が、折れていた。

 

「……みっともねえなあ」

 

 全力で動く。

 しかしそう意識して動いていても、その実、人間の身体は全力で動いていない。

 無意識の内に抑制されてしまうからだ。なぜ抑制されてしまうのか?

 答えは簡単だ。()()()からだ。

 

 どれ程の鍛錬を積もうと、どれ程に頑強な肉体を手に入れても、身体構造は変わらない。

 全集中の呼吸で強化しようとも変わらない、人間の肉体の限界値。

 瑠衣はそれを超えてしまった。

 千寿郎を救いたい一心でそれを超え、気付かぬままに動き続けた。そして足が壊れた。

 

「みっともねえなあ。青い顔して、死にそうな顔して、立つこともできねえでなあ」

 

 異常は右足を皮切りに、全身に来た。

 筋肉が軋み、肺腑が悲鳴を上げる。

 妓夫太郎の言う通り顔色は青を通り越して白くなり、喉に酷い渇きを覚えた。

 

「ボロボロで弱っちくて、みっともねえなあ。だが俺は好きだぜ、惨めでみっともねえものが。今のお前には愛着が沸くなあ」

 

 加えて、視界が端から塗り潰されるように黒くなってきていた。

 自分が失神しかけていると、瑠衣は気付いた。

 胸を押さえて蹲りかけた瑠衣に、妓夫太郎は嗤った。

 

「みっともねえ顔のまま頚を落として、喰ってやるのも」

 

 その瞬間、赫い日輪刀が閃いた。

 正面からのその攻撃に反応して、妓夫太郎は後ろに下がった。

 喉が僅かに切れていて、指先で血に触れて確かめた。

 それを舐めつつ顔を上げると、そこには杏寿郎が立っていた。

 

「俺の妹を侮辱することは許さん!」

「嘘だなあ、()()も」

 

 そして杏寿郎と妓夫太郎の戦いを塗って、千寿郎が瑠衣に這い寄って来た。

 

「姉上……!」

 

 蹲ってしまった瑠衣の肩を掴み、揺さぶった。

 反応はなかった。失神したのか。

 千寿郎はもう少し瑠衣に近付き、耳元で呼びかけた。

 

「姉上!」

 

 その声に、瑠衣が答えることはなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()

 ……という感覚を、どう思うだろうか。

 自分の一挙手一投足を、言動の1つ1つに至るまで他人に見られている。

 煉獄瑠衣の生とは、そういうものだった。

 

(また、失敗した)

 

 失敗1つ、弱音1つ許されない。

 だというのに、自分は幾度失敗を繰り返すのだろう。

 

「悔シイノ?」

 

 悔しかった。失敗が、失態が、悔しかった。

 そして瑠衣が何よりも悔しくて仕方がなかったのは、いくら失敗しても、幾度失態を演じても、周囲はそれでもなお瑠衣を褒めるのだ。

 上弦と戦って生き残るだけで凄い。味方を生きて連れ帰っただけで凄い。

 

「ソレハ本当ニ凄イ事ダカラナンジャナイノ?」

 

 凄いことなものか。

 生き恥を晒して、いったい何が凄いというのか。

 

「死ニタイノ?」

 

 死にたいわけじゃない。

 ただ、()()()()()()立派に死にたい。

 

「立派ニ死ヌッテ、ドウユウノ?」

 

 それは、と、思った時だ。

 瑠衣は、はたと気付いた。自分はいったい、誰と話しているのだろう。

 そう思って、顔を上げようとすると。

 

「可哀想ナ子」

 

 ふわり、と、誰かが自分の頭を掻き抱いて来た。

 まるで、周囲の目から瑠衣を守ろうとするかのように。

 誰かは、わからなかった。ただ、温かかった。

 

「大丈夫ヨ」

 

 まどろむように目を閉じると、声だけが落ちて来た。

 

「オ姉チャンガ、本当ニシテアゲル」

 

 ……――――千寿郎は、驚いた。

 蹲っていた姉が、不意に立ち上がったからだ。

 それも普通に立ち上がるというよりは、跳ね上がると言った方が正しい。

 不意にそんな動きをされれば、千寿郎でなくとも驚くだろう。

 

「あ、あの、姉上? 大丈夫ですか? 怪我は、足……」

 

 そう、足を怪我していたはずだ。

 しかし今の瑠衣は、普通に立っている。

 

「姉上、あの」

「五月蠅イ」

「え」

 

 千寿郎は驚いた。何か驚いてばかりだが、とにかく驚いた。

 今まで瑠衣に叱責や注意を受けたことがないとは言わないが、少なくとも「五月蠅い」などという言い方はされたことが無かった。

 

「弱インダカラ、ウロチョロシナイデ」

 

 言葉が鋭利な刃物のように胸に突き刺さった。

 実際に瑠衣に庇われた身としては言い返せないが、しかし、やはり違和感を感じた。

 瑠衣はけしてこんな言い方は――特に自分に対しては――しないし、何より。

 

「サテ」

 

 その瞳が、金色に輝いているように見えた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 クナイの雨が降っていた。

 堕姫の血鬼術から解放され、意識を取り戻した雛鶴達が、特殊な器具を用いて50個以上のクナイを地上に向けて放ったのだ。

 鬼にクナイ如きが通じるはずもないが、何かを察した妓夫太郎はあえて血鬼術でそれを全て弾き飛ばした。

 

(……クナイが刺さりながら、突っ込んできやがる)

 

 その雨の中、宇髄は自らにクナイが刺さるのも構わずに妓夫太郎に斬りかかった。

 相も変わらずの爆発する斬撃。爆発を避けながら斬撃を捌いていく。

 

(畜生が、どういう目をしてやがる!)

 

 宇髄は胸中でそう毒吐いた。

 派手な爆発の中で、妓夫太郎はどの攻撃が本命かを的確に見抜いて来る。

 致命の一撃を届かせることが出来ない。

 だが宇髄に注意が向いたことで、クナイが一本、妓夫太郎に突き立った。

 

 妓夫太郎は、自分の身体が硬直していることに気付いた。

 血鎌を潜り抜けた宇髄が妓夫太郎の両足を斬り飛ばすが、妓夫太郎にとっては大した負傷ではない。

 腕の1本や足の2本、妓夫太郎の再生能力をもってすれば一瞬で再生する。

 だが、()()()()()()()()

 

(このクナイ、何か塗られてるなあ。毒か)

 

 藤の花から抽出した毒。強力な毒で、下弦の鬼ですらしばらく動けなくなる猛毒だ。

 しかし、上弦の鬼には通じない。

 即座に体内で毒を分析・分解し、数秒の後には足を再生するところまで行った。 

 

「いやあ、良く効いたぜ。この毒はなあ」

(もう分解しやがった!)

 

 宇髄は舌打ちして、しかし攻撃を続行した。

 毒の巡りのせいか、唇の端からは血が溢れ始めている。

 鬼と違って、体内で毒の分解など出来ない。

 

 ――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎』!

 宇髄の両手と妓夫太郎の両手が互いの獲物をぶつけ合った瞬間、大上段から振り下ろされた炎の刃が妓夫太郎に襲い掛かった。

 必殺の一撃。しかし妓夫太郎はあろうことか頚を180度真後ろに回転させて、杏寿郎の刃を歯で噛み、受け止めた。

 

(よもや! 頚を真後ろに!)

(そんなキモい防御してるんじゃねえよバカタレェェェ!)

 

 ――――余談だが。

 鬼殺隊の「お館様」、すなわち産屋敷耀哉は、宇髄にこう言ったことがある。

 曰く、上弦の鬼の力は少なくとも柱3人分に相当する、と。

 宇髄は柱、そして杏寿郎も柱に並ぶ実力の持ち主と言って過言ではない。

 

 1人足りない。上弦の鬼を倒すには、柱1人分の戦力が足りない。

 だから、勝てない。勝ち切れない。押し切れない。

 だが、もし。

 もしここに、柱1人分に相当する代替戦力が現れたとしたら?

 

「……瑠衣ッ!?」

 

 宇髄が両腕を止め、杏寿郎が()を押さえている。

 その状況で、ふわり、と瑠衣が舞い降りてきて。

 空中で身体を逆さまにした体勢のまま、日輪刀を横に一閃した。

 その刃は妓夫太郎の頚に深く喰い込み、そのまま、反対側まで斬り進んでいった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 どういうことだ、と妓夫太郎は思った。

 まず足が折れていたはずの瑠衣が平然と跳躍していて、しかも折れる前よりも速く、なお力強く刀を振るってきた。

 いったいどんな()()をしているのか。人間のすることとは思えない。

 

 そして、感覚。

 瑠衣が目の前に現れた瞬間、肌が粟立ち、緊張した。

 こんな感覚は過去に2度しか感じたことがない。

 1度目は自分達を鬼にした()()()と出会った時。そして2度目は。

 と、思考に捉われた一瞬。その隙に瑠衣の刀が頚に叩き付けられた。

 

(畜生、こんな小娘に……まずい! 斬られるぞオオオオ!!)

 

 いや、大丈夫だ。

 上弦の陸・妓夫太郎は、2人で1つ。彼の頚が刎ねられても死なない。妹と同じだ。

 兄妹の頚を同時に落とさなければ、妓夫太郎が死ぬことはない。

 万が一自分の頚が斬られたとしても、妹の頚さえ繋がっていれば。

 

「ちょっと、お兄ちゃん! 嘘でしょ!? そんなやつに頚斬られないでよ!!」

 

 一方の堕姫。妓夫太郎の頚が斬られそうになり、そう声を上げていた。

 帯を向かわせようとするが、それらの帯に隠し刃を展開した禊の日輪刀が突き刺さって行った。

 

「さっきから思ってたんだけどさあ」

 

 堕姫の懐に、禊がいた。

 無手のままだ。しかし鋼糸を通じて日輪刀を操作しているらしかった。

 すでに出血も疲労も相当だろうに、それでも禊は口元に笑みを浮かべていた。

 そしてその美しい口元から測れるのは、やはり毒だった。

 

「あんたさ、その年でお兄ちゃんお兄ちゃんって――――気持ち悪いわよ」

「――――玉鬘アッ!!」

 

 堕姫は激怒した。妓夫太郎側の戦況は一瞬で意識から消えた。

 全ての帯を禊に向かわせた。

 ここに来て、その速度と密度は避ける空間さえ許さぬ程だった。

 

 しかし堕姫の意識が禊に向いた瞬間、何かが堕姫の胸に当たった。

 それは(まり)ほどの大きさで、思わず、堕姫はそれを地面に落とさないよう両手で受け止めた。

 ()()()()()

 妓夫太郎(兄鬼)の頚だった。顔を上げると、あの少女、瑠衣が蹴り抜きの体勢でこちらを見ていた。

 

「な」

 

 斬り落とした頚を、蹴り飛ばした。

 それが堕姫の頭に上がってくるまでに、数秒を要した。

 そしてその数秒が、命取りになった。

 

「――――()ッ!!」

「はっ」

 

 兄の声。しかしその時には遅かった。

 

「ああ、良いわね。その顔のあんたは好きよ、本当にね」

 

 ――――欺の呼吸 真二ノ型『剣弾き』。

 刃が見えなかった。だから頚を帯化していなかった。

 その帯化していなかった頚に、禊が隠し刃を展開した日輪刀を蹴り当てていた。

 何個に分割したかまでは堕姫は気にしていなかった。

 だから、戦闘で舞い上がった土の中に隠された日輪刀の部品に気付くことが出来なかった。

 

「玉、鬘……ア」

「チョー最高、ってね」

 

 頚が落ちていく中、最期に見るのが憎らしい女の笑顔。

 こんな最悪なことがあるか、と、堕姫は思ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 結論だけ見れば、何とも地味な結果な結果になったものだ。

 瓦礫に座って毒の遅延に集中しながら、宇髄はそう思った。

 雛鶴たち3人の嫁がやって来て、甲斐甲斐しく怪我の治療を始めていた。

 それに身を任せながら、宇髄が見つめていたのは地面に転がった2つの頚だった。

 

「何で助けてくれなかったのよっ!!」

「こっちは柱を相手にしてたんだぞ! しかも2人……いや3人いた!」

「だから何よ、強いことしか能がないくせに!!」

 

 やはり2人の頚を同時に斬ると死ぬらしく、今度は復活しなかった。

 肉体はすでに崩れ、残った頭も少しずつ塵と化していっている。

 しかしこれがまた元気で、今は口汚くお互いを罵り合っている。

 というか、いつまで喋っているつもりだ。さっさと死ね、地味に。

 

「あんたみたいな醜いやつ、負けたら何の取り柄もないじゃない!!」

「ふざけんな! お前1人じゃ何も出来なかった癖になあ! いっつも俺が尻を拭いてやったんだ、何の取り柄もないのはお前の方だろうが!!」

「なっ……なっ、この」

「こんなはずじゃなかった! お前みたいな荷物さえいなけりゃあなあ! 俺はもっと……!」

 

 と思っていると、妓夫太郎たちの傍に立つ者がいた。

 杏寿郎だった。彼は静かに刀を振り上げると、そのまま振り下ろした。

 妓夫太郎の口から下が、斬られて飛んだ。

 

「お兄ちゃ」

 

 返す刀で堕姫の口も斬った。

 表情は特に動いていない。無心で斬ったように見える。

 ただ、とどめを刺す、という風でもなかった。

 

 甘い……いや、優しいやつだ、と宇髄は思った。

 自分も毒で苦しいだろうに、わざわざそんなことをするとは。

 きっと、死に際にお互いを罵り合う兄妹の姿が見るに忍びなかったのだろう。

 もっとも、そんな杏寿郎の慈悲が鬼に通じるのかどうかはわからなかったが。

 

(畜生、こんなやつに……!)

 

 もちろん、通じるはずがない。

 妓夫太郎は自分を殺した連中の慈悲などに感謝などしなかったし、むしろ殺してやりたいと思っていた。

 だがそれも、堕姫がいざ消えるとなると、どうでも良くなった。

 

(梅……!)

 

 梅。それが堕姫の、妹の名前だった。人間の頃の名前。

 どっちも酷い名前だ。しかもこれから地獄に行く。地獄では何と呼ばれるのだろう。

 ああ、でも、花街の最下層で生まれるよりはマシなのかもしれない。

 そう思うと、少しは気も楽になるというものだった。

 

 鬼狩りは憎らしいが、もうどうでも良かった。

 妹が消えた。それなら自分がここにいる意味もない。生きていたって仕方がない。

 さっさと死んでやるとしよう。

 きっと妹は、地獄の入口で自分を探しているだろうから――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 上弦の陸を斬った。

 結果だけ見れば、そうなるだろう。

 100年不敗の上弦の鬼、その1体を斬ったのだから、これは快挙だった。

 しかし杏寿郎の胸には、いわゆる達成感のようなものは少しも湧いてこなかった。

 

「千寿郎」

「は、はい!」

「すまないが、花魁少女を頼めるか。気丈に振る舞っているが、負傷はけして軽くないはずだ」

「お、花魁少女? あ、玉鬘さんのことですね? わかりました!」

 

 千寿郎が駆け出していくのを横目に、日輪刀を鞘に納めた。

 嘘を吐いたわけではないが、千寿郎には聞かせ難い話をするつもりだった。

 だから禊をだしに、遠ざけたのだ。

 

「さて」

 

 ごほ、と咳き込みながら――鬼は倒したが、妓夫太郎の毒はまだ体内に残っている――杏寿郎は、瑠衣を見た。

 瑠衣は何とも形容しがたい笑みを浮かべて、何をするでもなくそこに立っていた。

 それは、杏寿郎の知るどの表情とも違っていた。

 

()()()()()?」

「誰ダ?」

 

 ()()()()()()()()()

 杏寿郎だからこそ、それは確信できた。

 小首を傾げて頬に指など当てているが、瑠衣はそんなあざといことはしない。

 母が死んでから、瑠衣はそういう可愛らしい仕草をしようとはしなくなった。

 

 しかし杏寿郎は、その可愛らしさに僅かも気を緩めなかった。

 何故ならば目の前のこの存在は、不意を突いたとは言え、隙を突いたとは言え、あの上弦の陸兄妹の頚を斬ったのだ。

 油断など、出来ようはずもなかった。

 

「誰ト言ワレテモ、私ハ貴方ノ妹ダヨ」

 

 瑠衣の姿をした()()は、胸に手を当ててそう言った。

 杏寿郎の妹と、確かにそう言った。

 瞳の虹彩が、金色に波打っている。美しいが、どこか不安定さを印象付けた。

 だからだろうか、()()の存在を、杏寿郎は何故か掴みかねている。

 目の前にいるようで、目の前にいない。そんな矛盾した感覚だった。

 

「ソシテ()()()ノ姉デモアル」

 

 そして、()()は自分のことを瑠衣の姉と言った。

 普通の人間がこれを聞けば、瑠衣の頭がおかしくなったと思っただろう。

 いや、杏寿郎でさえそう思ったかもしれない。

 

「なるほど」

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

「父上が言っていたのは、きみのことか」

 

 杏寿郎の言葉に、()()はにっこりと笑顔を浮かべた。

 瑠衣の顔で、笑ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 目を覚ますと、とんでもない美女が目の前にいた。

 

「あ、起きました?」

 

 美女――しのぶは、瑠衣を覗き込んでいた。

 視界には、しのぶの他に崩れた花街が見えた。

 空は、白み始めている。夜明けが近いことが知れた。

 

 夜明け。それを意識した瞬間、瑠衣は跳ね起きた。

 「おお、危ない」と言いつつ、しのぶが身を引いた。

 夜が明けていて、自分は生きている。そしてしのぶがいて、一瞬混乱した。

 すると自分がすでに手当てをされていることに気付いた。

 戦いは終わったのか。結果は、どうなったのか。

 

「姉上」

 

 身を起こしている瑠衣に、小さな影が飛び込んで来た。

 

「姉上、良かった……目を覚まして……」

「……千寿郎? え、ちょっと、泣いてるの?」

 

 胸に顔を押し付けて肩を震わせる弟に、瑠衣は戸惑った。

 千寿郎が泣くなど、いつぶりだろうか。

 まだ状況を飲み込めていない頭のまま、助けを求めるようにあたりを見渡した。

 

 しのぶは、「あらあら」と首を傾げている。

 少し離れた位置に宇髄もいた。まきを達もいて、こちらに軽く手を振ったり会釈したりしていた。

 どちらも、助けてくれるつもりがないことはわかった。

 千寿郎が嗚咽を漏らし始めたあたりで、瑠衣はいよいよ困り果ててしまった。

 

「ちょっと」

 

 その時、不機嫌そうな声が聞こえてきた。

 

「人が寝てる横でぴーぴー騒がないでくれる? 鬱陶しいのよ」

 

 禊だ。こちらも手当てされていて、瑠衣の隣で横になっていた。

 見た限り、後遺症が残るような怪我はないように見えた。

 柚羽達の例もあって、瑠衣はほっとした。

 杏寿郎の姿が目に入ったのは、そんな時だった。

 

「兄様!」

 

 呼びかけると、杏寿郎がこちらを見た。

 後ろ姿からは深刻そうな気配を漂わせていたが、瑠衣の顔を見るといくらか和らいだ。

 瑠衣、と呼ぶ声に、どうしてか目頭が熱くなるのを感じた。

 

「兄様、あの、毒は」

「うむ! 胡蝶が解毒薬を打ってくれたので、もう大丈夫だ!」

「毒が消えてなくなったわけではないので、安静にしていないと駄目ですよ~」

 

 瑠衣が視線を向けると、しのぶは片目を閉じて見せた。

 毒の、それも上弦の鬼の毒でさえ解毒薬を調合するというのは、尋常ではない。

 しかしそれを成してしまうからこそ柱なのだと、改めて思った。

 やはり、柱は格が違う。

 

「ええと、それで……すみません。途中から良く思い出せなくて、あの、戦いは……?」

「うむ」

 

 上弦の陸は、どうなった。

 そう問うた瑠衣に、杏寿郎は何故か、言うのを躊躇っているように感じた。

 竹を割ったような性格の杏寿郎が躊躇うなど、珍しかった。

 その沈黙を、意外な人物が破った。

 

「姉上ですよ!」

 

 千寿郎である。

 まだ目尻に涙を浮かべながらも、興奮しているのか、頬を紅潮させていた。

 しかし続く言葉は、瑠衣を戸惑わせた。

 

「姉上が斬ったんです! 上弦の鬼を!」

「え?」

「覚えていないんですか!?」

 

 千寿郎が何を言っているのか、理解できない。

 上弦の鬼を斬った? 自分が?

 混乱が増した。縋るように杏寿郎を見ると、厳格な目に射竦められた。

 息を呑む瑠衣に、杏寿郎は言った。

 

「瑠衣」

 

 心臓が、締め付けられるようだった。

 

()()()()()()()()

 

 すぐ傍で話を聞いていたしのぶは、嗚呼、と思った。

 

(お父様そっくり)

 

 不器用で、融通が利かず、頑固だ。

 そして、本当に哀れな娘だと、しのぶは思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 身を起こした瞬間に、血を吐いた。

 それは体の動きで体内の血管が破れたというよりは、感情の高ぶりによって引き起こされたように見えた。

 布団に血の花を咲かせながらも、その男――産屋敷耀哉は興奮を隠しきれずにいた。

 

「そうか倒したか、上弦を……!」

 

 上弦。100年不敗の鬼。

 鬼殺隊にとっては、上弦討伐はまさに悲願だった。

 代々短命の産屋敷家当主。いったい何人の当主が上弦討伐を果たせぬままに寿命を使い果たしたか。

 それを果たした。血を(たぎ)らせるなという方が無理だった。

 

「よくやった天元、杏寿郎、千寿郎、禊、瑠衣!」

 

 ごぼっ、と、嫌な音がした。

 血の泡を噴いてなお叫ぶ夫を、妻のあまねが支えた。

 手や着物が血で汚れるのも構わずに介抱し、子供達に湯や薬の指示を出している。

 

「ゴホッ、この……この波紋は、大きくなって、停滞していた運命を、ゲホッ、変える、だろう」

 

 産屋敷は常に遠くを見つめていた。

 病に犯され光を失った目で、ずっと見つめていた。

 ()()に至るまでの道のりは余りにも遠く、また余りにも険しかった。

 しかし、道は通じていた。

 

 どれだけ遠くとも、どれほど険しくとも、か細い道が確かにあった。

 歴代の産屋敷家当主だけが見ることができたその道を、彼もまた見つめ続けていた。

 道があるなら、歩くしかない。歩き続けて、前に進むしかない。

 そうする()()()()

 そうやって、歴代の産屋敷家当主は数多の犠牲で舗装された道を歩き続けて来たのだ。

 

「鬼舞辻無惨……! お前は、我が一族唯一の汚点であるお前だけは、私達が、必ず……!」

 

 ――――鬼舞辻無惨。1000年を生きる鬼の始祖。

 彼はどうだろうか。

 産屋敷当主たちに見えている()()()()()道が、見えているのだろうか。

 それは、彼自身にしかわからないことだろう。

 そして彼は、おそらくそれを誰かに話すことはない。

 

「…………」

 

 男が、立っていた。

 襟元に豪華な刺繍の入った、洋装(ジャケット)の男。

 片腕の袖から先がなくなっていて、歪な出で立ちだった。

 しかしその場に他の誰かがいたとして、はたして袖の状態に気付いたかどうか。

 

 暗闇に輝く紅い輝きから、目を離すことができたかどうか。

 闇色の(かお)の中で、不気味に紅く輝く双眸。

 それに見つめられて、目を逸らせる存在はこの世にいないだろう。

 

鳴女(なきめ)

 

 そして、その声の低さ。冷たさ。

 耳にするだけで、聞く側が恐怖に表情を歪ませかねない程だった。

 

「上弦を召集しろ」

 

 切れた袖を撫でながら、彼は言った。

 

「あの娘、まさか……いや、間違いない」

 

 次の一瞬で、袖口が修復されていた。

 

()()()()()()()

 

 生地に継ぎ足しの境目があるわけではなく、最初からそうであったかのように自然だ。

 

「……ククク。流石は、我が――――」

 

 しかし、その男の存在はどこまでも不自然だった。

 どこまでも、歪んでいた。




最後までお読みいただき有難うございます。

空きのある呼吸の剣技について募集でもしてみようかなと思う今日この頃です。
炎の呼吸の陸ノ型とか。
原作資料とかで公開されないかなあ。

というわけで、花街編完結です。2期楽しみですね2期!(え)
次はそのまま12巻に行くのか、何か挟むのか。
まだ考え中ですが、いずれにせよもちろん瑠衣は碌な目に合いません(え)

それでは、また次回。


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第29話:「辞退」

 ――――気が付くと、暗く冷たい場所にいた。

 視界は霧がかかったように不鮮明で、周囲に何があるかはわからない。

 足元は、膝まで水に漬かっているようだった。

 一歩を歩くのでさえ、酷く身体が重かった。

 

『――――太郎が、死ん――――欠けた――――』

 

 浮いているような、沈んでいるような。

 そんな気持ちの中で、瑠衣は誰かの声を聞いた気がした。

 声は酷く途切れ途切れで、ほとんど聞き取れなかった。

 ただ、酷く耳に残る。

 

『必要――――案の定、堕姫――――』

 

 いったい、誰の声なのだろう。

 わからない。一方で、どこかで聞いたことがあるような気もした。

 声は続く。

 がんがんと、頭の中に響く。頭が痛い。内側から針を刺されているような気分だ。

 

『始めから――――後まで戦――――でもいい』

 

 この声の質は、どこで聞いただろうか。

 声音は違う。こんなに冷たくはなかった。

 

『――――人間の部――――もいい――――期待しない』

 

 こんなに、低くはなかった。

 もっと温かで、優しい。

 

『――――産屋敷――――』

 

 ああ、そうだった。

 ほとんど直接話したことはなかったが、産屋敷――お館様の声に、どこか似ている。

 ただ、お館様の話し方ではない。余りにも冷たく、脅迫的だった。

 だとすれば、いよいよ誰の声なのだろう。

 

『私は――――上弦――――甘やかし――――』

 

 ――――上弦?

 

『…………誰だ?』

 

 え、と思った時だ。

 視界が、掌で覆われた。誰かが後ろから目を覆って来たのだ。

 耳元で、駄目ダヨ、と、やはり聞き覚えのある声がした。

 そして次の瞬間、視界そのものが暗転して――――。

 

「…………は、あ」

 

 煉獄邸の、自室の天井。

 それが視界に映ると、床についたまま、瑠衣は大きく息を吐いた。

 全身が汗で濡れていて、首筋から枕に汗の雫が滴り落ちる程だった。

 やけに、喉が渇いていた。

 

「何、今の……」

 

 汗をかきすぎたせいか、頭痛もした。

 身を起こそうと手をつくと、鉛を背負ったように身体が重かった。

 正直に言って体調は良くない。障子から漏れてくる朝日が眩しく感じられた。

 

「いけない、起きないと」

 

 体調が悪くとも、休んではいられない。

 家のこと、鬼殺の任務のこと。

 そして今日は、特別な呼び出しも受けていた。

 ――――お館様の、召喚命令である。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 お館様が重症の隊士を見舞ったり、死んだ隊士の墓参りをしていることは、鬼殺隊でも有名な話だ。

 しかし()()()()()()というのは稀だ。

 竈門兄妹のような特殊な事例を除けば、直接召喚される隊士は大きく分けて2種類いる。

 柱と、()()()だ。

 

「お許しくださいませ……!」

 

 鬼殺隊の、いや煉獄家の主家にあたる産屋敷家の当主の召喚。

 それも大功を上げての論功行賞。本来であれば、大変に名誉なことだ。

 煉獄家の剣士として、これ以上はないと思える。

 

 しかし今、瑠衣は手を着いて頭を下げていた。

 目の前には、2人の娘に支えられて座る産屋敷がいる。

 顔色は蒼白で――病によって顔のほとんどが爛れてしまっている――起きているだけでも苦しそうに見えた。

 実際よほど体調が悪いのか、部屋の隅にあまねも控えていた。

 

「瑠衣、頭を上げて」

 

 声も、酷くか細い。それでも声音は優しく、そっと頭に降りて来るような印象を受けた。

 頭を上げると、困ったような微笑がこちらを向いていた。

 

「瑠衣、きみは本当に凄いことをしたんだよ」

 

 しかしその言葉は、瑠衣の胸を締め付けた。

 上弦討伐。鬼殺隊にとって100年ぶりの快挙だ。

 

「きみはこの100年の停滞を打ち破ったんだ」

「それは違います」

 

 上弦の陸を、煉獄瑠衣が討った。

 鬼殺隊は今、その話題で持ち切りだった。

 事実無根、とまでは言えなかった。

 花街の戦いで上弦と戦い、結果として討伐したことは確かだったからだ。

 

 ただ瑠衣は自分が上弦の陸を――あの妓夫太郎の頚を斬ったということを、信じられなかった。

 ()()()()()

 気が付いた時、瑠衣はしのぶの治療を受けていたのだ。

 しかし杏寿郎も千寿郎も、宇髄や禊でさえも、妓夫太郎の頚を斬ったのは瑠衣だと言う。

 

「上弦の陸討伐は、私1人の力では不可能でした。音柱様、兄・杏寿郎、それに一葉隊士(禊さん)の協力があってのことで」

「そうだね。天元も杏寿郎も、禊も凄い子だ。でも1番はやはりきみだ、瑠衣」

「いえ、私は」

「上弦討伐に貢献したきみ達に、鬼殺隊として何もしないわけにはいかない」

 

 柱である宇髄はともかくとして、その他の隊士に対する褒美は「昇進」しかない。

 禊は階級を2つ上げた。しかし甲である瑠衣には上がるべき階級がない。

 ……柱以外は。

 

 杏寿郎も甲であり柱昇格の条件を先に満たしているが、上弦を討った瑠衣が昇進しないというのもおかしな話だ。

 しかし柱の席は9つしかなく、また槇寿郎の引退により空く席は1つしかない。

 鬼殺隊としては難しい判断になる。

 そして瑠衣にとっては、心外であり論外の議論だった。

 

「お館様、どうか……」

 

 どうして自分が、杏寿郎と柱の席を争わなければならないのか。

 瑠衣は炎柱になった杏寿郎を支えたいと思いこそすれ、自分が柱になど考えたこともなかった。

 まして杏寿郎を押しのけて父の空けた席を奪うなど、あり得ないことだった。

 

「……足の具合はどうかな、瑠衣」

 

 ――――結局。

 その後すぐに産屋敷の体調が崩れたこともあって、瑠衣は柱就任の要請を固辞する形になった。

 煉獄家の人間である自分が、主君たる産屋敷家当主の要請を拒否することになってしまった。

 

(どうして、こんなことになるの)

 

 それは鬼殺隊に思わぬ波紋を広げることになるのだが、瑠衣には気付きようもないことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 改めて思えば、鬼殺隊とは歪な組織だった。

 生まれも思想も別々の者達が、産屋敷家当主のカリスマによってまとまっている。

 ()()()()だ。

 一個人の統率力に過度に依存するこの組織は、ともすれば薄氷の上に成り立っている。

 

「どうだった、と言われてもな」

 

 上弦の陸との戦いで負傷した宇髄を見舞った後、不死川は伊黒に現場の様子を聞いた。

 すすろ伊黒は軽く肩を竦めた後、小さく首を振った。

 

「俺が行った時には、すべて終わっていたからな」

 

 上弦の陸との戦いに際して、産屋敷は伊黒としのぶの2人を援軍に差し向けた。

 しかし2人が現場に急行した時には、すでに戦いは終わっていた。

 しのぶは負傷者の治療に当たり、伊黒は花街の被害を確認して回った。

 

 女の独特の匂いがする花街は好まなかったが、被害は相当に大きかった。

 復興には年単位の時間が必要になるだろう。ただ産屋敷家が裏から資金援助をするはずだ。

 あるいは、産屋敷は吉原花街にも「藤の家」を置くつもりかもしれない。

 

「宇髄に話を聞いてみても、良くわからねェ」

 

 ただ、不死川が気にしているのは()()ではなかった。

 伊黒もそれはわかっていた。

 あえて()()()()を避けた。それは、不死川も察した。

 

 不死川と伊黒は、不思議と馬が合った。

 こうして2人で話すこともしばしばある。

 そして2人の共通する話題の1つに、1人の少女のことがあった。

 言わずもがな、煉獄瑠衣である。

 

(あいつが上弦を斬っただァ?)

 

 瑠衣が弱いとは言わない。

 今の柱達は産屋敷曰く「始まりの呼吸の剣士達にも劣らない」程に優秀だから、陰に隠れてしまっているだけだ。

 並の柱――表現としてやや間違っている気もするが――としてなら、十分に通用する程度には強い。

 特にここ最近は十二鬼月との戦いが続いていて、その経験値は他の隊士にはないものだった。

 

「……本当の話か?」

「俺は直接見たわけではないからわからない。だが、宇髄も……杏寿郎も、嘘を吐く意味がない」

「わかってる。ただ……」

 

 とは言え、瑠衣がそこまで強いとは思わない。

 しかし()()()で斬れる程、上弦の頚が易いはずはない。

 だが、何よりわからないのは。

 

「本人が否定してるってのはどういうことだァ?」

「……わからない」

 

 瑠衣自身が、否定していることだ。

 

「だが宇髄はこうも言っていた。正確には宇髄の妻の言葉らしいが」

「何だよ」

「その時の瑠衣は……」

 

 ()()()()()強かった。

 

「……んだァそれ。笑えねぇぞ」

「ああ」

 

 上弦の頚を取ったことで、瑠衣は柱候補の最右翼に立った。

 杏寿郎が父の跡を継ぐという既定路線に、狂いが生じたということだ。

 しかし見方を変えると、さらに面倒なことになる。

 

「そうだな」

 

 長男に跡を継がせたいという炎柱。

 それを()()して、次子に柱の地位を与えようとする当主。

 事態は全くもって、笑えない方向に向かおうとしているのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「本当に凄かったんですよ、姉上は!」

 

 隊士のために用意された甘味処に、千寿郎の興奮した声が響き渡った。

 ただ周囲の目を集めたことが恥ずかしかったのか、すぐに顔を赤くして縮こまってしまった。

 そんな千寿郎の様子がおかしかったのか、隣に座る少女がクスリと笑った。

 

「わたしも見たかったなあ。煉獄君のお姉さんってどんな人なの?」

「あ。あはは。姉上は、いつも凛としていて、自分に厳しくて……でも、とても優しい人なんです」

「そうなんだ、素敵な人なんだね」

 

 などという会話を、千寿郎と共に最終選別を突破した舟生(ふなせ)知己(ともみ)という少年は呆れた顔で見つめていた。

 出された団子を適当に食べながら、千寿郎の姉自慢を静かに聞き流している。

 ただ千寿郎に限らず、鬼殺隊では上弦の鬼を斬った煉獄瑠衣という隊士の噂で持ち切りだった。

 

 まあ、噂にならない方がおかしい。

 下弦を討った時でさえ、お祭り騒ぎになるのだ。

 上弦の鬼を倒したとなれば、なおさらだろう。

 しかし、だ。公の場で大っぴらに話して良いことではないだろう。

 

(まあ、自慢するなって言う方が難しいか)

 

 そのあたりの空気は、当事者や当事者に近すぎる人間には見えにくいのかもしれない。

 ついでに言うと、千寿郎にはもう1つ見えていないものがある。

 それは、隣の少女が彼を見つめる目の()()についてだ。

 

「わたしもお姉さんに負けないように頑張らないといけないね」

 

 お姉さんに。

 負けないように。

 頑張る。

 

(うーん)

 

 知己がちらり、と千寿郎に視線を向けると、彼は何もわかっていない顔で頷いて。

 

「はい、僕も頑張ります!」

 

 などと(のたま)っていた。

 もし2人の目の前に座っていなければ、知己は目を覆って天を仰いだだろう。

 ちなみに千寿郎に熱い視線を向けている――当の千寿郎はまるで気付いていないが――少女は、千寿郎が最終選別で鬼の手から救った少女だった。名前は兵藤という。

 最終選別以来、同期会などと称して度々こうして集まっているのだが。

 

(僕、いりますかねえ)

 

 いらない気もするが、同期会と称されている以上は来ないわけにもいかない。

 それに煉獄家の人間と繋がりを持っておくのは、悪いことではない。

 公的な意味でも、私的な意味でもだ。

 それに、知己が来なければ「同期会」とは呼べなくなってしまう。

 

(この3人以外は、もう()()()()()()()()()()()()()()

 

 千寿郎達が突破した最終選別では、1人も脱落者が出なかった

 それは千寿郎が鬼を全て1人で斬ってしまったからだ。

 つまり、()()()()()()()()()()()()()

 

 元々、新人隊士の生存率は高くない。

 最終選別すら突破できない人間が任務に就いたところで、結果は目に見えていた。

 本人が死ぬだけならまだ良いが、実力が足りな過ぎるから周囲を巻き込む場合もあった。

 千寿郎も兵藤も同期に死を聞く度に悲しんでいたが、そのあたりの事情はわかっていないだろう。

 

「あれ、舟生君。もう食べちゃったの?」

「お団子好きなんですね!」

「いや、きみ達が喋ってばかりで食べないだけでしょう」

 

 しかし、こうして邪気泣く付き合われると、どうにも邪険にできないのも事実。

 我ながら損な性分だと思いつつ、団子の串を皿に放った。

 

(うん?)

 

 その時、近くの席に座っていた黒髪の男性――隊服を着ている――が、乱暴に席を立つのが見えた。

 彼はこちらをキツい眼差しで一瞥したが、特に何も言ってくることなく、店を出て行った。

 首に勾玉の飾りをつけた、奇妙な男だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

(くそっ、くそっ! どいつもこいつも……!)

 

 獪岳は、苛立っていた。

 いや、彼が苛立っていない時の方が珍しいのだが、最近は特に顕著だった。

 その目つきの鋭さは、普段は陰で彼を蔑む声でさえ潜められる程だった。

 道を通る隊士も、誰も彼に近付こうとしない。

 

 獪岳は、不満だった。

 何が不満だと問われれば、全てだ、と答えただろう。

 己を取り巻く全てに対して、獪岳は不満だった。苛立った。

 だがその中であえて、今一番不満と苛立ちを募らせているものは。

 

(どいつこいつも、あの女のことばかり言いやがって!)

 

 煉獄瑠衣。彼の同期でもある少女のことだった。

 今、おそらくは最も鬼殺隊士の口に上る名前だった。

 そして誰も彼もが瑠衣を褒める。

 上弦の陸を討ったのだから、当然と言えば当然だった。

 

(あいつが上弦を斬っただとぉ?)

 

 道端の桶を蹴飛ばして、唾を吐いた。

 

「そんなわけねえだろぉが……!」

 

 瑠衣の実力は、獪岳も良く知っている。

 だが下弦の肆との戦い、上弦の肆との戦いを知っている。

 瑠衣が1人で上弦の鬼を斬れるはずがない。

 共に戦ったという音柱や兄に、手柄を譲られただけに決まっている。

 

 そうに違いないというのに、鬼殺隊の誰もが瑠衣を褒めそやす。

 一片の疑念も抱かずに、瑠衣の上弦討伐を信じる。

 以前も思った。上弦の肆に負けた時も、生き残っただけで凄いと瑠衣は褒められた。

 ()()()()()? 獪岳は不満で仕方がなかった。

 

()()()()()()()()だけでよ……!)

 

 奥歯が砕けそうな程に、歯噛みした。

 それだけ、瑠衣の()()が認められなかったのだ。

 

「……ああ?」

 

 ふと気が付けば、獪岳はいつもの場所に足を運んでいた。

 それは三方を山林に囲まれた窪地で、一方を丘に隔てられた場所だ。

 そこは以前、偶然に見つけた場所だった。

 あの時と同じ風切り音がして、目を逆立てた。

 

「あいつ……」

 

 日輪刀の、素振りの音だ。

 刀を振るう後ろ姿は、今、獪岳が最も見たくない人間のそれだった。

 無心に日輪刀を振るうその姿が、今は無性に気に入らなかった。

 だから、自らの刀の柄に手をやったのは、ほとんど無意識だった。

 

「え?」

 

 だから、こちらを振り向いたその顔に驚きの色が浮かぶのを、むしろ愉快に感じた。

 その顔に、獪岳は刀を振り下ろした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 気持ちが行き詰まると、瑠衣は決まって日輪刀を振る。

 素振りを繰り返していると、段々と無心になれるからだ。

 しかしこの時ばかりは、いくら刀を振るっても雑念が消えなかった。

 

(どうして、こんなことに)

 

 家に、返り辛かった。

 産屋敷が瑠衣を柱にと望んでいることは、当然、槇寿郎にも伝わっているはずだ。

 どんな顔をして父に会えば良いのか、わからなかった。

 

 いや、そもそも槇寿郎がそのことを今日まで知らずにいたはずがない。

 だが、父は自分に何も言わなかった。

 何故だ? 自問してみても、瑠衣にはわからなかった。

 

(それに……)

 

 やはり、いくら考えても、あの上弦の陸の頚を斬った覚えがない。

 千寿郎を庇って、そこから先の記憶がない。

 その記憶のない間に、瑠衣が上弦を討ったということなのか。

 もしそうだとするなら、それは、ひどく恐ろしいことのように思えた。

 自分の知らない間に自分が動いている、ということだからだ。

 

「……え?」

 

 身の入らない素振りを止めて、振り向いた時だ。

 何故かそこに獪岳がいて、さらに何故かはわからないが、日輪刀を抜いていた。

 もっと言えば、その刀を振り下ろしていた。

 

「ちょっ」

 

 反射的に、瑠衣も刀を振り上げた。

 弾き返した音が、やけに近い位置で聞こえた。

 頬に冷たい汗が流れるのを感じながら、後ろに跳んで距離を取った。

 片足が折れているから、それほどの距離は跳べなかった。

 

「何のつもりですか、獪岳さん」

「あ? 気を遣ってやったんだよ。バカが」

 

 獪岳は刀の背を肩に置いて、顎を上げて瑠衣を見下ろしていた。

 身長差があるから、まさに「見下す」と言った風だ。

 

()()()上弦の下っ端にやられて、調子取り戻すの(リハビリ)に苦労してそうじゃねえか」

 

 瑠衣の足のことを、獪岳は一目で見抜いていた。

 

「手伝ってやるよ」

「言葉の意味が、わかりかねますが」

「あー? ハハッ、心配すんな。俺も右足は使わないでおいてやる」

 

 獪岳は、前々から瑠衣に好意的な態度を取る人間ではなかった。

 ただそれはどちらからと言えばこちらを突き放すという印象で、こんな風に絡んでくるのは初めてと言って良かった。

 真意が読めない。まあ、それはいつものことだが。

 

「構えろよ」

 

 正直なところ。

 ()()()()、と、思ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 風の呼吸と雷の呼吸は、全集中の呼吸の中でも速度を重視した呼吸である。

 強いて違いを上げるとすれば、風の呼吸が攻撃範囲に優れているのに対して、雷の呼吸は正面の敵を打ち倒すことに優れている、という点だ。

 つまり雷の呼吸は、()()()()に強い呼吸と言える。

 

「オラァッ!」

 

 利き腕による振り下ろしの一撃は、予想以上に重いものだった。

 獪岳が片手で振り下ろしたその一撃を、瑠衣は両手持ちで受け止めた。

 それでもなお、受け止めた衝撃が爪先にまで響いてきた。

 骨折した足に鈍痛が走り、踏ん張りが効かない。

 

「どうしたよ、上弦を斬った実力ってのはそんなもんか!」

 

 普段は意識しないが、小指1つでさえ身体の動きには重要な働きをしている。

 それが片足1本となると、与える影響は相当なものだ。

 身体は無意識にいつもの動きをしようとしてしまうから、それが出来ないことに戸惑い、動きが鈍る。

 そこを獪岳に叩かれる。

 

 言葉通り、獪岳は片足を自ら封じている。

 しかし実際に怪我で使えない瑠衣と、意識して使おうとしない獪岳では、やはり違いが出る。

 突きを刀の峰で逸らし、掌で刀を打って半回転。獪岳をやり過ごした。

 そして、逆にこちらが突く。

 

「遅えんだよ!」

 

 それは、横から斬り払われる。

 構わない。その勢いを利用して、無事な足を軸にして逆方向に回転する。

 そのまま斬りかかるが、回転が遅く、獪岳は余裕をもってそれも斬り払った。

 

「ハッ! やっぱ大したことねえじゃねえか。こんな腕で上弦の陸が()れるんなら」

 

 振り下ろしの一撃。瑠衣はやはり両手で受け止めなければならなかった。

 

「俺なら!」

 

 防御を気にも留めず、獪岳は連続で刀を振り下ろした。

 

「上弦の!」

 

 余りの力の込もり様に、受け止める瑠衣の身体が左右に揺れる程だった。

 

「壱だって!」

 

 しかし受け止めきれず、片手が柄から外れた。

 

「殺れるぜ!」

 

 ――――雷の呼吸・弐ノ型『稲魂』。

 それを見ても、獪岳は攻撃の手を緩めなかった。

 というより、逆に手首を返し、型に入った。

 

(殺気を……!)

 

 ――――風の呼吸・弐ノ型『昇り炎天』。

 弾かれたところから、咄嗟に斬り上げた。

 初速に優れる型で、獪岳の技の出がかりを潰す形になった。

 獪岳の意識の外から放たれたその攻撃は、獪岳の日輪刀の()()を的確に打ち、そして。

 

「……あ」

 

 小さな音を立てて、半ばから折れてしまった。

 意外に思われるかもしれないが、刀は意外と脆い。

 的確な方向に振らないとと斬りかかっただけで折れるし、側面から叩けば容易に折れる。

 しまった、と瑠衣は思った。咄嗟の反応だったとは言え、他の隊士の刀を追ってしまった。

 

 しかし嫌な感触が掌に伝わってきて、刀の重みが変わると、まさかと思って足元を見た。

 すると思った通りの物、つまり瑠衣の刀の刀身だけがそこに落ちていた。

 上弦との戦いのせいか、あるいは獪岳の左右からの連撃に内部破壊が進んでいたのか。

 ひゅっ、と、息を吸った。

 

「あ――――っ!!」

 

 何とも悲し気な悲鳴が、その場に響き渡った。

 その声を、上空の鴉達の鳴き声が掻き消していった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「あーっ、瑠衣さん! お久しぶりです!」

 

 折れた刀を手に、とぼとぼと煉獄邸に帰ると、予想外の客がいた。

 太陽のような明るい顔で挨拶してくるその少年は、炭治郎だった。

 妹の入った箱を背負ったその姿も、すっかり見慣れたものだ。

 

(ん……?)

 

 炭治郎の額を見て、一瞬、眉を顰めた。

 彼の額には痣――火傷の跡らしい――があるのだが、それに違和感を覚えたのだ。

 何となくだが、痣の形が前に見た時と違う気がする。

 色というか形というか、記憶と違う。

 

 しかし痣の形が変わると言うのも、妙な話だ。

 気のせいだろうと、この時は思った。

 この時は、そう思った。気のせいだと。

 

「こんにちは、竈門君。もしかして、私に何か用でも……?」

「あ、いえ! そういうわけじゃないんですけど」

 

 困ったように頬を掻きながら、炭治郎は腰に差した日輪刀を目で示して。

 

「実は、刀が折れてしまって。お館様のご厚意で、刀鍛冶の里に行っても良いということになって」

「刀鍛冶の里、ですか」

 

 日輪刀は特殊な鋼で打たれている。

 それ故に、刀鍛冶にも特殊な技術が求められる。

 鬼殺隊にとってなくてはならない存在で、当然、鬼から隠されている。

 その隠れ里に行けるということ自体、珍しいことだ。

 

「刀は任務で?」

「あ、いえ、それも違って……」

 

 たはは、と笑って、炭治郎は言った。

 

「槇寿郎さんとの稽古で」

 

 断っておくと、この時の炭治郎に悪気は全くない。

 というより、炭治郎の性格で他者に悪気というものが働くことがない。

 そんなことは、瑠衣にもわかっている。

 しかしこの何気ない炭治郎の言葉は、瑠衣の胸にこれ以上なく突き刺さった。

 

 その()は、過去に()()、瑠衣の胸に刺さったことがある。

 何度味わっても、慣れるものではなかった。

 しかし経験がある分、取り繕うことは出来た。

 だから瑠衣は、何事もなかったかのように笑顔を浮かべて。

 

「怒ってますか?」

 

 繰り返すが、炭治郎に悪意はない。

 この真っ直ぐな少年に悪意などあるはずもない。

 ただ、口にせずにはいられないというだけだ。

 それが時に残酷になるということを、まだ知らないだけだ。

 

「……怒ってはいません。ただ、少し驚いただけですよ」

 

 本当に、怒っているわけではなかった。

 ただ「驚いた」というのも、正確ではなかった。

 これは、言葉にできるものではない。仮に言葉にするとしても、相応しい言葉が思いつかなかった。

 

「実はですね。私もついさっき、うっかり刀を折ってしまいまして」

 

 刀を鞘ごと持ち上げて見せて、瑠衣は笑って見せた。

 折ってしまったのは本当のことだから、そこに嘘の匂いを感じることはできない。

 

「情けない話ですよね」

 

 その言葉からも、また、嘘の匂いは感じられなかった。

 何故ならばそれは、瑠衣の本心であったのだから。




最後までお読みいただき有難うございます。

1話のインターバルを挟んで、刀鍛冶の里編に突入します。
原作アニメに追いつかれないように巻いて行かないと(え)

それでは、また次回。


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第30話:「刀鍛冶の里」

 刀鍛冶の里。

 それは、日輪刀の刀鍛冶達の()()()である。

 彼らは唯一の鬼殺の武器「日輪刀」の製造技術を持つ()()の集団であるため、鬼から、そして世間からも隠す必要があるのだ。

 故に、隠れ里の正確な位置を知っているのは、彼らの長と鬼殺隊当主の2名だけである。

 

 もしそれ以外の隊士が隠れ里に入る場合、己の足では入れない。

 隠――そしてその隠を案内する鎹鴉――に運ばれて、入里する形をとる。

 この際は目隠しや耳栓などで外界の情報を遮断する措置が取られる上、運び役の隠も案内役の鎹鴉も頻繁に入れ替わる。加えて、道順さえも同じではない。

 

「どうもコンニチハ。ワシこの里の長の鉄地(てっち)河原(かわはら)鉄珍(てっちん)。……よろぴく!」

 

 小柄な老人が、剽軽(ひょうきん)な挨拶をしてきた。

 ひょっとこの面を被った、縦も幅も成人男性の半分もないような小さな男。

 まあ、ひょっとこの面は彼だけでなく刀鍛冶全員が着けているのだが。

 

「お久しぶりです、里長様。この度は里へ入ることをお許しいただき、有難うございます」

 

 そんな奇妙な老人――里長に対して、瑠衣は畳に手をついて頭を下げていた。

 見かけからは想像もできないが、鉄珍は現在の――いや、過去に遡っても、最も優れた技術を持つ刀鍛冶なのだ。

 今の柱の何人かの愛刀は彼にしか打てないと言えば、その凄さが伝わるだろうか。

 

「やー、瑠衣ちゃん。しばらく見んうちに別嬪さんになったな。おいで、かりんとうをあげよう」

「いえ、お気持ちだけで。職務中ですので」

「相変わらず真面目やねえ」

 

 鉄珍とは、家の関係で何度か会ったことがあった。

 ただ挨拶程度で、しかも親のついでだ。個人的な関係はほぼない。

 にも関わらずかりんとうを勧めてくるのは、鉄珍の気さくさなのだろう。

 

「で、そっちが」

「竈門炭治郎です! よろしくお願いします!」

 

 ごん、と畳に額を打ち付ける音がした。

 炭治郎が瑠衣を上回る角度と速度で頭を下げたためで、ともすれば畳が傷みそうだった。

 まあ、ここまでは良かった。

 瑠衣も炭治郎の性格を少しは知っているつもりだ。だから彼の態度に不自然な点はない。

 問題は。

 

「獪岳です! よろしくお願いします!」

 

 ()()()()()挨拶をする、獪岳だった。

 まるで爽やかな好青年のような顔をして、礼儀正しく背筋を伸ばしている。

 

(え、誰ですかこの人)

 

 口にしている台詞は炭治郎と同じなのだが、受ける印象は180度違う。

 そして異物を見るような目を向ける瑠衣を、獪岳は完璧に無視してみせたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ふう、と、虚空に向けて息を吐いた。

 視界の中で、白い湯気が吐息に押されて渦を巻いた。

 

「温泉なんて、久しぶり……」

 

 鉄珍への挨拶を済ませた後、瑠衣は温泉への入浴を勧められた。

 食事の前に、道中――隠に背負われていただけとはいえ――の疲れを癒してほしいという、鉄珍の好意に甘えた形だ。

 というより、好意に甘えるまで粘られた。

 年少の人間の遠慮や謙遜をまるで聞いてくれない人種というのはたまにいるが、鉄珍はまさにそういう人間だった。

 

「ふうううー……」

 

 呼吸の恩恵か、足の怪我はかなり良くなってはいた。

 とはいえ熱い温泉に浸かりきってしまうのは良くないだろうと、専用の台と湯の浅い場所を作ってくれた。

 あるいは鍛冶で怪我をした時に使っているものなのかもしれない。

 半身とはいえ露天風呂に()かっていると、身体の芯から解されていくような、心地いい感覚にまた息を漏らしてしまう。

 

 自分で認識していたよりも、自分の身体は疲れていたらしい。

 あるいは鉄珍はそれがわかっていて、温泉を勧めたのかもしれない。

 それに貸し切り状態なのも良かった。()()()がなくて良い。

 ちゃぷ、と、二の腕の湯の雫を掌で拭いながら、そう思った。

 恥ずかしいとは思わないが、()()()()()()を好んで見せたいわけでもない。

 と、二の腕を拭うために身体を傾かせた時だ。視界の端に、何かが映った気がした。

 

「うん……?」

 

 お湯から半身を伸ばして目を瞬かせていると、今度は見えた。

 何か白いものが、温泉に浮かんでいた。

 さらによく目を凝らして見ると、それは人だった。

 人が、うつ伏せにお湯に浮かんでいた。

 それがすいーっと、瑠衣のいるところまで流れて来たのだ。

 

「うわっ、ちょっ。だ、大丈夫ですか!?」

 

 足の怪我すら忘れる程に肝を潰して、瑠衣はその誰かを抱き起した。

 抱き起こすとちゃんと息をしていて、ほっとした。

 瑠衣と同じ年頃の少女で、ただ髪色がはっとする程に白く、そのせいですぐに人だと認識できなかったのだ。

 

「え……っと。もしかして、寝てます?」

 

 抱き起こして気が付いたのだが、その少女はすやすやと寝息を立てていた。

 のぼせたのかと思ったが、そうでもなさそうだった。

 お風呂で寝てしまうというのはまま聞くが、露天風呂でそれは流石に命に関わる。

 放っておくわけにもいかないので、どうしたものかと考えていると。

 

鈴音(すずね)ちゃ~ん、どこ行っちゃったの~?」

 

 と、そんな声が聞こえて来た。

 鈴音というのは、この少女の名前だろうか。

 

「あっ、こっちです……」

「え? ほんと……って、あら?」

 

 振り向いて、そしてお互いに見つめ合うことになった。

 何故なら、その相手が瑠衣の良く知る相手だったからだ。

 その相手は口元を手で押さえて、驚いた顔で言った。

 

「瑠衣ちゃん! 貴女も来ていたのね!」

 

 鬼殺隊の恋柱、甘露寺蜜璃である。

 甘露寺の顔を見た時、ずきん、と、瑠衣の胸が痛んだ。

 それはきっと、気のせいではなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「本当に驚いたわ。まさか刀鍛冶の里(こんなところ)に瑠衣ちゃんがいるなんて」

「ええと、ある事情で刀を折ってしまって。次の任務までに打って貰わないといけないので、直接お願いに来たんです」

「そうなの。私もね、刀の調整に来たの。私の刀は鉄珍様以外には打てないらしくて」

 

 当然と言えば当然の流れなのかもしれないが、瑠衣は戸惑っていた。

 甘露寺と湯を共にしていて、お喋りに興じている、という現状に対してだ。

 てっきり、あの鈴音とかいう女の子を連れて上がるのかと思っていた。

 

「ああ! あの子はねえ、鈴音ちゃん! お友達なの。あの子の刀も難しいらしくて、刀鍛冶の人に打って貰えるのを待っているの」

「はあ……」

 

 瑠衣の視線をどう受け止めたのか、わざわざ鈴音のことを教えてくれた。

 名前は和泉(いずみ)鈴音。いつも寝ているらしい。

 今も瑠衣と同じように半身を湯に浸けたまま、すやすやと寝息を立てている。

 絶対に体調を崩すと思うのだが、これが普通なのだという。

 

(また独特な人が来たな……)

「あ、ちなみに階級は甲よ」

(しかも同格……!)

 

 ふと目を向けると、甘露寺が曖昧な笑顔を浮かべて瑠衣を見つめていた。

 その視線から逃げるように、掌に掬った湯で顔を打った。

 見てはいないが、甘露寺が寂し気な顔をしていることはわかった。

 しかし瑠衣には、その顔を見ることは出来なかった。

 

 というより、見たくなかったのかもしれない。

 この甘露寺という女性は、非の打ち所のない完璧な女性だ。

 少なくとも瑠衣はそう思っているし、他の多くの隊士もそう思っているだろう。

 そんな彼女から目を逸らしてしまう自分が、情けなかった。

 

「ねえ、瑠衣ちゃ「こらっ、待つんだ禰豆子!」ん……って、禰豆子ちゃん? きゃあっ」

「むー!」

「わっ」

 

 突然、小さな――比喩でなく物理的に――禰豆子が、湯船に飛び込んで来た。

 派手な湯の柱を立てたので、瑠衣達は頭から湯を被ることになってしまった。

 顔を手で拭って膝を立てると、ご機嫌な顔で泳いでいる禰豆子が視界に入った。

 湯に濡れた前髪をかき上げて何か言おうとして、はたと瑠衣は気付いた。

 さっき、禰豆子を呼び止めた声があったような。

 

「禰豆子! 1人で先に行かないでくれ!」

 

 やはりだ。炭治郎が岩陰から駆け出て来た。

 禰豆子を追いかけてきたのだろう彼は、しかし露天に瑠衣と甘露寺の姿を認めるや、あっと声を上げた。

 

「ごめんなさい!」

 

 と言って、自分の顔を掌で覆った。

 あんな勢いで打ったら目が潰れかねないと、こちらが心配になる程だった。

 

「あっ、こっちに来ないでください!」

 

 そんなことを言われて、え、と瑠衣は驚いた。

 しかし炭治郎が声をかけたのはこちらではないと、すぐに気付いた。

 炭治郎は顔を手で覆ったまま、どうすることも出来ずにじたばたとしつつ。

 

「獪岳さん!」

「っせえぞクソガキ。何で俺がお前の言うことをいちいち……」

 

 目が合った。

 整理するが、ここは露天風呂である。当然だが互いに着るものも着ていない。

 しかも瑠衣は半身を外に出していて、濁った湯に沈むことも出来ない。

 そんな状況で対面となると、流石に瑠衣も羞恥を覚える。

 だが一方の獪岳はこの状況でどうしたかというと。

 

「……ちっ」

 

 まさかの舌打ちである。

 曲がりなりにも年頃の、嫁入り前の娘の肌を見ておいての舌打ち。

 別に獪岳をどうとも思っているわけではないが、それにしたって舌打ちはないだろう。

 炭治郎を見習えと言いたい。

 

「き……」

 

 そして年頃かつ嫁入り前の娘として、最も()()()動きを見せたのは甘露寺だった。

 彼女は手拭いで身体の前面を隠すと、空いた片手を伸ばした。

 

「きゃああああ――――――――っ!」

 

 そのまま実に適切な行動に――いや、瑠衣はすぐにその考えを撤回した。

 何故なら彼女は風呂桶でも掴むように、露天風呂を形成する石組みの一部を()()()からだ。

 そして、何の溜めもなくそれ――人の頭2つはありそうな石材――を片手で持ち上げると、そのまま()()()

 

「いやっ、蜜璃ちゃん流石にそれは死ぬ――――!」

 

 ()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ごんっ、と、何かを打ち付ける音がした。

 

「ほん……っ」

 

 それは、甘露寺が畳に額を打ち付けた音だった。

 どことなく、里長に挨拶をした時の炭治郎に似ている気がする。

 

「……っとうにごめんね! つい手が出ちゃって……!」

「いえ、俺の不注意なんで。気にしないでください」

 

 甘露寺の謝罪に、額を腫らした獪岳がそう応じた。

 その表情からは、彼が内心で何を考えているのか読み取ることは難しい。

 甘露寺の腰の低さに驚いているのかもしれないし、片手で岩を投げる腕力に怯えているのかもしれない。

 そうでなくとも、柱が平隊士に頭を下げるという状況は本来あり得ないのだ。

 

「あっ、甘露寺さん! 晩御飯ができたそうですよ。松茸ご飯だそうです!」

「えっ、ほんとォッ!?」

 

 しばらくメソメソとしていた甘露寺だが、気を遣った炭治郎が夕食の話を振ると、ぱあっと表情を輝かせた。

 何でも里長の鉄珍が甘露寺が来るということで、ご馳走を用意してくれたらしい。

 ……甘露寺に「ご馳走」を用意するというのは、なかなか剛毅なことだと瑠衣は思った。

 

「というか、獪岳さん。何ですかその喋り方。貴方、前に私の喋り方が気持ち悪いって言ってませんでしたか?」

「……ちっ」

 

 この野郎、と瑠衣は半ば本気で思った。

 前々から瑠衣に対して非友好的な男だったが、先日から特に酷い。

 刀が折れてしまったのは、己の不明というか、おそらく長く戦ってきたことが遠因なのだろうと思うので、まあ良しとしても、この態度はどうかと思う。

 しかも里長や甘露寺のような立場が上の人間には丁寧に接すると来ると、苛立ちが倍になるというものだった。

 

「そう言えば、甘露寺さんはどうして鬼殺隊に入ったんですか?」

 

 そこで、炭治郎がそんなことを言っているのが聞こえた。

 松茸ご飯にすっかり気を良くしたのか、甘露寺は禰豆子とじゃれていた。

 兄弟姉妹が多いと聞いているので、下の子の面倒を見るのが得意なのだ。

 それは、かつて甘露寺が煉獄家で修業していた時に良くわかっていた。

 

 そして炭治郎が聞いたことは、だからこそ誰もが思うことだった。

 というのも、甘露寺は――柱であることは別として――()()なのだ。

 明るく、些細なことでころころと表情が変わり、鬼殺隊士特有の暗さがない。

 だから彼女と関わった者は、彼女がどうして鬼殺隊にいるのかと疑問を抱いてしまう。

 

「え、えー? そこ聞いちゃうの? 恥ずかしいなあ」

 

 見れば、獪岳も気になっている様子なのがわかった。

 まあ、いわば柱の「戦う理由」なのだ。気にならない方がおかしいだろう。

 しかしこの次に語られるだろうことを知っている瑠衣としては、何も言えなかった。

 何故なら、甘露寺が鬼殺隊に入隊した理由は――――。

 

「あのね……添い遂げる殿方を見つけるためなの!」

「は? 頭大丈夫か?……あ、やべ」

 

 獪岳が猫を被れなくなる程度には、衝撃的な理由だった。

 その後、ショックのあまり甘露寺が泣き喚いたことは言うまでもない。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――疲れた。

 げんなりとした様子で、瑠衣は甘露寺と手を繋いで歩いていた。

 ちなみに甘露寺の反対側の手は禰豆子が握っている。

 禰豆子と――鬼と手を握るという行為に、甘露寺は嫌悪も緊張もしない。

 

 それは人間としては美徳だが、鬼殺隊士としてはやはり異質だった。

 そういう意味では、あるいは甘露寺は炭治郎に最も近いと言えるのかもしれない。

 聞くところによれば、炭治郎と禰豆子の裁判でも処罰に消極的だったという。

 そこだけ聞くと素晴らしい人格者なのだが、今はメソメソと泣いているただの女子だった。

 

「女の子だったら、やっぱり自分より強い人に守ってほしいじゃない? 男の子には難しいのかしら……」

「いや、まあ、そうかもしれないですね」

「う?」

 

 柱である甘露寺より強い男となると、一生結婚など出来ないのではないだろうか。

 そんな素朴な疑問を感じた瑠衣だったが、口に出すほど愚かではなかった。

 

「あのー」

 

 3人の後ろを歩いていた炭治郎が、遠慮がちに声をかけて来た。

 

「瑠衣さんは、その、さっきの……獪岳さんと仲が良くないんですか?」

「どうしてそう思うんですか?」

「匂いが、緊張していたというか」

「ああ……」

 

 炭治郎には嘘やごまかしは効かない。鼻でわかってしまうからだ。

 とは言え、何でも口に出せば良いというものではないのだが。

 

「私と獪岳さんは、同期なんです。なので、色々と張り合ってしまうのでしょう」

「そうなんですか」

 

 だが、察しが悪いわけではない。

 今も瑠衣の説明に納得していない様子だったが、それ以上は追及して来ない。

 若いのだろうと、そう思った。

 まあ、言う程に年が離れているわけではないので「若い」という感想もどうかと思うが。

 

「えっと、俺の同期はそんな感じではなくて」

「ああ」

 

 善逸やカナヲの顔が浮かんで、瑠衣は頷いた。

 カナヲはちょっとわかりにくいが、善逸や伊之助といった面々と炭治郎が仲が良いのは知っている。

 鬼殺隊でも、凸凹トリオとして少しばかり有名になっている。

 あそこまで仲の良い世代というのも、珍しいだろう。

 

「あっ!」

 

 その時、炭治郎が不意に声を上げた。

 何だと思って視線を負えば、廊下の向こうからこちらへと歩いて来る人間がいた。

 背が高い。しかも筋肉質で、そもそも身体自体が大きかった。

 その風貌は、どことなく悲鳴嶼を思わせた。

 

不死川(しなずがわ)玄弥(げんや)!」

「死ね!!」

 

 目つきの鋭さもさることながら、顔面に刻まれた横一文字の傷に、頭の両側面を刈り上げた猛々しくも独特の髪が、見る相手を威圧しているようだ。

 そしてそんな印象通りに性格もキツいのか、炭治郎に対する最初の言葉が「死ね」である。

 

「……っ」

 

 しかし瑠衣や甘露寺、禰豆子に気付くと、顔を赤らめて固まってしまった。

 そのまま会釈1つを残すと、そそくさと角を曲がってどこかへ消えてしまった。

 妙な子だと思ったが、1つ気になった。

 

「……不死川?」

 

 偶然、というには珍し過ぎる名前だ。

 まあ、気にし過ぎても仕方ないことではあるが……。

 

「あ、そうだ。瑠衣ちゃん」

「はい、何でしょう」

「ちょっと、お願いがあるんだけど~」

 

 小首を傾げて、甘露寺が片目を閉じて来た。

 そんな甘露寺を見て、瑠衣は、率直に言って嫌な予感を覚えたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 日輪刀には、様々な形がある。

 日本刀の形をした正統派なものから、槍や鉄球のようなおよそ「刀」とは呼べないような物まである。

 そして、鬼殺隊の恋柱・甘露寺蜜璃の日輪刀は後者だった。

 

(何だ、あの刀は。布……いや、鋼だ。ちゃんと刀なんだ)

 

 客人用の屋敷の庭で、炭治郎は甘露寺の刀を見た。

 甘露寺の刀は布のように薄く、一見すると刀のようには見えない。

 しかしその正体は極限まで薄く打たれた鋼であって、あれでどうやって刀としての機能を維持できているのかわからなかった。

 

 ――――恋の呼吸・壱ノ型『初恋のわななき』。

 その薄刃が、まるで鞭のようにしなりながら襲いかかって来る。

 刃先が微妙に重くなっており、甘露寺の手首の()()に反応して斬撃を繰り出すのだ。

 目の前でしなり、輪を描きながら迫って来る薄刃に対して、瑠衣は刀を斜め後ろに振りかぶった。

 

「はあっ!」

 

 ――――風の呼吸・弐ノ型『爪々・科戸風』。

 風の刃が、その薄刃を打ち払った。

 そしてそのまま身を低くすると、瑠衣は甘露寺に向かって駆け出した。

 甘露寺は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに手首を返した。

 

 ――――恋の呼吸・弐ノ型『懊悩(おうのう)巡る恋』。

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 自分を包囲すべく放たれた薄刃を、回転と突進の力で斬り弾く。

 片足を庇いながらのことだが、屋敷の庭程度の距離ならそれで十分だった。

 そうして、瑠衣は甘露寺に半歩の距離にまで近付くことが出来た。

 

「わっわっ、速い!」

 

 ――――風の呼吸・弐ノ型『昇り炎天』。

 そこから、瑠衣の持つ技の中で最速の攻撃を放った。

 甘露寺の刀は射程が長い。長いが故に、超近距離の接近戦には向かない。

 瑠衣の放った技に、甘露寺は驚いた顔をした。当然だろう、これは炎の型の技だ。

 煉獄家で修業をした甘露寺が、知らないはずのない技だ。

 

(行ける……!)

 

 と、瑠衣は思った。

 甘露寺の不得手な距離、対して自分は得意の距離だ。

 そして風の呼吸での炎の型。意表を突いただろう。

 これで攻撃が通らないはずがない、と、思った次の瞬間だった。

 

 甘露寺の手が、瑠衣の腕を掴んだ。

 

 斬り上げに行った瑠衣の手首を、甘露寺の左手が掴んだのである。

 それで、()()()()()()()()

 瑠衣は渾身の力で刀を振り上げていたのだが、甘露寺に掴まれた瞬間、微動だに出来なくなった。

 例えて言うのなら、百貫の鉄塊を腕に落とされたような、そんな()()を感じた。

 

「ぐ……っ!」

 

 ()()()()

 両手で押し上げてみたところで、ほんの一寸も動けなかった。

 片足で踏ん張りが効かないとか、そういうことではない。

 ただ、純粋に片手の()()で押さえ付けられてしまっていた。

 そして。

 

「えへへ、私の勝ちい~」

 

 首に、ひんやりとした刃が当てられた。

 甘露寺の日輪刀だった。

 そして目の前には、嬉しそうな甘露寺の顔があった。

 負けた。その事実を認識すると、瑠衣はうなだれた。

 

「うん! 刀は大丈夫みたい、流石は鉄珍様だわ。瑠衣ちゃんに最後の調整に付き合って貰えて助かっちゃった」

「……力になれて、良かったです」

「本当に有難う! 無理を言っちゃってごめんねえ。足もだけれど、瑠衣ちゃんは借り物の刀でやりにくかったでしょう」

 

 それはきっと、悪気のない、気遣いのようなものだったのかもしれない。

 甘露寺蜜璃という少女は、そういう性格だ。

 しかしだからこそ、瑠衣はうなだれたまま顔を上げることが出来なかった。

 今、甘露寺に顔を見られたくなかった。

 けれど今は、うなだれるだけでは不十分だった。

 

(……匂いって、どうやって隠せば良いのかな)

 

 心配そうな炭治郎の様子に気付いて、そんなことを思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 いっそ、勝ち誇ってくれたら良かった。

 いつもそう思うが、しかし甘露寺は過去に一度もそんなことをしたことはない。

 誰かを見下すとか、優越感に浸るとか、そういう感情とは無縁の人間なのだ。

 尊敬している。本当に。ただ、それが辛かった。

 

「竈門君」

 

 縁側で何となく夜空を――憎らしい程に綺麗な満月だった――見上げながら、瑠衣は口を開いた。

 ぽつりと、呟くような声だった。

 すると、柱の陰から心配そうに炭治郎が顔を出してきた。

 

「もう夜も遅いんです。早く休まないと」

 

 本当に優しい子だと、そう思う。

 ただいかんせん、器用ではない。

 

「……恋柱様は、もう発たれましたか?」

「あ、はい。さっき……」

「そうですか」

 

 日輪刀の調整を押せて、甘露寺は朝を待たずに出立していた。

 柱なのだ。一所に留まり続けることは難しい。

 見送ろうとは思ったのだが、足の怪我を気遣われて遠慮された。

 そういうところも、非の打ちどころがない人だった。

 

 そして、炭治郎はそんな瑠衣の複雑な心境を匂いとして嗅ぎ取っていた。

 匂いで感情を読み取る彼でさえも、瑠衣の心境をどう表現すれば良いのかわからなかった。

 だから、どう声をかけるべきか決めかねてしまっている。

 だがこの場を去る気持ちにもなれず、結果としてまごまごするだけとなってしまっていた。

 

「ダッセェなぁ、おい」

 

 そんな時に現れたのが、獪岳だった。

 瑠衣の同期だというこの男は、わかりやすい男と思った。

 ()()()()()

 何に対してかはわからないが、ずっと不満の匂いを漂わせている。

 最初は刀がすぐに用意されないことへの不満かと思っていたが、瑠衣に話しかける時にもその匂いがしていて、そうではないことがわかった。

 

「見てたぜ。お前みたいな弱いやつと同期と思われるなんて本当に恥ずかしいぜ、情けないやつ」

 

 だが、吐いた毒は聞き捨てならなかった。

 

「柱ってのはな、鬼殺隊最強の称号なんだよ。お前みたいな才能のない雑魚が敵うわけがねーだろ」

「……ちょっと!」

「そもそも何だよ、あれは。風の呼吸の癖に別の型の技だ? はっ、そんな真似事をしたってなァ……本物にはなれねぇんだよ!」

「ちょっと、やめてください! あまりにも酷い言い方だ!」

「ああ~?」

 

 じろり、と獪岳が炭治郎を睨んだ。

 すると不満の匂いが炭治郎に向けられるが、構わなかった。

 それよりも、獪岳の言葉の方が問題だった。

 

「瑠衣さんは、凄い人だ! 強い鬼と……上弦とだって戦って、たくさんの人を助けて来たんだ!」

 

 さっきのように心配になることもある。けれど、努力の匂いは本物だった。

 無限列車の時も、カナヲや善逸と共にした任務でも、常に前線にいて逃げなかった。

 そんな瑠衣が()()でないなんて、炭治郎にはどうしても思えなかった。

 不当な評価だと、そう思った。

 

「瑠衣さんは、情けなくなんかない! 取り消してください!」

「お前、俺は先輩だぞ。口の利き方を」

「たとえ先輩でも、言って良いことと悪いことがある! 取り消してください!」

「こ、の……クソガキッ!」

 

 激昂した獪岳が、裏拳を炭治郎に向けて振り下ろした。

 突っかかってきた炭治郎を払おうとした動きだが、しかし炭治郎はその獪岳の拳を受け止めてしまった。

 さらに憤怒に表情を歪める獪岳だが、一方で内心に動揺を得ていた。

 

(なっ、止めやがっただと。しかも……)

 

 拳を引こうとしても、抜けなかった。

 炭治郎の力が想像以上に強く、逆に獪岳の拳から骨の軋む音がする程だった。

 プライドが傷つけられたのだろう、獪岳の額に血管が浮かび上がった。

 そして、炭治郎と獪岳の間の空気がいよいよ剣呑なものになった時。

 

「竈門君」

 

 瑠衣が立ち上がっていて、炭治郎の手に触れた。

 驚いた顔をする炭治郎に、瑠衣は微笑した。

 

「有難う。でも隊員同士の揉め事はご法度だから。手を放して」

「……はい」

 

 そうして炭治郎が力を緩めると、2人の弾くようにして獪岳が腕を引いた。

 掴まれていた拳を擦りながら、炭治郎を睨む。

 

「てめえ」

「獪岳」

「……ッ!」

 

 炭治郎と手を重ねたまま、顔は向けず、目だけを獪岳に向けて瑠衣は言った。

 

「聞こえませんでしたか? 隊員同士の揉め事はご法度です」

「俺に指図するんじゃねえ!」

「……それでも続けると言うのなら」

 

 炭治郎の前に立って、身体ごと獪岳の方に向いた。

 その間、目は逸らさなかった。

 視線はそのままに、身体だけを動かした形だ。

 

「気が済むまで、私が相手をしますよ」

 

 そもそも、獪岳が突っかかって来たのは瑠衣だ。

 だから瑠衣の言っていることは、話を元に戻しただけのことだ。

 むしろ、炭治郎をこんなことに巻き込んでしまって申し訳ないとすら思う。

 

「どうしますか」

 

 しばらくの間、瑠衣と獪岳は睨み合っていた。

 数秒か、数十秒か、数分か。それ以上にも感じられた。

 その間、どちらも何も言葉を発さなかった。

 どこかから鴉の鳴き声が聞こえて、それをきっかけに、獪岳が舌打ちした。

 

「……クソがっ」

 

 不機嫌そうにそう吐き捨てて、踵を返した。

 そのまま歩き去っていく獪岳の背中を見つめながら、瑠衣は嘆息した。

 それから炭治郎の方を振り向き、小さく笑いかけた。

 

「すみませんでした、竈門君。私の揉め事に巻き込んでしまって」

「いえ、そんな。瑠衣さんは悪くないです」

「それでも、ごめんなさい。それから……」

 

 その後の瑠衣の表情を見て、炭治郎は顔を赤らめた。

 

「……ありがとう」

 

 するとわたわたと慌て始めた炭治郎を見て、瑠衣はクスリと笑みを零したのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「はあああ~……」

 

 ぱしゃっ、と湯で顔を叩いて、瑠衣は大きな溜息を吐いた。

 獪岳と揉めた翌朝のことである。

 正直なところ、昨夜はあまり寝付けなかった。

 無意識の内に、感情の昂りを制御できていなかったのかもしれない。

 

 まあ、寝不足はともかくとして、炭治郎のことだ。

 炭治郎にはまたもや情けない姿を見せてしまったし、瑠衣のせいで獪岳との間に溝を作らせてしまった。

 いや、獪岳は誰とでも溝を作るのだが、だから良いという話でもないだろう。

 刀鍛冶の里にいる間は、炭治郎と獪岳が接触しないよう良く見ておくべきかもしれない。

 

「……本物にはなれない、か」

 

 昨夜は炭治郎の手前、ああ言ったものの、獪岳の言葉は結構()()ものがあった。

 風の呼吸での炎の型の使用である。

 実際、瑠衣が舞い上がっていたことは確かだ。

 これなら自分にも炎の型が使えると、喜びを感じていなかったと言えば嘘になる。

 

 瑠衣の身体は幼少期から炎の型を叩き込まれている。

 だから他の呼吸でも、炎の剣技の技は十分以上の威力が出せる。

 不死川に教えられた風の剣技も、幼少期の鍛錬が基礎になければ習得は難しかったろう。

 だから、風の剣技でも不死川を越えられずにいる。炎の気配が抜けないのだ。

 どこまで行っても自分は炎の家の子なのだと、思い知らされる――いや。

 

(そう、思いたいだけか……)

 

 だから「真似事」という獪岳の指摘は、実はかなり鋭かった。

 痛いところを突かれたとは、まさにああいうことを言うのだろう。

 

「うーん……痛みはもう無いけれど」

 

 骨折していた足を擦ってみると、腫れも痛みもなかった。

 全集中の呼吸は身体機能を強化するが、自然治癒力もその1つだ。

 呼吸を極めれば極める程に怪我の治りは早くなる。

 例えば柱ともなると、簡単な骨折程度なら2、3日で復活してしまう程だ。

 瑠衣はまだそこまでの域には達していないが、今回は綺麗に折れていたのもあって、快復まで思ったより時間はかかりそうではなかった。

 

「ばうっ」

 

 ――――うん?

 木製の風呂椅子に座ったまま足を擦っていると、いきなり、妙な声が聞こえた。

 声というか、鳴き声である。

 え? と顔を向けると。

 

「ばうっばうっ」

 

 犬がいた。犬だと思う。

 「思う」という表現は、その犬が瑠衣の見たことがない犬種だったからだ。

 体毛は短く、黒毛で、細身で筋肉質だ。

 その犬が瑠衣に()()()()()()()()

 

「わっ、ちょっ……いったあっ」

 

 そのまま床に尻餅をついてしまい、痛みに呻いた。

 しかし犬はお構いなしに瑠衣の肩に前足を置くと――そちらも地味に痛い――瑠衣の顔をベロベロと舐めにかかってきた。

 やけに人懐っこい、で片付けて良いのかは不明だが、人慣れした犬だ。

 どこから来たのかと思っていると。

 

「おーい、コロ~。どこや~」

 

 湯煙の向こうから、ぬっと人間が姿を現したのだった。

 おそらくこの犬の飼い主なのだろう。

 それは良い。別に良かった。ただ問題は、その声が明らかに()()ということだ。

 そして、現れたのが()()だ、ということだった。

 

「あら」

 

 おそらく年上だろう。金髪碧眼の、異人にも見える男。

 浅黒い肌に無精髭。ボサボサの髪。お世辞にも身嗜みを気にしているとは言えなかった。

 もちろんのこと、瑠衣の知らない男だった。

 目が合い、瑠衣の頬にさっと朱が差した。

 

 そして瑠衣の対応は、甘露寺の対応に比べれば実に()()()()()だった。

 倒れた風呂椅子を掴み、そのまま――――。

 ()()()




読者投稿キャラクター:
日向ヒノデ様:和泉鈴音
ありがとうございます。

最後までお読みいただきた有難うございます。

サービス回です(え)
とりあえず瑠衣を温泉に入れたかっただけです(え)

ただちょっとキャラクター詰め込み過ぎたかな、と思わなくもないです。
だが後悔はしていない(え)

それでは、また次回。


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第31話:「縁壱零式」

今回は後書きにて募集があります。


 刀鍛冶の里というより、どこかの温泉旅館にでもいるような気分だ。

 来客用の屋敷の大広間で朝食のお膳を前に、浴衣姿でいれば嫌でもそうなる。

 強いて言えば、広さに対して人数が少ないということくらいだろうか。

 

「竈門君、ちょっと食べ過ぎじゃないですか?」

「いえ! 俺も甘露寺さんのようにたくさん食べて強くならないと!」

「恋柱様のあれはそういうのとは違いますから」

 

 瑠衣の隣で、炭治郎が山ほどのお(ひつ)と格闘していた。

 おそらくは甘露寺のために用意していたのだろうが、彼女は昨夜の内に任務で出立してしまった。

 そのため、炭治郎が甘露寺に変わって食べ切ろうと頑張っているのだ。

 ……おそらく余ったら刀鍛冶達の食事に回されるだけだと思うので、無理して食べ切る必要は全くないのだが。

 

「いやー、剣士様って良く食べるんですねえ。あ、ご相伴に預かってますう」

 

 当番の隠だったのか、たまたま顔を出した沼慈司がちゃっかり朝食をせしめていた。

 この後で先輩隠にどやされることになるのだが、この時点で彼女がそれに気づくことは無かった。

 

「おはようござい……うおっ!?」

 

 その時、空になったお櫃を回収に来た刀鍛冶らしきひょっとこ面の男が、瑠衣の隣を見てぎょっとした声を上げた。

 炭治郎ではなく、瑠衣を挟んで反対側だ。

 ただ、そちらには誰もいなかったがずだが……。

 

「うわっ」

 

 と、瑠衣も似たような声を上げてしまった。

 何故ならひょっとこの目を負って横を向くと、そこに昨夜見たあの少女がいたのだ。

 存在感の希薄さにまず驚かされる。

 はっとするような白い髪と相まって。まるでこの世の者ではないかのようだ。

 

(いつの間に……)

 

 名前は、確か和泉鈴音。

 ただ昨夜の温泉と違って、鈴音は起きていた。

 しかし目を開いていてもなお、瑠衣には鈴音がそこにいるという実感が湧かなかった。

 目の前にいるのに、奇妙な感覚だ。

 

 瑠衣がそうして見つめていると、不意に鈴音が瑠衣の方を向いた。

 かくん、と頭を落とした拍子のことで、見たというよりは、まさに「向いた」という風だった。

 しかしその目は、目の前を見ているのか、あるいはどこか遠くを見つめているのか、判然としなかった。

 

「あら、可愛らしいわね」

 

 はたして、これは自分が声をかけられているのか?

 たったそれだけのことでさえ、瑠衣には確信が持てなかった。

 何とも不思議な娘だと、そう思った。

 

「いやあ~。こんなに賑やかな朝飯は、おじさん久しぶりだなあ」

 

 そして、今1人。

 だらしなくよれた浴衣を直そうともしない、無精髭の男。

 瑠衣が早朝に、やはり露天風呂で出会った男だ。

 

「なあ、コロ?」

 

 男の傍らに寝そべり、緩やかに尻尾を揺らしていた犬は、主人の声に。

 

「ばうっ」

 

 とだけ、答えたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼殺隊には、ベテランが少ない。

 と言うのも、まず平均寿命が短い。鬼との戦いで若い隊士がどんどん戦死していくからだ。

 柱でさえ上弦を含む十二鬼月と遭遇すれば戦死を免れず、生き残ったとしても重傷を負って引退を余儀なくされる者もいる。

 槇寿郎や悲鳴嶼のような人間は、例外中の例外なのだ。

 

「いやあ、今朝はごめんね。おじさんここには男しかいないって思いこんでたもんだから」

「いえ、こちらこそ。お見苦しいものをお見せした上に椅子まで……」

「あーやや、ややや。こういうのはね、男が悪いって話だから。そーやってもの分かりが良くなっちゃあ、だめだって」

「はあ……それで、あのう」

 

 ()()()()と顔中を舐められながら、瑠衣は言った。

 

「これは、いったい?」

 

 自分を「おじさん」と呼称する――おじさんと言うほどに年齢は高くなさそうだが――その男は、犬井(いぬい)(とおる)と名乗っていた。

 そして今、尻尾を振りながら瑠衣の顔を舐めているのは、彼の愛犬である「コロ」だった。

 犬井によると、今年11歳になるらしい。なかなかの老犬だ。しかし元気だ。

 

「ここまででいやらしいことを考えたやつは並ぶっす! 隠流格闘術で端からぶっ飛ばしてやるっす!」

 

 沼慈司はいったいどこに向かって喋っているのだろうか。

 それはそれとして、コロだ。

 温泉の時からそうだが、何故か瑠衣に懐いている。

 

「あー、コロは女の子が好きでねえ」

「その発言は誤解を生むと思うのですけど……」

 

 はっはっはっ、と、犬井は笑った。

 その間も瑠衣の顔はコロの唾液でべとべとにされていたのだが、その点は気にしていないらしい。

 それにしても、と、瑠衣は改めて犬井を見た。

 やはり、どこかだらしがない。髪も髭も整えていないし、浴衣もよれたままで直そうともしない。

 

 ただ、槇寿郎のだらしなさとは違うと感じた。

 槇寿郎のは単なる()()だが、犬井にそういう部分は見えない。

 単に直感でそう思っただけなので、言葉にはしなかった。

 まあ、女子受けはしなさそうな身嗜みである。

 

「犬井さんは隊士の方ですよね。ここにいるということは、貴方も刀を?」

「あー、いや。おじさんじゃなくて、コロのね。日輪刀待ちなのよ」

「コロって……え? この子に日輪刀を?」

「あ、やっぱりそう思うよねえ。でもねえ、そいつね、鬼50体斬ってるからね。俺と違って」

「……ええ?」

 

 どうにか引き離して、コロへ視線を向けた。

 舌を出してはっはっと呼気を漏らしているその姿からは、ただの犬という印象しか受けない。

 この犬が鬼50体。つまり柱級だ。犬柱とでも言うべきなのか。

 何の冗談かと思ったが、瑠衣のそういう視線を感じたのか、犬井はボリボリと頭を掻いていた。

 

「おじさんはお館様に戦力外通告されちゃってるから。いやあ、恥ずかしいねえ」

 

 それを聞いて首を傾げた者がいる。炭治郎だ。

 もう何度も言及していることだが、彼は鼻が利く。

 人の感情さえ嗅ぎ取れる彼にとって、嗅覚で相手の強さを計ることは造作もないことだ。

 そんな彼が犬井に会って思ったのは、犬井自身の発言とは真逆のことだった。

 

(この人、強いぞ)

 

 戦力外なんて()()()()()()

 そう思うのだが、一方で嘘の匂いもしない。だから反応に困った。

 しかしそんな時、待っているのに飽きたのか、禰豆子が炭治郎の膝にじゃれつき始めた。

 禰豆子に配慮してくれているのか、大広間は陽光が遮られている。

 

 その時、犬井の匂いが微妙に変わるのを感じた。

 炭治郎を、いや禰豆子を見ているようだった。

 嫌悪、とは違った匂いだった。

 それはすぐに消えたが、しかし炭治郎はその匂いがどんな感情から来るものなのか、酷く気になった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 朝食の後、瑠衣は里長である鉄珍に呼ばれた。

 

「合ってないと思うんよ」

「え?」

 

 そして開口一番に言われたのが、合っていない、の一言だった。

 何の話かと言えば、1つしかない。

 瑠衣の新たな日輪刀の話だ。

 

「合っていない、というのは。えっと……」

「ああ、すまんすまん。話を端折(はしょ)り過ぎたわな」

 

 口の長いひょっとこの面を揺らしながら、鉄珍はからからと笑った。

 しかし実際、意味が良くわからなかった。

 鉄珍直々の呼び出しということで、急いで隊服に着替えてやった来たのだ。

 てっきり日輪刀が打てたので、別れの挨拶でもということだと思ったのだが。

 

「瑠衣ちゃんね。刀、合ってないと思うんよ」

 

 つまりな、と、鉄珍は言葉を続けた。

 

「瑠衣ちゃんの戦い方やと、()()は合ってないと思うんよ」

 

 瑠衣は戦う時、鬼の周囲を跳び回る。

 それは「常に動く」という目標を追及した結果だった。

 しかし脚力でもって駆け回るという関係上、太刀のように「長く」「重い」ものは不向きではないか。

 まとめると、鉄珍の話はそういうことだった。

 

 言われた瑠衣は、得心半分、不承知半分というような顔をしていた。

 得心した部分は、今まで戦って来た高位の鬼の頚を斬りきれなかった、という点だ。

 駆けながらの斬撃は重心が定めにくく、十二鬼月級になると頚を斬りきれない。

 本当は炎の呼吸のように足を止めて、剛力で斬り刎ねる方が良いのだ。

 

 不承知の部分は、どちらかと言えば感情の問題だった。

 煉獄家は皆、日輪刀――正統派の太刀を使う。

 槇寿郎もそうだし、ご先祖様もそうだった。

 宇髄や甘露寺の戦い方を否定するつもりはないが、いわゆる変異刀の類は煉獄家では暗黙の内に使用しないものなのだ。

 

「まあ、この機会にいろいろ考えてみたらどうかな」

 

 刀鍛冶が刀を打つのは、剣士を死なせないためだ。

 より強い武器を作ることで、少しでも隊士の生存率を上げるためだ。

 悪鬼を滅ぼすために命と肉体を差し出す若者達を、生き残らせたいのだ。

 だから鉄珍がこう言うということは、()()()()ことなのだ。

 

(……本物になれない、か)

 

 本当に、つくづくあの同期は的確なことを言ってくる。

 おそらくお互いに誰よりも嫌っているだろうに、不思議なことだ。

 あるいは、嫌っているからこそ、色眼鏡なく本質が見えてしまうのかもしれない。

 鉄珍の話を聞きながら、瑠衣はそんな風に思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 昔からだ。

 ずっと昔から、満たされるということから無縁だった。

 獪岳の人生は、その一言に尽きると言って良かった。

 だからだろうか、誰も彼の傍に寄ろうとはしなかった。

 

「あ、では私はこれで……」

 

 今も、山中で修練を――1人で――積んでいた獪岳のところに、隠が来ていた。

 鎹鴉と隠は隊士の様子を窺っているので、居場所は常に把握されている。

 だから食堂に現れない獪岳のために、笹の葉に包んだ弁当を届けてくれるのだ。

 だが当の獪岳が睨むので、ほどほどの距離に置いて行く。

 

「ちっ」

 

 舌打ち。いつからかすっかり癖になってしまった。

 幼少期からそういうところはあったが、鬼殺の修行の途中から酷くなった。

 修行自体は問題なかったが、それ以外の面が最悪だった。

 今ではもう、思い出したくもない。

 

 適当な岩に腰かけて、竹筒の水を呷った。

 程よい温度の水が喉を過ぎていく。その心地よさに、ようやく息を吐いた。

 弁当の握り飯に齧りつくと、白米と塩の味がして、次いで梅干しの風味が広がった。

 美味い。だが、それだけだった。

 

「あ? 何の音だ」

 

 そんな時、金属が打ち合う音が聞こえた。

 音から、刀が打ち合う音だとすぐにわかった。

 こんなところで誰だと思って覗きに行くと、彼が想像していたのとは違う光景が目に飛び込んで来た。

 

「あれは、柱の……」

 

 そこにいたのは、長髪の少年だった。

 袴のような独特の隊服は、小柄な体躯と相まって少女のようにも見えた。

 音の通り、刀を握って打ち合っている。しかし汗一つかかず、表情も動いていない。

 鬼殺隊でも有名人だ。他人に関心の薄い獪岳でさえ、その名を知っている程だ。

 

「時透無一郎、だったか。確か」

 

 曰く、天才少年。刀を握って2か月で柱になったという話だった。

 もちろん歴代最年少の柱だ。

 その時透が、奇妙な存在と刀を打ちあっていた。

 人間の形をしているが、腕が()()あった。

 

 異形の鬼かと思ったが、どうも違うようだ。

 生き物ではなく、人形――絡繰人形だ。

 顔の左半分が割れていて、陶器のようなもので出来た偽物だとわかる。

 着物に武者鎧の袖まで着ているから、一瞬本物の人間と見紛う程だった。

 

「何だ、あれは」

 

 時透もそうだが、人形の方も凄い。

 獪岳でもついていくのがやっとの速度で、しかも六本の腕で刀を振り回している。

 一本一本の剣筋がまた鋭く、常人に見切れるものではないと思った。

 そしてその全てを、獪岳よりも明らかに年下の時透が無表情に捌いている。

 獪岳の口元から、またいつもの音が響いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 温泉旅館のようだとは言っても、もちろん観光地のような娯楽があるわけではない。

 里長の屋敷を辞してあてもなく里を彷徨っていた瑠衣だが、早々に自分の居場所がないことに気付いた。

 当然のことながら刀鍛冶達は己の仕事に忙しく、瑠衣に構っている暇はないのだった。

 

「そして思いつくのが走り込みというのも、我ながらどうなんだろう」

 

 山があるので、走る場所には困らない。

 自然の山は修行場としては適しているから、鍛錬をしながら考え事をするにはうってつけだった。

 だがら鉄珍の話したことをゆっくり考えようと、そう思っていた。

 しかし瑠衣がそう考えているということは、他の隊士も同じように考えているというわけで。

 

 山の中を走っていると、屋敷ですれ違った背の高い少年を見かけた。

 不死川玄弥という名前だったか、確か。

 彼は大きな岩の前に立っていて、何やら俯いている様子だった。

 どうしたのだろうかと近付いてみたが、集中しているのか、瑠衣には気付いていないようだった。

 

「……舎衛国。祈樹給孤独園……」

 

 何かを呟いているようだ。

 

「南無、阿弥陀仏」

 

 呟いていたのは、お経のようだった。

 しかし次の瞬間、俯いていた体勢からいきなり岩に抱き着いた。

 違った。抱き着いたというのは正しくないだろう。

 彼はそのまま、大岩を押し始めたのだ。

 いや、それは無理だろうと思った矢先。

 

「オラアアアァ……!」

 

 ほんの少しだが、岩が動いた。

 一寸ほどしか進まなかったが、確かに動いた。

 岩は偶然で動かせるほど小さなものではなかったので、玄弥が自分の力で押したということになる。

 そこまで来て、ようやく瑠衣は得心した。

 

「反復動作ですね」

「えっ!?」

 

 反復動作。集中力を一瞬で極限まで高めるための技術だ。

 あらかじめ決めておいた動作等をすることで、肉体の力を瞬時に最大まで引き出すことが出来る。

 先程の念仏は、玄弥にとっての反復動作だったのだろう。

 これは呼吸とはまた別の技術なので、習得にはまた別の素質が必要になる。

 例えば雑念を払えない者は、反復動作には向いていない。

 

「上手ですね。集中に入ってから動くまでが滑らかで。誰かに教わったんですか?」

「お、あ、や」

「え?」

「……っ」

「え、ちょっと」

 

 瑠衣が話しかけると、何故か顔を真っ赤にして頭を下げて来た。

 かと思えば、背を向けて一目散にどこかへて駆けて行った。

 

「……流石にちょっと傷つきます……」

 

 自分の頬に手を当てて、瑠衣は首を傾げた。

 もしかして、自分は顔が怖かったりするのだろうか。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「やー。おじさん、それはちょっと不味いと思うなあ」

 

 そんなとぼけた声がかけられたのは、獪岳がひょっとこの面を被った子供――小鉄という名前の、里の子供――の襟元を掴み、締め上げた時だった。

 彼の腕にはもう1人別に、炭治郎が彼を止めようと絡まって来ていたが、獪岳はそれは気にしていなかった。

 獪岳は、時透が使っていた絡繰人形を自分にも使わせろと言いに来たのだ。

 

 その絡繰人形は時透によって腕が一本破壊されてしまっていたが、まだ動くようだった。

 この人形は隊士の修行用らしい。だったら自分にも使う資格はあるはずだ。

 そう言ったのだが、持ち主らしき小鉄という子供は首を縦に振らなかった。

 それに激高して襟首を掴んで吊り上げたところで、すっとぼけた声が聞こえて来たのだ。

 

「なんだ、おっさん。失せろ」

「やーやー。元気があって良いねえ。でもさ、里の子供をいじめるのは不味いんじゃないかなあ。ほら、隊律的にさ」

 

 犬井が、ボサボサの髪を掻きながらそんなことを言った。

 それに対する獪岳の答えは、実に簡潔だった。

 

「知るか。消えろ」

 

 あららと肩を竦める犬井から視線を外すと、獪岳は吊り上げた小鉄を前後に揺らした。

 苦しいのだろう。小鉄が「ぐえ」と蛙が潰れるような声を上げた。

 それを見た炭治郎が、やめろと叫んで獪岳の手首を掴んだ。

 その、次の瞬間だった。

 

「はーい、そこまで~」

 

 え、と声を上げたのは誰だっただろう。

 いつの間にか、炭治郎と小鉄が犬井の小脇に抱えられていたのだ。

 獪岳は、己の手から小鉄が擦り抜けたことを数秒経ってから自覚した。

 奪われたのだと認識したのは、そこからさらに数秒後のことだった。

 

「まー、落ち着けや兄ちゃん」

 

 炭治郎は、今の犬井の動きが何かわかった。

 というより、この場では炭治郎にしかわからなかったかもしれない。

 今の犬井の足運びは、間違いなく水の呼吸のものだったからだ。

 炭治郎の知る限り、水の呼吸でこれ程の動きが出来るのは彼の師と兄弟子くらいだ。

 

(この人、やっぱり強い)

 

 炭治郎が自分の嗅覚の判断に確信を持つのと、獪岳の顔に朱が走るのはほぼ同時だった。

 

「てめ……!」

 

 その時、がさがさと茂みが揺れた。

 誰かが来る。獪岳は舌打ちした。

 相変わらずとぼけた表情を浮かべる犬井を睨み、それから踵を返した。

 どいつもこいつも、と、その目は口ほどに物を言っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「小鉄くん、大丈夫!?」

 

 顔を出した瞬間、瑠衣の目に飛び込んで来たのは、ひょっとこの面を被った子供を助け起こす炭治郎の姿だった。

 犬井の姿があったので目で尋ねてみたが、いやあ、と頭を掻くばかりで説明はしてくれなかった。

 

「ばうっ、ばうっ」

 

 コロは積極的に説明したがっていたが、残念ながら犬の言葉はわからなかった。

 足元にじゃれついてくるコロには曖昧な微笑を向けて、瑠衣は炭治郎の方を見た。

 あのひょっとこの面の子供は、小鉄という名前だったか。

 

「あ、瑠衣さん」

 

 2人の傍に膝を下ろすと、小鉄が「うーん」と唸りながら頭を起こしたところだった。

 何故かコロが瑠衣の脇腹のあたりに顔を突っ込もうとしてきていたが、それは犬井が首根っこを掴んで引き剥がしていた。

 それに内心で礼を言いつつ、炭治郎の手に重ねるように腕を小鉄の背中に回した。

 

 ひょっとこの面のせいで目線を合わせにくいが、なるべく目を合わせた。

 しばらく小さく唸っていた小鉄だが、目の前に炭治郎以外の顔があることに気付いたのだろう、緩慢な動きではあったが、瑠衣の方を見た。

 すると、今度は「うわっ」と身体を跳ねさせた。

 

「大丈夫ですか?」

「え、あ、あやっ、だ、大丈夫!」

「顔が赤いですけど……」

「うわっ、近い!」

 

 そして顔を覗き込んだ途端、わたわたと暴れて瑠衣から離れてしまった。

 玄弥に続いて本日二度目。

 表には出さなかったが、瑠衣は内心で少々傷ついていた。

 無視って。近いって。

 

「た、炭治郎さん……炭治郎さん! ちょっと!」

 

 一方で、小鉄は泡を食った様子で炭治郎の腕を掴んでいた。

 

「どうしたんだ小鉄くん。ちょっと痛いぞ」

「そんなこと良いんですよ!」

「ええ……」

「そんなことより、あの人っ、あの人は誰ですか!?」

「あの人って、俺たちを助けてくれた人なら犬井さんという人だよ」

「違いますよ!」

 

 どうして怒られたのだろう。実に心外だ。

 そんな顔をする炭治郎に拉致があかないと思ったのか、小鉄はわざとらしいぐらいに咳払いなどしつつ、不思議そうにこちらを見ている瑠衣の方をちらちらと見ていた。

 最初は何のつもりかと訝っていた炭治郎だったが。

 

「……か、かわいい……」

 

 その一言と、不意に迫って来た匂いに、ああ、と得心したような気持ちになった。

 人が()()()瞬間を、初めて見てしまった。

 何となく自分も気恥ずかしい気持ちになりながら、炭治郎はそんなことを思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その後に一雨きたので、雨宿りの間に色々と教えてもらった。

 まず、霞柱の時透が来て――この里に来ていたのか――六本腕の絡繰人形の鍵を持っていったこと。

 またその際、小鉄と炭治郎と揉めたことも聞いた。

 炭治郎はそこまで気にしていない様子だったが、小鉄は時透をかなり嫌っている様子だった。

 

(何というか、目に浮かぶようだ)

 

 おそらく、例の悪意なき最悪な態度で接したのだろう。

 しかしあれはあれで、鬼殺隊内では一定の支持者がいたりするのだった。

 力への信奉。

 鬼という強大な存在と戦う組織である以上、力こそ全てという主張はある程度受け入れられやすい。

 実力主義という意味では、時透無一郎という存在は絶対的な存在なのだ。

 

「あー! 駄目です炭治郎さん! そこで下がったら……ああああ~」

「いや! 無理! 死ぬ、死んでしまう。腕六本はきつい!」

 

 そしてその時透が「修行」のために求めたのが、炭治郎が今戦っている相手だった。

 六本腕の絡繰人形、その名も『縁壱(よりいち)零式(ぜろしき)』。

 小鉄が言うには、何でも戦国時代に実在した剣士を模しているらしく、現在の技術でも再現できない程に複雑な絡繰という話だった。

 ちなみに腕が六本あるのは、そうしないと剣士の動きを再現できなかったからだそうだ。

 

 小鉄には言わなかったが、その話は流石に誇張だろうと瑠衣は思っていた。

 腕が六本ないと再現できないということは、その剣士は常人の6倍の動きをしていたということだ。

 そして実際、人形の動きは尋常ではない。炭治郎がほぼ一方的に打たれている。

 いくら何でも、そんな人間がいるわけがない。

 

「あー、もう駄目駄目ですよ炭治郎さん。そんなんじゃあの昆布頭には勝てません!」

 

 不謹慎だが、昆布頭の部分で吹き出しそうになった。

 確かに時透の髪は長い。長いが、まさか昆布とは。

 もっとも、本人はそんな風に言われても表情ひとつ変えないのだろうが。

 

「やー、若い子は元気があっていいねー」

「貴方の犬も相当だと思います」

「あ、ごめんねえ。でも、そんな丁寧に接してくれなくてもいいよお。おじさん、そんな大したやつじゃないからさ」

 

 それにしても、コロのこの瑠衣への懐きようは何なのだろう。

 今も瑠衣に両手を掴ませての二足立ちを披露している。

 瑠衣も犬は嫌いではないので構わないが、顔を涎塗れにされるのは勘弁してほしかった。

 視界の端で、炭治郎が絡繰人形に打たれて宙を舞っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 嗚呼、と、物悲しい嘆息が聞こえた。

 いや、その男の両目からは涙さえはらはらと零れ落ちており、真っ二つに折れた日輪刀に滴り落ちていた。

 

「ああ、いくら一生懸命に打ったところで、俺の刀なんて所詮は消耗品なんだ……。戦う度に使い捨てにされる消耗品なんだ……儚い。余りにも儚い……消耗品。ううっ」

「おい一本丸のおっさん! いつまで拗ねてんだ、今日の分まだ打ち終えてねえんだぞ!」

「まあまあ鉄美(としみ)の姐さん。あんなに頻繁(ひんぱん)に折られてたら誰だってああなりますよ」

「うるせえぞ清彦(きよひこ)! お前も喋ってないで手を動かせ! というか何だその面は。ひょっとこ(こっち)を着けろっていつも言ってんだろ」

「面くらい好きなのを着けさせてくださいよ」

「うう……雑多な……消耗品……」

 

 炉の赤色と、鋼を打つ音に満たされた工房。

 会話など掻き消されてしまいそうなものだが、そこで働く刀鍛冶達には慣れたものなのか、普通に声が届いているようだった。

 その中でも、ある一角は特に賑やかだった。

 

 多々羅(たたら)一本丸。筋骨隆々だが気が弱く、髪がところどころ硬貨大の禿げがある。

 鐵穴口(かんなぐち)鉄美。男物の着物を着た赤毛の女性。口元のないひょっとこの半面を被っている。

 妙蓮寺(みょうれんじ)清彦。男だが長い髪を桜の簪で留めており、何故か狐の面を被っていた。

 

「それより聞いたか? 長のじじいが新しい刀を打つらしい」

「長が? 今来ている霞柱のですか? でもあの方の刀は……」

「それが違うらしい。だから噂になってる。長のじじいが柱以外の刀を打つなんて前代未聞だってな」

「へえ、それは確かに珍しいですね」

「どんな刀も……いずれ折れる……ふふふふふふ」

 

 刀鍛冶の里を治める長老達は、刀鍛冶として非常に優れた技術を持っている。

 中でも鉄珍は特別だ。その二本の腕はまさしく国の宝であり、失うべからざるものだ。

 だからこそ普通の隊士の刀は打たない。特別な剣士、つまり柱の刀を打つ。

 その鉄珍が柱以外の刀を打つ。噂にならない方がおかしい。

 

「いったいどんなやつなんだろうな。長の刀を貰う剣士って」

 

 刀鍛冶は、刀を打つ。

 鬼を倒し、剣士を守るために、文字通り血と汗を流して刀を打つのだ。

 だからこそ、刀を持つ人間がどんな人物なのか気になってしまうのだ。

 はたして彼ないし彼女は、刀を渡すに足る人物なのか、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 炎柱の書、というものがある。

 それは煉獄家に収められている、歴代の炎柱が遺した手記だ。

 煉獄家の嫡男は、炎柱の座と共にそれらの手記も引き継ぐことになる。

 

「……うむ」

 

 杏寿郎は、煉獄邸で上弦の陸戦で負った傷の療養を続けていた。

 するとこの機会にと父・槇寿郎に譲られたのが、その歴代炎柱の書だった。

 それはまさに煉獄家の歴史そのものとも言って差し支えない物であり、つまるところ。

 

「多いな!」

 

 多かった。

 当然だろう。戦国の時代から、いやそれ以前から続く炎柱の手記なのだ。

 10冊や20冊では足りない。しかもどれも達筆な上、古くて字が掠れているものもある。

 これを読み込んで行こうと思えば、幾夜も費やさなければならないだろう。

 

 しかし、読まないという選択肢はなかった。

 父の期待に応えねばならない。

 それに今こうしている間も鬼と戦い命を懸けている者と比べれば、書物を読むくらい楽なものだと思えた。

 

「うむ! しかし静かな夜だ「オラアアアァッ!」ったな! 何だ何事だ!」

 

 庭の方が急に賑やかになり、杏寿郎は障子を開け放った。

 するとそこで、隊服を着た2人の少年が揉み合っていた。

 猪頭、そして黄色い髪の少年。伊之助と善逸だった。

 杏寿郎の出現に驚いたのか、善逸がぎょっとした顔をした。

 

「ひいいいいいっ! ほら見ろお前が騒ぐから出て来たじゃん! すみませんすみません! すぐに帰りまあすっ!」

「帰らねえよボケが! 三太郎がここで修業してるのは間違いねえんだ!」

 

 むう!と杏寿郎は頷いた。

 三太郎とは誰のことだ。

 

「うむ! 元気があって大変よろしい! だが今は深夜だ! 少し声を落とした方が良いな!」

「ごめんなさい! でもそちらの声の方が大きいと思います!」

 

 よもや!

 と、そんな杏寿郎に伊之助が指を向けて来た。行儀が悪い。

 

「おいお前!」

「何だ!」

「俺もここで修業するぞ!」

 

 杏寿郎は考えた。

 煉獄家(ここ)で修業するとはどういうことだろうか、と。

 ここには道場はあるが、門下生を募集しているわけではない。

 しかし、こうも思った。

 

 若い隊士が修行をしたいという。素晴らしい心がけと言える。

 そんな若者を門前払いすることは、鬼殺隊を支える煉獄家として、炎柱とその一門として、いやそもそも人間として男として、あって良いことだろうか。

 だから杏寿郎は、うむ!と頷いた。

 

「良かろう! 2人とも面倒を見てやろう!」

「ガハハハハッ、おうよ!」

「いやおかしいでしょ? この流れはおかしいでしょ? 俺がおかしいの!?」

 

 笑う伊之助に嘆く善逸。

 この2人は、やはりどこまでも対照的だった。




読者投稿キャラクター:
車椅子ニート(レモン)様:犬井透、コロ。
日向ヒノデ様:多々羅一本丸。
才原輪廻様:妙蓮寺清彦。
グニル様:鐵穴口鉄美。
ありがとうございます。


最後までお読みいただきありがとうございます。
今回は以前から触れていたかもしれない募集を行います。

今回の募集はずばり、瑠衣の新しい日輪刀についてです。

締め切りは4月25日午後18時です。
投稿は全てメッセージにてお願いいたします。

今回は特に細かい規定は作りません。
ただ私の方でもいくつか考えているので、そちらになったり、あるいは「やっぱり普通が1番だよね」と元の日本刀になることもあり得るので、その点は予めご了承ください。

それでは、皆様の多様な提案をお待ちしております~。


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第32話:「襲撃」

 入れ替わりの血戦。

 それは一言で言えば「下剋上」のシステムだ。

 下位の鬼が上位の鬼に戦いを挑み、勝利すれば階級を奪い取れるというものだ。

 まさしく「入れ替わり」のためのシステム。

 

 ただし、鬼の才能は鬼に変化した時におおよそ決まってしまっている。

 人間を喰えば喰う程に強くなれるのはその通りだが、鬼ごとに()()がある。

 一定量を超えると、体が受け付けなくなってくるのだ。

 才能の総量が決まってしまっているが故に、一度抜かれてしまうと、追いつくことはかなり困難なのだ。

 

(うーん)

 

 童磨(どうま)という鬼がいる。

 左眼に「上弦」右眼に「弐」の数字が刻まれた、上弦の鬼である。

 金の髪に虹色に煌めく瞳と常人離れした容姿をしているが、驚くべきことに、人間だった頃と容姿はほとんど変化していないという。

 その彼が今、思案気な表情を浮かべていた。

 

(猗窩座殿に入れ替わりの血戦を挑まれた時は、どうして無駄なことをするんだろうと思ったけれど)

 

 ()()()()()()

 童磨は今、頚から上だけの状態だった。

 もちろん鬼であるのでその状態でも死ぬことはないが、上弦の弐たる彼がそんな状態に陥っているということ自体、驚異的なことだった。

 何故ならば、肉体を再生させる力が残っていないということだからだ。

 

「いやあ、凄かったねえ。以前の猗窩座殿とはまるで別人のようだったよ」

 

 その童磨の頭を手で掴んでいる鬼がいた。

 上弦の参、猗窩座。童磨に入れ替わりの血戦を挑み、今まさに勝利した鬼だ。

 童磨は猗窩座より後に鬼になり、そして猗窩座より先に上の階級に上った。

 つまり鬼になった時点の才能で童磨は猗窩座を上回っており、だからこそ猗窩座よりも上の階級にいたのだ。

 

「と、いうか……」

 

 しかし、童磨に動じた様子はなかった。

 敗北や降格に心が動いた様子はなく、そもそも最初から固執していたのかどうかさえ疑わしかった。

 

「きみ、本当に猗窩座殿かい?」

 

 虹色の瞳を――すでに数字が「参」に変わりつつある――自分()を持つ相手に向けて、そう言った。

 

「きみは、いったい誰なのかな?」

 

 童磨の言葉に、猗窩座は答えなかった。

 もっともこれは今に始まったわけではなく、猗窩座の童磨への態度は元々こんなものだった。

 だから童磨は、このつれなさは猗窩座殿っぽいなと、そんなことを思ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――刀鍛冶の里に逗留(とうりゅう)して、はや2週間が経とうとしていた。

 その間、瑠衣は足の治療を――まさに()()だ――続けながら、刀の完成を待ちつつ、炭治郎の修行に付き合っていた。

 具体的には、縁壱零式との訓練である。

 

「綺麗だ……」

 

 と、小鉄が呟くのを、炭治郎はお握りを頬張りながら聞いていた。

 実はほぼ4日ぶりの食事だったのだが、炭治郎も()()から目を離すことはなかった。

 もっとも、感想は小鉄とは違うものだったが。

 

(凄いなあ)

 

 縁壱零式の5本の腕――1本は時透が折った――にが繰り出す斬撃は、凄まじいの一言だ。

 息つく間もなく攻撃してくる。

 あまりにも隙がなさ過ぎて、反撃することが出来ない。

 時透がどうやって縁壱零式の腕を折ったのか、炭治郎にはまるでわからなかった。

 

 その縁壱零式と、瑠衣は互角以上に斬り合っていた。

 圧倒的な脚力による、全方位立体攻撃によってである。

 縁壱零式とただ正面から打ち合うのではなく、瞬間的に射程の外に出て、僅かな攻撃の間隙を突くという戦い方だ。

 蝶のように舞い、蜂のように刺す。まさにこのことだろう。

 

(あそこまで脚を鍛えるのに、どれだけ鍛錬したんだろう)

 

 善逸の足も凄いものだが、持久力という点では瑠衣が圧倒している。

 体幹と()()の鍛え方が尋常ではないのだろう。あと足腰もか。

 そう言えば、炭治郎の師も足腰は特に鍛えておけと言っていた。

 

「あ、危ない!」

 

 小鉄の声が飛んだ。

 攻撃をかわした瑠衣に対して、縁壱零式が関節を()()させて切り返したからだ。

 人間であれば不可能な動き。

 あれは実在の剣士を元にしたと聞いたが、まさかその剣士はあんな動きも出来たのだろうか。

 

「跳んだ!?」

 

 縁壱零式に対して、瑠衣はその場で跳んでみせた。

 空中で身体を横に倒したかと思うと、そのまま回転した。

 縦回転の斬撃が、縁壱〇式の腕数本を弾き飛ばした。

 いくつかの腕が瑠衣の反撃を擦り抜けるが、一番遠い腕だった。

 

 瑠衣は身を捻り、弾き切れなかった斬撃を紙一重でかわした。

 刃が掠めた前髪が、ぱっと宙に散った。

 結果として、瑠衣は縁壱零式の懐に飛び込んでしまったのだ。

 縁壱零式の攻撃を利用して、返しをやったのだ。

 

(俺も、あんな風にできたら)

 

 あと一歩だと、炭治郎は思う。

 あと少し何かが足りない。そんな気がする。

 そしてその何かが見えた時、自分はさらに一段強くなれるはずだ。

 縁壱零式に対して一本を取った瑠衣を見ながら、炭治郎はそう思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 小鉄は毒舌だった。そしてスパルタだった。

 頭は良いのだが、如何せん経験不足のせいで、手加減というものを知らなかった。

 要するに、炭治郎に対する修行は苛烈を極めた。

 具体的には、縁壱零式に一本当てるまで飲まず食わずというものだ。

 

 実際、今日までの4日間、炭治郎は雨水以外を口にしていない。

 普通なら死んでもおかしくないのだが、哀しいかな全集中の呼吸は着実に炭治郎の肉体を強靭にしているのだった。

 まあ、その甲斐あってか縁壱零式に対して、直前に匂いで攻撃を察知できるまでになっていた。

 まさに命を懸けた特訓。一般人なら止めるところかもしれないが。

 

(うちの訓練よりは優しいかな)

 

 残念ながら、瑠衣の感性はやや一般人から外れていた。

 ちなみにここでいう「うち」とは煉獄家であり、師である不死川のことだ。

 何しろ小鉄と縁壱零式は、こう見えて本当に危ない時は手を止めるのだ。

 しかし父や不死川は本当に危ない時でも手を止めずに打ち込んでくるので、まだ優しい。

 

「むー」

 

 気が付くと、禰豆子が瑠衣の膝に頭を擦り付けてきていた。

 すでに夕方とは言え、まだ日もある。林の中は陽光が遮られるが、危なくはないのだろうか。

 ふとそんなことを思ったのだが、そう思ったこと自体に、瑠衣は驚いた。

 相手は鬼だというのに。

 

「む?」

 

 しかし無垢な目で首を傾げているのを見ると、どうにも敵愾心を持ちようがない。

 その気になれば、この頭で瑠衣の膝を割ることなど造作もないというのに。

 

「ばうっ!」

「わっ」

 

 と、どこからかコロが飛び込んで来た。

 どうもコロも瑠衣の膝を狙っているらしいのだが、禰豆子が譲らなかった。

 膝の上で押し合い()し合いする禰豆子とコロを見て、思わず笑ってしまった。

 

「あーらら、駄目だろコロ。そんなところに頭突っ込んじゃあ」

 

 ひょい、と、首根っこを掴まれてコロが持ち上がった。

 気配も感じさせずに近付いて来た犬井が、コロを持ち上げたのだ。

 あれだけ瑠衣の顔を舐めても放置していたというのに、どういう風の吹き回しか。

 顔を上げると、軽薄そうな笑みが返ってくるだけだった。

 

「わあああああ――――っ!!」

 

 その時、炭治郎達が悲鳴のような大声を上げていた。

 あまりにも大きな声だったので、瑠衣も思わず肩を震わせてしまった。

 いったい何事が生じたのかと視線を向ける。

 すると、縁壱零式に異変が生じていた。

 あの恐るべき絡繰人形の、頭が砕け散っていたのだ――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 炭治郎と小鉄が歓声を上げている。

 というのも、炭治郎の一撃で砕けた縁壱零式の頭から、一本の古い刀が出て来たからだ。

 縁壱零式は内部を検められたことがないというので、その刀はずっとそこにあったのだろう。

 

「ひゃあ、そりゃあびっくりだねえ」

 

 小鉄が縁壱零式が300年以上前から存在していたと聞くと、犬井はさほど驚いていない顔でそう言った。

 しかし、もし本当に戦国時代の刀だとすれば国宝級に貴重な品と言える。

 

「ぬ、ぬぬぬ抜いちゃいます? ちょっと抜いちゃいます炭治郎さん!?」

「いいの!? 抜いちゃっていいの俺なんかが!?」

「持ち主の俺が言うんだから良いんですよ! 抜いちゃいますしょう!」

 

 ただ、そこでふと瑠衣は「うん?」と疑問を得た。

 

「あ、ちょっと待って……」

 

 次の瞬間、抜いた刀が錆びに錆びていて、炭治郎と小鉄は地に沈んだ。

 あー、と、犬井の呑気な声が響いた。

 

「そりゃあねえ。戦国時代から放置されてればねえ。錆びるよねえ」

 

 刀に限らないが、金属というのは意外と繊細なものだ。

 常日頃から使用して、さらにきちんと手入れをしなければ簡単に駄目になってしまう。

 絶対に錆びない金属など、この世には存在しないのだ。

 

 期待が大きかった分、残念さも大きかったのだろう。

 見るからにしょんぼりしている炭治郎に、小鉄が珍しく素直に平謝りしていた。

 苦笑しつつ、地面に落ちた刀を拾った。

 拾った瞬間に思ったのは、奇妙な柄だ、ということだった。

 

「柄巻きがへこんでる……?」

 

 刀の柄には柄巻きと呼ばれる皮革部分があるのだが、その中央あたりが奇妙にへこんでいた。

 通常、こんな形で柄は作らない。

 触れて見ると、さらに細かなへこみがあることに気付いた。

 なだらかな段差があって、まるで人の手指の形だと思った。

 

「……握り潰した?」

 

 口に出して、まさか、と自分で笑った。

 柄を握り潰すなど、常人の握力で出来ることではない。

 大方、長い年月の間に劣化しただけだろう。

 そう思った時だった、視界の端から、分厚い腕が刀を掴んできた。

 

「え?」

 

 その腕を追っていくと、自分のすぐそばに上半身が裸の男が立っていた。

 ひょっとこの面を被っているので、刀鍛冶というのはすぐにわかった。

 それでも、筋骨隆々の汗に濡れた上半身裸の男がいきなり現れて。

 

「俺に……任せろ……!」

 

 瑠衣は思った。

 世の中にまともな男は、自分の家族以外にはいないのだろうか、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――暗闇の中で、蠢く者達がいる。

 平穏な世界にいると忘れてしまいそうになるが、それらは今も確実に妄動している。

 人とは異なる理の中にいる彼らは、暗闇の中からじっとこちらを窺っているのだ。

 

「ヒイイイィ……急がねば、急がねば……」

 

 ある者は、卑屈そうな声音で嘆いている。

 だがその卑屈さと嘆きは見かけだけで、その内心は邪悪に満ちていた。

 何故ならば彼は、己のことしか考えていないのだから。

 

「あの御方はお怒りじゃ……皆殺しにせねば。あの御方に楯突(たてつ)く者どもを。(はよ)う、早う……!」

 

 悪臭がする。鉄錆のような臭いだ。

 (おびただ)しい人間の血を固めて押し込めたかのような悪臭が、彼らからは常にしている。

 ある者は、しかしそれを何とも思っていない。

 むしろ自分の一部になれる方が無為に生きるよりもずっと良いことなのだと、本気でそう考えているのだ。

 

「ヒョヒョッ、しかしここを潰せば鬼狩り達を確実に弱体化させられる。あの御方にもお喜びいただけるとも」

 

 嗚呼、何とおぞましいことだろうか。

 暗闇から、陽光の当たる世界をじっと見つめる彼らの目は余りにも冷たく、そしてやはりおぞましい。

 闇が広がる。陽が落ちて彼らの世界がやって来る。

 

 世界が夜の闇に落ちるのを、今か今かと待っている。

 夜は自分達の世界だと、確信している。

 夜の暗闇の中で自分達に及ぶものがあるはずがないと、そう思っているのだ。

 嗚呼、陽が落ちる。彼らの、鬼の世界がやって来る。

 

「そんなことより玉壺さあ、こんなシケた里にマシな()()があるわけ? 汚らしい刀鍛冶ばっかじゃない」

「ヒョヒョッ、それもまた良い……」

 

 鬼に狙われる。

 これは、この世で最も不運なことの1つに数えられるだろう。

 しかし、最大の不運ではない。

 では何が最大の不運なのかと言えば、それは()()することだ。

 そう、例えば、鬼が刀鍛冶の里を狙っているまさにその場に、居合わせてしまうとか。

 

(な、何だよアイツら……)

 

 獪岳である。

 彼は大きな木の根元に身を潜めて、息を殺していた。

 獪岳の視線は、特に、ある一体の鬼に向けられていた。

 

(あ、アイツは……あの時の……!)

 

 思い出すのは、恐怖と屈辱の記憶だ。

 脳裏に去来したその記憶に、獪岳は唇を噛み締めたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 昔からだ。

 自分には運がなかった。

 チャンスはほとんど巡って来ないくせに、不運だけが列をなしてやって来る。

 どうして自分だけがと、いつも神を呪っていた。

 

(あの時の、上弦の鬼! どうしてこんなところに……!)

 

 小さな老人の姿をした鬼が、刀鍛冶の里の山中にいた。

 通りがかったのは、たまたまだ。気配を察して急行したというわけではない。

 ただ、遭遇してしまったのだ。

 ()()にも、見つけてしまったのだ。

 

 以前、もう数か月前のことになるか、下弦の肆討伐時に遭遇した上弦の鬼に。

 刀鍛冶の里は巧妙に隠されているはずなのに、見つかってしまったのか。

 もちろん、物理的に存在している以上、発見される可能性は0には出来ない。

 しかし、よりにもよって自分が滞在している今でなくても良いだろうと、そう思わずにはいられなかった。

 

(どうする……?)

 

 幸い、あの鬼はまだ獪岳の存在に気付いていない。

 だが時間の問題だろう。

 気配を消すにも限界はあるし、風向きが変われば匂いで見つかるかもしれない。

 このまま身を潜めて息を殺していても、事態は何も改善しないのだ。

 

(しかも、一体じゃねえ)

 

 話し声は、あの鬼だけではなかった。

 

「それで、陽が落ち切ったらどうするのさ」

「ヒョヒョッ、そう慌てるな。まずはやつが騒動を起こすはず」

 

 姿は確認できないが、少なくとも別に2体いる。

 いや、今の口ぶりからすると、まだ他にもいるのかもしれない。

 鬼は群れないはずではなかったのか。話が違うじゃないか。

 

(逃げるしかない)

 

 逃亡。それしかないと思った。

 あの上弦の鬼だけでも対処しきれないのに、他に何体も鬼がいるならなおさら無理だった。

 問題は、その後どうするかということだった。

 里に駆け戻って知らせるか。しかし、直後にあの鬼達が襲ってくるだろう。

 それでは、逃げ切れないかもしれない。

 

 ()()()()()()()

 

 ――――移動しなければ。

 いずれにせよ、この場にいては命がない。

 だから獪岳は膝を立てて、その場から離れようとした。

 しかし足を下げた時、パキ、と、枝が折れる音がした。

 血の気が引いた。

 

「……ッ!」

 

 慌てて鬼の方を確認すると、あの上弦の鬼は変わらずそこにいた。

 気付かれなかったのか。ほっと安堵した。

 しかし、後ろから。

 

「――――残念。お前の人生はここで終わりだよ」

 

 知っていた。

 自分には幸運は訪れない。神様が微笑んでくれることなんてない。

 それでも獪岳は、畜生、と悪態を吐かずにはいられなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「というわけで、小鉄君の絡繰人形も壊れちゃうし、出て来た刀も鋼鐵塚さんに持って行かれちゃうしで、色々あったんだ」

 

 縁壱零式の頭が砕けてしまったため、炭治郎の修行も一時中断を余儀なくされていた。

 さしもの小鉄も理由もなく絶食を命じる程に鬼ではないわけで――逆に言えば、理由があれば水も食べ物も禁じるということだが――炭治郎は、普通に夕食をとっていた。

 白米の甘さに感動しつつも、炭治郎は目の前に()()に声をかけ続けた。

 

「それで、その錆びた刀を鋼鐵塚さんの家に伝わる研磨術で磨いてくれるみたいなんだけど、とても過酷な研ぎ方らしいんだ。死んじゃった人もいるって話だし……こっそり見に行っても大丈夫かなあ?」

「……さあな」

「絶対覗きに来るなって言われてるけど、やっぱり心配だよ」

「……というかよ」

 

 頑として背中を向けていた玄弥だが、気にせずに話しかけ続ける炭治郎に根負けしたのか、ついに声を上げた。

 

「知らねえよそんなこと! 友達みたいな顔して話しかけてくるんじゃねえよ!」

「ええ!? 俺たち友達じゃないの!?」

「どういう思考回路すればそうなるんだよ。友達じゃねえよ! お前、俺の腕折っただろうが!」

「いや、あれは玄弥が全面的に悪いから仕方がない」

「お前マジで殺すぞ……!」

 

 炭治郎と玄弥は同期なのだが、確執が――玄弥の方がほぼ一方的にそう思っているだけだが――あった。

 最終選抜の直後、日輪刀の説明をしていた女の子を玄弥が殴ったのだ。

 それに怒った炭治郎が、玄弥の腕を折ったのだ。

 

 それ以来、玄弥は炭治郎を毛嫌いしている。

 しかし炭治郎の方はそう感じてはいないようで、今も「心外!」という顔をしていた。

 この2人に友情が芽生えるかは、将来に期待するしかないのだろう。

 

「2人とも、騒がし過ぎると思う」

 

 そして、その場には時透もいた。

 良く誤解されるが、時透は別に人を避けているわけではない。

 人が彼を避けているだけだ。

 なので普通に食事には出て来るし、一緒に食べることを拒否するわけではない。

 

「というか、きみはどうして食べないの?」

「それは俺も思っていたぞ! 玄弥はいつも食べないけど、もしかしてどこか具合が悪いのか?」

「どうだって良いだろそんなこと! 頼むからもう放っておいてくれよ!」

 

 男でも、3人集まれば姦しいというところか。

 いや、男の場合は単に騒がしいというべきなのだろうか。

 しかし、いずれにせよ。

 そんな時間は、残念ながら、長くは続かなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 空を見上げると、雲ひとつない月夜だった。

 そんな美しい月の下で、多々羅一本丸は深々と溜息を吐いた。

 

「ああ……明日も早朝から作業だ。どうせ折られる刀を作るんだ……はあああ……」

 

 肩に手拭いがかかっている。髪も湿気ていた。温泉に入ったのだろう。

 普通なら温泉ですっきりして気分が変わっても良いはずだが、彼には効果がないようだった。

 心なしか、ひょっとこの面もしょぼくれているように見える。

 

 温泉から居住地区へと続く石階段を、カラコロと下駄の音を響かせながら降りていく。

 すると、途中で奇妙な物を見つけた。

 壺だ。

 どこにでもある普通の壺だ。取り立てて言及するような特徴もない。

 

「何でこんなところに? 危ないじゃないか……」

 

 道の真ん中にでんと置かれているものだから、避けて通るというわけにもいかなかった。

 里には子供もいる。ぶつかったり、転んだりでもしたら大変だ。

 そう思って、一本丸は壺に手を伸ばした。

 そして指先が、壺の縁に触れようとした時。

 

(え?)

 

 全身の毛が、産毛に至るまで逆立った。

 それが何故なのか理解するよりも先に、壺の底で何かが蠢くのが見えた。

 そして、彼がそれが何なのか理解できたのは、()()()が終わった後だった。

 ()()()、だ。

 

「えあ?」

 

 視界が、真っ白に染まっていた。

 そう思ってしまう程に、その()は白く、美しく広がっていた。

 次に見えたのは、()()が着込んだ黒の詰襟だった。隊服だ。思考が追い付いて来た。

 一本丸は、壺に潜む何かが腕を掴む前に、彼女が一本丸を抱えて跳び退(ずさ)ってくれたのだと気付いた。

 

「あ、あんたは……」

 

 ゆらり、と、一本丸を地面に置いて立ち上がった。

 どういう構造なのか、隊服の胸部分の下側が大きく切れており、足元から見上げると()()見えてしまっていた。

 慌てて目を逸らすと、あの壺の異変に気付いた。

 

「ヒョッヒョッ。まあ、そんな汚らしい刀鍛冶の肉など喰いたいとは思わぬが」

 

 肉の塊が、壺から伸びていた。

 そうとしか思えない造形の化物がそこにいた。

 白い、人の上半身のような形をしている。両腕がない。代わりに無数の小さな腕がある。

 下半身は壺の中のようだが、根本は赤黒く変色していて異臭を放っていた。

 そして何より、顔だ。

 

「この私の邪魔をして、生きていられると思うのか?」

 

 目があるべき位置に口があり、額と口に目があった。

 それが、笑みのようなものを浮かべているのだ。

 なまじ形だけは人に近い分、余計に不気味だった。

 そしてその不気味な化物は、一本丸を、いや一本丸を救った少女を見つめていた。

 

「嗚呼、今夜の」

 

 ゆらり、と、今にも倒れそうな足取りで、両手をだらんと下げたままで。

 

「今夜の悪夢は、格別ですね」

 

 鈴音は、眠た気な目で悪鬼を見つめ返していた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 里の温泉に入るのも、もう慣れてしまった。

 そのおかげか、足の怪我はすっかり良くなっていた。

 お湯の中で足を動かせば、違和感なく曲げ伸ばしをすることが出来た。

 

「ばうっばうっ」

「あなたとお風呂に入るのも、当たり前になってきましたね」

 

 そして、コロである。

 この老犬は、何故か瑠衣のところにやって来るのだ。

 最初は随分と懐かれたものだと思っていたが、それにしては来るタイミングがおかしいとも思った。

 例えば、温泉に入っている時。コロは必ず瑠衣についていた。

 それから…。

 

「いや~、ごめんねえ。コロが面倒をかけて」

 

 犬井だ。彼がいる時、コロは必ず瑠衣に寄って来る。

 まあ、コロは犬井の愛犬なので彼の傍にいるのは当然なのだが、今は別だ。

 何故なら犬井は男女を分ける衝立の向こうにいるのに、コロはこちらにいるからだ。

 今日だけなら疑問にも思わないだろうが、これが毎日なのである。

 

 動物は嫌いではないし、懐かれて嫌というわけではない。

 しかし、どこか引っかかるのだった。 

 もっともコロ自身は、無垢な顔で瑠衣を見つめているだけだ。

 そして顔を舐め回してくる。これはやめてほしい。

 

「いえ、コロは可愛いので。私も楽しいです」

「そう言って貰えて有難いねえ。コロは昔から女の子と風呂に入るのが好きでね」

「それはまた。何というか、語弊(ごへい)のある言い方ですね……」

 

 女好きの犬。

 誰がどう聞いても良い印象にはならないだろう。

 

「特に……」

 

 犬井が何か言葉を続けていたようだが、それは瑠衣の耳まで届かなかった。

 手を伸ばせば、コロは瑠衣の手に顎を乗せて来た。

 ほんわかとした気分になりつつ、湯船から立ち上がった。

 温泉の熱で赤くなった肌から、湯の雫が温泉に吸い込まれていった。

 

「うん?」

 

 何となく、揺れる湯面を見つめていた時だ。

 足を伝って雫が吸い込まれたお湯に、何かが揺らめいた気がした。

 片足だけ湯から外へ出した状態で、身を屈めた。

 

 濁った湯が、ゆらゆらと揺らめいている。

 いつも通りだ。特に変わったところはない。

 気のせいかと思い、湯の外に出ようと足を上げた。

 足を上げると、当然、お湯が大きく揺れる。

 

「ばうっ!」

 

 その瞬間、コロが吠えた。

 これまでのじゃれるような吠え方ではなく、本気のそれだった。

 コロは、()()()()()()()吠えていた。

 背中を向けてしまった瑠衣には、コロが何に吠えているのか確認することが出来ない。

 だから瑠衣は、そこで判断を迫られることになった。

 

「コロさん!」

 

 コロの判断を、信じるか否か。

 瑠衣は即座に判断した。コロを脇に抱えて、跳ぶ。

 足先を何かが掠めたのを感じた。あと少し遅ければ、捕らわれていた。

 着地した時、瑠衣がそれを見た。

 

(子供……!?)

 

 金髪の、子供だ。10歳か、それよりも少し大きい。それくらいの背丈。

 温泉の中にいるが、服を着ていた。洋装。青と白のエプロンドレス。

 実に可憐な、可愛らしい女の子だった。

 だが碧眼の瞳は射殺さんばかりに瑠衣を睨み、食い縛られた歯からはギリギリという音が響いていた。

 

「……な」

 

 容姿に似合わぬ、低い声。

 湯が、暴風雨に晒される海のように逆巻いていた。

 それはまるで、その少女の感情の激しさを表しているかのようだった。

 

亜理栖(アリス)のお兄ちゃんに――――近付くなアアアァッッ!!」

 

 次の瞬間、温泉の湯が意思を持っているかのように押し寄せて来た。

 明確な害意を持つ波に、瑠衣はなす術もなく打たれたのだった。




読者投稿キャラクター:
車椅子ニート(レモン)様:亜理栖
ありがとうございます。

最後までお読みいただきありがとうございます。
日輪刀募集もありがとうございました。

次回から刀鍛冶の里編、戦闘パートです。
それでは、また次回。


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第33話:「悪夢を断ち切る刃」

 ――――子供の頃の話だ。

 すごく小さかった時のこと、一度だけお風呂で溺れたことがある。

 その時は母が気付いてくれたので大事には至らなかったらしいが、小さかったせいか、瑠衣自身はあまり良く覚えていなかった。

 

『――――イ』

 

 兄から聞いた話では、母は瑠衣を湯船から引き上げた後、起きるまで何度も呼びかけていたらしい。

 ご近所に冷静沈着で知られた母が取り乱すところを初めて見たと、杏寿郎は感慨深そうに語っていた。

 

『――――瑠衣!』

 

 自分は溺れた記憶がなかったから、取り乱した母を自分も見てみたかったと、子供心にそんな酷いことを思ったものだ。

 そんな母が今の自分を見たら、どう思うだろう。

 温泉のお湯が追いかけてきたなんて、はたして信じて貰えるだろうか。

 

『馬鹿ナコト言ッテナイデ――――起キロ!』

 

 頭に衝撃が来た。

 いや、いくら何でも頭を蹴ったりはしないだろう。

 ……たぶん。

 

(いった)い!」

 

 叫んで、跳ね起きた。

 視界に入って来たのは見慣れた温泉だ。お湯も普通に張っている。

 直前の記憶と変わるところがなくて、一瞬、何も起こらなかったのかと思った。

 しかし足元に衝立の残骸らしき破片が散らばっていたことと。

 

「ばうっ!」

「コロさん。良かった、無事だったんですね」

 

 コロが傍にいて、状況を確信した。

 温泉に入っていた時に、何者かの襲撃を受けたのだ。

 不覚にもそこで気を失ってしまったのだろう。

 

 だが、あの女の子――明らかに異能の鬼だった――は姿が見えなかった。

 自分にとどめを刺すこともなく、姿を消したのは解せなかった。

 とは言え、だから安全というわけではない。

 里の方も気がかりだ。一刻も早く戦える態勢を整える必要がある。

 

「いやあ~、それ以上はおじさんちょっと待ってほしいなあ」

 

 不意に声をかけられて、振り向くと犬井がいた。衣服を着ていなかった。

 面食らったが、ここは温泉だ。腰に手拭いを巻いているだけまだマシだろう。

 それに、おかげで気を失っていた時間がさほど長くなさそうだと気付くことが出来た。

 その犬井だが、膝をついて両手を前に出していた。

 まさしく、「動くな」の姿勢だった。

 

「おじさんの名誉のために言っておくと、その手拭いはコロが持ってきたんだ。だからおじさんは何も見ていないよ。ただね、そのままね、起き上がられるとね、流石に不味いかなあってね」

「……? 何の話……あ」

 

 繰り返すが、ここは温泉である。直前まで入浴していた。

 瑠衣は思った。

 あの鬼、絶対に許さない、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 老人の姿をした鬼の頚を斬ると、4体に増えた。

 眼球に刻印された数字から、その鬼が上弦の肆であることはわかった。

 炭治郎だけでなく時透も玄弥も即座に戦闘態勢に入っていたが、4対3の状況だ。

 苦しい戦いになりそうだと、そう思った。

 

(瑠衣さんが言っていた鬼……!)

 

 数か月前に瑠衣が遭遇した鬼の情報は鬼殺隊内でも知られている。

 上弦の鬼の能力に関する情報は貴重だ。

 特に炭治郎は瑠衣と親しい。直接話を聞いていたから、正確な情報を知っていた。

 

「時透君、玄弥! この鬼は1体ごとに能力が違う、気を付けて!」

「気を付ける? カカカッ。おお、大いに気を付けてくれ」

 

 可楽が、八つ手の団扇を振り上げていた。

 

「突風が来る!」

 

 すかさず、炭治郎が叫んだ。

 可楽の団扇が振り下ろされると、強烈な風が吹き(すさ)んだ。

 炭治郎達は全身に力を込めてそれに耐えた。

 来るとわかっていれば、耐えることも難しくはない。

 問題は、可楽の能力の影響を受けない他の3体はその間も自由に動けるということだった。

 

「耐えても意味はないというのに、哀しいな」

「カカッ、長く楽しめる方が良かろうが!」

 

 十文字槍を持つ哀絶に、半人半鳥の空喜。

 この2体は能力が直接攻撃系統のため、まだ対処しやすい。

 問題はもう1体の方だった。

 

「馬鹿なことを言うな。耐えられることも、時間がかかることも腹立たしくて仕方がない。夜明けまでに里の者どもを皆殺しにせねばならんのだぞ」

 

 積怒。怒りの鬼。おそらく4体の中で司令塔の役割を果たしている鬼だ。

 それを一目で見抜いたのだろう。気が付いた時、時透がすでに積怒の間合いに入り込んでいた。

 

「このような小童(こわっぱ)にまで侮られる。腹立たしい腹立たしい」

 

 積怒の掌の中央から、錫杖が伸びてきた。

 それがバチバチと雷を帯び始めるのと、錫杖が積怒の片腕ごと斬り飛ばされるのはほとんど同時だった。

 

「おのれ……!」

 

 ――――霞の呼吸・肆ノ型『移流斬り』。

 間合いに滑り込み、斬り上げの一撃が積怒を斬ったのだ。

 その一連の動きの滑らかさにも驚いたが、炭治郎は時透から緊張の匂いが何もしないことに驚いた。

 

 上弦を前にして、時透は気負いの1つもないのだ。

 最年少で柱にまで上り詰めた天才少年は、自然体で上弦と対峙していた。

 凄いことだ。だが。

 

「時透君、玄弥! 里に来てる鬼はこいつだけじゃない! 他にも複数の匂いがする!」

「なっ……上弦(こいつ)の他ってどういうことだよ。鬼はつるまないはずだろ!?」

 

 そう。鬼は群れない。

 しかし炭治郎の嗅覚は、上弦の肆以外の鬼の匂いを嗅ぎ取っていた。

 鬼の陣営でも、何か事情があるのかもしれない。

 だが、その事実は炭治郎に別の焦りを産んでもいた。

 

(禰豆子を)

 

 タイミングの悪いことに、禰豆子は部屋で寝ている。

 感覚の鋭い子だから、襲撃の気配には気が付くはずだ。

 何より鬼だから、強いし不死身だ。

 本当なら、心配の必要などないのかもしれない。

 

(禰豆子を、迎えにいかないと……!)

 

 それでも炭治郎は、禰豆子のことを案じた。

 兄だから、たった1人の妹だから。

 それは、理屈ではなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 魚。いや、金魚だ。

 巨大な金魚――筋骨隆々の人間の手足が生えている――が、襲いかかって来た。

 恥ずかしい話だが、一本丸はそれを前にした時、腰を抜かす以外のことが出来なかった。

 

「一本丸のおっさん、大丈夫か!?」

「あ、あわわわ……」

 

 腰を抜かしている一本丸の元に、茂みから姿を現した鉄美と清彦が身を低くしながら駆けよって来た。

 一本丸が2人に両側から支えられながら立ち上がると、それを目にした金魚の化物が気味の悪い咆哮を上げた。

 ビリビリと空気を震わせる咆哮に、3人が耳を押さえて蹲る。

 

「うわああっ!」

 

 その3人に対して、金魚の化物が丸太のように太い腕を振り下ろしてきた。

 あの腕に掴まれれば、人間など簡単に引き千切られてしまうだろう。

 死を肌で感じたその時、鉄美は見た。

 金魚の化物の足元に、ゆらり、と、いつの間にか鈴音が立っていた。

 身構えているわけでも日輪刀を構えているわけでもない。ただ、普通に歩き近付いた。

 

「ちょちょちょ、危な……」

 

 ()()()

 返って来た無垢な微笑に、鉄美は言葉を失った。

 繰り返すが、あの金魚の腕は人間の胴を簡単に捻じ切ることが出来る。

 少女の細腰など、ひとたまりもないだろう。

 

 ()()()()()()()()()()

 

 は?、と、鉄美は間の抜けた声を発してしまった。

 今、鉄美は鈴音の腰が折られることを心配していたはずだ。

 それが何故、金魚の腕の方が落ちているのか、すぐには理解できなかったのだ。

 鈴音が斬ったのだいう当たり前のことを、視覚と頭が理解できなかったのだ。

 

「ズモオオオオオォッ!!」

 

 凄まじい咆哮と共に、斬られた腕がすぐに再生した。

 あの金魚は何なのだ。刀鍛冶達にはわからなかった。

 金魚の腕が再び鈴音を掴もうと襲いかかる。

 

「どうぞ、ごめんあそばせ」

 

 ――――夢の呼吸・壱ノ型『白昼の幻夢』。

 鈴音は背面跳びのような格好で、金魚を跳び越えていた。

 そのまま横回転し、金魚の頭と背中を斬った。

 その拍子に背中に生えていた壺が砕けて、直後、金魚が濁った断末魔を上げて塵になっていった。

 

「すげえ……」

 

 鉄美は感嘆の吐息を吐いた。

 自分達が怯えてなす術もなかった化物を、鈴音は一振りの刀で倒してしまうのだ。

 実際に鬼殺の戦いを見たのは初めてだが、こんな剣士達が日夜戦っているのなら、いつか鬼だって滅ぼせると思った。

 だが……。

 

「ヒョヒョッ」

 

 だが()()()を前にすると、そんな思いはすぐに萎んでしまうのだった。

 上弦の伍。100年を生きる鬼を前に、人間は余りにも非力だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 上弦の伍――名を玉壺(ぎょっこ)という。

 壺からおぞましい造形の上半身が伸びているという、わかりやすい化物だ。

 余りにもわかりやすい、死の形だった。

 

「ヒョヒョッ、まったくもって理解できない」

 

 壺の上でうねうねと体を揺らしながら、玉壺がそう言った。

 気のせいでなければ、彼が喋る度に生臭い臭気が漂ってくるようだ。

 ぶよぶよとした肌は時折、何かが蠢くように波打っている。

 

「せっかく私が至高の芸術の一部にしてやろうというのに、それを拒むとは」

 

 至高の芸術?

 刀鍛冶達は首を傾げたが、玉壺が砕けた壺――金魚の背中にあったもの――の破片を拾うのを見て、あの金魚の化物のことだと理解した。

 あの趣味の悪い金魚は、この鬼が血鬼術で生み出したものだったのだ。

 

「まあ、それも良い。貴様らのような蛆虫に私の芸術が理解できるはずもない」

 

 理解できてたまるか、と思った。

 それを声に出して言わないのは、言えなかったからだ。

 このおぞましい鬼の発する鬼気に、体が竦んで何も言うことが出来なかったのだ。

 蛇に睨まれた蛙のように、冷や汗を流して固まることしか出来なかった。

 

 先程あの金魚の化物を鮮やかに倒した鈴音でさえ、何の声も発さない。

 それが面白いのか、玉壺が不気味な笑い声を上げていた。

 俯いた鈴音の顔を覗き込むように、体を傾かせている。

 

「ヒョヒョッ、どうした? 恐怖の余り声も……むうん?」

 

 鈴音の顔を覗き込んだ玉壺が、怪訝そうな表情を浮かべた。

 恐怖で俯いていると思われた鈴音だが、良く見ると、規則正しく肩を上下させていた。

 目は閉じていて、船を漕いでいた。つまり。

 

(ね……寝ている……!?)

 

 寝ていた。気持ちよさそうにすやすやと。

 玉壺は驚愕した。

 自分という死の体現者を前に、どういう神経だったら寝ることが出来るのか。

 そして驚愕以上に、無視されたような気分になり、激しい怒りを感じた。

 

「この私の高尚な話を前に居眠りとは……! ふん! ならば、そのまま死ね!!」

 

 ――――血鬼術『千本針・魚殺』!

 玉壺が取り出した壺から2匹の金魚が飛び出し、口から無数の針が放たれた。

 その数は10や100では効かず、あるいは千にまで届いていたかもしれない。

 立ったまま寝ている鈴音に、回避する(すべ)は無い。

 

 ……はずだったが、突然、鈴音が動いた。

 顔は俯いたままで、起きているのか寝ているのか判然としない。

 彼女の隊服の袖は振袖のような形になっているのだが、そこからストンと手に落ちて来るものが見えた。

 

(何だ、あの刀)

 

 鉄美の目には、それは小さな刃が無数に連なっているような形をしていた。

 刀、というには余りにも奇妙な形状だ。

 日本刀ではない。異形の刀。その無数の小さな刃が、不意に()()()

 

 ――――夢の呼吸・参ノ型『胡蝶の迷夢』。

 小さな刃が、鞭のようにしなった。

 しかしそれらは鋼糸で繋がれており、通常の刀ではあり得ない範囲での斬撃を可能にしていた。

 刃の鞭が、甲高い金属音を立てて無数の針を打ち払っていく。

 

「あ、ああああ……!」

 

 突然、一本丸が頭を抱えた。

 

「あ、あの刀は……あれは……」

「え、何です? 何か不味いんですか!?」

「あれは……あの蛇腹剣は……」

 

 固唾を呑んで見守る鉄美と清彦の前で、彼は言った。

 

「物凄く……壊れやすいんだああ……!」

「「そこかよ(ですか)!?」

 

 しかし、そう騒いでもいれらなかった。

 何故なら、一部の針が鈴音の斬撃範囲から逃れて――つまり、流れ()が飛んで来ていたからだ。

 流れ針とは言え、1本1本の威力は他と変わらない。要するに当たれば死ぬ。

 鈴音は下がれない。下がれば今弾いている針も全て後ろに行く。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 今度こそ死ぬと思ったその時、横から竜巻が飛び込んで来た。

 それが刀鍛冶達に迫った流れ針を全て斬り払い、彼らを守った。

 ふう、と、瑠衣が息を吐いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 見鬼必殺。

 父と師に骨の髄まで叩き込まれたその信条は、瑠衣に逡巡というものを与えなかった。

 ましてや、玉壺の如き醜悪な見た目の鬼に対してはそうだった。

 

(ぶよぶよしてて、気持ち悪い……!)

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』。

 玉壺の頚を目掛けて、突撃した。

 しかし瑠衣の刃が頚に届く前に、玉壺の姿が消えた。

 空を斬り、そのまま地面に着地した。

 振り向くと、ただの壺が1個転がっているだけだった。

 

「ヒョッ! 眠ってしまいそうな程に遅い!」

 

 声を追うと、木の上に壺があった。

 その壺から、ずるりと玉壺の体が這い出て来た。

 

「もっとも、そんな(なまくら)で斬られたところで、私の体には傷一つ」

「つけられないかなあ」

 

 その頚に、犬井が日輪刀を振り下ろしていた。

 必殺のタイミングだったはずだが、玉壺はそれも回避した。

 足元――というより、下半身そのものか――の壺に、瞬時に消えてしまうのだ。

 そして気が付くと、また別の場所に壺が出現しているのだ。

 

(空間移動系の血鬼術……!)

 

 あの壺が、いわば玉壺にとっての扉なのだろう。

 問題は気が付いた時には壺がすでに存在しているということだ。

 壺自体にも術がかけてあるのか、防ぎようがなかった。

 

「厄介だねえ」

 

 太い枝の上で顎を撫でながら、犬井も唸った。

 壺を破壊すれば良いのかもしれないが、壺の最大数がわからない以上、焼け石に水だった。

 逃げる前に頚を斬るのも、今の移動速度を見る限りは難しそうだ。

 

「……人の話を最後まで聞くことも出来ないのか! まあ、それもまた良し! 脳みそまで筋肉で出来ているような低能なのだろう!」

 

 別の場所に出現した壺から、玉壺が顔を出した。

 瑠衣からも犬井からも、微妙に間合いの外に出現している。

 こちらの間合いを一目で見抜いている証拠だ。

 ふざけた見た目だが、やはり上弦の鬼。実力は相当のものなのだろう。

 

「そんな低能には、私が殺して芸術作品に昇華させてやろう! ヒョヒョッ、有難く思うことだ!」

 

 玉壺の背中が波打ったかと思うと、腕が8本、新たに伸びた。

 その全てに小さな壺を持っていて、何らかの攻撃に出ようとしていることは明らかだった。

 いかなる攻撃であろうと、刀鍛冶達を守らなければ、と瑠衣は思った。

 

 トスッ。

 

 軽い音がした。

 己の肉体に()()()()()()いるからか、あるいは反応速度の速さ故か、玉壺がまず気付く。

 頚の左側に、刃が刺し込まれていた。

 

「な……何だとぉ!?」

 

 即座に血鬼術を発動し、その場から逃れた。

 移動した後も、傷口が再生するまで、左の頸動脈から血が噴き出していた。

 それを頚から生やした小さな腕で覆いつつ、玉壺は自分を刺した相手を睨んだ。

 

「鈴音さん……?」

 

 玉壺を刺したのは、鈴音だった。

 もちろん、玉壺のように空間移動しているわけではない。

 気が付いた時、鈴音は玉壺に肉薄していて、頚に刃を立てていた。

 しかし当の本人は、はたして周囲のことを認識できているのか、怪しかった。

 

「あー、噂で聞いたことはあったかなあ」

「噂、ですか?」

()()()()戦う剣士がいるって話。おじさんもただの噂だと思ってたんだけど。つまり、あの子はねえ」

 

 瑠衣の隣に降りてきた犬井が、そう言った。

 

「……夢遊(スリープ)病者(ウォーカー)なのさ」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 夢遊病、睡眠時遊行症とも言われる、いわゆる睡眠障害の1種だ。

 通常の発症時間は長くて30分程とも言われるが、稀に日常生活と一体化するまでに悪化する場合がある。

 原因は疲労・ストレスなど様々なものが挙げられるが、もう1つ、有力とされる説がある。

 曰く、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()場合に発症する――――。

 

「――――夢遊病! ヒョヒョッ、くだらん! 狂人の戯言に付き合っていられる程、私も暇ではない! そろそろ死ね!」

 

 ――――血鬼術『蛸壺地獄』!

 玉壺の持つ壺の中から、巨大な蛸の足が這い出た。

 1本1本が巨木の幹ほどもあるそれらが、目にも止まらぬ速度で鈴音に襲いかかった。

 

「……ええ、確かに。私は狂っているのでしょう」

 

 地面に背中を向けて跳躍し、蛸足の群れを受け流した。

 右手に蛇腹剣、左手に通常の日輪刀を持ち、胸の前で交差させる。

 その間にも跳躍は続いている。長く白い髪が慣性に従って流れていく。

 

「周囲の方からすれば、異常者と思われても仕方ないのでしょう。警察のお世話になった剣士などそうはいないものです」

 

 ――――夢の呼吸・伍ノ型『邯鄲(かんたん)の酔夢』。

 日輪刀を蛸足に突き立て、急制動をかけた。

 そのままの勢いで着地し、なお迫る蛸足に対して蛇腹剣を振るう。

 蛸足のぶにぶにとした肉質は容易に切断することは出来ない。

 

 しかし蛇腹剣によって巻き取り、削り、千切った。

 今にも倒れそうなふらふらとした足取りはしかし、紙一重で蛸足の攻撃の軌道から外れていた。

 その足取りと蛇腹剣の不規則な剣筋と相まって、全方位から迫る蛸足に対しては凶悪なまでに有効な技となっていた。

 

「ですが、そんな私だからこそ、果たすべき役割があると信じます」

 

 蛸足の群れを斬り払って、大きく上半身を捻った。

 右手の蛇腹剣を大きく掲げる体勢で、意図は明白だった。

 

「ヒョッ! その剣の射程はさっき見た! 長いがそこまででは……」

 

 ――――夢の呼吸・弐ノ型『華胥(かしょ)の夢想・永眠』。

 ごきん、と嫌な音がした。右肩の関節が外れた音だった。

 だから、直後に放たれた一撃は、玉壺の想定よりもさらに()()伸びた。

 その切っ先が、頚にまで。

 

「華胥の国に遊ぶ皆々様の安眠を守るために、私という異常者が貴方という悪夢を殺すのだと」

 

 ――――血鬼術『水獄鉢(すいごくばち)』。

 鈴音の斬撃が届くよりも一瞬早く、玉壺の持つ壺から大量の水が吐き出された。

 水が自身を包み込む前に、頚に剣が届くか。

 鈴音はそんな思考はしなかった。

 ただ夢見るように、否、夢見るままに、悪夢を断ち切るだけだ。

 

 ――――風の呼吸・漆ノ型『勁風・天狗風』!

 水の檻を、斬り弾く風の刃。

 そして、めくれた羽織の下に覗いた「滅」の一文字。

 それが見えたタイミングで、右肘の関節をさらに外した。

 

「ヒョッ……!」

 

 伸びた刀身。その切っ先が、悪鬼の喉元に届こうとしていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――敵襲!

 その一報は、瞬く間に刀鍛冶の里全体に知れ渡った。

 

「鬼だ――――ッ! みんな起きろ――――ッ!」

 

 各所の物見櫓に上った里の人間は、鐘を打って里の人々に緊急事態を知らせると共に、全員が異口同音に同じことを叫んだ。

 各一族の当主を守れ。

 柱の刀を持ち出せ。

 里長を逃がせ。

 

 それは、彼らが何を最優先にしているかを如実に物語っていた。

 自分達の命などではない。

 ()()だ。

 里で最も優れた者達の腕と、彼らだけが打てる高位の剣士の刀が何よりも優先される。

 何故ならば、それさえ残れば、刀鍛冶達は()()()()ことが出来るからだ。

 

「鬼だ、鬼だ――――ッ! 敵襲! 敵襲――――ッ!」

 

 そして、里に常駐している隠もまた、各所に危険を知らせて回っていた。

 沼慈司もその1人だった。

 右結び(サイドテール)にした髪を跳ねさせながら、息せき切らせて家々の戸を叩いては鬼の襲来を知らせる。

 

(敵襲なんて、そんな馬鹿な……!)

 

 しかし、やはり動揺は隠せない。

 この刀鍛冶の里は巧妙に隠されていたし、万が一鬼に見つかったとしても、隠が厳重に監視している。

 その隠の監視網に全く気付かれることなく、襲撃されるなどあり得ないはずだった。

 

「うわああああ!」

 

 その時、悲鳴が聞こえた。

 見ると、刀鍛冶の男が襲われているのが見えた。

 例の金魚の化物かと思ったが、違った。犬だった。

 2匹の犬が刀鍛冶の男に襲いかかっていた。

 野犬、にしては様子がおかしかったが、とにかく助けなければ。

 

「このっ、離れろ!」

 

 護身用に持っていた小刀で、切り付けた。

 本当に傷つけるつもりはなかった。脅かすだけのつもりだった。

 しかし犬の方が全く怯まずに、むしろ自ら小刀を受けに来た。

 肉を切る感触。しかしそれを顔を顰める前に、異常に気付く。

 

「なっ」

 

 異様な犬だった。

 体中がボロボロで、頚に大きな裂傷があり、足など1本足りなかった。

 明らかに、()()()()()()

 ()()()、これは。犬の死体が動いている。そうとしか表現できなかった。

 

 それが、ヴヴヴ、と唸り声を上げて、沼慈司に飛び掛かった。

 小刀は意味を成さなかった。切り付けても怯みさえしないのだ。

 沼慈司は成す術なく、異形の犬に噛み殺される――――。

 

「――――ッ!」

 

 直前、犬の頭が爆ぜた。

 竹筒を噛んだ少女が、沼慈司が噛み殺されるよりも速く、犬を蹴ったのだ。

 着地と同時に半身を回し、もう1匹の犬も蹴り飛ばした。

 ギャインッ、と妙に可愛らしい悲鳴を上げるのが、何ともミスマッチだった。

 

「え……ええ?」

 

 竈門禰豆子だ、と認識するのに少しかかった。

 それだけ、目の前の出来事が衝撃的だったのだ。

 

「ムー?」

「あ、ありがとう」

 

 無害そうな顔でこちらを見つめられると、余計にそう思った。

 しかし助かったのはその通りだし、刀鍛冶の男も無事だった。

 

「――――おい」

 

 異臭がした。

 それは沼慈司が嗅いだこれまでのどんな臭いをも上回る、吐き気を催す程の臭気だった。

 キュウン、と、犬の甘えたような鳴き声が聞こえた。

 先程の、頭を潰されなかった方の犬が、()()()の足に擦り寄っていた。

 

 明らかに、人間ではなかった。

 ()()ぎだらけの肌が、そう教えてくれている。

 人の形をしている。一応。

 その鬼は童女のような体躯で、サラシを巻いた体に奇抜な色柄の着物を羽織っていた。

 

「私のかわいい動物(イヌ)を、貴様ら」

 

 禰豆子に頭を潰された犬を見て、その鬼の顔面に血管の筋が立っていった。

 

「貴様ら、易々と死ねると思うなよ……!!」

 

 はっきりとした害意が、沼慈司の肌を刺した。

 同じ鬼でもこうも違うのか。

 自分を庇って前に出る禰豆子の背中を見て、沼慈司はそう思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鉄穴森(かなもり)は焦っていた。

 今や里全体が戦場だ。安全な場所など存在しない。

 一刻も早く避難しなければならないが、鉄穴森は避難先とは逆方向に走っていた。

 言うまでもなく危険だが、そうしなければならない理由があった。

 

「小鉄少年、きみは避難しなさい!」

「いえ、あの刀は俺の絡繰人形から出て来たものだから……それに、鋼鐵塚さんを放っておけない!」

「しかし……」

 

 鉄穴森と小鉄が向かっているのは、鋼鐵塚が炭治郎の刀を研磨している山小屋だった。

 そこは普段は誰も寄り付かない場所にあるので、誰かが報せに行かない限り、鋼鐵塚は里の異変に気付くことが出来ない。

 つまり2人は、鋼鐵塚を救いに行くために走っているのだった。

 

 とは言え、鉄穴森は小鉄まで付き合う必要はないと思っていた。

 悔しいが、あの金魚の化物に襲われたら鉄穴森では小鉄を守り切れない。

 里を警護していた常駐の鬼殺隊士でさえ敵わない化物に、鉄穴森だけではどうしようもない。

 だから今からでも小鉄を避難させたかったが、一方で1人にするのも躊躇(ためら)われた。

 

「あっ」

 

 鋼鐵塚のいる小屋までもう少しというところで、鉄穴森は声を上げた。

 と言うのも、隊服を着た剣士を見つけたからだ。

 鉄穴森は安堵した。これで小鉄を保護して貰えると思ったからだ。

 一方で、小鉄はその男の顔を見て「げっ」と露骨に嫌そうな声を上げていた。

 

「ああ? ってお前はこの間の……」

 

 そこにいたのは、獪岳だった。

 日輪刀を背負っていて、小鉄の顔を見て眉を顰めた。

 

「すみません! この子を安全なところまで連れて行って貰えないでしょうか!?」

「ええ!? 嫌ですよ、こんな奴に助けられるくらいなら死んだ方がマシですって!」

「何なんだ、お前ら……」

 

 小鉄は嫌がったが、鉄穴森は獪岳に事情を説明した。

 この先で刀鍛冶――もちろん鋼鐵塚のことだ――が重要な作業を行っていること、自分達が危険を知らせに走っていることだ。

 その話を聞いた時、獪岳は大した関心を持った様子ではなかった。

 

「何で俺がそんな刀鍛冶なんぞのために……」

 

 しかし。

 

「……案内しろよ」

「え?」

「そいつのことも助けてやるって言ってるんだ。さっさとしろノロマ」

「はああ!?」

「こら、小鉄少年!」

 

 異常事態に焦っていた2人には、気付くことが出来なかった。

 獪岳の顔が青ざめていたこと。

 そして、彼が2人を見ていなかったこと。

 その視線の先に、奇妙な壺が落ちていたことに――――。




最後までお読みいただき有難うございます。

いつものことですが、一度に詰め込んだが故に収拾が不可能になっています(え)
こうなったら敵味方全滅エンドにもって行くしか……(え)

それでは、また次回。


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第34話:「鬼と人形と人間と」

 ――――恋の呼吸・壱ノ型『初恋のわななき』!

 甘露寺蜜璃が鎹鴉による急報を受けて、刀鍛冶の里に戻って来た時、すでに里は最奥部まで敵の侵攻を許している状態だった。

 甘露寺は道々の敵――金魚の化物――を斬りながら、長の屋敷へと急行した。

 

「鉄珍様、大丈夫ですか!?」

 

 そして、間一髪のところで鉄珍を救出することに成功した。

 鉄珍は甘露寺が駆け付ける直前、金魚の化物に襲われてしまった。

 そのため肋骨を折り内臓を傷めてしまったが、一命は取り留めたようだった。

 

 この時点で、甘露寺には2つの選択肢があった。

 まず第1の選択肢は、このまま鉄珍を保護して脱出することだ。

 里で最も優れた技術を持つ長を守れば、日輪刀の秘伝は守ることができる。

 すでに最奥部まで侵攻されている以上、猶予はないと言って良い。

 

「み、蜜璃ちゃん……」

「鉄珍様! 喋らないでください!」

 

 そして、第2の選択肢。

 

「か、刀を……あの子達の、刀を」

 

 鉄珍が伸ばした手を、甘露寺は握った。

 節くれだった、皺の多い手だった。数多の刀を生み出してきた手だ。

 そう思うと、甘露寺の胸はキュンと高鳴るのだった。

 

「若くて可愛い娘に手を握って貰えて幸せ……」

「やだもう鉄珍様ったら!」

 

 いや、今はそんな場合ではなかった。

 

「蜜璃ちゃん。ここはええからあの子らを助けに行ったってや」

「でも……」

 

 決断とは、常に重く残酷なものだ。

 ここでもし鉄珍達から離れて、甘露寺の手の届かないところで彼らが襲われてしまったなら、最高の日輪刀を打てる者がこの世から永遠に失われる。

 それはつまり、鬼殺隊の弱体化を意味する。取り返しがつかない。

 

「あの子らの刀を、守ったらなあかん」

 

 しかし、鉄珍の言葉には否と言い難い力があった。

 

「あの子らを見た時、わかった。あの子らは……」

 

 鉄珍の言葉を聞いて、甘露寺はその手を強く握り締めた。

 決意に満ちた表情で、彼女は言った。

 

「わかりました」

 

 甘露寺は、真っ直ぐな娘だった。

 回り道をすることもあるが、背を向けることは性に合わない。

 そして彼女が知る剣士達もまた、皆がそうだった。

 心に燃ゆる感情のままに。

 

「任せてください。みんな私が守ってみせます!」

 

 正道を行く。

 それは、誰にでもできることではない。

 しかし甘露寺は、それが出来る人間を何人も知っていた。

 そして彼女は、自身もそう在りたいと、そう願っているのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 幸いなことに、一本丸達は大きな怪我を負っていなかった。

 とは言え、未だ危険な状況であることは変わっていない。

 

「まさか、上弦の鬼に里がバレるとはねえ」

 

 顎の下を撫でながら、犬井がそう言った。

 偶然の通りがかりではなく、敵はここに里があるとわかって攻めて来たということだからだ。

 それは、非常に危険な意味をも含んでいる。

 

 しかし、今は襲撃への対応が先だった。

 こうしている間にも、里のあらゆる場所から戦いの音が聞こえる。

 すぐに急行し、刀鍛冶達を救わなければならない。

 

「良いですか、助けが来るまでここに身を隠していて下さい。助けが来なくても、朝までは隠れていてください。鈴音さんの傍にいれば安全です」

「いや、隠れるのは良いけどさ……こいつ寝てるんだけど」

 

 鉄美の言う通り、鈴音は木の根元に寄りかかるようにして眠りに落ちていた。

 先程まで激しい戦闘を繰り広げていたとは思えないほど、安らかな寝息を立てていた。

 瑠衣は医者ではないので、夢遊病の症状について詳しいわけではない。

 ただ敵が近付けば、鈴音は――というより、鈴音の体が――刀鍛冶達を守るだろう。

 なので。

 

「――――大丈夫です!」

「何が?」

「安全です!」

「だから何が!?」

 

 そして、玉壺だ。

 あの上弦の鬼は、鈴音の最後の攻撃が届く前に姿を消していた。

 残されていた壺は砕いたが、余り意味のある行為とも思えなかった。

 

 まさか上弦の鬼が、柱でもない数人の剣士の攻撃に耐えかねて逃げ出したはずもない。

 何か目的があって、移動したと見るべきだろう。

 刀鍛冶の里を襲撃する目的なら、2つしかない。

 技術と、刀。この2つを潰しに来た。それ以外にない。

 

「長が危ない、だろうねえ」

「しかし上弦の伍も放ってはおけません。ただ、どうやって追えば良いのか……」

 

 血鬼術で移動した鬼を追うのは、簡単なことではない。

 空間を渡る異能は、足跡を追うのとはわけが違う。

 

「そっちはオレ達に任せて貰おうかな」

「バウッ」

 

 瑠衣の足元で、コロが鼻息荒くこちらを見上げていた。

 それが何とも「任せろ!」と言わんばかりなので、場違いにもおかしく感じてしまった。

 

「コロがあいつの臭いを覚えてる。こいつならどこまでも追跡できる」

「竈門君みたいですね」

「いや、それはたぶん逆じゃないかなあ」

 

 言われてみればそうだと、瑠衣は思った。

 どうやら感覚が麻痺していたらしい。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 積怒は、怒っていた。

 彼は()()の怒りの感情を司る鬼なので、そもそも普段から怒っているのだが、輪をかけて怒っていた。

 というのも、目の前の剣士達に手こずってしまっているからだ。

 

「たかが2人や3人の人間ごときに、何という(ザマ)か!」

 

 ――――霞の呼吸・肆ノ型『移流斬り』。

 雷の錫杖を振り上げた腕を、時透の滑り込むような斬撃が斬り飛ばした。

 積怒は舌打ちして距離を取るが、時透はやはり滑るような足運びで追い縋って来る。

 そのせいで、積怒は他の3体を統率することが出来ずにいた。

 

(可楽……可楽!)

 

 それでも、()()を同じくする鬼だ。

 わざわざ声をかけずとも、思念で意思疎通は出来る。

 突風の扇を持つ可楽ならば、この鬱陶しい時透()を吹き飛ばすことが出来る。

 

 ――――ヒノカミ神楽『炎舞』。

 しかしその可楽は、炭治郎によって頚を斬られていた。

 もちろんそれで死ぬことはない。

 が、炭治郎の刀で斬られると、再生が異常に遅い。

 

「カカカッ! 面白い技を使うのう!」

 

 加えて、空喜はその炭治郎に構っている。

 可楽もそうだが、あの2体は全体の戦況などお構いなしに、己の興味が引かれるところにしか行かない。

 それがまた積怒を苛立たせた。何をやっているという苛立ちで満ちていた。

 そして、何よりも気に入らないのが。

 

「……いったい何度刺し殺せば死ぬのか。いい加減に哀しくなってくる」

 

 哀絶が相手をしている、玄弥だった。

 玄弥は哀絶の槍によって、身体中に穴が開けられていた。

 肉が削げ、血が溢れ出ている。

 当然だが、人間が生きていることも、まして立って動くことなど不可能な程の損傷だった。

 

「玄弥! それ大丈夫なのか!? お腹に穴が開いているぞ!」

「お腹だけじゃなくて胸にも足にも開いているけど」

「うるせえ! いちいち構うな、大丈夫だ!」

 

 積怒は、苛立っていた。

 柱に、妙な剣技に、不死の人間。

 そして、じりじりと削られていく()

 

(……()()を出すしか……)

 

 む、と積怒は視線を時透から外した。

 大きな隙になる。

 しかし時透はその隙に打ち込むことはしなかった。

 何故ならば、彼の直感が他の危険を察知していたからだ。

 

「ぐあっ」

 

 炭治郎は思わず、鼻を押さえた。

 

(な、何だこの臭いは。鼻が曲がりそうだ……!)

 

 風向きが変わったせいか、突然、鮮明に臭うようになった。

 しかし、風向きだけではない。

 臭いの元が、すぐ近くに存在しているからだ。

 

「オイオイ半天狗ゥ。まさかお前さぁ、人間なんかに手こずってるわけ?」

 

 体中継ぎ接ぎだらけの、おぞましい容姿をした鬼だ。

 形だけは童女のような姿をしたその鬼が、半壊した家屋の屋根からこちらを見下ろしていた。

 

「だっさぁ~い」

 

 コココ、と、喉奥から響く笑い声が不気味だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その鬼が屋根から飛び降りると、着地の衝撃で地面が罅割れた。

 そんな彼女に対して、積怒はいつも通り不機嫌な目を向けた。

 

「儂に気安く話しかけるな、八重垣童女。殺されたいのか」

「アハッ。なに? 殺すって? 無理無理。そもそもお前、私に触れんの?」

 

 顔も手も足も、肌が継ぎ接ぎだらけの異形の鬼だった。

 しかもほとんど裸――サラシに虎の毛皮の褌に、着物を肩に羽織っただけ――だから、彼女の()()()肌がいかに少ないか、目に見えてしまう。

 あえて晒しているのではないか。そうとしか思えなかった。

 

 そして、やはり凄まじい臭いだ。炭治郎は激しい頭痛を感じていた。

 腐った肉の臭い、と言えばわかるだろうか。それを臭い袋にでもしているような。

 しかし八重垣童女が着地した一瞬、炭治郎は臭気も頭痛も忘れた。

 

「お前、それ」

 

 ()()()()()()()()()()()

 見間違えるはずがない。

 炭治郎だけは、それを絶対に見間違ない。

 

「その着物を、どうしてお前が着ているんだ?」

「この着物? さっき()()()のさ。少し古いけれど、なかなか良い柄だったから」

「そういうことを言っているんじゃない!」

 

 日輪刀の切っ先を向けて、炭治郎は言った。

 

「それは、妹の――――()()()()着物だ!!」

「妹? 妹だって。これが?」

 

 ()()()、と。それは八重垣童女の腹から出て来た。

 頭だ。人の、いや人ではない。

 

「禰豆子……!」

 

 禰豆子だった。今は頭だけが八重垣童女の腹から覗いている状態だ。

 気を失っているのか、あるいは血鬼術なのか。目は開いていなかった。

 苦しそうに眉を寄せているから、生きてはいる様子だった。

 

「何じゃ、その娘は。鬼のようだが」

「私の作品を壊した愚か者よ。朝になったら陽に当てて殺す」

 

 ――――落ち着け。

 炭治郎は、己の激情を押さえなければならなかった。

 呼吸が乱れている。強く噛み締めた奥歯が今にも欠けそうだ。

 しかし、感情的になってはならない場面だった。

 

 炭治郎が感情的になっても禰豆子は救えない。むしろ時透や玄弥をも危険に晒す。

 上弦の肆、あの喜怒哀楽の鬼も健在なのだ。

 つまり敵に援軍が――仲が良さそうには見えないが――来た形だ。

 こちらは上弦との戦いで消耗もしている。危機的状況と言って良かった。

 

(落ち着け、感情的になるな。呼吸を整えろ。修行を思い出せ)

 

 頭を冷やせ。しかし、()()()()()

 そう決意する炭治郎の額で、火傷の赤い痕が、僅かに動いたように見えた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――血鬼術『人柱・狗神』。

 地面の下から現れたそれは、一見すると犬の姿をしていた。

 しかし形は犬でも、肉は削げ皮は剥げており、歩く死骸としか表現できない物体だった。

 

「げっ、何だよアレは!」

「ふふん、私の可愛い作品(イヌ)を見られて光栄に思うと良い」

 

 玄弥には特異体質があった。

 それは人並み外れた咬合力と特殊な消化器官による「鬼化」だ。

 鬼殺隊の中では「鬼喰い」と呼ばれる能力で、呼んで字の如く鬼を喰うことで力を得る。

 喰う対象は血鬼術でも構わない。

 とは言え、流石に腐った死骸を喰うのは抵抗があった。

 

「まだ何かいる」

「そっちのお前は柱か。良い勘をしているじゃないか」

 

 ――――血鬼術『人柱・人垣』。

 周囲の地面から、犬以外のものも現れた。

 犬と同じく肉は削げ皮は剥げているが、今度は、人間だった。

 混乱の中で犠牲になったのだろう。ほとんどは、ひょっとこの面をつけていた。

 

「美しいだろう? 香しいだろう?」

 

 両頬に手を当てて、八重垣童女はうっとりとした表情を浮かべていた。

 

「こいつらは一度死んで、そして生まれ変わったのさ。神仏に与えられた命を捨て、この私の作品として新しい命を得たんだ。混じり気のない完全な命だ。玉壺みたいに、むやみやたらに変貌させたり混ぜ合わせたりするような品のないものとは格が」

「――――五月蠅いよ、クズ野郎」

 

 霞の如く、時透の姿がブレた。

 かと思えば、彼の姿は八重垣童女の懐にあった。

 日輪刀に至っては、頚に届いていた。

 

「光栄に思うと良い、柱よ」

 

 時透の日輪刀は、本来の彼の刀ではない。

 刃毀れの酷い、元々は縁壱零式が持っていた刀だ。

 しかしそれを計算に入れても、八重垣童女の防御もまた速かった。

 時透の刀が打ち込まれた場所の肌を骨が突き破り、攻撃を受け止めていた。

 

「お前達のような()()()()()()も、私が一度(ひとたび)触れば、至高の作品に生まれ変わることが出来るのだから」

 

 そしてその時、時透は剣士として致命的なことに、意識を飛ばしていた。

 八重垣童女の口にした言葉が、頭のどこかに引っかかったからだ。

 つまらない命。

 どこかで同じような言葉を聞いたような気がして、一瞬、時透は動きを止めてしまった。

 

「時透君!」

 

 八重垣童女の手が時透に触れるよりも一瞬速く、炭治郎が間に割り込んだ。

 特に慌てた様子もなく、八重垣童女は後ろに跳んでそれをかわした。

 わざとなのかどうなのか、禰豆子の頭が半分ほど彼女の腹に沈んでいった。

 

「大丈――――」

 

 次の瞬間、雷撃が炭治郎達の身を打った。

 しまった。そう思った。

 忘れていたわけではないが、上弦の肆への意識が薄れていた。

 

「オイ半天狗! 私の作品に当てやがったらブチ殺すぞ!」

「喚くな、苛々する」

 

 回転する視界の中で、炭治郎は見た。

 怒りの鬼、積怒が、他の3体の頭を握り潰しているのを――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 人口の多い方に近付いていくにつれて、戦いの音は大きく、そして近くに感じられるようになっていった。

 だから道々で金魚の化物を斬りながらも、瑠衣は足を止めなかった。

 しかし、刀鍛冶達の居住地の端に差し掛かった時だ。

 ()()を目にした時には、さしもの瑠衣も足を止めてしまった。

 

「がふっがふっ」

 

 それは、獣のように見えた。犬か、狼のような。

 それが何かに喰らい付いていて、ぐちゃぐちゃという咀嚼音があたりに響いていた。

 喰われている側は、獣の動きに合わせて手足を小さく揺らしていた。

 抵抗の様子はなく、獣が屍肉に喰らい付いているという風だった。

 

 不意に、瑠衣に気付いたらしい。

 ぴたりと動きを止めたかと思うと、血肉と内臓の一部でべっとりと汚れた口を拭おうともせずに、こちらを振り向いて来た。

 グルル、という唸り声が耳に届いた。

 月が雲の陰から姿を現したのは、そんな時だった。

 

「あ……」

 

 間の抜けた音が、瑠衣の唇から零れた。

 その一瞬で、相手はすでに駆け出していた。

 人の動きではない。四肢で地面を蹴っていた。

 それこそ、四足獣の速度だった。

 

 躊躇いはしなかった。

 

 相手が駆け出した時には、すでに瑠衣は手首を返していた。

 剣閃が、ひとつ。

 そして、気が付いた時にはすべてが終わっていた。

 それだけ、瑠衣にとっては自然な動きだったのだ。

 

「…………」

 

 ぼとりと二つに分かれて地面に落ちたそれには目もくれずに、それに近付いて、膝をついた。

 手を伸ばして見ても、瞳はガラス玉のようで生気がなく、瑠衣を見つめることもなかった。

 

「沼慈司、さん」

 

 呼んでみても、返事はなかった。

 当たり前だ。もう死んでいる。(はらわた)を喰い千切られているのだ。

 死んでしまったら、返事など出来るはずが無い。

 羽織の裾で、顔を拭ってやった。汚れが広がっただけで、意味はなかったかもしれない。

 グルル、と、また獣の唸り声がした。

 

「…………」

 

 見れば、胴体から真っ二つになった犬が地面でもがいていた。

 斬っても死なないらしい。

 しかも他にもいたようで、しゃがんだ瑠衣を取り囲むようにして、唸り声を上げながらにじり寄って来る。

 ()()への攻撃に反応したのか、操っている者が別にいるのかはわからない。

 どうでも良かった。

 

『剣士様っ!』

 

 彼女がもう自分を呼んではくれないのだと、その事実に比べれば、大した問題ではなかった。

 その証拠に、見てみるといい。

 瑠衣を取り囲んでおきながら、周りの畜生共は一匹として、それ以上近付くことが出来ずにいる。

 

「――――貴様ら」

 

 畜生に、人の言葉がわかるはずもない。

 だが、それらは明らかに怯えた様子を見せ始めていた。

 

「生かして帰さない」

 

 言葉の通りになるのに、そう時間はかからなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 犬が日輪刀を使う場面を見ると、大体みんなが同じ反応をする。

 それは言葉にするのなら、「ええー」とでも言いたげな顔だ。

 そして次に犬井を見上げて、ぽっと顔を赤らめるのだ。

 まあ、後半は女性に限った――たまに男も――話だが。

 

「大丈夫かい、お嬢さん」

「は、はい……」

 

 当たり前の話だが、刀鍛冶の里とはいえ、刀鍛冶だけが住んでいるわけではない。

 刀鍛冶の家族もいるし、鍛冶以外の技能を持った者達もいる。

 そうした者達は、刀鍛冶以上に戦う力を持たない。

 だから犬井が上弦の伍を追う道中で、金魚の化物に襲われた女性を助けたのもそうした事情からだった。

 

 そして犬井が襲われていた女性を抱いて退がった隙に、専用の日輪刀を装備したコロが背後から金魚の背にある壺を砕いた。

 逆じゃない?、という意見もあるかもしれないが、これが犬井達の戦闘スタイルなのだ。

 犬井自身が言ったように、コロの討伐数が柱に匹敵するというのはこういうことだった。

 

「この先に臨時の避難所がある。1人で行けるかい? 一緒に行ってあげたいけど、おじさんも鬼を追っている最中でねえ」

「は、はい。大丈夫です」

 

 犬井は身嗜みこそズボラだが、素材はかなり良い方だ。

 外国の血が入っているせいか、外人慣れしていない日本人女性には神秘的でさえあっただろう。

 細身に見えるが鍛え上げた身体はがっしりとしており、力強い。

 そんな腕に抱かれて、しかも危機から救われたとなれば、たとえ男でも心揺れただろう。

 

「じゃあねえ。このあたりの敵は粗方(あらかた)倒したけど、気を付けて」

「はい! あの、本当にありがとうございました……!」

「気にしないでいいよお」

「ばうっ!」

 

 ひらひらと手を振りながら、犬井とコロは去って行った。

 女性は犬井達の姿が見えなくなるまで手を振っていたが、姿が見えなくなると、周囲の静けさに襲われた恐怖を思い出したのか、不安気に周囲に視線を彷徨(さまよ)わせた。

 しかし同時に犬井の言葉を思い出して、少し安堵した様子を見せた。

 

「痛っ」

 

 安堵には、痛みを伴った。

 深刻なものではなく、例えば紙で指を切った時のような、気付いた途端に小さな傷が痛むようなものだった。

 頬のあたり、金魚の化物に襲われた時に爪先が掠めたのかもしれない。

 反射的に、頬に手を当てた。

 

「やだ……」

 

 見られていたかもしれないと思うと、急に羞恥を覚えたらしい。

 彼女は袂から小さな手鏡を取り出すと、割れていないことを確認して、頬の怪我を見ようとした。

 すると、傷一つない綺麗な肌が見えて、ほっと息を吐いた。

 したが、頬に触れた手を見ると、僅かだが――――血が、ついていた。

 

「え?」

 

 鏡を見た。

 傷はない。綺麗な肌。しかし指には血。混乱した。

 疑問は、すぐに氷解する。

 鏡に映ったのは、()()()()()()()()()()

 

「ひ」

 

 悲鳴を。

 助けを、求めようとした。しかし出来なかった。

 手鏡から、細く白く小さな手が伸びて、顔の下半分を鷲掴みにしてきたからだ。

 顎の骨が砕ける音に、女性は両目を見開いた。

 

()()()

 

 鏡の中から声がした。

 幼い、しかし殺意に満ちた声だった。

 

「亜理栖のお兄ちゃんとお喋りするなんて、ずるい」

 

 ()()()()()()()()()()()

 抗弁の機会は、永遠に与えられなかった。

 鼻腔から下を骨と肉ごと抉り取られてしまっては、抗弁など出来るはずもなかった。

 声なき断末魔は、誰にも聞こえることはなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「ここかよ?」

「ええ、そうです」

 

 鉄穴森に肯定されても、獪岳は疑わしそうな表情を消さなかった。

 刀鍛冶の里は存在からして隠されているが、鉄穴森が連れて来た場所は、その中でもさらに山奥に位置していたからだ。

 一方で大事な物を隠すという意味では、なるほど持ってこいの立地とも言えた。

 

 剣士の助けを求めておいて、当の鉄穴森がわざわざ嘘を吐く必要もない。

 もっとも、獪岳は鋼鐵塚とかいう刀鍛冶に関心はなかった。

 彼が関心があるのは、別の話だった。

 

「ここに柱の刀があるんだな?」

「ええ! 全部ではありませんが、今は霞柱の時透殿の刀などが」

 

 柱の刀。

 いくら鬼殺隊最強の柱とは言え、日輪刀がなければちょっと優れた人間というだけだ。

 もちろん彼らは並の日輪刀を使っても十分に強いが、専用の刀には及ばない。

 弘法筆を選ばずとは言っても、筆の善し悪しや相性が結果に影響しないわけではない。

 

「どうしてそんなこと聞くんですか?」

「あ?」

 

 足元から()め上げて来た小鉄に、獪岳も睨め()()()

 これは道中でも何度かあり、その度に大人な鉄穴森が「まあまあ」と間に入るのだった。

 

「と、とにかく中に入りましょう! 鋼鐵塚さんもいますし、時透殿達の刀も持ち出さなければ!」

 

 そう言って、鉄穴森は小鉄の肩を押すようにして小屋の戸を開けた。

 さほど広くない空間に、筋肉質の男の背が見えた。鋼鐵塚だ。

 一心不乱に、刀を研いでいる様子だった。

 他にも刀の研磨や鍛冶に必要な道具等も見える。刀もあった。

 

「鋼鐵塚さん、ほら逃げますよ!」

「…………」

「鋼鐵塚さん! ほら……って動かねえなコイツ! 頑として動かねえ!」

「そんなんだから嫁の来手がないんですよ」

 

 本当に集中しているのか、鋼鐵塚は鉄穴森達がやって来たことにも気付いていない様子だった。

 そのせいで刀鍛冶達が揉めているが、それを獪岳は()()()()()眺めていた。

 獪岳が小屋に入って来ないことに気付いたのは小鉄だった。

 鉄穴森は鋼鐵塚の方を向いていたし、小鉄は周囲に目を配れる子供だった。

 

「何……」

 

 獪岳が、戸を閉めた。

 ()()()()

 

「してんだテメエエエッ!」

「小鉄少年!?」

 

 戸を叩いて開けようとしたが、開かなかった。

 外から何かで押さえられているのか、びくともしなかった。

 

「な、何だ!?」

 

 不意に、小屋の周りがざわざわと騒がしい気配で包まれるのを感じた。

 そして魚のような獣のような、そんな鳴き声が聞こえた。

 その正体を察した鉄穴森と小鉄は、さあ、と青褪めた。

 

「や、やばいんじゃ――――」

 

 その数秒の後、小屋の四方の壁が何かに突き破られたのだった。

 鋼鐵塚は、それでも刀を研ぎ続けていた――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何て力だ、と獪岳は地面に伏したまま冷や汗を掻いていた。

 鋼鐵塚達がいる小屋を、あの金魚の化物達が取り囲んでいた。

 全部で5匹。それが四方から小屋に襲い掛かり、壁を突き破って崩落させたのだ。

 勝ち誇っているかのような金魚の咆哮に、獪岳は身を震わせた。

 

(これが、上弦の力か……!)

 

 100年不敗の、まさしく生ける伝説。

 その伝説の存在は今、獪岳の目の前で「ヒョヒョヒョ」と気味の悪い笑い声を上げていた。

 

「ヒョヒョッ、これで柱の刀は全滅。さらにこのまま刀鍛冶共も殲滅すれば、あの御方もお喜びになるだろう」

 

 獪岳は、息を殺していた。

 まるで、肉食の獣から身を隠す草食動物のようだった。

 鬼は人を喰らうから、あながち間違いとも言えない。

 音を一つでも立てれば死ぬ。獪岳がそう考えていることが良くわかった。

 もっとも、仮に音一つ立てなかったとしても、おそらく結果は変わらなかっただろうが。

 

「さて……」

 

 ビクッ、と、獪岳は身を震わせた。

 あの上弦の鬼、玉壺からねっとりとした嫌な気配を感じたからだ。

 感覚に矢印がついていたなら、それはきっと獪岳を向いていただろう。そんな風に。

 

「む? 何だ?」

 

 しかしその矢印も、玉壺が別のものに――否、音に気を取られたために消え去った。

 それは、どん、という強い音だった。僅かに地面が揺れてもいた。

 どこから来る音だと視界を巡らせて、それがすぐ近くだと気付いた。

 その音は、倒壊した小屋から聞こえていた。

 

 疑問の鳴き声を発して、2匹の金魚が音がする方へと顔を近づけた。

 小屋の残骸が折り重なっている場所で、音は繰り返し聞こえて来た。

 2匹の金魚が顔を見合わて、再び音がする場所を見た。

 そして2匹の金魚が威嚇するように咆哮を上げた。その時だ。

 

「――――!」

 

 ()()()は、声を発したりはしなかった。

 しかし崩れた瓦礫を()()()()()、返す刀で2匹の金魚を細切れにした。

 獪岳が見た剣閃は5つ。瞬きの間にそれが金魚の骨と肉を切断したのだ。

 

「な、何イッ!? 何者だ貴さ……まァ?」

 

 玉壺がぎょっと――されることはあっても彼がするのは稀だった――した顔で、瓦礫の下から現れた男を見た。

 いや、体の形が男だったからそう判断したが、しかしその体には血も流れていなければ肉も骨もなかった。

 というより、そもそも()()()()()()

 キリキリキリ……と、歯車が噛み合う音を立てながら5本の腕と刀を振り上げた、その存在の名は。

 

「行け――ッ! 縁壱零式――――ッ!!」

 

 瓦礫の中から這い出して来た小鉄が、握り拳でそう叫んでいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 玉壺は、己が一瞬呆然自失としていたことを認めた。

 それはそうだろう。

 自分の作品たる美しい――あくまで彼自身の感覚の話だが――金魚達が、突如現れた絡繰人形によって()されてしまったのだ。

 

「よーし、行けー! そこだ! ぶっ殺せ――!」

「ちょ、小鉄少年! 頭を下げて、頭を!」

 

 小屋を崩して押し潰したはずの小鉄達が生きていた。

 おそらく潰される寸前、あの絡繰人形を動かしたのだろう。

 縁壱零式と言ったか。その動きは凄まじかった。

 頭と腕が1本壊れていたが、それでもなお5本の腕で刀を振るっている。

 

 普通、腕が5本もあればまともに動けないはずだ。

 それがどうだ。それぞれの腕が干渉することもなく、見事に動いている。

 5本の腕が滑らかに動き、残りの金魚の頚を全て刎ねてしまった。

 丁寧なことに急所である背中の壺まで斬られていて、再生できなかった。

 

(う……)

 

 その動きに、一切の無駄は無かった。

 余りにも自然に行われたために、斬られた金魚が倒れるまで斬られたことに気付かなかった程だ。

 そして玉壺は、それを呆然と見ているしかなかった。

 何故かはわからないが、体が硬直して動けなかった。

 

(な、何だ? なぜ動けん……!?)

 

 確かに驚異的な絡繰だ。

 誰が作ったのか知らないが、芸術家として嫉妬すら感じる程だ。

 しかし、体が硬直するほど衝撃を受けたわけではない。

 

(あの太刀筋。どこかで見た? 馬鹿な、ここに来たのもあの絡繰を見たのも今日が初めてだ)

 

 ただあの絡繰――縁壱零式の動きに、既視感を覚えた。

 あり得ないはずの既視感に、玉壺の肉体が動きを止めたのだ。

 

『お前は、存在してはいけない生き物だ』

 

 既視感、記憶。玉壺の物ではない記憶。

 頭に、いや細胞に刻まれた記憶。

 絡繰ではない。人間の、鬼狩りの。

 あれは、誰だ?

 

「――――ハッ!?」

 

 頚に、肌に冷たいものを感じて、反射的に身を退いた。

 いつの間にか縁壱零式が目の前にいて、頚に刃が届きかけていたのだ。

 幸い皮膚1枚を斬られただけで終わったが、ひやりとした。

 いつもなら楽しむ程度の危機だ。だが、今はそんな余裕がなかった。

 

「この……人形風情が! この私の、玉壺様の頚に!」

 

 ――――血鬼術『蛸壺地獄』!

 取り出した壺から巨大な蛸足が湧き出し、縁壱零式の全身を覆い尽くした。

 いくら高性能でも、縁壱零式は対人用の訓練絡繰だ。

 人外の攻撃手段には対抗し切れない。金属が軋み、破損する音が響いた。

 

「あ、ああっ! 壊れる……!」

 

 小鉄は直感的に、玉壺の攻撃が縁壱零式の耐久力を上回っていることに気付いた。

 元々限界だった上、()()とも言うべき刀を失っている。

 応急処置とも言えない状態で、無理矢理に起動させた状態だった。

 先祖代々受け継いできた絡繰が破壊される。その事実に、小鉄は面の下で目を潤ませた。

 

 次の瞬間、爆ぜた。

 縁壱零式が、ではない。蛸足の方が爆ぜた。

 内部から縁壱零式が斬ったのであない。外部から蛸足を切断したのだ。

 

「キャ――――ッ、何アレ何アレ! 気持ち悪くて思わず斬っちゃったわ!」

 

 玉壺の蛸足を斬った彼女は、縁壱零式を背負ってその場から離れた。

 そして、小鉄達の目の間に着地した。

 小鉄の目に飛び込んで来たのは、胸元が大きく開いた隊服。太ももが露になった丈。

 

「ぶはっ」

「キャッ。ちょっときみ大丈夫!?」

「ああっ、小鉄君には刺激が強すぎたんです!」

「えっ、やっぱり私の力が強いから!?」

「いや、そこじゃないです」

「ええ!?」

 

 恋柱・甘露寺蜜璃。

 彼女は自分が背負っているのが頭のない絡繰人形であることにぎょっとした後、さらに玉壺へと視線を向けた。

 一方の玉壺は、動きから甘露寺が柱であることを推察していたので、無数の腕を生やして壺を構えて警戒していた。

 そんな玉壺を見て、甘露寺は口を開いた。

 

「ギャアアアアァッ!? おば、おっ……お化けええええええっ!!」

「誰がお化けだこのアバズレがああああああっ!!」

 

 両者の叫び声は、刀鍛冶の里中に響き渡ったという。




読者投稿キャラクター:
八重垣童女:日向ヒノデ様
ありがとうございます。

最後までお読みいただき有難うございます。

沼慈司さんは隠で前線に出張ってくれるので書きやすいキャラクターでしたが、それだけに私自身も書いていていつか死にかねないとハラハラしていました。
ここでついに退場となりました。おのれ八重垣童女…絶対に許さないぞ…!(え)

それでは、また次回。


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第35話:「熾烈」

 玉壺は、驚愕していた。

 当初こそ甘露寺を口汚く罵った彼であったが、2度ほど彼女と切り結んだ後、その評価を180度改めることになった。

 それは、甘露寺の()()()()によるものだ。

 

(……陸。いや漆……捌だな。肉の密度が常人ではない……!)

 

 甘露寺の身体は女性らしく柔らかで曲線的だが、筋力が常人の8倍はあった。

 要は彼女の細腕一本で、筋骨隆々の刀鍛冶8人分の腕力があるということだ。

 100年を生きる上弦の鬼も初めて出会う、()()()()()だ。

 

「……良い……」

 

 質の良い肉を喰らうことは鬼としての強さに直結する。

 甘露寺のような特異体質の人間の場合、1人で何十人、いや何百人分の栄養になる。

 普通の鬼であれば、涎を垂らして彼女に襲い掛かったことだろう。

 しかし幸か不幸か、玉壺は普通の鬼では無かった。

 

「ヒョ、ヒョヒョヒョッ! 良い! 実に良い、素晴らしい!」

「え、いきなり何!?」

 

 玉壺は歓喜に震えた。

 今まで無数の人間を作品へと()()させて来たが、今回はとびきりだった。

 

「素晴らしい素材だ! ヒョヒョッ、頭を愛くるしい鮮魚に()げ替えようか、余計な肉を削ぎ落して剥製にしようか。悩む、この私が創作に悩むなど滅多にないことだ! だがそれもまた良い!!」

「ヒィ――――ッ、気持ち悪いわ!」

 

 ――――恋の呼吸・弐ノ型『懊悩巡る恋』。

 傍目には、手首を少し捻っただけだ。

 しかしそれだけの動きで、甘露寺の日輪刀は螺旋状に玉壺の肉体を包囲した。

 布か紐のように自分を取り囲んだ刃を見て、玉壺は「おおっ」と声を上げた。

 

「ヒョヒョヒョッ、初めて見る剣筋だ。それに何という柔軟な肉体! ますます欲しい!」

 

 ――――血鬼術『一万滑空粘魚』!

 別の壺に異動して攻撃を回避すると同時に、無数の壺を取り出した。

 玉壺の壺から飛び出したのは、まさしく一万匹の魚だった。

 見た目は普通の魚だが、口元からサメのような鋭い歯が覗いており、肉食魚のようだった。

 そして鬼の放つ肉食魚など、碌なものであるはずがなかった。

 

 甘露寺は魚料理は大好物だったが、流石に自分が食べられる側に回るわけにはいかない。

 一万匹の「お魚さん」は彼女の眼前に広がり、口を開けて襲い掛かって来た。

 広範囲。逃げ場はどこにもない。

 もっとも、当の甘露寺の頭に「逃げ」という選択肢は最初から無かったのだが。

 

「なっ!?」

 

 ――――恋の呼吸・伍ノ型『揺らめく恋情・乱れ爪』!

 より広範囲。そしてより激しい。そんな攻撃だった。

 後方に宙返り、そこから長くしなる刀身を四方八方に()()()()、迫りくる一万匹の肉食魚を斬り払ってしまった。

 燃えるような呼吸音が、後から耳に届いて来た。

 

(何という速度と斬撃範囲! しかし構わん! 粘魚の体液は経皮毒、皮膚に触れただけでも効く)

 

 切断した魚の体液が、粘り気のある雨となって降り注いできた。

 もちろん、致死毒ではない。しかし肉体の自由は確実に奪う。

 ()()()()()だから、扱いには細心の注意が必要だった。

 

(キャ――――ッ! どうしよう、次の跳躍までに間に合わない……!)

 

 甘露寺も本能的にその体液の危険に気付いていたが、攻撃直後で反応が追い付かなかった。

 あるいは彼女1人ならば、対処のしようもあったかもしれない。

 

「うわ気持ち悪っ、何だあの魚!」

「小鉄少年、そんなことより鋼鐵塚さんを……ってマジで動かねえなこいつ!」

 

 しかし、後ろに小鉄達がいた。

 つまり自分だけ逃げるわけにもいかず、攻撃は基本的に受けるしかない。

 呼吸でどこまで耐えられるかと、そう考えた時だ。

 キリキリという音と共に、頭のない絡繰人形が割り込んできた。

 

「な、何いいいいっ!?」

 

 縁壱零式だった。

 5本の腕を360度回転させて、粘魚の体液を全て吹き飛ばしてしまった。

 しかし腕が1本足りないせいか――本来は存在する斬撃が存在しない――防ぎ切らなかった体液が左半身に降りかかり、焼けるような音がした。

 

(くそおっ、何なのだあの絡繰人形は、忌々しい!)

 

 ――――水の呼吸・参ノ型『流流舞い』。

 玉壺が縁壱零式に視線を向けた時、喉元にひやりとした感触が走った。

 僅かに皮膚にめり込んだ刃。頚から血が噴き出す。

 その段階に至って、ようやく玉壺は別の壺へと回避することが出来た。

 

「ありゃりゃ、今度は行けると思ったんだけどな」

「貴様はさっきの! どうやって追って来た!」

「さて、どうやってだろうねえ」

 

 とぼけたような犬井の言葉に、玉壺は額に青筋を浮かべて壺を構えた。

 その背後で、日輪刀を構えたコロが飛び掛かっていた――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 玄弥は、積怒が他の3体の鬼を喰うのを見ていた。

 肉が捻り潰される音が響いて、一瞬、誰もが動きを止めた。

 そして瞬きの間に、積怒も姿を消した。

 代わりに現れたのは、「憎」と書かれた5つの太鼓を背負った少年鬼だった。

 

(5体目……! 4体が限界じゃなかったのか!)

 

 いや、数としては1体に減っている。分裂ではない、いわば合体だ。

 ならば、あれが真の姿ということか。

 あの姿こそが、上弦の肆の本来の姿。

 

 確かに喜怒哀楽の鬼達は強かった。

 だが、炭治郎達でも何とかなる強さだった。

 頚を斬っても死なないことだけが厄介だった。

 しかし、今は違う。かつて出会った上弦の鬼と同じ気配を感じる。

 

(何て威圧感だ。心臓が痛い)

 

 上弦の肆の全身から、凄まじい威圧感(プレッシャー)が放たれている。

 鼻の奥がツンと痛くなる。殺意と悪意の気配だ。

 こうして睨み合っているだけで、汗が噴き出して止まらなくなった。

 

「わかりやすくなった」

「時透君!?」

 

 誰もが動きを止める中で、時透だけが前に出た。

 その背中に声をかけた炭治郎に、時透は振り返りもせずに言った。

 

上弦(アイツ)は僕がやるよ」

 

 相変わらず、言葉が少ない。

 しかし炭治郎は言葉が少ない相手の意図を察するのは得意だった。

 

(上弦の肆を、1人で引き受けるつもりなのか……!)

 

 時透に限らないが、柱は1人で戦うことに慣れている。

 それは柱が強すぎて、並の隊士ではかえって足を引っ張ってしまうからだ。

 それでも今まで炭治郎や玄弥と共に戦っていたのは、相手の数が多かったからだ。

 しかし今、上弦の肆が1体になった。「わかりやすくなった」のだ。

 

 無茶だ、と炭治郎は思った。

 いくら時透でも、上弦の鬼と1人で戦うのは厳しい。殺されかねない。

 だが同時に、それが最善だということも理解していた。

 

「何をゴチャゴチャ考えてやがんだ」

「でも」

「だったらそこで黙って見てろ。柱になるのは、俺だ!」

 

 玄弥の言葉は、相変わらず荒い。

 けれど、言っていることは正しい。

 時透のことを案ずるなら、ゴチャゴチャ考えるのではなく、一刻も早く援護に向かえば良いのだ。

 もう1体の鬼を、自分と玄弥で倒すのだ。

 

「……可愛いねえ」

 

 己に対してはっきりとした戦意を見せる2人。

 そんな2人を見て、八重垣童女は頬に手を添えて笑うのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 まさに、人の道を外れた血鬼術だった。

 炭治郎も玄弥も隊士になって日が浅い方だが、それなりに場数を踏んでいる。

 だから鬼が欲に素直で身勝手な存在で、自分以外のことなど気にも留めないことを良く知っている。

 だが、八重垣童女という鬼は、2人が記憶する中でも最も醜悪な血鬼術を使う鬼だった。

 

「く……っ!」

 

 犬と、人。

 の、形をした何かだ。頭では理解していた。

 しかしそれでも、何の罪もない者達だった。

 

「馬鹿野郎! 割り切れ、こいつらはもう死んでるんだぞ!」

 

 そう言いつつも、玄弥自身も胸中に苦いものを感じざるを得なかった。

 それでも刀で直に斬る炭治郎よりは、銃――弾丸が日輪刀と同じ素材の特別な西洋銃――で頭を撃ち抜く玄弥の方が、まだ心理的な負担はマシだったかもしれない。

 しかし刀で斬っても銃で撃っても、操られた死骸が消滅することは無かった。

 

 おそらく、上弦の肆と同じ系統の血鬼術なのだろう。

 分裂こそしないが、日輪刀による切断は消滅の条件ではないのだ。

 もっと言えば、人や犬の形を取っているのは八重垣童女の趣向によるところが大きいのだろう。

 そして皮肉なことに、形を失った肉片となったことで、いくらか()()()()()()()()

 

(肉片を斬り払って、同時に踏み込む!)

 

 ――――水の呼吸・陸ノ型『ねじれ渦』。

 上半身を大きくねじり、その反動を利用した回転斬り。

 それはさながら渦巻きのように周囲に迫った肉塊を斬り裂き、炭治郎の目に敵の懐までの道を見せた。

 ゴウッ、と、水の呼吸とは異なる音が響いた。

 

 ――――ヒノカミ神楽『日暈(にちうん)の龍・頭舞(かぶりま)い』。

 足運びは、どことなく水の呼吸の『流流舞い』に近い。

 『流流舞い』の流麗さに荒々しさを加えた、より攻撃的な技だ。

 その速度は、鬼の目をもってしても、懐に飛び込まれるまで炭治郎の動きに気付かなかった程だ。

 

()った……!)

 

 水の呼吸からヒノカミ神楽への連動。

 ヒノカミ神楽を使い続けると体力の消耗が激しい。

 だから普段は水の呼吸で戦い、要所でヒノカミ神楽の呼吸へと切り替える。

 最初は上手く出来なかったが、槇寿郎との修行でかなりスムーズに切り替えが出来るようになっていた。

 

(何だ?)

 

 八重垣童女が、動きを見せていた。

 炭治郎の日輪刀はすでに八重垣童女の頚に届きつつある。

 頚を強化したとしても、切断する自信が炭治郎にはあった。

 しかし、()()()と八重垣童女の腹から顔を出した禰豆子の顔に、はたと思考が止まる。

 

 今の禰豆子は、いったいどんな状態なのか、と。

 もし、もしも仮に八重垣童女と一体化しているのだとしたら、その頚を刎ねた時、禰豆子は無事でいられるのだろうか。

 その考えに至った時、炭治郎の剣先が明らかに鈍った。

 

「炭治郎!」

 

 判断を誤った。

 今さら攻撃を引っ込めることも出来ない。しかし鈍った剣で鬼の頚は斬れない。

 そして攻撃に入っている炭治郎が邪魔で、玄弥も銃が撃てない。

 眼前に八重垣童女の掌が迫っていた。

 そこから漂ってくる()()に、本能的に「ヤバい」と感じた、次の瞬間だった。

 

「うあっ!?」

 

 不意に身体に衝撃が走り、次いで浮遊感が来た。

 視界がぐるりと回転して、止まった時、八重垣童女が離れた場所にいた。

 そこまで来て、炭治郎は自分が誰かの肩に担がれていることに気付いた。

 

「……遅くなりました! 間に合っていますよね!?」

「瑠衣さん!」

 

 ここまで全速力で駆けて来たのだろう瑠衣が、顎先から汗の雫を滴らせてそこにいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「これを」

 

 炭治郎は、瑠衣からある物を受け取った。

 それは竹の口枷だった。禰豆子の物だ。

 

「竈門君は少し休んで呼吸を整えてください。その間は私が」

「あっ。あ、あの鬼の血鬼術は」

「大丈夫です。わかっていますから」

 

 瑠衣は、笑顔を浮かべていた。

 それは炭治郎を安心させるためのものだったのだろうが、気配が余りにも()()だった。

 だから、炭治郎はそれ以上の言葉をかけることが出来なかった。

 

「ええと……不死川君、は個人的に色々と申し訳が立たないので、玄弥君と呼んでも構いませんか?」

「え? 申し訳? あ、いや。ああ、構わね……です」

「有難う。それでは玄弥君。回復するまでの間、竈門君のことをお願いします」

 

 若干首を傾げる玄弥に炭治郎を任せて、瑠衣は八重垣童女の前に出た。

 羽織はどこかに捨てて来たのか、滅一文字の隊服姿だった。

 しかしその分、その姿は夜に溶けて、月明かりで浮かび上がっているかのようだった。

 

「里に犬の化物を放ったのは貴女ですね」

「そうさ、素晴らしい作品だっただろう?」

「ええ、日輪刀で斬っても塵になりませんでした」

「ふふん。当然さ、そんな(なまくら)で斬ったところで何ともない。私の術で完璧に防護してある。壺を媒介にした不細工な金魚とは出来が……」

「ええ、だから()()()()()

 

 繰り返すが、瑠衣は笑顔を浮かべていた。

 しかしその口から吐かれたのは、鬼をも抉る毒だった。

 

「斬っても死にませんでしたので。細切れにした後、羽織で包んで焼きました。そうすると動かなくなりましたよ。死体だけに火葬すべきということでしょうかね」

 

 幸い、火には困らなかった。

 化物金魚の襲撃で火の手が上がっていて、その中に放り込めば済んだ。

 羽織が1つ無くなってしまったが、それよりも仲間達を殺した相手を地獄に送るのが先決だった。

 だから瑠衣は、師の教えに則った口上を述べた。

 

「宣言してやる、()()()

 

 日輪刀の切っ先を向けて。

 

「貴様も、貴様の醜い作品とやらも。全てまとめて、私が――――煉獄の刃が骨まで焼き尽くす、と」

「醜い……? 醜い!? 私の可愛い作品達が!?」

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型。

 

「どこが醜いものか! 下等生物が、己の審美眼の無さを棚に上げて、言うに事を欠いて醜いだとおっ!? 許さぬ、許さぬ許さぬ許さぬ!! 貴様の方こそ、犬畜生以下の愚物……」

 

 ――――『不知火』!

 八重垣童女の視界で、己の手首から先が、くるくると回っていた。

 目玉だけが、視界の端に瑠衣の姿を捉えていた。

 

「さて、本体は何回刻めば殺せるのでしょうね」

 

 そう言って、瑠衣は加速した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――血鬼術『人柱・要石』!

 加速に入った瑠衣の眼前で、斬り飛ばされた両手首が爆ぜた。

 破裂した肉片は、当然、瑠衣にも迫る。

 

 ――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐(せいらん)風樹(ふうじゅ)』!

 その肉片の全てを、瑠衣は風の刃で吹き飛ばした。

 他の呼吸にはない、風とその派生にのみ許された()()()()がそうさせる。

 この物理的な干渉力については、風の呼吸が他の追随を許さない部分だった。

 

「お前、()()()()()()()()()のか……!?」

「何の話でしょう?」

 

 斬られた両手首は、瞬きの間に再生した。

 その両手で、八重垣童女は瑠衣の顔を掴みに行った。

 しかし瑠衣は身体を地面に這わせるようにして、その姿勢のまま刀を横薙ぎに振るった。

 八重垣童女の両手首が、再び宙を舞った。

 

(こいつ、やっぱり……!)

 

 その両手首を再び破裂させる。しかし結果は同じだ。風の刃で吹き飛ばされる。

 もちろん、手首くらいの再生はいくらでも出来る。

 だが、問題はそこではなかった。

 八重垣童女は、彼女自身が気付かないままに、1つ致命的な失敗を犯していた。

 

(……禰豆子さん)

 

 それは、腹に取り込んだ禰豆子である。

 禰豆子の存在は、確かに炭治郎には効果的だっただろう。

 鬼の情報共有がどうなっているかはわからないが、炭治郎の剣――ヒノカミ神楽――には、十二鬼月の頚を斬る威力がある。

 その彼が剣を鈍らせるとしたら、唯一の肉親を盾に取られた時だろう。

 

 炭治郎の才能は群を抜いている。しかも正義感が強く、大変な努力家だ。

 杏寿郎()に似ていると、瑠衣は思っている。

 しかし惜しむらくは経験が浅く、また鬼に対する知識も豊富とは言えない。

 その点において、主家たる産屋敷一族を除けば、煉獄家は他の追随を許さない。

 わざわざ禰豆子を取り込んでいるという一事が、致命的になる程度には。

 

「貴女の血鬼術――――」

 

 瑠衣は、おおよそだが八重垣童女の血鬼術を見抜いていた。

 八重垣童女の血鬼術は、大きく分けて2つあるのだ。

 まず1つは生物の死骸を操る能力。これは刀鍛冶の死体や犬の死骸を操作したことで確定。

 しかし、それだけの能力で禰豆子が敗れるとは思えなかった。

 

「――――()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 先程から繰り返されている、掌で触れに来る動作で確定的だった。

 いや、取り込むことで()()続けている禰豆子の存在を見る限り、手である必要はないのかもしれない。

 しかし八重垣童女は()()()なのだ。その手指は、まさしく芸術家の命であり誇りなのだ。

 だから手で仕留めることに拘る。瑠衣はそこを突いているだけだ。

 

「こ、の……!」

 

 ――――血鬼術『人柱・人垣』!

 何度目かわからない手首の切断。その中で、次の血鬼術が発動した。

 周囲で動いていた刀鍛冶の死体、あるいは動いていない死体、それらが磁石で引き寄せられでもするかのように、瑠衣に向かって飛来したのだ。

 

「ぶっ潰れろ! 下等生物が!」

 

 瑠衣が鬼を知るように、八重垣童女もまた人間を知っていた。

 たとえ死体でも、人間は人間を攻撃することに躊躇する。

 この血鬼術は死体で対象を押し包み、圧殺する技だ。

 回避は不可能。潰れて死ぬしかない。

 

「瑠衣さん!」

「やべえ……!」

 

 炭治郎と玄弥から見ても、八重垣童女の術はかわしようがないように見えた。

 死体は全方位から迫っている。

 いかに瑠衣の脚力が優れているとは言え、包み込まれてしまえば逃げ場がない。

 

 ――――風の呼吸・肆ノ型『昇上砂塵嵐』!

 

 その死体のすべてを、風の刃が斬り飛ばした。

 一瞬、その場にいる全員が虚を突かれたような顔をした。

 術を仕掛けた八重垣童女ですら、言葉を失っていた。

 

「もし、私が彼らの立場なら」

 

 手首を返して、瑠衣は言った。

 

「同じようにしてほしいと、そう思ったでしょう」

 

 言葉を失う八重垣童女の顔に、刀を振り下ろした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そこからの展開は、炭治郎達の想像を超えるものだった。

 瑠衣は、八重垣童女への手を緩めなかった。

 しかしそれは、戦いと呼べるようなものでは無かった。

 

「ギャアッ」

 

 もう何度目になるだろうか。

 瑠衣の日輪刀が、八重垣童女の顔を斬る。

 斬るのは常に目か、舌だった。再生すると同時にどちらかを斬り付ける。

 それを嫌がって手を上げれば、今度は手首から斬り落とされる。

 

 一方的だった。余りにも一方的に過ぎた。

 足を斬られて膝をつき、膝をついたところに目を斬られる。

 炭治郎の目には、八重垣童女がすでに戦意を失っているように見えた。

 尻餅をついた体勢で、後ずさりさえしているのだ。

 

「へっ、ざまあねえぜ」

 

 炭治郎は、傍で玄弥がそう呟くのを聞いた。

 玄弥は八重垣童女の醜態をいい気味だと思っているのかもしれない。

 そうだとしても、それを責める気は炭治郎には無かった。

 それ程にあの鬼は道を踏み外していたし、他者の命を弄んでいた。

 だから逆に彼女自身がその立場になったとして、庇うべきだとは思わなかった。だが。

 

「あっ、おい! 炭治郎!」

 

 ――――何なんだ、この人間は。

 八重垣童女は、目の前に立つ瑠衣という人間が理解できなかった。

 眼球を斬られる熱さに呻きながら、刀を構える瑠衣を見上げる。

 

「……虚しいですね」

 

 何が虚しいと反論しようとして、口を斬られた。

 切断の熱に舌が焼ける。口の端から血とも唾とも取れぬ体液が流れた。

 

「沼慈司さんが、里の皆が死んだというのに。貴女のような屑が生きている。こんなに虚しいことはありません」

 

 だったらさっさと頚を刎ねれば良いものを、甚振(いたぶ)っている。

 何て趣味の悪いやつだ。

 自分のことを完全に棚に上げて、八重垣童女はそう思った。

 

 とは言え、打つ手が無かった。

 触れようとしても、あるいは死体を操っても、瑠衣は一切の躊躇なく斬ってしまう。

 いや、逃げに徹すれば、あるいは何とかなるかもしれない。

 しかしそれは、八重垣童女の完全なる敗北を意味する。

 

(できるか、そんなことが……っ!)

 

 下等な、真の芸術を欠片も理解しない畜生を相手に、そんなことは出来なかった。

 だからその場から動くことも出来ずに、瑠衣の振り上げた刀に怯えた。

 

「瑠衣さん!!」

 

 炭治郎が飛び込んで来たのは、そんな時だった。

 奇しくも、瑠衣も八重垣童女も、同じように驚いた表情を浮かべたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――水の呼吸・伍ノ型『干天(かんてん)慈雨(じう)』。

 自分のせいだと、炭治郎は思った。

 禰豆子のために剣を鈍らせた。

 そのために、瑠衣にこんなことをさせてしまっている。

 

『――――判断が遅い』

 

 剣の師(鱗滝)に、そう言われたことがある。

 その通りだった。しかも成長がない。いつまでも、いざという時に迷ってばかりだ。

 だから決断できない。だから大切なものを危険に晒す。

 だから、何も成し遂げることが出来ない。

 

 水の呼吸の伍ノ型は、慈悲の技だ。

 この技で頚を斬られた鬼は、ほとんど痛みを感じないという。

 だから万が一、八重垣童女の死が禰豆子に影響を与えるとしても、苦しまないと思う。

 禰豆子、顔が見えた。

 

(禰豆子……!)

 

 逆の立場なら、そうして欲しいと思う。

 確かにそうだと、炭治郎は思った。

 炭治郎が()()なったとしても、誰かが斬ってくれる。

 そう、信じているから。

 

「いえ、まだ早いです」

「えっ!?」

 

 だから、刀の柄で止められた時、本当に驚いた。

 止めた瑠衣も驚いた顔をしていて、炭治郎の行動が彼女にとっても想定外だったことを物語っていた。

 そしてそれを見逃す程、八重垣童女は甘くはなかった。

 再生した手首を瑠衣に向ける。すると次の瞬間、肘のあたりが()()した。

 

「…………っ!」

 

 手が飛んだ(ロケットパンチ)

 肘のあたりから離れた右手が真っ直ぐに飛び、瑠衣の首を掴んだ。

 流石に息が詰まり、表情を歪めた。

 

「ハッ……ハアアァ――――アッ! 掴んだ! 調子に乗りやがってこの下等生物が! ぎゃはっ、ねえどんな気分? お前はもうお終いだ! この愚図、愚図、愚図が! ギャハハハハッ!!」

 

 不味い。どうする。炭治郎は焦った。

 しかし今さらどうすることも出来ない。八重垣童女に触れられてしまった。

 まさか腕だけを飛ばしてくるとは。

 瑠衣が殺されてしまう。血の気が引く音を聞いた。

 

「よくもこの私をここまでコケにしやがって……決めた! お前は細切れにして、私の動物達のエサにしてやる! 完全なる生物の糧となれることを誇りに思って、死ねえ!!」

 

 残った左手を瑠衣に向ける。後は、掌を閉じるだけ。

 その時、八重垣童女は目の前が真っ暗になった。

 

「は?」

 

 否、視界がなくなったわけではない。

 掌だ。

 掌が、八重垣童女の顔を掴んでいた。

 そしてその腕は八重垣童女の胸から伸びていて、いや、もっと言えば。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……力を使い過ぎなんですよ、貴女」

 

 息苦しそうにしながらも、瑠衣は言った。

 

「無数の死骸を、それも里中を覆う程の広範囲で操作する。強力な血鬼術です。正直、私もお手上げでした。でもそれは裏を返せば、それだけ力の消費が激しいということ」

 

 その上で、戦闘に意識と再生力を奪われればどうなるか。

 血鬼術の力も、弱くならざるを得ない。

 そう、例えば、捕らえた者を押さえ込んでいられなくなる程に――――。

 

「ぎ……」

 

 ――――血鬼術『爆血』!!

 禰豆子と目が合った次の瞬間、八重垣童女の全身を紅の炎が包み込んだ。

 

「ギャアアアアッ!? 熱ッ……! 焼けるッ、私の身体がアアァッッ!」

 

 外からではない、体内からの鬼の炎だ。

 まさしく迦具土命(カグツチ)の火。

 原初の神でさえ焼き殺す激痛に、八重垣童女は悲鳴を上げた。

 

 血鬼術が弱まったためか、あるいは八重垣童女が耐えかねたのか、禰豆子の身体がずるりと出てきて、地面に落ちた。

 生まれたままの姿で、五体満足のようだった。

 対して八重垣童女は全身の肌が焼け爛れて、しかも禰豆子の力のせいか、再生すらままならない状態だった。

 グズグズに焼けた状態で、地面に倒れて藻掻(もが)いていた。

 

「ひっ……」

 

 その八重垣童女の傍に、瑠衣が立っていた。

 本体が焼かれた拍子に消えたのか、首を掴んでいた右手も消えていた。

 日輪刀を手に、こちらを冷然と見下ろしている。

 その目が、視線が、八重垣童女の内に怯え以上の感情を生み出した。

 

「私を見下すな、下等生物が!!」

 

 手首を再生し、掴みに行った。

 しかし次の瞬間、その腕を炭治郎の肆ノ型(打ち潮)が斬り落としてしまった。

 それを見て、瑠衣は言った。

 

「ああ、残念。彼は許してくれないそうですよ」

 

 ――――ヒノカミ神楽『碧羅の天』。

 燃え盛る斬撃が、八重垣童女の頚に打ち込まれた。

 八重垣童女は血鬼術で頚周りを固めた様子だったが、陽光の一撃の前には無意味だった。

 包丁で豆腐を切るかのように容易く、八重垣童女の頚が飛んだ。

 

 一度、二度。地面の上を跳ねた。

 ごろりと転がってこちらを向いた顔は、信じられないという表情を浮かべていた。

 頚を失った自分の肉体が塵と消えていくのを見て、ようやく事態を悟ったらしい。

 その口から、耳を(つんざく)くような金切り音が発せられた。

 

「お、お前ッ、お前! ふざけるなアアアアァァお前エエエエェェッ! 自分が何をしたのか、理解しているのかアアアァァッ!!」

 

 頚だけで喚き散らしている。

 切断面から塵になって行っているが、あの様子だとしばらくかかりそうだ。

 

「この世から、私が……偉大な芸術家が、偉大な才能が消えるんだぞ!? お前らなんかとは価値が違う。それをお前のような、下等な、下等な、下等な……! ふざけるなアアアァァァくそ、くそおおおおおっ!! ひっ。い、嫌だ。嫌だ、し、死にたくない! 死にたくない死にたくない、死にたくなイイイィッ!! 私はまぶ」

 

 口から下を瑠衣が斬って、ようやく静かになった。

 八重垣童女は、死ぬまで悶えていた。

 彼女の死を看取る者は、誰もしなかった。

 塵となって消えるまで、独りきりで、死の恐怖に涙を流し続けていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「禰豆子!」

「む」

 

 竈門兄妹が、ひしと抱き合っていた。

 いや、ほぼ兄が一方的に抱き締めに行っていて、妹の方は若干鬱陶しそうにしているようにも見える。

 まあ、そんなものかもしれない。などと考えながら。

 

「玄弥君、怪我はありませんか」

「……っス」

 

 何故か、玄弥は明後日の方向を向いていた。

 いくら何でも、背中を向けて来るのは失礼を通り越していささかショックだった。

 そんなに嫌われているのかと思っていると、ふと気づいた。

 

(ああ、なるほど)

 

 禰豆子が、まだ着物を着ていない。

 だから顔を――というか、全身を――背けているのだろう。

 そう思えば可愛らしくもあり、ここは年上のお姉さんとして振る舞うべきかとも思った。

 ただ、一つだけ問題があった。

 

「え、な、何スか?」

 

 瑠衣にとって、年下の男の子の基準は千寿郎である。

 だから玄弥に対しても同じように接しようとして、早い話が、ポンポンと頭を撫でようとした。

 しかし胸の前まで手を持って行った段階で、玄弥が自分よりずっと背が高いことに気付いた。

 その事実に固まった瑠衣だが、すぐに再起動して、結果として肩を叩くこととなった。

 

「良く頑張りましたね」

「え、あ、はあ。ども……」

 

 その時、地響きがした。

 それは少し離れた場所で起きた衝撃が原因で、断続的に続いていた。

 戦いはまだ続いている。それを思い出させるには十分すぎた。

 誰が戦っているのかなど、今さら言うまでもなかった。

 

 ――――()()()の戦いの音が止んだなと、時透は思った。

 炭治郎と玄弥が勝ったのか。よもや負けたのではあるまいな、と。

 まあ、どちらでも良いが、仮に敵が勝っていたら少し面倒になる。

 あくまで()()、だが。

 

「あー、もう。それ飽きたよ」

 

 時透の目は、目の前に仁王立ちしたまま動かない上弦の肆に向けられていた。

 その上弦の肆――喜怒哀楽の鬼が合体した少年鬼――の周囲を、木のトカゲとも言うべき化物が蠢ていていた。

 一匹一匹が樹齢何百年の巨木ほどに太く、しかも獰猛だった。

 

「いい加減に斬られてくれないかな? 面倒くさいからさ」

「……傲慢」

 

 怒りの鬼の要素が強いのだろうか、上弦の肆は憤怒の表情を見せていた。

 そしてその憤怒はすべて、時透に向けられていた。

 

「不愉快、極まれり」

 

 トカゲ達が、一斉に時透を見た。

 

「極悪人、めが」

 

 トカゲが動くのと、時透が動くのはほとんど同時だった。

 その直後、トカゲの一匹が頚を斬られた。

 そして、時透の持っていた刀が音を立てて折れるのも。

 ほとんど同時の出来事だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そしてもう1人の柱の戦いも、熾烈を極めていた。

 空中に放たれる無数の魚や針を、甘露寺の薄く鋭い刀が斬り、あるいは弾き落としている。

 甘露寺と玉壺の動きが余りにも速すぎるので、見ている小鉄達などは呼吸を忘れそうな程だった。

 

「コロ!」

 

 背後から頚を狙ったコロだったが、玉壺の放った壺の形をした水の塊に呑み込まれてしまった。

 それは犬井が斬ることで破壊したが、犬であるコロにとって水中は厳しかったのだろう。ゴホゴホと危険な咳を吐いていた。

 そこへ玉壺の放った針が飛んでくるが、それは横から飛び出して来た縁壱零式が弾き飛ばしていた。

 

「何とまあ、良く出来た絡繰だねえ」

「防御特化で設定していますからね……!」

 

 縁壱零式は、手首と指の回し方で動作を決めることができる。

 今は()()()()の攻撃を防ぐように設定してある。攻撃もするが、最小限だ。

 

「ただ、長くは保たない……!」

 

 持ち主であり、優れた観察眼を持つ小鉄だからこそ、今の縁壱零式が動いているだけで奇跡的な状況であることを理解していた。

 しかも上弦との戦いだ。剣士相手の訓練とは違う。頭も腕もない。今にも壊れそうだ。

 ただ、長くは保たないという意味では、人間も同じだった。

 

「ヒョヒョッ、どうした? だんだんと息が荒くなって来たぞ?」

「まだまだ……!」

 

 ――――恋の呼吸・参ノ型『恋猫しぐれ』。

 玉壺の攻撃の大半を撃ち落としながら、甘露寺は駆け続けていた。

 身体を柔軟に折り曲げて攻撃をかわし、隙を見れば打ち込む。

 いくつかの攻撃は玉壺本体に届く、届くが、頚を斬るには至らない。

 

 もどかしかった。

 なまじ実力があるが故に、「あと少し」がわかってしまう。

 あと少し踏み込みが速ければ、あと少し手を伸ばせれば、頚に届くのだ。

 それがわかるから、甘露寺は胸中の焦りを隠せなかった。

 

「……ッ!」

 

 焦りからか疲労からか、危うく針が刺さりかけた。

 咄嗟の反応で弾くことが出来たが、一度体勢を立て直す必要が出来た。

 それでまた少し、玉壺の頚が遠くなる。

 

(焦っちゃ駄目。落ち着くのよ蜜璃! 鉄珍様とも約束したじゃない!)

 

 みんなを守ると。そして。

 

(刀を届けるのよ、炭治郎君と無一郎君と……瑠衣ちゃんに!)

 

 刀は、鉄穴森が抱えていた。

 あの刀を、仲間に届けなければならないのだ。

 だからこんなところで、時間をかけるわけにはいかないのだ。

 

(ヒョヒョ、ここに来て集中力がさらに高まっているな)

 

 そしてその気迫は、玉壺にも伝わっていた。

 もちろん玉壺はそれでも甘露寺や絡繰人形、そして犬に自分が討てるとは思っていない。

 しかし一方で、玉壺にも夜明けという時間制限がある。

 時間をかけていられないのは、玉壺の側も同じだった。

 

(ヒョヒョ、そろそろ使()()()か……)

 

 ちらりと視線――目がある位置に口があるので、視線がわかり辛いが――を向けた先に、獪岳がいた。

 刀を構えてはいるが、攻撃してくる様子はない。

 青褪めた表情でこちらを見ている獪岳に、玉壺は「ヒョヒョ」と笑ったのだった。




最後までお読みいただきありがとうございます。

せっかくなので上弦と柱の組み合わせを変えてみました。
動かしてみると上弦って本当に強いんですけど、それ以上に柱が強いんですよね。何で上弦なんて化物と人間が戦えるんだろう(え)
もしかして岩柱なら上弦の肆以下なら単独で討てるのではとか思ったり(え)

それでは、また次回。


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第36話:「上弦の伍」

 ――――夢の呼吸・弐ノ型『華胥(かしょ)の夢想』。

 無造作に振るわれた横薙ぎの一閃が、金魚の上半分を肉片の変えた。

 そのままぐるぐると回転しながら着地し――片足を上げて地面を滑っていく様は、恋柱を彷彿とさせた――たかと思えば、次の瞬間にはがくんと脱力していた。

 どうやら、すうすうと寝息を立てて眠ってしまったようだ。

 

「いや、そうはならないだろう……」

「実際になってるじゃないですか」

「うっせ」

 

 鉄美と清彦がそんな会話を交わす傍ら、一本丸が地面に手を着いて項垂(うなだ)れていた。

 彼の前には、無惨にもバラバラになった鈴音の蛇腹剣の残骸が落ちていた。

 どうやら壊れてしまったらしい。一本丸はこの世の終わりかのようにさめざめと涙を流していた。

 

「しかし和泉(鈴音)殿のおかげで一安心です。妙な犬の姿もなくなったし、間もなく夜明け。このまま何事もなく夜が明けてくれれば」

 

 鬼の襲撃を受けた人間にとって、太陽はまさしく救世主だ。

 陽の光だけが、鬼を退けると信じている。

 だからこうして、ひたすらに太陽が早く昇ってくれるように祈るのだ。

 

「阿呆なことを言うなや」

 

 不意に立てられた声に、その場にいる皆が黙った。

 鉄珍だった。

 首元に包帯を覗かせてはいるが、鉄珍の声には力があった。

 

「こうしとる間にも、剣士の子らが(たたこ)うとる。命を燃やしとるんや」

 

 ()()()()()()

 そんなことは今することではない。

 今は戦時。奪うか奪われるかの時だ。

 蹲って時間が過ぎるのを待ち焦がれていて、凌げる時間ではないのだ。

 

 そもそも、隠も刀鍛冶も鬼殺隊の一員なのだ。

 刀を振って戦う剣士と、何ら異なるところはない。

 剣士が命を懸けて戦っている時に、安全圏でただ蹲っているだけでどうするのか。

 

「……あ! 長!」

 

 その時、茂みから新たな金魚の化物が顔を出した。

 金魚は刀鍛冶達を視界に収めるや、歯を剥き出しにして咆哮を上げた。

 その顔に、鈴音の一閃が走った。

 眠りながらの跳躍。しかも誰もが気が付いた時にはそこにいる。独特な歩法。

 

「ああっ!」

 

 誰かが悲鳴を上げた。

 鈴音の刀が金魚の牙に触れた際、金属音を上げて折れてしまった。

 金魚は顔を斬られただけで、すぐに再生を始めた。

 

「和泉殿!」

 

 誰が、というわけではなかった。

 気が付いた時、彼ら1人1人が抱えていた日輪刀を投げたのだ。

 とは言え、素人の投擲だ。正確ではない。

 

「ズモオオオオオォォッ!」

 

 また金魚の化物が咆哮を上げて、届いた日輪刀を振り払ってしまった。

 跳ね返って来た刀に、うわあ、と刀鍛冶達が身を屈める。

 ただ、刀鍛冶達は金魚を狙って刀を投げたわけでは無かった。

 

「感謝します」

 

 一振りで良い、届けば良かった。

 鈴音は手を伸ばして鞘の下げ緒を掴み、引き寄せた。

 そのまま抜刀し、金魚の頚と背中の粒を斬り、砕いた。

 おお、とやはり誰からともなく歓喜と安堵の声が漏れた。

 

「皆、良く考えや」

 

 そんな中で、鉄珍は問うた。

 

「どうして、日輪刀は()()()()()()()()()?」

 

 夜明けまで、あと少し。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 元々、時透の刀ではなかった。

 刃毀れも酷く、翌朝には正式な刀が届くはずだったのだ。

 だから鬼の、あるいは時透の力に耐え切れずに刀が折れてしまったとしても、不思議は無かった。

 しかしタイミングとしては、最悪と言えた。

 

 ――――血鬼術『無間(むけん)業樹(ごうじゅ)』!

 上弦の肆が生む出す無数の木の竜(トカゲ)が、時透の視界を埋め尽くしていた。

 樹齢何百年というような太いトカゲもいれば、そこから枝のように生えてくるトカゲもいる。

 しかもトカゲの口から新たなトカゲが生えることもあり、まさしく無限のように思えた。

 

『無一郎の「無」は――――』

 

 不意に、記憶が刺激された。

 それがいつの、誰の言葉だったかは思い出せない。

 いつもそうだ。

 時透の記憶はいつだって、霞の向こう側にある。

 

「ふうう……」

 

 ――――霞の呼吸・伍ノ型『霞雲(かうん)の海』。

 視界を埋め尽くすトカゲに対して、生き残る道は後方には無かった。

 それがわかるから、折れた刀で時透は前へと踏み込んだ。

 前へと踏み込んで、全身の筋肉の緩急で相手を幻惑しつつ、刀を振るった。

 

(――――! この童、儂の目を欺くとは)

 

 トカゲの顎をギリギリのところでかわし、胴を斬る。

 それを繰り返しながら、徐々に上弦の肆に近付いていく。

 柱に近付かれる。()()だ。

 だから上弦の肆は、背中の太鼓を叩いた。

 

「何? うるさいなあ」

 

 時透の眉が、不快そうに形を変えた。

 すると2体のトカゲが、時透に向けて口を開くのが見えた。

 食い千切る気か。いや、距離があった。

 

 ――――血鬼術『狂鳴(きょうめい)雷殺(らいさつ)』!

 雷撃と、音波。同時に襲い掛かって来たそれに、さしもの時透も目を見開いた。

 万全な状態なら捌けるだろう。が、今は刀が折れていた。

 捌き切れるか。そう目を細めた瞬間だ。

 

「伏せてください!」

 

 珍しいことに、時透はその声にすぐに従った。

 屈んだ彼の頭上を、飛び越えて行く者があった。

 

「……仲間か」

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』!

 回転しながら、斬り下ろしの斬撃。暴風が舞い降りた。

 トカゲの放った音波と雷撃を、風の斬撃で逸らした。

 飛び込んで来た瑠衣の背中――「滅」の一文字――を見て、時透は目を細めた。

 記憶も視界も、霞が勝ったままだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何だ、こいつは?

 それが上弦の肆の姿を見た時の、瑠衣の偽らざる気持ちだった。

 目に刻まれた数字から上弦の肆だとはわかるが、姿形がまるで違っていた。

 

「上弦の肆です! 喜怒哀楽の鬼が合体したんです!」

「合体……!」

 

 炭治郎の言葉に、瑠衣は改めて少年鬼を見た。

 対峙しているだけで掌に汗が滲んで来る。

 喉がひりつくような威圧感は、今まで出会ってきた上弦にひけを取らなかった。

 確かに、上弦の鬼だ。

 

(……不味い)

 

 この時点で、瑠衣には誤算が2つあった。

 まず1つは、時透だ。刀が折れている。

 悔しいが時透の実力は本物で、その彼が万全の状態でないというのは痛かった。

 

 そして第2に、上弦の肆だ。

 瑠衣にとっては因縁の相手でもある。だが、前の戦闘の情報は何も当てにならない。

 あの時はまるで本気では無かったのだと、一撃を捌いて理解した。

 両腕に残った衝撃が、嫌でもそれを教えてくれた。

 

「……どうして助けたの?」

 

 その時、時透がそんなことを言った。

 

「刀が折れた僕を助けるより、鬼の頚を斬りに行くべきだったと思うけど」

 

 これである。

 確かに時透に意識が向いている上弦の肆に、奇襲する手はあったかもしれない。

 あったかもしれないが、わざわざ言うのが時透無一郎という少年だった。

 

「仲間だからだよ!」

 

 そして答えにくいことでも、ずばっと素直に言えてしまうのが、炭治郎という少年だった。

 

「仲間は絶対に見捨てない。それに時透君が一番、やつを討つ可能性がある。時透君さえ生きていてくれたら、絶対に勝てる!」

「…………」

 

 あの時透が何の反論もできずに黙り込んでいる。これは珍しいことだ。

 玄弥は「すげえな、こいつ」とでも言いたげな顔で炭治郎を見ているが、瑠衣も同じ気持ちだった。

 この炭治郎という少年には、そういう不思議な何かがあった。

 

「不快、極まれり」

 

 その時、地の底から響くような声が聞こえた。

 不機嫌や不満という言葉に形があるのなら、まさに()()だろう。

 上弦の肆の全身から放たれる威圧感と害意は、そう思わせるには十分だった。

 

「極悪人どもめ。皆殺しにしてくれる」

 

 圧倒的な殺意に、全身の産毛が逆立った。

 柱である時透でさえ例外ではない。

 そんな中で、1人だけ声を上げる者がいた。

 

「……悪人……?」

 

 ぞわり、と。

 その時の炭治郎の表情を見て、また産毛が逆立った。

 本当に、杏寿郎()に似ている。

 瑠衣は、そう思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼は、人を喰う。

 上弦ともなれば、その数は100や200ではきかない。

 上弦の肆からも、数多の人間の血の臭いが漂っていた。

 その鬼が、炭治郎達を「悪人」と呼ぶ。

 

「お前に喰われた人達が、お前に何をした? 何の罪もない人々を殺しておいて、他人を悪人呼ばわりするのはやめろ!」

 

 人は誰しも他人に厳しく自分に甘いものだが、度を越している。

 自分を絶対の善とし、他人を悪とする。何という捻じ曲がった性根か。

 そのような悪鬼を、許すことは出来なかった。

 

「竈門君……」

 

 ゴオ、と、炭治郎の体から炎が上がったように感じた。

 もちろんそれは目の錯覚だが、しかし呼吸音は燃え盛るように激しかった。

 火の神に捧げる、特別な呼吸だ。

 

 ――――ヒノカミ神楽『陽華突(ようかとつ)』。

 爆発するような、そんな突きだった。

 上弦の肆までの距離を一息で潰し、その喉元に日輪刀を向けた。

 それを見つめる上弦の肆はかわそうともしていなかったが、代わりに背中の太鼓を叩いていた。

 

(やつの攻撃の方が速い!)

 

 木のトカゲが、両側から炭治郎を包み込もうとしていた。

 明らかに、炭治郎の突きが上弦の肆に届くよりも速い。

 そこへ、2つの影が割り込んできた。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 ――――霞の呼吸・参ノ型『霞散(かさん)飛沫(しぶき)』。

 霞が風の呼吸の派生だというのが、良くわかった。

 時透が持っている刀は、あれは、玄弥が持っていたものだろう。

 

(咄嗟に俺に合わせてくれた)

 

 凄い人達だ、と思う。時透など自分より年下なのだ。

 箱の中で回復している禰豆子も、懸命に戦った。

 皆が、懸命だった。

 俺もやるんだ、と、炭治郎は強く願った。

 

(もっと早く)

 

 もう少しだけ速く。

 もう少しだけ先へ。

 もう少しだけ、呼吸を深いところへ。

 

 上弦の肆の頚に、刃が届いた。

 少年鬼は何の感情も見えない顔で炭治郎を見上げていた。

 炭治郎に頚が斬れるはずがないと、そう思っているのかもしれない。

 実際、上弦の肆の頚は鋼鉄のように硬かった。

 

「う……!」

 

 先ほど感じた怒りは、まだ胸中で渦を巻いていた。

 この悪鬼の頚は、今斬らなければ。この悪鬼を、今、仕留めなければ。

 また罪もない人々が殺される。

 ()()

 余りの血の熱さに、口から炎が噴き出してしまいそうだった。

 

「うおおおおおおおおおおぉっ!!」

 

 炭治郎の額の火傷が――いや。

 額の()が、炎のように大きく広がった。

 それと同時に、刃が()()()

 次の瞬間、上弦の肆の頚が、天高く刎ね上げられていた――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 正式に剣士になってからというもの、千寿郎は己の未熟に気付かされる毎日だった。

 まず、単純に実力が足りない。

 父を始めとする兄姉の薫陶を受けていると言っても、まだまだ剣は荒い。

 しかし、千寿郎は懸命だった。

 

「俺が来るまで良く耐えたなァ」

 

 強力な鬼だった。厄介な血鬼術を持っていて、しかも民間人が襲われていた。

 千寿郎は民間人を庇いながらの戦いを余儀なくされたが、ひたすらに我慢し続けた。

 結果として、柱――不死川の救援が間に合った。

 鬼は、不死川の一刀の下に頚を刎ねられた。

 

(やっぱり、柱は凄いなあ)

 

 自分が半夜に渡って戦った鬼を、たった一撃で斬り伏せてしまうのだ。

 いかに実力が足りないかを目の当たりにされたようで、どんよりとした気分になってしまう。

 

(もっともっと、頑張らなくちゃ)

 

 父のように、兄や姉のように、弱い人々を守る剣士になるのだ。

 隠による手当てを受けながら決意を新たにする千寿郎に、不死川はふっと表情を緩めた。

 

「お前は良い剣士になるさ。たぶんなァ」

「いえ、まだまだです。今日の鬼だって、僕1人では斬ることが出来ませんでした」

「それでも、民間人を守り切った。で、自分も生き残った。万々歳だろォが」

 

 そのどちらも、成し遂げたのは不死川だった。

 不死川が来なければ、千寿郎はそのどちらにも失敗していただろう。

 そんな今の自分では、おこがましいかもしれないが。

 

「俺も柱になったら、父上や不死川さんのようになれるでしょうか」

「どうかねェ」

「や、やっぱり無理でしょうか!?」

「別に槇寿郎殿や俺みたいな柱になる必要はねェだろ。お前はお前のやり方で柱になれば良いんだ」

 

 それに、と、不死川は言った。

 

「お前はちゃんと、柱が持ってなきゃならない物を持ってる」

 

 そしてそれは、千寿郎の姉――瑠衣、あの()鹿()()()が持っていないものでもある。

 明るい顔を見せる千寿郎を横目に、不死川はそんなことを思った。

 千寿郎は確かに実力的には未熟だ、柱候補とすら呼べない。

 

 けれど、それでも、瑠衣よりは()()()()

 実力では柱に手が届くと言って良い瑠衣だが、柱からはずっと遠い位置にいるのが彼女だった。

 そして本人はそれに気付いていない。気付こうとすらしていない。

 だから()鹿()()()なのだと、不死川は思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 柱とは、《家》を支えるものである。

 一家の大黒柱、などという言葉もある。()()()ものだ。

 では、柱はなぜ家を支えるのか。考えたことはあるだろうか。

 理由は、たった1つしかない。

 ――――家の中にいる者達を、守るためだ。

 

「ぎゃあああっ!」

 

 という悲鳴を、甘露寺は意識の端で捉えた。

 悲鳴を上げたのは、獪岳だった。

 獪岳の背中に、あの金魚の化物が()()()()()()()()()()()取り付いていた。

 蟹のような鋏が、獪岳の頸動脈に伸びるのが見えた。

 

 罠だ、と小鉄は思った。

 あからさまに罠だった。素人の小鉄が見てもわかるくらい、コテコテの罠だった。

 甘露寺の気を逸らして、隙を突こうというのだろう。

 無視すべきだ。

 獪岳を嫌っているという点を差し引いても、それが合理的な判断だと小鉄は思った。

 

「あっ……!」

 

 一瞬の出来事だった。

 甘露寺が一息で獪岳の下へ跳び、背中に取り付いていた金魚を斬った。

 馬鹿な、と小鉄が思うのと。

 玉壺が放った無数の針が甘露寺の身体に突き刺さるのは、ほぼ同時の出来事だった。

 

(こいつは、馬鹿か)

 

 救われた身でありながら、獪岳は甘露寺の行動を「馬鹿」と思った。

 普通、こんなあからさまな罠に引っかかるわけがない。

 自分だったら見捨てている。それなのにこの甘露寺という女は。

 

「だ、大丈夫だった!? 怪我はしてない!?」

 

 負傷の痛みで額に汗を浮かべながらも、獪岳の無事を問うてきた。

 

「ヒョヒョッ、まさか本当に助けに行くとは。愚かなことだ」

 

 玉壺も同じことを考えていたのだろう。甘露寺の行動を嘲笑っていた。

 

「本当に滑稽! 傑作だ。最も強い者が最もつまらない命を救って命を落とす。ん? そろそろ毒で聞こえなくなってきましたかな?」

 

 ――――水の呼吸・壱ノ型『水面斬り』。

 背後から、横薙ぎの剣撃。

 ヒョッ!、と笑って、玉壺は壺の空間移動によってその一撃を回避した。

 

「ヒョヒョッ。そういえば、犬畜生を連れた馬鹿な人間がいたか」

 

 ()()()と壺の中から這い出して、玉壺は目の前の人間を見つめた。

 何の脅威にも思っていない。そんな顔だ。

 玉壺のように数字を持つ鬼は、基本的に、柱以外の剣士を侮る傾向にある。

 それは長く生きてきた経験から来る結論で、間違ってはいない。

 

 その時点で、玉壺はようやく気付いた。

 自分の頚から、僅かに血が滲んでいることに。

 ()()()()()()いないから、気付くのが遅れた。

 小さな腕が生えて、傷口を塞いだ。

 

「いやあ、まあ、おじさんもね。あんまり褒められた人生を歩んじゃいないけどね」

 

 柱以外は雑魚。間違ってはいない。

 しかし玉壺は、1つ忘れていた。永遠の命を持つが故に見落としていた。

 それは、人が成長するということ。

 そして、最強の柱も――――最初の階級は癸だった、ということを。

 

「お前みたいなクズはね、嫌いだわ。()()もね」

 

 人は、()()()で成長するが。

 いつまでも柱の下にはいられないのだということを、玉壺は知らなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そもそもだ、柱は人数が決まっている。

 空席が生まれない限り、いくら実力のある隊士がいても昇格することが出来ない。

 従来は頻繁に空席が発生する――同じ顔ぶれが半年と保つことはほぼ無い――のだが、今の世代の柱は例外的にそうなっていない。

 

「あ、あのオッサン……」

 

 小鉄は、己がもはや外野であることを自覚していた。

 鋼鐵塚は未だに刀を磨いているが、もう気にしている人間はいなかった。

 ともすれば前に出そうになる小鉄の小さな体を、鉄穴森が抱えて止めていた。

 

 しかし、鉄穴森も小鉄の気持ちは良くわかった。

 柱である甘露寺が負傷してしまい、状況は最悪だと思われた。

 縁壱零式もいい加減に限界だった。だから。

 

「あのオッサン、強エエエエエェェッ!?」

 

 だから、犬井の本気の戦いぶりに驚きを禁じ得なかった。

 犬井の呼吸は水ということだが、小鉄の知る水の剣士――要は炭治郎のことだが――とは違っていた。

 おそらく上背があり、体重の差から来る違いなのだろう。

 

 炭治郎の水の型は流麗といった風だが、犬井の型はそこにさらに力強さが加わっていた。

 技の初速がやや遅いが、それを補って余りあるパワーがある。

 豪、と瀑布の如く刀を振るい、針を弾き飛ばし、金魚を斬り()()

 

「とは言え、この手(空間)の鬼(移動)はおじさんも苦手でねえ」

 

 技の初速が遅いということは、上弦の鬼にとっては回避を容易にしているだろう。

 だから犬井の攻撃は玉壺の頚までは届かない。

 だがその代わり、移動した先々で。

 

「バウッ!」

 

 コロが先回りしている。

 空間移動していると言っても、出現する壺から漂う臭気は隠しようがない。

 もちろん人間には無理だが、犬であるコロならば追跡できる。

 そうしてコロの追撃と牽制が効いたところへ、犬井の()()攻撃が追い付いて来る。

 

 ――――水の呼吸・肆ノ型『打ち潮』。

 流れるような()剣が、玉壺の肌の上を滑る。

 刀の冷たさが筋肉にまで達したところで、ようやく玉壺は反応できた。

 囮の小さな腕を生やして刀を止めつつ、次の壺へと逃げ込んだ。

 

「っとお。木の上かい」

 

 次の転移先は、太い木の枝の上だった。

 どういうバランスで乗っているのか良くわからないが、とにかく上に移動した。

 

「ううん?」

 

 様子が、おかしかった。

 というのも、壺から這い出た玉壺が枝に倒れ込んだからだ。

 いや、倒れ込んだというより、引っかかったという方が正しい。

 玉壺は平べったい布のような姿になって、枝に引っかかっていた。

 

「あらら、これは……」

 

 皮だった。外皮。つまり()()した。

 それに気付いた刹那、犬井はコロを掴んで横に跳んだ。

 地面にしたたかに身体を打ち付けたが、すぐに起き上がった。

 ボトボトと、足元に何かが落ちた。

 

 魚だった。新鮮だ。無駄に。

 それから、隊服の腹部の部分が破れていた。

 鮮魚はそこから落ちていた。

 つまり、()()されたのだ。

 

「……ヒョヒョヒョッ。この玉壺様がここまでコケにされたのは初めてだ」

 

 筋肉がより引き締まり、頑健さと強靭さを増していた。

 そしてその肉体を守る鎧のように、透き通った鱗が全身を覆っている。

 壺から離れた下半身は魚のようにも蛇のようにも見えて、木の幹に絡みついていた。

 変身――いや、()()した。

 

「だがそれも、もうお終いだ。この玉壺様の完全なる美しき姿にひれ伏すが良い」

 

 姿も気配も変わった上弦の鬼を前に、犬井は苦笑いを浮かべた。

 どうやら相手を知らなかったのは、お互い様のようだった。

 しかし誰も脳裏に絶望が(よぎ)ったその瞬間、1人だけ両目に別の色を浮かべた者がいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 この時、甘露寺は勝機を見た。

 確かに玉壺は変態によってより強力になった。肌で感じる鬼気も段違いになった。

 ()()()()()、甘露寺は勝ちの目に気付くことが出来た。

 

「ゲホッ」

 

 しかし、問題があった。毒が回ってきているのだ。

 呼吸を抑えれば毒の巡りも遅くなるが、それでは身体能力を維持できない。

 身体能力を高めれば、毒が巡る。

 呼吸の剣士ならば、誰でも知っていることだ。

 

(こ、この女、何を考えてやがんだ……!?)

 

 しかし、逆に甘露寺は呼吸を早くしていた。

 傍にいる獪岳にはそれが良く分かった。

 同時に、甘露寺の顔色がどんどん青褪めていく様も見ていた。

 呼吸を――心拍数を、早くしていく。

 

 すなわち、血の巡りを早く、強くしている。

 手足の先、毛細血管の一本に至るまで、血を送り込む。

 それによって毒は回るが、より強い力を得ることが出来る。

 身体が()()。燃えているようだ。

 

(師範、みんな)

 

 不意に思い出すのは、煉獄家での修行の日々だった。

 呼吸法に限らない。剣士として必要なすべてをそこで学んで来た。

 ついでに言うと、運命の人だ、とときめきを覚えたことも一度や二度では無かった。

 まあ、すぐに違うとわかったわけだが。

 

(全力で、行きます)

 

 自分より強い人に守ってほしいと、人には言ってきた。それが女の子の夢だ、と。

 それは本心だけれど、言っていないこともあった。

 自分よりも強い人の隣なら、「この人に比べたら私なんて」と言えるから。

 そうやって、自分のコンプレックスを払拭しようとしていた。

 

 だけどそれは、今日までだ。

 力が強いことも含めて、自分なのだ。

 この力を使って、守れるものがあるはずなのだ。

 だから女の子に見て貰えなくとも、人間じゃないと言われてしまったとしても。

 

(届けなきゃ)

 

 相手が上弦だろうと、何だろうと、関係ない。

 悪鬼、滅殺。

 柱として、この場にいるすべてを守る。殺させない。奪わせない。

 そして、何よりも。

 

(みんなに、瑠衣ちゃんに、刀を届けなきゃ)

 

 そのためには、あの鬼が、上弦の伍が――玉壺が、()()()

 

「…………」

 

 ()()甘露寺を間近で見ていた獪岳は、自分が知らず生唾を飲み込んでいることに気付いた。

 彼は今まで、この世に上弦の鬼よりも恐ろしいものなどないと思っていた。

 無理もない。上弦の鬼はまさしく恐怖と絶望の権化だ。

 しかし今、獪岳は確かにそれを上回る恐怖を感じていた。

 それは味方から覚えるにしては、余りにも剣呑な感情だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――血鬼術『陣殺(じんさつ)魚鱗(ぎょりん)』!

 玉壺の巨体が、凄まじい速度で四方八方を飛び跳ねていた。

 柔軟で強靭なバネと波打つ鱗により、まさしく縦横無尽。しかもだ。

 

「うおっとおっ!」

 

 玉壺の手が掠めた部分が鮮魚に変化する。

 地面におちてビチビチと跳ねる魚に犬井はぞっとした。

 魚になって死ぬなんて、冗談じゃない。

 

 参ノ型(流流舞い)で何とか動きについて行っているが、そこで不味いことが起きた。

 玉壺の打撃を刀で捌いた瞬間、日輪刀が鮮魚に変わってしまったのだ。

 正直、しまったと思った。

 拳で触れると発動する血鬼術。攻防も例外では無かった。

 

「来るな、コロ!!」

 

 助けに入ろうとしたコロを止めた。魚にされるからだ。

 

「お終いだ、死ねい!!」

 

 玉壺が両腕を振り上げ、そして振り下ろした。

 この間、実に数秒である。

 しかしその数秒の間に起こったことは、人智を超えていた。

 

「ああっ……!」

 

 悲鳴のような声を上げたのは、小鉄だった。

 それは縁壱零式が攻撃に割って入り、そして玉壺の「神の手」により刀と胴体を魚に変えられて、砕かれてしまったからだ。

 今度こそ致命的な損傷に、小鉄は悲嘆の声を上げたのだ。

 

「何だ……!?」

 

 胴体を砕かれた縁壱零式の手から、無事な刀が何本か宙を舞った。

 それは良い。問題はその刀を邪魔と言わんばかりに弾き飛ばそうとした時だ。

 刀の鏡面に、何かが映っていた。玉壺か犬井か。いや、違う。

 ()()()()()()()()()()()

 ――――()()()

 

「なっ、血鬼術だとお!?」

 

 ――――血鬼術『鏡写しのアナタ』。

 

「お兄ちゃんに、酷いことしないでっっ!!!!」

 

 ずるり、と、刀の鏡面から突如として何かが這い出して来た。

 それは血のように真っ赤――というより、充満する鉄錆の臭いから本物の血だとわかる――な液体で構成されたそれは、瞬時に上半身が人で下半身が魚のような形に変わった。

 というより、一回り小さいが、それは玉壺の形を模していた。

 

「~~~~ふん! 何だかわからんが、喰らえ! 我が神の手の前にひれ伏すが良いわ!」

 

 腕の一振りで、それは破壊された。

 血が飛び散り、刹那の後にはそれらは全て鮮魚へと姿を変えた。

 玉壺はニヤリと笑みを浮かべたが、次の瞬間に変化が起こった。

 

「グボォッ!?」

 

 玉壺の口――というか、目――から、血が噴き出した。

 肉体の内側から甚大なダメージを被り、吐血したのだ。

 いったい何事が生じたのかと、混乱した。

 今、自分は一度()()()

 

 血鬼術の能力か。いや、関係ない。問題ない。

 鬼なのだ。不死身。しかも上弦の伍。

 死からでさえも、一瞬で蘇る。

 しかし玉壺にとって不幸なことに、その一瞬がまた彼の運命を決定付けたのだった。

 

「むう!」

 

 玉壺の頚に、薄絹のような刃が幾重にも巻き付いた。

 甘露寺の日輪刀だった。

 刃が頚に触れる感覚に、しかし玉壺は慌てなかった。

 

(いや、問題ない! あの女の動きは私よりも遅い! しかも毒で弱っている。斬れるわけが)

 

 甘露寺の姿を視界に収めた瞬間、玉壺は全身の肌が粟立つのを感じた。

 

(斬れる、わけが)

 

 動きがさっきよりも少しだけ速い。力がさっきよりも少しだけ強い。

 同じ人間なのに、さっきよりも少しだけ強い。

 玉壺の失った()()。甘露寺の得た()()

 

(何だ)

 

 玉壺が()()に見たもの、それは花だった。

 甘露寺の首元に咲いた、花のような紋様。

 

(痣……!?)

 

 その()を玉壺が見た時、彼の頚はすでに胴から離れていた。

 地面に落ちるまで、玉壺はその事実に気付くことが出来なかった。

 え、と何事かを言おうとしたその口を、すかさず駆け寄って来たコロが日輪刀の牙で引き裂いてしまった。

 今際(いまわ)の言葉を遺すことすら、彼には許されなかった。

 

「……ッ。はっ、ハアアァ~~~~……!」

 

 甘露寺が大きく息を吐いてその場に膝をつくのと、歓声を上げて小鉄達が皆に駆け寄るのは、同時の出来事だった。




最後までお読みいただき有難うございます。

上弦と下弦の間には拭い難い差があるようですが、上弦も上位3人と下位3人でかなり差がありますよね。
千年かけても上弦6体しか作れなかったのは、当人達の才能のせいか指導者のせいなのか。

それでは、また次回。


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第37話:「新しい刀」

 炭治郎が上弦の肆の頚を刎ねた時、瑠衣が感じたのは高揚でも安堵でも無かった。

 逆に、猛烈な嫌な予感に身体を突き動かされた。

 だから時透が身体を弛緩させ、玄弥が「おお」と声を上げた時、瑠衣だけは地面を蹴っていた。

 

「竈門君! 気を付けて!」

 

 その瑠衣の声を、炭治郎は攻撃直後の硬直の中で聞いた。

 言いたいことは、わかっているつもりだった。

 喜怒哀楽の鬼達は頚を斬っても死ななかった。

 

 だから炭治郎は瑠衣の言うことが理解できた。

 理解できていたが、ここで炭治郎も予想外のことが2つ起こった。

 1つ目は、ヒノカミ神楽の反動を考慮にいれてもなお、急激に体力を消耗したこと。

 そして第2に、上弦の肆が頚を再生させるよりも先に炭治郎を攻撃してきたことだ。

 

(こいつも、本体じゃない!)

 

 仮に頚を斬られても死なないとしても、急所には違いない。

 しかし上弦の肆は、急所を斬られた時特有の()()が僅かも無かった。

 これだけ強力な力を持つ鬼なのに、扱いは喜怒哀楽の鬼と全く変わらない。

 不味い、と思った。攻撃直後の硬直で、指先が震えた。

 

 ――――血鬼術『無間業樹』!

 

 嫌な予感というものは当たるものだ。

 上弦の肆の足元から、再び無数の巨大な木トカゲが出現した。

 地面を砕きながら攻撃してきたトカゲの群れに、炭治郎は対応しようとした。

 だが、間に合わない。直感でそう感じた。

 

「竈門君!」

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』!

 そこへ、瑠衣が飛び込んで来た。

 目にも止まらぬ回転斬りが、無数のトケガを斬り、まさしく削いだ。

 

「~~~~ッ!」

 

 ()()。一匹一匹のトカゲの硬度が上がっていた。

 日輪刀が軋みを上げているのがわかる。

 全てのトカゲを斬るのは不可能だと悟った瑠衣は、炭治郎を片腕で抱え込んだ。

 ズンッ、と複数のトカゲが頭を突っ込む危険地帯から、脚力で抜け出した。

 

 しかし、音波から逃げ切ることは出来なかった。

 トカゲ達は喜怒哀楽の鬼の能力を使える。

 その内の一匹が口を開けて、音波攻撃を放って来たのだ。

 さしもの瑠衣も、音よりも速く動くことは出来ない。

 

「瑠衣さん……っ」

「――――ッ!」

 

 炭治郎の声が、酷く聞こえにくかった。

 

(鼓膜、が……!)

 

 鼓膜が破れてしまった。

 しかしそれ以上に、平衡感覚を失ってしまったのが不味かった。

 音波攻撃を受けても駆け続けていたが、トカゲが不意に身をうねらせて、瑠衣と炭治郎を宙に放り出してしまった。

 

「あ……」

 

 宙に放り出された自分達に、無数のトカゲが口を開けて迫って来ていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――死を、恐ろしいと思ったことは無かった。

 瑠衣にとって、死を恐れるということは、鬼を恐れるということだった。

 鬼殺を生業とする家に生まれた者が、そんな恐れを抱くことは恥だと思った。

 だから瑠衣は、死ぬことを恐ろしいと思ったことはない。

 

(これは、死ぬ)

 

 だから今、思ったのは自分の死についてでは無かった。

 

(竈門君が、死んでしまう)

 

 思ったのは、炭治郎のことだった。

 抱え込んだ彼の身体が異常に()()、体調の悪さは明白だった。

 これでは、激しい戦闘には耐えられないだろう。

 額の火傷の形が変わっているようにも見えたが、今考えることでは無かった。

 

 眼下では、大小の無数のトカゲが大きく口を開けていた。

 目の前に死が迫っている。

 死の危険なら今まで何度でも感じて来た。

 しかし何故だろう。今、生まれて初めて死が恐ろしいと思ったかもしれない。

 

(私が身を捨てれば、目の前の攻撃は凌げるかもしれない)

 

 目の前の血鬼術を凌ぐ。厳しいが、不可能ではないはずだ。

 ただしトカゲ達を凌ぎ切った時、自分は生きてはいないだろう。

 自分1人なら、あるいはその選択にも躊躇はしなかったかもしれない。

 だが今は1人では無い。炭治郎がいた。

 

(この子を)

 

 先程、上弦の肆に怒りを見せた炭治郎を見て、思った。

 何故かはわからないが、確信した。

 根拠なんて、何も無かったけれど。

 ただ、炭治郎が、この少年が。

 

(この子を、死なせるわけにはいかない)

 

 ()()()()()()()()()

 どうしてかはわからないが、瑠衣はそう感じた。

 だから、死なせるわけにはいかない。

 目の前の攻撃を命を賭して凌いだとしても、次の攻撃に対して炭治郎は無防備になる。

 

 それでは、意味がない。

 凌ぐだけでは、駄目なのだ。

 炭治郎に対する脅威を全て排除しなければ、意味がないのだ。

 まして自分達は、未だに上弦の肆の本体さえ見つけられていない。

 だから、今。

 

「……ない……」

 

 今、瑠衣は生まれて初めて、思った。

 

()()()()……!」

 

 炭治郎を生かすために、今この瞬間に死ぬわけにはいかない。

 そう思った瞬間、全身の血が沸騰したように熱くなった。

 歯を食い縛り、日輪刀の柄を強く握った。

 視界の端が赤くなったのは、血管でも切れたか。

 

 集中しろ。

 視界を埋め尽くすトカゲ共から、逃れる道がどこかにあるはずだ。

 もっと、もっと集中しろ。

 そして――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――ずっと、不思議に思っていた。

 上弦の陸。いやもっと言えば、上弦の参との戦いの時。

 瑠衣の()()()()()()が上弦の鬼と戦ったと、何度か聞いた。

 あの産屋敷が、兄を飛び越えて瑠衣に柱の地位を与えようとした()()

 

「……初めまして、はおかしいですね。たぶん」

「ソウネ」

 

 ()()()()()()()()()

 いや、自分ではない。何故なら瑠衣は自分を認識している。

 だから、目の前に立っている瑠衣そっくりの誰かは、瑠衣ではない。別人だ。

 ならば誰なのか。そう思っていると。

 

「ハーイ、オ姉チャンダヨー」

「私の顔でそんな馬鹿みたいな仕草をしないでください」

「何デソンナ酷イコト言ウノ?」

「すみません。つい本音が口を()いて出てしまいました」

 

 両手をひらひらさせて上半身を斜めに傾けて来たので、つい口が滑ってしまった。

 なまじ自分と同じ顔なので、耐えられなかった。

 顔も背丈も、服でさえも、自分とまったく同じ。

 違うのは、ひとつだけ。

 金色に輝く、両の瞳だけだ。

 

「……単刀直入に聞きます」

「ナアニ?」

 

 ()()は、素直に頷いて来た。

 瑠衣は言った。

 

「上弦の陸を斬ったのは、貴女ですね」

 

 そんな瑠衣の問いかけに、相手は露骨に目を逸らして来た。

 そして唇を窄めて、吹けもしない口笛を吹き始めた。

 口で「ぴゅーぴゅー」と音を出してくるあたり、本当にイラっとする。

 

「……貴女は、何ですか?」

 

 ただ、その問いかけには困ったような表情を浮かべて来た。

 何だその顔は、と思った。

 不意に兄の顔が重なって、戸惑った。

 

「何でも良いです」

 

 その戸惑いを振り払うように、瑠衣は手を差し出した。

 返って来たのは、きょとんとした顔だ。

 

「煉獄家の娘として実に恥ずべきことですが、私は今、死ぬわけにはいきません」

 

 そう、これは恥ずべきことだ。

 鬼を討つために、得体の知れない何かの手を借りようとしている。

 目的のために、手段を選ばない。

 しかし他に炭治郎を守る方法がないというのならば、一時の恥を忍ぼう。

 そう思った。

 

「貴女の力を、貸して下さい」

 

 言い終わるが先か、あるいは言い終わる前だったかもしれない。

 ぱっと手を取られて、瑠衣の方が驚いた顔をした。

 顔を上げると、満面の笑顔があった。

 その笑顔に、何故か胸が締め付けられた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣が()()()()

 炭治郎には、それが匂いでわかった。

 そしてこの匂いは、あの時、無限列車事件の時にも嗅いだことがあった。

 

「着地ハ自分デヤッテネ」

「えっ!?」

 

 空中で、ひょいと炭治郎を放り投げた。

 そして右手で日輪刀を持ったまま、両腕を交差させた。

 そのまま身を丸めて落下姿勢になり、唇を薄く開いた。

 

 炭治郎の耳に届いたのは、呼吸音だった。

 しかしそれは、今まで炭治郎が聞いたどの呼吸音とも違っていた。

 それは風のように鋭く、それでいて炎のように激しかった。

 

「行クヨ!」

 

 それはいったい、誰に向かって言った言葉だったのか。

 瑠衣は不意に交差させた腕を、日輪刀を振るった。

 先頭のトカゲの顎を斬り飛ばすや、頭を失ったトカゲを蹴り、身体を回転させて次のトカゲを斬った。

 塵旋風(壱ノ型)を連続で、しかも空中で、敵を足場に行っているようなものだった。

 

「あぶな……」

 

 い、と告げる前に、背後から迫ったトカゲにも回転切りを見舞った。

 回転しながら斬撃を続けているのは、360度への対応を可能とするためだろう。

 しかし高速回転しながら、周囲の状況を瞬時に的確に判断するとは。

 凄まじいまでの動体視力だった。

 

「ええい! 手間を取らせるな、極悪人!」

 

 頚を再生させた上弦の肆が、苛立った声を上げて太鼓を打った。

 するとトカゲが二匹、口を開いた。

 音波と雷撃の両方を一度に放つ。しかしその直前に。

 

「遅イネ」

 

 瑠衣の跳躍と、回転が来た。

 まず音波の方が攻撃前に顎を斬られ、次の一呼吸で雷撃の方が頭を潰された。

 そして二匹の胴体を交互に蹴るようにして、一気に地表を目指した。

 その先には、上弦の肆。

 

「――――無礼者め!!」

 

 今度は上弦の肆自身が、口を開けるのが見えた。

 自分自身でも音波と雷撃を放てるのか。

 

「ソノ技ッテサ、撃ツマデニ時間ガカカルヨネ。ソレニ無防備ダ」

 

 おそらく自分自身の不死身さに自信があるが故だろう。

 攻撃までの溜めが長く、しかも防御の姿勢を取ろうともしない。

 だから、今の瑠衣にとっては()()()()だった。

 

 上弦の肆が攻撃を放つよりも速く、すれ違い様に、瑠衣は刀を振るった。

 一瞬、時が止まったような錯覚を覚えた。

 しかし瑠衣が着地すると同時に、上弦の肆の肉体が()()()()

 炭治郎が自分の着地を意識したのは、そうなってからだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「竈門君!」

 

 着地の直後、瑠衣の声が響き渡った。

 瑠衣の匂いがした。

 

「本体を見つけられますか!?」

「……は、はいっ!」

 

 瑠衣に全身をバラバラにされたが、上弦の肆はやはり生きていた。

 ヒノカミ神楽で斬られたわけでもないから、再生も速い。

 本体を探さなければ。それには自分の嗅覚が役に立つはずだ。

 

 さっき上弦の肆の頚を斬った時、微かに感じた。

 本体――6体目の気配だ。

 トカゲの血鬼術に紛れてしまって、有耶無耶になってしまった。

 

(どこだ。どこに……!)

 

 本体は今まで隠れて出てきていない。戦闘力は無いのかもしれない。

 上弦の肆があれ程の力だ。そうであってもおかしくはない。

 だとすると、脅威から離れようとするはずだ。

 つまり瑠衣や自分がいる場所、そして時透や玄弥がいる場所以外の。

 ――――炭治郎は日輪刀を逆手に持つと、大きく振り被った。

 

「そこだあ――――ッ!!」

 

 それを、投擲した。

 瑠衣と上弦の肆を中心として、時透や玄弥のいる位置から反対側。

 茂みの中に身を潜めていた()()()()の足元に、日輪刀が突き刺さった。

 

「なっ……!」

 

 ()()()

 野ネズミほどの、小さな鬼がいた。頚の太さなど指一本分しか無い。

 最初の姿をそのまま小さくしたような、そんな姿だった。

 

「何だアレ! ちっっっさ!! ふざけんなよ!」

 

 玄弥の怒りは、その場にいる全員の気持ちを代弁していた。

 何故ならばこの瞬間、上弦の肆という鬼の絡繰りが白日の下に晒されたからだ。

 数多の鬼狩りが、数百年に渡りこの鬼を討つことが出来なかった理由。

 

 喜怒哀楽の鬼、あるいはあの少年鬼はそれ単体で十分に強力だ。

 だから誰もがあちらを本体と思うし、並の剣士であればそもそも喜怒哀楽の鬼にすら勝てない。

 仮に喜怒哀楽の集合体である少年鬼の頚を斬れたとしても、意味がない。

 頚を斬った瞬間に本体ではないことを悟り、そして殺されるのだ。

 まさか本体がネズミのように小さくて、そして。

 

「ヒイイイイイイイイィィッッ!!」

 

 泣きながら逃げ隠れするような、卑怯な存在だとは思わないだろう。

 

「待……てよ、てめえええっ!!」

 

 銃を撃った。それは見事に命中したが、ほとんど意味はなかった。

 小さいが上弦。防御力は相当なもの。日輪刀と同じ材質の弾丸でも効果が無い。

 玄弥が舌打ちした。このままでは逃げられてしまう。

 

 そう思った次の瞬間、驚きに変わった。

 いつのまに走っていたのか、時透が霞のように本体の背後に滑り込んでいた。

 そして玄弥の日輪刀――剣才がなく、色が変わらなかった――を、指一本分の頚に振り下ろした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 指一本分の頚に刃を当てた次の瞬間、ポキン、と嫌に小気味(こぎみ)の良い音が響いた。

 時透が振るった日輪刀が、あっけなく折れた音だった。

 

(硬い)

 

 しかし時透は、うろたえもしなければ諦めもしなかった。

 確かに予想外の硬度だったが、柱である時透にすれば()()()()だった。

 それを踏まえて、もう一度攻撃するだけだ。

 

「ヒイイイイイイッ! やめてくれぇ、いぢめないでくれええぇ」

「五月蠅いよ。さっさと地獄に行ってよね」

 

 折れた刀を、もう一度振り下ろした。

 今度は折れず、弾かれることもなく、頚に刃がめり込んだ。

 そして、絶叫が響き渡った。

 

 上弦の肆の絶叫は、喜怒哀楽のそれと同じく衝撃波を生んだ。

 鼓膜が震え、時透も顔を顰めた。

 しかし腕を止めることはなく、刃が肉を裂き始めた。

 

「お前はあああ」

 

 その時、鬼の様子が変わった。

 頚の傷口から、何かが噴き出している。

 

「儂が、可哀想だとは、思わんのかあああああああっっ!!」

 

 鬼が、巨大化した。

 時透よりも大きな背丈になり、掴みかかって来た。

 凄まじい腕力に、時透は咄嗟に刀から手を放した。

 空を斬った音は、人間の頭を捻じ切るには十分なものだった。

 

「弱い者いじめをおおお、するなあああああああっっ!!」

「アア、見テゴランヨ。瑠衣」

 

 目の前で少年鬼の方が再生していくのを見つつ、瑠衣は言った。

 その表情は、普段の瑠衣であればまず見せない表情。

 嘲笑だった。

 

「見苦シイネエ。アアハナリタクナイ物ダネ」

 

 上弦の肆を嘲弄していた瑠衣だったが、不意にきょとんとした表情を浮かべると、やれやれと言った風に肩を竦めた。

 

「ハイハイ、ワカリマシタヨ。ト言ッテ、ドウシタモノカナ」

 

 少年鬼が完全に再生し、殺意を隠そうともせずに瑠衣を睨んでいた。

 時透はもはや無手で上弦を相手にしている格好だ。

 炭治郎と玄弥はどちらを助けに行くべきか、おそらく判断に迷っているだろう。

 少年鬼は()()瑠衣にしか抑えられないはずで、瑠衣が本体に向かうわけにもいかない。

 そういう意味で、瑠衣は少し――「本当に少シダケドネ」――困っていた。

 

「おおおぉ――――――――いっっ!!!!」

 

 その時だった。

 聞き覚えのある声がして、そちらへと目を向けた。

 東の方角。まず、山の裾野から夜明けの輝きが見えた。

 白光を背にするように、物凄い勢いで駆けてくる誰かがいた。

 

「瑠衣ちゃああああああああんっっ!! 受け取ってええええええええっっ!!」

「ハ?」

 

 甘露寺だった。

 彼女は瑠衣が自分に気付いたことを知ると、半身を捻ってその場に踏み止まり、そして何かを持って振り被っていた。

 長い棒のようなそれを、槍でも投擲するかのように、それを投げた。

 甘露寺の驚異的な膂力で放たれたそれは、驚く間もなく瑠衣の視界に入って来た。

 

「……刀?」

 

 刀だった。安全を多少は考慮したのか、鞘ごと投げて来た。

 それは良い。新しい刀を歓迎しないわけではない。

 しかも甘露寺の反応を見るに、この刀は瑠衣のために打たれたのだろう。

 ただ、1つだけ問題というか、違和感を感じる部分があった。

 最初は特に何も感じなかったのだが、刀がぐんぐんと近付いてくるにつれて、違和感は大きくなった。

 

「エ、長クネ?」

 

 その刀は、普通の刀の()の長さがあった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 柄の中央あたりを掴むと、まず重さを感じた。

 長いだけでなく、重さも通常の刀よりも重い。

 しかし、考えている間は無かった。

 

(長が、私のために打ってくれた刀……!)

 

 ()()()が「ゴメーン、コレムリーワカンナイ!」と言って()()()()後、瑠衣がその長刀の柄を掴んだのは、ほとんど勢いだった。

 そして柄を掴んだ瞬間、違和感に気付いた。

 それは、何千回何万回と刀を振って来たからこそ感じた、僅かなものだった。

 

 少年鬼が口を開けた。数秒後には音波攻撃が来る。

 本体が時透に襲い掛かっている。

 2秒で、全てを決断しなければならない。

 だから瑠衣は、自分の感覚を信じることにした。

 

「風の呼吸――――」

 

 壱ノ型・『塵旋風』。

 

「――――改!」

 

 鞘から、刀を抜いた。

 ()()

 1本の鞘に2振りの刀。通常より僅かに短いその刀を、鞘の上下から抜いた。

 そしてそれを逆手に持ったのは、これから行う攻撃に最も最適だと思ったからだ。

 

 風の呼吸・壱ノ型・改『塵旋風・嵐』!!

 

 回転を伴ったその攻撃は、まず少年鬼を切り刻んだ。

 まず音波を放とうとした顎を斬り――そして舌を斬られて怯んだ隙に――再生したての()()を寸分違わずに再び切断した。

 突撃はそこで終わらない。強靭な脚力と身体のばねにより、回転が終わらない限り攻撃も止まらない。

 

「――――!」

 

 瑠衣の接近に気付いたのだろう、時透も動いた。

 上弦の肆の頚に食い込んだままだった玄弥の刀を、両手で掴んだ。

 しかしそうすれば、本体が時透の頭を掴むのは当然だった。

 文字通り頭蓋骨が軋む音に、時透は表情を歪ませた。

 

「善良な儂をおおおおおおよくもおおおおおおおお!!」

 

 その腕に、刃が通った。

 手首、そして肘のあたりを立て続けに切断された。

 そうして拘束が外れるや否や、時透は両手に満身の力を込めた。

 この「善良な儂」とやらに、人間の怒りを思い知らせる時が来たからだ。

 

「ギャッ!!」

 

 喉にまで達した刃に、しかし上弦の肆は「大丈夫だ」と自分に言い聞かせた。

 すぐには斬れない。あと瞬き1つの間があれば少年鬼(憎珀天)が再生する。

 そうすれば、この状況も……と、思った時だ。

 頚の傷口に、さらに刀が叩き込まれた。

 瑠衣が傷口を狙って両手の刀を叩き込み、刃が喉から先へと進ませたのだ。

 

「なあ……っ!?」

 

 ここまで死が近付いてきたことはない。

 最後に死の恐怖を感じたのはいつだったのかと、思い出そうとした。

 思い出した時には、頚が落ちていた。

 時透と瑠衣の刀。

 合わせて三本分の斬撃によって、上弦の肆の頚が宙を舞い、地面に転がっていった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 地面に転がった頚は、陽光に焼かれて塵と消えた。

 残った肉体の方は、背後の崖に落ちて消えた。

 落下音が聞こえなかったのは、途中で塵になったからだろう。

 勢い余って瑠衣も落ちそうになったが、時透が隊服の襟を持って支えてくれた。

 

「あ、ありがとうございます……?」

「いや。助かったよ、こちらこそありがとう」

 

 え、誰?

 瑠衣はそう思ってまじまじと時透の顔を見たが、特に変わらない能面のような顔がそこにあった。

 もしかしたら聞き間違いだったのかもしれない。

 そう思う程には、それは意外な出来事だったのだ。

 

「わあああああああんっ!」

 

 そこへ、甘露寺が飛びついて来た。

 

「勝った? 勝ったよおおお! 凄い! みんな凄いよおおおおおっ!」

「ぐえっ、ちょ、力が強っ!」

「痛いんだけど」

 

 ぼろ泣きしながら羽交い絞めにされて、実は随所を怪我している瑠衣と時透は普通に痛かった。

 しかし甘露寺の泣き笑いの顔を見ていると、そして甘露寺自身も怪我をしているのがわかると、何も言えずにしたいようにさせていた。

 そして瑠衣は、両手に持った日輪刀を改めて見つめた。

 

脇差(わきざし)。じゃなくて、小太刀、かな……?」

 

 陽光に煌めく新しい日輪刀は、定尺の太刀よりもやや短い。

 それが2振り。

 長の意図は良くわからなかったが、しかし確かに振りやすかった。

 刀を手に馴染(なじ)ませるように、瑠衣は何度か柄を強く握るのだった。

 

「炭治郎、禰豆子は大丈夫だったか?」

「ああ、今は箱に入れて休んでる。ありがとう。玄弥こそ怪我は大丈夫か?」

「俺は大丈夫だ。怪我はとっくに治ってるし……鬼を喰った後は、太陽がちょっとヒリつくけどな」

 

 全員、無事だった。

 いや、里の被害や犠牲は甚大なものだ。

 ただ一緒に戦った面々は無事で、それは大きなことだった。

 

「そう言えば、犬井さん達は大丈夫かな」

 

 流石にこれだけ距離が離れると、匂いで様子を探ることは出来ない。

 

「あー、まあ、終わった感じですかねえ」

 

 その犬井はと言えば、小鉄達を連れて鉄珍達と合流したところだった。

 長達を朝まで守っていた鈴音は、夜明けと同時にどうと倒れて本格的に寝入っていた。

 鉄美が頬を突いても起きる様子がないので、敵の気配はもう無いということだろう。

 

「これ鉄美、ゆっくり休ませたり。犬井殿も、里を守ってくれて有難う。長としてお礼を言わせてほしい」

「いやー、はは。守れたっていうんですかねえ、これは。それにおじさんは大して何の役に立っちゃあいませんし? 若い子達が頑張ったんで」

「ワシからすればお前さんも「若い子」や。素直に感謝を受け取ってはくれんか」

「あー、まあ、そりゃあそうですねっと」

 

 無傷の者はいない。皆が大小の傷を負っていた。

 それでも全滅を免れたのは、誰もが頑張ったからだった。

 ポリポリと頬を掻きながら、犬井は足元で丸くなっているコロを見やった。

 相棒は尻尾を軽く振ったきりで、鳴きもしなかった。

 

「やれやれ……あ、そっちのきみは大丈夫?」

「あ、はあ、まあ……」

 

 獪岳も、いた。

 隅の方で居心地悪そうにしているが、怪我は無い様子だった。

 上弦と戦って無傷というのは、普通ならば凄いことだ。だが。

 

「…………」

 

 そんな獪岳を、小鉄がじっと見つめていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「マア、結果良ケレバ全テ良シッテコトデ」

 

 真っ暗な世界でひとり、瑠衣――の姿をした何か――は、鼻歌を歌っていた。

 周囲には誰もいない。真っ暗、というより()()()な空間だ。

 鼻歌を歌う彼女の胸のあたりに、球体が浮かんでいた。

 

 特に何色とか、輝きがあるとか、そういうものでは無い。

 周りと同じで真っ黒で、ともすれば周囲に溶けて消えてしまいそうだった。

 彼女はそれを、新雪を掌でそっと受け止めるかのように抱きかかえていた。

 

「昨日マデハコレモ見エナカッタ」

 

 愛おしそうにそれを胸元に抱いて、彼女は上を向いた。

 そして、ふっ、と鼻で笑った。

 そこにいる何者かを嘲笑っているような、そんな表情だった。

 

「イツマデモ、私ノ妹ヲ縛ッテオケルト思ウナヨ」

 

 どこまでも冷たい、そんな声で。

 

 

 

 

 

「――――クソ先祖ドモガ」




最後までお読みいただき有難うございます。

いやー、あれです。

るろ剣は蒼紫様派(え)

長刀を装った小太刀二刀とかロマン過ぎる。
かっとなってやった(え)
しかし後悔も反省もしていない(ええ…)

それでは、また次回。


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第38話:「逮捕」

 鬼を最も多く滅してきた組織は、鬼殺隊である。

 これは衆目の一致するところだが、では鬼を最も多く殺して来た()()は誰か。

 柱か? あるいは他の何者か。

 いいや答えは違う。鬼を最も多く殺して来たのは、()()()()だ。

 

「上弦の月も、もはや半分だ」

 

 ()()()()()

 闇の中に猛禽類のような両眼と、白い顔が浮かび上がっている。

 べべん、とどこからともなく聞こえる琵琶の音が、嫌に耳に残る。

 

 しかしそれ以上に耳に残るのは、無惨の声だった。

 重く低く、聞いているだけで腹の底から震え上がってしまいそうな程の声音。

 彼が強い怒りを覚えていることは明らかだった。

 ただそれは、彼が言う「上弦の鬼が減った」ことに起因する怒りでは無い。

 

「誰も彼も、役に立たぬ」

 

 配下の鬼達が、余りにも不甲斐ないことに対する怒りだった。

 鬼殺隊では「鬼舞辻無惨が鬼の首領」と言われているが、それは半分正しく、そして半分間違っている。

 何故ならば首領とは、何かしらの集団(仲間)のリーダーに対していうことだからだ。

 無惨は別に、自分が鬼という集団のリーダーだとは思っていない。

 

「しかし私が無能以上に許せないものがある」

 

 期待に添わない。役に立たない。思った能力を身に着けない。

 無惨はこれまでもそんな理由で多くの鬼を殺して来た。

 現代の十二鬼月、その下弦の鬼を解体したのも彼だ。

 彼にとって、配下の鬼はその程度の存在でしかなかった。

 

「裏切りだ」

 

 そして今また1人――否、1体の鬼が、無惨によって殺されようとしていた。

 形容しがたい肉の塊に逆さ(はりつけ)にされていたのは、金髪碧眼の西洋人形のような鬼だった。

 姿形は小さな少女だ。それは、刀鍛冶の里の温泉に姿を現したあの鬼だった。

 

「貴様は玉壺を攻撃したな」

 

 問うているわけではない。断定、いや断罪の口調だった。

 両手足は肉の中に沈んでいて、そこから先がどうなっているかはわからない。

 全身の皮膚に傷をつけられ、そこから止めどなく血が流れている。何故か再生しない。

 血の気が引いた顔は、鬼だとしても死を予感させるには十分だった。

 

「最期に言い残すことは?」

 

 いや、そうでなくとも死は決定されていた。

 配下の鬼の思考が読める無惨があえて最期の言葉を聞くのは、情けではなく、命乞いを求める嗜虐心からだった。

 肉が蠢き、四肢から()()進める。程なく全身を喰らうだろう。

 そして、まさしく死の際にある少女鬼が口にした最期の言葉は。

 

「……お兄ちゃん……」

 

 だった。

 

「お兄ちゃん、お兄ちゃん……お兄ちゃん、お兄ちゃんお兄ちゃんオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイチャンオニイ」

 

 ばしゃり、と、水音がした。

 それは頭が潰された音では無く、足元の血溜まりに落ちた音だった。

 動く気力もなく蹲って「お兄ちゃん」と連呼する少女鬼に対して、無惨は言った。

 

「気に入った。私の血をふんだんに分けてやろう」

 

 磔台になっていた肉壁に、大小無数の針が突き出した。

 その針先から、まるで注射針のように血が滴り落ちてきている。

 

「もしもお前が与える血の量に耐え切ることが出来たなら」

 

 赤黒い触手が少女の頚を捉え、引き寄せた。

 鈍い音と共に、悲鳴が上がった。

 それに、無惨は心地よさそうな表情を浮かべていた。

 

「その時は、お前を新たな月(上弦)にしてやろう」

 

 悲鳴は、しばらく止まなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 誰の言葉かはわからないが、なんだかんだで我が家が一番、という言葉がある。

 瑠衣はそれを、久しぶりに家族が揃った食卓で実感していた。

 

「うーん、おかわりだ!」

「あ、姉上。僕も……」

「はーい、ただいまー」

 

 割烹着姿で杏寿郎や千寿郎のお茶碗に白米をよそっている時が、瑠衣にとっては最も幸福を感じる時間だった。

 山盛りによそったお茶碗を手渡すと、兄や弟の表情が明るくなる。

 本人は隠しているつもりなのだろうが、口角が上がるので丸わかりなのである。

 そういうところが可愛いと、瑠衣は常々思っている。

 

「父様はどうですか、おかわりは」

「ん、貰おうか」

 

 もちろん、父もいた。

 差し出されるお茶碗を受け取りながら、こんな風に家族揃って朝食を摂るのはいつぶりだろうかと、そんなことを考えた。

 概ね任務で蝶屋敷に入院したりしていた自分のせいだと思い至って、不意に恥ずかしくなり、山盛りのご飯をしゃもじでペシペシと叩いた。

 

(あれは相当に硬いな……!)

 

 全集中・常中の状態で白米をペシペシペシペシと叩けば、表面が平たく固くなっていくのは自明の理だ。

 何やら顔を赤らめて俯いている瑠衣は気付いていないようだが、杏寿郎は気付いていた。

 そして父が何食わぬ顔で箸を白米に差し込んだので、よもや、と静かに驚愕した。

 

(幸せだなあ)

 

 自分の作った朝食を美味しそうに食べてくれる家族の前で、瑠衣は幸福を噛み締めていた。 

 鬼狩りなどは、明日の命も知れぬ家業だ。任務は常に死と隣り合わせだ。

 だからこそ、こんな風に何でもない日常がたまらなく愛おしく感じるのだろう。

 

「あれ、姉上はもう良いんですか?」

「ああ、うん。もうお腹いっぱい」

 

 千寿郎が言ったのは、瑠衣の食べる量についてだった。

 白米にしてお茶碗半分ほど。おかずも男衆に比べれば随分と控えめだった。

 他の3人が――千寿郎も剣士になってから食べる量が増えた――多く食べる分、余計に少なく見えるのだろう。

 

「前にも言わなかった? 女子は小食でも立派な剣士になれます」

「え、でも蜜璃さんは……」

「恋柱様は例外です」

 

 ただ、瑠衣も自分の食べる量が減ったとは思う。

 しかしそれで苦に思ったことはなく、体調が悪くなることも無かった。

 妙に痩せるということも無い。むしろ快調そのものだった。

 

「ほら、千寿郎はもっと食べなきゃ。お茶碗空けて!」

「わ、わ。ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

 

 だから瑠衣は、あまり気にしていなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 例え木刀だったとしても、使い手の腕次第で刀と同じように斬ることが出来る。

 瑠衣の腕前はすでにその領域に入っているのだが、しかしあっさりと止められてしまった。

 

「剣筋は悪くないが、狙いが甘い」

 

 ぐん、と、腕力で剣先が振り回された。

 両腕が振り上げられたところに、胴に一撃、咄嗟に腰を引いてかわした。

 道着越しにも風圧を感じて、ひやりとした。

 

 ――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎』。

 瑠衣が下がるのと入れ替わりになるように、杏寿郎が木刀を振り下ろして来た。

 こちらも相当の風圧を放っていて、威力の程が窺い知れた。

 しかしその攻撃も、受け手は木刀で普通に受け止めてしまった。

 

「何と!」

「威力は申し分ないが、真っ直ぐすぎる。自分以上の腕力がある相手には通じんぞ」

 

 受け止めると同時に脇へと攻撃の威力を流し、すれ違いざまに弾き飛ばした。

 しかし杏寿郎は踏み止まり、そのまま弐ノ(昇り)(炎天)へと移行した。

 その斬り上げの攻撃は、逆方向から振り下ろされた一撃で地面に叩き付けられてしまった。

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 そのまま杏寿郎の襟元を掴む――「よもや!?」――と、突進をかけてきていた千寿郎にぶつけた。

 兄よりも遥かに体格で劣る千寿郎だ。「ぎゃんっ」と小さな悲鳴を上げて潰されてしまった。

 

(す、すごい)

 

 木刀を構えたまま、瑠衣は自分達を簡単にあしらってしまう相手を見つめていた。

 道着姿の槇寿郎だ。

 朝食の後、煉獄邸の庭で鍛錬をしていたのだが、3人束になってもまるで敵わないでいる。

 これでも命懸けの修羅場を潜り抜けて来たつもりでいる。強くなったと思う。

 それでも、槇寿郎に比べれば大人と赤子ほどの差があるのだろう。

 

「どうした、お前達。もう(しま)いか?」

「……いえ」

 

 瑠衣は特別、鍛錬や戦闘が好きというわけではない。

 しかし培ってきたものを思い切り使いたいという点では、人並みに積極的だった。

 だから全力を出させてくれる相手というのは、ましてそれが親ならば、つい嬉しくなってしまう。

 いうなれば、親に遊んで貰っている子供の心理とでも言うべきか。

 

「もう一本お願いします、父様!」

 

 と、瑠衣が言った時だ。

 

『モウチョット踏ミ込マナイト父様ニハ当タラナイヨ』

 

 という声が、瑠衣の頭の中に響き渡った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 刀鍛冶の里の事件の後、瑠衣はあることに悩まされていた。

 それが、()()である。

 

『ネエネエ瑠衣。オ姉チャンノオ話、聞イテル?』

 

 自らを姉と名乗る、瑠衣の中にいる()()()の存在だ。

 以前は全くそんな兆候は無かったのだが、刀鍛冶の里の一件以降、こんな風に話しかけて来るようになったのだ。

 多くの場合は無視しているのだが。

 

(ちょ! っと! 今は! 話し! かけないで! くれます!?)

 

 今は、槇寿郎の打ち込みを捌いているところだ。

 ただでさえ集中が必要な時に、頭の中でガンガンと声を響かせられてはたまらない。

 そう思っているところで、頬を木刀の先が掠めた。

 ヂッ、という音が聞こえたから、髪の数本くらいは散ったかもしれない。

 

『ネエネエ』

 

 左右の上段からの振り下ろし、木刀を斜めに構えてそれぞれに対応した。

 さらに左右の胴。徹底的に左右に振って来る。しかも速い。重い。鋭い。

 

『ネエネエ』

 

 しかも、杏寿郎や千寿郎を相手にしながらだ。

 千寿郎はともかく、杏寿郎は柱級の実力者だ。

 稽古だからお互いに本気で打ち込んでいないにしても、槇寿郎の強さが際立っている。

 

 突きが来て、のけ反った。

 顎先を掠めて目の前を通った木刀だが、父が手首を返すのが見えた。

 直感的に振り下ろされることを悟った、次の瞬間だった。

 

『ネエッテバー!』

「ああっ、もう! 五月蠅いなあ、ちょっと黙っててくれます!?」

 

 と、()()()()()叫んでしまった。

 あっ、と思った時にはすでに遅く、その場にいる全員が瑠衣を驚いた顔で見つめていた。

 

「あ、あー……ははは……」

 

 誤魔化すように笑った瑠衣だったが、適当な言葉が思い浮かばなかったのだろう。

 あー、と視線を宙に彷徨わせた後。

 

「ちょ、ちょっとお花を摘みに……」

「あ、ああ」

 

 曖昧に頷く父を尻目に、瑠衣はそそくさと屋敷の中へと消えて行った。

 

「あ、姉上、どうしたんでしょう」

「むう、近くに花屋などあっただろうか!」

「え? ……え?」

 

 息子達の会話を聞き流しながら、槇寿郎は瑠衣の消えた先をじっと見つめていた。

 それから、空を見た。透き通るような青空の向こうに、何かを探すように目を細めた。

 ぼそ、と口の中で何かを呟いたが、それが息子達の耳に届くことはなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣は、戸惑っていた。

 目の前――表現としては間違っているが、感覚としてはそうなる――の、この自分と同じ容姿をした少女は、いったい何なのだろうか、と。

 自称姉、だ。少なくとも自分ではそう言っている。

 それもちょっと受け止めきれていない面もあるが、今はとりあえず。

 

「父様達の前で話しかけるのはやめてください!」

『父様達ニハ聞コエテナイヨ?』

「そういう問題じゃありません!」

 

 (くりや)の端、いわば煉獄邸の中で瑠衣が主とも言うべき場所で、瑠衣は「姉」と話していた。

 話していると言っても、姉の姿は現実には存在しないので、端から見ると瑠衣の独り言だ。

 もしこの場面を父や兄に見られたら、瑠衣は包丁で喉を突いて死ぬかもしれない。

 

『マアマア、ソンナコトヨリサ。ソロソロオ昼ノ支度シタ方ガ良インジャナイ?』

「え? もうそんな時間ですか」

『私アレガ良イナア。オ米ヲ丸メルヤツ』

「もしかして、おむすびのこと言ってます?」

 

 おむすびと言えば柚羽を思い出す。

 榛名と一緒に、今は蝶屋敷にいる。

 禊は物凄く嫌そうな顔をしていたが、上弦の肆討伐の報告に行った時、喜んでくれた。

 鬼狩りという厳しい世界では、いろいろな意味で友人は得難い。

 そういう意味では、瑠衣は幸運なのだろう。

 

「とにかく、せめて外では話しかけないでください」

 

 先程のように、つい口に出してしまうかねない。

 1人でいる時には良いが、家族や同僚の前でそうなってしまうと、奇妙な目で見られてしまう。

 いや、瑠衣個人がそう見られるのは良い。瑠衣が自分で耐えて、払拭すれば良いからだ。

 しかし瑠衣は煉獄家の娘だ。瑠衣の()()で家名に傷をつけることは出来ない。

 

 瑠衣としては、それが一番怖かった。

 だから、この姉と外で会話することは避けなければならない。

 まかり間違っても、他人に知られるわけにはいかない。

 何としても、隠し通さなければ。

 

『エー、デモサア』

 

 瑠衣がそう考えていると、実に気軽な様子で、姉は言った。

 

『父様モ兄様モ、私ノコト知ッテルヨ?』

「え?」

 

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 今、この姉は何と言った?

 父と兄が、瑠衣の中にだけ存在する姉の存在を、知っている?

 それは、まさにこれまでの前提をひっくり返すほどのもので。

 

「…………え?」

 

 姉が放ったその言葉に、瑠衣は言葉を失ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 習慣というのは恐ろしいもので、気が付いた時には昼食の用意が済んでいた。

 そして大皿3つに山と積み上げられたお握りを持って行けば、何やら庭が賑やかだった。

 

「あっ、瑠衣さん! こんにちは!」

「……こんにちは」

 

 炭治郎がいた。隣に善逸もいて、ぺこりと頭を下げて来た。

 そう言えば、2人は蝶屋敷だけでなく煉獄邸でも鍛錬をしているのだった。

 どうやら、任務帰りにわざわざ挨拶に来てくれたらしい。

 瑠衣から見ても、出来た子供だと思う。

 

「竈門君、お昼ご飯は食べましたか? 良かったら……」

 

 振り向いた時、猪頭の少年が顔中に米粒をつけていた。

 両頬を大きく膨らませてモゴモゴしている。

 しばらく見つめ合っていたが、彼――伊之助が、ごくんと口の中の飲み込んだ。

 

「――――なかなか美味いな! アオイの次くらいにな!」

「えーと、どうもありがとう?」

「おう!」

「伊之助」

 

 ゴス、と、鈍い音がした。

 炭治郎が当て身を喰らわせた音で、伊之助が青い顔でその場に崩れ落ちた。

 それでも両手のお握りを放さないあたり、執念を感じる。

 

「人の食べ物を取っちゃダメだ」

「て、てめえ……」

「はっはっはっ! 瑠衣の料理は美味いからな、気持ちはわかるぞ猪頭少年!」

 

 杏寿郎が来て、ドキッとした。

 脳裏に浮かぶのは、先程の姉の言葉だ。

 本当に杏寿郎は、あの姉を名乗る誰かを知っているのだろうか。

 

 聞いてみたいと思うが、今はタイミングが悪かった。

 夜に聞こうと、そう思った。

 何しろ普段から賑やかなのに、炭治郎達まで加わると余計にだ。

 

「あー、もうメチャクチャだよ」

 

 その輪の外から一人外れて、善逸が毒吐いていた。

 彼は元々修行好きでもないし、伊之助のように食い意地が張っているわけでもない。

 それでも生来の付き合いの良さか、あるいは押しの弱さか、こうして一緒に煉獄邸に来ている。

 

「チュンッ、チュンッ!」

 

 その時だった。一羽の雀が飛び込んで来た。

 足には手紙を持っていて、報せを持ってきたらしかった。

 鎹鴉は通常、名前の通り鴉が行うが、善逸の鎹鴉は何故か雀だった。

 善逸自身それについてはかなりの疑問だったが、実際仕事はきっちりしてくれるので、その点では文句のつけようも無かった。

 

「獪岳が……!?」

「え?」

 

 そして手紙を見た善逸の口から発された名前は、瑠衣も良く知るものだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 引退した剣士が鬼殺隊本部に来ることは珍しい。

 

「じーちゃん!」

「おお、善逸……ではない! 師範と呼べ!」

 

 理由は様々だ。

 自分の存在が現役の剣士達の邪魔になると考える者。多くの仲間が死んでいった中で自分だけ生き残ったことを恥じる者。遠方で弟子を育てていて時間が取れない者。

 元鳴柱である桑島――善逸の育手でもある――も、引退後は直接足を運ぶことが無かった1人だった。

 

 小柄で立派な口髭があり、頬に大きな傷があるので、一見すると厳格そうに見える。

 しかも右足は義足で、全身で「歴戦」を体現している人物だった。

 だが善逸が駆け寄ると、厳格そうな強面の顔が少し緩んだような気がした。

 最もそれは一瞬のことで、すぐに厳格さの中に消えてしまったが。

 

「そんなことより、じーちゃん! どういうことだよ、獪岳が……()()が逮捕されたなんて!」

「馬鹿者! 情けない声を出すな!」

「だ、だってさあ」

「だっても何もあるか! 獪岳は、大丈夫じゃ」

 

 あれが、善逸の先生か。

 急に走り出した善逸を心配して、炭治郎と伊之助も追いかけてきていた。

 まあ、伊之助は「別に心配とかしてねえ!」だの「親分だからな!」だのと言いそうだが、何だかんだついて来るのが彼らしいところだろう。

 

「あ、そうだじーちゃん。この2人は俺の同期で、こっちが炭治郎。こっちの変なのが伊之助あいたあっ!?」

「竈門炭治郎です。よろしくお願いします!」

 

 伊之助に噛み付かれている――猪の被り物をしていてどうやって噛んでいるのかは定かではないが――善逸を尻目に、炭治郎は礼儀正しく腰を直角に曲げて挨拶をした。

 その際、禰豆子の箱が桑島の目に留まった。

 

「そうか。キミが鱗滝の言っていた子か」

「鱗滝さんをご存じなんですか?」

「まあ、腐れ縁じゃな。あいつとは……」

 

 鱗滝は、炭治郎に剣技と呼吸を教えた元・水柱だ。

 現水柱の師でもあり、その意味では育手としても優れた成果を出していると言える。

 ここ数年は弟子のほとんどが最終選別を通過できないことが続いていたが、それは炭治郎が()()した。

 

 ただ、炭治郎の後に誰かを育てているという話もないので、もしかしたら育手としても引退を考えているのかもしれない。

 実のところ、それは桑島も同じようなものだった。

 善逸。そして善逸の兄弟子にあたる獪岳を育て終えたところで、桑島も弟子を取るのをやめている。

 それは、この2人で雷の呼吸の継承が()()()と判断したからだったのだが――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 逮捕と言っても、別に牢屋に入れられるわけではない。

 あの竈門兄妹でさえ、縛られはしたが幽閉されることは無かったのだ。

 もっともそれは、単純に逃げ場が無い、という現実的な理由もあるのだが……。

 

「…………」

 

 だから獪岳も、与えられた部屋の真ん中で正座した体勢のまま、動けずにいた。

 本能は「逃げるべき」だと言うのだが、理性は「どこへ? どうやって?」と冷静に告げて来る。

 そもそも何故、彼がここに拘束されているのかと言うと、刀鍛冶の里での行動が原因だった。

 

 獪岳の刀鍛冶の里での、特に鬼の襲撃があった後の行動が問題視されているのだ。

 具体的にいうと、小鉄達を小屋に閉じ込めた件だ。

 その直後に小鉄達は金魚の化物に襲われたが、外にいたはずの獪岳は無事だった。

 縁壱零式がなければ、小鉄達は死んでいただろう。

 

(……どうする……)

 

 そればかりが脳内を巡るが、妙案はない。

 弁明の機会が与えられれば、もちろん無実を訴えるが、それが通る保証はない。

 そしてもし、もし柱臨席の上での場だった場合。

 

(もしも、()()()がいたら……!)

 

 全身から、脂汗が引かない。

 悪い想像ばかりが先行してしまって、次から次へと止まらない。

 逃げ出したい。でも逃げられない。その事実が獪岳を追い詰めていた。

 

「失礼いたします」

「……ッ」

 

 その時だった。

 静かな声と共に襖が開いて、そこに白髪でおかっぱの和服美少女がいた。

 彼女は感情の読めない微笑を顔に貼り付かせたまま、獪岳をじっと見つめていた。

 居心地の悪さを感じていると、彼女は抑揚のない声音で、こう言った。

 

「面会の方がいらっしゃいました」

「面会だと?」

 

 面会と聞いてまず思い浮かんだのが、師である桑島の顔だった。

 ただあの老人が、不祥事を起こした弟子の顔を見に来るとも思えなかった。

 自分の性格を知っているなら、なおさら来ない。そう思った。

 では誰だろうかと訝しんでいる間に、襖がさらに大きく開いた。

 

「お前……」

 

 そこにいた面会者に、獪岳は露骨に顔を顰めた。

 というのも、そこにいたのは、考え得る限りいてほしくない()()の内の1人だったからだ。

 露骨に嫌そうな顔をする獪岳の、しかしその相手は表情を動かさなかった。

 

「……獪岳」

 

 そこにいたのは、瑠衣だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣と獪岳は、いわゆる同期だった。

 同じ最終選別を突破し、同時に鬼殺隊への入隊を果たした。

 ただ、仲はあまり良いとは――主に獪岳が攻撃的なために――言えない。

 

 というより、炭治郎達のように強く結びつく方が実は珍しいのだ。

 鬼殺隊士は基本的に孤軍奮闘を知られる上に、横の繋がりを深める前に死んでしまうことが多いからだ。

 そして長く生き残る剣士は自信が強くなる傾向があり、ますます他人を頼らなくなっていく。

 実力主義だからこその弊害だ。柱でさえ、意図はどうあれそういう傾向はある。

 

「何しに来たんだよ、()()()

 

 獪岳の特徴の1つとして、人の名前を呼ばないというのがある。

 これは相手を認めていないという意思表示であり、近付くなという威嚇でもある。

 わかってはいるが、心に波立つものを感じずにはいられない。

 瑠衣をして、そうだった。

 

「わざわざ笑いに来たのか? 暇なこったな」

「……思ったよりも、お元気そうで」

「はっ! まさかブルブル震えて泣いてるとでも思ったのか? そりゃあ残念だったな」

 

 言葉の全てに棘がある。

 まるでハリネズミだと、そう思った。

 

「お館様に呼ばれたんです」

 

 しかし瑠衣がそう言うと、獪岳は黙った。

 善逸の雀が獪岳のことを報せに来たのとほぼ同時に、瑠衣の下へも連絡が来た。

 この場合は瑠衣への報せが遅かったというより、善逸の雀が速かったと褒めるべきだろう。

 

「理由は、説明しなくともわかりますよね。貴方なら」

「……はっ」

 

 桑島と善逸は、獪岳に近すぎる。

 と言って、獪岳と親交のある隊士などほとんどいない。

 だから、瑠衣に()()()()が立った。

 

「俺の処分はお前次第ってわけかよ」

 

 それでも、獪岳の表情から攻撃的な色が抜けることはなかった。

 

「それで? 俺は何をすれば良いんだ。畳に額を擦り付けて拝めば良いのか。どうか俺を庇ってくださいって、靴でも舐めるか?」

「誰もそんなことは言っていませんよ」

「そういうことだろうが! 見下すんじゃねえ! 良いか、俺は……」

 

 瑠衣を指差して、憎々しさすら目に浮かべて、獪岳は言った。

 

「俺はお前に助けられるくらいなら、死んだ方がマシなんだ!!」

 

 思えば、最初からそうだった。

 最終選抜で初めて出会った、あの時から。

 瑠衣と獪岳の関係はこじれにこじれてしまっていて、解きようなど無かったのだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――最終選別。

 1年中藤の花が咲いて枯れることが無いという藤襲(ふじかさね)山に入り、七日七晩生き残るというのがその内容だ。

 藤の花の牢獄には生け捕りにされた鬼が何匹も放たれており、まさに命を懸けた試練である。

 育手の下で鍛錬を積んだ剣士見習いの子供達でも、その多くはこの試練を突破できずに命を落とす。

 

「皆様、今宵は最終選別にお集まりくださって有難うございます」

 

 だから白髪の和服の女の子が提灯を手に現れた時、集まった子供達は一様に緊張していた。

 子供達の中には鬼に家族や友人を殺された者も少なくない。

 鬼の強さも怖さも知り尽くしている。

 

「ここより先には藤の花はございません。そのため鬼共がおります。どうかお気をつけ下さいませ」

 

 藤の花の牢獄は山の中腹まで。中腹から山頂にかけては鬼は自由に動ける。

 白髪の女の子2人の間を抜けて、刀を持った子供達が次々に山へと入っていく。

 誰も彼もが緊張に表情を固くし、2人に言葉をかけるどころか、目を向ける者もいない。

 

「ひなき様、にちか様。ごきげんよう」

 

 しかしその中で1人、平然とした様子で2人に声をかける者がいた。

 黒髪を一束ねにして片側に流した少女。顔立ちは、まだ美しさよりもあどけなさの方が強い。

 その少女を目に止めると、2人の女の子――産屋敷ひなきと産屋敷にちかの姉妹は、礼儀正しく会釈をした。

 

「ごきげんよう、瑠衣様」

「端午の節句の宴席でお会いして以来でしょうか。お元気そうで何よりです」

 

 煉獄瑠衣。この時、15歳になったばかりである。

 ひなきとにちかは瑠衣よりもずっと年下だが、2人が年齢不相応に落ち着いているためか、会話にも態度にも違和感が一切なかった。

 容姿と言動のギャップすら打ち消してしまうのだから、末恐ろしい子供だ。

 

「そうですか。瑠衣様も炎柱様の許可を得られたのですね」

「杏寿郎様が選別にいらしたのがつい先日のことのようです」

「しかし煉獄家の御方と言えども、選別においては条件は同じ」

「この山で七日間生き抜く。それが合格の条件でございます」

 

 わかっていると、瑠衣は頷いた。

 鬼殺隊は完全な実力主義だ。鬼狩りの名家だからと目をかけられることは無い。

 信じられるのは、己の腕だけなのだ。

 

「では、ひなき様。にちか様。行って参ります」

「「いってらっしゃいませ」」

 

 話している間に、ほとんどの子供が山に入ってしまっていた。

 だから瑠衣も2人の間を抜けて、後を追うように山に入ろうとした。

 その時だった。

 

「どけよ」

 

 道は広いというのに、後ろから肩をぶつけて来た。

 黒髪の、勾玉の首飾りをつけた少年だった。

 ぶつけられた肩を擦っていると、ふんと鼻を鳴らして先に山へと入って行った。

 見下すような視線からは、謝罪の意思など微塵も感じなかった。

 

「ええ、何あいつ。怖……」

 

 瑠衣の最終選別は、出だしから雲行きが怪しかった。




最後までお読みいただきありがとうございます。

というわけで、次回から回想です。
瑠衣の最終選別。獪岳との出会いを書いて行きたいですね。

それでは、また次回。


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第39話:「父娘」

 ――――ひなきとにちかと会うのは、思えば随分と久しぶりな気がした。

 獪岳との面会を果たした後、別室でのことだった。

 当初はお館様に呼ばれていたのだが、実際にいたのは2人の娘だった。

 

「申し訳ございません」

「お館様は病状が悪化したため、私共が代理にて対応させていただきます」

 

 産屋敷一族は、代々短命だ。

 それは瑠衣も良く知っていることだが、人前に出ることが出来ない程に病状が悪いのか。

 脳裏に浮かんだのは、病で少しずつ弱っていく母の姿だった。

 親が弱っていく姿というのは、見ているのも辛い。 

 

「……お館様が快方に向かわれますよう、心よりお祈り申し上げます。ひなき様とにちか様におかれましても、どうかお心を強く持たれますよう」

 

 ただ、ひなきとにちかが余りにも無表情で淡々と告げて来るので、瑠衣としても型通りのことしか言えなかった。

 しかしそうでなかったとしても、かけるべき言葉など見つけようも無かった。

 母の時も、最後には何も出来なかった。

 

「ありがとうございます」

「それでは、瑠衣様。獪岳様との面会を経てのお考えをお聞かせ願います」

 

 獪岳との面会――あれを面会と言って良いのかはともかく――は、散々なものだった。

 相手は終始瑠衣を罵倒してきたし、瑠衣としても今さら獪岳の印象が好転することも無い。

 ()()()()

 一言で言えば、そういうことなのだろう。

 

 しかし一方で、獪岳が拘束されたと聞いた時は驚いたものだ。

 あれで獪岳は世渡りが上手い。手も早いが口も回る。

 その時々で何が利益かを考える地頭もある。

 それが拘束とは、とんだ()()をしたものだと、そう思ったのだ。

 

「彼は……獪岳は」

 

 その獪岳が、自分に対しては剥き出しの「我」を見せてくる。

 思えばそれは最初からで、だから後になって隠す必要が無かっただけなのかもしれないが。

 

「鬼殺隊士・獪岳様が」

「告発の通り鬼に与していたのか、どうか」

「「ご教授願います。瑠衣様」」

 

 ひなきとにちかの声が、重なって聞こえた。

 他の3人もそうだが、産屋敷家の5人の子ども達は本当に良く似ている。

 声も姿も。あるいは、わざとそうしているのだろうか。

 煉獄家(自分の家)とは違うなと、場違いなことを考えてしまった。

 

「「瑠衣様」」

 

 先を促されて、瑠衣は2人を見た。

 そして数秒の後、瑠衣は告げた。

 獪岳の、同期の運命を決めるだろう言葉を。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 藤襲山に閉じ込められた鬼は、藤の花の結界で外に出ることが出来ない。

 最終選別に参加する者にとって、それは「あること」を意味していた。

 

「久方ぶりの人肉だ!」

 

 と言っても、子ども達の多くはそのことに気付いていなかった。

 そのことに気が付くのは、山に入った直後だ。

 すなわち、何日も食糧(人間)を断たれて、飢えた鬼を前にした時に、だ。

 

 飢えた鬼の多くは中腹――藤の花の境界線、つまり最終選別の子ども達が入って来る場所――に張っている。

 別々の場所から集まった子ども達は集団で行動しようとはいない。すぐに1人になる。

 そうして1人になった子どもに鬼は殺到する。腹が減っているからだ。

 

「う、うわああああっ!?」

 

 中には、不幸にも複数の鬼に襲われる者もいる。

 実戦経験のほとんど無い彼らにとって、これは致命的だった。

 ただでさえ怯えと緊張で本来の実力が発揮できないのに、獣じみた表情の鬼に飛び掛かられれば、パニックに陥る。

 そしてこの状況で冷静さを失えば、即座に命を落としてしまうだろう。

 

「だ、誰かっ……! 助けてえええええっ!」

 

 もちろん、助けなど来ない。

 ()()()()()

 

「ゲハハッ。助けなんて来」

 

 るか、という自分の声を、鬼は()()聞いた。

 加えて言えば、視界が逆さまになっていた。

 ()()()()()()()()()()

 

「は?」

 

 と疑問の声を上げた次の瞬間、その鬼は塵となって消えた。

 鬼が最後に見たのは、刀を鞘に納めている黒髪の少女剣士の背中だった。

 

「な、何だてめ」

 

 図らずも狩りの相棒となったもう一体の鬼も、次の瞬間には頚を飛ばされていた。

 頚が()()と感じた直後には、もう頚だけで地面を転がっていたのだった。

 

「す、すげえ……」

 

 襲われた子どもは、呆然とした表情でそれを見ていた。

 そして彼女が納刀する段になって、自分が未だに腰を抜かした体勢のままであることに気付き、急に恥ずかしくなった。

 慌てて立ち上がったが、しかし少女はスタスタとどこかに歩き去ろうとしていた。

 

「ま、待って!」

 

 声をかけられると、少女は足を止めてくれた。

 ほっとしたのも束の間、続けるべく言葉に詰まってしまった。

 少女が、何の感情も読めない表情で自分を見ていたというのが1つ。

 そして、不意に満面の笑顔を向けて来たのが2つ。

 

「どうも!」

 

 と、朗らかに言われたのが3つ。

 その3つを前にして、何も言えなくなってしまったのだ。

 そして再び背中を見せてどこかへと歩き去っていく少女に、今度は声をかけることが出来なかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 最終選別において、最も重視されるものは何か。

 鬼の頚を斬る力?

 鬼と遭遇しないこと?

 実を言えば、そのどちらでも無い。

 

「父様たち、ちゃんとご飯食べてるかな」

 

 バチバチと焚火で川魚を焼きながら、瑠衣はそんなことを呟いた。

 陽の光の下、石で組んだ竈の前に座り、魚が焼けるのを待っている。

 たまに魚の向きを変える以外には、何をしているでもない。

 

 それもそのはずで、今は昼間だ。

 鬼が活動する時間ではないし、7日目ともなれば狩られる鬼はすでに狩られている。

 とは言え、もう小一時間もすれば太陽が沈み始める。

 言うなればこれは、最後の夜に向けての腹ごしらえというところだ。

 

「お米があれば良かったんだけど」

 

 開始時点の説明を聞いて、ピンときた者が何人いただろうか。

 7日7晩の最終選別。合格条件は()()()()()ことだ。

 鬼を狩り尽くすことでも無ければ、剣技の優劣を決めることでも無い。

 7日の間、()()()()せずに生き残ること。実はこれが最も難しいのだった。

 

「ふわーあ。流石に眠くなってきたなあ」

 

 それから、睡眠。

 夜は眠れない上に、山中だ。鬼が陽光から身を隠す暗がりはいくらでもある。

 昼間だからと安心していると、暗がりに引き込まれて喰われてしまうだろう。

 だから瑠衣も、頭上に木々のない開けた場所で休んでいるのだ。

 瑠衣は1週間くらいなら眠らずに活動できるよう訓練しているが、他の子ども達はどうだろう。

 

 コン、と音がした。

 

 音がした方に目を向けると、当たり前だが、川辺が広がっていた。

 丸い石がいくつも転がっているが、音を立てるような物があるようには見えなかった。

 意識は、そうだった。

 だから、そこから先の動きは無意識。反射だった。

 

「うわっ」

 

 反射的に片手をついて側転したが、川石が滑ってバランスを崩してしまった。

 そのために着地を失敗し、半身を川の水で濡らしてしまった。

 水が跳ねる音と同時に聞こえて来たのは、何かを振り下ろして空を切る音だった。

 その「何か」を捉えたのは、その後だった。

 

「ちっ!」

 

 まず聞こえて来たのは、舌打ちの音だった。

 そして舌打ちに相応しい苦々しい表情。

 黒髪の少年が日輪刀を――いちおう、鞘には納めているが――振り下ろしていた。

 瑠衣は、その少年に見覚えがあった。

 ――――入山の時に肩をぶつけて来た、あの少年だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 外した、と、黒髪の少年――獪岳は、舌打ちした。

 小石を投げて注意を逸らして、タイミングも完璧だったはずだ。

 それでも外したのは、獪岳が獲物(瑠衣)の速さを見誤っていたということだ。

 

「貴方で2人目です」

「ああ?」

「いえ、3人目だったかな。たぶんですけど」

 

 瑠衣は立ち上がったが、身は低くしたままだった。

 自分よりもずっと小さく見える相手に、獪岳は肌のピリつきを感じた。

 意味のない会話をしながらも、彼の直感が、その動きに何かしらの脅威を覚えていた。

 そしてそれは、次の瞬間に現実のものとなる。

 

「私のご飯を()りに来たのは」

 

 一瞬、瑠衣の姿がブレた。

 そう思った直後、激しい水音が聞こえた。

 それは川の水が爆ぜた音で、音が遅れて聞こえて来たような気がした。

 身を低くした瑠衣が足元に現れて、獪岳は目を剥いた。

 

「なあ……ぐあっ!?」

 

 目では追えたが、驚愕が身体を硬直させた。

 その間に瑠衣は獪岳の襟を掴み、柔道の投げ技のようにその身体を地面へと倒した。

 頬を強かに地面に叩き付けられて、獪岳は呻いた。

 下手を打った。

 そう思っていると腕を捻り上げられて、あまつさえそのまま危ない方向に。

 

「ちょっ、待て待て待てっ!」

「はい?」

 

 顔を地面に押し付けられたまま、何とか後ろを見上げると、瑠衣が「何ですか?」と言わんばかりの表情で腕を捻り上げていた。それもかなり危険な方向に。

 

「それ、折れるだろうが!」

「折ろうとしていますので」

「いますので、じゃねえ! 夜になったら鬼が出るだろうが!」

 

 7日目の夜だ。鬼の数も減っているだろう。

 しかし7日目に残る鬼というのは、7日間斬られずに子どもを喰って来た狡猾な鬼か、あるいは食事にありつけずに飢えがピークに達している鬼だ。

 いずれにしても危険で、まして腕が折れた状態というのは、まさしく命に関わる。

 

「じゃあ、逆に聞きますけど」

 

 小首を傾げるその姿は、いっそ可憐だった。

 

「私を気絶させてご飯を奪った後、私が夜まで目を覚まさなかったらどうするつもりだったんですか?」

「…………」

 

 言われた獪岳は、何も答えることが出来なかった。

 実際、気絶した見ず知らずの少女を守って朝まで鬼と戦うなどという神経は、持ち合わせていない。

 そもそも、そんな神経を持ち合わせているのなら、こんなことはしていない。

 

(それにしたって、こんな平然と折りに来るか普通!?)

 

 獪岳が言うのもおかしな話だが、他人の腕を折ることに少しの躊躇もない。

 しかも鬼のいる山で。

 こいつは普通じゃない、と獪岳が考えた時だ。

 

「た……たすけて……」

 

 か細い声が、獪岳の耳に届いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 川辺に通じる森の出口に、みすぼらしい格好の子どもがいた。

 山中を逃げ回っていたのか、怪我をしているのか、袴は血と泥にまみれていた。

 不意に自分の腕が解放されたことに、獪岳は気付いた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 瑠衣が、その子どもを助けに行ったからだ。

 馬鹿だと思ったが、それを口にする前に、獪岳は森の暗闇から伸びる手に気付いた。

 死角から伸びるその手は瑠衣を掴むかと思ったが、空を切った。

 瑠衣がそれに掴まれる前に、子どもを掴んで後ろに跳んだ。

 

「あいつ、背中に目でもついてんのか……?」

 

 先程の自分の不意討ちの回避と言い、そうとしか思えなかった。

 

「不味いですね。ちょっと」

「はあ?」

 

 ばしゃっ、と川まで後退してきて、言った。

 その時はわからなかったが、獪岳も周囲の異様な空気に気付いた。

 それから、()

 飢えた獣のような、舌なめずりのような、そんな音が周囲から聞こえた。

 

「鬼か……」

「囲まれていますね」

「クソが」

 

 瑠衣は、適当な岩に助けた子どもを寄りかからせていた。

 おそらく選別参加者のはずだが、刀を持っていない。

 そして、川を挟んだ左右の森の中からは複数の鬼の気配。

 ギリギリ生きれる怪我の具合からして、()()として扱われていたのだろう。

 

 しかしそれにしても、鬼がここに集まっているのは何故だ。

 鬼は基本的に群れないはずだ。実際、過去6日間ではこんなことは無かった。

 と、獪岳がそんなことを考えていると。

 

「私達以外の生き残りがいないのでしょう」

 

 瑠衣が普通に言った。

 余りにもあっさりと言ってのけるのを、獪岳の方が耳を疑ったくらいだ。

 

「他に食べ物が無いので、食べ物があるところに来た。(けだもの)の考えることなんて、いつも同じです。そうでしょう?」

 

 皮肉のつもりか、と睨んだが、瑠衣の方は怯んだ様子も無かった。

 ただ岩に寝かせた子どもを背に刀を抜いていて、それについては。

 

「おい、どうするつもりだ」

 

 と、聞いた。

 それに対して、瑠衣はやはり普通に答えた。

 

「助けを求められましたから」

「おい……まさかとは思うが、その足手まといを庇いながら戦る気か?」

「貴方は逃げれば良いじゃないですか」

 

 いちいち癪に障る言い方をしてくる。

 逃げ場など、もはや無いとわかっている癖に。

 

「この人は私に助けを求めました。ならば私は煉獄家の娘として、全力でこの人を助ける責務があります」

 

 責務。そう語る少女の表情を見た時、獪岳は思った。

 やっぱりこいつは、()()()している、と。

 

「我が煉獄の(炎の)赫き技(呼吸)で、すべての鬼を斬り払ってみせましょう」

 

 ――――陽が、落ちようとしていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――翌朝、獪岳の目覚めは最悪だった。

 いよいよ沙汰が下される。そう思えば、寝覚めの悪さもやむを得ない。

 まして、最終選別の時の夢など見ればなおさらだった。

 

「……クソったれが」

 

 用意された朝食も、まともに喉を通らなかった。

 考えるのは、今後の身の振り方だった。

 きっと有罪になる。そういう確信があった。

 告発した刀鍛冶(小鉄)も、そして瑠衣も、自分を庇う利点が無い。

 

 自分を庇う者などいない。見ている者も、きっといないだろう。

 そう思うと、飯が喉を通るはずも無かった。

 最初は恐怖を感じていた。叫び出したいような、裁きへの恐怖。

 しかし次第に恐怖を押し退けて来たのは、怒りだった。

 何故。どうして。という怒りだった。

 

「「獪岳様」」

 

 だがそれも、いよいよという時には、やはり恐怖に負ける。

 白髪の少女2人がやって来ると、身を固くして、身体中から脂汗が流れて止まらなかった。

 

「昨夜は良くお眠りになれましたでしょうか」

「我が家の朝食は、お口に合いましたでしょうか」

 

 それでも、ひなきとにちかが世間話を振って来ると、やはり苛立った。

 人の運命を掌に載せて転がして楽しいかと、趣味の悪さを心中で罵った。

 そして同時に、お館様でも柱でもない、2人の娘を名代に寄越しただけという事実を、怪訝に思った。

 

「……どうやら、私共のお話はお気に召さないようですね」

「それでは、本題に入らせていただきます」

 

 ひなきが、懐から1枚の紙を取り出した。

 書状。あれに獪岳の処分が書かれている。

 己が唾を飲み込む音を、獪岳は確かに聞いた。

 

「獪岳様への沙汰は――――」

 

 

「――――特に、ございません」

 

 無罪です。

 実にあっさりと告げられた己の無罪に、獪岳は一瞬、頭の理解が追い付かなかった。

 

「お手間を取らせてしまいましたこと、誠に申し訳ございません」

「ちょ、いや……何で、俺を訴えた奴らは」

「確かに獪岳様への告発はございました。しかしながら、多くの方が嘆願をお出しになり、そのためお館様も沙汰なしとすることにしたそうです」

「嘆願?」

「はい。元柱の桑島慈悟郎様などが、獪岳様が鬼に与するようなことはあり得ないと」

 

 師範(じじい)が。

 複雑だった。

 最終選別を通ってから、ろくに連絡を取っていなかった。

 自分のことなど忘れているだろうと、そう思ってさえいた。

 

「……など?」

「はい。獪岳様の処分について嘆願された方は、他にも何名かいらっしゃいます。ただ、そちらは名を伏せてくれるようにと言われております」

「…………」

 

 先程とは別の意味で、汗が滲み始めていた。

 思い当たる顔は、いくつかある。

 しかしそのいずれにも、獪岳は救われたいとは()()()()()()

 

「……あいつは?」

「あいつ、と仰いますと」

「昨日来た……」

「瑠衣様ですね」

 

 頷くと、ひなきは「同じです」と答えた。

 

「瑠衣様も、獪岳様の無罪を信じていらっしゃいました」

 

 信じる?

 俺を? あいつが?

 そんなことはあり得ないと、胸中で思った。

 

「お館様よりも言伝がございます」

「獪岳様は、獪岳様が思われているよりも多くの人に……獪岳様?」

 

 あの時、最終選別の時。獪岳は、群がる鬼共を瑠衣と共に蹴散らした。

 共闘するつもりなど毛頭なかったから、別々に勝手に戦って、結果的にお互いが助かっただけだ。

 だが結局、あの時に助けを求めて来た子どもは死んでしまった。

 彼を傷つけた鬼も、元々生かしておくつもりが無かったのだろう。

 

 朝になって子どもが死んでいると気付いた時、瑠衣は悲しんだ風も無かった。

 いや、悲しんではいたが、()()()()()()()()悲しんでいなかった。

 瑠衣はあの時、こう言った。

 

『父様に怒られる』

 

 あいつは、煉獄瑠衣は()()()ではない。

 そのことに、どうして誰も気が付かないのか。

 そしてそんな奴に救われたということが、いかに屈辱か。

 それがどうしてわからないのかと、獪岳は唇を噛んだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 帰宅したのは、昨夜の遅くだった。

 昔を思い出したせいか妙に感傷的になってしまって、何をするにも気もそぞろだった。

 それでもいつも通りの時間に起きて家事をしてしまうあたり、習慣というのは恐ろしい。

 

「行ってらっしゃいませ、兄様」

「うむ! 行ってくる!」

 

 翌日の夕刻になると鴉が来て、杏寿郎が任務のために出立することになった。

 兄の支度を手伝っている間に千寿郎にも鴉が来て、瑠衣は俄かに忙しくなっていた。

 そして頭の片隅で、この自分まで報せが無いのであれば、獪岳は無罪放免だったのだろうと推測していた。

 

「千寿郎も、気を付けてね」

「はい! 行って参ります、姉上!」

 

 兄に羽織をかけた後、弟の隊服の襟元を直した。

 むず痒そうにする千寿郎に微笑を零すと、両手で頭を包むようにして、額にそっと唇を落とした。

 特に意味はない。自然とそうした。

 

「あ、姉上。それはちょっと、流石に恥ずかしいです!」

 

 案の定、千寿郎は恥ずかしがった。

 年頃だし、もう1人前の剣士だしで、色々な意味で気恥ずかしかったのだろう。

 幼い頃に母に同じされた記憶がおぼろげにあって、何となく、真似をしたかったのかもしれない。

 

「……兄様?」

「うむ! 次は俺の番だな!」 

「ええ……」

 

 何を思ったのか、杏寿郎が額を晒して身を屈めて来た。

 他意など全くない――というか、この兄に他意があった試しがないが――様子で、次は自分の番だと信じている様子だった。

 弟の千寿郎はともかく、杏寿郎に同じことをするのは、今度は瑠衣の方が気恥ずかしい。

 しかし、杏寿郎をずっと待たせるのも忍びなくて。

 

「んっ……」

 

 杏寿郎の額に、そっと唇を振れさせた。

 さっと離れた瑠衣の頬は、ほんのりと紅くなっていた。

 

「むう」

 

 杏寿郎はそのままの姿勢で、少し考えた後に。

 

「……面映(おもは)ゆいな! これは!」

「だ、だから言ったじゃないですか!」

 

 言っていない。

 

「お前達、何を騒いでいるんだ」

 

 そこへ、槇寿郎がやって来た。

 瑠衣が肩を跳ねさせたのは、よもや今の場面を見られてやしないかと、心配になったからだ。

 しかし槇寿郎は特に何かに言及することもなく、杏寿郎と千寿郎の方を見た。

 

「杏寿郎、千寿郎。任務だろう。刻限に遅れるぞ」

「はい! それでは父上、瑠衣。行って参ります!」

「行って参ります!」

 

 父と2人で、杏寿郎と千寿郎を見送った。

 それは何となく、珍しいことのような気がした。

 2人が任務に出かけると、屋敷もしんと静かになったように感じられた。

 

 2人――そうか、今夜は父と2人きりかと、ふとそんなことを思った。

 だからどうという話ではないが、それも、やはり珍しいような気がした。

 と、そんなことを考えていると。

 

「瑠衣」

 

 槇寿郎が、瑠衣に話しかけて来た。

 

「すまんが、酒を出してくれるか」

 

 だがその話の内容に、瑠衣は目を丸くした。

 何故なら、父は。

 

「……はい?」

 

 ()()()から、酒を断っていたから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 来客用の酒が残っていて助かった。

 槇寿郎の断酒以降、煉獄家には酒を嗜む者がいない。

 だから普段は出さないのだが、名家なりの備えというものだった。

 

「父様、お待たせしました」

「ああ、ありがとう」

「簡単ですがお刺身も。お夕飯の残りで申し訳ないのですが……」

「いや、十分だ」

 

 父は冷やが好きだった。

 縁側から動く様子がなかったので、瑠衣もそのまま隣に座った。

 お膳ごと手元に置くと、槇寿郎は酒杯に手を伸ばした。

 

「お注ぎします」

「すまんな」

「いえ」

 

 その酒杯に、お酒を注いだ。

 ()()()()と注ぐ音が、心地よかった。

 一息に仰いだ槇寿郎の喉元には、僅かに剃り残した髭が見えた。

 それを見て、瑠衣はほうと息を吐いた。

 

(かわいい……)

 

 空いた酒杯に、次を注いだ。

 静かな夜だった。

 空には綺麗な満月が輝いていて、庭を眺めながら、父と過ごしている。

 幸福な時間だった。

 この世に鬼がいるということを忘れそうだった。

 

「今日」

「はい」

 

 父の言葉は、短いことが多い。

 ただそれは言葉少なということではなく、頭の中では色々と考えていて、口から出てくる分が少ないだけだということを、瑠衣は良く知っていた。

 だから、瑠衣もただ返事を返す。静かに次の父の言葉を待った。

 そうしながら、時折、空いた酒杯にお酌をした。

 

「お館様から、正式にお許しが出た」

「はい」

「引退する」

 

 はっとした顔で、槇寿郎の横顔に視線を向けた。

 驚いた。

 しかし、納得もした。

 だから酒をと、そう言ったのか。

 

「おっと」

「あっ、ごめんなさい」

 

 酒杯から酒が溢れてしまった。

 槇寿郎は慌てて酒杯に口をつけて、瑠衣はお酒を置いて、槇寿郎の手を拭いた。

 布越しに、ゴツゴツとした、節くれだった手を感じた。

 

 この手が今まで、どれ程の多くの命を救って来たのだろう。

 幾百、幾千。いや幾万の鬼を斬って来たのだろう。

 そう思うと、胸の奥からこみ上げてくるものを堪えることが出来なかった。

 

「長らくのお勤め、本当に、えっと」

 

 父の手を握ったまま、上手く言葉を紡ぎ出せなかった。

 人は、いざという時は口下手になってしまうのかもしれない。

 

「ありがとう」

 

 父の言葉は、やはり短かった。

 

「炎柱は、杏寿郎が継ぐ」

「はい」

「杏寿郎なら、立派な炎柱になるだろう」

「はい」

 

 生きて鬼狩りを引退できる者は、そう多くはない。

 まして鬼狩りの名家・煉獄家となれば、なおさら稀有な例だ。

 

「でしたら、これからはずっとお家にいらっしゃるんですね」

 

 引退するということは、当たり前だが、任務(鬼狩り)には行かないということだ。

 余生を、というと大げさかもしれないが、家で静かに過ごすのだろう。

 もちろん隊士の鍛錬をしたり、小さな役目を頂いたりはあるかもしれない。

 けれど、もう現場に出張ることはない。

 危険な鬼狩りなどをすることは無くなるのだ。

 

「…………」

「父様?」

 

 酒杯を手の中で弄ぶ父に、声をかけた。

 遠い目で何かを考えている様子だった。

 今までの鬼狩りの人生を振り返っているのだろうか。

 そんな瑠衣の視線に気が付いたのか、槇寿郎が視線を動かした。

 

「後のことは、任せても良いか?」

 

 その言葉を聞いた時の気持ちを、どう言い表せば良いのだろう。

 言葉で説明できる類のことではなかった。

 空いた酒杯に、慌ててお酒を注いだ。

 

「はい……っ、はい! どうぞ、お任せ下さい。兄様も、千寿郎も、より一層煉獄家を盛り立ててくれるでしょう。及ばずながら瑠衣も、頑張ります。だから安心して、ゆっくり、お休みください……!」

「そうか……安心した」

「はい!」

「ああ、本当に」

 

 本当に、油断すれば涙が零れそうな程に、瑠衣は感極まっていた。

 ようやく槇寿郎に認めて貰えたような気がして、心の底から「頑張ろう」と、そう思えた。

 

「……安心した」

 

 この時、瑠衣は今までの人生で一番、幸福だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 久しぶりに抱いた娘は、随分と重くなっていた。

 はしゃぎ過ぎたのだろう。気が付いたら槇寿郎の膝に頭を乗せてうたた寝を初めていた。

 呼びかけても起きる様子が無かったので、そのまま抱き上げたのだった。

 子供の成長というのは、こういう時に感じるのかもしれない。

 

「……ととさま……」

 

 自室に運び、布団に寝かせると、昔の呼び方でしがみついて来た。

 寝ぼけて幼児返りでもしているらしい。

 こちらの着物を掴む手を外したあたりで、槇寿郎の動きがはたと止まった。

 着物を着たまま寝かせて良いものかと思ったが、それこそ幼児ではないのだから、自分が着替えさせるわけにもいかない。

 

 まあ、良いかと諦めて、そのまま座った。

 それからしばらく、娘の寝顔を眺めていた。

 瑠衣はあどけない顔で寝息を立てていて、こうして見ると、まだ子供のように思えた。

 思えば、昔はこうして良く子供達の寝顔を無心に眺めていたものだ。

 不思議といつまでも見ていられた。妻が呆れていたのを良く覚えている。

 

「ん……」

 

 やはり着物が寝苦しいのか、瑠衣は身体を横に向けた。

 襟元から覗く白い喉元が、緩やかに上下している。

 それを見つめて、槇寿郎は何事かを考えていた。

 

「…………」

 

 そっと手を伸ばして、その喉元に指先を振れさせた。

 温かい。生きているのだから、当たり前だった。

 指先から、娘の呼吸の音を感じる。

 多くの親にとって、それはきっと、幸福の音だろう。そう思った。

 

 しばらく、そのままでいた。

 すうすうと安堵の表情で眠る娘の顔を見つめながら、喉元に触れ続けていた。

 時計の音が、やけに部屋に響いていた。

 そして、槇寿郎が僅かに指先を動かした時だった。

 

「父様」

 

 不意に、瑠衣の唇が動いた。

 槇寿郎の動きが止まった。

 すると、瑠衣がゆっくりと目を開けた。

 ただその瞳は、月明かりに輝いているように見えた。

 

「父様、モシカシテ」

 

 ()()()の、瑠衣だった。

 彼女は槇寿郎の手に自分の手を重ねると、ゆっくりと撫でた。

 その瞳は、静かに槇寿郎を見つめていた。

 

「モシカシテ、私ヲ――――瑠衣ヲ」

 

 それを、槇寿郎は静かに受け止めていた。

 

「私達ヲ、殺シタイノ……?」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 人知れず獪岳の裁判が行われた、翌日。

 ある一報が、鬼殺隊全体に衝撃を与えた。

 

「え?」

 

 その報に触れた時、誰もがまず同じ反応をした。

 驚き、訝しみ、鴉に問い返した。

 しかし鴉は、同じ内容を復唱した。

 曰く。

 

 

 ――――煉獄槇寿郎、出奔す――――




最後までお読みいただき有難うございます。

何と言えば良いのか、主人公って苦しんでなんぼですよね(下種の発想)。
自分で生み出しただけに瑠衣の傷つくポイントがわかるというか(下種の極み)。
でもだからこそ、それを乗り越えた時の感動があると思うんですよ(下種の眼差し)。

それでは、また次回。


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第40話:「変化の兆し」

 その部屋には、薬品の匂いが漂っていた。

 実際、棚にはラベルの貼られた小瓶が何十と並べられており、机には試験管やフラスコといった実験器具、そして本棚には医学書らしき洋書がずらりと収められていた。

 そして部屋の中心には、とある女性がいた。

 

 長い黒髪を簪で留め上げた、美しい女性だった。

 血の気のない白磁の肌。しかし不健康というより、儚さの方が勝っていた。

 白衣姿。そして下には暗い色合いの着物が覗いている。

 そのせいか、淑やかで落ち着いた印象を受けた。

 

「……これは……」

 

 その女性は何かを調べている最中だったのか、顕微鏡を覗いていた。

 彼女は顔を上げると、手元の筆記帳に何かをさらさらと書き記していった。

 それから(ページ)を何度か()り、また戻った。それを2度ほど繰り返した。

 形の良い眉を考え込むように寄せて、口元に手を当てた。

 数分そうしてから、彼女は椅子の背もたれに手を当てて、声を上げた。

 

愈史郎(ゆしろう)

 

 瞬間だった。

 ドタバタと騒がしい音が――何だか階段を転げ落ちた時の音に似ている――したかと思えば、その音は部屋の前でいったん止まった。

 そこで何故か数秒の間が空いた後に、それまでの音に比べれば随分と控えめにノックがされた。

 女性が入室を許すと、部屋の扉が開いた。

 

「お呼びですか、珠世(たまよ)様」

 

 努めて平静を装っている、そんな声音だった。

 書生が着るような袴を身に着けているが、手に持っているのは掃除用具(はたき)だった。

 どうやら別の部屋の掃除をしていたらしいが、仮にそうだとすれば、先程の女性――珠世というらしい――の声量で、よくも聞き取れたものである。

 ()()()()()()()()

 

「ちょっと、これを見てくれるかしら」

「はい」

 

 珠世に促されて、愈史郎は先ほど彼女がしていたのと同じように、顕微鏡を覗き込んだ。

 しばらくの間ピントを調整しつつ観察していたが、不意に、はっとした表情で顔を上げた。

 

「珠世様、これは……!」

「ええ」

 

 おそらく自身と同じ結論に達しただろう青年に、珠世は頷いて見せた。

 

()()()()()()()()()

 

 チュンチュンと、小鳥の鳴く音が聞こえて来た。

 窓はすべて分厚いカーテンで仕切られていて、外の様子は窺えない。

 小鳥の鳴き声だけが、彼女達に夜明けを教えてくれたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 柱の人数が、8人になった。

 そしてすぐに、9人になった。

 

「それでは、煉獄杏寿郎様を正式な柱として――――炎柱として認めます。鬼殺隊を支える柱として、より一層のお力添えをお願い致します」

「はっ、拝命いたします!」

 

 夫の代理として柱合会議に出席したあまねが就任の文書を読み上げると、杏寿郎が大きな声で返答した。

 杏寿郎が立っているあまねに膝をついていて、他の8人はそれを後ろから見守っている、という状況だった。

 いつかこの日が来ることは誰もがわかっていた。が、()()()()になるとは考えていなかった。

 

(杏寿郎さん、緊張してて可愛いわ! でも……)

(……槇寿郎殿がこの場にいないとはな)

 

 煉獄槇寿郎が正式に炎柱の地位を返上し、その息子・杏寿郎が後任の炎柱を襲名する。

 煉獄家の長い歴史の中でも、生きて継承が行われる事例は稀だ。

 そして煉獄家と少なからぬ関りを持つ甘露寺そして伊黒にとって、それは僅かの寂しさと大きな喜びで迎えるべき出来事のはずだった。

 しかし今、2人の胸中は複雑なものとなっていた。

 

 先代炎柱の槇寿郎が、鬼殺隊を出奔したからだ。

 引退した身なのだから、何をするも自由だろう――――と言うには、槇寿郎は余りにも大き過ぎた。

 鬼殺隊にとって、重すぎた。

 それに加えて甘露寺と伊黒は、杏寿郎と、そしてその弟妹の心を慮って止まなかった。

 

(失うべきない人を失った時、人は変わる。変わってしまうものですが……)

(俺の親父は最低だったが、煉獄のおっさんはそういうタチじゃなかったからな)

 

 宇髄としのぶは、2人ほど感傷的ではなかった。

 ただ、人が変わる、という点において敏感だった。

 しかし背中を眺める限り、杏寿郎に変化は見られない。

 もちろん、内心など外側からわかるはずもないのだが。

 

「……南無阿弥陀仏」

「…………」

 

 悲鳴嶼と冨岡は、さらに難しい。表情がまともに動かないからだ。

 片方は氷のような無表情で、もう片方は常に涙を流しているが、何を考えているのかはわからない。

 

(父親、か)

 

 以前であれば空を眺め、雲や鳥を追っていただろう時透は、地面に目を伏せていた。

 そして、もう1人。

 

(まあ、父親に関しちゃ俺がどうこう言えやしねェが)

 

 不死川が考えていたのは、目の前の新たな炎柱のことでは無かった。

 いつだったか、自分に娘を「頼む」と頭を下げて来た槇寿郎と、その後ろに立っていた娘のことを思い出した。

 今まで特に思い出すことも無かったのに、何故か今、唐突に思い出した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 千寿郎は今まで、己の出自というものに拘ったことは無かった。

 それは、基本的には美徳だろう。

 しかし逆に言えば、無頓着だったとも言える。

 今まで、自分が()()()()()()()()()、ということに。

 

「おい……」

「あいつが……」

 

 鬼殺隊の隊舎を歩いていると、そこかしこから視線を感じるようになった。

 以前はそんなことはなかったし、あったとしても、こんな風にチクチクと肌を刺すようなものでは無かった。

 誰もが千寿郎に親切だったし、声をかけてくれた。

 

「あ、あの」

 

 だが、今はどうだ。

 千寿郎が声をかけると、誰もが言葉を濁して、そそくさと離れていく。

 ほとんどは愛想笑いを浮かべて。そして中には、負の感情を隠そうともしない者もいた。

 千寿郎は、困惑していた。

 

 周囲の人間の態度が変わったことはわかる。あからさまだったからだ。

 わかるが、しかしその理由がわからなかった。

 考えられることは、父の出奔だろう。

 けれどそれは、周囲の人間には関係ない……はずだ。

 

『しばらく家を空けるが心配するな』

 

 父が残した書き置きには、そんな趣旨のことが書いてあった。

 急なことだったし、動揺しなかったと言えば嘘になる。

 しかし兄は何も言わなかったし、父も1人になって何かやりたいことがあったのかもしれない。

 気長に父の帰りを待とう。そう気を取り直して、隊士の職務に戻った。

 それで、()()だった。

 

「煉獄君!」

 

 すると、千寿郎の声をかけてくる者がいた。

 振り返ると、同期の2人――知己と兵藤――がいて、兵藤が千寿郎に駆け寄り、知己は軽く手を上げて来た。

 

「煉獄君、その、大丈夫?」

 

 遠慮がちに聞いて来る少女に、千寿郎は己を叱咤した。

 女性に心配をかけるような顔を、自分はしていたらしい。

 だから千寿郎は、努めて笑顔を浮かべて見せた。

 

「はい、僕は大丈夫です!」

 

 素直だなあ、と、知己は思った。

 千寿郎は、人の()()()()()というものを知らないのだ。

 無理もないと、知己は思う。これまでの千寿郎は、人に恵まれ過ぎた。

 

 ちらと周囲を窺えば、隊士達が刺すような視線を向け、ヒソヒソと何事かを囁きあっていた。

 しかも今度は千寿郎だけでなく、彼に駆け寄った兵藤にも、だ。

 何という卑屈さ。そして悪意。

 

(人間というのは、どこでも同じか)

 

 鬼を倒し人を救う。

 立派なお題目だが、お題目で人は変わらないというのも、また真実だろう。

 

「でも……」

「本当に大丈夫です」

 

 なおも心配する兵藤にそう言った。実際、千寿郎は嘘は言っていなかった。

 知己達が変わらずに接してくれることが、嬉しかったからだ。

 そして、だからこそ彼が心配したのは、自分のことでは無かった。

 兄も、多分、大丈夫。けれど。

 

「僕よりも、姉上の方が……」

 

 姉は、()()()()()()()()

 思ってはならないことだったが、そう思ってしまった。

 父が出奔したと聞いた時から、姉は……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 人の良さという意味なら、炭治郎も千寿郎と良い勝負だっただろう。

 ただ炭治郎は、千寿郎より真っ直ぐで、剛直だった。

 だから周囲の人間の変化に対しても、戸惑いよりも憤りの方が強かった。

 

「やっぱり、反乱だって!」

「シッ! 声が大きいんだって、お前……!」

 

 道行く隊士達は、好き勝手な噂話に花を咲かせている。

 槇寿郎の出奔直後なのだから、仕方ないと言えばそうだった。

 だが、どんどん尾ひれがついて大きくなっていく噂は、炭治郎にはもはや荒唐無稽というか、妄想としか思えない領域にまで至っていた。

 

「いや、でも良く考えてみろよ! 恋柱様と蛇柱様は元々「煉獄派」だし、風柱様は炎柱様の子供の師匠だぜ。それに音柱様と霞柱様は一緒に上弦と戦った仲だ。炎柱様が旗揚げすれば、柱の半分がそっちにつくってことだぜ!」

「岩柱様がそんなことさせないだろ……」

「岩柱様は確かにお強いさ。でも炎柱様の方が上だろ。それに、ほら……炎柱様の方が()()だろ、色々と」

「それは、まあ……」

 

 そんな人達じゃない、と、そう言いたかった。

 柱達は、槇寿郎も含めて、我欲のために戦っているわけではない。

 何より、権力を求めて誰かを裏切るような人達ではない。

 炭治郎と禰豆子の裁判の時だって、悪意で接したわけではないと、今ならわかる。

 

 だがそれは、炭治郎が柱と交流してきたからこそ、わかることだとも理解していた。

 槇寿郎にはヒノカミ神楽の稽古までつけて貰った。

 柱と交流のほとんどない一般隊士が、色々と噂してしまうのは仕方ない。

 仕方ないが、憤りは隠せなかった。

 

「それにお館様だって、お前、ついていきたいと思うか?」

「どういう意味だよ」

「自分は戦わない癖に、剣士のことを子供達とか意味不明なこと言ってよ。子供だと思ってんなら戦わせるなよって話じゃん。それに遠くからちらっと見たことがあるけど、あの顔……」

「……ッ!」

 

 そこまできて、炭治郎は声を上げようとした。

 しかし、止まった。

 不意に、炭治郎の嗅覚が何かを捉えたからだ。

 

「おい……!」

 

 話を聞いていた隊士が、もう1人の肩を小突いていた。

 それで話は止まった。が、彼らは炭治郎を見てそうしたわけでは無かった。

 炭治郎が振り向いた先に。

 

「面白いお話をしていますね」

 

 瑠衣がいた。

 彼女は、笑顔を浮かべていた。

 しかし、何故だろう。

 炭治郎は、()()、と思った。

 

(この人は、本当に瑠衣さんなのか……!?)

 

「どうぞ、続けてください」

 

 何という、冷たい笑顔なのだろう。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 隊士達は、戸惑った表情を見せた。

 当然だろう。噂をしていた相手の1人が目の前に現れたのだから。

 しどろもどろになる彼らの前に、瑠衣は歩み寄っていった。

 その際に炭治郎の傍を通り過ぎたが、彼には見向きもしなかった。

 

「どうしました? 続けてください」

「あ、いや……その……」

「父の話ですよね。構いませんよ、気にしていません」

 

 瑠衣の歩みは、ゆっくりとしたものだった。

 緩慢とさえ言って良い。

 極端な話、背を向けて逃げれば逃げ切れる。そんな速さ。

 だが、その場にいる誰も、何故か動くことが出来なかった。

 

「どうぞ、続けてください」

「……あ……の……」

()()()()()()()

 

 やがて、瑠衣が本当に目の前に来た。

 相手の顔は青褪め、呼吸さえ苦しそうだった。

 対する瑠衣は、笑顔。

 

 美しい。完璧な微笑。しかし、完璧に過ぎた。

 小首を傾げて見せる姿は、可憐にさえ見える。

 その可憐さが、男の足をその場に縫い付けていた。

 その姿は。

 

「本当に構わないんですよ。何でも言って下さい。私はただ……」

 

 蛇に睨まれた、蛙。

 

「……貴方のお話に嘘や偽りがあった場合は、()()しなければならないな。と、考えているだけなんですから」

 

 止めるべきだと、炭治郎は思った。

 今の瑠衣は、明らかにおかしい。

 あの隊士が次に何を言うのかはわからないが、おそらく何を言っても()()()

 いや、何も喋らなくとも()()だろう。

 

(けど、どうすれば良い……!?)

 

 おそらく、瑠衣はそう長く待たない。

 だから止めるなら、今すぐに止めなければならない。

 だが今の瑠衣には、触れることさえ躊躇(ためら)われた。

 

「バウッ!」

 

 その時、犬の鳴き声がした。

 隊舎に犬などいるはずが無いのだが、確かに聞こえた。

 その犬は――足の長い筋肉質な犬――炭治郎の足元を擦り抜ける「うわっ」と、瑠衣の下へと走った。

 そうして足元に座り、ハッハッと舌を出して瑠衣を見上げた。

 

「……コロさん?」

「バウッ!」

 

 瑠衣がコロに気を取られた瞬間、隊士の男は背を向けて駆け出した。

 瑠衣が「あっ」と声を上げた時には、もう1人の仲間と一緒に角を曲がってしまっていた。

 脱兎の如くというのは、まさにああいう逃げ方を言うのだろう。

 

「いやあ~~迷ったあ~~」

 

 その時だ。コロの後を追って来たのか、見覚えのある男が姿を現した。

 ボサボサな金髪に手を突っ込みながら、彼は気だるげな笑みを浮かべて見せた。

 

「ごめんよう、蝶屋敷ってどこかなあ?」

「犬井さん!」

 

 炭治郎の声に、犬井は「やーやー」と手を上げてみせたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 負傷した鬼殺隊士は、基本的に蝶屋敷に担ぎ込まれる。

 蝶屋敷の場所がわからないということは、負傷したことが無いということだ。

 やはり犬井は凄い剣士だったのだと、炭治郎は思った。

 

「いやいやいやいや、するする。普通に怪我するよ。おじさん喧嘩弱いから」

「バウッ!」

 

 もっとも当の犬井自身は、凄まじい誤解を全力で否定した。

 ちなみにコロは主人に賛同したわけではなく、少し先へ走ってから発されたものだった。

 要は、「早く来い」という意味だった。

 それに対して頭を掻きながら、犬井は言った。

 

「おじさんがね、隊の施設ってあんまり使わせて貰えないだけだから」

「使わせて貰えない?」

「蝶屋敷とか、藤の家とかね。この間の刀鍛冶の里だって、コロの日輪刀の用事が無かったら入れて貰えなかったと思うよ」

「え、どうしてですか?」

「う~~~~ん。いじめ…………とか?」

「ええ!?」

「いやいやいやいや! 真に受けないでね!? おじさん別にいじめられてたりは……たりは……してない、よね?」

「そこで私に聞かれても困りますよ……」

 

 瑠衣は、炭治郎と一緒に犬井を蝶屋敷まで案内していた。

 コロが瑠衣の側を離れようとしなかったためで、まあ随分と懐かれたものだった。

 

「ところで本部が何かざわついていたけど、何かあったの?」

「え、いや、それは……」

 

 犬井は、悪意の全くない様子で首を傾げていた。

 その様子からは、鬼殺隊で起こっていることを本当に知らないのだ、ということがわかった。

 隊の施設を使わせて貰えないことと言い、奇妙だった。

 そこで、炭治郎はふと疑問に思った。

 

(あれ? じゃあ、どうして今ここにいるんだろう?)

 

 そんな奇妙な剣士が、今日に限って本部にいる。

 炭治郎の視線に気付いたのか、犬井は瑠衣の足元を指差して。

 

「コロがね、年だからねえ」

 

 と言った。

 もしかして犬井よりもコロの方が優先されているのだろうか、と、酷いことを考えてしまった。

 ただ犬井にそれを言うとあっさり肯定されてしまいそうなので、口には出さなかった。

 

「あ、着きましたよ。あそこが蝶屋敷……」

 

 そうして指差した先には、確かに蝶屋敷があった。

 あったのだが、その門にもたれかかるようにして、誰かが倒れていた。

 普段の炭治郎や瑠衣なら「大丈夫ですか!」と叫んで駆け寄るところだが、そうしなかった。

 何故ならば、()()()()()()()その顔に見覚えがあったからだ。

 

「あっ! こんなところにいた! 診察の途中で抜けられたら困ります、和泉さん!」

 

 蝶屋敷の中からアオイが飛び出してきてそう叫んだのは、きっかり10秒後のことだった。

 そして、それでも鈴音はすやすやと眠り続けていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「あら、久しぶりねぇ」

 

 蝶屋敷に入ると、榛名がいた。

 アオイと同じように、隊服の上に看護師の衣装を着ていた。

 車椅子で、膝の上に洗濯物を入れた籠を乗せていた。

 

 鬼との戦いで背骨に後遺症を得た榛名は、療養しつつ蝶屋敷の仕事を手伝うようになっていた。

 隊服を着てはいるが、剣士としての復帰はおそらく難しいだろう。

 それでも生来の穏やかさは変わることがなく、笑顔で迎えてくれた。

 

「アオイさん! 鈴音さんはどこへ運べば良いですか!」

こいつ(コロ)はどこへ連れて行けば良いかな?」

「どちらもしのぶ様のところです!」

 

 炭治郎達は、そのまましのぶのところへ行く様子だった。

 用事のないのは瑠衣だけ――本当は炭治郎もだが――で、榛名と会えたのは偶然だ。

 ただ、瑠衣の内心は複雑だった。

 何故なら、蝶屋敷にも父・槇寿郎の出奔の話は届いているだろうからだ。

 だから瑠衣は、久しぶりに会った榛名に対しても、何を話せば良いかわからなかった。

 

「安心したわぁ」

 

 言葉もかけず、ただ立ち尽くした。

 そんな瑠衣に近寄り、榛名はそっと手に触れて来た。

 指先に、榛名の温もりを感じた。

 

「元気そうで」

「……榛名さんも」

 

 その手を握り返すことは、しなかった。

 ただ、榛名が元気そうで良かったと思ったのは、本当だった。

 そこだけは、嘘は無かった。

 するとその時、背後に気配を感じた。

 

「うわっ……って、柚羽さん?」

「…………」

 

 割烹着に三角巾姿の柚羽が、無言で立っていた。

 右腕の部分が二の腕のあたりで縛ってあるのは、邪魔にならないためだろう。

 それから、喉には包帯を巻いている。

 そして、手元にはお櫃らしき物を乗せた荷台(ワゴン)があって。

 

「おにぎり、ですね」

「おにぎりねぇ」

 

 お櫃の中には、おにぎりがびっしりと入っていた。

 顔を上げると、片腕で親指を立てて来た。

 どうやら柚羽が作ったらしい。片手で。しかし瑠衣が作るものより形が整っていた。

 おにぎりに対して、執念が凄すぎる。 

 

「食べないのぉ?」

「ええ、ここ玄関ですよ。ああ、もう、わかりましたから」

 

 ぐいぐいと台を押してくる柚羽に根負けして、1つ手に取った。

 しっかりと、それでいて米の柔さを感じる適度な握り。白くて艶もある。

 美味しそうだと、素直にそう思った。

 

「いただきます」

 

 口に入れると、米の甘味と塩の味がした。

 美味しいと、やはり素直にそう思った。

 

「あ」

 

 と、思わず声が出た。

 ひとりでに瞳から零れたものが頬を伝い、唇に触れたからだ。

 おにぎりとは別の塩気を自覚すると、それが止めどなく続くことにも気付いた。

 

「う、う」

 

 そんな瑠衣を、柚羽が覗き込んでいた。

 美味しいですかと聞かれているような気がして、瑠衣は二口目を口にした。

 塩の味が、より強くなった気がした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 洗面所を借りて、顔を洗わせて貰った。

 顔を上げると、鏡の中から自分が見つめていた。

 思ったより酷い顔をしていると、その時になって、初めて気が付いた。

 

「酷い顔をしていますね」

 

 実際、人にそう言われた。

 

「蟲柱様……花柱様」

 

 そうしていると、しのぶがやって来た。

 彼女はカナエの車椅子を押していて、見回りか回診の最中だろうか。

 瑠衣が頭を下げると、構わないと言うようにカナエが首を振った。

 カナエは厳密にはもう柱ではないが、人は変わらず「花柱様」と呼ぶ。

 

 もっとも、ここ蝶屋敷において胡蝶姉妹は立場に関わらず「様」と呼ばれる。

 それは彼女達こそが、ここの責任者であると誰もが知っているからだ。

 ここ蝶屋敷に限定するのであれば、胡蝶姉妹の権威はお館様さえ凌ぐかもしれない。

 組織としては危険極まりないが、そうならないのが鬼殺隊であり、産屋敷一族なのだった。

 

「何でしたら、ここにいても構いませんよ」

 

 そんな言葉に、瑠衣は顔を上げた。

 顔を上げると、カナエの優し気な視線とぶつかった。

 言ったのはしのぶだが、これはカナエの言葉だと何故か理解できた。

 

 他の誰かなら、あるいは侮辱と捉えたかもしれない。

 しかしカナエの目を見てそれを侮辱と捉えるのは、()()()()()()()

 だから瑠衣は、静かに首を横に振った。

 

「ありがとうございます」

 

 何故ならば、自分はまだ休む必要がないからだ。

 だから、蝶屋敷にいる必要はない。

 そんな瑠衣の気持ちを察したのだろう、カナエは小さく頷いた。

 そしてその上で、何かを差し出して来た。

 

「ああ、もう。姉さん」

 

 珍しく、しのぶの声音には咎めの色があった。

 額のあたりに手を当てて、嘆息までしている。

 瑠衣が何だろうと思って見てみると、カナエは一冊の本を差し出していた。

 さほど分厚い本というわけではないが、表紙には外国語が見えた。

 

「これは?」

「……その、ですね。あー……詩集です」

「詩集、ですか?」

「姉さ……姉が、最近熱中していまして。蝶屋敷(ここ)では他に読む人がいないので、屋敷の皆や患者の隊士に勧めて回っているんです」

 

 詩集。花柱だけに親和性が高いのかもしれない。

 そんな馬鹿なことを考えつつ、ニコニコと差し出されている詩集を眺めた。

 しのぶを見た。「断っても良いんですよ」と目が言っていた。

 

 視線を戻す。やはりカナエはニコニコと笑っていた。

 この笑顔に「否」と言える人間が、はたしているだろうか。

 ――――その夜、瑠衣は辞書を片手に必死で詩集を読む羽目に陥ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 犬井と老犬コロの付き合いは長い。

 彼が16の頃、父親がどこぞから連れて帰って来た。

 もっとも、その時には犬井の家は近所でも有名な犬屋敷であったため、不意に1匹や2匹増えることは日常茶飯事だった。

 ――――鬼によって家族が全滅した時も、コロは犬井の傍にいてくれた。

 

 そして犬井が鬼殺隊に入った後も、それは変わらなかった。

 当初犬井はコロを連れて行く気は無かったが、コロの方が犬井から離れなかった。

 親の血のせいか、犬の方が寄って来るのも同じだった。

 お館様の計らいで与えられた屋敷には、今でも十数匹の犬が住み着いている。

 つまり犬井とコロは、強い絆で結ばれているのだった。

 

「きゃあああ~かわいい~~!」

 

 しかしその絆は今、危機に瀕していた。

 その夜、犬井は蝶屋敷に個室を与えられたのだが、案内に着けられた看護師が大の犬好きだったのだ。

 そして瑠衣の例からもわかるように、コロはサービス精神が――主に女性に対して――旺盛な犬だった。

 まあ、何が言いたいのかと言うと、コロは女性看護師に対して全力で愛想を振りまいていた。

 犬井(主人)そっちのけで。

 

「バウッ、バウッ、くう~ん」

 

 この野郎、と犬井は思った。

 犬井はコロと出会っての10年余りで、彼が自分に対して「くう~ん」などと媚びる姿なぞ見たことがなかった。

 それが今はどうだ。女性看護師に抱っこされて尻尾を振っている。

 繰り返すが、犬井(主人)そっちのけで。

 

「あ、お部屋はこちらになります」

「いやー、ありがとう。蝶屋敷って広いねえ」

「隊士の方が多く入院するの「くう~ん」きゃああコロちゃんかあわいいねえ~」

「……あっはっはっはっ。じゃあコロ~? 部屋に入ろうかあ~「バウッ」あっ、わいっ。あまりなしゃんな! こっちん来い馬鹿ッ!」

 

 犬井は女性看護師から丁寧かつ強引にコロを受け取ると、そのまま貼り付けたような笑顔で部屋の中に入って行った。

 扉の向こうで人と犬の鳴き声――比喩ではない――が聞こえてきて、女性看護師はクスリと笑った。

 犬井の受け止め方はともかく、仲が良いなあと微笑ましく思っている様子だった。

 あるいは可愛いと思っていたのは、コロのことだけでは無かったかもしれない。

 

「わっ、もう真っ暗……」

 

 通路を歩きながら窓を見ると、外はすっかり暗くなっていた。

 外が余りにも暗いので、窓ガラスに自分の姿が映っていた。

 (コロ)と戯れていたせいか、髪が少し乱れていた。

 

 乱れを直そうと、そっと髪に手をやった。

 窓に映る自分は、()()()()()()

 え、と思わず声を漏らした。

 そして手の感触から、髪に乱れがないことも理解した。

 

「え?」

 

 乱れではない。動いていた。

 ()に映る自分の髪が、まるで蛇か何かのように、蠢いていた。

 いや、そもそも、それは()()()()()()()()

 

「ひ」

 

 ――――肉が、潰れる音がした。




最後までお読みいただき有難うございます。

あれ、このままだと柱稽古ないんじゃ…。
ないんじゃ死ぬんじゃ…。

……まあいいか(おい)


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第41話:「終わりの始まり」

 蝶屋敷を訪れた翌朝、瑠衣は()()で本部に呼び出された。

 

「あの、私が聞くのもおかしいかもしれませんが。……どうして私なのでしょう?」

「ごめんねえ。だっておじさん他に知り合いの隊士もいなくて。まさか炭治郎君を呼ぶわけにもいかないし」

「それはまあ、そうなんですけど……」

 

 そこで瑠衣を待っていたのは、犬井だった。

 まさかとは思うが、()()()()()には自分を使う、という方針でも固まったのではあるまいな。

 万が一にもそうなっていないことを、祈るばかりだ。

 

(とはいえ、放ってはおけないというのもその通りなのですよね。何しろ……)

 

 あの犬井が、()()()()()()()として疑われているのだから。

 ――――昨夜、いや早朝のことだ。蝶屋敷で()()()()()()()()

 死んだのは、蝶屋敷で働く女性看護師だった。

 そしてその女性看護師が最後に会った人間が犬井と思われたことから、彼が疑われたわけだ。

 

 しかし実を言うと、鬼殺隊に「牢屋」というものは存在しない。

 それは鬼殺隊が()退()()の組織であって、警察組織ではなく、また内部に軍事警察(憲兵)に相当する組織も存在しないためだ。

 獪岳の時も、あるいは炭治郎・禰豆子の時も、拘束はされても()()はされなかった。

 だから、犬井もこうして本部の一室をあてがわれているわけだ。

 

「……ともあれ、話はわかりました」

 

 獪岳と言い、最近は似たようなことが続く。

 鬼を相手に剣を振っている方が、むしろ気楽で良かったかもしれない。

 命を守ることより、命を()()()方がずっと気が重い。

 

「今朝、兄に鴉を飛ばしました。その返事を待ってのことになりますが」

 

 ふう、と息を吐いて、瑠衣は言った。

 

「犬井さんの身柄は、煉獄家預かりになります」

「助かるよ。迷惑かけてごめんね」

「いえ、私も犬井さんがそんなこと(人殺し)をする人だとは思えませんし」

 

 言いつつ、難しい問題になる、と思った。

 槇寿郎の出奔で煉獄家に向けられる目は厳しい。

 刀鍛冶の里を守った英雄とは言え、蝶屋敷で仲間殺しをした――と疑われている――者を預かるとなれば、痛くも無い腹を探られる可能性がある。

 もっとも犬井に本部で他に頼れる者がいないのも確かで、多少の危険を犯しても預かるしか無かった。

 

(せめてお館様がご健在であれば……)

 

 加えて、産屋敷家当主の病臥。

 お館様の病状が回復すると思っている人間はいないだろう。

 当主交代の文字が嫌でも頭に浮かぶ中で、誰もがピリピリとしていた。

 そんな中で、今回の事件だ。

 鬼殺隊は今、危機的なまでに動揺していた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――事件が発覚したのは、陽も昇り切らない早朝のことだった。

 ()()()()()は、なほ・きよ・すみの三人娘である。

 アオイは3人のけたたましい悲鳴に気付いて、彼女達の名前を叫びながら駆け付けた。

 そして彼女もまた、無惨な姿で倒れる看護師を見つけたのである。

 

「なほ達の様子は?」

「今は落ち着いています。ただショックが大きかったようで……」

「……そうでしょうね。アオイも、無理をしてはいけませんよ」

「私は大丈夫です」

 

 と、アオイも気丈に振る舞ってはいる。だが彼女自身も心穏やかではあるまい。

 近しい人の死というものについて、蝶屋敷の少女達は敏感だからだ。

 実際しのぶが現場に駆け付けた時には、もう収拾がつかなくなっていた。

 

 騒ぎを聞きつけた犬井が現場にやって来て、その場にいた誰かが死亡した看護師は昨晩彼と一緒にいたはずだと叫んだのだ。

 集団心理。疑心暗鬼。もはやしのぶの一声でどうにかなる状況ではない。

 だからしのぶはその場で、自分で犬井を拘束した。

 犬井も事情を察したのだろう、抵抗することは無かった。

 

「アオイ、瑠衣さんに鴉を。申し訳ないけれど、コロちゃんを預かって貰いましょう」

「わかりました」

「今のなほ達にコロちゃんのお世話まで任せるのは難しいでしょう」

 

 しのぶは犬井が瑠衣の――煉獄家の預かりとなるだろうと踏んでいた。

 そうなってからだと、蝶屋敷の少女達は瑠衣に忌避感を感じてしまうかもしれない。

 そうなる前に、という配慮だった。

 

(犬井さんの方は、申し訳ないけど瑠衣さんに任せるしかない。それよりも問題は……)

 

 問題は、()()()()()()()()()()、だ。

 犬井ではないことは、しのぶにはわかっている。

 だからこそ、問題は深刻だった。

 

 死んだ看護師は、頭の上半分を激しく損傷していた。

 蝶屋敷の少女達は()()()いないから、気が動転してわからなかったのだろう。

 あれは、例えば鈍器で一撃、というような損傷具合ではない。もっと強い力で砕かれたのだ。

 すなわち、犯人は人ではない――――()()

 

(でも、どうやって。蝶屋敷(ここ)は本部の最も奥深くにある。鬼が入り込んでいるなら気付かないはずがないし、それに)

 

 遺体は、放置されていたのだ。

 鬼ならば、なぜ()()に手をつけずに消えたのか。

 それも、どうして1人だけ殺すという中途半端なことをするのか。

 食事もせず、己の存在を知られるだけ。鬼狩りの本部で、それは自殺行為に等しい。

 

「し、師範。アオイ」

 

 その時、か細い声が聞こえて、しのぶは顔を上げた。

 カナヲが部屋の扉から顔を覗かせていて、しかも珍しいことに、困ったような顔をしていた。

 どうしたのかとアオイが問うと、あわあわした様子で。

 

「あの、和泉って人が病室にいなくて……」

「あの人! また抜け出したのッ!?」

 

 ――――守らなければ。

 アオイとカナヲの背中を見つめながら、しのぶは思った。

 彼女達(家族)を、蝶屋敷()を、自分が守らなければ。

 自分自身に、しのぶは強くそう言い聞かせていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 奇妙な静けさだ。

 不死川はそう思っていた。

 鬼殺隊内部の()()()()については、彼は煩わしいとしか感じていない。

 関わるつもりは無かった。

 

「何と、痣。そうなると、私はどうなるのか……南無」

 

 だから、あまねから痣者の話を聞いた時も、大して気にはしなかった。

 刀鍛冶の里での上弦との戦闘において、甘露寺に発現した()

 その効能と代償。始まりの剣士達の伝承。

 今朝の事件の処理でしのぶは欠席していたが、不死川を含む他の柱はそれらの話を聞いた。

 

 いずれも、不死川は関心を抱かなかった。

 彼が気にしていたのは、刀鍛冶の里での事件以降、鬼の活動が緩やかになっていることだ。

 たまに()()()()が見つかる程度で、ほぼ活動を停止していると言って良い。

 上弦の半数が討たれたために、鬼舞辻無惨が慎重になっているのかもしれない。

 

(まさかとは思うが、こっちがくたばるまで雲隠れするつもりじゃねェだろうな)

 

 実際、鬼舞辻無惨と遭遇した隊士はほとんどいない。

 今の世代では、唯一あの竈門炭治郎だけだ。

 遭遇できなければ、討つこともできない。

 卑怯な奴だ。心の中でそう毒吐いた。

 

「話も終わったようなので失礼する」

「おい待てェ、失礼すんじゃねぇ。今後のことも話し合わねぇとならねぇだろうが」

「皆で話し合えば良い。俺には関係ない」

 

 だがそれ以上に不死川を苛立たせたのは、今まさに部屋から出て行こうとしている柱だった。

 お館様が倒れ、槇寿郎が出奔した。隊士達は明らかに動揺している。

 こういう時こそ柱がしっかりすべきだというのに、関係ないなどと(のたま)う。

 

 水柱・冨岡義勇。

 実力はある。それは見ればわかった。

 例えば正面から戦ったとして、不死川でさえ打ち倒すのは容易ではないだろう。

 しかし柱合会議でも発言することはほとんどなく、発言したと思えば「関係ない」だ。

 

「俺は、お前達とは違う」

「何だぁその言い様は。俺達のことを見下してんのかァ?」

 

 ()()と、それもわかっている。

 冨岡にそんなつもりがないことは、不死川にもわかっていた。

 彼の目は不死川達を見下している目ではない。

 ()()()()()()()()()()()()

 

 だが、それを不死川や他の者は言ってやることが出来ない。

 苛立ちに、不死川は舌打ちした。

 しっかりしろと胸中で呟いたその言葉は、いったい誰に向けてのものだったのだろうか。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 今日は本当に忙しい。

 本部の犬井のところへ呼ばれたかと思えば、今度は蝶屋敷である。

 犬井()が来るので、屋敷に戻って客室の用意もしなければならない。

 まあ、忙しい方が色々と考えずに済むので、瑠衣としても助かる面もあるのだが。

 

「ありがとうございます。柚羽さん」

 

 蝶屋敷の中庭で、コロを受け取った。

 柚羽は相変わらず看護師姿だったが、腰に刀を差していた。

 どうやらしのぶの指示らしい。

 柚羽達でけでなく、入院している隊士達も寝台(ベッド)に自分の日輪刀を持ち込ませる徹底ぶりだった。

 

 事件当日だから無理もないが、犬井という()()が拘束されているのに、蝶屋敷に警戒態勢を敷くのは矛盾のように思えた。

 ただ、しのぶの言うことに異を挟む者など蝶屋敷(ここ)にはいない。

 厳密には一人(カナエ)だけいるが、しのぶの指示が通っているということは、異論がないということだろう。

 

(まあ、犬井さんは犯人じゃないですからね……)

 

 犬井の拘束は、いわばその場を収拾させるための苦肉の策だったのだろう。

 同時に、蝶屋敷の人間から犬井を守るためのもの。

 ただ犬井が煉獄家預かりになったことは、遠からず話題になるだろう。

 瑠衣自身も、しばらくは蝶屋敷には近付かない方が良いのかもしれない。

 

「あっ、コロさん!」

 

 瑠衣の足元をぐるぐると駆け回っていたコロだが、不意に離れて行った。

 

「バウッ!」

 

 吠えながら駆けるので、通りがかった人々が何事だという顔をしていた。

 その1つ1つに謝りながら追いかけていると、コロは蝶屋敷の中に入って行った。

 

「コロさん、こらっ!」

 

 中庭から足も拭かずに入ったので、廊下に点々と小さな足跡がついていた。

 アオイあたりに見つかれば、激怒されるだろう。

 

「バウッ! バウッ!」

「ちょっ、ほらっ」

 

 立ち止まったところを後ろから抱え上げて、動きを止めた。

 それでも、どういうわけかコロは激しく吠えていた。

 余りにも吠えるので、瑠衣も柚羽も困惑してしまった。

 

「もう、どうしたんですか? そんなに吠えて」

 

 腕の中でもがくコロを懸命に押さえながら、瑠衣はコロが吠えている()を見た。

 

()()()()じゃないですか。虫でもいましたか……?」

「バウッ、バウバウッ」

 

 それでも、コロは吠え続けていた。

 それは瑠衣が困惑しながらも、その場から離れても続いた。

 蝶屋敷を出るまで、コロの吠え声が止まることはなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「どうしたんだ、禰豆子?」

 

 炭治郎が困惑混じりにそう言っても、禰豆子は彼の羽織の裾から手を放そうとはしなかった。

 普段は箱の中で眠ってばかりだが、今日に限って外に出ている。

 聞いてもふるふると首を振るばかりなので、炭治郎も妹の意図を読むことが出来なかった。

 

「うふふふふふふ禰豆子ちゃああああん」

 

 1日中一緒に――炭治郎つきだが――いられるので、善逸などは始終ご機嫌だが、しかし控えめに言って。

 

「善逸、ちょっと気持ち悪いぞ」

「酷くない!? どうしてそんなこと言うのおおおお!?」

「五月蠅え!」

 

 今のは炭治郎ではなく、伊之助だった。

 ただ伊之助の場合はすぐに手が出るので、殴られた善逸が床に倒れ込んだ。

 

「伊之助、すぐに殴るのは駄目だ」

「だって何かうざかったから」

「それは俺もそう思うけど」

「2人とも酷すぎるよ! 何!? 今日は厄日なの俺!?」

 

 そしてそんな騒動の中でも、禰豆子は炭治郎の傍を離れようとはしなかった。

 これは、珍しいことだ。何かある。

 ただ匂いから察するに、禰豆子自身も自分の行動に困惑している様子も見て取れた。

 何か感覚的な部分で、炭治郎の傍にいるのだ。

 

 それは、自分が不安だからそうしているのか。

 あるいは、何かから炭治郎を守ろうとしてくれているのか。

 いずれにしても、良い兆候とは思えなかった。

 そもそもここは鬼殺隊の本部だ。危険などあるはずがない。

 

「うざいって言えばよ」

「うん?」

 

 猪頭越しに頭を掻きながら、伊之助が周囲をキョロキョロと見渡した。

 周りには、他の隊士達がいたのだが。

 

「何か、多くねえか?」

 

 炭治郎達が色々な意味で目立つせい、というわけでもなく、そもそも本部に詰めている隊士がいつもより多い様子だった。

 戦力の()()が高い。

 柱も集結しているし、まさしく全戦力を集めていると言った風だった。

 

(何かが、起ころうとしている)

 

 何が起ころうとしているのかはわからないが、そう感じた。

 おそらく禰豆子も、そうした漠然とした雰囲気を感じて、炭治郎の傍にいるのだろう。

 炭治郎が見つめると、禰豆子は彼の羽織の裾を掴んだまま、兄を見上げて首を傾げて来た。

 その様は愛らしく――実際、また善逸が騒いで伊之助に殴られている――炭治郎は、そっと妹の髪を撫でた。

 

「大丈夫だよ、禰豆子。兄ちゃんが一緒だからな」

 

 禰豆子は一瞬きょとんとした表情を浮かべていたが、兄の意図をさっしたのか、笑顔を見せた。

 そのまま炭治郎の手に寄りかかるようにして、撫でられるままになる。

 そんな妹を安心させようと、炭治郎はしばらく禰豆子の頭を撫で続けていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何であれ、人は慣れる。

 それは、死でさえも例外ではない。

 8年もの間柱として鬼殺隊を支えて来た悲鳴嶼にとって、死とは余りにも身近な存在だった。

 隊士も、柱も、何人も死んでいったからだ。

 

「……私の……命も……もう……長くない……だろう……」

 

 お館様の死であっても、悲鳴嶼の心が動くことは無かった。

 光の見えない目からいくら涙が零れようと、数珠を手に念仏を唱えようと、それは彼の心が動いたことを意味しない。

 あるいは心が動かないからこそ、身体を涙や数珠という形で動かしているのかもしれない。

 

 ただ心が動かないからと言って、何も感じていないわけではない。

 悲鳴嶼はかつて寺で孤児(みなしご)の子供達と暮らしていたが、鬼に襲われ子供達が殺された。

 その鬼は悲鳴嶼が――恐るべきことに素手で――倒したが、唯一の生き残った子供の証言によって、悲鳴嶼は大量殺人犯として逮捕されてしまった。

 お館様が救ってくれなければ、死刑になっていただろう。

 

「だからだろうか……感じるんだ……()()の目を……近くに……」

 

 だからこそ悲鳴嶼は柱として、鬼殺隊を支え続けて来た。

 お館様への恩義と忠義のためだ。

 悲鳴嶼は、お館様が死ぬか、あるいは産屋敷一族の意思が絶えたと判断するまで、今の生き方を続けるだろう。

 

「……上弦の半数を……討たれた……やつの怒りを……感じるんだ……」

 

 産屋敷は、布団に伏して起き上がれなくなっていた。

 顔は、死人のそれだ。

 声ですら喘ぎ混じりで、呼吸音は壊れた笛のように頼りない。

 悲鳴嶼でなくとも、死が間近だということがわかる。

 

「……やつは……もうすぐ……来る……()()に……」

「…………御意」

 

 死を前にした人間は、生きていくのに必要のない感覚や力に目覚める。

 鬼との戦いの中で、悲鳴嶼はそれを良く知っていた。

 だがそれは、どうやら病による緩やかな死の中でも生まれるものであるらしい。

 あるいは、産屋敷一族の執念のためか。

 

「すべてお館様のご意思のままに。ただ、1つお聞きしても宜しいでしょうか」

「……何かな……行冥……」

「…………槇寿郎殿は、今どこに?」

 

 お館様が、一か八かの賭けに出ようとしている。

 悲鳴嶼はそれを理解していた。

 それに対して、今さら否など言わない。

 彼は死ぬまで、お館様と産屋敷一族に誠実であり続けるだろう。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鈴音は夢遊病者である。

 しかも()()()()は眠りの深さに依存するようで、眠りが深ければ深いほど遠くへ行ってしまう。

 

「ああ、こんなところにいた」

 

 どうやら今回は、蝶屋敷の外までは行かないでいてくれたらしい。

 あるいは、単に掴まっただけかもしれない。

 

「ありがとうございます、姉さん」

 

 鈴音は、カナエの膝ですやすやと眠りこけていた。

 それはそれは心地よさそうな寝顔で、見ているこちらが羨ましくなる程だった。

 だからしのぶはそっと鈴音に近付くと、その頬を指先でむにむにと(つつ)いた。

 

「心配させた罰ですよ。嫉妬なんかじゃありません。ええ、ありませんとも」

 

 姉の苦笑にそう返して、むにむにと突いた。

 実際、鈴音はしのぶが鬼殺隊で最も心配する()()の1人だ。

 何しろ鬼殺隊には、鬼を倒す(血を流す)ために自ら傷つく者もいれば、傷を負っても無表情に過ごす者もいる。

 そして、心を病む者も、いる。

 

「それより、姉さんも気を付けてね。今、蝶屋敷(ここ)は……」

 

 不意に、鈴音が起き上がった。

 危うく突き指になりかねない勢いだったので、さしものしのぶも驚いた顔をした。

 しかし鈴奈はそこから動かない。覗き込むと、目はまんまるく見開かれていた。

 起きてはいるが、意識は覚醒していない。夢遊病の症状が出ていた。

 やれやれと、嘆息漏らした時だ。

 

「しのぶ」

 

 先程とは比較にならない程に、しのぶは驚いた。

 一瞬、誰が自分を呼んだのかわからなかった程だ。

 しかしこの世界で自分を「しのぶ」と呼び捨てにする人間は、1人しかいない。

 何故ならば、それ(呼び捨て)は本来、神聖な行為だからだ。

 

 顔を上げると、カナエの顔がそこにあった。

 普段浮かべる柔和な微笑や困ったような表情はなく、青褪めていた。

 身体の具合が悪いのかと思ったが、それとはまた別だった。

 青褪めた顔で肩を押さえていて、額に汗を滲ませていた。

 

「悪夢が来るわ」

 

 鈴音が、起きているのかと思う程にしっかりとした声で、そんなことを言った。

 意味はわからないが、しかし、また別に聞こえてくる物があった。

 何だ、と、しのぶは耳を澄ませた。

 ――――()()()

 

「しのぶ」

 

 ()()()()()()()

 音だ。

 空間に、聴覚に反響する。音。いや音楽。

 ()()()()()が、聞こえる。段々と大きくなる。五月蠅い。気味の悪い音。

 その最中、姉の命令が微かに聞こえて来た。

 

「アオイ達を守りなさい」

 

 ()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 栗花落カナヲは、天才だと言われる。

 その頭角は最終選別を通過してすぐに現れ、階級は一足飛びに上がり、さらには蝶屋敷秘蔵の継子となった。

 人によっては、霞柱・時透無一郎以来の逸材だと言われることもある。

 

「ア、アオイ」

「え? あ、あー! 噴き零れてるじゃない!」

 

 しかし剣技以外のことになると途端に弱くなることは、蝶屋敷では良く知られたことだった。

 今もアオイの手伝いで――なほ達が急な休みになったためだ――厨に立っているが、余り役に立っているとは言い難かった。

 鍋ひとつまともに見ることも出来ない自分に、カナヲは内心で落ち込んだ。

 

「大丈夫? 火傷してない?」

「だ、大丈夫。ごめんね……」

「良いのよ。気にしないで」

 

 それなのに、アオイは優しかった。

 それで申し訳なさが増すが、忙しいアオイの手を止めるわけにもいかない。

 カナヲとしては、棚から皿を出すくらいの手伝いしか出来なかった。

 

 アオイは凄いと、カナヲは思った。

 彼女の手の中で、単なる具材に過ぎない肉や野菜が美味しい料理に変わるのだ。

 それも何十人もいる入院患者の分も含めてだから、量もある。

 自分では、1人分だってまともに作れないだろう。

 

『貴女はそれで良いのですよ、カナヲ。人は1人では生きていけないのだから』

 

 しのぶはそう言ってくれたが、だから気にするなというのも無理だろう。

 しょんぼりしたまま、カナヲは皿を出そうと棚へと目を向けた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「えっ……!?」

 

 音に驚いたアオイが振り向いた時には、日輪刀を横薙ぎに斬り払い、棚を両断してしまっていた。

 普通なら、驚くか叱るかするところだろう。

 しかしアオイは、カナヲがそんな無意味なことをする娘だとは思っていない。

 だから何か意味があるのだと思い、咄嗟に包丁を手に取った。

 

「何!? どうしたの!?」

 

 カナヲは答えなかった。

 代わりに、自分が斬ったものの残骸を見つめた。

 ()()だ。

 掌ほどの大きさの目玉で、足のようなものが生えている。気色の悪い生き物だ。

 目の中心に、「伍」と書かれている。

 

 ()()()

 

 そこへ、不気味な音色が聞こえて来た。琵琶の音色。

 音が聞こえた次の瞬間、カナヲは全身の産毛が逆立った。

 通路に通じる扉を、凝視した。

 そこに、誰かいる。隠す気もないのだろう。気配が突然現れた。

 

「アオイ、私のそばに」

「何? 何なの?」

「離れないで」

 

 扉が、ゆっくりと開けられた。

 そこから、姿を現したのは。

 

「わあっ、()()()()()だねえ~」

 

 金色の髪に、虹色の瞳。

 ()()()

 

「後で鳴女(なきめ)ちゃんにお礼を言わなきゃ」

 

 頭から血を被ったような容姿の、美しい男だった。

 瞳に、上弦の文字と数字が見えた。

 上弦の鬼が、そこにいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 琵琶の音が、響き続けていた。

 激しくも繊細なその音色は、音楽の心得がない者でも聞き入ることだろう。

 しかしその琵琶奏者の()()()からすれば、音楽の才などさほど重要では無かった。

 

「間違いありません。鬼殺隊の本拠地です」

 

 黒い着物を着た女が、琵琶を手にそう言った。

 その黒髪は長く伸びて壁と融合しており、まるで木の根か血管のようだった。

 そして何よりも異彩を放っているのは、その顔だ。

 元は美しかったのだろうその顔の真ん中に、大きな目玉が1つ。1つ目の化物だ。

 目玉の中央には「伍」の数字が刻まれていて、彼女が「上弦の伍」の鬼であることを示していた。

 

「素晴らしい」

 

 そして、鬼舞辻無惨。

 実業家が着るような黒い背広を着込んだ鬼の首領は、琵琶の鬼――鳴女(なきめ)の様子を見て、機嫌良さそうに喉奥で嗤っていた。

 彼の足元には地図が落ちていて、多くの場所に印がついていた。

 

「鳴女、お前は私が思った以上に成長した」

「光栄です」

「そして、もう1人。()()()()()()()()の能力だ。どちらも本当に素晴らしい。何故ならば……」

 

 無惨は、上機嫌だった。

 これはここ最近の彼にしてみれば、いや彼の千年に渡る人生もとい鬼生においても、かなり珍しいことだった。

 彼自身、これほどまでに気分が良いのはいつぶりかと、つい考えてしまう程だ。

 

「何故ならばこれで、あの忌まわしい()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 千年。鬼舞辻無惨が生きて来た時間だ。

 それはまさに悠久とも言える()()時間だが、その大部分は、()()()()時間だった。

 無惨が平安の世に鬼の肉体を得て以降、すぐに鬼殺隊――正確にはその前身――が誕生したからだ。

 ()()()()()()()()()、と無惨をして思わせる程、彼らの追跡はしつこかった。

 

 ただ一度の例外を除いて、彼らの刃が無惨に届いたことは無い。

 だが「追われている」という感覚を、常に背中に感じてはいた。

 千年もの間、ずっとだ。それがどれほどに煩わしいことだったか。想像するのは難しい。

 それが今日、終わろうというのだ。無惨の感激も一入(ひとしお)だった。

 

「上弦達は、鬼殺隊の本拠地に送れたのだな?」

 

 確信を持ちながら、確認を行った。

 実のところそれは、部下に事実を言わせて悦に浸りたいがための行為だった。

 わかり切ったことを、あえて聞いたのだ。

 

「――――いえ」

 

 しかし、鳴女の返答は彼の期待を裏切った。

 

「上弦の弐、参、肆のお三方は送れました。しかし上弦の壱様は、私の能力……」

 

 それ以上、無惨は鳴女の言葉を聞かなかった。

 代わりに、己の血を通して配下に念を飛ばした。

 半ば動揺、半ば怒りをもって、彼は配下に呼びかけた。

 

(――――黒死牟(こくしぼう)!)

 

(どうした。なぜ私の召喚に応じない!)

 

(聞こえているのか、黒死牟!)

 

(一刻も早く、鬼殺隊を根絶やしにしろ!)

 

 無惨からの一方的かつ、絶対的な命令。

 それを無視することは、鬼の生物学上、あり得ないことだった。

 だから彼の配下も、返事をした。

 そしてそれは、非常に簡潔だった。

 

『鬼殺隊なら…』

 

  ◆  ◆  ◆

 

 上弦の壱・黒死牟。

 十二鬼月の筆頭ともいうべきその鬼は、とある竹林にいた。

 

「鬼殺隊なら…今、目の前に…」

 

 そして彼の前に立つのは、()()()

 当代最高の鬼狩りとも称される彼は、黒死牟を見つめて、こう言った。

 

「約束を、果たしに来た」

 

 黒死牟と、煉獄槇寿郎。

 鬼と、鬼狩り。

 

「――――()()殿()

 

 両陣営の頂点に立つ2人は、刀を手に向かい合っていた。




最後までお読みいただき有難うございます。

黒死牟 対 炎柱。
これを描きたくてここまで来たところがあります(極論)。

それでは、また次回!


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第42話:「侵攻」

 ――――何もかもが、暗闇の中だった。

 どこへ向かえば良いのか、何を探せば良いのか、何もわからなかった。

 鬼舞辻無惨を見つけ出すというのは、そういうことだった。

 少なくとも産屋敷耀哉という男、いや産屋敷一族にとってはそういうことだった。

 

 そして暗闇の中での唯一の手掛かりが、月明かり(上弦の鬼)だった。

 無惨直属の配下の動きを追えば、根元に辿り着けると考えた。

 だが、そう甘くは無かった。

 何故ならば鬼舞辻無惨という男が、想像以上の()()()だったからだ。

 

「……()()は、私に良く似ている……」

 

 けして、自分から危険に飛び込むことは無い。

 自分1人は安全な場所にいて、息を殺して隠れている。

 部下が何人殺されようと、髪の毛一筋さえ動くことは無い。

 

 ()()()

 自分と鬼舞辻無惨は同じなのだと、産屋敷は思う。

 だから、理解していた。

 どうすれば鬼舞辻無惨が動くのか、それを理解していた。

 

「本部の場所がわかれば……私の居場所がわかれば……」

 

 その時は、躊躇なく来る。

 何故なら、臆病だから。

 勇敢なのではない。臆病だからこそ来るのだ。

 一刻も早く、目の前で、不安の種を取り除きたくて。

 

「来ると、思っていたよ……無惨」

「――――何を言うかと黙って聞いてみれば、想像以上につまらなかったな」

 

 いつの間に、そこにいたのだろう。

 枕元に立つとは、まさにこのことだろう。

 全身を包帯で巻かれ、布団から起き上がることも出来ない産屋敷のそばに、無惨が立っていた。

 2人を遮るものは、何も無かった。

 今、無惨が指先を動かせば、それだけで産屋敷の首は宙を舞うだろう。

 

「そして何より、千年に渡って私に不快な思いをさせて来た一族の長が、貴様のような半死人だとはな。いや、もうほぼ死体と変わらない臭いがするな」

「そう、だろうね。私は医者からは、いつ死んでもおかしくないと言われているからね……」

 

 壊れかけの笛のような呼吸音で、産屋敷は言った。

 

「それも、きみを倒したいがためだ……無惨」

「その儚い夢も今日限りだ、産屋敷。鬼狩りは今日で潰える」

「終わらないさ。人の想いは絶対に終わらない」

「…………まあ、良い」

 

 産屋敷と無惨。

 千年に渡る両者の関係は、結局のところ、どちらかが滅びるまで終わらない。

 

「結果は、すぐにわかる」

 

 そして、その時は近い。

 そう、思えたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何もないところから、()()は出て来た。

 その姿を認識した時、炭治郎は叫んだ。

 だがそれよりも速く、閃光が走った。

 

 ――――血鬼術『破壊殺・乱式』。

 

 閃光は、すべて単純な拳打だった。

 しかしその拳は、一撃で人体を砕き割ってしまう。

 炭治郎の警告よりも数瞬早く、()()()()周囲にいた剣士達の身体がバラバラにされた。

 視界を舞う真っ赤な血肉に、炭治郎は歯噛みした。

 

「……は?」

「何だ、てめえ!」

 

 炭治郎に続いて、善逸と伊之助も敵の姿を捉えた。

 そこにいたのは、全身に刺青のような紋様が刻まれた鬼だ。

 その鬼を、炭治郎は知っていた。

 あの無限列車で姿を見せた、上弦の鬼だ。

 

「猗窩座……!」

 

 名を呼ぶと、猗窩座はこちらを見た。

 その瞬間、炭治郎はその場から動けなくなった。

 善逸も伊之助も同じだった。

 猗窩座の一睨みで、両足が釘で地面で縫い付けられたかのように固まってしまったのだ。

 

 違う。以前の猗窩座とは何かが違う。

 匂いで、音で、肌で、炭治郎達はそれを察した。

 それは同時に炭治郎達の実力の高さを示してもいたが、この場合はそれが不幸だったかもしれない。

 ただ一方の猗窩座は、炭治郎達を一瞥しても、何ら表情を動かさなかった。

 

「……どこだ」

「何?」

 

 ただ、一方的に言って来た。

 

「あの女は、どこだ……!」

「ああ? あの女って誰だよ!」

 

 伊之助は食って掛かったが、炭治郎にはすぐにわかった。

 猗窩座が探している「女」は、1人しかいないはずだったからだ。

 それはあの時、猗窩座の頚を()()()人間だ。

 

「……教えない」

 

 日輪刀を抜いて、炭治郎は言った。

 

「お前に、瑠衣さんの居場所は教えない!」

「正直かお前!」

 

 そういうことは、気付いても言わないものだろうと善逸は思った。

 それでは、瑠衣が本部(ここ)にいると言っているようなものだ。

 しかしそれを言うのが炭治郎なのであって、その点は仕方ないとも言えた。

 善逸にとって問題なのは、猗窩座の発する鬼気が、今まで出会ったどの鬼よりも強い、ということだった。

 

「そうか」

 

 善逸にとって想定外だったのは。

 

「ならば死ね」

 

 猗窩座の速さが、予想を超えたものであったこと。

 そして彼が最初から、炭治郎の頭を砕きに行ったことだった。

 反応できない。炭治郎が死ぬ。思考だけが追い付いた。

 

 ――――霞の呼吸・肆ノ型『移流斬り』。

 だから、滑り込むような斬撃が猗窩座の拳を叩かなければ、炭治郎は頭部を失っていただろう。

 拳を打たれた猗窩座が退がり、代わりに隊服の背中が視界に入って来た。

 

「時透君!」

「まだ無事?」

 

 霞柱・時透無一郎。彼は床に転がった隊士達の死体を見ると、猗窩座を睨みつけた。

 

「気を付けて! 上弦の鬼だ。そいつは拳法を使う!」

「拳法か。ちょっと厄介だね。ちょっとだけど」

 

 もちろん、時透も猗窩座の強さは一目で見抜いた。

 拳法を使うという炭治郎の言葉も、相手が「単純に強い」ということを示すものだ。

 異能奇策を用いる他の鬼と比べると、それだけ厄介さは増してくる。

 

 そして炭治郎は、時透だけでは厳しいと感じた。

 猗窩座は元々、柱よりも強い。それがさらに強くなっている。

 自分達を含めてもなお、その強さに対応できるかわからなかった。

 せめてあともう1人、誰かがいたなら。

 

「……オイオイオイオイ」

 

 その時だった。

 炭治郎達がいるのとは反対側の通路から、日輪刀を肩にトントンと当てて、男がやって来たのだ。

 

「騒がしいから来てみれば。一体全体、どういうことだァ?」

 

 あ、と炭治郎は声を上げた。

 気のせいか、禰豆子も髪の先端をピンッと反応させている。

 そこにいたのは、不死川だったからだ。

 

「何だァ、てめえはァ」

 

 あともう1人が来た。炭治郎はそう思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 これはまた立派な御仁だ、と、犬井は思った。

 煉獄邸に身柄を移されて、その夜のことである。

 

「あー、厄介になります」

「うむ! 事情は瑠衣から聞いている! 自分の家と思って寛ぐと良い!」

 

 厄介になる以上、家主への挨拶は当然。

 槇寿郎不在の今、煉獄邸の家主と言えば杏寿郎だ。

 犬井の方が年上だが、こういう場合は年齢は関係ない。

 それに杏寿郎の佇まいは、20歳そこそこにしてすでに威厳さえ備えていた。

 

(やー、この年の頃には、おじさんなんて全然だったなあ)

 

 やはり、()()()()している人間は出来が違うのだ。

 見ていてもわかるし、何より瑠衣の慕いようだ。

 ()()()()()()

 あまりにも差があり過ぎると嫉妬の念も湧かないものかと、そんなことさえ思った。

 

「時に犬井殿は食べ物の好き嫌いはあるか!」

「え? いや、特には無いかなあ」

「それは素晴らしいことだ! 瑠衣の飯は美味いぞ! 楽しみにしていると良い!」

 

 少々、お互いへの感情の矢印が太すぎやしないだろうか。

 犬井はふとそんなことを思ったが、それを口にしないだけの慎ましさは彼にもあった。

 

「……何か、兄様が余計なことを言っているような気がします」

「え、何ですか急に」

 

 瑠衣と千寿郎は、厨で夕飯の支度をしていた。

 非常時という意識があるためか、日輪刀は携行していた。

 今さら刀一本で動きが阻害されることも無いので、特に生活や料理に支障は無かった。

 

「千寿郎、火を見ててくれる?」

「あ、はい。わかりました」

 

 竹筒を千寿郎に渡して、瑠衣は立ち上がった。

 ずっと窯の火の側にいたからか、額には汗が滲んでいた。

 それを手の甲で拭いつつ、水甕の蓋を開けた。

 少しはしたないが、そのまま直接顔を洗った。

 

 不思議なもので、任務でどれだけ過酷な環境に身を置いても疲れることはないのに、数人分の料理を作るのに休憩を求めてしまうのだ。

 こればかりは、疲労の種類が違うということなのかもしれない。

 ふう、と息を吐いて、手拭いで顔を拭った。

 

「あ、そう言えばコロさんはどこに……」

 

 先程まで、やけに瑠衣のそばについて回っていたのだが。

 そう思って、水甕に蓋をしようとした時だった。

 ふと、()()()()()

 

 水面に映り込んだ自分と、目が合った。

 いや、違う。これは()()()()

 しかし何故、煉獄邸(ここ)で――鬼殺隊本部(ここ)で?

 

「せ――――」

 

 瑠衣が声を上げるよりも、彼女の顔を掴む()の方が早かった。

 引きずり込まれる瞬間、瑠衣に出来たことは、水甕の蓋を放ることだけだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――日輪刀を携えていなければ、おそらく死んでいた。

 引きずり込まれた瞬間、刀を抜いていた。

 長鞘に納めるのではなく、普通に小太刀を2振り腰に差していた。

 眼前を斬り払うと、見えはしなかったが、肉と骨を断つ独特の感触が伝わって来た。

 

「ギャッ」

 

 同時に、鬼の――この状況で鬼でないわけがない――悲鳴が聞こえた。

 しかし引かれる力は如何ともし難く、受け身のタイミングも測れずに()()することになった。

 ただ幸か不幸か、すぐに地面があるというわけでは無かった。

 

 まず感じたのは生温い水の感触だった。

 すぐに地面に達する程に浅いが、高さと勢いはそれほどでも無い。

 そのおかげで、受け身なしで固い地面に激突するということは避けられた。

 

「ぐっ……ごほっ、ごほっ」

 

 生温く、また生臭く、微かに粘り気がある水。

 口の中にまで入って来たそれを吐き出しながら、未だ顔を掴む手首を引き剥がした。

 すると、さらに生臭さは増した。

 まるで鉄錆のようなその臭いに、瑠衣は覚えがあった。

 

「これって……」

 

 それは、血だった。

 足首ほどの深さの血の池。そこに瑠衣はいたのだった。

 血だと認識した瞬間、強烈な吐き気を覚えた。しかし堪えた。

 ()が、目の前にいたからだ。

 

「うう……痛い……酷い……」

 

 血の池の中に、金髪の、幼い少女が蹲っていた。

 すでに再生した腕を抱えて「痛い痛い」と呻いている。

 その間に周囲を確認したが、血の池には果てが見えなかった。

 心なしか空気も澱んでいる。呼吸がしにくい。

 

『空間系ノ血鬼術ダヨ』

(言われなくともわかってますよ……!)

 

 起きたらしい姉が、頭の中で声をかけて来た。

 しかし、危機的な状況なのは確かだ。

 何故ならば、目の前の鬼の血鬼術の中に取り込まれたことを意味するからだ。

 そして同時に理解した。蝶屋敷で看護師を殺したのは、この鬼だ。

 

「……許さない……許せない……」

 

 鬼が、顔を上げた。

 そこにいたのは、やはりあの時の――刀鍛冶の里で垣間見た、あの鬼だった。

 しかしその両の瞳には、あの時には無かった数字が刻まれていた。

 

(上弦の陸!? もう補充されたの……!?)

 

 可能性としては、無い話ではない。

 だがこんなに早く補充されるとは思わなかった。

 自分達が思っている以上に、鬼の層が厚かったということなのか。

 

亜理栖(アリス)の、うちのお兄ちゃんに、ご飯……!」

「はあ?」

 

 しかもこの鬼、亜理栖というのか、言っていることが支離滅裂だった。

 いったい、何の話をしているのか。

 

『来ルヨ、瑠衣』

「ああ、もう! わかってますから、いちいち言わないでください!」

 

 毒吐きつつも、危機は理解していた。

 ここは、()()()()()()だ。

 すべてが亜理栖の意のままになる空間で、瑠衣の方が異物なのだ。

 そして、異物は排除されるものだった。

 

「血鬼術……!」

 

 ――――血鬼術『鏡写しのお家』。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その鬼を前にした時、カナヲは全身の産毛という産毛が逆立つのを感じた。

 この鬼に比べれば、今まで倒してきた鬼など赤子も同然だと、そう思った。

 上弦の鬼とは、目の前に存在するだけでこうまで()を感じるものなのか。

 

「とりあえず初めまして、俺は童磨(どうま)。突然だけど、きみ達には何か悩みはあるかい?」

「な、悩み?」

「うん。俺はね、万世極楽教っていう宗教の教祖をやってるんだ。聞いたことあるかな? まあ無いよね、100人くらいの小さな宗教だし」

 

 童磨という鬼は、のべつ幕無(まくな)しに喋り続けている。

 内容は、まあ、どうでも良いことばかりだ。

 少なくとも、カナヲにとってはどうでも良い内容だった。

 コインを投げて決めるまでも無く、聞く必要が無い。

 

 この場におけるカナヲの使命は、2つしかない。

 1つ、アオイを守る。

 2つ、目の前の鬼を倒す。

 ああ、いや、訂正する。やはり1つだ。それはどちらも同じ意味だからだ。

 

蝶屋敷(うち)から、出て行け……!」

 

 ――――花の呼吸・伍ノ型『徒の芍薬』。

 瞬きの間に9つの斬撃。

 余りにも時間差なく放たれる斬撃は、まるで広がる花弁のようだった。

 その鮮やかさに、斬られる側の童磨も「おお」と声を上げた。

 

「凄い凄い! 鮮やかで速いねえ」

 

 その剣を、童磨は両手に持った扇で迎え撃った。

 正確に表現するなら、迎え()()()()というべきだろうか。

 カナヲの放った攻撃の全てを、わざわざ1つ1つ、正確に合わせて打ち落としたのだ。

 相手を褒めながら、平気な顔でそれ以上の強さの攻撃で返してしまう。

 こちらを舐めているとしか思えない。まさに()()()()()性格の鬼だ。

 

「ぐっ……!」

 

 腕の痺れに顔を顰めながら、弾かれた勢いには逆らわず、天井に着地した。

 

「あはっ、待て待て~」

 

 当然、童磨はカナヲを追撃してくる。

 カナヲはそれをしっかりと見ていた。

 

(あれは何?)

 

 見ていたが故に、童磨の周囲に発生し始めていた()()にも気付いた。

 咄嗟には、それが何かまではわからなかった。

 しかしそれが、厨という閉鎖的な空間で放って良いものでは無いことは理解した。

 

「アオイ! 逃げて!」

 

 逃げ場など無い。

 わかっていたが、思わず叫んだ。

 その叫びに、アオイが実際に反応しようとしたその刹那。

 童磨が、扇を振り下ろした。

 

「うちの子達に触るな、下種が」

 

 ()()()()()()()()()()()

 廊下から、扉を突き破って、踏み込みの勢いのままに突きを放ったのだ。

 

「し……」

「しのぶ様あっ!」

 

 しのぶの乱入に、カナヲとアオイが声を上げた。

 そして童磨はと言えば、腕の痛みよりも、視界に広がる蝶の羽織の方を気にしていた。

 あれ、どこかで見たことあるな、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 胡蝶しのぶは、鬼の頚を斬れない。

 体格が小さく、腕力が足りないからだ。頚の肉と骨を断つ力は無い。

 代わりに彼女が鬼を討つために考案したのが、毒だった。

 

 鬼が藤の花を忌避する習性を利用した、毒の剣技。

 しのぶはその剣技を研鑽し、下弦の鬼でさえ討ち倒す程に昇華した。

 しかしその毒も剣も、上弦の鬼に撃ち込むのはこれが初めてだった。

 

「うーん」

 

 ()()()、と、童磨は自分の唇を舐めた。

 それはちょうど、新鮮な肉を食べた後に、残った脂を舐め取る行為に似ていた。

 もっとも舐めているのは、毒を含んだ自分の血だったのだが。

 

「面白いねえ! これが毒かあ。初めて喰らったけど癖になりそう。その鞘の中で調合しているのかな?」

 

 結論から言えば、しのぶの毒で童磨を殺すことは出来なかった。

 童磨は受けた毒を即座に分析し、同時に体内で分解してしまったからだ。

 その時間は、()()()()()にも満たない僅かな間だった。

 下弦以下なら即死する毒を撃ち込まれて、平然としている。

 

「……まあ、そうですね」

 

 日輪刀を鞘に納めながら――童磨の言う通り、しのぶは鞘の中で毒の調合を変えている――しのぶは言った。

 

「良いですよ。ここまでは、想定通りですからね」

 

 元々、毒の一発で討てる鬼だとは思っていない。

 ()()()()()()()()()()()()()

 

「ところで、お前。この羽織に見覚えはあるか?」

「うん?」

 

 言われて、童磨は何度か目を瞬かせた。

 そして、不意に何かを思い出したように手を打って。

 

「ああ! あの花の呼吸の女の子が着ていた羽織だね! 優しくて可愛い子だったなあ。良い子だったし、救済してあげたかったんだけど、途中で邪魔が入っちゃってねえ」

 

 かつて、姉のカナエはこの童磨に遭遇したことがあった。

 とある任務帰りの、不意の遭遇だった。

 そこでカナエは襲われ、引退を余儀なくされる程の重傷を負った。

 

 姉を救ったのは、槇寿郎だった。

 あの頃の槇寿郎は、新人の柱の教育係のような立ち位置にいた。

 悲鳴嶼以外の柱は半年と保たずに死ぬので、いつしかそういうことになっていた。

 槇寿郎がいなければ、カナエは死んでいただろう。

 

「お前のせいで、姉は不自由な体になった」

「ああ、そうなのかい。それは可哀想に。大丈夫だよ、ちゃんと救ってあげるから」

 

 カナヲとアオイは、カナエの負傷の原因のことを聞いていなかった。

 いや、鬼との戦いで負傷したとは聞いていた。相手が上弦というのも察していた。

 ただそれが、童磨だとは知らなかった。

 

 そしてしのぶは、それをカナヲやアオイに知らせる気は無かった。

 知らせたくなかったと言っても良い。

 それはカナヲ達のような純粋な子供達に、童磨という汚らしい単語を聞かせたく無かったからだ。

 姿を見せる気も、さらさら無かった。しかし不幸にも、目の前に現れてしまった。

 

「お前を殺す方法を、色々と考えていました」

「へー、そうなんだ! うーん、でもそれは無理だと思うなあ。俺って強いし。きみ、お姉さんより弱いでしょ? 見ればわかるよ」

 

 現れてしまったのなら、カナヲ達の記憶に残らない内に。

 ()()()()()

 

「おお?」

 

 え、とカナヲは思った。

 しのぶはカナヲとアオイを背中に庇っていたのだが、調理台の上に置きっぱなしだった調理包丁を掴むと、それを投擲した。

 何をと思ったが、それは童磨も同じで、彼はそれを避けようともしなかった。

 何に遮られることもなく、包丁は童磨の胸の真ん中に突き刺さった。

 

「……やあ、凄い精度だね。でも、これじゃあ」

 

 じゅう、と、微かに何かが焼ける音がした。

 それが自分の身体から発された音だと気付いた童磨は、視線を落とした。

 そこには突き立った包丁があり、そして、()()()傷口が見えた。

 当然、ただの包丁で焼けたりはしない。鬼の肉体を焼く刃。それはつまり。

 

「日輪刀と聞いて、刀を思い浮かべる人が多いですが」

 

 まさか、と、童磨は思った。

 顔を上げると、しのぶの手には包丁やら食器やら、()()()()()が握られていた。

 

蝶屋敷(ここ)にある金属は、医療器具から調理道具に至るまで、すべて日輪刀と同じ材質で出来ています」

 

 つまり、と、それら全てを投擲しながら、しのぶは言った。

 

蝶屋敷(ここ)には、お前を殺すための物しか無いってことです」

 

 熱烈だなあ、と、童磨は思った。

 そこまで自分を思ってくれていることに感激したし、そして何より、それで自分を殺せると思っていることに対して、彼はこう思ったのだった。

 可愛いなあ、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鴉が、緊急事態を告げて回っていた。

 下位の隊士達は明らかに浮き足立っていて、戦力としては使い物になりそうに無かった。

 いや、仮に冷静だったとしても、上弦の鬼を相手に戦力になどはなれなかったか。

 

 ――――蛇の呼吸・伍ノ型『蜿蜿(えんえん)長蛇(ちょうだ)』。

 何よりも問題なのは、鬼殺隊の本部中にうじゃうじゃといる()()だった。

 すべての「伍」という数字が刻まれている。

 上弦の鬼の血鬼術であることは明らかだった。

 

「ちっ、キリが無いな」

 

 伊黒が舌打ちした通り、この目玉は次から次へと湧いて出た。

 もはや隠す気が無いのか、姿を見せることで混乱を助長しようとしているのか、あるいはその両方か。

 いずれにしても、5匹や10匹程度を斬っても意味が無かった。

 

「伊黒さん!」

 

 そうやって伊黒が目玉を斬っていると、甘露寺がやって来た。

 甘露寺も目玉を斬っていたのか、すでに刀を抜いていた。

 

「甘露寺、無事だったか」

「ええ、でも上弦の鬼が襲撃してきたって……!」

「まずは冷静になろう。襲撃されているところはわかるか」

 

 鴉による連絡は断片的で、情報にまとまりが無かった。

 情報が錯綜していて、戦力をどこに向けるという話にもなっていなかった。

 鬼殺隊全体が混乱しているのだと、否が応でも理解した。

 

「今のところ、本部隊舎の方と蝶屋敷の方に出てる。それと、煉獄邸だな」

「きゃっ。あ、宇髄さん」

「おう」

 

 まさに音もなく、宇髄も現れた。

 どうやら宇髄は――本職らしく――情報収集に努めていたらしい。

 その結果、彼は少なくとも3体の上弦の鬼が乗り込んできていることを掴んでいた。

 本部隊舎と蝶屋敷は何となくわかるが、煉獄邸というのは良くわからなかった。

 

 しかし、逡巡している暇は無かった。

 最大戦力である柱が、3人もこんな道端でじっとしているわけにはいかない。

 これは、鬼殺隊壊滅の危機なのだから。

 

「甘露寺は蝶屋敷の方を頼む。俺は……」

「本部隊舎の方は俺が行く。お前は煉獄邸の方に行きな」

「……わかった」

「はい!」

 

 甘露寺を蝶屋敷に向かわせたのは、蝶屋敷が女所帯で、甘露寺がしのぶ達とも仲が良かったからだ。

 カナエはともかく、伊黒と宇髄はそこまで蝶屋敷の面々と気心が知れているわけではない。

 そして残り2択で煉獄邸を伊黒に任せるあたり、宇髄は良く人を見ていた。

 流石に宇髄と言うべきか、と、若干の複雑さと共に伊黒は思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「瑠衣はここでいなくなったんだな?」

「はい」

 

 瑠衣が姿を消したことに気付いたのは、当然ながら、千寿郎だった。

 普段なら、どこかに何かの用事でもあったのかと思うだろう。

 しかし姉が夕飯の支度の真っ最中に厨を離れたことは今まで無かったし、何より、()()()()()()()()()()どこかへ行く人では無かった。

 

 何かがあったのだ。千寿郎は本能的にそう察した。

 察しはしたものの、彼は対応策まではわからなかった。

 数瞬の逡巡の後、千寿郎が選択したのは「兄を呼ぶ」ということだった。

 そして実際のところ、それが取り得る選択肢の中で最上のものと思えたし、事実そうだったからだ。

 

「振り向いたら、いなくなっていて」

「ふむ」

 

 厨の、水甕の前。おかしなところは無い。

 周囲も、至って変わったところは無い。

 

(しかし、瑠衣は消えた。蓋を放り投げて、()寿()()()()()()()()()

 

 瑠衣の危機では無い。千寿郎の危機だ。あれはそういう娘だ。

 つまり、脅威は未だこの部屋にある。

 どこにあるのか。

 当然、瑠衣が直前に()()()()()()()だろう、この水甕だ。

 

 杏寿郎は、穴を開けるかのように水甕を凝視していた。

 甕の中では、水面が揺らいでいるだけだ。

 杏寿郎は、その水面をじっと見つめていた。

 

「兄上……?」

 

 千寿郎の目には、何かがあるようには見えなかった。

 しかし兄の目は、確かに何かを見ている。

 それが何なのか、自分がわからないだけなのだ。

 

 不意に、杏寿郎が動いた。

 火吹き用の竹を手に取ったかと思うと、それを水甕の上に持って行き、そして半分程を浸した。

 最初、千寿郎はやはり兄の行動の意味がわからなかった。

 だが杏寿郎が竹を水面から引き上げると、その意図がわかった。

 

「え……?」

 

 ()()()()()()()()

 水の中に浸したはずの竹が、全く濡れていない。

 これは異常だ。すなわち異能――血鬼術。

 この水甕には、血鬼術がかかっている。

 

「す、凄いです兄上! いったいどうやってわかったんですか!?」

「む? いや、何もわからん!」

「でも今、血鬼術を見抜いたじゃないですか」

「これは何となくやってみただけだ!」

「え?」

「うん?」

 

 千寿郎は、この兄との問答を忘れることにした。

 

「しかし、これでわかった。この水面は今、()()()()()()()()()()()()()()

 

 目に見える水面は、しかしそのまま水面ではない。

 これは、()()だ。

 およそ人の身体が通れるような、人が入り込めるような構造ではない水甕に、瑠衣は消えたのだ。

 ここではない、どこかへ。

 

「どうしますか、兄上」

「無論! 瑠衣の後を追う!」

 

 愚問と承知で聞いた。

 そしてあえて言わなかったが、千寿郎は自分もついて行こうと思っていた。

 あんなに近くにいて気付けなかったという点に、千寿郎は悔しさと責任感を覚えていた。

 だから自分が姉を助けに行くのだ、という気持ちが強かった。

 当然、杏寿郎も弟の決意に気付いている。だから。

 

「せん「いや~、おじさんはその判断ちょっとどうかと思うねえ」……むう! これは犬井殿!」

 

 他所の家の厨に入ることに遠慮があったのか、犬井は「入っても大丈夫?」と千寿郎に聞いていた。

 杏寿郎ではなく千寿郎に聞くあたり、同じ家でも場所によって権力者が違うことを良くわかっていた。

 

「柱がそう簡単に死地に飛び込んじゃいけないでしょってね」

 

 人間、受けたものには必ず報いなければならない。犬井はそう思う。

 それが恩義であるならば、なおさらのことだ。

 一宿一飯の恩。

 明日をも知れぬ鬼狩りにとって、それは一生の恩義に等しい。

 

「おじさんが行くよ。アンタ達の家族は、オレが必ず連れて帰る」

 

 そして、()()()()()()()()()

 この時の彼には、いや誰にもわからないことだったが。

 犬井のこの判断こそが、彼の運命を決定付けたのだと。

 後になって、杏寿郎は理解したのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

あっちもこっちも大忙しで収拾がつかなくなってきました(え)
こうなったら私の心の中のワニ先生を解放するしか…(え)

それでは、また次回。


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第43話:「鏡の国の」

 足元の血が霧状に舞い上がり、視界を奪った。

 次に視界が広がった時、瑠衣の目の前には家が建っていた。

 煉獄邸のような屋敷ではなく、桟瓦葺きでモルタル壁を用いた、いわゆる「洋館」だった。

 小さいが立派な建築物だ。が、どこか歪んで見えた。

 

「ここはね、亜理栖のおうちなの」

 

 亜理栖の声が、四方から響いた。

 姿は見えない。

 足元の血の池はなくなったが、むせ返るような鉄錆の臭いは消えていない。

 濃厚な鬼の気配が、あらゆる方向から漂っていた。

 

「パパもいるの。ママもいるの」

 

 チリチリと、肌が痛む。

 全身に針を刺されているようだ。針の筵とは良く言ったものだ。

 残りの一振りを抜き、両手に日輪刀を――小太刀を構えた。

 

 二刀流。正直なところ、まだ慣れていない。

 しかし長の見立ては正しかったのだろう。

 俊敏な動き、何より脚力が重要な瑠衣の戦い方に、小太刀の長さと重さはぴったり合っていた。

 

蟷螂(カマキリ)ミタイダネ』

五月蠅(うるさ)い)

 

 内心であながち間違いでもないと思ったが、女子として肯定は避けた。

 

「でもね」

 

 何より、亜理栖からの圧力が増していた。

 目の前の洋館からはいよいよ禍々しい気配が漂い、視界には再び血の霧が舞い始めていた。

 掌に、じっとりとした汗が滲んでいた。

 

「でもね、お兄ちゃんがいないの」

 

「家族はみんな一緒じゃないといけないのに、お兄ちゃんが帰って来ないの」

 

「どうして?」

 

「お兄ちゃんが亜理栖を置いて行くわけないのに」

 

「どうして?」

 

「どうして? どうして? どうして?」

 

 ――――風の呼吸・肆ノ型『昇上砂塵嵐』。

 血が、襲い掛かって来た。

 そうとしか表現できなかった。血の霧が渦を巻いて、瑠衣を掴もうとした。

 それを、二刀の斬り上げで打ち払った。

 だがそれだけで、両腕に重い衝撃が来た。

 

(本気でもない一撃が、こんなに重い……!)

 

 亜理栖の感情の昂りに反応しただけの、()()()()の攻撃に過ぎない。

 それが、打ち払っただけで腕が痺れる程に重い。

 では、本気で打ち込んできた攻撃はどうなるのか。

 想像するだけで、瑠衣は気が滅入りそうだった。

 

「――――どうして?」

 

「お前?」

 

「お前のせい?」

 

「お前が、お兄ちゃんを隠したの?」

 

「返して」

 

「亜理栖のお兄ちゃんを、返して。返して……」

 

 そしてその時は、すぐにやって来た。

 

「――――返せエエエエエエッッ!!」

 

 全身に、憎悪と殺意が絡みついて来た。

 それを振り払うべく、瑠衣は二刀の小太刀を振るう。

 確かに蟷螂だなと、改めて思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 生まれた家を、自分の家だと思ったことは無かった。

 蝶屋敷が、家だった。

 だからカナヲは、心の底では、アオイや蝶屋敷の他の少女達の気持ちを理解できていなかった。

 

 ()()()()という気持ちを、理解できていなかった。

 だが今、カナヲはその気持ちを実感していた。

 目の前で、実際に蝶屋敷が――家が、破壊されれば、嫌でも理解できる。

 

「あ……」

 

 ――――血鬼術『霧氷(むひょう)・睡蓮菩薩』。

 巨大な氷の菩薩像が腕を振るい、蝶屋敷の病棟を薙ぎ倒していた。

 菩薩像が腕が壁を砕き、屋根を剥がして、床に穴を開けた。

 しかも睡蓮の蔓や菩薩像の吐息に触れると、そこから凍り始めてしまう。

 

「ああ、家が。お屋敷が……」

 

 カナヲは、アオイを抱えて逃げるので精一杯だった。

 腕の中で、アオイは嘆いていた。

 無理もない。生家を鬼に奪われ、そして今また第二の家を壊されたのだ。

 カナヲも、たまらない気持ちだった。

 

「アオイ、カナヲ。無事ですね?」

 

 そこへ、()()()と、まさに蝶のようにしのぶが舞い降りて来た。

 

「しのぶ様、蝶屋敷が……!」

「大丈夫ですよ、アオイ。家は直せば良い。でも人は、そうはいかない」

 

 上弦に襲撃を許した時点で、物的な損害は避けようが無かった。

 それに、しのぶにとっても外に出るのは好都合だった。

 あのまま室内で戦っていれば、おそらく一方的にやられていたはずだ。

 

 それは童磨にもわかっていただろう。

 しかしそれをしなかったのは、童磨がこちらを舐めているからだ。

 自分が鬼狩りにやられるはずがないと、自信を持っているからだ。

 その自惚れを、()()()()()()()

 

「カナヲも、良くアオイを守ってくれましたね」

 

 しのぶが、そっとカナヲとアオイの頭に手を置いた。

 それはまさに天女の如く優し気な表情で、慈しみに満ちていた。

 しかしそうしている間にも、脅威は近付いていた。

 

「そろそろ良いかな~?」

 

 嗚呼、苛々する。

 頼むから話しかけないでくれと、しのぶは思った。

 しのぶは、妹たちの前では優しい姉でいたかった。

 だからどんな時でも、それこそ叱る時でさえ、慈しもうと努力してきた。

 

 それを、こんな奴に台無しにされたくは無い。

 しかし、ああ、やはり駄目だ。

 この鬼の、童磨の顔を見ていると、どうしても負の感情を抑えられない。

 妹たちに怖がられたら、どうしてくれるのか。

 

「ああ、可哀想に。そんなに怖い顔で。辛いことがあったんだね、すぐに楽にしてあげるよ」

 

 ――――血鬼術『冬ざれ氷柱(つらら)』。

 柱ほどの大きさの氷柱が無数に生み出されて、しのぶ達に向かって放たれた。

 1本が太い。そして何より数が多い。

 砕くのは無理。逸らすのも困難。避けるしかないが、背後にはカナヲとアオイがいた。

 その時だった。

 

「とっ……とりゃああああああああっ!!」

 

 桃色の一閃が、氷柱を端から両断してしまった。

 その斬撃は直線的ではなく、布のように柔軟だった。

 そんな太刀筋の人間を、しのぶは1人しか知らなかった。

 しのぶ達の頭上を飛び越えて、氷柱を斬った甘露寺が着地した。

 彼女はその場で立ち上げると、童磨に刀を向けて。

 

「ちょっとそこの鬼! しのぶちゃん達をいじめたら、私が許さないんだから!!」

「え~、そんなつもりは無いんだけどなあ」

 

 酷いことをいうものだ、と、童磨は思った。

 それでも、彼は()()()()()()()()()

 酷いことを言って来た甘露寺でさえ、彼は救いたいと思っていた。

 何故ならば、それが彼に課された使命だと信じていたからだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――強すぎる。

 目の前で不死川と時透の刀が()()()()のを見て、炭治郎はそう思った。

 本部隊舎に猗窩座が現れて、不死川と時透が斬りかかった直後のことだった。

 

 霞の呼吸は風の呼吸の派生というだけあって、2人の太刀筋は良く似ていた。

 強いて言えば、不死川の剣はより激しく、時透の剣はより柔らかだった。

 剛柔の風の刃が、両側から猗窩座の頚を狙った。

 そこから逃れられる鬼がいるとは、炭治郎には思えなかった。

 

「ハアッ!」

 

 顔の前で両腕を交差させて、左右に掌底を放った。

 まず、それで不死川と時透の日輪刀を弾いた。

 次いで手刀が来た。流れるような動きだった。

 猗窩座の手が日輪刀の側面に触れた瞬間、刀が真っ二つに折れたのだ。

 

「ちいいっ!」

 

 不死川は、咄嗟に時透を蹴っていた。

 意図を察した時透は抵抗せず、そのまま後ろへと吹っ飛んでいった。

 不死川は、手刀を放った猗窩座の拳が、腰のあたりで握り込まれるのを見ていた。

 

(技から技への接続が速ェッ!!)

 

 ――――血鬼術『終式・青銀(あおぎん)乱残光(らんざんこう)』。

 ――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐(せいらん)風樹(ふうじゅ)』。

 

「不死川さん!」

 

 ――――情けねェ!

 実際に口に出して叫びたかったが、そんな余裕も無かった。

 百発近くの連打。それがほぼ同時に放たれてきた。

 回避も防御も不可能。急所狙いの攻撃を逸らすことしか出来なかった。

 

 喉の奥から溢れて来た血が、唇の端から噴き出した。

 全身を打たれても立ったまま折れた刀を猗窩座に向けていた不死川だが、ダメージの深刻さは明らかだった。

 もちろん、不死川ほどの呼吸の達人であれば、数秒もあれば()()()()が出来る。

 しかしその数秒は、この場合は永遠と同義だった。

 

「俺の拳を弾くとは。柱だな。だが今は、遊んでいる暇はない」

 

 同じ構え。同じ攻撃が来る。

 不死川がそう認識すると同時に、再び百の閃光が迸った。

 

(ヤベェ……!)

 

 出血は止まっていない。ダメージの応急処置は済んでいない。

 この状態で受け切れるか、と不死川が思った。

 その、次の瞬間だった。

 

 ――――獣の呼吸・伍ノ牙『狂い裂き』!

 ――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂(へきれき)一閃・六連』!

 ――――水の呼吸・陸ノ型『ねじれ渦』!!

 

 再び全方向に放たれた猗窩座の攻撃を、三方向から迎撃する者がいた。

 1人であれば吹き飛ばされて終わりだったろう。

 だが3人で重層的に猗窩座の攻撃を()()()ことで、その威力を減衰させることに成功した。

 

 ――――霞の呼吸・参ノ型『霞散(かさん)飛沫(しぶき)』。

 それを、滑り込んできた時透が斬り払った。

 しかしそれでも、攻撃が掠めた額や肩先からの出血は免れなかった。

 余りにも威力が強大過ぎる。

 

「だあああああっ! 痛……くねえ! 全然痛くなんかねえ!」

「伊之助大丈夫か! おでこから血が噴き出しているぞ!」

「2人とも急げ、次が来るぞ!」

 

 情けない。隊士に――子供に守られるとは。

 

「伊之助、善逸! 不死川さんと時透君を援護するんだ! 2人がいてくれれば勝てる!」

 

 炭治郎にその気はないのだろうが、いちいち癪に障る。

 そんなことを言われてしまえば、ヘバっているわけにはいかない。

 

「はっはあ! 派手にやってるなお前らあ!」

 

 今度は何だと思って声のした方を見上げると、宇髄がいた。

 その手にはクナイの束を持っていて、それを猗窩座に向けて投げた。

 どういう原理なのか、それは空中で爆ぜて、猗窩座へと殺到したのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 あり得ない。獪岳は目の前の現実を受け入れられなかった。

 それは、目の前に転がる隊士達の死体を見たからでは無かった。

 問題なのは同胞――獪岳自身がそう思っているかはともかく――の死体ではなく、その死体を量産した鬼の存在だった。

 

「まったく苛立たしい、どうしてこんなことになってしまったのか」

「いちいち口に出すな。聞いているだけで哀しくなってくる」

 

 苛立つ。哀しい。どこかで聞いた、そして二度と聞きたくない言葉と声だった。

 しかしいくら目を逸らしても、現実は消えてなくなりはしない。

 獪岳の目の前に、あの2体の鬼が――()()()()の分裂体が立っているという現実は。

 

(上弦の肆だと!? 死んだはずだろ!?)

 

 上弦の肆は、刀鍛冶の里で討たれたはずだ。

 しかし生きていた。そして今、鬼殺隊を襲っている。

 

「うん? 何だ貴様、儂のやることに文句があるのか」

「え、う」

 

 他の隊士は、瞬きの間に殺されていた。

 初撃で死ななかったのは、この場合は幸運なのかどうなのか。

 

「まて積怒。こやつ見覚えがあるぞ」

「……ああ、苛々し過ぎて思い出せなかった。いつぞやの小僧ではないか」

「哀しい記憶力だ。()()()()。この小僧を殺さねば、()()()()()()()()()()()()

 

 何の話をしている。

 わからなかった。

 わかったことは、積怒と哀絶から濃厚な殺意が向けられていることだけだ。

 

 まず、雷撃が来た。積怒の錫杖から放たれたものだ。

 初見では無いので、かわすことは出来た。

 しかし雷撃をかわしたところに、哀絶の槍が打ち込まれてきた。

 

「クソがッ!」

 

 ――――血鬼術『激涙(げきるい)刺突(しとつ)』。

 ――――雷の呼吸・弐ノ型『稲魂』。

 5つの槍撃を、身体を捻りながら斬り、防いだ。

 跳躍して距離を取ろうとしたが、そこへさらに雷撃が来た。

 哀絶をも巻き込む雷撃――同じ分裂体には効かないため――は、かわしようが無かった。

 

「ぎゃああっ!」

 

 全身を焼かれる激痛に、悲鳴を上げた。

 そのまま地面に転がったところへ、哀絶がとどめを刺しに来た。

 

「殺せ! 哀絶!!」

「いちいち喚くな、哀しくなる」

 

 槍の切っ先が、視界の中で線になった。

 死の感触を、鼻先に感じた。

 何か黒いものが視界を覆う。これが死ぬということかと、そんなことを思った。

 

 ――――蛇の呼吸・弐ノ型『狭頭(きょうず)の毒牙』。

 

 しかしそれは、槍でも死の実感でもなく、()()()()()()()()()()()が、目の前で転がったためだった。

 頚が転がって離れると、白黒の縞々の羽織が目に入った。

 煉獄邸を目指して走っていた伊黒が、道中で現場に居合わせて、そのまま哀絶の頚を刎ねたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 自分には敵の姿が見えない。

 対して、敵は一方的に自分を攻撃することが出来る。

 そういう状況にあって、しかし瑠衣は諦めていなかった。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 血の霧が針状に変化し、全方位から瑠衣に襲い掛かって来た。

 それを瑠衣は螺旋の突進で弾き飛ばしながら、鬼の洋館を目指した。

 どんな血鬼術にも起点はある。起点を潰せば術は消える。

 

()()()()()()()

 

 すると、洋館の方が瑠衣から離れた。

 瑠衣が一歩近付けば、地面の上を滑るようにして、同じ分だけ後退する。

 この事実は、瑠衣に2つのことを教えてくれた。

 第1に、やはりあの洋館の中に血鬼術の起点があるということ。

 

「お前なんか、亜理栖たちのおうちに入れてあげない!」

 

 第2に、あの洋館には()()()()()()()()()ということ。

 果てのない追いかけっこであるならば、体力に劣る人間が圧倒的に不利だからだ。

 

(厳しいな……!)

 

 まあ、厳しいのはいつものことだ。

 血の針を斬り払い、洋館を目指して駆け続けながら、瑠衣は考えた。

 とにかく、洋館の中にある血鬼術の起点を潰す案は達成困難になった。

 そうなると、危険(リスク)は増すがもう1つの案に賭けるしかない。

 

『ドウスル気?』

 

 とどめに合わせる(カウンター)

 どういう理由かはわからないが、この鬼は瑠衣に相当の殺意を向けてきている。

 過去に襲い掛かって来た時も、わざわざ姿を見せていた。

 とどめを刺しに来る瞬間、亜理栖は必ず自分の手で瑠衣を殺しに来るはずだ。

 

(こいつの思考自体は単純だ)

 

 鬼になったせいか、あるいは元の性格なのか。直情的で単純だ。

 

「あっ……!」

 

 だから瑠衣が血の針に刀を弾かれ、たたらを踏んでみせると――――()()

 血の針が渦を巻いて塊となり、それが人の形を成し始める。

 しかしそれは、誘いだ。

 殺る。

 その塊に対して、瑠衣が刀を振るおうとした。まさにその瞬間だ。

 

「――――!」

 

 何かに気付いたように、その塊が弾けた。

 びしゃっ、と音を立てて地面に飛び散り、跡形もなく消えた。

 困惑したのは、刀を振り損ねた瑠衣である。

 こちらの攻撃を察したのかと思ったが、追撃も無い。

 

 逃げたのか?

 だが、何故?

 瑠衣に脅威を覚えたとは思えない。そもそも、アレに脅威を感じることが出来るのか。

 仮に脅威を感じる感性があったとして、いったい、何に脅威を感じたのか。

 

「う~~~~ん」

 

 刀を手に警戒を解かずにいると、そんな唸り声が聞こえた。

 それは亜理栖の甲高い声ではなく、大人の男性の声だった。そして聞き覚えのある声だった。

 その男性は、否、()()()()は、犬井だった。

 彼は瑠衣との再会を喜ぶでもなく、目の前にそびえ立つ亜理栖の洋館を見上げながら、こう言った。

 

「どうして、こんなところにおじさんの実家(うち)があるのかな?」

 

 ――――なに?

 

  ◆  ◆  ◆

 

 不思議なことに、犬井が現れると、()()()が安定した。

 それまで不安定さの中で張り詰めていた空気が、弛緩した。

 まるで、周囲の何もかもが犬井を受け入れているかのように。

 

「うん、やっぱり実家(うち)だ」

 

 瑠衣が追っても離れた洋館は、しかし犬井が来るとその場に留まった。

 だから犬井は普通に(ドア)に辿り着いたし、そして普通に開けることが出来た。

 さらに加えて言うなら、扉の向こうには――――普通に、エントランスホールが広がっていた。

 絨毯が敷いてあり、階段があり、奥の部屋へと続く通路があった。

 

 そしてここは、犬井の実家なのだという。

 犬井は、これは瑠衣が彼と出会ってからおそらく初めてのことだったが、困惑している様子だった。

 それはそうだろう。ここは鬼の血鬼術の中だ。

 それがどうして、犬井の実家を映し出しているのか。

 

「……可能性としては」

 

 瑠衣の頭の中に叩き込まれた鬼の情報。煉獄家に集積された知。

 

「鬼の血鬼術の中には、こちらの心象風景を写し取るものがあります」

「うーん。でもこれって、おじさんが来る前から()()だったわけでしょ?」

 

 その通りだった。

 相手の心を写し取るというのなら、まず、()()()()()()()()()()()()()()

 しかし実際には、犬井が来る前からこの洋館は現れていた。

 そして何より、あの鬼はこう言っていた。

 

 ()()()()()()()、と。

 だからこの家は、彼女の家なのだ。

 ()()()()()()()()()()()()

 

「どがんことや、こりゃ」

「え、何です?」

「……どういうことかなあ、これは」

 

 どう言葉をかけるべきか、瑠衣は迷った。

 

『迷ウコトナンテナイジャナイ』

 

 頭の中で、姉が言った。

 迷うことなんてない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『ソノママ言ッテヤレバ良イノニ』

(人間はそんなに単純じゃないんです)

 

 その時だ。不意に犬井が顔を上げた。

 それに気付いた瑠衣が声をかけようとすると、手で制された。

 何だと思っていると、彼は耳に手を当てて音を聞こうとしていた。

 いったい、何の音を聞こうとしているのだろう。

 

「こっちだ」

「え?」

「早く! ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 意図も、そして意味もわからなかった。

 しかし、先に駆け出した犬井の後を追わないわけにはいかなかった。

 鬼の洋館の中を、瑠衣は駆け出した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 近付いてくると、瑠衣にもその音――いや、()()()が聞こえて来た。

 たまに立ち止まった口笛を吹いていて、するとその声がまた聞こえて来た。

 犬井の足取りに迷いはなく、本当に間取りを理解しているのだとわかった。

 そして、ある部屋で止まった。

 

 しかし犬井は、そこで躊躇することは無かった。

 彼は迷うことなく、その部屋の扉を開けた。

 そこは寝室のようだった。大きな寝台(ベッド)が目についた。

 だが何より異彩を放っていたのは、やはりと言うべきか、《鏡》だった。

 

「……姿見、ですね」

 

 形自体は、特に言及することもないくらいに普通だった。

 どこにでもある、普通の姿見だ。

 だが、()()()()()()

 鏡面さえ血の色をした姿見。初めから()()であったわけがなかった。

 

「おじさんがここに来た時、水甕の水面を通って来たんだ」

「水面……水鏡ですか」

 

 思えば、最初に遭遇したのは()()だった。

 そこで、ふと思い至った。

 蝶屋敷の事件。あの時、被害者は窓の側にいた。

 ()()()()()()。これも鏡だ。

 

「じゃ、通って」

「はい?」

「いやいやいや、はい? じゃなくてさ、ここを通って帰るの。オーケー?」

「おーけーって何です?」

「桶のことだよ」

「な、何故いきなり桶の話を……?」

 

 後で知ったことだが、オーケーと桶は何の関係もない。

 重要なのは、鏡を「通る」ということだ。字面からしてすでに意味不明だ。

 周囲の光景と比して明らかに異彩を放っているこの姿見は、おそらく術の起点だ。

 そこへ飛び込めというのは、(いささ)か勇気を必要とした。

 

「ほら早く早く。鬼が気付いて出入り口を閉じちゃうかもしれない」

「それは、確かにそうですが」

「ほらほら」

「え、あっ。ちょ、待っ」

 

 違和感を覚えた。

 鏡の中に押し込まれ――冷たく(ぬめ)り気のある水に沈むようで不快だった――ながら、いつになく強引な犬井に、違和感を覚えたのだ。

 

「い、犬井さんは」

「おじさんが若者より先に避難するわけにはいかないでしょお。大丈夫、すぐに追いかけるよ」

「あ、ちょっ。押さな……わあっ!?」

 

 姿見を潜った瞬間、()()()

 足元が無く、どことも知れぬ空間の中を落下した。

 浮遊感に襲われて、何かを掴もうと藻掻いた。

 そうして掴んだのは、()()()()()()()

 

「姉上!?」

 

 鏡は、途中で水に変わった。

 突然に水中に放り出されたのと、倒れた拍子に水甕が割れて、厨の地面に倒れ込んだ。

 側にいたのだろう。千寿郎の驚く声が聞こえた。

 駆け寄って来た弟に手で大丈夫だと伝えながら、瑠衣は言った。

 

「せ、千寿郎。兄様は?」

「あ、兄上は外へ戦いに! 別の鬼が近付いてきていると長治郎が!」

「――――バウッ」

 

 そこへ、()()()()()()()()

 

「……ありがとうございます。コロさん」

 

 あの世界で犬井と自分が聞いていたのは、コロの声だった。

 コロの声を頼りに、自分と犬井はあの血染めの鏡を見つけたのだ。

 そこで、はっとした。

 

「そうだ、犬井さんは……!?」

 

 振り向いたが、そこに犬井はいなかった。

 砕けた水甕の破片と、中身の水がぶちまけられているだけだった。

 犬井の姿は、どこにも無かった。

 

「いやあ、怒るだろうな~あの子」

 

 犬井は、()()()()()()()()

 彼は相変わらず鬼の洋館にいて、その足元には彼が割った血染めの鏡があった。

 

「まあ、でもね。おじさんのケジメに若い子を巻き込むわけにはいかないし、さ」

 

 砕かれた姿見。しかし散らばった鏡の破片は、変わらず鏡だ。

 その鏡の中から、血の霧が室内に漂って来ていた。

 そして、その血はやがて人の形を取り始める。

 

「そう、ケジメをつけなきゃな」

 

 刀を抜いて、犬井はその血の塊へと足を向けた。

 

「俺は、()()()()()()()()()――――亜理栖」

 

 姿を現した亜理栖は、犬井のその言葉に喜色を浮かべた後。

 イタズラを見つかった子供のような、バツの悪そうな表情を浮かべたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「ぐあああっ」

 

 悲鳴を上げて、羽根を失った鬼が地面に落ちた。

 驚くもう1匹の鬼へ、杏寿郎は一足で飛び込んだ。

 おのれ、と手にした八つ手の団扇を鬼が振るう。

 すると、正面から凄まじい圧力の風が杏寿郎を包み込んできた。

 

 ――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎』!

 それを、杏寿郎は防ぎも避けもしなかった。

 踏み止まり、堪え、そして正面から打ち破った。

 虎の如き気合いの斬撃が団扇の風圧を越えて、敵に直撃する。

 

「ガッハ……ア!」

 

 肩から脇までを斬り裂かれ、可楽はその場に膝を着いた。

 楽・喜の感情を司る2体の鬼をして、その表情は「信じられない」という色を隠せずにいた。

 それはそうだろう。分裂体とは言え、彼らは上弦の鬼なのだ。

 それが、圧倒されている。しかも相手はたった1人の人間なのだ。

 

「残念だが、キミ達の能力はすでに割れている」

 

 そんな2体を前にして、杏寿郎はそう言った。

 鬼殺隊の当主は言う。上弦の鬼の力は最低でも柱3人分に匹敵すると。

 しかし今、杏寿郎は空喜と可楽を圧倒しているように見える。

 その理由は、彼がまさに言った。この2体の能力が割れているからだ。

 

 上弦の強さは、純粋な力の強さもさることながら、その能力の多くが謎に包まれていたからだ。

 何しろ遭遇自体が少なく、遭遇した隊士は柱も含めて討たれてしまう。

 しかし今は違う。特にこの上弦の肆――半天狗は、その能力の細部を刀鍛冶の里で露呈していた。

 能力も、武器も、鬼殺隊士で知らぬ者はいないと言ってしまっても過言ではない。

 

「鬼殺の剣士に同じ血鬼術は二度通じん。まして柱ともなれば、能力が割れている相手に不覚など取らん!」

 

 しかし相手を知っていても、勝負の結果がどうなるかは別の話だ。

 杏寿郎には、対応できる実力も器用さもあった。

 そして杏寿郎には知る由もないが、残り2体の上弦の肆も伊黒によって止められていた。

 今の柱にとって、上弦の肆はもはや「討ちやすい敵」と化していたのである。

 

「…………」

 

 それを理解したのだろう。可楽と空喜は歯ぎしりしながら杏寿郎を睨んだ。

 しかし攻撃は仕掛けない。杏寿郎に隙がまったく無かったからだ。

 いくら討ちやすくなったとは言え上弦の鬼だ。油断するはずもない。

 

(しかし……)

 

 一方で、杏寿郎は上弦の肆が刀鍛冶の里で頚を斬られたと聞いていた。

 しかし目の前にいる以上、刀鍛冶の里では仕留めそこなったと見るしかない。

 いったい何故なのか。そこがわからなかった。

 

「……可楽」

「わかっておる」

「む! 合体か! それも聞いている。合体したとしても」

 

 上弦の肆の分裂体の合体により、さらに強大な鬼と化すことを杏寿郎は知っていた。

 ()()()()()()()()()()()

 上弦の肆、半天狗。その鬼の真の力が分裂でも合体でも、まして不死身ですら無いことを。

 上弦の肆の真髄を、杏寿郎は知らなかったのである。

 

  ◆  ◆  ◆

 

()()()()()()

 

 鬼舞辻無惨は、今にも死にそうな相手を前にして、実に淡々とした表情でそう告げた。

 無惨は、己以外のすべての鬼と繋がる能力を持っている。

 すなわち、鬼殺隊本部へ侵入した4体の上弦の鬼の見たものや聞いたものを共有しているのだ。

 他の鬼も無惨を介してという形だが、互いの記憶を共有することは出来る。

 

 話が逸れたが、つまり無惨は今、鬼殺隊本部で起こっているすべてを把握しているのだ。

 その無惨が「終わる」と言った以上、外の戦況の深刻さは相当に深刻だと思われた。

 しかし、それを聞いた産屋敷の反応は。

 

「…………」

 

 何も、無かった。

 もちろん、反応する程の余力が無いということでもある。彼はすでに半死人だからだ。

 だがそれでも、何らかの反応はあって然るべきだろう。

 少なくとも、無惨はそう思った。

 

「……理解できないな」

 

 腕を組み、指先でこめかみのあたりを指先で叩きながら、無惨は言った。

 

「何故、お前は絶望しない? 今にも死にそうなのに、お前からは恐怖の匂いがしない」

 

 希望か。いや、そんなものは無い。無い、はずだ。

 それとも、何か企みがあるというのか。

 

「ふふふ……無惨、きみは死ぬのが恐ろしいんだね」

 

 ピク、と、無惨のこめかみが微かに動いた。

 もはや身じろぎ一つできない産屋敷にそれを確認することは出来ない。

 ただ、気配は察したのだろう。彼は咳き込みながらも小さく笑った。

 

「私の死は、鬼殺隊に大して影響を与えないんだ。私自身はそれほど重要じゃない。だから、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「何だそれは。自分がお飾りだと言っているのか。自虐が趣味か?」

「違うよ……逆だ。私が死んでも、私の想いは決して失われない。()()()()()。他の剣士(こども)達もそうだ。死は終わりじゃない。その証拠に、鬼殺隊は千年間なくならなかった」

 

 壊滅寸前に追い込まれたことも、一度や二度では無かった。

 それでも鬼殺隊はなくなら無かった。その意思が途絶えることは無かった。

 繋いできた。

 無惨を、鬼を滅ぼす。人間の世を守る。

 

 滅びかけながらも、犠牲を積み上げながらも、その想いを後へ、後へと繋いできた。

 無惨と同じく、()()()()()()

 ()()()()()()()()

 それを聞いた時、無惨が感じたのは――――気味悪さだった。

 

「良くわかった。お前は――――お前達は、異常だ」

 

 そんな無惨の言葉に、産屋敷は血に濡れた唇で、嗤ったのだった。




最後までお読みいただきありがとうございます。

さて、いよいよ決断する時か。
この物語を終わらせるための決断。
うーん、悩む!

煉獄の兄貴、私を見守ってくれ~。

それでは、また次回。


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第44話:「滅亡」

 ――――この世に、神様なんていない。

 童磨は生まれながらに、それを知っていた。

 努力したところで出来ないことは出来ないし、善行を積んだところで結果が良くなったりはしない。

 何故なら、努力も善行でも物事の結果は変わらないからだ。

 

『この子は特別な子に違いない』『神の声が聞こえるに違いない』

 

 両親――人間だった頃の両親――はそう言って、自分を神の子だと言って喜んだ。

 ご神体よろしく祀り上げられた童磨に、信者の人間達は色々と言って来たものだ。

 やれ「辛い」だの「苦しい」だの、「誰それが憎い」だの「病気で苦しい」だの。

 祖父と孫ほども年の離れた相手にそんなことを話して泣き出す。滑稽なことこの上なかった。

 

 救いをもたらす神や仏などいない。つまり神の子だって存在しない。

 他人に話したところで、悩み事が解決することも、病気が治ることもない。

 そんな簡単なこともわからないなんて、本当に、人間というのは。

 

「愚かだなあ」

 

 氷の蓮の花の上で、童磨は月を見上げていた。

 月は、支配の象徴だ。

 この世に神も仏もいないけれど、鬼舞辻無惨という()はいる。

 そんな存在に歯向かおうというのもまた、愚か極まりない行動だった。

 

「…………ごほッ」

 

 そして、しのぶはそんな童磨に、言い返すことが出来ずにいた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 辛うじて重要な器官は避けているようだが、頬を氷の針が貫通している姿は痛々し過ぎた。

 

 ――――血鬼術『蔓蓮華』。

 氷の蔓を放つ血鬼術。しかし出したのは童磨ではない。童磨の姿を模した氷の人形だ。

 血鬼術『結晶ノ御子』。小さいが、放つ技の威力は童磨と同等。しかも6体もいた。

 実質的に童磨が6人増えたようなもので、余りにも凶悪な血鬼術だった。

 

「……かん……ろ、じ……さ……」

 

 ()()()()と、血の雫がしのぶの顔に落ちて来た。

 それは、氷の蔓を伝って落ちて来たものだ。

 何十本という氷の蔓に絡めとられた甘露寺の身体から、流れ落ちた血だった。

 足場のない空中で、しかも蔓に触れた肌を氷漬けにされては、さしもの怪力も役に立たない。

 

「うああ……ッ!」

 

 カナヲが、悲鳴を上げていた。

 3体の御子に壁際に追い詰められて、氷の針で刺されたのだ。

 2本、3本と、氷の針が小さな背中に突き刺さって行く。

 半ば蹲って一方的に攻撃を受けているように見えるのは、身体の下にアオイを庇っているからだった。

 

「カ、ナ……ヲ。アオ、イ……」

 

 それを見て、しのぶは足を動かした。

 ()()()()

 氷の針で足の甲と足首を地面に縫い留められていたから、筋肉を引き千切るような音がした。

 

「凄いなあ」

 

 自分も、頼みの援軍(蜜璃)も明らかに戦闘不能だ。

 にも関わらず、しのぶの戦う意思はいささかも衰えていない。

 

「こんな絶望的な状況でも、心が折れないなんて」

 

 ()()()()()()。そう言って、童磨は手を上げた。

 すると、氷の仏像が動き出した。

 その全身が前へと傾き始めて、しのぶを始め、その場にいる全員に影を差した。

 意図は、明らかだった。

 

「今、その苦しみから解放してあげるからね」

 

 氷の仏像が、倒れ込んだ。

 ――――しのぶ達を、下敷きにして。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 柱3人がかりで、戦いを挑んだ。

 さらに炭治郎達3人も、これを援護した。

 その他にも、その場に居合わせた隊士が何人かいた。

 

 そして、()()()()

 

 猗窩座の強さは、圧倒的だった。

 この鬼の強みは、純粋な肉体的強さだ。

 下弦の壱や上弦の肆や伍のように、特殊な異能で絡め取るわけではない。

 猗窩座は単純に強い。だからこそ、厄介だった。

 

「あの女は、どこだ」

 

 炭治郎は喉を掴まれ、持ち上げられていた。

 すでに肋骨が何本か折れていて、持ち上げられることで身体が伸びると鈍痛が走った。

 喉を潰されて、呼吸もままならない。

 

「た、炭治郎……」

 

 善逸は、起きていた。

 いや、厳密には戦闘時にはいつも通り寝ていたのだが、全身の痛みで意識が覚醒したのだ。

 そして彼自身の負傷は、その痛みに比例したものだった。

 怖くてとても見れないが、膝から下の感覚がおかしかったし、鬼の拳で殴打された肌の下で深刻な内出血を起こしてもいた。

 

「な、何だよアイツ……強すぎるよ……」

 

 宇髄は血塗れで地面に倒れ伏していて、不死川は足だけが崩れた壁の中から覗いていた。

 時透の姿は見えない。体重が軽いから、遠くへ吹き飛ばされたのかもしれない。

 伊之助は、猗窩座に踏みつけられた状態だった。静かで、動かない。

 3人とも心音が弱っていて、危険だった。

 

「あの女は……」

「――――!」

 

 ――――ヒノカミ神楽『円舞』!

 最後の一呼吸を絞り出して、炭治郎は拒絶の一撃を放った。

 しかしその一撃を、猗窩座はもう片方の手で止めてしまった。

 掴んで止めた炭治郎の手首を、強靭な握力で握り潰す。

 

「ぐあっ……ああっ!」

 

 そこへ、飛び掛かるものがいた。

 禰豆子だった。

 箱はいずこかへと消えてしまっていたが、鬼である彼女は傷も再生する。

 爆ぜる血を伴って飛び掛かって来た猗窩座だが、()()()()()()()()()()()()()、蹴りがその禰豆子の腹を撃ち抜いた。

 

「禰豆子ちゃ……!」

 

 腹に穴が開き、足が貫通した背中から血肉が飛んだ。

 宙を飛んで、背中から地面に落ちた。

 人間であれば、下半身が泣き別れしていただろう。

 しかし鬼の耐久力をもってしても、猗窩座の一撃の前には沈むしかない。

 

「最後にもう一度だけ聞く」

 

 はっとして、善逸は顔を向けた。

 地面を這って進もうとするが、余りにも遅すぎた。

 

「あの女は、どこだ」

 

 言ってしまえ、と、善逸は思った。

 本当のところ「あの女」の現時点の居場所などわかりはしない。適当なことを言えば良い。

 それで助かる保証は無いが、言わなければ確実に殺される。

 だから善逸は思った。言ってしまえ、と。

 

「…………」

 

 だが、炭治郎は言わなかった。

 わかっていた。炭治郎はそういう奴だとわかっていた。

 わかっていたが、善逸は思わずにはいられなかった。

 馬鹿野郎、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 上弦の肆・半天狗。

 その血鬼術は、分裂体を生み出す力だと認知されている。

 それは、間違いではない。

 だが()()()()()()

 

「どけっ!」

 

 獪岳を突き飛ばした伊黒の腕が、()()()

 いや正確には、裂けたのは羽織と隊服だった。

 腕に沿う形で日輪刀を置き、()()を防いだのだった。

 

(とはいえ、この衝撃……! 咄嗟に刀を出さなければ腕が飛んでいたな)

 

 だが、問題はそこでは無い。

 自身の腕の一本や二本は脇に置いて、伊黒は目の前で起こった変化を見た。

 上弦の肆の分裂体の2体が、彼らの目の前で融合したのである。

 

 いや、融合自体は問題ではない。報告にもあった。

 しかしその姿は、報告にあった木竜(トカゲ)使いの少年鬼では無かった。

 姿はより幼く、人間で言えば7つか8つくらいの年齢だ。

 ただしその姿は、幼子というには余りにも異形だった。

 

「グルルルル……!」

 

 まず、顔が2つある。造形は同じだが、哀絶と積怒に似ていた。

 そして手足は左右で大きさが違い、しかも獣の如き太く毛皮に覆われていた。

 背中には燃える太縄があり、手には錫杖と槍を合わせたような武器を持っている。

 口は言葉を発さないが、代わりに、剥き出しの牙と唸り声を発していた。

 

「……面白くない展開だな」

 

 まあ、鬼と関わって面白いと感じたことなどそもそも無いのだが。

 そんな時だった。

 

「な、何か来る!」

 

 と、獪岳が声を上げた。

 何かとは何だ具体的に言え、と伊黒は内心で思った。

 普段なら口に出していたところで、そして実際に口に出そうとしたのだが、それよりも先に「何か」が来た。

 

 まず、衝撃が来た。次いで爆発。

 爆発と言っても火薬の類ではなく、何かが高い位置から落ちて起こったものだ。

 そして煙が晴れ切らぬ中で、声が響いた。

 

「う――ん! よもやこんなところまで飛ばされるとは! 炎柱として不甲斐なし!」

「その声、煉獄か!」

「む! 伊黒か!」

 

 杏寿郎が、煙の中から飛び出して来た。

 そしてその直後、再び爆発が起こった。

 二度目の爆発は先程よりも大きく、つまりより重く勢いのある物が落ちて来たことを物語っていた。

 

「すまん! 連れて来てしまった!」

「お前もか、頼むから主語をつけてくれ。何を連れて来た」

「上弦の肆だ!」

 

 その通りだった。

 煙の中から現れた上弦の肆の姿は、伊黒が相対していた鬼と同じ姿をしていた。

 違うとすれば、2つある顔が可楽と空喜のものであったことだろう。

 そして2体の上弦の肆は互いに気付くと、凄まじい勢いで跳躍し、そして()()した。

 

「な……!」

 

 肉が潰れ、ひしゃげる音がした。骨が砕け、粘り気のある水音が響き渡った。

 余りにもおぞましい光景に、伊黒はあからさまに眉を顰めた。

 そしてその肉塊の中から誕生した新たな鬼は。

 伊黒の想像を超えて、おぞましい生き物だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣が千寿郎を伴って煉獄邸の外に出た時、()()()()()()()

 玄関から正門のあたりまでが抉れたように崩れていて、向かいの建物の屋根が砕けていた。

 何かが吹き飛んでいった。一目瞭然だった。

 

「千寿郎はここに」

「僕も行きます!」

「でも」

「僕も煉獄の剣士です! 姉上と一緒に戦います!」

 

 ()寿()()()姿()()()()

 その一事だけで、瑠衣は事態の深刻さを理解した。

 だから千寿郎を置いて行こうとしたのだが、千寿郎はついて行くと言った。

 

 瑠衣は逡巡したが、千寿郎の瞳の真っ直ぐさと、鏡鬼の存在が頭を(よぎ)った

 すでに鬼殺隊本部のあらゆる場所から凄まじい鬼気を感じる。

 この状況下では、むしろ連れて行った方が安全かもしれない。

 

『気絶サセテ転ガシタ方ガ早クナイ?』

(何てことを言うんですか……)

 

 一方で、判断に時間を割いている場合でも無い。

 

「ついて来れなかったら、置いて行くからね」

「はい!」

 

 ともあれ、杏寿郎を追わなければならなかった。

 建物の屋根に跳び上がり、破壊の後を追って駆けた。

 よくよく聞いてみれば、破壊や戦いの気配をそこかしこから感じた。

 もはや本部中が戦域だ。それにしても。

 

「姉上、どうして鬼に本部(ここ)がばれたんでしょう?」

「刀鍛冶の里がばれたんだから、本部がばれたっておかしくはない」

 

 言いつつ、瑠衣はすでに答えを知っている気がした。

 おそらくは、あの鏡鬼だ。鏡の血鬼術。

 あの鬼には、鏡を通して遠くを見る力があるのだろう。

 しかも水面でも窓でも良いというのであれば、一方的にこちらの秘密を覗き見られるだけだ。

 

 要は、諜報戦において鬼殺隊は惨敗したのだ。

 その結果が、これだ。

 しかし泣き言を言ってもいられない。兄と合流し、事態の収拾に努めなければ。

 

「――――――――ッ!」

 

 その矢先だった。鼓膜に痛みを覚える程の咆哮が、やけに近くで聞こえた。

 瑠衣と千寿郎は反射的に耳を押さえて、その場に竦んでしまった。

 そこへ、突風が来た。

 

「うわああっ」

「ッ、千寿郎!」

 

 横からの突風――自然のものでは無い――に、千寿郎が飛ばされた。

 咄嗟に瑠衣はその腕を掴んだが、そのために次への反応が遅れた。

 

「ガアアアアアッ!」

 

 黒い何かが、空から降りて――いや、落ちて来た。

 ぱっと見た時、瑠衣はそれを幼児だと思った。

 形は、そうだった。

 しかし物凄い速度で近付いてくるにつれて、それが自分の何倍も大きい体を持っていることに気付いた。

 

 そしてそれが、両腕を振り上げて、こちら目掛けて落ちて来る。

 その事実に気付いた時、しかし瑠衣は千寿郎の手を掴んでいた。

 体勢が悪い。

 ()()()()()()()()()

 そう思い、瑠衣は弟の手を掴んだまま、もう片方の手で小太刀を振り被った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 姉の左腕が宙を舞うのを、千寿郎は見た。

 小太刀を振り被ったその左腕を、黒い幼児が()()のを見た。

 自分の腕を掴む瑠衣の手が、一瞬、痛みを堪えるように握力を強めるのを感じた。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 攻撃のために放った型ではない。

 右腕で自分を抱き込んだ瑠衣が、敵から距離を取るために跳んだだけだ。

 しかし片腕を失ったせいで感覚を掴み損ねたのか、着地を失敗した。

 

「うぎっ!」

 

 塵旋風の回転のまま、地面に落下し、ごろごろと転がった。

 顔を地面にしたたかに打ち付けて、しかし千寿郎は「馬鹿」と自分を叱咤した。

 すぐに立ち上げれと自分に命じたが、その時には、すでに瑠衣の方が立っていた。

 自分の顔の前に、姉の靴裏が見えた。

 そして、()()()()と滴る、赤い雫。

 

「あ、あ、姉上ェッ!」

「大丈夫……」

 

 大丈夫なはずが無かった。

 左腕が、二の腕から先を失っていた。

 破れた隊服からは、生々しい肉の断面と骨までが見えている。

 それ程の傷の割に出血が抑えられているのは、呼吸で筋肉と血管を引き絞っているからだろう。

 

『馬鹿ッ!』

 

 とはいえ、腕一本の喪失が「大丈夫」の一言で済むはずが無かった。

 済むはずが無いが、そんなことを言っている場合では無かった。

 

『瑠衣、代ワレッ!』

(黙っててください……!)

 

 油断すると、意識が飛びかねない。

 ()()()()()()()()()()()

 

「来るよ、立って……!」

 

 そもそも、何だ。この化物は。

 巨大な黒い幼児が、意思があるのかないのかわからない目でこちらを睨んでいた。

 そしてその眼に上弦の肆の数字が見えて、瑠衣は困惑した。

 上弦の肆は、討ったはず。補充されたのか、だが。

 

「グルグルルグルルル」

 

 唸り声を上げるその顔は、確かに上弦の肆の分裂体の面影がある。

 失態だ、と、そう思った。仕留め損ねていた。

 だったら、ますますこの負傷は自業自得だと思えた。

 巨体が動く。右の日輪刀だけで受け止めきれるか。

 

「グガアアッ!」

 

 ――――炎の呼吸・伍ノ型『炎虎』!

 ――――蛇の呼吸・肆ノ型『頸蛇(けいじゃ)双生(そうせい)』!

 炎の横撃が上弦の肆の巨体を止め、蛇の斬撃が肉を斬り裂いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 上弦の肆・半天狗の血鬼術は「分裂」ではない。

 そして、木竜(トカゲ)に代表されるような「植物」を操る能力でも無い。

 ()()()()()()()()()

 ()()()()()()

 

 己の命が危機に瀕した時、どんなに弱い動物でも必死の反撃をしてくる。

 そして鬼もまた感情ある生き物である以上、例外ではない。

 積怒達「分裂体」は、己への脅威を排除する防衛機構に過ぎない。

 そして既存の防衛機構で己の命が守れないのであれば、より強力な防衛機構を生み出せば良い。

 つまり半天狗の血鬼術とは、強い生存本能に根差す「自己防衛」の能力なのだった。

 

「ぐお……っ」

 

 巨大な拳は、脅威を殴り潰すためのもの。

 その拳を杏寿郎は日輪刀で受け止めたものの、身体は明らかに後ろへと押されていた。

 靴の踵で地面を抉り、しかし堪え切れずに吹き飛んだ。

 空中で身体を縦に回し、着地をする。上弦の肆がさらにそれを追う。

 

 ――――蛇の呼吸・参ノ型『(とぐろ)締め』!

 

 伊黒は舌打ちした。

 参ノ型は全方位から斬撃を繰り出す技だが、上弦の肆に怯んだ様子は無い。

 斬られた先から再生してしまう。表面だけを攻撃しても意味が無い。

 渾身の一撃で、ようやく芯に届くかどうかというところか。

 

(それでいて、相手の攻撃は一撃で致命傷というのだからな……!)

 

 視線を向けると、右腕一本で日輪刀を構える瑠衣が見えた。

 合体に気を取られて、取り逃がした。

 痛恨の極み。だが二度と逃がさない。

 

 しかし、その()()()()()という伊黒の意思を、上弦の肆は的確に受け止めていた。

 すなわち、そこでさらなる変化が起こる。

 ガパ、と、背中に大きな口が開いたのだ。

 

「なっ!?」

 

 その口で襲い掛かってくるつもりか。伊黒はそう思った。

 しかし違った。背中だけでなく、上弦の肆の全身に開いたのだ。

 手や足、さらには顔まで縦に裂けて口になっている。鋭い牙が、ギラリとした輝きを放っていた。

 そして上弦の肆の巨体が、一瞬、()()()

 

「何をするつもり……?」

 

 それを、瑠衣も霞み始めた視界で見ていた。

 呼吸で止めているとは言っても、細い血管を通じた出血は続いている。

 千寿郎が傷口を縛ってくれたが、すでに失った血の量も少なくはない。

 

 だからだろうか、奇妙なものが見えた気がした。

 ぎゅっと縮んだ上弦の肆に肉体の内に、何かが吸い込まれ、回転しているのが()()()

 そしてそれが、次の一瞬で一気に膨張するのがわかった。

 

「伏せて――――ッ!」

 

 瑠衣が叫んだ、次の瞬間。

 視界を白く焼く程の音と衝撃が、上弦の肆の肉体から放たれた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 音波攻撃。上弦の肆の能力の一種だ。

 だが伸縮・膨張した上弦の肆によるそれは、巨大な爆弾が爆発したかのような、凄まじい威力だった。

 爆発の中心地は大きく窪み、その場の建物は全て吹き飛んで粉々になっていた。

 

「う……千寿郎……」

 

 数秒か、数分か。瑠衣は意識を飛ばしていた。

 頬に地面の感触があり、左腕で身を起こそうとして、出来ないことに気付き、右手をついて起き上がった。

 千寿郎を探したが、見つからなかった。

 

 刀は、と、頭の片隅で思った。

 しかし地面についた右手が日輪刀を握っているのを見て、放さなかったことに気付いた。

 その手の甲に、不意に影が差した。

 

「グルルル」

 

 唸り声がして、顔を上げた。

 そこに、上弦の肆がいた。

 瑠衣を見下ろして、涎を垂らし、全身を膨張させていた。

 ――――意思は、明らかだった。

 

 

「ここは病院なんだっけ。怪我や病で苦しむなんて可哀想。俺が来て本当に良かったね」

 

 蝶屋敷で、童磨がそう呟いていた。

 彼の足元で、蝶屋敷はそのすべてが氷に覆われ、あるいは倒壊していた。

 壊滅していた。()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「くだらん。弱者を甚振って何になる」

 

 そして、本部隊舎。柱3人と炭治郎がいたはずのその場所は、やはり廃墟と化していた。

 本部隊舎のかつての威容はすでになく、瓦礫の山と化していた。

 その瓦礫の上を歩く猗窩座。その歩みを止める者は、()()()()()()()

 

 

『瑠衣、逃ゲルンダ』

(……そういうわけには、いかない……)

 

 父に誓った。後は任せてくれと。

 逃げるなんて、出来るはずが無い。

 だが一方で、死ぬわけにもいかないと思う。

 

 ここは、鬼殺隊の本部だ。

 千寿郎。あるいは炭治郎達。弟が、後輩達がいる場所だ。

 そんな場所に脅威を残して、死ぬことは出来ない。

 逃走はあり得ない。敗北も許されない。だとすれば、道は1つだ。

 

「倒す……!」

 

 目の前の鬼を斬り、脅威を減らす。

 兄や伊黒の姿が見えない。自分がやるしかない。

 千寿郎の姿が見えない。早く探しに行かなければならない。

 

「お前なんか、腕一本あれば十分だ……!」

 

 上弦の肆が、再び体を伸縮させた。反対に体内で力が膨張するのが視える。

 自分の動きは、それに対して余りにも緩慢だった。

 それでも。

 ――――それでも、最後まで、日輪刀から手を放すことだけはしなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 意外、と言えば意外だった。

 

「――――終わったぞ。産屋敷」

 

 無惨がそう言った時、産屋敷は()()()()()()()()

 厳密には、心肺が停まっていた。

 もう、今にも死ぬ。

 だから言葉をかけても返事が無いことはむしろ当然なのだが、それが、無惨には不満だった。

 

 そして、不満に思う自分に不満だった。

 相手が千年に及ぶ因縁の相手とは言え、人間との会話に意味を見出している。

 否、意味を見出そうとしている自分がいることが、無惨には意外だった。

 思えば、今までの会話も不快とは感じなかった。不思議な感覚だった。

 

「死してなお、私を嘲笑(わら)うか」

 

 産屋敷は、血を吐いた口で微笑んでいた。

 最期の最期まで、無惨に屈することも、絶望することも無かった。

 それが無惨には不思議でならなかった。

 死を目の前にして、鬼殺隊の滅亡を前にして、なぜ笑うのか。

 

『無惨様』

 

 いったい何が、この男の心を支えていたのか。

 単なる負け惜しみと言うには、異常に過ぎた。

 異常。やはり、無惨が彼を、彼らを表現するにはその言葉しかない。

 まったくもって、理解できない異常者たちだった。

 

『無惨様、この後はいかが致しますか?』

 

 どうするもこうするも無い。鬼狩りという異常者は1人残らず殲滅されなければならない。

 奇しくも本人の言を証明するようで(しゃく)だが、産屋敷家の現当主が死んだところで、鬼殺隊が滅びないことは知っていた。

 400年前、無惨は一度、()()()()()()()()()()()()()()

 だが鬼殺隊は滅びなかった。だから、今度こそ()()()()()()()()()()()()()()

 

(わかっているだろうな――――黒死牟)

 

 ()()()()、鬼殺隊を滅ぼす。

 当代の産屋敷は、最後まで絶望しなかった。何故か。

 自分が死んでも、鬼殺隊が滅びないという確証があったからだ。

 1つは、自分の代わり――子供が、後継者がいること。これは探し出す。

 そして、もう1つの理由。それは。

 

「お前が……いるからだ……当代の炎柱よ」

 

 幾度目かの交錯の末、黒死牟はそう結論付けた。

 この男(槇寿郎)がいる限り、鬼殺隊は終わらないと。

 

「それは違う。()()殿()

 

 それに対して、槇寿郎は言った。

 

「鬼殺隊の、いや人の営みは、()()いるかいないかでは無い」

 

 誰か1人がいなければ、終わりになるようなものではない。

 本当に強さとは、本当の尊さとは、誰か独りの下には無い。

 

「貴方もかつては、それを信じていたはずだ」

 

 黒死牟の()()()()が、槇寿郎を見据える。

 その眼の向こう側を覗き込もうと、槇寿郎もまた黒死牟を見つめた。

 そしてそんな槇寿郎の姿に、黒死牟は強い既視感を覚えたのだった。

 かつて、同じような視線で見つめられたことがあったような気がする。

 

(そうだ……あれは……確か……)

 

 ()()()()

 まだ、自分が人間だった頃では無かったか――――。




最後までお読みいただきありがとうございます。

鬼殺隊は滅亡しました。

皆様、夜はしっかりと戸締りをして、出歩かないようにしてください(え)

それでは、また次回。


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第45話:「月と炎」

 ――――轟音。

 それは、およそ刀が衝突した音では無かった。

 何か、より大きなものをぶつけ合っているような、そんな音だった。

 

(この男…)

 

 幾度目かの衝突の後、黒死牟は相手の力量に驚嘆を覚えていた。

 この数百年、黒死牟は多くの剣士――柱を(ほふ)って来た。

 炎の柱とは直接戦ったことは無かったが、無惨を通じて他の上弦の戦闘記録は見ていた。

 それを見ても、何ら思うところは無かった。

 

 しかし今、槇寿郎と打ち合って見て、彼が過去に葬って来たどの柱とも違うと感じていた。

 まず、強さだ。

 過去の柱達は、黒死牟が刀を――己の肉で生成した異質な日本刀――振るだけで、首と胴を斬り離されていた。つまり勝負にすらならなかった。

 だが槇寿郎は、幾度刀を振るおうと、その身に己の刃が届かないではないか。

 

「どこまでついて来れるか…楽しみだ…」

 

 黒死牟は、ほんの少し速度を上げた。

 言うなれば5割の力で動いていたのを、6割ほどに引き上げた。

 それは槇寿郎にも伝わったのだろう。一旦、下がった。

 

()がさぬ…」

 

 一息で、間合いを詰めた。

 袈裟切りに振り下ろした黒死牟の刀を、槇寿郎が切り上げの一閃で迎撃する。

 再びの轟音。先程よりも大きく、そして重い。

 

 互いに押し切れず、弾かれた。

 しかし次の瞬間には手首を返して踏み込んでいる。

 上下が逆になり、2人の中央で剣閃の応酬が続いた。

 その間も足は止まっていない。踏み込みの度に自分の位置取りを調整している。

 

(ほう…まだついてくる…私の動きに…)

 

 鬼の膂力と速度は、常人のそれではない。

 ましてや黒死牟は上弦の壱。鬼の頂点だ。力も速さも他の鬼とは比べ物にならない。

 黒死牟がまだ全力ではないとは言え、槇寿郎は互角以上に撃ち合っている。

 

(懐かしい感覚だ…高揚を感じる…いつぶりか…)

 

 柱はおろか、自分に入れ替わりの血戦を挑む鬼もほとんどいない。

 そんな黒死牟にとって、ここまでの()()()は本当に久しぶりのことだった。

 ふと、そんな思いに耽った。その一瞬だった。

 

「む…」

 

 正面からの撃ち合いに終始していた槇寿郎が、身を捻るのが見えた。

 互いの刀の側面を擦るようにして前に踏み込み、黒死牟の懐に潜り込んだのだ。

 黒死牟の刀を弾き、半回転。切っ先で地面を斬るようにして、技を放って来た。

 

 ――――炎の呼吸・弐ノ型『昇り炎天』。

 速度が上がった。それを察すると同時に後ろに身を反らした。

 顎先に熱を感じるのと、後ろに跳んで着地したのはほぼ同時だった。

 

「これは…私の血か…」

 

 顎を撫でると、指先に僅かに血が付着した。

 ()()()()()()を感じるのも、何年、いや何十年……何百年ぶりか。

 もちろん鬼であるから、傷口は一瞬で消える。

 

()()調()()()、これくらいで良いだろう――――巌勝殿」

 

 黒死牟が全力ではなかったように、槇寿郎も全力ではなかった。

 その事実に、黒死牟は改めて相手を見つめた。

 六つの眼で、槇寿郎を見つめる。その容姿、血、声、そしてこの剣技。

 

「お前は…似ているな…()()()に…」

 

 槇寿郎の姿に、黒死牟は強い既視感に捉われたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――戦国時代。人が血で血を洗う乱世の時代。

 鬼には未だ十二の月がなく、人には未だ鬼殺の剣がなく。

 大正の世にまで続くことになる、人と鬼の争いの構図。その雛型が出来た時代だ。

 鬼においては始祖の絶頂期。そして人にとっては、()()()()()()()()()()の全盛期。

 

 そして、ここでふと疑問に気付く。

 鬼の始祖は千年を生きるというのに、鬼殺の剣士の()()()が四百年前の戦国の世であるのは、どうにも釣り合いが取れない。

 実際には鬼殺の、鬼狩りの――鬼()()は、ずっと以前からいた。それこそ鬼の始祖が誕生した直後から、いた。

 それでも、()()()は四百年前。そう、()()()()()()()()()

 

()()()()

 

 槇寿郎との打ち合いの最中、黒死牟は幾十年かぶりに()()を思い出していた。

 鬼殺の剣士の黎明期にして全盛期。

 あの時代の剣士達に比べれば、その後継達の何と惰弱なことか。

 

『やあ、また打ち負けてしまった』

 

 尻餅をついて地面に倒れた相手を、()()は見下ろしていた。

 額に汗の玉を浮かばせた、燃えるような髪色の男だった。

 目には人を引き付けるものがあり、一度見たら忘れない眼力があった。

 

『流石ですな、巌勝殿』

 

 そう。そうだった。この男は当時の炎の柱だった。

 懐かしい。そんな思いが胸中に去来する。

 

(私は…炎の柱とも…剣技を…高め合った…)

 

 思い起こせば、()()()()()を除いて、自分が最も手合わせした男だった。

 強かった。意思もさることながら、その剣も自分に匹敵する程の腕前だった。

 だからだろう。槇寿郎の剣の1つ1つから懐かしさを感じるのは。

 その事実に、黒死牟は率直に感嘆の念を覚えた。

 

 鬼は永遠だ。だから、自分の剣技が当時のまま保管されているのは当然と言える。

 しかし、人間にとっての四百年はどうか。

 同じものを1年保つだけでも容易ではない。

 しかも短命な鬼殺の剣士がそれを繋ごうと思えば、そこには想像を絶する困難があったはずだ。

 

()()()

 

 四百年前の剣士の気配に、黒死牟は確かに感嘆した。

 

「そして、残念だ…」

 

 しかしそれは、大いなる落胆と表裏であった。

 ホオオオ、と、黒死牟の口元から独特の()()()が響く。

 その音を耳にした槇寿郎は、全身を一気に緊張させた。

 

(これは。いや、これが……!)

 

 ――――月の呼吸・参ノ型『厭忌月(えんきづき)(つが)り』。

 傍目には、それはただ刀を横薙ぎに振るっただけに見えた。

 しかしこれまでほとんど傷を受けなかった槇寿郎が、その一撃を受け止めた瞬間、全身に裂傷が走ったのだ。

 

「技は繋げても…強さまでは…繋げなかったようだ…」

 

 技の衝撃で後退し、膝をついた槇寿郎に、黒死牟は冷然と言い放った。

 

「お前は…あの男(先祖)に…遠く及ばぬ…」

 

 しかしそれも、栓無きこと。

 姿形が似ていようとも、本人ではない。別人だ。

 所詮、()()()に及ぶ者などいるはずが無い。

 金輪際、そんな人間が生まれ落ちるはずも無い。

 そんなことはあり得ないのだと、この時、黒死牟は再確認した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 お前は先祖に遠く及ばない。

 そう言われた時、不思議と怒りも悔しさも湧いてこなかった。

 何故ならばそれは、誰よりも槇寿郎自身が思っていたことだからだ。

 

「ほう…致命傷は(かわ)したか…」

 

 言葉ほどには、感心した様子は無い。

 それはそうだろうと、槇寿郎は思う。

 何故なら黒死牟という鬼は、自分を先祖と――始まりの呼吸の剣士の1人と比べているのだから。

 そして、黒死牟自身が()()()()()()()()()()1()()()()()()()

 

 煉獄家に伝わる手記の中に、始まりの呼吸の剣士達のことが書かれていた。

 黒死牟のことも、書かれていた。正確には、人間だった時の彼のことだ。

 人間の時の名は、継国(つぎくに)巌勝(みちかつ)

 始まりの呼吸の剣士の中でも屈指の実力者であり、当時の鬼殺隊で()()を成していたという。

 

「確かに、私の剣など……貴方がたに比べれば、児戯に等しいものでしょう」

 

 子供達には――杏寿郎はそもそも興味が無かったようだが――その部分は見せていない。

 必要が無いと思ったからだ。

 何故か。答えはすでに述べた。()()()()()からだ。

 

「四百年の研鑽を経た貴方から見れば、私が重ねた鍛錬など、何もしていないも同然」

 

 かつては、それが辛かった。

 いくら努力しても、先祖に遠く及ばない自分に気付くばかりだった。

 そして自分よりも優れた先祖が、鬼の始祖を討つことはおろか、下級の鬼から人々を守り切ることすら困難だという現実。

 四百年繋いできた剣技。しかし、だから何だと自暴自棄になったこともある。

 

『わたしは』

 

 ()()

 

『わたしは、ととさまみたいになりたかったのに……!』

 

 ()()()()()()

 

「それでも私は、巌勝殿。貴方を討つ」

「できぬことを…言うものだ…」

「できるできないではない。やるのだ。何故ならそれが、約束だからだ」

「誰との約束か知らぬが…」

()()との約束だ。炎の呼吸と共に、我が一族が四百年繋いできた約束だ」

 

 槇寿郎は、子供達にはそれを教えていない。

 何度でも繰り返そう。必要が無いからだ。

 黒死牟――継国巌勝のことも。一族の約束のことも、子供達に教える必要は無い。

 自分の後に、繋げる必要は無い。

 

「不肖、煉獄槇寿郎。先祖に代わって、お相手いたす……!」

 

 何故ならば、今日、ここで。自分が果たしてしまうからだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 一足で、間合いを詰めた。

 まさに目にも止まらぬ速度での突進だったが、受ける黒死牟の反応速度も尋常では無かった。

 

 頚を狙った擦れ違い様の斬撃を、最小の動作で迎撃して見せた。

 刀が打ち合い、槇寿郎はそのまま黒死牟の背後へと着地する。

 そして今度は、黒死牟が追撃する形になった。

 

「遅い…」

 

 ――――月の呼吸・壱ノ型『闇月(やみづき)(よい)の宮』。

 体を回転させて、抜刀術のように刀を横薙ぎに振るう。

 攻撃は一閃。しかしそれに対して、槇寿郎は日輪刀を複数回振るった。

 そしてその全てで――()()()黒死牟の刀を弾いた回数は一度だけにも関わらず――刀が打ち合う金属音が()()()鳴り響いた。

 

「ほう…」

 

 ()()を掻い潜り、槇寿郎は掬い上げるような斬り上げの斬撃を放った。

 当然、黒死牟は正面から受け止める。わざわざ避けるような真似はしない。

 甲高い音が響き、衝撃が互いの腕を痺れさせる。 

 鍔迫り合いになった。動きが止まる。

 

「……ッ!」

 

 どちらかが押し切るまでは、次の攻撃は無い。

 そう思ったが、しかし黒死牟の目はそう言っていなかった。

 その視線に肌が粟立ち、槇寿郎は咄嗟に押し合いを放棄して後退した。

 

(いかん!)

 

 ――――月の呼吸・伍ノ型『月魄(げっぱく)災禍(さいか)』。

 刀を振るうことなく、無数の斬撃が繰り出された。

 しかし、それ自体は実は問題では無い。

 

(何という、恐るべき技か!)

 

 黒死牟の放つ斬撃には、その他に無数の細かい斬撃が付属している。

 だから振りの回数に対して、余分に多くの防御や回避を行う必要がある。

 今のように振り無しで無数の斬撃を放たれるとなると、もはや合計の攻撃数さえわからない。

 だから、大きく後退して回避に専念するしかない。しかし。

 

 ――――月の呼吸・陸ノ型『常世(とこよ)孤月(こげつ)無間(むけん)』。

 ――――炎の呼吸・肆ノ型『盛炎のうねり』。

 後退して回避したところで、黒死牟は追撃してくる。しかも間合いが異常に長い。

 咄嗟に型を放ち、最も危険な軌道の斬撃を逸らすので精一杯だった。

 

「ぐ……」

 

 何とか踏み止まるも、ボタボタと足元に落ちる血の量は隠しようもない。

 先祖の約束云々と威勢の良いことを言ってみたものの、実力の差は歴然。

 

(いや、煉獄槇寿郎。実力の差は最初からわかっていたことだろう)

 

 ふう、と呼吸を整えながら、槇寿郎は自分に言い聞かせた。

 相手は最強の剣士にして最強の鬼。一筋縄でいかないのは織り込み済み。

 それがわかっているから、槇寿郎は逆に冷静でいられた。

 だから日輪刀を強く握り、黒死牟と正面から向き合うことが出来た。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「ふむ…どうやら…心を折ることは難しいようだ…」

 

 肌を刺すような槇寿郎の闘志に、黒死牟はそう結論付けた。

 純粋な実力では黒死牟に及ばない。

 それを理解してなお闘志を向けて来るのであれば、戦意を削ぐ形での決着はあり得ない。

 

「このまま…続けても良いが…」

 

 血を流すだけでも、槇寿郎は弱って行く。

 しかし黒死牟は、そういう相手を嬲るやり方は好まない。

 まして剣士同士の戦い。相手の消耗狙いというのは、いかにも()()()()()

 

 ミシ、と、己の肉で作った刀を握り締める。

 するとまさしく肉が蠢くようにして、その刀身が倍近く()()()

 さらに途中で三又に枝分かれし、枝とも言うべき刀身が生えた。

 とても人間には振れない。そんな異形の刀が出来上がった。

 

「せめて我が剣で首を刎ねるのが…礼儀というもの…」

「……ッ!」

 

 ――――月の呼吸・漆ノ型『厄鏡(やっきょう)月映(つきば)え』。

 巨大な獣が地面を爪で引き裂くかのような、そんな斬撃だった。

 幾閃も放たれたその斬撃には、当然、あの細かな不定形の刃が付属している。

 目に見える攻撃だけが脅威ではない。縦横大小の斬撃を同時に捌かなければ即死だ。

 

 ――――月の呼吸・捌ノ型『月龍(げつりゅう)輪尾(りんび)』。

 何よりも、射程が倍以上に伸びている。

 広範囲を薙ぎ払う横の斬撃を、槇寿郎は地を這うようにしてかわした。

 その背中を、無数の小さな斬撃が掠めていく。

 

(反撃の隙が無い……!)

 

 ――――月の呼吸・玖ノ型『降り月・連面(れんめん)』。

 小さな斬撃に斬られたその背中に、本命の斬撃が飛んでくる。

 頭上から降り注ぐ斬撃から逃れるために、壱ノ型(不知火)で跳んだ。

 攻撃ではなく避けるために型を使う。つまり防戦一方ということだ。

 

(何とか、攻撃に転じねば……!)

 

 守ってばかりでは、体力に劣る人間は勝てない。

 攻撃は最大の防御。

 着地と同時に、再び壱ノ型(不知火)で前へと跳んだ。

 そしてそのまま、日輪刀を振り上げて伍ノ型(炎虎)へ入る構えを見せる。

 その瞬間だった。黒死牟の六つ眼がじろりと槇寿郎を睨んだ。

 

「ふむ…強引にでも攻める他あるまい…だが…」

 

 ――――月の呼吸・拾陸ノ型『月虹(げっこう)・片割れ月』。

 先程よりも激しく、雨の如く降り注ぐ斬撃に技の出がかりを潰される。

 そして攻撃に意識を割いていた分、今度は防御が薄い。受け切れなかった。

 己の肉を斬られる感覚に、槇寿郎の身体がぐらりと傾いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 直撃した。手応えとしてそう感じた。

 あえて次々に型を見せたのは、初見の技で、かつ圧倒的物量で押し潰すためだ。

 いかに柱と言えど、あれだけの連撃を捌き切ることは不可能。

 とは言え。

 

「1人を討つに際して…これ程の数の技を放ったのは久方ぶりだ…」

 

 事実だった。

 大抵の敵は、技を放つ前に死ぬ。

 型を使うとしても、1つで事足りることがほとんどだ。

 だからこうして立て続けに技を放つというのは、まさしく「久方ぶり」なのだった。

 

「力及ばずも…向かって来た気概は見事…」

 

 実力は記憶の中の先祖には、遠く及ばない。

 しかし当代の剣士の中では、間違いなく最強であろう。

 そんな剣士と遭遇し戦えたことは、一定の満足感を黒死牟に与えた。

 

 そして彼の目の前には、槇寿郎が()()()()()

 立っていたと言っても、顔を伏し、刀を下げている。

 構えてはいない。足元には血の水溜まりが出来ていた。

 いわゆる立ち往生というもので、死してなお、という気概は、黒死牟も認めざるを得なかった。

 

「さて…死体に鞭打つようだが…作法に則り頚を刎ねるのがせめてもの…」

 

 情けか、と言おうとした時だ。

 黒死牟は、自分の足が前に進もうとしないことに気付いた。

 

(何だ…)

 

 そして黒死牟は、この手の肉体的直感が生死を分かつことを経験で知っていた。

 だから、決して無視はしなかった。

 しかし解せなかった。黒死牟の手には、肉を斬り骨にまで刃が達した手応えが残っている。

 常人であれば、動くことなど出来はしない。

 

 それでもなお、己の肉体は何かを警戒している。

 この状況でそれは、目の前の槇寿郎以外にはない。

 しかし、槇寿郎はもはや死に体。

 そんなものに、何の脅威を感じるのか。

 

「む……」

 

 その時、槇寿郎の頭が僅かに動いた。

 脱力してよろめいたわけではなく、自発的に動かしたのだ。

 とはいえ、だ。黒死牟は槇寿郎の全身を眺めるように目を細めた。

 

 槇寿郎は、まさしく満身創痍。

 先程の黒死牟の一撃は、やはり致命傷を与えている。

 呼吸か精神力か。いずれにせよ、生きているだけで奇跡。

 動くことはおろか、戦える状態では無い。

 

「立ったところで…」

 

 だが槇寿郎の目を見た時、黒死牟の動きは止まった。

 剣気でも殺気でもない。元より、そんなものに黒死牟は怯まない。

 怯みではなく、もっと、胸中深くから感じる何かによって、黒死牟は止まったのだった。

 

(あの目…)

 

 槇寿郎の目は、静かだった。いかなる激しさも無い。

 穏やかであり、哀しみがあるようにも見える。ただ、目を離すことが出来ない。

 そんな目に、黒死牟は見覚えがあった。

 過去にも、同じような目で見つめられたことがあった気がする。

 あれはいったい、いつのことだったろうか――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼になった者の多くは、()()()()()()なる場合が多い。

 というのは、鬼というのは、まず鬼舞辻無惨の()()()()で生み出されるからだ。

 たまたま視界に入ったとか、言動が気に入ったとか、そんな理由だ。

 上弦の鬼でさえそうだ。たまたま無惨に出会い、たまたま鬼にして貰えたに過ぎない。

 

『それならば、鬼になれば良いではないか』

 

 黒死牟は――継国巌勝の場合は、違う。

 無惨の側から勧誘に来て、それを受け入れる形だった。

 人を鬼に変貌させる無惨の血を、押し付けられるのではなく、進んで拝領したのだ。

 

『鬼となれば無限の刻を生きられる。永遠に鍛錬を続けられる』

 

 永遠の鍛錬。

 それこそ、人間・継国巌勝が求めたものだった。

 永遠の命が欲しかったわけではない。時間が欲しかった。

 生まれた時から目の前に立ちはだかっていた、大きな壁を越えるための時間が。

 

 双子の弟・継国縁壱を越えるための時間が。

 始まりの剣士()()など、おこがましい。

 最初の剣士は1人だけだ。継国縁壱だけが始まりにして最強の剣士だ。

 それ以外の剣士はすべて、猿真似に過ぎない。剣も、呼吸でさえもだ。

 

『お(いたわ)しや、兄上』

 

 鬼になった双子の兄を、弟は憐れんだ。

 剣士達に呼吸を教え、剣を教え、数多の鬼を斬った弟。

 それを越えんと人であることさえ捨てて、醜い姿となって同輩を裏切った兄を、憐れだと言った。

 しかし、構わなかった。ただ1つの望みさえ叶うのであれば、と。

 

 だが、勝てなかった。

 

 自分に対して憐れみの言葉をかけた時、弟はすでに老齢に達していた。

 にも関わらず、勝てなかった。いや勝負にさえならなかった。

 一刀。ただの一合で、敗北した。頚を斬られかけた。

 死ななかったのは、運が良かったに過ぎない――――否。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(……何故、今になって思い出すのだ)

 

 それは、目の前に立つ槇寿郎の静かな目が、黒死牟に思い出させたからだ。

 遠い過去の約束を果たしに来たという、かつての同輩の子孫が、弟と同じ目をしていたからだ。

 そして自分の内からこみ上げてくる動揺に、黒死牟は動揺した。

 自分が動揺していること自体に、動揺した。

 

「……!」

 

 そして、その動揺の最中に。

 槇寿郎が、動いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 先祖から、子孫へ。

 言葉にすると簡単だが、実際にしようとすると、これ程の困難は無い。

 9つある炎の呼吸の型でさえ、繋いでいくのは簡単では無かった。

 どうしたって微妙な変化を伴う。派生の呼吸など最たるものだろう。

 

 だが、煉獄家の炎の呼吸は変わらなかった。

 そしてもう1つ、先祖が子孫に託した「約束」も変わらなかった。

 そのまま、受け継いできた。

 何故なら、煉獄家の子孫すべてが、先祖と気持ちを同じにしていたからだ。

 

(何故かは、わからないが……)

 

 黒死牟が彼方へと思いを馳せたと見た時、槇寿郎は動いた。

 深い傷を負い、多くの血を流していたが、それでも、何故だろう。

 今が、最も素早く動けた気がする。

 

 感覚は研ぎ澄まされ、視界の流れがゆっくりに見えた。

 血を失い、寒気すら感じる。しかし心臓はこれ以上なく()()

 壱ノ型(不知火)も、いつになく速い。

 

(動く……!)

 

 黒死牟が、急速に近付いてくる。

 いや正確には槇寿郎が近付いている。黒死牟はまだ動かない。

 今までにないチャンスだった。

 このまま日輪刀を振るえば、あるいは頚に届くかもしれない。

 

「……ッ。巌勝殿――――ッ!!」

 

 だが、槇寿郎は刀を振るわなかった。

 勝機を捨てて、槇寿郎が選択したのは。

 

()()……ッ」

 

 先祖から預かった、継国巌勝への()()を伝えることだった。

 彼は刀ではなく、拳を握り、振り上げて。

 

「――――()()鹿()()()ッッ!!」

 

 黒死牟の顔面を、思い切り、殴ったのだった。

 

「……ッ!?」

 

 当然、ダメージらしいダメージなど無い。

 突撃の勢いで殴り抜いたため、多少たたらを踏みはした。

 正直に言えば、虚を突かれた。

 しかしそれだけだ。何の意味もない。

 

「貴様…」

 

 それだけのことなのに、黒死牟はかわすことが出来なかった。

 殴られたその一瞬、再び記憶を刺激されたからか。

 それが、実力も何もかも及ばないこの男を、自分に届かせたのか。

 

「これで、()()()()()()()

 

 そう言って、槇寿郎はようやく刀を振り上げた。

 大きく身体を捻り、刀を振り上げ、傾かせた顔から相手を睨み据える。

 闘気と覇気が、ビリビリと黒死牟の肌を震わせた。

 

「その構えは…」

 

 ――――炎の呼吸・玖ノ型『煉獄』。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 先程は虚を突かれたものの、元に戻るというのならその限りではない。

 日輪刀を構えた槇寿郎を見て、黒死牟は一気に落ち着いていた。

 剣士としての戦いにおいては、黒死牟に一日の長がある。

 

「これが約束か…なるほど…」

 

 ()()()()()()と、ふとそう思った。

 懐かしい記憶の中、同胞が鬼になったらどうするかを話し合ったこともあった。

 だが、しかし。やはり甘い。あの時、自分は。

 

「鬼になったら同胞がいれば頚を刎ねようと、そう言ったはずだがな…」

「わからないだろう。お前には」

 

 ふと、疑問を覚えた。

 槇寿郎の口ぶりが、先程までとは違うように感じられたからだ。

 当然だ、と、槇寿郎は言った。

 

「これまでは、煉獄家当主としての戦い。そして、ここからは」

 

 ぐ、と紅い日輪刀を振り被りながら、槇寿郎は言った。

 

「ここからは、1人の剣士として――――お前を討つ」

「先程も言った…二度も言わせぬことだ…」

 

 黒死牟もまた、刀を構えた。

 無数の目玉が浮き上がる異形の刀。その目玉のすべてが、槇寿郎を向いていた。

 

「できぬことを…言うものではない…」

 

 言いつつも、一方で黒死牟は気付いてもいた。

 気付いていたというより、戦い始めてからずっと感じていた。

 槇寿郎が、本気で自分の頚をとりに来ていることに。

 

 ここまでにしよう、と黒死牟は思った。

 過去への郷愁で手心を加えてしまった形だが、それも、先程の殴打で吹き飛んだ。

 だから、()()()()なのだ。

 遠い、遥かな遠く。人間だった頃の僅かな記憶。()()()()だ。

 目の前のこの男を、槇寿郎を殺して、訣別の証としよう。

 

(おそらく、次の一撃が本命だろうな)

 

 その気配を、槇寿郎もまた敏感に感じ取っていた。

 黒死牟から立ち昇る鬼気の質が変わり、明確な殺意となってこちらに向いているのを感じる。

 これほどの距離がありながら、首筋に冷たい刃の感触をすでに感じている。

 それはまさしく、黒死牟が槇寿郎に与える死のイメージだった。

 

()くぞ……!」

 

 その死のイメージを、槇寿郎は恐れなかった。

 何故ならば、彼はすでに()()()()()()()()()()

 

『父上!』

 

 炎柱も。

 

『父上』

 

 炎の呼吸も。

 

『父様!』

 

 ――――煉獄家も!

 すべてを!

 すべてを、託して来た!

 だから今日、ここで、煉獄槇寿郎はそのすべてを燃やし尽くすことが出来る!

 この幸福が、鬼となった者にはわかるまい!

 

「炎の呼吸――――奥義っ!!」

 

 巨大な炎の塊が、黒死牟に向けて突進した。

 黒死牟は両手で刀を握り、それを迎え撃った。

 そして熱風が黒死牟の髪を揺らした、次の瞬間。

 爆発が、2人の剣士を包み込んだのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

というわけで、上弦の壱と煉獄パパの戦いでした。
思うにこれ以上の好カードはないと思います。
戦国時代からの因縁。片や本人、片や子孫。
これは燃える(炎だけに)。

それでは、また次回。


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第46話:「煉獄槇寿郎」

 炎の呼吸・玖ノ型『煉獄』。

 足に溜めた力を爆発させて突進し、身体のバネを利用して日輪刀を振り下ろす。

 まさに、相対する者を一撃で葬る剛剣だ。

 

「見事…まさに龍が炎を吐きながら迫ってくるようだ…」

 

 しかしそれは、あくまで人の剛剣に過ぎない。

 一瞬、黒死牟の二の腕が膨張したように見えた。

 猛然と迫る槇寿郎とは対照的な、緩慢にさえ見える動きで黒死牟は迎撃した。

 まるで吸い寄せられるように、両者の刀が衝突した。

 

 不思議なことに、衝突の音は聞こえなかった。

 しかしそれは音が無かったのではなく、直後に周囲に拡散した攻撃の()()が、聞こえるはずの音を掻き消してしまったのである。

 その証拠に、砕けた2人の足元が、どれほど凄まじい衝突かを物語っている。

 

(押し込めん……!)

 

 槇寿郎の全霊の一撃が、鬼の膂力によって押さえ込まれた形だった。

 

「悲しいな…人は結局鬼には勝てぬ…」

 

 これは、余りにもわかりやすい対比だった。

 人間として、槇寿郎はまさに超人の域にいると言って良い。

 しかし、鬼は生まれながらにその上を行く。

 ()()()な身体能力において、人は鬼には勝てない。

 

 とはいえ、槇寿郎は良くやった方だろう。

 黒死牟の所感としても、自分以外の上弦であれば、あるいは討てたかもしれないと思う。

 しかし一言で言えば、「相手が悪かった」。

 相手を間違えたがために、槇寿郎は敗死するのだ。

 

「終わりだ…」

 

 ――――月の呼吸・伍ノ型。

 綱ぜり合いを演じている槇寿郎は、その一撃をかわせない。 

 

「何…?」

 

 はず、だった。

 しかし黒死牟の技は発動しなかった。

 違和感があった。いや、技が発動しなかったことに対してではない。

 

「お、おお……!」

 

 ()()()()()()

 槇寿郎が、黒死牟を押し込んでいるのだった。

 全力で大地を踏み、前進のみを考えて、鬼気迫る表情で、体全体で押している。

 両腕にかかる負担が増してくる。黒死牟はそこに槇寿郎の強い意思を感じ取った。

 

「おおおおおお……!」

 

 まさか、と黒死牟は思った。

 まさかとは思うが、この男。

 ()()()()()()()()()

 

「おおおおおおおおおあああああああああああっっ!!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 槇寿郎の目には、黒死牟の頚しか見えていなかった。

 今の槇寿郎は、()()()を投げ打っている。

 そのすべてには、己の命すらも含まれている。

 まさしく、全身全霊。

 

「オオアアアアアアアアアッッ!!」

 

 ギシリ、と、軋んだのは日輪刀か腕の骨か。

 こめかみに浮き出た血管は、今にも破裂しそうに見えた。

 しかし全身全霊の前進は、僅かだが黒死牟を押していった。

 

「ぬう…」

 

 それでも黒死牟は、その行為が無意味であることを知っていた。

 何故ならば、彼は全力では無かったからだ。

 手を抜いていたとかではない。

 単純に、筋力に割ける力の量が人間とは段違いだということだ。

 

 黒死牟の肩から手首にかけて、筋肉が盛り上がり、波打った。

 すると即座に槇寿郎を押し返し、逆に押し込んだ。

 己の刀の柄が眼前まで押されるのを見て、槇寿郎は奥歯を噛んだ。

 

「無駄だ…力で鬼を押し切ることはできぬ…」

 

 実のところ、黒死牟にはもっと楽に勝利する道があった。

 後ろに下がることだ。

 槇寿郎は前進に全力を傾注している。

 だからほんの少し下がって()()()、体勢を崩したところを両断すれば良い。

 

(しかし、無粋…)

 

 ()()()()()()()()()()()

 槇寿郎ほどの、それも後輩ともいうべき剣士の、おそらくは命を賭した攻撃。

 それを下がっていなすなど、黒死牟には出来なかった。

 否、そんな選択をする必要などもとより無い。

 

「む…まだ…」

 

 押し込んだ両腕に、抵抗の気配を感じた。

 言うまでもなく槇寿郎だ。雄叫びを上げ、押し返そうとしている。

 しかし微動だにしない。当然だ。

 叫んだところで力は増さない。むしろ持ち堪えている方が奇跡だ。

 だが、それもどうやら限界のようだった。

 

「諦めることだ…お前ほどの剣士に…見苦しい最期は相応しくあるまい…」

 

 最後の一押しにつもりで、黒死牟はさらに力を込めて押し込んだ。

 槇寿郎は、耐え切れない。

 膝が折れ、身体が後ろに倒れそうになる。

 それでも堪えようとしていたが、一度破れた拮抗は、二度とは元に戻らない。

 

「さらばだ…」

 

 この時、黒死牟の目にも槇寿郎の頚だけが見えていた。

 目の前の首を刎ね飛ばす。そこへ意識が向かった。

 だから、黒死牟はほんの僅か、気付くことが遅れてしまった。

 ジリジリと、何かが()()()。その音に。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 断言しておくが、狙ったわけではない。

 ()()()()だ。

 槇寿郎が黒死牟の刀の特性を理解していたわけではない。

 

(私の刀は…()()肉から作られた刀…)

 

 そう、黒死牟の刀は、刀に見えるが刀ではない。

 鬼の血肉で形成された()()なのだ。手足あるいは内臓と同じなのだ。

 だから、日輪刀に触れれば――――()()()

 

 槇寿郎の使う日輪刀は、煉獄家特注の最高純度を誇る鉄で打たれている。

 太陽光をふんだんに浴び、その内側に蓄えた鉄。

 黒死牟が人間として生きた時代、戦国時代でさえ、これ程の純度と技術で打たれた刀は無かった。

 

(この刀は、斬れぬ…!)

 

 これは、黒死牟にとっても想定外だった。無理もない。

 何故なら彼は鬼狩りの剣士と鍔迫り合いを演じた経験が――鬼になってからは――無いからだ。

 圧倒的に強すぎたがための、経験不足。

 槇寿郎の日輪刀が、黒死牟の刀に()()()()()いた。

 

「オオオオオオオオッッ!!」

 

 繰り返すが、槇寿郎は狙ってやったわけではない。

 黒死牟の刀の特性など、考えていたわけではない。

 もっと言えば、自分の攻撃が通じる通じないということも、考えていなかった。

 

 ただ、諦めなかった。

 前に進むこと。目の前の頚を斬り落とすことだけを考えていた。

 たとえ見苦しく見えようが、潔くなかろうが、それだけを考えていた。

 煉獄槇寿郎という男には、結局それしかなかった。愚直に前に進むことしか。

 

「オオオオオオオオッッ!!」

「……!」

 

 刃の半ばまで槇寿郎が押し込んだあたりで、黒死牟はこの後に訪れるだろう結果を悟った。

 本能が告げる。下がれ、と。

 たった一歩を下がるだけで形勢は逆転する。

 いなし、つんのめった槇寿郎の上から、改めて刀を振り下ろせば良い。

 それで勝利だ。しかし、黒死牟はそんな本能の囁きを振り払った。

 

(それは、出来ぬ…!)

 

 そんな勝利(敗北)に、何の意味があろうか。

 黒死牟がそう考えた、次の瞬間。

 彼の腕に、刀が――いや、肉が砕ける音が響いた。

 視界の中で回転し、何処かへと飛んでいったのは、折れた刃先だった。

 

「馬鹿な…!」

 

 信じられない光景に、黒死牟は呻くように言った。

 

「……ッ。覚悟――――ッ!」

 

 その黒死牟の目の前に、『煉獄』が迫っていた。

 瞬間の判断で、黒死牟は察していた。

 己の肉体に触れたその刃が、己が命を奪うに十分な威力を持っていることに。

 肉が灼かれる感覚に、黒死牟は目を見開いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 我が弟、継国縁壱。

 この世で唯一、自分の頚を斬りかけた――斬られ損ねたと言うのが正しいが――男。

 最強の剣士。最初の呼吸使い。誰も彼と同じようには出来なかった。

 

『後継をどうするつもりだ?』

 

 ある日、弟に聞いたことがある。

 最強であるが故に、弟の呼吸――「日の呼吸」の継承者がいないと指摘した時のことだ。

 後継者の不在は自分の「月の呼吸」についても同じだったが、正直、重要視はしていなかった。

 所詮、日の呼吸の()()に過ぎない。真似事だ。

 

『兄上、何も案ずることはない』

 

 しかし縁壱は、そんな()()にまるで拘泥していなかった。

 自分が特別な存在ではないと言い、後に続く子供たちが自分達をいつか超えていくと言った。

 そんなはずが無いと、その時の自分は思った。

 それを慢心だと言わせるつもりは無い。

 

 事実、以来四百年に渡って自分は最強だった。

 上弦の壱の座を譲ったことは一度も無く、縁壱以外の鬼狩りに後れを取ったことなど無かった。

 自分達を超える「子供たち」など、どこにもいない。

 そう思っていた。思い込んでいた。

 

「オオオオオアアアアアアアッ!!」

 

 しかし今、その「子供たち」が目の前にいた。

 自分の頚に刃を突き立て、斬らんとしている。

 

「ヌウアアアアアアアアアアッ!!」

 

 頚を、肉を灼かれる感覚に、咆哮にも似た声を上げた。

 そんな声を上げるのは、何百年、いや初めてのことでは無かったか。

 

(そうか…そうだった…この男は…あの、男は…)

 

 忘れていた。いや、気にしていなかった。

 だがここに来てようやく、黒死牟は気付いた。

 炎の呼吸が、日の呼吸に続く()()()()であることを。

 

 後で知った話だが、縁壱が鬼狩りに加わったのは妻子を鬼に殺されたからだという。

 その話自体に意味はない。良くある話で、特別なことは何もない。

 肝心なのは、その時に縁壱の前に現れた鬼狩りが、煉獄の――槇寿郎の先祖だったことだ。

 そう、彼こそが縁壱の()()()()()だった。

 炎の呼吸は、この世に生まれた()()()()()だった。

 

「アアアアアアアアアァッッ!!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 太陽に最も近い刃が、皮を破り肉を裂き、喉を裂いて骨を砕き、通り過ぎた。

 頚から下の感覚が消えた。

 馬鹿な、と、黒死牟はそれだけを思い続けていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 信じられぬことが起きた。

 胴から離れた頚の視点で、黒死牟はそう思った。

 しかし、現実は受け入れざるを得ない。

 

(頚を、斬られた…)

 

 認めざるを得ない。

 槇寿郎のまさに渾身の一撃によって、黒死牟は頚を斬られたのだ。

 頭が地面に落ち、そのまま灰になって消える。

 しかし、意識は続いていた。

 

 敗北。

 

 その二文字が、胸中を駆け抜けた。

 数百年ぶりに感じる、苦々しい負けの味。

 あの縁壱以外に味わわされたことのない、屈辱。

 ――――()()()()()

 

「ぐあっ」

 

 頚を斬った勢いそのままに、槇寿郎は地面を転がった。

 受け身のことを一切考えていなかったからで、ごろごろと無様に転がる形になった。

 本音を言えば、そのまま倒れていたかった。肉体が、悲鳴を上げていたからだ。

 しかし背後から感じた禍々しい気配に、痛めた身体に鞭打って起き上がった。

 

「はあ、はあ」

 

 呼吸が乱れていた。身体が酷く重い。

 それでも、槇寿郎は刀を握る手にだけは、力を込め続けていた。

 

「敗れぬ…」

 

 ()()()()()()()()()()が、聞こえた。

 それは確かに黒死牟の口から放たれたもので、頚を刎ねられ、頭が灰となって消えた後で、余りにも不自然だった。

 しかし、答えは至って単純なものだった。

 

「縁壱以外に、決して敗れるわけにはいかぬ…!」

 

 黒死牟が、()()()()()()()()()

 今は鼻の下から顎までしかないが、メキメキと音を立てて上半分も再生しようとしている。

 それだけではない。

 まるで肉体の構造そのものが変化しているかのように、肩や背中の肉が蠢いていた。

 

 何かに、変わろうとしている。

 槇寿郎には、それが肌で感じられた。

 頚の切断で死なない。日輪刀で殺せない。

 鬼狩りの剣士にとって、それは絶望と同義だ。

 

「何という……何という、執念(本心)か」

 

 それは、死ぬべき時を誤った者の、生への執着そのものだった。

 だが、それは決して死への恐怖を意味しない。

 間違った人間に殺されるわけにはいかない。ただ、その一心だった。

 そしてその一心を垣間見てなお、槇寿郎は再び刀を構えた。

 足を開き、身体を捻る。奥義『煉獄』の構えを。

 

「お付き合いしよう。何度でも……!」

 

 人の、侍の姿を捨ててまで生きようとする相手に、槇寿郎は突撃した。

 もはや策も何もない。ただ、最大火力で灼き続けるだけだ。

 命が尽きるまで、何度でもだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 もはや、戦術など無かった。

 異形の姿と化した黒死牟に対して、槇寿郎はただ刀を振り続けた。

 玖ノ型『煉獄』を、ひたすらに繰り出し続けた。

 

「ぬゥアアアアアアアアッ!!」

「オォアアアアアアアアッ!!」

 

 奥義以外の攻撃は、もはや通用しない。

 最大火力の『煉獄』だけが、黒死牟の防御を砕くことが出来る。

 しかしそれは、同時に自分の防御を捨てるという意味でもあった。

 

 黒死牟の全身から、刃が飛び出していた。

 手足はもちろん胴や背中からも飛び出した無数の刀。

 その一本一本が攻撃を放ち、全方向に凶悪な攻撃を繰り出して来る。

 避ける(すべ)など、あるはずが無かった。

 

「ぐお……っ」

 

 それらの攻撃は全て、槇寿郎の動きの悉くを潰すように放たれていた。

 技の出がかり、踏み込みの瞬間。今一歩のところで身体を刻まれる。

 槇寿郎よりも、黒死牟の方が有効打を放つのが速く、かつ正確なのだ。

 

(そうか、()()がそうなのか……!)

 

 どうしてそうなるのか、槇寿郎は知っていた。

 槇寿郎には見抜けぬ隙を見抜き、尋常なる先読みで場を制する。

 先祖の手記で読んだ。

 まるで全てが止まって見えるかのような、()()()()()のことを。

 

 槇寿郎は、そこには行けない。辿り着けなかった。

 始まりの呼吸の剣士達の領域に、槇寿郎はついに到達することが出来なかった。

 才覚が及ばない。ただそれだけのことで。

 まったくもって、世界とは理不尽なものだった。

 

(それでも……)

 

 『煉獄』。

 左肩を深く斬られた。筋肉の筋が断たれ、力がなくなった。

 

(それでも……!)

 

 『煉獄』。

 使い物にならなくなった左腕を身代わりにした。

 視界の端で、左腕がぼとりと地面に落ちた。

 

(それでも、俺は)

 

 『煉獄』。

 片腕を盾としたことで、僅かな空隙が出来た。

 その空隙に、躊躇なく身を投げた。

 

 すなわち、攻撃が最も濃密な場所に入り込んだ。

 頸動脈の真横が斬られ血が噴き出し、肩甲骨から腰あたりまで大きな裂傷が走り、左足が膝から縦に斬り裂かれ、右目を失った。

 そして、『煉獄』。

 

「俺は、炎柱……煉獄槇寿郎、だ……ッ!」

 

 片腕片足。一手一足。最後の踏み込み。最後の斬り込み。

 槇寿郎は、不意に思った。

 この「最後」のために、煉獄家は――自分達は、才及ばずとも、何度も挫けながらも、()()()を晒し続けて来たのではないか、と。

 そんなことを、思ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 前のめりに倒れ伏した槇寿郎を、黒死牟は見つめていた。

 槇寿郎の刃は幾度も黒死牟を斬り、頚でさえ刎ね飛ばしもした。

 しかし黒死牟は再生した。

 人間の槇寿郎は、再生できなかった。

 

「見事だ…」

 

 黒死牟の口からは、槇寿郎への賛辞が漏れていた。

 実際、見事な男だった。

 弟・縁壱以外に頚を斬られるなど、想像すらしていなかった。

 

 それが、ここまで追いつめられるとは。

 そして、何よりも重要なことは、今の自分の姿だった。

 槇寿郎に頚を取られて、それでも滅ぶまいと自らの限界を超えた。

 頚の切断による死を克服した。それは、もはや究極の生命体と言っても良いはずだった。

 

「それに比べて…」

 

 刀に映った自分の姿を見て、黒死牟は呻いた。

 

「何だ、この姿は…」

 

 死を克服した反動なのか、黒死牟の姿はまさに異形の化物と化していた。

 余りにも醜い姿で、とても剣士の姿とは思えなかった。

 勝利だ。それは間違いない。だが、何と虚しい勝利だろうか。

 はたして自分は、こんな姿になってまで勝ちたかったのだろうか。

 

 何百年も生き永らえてきたのは、いったい何のためだった?

 頚を斬られても負けを認めず、鬼の生命力に寄りかかって、それで勝利と言えるのか。

 素晴らしい好敵手を屠って、勝利の猛りを口に出来るのか。

 そうだとするなら、なぜ自分はこうも()()()を感じているのか。

 

「き……せ……」

 

 不意に、か細い声が聞こえた。

 槇寿郎だった。

 倒れ伏した槇寿郎が、おそらくは無意識なのだろう、何事かを呟いていた。

 死んでいてもおかしくない負傷だ。いや、というより、()()()()

 

「る……」

 

 黒死牟は、槇寿郎が何事かを呟くのを最後まで聞いていた。

 頭の片隅に、この男を鬼にするという選択肢があったが、口にはしなかった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「もう、良いか?」

 

 槇寿郎が何も喋らなくなったのを見計らって、黒死牟は掌から新しい刀を作り出した。

 そしてその刃先を、槇寿郎の首筋に当てた。

 

(嗚呼……)

 

 もはや刃の冷たさも感じられない。

 そんな中、槇寿郎の脳裏に浮かんだのは、我が家だった。

 任務から帰ると、まず聞こえてくるのは息子達の声だった。

 庭で鍛錬をしているのか、駆け回っているのか。元気な声だった。

 

 玄関を潜れば、料理の良い香りが鼻をくすぐる。

 声をかけながら厨を覗けば、そこには並んで調理をする妻と娘の背中がある。

 それが、槇寿郎のすべてだった。十分だった。これ以上、何も望むことは無かった。

 そしてこちらに気付いた妻と娘が振り向いたのを見て、槇寿郎はこう言うのだ。

 

(ただいま)

 

 ブツッ、と、何かが切れる音がした。

 すると、槇寿郎の視界は黒く染まり、何も感じなくなった。

 死に、抱きしめられた。

 それが恐ろしいことだとは、何故か思わなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()()()()

 目が覚めた時、瑠衣はまずそれを思った。

 粗末なあばら()の天井に、戸惑った。

 

 夜なのだろうか。酷く暗かった。

 どこかで蝋燭の火が頼りなく揺れていて、それが天井に影を作っていた。

 自分はと言えば、朽ちかけた床に別の板を敷いて、その上に敷いた布団に寝かされているらしかった。

 

(私は、確か……本部で。そうだ、上弦と……)

 

 そこまで考えたところで、はっとした。

 そうだ。自分は、鬼殺隊の本部を急襲した上弦の鬼と戦っていたのだった。

 杏寿郎はどうなった。千寿郎はどこに行った。他の皆は無事なのか。

 様々な考えが頭の中を駆け巡った。余りにも一気に溢れたので、頭痛がした。

 

「やっと起きたのか」

 

 その時、戸が開く音がした。

 同時に、やけに不機嫌そうな声も聞こえて来た。

 瑠衣が顔を横に向けると、書生のような出で立ちの青年がそこにいた。

 

 年の頃は瑠衣と同じか、少し下と言ったところだろうか。

 黒髪の、不機嫌そうな表情を除けばごく普通の青年だった。

 ――――いや、違和感があった。

 瞬き1つしない青年の瞳の、その独特の瞳孔を見た。

 

「鬼……ッ。あ、う……!」

 

 青年が鬼と気付いて、反射的に身を起こした。

 体中に痛みが走り、顔が引き攣った。

 しかし、同時に床についた手を見て、()()()()()()()()()()()と思った。

 失ったはずの腕がそこにあるという事実に、瑠衣は息を呑んだ。

 

「あまり動くな、傷が開く。別にそれでお前が死のうがどうでも良いが、せっかく治療したのが無駄になるし、何より片付けが面倒くさい」

 

 治療という言葉で、初めて全身に巻かれた包帯に気付いた。

 真新しい包帯と薬品の匂い。

 その薬品の匂いを漂わせる手の甲に、鼻を寄せて来る動物がいた。

 

「……コロさん?」

「バウッ」

 

 毛並みに多少の乱れがあったが、元気に尻尾を振っていた。

 

「そいつに感謝するんだな。そいつが俺達を見つけなければお前は死んでた。俺はそれでも良かったんだ」

「愈史郎」

 

 俺()と言った言葉の通り、もう1人、姿を見せた。

 それは本当に美しい女性で、同性の瑠衣でさえ思わず見惚れてしまう程の美貌だった。

 大人しい色字に艶やかな柄の着物の女性が、形の良い眉を寄せて窘めるような表情を見せていた。

 

「そんな言い方をするものではありませんよ」

「はい! 珠世様!」

 

 愈史郎、と、珠世。女性――珠世も、やはり鬼だった。

 鬼が、なぜ自分を助けるのか。まして治療などするのか。

 何もかもがわからない。不明だ。異常の中にいることだけがわかった。

 

「気分はいかがですか」

 

 静かな声。性格のためか、あるいは気を遣っているのかはわからないが、不快では無かった。

 コロも、警戒している様子は無かった。

 

「ごめんなさい」

 

 瑠衣は何も答えなかったが、珠世は気にした風でもなく、そのまま会話を続けた。

 そういうことには慣れていると、そんな雰囲気だった。

 

「私達が救えたのは、貴女だけです」

 

 しかしその言葉には、肺腑(はいふ)を突かれた。

 その頃には意識もはっきりしていたから、言葉は理解できた。

 理解はできたが、呑み込むことは出来なかった。

 

「貴女たち鬼殺隊は……」

 

 それはまるで、医者が患者に不治の病を宣告する時に似ていた。

 意識が言葉に追いついて来ない。あるいは、頭が受け入れることを拒否している。

 しかし、理解できなくとも、拒否しても、宣告される病名が変わることはない。

 現実は変わらない。

 

「鬼殺隊は、滅亡しました」

 

 自分以外の剣士はもういないのだと、珠世(現実)がそう告げて来た。

 瑠衣は、目の前が暗くなったように感じた。

 蝋燭の火が、弱々しく揺れた。




最後までお読みいただきありがとうございます。

やべえ。バッドエンドになりそう(え)
どうして私は主人公を妹にしておきながら、いつもハードモードな人生を歩ませるのだろう(え)
性癖だろうか(おい)

それでは、また次回。


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第47話:「暗黒の時代へ」

 翌日になると、何が起こったのか明らかになって来た。

 鎹鴉による定期連絡が途絶えた。

 ()()()()定期連絡が、途絶えた。

 それに対して、鬼殺隊の協力者達は一切の楽観も躊躇もしなかった。

 

 隠や刀鍛冶、そして藤の家紋の家。

 彼らは鬼殺隊本部との連絡が途絶えた時のために、その時の手順は予め定めてあった。

 なので、それぞれの退避自体は大きな混乱もなく実行された。

 ただ、それは心理的な負担を減らすことを意味しなかった。

 

「まさか、こんなことになるなんて……」

 

 特に、特別な設備と資源の供給を必要とする刀鍛冶の里は深刻だった。

 安定的に炉に火を入れ、そして陽光を含む特別な鉄の補給がなければ、日輪刀は打てない。

 前回の襲撃から移転したばかりで、それらはまだ十分では無かった。

 そして、今回の再移転である。

 

「落ち着きぃ。それぞれの長の指示に従って別れて避難するんや」

 

 だが、刀鍛冶達はまだ幸運だった。

 何故なら彼らには、長という絶対の存在がいたからである。

 危機の時、人は盲目的に従える誰かを求める。

 

「ちょっと、鋼鐵塚さん! 避難ですって……!」

「五月蠅エまだ刀が研げてないだろうが!」

「後にしてください……って力強いなオイ!」

 

 最も、中にはそんな状況でも変わらない者もいるわけだが。

 とは言え、全体の動揺は隠しようもない。

 中には鬼殺隊本部で「何か」があったことを信じようとしない者もいる。

 しかし一方で、形のない不安に背中を押される感覚を感じてもいた。

 彼らは皆、自分達が夜の闇の中に放り出されてしまったことを、薄々気付いていたのだった。

 

「小鉄君、それも持って行くのかい?」

「はい! 壊れても絶対直すって約束しましたから!」

「そうか……手伝うよ」

「あ、ありがとうございます! 流石、子供に荷車を押させて放っておくわけないですよね、鉄穴森さんは!」

「小鉄君はこんな時でもブレないなあ」

 

 複雑怪奇な絡繰人形――縁壱零式の残骸を積んだ荷車を引いて、小鉄は額の汗を拭っていた。

 面の下のその目には、暗いものは無かった。

 むしろ、負けん気とやる気に満ち溢れていた。

 

「こんなことで、俺は負けないぞ。何度やられたって、絶対に直して見せる……!」

 

 自分や、自分達だけじゃない。

 鬼殺の剣士達。炭治郎も、瑠衣も。

 きっと、誰も諦めていないはずだから。

 だから小鉄も、何も諦めなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 珠世と愈史郎は、不思議な鬼だった。

 瞳の瞳孔や口内の牙から、彼女達が鬼であることは疑う余地が無い。

 しかし、それ以外の部分は人間とほとんど変わらなかった。

 それは、珠世と愈史郎に()()()()が見られないからだ。

 

 人間は、鬼の食糧だ。

 ご馳走を前にした人間がそうであるように、人間を前にした鬼には相応の反応がある。

 それは、どれほど高位の鬼であろうと同じだ。

 だが瑠衣の目の前にいる鬼は、瑠衣を見ても何らの反応も示していなかった。

 

「鬼殺隊は、滅亡しました」

 

 そう告げた珠世()は、酷く悲しそうな表情を浮かべていた。

 言うまでもないが、鬼狩りは鬼の天敵だ。

 その鬼狩りの組織が滅びたことを、鬼が悲しむ理由は何もないはずだ。

 

「……どうして、私を助けたのですか?」

「おい! 珠世様のお話を無視するな!」

「愈史郎」

「すみません!」

 

 珠世と愈史郎の関係も、今ひとつ読み切れなかった。

 母子のようであり、姉弟のようであり、そのいずれとも違う気がする。

 わかることがあるとすれば、愈史郎が珠世を絶対視していることくらいだ。

 

「この子は、私が鬼にしました」

 

 瑠衣の視線をどう思ったのか、珠世がそう言った。

 随分と軽く言っているが、その言葉は、かなりの衝撃を瑠衣に与えた。

 愈史郎を、()()()()()()()

 

(鬼を生み出せるのは、鬼舞辻無惨だけのはず)

 

 鬼の始祖という呼称は伊達ではない。

 そして鬼は鬼舞辻無惨にしか生み出せない。これはもはや常識だった。

 しかしこの珠世は、人を鬼にすることが出来るという。

 

「と言っても、200年かかって愈史郎1人。あの男……鬼舞辻無惨には遠く及びません」

 

 ()()()()()

 瑠衣は瞬間的にそう思った。

 たとえ鬼舞辻無惨に及ばないとしても、人間を鬼に変える鬼は危険だ。

 これ以上の()()()が出る前に、頚を落とすべきではないのか、と。

 

 しかし結局、瑠衣はそれをしなかった。

 理由は2つ、いや3つあった。まず瑠衣の身体が戦いに耐え得る状態ではないこと。

 次に愈史郎から明確に殺意を向けられたこと。珠世への害意を気付かれたらしい。

 そして最後の1つが、手にコロの尻尾が振れたことだった。

 

「バウッ」

 

 もちろん、言葉はわからない。

 しかしそのつぶらな瞳が――犬井が見れば白々しく感じただろう――瑠衣に、何かを訴えてきていた。

 だから瑠衣は、珠世への攻撃を思い留まった。

 

「……話の続きを」

 

 そんな瑠衣に、珠世は微笑んで見せた。

 その微笑は、どこか哀し気だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 珠世は、随分と長く生きている鬼のようだった。

 無惨の追跡を逃れつつ、医者として人々と関わって来たのだという。

 もちろん鬼狩りに見つかれば殺されるので、一所(ひとところ)に居続けることは出来なかった。

 流れ流れて、数百年。愈史郎に出会った後も、同じ生活を続けた。

 

「それが変わったのは、炭治郎さんと出会ってからです」

「竈門君が……」

 

 時期としては、炭治郎と禰豆子の裁判の少し前のことだった。

 東京・浅草。炭治郎が無惨と最初に遭遇したその時に、偶然、珠世達が居合わせたのだ。

 随分と出来過ぎた偶然だが、とにかく珠世はそこで初めて人間の、それも鬼狩りと協力関係を持ったのだという。

 禰豆子の存在があったとは言え、珠世にとっては大きな決断だった。

 

「つまり竈門君との関係で、私を助けたと?」

「いえ、貴女を助けたのは……たまたまです。これでも医の世界に一席を持つ身。助けられる命を放っておくわけにはいかなかった」

「……なるほど」

 

 微妙に、納得がいかない。

 いや、珠世は嘘は言っていないだろう。それはわかる。

 しかし、何かまだ言っていないことがある。そんな気がしてならなかった。

 

 尤も、ああも人畜無害そうな顔をして、珠世のことを一切漏らさなかった炭治郎に対しても思うところはあるのだが。

 炭治郎のことだから、嘘を吐いたというより、珠世への義理を通したと見るべきなのだろう。

 鬼狩りになった当初は禰豆子のことも他の隊士に黙っていたので、言うべきではない、と思い定めたことに関しては口が固い。美徳ではあるのだろう。多分だが。

 

「そして私達が鬼殺隊本部の近くにいたのは、協力を求められたからです」

「協力というと?」

「鬼殺隊への協力です。数日前の夜半に、ある方から鴉の使いがあったのです。鬼殺隊の長、産屋敷耀哉殿から」

 

 そしてその炭治郎の美徳が、この珠世という慎重な女を動かしたに違いないのだ。

 まあ、単純に居場所を知られてしまって観念しただけなのかもしれないが。

 産屋敷が珠世をどう使うつもりだったのかは、瑠衣にはわからない。

 

「ですがそれも、今となっては……」

 

 そこまで語って、珠世は目を伏せた。

 哀しそうな、沈痛そうな、そんな表情だ。鬼がそんな表情をするのを初めて目にした。

 だが、無理もない。何もかもが潰えたと思っているからだ。

 鬼殺隊は滅亡したと、そう()()()()()()()()()()

 

「…………ません」

「え?」

「鬼殺隊は」

 

 そんな珠世に対して、瑠衣は言った。

 

「私達は、滅びてなどいません」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 こいつは気でも触れたのか、と愈史郎は思った。

 危うく口にも出すところだったが、気配を察した珠世に睨まれたので止めた。

 

(流石は珠世様だ。怒った顔も美しいぞ……!)

 

 正直なところ、鬼殺隊がどうなろうと愈史郎は知ったことでは無かった。

 ただ、鬼殺隊を気にしている珠世を気にしているだけだ。

 だから愈史郎の危惧としては、珠世がどこまで鬼殺隊に――瑠衣に関与するつもりなのか、というところだった。

 珠世の優しさと()()だけが、愈史郎は心配だった。

 

「確かに」

 

 と、瑠衣が言葉を続けていた。

 

「我々は本拠地を失ったのかもしれません。剣士も、多くが倒れたのかもしれません」

 

 上弦に本拠地を攻撃されて、無事で済むわけがない。

 本部にいた剣士のほとんどは、やられただろう。

 だが鬼殺隊の長い歴史において、そんなことは()()()()()だ。

 

「でも、剣士のすべてが本部にいたわけではありません。外で任務についていた者も多くいます」

 

 隠も、刀鍛冶も、そして鎹鴉も、他の拠点でまだ生きている。

 本部陥落の報に動揺しているかもしれないが、離散したわけでは無い。

 産屋敷家の血も、絶えたわけでは無い。

 立て直せる。まだ、立て直せるはずだ。

 

 過去、鬼殺隊は何度も滅びかけた。

 そしてその度に甦り、今日まで続いて来たのだ。

 だから今回もきっと乗り越えることが出来るはずだ。と、瑠衣は言った。

 

「無理に決まってるだろ」

 

 愈史郎は、今度は――珠世が愈史郎の方を見ていなかったので――普通に口に出してそう言った。

 

「頭が潰されたんだぞ。手足だけで何が出来る」

 

 普通に考えれば、鬼殺隊の再建は難しい。

 残っているのは、いわば()()に過ぎない。

 彼らはこれから、無惨陣営の徹底した掃討を受けることになるだろう。

 とてもではないが、鬼舞辻無惨をして「潰したい」と思わせるような組織力が回復するとは思えない。

 

 それも、わかる。

 現状を分析しても、そういう考えになるだろう。

 誰がどう見ても、鬼殺隊はお終いだ。

 鬼殺隊の生き残りは、各個撃破を免れない。

 

「それでも、私達は滅びない」

 

 瑠衣には、その確信が――――というより、()()があった。

 

()()――――()()()寿()()()()()()

 

 鬼殺隊を出奔した父・槇寿郎の存在だ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 生き残りの剣士達が個別に動けば、各個撃破されて本当に滅びてしまう。

 だから、核が必要だった。

 産屋敷家の後継者がいるだろうが、まだ幼い。

 先代の下に集まった者達がそのまま忠誠を誓い続けるかどうか、見通せない。

 

 多様な考え方を持つ剣士達をまとめる核となる者には、信頼と、何より実績が必要だ。

 そして、それが出来る剣士は1人しかいない。

 最強の柱・煉獄槇寿郎だ。

 名も、実績も。煉獄槇寿郎より優れた剣士など存在しない。

 槇寿郎が先陣を切れば、誰もがその背中を追うだろう。

 

「だから、私達は決して滅びない」

 

 滅びない。絶対に滅びなどしない。

 絶対に、諦めない。

 そう念じる時、瑠衣は高揚していた。

 傷のせいか、疲労のせいなのか。ふらつくのを感じた。

 肉体が、精神の高揚について来れていない。

 

 目を押さえてよろめいた瑠衣を、珠世が支えた。

 その時、愈史郎は珠世の()()()を感じた。

 それは常に――そう、常にだ――珠世のことを感じている愈史郎だから、気付けたことだ。

 珠世の背が、瑠衣の顔を目にして固まっている。

 

(何だ?)

 

 悪意や害意でないことは確かだ。

 感じるのは、哀しみの色だった。珠世の哀しみを感じる。

 だが、いったい何を哀しんでいるのだろう。

 

「珠世様、こんなやつはもう放っておいて――――」

 

 いや、理由などはどうでも良い。

 愈史郎にとって重要なのは、珠世が必要のない哀しみを背負わされている、ということだ。

 だから愈史郎は、もう放っておこう、と言った。

 

 しかし珠世の顔を覗き込もうとした彼は、自然、珠世の背に隠れる形になっていた瑠衣の顔をも、見ることになった。

 そして、彼も止まった。

 瑠衣の顔に、先程まで存在しなかったものが浮かび上がっていたからだ。

 

(何だ、()()は。さっきまで確かに何もなかったぞ。まるで、鬼の紋様じゃないか)

 

 瑠衣の顔、その額から両頬にかけて、羽根のような形の紋様が浮かび上がっていた。

 異なる二色の線が絡み合うように形作られたそれは、波打つ炎のようにも見えた。

 その()は、突然、瑠衣の顔に浮かび上がったのだった。

 

「…………わかりました」

 

 珠世の声は、やはりどこか哀し気だった。

 

「私達も、協力します」

「珠世様!?」

「元々私達は、産屋敷耀哉殿の要請に応えるつもりでした。炭治郎さんとの縁もあります」

「……貴女は、鬼です。でも」

 

 高揚の息苦しさを感じながら、瑠衣は言った。

 珠世の真意はわからない。本音を聞いていないという気もする。

 けれど、瑠衣が彼女に救われたことも、また確かだった。

 

「助けてくれて、有難う」

 

 自分はまだ、生きている。

 生きているのなら、戦うことができる。

 戦うことができるのなら、父の助けになれる。

 

 そして自分が生きているのなら、きっと他にも無事な者がいるはずだった。

 兄も、弟も、他の剣士達も。

 きっと生きている。

 きっと、生きている、はずだ――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 隠や刀鍛冶とは別の意味で、鬼殺隊にとってなくてはならない者達がいる。

 前線の近くで活動するため入れ替わりの激しい隠。

 前線に出ずに、長く日輪刀の供給という作業に没頭する刀鍛冶。

 それらに対して彼らは、ある意味で最も鬼殺隊士の立場に近い存在だった。

 

「何ということだ……」

 

 鱗滝(うろこだき)左近次(さこんじ)

 深き霧立ち込める狭霧(さぎり)山に居を構える彼は、育手(そだて)だ。

 それもかつて柱の1人に列せられた元鬼殺隊士であり、そしてあの炭治郎を剣士として育てた男でもある。

 

 ここで重要なのは、鱗滝が「元柱」だということだった。

 半年続けることでさえ困難な鬼殺の剣士を何年も続け、産屋敷家当主の前にまで到達した特別な剣士だった、ということだ。

 彼は隠よりも長く鬼殺の現場にいて、刀鍛冶よりも隊の中枢に近い位置にいた。

 そんな彼だからこそ、()()()()()()()()()がどうなるか、正確に予測することが出来た。

 

「……義勇は。炭治郎と禰豆子は無事なのか……」

 

「獪岳、善逸……!」

 

 そしてもう1人。

 広大な桃園の中心で、鎹鴉の緊急連絡――鬼殺隊本部からのではない――を受けた元・鳴柱の桑島もまた、肩を震わせて愛弟子達の無事を案じていた。

 同時に、鱗滝も桑島も、歴戦の元柱達は次の展開について懸念していた。

 

 鬼殺隊本部の壊滅。(にわ)かには信じ難いが、しかし現実だった。

 鬼殺隊の戦力は大幅に弱まらざるを得ない。

 隊士が減る。つまり、鬼を狩る速度が格段に鈍る、ということだ。

 今まででも鬼は増える一方で、鬼による犠牲者は増えることはあってもなくなることは無かった。

 ぎりぎりのところで、鬼の増加に何とかついていっていたというのが実態なのだ。

 

「鬼共がこの機会を逃すとは思えん」

 

 あの()()()の鬼舞辻無惨は、柱も含めて、相見(あいまみ)えた隊士はほとんどいない。

 無惨が自身の痕跡を巧妙に消し、隠れていたからだ。

 なぜ隠れていたのか?

 鬼殺隊を恐れていたからだ。万が一にも、討たれることを警戒していたからだ。

 

「無惨め、一体どうするつもりだ」

 

 ()()()()()()()()()()()()

 辛うじて拮抗していた戦力は、鬼側に大きく傾いた。

 もはや自分のところまで到達できる者はいないと、無惨は考えるだろう。

 そうなった時、どうなるのか。

 その答えは、鱗滝たち生き残りが考えるよりも早く、訪れそうだった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――大正時代。

 それは、明治の革命体制から脱しようとしていた時代。

 そして、国際規模の動乱により世界の形が変わろうとしていた時代。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

「立憲政治とは、支配を制度化したものだ」

 

 窓が開いていた。

 そこには赤い満月が浮かんでおり、部屋の内側から見た時、それは1枚の絵画にも見えた。

 

「これまでの武力や権威による支配が通用しなくなり、権力者は憲法という本の後ろに隠れた」

 

「そして民衆共は憲法の下、自分達を支配する者を自分達が選んだのだと主張する」

 

「私はそれが、ずっと不思議で仕方が無かった」

 

 窓枠に腰かける男は、美しい、しかし妖しい気配を纏った男だった。

 豪奢な西洋風の部屋だったが、男の自室ではないのは明白だった。

 それは、男の足元に初老の男性の死体が転がっていたからだ。

 顔の右半分が、何かに噛み千切られたかのように抉れて消えている。

 

「権力者は何故、一冊の本ごときに己が権力を保障して貰おうとする?」

 

「民衆共は何故、誰かに自分を支配させようとする?」

 

「そのどちらも私には理解できない。私は誰にも己の絶対性を保障して貰おうとは考えない。私は私を誰かに支配させようとはしない」

 

「何故ならば私は、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 男が顔を上げると、ひっ、と息を呑む音がした。

 部屋の入口に、別の男が立っていた。

 こちらも初老の男性で、彼は床に転がる死体を見ると、震える声で言った。

 

()……()()……!」

 

 良く見れば、どうだ、その部屋には複数の影が見える。

 黒い異形の侍、虹色の瞳の男、刺青の青年、怯えた老人、琵琶の女、そして金髪の幼女。

 異様だ。余りにも異様だ。

 その異様な空間の中で、窓に腰かける男が特別に異様だった。

 そして、その男は言った。

 

()()

 

()()()()()を探せ」

 

「私が……この鬼舞辻無惨が、完全に完璧な生命体になるために」

 

「国を、兵を、民衆共すべてを動員して、日本のどこかにある青い彼岸花を探すのだ」

 

「あの忌まわしい鬼狩りを滅ぼした今、もはや遠慮はいらぬ」

 

「今日よりこの私が」

 

 赤い月。血の色に輝く男の瞳。

 首相の死を見届けた男性は、本能的に理解した。

 嗚呼。自分は、自分達は。今日、この瞬間から。

 

「この私が、お前達の支配者だ」

 

 ――――この男の奴隷になったのだ、と。




最後までお読みいただきありがとうございます。

というわけで、日本は無惨様の手に堕ちました。

日本国民の皆様、鬼になる準備はオーケーですか?
無惨様の食糧になる準備はオーケーですか?

さあ早く探しましょう。青い彼岸花を探しましょう。
生き残りの鬼狩りも見つけ出して狩りましょう。
皆で無惨様のお役に立ちましょう。
それこそが、我々の喜びなのですから!

というわけで、唐突ですが第一部完!というところです。
正直ノリで鬼殺隊を壊滅させましたので、今後のことは何も考えていません(え)
いっそこのままバッドエンドでも良いですかね?(え)

それでは、また次回。


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第48話:「鬼の世」

 ――――走る。

 夜の闇の中を、懸命に走る小さな影があった。

 まるで闇に形があって、追われているような駆け方だった。

 

「くそっ、しくじった……!」

 

 眼鏡をかけた、細身の少年だった。

 黒い詰襟の、制服のような服を着ていて、ともすれば闇に溶けてしまいそうだった。

 その手には竹刀袋を持っていて、もう片方の手で額を拭った。

 もう夜風の冷たい季節だが、汗は後から後から流れてきて止まらなかった。

 

「いたぞ! こっちだ!」

 

 そう遠く離れていない位置に、不意に灯りが増えた。

 遠目に、それが人の掲げる灯り――松明や提灯――だとわかると、少年は道を変えた。

 大きな通りを避けて、より暗く狭い路地へと身を投じた。

 

「そっちに行ったぞ!」

「逃がすな! 笛を吹け、他の班も呼べ!」

 

 行く先々で、人の声と灯りにぶつかった。

 その度に道を変えるが、より小さな路地へと追い込められていることにも気付いていた。

 袋小路に追い詰められている。

 それはわかっていたが、足を止めればすぐに捕まってしまうだろう。

 

 だから、駆け続けるしかなかった。隠れるわけにもいかない。

 足元に転がっていた木桶を蹴倒しながら、また路地を曲がる。

 静かな夜の空に、甲高い笛の音が何度も鳴り響いていた。

 あれらがすべて自分を探す音だと思うと、気が滅入った。

 

「……ッ。しまった」

 

 そのせいかはわからないが、判断を誤った。

 少年の視界には、左右の建物と、そして正面に壁があった。

 まさに絵に描いたような袋小路だった。

 夜の暗さと疲労で気付くのが遅れてしまった。

 

「引き返……すのは、無理か」

 

 声と音がもうすぐ傍まで来ていた。

 路地を引き返して逃げるのは不可能だ。

 

「上……は、駄目だ。()()()に見つかる」

 

 前にも後ろにも進めず。上にも逃げられない。

 

「くそ。やるしかないのか……?」

 

 竹刀袋の留め紐に手をかけて、呻くように言った。

 そうしている間にも、笛の音は近付いていた。

 焦りが躊躇(ちゅうちょ)を押し退ける。その直前だった。

 

「おい! こっちだ!」

 

 ()()から、声がした。

 視線を下に向けると、壁の根元、木材の部分がずれていた。

 そうして出来た隙間から、誰かが顔を出していた。

 警帽で、その男が警官だとわかった。だが、だからと言って信用できるわけではない。

 

「早く!」

 

 だが、他に選択肢は無かった。

 すぐ背後にまで聞こえて来た笛の音に押されるようにして、少年は隙間に頭を突っ込んだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 穴から這い出ると、埃っぽい倉庫に出た。

 中は薄暗かった。

 窓から射し込む月明かりが唯一の光源で、何の倉庫なのか判別することも出来なかった。

 

「ちょっと待っててくれ。えーと」

 

 先導していた警官が、慣れた様子で何かを取り出していた。

 ごそごそと身を動かしたかと思うと、不意に灯りがついた。

 それは少しの間だけ揺れていたが、2つに増えた後、また1つに戻った。

 振り向いた警官の手元には蝋燭と、火の消えたマッチがあった。

 

「適当なところに座ってくれ。散らかってるところだけど」

 

 改めて周囲を見ると、そこはどこかの物置のようだった。

 木箱や調度品、布に巻かれた絵画など、資産価値のありそうな物が散見された。

 どこかの金持ちの屋敷の蔵といった風で、少年は積み上げられた袋の上に腰を落ち着けた。

 

「危なかったな。俺は鈴木武雄。この町で警察官をやってる。って、それは見たらわかるか、はは」

 

 努めて、という風に、武雄は笑って見せた。

 ただ暗闇の中、蝋燭を手に持った状態でそれをやられると、むしろ不気味さが増した。

 

「はは、ははは……まあ、警戒するよな」

 

 竹刀袋を両手で握っている少年を見て、武雄は「あー」と頭を掻いた。

 そして、竹刀袋を指差して。

 

「それさ、刀だろ? 本物の……いやいや待て待て! そういうのじゃないんだ!」

 

 腰を浮かせかけた少年に掌を向けて、武雄は言った。

 

「少し前に、キミみたいな……と言っても、もう1年以上は前になるのかな。キミみたいな女の子と会ったことがあるんだ」

 

 どこか遠くを見るような表情を浮かべる武雄に、少年は怪訝な顔を向けた。

 自分のような女の子?

 そう言われて思いつくのは、1つしか無かった。

 

()()()っていうんだろ。キミみたいなのを」

「……ええ、そうですね。そして今は、()()()()側です」

「……ああ、ああ。そうだな。それも知ってる。もちろん、知っているとも」

「それで。それを知っていて、どうして僕を助けたんですか?」

「もちろん、それも説明する。だけどその前に、名前を教えてくれないか? キミ呼びじゃ話しにくい」

 

 言われて、少年は少し考える素振りを見せた。

 その間、武雄は何も言わずに待っていた。

 そんな武雄の様子を見て、少年は諦めたのか、小さく息を吐いた。

 

「僕の名前は舟生(ふなせ)知己(ともみ)。鬼狩り……鬼殺隊士です」

 

 少年――知己がそう言うと、武雄は嬉しそうな顔をした。

 何がそんなに嬉しいのかはわからないが、敵ではないらしい。

 とりあえず、それがわかれば良かった。

 今のところは、だが。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 最初は東京だった。

 ある日突然、化物が現れたのだ。

 その化物は不死身で、刺されても撃たれても死なず、そして人間を喰った。

 

 そしてその化物は、徐々に日本全国に出現するようになった。

 軍隊も警察も歯が立たず、毎夜のように現れる化物に人々は怯えた。

 町々は活気を失い、後は死を待つだけのように思われた。

 そこへ、救世主が現れた。

 

『かわいそうに。私が救ってあげよう』

 

 その男は、化物――鬼と交渉し、人々を襲わないようにした。

 実際に鬼が人を襲わなくなると、人々は男に喝采の声を上げた。

 男は言った。鬼は人の友であると。

 最初に鬼が人を襲ったのは、先に彼らを攻撃した()()()の責任だと。

 

『その者達の名は――――』

 

 ――――鬼殺隊。

 それ以降、鬼殺隊の関係者は犯罪者として追われることとなった。

 密告が奨励され、彼らの仲間と目された者は政府と鬼に差し出された。

 それには報奨金も出た。鬼狩り()()が瞬く間に日本全土に広がった。

 人間が人間を鬼に売り渡す。それはまさに、暗黒の時代だった。

 

「だけど、俺は鬼狩りを知っている。あの子が、キミ達が俺達を守るために戦っていたことを知っているんだ。そんな人達を差し出すなんて、絶対に間違ってる」

「それで、僕を助けた?」

「ああ、そうだ。俺の他にも少ないが仲間もいて、まあ、自警団のようなことをしている」

 

 とは言え、出来ることは少なかった。

 せいぜい、こうやって逃亡の手助けをするくらいだ。

 何しろほとんどの人間は鬼側で、数でも力でも太刀打ちのようがない。

 

 そしてそれさえも、上手くいっているとは言えない。

 この町でも、今までも何人もの人間が()()されてしまった。

 それでも武雄は、鬼に与することを良しと出来なかった。

 もう二度と、やるべきことをしなかったという後悔に苛まれたくなかった。

 

「とにかく、キミを何とか町の外に……」

 

 その時だった。

 突然、外から甲高い声が聞こえた。

 

「ギャアア――――ッ! アツマレッアツマレエェェッ!!」

 

 濁った、酷く耳障りな鳴き声だった。

 それは近辺の上空をぐるぐると回っているのか、遠くなったり近くなったりしながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。

 集まれ、集まれ、広場に集まれ――――と。

 

「あれは……」

「ああ、あれは」

 

 その鳴き声を聞いた武雄は、苦しそうに表情を歪めて言った。

 

「あれは、()()()()()だ。誰かが殺される……」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 深夜だというのに、人だかりが出来ていた。

 集まった人々の構成は老若男女様々だが、共通しているのは、誰もが広場の中央に設えられた演壇を見ているということだ。

 その演壇は木材で組まれた簡易なものだが、成人男性の頭より高い位置にあり、広場にいる誰もがその見ることが出来た。

 

「ギャアア――――ッ! チュウモクッ! チュウモクウゥ―――ーッ!」

 

 そんな人々の頭上を、不気味な鴉が飛んでいた。

 目玉は白く濁っていて、羽根や胴体は半ば骨が露出していた。

 死骸だ。鴉の死骸が喋っている。

 だがそれに目を向ける人間はいなかった。まるで、()()()()()()()()()()

 

「お集まりの諸君! 今宵も良い夜だ。ああ、良い夜だ!」

 

 人々が見ているのは、壇上の男だった。

 いや、はたしてそれを男などと、人間のように呼称しても良いものだろうか。

 それは人の形をしていない。異形だった。

 まず顔が、いや頭が酷く歪んでいた。鼻から下が異様に長く、口がまるで嘴のように飛び出している。

 

 何より、両腕が無かった。代わりに黒い羽毛に覆われた巨大な羽根がある。

 しかも服装が修験僧が着るような白衣で、まるで天狗だった。

 その天狗はカチカチと口の先を打ち鳴らしながら、(しゃが)れた声で叫んでいた。

 

「諸君の協力のおかげで、この町は実に模範的! 模範的に統治されている! あの御方の覚えも目出度(めでた)い! 実に目出度い!」

「ギャアア――――ッ! メデタイッ、メデタイイィッ!」

「鬼と人の共存! 皆がその大義に忠実! 素晴らしい! にも関わらず、今夜も残念な報告をせねばならない!」

「ギャアア――――ッ! ザンネンッ、ザンネンンンッ!」

 

 異様な光景だった。

 異形の化物が、まるで政治家か執政官のように演説を()っている。

 そしてそれを、人々は何の違和感も感じずに聞いているのだ。

 

「連れてこい!」

 

 天狗の男が言うと、壇の下から後ろ手に縛られた人間が数人、引き上げられてきた。

 その人間達は縄で繋がれ、頭に麻の袋を被せられていた。

 まるで、罪人だった。

 

「警邏隊の諸君も知っているように! つい先ほど! あの忌々しい裏切者共の一匹がこの町に潜入していたことが発覚した!」

 

 いや、まるで、ではない。

 

「そしてあろうことか! この者達は! その逃亡を手引きしたのだ!」

 

 まさしく彼らは、罪人として人々の前に立たされているのだった。

 人々の間にどよめきが起こった。

 そのどよめきを受け止めるように、天狗の男は両腕――もとい、両の羽根を広げた。

 

「それではこれより! 裏切者共の処刑を開始する!」

 

 それは、演壇ではなかった。

 天狗の男が立つそれは、()()()だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 公開処刑。

 大正の世において、それはもはや遠い時代の因習だ。

 明治初期には死刑制度も法制化され、それは現在まで続いている。

 そしてだからこそ、町人達には()()()

 

「殺せ!」

「あたし達の町に犯罪者を引き入れるなんて!」

「死ねー! 裏切者を殺せー!」

 

 最初の一度は、流石に目を背ける者が多かった。

 いくらなんでも、という空気が漂っていた。

 しかし「罪人に裁きを下す」というわかりやすい図式が何度も繰り返される内に、徐々に人々の間に肯定的な雰囲気が現れるようになっていった。

 

 さして豊かでもなく、娯楽も少ない町だ。

 公開処刑が与える非日常的な刺激は、毒のように町人達の肌に染み込んでいった。

 今ではサーカスか何かのように、公開処刑の呼びかけが始まると広場に集まり、死刑囚の血飛沫と死に喝采を挙げるようになっていた。

 

「裏切者共を跪かせろ!」

「ひいいいい」

 

 死刑執行人と思われる男が、麻袋を被せられた罪人の首を掴んで押さえ付けた。

 かなりの力なのか、押さえ付けられた方は藻掻(もが)くことさえ出来ずにいた。

 

「いやああ、待ってお願い待って」

「やめてくれ! 俺は違う。裏切者じゃない、違うんだああああ」

「ああああああああ」

 

 罪人達の上げる悲鳴を、群衆の興奮の叫びが掻き消していく。

 異様な光景だ。

 だがこの光景を異様だと思えるのであれば、それは、まだ幸福ということだ。

 

「これが、今のこの町の日常だ」

 

 人々の中に紛れて、知己と武雄はその処刑を見ていた。

 

「前はこんなじゃなかった。豊かではなかったけれど、優しい人達だった」

 

 武雄の哀し気な声は、狂気の叫びの前では小さ過ぎた。

 どうすることも出来ない。そんな無力感に苛まれた声だった。

 

「馬鹿な真似はしないでくれ」

 

 知らず、知己は竹刀袋を握り締めていた。

 それを見て、武雄は止めた。

 今あの場に飛び出したとしても、処刑は止められないからだ。

 それは、知己にもわかっていた。

 

 あの天狗鬼――異形の鬼は、それだけで強力な鬼だとわかる。

 仮に飛び出して罪人達を救い出したとしても、群衆が彼らを捕らえるだろう。

 そして彼らを人質にでも取られれば、それで詰みだった。

 何の意味もない。それがわかるから、知己は何も出来なかった。

 

「この処刑が終われば、皆が解散する。そこに紛れれば町の外に出られる。それまで堪えてくれ」

 

 わかっている。だから堪えるべきだ。

 頭ではわかっている。わかっていた。けれど。

 けれど――――。

 

「やめろ――――ッ!」

 

 ――――けれど、止められなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 知己は、見た。

 人々をかき分けて、押し退けるようにしながら、1人の隊士が壇上の天狗鬼に斬りかかるのを。

 それは、知己では無かった。

 

(あれは、確か)

 

 村田、という名前をどうにか思い出した。

 知己がその名前を思い出せたのは、彼が主だった――壊滅前の――隊士の名前と顔を記憶していたからだ。

 実力的には柱に遠く及ばないものの、長年生き残り続けた村田(ベテラン)の顔は覚えている。

 

 まったくの偶然だが、村田も知己と同時期にこの町に来ていたのだろう。

 もしかすると、武雄の仲間が彼にもついていたのかもしれない。

 同じ方法で村田を逃がそうとしていたのかもしれない。

 そして村田は、おそらく、知己よりも我慢弱かったのだろう。

 

「おい、待て! 早まるな!」

 

 それが、知己には、たまらなく羨ましかった。

 気付いた時には駆け出していて、刀を抜いていた。

 そして村田に気を取られた天狗鬼に向かって、刀を振るっていた。

 

「鬼狩りを見つけたぞ!」

 

 ――――水の呼吸・壱ノ型『水面(みなも)斬り』。

 ――――竜の呼吸・弐ノ型『竜翼』。

 

「……ッ!」

 

 村田が正面から、知己が側面から。

 ほぼ同時に斬りかかって、そして、ほぼ同時に()()()()()()()

 ぎしり、と、技の途中で全てが止まってしまった。

 

「な、何だよこれ!」

 

 まるで全身を塗り固められたかのようで、村田が焦りの声を上げた。

 しかしどれだけ声を上げたところで、身動きは取れなかった。

 何が起こった。何をされた。知己は鬼を睨んだ。

 

「愚か者共! 自分の足元を良く見てみるが良い!」

 

 足元。爪先のあたりに黒い羽根が突き立っていた。鴉の羽根だ。

 だが上空の鴉のものではない。天狗鬼のものだ。

 それが、2人の影を縫い留めていた。

 夜にも関わらず、周囲は灯りで煌々と照らされている。それで影が出来ていた。

 

「我が血鬼術『黒羽影縫い』! いかがかな、意識はあるのに身体は動かない、というのは!」

 

 ――――血鬼術!

 天狗鬼の羽根に影を撃たれた者は、身体の自由を封じられる。

 単純でわかりやすく、だからこそ強力な血鬼術だった。

 

「く、くそお。お前、何とかできないか!?」

「そんなことを言われても……!」

 

 条件を満たしてしまった血鬼術を破るのは困難だ。

 それこそ、気合いでどうにかできることではない。

 不覚。しくじった。()()()()

 

「鬼狩り共を捕らえよ! 1日に2人も狩れるとは、あの御方もお喜びになるだろう!」

 

 武雄には、申し訳がないとしか言えない。

 自分と違って迂闊ではないだろうから、この騒ぎの隙に逃げてくれることを祈るしかない。

 

「カアアッ、カアアァ――――ッ!」

 

 嗚呼、鴉が五月蠅い。

 以前は頼もしいとさえ思っていたのに、敵の鴉だと思うとここまで不快なのか。

 

「カアア――――ッ! 見ツケタッ、鬼狩リヲ見ツケタアア――――ッ!」

 

 見つけた、見つけたと鴉が騒いでいる。

 人々に押さえつけられながら、知己はその声を聞いていた。

 

「見ツケタアァ――――ッ!」

 

 嗚呼。本当に五月蠅い。

 見つけたのはわかったから、もう黙ってほしい。

 

()()()、見ツケタアッ! カアァ――――ッ!」

 

 ――――仲間?

 鴉の言葉に不審を覚えて、頭を掴まれながらも、何とか顔を上げた。

 すると、見えた。

 月。処刑台を見下ろす建物の屋根の上に、立つ誰か。

 彼女は、その手に二振りの日輪刀を持っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 天狗鬼が気付いた時、彼女はすでに跳んでいた。

 屋根を駆け下り、壁を蹴り、擦れ違い様に刀を振るっていた。

 

「貴様、何も」

 

 の、と続くはずだった言葉は、途中で止まった。

 剣士が着地すると同時に、頚から上が宙を舞っていたからだ。

 頭があった場所に血の柱が噴き出し、頭が地面に落ちた。

 それを認識した群衆は一瞬静寂に包まれ、数秒の後に絶叫した。

 

「あ、あの子は」

 

 そんな中で、武雄だけがひとり、冷静さを保っていた。

 いや、正確には別の理由で驚いていた。

 忘れるはずもない。

 あの顔。あの出で立ち、そして刀。

 

「瑠衣さん……!」

 

 煉獄瑠衣。鬼狩りの少女。

 武雄が出会った、最初の鬼狩り。

 この町で彼女に出会って、どれくらいの時間が過ぎただろうか。

 

 一方で、声をかけるのは躊躇われた。物理的な距離だけの問題ではない。

 処刑台の上に立ち、転がった鬼の死体を見下ろす彼女。

 その瑠衣の表情が余りにも冷たくて、声をかけようと思えなかったのだ。

 そう感じる自分自身に、武雄は酷く戸惑った。

 

「……死んだふりはやめたらどうです」

 

 鬼の死体に向かって、瑠衣は言った。

 一般人の武雄や周囲の人々にはわからなかったろうが、鬼殺剣士であれば気付いた。

 ()()()()()()()()

 それは、鬼が死んでいない何よりの証拠だったからだ。

 

「クククク。隙を見せるかと思ったが、そう上手くはいかぬか!」

 

 むくり、と、頭のない死体が起き上がった。

 再びのどよめきが巻き起こるが、当然、天狗鬼に気にした様子はない。

 

「諸君! 慌てる必要はない。我ら鬼は不死身なのだ。偉大なるあの御方の加護を受けているのだ!」

 

 鬼の声が広場に響き渡る。それを聞くのは、人間だ。

 不味い。知己はそう思った。

 自分や村田がそうであるように、鬼狩りは鬼を倒すために生きている。

 何のために鬼を倒するのか。それは、()()()()()()()()

 その大義があればこそ、自分達は生物として遥かに強大な鬼に立ち向かうことが出来る。

 

「さあ、その娘も捕らえるのだ!」

 

 そして、知己の懸念が現実のものになろうとしていた。

 人々は鬼が言うままに、瑠衣を取り囲みつつあった。

 逃げてくれ。自分達を置いて逃げるべきだ。知己はそう思った。

 しかし次の瞬間に瑠衣が取った行動は、知己の考えとはまるで違うものだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 死なない鬼。斬らなければならないが、斬れない。

 自分を取り囲もうとする人々。斬るわけにはいかない。

 そんな存在を前にして瑠衣が取った行動は、()()だった。

 

自暴自棄(ヤケ)になったか! いくら斬ろうと私は倒せぬ!」

 

 人々の手が振れるよりも速く、一足で跳ぶ。

 余りの脚力に処刑台の床が弾け、木材の破片が人々の顔を打った。

 そしてその悲鳴が耳に届くよりも先に、瑠衣の足は鬼の身体に届いていた。

 ミシリ、と音を立てて、天狗鬼の肩を踏んでいた。

 

「何のつも」

 

 りだ、と音を発する頃には、瑠衣を捕らえようと交差した両腕を斬り飛ばされていた。

 しかし、瑠衣はそれにも取り合わなかった。

 天狗鬼の肩に()()したのは、次の跳躍の踏み台にするためだったからだ。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風』。

 

 天狗鬼の肩が、足の形に陥没した。

 それ程の脚力で、瑠衣は天高く跳躍した。

 その跳躍もまた、人間離れしていた。

 二刀の小太刀を逆手に持ち、壱ノ型の突進力のまま上昇した。

 

「『塵旋風』――――『(こがらし)』」

 

 ()()()()()

 ずっと、そこにいた。鬼の頚を斬った。

 それは小さな、鴉の頭だった。

 広場の上空で人々を見下ろしていた、腐った鴉の死骸。

 ()()()()()()()()

 

「ギャアアアアアァァ――――――――ッッ!!??」

 

 胴体から離れた鴉の頭が、濁った悲鳴を上げた。

 白く飛び出た目玉が、ぎょろぎょろと回転している。

 嘴を限界まで広げているが、もはやそこから出るのは意味の無い鳴き声だけだった。

 

「ナゼッ、ワカッタッッ!?」

「別に、怪しいから斬っただけですよ」

 

 舐めて貰っては困る。

 煉獄家数百年の歴史の中で、本体に見えて本体ではなかった、等という事例(シチュエーション)は、飽きる程に遭遇してきた。

 もちろん、攻略法はそれぞれだ。幻術もあれば分身もある。それこそ上弦の肆の例もある。

 

 共通しているのは、やれることは全部やれ、だ。

 つまり、怪しいものは全て斬るべし。

 瑠衣はそれを、忠実に実践したに過ぎない。

 そしてどうやら、この天狗鬼は上弦の肆ほど条件が厳しくなかったようだ。

 

「オノレッ、ヨクモオオオオオ」

「五月蠅い」

 

 塵と崩れ始めた鴉の頭を、縦と横に一度ずつ、重ねて斬った。

 それで、静かになった。

 月明かりに照らされた瑠衣の顔には、額から頬にかけて燃える羽根の痣が浮かび上がっていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 天狗鬼――と思い込んでいた傀儡(くぐつ)の肉体――が塵となって消え去ると、広場は今度こそ静かになった。

 村田や知己を捕まえていた人々も、何かを恐れるように後ずさった。

 張り詰めたような困惑が、そこかしこから感じ取られた。

 

「…………死んだ?」

 

 そしてその緊張は、瑠衣が地面に着地すると、決壊した。

 人々は悲鳴を上げ、我先にと広場から逃げ出そうとした。

 その様は、まさに鬼か化物を恐れる人間の姿そのものだった。

 

 瑠衣は一見、それに関心をさして払っているようには見えなかった。

 彼女は未だに膝を着いたままの罪人達に歩み寄り、縄を斬った。

 そして顔を覆う麻袋を取り去ると、そこで初めて、笑顔を見せた。

 

「大丈夫ですか?」

「あ、あ……ありがとう、ありがとう」

 

 その頃には、知己も自分で動けるようになっていた。村田も同じだ。

 彼らが自由になるのを見て取ると、瑠衣はそちらにも笑顔を向けた。

 そこで、知己は不意に瑠衣が千寿郎の姉であることを思い出した。

 笑顔の質が、どことなく重なって見えたからだ。

 

「大丈夫か!? まったく無茶をして……!」

「す、すみません」

 

 武雄がやって来て、こちらには恐縮するしかなかった。

 本気で心配している様子だったし、何より迷惑をかけたという意識があった。

 村田の方も、武雄の仲間らしき人間が小言を言っている様子だった。

 

「それと……」

 

 武雄は、瑠衣を見た。

 前に会った時は、大人びた凛々しさの中にまだあどけなさが残っていた。

 だが今は凛とした立ち居振る舞いが前面に出ていて、幼さは感じられない。

 良く研ぎ上げられた刀のような、しなやかで鋭い美しさがそこにはあった。

 

「…………」

 

 もし再会できたなら、何と声をかけようか。

 それは、ずっと考えていたことだった。

 しかしこうして実際に顔を合わせると、今まで考えていたことはどこかへと消えてしまった。

 そもそも、武雄はそこまで気の利いたことを言える男では無かった。

 だから結局、口から出る言葉はありふれたものになってしまった。

 

「ありがとう。今回も……それから、前の時も」

 

 そして、言われた瑠衣の反応も、やはりありふれたものだった。

 ただ、一瞬だけ見せたきょとんとした表情は、武雄を安心させた。

 嗚呼、あの時の少女だと、そう思えた。

 

「どういたしまして、警官さん」

 

 その笑顔は、少女らしい可憐なものだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 内閣総理大臣、と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。

 まず、国の――より言えば行政機関の――トップであろう。

 いわゆる「偉い人」だ。多かれ少なかれ、誰もがそう思っているだろう。

 

「ご……ご報告は、以上です……」

 

 そうとするならば、その内閣総理大臣――首相が(かしず)いている相手は、何者なのだろうか。

 御簾(みす)の向こうにいて、顔を見ることすら叶わぬ高貴な相手か。

 いや、それは一見ただの背年に見える。黒い青年だ。

 容貌は整っているが、何故だろう。空寒さを覚える。

 外国の言葉で書かれた分厚い本を読む姿は、様にはなっていた。

 

 対して首相は、明らかに老齢に達している。

 それが二十代にしか見えない青年に対して腰を折り、窺うような目を向けている。

 幼子が厳格な親の機嫌を気にするような、そんな態度だった。 

 

「ほう」

 

 ぎくり、と、首相の身が震えた。

 

「……何日だ?」

「は、は……」

「私がお前に青い彼岸花の探索を命じて、今日で何日目だと聞いている。首相」

「そ、それは……に、2か月ほどかと……」

「56日だ。首相。お前は56日前に何と言った。言ってみろ」

 

 首相の額には、玉の汗が滲んでいた。

 姿勢はそのままだが、目は左右に泳ぎ、必死に言葉を探している様子だった。

 だが残念ながら、彼に考えている時間は無かった。

 

「どうした。言ってみろ」

「は、いや。その」

()()。何だ、続けろ」

「わ、わたしは」

()()()()。何だ。努力したとでも言うのか?」

 

 空気の重みが、増した。

 巨大な蛇が全身に巻き付いているかのように、骨が、肉が、軋む音を立てた。

 

「首相。お前はこう言った。必ず見つけると。しかし未だに見つけていない。これはどういうことだ?」

「い……今少し。必ず、必ず」

「近い内に見つける。具体的にはいつまで? いかほどの時を与えればお前は私の役に立つ?」

「そ、それは……それは」

「首相」

 

 ()()()()()()()()

 あるいは、幸福だったのかもしれない。

 何故ならば首相は――その老人はもう、二度と恐怖に怯えずに済むのだから。

 

「鳴女」

 

 べべん、という琵琶の音と共に、暗がりの中から女が現れた。

 それを視界に入れることもなく、青年――鬼舞辻無惨は言った。

 

「次だ。そうだな、次の首相は陸軍の人間が良いだろう。やはり文民では駄目だ」

「承知いたしました」

「他に報告は?」

「特には……1つだけ。西の町の統括をしていた鬼が鬼狩りに討たれたようです」

 

 本のページをめくる音が、一度だけした。

 

「そうか」

 

 それだけだった。

 それ以上、無惨は何も言わず、鳴女に意識を向けることはなかった。

 夜が、静かに更けていった。




最後までお読みいただき有難うございます。

というわけで、第二部です。

日本は鬼と人が共存する理想郷になりました!
皆が仲良く幸福に暮らしています。
でも総理大臣の在任期間は2か月に届かないそうです。不思議ですね!(え)

それでは、また次回。


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第49話:「拠点へ」

 夜が明け切る前に、町の外に出る必要があった。

 鬼の共有感覚網(ネットワーク)はすでに天狗鬼の死を掴んでいるだろうし、朝になれば人間側も何らかの対応をするだろう。

 警察も軍隊も、今は鬼の味方だ。

 鬼はともかく、人間と敵対するわけにはいかない。

 

「じゃあ、ここでお別れだ」

「ありがとうございます」

 

 武雄は、町の郊外まで瑠衣達を見送ってくれた。

 村田と知己も一緒だ。元より瑠衣の目的は仲間の救出だ。

 むしろ武雄との再会の方が偶然だった。

 

「その、大丈夫ですか? これから……」

 

 知己が心配したのは、その武雄達の今後だった。

 正直に言って、町は混乱している。

 それでなくとも、鬼に対する抵抗運動は危険を伴う。

 町を離れた方が良いのではないか、と言外に言いたかったのだ。

 

「なあに、何とかやっていくよ」

 

 しかし武雄には、そのつもりが無いようだった。

 肝が据わっているというべきか、とっくに覚悟を完了しているというべきか。

 いずれにせよ、武雄には町から出る意思はない。それはわかった。

 

 武雄の答えを聞いてから、知己は少しだけ後悔を覚えた。

 何となく、余計なことを聞いてしまったと思ったのだ。

 ただそれを口にすることの方が余計な気がして、今度は何も言えなくなってしまった。

 形式的な場であればともかく、こうした場面での語彙(ごい)にはまだ自信が無かった。

 

「警官さん」

「ああ」

「……ご武運を」

 

 手を合わせた瑠衣に、武雄が頷いた。

 武雄が瑠衣を見つめる眼差しは、どこか感慨深そうに見えた。

 それが何故なのか。それこそ余計なことだろうと、知己は思った。

 

「ああ、瑠衣さんも。大変だと思うけど、どうか幸運を。気を付けて」

 

 空が白み始めてきたので、武雄とはそこで別れた。

 武雄は瑠衣達が丘を越えて姿が見えなくなるまで、そこに立っていた。

 また会えるのか。会えるとしていつになるのか、見当もつかない。

 その背中が消えた先を、武雄は見つめていた。

 

「おい武雄。そろそろ」

「ああ、そうだな」

 

 仲間に促されて、武雄はようやく目を離した。

 夜が明けるまでここにいるのは危ない。それは武雄も同じだった。

 天狗鬼が倒されたと言っても、鬼が滅びたわけではない。混乱もいずれは収まる。

 それどころか、明日には新しい鬼が派遣されて来て、町は元通りだろう。

 

 だから自分達がいるのだ、と武雄は思っていた。

 元通りになった町の中で、実はそうじゃないんだ、と言い続ける。

 それが彼らなりの鬼への反抗であり、鬼と戦う者達への(はなむけ)なのだ。

 武雄は、そう信じているのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「それで、そのー。これから俺達はどうすれば……?」

 

 そう言ってから、村田は「あー、俺って情けないなー」と思った。

 というのも、彼が今後の方針を聞いたのは年下の、しかも女の子だったからだ。

 もっと言えば、自分より階級が――鬼殺隊の階級制度が今も有効であれば――上である。

 煉獄瑠衣。いわゆる()()()()()だ。

 

 村田は、剣士としては至って平凡な部類に入る。

 水の呼吸を使うが、刀の色は薄く、それほど剣才に恵まれているわけでもない。

 長く生き残ってはいるが、鬼の討伐数も少ない。だから階級も下から数えた方が早い。

 柱はもちろん、瑠衣の階級である「甲」も雲の上の存在なのだ。

 当たり前のように鬼を狩る剣士は、村田には眩し過ぎる。

 

(そういや、あいつらもそうだったな)

 

 炭治郎とその同期。あの世代は特に凄かった。

 上弦と戦って生き残っただけではなく、討伐戦にも関わっていた。

 ぶっちゃけ、入隊したての時点で村田よりすでに強かったかもしれない。

 まあ、それも今となっては……。

 

「僕も知りたいです。この数か月、実はいくつかの拠点に行ってみたんです。でも、どこも壊滅していて……」

 

 鬼殺隊は政府非公認の組織だが、それは()()()()()()()()()()()()()()()()()

 日本政府は鬼殺隊のことを認識していたし、調べてもいた。

 それは、()()()()知己が良く知っている。

 

「舟生君の言った通り、鬼殺隊の拠点はほとんどが鬼によって潰されました」

 

 だから、瑠衣の物言いには少々ドキリとした。

 ただ前を駆ける瑠衣は知己を振り返ることはなく、そのまま会話を続けた。

 

「もう知っていると思いますが、この国は今、鬼の手にあります」

 

 日本政府が鬼に掌握されたために、ほとんどの拠点の位置がバレてしまった。

 本来なら指揮を執るべき産屋敷の後継者も、そのせいで表立った行動がとれずにいる。

 集結する拠点がないために、辛うじて生き残った者達も苦境に立たされてしまっているのだ。

 

「なので既存の拠点は、刀鍛冶の空里(からざと)も含めて使用不能になっています」

「そ、それじゃあ、俺達はどこへ向かっている……んですか!?」

「どうぞ言葉は崩してください。私の方が年下なのですから」

 

 そう言われても、と、村田は露骨に渋い顔をした。

 

「……まあ、走りながらする話でもないので。とりあえず先を急ぎましょうか」

「だからっ。あー、どこへ?」

「どこって、それはもちろん」

 

 そこで初めて、瑠衣は後ろを振り向いた。

 その顔には、どこか悪戯めいた微笑を浮かべていた。

 

()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そこからの移動は、過酷を極めた。

 まず、半日ほど駆け続けた。

 途中で2度ほど川辺で小休止を取ったが、ほぼ走り通しだった。

 町から半日分も離れてどこへ向かうかと思えば、今度は山に入った。

 

 しかもこの山が険しく、また深い。

 おまけに瑠衣がどう考えても遠回りだろうというルートで進むので、さらに時間がかかった。

 山中で一晩を過ごす羽目になった。

 この数か月で村田も知己も野宿には慣れたものだったが、それでも疲労は隠しようも無かった。

 

「眠る前に、少しで良いのでお腹に食べ物を入れてください。温まりますよ」

 

 瑠衣は、良く塩をまぶした握り飯を木製の椀に入れて、そこにお湯を注いで粥にした。

 村田も知己も疲れ切っていたが、口をつけると舌先に塩の味が広がって、ぐっと椀を傾けた。

 ほとんど喉に流し込むようにして椀を空にすると、胃のあたりに熱を感じた。

 

「夜明け前に出発します」

 

 身体が温まると、すぐに瞼が重くなった。

 そうして視界が途切れた。

 

「おはようございます」

 

 と思えば、笑える程にすぐに朝が来た。

 目を閉じて開ける。それで一夜だ。

 厳密には夜明け前だったが、朝は朝だった。

 

「冷えますね。ただのお湯ですが、ゆっくり飲んでください」

 

 焚火は、絶えず燃えていたようだ。薪の燃え残りの量でわかる。

 それをぼんやりと見ていると、瑠衣が白湯(さゆ)を差し出して来たので、それを飲んだ。

 流し込むと、喉から胃にかけてがゆっくりと熱を持った。

 身体が冷えていたのだと、その時に初めて気付いた。

 

「出発しましょう。村田さん、大丈夫ですか? 大丈夫じゃなくても頑張って歩……走ってくださいね」

「走るの!? 今日も走るの!?」

「走ります。あと登ります」

「登るの!?」

「崖を」

「崖を!?」

 

 実際、その日はまた山中を半日駆け回った。

 いくつ山を越えたのか。途中で数えるのをやめた。自分の位置もわからなくなってきた。

 わかっているのは、どんどん渓谷深くに入っている、ということだった。

 ただ村田と知己の疲労が大きく、途中でペースが格段に落ちた。

 仕方なく、山中でもう一夜明かすことになった。

 

 さらに翌日になると、村田と知己は喋らなくなった。

 元から口数の多い方では無いが、単に喋る体力がなくなったのだ。

 いざ崖を登る段になっても、何も言わずに登り始めた。

 呼吸を使っていても、限界はある。

 

(指先の感覚がなくなって来た)

 

 千寿郎の同期――いわば新人である知己は、まだ常中にムラがある。

 疲労が極限に達すれば、呼吸による身体強化も弱くなる。指先の痺れはそれを表していた。

 

「うっ」

 

 そのせいで、掴んだところが浮き石だと気付けなかった。

 足で踏ん張ろうと思ったが、力が入らずに靴先が滑ってしまった。

 滑落する。そう思った時、手を掴まれた。

 

「もう少しです。気を付けて」

 

 瑠衣だった。はっとするほど、その手は温かかった。

 まるで、燃えているようだ。

 岸壁に引き上げられながら、そんなことを思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――()()

 その存在は、日本中に広まっている。

 ただ市井で好まれているのは、超人的な技能や妖しげな術を使って敵を倒す()()()の忍者だ。

 

 実際の忍者は、幕府や大名等の有力者に雇われる傭兵に近かった。

 中には独自の勢力を持つ忍者集団も存在したが、時代の流れと共に大勢力に組み込まれていった。

 諜報活動や破壊活動、暗殺等を得手とする特殊技能者――もちろん、創作にあるような「忍術」とは別――の集団。

 それが、忍者だ。

 

「信じらんねえ」

「……ええ」

 

 呆然と立ち尽くす村田の呟きに、知己は同意した。

 深い森を抜け、険しい山を越え、切り立った崖を登った。

 その果てに彼らが辿り着いたのは――()()だった。

 

 茅葺(かやぶき)屋根の、どこにでもある田舎の家が散見される。

 小さいながらも水田が広がっていて、少なくない人間が生活している様子が窺い知れた。

 ただ余りにものどか過ぎて、直前までの道のりの険しさと比例しない。

 だから村田も知己も、唖然とした顔で目の前の光景を見つめているのだった。

 

「お疲れ様です。ここまで来れば安全なので、ひとまずあちらの小屋で休んでいてください」

「あの、ここは」

()()()()。まあ、間借り状態なのですけれど」

 

 拠点と、瑠衣は言った。

 隊士でさえ来るのに苦労するこんな場所に、どうして鬼殺隊の拠点があるのだろうか。

 しかし瑠衣は「間借り」と言った。違和感のある言い方だった。

 鬼殺隊に拠点を貸すような相手が、はたしているものだろうか。

 

「詳しいことは休憩後に説明します。私は先に、()()に帰還のご挨拶をしてきますので」

「――――その必要はないよ」

 

 不意に、頭上から声がした。

 

「山に入った時点で気付いていたからね」

 

 山桜の木があり、太い枝の根元に彼は座っていた。

 村田は、自分達を見下ろすその男に、特徴を見出すことが出来なかった。

 黒髪の、中肉中背。町を歩けば何人もすれ違いそうな凡庸な容姿。

 気になるとすれば、宝石を嵌め込んだ額当て――どこかで見たような――と、目だ。

 

(いったい、どこを見てるんだよ)

 

 こちらを見ているような、そうでないような、不思議な目だ。

 目を向けられているのに、目が合わせられない。

 何を考えているのかが読めずに、背筋に冷たいものを感じた。

 

「今回は2人か」

「はい。おかげ様で」

「口が2つ増えたわけだ」

「その点は最初に説明したはずです」

 

 その男と瑠衣の会話にも、緊張感がある。

 お互い穏やかな様子な分、余計にそれが伝わる。

 

「まあ、良いさ。そちらの事情には干渉しない」

 

 音もなく、彼は着地した。

 

「払うものさえ払って貰えればね」

「ええ、勿論。その点も最初にお話した通りです」

「なら、もう何も言わないよ」

 

 そして、()()()

 村田の目にはそうとしか見えなかった。

 瞬きをした次の瞬間には、男の姿が視界から消えていたのだ。

 

「あ、あいつはいったい何なんですか!?」

「彼はここの頭領です。名前は私も知りません。ただどういう方かは知っています。彼は」

「あいつは?」

「彼は……()()()()()()です」

 

 音柱・宇髄天元。()・忍者。

 先程の不思議な男は宇髄の弟であり、そして。

 この村は、宇髄の()()なのだった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「上弦による本部襲撃の後、ここを発見したのは本当にたまたまです」

 

 宇髄一族の忍里。その一角の小屋を拠点として借り受けていた。

 拠点とは言っても、元は使われていない家屋だ。

 3人も座ると、少し手狭に感じる。

 

「ばうっ」

 

 さらに犬――コロがちょこちょこと瑠衣の後をついて歩き回るものだから、余計に狭い。

 瑠衣が帰って来たのが嬉しいのかどうなのか、しかし顔の前で子供大の大きさの犬が右に左にと動かれると、非常に気になる。

 日本の犬種と違って筋肉質なので、つい怯んでしまう。

 ただ瑠衣が座るとその膝に頭を乗せて甘える。その仕草は、なるほど可愛げもあると思った。

 

「もっと正確に言えば、たまたま山に入り込んだ時に向こうから接触して来たんです」

「な、何でわざわざこんな険しい山に」

「鬼がいたので」

「なるほど」

 

 元々、宇髄一族は産屋敷家と()()があったらしい。

 鬼狩りと忍者。ともに戦国時代から続く裏稼業だ。

 何らかの繋がりや協力関係があったとしても、おかしくはないだろう。

 ()()()の宇髄がすんなりと鬼殺隊に入れたことも、そのあたりの事情が関係しているのかもしれない。

 

「元々、明治・大正の世になって忍者の仕事は激減していたそうです。産屋敷家は数少ない()()()の1つだったとか」

「あの、それって俺達みたいな下っ端が聞いて良い話なんですかね……?」

「構わないでしょう。今さら隠す意味もありません」

 

 太平の世に忍者の居場所はない。

 鬼殺隊のように異形の化物を狩るわけでも、産屋敷家のように実業家の側面を持つわけでもない。

 なので鬼殺隊の壊滅は、宇髄一族にとっても重要な意味を持っていた。

 だからお膝元に鬼狩りが姿を見せた時に、接触してきたのだ。

 

「忍者の方々にとっても、現在の状況は困っているそうです」

「まあ、鬼が忍者を必要とするとも思えませんしね」

「ああ、なるほど」

 

 鬼の異能をもってすれば、忍者など使わずとも情報収集も暗殺も出来る。

 そもそも軍隊・警察を掌握した以上、時代遅れの忍者に頼る必要もない。

 少なくとも鬼舞辻無惨の視界に、忍者という存在は入っていないだろう。

 

 だからこそ、瑠衣達にとっては僥倖だった。

 ()退()()()だからこそ、政府との関係が薄かったからこそ、忍里は無事でいられたからだ。

 そして忍者側も、鬼に取り入る余地が無いと思えばこそ、瑠衣達と組んでいる。

 

「……ばうっ」

 

 その時、コロが外に向かって吠えた。

 警戒した風ではなく、呼びかけと言った感じの鳴き方だった。

 

「ちょっと何よ、何で増えてるわけ?」

 

 すると、小屋の扉が開いた。

 それもかなり強く。無遠慮に。いやむしろ外れかけている。

 かっと陽の光が差し込んで、眩しさに目を瞬かせた。

 数秒の後、そこに立つ少女の姿が浮かび上がった。

 

「チョーウケるんですけど」

「お帰りなさい。禊さん。見たところ、そちらは外れだったみたいですね」

「そうね。()()()()()()

 

 山吹色の髪を揺らしながら上がり込み――村田が慌ててスペースを空けていた――どかりと座った。

 コロが寄って行ったが、舌打ちしていた。動物は嫌いなのかもしれない。

 しっしと手で追い払う仕草をして、コロも諦めて尻尾を落としていた。

 

 その頃には、瑠衣は湯呑に僅かの茶葉とたっぷりのお湯を淹れていて、そっと差し出した。

 禊はそれを無言で睨みつけ、手をつけずに、懐から取り出した水筒を口にした。

 一息に呷り、水筒と一緒に取り出した紙を湯呑の横に投げ置いた。

 

「これは?」

「手紙。戻る途中で鴉が持って来たわ」

「なるほど」

()()()からよ」

 

 陽光山?

 村田が知己に目配せをする。知己は首を横に振った。

 知らない。いや山の名前は知っているが、詳細は知らない。

 彼ら一般の隊士がその山について知っていることは、1つだけだ。

 日輪刀の、()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 日輪刀は、()()()()()

 太陽の光以外で死ぬことのない鬼を殺すことができるのは、日輪刀がその内側に太陽の力を宿しているからに他ならない。

 故にその原料となる鉄もまた、特別な鉄だ。

 

 猩々緋(しょうじょうひ)砂鉄と猩々緋鉱石。

 陽光を吸収する性質を持ち、一年中陽光が降り注ぐ――曇ることもなく雨も降らない――陽光山という山でしか採れない。

 この鉄を刀鍛冶達に伝わる技巧で打ち鍛えて、初めて日輪刀は鬼を殺す武器足り得るのだ。

 

「これは、()()()()()()

 

 手紙を一読し、瑠衣はそう言った。

 その手紙はところどころが風雨に晒されたように痛んでおり、一部の文字は滲んで読めなくなってしまっていた。

 それでも読める部分を繋ぎ合わせてみると、陽光山が危機を訴えていることはわかった。

 

「禊さん。この文をどこで?」

「ここに戻る途中で鎹鴉が持ってきたのよ。てっきりあんたかと思ったけど、知らない鴉だったわ」

「……その鴉は?」

「死んだわ」

 

 禊が手紙を受け取った次の瞬間に、喘ぐような呼吸をして、すぐに死んだ。

 手紙には、宛名がなかった。

 書き殴ったような筆跡から、差出人の悲壮さが浮かび上がって来る。

 誰か、という叫びが、聞こえてくるようだった。

 

「どうするの?」

「……行くしかないでしょう」

 

 陽光山は、日輪刀の原料を供給するほとんど唯一の場所だ。

 あの山の鉄を断たれるということは、日輪刀の供給を断たれるということだ。

 すなわち、鬼と戦う力を失うということを意味する。

 

「この救援要請が届いたのが私達だけだとすれば、放置はできません。私達が行かなければ陽光山は落ちてしまう」

 

 時間的な余裕はない。

 鴉が水も食も断って跳び続け、禊を見つけるまでの時間。

 そして禊が手紙を受け取ってからここまで戻るまで時間。

 

「もう落ちていたら?」

 

 それだけの時間を持ち堪えられる程、陽光山に武力は無い。

 だから禊が言うように、すでに落ちていることも十分に考えられる。

 

()()()()()

 

 強い言葉だ。禊は片眉を動かした。

 

「こっちの戦力は2人だけ。わたしとあんたで陽光山を奪い返すってわけ?」

「え、あの俺達も……」

「どうかしてるわよ、あんた」

「そうかもしれません。でも」

 

 無視された村田は、知己に肩を叩かれていた。

 

「ですがこれは、私達の同胞(鎹鴉)が命を賭して運んだ救援要請です。であれば、行かないわけにはいきません」

 

 何より煉獄家の娘として、同胞の危機を見過ごすことは出来ない。

 それに瑠衣や禊の日輪刀は特別な仕様だ。原料供給が断たれれば二度と打てない。

 個人的な事情としても、陽光山を放置することは出来ないのだ。

 

「ただ禊さんの言う通り、危険度の高い任務になります。私1人で行きます」

「は? なにそれ」

「私が陽光山に行くので、禊さんはここに残ってください。危ないので」

「ああ、なるほど。危ないからわたしはここにいろってことね。把握したわ」

 

 うんうんと頷いた禊は、笑顔を浮かべてこう言った。

 

「ぶっ殺すわよ、あんた」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実をいうと、陽光山というのは正確な名前ではない。

 これは鬼殺隊内部の呼び名であり、世間一般の呼び名は別にある。

 日本で最も高く、陽光に近い山。心当たりのある者もいるかもしれない。

 しかしそれは、つまるところ1つの事実を示していた。

 ()()、ということだ。

 

「ちょ、ちょっと……ちょっと待って……げほっ」

 

 手近な岩に手をついて、村田はぜえぜえと呼吸を荒げていた。

 口元を覆っていた布を取り、腰に下げた水筒に口をつけた。

 ごくごくと音を立てて水を飲み干す。

 よほど水分を欲していたのだろうが、その割に不思議と汗はかいていなかった。

 

「村田さん、大丈夫ですか?」

「わ、悪い。でもちょっとペース早すぎ……」

「寝惚けたこと言ってんじゃないわよ。これ以上ペース落としたら夜になるわよ。こんな場所で夜を迎えるなんて冗談じゃないわ」

 

 前後から真逆の声をかけられて、村田は改めて自分の状態を確認した。

 彼は、山を登っていた。()()()だ。登山になるのは当然だった。

 だがこの山は、宇髄一族の忍里よりも遥かに大きな山だった。()()()()()()だ。

 装備も、防寒用の外套を着込み、呼吸をする口元も布を巻く徹底ぶりだった。

 

 さらに、体を前後の仲間と縄で繋いでいた。

 足元は短い植物と乾いた砂、ゴロゴロした中小の石が転がっていて、酷く歩きにくい。

 だから命綱で繋ぎ、緩やかな――しかし滑落すればおそらく止まれない――傾斜を進んでいる。

 忍里の山ほど非常識ではないが、一方で常識的な登山が延々続くのもキツい。

 ちなみに命綱の先頭は瑠衣、最後列が禊で、村田と知己を挟み込む形になっていた。

 

(それだけでも相当に情けないけど、でもこの()達の体力も化物すぎるだろ)

 

 半ば無理に――むきになってついて来たのだが、村田はすでに後悔していた。

 というか、この数日間ずっと山登りである。いい加減うんざりだ。

 しかしそうは言っても、得体の知れない忍者に囲まれて過ごすのも忌避感があった。

 

「それで! ()()()()はまだ先なわけ!?」

「そうですね……」

 

 禊の怒声を背に、瑠衣は周囲を見渡した。

 空を見上げ、懐から地図を取り出して位置を確認した。

 

「もう少しです! このまま進みましょう!」

 

 後ろにそう叫び返して、さらに村田に声をかけた。

 声を出すのも億劫な気分で、村田は「大丈夫だ」と手を上げた。

 女の子、しかも後輩の前で、いつまでもへばってはいられなかった。

 自分にだってそれくらいのプライドはあると、村田はそう思った。

 

 それに、やはり仲間と一緒にいるというのは安心した。

 鬼殺隊壊滅直後は、瑠衣や知己と出会ったあの町に至るまで、ずっと1人で逃げ回っていた。

 毎日が不安で、今日のことばかりで、明日のことなど考えていられなかった。

 今は違う。少なくとも今は、明確な任務がわかる。

 それだけで、村田は充実していた。

 

「ばうっばうっ」

「ええ、その岩は避けましょう。コロさん」

 

 もういくらか日没の時間か、という時になって、コロが吠えた。

 この犬は瑠衣のさらに前を進んでいて、事実上の先導役になっていた。

 村田が知るどんな犬よりも賢く、瑠衣の言葉をきちんと理解しているとさえ思えた。

 

「やっと来た! 遅いですよ――――ッ!」

 

 コロの声に頭を上げたところで、()()から声が響いて来た。

 何だと顔を上げると、小さな何かが手を振ってぴょんぴょんと飛び跳ねていた。

 

「瑠衣さ――――ん。お久しぶりです――――ッ!」

 

 ひょっとこの面。刀鍛冶だ。

 小さいのは小鉄で、その傍に大人の刀鍛冶が立っていた。

 男にしては髪の長い。鉄穴森だった。

 小鉄と鉄穴森が、陽光山の入口で、瑠衣達の到着を待っていたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――()()()()()()()

 傍で仲間達が食事をする音を聞きながら、しかし彼は1人、何も口にしていなかった。

 空腹は、感じている。渇きも、覚えている。

 だが、彼は何かを口に入れようとはしなかった。

 

「俺は、満腹だ」

 

 考えていることと真逆のことを、言ってみた。

 もちろん、そんなことで空腹や渇きがなくなるわけではない。

 だが言葉に出して言ってみると、つまり耳でその言葉を聞くと、何となく本当のような気になる。

 ほんの(わず)かだが、気がまぎれる。

 

「俺は、満腹だ」

 

 だから彼は、何度もその言葉を口にした。

 それはまるで、自分自身にそう言い聞かせているかのようだった。

 そうやって自分を納得させないと、空腹に負けてしまいそうだからだ。

 

 何故、そこまでするのか。正直に言えば、実は彼自身にもわかっていない。

 腹が減っているのなら、食べれば良いのだ。

 渇いているのであれば、潤せば良いのだ。

 食べ物がないわけでは無い。周囲では仲間達が普通に食事をしている。

 それなのに、自分はどうしてそれに手を伸ばそうとしないのだろう。

 

「俺は、満腹だ」

 

 また、同じことを言った。

 今度は少し、効果が弱かったような気がする。

 当然だろう。所詮(しょせん)は気休めなのだから。

 何度も繰り返せば、嘘も効果を失う。

 

「俺は、満腹だ」

 

 それでも、繰り返した。

 他に頼るものもない。

 この言葉をやめれば、その時こそ、自分は耐えられなくなる。

 そんな恐怖感が、彼の唇を動かしていた。

 怯えながら、彼は自分自身に言い聞かせ続けていた。そして、()()()()()

 

「俺は」

 

 嗚呼。誰か、誰でも良いから。誰か。誰か、早く。

 早く、来てくれ。そして。

 そして。嗚呼、そしてどうか、どうか。

 

「満腹、だ」

 

 ()()()()()()()()()




最後までお読みいただきありがとうございます


新年あけましておめでとうございます。
月2回の更新だと、今年もどこまで話が進むかわかりませんが、気長にお付き合いいただけますと幸いです。

それでは、また次回。


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第50話:「陽光山」

記念すべき50話目です。
これも皆様のご支援あればこそ。
特に毎回のように誤字報告をくださることにはとても感謝しています。
どうか完結までよろしくお願いいたします。
あ、いえそれまで誤字り続けるというわけではなく…(え)


 ――――眩しい。

 村田がまず思ったのが、それだった。

 陽光山の、()()()()()()

 地上で感じる陽光とは明らかに違う、激しい眩しさ。

 

()()()()

 

 直射日光もさることながら、地面からの照り返しだ。

 岸壁からの反射なども特に酷い。

 肌を刺すような、というのはこういうことだろう。

 目も肌も、焼かれるように痛い。暑いではなく、()()

 

 たまらず水筒に口をつけたが、数滴ほど落ちて来ただけだった。

 水が無いとわかると、渇きはさらに耐え難いものになった。

 しかし口に出してごねるわけにもいかない。

 そう思っていると、横から水筒を差し出された。

 

「どうぞ」

 

 瑠衣だった。

 差し出された水筒に戸惑った。それは自分の分だろう、と。

 

「私は先ほど飲みましたので」

 

 そういう問題ではないと思ったが、その笑顔に有無を言わせぬものを感じて、受け取った。

 水は、水筒の中にたっぷりと残っていた。重さでわかった。

 もしかして水を飲んでいないのではないか、と思えるほどだ。

 

 村田は、鬼殺隊壊滅前に瑠衣と親しかったわけではない。

 正直なところ、まともに会話したことさえほとんど無かった。

 煉獄家の令嬢で、柱の直弟子。十二鬼月とさえ戦っている。

 自分のような一般隊士と話をするような位置に、瑠衣はいなかった。

 だから、村田は瑠衣のことを良く知らない。知らないが。

 

「何か、前と違うような……」

「ちょーウケる」

「うえっ?」

 

 瑠衣と違って、禊との付き合い方はわかりやすかった。

 近付かない。話しかけない。邪魔をしない。これに尽きる。

 話しかけられたとしても、この3つは守らなければならない。

 まあ、そうでなくとも村田は女性との気の利いた会話術など持ち合わせていないわけだが。

 

「3日だか1週間だか知らないけど、それで出て来る感想がそれなわけ?」

 

 そう言われても、というのが村田の率直な感想だった。

 何しろ瑠衣と出会ってから、ほとんどの時間が移動――山登りだった。

 だから実のところ、瑠衣自身のことを考える余裕など無かった。

 

「禊さん、村田さん。こっちへ。小鉄さん達が坑道の入口を見つけてくれました」

 

 だが、()()()()()()()()()()()()()()瑠衣に、流石に違和感を覚えた。

 その体力の底なしさに、疑問を覚えた。

 いや、それ以前に。

 彼女が、何かを食べたり飲んだりしたところを、見た覚えがなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 時間を、瑠衣達が鉄穴森と小鉄と合流した時点まで遡る。

 陽光山に向かうと決めた時、瑠衣はまず鎹鴉を飛ばした。

 今では鴉での連絡も危険を伴うが、自分達だけでは陽光山の坑道の位置がわからない。

 陽光山の鉱夫衆と連絡が取れない以上、()()()を頼るしかなかった。

 

「まさか小鉄君が来てくれるとは思いませんでした」

「いやあ、瑠衣さんの頼みとあらば飛んで来ますよ!」

「本当は私が1人で来るつもりだったんですけど。瑠衣さんに会いたいと言って聞かなかったんであ痛い痛い小鉄君痛いよ」

 

 小鉄は照れくさそうに頭を掻きながら、鉄穴森の脛を連続で蹴っていた。

 刀鍛冶も、剣士と同じで今では隠れ潜む日々だ。

 炉があるから移動も簡単ではないだろう。日輪刀の供給量も減っている。

 それでも、彼らは今日まで変わらず鬼殺隊を支え続けていた。

 

「え、待ち合わせってガキだったのかよ!」

「何ですか失礼ですね刀折りますよ」

「怖いこと言うなよ!」

 

 ただ実際、おかしいと知己も思った。

 彼らでさえ、この山に登るのはかなりキツかった。

 それをいかに刀鍛冶とは言え、呼吸も習得していない子供を送り込んで来るとは。

 

 知己でなくとも驚くし、おかしいと思うだろう。

 しかし瑠衣は何も言わない。禊でさえ、そうだった。

 先輩である瑠衣や禊が何も言わないので、知己も何も言えなかった。

 

「長や他の皆さんはお元気ですか?」

「…………」

「……小鉄君?」

「お変わりありませんよ。ただ鉄の供給が止まるのは懸念されていました」

 

 鉄穴森が横からそう言って来た。

 瑠衣は少し眉を動かしたが、すぐに「そうですね」と返した。

 陽光山の鉄が途絶えれば、刀鍛冶達も刀を打てなくなる。

 長の焦慮は当然のことで、一刻も早い解決が望まれた。

 

「さあ! じゃあ坑道まで案内します。まだかなり登りますよ!」

「えーっ、まだ登るのかよ!」

 

 両手を振り上げて、小鉄が言った。

 ()()()()()()()()()()()

 そう謳う場所としては、今はまだ適していない。

 陽光の射す場所を目指して、登り続ける必要があった。

 

「鉄の受け取りに何度か来ましたので、坑道の位置はわかります。ただ我々も奥までは入ったことがないので」

「十分です。そこから先は、私達(剣士)の仕事です」

 

 正直なところ、鉱夫達が無事だとは思っていない。

 救難要請の時点で襲われていたなら、届くのが遅れた今、無事なはずがない。

 それでも、生存者はいるかもしれない。

 仮に生存者が誰もいなくても、坑道の安全を確保して鉄の供給を再開する必要があった。

 

「早く鉱夫達を見つけて、刀をいっぱい作りましょう! そうしたら、瑠衣さん達が鬼をバンバンやっつけてくれますよね!?」

「……? ええ、もちろんです。悪鬼滅殺は鬼殺隊の使命ですから」

「ですよね!」

 

 小鉄の様子に、流石に瑠衣も少し違和感を覚えた。

 しかし先頭を突っ切って山を登り始めるその背中は元気そのもので、暗いものは見えない。

 気のせいだろうかと、そう思った。

 誰もついて来ていないことに気付いて、小鉄が自分を呼んでいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 坑道の中に入ると、当然だが陽光の厳しさは和らいだ。

 しかしその代わりに、薄暗さと息苦しさの実感が増して来た。気温も低い。

 元々が山の上で空気が薄い上に、坑道の中だ。環境が悪すぎる。

 

「コロさん、もう良いですよ」

「ばうっ」

 

 瑠衣が背中に抱えていた荷物の中から、コロが顔を出した。

 コロが舌を出して周囲を見渡している内に、鉄穴森が明かりを用意していた。

 人口の明かりは、やはり安心した。

 

「この先に鉄の受け渡し場があります。そこまでは道幅も比較的に広いです。正確には坑道はその先にあって、そこからはかなり狭くなります」

「わかりました」

 

 今より狭くなるという鉄穴森の言葉には、不安しか感じない。

 とは言え、ここでじっとしているわけにもいかない。

 当然、奥へ進もうという話になるのだが。

 

「……静かね」

「そうですね……」

 

 禊の呟きに、瑠衣は頷いた。

 直後に「勝手に聞いてんじゃないわよ」と不機嫌に言われた――理不尽である――が、実際、何の音も聞こえなかった。

 音も気配も、瑠衣達が立てるものだけだ。

 

 救援要請は、やはり遅かったのか。

 すでに何もかもが終わった後で、来るのが遅すぎたのか。

 色々と脳裏をよぎることはあったが、進むしかなかった。

 仮に手遅れだとしても、何か出来ることはあるはずだった。

 

「あの……この機会だから聞いてしまうんですけど」

 

 不意に、知己が口を開いた。

 周囲は変わらず静かなので、声も良く通った。

 

「日輪刀の原料って、太陽の光を浴びた鉄ですよね? なのに地面の下を掘るんですか?」

「鉄が外に露出しているわけがないじゃないですか」

「うっ、まあ、そう言われると確かに……」

 

 小鉄の言う通り、猩々緋砂鉄と猩々緋鉱石は他の鉱物と同様に、外部に露出しているわけではない。

 中には露出しているものもあるが、大半は掘り出さなければならない。

 太陽の光を浴びた特殊な鉄というのは例えであって、正確ではない。

 

「正確に言うと、一年中陽光を浴びるこの山で採れる鉄が、他の鉄と違うということです」

 

 陽光山は他の鉱山と違い、雨も降らず曇りもしない。一年中、太陽を浴びている。

 つまり山全体が太陽に温められ続けている、ということだ。

 その()()が地中にも影響を与え、特殊な鉱石――鉄へと変えていくのだ。

 だから陽光山の鉄は、唯一無二の原材料となり得るのだった。

 

「ばうっ」

 

 その時、コロが吠えた。

 コロについて先頭を歩いていた瑠衣が片手を挙げると、全体が止まった。

 全員が口を(つぐ)むと、それまでは聞こえなかった他の音が聞こえて来た。

 ゴリゴリという、何かを削る音だ。

 

 慎重に進んでいくと、広い空間に出た。

 少々埃っぽく、また一段と呼吸がし辛い場所だった。

 岩盤を削って作った大きな石室のような場所で、木箱やトロッコが見えた。

 倒れた木箱からは赤黒い石が見える。あれが、猩々緋鉱石だろうか。

 

「誰かいる」

 

 誰かの呟きに、全員がそちらを見た。

 鉱石の入った木箱の傍らに、ぼろ布がもぞもぞと動いていた。

 音はそこから聞こえていた。

 手足が見えた。人間だ。ただ、様子がおかしかった。

 おそらく、その場にいる誰もが同じ考えを持っていただろう。

 

「……もし?」

 

 瑠衣が、声をかけた。

 ぴたりと、それは動きを止めた。音も止まった。

 もう一度、声をかける。

 すると、それは振り向いた。ぼろ布の奥に、顔が見えた。

 

 鉄穴森が明かりを掲げる。全員が、息を呑んだ。

 それは、人間だった。そう、()()()

 落ち窪んで、赤く血走った目がこちらを見つめた。

 彼は口に白く細長いものを噛んでおり、それがゴリゴリと音を立てていたのだ。

 

「鬼……ッ!」

 

 それは、骨だった。

 腕か、足か。人間の、骨だった。

 開いた口に、大きな牙が覗いていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――風の呼吸・弐ノ型『爪々・科戸風』。

 唸り声を上げて襲い掛かって来た鬼を、瑠衣が斬った。

 すでに自我はなく、飢餓に任せて襲って来た、という様子だった。

 それが意味することは、1つだった。

 

「全滅のようね」

 

 禊がそう言った。その通りだった。

 今の鬼は、骨を舐めるほどに飢えていた。

 つまりここには()()が無い。生き残りは、いない。

 

 救援要請は、やはり遅すぎたのだ。

 陽光山の鉱夫衆は、すでに全滅した。

 しかしそれなら、瑠衣達がすべきことも変わってくる。

 

「……他に鬼がいないか、調べましょう」

 

 鬼を――おそらくは元鉱夫達――殲滅する。

 今までと同じように、とはいかないだろうが、陽光山の鉄は必要だ。

 だから鬼を殲滅して、再び鉄を供給できるようにしなければならない。

 

「二手に別れましょう。鉄穴森さんと小鉄さんはここで……」

「ばうっ、ばうっ」

 

 その時、コロが再び吠え始めた。

 よほど鬼の臭いに敏感なのか、坑道においてもその嗅覚は正確だった。

 そしてもはや、その場にいる剣士は全員が日輪刀を抜いている。

 見鬼必滅。身に纏う空気がそう告げていた。

 

「ま、待て!」

 

 そしてその明確な殺意を向けられた相手は、意外なことに、自分から出て来た。

 隠れようとか、逃げようとか、そんな様子はなかった。

 

「待て、待ってくれ。頼む……!」

 

 今しがた瑠衣が斬った鬼と同じく、ぼろ布を被った男だった。

 それを外して、顔を見せてくる。

 目、牙。やはり鬼だった。

 もちろん、鬼の「待て」を素直に聞くような人間はここにはいない。

 

「よ、良かった。あんた達、鬼狩りだな。そうだろ? やっと来てくれた……」

 

 だがその鬼は、瑠衣達を見て心底ほっとした表情を浮かべていた。

 

「鴉……鴉。俺が飛ばした鴉の連絡を見て、来てくれたんだろう?」

「……! では、貴方が救援を?」

「救援? いや、違う。俺が、俺達があんた達を呼んだのは、別だ。救援じゃない」

 

 その鬼は、その場に両膝をついた。

 そして手を組み、そのまま地面に倒れ込んだ。

 組んだ両手だけを頭の上に突き出すその姿は、まるで何かに祈っているかのようだった。

 

「頼む……!」

 

 頼む、と、その鬼は何度も繰り返した。

 瑠衣達が戸惑いに視線を交わす中、彼は言った。

 彼らの願いを、言った。

 

()()()()()()()()……!」

 

 あの鴉が運んで来たのは、救援要請では無かった。

 あれは、あの文は、()()の要請だったのだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――ある夜のことだ。()()()()が聞こえた。

 剛直さと酒気を帯びた歌しか知らない鉱夫達が、聞いたこともない美しい音色だった。

 まさかそれがこの世で聞く最後の音楽になるとは、夢にも思わなかった。

 

「どういうこと?」

 

 日輪刀の槍を肩にかけながら、禊が言った。

 陽光山はすでに陥落し、鉱夫衆は全て殺されるか鬼にされた。

 それはわかるが、よもや自我を残した鬼がいるとは思わなかった。

 ましてその鬼が、自分を殺すように訴えてくるとは。

 

「あの晩、やつが来た……黒い男だ。どこから現れたのかは、わからない。琵琶の音がして、そうしたら急に現れた……」

 

 琵琶の音と共に現れたその男を見た瞬間、鉱夫達は「ああ、俺はここで死ぬんだ」と理解した。

 男の目が、纏う空気が、如実にそう語ってきたからだ。

 青白い顔色の優男。武器も持っていない。それなのに己の死を理解せざるを得なかった。

 男は、言った。

 

『なるほど、ここが鬼狩り共の武器の供給源か。確かに忌々しい空気を感じる』

 

『お前達は鬼狩りに与し、この私に逆らった』

 

『万死に値する』

 

『私自らの手で殺されることをせめてもの光栄と思うが良い』

 

 そして次の瞬間、理解できたのは男の腕が()()()ことだけだった。

 体に熱を感じ、倒れ、意識を失った。

 嗚呼、死んだ。そう思った。

 だが、何故か意識を取り戻した。他の仲間の何人かもそうだった。

 

「目覚めた時、俺が何を感じたと思う? 恐怖とか安堵とかじゃない」

 

 命が助かったことを喜ぶよりも先に、鬼になったことを恐れるよりも先に。

 感じたのは、飢餓だった。

 今までの人生で感じたことのない、気が狂いそうな程の飢えと渇きだった。

 たまらず保存していた食糧を口に詰めたが、吐き戻してしまった。

 

()()()()()()()

 

 人間の赤子が、誰に教わるでもなくミルクを求めるように。

 幼い肉食獣が、親の与える肉を何の疑いもなく食すように。

 鬼と化した瞬間に、人肉に飛びついたのだった。

 

「今……今も、我慢しているんだ。だけど、もう耐えられそうにない。すまない」

 

 仲間の屍肉。あるいは他の鬼や、自分に体を齧って今日まで生きのびて来た。

 そんな彼――彼らにとって、瑠衣達は、生者のまして乙女の肉は、もはや毒だった。

 

「殺してくれ」

 

 ミシミシと、己の肉体が変形する音が聞こえる。

 牙が伸び、よだれが顎を伝うのを感じる。

 視界が赤くなっていく。

 目の前の柔らかそうな肉に、牙を突き立てたい。喰いたい。

 喰いたい、喰いたい喰いたいクイタイクイタイクイタイクイタイ。

 

「たの……」

 

 最後の言葉は、地面に頬をつけながら発された。

 自分が死んだことに、今度は最期まで気付かなかった。

 だから恐怖は感じずに済んだ。

 そして、もう飢餓を感じることもない。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「村田さんと舟生君はここで鉄穴森さんと小鉄君を守ってください」

 

 鬼となった鉱夫の頚を落とした後、瑠衣はそう言った。

 振り向いたその顔には、優し気な微笑みが浮かんでいた。

 だが、不思議な迫力があった。

 そんな顔を、村田はかつて一度だけ見たことがあった。

 

『――――大丈夫ですか?』

 

 そう、かつて那田蜘蛛(なたぐも)山で鬼に殺されかけた時だ。

 あの時、村田は蟲柱・胡蝶しのぶによって命を救われた。

 美しく、強く。そして優しい。そんなしのぶだが、村田は苦手だった。

 それを「なぜ」と言葉で説明することは難しかった。

 

 ただ、苦手だった。

 今の瑠衣は、あの時のしのぶと重なって見えた。

 しのぶも、そして瑠衣も。見ていると胸の奥がもやもやとしてしまうのだ。

 やはり、言葉には出来ない。それを表現する言葉を村田は知らなかった。

 

「禊さん」

「……はいはい」

 

 それに対して、禊はわかりやすい。

 実を言うと村田は禊も苦手だったが、彼女の価値基準は見ていてはっきりしていた。

 苛立たしいが理解はできる。胸の奥が妙なざわめきに晒されることもない。

 ただ一方で、だからこそ、禊が素直に瑠衣の後を追うのも意外に思えた。

 

「ばうっ」

 

 そして、あの犬――コロは謎である。

 今も愛らしく瑠衣の足元にまとわりついているが、日輪刀らしき物を咥えている。

 隠が犬を追跡や捜索に活用している場面は見たことがあったが、鬼と戦う犬というのは何度考えてもおかしい。

 

「…………」

 

 その時、死んだ鉱夫――頚を落とされた鬼は塵となって消えるため、衣服しか残っていない――を見下ろしている知己に気付いた。

 何故か、酷く落ち込んでいる様子だった。

 助けられなかった、という悔悟の念とは違うように思えて、声をかけた。

 

「どうした?」

「あ、いえ……その」

 

 少しだけ言い淀んで、知己は言った。

 

「鬼達は、どうして陽光山(ここ)を知ったのかな、と思いまして……」

「ああ、まあ、そうだな。俺も含めて、ここの正確な位置は一般の隊士も知らないし」

 

 鬼殺隊が壊滅してから、鬼狩り()()が進んだ。

 普通に考えれば、捕まった隊士が場所を吐かされたのだろう。

 ただ真相はわからない。わかるはずもない。

 他の拠点もそうだが、鬼は鬼殺隊関係の拠点を的確に潰してきている。

 まるで、()()()()()()()()()()()()()()

 

「地図でも持ってるんじゃないか? ははっ」

「…………そうですね」

「いやいや冗談だって! 冗談……いや、悪い。不謹慎だったな」

「いえ……」

 

 首を振って、知己はさらに何か言葉を続けようとした。

 その時だった、鉄穴森が2人に声をかけて来た。

 小鉄が何かを見つけたので、こっちに来てほしいということだった。

 村田と知己は、互いの顔を見合わせた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼殺隊が壊滅したと聞いた時、別に何とも思わなかった。

 多くの隊士が死んだのだろうが、顔が思い浮かんだのはほんの数人だ。

 そのほんの数人にしたところで、幾夜か飯を食い眠れば忘れた。

 殺されてしまうような弱いやつのことを、いちいち思い出す気は無かった。

 

 それでも、鬼を斬ることは続けた。

 鬼殺隊を壊滅させ、この世の春を謳歌している鬼は、誰も彼もがこちらを侮っていた。

 己の優位を信じてにやつく相手の頚を落とすのは、かつてない程の快感だった。

 難儀したとすれば、自分の特殊な日輪刀の調整ができる人間(刀鍛冶)がいなくなったことくらいだ。

 

()()()()()()()

 

 坑道内の鬼の殲滅に、それほどの時はかからなかった。

 飢餓状態の鬼はそもそも力が弱く、理性も欠くために戦術もない。異能も持たない。

 だから出会えば一撃で頚を落とせる。戦いと言うより作業に近い。

 そのため禊の趣味からしても、実につまらない相手だった。

 

「やめろっ、やめろおお。俺はまだ死にたくない、死にたく――――」

 

 不意に、まだ自我がある鬼が出て来た。

 元関係者だけに、鬼狩りが鬼になった自分に何をするのか的確に理解していた。

 そして目の前の鬼狩りには、逆立ちしても勝てないということを理解していた。

 だからこその命乞い。

 

「――――ぎゃっ」

 

 あるいは並の隊士であれば、手を止めたかもしれない。

 相手は元は人間、それも仲間だ。

 頭でわかっていても、刀を振り下ろすには胆力がいる。

 しかし瑠衣は、一切の躊躇を見せずに相手の頚を斬り落とす。

 

(前から、こんなやつだったかしら?)

 

 確かに、以前から任務最優先なところはあった。

 鬼は斬るという鬼狩りの使命に対して、忠実だった。

 ただ、どこか甘さがあった。それが危機に繋がることもあった。

 

 だが、今はどうだ。

 刀の冴えは以前にも勝り、精神的なブレも消えて切っ先は鋭く走る。

 そして体力。幾夜駆けようと、皆が疲労していても、1人平然としている。

 ()()。今の瑠衣は、以前より遥かに強くなっている。

 

「これで全員でしょうか」

 

 刀を振って血を払いながら、瑠衣がそう言った。

 禊はいちいち返事をしなかったが、鬼はもういなかった。

 全員、頚を斬った――――死体も含めて。

 

 不意に、瑠衣が小太刀を()()()

 それは砕いた石を入れた木箱に突き刺さり、少しの間揺れた。

 いきなり何だと思ったが、それに近付いた瑠衣が声をかけてきた。

 

「禊さん」

「……何よこいつ」

「ばうっ、ばうっ」

 

 渋々近寄ってみると、刀に貫かれてじたばたと藻掻(もが)いている()()がいた。

 目の真ん中に数字の刻まれた、小さな目玉だ。髪の毛のような手足がついている。

 吠えているコロの首根っこを掴んで投げつつ、禊はまじまじとその気持ち悪い物体を観察した。

 それは瑠衣が刀を引き抜くと、ボロボロと塵となって消えた。

 

「戻りましょう。嫌な予感がします」

「……そうね」

 

 鬼の近寄れない陽光山で鬼にされた鉱夫衆。救援要請。奇妙な目玉。

 さしもの禊も、背筋に冷たいものを感じざるを得なかった。

 何か大きなものに絡め取られてしまったような、嫌な感じを覚える。

 自然と、足も早まった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「あっ、瑠衣さん。これ見てくださいよ!」

 

 戻ると、小鉄が興奮気味に手を振っていた。

 とりあえずは無事な様子に、瑠衣はほっとした表情を見せた。

 そして小鉄が「これ」と言ったのは、倉庫らしき場所の扉だった。

 

 その扉は鉄で出来ていて、とても頑丈そうに見えた。

 扉の表面に引っ掻いたような跡がついていたが、瑠衣達が来るまで開かなかったらしい。

 小鉄の手にある錠前には、傷一つついていなかったからだ。

 扉の向こうから出て来た鉄穴森の手には、ゴツゴツとした石があった。

 

「猩々緋鉱石です。凄く良い品質ですよ、触ってみてください」

「……温かい」

 

 触れると、ほのかな熱を放っていた。

 それほど激しい熱ではない。ただ、安心するような温もりだった。

 

「倉庫には封印がされていました。きっと、これだけは死守しようとしたんだと思います」

「そうですか。……そうでしょうね」

 

 鉱夫衆にとって、これは命よりも優先すべきものだったろう。

 刀鍛冶達が上弦の襲撃の最中、可能な限りの刀を抱えて逃げたように。

 彼らにとって、これが無事であることが、勝利の証だったのだ。

 熱を放つ鉱石に触れながら、瑠衣は目を閉じた。

 

 ――――()()()()

 

 その時だった。

 ()()()()()()()()()()()

 それは最初、単純な音だった。

 しかし次第に激しさを増し、耳の奥、頭の中で響き始めた。

 

「な、何だ? この音は……!」

「琵琶の……音!?」

 

 コロが、吠えた。

 ざわざわと不吉な気配を感じるや、そこかしこに先程の目玉が現れた。

 5、10、20……いや、もっとか。数え切れない程の目玉が、瑠衣達を捉えていた。

 ()()()()()()()()()()

 

「鉄穴森さん、小鉄君。倉庫の中へ」

 

 この、肌の粟立ち。刺すような圧迫感。

 ビリビリと、全身でその気配を感じる。

 ()()()()と表現するのは、(いささ)かおかしいだろうか。

 そして、一際大きく琵琶の音が響いた。

 

「る、瑠衣さん!」

「早く!」

「こ、小鉄君。来るんだ、さあ早く……!」

「瑠衣さん……!」

 

 鋼鉄の扉を閉めて振り向くと、そこにも扉があった。

 障子が、あった。

 もちろん、坑道にあるべきではない物だ。しかもその障子は宙に浮いていた。

 血鬼術だ。空間移動型の異能だ。

 そして、そこから()()と腕を伸ばして、出て来たのは。

 

「――――お前は、生きていると思っていた」

 

 赤い髪。刺青のような肌。鍛え上げられた筋肉。獰猛な獣の如き視線。

 瑠衣は、彼を知っていた。彼が瑠衣を知っているように。

 あの夜。兄と、仲間達と共に戦った。

 

「上弦……!」

「とうとう見つけたぞ」

 

 上弦の一体。猗窩座。

 空間移動の血鬼術によって転送されてきた彼は、瑠衣を見ると、凄惨な笑みを浮かべて見せた。

 あの、無限列車の夜と同じように。

 

「さあ、()()()を出せ……!」

 

 災厄が、襲いかかって来た。




最後までお読みいただきありがとうございます。

よーし、着々と鬼殺隊を潰せていますね!(え)
日輪刀の原料を押さえれば、鬼狩りの戦力も間違いなく弱体化するでしょう。
これで無惨様の世はさらに盤石に…(おい)

それでは、また次回。


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第51話:「最後の鉄」

 鬼を組織として捉える時、上弦の伍・鳴女の存在は必要不可欠なものだろう。

 何故ならば彼女以外の上弦はおしなべて武闘派であり、政事向きではない。

 まして日本全土に散っている鬼の管理となると、鳴女にしかできない。

 鬼舞辻無惨は全土の鬼の把握はできるが、管理しようという意識が無いからだ。

 

()()()()

 

 他の上弦と違い、鳴女は首相官邸――今や鬼舞辻無惨の居城――から動くことが無い。

 無惨の膝元に座し、無惨が気にも留めないような細かな仕事をこなしている。

 人間の政治に当てはめるのであれば、内閣書記官長(官房長官)や補佐官ともいうべき立場だろう。

 最も、傍目(はため)には琵琶を抱えて座っているだけなので、一見しただけでは何をしているのかわかりにくいのだが。

 

「やはり陽光山。産屋敷の手の者がかかってくればなお良かったのですが。まあ、良いでしょう。()()()でも」

 

 べべん、と、手にした琵琶が掻き鳴らされる。

 その場では、何も起こらない。

 しかし長く艶やかな黒髪の覆われた顔の下では、大きな一ツ目が妖しく動いていた。

 だがその目が見ているものは目の前ではなく、遠く離れた場所の光景だ。

 

 血鬼術。目玉の使い魔を放ち、彼らが見たものを見ることが出来る。

 探知探索と情報収集に長けた血鬼術であり、平時においては無惨をして「最も役に立つ」と評す血鬼術だ。

 そして鳴女の使い魔は、今や日本全土に隈なく散らばっているのである。

 

「鬼狩りの残党狩り。無惨様のお気持ちを煩わせることはありません」

 

 鬼殺隊壊滅後、使い魔で虱潰しに生き残りの鬼狩りを探し、そして殺してきた。

 ただ、鳴女自身には戦闘能力はほとんど無い。

 だから鬼狩りを見つけた場合、適当な鬼を能力で運んで送り込んでいた。

 しかし今回の場合、並の鬼では難しいだろう。

 

「俺に行かせろ」

 

 その時、珍しく声をかけられた。

 無惨以外に鳴女に声をかける存在は少ない。無惨でさえ命令以外に声をかけることも無い。

 誰かと思い、鳴女は目を――目の前を見る、という意味で――向けた。

 

「あの女には、借りがある」

 

 なるほど、と鳴女は思った。

 ()であれば、陽光山に入り込んだ鬼狩り達に後れを取ることは無いだろう。

 それに自分で行くと言ってくれているのなら、説得する手間も省けて楽だった。

 大して考え込むこともなく、鳴女は了承の意を返した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 猗窩座という鬼の厄介な点は何かと言えば、小細工がないところだ。

 他の鬼のように、罠を張ったり何かの現象を起こしたりということが無い。

 ()()()()。それだけだ。だからこそ手に負えない。

 

「はあああ……ッ!」

 

 塵旋風(壱ノ型)。左右の手に持った小太刀で連続で斬りつける。

 そしてその(ことごと)くを、猗窩座は素手で捌いた。

 刃を拳の甲で弾き、予備動作なしで蹴りを放ってくる。

 

 真下から放たれたその攻撃を、瑠衣は()け反って回避した。

 大きく回避はしない。大きな動作で避ければ、次の攻撃に対処できないからだ。

 実際、次の一瞬で猗窩座は腰を落としていた。

 伸び切った瑠衣の腹に、硬く握られた右拳が繰り出される。

 

「……!」

 

 直前、猗窩座がそのまま体を半回転させた。

 腕を後ろに振るい、拳大の石を砕き払ったのだ。

 そしてその直後、足裏で地面を削るようにして、猗窩座の腕の下に禊が滑り込んで来た。

 しかし勢いがつき過ぎたのか、獲物(長槍)の射程をとうに超えている。

 

 ――――欺の呼吸・弐ノ型『面子』。

 猗窩座の懐で、禊の日輪刀が二つに割れる。

 両手に持った短槍。突き上げの攻撃は、猗窩座の胴体を狙っていた。

 禊と猗窩座の視線が交錯する。拳が槍を迎撃せんと動いた。

 

「無駄な小細工だ」

 

 ――――風の呼吸・参ノ型『晴嵐風樹』。

 その背中で、瑠衣が斬撃を繰り出す。

 先程からその繰り返しだった。瑠衣と禊で挟み、本命と牽制を入れ替わる。

 だが何度繰り返しても、2人の攻撃はどれ1つとして猗窩座の頚には届かなかった。

 

「『破壊殺』……」

 

 ―――『砕式・万葉閃柳』。

 2人の攻撃の一切を無視して、猗窩座は地面を殴りつけた。

 そして彼の拳は、地面を砕いた。

 坑道の固い岩盤が罅割れて爆ぜる様は、彼がいかに人の域を超えた存在なのかを伝えて来る。

 

(相変わらず……!)

 

 それだけで、瑠衣も禊も吹き飛ばされた。

 小石が顔に当たっても目を閉じなかったのは、目を閉じた瞬間に死ぬからだ。

 実際、猗窩座は次の瞬間には、瑠衣の目の前で拳を振り下ろそうとしていた。

 禊とは距離が離れている。今までのように牽制で気を逸らすことは出来ない。

 

「バウッ!」

 

 やられると思った時、瑠衣と猗窩座の間に割り込む者がいた。

 日輪刀を咥えたコロが、前傾姿勢で唸り声を上げて威嚇していた。

 猗窩座の目と表情は一瞬「犬?」と言いたげなものになったが、しかし攻撃を止めることは無かった。

 その一撃がコロを苦も無く叩き潰すだろうことは、想像に(かた)くなかった。

 

「――――コロさん!」

 

 全身に血が巡るのを、瑠衣は感じた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()が出たかと、そう思った。

 だが、すぐに違うと気付いた。

 自分の腕を斬り飛ばして、犬を抱えて着地した瑠衣の顔に、羽根のような、燃える炎のような痣が浮かび上がっていたからだ。

 

(痣が発現。速度が上がったな)

 

 鬼狩りが発現する痣。それを、猗窩座は知識として持っていた。

 だから瑠衣の動きが格段に良くなっても、慌てることは無かった。

 一瞬の思考の間に、斬られた腕も再生している。

 

 そして、ここで猗窩座は考えた。

 痣については確かに驚いたが、想定外というほどではない。

 犬の剣士にも驚きはしたが、それだけだ。

 一応は刀を構えてはいるが、他の2人の剣士も問題にならない。

 ()()()と、そう考えた。

 

「――――殺すぞ、そろそろ」

 

 猗窩座の足元に、雪の結晶のような紋様が浮かび上がった。

 まるで羅針盤だ、と瑠衣は思った。

 だがそれをどういう意味を持つのかは、まだわからない。

 わかっているのは、猗窩座が明確な殺意を向けてきている、ということだ。

 

「俺は弱者が嫌いだ。女と戦うのも嫌いだ。いつまでも付き合うつもりはないぞ」

 

 それは、最後の警告だった。

 実際、猗窩座はこれ以上の時間、戦うつもりが無かった。

 ここは坑道。陽の光が差すこともない。いつまでだって戦える。

 だが時間が経てば経つ程、体力を失っていく人間の動きは鈍る。

 最強の状態で戦い、そして討つ。それ以外に意味はないのだ。

 

(脅しじゃない)

 

 それは、瑠衣にも良くわかった。

 猗窩座の全身から漲る闘気は、離れていても肌を刺して来る。

 次に交錯した時、瑠衣の胴は上下に別れているだろう。

 そして瑠衣が殺されれば、この場にいる他の者も皆殺しだろう。

 

(……討たないと)

 

 今、ここで。次の一撃で。猗窩座の頚をとる。

 そうしなければ、全滅する。

 瑠衣がそう考えた、その時だった。

 

()()()()()

 

 禊が、音もなく猗窩座の傍に立っていた。

 それは、戦いの動きでは無かった。

 

()()()()()

 

 どこか、言の葉も妖しい。

 はんなりとしていて、とでも言おうか、戦いに汚れた顔が酷く蠱惑的に見えた。

 そしてその顔に、猗窩座は拳を向けた。

 大きく後ろに反り、さらに跳んで、禊はそれを回避した。

 拳が掠めたのだろう。隊服の胸元が大きく破れて、下の着物が露出した。

 

「禊さ……」

 

 瑠衣は助けに出ようとした。

 しかし禊が向けて来た目を見て、足を止めた。

 何かを、しようとしている。それがわかった。

 

「この着物……」

 

 そっと胸元に手を置いて、禊は小首を傾げていた。

 それはおよそ、戦いの仕草ではない。

 胸元に当てた手をそのまま口元に運び、小指で唇を押さえる。

 

「似合うかしら? あなた」

 

 そして、酷く楽し気に微笑んだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

(違うわね。()()じゃない)

 

 視界の端に拳の閃光を捉えながらも、禊は猗窩座を見つめていた。

 猗窩座は不快そうな表情を隠そうともしていない。

 だから、()()は違う。()()()()()()

 

 それにしても、見事な鬼だ。

 花街で戦った上弦も相当だったが、攻撃の密度が段違いだ。

 拳打のはずだが、攻撃が濃密で速いせいで線に見える。

 攻撃線とでも表現すべきか。その線に触れれば、おそらく死ぬ。

 

「もう、乱暴なお人。そんな……っと」

 

 また一つ。拳の線が走った。これも違った。

 隊服が破れているせいで着物の袖が外に出ていて、体捌きがやや乱れている。

 だから、回避がいちいちギリギリになる。

 

 ふと視線を向ければ、瑠衣がこちらを見ていた。

 おそらく自分の意図がわからず、困惑しているのだろう。

 いい気味だと思う反面、自分でもどうかと思ってはいた。

 ただ、不意に思い付いてしまった。気付いてしまったのだ。

 

(鬼も人間も同じよ。鬼になったからって感情がなくなるわけじゃない)

 

 鬼は理性を失った化物ではない。むしろ逆だ。

 己の感情に、欲望に素直という意味では、鬼はより人間らしい生き物だ。

 弱者と戦いたくない。つまり強者との戦いを望むのも、そうだ。

 そして、女と戦いたくないということも。

 

(拳で、正面から戦う。血鬼術も嵌め系じゃない。つまり硬派。()()()()()()

 

 強者を尊ぶ。何故か、己の強さを証明するためだ。

 何故、己の強さを誇示したがるのか。

 自己顕示欲。それはあるだろう。

 しかし猗窩座は弱者を嫌っているのであって、見下しているわけではない。

 つまり、この鬼は。この男は。

 

「禊さんッ!」

 

 嗚呼、五月蠅い。ちょっと静かにしてなさいよ。

 視界の中央、猗窩座の拳が正面に見えた。

 次で死ぬ。

 その刹那の一瞬で、禊は自分を()()()()()

 

「――――……あなた」

 

 ――――儚くて。

 弱くて。

 吹けば倒れてしまいそうな。

 それでいて、優しく微笑みかけてくれるような。

 

()()()()()()()()()()()

 

 その顔に、その顔の前で、猗窩座の拳が止まった。

 そして自分自身のその行動に、猗窩座自身が困惑しているのが見て取れた。

 ()()()()

 目の前で止まった――風圧を感じた。振り抜かれていれば頭がなくなっていただろう――拳をくぐり、禊は鋼糸を手繰り寄せて、散らした日輪刀を。

 

「うわあああああっ!!」

 

 その時だった。

 倉庫の中に押し込められていたはずの小鉄が飛び出してきて、何かを投げつけて来た。

 次の瞬間、小鉄が投げたそれが火を噴き、轟音を立てたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 発破、というものがある。

 筒状の小型爆弾(ダイナマイト)。硬い岩盤を破砕するのに使う。

 爆発の規模自体は大きくはないが、その振動はビリビリと空気を揺らし、その場にいる全員を打った。

 

()()()()()()! うわああああああっ!!」

 

 投げているのは、小鉄だ。

 鉄穴森が羽交い絞めにして止めているようだが、聞く耳を持っていない。

 倉庫の中にあったらしい発破に火をつけては、次々に投げている。

 村田などは「ちょおおお!」と大騒ぎだ。

 当然だろう。坑道で爆発など、下手をせずとも命に関わる。

 

 それでも、猗窩座にとってそれは脅威にはならないはずだった。

 銃弾でも爆弾でも、鬼を殺すことは出来ない。まして上弦。瞬く間に再生する。

 にも関わらず、猗窩座の反応は遅れた。

 というより、猗窩座は発破の爆発に気付いてさえいなかった。

 

(なんだ)

 

 目の前に立っている禊を見つめて、目を見開いている。

 拳を振り抜いた姿勢のまま、固まっている。

 

(女……)

 

 目の前にいる女を攻撃することを、何故か、肉体が拒否していた。

 

(着物、かんざし……この声音)

 

 ()()()()()()()()()

 そんなはずは無いのに、猗窩座は禊をどこかで知っているような気がした。

 いや、正確には――――こんな女を、知っている気がした。

 

 もちろん、猗窩座は肉体を精神で抑え込む(すべ)を持っている。

 だから停止は一瞬だ。爆発の余波に空気が揺れる、ほんの一瞬だけだ。

 だが、その一瞬は。

 

「――――!」

 

 ――――欺の呼吸・真壱ノ型『器械人形』!

 ――――風の呼吸・捌ノ型『勁風・天狗風』!

 その一瞬に飛び込む形で、禊と、そして瑠衣の斬撃が猗窩座を穿った。

 

「……ッ。硬い……!」

 

 2人の攻撃は的確に左右から猗窩座の頚を打った――まるで、鋼同士が打ち合うような硬質な音だった――が、浅く皮膚と肉を裂いた程度だった。

 硬い頚だ。隙を突く形では弱い。

 やはり、正面から腰を入れて両断しなくては。

 

「お2人とも、危ない!」

 

 その時だ。鉄穴森が声を上げた。

 爆音に途切れがちだが、同じことを叫び続けているのだろう、声は届いた。

 

()()()!」

 

 鉄穴森の声が届くとほぼ同時に、足裏から重苦しい振動が伝わって来た。

 その振動を感じ取るや、瑠衣は動いた。

 ()()()()と、その場で小さく跳び、そして一気に加速した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 知己は、()()を直に見るのは初めてだった。

 地面を、あるいは落ちて来る岩を踏み砕きながら、瑠衣が駆けていた。

 いったいどういう駆け方をしているのか、知己の目には瑠衣の姿がブレて見えた。

 

「禊さん!」

「はあ!? ちょ……ぐえっ」

 

 瑠衣はまず、禊のお腹を――比喩ではなく、物理的に――肩に抱えるようにして、その場から離れた。

 小鉄の投げた発破はそこが最も激しく、従って落盤の規模も大きかったからだ。

 そして禊を抱えてもなお、瑠衣の脚力は衰えなかった。

 

「何よ、逃げるわけ!?」

「これ以上は無理です!」

 

 そんな2人の背後で、閃光が走った。遅れて発破よりも激しい爆発音が響く。

 抱えられている禊は、それが猗窩座が瓦礫を殴り砕く音だということを知っていた。

 猗窩座が再起動した。

 この状況下では、確かに人間側が圧倒的に不利だった。

 

「村田さん! 舟生君! 掴まってください!」

「え、え!?」

「掴まるってどういうこと!?」

 

 村田を背負い、知己を前に抱く形になった。

 いくら呼吸使いとは言え、3人も抱えて速度を落とさないというのは尋常ではない。

 さらに瑠衣は、そのまま鉄穴森と小鉄にも手を伸ばした。

 意図を察した鉄穴森は、小鉄を放り投げた。

 

「小鉄君を頼みます!」

「ちょ、鉄穴森さん!?」

 

 不味い、と、瑠衣は思った。

 頭上の崩落速度と背後の猗窩座の圧力から察するに、全員を抱えた状態で鉄穴森まで救いには行けない。

 そうした瑠衣の躊躇を察したのか、禊が瑠衣の背中に膝を撃ち込んだ。

 

 ぐえ、と今度は瑠衣が呻く番だった。

 さらに禊は村田を掴むと、そのまま着地した。

 舌打ちしつつ、そこからは自分の足で全速力で駆け始めた。

 

「男まで抱えてるんじゃないわよ! 自分で走れ!」

「それはそーだけども! もうちょっとやり方があるだろ!?」

「気安く話しかけてんじゃないわよ!」

「理不尽すぎない!?」

 

 さらに、小鉄だ。

 受け止めようと利き足で踏み留まったが、小鉄が瑠衣の腕の中に落ちてくる前に、空中で小鉄の襟元を咥えて駆け出したのは、コロだった。

 小鉄の足をズルズルと引きずりながら――「あいたたたたっ」――コロが駆けて行った。

 

 それらを見て、瑠衣は息を深く吸った。

 そうして空気を深く吸い込んだ後、歯を噛んだ。

 気のせいでなければ、口角が上がっていた。

 

「舟生君、鬼が攻撃してきたら教えてください……!」

「え、はい!」

 

 ミシ、と、足から音がした。

 呼吸で足回りの筋肉を強化しているため、圧迫された骨が軋んでいるのだ。

 小石ず頭上からぱらつき、瑠衣の身体を打っていた。

 同時に、背中に明確な害意の膨らみを感じた。

 

「来ます!」

 

 跳躍(スタート)

 知己の声に合わせて、瑠衣は跳んだ。

 ()()

 すると自然、猗窩座の攻撃も上を向くことになる。

 そして瑠衣が天井の岩盤に着地すれば、猗窩座の攻撃の着地点も自然と岩盤となる。

 

「……()()()()()()()()()()()()

「貴様……」

()()()()()()()()()()()()()()と」

 

 天井の岩盤が、崩落した。それは猗窩座を押し潰す。

 いかに鬼とは言え、物理的な質量に対してはどうすることも出来ない。

 一瞬早く跳躍した瑠衣だけが、すんでのところで岩盤を擦り抜けた。

 とは言え、足裏に瓦礫が落ちる感触を感じている。それほど僅かなタイミングだった。

 だがそのおかげで、鉄穴森の腹を抱える――「そのやり方はどうにかならないわけ?」――ことが出来た。

 

「えーい、おまけだ喰らえ!」

 

 そしてコロに引きずられながら、小鉄が残りの発破を全て投げていた。

 派手な爆発音を背中で聞きながら、瑠衣は駆け続けた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 まあ、要は逃げ出したということだった。

 坑道が崩落する音を背中で聞きながら元来た道を通り、外へと転がり出た。

 直後、腹の底を揺らすような音と共に赤茶けた土埃が坑道の口から噴き出し、地面に倒れ込んだ全員を包み込んだ。

 

「げほ……っ。皆さん、無事ですか?」

「な、なんとかあ……」

 

 とは言え、坑道の外に出れば陽光山だ。

 土埃もすぐに晴れ、空からは燦々と陽光が差し込んで来る。

 陽光の射す場所に鬼は現れない。安全圏だった。

 

「し、死ぬかと思った……というか、お前! いきなり何だよ! 正気か!?」

 

 真っ青な顔で地面に手をついたまま、村田が言葉を向けたのは小鉄だった。

 それはそうだろう。坑道で発破を使う。しかも間近で。普通ならあり得ない判断だ。

 だから村田の言葉は当然のもので、小鉄も反論する様子は無かった。

 

 と言って、小鉄は俯くばかりで何かを言う様子は無かった。

 疲労や不満というより、どこか消沈しているように見えた。

 だからなおも言い募ろうとする村田に手を向けて、瑠衣は小鉄の傍に膝をついた。

 小鉄は、体ごと瑠衣から顔を背けていた。

 

「すみません」

 

 言葉を発したのは、鉄穴森だった。

 その顔――はひょっとこの面で見えないが――を見て、瑠衣は言った。

 

「……()()()()()と、言いましたね」

 

 びくりと、小鉄の体が震えるのを見た。

 それで、十分だった。

 小鉄の想いも、鉄穴森が口籠るのも、それだけで良くわかった。

 ここに来る前に小鉄の様子がおかしかった理由も、()()だったわけだ。

 

「…………これだけです」

 

 唯一、倉庫から確保したのだろう。

 鉄穴森は懐から砂鉄袋らしきものを2つほど取り出した。

 それと、小さな鉄の鋳塊(インゴット)

 それだけだった。それが、今回の戦いの戦果だった。

 

 鉱夫衆は全滅した。そして、()()()()()()

 日輪刀の供給体制は崩壊した。

 上弦の鬼に鉱山の場所を特定されてしまった以上、再建も不可能に近い。

 まして坑道は今、落盤により完全に塞がってしまった。

 

「僕のせいです」

 

 その時、口を開いたのは知己だった。

 地面に両膝をつき、拳を握り締めて、肩を震わせていた。

 全員の視線が自分に向くのを感じながら、彼は言葉を続けた。

 それはきっと、止めようのない独白だっただろう。

 

「僕は……僕は、政府の密偵だったんです」

 

 密偵。間諜。スパイ。言い方は様々だが、意味は同じだ。

 鬼殺隊は、政府非公認の組織だ。そして非公認とは、知らないことと同義ではない。

 普通に考えて、政府がそんな()()()()の存在を野放しにするわけがない。

 無限列車事件のようなことが起きるなら、なおさらのことだ。

 

 鬼殺隊から、産屋敷家から自発的に提供される情報などは信じない。

 となれば、自ら調べる。人を送る。その内の1人が、舟生知己という少年だった。

 鬼殺隊とはいかなる組織か。規模は。資金源は。そして、()()()

 そうした情報を政府に上げ、鬼殺隊が国家に仇なす存在であるか監視していた。

 そして政府は、鬼の手に落ちた。だから。

 

「だから、鬼に鬼殺隊の……拠点とかが、漏れたのは……」

 

 抱き締めた。

 瑠衣は、小鉄を抱き締めた。

 胸の中に少年の頭を掻き抱く。腕を掴む小鉄の手が、震えていた。

 深く、本当に深く、瑠衣は息を吐いた。

 

(どうして)

 

 もしもこの世に神様というものがいるのなら、聞いてみたかった。

 どうしてこんなにも、残酷なのか。苦しみを、与えるのか。

 もう無理だと、どん詰まりだと、そう伝えようとでもしているのか。

 そして直接、こう言ってやりたい。

 

()()()()

 

 私達は、何も、諦めていない。

 

「だって、私達はまだ生きています。上弦と遭遇しても、まだ生きています」

 

 どんなに苦しくても、どれだけ絶望的な状況でも。

 生きている限り、終わりじゃない。

 まだ、続けられる。生き続けることが出来る。

 

「生きているのなら、頑張れます。まだ終わりじゃありません」

 

 そうでしょう。と、瑠衣は言葉を胸元に落とした。

 小鉄は、まだ震えていた。

 ブルブルと震えて、そして瑠衣の胸の中で顔を上げた。

 ひょっとこの面の隙間から、ボロボロと涙の雫を流しながら。

 

「当然ですよ……!」

 

 そう、言ったのだった。

 それを言葉ごと抱き締めて、瑠衣は言った。

 

「皆が無事で、本当に良かった」

 

 今は、それが勝利だった。

 余りにもささやかで、何の意味もないかもしれないけれど。

 瑠衣にとっては、そうだった。

 ――――あるいは、そう思わないことには……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 山を下りる時は、かなり気を遣った。

 空間転移型の血鬼術に捕捉された以上、どこかで追撃を受ける可能性を捨て切れなかった。

 当たり前の話だが、落盤ごときで上弦を排除できるとは思っていない。

 

「ばうっ!」

 

 ただ、ある方向に行こうとするとコロが吠えた。

 もしかすると、鬼の臭いを覚えているのかもしれない。

 後輩を1人思い出して少しだけ笑ったが、すぐに消えた。

 

 コロの警告に逆らおうとする者はいなかった。

 そして実際、無事に山を下りることが出来た。

 ただ、下山するだけで2日もかかってしまった。

 水と食料は何とか山中で確保したが、それでも一行の疲労は隠しようもなくなっていた。

 

「今日は、ここで野営しましょう」

 

 山中の小川に至ったところで、瑠衣は全員が限界だと判断せざるを得なかった。

 陽光山は下りたが、麓の集落に入ることは出来ない。

 古いお堂でもあれば良かったが、見つけられなかった。

 

 もっともお堂があったとして、安全だという保証はもちろん無い。

 仮に鬼がいなくても人がいれば、それだけで通報の危険があるからだ。

 やはり、忍里に戻るまでは安心できない。

 

「周りの確認をしながら、薪を集めて来ます。えっと」

「了解。俺は魚でも獲ってる。得意なんですよ」

「それなら僕の方が得意ですよ! 罠とか!」

「釣るんじゃないのかよ!」

 

 村田も小鉄も、足取りは重いが口は軽かった。

 あえてそうしていると言うのが、瑠衣には良くわかっていた。

 だが、今はそれが必要なのかもしれない。自分にとっても、誰にとっても。

 

「禊さん、ここをお願いします」

「言っておくけど、わたしは何もしないわよ」

「はい、それで大丈夫です」

 

 舌打ちが返事だった。

 付き合いも良い加減に長くなってきたので、今さら傷ついたりはしない。

 逆に、今はそういう禊の変わらない態度が有難くすらあった。

 

 それから、知己の肩に手を置いた。

 擦れ違い様に、軽くだ。ぐっと力込めた。

 上手く微笑むことが出来たかはわからないが、そうした。

 

(……父様や兄様のようには、いかないな)

 

 結局のところ思うのは、それだった。

 キツいな、と改めて思う。

 けれど、やり続けなければならないことだった。

 ――――どこかで、猫が鳴く声が聞こえた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「優しいって思ってる?」

「え?」

 

 森の中に消える瑠衣の背中を見送っていると、不意に禊が声をかけてきた。

 ただそれだけのことだが、これは実は物凄いことだった。

 何故なら今まで、禊が知己個人――というか、彼女は誰に対しても同じような態度だが――に声をかけるというのは、無かったからだ。

 

「そういうのは、優しいんじゃなくて――――残酷って言うのよ」

 

 そして、それは会話では無かった。

 禊は知己の方を見てすらいなかったし、むしろじゃれついてくるコロに対して追い払うような仕草をする方を優先していた。

 だからそれは、もしかしたら、独り言に近いものだったのかもしれない。

 

 そして知己は、禊の言葉の意味を少し考えた。

 優しいのではなく、残酷なのだということ。

 それは、確かにそうだと思えた。瑠衣は、誰かを責めたりはしなかった。

 責めてほしいと思うことさえ許されない。

 そんな気がして、それは確かに、残酷という表現が合っているような気がした。

 

「……()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 知己を横目に、禊はそう呟いた。

 しかしその呟きは知己に届くことは無かったし、彼女も誰かに聞かせるつもりも無かった。

 全く、と、額を揉みながら嘆息する。

 皺が寄ったらどうしてくれるのだ、と、そう思いながら。

 

「――――ありがとうございます。茶々丸さん」

 

 森の中に入ってしばらくすると、瑠衣は足を止めた。

 そうして地面にしゃがんだ彼女の膝に、白い毛並みに茶色の柄の猫が両手を置いていた。

 茶々丸というその猫は小さな鞄を背負っていて、さらに首に奇妙な紋様の描かれた札を下げていた。

 明らかに野良猫ではない。

 

 瑠衣は一言告げて、その鞄から2つの物を取り出した。

 小箱が2つ。1つは注射器が入っていて、これは血液を採取するための物だった。

 誰の血液かと言えば、瑠衣だった。

 それについては、瑠衣は慣れた手つきで終わらせた。

 採取した血液と共に、鞄の中に戻す。

 

「珠世さんと愈史郎さんによろしく伝えてください」

 

 にゃあ、と鳴くと、不思議なことに猫の姿が見えなくなった。

 愈史郎の姿隠しの血鬼術だ。

 あの猫は、珠世と愈史郎の飼い猫なのである。

 

「……ふう」

 

 嘆息を1つ零して、瑠衣は手元に残った小箱を開けた。

 その中には小さな容器が入っている。ガラス越しに液体が見える。

 蓋を外すと、顔を上げて、瑠衣はそれを目の上に持ち上げた。

 逆さにして、軽く押す。針の先程の先端から雫が1つ、目に落ちた。

 それは、いわゆる目薬というものだった。

 

「ん……」

 

 染みたのか、目頭を押さえて俯いた。

 そのまま、しばらくじっとしていた。

 はあ、と大きく息を吐いたのは、どれくらい後だっただろうか。

 

「……………………はやくきて、父様」

 

 その呟きを聞く者は、誰もいなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼殺隊の壊滅により、鬼を狩る者はいなくなった。

 そのため鬼の()()は右肩上がりではあるものの、七千万とも言われる人間の人口と比べれば微々たるものだった。

 だから国家にしろ町にしろ、これまで通りの運営がされるのがほとんどであったし、それは帝都・東京でさえ例外では無かった。

 

「それじゃあ、おやすみなさい」

「はい」

 

 だから今でも日本政府は存在するし、総理大臣も存在する。

 つまり総理大臣公邸――執務を行う官邸に隣接する平屋造りの建物――は今日も変わらずに存在し、そこで働く女中もまた、いつも通りの日々を過ごしているのだった。

 変わったことがあるとすれば、働き者の女中が1人、新たに入居したことぐらい。

 そして……。

 

「さて、今日こそ本丸ね」

 

 そして、その女中――雛鶴が、夜な夜な公邸の中を探るようになった、ということだった。

 ただ、探ると言っても政治的な何かしらを調べているわけではない。

 今の総理大臣は前陸軍大臣らしいが、雛鶴の目的はそこではないのだった。

 

「何とか、無惨の情報を。無惨を倒す方法を……」

 

 実を言えば、今、雛鶴に命令する者はいない。

 剣士でも呼吸使いでもない雛鶴は、その気になれば()()()ことも出来た。

 彼女の主人は、むしろそうすることを願ったかもしれない。

 だが雛鶴は、彼女達はそうしなかった。

 

 女中の衣装を脱ぐと、露出の高いくのいちの衣装が現れた。

 窓から外に出て、身軽な動作で屋根に上がる。

 今日までは比較的安全そうな場所から探っていたが、これと言った情報は見つからなかった。

 他の女中や公邸で働いている人間も、多くは知らない様子だった。

 

(そうなると、やっぱり首相の部屋か……あるいは、いっそ官邸に。いえ、流石に官邸は危険すぎる)

 

 だから、今日はより核心に触れそうな場所を調べるつもりだった。

 予め鍵を開けておいた窓から中に戻り、人気を確認しながら、目的の部屋へと近付く。

 家人は全員が寝静まっているのか、足音ひとつ聞こえなかった。

 目的の部屋は、すぐに見つかった。一際(ひときわ)細工の美しい扉の部屋だ。

 地方に視察に出ているので首相はいない。つまり、今日は無人のはずだった。

 

「…………」

 

 息を殺して、ドアノブを回す。

 

「――――何をしているの?」

 

 ()()()

 ドアノブを回そうと手に力を込めた、その時だった。

 雛鶴の顔を、小さな、白い掌が覆った。

 

 後ろからだ。誰もいなかった。絶対に誰もいなかった。

 今、雛鶴がいるのは邸宅の通路だ。後ろには、壁と、そして窓しかない。

 だが窓は鍵が閉まっている。雛鶴が入った窓も、内側から鍵をかけた。

 だから、誰かが、顔を掴める程の距離にいるはずがない。

 

()()()()()()

 

 ぐい、と、後ろに引かれた。

 逆らい難い程の力で後ろに引かれたが、何にも頭をぶつけることは無かった。

 とぷん、と、まるで水に飛び込むかのように()()()()()()()

 血鬼術だと、すぐに気付いた。

 

「悪い人は、亜理栖のおうちに連れて行かなくちゃ」

 

 目だけで、何とか横を見る。

 金髪の、西洋人形のような女の子の――鬼の横顔が、見えた。

 それと同時に、足先まで取り込まれてしまった。元の場所の景色が遠ざかって行く。

 天元様、と、雛鶴は心の中で声を上げた。




最後までお読みいただき有難うございます。

あれ、おかしいな……何でどんどん主人公達が追い詰められているのだろう。
日輪刀の供給が止まったら詰むじゃないか。
正直ここから逆転する手が思いつかないんだけど(え)

それでは、また次回。


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第52話:「魔の都」

 ――――()()()が聞こえる。

 いつからか、ここに来るとそんな風に感じるようになった。

 もっとも、童磨にとってはどんな声であろうと大した差は無いのだが。

 

「やあ、鳴女殿。相変わらず早いねえ」

 

 その部屋は、ちょっとした広間ほどの空間だった。

 窓もなく、陽の光は一切差さない。

 床には赤い星型の籠目(六芒星)が描かれており、その頂点に背の高い椅子が置かれていた。

 椅子には壱から陸の数字が刻印されていてるが、座っているのは童磨を含めた2人だけだった。

 

「あれ、他の皆は?」

「…………まだお越しではありません」

「そっかあ。じゃあ、お喋りでもして待っていようか。あ、お土産に美味しい肝を包んであるんだけど、1つどう?」

「遠慮します」

「そう? 稀血の女の子のだから美味しいよ?」

「結構です」

 

 とは言え、鳴女は童磨との会話に積極的では無かった。

 というより、そもそも鬼は親し気に会話するような生き物ではない。

 あるのは序列ないし実力差に伴う上下関係であり、強いて言えば無惨への貢献度合いだけだ。

 共食いさえする生き物に、協調という概念はない。

 

 そして結論から言ってしまえば、他の4人は最後までやって来ることは無かった。

 元々この集まり――童磨は「上弦会議」などと呼んでいるが――自体、成立した試しがない。

 理由は、まず無惨が無関心だからだ。

 鬼殺隊を壊滅させてから、無惨は配下の鬼にほとんど関心を払わなくなっていた。

 例の「青い彼岸花」探索も軍隊が動員されているから、そこですら上弦の出番はない。

 

「みんな遅いねえ」

「…………」

 

 無惨が関心を払わない以上、他の上弦もこの集まりには関心を持つことはない。

 もちろん無惨が「出ろ」と言えば出るだろうが、無惨がわざわざそんな命令をするはずも無かった。

 

「そうそう、猗窩座殿は今も女の子を食べないらしいんだよ。女の子は子供を作れるくらい栄養をため込んでるんだから、女の子の方が絶対美味しいのにねえ」

「…………」

「そう言えば黒死牟殿も最近見ないなあ。まあ、黒死牟殿のことだから心配はいらないかな」

「…………」

「それに半天狗殿もめっきり見なくなったけど、それは元からか。あんなに何もかもに怯えて生きるって辛いよね。可哀想に。俺が何か力になってあげられると良いんだけど」

「…………」

「亜理栖殿とは余り話したことが無いんだよね。上弦になったばかりでわからないこともあるだろうし、話したいんだけど、()()()に嫌われちゃってるからなあ。あ、鳴女殿なら女の子同士だし、仲良くなれるのかな?」

「……………………」

 

 鬼殺隊の壊滅により、人の世は変わった。

 しかし同時にそれは、鬼の変化をも意味していた。

 不老不死の生命。不死身の肉体。しかし、変わる。

 鬼もまた、変化という運命からは逃れられないのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 忍里での生活も、流石にもう慣れて来た。

 当然ながら忍者の仕事の手伝いなど出来ないが、薪割りとか、そういった手伝いは出来る。

 そして空いた時間には、知己と鍛錬に励む。

 それは、びっくりするくらいに健康的な生活だった。

 

「ふうっ」

 

 冷たい水に浸した手拭いで顔を拭いて、村田は大きく息を吐いた。

 上着を脱ぎ、上半身裸だった。

 高地だが、不思議と里は温かだった。まあ、そうでなければ人が住むことは難しいだろう。

 

 忍の里など、本来は血生臭い場所だろう。

 しかし外は太平の世。忍者と言えど、働き所はない。

 だからなのか、村田には里で暮らす人々が普通の村人にしか見えなかった。

 例外は、あの宇髄(音柱)の弟だという頭くらいだろう。

 

「いやー。それにしても器用だよな、お前」

「そうですか?」

「そうだろ。普通、複数の呼吸を組み合わせるなんて出来ないって。まあ、名前は……アレだけど」

「そうですかねえ」

 

 知己の呼吸は、独特なものだった。

 基本は岩の呼吸らしいのだが、他の呼吸も取り入れて独自のものにしている。

 元の呼吸を自分なりに改良して派生の呼吸を作る例は色々とあるが、それにしても、知己は器用だった。

 これで新人だと言うのだから、末恐ろしい。

 

(まあ、鬼殺隊がこうなっちまったらな)

 

 しかし同時に、知己の才能が十全に開花することは難しいかもしれない、と村田は思っていた。

 何故なら、鬼殺隊が壊滅してしまっている。

 柱を筆頭に、強い剣士の背中を追いかけるということが出来なくなっているからだ。

 受け継ぐことが、出来なくなってしまったからだ。

 

 そしてそれは、刀鍛冶もそうだ。

 小鉄と鉄穴森は里の鍛冶場を借りて刀を打とうとしているが、限界があるようだ。

 無理もない。刀鍛冶の技術の継承も、途切れてしまった。

 とどのつまり、どん詰まりである。

 

「こんにちは、精が出ますね」

「あ、ども……」

「ふふ、変な村田さんですね」

 

 その時、宇髄弟との話し合いに出ていた瑠衣が戻って来た。

 相も変わらずの微笑を浮かべて、淑やかに歩き去って行く。

 女性らしい。しかし、打ち込む隙は無い。そういう佇まいだった。

 流石は鬼狩りの名門の出だと、村田は常々感心していた。

 

「凄いですよね。こんな状況なのに、少しも慌ててなくて」

「……だな」

 

 一方で、重荷を背負わせてしまっている、という罪悪感も感じる。

 全体の状況を考える力は村田にはない。その点は、申し訳ないと思う。

 ただ、知己にとっては瑠衣の存在は幸運だったかもしれない。

 瑠衣がいる限り、知己は正統な「鬼殺の剣士」の姿を見ることが出来る。

 それは大きなことだと、村田は思っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣は、追い詰められていた。

 他人(ひと)の目があるところでは落ち着いた風を装っているが、内心は真逆の状態だった。

 村田や知己と同じように、瑠衣もまた今の状況の深刻さに頭を抱えていた。

 

 鬼殺隊壊滅から時間も経ち、生き残りの情報も拾えなくなってきた。

 隠に加えて刀鍛冶の里が壊滅し、陽光山も陥落した。

 藤の家紋の家を始めとする民間協力者も、鬼によって次々と摘発されていた。

 この状況で、鬼に対する逆襲など、どう考えても不可能だった。

 

「何とかしないと……」

 

 宇髄弟も、いつまでも()()()()()()を置いてはくれまい。

 今日も話をしてきたが、言外に目に見える成果を求めて来ていた。

 あれは、間違っても情で助けてくれる人種ではない。

 利なしと見れば、下手をすれば瑠衣達の首を手土産に鬼側につきかねない。

 

「クゥン?」

 

 足元に擦り寄って来たコロを抱き上げて、その毛並みに顔を押し付けて見た。

 温かかった。そんなものに縋りついている自分を、一方で冷静に見つめてもいた。

 力を込め過ぎたのか、コロがジタバタし始めた。

 

「ごめんね」

 

 謝って、床に放した。

 ただ瑠衣が座ると、そのまま隣で丸くなってくれた。

 その背中を片手で撫でながら、宙を見上げた。

 

 天井を見上げたところで、妙手が思いつくはずも無い。

 これから自分は、自分達はどう動くべきなのか。

 その展望が、まるで見えなかった。

 

「こんなことなら、もっとちゃんと実家の手記を読み込んでおくべきだったな」

 

 歴代炎柱の手記。今はもう、手にすることも出来ない。

 鬼殺隊は過去に何度も壊滅の危機に陥っている。

 ご先祖様の手記に、その当時のことも書いてあったかもしれない。

 

「しっかり、しないと」

 

 今は、自分が踏ん張るしかないのだ。

 あっちだ、と指差して、皆が走る先を示さなければならない。

 立ち止まった瞬間に、この集団は駄目になってしまう。

 それがわかっているから、瑠衣は焦っているのだった。

 

 だが、いったいどうすれば良いというのだ。

 誰がどう見ても手詰まりのどん詰まりの、この状況を。

 この絶望的な状況を、どうやったら打破できると言うのだ。

 

「入るわよ」

 

 と、いう言葉が聞こえて来たのは、小屋の扉が開いた後だった。

 いつものことなので、もはや誰と考える必要もない。

 そして実際、当然のような顔をして、禊がそこに立っていた。

 彼女は親指で後ろを示すような仕草をしながら、小さく首を傾げた。

 

「来客よ」

 

 ――――来客?

 瑠衣は訝し気に禊の後ろを見たが、すぐに居住まいを正すことになった。

 そこに、天狗の面の男と義足の男が立っていたからだ。

 鱗滝に桑島、元柱の男達だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 上座を譲ろうとしたが、固辞された。

 自分達はもう引退した身だから、というのが理由だった。

 鬼殺隊の1つの時代を築いた男達だが、それを示すわけでもなく、どこまでも謙虚だった。

 

「相変わらず、大変な状況のようだな」

「……私の力が及ばず、恥ずかしい限りです」

「いや、きみは良くやっている」

 

 この2人は、あの炭治郎と善逸の師だった。

 ああ、それから、桑島は獪岳の師でもある。

 弟子を――後輩をみすみす死なせた自分を、助けてくれている。

 有難いと思うと同時に、申し訳ないという思いも、やはりあった。

 

「……四国に、僅かながら剣士達が生き残っていた。知っているな?」

「はい。辛うじてですが、鴉のやり取りもありました」

「先日、鬼側に見つかったらしい」

「…………そうですか」

 

 鬼狩りの剣士は、日本全国に散らばっていた。

 だから、地方には僅かな生き残りが小グループを作っていることもあった。

 ただ瑠衣達のように「活動する」というよりは、行く当てがなく、寄り集まって隠れ住んでいると言った方が正しかった。

 

 主君の声も届かず、柱もいない。

 末端の剣士には、隠れる以外のことは出来ないのだ。

 そして、それが鬼に見つかれば――――語る必要さえ、ないことだった。

 

(一歩一歩、着実に潰されている……)

 

 日を追うごとに、背に感じる終末の気配が強くなってくる。

 それを理解して、瑠衣は膝の上で拳を握り締めた。

 

「……今日は、わざわざそのことを伝えに?」

「馬鹿な、そこまで暇ではないわい」

「おい」

「何じゃ」

 

 肘で小突き合う2人に、少しおかしくなった。

 この2人は同世代の柱だと聞いているから、昔からこういう関係だったのかもしれない。

 特に何か意図があったわけではないが、禊の方を見た。

 物凄く嫌そうな顔をされた。

 くすん、と心の中で涙ぐんで、コロの背中を撫でた。

 

「まあ、それはさておき。実は1つ提案をしに来た」

「提案ですか」

 

 これも、珍しいことだった。

 鴉ではなく、直接こうして伝えに来るということは、かなり重要なことなのだろう。

 どういったことかと一瞬、頭を巡らせた。

 改めて、姿勢を正した。

 

「お聞きしましょう」

「うむ、実は……」

 

 頷いて、鱗滝は言った。

 天狗の面が、真っ直ぐに瑠衣を見つめていた。

 

「東京に、行く気はないか」

 

 予想だにしなかった提案に、瑠衣は目を見開いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「言うまでもないことだが」

 

 あえて、鱗滝はそう前置きをした。

 だが念を押されるまでもなく、瑠衣は理解していた。

 東京こそが、この国の――この鬼の国の本拠地であることを。

 

「おそらく、無惨は東京にいる」

 

 鬼はもちろん、軍隊の動きに至るまで、全ての指令は東京から来ている。

 そして鬼は、無惨が唯一の頂点だ。それ以外はない。

 命令の根には、必ず無惨がいる。

 すなわち、東京のどこかに無惨がいるのだ。

 

「これだけの状況にあっては、鬼殺隊の再興は絶望的だ。また仮に再興できたとしても、その時にはこの国は完全に鬼の国になっているだろう」

 

 その時には、意識しているにせよしていないにせよ、人間は家畜に成り下がるだろう。

 鬼の食糧として管理され、あるいは自ら喜んで肉にされることを望むようにされるかもしれない。

 それを阻止するためには今、鬼を滅ぼすしかない。

 無惨を、倒すしかない。

 すなわち。

 

「――――()()

「そうだ」

 

 瑠衣の言葉に、鱗滝は頷いた。

 勢力として考えた時、鬼殺隊は消滅したに等しい。

 対して鬼は日本全土を掌中に収め、軍隊すら鬼の指揮下だ。

 好きに人を喰らい、異能を持つ鬼も増えただろう。

 戦力は鬼殺隊が存在していた頃の数倍、いや十数倍に達すると見て間違いない。

 

 正攻法で覆し得る戦力差ではない。

 それがわかっているからこそ、瑠衣も次の一手が打てずにいた。

 鱗滝は、そんな瑠衣に発想を転換しろと言っているのだ。

 暗殺というのは、表現の1つに過ぎない。

 勢力と勢力の戦いではなく、()()()()()()に持ち込め、と鱗滝は言っているのだった。

 

「虎穴に入らざれば虎子を得ず、本丸狙いだ」

 

 正直、考えていなかったわけではない。

 敵の本拠地に潜入し、頭――無惨を潰す。

 だが、失敗すれば文字通り何もかもが終わりだ。

 自分はもちろん、鬼殺隊の最後の灯火(ともしび)も消えてしまう。

 そうなれば。そうなってしまえば。

 

(かぁつ)ッ!!」

 

 ビクッ、と、体が震えた。

 禊が「うるさっ」と耳を押さえる程の声量は、桑島が発したものだった。

 

「危機的状況で守勢に立ってどうするか!」

 

 小さく弱い側は、守ってはならない。

 何故ならば、守り続けたところで戦力を擦り減らすだけだからだ。

 だから小さく弱い側は、常に、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「どうする」

 

 決断は。

 

「――――……」

 

 素早かった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 東京は、日本の首都である。政治の中心であり、経済の中心である。

 しかし鬼が――無惨がここを本拠と定めたのは、それが理由ではない。

 理由は、至極単純だ。

 単純に東京という都市が、300万()も蓄えた大貯蔵庫だったからだ――――。

 

「こっちです」

 

 300万人が暮らす大都市・東京も、朝は静かなものだった。

 鬼が退き、人が起き出す僅かな間隙の時間。

 その時間を狙って、町の中に入り込む者達がいた。

 

「随分とあっさり潜入できましたね……」

「昔はもっと監視が厳しかったらしいんですが、戦争が終わってからは」

 

 先導するのは、知己だった。

 間諜時代、各地に散っていた密偵は秘密の抜け道を使って出入りしていた。

 知己はその抜け道を使い、中心市街に瑠衣達を潜入させたのである。

 

 忍者もそうだが、鬼は人間の諜報網など必要としない。

 だから知己がかつて所属していた国の諜報組織は、実はすでに解散してしまっている。

 抜け道が潰されていたらと危惧していたが、まだ残っていて助かった。

 もっとも、それはおそらく鬼が抜け道の存在など気にしていなかっただけだろうが……。

 

「ここは安全なのか?」

「はい。たぶんですが」

 

 抜け道の先は、どこかの小屋だった。

 小屋と言っても煉瓦とコンクリート製のしっかりした造りで、頑丈なように見えた。

 薄暗かったが、少しすると窓の外が明るくなってきた。

 次第に、人も家から出てくるだろう。

 

「ったく、何でわたしがこんな汚い場所を通らなきゃいけないのよ」

「少しは我慢せい。堪え性のない小娘じゃな」

「クソジジイが気安く話しかけないくれる」

「なっ、年長者に対して何じゃその言い草は!」

「まあまあ、落ち着け桑島」

 

 いろいろと考えたが、全員で来た。

 すなわち、瑠衣と禊、村田、知己、それから鱗滝と桑島だ。

 元柱の2人の助力は、はっきり言って有難かった。

 

「ばうっ」

「ああ、はい。コロさんも頼りにしています。もちろん」

 

 それと、コロだ。

 乾坤一擲の戦いに挑む時は、全戦力を投入すべし。戦術の基本だ。

 もっとも、先にも述べたが、相手の強大さを思えばこの程度は「戦力」とさえ呼べないのかもしれない。

 だが、それで良いとも思うようになっていた。

 

(狙うのは、無惨ただ1人)

 

 目標を定めて、そこに集中する。

 そうしている間、むしろ瑠衣は気が楽だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 抜け道は放置されていたが、人間の諜報組織は残されていない。

 知己が以前懇意にしていた情報屋の類も、軒並み連絡が取れなくなっている。

 もちろん、鬼殺隊が東京内部に持っていた情報網(ネットワーク)など残っているはずも無い。 

 

「ひとまず、手分けして情報を集めましょう」

 

 だから、まずはとにかく情報だった。

 無惨がどこにいるのか。

 東京に所在する鬼――特に上弦の鬼――はどれほどいるのか。

 

 昼間であれば、比較的に安全なはずだ。

 もちろん、陽の光の差さない場所に入るのは厳禁だ。

 建物の中に入る時も、窓の位置などを確認しながらということになるだろう。

 

「明日の朝、同じ時間。この場所に集合。戻らなかった時は、()()()()()()と認識します」

 

 そう言って、全員で東京の町中に散った。

 1人で行動するのはリスクもあったが、時間をかけるわけにもいかなかった。

 時間が経てば経つ程、瑠衣達の侵入がバレる可能性が上がるからだ。

 特に瑠衣達4人は陽光山の件で顔を知られている可能性もある。速さが重要だった。

 

「あんたはどうすんの?」

 

 別れ際、禊が声をかけて来た。

 足先で擦り寄ろうとするコロを追いやりながら、だ。

 その様子に相変わらずだなと思いつつ、瑠衣は言った。

 

「私は……そうですね。実は、行っておきたいところがあるんです」

「どこよ」

 

 誰にも言わなかったが、東京に入ると決めた時、瑠衣は尋ねるべき場所を1つ思い付いていた。

 考えてみれば、それは当たり前の思考でもあった。

 ここは東京。産業の中心。すなわち、()()()()()()。つまり。

 

()()()()を、訪ねてみようと思います」

「……馬鹿じゃないの?」

 

 産屋敷家の居宅(タウンハウス)が、あるのだった。

 しかし今は鬼の世だ。鬼殺隊当主の居宅が無事なわけがない。

 ましてそんな場所にのこのこと行けばどうなるかなど、少し考えればわかることだ。

 だから、禊は瑠衣のことを「馬鹿」だと言ったのだ。

 

「わかっています。でも、行っておくべきだと思うんです」

「……あっそ。じゃあ好きにすれば?」

「はい。禊さんも気をつけて」

 

 言うべきことは言ったという風に、禊は背を向けた。

 その背中を見送りながら、瑠衣は足元に擦り寄って来たコロを抱き上げた。

 

「さ、行きましょうか」

「ばうっ」

 

 少しずつ、通りが賑やかになってきた。

 頭巾(フード)を深く被って、路地から出て行く。

 目指すは、産屋敷家。主君の居宅だ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 東京の中心地からやや南西に逸れた場所に、閑静な邸宅地が存在する。

 緑豊かな並木道、石畳の道、垢抜けた洋館と広大な庭園。

 まるで西洋貴族の邸宅をそのまま持ってきたかのような街並みは、そこが特別な者達が住む場所であることを示している。

 そこに住まうのは、華族――その中でも、さらに高位に属する者達だ。

 

「お着物を持って来るべきでしたか」

 

 そんなことを呟いたのは、思いのほか警備が厳重だったからだ。

 とは言え、それは軍隊が区画への出入りを制限しているということではなく、各々の華族が警備員を雇って警護させている、という意味合いだった。

 ただ警備員というには、邸宅の入口に立つ彼らは重装備に過ぎた。

 

 もちろん、一般人の家にそんなものはない。

 社会の上層部にいる彼らだけが、そうした警戒を外に対して行っていることになる。

 何故か。理由は、考えるまでもない気がした。

 いずれにせよ、瑠衣のような()()は目立ってしまう。

 

「さて、と……これは、ちょっと予想外でしたね」

 

 さらに、問題が発生した。

 しばらく歩くと目的の産屋敷邸に辿り着いたのだが、どういうわけか、その正門にも武装した警備員がいたのだ。

 これは、はっきり言って予想外だった。

 腕の中に抱いているコロも、ふんふんと鼻を鳴らしていた。

 

 解釈は、二通り。

 まず産屋敷家が華族社会では今も健在であり、自主的に警備員を置いている場合だ。

 産屋敷家と関係の深い家が代わりに管理している、と見ることも可能だ。

 ただしこの場合、鬼がそれを野放しにしているということになる。

 普通に考えて、あり得ないことだ。

 

(……すると、あの警備は鬼が置いていることになる)

 

 白昼の警備。警備員自体は人間だろう。

 だが、何故わざわざ産屋敷邸を警備する必要があるのか。

 破壊するならまだしも、守る理由など無いはずだ。

 瑠衣のような鬼狩りを誘き寄せたいのか。それは、考えにくかった。

 

(……罠、か)

 

 いずれにせよ、罠を警戒せざるを得ない。

 ただ一方で、わざわざ鬼が警備するような「何か」があるとも取れる。

 今は少しでも情報が欲しい時だ。そして情報は、危険を犯さなければ手に入らない。

 そして危険というのであれば、東京に入った時点ですでに危険だった。

 

「よし……」

 

 行くか、と思いかけた時だ。

 耳に、みゃう、という鳴き声が聞こえた。

 振り向くと、いつの間にそこにいたのか、見覚えのある猫がそこにいた。

 ――――珠世の猫だった。




最後までお読みいただき有難うございます。

このままではジリ貧…!
こうなったらやるしかねえ、暗殺だ…!

というわけで、敵の本丸に突撃です。
気のせいか私の描くヒロインは皆が皆して突撃思考な気がします。
なぜだろう、現実の影響を受けているのだろうか…(え)

それでは、また次回。


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第53話:「鳴女」

 瑠衣に会いに行かなければならない。

 そう珠世に言われた時、愈史郎は露骨に嫌そうな顔をした。

 何故ならば、彼にとって煉獄瑠衣という少女は――というか、珠世以外の存在は――どうでも良いものだったからだ。

 

 愈史郎の望みはただ、珠世との静かな生活だけだった。

 彼の血鬼術をもってすれば、誰とも関わらず、珠世と2人きりで、ひっそりと暮らすことは簡単だった。

 ただ、珠世がそれを望んでいないことも理解していた。

 だから口に出して反発することは無い。無いのだが、しかし顔には出すのだった。

 

「わかってはいるんだよ、これでも」

 

 みゃう、と鳴くのは、オスの三毛猫――茶々丸である。

 珠世がどこかから連れて来た飼い猫で、動物とは思えないほど賢く、落ち着いた猫だった。

 まあ、あのコロとかいう犬も相当に犬らしくないが。

 

「ただ、何もこんな危険な場所にまで来なくても良いじゃないか」

 

 危険。そう、危険だった。

 今は愈史郎の血鬼術『紙眼』――目を描いた呪符を貼り付けることで人や物を隠す術――で隠した家屋の中で、珠世と瑠衣が2人で話している。

 困窮した下級華族が手放した屋敷で、手入れもされておらず荒れかけているが、密談をするには十分だった。

 

 ただ愈史郎の術は隠すだけなのであって、存在を消す術ではない。

 だから見つかる時は普通に見つかる。

 珠世と愈史郎自身の戦闘力がそれほど高くないことを考え合わせれば、こんな、敵の本拠地とも言える場所にいるのは自殺行為だった。

 

「みゃう」

 

 短く鳴いて、茶々丸が尻尾を振った。

 ガタガタ言うんじゃない、と言われたような気がして、愈史郎は鼻を鳴らした。

 猫なんぞにわかってたまるか、と、反発じみた想いまで感じた。

 

「愈史郎」

 

 ()()()()

 それでも、愈史郎にとっては珠世の意思が絶対だった。

 珠世がそれをしたいと言えば手伝うし、どこに行きたいと言えばついて行く。

 決して、独りきりにはさせない。

 

「愈史郎、お願いが……そんな顔をしないの」

「すみません。でも無理です」

 

 まあ、顔には出すが。

 その時、珠世の後ろに立つ瑠衣と目が合った。

 顔色は良くはなかったが、元気がないという風ではなかった。

 もっとも、瑠衣に元気があろうがなかろうが関係なく、愈史郎は彼女が嫌いだった。

 何故ならば、瑠衣がいるからこそ、珠世はこんな危険な場所にやって来たのだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 屈強な警備兵の真横を、擦り抜けた。

 相手の呼吸音さえ聞き取れるような、至近距離だった。

 しかし、警備兵が瑠衣に気付くことは無かった。

 

(これが、愈史郎さんの血鬼術の効果)

 

 瑠衣は額に、奇妙な札を貼り付けていた。

 そのため少々間抜けな格好になっていたのだが、しかしこの札のおかげで、警備兵に瑠衣の姿が見えなくなっているのだった。

 いくつか注意事項はあるものの、これは便利だった。

 

(もう少し我慢してくださいね)

 

 腕に抱いたコロの頭にも、瑠衣と同じ札が貼られている。

 警備兵の脇を擦り抜けたは良いものの、正門をそのまま開ければ怪しまれる。

 だが、そこは呼吸の剣士。

 ふっ、と跳躍し、正門をそのまま飛び越えた。

 

 着地の際に僅かな音が立ったが、警備兵が気にすることはなかった。

 仮に気にしたとしても、振り向いた時にはすでに瑠衣はその場から消えていた。

 産屋敷邸の敷地内に入ると人気もなく、周囲を確認して、瑠衣は愈史郎の札を外した。

 他の華族の邸宅と同じく、産屋敷邸も洋風の造りになっている。

 

「さて、どこかから中に入れると……」

 

 そう思って視線を巡らせてみると、窓が開いている部屋が1つ、目に入った。

 他の窓は全て閉ざされているのに、そこだけが開いていた。

 危険な匂いがした。

 ただここまであからさまだと、かえって「行ってやろう」という気にさせた。

 そもそも、瑠衣はここに危険を犯しに来たのである。

 

「コロさん、どうですか?」

「ばうっ」

 

 屋根に跳び、窓まで近付くことは容易いことだった。

 コロに中を探って貰ったが、異常は無さそうだった。

 そしてこの場合、異常が無い、ということ自体が異常だ。

 明かりの無い室内に、瑠衣はコロを抱いたまま侵入した。

 

 瞬間、ねっとりとした嫌な空気に全身を包まれた。

 

 全身の肌が何らかの粘膜に触れ続けているような、そんな感覚だった。

 窓を境界として、内外で空気の質が違う。

 湿度が違うというようなことではなく、湿地の空気と砂漠の空気が全くような、そんな違いだ。

 ()()()()()()()()()()()

 

(何かあるとは思っていたけれど)

 

 そして部屋の中には、たった1つの物しか置かれていなかった。

 隠す気など毛頭ないと言わんばかりに、それは部屋のど真ん中に存在していた。

 加えて言えば、それは瑠衣が見たことがあるものだった。

 ()()()()()

 鏡面すらも血に覆われた鏡が、鎮座していたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ある意味で、諸悪の根源と言えるだろう。

 この血染めの鏡の持ち主である上弦の鬼・亜理栖のことである。

 あの鬼の存在がなければ、鬼殺隊の現状はあり得なかった。

 

「それが、産屋敷邸(ここ)にあるということは……」

 

 くどいようだが、罠の可能性が高い。

 しかし一方で、こうも思う。

 つまり、こうだ。「こんな罠を仕掛ける意図は何だ?」。

 

 何度も言うが、鬼殺隊は壊滅した。僅かに生き残った残党がいるだけだ。

 たかだが残党狩りのために、こんな罠を仕掛ける必要があるのか。

 そんな必要は、どこにも無い。

 ただただ、圧倒的な戦力差で踏み潰せば済む話だ。

 

「…………」

「ばうっ」

「大丈夫です」

 

 それは、思い付きですらなかった。

 血染めの鏡に、手を伸ばした。

 鏡面に触れる。水面のように、不規則に揺れた。

 そこで止めず、さらに押し込んだ。

 手首まで、鏡面の中に沈んで行った。

 

()()()()()

 

 向こう側に何があるのかまでは、この時点ではわからない。

 この状態で考えていても、仕方が無かった。

 虎穴に入らずんば虎子を得ず。

 大きく息を吸って、瑠衣は鏡の中に飛び込んだ。

 

 そして鏡を潜った次の瞬間、瑠衣の目の前に現れたのは――――長い廊下だった。

 果てが見えない程に、長い廊下だった。

 しかも天井・壁・床に、戸や障子や畳が無秩序に敷かれている。

 余りにも無秩序すぎて、一種のモザイク画のような不思議な迫力を見る側に与えていた。

 そして、何よりも。

 

「ヴヴヴヴ……!」

「ええ、わかっています。コロさん」

 

 コロでも、そして炭治郎でなくとも感じる、この()()。いや、気配。

 どこかから、という生易しいものではない。

 すべてだ。全方位、あらゆる場所から、鬼の気配が漂っている。

 直感的に、瑠衣は察した。

 

 ()()()()()()()()()

 

 じわり、と、背中に冷たい汗が滲むのを感じた。

 動けなかった。

 迂闊に動けば、周囲のすべてが異物(瑠衣)に気付くような気がしたからだ。

 そっと、その場に膝を着き、手を床に――襖だったが――置いた。

 その次の瞬間、振動が来た。

 

「な……」

 

 まず、地震か、と思った。

 揺れは足元だけでなく、全体的なものだったからだ。

 身体の芯にまで響く振動はしばらく続き、そして不意に終わった。

 足元の床、もとい襖が、開いたからだ。

 瑠衣は、浮遊感に襲われた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 床の襖が突然開き、自由落下が始まった。

 四方は障子や戸、畳が不規則に並ぶ壁。

 そして、下はと言えば。

 

(底が見えない……!)

 

 脇を見ると、コロがバタバタと四肢を動かしていた。

 犬の体では、空中で姿勢を変えることも難しいだろう。

 咄嗟に手を伸ばして、瑠衣はコロを小脇に抱えた。

 

 ()()()

 

 その時だ。琵琶の音が聞こえた。

 変化は、突然だった。

 四方の壁が音を立てたかと思えば、四角い柱が物凄い勢いで突き出て来た。

 しかもそれは明らかに、落下中の瑠衣を狙っていた。

 

「……ッ!」

 

 羽織をムササビのように広げて、その抵抗で体勢を変えた。

 そうして一方の柱に寄り、側面を蹴る。

 四本の柱の衝突地点から身をかわして、再び自由落下に入る。

 

 かと思えば、再び琵琶の音が聞こえた。

 琵琶の音に呼応して次々に柱が飛び出し、こちらを押し潰そうと襲い掛かってくる。

 四方から、あるいは同じ方向から2本3本と続けて襲ってくる。

 しかしその全てを、瑠衣は空中で回避し続けた。

 

(戦闘向きの血鬼術じゃない)

 

 厄介だが、回避できない程ではない。

 問題があるとすれば、未だに着地点が見えないことだ。

 もっとも着地点が見えたところで、このままの勢いで落ちれば()()()()()なわけだが。

 

 とは言え、戦闘向きではないのは血鬼術だけではなかった。

 本当に瑠衣を殺そうと思うなら、問答無用で高所から落下させて殺せば良いのだ。

 それなのに、わざわざ潰しに来た。

 ()()()()、瑠衣に着地すべき足場を提供してくれているのだ。

 

「シイイィィ……!」

 

 羽織の抵抗で体勢を整え、柱を蹴る。

 この作業をひたすら繰り返していく内に、瑠衣の落下速度は落ちていく。

 柱は次々に瑠衣を襲ってくれるし、何よりも次はどこから出てくるかを音と事前の揺れで教えてくれるのだ。

 ある意味で、こんなに回避しやすい攻撃はなかった。

 

「……っ。コロさん、離れないでくださいね」

「ばうっ」

 

 やがて、突き出た柱の1本に着地することが出来た。

 流石に勢い余って転がってしまったが、何とかコロを潰さずに済んだ。

 ただ、手を放さずにいた。引き離されでもしたら厄介だったからだ。

 

 べべん。再びの琵琶の音。しかし、今回はやけに近くから聞こえた。

 柱の縁に立つと、柱――というよりは、舞台ほどの広さの場所が見えた。

 そこに、琵琶を持った一つ目の女鬼がいた。

 琵琶を鳴らし、壁や床に自らの髪を触手のように伸ばしていた。

 

「あれは……」

 

 そして、もう1つ見えたものがあった。

 女鬼の傍でモゾモゾと動く、目玉のような気味の悪い生き物だ。

 それを見た瞬間、瑠衣は全身にカッと熱が生まれるのを感じた。

 痣が、瞬時に顔に浮かび上がった。

 

「お前が」

 

 陽光山を滅ぼしたのは、こいつだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 幾本もの柱が襲い掛かり、足場にした戸や襖が不意に開く。

 それらが立てる轟音、あるいは乾いた音と、激しく掻き鳴らされる琵琶の音。

 そしてその間を、瑠衣は縫うように跳んでいた。

 さながら蝶のように。あるいは蜂のように。

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』。

 突進する。

 すると、行く手を遮るように柱が左右から襲って来た。

 空中で軌道を修正し、寸でのところでかわし、逆に足場にする。

 そして、再びの突進。これを繰り返す。

 

(徐々に、近付かれている)

 

 この時、上弦の伍――鳴女は、一心不乱にこちらを目指す瑠衣に対して、疑念を抱いていた。

 脅威を感じる、程には追い詰められていない。

 琵琶を弾き続けながら、鳴女は考える。

 いったい、この人間はどこから入り込んだのか、と。

 

(無機物操作では仕留め切れそうにありませんね。ならば)

 

 べべんっ。と、琵琶の音調が変わった。

 すると、四方と柱の戸や襖が開いた。

 今度は落とし穴のように瑠衣を嵌めようとするのではなく、()()があった。

 無数の異形の鬼が溢れ出て、唸り声を上げたのである。

 

 殺せ(べべん)

 命令は、非常に簡潔だった。

 数十体はいようかという鬼が、一斉に瑠衣に襲い掛かった。

 しかも、それらの鬼はただの雑魚鬼ではなかった。

 

(下弦程度の力を持つ鬼を――――()()()

 

 鬼狩りに頚を斬られることが激減した結果、力を増す鬼の数は一挙に増えた。

 脅威に怯えることなく食事ができるのだから、当然と言えば当然だった。

 もっとも、それでも才能の差は如何ともし難く、()()()()()なわけだが。

 しかし、物量で押し潰すにはちょうど良い戦力だった。

 

 それに対して瑠衣は深く息を吸い、そして一気に吐いた。

 ミシリ、と足元が音を立てて、そして砕けた。

 疾走と跳躍。まさに、踊りかかるという表現がぴったりと当て嵌まる動きだった。

 

(最小限の道を進んで、やつの頚に手をかける!)

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 正面から群がる鬼の頚を、右から左に刀を振り抜いて斬り捨てた。

 側面から瑠衣の頭を握り潰そうとした腕を蹴り、跳び、その先にいた鬼の頚を刎ねる。

 攻撃を擦り抜け、擦れ違い様に頚を斬り、鳴女を目指した。

 

「ぎゃっ、こいつ!」

「捕まえろ! たかが1人だ!」

「おお!」

 

 鬼達はムキになり、さらに密度を高めて瑠衣に群がった。

 その顔面に、瑠衣は小太刀を叩き込んだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実はこの時、瑠衣は1つ判断を間違えていた。

 今の瑠衣の実力は――本人は強く否定するところだが――柱に匹敵する。

 ()()()()()柱にだ。

 故に、下弦の域にやっと届く程度の鬼を何体繰り出して来たところで、対処は出来る。

 

(よし、このまま――――!)

 

 ただし、瑠衣は1つ誤解していた。

 

「認めましょう。貴女の力を見誤っていたことを」

 

 べべんっ、と、琵琶が鳴る。

 その、次の瞬間だ。

 鳴女の周囲の虚空に戸が生み出されたかと思うと、そこから再び鬼が溢れ出て来たのだ。

 

()()()()()()()()

「……っ!」

 

 瑠衣が誤解していた1点。

 それは最初の五十体が()()()()()()()()ということだ。

 もはや下弦程度の力を持つ鬼など、鬼の世界では珍しくなくなっていたのだ。

 つくづく、鬼殺隊の存在がなぜ重要だったのかを、瑠衣は実体験したことになる。

 

 そして、もはや言うまでもないことだが。

 人間には、限界がある。

 全力疾走はいつまでもは出来ない。徐々に体が重くなり、視界が狭窄を始める。

 瑠衣はすでに、どれほど走っただろうか。1分か、5分か。それ以上か。

 

「ヒャハハハッ、この数を相手にいつまで保つかなあ!」

「さっさと諦めな! そうすりゃ楽に殺してやるぜ!」

「誰が……!」

 

 側面の鬼の顔面を蹴り、そのまま跳躍に入った。

 その上で身を捻り、正面の鬼の頚に刀を打ち込んだ。 

 そこで、瑠衣の動きが止まった。

 

 打ち込んだ刃が、頚の半ばで止まってしまったのだ。

 硬い。しかし、それだけが理由ではない。

 それをまさしく直に感じて、鬼が嗤った。

 

「おお? 弱い、なあ。力があ~……ゲエッ」

 

 蹴りで押し込み、頚を刎ねた。

 しかしそれによって、一手、いや二手、余分な行動が増えた。

 その遅れが、致命的になった。

 後ろ髪、いや後頭部を、別の鬼に掴まれた。

 

「ああっ……!」

 

 コロが瑠衣の腕から逃れて、鬼の腕を切り付けた。

 髪の数本を失いながら、瑠衣が前によろめいて逃れる。

 だがその時には、瑠衣とコロは手遅れの位置にいた。

 四方八方に、しかも多重に鬼がいて、抜け出す隙間が見出せなかった。

 

「終わりです」

 

 鳴女が、今一度琵琶を弾こうと腕を上げた。

 しかし、強く弾かれたはずのその音色は、瑠衣の耳には届かなかった。

 代わりに聞こえたのは、別の音だった。

 

 ()()()

 

 それは四方を囲む壁の1つから起こったもので、鬼達が何事だとそちらを見上げた。

 濛々(もうもう)と立ち昇る黒と灰色の煙を突き破って、何かが飛び出して来た。

 彼女の手には火のついた筒状の道具――――発破が握られていて、次の瞬間、それを鬼の集団の四隅に投げ込んだ。

 

「は?」

 

 と声を上げて、鬼達はそれを掴んだ。

 手の中で火花を上げるそれを、彼らが覗き込んだ次の瞬間、その頭が吹き飛んだ。

 無論、発破で鬼は死なない。

 しかし感情はある。突然の爆発に、鬼達に動揺が走った。

 動揺したその頚に、今度は明確な死が打ち込まれる。

 

 ――――欺の呼吸・真壱ノ型『器械人形』。

 分割され、鋼糸で操られた短槍が、鬼達の頚を撃ち抜いていった。

 日輪刀による攻撃。動揺がさらに広がった。

 とはいえ当然、鳴女はその程度のことで動揺はしなかった。

 

(2人目。しかし結果は同じ……)

 

 ――――血鬼術『惑血・視覚夢幻の香』。

 だが、次の手には動揺を隠せなかった。

 どこかから強い匂いがしたかと思えば、鳴女の視界を不可思議な花々が覆ったからだ。

 血鬼術。すぐにわかった。だが、()()()()()()

 こんな血鬼術を、鳴女は知らなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そして、瑠衣は消えた。

 鳴女の「目」をもってしても、そうとしか判断が出来なかった。

 今の今まで目前にいたはずの人間が、影も形も存在しなかった。

 気配さえも、感じることが出来ない。

 

(そんな馬鹿な)

 

 この空間において、鳴女の知覚から逃れることは出来ない。

 あり得ない。

 しかし、そのあり得ないことが起こっていた。

 

 いや、あり得ないことは最初からだった。

 そもそも何故、瑠衣がここにいたのか。

 あの乱入者もだ。どこから来た。

 そして、2人揃って――犬も含めて――どうやって、消えた。

 

(この空間で、私の意図しない移動が行われたとしか)

 

 あり得ない。あり得ない。そして、あり得ない。

 表の表情は動いていないが、鳴女の内心は千々に乱れていた。

 だから、彼女は気付くことが出来なかった。

 

 まず、配下の鬼が襖や障子の奥に怯えた顔で引っ込んでいたこと。

 もっとも、そちらは大して重要ではない。

 問題なのは、もう1つの方だ。

 そして、()()は口を開いた。

 

「鳴女」

 

 名前を、呼ばれただけだ。

 しかし、たったそれだけのことで、鳴女は背筋を伸ばした。

 そのまま、硬直したかのように動かなくなってしまう。

 氷のように固まっていた表情。今は、怯えの色が浮かび上がっていた。

 

「最近、私は良く考えるんだ」

 

 返事は出来なかった。

 求められていないとわかっていたし、求められても即答は難しかっただろう。

 ただ、全神経が背中に集まっている。

 

「この先、お前達(上弦)が私の役に立つ時があるのだろうか、と」

 

 頭の後ろに、掌が当てられている。

 それだけのことだ。それだけのことで、鳴女は何も出来ない。

 気が付けば、琵琶を抱き締めていた。

 

 琵琶。思えば、これが自分のすべてだった。

 鬼として生まれ変わった時、すでに自分の手にあった。

 人間だった頃の記憶は、ほとんど朧気(おぼろげ)だ。

 だけれども、きっと、人間だった自分も、琵琶がすべてだった。

 

「怯えるな、鳴女。何も怯えるようなことはない。そうだろう」

 

 どうして今、そんなことを考えたのだろう。

 今は、どう考えても、琵琶に思いを馳せる時ではない。

 まして人間だった自分のことなど、今までほとんど気にしたことさえ無かったのに。

 

(……ああ、そうか)

 

 不意に、得心した。

 自分は琵琶のことを考えたかったわけでも、人間だった頃の自分を思い出したかったわけでも無い。

 恐怖の下、自然と浮かんでしまう考え。過去の情景。

 人はそれを、走馬灯というのだ――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何故ここに、という言葉を発するよりも先に、衝撃が来た。

 たたらを踏み、尻餅をついた。

 打たれた顔を押さえて見上げると、禊は言った。

 

「――――死ねッ!!」

「ええ……」

 

 あんまりであった。

 

「な、何もグーで来なくても良いじゃないですか……」

「うっさい黙れ死ね」

「いや、死ねは酷いっていうか」

「へええ~? じゃあ何であんな「わたし、今から死にまーす」みたいな場所に1人で来てるわけえ? チョーウケる」

「こ、コロさん」

「はあ~あ? 犬畜生は1人じゃなくて1匹って数えるんだけど知ってた? アハッ、チョー笑える」

「せ、せめて笑ってから言ってほしいかな、なんて」

 

 助けを求めるようにコロを見たが、何故か二畳ほど離れた場所で丸くなっていた。

 尻尾まで丸めての完全防備である。

 普段はどれほど邪険にされても禊にじゃれに行くというのに、今に限って「あ、ぼく関係ないんで」という態度であった。

 裏切者、と心の中で罵ったが、何の意味も無かった。

 

「そ、そうだ。あの、さっきの奇妙な血鬼術は誰が」

「それは私です」

 

 突然、珠世が現れた。

 手には愈史郎の札を持っていて、姿を消していたことがわかる。

 禊が瑠衣を鬼の群れから連れ出す際にも使っていたので、本当に便利だった。

 

 そして珠世の説明によると、瑠衣と別れた直後に禊がやって来たのだという。

 どうやら、瑠衣の後をついて来ていたらしい。

 禊が後を追って来たことで、珠世も瑠衣が心配になった。

 そして瑠衣と同じように、あの血染めの鏡を通ってここに来たのだという。

 

「そうだったんですね……禊さん。私のことを心配しいだだだだ」

 

 両頬を指で挟まれて、瑠衣は強制的に黙らされた。

 なお「痛い痛い」と訴える瑠衣を見て、禊はとても良い笑顔を浮かべていた。

 これも1つの絆の形なのだろうと、珠世は淑やかに視線を逸らしながらそう思った。

 

「珠世様……!」

 

 その時、愈史郎が珠世の腕を掴んだ。

 愈史郎の表情には、僅かの余裕も残されていなかった。

 

「珠世様、この場所は不味い。本当に不味い……!」

 

 わかっている。わかっていた。

 それでも、瑠衣を見殺しには出来なかった。

 珠世にとっての、()()()()()

 

「……うん? 何の音……」

 

 さらに数瞬の後、変化が起こった。

 ずん、と、足元が――いや、すべてが揺れたのだ。 

 そしてその揺れは、どんどん激しさを増していった。

 最後には立っていられなくなり、瑠衣はその場に倒れてしまった。

 

「ちょっと、何よこれ!」

「これは……術が解けかけている? いや」

「わかりやすく言いなさいよ!」

()()()()()()()()()()()()()!」

 

 全員掴まれ、と愈史郎が言った。

 ちなみに珠世は抱き締めている。瑠衣や禊は勝手に掴めという対応だ。

 コロは、さらに瑠衣が掴む形だ。

 

「崩壊って何。外に出るわけ!?」

「わかるわけないだろう、そんなこと! 何でかはわからないが、この空間自体が自壊しようとしているんだ。外に放り出されるか、あるいは異空間に迷い込むことになるか……」

「どっちも困りますね……!」

 

 と言って、崩壊する血鬼術の中で出来ることはなかった。

 珠世や愈史郎の術は、こういう状況に対応できるものではない。

 そう思って、顔を上げた時だ。

 瑠衣は、()()に気付いた。

 

「……ねえ、禊さん」

「は? 何よ」

()()、やっぱり罠だと思いますか?」

「…………さあね。でも、上等じゃないの」

 

 ()()()()()

 まるで瑠衣達の苦境を見透かしたかのように、あるいは嘲笑うかのように。

 深紅の鏡面が、こちらを見ていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「――――台無しだわ」

 

 鏡に飛び込んで、最初に見たのは――――金髪の幼女の顔だった。

 両頬に手をついて、どこか不貞腐(ふてくさ)れた顔でこちらを見つめていた。

 ()()()()()()

 鏡の世界では、上下左右という言葉に意味は無かった。

 

(亜理栖……!)

 

 少女らしい大きな瞳に刻まれた「上弦」「陸」の数字。

 まるで血の中に飛び込んだかのような()()()の中、瑠衣は刀を探った。

 禊や、他の者達の気配は無い。姿も、見当たらない。

 

「台無しだわ。台無しだわ。台無しだわ」

 

 亜理栖は、ただただ「台無しだ」と呟いていた。

 相変わらず、話が見えない。

 

「あなたのせいで台無しだわ。もうちょっとだったのに」

「……何の話?」

「どうしてくれるの。お兄ちゃんに叱られちゃうわ」

「お兄ちゃん……? 犬井さんのこと? 生きているの!?」

 

 その時、足が()()()()に沈んだ。

 一気に膝まで沈んだかと思えば、底なし沼の如く、少しずつ沈んでいく。

 藻掻(もが)くが、あまり意味は無かった。

 

「もう、余計なことをしないで」

「だから何の話!? 犬井さんをどうした、答えろ!」

「うちのお兄ちゃんや!! お前のじゃない!!!!」

 

 激昂も、突然だった。

 飛び掛かり、顔を掴まれ、そして押し込まれた。

 ごぽっ、と、空気が抜ける音がした。

 

 ()()()()()()()()()

 頭の上から、もう一度、同じ言葉が落ちて来た。

 ()()()()の中、堪え切れずに目を閉じた。

 身体が落ちていく。その感覚は、しかし突然に終わった。

 

「瑠衣さん、良かった。出て来てくれて……!」

 

 噴水の水の中――文字通り、()()()――から、瑠衣は噴水の縁を掴んだ。

 当然、全身が濡れネズミだ。

 あたりは静かで、暗かった。真夜中だ。

 

「……ああっ、もう! チョー最悪!」

 

 げほげほと咳き込んでいると、禊の不機嫌な声が聞こえた。

 両手をヒラヒラさせて水滴を飛ばしている。濡れて機嫌を損ねたらしい。

 珠世は背中をさすってくれていて、愈史郎は殺しかねない勢いで瑠衣を見ている。

 こちらはおそらく、瑠衣が珠世に優しくされていることが気に入らないのだろう。

 コロも、少し離れた場所で胴震いしていた。

 

「いつまでも出て来ないから、心配していたのですよ」

「どれくらい遅かったんですか?」

「5分ほどです」

 

 他の面々は、亜理栖に遭遇しなかったのか。

 禊達の様子を見て、瑠衣はそう思った。

 5分の差異は、そうとしか思えなかった。

 

「おい、いつまでもここにいるわけにはいかないぞ」

 

 苛々とした口調で、愈史郎がそう言った。

 現在地が良くわからなかったが、東京のどこかには違いないようだ。

 

「それで、どうすんの?」

「たぶん、もう夜明けまでそんなに時間もないと思います。集合場所へ」

 

 とにかく、一度拠点に戻るべきだと思った。

 見るべきものは見たという気持ちだったし、一刻も早く村田達と情報を共有する必要があった。

 その上で、次の手を考えよう。

 そう思って、瑠衣は日中は身を隠すという珠世達と別れて、集合場所へ向かった。

 

 あの、抜け道の先の小屋だ。

 尾行は、特に警戒した。

 もっとも鳴女や亜理栖の異能を思えば、警戒する意味はあまり無かったかもしれない。

 ただ、誰にも尾けられずに戻ることが出来たようだった。

 

「何よ、まだ誰もいないじゃない」

「少し早かったのかもしれませんね。先に食事の準備をしながら待ちましょう」

「わたしはやらない」

「あ、はい」

 

 しばらく、2人で待った。

 夜が更け、朝日が昇り、やがて日が高くなるまで。

 瑠衣と禊と、コロは待ち続けた。

 そして。

 

 

 ――――誰も、戻っては来なかった。




最後までお読みいただき有難うございます。

主人公の衣を一枚ずつ剥いでいくように追い詰めていく(え)

その工程に、私はこれ以上ない喜びを感じるのです(え)

それでは、また次回。


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第54話:「裏切り」

 剣戟の音が響く。

 東京の夜、静寂の中に鋭い音が幾度も重なる。

 それは断続的に続き、やがて止まった。

 

 音もなく地面に着地したのは、鱗滝だった。

 強い衝撃を受けたのだろうか。

 天狗の面の一部が欠けていて、隙間から素顔が覗いていた。

 年相応の皺を刻んだ目元を動かして、鱗滝は()を睨んだ。

 

「おい」

「ああ……」

 

 隣に降り立った桑島が促すと、鱗滝は「わかっている」と言いたげに頷いて見せた。

 そして、続けてこう言った。

 

「勝てんな、これは」

「ふん」

 

 鱗滝の言葉に不満そうに鼻を鳴らしながらも、しかし桑島も否定しなかった。

 老いても、義足でも、2人の動きはなお鋭く、むしろ無駄の無さは現役時代よりもさらに洗練されているとさえ言えた。

 その実力は、未だ柱に届くものだ。

 

 しかしその2人が2人とも、明確に「勝てない」と考えている。

 それ程までに、目の前の敵は強大だった。

 黒い、鬼。

 どこか人間の侍のような風貌を残した、甲殻類の如き異形の鬼。

 上弦の壱――――黒死牟。

 

「まったく、よりにもよって上弦の壱と遭遇するとはな。ツいておらんわい。あ、いや。逆にツいておるのか?」

「どうだろうな」

 

 正直なところ、参ったな、というのが本音だった。

 もちろん、鬼との遭遇を想定しなかったわけではない。

 だが、流石に最強の鬼と遭遇するとは思っていなかった。

 

 当ての少ない調査に出て、上弦の壱に出くわす確率など高いものではない。

 その僅かな確率を引き当てたという意味では、確かに「ツいている」。

 現役の時は己を助けてくれた引きの強さが、今は自分達を追い詰めている。

 何とも、皮肉なものだった。

 

「ふむ」

 

 改めて、目の前の黒死牟を見た。

 異形。しかし、立ち居振る舞いは見事なものだった。

 ()()だが、体の各所から伸びた刀が放つ不可視の刃は強すぎる脅威だった。

 防御も回避も極めて困難。しかも、黒死牟はまだ全く本気ではない。

 

(死ぬな、これは)

 

 鱗滝の脳裏には、細切れに寸断されて絶命する自分の姿がはっきりと見えていた。

 桑島だけでも逃がせればと思ったが、それも無理だろうと思った。

 そもそも、桑島が自分だけ逃げることを是とするとは思えない。

 長い付き合いだ。それくらいはわかる。

 なので、2人揃って死ぬしかない。

 

(あの若者達には、申し訳ないことをしたな)

 

 無惨暗殺を焚き付けておいて、あっさりと退場する。

 そんな自分が、何とも情けない。

 ――――()()()()も、きっとそう思うだろう。

 黒死牟が手を動かすのを見つめながら、そんなことを思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 いよいよ、追い詰められてきた。

 これまでも何度も考えて来たことだが、今度ばかりは進退が(きわ)まって来た。

 逃げ出す手段が全くないわけではないが、逃げたところで展望など何も無かった。

 だから、やはり進退窮まっていた。

 

「せめて、無惨の居場所さえわかれば……。いえ、わかっても近付けないと意味がない、か」

 

 適当な民家の屋根から、瑠衣は通りを見下ろしていた。

 多くの人々が思い思いに歩いているが、その表情は暗くない。

 誰もが忙しないが、それは忙しさから来るもので、恐怖からでないことは見ていればわかった。

 鬼に支配されているとは思えない。思わせてくれない。

 

 ひどく、複雑だった。

 無惨を除くべきだと考えているのが、自分達だけなのではないか。

 実は自分達が間違っていて、多くの人々は現状で幸福なのだろうか。

 ふと、そんなことを思ってしまう程だ。

 

「……………………ねえ」

「はい」

 

 そんな瑠衣に、すぐ隣から声をかけてくる少女がいた。

 もちろん、禊である。

 彼女は瑠衣の横に同じように座っていたのだが、酷く嫌そうな表情を浮かべていた。

 

「………………放してくれない?」

「いえ、それはちょっと」

 

 瑠衣の手は、禊の隊服の裾を指先で掴んでいた。

 それは一見ささやかなものだったが、その実、万力の如き力で禊を引き留めていた。

 

「放しなさいよ……!」

「いやあ……いやあ、それはちょっと」

「何でよ! 放しなさいよ……いや本当に放しなさいって、伸びちゃうでしょうが!」

「いやあ~、いやああ~それはちょっと!」

 

 禊が反対側から引っ張っても、びくともしなかった。

 実に完璧な呼吸制御である。

 

「ええい、放せ! 気持ち悪いのよ!」

「痛い!」

 

 最終的に蹴られた。

 しかも割と本気で蹴られた。

 むしろ離れた後も踏みつけられた。

 

「何のつもり?」

「いや、だって捕まえておかないと禊さんどこかに行っちゃうじゃないですか」

「アンタわたしを何だと思ってるわけ? 子供じゃないっての」

「え、じゃあどこにも行きません?」

「…………ちっ」

 

 露骨な舌打ちだった。

 

「ほら、ほらあ! 絶対どこか行っちゃうつもりだったじゃないですか!」

「はああ~? 言いがかりはやめてくださーい」

「あれだけ舌打ちしておいてそれは通らなくないです……!?」

 

 この状況で、禊だけでも残っていてくれていることは、瑠衣にとっては救いだった。

 1人よりも2人とは良く言ったもので、そして実際、それは人数以上の意味を持っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「一番偉いやつ」

 

 え、と瑠衣は顔を向けた。

 禊は道行く人々を見つめていたが、その横顔からは、市井の人々にさして関心があるようにも見えなかった。

 むしろ、何の興味も抱いていない様子だった。

 

「ここで一番偉いやつって、どこにいるかわかる?」

「え……」

 

 この東京で、最も偉い人物。

 少し考えた後、瑠衣は言った。

 

「……て、天皇へ「違うわ」」

 

 その場に立ち上がって、禊はある方向を指差した。

 指の先には、小綺麗な街並みが広がっている。

 

「首相ってやつがいるんでしょ」

「まあ、確かにいますけど。そして確かに政治の代表という意味では幕府というか将軍様みたいな存在ではあるので一番偉いという言葉には該当するのかもしれませんけれども。でもじゃあこの国で一番偉い人が首相かって言われると俄かには首肯し難い部分があるというか痛いです」

「アンタってたまに面倒くさいわよね」

 

 禊の言いたいことは、要するに「鬼舞辻無惨は自分以上の存在はいない」と思っている、ということだった。

 例え人間の世の慣習であれ、いや人と鬼が()()する今の世だからこそ、頂点に位置したがる。

 頂点は、常にひとりだからだ。

 

 そしてそんな無惨が、()()()()を許すだろうか。

 人の頂点でさえ、自分の支配下に置きたがるとは考えられないだろうか。

 もしもそうだとすれば、無惨は()()にいるのではないだろうか。

 

「……首相官邸」

 

 言われてみれば、その通りかもしれない。

 そうなのだ。無惨はすでに勝利者となっている。身を隠す必要がない。

 鬼殺隊の刃が自分に届くことはあり得ないと、そう思ってる。

 思い込んでいる、はずだ。

 

「行ってみましょう」

 

 幸い、愈史郎からは予備の札を何枚か貰っている。

 これを使えば、警備を擦り抜けて官邸に入り込むことは可能だ。

 難点があるとすれば、血鬼術ということか。

 鬼の警戒網に対しては、どれだけ有効かはわからない。

 まして上弦が出てくれば、期待薄だろう。

 

(本当に面倒くさいわねこいつ)

 

 嘆息しつつ、禊はそう思った。

 先程まで落ち込んでいた瑠衣が、今や率先して動こうとしている。

 目標があると元気になる人間がたまにいるが、瑠衣はそういうタイプだった。

 

「あ、コロさんも起きましたか」

 

 瑠衣の足元で日向ぼっこしていたらしいコロが、尻尾を振った。

 よいしょ、とコロを抱っこした、その時だった。

 俄かに、地上が騒がしくなっていた。

 

「……? 何でしょう」

 

 気になって、眼下を覗き込んだ。

 すると、自分達の足元に、いつの間にか人だかりが出来ていたことに気付く。

 ただ、そこにいるのは野次馬でも何でもなく、同じ制服を着込んだ人間達だった。

 彼らは瑠衣の顔を認めると、警笛を鳴らし、警棒を振った。

 

「見つけたぞ! 通報の通りだ! 捕縛しろ!」

 

 ――――それは、警官隊だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 意外ではあったが、驚きはしなかった。

 何しろ瑠衣達の顔はすでに鬼側に知られているわけで、こういった事態は十分に予想できたことだった。

 だからこういう場合、さっさと逃げ出すことに決めていた。

 こういう状況にあっても、やはり人間を傷つけるのは望ましくないと考えてのことだ。

 

 もしも予測を裏切られることがあったとしたら、警官隊が一隊で済まなかったことだ。

 逃げる内に周辺の警官隊が集まってきて、撒くのに手間取ってしまった。

 もちろん、身体能力では常人が呼吸使いに敵うはずもない。

 

「はあ、はあ……。禊さんとは、はぐれてしまいましたね……」

 

 とはいえ、数の暴力というのはやはり厄介だった。

 追手を撒くために、一時的に禊やコロとも離れてしまった。

 

「首相官邸に、直接向かった方が良いでしょうね」

 

 おそらく、その方が禊やコロと合流しやすいだろう。

 コロは自分の匂いを追ってくるだろうし、禊はいちいち瑠衣を探したりはしないだろう。

 だったら、このまま目的地に向かってしまった方が良い。

 

「それにしても、慣れませんね。やっぱり……」

 

 繰り返しになるが、複雑な気分だった。

 人間に追われる身になるとは、数年前には思いもしていなかった。

 しかもやっていることが、町への潜入に暗殺である。もはや剣士を名乗るのも憚られる。

 ご先祖様にも、顔向け出来ない、かもしれない。

 

(それでも、無惨さえ討てれば)

 

 何もかもが好転する――――とは、流石に思っていない。

 おそらく、自分の人生はもう、好転しようが無い。それくらいはわかる。

 ただ、鬼さえ消えれば。そうすれば、この先に生まれる何百何千という命は救われる。

 自分が、鬼狩りが存在した意義も、あろうというものだった。

 

「この路地を抜けて、通りに出れば」

 

 ――――その時、水音を聞いた。気がした。

 晴れ。雨はない。水場も、ない。しかし、確かに聞いた。

 そしてその音は、常人であれば聞こえるはずのない音だった。

 また()()()が下手であれば、やはり聞こえるはずが無かった。

 それが聞こえるというだけで、瑠衣と相手の実力の高さが伺えるのだった。

 

(――――()()()!)

 

 瑠衣の身体は、反射的に後ろに大きく後退していた。

 その眼前を、日輪刀の刃が通り過ぎて行った。

 

()()()()……!)

 

 流麗。鮮やかな剣筋。打ち寄せる波のような、連撃。

 何度も後退を繰り返して、瑠衣はその斬撃を何とか回避した。

 しかし(かわ)し切れなかったのか、髪の毛が数本、散り落ちた。

 思い出したかのように、斬れた。凄腕だ。だが、()()()()()

 

「……どういう、おつもりでしょうか」

 

 ()()()()()()()()()()

 

「鱗滝、殿……!」

 

 天狗の面。

 天狗の面を被った、老齢の剣士が、瑠衣の目の前に立っていた。

 一部が欠けた面の向こう側に、水面のような静かな瞳があった。

 その瞳が、じっと瑠衣を見つめていたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その頃、禊も瑠衣と同じ状況に陥っていた。

 ただし彼女の場合、何というべきか、より()()()だった。

 

「な、何をしとるんじゃあ、貴様ァッ!」

 

 桑島がその場にやって来た時、禊は警官の男を踏みつけにしていた。

 比喩ではなく、文字通り、足で警官の後頭部を踏んでいた。

 土下座の姿勢で地面に額を擦り付けた男の後頭部に、小さな少女の足が乗っている。

 腰に手を当てて、角度も完璧。美しくさえある光景だ。

 

「何って……ナニに決まっているじゃない。ねえ?」

「お、お前っ。ちょ……むうううっ!?」

 

 だが、桑島の常識とは少しばかりズレていたようだ。

 そんな桑島を尻目に、禊はクスクスと妖艶に笑いながら、爪先を警官の後頭部にねじ込んでいった。

 すると「あっ、あっ」というくぐもった声が男の口から漏れて、それを聞いた禊の笑みはより深いものになった。

 

(わ、儂はいったい何を見せられておるんじゃ……!?)

 

 いかなる強力な鬼を前にしても動じたことはない。

 その桑島が冷や汗を掻いて動揺している。

 そういう意味では、これは相当な出来事ではあった。

 

「それで、アンタこそこんなところで何をしてるわけ?」

 

 集合場所にも戻らず。

 こんなところで()()()()()

 お前はいったい何をしに来たのか、と、禊は問うた。

 

 問いかけはしたものの、しかし禊に桑島の話を一切聞く気がない、ということは目を見ればわかった。

 今までの桑島が出会って来た女子とは、異次元の存在だった。

 これ程までに()の強い女子を、桑島は見たことがない。

 

(ええい。恨むぞ、鱗滝……!)

 

 瑠衣の方に行っているだろう同僚に、胸中で毒吐いた。

 不意に、禊が何かを振り被る動作をした。

 それは分割された日輪刀の槍であり、禊は迷うことなく、それを桑島の眉間目掛けて投擲した。

 軸足で踏まれた男が、蛙のような鳴き声を上げていた。

 

「ぬおっ!?」

 

 驚きはしたが、弾き飛ばした。

 この程度の不意討ちくらいを捌くのは、さほど難しいことでは無い。

 無いのだが、しかし、それにしても。

 

「少しは躊躇せんか、貴様……!」

「躊躇? ごめんなさいね。わたし、そういうのしたことないの」

 

 宙を舞った刀を掴み、禊が疾駆する。

 その目はまさに、躊躇することなく桑島の頚を狙っていた。

 自らも刀を構えながら、桑島は思った。

 ――――何か、立場が逆な気がする。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣は、禊ほど躊躇しないわけにはいかなかった。

 何故ならば、相手は元柱である。大先輩だ。

 そんな人物に対して刀を向けるというのは、鬼殺隊士としてあるまじきことだ。

 

「何故ですか、鱗滝殿!」

 

 呼びかけに、応じる声は無かった。

 ただ張り詰めた空気の中、向かい合う時間が続いた。

 鱗滝の意図を測りかねて、瑠衣は動けずにいた。

 

 ちゃき、と、刀の音が嫌に耳に響いた。

 先手を打って踏み込む。ということは、やらなかった。

 そこまで甘い相手ではないし、やはり躊躇もあったからだ。

 しかしそんな瑠衣をどう思ったのか、鱗滝は溜息を吐いた。

 

「――――()()()()()

 

 腹の底から響く、そんな声音だった。

 思わず、居住まいを正してしまうような。

 

「この状況で。己に刃を向けて来た()を前にして、何を躊躇っている」

「……!」

「たとえ、どれほどの旧知の相手だったとしても。裏切った相手を前にして、なぜ躊躇する」

 

 それは。

 

「お前に覚悟が足りていないからだ」

 

 成し遂げる、という覚悟。

 どんな障害を排除してでも、目的を果たすという覚悟。

 断固たる、覚悟。それが瑠衣には足りないのだと、鱗滝は言った。

 

「お前はいったい、ここに何をしに来たんだ」

 

 言われるまでもない。無惨を討ちに来た。

 ならば躊躇するなと、鱗滝は言う。

 たとえ相手が誰であろうと、立ち塞がるなら排除しろ、と。

 何故などと、考える暇さえ必要ないのだ、と。

 裏切者に諭される。何という皮肉な状況だろうか。

 

(とはいえ……)

 

 とは言え、だ。

 鱗滝の強さは、こうして立ち合っているだけでも十分に伝わって来る。

 引退して長いとは言え、技の冴えは現役の柱と比べても遜色ない。

 簡単に、突破できる相手では無かった。

 

(まあ、禊さんなら迷わずに斬りかかるんだろうけど)

 

 自分は、そこまで大胆にはなれない。

 さて、どうしたものか。

 そう考えていると、鼻先に、奇妙な匂いを感じた。

 その匂いには覚えがあって、瑠衣は、はっと顔を上げた。

 

「む……」

 

 ――――血鬼術『惑血・視覚夢幻の香』。

 視界を、幾何学模様の紋様が覆い尽くした。

 流石に鱗滝はそれを血鬼術の幻術だと見破り、咄嗟に掌を深く自傷した。

 その痛みで、幻術から脱した。

 

「……逃げられたか」

 

 目の前から、瑠衣が消えていた。

 逃げられた。

 しかし、問題は無かった。

 何故ならば、鱗滝達の()()は――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 日の届かない路地であったことが、幸いした。

 これが日中の通りであれば、瑠衣が逃れることは難しかっただろう。

 もっとも大通りには警官隊がいるから、どのみち路地に入らざるを得なかっただろう。

 

「珠世様、危険です……!」

「わかっています。愈史郎」

 

 路地の傍の民家に、珠世と愈史郎は潜んでいた。

 知己の残した地図を頼りに地下を通ったり、愈史郎の札で入り込んだり。

 そうやって苦労して瑠衣を追って、珠世は彼女を救ったのである。

 血鬼術を使うという、大きな危険を犯してまで。

 

「珠世様、いい加減にしてください……!」

 

 自然、愈史郎の口調も――実に不本意ながら――厳しいものにならざるを得ない。

 何故ならば、東京の町(ここ)は無惨のお膝元なのだ。

 そんな場所で血鬼術を何度も使えば、無惨に気付かれないわけがないのだ。

 

 愈史郎の血鬼術は、存在を隠すわけではない。あくまで誤魔化しに過ぎない。

 存在を認識されてしまえば、隠すことが出来ないのだ。

 そうなれば、直接の戦闘能力に欠ける愈史郎では珠世を守り切れない。

 それがわかっているからこその、厳しさだった。

 

「ごめんなさい、愈史郎。でも」

「でも、じゃありません! 僕はただ貴女を……ッ!」

 

 ()()()と、した。

 全身の肌という肌が、何かを感じ取っている。

 何かが、周囲に張り巡らせた結界に触れている。

 

(誰だ)

 

 瑠衣ではない。というか、人間ではない。

 愈史郎達は2階建ての建物の2階にいるのだが、念のために張っていた1階の結界が()()()()

 無造作に、何の警戒も無く札を剥がされた、そんな印象だ。

 それでいて、愈史郎の結界に弾かれない。

 好奇心が旺盛。そして、()()

 

(しまった。まだ陽が……!)

 

 窓から外に逃げようにも、タイミング悪く路地に陽が差し込んでいた。

 夕方が近い。陽が傾いたらしかった。

 視線を下げると、珠世がまだ息を荒げている。血鬼術の消耗から立ち直っていない。

 

(くそ……!)

 

 珠世を掻き抱いて、階段に通じる扉を睨んだ。

 当然、そこにも結界の札が貼られているが、それも無造作に剥がされた。

 愈史郎以外の鬼が剥がせば灼けるはずだが、そうならなかった。

 つまり、相手は愈史郎より――――強い。それも、遥かに。つまり。

 

「……おーい。おいおいおいおい。誰かが言い争ってると思って、これは仲裁しなきゃと思ってやって来てみれば」

 

 音を立てて、しかしゆっくりと、扉が開いた。

 そこから、剽軽(ひょうきん)でさえある動きで顔を出して来たのは。

 

「喧嘩は良くないぜ、仲良くしなきゃ――――そうだろう?」

 

 虹色の瞳の、鬼だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 童磨は、上弦で最も記憶力の良い鬼だ。

 物覚えが良いというよりは、目にした物を画像として()()出来るのだ。

 いわゆる、完全記憶能力。

 もっとも、これは彼が人間だった頃から持っている技能(スキル)なのだが。

 

「う――――ん?」

 

 童磨は顎に手を当てて、珠世をじっと見つめていた。

 もちろん、彼が()()()の珠世を見間違えるはずが無い。

 鬼は姿が変わらないからだ。文字通り不変だ。

 擬態の血鬼術でも持っていない限り、鬼は鬼に対して姿を偽ることは出来ない。

 例外は、それこそ鬼舞辻無惨くらいのものだろう。

 

「とりあえず、初めましてで良いのかな? 俺は童磨。上弦の……って、わあ。消えたねえ!」

 

 童磨は、いっそ気さくとさえ言える程の笑顔で挨拶した。

 それに対する返答は、完全なる拒絶だった。

 愈史郎は姿隠しの血鬼術を発動。自分と珠世を童磨の視界から消した。

 

「姿隠しの血鬼術か。珍しいね。幻術かな? 姿だけじゃなくて、匂いや気配も消せるんだ。凄いねえ」

 

 褒める。褒める。

 褒めながら彼が懐から取り出したのは、黄金の扇だった。

 金地に蓮が描かれた逸品で、見ただけで特別なものだということがわかる。

 そして、童磨はそれを、無造作に一振りした。

 

 ――――血鬼術『凍て(ぐもり)』。

 瞬間だった。空気が、急速に冷え込んだ。

 余りにも急に気温が下がったために、窓ガラスが甲高い音を立てた。

 そして冷えた空気は、キラキラと輝きながら室内に充満した。

 

「ぐあっ」

 

 まさしく、ガラスが割れるような音が響いた。

 姿を現した愈史郎はその場に膝をついたが、その顔は()()()()()()()()

 室内に充満した冷気――いや、凍気によって、服から露出した肌の表面が凍りつつあった。

 皮膚に広がる白斑、一部には水疱。

 医学の知識を持つ愈史郎は、己の状態を瞬時に理解した。

 

(凍傷! しかも深い……! 何をされた!? やつは扇子を振っただけだぞ!)

 

 血鬼術。だが物を凍らせるというのは、口で言うほど簡単なことではない。

 それを、無造作に。しかも広範囲。かつ強力。

 あからさまに過ぎて、逆に正体が読めない。

 そこまで考えたところで、愈史郎はハッとした。

 

「珠世様!」

 

 珠世が、床に倒れ込んでいた。

 腕から肩にかけて、身体の半身が白く()()()いた。

 矛盾する表現だが、事実その通りなのだった。

 

「やあ、きみを庇ったんだね。痛かっただろうに。我が子を守ろうとする親心ってところかな? 参ったな、俺はそういうのに弱いんだ」

 

 愈史郎は、童磨の言葉など聞いていなかった。

 珠世が傷つき、倒れている。しかも自分を庇ってだ。

 許せない。

 何より誰より、()()()()()()()()()()()()()()

 

「貴様、生きて帰れると思うなよ……!」

「わあ、待って待って。俺は荒事は苦手なんだよ。だから……」

 

 ――――血鬼術『蔓蓮華(つるれんげ)』。

 氷の蓮の花が、咲いた。

 そして花の根元から無数の氷の蔓が伸び、愈史郎目掛けて殺到した。

 その内の一本の動きにすら、愈史郎はついて行けなかった。

 

「くそ……っ!」

 

 出来ることは、珠世に覆い被さることだけだった。

 それですらも、どれ程の意味があるのか疑問だった。

 

「氷漬けにしちゃえば、鬼でも意味ないよね……って、うん?」

 

 その時だった。

 不意に何かに気付いた童磨が、反対側――まだ陽射しの気配が残っているので、お互いに近付けない――へと視線を向けた。

 そこに、影が差した。それから、振動も。

 誰かが、ここへ飛び込んで来ようとしている。童磨はそれを瞬時に理解した。理解したが。

 

「過激だなあ」

 

 感想は、実に淡泊だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 冬にはまだ早いというのに、路地が異常な寒さに見舞われるのを見て、瑠衣は血鬼術を知覚した。

 相手に隠す気が無かったのか、あるいは瑠衣の感覚の鋭さか。

 血鬼術の気配が最も()()場所に対して、瑠衣は突撃を敢行した。

 もちろん、今回は一切の躊躇なしである。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 窓を、ガラスごと――さらにその向こう側を覆いつつあった氷の壁ごと、砕き散らせた。

 室内に充満していた雪と氷の結晶を、暴風が吹き散らせた。

 この点は、現実の事象を引き起こす風の呼吸ならでは利点だった。

 

「……ッ。珠世さん! 愈史郎さん!」

「気をつけろ! 冷気を操る血鬼術を使う! 異常に強力な術だ!」

 

 冷気。なるほど、この気温変化と氷はそのためか。

 そして、異常な強さという意味もすぐにわかった。

 何故ならば、瑠衣の突入によって砕き開かれた穴が、即座に氷によって埋まってしまったからだ。

 

(陽光で溶けない? ……凍結は血鬼術そのものじゃなくて結果だからか)

 

 パキ、と、足元で氷の砕ける音がした。要するに足元が悪い。

 さらに、どう見ても広範囲に影響を及ぼす血鬼術だ。

 本来、こういう限定空間は瑠衣の本領を発揮(ホーム)できる場所(グラウンド)だ。

 だが、この相手に限っては違うと思った方が良さそうだ。

 

「愈史郎さん、できるだけ下がっていてください」

「…………すまん」

 

 正直なところを言えば、少しばかり驚いた。

 あの愈史郎が、まさか他人に対して礼を言うことがあるとは。

 それほどまでに、追い詰められていたということか。

 

(……そして)

 

 ()()()()()()()

 上弦の鬼。血を被ったような金髪に、虹色に輝く瞳。

 容姿からして独特だが、問題はそこではない。

 

 何も感じない。

 闘志だとか覇気だとか、あるいは殺意だとか、そういったものを何も感じない。

 圧倒的なはずの鬼気でさえ、どこか薄い。

 一見、無害そうに見える。だからこそ、逆に不気味だった。

 

「う――――ん」

 

 そしてその不気味な鬼、童磨は、顎に手を当てて瑠衣を見つめていた。

 扇を手の中で弄びながら、彼は言った。

 

「何でかなあ、直接話をするのは初めてのはずなのに。きみを見ていると」

 

 笑顔はそのままに目を細めて、小さく首を傾ける仕草をする。

 美しい。しかし、不気味さが損なわれることも無かった。

 

「他人のような気がしないぜ」

 

 言葉も態度も、軽薄そのもの。

 ――――だが、やはり不気味だった。




最後までお読みいただき有難うございます。

よし、また一歩、主人公を追い詰めたぞ…!(竜華零は 混乱 している!)
このまま衣を剥ぐように追い詰めていけば、やがて限界を迎えるだろう。
ふっふっふっふっ……。

……やっべ(え)

それでは、また次回。


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第55話:「最後の夜」

 ――――陽が落ちる。

 もう幾度この言葉を繰り返したかわからないが、今日も陽が落ちる。

 夜が来る。当然のように、夜はやって来る。

 

 しかしこの東京(まち)は、夜も眠らない。

 夜闇を拒絶するかのように、文明の光が煌々と街を照らすからだ。

 人々は夜の恐怖を忘れて、賑わいは朝まで途絶えることが無い。

 そう、人々はもはや、夜を恐れない。

 

「あっ、旦那! どうですか一杯!」

「おう。じゃあ寄って行くとするか」

 

 人が、鬼を店に誘う。

 無論のこと、鬼の客に()()()()()()()()()()

 しかし鬼を誘う彼に、悪意も躊躇もない。

 それはすでに、人々にとって当然の世界となっているからだ。

 

「今日は活きの良いのが入ったんですよ!」

「おお、そいつは楽しみだ」

 

 飽食の時代は、美食の時代の到来と同義だ。

 かつて人目を忍び、危険を犯しながら数少ない食糧に飛びついていた鬼。

 しかし今や彼らの()()()()は解決してしまった。

 ()()()()――――()()()()()

 人は、ついに自分達でさえ事業にしてしまった。

 

「うおっ、何だ……って犬か」

「今どき逆に珍しいな。野良犬なんて……うん? あの犬、何か咥えてなかったか?」

「え、何も見えませんでしたけどね。そんなことより旦那、ささ、店の中へ」

 

 そんな人と鬼の行きかう道を、一匹の犬が駆けて行った。

 年老いたドーベルマン。コロだ。

 道行く人々の足もを縫うようにして駆けていたコロは、不意に大きく曲がり、路地へと入って行った。

 

 路地は、思い出したかのような薄暗さに包まれていた。

 それでも、人工の照明が所々を照らしている。

 コロは幾度か立ち止まり、その度を鼻先をスンスンと鳴らした。

 そして進むべき道を決めると、また駆ける。これを何度も繰り返していた。

 

「――――バウッ」

 

 そして、不意に立ち止まり、そこからは動くことがなくなった。

 四肢を地面につけて、吠えた。

 喉を逸らして、高く、催促するかのように。

 コロは、吠えた。

 

「バウッ。…………バウッ」

 

 何度も。何度も吠えた。

 

「バウッ。バウバウッ。バウバウッ」

 

 何度も。

 

「バウッ。バウバウッ。バウバウッバウバウバウッ!」

 

 何度も……。

 

「バウッ。バウバウッ。バウバウッバウバウバウッ! バウッ! バーウッ! グルル、バウッ! バウバウバウバウッ、バウバウバウバウッ!」

 

 ……いや、ちょっと吠えすぎじゃない?

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()

 陽光山を登った時でさえ、ここまででは無かった。

 まるで肺の内側を、小さな針で突き刺されているかのような不快感。

 それ程までに、童磨の放つ冷気は強烈だった。

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』。

 天井を蹴り、童磨の頚を狙う。

 その突撃の速度たるや、瑠衣の姿がブレて見える程だった。

 しかしその突撃に対して、童磨は。

 

「わあ、速いねえ」

 

 などと言いつつ、手にした扇を盾として、日輪刀の切っ先を受け止めてしまった。

 表情は朗らかな笑顔のままで、しかしその腕力は凶悪だった。

 瑠衣が体重と跳躍力を乗せて放った突きを、片腕だけでビクともせずに受け止めてしまったのだから。

 

「……ッ!」

 

 拮抗――互角とはとても言えない()()――は、瑠衣の側から破った。

 軸線をズラして、刀と扇が擦れる嫌な音と共に小さく後退した。

 着地と同時に、降り積もった雪と氷の欠片を蹴散らせながら、再び突撃。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 炎の型を、風の呼吸で放つ。

 速度は先の一撃よりもさらに速く、瑠衣は瞬きの間に童磨の側面にいた。

 叩き付けるように、頚の後ろに2本の小太刀を撃ち込む。

 

鬼狩り(きみ)たちはいつもそうだねえ」

 

 見もせずに、腕だけ回して扇で受け止めて来た。

 今度は膠着させず、すぐに弾いて距離を取った。

 そうしなければ死んでいたと、2秒後に気付いた。

 次の一瞬、離れた瑠衣の眼前をもう1本の扇が擦過したからだ。

 物理的にも心理的にも、ヒヤリとした。

 

「いつも最後は頚を狙うんだから。まあ、他は斬られても死なないからね。俺達は」

 

 実際、その通りだった。

 どれだけ攻撃しようと、あるいはどれだけ牽制しようと、最後は頚を狙わざるを得ない。

 だから防ぐのは簡単だと、童磨は言う。

 上弦の再生速度であれば、頚以外の負傷はほとんど何もされていないに等しい。

 

(それにしても、()()ひとつしないなんて)

 

 鬼とて、痛覚がないわけではない。感情もある。

 腕でも足でも、斬り付けられれば怯む。硬直する。

 それが隙となり、頚へのとどめの一撃へと繋がるのだ。

 しかし、童磨にはそれすらない。

 

(まるで、何も感じていないみたい)

 

 吐く息が白い。また気温が下がったようだ。

 冷気で、肺が軋む。

 それに耐えながら、瑠衣は日輪刀を握り込み、大きく息を吸った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()

 その場で小さく跳ねる瑠衣を、童磨は興味深そうな顔をして見つめていた。

 ただその表情は、脅威を感じているというよりは、単に観察しているだけのようにも見えた。

 ()()()()()()()

 

(今、全力で行く……!)

 

 童磨が真剣に戦う気を起こす前に、決着をつける。

 勝機を見出せるとしたら、そこだった。

 次の瞬間、瑠衣の足元が爆ぜた。

 

 次に、天井が爆ぜる。

 さらに壁が、また床が、瑠衣に踏み抜かれた部分が砕ける。

 常人の目には、何かが部屋中を跳びはねているようにしか見えないだろう。

 しかし、童磨は違ったようだ。

 

「綺麗な足だねえ、ウサギみたいだ」

 

 金属音。

 通り過ぎ違い様の一撃を、童磨は事も無げに防いで見せた。

 瑠衣の動きを正確に追えていなければ、出来ない芸当だ。

 再び、四方が爆ぜ続ける状況に戻る。

 

 童磨は同じ場所に立ったまま動いていない。

 しかし目と頭は、絶えず微かに動いていた。瑠衣の動きを追っているのだ。

 そして、不意に訪れる瑠衣の()()の一撃を簡単に弾き返してくる。

 何とか振り切るしかない、と瑠衣が考えた時だった。

 

「足の曲げ伸ばしにコツがあるんだねえ。うーんと」

 

 何かを思い付いたかのように、童磨が屈むのが見えた。

 そして、次の瞬間だった。

 童磨が()()()

 

(――――は?)

 

 というのが、正直な感想だった。

 それはそうだろう。

 童磨の足元が瑠衣のそれと同じように爆ぜ、そしてその顔が目の前にあったのだから。

 思わず、呆然としてしまうのも無理は無かった。

 

「こんな感じかな?」

「こ、の」

 

 加速。限界いっぱい。全力で跳んだ。

 もはや足場は爆ぜるというより、破壊されていた。

 当然ながら、瑠衣は振り切るつもりで駆けた。

 追いつけるものかと、そう思った。

 

「あはは、待て待て~」

 

 が、童磨は普通について来た。

 ついて来られてしまった。

 しかも交錯するのではなく、完全に追随して来ている。

 つまり、瑠衣がどちらの方角に跳ぶかまで完全に予測しているということだ。

 

 石材、木片。そして雪と氷。

 2人の脚力で、部屋はおろか建物全体が軋み始めていた。

 周辺の住居に住んでいる者達からすれば、恐怖でしか無かっただろう。

 ただ、今の瑠衣にそれを気にかける余裕は無かった。

 

(ちょっと、見ただけで)

 

 この脚力を、この走り方を得るのに、どれだけの時間が必要だったか。

 自分より格上の相手ばかりの中で、まともに戦えるようになるために、どうやって編み出したか。

 それを、童磨はただの一瞥(いちべつ)で模倣――いや会得してしまった。

 こんなバカなことがあるかと、思ってしまうのも無理はない。

 

「……この、おっ!」

 

 着地と同時に、跳ねる。跳ぶのではなく、勢いを受けて跳ね上がる。

 縦に回転し、追随してきた童磨を迎え撃った。

 両側から頸動脈を狙った。斬撃は、扇によって弾き返されてしまう。

 軽く振り、しかし込められた腕力は尋常ではなく、瑠衣の身体が空中で一回転してしまう程だった。

 

「くあ……っ!」

 

 しまった、と思った。

 焦って打ち込み、そしてバランスを崩された。

 不味いと考えるよりも先に、童磨が扇を振るうのが見えた。

 衝撃よりも先に、冷気が肌に触れるのを感じた。

 

「いただきまーす」

 

 ――――そして、視界を幾何学模様が覆ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 今さら、己の命を惜しもうとは思わない。

 もう十分に生きた。命の使い道があるというのなら、躊躇はしない。

 己の血肉をより深く抉りながら、珠世はそう思っていた。

 

「愈史郎、今の内に瑠衣さんを」

 

 どうしてそこまでと、愈史郎の目が言っていた。

 だが、もう瑠衣しかいないのだ。

 だから何としても、瑠衣を――己の命よりも優先して――守らなければならない。

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 それを当然のことと考えていて、しかも僅かでも実現できる可能性を持った剣士は、もう瑠衣しか残っていない。

 無惨を殺す。そのために、珠世は己の命を懸けるのだ。

 

「面白い血鬼術だねえ。匂いかな? 俺の術とちょっと似てるね」

 

 ――――血鬼術『冬ざれ氷柱(つらら)』。

 全身を、大量の氷柱が貫いた。

 氷柱と言っても、一本一本が柱のように太い。

 貫くというより、抉ると言った方が正しいかもしれない。

 

「か、は……!」

 

 しかも不味いことに、傷口まで凍り付いていた。

 再生が阻害され、身動きが取れない。血鬼術も発動できない。

 

(私の血鬼術では、もう時間を稼ぐことさえ……!)

 

 強すぎる。強力すぎる。

 いくら上弦と言っても、何もかもが通じなさすぎる。

 慄く珠世に対して、童磨が浮かべるのは相変わらずの朗らかな笑顔だ。

 

「悪いけど、ちょっと大人しくしててよ」

 

 その頭に、瑠衣が小太刀を撃ち込んだ。

 そのせいで、童磨の「大人しく」の対象が珠世なのか瑠衣なのか、判然としなくなった。

 もっとも、そんなことは大勢には影響しない。

 童磨が気を取られることもなく、不意討ちを狙って瑠衣の攻撃も意味を成さない。

 

(隙が、ない。攻略の糸口が見えない)

 

 今までも、猗窩座や半天狗といった反則気味に強い鬼と戦ってきた。

 だが童磨は、今まで戦って来た鬼のどれとも違う。

 単純に、手に負えない。

 ここまで「どうしようもない」という感覚は、流石に無かった。

 

 ふう、と、息を吐いた。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 確かに童磨に有効打は与えられていないが、しかし瑠衣も負傷しているわけではない。

 何とか攪乱して、頚を狙うのだ。

 

「…………ん?」

 

 ふと、童磨が自分を見つめていることに気付いた。

 それ自体はおかしなことではないが、戦う相手を見る目、とも違う気がした。

 

「やっぱり、他人の気がしないなあ」

「……どういう意味です」

「似てると思って。きみと俺がね」

 

 瑠衣が不快そうに眉を寄せると、童磨は一層面白そうな顔で、こう言った。

 

「だってきみ、ぜんぜん怒っていないじゃないか」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 まず、言葉の意味がわからなかった。

 自分が、怒っていない?

 いやいやいやいや、と心の中で瑠衣は反論した。

 これで怒っていないのだったら、どういう状態が「怒る」に分類されるのか、という話だ。

 

「今まで色々な女の子とお喋りしてきたけど、きみみたいな()は初めてだよ」

 

 扇で口元を隠して狐のように笑いながら、童磨は言った。

 

「他の女の子達はね、凄くわかりやすかったよ。嬉しい時も哀しい時も。ああ、こういう時にはこうなるんだなあ、っていうのがね。真に迫るっていうのかな、ああいうの」

「……同情しますよ。その()()()達に」

「酷いなあ、みんな俺の中で生き続けているんだぜ。今はもう何も苦しくない」

 

 まあ、それは良い。

 問題は、童磨が言いたいことは、つまりはこうだった。

 

()()()()()()って、言われたことはないかい?」

 

 しかし、会話をする気はなかった。

 踏み込み、二刀で頚を狙う。

 小太刀と扇の打ち合う音が、断続的に響き渡る。

 そしてその間も、童磨の口は動き続けていた。

 

「しのぶちゃんって娘がいたんだ。鬼狩りでね、知っているかな?」

 

 勿論、瑠衣はしのぶを知っている。

 そして童磨は、瑠衣が知っているだろうことを理解していて、あえて聞いていた。

 露骨な煽りだ。

 

「あの娘はね、凄かったなあ。怒りとか殺気とか、もう全身から発していたもの」

 

 ()()()()()

 胡蝶しのぶという剣士は、目で、言葉で、行動で、それをぶつけてきた。

 それを、童磨は肌で感じることが出来た。

 

「感情を表すっていうのは、ああいうことを言うんだろうなあ」

 

 瑠衣は、すでに牽制を捨てていた。

 この鬼に対して、牽制はまさしく牽制以上の意味を持たない。

 ならば、手数である。

 あらゆる方向から、回数を重ねて、ひたすらに頚に打ち込み続ける。

 

「わあ、凄いねえ。頚を斬られそうだ。でも、大丈夫かい?」

 

 そしてそれらを完璧に、かつ事も無げに捌きながら、童磨は言った。

 

()()()()()()()()()()()()?」

 

 その、次の瞬間だった。

 ()()()()()()

 胸の奥に激痛が走り、視界が狭窄して、全身が脱力した。

 足が体重を支え切れずに折れ、膝を――いや、手足を床についた。

 

 自分の身体に何が起こったのか、一瞬、理解が追い付かなかった。

 不意に、咳き込んだ。胸の奥で嫌な音が何度もした。

 掌で口を押さえた。

 その掌に生温かい液体が飛び散るのを、瑠衣は感じた。

 ――――血を吐いたのだと気が付くのに、少しかかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何だ、これは。

 己の肉体の異常に、瑠衣は咄嗟に理解が及ばなかった。

 ヒューヒューと、聞いたこともない呼吸音が聞こえる。

 それが自分の呼吸する音だと、とても信じられなかった。

 

「うわあ、苦しそうだね。血を吐くまで我慢する子はなかなかいないよ」

 

 冷気が、増した気がした。

 それに伴って、胸の痛みが増した。

 息を吸うだけで苦しい。胸に、肺に鋭い痛みが走る。

 

「可哀想に。じっとしていて、首を落として楽にしてあげるよ」

 

 下を向いた瑠衣の視界には、童磨の足先しか見えなかった。

 しかし頭上で風を切る気配があって、次の瞬間に起こるだろうことを正確に予測した。

 死の予感に、瑠衣は()()した。

 足に血を巡らせて、全力で後ろに跳んだ。

 

 喉元に、冷たい何かが擦過した。

 転がるようにしながら、何とか避けた。

 しかし、その代償は小さくなかった。

 

「――――ごぷっ」

 

 転がって、そして起き上がることが出来なかった。

 肺を裂くような冷気を、呼吸した瞬間に大量に取り込んだ。

 その結果、甚大な被害に見舞われた。

 ()()()()()()()

 

 戦うための呼吸だけではなく、生きるための呼吸さえ満足に出来なくなっていた。

 鬼狩りの剣士にとって、呼吸は全ての根幹だ。

 言ってしまえば燃料である。燃料がなければ、車も船も動くことは出来ない。 

 だから呼吸を封じられるということは、それ即ち死を意味した。

 

「苦しいでしょ? 俺の血鬼術を吸って肺胞が壊死しているからね。それで全力で動きなんかしたら、肺が潰れてしまうよ」

 

 童磨の血鬼術は、雪と氷を操る術だ。

 そして普通であれば、それだけのことだ。強力だが、しかしそれだけでしかない。

 しかし童磨という鬼の恐ろしいところは、その柔軟な発想力だった。

 

 己が血鬼術で作り出した雪と冷気を相手に吸わせる。

 言葉にすれば簡単だが、実際に思いつくかと言われるとどうだろう。

 しかも相手に不審を抱かせずに実践するとなれば、口で言うほど難易度は低くない。

 それを、この童磨という鬼はさも当然の顔をしてやってのけているのである。

 

(ま、不味い。これは、不味い)

 

 呼吸困難。吸うことも吐くことも至難。

 手先から肌が異常に白くなりつつあり、血液の循環に異常を来たし始めているのがわかった。

 わかってはいたが、身動きは出来ないのだ。

 視界の端に童磨の足先があったが、次は避けられそうに無かった。

 

「る、瑠衣さん……!」

 

 それは、磔にされている珠世から見ても明らかだった。

 しかし、珠世も指先一つ動かせない状態だ。

 血鬼術で援護することも出来ない。

 

「きみには興味もあるし、もっとお話したいけど。でもあの御方のご命令だから、仕方ないよね」

 

 嗚呼、希望が死ぬ。

 それに対して、珠世は叫び声を上げた。

 そしてそれと同時に、氷柱の表面が僅かに光った。

 ()()が、僅かに輝きを発したように見えた。

 

 そしてその輝きの中から、飛び出す者がいた。

 突然、人間大のものが飛び出して来る。

 鏡の血鬼術。

 経験した者は、それがすぐにわかった。

 

「……え?」

 

 顔を、久しぶりに見た。

 瑠衣が思ったのは、まずそれだった。

 何故ならば、氷の()()から飛び出して来た男に見覚えがあったからだ。

 少し乱れた(ボサボサ)の金髪の、その男は。

 

「いぬ――――」

 

 ――――水の呼吸・漆ノ型『雫波紋突き』。

 日輪刀の切っ先が、自分の胸に深く沈み込むのを見た。

 そのまま鍔のあたりまで深く刺し込まれて、突きの勢いで身体が浮いた。

 

 胸に強烈な圧迫感が来て、残り少ない空気まで吐き出してしまった。

 当然、その吐息には血が混ざっている。

 視界が高速で後ろへと流れて、背中が壁に衝突するまで続いた。

 その衝撃で、また血が零れた。

 唇の端から血を溢れ流しながら、瑠衣は何とか顎先を上げた。

 

「ごめんねえ。おじさんにも、色々と事情ってもんがあるからさ」

 

 声も、もはや懐かしさを覚える程だった。

 震える手で、日輪刀を胸に突き立てている相手の手に、触れる。

 言葉を発そうと努力はしたが、圧迫感と呼吸困難のために上手くいかなかった。

 

「いぬ、い、さ……」

 

 その代わりに、触れた手にぎゅっと力を込めた。

 しかしそれは、力を込めたというには余りにもささやかなものだった。

 やがて、視界が暗くなっていった。

 意識を保とうとしたが、それは無駄な努力に終わった。

 瞼の重さに、耐え切れなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そのまま、瑠衣は動かなくなった。

 身体の下に広がりつつある血溜まりは、それだけで致命傷を受けたことを伝えて来た。

 そして貫かれた位置は、間違いなく急所だった。

 

「瑠衣さん! ああ、そんな……!」

 

 氷柱に貫かれた身体が引き裂かれそうな程に、珠世は手を伸ばそうとした。

 だが、不意にそれは止まった。

 瑠衣を刺した犬井が、じっと珠世のことを見つめていたからだ。

 

 何のつもりか。自分も殺すつもりなのか。

 珠世はそう思ったが、しかし犬井に動く様子は無かった。

 まるで、静かにしていろとでも言われた気分だった。

 何よりも不可解なのが、自分がその視線の()()を素直に聞いた、ということだった。

 

「…………驚いたなあ」

 

 そして、次に言葉を発したのは童磨だった。

 

「まさか、きみがこんなところに出て来るなんて。どういうことなのかな。妹さんのことは放っておいて良いの?」

 

 それに対する犬井の返しは、実につれないものだった。

 

「アンタに話す義理はないなあ」

「まあ、それはそうなんだけどね。きみは別に俺の配下ってわけじゃないし」

 

 犬井は、人間だった。

 少なくとも珠世が見る限り、鬼にされた様子はない。

 つまり人間のまま鬼に(くみ)して、鬼狩りの仲間であるはずの瑠衣を刺したのだ。

 裏切り。傍目に見える結論は、それしか無かった。

 

「何だ、()()()()()?」

「んー、まあ。そういうわけじゃないけれど。ただ、こんな風に意地悪をされたことはなかったからね」

 

 だがそれにしては、童磨と犬井に間には不自然な緊張感があった。

 いったい、目の前で繰り広げられている()()は何なのか。

 明晰(めいせき)な頭脳を持つ珠世にも、わからなかった。

 

「そんなことより、あのお方がお呼びだよ。とっとと言った方が良いんじゃないのか」

「あのお方が俺を?」

「そうだ」

「…………ふうん?」

 

 そして、2人の間の緊張感はさらに強くなっていった。

 童磨はどこかへ――「あのお方」のところへ――行く様子を見せなかったし、犬井も瑠衣の前からどく様子もなかった。

 知らず、珠世は固唾を呑んで2人のやり取りを静観する形になっていた。

 

 下手な介入は、事態を悪化させかねないと考えたからだ。

 1つだけはっきりしているのは、この場で起こる「何か」が、自分の――自分達の運命を決するだろう、ということだった。

 そうやって様子を窺っていた珠世だったが、変化は、またしても予期せぬ方向からやって来た。

 

『――――――――ッッ!!!!』

 

 変化(それ)は、()で起こった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それは、言うなれば剛直さと巧妙さの戦いだった。

 桑島と禊の戦いである。

 不思議なことに、2人は元居た路地から出ようとはしなかった。

 理由は2つある。

 

 まず第1に、路地という限定空間が義足と鋼糸を用いての戦闘に都合が良かったこと。

 桑島は壁を蹴って独楽(コマ)のように飛び回っていたし、禊は日輪刀の分割と接続を繰り返しながら致命の一撃を撃ち込み続けていた。

 しかし実際のところ、2人が路地という戦地の外に出ようとしないのは、もう1つの理由の方が大きかった。

 

(チッ、しぶとい爺ね)

(何て頑固な小娘なんじゃ)

 

 一言で言えば、先に戦地や戦法を変えてしまうと、何だか「負けた気分」になるからだ。

 要するに、お互いに意固地になってしまっているのだ。

 そういう意味では、この2人は似た者同士なのだった。

 

『――――――――ッッ!!!!』

 

 ()()が聞こえたのは、そんな時だった。

 意固地になって戦いを続けていた禊と桑島でさえ、動きを止めてしまう程だった。

 いったい、何事が生じたのか。

 

「何だ、あれは」

 

 屋根の上を走っていた鱗滝の目には、()()がはっきりと見えていた。

 さほど遠くない場所で、黒煙が上がっていた。

 火事。倒壊している建物もある。しかし、重要なのはそこではない。

 

 化物だ。

 

 化物が、そこにいた。

 そう、それは化物としか言いようのない生き物だった。

 見た目は赤ん坊――いや、もはや胎児だ。

 生まれる前の胎児が外に出て、叫び声を上げている。

 

「……大きいな」

 

 捻り出すような声で、鱗滝はそう評した。

 実際、その胎児は異常に大きかった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()程度には、大きい。

 だから、その濁った叫び声は東京の町中に響き渡るのだった。

 いずれ、いやすでに。それを目にした人々がパニックを起こしかけている。

 

『――――――――ッッ!!!!』

「――――悪い子だわ」

 

 そして胎児の化物(それ)を、また別の場所から眺める者がいた。

 ただし彼女は人ではなく、鬼である。それも瞳に数字を刻まれた、上弦の鬼。

 虚空に頬杖をつくようにして、亜理栖は胎児の悲鳴を聞いていた。

 

「悪い子ばかりで困ってしまうわ」

 

 亜理栖に、恐怖した様子はない。動揺した様子もない。

 もっとも、そもそも亜理栖にそんな感情があるのかは微妙なところだが。

 しかし、どこか不機嫌そうではあった。

 恐怖も動揺もしていないが、苛立つ程度には「困って」いるのだった。

 

「お兄ちゃんが、困ってしまうわ」

 

 そして。

 ()()()()()()()()()()()

 今日この日、この場所で、鬼殺隊は完全に終焉を迎えることになる。

 千年に渡る鬼と人の闘争の、最終日。

 それが今日なのだと、この時、人も、そして鬼も、気付いていないのだった――――。




最後までお読みいただき有難うございます。

鬼狩りは今夜潰す。私がこれから皆殺しにする(え)

実は私は鬼舞辻無惨だった…?(え)

それでは、また次回。


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第56話:「上弦解体」

 知己は、見た。

 まず、無惨の姿を見た。

 無惨は若い男の姿をしていたが、見た目通りでないことはすぐにわかった。

 名乗ったわけではないが、こいつが無惨だと、その目を見た瞬間に理解した。

 

 同時に知己にとって幸いだったのは、無惨が彼にまるで関心を払わなかったことだ。

 村田と共に町中で捕まり――相手が人間の警官だったので油断した――夜になって、首相官邸にまで連れて来られた。

 そしてホールに入ったところで、()()を見た。

 

「ヒイイイイッ」

 

 老人の鬼が、無惨の腕――赤黒い肉の触手に変形した――に掴まれて、逆さ吊りにされていた。

 上弦の肆・半天狗だ。

 無惨によって中吊りにされた彼は、涙を流しながら悲鳴を上げていた。

 

「ヒイイイイッ! お許しくださいませ、お許しくださいませ。どうかどうか」

 

 命乞い、である。上弦の鬼が命乞いをする場面を、知己は見せられていた。

 隣では、村田も真っ青な顔色でそれを見ている。

 2人とも、何の言葉も発することが出来なかった。

 言葉を発した瞬間に、あの触手が自分の方に向くのではないかと思っていたからだ。

 

(そもそも無惨は何をしているんだ? ど、同士討ちなのか……?)

 

 不意に、無惨がもう片方の腕を伸ばした。

 ()()()()伸びた腕は同じように肉の触手となり、先端部に鋭い歯が並んだ口が生成された。

 おぞましい光景だった。

 そしてそのおぞましい口が大きく開き、半天狗の頭を噛み砕こうとしていた。

 

「ヒイイイイッ! ヒイイイイイ――――イッ!」

 

 ()()()()()

 無惨の触手に頭を噛み砕かれるその瞬間に、半天狗の肉体が縮むのを見た。

 体の内側から裏返るようにして、半天狗の体が()()()()()

 そうかと思えば、ボンッ、と音を立てて一気に膨張した。

 

「うわっ」

 

 知己達の足元にまで、半天狗の体だった肉片が飛び散る程だった。

 それを避けて次に顔を上げた時、悲鳴――いや、咆哮が聞こえた。

 捕まれた部位を()()()()と引き千切って無惨から逃れたそれは、官邸の壁に縋りついたかと思うと、さらに膨張した。

 

「え、ちょ……オイオイオイオイッ!?」

 

 膨張は留まるところを知らず、ホールのすべてを飲み込んでいった。

 出入り口の近くにいなかったら、村田と知己も肉の膨張に巻き込まれて圧死していただろう。

 そして。

 

『――――――――ッッ!!』

 

 そして、()()()()が生まれた。

 肉の胎児は膨張を続け、やがて官邸の天井や壁を内側から破り、外に出た。

 まるで自らの誕生を訴えるかのように、肉の胎児は東京中に産声を響かせたのだった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 以上が、肉の胎児が現れるまでの出来事。その一部始終だった。

 

「な、何が起こったんだよ」

「わ、わかりません……」

 

 とは言え、それを最も間近で見ていた知己と村田でさえ、何が起こったのかを正確には理解していなかった。

 無惨が半天狗を処刑(捕食)しようとして、半天狗が暴走した。

 無理やりに言葉で説明しようとすると、そんな風になるだろうか。

 

 だが、そもそもどうしてそんな状況になったのかわからない。

 そして、どうして自分達がそんな場所に呼ばれたのかもわからない。

 あるいは、半天狗を処刑した後に殺すつもりだったのかもしれない。

 要するに、平たく言えば――混乱、である。

 

(お、落ち着け。冷静に、冷静に状況を)

 

 自分に「落ち着け」と言い聞かせる時点で、すでに冷静ではない。

 まして、今は。

 

「――――何が起こっているのかわからない、という顔をしているな」

 

 ひっ、と、自分が息を呑む音を聞いた。

 崩れた官邸の(そば)で手をついていた彼らに、影が差した。

 影、というより、闇そのものが頭上に漂っている。

 そんな気がして、顔を上げることが出来なかった。

 

「理解する必要はない。そのまま頭を垂れていろ。すぐに終わる」

 

 なるほど、自分は死ぬのか。

 その事実は、不思議な程の納得感を与えて来た。

 ()()()()()に遭遇して、生きていられると思う方がどうかしている。

 そういう納得感だ。

 

「お前達が最後だ」

 

 赤い水滴が、手の甲に落ちて来た。

 血。そして、頭の上で肉の音。

 先程の触手が頭を撫でている。それを、理解した。

 むっとするような生臭さに、息が詰まりそうだった。

 

 恐ろしい。おぞましい。

 脳裏を駆け巡るこれは、走馬燈だろうか。

 走馬燈を見る時、人は死を前にして、本能的に生きのびる方法を探しているのだと言う。

 だが、そんなものは無かった。死ぬ。死ぬしかない。他の選択肢など、ない。無い。

 死ぬ。死、死死死死死――――。

 

「……どうした。黒死牟」

 

 不意に、死がその手を止めた。

 はっ、と、呼吸を思い出した。

 自分がまだ生きているということを、胸に手を当てて心臓の音を聞くまで信じることが出来なかった。

 

「黒死牟。なぜ答えない」

 

 横を、向いた。前は向けなかった。

 するとそこに、黒髪の、剣士のような出で立ちの鬼が立っていた。

 剣士のようとは言っても、甲殻類のような異形の姿ではあったが。

 

「…………」

 

 静かな六ツ眼が、こちらを見つめていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「……召集の御命令を、いただきましたので」

 

 しばらくして、黒死牟がそう言った。

 それを聞いて、無惨はフンと鼻を鳴らした。

 

「ああ、そうだった。任せたい仕事があった」

「……は。何なりと」

()()()()()()()()()()()()

 

 その命令は、余りにも自然に発された。

 自然な会話だったから、聞いているだけの人間には、その言葉の意味が咄嗟には理解できなかった。

 それはそうだろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 こいつはいったい何を言っているのかと、困惑するのが普通というものだった。

 

「それに伴い、上弦も解体する。今しがた私を()()()()半天狗も殺せ。粛清せよ」

 

 黒死牟の六ツ眼が、俄かに細められた。

 動揺している、というよりは、観察していると言った方が良いだろうか。

 何か遠くを見るような、何もかもを見透かしているような、そんな眼差し。

 

 村田も知己も、動けないままだ。

 何しろ、まだ肉の触手が頭上にあるのだ。

 一歩は愚か、身じろぎ1つで死ぬ。そんな状況が持続している。

 嫌な汗が全身を濡らしていて、顔面は蒼白だった。

 

「ああ! 召集命令は本当だったのですねえ! 俺としたことが遅れてしまいました」

 

 そこへ、もう一体――童磨が現れた。

 これもまた、どこからともなく。風が吹いた後にすっと姿を見せて来た。

 仕草は申し訳なさそうだが、表情が飄々としているので、謝罪の意思はさして見えない。

 もっとも無惨は僅かも視線を童磨の方へ向けることが無かったので、態度や表情にそもそも関心が無かったのかもしれないが。

 

「遅刻の御詫びを」

「いらん。貴様の詫びなど何の意味がある。貴様もさっさと行け。黒死牟と共に粛清に走れ」

「承知いたしましたとも! ところで、上弦の解体に下位の鬼の粛清とは穏やかでありませぬ。何か我々が失態を演じましたでしょうか?」

()()()()()()()()()()()()

 

 頭上、いや天井の会話だ。

 無惨と黒死牟、童磨の意識に、村田と知己はいない。

 

(情けない……!)

 

 そう思う間にも、無惨達の会話は続いている。

 

「貴様らの失態などに、今さらいちいち何かを思うことなどない。ただ、いらなくなっただけだ」

 

 ()()()()()()()

 箒でゴミを塵取りに入れて、ゴミ箱に捨ててしまうように。

 いらないものを片付ける。それだけのことだ、と。

 無惨は、そう言ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そもそも、だ。

 無惨は他者を必要としたことがない。

 何故ならば、人間や他の鬼と違って、すべてが自己完結した生命だからだ。

 

「私がこれまで増やしたくもない同胞を増やして来たのは、太陽を克服するためだ」

 

 太陽を克服する鬼、あるいは血鬼術の発現。

 無惨が鬼を()()してきたのは、つまるところそれだけのためだ。

 そして生産できたなら、それを取り込む。

 そうすることで、無惨は太陽を克服することが出来る。

 

「だがそれも、もう必要ではない」

 

 何故か。

 

()()()()()()()()()()()

 

 平安の時代。無惨が生まれた時代だ。

 無惨は人として生まれ、そして鬼として再誕した。

 彼を鬼にしたのは、その時に服用したある薬だ。

 薬を作った医者自身は善良な人間だった。

 

 もっとも無惨にとってそれはどうでも良く、重要なのは、その薬の材料だった。

 試作段階の薬では、完全な進化には届かなかった。

 だから薬の材料を手にし、完全な薬を作る。

 その薬でもって、太陽さえ克服する完全無欠の生命体へと進化する。

 それが、無惨の目的だった。

 

「お前達のおかげだ」

「え……」

 

 急に言葉をかけられて、知己は呆けた声を発してしまった。

 ただ無惨は相手の様子など気にしていなかったので、特に問題にはならなかった。

 

「見つけたのは猗窩座だ」

 

 陽光山だ、と、無惨は言った。

 

「生き埋めにしたな、猗窩座を。特に気にはしなかったが、だからこそやつは見つけた」

 

 小鉄の発破で崩落した天板の穴から、僅かに射し込んだ太陽光。

 無論、猗窩座はそれには近付かなかった。

 しかし暗がりの中、射し込む陽光の下にそれを見つけた。

 

 青い彼岸花。

 

 その正体は、陽の下でしか咲かない彼岸花だ。

 太陽を天敵とする鬼が、まさか太陽の象徴のような花から生まれていたとは。

 さしもの無惨も予想だにしなかった。

 しかし、見つけてしまえばこちらのものだった。

 

「すでに陸軍を派遣させた。明日の朝には届く」

 

 配下が鬼のみであれば、入手は困難だっただろう。

 しかし今の無惨には、昼間でも活動できる配下がいくらでもいる。

 だから、もう部下()はいらない。

 

鬼殺隊(お前達)は私の道を妨げる羽虫のような存在だったが、そのお前達が私にさらなる進化をもたらしてくれたのだ。こんな巡り合わせはそうはないだろう」

 

 クク、と、喉を鳴らすように無惨は嗤った。

 心底愉快そうに嗤う無惨に対して、知己の表情は悲壮そのものだった。

 まさか、よりにもよって鬼殺隊(自分達)が無惨を完成させてしまうなんて。

 そんな運命があって良いのかと、絶望せずにはいられなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 黒死牟と童磨の関係は、()()()()()()()

 鬼という1点を除いて、両者には何の共通項もなく、言葉で表現できる何らの間柄を持ち合わせていなかった。

 友人でも無ければ仲間でも無い。ただ、同じ陣営にいるというだけだった。

 

「いやあ、とうとうあのお方が完全な進化を遂げられる。そう思うと、感慨深いものがあるよね」

 

 会話も、ほとんどしたことも無い。

 いや、童磨は良く喋る。

 喋るが、それは一方的なものだ。

 コミュニケーションという意味では、それはただの一度も成功したことが無い。

 

「黒死牟殿は俺なんかよりずっと長くあのお方に仕えていたわけだから、思うところも多いんじゃない?」

 

 ――――そんなものは無かった。

 黒死牟が無惨に仕えて、四百年になる。

 ただ黒死牟が無惨に仕えたのは、感慨などを感じるためでは無かった。

 では何のためか。おそらくそれを理解できる者はいないだろう。

 仮にいたとしても、もうこの世にはいない。

 

「そうだ。実は気になっていたんだけど」

 

 返事が貰えなくても喋り続ける。それが童磨だった。

 

「どうしてあのお方は、鬼狩りなんて受け入れたんだろう? ほら、黒死牟殿が連れて来た2人だよ。何て言ったかな、そう」

「……鱗滝と桑島か」

「そう、その2人さ。人間、それも鬼狩りを使うなんて。どういう風の吹き回しだろう」

 

 興味が無かったんだろう、と、言葉にはしなかった。

 おそらく無惨にとって、鬼狩り――鬼殺隊は、もう終わった存在なのだ。

 だから、いちいち気にしたりしない。

 

 せいぜい、黒死牟が連れて来たから使ってやるか、くらいのものだろう。

 もし歯向かって来たとしても殺せば良い。その程度の警戒感なのだ。

 慢心。油断。どれでも無い。あれは余裕というものだ。

 余裕でないとすれば、無関心という言葉が一番近いだろう。

 

「まあ、それを言ったらさ。あのお方に鬼狩りを紹介した黒死牟殿もだよね。不思議だなあ、黒死牟殿がそんなことしたのって初めて見たよ」

「……無駄話はそこまでにしろ」

 

 嘆息。それを1つ零して、黒死牟は童磨を睨んだ。

 

「お前は喋り過ぎる」

「黒死牟殿は相変わらず真面目だなあ。忠義一辺倒って感じ。まるで武士みたいだね」

「…………」

「まあ、そんな黒死牟殿だからあのお方も信頼するんだろうね。それこそ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「…………もう行け」

「はいはい。怖いなあ」

 

 欠片も怖がっていない表情で、童磨は消えた。

 彼が消えた後も、黒死牟はしばらく童磨がいた場所をしばらく見つめていた。

 

「裏切り……か」

 

 ぽつりと呟かれた言葉は、しかし誰に聞かれることもなく、闇の中に吸い込まれていった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 感慨深い、という言葉について言えば、鬼舞辻無惨は己こそが最もその栄誉に相応(ふさわ)しいと考えていた。

 何しろ千年に渡る努力、悲願――そういったものが、今、ようやく果たされようと言うのだ。

 そういう意味において、まさに無惨は「感慨深い」という感情の中にあった。

 

 千年。普通の人間には想像さえ難しい。永遠にも等しい時間だ。

 それだけ長く生きていると、実のところ人間的な感情も擦り切れて来る。

 怒りや悲しみという負の感情はともかく、喜びや感動という正の感情は特にそうだ。

 だが今、鬼舞辻無惨は確かに正の感情に満たされつつあった。つまり。

 

「私は今、何百年かぶりに気分が良い」

 

 殺そうと思えば、村田や知己ごときは1秒で殺せる。

 しかし、いつまでも殺さない。

 別に、今さら人間が死の恐怖に怯える姿を見て楽しむ趣味も無い。

 

「だから、やめておけ。……()()()()()()()()()()

 

 崩れた壁の基礎から伸びた鉄柱が、不安定に外側へとひしゃげて曲がっていた。

 その先端に手と足をかけて、禊が無惨を見下ろしていた。

 片手で鉄柱を掴み、もう片方の手には長槍状態の日輪刀を逆手に持っている。

 

「そのまま去れ。そうすれば無駄に死なずに済む」

「ふーん、あっそ」

 

 跳び下りた。

 槍の穂先は、無惨の頚に向けられていた。

 

「愚か者め」

 

 音がした。

 禊が感じたのは、それだけだ。

 そして耳が音を感じた時には、すでに身体に衝撃が来ている。

 

 声も出せず、瓦礫に頭から突っ込んだ。

 受け身は取れなかった。

 意識よりも音よりもなお速く、肉体が防御に動いたからだ。

 瓦礫に突っ込む負傷より、無惨の一撃の方が致命的だと本能が察知した結果だった。

 

「……!」

 

 時間にして、おそらく3秒ほど。

 無惨が禊に意識を向けて、元に戻すまでの時間だ。

 しかしその時間で、村田と知己の姿は消えていた。

 

「実のところ、多少の興味があった」

 

 腕を戻しながら、無惨は言った。

 嘲るように。

 いや、ようにではなく、実際に嘲弄していた。

 

「お前達が私に近付いて、どんな風に私を()()()つもりなのか、とな」

 

 無惨に視線の先に、4人の人間がいた。

 村田と知己、そしてその2人を脇に抱えた鱗滝と桑島。

 流石は元柱というべきか、秒の速度で2人を救って距離を取った。

 まさに、称賛すべき動きだった。

 

「だが存外、つまらない方法だったな」

 

 だが、無意味だった。

 何故ならば、そんな行為は無惨の前では何の意味もないからだ。

 ――――皆殺しにしてしまえば、結果は同じなのだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 徐々に、ゆっくりと。

 しかし着実に、東京は混乱しつつあった。

 肉の胎児の叫び声はどこからでも聞こえたし、建物の倒壊音や人々の悲鳴も大きくなる一方だった。

 

「な、何だあの化物は!」

「撃て、撃てえ!」

 

 駆け付けた警官隊が発砲した。

 しかし、結果は芳しいものでは無かった。

 肉の胎児は悲鳴を上げて膨れ上がり、つまりさらに巨大化した。

 濁った鳴き声が、聞く者の恐怖心を呼び起こした。

 

「そ、そうだ。鬼の旦那、何とかしてくれよ!」

「お、おお! そうだ、鬼様なら」

「ば、馬鹿を言ってんじゃねえ! あんな化物、どうにか出来るわけねえだろうが!」

「そ、そんなあ!」

 

 そしてそれは、鬼も例外では無かった。

 それはそうだろう。何しろ肉の胎児(アレ)は上弦の鬼なのだ。

 格下のヒラ鬼に、どうこう出来るものでは無かった。

 だが、それは人間にはわからない。

 

 何の事情も知らない人々からすれば、人智を超えた力を持つ鬼でさえ逃げ出す相手なのだ、としか映らない。

 そのために、人々の混乱は決定的なものとなった。

 銃もきかない。鬼さえ勝てない。

 その結果、何が起こるか――――無秩序、である。

 

「う、うわあああああっ!」

「逃げろ、地区の外に出るんだ!」

 

 多くの人々が、悲鳴を上げて逃げ惑い始めた。

 駆け付けた警官隊も例外ではない。その場に武器を捨てて逃げ出した。

 

「どけ! 邪魔だ人間共!」

「ぎゃっ!?」

 

 そして、鬼。

 縋り付いてくる人間を蹴倒し、投げ飛ばした。

 余裕のない状態で行われたそれは、相手の人間の命を簡単に奪った。

 血を噴き出して倒れた人間を見て、別の人間が悲鳴を上げる。

 

「わああああっ、殺した! 殺したあああ!」

 

 そして、本心が出て来る。

 人と鬼の共存という美辞麗句の下に隠されていた本心が、露になる。

 

「化物! 化物お――――ッ!!」

 

 肉の胎児が人間を踏み潰し、握り潰し、そして磨り潰す。

 胎児から逃げようとする人と鬼が、互いを邪魔だと罵って攻撃する。

 簡単に殺される人間。銃で撃たれる鬼。

 家屋が倒れ、やがて火の手が上がり始める。

 

 肉の胎児を中心に、それは外へ外へと広がっていった。

 混乱が広がり、誰もが外へと逃げようとしていた。

 そんな中にあって、逆に内へと駆ける者がいた。

 小柄な少年、ひょっとこの仮面を被った彼は、竹刀袋のようなものを抱えていた。

 

「はあ、はあっ。早く、持って行かなくちゃ……!」

 

 小鉄だ。

 彼は息せき切って、刀を手に逃げ惑う人々の間を擦り抜けて、駆けていた。

 

「この、刀を……瑠衣さんに!」

 

 それは、この世で最後に打たれた日輪刀。

 小鉄が瑠衣のために、最後の鉄を使って打った刀だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――酷く、疲れていた。

 全身が鉛のように重く、そして熱かった。

 だけど、実は知っていた。

 

 自分の身体が()()()()状態だと言うのは、ずっと以前から知っていた。

 あの鬼、珠世にも言われていたことだ。

 仕方ない。

 凡庸な人間が分を超えたことをしようとしているのだから、仕方がないことだ。

 

(でも、他に誰がいた?)

 

 誰も、誰もいなかった。

 父も、兄も、弟でさえも、誰も傍にいなかった。

 代わりに走ってくれる人間は、誰もいなかった。

 だったら、無理でも何でも、自分が走るしか無かった。

 

(そうじゃないと)

 

 そうじゃないと、余りにも報われない。

 鬼殺隊も、鬼狩りも、煉獄家数百年の歴史も。

 何もかもが、余りにも報われないではないか。

 

 だから走った。全力で走って、走り続けて来た。

 無理をしている。それはわかっていたけれど、怖かった。

 恐ろしくて堪らなかった。

 もし。もしも止まってしまったら、二度と動けなくなりそうな気がしたからだ。

 

『良インジャナイ? モウ』

 

 誰かが、手を握ってくれた気がした。

 その手は酷く冷たくて、それが心地よかった。

 

『モウ、休ンデモ良イジャナイ』

 

 良いのだろうか。良いのかもしれない。

 このまま目を覚まさなくて、良いのかもしれない。

 心地よさに身を任せて、眠ってしまっても良いのかもしれない。

 ふと、そんな風に思った。

 

『後ハ、オ姉チャンガヤッテアゲル』

 

 ()()()()()

 ()()()()

 

(貴女は、引っ込んでいて――――ずっと。私の奥底で、じっとしていて)

 

 心地よい手を、振り払った。

 それでも、何かを求めるように手を伸ばした。

 誰かの手を求めているのか。あるいは、何かを掴みたいのか。

 

 自分でも、それが何のための行為なのかわからない。

 けれど、そうせずにはいられなかった。

 だって、そうしなければ、届かない。

 何より、この――――何と、言うか。

 

「……ウッ。バウッ、バウッ!」

 

 何と言うか、()()()()

 

「バウッ、ウウウッ」

「…………………コロさん」

 

 嗚呼、身体が重い。視界も、いまいち暗い。

 息も、酷くし辛い。

 そして何より、顔中が生温かい。

 しかも現在進行形で。

 

「ワフッ、ワフフッ」

「コロさん、ちょっと」

 

 生温かさで目覚めて、瑠衣は言った。

 

「……舐め過ぎです……」




最後までお読みいただき有難うございます。

ゴールデンウィークですね!
妹とのデートに忙しい時期ですね!(え)

それでは、また次回。


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第57話:「忍び寄る死」

 自分はいったい、何回死ぬのだろうか。

 そう思わざるを得ない人生を瑠衣は送って来たが、今回は極めつけだった。

 

「……手当て、の必要は無さそうですね」

 

 隊服をはだけて胸元を探っていた瑠衣は、肌を擦りながらそう言った。

 というのも、犬井に刺された――記憶が間違っていなければ――部分に、傷ひとつ無かったからだ。

 確実に刺されたはずだが、負傷が無い。手当てがされていたわけでもない。

 傷自体が、そもそも無いのだった。

 

「はあ……」

 

 その事実に嘆息を零してから、瑠衣は顔を上げた。

 

「珠世さん達は、どこかへ連れて行かれたのでしょうか……」

 

 童磨と戦ったその場所に、瑠衣は放置されていたようだ。

 どこかへ連れて来られたわけでも、喰われたわけでも無い。

 珠世と愈史郎、そして犬井の姿も無かった。

 

「バウッ」

 

 そして、コロだけが傍にいた。

 尤もコロが傍にいることについては、もはや当たり前のようになっていた。

 手を伸ばして頭を撫でると、ふんふんと鼻先を掌に押し付けて来た。

 

 もう一方の手で、瑠衣は顔を覆った。

 はあ、と大きく息を吐く。

 自分が呼吸できるということを、瑠衣は改めて理解した。

 

「コロさん。私は何か、うわ言を言っていましたか?」

「バウ?」

「……そうですか」

 

 頷いて、瑠衣は立ち上がろうとした。

 幸い、立てないということは無かった。

 意識に加えて四肢の感覚も、正常そのものだった。

 だからこそ、次の瞬間に訪れた危機に対応することが出来たのだ。

 

「…………え?」

 

 立ち上がって、窓の外――とうに氷は溶け、外が見えるようになっている――を見た時だ。

 ()()()()()

 外はとっくに夜になっているが、しかしはっきり見えた。

 大きな大きな、()()の目を。

 

 巨大な肉の胎児(上弦の肆)が、外から瑠衣を見つめていたのだった。

 瑠衣がコロの首根っこを掴んで部屋の奥に下がるのと、肉の胎児が叫び声を上げるのは、ほとんど同時だった。

 そして肉の胎児の手が壁を突き破って来た時には、瑠衣は通路へと転がり出ていた。

 

「ちょっと、冗談でしょう……!?」

 

 メキメキと足元からしてはならない音が響いていて、それが建物が倒壊しかけていることを教えてくれた。

 咄嗟に奥に逃げたが、判断を間違えた。

 そうこうする内に足元が傾き始めて、瑠衣は歯を噛んだ。

 

「寝起きにこれは、流石にないでしょう!」

 

 コロを胸に掻き抱いて、通路の端に倒れ込んだ。

 そのまま身を丸めた直後、致命的な音が響いて、建物が斜めに崩れ、倒れたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 最初は手で、そして最後には身体全体で押し潰すようにして、肉の胎児は瑠衣のいた建物を崩壊させてしまった。

 泣き喚き、木材や瓦礫を掴んで放り投げる様は、まさに駄々をこねる赤子そのものだった。

 探し物が見つからずにダンダンと地面を叩く様などは、特にそうだった。

 

 ただこの場合、肉の胎児がどう振る舞っているかよりも、何を求めているかの方が重要だった。

 すなわち、彼が瓦礫や木材の中に手を突っ込んで()()()()()()()()()、ということだった。

 そしてその答えは、すぐに判明した。

 

「…………!」

 

 手探りで瓦礫の中を探っていた肉の胎児が、何かを引きずり出して来た。

 パラパラと小石と土埃を零しながら持ち上げられたそれは、瑠衣だった。

 片足を肉の胎児に握られ、持ち上げられる。

 だらりと脱力したその姿は、気絶しているように見えた。

 

「――――!」

 

 肉の胎児が、瑠衣の身体を目前に近付けて、そして叫び声を上げた。

 それは正面に風圧を生む程の声量で、瑠衣の身体を揺らした。

 次の瞬間には、肉の胎児が瑠衣を地面なりに叩き付けるだろうことは明らかだった。

 

「……!?」

 

 その瞬間だった。瑠衣の顔に痣が浮かび上がった。

 同時に目を開き、羽織の袖口から日輪刀が両掌に落ちて来た。

 逆さまのまま上半身を起こし、目前にまで迫っていた肉の胎児の両目を斬った。

 

 無論、それで死にはしない。

 だが肉の胎児は見た目通り()()()()なっているのか、両目を斬られたことで悲鳴を上げた。

 あっさりと瑠衣から手を放し、両手で顔を覆ってのたうち回った。

 

「ギャアアアアアッ!!」

 

 おぞましい悲鳴に、瑠衣は片耳を押さえながら着地した。

 見上げた敵は、ぶくぶくと膨張を続ける肉の胎児だった。

 今まで何匹も鬼を見て来たが、その中でも異彩を放つおぞましさだった。

 そしておそらくは厄介さについても、一、二を争う相手であろう、とも思っていた。

 

「ちょっと寝ている間に、大事になっているようですね」

 

 肉の胎児の移動の跡であろう。

 ここに至るまでの道々で、()()()()の形に建物が崩れ、道が抉れていた。

 そして傷が再生したのか、肉の胎児が腹這いになってこちらを向こうとしていた。

 特殊な血鬼術を使う様子はない。逆に、だからこそ手強いとも言えた。

 

「コロさん、潰されないように注意してくださいね」

「バウッ」

 

 瑠衣は、とんとん、と小さく跳び始める。

 猗窩座と言い、亜理栖、童磨と来て、この肉の胎児。

 まったくもって、命がいくつあっても足りやしない、という状況だった。

 

 しかしそれも、今夜で最後だろう。

 成功するにせよ失敗するにせよ、次の夜明けまでには結果が出る。

 今はそういう局面だと、瑠衣を含む誰もが理解していた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 肉の胎児は、執拗に瑠衣を追って来た。

 

「アアアアッ、アアアアアアアッ!!」

「……っ。こんな可愛くない赤ん坊の泣き声は初めてです」

 

 屋根から屋根へと跳び移って行く瑠衣だが、肉の胎児の速度自体は問題にならなかった。

 その巨体故か、肉の胎児の動きは非常に緩慢なものだったからだ。

 ()()()()している、と言って過言では無かった。

 

 だが、瑠衣はつかず離れずの距離を維持していた。

 理由は2つ。まず近付き過ぎればあの大きな手に捕まってしまう。

 先程は不意討ちが上手くいったが、二度同じことが出来るとは思っていなかった。

 と言って、離れすぎるのもまた問題なのだった。

 

「きゃあああっ、化物!」

「と、止まれ。撃つぞ……い、いや、撃て! 撃てえ!」

 

 距離が離れ過ぎて瑠衣を見失ったと判断すると、肉の胎児の標的が他に移ってしまうのだ。

 肉の胎児が襲う相手は、逃げ遅れた一般人や駆け付けた警官など様々だ。

 要するにその時、最も手近にいる人間を襲う。

 計画性はなく本能的なものだが、だからこそ放置は出来なかった。

 

「――――ッ!」

 

 体を支えるために寄りかかっていた建物の、屋根だとか壁だとかを掴み、そのまま投げる。

 建物を崩したわけではないから、ちょっとした石材や瓦などだ。

 しかし普通の人間にとっては、それが飛んで来るというだけで十分に脅威だった。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 そういった時には、彼らの前に出て飛来物を弾き飛ばさなければならなかった。

 すると当然、肉の胎児の視界に入ることになる。

 

「アアアアアアアアアッ!!」

 

 次の瞬間には、決まって肉の胎児は狂ったように瑠衣を目掛けて突進してくる。

 その度に、瑠衣は庇った相手を突き飛ばし、あるいは抱えて跳ばねばならない。

 

「逃げてください! できるだけ遠くへ!」

「ひ、ひいいい!」

 

 そのために、つまり自分自身を守るための行動が2手は遅れる。

 

(塵旋風……)

 

 自分を守ろうとする時には、肉の胎児はもう目の前にいる。

 日輪刀を後ろに振り被った体勢から、瑠衣は跳んだ。

 

(――――削ぎ!)

 

 回転斬り。これまで幾度となく鬼の頚を斬り落としてきた技だ。

 しかし、最初の一撃が肉の胎児に入った瞬間、その回転が止まってしまった。

 いや、攻撃は当たっていた。だが、刃が肉を裂いていない。

 

「ぐ……!」

 

 刃が、()()()()()()()()

 日輪刀は、肉の胎児の表皮を破ったところで肉に挟まれていた。

 つまり肉の胎児の肉体は、文字通り分厚い()に覆われていて。

 

「斬れない……!」

 

 まさに、肉の達磨(ダルマ)だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 肉の胎児は、防御という点において極めて無防備だった。

 何しろ動きが緩慢な上、胎児の形をしているために可動域も大きくない。

 ために、蜂のように跳び回りながら攻撃してくる瑠衣を捕らえることは出来ない。

 しかし、()()()()だ。

 

(攻撃が! 通らない! くそお……!)

 

 今さら言うまでもないことだが、表皮をいくら傷つけたところで意味はない。

 肉を斬り裂き、頚を刎ねなければ意味がない。

 しかし、この肉の厚みを鋭さだけで突破するのは無理があった。

 それこそ眼球であるとか、肉に覆われずに外部に露出している部分くらいなものだろう。

 

 もちろん、手段がないわけではない。

 例えば、このまま肉の胎児をこの場に留め続けて、夜明けを待つという手がある。

 いくら肉の鎧を纏っていようが、陽光の前には無力だ。

 太陽の光で焼き尽くす。手段としてはあり得る。

 

(そんな時間はない)

 

 目の前の1体を倒すために、そこまで時間をかける余裕は無い。

 何しろ、瑠衣達は「無惨暗殺」という作戦をすでに始めてしまっている。

 しかも作戦はすでに露見してしまっていて、人間も瑠衣達を捕縛しようとしてきている。

 瑠衣達に、()()は無いのだ。

 

「アアアアアアアッ!!」

 

 木材、瓦。大量に投擲されてくるそれらを、弾き、(かわ)す。

 

(たお)す。今ここで!)

 

 腕の力だけでは、あの肉の厚みを斬り裂くことは出来ない。

 ならば、それ以外の力をかけ合わせるしかない。

 瑠衣は跳んだ。

 肉の胎児が投げつけて来た破片でさえ足場にして、空中高くに跳んだ。

 

「――――ッ!」

 

 自然、肉の胎児は瑠衣を追って仰け反るように身を反らした。

 頚の可動域が小さいため、喉を逸らして、つまり頚の表面が大きくなった。

 瑠衣の狙いは、そこだった。

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』。

 最速。そして最も突進力のある技で、瑠衣は飛び込んだ。

 全霊の力を込めて、晒された喉に二振りの日輪刀を叩き付けた。

 ぞぶ、と、独特の感触と共に刃が肉の突き立った。

 

「ギャアアアアアアッ!!」

 

 突進の威力のままに振り抜けば、頚の半ばまでは達する。直感的にそう理解した。

 残り半分は刀を支点に抉り込めば斬れる。

 だがそのためには、あと二動作が必要だった。

 しかしその二動作が終わる前に、肉の胎児の両腕が瑠衣を捕らえに来る。

 

「バウッ!」

 

 コロの声が聞こえた時には、肉の胎児はすでに両側から瑠衣を挟もうとしていた。

 瑠衣の日輪刀はすでに深い位置にまで刺し込まれており、回避には刀を手放すしかない。

 しかし、それは出来ない。だから先に斬り切るしかない。

 その、瀬戸際の一瞬のことだった。

 

「ギャアッ」

 

 突然、肉の胎児の両腕が()()()()()()()

 何の前触れもなく、丸太が斧で両断されるが如く、腕が落とされたのだ。

 それを視界の端で捉えながらも、瑠衣は目の前の頚に集中した。

 

 刀を握ったまま身体を振り、ぐんっとそのまま反対側へ足先を振る。

 そうして生まれた力でもって、無理矢理に刃を通していった。

 肉の胎児の悲鳴が、噴き出した血によって濁って行く。

 

「はあああ……ああっ!」

 

 グエッ、と、聞くに堪えない声が響いた。

 それは逆さまに――胴体から切り離されたために――なった肉の胎児の口から発されたものだった。

 伍ノ型とその後の斬撃の勢いのままに着地に移りながら、瑠衣はようやく思考できた。

 肉の胎児の両腕を斬り飛ばしたのは、誰だったのか、と。

 そしてその答えは、すぐにわかることになる。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 グルル、と、唸り声が聞こえた。

 傍らを見ると、コロが全身の毛を逆立たせていた。

 そしてそんなコロの視線を追いかければ、そこに、いた。

 

 隠れる気など毛頭ない。全身で、こちらにそう伝えてきている。

 容貌は、重厚にして異形。

 侍の風貌を持ちながら、しかし甲殻類のような(おぞ)ましい外見をしている。

 

「……上弦の鬼、ですね。もちろん」

「上弦の壱、黒死牟…」

 

 眼に刻まれた数字で、相手が上弦の壱であることはわかる。

 瑠衣は日輪刀の構えを解くことなく、相手を睨んだ。

 相手の全身から発される鬼気は、これまで感じた誰よりも強かった。

 あの童磨よりも、なお強い。

 

 そして黒死牟の側もまた、瑠衣を見つめていた。

 六ツ眼を細めて、瑠衣の頭から爪先までをじっと見つめている。

 けして威圧的ではない。しかし、重い。視線が重いと感じたのは初めてだった。

 

(この鬼、強い。しかも、たぶん、今までで一番強い鬼だ……!)

 

 背中に、冷たい汗が滲んで来た。

 その時だった。

 頚を飛ばされて倒れ伏していたはずの肉の胎児が、頭が無いままに起き上がったのだ。

 頭がないので声も無く無造作に起き上がってきたため、その様は先程よりも不気味だった。

 

「な……っ」

 

 黒死牟に集中していたので、瑠衣の反応は遅れた。

 頚なしの肉の胎児は、全身で瑠衣を押し潰そうとして来た。

 回避は困難。ならば攻撃を。しかし、どこを攻撃すれば良いか。

 一瞬の思考が、頭を駆け巡った。

 

 ――――月の呼吸・陸ノ型『常世孤月(とこよこげつ)無間(むけん)』。

 風が、頬を撫でた。瑠衣はそう感じた。

 自分の周囲、肌を撫でられたと錯覚する程の距離を、()()が通り過ぎて行った。

 それも、無数にだ。

 そう感じた次の瞬間、ボトボトと鈍い音が響いた。

 

「くだらぬ…」

 

 肉の胎児の肉体が、細切れになっていた。

 余りにも一瞬で、そして余りにも無数の攻撃を同時に受けたために、ダメージが再生力を上回った結果だった。

 

「そのようなことをしても…。我が()からは、逃れられぬ…」

 

 ()()()()と、肉塊の1つから何かが這い出てくるのが見えた。

 それはあの上弦の肆の、最初の姿――老人鬼だった。

 ただ、指先ほどに小さい。

 

「ひいいい、ひいいい……」

 

 それを見て、瑠衣は察した。

 これが、この指先ほどの鬼が、上弦の肆の本体なのだ。

 過去に戦った時、何度頚を刎ねても死ななかったのは、このためだ。

 そしてこれまで何百年もの間、鬼殺隊の剣士達がどうやって殺されてきたのかを、理解した。

 ギッ、と、己の奥歯が音を立てるのを聞いた。

 

「ひ、ひいいいいいいいいっ!」

 

 ――――風の呼吸・捌ノ型『初烈風斬り』!

 その小さな頚に、日輪刀をぶち当てた。

 硬い。なるほど、他の分身体とはまるで違う。

 反対側から、さらに小太刀を撃ち込んだ。

 

 二振りの日輪刀が、両側から頚に食い込んだ。

 その交差した峰に足を乗せて、強靭な脚力と体重を乗せて、押し込んだ。

 上弦の肆はもがいていたが、急激な肉体変化の反動と黒死牟の一撃で力を使い果たしていた。

 さらなる変化は起こらず。そして。

 

「ギ、イ……ッッ!?」

 

 醜い断末魔と共に、上弦の肆、半天狗の頚がついに斬られた。

 瑠衣は斬り落とした頭を踏みつけて、聞くに堪えない声がさらに響かないようにした。

 

「もういいです。お前は、もう死んでください」

 

 瑠衣のその言葉が届いたのかどうなのか、足裏で、ぼんっと音を立てて、半天狗の頭が塵と化した。

 次いで、傍らに落ちていた肉塊も塵となって消えて行った。

 再生しない。逃げ隠れも、もう出来なかった。

 上弦の肆・半天狗は、ここに滅びたのだった。

 

「さて、と……」

 

 しかし、その事実にいつまでも浸ってはいられなかった。

 何故ならば、瑠衣の目の前には半天狗よりもずっと大きな存在がいたからである。

 そして、異形の侍は、そんな瑠衣を未だ見つめていたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 肉の胎児(上弦の肆)を葬った余韻に浸る間もなく、瑠衣は上弦の壱――黒死牟と対峙していた。

 周囲には、逃げる者はすでに逃げたのか、人気(ひとけ)はなくなっている。

 瑠衣と黒死牟が、少しばかりの距離を置いて、互いを正面から見つめているだけだ。

 

(……強い)

 

 出で立ち、そして先程の一撃。

 それを抜きにしても、こうして対峙しているだけで強さがわかる。

 小動物が肉食獣を前にした時、本能的に身の危険を感じるのに近い。

 

 そしてその場合、小動物側がとる行動は2つしかない。

 闘争か、あるいは逃走か、だ。

 しかしそのいずれを選んでも、多くの場合は小動物側の死をもって事態は終わる。

 例外は、少ない。

 

「見事だ…」

 

 不意に、黒死牟が声をかけて来た。

 

「先程の一撃…」

 

 油断なく小太刀を構える瑠衣に対して、しかし黒死牟は自然体のままだった。

 対照的な2人の反応は、両者の実力差を如実に表していた。

 

女性(にょしょう)にして閃光の如き剣筋…。並の腕前であれば…。頚ではなく刀の方が折れていただろう…」

「……お褒めに預かり光栄ですが」

 

 もちろん、言葉の通り「光栄」などと思っているわけではない。

 ただ、少しでも時間を稼ぎたかっただけだ。

 会話をしながら、黒死牟に隙が見出せないか探っていたのだ。

 だが、どうしてもそんな隙は見出せないのだった。

 

「私は……――――ッ!」

 

 身体を、真っ二つに両断されたかと思った。

 反射的に――思考するよりも素早く――日輪刀を前に出していなければ、実際にそうなっていただろう。

 衝撃の後に音が聞こえてくるのは、それだけ黒死牟の剣速が凄まじかったからだ。

 一太刀。しかし、複数回斬り付けられたかのような感覚。

 

 ジンジンと痺れる両腕に、顔を顰めた。

 不味い受け止め方をしたのか、掌を通して、日輪刀が悲鳴を上げているのを感じた。

 そこまで至ってようやく、黒死牟が攻撃してきたのだと、理解が追い付いて来た。

 またしても、不可視の斬撃。

 

(これは……本気で、危ないかもしれない)

 

 小動物は幸福だと、瑠衣は思った。

 闘争か逃走か。2つも選択肢があるのだから。

 瑠衣は、1つしか選べない。

 

「ほう…。挑んでくるか…」

「……当然です。見鬼必滅、それが、鬼殺隊ですから」

 

 闘争。そして唯一の例外を掴み取る。

 そうするしか道は無かった。

 だから瑠衣は、大きく息を吸った。

 呼吸を強く、そして深くする。

 そしてそれに呼応するかのように、顔の痣がより色濃くなっていった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 面白い、と、黒死牟は思った。

 瑠衣に一太刀を浴びせた後の、率直な感想である。

 自分の攻撃を、()()()受け止めて見せた。

 

「ふ……っ!」

 

 そして、野猪か猛兎かと言うようなその脚力である。

 黒死牟と戦うに際して、瑠衣は最初から様子見などしなかった。

 最初の一歩目から、全速で跳んだ。

 四方八方から、瑠衣は黒死牟に斬りかかった。

 

 黒死牟の六つある眼がそれぞれの方向を見やり、正面を向いた。

 そして、黒死牟は瑠衣の斬撃1つ1つを()()に斬り弾いてしまった。

 瑠衣の腕に、日輪刀に、重い衝撃が連続で走った。

 黒死牟の攻撃の重さに耐え切れず、瑠衣の身体がふわりと飛ばされた。

 

(来る……!)

 

 ――――月の呼吸・弐ノ型『珠華(しゅか)弄月(ろうげつ)』。

 肌が粟立つのと、実際の衝撃が来たのはほぼ同時だった。

 瑠衣に向かって放たれたのは()()

 だが、黒死牟は刀を握ってはいない。

 

 その肉体から飛び出した刃が、斬撃を飛ばしているのだ。

 鬼らしい攻撃と言えばそうだが、侍然とした姿からは不自然でもある。

 まるで、あえて刀を持たないようにしているかのようだった。

 いや、今はそういう考察をしている場合では無い。

 

(この斬撃は、普通じゃない!)

 

 斬撃を()()()()()()()、瑠衣はそう判断した。

 見た目は一振り。だが実際は、そうではない。

 

「シイイイィィ……!」

 

 ――――風の呼吸・肆ノ型『昇上砂塵嵐』。

 斬撃を潜るように膝をつき、その上で全方位を斬り払った。

 威力を砕くことは出来ず、逸らすのがやっとだった。

 しかし予想の通り、瑠衣が斬り払った斬撃は()()あった。

 

(恐ろしい剣技!)

 

 黒死牟の斬撃には、その他に大小の別の斬撃が付属している。

 しかも始末の悪いことに、その形も数も定型ではない。

 さらには全てが不可視。

 己の直感と肌感覚だけが頼りという、余りにも危険な状況だった。

 

(とにかく、動き回らないと。止まったら駄目だ)

 

 いかに不可視で無数の付属刃を伴うと言っても、主たる斬撃は1つに過ぎない。

 注意深く判断して捌けば、凌げない程ではないはずだった。

 そのためにも動き回り、懐に飛び込み、必殺の一撃を叩き込む。それしかない。

 そう判断して、瑠衣は顔を上げた。

 

「あ……」

 

 そして、黒死牟の全身から無数の刃が生えているのを見た。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――致命傷を、避けることさえ困難だった。

 いくつかは、迎撃できたと思う。逸らせたと、そう思う。

 しかし、それがどれだけ意味があったのかはわからない。

 

「かふっ」

 

 呼吸をしようとして、喉が血で詰まった。

 自分の意思とは無関係に、膝が折れそうになっていることがわかる。

 だが、瑠衣はまさに残りの全ての力を使って立ち続けていた。

 

 それは、戦意のためでは無かった。()()()()()()()()

 瑠衣の身体の全面で、血に濡れていない場所は無かった。

 羽織も隊服も形こそ保っているが、布地が切れて地肌を晒していた。袖などは落ちている。

 そこから、(おびただ)しい量の血が流れていた。

 

「ふむ…。動かない方が良いな…」

 

 言われるまでもなく、動けなかった。

 何故ならば、動けば、あるいは膝をつけば、その衝撃で死んでしまうからだ。

 余りにも鋭く斬られたがために、傷口がまだ()()()()()()

 だから動けば、思い出したかのように傷口が開き()()が出てしまうだろう。

 そんな現象を、瑠衣は初めて見た。

 

「最初こそ面白きこと、と思ったが…」

 

 そんな瑠衣に、黒死牟はゆっくりとした足取りで近付いて来た。

 それに対して、瑠衣に出来ることは無かった。

 ただ、膝を折らぬように必死だった。

 

 ブルブルと、自分の身体が震えていることがわかる。

 決壊寸前の傷口を、筋力と気力で抑え込んでいるからだ。

 何という無様。

 だけど、良かった。死ぬわけにはいかなかった。

 

(もう、私しかいないんだ……!)

 

 こんなところで終わるわけにはいかない。

 その想いが、辛うじて瑠衣の意識を繋ぎ止めていた。

 

「犬畜生が刀を持つとは…。奇妙な時代になったものだ…」

 

 そんな瑠衣の前に、コロが立った。

 前傾姿勢で唸り声を上げる彼に、黒死牟はさしたる興味を向けた風ではなかった。

 自分から進んで相手にする気はないと、態度で語っていた。

 

「バウッ!」

 

 吠え声ひとつ。コロが飛び掛かった。

 それに対する黒死牟の対処は、極めて簡潔だった。

 

「ギャウッ」

 

 これまでに聞いたことも無いような鳴き声を上げて、コロが吹き飛んでいった。

 すぐに視界から消えて、何かにぶつかる音が聞こえた。

 身体を動かすことが出来ない瑠衣は、コロの姿を追うことも探すことも出来ない。

 顔中に脂汗を流して、立っていることしか出来ない。

 

「さて…。これからお前は死ぬが…」

 

 目の前。まさに指呼の距離にまで迫った黒死牟を、目だけで見上げた。

 

「名も残さずに死ぬのは哀れ…。せめて名乗ってから頚を刎ねてやろう…」

 

 鬼に名乗る名など持ち合わせてはいないが、少しでも時間を稼ぐ必要があった。

 回復と、起死回生の時間。いずれも何の根拠もないけれど。

 

「れん……煉獄、る……る、瑠衣……!」

「煉獄…」

 

 そこで、黒死牟の顔の端がピクリと反応した。

 反芻するように「煉獄」と呟いて、言った。

 

「あの男と同じ名…。奇妙なり…」

 

 あの男、という言葉には、瑠衣も反応した。

 煉獄という名を聞いて思い浮かぶ人間など、そう多くはない。

 

「貴様はあの男の…。煉獄槇寿郎の関係者か…」

 

 やはり、という思いと共に、奥歯を噛んだ。

 

「煉獄槇寿郎は、私の……父だ……!」

「父親…。娘と…。ふむ…」

 

 黒死牟の反応は、やはり奇妙だった。

 疑問に思っている。不思議に思っている。戸惑いと困惑、疑問。

 能面のような顔に、何故かそんな感情の動きを読み取ることが出来た。

 

 胸の奥に、何か重しを乗せられたような気がした。 

 何故そんな反応をするのかと、急激に嫌な予感を覚えた。

 どうしてか、これ以上は聞くなと自分の中の何かが言っている。

 

「しかし…」

 

 傷の痛みと、胸のざわめきと。

 血を失い過ぎた肉体の、不気味な冷たさの中で。

 

()()()()()()…。()()()()()()…」

 

 心を斬られる音を、確かに聞いた。




最後までお読みいただき有難うございます。

愉しい(え)
妹主人公を追い詰めるのは実に愉しい(え)
もっと、もっと苦しめたい(え)

それでは、また次回。


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第58話:「混迷」

 ――――それは、救済だった。

 

「ひいっ。か、体が凍り付いて……!」

「やめ、おやめください! 上弦様、どうしてこんな!」

「ギャアアアアアッ」

 

 童磨は常々、鬼という存在が()()だと思っていた。

 何故ならば、()()()()()()()()()()だからだ。

 

「鬼になったって、大して何も変わらなかった」

 

 確かに鬼は、不老不死と強靭な肉体を得た。

 しかし結局、食べねばならない。

 太陽の光や鬼狩りによって、死を与えられる。

 飢えからも死からも逃げ切れなかった。中途半端な存在だ。

 

 だから、解放されなかった。

 人だった頃からあった「生きる苦しみ」から、解放されなかった。

 童磨はずっと、それを憐れだと思っていた。

 しかし今日、ついに無惨から赦しを得たのだ。

 

「もう、苦しまなくて良いんだよ」

 

 そう言って童磨は、断末魔の叫びを上げる鬼達を次々に氷像に変えていった。

 無惨という特別な例外を除いて、鬼に鬼は殺せない。

 ただそれは直接的に命を奪えないという話で、死を与えられないという意味ではない。

 再生には限界がある。

 

 そして下位の鬼には、童磨の氷の血鬼術を破る力は無い。

 つまり氷漬けにして朝まで放置しておけば、夜明けと共に死ぬのだ。

 極低温下におけば、鬼でさえ肉体活動が緩慢になる。

 朦朧とした意識の中、眠るように死を迎えることが出来る。

 

「嗚呼、今日は素晴らしい夜だ。こんなにも皆を救済できるだなんて!」

 

 素晴らしい。童磨は何度もそう繰り返した。

 その顔に張り付いているのは、笑顔だった。

 同胞の虐殺――人間が巻き添えでも、もちろん気にしない――を、笑顔で行っていた。

 

「黒死牟殿の方はちゃんとやってるかなあ。俺ばっかりが真面目に仕事をしているんだから。でも、どうせあのお方は黒死牟殿や猗窩座殿を褒めるんだろうな。贔屓だよねえ」

 

 言葉自体は不公平を訴えるものだが、表情のせいか雰囲気のせいか、耳に残らなかった。

 

「…………」

 

 そして、そんな童磨を、珠世が見つめていた。

 何か声をかけようという風ではない。

 ただ、困惑の色だけは浮かべていた。

 

(何故、私を生かしているの……?)

 

 殺すでもなく、無惨に差し出すでもなく。

 さりとて逃がすわけでもない。

 いったい何がしたいのか、珠世には童磨の真意が読めなかった。

 そもそも真意と呼べるような類の何かがこの男にあるのだろうかと、そう思った。

 

『羨ましいなあ』

 

 あの時、瑠衣が犬井に刺された直後。

 童磨は、珠世に対してそう言った。

 その言葉の意味するところを、珠世は掴めずにいるのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()

 そう言われた時、瑠衣は強烈な吐き気を覚えた。

 喉を通り過ぎて溢れたそれは、大量の血だった。

 すでに下唇から顎にかけては真紅に染まり切っており、深刻な状態であることは明らかだった。

 

「男女の差はあれど…」

 

 六つの眼を細めて、黒死牟は瑠衣を見下ろしていた。

 その身からは、戦闘の気配が消えている。

 決着はついたと、そう考えていることがわかった。

 

「肉質…。骨格…。細胞…。親子であれば類似するもの…」

 

 まるで瑠衣の身体を()()()()見ているかのような、そんな眼だった。

 あまり、心地よい感覚では無かった。

 

「お前達の間にはそれが無い…」

 

 黙れ。つまらぬ世迷言に騙されるものか。

 頭の中では、そう思っていた。

 だが、それを口にすることは出来なかった。

 喋ろうとすれば、言葉の代わりに血を吐くことになるからだ。

 

 死というものを、間近に感じた。

 血の気が引き、指先はおろか手足の感覚さえなくなってきていた。

 死ぬわけにはいかないのに、死につつある。

 そして死は徐々に、瑠衣の意識を覆おうとしていた。

 

(あ……諦める、な……!)

 

 筋肉を、引き絞れ。傷口を塞げ。

 呼吸を維持して、破壊された血管を閉めろ。

 無事な血管を選んで、血の巡りを保て。

 

 (ふいご)のように、ヒュウヒュウという頼りない呼吸音だった。

 それでも、意思だけは保った。

 たとえ肉体は動かせなくても、意思だけは。

 

「もっとも…」

 

 そんな瑠衣を見てどう思ったのか。

 黒死牟は懐から取り出した何かを、瑠衣の足元に放った。

 ガチャ、と金属音を立てたそれを、目が勝手に追った。

 

 それは、折れた刀だった。

 根本近くで折れていたが、紅い刀身と悪鬼滅殺の四文字を見逃すことは無い。

 何より、()()()()()()()()()

 それが誰の刀であるのか、瑠衣にわからないはずは無かった。

 

「あの男は、もうおらぬ…」

 

 ()()()()()

 その言葉は、血鬼術よりも刀傷よりも、瑠衣を強く殴りつけた。

 

「故に今さら…。血縁の有無など(せん)なきこと…」

 

 黒死牟は何やら勝手に納得しているようだが、瑠衣はそうはいかなかった。

 足元に落ちた刀――()()()

 それは瑠衣の視界を歪める程に、強く、酷く。

 瑠衣を、どうしようもなくさせた。

 

「貴様アッ!!」

 

 血よりも、言葉が先に出た。

 だが、それが致命的だった。

 集中が切れたことを意味するからだ。

 

 血は、すぐに言葉に追いついて来た。

 そして意識の集中を失った瑠衣の身体は、血に続くものを吐き出した。

 身体の前面から、それらは出て来た。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――立てない。

 地面に膝をついて、瑠衣は腹を抱くようにしていた。

 血は、その勢いを緩めていた。

 だがそれは、事態の好転を意味しない。

 

 傷口が大きく広がった結果、吐き出すべき血をほとんど出してしまった、というだけだ。

 すなわち瑠衣の身体は、その生命活動を支える血液(燃料)を失ってしまったのだ。

 肌は蒼白くなり、僅かな汗が顔に滲み、呼吸――脈拍は早く、弱い。

 端的に言えば、すでに死人の顔をしていた。

 

「死が恐ろしいか…」

 

 自らの腹を掻き抱く瑠衣に、黒死牟はそう声をかけた。

 切り刻まれた隊服の一部が、奇妙な盛り上がりを見せていた。

 瑠衣の腕はそれを押さえ付けようとしており、カタカタと震えていた。

 死への恐怖か、あるいは肉体の生理現象か。

 

「ならば…」

 

 黒死牟が、ぐっと拳を握った。

 骨と肉が軋むような音を立てたかと思うと、掌が破れたのだろう――彼の強靭な皮膚と肉を裂くほどの力――ポタポタと、血が滴り落ち始めた。

 ただ瑠衣は顔を上げることが出来ない上、聴覚にもすでに以上を来たしていた。

 だから、黒死牟がしようとしていることに気付くことが出来なかった。

 

「……っ」

 

 髪を掴まれて、無理矢理に顔を上げさせられた。

 そこでようやく、血に濡れた手を見ることができた。

 ただ意識はすでに半ば落ちていて、何の反応も返せずにいた。

 

()()()…。()()()()()()()…」

 

 上弦の鬼は、他の鬼とは比較にならない程に鬼舞辻無惨の血が()()

 体内を循環する無惨の血を、凝縮して体外に出せる程に、だ。

 そして無惨の血には、人間を鬼に変貌させる作用がある。

 つまり上弦の鬼には、限定的ながら人間を鬼に変えることが出来るということだ。

 

 その方法は、至極単純だ。

 瑠衣の眼前で拳を握り込み、掌から滴る血の量が増した。

 すでに自分の血で汚れてい瑠衣の唇に、黒死牟の――()()()()がボタボタと落ちる。

 生温かい血が唇に触れ、口内に入り込む感覚に、瑠衣は呻いた。

 

「う……」

 

 急速な失血によるためか、異常な渇きを覚えていた。

 そのせいもあって、瑠衣の舌が口内に侵入する水分を舐め取る。

 喉が、焼け付くようにヒリついた。

 その瞬間、瑠衣の意識が一気に覚醒した。

 

「あ、ぐ……うえっ。うううう、ん。ぐ、ううう」

 

 顔を背けようとすると、固定され、口を抉じ開けられた。

 手指を捻じ込まれて見悶えると、腹から嫌な音が響く。動けない。

 どうすることも出来ずに、されるがままに身を侵される。

 やがて、瑠衣の身体は生理的反応として、ビクビクと跳ねるだけになっていった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 げえげえと、嘔吐し続けた。

 およそ少女の出す音ではないが、そんなことを考える余裕は無かった。

 身を起こす力もないので、横向きに倒れた体勢で吐き戻す。

 ごぼごぼという危険な音は、喉と肺腑、胃の全てから聞こえていた。

 

「げっ……ふっ……」

 

 口を開く度に、どす黒い血の塊が噴き出す。

 それを見つめる瑠衣の瞳には、色がなかった。

 腹を掻き抱いていた両腕もだらりと地面に落ちて、()()()()ままになっていた。

 

「やはりな…」

 

 陸に上げられた魚のように悶える瑠衣を見下ろしながら、黒死牟は言った。

 

「そうなると…。思っていた…」

 

 すでに、瑠衣の意識はない。

 全身の血を失い、そして無惨の血を飲んでしまった時点で、気絶してしまった。

 出血のショックと、異常な輸血の結果だった。

 

「すでに血液は失われ…。心の臓も肺腑も機能せず…。肉体は死に瀕していると言って良かろう…」

 

 いつ死んでもおかしくない。

 いや、むしろ死んでいるべきだ。

 今の瑠衣の状態を見れば、誰であれどう判断するだろう。

 しかし、だ。

 

「何だ…。その肌は…」

 

 消えかけた痣が、顔から身体へと侵蝕を始めていた。

 それは手足の先にまで及び、血管のように蠢いてさえいた。

 そして痣の部分から、蒼白だった肌に血色が戻り始めている。

 

「何だ…。その身体は…」

 

 ()()()()と、異常な音が腹部から聞こえていた。

 隊服の盛り上がりが少しずつ失われ、やがてなくなった。

 肉が混ざり合うかのような音を最後に、それは止んだ。

 

「何だ…。その目は…」

 

 動かなくなっていた瑠衣が、ゆっくりと、しかし確かな力強さで起き上がり始めた。

 地面に置く手も、身を支える足も、しっかりと動いている。

 何よりも大きな変化は、目だった。

 前髪の間から覗く瑠衣の、()()()()()()

 金色に波打つ光彩。およそ人の目ではない。人のものではないなら、それは何だ。

 

「調子ニ」

 

 声も、やはり違う。

 元の声に別の声が重なっているようにも聞こえる。

 いずれにせよ、()()()

 全身を軋ませて、彼女は言った。

 

「調子ニ乗ルナヨ、オ前」

 

 黒死牟の六つの眼が、再び透明な気配を帯びる。

 彼は瑠衣の身体を隅々まで、改めて観察した。

 そして、即座に理解する。

 瑠衣が()()していることを、理解した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 肉の胎児が滅びたことで、被害の拡大は止まった。

 しかし一度広がった混乱は、容易には収まるものではない。

 もちろん現場から離れれば離れるだけ「化物が暴れている」という()()()()()()()()は、人間の常識に収まる範疇に修正されていく。

 例えば「猛獣が暴れている」「浪士崩れが警官と撃ち合っている」「陸軍のクーデター」等だ。

 

 混乱の時代はすでに過去とは言え、人々の心には漠然とした不安が残っていたのだろう。

 そうした不安が急に訪れた非日常によって爆発し、収拾がつかなくなった。

 ()()()()()()()()()()()()

 表面的にはどれほど受け入れているように見えても、本心は別だった。

 

「おい、こっちで合ってるのかよ!」

「知るかよ、とにかく走れ!」

 

 路地裏を走って逃げる男達も、どこに行けば良いかわかっていない様子だった。

 ただ走って逃げることだけが助かる道だと、そう信じている様子だった。

 

「――――あっ!?」

 

 不意に、1人の頭が千切れた。

 それに気付いて悲鳴を上げる前に、もう1人の頭も千切れた。

 路地の陰に潜んでいた鬼が、2人の頭を両手に掴んだのだ。

 

「くそっ、こうなったら命令なんて無視して喰いまくってやる」

 

 握力だけで人間の首を引き千切った鬼は、額のあたりから頭を割り、口をつけた。

 脳髄を啜る音が、路地に響いた。

 東京の鬼は、無惨の命令で無差別の捕食を禁じられていた。

 人と鬼の共存というお題目のためだ。

 だが()()は質も量も多くなく、下位になればなるほど不満は溜まっていた。

 

 だから、こういう非常時には禁を破る者も出てくる。

 もっとも、無惨が粛清を――無論、他の鬼は知りようもないが――決断した以上、今さらそのような掟には何の意味も無かった。

 はっきりしているのは、彼の運命は決まっている、ということだった。

 

「あ?」

 

 奇しくも、彼の最期の言葉は、先ほど彼が殺した人間と同じだった。

 そして、死に方も同じだった。

 背後から無造作に頭を掴まれ、そして引き千切られた。

 違いがあるとすれば、彼はそれでも死に切れなかったということだ。

 

「邪魔」

 

 放り捨てられた頭も、倒れ伏した胴体も、地面に血溜まりの水面――()()に、吸い込まれて消えた。

 それを行った者、つまり亜理栖は、それ以上の興味を抱かなかったようだ。

 最終的に、路地に立っているのは亜理栖だけになった。

 

『――――出せ』

 

 しかし不思議なことに、声はもう1つ聞こえた。

 亜理栖はそれに反応しなかったが、聞こえていないわけではない。

 それは、彼女の額に血管が浮き出ていたことからもわかる。

 努めて無視している。その証明だった。

 

『――――俺を出せ!』

 

 同時にそれは、努力しなければ我慢できない状況だと言うことだ。

 ()()()()()

 亜理栖にとって重要なのは、その限界が、彼女の兄が示すタイミングに合うかどうか、ということなのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 『透き通る世界』。

 あるいは『無我の境地』。あるいは『明鏡止水』。

 武や、()を極めた者が辿り着く境地。

 そこに至った者は、己自身でさえも()()になるのだという。

 

「…………ふむ」

 

 黒死牟は、()()にいた。

 だからなのか、驚きの声を上げたように見えても、眉ひとつ動かしていない。

 つまり目の前で起こったことは、黒死牟にとっては驚く程のことではなかった、ということだろう。

 

 しかし、彼の目の前で起こった出来事――すなわち瑠衣に起こった変化は、驚嘆すべき事柄だった。

 瑠衣から、()への変化。

 ()()()()()()()()()()()

 それは人格という意味合いだけでなく、肉体そのものの変化を意味していた。

 

「間違いなく…。今のお前は鬼だ…」

 

 黒死牟の眼は――『透き通る世界』に到達した彼は、瑠衣の肉体の内側でさえ視ることが出来る。

 瑠衣の血縁や肉体の変化を見抜いたのは、彼女の身体をまさに透かして見ていたからだ。

 だから理解した。

 今の瑠衣が人間ではなく、鬼になっていることに。

 

「しかもその再生速度は…。上弦に匹敵している…」

 

 それも、並の鬼ではない。

 黒死牟の眼は、変化を見抜くと同時に鬼としての瑠衣が食人していないことも見抜いている。

 それでもなお瑠衣の再生速度、内臓が漏れ出る程の重症が一瞬で治癒されるのを見た。

 ずっと不可解だった。

 

 かつて無限列車で猗窩座が頚を刎ねられ、吉原で妓夫太郎・堕姫を滅ぼされた。

 そのいずれも彼女の存在が絡んでいたことを、黒死牟は無惨との情報共有で知っていた。

 だが人間もどきの鬼もどきに猗窩座達が遅れを取るとは、どうしても理解できなかった。

 しかしそれも、いざ彼女を前にして氷解した。

 

「人と鬼を行き来する…。血鬼術か…」

 

 まさに、()()

 煉獄瑠衣は、鬼として凄まじい潜在能力を秘めていた。

 

「他の者が敗れるのも…。無理からぬこと…」

 

 今まで数多の鬼を見てきた黒死牟だったが、これ程の才気を見たのは初めてだった。

 見事だと、感心してしまう程だ。

 

「五月蠅イナ」

 

 当然ながら、黒死牟の感心など瑠衣は必要としていなかった。

 次の一瞬で瑠衣の身体が消えたように見えて、さらに次の一瞬で黒死牟の目前にいた。

 そしてその六ツ眼を宿す顔面に、小太刀を振り下ろした。

 

「オ前ニ付キ合ッテイル暇ハナインダヨ」

「無粋…」

 

 同時に、黒死牟は再び全身から刃を生やしていた。

 暴風が、辺りに吹き荒れた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――月の呼吸・陸ノ型『常世孤月・無間』。

 長射程・広範囲の斬撃、それも不可視の付属刃を持つ斬撃が、再び瑠衣を襲った。

 その斬撃の衝撃は、黒死牟に斬りかかった瑠衣の肉体を細切れにするはずだった。

 

「見エテイルヨ」

 

 それを空中で、しかも至近距離で迎撃する。

 二振りの小太刀を逆手に持ち替えて、横回転した。

 金属音を幾度も響かせる様は、まるで銃弾でも弾いているかのようだった。

 

 そして黒死牟の斬撃の威力を利用して、独楽(コマ)のように回りながら距離を取った。

 足先を振って空中での角度を器用に変え、曲芸師の如く付属刃の間を擦り抜ける。

 着地。それから再びの突進。その間は1秒にも満たなかった。

 

「器用なことをする…」

 

 ――――月の呼吸・捌ノ型『月龍(げつりゅう)輪尾(りんび)』。

 横薙ぎの斬撃。主たる斬撃の幅が広く、その分だけ付属刃も多い。

 縦の跳躍を素早く繰り返して、瑠衣はそれをかわした。

 

 ――――月の呼吸・玖ノ型『(くだ)り月・連面(れんめん)』。

 落ちてくる斬撃。稲妻のように地面を打ち、付属刃が拡散する。

 瑠衣は無数に落ちてくる斬撃を一瞥するや、その内の1つに自分から跳び込んだ。

 地面に落ち、付属刃が拡散する直前の隙間に身体を捻じ込んだのだ。

 

「何と…」

 

 素晴らしい観察力と洞察力だった。

 何より果断だ。躊躇というものが見えない。

 上弦並の再生力があるから、という慢心も無い。

 最小限の被害で切り抜けられる場所を見抜き、迷わずに突っ切る。

 

「しかし…」

 

 斬撃の間を抜けてきた瑠衣の日輪刀が、黒死牟の頚を捉えた。

 人間とは思えない膂力で振るわれたそれは、黒死牟の強靭な頚でさえ斬り裂いていった。

 擦れ違うように交錯し、瑠衣が黒死牟の背後に着地する。

 ごろりと落ちた黒死牟の頭は、地面に落ちる前に塵となって消えてしまった。

 瑠衣は、舌打ちをした。

 

「すでに気付いているようだが…」

 

 振り向いて立ち上がると、メキメキと音を立てて黒死牟の頭が再生するところだった。

 猗窩座と同じだ。 

 

「頚を斬られても…。死なぬ…」

 

 黒死牟は、頚の切断による死を克服した鬼だ。

 いかに日輪刀とは言え、急所を克服されてはただの刀と変わらない。

 今の黒死牟を倒すためには、太陽の光を直接当てるしかないだろう。

 あるいは。

 

「関係ナイヨ。再生デキナクナルマデ殺セバ良インダカラ」

「威勢の良い…。ことだ…」

 

 聞き終わる前に、瑠衣は黒死牟に跳びかかっていた。

 再生しかかっている頚を、再び斬りに行く。

 その行動には、一切の迷いが無かった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 この時、瑠衣と黒死牟の戦いを見ていた者が2人いた。

 まず1人は、不可視の血鬼術で近くまで来ていた愈史郎だった。

 彼もまた、珠世と同じように犬井・童磨の邂逅時に()()されていた。

 童磨を監視するという珠世の頼みで――心底から嫌々だが――瑠衣を探していた。

 

 最も騒がしい場所にいるだろうと踏んでやって来たが、案の定だった。

 問題は、彼が到着した時には黒死牟との戦闘が始まっていた、ということだった。

 黒死牟の剣技が余りにも凄まじく、近付くことが出来なかった。

 まごついている内に、今の状態にまで発展してしまった。

 

「おい、大丈夫か」

 

 唯一できたことと言えば、瓦礫の中でぐったりとしていたコロを拾ったことぐらいだ。

 胴を深く斬られていて、危険な状態だった。

 獣医の経験などなかったが、応急措置として傷口を縫合した。

 それでも、命の危機にあることには変わりない。

 

「いいか、動くなよ。動いたら傷口が開いて死ぬぞ」

「クゥン……」

 

 再起不能。絶対安静。今、言えることはそれだけだった。

 コロを抱きかかえて、愈史郎は顔を上げた。

 そこには、幾度も突進を繰り返す瑠衣の姿があった。

 

「あれが、珠世様の仰っていた……。化物だな、どちらも」

 

 元々戦闘向きではない愈史郎には、黒死牟の斬撃は単なる線にしか見えない。

 しかし今の瑠衣にとっては違うようで、彼女が愈史郎が感知し得ない斬撃をも回避していた。

 黒死牟もそうだが、今の2人が何を見ているのか。もはや愈史郎にはついて行けない。

 見ていることしか出来ない自分自身に、愈史郎は本人でさえ気付けない内に、苛立ちを覚えていた。

 

 そして、もう1人。

 ただし彼はその場にいるわけではなく、黒死牟の視界を通じて見ているだけだ。

 ――――鬼舞辻無惨である。

 

(何だ、手を止めた……?)

 

 交戦中だった鱗滝は、無惨の突然の停止を訝しんだ。

 それを追撃の好機と思えなかったのは、無惨の戦闘力が予想の遥か上を行っていたからだ。

 だいたい追撃するも何も、実は()()()()()()()()()()()()()

 そして実際、この時、黒死牟の視界を通じて瑠衣を見ていた無残は、目の前の鱗滝達のことを思考の外に追い出してしまっていた。

 

「…………素晴らしい」

 

 訝しむ鱗滝を他所に、無惨は言った。

 それは、黒死牟に対する明確な命令だった。

 

「黒死牟、その娘は殺すな。殺さずに私の下へ連れてこい」

 

 今まで、特に関心を持っていたわけではない。

 だが今日、()()()()()見るに至って、そして今の状態を見るに至って、無惨は考えを改めた。

 

「面白い()()()()()だ。青い彼岸花の前に、その娘を取り込んでおくとしよう」

 

 無惨は、無駄が嫌いだった。

 だから「無駄に」増やした鬼を粛正するわけだし、それは変化への忌避と並んで一貫した無惨の姿勢でもあった。

 しかし逆に言えば、有用なものは何であれ、例え敵側にあるものでも評価する。

 かつての黒死牟が、そうであったように。




最後までお読みいただき有難うございます。

愉しい(え)
間違えた、楽しいですね(え)

物語はいよいよラストスパートです。
さて、はたして誰か生き残れるのかどうか…。

それでは、また次回。


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第59話:「姉妹」

 戦闘は、まさに()()領域(レベル)に達していた。

 その凄まじさは、瑠衣と黒死牟の周囲が()()()()()と化していることからもわかる。

 戦闘の余波で半径十数メートルにある周囲の建造物は吹き散らされ、2人を中心に無人・無物の空間ができてしまっていた。

 

「ナルホド、瑠衣()ジャア太刀打チデキナイワケダ」

 

 そしてその原因の大部分は、黒死牟の技にあった。

 彼の攻撃の射程範囲とその威力は、今の瑠衣()をもってしても受け切ることは出来ない。

 基本的に、回避するしかない。

 するとその攻撃の威力は、周囲にある物に行くしかない。

 

 結果として、あらゆる建物は――鉄だろうが木だろうが――細切れに切断され、最後は吹き飛ばされる。

 だから2人の周囲には、何もなくなる。

 ただの斬撃ならこうはならなかったろうが、黒死牟の斬撃に加えられた付属刃がえげつない。

 

「ケド、見エテイタラドウッテコトハ無イヨネ」

 

 瑠衣の瞳の光彩が、金色の輝きを放っていた。

 その目は四方に動き続け、自身に迫りくる不可視の斬撃を確実に見抜いていた。

 両手に持った日輪刀でそれらを弾き、常人ならあり得ないことに、斬撃の合間を縫って()()した。

 そして、致命の一撃――本来なら、だが――を、黒死牟の頚に撃ち込む。

 

「ふむ、悪くない…」

「気ニ入ラナイネ。負ケテルッテイウノニ、ソノ態度ハ……何ヨリ」

 

 だが、黒死牟の頚はすぐに再生してしまう。

 しかもその再生速度は、頚を落とされるごとに速くなっていた。

 そして次の斬撃が来る。その繰り返しだった。

 瑠衣の身体には、傷一つついていない。

 

「ソノ目、気ニ入ラナイ」

「お前は…。同じ目は持っていないようだ…」

「六ツモアルトカ、無駄ノ極ミダヨ」

「目が六つでもなければ…。見切れぬ動きもあるが…。お前は違うようだ…」

「本当ニ気ニ入ラナイヨ、オ前」

 

 話しながらも、2人は戦闘を続けている。

 人外の領域で行われるその戦いは、もはや人間には観測することすら出来ないだろう。

 だが幸か不幸か、観測者もまた人間では無かった。

 

「…………これは」

 

 戦闘向きではない。しかし、鬼の愈史郎は両者の戦いを観測することは出来た。

 互角に戦っているように見える2人だが、しかし完全な互角はこの世に存在しない。

 たとえ五分に見える戦いも、はっきりと()()はあるものだった。

 そしてその兆しを、愈史郎は半ば本能的に理解していた。

 やがて訪れるだろう、この戦いの結果。すなわち。

 

「不味い」

 

 ()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 黒死牟からの攻撃の密度は、時間を追うごとに増していった。

 おそらく、瑠衣の動きを見て修正してきているのだろう。

 少しずつだが、確実に。

 黒死牟の攻撃は、より厳しい位置に飛んで来るようになっている。

 

(大丈夫ダ。チャント視エテル)

 

 しかしその攻撃を、瑠衣の目は的確に追っている。

 鬼の、それも上弦に匹敵するだろう動体視力をもってすれば、問題ない。

 事実、黒死牟の攻撃は1つも自分に届いてはいない。

 ただ、黒死牟の再生力だけが厄介だった。

 

(何度頚ヲ狩ッテモ、スグニ再生シテクル。再生ガ終ワラナイ)

 

 鬼の再生力には限界がある。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 だが瑠衣とて、何百年も生き続けているだろう上弦の壱を相手に、殺し続けて滅ぼし続けることが出来るとは思っていない。

 

 だから瑠衣が狙っているのは、例外の方法だ。太陽の光ではない。

 ()()

 ()()()()()()()()

 内面で敗北を認めたり、死を避けられないと認識した時、鬼の再生機能は不具合を起こす。

 短期的に徒労でも、何度でも頚を斬る。そうすれば、いずれ黒死牟の精神は消耗する。

 

(コレダケヤレバ、スグニソウナル!)

 

 黒死牟の頚に幾度目かの刃を打ち立てながら、瑠衣はそう思った。

 肌先に、黒死牟の付属刃が掠めている。

 隊服はボロボロで、隠すべき部分も隠せていない。

 だから付属刃の感触は、文字通り肌で感じられる。

 

「シブトイ――――モトイ、シツコイ!」

 

 しかし、黒死牟に崩れる様子はない。

 もっと苛烈に攻めなければ。

 そう思って、付属刃を回避した直後に一足で突撃した。

 もちろん、その時には黒死牟はすでに攻撃してきている。

 

「視エテル!」

 

 そして、瑠衣はその攻撃すらも回避する。

 逆手に持った2振りの小太刀を交差させて、黒死牟の頚に刃先を押し当てた。

 そのまま、頚を斬り落とした。

 良し、と思った次の刹那だった。

 

「ガッ」

 

 自分の頚を、黒死牟の手に掴まれた。

 その時には黒死牟の頚はすでに落ちていたが、肉体は動いていた。

 すでに頚は弱点ではないのだから、当然と言えば当然だった。

 だが、所詮は頚を失った肉体。万全であるはずもない。

 瑠衣はすぐに、その腕を斬り飛ばそうとした。

 

「コンナモノ……!」

 

 ――――月の呼吸・拾肆ノ型『兇変(きょうへん)天満(てんまん)繊月(せんげつ)』。

 黒死牟の腕に向けて日輪刀を振るうのと、無数の斬撃に包囲されるのはほぼ同時だった。

 その斬撃に、回避する隙間は無かった。

 何故ならその斬撃の包囲は、黒死牟自身でさえかわすことが出来なかったからだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 今さら言うまでもないことだが。

 鬼は、再生する。

 それこそ全身を細切れにされようと、鬼にとっては掠り傷だ。

 しかし最初から覚悟していた側と、そうでない側とでは明確な差が出る。

 

「お前は…。確かに鬼だ…」

 

 黒死牟と瑠衣の再生力は、ほとんど互角だ。

 だからこそ、この差は大きい。

 黒死牟が肉体の再生のほとんどを終えた頃、瑠衣はまだ立ち上がれずにいた。

 物の数秒もすれば追いつくだろうが、黒死牟の前にその数秒は致命的と言えた。

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

 先に再生した側の、圧倒的な有利さ。

 それに気付いた時、瑠衣は歯噛みした。

 よもや黒死牟が、そんな自爆紛いの戦術をとるとは思わなかったのだ。

 事実、()()()黒死牟であれば、やらなかったかもしれない。

 

「しかし鬼になったがために…。()()()()を失っている…」

 

 剣士の才。

 ()()()()()()だ。

 今の瑠衣は、呼吸を使っていない。

 全身に広がったように見える痣も、実は()()()()()()()()()()

 発するべき力を、発していない。

 

「それでは…。私には及ばぬ…。ただの獣に…。私は倒せぬ…」

 

 呼吸による、血鬼術の強化。

 それが黒死牟の「月の呼吸」の秘密であり、正体だった。

 ならば後は、単純な計算になる。

 鬼としての力が互角であるのならば、剣士としての力の差が勝敗を決する。

 

 極めて単純な理屈であり、道理である。

 そして瑠衣にとっては不幸なことに、黒死牟という鬼は剣士としても最強の存在なのだった。

 仮に正面勝負で今の瑠衣()が勝ち得ない存在がいるとすれば、黒死牟はその筆頭であろう。

 実力差もさることながら、相性が最悪なのだった。

 加えて、痣。痣の力を持つ者とそうでない者の差は、場合によっては鬼と人の差よりも大きなものになる。

 

「お前は…」

 

 瑠衣を見下ろしながら、黒死牟は言った。

 

「お前は…。()()()()()()()()…。()()…」

 

 その言葉を聞いて、瑠衣は表情を消した。

 それは、思いもよらぬことを指摘された、という顔では無かった。

 むしろ……。

 

「ハ、ハハ」

 

 ゆっくりと立ち上がりながら、瑠衣は笑った。

 切断された両足が、筋繊維の軋む音を立てながら繋がりかけていた。

 それでも動くには足りないのだろう、膝がガクガクと震えていた。

 

「弱イダッテ?」

 

 瑠衣()は今まで、瑠衣()の危機を幾度も救って来た。

 妹の勝てない相手と戦い。死を回避するために肉体を再生させたこともある。

 この自分がいなければ、瑠衣()はとっくの昔に死んでいただろう。

 その自分が、守っていた瑠衣()よりも弱いと言う。

 

「ソンナコト、アルワケナイダロ……!」

 

 ぶしっ、と、足の傷口から血が噴き出した。

 踏み込んだ足とは逆の足から、血が噴き出した。

 ()()()()()()()()()()()()()

 左足は半ば千切れたままだが、右足は再生していた。

 その再生した右足を使って、瑠衣は跳んだのだ。

 

「憐れなことだ…」

 

 ――――月の呼吸・参ノ型『厭忌月(えんきづき)(つが)り』。

 斬撃は、瑠衣の両肩から腹部にかけて放たれた。

 その斬撃の鋭さは、斬られた瑠衣が、両腕の自由を失うまで斬られた事実に気付かなかった程だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――不味い。

 瑠衣()が思ったのは、それだった。

 繰り返すが、太陽光以外の鬼の死は、死を実感した瞬間に訪れる。

 そういう意味において、今の黒死牟の一撃は致命的だった。

 

「…………ッ」

 

 だから、最初は堪えようとした。

 しかし斬られた事実を認識した瞬間、それは不可避となった。

 人間が肘や足の指を固い物にぶつけた瞬間、数秒後の痛みを自覚するのと同じだ。

 確実な死が、瑠衣を容赦なく殴りつけてくる。

 

 平静を保とうと引き締めたその顔が、徐々に痛みに歪んでいく。

 額に汗が滲み、眉が歪み、意思に反して唇が開き、顔色がさっと変わって行く。

 その過程は、ほんの数秒の間に行われた。

 

「ア……~~~~~~ッッッ!!!」

 

 声にならない悲鳴が、その場に響いた。

 崩れ落ちた。その衝撃で、塞がり切っていない膝の傷口から骨が飛び出してしまった。

 両肩の筋肉と神経が断ち切られ、起き上がることも出来ない。

 腹部にまで達する傷からは、再び()()が吐き出されている。

 衣服は役割を完全に放棄しており、瑠衣はもはやほとんど裸身を晒していた。

 

(ま、不味いぞ。アイツ、やられそうじゃないか)

 

 様子を窺っていた愈史郎も、同じことを思っていた。

 医者でなくとも、今の瑠衣が危ない状態だというのはわかる。

 至急――いや、大至急だ。救援と救護が必要だ。

 

 自ら危険を犯して、近付く他ない。

 愈史郎はそう思った。

 まず姿を隠し、瑠衣――ではなく、黒死牟に近付く。

 そして血鬼術で視界を奪う、しかないだろう。

 

「覗き見とは…。感心しないな…」

 

 ただ、その唯一の希望でさえ、黒死牟は潰してしまった。

 どういう歩法なのかまるで理解できなかったが、いつの間にか背後にいた。

 

(や、やられる……!)

 

 なまじ鬼だから、黒死牟の気配を間近に感じて、愈史郎は実力差を正確に理解した。

 自分では、触れる前に細切れにされてしまうだろう。

 そしてそれは、おそらく数秒後には現実のものになる。

 頼みの綱だった瑠衣は、無様に倒れて……。

 

「ほう…」

 

 ――――いる、はずだった。

 というより、つい先程までは確かにそうなっていた。

 だが黒死牟が感嘆の吐息を漏らしたように、瑠衣はいつの間にか立っていた。

 だがそこに、先程までの鬼気は感じられなかった。

 

「ま…………まだ……」

 

 瑠衣()だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 立った。しかし、立っただけだった。

 意識が飛んだ後、姉が出張ってくれた気配だけは感じていた。

 しかし身体が返って来た時には、さらに深く傷ついていた。

 

(まったく、冗談じゃない……!)

 

 人の身体を勝手に使っておいて、状態が悪くなるとはどういうことだ。

 瑠衣は怒り心頭だった。

 怒り心頭だったが、同時に理解してもいた。

 これは結局、自業自得なのだ、と。

 

 何となく、感じていた。理解していた。

 姉が表に出て来る時は、自分が()()()()()()()なのだ。

 自分では無理だと、諦めた時なのだ。

 事実、瑠衣が意思を強く持っている時、姉は表に出て来ることが出来なかった。

 

「……げほっ」

 

 傷が肺まで達している。

 口を開けば、言葉の代わりに血を吐き出した。

 だから、頭の中で語りかけた。

 

(……()()()

 

 今は、稀有な状態だった。

 自分も、そして姉も、弱っている。

 2人ともが黒死牟に敗れた。まったく敵わなかった。

 後は殺される以外にやることがない。そんな状況だった。

 

『ゴメンネ、瑠衣。役ニ立テナクテ』

 

 そんな状態だから、()()()()()()()()()()()()()

 

(謝るのは、私の方です)

 

 自業自得、だ。

 弱気になった時――つまり、都合の良い時だ。

 都合の良い時だけ、自分は姉を頼った。

 それでいて、普段は自分の奥底に抑え込んで来た。

 

『可愛イ妹ノ我儘クライ。何デモナイヨ』

 

 認めよう。

 黒死牟は、自分よりも強い。姉よりも強い。

 ()()()よりも、強い。

 

(1つだけ教えて、姉さん)

 

 無意識に、姉を頼るのはもう、やめる。

 そして、勝たなければならない。

 負けるわけにはいかない。

 自分――自分達が、最後の剣士なのだから。

 無惨の頚を、取らなければならないのだから。

 

 たとえ、たとえ!

 たとえ、黒死牟が自分達よりも強かったのだとしても。

 弱い自分達が、黒死牟を討たなければならない。

 どんな手を使ってでも、どれだけ無様でも。

 

(あいつの言っていたことは、本当?)

 

 もしも。

 もしも、自分が。

 

(私が、父様の…………子供じゃない、って)

 

 もしも自分が、父の、煉獄家の血を引いていないのだとしても。

 それでも、自分のやるべきことは僅かも変わらない。

 深く、大きく、血の味に咽そうになりながら、息を吸った。

 そして、瑠衣は咆哮した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 叫んだところで、強くはなれない。

 もちろん、黒死牟はそれを理解している。

 そんなことで強くなれるなら、黒死牟は鬼になる必要が無かった。

 強くなるには鬼になるしかない。そう信じた結果が今の自分なのだ。

 

「とはいえ…」

 

 とは言え、気迫は凄まじいものがあった。

 剣気が、熱風のように黒死牟の肌を打って来た。

 そして傷ついた身体に――まともに動けるはずがない身体に――に鞭を打って、突っ込んで来る瑠衣に対して、黒死牟は頷いた。

 

「こちらも応じねば…。不作法というもの…」

 

 しかし、この気迫は生半可な技では迎撃できないだろう。

 今の瑠衣の肉体の耐久力を、普通の人間と同じに考えることは出来ないからだ。

 まして最後の力を振り絞って特攻してくる相手に対して、手を抜くことは矜持に反した。

 だから黒死牟は、全力で迎撃することにした。

 

 ――――月の呼吸・拾肆ノ型『兇変(きょうへん)天満(てんまん)繊月(せんげつ)』。

 これまでにない程、膨大な半月上の斬撃が飛んだ。

 無論、付属刃もついている。こちらもこれまで以上に大量の斬撃だった。

 瑠衣を10回細切れにしても余るような斬撃が、瑠衣に襲い掛かったのだ。

 

「…………」

 

 次の瞬間には、輪切りになった瑠衣の肉片を見ている。

 黒死牟は、そう確信していた。

 実際、瑠衣は斬撃の渦の中に消えた。

 終わった。そう思い、黒死牟は一瞬、力を抜いた。

 

「……何…?」

 

 斬撃が消えた後も、瑠衣は輪切りになっていなかった。

 満足、ではないが、五体を維持している。

 これだけの負傷で、しかも人間の状態で回避できるはずが無かった。

 

 ――――月の呼吸・伍ノ型『月魄災渦』。

 だが、黒死牟は動揺しない。

 即座に次撃を放つ。そして、黒死牟は見た。

 瑠衣の顔に輝く痣、そして――()()()()()()を。

 

「さっきより、斬撃の密度が薄い……!」

(咄嗟ニ出シタ技ダカラ、精度ガ粗インダ!)

「だったら……!」

(避ケラレル!)

「避けて、みせます……!」

 

 斬撃が拡散する、その一刹那。

 瑠衣は、()()()()()その身を滑り込ませた。

 本体の斬撃を回避して、しかし付属刃に全身を刻まれる。

 その傷が、ジュウと音を立てながら再生した。

 もちろん、完全な再生ではない。追いつかない。

 

 だが主要な部分を繋げさえすれば、後は呼吸で止血できる。

 鬼の速度に、呼吸。そして痣。

 足りないものは、もう無かった。

 そして、今度は立場が()になった。

 

「あああああああああアアアアアアアアアッ!!』

 

 そのつもりで攻撃した者と、そうでない者とでは。

 結果に、大きく差が出る――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 着地、などという格好の良いことは出来なかった。

 刀を振り切った後、身体ごと地面に落ちた。

 顔を削るようにしてゴロゴロと転がり、勢いが止まるまでそのままだった。

 最後には、力なく頬を地面に押し付けることになった。

 

「……ッ!」

『ドウナッタ!?』

 

 それでも、後ろを見やった。

 立ち上がることは出来なかったが、僅かに身じろぎして頭を後ろに回す。

 見つけたのは、頭のない黒死牟の肉体だった。

 

 頚を落とした。

 しかし、まだ油断できない。

 黒死牟は頚を斬っても再生できる。

 

「み…」

 

 斬り落とされた頭が、地面に転がっていた。

 それが、口を動かしていた。

 

「見事…」

 

 それが、最後の言葉になった。

 地面に落ちた頭が塵となって消えて、頭を失った肉体がどうと倒れた。

 頭は、再生しない。再生の前兆である塵の集合も肉の盛り上がりもない。

 そこまで確認して、瑠衣は息を――否、また血を吐いたのだった。

 

「う……」

 

 また地面に顔を打ちかけた時、瑠衣の身体を支える者がいた。

 愈史郎が手を差し伸べて、瑠衣の身体を支えたのだ。

 力なく見上げると、口を真一文字に結んだ愈史郎の顔があった。

 

「俺はお前のことなんかどうだっていいし、色々と言いたいこともある。だが……」

 

 愈史郎の腕には、コロもいた。

 コロは怪我をしているようだが、すんすんと鼻先を瑠衣の顔に押し付けて来た。

 腕が千切れかけているので、撫でることは出来なかった。

 

「凄いやつだ。お前は」

 

 明日は天変地異でも起こるのだろうか、と瑠衣は思った。

 あの愈史郎が、まさか自分を褒めるようなことを言うとは思わなかった。

 もちろん、わざわざそれを口にするようなことはなかった。

 というより、そんな体力がなかった。

 

(……そんな顔をしないで、姉さん)

 

 手も口も動かせないが、思考だけは出来た。

 そして姉とは、思考だけで会話が出来る。

 どんな()をしているのか、何となくわかる。

 

(確かに、父様の子供じゃなかったのは、哀しいし、苦しいけど)

 

 自分と槇寿郎の間に、血縁関係はない。

 自分は、槇寿郎の子供ではなかった。

 その事実は瑠衣に大きな衝撃を与えた。

 しかし同時に、納得している自分もいた。

 ()()()()()()

 

(嗚呼、だから……()()()()()()()()のか……)

 

 日輪刀が、赤く色変わりしなかった理由。

 瑠衣はようやく、それを理解したのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「あれえ?」

 

 と、童磨が素っ頓狂な声を上げるのを、珠世は聞いた。

 童磨はいい加減に作業に飽きて来たのか、もはや町や人を気にせず――そもそも最初からそれほど気にしていたわけでもないが――血鬼術を放ち始めていた。

 具体的には、自分と同じ強さの術を出せる氷の分身を町中に放ったところだった。

 

 そのために、肉の胎児の騒動が終わった町に、再び悲鳴が響き始めていた。

 だがそれも、童磨にとっては些事だった。

 彼はただ、鬼を全員粛清しろという無惨の命令を真面目にこなそうとしているだけだった。

 その過程の些事などに、いちいち心を捉われたりはしない。

 

「もしかして、黒死牟殿……死んじゃった?」

 

 ただ、同僚――特に格上の鬼の生死には驚きを見せた。

 驚いたように、見えただろう。

 しかし医者である珠世には、()()()()()()とわかる。

 少しの間だが近くで観察して、珠世は童磨という鬼について、おおよその推量を得ていた。

 

「ええ……じゃあ何、後は俺だけ? うーん、もっと分身の数を増やさないとなあ」

 

 童磨は、困った顔をしていた。()()()()()()だからだ。

 瑠衣との戦いの時からそうだった。

 童磨は人を喰ったような性格をしているが、常にその場面に合った表情を浮かべていた。

 表情の選択に間違いがない。

 

(この男には、()()()()

 

 鬼にも、背景(バックボーン)がある。

 強くなるためだとか、生きるためだとか、そういうものの積み重ねの気配だ。

 鬼は不死だが不変ではない。長く生きれば生きる程、変化の跡は所作に出てくる。

 しかし、童磨という鬼には何もない。何も感じられなかった。

 

「先程」

 

 珠世が声をかけると、童磨は「ん?」と気楽な様子で顔を向けてきた。

 世の女性が見れば、頬を赤らめそうな美男子ぶりだ。

 しかし良く観察してみれば、あの完璧な微笑も違った印象を受ける。

 

「私のことが羨ましい、と言いましたね」

「んん~~、そうだっけ」

「いったい、何を羨ましいと感じたのでしょう」

 

 鬼舞辻無惨の本質は、臆病者だ。

 少なくとも珠世はそう思っているし、事実として無惨は一度として――()()()以来――表に出て来なかった。

 竈門炭治郎の出現まで、鬼殺隊は無惨の尻尾さえ掴めなかった程だ。

 何もかもを持っているから、奪われたくないから、だから逃げる。隠れる。卑劣なことも出来る。

 

(わかった気がする)

 

 童磨の空々しい笑顔を見つめながら、珠世は思って。

 

(あの男――無惨が、この男を自分の傍に置いた理由が)

 

 着物の袖を捲り、肘の辺りから手首まで、己の爪で引き裂く。

 傷口から赤い血が滴り落ち、お香のような匂いが立ち込め始める。

 ――――血鬼術『惑血』。




最後までお読みいただき有難うございます。

いよいよ最終決戦のタイミングまで来ている感がありますね。
私もドキドキしています(え)

それでは、また次回。


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第60話:「その時」

 少しだけ、時間を遡る。

 それは、鬼による鬼殺隊本部襲撃の直前のことだった。

 彼は、それまで鬼殺隊の施設にまともに足を踏み入れさせて貰えなかった。

 最深部――()()()()()()()()()()の前に通されていた。

 

「いやあ、オレをこんなところに呼んじゃあ駄目でしょう。つか知ってるでしょう、()いてるんですから。オレには」

「それは……百も承知だよ……透」

 

 主の声はいかにも半死人らしく、今にも消えてしまいそうだった。

 呼吸音でさえ、途切れがちなほどだった。

 

「そのために……きみを……呼んだんだ」

「……………………ああ、そういうことですか」

 

 自らの死期を悟った主人からの、最初で最後の呼び出し。

 そのことを、理解した。

 そして自分が今から何を言われるのかも。

 

「きみには……辛いことを……させてしまうけれど」

「…………」

「やってくれるかい……透」

「……ああ、わかった。わかったよ、()()()

 

 時間の美点は、必ず過ぎ去ってくれること。

 そして時間の欠点は、必ずやって来てしまうことだ。

 

「その時が来たら、ちゃんとケジメはつけるさ」

「……すまないね」

 

 言いつつ、しかしこの時点では、結果どうなるかという点は何も見えてはいなかった。

 きっと、お館様でさえ確信は持っていなかっただろう。

 ()()()、どうなるか。

 それは結局、文字通りその時にならなければわからないのだから――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――童磨は、記憶力の良い方だった。

 より正確に言えば、目で見た光景を頭の中に保管しておける。

 完全記憶能力。記憶というより、記録といった方が良いかもしれない。

 何かを思い出すには、文字通り脳髄を弄って記録を探す必要がある。

 

 だがその中で、童磨が記録を漁らずとも思い出せるものが3つある。

 1つは、父と母のこと。

 と言っても、思い出すのは最期だけだ。

 色狂いの父を母が殺し、その母も自殺して、血塗れになった部屋の光景だ。

 

『お前は、神様の子だ』

 

 自分の子供を捕まえて何を言っているのかと、そう思ったものだ。

 来る日も来る日もやって来た信者達の顔は、自然とは浮かんで来なかった。

 

『面白い。お前を鬼にしてやろう』

 

 そしてもう1つは、無惨のこと。

 ある日、無惨が現れて、童磨を鬼へと変えた。

 第二の誕生だ。しかし、変化はなかった。

 食べ物が変わっただけの話だ。

 

 不老不死になっても、童磨の生活が変わることはなかった。

 来る日も来る日も、信者達の告白という名の愚痴を聞く毎日。

 何も変わらない。

 だから覚えているのは、鬼にして貰うその瞬間だけだ。

 それ以外は、他と同じただの記録に過ぎない。

 

『教祖様が心配です』

 

 そして、最後の1つ。

 それは、ある母子の――厳密には、母親の記憶だった。

 若い娘で、家庭内の扱いが酷く、童磨の寺院に逃げ込んで来た。

 珍しいことではなかった。

 

 童磨の宗教の教義は「救済」だ。救いを求める者は誰であれ受け入れる。

 彼女もまた、そういう人間の1人だった。

 印象としては、変な娘、だった。天然で、どこか抜けていた。

 

『嘘つき……!』

 

 しかし結局のところ、その娘の記憶も、最期の時のものだ。

 信者の人間を食べているところを目撃されてしまい、酷く罵られた。

 彼女は食べずに死ぬまで置いておこうと思ったのだが、結局は殺してしまった。

 連れていた赤子は、川に投げ落とされた。助かるわけがない。最期まで愚かな娘だった。

 

 覚えている価値のあるものなど、ほとんど無い。

 

 鬼になってそれなりに長い時間を過ごしたが、覚えているのはその3つだけだ。

 それ以外のことは、何も覚えていない。

 童磨にとって、鬼の生とは、その程度のものでしか無かった――――。

 

「――――なるほど」

 

 パンッ、と、音が弾けた。

 はっとして、童磨は顔を上げた。

 目の前に広がっていたのは、東京の街並み。

 そして、妖しく嗤う珠世の顔だった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――血鬼術『惑血・白日の魔香(まこう)』。

 珠世の血の香を吸った相手は、たとえ鬼であろうと脳の機能が低下し、珠世の問いに対して素直に答えることになる。

 いわゆる、自白剤のような効果を発揮する血鬼術だった。

 

「……へえ、面白い血鬼術を使うね。でも俺の意識を奪えるなら、そのまま逃げちゃえば良かったのに」

「逃げる? その必要はありませんよ」

 

 そう。

 もしも珠世の考えが正しいのなら、童磨から逃げる必要はない。

 そういう確信が、珠世にはあった。

 何故ならば、童磨。この恐るべき鬼は。

 

「貴方、()()()()()()()()()()()()()?」

「……………………」

 

 珠世の言葉に、童磨は答えなかった。

 しかしこの場合、答えないということ自体が答えのようなものだった。

 つまり、珠世の考えは正しい。

 

 無惨の「支配」。あるいは「呪い」。

 鬼は無惨に逆らえない。逆らえば死ぬ。無惨に関わる情報を口にしても死ぬ。

 そして共食い。鬼同士は本能的に嫌悪感を抱くように作られている。

 徒党を組んだ反乱を予防するためだ。

 

「道理で私といても嫌悪感を見せないはずです」

 

 珠世は無惨の配下ではないが、鬼だ。

 ならば無惨の呪いの対象であり、共に行動させようとはしない。

 まして無惨に報告をせず隠し通すことも、出来るはずがない。

 無惨は、一方的に配下の鬼の見たもの聞いたものを抜き出せるからだ。

 しかし童磨はそれすら防ぎ、情報を秘匿した。隠蔽したのだ。

 

「つまり無惨への忠誠心さえ持ち合わせていない」

「ええっ、いやだなあ。俺ほどあの方に忠誠を誓っている鬼はいないのに」

 

 嘘だった。

 いや、童磨自身が実際どう思っているかはわからない。

 だが珠世は、もはや童磨が口にする言葉の全てを信じていなかった。

 虚偽ではない。だが、真意ではない。そういう相手だと理解した。

 もはや脅威ではない。ただ、()()()()()()と思った。

 

「だからこそ、わからなかった」

「何がかな?」

「貴方が、どうして鬼になったのか」

 

 そんなにも虚無なる人間が。

 無惨に何の忠誠心も抱いていない鬼が。

 どうして、鬼になることを受け入れたのか。

 どうして、上弦として無惨に仕えているのか。

 

「でも先程の告白を聞いて、ようやくわかりました」

 

 その答えは、酷く単純なもの。

 それは、教祖だろうと何だろうと、人間が持つ当たり前の願望。

 珠世にも覚えがある。

 ()()()()()()という縋り付き。すなわち。

 

「貴方は、()()()()()()()()()()()

 

 童磨もまた、1人の人間だった、ということだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()()

 それを聞いた時、童磨は「何を言っているんだろう」と思った。

 自分は人間を救う側なのであって、けして救われる側ではない。

 そもそも、自分には救われたいなどという人間的な感情は無い。

 

「感情を理解できないということと、感情が無いということは、同じではありませんよ」

 

 そもそも論を言うのであれば、()()()()矛盾しているのだ。

 本当に感情が無いのであれば、誰かを救おうという考えさえ浮かんで来ないはずなのだ。

 ()()()()()()()などと、思うはずが無いのだ。

 

「私は専門医ではないので、正確な診断はできません。ただそれでも、医師として貴方を診るのであれば……」

 

 そういう意味では、珠世は初診を誤ったとも言える。

 ()()()

 童磨の本質を虚無だと思った。

 今でも完全な間違いだとは思っていない。いないが、正しくない。

 

「貴方はただ、自分が虚無だと思い込もうとしているだけです」

 

 心の病、というものがある。

 余りにも受け入れ難いことが起こった時、人間は自己を保存するために心を守ろうとする。

 それは無意識に行われることが多く、本人は自然で、当然のことだと受け入れてしまう。

 俗な言い方をするのであれば、こうだ。

 ()()()()()()()()()()

 

「ふうん」

 

 パチン、と氷の扇子を閉じて、童磨は言った。

 平坦な声だった。

 

「面白い見解だけど……人間用の医術で鬼の俺を診たって仕方がないでしょ」

「鬼にも心はありますよ。いえ、心こそ人も鬼も等しく変わらないものです」

 

 その平坦な声を、虹色の視線を、珠世は正面から受け止めた。

 ()()の一睨み如きにいちいち動じていては、医師など出来ない。

 

「貴方は人を救いたいと何度も聞きました」

「ああ、それが教祖としての俺の使命だからね」

「何故でしょう?」

「だから、教祖としての俺の使命なんだよ」

「人に()()()()()()()と、そう考えているのですね」

 

 妙だ、と、童磨は思った。

 強烈な違和感を感じる。

 思い出すのは、金が欲しいだの生きるのが苦しいだのと一方的に喋り続ける人間達の顔だ。

 可哀想な頭をしているなと、今でもそう思う。

 

 救ってやらなければと、そう思ったことはある。

 だが救われてほしいなどと、思っていたわけではない。ない、はずだ。

 救われてほしいと思っているわけではないのに、どうして救いを与えるのか。

 何か、自分の考えとは違う方向に誘導されているような。

 頭を掴まれて、目を向けさせられているような。

 

「ご両親が亡くなった時」

 

 血生臭くて敵わないと、それしか思わなかった。

 

「信者の女性を食べてしまった時」

 

 本当に、寿命で死ぬまで生かしておくつもりだった。

 

「無惨に、鬼にしてくれと膝をついた時」

 

 生まれて初めて、本当に神様に出会ったと思った。

 

「……本当は」

 

 けれど。

 

「本当はその時、貴方は」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()()

 もちろん、珠世の言葉によって胸を突かれたという意味ではない。

 物理的に、心臓の部分を刺されたという意味だ。

 

 背後からグサリ。

 視線を下げれば、先端が牙のような、独特の形状の刀――日輪刀が生えているのが見えた。

 ただそれ自体は、童磨にとってさしたる意味を持たなかった。

 何故なら、くどいようだが、鬼は心臓を刺された程度で死んだりはしないからだ。

 

「誰か」

 

 視界が回り、吐血した。

 

「な?」

 

 ()()()()()

 それは、いったい何十年ぶりの感覚だろうか。

 体の内側、鳩尾(みぞおち)のあたりからこみ上げてくる不快な感覚。

 それが胸の内側を突いたかと思うと、口から血が噴き出したのだ。

 

 ()()

 すぐにそれを理解した。

 ただの毒ではない。藤の花から抽出した、強力な毒だ。鬼のための毒。

 しかしそれも、上弦である童磨の命を奪うものではない。

 ほんの数秒。それだけあれば、毒の成分を解析して分解することができる。

 

「ええ、本当に安心しました」

 

 正面の珠世が、笑顔で話し続けていた。

 それは本当に安心した笑顔で、平時であればそれを見た相手をも安心させただろう。

 しかしその言葉の端々には、文字通り毒があった。

 毒舌とは、良く言ったものだった。

 

「貴方を殺したとしても、誰が殺したかは無惨に伝わらない」

 

 死には気付くだろう。

 だが一定の距離があり、何より無惨に忠誠心のない者の視界を、無惨は見れない。

 通常時ならともかく、例えば、自身が()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「はは」

 

 しかし、しかしだ。

 まず自分を殺すことが無理だと、童磨は思った。

 珠世の血鬼術も、胸を刺した毒も、自分の命には届かない。

 鬼を殺すには、やはり。

 

「やっぱり、頚を」

「――――落としますよ」

 

 どん、と、衝撃が来た。

 やはり通常時であれば、かわせたはずの一撃。

 しかし体内を犯した毒によって奪われた数秒が、回避を許さなかった。

 

 頭が、胴体から離れた。

 

 鬼の本能か、一瞬、再生しようとした。

 頚を失っても生きのびた鬼もいる。

 もしかしたら自分もそうなれるのではと思ったが、すぐに勘違いだとわかった。

 童磨は、自分の肉体が崩壊を始めるのを認識した。

 認識して、そして、あっそう、と思った。

 

「本当に、可哀想なひと」

 

 視界が地面に近付いて来た時、誰かの手――女の手だ――が、自分を抱きすくめるのを感じた。

 花の香りがした。

 それから、蝶々が見えた気がした。

 それが、最後に見たものだった。

 

 綺麗だねえ、と、他人事のように思った。

 どこまでも、自分のことさえ、他人事のようにしか思えなかった。

 最期の瞬間まで、童磨は、自分がどうしたかったのか――どうなりたかったのか。

 最後の、最期まで、わからなかったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 誰も彼も、役に立たない。

 鬼舞辻無惨にとって、自分以外の存在はすべて不要なものだった。

 仮に自分以外の存在を許容することがあるとすれば、それは彼がそう望み、相手が彼の望み通りの働きをする時だけだ。

 これは期待ではない。全てが自分の思い通りになることが当然。そういう思想だ。

 

「こんなにも腹立たしい気分になったのは、久しぶりだ」

 

 それこそ、思い出すのも忌々しい()()()以来だろう。

 詳細は不明だが、無惨は童磨の死を感じていた。

 東京にいくらか残っていた下位の鬼の気配も、まだ感じている。

 粛清を完遂する前に、童磨は死んだ。

 

 腹立たしい。余りにも腹立たしかった。

 自分は何も難しいことを命じていない。複雑なことも命じていない。

 しかし、童磨はそんなことすら果たせずに死んだ。

 元から好んではいなかったが、死んでしまうとは。

 

「くだらん」

 

 結局のところ、人任せにするな、ということか。

 自分自身が動かねばならない。

 その事実がまた腹立たしい。

 そして今、目下の「腹立たしさ」は。

 

「いい加減にして貰いたいものだな」

 

 無惨の目の前で膝を着いている、犬井の存在だった。

 1人だ。

 鱗滝や桑島らは、そこかしこの瓦礫や建物から身体の一部だけが覗いている。

 死んではいない。が、死にかけている。適切な治療を受けなければそうなる。

 

「お前達のような狂人の相手をしていると、私まで気がおかしくなりそうだ」

 

 何かが空気を裂く音がした。

 余りにも速すぎて不可視にさえ見えるそれを、犬井は刀の腹で流した。

 力の入れ方を間違えれば、折れていただろう。

 犬井の呼吸が受け流しの技に優れる水の呼吸であったことが、この場では功を奏した。

 

 しかし、決定打にはならない。

 いくら攻撃を受け流すとは言っても、限界がある。

 ダメージは蓄積するし、体力も消耗していく。じり貧だ。

 だが、犬井はそれで良かった。()()()()()()()

 

「…………はは。まあ、そう言わずにもう少し付き合って貰いたいなあって、うおっ!?」

 

 再攻撃。やはり刀の腹で受け流す。

 威力を逸らしているはずなのに、棍棒で打たれたかのような衝撃を感じた。

 今は無惨もプライドが邪魔しているのか単発の攻撃しかしないが、連撃が来たら流石に受け流し切れないだろう。

 手数。物量作戦というのは、大体の場合において有効だからだ。

 

「貴様の()()()()に付き合うのも飽き飽きだ」

 

 しかも、こちらの狙いがバレてしまっているとなっては、だ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そう、時間稼ぎだ。

 自分にしていることは、とどのつまり時間稼ぎでしかない。

 無惨をここに留め続ける。それ以外にすべきことはなかった。

 

「まあ、おじさん結局それしかしてこなかったからさあ」

 

 大体、鬼の頚を落とすのはコロの役目だ。

 目の前の鬼狩りより足元の犬畜生を気にする鬼などいない。

 誰が見たって、人が主で犬が従だと思うだろう。

 

 ところがどっこい、犬の方が強いです。

 

 自分が相手を引きつけている間に、コロが頚を狩る。

 そういう戦い方しかしてこなかった。

 無惨は犬井がわざと時間を稼ぐ戦い方をしている、と思っているのかもしれない。

 それは半分正解だが、半分は間違いだ。

 

「もう少し、付き合ってほしいね」

 

 犬井は、この戦い方しか出来ない。

 いつも通りの戦い方で、無惨をここに押し留め続ける。

 ()()()まで、そうし続ける。

 そういう意味合いにおいては、犬井の決意は固いものだった。

 

「くだらん」

 

 吐き捨てるように、無惨は言った。

 実際、彼にとってはくだらないことだっただろう。

 

「お前が待っていたものが()()だとしたら、なおさらくだらん」

 

 たとえ、姿()()()()()()()()()()()、痕跡は残る。

 息遣いは聞こえるし、踏みしめた地面の砂が動くことも止められない。

 すなわち、存在感を消すことまではできない。

 

 言い捨てるや否や、無惨は腕を振るった。

 それは犬井のいない方向に向けられていて、一見なにもないところを攻撃したように見える。

 しかしその何もないはずの空間から、先程犬井がやったような音が聞こえた。

 すなわち、何者かが日輪刀で無惨の攻撃を弾いたのだ。

 

「くう……っ!」

 

 そして、不意に姿が現れた。

 それは愈史郎の血鬼術で姿を隠していた瑠衣だった。

 無惨の攻撃を凌いだものの、触れられてしまったことで術が解けてしまったのだ。

 

(コロさんに、ここまで連れて来て貰ったものの……!)

 

 上弦の壱との戦いから、瑠衣はほとんど間を置かずに移動した。

 移動しながら応急処置もして、コロの鼻を頼りに犬井のいる場所――首相官邸を目指した。

 犬井はどうやらコロにだけわかるように匂いを残していたようだった。

 それに肉の胎児の跡を通れば良かったので、それほど苦労せずに済んだ。

 

(体力は万全じゃない、怪我も――再生の消耗もある。でも……!)

 

 地面を転がり、しかしすぐに起き上がって、瑠衣は日輪刀の切っ先を向けた。

 瑠衣たち鬼殺隊が、ずっとそうしたいと思っていた相手に対して。

 

「――――無惨ッッ!!!!」

 

 始まりの剣士から、500年余。

 彼らはついに、辿り着いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼舞辻無惨の討伐。

 それは鬼殺隊に属する者全員の、悲願だ。

 その悲願のために多くの隊士が血を流し、倒れていったのだ。

 

()()()()

 

 そして無惨は再び、そうした全てを「くだらない」と評した。

 ()()()()()である彼からすれば、何百年も自分の命を狙い続ける集団の存在など、邪魔でしかなかっただろう。

 まして数十年の寿命しかない短命の者達が、何十世代も続けて自分を殺そうとしてくるのだ。

 その精神構造を、無惨は理解することができない。

 

「だが、お前には興味があるぞ。()()()()

「私に……?」

「黒死牟から生きのびたこともそうだが。何よりその特異性だ。この私でさえ、お前が鬼だと――いや、お前の中に鬼が潜んでいるなど気付かなかった。素晴らしい()()だ」

「――――失礼ナヤツダナ。擬態ナンテモノト一緒ニスルナ」

「ああ、そうだ。()()()

 

 瞬時に、瑠衣の瞳が金に変わる。

 それはすぐに消えて――ベーッ、と舌を出しながら――すぐに元の色に戻った。

 文句を言うためだけに出て来たらしい。

 入れ替わりはまだ不慣れなので、そんなことで出てきてこないでほしいと瑠衣は思った。

 

「そのまま採用する、というわけにはいかないだろう。だが、その特異性(血鬼術)は我が身に取り込んでおいて損はない。()()はいくらあっても良いからな」

「保険?」

 

 どういう意味かと考えかけて、やめた。

 そんなことを考察しても、何の意味もない。

 事ここに及んで瑠衣に必要なのは、己の全能力を――()の力も含めて――かけて、無惨の頚を刎ねるということだけだった。

 

「むざ」

 

 日輪刀を持ち上げた右腕が、千切れた。

 

「ん……ッ!?」

 

 激痛を知覚するよりも先に、それは成されていた。

 そして瑠衣は、自分に負傷を確認するよりも先に、己の右腕が日輪刀ごと無惨の手にあることに気付いた。

 今の一瞬で攻撃され、次の一瞬で腕は無惨の手の中にあった。

 

「いつの間に……言ッテル場合カッ!」

 

 入れ替わり、まさに獣の反応で瑠衣は大きく後退した。

 距離を取り、左腕の日輪刀を盾にするように眼前に構える。

 その間に、右腕の再生が始まった。

 姉が表に出て来ている時でないと、肉体を再生できない。

 

「何ダ今ノハ、視エナカッタゾ」

 

 黒死牟の攻撃範囲を参考に、瑠衣は距離を置いていたはずだった。

 だがそれさえも無視して、さらに速く無惨は攻撃してきた。

 そして。

 

 そして、瑠衣の腕を掴んでいた無惨の手が不意に変形し、牙を剥き出しにした大きな口になった。

 その中に瑠衣の腕を呑み込み、肉を磨り潰すような音を立てて噛み砕いてしまった。

 咀嚼音。嚥下音。グチャグチャと蠢く肉。

 それを見た瑠衣は、思わず叫んだ。

 

「キ、き、気持ち悪い(キモイ)……!」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実を言うと、無惨には血鬼術らしい血鬼術というものはない。

 自然現象を操るとか、相手の肉体に干渉するとか、そういう異能はない。

 持つ必要がないからだ。

 何故ならば、鬼舞辻無惨の肉体そのものが()()完璧に近いからだ。

 

「ふむ……」

 

 瑠衣の腕を咀嚼しながら、無惨は頷いた。

 

()()()()

 

 鬼舞辻無惨は、鬼の祖だ。

 これは珠世も、そして愈史郎や瑠衣でさえも例外ではない。

 この世に存在するすべての鬼は、そのルーツを遡れば無惨に行きつく。

 

 だから無惨だけは、他の鬼を喰うことが出来る。

 逆はあり得ないし、他の鬼が同類を喰っても拒絶反応を起こすだろう。

 そして他の鬼を喰うことで、無惨はその鬼の情報を取得することが出来る。

 

「なるほど、()()()()ことか。思ったよりくだらなかったな」

「勝手に人の腕を千切っておいて散々な言い様ですね」

 

 凄まじい我儘ぶりだった。

 そして実際に、無惨はすでに瑠衣への興味を失ってしまったようだ。

 瑠衣の言葉には答えず、ぐるりと周りを見渡した。

 瑠衣、犬井、そして周囲に転がる鱗滝達の順に、だ。

 そして、彼は言った。

 

「私はもう、お前達に関心はない。手を下すのも面倒だ。だから」

 

 ずるり、と、無惨の足元が盛り上がった。

 それは瑠衣の腕――もう喰われてしまったが――から滴り落ちた血だまりから現れた。

 金髪の、幼い幼女――上弦の陸、亜理栖だ。

 

 肉の胎児は消え、黒死牟が倒れ、童磨も死んだ。

 無惨にとって、亜理栖はほとんど唯一の手駒と言える。

 その血鬼術の凶悪さは、瑠衣が誰よりも知っていた。

 だから、残った一振りの小太刀を握って構えた。

 

「おっと、ここはおじさんの出番だよんっと」

 

 そんな瑠衣を制止て、犬井が少しだけ前に出た。

 立ち位置は、実に微妙な距離感だ。

 瑠衣よりもほんの少し、()()()()()()()()

 

()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 兄妹。その言葉に、瑠衣は沈黙した。

 鬼になった妹。思い出すのは炭治郎と禰豆子だ。

 今となっては、ただただ眩しい。奇跡の存在だったのだとわかる。

 ――――自分のことは、あえて考えなかった。

 

「お前はもう少し賢い男だと思っていたが、所詮はつまらぬ人間だったな」

 

 そして無惨の言葉は、やはり犬井が鬼側にいたことを推察させる。

 あの本部襲撃以降、犬井はきっと亜理栖といたのだ。

 それが外の世界であるのか、それともあの鏡の世界であるのかはわからない。

 何となく、後者のような気がした。

 

「ええ、まあ。つまらない男ですんでね、ぐうの音も出ませんがね」

 

 肩を(すく)めながら、犬井は亜理栖に近付いていった。

 その手には、当然のように日輪刀が握られている。

 亜理栖は反応しない。

 近付いてくる兄を、ただじっと見つめているだけだ。

 

「まあ、つまらないついでに……兄貴が妹を殺す、そんな場面から目を背けておいてくださいよ」

 

 犬井は確かに殺すと言った。

 兄が、妹を殺すと言った。

 無惨は逆に「ほう」と感心した様子だったが、瑠衣は心穏やかではいられなかった。

 妹を殺す兄の心中はいかほどか。兄に殺される妹の魂は浮かばれるのか。

 

「犬井さん」

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 

「……犬井さん!」

 

 それは、きっと駄目だと、そう思った。

 思ったが、すでに白刃は振り下ろされていた。

 

「お兄ちゃん」

 

 しかし、当の亜理栖は自分に振り下ろされる日輪刀を見てはいなかった。

 彼女はあくまでも、兄の顔を見ていたし。

 

()()()()()()?」

「――――ああ」

 

 兄の言葉しか、まともに聞こえないのだった。

 

()()()()()

 

 そして、亜理栖の頚は胴から離れた。




最期までお読みいただき有難うございます。

おかしいな、と思っていますか?
何かがおかしいぞーと思っていますか?
その違和感、きっと正解です。
私がやりたかったこと。きっと次回で出来るはずー。

それでは、また次回。


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第61話:「復活」

 亜理栖の頚が落ちた時、誰かが声を上げた。

 上げたが、しかし、それはすぐに忘れられた。

 何故ならば、その直後に起こった変化が余りにも大きかったからだ。

 

「な……」

 

 亜理栖の頚の傷口から、血が噴き出す。

 それは周囲に血の水溜まり――()()を作り出す。

 本来であれば、日輪刀で頚を斬られた鬼は消滅する。

 ()()()()()()()()()()

 

 しかし亜理栖は消滅しない。

 当然だ。兄の日輪刀で斬られるよりも先に()()()()()()()()()()()()

 自分で切り離したのだから、消滅するわけがない。

 落ちた頭を自分で拾うことも、当然できる。

 

「「なーんちゃってえ!!」」

 

 奇しくも、その笑顔は兄妹そっくりだった。

 無惨をして、その意図は読めなかった。

 しかし自分を侮辱していることだけはわかったので、殺そうと足を向けた。

 

「……は?」

 

 思わず。そう、思わずだ。

 あの無惨が、間の抜けた声を上げた。

 繰り返すが、それほどに大きな変化だったのだ。

 

()……()()()()()!?」

 

 亜理栖の作った水鏡の中から現れたのは、人間だった。

 それ自体は不思議なことではない。

 亜理栖は鏡の血鬼術で遠くを見ることも、移動することも、鏡の中に引き込むことも出来るからだ。

 だから鏡の中から人間出てくること自体は、何も不思議ではない。

 

 問題は、出て来た人間の顔ぶれである。

 人数は、10人に満たない。

 しかしその人間達は、無惨にとって存在してはならない人間達だった。

 何故ならその人間達は、この世で最も自分の命に近付いてくる者達だったからだ。

 

「な、何故。どういうことだこれは、何が起こっている……!?」

 

 岩柱・悲鳴嶼行冥。

 音柱・宇髄天元。 

 水柱・冨岡義勇。

 風柱・不死川実弥。

 蛇柱・伊黒小芭内。

 霞柱・時透無一郎。

 恋柱・甘露寺蜜璃。

 

「何故、こいつらが……ここにいる!?」

 

 鬼殺隊の、柱たち。眠るように目を閉じているが、生きている。

 あの時、本部襲撃の時に殺し尽くしたはずの面々だ。

 1人として逃さず、配下の上弦達が皆殺しにしたはずだ。

 それが今、無傷で目の前にいる。

 無惨と言えど、混乱せざるを得ない。何故なら、あり得ないことだからだ。

 

「あ……」

 

 そして、もう1人。

 瑠衣が目を丸くして見つめる背中があった。

 それは、見慣れた背中。燃える羽織。

 

「兄様」

 

 炎柱・煉獄杏寿郎。

 生きていることを示すように、あるいは妹の声に、その瞼がぴくりと震えた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「……」

「…………」

「………………?」

 

 柱たちは、目を覚ました時、まずこう思った。

 自分達は、どうしてこんなところにいるのか、と。

 彼ら彼女らの直前の記憶は、鬼殺隊本部での上弦との戦闘までだからだ。

 

「全員、聞け!」

 

 そこへ、悲鳴嶼の声が響いた。

 彼は8人の中で、もっとも今の状況を理解していた。

 何故ならば彼は本部襲撃の際、()()()()だろうことを産屋敷から聞いていたからだ。

 そして彼は、8人を見て驚愕する見覚えのない男こそが、鬼舞辻無惨だと即断した。

 

「無惨だ! 鬼舞辻無惨だ! やつをここで討つ!」

 

 柱たちの反応は素早かった。

 自分の状況の把握よりも先に、己が肉体が動くかどうか、そして日輪刀の有無を確認した。

 そして破壊された街並みを確認して、血に塗れた後輩(瑠衣)の姿を見た。

 それだけで、彼らは成すべきことを見定めた。

 

「何だか体がギクシャクするが……てめェをやりゃあ良いってことはわかったぜェ!!」

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 ――――水の呼吸・漆ノ型『雫波紋突き』。

 まず反応したのは、最も速い型の不死川と、そして水の型の中で最速の技を繰り出した冨岡だった。

 ただ自分に合わせに来たのが冨岡だった事実に、不死川は額に青筋を立てた。

 

 本当なら文句の1つも言いたかったが、そんな場合でないことは理解していた。

 何より気合満点で放った初撃だったのに、届く前に止めざるを得なくなった。

 無惨が腕を振るい、()()のように伸ばして攻撃してきたからだ。

 他の柱も動き出している。キツい乱戦になると、不死川は直感していた。

 

「…………」

 

 瑠衣は、いつの間にかその場に膝をついていた。

 混乱と安堵がない交ぜになったような顔で、力が抜けていた。

 そんな彼女の脇に手を通して、助け起こす者がいた。

 

「大丈夫……じゃないわねぇ。でも、もう大丈夫よぉ」

「え、え? は、榛名さん?」

「ええ、榛名さんよぅ」

「し、死んで……え、足は? え?」

 

 そこにいたのは、榛名だった。

 生きていた。だけではなく、()()()()()

 鬼との戦いで、歩けなくなっていたはずだ。

 

「あんた」

「きみは……」

 

 他にも、いた。

 瓦礫に埋もれていた禊も、足の骨が折れていた知己も、助け出されていた。

 禊は柚羽に、そして知己は千寿郎に。

 死んでいたはず。生きていてもまともに動けないはず。

 なのに生きていて、満足に動いている。

 

「今までよく頑張ってくれたね。知己、禊……そして、瑠衣」

 

 その時、奇妙な声が聞こえた。

 人間のようだが、しかし声が人間ではない。

 振り向くと、それは鎹鴉だった。

 首に紫の房を巻いた鴉で、それもまた見覚えのある女性の腕に止まっていた。

 

 蟲柱・胡蝶しのぶの腕に。

 そしてその傍らに立つ、元花柱・胡蝶カナエもともに。

 生きているはずのない者達が生きている。

 その事実に、瑠衣は困惑を隠せないのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 産屋敷輝利哉(きりや)。齢は10に満たない。

 しかし当主が代々短命の産屋敷家においては、6歳を過ぎればほぼ成人であった。

 先代当主が本部襲撃の際に殉死して以降は、正式に産屋敷家と鬼殺隊を継いでいた。

 

 だがその行方はようとして知れず、陸軍・警察にさえ行方が掴めず、活動の痕跡さえない。

 生きているのかどうかさえわからない、という状態だった。

 実際、瑠衣を含めた生き残りの隊士達は輝利哉らの指揮下にはいなかった。

 当主の指示が届かない中で孤軍奮闘し、その数を減らしていったのだ。

 

「父上は……先代当主は、己の死と、鬼殺隊の()()()()壊滅が避けられないことを察していた」

 

 超感覚。超直感。未来予知にさえ近しい予測。

 産屋敷家に代々伝わるその感覚は、短命さの代償に神仏が与えたと言っても信じてしまいそうだ。

 何しろ、平安より千年もの間、血を絶やさずに今日まで繋いできたのだ。

 奇跡と言っても、けして過言ではないだろう。

 

「だから父上は、()()()()()()()()()()

 

 無惨は、思い出す。

 最期のその一瞬まで、柔和そうな微笑みを絶やさなかった腹黒のあの男を。

 蛇のように狡猾でしつこい、宿敵の男の顔を。

 まさかあの男は、あの時点で、こうなることが見えていたというのか。

 

「だとしても、あり得ん! 鬼狩りどもは我が配下が殺し尽くしたはず……!」

 

 そう、無惨は確かに見た。

 上弦達の視覚を通して、配下が鬼殺隊士を虐殺するのを見た。

 

「ええ、全員を救うことはできませんでした」

 

 本部襲撃の際、柱や上弦と戦えるだけの力を備えた隊士は瀕死に追いやられていた。

 あと一手で殺される。そういうところまで来ていた。

 だがそんな彼らを守ろうと、下位の隊士達が文字通りの肉の壁になったのだ。

 無論、それで上弦を止められるものではない。

 

 童磨も、猗窩座も、そして化物と化していた半天狗も、凄まじい血鬼術で全てを薙ぎ払った。

 ()()()()()

 氷で押し潰し、衝撃波で吹き飛ばす。

 そして上弦達は、立って来ない相手をいちいち追い討ったりはしない。

 己の技に自信があるが故に、生じる隙。その隙に、戦える者だけは隠すことが出来た。

 

()()()()()()()()()()()()()()

「あり得ん……いや、やはりあり得ない! そもそも何故、亜理栖がお前達に手を貸す!?」

 

 裏切りか。しかし百歩譲って裏切りだとして、無惨がそれに気付かないはずがない。

 亜理栖は上弦。無惨の血が体内に大量に流れている。

 つまり支配もそれだけ強い。

 無惨が裏切りに、まして鬼殺隊を己が血鬼術の中に隠していることに気付かないはずがない。

 

「そうだ。私は配下の思考さえ読むことが出来る! そんな私からどうやって……!」

 

 ぎっ、と、無惨は亜理栖を睨んだ。

 そして、亜理栖の深層意識下にまで手を伸ばす。

 お前はいったい何をしていたと、その血に問いかける。

 

()……()()()!」

 

 そうして無惨が得た情報は、たった1つだけだった。

 

「――――()()()()()()()()()()()()!」

 

 どれほど朗らかに笑おうが。

 どれだけ苛烈に怒ろうが。

 亜理栖の心の声は、常に1つしかない。

 その心は常に「お兄ちゃん」と叫んでいる。叫び続けている。今も。この瞬間も。

 

 ()()()()()

 

 嗚呼。何と言う皮肉だろう。

 鬼でさえなければ。人間であれば、無惨の人間離れした洞察力は亜理栖に疑念を見ただろう。

 しかし亜理栖が鬼であるが故に、人間だった頃の心や記憶が歪んだ形で強調される鬼の悲しき習性(サガ)のために。

 無惨はついに、亜理栖の行動に気付くことが出来なかったのだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――賭けだった。

 しかし、確信があった。

 犬井を本部に招き入れれば、兄に執着する亜理栖はこれを確実に追いかけて来る。

 鬼殺隊を目の上のたんこぶと考える無惨なら、発見した敵の本拠地を見逃しはしない。

 

 そして実際に、無惨は己が最高戦力で以って鬼殺隊を壊滅させた。

 数百年、いや千年に渡る邪魔者を排除したと考えた無惨は、さぞハレバレとしただろう。

 実際、無惨はもはや己を隠さなかった。

 国さえ乗っ取り、大手を振って鬼が存在できる社会に作り替えてしまった。

 

「鬼殺隊が滅亡したと思い込んだお前は、案の定油断した」

 

 そして、待った。

 亜理栖の鏡の世界に、無惨や上弦と戦える剣士を救出・休眠させたまま、待った。

 無惨が完全に油断し、無防備を晒す瞬間を待った。

 

 その油断は、「青い彼岸花」の発見で頂点に達した。

 もはや上弦でさえ用済みと判断し、己以外を不要と確信し、鬼の()()()にかかった。

 そして今、無惨は丸腰だ。そばには誰もいない。完全なる孤立。

 たった一人の無惨を、9人の柱を中心とする鬼殺隊最高戦力で包囲した。

 

「これは、地上に残ってくれた剣士(こども)達が奮闘してくれたからこそ、生まれた機会(チャンス)だ」

 

 千年!

 千年という悠久の時の中で、この状況になったのはただの一度きり。

 この状況を生み出すために、産屋敷家98代は千年を費やして来たのだ。

 

「無惨、お前は父上との勝負に負けたんだ……!」

「ぐ、ぐ」

 

 馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。

 無惨は頭の中で、あるいは胸中で繰り返した。

 こんなことがあるはずがない。

 起こるはずのないことが起こっている。

 

 孤立し、敵に囲まれている。

 あってはならないと、ずっと避け続けて来た状況に陥っている。

 何だこれは。どういうことだ。問いかけに答える者はいない。

 

「ぐ、ぐ、ぐうううう」

 

 その時だ、ゴオ、という異様な音が聞こえた。

 そして無惨は、その音を良く()()()()()

 当然だ。その音は無惨の長い生涯において、最も忌々しい音だったのだから。

 

「……! 貴様、は!」

 

 振り向くと、そこに1人の少年がいた。

 額に痣の、日輪の花札の耳飾り。漆黒の日輪刀。思い出したくもない。

 

「竈門、炭治郎……!」

「――――無惨!!」

 

 清廉な気迫に満ちた声が、戦場に響き渡った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 完璧な盤面だ。瑠衣はそう思った。

 何が起こったかは理解できていない。

 だが、何が起こっているかは理解できていた。

 

 死んだと思っていた人々が、実は生きていた。

 

 話は単純だ。方法も単純だ。

 あの鏡の世界に、皆を保護――もとい、()()していたのだろう。

 亜理栖の血鬼術を身をもって体験した瑠衣だからこそ、わかることだった。

 そしてカナエのような、動けないはずの人間が動けているのも。

 

(血で、身体を動かしている)

 

 治療というよりは、人形の操作に近い。

 動かない手足を動かすために、鬼の血で神経や必要な組織を作り出しているのだ。

 普通は見えないが、今の瑠衣には不思議とそれが見えた。

 それは、金色に輝く()の瞳のせいかもしれない。

 

「竈門君まで……」

 

 炭治郎も、生きていた。

 どういうわけか、雰囲気が違う。

 呼吸が深く長く、そして疲れている様子がない。

 あの懐かしい額の痣も、以前よりも大きく色濃くなっている気がした。

 

「瑠衣」

 

 産屋敷の鴉が、榛名の肩に止まった。

 それを見上げると、鴉の声にも関わらず、どこか慈愛の色を含めた声が落ちて来た。

 

「瑠衣、きみのおかげだ」

 

 私のおかげ?

 かけられた言葉を、胸中で反芻した。

 もう一度、盤面を見る。

 何度見ても、完璧な盤面だと思う。

 

 柱9人を中心とする最高戦力で、無惨を完全包囲している。

 仮にこれが戦略だったというのなら、これ以上はない。

 鬼殺隊が壊滅し、最終目標(青い彼岸花)を発見した時点で、無惨は鬼を不要のものと判断する。

 鬼舞辻無惨の心理を完全に読み切った、先代当主の勝利と言える。

 

(……勝利)

 

 そう、勝利だ。

 いかに無惨と言えども、この状況ではどうにも出来ない。

 個体としての力の差は強大だろうが、それを埋めて余りあるものがここに揃っている。

 ずっと追い求めていた勝利が、すぐそこにある。

 

(これで、勝てる)

 

 もう一度、胸中でその言葉を繰り返した。

 だが何故か、その二文字は、どうしてか腹の底にすとんと落ちてきてくれなかった。

 

「クク、ククク」

 

 不意に、笑い声がした。

 

「クククク、なるほど」

 

 俯いていた無惨が肩を震わせて、笑っていた。

 

「なるほど、大したものだ産屋敷! 流石の私も、こうは予想していなかった」

 

 上げた顔には、凄絶な笑みを浮かべていた。

 だがそれは、少なくとも追い詰められた者のそれではなかった。

 

「だが! これで! ()()()()()()()()()()()!」

 

 逆に。

 逆に、無惨にはまだ余裕があった。

 そんな無惨を、瑠衣はただ見つめていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 突然だった。

 無惨の体が、突如として大きく膨らんだのだ。

 その場にいた多くの人間は、攻撃を予測して身構えた。

 しかしただ1人、別のことをする者がいた。

 

()()()()()()()()!」

「――――何ィッ!?」

 

 それには無惨が驚愕した。

 確かに、無惨がしようとしていたのは「分裂」だ。

 より正確に言えば、自爆して1000を超える肉片になるつもりだった。

 

 全てが逃れる必要はない。ほんの一部が包囲の外に出られれば良い。

 そうすれば、その先を本体として無惨は再生することが出来る。

 かつて、この方法で絶体絶命の危機を乗り越えたのだ。

 だが過去にこれをしたのは一度だけ。今の世代の鬼狩りが知るはずがない。

 

(なのに、なぜ奴が知っている!?)

 

 無惨は知らない。

 炭治郎は亜理栖の血鬼術によって眠っている間、夢を見続けていた。

 それは、ある剣士の夢だった。

 炭治郎と同じ痣、同じ刀の色の剣士――継国縁壱の夢だ。

 

 始まりの剣士・継国縁壱。

 炭治郎は、その生涯を夢という形で追体験した。

 その中で、無惨を唯一追い詰めた場面を見た。

 継国縁壱にとどめを刺される刹那、無惨が取ったのが分裂による逃亡だった。

 

(ええい、知っていたからどうだと言うのだ!)

 

 そして、ここでも無惨は正しかった。

 いかに炭治郎の声に周囲が反応したとしても、すでに初動は遅れている。

 いくらかは欠片を斬られるかもしれないが、全滅はあり得ない。

 だから無惨は、そのまま分裂を続行しようとした。

 

「お前はいつも、肝心の部分が疎かになる」

 

 鈍い音を立てて、体に何かが突き刺さった。

 それも、何本か突き立ったようだ。

 見てみると、注射器のようだった。

 中には何らかの薬液があり、自動で対象の体内へと注入される機構だった。

 

「なっ!?」

 

 その薬液が注入されると同時に、体内で分析・分解に入ろうとした。

 分析は瞬時に行われ、無惨は効能を理解した。

 それは、()()()()()()()()()

 

 それも、極めて複雑な組成だった。

 分解は不可能ではない。

 しかし、()()()()()()()()()

 

「いったい誰が、こんな薬を!?」

「決まっているでしょう。()()()、お前が逃げるのを見たのは縁壱さんと私だけです。忘れたのですか? 無駄に増やした脳味噌で良く思い出してみなさい」

「お、お前は……珠世!?」

 

 愈史郎の姿晦ましで隠れていた珠世が、笑みを浮かべて姿を現した。

 無惨には見えないが、その足元には愈史郎の猫がいて、背中に注射器の射出機構のようなものを背負っていた。

 

「珠世ッ、貴様!」

「その薬だけは、ずっと前に完成していたんですよ。無惨」

 

 お前を逃がさないために。

 そう言って嗤う珠世は、それでもなお美しかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 衝撃波が走った。

 無惨を中心に、全方位に向けて凄まじい威力が放たれた。

 不可視。そして、広範囲だ。

 

「ぬ……っ」

 

 離れたところにいる鱗滝でさえ、その衝撃は届いた。

 それでさえ、体に響く。至近距離で受ければひとたまりもないだろう。

 特に負傷していて、万全でなければ。

 少なくとも、今の鱗滝には対応できない。だが。

 

 ――――水の呼吸・拾壱ノ型『凪』。

 しかし万全の、現役の柱であればどうか。

 冨岡のように、衝撃波そのものを斬ることができればどうか。

 技の威力そのものを斬る。柱の剣技はそれを可能にする。

 

(凄まじい密度の衝撃波だ)

 

 とは言え、受けた側も冷や汗ものだった。

 表情の変化に乏しい冨岡でさえ、手に伝わる痺れに眉を顰めた。

 ()()()()で身体の細かい部分が軋んでいることも、若干影響している。

 

(だが、()()()()()

 

 もしも鬼舞辻無惨に弱点があるとすれば、戦士ではないことだ。

 ()()()()()()()

 圧倒的な生物であるが故に、いわば潜在能力(ポテンシャル)だけで勝利してきた。

 だから継国縁壱のような、純粋に能力自体で上回って来る相手には手も足も出なかったのだ。

 

「鬱陶しい……!」

 

 衝撃波は、連続で撃つこともできる。

 可能だが、消耗が激しい上に一瞬の溜めが必要だ。

 柱が衝撃波を斬れる以上、効果は薄い。

 

 ならば、触手だ。

 無惨の体からは無数の触手が伸びており、それは目にも止まらぬ速さで周囲を薙ぎ払う。

 しかも表面にはいくつもの口があり、それぞれが強力な()()を行っていた。

 仮に紙一重でかわしても、吸息によって対象を捉えることが出来る。

 

「甘露寺! 伊黒! 合わせろ!」

「はい!」

「任せろ」

 

 鎖と、長射程の特殊な刀、剣技。

 鎖が触手を弾き、()()()斬撃が刎ねる。

 連撃のために、切断面が離れて即時再生を阻む。

 手数。分担の多さがそれを可能にしていた。

 さらに。

 

「無惨!」

 

 ()()()()()

 炭治郎の呼吸――日の呼吸!

 使い手も知る者も殺し尽くしたはずなのに、何故か炭治郎はこの呼吸を使う。

 もちろん、あの男には、継国縁壱には遠く及ぶものではない。

 

「おのれ……!」

 

 だが、連想はしてしまう。

 自分の命に手をかけた男の陰を、どうしても連想してしまうのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ヒノカミ神楽――日の呼吸。

 長い眠りの中で、炭治郎はそれを縁壱に教わった。

 夢の中で見続けたその動きを、今の炭治郎は再現することができる。

 その威力は、以前のヒノカミ神楽とは比べものにならなかった。

 

「チィ……ッ!」

 

 ()()の問題なのか、日の呼吸で斬ると無惨でさえ再生に()()が入る。

 それはほんの1秒にも満たない隙だ。だが。

 

「十分ですよ、竈門くん」

 

 しのぶだ。彼女が、さらなる1秒を獲得する。毒によって。

 童磨の時もそうだったが、しのぶの存在は実は集団戦の中でこそ光るものだった。

 彼女自身は、確かに腕力の無さから鬼の頚を斬ることが出来ない。

 そしてその毒は、それ単体では無惨や上弦を殺し得るものではない。

 

 だがその毒は1秒、無惨の動きを鈍らせることができる。

 毒の組成を変えて撃ち込めば、一瞬、分析して分解するための間ができるからだ。

 一騎討ちであれば、1秒後にしのぶが殺されて終わりだったろう。

 

(のろ)いな、欠伸が出そうだよ」

 

 毒で一瞬動きが緩慢になったところへ、時透の緩やかな、しかし異常に鋭い斬撃が閃いた。

 触手を輪切りにする。

 再生は即座だが、しかし煩わしい。

 ()()()()

 そう、無惨にとって、この戦いはひたすらに煩わしいだけのものだった。

 

(逃げるべきだ、今は)

 

 屈辱。大いなる屈辱だ。

 これほどの屈辱を感じたのは、それこそ全身を細切れにされた猗の時以来のことだ。

 だがしかし、無惨の精神はその屈辱を凌駕する。

 

(もうすぐ青い彼岸花が届く。こんな危険を犯す必要はない)

 

 何故なら無惨は、侍でもなければ戦士でもないからだ。

 逃亡して失う矜持などというものは持ち合わせていない。

 無惨が持ち合わせているものは、生への執着。それだけだった。

 

(分裂機能はまだ回復しない。珠世め、厄介な薬を)

 

 即座の分解は難しい。

 しかしこの重囲から抜けるには、分裂して逃げるのがやはり効率が良い。

 何としても、分裂しなければ……。

 

「…………!」

 

 その時、無惨はあるものを見た。

 それは己を狙う柱達の攻撃であり、そして産屋敷の鴉であった。

 だが無惨の目はさらに、そのそばにいる者を見つめた。

 その相手もまた、無惨を見ている。

 

 ()()だ、と無惨は思った。

 使()()()()()()()()()、と。

 あの驚く程に強固で、そして脆い存在を。

 煉獄瑠衣とその()を。

 ――――使わない手はない。




最後までお読みいただき有難うございます。

締め切りギリギリで申し訳ないです。

それでも頑張って完結まで…なんとか、なんとか…(え)

それでは、また次回。


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第62話:「鬼狩りの帰還」

 ――――人は、死を恐れる。

 古来、人類というものが死を恐れなかったことは無かった。

 死とは終焉であり、喪失であり、忌むべきものだった。

 その証拠に、考えてみれば良い。

 

 およそ「死」を題材としたもので、前向きなものが存在しただろうか。

 いかなる神話であれ、伝説であれ、昔話であれ御伽噺であれ。

 死を司るものは常に、人間から何かを「奪う」存在だ。

 だから人は死を恐れる。避けることの出来ない災厄として、膝を屈して頭を垂れるのだ。

 

(私は違う)

 

 鬼舞辻無惨も、同じだった。

 母親の胎内にいる頃から、彼の心臓は何度も止まった。

 生まれ落ちた時でさえ、死んでいると思われて荼毘に付されかけた。

 虚弱な体で、死の腕に抱かれながら毎日を生きてきた。

 

 恐ろしかった。

 だがそれ以上に、許せなかった。苛立った。腹立たしかった。

 まともに生きたことさえないのに、死なねばならないことが納得できなかった。

 こんな理不尽が、許せるはずがない、と。

 

(だから私は、死を克服する。死という理不尽を克服して初めて、私はようやく()()()ことが出来る……!)

 

 千年も生き永らえたが、死の可能性が0にならない限り、実は何の意味も無いのだ。

 心の片隅で、死ぬかもしれない、そう思い続けることの苦痛。

 何をしても、何処にいても、絶対に死なない。

 そんな存在になってこそ、本当の生を謳歌できるのだから!

 

(青い彼岸花だ……青い彼岸花さえ、手にすれば!)

 

 炎の剣を弾き、風の刃をかわす、水の刀を砕いて、岩の鉄塊を打つ。

 その他にも、次々と技を仕掛けられる。

 息つく間もない、とはまさにこのことだった。

 無惨に休息を、あるいは思考する暇さえ奪おうと、怒涛の如く攻撃してくる。

 

(どれもこれも、()()()には遠く及ばん! だが、やはり手数が厄介だ)

 

 無惨の攻撃は、まさに致死の一撃だ。

 当たっただけ、触れただけで致命傷になり兼ねない。

 しかし柱達は一陣が攻撃する時、他の者が防御や援護に回る。

 これを突破することは、いかに無惨と言えども容易なことでは無かった。

 

「無惨!」

「無惨……!」

「……無惨!!」

 

 そして、誰も彼もが自分に明確な殺意を向けている。

 己の命など、まるで省みていない。

 命さえ投げ打って攻撃してくる相手。それも複数人。さらに最強の達人ばかり。

 ――――理解できない! 何なのだ、こいつらは!

 

  ◆  ◆  ◆

 

 落ち着け、と()()()が告げた。

 竈門炭治郎を始めとする鬼狩り達は、確かに厄介だ。

 1人1人ならともかく、攻防連携されれば容易には振り払えない。

 たとえ百獣の王でも、体に(たか)る無数の蟲を払うことは出来ない。

 

(とにかく、分裂して離脱する)

 

 無惨が多少なりと苦戦するのは、今の形だからだ。

 鬼狩りの眼を晦まし離脱してしまえば、二度と同じ形には出来ない。

 何となれば、この場にいる全員が――鬼である珠世だけは例外だが――寿命で死ぬまで地下に潜っていれば良いのだ。

 事実、前回――継国縁壱の時は、そうやって()()()()()

 

「鬱陶しい異常者どもめ! 粉々に吹き飛ぶが良い!!」

 

 ガパッ、と、無惨の体の前面が割れた。

 無数の牙の奥に光がちらつき、次の瞬間には無惨の言葉が現実のものとなった。

 衝撃波。

 並の人間であれば肉体をばらばらにされるだろうそれは、しかし。

 

 ――――岩の呼吸・参ノ型『岩軀(がんく)(はだえ)』。

 鉄球と鎖、そしてそれを補助する恋と蛇の柔らかな斬撃。

 まさに剛柔の斬撃が、衝撃波そのものを斬り散らしてしまう。

 

「隙ありです」

 

 ――――蟲の呼吸・蝶ノ舞『戯れ』。

 衝撃波を放った直後に起こる硬直。

 そのわずか一秒の隙に、しのぶ(毒の女)が無惨に毒針を撃ち込む。

 そうして生まれた毒の一瞬に、他の柱が攻撃を仕掛けて来る。

 

 この攻撃を捌くのに、やはり2手3手は遅れる。

 そして次の攻撃を受ける。ループしている。

 やはり、抜け出せない。

 このループから抜け出すためには、いかにするべきか。

 

「無惨!」

 

 炭治郎の斬撃。熱い。忌々しいこの熱量。

 ()()()()()()()

 忌々しいが、今は強力な斬撃こそが必要だった。

 

「ふん、それにしても死んだふりまでして私の命を狙うとはな」

 

 そのためには、どうすれば良いか。

 この点に関しては、皮肉なことに無惨は()()()()だった。

 

「本当にしつこいな。それともお前達は台風や津波で身内を殺されても報復を誓って自然現象に千年つきまとうのか?」

 

 場の空気が固くなり、無惨はニヤリと笑った。

 

「とんだ異常者だ。そんなお前達の身内も異常者だったんだろう。死んだ方が世の中のためだったな」

 

 その、次の瞬間。

 まさに、殺意をぶつけられたかのように。

 無惨に対して、暴力的とさえ言える量の斬撃が繰り出されたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 結論から言おう。

 無惨の言葉に激昂した炭治郎や柱達の攻撃は、完璧に届いた。

 日輪刀の刃は無惨の肉体を切断し、その再生速度さえも上回った。

 また斬り付けた当人達の手にも、着実な手応えがあった。

 まさに、完璧だ。完成された攻撃だ。欠けている点は何もない。

 

(――――おかしい)

 

 しかし、1人だけ違和感を覚える者がいた。

 産屋敷輝利哉である。

 彼は、実は戦場付近まで出張って来ていた。

 

 鎹鴉に出来るのは――産屋敷家直属の鎹鴉は知能も流暢さも他の鴉と比較できない程だが――基本的に()()であり、会話は出来ない。

 無惨の前には出ない。

 しかし、無惨の近くにはいる。灯台下暗しだ。

 無惨に見つからない場所は、()()()()()()()()()

 

()()()()()

 

 輝利哉は、父からこの計略を実行するにあたっていくつか話を聞いていた。

 父の話の中には、始まりの剣士――継国縁壱と無惨の因縁についても含まれている。

 そして、いかに無惨が狡猾で、()()()()()()も聞いていた。

 そんな無惨が、こうもあっさり柱達から致命の攻撃を受ける。

 産屋敷家特有の直感とも言うべきもので、輝利哉は強烈な違和感を覚えたのだった。

 

「ク――――」

 

 ()()()()()()()()()が、喉の奥を鳴らした。

 

「クク、ククク、クハハハハハハハハハハッッ!!」

 

 哄笑。

 無惨の嗤い声が、その場にいる全員の耳朶を打った。

 誰もが不快さを隠さず、無惨を睨んだ。

 

「馬鹿め、まだわからないのか!?」

 

 無惨は嗤い続け、そして言った。

 

()()()()()()()()()()!!」

 

 しまった、と、何人かは気付いた。

 こちらの波状攻撃によって、無惨の頚は飛んでいる。

 ()()()()()()()()()()

 ()()()()()()!!

 

「今頃になって気付いても、もう遅い! お前達がいくら頑張ったところで、我が肉片の全てを斬ることはできまい!」

 

 全員で手分けすれば、いくらかは斬れるだろう。

 だが「いくらか」では駄目なのだ。

 散らばった肉片を一度に、逃さずに斬らねばならない。

 そんな技は、この場にいる誰も持っていなかった。

 

「ハハッ、ハハハハハッ、ハハハハハハハハハハハッッ!」

 

 そんな、と、この後の展開がわかる炭治郎の焦りは特に強いものだった。

 喋っている無惨の頭がすでに()()でないことも、わかっている。

 斬る意味がない。だから動けない。

 

(ああ、無惨が逃げる! 逃げてしまう……!)

 

 珠世の分裂阻害を過信した。

 愚かだった。

 自力で無い分裂を予測しなかった。

 迂闊だった。

 

 ここで無惨を逃がしてしまったら、次の機会までに何年かかる。

 四百年か、千年か。その間に、何人が死ぬ。

 何百、何千、いや何万もの人間が死ぬだろう。

 

「無惨――――ッ!!」

 

 叫ぶ。返って来るのは嗤い声だけだった。

 脳裏に、夢で見た継国縁壱の姿が浮かんだ。

 誰よりも強く、誰よりも弱かった人。

 託されたもの、繋いでくれたもの。

 それが無駄になろうとしている。

 

(誰か……!)

 

 誰かを、変化を望んだ。

 自分では覆せない状況を前に、人間は祈る。

 他者に、神に、仏に、祈る。

 だが仲間の剣士はおろか、神も仏も応えはしない。

 救いは、もたらされない。

 

「他者に救いを求め…。手を止めるとは…」

 

 救いをもたらしたのは、神でも仏でもなく。

 

「軟弱千万…」

 

 そして、人ですらなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それは、誰もが予想していなかった男の登場だった。

 黒い、そして紫の刀を持つ男。

 六ツ眼の男。

 ――――黒死牟。あるいは、()()()()

 

「こ――黒死牟!? 貴様……ッ」

「……御意。生きておりました…」

 

 黒死牟は、頭が生えていた。

 瑠衣に頚を斬られたはずだが、再生していた。

 

(そうだ。思えば、あの時……体は倒れたけど、()()()()()()()()

 

 疲労困憊の極みにあったせいで、死体の確認が不十分だった。

 再生する気配もなかったし、鬼気も失せていたので、見落としてしまった。

 普通に考えれば、大失態だ。

 上弦の壱が無惨の援護に来たのだ。そう考えるのが当然だろう。

 

 だが、黒死牟は今、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その場にいる全員が、それを目撃した。

 黒死牟の斬撃、あの月輪の斬撃が無惨の肉片を薙いだ。

 鬼殺隊側の衝撃は、凄まじいものがあった。

 しかし無惨の受けた衝撃は、それ以上のものであっただろう。

 

「……日の呼吸…」

「あ……」

 

 炭治郎は、そばに立ったその鬼を見上げた。

 ()()()

 背丈だけの話ではなく、何故か、圧倒されるような、仰ぎ見るような感覚を覚えたのだ。

 

「何故、手を止めた…」

 

 ずん、と、両肩に重しを置かれたような重厚感。

 

「刀が折れることは恥ではない…。だが、()()()が折れることは恥だ…」

 

 心せよ。

 剣士とは、侍とは。

 心の刀を他者に見せることを許された、唯一の身分なのだから。

 

「黒死牟、貴様……何故、()()()()()()()()ッ!?」

「……あの男に、そしてあの娘に頚を落とされた時点で…。我が命は潰えておりました…」

 

 頚を落とされたことで、支配の枷が外れた。

 鬼として一度死に、再誕したのだ。

 すなわち今の黒死牟は、無惨が生んだ鬼ではない。

 だから、黒死牟は、()()()()()()()()()()

 

「思い出しました…」

 

 彼は。

 

()()()()()()()()

 

 何故かは、黒死牟自身にもわからない。

 だがその名を口に出すと、何故か妙に清々しい気がした。

 あの男、煉獄槇寿郎の拳を打たれた時、久方ぶりの痛みと懐かしさを覚えた。

 それは黒死牟の奥底で眠っていた何かを揺り動かし、そして。

 

()()()()()()()()()

 

 みし、と、再び手にした刀の柄が音を立てて軋んだ。

 すると、不思議なことが起こった。

 紫色だったその刃が、徐々に別の色に染まっていく。

 

「貴様、その刀は……!」

「……左様。貴方に鬼にしていただいたあの日、自ら封印した()()()

 

 ()()()()()()()

 

「……貴方には、大恩がある。しかし」

 

 その刀を、黒死牟は肩の上あたりまで振り上げた。

 ミシミシと音を立てる刀は、今にも砕けそうだ。

 

「――――悪鬼、滅殺」

 

 ――――月の呼吸・拾肆ノ型『兇変(きょうへん)天満(てんまん)繊月(せんげつ)』。

 無惨の目には、膨大な数の月輪が見えていただろう。

 そしてそれが、鬼狩り達によってバラバラにされた肉片の数を遥かに上回っていることも、彼の目には見えていたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

(――――嗚呼)

 

 珠世は、それを見て思った。

 あの時、鬼舞辻無惨が継国縁壱から逃れたあの時に、もしも。

 もしも、この男(縁壱の兄)が縁壱のそばにいたならば。

 無惨はけして、継国兄弟から逃れることは出来なかっただろう、と。

 

 月の呼吸は、広範囲殲滅型の技が多い。

 これは黒死牟が――巌勝が、一撃必殺の日の呼吸への対抗心で生み出した型だからだ。

 攻撃範囲と手数で圧倒しようという、強い意思の下で開発した技の数々だからだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(縁壱さん)

 

 もちろん鬼の力で拡大している面があるが、人として放たれても同じだっただろう。

 まして巌勝は痣持ちで、透き通る世界にも入門していて、しかも赫刀の発現者だ。

 巌勝自身は、今も気付いていないだろう。

 今の彼は、もう十分に――――()()()()()()()()()

 

「終わりです。無惨」

 

 珠世が宣言するまでもなく、無惨は逃走経路を失った。

 しかも、なまじ分裂してしまったために肉体の大半を失ってしまった。

 戦う力はおろか、逃げる力さえ無くなったのだ。

 

「ぐ、ぐおおおおおおお……!」

 

 頭と、片腕。それも頭の四分の一は欠損しており、腕は二の腕のあたりまでしかない。

 それが、無惨に残された肉体の全てだった。

 他は全て、巌勝が斬り消してしまった。

 

「……日の呼吸の継承者」

「あ、はい!」

「後は、委ねる…」

「……はいっ!」

 

 巌勝に促されて、炭治郎が無惨に近付いていく。

 黒刀、耳飾り。それを見て、巌勝は目を細めた。

 懐かしい。今となっては、それしか思い浮かばなかった。

 

「ま――――待て! 待て待て! よせ、来るな。来るんじゃあない!!」

 

 無惨は、怯えていた。

 迫りくる死の予感が、そうさせた。

 無惨の頭にあるのは、いかにしてこの場から逃れるか、ということだった。

 逃げなければ。逃げなければ。逃げなければ。

 

「そうだ。お前にも私の血をやろう! 永遠を生きられるぞ!」

「無惨」

「待て! 止まれ! 私……私を殺せば、全ての鬼が死ぬんだぞ。何の罪もない犠牲者だ、お前はそれを殺すのか!?」

「お前は」

「黒死牟も、亜理栖も死ぬ! そこの男(犬井)はお前の仲間ではないのか? 亜理栖は妹だと言うではないか――――そう! お前の妹もだ。お前は妹を殺すのか!?」

「もう」

「待て、よせ。考え直せ! やめろ」

「喋るな」

「やめろおおおおオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォッッッ!!」

 

 命乞い。

 それが、千年を生きた鬼の首魁が、最期に行ったことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()()()()

 それを、巌勝(黒死牟)()()で理解していた。

 何故なら鬼のすべては、無惨に命を握られていたからだ。

 

(失われていく)

 

 四百年。あるいはそれ以上。

 長い、永い時間をかけて我が身に培ってきたものが失われていく。

 その独特の喪失感に、巌勝は大きな溜息を吐いた。

 情けないことに膝が落ちて、立つことさえ出来ない。

 

「あ……えっと、あの」

 

 そう言えば、名を名乗っていなかった。

 目の前でどうしたら良いかわからない、という顔をする炭治郎を見て、巌勝はそんなことを思った。

 名乗っておこうかとも思ったが、いや、と思った。

 今さら、人間としての名乗りをしても仕方がないと思えたのだ。

 

(灰の匂いがする)

 

 そして、炭治郎は巌勝の死を嗅ぎ取っていた。

 巌勝の肉体が崩壊を始めていることを、鼻で察していた。

 だが炭治郎には、かけるべき言葉が見つからなかった。

 

「炭治郎」

 

 その時だ。炭治郎を呼ぶ声がした。

 振り向くと、善逸がいた。

 彼もまた炭治郎と共に、亜理栖の鏡の中にいたのだ。

 もっとも、それも今や()()()()()()()()

 

「禰豆子ちゃんが」

 

 禰豆子。その名前に、炭治郎は目に見えて揺れた。

 

「行くがいい…。私など、捨て置け…」

「でも」

「…………」

 

 目で、巌勝は語った。それだけで十分だった。

 炭治郎は頭を下げると、巌勝に背を向けて駆け出した。

 

(嗚呼)

 

 再び、巌勝は大きな息を吐いた。

 炭治郎の発する日の呼吸、日輪の耳飾り。

 それを、視界に収めて、思う。

 

(嗚呼、私はついに……何も。何も残すことが出来なかった)

 

 呼吸も、技も、何も。自分の何かを継いでくれる者もいない。

 このまま自分が消滅すれば、それで終わりだ。

 それに対して、日の呼吸とその技は、炭治郎が子々孫々に伝えていくのだろう。

 ずっと、残っていくのだろう。

 

(何者にも、なれなかった)

 

 ついに、縁壱に追いつくことは出来なかった。

 縁壱のように、なることは出来なかった。

 何者にもなれず。

 何も残せず。

 自分は、このまま消滅するのだろう。

 

(私のような者には、相応しい死に様だ)

 

 せめてこのまま、潔く地獄に行こう。

 そう、思った時だった。

 不意に、巌勝の前に立つ者がいた。

 

「……?」

 

 不思議に思って顔を上げると、そこに時透が立っていた。

 年若い少年。

 しかし、どこか――――懐かしい。

 そう、思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 犬井透という剣士は、鬼殺隊としては極めて標準的な男だった。

 異人との混血であること。体格に恵まれていること。犬のブリーダーであること。

 それらは人となりを示す個性ではあるが、鬼狩りとしての境遇を表すものではない。

 

 鬼に家族を殺され、家族を鬼にされ、鬼殺隊に流れ着いただけの男。

 鬼殺隊士としては標準的とも言うべき境遇で、犬井は鬼狩りになった。

 そして運よく今日まで生き残り、そして運よく。

 

「バウッ」

「おう」

 

 そばに駆け寄って来たコロに、犬井は目を向けなかった。

 犬井が何かを言わなくても、コロは尻尾を振って前に回り込んで来る。

 怪我をしているのか、前足の片方が動いていなかった。

 

()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

「どがんしたと」

「……なんでんなか」

 

 大きく、本当に大きく、息を吐いた。

 犬井は、()()()()()()()()

 もう、必要なくなったからだ。

 鬼を斬るための力は、もう犬井には必要なかった。

 

「なんでんなかよ」

「う、ん……」

 

 ただ、妹を腕の中に抱く力さえあれば良かった。

 しかしそれも、もうすぐ必要ではなくなるだろう。

 犬井には、それが良くわかっていた。

 

(オレ達はこれで良い。だけど、願わくば)

 

 願わくば、あちらの兄妹には別の結末がありますように。

 犬井は、心の底からそう思ったのだった。

 

「禰豆子!」 

 

 炭治郎が駆け寄った時、禰豆子の傍には伊之助と、そして鱗滝がいた。

 禰豆子は何枚か重ねた布の上に寝かせられていて、荒い呼吸をしていた。

 苦しんでいる、ように見える。

 

「お、おい! ねづ公は大丈夫なんだろうな!?」

 

 伊之助の言葉に、答える者はいなかった。

 

「おい!!」

「あー、もう五月蠅い! ちょっと静かにしてろ馬鹿!」

 

 触れると、異常に熱かった。

 鬼の身体だ。人とは違う。それを加味しても異常な熱さだった。

 まるで、()()()()()()みたいに。

 

 今になって、無惨の最期の言葉が重く圧し掛かってきた。

 後悔――はしていない。何度繰り返しても、同じ選択をする。

 同じ選択をする。しかし。

 しかし、と、思わずにはいられないのだった。

 

「禰豆子……」

 

 その直後、炭治郎はハッと顔を上げた。

 ()()()()()

 そしてその匂いの源は、空から落ちてきた。

 まるで、()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 本能で理解していた。

 自分はもうすぐ死ぬ。

 死を避ける方法は、今度こそ存在しない。

 それを自覚した時、彼は――猗窩座は、自然と行動していた。

 

「お前は……!」

 

 不意に飛来したその鬼は、大胆不敵にも鬼狩り達のいる場の中心に着地した。

 彼は、手にしていた金属製の鞄のようなものを、足元に投げ捨てた。

 重い音を立てて落ちたそれに、場の視線が集まる。

 さして興味もなさそうな顔で、猗窩座は言った。

 

()()()()()だ」

 

 町の入口には、青い彼岸花の移送部隊――達の、()()()()()()()()

 良く見れば、猗窩座の手は血に塗れている。

 日ごとに強まる猛りのままに、猗窩座は拳を振るった。

 外道。鬼畜。まさに鬼の所業。

 

 だが、それで良い。それが良かった。

 求めていた()()は、ついに手に入ることが無かった。

 ならば、自分に残された道は修羅の道しかない。

 そして死を前にして、修羅がすべきことは1つしかない。

 

()()()()、煉獄瑠衣」

 

 無限列車で受けた屈辱を、返すことだけだ。

 それが最後の命を使って、すべきことだと見定めた。

 猗窩座にとって、戦い以外で命を使うことは考えられなかった。

 

「え……」

 

 一方で、呼びかけられた側はどうか。

 すでに事態の推移を見守るばかりとなっていた瑠衣は、不意の「決闘」の申し入れに反応できなかった。

 一度切れてしまった糸を、すぐに張り詰めることは出来ない。

 

「……チィ」

 

 そんな瑠衣の様子を見て取って、一歩前に出たのが不死川だった。

 しかし彼が実際に声を上げる前に、手で制して先んじた者がいた。

 

「ここは俺に任せて貰おう!」

 

 杏寿郎だった。

 全身から力を漲らせて前に出る彼を見て、不死川も口を閉ざした。

 この場にいる誰も、杏寿郎の実力を疑っていない。

 何より、杏寿郎の一挙手一投足がこう告げていた。

 これは、自分がつけるべき()()()だと。

 

「俺が相手をしよう――――猗窩座!」

「……杏寿郎か」

 

 もちろん、杏寿郎の目は節穴ではない。

 ()()()()()()()()()()、猗窩座の力が以前の比ではないことを見抜いている。

 おそらく、無惨の血を受け、新たに人も喰ったのだろう。

 しかし、杏寿郎に退がるという選択肢は無かった。

 

「元々、これは俺とお前の戦いだった」

 

 1つ、決着をつける責務がある。

 そして、もう1つ。

 ()()()()()()()()()()()()責務がある。

 柱として、そして兄として。

 杏寿郎は、今ここで戦わなければならなかった。

 

「そうか。ならばまず、お前との決着をつけるとしよう――――杏寿郎ォッ!!」

「来い、猗窩座!」

 

 そして、これが最後だった。

 鬼舞辻無惨率いる鬼と、鬼殺隊の戦い。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 その最後の戦いの火ぶたが、切って――否。

 ()()()落とされた、瞬間だった。




最後までお読みいただき有難うございます。

一件落着!
ハッピーエンド!
いやー、素晴らしい。私はそういうのが大好きなんですよね。

……何ですかその目は(え)
もしかして疑っているのですか?
ならば断言しましょう。
このお話はこのままハッピーエンドに向かう、と!(曇りなきまなこ)

それでは、また次回。


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第63話:「めでたしめでたし」

 ――――本当のことを言えば。

 猗窩座には、()()()が聞こえていた。

 片時も途切れることなく、自分のことを呼ぶ声を聞いていた。

 

『――――……さん』

 

 だが、それらの声を猗窩座は無視した。

 己の内側に閉じ込めて、蓋をした。

 鬼の本能に溺れたのではない、自分の意思でそうしたのだ。

 何故ならば、()()だと思ってからだ。

 

 今はまだ、その声に応じることは出来ないと思ったからだ。

 だが、同時にこうも思っていた。

 いったい、いつなら良いのだろうか。

 どこまで行けば、この声に応じて良いと思えるようになるのだろうか。

 心のどこか、奥底で、猗窩座はずっとそう考えていた。

 

「行くぞ、杏寿郎!」

「来い、猗窩座!」

 

 だが、それも今日までだ。

 無惨が滅び、鬼も滅びる。自分も、滅び去る。

 不思議と恐怖はなく、むしろ安堵さえあった。

 永遠に訪れないはずだった終わりを目の前にして、猗窩座は己の死を思った。

 

 自分はいかに死すべきか?

 そんなことは、猗窩座にとって考えるまでもないことだった。

 戦って、戦って、戦い続けた生き様だったから。

 だから滅びる時も、自分は戦って滅びるべきなのだ。

 

「……………………」

「……………………」

 

 名を呼び、構えて。

 しかし両者は動かなかった。

 一定の距離を空けて、睨み合う形になっていた。

 そして最初の一声だけで、後に続く言葉も何も無かった。

 

(ど、どうして動かないんだ……?)

 

 隠や、知己のように経験の浅い剣士は、2人が固まった理由がわからずに困惑していた。

 しかし柱や鱗滝、あるいは炭治郎達のように技能(スキル)を持つ者達には、違って見えていた。

 

(空気がヒリついていやがる……)

 

 不死川の目には、杏寿郎と猗窩座が繰り広げる()()が見えていた。

 2人はすでに仮想(イメージ)の中で何度も切り結び、剣と拳を打ち合っている。

 見える者には、それが見えている。

 

 そして同時に、力ある者達は猗窩座が()()()動ける時間の短さを見抜いていた。

 当然だ。無惨の死によって、猗窩座の肉体はこうしている間にも死につつある。

 ()()()()()()()()()()()()

 

「……兄様」

 

 そして、瑠衣も見た。

 刹那の瞬間、何の前触れもなく、現実の2人が動くのを見た。

 決着の時を、瑠衣は見ていた。

 じっと、見つめていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 決着は、まさに一瞬だった。

 杏寿郎と猗窩座の交錯は、たったの一撃で終わった。

 しかしそれだけに、両者共に全霊の一撃だった。

 

「ぬ……!」

 

 まず、杏寿郎が血を噴いた。

 傷口の多くは背中だった。

 身体の内側から外へ衝撃が抜け、弾けたかのようだった。

 そして実際、それは猗窩座の拳打が身体の前面を穿ち、背中の傷口となって現れたものだった。

 つまり、外傷以上に身体の内側の負傷が深刻だった。

 

「兄上!」

「大丈夫だ。大人しくしてろォ」

 

 逸る千寿郎を、不死川が押さえた。

 杏寿郎は確かに血を噴いた。

 だが逆に言えば、それだけだった。

 彼は倒れることなく立ち続け、一方で。

 

「…………見事だ」

 

 一方で、猗窩座は膝をついていた。

 頚に、切断の痕が見えた。

 杏寿郎の日輪刀が、正確に猗窩座の頚を斬っていたのだ。

 だがすでに頚の切断による死を克服している猗窩座にとって、それは死を意味しない。

 ただ、()()()()()()()

 

(……不思議な気分だ)

 

 以前の猗窩座であれば、頚の再生と同時に追撃を放っていただろう。

 いや、頚の再生を待たずに攻撃していたはずだ。

 あるいは無惨が健在であれば、まだ攻撃しようという気にもなったかもしれない。

 だが今は、そういう気にはなれなかった。

 

(嗚呼、俺は……俺は、()()に許されるだろうか)

 

 もはや思い出すことさえ出来ない、記憶の彼方の()()

 古い記憶の彼方にいる誰かに赦しを請いたい。考えるのは、それだけだった。

 それだけで十分だと、そう思えた。

 それだけを持って、敗残の身として、地獄に行きたい。

 

「……杏寿郎」

 

 声は、小さく、掠れて。

 

「感謝する」

 

 舌が崩れて、音にさえならなかった。

 しかし、杏寿郎にはそれで十分だった。

 彼らは敵同士で、殺し合った仲で、そして――不思議な繋がりだった。

 だから杏寿郎は膝を着くことなく、消えゆく猗窩座に背に向かって、言った。

 

「さらばだ、強き()

 

 猗窩座の肉体はもう、ほとんど崩れていた。

 もちろん、耳も無い。聞こえるはずも無い。

 だが杏寿郎と同じく、猗窩座にもそれで十分だった。

 十分なのだと、杏寿郎にはわかっていた。

 

「逝ったか、猗窩座」

 

 鬼は消えて。

 その場には、青い彼岸花だけが残った。

 知る人ぞ知る、()()()()()

 それが鬼の手向けになるとは、何とも皮肉なことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 終わった。

 今度こそ終わった。そんな空気になった。

 隊士、そして隠達の喜びの声が爆発するまで、そう時間はかからなかった。

 

「炭治郎さん」

「あ、珠世さん……」

 

 禰豆子を見ていた炭治郎の傍に、珠世がやって来た。

 そう言えばと、炭治郎は思った。

 珠世も愈史郎も鬼だ。そして鬼は無惨と共に滅びる。

 だとしたら珠世も、と思ったのだ。

 

「大丈夫です」

 

 だが、珠世は笑っていた。

 少し顔色が悪かったが、消滅する、という切迫感は感じなかった。

 

「私と無惨の縁は、何百年も前に切れています。だから、無惨の死で私が消滅することはありません」

 

 そして、と、珠世は続けた。

 そっと、禰豆子の頬に振れながら。

 

「禰豆子さんも、大丈夫です」

 

 元々、禰豆子は他の鬼とはどこかが違っていた。

 最初から無惨の支配の枷が外れていたし、無惨もその存在に気付かなかった程だ。

 つまり禰豆子は、とっくの昔に無惨から独立していたのだ。

 だから無惨の死で、禰豆子が消滅することは無い。

 

「本当か!? 本当に大丈夫なんだろうな!?」

「うええええええええ良かったあああああああっ!」

「ええ、大丈夫。ただ、少し……身体が、重くなる……だけで」

「珠世様、もうお休みに……!」

 

 禰豆子が死なない。

 伊之助、善逸、愈史郎の騒ぐ様が、遠くに感じた。

 その場にへたり込んで、炭治郎は禰豆子を見つめた。

 覚悟していたのに、失わずに済むと思うと、もう駄目だった。

 修行が足らない、と自分を律する必要は、もう無いのだ。

 

「炭治郎」

 

 そこへ、鱗滝と冨岡がやって来た。

 元々、口数の多くない2人である。

 せいぜいが肩に手を置いたり、頷いて見せるぐらいだ。

 しかしそれが、炭治郎にはたまらなく嬉しいことだった。

 

(嗚呼……)

 

 良かった、と、ようやく思うことが出来た。

 顔を上げて周囲を見れば、それぞれの「終わり」を目にすることが出来た。

 死にゆく者達の終わり。

 そして、生き残った者達にとっての終わりであり、始まりだ。

 

「兄貴……」

「……おう」

 

 玄弥が、不死川――兄に、声をかけているのが見えた。

 不死川はそっけない態度だったが、もうかつてのように突き放したりはしないだろう。

 

「師範!」

「カナヲ。アオイも来なさい」

 

 蝶屋敷の面々。カナエを支えている。

 亜理栖の血で身体を動かしていた彼女は、また不自由になるのかもしれない。

 けれど、きっと心は不自由ではない。

 そう確信させる光景だと、抱き合う少女達を見ていて思った。

 

(……終わったんだ)

 

 この時に至って、炭治郎はやっとそう認めることが出来た。

 そしてそんな風に「終わり」を共有する場に、息せき切って駆け込んで来た者がいた。

 ひょっとこの面を被った少年。

 つまり、小鉄だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 小鉄は走っていた。

 それはもう走っていた。

 何しろ最後の鉄で打った最後の刀を瑠衣に届けようとしていたのだから。

 

「この刀があれば、鬼なんていちころさ……!」

 

 その一心で、ひたすらに駆けて来たのだ。

 しかし現場に到着してみれば、もはやそういう雰囲気に無いことは明らかだった。

 剣士や隠が歓声を上げているのを見れば、嫌でもそれがわかる。

 

「え、えー……終わった? 本当に?」

 

 小鉄が到着したのは、無惨が死に、猗窩座も滅び、何もかもが終わった時だった。

 もう日輪刀など必要ない。

 はっきりそう言われたわけではないが、小鉄はそれを理解した。

 もう、日輪刀が必要な時代は終わったのだ。

 

 こうなってみると、陽光山が閉じたのは宿命だったのかもしれない、と思えた。

 時代が、世界が、もう必要ないと言っていたのかもしれない。

 小鉄が持つ日輪刀を最後に、陽光山も、刀鍛冶も。

 役目を、追えたのだ。

 

「だとしても鴉で知らせるとかあったと思うんですよね。そういう気を利かせてくれても良かったと思うんですよね」

「う、悪かったって。でも俺達もいっぱいいっぱいだったんだよ」

「この、この」

「いて、いててて。やめろって」

 

 後藤の腹を(つつ)きつつ、小鉄はある人物を探した。

 もちろん、小鉄が刀を届けたいと思っていた相手だ。

 

「ところで、瑠衣さんはどこですか?」

「煉獄様の……あーっと」

 

 もちろん、今さら日輪刀を渡そうというわけではない。

 ただ、小鉄は瑠衣のために駆けて来た。

 だから、きょろきょろと瑠衣を探したのだ。

 

「あ、すみませ……ん」

 

 不意に、頭の後ろが柔らかいものにぶつかった。

 振り向くと、そこに瑠衣が立っていた。

 探し人を見つけた形だが、しかし小鉄は口を噤んでしまった。

 何故かはわからないが、そうなってしまった。

 

「えっと、瑠衣さん……?」

 

 見た限りでは、変わったところでは無かった。

 怪我はしている様子だったが、そういうことではなかった。

 目の前に立っているのに、()()()()()()()()()()()()()()

 

「瑠衣さん……?」

 

 呼んでみても、反応は無かった。

 そもそも瑠衣であれば、音もなく背後に立つなどということはしない。

 思わず、刀を握る手に力を込めた。

 どうしてそうしたのか、小鉄自身にもわからなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 全部が上手くいった。

 誰がどう見ても、大団円だ。

 この世から鬼が消える。鬼によって人間が殺されることはもう無い。

 それは、先祖代々続く煉獄家の悲願でもあった。

 

 だから今日は、悲願が達成された記念すべき日だ。

 喜ぶべき日だ。

 祝福すべき日だ。

 だからこそ、誰もが歓喜の声を上げている。

 

(これで良かったんだ)

 

 このために、今まで苦しい思いをしてきた。

 鬼殺隊壊滅の後も、諦めずに戦い続けて来たのだ。

 それが報われたのだ。

 死んだと思われていた者達も、無事だった。

 

(兄様も、千寿郎も、皆……皆が無事だった。生きていた)

 

 嬉しい。嬉しい。嬉しい。

 大切な人達が生きていて、これからも生きていける。

 もう戦いはない。もう死ぬことはない。

 これからの人生を、共に歩むことが出来る。

 誰も、欠けることなく。

 

(良かった)

 

 何度も、心の中で繰り返した。

 これで良かったのだと。

 何もかもが理想的な形で終わったのだと。

 瑠衣は心の中で、そう繰り返していた。

 

(これで、良かった)

 

 そっと立ち上がった時、小鉄の姿が見えた。

 汗を掻いて、息を乱している様子が見て取れた。

 何やら日輪刀を抱えていて、どうやらそれを届けに来てくれたのだとわかった。

 ただそれも、今となっては意味がなくなってしまった。

 

(……意味がない?)

 

 ふと起こった考えに、首を振った。

 そんなことはない。

 小鉄が懸命に走って来てくれたのは、自分達を助けてくれようとしてくれたから。

 だから、意味がないなどということはないのだ。

 

 そうだ。

 意味がない、などということは無いのだ。

 そんなこと、あるはずがない。 

 ()()()()()()()()

 

(だから、これで良いんだ)

 

 だからこれが、正解の形なのだ。

 

(これで)

 

 嗚呼。何て喜ばしい。

 鬼は死んだ。皆が生きのびることが出来た。

 こんなに喜ばしいことはない。

 終わった。何もかもが、考え得る限り最善の結果で終わったのだ。

 

(良かった)

 

 目を閉じる。

 良かったと、心の中でもう一度唱えた。

 そして。

 

(……()()()()()()()()?)

 

 そして、瑠衣の言葉に。

 ()()()()()()()

 

(――――()()()()()()()()()

 

 次に目を開けた時、瑠衣の手には日輪刀が握られていた。

 それは、小鉄の持っていた日輪刀だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――()()は、ずっと夜だった。

 陽が射したのはもう、いつ以来だろうか。

 

「素晴ラシイ!」

 

 そんな世界の中心に、姉は立っていた。

 ぱちぱちと拍手をしていて、まるで観劇でも見終わった後かのようだった。

 ただし、最高傑作を見たというよりは。

 出来の悪い、児童の()()()遊びを以下の何かでも見させられたかのような、そんな顔をしていた。

 

「実ニ、素晴ラシイ結末ジャアナイカ」

 

 素晴らしい結末。

 その通りだ。

 何度も、そう何度も言うが、これ以上の結末など無い。

 誰がどう聞いても、100人に聞けば100人が「そうだ」と言うだろう。

 瑠衣も、同じ気持ちだ。

 

 むしろこれ以上の結末を、どう望めと言うのだろう。

 これ以上を望むなど、罰が当たるというものだ。

 だからこれが、終わりで良いのだ。

 千年に渡る「鬼退治」の物語、その最高の終幕として。

 今日という日は、それこそ千年語り継がれるだろう。

 

「鬼ハ滅ンダ」

 

 そう。

 

「皆ガ生キテル」

 

 その通り。

 

「平和ノ夜ガヤッテ来ル」

 

 そうだ。だからこの物語は、これで終わりだ。

 ここで、幕を閉じるべきなのだ。

 それが最も、美しい終わり方なのだから。

 

「ソウダネ。彼ラニトッテハソウダロウネ」

 

 おかしな言い方をする。

 それではまるで、自分が皆と違うようではないか。

 自分だけが、鬼の滅亡を喜んでいないかのようではないか。

 

「ソウ、喜ンデイナイ。少シモ嬉シクナイ」

「そんなことない」

「ダッタラドウシテ」

 

 どうして、お前は笑っていない?

 

「え……」

 

 どうして、笑えないんだろう。

 皆のように、胸の奥に湧き上がるような喜びを感じないのだろう。

 良かった良かったと、頭の中では思いながら。

 それを口に出せないのは、どうしてなのだろう。

 

「やめて」

 

 違う。

 蓋を、しなければ。

 目を逸らさなければ、気付かないふりをしなければ。

 そうしなければ、私は。

 私は、もう。

 

「良イヨ。大丈夫、姉サンニ任セテ」

「やめて、違う」

「姉サンガ全部ヤッテアゲル」

()()()()()望んでない」

「姉サンガ」

 

 私はもう、今までの自分でいられなくなってしまう。

 

「姉サンガ、本当ニシテアゲル」

「やめて……!」

 

 こんな。

 こんな結末を。

 私は、望まない。

 ――――だから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「瑠衣」

 

 はっとして、顔を上げた。

 目の前には杏寿郎がいて、自分に呼びかけたのは彼だとすぐにわかった。

 まず思ったのは、何だろう、ということだった。

 

 何故なら自分を見る杏寿郎の目が、酷く真剣だったからだ。

 記憶にある限り、杏寿郎が自分を見る目は常に温かく、柔和なものが多かった。

 鍛錬の時は厳しい眼差(まなざ)しになりもするが、それとも違う。

 そう、まるで()()()()()()()()()()()()()

 

「……兄様?」

 

 どうして、そんな顔をしているのだろう。

 どうして、そんな目をしているのだろう。

 どうして、日輪刀を持っているのだろう。

 どうして、そんな。

 

「瑠衣、それを渡すんだ」

「え……?」

 

 言われて、手元を見た。

 すると、自分があるものを持っていることに気付いた。

 1つは小鉄の持っていた日輪刀だった。

 何の変哲もない日輪刀で、瑠衣が持ったことで深緑に色が変わっている。

 問題は、もう1つだった。

 

「これは……?」

 

 左手の中に、()()はあった。

 足元に金属製の鞄と、割れたガラス製の容器が落ちていていた。

 中身は、おそらく自分が今持っている()()だ。

 だが、どうして自分は()()を手に持っているのだろうか。

 ――――青色の、彼岸花を。

 

「……?」

 

 日輪刀もそうだが、青い彼岸花を手にした記憶は無かった。

 顔を上げると、杏寿郎は変わらず自分に日輪刀を向けていた。

 兄が、自分に、刀を向けていた。

 

 いや、意識がはっきりした。

 するとどうだ。杏寿郎だけでは無かった。

 周りを見れば、他の柱達も、いやその場にいる剣士全員が、自分に日輪刀を向けていた。

 はっきり言って、困惑した。

 

「え……え?」

 

 戸惑ったが、しかし青い彼岸花を手放そうとは考えなかった。

 いや、考えたとしても身体はそう動かなかった。

 それどころか逆に、瑠衣の手は青い彼岸花を持ち上げていた。

 

「瑠衣、やめろ」

 

 わかっているよ、と、瑠衣は言おうとした。

 しかしそのために開いた口は、言葉を発することは無かった。

 大きく、本当に大きく開いたその口は、別のことをした。

 

 青色の彼岸花、()()()()()()()()()()

 

 誰かが悲鳴を上げるのを、瑠衣は聞いた。

 咀嚼(そしゃく)し、すぐに嚥下(えんか)した。

 植物。花弁だ。味などしようはずもない。

 これまでに食べた何よりも苦く、熱く、不味く、そして。

 血の味が、した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 誰もが気を抜いている瞬間だった。

 鬼舞辻無惨の滅亡――悲願の達成した直後ゆえの、空白の一瞬。

 だから、誰もの反応が遅れた。

 何より、信頼度の高さが彼らの判断を鈍らせた。

 

 何しろ、相手は瑠衣である。

 不信の気持ちなど抱きようもない。

 鬼狩りとしての実績も、個人の人柄も、誰もが信用を置いている。

 だから小鉄から日輪刀を奪い、青い彼岸花を手にしても、どこか現実と思えないところがあった。

 

「……瑠衣さん?」

 

 だから、炭治郎も咄嗟には動けなかった。

 その上、理解も出来なかった。

 瑠衣が突然、()()()()()()()()()

 その事実を前にしても、何も出来なかったのだ。

 

「瑠衣!」

 

 そして実際に事が起こってからも、誰も動くことは無かった。

 そもそも、「動く」とはどういうことだろうか。

 よもや、攻撃するということだろうか。

 

 煉獄瑠衣を、攻撃するということだろうか。

 本来、柱を含めたこの場にいる剣士達の判断は早い。

 それは、鬼との戦いにおいて一瞬の判断の遅れが命取りになるからだ。

 しかしその判断力は、あくまで鬼との戦いのためのものだ。

 人間と、まして仲間と戦うことを想定したものではないのだ。

 

「何てことだ……」

 

 誰かが、呆然と呟くのが聞こえた。

 それはそうだろう。

 よりにもよって。そう、よりにもよってだ。

 あの瑠衣が、そんな暴挙に出るとは誰も思わなかったのだ。

 

「かつて……」

 

 愈史郎に支えられながら、珠世はそれを見ていた。

 

「無惨は、無力な若者でした」

 

 珠世は長年の流浪の中で、無惨の過去についても調べていた。

 そしてそれは、産屋敷家の歴史をほぼなぞったものでもある。

 だから輝利哉も知っていた。

 鬼舞辻無惨は、病弱なただの若者だった。

 

 それが鬼と――青い彼岸花を原料とした薬を服用した結果――なったことで、強靭な肉体と不老不死を得た。

 だが黒死牟を見てもわかるように、呼吸や痣を持つ者が鬼になればより強力な鬼になる。

 ではもしも、人間・鬼舞辻無惨よりも強力な人間が()()()()となったならば?

 鬼舞辻無惨よりも遥かに強力な、鬼の始祖と化したならば?

 

「夜明けだ! 太陽が……!」

 

 そして、夜明けが来る。

 闇の時間が終わり、光が満ちる。

 本来は勝利の光となるはずだったそれが、その場の全てを照らした。

 中には、ほっとした者もいただろう。

 あの無惨でさえ、太陽は克服できなかった、と。

 

 だが、しかし、嗚呼。

 嗚呼、何ということだろう。

 ()()を終え、目を開いた彼女は。

 太陽の光を背に、鬼狩り達を睥睨(へいげい)した。

 

「素晴らしい(ラシイ)結末なんて(ナンテ)

 

 ()()には。

 

「願()げだ(ゲダ)

 

 弱点は、存在しない。

 頚の切断!

 太陽の光!

 どちらも効果が無い。

 無惨系統の鬼が数百年かかった成果を、彼女は一時で達成している。

 

 完璧な生命!

 究極の生物!

 鬼舞辻無惨が追い求めてついに叶わなかったそれに、彼女は一時にしてなったのだ。

 有り体に言えば。

 

 

 ――――煉獄瑠衣は、人間を超えた(やめた)のだ。




最後までお読みいただき有難うございます。

懸命に頑張って。
頑張って頑張って頑張って。
でもそんな頑張りが、なくても良かったんじゃないか、無意味だったんじゃないか。
そう思った時。

人間は実に素晴らしい顔をすると、私はそう思っています(え)

それでは、また次回。


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第64話:「煉獄瑠衣」

 ――――()()

 まず、鉄球だった。悲鳴嶼の日輪刀である。

 彼は瑠衣が鬼化したことを感じ取るや、有無を言わさず攻撃に出たのだった。

 

(鬼化の直後であれば、まだ肉体は脆いはず)

 

 煉獄槇寿郎亡き今、悲鳴嶼は鬼殺隊最強の剣士と言って良い。

 その彼が放った渾身の一撃は、瑠衣の頭部を確実に捉えた。

 少女の額に、凶悪な形の鉄球が無慈悲に叩き付けられた。

 

(絵面がヤバイ)

 

 と、善逸が思った程である。

 そして本来であれば、善逸は瑠衣の頭が砕け脳髄を撒き散る様を目撃していただろう。

 たとえ鬼であっても、そうなっていたはずだ。

 

 しかし実際には、そうはならなかった。

 悲鳴嶼の手に伝わって来たのは、頭蓋や肉を潰した独特の感触では無かった。

 例えるなら、そう。巨岩を叩いたが如き()()。それを感じた。

 

「何と……!」

 

 砕けたのは、鉄球の方だった。

 高純度の鉄の塊が、硝子細工か何かのようにバラバラになった。

 破片が落ちると、何事も無かったかのような涼し気な少女の顔が見えるようになる。

 

 その頚を、別の日輪刀が一閃した。

 時透の『移流斬り』。滑り込むような一撃だった。

 だが、結果は同じだった。瑠衣の肌に触れるか触れないか。

 そこへ達するや、時透の日輪刀は半ばから折れてしまった。

 

「おいおいマジか」

 

 宇髄が、呻くように言った。

 時透は今、いわゆる「正しい角度」で刀を振るっていた。

 最年少の柱。鬼殺隊始まって以来の天才と謳われるに相応しい、完璧な角度の斬撃。

 折れない角度だ。それが、棒切れか何かのように簡単に折れてしまった。

 

「鬼になっちまった。ってことだなァ」

 

 もしも身内が鬼になってしまったら、どうするか。

 鬼殺隊士ならば、その問いに対する答えをすでに持っている。

 何故ならばその問いは、自分が鬼になったらどうしてほしいか、という問いと同義だからだ。

 鬼殺の剣士ならば、鬼狩りならば、誰しもが覚悟している。

 

(斬らなければいけない)

 

 理性ある鬼(禰豆子)の兄である炭治郎でさえ、それは変わらない。

 

(瑠衣さんを、斬らなければいけない)

 

 自分が心まで鬼と化して人を殺す前に、人間として殺してほしい。

 それが、鬼殺隊士に共通する覚悟だ。

 だが、もしも。

 もしも鬼殺隊士がその覚悟を捨て、自らの意思で鬼になったのであれば。

 その時は、どう対するべきなのだろうか。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そして、()()は終わる。

 外見は大きく変わらない。黒死牟のように異形と化すわけでも無い。

 顔に浮かび上がる炎のような、広がる羽根のような痣も同じだ。

 ただ、発する雰囲気は全く違っていた。

 

「珠世様、出ては駄目です!」

 

 陽が昇り切る前に、珠世は愈史郎によって屋内に避難させられていた。

 それでも瑠衣を良く見ようと身を乗り出す珠世を、愈史郎が必死に押さえている。

 そして珠世の目は、瑠衣の肉体の変化を確実に見抜いていた。

 

「これは……」

 

 ――――()()()

 そう、珠世は瑠衣を見て美しいと思った。

 鬼化に伴って再構築されたその肉体は、まさに細胞レベルで完璧な構成だ。

 負傷や病はおろか、欠陥と呼べる部位がまったく無い。

 

 人間の肉体には、強靭な部分と脆弱な部分がある。

 個体によってその部分は異なるのだが、瑠衣の肉体にはそれが無い。

 これほどの完璧な肉体を()()のは、それこそ無惨以来だ。

 いや、あるいは今の瑠衣は、無惨さえも超えている。

 

「完全な、生物」

 

 不老不死。不死身。

 肉体のポテンシャルにおいて、地上で――否、世界で彼女を超える者は存在しない。

 誰も、個体として彼女の敵う者は存在しない。

 完全な、完璧な、そして究極の生命体。

 瑠衣がその地点に到達したことを、珠世は認めざるを得なかった。

 

「――――瑠衣」

 

 その時、瑠衣に話しかける者がいた。

 輝利哉だった。

 彼の鎹鴉が、翼をはためかせてその肩に降りて来た。

 まさか彼が直接出馬することはない

 

「お館様!?」

「危険です。どうかお下がりを!」

「良いんだ。大丈夫、危険はない。それに、これは僕の責任だから」

 

 ()()()――――産屋敷輝利哉。

 小さな少年だ。だが、誰もが彼を主君と仰ぐ。

 かつては、瑠衣もそうだった。

 だが、何故だろう。

 

「瑠衣、きみの今までの貢献は素晴らしいものだった。改めて、お礼を言わせてほしい」

 

 労わるように、そして諭すように、輝利哉は言った。

 先代の、父親とそっくりな話し方だった。

 かつてはその言葉に感銘を覚え、(かしず)いたものだった。

 だが、何故だろう。今は。

 

「…………貢献?」

 

 今は、その言葉に感銘など覚えなかった。

 むしろ今は、何故だろう。別のものを感じる。

 例えるならば、そう。それは。

 無惨の言葉に受けた印象と、まったく変わらないものになっていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 輝利哉は、まだこの時点では話し合える余地があると思っていた。

 それは、鬼化した直後の瑠衣が理性を保っていたからだ。

 通常、鬼は変化直後の強い飢餓感に襲われる。

 それが様々な悲劇に繋がるのだが、瑠衣は理性を保っている。

 

 これは、瑠衣が生存に人間の捕食を必要としないことを示している。

 禰豆子の例があるので、あり得ないことでは無い。

 だから輝利哉としては、話し合いで解決できると考えたのだ。

 そしてそれ以上に、下手に刺激して第2の無惨になることを避けたかった。

 

「瑠衣。父上が亡くなり、鬼殺隊が壊滅してから、きみには苦労をかけ通しだったと思う」

 

 事実である。

 ()()()において、瑠衣は自分達が最後の鬼殺隊だと思っていた。

 だから危険を犯して東京に踏み込み、無惨暗殺へと動いたのだ。

 支援も補給もほとんど無く、孤立無援。孤軍奮闘の日々。

 精神を擦り減らしながら、瑠衣は歩んできた。

 

「きみがこの状況を作ってくれたんだ、瑠衣。だから……」

()()()

 

 不意に、瑠衣が言葉を遮って来た。

 表情から、考えを読むことは出来なかった。

 

「1つ、教えていただきたいのです」

「……聞きましょう」

 

 正念場だと、輝利哉は察した。

 おそらく次に来る問いが、この後を決定付けるだろう。

 この後、お互いの関係を。

 鬼殺隊と、煉獄瑠衣の関係を。

 

「何故、教えていただけなかったのでしょう」

 

 柱達と他の剣士は、鏡の中で眠っていた。

 だが輝利哉だけは、起きていたはずだ。

 それはそうだろう。

 そうでなければ、無惨を仕留める機会を見定めることなど出来ない。

 

 鏡を、あるいは鎹鴉を通じて、彼は正確に外界の情勢を把握していた。

 瑠衣と生き残りの剣士達の様子を、見ていたはずだ。

 外界の仲間達の苦境を、知っていたはずだ。

 知っていて、伝えなかった。

 

「……作戦が、無惨の陣営に漏れるのを防ぐ必要がありました」

 

 用心深い無惨を欺くには、瑠衣達と不用意に連絡を取ることは出来なかった。

 もしも漏れれば、無惨は隠れる。少なくとも亜理栖は粛清されていた。

 そうなれば、何もかもが水の泡になる。

 

「では、もう1つ」

 

 しかし、それは。

 

()()()。何故、私達を本部に集めたのでしょう」

 

 鬼殺隊壊滅のあの日、本部には柱を始めほとんどの隊士がいた。

 偶然ではない。意図的にそうしたのだ。

 鬼殺隊を壊滅させたと、無惨に思い込ませるために。

 無惨を欺くために、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 いや、思えば鬼殺隊とは、産屋敷家が無惨を討つためだけに設立した組織だった。

 剣士のほとんどは鬼への復讐心を持つ、だから鬼の殲滅を掲げる組織に違和感など覚えない。

 だが実のところ、1つの一族の目的を達するための組織。それが鬼殺隊の正体だった。

 つまり多くの剣士が、産屋敷家の悲願のために死に続けて来た。

 

「……作戦のため。悲願のため。目的のため。そのために」

 

 瑠衣も、違和感を覚えたことは無かった。

 ()()()()()()。初めて、気付いた。思ってしまった。

 産屋敷家にとって、剣士(こども)達は。

 

「私達がどうなろうと、どうでも良かったんだ」

 

 ――――私達は、何だったのか、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 自分が斬らねばならない。

 と、伊黒は思った。

 瑠衣を斬るべき人間がいるとすれば、それは自分しかいない。

 

(甘露寺や杏寿郎に斬らせるわけにはいかない)

 

 自分にしか、出来ない。

 

「瑠衣ちゃん……そんな……」

 

 甘露寺は、衝撃を受けている。すぐには動けそうにない。

 杏寿郎は、実の兄だ。妹殺しなどという業を背負わせるわけにはいかない。

 そして他の者が斬ってしまえば、甘露寺や杏寿郎はその者に隔意を覚えるだろう。

 頭ではわかっていても、そうなる。そういうものだ。

 

 だから、自分が斬るべきなのだ。

 甘露寺や杏寿郎のような正道を行く人間は、手を汚すべきではない。

 妹を殺したら、同僚を恨んだりすべきではない。してほしくない。

 そんなことは、自分のような汚らしい生まれの人間がやれば良い。

 それで2人に恨まれるのは身を裂かれるよりも辛いが、それでも決意は変わらなかった。

 

「この、馬鹿弟子がァ!」

(不死川……!)

 

 しかし、伊黒よりも先に不死川が動いていた。

 おそらく不死川も、自分と同じような思考をしていたのだろう。

 ああ見えて、人の心の機微に聡い男だった。

 

「大丈夫ですよ、師範」

 

 瑠衣と不死川は、文字通り擦れ違った。

 その擦れ違いの中で、不死川の風の刃が瑠衣を斬り裂く――ことは無かった。

 瑠衣の指先、2本の指の間に日輪刀の刃先が挟まれていた。

 不死川の日輪刀を、折っていた。

 

(動きが、見えなかった!)

 

 剣の速さにおいて、不死川は鬼殺隊でも一、二を争う腕前だ。

 その不死川よりもなお速く動き、刀を折ってみせた。

 刀を折る。

 文字にすればたった四文字。しかし達人の振るう刃を、いとも容易(たやす)く。

 もはや人間のすることではない。

 

「隊士は殺しません。柱の皆様も殺しません。誰も、殺しません」

 

 瑠衣は、生存に人間の捕食を必要としない。

 無惨のように、同類を増やす必要もない。

 

「でも、()()()()()()()()

 

 人は殺さないが、鬼殺隊は潰す。

 矛盾するようだが、実はそうではない。

 この矛盾を解消する条件は、奇しくもすでに整っているのだから。

 

()()()()()()()()()()()()

 

 陽光山はもう、日輪刀の原料になる鉄を採掘することは出来ない。

 刀鍛冶衆はほぼ全滅した。

 今ある日輪刀を折ってしまえば、再生産することは出来ない。

 ()()()()だ。

 

「けれど」

 

 伊黒は、はっとした。

 瑠衣の目が、何を捉えているか気付いたからだ。

 

「やめろ、瑠衣――――!」

 

 輝利哉だ。

 先代同様、輝利哉自身は呼吸も剣技も使えない。

 

()()()だけは、つけさせていただきます」

 

 何の反応もできないままに瑠衣の接近を許し、そして。

 そして、立ち塞がったのは()だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「ど、どうして……?」

 

 輝利哉の前に立ち塞がり、己が身を盾としたのは黒死牟――巌勝だった。

 無惨の滅亡により、肉体は崩壊しかけている。

 鬼としての組織が壊れてしまっているためか、陽光焼けの速度は緩慢だった。

 死につつあるせいで陽光の痛みを緩和できるというのは、皮肉なものだった。

 

 しかし、それでも苦痛は想像を絶するものだろう。

 もはや指一本を動かすことさえ出来ないはずだ。

 それが立ち上がり、瑠衣の凶刃から輝利哉を守ったのだ。

 その身を貫かれながら、微動だにせず。

 

「……何故?」

「さあ、な…」

 

 瑠衣が問うても、巌勝は何も答えなかった。

 答える資格を持たなかった。

 

(……お館様)

 

 巌勝の思う「お館様」は、もちろん先代でも輝利哉でもない。

 彼が人間として、鬼狩りとして生きていた時代の「お館様」だ。

 かつて彼が裏切り、その首を無惨の手土産にした。かつての主君。

 

 けじめと言うのならば、これこそがけじめだった。

 もちろん、こんなことをしても何にもなりはしない。

 だが、せめても責務を果たすべきだと思った。

 

(こんな時でも、頭に浮かぶのは()()の顔か)

 

 他の何を忘れても、それだけは忘れなかった。

 かつては疎んだ。

 今は、それだけを地獄に持って逝こうと思った。

 ――――しかし。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()()。 

 鬼が死ねば灰になり、その魂は地獄に送られる。

 人の道を外れた者の末路だ。当然の報いだ。

 

 だが今の瑠衣は、()()()()()()()()

 ()()()()と、刺し貫いた刀をさらに進めて、巌勝に直に振れた。

 そして、触れられた瞬間、巌勝は己の内側から吸い上げられるような感覚に陥った。

 それは、大きな不快感。そして苦痛を感じた。

 

「これは…」

 

 メキメキと音を立てて砕けていく己の肉体に、巌勝は六ツ目を細めた。

 上弦の壱である彼、そして透き通る世界の入門者である彼は、瑠衣が今、何をしているのかを正確に理解した。

 そして、己の末路をも悟った。

 

「そうか…」

 

 それでも、巌勝は最後まで威厳を失うことは無かった。

 己が死を、それも最悪の死の形を前にしても、彼は動じなかった。

 その姿はまさに、()と呼ぶに相応しいものだった。

 

「それが…。お前の…」

 

 そして、巌勝に永遠の闇が訪れた。

 それは比喩ではなく、本当に視界が、いや全ての感覚が闇に溶けたのだ。

 消えたのではない。

 ()()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 今、何が起こったのか。

 特殊な訓練を受けていない輝利哉や小鉄、未熟な剣士や隠にはわからなかっただろう。

 だが、柱や炭治郎達のように一定以上の実力がある者には理解できた。

 

(く……)

 

 今、目の前で起こった恐ろしい出来事が。

 

(……()()()()()()!)

 

 鬼が共食いをするのは良く知られている。

 それは無惨が配下の鬼が徒党を組むのを好まず、鬼同士が互いに嫌悪感を抱くよう調整したからだ。

 だが鬼同士の戦いでお互いが死ぬことはない。不死身だからだ。

 

 しかし、何事にも例外はある。

 例えば創造主である無惨は、例外的に配下の鬼を殺すことが出来た。

 瑠衣は無惨系統の鬼の創造主ではない。

 

「お、俺の『鬼喰い』と同じ……?」

(違う)

 

 玄弥の呟くような声を、不死川は脳内で否定した。

 彼の弟は――実に業腹なことに――鬼を喰うことで、一時的な鬼化を果たすものだ。

 鬼化によって、喰った鬼の能力が反映されることもある。

 だがそれはあくまで一時的なもので、しかも不安定なものだった。

 

「鬼喰いは言葉尻が悪いですね」

 

 瑠衣はそう言ったが、現象はまさに「鬼喰い」であった。

 ただし玄弥のそれとは違う。力を模倣するのではない。

 文字通りの鬼喰いである。

 上弦の壱・黒死牟という鬼の存在そのものを、吸収したのだ。

 それを表すかのように、額や頬の痣が大きくなり、鎖骨のあたりまで広がった。

 

「名前は、まあ、後で何か考えることにします」

 

 これまで、鬼は食物連鎖の頂点だった。

 動物を人が喰い、鬼が人を喰う。

 そして今、鬼は頂点から引きずり降ろされた。

 

 瑠衣は、鬼を喰う鬼なのだ。

 人間とは比べ物にならない鬼の強力なエネルギーを、体内に取り込んだのだ。

 まして上弦。まして壱。無惨を除けば最強の鬼。

 瑠衣から放たれる威圧感が、さらに重みを増したように感じられた。

 

「あと、()()

 

 瑠衣の言葉の意味を、()()が理解した。

 愈史郎は、珠世を屋外の奥深くへと引き込んだ。

 炭治郎は、あるいはその仲間達は、禰豆子を庇うように立った。

 そして不幸にも、瑠衣に最も近い位置にいたのが。

 

「……オレ達ってわけかい。お嬢さん」

「ええ、そうですね。残念ながら」

 

 犬井と、亜理栖の2人だった。

 兄の腕の中で消滅しようとしている亜理栖に、瑠衣は手を伸ばした。

 犬井は、その掌をじっと見つめていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 伸ばしかけた手が、止まった。

 亜理栖に向けたその腕に、コロが噛み付いていた。

 瑠衣は、それを不思議そうな目で見つめた。

 

「グルル、グルルルッ」

 

 コロは瑠衣の腕に噛み付いて、唸り声を上げていた。

 毛は逆立ち、尻尾を高く上げている。

 噛み付く力は甘噛みではなく、本気のそれだった。

 

「コロ」

 

 そして、コロだけでは無かった。

 瑠衣達の足元から、花弁が広がるように赤い血が彼女達を包み込んだのだ。

 それは、亜理栖の血鬼術だった。

 

「……ああ、なるほど」

 

 いつか通った、血の鏡の道。

 その中を落ちて行きながら、瑠衣はあたりを見渡した。

 血色の世界は、どこか色褪せて見えた。

 能力の持ち主の状態を表しているのかもしれない。

 

()()()()()()()()()()()()

 

 亜理栖という鬼は、気が狂っていた。

 だからこそ無惨を欺き、鬼殺隊の勝利に繋がった。

 しかし今、瑠衣と共に血色の世界を落ちていく亜理栖の目には、明らかな理性があった。

 

 とは言え、だ。

 この血色の世界を維持できない程、消耗している。

 そんな状態で瑠衣を取り込んだところで、大したことは出来ない。

 何故ならばそれは、血鬼術を通じて瑠衣に()()()()()()()ということだからだ。

 

「お兄ちゃんに、酷いことはさせないわ」

 

 それは、どちらの意味合いなのか。

 瑠衣が犬井に酷いことをするという意味か。

 犬井に酷いことに手を染めてほしくない、という意味か。

 あるいは両方か。

 それとも、両方違うのか。

 

「やりたいことはわかりましたが、今さらこんな血鬼術。私には効きません」

 

 ()()()()()()()()()()()、瑠衣は言った。

 そして時間が経てば経つ程、亜理栖の顔色は悪く、表情は苦しいものに変わって行く。

 しかしそれでもなお、亜理栖の目には力があった。

 

「ここは亜理栖のお腹の中よ」

 

 その言葉に、瑠衣は僅かに目を見張った。

 ここは亜理栖の腹の中。

 ()()()()亜理栖の、中。

 

「……道連れにする気ですか」

「お姉さんは、きっと。きっと、()()()()()()()()()()

「…………」

「だから、ここで亜理栖と――――死ん」

 

 言葉は、ごぼっという水音と共に途切れた。

 口から血が噴き出し、言葉を掻き消した。

 瑠衣の腕が、深々と小さな胸板を貫いていた。

 

「貴女が私を道連れにする前に、私が貴女を取り込めば済む話です」

 

 その腕を、亜理栖が掴む。

 口からは血が噴き出し続けている。

 いや、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――――血鬼術『悪厘珠(アリス)』!!

 亜理栖の肉体だけではない。その場の全ての血が、世界そのものが1つの形を成していった。

 大きく、獰猛で、暴力的な形。

 欧州の御伽噺に登場するという、翼ある蜥蜴(トカゲ)――西洋竜。

 血の西洋竜が、閉鎖世界の中で咆哮を上げた。

 

「これは……」

「お兄ちゃんは」

 

 ()()()()()()()()それが、術者である亜理栖ごと、瑠衣を押し潰した。

 

「――――亜理栖が、守るわっ!!」

 

 瑠衣の視界は、赤に。そして次いで黒に塗り潰された。

 血の匂いだけが、瑠衣を包み込んでいった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 一瞬、だった。

 ほんの一瞬、飛び散った血が人の形になった。

 小さな女の子が、微笑んだように見えた。

 

「ゴメンナサイ」

 

 それが、最期の言葉だった。

 そして、()()()()()

 犬井が手を伸ばすよりも先に、文字通りに砕け散ったのだった。

 砕け散った後には、別の女がいた。

 

 まるで女の子の中から、()()を破って出て来たかのようだった。

 そしてそれは、あながち間違った表現では無かった。

 瑠衣は今まさに、亜理栖の肉体を喰い破って、外界に帰還したのだから。

 髪についた血の破片を、軽く頭を振って払った。

 

「上弦2体を、無傷で一蹴とは」

 

 誰かが、呻くように言った。

 確かに巌勝も亜理栖も、万全の状態とは言い難かった。

 しかしそれでも上弦。死にかけでも強大さは変わらない。

 それを、まったく歯牙にもかけない。

 絶句し、呻いてしまうのも無理は無かった。

 

「…………?」

 

 そして、瑠衣。

 彼女は今、不思議な感覚の中にいた。

 それは生還の喜びとも、勝利の高揚とも違うものだった。 

 

 それは、()()()だった。

 とてもとても単純で、だからこそ重要な気付き。

 柱の刀を折り、上弦の鬼を屠った。

 それも、いとも容易(たやす)く。

 

「……あれ?」

 

 思えば、瑠衣の戦いは苦難と苦境と苦心の連続だった。

 何体もの上弦と戦ったが、その度、痛みと苦しみを味わった。

 地面を転がり、傷だらけ。汗と泥と、血と涙とに塗れて。

 そればかり。そればかり、だけだった。

 それが今は――――あれ?

 

「もしかして」

 

 ()()()()()

 もしかして、もしかして。

 いやいやまさか、まさかそんな。

 そんなことが、あるのだろうか。

 

「皆さん」

 

 それは、例えるなら「猛獣の子供」だ。

 猛獣、あるいは肉食獣と言えど、最初は幼い子供だ。

 力弱く、獲物も獲れず、強く逞しい群れの大人達を見上げるばかりの存在。

 

「私より」

 

 しかし彼はある日、気付くのだ。

 それまで見上げるばかりだった大人達が、いつしか隣に。

 そして、いつしか。

 

()()()()()?」

 

 いつしか、下に。

 

「…………アハッ」

 

 気付いてしまったら、それで終わりだ。

 みんなみんな、お終いだ。

 猛獣がとうとう、群れの本当の序列に気付いてしまったのだ。

 自分の強さの位置を、確信してしまったのだ。

 

「アハッ、アハハッ、アハハハハハッ!」

 

 弱かった。

 惨めだった。

 それがどうだ。今はどうだ。

 嗚呼、何て、何て――――何て!

 

「アハハハハハハハハハハハハハッッ!」

 

 ()()()()()()

 

「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッッ!!!!」

 

 それは、その場にいる誰もが初めて見るものだった。

 満面の、何の遠慮会釈もない、純粋で、心の底からの。

 楽し気な、瑠衣の笑顔と笑い声だった。

 

 それを、ある者は厳しい顔で見つめていた。

 あるいは恐れ戦いていた。あるいは哀しんでいた。

 そして、さらにあるいは。

 

「何よアレ……」

 

 あるいは。

 

「……チョー、サイコーじゃない」

 

 あるいは、全く別の感情で、瑠衣を見つめていた。




最後までお読みいただき有難うございます。

いやあ、これ以上ないハッピーエンドでしたね(え)
無惨は滅び、鬼は全滅しました。
鬼滅の二次作品は数あれど、鬼の全滅をここまで繰り返し強調する作品はそうはないはず(根拠はない)。
あとは皆で幸せになるだけですね!(くもりなき眼)

それでは、また次回。


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第65話:「ハッピーエンド」

 珠世は、諦めていた。

 愈史郎は珠世を生かそうと必死に努力をしているが、意味がないことだった。

 夜になれば逃げ道もあるだろうが、おそらく自分達に()()()()()()()

 今日が、自分達の死ぬ日なのだ。

 

「愈史郎」

 

 血鬼術の姿隠しの符――屋内なら陽の光に焼かれることもない――を天井や壁に貼っていた愈史郎を、呼び止めた。

 無惨の死の影響が残っているせいか、酷くか細い声だった。

 しかし、愈史郎が珠世の声を聞き逃すこともまた無かった。

 

「珠世様! もしやお身体の具合が……!」

「それは、大丈夫です」

 

 鬼舞辻無惨(憎き仇)の死が、大きな消耗を強いるだろうことは想定していた。

 何しろ自分も「無惨の鬼」である。

 支配から逃れて数百年が経っているとは言え、()()()

 影響が皆無だと思ってはいなかったし、最悪の場合には道連れに死ぬだろうとも思っていた。

 

 死なずに済んだだけでも、僥倖(ぎょうこう)と思うべきだろう。

 だが、今回は駄目だ。

 死ぬ以外の想定が出来ない。その想定を覆すだけの準備も、無い。

 なすすべなし。そういう心境自体は、新鮮ではあった。

 

「無駄な努力をするのは、やめなさい。あの人には……瑠衣さんには、血鬼術は一切意味を持たないでしょう」

 

 無惨を除けば、珠世は最古の鬼だ。

 鬼として生きて来た時間で言えば、あの黒死牟――継国巌勝さえ上回る。

 その珠世から見て、瑠衣はかなり特別な()()だった。

 それが蒼い彼岸花を接種したことで、変質した。

 

「瑠衣さんは、端的に言って……()()()()()()()()

 

 我ながら何の捻りもない表現だと思ったが、他に言い様がないのも確かだった。

 煉獄瑠衣は、鬼舞辻無惨を遥かに超える鬼となった。

 それは呼吸や剣技による差異だけではない。

 ()()()()()()()の影響が大きい。

 

「瑠衣さんにはもう、弱点はありません」

 

 太陽の光はもちろん、日輪刀も瑠衣には効かない。

 不老不死。

 不死身。

 人も、鬼も、瑠衣を殺すことは出来ない。

 

「私達にできるのは、祈ることだけ」

 

 それは、人が神に祈るようなものだった。

 怒れる神を前に、人は手を合わせることしか出来ない。

 

「だから、やめなさい」

「珠世様……!」

 

 ――――最初に。

 初めて瑠衣に出会った時、珠世はすぐに瑠衣の()()に気付いた。

 その病巣が徐々に大きくなっていくことにも、気付いていた。

 けれど、無惨への復讐を優先した。

 

 ()()()()()()()()()()()()()に、賭けた。

 毒を以て、毒を制したのだ。

 だから、結果()を受け入れる覚悟はずっと以前に済ませている。

 

(何とか愈史郎だけでも、とは思うけれど……無理でしょうね)

 

 心残りがあるとすれば、それだけだった。

 だがそれも、事ここに至ってはどうすることも出来ない。

 だからただ、祈るしかない。

 自分達の生殺与奪の権を握る者がやって来る、その時まで。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 最初は、確かめるように。

 次いで、戸惑うように。

 そして最後に、確信して。

 まるで、覚えたてのダンスを見せびらかす童女のように。

 

「強い」

 

 岩の戦斧を、手の甲で打ち払った。

 たったそれだけのことで、戦斧は跡形もなく消し飛んだ。

 鎖は踏むだけで砕けたし、何なら当たったところで簡単に引き千切れた。

 

 爆発する日輪刀は、音の大きさには驚いた。

 端で見ているのと受けるのとでは、実際に受ける印象は違うものだ。

 ただ逆に言えば、驚いただけだった。

 指先で摘まみ、引く。それだけで2本とも半ばから折れた。

 

「強い!」

 

 視界の中を滑るような、まさに「流れるような」剣筋だった。 

 余りにも動きが自然過ぎて、まさに水のような、見逃してしまいそうな程だ。

 だが、今は酷く遅く感じる。

 剣筋を完全に見切る眼と、反応できるだけの反射神経を得たからだ。

 

「いや強すぎないっ!?」

 

 瑠衣が冨岡の日輪刀をバラバラに折ったあたりで、もう耐えられない、と言わんばかりに善逸が叫んだ。

 実際、叫びたいのは彼だけでは無かった。

 その場にいる誰もが、鬼と化した瑠衣の強さに恐れ慄き、衝撃を受けていた。

 

 上弦の鬼を一蹴し!

 鬼殺隊の柱さえも寄せ付けない!

 そんな人間を、あるいは鬼を、その実在を信じることが出来ない。

 信じたくないと、その場にいる誰もが思っていた。

 

「誤解しないでほしいね」

 

 そんな善逸に――聴覚さえも人並外れている。あるいは()()()()()――瑠衣は言った。

 わざわざ言った。

 まるで、今まで黙っていたことを初めて公言するかのように。

 

(瑠衣)は元々、これくらいは強かったさ」

 

 何を言っているんだ、と善逸でなくとも思っただろう。

 確かに瑠衣は以前から強かったが、柱や上弦に及ぶものでは無かった。

 少なくとも、ここまで圧倒的では無かった。

 

 ただ一方で、表情を変えなかった者もいた。

 杏寿郎、そして不死川である。

 その場にいる者の中で最も瑠衣の力に触れる機会があった彼らだから、そうなった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 繋がりという名の枠。しがらみという名の枷。

 人間は誰しもそれを持っている。

 それは時として人間を強くするが、同時に弱くもする。

 瑠衣は、その典型だった。

 つまり、瑠衣は今、生まれて初めて――――()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ずっと怖かった。

 怯えていたと言っても良い。

 周りから「お前は違う」と言われることを、瑠衣はずっと恐れ、怯えていた。

 

 ここで問おう。

 煉獄瑠衣という少女にとって、何が一番大切だったのか。

 何が、彼女の心の根幹を成していたのか。

 そう、瑠衣は常々こう言っていたはずだ。

 

()()()()()()()()

 

 それが、瑠衣にとって何もかもの基準だった。

 血の繋がりがないとわかった後も、それは変わらなかった。

 目に見えない枠であり、無意識の枷だった。

 

 しかし、今は違う。

 鬼となった今となっては、そんな価値基準には何の意味も無かった。

 今さらだった。

 だからもう、何も気にする必要がない。

 

(――――軽い)

 

 軽かった。身体が、何より心が軽かった。

 背や肩に背負(しょ)っていた荷物を降ろした直後に似ている。

 嗚呼、とようやく息を吐けたあの瞬間に似ている。

 

(どうして、あんなものを気にしていたんだろう?)

 

 自分で、過去の自分が不思議で仕方がない。

 どうして、あんなにも「煉獄家に相応しい人間でいること」にこだわっていたのだろう。

 そのせいで、とても窮屈だった。

 息苦しくて、仕方が無かった。生きるのが辛いと思い悩む程に。

 苦しくても、辛くても、続けなければならなかった。その生き地獄に。

 

「……!」

 

 その時、視界に()()()()と滑り込んで来たものがあった。

 それは布のように薄い刃。くるくると瑠衣の顔――頚に巻き付こうとしていた。

 日輪刀。それもこんな独特な形のものは、この世に1つしかない。

 恋柱・甘露寺蜜璃の日輪刀だ。

 

「日輪刀で頚を刎ねても、私には意味がありません」

 

 ぎし、と、刃が頚を絞める。

 鬼に触れれば肌を焼くはずの日輪刀だが、瑠衣には効果が無かった。

 

「そもそも、日輪刀では私は斬れません」

 

 それ以前に、薄皮一枚さえ傷つけることが出来ていない。

 瑠衣は鬼として、日輪刀に対して強固な耐性を持っていた。

 何度も繰り返すが、太陽を克服した鬼を日輪刀で殺すことは出来ない。

 

「……ああ、なるほど」

 

 だが、そんなことは相手も――甘露寺も、百も承知だったようだ。

 斬れないまでも煩わしいので、甘露寺の日輪刀を掴んで引き千切ろうとした、次の瞬間だった。

 両腕を振り上げた甘露寺が、目の前に飛んで来た。

 

「貴女には、怪力(それ)がありましたね」

「――――瑠衣ちゃんッ!!」

 

 捌倍娘。

 その名に恥じない膂力が、瑠衣に向かって振り下ろされた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 止めなければ、と思った。

 その後のことは何も考えていなかったが、とにかくそれだけを考えていた。

 だから全力で瑠衣の肩を掴み、押さえ込んだ――――押さえ込もうとした。

 ()()()()()()

 

「……嗚呼」

 

 溜息を漏らすように、瑠衣が息を吐いた。

 その手は甘露寺の手首を掴み、内側から、力付くで押し退けようとしていた。

 最初は拮抗して見えたそれは、徐々にだが広げられていった。

 

 信じられない光景だった。

 鬼の強靭な肉体でさえ引き千切る甘露寺が、純粋な腕力で押されている。

 甘露寺自身にとっても、それは初めての経験と言って良い。

 純粋な腕力で負ける。その事実に、甘露寺は両目を大きく見開いた。

 

()()()()()()()()()()!」

 

 甘露寺の両腕から、嫌な音がした。

 途端に力が抜けて、小さな悲鳴を上げ、甘露寺が崩れ落ちた。

 両腕が()()()と下がっていて、明らかに折れていた。

 

「――――瑠衣!」

「来ると思った。でも」

 

 口を開くよりも先に、手が動いている。

 しかしその手を擦り抜けて、伊黒の日輪刀は瑠衣の頚に届いた。

 曲がる剣筋。これを捉えるのは、さしもの瑠衣も難しかった。

 

「でも、意味なんてない」

 

 届き、触れた。()()()()()()

 瑠衣の肌に触れた瞬間、日輪刀は折れる。

 その伊黒の腕を掴み、思い切り投げ飛ばした。

 手近な建物の壁を突き破って、伊黒の姿は見えなくなった。

 

「アハッ、アハハハハハッ」

 

 心の底から、瑠衣は笑った。

 先程も言ったが、「ずっとこうしたかった」のだ。

 

「子供の頃、伊黒さんが家に来ました。1年ほど修行して、すぐに兄様と同じくらいに強くなりました」

 

 伊黒は、父・槇寿郎が鬼から救った。

 煉獄家にいたのはほんの一時だが、付き合いは続いた。

 瑠衣にとっては、もう1人の兄のようなものだった。

 

「少し大人になった頃、蜜璃ちゃんが家に来ました。半年で私より強くなりました」

 

 そして、甘露寺も煉獄家で修業した。

 剣筋が独創的に過ぎて、あるいは人柄が余りにも一般人で、他では面倒を見切れなかったからだ。

 結果として奏功し、甘露寺はその才能を開花させた。

 伊黒と共に、あっという間に柱にまでなった。

 

「それが」

 

 それが、幼少時から修行を続けていた瑠衣にとって。

 

「それがどれだけ、憎らしかったか」

 

 兄のように才能があれば、弟のように修行を始めて間もない頃であれば、そうは思わなかっただろう。

 醜い嫉妬だと、人は言うかもしれない。

 ()()()()()()()

 当時の瑠衣にとって、後から修行を始めた人間にあっさりと抜かれるということが、どれほど深刻な事態だったか。

 

「だけど、もう良いです。だってもう、どうでも良いです」

 

 甘露寺の腕を折るために地面に突き立てていた自らの日輪刀を、掴んだ。

 人外の握力で握られたそれに、不意に変化が訪れた。

 ()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()

 

「皮肉ですよね」

 

 要らなくなった途端に、欲しいものが手に入ったのだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 太陽の光も、日輪刀も効かない。

 そんな存在を前にした時、残された可能性は少ない。

 そして炭治郎は、己がその「数少ない選択肢」の1つであることを理解していた。

 

「瑠衣さん!」

 

 ヒノカミ神楽。あるいは、日の呼吸。

 はじまりの呼吸であれば、今の瑠衣にさえ効果があるかもしれない。

 無惨にも日輪刀はほとんど効果が無かったが、日の呼吸による斬撃は効いた。

 だからきっと、瑠衣にも効果を発揮するはずだ。

 

 後はそう、覚悟の問題だ。

 日の呼吸は、炭治郎にとっても扱いの難しいものだ。

 完璧な動き。完璧な角度。そして完璧な振りが必要だ。

 瑠衣に対して、その覚悟が持てるかどうかだった。

 

「今から、貴女を斬ります!」

 

 不意打ちが出来ない性格か、それとも己を奮い立たせるためか。

 実に馬鹿正直に、攻撃する前に炭治郎が叫んだ。

 

「いいですよ」

 

 そんな炭治郎に対して、瑠衣は言った。

 

「珠世さん達は隠れてしまったようですから」

 

 その言葉の意味を、炭治郎は正確に察した。

 途端、全身に力を漲らせた。

 それはそうだ。そうならざるを得ない。

 何故なら瑠衣は、()()()()()()と宣言したからだ。

 

 燃えるような、独特の呼吸音。

 気配が薄れていき、まるで植物を前にしているかのような、存在感の消失。

 それを目の当たりにして、瑠衣は感嘆した。

 その動作1つで、炭治郎が格段に強くなっていることを察したからだ。

 

「はあああああっ!」

 

 この直後、2つの出来事が立て続けに、あるいはほとんど同時に起こった。

 まず1つ目は、当然ながら炭治郎による攻撃だった。

 日の呼吸による斬撃は、結論から言えば失敗した。

 他の攻撃と同じく、炭治郎の日輪刀は瑠衣の頚――肌に触れるや、折れてしまった。

 

(これは、もう確定だ)

 

 煉獄瑠衣は、太陽の光への耐性の前に、日輪刀に対する強い耐性を持っている。

 まるで刃と肌の間に壁でもあるかのように、反発してしまうのだ。

 刀の色や呼吸の種類に関わらず、日輪刀では瑠衣を斬ることは出来ない。

 

()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 そして、2つ目。

 胡蝶しのぶが、炭治郎の斬撃を縫い潜るようにして、突きを放っていた。

 その突きは、驚きに薄く開かれた瑠衣の口に突き込まれた。

 毒の突きを、文字通り()()()()のだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 しつこいようだが、もう一度言おう。

 ()()()

 ()()()()()()()()()()()

 

「アハッ」

 

 毒の刃を3つにへし折り、襟を掴んで地面に叩き付けた。

 悲鳴のような声を上げて跳びかかって来た(カナヲ)も、同じだ。

 その日輪刀を指先で白刃(しらは)取り、膝で砕き折る。

 蝶の如く宙を舞っていた足を掴み、投げ飛ばす。

 

「アハハハハハッ」

 

 全力で、地面を蹴った。

 その加速は人間の目では追い切れない。

 透き通る世界を視ることが出来る炭治郎だけは、僅かに追うことが出来た。

 

 柱の持つ日輪刀が、炭治郎の仲間達の日輪刀が、次々に折られていく。

 余りにも速すぎて、ほとんどの者は反応さえ出来なかった。

 時間にして、1分にも満たなかっただろう。

 その場に存在する日輪刀が、折られるまでの時間は。

 

「アハッ、アハハハハハハッ、アハハハハハハハハハハハハハハッ!」

 

 生まれて初めて、炭治郎は心の底から恐怖した。

 これまでも、何度も恐怖や絶望は感じてきた。

 だがここまでのものは、身体が震えて動かなくなるような、ここまでの恐怖は初めてだった。

 そしてそれ以上に、炭治郎の目と鼻はある疑問を彼に抱かせた。

 

「貴女は」

 

 目の前で嗤う、この女性。

 この女性(ヒト)は、いったい。

 

「貴女は、誰ですか」

 

 笑うのを止めて、瑠衣が炭治郎を見た。

 何も映していない、そんな目だった。

 

「おかしなことを言う竈門君ですね。私は煉獄瑠衣。良く知っているでしょう?」

 

 確かに外見も中身も、瑠衣だった。

 だが違う。違い過ぎる。

 そんな矛盾した感覚の前に、炭治郎は二の句が告げずにいた。

 

「いいや、きみは正しい。竈門少年」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 そう思える程の存在感を、その男は全身から放っていた。

 杏寿郎。赫刀ではない、赤い刃の日輪刀を持つ男。

 純粋な炎の刀を持つ、最後の男が、言った。

 

()()()()

 

 杏寿郎の口から放たれたのは、聞き覚えの無い名前だった。

 瑠衣の金瞳が、威圧するように細められた。

 

「瑠衣の姉であり」

 

 それでも、杏寿郎は言葉を止めなかった。

 瑠衣も、止めようとはしなかった。

 だからその言葉は、最後まで紡がれることになった。

 

()()()()()()()()()

 

 そうして浮かび上がった微笑みは。

 まさに、鬼が笑ったかのように、凄絶なものだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 杏寿郎が、物心つくかどうか。そんな頃だった。

 父・槇寿郎は、ある任務で女の鬼を斬った。

 任務自体は、簡単に終わった。()()()()の鬼だったのだ。

 だがその鬼を斬った後、よもやの出来事が起こった。

 

「その鬼は、子を身籠っていたそうだ」

 

 その子は、母親の体が灰となって崩れた後、産声を上げた。

 まさに奇跡だった。

 しかし鬼の胎で育った赤子が、普通の人間と同じであるはずがない。

 

 槇寿郎は悩んだ。

 柱としての理性は、斬るべきだと告げていた。

 だが、槇寿郎にはその決断が出来なかった。

 母も、そんな父を責めることは無かった。

 

「それがお前だ」

「……アア、良ク覚エテイルヨ」

 

 鬼殺隊で、この事実を知る人間は3人しかいなかった。

 先代の産屋敷輝哉と槇寿郎。だがこの2人はもういない。

 だから、今では杏寿郎しか知らないはずの事実だった。

 

「瑠花……瑠花(ルカ)! 忌々シイッタラナカッタ。ヨリニモヨッテ母親(アノ女)ト同ジ音ノ名前!」

 

 名付けたのは、母だと聞いている。

 母の名は瑠火。同じ音の名前を、瑠衣とは別に付けた。

 理由はわからない。おそらく、父も正確にはわかっていなかっただろう。

 しかし本人は――瑠花自身には、その意図するところが明白だったのだろう。

 

 だからこそ、彼女は表に出て来なかった。

 否、()()()()()()()()()

 彼女が初めて表に出て来たのは、無限列車の時。

 悪夢に精神(ココロ)を擦り減らし、猗窩座の拳で生命の危機に瀕した時だった。

 

「父にお前の話を聞いた時、母が瑠衣を剣士にしたくないと考えていた理由が、ようやくわかった」

 

 瑠衣が剣士だったからこそ。

 剣士として足りなかったからこそ。

 この「姉」という存在は、表に出てくることが出来たのだから。

 

「本当ニ鬱陶シイ母親()ダッタヨ。デモ……でもそれも、もう良いんです。兄様」

 

 そう言って笑う顔は、瑠衣のものだった。

 肉体的に鬼化したことで、人間の部分が失われた。

 つまり、姉妹を分け隔てていた壁が失われたのだ。

 今の彼女は以前の瑠衣とも、瑠花と名付けられた鬼の姉でも無い。

 

「ずっと、辛かったんです。兄様のようになれない自分。炎の呼吸の才能が無い自分。弱い、本当に弱い自分が」

 

 煉獄瑠衣という、()()()()

 

「でも、今は違います。とても身体が、心が軽いんです。今まで背負って来たものが全部なくなって、本当に清々し「それは違うぞ、瑠衣」、い……?」

 

 別固体だなどと笑わせる。 

 杏寿郎の目から見れば、瑠衣も、そして瑠花も。等しく妹だった。

 だから兄として、杏寿郎のすべきことは何も変わらない。

 

「それは軽くなったんじゃない。()()()()()()()()

 

 兄として、妹に範を示す。

 それだけだった。

 

「――――もう良いです」

 

 心の底から「もう飽きた」というような顔で、瑠衣は言った。

 

「もう鬼殺隊も、兄様も、どうでも良いです」

 

 炭治郎や杏寿郎が、この場にいる剣士が束になったところで、瑠衣は殺せない。

 日輪刀の多くを折られた今、捕縛することも難しいだろう。

 しかし厄介なことに、呼吸による強さは健在だ。

 

 だからこの場で、輝利哉を討つことも難しくなってしまった。

 いや、殺すこと自体は簡単だ。

 だが、他の誰かを巻き込まずに殺すことは難しい。

 禰豆子も同じだ。そして珠世と愈史郎の探索も、自由にはさせて貰えないだろう。

 

「きっと兄様は、これからも。そうやって正しく生きていくのでしょうね」

 

 かつてはそれを、眩しいと思っていた。

 愛していた。

 けれど今は、同じように想うことは出来ない。

 

「嗚呼、何て……何て、苛々する」

「――――ああ~……ああ。わかるぜ、その気持ち」

 

 不意に、そんな声をかけて来る者がいた。

 瑠衣がそちらに目を向けると、黒髪の、見覚えのある男がいた。

 

「……獪岳」

「ああ、良いね。今のお前の(ツラ)は」

 

 にやりと笑って、以前と変わらぬ姿で。

 

「前よりずっと、見れるじゃねぇか」

 

 獪岳はそこにいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「か、獪岳っ!?」

 

 獪岳の登場に驚いた人間は何人かいたが、最大の反応を示したのは善逸だった。

 何しろ獪岳は彼にとって兄弟子であり、雷の呼吸の後継者の1人――もっとも、獪岳の側はそんな認識を露とも持ってはいないだろうが――だ。

 驚くな、という方が無理だろう。

 

「…………」

「ああ、待て待て待て。俺は他の奴とは違う。お前と戦う気なんてねえよ」

 

 即座に日輪刀を折る体勢に移行した瑠衣に手を向けて、獪岳は言った。

 自分には、瑠衣と戦う意思はない、と。

 生きていたことに今さら驚きはしないが、瑠衣に対する態度の変化には驚いた。

 何しろ獪岳は、瑠衣を嫌い抜いていたはずだからだ。

 

「いいや、今のお前は悪くないぜ」

 

 悪くない。獪岳は、そう繰り返した。

 瑠衣の視線に何の意味を感じたのか、口の端を歪める嫌な笑い方をしていた。

 

「わかるぜ。()()()()()()()

 

 わかるとも。

 何故ならそれは、獪岳自身も考えていたこと。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 だって、そうだろう?

 どう考えてもおかしいだろう?

 どんなに性格の歪んだ捻くれ者だって、ちょっと待てよ、となるだろう。

 

 鬼殺隊壊滅から今まで、現場で踏ん張ってきたのは瑠衣だ。

 窮状の中で努力し、精神(ココロ)も身体も摺り減らしたのは瑠衣だ。

 それは、誰がどう見てもそうだ。

 

「それなのに、柱が戻って来た途端に()()()()()

 

 輝利哉にかけられた称賛の言葉は、虚しく響くだけだ。

 どれだけ言葉を尽くしたところで、意味は同じだ。

 それは、瑠衣の今までを過去のものにしてしまう悪魔の言葉。

 

 ()()()()()()()

 

 あんなに苦しんだのに。

 もう、他の生き方なんてわからなくなってしまったのに。

 それなのに。

 あっさり、もういらない――――ってなるんだ。

 

「ふざけるなよなあ。許せないよなあ」

 

 わかるぜ、と獪岳は言った。

 

()()は俺のだろって、なるよなあ」

 

 それはきっと、正道を行く者にはわからない感覚だ。

 個を、いや、()を持たぬ者には理解できないだろう。

 だからこそ、獪岳は以前の瑠衣が嫌いだったし。

 今の瑠衣に、強い親近感を覚えるのだった。

 

「お前もそうだろ?」

「アンタと一緒にするんじゃないわよ。というか、気安く声をかけるんじゃないわよ」

 

 日輪刀の槍を肩にかけたまま、禊が言った。

 瑠衣と獪岳の間に降り立った彼女は、瑠衣を見て。

 

「アンタは誰?」

 

 と、そう言った。

 それに、瑠衣は答えた。

 

「……私は、瑠衣です。何度も言わせないでください」

「あっそう」

「ええ……」

 

 はあ、と、瑠衣は溜息を吐いた。

 息を吐いて、そして。

 全てを終わらせようと、そう思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「お館様」

 

 改めて、瑠衣は輝利哉と向き合った。

 殺すのはやめた。

 しかし、その代わりのものを貰っていく。

 何故ならばそれは、()()()()()()()()

 

「まずは言祝(ことほ)ぎを。無惨を討ち、産屋敷家千年の宿願をついに果たしたこと。心からお祝い申し上げます」

 

 鬼舞辻無惨は、産屋敷家の執念と策略の前に敗れ去った。

 見事だ。本当に、見事だ。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 無惨を討って、おめでとう。

 しかし、完全には勝たせてやらない。

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 鬼は、生き残る。

 鬼となった瑠衣が、この先も永遠に生きる。

 だから鬼殺隊の任務も、永遠に終わることがない。

 ――――()()()()()()()

 

「さようなら、お館様。今までお世話になりました。そして、これからもどうぞ()()()()()()()()()()()()()

 

 ぐっと掌を握り締めると、何かが噴き出すような音がした。

 それは、裂けた掌から零れた血だった。

 びちゃびちゃと足元に滴って行くそれは、徐々に大きな水溜まりになっていった。

 禊と獪岳の足元にまで広がったそれは、2人の足首を……いや、()()()()()()()()()()

 

「馬鹿な、あの血鬼術は……!」

 

 上弦の陸・亜理栖の血鬼術だ。

 先ほど滅びた鬼の能力を得ている。

 

「……なるほどねえ」

 

 それを見た犬井は、座り込むのをやめた。

 のんびりと立ち上がり、怪我をしたコロを地面に下ろし、剽軽(ひょうきん)とさえ言える様子で片手を挙げた。

 

「瑠衣ちゃあん。こっちも頼むよお」

「…………ええ」

 

 不思議なことに、離れた位置にも血の鏡は発生した。

 犬井の足元にも。ただ、()()()()()()()()()

 

「……達者でな、コロ」

 

 これで決定的だ。

 あの血の鏡は、選択を迫るものだ。

 問いは単純。

 来るか。来ないか。

 

「……行くのね」

 

 妹達を介抱していたカナエに、柚羽と榛名が頭を下げていた。

 2人は特に、蝶屋敷に世話になっていたからだ。

 そして何となくこうなるだろうことを、カナエは気付いていた。

 

「あ、ええ? えっと、ええ?」

「……小鉄君。良いんですよ、気にしないでください」

「る、瑠衣さん。俺は」

「刀、有難うございました。でも、もう刀は打たないでくださいね」

 

 殺したくないので。

 瑠衣が静かにそう告げると、小鉄はビクリと震えた。

 そして、何も言えなくなる。

 

「堕ちるところまで堕ちたなァ、馬鹿弟子」

「いいえ、それは違います。師範。堕ちるも何も、最初から私はどこにも立っていなかった。いえ……そもそも、誰も立ってなどいなかった」

 

 誰も彼も、鬼も、神でさえも。

 何物も、そこには立っていない。

 だがそれも、今日までの話。

 

「今日からは、私がそこに立ちます」

 

 ()()から、貴方達を見つめている。

 そう言って、ついには瑠衣自身が血の鏡へと沈んでいった。

 

「あ、姉上……?」

 

 千寿郎は、目の前の展開についていけなかった。

 状況に置いて行かれている、といった方が正しい。

 理解が遅く、判断も遅く。だから、何も出来なかった。

 

「兄上」

 

 だが、兄は違うはずだった。

 自分と違って、杏寿郎は理解も判断もできるはずだった。

 

「兄上! 姉上が!」

 

 しかし、杏寿郎は動かなかった。

 地に沈みゆく妹を、ただ見つめていた。

 動けなかったのか。動かなかったのか。

 それは、誰にもわからなかった。

 

「瑠衣」

 

 ただ。

 

()()()()()

()()()()()()()

 

 ただ、それは、2人にしか通じないこと。

 そして、これが最後。

 これで、おしまい。

 

「それでは、皆さま」

 

 鬼舞辻無惨は死んだ。

 鬼は滅んだ。

 もう、誰も鬼に襲われて死ぬことはない。

 悲願の成就。そう。

 

()()()()()

 

 これで、ハッピーエンドだ。




最後までお読みいただき有難うございます。

いやあ、感慨深いですね。
主要キャラが欠けずにここまで来れたこと、とても嬉しく思います。
こんなハッピーエンドで終わる鬼滅二次創作って、実はあまりないのでは?
などと、つい思い上がってしまいました。

よし、ではここでハッピーエンドを祝して皆で拍手しましょう。

えー、こほん。はーい、拍手~(パチパチパチパチ)
…あれ?

どうして拍手してくれないんですか?


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第66話:「キメツ学園」

※ご注意
タイトルの通り、今話からキメツ学園ネタがあります。
また原作と混ぜ混ぜした不思議設定になっています。
ご注意ください。


「――――まずは」

 

 鬼舞辻無惨との決戦が終わって、4日目の朝だった。

 現場からの撤退に1日かかり、()()()の事後処理に2日かかった。

 そして5日後の今日になって、9人の柱が呼び集められた。

 

 輝利哉はその場で、これが最後の柱合会議だと告げた。

 場所は、あの華族街にある産屋敷邸である。

 荒れ放題になっていたが、隠によって3日の間に整備されて、人間が住める程度には改善されていた。

 ただそれは、何かしていないと気が滅入るから、ということもあったかもしれない。

 

「まずは皆の尽力で鬼舞辻無惨を討伐できたことについて、心からお礼を言いたい」

 

 そう言って、輝利哉が頭を下げた。

 本来であれば、それは喜びの表現であるはずだった。

 無惨は死んだ。

 そして柱を始め、最終決戦に臨んだ者の多くは生き残った。

 これ以上ない大戦果のはずだ。本来ならば。

 

「……顔をお上げください」

 

 しかし、柱を代表する立場の悲鳴嶼の声には、喜びの色など無かった。

 他の者も同じだった。

 誰もが沈痛な表情で、まだ何かを消化できていない。そんな顔をしていた。

 その原因は、1つしかなかった。

 

「……あの馬鹿弟子がァ」

「言うな、不死川。皆がわかっている」

 

 煉獄瑠衣。

 鬼となり、姿を消した少女のことである。

 その場にいる誰もがそれぞれの立場で瑠衣を思い、怒り、嘆き、悔やんでいた。

 そしてその視線は、最後にはある一点に向かうのだった。

 

「お館様」

 

 瑠衣の兄、煉獄杏寿郎である。

 柱に、いや鬼殺隊において、杏寿郎を責める者はいない。

 杏寿郎の、また煉獄家の過去の貢献を誰もが理解しているからだ。

 だからこそ、彼に向けられる感情はより複雑になってしまってもいた。

 

「我が家から鬼を出してしまったこと。本来であれば煉獄家の当主として、腹を切って御詫びせねばならぬところです」

 

 責める者はいない。しかし、責任は取らなければならない。

 そして杏寿郎に、己が責任から逃れようという意思は欠片もない。

 だからこそ、誰もが彼に対して何も言わない。

 信頼と、そして沈痛さからだ。

 

「しかしその前に、我が家の汚点を正す機会をお与えいただきたい!」

 

 だが、その言葉には周囲がざわついた。

 もちろんそれは、頭の片隅にはあった。とは言え、口にするのは憚られた。

 杏寿郎は、憚ることなく言った。

 

「我が妹、煉獄瑠衣の()()()()をいただきたい!」

 

 責任を、取るために。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 空が、高かった。

 太陽が――日輪が、遠かった。

 いつまでも遠くにある太陽に、炭治郎は手を(かざ)した。

 そんなことをしても届かないとわかっていても、そうしてしまった。

 

「炭治郎は、これからどうするんだ」

「……そうだなあ」

 

 善逸の言葉に、炭治郎は考えた。

 太陽に翳したその手で、禰豆子の入った箱を撫でる。

 無惨との戦いが終わっても、炭治郎の理由はそれしか無かった。

 

 禰豆子を守る。人間に戻す。それが炭治郎の「目的」だ。

 人間化については、珠世の特効薬が実用化しそうだということで、心配はしていない。

 禰豆子を守護については懸念がないわけではないが、鬼殺隊の施設の中にいればまず安心できる。

 禰豆子と珠世。無惨系列の最後の鬼。

 

『この2人を、瑠衣に渡すわけにはいかない』

 

 輝利哉はそう言っていた。

 けれど炭治郎は、この期に及んでもまだ。

 

「瑠衣さんからはさ。凄く、頑張ってる音がしてたよ」

「……そうだろうな」

 

 炭治郎も善逸も、瑠衣と任務を共にしたことがある。

 だから炭治郎も、嗅覚で瑠衣の人となりを知っていた。

 生きることに懸命な人だった。

 ただ、どこか寂しい匂いの人だった。

 過去形で語らなければならないのが、悲しかった。

 

「あ、炭治郎さん」

「そんなところで何をやっているんです?」

「千寿郎君。小鉄君も」

 

 その時、千寿郎と小鉄が連れ立ってやって来た。

 珍しい組み合わせだなと思っていたら、小鉄が持っているものに目が留まった。

 

「それは?」

「ああ。これは……」

 

 小鉄が、包みを解いて見せてくれた。

 するとそこには、日輪刀があった。

 通常の太刀よりもやや短い。小太刀だった。

 先日の戦いの最中、瑠衣が置いて行ったものだ。

 二刀の内の、一振りである。

 

「こんなことを言うのは、おかしいかもしれないんですけど」

 

 その小太刀を見つめながら、千寿郎が言った。

 

「僕にはどうしても、姉上が変わったと思えなくて」

「……そうだよね」

 

 安易に理解を示せることではなかった。

 ただ炭治郎も、あるいは善逸も、心のどこかで思っていた。

 鬼になった後も、瑠衣の本当の音は、匂いは、変わっていなかった。

 

「助けよう」

 

 え、と、千寿郎が顔を上げた。

 仲間が鬼になったら、人を食べる前に頚を刎ねる。

 それが鬼殺隊の常識だ。炭治郎も、当時はそうするつもりだった。

 まあ、実力が足りずに出来なかったが。

 

「助けよう、瑠衣さんを」

 

 状況は、あらゆる楽観を許さない。

 ここから何もかもが上手くいくなんて、とても信じられない。

 それでも。

 それでも、「それでも」と言い続けたい。そう思った。

 

 だって彼らが知る瑠衣は、懸命に生きる人だった。

 鬼に、暗闇に堕ちて良い人ではないのだ。

 どんな逆風の中でも、希望を持ちたい。いや、持つべきだ。

 

「…………はいっ!」

 

 ここからが、本当の()退()()

 日本一慈しい、鬼退治の。

 ――――はじまり、はじまり。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 今さら、帰って来たかったわけではない。

 ただ、他に行きたい場所も無かった。

 無残に焼け落ちた旧煉獄邸を前に、瑠衣はそんなことを思った。

 思ったが、それだけのことだった。

 

『本当ニ、今サラジャナイカ』

 

 その通りだった。

 今さらこんな場所に来たところで、残っているものは何もない。

 誰もいない。

 

 父も、母も。兄も、弟も。

 何も、残っていない。

 ああ、いや。違った。そうではなかった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『ソウダネ。ココニアッタモノハゼンブ、先祖ノモノバカリダ』

 

 ここには「ただの瑠衣」のものは、何一つ無かった。

 ただただ「煉獄瑠衣」のものしか、この家には無かった。

 けれどそれを、大事に想っていた。

 繋いで貰ったものを、大切に受け取っていると信じていた。

 

『抜ケ殻ダ』

 

 崩れ落ちた煉獄邸は、鬼の襲撃を受けた時のままだった。

 修復する者がいなかったのだから、当たり前と言えば当たり前だった。

 瑠衣も、直そうとは思わない。

 直したところで、何も戻っては来ない。誰も、帰っては来ない。

 ただの、抜け殻だった。

 

「ああ、いや……違うか」

 

 ()()()()()()()()()()()()

 何かを取り戻すとか。

 誰かを待とうとか。

 そんな思考も、資格も、もう必要ない。

 

「私はもう、私だけのために生きて良いんですね」

『……ソウダヨ』

「そうですよね。そうなんだ……」

 

 それは、新鮮――というより、不思議な感覚だった。

 これまで生きてきて、感じたことがなかった。

 生きるということを、本当の意味で考えたことがなかった。

 それを、瑠衣は今さらながら自覚した。

 

 不老不死。不死身。永遠の命。

 あらゆる人間が求めてやまなかったものを、瑠衣は手に入れた。

 それは、自分だけの生き方を探すには十分すぎる時間を瑠衣に与えていた。

 自分はいったい、本当は、何が欲しかったのだろうか。

 

『瑠衣ハ、自分ノタメニ生キテ良インダヨ』

「そう、でしょうか」

()()()()()()()()。ソレクライ、良イジャナイカ』

「……そう、ですね。じゃあ……」

 

 瑠衣は大きく息を吐いて、空を見上げた。

 鬼の天敵――だった太陽の光に、目を細める。

 眩しそうな表情を浮かべて、陽の光を遮るように手を翳した。

 そして、嗚呼、とまた息を吐いて。

 

「じゃあ」

 

 空が高いなと、そんなことを思ったのだった。

 

「じゃあ、何をしましょうか――――……」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――そして時は流れる。

 

 流れて。流れて……また、流れて。

 

 時代が変わり。また変わり。さらに変わって。

 

 鬼のことも、忘れ去られる程の時間が過ぎて――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――たまに。

 たまに、奇妙な夢を見る時がある。

 そういう夢を見ている時は、現実のように感じてしまって、妙な切迫感がある。

 居ても立っても居られないような、そんな気持ちになる。

 

『あれは、誰だろう?』

 

 夢の向こう側には、色々な人がいた。

 正しく在ろうと、楽しく在ろうとする人がいた。

 悪しく在ろうと、哀しく在ろうとする人がいた。

 善い人も、悪い人も、いた。

 

 ただ、誰もが()()在ろうとしていた。

 まるで研ぎ澄まされた刀のように、そんな生き方をしていた。

 それは、物凄く頼もしく、尊いもののように思えたけれど。

 とても、物悲しく思えてしまって。泣きたくなるような、そんな生き方だった。

 

『ああ、そうだ』

 

 どうしてこんな夢を見るのか、ぼんやりと考えていると、思い出した。

 あれは、おばあちゃんに聞いた話だった。

 確か幼稚園の頃だったと思う。

 曾々おじいちゃんと曾々おばあちゃんの、若い頃の話――だったと、思う。

 

 幼い頃に聞いた話だし、細かいところは良く覚えていない。

 ただ、おばあちゃんが語って聞かせてくれるお話を、ドキドキしながら聞いていたことだけは覚えている。

 おばあちゃんのお話に出てくる人達が、幸せになってほしいなと、そんなことを願っていたことは覚えている。

 

『これはね、人を食べちゃう鬼を退治するお話なの』

 

 鬼退治のお話。

 みんなのために頑張った人達は、生まれ変わって幸せになっているだろうか。

 退治されたという鬼も、今度生まれて来た時は鬼にならずに済むだろうか。

 神様は、いつか鬼のことも許してくれるだろうか。

 

『……そうだといいね』

 

 おばあちゃんはそう言って、頭を撫でてくれた。

 あの優しい、温かい手が大好きだった。

 けど、どうしても思い出せないことがあった。

 おばあちゃんが話してくれた鬼退治の話。

 あのお話は、最後はどうなったのか。それだけが何故か思い出せなくて……。

 

()()

 

 その時、自分を呼ぶ声が聞こえた。

 プールの水面越しに聞こえるような、夢の中で聞く()()()()だ。

 それを、きちんと自覚している。

 淡々としているけれど、どこか温かだった。

 

『いい加減に起きなよ、炭彦』

 

 返事をしないと、と思った。

 起きないと、とも思った。

 ふわふわとした意識の中で、炭彦は夢から浮上しようとしていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 竈門カナタは、心の底から呆れていた。

 二段ベッドの下側で寝ている弟が、見事な鼻提灯で寝こけている姿を見てのことである。

 目覚まし時計はとっくの昔になっていて、ついでに言えば登校予定時間もとうに過ぎていた。

 これ以上起きなければ遅刻確定という時間なのだが、弟はぐうぐうと眠りつけていた。

 あまつさえ。

 

「いい加減に起きなよ、炭彦」

「起きてるよう――――」

「嘘すぎてびっくりしてるよ。寝汚いな」

 

 あまつさえ寝ながら「起きている」と主張する弟に、繰り返すが心の底から呆れた視線を向ける。

 目鼻立ちの整った少年がそれをやると、見る者の背筋を冷たくするような視線になる。

 しかし視線を向けたところで弟は起きない。

 起きないものは仕方がない。兄としての義務はすでに果たした。

 そう考えて、カナタはすたすたと部屋から出て行った。

 

「行ってきます。母さん」

「はい、行ってらっしゃい」

 

 母親も慣れたもので、1人で登校するカナタを呼び止めることはなかった。

 

「おっと」

 

 進みかけた足を止めて、カナタは壁を見た。

 文字通りに壁を見たわけではなく、壁にかけられた三振りの日本刀を見たのだ。

 持ち手の黒い刀、桃色の刀――随分と女の子らしいなと常々思っている――だ。

 

 実際に抜いてみたことはない。ただ、大事なものなのだろうと感じていた。

 その周囲には、曾々おじいさんの代からあるという写真などが飾られている。

 それから曾々おじいさんが身に着けていたという、日輪の花札のような耳飾りも。

 

「行ってきます」

 

 手を合わせて、挨拶をする。

 特に意味のある行為ではない。ただ、幼い頃からそうしていた。

 そんな息子の様子を、母親は微笑ましそうに見つめていた。

 母親のそんな視線に気恥ずかしさを覚えて、カナタは足早に家を出た。

 

「あら、カナタ君じゃない。おはよう」

「おはようございます。炭彦君は今日もお寝坊さんですか?」

 

 家を出たところで、見ただけで姉妹とわかる少女達と出会った。

 顔立ちで似ているし、お揃いのリボンを着けているからだが。

 しかしそれ以上に「これ以上はない」というような、美しい少女だった。

 艶やかな黒髪、大きな瞳に白い肌。たおやかな所作、そして柔和な微笑み。

 10人いれば10人が振り向き、ほうと息を吐いただろう。

 

「カナエさん。しのぶさん。おはようございます。炭彦は起きなかったので置いてきました」

 

 しかしそんな美少女を前にしても、カナタは動じなかった。

 理由は、まず相手が幼い頃から交流のある「親戚のお姉さん」であったこと。

 そして、カナタ自身が絶世の美少年であったからである。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 煉獄桃寿郎(とうじゅろう)の家は、剣道の道場をやっている。

 何でも戦国時代から続く由緒ある剣術らしいが、桃寿郎はあまり詳しくない。

 ただ父親が、祖父や曾祖父が大事にしていたことは子供心に理解していた。

 だから自分も大事にしようと、そう心に決めていた。

 

「むん!」

 

 それに桃寿郎自身、剣道は好きだった。

 竹刀を握って無心に振っていると、不要なものが削ぎ落されていく気がする。

 そうやって削ぎ落していくと、本当に必要なものしか残らなくなる。

 頭と心が、段々と透き通って来るのだ。

 

「むん!」

 

 稽古は毎日、朝の4時から始まる。

 これを友人に話すと、皆が口を揃えて「大変だね」と言ってくる。

 ただ桃寿郎自身は、稽古を大変だと思ったことは一度もないのだった。

 

 もちろん、稽古は辛いし苦しい。打たれて痛いと感じることもある。

 ただ桃寿郎にとって稽古(これ)は、日常生活の一部なのだ。

 朝起きて歯を磨く、風呂に入る。それと同じだ。

 だから、稽古そのものを大変だと思ったことはない。

 

「――――むん!」

 

 それに、幸か不幸か桃寿郎には才能があった。

 稽古を積めば積むだけ、強くなる自分に気付く。

 昨日の自分ができなかったことができるようになるのは、率直に言って楽しい。

 すると桃寿郎はますます稽古に打ち込んで。

 

「桃寿郎、遅刻するぞ」

「むうん!?」

 

 頬を(したた)かに打たれて、桃寿郎の視界が広がった。

 透き通っていた意識に色が戻り、目の前に父が立っていることに初めて気が付いた。

 自分と同じ道着姿で、燃えるような髪――遺伝子が強いのか、先祖代々男子は同じ髪色だ――をした、壮年の男性だ。

 精悍な顔つきだが、顎下に残った無精髭が威厳を失わせている。

 

「父上! いかがなさいましたか!」

「朝から声がデカい。学校に遅れるぞ」

「よもや!」

「よもやって。どこで覚えたんだそんな言葉」

 

 呆れる父に笑って見せて、桃寿郎は竹刀をしまい、神棚と、それから飾られている日本刀に礼をした。

 神棚はともかく、日本刀に礼をするのは珍しい。

 炎のような形の鍔の日本刀。由来は桃寿郎も知らない。

 ただ、大事なものらしい。親が大事にしているものなので、桃寿郎も大事にしている。

 

「父上、行ってきます!」

「ああ、転ぶなよ」

 

 ドタドタとやかましく駆けて行く息子の背中を見送って、父親は嘆息した。

 

「ビンタするまで気付かないとは、誰に似たのか……」

 

 しばらくして、玄関の方から息子の元気な声が聞こえて来た。

 やれやれと、父親は笑った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 キメツ学園は、関東有数の規模を誇る中高一貫の学校である。

 とにかく自由な校風で知られており、地元で起こる出来事のほとんどはこの学園の生徒が原因とまで言われるほどだ。

 最近で言えば、特に「ランニングマン」が有名だろうか。

 

「ギリギリ間に合ったねえ」

「うむ!」

 

 端的に言って、竈門炭彦のことである。

 あだ名の由来は単純で、寝坊助の彼がほとんど毎日の登校で走っているからだ。

 いや、ただ走っているだけなら他にもそういう生徒はいる。

 

 炭彦の場合、基本的に普通の道を走らない。

 自宅マンションから飛び降りるは、家々の屋根は走るは、庭に勝手に入るわ……云々。

 文字通り自宅から学校までを「真っ直ぐ」駆け抜けるのだ。

 自由を愛するキメツ学園の生徒の中でも、学園外で目立つ生徒の1人だった。

 

「お前らいい加減にしろよ――――!?」

 

 校門を乗り越えて――危険登校常習犯を防ごうとして校門を閉じたのだ。意味はなかった――校舎に駆け込んでいく2人の生徒を苦々しく思いながら、村田は溜息を吐いた。

 村田はキメツ学園の卒業生としては珍しいことに、ごく一般的な感性の持ち主だった。

 だから毎日のように問題を起こす生徒達に対して、胃を傷める日々が続いていた。

 

「まったく、竈門や煉獄には困ったもんだ」

 

 竈門炭彦と煉獄桃寿郎の2人は、キメツ学園でも有名だった。

 まず今の動きを見ても明らかなように、身体能力が高い。並外れて高い。

 そして容姿も整っている上に、人当たりも良くて優しい。

 要するに、人気者なのだった。

 村田も、別に2人が不良だとか悪人だとか言っているわけではない。

 

「ちょっとよろしいですか?」

「ひいっ、悪人顔!?」

「アア?」

「ちょ、ちょっと先輩……」

 

 ただ、パトカーを引き連れての登校は勘弁願いたいと思った。

 しかもパトカーから出て来たのが、顔に傷のある強面の警察官だったりした日には、胃がキリキリと痛む。

 とは言え、それでも村田は今日も教師を続けている。

 

(まあ、かわいい後輩だしな)

 

 村田自身、キメツ学園の卒業生である。

 だから彼の生徒達は、同時に後輩でもある。

 生来の面倒見の良さも相まって、放ってはおけないのだった。

 

 そして今日も、始業の鐘がなる。

 キメツ学園の教師と生徒にとっての、日常の象徴とも言うべき音だ。

 今日も平和で、少しばかり賑やかな日になるだろう。

 その鐘の音は、誰もにそう思わせた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 まあ、とは言え叱られないわけもなく。

 炭彦は学校と家の両方で「とんでもなく叱られた(本人談)」ために、帰り道に1人でさめざめと泣くことになった。

 事情が事情なため、慰めてくれる誰かもいなかった。

 

「うう……。だって皆勤賞が欲しかったんだよう」

 

 やはり、流石に人の家の敷地に入ったり、パトカーの上を飛び越えたりするのは不味かっただろうか。

 考えるまでもなく不味いことだ。今にして思えばそう理解している。

 走っている間は、遅刻したくないという思いで頭が一杯だったのだ。

 

 ただ、これは例えて言えば、会社の始業時間に遅刻しそうな人間が駆け込み乗車をする感覚に近い。

 危険だとはわかっているが、閉まりそうな電車のドアに飛び込もうとする心境だ。

 そういった気持ちは、誰にもでも経験のあることだろう。

 ただ不幸なことに、あるいは幸いなことに、炭彦の身体能力が並では無かった、ということだ。

 

「息を深く吸うと、身体が軽くなるんだあ」

 

 と、炭彦はいつか友人達に語ったことがある。

 実際、炭彦は特別に身体を鍛えたことはない。特定のスポーツもやっているわけでもない。

 それでもマンションの5階から飛び降りることも出来るし、家から学校まで休みなく走り続けることが出来る。

 まさしく、化物じみた身体能力である。

 

 小学校の頃には、そんな彼を気味悪がって仲間外れにするような動きもあった。

 しかし彼自身の穏やかな性格と、兄や桃寿郎のような友人達のおかげで、それが長続きすることは無かった。

 いずれにせよ、なまじ()()()()()()のも考え物、という話だった。

 

「くすん、くすん」

 

 そして、何より高校生だった。

 まだ自分と社会の間の折り合いの付け方も、相応の器用さや妥協の方法も身に着けれてはいない。

 ただただ、親と先生に4時間叱られたということにショックを受けていた。

 そのために、こうして公園のブランコに座り込んで泣いているというわけだ。

 辺りはすでに暗くなりかけていて、赤黒い空の下で、街頭に灯りがつき始めていた。

 

「くすん、くすん」

 

 公園には、炭彦以外は誰もいなかった。

 周囲がとても静かだったから、彼のすすり泣く声は良く響いていた。

 

「――――どうしたんですか?」

 

 だから、なのかどうなのか。

 しくしくと泣く人の子に、声をかける影ひとつ。

 誰もいないと思い込んでいた炭彦は、びっくりして顔を上げた。

 そこにいたのは、はっとするような。

 

「あら、真っ赤なお目目」

 

 この世のものとは思えないほど、美しい少女がいて。

 

()()()()()()()

 

 そう言って、にっこりと微笑んでいたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 嘴平(はしびら)青葉と言えば、現時点で最も有名な植物学者だろう。

 ()()()()()()、1年の内で数日しか咲かない特別な花を発見した青年だ。

 世間では「青い彼岸花」の名称で知られている――よくある話で、正式な学名はほとんど知られていない――花で、栽培方法や開花のプロセスは彼しか知らない。

 

 しかしそれ以上に有名なのは、女性と見紛(みまが)うその美貌だ。

 おまけに28歳と若く、世のメディアはこぞって「美しすぎる植物学者」

 花の発見もフィールドワークの中でたまたま発見しただけとしているが、その功績を誇らない謙虚さも人気に拍車をかけていた。

 

「わあ、いけない。もうこんな時間だ。早く締めて出ないとまた終電を逃しちゃうよ」

 

 しかし研究者としての彼は、他の同業者と同じく、自分の研究分野に真面目に取り組む人間だった。

 研究に没頭する余り、連日連夜終電ギリギリまで研究室に籠るほどだ。

 論文を書いて研究を認められ、教授と呼ばれるようになって自分の研究室を持ちたいと考える、ごくごく普通の青年学者だった。

 

「いっそ研究室に住みたいなあ。最近は取材とか多いから、研究に割ける時間も減っちゃってるし……」

 

 世間が関心を向けてくれるのは嬉しいが、研究に集中したい。

 実に贅沢な悩みと言えるだろう。

 

「ええと。鍵、鍵は……っと」

 

 青葉は、花が好きだった。植物への関心が強かった。

 それは、医者であり薬剤師でもあった曾祖母の影響が大きい。

 幼い頃、青葉は曾祖母の膝で薬草の擦り下ろし作業を見て育った。

 青葉という名前も、曾祖母がつけてくれた。

 

 ちなみに、フィールドワークは曾祖父に教えて貰った。

 もっとも、曾祖父のあれはフィールドワークというよりサバイバルといった方が正しかったが。

 いずれにせよ、植物学者としての青葉のルーツが曾祖父母にあることは間違いが無かった。

 

「……あれ?」

 

 不意に、青葉は立ち止まった。

 研究室に程近い保管庫。そこは常に適温に保たれていて、研究用の植物が保管されている。

 当然、その中には「青い彼岸花」も含まれている。

 その保管庫の扉が、開きっぱなしになっていたのだ。

 

「もー、誰だよう。保管庫を開けたままにした……やつ、は……」

 

 青葉の声は徐々に尻すぼみになり、ついには途切れてしまった。

 保管庫の扉を開けた彼は、一瞬ポカンとした表情を浮かべていた。

 その忘我の一瞬は、目の前の情報を脳が理解するまでのタイムラグだった。

 そしてラグが収まった時、再起動した青葉は。

 

「え、ちょ……えええええええええええええええええええええええええええっっっ!!??」

 

 研究所の夜間警備員が駆け付ける程、大きな声で叫んだのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

これぞハッピーエンドですよね!
大団円の後、後日談を語る。
ンンンンンン実に、実に鉄板展開。

今後は「ぴゅあ」で「はーとふるな」学園生活を描いていきたいです。

今後ともどうぞお願いいたします。


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第67話:「竈門炭彦」

 記者会見。

 現代において、それは往々にして良い意味では使われない。

 何故ならば、記者会見で話されることは概ね悪いことだからだ。

 そしてその最たるものが、これだ。

 

「えー、この度は、このような事態を引き起こしてしまい……」

 

 ()()()()である。

 善い年をした大人がずらりと並び、カメラに向かって頭を下げる。

 最初にこの形態を考え出した人間は、あるいは誠意からそうしたのかもしれない。

 しかし現代においては、すでに社会的な意味でルーティン化してしまっていた。

 

 つまり結論から言えば、青葉の気持ちは最悪の一言だった。

 何しろ、まさか自分が謝罪する側で会見に同席するとは思わなかったからだ。

 しかも、()()()()()()()として、だ。

 

「すると、件の花は全滅してしまった……ということでしょうか?」

「はあ、まあ、そういうことで……」

 

 青葉が所属する研究所の所長が、冷や汗を掻きながら記者の質問に答えている。

 それを、青葉はどこか他人事のように聞いていた。

 しかし実際は、他人事どころではない。自分事だった。

 

「例の新種……通称「青い彼岸花」は、保管していたものも含めて全て枯れてしまいました。種子もありませんので、全滅と。そういうことになります」

 

 会見場にいる記者達が、所長の言葉にざわついた。

 それはそうだろう。貴重な花が――種が1つ、全滅したのだから。

 繰り返すが、()()だ。絶滅と言った方が正しいだろうか。

 もう、青葉の研究対象はこの世に存在しない。

 

 どう責任を取るんですか、と誰かが言った。

 そうだそうだと、他の誰かも言った。

 そんなもの、取れるはずも、わかるはずもなかった。

 所長はただ謝るだけだ。だが、一緒になって自分を責めないだけ良い人だった。

 それがわかるから、青葉は余計に何も言えなかった。

 

(いったい、どうして)

 

 考えるのは、それだけだった。

 あの時、青い彼岸花が全滅した保管庫を見た時、確かに保管庫の扉は開いていた。

 自分ではない。スタッフの誰でもない。閉めた記録さえ残っている。

 なのに開いていた。しかも、花のケース内の環境を維持する装置が止まっていた。

 だから全滅した。

 

(いったい、誰が)

 

 自分ではない誰かが、それをやった。

 だけど、監視カメラには誰も映っていなかった。

 ()()()()()()、保管庫の扉が開いていたのだ。

 けれど、そんなことを言って信じてくれる者など誰もいない。

 

「本当に、本当に申し訳なく……!」

 

 隣で、所長がまた謝っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 カナタは、弟に疑いの眼差(まなざ)しを向けていた。

 いや、別に悪い意味ではない。

 ……いや、やはり悪い意味で目を向けていただろうか。

 

「炭彦、今日も公園に寄っていくの?」

 

 というのも、このところ、弟の炭彦が真っ直ぐ家に帰らないのだ。

 あの、寝る時間が減るからという理由で部活動にも入らない弟が、寄り道をしている。

 それも、ほとんど毎日だ。

 

 しかも、通っている場所は何の変哲もない公園なのだ。

 どこかの喫茶店やゲーセンにハマったとかならまだしも、公園。

 何をしているのか聞いても、もごもごと誤魔化されるばかり。

 カナタでなくとも、何をしているのか気になるというものだった。

 

「あ、うん~。晩御飯までには帰るから」

「……そう」

 

 そして信じ難いことに、窓に映った自分の髪などを弄っていた。

 あの、万年寝ぐせ頭の炭彦が、である。

 表情筋の固いカナタではあるが、これには驚愕を隠せなかった。

 あの炭彦が、身嗜みを気にしているのである。

 

「じゃあ、先に行くね~」

「え、ちょ……うん」

 

 駆け出されてしまえば、カナタに炭彦を止めるすべはなかった。

 そういえば、あれ以来、屋根の上を走るような危険な登校はあまりしなくなった。

 カナタがそれとなく、かつはっきりと注意してもまったく直さなかったというのに。

 いったい、どういう風の吹き回しなのか。

 

「ふむふむ、なるほどなるほど」

 

 カナタが静かに衝撃を受けていると、どこからともなく1人の女生徒が彼の隣に現れた。

 白魚のような指先で形の良い顎を撫でながら、うんうんと頷いている。

 周囲が俄かにざわめいたのは、彼女がキメツ学園で最も有名な生徒の1人だからだろう。

 曰く、学園三大美(少)女の1人。

 

「何がなるほどなんですか、しのぶさん」

「いえいえ、別に難しい話ではありませんよ。カナタ君」

 

 しのぶが小さく指を振り、軽くウインクをした。

 ちなみにそれを目にした生徒は男女問わず一斉に顔を赤くしたが、カナタは顔色を変えなかった。

 

「足繁く同じ場所に通い。しかも身嗜みをチェックしている。これは、1つの事実を指し示しています」

「それは?」

「ええ。つまり炭彦君は……」

 

 一呼吸を置いて、しのぶは言った。

 

「公園で、植物採取(フィールドワーク)を行っているのですね……!」

 

 いや違うと思うよ!?

 その場にいる全員の心の声が、一致した。

 胡蝶しのぶ。薬学研究部所属であった。

 

「……なるほど!」

 

 お前もかよ!?

 再び、その場にいる全員の心の声が一致した。

 竈門カナタ。定期テストは全教科満点だが、いかんせん天然であった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ついつい、()()()()を行こうとしてしまう。

 

「おっとっと」

 

 ひょいと塀を飛び越えかけた自分を押さえて、炭彦は普通の道を駆けた。

 信号は守るし、きちんと横断歩道も渡る。

 もちろん、車や人の頭を跳び越えたりもしない。

 できることをやらないというのは、意識してみると意外と難しかった。

 

 しかし不思議なことに、嫌ではなかった。

 というのも、これは()()だからだ。

 この約束を守るという行為が、炭彦にこそばゆい幸福感を与えてくれていた。

 とは言え、戸惑いもある。こんな感覚は、生まれて初めてのものだったからだ。

 

「ああ、ちょっと遅くなっちゃった。まだいるかなあ」

 

 まさしく息せき切って、という風に、炭彦は公園に駆け込んだ。

 この公園は、危険登校を叱られた炭彦が独りしくしくと泣いていた公園だ。

 ここのところ、炭彦は放課後に決まってここを訪れていた。

 

「あ……!」

 

 しばらくきょろきょろしながら歩いていると、目的の人物を見つけたのだろう。

 炭彦の表情が明るくなった。

 

()()()()!」

 

 その女性は、ベンチで本を読んでいた。

 今どき珍しいことに、着物姿である。

 黒字に赤い彼岸花があしらわれた着物。

 夕刻で肌寒いせいか、赤いストールを羽織っていた。

 

 一見派手な服装だが、嫌味ではなくまとまっていて、むしろ落ち着いて見えた。

 それはきっと髪のせいだろう、と炭彦は思った。

 しっとりとした長い黒髪が赤に重なって、全体を押さえて見えるのだ。

 鴉の濡れ羽色というのは、ああいう髪を言うのだろうか。

 黒髪を黒いリボンでハーフアップにしているのも、1つのアクセントになったいた。

 

「あら、竈門君。今日も来てくれたんですね」

 

 落ち着いた女性の、ふわりとした柔らかな微笑。

 その微笑を前に、炭彦少年は知らず赤面してしまった。

 赤くなった頬を隠すように指先で掻く炭彦に、瑠衣という女性は笑みをより柔らかなものにするのだった。

 

「さて、それじゃあ……」

 

 読んでいた本を閉じて、瑠衣は立ち上がった。

 するりと、炭彦が反応する間もなく距離を詰めて来た。

 いつの間に近付かれたのか、近付かれた後でも炭彦にはわからなかった。

 呼吸の合間にすっと移動したような、余りにも自然な動きだったからだ。

 そして、瑠衣はにっこりと微笑んで、距離の近さにどぎまごとする炭彦に向かって、こう言った。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 呼吸をする時、人は考えない。

 より正確に言えば、人は呼吸を()()()行っている。

 吸うことをいちいち意識などしないし、吐くために努力など行わない。

 

 そして、加えて言うのであれば。

 人は、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 比べるという発想が、そもそも無い。

 

「気にすべきは、吸うこと。そして吐くことだけではありません」

 

 腹部に、柔らかな掌の感触があった。

 それは温かで、力強かった。

 そして不思議なことに、触れられたところからじわじわと熱が伝わって来た。

 

「自分の筋肉の繊維の一本一本。熱い血の流れる血管の動き。それらを良く意識してください」

「せ、繊維……血管?」

「まずは何となく、で十分です。目を閉じて、ゆっくりと深呼吸を続けてください」

 

 ふわふわ、ふわふわ。

 それは、まるで眠っている時のような。

 温かな布団にくるまっている時のような、そんな感覚だった。

 それでいて、肉体の感触ははっきりとしていた。

 

 眠る時のたゆたう感じ。何もかもが溶けていくような、不思議な睡眠の感じ。

 夢を見ている時は、むしろ肉体の感触はあやふやだ。

 それが今は、それこそ筋肉の繊維、血管の一本一本まではっきりと感じる。

 ――――気が、する。

 

「……ふふふ」

 

 目を開けると、瑠衣の顔が間近にあった。

 

「あら、呼吸が止まっていますよ」

 

 クスクスと笑って、瑠衣は炭彦から手を放した。

 すると、身体の熱も引いて行った。

 炭彦は、シートの上で座禅を組んでいた。

 瑠衣はその前に膝をついていて、炭彦が目を開けるとそっと立ち上がった。

 

「休憩にしましょうか」

 

 呼吸を教える。

 初めて会った時、瑠衣はそう言った。

 炭彦は意識していなかったが、彼の呼吸は特別だ、とそう言ってきたのだ。

 

 正直なところ、言葉の意味を理解できなかった。

 今も理解できているとは言い難い。

 ただ瑠衣のレクチャーを受け始めて、自分の中の何かが変わった。

 そういう実感も感じるようになっていた。

 

「どうぞ」

 

 差し出された水筒のお茶を飲んで、一息ついた。

 

「だんだんと良くなってきましたね」

「ううん、そうかなあ」

 

 正直なところ、呼吸の練習はついでのようなものだった。

 炭彦はただ、少しでも瑠衣と過ごす時間が増えるなら良いか、と考えていた。

 この時間が、炭彦にとって睡眠と同じくらい好きな時間になっていた。

 

(綺麗な人だなあ)

 

 と、瑠衣の横顔を見てそう思った。

 実際、瑠衣は美しい顔立ちをしていた。

 何より、纏っている雰囲気というか空気感というか、凛としていて。

 

 くうう~。

 

 ――――凛とした佇まいのまま、何事もなかったようにしていた。

 しかし炭彦は確かに聞いた。瑠衣の腹部から響いた音を。

 僅かに赤らんだ、瑠衣の横顔を。

 それに対して、炭彦はこう思ったのだった。

 

(かわいい)

 

 いわゆる、痘痕(あばた)(えくぼ)、というものだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()

 往々にして、褒められた行為ではない。

 しかしカナタは、弟に対して躊躇(ためら)うことなくそれをやった。

 何故か?

 

 それはカナタが兄であるからに他ならない。

 彼には、弟の素行について知っておく必要がある。

 植物採取のフィールドワーク。弟には危険すぎる。

 まして。

 

「誰、あの女」

 

 まして、相手が(自分が知らない)女となれば。

 なおのこと、カナタは心穏やかではいられなかった。

 

「よもやよもやだ! あれは年上ではないのか!?」

「見たところ、3つか4つ年上、というところでしょうか」

「あらあら、炭彦君もお年頃ねえ」

 

 そんなカナタと並んで、桃寿郎、しのぶ、カナエが顔を出していた。

 驚き、興味、感心。

 反応はそれぞれだが、カナタほどに負の感情は抱いていない様子だった。

 

「……誰、あの女」

「か、カナタ君? お顔が怖いわよ~?」

 

 炭彦と「あの女」――――瑠衣は、公園で何やら不思議なことをしていた。

 座禅のような、そんな風なことだ。

 ただ、それが何なのかカナタ達にはわからなかった。

 

「宗教……? いや、怪しい体操……?」

「そういう風には見えないけど……」

「でも、確かに何をしているのかわからないですね」

「座禅か! あれは集中するのに良いな!」

 

 こう見えて――まあ、本人と炭彦以外にはバレバレなのだが――カナタは、結構なブラコンであった。

 しかしそうでなくても、肉親なら瑠衣のことを怪しむだろう。

 身内がぽっと出の年上女性に怪しい体操をやらされて、しかも毎日のように通っているとなれば、心穏やかではいられないだろう。

 

「うーん。でも確かに心配ですね。炭彦君は素直というか、人を疑うことを知りませんからね……」

 

 その点については、しのぶも「うーん」と考えるような仕草を見せた。

 確かに最近はそういう詐欺(ハニートラップ)も少なくないと聞く。

 何しろ、しのぶ自身そういう覚えがないともゲフンゲフン。

 

「どうするの?」

「そんなのは決まっていますよ、姉さん」

 

 ちっちっ、と軽く指先を振って、しのぶは言った。

 人によっては小馬鹿にも見えてしまうその仕草も、しのぶがやると一枚の絵画のように決まって見えた。

 

「――――調査しましょう!」

 

 調査する。

 それは言葉としては良いことのように聞こえるが、この場合のそれは、つまりはこうだった。

 後を尾けよう、と。

 奇しくもそれは、冒頭のカナタの結論と全く同じなのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 繰り返しになるが、およそ尾行というのは良い意味では使われない。

 それはつまり、周囲の目から見ても奇異に思われる、ということだった。

 例えば、地元の学校(キメツ学園)の生徒が連れ立って柱だの看板だのに身を隠している様子を見れば、少しばかりのざわつきと共に視線を集める程度には。

 

(((な、何だあれは)))

 

 と、地元の方々の視線を一身に浴びているのは、言わずもがなカナタ達だった。

 彼ら彼女らは各々思い思いに身を隠して――いると思っているが、周囲からは悪目立ちしている――公園から、炭彦と別れた件の女性の後を尾けているのだった。

 調査――素行調査、である。昔で言えば、興信所を使うところだろう。

 

「今のところ、怪しい動きはありませんね」

 

 夕方だけに、通りには人が多い。

 しかし瑠衣のような着物は良くも悪くも目立つ。

 おかげで見失うことなく、安定して尾行することが出来ている。

 瑠衣の歩みもゆっくりとしたもので、尾行に気付いた様子も無い。

 そしてしのぶが言ったように、怪しい動きは少しもしていなかった。

 ただ、歩いているだけだ。

 強いて言えば、どこにも立ち寄る気配が無さすぎることくらいか。 

 もっとも、それは怪しいと言えるようなこともないのだが。

 

「ところでカナタ君。私から提案しておいてアレなのですが」

 

 穴が開く程――いや、むしろ穴を開けようとしているのではないか、と思える程に瑠衣の背中を見つめているカナタに、しのぶは言った。

 

「あの女性の素性を掴んだとして、その後はどうするのです?」

「殺…………青少年との接し方について話し合います」

「穏やかじゃない単語が聞こえたような気がしますね」

「うーん。でもねえ。心配なのもわかるけれど、炭彦君の気持ちも大事じゃないかしら」

 

 そんなことは、言われなくてもカナタにだってわかっていた。

 しかし、居ても立っても居られない、ということもあるだろう。

 カナタは勉強もスポーツもそつなくこなすタイプだが、さりとて器用な方ではない。

 正しいことを正しく行える程、完成された少年ではないのだった。

 そしてそれがわかっているからこそ、しのぶ達もカナタに付き合うことにしたのだった。

 

「むう、あの路地に入るようだぞ!」

 

 なお、桃寿郎は完全に成り行きで参加していたりする。

 

「追いかけましょう」

 

 通りから外れて、瑠衣の背中が路地裏に消えて行った。

 それを見て、カナタは慌てて駆け出す。

 しのぶ達もやれやれとこれに続いて、路地の入口に立った。

 

「……あれ?」

 

 しかし、そこには誰もいなかった。

 路地は一本道で、しかも建物の出入り口のようなものも無かった。

 隠れている、わけでもない。そんなスペースもない。

 それなのに、どこにも女の姿は見えなかった。

 

「いない……?」

 

 カア、と、どこからともなく鴉の鳴き声が聞こえて来た。

 それを合図にしたかのように、夕焼けの赤が赤黒く染まっていった。

 もうすぐ夜だと、告げるように。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「お前を殺して俺も死んでやる!」

 

 もしも仮に男にそう言われたとしたら、多くの女性にとっては恐怖だろう。

 ましてその男が、刃物を持って突っ込んで来たとしたら。

 普通の女性であれば、絶望的な状況だろう。

 

 実際、()()にいる何人かの人間は悲鳴を上げていた。

 しかし刃物を向けられ、狙われた当の本人はと言えば、

 見ている側が拍子抜けするほど、平然としていた。

 むしろ自分に迫って来る包丁を見て、口元に笑みさえ浮かべていた。

 

「――――()()()()()

 

 するり、と、女の手が動いた。

 しかしその手が()()を掴む前に、先に男が倒れていた。

 いや、より具体的に言えば、宙を舞って頭から床に落ちた。

 それはおよそ、人間がして良い動きではなかった。されて良い動きでもなかった。

 

「やあ、お客さん。困りますねえ、店の真ん中で寝こけて貰っちゃあねえ」

 

 すると、どことなく飄々とした雰囲気の男――立派なスーツを着込んでいるが、胸元を着崩している――が、床に転がった男の襟を持ち上げた。

 外国との混血なのか、髪色も体格も日本人離れしていた。

 もっとも、それにしても片手で大の男を持ち上げるのは常人離れしているが。

 

()()()だったんだけど」

「いやいや、女将(ママ)さんの()()はちょいと過激すぎるからね」

 

 今の男の状態以上に過激な状態はないだろう、とその場にいる誰もが思ったが、誰も口にしなかった。

 

「おい、何を乳繰り合ってんだ」

 

 そこへ、跳ねた黒髪の男がやって来た。

 客ではなく、こちらもスーツを――いちおう、きっちりと――着ていた。

 

「何よ、珍しいじゃない。アンタが真面目に出勤するなんて」

「うっせードブス。俺だって来たくて来たんじゃねえよ」

「は?」

「お?」

「ちょいちょい、お客さんの前だよお2人さん」

 

 ちっ、とあからさまな舌打ちが2つ。

 ごめんねーと男が謝り、女がカウンター席に腰かけ、もう1人の男もそれに倣った。

 バーテンダーらしき女性が2人――片や眼帯、片や車椅子。なかなか独特――いたが、特に気にした様子は無かった。

 おそらく、いつものことなのだろう。

 

「で、何よ」

()()だよ」

 

 男が指差した先に、壁据え付けのテレビがあった。

 テレビはミュートされていて字幕しか情報を得る手段がない。

 ただ今やっている番組がニュースで、画面下に映された字幕を見ることが出来た。

 そこには、こう書かれていた。

 

『青い彼岸花、全滅』。

 

 ああ、と、得心したように女が頷いた。

 

「そりゃあ、来るわね」

「だろうがよ」

 

 酒のボトルを勝手に開けながら、黒髪の男が言った。

 

「久々の()()()()()()()。きっと面倒ごとになる」

()()()()()()()()、アイツは――――……っと、噂をすればね」

 

 来店を告げるドアベルの音に、2人はほぼ同時に顔をそちらへと向けた。

 テレビ画面は、未だ同じニュースが流れ続けていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 やれやれ、すっかり遅くなってしまった。

 そんなことを考えながら、しのぶはカナエと連れ立って歩いていた。

 

「ごめんなさいね。桃寿郎君」

「いえ! 最近はこのあたりも物騒ですから!」

 

 そしてそんな2人の前を、竹刀袋を肩に担いだ桃寿郎が歩いている。

 言葉の通り、夜道は危ないということで送ってくれているのだ。

 空はすっかり暗くなっていて、いつもの夕飯の時間も過ぎてしまっている。

 父と母も心配しているだろう。

 

「カナタ君、大丈夫でしょうか……」

「カナタ君は炭彦君のこととなると一生懸命だものねえ」

 

 結局、あの瑠衣という女性を見つけることは出来なかった。

 暗くなったので諦めて、カナタを家に送り届けて、今に至る。

 カナタは胡蝶姉妹より先に帰ることを渋っていたが、炭彦が心配だろうし、とカナエが先に帰したのだった。

 何より桃寿郎が「任せて貰おう!」と請け負ったので、カナタも最後には折れた。

 

「そんなに悪い人には見えなかったけど」

「まあ、人は見かけだけじゃ判断できませんし」

「それは、そうだけれど」

 

 しのぶ達と炭彦達は、家が親戚同士だった。

 何でも曾祖父母の代からの付き合いとかで、いわゆる「家ぐるみの付き合い」というやつだった。

 なのでカナタや炭彦のことは、弟のようにも思っている。

 まあ、カナタとしのぶは同い年なわけだが。

 

「桃寿郎君から見て、炭彦君の彼女さん……かは、まだわかりませんけど。どう思いました?」

「わかりません!」

「元気いっぱいに思考放棄してきましたね……」

「わかりませんが!」

 

 実際、桃寿郎に女性の印象などはわからなかった。

 彼の知る女性というとまず母親なので、彼の女性観は全てが母親を基準に構築されている。

 そこだけ聞くとマザコンのように聞こえるが、思春期以下の男子は大体が身内基準ではあろう。

 閑話休題。つまり何が言いたいのかというと。

 

「母に似ているな、と思いました!」

 

 力強くそう言う桃寿郎に、しのぶとカナエは実に曖昧な表情を向けていた。

 しかし桃寿郎にとって、母に似ている、というのは大きなことだった。

 そんな女性は、今まで見たことがなかった。

 

「……うん?」

 

 その時、奇妙な音が聞こえた。

 何かを磨り潰すような、水音。嫌な、不快な音がした。

 しかも、近かった。

 

 カナエとしのぶも気付いたのだろう。眉を顰めて辺りを見渡していた。

 桃寿郎は、竹刀袋に手をかけていた。

 すると、音の出所に気が付いた。

 雲がかっていた月が、光を射したからだ。

 

「そこに誰かいるのか!」

 

 まず、見えたのは足だった。

 電柱の陰に、段ボールがあって――「拾ってください」と書いてある。捨て犬か捨て猫でもいたのか――その中を、誰かが覗き込んでいた。

 月明かりに、背中が浮かんでいた。

 捨て犬を拾っていた、というわけではなさそうだった。

 何故ならその人物は、膝をついて、段ボールの中に顔を突っ込んでいたからだ。

 

(不審者か!)

 

 と、桃寿郎は思った。

 しのぶとカナエを背に庇いながら、竹刀袋を前に持った。

 いつでも、という臨戦態勢だった。

 

「ひっ」

 

 と小さな悲鳴を、姉妹のどちらかが上げた。

 それもそのはず。

 段ボールから顔を上げて、こちらを見たその不審者は、口元を真っ赤に染めていて。

 ――――その口に、犬と思しき頭を噛み咥えていたのだから。




最後までお読みいただきありがとうございます。

現代編第2話です。
完結の後は、やっぱりキャラクターのその後って書かないといけないですよね(え)
ハートフルでピースフルな後日談をぜひお楽しみください(ぐるぐるお目目)

それでは、また次回。


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第68話:「七不思議・犬の怪」

 ――――噂が、あった。

 もちろん、噂というのはどこにでも生まれるものだ。

 人間は真偽定かならぬ事柄を前にすると、語らずにはいられない生き物だからだ。

 そして、それはだいたいこの出だしで始まる。

 

「ねえ、知ってる?」

 

 人は、語らずにはいられない。

 不思議なもの。よくわからないもの。

 そして、()()()()()()を。

 

「また出たんだって、例の不審者」

「えー、こわーい」

「あたし今日塾で遅くなるのに~」

 

 朝の学校。

 キメツ学園の生徒達は、家や駅、あるいはバス停から校舎までの道のりを思い思いに歩いていた。

 普段であれば、漏れ聞こえてくる話題は多種多様だ。

 しかし今は、たった1つの話題が生徒達の間を席巻している。

 

()()()が、また出たらしいよ」

 

 それは、ここ数か月前からたまに出ていた話題だった。

 内容自体は、割とよくあるものだ。

 何でも犬の顔をした人間が、夜な夜な人肉を求めて彷徨(さまよ)い歩いているらしい、と。

 

 もちろん、当初はまともに受け取る生徒はほとんどいなかった。

 何なら、学園の新聞部が出している七不思議投票に選ばれる程度には、面白おかしく語られるゴシップに過ぎなかった。

 しかしここ数週間の不審者騒ぎによって、それは徐々に、しかし確実にゴシップの枠を越えつつあった。

 

「部活動もしばらく禁止だって」

「明るい内は大丈夫なんでしょ?」

「先生達が町中を見回りするって聞いたよ」

 

 普段であれば、誰もが「くだらない噂に踊らされて」と嘲笑しただろう。

 しかし今は、逆に誰もが噂を深刻に捉えていた。

 噂についてより詳しくなろうとして、そして噂がさらに拡散される悪循環。

 キメツ学園は今、そういう状態になっていた。

 

「あ、でもさ。もしも犬人間に出会っても大丈夫な方法があるらしいよ」

 

 ただし、これも七不思議のお決まり。

 どんなに恐ろしい噂でも、誰が考えたか対処法も一緒に伝わるもの。

 

「どういうの?」

「犬人間に出会ったら、こう言ってやれば良いんだって」

 

 怖いものへの、弱者の対抗策。

 

「『おい犬人間。もうすぐオニヒメサマがやってくるぞ』!」

「……オニヒメサマって何だよ?」

「いや、そう聞いたんだって。こう言ったら逃げるらしい」

「何だそりゃ」

 

 そうして、今日も1日が始まる。

 そこはかとない不安を抱えながら、人々は日常を過ごしていく。

 不安との同居。怪異との共存。

 結局のところ、人はいつだって、そうやってしか生きられないのだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「情けない!」

 

 近所の小さな医院に、桃寿郎の声が響き渡った。

 彼は拳を握り、俯いていた。

 それを見た炭彦は、驚いていた。

 

 いや、声の大きさではない。桃寿郎は普段から声量が大きい。

 しかし今のように、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 普段の彼であれば、何か失敗しても前向きに笑い飛ばすはずだからだ。

 

「あまり気にしないで、桃寿郎君」

「そうですよ。桃寿郎君は立派に私達を守ってくれました」

 

 診察を終えた胡蝶姉妹が、口々にそう言った。

 実際、2人に目立った怪我は無かった。

 ただ少し疲れているのか、顔色はあまり良くなかった。

 

「いや! 俺はあの時、何も出来なかった! 怖ろしさで身が竦んでしまった!」

 

 炭彦とカナタが、今回の件を聞いたのは翌日のことだった。

 桃寿郎が連絡をくれたのだが、事件直後ではなく朝になったのは、隠したわけではなく、彼の配慮というものだろう。

 何より、胡蝶家や警察等への連絡が優先されたからだ。

 

 そういう意味において、桃寿郎は今の今まで動き通しだった。

 だから胡蝶姉妹の言葉に嘘はなかったし、炭彦も彼に落ち度があるとは思えなかった。

 ただ桃寿郎の自責の念はとても強く、言葉をかけても変わりようがないように思えた。

 

「………………」

 

 そしてカナタもまた、常よりも寡黙だった。

 彼は直前まで、一緒にいた。

 別れた後のことを悔やんでも仕方ないと、頭ではわかっているのだろう。

 しかし彼もまた、桃寿郎に負けないくらいに責任感が強かった。

 

「えっと、えっと」

 

 炭彦は、どうしたら良いのかわからなかった。

 こういう時に気の利いた言葉をかけられる程に、彼は経験豊富では無かった。

 むしろ、こうした困難とは無縁だったと言った方が良いだろう。

 

「えっとさ、あのさ」

 

 その時だった。足元で何かにくすぐられた。

 わっと驚いて飛び退くと、そこには2匹の動物がいた。

 猫。と、犬だった。

 

「わ、かわいい」

 

 カナエがしゃがんで猫を撫で、しのぶが犬を抱っこした。

 犬はかなりのお爺ちゃん犬なのか、動きが緩慢だった。ただ、尻尾は良く振っている。

 

「どこから来たんだ?」

「首輪がついているから、この病院の子たちじゃないかしら」

 

 動物は偉大だ、と、炭彦は思った。

 あれだけ死んでいた空気が、犬猫が入るだけでかなり緩和されたからだ。

 炭彦は、ほっと胸を撫で下ろした。

 そうしている間に、カナエは2匹の首輪についているネームプレートに気が付いた。

 いわゆる、この病院の看板猫・看板犬なのかもしれない。

 

「ええと、茶々丸……くん、かしら」

「コロ……くん、ですね。こっちも」

 

 茶々丸とコロ。

 彼らは、不思議なことに一言も鳴かなかった。

 ただ、竈門兄弟と胡蝶姉妹、桃寿郎の顔をじっと見ていた。

 不思議な犬猫だった。

 

 しかし、不思議と安心感があった。

 まるで、年上の親族に見守られているような、そんな感覚。

 これがアニマルセラピーというものだろうか。

 炭彦は笑顔の戻った胡蝶姉妹の顔を見て、そんなことをふと考えたのだった。

 桃寿郎だけが、俯いていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 とは言え、だ。

 炭彦としては、兄や親戚や友人が元気がない、という状況は嫌だった。

 しかしそうは言っても、何をすれば良いものかわからない。

 残念ながら、炭彦はまだそこまで人生経験が豊かでは無かった。

 

「なるほど、お友達がそんなことに」

 

 と言って、親に相談する話でも、先生に聞く話でもない。

 しかし己の内に溜め込んでおくには、余りにも重い話だった。

 そんな彼が気持ちを吐露したのは、いつもの公園で、いつも通りに彼を待っていてくれた瑠衣に対してだった。

 

「それは、大変でしたね」

「僕、どうしたらいいかわからなくて……」

 

 自分で言うのもおかしいが、炭彦の話は要領を得ていなかった。

 元々会話が得意な方ではない上に、直接の当事者ではないからだ。

 それでも、瑠衣は炭彦の話を遮ることなく最後まで聞いていた。

 

 不思議なもので、話している内に気持ちが少し楽になるような気がした。

 誰かに聞いて貰えるというのは、それだけでも大きく違う。

 瑠衣と話していると、それを実感することが出来た。

 

「そうですね。私は、そのお友達のことはわかりませんが……」

 

 風が吹いて、顔にかかった横髪を払いながら、瑠衣は言った。

 

「竈門君は、そのままで良いと思いますよ」

 

 え、と聞き返すと、瑠衣は小さく微笑んだ。

 

「今回のことで、もしも竈門君が接する態度を変えてしまったら……そのお友達の方々も、悲しくなってしまうのではないでしょうか」

「そうかな……」

「ええ。きっとそうです」

 

 そうなのだろうか、と思って。そうかもしれない、と思った。

 だって、もしも立場が逆だったらと考えた時に、カナタや桃寿郎達に気を遣ってほしくない、と思えたからだ。

 もちろん、まったく気にしない、というのは難しいだろう。

 ただ、誰かの悪意でそれまであったものが変わってしまう、というのは、悲しいことだと思った。

 

「それに」

 

 くー、と、軽い音が鳴った。

 何か言葉を――おそらく、割と格好の良いことを――言おうとしていた瑠衣だが、全ての動きが止まってしまった。

 顔を赤らめて、こほんこほんと何かを誤魔化すように咳き込んでいた。

 

(前にもこんなことがあったような)

 

 もしかして、と炭彦は思った。

 そして、思ったことをそのまま言ってしまうのが、炭彦という少年だった。

 

「お腹が空いているんですか?」

「いいえ、ぜんぜん?」

 

 完璧な笑顔でそう言われた。

 そう言われたが、先程の音は誤魔化しようがない程に空腹の音だった。

 その時、炭彦は思い出したように鞄の中をごそごそと探った。

 

「これ、良かったら食べてください」

 

 それは、胡蝶姉妹のお見舞いに行った時、医院のスタッフに貰ったものだ。

 ただの飴玉である。

 歯医者の帰りに子供が貰うような物だが、ないよりはマシだろうと思った。

 

「…………ありがとうございます」

 

 ただ、炭彦にはとても理解できなかったが。

 どうしてなのか、瑠衣はその飴玉を受け取ってはくれたものの。

 とても、悲しそうな顔をしていた。

 瑠衣と別れた後も、その顔が余りにも悲しそうで、炭彦の網膜に焼き付いて消えなくなってしまったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 当然と言えば当然だが、不審者の話は「大人の社会」にも通っている。

 ただしこちらは学生と違って、噂をして怖がるというわけにはいかない。

 より具体的なことを言えば、こうだ。

 

「いねぇなァ」

「まあ、気長に行きましょう。先輩」

 

 地元の警察官によるパトロール、である。

 彼らは普段からパトロールをしているが、今のように立て続けて不審者騒ぎが起こると、日頃以上に警戒する必要が出て来る。

 そしてその点において、この町には頼もしい存在がいた。

 

「チッ。さっさと出てきやがれよクソ不審者がァ」

「見かけるのは無関係なチンピラばっかですもんね」

 

 不死川実弘と、その後輩である。

 遠縁の親戚にあたるこの2人は、以前ナイフを振り回す暴漢を2人で取り押さえたことがある。

 そのために、顔面にお揃い――嫌なお揃いだ――の傷跡ができている。

 生来の強面さも手伝って、町内で最も恐れられる警察官なのだった。

 

 実際、夜の店へ誘うキャッチも2人には声をかけない。

 もちろん2人が警察の制服を着ているというのもあるが、そもそも近寄りたくない、という様子だった。

 2人もそういう反応には慣れているので、それ自体は別に気にした様子も無かった。

 

「どうします。他に行ってみますか?」

「そうだなァ」

 

 2人がパトロールで歩いているあたりは、いわゆる「夜の町」だった。

 バーだとかその手の店が立ち並んでいて、深夜ということもある。客層もお察しだ。

 むしろそんな場所に警察官がいることの方が、周囲からは()()()と思われるだろう。

 

「まあ、いないもんはしょうがねェな。どっか別の……ああ?」

「え、どうしま……うおあっ!?」

 

 一瞬早く先輩が気付き、さらに一瞬遅く後輩が反応した。

 彼らの目の前を、とあるバーの扉をブチ破って――比喩ではなく、文字通り破壊したという意味で――男が1人、転がって来た。

 いや、転がって来たという表現も生温い。

 ()()()()()()()()()()()()()。その表現が正しい。

 

「な、な!?」

「チィッ、そいつ見てろォ!」

「あっ、先輩!?」

 

 転がった男を後輩に任せて、実弘はそのバーに飛び込んだ。

 

「何事だオラァッ!!」

 

 と、店内に踏み込んだ。

 店自体は、薄暗い、シックな造りのごくごく普通のバーだった。

 客は少なく、やけに美人がカウンターに1人。ドン引きした表情で座っているだけだ。

 後は入口近辺で怯えている何人か。

 そしてそのカウンターの前に、それを上回る「どえらい」美女がいた。

 

 水色の生地に折り鶴柄の、ともすれば子供っぽいとさえ言える柄のドレス。

 しかし肩から背中が大きく露出したそれは、明らかに子供用の作りではない。

 着こなす美女が放つ色香も、尋常ではない。

 

「――――いらっしゃい」

 

 そしてその美女は、実弘を見て妖艶に微笑んだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――時間を、少しだけ遡る。

 嘴平青葉は、人生を儚んでいた。

 研究所をクビにされ、無職となっていたからだ。再就職のアテもない。

 悪い意味で顔が売れてしまった青葉を雇ってくれるところなど、どこにもない。

 

「もうこうなったら、やけ酒だ――っ!」

 

 とは言え、弟がいる家に帰って酒を呷る姿を見られるのも(はばか)られる。

 自然、酒は外に求めることになる。

 ただ研究一途でやってきた青葉は、今まで酒に逃げるということをしたことが無かった。

 そのために、どこで酒を呑めば良いのだろうか、という問題に直面した。

 

 最初は普通に居酒屋を考えたが、断念した。

 全国ニュースで顔が知られているし、騒がしいところは苦手だった。

 結果、彷徨い歩くことになる。

 しかし1人でふらふら歩いていれば、当然ながらキャッチの餌食である。

 

「ちょっとお兄さ……お姉さん? いやお兄さんか? あれ?」

「いやいやこれで男とかあり得ない……いや女? どっちだ?」

「ひいいいっ。ご、ごめんなさい――!」

 

 幸か不幸か、キャッチのお兄さん&お姉さんが青葉の性別に困惑している内に――なお、青葉の名誉のために言っていくと、青葉は男である。女顔の――逃げ出すことが出来た。

 這う這うの体、とはまさに今の彼のことだろう。

 とぼとぼと歩いて酒を求める自分の姿を省みて、青葉は鼻を啜った。

 

「ぐすっ」

 

 ああ、世間の風はこんなにも冷たかっただろうか。

 ずっと研究室に籠っていたから、そんなことも知らなかった。

 これからどうしたら良いのかと、まさしく途方に暮れていた。

 まあ、もっとも。

 

青い彼岸花(研究対象)が絶滅しちゃったんじゃ、僕の研究も意味ないしね」

 

 言葉に出してしまうと、虚しさが半端なかった。

 自分の人生を懸けた研究は、今までの勉強は、何だったのだろう。

 無意味という三文字が脳裏に浮かび、その重みに負けるように腰が曲がってしまった。

 

「あっ、すみませんすみません! ……あれ?」

 

 下を向いて歩いていると、何かにぶつかった。

 反射的に謝ったが、反応がなかったので不思議に思い顔を上げると、それは看板だった。

 特段、何か特徴があるわけではない。

 良くあるボードタイプの、開店時間等が事務的に書かれているだけのものだ。

 

「えっと、バー……かな?」

 

 視線を上げると、これまた特徴のないシックな造りの扉と、店名らしきものが見えた。

 そこには、こう書かれていた。

 荻本屋、と。

 バーの名前にしては、やけに和風な名前だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 内装は、およそ人が「バー」に持つイメージと合致していた。

 ボトルが並んだ棚があり、カウンターがある。それから、少しだがテーブル席がある。

 薄暗い照明に照らされる色とりどりのボトルは、どこか幻想的でさえあった。

 

「いらっしゃいませぇ」

 

 店内に入ると、カウンターでグラスを磨いていた女性がそう声をかけてきた。

 ふんわりとした雰囲気の女性で、青葉を見て柔和に微笑んだ。

 バーというと謹厳なイメージがあったが、それとは真逆の対応だった。

 

「あ、ありがとうございます」

 

 カウンターの席に案内してくれたのも、女性だった。

 怪我でもしているのか、左目に眼帯をつけていた。

 どちらも白いワイシャツに黒ベストにネクタイという格好で、とても良く似合っていた。

 

「…………」

 

 バーなど初めて入るので、ついキョロキョロを見回してしまった。

 その時、他の客とばちっと視線がかち合ってしまった。

 余りの緊張で、カウンターに他の客がいることを失念してしまった。

 

 さらに悪いことに、その客はとんでもない美人だった。

 煽情的なドレスを着ているが、山吹色の髪をぼんぼんを模した簪で結っており、和洋折衷というか、幼いようなそうでないような、不思議な雰囲気の女性だ。

 その女性は青葉が自分を見ていることに気付くと、不意に微笑んだ。

 

「……!」

 

 硬直して、青葉は正面に向き直った。

 すると十数秒ほどして、隣に誰かが座った。

 こっそりと視線を向けると、先程の女性が微笑を浮かべてそこにいた。

 

「あら、いい男」

「ひ、ひゃい!?」

 

 緊張の余り、声が引き攣ってしまった。

 しかしその女性はそれを笑うでもなく、手元のメニューを引き寄せると。

 

「何か飲む?」

「あ、えと……僕、お酒には余り……」

「あら、良いのよ別に。お酒だってただの飲み物。好き嫌いで選べば良いの」

 

 そうね、と形の良い顎先を一撫でして、女性は言った。

 

「お酒自体には強い?」

「あ、あまり自信はないです……」

「甘い方が好きかしら。それともさっぱりした方が好き?」

「どっちかというと、さっぱりしたものが」

「そう。炭酸は平気?」

「は、はい」

 

 頷いて、女性がカウンターでグラスを磨いていた女性に何かを言った。

 

(あ、車椅子……)

 

 良く見ると、その女性は車椅子に乗っていた。

 バリアフリーにでもなっているのか、半身は見えているし、カウンターの向こうで難儀している様子も見えなかった。

 その時になってようやく、彼女が「バーテンダー」と呼ばれる職種の人間なのだ、と思い至った。

 

 まず思ったのは、青い、という印象だ。

 バーテンダーの女性が出して来たお酒の瓶を見て、そう思った。

 それから、ライムの香り。氷で満たされたグラスに注がれる液体。

 見ている内に、それは完成してしまった。

 

「お待たせしました。ジントニックですぅ」

 

 つい、と目前に出されたそれを、じっと見つめる。

 氷の間から微かに浮かぶ炭酸の泡。それを見ていると、不思議と喉が鳴った。

 横を見ると、頬を突いた女性が柔らかく笑っていた。

 

「い、いただきます」

 

 言って、グラスに口をつけた。

 くっと傾け、口内に注ぐ。

 一瞬の酸味の後に、喉にまで広がる苦味。

 でもしつこく残らず、そのまま通り過ぎてしまう。

 一口飲んで、青葉は目を丸くした。

 

「あ、美味しい……」

「そう、良かったわ」

 

 と言って、ドレスの女性はまた笑ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それから、青葉はいくつかお酒を飲ませて貰った。

 いずれもドレスの女性が青葉の好みを聞いて選んでくれたもので、どれも美味しかった。

 

「最初のお酒が美味しいと思えたら、後は簡単。単純に好みを伝えていけば良いわ。そうすれば、お店の人が良いものを選んでくれるから」

 

 そのお酒を美味しいと感じたなら、ベースのお酒が好みということになる。

 ジントニックならジン系。

 後は甘いものを飲みたいとか、希望で幅を広げていくだけだ。

 知識があればより楽しめるのは確かだが、飲む側としてはまず「美味しい」と思えればそれで十分なのだ。

 

「な、なるほど」

 

 お店にいる時間の割に、お酒を飲むペース自体はそこまで早くなかった。

 青葉がそこまで強くないというのもあるが、ドレスの女性が合間に色々な話をしてくれたからだ。

 そうしている内に、青葉も次第に気分が上向いてきていた。

 端的に言って、楽しいと、そう思えるようになっていた。

 

「あー! アンタ知ってるよお!」

 

 それが崩れたのは、そんな大声が店内に響き渡った時だった。

 たった今来店したのだろう。男が数人、ドアのところに立っていた。

 ただ他ですでに酒を飲んでいるのか、見ただけで酔っ払いとわかる程に顔が赤かった。

 

「ニュースで見た! 何かの花を枯らしたんだって!」

 

 それお聞いて、青葉は身を竦めて俯いた。

 ああ、またか。そんな思いが胸中に広がっていく。

 

「ねえ、ねえねえ! 写真撮って良いかなあ。ほらこっち向いてよお!」

 

 携帯のカメラを向けられて、そんなことを言われる。

 それが悲しくて情けなくて、青葉はますます下を向いてしまった。

 消えてなくなってしまいたいと、そう思った。

 

「な、何だあ、お前はあ」

 

 え、と顔を上げると、そこに細い背中があった。

 酔っ払いと自分の間に立っているのは、あのドレスの女性だ。

 顔は見えない。

 ただその背中からは、先程までの柔和な雰囲気は消えていた。

 肩を怒らせている、わけではない。

 

「――――選ばせてあげる」

 

 ただ、鋭かった。

 鋭く、冷たく。まるで、刃物のような。

 

「自分の足で出て行くか。()()()()()()()()。どっちが良い?」

「な、何だ。お前は? この店のスタッフか? 客に対してそんな口を利いて良いと思ってんのかああん!」

「――――()()()

 

 その時、青葉は生まれて初めて、物理法則が仕事を放棄する様を見た。

 一瞬でドレスの女性の姿が消えて、さらに次の瞬間に酷く鈍く、重い音が響いた。

 それが、女性が男を殴り飛ばした――比喩ではなく、物理的な意味で――音だと気付いたのは、実際に男が店の外まで吹っ飛んでいった後のことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――そして、今に至る。

 

「一体全体どういう状況だ、これはァ」

 

 これは不味いのではないだろうか、と青葉は思った。

 客を殴ったということもそうだが、踏み込んで来た警察官が死ぬほど強面だった。

 むしろ警察官というより暴漢と言った方が納得する容貌だ。

 だからこそ、威圧感というか、圧力が重かった。

 

 誰も、青葉も含めて、誰も言葉を発さなかった。

 実弘の容貌に加えて、目の前で起こった事実に脳の処理が追い付かなかったのだ。

 だがその処理が追いついた時、酔っ払いの仲間達が騒ぎ出すのは目に見えていた。

 庇って貰った自分が、何かを言わなければ。そう思ったが、言葉が出て来なかった。

 何て情けないやつなのだろうと、そう思った。

 

「こ……」

 

 その時、真っ先に動いた者がいた。

 

「怖かったぁ……!」

「んなっ!?」

 

 ドレスの女性が、実弘にしなだれかかったのである。

 余りに急な――実弘以外の面々にとって――変化に、その場にいる誰もがぎょっとした。

 目尻に涙を浮かべて男にしなだれかかる様は、並の男であればそれだけで()()()

 それだけの破壊力を持っていた。

 

「あの人達が、急に喧嘩を始めて……!」」

 

 え、と誰かが言うのが聞こえた。

 何を言っているんだ、と、事実を知る者なら思うだろう。

 しかしここで問題なのは、駆けこんで来た警察官(実弘)はその「真実」を知らない、ということなのだった。

 

「――――ああ?」

 

 だから、実弘が声を発した時、その剣呑さに男達は怯えた。

 青葉でさえそうなのだから、吹っ飛んでいった酔っ払いの仲間達はなおさらだろう。

 そしてその恐怖は、実弘が顔を彼らに向けた途端に最高潮に達した。

 さらに実弘の風貌が余りにも()()()側だったことも、彼らの恐怖感を助長した。

 

「す、すみません! でも俺ら関係ないんです!」

「うわあああああ!」

「ちょ、オイ待てェ!」

 

 たまらず、男達は壊れたドアから我先にと逃げ出してしまった。

 実弘の怒声も彼らの背中を押すばかりで、引き留める効果は皆無だった。

 ただ1人、カウンターから動かなかった青葉は、事態の展開についていけずに、ぽかんとした表情を浮かべていた。

 そしてその位置にいたから、青葉には見えた。

 

(あ……)

 

 実弘には見えない身体の後ろで、禊が指でオーケーサインを作って見せていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 事件は終わったが、呑もう、という雰囲気ではなくなってしまった。

 店も壊れてしまったし、良い時間でもあったので、青葉は席を立った。

 ちなみに、値段はそれなりに良心的だった。

 

「また来てね。貴方ならいつでも歓迎するわ」

「あ、はい。僕も楽しかったです。今日は有難うございました」

「――――待ってるからね」

 

 鞄を渡される時に、間近でそっと囁かれた。

 時間にして3秒になるかならないかの刹那の間、華やかな香りが青葉の鼻腔を(くすぐ)った。

 ひらひらと手を振って見送られながら、どぎまぎしつつ壊れたドアを潜り、外へ出た。

 月はすっかり高く、深夜の冷たい空気が酒で温まった身体に染み込んで来るようだった。

 

「うわっ」

 

 と、思わず声が出てしまった。

 仕方ないだろう。顔に傷のある強面の警察官が店の外に立っていたのだから。

 これは誰だって驚く。

 そして彼は青葉を認めると、ずいと近寄って来た。

 

「オイ」

 

 ひいいい、と、青葉は内心で悲鳴を上げた。

 先程の華やかさとは真逆の顔が間近に迫ってきたのだ。

 怖い。怖すぎる。

 

「お前、帰りの足はあるのか?」

「え、え、え」

「何で帰る気だって聞いてるんだよ」

「ひいいいいいっ。で、でで、電車っ、電車ですううう!」

「そうかい。――――だったら最寄り駅まで送っていってやる」

「す、すすすすすす、すみま…………え?」

 

 背中を向けて歩き出した実弘に、青葉は目を丸くした。

 いったい、この警察官は何と言った?

 

「……行かねぇのかァ?」

「い、行きます」

 

 促されて、青葉は実弘の後をついて歩き出した。

 

「このあたりは最近、不審者が出るって騒ぎになってるだろうが。ニュース見てねぇのか」

「さ、最近はテレビは見てません。その……怖いので」

「……あー、そうかい」

 

 テレビをつければ嫌でも自分のニュースを見ることになるので、最近は見ていない。

 世の中の情報には乗り遅れることになるが、今さらどうしたという思いもあった。

 今さら、世の中のことを知っても何の意味もない。

 そんな情報をアップデートしたところで、使う場面がもうないのだから。

 

「それはそれとして、お前。あいつはやめておいた方が良いぞ」

「え?」

「さっきの女のことだよ。あれはやめとけェ」

「や、やめとけとか意味わからないんですけどお!?」

「いや、あの女はお前…………待て、止まれェ」

 

 店と駅の中間まで来たあたりで、実弘が背の青葉を手で制して止めた。

 青葉としては、立ち止まるしかない。

 同時に、顔をこちらに向けずに手だけを向ける実弘に不審を感じた。

 

 と、そこで奇妙な音を聞いた。

 ()()()()()()()()

 何かを()り鉢か何かですり潰すような、嫌な音だった。

 何だろうと思って身を乗り出す。研究者ゆえの好奇心だろうか。

 

「見るんじゃねえェ!」

 

 しかし、その好奇心はまさに猫を殺した。

 ()()()()に。

 実弘の肩越しに見えたそれに、青葉は悲鳴を上げそうになった。

 

「ボリッ、ボリッ、グチャッ」

 

 電柱のそばにしゃがみ、男が何かを咀嚼(そしゃく)している。

 コンビニで買ったお肉でも食べるように、()()()肉に齧りついていた。

 そして、その男の顔は。

 醜く歪み弛んだその顔は、まるで犬のようだった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「オイお前、そこで止まれェッ!」

 

 実弘が、声を上げた。

 しかしその「犬の男」は、実弘の言葉に濁った笑い声を上げるだけだった。

 浮浪者のようなボロボロのシャツにパンツ。しかも身体の前面は赤黒く染まっていた。

 何よりも、顔が前後に細長くひしゃげていて、とても人間の顔とは思えなかった。

 

 ぐちゃ、と、一歩をこちらに向ける音でさえ不快だった。

 制止を無視されたこと、何より異常であったこと。

 ほとんど反射で、実弘は腰のホルスターから拳銃を抜いていた。

 グリップを両手で持ち、肩の高さまで持ち上げる。いわゆる「構え」の段階だ。

 

「止まれ! 聞こえてねぇのか!?」

 

 実弘は、恐怖を自覚していた。

 ナイフを振り回した犯人を取り押さえた時でさえ、恐ろしいとは思わなかった。

 しかし今、実弘は目の前の異常な存在に恐怖を抱いていた。

 

(何だコイツは……!? 顔は特殊メイクか!? いや、それにしちゃあ……!)

 

 男の顔面は、本当に犬としか思えない形だった。

 犬の顔に人間の目鼻がついている。としか、形容できない。

 やはり人間とは思えない。

 しかし警察官としてのプライドが、実弘をこの場に留めていた。

 後ろに一般人(青葉)がいる。それが彼を支えていた。

 

「野郎ォ」

 

 そして、犬男は足を止めない。

 酷く緩慢な動きだが、確実に近付いてきていた。

 口からはダラダラと涎を垂らしていて、濁った笑い声を上げている。

 近付いてくるにつれて、酷い臭いもするようになってきた。

 腐った肉でも、こんな悪臭はしないだろう。

 

「あと一歩進んでみやがれ。撃つぞ。だから」

 

 ずちゃ、と、実弘の警告を無視する形で犬男が進んだ。

 実弘の額に青筋が立ち、彼は拳銃の引き金に指をかけた。

 

「おい」

 

 さらに一歩。

 実弘は腹を据えた。

 次の瞬間、彼は引き金を引いた。

 

 拳銃の発砲音。現代日本ではまず聞かない音だ。

 しかし狙いは僅かに逸らして、1発。それから1アクション置いての1発。

 初撃は外れて、2発目は犬男の肩に命中した。

 

「グゴオォ……!」

 

 呻き声を上げて、犬男がその場に仰向けに倒れた。

 傷口を押さえて、呻き、のたうち回る。

 青葉に下がるよう伝えて、しかし拳銃は下ろさずに男に近付く。

 制圧する。そのつもりだった。

 しかし、だ。そこで実弘は予想外のものを見た。

 

「何ィ?」

 

 先程までのたうち回っていた犬男が、動きを止めていた。

 もがいていた時に破れたのだろう。シャツが引き裂かれていた。

 しかしそこに、あるはずの()()()()()()()

 

「……は?」

 

 確実に、命中していた。血が噴き出すのも見た。

 しかし、犬男の肩には傷一つ無かった。

 まるで。そう、まるで。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

「あ、危ない!」

 

 青葉の声。

 しまった。そう思った時には。

 犬男が、実弘に跳びかかっていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 端的に言って、実弘はかなり喧嘩が強い方だ。

 学生の頃はストリートで負けたことはないし、警察官になってからも様々な暴漢を捕まえて来た。

 しかし、今回はそういうレベルでは無かった。

 

「て、てめえェ……!」

 

 道路に押し倒され、揉み合いになった。

 鼻先で犬男が口を開閉する。吐き出される悪臭に鼻が曲がりそうだった。

 しかし顔を逸らすことは出来ない。逸らせば、喉を喰い千切られかねないと本気で危惧したからだ。

 力が、異常に強かった。

 

 押し倒された時に、拳銃はどこかへ転がって行ってしまった。

 いや仮に拳銃があったとしても、撃てなかっただろう。

 何故なら犬男の力が異常に強く、両手を使わなければ抑えられないからだ。

 片手では、とても対抗できなかった。

 

(こいつ、マジで俺を喰う気か)

 

 そうとしか思えなかった。

 ガチガチと空を切って音を立てる歯――牙を前に、そうとしか思えなかった。

 目の前の犬男は、まさに獣か何かのように自分を喰おうとしている。

 

「ああ。ど、どうしよう。どうしよう」

 

 青葉は、自分の行動を決めかねていた。

 酔いなどすでに引っ込んでしまった。

 実弘を助けたくとも、青葉はお世辞にも腕力がある方ではない。

 飛び込んで行っても、逆に足を引っ張るだけだ。優柔な頭脳がそう告げる。

 助けを求めるか。しかし、周囲には誰もいない。

 

「オニヒメサマだ――――ッ!」

 

 その時だった。

 どこからか大声が響き、それに犬男がビクリと反応した。

 半身を起こして、フンフンと鼻先を鳴らす。

 

「オラァッ!」

 

 その顔面に、実弘は拳を叩き付けた。

 まさに犬のような鳴き声を上げて、犬男が跳び退いた。

 殴られた鼻先を押さえて――すぐにその傷も消えるが――犬男がじりじりと下がる。

 

「オニヒメサマが来るぞ――――ッ!」

 

 再び声が響く。

 その時、犬男は明らかに怯えた表情を見せた。

 潰された鼻先を押さえたまま、犬男が背中を向けた。

 

「オイ待てェッ!」

 

 ばんっ、と大きな音がした。犬男の跳躍の音だ。

 犬男は、何と家屋の屋根に飛び乗っていた。

 そのまま駆け出し、また跳んで、すぐに見えなくなってしまった。

 

「……クソがッ!」

 

 地面を叩いて、実弘が歯噛みした。

 元凶を目の当たりにしておきながら、何も出来ずに取り逃がしてしまったのだ。

 悔しがるのも、無理はなかった。

 そして同時に思うのは、先程の声は誰か、ということだった。

 しかし、これはすぐに判明した。

 

「大丈夫ですか!?」

 

 実弘は、その少年に見覚えがあった。

 燃えるようなその髪色は、忘れようがない。

 それは、あの危険登校の生徒と一緒にいた少年――桃寿郎だった。

 竹刀を手に持った彼は、息せき切ってやって来た。

 

 どうやら、自分達はこの少年に助けられたらしい。

 そのことについては、感謝しなければならないだろう。

 先ほど聞こえた言葉の意味も、良くわからない。

 それも聞く必要がある。

 しかし警察官として、いや大人として、実弘はまずこう言った。

 

「こんな時間にガキが出歩いてるんじゃねぇッ!!」

「よもや!?」

 

 ショックを受けた顔で、桃寿郎はその場に固まったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――女。

 通りで騒いでいる実弘達を、女が見下ろしていた。

 月が雲に隠れている今、屋根に降り立った彼女の姿は黒く塗り潰されて、窺い知ることは出来ない。

 だが、猫のように縦長の瞳孔は、闇の中でも光を放っていた。

 

「…………」

 

 月が晴れる前に、その女はどこかへと消えていた。

 辛うじて、着物の端だけが月明かりに触れた。

 ひらりと舞ったそれもまた、闇の中へと沈んでいった。

 どこかで、猫が鳴く声がした――――気が、した。




最後までお読みいただき有難うございます。

実に平和な学園生活(お目目ぐるぐる)

この平和な生活をずっとお見せするしかないので、盛り上がりに欠けてしまいますが、どうかお許しくださいネ(ぐるぐるお目目)

それでは、また次回。


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第69話:「世界の意思」

 ――――死にたくない。

 それは、多くの人間が、いや生命が持つ本能的な思いだろう。

 死とは忌避すべきものであり、受け入れるものではない。

 特に、平和な時代に生きる若い命にとってはそうだろう。

 

「……コー」

 

 想像してみてほしい。

 少し走っただけで、すぐに息切れして動けなくなってしまうことを。

 学校や会社に行くこと自体が困難で、保健室や医務室で1日の大半の時間を過ごすことを。

 何種類もの薬を服用しなければ、それさえも不可能なことを。

 

 虚弱体質ということさえ(はばか)られるような、余りにも弱い肉体。

 日差しに当たれば貧血で倒れ、気温が下がればすぐに発熱する。

 生きていくことさえ、難しい。

 いや、はたしてこれを「生きている」と言って良いのかどうかさえ、わからない。

 そんな人生を、想像してみてほしい。

 

「……コー」

 

 想像してみてほしい。

 自分の身体が、だんだんと動かなくなっていくことを。

 指先から、足先から、自由が利かなくなっていく恐怖を。

 

 全身の肌が、少しずつ。少しずつ。少しずつ爛れていくことを。

 ()()()()()()()()()

 それを毎日感じることの、恐怖を。

 己の身体が、自分のものではなくなっていく。

 

「……コー」

 

 呼吸器に塞がれた口から漏れるのは、もはや声ではなく音に過ぎない。

 呼吸さえ、自分の力で行うことができない。

 食事も、排泄さえも、誰かの手を借りなければならない。

 それはいったい、どれだけの恥辱だろうか。屈辱だろうか。憤りだろうか。

 

 嗚呼。それでも。それでもだ。

 全身に点滴や検査のための針を打たれても。

 鼻腔や口にチューブを差し込まれても。

 それでも、それでもなお、人は思うのだ。

 

「……コー」

 

 死にたくない。

 生きていたい。

 死にたくない。生きていたい。

 

「……コー」

 

 死にたくない。生きていたい。 死にたくない。生きていたい。

 死にたくない。生きていたい。 死にたくない。生きていたい。

 死にたくない。生きていたい。 死にたくない。生きていたい。

 死にたくない。生きていたい。 死にたくない。生きていたい。

 

「……コー」

 

 死なずに済むのなら。

 生きていられるのなら。

 どんな手段でも、構わない。

 誰が犠牲になろうとも、知ったことではない。

 

「……コー」

 

 生きるためならば。

 そのためならば、たとえ。

 

()()()()()()

 

 たとえ、悪魔の手だろうと、取ってみせる。

 

()()()()()()()()

 

 ――――悪魔の手は、青かった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 犬人間の噂は、日を追うごとに大きく、そして酷くなっていった。

 最初は、それこそ学生同士の他愛のない娯楽に過ぎなかった。

 トイレの花子さんとか、そういうものと同列だった。

 しかし、今は違う。

 

「これからしばらくの間、登下校は集団で行います」

 

 全校集会で、先生がそう告げた。

 それを聞いた生徒達は、方々でざわついていた。

 しかしその大半は、集団登校への不満では無く、そういう事態に陥った原因に対する恐怖だった。

 それだけ、犬人間は身近な脅威になっていたのである。

 

 桃寿郎と胡蝶姉妹が犬人間に遭遇してから、すでに1週間が経っていた。

 そしてこの1週間の間に、犬人間のものと思わしき被害が続出していた。

 今や全国ニュースにもなる程に事件は大きくなっており、学生同士の噂話の域を超えていた。

 

「炭彦、ちょっといいか」

 

 全校集会が終わって生徒達が各自の教室に戻ろうという時に、炭彦は桃寿郎に話しかけられた。

 桃寿郎は深刻な顔をしていて、ただ事ではないと感じた炭彦は足を止めた。

 周囲を生徒達が歩いていく中、2人だけが止まっていた。

 

「どうしたの、桃寿郎くん」

 

 実は炭彦は、桃寿郎のことを心配していた。

 というのも、どうもここ最近、桃寿郎は深夜に街を出歩いているようだった。

 何と言っても、桃寿郎は目立つ。犬人間ほどではないが、噂になっていた。

 髪色もそうだが、存在感が強烈で、嫌でも目を引いてしまうからだろう。

 

「実はな」

 

 心配していたのだが、機会がなくて話すことが出来なかった。

 学校で見かけた時もどこか思い詰めているようで、話しかけにくかった。

 だから実をいうと、こうして話しかけてくれたことは嬉しかった。

 ただ、桃寿郎の顔はやはり深刻そうな色を浮かべていて、素直に喜んでばかりもいられない様子だった。

 

「退治しようと思うんだ」

「え?」

 

 最初、何を言われたのかわからなかった。

 それはそうだろう。

 日常の会話で「退治」などという言葉はまず出て来ない。

 あえて言えば、桃寿郎の言葉には主語が抜けていた。

 

「犬人間を」

 

 そして、それはすぐに解消された。

 そこまで言われてようやく、炭彦は桃寿郎の意図を理解した。

 

「犬人間を、退治しようと思うんだ」

 

 言葉の意図を、意味を理解して、そして。

 

「……ええええええええええええっ!?」

 

 炭彦の驚く声が、その場に響き渡ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その日の夜、カナタは物音で目を覚ました。

 元々、眠りは浅い方だ。

 まして二段ベッドで、しかも相手はこっそりだとかそういうことが出来ない人種だ。

 だからカナタは身を起こして、そして言った。

 

「炭彦、どこへ行くの?」

 

 その相手は、ぎくりと身を震わせた。

 当然のことだが、炭彦のことである。

 彼は学校の制服を着ていて、明らかに寝る体制ではなかった。

 そして現在の時刻は午前2時。もちろん、登校する時間ではない。

 

「あ、えっと。その、と、トイレ……」

「制服で?」

「う、あー、あー」

 

 あーあー言い出した弟に、カナタは目を細める。

 それが本気の怒りの前兆だと知っている炭彦は、さらに慌てた。

 何しろ、嘘が吐ける性格ではない。

 そして議論ではカナタに勝てない。それも良くわかっている。

 

「炭彦」

 

 追い詰められた炭彦は、力技で解決することにした。

 

「炭彦!」

 

 珍しい、カナタの大きな声。

 それを背中で聞きながら、炭彦は窓から()()()()()

 普通なら大怪我だが、彼にとっては通学路だ。

 だから彼は安全に跳び下りて、いつものように駆け出した。

 危険登校常習犯の名は伊達ではなく、それは、常人に追えるものでは無かった。

 

「…………あァ?」

 

 そして炭彦の家から少し離れた繁華街、実弘は今日もパトロールをしていた。

 あの、犬の男が出た周辺である。

 犯人は同じ場所に戻ることが多い。拠点が近いからだ。

 正気を失っているような相手なら、なおさらその傾向は高まる。

 

「あ、こんばんは」

「お前、意外と神経が太いなァ」

「よ、余計なお世話です!」

 

 途中、青葉と遭遇した。

 もちろん、見つけたからと言ってどうこうする話ではない。

 青葉はただ、ある店で酒を楽しんでいただけで、悪いことは何もしていないからだ。

 

(まあ、悪い女には掴まってるみたいだがな)

 

 青葉の襟元に残ったルージュの痕に、そんなことを思った。

 あの店の女主人は本当にやめた方が良いと思うのだが、青葉自身がそう思っていない以上、何を言っても文字通り「余計なお世話」というものだった。

 民事不介入、である。

 

「んん?」

 

 その時、通りの向こうを駆けて行く小さな影を見つけた。

 一瞬のことで、青葉は気付いていない。

 ただ職業柄、実弘はそういう時に目ざとい。

 

「あのガキ」

 

 見覚えのある子どもの姿を認めて、その額に青筋が浮かんだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「ごめん。遅くなった!」

「問題ない! 俺も今来たところだ!」

 

 こんな深夜の時間帯に、外出するのはほとんど初めての経験だった。

 不良になってしまったなと、桃寿郎は思った。

 だがそれも、炭彦(友人)と一緒なら悪くないとも思えた。

 巻き込んでおいて申し訳ないと思うが、しかし本心だった。

 

「それで、どうするの?」

「うむ! 犬人間はこのあたりにいるはずなんだ」

 

 犬人間の目撃情報は――学校で聞いた噂話がソースだが――このあたりに集中している。

 そして、決まってゴミ捨て場か、ペット――犬のいるところに出現する。

 だからそういうところを回っていれば、見つかるはずだった。

 そして見つけたところを、捕まえるのである。

 

 そう語る桃寿郎を、炭彦はじっと見つめていた。

 正直なところ、炭彦には犬人間をどうにかしようなんて考えはなかった。

 カナタに見つかりもして、帰ったら叱られるだろうという恐れもあった。

 しかし、それでも炭彦はここにやって来た。

 

(桃寿郎くん。暴走しちゃうところあるからなあ)

 

 それはひとえに、桃寿郎のことを心配したからだった。

 あの時に断っていたとしても、桃寿郎は1人でやって来ただろう。

 それくらいなら、一緒に行った方が良い。

 

「あ、桃寿郎くん。あっちの方が良いんじゃないかなあ」

「む、そうか?」

「うん~、何かあっちで出たって聞いた気がするよ~」

 

 桃寿郎は4時には帰らないといけない。

 家の道場で朝稽古があるからだ。

 だから実は捜索の時間は2時間、いや1時間あるかないかなのだ。

 その間、犬人間のいそうにない場所を歩いていれば良い。

 炭彦は、そう考えていた。

 

「あら」

 

 だから、()()は本当に想定外だった。

 ある意味で、犬人間を見つけるよりも確率の低いことだった。

 まさかこんな時間に、こんな場所で。

 

()()()()()()()()

 

 知り合いに会うとは、思わなかった。

 

「瑠衣さん? どうしてこんなところに!?」

「むう、あの公園の君か!」

 

 公園の君という単語にはいささか気を引かれたが、それ以上に驚きが炭彦の胸中を覆っていた。

 しかし現実に、着物姿の女性――瑠衣が、そこに立っていた。

 いつの間にか、()()()と、そこに立っていて。

 満月の光の下で、彼女は小さく首を傾げるようにして微笑んでいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――その時、腐臭がした。

 突然だった。

 いきなり、そう、瑠衣が現れた時と同じように、いきなり()()は現れた。

 

「クソガキ共――――ッ!」

 

 さらにこの時、もう1人の人間がその場に現れた。

 彼もまた突然だったが、しかし、そばに寄られる前に存在に気付くことが出来た。

 何故ならその男は、必死の形相で駆け寄って来たからだ。

 

()()()()()()()――――ッ!」

 

 咄嗟には、動けなかった。

 まず瑠衣の登場に驚いたし、次いで実弘の登場に驚いた。

 この時点で、若い2人の少年の瞬間的な認識力はいっぱいいっぱいになってしまっていた。

 だから、次に起こる出来事に反応できなかった。

 

「ハアァ――――ッ」

 

 腐臭が、強くなった。

 呻きとも吐息ともわからない空気が、耳朶を打った。

 そこまで来て、ようやく2人は後ろを振り向く動きをした。

 しかしその時には、何もかもが遅かった。

 

「ぼさっとするんじゃねえ!」

 

 それでも()()()()()にならずに済んだのは、実弘が2人を突き飛ばしてくれたからだ。

 しかしそのせいで、実弘に最悪の事態が降りかかることになってしまった。

 突き飛ばされて、前方にごろりと転がってしまった。

 膝をしたたかに打ち、痛みを覚えた。

 

「ぐあ……ッ」

 

 しかし実弘に比べれば、まるで大したことはないだろう。

 鈍い音に視線を向ければ、実弘が倒れているのが見えた。

 街灯が、地面に広がる赤黒い何かを照らしていた。

 それが血だと気付くと、ひゅっ、と息が詰まった。

 

 それから、正面を向いた。

 そして、いた。

 何という醜さだろう。

 犬の顔をした人間。そうとしか表現できない化物が、目の前にいて。

 

「炭彦、危ない!」

 

 嗚呼、桃寿郎は何と勇敢なのだろう。

 持ってきていた木刀を振り上げて、犬人間に跳びかかっている。

 相手が人間であれば、成人男性であっても桃寿郎には敵わないだろう。

 だが残念ながら、相手は人間ではなかった。

 

「ぬ……うあっ!?」

 

 犬人間は、桃寿郎が振り下ろした木刀をあっさりと掴んで、半ばから握り折ってしまった。

 次いで桃寿郎の首を掴むと、そのまま投げ飛ばしてしまった。

 子どもとは言え、人間1人を軽々と投げ飛ばしてしまう。凄まじい膂力だった。

 桃寿郎は背中から通りの塀にぶつかり、呻き声を上げながら地面に倒れてしまった。

 

 1分も、していない。

 それだけの短時間の内に、炭彦は1人になっていた。

 目の前には犬の怪物。明らかに、次は自分を狙っていた。

 そんな状況に、知らず、呼吸が荒くなっていたことに気付いた。

 今まで、これ程までに荒い呼吸を自覚したことはなかった。

 

「あ、あ」

 

 上手く、息ができない。

 いや、今までどうやって息をしていたのかさえ、わからなくなっていた。

 死ぬのだろうか。そう、唐突に思った。

 このまま呼吸に詰まって死ぬのだろうか。そんなことを、思って。

 

「――――竈門君」

 

 思って。

 

()()()()()()()()()

 

 思って、そして。

 ――――一気に、熱を持った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 いったい、いつからだっただろうか。

 自分が、他人と少し違うのかもしれない、と思うようになったのは。

 

『いったぞー!』

 

 最初は、小学生の頃だっただろうか。

 友達と、草野球をした。

 特に経験はなかったが、数合わせで呼ばれたのだ。

 当たり前のように外野になって、そして、当たり前のようにボールが来て。

 

 当たり前のようにフェンスを駆け上がり、ジャンプして捕った。

 あの時の、皆の放心したような顔が忘れられない。

 だけど、仕方がなかったのだ。

 まさか、()()()()()()()()()()()()()()()、驚かれるとは思わなかったのだ。

 

『きみは何かスポーツをやるべきだ!』

 

 と、桃寿郎などは常にそう言ってくれた。

 その度に自分は、寝る時間が減るから嫌だと言って断っていた。

 それは嘘ではないけれど、しかし真実でも無かった。

 

 炭彦はただ、怖かっただけなのだ。

 スポーツ。例えば桃寿郎のように剣道をやったら、()()()()()()()()

 何かが変わってしまうような、そんな気がしたから。

 

「わっ」

 

 しかし、今は自分でも驚いた。

 何しろ、息を吸って跳んだだけで、電線よりも高く――つまり、5メートル以上――跳んでいた。

 軽く、地面を踏んだだけだった。

 

 たったそれだけで、想定外の高さまで跳ぶことができた。

 身体能力――は、たぶん、変わっていない。

 純粋な身体の造りは、何も向上していない。

 もしも変化があるとしたら、そう。()()だ。

 

「!? !? !?」

 

 犬人間は、炭彦を見失っているようだった。

 無理もない。まさか炭彦のような子供が、視界から消える程の跳躍をするとは思わないだろう。

 そのまま頭の上を跳び越えて、犬人間の背中が見える位置に着地した。

 後ろを、取った。

 

(ど、どうしよう)

 

 しかし、そこから先にどうするかの考えは少しも無かった。

 何しろ、今まで喧嘩の1つもしたことがないのだ。

 それでもなけなしの知識で考えたのは、犬人間のバランスを崩して転ばせることだった。

 

 転ばせて、その間に逃げる。

 実弘と桃寿郎を担いで逃げることが出来るかは、やってみないとわからない。

 そして、何よりも。

 

(瑠衣さんを、守るんだ!)

 

 その想いで、飛び出した。

 

(転ばせる、だけなら……!)

 

 駆けて、足を突き出す。

 狙うは、膝裏。

 そこへ、思い切り足裏を打ち込んだ。

 

「……………………えっと」

 

 確かに、炭彦の攻撃は犬人間の膝裏を捉えた。

 並の人間であれば、耐え切れずに膝を折り、その場に倒れ込んでいただろう。

 しかし残念なことに、犬人間の足は並の人間を遥かに超えていた。

 子供の蹴りなど、いわゆる「膝かっくん」程度にも効きはしなかった。

 

「あ」

 

 まずい、という声も上げることは出来ず。

 炭彦は、殴られた痛みであっさりと意識を手放してしまった。

 誰かが自分を呼んだ気がしたが、その顔を確認することも、出来なかった。

 くー、と、聞き覚えのある音がして、それを最後に炭彦は意識を失った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 男は、飢えていた。

 ()()なってから、何を食べても空腹が満たされなくなった。

 しかし、男は臆病だった。()()も下手だった。

 動物だけが、自分を警戒しなかった。

 

 しかし獣の肉は、一時凌ぎにしかならなかった。

 もっと大きな、別の肉が喰いたくて仕方がなかった。

 そして今日、ついに()()が成功した。

 待ちに待った肉の匂いに、噛み合わせの悪い牙の隙間からとめどなく涎が滴り落ちている。

 

「グルル」

 

 掴み、持ち上げて、噛み付こうとした。

 その時だった。

 鼻腔を、甘い匂いが擽った。

 これまでに嗅いだことのない、蜜のような、たまらない匂い。

 それは、目の前の肉を取り落とし、スンスンと鼻を鳴らす程だった。

 

 くー、と、奇妙な音がした。

 

 音を、追った。

 そこに、女が1人で立っていた。

 その瞬間に、匂いの元はこれだ、と確信した。

 女は、犬人間の視線に気付いている。

 気付いていて、しかし逃げるような素振りも見せなかった。

 

「グル」

 

 まさに、餌をぶら下げられた犬だった。

 何という、美味そうな匂いか。

 今すぐに跳びかかり、その柔らかそうな喉笛に喰らい付きたい。

 男の頭の中は、もはやその思いでいっぱいだった。

 

「…………」

 

 女が、何かを喋っていた。

 形の良い唇が小さく動いて、何らかの音を発していた。

 しかしその音を、男の耳は捉えていなかった。

 男の意識は、女の肉を喰うことにしか向いていなかったからだ。

 

「ハア――ッ、ハア――ッ」

 

 犬の口からは、そんな荒い音が響いている。

 しかしそれも無意識で、男は自分はどんな状態なのかさえ、理解していない。

 

「…………」

 

 女が、また何かを言った。

 そして何を思ったのか、衣服の――着物の袷に、手を差し入れた。

 白い指先が帯を緩め、袷を割っていく。

 そうして現れた白磁の肌に、男の目は釘付けになった。

 

 匂いが、まさしく花のように芳醇な匂いが、さらに強くなった。

 知らず、前に歩き出した。

 ほんの数歩で、女のそばに。

 晒された肌の白さに、柔らかさに、涎が止まらなかった。

 女は微動だにせず、微笑んですらいた。

 

「グルァッ!」

 

 吠え声ひとつ。男が女に両肩を掴んだ。

 裂けるのではないかと思える程に、大きく口を開けた。

 そして、ぶつりと肌を突き破る感触を想像しながら、犬の牙を女の頚に突き立てた。

 くー、と、また音がした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「――――どうしました?」

 

 自分の頚に噛み付いた化物。

 普通なら、泣き叫んでいてもおかしくない。

 しかし、瑠衣は平然としていた。

 

 むしろ、おかしくなっているのは犬人間の方だった。

 相変わらず、瑠衣の肩を掴んでいる。

 しかしその動きは引き寄せるものではなく、どう見ても、()()()()()()()していた。

 

()()()()()()()()()()

 

 その声は、蠱惑的ですらあった。

 優しく、穏やかで、声音から微笑を感じる程の、柔らかな声。

 恋人に囁くような、我が子にかけるような、そんな声。

 それはとても――――()()()()()()()

 

「ア、ガ」

 

 ()()()()と、何かが引き千切れる音がした。

 その音は、犬人間が瑠衣の頚から口を放そうとして発生した音だった。

 瑠衣の頚の肉を、喰い千切った音だろうか。

 

 いや、違った。

 

 ()()()()

 犬人間が、瑠衣の肉を喰い千切ったのではない。

 犬人間の身体が、抉り取られた音だった。

 瑠衣の頚に噛み付いた口が、牙が、いや口から下の顔面が、千切れていた。

 

「アゴオオオアアアアアアァァァッッ!?」

 

 血が噴き出し、雨を降らせる。

 それは瑠衣にも降りかかり、顔の右半分から肩までが朱色に染まった。

 犬人間が噛み付いていた頚のあたりが一瞬、液面のように揺れたように見えた。

 唇の端から、赤い――紅い舌が覗き、顔の血を舐め取った。

 そして、嗚呼、と、溜息を吐いた。

 

()()()()

 

 抉られた部分を押さえてのたうち回る犬人間を前に、瑠衣は笑った。

 

「空腹は最高の調味料とは、良く言ったものです」

 

 そう思いません?

 瑠衣の言葉に顔を上げる犬人間の顔は、いや残された上半分の顔は、怯えていた。

 おそらく、己の身に何が起こったのか、今でも理解できていないのだろう。

 まさか。

 まさか、自分が喰われるなんて、思ってもいなかっただろうから。

 

「再生が遅い」

 

 犬人間を見て、瑠衣はそう言った。

 

「鬼になってまだ間がない。人を余り喰っていない。そうですね?」

 

 何を言っているのかわからない。

 そう目で訴える――何しろ、答える口がもう無い――犬人間に、瑠衣は「ああ」と頷いた。

 

「答えなくて良いですよ」

 

「もう()()()()()()()

 

「だから貴方のことは、貴方よりも知っているんです」

 

「貴方が自分の状態を理解していないことも」

 

「そして貴方が、自分自身の本能を抑えられないことも」

 

 瑠衣の手が、残った顔の上半分を掴む。

 呼吸の代わりに、血が噴き出す。

 それが、犬人間に出来る唯一の命乞いだった。

 

「何より、私。そのあたりはきちんと教育されているものでして……」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 顔が握り潰される刹那、細い女の指の間から、犬人間は最期に見た。

 美しい微笑が貼り付いていた女の顔が、その口の端が、大きく、大きく歪んでいる様を。

 嗚呼、と、犬人間は最期に思った。

 

「ア……ア、ア……ア、ク、マ……」

 

 失礼な。

 それが、犬人間が最期に聞いた言葉だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――瞼の裏が白くなって、炭彦はその眩しさに小さく唸った。

 朝だ。と、頭のどこかがそう考えた。

 陽の光が顔に差して、眩しくなっているのだ、と。

 

「……大丈夫ですよ」

 

 その時、瞼の裏から白さが消えた。

 ひんやりとした感触が、両目にかかっていた。

 誰かの手だ。

 誰の手だろうか、と、考えていると。

 

「まだ早い時間ですから。もう少し眠っていても大丈夫ですよ」

 

 ああ、瑠衣さんだ。

 優しい声に、少し緊張していた身体から力が抜けるのを感じた。

 体温が高いせいか、瞼に乗せられた掌の冷たさが心地よかった。

 気持ちいいな、と、そんなことを思った。

 

「……♪ ……♪」

 

 機嫌の良さそうな鼻歌が、聞こえて来た。

 瑠衣が歌っているのだろうか。

 意外だな、と思った。

 炭彦から見た瑠衣は落ち着いたお姉さんという印象で、誤解を恐れずに言えば、明るいイメージはなかった。

 

「……♪ ……♪」

 

 瑠衣の手の冷たさと、機嫌の良い歌。

 それらに包まれて、炭彦は大きく息を吐いた。

 そうして、大きな何かに包まれているような安心感に、身を委ねた。

 ゆっくりと意識は沈んでいき、やがて規則正しい寝息を立て始めた。

 

 炭彦の瞼に手を添えたまま、瑠衣は自分の膝を枕に眠る少年を見つめていた。

 いつもの公園。いつもの芝生。2人はそこにいた。

 別の木陰には、桃寿郎と実弘の姿もあった。

 瑠衣以外は、全員が眠っていた。

 起きているのは、瑠衣だけだった。他には誰もいない。公園には、誰もいなかった。

 

「…………いいえ、違いますよ」

 

 それなのに、瑠衣は誰かに語りかけていた。

 ただ、誰かと話しているはずなのに、それは独り言のようだった。

 事実、()()()()()()

 

「懐かしいとか、そういうのじゃないんですよ。本当に。私はただ、期待しているんです。この子に……竈門炭彦君に」

 

 すやすやと健やかな寝息を立てる少年に、瑠衣はそっと微笑んだ。

 

「彼はきっと、()()()()()()()()()()()()()()

 

 それはつまり、運命ということだった。

 ずっとずっと待っていた奇跡が、やって来たということだった。

 世界の意思とでも言うべきものが、動き始めたということだった。

 

「本当に、期待しているんですよ。()()君」

 

 それは、ずっと待っていたもの。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 炭彦の瞼に触れていないもう片方の手を、瑠衣は見やった。

 その手の中には、あるものがあった。

 それは先日、まさに炭彦から貰った飴玉だった。

 未開封の袋には、こうプリントしてあった。

 

「本当に、期待しています」

 

 ――――珠世クリニック、と。




最後までお読みいただき有難うございます。

あれれ~、おっかしいぞ~(某少年探偵風)

ほのぼの学園ハートフルストーリーのはずなのに、何だかバイオレンスな気がする。
妙だな……(お目目ぐるぐる)。
ホラー回か(違う)

それでは、また次回。


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第70話:「七不思議・口裂け女」

 1か月も通っていると、日常になってくるものだ。

 犬人間事件の治療――と言っても、外傷はほとんど無かったのだが――とカウンセリングで、胡蝶姉妹は近所のクリニックのお世話になっていた。

 もっとも、最近はただおしゃべりに来ているだけになっているが。

 

 というのも、実はこのクリニックには子供の頃から良く来ていたのだ。

 いや、良く来ていたというのはやや語弊があるだろうか。

 怪我や病気などをした時に来る、いわゆるかかりつけ医というものだ。

 なので、クリニックの先生とも顔見知りだった。

 

「良かったわ。2人ともだいぶ元気になって」

 

 珠世、という女性の先生だった。

 しのぶは自分の姉がこの世で最も美人だと思っているが、珠世もまたかなりの美人だった。

 実際、珠世を目当てに通う者もいるくらいだ。

 美貌もそうだが、たおやかな物腰や優しい性格が、人を惹き付けるのだろう。

 

「ありがとうございます。先生のおかげです」

 

 もちろん、美貌も性格も姉のカナエが一番なので、その次ということに――しのぶの中では――なっているが、これはしのぶにすれば破格の高評価ということになる。

 まあ、それを口にすることはないわけだが。

 

「あれ、こんな写真ありました?」

 

 その時、しのぶは珠世のデスクの写真立てが目に入った。

 それ自体は珍しいことではないが、古そうな写真で、気になったのだ。

 少し色褪せてはいるが、それでも、そこに映っている人間が珠世だということはわかる。

 ただ一緒に映っている青年は、見たことがなかった。

 

「先生、この人は?」

「え? ああ……家族です」

「ご家族? あ、茶々丸ちゃんもコロちゃんも映ってますね」

 

 家族写真か、と、何となく受け取った。

 それをデスクに置いておきたい気持ちは、何となくわかった。

 自分も姉との写真をスマホの待ち受けにしている。

 まあ、写真というのはいささか古風かな、とも思ったが。

 

(それにしても、古い写真ですね……)

 

 表面が色褪せていて、端が傷んでいる。

 しのぶも余り写真に詳しい方ではないが、状態が良くないということはわかった。

 ただ、それだけ大切な写真なのだろう。

 

 余り触れるのも失礼かと思って、しのぶは写真を珠世に返した。

 珠世はそれを両手で受け取って、大事そうにデスクに戻していた。

 ただその目は、どこか哀しそうに見えた。

 やはり、しのぶは触れなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 炭彦も、以前とは別の日常を始めた1人だった。

 まず犬人間事件だが、あの日以来、ぱったりと止んだ。

 瑠衣は犬人間が「竈門君に思わぬ反撃を受けて逃げたんですよ」と言っていたが、炭彦の記憶は犬人間に殴られたところで途切れていた。

 

 だから、自分が犬人間を撃退したと言われても、実感は何も無かった。

 けれど犬人間はこの1か月間は現れていないし、本当にいなくなったようだった。

 世間も学校も、犬人間のことなど忘れてしまったかのように静かだった。

 けれど、変わったこともあった。

 

「桃寿郎くん。剣道をやってみたいんだけど、良いかな」

 

 と、桃寿郎に頼んだのが1週間ほど前のことだった。

 以前の炭彦であれば、剣道はおろかどんなスポーツもやろうとは思わなかった。

 寝る時間が減るし、何より()()()ことがわかっていたからだ。

 けれど、決めたのだ。

 

(強くなるんだ。瑠衣さんを守れるくらいに)

 

 あの時、たぶん、単純な身体能力では自分は犬人間を超えていたと思う。

 しかしいくら身体能力で上回っても、使い方がわからなければ宝の持ち腐れだ。

 使いこなせない力は、ただの無力でしかない。

 瑠衣は自分が犬人間を追い払ったと言ったが、そうだとしても、気絶してしまったのだ。

 今回はきっと、運が良かった。運が悪ければ、もっと酷い結末になっていたに違いなかった。

 

「うむ! もちろん大歓迎だ、うちの道場に来ると良い!」

 

 ちなみに、炭彦も桃寿郎も帰宅後にしこたま叱られた。

 それはそうだろう。深夜に出歩き、危険な目に合ったのだ。

 実弘がそれぞれの家に来て、謝罪したのも大きかった。

 いわゆる「うちの子がご迷惑を!」だ。

 それはもうこっぴどく叱られたが、それ以上の使命感が炭彦を突き動かしていた。

 

「よーし、やるぞ!」

 

 そして、これが良くなかった。

 その使命感――瑠衣を守る――に燃えるままに、桃寿郎の実家の道場に入門して。

 桃寿郎が余りにも炭彦を褒めちぎるものだから、年上の門下生がむきになってしまって。

 まだ竹刀の握り方さえわからないままに、炭彦は先輩と立ち合うことになってしまって。

 

 もう一度いうが、これが良くなかった。

 桃寿郎でさえ勝てない年上の門下生と、入門初日の炭彦。

 普通に考えれば、結果は明らかだった。

 しかしそれは、あくまで規格内の常識内の話。

 

「よもや」

 

 と、桃寿郎が思わず呟いてしまう程だった。

 炭彦は、年上の門下生が竹刀を振るおうとした刹那に打ち込んだ。

 瞬きの間に3発。とどめに1発。

 打ち込まれた先輩門下生が立ち合いの結果を知ったのは、()()()()のことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 桃寿郎の父・藤寿郎は、衝撃を受けていた。

 衝撃は、2つあった。

 まず、門下生と炭彦の立ち合い。

 炭彦が見せた動きを、藤寿郎はまったく視ることが出来なかった。

 

(両の小手に打ち込んだ後、突き……か? それから、胴を薙ぎ)

 

 それは、打たれた門下生の手当てをして初めて理解できた。

 打たれた箇所が、骨には異常が無さそうだったが、真っ赤に腫れ上がっていたからだ。

 藤寿郎の目には、炭彦の手から先が消えたようにさえ見えたのだ。

 そんな馬鹿なと、聞けば人は思うだろう。正直なところ、藤寿郎もそう思っている。

 

 だが、これは現実だった。

 聞けば炭彦は、剣を握ったのは今日が初めてだと言う。

 もしもそれが本当ならば、初日で格上の剣士を圧倒したことになる。

 倒された門下生の実力は教えた藤寿郎が一番よく知っている。

 どんなに油断していたとしても、ここまで一方的に負けるような子では無かった。

 

「炭彦……」

 

 心配だったのは、桃寿郎のことだった。

 やや思い込みが激しいところがあるが、努力家だった。

 幼い頃から何年も鍛錬を続けていて、親の色眼鏡を抜きにしても、良くやっていると感じる。

 しかし、今の炭彦の立ち合いは、そうした積み重ねをすっ飛ばしたものだった。

 

 圧倒的な、神がかり的な才能。

 

 藤寿郎が見る限り、炭彦は初日の時点で、桃寿郎の数年間の努力を上回ってしまった。

 どんな人間でも、ショックを受けてしまうだろう。

 どれ程の人格者だとしても、嫉妬という感情はあるのだから。

 まして子供だ。だから藤寿郎は、どうフォローすべきかと考えあぐねていた――――が。

 

「……凄い」

 

 が、彼の息子は、父親が思う以上に真っ直ぐな少年だった。

 

「凄いぞ炭彦! 今のはどうやったんだ!?」

「え、ど……どうって。普通に」

「いや、あの動きは普通に出来るものじゃない! 何か秘訣があるのか!?」

「ひ、秘訣かあ。息を思い切り吸って、力をこう、ぎゅーんって」

「ぎゅーん!?」

 

 とりあえず、心配したような事態にはならなかったようだ。

 もちろん、桃寿郎以外の門下生は畏怖の籠った目で炭彦を見ている。

 道場で迎え入れるとなると、色々とトラブルになりそうだ。

 だが、それは大人(自分)が何とかする話だった。

 

(それにしても、()か)

 

 衝撃は2つ。1つは炭彦の才能。

 そしてもう1つは、期せずして炭彦自身が言及した「息」という単語だ。

 動き出す直前、確かに、炭彦は深く息を吸っていたように思える。

 藤寿郎はかつて、幼い頃に祖父に聞いたことがあった。

 

(何と言ったか、あれは、そう)

 

 祖父はたしか、こう呼んでいた。

 ――――全集中の呼吸、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 炭彦が剣道の道場に通い始めたと伝えると、瑠衣は嬉しそうな顔をしてくれた。

 正直なところ、そんな風に喜んで貰えるとは思っていなかったので、炭彦も嬉しかった。

 そしていつものように、胡蝶姉妹の()()()を渡した。

 

「ありがとうございます」

 

 それは、胡蝶姉妹が通っているクリニックで貰えるご褒美の飴だった。

 どうしてかはわからないが、瑠衣はこの飴を欲しがった。

 瑠衣の――出会ってからはおそらく初めての――願いなので、胡蝶姉妹に頼んで飴を譲って貰った。

 

 飴が好物なのかと思ったが、他の飴は渡そうとしてもやんわりと断られてしまうのだ。

 それに、瑠衣は貰った飴を食べるわけでもなかった。

 ただ手の中で弄んで、しばらく眺めているだけだった。

 

「う……」

 

 陽の光のせいだろうか、視界が一瞬、眩しくなった。

 思わずごしごしと目を擦っていると、その手を瑠衣が取った。

 

「駄目ですよ。擦ったら目が痛みます」

「う、うん」

 

 綺麗な顔が目の前にあって、どぎまぎとしてしまった。

 目を覗き込まれる形になっているので、炭彦からも瑠衣の瞳が良く見えた。

 大きくて、吸い込まれそうで。いつまでも見ていられるような気がした。

 

「竈門君の目は、とても綺麗ですね」

「え、そ、そうかな」

「ええ、とても」

 

 頬のあたりに手が振れて、目の周りを指先が撫でた。

 心臓がばくばくと音を立てていて、どうにかなってしまいそうだった。

 ただ、どうしたらいいのかわからず、固まっているばかりだったが。

 そんな炭彦の様子を見て、瑠衣はくすりと笑った。

 

「良い目ですから、大事にしないといけませんよ」

 

 帰ったら目薬をさそうと、そう思った。

 

「さあ、呼吸の練習をしましょうか」

「う、うん」

 

 そして、呼吸の練習だ。

 最初は戸惑いもあったが、最近は慣れて来たような気がする。

 普段の生活でも呼吸を意識するようになって、いつでも――たぶんだが、寝ている時も――同じような状態が当たり前になっていた。

 

 そのせいかはわからないが、身体の調子も良かった。

 桃寿郎の実家の道場では、余りにも調子が良すぎてやり過ぎてしまった程だった。

 座禅を組んで目を閉じると、調子の良さというか、呼吸の深さがよりわかるような気がした。

 

「良いですね。とても」

 

 意識の端で、瑠衣の声が聞こえた。

 その声がまた嬉しそうで、つられて炭彦も嬉しくなってしまった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 珍しいことに、実弘は事務所に引きこもっていた。

 

「先輩、メシ買ってきました」

「おう、サンキュー」

 

 正直なところ、書類仕事や調べ物は荷が苦手な方だ。

 外に出てパトロールでもしていた方が性に合っているのだ。

 それでも気になったことがあって、ここ数日はデスクに齧りついている。

 

 後輩が買ってきてくれた食事を片手に、ファイルやパソコンで調べ物を続ける。

 調べているのは、あの店のことだった。

 青葉が通っている、あのバーである。

 

(あの時は特に何も思わなかったが……)

 

 いくつか、気になるところがあった。

 別に犯罪がどうとかではない。いや喧嘩沙汰にはなっていたか。

 それはそれとして、ほんの少し違和感を覚えたという程度だ。

 実弘も、今の時点で何か具体的な考えを持っているわけでは無かった。

 

(あの女、普通(カタギ)とは思えねえ)

 

 言ってしまえば、ただの直感だ。

 ナイフを振り回す暴漢を取り押さえた時でさえ、()()は思わなかった。

 しかしあのバーの女主人は、一目見た瞬間にヤバいと思った。

 だからこそ、青葉にも「あいつはやめておけ」と言ったのだ。

 まあ、もっとも青葉はあのバーに足繁く通っている様子だったが。

 

「……あ?」

 

 まず、ホームページは無かった。SNSにもそれらしいものは無かった。

 ただこれは、別に珍しい話ではない。

 1店きりの小規模な店の中には、ネットを使わない店もあるだろう。

 まあ、SNSでも掠りもしないという点は意外ではあったが。

 

 しかし、である。

 バーを開業している以上、届け出というものはされているはずだ。

 もちろん警察内の情報管理の不備というのも、あるのかもしれない。

 だが、全くそういう記録がない、ということはあり得ない。

 

「いや……っていうかよォ」

 

 何度も確認した。問い合わせも入れてみた。

 しかし、結論は常に同じだった。

 それを理解するにつれて実弘の額には皺が寄り、表情はより厳しいものになっていった。

 とん、と、指先が書類ファイルの表面を叩いた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()()()

 いや、バーだけではない。あの店が立っている場所には、何も無い。

 無許可営業、ですらない。本当に、何も存在しないはずなのだ。

 しかし、だとすれば。

 だとすれば、あの女主人は、店員達は、いったい何者なのか。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「――――珠世ぉ?」

 

 ()()()()()()

 実弘にそう言われていることなど露とも知らず、その店内で、やや素っ頓狂な女性の声が響いた。

 開店前の店内は静かな分、余計に甲高く響いだ。

 店内にいる()()は、5人。

 

「…………って、誰だっけ?」

 

 ドレスの女、店の女主人――一葉(ひとつば)禊。

 

「誰じゃねえよ。とうとう脳みそ腐ったか?」

 

 黒服の男――獪岳(かいがく)

 

「まあまあ、結構あれも昔の話だしねえ」

 

 同じく黒服の男――犬井(いぬい)透。

 

「…………(十年前)」

 

 眼帯・隻腕の女バーテンダー――祭音寺(さいおんじ)柚羽(ゆずは)

 

「ほら、いたじゃない。お医者様のぉ」

 

 同じく女バーテンダー、車椅子の女――(あさひ)榛名(はるな)

 

「あ~……思い出したわ。いたわね、そういえば」

 

 店の酒を呑むという暴挙を平然と行いながら、禊は思い出すように天井を見上げていた。

 昔を懐かしむ、というには、いささか表情の色が薄い。

 

「それだけかよ、冷たい女だな」

「五月蠅いわね。アンタだって言われるまで忘れてた癖に」

「そんなことは…………いや、あるな」

「でしょうよ。アンタはそういう奴だもの」

「お前にだけは言われたくねえ」

 

 10年前ねえ、と、禊は呟いた。

 獪岳は肩を竦めて、新しい酒のボトルを開け始めた。

 

(やっす)い酒を呑んでんじゃないわよ。もう1本奥のにやつにしなさいな」

「普通逆だろ」

「わたしの酒じゃないもの」

「だったらなおさらだろ……」

 

 しかしボトルを持ち帰るあたり、酒に対しては素直だった。

 

「珠世とかいう女のことは覚えてないけど、あっちは良く覚えてるわよ。もう100年くらい前になるかしら。そう、()()()()()()!」

「また始まったよ。お前酔うとその話ばっかだな」

 

 げんなりとした様子の獪岳に、禊はけらけらと笑って見せた。

 

「だって仕方ないじゃない。あれだけは本当に楽しかったんだもの。()()()なんて、もう二度と出来るもんじゃない」

「出来てたまるか。俺はもう御免だ」

「へえ、そう? わたしの記憶だと、アンタが一番楽しそうだったけどね」

「…………」

「あら、機嫌を損ねちゃったかしら」

 

 笑いながら空いたグラスを置く。

 すると、榛名がついと新しいカクテルを出して来た。

 ありがと、と言って、グラスを手に取る。

 強烈なウォッカの香りと、香りに反する酸味の強い赤。まるで血のような酒だ。

 それをグラスの中で弄びながら、禊は機嫌よく鼻歌を歌い始めた。

 

「……で、本当に覚えてないのかよ?」

「しつこいわねえ。知らないわよ」

 

 く、と血色の酒を口内に流し込んで、息を吐くように言った。

 

「アイツに喰われて死んだやつのことなんか」

 

 覚えてんじゃねーか、と、獪岳が呆れたように言った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 呪い、というものを信じるだろうか。

 医師である珠世は、おそらく信じなかった。

 何しろ彼女は、()()()()()()()()のプロフェッショナルだ。

 それが故に、呪いというものを信じなかった。

 だから、信じない。

 

「……コー」

 

 しかし、どんな医者も匙を投げた患者を前にすれば、呪いのせいにしたがる気持ちも理解できた。

 特段の原因も見つからないのに、身体が腐っていく。

 遺伝性の難病と言えば少しは聞こえも良いのかもしれないが、何の慰めにもならなかった。

 どんな呼び方をしたところで、治せないという結果は変わらないからだ。

 

「お久しぶりです。()()()()()

 

 珠世クリニックは、往診もしている。

 それ自体は不思議なことではないが、産屋敷という患者は特別だった。

 それは、特別な難病を抱えている、という意味合いでもあるし。

 両者が特別な関係、という意味合いもあるのだった。

 

 産屋敷と呼ばれた男は、一見すると老人のようだった。

 それは爛れた肌のせいでもあるし、全身の小ささのせいでもある。

 体中の穴という穴に医療用のチューブを繋がれたその姿は、半死人と言って差し支えない。

 あらゆる生命維持装置に繋がれ、薬品を投与され、ようやく生きている、という様子だった。

 

「……コー」

 

 呼吸器とチューブを差し込まれた口は、言葉を発することは出来ない。

 唯一の会話手段は、視線で入力するタイプのタブレット端末だけだ。

 もっとも珠世は産屋敷の顔を見ていて、タブレットの画面を見てはいなかった。

 まるで、端末よりも正確に産屋敷の意思を読み取れる。そんな自信があるかのようだった。

 

「ええ、()()()()()()()()

 

 珠世は医者だが、薬剤師でもある。

 とは言え、製薬会社の発達した現在では、薬剤師の意味合いも違うのだが。

 

「今は臨床試験をしているところですが、経過は良好です。きっと、役立つでしょう」

 

 珠世の言葉に、産屋敷が僅かに身じろぎしたような気がした。

 ほんの僅かな身じろぎ。

 しかし、それが産屋敷の精一杯の意思表示であることを、珠世は理解していた。

 

「ええ、大丈夫です。()()につられて、必ず現れるでしょう。あの……」

 

 穏やかな表情とは対照的に、珠世の瞳には一瞬、苛烈な色が走った。

 

「あの、煉獄瑠衣が」

 

 ――――呪いというものを、信じるだろうか。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 竈門家は、一般的な家庭だった。

 お金持ちというわけではなく、かと言って貧乏というわけでもない。

 一戸建てを持てるほどではないが、マンションのローンを組める程度には資産がある。

 自慢があるとすれば、田舎に山を一つ持っていることだろうか。

 

「いただきまーす」

 

 カレーライス、である。

 これと言った特徴のない、ジャガイモのカレーライス。

 見事な晩御飯である。

 炭彦はしかし、母の作ってくれたカレーライスが大好物だった。

 

「今日は父さん遅いの?」

「残業なんですって」

「ふーん」

 

 母とカナタの話をしているが、炭彦はカレーライスを食べ続けていた。

 これは別に会話を拒否しているわけではなく、食べながら喋ることが苦手なだけだった。

 実はカナタの方がお喋りなのだが、クールな印象のせいか余り知られていない。

 

 竈門カナタ。近所でも評判の美少年である。

 美人という意味では胡蝶姉妹の方が有名だが、カナタも静かな人気を誇る。

 何しろ、クールな出で立ちの割に情が深い。

 弟の面倒を見たり、胡蝶姉妹の見舞いに行ったりしていることからからも窺える。

 

「カナタは部活とか始めないの?」

「僕は良いよ。炭彦みたいに体力お化けじゃないし」

 

 カレーライスで口を一杯にしている炭彦を横目に、そんなことを言った。

 確かに炭彦に比べれば、カナタは運動が得意とは言えない。

 ただそれは炭彦が異常なだけで、カナタもまた、一般的な基準で言えば「できる」方なのだった。

 しかもこのルックスなので、体育の授業などでは黄色い声援を受けたりする。

 

「それに週末は父さんと稽古だし。時間もないしね」

 

 ふう、と、息を吐いて、スプーンを置いた。

 意外と食が早く、弟よりも先に食べ終えていた。

 

「父さん遅いね」

「そうねえ」

 

 その時、カナタがちらと視線を向けた先には、壁に飾られた日本刀だった。

 由来も縁も知らないが、子供の頃からある物だ。

 それが何か、というのは考えたこともない。

 

 ただ、父がそれをとても大事にしていることは知っていた。

 だから、カナタもそれを大事にしようと思っていた。

 とは言え、使う予定のない――日本刀を使うなど、現代ではない――物だから、大事にすると言っても、それこそ飾るくらいしか用途はないだろう。

 

「……まあ、僕は大丈夫だよ」

 

 そう言って、カナタは母の淹れてくれたお茶に口をつけた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 定番、というものがある。

 晩御飯と言えばカレーライスという具合に、何事にもそれは存在する。

 例えば、七不思議。

 トイレの花子さんであるとか、勝手に鳴るピアノだとか、そういう意味合いだ。

 

「うわあああああああっ!」

 

 青葉は、自分の不運を呪わずにはいられなかった。

 青い彼岸花を枯らされ、仕事を失い、さらに犬人間騒動に巻き込まれ。

 いやあ神様もう良いでしょう、と思っていた矢先のことだった。

 

 就活帰り――ニュースで面が割れているせいか、結果は芳しくない――に、禊の店に向かおうとしていると、不意に声をかけられたのだ。

 当然、良い予感はしなかった。肌に悪寒が走りさえした。

 そうして、まさに文字通り恐る恐ると言った風に、振り向くと。 

 

「――――キレイ?」

 

 やはり、いた。

 長身の女だった。長い黒髪で、マスクで口元を覆っていた。

 それ自体は、普通だろう。

 しかし残念ながら、その女の見た目は「普通」では無かった。

 

「アタシ、キレイ?」

 

 先日見た犬人間――思い出すだけでも悍ましいが――は、明らかに化物だった。

 それに比べると、目の前の女は一応、人間の形をしてはいる。

 しかしそれが一層、恐怖を与えてくる。

 青白い肌。真っ黒な眼球。()()()()()()()()額の角。

 ――前言撤回。これも、どう見ても化物だった。

 

「ネエ、アタシ――――キレイイイイィッッ!?」

「え、正直キレイじゃないです。顔色悪すぎて」

「…………」

「…………………あっ」

 

 しまった。つい本当のことを。

 と、思ってしまった時にはもう遅かった。

 

「キイイイイアアアアアアアアアアッ!!」

 

 マスクの下は、耳まで裂けた牙だらけの口。

 口裂け女かよ、と思わず胸中で悪態を吐いたが、襲われているという事実は消えない。

 今度こそ死んだと、そう思った。

 

 しかし、だ。

 結論から言ってしまうと、青葉は死ななかった。

 何故ならば、口裂け女が彼に掴みかかるよりも先に()()()()()()()からだ。

 余りにも一瞬のことだったので、何が起こったかわからなかった。

 

「大丈夫ですか?」

 

 ()()()()()

 普通に生きていて、そんな場面に出くわすことはまず無いだろう。

 しかし実際、今、青葉は人の――いや化物だが――頭が、ぼとりと落ちる場面を見た。

 そしてその頭が、いや体が、塵のように崩れる様を。

 まるで御伽噺のような、そんな光景を見ていた。

 

「あの~、大丈夫ですか?」

「え、あっ、すみません!」

 

 いつの間に、そこにいたのか。

 スーツ姿の男性――30代後半か、40代ほどだろうか――が、立っていた。

 穏やかな顔をした男性で、どこか安心するような、そんな雰囲気を纏っていた。

 何故か、()()()()()()()()持っていたが。

 

「ああ、すみません。しまい忘れていました」

 

 青葉の視線に気付いたのか、辺りを見回して、地面に落ちていた木製の(ケース)を拾った。

 普通に考えれば、こちらも十分に不審者だろう。

 ただ不思議と、怖いとは感じなかった。

 というより、どこかで会ったような、面影があるような、そんな気さえしていた。

 

「あの、貴方は……?」

「ああ、すみません。申し遅れました」

 

 包丁をビジネス鞄にしまいながら、その男性は言った。

 

「私は竈門炭吉と言います。サラリーマンです」

 

 最近のサラリーマンは包丁を持ち歩くのか、と、青葉はそんなことを思ったのだった。




最後までお読みいただきた有難うございます。

口裂け女をやっつけました。
これで町の平和が維持されることでしょう(お目目ぐるぐる)

それでは、また次回。


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第71話:「珠世」

 ――――2人は、()()()()()向かい合っていた。

 

「ずっと、この時を待っていました」

 

 珠世の言葉を、瑠衣は正面から聞いた。

 聞いていたが、それはどこか、そうしているだけという風だった。

 聞きこそするが、それ以上でもそれ以下でもない。

 つまり、相手の言葉に関心を持っていない。

 

 ただそれは、珠世にも伝わっているのだろう。

 ()()もまた、自分の言葉が瑠衣に届いていないことを理解していた。

 けれど、言わずにはいられなかった。

 長年――文字通りの意味で――蓄積した思いを吐き出すように、口は勝手に動いた。

 

「貴女は、貴女達は、滅ぼさなければならない」

 

 付き合いは、それなりに長い。

 直接に言葉を交わしたことも、一度や二度ではもちろん無い。

 けれどその心の立ち位置は、遥かに遠い。

 2人の間に流れる空気の張り詰め様が、言葉よりもなお雄弁にそれを物語っていた。

 

「私がそう決意したのは、もう何十年も前の話です。あの男……鬼舞辻無惨にさえ、そこまで思うことはありませんでした」

「鬼舞辻無惨」

 

 瑠衣の声には、微かな笑みの成分さえあった。

 

「これはまた、懐かしい名前を聞いたものです」

 

 皮肉。込められている感情はそれだった。

 それは、未だにその名を口にする珠世に対するものか。

 それとも、滅びた後も名前だけは永遠を生きているようにも見える無惨に対するものか。

 あるいは、両方に対してか。

 

「貴方は変わりませんね。もう100年になりますか。初めて出会ったあの時から」

「思い出話に付き合うつもりはありません」

 

 ぴしゃり。

 まさにそういう表現が合うような、そんな調子だった。

 拒否。拒絶。全身が、表情が、そう告げていた。

 

「貴女は、ここで滅びるのです」

 

 その時、穏やかな微笑を浮かべていた瑠衣が、眉を寄せた。

 そっと胸元に当てられた手が、喉、そして顎先に触れる。

 まるで、何かを追いかけるかのように。

 それに比例して、今度は珠世の方が笑みを湛えていった。

 

「すでに、貴女の肉体には大量の()が投与されています」

 

 溢れ出た。

 まさにそんな様子で、瑠衣の口の端から赤い液体が漏れた。

 それは唇を濡らし、顎先を滴って、衣服の胸元を汚した。

 指先で拭い取ったそれに、瑠衣は目を向けた。

 

「断罪の時です。煉獄瑠衣……!」

 

 血は赤かった。

 こんなになっても、血は赤いのだなと。

 瑠衣は、そんなことを思ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その日の瑠衣は、どこか不機嫌そうだった。

 炭彦は人の心の機微(きび)を読むのが得意な方ではないが、それでもわかる程に、瑠衣の機嫌は良く無かった。

 話し声や表情は、いつもと変わらないように見える。

 

「どうかしましたか?」

 

 炭彦の視線に何かを感じたのか、覗き込むようにして聞いてくる。

 すると、炭彦としては言葉もなくなってしまう。

 ただ「何でもない」と言うだけだった。

 

 しかし、それを加味した上でも、炭彦は瑠衣の不機嫌を察知していた。

 その証拠に、炭彦から視線を外した瑠衣の顔からは表情が消えていた。

 纏っている雰囲気も、どこか硬い。

 こんなことは、出会ってから初めてのことだった。

 

「最近はどうですか。剣道の方は」

「あ、最近はだんだん楽しくなってきて。色々な技を教えて貰ったり」

「そうですか。それは良かった」

 

 言葉の通りに喜んでくれている、とは思う。

 ただ、やはりいつもと違う。

 そう思っていると、あの音が聞こえた。

 

 く~、という、あの音だ。

 空腹を訴える、独特のあの音だ。

 それが、瑠衣の腹部から聞こえて来た。

 ここしばらくは聞いていなかったが、今日は何度か聞こえた。

 

「どういう技を学んでいるのですか?」

「いくつか型みたいなものがあって、それを1つ1つ習う感じで」

「わあ、型? ぜひ見てみたいです」

「ま、まだまだ下手くそだから」

 

 空腹なのだろうか。

 だがそう聞いても、瑠衣は否定するだろう。

 それに、女性にそういうことを聞くものではない、ということをいい加減に学んでもいた。

 だから気になりつつも、炭彦は瑠衣に聞かなかった。

 

「じゃあ、上手になったら見せてくれますか?」

「う、うーん」

「お願いします。竈門君」

 

 ただそれも、瑠衣が手を合わせてお願いしてくる段になると、どこかへ行ってしまった。

 綺麗なお姉さんが両手の平を合わせて「ねっ」と小首を傾げる姿は、かなりの破壊力だった。

 まあ、俗っぽく言えば「デレデレしている」という状態だった。

 

「じ、じゃあ、上手になったら……」

「約束ですよ」

 

 約束してしまった。

 まあ、大丈夫だろうと、その点については思っていた。

 何しろ型にしろ技にしろ、大体は()()()()()()()()のだから。

 ただ、瑠衣に見せるとなるとより完璧にしたい。

 

「楽しみにしていますね」

 

 憎からず想っている相手に格好の良いところを見せたいと思うのも、当たり前の感情だろう。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 犬人間事件。あるいは、口裂け女事件。

 長々とした正式名称はともかく、世間ではそう呼ばれている事件があった。

 と言っても、あった、という程に昔の事件というわけではない。

 しかし、人々の間ではすでに「終わった」事件として扱われていた。

 

 一時は世間を賑わせた事件でも、喉元過ぎれば何とやらだ。

 今や多くの人々は事件があったという記憶すら薄れて、夜間の外出も躊躇わなくなっている。

 だが、事実は()だった。

 そしてその事実を、誰よりも現場に出張っている実弘は良く知っていた。

 

「オラァッ、大人しくしやがれ!」

 

 夜毎のパトロール。

 大体は何事もないか、やんちゃする子供や酔っ払いを相手にするだけの時間だ。

 しかし今やこの時間は、実弘にとって最も緊張を強いられる時間になっていた。

 

「ガアアアッ、ガアアアアッ」

「クソッ、またかよ。おいっ、押さえとくから手錠!」

「は、はい! てか力強いなホント!?」

 

 後輩と――顔に傷のある――共に、暴漢を捕らえるのは初めてではない。

 ナイフを振り回す犯人を2人で取り押さえたことだってある。

 しかしここのところ相手にするのは、そういうレベルでは無かった。

 

「クソがァ。頭イカれてる奴ばっかじゃねぇか。どうなってやがるんだ一体」

「ちょ、ちょっと気味が悪いですよ」

 

 迎えの護送車(パトカー)が来るのを待ちながら、後輩とそんな話をした。

 普段であれば一喝しているところだが、今回ばかりは、実弘も叱る気にはならなかった。

 何しろ、相手は()()()()()()()()()()

 

「ガアアアアアッ」

 

 屈強な警察官2人に抑え込まれてもなお、暴れる男。

 しかし唸り声を上げながらもがくその姿は、人間というより、まるで(ケダモノ)だった。

 実際、目は血走っていて焦点も合ってなく、口からは涎を撒き散らしている。

 そして何より、腕力が尋常では無かった。

 

(まるであの時の犬人間みてぇだ。だが、()()()()()()()()!?)

 

 確かに、犬人間は出なくなった。口裂け女などは遭遇することなく終わっていた。

 だがその代わりに、今度は正気を失った人間が町中に出没するようになっていた。

 事件は解決したのかもしれないが、危険は減っていない。しかし増えている。

 そしてどういうわけか、警察もメディアもこの事実を報じない。

 

「ガアアアアアッ」

「五月蠅ェな! 大人しくしやがれ!!」

 

 いったい、何が起こっているのか。

 あるいは、何かが起ころうとしているのか。

 どちらにしても、実弘に出来るのは暴漢を取り押さえて、被害を防ぐことだけだった。

 クソが、と、何度目かわからない毒を吐いて、実弘は目の前の腕を掴む手に力を込めた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 健康診断、ということだった。

 いきなりではあったが、一方で不思議という程ではない。

 しかも問診だけということだったから、おそらく、犬人間事件等の精神ケアのためのものなのだろう。

 と、しのぶは理解していた。

 

「それにしても、また急な話よね」

「そうですね~」

 

 などと友人と話をしながらも、しのぶは気楽だった。

 というのも、キメツ学園に出向してきた医師が知り合いだったからだ。

 

「こんにちは、珠世先生」

「はい、こんにちは」

 

 珠世だった。

 場所はキメツ学園の保健室なのだが、不思議と、珠世がそこにいると様になって見えた。

 珠世が校医だと言われても納得してしまいそうな程に、風景に溶け込んでいる。

 

「じゃあ問診を……と言いたいところだけど、もう十分かしらね」

「そうですねえ」

 

 しのぶがくすりと笑うと、珠世も小さく微笑んで見せた。

 それでも一応は仕事なので、渡された問診票にさらさらと書き込んでいく。

 書きながら、交わした会話はとりとめのないことだった。

 

「あの子達は元気にしていますか?」

「あの子達?」

「貴女のお見舞いに来ていた子達です」

「……ああ。カナタ君に、それと」

 

 ボールペンで下唇を押さえるようにして、しのぶは言った。

 

「――――炭彦君のことですね」

「そう、そうね。炭彦君」

「彼が何か?」

「いえ、ほら、うちの飴を欲しがる子どもって珍しいですから」

「ああ、その節は無理を言ってすみません」

「いえいえ。構いませんよ」

 

 珠世クリニックの飴は、とりたてて特徴のあるものでは無い。

 それをわざわざ欲しがる炭彦のような子どもは、確かに珍しいだろう。

 

「ただ、気に入ってくれているかどうか。という点が気になっていまして」

「ああ、それがですね」

 

 くすりとまた笑って、しのぶは言った。

 

「あれ、女の人にあげているみたいなんですよ」

「あら」

「可愛らしいでしょう? ふふ、熱心に持って行っているんですよ」

「なるほど。それはそれは……」

 

 問診票を受け取って、珠世はしのぶに背を向けた。

 それをデスクの上に置きながら、ふふ、と珠世の肩が笑った。

 

「それは、可愛らしいですね」

「ねえ。本当に」

 

 保健室に、しのぶと珠世のクスクスと笑い合う声が響いた。

 その声は、廊下で自分の番を待っていた女生徒の耳にも届いていた。

 和やかだなあ、と、女生徒は思った。

 

 それはそうだろう。誰が聞いても、漏れ聞こえてくる笑い声は和やかとしか思えない。

 しかも、しのぶは学園の三大美少女とまで言われる程の人気者だ。

 だから女生徒も、自分の番を楽しみに待つことが出来た。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣と出会ってからというもの、年上の女性を前にすると緊張してしまう。

 しかも普段学校で会うことがない相手となると、なおさらそうなる。

 要するに、珠世と保健室で2人きりという状況は、炭彦に緊張を強いているのだった。

 

「はい。チクっとしますよ」

 

 ちゅー、と、擬音があればそんな音だろうか。

 採血のためとは言え、注射が好きな者はいないだろう。

 炭彦も例外ではなく、目を背けて明後日の方向を向いて、眉間に皺を寄せていた。

 

「はい。お終いです」

「う~、いたたたた」

 

 アルコールで消毒されて、ようやく息を吐いた。

 幼い頃のように泣くということはないが、それでも苦手なものは苦手だ。

 というか、注射が得意な人間っているのだろうか。いやいない。

 

「腕周りの筋肉がしっかりしていますね。何かスポーツでも?」

「え、そうですか? 剣道を始めたせいかなあ」

「なるほど、剣道を。だから腕周りの筋肉が引き締まっているんですね」

 

 やはり、珠世と話すのは緊張した。

 年上の女性というのもそうだが、どこか、瑠衣に雰囲気が似ているせいかもしれない。

 立ち居振る舞いというか、雰囲気というか、どこか話し方も似ている。

 二の腕のあたりをぷにぷにと触れられるのも、気恥ずかしかった。

 

 ただ、逞しくなっていると言われて悪い気にはならなかった。

 瑠衣を守るために始めた剣道だが、効果が出ていると言われれば、始めて良かったなと思えた。

 しかしそうは言っても、どうして珠世は自分の二の腕をぷにぷにし続けているのだろうか、と思った。

 

「あ、あのう」

「あっ、ごめんなさい。不躾でしたね」

 

 そう言って離れると、珠世は採血した注射器を片付け始めた。

 そこからも、色々と話を聞かれた。

 剣道の話に加えて、危険登校の噂の話、それから家族の話も話題に上った。

 

 端的に言って、健康診断とは余り関係のある話だとは言えなかった。

 ただ炭彦も恥ずかしがりはしても、特に不審に思う素振りは見せなかった。

 単なる世間話、お喋りの類だと思っていたのだろう。

 珠世の持つ物腰や雰囲気が柔らかで、話しやすかったというのもあった。

 

「ああ、そうそう。そう言えば、好きな女性がいるとか?」

「ぶっ」

 

 とは言え、流石にそういう(コイバナ)になるとは思わなかった。

 噴き出して慌てる炭彦の様子がおかしかったのか、珠世は口元を押さえて笑っていた。

 そしてそれもまた、廊下で次の順番を待つ生徒の耳に届く。

 彼もまた珠世の検診を和やかだな、という印象を持つことになる。

 こうして珠世は、キメツ学園の中で評判の医師として認識されていくのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――流石に、疲労を覚えた。

 クリニックに戻った珠世は、キメツ学園から持ち帰った問診票の確認もそこそこに――ばさ、と、デスクの上に無造作に置いて――椅子に深く座り込んだ。

 背もたれに身を押し付けて、腕で顔の上半分を覆った。

 

「ふう……」

 

 と、形の良い唇から漏れた吐息には、疲労の色合いが強い。

 何しろ、数日でキメツ学園の全生徒を1人で問診したのだ。

 そこまでの重労働、流石に疲れる。

 そう、たとえ。

 

 たとえ、鬼だとしても。

 

 不老不死の鬼だとしても、疲労は感じるのだ。

 とは言え、ここまでの疲労を覚えたのは、それこそ何十年ぶりだろうか。

 けれど、必要なことだった。

 何十年もかけてきた目的を達成するためには、これくらいの疲労は仕方がない。

 

「……そんな目で見ないでください」

 

 不意に、デスクの上の写真立てに目を向けた。

 姿勢を直して、それを手に取る。

 古ぼけた写真には、珠世と、青年が1人写っていた。

 それを見て、珠世は遠くを見るように目を細めた。

 

 写真の表面を撫でて、音は発さず、唇だけを動かして何かを呟いた。

 音が無い言葉は、しかし誰にも聞かれることはなかった。

 いや、いた。

 にゃあ、と、鳴く者が。

 

「茶々丸」

 

 クリニックの猫、茶々丸だった。

 彼はデスクの上に乗り、珠世の顔を覗き込んでいた。

 かと思えば、珠世が手を伸ばした途端に、ふいと顔を背けて降りてしまった。

 空を切る形になった指先を丸めて、珠世は苦笑した。

 

「厳しいですね」

 

 軽やかな足取りで歩いていく茶々丸を目で追って行くと、廊下でコロが待っていたらしい。

 コロもまた鼻先を鳴らしながら、こちらを一瞥した。

 

「わかっていますよ」

 

 頷きひとつ。

 立ち上がって、茶々丸とコロの後を追うように部屋を出た。

 いくつかの部屋を通り過ぎて、薬品室と書かれた部屋に入った。

 そこは一定の温度に保たれているのか、ひんやりとしていた。

 

 そのせいか、茶々丸もコロも中にまでは入ろうとしない。

 珠世はある薬棚の前で立ち止まると、そのガラス戸を撫でた。

 ガラス戸の隅には電子機器が取り付けられていて、部屋にある物の中でも最も厳重に管理されていることが見て取れた。

 

「迷いはありません。あるはずがない」

 

 そっと指先で触れたガラス戸の奥に、()()はあった。

 

「あの女――煉獄瑠衣を、必ず滅ぼします」

 

 ()()()()()

 失われたはずの花はしかし、確かにそこに存在していた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 青天の霹靂とは、まさにこのことであろうか。

 健康診断の結果。

 人によっては極度の緊張を強いられるだろうが、学生の場合はそういう例は少ないだろう。

 気軽に受けて、気軽に結果を受け取る。そういうものだ。

 

 しかも問診の間、和気藹々(わきあいあい)とお喋りをしていたのならなおさらだ。

 当然のように、何の心配もなく結果を受け取り、何の疑念もなくそれを開いた。

 そこには、読む気さえ失せるような文字の羅列が記されていた。

 

「おお、炭彦! どうだった! 俺は何も問題は無いとのことだ!」

 

 桃寿郎が話しかけて来たが、炭彦は答えることが出来なかった。

 己の診断結果のプリントを見つめたまま動かない炭彦を、桃寿郎は訝しんだ。

 目の前で手を振っても反応が無いので、悪いとは思いつつ、桃寿郎は炭彦の診断結果を覗き見ることにした。

 

「……むう」

 

 そして覗き見た結果、桃寿郎も同じような反応を示した。

 彼にしては珍しく、難しい表情を浮かべている。

 それから診断結果のプリントと、炭彦の顔、これを交互に見つめた。

 もちろん、それで内容が変わるはずも無かった。

 

「俺はもちろん、医療のことはわからないのだが」

 

 桃寿郎は、明らかに言い淀んでいた。

 常に溌剌(はつらつ)とした彼にしては、繰り返すが、本当に珍しいことだった。

 

「……これは、そのう。余り良くない、ということか?」

「…………うん」

 

 読み方さえわからない、難しい漢字の病名。

 それから、グラフを見るまでも無く明らかに異常とわかるような数字。

 ただちに検査が必要であることを告げるおどろおどろしい文章。

 炭彦のプリントには、それがびっしりと書かれていた。

 

 つまり結論として、桃寿郎の言うように「余り良くない」。

 いや、よりはっきり言えば「かなり悪い」だ。

 自分の身体に、自分の知らない異常が起こっている。

 いくら炭彦がのんびり屋だとは言っても、流石に平然とはしていられない。

 彼はあくまでも、10代の普通の少年だった。

 

「ええと、まず先生に言うべきか。それともおじさんやおばさんか、カナタか?」

「う、うん」

「炭彦、気をしっかり持つんだ!」

 

 ただこの時、炭彦の脳裏に浮かんだのは家族でも友人でもなく、瑠衣のことだった。

 頭の中に瑠衣の微笑が浮かんで、すぐに消えた。

 そこでようやく、炭彦は震え始めた。

 呼吸は、はっきりとわかる程に乱れていた。

 瑠衣に怒られるだろうかと、そんなことを思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「あなた、明日も来てくれるのかしら?」

 

 今日も今日とて実りのない就職活動の帰り、青葉は禊の店に来ていた。

 と言って、さほど酒量の多い方ではない。

 2杯か3杯、それくらいだった。それでいて、店にいる時間は長い。

 店からすれば、上客とは言い難いだろう。

 

 しかし禊は、そんな青葉を煙たがりはしなかった。

 むしろ青葉の来店を喜んで迎えてくれて、自らお酒を勧めてくれる。

 そして今のところ、禊のお酒はどれも美味しかった。

 だから青葉も、機会があればついこの店を訪れてしまうのだった。

 

「明日、ですか?」

「ええ」

 

 一方で、禊は自分でも良くお酒を呑んだ。

 それも決まって高そうなボトル。

 他の店ではこれも客の支払いになるのだろうが、青葉は請求されたことが無かった。

 もしかすると、単に商売する気がないだけなのかもしれない。

 

「明日はね、お休みなの」

「ああ、なるほど」

 

 と言いつつ、青葉は内心で新鮮な意外さを感じていた。

 何故かと言えば、少なくとも青葉が知っている限り、この店が休みだったことが今まで無かったからだ。

 定休日がないことは聞いていたが、休みというのは初めてのことだった。

 

「何かあるんですか?」

「んー、そうねえ」

 

 中身が半分ほどになったボトルの口を指先で撫でながら、禊は言った。

 

「ちょっとね、出張……みたいな?」

 

 断っておくが、禊の店に2号店や支店などは無い。ここだけだ。

 それなのに出張というのは、どういうことだろうか。

 青葉に考え付いたのは、1つしか無かった。

 

「お酒の買い付け……!」

 

 言った後で後悔したが、当の禊には受けたのか、彼女はけらけらと笑った。

 

「良いわね、それ。美味しいお酒を探して諸国漫遊っていうの? そういうのも面白そうよね」

 

 目に涙を浮かべる程に笑う禊に、青葉は目を奪われた。

 禊は確かに美しい少女だが、けして儚げというわけではなく、むしろ活力に満ちていた。

 感情の発露が強い。それは青葉には、本当に宝石のように輝いて見えた。

 

 ただ青葉は気付いていないが、彼の容姿も――やや中性的、いや女性的ではあるが――かなり美しい方だ。

 最近では「あの2人が並んでいるところを見たい」という理由で来店する女性客もいる程だ。

 ただ青葉は禊に比べて、活力だとか感情の発露だとかが薄いので、禊のそれが眩しく見えるのだろう。

 

「お休みかあ」

「ごめんなさいね」

 

 まあ、とにかくお店都合のお休み、ということなのだろう。

 最近は弟にも「無職になったショックで酒と女にハマっている」と思われ始めている気がするので、たまには真っ直ぐ帰るのも良いのかもしれない。

 まあ、帰っても無職なのは変わらないのだが。

 あ、駄目だ。(くじ)けそうだ。

 

「その代わり、次に来てくれた時にはたっぷりサービスさせて頂戴」

「は、はいっ」

「ふふ、良い子ね」

 

 頬に触れるか触れないか。そんな位置に禊の指先を感じて、青葉はどぎまぎしてしまった。

 不意に、というタイミングで、禊は距離を詰めて来る。

 青葉としては緊張の一瞬だが、どうしてか嫌な思いを抱いたことはない。

 鼻腔をくすぐる香水の香りに、頭が痺れるような、そんな感覚を覚えた。

 

(いや、ホントそいつはやめとけって)

 

 と実弘が脳内で言ったような気がしたが、全力で気のせいだと思うことにした。

 そんな青葉を見て、禊は猫のように目を細めて笑うのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

いやあ、健康って大事ですよね。
市民、健康は義務です!(お目目ぐるぐる)

それでは、また次回。


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第72話:「ドアのない病院」

今年最後の更新になります。
読者の皆様には大変お世話になりました!


 竈門家は、俄かにざわめいていた。

 それもそのはずであろう。

 何しろ15歳の息子が、健康診断で引っかかり――それも相当に悪いらしい結果で――検査入院だと言うのだから。

 

「まあまあまあ、どうしましょうどうしましょう」

 

 母などは、突然の事態に慌てふためいている。

 バタバタと荷造りや保険証の準備などをしている母を横目に、カナタは電話をしていた。

 それも携帯電話(スマホ)の方では無く、今時は古風とさえ言える固定電話の方だった。

 

「……しのぶさんが?」

 

 彼にしては珍しく、驚きの色を隠さない声音だった。

 それから人差し指の腹を下唇に当てるようにして、考え込む表情を見せた。

 クールな表情に、いくつかの感情の色が浮かんでは消えた。

 

「それは、俺じゃ判断できないですね……」

 

 そう呟くカナタに対して、電話口の向こうで誰かが何事かを言った。

 暫く、カナタはそれを静かに聞いていた。

 時々、相槌を打つように頷いて、短く返事をしていた。

 

「とにかく、状況はわかりました」

 

 ふと、カナタの視線が横へと動いた。

 彼の視線の先には、壁にかけられた日本刀へと向けられていた。

 幼い頃から当たり前のようにそこにあるものだから、そうする癖がついてしまっている。

 ただそれだけではなくて、不思議と視線を、あるいは気持ちを向けてしまう何かがあった。

 

「はい。はい……じゃあ、また」

 

 がちゃ、と、電話を切った。

 その後、カナタは弟がいるだろう部屋に行った。

 

「……炭彦?」

 

 部屋には明かりがついていて、そして真ん中に炭彦が座っていた。

 どうして床に座っているんだろう?

 と思いはしたものの、特に何かを言うことはなかった。

 ゆっくりと近付いて、そばに膝をついた。

 

「炭……」

 

 俯いて、落ち込んでいるのだと思った。

 しかし、そうではないと一目でわかった。

 炭彦は床に座って足を組み、目を閉じていた。

 座禅、が近いかもしれない。

 

「スゥ――――……」

 

 大きく息を吸い込み、同じだけの時間をかけて吐く。

 それを、繰り返す。

 そして回数を重ねるごとに、どこか、目の前にいるのが炭彦ではないような、そんな錯覚を覚えてしまった。

 

「炭彦……炭彦!」

「…………えっ」

「いや、え、じゃないよ。何をしているの」

 

 肩を掴むと、ビクッと身を震わせてカナタを見た。

 その顔が余りにも純朴だったので、まるで悪いことをしたかのような気持ちになった。

 

「え、ごめん。もう時間?」

「いや、まだもう少し大丈夫」

 

 炭彦は、落ち着いていた。

 健康診断の結果を受け取った時には、顔を青くしていた。

 しかし今は、綺麗な顔をしている。自然体というか、いつもと変わらない様子だった。

 

「それで、何をしていたの」

「ああ、うん。ちょっとね。これをしていると、落ち着くんだあ」

「……そう」

「あ、変だって思ってる?」

「うん」

「ひどおい」

 

 居間で、母親がバタバタと駆け回る音がしていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 珠世の営むクリニックは、規模としては小さい。

 大した医療器材が置いてあるわけではなく、まさに「町のお医者さん」と言った風だ。

 評判は、おしなべて良い。

 それは珠世自身の見目麗しさと、人柄によるところが大きかった。

 

「せんせー、こんにちは~」

「はい、みんなこんにちは。転ばないでね」

「「「はあ~い」」」

 

 と、夕暮れ時に通りを駆けて行く子供達を、微笑と共に見送った。

 はしゃぎながら駆けて行く子供達の背中を見るその目は、眩しげに細められていた。

 クリニックの前を掃いていたのか、その手には箒が握られていた。

 それを壁に立てかけながら、ふうと息を吐く。

 その姿は、それだけで絵になる程に美しかった。

 

「…………」

 

 クリニックのドアガラスに映る自分の姿に、そっと手を置く。

 黒曜石のような瞳は、己が白面をじっと見つめていた。

 

「…………様」

 

 唇が小さく動いたが、何を呟いたのかは聞き取ることが出来なかった。

 風が、その声を掻き消してしまった。

 揺れる髪を手の甲で押さえながら、箒を手に取った。

 

「そろそろ、終わりにしましょう」

「――――何をですか?」

 

 不意打ち、と言って差し支えないだろう。

 その証拠に、珠世は振り向く際に驚いた表情を浮かべていた。

 有り体に表現すれば、()()()()()、そういう表情だった。

 だからだろうか、それを見た相手――つまり、珠世に声をかけた少女は、クスリと笑っていた。

 

「珠世先生も、そんな顔をするんですね」

 

 しのぶだった。

 制服姿のしのぶは、両手を後ろに回すような姿勢で、珠世を覗き込んでいた。

 驚いた表情を浮かべていた珠世だったが、すぐに表情は元に戻った。

 柔和な微笑を見せて、しのぶに身体を向ける。

 

「しのぶさん。今日は診察の日では無かったと思いますが」

「はい、仰る通りですね。今日は診察の日ではないです。今日は……」

 

 にっこりとした笑顔で、しのぶは言った。

 

「今日は、()()()()()()()()()()()

 

 その言葉に、珠世は何事かの言葉を発そうとした口を閉ざした。

 表情は、変わらなかった。しのぶは、笑顔のままだった。

 彼女は小さく首を傾げると、甘えるような声でこう言った。

 

「中に入れて貰っても良いですか?」

 

 珠世は、拒絶しなかった。

 陽が完全に落ちたのは、しのぶが珠世に誘われてクリニックの中に入った直後のことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 紅茶は、美味しかった。

 しかしクリニックに入って30分ほど、会話は無かった。

 世間話のようなものはしたが、それは会話と呼べるようなものでは無かった。

 そしてそれを、お互いが理解していた。

 

「それで」

 

 しびれを切らした、というわけではないだろうが、先に会話を始めたのは珠世の方だった。

 ただ、それはおかしなことではない。

 何しろこの後に患者(炭彦)が来るのだ。

 優雅にお茶をしている暇は無いわけで、逆に良く30分も付き合ったものだと感心した。

 

「ああ、そうですね。ごめんなさい、お忙しいところ」

 

 構いませんよ、と珠世は言った。

 そして、しのぶは本題に入ることにした。

 

「実はですね。私、最近『名探偵コ〇ン』にハマっておりまして」

「……ごめんなさいね。最近の流行にはちょっと」

「あれ、そうなんですか?」

 

 掌で口元を覆うようにして、しのぶは意外そうな顔をした。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 珠世さんはその手のものには関心がないのですね。

 というしのぶの言葉に、珠世は笑みを深くした。

 僅かに、しかし確かに、口の端を上げた。

 

「それで、話の続きは?」

「ええ、はい。つまりですね。私が細かいことが気になって夜も眠れない、というお話なんです」

 

 しのぶは、人差し指を立てて見せた。

 まず1点、という意味だ。

 珠世もそれを理解した上で、先を促した。

 

「そのお写真、とっても古いですよね」

 

 デスクの上の、倒れた写真立て。写真は見えないが、あの時の写真だろう。

 ()()()()()写真、だ。

 

写真機(カメラ)って、機種の世代ごとに特徴があるんですよ。まあ、私はその点には詳しくはないので実は写真を見ただけではわからないんですけど」

 

 しかし、写真に写り込んでいる()()は別だ。

 例えばその背景が現代に存在しない――生まれ育った町の発展前の光景――ものだったら、誰しも「ん?」と思うだろう。

 いや、それだけならまだ何とも思わなかったかもしれない。

 

 だが、そこに映った人物が()()()()()()()

 姿形がまるで変わっていなければ?

 茶々丸とコロが映っていれば?

 そして当の珠世が、それを否定しなければ?

 

「それからですね。炭彦君のことです。どうして検査入院なんてことになっているのでしょう」

「……健康診断の結果が悪かったからでしょう?」

()()だけだったのに?」

 

 健康診断で、しのぶは()()()()()()()()()()

 炭彦だけだ。

 そしてそれを、珠世は学校側に伝えていない。

 

「そもそも、どうして珠世先生が健康診断を担当したんでしょう」

 

 考えてみれば、おかしな点だらけ。

 でも、どういうわけか誰も何も言わない。

 学生達は「そういうものか」で流すかもしれないが、家族や教師達は何も思わなかったのだろうか。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()、誰も何も思わず、言わず、素直に炭彦を小さなクリニックに入院させようとしている。

 

「おかしくないですか?」

 

 可愛らしく小首を傾げて、しかし真っ直ぐに珠世の目を見つめてくる。

 そんなしのぶを、珠世は見つめ返した。

 

「ねえ、どう思います?」

 

 珠世先生。

 自分をそう呼んで覗き込んで来るしのぶに対して、珠世は。

 珠世は、ただ微笑んでいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 服だ。

 服だけが、部屋の中に残されていた。

 軽犯罪者を一時収容する、留置施設の中のことだ。

 

「こいつは何だァ?」

 

 透明な袋――いわゆる証拠保存用のそれ――の中に、衣服一式が入っていた。

 それはいくつかあって、男物も女物もあった。

 実弘が手にとったのは、その内の1つだった。

 

 ただ、それ自体には何の意味も無かった。

 問題は、これが部屋の中に残されていた、という事実だ。

 今朝、見回りに来た職員が発見した。

 服の持ち主は、影も形も存在していなかったという。

 

「脱走したってことか?」

「いえ、それが……所内の監視カメラには、それらしい人影は映っていなかったそうなんです」

 

 職員も実弘と同じで、困惑し切った表情を浮かべていた。

 昨日の夜までは、確かにいたらしい。

 それが()()()()()、いなくなった。

 しかし脱走した様子はない。

 また1人ではなく、他にも何人かが同じ状態だと言うことだった。

 

「……こいつは?」

「はあ、服と一緒に落ちていたそうで」

 

 プラスチック製の小さな容器の中に、灰のようなものが入っていた。

 鑑識に回して調査している。と、職員は言った。

 結果がわからないと何とも言えないが、こうして見ている限りは、灰にしか見えなかった。

 つまり結論として、何もわからない、ということだ。

 わかっていることは、実弘が捕まえた暴漢が、もうどこにもいないということだった。

 

「先輩、これっていったいどういうことなんでしょう」

「俺が知るか!」

 

 いったい何が起きているのか、実弘の方が聞きたかった。

 犬人間事件以降、何かがおかしい。

 異常だ。明らかに、この町は異常な状態に陥っている。

 だが、一番の異常は何かと言えば、()()()()()()()()

 

 町の人々もそうだが、警察もそうだ。

 どう考えても異常事態なのに、町も警察もいつも通りだ。

 単なる不審者・狼藉物の軽犯罪だと思い込んでいるのか。

 それとも、何か目に見えないものが働いているのか。

 

「…………異常、か」

 

 異常と言えば、()()()()

 よくよく思い返してみれば、犬人間よりもあの店の方が先だった。

 あの、存在しないバーと、その女店主。

 

「……行ってみるか」

「え、どこへ……って先輩? 先輩!?」

 

 そうだった。何をモタモタしていたのだろう。

 明らかに怪しい場所を知っていながら、今まで避けていたなんて。

 自分らしくもない。

 

(避けていた? 俺が?)

 

 ()()()()()()()()()

 歯噛みして、実弘はようやく気が付いた。

 自分もまた、異常を異常だと思っていなかったのだ、ということに。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 失敗しないための方法を教えようか、と、父は言った。

 成功に辿り着く方法と言っても良いかもしれないね、とも言った。

 それは、とても単純なこと。

 

 ()()()()

 それが第一条件だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 シンプルな理屈だ。万事に対して有効でもある。

 

「……コー」

 

 たとえ、身体が指一本さえ動かせないとしても。

 たとえ、目的が達成される瞬間に立ち会えないとしても。

 たとえ、いずれにせよ死ぬのだとしても。

 

 ()()()()()()()()()()()

 父は、そう言っていた。

 祖父も、曾祖父も、そのまた祖父も、同じことを言っていたそうだ。

 なるほど。自分がいる。それはまさに「続けた」結果なのだろう。

 

「……コー」

 

 パチパチと、瞬きと共にタブレット端末に文字が入力されていく。

 彼にとって、それが唯一の会話手段だ。

 

『これが、あの人が私に話してくれた計画だ』

 

 それを見ているのは、女だった。

 

『あの人は自信があるようだった。必ず成功すると確約してくれたよ』

 

 病室は暗い。タブレット端末や医療機器のモニターの照明だけが、光源だった。

 その僅かな光源が、ベッドのそばに立つ誰かの姿をぼんやりと浮かび上がらせている。

 

『成功しても失敗しても、あの人はもう戻っては来ないだろう。そんな気がする』

 

 黒い女。着物の、女。

 彼女はただ、静かに男の――産屋敷の話を聞いていた。

 聞いてはいたが、答える声は無かった。

 あるはずもないか、と、産屋敷は思った。

 

『あとの判断は、任せるよ』

 

 失敗しない方法は、成功するまで諦めないこと。

 父、そして祖父は、こうも言っていた。

 ()()()()()()()()()()

 

 成功するまで諦めないと言っても、精神論ではどうしようもない。

 手段、人。これらを複数持っておくこと。

 それが失敗しないための、あるいは成功に辿り着くための、第二条件なのだ。

 

『あの人には、悪いことをしたな……』

 

 呼吸器を通して、苦しそうな音がした。

 すると、そっと胸元に手を置かれた。

 それが上下に軽く揺れて、撫でてくれているのだとわかると、産屋敷は目を細めた。

 

(――――滑稽だな。産屋敷)

 

 胸中で、そんな声が聞こえた。

 口元が、皮肉そうに歪む。

 ああ、まったく。その通りだ。

 我ながら、滑稽に過ぎる人生じゃないか――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「こ、こんばんは~……?」

 

 夜の病院。ワードだけですでに若干怖い。

 数日分のお泊りセット――検査入院用の着替え等――を入れたカバンを肩に、珠世クリニックのドアを開けた。

 呼び鈴が見当たらず、しかもクローズの札が下げられていたので、迷いながらだった。

 

 幸い、カギは開いていた。

 ドアの隙間からそっと中を覗くと、クリニックの中も消灯されていた。

 真っ暗で、何より静かだった。

 誰もいないのではないかと一瞬思ったが、すぐに明かりが見えた。

 

「こんばんは。竈門炭彦君」

「あ、こんばんは」

 

 クリニックの奥から、珠世が蝋燭を手に歩いて来た。

 どうして蝋燭なのかと思ったが、どうしてか、蝋燭の温かな明かりにほっとした。

 蝋燭のそばの珠世の表情に、感情の色が薄かったからかもしれない。

 

「ごめんなさいね。こんな時間になってしまって。少し……忙しかったものですから」

 

 その珠世について、診察室に入った。

 やはり、明かりはついていなかった。

 ただ珠世が何も言わないので、電気はつけないのかとも言い出せなかった。

 結局なにも言わずに、炭彦は椅子に座った。

 

「腕を出して貰えますか?」

「あ、はい」

 

 何の話をするでもなく、そう言われた。

 変だなと思いつつ、疑うわけでもないので、言う通りにした。

 珠世は、注射の準備をしていた。

 薬瓶のようなものに注射器を刺して、薬品を充填している。

 その薬は、青かった。

 

「さあ、どうぞ」

 

 と、珠世が言った。

 後は炭彦が腕を出して、注射を受けるだけだ。

 それだけなのだが、どうしてか、炭彦は気が乗らなかった。

 

「どうかしましたか?」

「え、あ……えっと」

 

 珠世の顔は、相変わらずの微笑だった。

 貼り付けたようなその顔が、炭彦を見つめている。

 仕方なく、炭彦は衣服を捲り上げて腕を出した。

 変だなあと思いつつも、拒絶する理由が無かったからだ。

 

「……あれ、何の音……」

 

 その時、物音がした。

 割と大きな音で、ガタガタと激しいものだった。

 クリニックが静かなので、余計に響く。

 何しろそれは、()()()から聞こえていたのだから。

 

「え」

 

 と思ったのは、ドア――廊下側のドアではなく、診察室側の、準備室とでも言うべき方の――が、大きな音を立てて開いたからだった。

 そして、()()()()()()()()()

 後ろ手に縛られて、口に布を、猿轡のようにされたしのぶが、身体ごとドアを押して、倒れ込んで来たからだ。

 

「しの」

 

 不意に、腕を掴まれた。

 珠世が掴んで来た。凄い力で、二の腕のあたりがミシリと音を立てる程で、炭彦は顔を歪めた。

 驚いて視線を向けると、珠世が微笑を浮かべていた。

 仮面のように、表情が変わらなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 物凄い力だった。

 大の男でも、珠世の手を振り解くことは出来ないと思えた。

 しかし、今の炭彦には振り払うことが出来た。

 

「スウゥ――――」

 

 全集中の呼吸。

 それが自然と出て、全身に一気に血が巡った。

 万力のように思えた珠世の手が外れて、椅子ごと床に倒れる形になった。

 

「ンン――――ッ!」

 

 しのぶの声が聞こえて、はっと顔を上げた。

 床に倒れた衝撃と痛みはあったが、本能がしのぶの声に反応させたのだ。

 そこには、注射器を振り下ろそうとする珠世の姿があった。

 

 背筋に、冷たいものが走った。

 這うようにして跳んで、何とか回避した。

 しのぶの横まで、ゴロゴロと転がった。

 

「しのぶさん!」

 

 猿轡をずらすと、ぷはっ、としのぶが呼気を吐き出した。

 

「逃げて……!」

 

 状況は、まるでわからなかった。

 ただしのぶの表情が余りにも鬼気迫っていたので、無視することは出来なかった。

 一言断って、しのぶの身体を肩に「きゃっ」担いだ。

 想像以上の軽さに驚きながらも、膝を立てて。

 

「どこへ行くんですか?」

 

 しのぶを担ぐという一工程。

 この僅か一工程の間に、珠世は炭彦の目の前に立っていた。

 当然ながら、注射器を持っている。

 

「……ッ!」

 

 走った。

 立ち上がらずに、膝をついた体勢から走りに入った。

 流石に脹脛(ふくらはぎ)のあたりが嫌な音を立てたが、そのおかげで()()()、縮めることが出来た。

 それが出来なければ、おそらく頚に注射器が突き立てられていただろう。

 

「うわっ。ご、ごめんなさい、しのぶさん。大丈夫ですかあ!?」

「だ、大丈夫です。気にせずに逃げてください! 外へ!」

「は、はいっ!」

 

 診察室から廊下へ、転がるように出た。

 半ば転倒しつつ、何とか立ち上がって走った。

 軽く振り向いたが、珠世はまだ診察室の中にいた。

 こちらを見つめる顔は、変わらず貼り付けたような微笑を浮かべていた。

 腹の底が冷えるような、そんな感覚を覚えた。

 

「このまま真っ直ぐ。そこが正面玄関です……!」

 

 しのぶはもう、何回も診察室から出口への道を通っている。

 だから明かりがない暗がりでも、炭彦に道を示すことが出来た。

 診察室から廊下、待合室。そして、出入り口――――。

 

「――――ええ?」

 

 しかし、ここで異常が発生する。

 ()()()()()()()のだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 断言しておくが、道を間違えたわけではない。

 そもそも小さなクリニックだ。

 診察室から正面玄関までの行き方など、本来なら道案内すら不要な程に近い。

 ちょっと走れば、すぐにつく。

 

「え、ええ? 壁!? どうして」

 

 しかし、そこにあるはずの出入り口――つい先ほど、炭彦が使ったドアが存在しなかったのだ。

 炭彦としのぶの目の前には、壁があった。

 ドアが壁に変わっている。

 そんなことはあり得ないと思っても、事実としてそうなっているのだった。

 

「ど、どうしよう。どうすれば」

「これは……」

「そうだ。窓から!」

 

 ()()()()()()

 待合室には、窓すらなくなっていた。

 あり得ない。そんなはずは。炭彦は心の中でそう言った。

 

「どうしたのですか」

 

 ぞっとした。

 振り向くと、待合室に入ったあたりで珠世が立っていた。

 あの微笑が、炭彦を見つめている。

 

「さあ、早く。診察室へ」

 

 冷たい汗が、掌にじわりと浮かんできた。

 逃げなければいけないのに、逃げ場がない。

 どうすれば良いのか、何も思いつかなかった。

 

 

 

「けっきじゅつ」

 

 

 

 その時、しのぶがそう言うのを聞いた。

 聞き慣れない音に、炭彦はそれを単語として理解できなかった。

 けっきじゅつ、と、しのぶは繰り返した。

 

「……驚きました」

 

 言葉ではそう言っていたが、珠世の表情は変わらなかった。

 

()()()()には、もう伝わっていないと思っていましたが」

「亡くなった曾祖母が寝物語に話してくれたのを今、思い出したんです。勿論、信じてはいませんでしたよ。子ども向けの御伽噺だと。だから適当です。でも、その反応を見ると――――()()()()()()()()

「ええ、そうですよ。けっきじゅつ――血鬼術は、実在します」

「……それなら、もしかして」

「ええ、そうですよ。私は」

 

 ()()()()()

 珠世はそう言って、しのぶは息を呑んだ。

 しかし炭彦には、2人の会話の意味がまるでわからなかった。

 

 そして炭彦にとっては酷なことに、混乱の種はさらに追加されるのだった。

 それは、後ろから来た。

 ドンッ、という、壁を叩くような音だ。それも何度も、繰り返すこと三度。

 何だと思って、後ろを――ドアがあるはずの場所を、見た。

 

(ミィ)つけたアアァ――――ッ!!」

 

 ()()()()()()()()()()

 なくなっていたはずのドアが、破片と共に宙を舞っていた。

 反射的に脇にどかなければ、炭彦達も巻き込まれていただろう。

 ――――長い槍のような、いや槍を構えて踏み込んで来た少女に、蹴倒されていただろう。

 




最後までお読みいただき有難うございます。

新型コロナに感染しました(え)
年末にかかるとは…。

そのため、もしかしたら次回投稿は新年早々遅れるかもしれません。
申し訳ございません。

それでは、皆様は体調にくれぐれもお気をつけて…!

よいお年を!


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第73話:「復讐」

 ――――槍?

 槍って何だ、と炭彦は思った。

 普通に生きていて、そんなものを見る機会はそうは無いだろう。

 

「じゅ」

 

 そんなものを肩に担いで飛び込んで来るというのは、普通ではない。

 異常だ。

 そしてその異常を目の当たりにして、炭彦は叫んだ。

 

「銃刀法違反だ――――っ!!」

「そこじゃないと思います」

 

 しのぶの冷静さが冴え渡っていた。

 ただ彼女から見て、今の状況は良くなったとも言えるし、悪くなったとも言えた。

 まず突然の乱入者は、ドアを蹴破っている。

 だから彼女の後ろには外が見えていた。脱出経路が出来たわけである。これは良い点だ。

 

 しかし一方で、槍を持った乱入者それ自体は、状況を悪化させるものでもあった。

 出入口に立っている、というのも悪い点だ。

 炭彦としのぶが外に逃げるためには、この女性の横を通り過ぎなくてはならない。

 つまるところ、自分達の運命はこの女性に握られている、ということだった。

 

一葉(ひとつば)(みそぎ)

「人の名前を勝手に呼ばないでほしいわね」

 

 珠世は、その女性――禊を知っている様子だった。

 これは、悪い方向に転がりかねない。

 もしも珠世と禊が仲間であれば、状況はむしろ悪化したと言えるからだ。

 ただ仲間というには、2人の間に流れる空気は剣呑なものだった。

 

「ふうん」

 

 じっと珠世を見つめていた禊は、どこか得心したような表情を浮かべた。

 

「最初に聞いた時、おかしいとは思っていたけれど。なあんだ」

 

 その笑みは、笑顔というには、余りにも友好の度合いが低すぎた。

 と、言うよりは。

 禊は明らかに、珠世を嘲弄していた。

 

「やっぱりアイツ、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その時、ドン、とクリニックの建物が震えた気がした。

 天井が――2階など無いはずなのに――砕けて、何か人間大のものが落ちて来た。

 1つ、2つ、3つ。まるで、禊――のそばにいる炭彦、しのぶもだが。

 禊を、取り囲むように3つ。それは落ちて来た。

 

「い、犬人げ……いや犬じゃない!?」

 

 化物だ。3人、いや3体の化物が落ちて来た。

 形や数には違いがあるが、一様に頭に角のようなものがあり、そして多様な体の形状をしていた。

 赤黒い肌、硬質な筋肉、あるいは長すぎる手足。爪、そして牙。

 犬の顔をしていないだけで、同じような化物がそこにいた。

 そして次の瞬間、3体の化物が、実に化物らしく咆哮したのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 端的に言って、これは禊にとっても予想外だった。

 

「何で()がいるわけ?」

 

 突如として現れた化物――鬼。

 その出現は、禊にとっては予想外、あるいは意外だった。

 ただそれは、この場に現れたことが意外ということでは無い。

 文字通り、()()()()()()()()が意外だったのだ。

 

 ――――欺の呼吸・弐ノ型『面子』。

 

 もっとも、出現したこと自体は問題ではない。

 脅威にならないものを、問題とは言わない。

 3方向から襲いかかって来た鬼達は、次の一瞬には全ての感覚を喪失していた。

 折れ別れた槍。それを持った禊の両腕が身体の前を一巡りすると、頚が3つ跳んでいた。

 

「危ない!」

「どこが?」

 

 炭彦の声に、そう応じた。

 もちろん、()()()()()()()()()()()()()()()

 注射器を一槍で払い、二の槍が顔面を目掛けて突き出される。

 一撃目を挟んだことで、致命の攻撃までに数秒の間があったおかげで、珠世は数歩を下がることが出来た。

 それができていなければ、今頃は顔面に穴が開いていただろう。

 

「アアッ……!」

 

 悲鳴を上げ、顔を押さえて、珠世が蹲る。

 それと同時に、頚を落とされた鬼達が灰となって散っていった。

 

「え、え、えええええ?」

 

 そしてこの時点で、炭彦の理解力はすでに限界だった。

 まず珠世の豹変としのぶの監禁。

 次に、クリニックの出口が消えてしまったこと。

 さらには消えた出口から槍を持った女性が乱入してきて、化物()を殺して。

 しかもそれが、灰になって消えてしまった。

 

「な、何がどうなって」

「炭彦君、炭彦君。気持ちはわかりますが、今は落ち着いて。何とか頑張ってください」

「は、はい! 何とか頑張ります」

「あれは、鬼狩り……です。たぶんですが」

 

 鬼を狩る者。すなわち鬼狩り。

 曾祖母から聞いた寝物語。

 血鬼術が実在するのであれば、鬼狩りが実在してもおかしくはない。

 

「へえ、伝わっているもんね。戦争で鬼狩りの家も随分と死んだのに」

「戦争……?」

「ええ、あれよ。大東亜戦争だっけ」

 

 ケラケラと笑ってそう言って、しかし次の瞬間には表情が消えていた。

 

「――――で」

 

 そして、蹲る珠世に、言った。

 

()()()()?」

 

 珠世が己の指を噛み、強く吹いた。

 渇いたその音は笛というには聊か奇妙に過ぎたが、しかし()()()はいたようだった。

 ドアの外から、何かが近付いてくる音がした。

 クリニックの庭先から回り込んでも来たのか、飛び込んで来たそれは、犬のように見えた。

 肉が腐り落ち、眼球のないものを犬と呼ぶのは憚られた。

 

「あら、これはちょっと不味いかも」

 

 言葉ほどには不味いと思っていなさそうな表情で、禊は炭彦に言った。

 

「ほら男の子、その()を頑張って守りなさいな」

「は、はい!」

「はい、良いお返事。それにしても、うちの男連中は何をしているんだか」

 

 やれやれと嘆息しながら、溜息ひとつ。

 ただそれは、化物に襲われている時にする表情ではなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 大きなくしゃみだった。

 犬井が唇に人差し指を当てて、しー、と言うと、獪岳は舌打ちした。

 その態度が何とも言えず、犬井は笑って肩を竦めた。

 

「さて、禊ちゃんが表で暴れている間に……っと」

 

 薬品室、というプレートがかけられたドアの前。

 クリニックの裏から侵入した――禊がそうだったように、外からは問題なく入れる――彼らは、その部屋に入ろうとしていた。

 ドアノブ、より具体的には鍵穴のあたりにしゃがみ込み、カチカチと弄っている。

 

「やっぱ、ぶっ壊した方が早くねえか?」

「待ちなさいって。何か仕掛けがあるかもでしょーよ」

 

 鍵穴に針金。

 実に原始的だが、それは薬品室の鍵が現代的な電子キーの類ではなく、古びた錠前だったからだ。

 セキュリティは極めて緩い。だからこそ、正しい方法で開けない方が危険だった。

 まあ、針金の開錠(ピッキング)が正しい方法なのかはさて置くとして。

 

「お、開いた」

 

 ほどなくして、鍵が開いた。

 ドアノブを慎重に回して、開ける。

 すると。

 

「うおっ、やっぱ何かあっ」

 

 ――――雷の呼吸・弐ノ型『稲魂』。

 

「――――った。って、フウ、流石あ」

「何だよ、雑魚じゃねえか。くだらねえ」

 

 開けた瞬間、中にいた鬼と目が合った。

 もっとも、犬井が何かを言う前に、獪岳が頚を斬ってしまっていたのだが。

 

「で、この部屋なのか?」

「らしいねえ。ええと、確か薬棚だったかな……」

 

 床に積もった鬼の灰を踏みしめながら、目的の薬らしきものを見つけた。

 ガラス戸にも鍵がついていたが、こちらも古い造りのものだった。

 古すぎて、今時の空き巣なら逆に対応できないかもしれないな、などとつまらないことを考えた。

 

「あったかよ」

「うーん……」

 

 ただ、鍵を開ける必要も無かった。

 何故なら、そんなことをするまでもなく、ガラス越しに中身を確認できたからである。

 結論から言うと、中身は空だった。

 

「無いじゃねえかよ。アイツの()()()()()?」

「いやあ、それは無いでしょ。()()()()()()()()()()

「だとすると、あの女か」

「だろうねえ」

 

 その時、獣の唸り声がした。

 それは犬井が聞き知っているものに比べると、やや湿度が高い音だった。

 まあ、()()()()から発される唸り声など、さしもの犬井も詳しくはない。

 

「犬……の、鬼か。鬼化した犬?」

「みたいだねえ。そして……」

 

 先程――もちろん、犬井達は知る由もないが――禊達に襲い掛かった、ゾンビのような犬。

 それが数匹、今しがた犬井達が入って来たドアから入り込んできていた。

 ただし、最後に入って来た犬だけは、まともな形をしていた。

 まるで、生きている犬のように。

 

「ああ~」

 

 その犬を見た瞬間、犬井は困ったような声を上げた。

 いや、実際に困っていた。

 どうすれば良いのか、と天を仰ぐ心地だった。

 

「マジかあ。いや、因果は巡るもんだねえ」

 

 その犬――()()は、ただ一言、いや一吠え。

 バウッ、と、吠えた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ここで、おさらいをしよう。

 今現在、珠世クリニックには3つのグループが存在している。

 まとめると、このようになる。

 

 第1に、炭彦としのぶ。

 そして第2に、珠世と鬼。

 最後に乱入者。つまり禊や獪岳達。

 珠世クリニックの中で、この3つのグループが動いている。

 

「――――お茶にしませんか?」

 

 さて、ここで1つ()()()の話をしよう。

 珠世クリニックの外で起こっている出来事について、視点を移そう。

 まず、おかしなことが2点ある。

 

 ()()()は、珠世クリニックの前で――つまり道路の真ん中で――ビニールシートを広げていた。

 ここが公園や原っぱの空き地であれば、ピクニックにでも来たような様子だ。

 彼女達はそこに座り、片や水筒のお茶を出し、片やおにぎりを出していた。

 

「おにぎり、好きかしらぁ?」

 

 まさに、状況が間違ってさえいなければ、ピクニックにしか見えなかった。

 しかし、もちろんピクニックなどではない。

 

「あらぁ。どうしたの、柚羽ちゃん?」

 

 クイクイと袖を引かれて、榛名は首を傾げて見せた。

 袖を引いたのは、柚羽である。

 静かな瞳が、榛名を覗き込んでいた。

 彼女は珠世クリニックを指差していたが、それに対して榛名は柔らかく笑って。

 

「大丈夫よぉ。そっちは禊ちゃんが行ってくれてるもの」

 

 本人が聞けば「ちゃん呼びはヤメロ」と言っただろうが、幸か不幸か本人がいないので、誰もそれを指摘する者はいなかった。

 もっとも、仮に直接言われたとしても、榛名は呼び名を改めたりはしなかっただろうが。

 それに、と、榛名は正面に座る()()を見て、やはり柔らかく笑って。

 

「せっかくのお誘いなんだから、お断りしたら申し訳ないわぁ」

「わあ、嬉しいです。とっておきのお茶菓子を出しちゃいますね」

「あら、有難う。でも、良いのかしらぁ?」

 

 頬に手を当てながら、榛名は言った。

 

「貴女、()()()()を連れ戻しに来たんじゃないのかしら」

 

 そう言われた相手は、同じくらいの柔和な笑顔で返した。

 深夜。街灯の灯りの下、その笑顔は鮮烈な印象を見る相手に与えた。

 

「大丈夫です。あの子は……()()()()()()()()()

 

 ()()()()()

 胡蝶カナエが、そこにいた。

 明らかに異常な場所で、しかしいつもと変わらない様子で、そこにいたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ゾンビ犬、とでも呼称しようか。

 要は犬が鬼になったのだろうが、呼び名が無いのは(いささ)か不便なので、適当にそう呼ぶことにした。

 まあ、それも一瞬のことだろうと、禊は考えてもいたが。

 

()()()()()()()()()()()()。こんなので私をどうこう出来るなんて思っていないでしょ)

 

 ちらりと炭彦の方へと視線を向ける。

 

「うわ、うわっ。こっち来ないで~」

「わ、わ、わ。炭彦君。あぶなっ、右! 右ですよ!」

 

 当の炭彦はと言えば、ソファの上に跳んだり、棚に掴まったりと大忙しだった。

 これをしのぶを抱えながら出来るのは、ひとえに彼の身体能力ゆえだ。

 そして、呼吸を使っているからこそ、だ。

 その点、しのぶは普通の人間だった。

 

 だから、しのぶには禊の動きは見えない。

 ただ腕が一瞬ブレたと思えば、次の瞬間にはゾンビ犬が切り刻まれているのだ。

 しかし、炭彦の動体視力は禊の動きを捉えていた。

 流れるように腕が動き、穂先がゾンビ犬の喉元を正確に射貫(いぬ)き、頚を刎ねている。

 グロテスクだ。だがそれ以上に。

 

(綺麗だ)

 

 と、そう思った。

 桃寿郎の道場で見た剣技は、何というか、剛直だった。

 禊のような流麗さは、炭彦にとっては新鮮に映った。

 そしてそれは、炭彦が初めて見る()()()()()()()()

 

(ふうん)

 

 そして、禊もその視線に気付いている。

 悪い気分では無い。

 とは言え、禊には()()()()()()()()()()()()()()

 

(まあ、()()()が何を狙っているのかは知らないけど)

 

 ドッ、とゾンビ犬の頚を刎ねて、禊は身を低くした。

 明らかな突撃体勢に、珠世が目を見開くのが見えた。

 相手の狙いを知る最善の方法。

 

 それは、相手の懐に飛び込んでしまうことだ。

 そしてその上で、噛み砕く。

 噛み砕いて、見下ろして、そうするのが一番。

 

「チョー最高、でしょう?」

 

 その時だった。

 コン、と、どこかで金属が発する音が聞こえた。

 禊の耳はそれを正確に捉えたし、彼女の眼は聴覚から伝わった情報を見逃さなかった。

 外部から転がって来た、缶詰のような物体を。

 

発煙弾(スモーク)……!?)

 

 降って湧いた現代兵器に、さしもの禊も眉を顰めた。

 クリニックの待合室に、白煙が充満したのは、その数秒後のことだった。

 白煙の中に、何もかもが消えていった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その白煙は、当たり前だが炭彦達も飲み込んだ。

 催涙弾というわけではないようだったが、それでも、吸い込むと咳き込んでしまった。

 それは、()()使()()には致命的な意味を持っていた。

 

(いけない。呼吸が――!)

 

 ゲホゲホと咳き込みながら、炭彦は焦った。

 しのぶを離すようなことはしなかったが、煙のせいで方向感覚をも失っていた。

 というより、普通に生きていて発煙弾(スモーク)を浴びる経験などあるものでは無い。

 咄嗟に対処する、ということが炭彦には出来なかった。

 

「炭彦!」

 

 ――――幻聴だと思った。

 何故ならば、耳に届いた声を炭彦は知っていたからだ。

 ただしそれは、いるはずが無い声だった。

 だから、幻聴だと思ったのだ。

 

「こっちだ!」

「え、え……うわあ、怪しい人だ!」

「怪しくない!」

「いや怪しい……ゲホッゲホッ」

 

 そして、その誰かに腕を掴まれた。

 問題は、その誰かが顔全体を覆うマスクを――いわゆるガスマスクというものだろう――被っていたことだった。

 どこからどう見ても怪しいのだが、それがグイグイと腕を引っ張って来るのだ。

 

「……! げほっ。炭彦く、んっ。言う通り……に。ごほっ」

 

 しのぶの声が聞こえた。

 彼女には、このガスマスクの誰かが信用できると見えたのか。

 その理由は、炭彦にはわからない。

 

 けれど、炭彦はしのぶに従った。

 しのぶの判断を炭彦は信じていた。

 それに、この誰かの声と、掴んで来る手の感触を、知っているような気がした。

 だから、炭彦はしのぶと、ガスマスクの誰かを信じた。

 

「――――!」

 

 ガスマスクの誰かに手を引かれて立ち上がるのと、白煙が動くのはほとんど同時だった。

 そして動いた白煙の先に、珠世がいた。

 その顔の貼り付いた微笑は、今はどこか引き攣って見えた。

 まるで、()()()()()()()()()

 

「跳び込め!」

 

 振り下ろされる注射器から逃れるために、跳んだ。

 どこへ向かって跳んだのかは、わからない。

 白煙に目と喉を傷めながら、手を引かれるままに跳び込んだ。

 

「…………あ」

 

 ()へ出る一瞬、珠世の顔に誰かの手が見えた。

 その映像を最後に、視界が――光景が、切り替わった。

 クリニックの待合室が消えて、一瞬で、外の景色に変わったのだ。

 具体的に、コンクリートの塀と道路、それから夜空。そして。

 

「こんばんは、炭彦君。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そして、カナエの顔が逆さまに見えた。

 逆さまなのは、炭彦が、そしてしのぶがブルーシートの上に転がっていたからだった。

 いったい、どうして道路の真ん中でブルーシートなど敷いているのか。

 いやいや、問題はそこではないだろう。

 どうしてカナエがいるのか。そしてガスマスクを外した誰かが何故。

 

「か、カナタあ!?」

「……五月蠅いな。大きな声を出さないでくれる」

 

 何故、兄であるカナタなのか。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「ど、どうしてカナタがいるの?」

 

 そう言いつつ、腑に落ちるところもあった。

 声と手の感触を知っているような気がしたのは、カナタだったからだ。

 そう思うと、警戒する気持ちが少なかったのも納得だった。

 ただ、それでも疑問は残る。

 

「もう、しのぶったら勝手に行っちゃうんだもの。心配したのよ~」

「ちょ、ちょっと、姉さっ」

 

 しのぶも同じだと思うが、今はカナエに頬を擦り付けられていて、それどころではなかった。

 さらに、輪をかけて混乱の原因となっているのが、()()()の存在だ。

 その人物は、お茶とおにぎりと食べながらまったりとしている様子だった。

 炭彦は2人の名前は知らなかったが、榛名と柚羽だった。

 

 2人は炭彦のことをじっと見ていたが、目が合うと軽く頭を下げて来た。

 炭彦も、ぺこりと頭を下げる。

 それから助けを求めるように、というより助けを求める心地でカナタを見た。

 だがカナタには説明する気がないのか、むしろそっぽを向いていた。

 

「うふふ。カナタ君は炭彦君が無事でほっとしているのよ~」

 

 それを見て、カナエがクスクスと笑っていた。

 

「カナタ君は恥ずかしいみたいだから。私から説明してあげるわね。でもその前に」

 

 そして、カナエは指先で炭彦の後ろを指差した。

 炭彦は素直に後ろを見て、そして息を呑んだ。

 

「え……?」

 

 そこには、()()()()()()()()()()()()()

 あの小さいが小綺麗なクリニックの姿は、そこには無い。

 整合性があるのは大きさだけで、それ以外は見る影も無かった。

 最初に入った時も、いや過去に来た時も、こんな外観では無かった。

 

()()()

 

 説明するその声は、しかしカナエのものでは無かった。

 振り向くと、道の向こうからスーツ姿の男性が歩いて来ているのが見えた。

 

「鬼化した人間、あるいは動物が、()()()()()と共に発症する異能のことだよ」

 

 その人物についても、炭彦は知っていた。

 ビジネス鞄を片手に、その男性は顔が見える位置にまで近寄って来た。

 

「まあ、見るのは僕も初めてなんだけど」

「と……!」

 

 さっきから自分だけが驚いているな、と、そんなことを思いつつ、炭彦は言った。

 

「やあ、すまないね。残業が長引いてしまって」

「父さん!?」

 

 そこにいたのは、カナタと炭彦の父、炭吉だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 肉を削ぐ音がした。

 ()()()()顔面を両手で覆って、珠世がその場に膝を着いた。

 白煙は、まだいくらか残っている。

 

「オオ、オオオオ……ッ」

 

 顔を覆った両手の隙間から、くぐもった声が響く。

 指の間からは、ボタボタと血がとめどなく流れ出ていた。

 そしてその血は、珠世の顔の肉を()()()()の手指にこびり付いていた。

 

 ()()は珠世を見下ろしながら、そっと手を己の口元に寄せた。

 血のように紅い舌先が、人差し指の根元から先端までをゆっくりと這った。

 珠世の血を舐め取った彼女は、ふっと口元を(ほころ)ばせて、言った。

 

「とっても不味いですね」

 

 指の間から、苛烈な目が彼女を見上げていた。

 怒りだろうか。憎悪だろうか。

 血走ったその瞳からは、その者の激烈な感情を読み取ることが出来た。

 

「れ、ん……煉獄、瑠衣ィ……!」

 

 喉から絞り出されたような声は、酷く低かった。

 というより、それは()()()()()()()()()()

 瑠衣はそれに、ああ、と得心した顔をした。

 

「なるほど、()()()()()()()()()

 

 着物の袂から取り出したのは、飴玉だった。

 珠世クリニックの刻印が入った、治療のご褒美の飴玉だ。

 炭彦が健気にプレゼントしていたものだ。

 

「おかしいとは思っていました。()()()は、けしてこういう挑発(アピール)をするような人ではなかったですから」

 

 そもそも。

 

()()()()()()()()()()()()()()()

「……ああ、そうだ。そうだとも! 忘れるはずもない。78年前! 春の夜! 沖縄の浜辺だった!」

 

 ()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 70余年前、この国は戦争をしていた。

 地獄が、そこら中に当たり前に生まれる時代だった。

 人間がゴミ屑のように死んでいく。

 あの人は、それを、見て見ぬふりなど出来なかった。

 

()()()は、お前に喰われて――殺されたんだ!」

「……それで。私への恨みを晴らすために、わざと存在をアピールしたと。そのために、そこまでしたと」

「そうだ。私は……俺は」

 

 驚きか、感心か。あるいは他の何かか。

 ()()の顔が爛れて、その下に隠されていた()()が露になっていた。

 

「俺は、貴様を殺すために、今日まで生きて来たんだ……!」

 

 若い、青年の顔。

 見目麗しい珠世の顔の下にあったのは、まさに鬼の形相。

 復讐心の熱を受けて、瑠衣は言った。

 

()()()()()

 

 珠世の鬼、愈史郎。

 最愛の女性に成りすましてまで、瑠衣を誘き寄せた彼。

 彼は瑠衣に名を呼ばれると、表情をさらに歪ませた。

 瑠衣に名前を呼ばれることさえ汚らわしい。目がそう言っていた。

 

「気安く呼ぶな。虫唾が走る……!」

「そうですか。そうでしょうね」

 

 瑠衣も、別に何か会話をしようとしたわけではなかった。

 何故ならば、瑠衣の前に――()()()()に姿を現した時点で、愈史郎は()()()()()()

 鬼という種は、煉獄瑠衣には絶対に勝てないからだ。

 

 瑠衣の前に現れた鬼は、すべからく喰われるしかない。

 それは定められた食物連鎖であり、下剋上はあり得ない。

 だから、瑠衣は会話もそこそこに手を伸ばそうとして。

 

「その傲慢さが、油断が、貴様の弱点だ――――煉獄瑠衣!」

 

 愈史郎が叫んだ。

 

「今だ、茶々丸……()()!」

 

 ニャア、と、猫の鳴き声がした。

 足元を見ると、そこに猫がいた。

 珠世の猫。鬼の猫だと、一目でわかった。

 

 そしてその猫は、背中に金属製の箱のようなものを背負っていた。

 注射器が6本、飛び出しているのが見えた。

 そして次の瞬間、破裂音と共に、それが瑠衣に向かって撃ち出されたのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

何とか、無事にコロナから快復いたしました。

いやー、あれはヤバいは…(真顔)

皆様もどうかお気をつけて。

それでは、また次回。


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第74話:「愈史郎」

 ――――地獄だった。

 病院とは名ばかりのあばら家。足りない医薬品。次々に運び込まれる凄惨な半死人。

 麻酔もなしに体を刻み、悲鳴を上げる口に布を詰め込み、寝台代わりの板に麻縄で縛り付ける。

 そして、みんな死んでいった。

 

「…………」

 

 疲れていたのだろう、と思う。

 長く生きていて、何百年と生きていて、人の死など見慣れたと思っていた。

 戦も、戦争も経験していた。戦場にいたこともある。

 だが、それを踏まえてもなお、そこは余りにも地獄だった。

 

 ちょっと横を見れば、そこには死体の山がある。

 埋葬することも出来ず、弔うことさえ出来ない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「こんばんは」

 

 そんな時だった。

 ()()が来た。

 

「ああ」

 

 おかしな話だが。

 その時、久しぶりに()()と話をしたなと、そう思った。

 

「こんばんは、瑠衣さん」

 

 いずれは見つかると、そう思っていた。

 それがいつでも別に構わないと、珠世は思っていた。

 あの夜、鬼舞辻無惨が滅んだあの時から、自分はもう生きていなかった。

 生きる目的を失った者は、ただ続いているだけ。

 いわば、惰性で今日までやって来てしまったと、それだけのことだった。

 

「どうぞ」

 

 俎板(まないた)の鯉。

 いや、鯉でさえ生きようと跳ねるくらいはするだろう。

 だからこれは、他者の手を借りた自殺のようなものだった。

 

(嗚呼、これで。あの人とあの子のところへ)

 

 いや、同じ場所(天国)へは行けないだろう。

 鬼である自分は、きっと地獄に落ちるだろうから。

 

(……ごめんね)

 

 伸びて来る手を見つめながら、珠世はまた思った。

 

(――――愈史郎)

 

 自分が鬼にしてしまった青年。

 生きたいという彼の願いを叶えた、などと驕る気は無かった。

 ただ、誰かに一緒にいてほしかっただけだ。

 寂しくて、独りは余りにも冷たくて、耐えられなかっただけだ。

 

 そして今、疲れたと言って生を諦め、彼を置いて逝こうとしている。

 嗚呼、何て身勝手で、利己的で。そして何ておぞましいのだろう。

 それでも、それでもどうか。どうか。

 

(これからは、自分のために生きてね)

 

 どうか、それだけは本音(ほんとう)でありますように。

 そう思って、珠世は目を閉じた。

 死が触れて来た。

 自分に触れて来た死を、珠世は抱き締めた。

 ――――今から、70余年前の出来事である。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それは、実に奇妙な「お茶会」だった。

 お茶請けがおにぎりであることも、路上の真ん中という立地もそうだが。

 そもそも、参加している面々が奇妙である。

 

 カナエとしのぶの胡蝶姉妹。

 炭吉、カナタ、炭彦の竈門家。

 そして、榛名と柚羽――()()()()()()

 余りにも奇妙な組み合わせだった。

 

「初めまして。私はこういう者です」

「あら、ご丁寧にどうも~」

 

 すっと名刺を差し出す父の背中を、炭彦は何とも言えない表情で見つめていた。

 正直なところ、置かれた状況に対して理解が追い付いているとは言えなかった。

 自分以外は理解しているというのは、何となくわかった。

 

「さて、では早速なのだけれど」

 

 まるで商談にでも来たかのように、父は言った。

 

「きみたちは、「煉獄瑠衣」の関係者だね」

 

 ただ、父の口から飛び出した名前には、目を剥かざるを得なかった。

 どうして父が瑠衣を知っているのかわからなかったし、この場で出て来る理由もわからなかったからだ。

 思わず何か言おうとしたが、カナタの手が顔の前に来て、止められた。

 

「そうねぇ」

 

 そして、榛名は特に隠しもせずに頷いた。

 元より隠す意図もそのつもりもない。そもそも考えたこともない。

 そんな表情だった。

 

「ここに来た目的は?」

「何だか尋問されてるみたいねぇ」

「いえいえ。ただの興味ですよ。そんな風に聞こえたなら申し訳ない」

 

 苦笑する榛名に、炭吉は朗らかに笑って見せた。

 雰囲気も固くはない。むしろ柔らかい。

 しかし、目に見えない緊張の()が、炭彦には見える気がした。

 

「う~ん。でも、目的と言われてもぉ」

 

 榛名は、顎先に指を当てて、少し考える素振りを見せてから。

 

「う~ん…………()()?」

 

 粛清。

 それは、かなり剣呑(けんのん)な響きの言葉だった。

 

「お仕置き? 宿題? う~ん……」

 

 柚羽がそっとおにぎりを指差して、榛名はああ、と頷いた。

 

「あんなものは粛清なんて言わないわよ。ああいうのは、()()()()()って言うのよ」

 

 しかし、言葉を発したのは榛名では無かった。

 言葉を発したのは、いつの間にか輪の中に加わっていて、しかも当然のようにおにぎりを頬張っている少女だった。

 

「あ、美味しいわねこれ。お塩変えた?」

「うふふ、わかるぅ?」

 

 クリニックの中でゾンビ犬と戦っていたはずの禊が、そうしているのが当たり前という顔をして、しれっとそこにいたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 固定電話での連絡は、合図だった。

 カナエからカナタへの、あの電話である。

 ()()()()()()()()()()()()

 

 鬼。この世のものではない、人間を食糧とする超常の生き物。

 それは、竈門家と胡蝶家の()()()()だけに伝わる伝説だった。

 ただ、伝説だった。

 正直なところ、カナタは鬼の実在を信じていなかった。

 

(まあ、流石に認めざるを得ないけれど)

 

 信じてはいなかったが、父の言うことだから素直に受け入れていた。

 だから今日も、こうやってカナエについて来たのだ。

 カナエの方は、そのまま鬼の実在を信じていた様子だったが。

 

「感心しないわよ」

 

 ぺろ、と指先についた米粒を舐め取りながら――赤い舌先が妙に艶めかしい――禊が言った。

 その眼は、炭吉を見つめていた。

 

「女の()()()()を覗き見るもんじゃないわ」

「やあ、申し訳ない。余りにも()()()()()()()()

「あら、お上手ね。お客さんとしてうちのお店に来るなら、サービスするけど」

「いやあ、妻子がいるからね。遠慮しておくよ」

「あっそ」

 

 この禊という妖しい女が、向こうのリーダー格のようだった。

 正直、カナタが苦手なタイプだった。

 こういう手合いは、自分が定めたルールを絶対視して、相手がそれを守るのを当然だと思っている。

 わかりやすく言えば、()()()()()()人種だ。

 相手を振り回すという意味ではカナエもそうだが、あちらは計算というものが無い。

 

(俺は口を出さない方が良さそうだ)

 

 と、カナタは思った。

 横にいる炭彦が何かを言いたげな顔をしているが、それも止めていた。

 もしも今、自分達が口を出せば、相手のペースになると直感で察していたからだ。

 

 その時だった。大きな破裂音が響き渡った。

 それまでは()()()()()()ものが、表に出てきてしまったような。

 まるで()()を外されてしまったかのような、そんな音だった。

 次いで、ほとんど同時に――爆発音。いや、破砕音がした。

 

「まずいな」

 

 と、炭吉が言った。

 その意味するところは、カナタもわかった。

 ()にいるカナタ達に聞こえたということは、近隣住民にも聞こえたということだ。

 このままでは騒ぎになる。そう思った。

 

「心配いらないわよ」

 

 そして、そんなカナタ達の心を見透かしたように、禊は言った。

 

()()()()()()

 

 その美しい顔を、朝陽が照らし始めていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 屋根の上に立ち上がると、東の空の彼方から太陽の白光が伸びて来るのを感じた。

 いつの間にか、夜明けの時間になっていたのだ。

 ――――2人は、()()()()()向かい合っていた。

 

「ずっと、この時を待っていた」

 

 ()()()()()()()()愈史郎がそう言うのを、瑠衣は正面から聞いた。

 ただそれは、言葉という名の音を聞いているという、それだけのことだった。

 そして、愈史郎もそれに気付いている。

 だからこれは、意思疎通(コミュニケーション)としての会話では無かった。

 ただ、胸中に湧き上がるものを、我慢できずに吐露しているだけだった。

 

「お前は、お前達は、滅ぼさなければならない」

 

 思えば、奇妙な付き合いだった。

 だがその付き合いも、100年に渡る関係も、今日で終わりだ。

 それだけは、お互いに良く理解していた。

 

「珠世様が亡くなられたあの時、俺はそう誓った。あの男……鬼舞辻無惨にさえ、そこまで思うことは無かった」

「鬼舞辻無惨」

 

 瑠衣の声には、微かな笑みの成分さえあった。

 

「これはまた、懐かしい名前を聞いたものです」

 

 皮肉。込められている感情はそれだった。

 鬼舞辻無惨。

 それは、珠世ならば意味のある名前だった。

 だが愈史郎にとっては、その名前には何の意味もない。

 

 愈史郎にとっては、珠世がすべてだった。

 彼は、珠世が憎悪する相手を憎悪しただけで。

 珠世を殺した者を、憎悪するだけだ。

 愈史郎という男の理由はすべて、珠世にしかないのだった。

 

「貴方は変わりませんね。もう100年になりますか。初めて出会ったあの時から」

「貴様と思い出話に付き合うつもりはない」

 

 ぴしゃり。

 まさにそういう表現が合うような、そんな調子だった。

 拒否。拒絶。全身が、表情が、そう告げていた。

 

「貴様は、ここで滅びる(死ぬ)んだ」

 

 その時、穏やかな微笑を浮かべていた瑠衣が、眉を寄せた。

 そっと胸元に当てられた手が、喉、そして顎先に触れる。

 まるで、何かを追いかけるかのように。

 それに比例して、今度は愈史郎の方が笑みを湛えていった。

 

「すでに、貴様の肉体には大量の薬毒が投与されている」

 

 溢れ出た。

 まさにそんな様子で、瑠衣の口の端から赤い液体が漏れた。

 それは唇を濡らし、顎先を滴って、衣服の胸元を汚した。

 指先で拭い取ったそれに、瑠衣は目を向けた。

 

「断罪の時だ。煉獄瑠衣……!」

 

 血は赤かった。

 こんなになっても、血は赤いのだなと。

 瑠衣は、そんなことを思ったのだった。

 

「珠世様の命を奪うという大罪。ここで(あがな)わせてやる!!」

 

 愈史郎の叫びはしかし、それでも瑠衣には届かなかった。

 それは瑠衣にとって、やはり、ただの音でしかなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()

 珠世はこの100年の間に、鬼を人間へ戻す薬を完成させていた。

 本人は惰性だと言っていたが、それはまさに、画期的な新薬だった。

 鬼化という()()から人々を救う、()()()だった。

 

()()()()()()()

 

 血を吐く瑠衣を前にして、愈史郎は言った。

 

「青い彼岸花に含まれるある成分が生物の細胞と結びつくと、急激な変化をもたらす」

 

 変化した細胞は増殖を繰り返し、やがて全身に行き渡る。

 そしてこの細胞――鬼化細胞は、()()()()()に対してより大きな反応を見せる。

 例えば重病人。不治の病に犯された者。あるいは精神的に衰弱している者。活力の無い者だ。

 呼吸の剣士が鬼になる場合に時間がかかるのは、呼吸によって身体能力が強化されているからだ。

 

「珠世様の薬はこの細胞変化を抑制し、投与を繰り返すことで症状を緩和していくものだった」

 

 鬼舞辻無惨が滅び、彼の系譜に連なる鬼は消えた。

 だから人間返りの薬を作っても、使う相手はいない。

 たった1人を除いては。

 

「おそらく珠世様は、人間返りの薬をお前のために開発したんだろう」

 

 この世界で唯一の()()のために。

 きっとそうだと、愈史郎は信じていた。

 慈悲深い珠世は、きっと、最後まで――殺される最期まで、患者のことを思っていたに違いない。

 

「だが、()()()()使()()()()

 

 瑠衣に打ったのは、それとは()の薬だ。

 珠世の死後、半世紀をかけて愈史郎が開発した新薬――否、()()である。

 鬼化細胞による細胞増殖を、さらに加速させる毒。

 すなわち、病気の症状をさらに加速させるものだった。

 

「……ごぼっ」

 

 瑠衣の唇から溢れる血が、噴き出すような勢いに変わりつつあった。

 それを見た愈史郎が、口角を歪める。

 

「苦しいだろう。お前の身体に中では今、細胞が通常の100倍の速度で増殖と崩壊を繰り返している」

 

 文字通り、肉体が造り変えられているのだ。

 人間に例えれば、内臓が捻じれ、骨が皮を突き破り、肉が引き千切られるようなものだ。

 しかもそれが、自分の意思とは無関係に行われるのだ。

 麻酔無しで手術をする方が、まだマシというものだろう。

 

「後悔しろ……!」

 

 表情を歪め、唾を飛ばしながら、叫んだ。

 

「己の大罪を後悔しながら、死ね! 煉獄瑠衣!!」

 

 そして、見る。

 口元を朱に塗れさせた瑠衣と、目が合った。

 ()()()に、瑠衣の顔があった。

 青白い、美しい顔だった。

 

「わからないことがあったんです」

 

 どうしてかはわからなかったが。

 愈史郎は、その青白い顔に、何故か珠世を思い浮かべた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――効果が無い?

 ふと胸中に入り込んで来たそんな考えを、愈史郎は振り払った。

 効いていないはずが無い。

 

 実際、見てみろ。瑠衣は血を吐いたでは無いか。

 顔色も、あんなにも青白い。

 あれ程に感じ取れていた鬼気も、随分と和らいだ。

 薬が、毒が効いている証拠だ。()()()()()()()

 

「……わからないこと、だと? ハッ、お前ごときに理解できることなど、何も無い」

 

 陽は、すっかり上がり切っている。

 周囲からは、まだ喧噪は聞こえて来ない。

 だが、そう時間のかからない内に騒ぎになるだろう。

 クリニックにかけていた擬態の血鬼術――かつての目隠しの術を発展させたもの――は、もうなくなっている。

 

「お前はここで」

「あの時、どうして貴方が()()()にいなかったのか」

 

 ぞわ、と、肌が粟立った。

 咄嗟に、手を後ろに回した。

 しかし瑠衣は、それを気にした風も無かった。

 

「私はてっきり、貴方が傍にいるものと思っていました。でも、あの時――珠世さんの傍に、()()()()()()()()

 

 かつて、瑠衣と愈史郎が行動を共に――厳密には、2人で組んでいたわけではないが――していた時、愈史郎は片時も珠世の傍を離れなかった。

 常に共にいて、支えようとしていたし、守ろうとしていたし、あるいは他を見捨ててでも連れて逃げようとさえした。

 それが、()()()は違った。珠世の傍に、愈史郎はいなかった。

 

「だまれ」

 

 低い声で、愈史郎は言った。

 それを聞いて、瑠衣は微笑んだ。

 ただその微笑みは、余りにも陰のあるものだった。

 ああ、成程。と、瑠衣は頷いた。

 

「珠世さんは、貴方を()()()()()()()()()()

 

 服の下に隠していたそれを、愈史郎は握り締めた。

 

「――――黙れェッッ!!」

 

 逆手に持った注射器を、瑠衣の頚に、頸動脈のあたりに突き刺した。

 注射器の中身は、先ほど茶々丸に撃ち込ませたものと同じだった。

 押子を押し込み、薬品()を流し込む。

 一瞬、瑠衣の頚の血管が脈打ったように見えた。

 

 数瞬の間が空き、音が消えたような錯覚を覚えた。

 その数瞬の後、瑠衣の指が注射器を持つ愈史郎の手に触れた。

 そして、瑠衣の指先がそのまま己の手に沈み込んで来るのを、愈史郎は見た。

 次の瞬間、言い様のない灼熱感に襲われた愈史郎は、悲鳴を上げてその場に膝をついたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

『無駄な努力をするのは、やめなさい』

 

 珠世の言葉を、愈史郎は思い出していた。

 いや、この表現は(いささ)か間違っているだろう。

 何故ならば、愈史郎は珠世の言葉を一言一句たりとも忘れたことが無いからだ。

 それこそ、わざわざ思い出す必要など無い。

 

 いや、言葉だけではない。

 表情も、温もりも、匂いも、昨日のことのように覚えている。

 もしも、仮に生まれ変わりや輪廻転生というものがあるとしたら、愈史郎は「珠世」を見つけ出す自信が、いや確信があった。

 彼が今日まで生きて来た理由の1つは、それだった。

 

『私達にできるのは、祈ることだけ』

 

 あの時、鬼舞辻無惨が死んだ日。

 そして、煉獄瑠衣が再誕を果たした日、珠世はすべてを悟ったようだった。

 すべてを諦め、無気力になってしまった。

 自分がいなければ、自分で命を絶っていたかもしれない。

 愈史郎がそう思ってしまう程、珠世は虚無感に捉われてしまっていた。

 

『だから、やめなさい』

 

 やめるなんて、できるわけがなかった。

 だって、愈史郎にとって珠世はすべてだったのだ。

 母親のようであり、姉のようであり、それ以上の存在だったのだ。

 

 珠世の幸福が、愈史郎の幸福だったのだ。

 だから珠世が日に日に生きる気力を失っていくことが、何よりも辛かった。

 何とかしたかった。何でもやった。

 珠世がこの世に留まってくれるように、何でもやったのだ。

 

『やめなさい』

 

 珠世は、何度もそう言った。

 愈史郎は聞かなかった。

 我ながら本末転倒だとは思うが、他にどうすれば良いかわからなかったのだ。

 いや、もはや憎まれても構わないとさえ思ったのだ。

 

『愈史郎』

 

 と、あの人に呼ばれさえすれば、それで良かった。

 それ以外に、求めるべきものは何も無かった。

 けれどある日、珠世は愈史郎の前から消えた。

 

 感覚でわかるので、死んだわけではないことは理解していた。

 だから、嫌でも思い知らされた。

 珠世が、自らの意思で自分から離れたのだということが。

 

『珠世様』

 

 探した。もちろん、探した。

 それ以外に、やることはなかった。

 けれど、見つからなかった。

 感覚でわかるからか、自分が近くまで行くと、必ず珠世の側から離れたのだ。

 

 だから、会うことさえ出来なかった。

 それを何年も、何年も何年も繰り返して、そして。

 あの日、珠世の死を、直にではなく、やはり感覚で知った。

 

『珠世様アアアアアアァァァッッ!!』

 

 ――――何故。

 何故ですか、珠世様。

 どうして、俺を置いて、逝ってしまったのですか。

 何故。どうして。

 教えてください。珠世様――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 右手の手首から先が、()がれた。

 その傷口――というには、滑らか過ぎる断面――を押さえて、愈史郎は膝をついた。

 

「うおおおおおおおおおおおっっ!?」

 

 今も傷口を焼かれているような灼熱感に、愈史郎は叫んだ。

 右手は、しかも、()()()()()

 愈史郎は鬼だから、どんな負傷もすぐに癒える。

 頭を吹き飛ばされたところで、死ぬことは無いのだ。

 

 その時、掌が焼けた。

 傷口を押さえていた左の掌が、音を立てたのだ。

 右手の断面、そして左手に、赤黒い液体が付着していた。

 それが傷口を焼き、さらに肌に焼いていたのだ。

 血だ。愈史郎はすぐに気付いた。しかし、愈史郎自身の血ではない。

 

「な、何だァこれはアアアアアアァァァッ!?」

()()()()()()

 

 先程から、ずっと吐き出していたものだ。

 血鬼術。文字通り、血を操った。

 そして煉獄瑠衣の血とはすなわち、()()()そのものだ。

 体内を焼かれる苦痛に、愈史郎は襲われた。

 

「な、何故」

 

 何故、自分の毒が効かないのか。

 分解されたのか。いや、そんなはずはない。

 ダミーの成分も含めて調合し、あの鬼舞辻無惨でさえ、すぐには分解できない造りになっている。

 それをこんな短時間で分解するなど、不可能なはずだ。

 

「何故って」

 

 微笑みさえ浮かべて、瑠衣は言った。

 

()()()()()()()()()

 

 あえて言おう。愈史郎の薬品()は完璧だった。

 投与した相手が鬼舞辻無惨とその系譜の鬼であれば、十分な効果を発揮しただろう。

 しかし彼は、知らなかった。何故ならば、関心が無かったからだ。

 

 煉獄瑠衣という患者に、興味が無かったからだ。

 

 だから、知らなかった。気付くことが出来なかった。

 瑠衣が()()()()()()()()()()()()()、気付くことが出来なかった。

 鬼化を加速させても、鬼化細胞を増殖させても、それは()()()()でしかない。

 その事実に、今この時になって、愈史郎はようやく理解が及んだのだった。

 

「ああ、なるほど」

 

 ペロ、と舌先で指先を舐め取りながら、瑠衣は言った。

 

「自分でも、そのお薬を投与していたんですね」

 

 同じものではない。希釈(きしゃく)したものだ。

 それでも、太陽を克服するまで己を()()させるには、十数年以上の時間がかかった。

 すべては、瑠衣への復讐のためだった。

 それが、こんな形になるとは思っていなかった。

 

「あの人は、貴方のことは教えてくれませんでしたから」

(珠世様)

 

 珠世は、気付いていたのだ。

 だから「諦めろ」と言ったのだ。無駄だとわかっていたから。

 自分は最後まで、珠世のことを理解していなかった。

 

「ああ、そうそう。1つだけ教えてくれませんか?」

 

 そんなことにさえ、自分はわかっていなかったのだ。

 

「珠世さんの人間返りの薬は今、誰が持っているんですか?」

 

 だけど。

 

「貴方に青い彼岸花を渡した親切な人は、今どこにいるんですか?」

 

 それでも、と、愈史郎は思った。

 たとえ、そうだとしても。

 どれだけ自分が愚かで、珠世の想いさえ理解できていなかったのだとしても。

 ()()だけは、間違いない。

 

「誰が教えるか。馬鹿が」

 

 間違いないと、そう言える。

 その確信だけは、揺らがなかった。

 最期まで、揺らぐことはなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「帰った方が良いわ」

 

 と、禊がいきなりそう言うのを、炭彦は聞いた。

 その頃にはお茶もなくなり、おにぎりも食べ切ってしまっていた。

 クリニックは、もはやただのボロ屋にしか見えなかった。

 まるで、夢でも見ていたかのようだった。

 

 実際、夢と言われた方がまだ納得できただろう。

 だが炭彦の目の前には、現実が広がっていた。

 犬人間が、いや鬼がいたことも現実だし、父と兄が奇妙な活動をしていたことも現実だった。

 いくら寝ることが好きな炭彦でも、それは否定のしようが無かった。

 

()()()はいちいち()()なんて見ないけれど、それでも、見つかったらしつこいわよ」

 

 警告、なのだろう。多分。

 良くはわからないが、そうなのだろうと思った。

 

「親切なのね」

「は? その顔で話しかけないでよ。地味にムカつくから」

 

 ただ、口はひどく悪かった。

 もっとも、言われたカナエ本人は相変わらずニコニコと笑っていたが。

 

「わたしは別にアンタ達がどうなろうと知ったことじゃないわよ。ただあんまりにも何もわかっていないみたいだから、()()()言ってあげただけよ」

 

 やっぱり親切なんじゃないか、とは、誰も口にしなかった。

 ただ、榛名はクスクスと笑い声を上げていた。

 ジトりとした目で禊に睨まれても、肩を竦めて見せるだけだった。

 

「私としては、もう少し話をしたいのだけれど」

「はあ? 知らないわよ、そっちの都合なんて。それに、さっきも言ったでしょう。妻子持ちの営業さん」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 先程の言葉をそのまま繰り返して、禊は言った。

 

「それではさようなら、()()()()()()()()()()。次はお店で会いましょう?」

 

 ブルーシートが、風も無いのに舞い上がった。

 わ、と誰かが驚いて、そちらに目が向いて、そして視線を戻した時には、禊達はいなかった。

 忽然(こつぜん)と、という言葉が当てはまる。それくらいに、あっさりと消えてしまった。

 そして、やはり誰かが「はあ~」と息を吐くのを聞いた。

 

「やれやれ、とんだ怪物揃いだなあ。あれは」

「おじ様も負けていませんでしたよ~」

「いやあ、私は全然。本当、荒事は苦手だから……」

 

 父とカナエの会話も、炭彦には良くわからない。

 そうやっていると、困惑が伝わったのか、炭吉がこちらを見て来た。

 父さん。そう呼ぶ声が、どうしてか口から出せなかった。

 そんな炭彦を見て、炭吉は照れたように頭を掻いて、言った。

 

「帰ろうか。母さんが心配している」

 

 うちに帰ろう。

 そんな当たり前のことに、何故だろう。

 何故か、ひどく安心する自分がいて。

 炭彦の目尻から、涙が零れたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――珠世クリニックは、愈史郎が作り出した偽物だった。

 心優しい女医「珠世先生」は、皮一枚を被った愈史郎だった。

 クリニックの建物もそれらしく見せていただけで、実際はボロ屋だった。

 それもこれも、血鬼術でそう錯覚させていただけだ。

 

「バウッ、バウッ」

「にゃあ」

 

 ただ2つだけ、いや、2匹だけ、本物があった。

 それは長く、本当に長い間、愈史郎と共に在った者達。

 茶々丸と、コロだった。

 瑠衣が出現したと同時に、彼れは愈史郎の血鬼術で姿隠しを――茶々丸は注射器を撃ち込んだ後になるが――施された。

 

 しかし今は、2匹とも姿を見せて路地裏を駆けていた。

 愈史郎が死に、彼の()()をもって、彼の血鬼術も消えてしまったからだ。

 そしてこの賢い2匹は、愈史郎も死をしっかりと理解していた。

 それを理解した途端、クリニックという名のボロ屋――それでも、彼らの「家」ではあった――を脱出した。

 

「……………………」

 

 どれくらい、駆けていたのだろう。

 何か感じるものがあるのか、他の野良猫・野良犬の類は2匹に近寄ることは無かった。

 人間も、近付いては来なかった。

 そうしている内に、2匹はある場所で立ち止まった。

 

「にゃあ」

 

 と、茶々丸が何度か鳴くのを、コロが尻尾を振りながら見ていた。

 揺れる尻尾の毛先は、どこかしんなりとしている。

 ただ、茶々丸と並んで()()を見上げていた。

 

「……………………」

 

 路地裏の闇の中から、白い2本の腕が伸びて来たのは、そんな時だった。

 左右の腕が2匹の頭にそっと触れて、同じくそっと撫でる。

 2匹は、それを受け入れていた。

 白い腕を這うように垂れたのは、黒い和服の袖だった。

 黒い着物の、若い女の腕。

 

「……………………」

 

 やがて、その腕は2匹を抱き上げた。

 抱き上げるために、女の頭が路地裏の闇から出て来る。

 波打つ、鴉の濡れ羽色の、豊かな黒髪が、さらりと流れた。

 

「バウッ」

「にゃあ」

 

 と、茶々丸とコロの鳴き声が、路地裏に響いた。

 それに応じるのは、ふん、と頷く女の吐息だけだった。

 他には、その路地裏には何も無かった。何者も、存在していなかった。

 

 衣擦(きぬず)れの音がした。

 茶々丸とコロを抱いた着物の女が、闇の中に消えていった。

 そうして、静かになった。

 静かになった後には、やはり、何者もいなかった。




最後までお読みいただき有難うございます。


あ と ひ と り


それでは、また次回。


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第75話:「暗転」

 ――――飢餓を覚えたことはあるだろうか?

 飢餓とは、単なる空腹とは違う。

 空腹は、()()()()()()()()

 

 ねえ、今日のご飯は何?

 

 などと問う余裕のある状態を、その状況を、飢餓とは呼ばない。

 飢餓とは、けして人に耐えることができないものなのだ。

 そもそも、人間はまず()()()()()()()()()()

 何故か。人間は、この地上で最強の()()()()()()()()

 

「それにしても」

 

 人間は、何でも食べる。

 普段もそうだし、空腹が進めばそれこそ()()()食べる。

 いったいこの世に、他に人間に勝る食い汚さを持つ存在があるだろうか。

 

 あらゆる動物の肉を喰い、あらゆる魚の身を喰い、何百種もの植物や昆虫を喰く生き物が、存在するだろうか。

 木の根を齧り、石や土でさえ食べ、()()()さえして、生きようとする生き物が、存在するだろうか。

 そんな人間が飢餓に陥る状況は、そもそもがかなり限られるのだ。

 

「前回と言い、今回と言い……碌な食事ではありませんでしたね」

 

 しかし、彼女は間違いなく飢餓に陥っていた。

 見た目は、平然としているように見えるだろう。

 だから彼女の傍を通り過ぎる誰もが、彼女の状態に何も気付くことはない。

 その危険性に、気が付くことが出来ない。

 

「嗚呼……」

 

 飢餓に陥った人間は、()()()()()()()()()

 お腹と背中がくっつきそう、という表現があるが、言い得て妙である。

 背中とくっついて胃がなくなってしまえば、空腹は消えてしまうだろう。

 

 だがもし、もしもだ。

 そんな状態の人間に、ごく少量の、中途半端な食事を与えればだうなるだろうか。

 飢餓が癒され、空腹を思い出すだろうか。

 違う。逆だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「お腹が空いたなあ」

 

 それは、空腹を訴える言葉。

 しかし一方で、他に表現がないが故に出て来る言葉だ。

 だから同じ言葉を口にしていても、意味は全く異なるのだ。

 

「嗚呼」

 

 彼女は、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 人間のように、何でも食べ(雑食)て飢えを凌ぐ、ということが出来ないのだ。

 だから、危険だった。

 

()()()()()()()()

 

 煉獄瑠衣という存在は、余りにも危険な状態だった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実を言うと、炭彦は兄弟喧嘩というものをしたことが無かった。

 まず炭彦はそういう性格ではないし、カナタも素直ではないだけで基本的に心優しい性格なので、揉めるということ自体が余り無いのだ。

 だからこれは、ほとんど初めての経験だと言って良かった。

 

「あ、カナタ。一緒に……」

「……先に友達を約束してるから」

 

 放課後に声をかけても、返って来るのはやんわりとした拒絶だった。

 これまでなら、仮に断られるとしても「友達も一緒だけで良い?」とか「明日なら」とか、そういう答えが返って来たものだ。

 しかし今はそれもなく、遠ざかって行くカナタの背中は暗に「話しかけるな」とこちらに伝えて来ていた。

 

「うう……」

 

 珠世クリニックでの出来事から、すでに1週間が経っていた。

 しかしこの1週間の間、炭彦はカナタとまともに会話をすることが出来ていなかった。

 話しかけても、今のように拒まれてしまうのである。

 

 これには、さしもの炭彦も落ち込まざるを得ない。

 何しろ2人は部屋も一緒なのである。

 とは言え、この1週間のカナタは自室で過ごすことが少なく、しかも炭彦よりも遅く寝て早く起きるため、徹底的に炭彦のことを避けているのである。

 もう一度いうが、カナタは炭彦を徹底的に避けているのだった。

 

「こういう時、どうすればいいんだろう」

 

 何しろ兄弟喧嘩などしたことがないので、喧嘩の収め方、つまり仲直りのやり方がわからない。

 いや、喧嘩、というのとも違うような気もする。

 現状は、カナタが炭彦から一方的に距離を取っている形だ。

 双方向ではない。喧嘩とは言えないのかもしれない。

 最も、喧嘩ではなかったとしても、今の炭彦には何の慰めにもならないのだが。

 

「あら」

 

 その時だ。聞き覚えのある声が聞こえて来た。

 

「どうしたんですか、炭彦君。そんな道端に蹲って」

 

 しのぶだった。

 炭彦が通学路で「うーんうーん」と頭を抱えているのを見かけて――なかなかにシュールな絵だ――話しかけてくれたのだ。

 そしてしのぶは、絵に描いたようなウルウルとした炭彦の眼差しを正面から見ることになった。

 

「あらあら。かわいいお顔が台無しですね」

 

 炭彦の傍にしゃがんで、取り出したハンカチで顔を拭った。

 そうやってから、しのぶはにっこりと微笑んで。

 

「炭彦君。今から時間ありますか?」

「え?」

「私とひとつ、デートというものをしてみましょう」

 

 ぱちん、と、ウインクして見せたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 一度来てみたかったんですよね。

 そう言ってしのぶが炭彦を連れて来たのは、いわゆるタピオカの店だった。

 最近の流行に漏れず、キメツ学園の女子生徒の間でも流行っているらしい。

 ただ、しのぶはそういう流行に乗る方ではなく、興味はあっても行くことは無かったのだと言う。

 

「わあ、ストローが大きいんですね。このタピオカ? が通るようになっているんですね」

 

 行列はなかなかのもので、1時間ほど並んでようやく購入することが出来た。

 当然ながら、炭彦もタピオカドリンクなるものを飲んだことは無かった。

 不思議な味。不思議な食感だった。冷たくて、甘くて美味しい。

 

 ただ、炭彦が知る限り、しのぶはこの手の買い食いはしないタイプだ。

 タピオカや甘味に目がない、という話も聞かない。

 人の心の機微(きび)に疎い炭彦も、流石に気を遣われていることに気付いていた。

 

「カナタ君と喧嘩中なんですか?」

 

 不意に、そう言われた。

 

「どうなんだろう。良くわからなくて」

「なるほど。先週のことですね?」

 

 しのぶの方に目を向ける。

 ただしのぶは正面を向いていて、炭彦に視線を向けることはなかった。

 

「わかります。私も姉さんと絶賛喧嘩中なんです」

「え……」

 

 素直に、驚いた。

 カナエとしのぶの仲良しぶりは良く知っていたし、しのぶの(カナエ)好きは近所でも有名だ。

 だから、喧嘩をしているというのは驚いた。

 

「だって、姉さんったら何にも教えてくれないんです。炭彦君のお父さんやカナタ君と何をしているんですかって聞いても、「しのぶにはまだ早いと思うわ~」なんて言うんです」

「ふふ」

「あ、何を笑っているんですか」

 

 カナエも声真似が余りにも完璧だったので、思わず笑ってしまった。

 しのぶも口では注意めいたことを言っていたが、声音は柔らかだった。

 

「だから炭彦君も、良いんですよ。もっとたくさん、言いたいことを言っても」

 

 そこでやっと、しのぶは炭彦と目を合わせた。

 

「言っても聞いてくれないなら、手を出しちゃいましょう」

「え、いやそれはダメなんじゃ」

「ちゃんと言ってくれない方が悪いんですよ。こうですよ、こう」

 

 しゅっしゅっ、と腕を振って見せるしのぶに、炭彦はまた笑った。

 いつの間にか、炭彦は素直に笑えるようになっていた。

 それからしばらく、しのぶと炭彦は兄姉の「悪口」を言って過ごした。

 

「……よもや!」

 

 なお、その時の様子を桃寿郎に目撃されていて、あらぬ誤解が生じてしまったのだが。

 それはまた、別の話である。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 一方のカナタだが、まるきりの嘘を吐いたというわけでは無かった。

 強いて違う点を挙げるとすれば、帰宅の約束ではなく逢瀬(デート)――尤も、この表現は(もっぱ)ら相手が使うのがだ――の約束だったこと。

 そして相手は友達ではなく、胡蝶カナエであった。

 

「今日は何だか元気がないのね」

「え……」

 

 開口一番にそう言われて、カナタは顔を上げた。

 そこには、心配そうに眉根を寄せたカナエの顔があった。

 半地下にある、いわゆる隠れ家的な喫茶店だった。

 

 流行りのものは何もなく、頼むものと言えばブレンドコーヒーくらいの店だ。

 ただ静かで人目も少ないので、カナタは気に入っていた。

 とは言え、カナエほどの美人が来ると嫌でも視線を集めてしまうのだが。

 

「炭彦君と喧嘩でもしたのかしら?」

 

 そんなにわかりやすいだろうか、と、カナタは自分の顔にぺたぺたと触れた。

 そしてそんな反応を示すこと自体が、「図星だ」と相手に教えることになると気付いて、次には仏頂面になった。

 おかしかったのか、カナエはそんなカナタを見てクスクスと笑った。

 

「実はうちも喧嘩しちゃって。家に帰り辛いのよ~」

 

 聞けば、しのぶはより直接的に「危ないことをしているんじゃないのか」と聞いて来たらしい。

 そのあたり、しのぶははっきりとしている。

 必要とあればオブラートにも包むし、猫も被る。

 ただそれは必要だからそうしているというだけで、逆に言えば、必要がなければしないということだ。

 そしてしのぶにとって、カナエは「しなくていい」相手だったわけだ。

 

「それで、どうしたの」

「う~ん。はぐらかしてたら怒っちゃった♪」

 

 てへ、と自分の頭を小突いて舌を出す様は、それはそれは可愛らしかった。

 可愛らしかったが、それで何もかもが誤魔化せるわけではないのだった。

 

「でも、困っちゃったわねえ」

 

 小突いた手をそのまま頬に当てて、カナエが溜息を吐いた。

 

「おじ様は、どうするつもりなのかしら」

 

 実際のところ、カナタとカナエの悩みは、自分では判断がつかない、という点にあった。

 もちろん、弟妹に危ないことをしてほしくない、という思いもある。

 しかし事ここに及んでしまった以上、()()()()()、という悩みは生まれる。

 だからこそ炭彦やしのぶとの距離感に悩み、いわば()()に陥ってしまうのは、とどのつまりはそれが理由だった。

 

「父さんは……」

 

 そして、カナタは思い出していた。

 昨日の夜に展開された()()()を。 

 ただし、それを思い起こしていた時のカナタの表情は、何と表現するべきか。

 それまでの深刻そうな表情から一転して、酷く微妙な表情を浮かべたのだ。

 何というか、今にも頭を抱えそうな、そんな顔をしていた。

 ――――余り、大差なかったかもしれない。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 夕食の席だった。

 

()()()()()()()()()()()()()()

 

 この言葉には様々な()()を生じる要素があるものの、それ自体は珍しい発言ではない。

 世の中にそういう店があり、そういう店に行く客層がいる以上、その台詞は日本のどこででも聞ける類のものだろう。

 だからカナタも、発言自体を問題視するつもりは無かった。

 何よりも、()()()()()を理解していた。

 

「……え?」

 

 ただ、問題があった。看過し得ない大きな問題があった。

 それは、発言の主が父であり。

 その父の冒頭の発言を聞いた相手が、母だった、ということだ。

 

「ごめんなさい、あなた。良く聞こえなかったわ。もう一度言ってくださる?」

 

 そんな母の言葉に、父である炭吉は快く頷いた。

 非常に不味い事態だ、と、カナタは思った。

 何故かというと、聞こえているのにあえて聞き返すのは、母の()()だからだ。

 ()()()()()()()()()

 

「キャバクラに行きたいのですが」

 

 そして見事に、炭吉は母の手順を守った。

 この時点で、カナタは天を仰いだ。

 ちらと見やれば、炭彦も箸を取り落としていた。

 

「そうですか」

 

 母の声は、平坦だった。

 

「あなた」

「うん」

()()()()()()()()()()

 

 どこからか取り出したる包丁。

 母はそれを、躊躇なく振り下ろした。

 

「ちょ」

 

 と、炭彦が悲鳴を上げるよりも先に、炭吉の両手が包丁の刃を挟んで止めていた。

 いわゆる白羽取りというものだが、そんな絶技も目の前の光景のインパクトが大きすぎて、まったく意識に入って来なかった。

 なお、当の炭吉はこのような状況下でも表情を変えていなかった。

 

「か、カナタ! どうしよう!?」

「…………ちょっと待って」

 

 額の真ん中あたりを指の背で押さえながら、カナタは目を閉じた。

 物理的に頭が痛い。

 父の真意がわかっているからこそ、余計にそうなってしまう。

 炭吉が言いたいのは、先日のあの集団――禊達の店に行く、ということだろう。

 

 しかし女の子がいるお店――言い方がどうしても妖しくなってしまうが――に行く以上、()に言わずに行くのは誠実では無い、と考えたのだろう。

 それは誠意ある対応なのかもしれないが、余りにも正直に過ぎる。

 その正直さが、今は最悪の結果をもたらしていた。

 

(仕方ない。気は進まないけれど、ここは俺が)

 

 何とかしないと、と顔を上げると。

 

「も、もう。それならそうと言ってくれればいいのに」

「うん。ごめんね」

 

 何故か、父と母が抱き合ってイチャイチャとしていた。

 炭吉が母の肩を抱き、母が顔を赤らめてもじもじとしている。

 先程の修羅場はいったいどこに行ったのか。

 そんな目の前の光景に対して、カナタは言った。

 

「いや、そうはならないでしょ!?」

 

 なった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「良いんじゃないかな。話をしてしまって」

 

 そしてその父は、カナエとカナタの悩みにも一瞬で結論を出してしまった。

 それはもう、あっさりと決めてしまった。

 ここまで悩んでいたのは何なのだ、と思ってしまう程だった。

 

「2人が何もしらないならまだしも。ここまで()()()になってしまったのなら、何も知らない方が危ないよ」

「まあ、そうかもしれないけど」

「僕がきちんと説明できれば良かったんだけど。ノルマを達成しないと鋼鐵塚さんが怖くてね……」

 

 今の時代、包丁の営業は大変である。

 鋼鐵塚ブランドの包丁は切れ味は抜群だが、職人技頼りのため生産量が少なく、高価である。

 一部には根強いファンがいるものの、しかしそれは現代の包丁に求められるものでは無かった。

 なので朝から晩まで脚で稼ぐ必要があり、体力的にはともかく、なかなか他に時間を割くことも難しく。

 

 閑話休題。

 

 前回はすでに夜が明けていたので、話をする時間がなく、他の日は仕事が忙しく、炭吉が今日まで時間を取ることが出来なかったのだ。

 仕事の時間は削れないので、後は睡眠時間くらいしか削ることが出来ない。

 まあ、後者の方は()()()()でさらに減ったわけだが、それは息子(カナタ)の立場から言えることでは無かった。

 

「ごめんね」

 

 ただ、そう素直に謝られてしまうと、カナタも何も言えなくなってしまう。

 大人は自由に時間が取れないということを、彼はきちんと理解していた。

 そのあたりが、カナタが同年代に比して聡すぎると言われる所以(ゆえん)かもしれない。

 そしてそれは、そのままカナエにも当て嵌まることだった。

 

「とにかく、事ここに及んでしまった以上は、2人にもきちんと話をしないといけないね」

 

 なんだかんだと言っても、自分はまだ子供である。

 炭吉がそう言ってくれて、安堵している自分を発見すると、カナタはそう思うのだった。

 

「大丈夫。任せて。2人には僕から話をするからね」

「うん。それは有難いんだけど」

 

 ただ、やはりカナタは聡かった。

 この問題の「そもそも」の要因について、彼はしっかりと理解していたのだ。

 というより、誰がどう見てもわかるだろうという話だった。

 

「父さん、みんなで話をする時間って言うけどさ。次はいつになりそうなの」

「…………ええと、手帳はどこにあったかな」

 

 そもそも、そんな時間があれば、こんなことにはなっていないのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鬼という生き物。

 鬼狩りと呼ばれる人々。

 そして、鬼殺隊という集団のこと。

 

 炭彦が、炭彦としのぶが炭吉から聞かされたそれらの名前は、もちろん、ほとんど初めて聞くものばかりだった。

 というより、現実感のある話とは入って来なかった。

 時代劇というか、映画というか。そういう()()()()のような感覚だ。

 

「まあ、その感覚は間違っていないね」

 

 竈門家の修羅場から数日後、炭彦はしのぶやカナエ、カナタと共に喫茶店にいた。

 カナタとカナエが使っていた、半地下の隠れ家カフェである。

 5人掛けの大きなテーブルを囲んで、炭彦達は炭吉の話を聞いていた。

 なお当の炭吉は以前にもまして頬がげっそりとしており、疲労の色が濃かった。

 これは仕事でも家庭でも()()をした結果なのだが、それは子ども達に出来る話ではなかった。

 

「何しろ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「え、そうなの?」

「うん」

 

 以前にも述べたが、鬼狩りや鬼殺隊という話は、竈門家と胡蝶家の長男長女にしか伝えられていない。

 そしてその方法は、()()()()()

 長男長女たる父親あるいは母親が、自分の子供の第一子に口伝えで教えるのである。

 

「……そっか」

 

 そこまで聞いて、炭彦はようやく得心がいった。

 カナタがどうして頑なに自分に話そうとしなかったのか、わかった気がしたからだ。

 そして、恥ずかしくなった。

 自分は、カナタが、父と自分の板挟みになっていたことにも気が付いていなかったのだ。

 そのカナタは、自分と目を合わせようとはしていなかった。

 

「以前は……と言っても、もう何十年も前だけれど。他にもいくつか、伝えている家はあったよ。でも、時代なんだろうね。今ではほとんどなくなってしまった」

 

 口伝の内容も、随分と()()なってしまったらしい。

 竈門家や胡蝶家でさえ、今では「昔は鬼がいて、鬼殺隊という集団が討伐していた。自分達はその末裔だ」という言葉が伝わっているだけだ。

 そして、先祖代々残された宿()()だけが、辛うじて伝わっていた。

 

「宿題……?」

「うん」

 

 その時の父の瞳には、その奥に、不思議な光が揺蕩(たゆた)っているように見えた。

 

「ある鬼を、討伐すること」

「討伐……」

 

 討伐。穏やかではない響きだ。

 それが意味するところがわからない程、炭彦も鈍くは無かった。

 鬼を討伐する。

 つまり、()()ということだ。

 

「それは、誰のことですか?」

 

 そう聞いたのは、しのぶだった。

 ここで聞けてしまうというのが、しのぶという少女だった。

 

「うん」

 

 それに対して微笑みながら、炭吉は言った。

 ()()()()()、口にした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 二段ベッドの天井を、じっと見つめていた。

 思い返していたのは、父の話だった。

 何となく、その後は会話も無かった。

 

『鬼殺隊の最後の討伐対象。その名は、()()()()だ』

 

 そう聞いた時、不思議と驚かなかった。

 どうしてか、その名前が出るだろうとわかっていた気がする。

 胸にストンと落ちて来たような、奇妙な納得感さえあった。

 

「カナタ、起きてる?」

 

 天井に向かって、ぽつりと呟いた。

 起きていたとしても、聞こえるかどうかわからない。小さな声だ。

 話しかけたかったというより、声をかけてみたかった、という方が正しい。

 

 そして実際、返事は無かった。

 むしろ返事がなくて、ほっと息を吐いた。

 聞かれていないと()()()、素直に言葉を発することも出来る。

 だから、炭彦はそのまま言葉を続けた。

 

「ねえ、カナタ。ごめんね。いつも迷惑をかけて」

 

 いつも、そうだった。

 寝坊助な自分に、カナタはいつも声をかけてくれた。

 表情が薄く、言葉も少ない。

 なまじ容姿が整っているから、初対面の人間は誤解しがちだけれど。

 

 カナタはとても、面倒見が良いのだ。

 家族にも友人にも、いつも心を砕いているのだ。

 それを良く知っていたから、距離を取られても「悲しい」と思うだけで、怒りは覚えなかった。

 まあ、それは炭彦が怒りを(あら)わにする対応ではなかったというのもあるだろうが。

 

「それでも、僕はね」

 

 それなのに、自分はいつも、カナタの望む通りには出来ない。

 甘えだとわかっていても、カナタならと思ってしまう。

 カナタならきっと、わかってはくれなくても、尊重してくれるとわかっているから。

 

「瑠衣さんが悪い人だとは、思えないんだあ」

 

 瑠衣が普通の人間ではないことは、実はわかっていた。

 わかっていて、気にしないようにしていただけだ。

 少しでも一緒にいたいと、思っていたからだ。

 そして、こうして事実を突きつけられても、気持ちは変わらなかった。

 

 気になっていたのは、別のことだ。

 自分はそうやって瑠衣の傍にいたけれど。

 瑠衣の方は、どういう考えで自分と一緒にいてくれたのだろう。

 そう、思わずにはいられなかった。

 

「…………」

 

 そしてこの時、カナタは起きていた。

 もちろん、炭彦の声も彼の耳に届いていた。

 起きていて、そして何も言わず、身じろぎもせず、そうしていた。

 何も、言わなかった。いや。

 ――――言えなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

()()()

 

 そして、確かに、と彼女は繰り返した。

 煌びやかでありながら、シックな造りの高級酒場(バー)

 そのカウンターを独占して店の酒に手をつけていた彼女は、店に入って来た面々を見て、呆れたような顔をした。

 というか、呆れていた。

 

「確かに、私は言ったわよ。次はお店で会いましょうって」

 

 あの、珠世クリニック前のお茶会の場で。

 別れ際に、確かにそういうことを言った。

 

「でもねえ、本当に来るとは思わないじゃないの」

「いやあ。せっかくのお招きだったもので」

「安くないわよ。うちの店」

 

 うっ、と言葉に詰まる相手にクスリと笑って、彼女――禊はカウンターから立ち上がった。

 そして綺麗に背筋を伸ばすと、ドレスの端をつまみ、僅かに頭の位置を下げた。

 所作は完璧。容姿は美の一言。それでいて、纏う空気はどこか妖しい。

 まとめて、妖艶。

 妖艶という言葉の化身とも言うべき女が、目の前に立っていた。

 

()()()()()()()()。どうか今宵は俗世を忘れて、癒しのひと時をお過ごしくださいませ」

 

 来店客――炭吉の名誉のために言っておこう。

 彼は妖艶かつ煽情的な禊の姿を見ても、ぴくりとも反応しなかった。

 妻に対して、何ら恥じ入るところは無い。あえてそう断言しよう。

 

 しかし、炭吉に同行している人間はそうでは無かった。

 何しろ、こちらはまだ()()()()していない。

 この手の店に入るのも初めてのことで、場慣れもしていない。

 それがいきなり最上級の()()を前にすれば、舞い上がってしまうのは当然だった。

 

「って」

 

 もっとも、顔を赤くしていたのは炭彦だけだったが。

 カナタは――女性に非常に人気がある――もとより、女性で、自らも美人の部類に入るカナエとしのぶも、禊を前にして照れるということは無かった。

 むしろ、しのぶなどは「姉さんの方が美人ですけど。何か?」という態度を隠そうともしていなかった。

 そういう態度に対して、禊は片眉を上げた。

 

「その(ツラ)で睨まれるとイラつくわね……」

「え?」

「こっちの話よ。気にしないで」

 

 綺麗な顔でそう言って、禊は腰に手を当てた。

 そして、改めて来店した面々を見つめて。

 再び呆れた顔をして、言った。

 

「というか、子どもを連れてくるんじゃないわよ。無いの、常識」

 

 このドがつく程の正論に対して、炭吉はぐうの音も出なかったという。




最後までお読みいただきありがとうございます。

PCが急にアップデートが始まって困りました。
投稿をもっと早くできるようにしないとですね~。

それでは、また次回。


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第76話:「落とし前戦争」

 ()()()()()()()()()

 それは、人類史に残る二度の世界大戦――()()()()

 規模は小さく。ひっそりと、日本の片隅で行われた戦い。

 しかしその戦いは、人類史上のどの戦争よりも、人類の未来にとって決定的な意味を持っていた。

 

 剣戟。そして白刃の閃き。

 交錯するそれが響き合う音は、一度ではなく、また一つでは無かった。

 幾重もの一瞬。それは夜の暗闇の中で何度も繰り返された。

 そしてその中で、一際強い輝きを放つものがあった。

 

「今から、貴女の頚を斬ります。瑠衣さん――――!」

 

 ――――日の呼吸・陸ノ型『日暈(にちうん)の龍・頭舞(かぶりま)い』。

 紅く()()()斬撃が、夜を照らす。

 それはまさに、地平線から昇る日輪の如き輝きだった。 

 

「いきなり王手は無いよねえ」

 

 ――――水の呼吸・参ノ型『流流舞い』。

 『頭舞い』の攻撃点に合わせるように、別の斬撃は滑り込んで来る。

 だがそれは、()()()()()()()()()()()

 犬井の『流流舞い』を、冨岡が同じ速度の『流流舞い』で打ち払ったのだ。

 

 ――――恋の呼吸・陸ノ型『猫足(ねこあし)恋風(こいかぜ)』。

 ――――蛇の呼吸・伍ノ型『蜿蜿(えんえん)長蛇(ちょうだ)』。

 その間に、別の斬撃が()()を包囲する。

 前者が絡め取り、後者が追い討つ。

 

 ――――空の呼吸・壱ノ型『空裂(からざき)』。

 それを縦に裂いたのは、戦場を横断した回転斬りだった。

 そして包囲の斬撃を巻き取った後、榛名は太い木の幹に着地し、その反動でさらに跳ぼうとして。

 

「ド派手に沈みなあ!」

 

 ――――音の呼吸・壱ノ型『轟』。

 爆発の斬撃が、頭上から襲って来た。

 それは周辺の木々を巻き込む程の攻撃で、その場に爆風と土煙が充満する程だった。

 

「……!」

 

 時透と斬り結んでいた柚羽が、助けに向かう素振りを見せた。

 その肩先に、まるで体重が無いかのように舞い降りる者がいた。

 

「貴女の相手はこちらですよ」

 

 ――――蟲の呼吸・蝶の舞『戯れ』。

 毒の刺突。

 その速度は、人間の思考速度を上回るには十分すぎた。

 

「あっはあ!」

 

 ――――欺の呼吸・真一ノ型『器械人形』。

 分割。加えて、鋼糸による操作。

 禊が左右の掌を握り、鋼糸を引くと六分割された短槍は柱達の眼前を跳び、そして。

 そして、標的を追う炭治郎へと向かった。

 

「良いわね、チョー最高! 王手を(こう)潰す(いう)の、本当に好きよ!」

「させるかよお!」

 

 ――――獣の呼吸・伍ノ牙『狂い裂き』。

 ――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃』。

 その短槍を、炭治郎を守って撃ち落とす。

 しかし攻撃時間が長すぎて、当の炭治郎の速度が伸びない。保たない。

 

「バテてんじゃねぇぞォ!」

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』。

 標的の退路を塞ぐ形で、突撃が来た。

 

「チィッ!」

 

 ――――雷の呼吸・伍ノ型『熱界雷(ねつかいらい)』。

 上から来る突撃を、下から獪岳が迎撃した。

 体重を乗せている分、不死川の方が有利だった。

 が、押し留めている間に標的は射程圏から逃れてしまう。

 だが、それでも構わなかった。

 

「瑠衣さん……!」

 

 炭治郎の攻撃は、結局、届かなかった。

 日輪の斬撃が終わり、そして。

 

「あ」

 

 陽光の化身から逃れて、振り向く。

 そこには、別の、もう一つの輝きがあった。

 それは、太陽では無い。

 しかしその熱さは、激しさは、余りにも眩しい。

 燃えるような髪色のその男は、まさに、()()()()()()()

 

「兄様」

 

 ――――炎の呼吸・玖ノ型『煉獄』。

 同時だった。轟音が響いた。それも二度続けて。

 1つは、男の――杏寿郎の踏み込みの音。

 そしてもう1つは、()()()()()()()()()()()()()

 

「――――兄様」

 

 かつて、戦争があった。

 その戦争は、世界で最も小さな戦争。

 それは誰もが知らぬ間に始まり。

 誰にも気付かれぬままに、終わったのだった――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――少し、時間を遡る。

 

「オラアアアアァァッ!!」

 

 その山は、紫桃色の光に満ちていた。

 藤の花。

 月光と星明りに照らされて、仄かに発光する紫桃色の世界。

 その世界を引き裂くように、白閃は幾重も走る。

 散った紫花弁が、一瞬の後に舞い上がり、桃紫色のカーテンのようになった。

 

 そこは九州のとある場所。とある山中。とある藤の花の樹海。

 山の名は、藤襲山(ふじかさねやま)

 かつて、鬼狩り候補生のための最終選別が行われていた場所だ。

 当然、鬼舞辻無惨の消滅と共に、山中に囚われていた鬼も消滅している。

 だから今では、無人の山だった。

 

「相変わらずですね、()()

 

 そんな山中に、人間の――ように見える――男女がいた。

 1人は、傷だらけの男。

 そしてもう1人は、黒い着物の女。

 男の手には深緑の日本刀が握られていて、刃の先端が揺らぐと白閃が放たれた。

 

「出会い頭にいきなり斬りかかるなんて」

 

 そしてその白閃のすべてを、女はかわしていた。

 もしもかわさなければ、胴から真っ二つになっていただろう。

 実際、そのまま斬撃を受けることになった山の巨木が、半ばから()()取られて倒れてしまった。

 巨木が倒れる轟音を背景に、師範と呼ばれた男は刀で己の肩を叩くようにしながら、言った。

 

「お前にも教えただろうが。鬼を見たら必ず殺せってよォ」

「見鬼滅殺、ですか。だから、前にも言ったじゃありませんか」

 

 女――煉獄瑠衣は、嘆息と共に言った。

 

「私は、鬼ではありません、って」

「やかましい。ゴチャゴチャと言ってるんじゃぁねェよ」

「ですから、師範」

「お前に師範なんて呼ばれる筋合いはねェ」

 

 3年。

 鬼舞辻無惨と鬼殺隊の戦争から、3年が経っている。

 瑠衣の記憶にある相手――不死川の容姿と比べると、知らない傷痕がいくらか増えていた。

 筋肉量が増えている。眼光も威圧感も、ぐっと鋭さも重さも増していた。

 

「はあ、取り付く島もありませんね。()()()()()()()()()()。ねえ……?」

 

 パンパンと着物の裾についた砂埃を払いながら、瑠衣は振り向いた。

 その視線の先に、とある少年が――髪も背も伸びて、もう青年というべきか――額に赤い痣のある青年が、いた。

 憂いを帯びた瞳が、瑠衣の視線とぶつかった。

 

「竈門君」

「瑠衣さん……」

 

 竈門炭治郎。

 運命の少年。

 鬼を滅ぼすべく、世界が送り出した存在。

 かつて、瑠衣はそう信じていた。それは決して、誤りでは無かった。

 そして、その運命の少年は。

 

「――――はいッ!」

 

 自分を討つことに、何の躊躇いも無いと、そう言っていた。

 

「そういうこった。()()()()

 

 この2人はかつて、と言ってもほんの3年前だが、犬猿の仲だったはずだった。

 それが今は、こうして共に瑠衣を討とうとしている。

 それほどに。

 それほどに、自分という存在が許されないのだと、そう言っているのだった。

 

「今日という今日こそ、()()()()()()()()()()()()()

 

 落とし前。

 それがこの戦いの目的であり、理由だった。

 

()()()()って、それは」

 

 全てに落とし前をつけるために、彼らは戦ったのだ。

 

「それは、()()()()()()()()()()()()

 

 だから、この戦いを生き残った者達は、後にこの戦いをこう呼んだ。

 ()()()()()()、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――()()()()・伍ノ型『陽華突(ようかとつ)』。

 繰り出されたその刺突に、瑠衣は目を見開いた。

 それは、瑠衣の記憶よりも遥かに速く、反応が遅れたためだった。

 

 そして、太陽()の呼吸。

 もしもこの一撃を受ける相手が並の鬼であれば、いや鬼舞辻無惨であっても、相当の威力を誇っただろうことは疑いが無い。

 ただそれは、相手がただの鬼であれば、の話だった。

 

(……! やっぱり……!)

 

 炭治郎が放った刺突は、途中で止まってしまった。

 

(刃先が、通らない……!)

 

 日輪刀の切っ先が、瑠衣の喉元に突き立ったままだった。

 突き立ったと言っても、肌一枚貫くことも出来ていない。

 そしてそれは、炭治郎の動きも止まってしまっていることをも示していた。

 

「う……!」

 

 日輪刀に瑠衣が手を伸ばすのが見えて、咄嗟に下がった。

 3年前の戦いで、瑠衣はその場にいる剣士達の日輪刀の大半を折り砕いていた。

 刀を折られてしまえば、鬼殺の剣士は戦えなくなってしまう。

 

「ああ、やっぱり。それは日輪刀」

 

 空を切った手指をそのままに瑠衣は言った。

 

「全部、折ったと思っていたのですが。さて、私の知らない隠し在庫でもあったのでしょうか」

 

 思い当たる節は、1つしか無かった。

 

()()()()()()?」

 

 唯一、生き残った刀鍛冶。

 彼ほどの才があれば、材料さえあれば、日輪刀を打つことは容易いだろう。

 そしてそんな瑠衣の言葉に、炭治郎は無言を貫いた。

 しかしながら、彼は相変わらず嘘が吐けない性格だった。

 

 炭治郎の表情を見て、瑠衣は笑った。

 その微笑だけは、あの時のままで。

 それが余りにも悲しいと、炭治郎は思った。

 

「変わらないですね、竈門君は」

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 そうしていると、左から横撃が来た。

 文字通り、嵐のような斬撃。

 不死川の気迫を叩き付けられるような攻撃は、瑠衣の身体を浮かせる程だった。

 

「師範も、変わらないですねえ……!」

 

 斬るというよりは、殴ると言った方が近い。

 それであれば、不死川程の膂力があれば、斬撃の衝撃そのものを利用してバランスを崩すくらいのことは出来る。

 相変わらずの、()()()()()だ。懐かしささえ覚える。

 そして。

 

「……!」

 

 ――――恋の呼吸・壱ノ型『初恋のわななき』。

 ――――蛇の呼吸・弐ノ型『狭頭(きょうず)の毒牙』。

 さらに懐かしい斬撃が、瑠衣の視界に入り込んで来たのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 3年というのは、十分な時間だ。

 悩み、考えるには十分な時間だ。

 そして、答えを出し、覚悟を決めるには、3年という時間は十分過ぎる時間だ。

 

「瑠衣ちゃん……!」

「これはこれは、恋柱様。まだ鬼狩りなんてやっていたんですか?」

 

 甘露寺蜜璃は、落とし前をつけねばならなかった。

 彼女にとって、煉獄瑠衣がどんな存在であったのか。

 それを語るのは、やや難しい。

 何故ならば、甘露寺は年上だが、剣士としては後輩だったからだ。

 

 妹のような存在であると同時に、姉弟子でもあった。

 そんな微妙な関係だったけれど、最初はそれでも、仲良しになれたと信じていた。

 そう()()()()()()()。いや、()()()()()()

 

(本当は、気付いてたの)

 

 瑠衣が、甘露寺のことを名前ではなく「恋柱様」と呼ぶようになったあの日。

 ()()()()()()()()()

 自分を見つめる瑠衣の瞳の中に、今までと違うものがあることに、本当は気付いていた。

 だけど、見ないふりをした。どうすれば良いのかわからなくて、目を逸らした。

 いつか何とかなると、努力を放棄したのだ。

 

「瑠衣ちゃん、私ね」

 

 自ら踏み出さなければ、何とかなんてなりはしないのに。

 だから、甘露寺蜜璃は己の過去に対して、落とし前をつけなければならない。

 

「もう、逃げないから……!」

(甘露寺、お前だけじゃない)

 

 そしてそれは、伊黒小芭内も同じだった。

 煉獄槇寿郎に拾われ、杏寿郎に勝るとも劣らない速度で成長し、柱まで昇った。

 当時はただ、死に物狂いだった。他に居場所などありはしなかったからだ。

 だから自分の居場所を手に入れるために、鬼を斬って、斬って、斬り続けた。

 そんな自分の背中に注がれる視線の中に、湿()()を感じなかったわけではない。

 

(俺も、同じだから)

 

 その湿度への対処の方法を、伊黒は知らなかった。

 だから彼もまた、落とし前をつけるべき1人なのだ。

 煉獄瑠衣に対する責任を、果たさねばならない。

 

「だから、それは」

 

 それをひしひしと感じながら、瑠衣は己の指の付け根を噛み千切った。

 どろりと流れ出る赤い血に、その場にいる誰もが緊張した。

 ――――血鬼術。

 

「私の台詞なんですよ」

 

 文字通り、血の血鬼術。

 それを日本刀の形に変えながら、瑠衣は言った。

 

「というか、4対1ってどうなんです。師範?」

「別に俺は頼んでねぇよ。こいつらが勝手に来ただけだァ」

「はあ、なるほど」

 

 そんな不死川の言葉に、瑠衣は空を見上げた。

 まず、最も足の速い不死川が現場に到着して。

 それから、鼻の効く炭治郎。

 甘露寺と伊黒は、()に構わずに瑠衣を目指したのだろう。

 

「鎹鴉までは、頭が回っていませんでしたね」

「待……」

 

 血の刃が、飛んだ。

 気配を匂いで察した炭治郎だけが反応したが、間に合ったのは声だけだった。

 樹木の上、空からこちらを見下ろしていた鎹鴉達が、瑠衣の放った血の刃で次々に撃ち落とされていく。

 鴉と、人の悲鳴が、藤の花の山に木霊(こだま)した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 思えば、奇妙な縁だと宇髄は思った。

 とは言え宇髄にとって、煉獄瑠衣という存在はさほど大きくはない。

 瑠衣との縁は、上弦の陸との戦いがほとんど全てだったからだ。

 

「そう言えば、お前ともそうだったなあ」

 

 宇髄の持つ独特の重刀に、それに比して軽い金属音が幾度か響いた。

 続くこと、3度。

 返す刀で、擦れ違い様に重刀を振るう。

 

 ――――音の呼吸・壱ノ型『轟』。

 響く音は二回。

 宇髄の重刀が地面に叩き付けられる音。

 そして、彼の日輪刀が爆発する音だった。

 

「へえ、そうだったかしら。昔のことは忘れたわね」

「つれないねえ。ほんの3、4年前のことだぜ」

「女にとって、昨日より前のことは全部「昔」よ」

「いや、そりゃお前さすがに……いや、うちの嫁達も似たようなことを言ってた気がするわ!」

 

 ――――欺の呼吸・弐ノ型『面子』。

 音の呼吸の爆発は、並の発破(ダイナマイト)を凌ぐ。

 斬撃と共に放たれる爆炎は、鬼でさえ寄せ付けない。

 そしてその間合いに、禊は臆することなく飛び込んでいた。

 

 分割された槍による六連撃。

 彼女の動きと同じように、それらは爆発する斬撃の隙間を縫うように滑り込んでいく。

 音と音の隙間から入って来る刺突を、宇髄は重刀を振り回して全て弾き返した。

 もちろん、その一撃一撃にも爆発が伴っている。

 

「あっは! 良いわねそれ、チョー最高!」

 

 剣士や鬼でさえ表情を引き攣らせるだろう環境に、しかし禊は笑っていた。

 

「狂ってやがるな」

 

 もっとも、それは上弦の陸との戦いの時にすでに理解していたことだった。

 そもそも、まともな神経で――特殊な訓練を受けたくのいちならともかく――あの鬼の吉原で花魁を張ろうとは考えないだろう。

 ところがその時も、禊はむしろその状況を楽しんでさえいたのだ。

 

「しかし、わからねえことがある」

「へえ、何かしら」

「お前みたいな我の強い女が、どうして煉獄瑠衣に従っている?」

()()?」

 

 あっは、と、彼女は再び笑った。

 

()()()()()()()

 

 禊は分割していた槍を1つに組み直して、肩に担いだ。

 

「わたしは別に、あいつに従っているわけじゃないわ」

「じゃあ、どうして行動を共にしている?」

「決まっているじゃない」

 

 やはり彼女は、笑って言ったのだった。

 

「その方が、()()()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 胡蝶しのぶは、甘露寺や伊黒ほどではないが、瑠衣との関係はあった。

 と言っても、それはあくまで蝶屋敷の医師と患者という関係がほとんどだった。

 気にかけていなかったわけではないが、優先順位というものがあった。

 しのぶにとっての最優先は、あくまでも蝶屋敷の姉妹達だった。

 

「藤の花の毒はあくまで鬼用の毒なので、人が受けても死ぬようなことはありません」

 

 しのぶの細腕は、鬼の頚を落とすには足りなかった。

 だから(カナエ)(カナヲ)のように花の呼吸を使うことは出来ず、藤の花の毒を使った蟲の呼吸を体得した。

 藤の花の毒は鬼に対して強力に作用して、並の鬼ならばほぼ即死に近く、数字持ちの鬼でも数秒は動きを止めることが出来る。

 

 ただしそれは、あくまで相手が鬼の場合である。

 当然ながら、人間には効果がない。

 では煉獄瑠衣とその仲間に対しては、どうだろうか。

 特に煉獄瑠衣は青い彼岸花を食した、鬼と同位体である。

 藤の花の毒も、効果がある可能性は僅かにあった。しのぶはそう考えていた。

 

「逆説的に言えば、藤の花の毒が効かない貴女達は人間ということになりますね」

「そう言ってくれるのは、嬉しいわぁ」

 

 じゃあ、と、唇に人差し指を当てて、榛名は言った。

 

「じゃあ、見逃してくれたりするのかしらぁ」

「まあ、私としてはそうしても構わないのですけれど」

「冗談を言っている場合じゃないでしょう。胡蝶さん」

 

 ――――霞の呼吸・肆ノ型『移流斬り』。

 時透の霧の如く揺らぎ、しかし突然に、榛名の喉元に日輪刀の切っ先が伸びて来た。

 

 ――――水の呼吸・漆ノ型『雫波紋突き』。

 その霞の斬撃を、隻腕の柚羽が止めた。

 柚羽の刺突は、しのぶに、つまり柱に勝るとも劣らない。

 しかし、しのぶが気になったのは攻防それ自体では無かった。

 

()()()()()()……)

 

 柚羽や榛名は、一時蝶屋敷にいた。

 上弦との戦いも共にしたこともある。

 だからしのぶは、2人の実力の程度を――3年の空白があるとは言え――正確に知っているつもりだった。

 そのしのぶをして、柚羽と榛名の動きは「速すぎる」し「鋭すぎる」と感じた。

 

(無惨との戦いで見た、()()()()()……)

 

 無惨戦の際に上弦の陸・亜理栖が見せた、血液操作による援護。

 あれを瑠衣がやっていると見て、間違いはないだろう。

 もしもそうだとすれば、この戦いは鬼殺隊(こちら)の想定以上に厳しいものになる。

 しのぶは、そう感じたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 冨岡義勇は、攻撃的な男である。

 この評価を聞いて、なるほどと頷く相手はかなり少ない。

 と言うのも、冨岡義勇は超がつく程に寡黙な男だからだ。

 必要なこと。最低限のことしか話さないため、何を考えているのかわからない、というのが大方の評価だった。

 

「いやあ、激しいねえ。おじさん、腕が痺れちゃって仕方ないよ」

 

 それは、戦ってみればわかる。

 冨岡は水柱であり、使用する呼吸と型は水の呼吸である。

 水の呼吸は受けの呼吸であり、その柔軟な歩法と剣捌きはまさに流麗という言葉が当て嵌まる。

 冨岡は、その極致にいる剣士である。

 しかし彼の攻撃を受けた者が感じるのは、濁流の如く圧倒的な()()だ。

 

 受けの呼吸である水の呼吸で、冨岡は一気に間合いに踏み込み、気が付いた時には斬られている。

 実際、冨岡は受けたり流したりよりも、自ら攻撃に出ることの方が多い。

 それは、生来の冨岡が持つ激しさに由来する。

 他の者がそれを知らないのは、冨岡が手合わせの鍛錬には参加しなかったことと、彼の攻撃を受けた鬼が()()()()()()()()()()()()()()()

 

「いやあ、本当。付け入る隙がないって」

 

 一方の犬井は、これは文字通り受けの剣士だった。

 使う型は水の呼吸だが、必ずしも適性が高いとは言えない。

 これは彼の身体が大きく、体重が重いため、細かな足運びが必要になる水の呼吸と相性が悪いためだ。

 それでも犬井が水の呼吸を使用するのは、防御力の高さが彼の()()()()()()に合っていたからだ。

 

「…………」

 

 そして口にこそしないが――そもそも、敵と喋るという選択肢が冨岡にはない――冨岡は、戦闘開始直後から、犬井の戦い方に違和感を覚えていた。

 それは、同じ水の呼吸を高いレベルで習得しているから、ということだけではない。

 犬井から、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「困るねえ、本当」

 

 へらへらとした軽薄な笑みを浮かべながら、そんなことを言う犬井。

 考えを読めない。

 何を考えているのかわからない。

 余人にそう思われがちな冨岡をしてそう思わせる程に、犬井の本心は見えない。

 

 戦いという、ある意味で人の本性を露にする事象の中でさえ、そうだった。

 攻める冨岡と、受ける犬井。

 2人の戦いは、その構図が延々と続く千日手となっていく。

 いつ決着がつくのか。まるで見通せなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 宿命の対決。

 もしもそういうものがあるとして、この2人程その言葉が合うものないだろう。

 本人は認めたがらないだろうが、彼らには()()()が多かった。

 

 第一に、家族がいない。

 第二に、同じ師に師事した。

 そして第三に、最も重要な点だが、お互いに嫌い合っていた。

 そんな彼らが戦うとすれば、それは宿命という言葉で表現するしか無かった。

 

「ハッハア! 相変わらず情けねえ奴だなぁ、ええ? 善逸よぉ」

 

 雷の呼吸の恐ろしさは、遣い手が最も良く理解している。

 それは、この呼吸が最も()()()()()()()()()()()()()

 柔軟さでは水が、上半身の力では炎が、頑健さでは岩が、体捌きでは風が勝る。

 

 だが雷の呼吸の速度と、6つしか型がないにも関わらず他の呼吸と伍する対応力は、鬼を斬るという1点において最良の型と言えた。

 型が6つしかないのも、それだけ習得が難しい呼吸である証左だろう。

 だからこそ、彼は――善逸は、まず何を置いても()()()を止めに来たのだった。

 

「やっぱりお前は情けない奴だ。何も変わってねえ。1人じゃあ何もできねえ!」

 

 ただ善逸にとって誤算だったのは、止めに来た相手――つまり獪岳だが――の力が、記憶に中のそれより遥かに上昇していたことだ。

 そして手合わせをしてみれば、それが第三者の助力ではなく、この3年の自己鍛錬で培われたものだということが良くわかる。

 その点については、()()()()()()()()

 

「おい! 大丈夫か!? 頚はまだ繋がってるか!?」

 

 翻って、自分はどうだ。

 善逸は今の自分の姿を、首から血を流して膝を着く姿を客観視してそう思った。

 傍らには、刀を抜いた伊之助がいた。

 

 いったい、何が起こったのか?

 獪岳と出会い頭に斬り結び、そして一方的に打ち負けたのだ。

 辛うじて頚を落とされることは避けたが、伊之助がいなければ、二の太刀でそうなっていただろう。

 

「……やっぱり、アンタは強いよ。兄貴(獪岳)

「ハッ! 何度も同じことを言わせるんじゃねえ」

 

 嫌っていた。同時に、尊敬していた。

 ひたむきなところ。大言するだけの努力が出来るところ。

 そのどちらも無い自分が蔑まれるのは、ある意味で当然だった。

 

「俺は、お前とは違うんだよ」

 

 だからこそ、獪岳を止めるのは自分の役割なのだ。

 そう思って、善逸は刀を手に立ち上がるのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 山の各所で、戦いの気配がする。

 現役を退いた悲鳴嶼を除いて、この山には上弦とも戦える鬼狩りの最高戦力が集っている。

 生き残りの隠や鎹鴉も、この山を封鎖するために集結させられていた。

 まさに、鬼殺隊の総力戦である。

 

(だと言うのに、まるで光明が見えん!)

 

 戦いながら、伊黒はそう思った。

 と言うのも、自分達――柱3人と日の呼吸の遣い手――と向かい合う瑠衣の態度だ。

 一応、形としては戦いのそれになっている。

 伊黒達が瑠衣を包囲し、波状攻撃を仕掛ける。

 

 柱と柱に匹敵する剣士の包囲。

 あの鬼舞辻無惨でさえ、この包囲から逃れることは出来なかった。

 ()()()()()()

 

()()()()()()()?」

 

 足元。つまり、戦場の地面。あるいは木の幹。岩石。

 そこかしこに、折れた日輪刀の刃先だとか、柄だとかが突き立ち、落ちていた。

 数本。いや、十数本はあった。

 すべて、瑠衣がへし折った日輪刀だった。

 

「あと何本で、日輪刀の在庫は底を尽きますか?」

 

 折った日輪刀の刃をまさに()()()()ながら、瑠衣はそう言った。

 密かに――しかし、それにしたところで命懸けで――隠や鎹鴉が、日輪刀を補給してくれる。

 後方から運び込まれるそれを、瑠衣は止めなかった。

 あえてそうしている、というのが見ている者にはわかった。

 

「クソがァ……!」

 

 攻撃を続けながら、不死川は歯噛みした。

 想定はしていたが、ここまでとは思っていなかった。

 いや思ってはいたが、認めるには業腹に過ぎた、と言った方が正確だろうか。

 

(……いや! 諦めるな。攻撃を続けるんだ!)

 

 そう自分を鼓舞して攻撃を続けるのは、炭治郎だった。

 太陽を克服した瑠衣に、彼の呼吸は実は相性が悪い。

 瑠衣が防戦に徹していることと、手数の多さで状況を維持しているが、それが精一杯だ。

 これは無惨戦でも上弦戦でもそうだったが、体力では勝てない。

 何かが必要だった。だがその何かを、炭治郎はまだ嗅ぎ取れずにいた。

 

「任せて!」

 

 それならば、これならどうだ。

 そう言わんばかりに、甘露寺が側にあった木に抱き着いた。

 何をする気か、と、その場にいる全員の視線が彼女に向いた。

 甘露寺はそれに構わず、ん、と力を込めた。

 

「ん、んんん、んんん~~~~っ」

 

 文字通り木を根っこから()()()()()

 それも並の木ではなく、力士数人分はあろうかという巨木だ。

 それを地面から引き抜き、あまつさえ振り回す。

 ええ…と、その場にいる誰もが、甘露寺に呆れとも畏怖とも取れる視線を向けた。

 

「やあああああぁぁ――――!」

 

 それを、瑠衣に叩き付けた。

 横薙ぎに、周囲の細い木をも巻き込んで薙ぎ倒しながら、である。

 甘露寺以外には出来ない。腕力に物を言わせた攻撃だった。

 

「あああああ――……あれ?」

 

 巨木の幹が瑠衣に当たった。しかし、そこを起点に木の方が折れた。

 折れた先が吹っ飛び、伊黒と不死川が声を上げて避けていた。

 

「相変わらずの馬鹿力ですね……」

 

 そこだけは本気で呆れて、瑠衣が跳んだ。

 すかさず、甘露寺も日輪刀を抜く。

 布地のような薄い刃が瑠衣を取り囲む。

 しかし日輪刀の刃は、瑠衣の薄皮一枚傷つけることが出来なかった。

 

 そうはさせるか、と、炭治郎達が踏み込もうとした時だ。

 音がした。

 大地を揺るがす音が、彼らの鼓膜を打った。

 もしもこの場に善逸がいれば「うるさっ!?」と叫んで耳を押さえただろう。

 そしてその音と振動は、どんどん近付いてきた。

 

「……オイ」

 

 舌打ちして、しかし苛立った様子は無かった。

 

「お前の出番は、もっと後って話だっただろォが」

「はっはっはっ! いや、すまん! 我慢できなかった!」

 

 そうして戦場にやって来た彼は、豪快に笑った。

 外見そのままのからっとした笑い声。

 その声の主は、瑠衣を見ると、より朗らかにこう言った。

 

「何しろ、久々に妹の顔を見れるとあってはな!」

「…………一応、聞いておきます。礼儀ですし。何より、念のために」

 

 陽光に顔を顰める鬼のように、瑠衣は言った。

 

「何をしに来ましたか。()()

「うむ。当然!」

 

 妹の問いかけに、杏寿郎は言った。

 

「お前の頚を刎ねに来た!」

「想像通りの答えで安心しました」

 

 嘆息する瑠衣。

 豪快に笑い飛ばす杏寿郎。

 両者の様子は、昼と夜のように対照的だった。




最後までお読みいただき有難うございます。

締め切りギリギリ。

それでは、また次回。


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第77話:「思い出の中の戦争」

「それで、どうなったんですか」

 

 炭彦は、半ば身を乗り出すようにしていた。

 ソファに深く座り、ワイングラスを片手に話をしていた禊は、そんな炭彦を見て噴き出した。

 グラスが空でなければ、盛大に零していただろう。

 

「アンタ、本当に素直なのねぇ」

「そうなんです。そこが可愛い子なんですよ」

「どうして姉さんが言うんですか……」

 

 何故か自慢げにする姉を、しのぶは呆れたように見つめた。

 炭彦と彼女達の手元にもグラスがあるが、もちろんソフトドリンクだった。

 一応、そのあたりの良識はあるようだった。

 

「あら、空いてるじゃない」

「ああ、どうも」

 

 そんな禊の隣に座っているのが、炭吉だ。

 子ども達と違って彼はもちろん成人のため、それが義務だと言わんばかりに酒を勧められていた。

 ただ女性に身を寄せるようにしてお酒を、それも極上の美女にお酌をされる父親の姿というのは、息子達からすると酷く微妙なものだった。

 

「これ、美味しいですね」

「そう。それは良かったわ」

「どこのワインだろう。余り詳しくないけど」

「別に普通よ。バルバレスコの赤」

「え」

 

 炭吉の顔が青褪めるのを横目に、禊は炭彦へと目を向けた。

 少年は、変わらず禊のことを真っ直ぐに見つめていた。

 それは、真摯とはまた違う。真面目というのも、当て嵌まらないだろう。

 あえて表現するのであれば、一生懸命(ひたむき)、だろうか。

 

 なるほど、と、禊は思った。

 胡蝶姉妹の方も興味深いが、やはり()()()だろう。

 ()()()()()()変わらない気質。

 そういうものがあるということを、炭彦という子どもは教えてくれる。

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

 一方で、だ。

 同じ竈門でも、(カナタ)の方は随分と違うらしい。

 こちらは、()()の血が濃いのかもしれない。

 

「黙って聞いていれば、それって何十年前の話なわけ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「…………ふうん」

「今の話って、()()()()()?」

 

 ああ、やはりだ。きっと()が良いのだろう。

 そう思って、禊は口の端を吊り上げた。

 普通ならば厭らしく見えるそれも、禊がすると別だ。

 彼女の持つ気品を、聊かも損なうことがない。

 

「さて、気になって仕方がない子がいることだし。続きを話しましょうか」

 

 こういう話は、お酒が切れない内に話してしまうに限る。

 もっとも、酒に酔うなど、もう随分と前のことだが。

 最後に酒精に身を委ねたのは、さていつのことだっただろうか。

 

()()()()の話をね」

 

 もちろん、禊はそんなことは覚えていないのだけれども。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「刀を取れ、瑠衣」

 

 と、いう杏寿郎の言葉に、瑠衣は眉を動かした。

 その瞳の中で、何かが蠢いた。そんな気がした。

 

「……何故です?」

「刀を持たない相手を斬ることは出来ない!」

 

 威風堂々。

 杏寿郎の全身から発せられる()は、彼の言葉が真実、心からのものだと伝えて来た。

 瑠衣を正面から見据える両の目は、百万言よりもなお雄弁だった。

 

 ()()()()()()()()

 その事実に、瑠衣は自分が苛立っていることに気付いた。

 奇妙な表現になるが、苛立つという事実自体に、さらに苛立ったのだ。

 

「私にはもう、刀など不要です」

 

 それもまた事実だった。

 今の瑠衣は武器など必要としない。

 瑠衣の肉体そのものが、どんな武器をも超える武器になっているからだ。

 実際、日輪刀(鬼滅の刃)は瑠衣には届かない。

 ()()()()()()()()()()

 

「そうか」

 

 意外なほど素直に、杏寿郎は言った。

 

()()()()、瑠衣」

 

 全身の骨が硬直した音を聞いた。

 目には見えない何かが周囲に広がるのを、炭治郎は嗅ぎ取った。

 それは衝撃波のようなもので、地面や木々に罅が入る程だった。

 だが不思議なことに、人体には何の影響も無かった。

 

「……逃げた?」

 

 そして瑠衣の声には、一切の色がなく。

 その匂いからは、一切の感情が読み取れなかった。

 あえて言えば、揺れる水面を無理やり押さえ付けているかのように、静かだった。

 

「それは、兄様達の方でしょう」

 

 鬼舞辻無惨に鬼殺隊本部を襲撃されてから、3年前の東京の戦いまで。

 鬼殺隊の鬼狩りは()()()()()をしていた。

 もちろん、それは産屋敷の計略であり、当人たちでさえ知らなかったことだ。

 

 ()()()()()()()

 1年。言葉にすれば短い。

 だがあの1年間、瑠衣は孤独の中にいた。

 そういう時に、杏寿郎達はいなかった。

 

「兄様は、()()()()()()()()()()()()……!」

「うむ! 確かに! その点については言い訳のしようもないな!」

「……ああ、もう! そこで兄様に認められたら話がややこしく」

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 

「なる」

 

 嗚呼、変わらないな。

 瑠衣は思った。

 兄は今も、鬼に対して容赦が無いのだ。

 

(昔は)

 

 かつてはそれを、尊いと思っていた。

 ――――けれど、今は。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 一方で。

 一方で瑠衣は、冷静に状況を()()()()()もいた。

 何しろ、彼女には()()()()()()()()()()()

 

 太陽の光さえ、もちろん日輪刀さえ効かない自分に、勝負を挑んで来る。

 何かに策が、狙いがあるはずだった。

 この場にいる剣士達にはなくとも、産屋敷には

 

「オオオオオオオオッッ!!」

「――――ッ!」

 

 連撃。息を吐く間もない連撃。

 赤い線を描きながら放たれてくる斬撃を、瑠衣は手刀で1つ1つ撃ち落としていった。

 そしてその一撃一撃が重い。すべては()()()攻撃だとわかる。

 だから、瑠衣も容易には腕を杏寿郎の喉元に伸ばせずにいた。

 

 しかしそんな拮抗も、あくまで一時のものだ。

 数秒にも満たない競り合い。

 打ち合いが十を超えたあたりで、瑠衣は杏寿郎の刀を斬り払った。

 勢いに押されて杏寿郎の腕が刀ごと流れ、胸が空く。

 それを見て、瑠衣が右手を引いて手首を回す。鉤爪の如く指を曲げた。

 

「させるかよォッ!」

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし颪』!

 そこへ、空中から突撃が来た。

 攻撃のために引いた右腕を上げる。次の瞬間に蹴りの衝撃が来た。

 瑠衣の質量を物ともせず、蹴り浮かす程の打撃だった。

 

 ――――蛇の呼吸・参ノ型『(とぐろ)締め』。

 肌を、斬撃が撫でる。

 効果はない。ダメージはない。しかし、拘束はされる。

 しかも着地しようとしたその先に、甘露寺の刃が回り込んでいるのが見えた。

 

(――――だとしても!)

 

 ()()()()()()()()()()()

 いかに強力な攻撃を叩き込んだところで、瑠衣の肉体には効果が無い。

 たとえ。

 

「はあああっ!」

 

 ――――日の呼吸・漆ノ型『斜陽転身』。

 たとえそれが太陽の呼吸でも、同じことだ。

 甘露寺の攻撃を地面ごと砕こうとした折、視界の端に炭治郎が入って来た。

 だからこれは、本命ではない。

 

(本命は――――……)

 

 その時、瑠衣の感覚は新たな気配を感じ取った。

 四方からの斬撃を捌きながら、新たに現れた気配に視線を向ける。

 すると、そこには。

 

「……あらぁ?」

 

 どこかから飛ばされたのか、あるいは自分で跳んだのか。

 宙を舞う榛名の姿がそこにあって、目も合った。

 そして、もう1人。

 

「こんばんは、瑠衣さん。そして」

 

 胡蝶しのぶ。

 

「さようなら」

 

 榛名の下を掻い潜るようにして、しのぶが飛び込んで来た。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――少し、時間を遡る。

 山中でそれぞれ捕捉された榛名と柚羽だが、最初から2人でいたわけではない。

 遭遇したしのぶと時透と戦う内に、いつの間にか合流していたのだ。

 

()()()()()()

 

 しのぶの刺突を避けた数秒の後、榛名は視界が不自然に歪むのを自覚した。

 次いで指先が痺れ始めて、徐々にだが広がっているように感じた。

 攻撃は、頬を僅かに掠った程度。もちろん、深刻なものではない。

 ただしそれは、相手がしのぶでなければの話だ。

 

 蝶のように舞い、蜂のように刺す。

 しのぶの戦い方はまさにそれで、しかも油断ならないことに、日輪刀には毒がある。

 鬼用の毒が効かないから人間だ、などと(のたま)っていたしのぶだが、何のことはない。

 普通に()()()()()を仕込んでいた。

 

(不味いわねぇ)

 

 自分の足がたたらを踏む。

 もちろん、榛名とて百戦錬磨の鬼狩りだ。

 ()()()()()は熟知している。

 ただ相手が柱となると、誤魔化しは効かない。

 

「大丈夫ですよ。死ぬような毒ではありませんから」

 

 いけしゃあしゃあと、そんなことを言う。

 しかし致死性の毒ではないと言っても、弱い毒だとも言っていない。

 実際、回復の(きざし)が見えなかった。

 

 ――――霞の呼吸・肆ノ型『移流斬り』。

 そこへ、時透だった。

 こちらはしのぶと違って、普通に榛名の頚を落とすつもりだった。

 3年前よりぐっと男らしさを増した時透だが、筋力も攻撃の鋭さも格段に向上していた。

 毒で鈍った足で回避できるような、生易しい技でないことは明らかだった。

 

「ぐえっ」

 

 と、女性らしからぬ声が榛名の口から漏れた。

 それは、柚羽が――隻腕のため、口に刀を咥えた状態で――榛名の首根っこを掴んだためだ。

 そして、ぶん、と放り投げたのである。

 自分を放り投げて、そのまま時透と斬り結び始めた柚羽の背を見ながら、榛名はさてと思った。

 

(水場があれば助かるんだけど)

 

 と、放り投げられた空中で、着地するだろう場所を探した。

 そうやって視線を向けた先に、瑠衣達がいたのである。

 これはどういうことか、と、榛名の脳内に思考が走った。

 

「……!」

 

 気付いた時には、すでに眼下をしのぶが跳んでいた。

 しまった。

 そう思った直後、不意討ちを喰らう形で、しのぶの刺突が瑠衣の()()()入ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 我妻善逸という存在を、憎悪していた。

 獪岳は、唯一になりたかった。

 誰かにとっての、唯一無二になりたかった。

 それは、渇望であったと言っても良い。

 

 ――――雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃』。

 6つある雷の呼吸の中で、基本であり奥義である技だ。

 6つの型の中で、この技だけが「鬼の頚を斬る」ことに特化している。

 壱ノ型(この技)に比べれば、他の型は()()()のようなものだ。

 

「ハッ、相変わらず壱ノ型(それ)しか出来ねェんだな。お前は!」

 

 壱ノ型しか出来ない善逸は、そういう意味で、実は雷の呼吸の全てを継承していると言えるのだ。

 自分は違う。

 獪岳はついに、壱ノ型を会得することが出来なかった。

 師は「2人で継承者たれ」と言ったが、違う。

 雷の呼吸の継承に、自分は必要ないのだ――――。

 

「もう、どうでも良いんだよ! 雷の呼吸(そんなもん)はな!」

 

 壱ノ型に能力を全振りしていだけあって、善逸の技はまさに神速の抜刀術だ。

 その速度は獪岳でさえ反応し切れない。

 ()()()()()だ。

 

「なっ……!?」

 

 目で追うことすら出来ないはずの斬撃に、獪岳は反応した。

 善逸の攻撃よりも速く反応して、刃の通り道に自分の刀を置いたのだ。

 それだけで、善逸の斬撃を防いでしまった。

 

「ハァッ、やっぱりだ! お前は俺が鬼か何かだと思ってやがる。あるいは人間を相手にしたことがねえのか。まあ、どっちでも良いがなあ!」

 

 理由は2つ。

 まず、善逸の攻撃が頚狙いなことが明白だったこと。

 これは鬼狩りの習性とも言うべきもので、彼らの戦い方が頚を落とさねば倒さない鬼を想定してのものだからだ。

 重要なのは、もう1つ。()()()()()()()()獪岳の両目にあった。

 

「その目は……!?」

「はっ、お前みたいな愚図にいちいち説明してやるかよ。勝手に自分で想像しろ。そして死ね」

 

 獪岳の眼球は、血のように紅く染まっていた。

 それが意味するところは、現時点ではわからない。

 しかし、()()()ということだけはわかった。

 

「何だアレ。すげー嫌な感じがするぞ」

「ああ」

 

 伊之助も、肌感覚で何かを感じているのだろう。

 以前の善逸ならば、この時点で「どうしよう」と泣き喚いていただろう。

 しかし今、この相手に限っては()()だった。

 

「大丈夫。任せてくれ」

「はっ。おーおー、格好つけやがって、大丈夫かあ? いつもみたいに、ビービーと……」

 

 善逸が壱ノ型の構えを取ったのを見て、獪岳は言葉を止めた。

 馬鹿の一つ覚えの壱ノ型。すでに破った。何度繰り返そうと同じことだ。

 そのはずだ。

 そのはずなのに。

 

「雷の呼吸・漆ノ型――――!」

 

 背筋に、いた首筋に、冷たいものを感じ取った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 犬井は、冨岡と戦いながら、2つの感覚を得ていた。

 まず、()()()()()()、という感覚。

 (もっと)も、それは他人がどうこうというわけではなく、犬井が勝手にそう思っているというだけなのだが。

 

「あら?」

 

 そしてもう1つは、()()()()()()()、という感覚。

 これは逆に犬井がどうこうではなく、冨岡の動きからそう感じ取ったのだ。

 攻撃の入る方向が、そうだった。

 冨岡の攻撃を防ぎ、かわしていくと、決まった方向に動かされているのである。

 そして、それに気付いたのは。

 

「ぐああああ――――っ!」

 

 と、いう叫び声と共に、獪岳が吹き飛んで来たからだ。

 もっと言うと、雷鳴にも似た轟音が()()()聞こえてきた。

 どれほどの膂力、あるいは脚力なのか、周囲の木々を薙ぎ倒しながらだ。

 

「ぐはっ!?」

 

 奇しくも同じような声を発して、攻撃した側とされた側が同時に地面に落ちた。

 獪岳と、そして善逸である。

 どちらも満身創痍であって、すぐに身動きが取れそうには見えなかった。

 

「大丈夫かい、雷の大将ー」

「……五月蠅ェ! 大丈夫に決まってるだろうが、俺がこんな屑に……!」

 

 歯を剥き出して、顔中に脂汗を流しながらそんなことを言う。

 喉元からは赤い血がボタボタと流れ落ちていて、切断の一歩手前まで来ていたことがわかる。

 とは言え、流石に膝をついて立ち上がろうとしていた。

 一方の善逸はと言えば、まだ地面に倒れたまま立ち上がれていない。

 

(自爆技か。とは言え、今の獪岳にあそこまで深手を与える技なんて受けたくないねえ~)

 

 む、と、犬井が思ったのは、獪岳と善逸が抜けて来た道から、猪頭の少年が飛び出して来たからだ。

 伊之助である。

 善逸と違って無傷の彼は、明らかに獪岳にとどめを刺すべく動いていた。

 それは流石に不味い、と思ったが、ここに来て冨岡の圧力が強まった。

 

 ――――水の呼吸・参ノ型『流流舞い』。

 柱の連撃。とても気を抜けるものではない。

 見かけによらず容赦がない。

 そうこうしている内に、伊之助が獪岳に到達しようとして。

 

「うおおおおおっ!? 何だお前は!?」

 

 ――――水の呼吸・漆ノ型『雫波紋突き』!

 そこへ救いの手を差し伸べたのは、柚羽だった。

 こちらもかなりの長距離を疾走してきたのだろう、息を上げながらの激しい突きだった。

 たまらず、伊之助が獪岳への攻撃を中断する。

 

「……で、この状況になるって言うのは、おじさんちょっと納得できないかなあ」

 

 犬井は苦笑を隠さずにそう言った。

 というのも、正面の冨岡だけではなく、側面にもう1人の柱がやって来ていたからだ。

 柚羽と戦っていた時透だ。

 戦場を見渡して、一目で()()()に当たるべきだと見抜いたのだろう。

 素晴らしい戦術眼だ。犬井からすれば過大評価にも程があるというものだった。

 

「さーて、面白くなってきましたよ、っと」

 

 そう言う一方で、冒頭の感覚は強くなるばかりだった。

 鬼狩りは、何かの策で動いている。

 それがどんなものかまでは、流石に見通せない。

 はたして我らが大将(瑠衣)は、どうだろうか。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 狙うは、()()

 どれほど鍛錬しようと、あるいは鬼だろうと、臓器を鍛えることは出来ない。

 そして外部に露出している臓器は――厳密には臓器ではないが――眼球しかない。

 だからしのぶは、ただ1点、瑠衣の眼球だけを狙った。

 

「――――ッ!」

 

 そしてそれは、図に当たった。

 しのぶが乾坤一擲の気迫で放った突き。

 力を距離と速度でカバーした強力な刺突は、瑠衣の眼球を貫いた。

 

 それは眼窩(がんか)を抉り、脳髄にまで達する程の一撃だった。

 しのぶの跳び込みの衝撃で、足を動かさないまま、数メートルを下がる。

 それでも頭と首を動かさずに耐えたのは、瑠衣の肉体の強固さ故だろう。

 

()()()()()()()()()()()

 

 手刀。下から一閃して、しのぶの刀を斬り折った。

 ただその時には、すでに毒を撃ち込まれていた。

 初めて、瑠衣の顔色が変わる。

 

「く、あ」

 

 瑠衣が、自分で言ったことだ。

 自分は鬼ではない。そう言った。

 青い彼岸花で変性してなお、自分は人間だと瑠衣自身が言った。

 そしてそれは、()()()()正しい。

 だからこそ、しのぶの撃ち込んだ人間用の毒が効果を発揮するのだ。

 

「今です! 畳みかけてください!」

「……!」

 

 解毒、いや毒の分解は、すぐに出来る。難易度は高くない。

 しかし、そのためには右目に突き立ったしのぶの日輪刀の先端部を引き抜かなくてはならない。

 眼窩の奥にまで達したそれを引き抜くのは、数秒は必要だ。

 だがその数秒を、柱達は与えようとはしない。

 

 不死川が、伊黒が、甘露寺が、そして杏寿郎が。

 文字通り、四方から瑠衣に襲いかかって来る。

 しかも視界が半分、物理的に消えているのだ。

 その分だけ、余裕はなくなる。

 

「こ、の、お」

 

 舌先が上手く回らない。

 左側面から暴風のように斬り込んで来た不死川を、左腕で捌く。

 自然、肉体の重心は左へ、具体的に左足へ流れることになる。

 その左足に、伊黒の斬撃が来た。

 

 ガクン、と身体が傾く。

 そこへ、死角になっている右側から薄物色の刃が滑り込んで来た。

 残った右手を頚元に差し入れ、絞り込んで来た刃を防ぐ。

 しかしそこで、失策だと気付いた。甘露寺は、いや誰も瑠衣の頚を斬れない。

 だから防ぐ必要は無かったのに、咄嗟に手が出てしまった。

 

「あ」

 

 そこへ、炎の剛撃が来た。

 鈍器で殴打されるような斬撃に、瑠衣の意識は大きく揺れたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 あえて言えば。

 実のところ、4人の柱の誰ひとりとして、瑠衣への殺意は無かった。

 ()()()()()()()()()()()()()

 いわば殺意なき殺意によって、4人は瑠衣を攻撃していた。

 

(早く……!)

 

 そしてその心理を最も表情に出していたのは、甘露寺だった。

 彼女はこの時、念じるように願うように、1つのことだけを考えていた。

 その恐るべき怪力でもって、瑠衣を――かつての妹分を打ちながら。

 

(早く、倒れて……!)

 

 それだけを、考えていた。

 無理もないだろう。

 たとえ道を違えてしまったとしても、これまでの過去がなくなるわけではない。

 嫌ったわけでもなければ、憎くなったわけでもない。

 

 それまでの尊敬も愛情も、聊かも変わっていない。

 しかし、殺さなければならないのだ。

 憎く思っていない。愛してさえいる存在を殺さなければならない。

 

(私が、やらなきゃ)

 

 そして、彼女はこうも思っている。

 

(杏寿郎さんや伊黒さんに、不死川さんに、瑠衣ちゃんを殺させるわけにはいかない!)

 

 それは、他の3人も実は同じだった。

 4人の柱達は誰もが、同じことを考えていた。

 瑠衣を愛している。だからこそ頚を斬る。

 そして、その苦しみを他の者に背負わせたくない。

 

(哀しみと決意の匂いがする……)

 

 そしてそれを、炭治郎は嗅覚で察していた。

 自然と、涙が溢れそうになった。

 この場にいる誰も、敵意や憎悪で戦っていないことがわかるから。

 

(腑抜けるな、戦え。皆にだけ戦わせるな!)

 

 日の呼吸。今では、かつての水の呼吸のように自然に使える。

 これは最強の呼吸だと教えてくれたのは、瑠衣の父親だった。

 今、その技で娘の頚を刎ねようとしている。

 これ程の皮肉が、他にあるだろうか。

 

「瑠衣ちゃん……!」

 

 投げ込まれた榛名は、動けずにいた。

 撃ち込まれた毒と、倒れた自分の背に乗っているしのぶのせいだ。

 刀を折られたしのぶは、自分のすべきことを正確に理解していた。

 

「瑠衣ちゃん、()()()()()()!」

(接続……?)

 

 その榛名の発した言葉に、しのぶは反応した。

 当然、反応――思考せざるを得ない。

 接続、という単語の意味を思考した。

 

(そう言えば、おかしいですね)

 

 そして、1つの疑問に行きついた。

 

(先程から、瑠衣さんが()()()()使()()()()()()

 

 接続。

 血鬼術。

 思考の中で、しのぶはその意味を何度も反芻した。

 だがそれだけは、明確な答えが出て来ない。

 

 何か、あと1つ。

 あと1つ、何かが欲しい。何かが足りない気がする。

 だがその「何か」が何なのか、まだわからなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――大丈夫だ。

 榛名の声に、瑠衣は胸中でそう呟いた。

 確かに現状、何もかもが上手くいっていない。

 余りにも一方的だ。

 

 だが、それでもなお()()()()()()()()()()

 日輪刀による斬撃が、それがたとえ赫刀によるものだとしても、瑠衣に届くことはない。

 そして瑠衣の体力が無尽蔵に近いのに対して、呼吸による体力の増加と持続は一瞬に過ぎない。

 だからこの包囲も攻勢も、あるいは守勢も、結果的には何の意味もない。

 

「ア――――!」

 

 全ての攻撃を無視して、右目に突き立ったしのぶの日輪刀の先端を掴んだ。

 すかさず不死川の一撃が掴んだ腕の手首に飛んだが、折れたのは不死川の刀の方だった。

 チィ、と、不死川の舌打ちの音が聞こえた。

 

「――――ッ」

 

 攻撃に構わず、引き抜いた。

 痛覚は無いが、眼窩から鋼の刃を引き抜く感触はけして気分の良い物ではない。

 しかし、引き抜いた。

 どろり、と、右目から嫌なものが流れ落ちる感覚があった。

 

 砕けた眼球かしのぶの毒か、いずれかはわからない。

 引き抜いたしのぶの日輪刀を投げ捨てた次の瞬間、伊黒と甘露寺の斬撃が飛んで来た。

 防御が間に合わず――と言うより、しのぶの日輪刀を引き抜くことを優先した――着物の胸元が斬り弾ける。

 

「血鬼術……!」

 

 血を、操作しようとした。

 だがそれよりも先に、逆さまになった炭治郎が見えた。

 斜陽転身(漆ノ型)

 身体を後ろに倒して、斬撃をやり過ごす。

 

「瑠衣!」

 

 声が来て、そちらに目を向けた。

 杏寿郎が、日輪刀を大きく振り被る体勢でそこにいた。

 そして瑠衣は、あの構えを良く知っていた。

 見間違えるはずもない。

 

 ――――炎の呼吸・玖ノ型『煉獄』。

 炎の呼吸の最大の剣。奥義。煉獄家一子相伝の技。

 もはやこの世において、杏寿郎だけが使える技だ。

 こと単純な威力という点においては、全集中の呼吸で最強と言っても過言ではないだろう。

 

(今ならわかる気がする)

 

 杏寿郎は、ふと先祖のこと思った。

 炎の呼吸の開祖、何代も前の煉獄家の彼。

 彼はきっと、この技で仲間と並び立って戦いたいと願い。

 そして()()()()()()()()()()()()()()に、この技を編み出したのだ。

 

「行くぞ、瑠衣! 『煉獄』――――――――ッッ!!」

 

 その雄叫びと衝撃は、藤襲山そのものを鳴動させた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 流石に、声を上げかけた。

 宇髄である。

 禊との戦闘を続けていた最中、爆音――音柱である彼が驚く程の――と衝撃が来たからだ。

 

「何だぁ!? ――――煉獄か!?」

 

 濛々(もうもう)と立ち昇る土煙の中に、明るい髪色を見て、そう呼びかけた。

 それは間違いなく杏寿郎で、尋常ならざる攻撃の直後だと一目でわかった。

 そして、攻撃がまだ終わっていないことも。

 

 土煙が晴れると、杏寿郎の正面には瑠衣がいた。

 2人の()()()は土も木も岩も大きく抉れていて、攻撃の威力を物語っていた。

 だからこそ、2人の()()()が際立っている。

 杏寿郎が振り下ろした刀を、瑠衣が左手で掴んで受け止めていたのだ。

 

「……全ク、ウンザリスルヨネエ」

 

 正面を向いている杏寿郎には、はっきりと見て取れた。

 瑠衣の瞳が金色の明滅を帯びて、額と頬に炎のような羽根のような紋様が――()が浮かび上がり、それが瑠衣の全身へと伸びていくのを。

 猫のように細長い瞳孔。その独特の瞳が、じっとりとした視線を杏寿郎へと向けていた。

 

「相変ワラズ過ギテサア、苛々スルヨ」

「……む」

 

 杏寿郎の日輪刀を掴む左手に、力が込められた。

 たったそれだけの動作で、紙細工でも握り潰すかのように杏寿郎の日輪刀が砕けた。

 それには逆らわずに、杏寿郎は大きく後ろに跳んで距離を取った。

 

「瑠花か!」

「コンバンハ、()()()。アンマリ妹ヲ苛メルモノジャナイト思ウケド?」

 

 ちょっと不味いか、と宇髄は思った。

 杏寿郎には、日輪刀の補給が必要だ。

 折れた刀で瑠花(アレ)の相手をさせるのは、どうにも拙い。

 

「……って、ヤベッ!」

 

 杏寿郎の方に気を取られて、自分の方の反応が遅れた。

 そしてその遅れを見逃す程、禊は優しい女ではなかった。

 鋼糸を通して飛来した日輪刀の短槍(パーツ)を、2つまでは弾き返した。

 

「ぐあっ、畜生!」

 

 右肘に、3つ目が突き立った。

 大いに舌打ちした宇髄は、左の刀を口に咥えて、その場で短槍を引き抜いた。

 そしてそのまま、苛立ちのまま打ち付けて砕いてしまった。

 クスクスという女の嗤い声が、風に乗って聞こえて来た。

 

「あら、酷いじゃない。人の持ち物を壊すだなんて」

「うるっせえぞ、この性悪女が! こちとら忍だぞ、こんなもん屁でもねえんだよ!」

「むう! 大丈夫か宇髄! 無理をせずに一旦下がると良い!」

「うるっせえ! いや油断した俺が悪いんだが、お前に言われると滅茶苦茶ムカつく!」

「なんと!」

「……何ヲトンチキ騒ギエヲシテイルンダイ、オ前ラ」

 

 唐突に開戦した落とし前戦争。

 戦線は広がり、戦火は拡大し、収まる気配を見せない。

 夜が深まる中で、戦争の決着は未だ見えず、さらに続いて行くのだった――――。




最後までお読みいただき有難うございます。

書いてて思ったんですけど、やっぱり1人を囲んで殴るのってずるいと思うんですよ(え)
原作の無惨様なんて袋叩きだったじゃあないですか(え)
そういうの、少年誌でやっちゃあいけないと、僕は思います(えええ)

それでは、また次回。


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第78話:「戦争の勝者」

 身体の中を()()()()、軽くなるのを榛名は感じた。

 

「……はあっ!」

 

 それで、自分に圧し掛かるしのぶを振り払うことが出来た。

 対するしのぶも、むざむざとそれを喰らう気はない。

 ふわりと、それこそ蝶のように舞って、回避してしまった。

 

「――――胡蝶!」

「え――――」

 

 杏寿郎の声に、反射的に身体が動いたのは、流石の一言だろう。

 だが声の意図がわからなかったから、完璧とはいかなかった。

 ただ、その場にいることだけは避けるべきだという判断のおかげで、命拾いはした。

 

 とは言え、右の鎖骨に刃が深々と突き立ったのは、無視できない出来事だった。

 何が刺さったと目線を下げれば、それは自分の日輪刀の刃先だった。

 瑠衣が引き抜き、投げ捨てたはずのそれを、瑠花が投擲したのだった。

 

「おっと」

 

 視線を再び前に戻した時、瑠花の掌が視界を覆っていた。

 対応が間に合わない。

 今から自分が何をしても、瑠花が自分の頭を握り潰す方が早い。

 そう思っていると、脇腹に重い衝撃が来た。

 

「……ッ! もう少し、優しく助けてほしいものですね……!」

「贅沢を言うんじゃねえよ。どあああああ腕が痛えええええ!」

 

 宇髄が助けに入らなければ、しのぶの頭は潰れたトマトになっていただろう。

 そして薄いも、禊に刺された腕が本調子ではない。

 それでもなお両腕で日輪刀を振るえるのは、忍としての技術と呼吸の力によるものだ。

 もっとも、痛みを全て消せるというわけではないのだが。

 

 ――――風の呼吸・捌ノ型『初烈風斬り』。

 瑠花の背中目掛けて、不死川の渾身の斬撃が振り下ろされた。

 纏った風で、日輪刀の刃が何倍にも膨れ上がって見える程だった。

 それを、瑠花は片手で受け止めた。

 

「こ、のおおおおおォォォォッ!!」

 

 不死川が満身の力を込めてもなお、ビクともしなかった。

 凄まじい怪力だ。

 だが怪力というのであれば、負けない者がいる。

 

「不死川さん、伏せて!」

 

 不死川が身を下げると、斬撃がしなりながら瑠花を包囲してくる。

 

「マタソレカ、面倒ダナァ」

「め、面倒!?」

「何でガッカリしてるんだ甘露寺……」

 

 伊黒の冷静なツッコミはともかく、瑠花はちらりと視線を流した。

 何だ、と、その場にいる全員が、警戒しつつも意識をそちらに向けた。

 そして、気配に敏感な宇髄を筆頭に、何かが来ると気付いた。

 

()()()()()()

 

 呟くような、瑠衣の声。

 次の瞬間、雷鳴の如き轟音が響いて来た。

 

「この音と、匂い……善逸か!」

 

 そしてその轟音から逃れるように、数人の男女がこの場に跳び下りて来た。

 

「ひゃあ、やっぱり怖いねえ。あんな技、まともに受けてられないって」

「クソがあ……!」

 

 犬井と、彼の肩に担がれる形になっていた獪岳。

 そして2人を護衛するような形で背を向けていた、柚羽だった。

 そうなってくると、当然、彼らと戦っていた者達もやってくる。

 

「遅イ」

「いやあ、おじさんこれでも柱相手に頑張った方だと思うんだけど」

「ヤレヤレ…………」

 

 目を閉じて、数秒の後、開いた。

 すると瞳の虹彩は金色ではなく、全身に広がった痣も消えて行った。

 

「…………有難う、姉さん」

 

 獪岳、と呟いて、地面に膝をついた。

 当の獪岳自身は何事かブツブツと恨み節のようなことを言っていたが、瑠衣が喉元の傷に触れると、視線を瑠衣へと向けて来た。

 数瞬の後、瑠衣が手をどけると、そこには傷口はなかった。

 

(何だ、今の。再生とも違う?)

 

 何が起こったのか、炭治郎にはわからなかった。

 ただ今の一瞬、瑠衣の匂いが強くなった。それだけは理解した。

 それが何か関係あるのかもしれない。考え続けた。

 

「さあ」

 

 しかし、考える時間は、さほど無さそうだった。

 

「決着を、つけましょうか。兄様。私と、兄様の、()()()

「そうだな」

 

 瑠衣の人生は、そして杏寿郎の兄としての人生は、ほぼ全てが重なっている。

 けれど、それはもう過去の話だ。

 ここから先は違う。だからもう、置いて行くしかない。

 ここから先に、2人の人生というものは、もう無いのだから。

 

 だから、ここで終わりにする。

 どうしようもなく、()()()()()()()()()()

 そして、この兄妹の望むものは、それだけは、皮肉な程に。

 他の何もかもは叶わなかったのに、それだけは、叶ってしまったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――()()からは。

 ()()からは、ただ、()()()だった。

 総力戦で、乱戦。

 ()()()()、だった。

 

 紅く燃える日輪の刃が夜を照らし、それを洗い流すかのように水の刃が迎撃する。

 そしてその迎撃を、濁流の如き別の水の技がさらに迎撃する。

 だが不思議なことに、この水の技は、彼が庇った日輪の技の方により良く似ていた。

 技の形、剣の足捌き。似通った太陽と水が、敵の迎撃を打ち払う。

 

 その隙間を、蛇と(リボン)(はし)る。

 柔の斬撃。しなやかに進んだ。

 それを断ち割ったのは、空を裂く回転斬り。

 だが空を届く程の音、轟音、爆音が、周囲を呑み込んだ。

 

 助けに動いた隻腕を、霞が包み、蝶が突いた。

 それを横目に、哄笑を上げるのは、女だ。

 鋼糸の女が、戦場を引き裂く。

 それを、若き獣と雷が追いかけた。

 

 暴風。そしてそれを迎え撃つさらなる雷鳴。

 それら全てを踏破して、守られて、陽光の斬撃が届きかける。

 しかしそれは、それでも、届かなかった。

 太陽は、決して届かない。

 

 何故ならば、その少女は完璧な生命体だからだ。

 動物も、植物でさえも、生きるためには太陽が必要だ。

 生命活動のほとんど全ては、太陽の光を前提にしている。

 しかし、彼女は違う。彼女は太陽の恵みを必要としない。

 

 生きるという行為において、何も必要としない。

 例えば、もしも地上から太陽が失われて、永遠の氷河に世界が覆われたとしても。

 あるいは空気が蒸発し、酸素は愚か、あらゆる気体が失われたとしても。

 いや、たとえこの惑星()が割れ砕けて、外側の深淵に漂うことになったとしても。

 

 彼女だけは、死ぬことはない。

 それは、かつて存在した鬼の(鬼舞辻)始祖(無惨)でさえも到達できなかった領域。

 これほどの戦いでも、いや、戦いで彼女の完璧さを揺るがすことは出来ない。

 日輪の刀を使う限り、太陽の呼吸に頼る限り、それは不可能だった。

 

 何故ならば、今一度言うが『()()()()()()()()()()』。

 それこそが、彼女の()()()()()()()

 太陽を拒絶する永遠性。そして何人も侵すこと叶わぬ完璧な肉体保存。

 概念として、完成した存在だ。

 

 だから、もしも。

 もしも、そんな彼女を打ち破る者がいるとすれば。

 そんなあり得ない存在が、あり得ると、すれば。

 

「――――――――瑠衣ッ!!」

 

 それはきっと、複雑怪奇な理屈ではなく。

 もっと、単純(シンプル)なもののはずだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「煉獄!」

 

 と、補給の刀を投げたのは宇髄だった。

 彼はその場にいる柱の中で、最も視野が広く()()()だった。

 不死川でも、伊黒でも甘露寺でも、しのぶでも冨岡でも、この行動はおそらくしない。

 優し過ぎるか、あるいは責任感の強さ故にだ。

 

 そして、杏寿郎は実は聡い男だ。

 力押しのように見えて、良く細部に目が届く。

 母に似たのだろう、と、父である槇寿郎ならば言うだろう。

 

「感謝する。宇髄!」

 

 鞘をつけたまま地面に突き立った刀を、引き抜いた。

 鞘はそのままに、刃だけ滑らせて抜刀する。

 その滑りで、その重みで、良い刀だと、直感的にわかった。

 

「行くぞ、瑠衣!」

 

 ――――炎の呼吸・玖ノ型『煉獄』。

 杏寿郎が見せた構えは、やはりというか、それだった。

 乱戦を突破し、それでいて瑠衣の頚を取る技はそれ以外には無いからだ。

 その強い視線は、瑠衣だけを捉えている。

 

「無駄ですよ、兄様」

 

 しかしそれを見ても、瑠衣は動じない。

 動じる理由がないからだ。

 炎の呼吸の最大奥義であれ、いや、始まりの呼吸でさえ、瑠衣には無意味だ。

 

「どんな技でも……日輪刀では、私の頚を斬ることは出来ません」

 

 もちろん、そんなことはこの場にいる誰もが知っている。

 知っていて、なおもやる。

 杏寿郎がそう考えていることを、瑠衣は知っている。

 たとえ無意味と知りつつやる。それを、知っている。

 

 それが鬼狩り――いや。

 ()()だと、知っている。

 だから、言葉は意味を持たない。

 ただ日輪刀だけが、力を交わすことだけが意味を持っていた。

 

「……良いでしょう」

 

 向かってくる杏寿郎に、兄に、瑠衣は腕を開いた。

 自分の頚に触れた瞬間、杏寿郎の日輪刀は折れる。

 『煉獄』の技を放った直後の硬直を狙って、最後だ。

 そして1人1人、ゆっくりと確実に日輪刀を破壊する。

 

 補給が尽きるまで。そうすれば、決着だ。

 いかに小鉄が頑張ったとしても、原材料もなく、産屋敷の残した備蓄だけでは限界があるだろう。

 思ったよりも押されたが、しかし、それももう終わる。

 だから。

 

「来てください、兄様」

 

 豪。

 返事の代わりに、日輪刀が振り下ろされてきた。

 敵を見る杏寿郎の眼光は、どこまでも鋭く、強く、激しく燃えていた。

 そうして、衝撃が来る。

 

 炎の斬撃が、頚に、左の頸動脈のあたりに振り下ろされた。

 その衝撃に、瑠衣は目を細めた。

 さあ。

 さあ、これで終わ

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――咄嗟(とっさ)に。

 咄嗟に、左腕を上げたことが、奏功した。

 それはまさに反射と言うべきであって、瑠衣の意思の外で左手が動いたのだ。

 思考(瑠衣)よりも先に、反射(瑠花)が肉体を動かした形だ。

 

 しかし、そうしなければ、終わっていただろう。

 ただしその終わりは、瑠衣が思い描いていたものとは違うものだった。

 それを証明するかのように、目の前でクルクルと回っているものがあった。

 ()()()()()()()()

 

(――――斬られた!?)

 

 左の頸動脈。そこへ杏寿郎の斬撃が来た。

 そこまでは良い。

 本来ならば、瑠衣の頚に触れた瞬間に日輪刀の方が折れるはずだ。

 

「……ッ!」

 

 声は、上げられなかった。

 言葉の代わりに吐き出されたのは、赤い血だった。

 左手を挟み込んで攻撃の軌道を逸らしたとは言え、相手は『煉獄』だ。

 渾身の力で放たれた炎の呼吸の奥義を、片手では、完全に止めるまでには至らなかった。

 

 切っ先が喉を斬り裂き、傷口と口腔から血が噴き出した。

 肉体的なダメージ自体は、問題ない。すぐに再生する。

 しかし精神的なそれは、見た目以上に大きかった。

 日輪刀で自分の頚が切断されかけている。

 

()()()()()()()()

 

 それでも、そう考えた。

 だがこれは、焦りや混乱からの考えではない。

 むしろ逆だ。冷静に考えて、今の一瞬の出来事はあり得ないことだった。

 

 瑠衣には、瑠衣の肉体には強力な太陽耐性がある。

 だから日輪刀で瑠衣に傷をつけることは、まず不可能だ。

 しのぶの一撃は、あくまで眼球という例外を狙ったために成功したのだ。

 それも、二度とは通用しないだろう。

 

(だとすれば。そうだと、すれば)

 

 あり得ないことが起こった時は、前提を疑ってかかるべきだ。

 前提ではなく、結果から逆に辿(たど)る。

 

()()()()!」

 

 しかしその思考の間にも、杏寿郎の攻撃は続いている。

 瑠衣は攻撃を逸らしただけで、防ぎ切ってはいない。

 刀を返して、そのまま第二撃が襲いかかって来る。

 もちろん、『煉獄』続行だ。

 

 日輪刀は、瑠衣の肉体には効かない。

 しかし、杏寿郎の攻撃は瑠衣の肉体に傷をつけた。

 この2つから導き出される答えは、すなわち。

 

「――――敗れたり!」

 

 杏寿郎の刀は、()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その瞬間、戦場の全ての動きが止まった。

 それぞれに対峙する相手の前で足を止めて、杏寿郎と瑠衣の一瞬の攻防に目を奪われたのだ。

 確かに一瞬。

 しかしその一瞬は、永劫とも思える程に長いものだった。

 

「ああっ!?」

 

 声を上げたのは、まず獪岳だった。

 彼はてっきり、次の瞬間には杏寿郎が倒れていると思い込んでいた。

 それはこれまでの経緯を思えば、けして荒唐無稽な想像とは言えない。

 

 そうしている間に、杏寿郎の『煉獄』が続く。

 当然のように、狙いは頚だった。

 逆から放たれた二撃目。それを、瑠衣は右手で止めようとした。

 しかし次の刹那には、右手の手首から上が、瑠衣の腕から離れていた。

 

「不味いわぁ……!」

「……!」

 

 榛名と、そして柚羽。

 この2人は、口より先に身体を動かした。

 

「……行かせないよ」

「ド派手になあっ!」

 

 しかしそれは、時透と宇髄の横撃によって妨害された。

 そうして、この戦線もやはり止まる。

 動く者は、杏寿郎と瑠衣だけになる。

 

(お館様のお考えが的中したなァ)

 

 目の前の光景を見て、不死川はそう思った。

 日輪刀でまともに傷つけることが出来なかった瑠衣を、斬り付けることが出来た。

 そう。杏寿郎が使っている刀は、日輪刀ではない。

 

 ()()()()()()()

 だが、小鉄が全霊を込めて打った刀だ。

 だからそれは日輪刀にも劣らぬ業物(わざもの)であり、斬られるまで瑠衣も気付かなかった。

 それだけ杏寿郎の気迫が本物で、瑠衣の意識を引いたとも言える。

 

「これで……?」

 

 その時、ふと不死川の目を引くものがあった。

 誰かが自分に向かって来た、というわけではない。

 むしろ逆で、不死川が視線を向けた先にいる彼は、微動だにしていなかった。

 

 犬井だった。彼は、腕を斬られた瑠衣をじっと見つめていた。

 獪岳のように驚くでもなく、榛名や柚羽のように助けに動くでもない。

 ただ、じっと見つめていたのだ。

 まさに、食い入るように。

 

「…………なるほど、ねぇ」

 

 そして、第三撃。

 瑠衣の右手を斬った杏寿郎が、さらに刀を返して、『煉獄』を続行しているのが見えた。

 口だけでなく、眼窩と鼻腔からも血が噴いており、次の一撃が限界であることは明白だった。

 しかし両手を失っている瑠衣には、その最後の攻撃を止める術がなかった。

 ついに、杏寿郎の刃が、瑠衣の頚に届いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

()()()

 

 産屋敷輝利哉は、囁くような声で言った。

 その顔は、父に似て美しいとさえ言える白面は、すでに()()()()()()()

 歩行も困難になりつつあるのか、枕元には杖が置かれていた。

 

 そんな弟を、姉達が囲んで座っている。

 末の姉――くいなの腕には、産まれたばかりの男児と思わしき赤子が抱かれていた。

 赤子らしからず、泣きもせずに病床の()を見つめていた。

 その黒い眼は、どこか不思議なものを見ているような風にも見えた。

 

「あの時、剣士(子ども)達が束になってかかっても、瑠衣には敵わなかった」

 

 無惨を討ったあの日。そして、瑠衣が人間を辞めたあの時。

 鬼殺隊は敗北した。

 あの様は、敗北と表現するしかなかった。

 その点について、輝利哉に誤魔化すつもりは無かった。

 

「お館様」

 

 咳き込み、血を含む痰を吐いた。

 そんな主人――弟の口元を、かなたが清潔な布で拭った。

 輝利哉はそれに目礼して、言葉を続けた。

 

「けれど、あの時……唯一、瑠衣に傷をつけた者がいた」

 

 鬼殺隊の名のある剣士達が束になってかかっても、瑠衣には傷一つ与えることが出来なかった。

 日輪刀は折れて砕けて、何の役にも立たなかった。

 瑠衣はまさに、鬼殺の剣士達を歯牙にもかけていなかった。

 しかし、例外があった。

 それに気付いたのは、直接戦っていたわけではない、輝利哉だけだった。

 

()()()

 

 コロ。剣士ではない。というより、人間でもない。

 鬼殺隊においては、犬井という剣士の()()()という扱いだ。

 (もっと)も、本人が聞けば「おじさんの方がおまけなんだよなあ」とでも言っただろうが。

 

 しかし、()()()。コロは()()()()()

 柱に対しても、そして日輪刀に対しても、瑠衣は無敵だった。

 そんな瑠衣に対して、コロは()()()()()()()()()()()

 それは、傷と言うには余りにもささやかなものだったのかもしれない。

 

「……太陽の力では、瑠衣は討て(殺せ)ない」

 

 鬼狩り。日輪刀。全集中の呼吸。

 産屋敷家が千年間、積み上げて来たもの。

 そして鬼殺隊が、数百年間かけて築き上げてきたもの。

 

 ()()()()()()()()

 煉獄瑠衣を滅ぼす。

 そのためならば、過去の成功体験でさえ、あっさりと捨てる。

 それだけの価値が、希望が、コロの行為にはあったのだ。

 

()()()()()()()()()()()()()()

 

 信じて、待とう。

 そう思って、輝利哉は目を閉じた。

 剣士(子ども)達の勝利を信じて。

 そして、可哀想な剣士()が救われることを、信じて。

 待とう。そう、思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 身体に、異物が入り込んで来る。

 頚の皮と肉を鋼に引き裂かれていく感触に、瑠衣は目を見開いた。

 ここまで来れば、頚の切断を止める術は無い。

 なす術もなく、頚を刎ねられてしまうだろう。

 

 しかし冷静に考えてみれば、この行為には実は何の意味も無い。

 何故ならば、瑠衣は()()()()の怪物だからだ。

 それが日輪刀であれ違う方法であれ、頚を切断されたところで死にはしない。

 何ともないのだ。本来ならば、そんな(頚の)事態(切断)は。

 

(だ……)

 

 ()()()()()

 

(駄目、だ)

 

 本来ならば、何の意味も無い。

 しかし今回は間が悪い、いや、()()()()()

 他の誰かならば、頚を刎ねられたところで、それこそ無意味だ。

 次の一瞬で頚を再生して、それで終わりだ。

 

 ぴちゃっ、と、何かの雫が頬に触れた。

 

 雨か、血かと思ったそれは、涙だった。

 兄の、杏寿郎の目から溢れたそれが、瑠衣の顔に降って来たのだ。

 表情は変わらない。しかし、涙だけが溢れている。そんな風だった。

 嗚呼。やはり駄目だ。瑠衣はそれを、兄の涙を見て、やはりそう思った。

 

()()

 

 死の予感。いや、確信。

 頚を斬るのが他の誰かであれば、瑠衣はそんな感覚を得はしなかっただろう。

 しかし兄が、杏寿郎にそれをされてしまえば、話は別だ。

 心が、魂が死を想ってしまう。

 内面が死を自覚してしまえば、肉体の不死身など何の意味も無くなってしまう。

 

「瑠衣――――ッ!!」

 

 嗚呼。兄様。

 そんなに真っ直ぐに、見つめられてしまったら。

 私には、何も返しようがない。

 

「俺はお前を、愛していた!」

 

 それは何て、何て、殺し文句。

 そんな文句を言われたら。言われてしまったら。

 もう。

 もう、死んでしまうしかないではないか――――。

 

 

『――――――――それならば』

 

 

 ――――え?

 

中身(お前が)死んでしまうのであれば、構わないな?』

 

 誰かが喋っている。

 誰だ。姉か、瑠花だろうか。

 しかしそれにしては、何かがおかしい。

 何か、何かが、良くない。

 

『構わないな? この肉体(空き家)を私が使ってしまっても――――?』

 

 ――――違ウ。

 コノ声ハ、私ジャナイ。

 何カガ不味イ。何トカ。

 

「さらばだ、瑠衣!」

 

 私ガ、何トカシナケレバ――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 直感。

 一言で表現するとすれば、それしか無かった。

 その場にいる全員が、ほぼ同時に感じた()()である。

 

 柱達は、過去の経験で肌が粟立つのを感じただろう。

 炭治郎達は、それぞれの超感覚によって感じ取った。

 全ては、やはり一瞬の知覚だった。

 杏寿郎の刃が瑠衣の頚に届き、そして。

 

「やった……!?」

 

 誰かが、そう言った。

 全員の目の前で、瑠衣の頚が宙を舞うのを目撃したからだ。

 杏寿郎の『煉獄』。その最終の一撃により、瑠衣は頚を刎ねられた。

 

(何だ。この異様な胸騒ぎは)

 

 くるくると宙を舞い、放物線を描く瑠衣の頚。

 それを目にしても、炭治郎の胸中には勝利の安堵もなければ、別離の悲哀も湧いては来なかった。

 ただ、奇妙なざわめきあった。

 その胸中のざわめきが、炭治郎に、いや、その場にいる全員の緊張を持続させた。

 

「……! 何だァ、オイ!」

 

 その時、不意に倒れたり、膝をついたりする者がいた。

 榛名と柚羽である。

 特に榛名は、起き上がることすら出来ない様子だった。

 まるで。

 

(……退()()()に、戻っている?)

 

 その異変を正確に理解できたのは、蝶屋敷の主であるしのぶだけだっただろう。

 蝶屋敷の退院前、亜理栖の血鬼術で補助を受ける前の状態に近い、と。

 だが、それが意味するところは何だ。

 

「……ッ。クソ……!」

 

 獪岳も、不快なものを払うように目を擦っていた。

 犬井と禊は、それほど調子を崩している様子は無い。

 この違いについても、謎だ。

 

 あるいは、もう少し考察を進めれば、何かに気付けたのかもしれない。

 しのぶにはそれだけの頭脳があったし、他の者達もそれだけの経験値を持っていた。

 ただ、残念ながら、それだけの時間が与えられることは無かった。

 

「瑠衣さん」

 

 炭治郎は、声に出してその名を呼んでみた。

 意味の無い行為だ。

 そんなことはわかっていても、何故か、そうしてしまった。

 

 瑠衣の頚は、変わらずくるくると宙を舞っていた。

 炭治郎はそれを、目で追っていた。

 いや、その場にいる全員が追っていた。

 だから、全員が見た。

 

「瑠衣さ……」

 

 宙を舞う瑠衣の頚、その口元が、動くのを見た。

 鬼だから、首を刎ねても動くこと自体は何の不思議もない。

 だが瑠衣の唇が形作った音は、一瞬、その場の全員の理解が追い付かなかった。

 音は3つ。

 

「…………え?」

 

 ――――ニ。

 ――――――――ゲ。

 ――――――――――――ロ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――気が付いた時。

 次に気が付いた時、瑠衣は己が全裸であることに気付いた。

 衣類は愚か、肌着でさえ身に着けていない。

 生まれたままの白身を、外気に晒していた。

 

「……?」

 

 頚から下が、肉体が、あった。

 再生したのか。くっつけたのか。覚えていなかった。

 いずれにせよ、裸身を晒している理由にはならないが。

 

 身体には、当然だが、傷一つ残っていなかった。

 むしろ月明かりの下で、艶やかな黒髪や白磁の肌は輝きさえ放って見える。

 美しく均整の取れた、日本刀のようにしなやかな身体。

 傷どころか染みさえ無い。常にも増して完璧な肉体がそこにあった。

 

「な、に」

 

 それに比べて、彼女の周囲は異常だった。

 ()()()()

 瑠衣の周囲には、何も無かった。

 一言で表現すれば、こういう言い方になるだろう。

 

「何が、起こった、の」

 

 ()()()

 2000ポンドの爆弾でも爆発したかのような、巨大な窪み(クレーター)が、瑠衣を中心に広がっていた。

 よほどの()()だったのか、山肌は深く抉れ、周囲の木々は薙ぎ倒されている。

 全て、吹き飛んでいた。

 何も無い。誰も、いない。

 

「……あ」

 

 唯一、目の前に倒れている()()

 それだけは、知覚することが出来た。見分けることが、出来た。

 歩こうとして、失敗して、結局、這って近付いた。

 焦げた土で、顔が半分ほど覆われていた。

 

「あ、あ」

 

 這って、寄って、土を払った。

 頬から、顎、首筋。

 手は、そこで止まった。

 

 瑠衣の唇は、あ、あ、と、意味の無い音を漏らしていた。

 首筋で止まった手は、カタカタと震えるばかりで動かない。

 そこから下には、手を進められなかった。

 手で払うには、余りにも――余りにも、()()()()()()

 

「…………」

 

 その時、不意に、目が開いた。

 薄く、片目だけ。

 しかしその目も、どこを見ているともわからない。虚ろな目だった。

 

「う、あ」

 

 それでも、瑠衣の唇は意味のある音を発することが出来なかった。

 そして、やはり不意に気付いた。

 唇が、微かに動いていた。瑠衣のではない、目の前の男の――男だった、何かの。

 

 必死な顔で、瑠衣はその唇に耳を寄せた。

 もう、何でも良かった。

 何でも良いから、彼の音を聞きたかった。

 それ以外には、何も考えられなかった。

 

「……。……。……。」

 

 そして、彼の音を聞いた。

 ごく僅かな時間。ほんの一呼吸。

 けれど、それは。

 

「……ああ。ああああ……」

 

 それは、少女にとって。

 

「ああああああああああああああ」

 

 けして拭い去ることの出来ない、呪いの言葉となったのだった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――かくして!

 かくして、少女は戦争に勝利した。

 もはや少女の生命を脅かす存在は、誰もいなくなった。

 

 鬼狩りの系譜は途絶え、その技術は失われ、やがて物語となり、最後には歴史となった。

 だが少女だけは、途絶えることも失われることも、物語となることも歴史となることも無い。

 永遠。そして不変。

 勝利の声(慟哭)歓喜の叫び(嗚咽)。嗚呼、何と美しい旋律(悲鳴)だろうか。

 

 少女の瞳からはとめどなく涙が、血が、血の涙が流れて、流れて、流れて。

 流れて流れて流れて流れて流れて流れて――――流れて。

 再び上げたその瞳。

 そこにはもはや、人の黒瞳は無く。

 ――――ただ、金色の鬼眼だけが、輝いていた――――。




最後までお読みいただき有難うございます。

う――――――――ん。

ナイス愉悦(え)

それでは、また次回。


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第79話:「最後の1人」

「――――()()()()

 

 もう何本目かわからないボトルを手に、禊はそう言って話を締めくくった。

 そこから、しばらくは沈黙が続いた。

 聞こえてくる音があるとすれば、禊の酒を飲む音、あるいは榛名がカウンターでグラスを磨く音くらいのものだった。

 その他は、まるで呼吸することさえ遠慮しているのではないかと思える程に静かだった。

 

「…………」

 

 この時、より重要なのは話をした側ではなく、話を聞いた側の沈黙だった。

 話をした側が、自分の話した内容に驚くことはない。

 禊の語りぶりも、酒気を孕みつつも熱を帯びてはおらず、聞く者の内心に訴えかけるようなものでは無かった。

 

 カナエは、表情を動かさなかった。むしろ、自分より他の面々の反応を見ている気配さえあった。

 しのぶはそんな姉の視線を感じつつも、何かを考え込んでいる風だった。

 カナタも沈黙している。ただしこちらは、カナエのそれよりは不信の色合いが強く見えた。

 要するに、禊の話そのものに懐疑的。もっと言えば、信じていない様子だった。

 

「もう1つ、教えて貰ってもいいかな?」

 

 炭吉が、声を発した。

 酒気のせいか、赤い顔――伝票に追記されていく数字を見て蒼くなったりもするが――をしているが、意識ははっきりしているようだった。

 首の代わりにグラスを傾けて、禊は先を促した。

 

「きみ達は、いったい何者なのかな」

 

 しかし結局のところ、そこに行きつく。

 先程の禊の話が真実であれ、あるいは虚偽であれ、煉獄瑠衣という現実は消せない。

 むしろ今の話を仮に真実とすれば、禊達は煉獄瑠衣の仲間である。

 もしもそうだとすれば、彼女達は――――。

 

「……人間」

「え?」

「人間って、どうして死ぬと思う? 怪我とか病気とかは考えなくて良いわ」

 

 その場に、戸惑いの空気が広がった。

 しのぶが小さく手を上げて、言った。

 

「それは、寿命、という意味ですか?」

「まあ、そうね。じゃあ、寿命って何?」

「何って……」

 

 しのぶは戸惑った。

 寿命の意味を問われても、寿命としか答えようがないではないか。

 そうありありと表情に浮かべるしのぶを見て、禊は言った。

 

「寿命って言うのはね、要するに老化ってことでしょ」

 

 老化。人間なら誰もが避けては通れない現象だ。

 どんなに長生きな人間でも、いずれは老い、衰え、そして死ぬ。

 だが、もしも。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()寿()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 それが、彼女達。

 

「私達は、()()()()()

 

 煉獄瑠衣との()()によって、永遠の輸血(ブラッドボーン)を受けた者達である――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 血鬼術『永遠の輸血(ブラッドボーン)』。

 対象の身に流れる血液の()()を、煉獄瑠衣の血液と()()()()()

 それが()()だ。

 煉獄瑠衣の血液は変質しない。酸化も糖化もせず、けして劣化しない。

 故に対象が人間の場合、鬼になることなく、限りなく不老に近い状態にすることが出来る。

 

「つまり、きみ達は……人間なのか」

「そうよ。病気もするし、斬れば死ぬわ。まあ、抵抗力も免疫も物凄いから病気にならないし、多少の怪我ならあいつが治してしまうけれどね」

「それ、人間って言うの?」

 

 カナタのツッコミは、こんな時でも冷静だった。

 

「さて」

 

 コン、と、グラスを置いて、禊が身を乗り出すようにした。

 彼女が見つめていたのは、炭彦だ。

 美しい年上の女性に覗き込むように見つめられて、炭彦は顔を赤らめた。

 ――比例してカナタの機嫌が悪くなったが、それはそれとして。

 

「アンタは、どうしたいの?」

「え……」

「今のわたしの話を聞いて、どう思った?」

「僕が、どうしたいのか。どう思ったのか……」

 

 問われて、炭彦は考え込んでしまった。

 彼が即答できなかったのは、戸惑ったからだった。

 何に戸惑ったのかと言えば、今の禊の話が、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 炭彦の中の瑠衣と、今の話に登場した瑠衣が、どうしても一致しなかったからだ。

 禊の話は、少なくとも数十年は前の話だ。

 人が変わるには十分な時間だし、炭彦には想像も出来ない時間だ。

 それに実のところ、炭彦は瑠衣のことをまだ良くは理解していないのだ。

 

(僕にとって、瑠衣さんは……優しい人だ)

 

 あの公園で出会ってからずっと、瑠衣は自分に優しかった。

 呼吸を教えて、強くなるように促してもくれた。

 そして犬人間の時や珠世クリニックの時には、救ってもくれた。

 強く、綺麗で、何より優しい。

 そんな瑠衣だからこそ、炭彦は――――憧れたのだ。

 

「僕は……瑠衣さんと」

 

 だから、わからない。

 どうしたいと言われても、答える言葉を炭彦は持たない。

 ただ禊の目は、無言を許してくれるようには見えなかった。

 だから今、どうしても答えなければならないとすれば、炭彦の答えは1つしか無かった。

 

「僕は瑠衣さんと、話がしたいです」

 

 瑠衣に会いたい。

 それだけが、それだけは、炭彦の偽らざる本心だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 禊は、物凄く嫌そうな顔をした。

 有り体に言えば、吐きそうになっているのを我慢しているような、いやむしろ今にも吐きそうな顔だった。

 というか、何なら胸を押さえて「おえー」という仕草さえしていた。

 

「ひっでー女だな」

「いや、だって……あー、正面から見るもんじゃないわね。ピュアっピュアで、こっちが胸焼けしちゃうったらないわ。あ、ありがと」

 

 呆れたような獪岳の声にそう言いつつ、柚羽が差し出して来た紙ナプキンで口元を拭った。

 カナタとしのぶなどはドン引きするやら睨みつけるやら、いずれにせよ、禊という人物を掴めていない様子だった。

 

「で、あいつに会いたいって?」

「え、あ、はいっ!」

 

 自分を真っ直ぐに見つめて来る炭彦に、禊は掌で自分を扇ぐような仕草をした。

 実際に暑いのか、パタパタと扇いでいる。

 もう勘弁してくれ、と言っている風でもあった。

 

「あの、瑠衣さんは今、どこに……?」

「は? 知らないわよ、そんなこと」

「ええ……」

 

 完全に教えて貰える流れだと思っていただけに、炭彦はあから様にガッカリした。

 それが妙に気が咎めたのか――咎めるような「気」があるのかはともかく――禊は「ああ、もう」と溜息を吐いた。

 

「男の子がそんな情けない顔をするんじゃないわよ」

 

 そう言って、禊は炭吉の伝票の裏に何かを書き記した。

 サラサラと澱みなく書かれたそれは、メモというよりは地図のようだった。

 

「ここに行ってみなさいな」

「えっと、ここに瑠衣さんが?」

「だから知らないって言ったでしょ。ここに行って、()()()()()()()()()()

 

 なお、料金はびた一文下がらない。

 ただその点については、炭吉が向こう数か月分のお小遣いについて悩むだけで済みそうだった。

 

「ただ、まあ、気をつけることね」

 

 残りの伝票を柚羽に渡しながら、禊は言った。

 

「今のあいつは、アンタの知ってるあいつじゃないわよ」

「それは、どういうことですか」

()()()()()()()()

 

 それ以上は、禊は何も語ろうとはしなかった。

 思ったよりも話が長時間に及んでいたのか、気が付けば、深夜――どころか、もうすぐ早朝という時間帯になっていた。

 話が濃厚過ぎたせいか、あるいは場の空気に当てられたか、不思議と眠いとは感じなかった。

 

 ただ炭彦の中にあるのは、禊の話よりも、やはり瑠衣に会いたいという思いだった。

 瑠衣の過去を聞いても、今の瑠衣の状態を聞いても、どうしても実感が湧かなかった。

 炭彦にとって、瑠衣は今でも、公園で微笑んでいたあの瑠衣のままだったのだ――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――と、言うのが、2日前の話だ。

 禊の店を訪問した次の土曜日、炭彦はカナタと一緒に、彼女に教えて貰った場所にやって来ていた。

 そして、その場所と言うのが。

 

「病院……だよね」

「うん。病院だね」

 

 キメツ大学病院。

 この近辺で最も大きい総合病院で、最先端の医療設備が整っていることで有名だった。

 逆に言うと、それ以外のことは余り知らない。

 まあ、大学病院について詳しいというのもおかしな話ではある。

 

 閑話休題。

 禊に渡された手書きの地図には、間違いなくここだとあった。

 何と言っても、部屋番号まで書いてあるのである。

 当初は、マンションか何かかと思っていたのだが、まさか病院だったとは。

 

「……まあ、それはもう良いよ。ただ」

 

 そして、カナタが視線を向けた先には、もう1人。

 

「うむ! 実に良い天気だ! ところで今日は誰の見舞いだろうか!」

 

 桃寿郎がいた。

 実に溌剌(はつらつ)とした様子で、快晴の天気の中でさらに輝いて見えた。

 ただそれに反比例するように、カナタは眉を寄せて。

 ぐいーん、と、炭彦の頬を引き延ばした。

 

「どうして彼がいるの?」

「いだだだだだだだだだ」

 

 桃寿郎とは特に待ち合わせたというわけではなく、途中でたまたま会ったのだ。

 どれくらいたまたまかと言うと、登校中にばったり会うくらい――つまり、カナタとの待ち合わせに遅れまいと走っている最中――にたまたまだった。

 カナタからすれば、午前中に用事を済ませて待ち合わせ場所に来てみれば、何故か桃寿郎がいたというわけだ。

 

「あのさ、何しに来たかわかってる?」

「わ、わああええるうううう」

 

 ぐにぐにと、炭彦の頬は面白いように伸びた。

 しかし実際、桃寿郎の存在は想定外だった。

 もちろん()()()のことも知ってはいるが、竈門家や胡蝶家とは()()ことも知っていた。

 

 そしてこの弟は、知ってか知らずか、()()()()()()()()的確に掴んで来る。

 何の運命力か知らないが、それにしてもタイミングというものがあるだろう。

 (もっと)も、犬人間事件に関わりを持った時点で、手遅れだったのかもしれないが。

 

「むう、炭彦を責めないでくれ! 俺が勝手について来たのだ! 大丈夫だ、見舞いの間は俺は部屋の外に出ていよう!」

 

 そして、先に言われてしまった。

 そう言われてしまうと、無下に追い返すことも出来なくなる。

 どうしたものかと――弟の頬をぐにぐにし続けながら――しばし考えて、カナタは溜息を吐いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「しっかし、マジで良い趣味してるよな。あの女」

 

 そう言ったのは、今日も今日とてカウンターで勝手に店の酒を飲む獪岳だった。

 相も変わらず、酔っているのかいないのかわからない顔でグラスを仰いでいる。

 そんな彼を見て苦笑を浮かべているのは、犬井だ。

 彼はひょいひょいと獪岳から空いたグラスを取り上げながら、言った。

 

「良い趣味って?」

「あれだよ。一昨日にガキ共に言ってたろ。()()()()

「ああ、言ってたねえ」

 

 ちなみに回収したグラスは、榛名が「程々にしてねぇ」と言いつつ洗い場に持って行っていた。

 お店の酒を飲むだけに飽き足らず、客用のグラスまで圧迫していたのである。

 まあ、だから遠慮するような性格ではないわけだが。

 

「良い子たちだったじゃないか」

「その良い子ちゃん達に、あの場所を教えてやったんだろ。良い性格してるぜ」

 

 半身で後ろを見れば、例の常連客――青葉と談笑している禊の姿があった。

 それはもう綺麗に微笑んでいて、とても他人を陥れるような人物には見えなかった。

 

「いやあ、別に陥れるつもりってわけじゃないでしょーよ」

「どうだかな。そうじゃなくても、面白がってるだけなんだろうぜ」

 

 そして獪岳は、懲りる気配もなくお酒に手を伸ばしていた。

 獪岳の手からお酒のボトルを守りつつ、犬井は顔を近づけて、囁くように言った。

 

「で、旦那は何が気に入らないんだい」

「あ?」

「いや、何。余計なお世話かもしれないけど」

 

 その時、一瞬、獪岳の表情から全ての感情の色が消えた。

 

「感傷的になっちゃってるのか、と思ってね」

「…………バカ言ってんじゃねえよ」

 

 心の底から嫌そうな顔をして、獪岳はそう言った。

 まったく話し相手を選べないとは面倒なものだ。

 老いない肉体のせいなのか、精神もまた当時から変わらないのが厄介だ。

 尤も、精神の老いが進めば肉体の老いよりより厄介なことになるわけだが。

 

 ()()()()()()()()

 不意にそう思った自分自身に、獪岳は意外なものを感じた。

 意外を感じる自分自身に、はっとした。

 それに比べて、と、目の前の男を見る。

 

「てめえは、()()()()()()。本当」

「まあ、ねえ」

 

 犬井は、微笑んだ。

 

()()()()()()

 

 意味が分からねえ、と獪岳は言い。

 だろうねえ、と、犬井は笑うのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「ここか」

 

 病院の受付で説明を受けた後、炭彦とカナタはある病室の前に来ていた。

 桃寿郎もついて来ているが、こちらは遠慮しているのか、今は静かにしていた。

 じろっとカナタが視線を向けると、わかっている、と頷いて、扉横のベンチに腰掛けた。

 ここで待っている、という意思表示だった。

 

 次いで炭彦を見ると、こちらはやや緊張している様子だった。

 しかし、その目には意思の強さを感じる。

 そして、自分への信頼感も感じた。

 尤も、それ自体にはカナタは内心で安堵していたのだが。

 

(もしかして、それが心配だった?)

 

 と、桃寿郎の真意にここに来て思い至った気もした。

 カナタと炭彦の喧嘩――と言えるのかどうかさえ、わからない程度のものだが――は、彼らと仲の良い者達には知れ渡っていただろう。

 桃寿郎がそれを心配してついて来たというのは、よくよく考えてみれば、十分にあり得る想像だった。

 まあ、だからと言って確認するような真似はしないが。

 

「…………返事がないな」

 

 病室は、個室だった。

 病院のかなり奥の病棟にあり、普通の病室とは扱いが異なっている。

 しかもフロアの他の病室は空いているのか、昼間だと言うのに人通りもほとんどない。

 

(妙だな……)

 

 とは思ったものの、何が、というのがわからなかった。

 

「……? カナタ?」

「あ、ああ。ごめん。……開いてるみたいだ」

 

 ドアは、鍵が開いていた。

 と言っても、外鍵で内側からは開けられない造りだった。

 それも奇妙と言えば、奇妙な点だった。

 

「入ってみよう」

 

 ここまで来て、帰るという選択肢も無いだろう。

 

「……失礼します」

 

 そして、病室の中に入った。

 

「…………」

 

 病室は、広くはあるが、想定内の内装だった。

 個別のトイレと浴室、キッチンがついていて、どちらかと言えばワンルームに近い。

 そして入口から見て奥側正面に窓と、窓際にベッドがあった。

 

 ベッドに、人が寝ていた。

 それが病室の主であり、禊が会えと言った人物だと思った。

 ただこの人物が、()()()()()()()()

 

「ねえ、カナタ。あの人って、その……()()()()()()()?」

 

 ()()()

 まるで、枯れ枝のように痩せ細った身体。爛れた肌。そのせいか顔面のほとんどを覆う包帯。

 薄い病院着の隙間から僅かに覗く身体は骨ばっていて、血色は「悪い」としか言えなかった。

 呼吸音は愚か、胸さえ上下していない。機器の音だけが、彼の生存を辛うじて教えていた。

 

 その機器の数も2つや3つではない。

 鼻腔、口、喉、腕、手首、腹部、そして足。

 あらゆる場所に器具やチューブを繋がれていて、文字通り「生命維持装置」と言った風だった。

 正直なところ、この状態を「生きている」と言って良いのかどうか、カナタと炭彦は悩んだ。

 

「……ッ!」

 

 しかし、すぐに2人はその人物が生きていることを理解した。

 何故ならば、2人が恐る恐るベッドの傍に近寄った瞬間、その男が両目をカッと見開いたからだ。

 落ち窪んだ、それでいて血走った両目が、炭彦とカナタをぎょろりと見つめてきた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 あの女、と、カナタは思った。

 あの女――禊は、きっと()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()、炭彦達にこの場所を教えたのだ。

 そう。()()()()と、きっと禊は知っていたのだ。

 

「オオオ、オ。オオオオオ……!」

 

 ミイラのようだった患者の男が、ベッド脇の炭彦とカナタに縋り付いていた。

 かなり体勢が悪く、身体をベッドの外の2人に預けてしまっている形だ。

 だから2人が手を放せば、男はそのまま床に落ちてしまうだろう。

 そのために、2人は縋り付かれるままになってしまっていた。

 

「オオオ、オオオ……タ……!」

 

 死んだ魚のように飛び出た目が、ぎょろりとこちらを見つめていた。

 その目は明らかに常軌を逸していて、まともに話が通じるとは思えなかった。

 

「か、カナタ、どうしよう」

「ちょ。オイ……!」

 

 桃寿郎を呼ぶ。ナースコールを押す。

 いくつか頭を(よぎ)ったが、いきなりの事態に身体がついて来ない。

 情けないことに、軽いパニック状態に陥ってしまっていた。

 目の前の男の異常さが、カナタをして冷静でいられなくしていた。

 

「オ……キタ、ノ……!」

 

 男はしきりに、何かを訴えようとしてきていた。

 

「キタ……ノカ。ツイニ、ワタ……シ、ノモトヘ。()()()、ガ」

 

 何を言っているのか、まるで理解できなかった。

 カナタでさえそうなのだ。炭彦はもっとだろう。

 しかし男は、炭彦やカナタが自分の言葉を理解できているかどうかなど気にしていなかった。

 あるいは、気にする余力が――見るからに()()()()で――無かった。

 

「……ロ、セ。()()()……!」

 

 ()()、と、男は繰り返した。

 

「アノオン……オン、ナ。コロセ……コロセ、エ……!」

 

 何度も、何度も、狂った目と声で繰り返した。

 もしかしたら、かつては見目麗しい青年だったのかもしれない。

 あるいは、かつては美しい声をしていたのかもしれない。

 しかし病が進行して、顔は爛れ喉は潰れてしまった。

 

「コロセ……コロセ……!」

 

 それは、まるで呪詛だった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 いや、まるで、ではない。

 呪詛そのものだ。怨嗟そのものだ。

 それを叩き付けられた2人は、余りの異様さと恐ろしさに、身動きが取れなくなってしまっていた。

 

「――――()()()()()! 何をやっているんですか!?」

「2人とも、大丈夫か!」

 

 異変を察知した桃寿郎が、そして男の興奮で異常な数字を弾く医療機器の異変を察知した看護師がやって来て、男――産屋敷を引き剥がしてくれなければ、どうなっていたかわからなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 炭彦とカナタがキメツ病院を訪問している頃、竈門炭吉は営業に出ていた。

 と言っても、本題が別にある営業である。

 具体的には、胡蝶家を訪れていた。

 

「いや、ご当主様も変わらずお元気なご様子で安心したよ」

「炭吉のおじ様の前なので見栄を張っているだけですよ。最近は足腰が弱ってきて、よくしのぶの肩を借りて歩いているんですよ」

「それは、また別の意味が隠れている気がするね……」

 

 表向きは、包丁の納品である。

 胡蝶家は昔から――文字通りの意味で――竈門家と関わりがあった。

 いや、この表現は正確ではない、と炭吉は思った。

 より正確に言えば、()()()()()竈門家と胡蝶家の2つしかないのだ。

 

 ()()()()()()

 かつて鬼の首魁(鬼舞辻無惨)を追い、不死の魔女(煉獄瑠衣)を討とうとした者達。

 鬼狩り。鬼殺隊。もはや伝説の存在だ。

 炭吉でさえ、ほとんど名前しか知らない。

 知識も技術もどんどん薄れて、ほとんど残っていないのだ。

 

「しのぶ君は?」

「学校のお友達と約束があるみたいで、出かけています」

「そうか。元気になったようで良かった」

「はい」

 

 数十年前まではもっと多くの家が残っていたらしいが、戦争とその後の混乱でほとんどの家が消えてしまったらしい。

 それでも細々と残っていたが、今では竈門家と胡蝶家の2つだけだ。

 名前だけは残っている家もある。煉獄家、不死川家、嘴平家……。

 だがどの家も、意図的あるいは意図せずに他家との繋がりを断ってしまった。

 

「とは言え、もどかしいものだね」

 

 もう一度、繰り返そう。

 かつて鬼狩りに携わっていた家々は、2家を除いて()()()()()()

 そして名前だけは残っているような家々も、意図的にせよそうでないにせよ()()()()()()()()()()()()()

 

「できることがほとんどない、というのは」

 

 ()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

「煉獄瑠衣を目の当たりにして、話に聞いていた鬼も出てきて。でも、()()()()()()()()()()()()()()

 

 家族は、守る。これは第一だ。

 キメツ町の人々も、守らなければならない。これが第二。

 しかしそれ以外は、何も思い浮かばない。

 煉獄瑠衣とその一党を()()()()しなければならないことはわかるが、()()()()とはどういうことなのか。

 

「……おじさまのお考えは?」

 

 カナエの言葉に、炭吉は「はは」と軽く笑って。

 

「息子に一点賭け、かな」

 

 その笑みは、どこか照れている様にも見えた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――酷い目にあった。

 炭彦達の胸中にあるのは、その思いだけだった。

 キメツ病院からの帰路、夕焼けの空を遠くに臨みながらである。

 文字通り「トボトボ」という擬音が似合いそうな、落ち込んだ足取りで炭彦は歩いていた。

 

「何だったんだろう」

「……うん」

 

 カナタの口数も、いつも以上に少なかった。

 それはそうだろう。

 何か話が聞けると思った場所で、あんな目に合ったのだ。

 付き合わせる形になった炭彦としては、申し訳ないやら情けないやら、陰鬱(いんうつ)な気持ちにならざるを得なかった。

 

(瑠衣さんのことも、何もわからなかった)

 

 カナタは、禊に騙されたと思っている様子だった。

 端から見れば、そう思っても仕方がない。

 ただ炭彦は、不思議とそういう気持ちにはならなかった。

 あの時の禊には、そういう()()()()はしなかったからだ。

 

 とは言え、瑠衣のことが何もわからなかったのは事実だ。

 だから炭彦としては、落ち込まざるを得ない。

 疲労感と徒労感は、その足取りをさらに重くしていた。

 

「どうした炭彦、元気が無いぞ!」

 

 ぱあん、と、嫌に良い音をさせて、桃寿郎が炭彦の背中を叩いて来た。

 なかなかの力強さに、炭彦がうっと息を詰める程だった。

 

「正直なところ、事情は良く分からないが――下を向いていても、何も始まらないぞ!」

「桃寿郎君、でも……」

「でも、は無しだ。胸を張れ炭彦! そうすれば、きっと気分も変わるぞ!」

 

 ばしばしと叩く手は、痛いが、しかし温かだった。

 こちらを励ましたい、という気持ちが伝わって来る。

 桃寿郎のそういうところは、炭彦には無いものだった。

 しかも桃寿郎自身に含むところが何も無いものだから、なおさら眩しい。

 何となく、元気が出て来るような気がした。

 

「おお! もう夜だな。早く家に帰って、晩御飯を――うおっ、どうしたカナタ! 急に立ち止まって!」

 

 その時、前を歩いていたカナタが不意に立ち止まったので、桃寿郎と炭彦はその背中にぶつかりかけてしまった。

 カナタも別に立ち止まる気は無かった。

 ただ歩いていく先、道の真ん中に、誰かが立っていた。

 

 もちろん、ただ立っているだけであれば、別に立ち止まる必要など無いだろう。

 しかしそこに立っている女性は、酷く特徴的で、つい目を向けてしまうような、そんな女性だった。

 女性、というよりは、まだ少女と言った年頃だ。

 少なくとも、見た目はそうだった。

 

「誰……?」

 

 その女性は、桃色の、麻の葉模様の着物を着ていた。

 その上に黒の羽織りを着ていて、しかしそこまでは、古風だが奇妙とまでは言わないだろう。

 髪は、艶やかな黒髪。まるで夜をそのまま落とし込んだかのようだった。

 しかしそれも、奇妙ということは無い。綺麗だ、と素直に思った。

 

「あれ? えっと……コロに、茶々丸?」

 

 奇妙な点は、2つ。いや3つ。

 まずその女性の足元に、犬と猫がいたことだ。

 しかも見覚えがある。珠世クリニックにいた、コロと茶々丸だった。

 どうしてここに、と思っている間に、女性がこちらに歩いて近寄って来た。

 

「……竹?」

 

 女性の首元には、まるでネックレスかチョーカーのように、竹筒のような物があった。

 飾り(アクセサリ)かと思ったが、本物の竹のようだった。

 古いものなのか、端の方が少し割れ欠けていた。

 

 そして、目だった。

 まるで夜の月や星々のように、夜へ、暗闇へと移って行く中で輝く両目。

 その瞳は、良く似ていた。

 ()()()()

 ()()()()()()()

 

「――――こんばんは」

 

 透き通るような、声だった。

 大きくはない。張っているわけでもない。

 しかし、聞き逃すことはない。そんな声だ。

 

()()()()()()()

 

 不意に、その女性が涙ぐんだ。

 それには、流石にぎょっとした。

 しかそ女性が涙ぐみながらも微笑んでいるので、哀しいとは別の感情からそうしているのだ、ということはわかった。

 

 ただ、何故だろう。

 炭彦は、自分の胸が苦しくなっていることに気付いた。

 心臓を握られているかのような、そんな締め付けに襲われたのだ。

 目の前の女性の涙を見た途端に、苦しくなったのだ。

 

「――――()()()()()

 

 そんな炭彦を見て、その女性は泣き笑いのような、そんな顔で笑ったのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

あーもうめちゃくちゃだよ(え)

それでは、また次回。


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第80話:「爆血」

 ――――青天の霹靂とは、まさにこのことだろうか。

 その日、竈門家に衝撃が走った。

 そしてその騒動の中心にいたのは、またしても炭彦だった。

 

「まあまあまあまあ!」

 

 と、頬に手を当てて母親が叫ぶのを炭彦は聞いた。

 怒っている、わけではない。

 驚きはあるが、その声音はどこか「憧れのシチュエーションがやって来た」という僅かな喜びを帯びたものだった。

 

 と言うのも、息子が()()()()()()()()()()()()()()()

 正直なところ、彼女はそういうシチュエーションはあり得ないと思い込んでいた。

 カナタはモテるが親が心配になるくらいそういうことにドライだったし、炭彦はのんびり屋だから、

そういうことは起こらないと思っていたのだ。

 

「こ、こんばんは」

 

 ところが、どうだ。

 蓋を開けてみれば、家に女の子を連れて来たのは炭彦の方が先だった。

 それも、とても綺麗な女の子だった。

 まさかこの子がこんな綺麗な子を連れてくるだなんて、と思わずにはいられない。

 着物というのが(いささ)か古風で気にはなったが、今どき珍しい程に気立ての良さそうな娘だった。

 

(うちの子がこんな綺麗な()を連れて来るだなんて!)

 

 と、感激してしまったのだった。

 まさしく、息子を持った母親の憧れのシチュエーションの1つだった。

 そんな場面に出くわすことがあるなんて、と、感激してしまっても無理はないだろう。

 

「あ、あの、お母さん」

 

 遠慮がちな炭彦(息子)の声に、はっとした。

 そうだった。いつまでも玄関に立たせて良いわけは無かった。

 頭の中で今日のお夕飯の内容や、戸棚の中のとっておきのお茶菓子などを思い浮かべて、さあどうしましょうと、考えた時だった。

 

「ただいま。おや、お客さんかな?」

 

 珍しく、夕飯前に夫――炭吉が帰って来たのだ。

 彼は炭彦の連れている女の子の姿にちょっと驚いた様子だったが、すぐに柔和な表情を浮かべて歓迎した。

 炭吉がどういう心境でそう言ったかはわからないが、問題は――青天の霹靂といった冒頭の言葉はこの部分に当たる――ここからだった。

 

「あ」

 

 と、女の子が驚いたような声を上げた。

 彼女は炭吉の顔を見ると、口元を手で覆って、思わず、と言った風に言った。

 

()()()()()

 

 その一言で、その場には衝撃が走った。

 先程までの柔らかい雰囲気はどこかへ吹き飛び、そして。

 修羅場がやって来た。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 酷い目にあった。

 と、炭彦は溜息を吐いた。

 

「まさか、あんなことになるなんて」

 

 先程までの()()()を思い出して、また嘆息した。

 それでなくとも、最近は色々なことが起こって大変だった。

 少し前までは毎日を昼寝して過ごしていたというのに、大きな変わりようだった。

 

「ご、ごめんね。私のせいだよね」

 

 炭彦はベランダに出て――避難とも言う――すっかり暗くなった空を見上げていた。

 そしてその隣に、(くだん)の少女がいた。

 彼女は申し訳なさそうな顔をしていて、そんな顔を見ていると、何故か炭彦は自分の胸が痛むような気がした。

 

 この少女には、悲しい顔をしてほしくない。

 どうしてかはわからないが、そう思ってしまうのだった。

 この。

 

「ええと、禰豆子さん……だっけ」

 

 禰豆子という、この少女。

 炭彦が名前を呼ぶと、嬉しそうな、それでいて悲しそうな、悲喜がない交ぜになったような顔をした。

 

「あなたは、炭彦くん」

「あ、うん」

 

 そして自分の名前を呼ばれると、やはり不思議な感情が沸き上がって来る。

 高揚とは違う。好意でも、おそらく無い。

 非常にモヤモヤとした感覚が胸中に飛来して、どうも落ち着かなかった。

 こんな感覚は、今まで感じたことが無い。

 

「……優しい人達だね。お父さんも、お母さんも、お兄さんも」

 

 ほら、と、炭彦は思った。

 そんなことを言いながら、禰豆子の横顔には寂寥の色がある。

 胸の中のモヤモヤが、より大きくなった。

 

 自分はどうして、この子を家に連れて来たのだろうか。

 今から考えても、自分でも不思議だった。

 ただ、何故かそうしないといけないような気持ちになったのだ。

 うちに帰ろう、と、そう言いたくなってしまった。

 

(どうしてだろう。わからない)

 

 ベランダの柵に肘をついて、頬杖をついた。

 隣に視線を向けると、禰豆子も同じようにしていた。

 こちらの視線に気付いたのか、軽くこちらを向いて、小さく口元を綻ばせて来た。

 何だか気恥ずかしくなって、炭彦の方が目を逸らしてしまった。

 

「……あれ?」

 

 と、視線を階下に向けた時だった。

 そこに、人を見つけた。

 それ自体は別に不思議ではないが、階下に立ったその人物が、こちらをじっと見上げているのであれば、話は別だろう。

 

「瑠衣さん?」

 

 しかもそれが、瑠衣となれば、なおさらだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ビキ、と、嫌な音がした。

 それは、炭彦のすぐ隣から――禰豆子の方から、聞こえた。

 

「え……」

 

 それは、まさしく()()だった。

 それまで穏やかに話をしていた禰豆子が、まるで別人のようになっていた。

 肩を怒らせて両腕を浅く広げて、膝を落としていた。

 まるで、今すぐに何かに跳びかかろうとする猛獣のように。

 

「禰豆子さん?」

 

 何よりも、表情だ。

 柔らかに綻んだ口元は、裂けたのかと思う程に吊り上がっている。

 しかし、笑んでいるわけではない。逆だ。

 鋭い――余りにも鋭すぎる――犬歯を剥き出しにして、獣のようにグルグルと唸っている。

 

 先程までとは、明らかに雰囲気が違う。

 纏っている空気が、まるで違ってしまっていた。

 目の前で起こった余りにも急激な変化に、炭彦はついて行けなかった。

 

「ど、どうしたの?」

 

 その目は、眼下の瑠衣を睨み据えていた。

 階下にいる瑠衣の口元が、動いたのが見えた。

 ただ、何と言ったのかを聞き取ることは出来なかった。

 

 代わりに聞こえたのは、地の底から響くような不思議な音。

 それでいてその音は、それを聞いた誰もが納得する音だった。

 それは、()()()

 空腹を訴える、全世界――いや、全生物に共通する、そういう音だった。

 

「――――」

 

 そして、やはり一瞬だった。

 瞬きの間に、ベランダの柵の上に、瑠衣が跳んで来た。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 鼻腔を、瑠衣の匂いが掠めた。

 

「瑠衣さん」

 

 しかも、そこで終わりでは無かった。

 瑠衣も、そして禰豆子も、もはや炭彦を見てはいなかった。

 お互いを見ていた。

 

「煉獄瑠衣……!」

「……竈門禰豆子」

 

 どちらも、低い声だった。

 とてもではないが、友好的な響きではない。

 むしろ逆だ。

 だが、マイナスの感情をどれ程に詰め込めば、人はここまで低い声で相手の名を呼べるのだろうか。

 炭彦には、わからなかった。

 

()()()()()()()

 

 耳に、そんな瑠衣の声が届いた。

 そして届いた次の瞬間、()()()()()()()()

 いなくなったわけではない。

 瑠衣が、身構えた禰豆子に跳びかかったのだ。

 

「瑠衣さん!?」

 

 禰豆子が、いや2人ともだ、吹っ飛んだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 2人が、室内へと突っ込んでいく形になった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 手を止めた。

 手を止めた自分を、禊は冷静に見つめていた。

 特に、感慨などは抱かなかった。

 

 それはそうだろう。と、やはり禊は自分でそう思った。

 感慨などというものは、自分という人間を形成するものには入っていない。

 何故ならば、感慨とは過去を振り返って悦に浸る類の感情だからだ。

 禊はけして、過去を振り返りはしない。彼女は常に、()()()()()()()()

 

「禊さん。どうかしたんですか?」

 

 店に来ていた青葉が、急に黙った禊に声をかけてきた。

 禊はそんな青葉の方に向き直ると、微笑して言った。

 

「……いいえ。ごめんなさい。それで、何だったかしら?」

「あ、うん。えっと……これ」

 

 そう言って、青葉が小さな箱を差し出して来た。

 

贈り物(プレゼント)?」

「あ、はい。大したものじゃないんですけど」

 

 店を開けてすぐにやって来た青葉が、妙にもじもじとしていたことには気付いていた。

 いったい何を言い出すのだろうと思っていたが、贈り物だとは。

 別に、客に贈り物を貰うのは初めてのことではない。

 

 それこそ、吉原にいた時から贈り物には慣れていた。

 花魁にでもなれば、上客からの豪華な贈り物など日常茶飯事でさえあった。

 ただそれらはほとんどが社交(下心)から来るものであって、現代風に言えば、マウントのためのものだった。

 それを本気にして惑わされるようでは、遊女としてはやっていけない。

 

「あ、あんまり高価な物では無いんですけど」

 

 とは、普通は謙遜である。

 しかし青い彼岸花の件で無職の青葉の財政事情がけして豊かとは言えないことは、禊にだってわかる。

 だから彼の贈り物は、本当に高価な物ではない。

 それこそ遊女時代から審美眼を磨いて来た禊には、一目見れば物の大体の価値はわかる。

 

「青い花の、ブローチ?」

「う、うん。たまたま、お店で見つけて……その、つい」

 

 箱を開けてみると、そこには小さな装飾品があった。

 宝石でも、硝子細工でさえも無い。

 合成樹脂(プラスチック)製の、青い花を象ったアクセサリだった。

 青葉はもごもごと言い訳のような自己弁護のような言葉を続けているが、要するに、衝動買いしてしまったということだろう。

 

(まあ、なかなか……可愛いことをするじゃない)

 

 青い花は、青葉が研究していたものだ。

 それを象った物を女性に贈る。

 それは独占欲というには余りにもささやかで、いじらしいとさえ思えた。

 社交辞令でも、マウントでも、下心でも見栄でも無い。

 ()()()、贈り物だった。

 

「有難う。とても嬉しいわ」

 

 そう言うと、青葉がぱっと表情を輝かせた。

 そんな青葉に対して、禊は微笑んだ。

 彼女は、昔から多くの贈り物を受け取って来た。

 その多くは、心の籠らない形ばかりのものだった。

 だからこそ、本当の贈り物を貰った時、彼女は。

 

「でも、ごめんなさい。これは受け取れないわ」

「え……」

 

 本当だけは、受け取らない。

 それが、遊女としての、あるいは女としての、彼女の矜持だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 爆発。

 原因が何であれ、穏やかではない単語だ。

 まして普段が平和であればある程、その衝撃は大きなものになる。

 

「事故現場ってのぁ、ここかァ!」

 

 実弘がパトカーで駆けつけた時、そこにはすでに人だかりが出来ていた。

 外に出て来ただけの野次馬か、避難してきた住民なのかは、見ただけでは判然としなかった。

 ただ先に到着していた警察や消防がすでに規制線を敷いていて、場の収拾を着けようとしている様子が見て取れた。

 

「先輩、あそこ!」

「ああ!?」

 

 一緒に来た後輩の声に顔を上げれば、高層マンションのある階層が()()しているのが見えた。

 破裂と表現するのは、壁面やベランダの柵と言った部位が、明らかに内側からの衝撃で吹き飛ぶ形になっていたからだ。

 ただ、1つだけ不自然な点があった。

 

 ()()()()()()

 ガス爆発にせよ何にせよ、爆発には火事が伴うはずだ。

 火炎が無かったとしても、濛々(もうもう)と煙が上がっていてもおかしくないはずだ。

 その気配が全くと言って良い程に無いのは、奇妙だった。

 

「うわあっ!」

「ヒイイッ!」

 

 と、悲鳴が上がった。

 爆発によって風穴が開いていたマンションの外壁から、突如、炎が()()()()()のだ。

 炎は赤黒く、勢いよく真横に噴き()()()

 周囲を煌々(こうこう)と照らす不気味な炎に、人々が驚き、そして慄く声が響き渡った。

 実弘は警察や消防隊員が人々を落ち着かせようとする声を聞きながら、違和感の正体を探ろうとしていた。

 

「やっぱり燃えてねえ! いったい、どうなってんだあれはァ」

 

 噴き出した炎はしかし、何も燃やしていなかった。

 その証拠に、すぐに消失した。そして何かが焼けた臭いもしない。

 炎のように見えるが、炎ではない何か。

 矛盾するようだが、そうとしか思えなかった。

 

「す、すみませ~ん……」

 

 その時、遠慮がちな声が聞こえた。

 周囲の喧噪に掻き消されて最初は聞こえなかったが、何度目かのそれが、実弘の耳に届いたのだ。

 

「ちょっと、助けてください~」

 

 顔を上げたまま振り向くと、ぎょっとする光景がそこにあった。

 そこには、街灯に服の襟が引っかかってぶら下がっている少年がいた。

 そして実弘は、その少年に見覚えがあった。

 

「お前は、暴走登校少年じゃねえか」

「そのイメージまだ続いてたんですか!?」

 

 炭彦が何故、そんな状態になっているのか。

 それを説明するには、時間を少し遡らなければならない。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――いきなりだった。

 リビングで寛いでいる時に、外から、少女が絡み合うようにして跳び込んで来た。

 それは、まるで絵画のように鮮烈な光景として、カナタの目には映った。

 

 どちらも長い黒髪を揺らし、どちらも黒い着物で、そしてどちらも瞳の虹彩を金色に輝かせていた。

 ガラスが散り、リビングの光源に反射してキラキラと煌めく。

 そんな中、視界の中でゆっくりと――時間の流れが遅くなったかのようだ――動く2人の姿に、カナタは一瞬、見惚れたのだった。

 

「危ない!」

 

 その時、父が叫ぶのを聞いた。

 次の瞬間に首元に衝撃を感じて、カナタは仰向けに倒れ込むことになった。

 そして、衝撃が来た。

 

「うああ……!?」

 

 まるで、10tトラックが衝突したかのような衝撃だった。

 トラックが衝突した時、壁が受ける衝撃とはこのようなものだろう。

 自然とそう思ってしまうような、衝撃、としか表現のできないそれ。

 

 家族の団欒の象徴であったダイニングテーブルやソファが、凶器となって吹き飛んで来た。

 身を竦めてそれをやり過ごせば、倒れ伏した身体に伝わるのは、振動だった。

 床材が、想定外の負荷に軋みを上げている音だった。

 

「あれ、は」

 

 辛うじて顔を上げると、リビングの中央に、2人の少女はいた。

 2人は文字通り、絡み合っていた。

 瑠衣の右拳を禰豆子の左手が掴み、逆に禰豆子の右拳を瑠衣が掴んで止める。

 そういう形で、瑠衣と禰豆子は向き合っていた。

 

 いったいどれほどの力を込めているのか、カナタに耳にまでメキメキという骨が上げる音が聞こえる。

 そして2人の足元は、お互いがお互いを押さえ付ける膂力のせいだろう。カーペットはおろか、床材を抉って足首まで埋まりつつあった。

 振動の正体はあれか、と、カナタは思った。

 しかもその振動は、どんどん大きく、長くなっているように感じた。

 

「不味いな」

 

 と、父が呟くのをカナタは聞いた。

 自分を、自分と母を押し倒して衝撃から救った炭吉は、今までに見たことがない程に緊張した顔をしていた。

 あのぼんやりとした父にこんな顔が出来たのかと、つい場違いな感心をしてしまった。

 

「カナタ、母さんを頼む」

 

 庇った際に頭を打ったのか、母は気を失っていた。

 母を受け取りながら、父さんは、と視線で問いかける。

 すると父は一度後ろを振り向き、それから何かを言おうと口を開きかけて。

 しかしすぐにまた後ろを振り向いた。

 

「……行け!」

 

 自分を突き飛ばした父の、その向こう側で。

 2人の少女の身体から湯気のような煙が上がり、熱で視界が歪んでいた。

 肌が、熱波のような空気を感じた次の瞬間。

 凄まじい爆発が、カナタの全身に襲い掛かってきた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣と禰豆子がガラス戸を突き破って家に入った直後、炭彦はベランダからすぐに動くことが出来なかった。

 面食らった、と言った方が正しい。

 何が起こったのかの理解が追い付かずに、止まってしまったのだ。

 

 そうしている間に、爆発が起こった。

 爆風に呷られる形で、高層マンションのベランダから放り出される形になった。

 流石の炭彦も、死の一文字が脳裏を掠めた。

 実際、全集中の呼吸を体得していなければ、そのまま地面に落下して死んでいただろう。

 

「わ、わっ……ぐえっ」

 

 何度か壁を蹴って勢いを殺し、街灯に上手くしがみつき、しかし勢い余って襟が引っかかった。

 無傷で済んだのは、まさに奇跡だった。

 そうして実弘に助けを求めて、今に至るわけである。

 

「大丈夫か?」

「は、はい。何とか……」

「いや、普通あの高さで落ちたら大丈夫じゃないんだよなあ」

 

 炭彦の話を聞いた実弘の後輩は、ぞっとした顔をしていた。

 ただ犬人間事件に関わったことのある実弘は、相変わらずヤバイ奴とは思いつつも、今さら驚くようなことは無かった。

 

「それで、何があったァ」

 

 実弘がそう聞くと、炭彦は口籠った。

 瑠衣や禰豆子のことを話すことも躊躇(ちゅうちょ)されたし、先程の現象を説明すること自体が難しかったからだ。

 何しろ、爆発物があったわけではない。

 犬人間を知る実弘なら理解してくれそうな気もするが……。

 

「……あ!」

「あ、おい!」

 

 声を上げて、炭彦は駆け出した。

 実弘との会話を切り上げたかったのもあるが、マンションの正門から消防隊員に伴われて、母とカナタが出てくるのが見えたからだ。

 駆け寄ると、母がストレッチャーに乗せられているところだった。

 気を失っているせいで、完全に脱力していて、嫌な予感をさせるには十分な光景だった。

 

「母さん!」

「大丈夫。気を失ってるだけ……」

 

 頭に冷却材を押し当てたカナタが、そう言った。

 とりあえず母が無事らしいとわかって、ほっとした。

 しかし同時に、いやだからこそ、この場にいない人間のことを考えずにはいられなくなった。

 

「父さんは?」

「……まだ、上」

 

 その時、再び周囲から悲鳴が上がった。

 振り仰いで上を見ると、自宅のベランダ――だった場所――から、またあの赤黒い炎が噴き出していた。

 燃え移らない炎。それを目にしていると、何故か炭彦の胸が締め付けられるのだった。

 初めて見るはずなのに、どこか懐かしささえ感じてしまうような……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――もう、お互いしか残っていない。

 100年以上前のあの戦いを覚えている者は、もはやこの世に2人しかいない。

 煉獄瑠衣と、竈門禰豆子。

 同じ時代を、同じ記憶を、共有できる唯一の相手。

 

 本来ならば、慈しみ合うべきだろう。

 縁側にでも並んで座り、昔話に華を咲かせて、共に過去を懐かしむべきだろう。

 しかし彼女達には、それが出来ない。許されない。

 何故ならばお互いの存在こそが、お互いを否定する最大の理由になっているからだ。

 

「貴女で」

 

 右手。手刀を繰り出す。

 空を切る音が後から聞こえてくるようなそれを、禰豆子は頭を僅かに傾かせることでかわした。

 掠めた右頬の表皮から血が噴き出す。

 それだけで、その手刀の鋭さが良く理解できる。

 

 返す刀、もとい返す拳で、禰豆子が右拳を上から振り下ろす。

 顔面を狙ったそれを、瑠衣は防がなかった。

 逆に左拳を握り込むと、下から打ち上げるようにそのまま放った。

 2人の少女の拳が、正面から衝突する。

 

「貴女で最後です。禰豆子さん」

 

 凄まじい音がした。

 人体で最も頑丈な部位の1つが、全力で打ち合った音だ。

 それは酷く鈍く、身を竦めてしまうような音だった。

 それが、幾度となく繰り返された。

 

 右拳、あるいは左拳が、何度も打撃され、室内に重く鈍い音が響き続けた。

 もしも当たれば、人間の頭の1つや2つくらい楽に破砕してしまうだろう打撃。

 そして実際、瑠衣の拳も禰豆子の拳も、何度となく()()()()()

 砕けた端から即座に再生し、意に介することなく攻撃を再開しているのだ。

 その激しさは、拳が砕けて流れ出た血の匂いが辺りに充満する程だった。

 

「うん。そうだね」

 

 打ち合いを止め、1歩離れた禰豆子を瑠衣が追った。

 不意に、禰豆子の右足が跳ね上がった。

 蹴り。瑠衣の頭部側面を狙ったそれを、瑠衣は後ろに大きく後退することで避けた。

 

「今日こそ、最後にしよう。瑠衣さん」

 

 ボッ、と、空気が引き裂かれる音がした。

 空振りした禰豆子の蹴りによって、文字通り()()()()()()()()

 

「今はもう、私達がいて良い時代じゃないんだよ」

 

 だから、と、禰豆子は掌を開いた。

 傷口はすでに塞がっているが、流れ出た血によって両手は赤く染まっている。

 その血液はまだ乾いてもおらず、生々しい光沢を放っていた。

 

「……!」

 

 気配(それ)に気付いたのか、壁を蹴り、瑠衣が跳んだ。

 自分に向かってくる瑠衣に対して、禰豆子は再び拳を握った。

 打撃するためではない。()()するためだ。

 

「血鬼術!」

 

 ――――血鬼術『爆血』!

 禰豆子の両手の、いや部屋中に飛び散った彼女の血液が、赤黒い光を放った。

 そして、燃え上がり――――爆発した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 爆発する血。鬼だけを焼く炎。

 まるで鬼を殺すための異能だ。

 そしてその威力は、瑠衣の肌でさえ焼く程だった。

 

「く、う」

 

 逆に言えば、()()()()()()()()()

 『爆血』の炎を気にも留めずに、瑠衣はそのまま禰豆子にぶつかった。

 両腕で盾を作り瑠衣を受け止める。しかし勢いは殺せず、後ろに吹っ飛んだ。

 

「――――!」

 

 リビングの壁を突き破り、廊下に出た。

 禰豆子は(かかと)で床材を砕きながら勢いを止めると、そのままの体勢で再び右足で蹴りを放った。

 密着していた瑠衣は回避できず、今度は自分が廊下の壁を突き破ることになった。

 

 その部屋は二段ベッドのある部屋で、子供部屋らしく、勉強机が2つ並んでいた。

 だがそれに一瞥(いちべつ)さえ向けることはなく、瑠衣は廊下に立つ禰豆子と睨み合っていた。

 ふと視線を下に下ろすと、両手が焼けて煙を上げているのが見えた。

 もちろん傷はすぐに再生し、火傷は痕も残さずに消える。

 だが瑠衣が見たのは、傷そのものでは無かった。

 

「……やはり、厄介ですね。その能力(爆血)は」

 

 厄介な点は、爆発の威力に対してでも、鬼だけを焼く特性に対してでもない。

 瑠衣の()()を阻む、防御力の高さに対してだ。

 

「私と触れ合う部分を炎で覆って、防御(ガード)しているんですね」

 

 思えば、そもそもが不可能なのだ。瑠衣と()()()()など。

 瑠衣に触れた鬼は、触れた箇所から喰われてしまうからだ。

 禰豆子がどれほど強力な鬼であっても、それこそ上弦の鬼であっても、それは変わらない。

 だが今、禰豆子は瑠衣と打ち合いながら喰われることが無い。

 拳や肉体の表面に『爆血』の炎を纏い、鎧のようにしているからだ。

 

()()()()()()()

 

 理屈を知ってしまえば、対処も単純になる。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 毒を食らわば、皿まで。

 

 壊れた壁を挟んで、瑠衣と禰豆子が互いを見つめていた。

 その時、音がした。

 くう、という気の抜けるような、それでいて長く続く音だ。

 空腹の音、その音を耳にした時、ほんの一瞬だが、禰豆子の目が悲しそうに細められた。

 

「嗚呼、やっぱり」

 

 瑠衣もまた、一瞬だけ微笑んで。

 

「やっぱり貴女は、優しいんですね。禰豆子さん」

「ううん。そんなことないよ、瑠衣さん。だって」

「ええ」

「だって、私達は――――」

 

 そうして、戦闘が再開されたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ごほ、と、咳き込んで、炭吉は起き上がった。

 彼は妻とカナタを外へと押し出した後、リビングに残って瑠衣と禰豆子の戦闘をやり過ごしていたのだ。

 戦闘の余波のせいで、身体中が埃塗れになってしまっていたが、何とか無事でいた。

 

「あれが、「鬼」同士の戦い、か」

 

 言葉にしてみても、実感は湧かなかった。

 先にも話したが、炭吉自身は、鬼について辛うじて知っている程度だ。

 禊の話を聞いても、真実に至ることは出来ない。

 いや、より直感的に、彼はこう感じていたのだった。

 

 真実に至る者がいるとすれば、()()()()()()()()()

 

 自分はきっと、()()()()()()()()()()

 それが、禊の話を聞いた炭吉の考えだった。

 そのために生まれたのだと、そう感じたのだ。

 だから自分がこの状況ですべきことを、炭吉はほぼ正確に理解していた。

 

「良かった。無事だったか」

 

 それは、リビングの壁に飾られていた物――三振りの、日本刀だった。

 黒い刀。桃色の刀。そして、それらよりも短い()()()

 周囲に飾られていた写真は、ほとんどが写真立ても割れてしまって散乱していたが、刀だけは無事だった。

 その刀を外そうと手を伸ばした時、何かを踏んだ。

 

「これは……」

 

 それは、日輪の花札のような耳飾りだった。

 硝子の容器の中に保管されていたそれが、床に落ちて割れて、転がっていたのだ。

 かなり古いもののはずだが、綺麗な状態のままだった。

 炭彦は床に膝をつくと、引き寄せられるようにしてそれを拾った。

 

「……うおあっ!?」

 

 その時、廊下から炎が噴き出して来た。

 禰豆子の『爆血』――もちろん、炭吉にはそれを知る由もないわけだが――の爆発に煽られて、炭吉はその場に手をつく。

 そうしていると、転がるようにして、2人の少女が揉み合いながらリビングに戻って来た。

 

 炭吉の目には、もはや2人の攻防は余りにも速すぎて追うことすら出来なかった。

 互いを打撃する衝撃と炎は、近くにいるだけでこちらの体力を削られてしまう。

 日輪の耳飾りを掴んだ炭彦は、急いで立ち上がると、壁に飾れている刀を取ろうと張り付いた。

 

「……!」

 

 炭吉にとって不運だったのは、それを瑠衣に見られたことだった。

 ()()()を手に取る瞬間を、煉獄瑠衣に見られてしまったことだった。

 そして、瑠衣が()()()()()()()()()()()禰豆子が叫んだ。

 

「逃げて、()()()()()!」

 

 その時、炭吉が思ったのは。

 嗚呼、女の子も欲しかったなあ、という酷く場違いな考えだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

個人的なイメージとしては、る〇剣の斎藤〇VS剣〇です(え)
瑠衣と禰豆子は今の東京ではなく、幕末の京都にいるのだ(え)

それでは、また次回。


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第81話:「失われる日常」

 ――――()()()が好きだった。

 遊郭に通う男は、基本的に遊女より立場が上の人間だった。

 侍。商人。小金を持った町人。

 店で働く男衆も、立場も腕力も遊女よりずっと上。

 

 遊女は商品、それも消耗品だ。

 弱い。圧倒的に弱い立場。人間扱いでさえ、されることは無い。

 そして禊は、そんな()()()遊女だった。

 だから彼女は、強い男が好きだった。強い誰かが好きだった。

 

「私はね、強いやつがタイプなのよ」

 

 と言って、(はばか)らない。

 嘘は吐いていない。

 しかし、正確でもない。

 何故ならば彼女は、強い男が好きなのではなく。

 自分で自分を強いと思っている男が、最弱のはずの自分に組み敷かれる様を見るのが好きなのだ。

 

「……馬鹿ね。そんな顔をしなくても良いじゃない」

 

 そう言って、禊は笑った。

 ベッド脇のサイドテーブルにグラスを置いて、そのまま、青葉の頬に手指を伸ばした。

 その際、肩にかけていただけの羽織(はおり)がするりと落ちて、白い背中が露になった。

 それは窓から漏れ入る月明かりに照らされて、輝いているようにも見えた。

 青葉は、そんな禊の裸身に目を奪われていた。

 

「別にアンタが弱っちいなんて言っていないんだから」

 

 禊は、強い男が好きだ。強いものを見下すのが好きだ。

 鬼狩りに加わったのも、強い鬼を弱い人間――の中でもさらに弱い女――が倒すという点に、快感(カタルシス)を覚えたからだ。

 何事にも強い執着を持つことのない禊だが、その快感だけは何度味わっても飽きなかった。

 

 だが不思議なことに、禊は自分が打ち倒して来た人間や鬼のことを余り覚えていなかった。

 それ自体には興味が無かったのだろう。

 と、それについては、自分で自分に対して冷めた結論を持っている。

 

「……さあ、もう少し寝なさいな。もうすぐ朝になるわよ」

 

 今まで()()をしてきた男で、覚えているのはほんの僅かだ。

 荻本屋の旦那。それと、ああ、あの子。煉獄千寿郎。

 その2人くらいで、後は余り良く覚えていない。

 

「おやすみ、アナタさま」

 

 それから、嘴平青葉。

 自分でも、不思議であり、面白いとも思う。

 腕っぷしの強い鬼や男はこれっぽっちも覚えない癖に、そうではない相手は覚えていたりするのだ。

 

 寝息を立て始めた青葉の髪を梳きながら、禊は窓の外を見た。

 空が白み始めていて、夜明けが近いことを教えてくれた。

 長い夜が、明けようとしていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それは、本能に近い行動だった。

 日輪の耳飾りと、そして刀。

 守らなければならない、と、自然に思えたのだ。

 

「ぐあああ……!」

 

 背中に強い灼熱感が走り、口からは勝手にくぐもった悲鳴が上がった。

 刀を胸に抱えて背中を向けたために、攻撃をそのまま受けることになった。

 瑠衣は炭吉の持つ刀を狙ったのだが、炭吉の行動には面食らった様子だった。

 

 背中から血を噴いて倒れた炭吉の姿に、動きを止める。

 血に濡れた自分の手を見つめて、唇を噛む。

 だがすぐに気を取り直したのか、炭吉が抱え込んで離さない刀に手を伸ばした。

 

「ああああああああああっ!!」

 

 しかし、それは出来なかった。

 憤怒の形相で跳んで来た禰豆子の踵が、頚に打ち込まれたからである。

 そして当然、『爆血』の発火が来る。

 ミシミシと頚の骨が軋む音が響き、次の瞬間には、蹴りの威力で身体が浮いた。

 

「――――ッ!!」

 

 その蹴りは凄まじい威力で、瑠衣の頚にめり込んだまま、瑠衣の身体で通路の壁を破壊し、リビングすら通過して、そのまま外へと飛び出す程だった。

 ベランダが破壊され、柵が落下する音に、近辺に集まっていた野次馬達が悲鳴を上げ、身を竦ませるのが見えた。

 

(このまま地上で戦ったら、無関係の人達まで巻き込んじゃう……!)

 

 怒りに身を焦がしながらも、禰豆子は頭の片隅でそう思った。

 そして、その一瞬の集中の途切れを瑠衣は見逃さなかった。

 血の炎に焼かれながらも、己が頚にめり込んだ禰豆子の足首を掴む。

 そしてそのまま、握り潰した。

 

 一瞬だけ痛みに顔を顰めた禰豆子だったが、空中で体勢を整えると、そのまま瑠衣の身体を掴みに行った。

 瑠衣は禰豆子の片手を掴み、また同時に掴みに行った。その手を禰豆子がやはり掴む。

 そして、再びの膠着。見る見る内に地面が近付いてくる。マンホールの刻印さえ判別できそうだ。

 逃げ惑う野次馬の顔まで良く見えるようになって来た。

 

「――――相変わらず」

 

 そのままの体勢で、大きく足を後ろに逸らしていた。

 見ただけで禰豆子が何をするつもりなのか察した瑠衣は、声音に呆れた色を混ぜて言った。

 

「思い切りが良いですね」

「うん! それだけが――――取り柄だからね!!」

 

 大きく逸らしたその足を、思い切り振った。

 そしてそれは、着地のためのものでは無かった。

 ()()()()()()()()()()()()()

 次の瞬間、周辺の地面がクレーターのように陥没し、爆発したのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そうして、竈門炭彦の日常(世界)は壊れてしまった。

 まず、家を失った。

 ただそれは、親戚や知人の家に泊めて貰える――具体的には胡蝶家――ので、実は大した問題では無かった。

 

 後の話になるが、爆発「事故」を取材するために新聞記者なるものもやって来たりはした。

 ただそれも本当に短い間で、やはり大きな負担にはならなかった。

 炭彦が失ったのは、そういう表面的なものでは無かった。

 昨日と同じ今日が二度と訪れないかもしれないという、根本的な問題だった。

 

「……炭彦は……いるかな……」

 

 病院へ向かう――例によってキメツ病院――救急車の中で、不意に父に呼ばれた。

 そばには母やカナタもいたが、声をかけられたのは自分だけだった。

 のろのろと父に近寄ると、血を失い過ぎたせいか、青白い顔の炭吉と目が合った。

 炭吉は炭彦の顔を認めると、力なく微笑んだ。

 

「……これ、を……」

 

 散々に破壊された家から救助された時、父は何かを持っていた。

 花札のような耳飾りと、刀だ。

 刀については救急隊員も問題視したようだが、緊急時ということで見逃されていた。

 火事や地震で奇妙にも見える家宝を持ち出す人間もいるので、取り急ぎは不問にするようだった。

 

 そして当然のことながら、炭彦はその刀のことを知っていた。

 リビングの壁に飾ってあったものなのだから、物心ついた時から何度も見ている。

 特に関心を持ったことはなかったが、ご先祖様から伝わっているもの、ということは知っていた。

 知っていたが、それをどうして今、父が怪我をしてまで持ち出したのかはわからなかった。

 

「……これを、どう使うかは……炭彦が、決めればいい……」

 

 それはいったい、どういう意味なのか。

 炭彦には、わからなかった。

 ――――いや、わかっていた。本当は、わかっていた。

 禊の話を聞いた時から。

 気付きたくなかった。それだけだった。

 

「……お前が、どんな……選択を……しても……」

「……父さん?」

「……して、も……」

「父さん!? 父さん!」

 

 刀を受け取ると、そこで力尽きたのか、炭吉は気を失ってしまった。

 (にわ)かに騒がしくなる救急車の中で、炭彦は刀を胸に抱き締めた。

 それは固く、重く。そして何故か、熱い、と感じた。

 冷たいはずの刀を熱いと感じるのは、不思議だった。

 熱に縋り付くように、炭彦は刀をぎゅっと抱き締めた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「……たく。どうなってんだァ、最近の野次馬共はよお」

 

 そうぼやきながら、実弘はようやく野次馬が消えて静かになった事故現場を眺めた。

 ただ、これを()()()()と呼んで良いのかどうか、実弘には判断がつかなかった。

 何しろただの事故現場と言うには、荒れ果て過ぎていたからだ。

 

 まずマンションだが、これは、下手をすれば建て直しが必要なのではないだろうか、と思えた。

 一番被害が大きい一室――もちろん竈門家のことだが――は、完全に破壊されてしまっていた。

 問題はその被害が上下の階にも出ていることで、消防が簡単に調べた限りでは、想像も出来ないような強い力が天井や床を打ち抜いた、ということらしい。

 建物の構造上あり得ないことらしいが、現実に起こっているのだから仕方がない。

 

「それから、こいつかァ」

 

 実弘の目の前には、大きな穴があった。

 マンション前の道路なのだが、その真ん中が陥没していたのだ。

 月のクレーターとやらはこんな感じか、というような、地盤沈下と言われれば信じてしまいそうな状態だった。

 その下がどうなっているのかは降りて見ないとわからないが、流石にそこまで蛮勇では無かった。

 

「まずはこいつをどうにかしねぇとなァ。まあ、それァ警察(俺ら)じゃなくて他の連中の仕事なんだが」

 

 現場には、警察も含めて誰もいなくなっていた。

 実弘だけが、何となく帰り損ねているような状態だった。

 ただこの場に留まっていたところで、実弘も自分に何が出来るわけではないことを理解していた。

 

 夜明けも近い。空が白み始めて久しかった。

 だから、そろそろ戻ろうかと思った時だった。

 誰かの気配を感じて、実弘はきょろきょろと周囲を見渡した。

 具体的に言えば、わんわんにゃあにゃあという、小動物の鳴き声だった。

 

「……アア?」

 

 と声を荒げて良く見てみれば、その気配は――陥没した地面の底から感じ取れた。

 気配と言いつつ、気付いたのは、クレーターの底あたりで何かがもぞもぞと――それも、夜明け近い光量がなければ見逃したかもしれないが――動いていたからだ。

 何だと思い目を凝らすと、まず(コロ)(茶々丸)の姿を認めた。

 

 彼らは何かの周りで、しきりに鳴いている様子だった。

 さらにその傍に黒い衣服のようなものを認めて、実弘は身を乗り出した。

 それが気を失った()()()()()()だと気付くのに、それほど時はかからなかった。

 

「……う……」

 

 黒い着物に、同じく黒い髪が、目を凝らすと何とか見えた。

 実弘は、その少女については知らなかった。

 しかしその少女は間違いなく、今回の事件の中心人物の1人。

 竈門禰豆子だった。

 ただしその姿は、童女のように小さくなっていた――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 胡蝶家の人々は、避難してきた竈門家を温かく迎えてくれた。

 ただ竈門家と言っても、父はキメツ病院に入院していて、母はそれに付き添っているから、胡蝶家に居候するのはカナタと炭彦の2人だけだった。

 いずれにせよ、心身を休める場所があるというのは、幸福なことだった。

 

「あら」

「え」

 

 しかし年頃の男女が同じ空間にいるとなれば、しかも普段はいないとなれば、事故が発生してしまうのは無理からぬことだろう。

 例えば、脱衣所で衣服を脱いでいる時に遭遇してしまうという、ベタなことも起こり得る。

 いや、必ず起こる。

 

「わ、ちょっと早く閉めてください!」

 

 と、バスタオルで身体を隠しながら()()が叫んだ。

 入口で口元を押さえて、()()()がまじまじと炭彦を見つめていた。

 逆じゃないかと思うかもしれないが、現実はこんなものであった。

 

「な、何ですか……?」

 

 余りにもまじまじと見つめて来るので、何かあるのかと思い聞いてしまった。

 すると、しのぶはにっこりと笑った。

 

「うん! 怪我とかはなさそうですね!」

 

 どうやら、炭彦が怪我がしていないか気にしていたらしい。

 そのこと自体は有難いのだが、何も脱衣場で診ることはないだろう。

 そして不思議なことに、しのぶはいつまでも出て行こうとはしなかった。

 正直なところ、ええ…と思ったが、それ言い出せる程に炭彦はコミュニケーション豊では無かった。

 

「2人とも何をしているの」

 

 と、カナタがやって来た。

 トイレに立ったのだが、脱衣場が騒がしいので、様子を見に来たらしかった。

 そして炭彦としのぶの様子を見て、大きな、それはもう大きな溜息を吐いた。

 

「こんな時に、バカじゃないの」

 

 と、冷たい視線と冷たい言葉を2人に向けて来た。

 それは余りにも正論で、反論の余地を許さないものだった。

 家と親があんなことになった日に。どう考えても悪いのは自分だった。

 そのまま不機嫌を隠さずに歩き去って行くカナタの背中を、炭彦は見送ることしか出来なかった。

 

「炭彦君」

 

 動くことが出来ずにいる炭彦に、しのぶは彼のために持ってきていた着替えを足元に置いた。

 

「今日はもう休みましょう。また明日。明日になったら、一緒にカナタ君に謝りに行きましょう」

 

 その時のしのぶがどんな表情をしているのか、炭彦にはわからなかった。

 目尻が熱く、視界がぼやけていて、何も見えなかった。

 眠りたいと、そう思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 眠りたくないと、そう思った。

 これまで何度も自分が無力だと痛感していたのだが、ここまで来るといっそ滑稽でさえあった。

 滑稽。道化。そうとしか表現できない。

 挙句の果てに、炭彦()に当たる始末だ。

 

 死にたい気分というのは、きっとこういうことを言うのだろう。

 我ながら相当に気弱だなと、そんなことも考える。

 そんなことを考える自分さえ嫌悪してしまって、カナタはその場に蹲っていた。

 そうしていると、誰かが自分の傍に立っていることに気付いた。

 

「カナタ君」

 

 カナエだった。

 見上げる気にはならなかったが、おそらくいつも通りの柔和な顔をしているのだろう。

 彼女はいつだって、誰に対してもそうだった。

 ただそれを、カナタは好ましいとは考えていなかった。

 誰にでも優しいということは、実は誰にも優しくないと言うことだからだ。

 

「カナタ君」

 

 しかし今日のカナエは、少し様子が違った。

 

「何をしているの。()()()()()

 

 はっとして顔を上げると、カナエがこちらを見下ろしていた。

 その表情は、過去に見たことがない程に硬いものだった。

 

「……決めたのでしょう。炭彦君を守ると。決めたのなら立ちなさい。下を見ている暇はないはずです」

 

 普段のカナエであれば、蹲っている者がいれば、膝をついてそっと助け起こすだろう。

 しかし今のカナエには、そんな雰囲気は一切なかった。

 転んで啼き喚く子供に、自力で立てという厳しい母の顔だった。

 実際、この時の両者の感覚はそれに近いものだったかもしれない。

 

「カナタ君」

 

 何も言えずに、立ち上がれずに、カナタはカナエを見上げていた。

 そんなカナタに、カナエは言った。

 

「刀は、()()()()()()

 

 ぐっ、と、拳を握った。

 意識したわけではない。ただ、自然と身体が動いたのだ。

 刀。父が守った三振り。そして、《あの家》の一振り。

 

 使ったことは、もちろん無い。

 現代で刀を使うような状況などあり得ない。

 だがもしも、もしも使うことがあるのだとすれば。

 使うべき者が、いるのだとすれば。

 

「残念だけれど、()()胡蝶家(私達)には出来ない」

 

 だから、立って。

 カナエの声は、良く通った。

 けして大きいわけではない。ただ、無視することも聞き流すことも出来ない。

 そういうカナエの声は、カナタは、けして嫌いではないのだった。

 

「……そうだね」

 

 壁に手をついても良い。

 無様でも、不格好でも、何でも良いのだ。

 立ち上がりさえすれば、それで良いのだ。

 クラスの女子はカナタが格好良いと言ってくれるが、本当はこんなものなのだ。

 自分はけして、スマートでもエレガントでもない人間なのだから。

 

「それは、()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう言ったカナタに対して、カナエはこの時に初めて、微笑んで見せたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 珍しく、早くに目が覚めた。

 いつもの炭彦であれば、文字通りいつまでも寝ていたい、と訴えていただろう。

 何しろ彼は、眠るのが何より好きなのだから。

 朝は遅刻ギリギリまで寝ていたし、休日は昼まで起きて来ない。それが自分だ。

 

 だが今にして思うと、眠るのが好きな理由は、余り健全なものでは無かったと思う。

 炭彦が眠ることが好きだったのは、夢を見るからだ。

 亡くなった祖母の良く夢を見るから、ずっと寝ていたかった。

 嗚呼、何て後ろ向きな理由なのだろうか。

 

『別に、後ろ向きでも良いんですよ』

 

 夢は、本当に都合が良い。

 夢の中では、いつもの公園は本当にいつも通りで。

 そしていつも通り、瑠衣が自分の隣で微笑んでくれているのだ。

 もうそんなことはないと、わかっているはずなのに。

 本当に、夢というものは、自分にとって都合が良い。

 

『後ろを向いていても、前を向いていても。貴方は生きているのですから』

 

 生きるということに、本当は前も後ろもないのだ。

 瑠衣は、炭彦にそう言ってくれた。

 それだけで、何かが許されたような気がした。

 気のせいかもしれなくても、炭彦にはそう思えたのだ。

 

『生きているということは、それだけで尊い。それは、もう私には眩し過ぎるくらいに……』

 

 けれど、世の中には、あるのではないだろうか。

 生きているのが辛くて、考えることが苦しくて。

 ただ蹲って、消えてしまいたいと、そう思うことがあるのではないだろうか。

 

 それでも、生きることは尊いのだろうか。

 いつまでも前を向けずにいる弱虫な自分に、何が出来るのだろうか。

 自信が無かった。何も持っていないから、自信の持ちようも無かった。

 

『炭彦君。消え(死に)たいと思うことと、生きていたくないと思うことは、同じではないですよ』

 

 ()()()()()()

 それが辛いと感じた時、人は消えたいと思い込む。

 でも本当は、それらはイコールでは無いのだ。

 

 後ろ向きでも、疲れても構わない。

 だって、生きるってしんどいじゃないですか。

 そう言って微笑んだ瑠衣の顔を、炭彦は鮮明に思い出すことが出来た。

 文字通り、夢に見ることが出来る程に。

 

『それにですね』

 

 そして夢の中で、瑠衣はこうも続けた。

 

『別に後ろ向きで(バック)生きて(走で)も良いじゃないですか』

「それは違うと思う……」

 

 という自分の声で目覚めたのが、ほんの数分前。

 時計を見ると、普段の自分であれば絶対に起きていない時間だった。

 けれど不思議なことに、まだ寝ていたい、とは思わなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 早起きしたとは言っても、特にやることがあるわけでは無かった。

 家があんなことになってしまったので、学校もしばらくは休むことになっていた。

 学校に行けば嫌でも好奇や同情の目で見られるので、それは有難かった。

 

 まだ胡蝶家の家人や、珍しくカナタも起きていなかった。

 色々と考えて足を向けたのは、煉獄家の道場だった。

 幸いなことに、()()()()()()()は常人が通らない道を――つまり人目につかない()()()()を――移動することが出来たので、誰にも気付かれずに、道場まで行くことが出来た。

 

「……む!?」

 

 どうして煉獄家の道場に向かったかというと、もしかしたら、と思ったからだ。

 そして案の定と言うべきか、桃寿郎が誰よりも早起きして自主練に励んでいた。

 

「おはよう! 炭彦。良い朝だな!」

 

 当然、桃寿郎も炭彦の身に何があったのかは聞いているだろう。

 しかし彼は、いつもは来ない早朝に炭彦が現れても、何故と問うようなことはしなかった。

 ただいつものように快活に笑って声をかけて、そして何も言わずに木刀を渡したのだった。

 

「こう! して! 素振り! を! している! と!」

 

 そして、やはり何も言わずに炭彦の隣で素振りを始めた。

 炭彦も、桃寿郎に倣って素振りを始める。

 呼吸は、自然と出来ていた。

 

「無心になれて、好きなんだ!」

 

 そして呼吸の訓練をした炭彦だからこそ、桃寿郎の言葉の意味もわかった。

 無心になる、ということは、口で言うほど簡単なことではないからだ。

 呼吸でも素振りでも、それだけに専心して没頭する。他のことは思考の外に置く。

 

 そういう時には、疲れ切るのが良い。

 素振りという単調な作業を延々と繰り返すのも、効果的だ。

 繰り返すごとに、余計なものが削ぎ落されていく。

 何となくで道場にやって来た炭彦だが、意外と理にかなった行動だったのかもしれない。

 

「桃寿郎君は、どうしていつも鍛錬をしているの?」

「うん? 俺か!? そうだな! 実は特に理由はないのだが!」

「あ、ないんだ」

「だが、そうだな。俺は身体を動かすのが好きだし、じっとしているのは性に合わないんだ!」

 

 だからつい、何かに突き動かされるように行動してしまう。

 強迫観念、というのとはまた違う。

 言ってしまえば、燃料満載の機関車のようなものだ。

 生命力に溢れている、とでも言えば良いのだろうか。

 

「心を燃やせ!」

 

 それを、桃寿郎はそう一言で表現した。

 

「心を、燃やす?」

「ああ! ひいひいおじいちゃんの口癖だったらしい!」

 

 もちろん会ったことはないのだが、と桃寿郎は快活に笑った。

 

「意味は良くわからないが、何となく口に出してしまうんだ!」

 

 心を燃やせ。

 なるほど、確かに――胸にすとんと、落ちて来るような気がした。

 

「心を、燃やせ」

 

 呟いて、炭彦は木刀を振り下ろした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「…………いないじゃないか」

 

 いつもの時間に目を覚ましたカナタ――彼は目覚まし時計がなくとも決まった時間に起きることが出来る――は、もぬけの殻の炭彦の布団の前でそう呟いた。

 しかも、である。

 忠臣蔵ではないが、布団はすでに冷たくなっていた。

 

 布団を抜け出して、すでに結構な時間が経っている証拠だった。

 寝坊助な炭彦が、いったいどういうことだろうか。

 また胡蝶家のどこにも、いる気配が無いのである。

 

「まさかとは思うけれど。家出なんてことは……無いよね?」

 

 昨日の自分の態度を思い出して、そう呟いた。

 表情は変わらないが、その場でそわそわと歩き回る様子からは、相当に焦っている様子が見て取れた。

 え、ないよね?

 と、そう連続で呟き過ぎてもはや単語が溶けてしまいそうになっていると。

 

「……うん?」

 

 急に、騒がしい音が遠くから聞こえて来た。

 それはまるで陸上の短距離走者(スプリンター)でも全力疾走でもしているかのような、激しい足音だった。

 しかもそれは、徐々に近付いてきていて。

 

「――――カナタッ!!」

「うわびっくりした」

 

 部屋のドア――ではなく、窓ががらりと勢いよく開いて、汗だくの少年が顔を出した。

 カナタは酷く冷静に「びっくりした」と言ったが、本当にびっくりしたのだとその少年は知っていた。

 

「カナタ! 昨日はごめん!」

 

 そしてカナタも、その少年が――炭彦が、本当にそう思っていることをわかっていた。

 お互いだから、わかり合えた。本当だと信じ合うことが出来た。

 それはきっと、幸福なことなのだろう。

 

「えっと、俺も昨日は少し言い過ぎ」

「それでね!」

「というか声でかいな」

「ごめん! 桃寿郎君のが移っちゃったかも!」

 

 桃寿郎の家の道場に行っていたのか、と、カナタはようやく得心した。

 確かに桃寿郎は常にやかま――元気だが、ずっと一緒に鍛錬していて移ってしまったようだった。

 ……いや、口調はともかく声量って移るものだっただろうか?

 

「それでね!」

「え、うん。何?」

 

 何とか立ち直ったカナタに、炭彦は言った。

 

「あの人に、会いに行こう! もう一度!」

「……あの人って?」

 

 いったい誰のことだろうか。

 そして次に炭彦の口から出て来た名前に、カナタは一瞬、聞き間違いかと思った。

 しかし炭彦の目は、あくまでも本気だった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「うわあ先輩、どうしたんですかその子?」

「いや、何て言うか……何だろうなァ?」

 

 翌朝になってようやく派出所に戻って来た実弘に、後輩が驚いた声を向けた。

 それはそうだろう。

 マンションの爆発()()――朝からニュースでバンバン現場が流れている――の翌朝、先輩の警官が子供を連れて帰って来ていれば、驚きもする。

 

 実弘がおぶっていたのは、小さな女の子だった。

 今どき着物なんて珍しいなと思いつつ、スヤスヤと眠るその子のために布団を出してやった。

 仮眠用の薄い布団だが、無いよりはマシだろう。

 それにしても、このあたりでは余り見ない子供だった。

 

「迷子ですか?」

「いや、何て言うか……」

「……?」

 

 実弘にしては珍しく、酷く歯切れが悪かった。

 迷子なら迷子とはっきり言うだろうに、今日に限ってどうして。

 と、そこまで考えたところで、後輩ははっとした表情になって。

 

「ま、まさか誘拐……!」

「ぶっ殺すぞ」

「じゃあ何ですか? って、うわ、良く見たら服もちょっとボロボロじゃないですか」

 

 凄んでは見せたものの、後輩の言うことはどれも尤もだった。

 迷子にせよ何にせよ、派出所に連れて来るというのが警察官として正しい行動かと言うと、それは違った。

 まして、後輩には言っていないが、爆発事故の事故現場に倒れていたのだ。

 派出所に連れて来ないまでも、病院だとか、色々とあるはずだった。

 

「だあ、わかったわかった。お前らにも何か用意してやるよ」

 

 コロと茶々丸がわらわらと実弘の足元にまとわりついて、スンスンと鼻を鳴らしていた。

 まるで何かを確かめるような行動だったが、実弘にとっては移動の邪魔でしか無かった。

 

「うーん。俺にも良くわからねぇんだが」

 

 ポリポリと頭を掻くような姿勢で、実弘は健康そうに眠る童女を見下ろしていた。

 どうして事故現場から連れ帰るなどという、明らかに警察官失格のような行動をしたのか。

 本当に、自分でも良くわかっていなかった。

 

 ただ何となく、胸の奥で何かがちりついて、そうしなければならないような気がしたのだ。

 助けてやらなければ、という気持ちが、自然と湧いて出たのだ。

 気が付いたら、身体が勝手に動いてしまっていた。

 

「何だか、他人のような気がしなくてよォ」

 

 自分でも、本当に何を言っているのかわからなかった。

 何とも言えない表情でいる実弘を見つめて、しかし後輩は笑うようなことはしなかった。

 けして笑わず、逆に酷く真面目な表情と声音で。

 

「え、まさかロリコン」

「歯を食い縛れェ」




最後までお読みいただき有難うございます。

だんだんと佳境に近付いて来た感がありますが、さて。

これ、どうやったら丸く収まるんだ(え)

それでは、また次回。


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第82話:「貴女を」

 そこに、あの店は存在しなかった。

 いや、実はそれ自体は不思議なことではない。

 何故ならばそこに、そんなものは最初から存在しなかったのだから。

 

「……っても。こう目の当たりにしちまうとなァ」

 

 頭を掻きながら、そんなことを言ってみる。

 もちろん、言ってみたところで目の前の事実は変わらない。

 かつて()()した。あの禊とかいう妖しい女の(バー)

 しかし実弘の目の前には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ちょうど、店があったスペースだけが空き地になっている。

 飲み屋が軒先を連ねる通りにしては、それは明らかに不自然だった。

 まあ、元が不自然な店だったのだから、今さら不自然の1つや2つは大した問題ではないのかもしれない。

 ただ、そうは言っても――()()は、流石にやりすぎだろう。

 

「消えちまった、か」

 

 店は消えた。跡形もなく。影も残さずにだ。

 元々、書類の上ではここには何も無かった。

 しかし実弘は、確かにここに禊の店が存在したことを知っている。

 実際に訪れ、他にも客がいて、言葉も交わした。

 目を閉じれば昨日のことのように思い出せる程に、その記憶は鮮明だった。

 

「マジでどうなってんだ。最近のこの町はァ」

 

 犬人間事件からこっち、この町は異常な事態が起こり過ぎている。

 そこまで神経が細いつもりはないが、こうも立て続けだと、流石の実弘もノイローゼに陥ってしまいそうだった。

 尤も、今は実弘自身が「異常な事態」の1つを抱え込んでしまっているわけだが。

 

「あん?」

 

 その時、実弘は見覚えのある顔がこちらにやって来るのが見えた。

 女と見紛うようなその顔を、見間違えることはない。

 彼もまた、禊のバーに通っていた客の1人だった。

 

「ああ、やっぱり」

 

 青葉は、実弘の後ろを――つまり禊の店があった場所を――見て、息を吐いた。

 嘆息というには、それは余りにも悲壮な色に満ちていた。

 実際、彼はその場から膝に崩れ落ちて、両手で顔を覆ってしまった。

 

「オイ、どうした」

 

 実弘が、思わず近寄って声をかけてしまう程だった。

 だが当の青葉は、実弘の気遣いにも応えることは無かった。

 その表情はまさに、悲嘆に暮れている、という言葉がぴったり当て嵌まるだろう。

 しかし一方で、どこか。

 

「いえ、すみません……ただ」

 

 どこか。

 

「ただ、()()()()()()()()って、わかってしまって」

 

 どこか、納得しているようでもあった。

 まるでこうなることがわかっていたかのような、そんな風であった。

 そしてそんな青葉の様子を見て、これも不思議なことではあるが、実弘もまた、胸の奥にストンと落ちる者を感じたのだった。

 嗚呼、彼女達は――――去ったのだ、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 カナタは、こう見えて身内に甘い方である。

 本人に言えばこの評価を否定するだろうが、実のところ、これは彼以外の衆目が一致する評価だった。

 そして実際、彼は弟の炭彦の強い要望によって、再びこの場所へ――キメツ病院へとやって来たのだった。

 

「……確認するけれど」

 

 あえて言っておくと、彼らは父のお見舞いに来たわけではない。

 炭彦とカナタが会いに来たのは、別の人物だ。

 そしてだからこそ、カナタは難色を示しているのである。

 むしろ難色しかない、と言った方が良いだろう。

 何しろ、だ。

 

「本当に、行くんだね?」

「うん!」

 

 しかし一方の炭彦は、決意に満ちた目でカナタを見つめていた。

 その目が余りにも真っ直ぐなので、カナタはぐっと言葉に詰まった。

 普段は眠気と覇気のなさでいっぱいだと言うのに、こういう時には力強ささえ感じる。

 

 そしてこういう目をしている時、この弟は一歩も退かないのだ。

 これまでの経験則で、カナタはそれを良く知っていた。

 文字通り、誰よりも理解していた。

 

()()()()()()()()()()()()

 

 これである。実にきっぱりと断言して来た。

 率直に言って、正気の沙汰だとは思えない。

 前に会いに行った時に何があったのか忘れたわけではあるまいに、この弟はそれをやると言う。

 しかもそれをやるまで、梃子(てこ)でも動かないと来た。

 

 ついでに言えば、もしもここでカナタが同行を拒否すれば、炭彦はたとえ1人でも行くだろう。

 それくらいはカナタにもわかる。

 力づくで止めるという手もあるが、身内に甘いと評されるカナタにはそれはやり辛く、しかも炭彦が呼吸の訓練を経た結果、物理的にも難しくなってしまった。

 その事実をきちんと理解できてしまう己の頭脳(賢さ)が恨めしい。そんなことを思いもした。

 

「……俺が危ないと思ったら、すぐに帰るからね」

「うん!」

「……本当にわかってる?」

「わかってる!」

 

 本当にわかっているのかどうか、怪しいものである。

 

「……はあああ」

 

 屈託のない笑顔で頷く炭彦を見て、カナタは嘆息した。

 まあ、しかし本当のところは。

 色々と言ってはいるものの、カナタは結局のところ、炭彦に甘いのだった。

 結論がそうなってしまうあたりが、このカナタという少年の人となりを示していると言えた。

 

「じゃあ、行こうか」

 

 いずれにせよ。そして、何にせよ。

 カナタは、自分がすべきことをきちんと定めていた。

 炭彦が何をしようと、あるいはどこへ行こうと、傍にいて守る。

 それが兄の責務だと、カナタは思い定めているのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「オオ……! ()()()タチ……!」

 

 炭彦達の姿を認めるや――()()()()()、病室まで誰にも止められることが無かった――産屋敷は、掠れ切った声を上げた。

 前回の騒動以来そうされているのか、ベッドにベルトで固定されているため、暴れ出すということは無かった。

 それでも、枯れ枝のような身体で起き上がろうとする様は、十分に気味の悪いものだった。

 

「コロセ……!」

 

 そして、産屋敷はやはり同じことを言った。

 彼はひたすらに、こう繰り返していた。

 殺せ、殺せ、あの女を殺せ。

 

 煉獄瑠衣を殺せ。

 

 他の言葉を知らないのではないか、とさえ思える程だった。

 それは言葉というよりは、もはや呪詛だった。呪いと憎悪の叫びだった。

 産屋敷の年齢など知らないが、長い――長い年月、保ち続けて来たとしか思えない。

 そんな感情を受けて、情けないことに、カナタは病室の入口から動けずにいた。

 

「……っ。炭彦?」

 

 炭彦は、違った。

 彼は産屋敷の叫びを正面から受けながら、そのまま室内へと歩き出したのだ。

 

「コロセ……! ホロボセ……!」

「…………」

「アノオンナヲ……! レンゴクルイヲ……!」

「…………あの」

「コロセ、コロセエエエ……!」

 

 自分に向けて伸ばしたいのだろう、産屋敷のその手に。

 炭彦はそっと、己の手を重ねた。

 そして、言った。

 

()()()()()()()

 

 煉獄瑠衣は殺さない。

 はっきりと、そう告げた。

 

「僕は……僕には、瑠衣さんを殺す、とか。そういうことは出来ません」

 

 そもそも人殺は犯罪です。

 続いた言葉にカナタはがくんと脱力することになるが、それはさておき。

 言葉の通り、炭彦には、瑠衣を殺すという選択は出来なかった。

 

「瑠衣さんは、優しい人です」

 

 あの公園で出会った時のことを、炭彦は忘れないだろう。

 瑠衣は、自分にいつも優しかった。

 あの優しい眼差しを、炭彦は嘘だと思うことは出来ない。

 そんな人を殺すだなんて、たとえそれが必要なことなのだとしても、出来なかった。

 

「そして……哀しい人です」

 

 哀しい。

 今なら、今にして思えば、瑠衣が自分を見る目の中には、優しさ以外のものがあった。

 不思議とそう感じるものが、確かにあったと気付く。

 瑠衣という女性の持つ優しさと哀しさを、きっと、この時代に生きる者の中で、自分が一番。

 

「だから、僕は瑠衣さんを殺しません」

 

 自分だけが、知っているはずだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 すると、不思議なことが起こった。

 それまで、自分達にゾンビのように縋り付いていた――あるいは縋り付こうとしていた――産屋敷が、不意に落ち着いたのである。

 その変化は余りにも急で、カナタが息を呑む程だった。

 

(何だ? こいつ、急に雰囲気が変わった)

 

 産屋敷が軽く身動(みじろ)ぎをすると、ベッド脇からモニターを備えたアームが伸びて来た。

 どうやらそれは視線で文字を入力することが出来るものらしく、産屋敷の目が僅かの間、忙しなく動くのをカナタは見た。

 しかしその目には、先程まで確かにあった狂気の色が消え失せていた。

 代わりにそこにあったのは、確かな理性だった。

 

『それが、キミの選択なんだね』

 

 入力された文字――産屋敷の言葉も、同じだった。

 狂気ではなく理性でもって、産屋敷は炭彦に語りかけている。

 

『珠世さんは諦観を。愈史郎さんは憎悪を。そして禰豆子さんは責任感を』

 

 この世に存在する、純粋な鬼。最後の鬼達。

 彼ら彼女らは煉獄瑠衣という存在を前にして、それぞれ別の感情を得、そして動いた。

 だが炭彦が瑠衣に対して抱いたのは、それらのいずれでも無かった。

 

 それは恋慕というには余りにも儚く。

 そして友愛というには、余りにも淡い。

 余りにも、(やさ)しい。

 竈門炭彦という少年の持つ、光だ。

 

『もしかしたら、死ぬかもしれない』

 

 モニターを見つめなければならない産屋敷は、炭彦を見つめることは出来ない。

 しかしその目は、とても穏やかで、慈しみに満ちていた。

 それこそ、我が子の選択を見守る親のような、そんな眼差しだった。

 

「……たとえ、そうだとしても」

 

 そんな産屋敷に対して、炭彦は言った。

 

「僕は、瑠衣さんを殺しません」

 

 そんな炭彦の言葉に、産屋敷は口元を僅かに笑みの形に歪めた。

 完全な笑顔にならなかったのは、表情筋を動かすことも難しくなっているからだろうか。

 

「それに」

 

 付け加えるように、炭彦は言った。

 

「それに、そんなことにはならないですよ。だって」

 

 はにかむような、そんな顔で。

 

「だって、瑠衣さんは……優しい人だから」

 

 以前にも、炭彦はそんなことを言っていたような気がする。

 そんな弟の様子に、カナタは目を覆って天井を仰いだ。

 処置なし。

 

 そんな風なカナタと、自信満々な顔をする炭彦。

 流石に産屋敷も限界だったのか、クックッ、と引き攣るような音がその喉から漏れ聞こえて来た。

 それが笑い声だと気が付くのには、少しかかった。

 それにすぐに限界を迎えたのか、苦し気な咳に変わったところで、カナタと炭彦が慌てて介抱をしようとした。

 産屋敷はそれを不要というように首を振って制して、モニターを見つめ直した。

 

『わかった。キミがそういう子なら、私も安心して話すことができる』

「……話?」

『そう。私の……私達の、()()()()退()()()()()

 

 そう入力して、産屋敷は目を閉じたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 桃寿郎が早朝に道場に行くと、自分以外の先客がいることに気付いた。

 誰だろうか。咄嗟(とっさ)には頭の中に候補が出て来なかった。

 炭彦かとも思ったが、すぐに違うとわかった。

 道場の真ん中にどんと座っているのは、彼の父親だったからだ。

 

「父上、おはようございます!」

「……ああ、おはよう」

 

 いつも通りの腹式呼吸。

 相変わらず元気の良い息子に苦笑しつつ、ごとりと音を立てて、その場に()()を置いた。

 世界で見ても珍しい、滑らかな曲線を描いた刀剣類――日本刀だ。

 桃寿郎は、それが神棚に飾られていたものだとすぐに気付いた。

 

 炎のような形の鍔に、赤色に染まった刃。

 もちろん桃寿郎は日本刀に詳しいわけではないが、それでも、それがかなり珍しいものだとは理解していた。

 とは言え、それだけだとも言える。

 問題は、どうして父がそんなものを持ち出しているのか、ということだった。

 

「やろう」

 

 そんな風に不思議に思っていると、いきなりそんなことを言われた。

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 しかし数秒をかけて父の言葉を咀嚼(そしゃく)して、理解が及ぶと。

 

「よもや!」

「どういう反応だ、それは」

 

 自分の反応が面白かったのか、父はまた苦笑していた。

 いつもは厳しい父だが、今朝は妙に何というか、優しいのだった。

 くれるという日本刀を手に取ると、まずその重さに驚いた。

 鉄の塊なのだから、当たり前と言えば当たり前だったが。

 

「重いか?」

 

 そう問われると、鉄の重み以外の何かを感じる気がした。

 不思議な感覚だった。

 まるでこの日本刀が、ずっと以前からこの手の中にあったかのような、そんな気がした。 

 

「その刀は、日輪刀という」

「日輪刀! 太陽の刀ですか、格好いいですね!」

 

 その名の響きでさえ、何故か驚きはない。

 まるで、最初からそうだと知っていたかのような。

 それくらい手に馴染む。

 手に取ったことなどほとんど無いというのに、どうしてそう思うのか。

 やはり、不思議な感覚だった。

 

「その刀は、先祖代々受け継がれてきたものだ」

「ご先祖様からですか! それはどれくらい前なのでしょうか!」

「そうだな。正確なことはわからないが……500年ほど前のものだと聞いている」

「500年……!」

 

 もちろん、補修や保存処置などはされていただろう。

 しかし、500年。

 まだ年若い桃寿郎には、想像もできないような長い時間だ。

 それだけの期間、1つのものを受け継いでいくというのは、並大抵のことではないはずだった。

 

「その刀は、人を斬ったことがない」

「ええと……刀なのに、ですか?」

「そうだ」

 

 刀は、武器だ。

 いくら日本刀に美術的な価値があると言っても、それは現代の話。

 500年前の刀は、紛うことなく武器――兵器だったはずだ。

 しかしそんな刀が、人を斬ったことがない。

 

(人を……)

 

 そこまで考えて、桃寿郎は気付いた。

 よもやと顔を上げると、父は頷いた。

 

「その刀は、人ならざる者を斬るためのものだ」

 

 人ならざる者。

 この時の桃寿郎の脳裏に思い浮かんだのは、犬人間だ。

 桃寿郎にとって、人ならざる者の象徴と言える。

 そして――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 結局、何の収穫もなく帰って来ることになった。

 むしろ他人の失恋――と思われる――を慰めるというおまけまでついて、余計に疲れてしまった。

 ただでさえ、(バー)の消失などという非現実的な出来事を目にしてしまったのに。

 心労というのであれば、自分こそケアしてほしいものだった。

 

「あー……いや。疲れてんのか、つい弱気になっちまうなァ」

 

 嘆息。これもまた、自分らしくない。

 頭を振って、切り替える。

 先輩として、後輩に情けない顔を見せるわけにはいかない。

 そう思って、実弘は努めて勢いよく派出所の扉を開けた。

 

「うーっす。今戻った……」

 

 すると、童女(禰豆子)が元気よく「う!」と手を上げるのが見えた。

 

「……ぞ」

 

 ぱっちりしたお目目(めめ)が、実弘のことを見つめていた。

 それに対して、実弘は数秒の間静止した後。

 

「お前、起きたのか!?」

 

 と声を上げた。

 事故現場で拾い上げてからというもの、ずっと眠っていたのだ。

 もう少し様子を見てどうにもならなければ、気が進まないが――どうして「気が進まない」と考えるのかは、自分でもわからなかったが――医者にかかるべきか、と考えていた矢先だった。

 まあ、無事に起きたなら良かった。と、実弘は内心でほっとした。

 

「あ、先輩!」

 

 その時、後輩が困り切った様子で顔を出して来た。

 ぺこりと会釈をした後、彼は言った。

 

「この子、何も食べないんですよ!」

「何ィ? 好き嫌いは感心しねぇぞォ」

「いやいやいや! 好き嫌いとかじゃなくて、本当に何も口にしないんですよ!」

「ああ?」

 

 何も口にしない。というのは、比喩でも何でも無かった。

 実際、禰豆子は何も口にしなかった。いくら勧めても嫌がるのだ。

 拒食症かとも思ったが、そういうわけではないらしい。

 妙な表現になるが、食べるという行為そのものを拒絶している様子だった。

 

 さらに実弘達を困惑させたのは、コロと茶々丸までも何も食べなかったことだ。

 食べないどころか、水を飲むことさえしない。

 それでいて、体調を崩す様子もない。至って健康で元気なのだ。

 明らかに、普通ではない。

 

「ああ? ……どういうことだ?」

「いや、俺にもわかんないっすよ……」

 

 繰り返すが、普通ではない。

 ガリガリと頭を掻いて、最近クセになりつつあることに気付いた。

 その内にハゲてしまうかもしれない、などとつい考えてしまった。

 

「ああ、まあ、大丈夫だよ。心配すんなァ」

 

 自分をじっと見つめる禰豆子に、実弘は頭を掻いて――途中で意識して止めて、言った。

 

「気が済むまでいりゃあ良い。ガキの面倒くらい、見てやるよォ」

 

 たとえ、どれだけおかしな子どもだとしても。

 だから、と見捨てられるような器用さを、実弘は持ち合わせていないのだった。

 そしてそんな実弘だから、後輩も何も言わずに協力してくれるのだ。

 そんな2人を、禰豆子はじっと見つめていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――いつもの公園。

 いつもと変わらない、穏やかな陽気の日だった。

 それなりに広い公園のはずだが、しかし不思議と他に人はいなかった。

 

 だからだろうか、その日は妙に寂しい雰囲気になってしまっていた。

 いつもとそう違わないはずなのに、そう思ってしまうのは、見る側の気持ちがそうだからだろうか。

 寂しいと感じるのは、己が寂しいからだろうか。

 などと、つい出来の悪い詩人のようなことを考えてしまって、炭彦は自分で自分を笑ってしまいたくなった。

 

「…………」

 

 そして、()()もまたいつも通りだった。

 いつも通りのベンチに、彼女はいた。 

 黒字に赤い彼岸花があしらわれた着物を着て、本を読んでいた。

 炭彦はあまり本を読まないので良くわからないが、学術書のような分厚いものではなく、手軽に読める文庫本のようだった。

 

 陽気に包まれた公園の中で、黒い着物姿は良く目立っていた。

 ただ炭彦の目には、着物よりも、ハーフアップにまとめられた艶やかな黒髪の方が目に留まった。

 黒いリボンでまとめられた髪は、風に撫でられて微かに揺れていた。

 香水なのか、洗髪料なのか、炭彦のところまで良い香りが流れて来るようだった。

 

「…………あら」

 

 気付いたのは、向こうが先だった。

 炭彦が立ち尽くしているのが視界の端に映ったのか、あるいは気配を察したのか、何なのか。

 とにかく彼女は炭彦がやって来たことに気付いて、膝の上で本を閉じた。

 もしかしたら、特に集中して読んでいたわけではないのかもしれなかった。

 

 何となく、そうしていただけで。

 ()()()()

 あるいは、他のこともそうだったのだろうか、と、そんなことを考えてしまった。

 彼女にとって、実は何もかもが()()()()だったのではないか、と。

 そんなはずはないのに、何故か、そんな風に思ってしまった。

 

「こんにちは、竈門君。()()()()()()()()()()()()

「……はい。はい、瑠衣さん」

 

 自分に微笑を向けてくれる瑠衣に、炭彦は頷きを返した。

 それから視線を戻して、瑠衣は膝の上で閉じた本の背表紙を指先で撫でた。

 その綺麗な指先を、炭彦は目で追った。

 

「来ました。瑠衣さん」

「ええ」

 

 じゃあ、と言って、瑠衣はその場に立ち上がった。

 本は、ベンチに置いていた。

 そのまま着物の裾を直して、炭彦の前に立った。

 そして、やはり、微笑を浮かべて言った。

 

「ずっと、待っていました」

 

 今日も来てくれたと言いつつ、ずっと待っていたと言う。

 矛盾。

 しかし、ここでは矛盾しない。

 何故なら。

 

「やっと……()()()()()()()()()()()()()()

 

 何故ならば、炭彦の手には父から託された日輪刀が握られていたからだ――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 日輪刀。

 鬼を斬るための武器。

 ()()()()()()()()()()()()()

 それを手に、炭彦は約束(いつも)場所(公園)にやって来ていた。

 

 炭彦が日輪刀を持っている。正確には、刀袋に包まれたそれを持っている。

 その事実に、瑠衣はどこか満足そうな顔をしていた。

 瑠衣の表情が余りにも綺麗で、炭彦はつい、目を逸らしてしまった。

 そんな炭彦を、瑠衣は(とが)めはしなかった。

 

「……何というか、普通なんですね」

「普通というと?」

「いや、だって……全然、大丈夫そうに見えるから」

「ああ……」

 

 正直なところ、自分でも何を言っているんだ、と思ってしまった。

 会話、というか、言葉が支離(しり)滅裂(めつれつ)に過ぎる。

 けれど瑠衣は、やはりそんな炭彦を悪く言うことは無かった。

 むしろ彼の言いたいことを正確に理解して、頷きさえしてくれた。

 

「気を張っているだけですよ。こう見えて。結構、頑張っているのですよ?」

 

 くう、と、そんな音がした。

 それは瑠衣の腹部から聞こえてくる音で、以前にも聞いたことがあった。

 炭彦はその時、呑気(のんき)に飴玉などを渡して良い気になっていたのだ。

 

 嗚呼、何て馬鹿だったのだろう。

 あの時は気付いていなかった。気付こうともしなかった。

 自分はただ、あの時も――そして今も。

 

瑠衣さん(このひと)の優しさに、包まれていただけだったんだ)

 

 良く見れば、おかしいことに気がつけるのに。

 瑠衣はいつだって、自分に微笑みを向けていた。

 いつも、どんな時でもだ。

 考えてみれば、おかしな話ではないか。

 自分はどうして、瑠衣の()()()()()()()()()()()

 

「竈門君の前だから。頑張って……見栄を張っているだけです」

 

 気を張っていないと、表情が崩れてしまうからだ。

 微笑みで覆い隠さないと、耐えられなかったからだ。

 そして自分はついに、ここに至るまでそれに気付くことが出来なかった。

 瑠衣の()()に、気が付けなかったのだ。

 自分の前だから見栄を張っているというその言葉に、胸が張り裂けそうだった。

 

「……さて。そういうわけで、竈門君」

 

 胸に手を当てて、瑠衣は――やはり、いつも通りの微笑を浮かべて。

 真っ直ぐに、炭彦を見つめた。

 

「私を、殺してくれますか?」

 

 そして、そんな瑠衣に対して、炭彦は。

 

「――――()()

 

 刀袋の封を解きながら、日輪刀の柄を握った。

 そして、言った。

 

()()()()()()()。瑠衣さん」

「――――良く出来ました」

 

 瑠衣は、やはり優しく微笑んでいた。

 炭彦は、笑わなかった。

 それはとても、対照的だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――今少し、時間を遡る。

 場所は産屋敷の病室。

 その場で、炭彦が「瑠衣を殺さない」と宣言した直後のことだ。

 時間にしてみれば、ほんの数分のことだろう。

 

『まず、キミは煉獄瑠衣を()()()()()()()()()()

 

 先程までの会話は何だったのか。

 そう思える程にあっさりと、産屋敷はそう言った。

 こいつはやっぱり頭がおかしいのではないか?

 傍らで話を聞いていた――もとい、読んでいた――カナタなどは、もうはっきりそう思ってしまった。

 

 炭彦も、困惑の色を隠さなかった。

 一方の産屋敷はと言えば、少年達の困惑を他所(よそ)に、モニターへの入力を続けていた。

 おそらく、かなりの体力を消耗しているのだろう。入力の速度は早いとは言い難かった。

 それでも何も言わず、急かすようなこともせず、炭彦は産屋敷の言葉を待った。

 

『キミの、煉獄瑠衣を殺さないという選択。決断は、()()()

 

 正しい。産屋敷はそう言った。

 瑠衣を()()()()()()()()珠世も。

 瑠衣を滅ぼそうとした愈史郎も。

 そして瑠衣を止めようとした禰豆子も、正しい。

 

 何故ならば彼ら彼女らは皆、()()()()()辿()()()()()()()()()()

 煉獄瑠衣は、殺さなければならない。

 殺してしまうしかない。そういう結論を、彼ら彼女らは共有していた。

 違いがあるとすれば、それをどう成すか、という点だけだった。

 

『矛盾するように聞こえるかもしれない』

 

 ぜえぜえと呼吸を荒げながら、産屋敷は続けた。

 入力するという行為そのもので、命を削っている。

 生きているだけで生命力を使う。

 他人よりも限られたそれを使って、産屋敷は言った。

 

『けれど、キミはそうしなければならないんだ。それはキミにしかできないことだ』

「ちょっと、さっきから言っていることの意味がわからないんだけど?」

『だから、矛盾して聞こえるかもしれない、と言った。私はただ』

 

 ごほ、と、濁った咳をした。

 そうしながら、彼は指先で何かを操作した。

 ナースコールかとも思ったが、どうやら違ったらしい。

 モニターの後ろからカバーがスライドして、ケースが出て来た。

 

「これは……?」

 

 視線に促されて炭彦が手を伸ばすと、軽い音がしてケースが開いた。

 中は冷凍状態にあったのか、指先にひやりとした空気を感じた。

 ドライアイスが溶けだした時のような白い靄が一瞬、視界の中で泳いだ。

 そして靄が消えると、そこには三本の小さなアンプルが収められていた。

 

『それは珠世さんが、そして愈史郎さんが遺してくれたものだ。()()()()()()。後はもう、この世には残っていない』

 

 アンプルの中には、青く発光する液体が入れられていた。

 

『最後の青い彼岸花を使った、()()()()

 

 それが最後だ、と。

 ぐったりとベッドに身を沈めながら、呼吸しにくそうに喘ぎながら、そう繰り返した。

 

『竈門炭彦君。もう一度、言おう』

 

 それを最後に、産屋敷は意識を失った。

 モニターには、彼が最後に入力した彼の言葉が点滅していた。

 炭彦の瞳に焼き付けようとするかのように、何度も、点滅していた。

 

『キミは煉獄瑠衣を殺すために、生まれて来た子どもだ』

 

 モニターに映るその言葉を、炭彦は見つめた。

 長い時間、ずっと見つめていた――――。




最後までお読みいただき有難うございます。

そろそろ終わりそうな気がする(え)

それでは、また次回。


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第83話:「姉」

 それにしても、良く眠る娘だ。

 ずやすやと眠る禰豆子の寝顔を眺めながら、実弘はそんなことを思った。

 子ども――少なくとも、背丈は子どもだ――の寝顔というのは、実に不思議だ。

 

 ずっと見ていて、飽きないのだ。

 ただの寝顔だろう、と誰かは言うのかもしれない。

 しかし実弘にとっては、それは何時間でも眺め続けられるものだった。

 保護した子どもでこれならば、自分の子どもが出来た時にはどうなることか。

 

「って、それは気が早すぎるだろォ」

 

 と、自分で言って苦笑した。

 そもそも相手がいない。

 何より顔面まで傷だらけの自分に、嫁だの恋人だのが出来るとも思えない。

 ――――だからなおさらだ、と思うのは、流石にやめておいた。

 

「しっかし、そろそろどうにかしねぇとなァ」

 

 やはり禰豆子の寝顔を眺めながら、そんなことを呟いた。

 後輩に言われるまでもなく、今の状況が長続きしないことなどわかっていた。

 ただ、何かが引っかかる。

 胸の奥に感じる引っかかりが、実弘に行動を躊躇(ちゅうちょ)させていた。

 

「オイ、何とか言え。んん?」

 

 禰豆子の枕元で丸くなっている茶々丸を(つつ)くが、当然のように返事はない。

 尻尾を僅かに揺らすだけだ。

 そんな反応に苦笑しつつ、実弘はその場で立ち上がった。

 夜のパトロールにでも行こうか、と思ったのだ。

 

「ごめんくださいな」

 

 その時だった。

 派出所の方から、誰か――女性の声が聞こえた。

 わかりやすく言えば、交番に誰かが訪ねて来たわけだ。

 

(……妙だな)

 

 と、実弘はまずそう思った。

 理由は2つ。

 まず第1に、深夜に交番を訪ねるような人間が珍しい。

 あるとすれば、よほどの事情である。

 有体(ありてい)に言えば事件に巻き込まれでもしない限り、まず無い。

 

 だが聞こえて来た声は落ち着いていて、何かの事件性がある、というわけでは無さそうだった。

 とすると、ますます()()()

 何よりも問題なのは、第2の理由。むしろこちらが本命とさえ言える。

 つまり、聞こえて来た声は実弘の()()()()()()()()()()()()()

 

「……! てめぇは……」

「こんばんは、お巡りさん」

 

 そしてその推察は、見事に的中していた。

 図々しくも椅子に座って待っていたその女性を、実弘は知っていた。

 そこにいたのは、あの消えたバーの女主人、禊だった。

 禊は実弘の姿を認めると、小首を傾げて妖しく嗤ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何の用か、と言おうとして、止めた。

 禊が――相も変わらず煽情的なドレス姿で――デスクに、どう見ても槍としか思えない代物を立てかけていたからだった。

 余りにも堂々としているので、実弘は思わず笑ってしまいそうになった。

 

「オイ、銃刀法違反にも程があるだろォ」

「あら怖い。逮捕でもしてみる? 無理だと思うけど」

 

 あっさりと言ってくれる。

 しかし禊の言葉が真実であることは、実弘にもわかっていた。

 自分が100人いたとしても、目の前の女には敵わない。

 それが直感というか、本能でわかっていた。

 

 ()()()()()()()

 腕っぷしとは違う、別の何か。その何かが、実弘と禊を決定的に分けている。

 そしてそれは実弘が、()()()()()()()()()()()()()()

 まあ、それは実弘の責任というわけではないのだが……。

 

「……で? こんな時間に何の用だ」

「あら。困りごとをした善良な一般市民に対してそんな言い方をしていいのかしら。まるで尋問だわ」

「善良な一般市民はそんなモン()持ち込まねぇんだよなァ」

 

 真っ当な指摘をしてみたところで、もちろん意味など無かった。

 

「ま、良いわ」

 

 禊は椅子に深く座って、長い脚を惜しげもなく晒して足を組んでいた。

 実弘は色香に惑わされるタイプではないが、交番のパイプ椅子にも関わらず「様になっている」とは感じた。

 

「実は()()()()()()()()()()()

 

 実弘は、表情を動かさなかった。

 しかし表情を動かさなかったが故に禊が嗤うのを見て、内心で舌打ちをした。

 そして半ば無駄と知りつつ。

 

「……知らねえなァ」

 

 と言ってみた。

 禊はそんな実弘をしばし見つめていたが、つい、と視線を実弘の後ろに向けて。

 

()()()()()()()()

 

 と言った。

 

「ばっ、出て来るんじゃあねェ……ッ!」

 

 反射的に後ろを振り向いて、そう口にしてしまった。

 自分で自分を殴りたくなるような、致命的なミスだとすぐに気付いた。

 何故ならば、振り向いた先には()()()()()()()()()()

 

「なるほど。もう良いわよ、アンタ」

「てめぇ……!」

 

 しかし実弘は、もう一度禊の顔を見ることは出来なかった。

 そうしようとした直前、いや直後に、頚の裏側に強い衝撃が来たからだ。

 断言する。油断などしていなかった。

 ただその人物の気配の殺し方が、異常に上手かっただけだ。

 

「ごめんよ、旦那」

 

 実弘が最後に見たのは、金髪碧眼の男(犬井)の申し訳なさそうな顔だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 うーん、と、犬井は頭を掻いた。

 

「悪いことをしたねえ」

「思ってもいないこと言うんじゃないわよ」

 

 犬井は、気絶した実弘を部屋の隅に移動させた。

 それから、やはり「うーん」と言いながら実弘の顔を眺めた。

 もちろん、()()()()()()()()()()()()

 

 しかしこうして見ていると、()()と見紛う程にそっくりだった。

 血筋なのか。あるいは他に受け継がれるものがあるのか。

 そういう繋がりから外れてしまった犬井としては、もうそれを実感できる日は来ない。

 これは感心なのだろうか。それとも憧憬なのだろうか。もはや、それを考察することも出来ない。

 

「で、いんのか?」

 

 獪岳が入口から顔を覗かせて、そう言って来た。

 禊はそちらを見もせずに、視線を宙に彷徨わせた。

 ただその口元は、明らかに笑みの形に

 

「いる、っていうか……」

 

 相変わらず、察しが悪い男だ。

 禊は獪岳にそう思ったが、口には出さなかった。

 何故ならば、言葉にする必要が無かったからだ。

 

 ほら、感じるじゃあないか。

 派出所の奥、開きっぱなしのドアの向こうから。

 ピシピシと肌を打つ、そんな錯覚をしてしまう程の()()を。

 ここにいるぞと、これ以上ない程に伝えているではないか。

 

「こんばんは。こうして会うのは久しぶりね」

 

 最初、その背丈は子どものように小さかった。

 それが一歩を進むごとに大きさを増し、ドアを潜る頃には大人の背丈になっていた。

 急激な成長。あるいは元に戻ったというべきか。

 いずれにせよ、そこには鬼が立っていた。

 

「竈門禰豆子。最後の鬼……まさにって顔だわ」

 

 禰豆子は、憤怒の表情を浮かべていた。

 目は血走り、額には血管が浮き出ている。

 怒りの原因はわかり切っていた。部屋の隅で気絶している実弘である。

 自分を助けてくれた実弘を傷つけられた事実に、怒っていた。

 

「おー……すげえ鬼気だなオイ」

「上弦の鬼を思い出すねえ」

 

 男どもは呑気なものだ。禊はそう思った。

 竈門禰豆子の放つ鬼気は、かつての上弦と比べても明らかに上だ。

 鬼としての潜在能力(ポテンシャル)が違う。

 竈門一族の血は、あるいは鬼舞辻無惨よりも鬼としての才に恵まれているのかもしれない。

 

「チョー最高」

 

 素晴らしい。

 それでこそだ、と禊は思った。

 それでこそ、面白くなるというものだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

『キミは私を許さないだろうね』

 

 モニターに映り込んだ文字を見て、カナタはじろりと視線を「声」の主へと向けた。

 その声の主は、出会った時の3倍ほどの点滴やチューブを身体に差し込まれており、何なら目さえ開けられない状態だった。

 もはや視線ですらなく、脳波で入力するタイプだと言う。

 ここまで来ると、カナタにすらどういう技術なのかわからなくなって来る。

 

「確かに。俺はお前を許さないよ」

 

 まず、それは当然のことだった。

 炭彦()にとんでもないものを背負わせてくれた相手を、好きになる理由は無い。

 嫌うしかない。

 だがそれは、理由の1つでしかない。

 

「けど俺が一番許せないのは、()()()()()()()()()()()()()()

 

 嘘、というのも少し違う。

 厳密には、産屋敷は嘘は吐いていない。

 彼が語ったことはすべて本当のことで、そういう意味では嘘とは言い切れない。

 しかし言い切れないだけで、それは本質的には嘘とほとんど変わらないものだった。

 

『煉獄瑠衣は殺さなければならない』

 

 事実だ。真実だ。本当だ。本音だ。

 それが必要なことだと、確信している。

 実際、それは正しい。

 

『それができるのは、この世で彼だけだ。竈門炭彦君だけが、煉獄瑠衣を殺すことが出来る』

「そうだろうね。お前が言っていることは、全部が正しいんだろうさ」

 

 殺さないと宣言したはずなのに、殺すと言わなければならない。

 矛盾している。明らかにおかしい。

 これはいったい、どういうことなのか。

 

 わからない。何もわからない。

 そしてだからこそ、あえてカナタは病室(ここ)にいた。

 炭彦の傍ではなく、この男(産屋敷)の傍にいることを選んだ。

 それがベストだと、いやベターだと、カナタは判断していたからだ。

 

『なるほど、キミは……信じているんだね』

 

 モニターの文字は、無機質だ。

 産屋敷の感情は、そこから読み取ることは出来ない。

 いや、仮に音声だったとしても、産屋敷の真意を読み取るなど誰にも出来ないだろう。

 だから、カナタはここにいる。

 ()()()()()()

 

『竈門炭彦君のことを』

「――――当然。この世の誰よりも」

 

 この世の誰よりも、炭彦のことを信じている。

 ただそれは、おそらく産屋敷が思っているような意味ではない。

 結局のところ、産屋敷は炭彦を知らない。

 あの炭彦が()()()()やつだと、知らないのだ――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 殺したくない。

 しかし、殺さなければならない。

 その矛盾した感情と事実の前に、炭彦は立っていた。

 

「私を殺してください。炭彦君」

 

 そして、死んでほしくないと思う相手に「殺してくれ」と言われている。

 炭彦の表情は、哀しみに染まっていた。

 そんな炭彦に、瑠衣はやはり微笑んだ。

 微笑んだまま、炭彦の頬に手を添わせた。

 

 瑠衣の白い指先が、そっと炭彦の頬を撫でる。

 さらりとした指先が、心地よかった。

 けれど、その指先は余りにも冷たかった。

 血が通っていない。ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。

 

「……私がどういう()()()かは、もう知っていますね?」

「…………うん」

 

 瑠衣は、人間ではない。

 けれど思い返してみれば、最初から違和感はあった。

 明らかに他の人間とは、何かが違うと感じていた。

 それを、憧れで覆い隠していただけだ。

 

「優しいのですね。炭彦君は」

 

 ふ、と目元を緩ませるその顔は、美しかった。

 炭彦は目を奪われてしまって、だからこそ唇を噛んだ。

 そんな炭彦から指先を放すと、瑠衣は一歩を下がった。

 

「瑠衣さん?」

 

 何をするのだろうか。

 そう思っていると、瑠衣はおもむろに着物の帯に手をかけ、そのまま解き始めた。

 

「ち、ちょっと瑠衣さん!? ダメですよそんな!?」

 

 炭彦はぎょっとして、慌ててあたりを見渡した。

 しかし彼の心配を他所に、辺りには相変わらず人気がまるで無かった。

 この公園でここまで人がいないことなど、かつてあっただろうか。

 

「る、瑠衣さんってば!」

 

 顔の前に手を(かざ)して、炭彦は見ないようにしていた。

 しかしその間にも衣擦れの音が続いて、嫌が応にも意識せざるを得ない。

 ただ、それはそう長い時間は続かなかった。

 衣擦れの音が止むと、翳した手の向こうから瑠衣の声がした。

 

「私を見てください。炭彦君」

 

 その声が、余りにも真剣だったから。

 だから炭彦も、恥ずかしがってはいられなかった。

 翳していた手を下ろして、瑠衣を見た。

 

 瑠衣は、着物の袷を解いていた。

 帯は足元に落ちていて、左右に開いた着物の間から、瑠衣の身体が見えていた。

 細い首筋から鎖骨、胸元、薄い腹から脚の内側。

 白い肌が輝いて見えて、炭彦の目には眩しく見えて。

 

「え……?」

 

 だからこそ、()()が目についてしまった。

 瑠衣の下腹部。本来なら羞恥で目を逸らしてしまうその場所。

 薄い腹が、奇妙に盛り上がって見えた。

 その不自然な隆起は、しかし確かに。

 

「……顔……?」

 

 人の顔らしきものが、浮かび上がっていた――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――100年前、その()を初めて聞いた。

 煉獄杏寿郎を始めとする柱達との、()()()()()()の時だ。

 死を覚悟した瑠衣の意識に、何者かが話しかけて来た。

 

『構わないな? この肉体(空き家)を私が使ってしまっても――――?』

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 その時、瑠衣は気付いた。

 ()()()()()()()()()()()

 それは確信だった。そして確信すると同時に、()()は浮かび上がった。

 

 下腹部のあたりに浮かび上がったそれは、人の顔だった。

 人面瘡(じんめんそう)

 おぞましい。

 しかし何よりもおぞましいのは、瑠衣がその顔を知っていたことだった。

 

()()()()()……!?」

 

 戦いの後、付近の泉で水浴びをした。

 戦闘で汚れた身体を洗いたかったし、頭を冷やしたかった。

 そして、その水面に映る形で瑠衣はそれに気付いた。

 鬼舞辻無惨の人面瘡に。

 

 まず思ったのは、あり得ない、ということだった。

 鬼舞辻無惨は完全に滅んだ。

 この目で見たし、だから上弦の鬼も消滅した。

 ――――待て、()()()()()()()()()

 

「……黒死牟と亜理栖は、私が喰った。猗窩座は、兄様が斬った」

 

 鬼舞辻無惨の死と同時に、消滅したわけではない。

 いや、そもそも無惨はその気になれば他の鬼を死滅させることが出来る。

 だとすれば、他の鬼の消滅は何の証明にもならない。

 死んだふりをしたという可能性さえ、否定できない。

 

「……いいえ。そうだとしても、いったいどうやって私の中に」

 

 自分は、無惨に鬼にされたわけではない。

 自ら青い彼岸花を取り込んだ、まったく別系統の生き物だ。

 鬼舞辻無惨の因子など、()()()など、自分の中にあるはずが。

 ……マサカ。モシカシテ。

 

「――――私カ」

 

 無惨に鬼にされた女から生まれた瑠花。

 鬼舞辻無惨の因子を持って生まれた()()()

 そしてその遺伝子が、上弦の鬼を喰ったことで強まったとしたら。

 他の鬼の細胞の中に、鬼舞辻無惨が保険(バックアップ)をかけていたとしたら。

 

「死ンデナオ、ココマデ不快ナ思イヲサセラレルトハ思ワナカッタヨ」

 

 今のところ、鬼舞辻無惨の意識は感じない。

 ただ顔が浮かんでいるだけだ。それ以上のことはない。

 逆に言えば、()()()()()()()()()()()()()()()()

 もう、本当に私以外に誰もいないのだから――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 眠っている、ように見えた。

 瑠衣の下腹部に浮かぶ上がった()()は、今は意識らしいものを見せていない。

 ただ、そこに存在しているだけだ。

 それ以上ではない。否、それ以上になることを()()()()()()()

 

「私は、もう()()()()()()()()()()

 

 100年前のあの日、煉獄瑠衣は鬼殺隊と(たもと)を分かった。

 瑠衣自身、もはや自分が鬼殺隊士だとは思っていない。

 鬼狩りの名家、煉獄家の一員だとも、思っていない。

 そんな資格は無いし、必要でも無かった。

 

 しかし、だ。

 しかしそれでも、矜持(プライド)というものはある。

 それは、()()()()()()()()()()()()()()、という矜持(きょうじ)だ。

 それだけは、何者にも譲ることが出来ないものだった。

 

「けれど、()()を再び世に出すことは(まか)りなりません」

 

 もしも()()を、鬼舞辻無惨の復活を許してしまったならば。

 瑠衣は、自分自身の人生を――あるいは鬼生を――否定することになってしまう。

 だから何としても、()()を自由にはさせない。

 ()()()()

 抱え込んだまま、()()()。そう決めた。

 

「ただ、私は不死です。不老不死に限りなく近い生き物です」

 

 死にたくとも、死ねない。

 太陽すら克服した完全無欠(アルティメット)の生命体(シイング)であるが故に、死ぬ手段が無い。

 瑠衣は苦悩した。どうすれば良いかと考え抜いた。

 そして辿り着いた結論が――――()()だった。

 

「餓死……」

「私の()()は鬼です。しかし鬼の始祖が滅びている以上、鬼は生まれません。私は食を断たれて、少しずつ弱っていく――――はず、でした」

 

 実際、途中まではそうなっていた。

 しかしここに来て、()()をしてしまった。

 犬人間。そして愈史郎の襲撃だ。

 それらは、無惨系統の鬼とは比較にならない程に質の悪い食糧だった。

 

 不味かった。しかし「空腹は最高の調味料」だ。

 食事をしてしまったことで、鬼を取り込んでしまったことで、瑠衣は延命した。してしまった。

 そして、()()もまた活性化してしまった。

 何よりも問題なのは、食事が質・量ともに瑠衣を満足させるものでは無かったこと。

 つまり瑠衣が弱り、()()が強くなった形になった。

 

「だから、貴方に出会えたことは本当に奇跡でした」

 

 生まれながらに、自然と呼吸を使えていた炭彦。

 竈門炭彦を見つけたことは、瑠衣にとって奇跡だった。

 彼こそが、瑠衣の光となった。

 

「貴方は、私()にとっての継国縁壱」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

「どうか、お願いします。炭彦君」

 

 どうか。

 嗚呼、どうか。どうか、どうか、どうか。

 どうか、私を、私達を、()()を。

 

「殺してください」

 

 終わらせてください。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 あえて断言しておこう。

 竈門炭彦という少年には、何の責任も生じない。

 煉獄瑠衣を斬るという判断をしたとしても、何の罪も発生しない。

 

 何故ならば、この問題の結論はすでに100年前に出されているからだ。

 100年前、鬼殺隊の柱達と炭彦の祖先達は、瑠衣を斬るべく戦いを挑んだ。

 その時点で、炭彦がすべき決断はすでに下されていたことになる。

 炭彦がこれから行うことは、いわば()()()なのだ。

 

「…………」

 

 日輪刀の柄に手をかけて、炭彦は瑠衣を見た。

 瑠衣は微笑み、目を閉じた。

 ――――もしも。

 

 もしも誰かが、瑠衣を殺せと――実際、そうなっている――言ったとしても。

 炭彦は、相手が誰であれ反発し、反論し、反対しただろう。

 瑠衣を守ろうとしただろう。

 だが、当の本人が「殺してくれ」と望んでいるのであれば、どうするのが正解なのだろうか。

 

「瑠衣さん」

 

 抜いた刀は、両手で持ってなおも重い。

 100年前の物のはずだが、刃は良く研がれていて鏡面のようだった。

 皮肉なことに、呼吸に乱れは無かった。

 常中――どんな時でも、全集中の呼吸を維持できる。

 瑠衣に、そう訓練されたからだ。

 

「瑠衣さん……!」

 

 瑠衣は、微笑んだまま動かずにいた。

 細く白い首筋を晒して、炭彦に身を委ねている。

 炭彦には何の罪もない。

 これは自分が望んだことなのだ、と、言外に伝えていた。

 

「僕は」

 

 殺したくない。生きていてほしい。

 けれど、瑠衣はそれを望んでいない。

 瑠衣にとって、今のまま生き続けることは幸福ではない。

 彼女にとっての幸福とは、ただ。ただ、死ぬことなのだ。

 

「僕は、貴女を――――……!」

 

 日輪刀が、重い。

 握り締めるだけ、振り上げるだけで、満身の力を必要とした。

 だがそれは、刀の物理的な重さだけが原因では無かった。

 炭彦の()()()()が、彼に満身の力を必要とさせたのだった。

 そして、もう1つ。

 

「駄目ッッ!!」

 

 と、誰かが炭彦の腕に掴まって、止めて来た。

 振り上げた彼の腕に抱き着いて、全力で止めてに来た。

 その膂力は人間離れしていて、炭彦の腕力では――呼吸で強化されているにも関わらず――ビクともしなかった。

 

「ね……禰豆子さん?」

 

 それは、禰豆子だった。

 マンションでの出来事以降、どこかへ姿を晦ませていた。

 どうしてここに、というのが、炭彦が最初に思ったことだった。

 

「駄目……! 炭彦君は、そんなことをしちゃ駄目!」

 

 必死の、涙ながらの、訴えだった。

 そして同時に、逆方向の声が炭彦の耳朶を打った。

 

「どういうつもりですか。竈門禰豆子」

 

 怒気を孕んだ、瑠衣の声だった。

 

「どうして、貴女が炭彦君を止めるのですか」

「――――どうして? そんなの決まっているじゃあないのよ」

 

 そして、第3の少女の声が響き渡った。

 公園に、高らかに。

 

「アンタの悔しがる顔が、見たかったからに決まっているじゃない。思った通り、チョー最高だわ」

 

 禊の嗤う声が、響いたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その場に現れたのは、禊だけでは無かった。

 獪岳と犬井、榛名と柚羽もいた。

 全員が、武装している。

 それを認めて、瑠衣は口を開いた。

 

()()()()()()()。禊さん」

「久しぶり? ああ、アンタの感覚だとそうなるのね」

 

 はっ、と鼻で笑って、禊は日輪刀の槍を肩に担いだ。

 

「まあ、確かにアンタとは久しぶりかもね。ほとんど話したことないし……ねえ?」

 

 煉獄()()

 禊がそう口にした時、確かに瑠衣の眉が動いた。

 それは、禊の言葉が真実であることの何よりの証左だった。

 

「――――何デワカルワケ?」

「さあ、何でかしらね」

 

 禊の態度は、飄々(ひょうひょう)としたものだった。

 それがまた瑠衣の――瑠花の苛立ちを強めた。

 

「煉獄、瑠花……」

 

 そして炭彦がそう呟くに至って、不快さを隠そうともしなくなった。

 眉を立てて禊を睨むが、当の禊は気にした風も無かった。

 

「どういうことですか」

 

 今まで話していた瑠衣は、瑠衣では無かった。

 もしもそうだとすれば、すべての前提条件が変わってしまう。

 死を望む言葉が瑠衣のものではないとしたら。

 炭彦の苦悩は、その根底から意味の無いものになってしまう。

 

「僕に、嘘を吐いていたんですか」

 

 炭彦は、禊に言った。

 瑠衣と話したいと。瑠衣と会って、もう一度言葉を交わしたいと。

 だから、こうして。なのに。

 

「瑠衣さん……!」

 

 そんな炭彦の呼びかけに、瑠衣は――否。

 瑠花は、顔を伏せた。

 そして次に顔を上げた時、その瞳の虹彩は金色の輝きを放っていた。

 すなわち、鬼の眼になっていた。

 

 そして、大きな――それはそれは、大きな溜息を吐いた。

 微笑みは消えて、苛立ったような表情が見えた。

 そうして、瑠花は片手で前髪を掻き上げる仕草をした。

 ワイルドな仕草も綺麗だなと、そんな馬鹿なことを考えかけて、炭彦はぶんぶんと首を振った。

 

「答えてください、瑠衣さん!」

「……アア、モウ。五月蠅イナ。瑠衣ハ今、ソレドコロジャナインダヨ」

 

 音は同じだ。しかし、声は違う。

 それは、不思議な感覚だった。

 

「ソレニ、別ニ嘘ヲ吐イテイタワケジャナイヨ。コレハ、瑠衣ノ意思(計画)デモアル」

 

 鬼舞辻無惨を抱えたまま死ぬ。

 この計画は、間違いなく瑠衣の判断だ。

 ただ、表に出て来られない事情があるだけだ。

 だから。

 

「ダカラ、何モ変ワラナイ」

 

 だから、瑠花は言った。

 先程と変わらない言葉を、もう一度、炭彦に対して言った。

 

「私ヲ殺シテ」

 

 言葉は同じ。

 だけれども。

 同じようには、もはや聞けなかった。

 だから、炭彦は――――……。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実のところ、炭彦には瑠衣と瑠花の関係がわからない。

 同じ肉体を共有しているとか、鬼と人だとか、彼の理解を遥かに超えている。

 炭彦にわかることは、たった1つだ。

 

「瑠衣さんと、話をさせてください」

 

 自分が話をしたい相手は、目の前の相手(瑠花)ではない、ということだ。

 そしてそんな炭彦に対して、瑠花はじろりと視線を向けた。

 鬱陶(うっとう)しそうに目を細めて、舌打ちまでした。

 

「聞コエテイナカッタノ? 瑠衣ハソレドコロジャナインダヨ」

 

 しかし、炭彦の目は真っ直ぐに瑠花を捉えていた。

 この目を、瑠花は知っていた。

 いや、その場にいる誰もが知っていた。

 

(お兄ちゃんと、同じ目)

 

 禰豆子は、炭彦に兄の面影を見た。

 彼女の兄である炭治郎も、こういう真っ直ぐな目をすることがあった。

 強引ではない。しかし、退くということを知らない。そんな目だ。

 

 けれど、炭彦は炭治郎ではない。

 子孫なのだから、確かに似ているところはある。

 しかしこの眼差(まなざ)しの強さは、炭彦自身の資質と意思だ。

 そんな目に見つめられて、瑠花は目を細めた。

 

「……瑠衣」

 

 と、呟いたのは瑠花だった。

 彼女は、自分(瑠花)自分(瑠衣)に話しかけていた。

 まるでそこにいる誰かに尋ねるように。

 

「瑠衣、ドウスル」

 

 しばらく、沈黙が続いた。

 瑠花の視線は、宙を彷徨っているようでもあり、目に見えない何かを見つめているようでもあった。

 わかっているのは、それを炭彦達は感じ取ることが出来ない、ということだ。

 感じ取れない場所に、()()ということだ。

 

「…………ウン」

 

 そして、沈黙は唐突に終わった。

 

「ワカッタ」

 

 中空から、正面へ。

 此処(ここ)ではないどこかから、目の前へ。

 瑠花は視線を元に戻した。

 そして、笑った。

 それが余りにも屈託のない(にっこり)笑顔だったので、炭彦は面食らってしまった。

 

「今、忙シイッテサ」

 

 余りにも、答えとの間に落差があり過ぎて。

 

「い、忙しいってどういうことですか!?」

「イヤ、言葉ノ通リノ意味ダケド」

「ええええええ」

 

 多忙につき、対応できません。

 古今東西、これ程に使い古された断り文句もそうはないだろう。

 そして実際に使われる側になってみると、想像していた以上にショックを受けた。

 あるいは、途方に暮れた、という方が正しいかもしれない。

 

 何しろ忙しいので時間が取れないと言われてしまえば、どうしようもないからだ。

 その言葉に対して取れるこちらのアクションは、そう多くはない。

 待つか。諦めるか。

 諦めることは、したくない。だったら、()って――――。

 

()()()()

 

 はっと顔を上げると、禊が隣に立っていた。

 

「相手の善意に期待するんじゃあないわよ。大体、恵んで貰った善意なんて何の意味もないの」

 

 ぎゅ、と腕を抱かれて、そちらを見れあ禰豆子が炭彦を見つめていた。

 その目は、負けないで、と強く訴えかけて来ていた。

 

「善意っていうのは、差し出させるものなんだから」

「いや、それも違うような……」

 

 ただ、わかったことがある。

 禊も禰豆子も方向性こそ違うが、言っていることは実は同じだ。

 願いがあるのなら。意思があるのなら。

 押し通して見せるべきでは無いのか、ということだ。

 

 つまり、2人はこう言っているのだ。

 ――――我儘になれ。

 謙虚も、遠慮も、ここでは必要ではない。

 必要なのは、()()()()()()()

 

「僕は」

 

 会いたい?

 違う。

 会わせてほしい?

 それも違う。

 

「瑠衣さんに、()()()()

「……まあ、まだ良い子ちゃんな雰囲気が残ってるけど」

 

 初めてにしては、及第点だろう。

 禊はそう言って、また笑ったのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

少し締め切りオーバー。
いやいやまだセーフ……セーフ?

それでは、また次回。


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第84話:「血の海の中へ」

毎回のように誤字報告をくれる皆様。
本当にありがとうございます…!


「マンガで読んだ話なんだけどね」

 

 教室の片隅で話すかのように、禊は言った。

 その口調はとても気安く、寛いでいる様子さえあった。

 

「強さっていうのは、()()()()()()なんだって」

 

 遊女とは、客を愉しませる存在だ。

 それは別に肉体的な意味だけではない。

 何しろ()()()()()()をせず、傍で一夜語るだけで満足だという男もいるのだ。

 だから遊女は、あらゆることに通じていなければならない。

 

 高尚な学問から、市井のゴシップに至るまで。

 どんな客が来ても、どんな男が相手でも、必ず満足させる。

 それが遊女の矜持であり、誇りなのだ。

 とは言え、それはあくまで「必要だから」頭に入れている、という話だ。

 

「私はそんなにマンガとかに感想持たないんだけど、それは「なるほど」と思ったわけ」

 

 強さとは、我儘を通す力。

 自分の意志を通す力。

 それが、強さの最小単位。

 

「まあ、そうは言っても。今のアンタじゃ逆立ちしたってアイツ(瑠花)には敵わないでしょう?」

 

 瑠衣に呼吸の訓練を受けたとは言え、炭彦自身は剣士ではない。

 長きに渡る飢えで衰弱しているとは言え、100年の差は大きい。

 天性の才能の片鱗(へんりん)は見えるものの、流石に無理があるだろう。

 

「だから、手伝ってあげるわ」

 

 とは言え、禊の言葉は意外なものだった。

 どうして、と炭彦は思った。

 炭彦と禊には、ほとんど接点がない。

 むしろ関係性を見れば、敵であってもおかしくはない。

 

「僕は、あの人に全然敵わない。弱いやつなのに……?」

「馬鹿ね」

 

 笑って、禊は言った。

 

「強さっていうのは、腕っぷしだけのことじゃないでしょう」

 

 その笑みは、煽情的で、あるいは挑発的で。どこまでも上からで。

 しかし、美しかった。

 自信に満ち溢れた。そんな上からの微笑み。

 それは瑠衣が見せたものとは全く違うが、それでも若い……いや、()()少年が見惚れるには、十分なものだった。

 

「……ハッ」

 

 危険なものを感じ取ったのだろう。禰豆子が炭彦の腕を強く引いた。

 まるで母親か姉だ。それがおかしくて、禊はまた笑った。

 実際、彼女は何も嘘は吐いていない。

 

 強さとは我儘を通す力なのであって、腕っぷしとイコールではない。

 腕っぷしは、手段の1つに過ぎない。美貌も、知識も、剣の技もだ。

 炭彦は、我儘をすでに1つ通している。瑠衣に会うという我儘を。

 禊はただ、それを認めただけなのだ――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 黙って聞いていれば、何を言い出すのかと思った。

 瑠花ではない。

 ()()が、である。

 

「いや、絶対お前そんな殊勝な奴じゃないだろ」

「あら、わかっちゃった?」

 

 獪岳の言葉に、禊は笑って頷いた。

 炭彦が我儘を通す姿に感銘を受けた。

 みたいなことを言っているが、大嘘である。

 

 いや、マンガの台詞に感心したのは本当だろう。

 しかし天地がひっくり返っても、禊が炭彦の行動に胸を打たれるということはない。

 確かに彼女は強い男が好きで、炭彦の頑固さも好ましいと思っているのだろう。

 だが、それ以上に彼女は。

 

「お前はどっちかって言うと、我儘を通せなくて「こんなはずじゃなかった」って顔をする男の顔を見る方が好きだろうが」

「あは、良くわかっているじゃない。もしかして私に気があるの?」

「死ね」

「嫌」

 

 そしてもちろんのこと、獪岳が禊に気があるということもない。

 むしろ嫌い合っている。

 そんなことはわかっている。

 わかっていてあえて言及したのは、()()()()()()()()

 

「そうよねえ。アンタは昔から、あの子のことが好きだったもんね」

「……ああ?」

「あら、違った? そうでもなきゃ、アンタみたいな奴が100年も付き合ったりはしないと思うんだけど」

「うっせーよ性格ドブスが。つーか、お前こそ今日は良く喋るじゃねえか」

 

 普段、禊と獪岳は会話をする方ではない。

 他の3人と違って、そもそも――禊の客に対するそれはまた別のもので――この2人は社交的ではない。

 と言うより、気が強い。そして我が強い。

 お互いに自分が一番だと思っている。

 つまり、()()()()()()()()()()()

 

「……アイツのことなんざ、どうでも良いんだよ。俺はな」

 

 だから話さなかった。それだけのことなのだ。

 衝突するとわかっていて、それを避けないような愚か者ではない。

 ただ、それは衝突を恐れているという意味と同義ではない。

 

「俺はただ、てめえが気に入らねえだけだ」

 

 ()()()()()()()()()

 昔からそうだった。

 気に入らない奴は、どいつもこいつもぶん殴って来た。

 

(なあ、善逸)

 

 だがそいつらも、もはや記憶の中にしか存在しない。

 言い替えれば、100年経っても記憶から消えない連中だ。

 そうなっていないのは、それこそ……。

 

「……それだけだ」

「あっそう。まあ、私はアンタのこと嫌いじゃないわよ」

「嘘吐けよ。お前、自分以外の人間は全員嫌いなタイプだろうが」

「さあ、どうかしらね」

 

 やっぱり、ムカつく女だ。

 その時の禊の顔を見て、獪岳は改めてそう思ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 いずれは衝突するだろうと思っていた。

 と言うか、今まで衝突しないのが不思議だった。

 しかし、とは言えそれが今日だとは思っていなかった。

 この時の犬井の思考を言葉にすると、そういうことになる。

 

「いやあ、()()はならんでしょーよ」

「あらぁ、()()()()じゃない」

 

 犬井の傍で、車椅子に座った榛名がクスクスと笑っていた。

 その膝には、懐かしくも古めかしい日輪刀が置かれている。

 膝掛けの上に置くには、(いささ)か物々しい。

 

 対照的に、車椅子の後ろ――つまり榛名の後ろに立つ柚羽は、腰に日輪刀を差していても違和感がない。

 喉の傷痕は相変わらず痛々しいが、それさえも貫禄に変えている。

 凛とした(たたず)まいというのは、こういうことを言うのだろう。

 

「あー」

 

 ガシガシと頭を掻きながら、犬井は言った。

 

「これは、裏切り、ってことで良いのかねえ」

「あらぁ、そうなの?」

「いやあ、そうなのって言うか。ねえ?」

「ん~、誰が誰を裏切ったの?」

「誰が誰をって。そうだなあ……禊ちゃんが、ボスを?」

 

 そう言う犬井を、榛名は下からちらと見上げた。

 口元を綻ばせるその顔は、どこまでも優しい。

 ただ、丸く開いた目は、口ほどに物を言っていた。

 

「あー、じゃあ……獪岳君が、ボスを?」

「あの2人は、瑠衣ちゃんを裏切ってなんかいないわぁ」

「ええ? じゃあ、どうして(バト)る雰囲気になっているわけ?」

「仲が良いからじゃないかしらぁ」

「それはまた、ポジティブな受け取り方なもので」

 

 しかし、意外ではある。

 禊が炭彦の味方を――真意は見えないとは言え――するとは意外だった。

 そして、それに対抗するのが獪岳だというのも意外だった。

 まあ、獪岳の場合は嫌いな奴の逆張りをしたがる傾向があるので、不思議ではないのかもしれないが。

 

「ちなみに、お2人はどう考えている感じなのかな」

「そうねぇ。別に良いんじゃないかしら」

 

 下から見上げたまま、口元を柔らかに綻ばせて、しかし目はそのままで。

 榛名は、犬井を見つめていた。

 それに、犬井は僅かに身を引いた。

 

「わたしは好きよ。獪岳ちゃんも、禊ちゃんも――瑠衣ちゃんも」

 

 それは、見ていればわかる。

 犬井の方から視線を切って、彼はそのまま肩を竦めて嘆息した。

 榛名の方は、そのままじっと犬井を見つめ続けていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 結果として、()()なった。

 瑠花に絡みに行った禊を、獪岳が遮った形だ。

 再び、炭彦自身が瑠花と向き合うことになった。

 

 元よりそのつもりだったというか、そうすべきというか。

 ついでに言えば、炭彦に殺されようとしている瑠花が彼に危害を加えるはずもない。

 だから禊も、邪魔をしそうな獪岳を先に止めに行ったのだろう。

 瑠花は炭彦に害意はない。しかし、だからこそ厄介だとも言えた。

 

(ど、どうしよう)

 

 たとえて言えば、城塞だ。

 城塞それ自体は、誰にも危害を加えるということはない。

 それだけでは、ただの建物。ただの壁に過ぎない。

 

 しかし、故にこそ強固。堅固。揺らがない。

 それ自体はただそこにあるというだけなのに、崩しに行こうとした瞬間、強力な兵器に変わる。

 壁を殴りつけたところで、こちらの手が怪我をするだけなのだ。

 いや、そもそも炭彦は瑠花を殴りつけたいわけではない。破壊は目的ではない。

 

(どうすれば、この人(瑠花)を説得できるんだろう)

 

 禊は炭彦の意思が気に入ったと言ったが、意思だけでどうにかできるわけではない。

 会いたい。瑠衣に。会って話がしない。

 しかしそのためには、瑠花に――()()()()の許可を得なければならない。

 ――――そう考えると、何故か無性に緊張の度合いが増してきた。

 

「大丈夫だよ。炭彦君」

 

 一歩前に、禰豆子が出た。

 気のせいで無ければ、身体が大きくなっているように見えた。

 少女の背丈から、大人の女性の背丈へと。

 肩幅と腰は細く、胸周りと下半身は太く。しかし膨らみは柔らかく。

 

 あまりにも変化が自然だったので、一瞬、瞬きをして自分の目の錯覚を疑った程だ。

 しかしそこにいたのは、確かに年上とわかる女性だった。

 肩越しに振り向いて、その女性が――禰豆子が、言った。

 

「全力を出せば、たぶん、少しの間なら互角に戦うことができると思う」

 

 炭彦の目的は、瑠花という壁を砕くことではない。

 とは言え、()()()()()必要はあるだろう。

 そうしなければ、()()()()()()に行かなければ、瑠衣に会うことは叶わないのだから。

 そしてその()じ開ける役目こそが、自分だ。

 禰豆子はそう言った。

 

「だから、()()()()()()()()()()()

 

 その背中が、女性らしく小さなその背中が、炭彦にはとても大きく見えた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()

 炭彦が瑠衣に会いに行った時。

 禊が炭彦を手伝うと言った時。

 竈門禰豆子は、今日まで生きて来た理由を自覚した。

 

 きっと、兄も――竈門炭治郎も、そうだったのだ。

 炭治郎は、100年前の瑠衣との戦いに自分を連れて行かなかった。

 そのことについて禰豆子は納得していなかったし、何なら恨んでさえいた。

 けれど今、兄がそうした理由が、何となくわかったような気がした。

 

「何度ヤッテモ同ジダヨ」

 

 血鬼術『爆血』。

 瑠衣と――瑠花と対峙するにあたって、血の炎を肌に纏っていなければならない。

 この100年で会得した血鬼術のコントロールだが、このおかげで生き残って来れた。

 この血の炎の盾がある限り、瑠花の吸収に対抗することが出来る。

 ――――とは言え。

 

「キミジャ私()ニハ勝テナイ」

 

 とは言え、対抗できるということと勝利できるというこの間には、大きな差があるわけだが。

 

「キミノソレハ、アクマデ技術(スキル)。私達ノ()()トハ違ウ」

 

 瑠花の吸収は、彼女の肉体構造から来るものだ。

 だから途切れるということもないし、力尽きるということもない。

 対して禰豆子の『爆血』は、あくまで血鬼術。

 集中が途切れれば一巻の終わりだし、燃料切れもあり得る。

 

「言ッテオクケレド、100%私達ガ勝ツ」

 

 鬼同士の戦いは不毛だと言う。不死身同士で終わりがないからだ。

 しかし、それは違う。終わりはある。

 強者と弱者、勝者と敗者が決まる瞬間がある。

 ()()()()()によって。

 

「ソレデモ()ルワケ?」

 

 劣勢なのは、自分だ。

 禰豆子はそれを理解している。

 戦えば最初は互角。しかし徐々に差が大きくなっていくだろう。

 まして瑠衣は、最後の鬼である自分を見逃すことはない。

 

 負ける。今度は逃げられないだろう。

 だが、それでも。

 それでも、と、禰豆子は思った。

 

「――――当然!」

「人間ッテイウノハ、本当ニ理解デキナ(面白)イヨ」

 

 それはきっと、瑠花の心からの言葉だっただろう。

 正直なところ、禰豆子自身そう思わないでもない。

 しかし、これは性分なのだ。これが自分なのだ。

 一度こうと決めたら、必ずやり切る。

 けして譲らない、頑固者。

 

(そうだよね、お兄ちゃん)

 

 私達は、似た者同士なのだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 身を低くすると同時に、両手の爪で頚を掻き切った。

 瑠花のではない。

 禰豆子は、自分の頚の頸動脈を掻き切ったのだった。

 当然ながら傷口から血が噴き出し、激しく辺りに飛び散った。

 

(……何ノツモリダ?)

 

 瑠花は一瞬、禰豆子の意図が読めなかった。

 禰豆子はそもそも、持久力で瑠花に劣っている。

 鬼と言えど、血を――生命(エネルギー)を多く失えば、それだけ消耗する。

 要するに、限界値が近くなる。

 

 特に禰豆子の場合、血を媒介に術を使っている以上、血を失うことはリスクでしかない。

 通常の鬼であれば、人間を喰って補給することも出来るだろう。

 禰豆子のは回復手段は「眠り」しかない。

 しかし当然、この場で眠って回復など出来るはずがない。

 

「……!」

 

 ――――拳。

 禰豆子の意図を訝しんだ刹那の直後、眼前に禰豆子の拳があった。

 ()()()()()()()()、片腕を顔の横に立てた。

 その直後、その腕に禰豆子の蹴り足が打ち込まれた。

 

「……ッ。強イ……!?」

 

 拳は囮。本命は蹴り。

 そこまで読んだ瑠花だったが、禰豆子の蹴りの威力が想像外だった。

 大人の姿にまで成長したことで、肉体の基本性能(スペック)が最大まで上がっている。

 射程(リーチ)も長い。

 

「はああああああっ!」

 

 止められたにも関わらず、禰豆子は力尽くで蹴りを続行した。

 盾にした腕から、ミシミシと嫌な音が体内に響いてくる。

 受け切れない。そう判断して、受け流すことにした。

 蹴りの威力に逆らわずに、蹴りの方向と同じ方向に身体を回転させる。

 

「背中ガガラ空キダヨ」

 

 一回転してやり過ごせば、禰豆子の背中を捉えることが出来る。

 しかしそのまま攻撃を繰り出そうとして、出来ないことに気付く。

 禰豆子の蹴りを受け流したはずの片腕が、肘のあたりから千切れ飛んでいたからだ。

 受け流すだけでも、蹴りの威力に肉体が耐え切れない。

 腕は即座に再生できる。だから問題はないが、しかし。

 

(異常ナ力ダ)

 

 距離を取るべく後ろに下がれば、その分だけ禰豆子が詰めてくる。

 逃がすものか、という圧力をひしひしと感じた。

 

()()()()()

 

 これほどの力、通常ではあり得ない。

 実際、マンションで戦った際にはこれ程の力は無かった。

 

()()()()()()()()

 

 打ちかかって来る禰豆子に、瑠花はそう告げた。

 禰豆子は答えず、ただただ攻撃を打ち込み続けた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それは、まるで暴風雨のような打撃の連続だった。

 長い髪を振り乱しながら、禰豆子が跳び、駆ける。

 瑠花は禰豆子が作る()()の輪の中にあって、一歩も動くことが出来ずにいた。

 

 右から跳び、殴る。

 左から跳び、蹴る。

 前から、後ろから、上から、あるいは潜り込んで下から。

 そしてその全てに異常な膂力が乗っていて、瑠花の肉体でさえ軋みを上げる程だった。

 

「必死ダネ」

 

 瑠花がそう指摘するまでもない。

 禰豆子は、最初から全力だった。出し惜しみをする考えが無かった。

 しかしそれが功を奏しているようには、とても見えなかった。

 

「それでも!」

 

 互いの拳を打ちあう。衝撃で、互いの拳が砕けた。

 再生の間に、後ろに半回転しての回し蹴り。これも互いに打ち合った。肘から先が折れ砕けた。

 その度に、血が噴き出して飛び散り、地面を朱に染めていく。

 あたりに血の匂いが充満し、(むせ)かえりそうだった。

 

 ()()()()、禰豆子は打撃をやめなかった。

 瑠花の身体が、全方位からの打撃にピンボールのように前後左右に揺れる。

 しかしそれだけ打たれてもなお、瑠花には有効打は入っていない。

 ただ、攻撃の密度はかなりの物だった。

 

(ココマデ念入リニ打タレルト、手ヲ出スタイミングヲ掴メナイ)

 

 禰豆子の攻撃は激しいように見えて、丁寧だ。

 大振りなように見えて、その実、小刻みに打ち込んで来る。

 それでいて、こちらが掴みに行けば跳んでかわして、別方向から攻撃を再開してくる。

 その攻撃に対処するために、やはり次の行動を制限される。

 

(ダケド、コレデ抜ケルト思ッテルワケジャナイダロウ)

 

 血をばらまく割に、血鬼術を発動させないこともそうだ。

 玉砕狙いというタチでもあるまい。

 何か狙いがあるはずだ。

 その狙いは何かと探っていると、気付いた。

 

(アノ子)

 

 誰かが自分達を、いや、自分をじっと見つめる視線を感じた。

 その視線の糸を辿って行けば、1人の少年が――炭彦が、こちらを見つめていた。

 穴が開くのではないのかと思える程、集中していた。

 そう、()()()()()()

 

(――――()()()()()

 

 あの眼には、()()()があった。

 こちらの一挙手一投足を、いやそこに至る動きのすべてまで見通そうという、強い意思を感じる眼。

 そんな炭彦の目に、瑠花は奇妙な懐かしささえ覚えたのだった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠花と禰豆子の戦いは、炭彦にはとてもついて行けるものでは無かった。

 それ自体は無理もないことだった。

 何故ならば2人の戦いは、文字通り人間離れしたものだったからだ。

 速さも膂力も、人間とは比べ物にならない。

 

 だから、炭彦が2人の戦いに介入することは出来ない。

 変に手を出せば邪魔になるとわかっているから、何も出来ない。

 見ていることしか、出来ない。

 

(……何か)

 

 ()()

 今の自分には、それしか出来ない。

 視るという行為。それが唯一であり、そこに()()()()()()()()()()()()()

 

(何か、僕にも出来ることがあるはずだ。探すんだ)

 

 禰豆子も、禊も、自分に出来ることをやっている。

 だから自分も、何かをしなければ。

 禰豆子や禊のようにやれないのならば、何か他の方法で貢献すべきだ。

 

(良く視て)

 

 かっこ悪いと、思わなくもない。

 呼吸の訓練をして、剣道に打ち込んだのに、情けないと思わないわけではない。

 

(もっと)

 

 だけどそれは、何もしなくて良い理由にはならない。

 それに、禰豆子は言った。自分に対して、確かにこう言ったではないか。

 チャンスを逃さないで、と。

 禰豆子の言うチャンスがどういうものなのか、それはわからない。

 けれど、禰豆子は嘘は言わない。そう信じることが出来る。

 

(もっと、良く視るんだ……!)

 

 身体は、瑠花や禰豆子の動きにはとてもついていけない。

 目だけ。

 視力だけで、ついていくしかない。

 それ以外は、今は不要な物だった。

 

『素振りをしていると、自分が透明になっていくような気がしないか?』

 

 桃寿郎の道場で朝練をしていた時、桃寿郎がそう言ったことがある。

 その時は何とも不思議な物言いをするものだと思ったものだが、今は少しわかる気がした。

 集中だ。

 1つのことに本当に集中すれば、それ以外が()()()()()

 

(集中)

 

 不要な物を、()()()()()()()

 視るという行為、感覚。それ以外を閉じて、削って。

 本当に集中して、視て。穴が開く程に視続けて。そして。

 

(集中、集中、集中集中集中――――)

 

 そして瞬きさえ忘れたその瞳が、ほんの一瞬、僅かに揺れた。

 目を見開き、ただ1点に焦点を合わせ続けたその果てに。

 

(――――集中!)

 

 炭彦は、()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 視線を、感じた。

 否。

 ()()()()()()()()()()

 

(アノ眼)

 

 瑠花は、自分を見つめる炭彦の視線の質が変わったことに気付いていた。

 自分から視線を向けに行けば、当然ながら、炭彦の視線をぶつかる。

 ぶつかるはずだし、実際に2人は見つめ合う形になった。

 

 しかし瑠花は、炭彦と見つめ合っているという感覚を得ることが出来なかった。

 まるで観葉植物でも眺めている時のような、そんな気分だった。

 目の前にいるのに、その存在を掴むことが出来ない。

 この感覚を、瑠花は知っていた。

 

(トハ言エ、視エルダケジャアネ)

 

 視ることに夢中で、身体を動かすことが出来ていない。

 あれでは()()()()というものだ。

 本当の()()は、もっとえげつないものだ。

 その極みにいた人間こそが、あの継国縁壱だ。

 あの鬼舞辻無惨が恐れ、そして煉獄瑠衣が求めた者――――。

 

「――――どうして、炭彦君だったんだろうね」

 

 打撃を、身を回して避ける。

 遠心力で攻撃を繰り出すも、紙一重のところで禰豆子が避ける。

 お互いの攻撃は、お互いの肌を擦過するのみだ。

 だがその一撃が、皮膚を裂いて血を飛ばす。

 

「お兄ちゃんでも、カナヲちゃんでも。2人の子どもでも孫でもなく」

 

 禰豆子は鬼だ。

 人間化の薬を飲まなかったから、ずっと年若いまま肉体が劣化しない。

 人間だった兄も、当時の人間達もいなくなった。

 その子どもが死に、孫が死にとする内に、禰豆子は姿を隠すようになった。

 

 瑠衣から身を隠すという意味もあったが、何より、自分が異物だと感じるようになったからだった。

 もちろん、見守ってはいた。

 多くの鬼狩りの家が絶えていく中で竈門家が現代まで残っているのは、禰豆子が陰ながら守っていたからだ。

 

「どうしてこの時代の、炭彦君だったんだろうね」

 

 終わりにすべきではないのかと、思ったこともある。

 珠世がくれた人間化の薬を飲み、楽になるべきではないのかと、思ったこともある。

 人間の理に反する自分が、いつまでも生き続けるのはおかしいのではないのか、と。

 しかし今は、今日まで生きていて良かったと思えた。

 

「それはわからないけれど。でも、きっと」

 

 きっと、自分は。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 今日、この時のために生きて来た。

 まるで天にいる誰かに差し伸べるように、禰豆子は右手を高々と掲げた。

 そして開いた掌を、握り締めた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 視界が焼かれた。

 そう思ってしまう程の爆発が、瑠花の足元一帯で引き起こされた。

 

「『爆血』カ……!」

 

 血鬼術『爆血』。爆発する鬼の血だ。

 爆風に、あえて逆らわなかった。

 そのままの勢いを利用して、爆心地から距離を取る。

 治癒の煙を上げる手の甲を払いながら、着地した。

 

 その足元で、再び爆発が起こった。

 当然、『爆血』の爆発だ。

 赤い閃光と共に、瑠花が再び爆発の中に消えた。

 負傷自体は問題ない。即座に再生する。しかし。

 

(コレハ、不味イ)

 

 持久力を削ってまで血を流し続けていた理由が、これか。

 『爆血』の()()()()

 戦いの中で、禰豆子の血は十分過ぎる程に撒き散らされている。

 すると、この連鎖爆発はしばらく続くだろう。

 

「はああああああっ!」

 

 この血鬼術の最も厄介なところは、爆発そのものではない。焼かれることでもない。

 血鬼術の効果が()()()()こちらに向く、ということだ。

 瑠花は焼かれるが、禰豆子は焼かれない。

 要するに、爆炎に拘束される瑠花を禰豆子が一方的に殴ることが出来る、ということだ。

 

「鬱陶シイナ!」

 

 流石の瑠花も、これは鬱陶しい。

 不死身とは言え、『爆血』に焼かれて無反応というわけにもいかない。

 どうしたって肉体の反射というものはあり、禰豆子はその隙を突いてくる。

 

 それでも強引に腕を振るうと、禰豆子は直進の勢いを落とさず、身を大きく沈めることでかわしてしまった。

 それどころか、そのまま潜り込み、右拳を瑠花の腹部に突き刺して来た。

 カウンターになり、さしもの瑠花も一瞬、息を詰めた。

 

「……ッ!」

 

 この時、炭彦は複雑な反応を示した。

 誰かが殴られる場面を目撃した時の、目を逸らしたくなるような表情。

 しかし同時に、今の彼には視えていた。

 

 警告を、と、頭のどこかで誰かが叫ぶのを聞いた。

 警告を、発しなければ。

 だが何を。()()を言葉で表現する(すべ)を、炭彦は知らなかった。

 この、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……忘レテイルワケジャアナイト思ウケレド」

 

 禰豆子の拳を腹部に受けたまま、瑠花は言った。

 いや、違った。

 瑠花は攻撃を受けていない。攻撃は、彼女の肉体には届いていない。

 

「く、あ」

 

 膝をついたのは、禰豆子の方だった。

 瑠花の腹部を深く穿っていたはずの右手。

 その右手の、手首から先が消えていた。

 その断面は鋭利な刃物で斬り落とされたというよりは、溶かされたかのように滑らかだった。

 

(ば……『爆血』の炎が、消えてる……!)

 

 そして、あれほど猛り狂っていた『爆血』の炎が消失していることにも気付いた。

 今も右手首の傷口からは止めどなく血が流れているというのに、()()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「炎ゴト喰ラッテシマエバ、何デモナインダヨ。キミノ術ナンテネ」

 

 血の血鬼術。

 気が付けば、禰豆子の身体も少しずつ地面に――否、血の中に沈みつつあった。

 完全に、瑠花の射程圏内に囚われてしまっていた。

 

「呆気ナイモノダネ。モウ少シ粘ルカト思ッテイタケレド」

「……そう、だね。私も、もう少し頑張れると思ったんだけど」

 

 禰豆子の血は、瑠花の血によって喰われた。

 だから『爆血』は不発に終わり、今はこうして禰豆子本体も取り込まれようとしている。

 まさに、絶体絶命だ。

 このまま瑠花に喰われれば、いかに不死身の禰豆子と言えども死は免れない。

 そんな状況で、しかし禰豆子は――――笑っていたのだった。

 

「……何ヲ笑ッテイルノ?」

「別に。ただ」

 

 ()()()()()()()()()()

 そう言われてまず思ったのは、虚勢を張っている、だった。

 強がりを言っているのだ、と。

 瑠花の――もとい瑠衣の血の血鬼術の射程にあって、特に鬼が逃れる術はない。

 喰われて終わりだ。

 

「――――――――ハ?」

 

 ところが、そこで想定外のことが起こった。

 この文字通りの血の海に、誰も、いや何も残さずに喰い尽くされるだろうこの空間に。

 

「チョ、冗談デショッ!?」

 

 炭彦が。

 

「たああああ――――ッ!」

 

 炭彦が全速力で駆けてきて、そして。

 瑠花が生み出した血の海の中に、自ら跳び込んで来たのだった――――。




最後までお読みいただきありがとうございます。

バキは、いいぞ(え)

それでは、また次回。


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第85話:「追憶の道」

 ぶっちゃけ、その場の勢いだった。

 何か考えがあって、そうしたわけではない。

 ただ、確かに炭彦には()()()のだ。

 

「たあああああ――――っ!」

 

 全速力で走り、そして全力で跳躍した。

 迷いは無かった。いや、嘘だ。迷いはあった。かなりあった。

 何しろ、得体()知れない物()の中に飛び込もうというのだ。

 恐れがあって(しか)るべきだ。

 炭彦は、普通の子どもなのだから。

 

(でも、視えたから……!)

 

 赤い赤い、恐ろしい血の海の中に、炭彦は視た。

 瑠花の足元に、視えた。

 ――――()だ。

 

 目には見えない。

 肉眼には、物理の世界には、たぶんその穴は存在しない。

 わかるのだ。何故かはわからないが、わかる。

 ()()()()()()()()()()()()()

 

「チョ、冗談デショッ!?」

 

 何より瑠花の反応で、確信を得た。

 これまで少しも表情を――瑠衣の振りをしていた時は別として――崩すことが無かった彼女が、慌てた表情を見せたのだ。

 物理ではない、今の眼でないと見つけられないあの()

 そこに炭彦が跳び込むのは不味いと、知っている顔だった。

 

(だったら)

 

 一瞬だけ、禰豆子と目が合った。

 負傷し消耗している禰豆子は、立ち上がることは無かった。

 炭彦を追うことはせず、静かにこちらを見つめていた。

 そして炭彦と視線を交わすと、柔らかく微笑んだのだった。

 

 その微笑みに、炭彦は胸が締め付けられるのを感じた。

 どうして、微笑(わら)うのだろう。

 瑠衣も、禰豆子も、どうしてあんな風に微笑えるのだろう。

 自分が苦しくても、辛くても。それでも、彼女達は微笑む。

 

(――――行くしかない!)

 

 迷いも躊躇(ためら)いもあるけれど、炭彦はそれでも跳び込んだ。

 地面しかない。そうとしか思えない場所に、跳び下りた。

 しかし、()()には地面は無い。

 踏んだのは血であり、地では無かった。

 

「待ッ……!」

 

 焦りの表情を浮かべて、瑠花が手を伸ばした。

 炭彦を掴むべく伸ばされたその腕はしかし、僅かに届かなかった。

 まるで手を伸ばされるのをわかっていたかのように、炭彦が身を捻ったからだ。

 

「……ッ!」

 

 瑠花が歯噛みする音を耳にしながら、炭彦は()()()

 着地、もとい、着水した。

 生温かい水の感触と共に、視界が一瞬、真っ暗になった。

 そして。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「――――行ったわね」

 

 炭彦の気配が()()したのを感じて、禊はそう言った。

 それに対して「あ?」と不機嫌そうに声を上げたのは、獪岳だった。

 2人の間には日輪刀が握られていて、つい一瞬前まで戦っていたことがわかる。

 

「あの子、()()()()に行ったみたいね」

「……ああ、()()()な」

 

 ()()()()については、禊達には観測できない。

 手を出せないと言っても良い。

 何故ならば、あの場所は文字通り瑠衣の内面に触れる場所だからだ。

 精神()の内側、と言っても良いだろう。

 

 だから、実は()()()()()()()()()()()()

 瑠花が焦ったのは、そういう理由もあってのことだ。

 ただ炭彦なら大丈夫だろう、という予測は出来ていた。

 何しろ彼は、瑠花が――瑠衣がずっと待ち望んでいた人間なのだから。

 

「それにしたって、当てが外れるってことはあるだろうよ」

「そこまでは私も面倒見切れないわよ」

「……怖ぇ女だよ。お前は。いやマジで」

 

 外れを引く気など最初から無かった癖に。

 いや実際のところ、炭彦が失敗したところで何の損もないのだ。

 その時は、きっと禊は「あーあ」という顔をして、そして次の瞬間には忘れているのだ。

 悪魔的な女だ、と、獪岳は思ったのだった。

 

「…………ふう」

 

 そして、禰豆子だ。

 彼女は元の位置を動いていない。

 血の海があった場所に、そのまま膝をついている。

 

 瑠花はいない。

 相当に焦っていたのか、あるいは禰豆子がもはや脅威ではないと映ったのか。

 仮に後者だとすれば、当たっている。

 今の禰豆子は血をほとんど失い、力尽きていると言って良い状態だからだ。

 

「身体を小さくして、節約しないと……」

 

 大人の背丈だったその身体は、すでに小学生ほどに縮んでいる。

 がくん、と、禰豆子の頭が揺れる。

 いけない。眠りかけている。

 人間を喰わない禰豆子は、睡眠がエネルギーを確保する唯一の手段だ。

 しかし、今この場で眠るのは余りにも危険だった。

 

「炭彦君が、戻って来るまでは」

「ううん、そうだねえ。彼には戻って来て貰わないと、おじさんも困っちゃうからさ」

「……! 貴方は……」

 

 眠気を堪えながら、首だけを何とか後ろに動かした。

 するとそこには、誰かが立っていた。

 

「さあて」

 

 霞む視界の中で、1つだけわかったことは。

 

「鬼が出るか、蛇が出るか」

 

 その人物が、日輪刀を持っている、ということだけだった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 落下する夢を見たことがあるだろうか。

 現実にはそうなっていないのに、顔にかかる風や腹の奥にぐっと来るような感覚を、リアルに感じたものだった。

 まあ炭彦の場合、毎朝の登校で自宅マンションから飛び降りを繰り返していたせいもあるかもしれないが。

 

「落ち……落ちてる……!?」

 

 ()に跳び込んだ後、まず生温い水の感触に目を閉じた。

 だがそれは一瞬のことで、すぐに突き抜けた。

 顔に、いや全身に風を感じて目を開ければ、自分が落下していることに気付いた。

 

 視界に飛び込んで来たのは、赤、だった。

 自分の視覚がおかしくなったのかと思ったが、そうではない。

 目に映るすべての物が、ペンキでも塗りたくったかのように真っ赤だったのだ。

 しかも空気がむっとしていて、呼吸しにくい。

 

「な、何……ここ?」

 

 落下しながら首を動かせば、四方がかなり広いことに気付く。

 壁が丸みを帯びているように見えたから、円柱形をしているのかもしれない。

 しかし、赤一色だ。

 見つめ続けていると、目がチカチカして辛い。

 

「そうだ。さっきみたいに……」

 

 肉眼で見ようとしてはダメだ。

 何とか呼吸を整えて、集中して――落下の浮遊感を感じながらではあるが――視なければ。

 そう思って、胸に手を当てて呼吸を整えようとした時だ。

 

「――――マッタク、困ッタ子ダヨ」

 

 声が、上から聞こえた。

 身体を丸めるようにして下――つまり上――を見れば、思った通り、瑠花がそこにいた。

 追いかけて来たのか。

 どうも炭彦よりも早い速度で落ちているらしく、少しずつ距離を縮めて来ていた。

 

「ここは、いったい何なんですか!?」

「ワカラナイデ跳ビ込ムンダカラ、豪気ダネ」

 

 やれやれ、と言うように肩を竦めて、瑠花は言った。

 

「ココハ、私達ノ……()()()()()()

「瑠衣さんの、中?」

 

 言葉の意味は、良くわからなかった。

 当の瑠花にも、説明しようという意思は感じられない。

 ()()()()()()()と、そう判断しているからだ。

 

「瑠衣ニ会イタイト言ッタネ」

 

 なら、探してみると良い。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 瑠花はそう言った。

 そして彼女は、ただし、と付け加えた。

 

()()()()()ニ落チルトハ限ラナイケドネ――――」

「それってどういう」

 

 瑠花の方を見ていて、炭彦は気が付かなかった。

 いつの間にか、自分が()に辿り着いていたことに。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 正直なところ、死んだと思った。

 マンションから飛び降りるのとは訳が違う高さからの落下なのだから、そう思うのも当然だった。

 しかし幸いなことに、炭彦が落下した場所は柔らかい場所だったのか、落下による痛みなどは全く感じなかった。

 

 (もっと)も、それはそれでおかしな話ではある。

 いくら落下地点が柔らかいと言っても、あれだけの時間落下していて無傷はあり得ない。

 重力の働き方や物理法則が、()とは違うのかもしれない。

 しかし底についてしまった後は、普通に立ち上がり、歩くことが出来ている。

 

「ここは、どこだろう……?」

 

 先程までの異様な赤い空間は、そこには無かった。

 目の前に広がっていたのは、むしろ逆だ。

 圧倒的な、緑。

 ()()

 

 緑豊かな森が、目の前に広がっていた。

 背の高く無数の(つる)が絡んだ木々。足元を覆う大きな葉の植物。

 そして、肌に貼り付くような湿気。

 植生は東京ではあまり見ない、どちらかと言うと熱帯雨林が近いだろう。

 

「瑠花さん?」

 

 瑠花の返事は、無かった。

 というより、気配を感じない。

 いなくなっている。

 

「じっとしているわけにも、いかないよね」

 

 とりあえず、歩こうと思った。

 当てなどは全くないが、じっとしていても仕方がないからだ。

 何となく、気の向いた方向へと足を向ける。

 不思議と、歩き出す方向には悩まなかった。

 

「ここに、瑠衣さんがいるのかな」

 

 言葉を口に出しているのは、不安の裏返しだった。

 無理もない。

 それだけ、目の前で起こっている出来事が非常識なのだ。

 

「ん……?」

 

 少し歩くと、変化があった。

 足元が段々と砂になっていって、周囲の木々の幹が徐々に細くなっていく。

 そして、匂いだった。

 湿度の高い森の匂いから、乾いた土のような匂いが強くなっていく。

 それは、歩を進めるごとに強くなっていった。

 

「うわ、海だ」

 

 旅行会社のCMにでも出てくるような砂浜に、炭彦は出て来た。

 背後には密林、目の前には海と砂浜。

 どうやらここは、どこかの島らしかった。

 

 いや、島らしかった、と簡単に言ってはいるものの、明らかに異常だという意識はあった。

 森? 島?

 もちろん、そんなはずがない。しかし実際に目の前でそうなっている。

 ()()()()()()()と、受け入れる他は無かった。

 

「え……」

 

 それに、そういう疑問について思考を巡らせるている暇も無かった。

 砂浜に、1人の女性が立っているのを見つけたからだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 一瞬、瑠衣かとも思った。

 その女性が着物姿だったからだ。

 しかしすぐに違うとわかった。

 何故ならばその女性は、着物の上に白衣を着込んでいたからだ。

 

「……珠世先生?」

 

 珠世だった。見間違えるはずもない。

 いや正確には炭彦は珠世には会ったことがなく、愈史郎が化けていた姿だったのだが。

 しかしその容貌は、間違いなく珠世だった。

 

 ただ、炭彦の記憶にある印象とは違っていた。

 炭彦が知る――繰り返すが、愈史郎が演じていた姿だが――珠世は、美しい女性だった。

 常に微笑みを絶やさず、患者に寄り添い、誰からも好かれていた。

 しかし目の前にいる珠世は、何と表現するべきか――――。

 

「こんばんは。〇〇さん」

「え?」

 

 ――――()()()()()見えた。

 容貌は変わらない。美しいままだ。鬼はけして変化しない。

 しかしその表情は暗く、白衣は赤茶けてボロボロで、着物の裾などいくつも(ほつ)れていた。

 髪も整えられていないのか、乱れている。

 炭彦の知る珠世とは、雰囲気がまるで違っていた。

 

「えっと、珠世先生?」

 

 珠世は、ゆっくりと近付いて来た。

 炭彦は、動けずにいた。

 何か言葉をかけることも、やはり出来なかった。

 ()()()()()()()()

 

「……え? あれ、え?」

 

 ()()()()()()()()()

 いや、より正確に言うのであれば、身体の自由がきかなくなっていた。

 炭彦の意志によらず、身体が勝手に動いている。

 

 戸惑っている内に、珠世が目の前にまで来ていた。

 彼女は、自ら腕を開くと、眠るように目を閉じた。

 そしてそんな彼女に、炭彦は手を伸ばした。

 

()()()()()()()……!?」

 

 その手は、炭彦の手では無かった。

 確かに炭彦の手は、まだ子どもというのもあって男らしいという風ではない。

 しかし、こんなに白くはないし、こんなに細くもない。

 それでいて、見覚えがある気がする手指。

 

「珠世せ……ん、せい?」

 

 その手指が、珠世を抱き締めた。

 珠世も拒絶せず、その抱擁を受け入れる。

 少し慌てた炭彦だが、すぐに羞恥などという感情が消えた。

 

「は……?」

 

 抱き締めた珠世が、自分の身体に()()()()()行く様を見せつけられたからだ。

 珠世の顔が自分の胸の下にずぶずぶと沈んでいく様を見て、血の気が引く。

 何よりも、異物が自分の中に入り込んで来る(おぞ)ましい感触に。

 

「う、わ……うわっ、うわあああああああああっっ!!??」

 

 炭彦は、悲鳴を上げた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「うわあっ!?」

 

 悲鳴を上げて、炭彦は飛び起きた。

 仰向けに寝ていたらしい。上半身を起こした姿勢で、地面に座っていた。

 激しく上下する肩に、脂汗の滲んだ額。血の気の引いた青白い顔。

 気分は最悪で、余りの吐き気に胸を押さえて蹲ってしまう。

 

「い……今のは……夢?」

 

 森も砂浜も、そこには無かった。

 もちろん、珠世もいない。

 身体の前面を確認しても、当然だが何もない。

 そしてそこまで確認して、身体の自由がきくことに気付いて安堵した。

 

 先程の光景は、夢だったのだろうか。

 夢にしては、嫌に生々しかった。

 こうしている今でも、あの感触を――珠世が身体に入り込んで来る感覚を思い出すことが出来る。

 まるで、つい今しがた本当にそうしたかのように。

 

「それに、またここかあ」

 

 しばらく休んだ後、炭彦は改めてあたりを見渡した。

 そこは、元の赤い空間だった。

 炭彦は、自分が細長いトンネルのような場所にいることを察した。

 赤一色なのでわかりにくいが、床と天井、左右の壁にはさほどの距離がなく、丸みを帯びていることに気が付いたからだ。

 

「どっちに行けばいいんだろう」

 

 トンネル状の構造なので、自然、動ける方向は前か後ろしかないことになる。

 ただし、そのどちらに行けばいいのか。

 そもそも当たり外れがあるのかさえわからないので、どちらも何もないわけだが。

 ただ先程の出来事を思えば、慎重にもなろうというものだった。

 

「そうだ。呼吸を」

 

 呼吸を整えて集中すれば、何かが視えるかもしれない。

 むやみに進む方向を決めるよりは、その方が良い気がした。

 まず、落ち着くことだ。

 気分はいくらか良くなったが、まだ気持ちが落ち着いたとまでは言えない。

 

 ふーっ、と、大きく息を吐いた。

 あの公園で、瑠衣に教えて貰った呼吸法だ。

 浅く吸い、深く吐く。そうしていくと、段々と視野が、意識が狭くなっていく。

 そうして余計なものを削ぎ落とす。

 気持ちを落ち着けるという意味でも、今は有効だった。

 

「ふうううう……」

 

 5分ほども、そうしていただろうか。

 座禅を組んだ炭彦は、汗が引き、顔色も元に戻って来ていた。

 目を閉じているのは、余計な情報を入れずに集中力を高めるためだった。

 周囲に音がないことも、この場合は前向きな材料になった。

 

(このまま、周りを()()

 

 十分に集中力が高まったところで、炭彦は目を開けた。

 前を視た。何も無かった。

 次いで後ろを視た。何も無かった。

 もう一度いうが、()()()()()()

 

「え?」

 

 戸惑いの声を上げた、次の瞬間だった。

 足元にも()()()()()()、炭彦は再び浮遊感に襲われた。

 そこは、まだ底ではなかったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 顔を(したた)かに打ち付けて、呻き声を上げた。

 今度は、不自然に柔らかいというわけではなかった。

 打ち付けた頬を擦りながら、身を起こした。

 

「え、雪……?」

 

 空からちらちらと、白い物が降って来ていた。

 一目で雪だと理解したが、余りにも季節外れで疑問符がついてしまった。

 しかし足元に積もっている物は、やはり雪だった。

 上を見上げると、そこには天井も赤い色もなく。分厚い灰色の雲が見て取れた。

 

 そこまで認識すると、肌を刺すような鋭い冷気を感じて身を竦めた。

 そしてその身を竦める動作で、炭彦は自分の身体がまた勝手に動いていることを理解した。

 しかも今度は、()()()

 

「えっと、女の子の手……かな」

 

 手指が細いとかそういうことではなく、シンプルに身体が小さい。

 しかもやけに足元が寒いと思ったが、裸足だった。

 積もった雪の上で、裸足で立っている。それは寒いだろう。

 実際、炭彦の――自由がきかないが――身体は、自分の身を抱いてガタガタと震えていた。

 

 そして、疑問点がもう1つ。

 どうやらこの女の子は着物を羽織っているようなのだが、明らかに大人用だった。

 余りにもブカブカなので、着ているというよりは無理矢理に巻いていると言った方が正しい。

 そんな着方をした着物に防寒性などあろうはずもない。

 雪降る極寒の中、ほとんど裸で立っているようなものだった。

 

「この子は、いったい」

 

 ここまで来ると、流石に炭彦にも理解できた。

 ()()()()()()()()()()()()

 先程の珠世との時もそうだった。

 今の自分の視界は、誰かの視界だ。()()()()()なのだ。

 

(集中しないと)

 

 目に見えるものを、信じるべきではなかった。

 正しい呼吸をすれば、何にも惑わされない。

 ()()()()()()()()()

 呼吸を。集中を。炭彦は自分に何度もそう言い聞かせた。

 

「はああ……はああああ……はああああ――っ」

 

 違う。間違えるな。

 今の自分の口から出ているのは、自分の呼吸ではない。

 誰かの、()()()()()()()()()

 自分と重ねるな。たとえ。

 たとえ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――――。

 

「――――〇〇ッ!」

 

 その時、どこからか()()を呼ぶ声が聞こえた。

 いや、違う。

 自分ではなくて、この女の子だ。

 

「〇〇……お前。呼吸を……」

 

 燃えるような髪の、壮年の男性だった。

 お酒の匂いがしたが、素面のようだった。

 そんな男性が自分を掻き抱いて、驚いたような顔をしている。

 

「それに、この着物は……母の……」

 

 誰かに似ているような気がする。

 しかしそれが誰だったかを思い出す前に、炭彦は自分の視界が暗くなっていくのを感じた。

 集中しなければ。

 それだけを、念じながら。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 手に、鈍い感触を感じた。

 包丁で分厚いハムを切った時のような、それよりも硬質なような、そんな感触だった。

 はっきり言えば、嫌な感触だった。

 そして目の前に転がった物を見て、炭彦は自分が何をしたのかを理解した。

 

「ひっ」

 

 ()()()

 歯を食い縛った、恐ろしい形相をした男の頚だった。

 そして自分の手には、大振りの日本刀が――日輪刀が握られていた。

 何をしたのか、一目瞭然だった。

 

 目の前に転がる死体を見て、炭彦は胸の奥が酷く締め付けられるのを感じた。

 それが吐き気だと感じるのに、そう時間はかからなかった。

 しかしその吐き気も、目の前の死体が灰になって消えるのを見ると、驚きによって掻き消された。

 つい一瞬前まで転がっていた死体が、何も無かったかのように消えてしまった。

 

(もしかして、あれが……鬼?)

 

 そして例によって、身体の自由はきかない。

 勝手に動いてしまう。

 ただ、これには慣れて来たので、炭彦は周囲の様子を窺った。

 

(この匂い、何だか懐かしい気がする)

 

 周りは、また森だった。

 先程の海の匂いとは別に、強い花の香りを感じる森だ。

 こちらは熱帯雨林っぽくはなく、まだ見覚えのある気がする植生をしていた。

 

「オイ、テメェ」

 

 後ろから、誰かに声をかけられた。

 身体が振り向く。

 剣道着のような服を着ていて、刀を鞘に納めたその手指はやはり女子のものだった。

 そして振り向いた先に、見覚えのある人物がいた。

 

(あの人は)

 

 炭彦が知っているよりも幾分か若いが、見間違えるわけはない。

 その男は今の自分と同じように、手に日輪刀を持っていた。

 ツンツンした黒髪に、不機嫌さを隠そうともしない不機嫌そうな顔。

 顔に面影がある。禊と行動を共にしていたあの男だった。

 確か、獪岳という名前だった。

 

「どういうつもりだ。ああ?」

 

 表情通り、かなり不機嫌そうな声だった。

 いや、確実に不機嫌だった。

 何か我慢ならない、許し難いことをされたような、そんな形相だ。

 

「テメェ。まさか、俺を助けたつもりじゃあねえだろうな」

 

 今にも殺しに来そうだと、恐怖を感じる程だった。

 ただ()()()()()()()()は、そうでは無かったらしい。

 

「おい!!」

 

 その声に応えることなく、背を向けて歩き出した。

 

「おい待て、ふざけんな! テメエ――――ッ!!」

 

 叫びにも似た怒声に、再び振り向く。

 すると憤怒の形相をした獪岳が、刀を振り上げて跳びかかって来ていて。

 炭彦の身体は、自然な動作で腰の刀に手をかけて――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――気が付くと、またあの赤い空間にいた。

 いた、と言っても、炭彦は周囲を確認したわけでは無かった。

 ただ目の前の床が真っ赤なので、そう思っただけだ。

 

「う…………」

 

 起き上がることが、出来なかった。

 蹲る、というより、もはや倒れ込んでいると言った方が正確だろう。

 辛うじて腕で上半身を支えているが、そこから動くことが出来ずにいる。

 顔色は、青を通り越して真っ白になっていた。

 

 吐き気がする。頭痛が酷い。身体全体が、鉛でも背負っているかのように重い。

 起き上がろうという気持ちさえ湧いてこない。

 それ程の疲労感が、炭彦を襲っていた。

 肉体の疲弊。そして何より精神が疲弊していた。

 

「大丈夫カイ?」

 

 視界の上の端、つまり炭彦の目の前に誰かの足が見えた。

 それは裸足のようで、綺麗な指や爪が見えている。

 白い足と赤い色のコントラストに、炭彦の視界はチカチカと明滅した。

 意識を失いかけている。それがわかった。

 

「ドウダッタ?」

 

 その時になって、ようやく相手が瑠花だということを理解した。

 心配、とは、違う声音だった。

 ただ淡々と事実を確認してきている、そんな気がした。

 

「い、今の……は……」

「ウン」

 

 瑠花はその場にしゃがみ込んで、こちらを見下ろしていた。

 膝に肘を乗せて、頬杖をついている。

 炭彦を見下ろす瞳には、何の色も浮かんではいなかった。

 

()()()()

 

 そう言われて、ああ、と妙に納得した。

 その情報を開示されてしまえば、どんなに鈍感でも理解できる。

 今のは、今まで見てきたものは――いや。

 ()()()()()()、ものは。

 

 煉獄瑠衣の、記憶だ。

 記憶というのも、少し違うかもしれない。

 俯瞰(ふかん)ではなく、瑠衣の視点で見ていたからだ。

 あれは、いわば追体験のようなものなのだろう。

 

()()()()()、瑠衣ヲ探セル」

 

 そうだった。

 ()()()()()と、瑠花は言ったのだった。

 正しい場所を見つけなければならない。

 正しい道順を通り、記憶でも記録でもない本物の瑠衣を見つけなければならない。

 

「辛イデショウ」

 

 辛いなどというものではない。

 他人の人生の追体験などというものは、およそ生身の人間に受け入れられるものではない。

 余りの情報量に脳が焼き切れてもおかしくないのだ。

 異物に対する拒否反応。それに苛まれて、炭彦はすでに満身創痍だった。

 

「……けど」

 

 けれど。

 それは。

 

「ちゃんと視て探せば、瑠衣さんに……会えるんだ」

 

 ()()()()()()()()()()()()

 

「だったら、僕は諦めない」

「ドウシテ、ソコマデ? ソコマデシテ瑠衣ニ会ッテ、何ニナルノ」

「禊さんが、言っていました」

 

 ()()()()()()()

 

()()()()()()()……!」

 

 吐き気も頭痛も、無視する。削ぎ落とす。

 目を閉じて、呼吸を整えろ。

 正しい場所だ、と、頭の中で念じた。

 

 集中だ。集中が足りないのだ。

 正しい場所を見つけるための集中が、足りないのだ。

 だからもっと、もっともっと、集中しなければ。

 

「……本当ニ、ソックリダヨ――――」

 

 呆れたようなその声が、妙に遠かった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何故かはわからない。

 わからないが、突然、全身が熱で浮かされたように熱くなった。

 ただ、病気やその類のものではないことはすぐにわかった。

 この熱は、そういうものではない。

 ――――むしろ、逆の意味を持っていた。

 

「行かなければ……!」

 

 桃寿郎は、走っていた。

 表情は一見すると変わらない。いつも通りの快活そうなそれだ。

 しかし親しい者が見れば、そこに切羽詰まったものを感じ取っただろう。

 彼は今、焦っているのだ、と。

 

「行かなければならない気がする!」

 

 全力で走りながら良く声を出せるものだが、考えてみれば、炭彦と走りながら登校していた時もあったので、彼にとってはそれほど難しいことではないのかもしれない。

 あるいは。

 あるいは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「炭彦のところへ!」

 

 突然だった。何の前触れもなく、桃寿郎はそう思った。

 全身が熱くなり、居ても立っても居られなくなった。

 気が付けば家を飛び出していて、走り出していた。

 

 そしてこれも無意識のことだが、家を飛び出る前に、桃寿郎は道場に飛び込んでいた。

 道場で()()を引っ掴んでから、後は脇目も振らずに駆け出した。

 そこからノンストップだ。立ち止まることも迷うこともなかった。

 ただ前だけを見て、炭彦の――当然、居場所など知らないのだが――下へと急いだ。

 

(だが、どうしてだろうか)

 

 しかし一方で、桃寿郎は心の中に引っかかるものも感じていた。

 炭彦の下へ。それは、嘘ではない。

 嘘ではないのだが、それだけではない何かを感じていた。

 それは例えて言えば、待ち合わせの時間に遅れてしまい、今も()()を待たせてしまっているような。

 大いに()()()()()()()()()()()()()、そんな気持ちだった。

 

(どうして俺は)

 

 その気持ちは、手の中に握り締めている()()を見つめていると、より強まった。

 

(どうして俺は、これを――()()()()()()()()()()()()

 

 竹刀袋に包んだそれは、竹刀よりもずっと、ずっとずっと重かった。

 これを持って走るのは楽ではないはずだが、今の桃寿郎は苦にも感じなかった。

 まるでそれが当然化のように、しっくり来ている。

 

 不思議だと思いつつ、当たり前のようにも思う。

 そんな矛盾した考えを胸に抱きながら。

 桃寿郎は、全力で走り続けるのだった――――。




最後までお読みいただき有難うございます。

清算の時は近い(え)

それでは、また次回。


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第86話:「感謝」

 ――――いったい、どれだけの時間を歩いただろうか。

 途中から、数えることもやめてしまった。

 炭彦はただ、瑠衣のいる場所を目指して歩き続けた。

 

「本当ニ不思議ナ子ドモダネ」

 

 その足取りは、けして軽やかなものでは無かった。

 重い。時間を経るごとに、その足取りはどんどん重くなっていった。

 実際、炭彦は己の身体が鉛のように重く感じて仕方が無かった。

 重くて重くて、足を上げ下げするだけでも、想像を絶する程の努力を必要とした。

 

「ネエ、ドウシテ?」

 

 瑠花は、同じ問いを何度も投げかけていた。

 何か妨害をするでもなく、邪魔をするでもなく。

 ただただ炭彦の様子を見つめながら、問いかけるだけだった。

 

 曰く、どうしてそこまでするのか、と。

 

 炭彦がこの世界で――あえて世界と表現するが――瑠衣を探す条件は極めて厳しいものだ。

 まず瑠衣を見つけるためには、炭彦が「透き通る世界」に入っていなければならない。

 そうでないと、炭彦の肉眼にはあの赤い空間しか見えないのだ。

 それだけで、極度の集中力を要求される。

 

「他人ノ人生ヲ体験スルッテ言ウノハ、普通ノ人間ニ耐エラレルモノジャナイ」

 

 さらには、()()()()()を見つけなければならない。

 それ以外の場所に()()()()、瑠衣の過去を追体験することになる。

 この時に叩き付けられる情報量というのは、常人に耐えられるものではない。

 しかもそれを、炭彦は何度も繰り返しているのだ。

 

「普通、他人ノタメニソコマデスル奴ハイナイヨ」

 

 まさしく、1歩を進む度に心身を削がれている。

 心身から、全身から血を流しながら、炭彦は歩き続けていた。

 瑠花の目から見ても不思議な程に、頑なな意思でもって。

 

 だから瑠花は問うた。

 どうしてそこまでするのか、と。

 日輪刀で殺してしまった方が、ずっと楽なはずではないか、と。

 

「モシカシテソレハ、愛トイウモノダッタリスルノカナ」

 

 恋愛。慕情。そういった感情からなのか、と。

 それは確かに、鬼である瑠花には理解の出来ない感情であっただろう。

 人間の愛を、瑠花は理解することが出来ない。

 

「違います」

 

 だが炭彦は、それを否定した。

 では何故だ、と瑠花は問いかけた。

 それに対して、炭彦は。

 

「僕は、ただ……瑠衣さんに――――」

 

 そして、何回か、何十回か、あるいは何百か。

 気が遠くなる程の繰り返しの末、炭彦は遂に。

 ()()()()()に、辿り着くのだった――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 畳の部屋。

 畳の部屋、だった。

 

「…………」

 

 気が付くと、炭彦は8畳ほどの広さの部屋にいた。

 畳のい草の香り。障子(しょうじ)(ふすま)から差し込む陽の光。

 初めて来たはずだが、どこか懐かしさを覚えた。

 

 何となく、室内を見渡した。

 桐箪笥、鏡台に化粧箱。古びた市松人形に、掛け軸。

 そして、日本刀。

 刀掛けに置かれた日本刀――日輪刀だけが、平和なその空間において異彩を放っていた。

 

「…………」

 

 そしてその日輪刀の前に、1人の女性が座っていた。

 足を揃えて正座していて、背筋をピンと伸ばし、凛とした雰囲気を纏っていた。

 ただ余りにも静かすぎて、目の前にいるのに最初はその存在に気が付かなかった。

 そんなことはあり得ないのに、実際に気が付かなかったのだ。

 

 途端に、自信がなくなった。

 今、自分が目にしているのはどちらなのだろうか、と。

 自分がきちんと集中力を保てているのか、もはやその意識さえ曖昧だ。

 それ程までに、余分なものを削ぎ落してしまった。

 

「……瑠衣、さん?」

 

 声を出せるかどうかでさえ、自信がなかった。

 しかし幸いにして、声を出すことは出来た。

 そして自分の声を聞くことで、炭彦は自分という存在を再認識することが出来た。

 

 目の前にいる女性は、間違いなく瑠衣だった。

 見つけた、という高揚感は不思議と湧いてこなかった。

 ただ自然と、そうだと受け入れることが出来た。

 

「……瑠衣さん」

 

 瑠衣は背を向けたまま、炭彦が呼びかけても答えなかった。

 一歩近付いても、それは変わらなかった。

 二歩、三歩。反応は無かった。

 その代わりなのか、どうなのか。

 

 瑠衣の背中に近付く度に、身体が軋むような気がした。

 まるで全身に重しを追加されるかのように、一歩ごとに、しかし確かに。

 重い。重くて、理解する。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

「瑠衣さん」

 

 それでも、炭彦は声をかけ続けた。

 たとえ拒絶されていたのだとしても、構わなかった。

 それが瑠衣の意思だと言うのなら、それでも良かった。

 ただ、一言だけでも言葉をかけてほしかった。

 

(それだけで、きっと僕は)

 

 横を回り、正面に。

 そして炭彦は、ようやく瑠衣の顔を見ることが出来た。

 もう、最後に顔を合わせてから何年も経っているような気さえした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 違和感を覚えた。

 瑠衣の顔を見た瞬間、炭彦は強い違和感を覚えた。

 それが何か、と考えるよりも先に、それは彼の胸中に訪れた。

 

(何だろう。何か、変な気がする)

 

 白面、というのは、今の瑠衣のことを言うのだろう。

 血色が無い人間というのは、ここまで白い顔になるのか、と思った。

 しかしそれだけに、文字通り人外めいた美しさを瑠衣に与えていた。

 それはまさに触れ難く、侵し難いもののように思えた。

 

 ただ、だからこそ炭彦にとっては違和感だった。

 確かに瑠衣は、美しかった。

 だがそこには――どんな理由であれ――温もりがあった。

 その微笑みには、優しさがあった。

 

(僕は今、瑠衣さんの前にいる……はずなのに)

 

 瑠衣の前にいるという気が、どこからもしてこない。

 矛盾しているが、言葉にするとそういうことになる。

 温もりも優しさも感じ取れない冷たい美しさを前に、炭彦は戸惑った。

 

 不意に、瑠衣が目を開いた。

 

 金色に輝く鬼の眼ではなく、普通の黒瞳がそこにはあった。

 そこで初めて、人間らしい色が瑠衣の顔に浮かんだ。

 目をまん丸く見開いて、それはどこか、炭彦の存在に驚いているように見えた。

 まるで、初めて存在に気が付いたかのように。

 

「――――()()()()()()()()()

「え?」

 

 瑠衣が、初めて口をきいた。

 しかし初めての言葉は、拒絶の言葉だった。

 だが拒絶されていることは、最初に彼女の姿を見た時にすでに理解していた。

 だから、それで気持ちが挫けるということは無かった。

 とは言え、()()()()()()()()()()()()()

 

「――――出て行って!」

 

 バンッ、と音を立てて、障子の襖が開いた。

 不思議なことに、外が見えるということは無かった。

 しかし確かに、そこは()()()()だった。

 肉眼の視覚ではなく、感覚として炭彦はそれを理解していた。

 

「うわあっ……!」

 

 引かれた。いや、押された。

 その正体が何かはわからないが、炭彦の身体は彼の意に反してその部屋から外へと叩き出された。

 遠ざかって行く瑠衣の姿に、炭彦は手を伸ばした。

 何かを言わなければならない。そんな気がした。

 

「瑠衣さん……!」

 

 ただそれが何なのか、咄嗟にはわからなかった。

 拒絶されたという事実1つだけを渡されて、炭彦は追い出されることになった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「追イ出サレタネエ」

 

 目を開くと、そこはあの赤い空間だった。

 集中が切れたのかと思ったが、視界の端々に別のものが視えていた。

 どうやら完全に途切れたわけではなく、強制的に()()()切断された、ということらしい。

 ただその代償なのか、反動なのか――意識は、かなり朦朧としていた。

 

「ドウスル?」

 

 瑠衣――ではない、瑠花の声だけがした。

 たぶん、すぐ傍にいるのだろう。

 意識と視界が思う通りにならないので、姿を確認することは出来ない。

 床に蹲る自分を見下ろしているのか、覗き込んでいるのか。

 

 それは、どちらでも同じことだった。

 炭彦にとって重要なのは、その点では無かった。

 今の彼にとって重要なのは、彼が、辿()()()()()ということなのだ。

 そしてそれは、瑠花にとっても大事なことであるはずだった。

 

「そこに、いたんです……!」

 

 自分の掌を、見た。

 もちらん、そこには自分の掌があるだけだ。

 当然、何もない。何かを掴んだわけではない。

 しかし確かに、()()()

 

「瑠衣さんが、いたんです……!」

「……ソウダネ。ソコニ居タネ」

 

 瑠衣がいた。

 その事実一つだけで、炭彦は全ての疲労を感じなくなった。

 それが錯覚でしかないことはわかっている。

 しかし、その事実は確かに炭彦に力を与えるものだった。

 

「デモ、追イ出サレタネエ」

 

 そう、追い出された。

 出て行けと、はっきりと言われてしまった。

 瑠衣にそう言われるということは、成程ショックだ。

 

 しかし、違和感は消せない。

 先程の瑠衣には、やはり何か奇妙なものを感じた。

 何と言えば良いのか、一番気になったのは、目だった。

 自分を見つめるあの目が、どうしても気になったのだ。

 

「ドウスルノ? 諦メル?」

「……いいえ」

 

 まだ、何もわからないままだ。

 追い出された理由も、違和感の正体も、何もわからない。

 こんな状態で、胸を張って「瑠衣に会った」と皆に言えるだろうか。

 ――――言えはしない。

 誰も、いや炭彦自身が、納得しない。できるはずがない。

 

「諦めません。まだ……!」

 

 まだ、何も始まってすらないのだから。

 だから、まだ諦めない。

 幸い、まだ視線は完全には切られていない。

 今ならまだ、あの場所に戻ることが出来る。

 

「アア……」

 

 赤い世界を脱して、もう一度。

 もう一度、あの部屋へ――――……!

 

「ソウダ、ネエ」

 

 相変わらず、瑠花の姿は見えなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ふうううう、と、深い呼吸音が響いた。

 酷く疲れている。聞いただけでそうとわかる音だった。

 しかしそれも、無理からぬことだろう。

 何しろ、()()()()()()()()()()()()

 

「今のは……」

 

 ぐしゃり、と、前髪を崩した。

 そのまま掌に目元を擦り付けて、小さく呻いた。

 意識が曖昧なのか、強く(まぶた)を押しているようだった。

 

「いえ……それより、今は何時(いつ)……」

 

 随分と、長く眠っていた様子だった。

 この空間では余り意味はないのかもしれないが、敷布団が彼女の身体の形に歪んでいた。

 それだけで、彼女が長い間そこに横になっていたことがわかる。

 

 眠りとは、節約であり癒やしだ。

 禰豆子がそうだ。

 彼女は外部からのエネルギー補給――人間の血肉を捕食すること――ができない。

 そのため、代わりの補給方法として睡眠を採用している。

 

「今のは、まさか……? いえ、そんなはずが……。ここには、誰も……」

 

 禰豆子と同じ補給方法に頼ることになるとは、何とも皮肉だった。

 そして禰豆子を連想したせいだろうか、ある少年の姿が脳裏に浮かんだ。

 だがその少年は、もはや悠久の時の彼方にしか存在しないはずだった。

 

()()に……『()()()()()()』に、入って来られるはずが……」

 

 ()()()()は、煉獄瑠衣の内面世界の中でも最奥部に位置する。

 奥の奥。奥底を抜けた先の奥底。そういう場所だ。

 誰も入って来られない。

 瑠衣自身以外の誰にも、見つけられるはずがない場所。

 

 ただ、誤解を恐れずに言えば、これは瑠衣だけが特異というわけではない。

 誰の心にも、絶対に他人を踏み込ませない場所というのは存在するだろう。

 自分以外、いや、()()()()()()()()()()()()()()()が、誰の心の内にも存在するだろう。

 瑠衣の意識が沈んでいる場所は、そういう場所なのだ。

 

「……………………まさか」

 

 もしも。

 もしもこの場所に、自分以外の誰かが現れることがあるとすれば。

 それは、つまり。

 ()()()()()。そういうことに、他ならない――――。

 

「――――瑠衣さん!」

 

 そして、再びだった。

 少年の声が室内に再び響き渡り、彼女は、瑠衣はそちらを見た。

 そこには、自分を真っ直ぐに見据える少年の目があった。

 瑠衣の瞳が、本人の感情を表すかのように揺れた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 繰り返しになるが、炭彦がいる場所は、いわば煉獄瑠衣の精神世界である。

 より厳密には、瑠衣の――と言うより、瑠衣が()()によって奪い取った――()()()()()()だ。

 例を挙げれば、あの下弦の壱・魘夢(えんむ)の夢の血鬼術が近いだろう。

 

 つまりこの世界を視る者は、人外の視力を持っていなければならない。

 「透き通る世界」に到達した炭彦の眼は、その()()を見通す。

 そうやって道を辿り、瑠衣の意識が居る場所へと再びやって来たのだった。

 

「瑠衣さん……!」

 

 いったい、何度。

 今日の1日だけで、いったい何度、瑠衣の名前を呼んだだろうか。

 これ程までに人の名前を呼んだことはない。

 そして、これ程までに()()()()()()()()()()()()()()

 

「……出て行けと」

 

 返って来るのは、やはり拒絶の言葉だった。

 しかしそれ以上に感じるのは、やはり()()()だった。

 

「出て行けと、言ったはずです……」

 

 瑠衣は、日輪刀を手にしていた。

 抜いてはいない。ただ鞘を掴んでいるだけだ。

 しかし、その意思は明確だった。

 ここから出て行け。言葉の通りだ。

 

 だが、それでもやはり()()()があった。

 何かが違う、という意識が頭から離れない。

 目の前に瑠衣がいて、言葉を発している。意思を明確に示している。

 それなのにどうして、()()()()()()()()()()()()()

 

(おかしい。そこにいるのに、どうして……)

 

 それは、瑠衣が日輪刀を――普通の刀よりも短い小太刀――を抜いてもなお、変わらなかった。

 いや、もっと正確に言うのであれば。

 

(どうして、こんなにも遠く感じるんだろう)

 

 日輪刀の切っ先を向けられた後でも、その考えが変わることは無かった。

 そのまま、瑠衣が近付いてくる。

 常人には、その動きは俊敏なものに映ったかもしれない。

 しかし「透き通る世界」に入門している炭彦には、その一挙手一投足が良くわかる。

 

 けれど、炭彦は動かなかった。

 すると自然、瑠衣との距離はどんどん縮まっていくことになる。

 そのはずなのだが、不思議なことに炭彦にはその実感が湧いてこなかった。

 何故なのかは、やはりわからない。

 

(まるで……)

 

 ――――気が付くと。

 瑠衣の日輪刀の切っ先が、炭彦の胸に突き立てられていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()か。

 瑠衣に刺された瞬間、そして間近で顔を見た瞬間、炭彦は違和感の正体を理解した。

 どうりで、()()()()()()()()()()()

 

「ソウダヨ。キミノ思ッタ通リサ」

 

 瑠花の声がした。

 ()()()()()()()()()()彼女は言葉を発した。

 今にして思えば、不思議――いや、不自然だった。

 炭彦と行動を共にしていたはずなのに、どうして瑠花は瑠衣に話しかけなかったのだろう。

 

 いや、違う。その認識は正確ではない。

 少なくとも、瑠衣はずっと話しかけていたからだ。

 ただ、炭彦が誤解していただけだ。自分が話しかけられていると、誤解していただけだ。

 会話が噛み合わなかったのも当然だ。

 

(瑠衣さんには)

 

 瑠衣の日輪刀は、炭彦の胸を貫いている。

 ()()()()()()()()()()()

 痛みもないし、血も流れていない。

 まるで幻かホログラムかのように、擦り抜けている。

 

 そして、瑠衣の目だ。

 真っ直ぐにこちらを、否、()()()睨んでいる。

 だがその瞳に、炭彦はいない。映っていない。

 瑠衣が見ているのは、炭彦の()()()()()()()()()()

 

(瑠衣さんには、僕が視えてない!)

 

 ずるり、と、炭彦の胸から腕が生えて来た。

 背中から擦り抜けて来たそれは、瑠花の腕だった。

 血を、流していた。掌の真ん中を貫かれているのだから、当然だ。

 しかし怯んだ様子もなく、むしろ自分から掌を押し込んでいた。

 

「キミニハ感謝シテイルヨ、()()()

 

 瑠花の手はどんどん進み、瑠衣に近付いていく。

 瑠衣は表情を歪めながら、力の均衡を保とうとしているのか、両手で刀を握っていた。

 しかし、有利なのは明らかに瑠花の方だった。

 

「キミナラキット、瑠衣ヲ見ツケテクレルト思ッテイタヨ」

「どういう、ことですか」

「言葉通リノ意味サ」

 

 もしかして、と、炭彦は思った。

 何か、自分は何か、とんでもない取り違いを、していたのではないか。

 何か取り返しのつかないミスを、してしまったのではないのか。

 

「瑠衣ヲ見ツケテクレテ、アリガトウ」

 

 アハッ、と、瑠花が耳元で嗤った。

 そしてその頃には、炭彦を擦り抜けて、上半身が前に出ていた。

 瑠衣の目も、当然、そちらを見る。

 そう。()()が答えだ。

 

「アハ……アハッ、アハハッ、アハハハハハハハハハハハッ!!」

 

 瑠衣が見ていたのは炭彦ではなく、瑠花だったのだ。

 

()()()()()

 

 余りにも。

 余りにも、気付くのが遅かった。

 竈門炭彦は、己の無能を呪わずにはいられなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――赤い世界。

 

「どういうことですか」

 

 ()()()()()に戻って来た炭彦は、膝を着いたまま、そう言った。

 答えなど、とうにわかっている。

 わかっているが、聞かずにはいられなかった。

 

 もはやいちいち姿を確認などしないが、瑠花が傍にいることは理解していた。

 いないはずがない。

 ここは瑠衣の精神世界であり、()()()()()()()()()()()()

 瑠花が常に傍にいるのは当たり前のことだったのだ。

 

「これは、どういうことなんですか。瑠花さん」

 

 クスクスと、嗤う声がした。

 すぐ傍で、瑠花が嗤っていた。

 その事実に、炭彦はぎゅっと掌を握り締めた。

 

「ドウイウコトッテ。ワカッテイルデショ?」

 

 音がする。

 この赤い世界が、なくなる音がする。

 それは、この世界に致命的な何かが起こってしまったのだと、理解するには十分すぎるものだった。

 そしてそのトリガーを引いたのが、他ならぬ自分なのだと、炭彦は思っていた。

 

「瑠衣ヲ見ツケタンデショ」

 

 瑠衣を見つける。会いに行く。

 それが炭彦の目的だった。それは間違いない。

 ただ炭彦にとって想定外だったのは、()()()()()()()()()()()()()

 彼女もまた、瑠衣を探していたのだった。

 

「でも、あなたは瑠衣さんと話をしていた」

 

 そう、炭彦達の目の前で、瑠衣と対話する様子を見せていた。

 ()()()()()()()()、そうしていたのだ。

 事ここに及べば、流石の炭彦も理解していた。

 あれは、演技だったのだ、と。

 

「キミニハ感謝シテイルヨ」

 

 そんな炭彦に、瑠花は言った。

 

()()()()ノ妹ヲ外ニ引キ出シテクレテ」

 

 その言葉を受けた時の炭彦の表情は、言葉で表現することが出来なかった。

 様々な負の感情がない交ぜになったような、複雑な表情だった。

 その複雑な感情を煮詰めた先に表出したのは、怒りの感情だ。

 それは、温厚な少年である炭彦にとって、生まれて初めて感じるものだった。

 

「――――――――ッ!」

 

 炭彦は、叫び声を上げた。

 上げたと思う。

 日輪刀を握り締めて、生まれて初めて、害意を持って相手にそれを向けようとした。

 しかし、それが瑠花に届くことは無かった。

 

「竈門君!」

 

 誰かの腕が炭彦の頚にかけられて、身体が強く引かれたからだ。

 押し出されたのか、引き上げられたのか。判然としない。

 わかっているのは、自分がもうこの世界にはいられないと言うこと。

 遠ざかって行く瑠花の姿に、炭彦は手を伸ばした。

 そして、もう一度、何かを叫んだ。

 

「モウ一度、言ワセテホシイ――――…………」

 

 返って来たはずの言葉は、しかし、炭彦の耳には届かなかった。

 そして、すべてが暗転した――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()に帰って来たという意識を、炭彦はすぐには持てなかった。

 ただ目の前にあるのが地面だと気が付くと、一気に()()()に包まれた。

 土の手触り、肌に貼り付く空気。そして、外の匂い。

 ()()()()()()()

 

「う、うう……ううう……」

 

 すぐ傍で、誰かが呻き声を上げていた。

 覚えのある匂いと声に、炭彦の意識はすぐに覚醒した。

 その場に跳ね起きる。

 すると、着るものもほとんど着ていない瑠衣の姿がそこにあった。

 

 両手で己の身体を掻き抱くようにして、身体を前に倒している。

 その表情には、苦痛の色しか無かった。

 何秒かおきに発作でも起こしているのか、びくん、と身体が跳ねている。

 その度に唇から血の色の混じった唾が噴き出し、呻き声を上げていたのだった。

 

「る、瑠衣さん!?」

 

 ()()()()()()

 何の根拠もないが、炭彦はそう確信した。

 そして地面を這うようにして近付くと、その背中に手を置いた。

 

「う、あ」

 

 びくん、と瑠衣が身体を震わせたので、咄嗟に手を放した。

 だが瑠衣に触れたその一瞬で、炭彦の手は異様に気が付いた。

 触れた背中。その肌の下で、何かが蠢いているような感触があったからだ。

 

「ああ、あ。あああ……がっ、か……ま」

 

 苦し気に咳き込みながら、瑠衣は炭彦を見た。

 炭彦と、彼が持ち日輪刀を見た。

 

「かま……竈門、くん。私、を、き……」

 

 何が言いたいのかは、すぐにわかった。

 先程と同じだ。わからないはずがない。

 

「私を、斬って……こ、ころ……して」

 

 炭彦の全身に、再び滝のような汗が噴き出し始めた。

 何だったのだ。その思いが何度も頭の中を巡った。

 こうならないための努力だったはずなのに、何も変わっていない。

 

「は、はや……く。()()()()……()()()()……!」

 

 何も変わらず。再びの選択だった。

 しかも今度は、明らかに自分の失敗だった。

 瑠花を信じた自分が、瑠衣を追い詰めてしまった。

 それがわかる。わかってしまう。

 

 しかしそれでも、炭彦には出来ない。

 選べない。

 決断できない。

 選びたくない。決断したくない。

 

(ああ、駄目だ。決断できない……! 決断……!)

 

 そして、()()()()()()()()()()()

 瑠衣の身体から、その背中から、嫌な音がした。

 その音を聞いた瞬間、炭彦は、もう何をしても間に合わないということを理解した。

 

「あ、ああ……あ、あああああああああああ……っ!!」

 

 肉が、潰れる音がした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――吐いた。

 何に対して嘔吐したのか、もはやわからなかった。

 緊張と自責の念からか、あるいは極度の疲労からか。

 それとも、目の前に広がる光景が余りにもグロテスクだったからか。

 

「あああああああああああぁぁぁ」

 

 悲鳴が聞こえる。

 瑠衣が、目の前で悲鳴を上げている。

 苦痛に、叫び声を上げている。

 ()()()()()()()()()()()()、のたうち回っている。

 

 瑠衣の背中から、何かが出てきていた。

 肉の塊のような何かが、ブチブチと音を立てながら膨れ上がっている。

 それは細い肉の管のような物で瑠衣の背中と繋がっていて、脈打ちながら肥大し続けていた。

 そう。今まさに、膨らみ続けていた。

 

「な、なに。何が、これ」

 

 胃の中身は、もうすべて吐き出してしまった。

 それでも身体の内側が引き攣るのは止められず、目の前がぐるぐると回転して見えた。

 もはや、冷静な判断が下せる状態では無かった。

 

「あああああああああああっ!」

 

 瑠衣が、悲鳴を上げる。

 肉塊が、肥大化する。

 目の前の光景は永遠に続くのではないかと、そんな風にも思えた。

 

「ああ、あああ、ああああ……ああっ……!」

 

 しかし、少しずつ。

 少しずつ、瑠衣の悲鳴が短く、そして小さくなっていっているような気がした。

 肉塊の勢いは止まらないのに、反比例するように悲鳴は小さくなっていく。

 それがいったい何を意味するのか。

 それさえも、今の炭彦には判断が出来ないのだった。

 

「馬鹿野郎ッ!!」

 

 そんな炭彦に、誰かが怒鳴った。

 まともな思考力の残っていない炭彦は、その声がどこから、また誰のものかもわからなかった。

 わからなかったから。

 

「――――ぼさっとしてねェで、斬れ! ()()()()()()()()()()ッ!!」

 

 わからなかったから、反射的に、声の言う通りにした。

 日輪刀を掴み、瑠衣と肉塊の間に伸びている管の束を、真上から切断した。

 細い管とは言え、肉を切断する不快な感触に眉を顰めた。

 さらに切断した管から、血とも粘液とも言い難い生温かい液体が噴き出して、炭彦の半身を汚した。

 

「あ――――……っ」

 

 この行動が正しかったのかは、わからない。

 瑠衣が倒れ伏して動かなくなったのを見て、さらに不安になった。

 しかし彼を安堵させる言葉は、意外な場所からやって来た。

 

「アア、今ノハ良イ判断ダッタト思ウヨ」

 

 瑠花の声だった。

 だがそれは、()()()()()()()()()()()()()()

 瑠衣とは別に、発された言葉だった。

 

「アノママダッタラ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 肉が潰れ、掻き混ぜられる音の中から、その声はした。

 瑠衣から離れ肥大化した肉塊が、収縮するように小さくなり、掌サイズまで縮むと、逆にまた膨らんだ。

 しかし今度は肉塊のサイズにまで膨らまず、人間大のサイズで留まった。

 いや、人間の形を取り始めた。

 

 手足が伸び、胴体が――腹部、胸部が形作られ、そして最後に顔、髪の毛。

 赤い血肉が肌色に変化し、人間の女性の姿へと変わっていった。

 白い裸身。その腰にあたりに手を当てて、()()は目を開いた。

 何もかもを見下しているようなその眼には、金色の――鬼の瞳孔が、浮かび上がっていた。

 

「る……瑠花、さん……?」

 

 呆然と、炭彦は彼女の名前を呼んだ。

 煉獄瑠花が、そこに立っていた。

 瑠花は炭彦を見下ろしたまま、造られたばかりのその唇を開き、そして。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 いつの間にそこにいたのか、瑠花の背後から、脊椎を砕くようにして。

 自分の喉から飛び出した槍の穂先を見て、瑠花は目を丸くしていた。

 そしてそのまま、後ろへと視線だけ向けて。

 

「マジカヨ」

 

 と、潰れた喉で言ったのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

この作品ももうすぐ100万字に到達します。

100万字もお付き合いいただいた皆様に感謝を。

それでは、また次回。


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第87話:「血の運命」

 早業(はやわざ)だった。

 巨大な鬼気を感じ取るや、禊はすでに駆け出していた。

 そして長槍形態の日輪刀を、その重量にも関わらず、片手で振り抜いた。

 禊はその手に、槍の穂先が相手の脊椎を砕く感触を得た。

 

「……まあ、うん。そうね」

 

 跳躍の勢いを利用して、そのまま槍を引き抜いた。

 とん、と一度地面を蹴り、二度目の着地で止まる。

 その間は、ほんの一瞬にも満たない。

 

「頚は弱点じゃないわよね。当然ね」

 

 しかしその一瞬で、相手――瑠花の喉は、傷一つない綺麗な状態に戻っていた。

 ただ唇の端に、噴き出した血の痕が残るばかりだった。

 そしてその血も、赤い舌が舐め取って消えてしまう。

 自らの血を舐めた瑠花は、余り美味くは無かったのか、軽く眉を(ひそ)めた。

 

「イキナリ酷イナア」

 

 言葉ほどには酷いとは思っていない様子で、瑠花は言った。

 致命傷が瞬きの間に再生する。

 その時点で、上弦以上の力ある鬼であることは確定。

 とは言えそれ自体は予想されていたことで、驚く要素では無かった。

 

 驚くべき要素があるとすれば、瑠花が()()()()()()()()()()()()

 これまで瑠花は、表に出てくる時は瑠衣の肉体を借りていた。

 瑠衣の意識が弱い時に表出し、瑠衣の危機を救う。そういう存在だった。

 それが今、独自の肉体を得て活動している。

 

「あら、酷いのはアンタの方じゃない?」

 

 槍の柄を肩にかけながら、禊は言った。

 その視線の先には、未だに状況が呑み込めずに呆然と座り込む炭彦の姿があった。

 当然ながら、身体的な外傷はない。

 しかし精神的な疲弊は相当なもので、顔色は蒼を通り越して白くなっていた。

 

「こんな良い子を良いように使って、酷いことするわねえ」

「いや、お前も大概だと思うぞ」

 

 獪岳のツッコミについては、誰も触れなかった。

 とは言え、事実として瑠花は炭彦を利用した。

 炭彦の存在がなければ、今の状況はあり得なかっただろう。

 ただただ純粋に()()()()()()()()()()()()()()

 その存在が、炭彦が、瑠花の計画には不可欠だったのだから。

 

「マア、ソウダネ」

 

 自分を見つめる炭彦に対して、瑠花は頷き、言った。

 

「キミニハ知ル権利ガアルヨネ。確カニネ。義務ガアルヨネ、私ニハ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そう言って、瑠花は笑った。

 その笑顔だけは、瑠衣にそっくりだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「ムカシムカシ、鬼舞辻無惨トイウ悪イ鬼ガイマシタ」

 

 千年を生きた鬼の首魁。

 人喰い鬼の伝説。

 鬼と戦う、鬼狩りと呼ばれた鬼殺の剣士達。

 

「長イ長イ戦イヲ経テ、鬼舞辻無惨ハ討タレマシタ」

 

 幾人も、幾年もの間、多くの犠牲を積み重ねて。

 鬼舞辻無惨は、鬼狩りの手によって討ち果たされた。

 彼を祖とする鬼はすべて滅びた。

 鬼に殺される者はいなくなり、日の本は平和になった。

 

 それは、かつて祖母に寝物語で聞かされた物語と同じだった。

 そこまでは、同じだった。

 と言うより、そこから先は人間には知り様も無かった。

 だから、そこからは――()()()()()()、誰かの話だ。

 

「トコロガ、鬼舞辻無惨ハシブトク生キテイマシタ」

 

 瑠花という、()()()()()()の存在。

 そして、煉獄瑠衣に捕食された鬼の細胞。

 それが瑠衣の中に僅かに残っていた。

 鬼舞辻無惨にとっても、意外だっただろう。

 

 おそらく無惨も予期していなかった。保険ですらない偶然の産物。

 煉獄瑠衣の中で彼は()()()、緩やかに、少しずつ、再生――いや、()()を果たしていった。

 瑠衣の肉体を依り代として、意識さえも覚醒させるにまで至った。

 

「ソレニ気付イタ瑠衣ハ、ドウニカシナケレバト思ッタワケ」

 

 鬼舞辻無惨の復活など、許すわけにはいかない。

 何故ならば、鬼舞辻無惨を討ったのは自分だという信念だけが、超人・煉獄瑠衣の心の拠りどころだったからだ。

 その()()を誰にも奪わせないために、鬼殺隊を、煉獄家を、捨てたのだから。

 

 だから瑠衣は、()()()()()()()()()()()()

 元々、鬼を捕食できない世界では長く生きれないことはわかっていた。

 生き残りの鬼――珠世や禰豆子ら――を最後に、飢え死ぬことを選んだのだ。

 そしてそれは、ある程度は成功していた。

 

「問題ハ、弱クナルッテコトダッタ」

 

 食べなければ飢える。飢えれば弱る。当然の理屈だ。

 しかしそれでも、完全生物とも言える煉獄瑠衣は、弱体化したところで問題はなかった。

 弱体化してなお、煉獄瑠衣を屠れる存在は地上に存在しなかったからだ。

 煉獄瑠衣という生物に、天敵は――外敵は、いない。

 

 だが、瑠衣の弱体化はある致命的な問題を孕んでいた。

 煉獄瑠衣は、()()に天敵はいない。()()()()()()

 しかし。もしも、もしも。

 もしも、()()()()()()()()()()()()

 その天敵が、()()()()()()()()()()()()()――――?

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣は、鬼舞辻無惨の復活を恐れた。

 故に緩やかな死を選び、鬼舞辻無惨の細胞の活動を抑制しようとした。

 そしてそれは、ほぼ成功していた。

 

 しかし、そこで瑠花は考えた。

 おかしいのではないか、と。

 そもそも何故、鬼舞辻無惨に怯えなければならないのか、と。

 

「逆デショウ?」

 

 鬼舞辻無惨に怯えなければならないのではない。

 鬼舞辻無惨()、怯えなければならない。

 何故ならば、無惨はまだ復活していない。

 瑠衣の体内に巣食っただけの、弱々しい細胞の塊に過ぎない。

 

 そんな存在に、どうして怯えなければならない。

 ()()()()()

 瑠花はそう思った。

 そう思い、思った時点で、彼女は瑠衣に対して()()することにした。

 

「それって」

 

 瑠衣と瑠花の関係性について、炭彦は詳しいことは知らない。

 ただ、姉妹だと、瑠花が言うのを聞いただけだ。

 そこに嘘はない。匂いで、それを理解していた。だから疑わなかった。

 けれどもしも、今の瑠花の話を信じるのであれば。

 

「それじゃあ、瑠衣さんは」

「はい。ちょっと待ちなさいな」

「え」

 

 前のめりになった炭彦の眼前に、禊の手の甲が入って来た。

 その手を追って視線を上げれば、禊の横顔が見えた。

 禊は炭彦に視線を向けることなく、そのまま話を続けた。

 

「どーでもいいのよねえ、そんなことは」

「話ヲ振ッタノハキミダト記憶シテイルケド?」

「はあ? わたしがアンタなんかに話を振るとかあるわけないでしょ」

「ジャアサッキノハ何サ」

「アンタの勘違いよ」

 

 その場にいる全員の目が文字通り点になったが、もちろんのこと禊はその一切を気にしなかった。

 禊が気にしていることがあるとすれば、それは他の面々とはやや違っている。

 

「それで結局、どうなったのかしら。アンタの中の無惨とやらは」

「私達ノ中ノ無惨? 知リタイノ?」

「ええ。是非、教えてほしいわね」

「……アハ」

 

 と、声を発して、瑠花は笑った。

 瑠衣と同じ顔で、しかし瑠衣がしない笑い方で、彼女は言った。

 

()()()()()()

 

 一時は意識を表出させるにまで至った鬼舞辻無惨。

 彼に誤算があったとすれば、それは()()()の存在。

 すなわち、彼と同等以上の強力な鬼が宿主(瑠衣)の中にいたこと。

 そして何よりも、力を取り戻しきる前に彼女(瑠花)に存在を露見するようなことをしたことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――()()は、肉の塊のように見えた。

 赤黒く、表面は血管が浮き出て脈打っており、見ようによっては(まゆ)のようでもあった。

 あるいは、もっと的確に表現するのであれば。

 ()()()。それが最もしっくり来る呼び名だった。

 

『何だ。お前は』

 

 部屋、というのもおかしいか。

 何しろそこは煉獄瑠衣の体内なのであって、部屋という表現は正しくはない。

 一方で、確かに部屋である。矛盾しているようだが、そうなのだ。

 女性の体内にある()()に、()()は巣くっていた。

 

 ぎょろ、と、まず目が浮かび上がった。

 肉塊の中央に目玉があり、酷く不気味だった。

 それが眼下を見下ろして、こちらを見下ろして来る。

 その視線の圧力を一身に受けて、瑠花は笑ったのだった。

 

『何が可笑(おか)しい』

 

 瑠花の態度が気に入らなかったのか、天井にへばりついた肉塊から落ちて来る声には、確かな苛立ちが込められていた。

 すると肉塊が蠢き、音を立てて膨らみ始めた。

 

『気に入らない女だ』

 

 肉を潰すような嫌な音を立てながら、それはやがて人間大の大きさにまでなった。

 

「……だが、1つだけ褒めてやろう」

 

 長い白髪、全身に血色の痣のような紋様。鬼の瞳孔に鋭い牙。

 肉塊から上半身が生え、そのまま下半身までが露出を始める。

 まるで今まさに、生まれ落ちようとしているかのようだった。

 姿形は、かつての鬼舞辻無惨とは異なっている。

 

 しかし彼は確かに鬼舞辻無惨。正確には、その意識だった。

 煉獄瑠衣という海の中に混ざった、不純物。黒い染みの一滴。

 彼は瑠花を今度は両の目で見下ろすと、その顔に傲然とした笑みを浮かべた。

 

「この私に喰われに来たという、その蛮勇をな」

 

 凄まじい鬼気が、天井から瑠花を押さえ付けて来た。

 並の人間や鬼であれば、それだけで地面に顔を擦り付ける羽目になっていただろう。

 しかしその鬼気を受けてなお、瑠花の態度は変わらなかった。

 

「生意気な」

 

 その態度がよほど気に入らなかったのだろう。無惨の額に青筋が走った。

 彼は右腕を上げると、手首から先が消え、代わりにおぞましい肉の触手が伸びた。

 鉤爪のようにも口のようにも見える無数の穴が開いており、それがカチカチと音を立てていた。

 

「死ね」

 

 無惨が腕を振るう。

 すると触手が鞭のようにしなり、瑠花を目掛けて伸長した。

 それを見ても、瑠花はただ笑っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 もしも無惨が万全の状態であれば、結果は違うものになっていただろう。

 彼が「千年の鬼」であれば、瑠花と言えども相手にならなかっただろう。

 しかし無惨は誤解していた。

 なまじ()()の記憶を引き継いでいたがために、無惨は自分が――特に鬼に対して――無敵だと誤解してしまった。

 

「な――――!?」

 

 瑠花に放たれた触手は、確かに瑠花に届いた。

 しかしそれは、瑠花に触れることなく擦り抜けてしまった。

 そして、()()()と先端部が瑠花の足元に落ちたのだった。

 

 何が起こったのか。

 問いかけるまでもなく、答えは明確だった。

 瑠花に触れた瞬間、()()()()()()

 無惨が「自分が喰われたのだ」ということを理解するのに、数秒の時を要した。

 

「キミハ確カニ鬼舞辻無惨ダ」

 

 まるで何事も無かったかのように、瑠花の表情は変わらなかった。

 その後も第二撃、第三撃と触手が放たれてくるが、すべて同じ結果に終わっていた。

 無惨の表情から、みるみる内に余裕が失われていく。

 

「馬鹿な……馬鹿な! こんな、こんなことが!?」

「ダケド()()()()()()()()()()、私ニハ勝テナイ」

「生まれたばかりだと? 何を意味のわからないことを。私は、千年を……永遠を……生きて……!」

「イイヤ。キミハアノ時、滅ビタ存在ナノサ」

 

 鬼殺隊に討たれた鬼舞辻無惨が復活した。

 この認識が、そもそも間違っている。

 今の無惨と、鬼殺隊に討たれた無惨は()()()()()()()()

 ()()()

 

「ソノ証拠ニ、キミノ肉体ヲ構成スル細胞ハ()()()()()()

 

 瑠花の中にあった無惨因子の一部が、瑠衣の細胞を取り込んで以上成長した存在。

 それが、今の無惨だ。

 滅びた無惨が()()したわけではない。

 あくまで()()()()()()()()。すなわち、()()

 

「ツマリキミハ外側ガ無惨ナダケノ、何ノ力モナイ存在ナノサ」

 

 とん、と、瑠花が跳んだ。

 無惨に対して、手を伸ばすような仕草をする。

 それを見た無残は、当然、避けようと考えた。

 しかし己の身体の自由が効かないことに、すぐに気付いた。

 文字通り()()()()()()瑠衣の身体を通じて、動きを止められてしまったのだった。

 

「オイ……待て」

 

 当然、瑠花は止まらない。

 

「待て。嫌だ。こんな……!」

 

 何をされるのかを理解してるからだろう。

 無惨は首を横に振った。

 彼に許された自由は、もはやそれぐらいしか無かった。

 

「こんな、何も出来ずに……嫌だ。こんな終わり方は、私は……!」

「マア、何テ言ウカサ」

「やめ……!」

 

 次の瞬間、無惨の視界は瑠花の掌で覆い尽くされた。

 

「オ前ガ言ウナ、ッテヤツダヨネ」

 

 無惨の()()()()は、そこで終わった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「待ってください」

 

 話を聞いていた炭彦は、思わずそう言ってしまった。

 

「それって、つまり」

 

 鬼舞辻無惨が、すでに死んでいた。

 瑠衣の身体を蝕んでいた元凶が、実でもうとっくに消えてしまっていた。

 今の瑠花の話は、かいつまんで言えばそういうことだった。

 それ自体は、喜ばしいことのようにも聞こえた。

 

 だがそこに大いなる矛盾が存在することにも、炭彦は気付いてしまった。

 何故ならば、瑠衣を脅かす()()の根本が失われたのであれば。

 どうして、瑠衣はそのまま奥に()()()()()()()()()()()()

 

「アア、ソレハネ。トテモ単純(シンプル)ナ理由ダヨ」

 

 瑠花は笑って、人差し指で自分の唇に触れた。

 それはまるで、内緒話でもするかのような調子だった。

 

「瑠衣ニハ言ワナカッタノサ」

 

 瑠衣は、自分の中の鬼舞辻無惨が消えたことを知らなかった。

 意図的に瑠花がそれを隠したからだ。

 何よりも、瑠衣が自分が活動を控えることが――つまり生命活動の停滞こそが――無惨細胞の成長を抑制すると信じていたことが大きい。

 

「私ガソウアドバイスシタノサ。本当、姉ノ言ウコトヲ良ク聞く良イ妹ダヨ」

 

 瑠衣が、瑠花を信じてしまったことが大きい。

 そもそもの話。

 振り返ってみれば、瑠花が表に出て来るタイミングは常に決まっていた。

 瑠衣に命の危険が訪れた時、瑠花は表に出て来た。

 

 瑠衣が自分の身を守れなくなった時に、代わって瑠衣の身を守るのが瑠花の役目だった。

 その時に限り、瑠花は瑠衣の肉体の支配権を得ることが出来ていた。

 だがそれは、言い替えればこういう意味にはならないだろうか。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()、瑠花は表に出ていられる、と。

 

「ソシテ、今ヤコノ通リサ」

 

 そうやって肉体の支配権を得ている間に、瑠花は少しずつ瑠衣の肉体を作り替えていった。

 鬼の部分と、人間の部分を()()()()()()()()

 慎重に。少しずつ。瑠衣に気付かれないように、ゆっくりと。

 

「本来、コウアルベキダッタノサ」

 

 赤子を孕んだまま鬼になり、死の間際に瑠衣を産み落とした実の母。

 瑠衣は鬼の子だ。

 鬼の眼を持って生まれた女の子だ。

 だがそれは、本来は瑠衣の(もの)では無かった。

 

 鬼の眼は、鬼の力は、すべて姉たる瑠花のものだった。

 瑠衣は鬼の姉の身体を()()()、生まれた子どもだったのだ。

 そしてそれは今、あるべきところに在った。

 すなわち、瑠衣は人間として。

 瑠花は鬼として、()()したのだった。

 

「共有物ナンカジャア無イ。私ノモノヲ、瑠衣ニ貸シテアゲテタダケサ」

 

 つまり、これが本来のあるべき姿。

 瑠花は鬼として、瑠衣は人間として。

 そう在ることが、この姉妹の本当の姿なのだと。

 瑠花は、そう言った。

 

「アハッ」

 

 瑠花は、嗤った。

 

「アハッ、アハハッ、アハハハハハハハハハハハハハッ!」

 

 両腕を広げて、大きく口を開けて。

 誰に(はばか)ることなく、哄笑した。

 まるで、自らの誕生を世界に知らしめるかのように。

 瑠花は嗤って。そして。

 

「ふ」

 

 そして。

 

「――――ふざけるな」

 

 そして、()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――これほどに。

 これほどまでに誰かに怒りの感情を覚えたことは、無かった。

 今までの人生を振り返っても、初めてのことかもしれないと思った。

 それ程に、竈門炭彦という少年は怒っていた。

 

「瑠衣さんは」

 

 その声は、どこか震えていた。

 だがその震えが恐怖からではないことは、表情を見れば明らかだった。

 無。一見、炭彦は無表情に見えた。

 真っ白な顔で、何の表情も浮かべていなかった。

 

 だがその額に浮かんだ血管が、血走った目が、彼の感情を如実に物語っていた。

 余りにも強く握り締めたせいか、日輪刀の柄がミシミシと軋む音を立てていた。

 その握力は、ともすれば石でさえ握り砕きかねないと思える程だった。

 

「瑠衣さんは、貴女を信じていたんじゃないのか」

 

 妹だと、瑠花はそう言っていた。

 そんな瑠花を信じて、瑠衣は自分の生き方を――否、()()()()()()()()()

 それなのに、それは嘘だったのだと言う。

 今のこの状況になるために、瑠衣を油断させるために。

 

「僕は、難しいことはわからない」

 

 炭彦はまだ子どもで、事の善し悪しの判断は出来ない。

 しかしそれでも、わかることがある。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()

 

 誰かからの無垢な信頼を、裏切るということだ。

 まして、姉妹を。

 姉妹の信頼を利用して、目的を達成する。

 そんなことは許されない。許すべきでは、ない。

 

「どうして笑えるんだ」

 

 そんなことをしておいて、笑って良いはずがない。

 

「妹を騙して、どうして笑えるんだ。僕は、俺は」

 

 ミシリ、と、握り締めた日輪刀の柄から、何かが折れるような音が響いた。

 もちろん、実際に何かが折れたわけではない。

 ただ掌に、確かな感触を覚えただけだ。

 日輪刀の()()()()に何かが届いたような、そんな感触だった。

 

「俺は、お前を許さない」

「……キミニハワカラナイサ」

 

 わかるはずもない。

 わかろうとも、わかりたいとも思えなかった。

 炭彦はただ、瑠花の所業を許すことが出来なかった。

 だから日輪刀を握り締めたまま放さず、そして。

 

「どーでも良いのよ、そんなことは」

 

 立ち上がりかけたその時、眼前にいきなり禊の背中が出てきて面食らうことになった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()

 その時、少女の心中を満たしていたのは、それだった。

 それはそうだろう。

 この期に及んで彼女が、誰が誰を騙したとか、善悪がどうだとか道徳がどうだとか、仁義礼智忠信孝悌がどうだとか、そんなものを気にするはずがない。

 

()()()()()()()()?」

 

 その場にいる誰もが気にしていただろうどれもを、禊は気にしていない。

 興味が無かった。そんなものには。

 遊女に何を期待しているのか、と言いたい。

 

「最初はさ、()()()に期待してたわけ」

 

 瑠衣が蒼い彼岸花を奪い、鬼殺隊を抜けたあの日。

 他の誰にも先駆けて、禊は瑠衣についた。

 この世で最も強い柱達が、束になっても敵わない存在。

 そりゃあ、瑠衣につくだろう。

 ()()()()()()()()()()()()

 

「それがよ? 手の込んだ自殺をやるから手伝えってんだから、もうガッカリ」

 

 柱達との「落とし前戦争」までは楽しかった。

 しかし、そこまでだった。

 そこから瑠衣は衰弱の一途を辿り、自分の完全さを自ら否定した。

 その時点で、禊はぶっちゃけ瑠衣への関心を半ば失っていた。

 

 ところがここに来て、瑠花が現れた。

 彼女は、瑠衣の持っていた最強の部分を奪い取ったのだと言う。

 彼女は、鬼舞辻無惨よりも強いのだと言う。

 何よりそんな話を聞くまでもなく、見ればわかる。

 瑠花の強さが。

 

「あんた、良いわねえ」

「マア、今サラ驚キハシナイケドネ」

 

 先程も不意討ちで喉を貫かれたわけだし。

 そう言って、瑠花は肩を竦めた。

 しかし戦意マシマシの禊を前にしても、瑠花は何もしようとはしなかった。

 話をするでも、戦うでもなく、何もしなかった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

「デモサ、一ツ大事ナコトヲ忘レテナイカナ」

「あら、何かあったかしら」

 

 繰り返すが、瑠花は何もしていない。

 いや、より正確に言い直そう。

 ()()()()()()()()

 

「……!」

 

 変化は、急激に起こった。

 ()()を理解していない炭彦の目には、特に急激に映った。

 それまでそんな気配すら無かったのに、禊が突然、その場に膝を着いたのだ。

 

「か……っ」

「禊さん!?」

 

 慌てて覗き込むと、禊は額に汗を滲ませて胸を押さえていた。

 呼吸が出来ていないのか、紫色に変色した唇が幾度か開閉を繰り返していた。

 先程までの自信に満ちた表情は消え失せて、苦し気に喘いでいた。

 

「キミ達ノ命ハ、今ハ私ガ握ッテイルンダッテコトヲサ」

 

 血鬼術『永遠の(ブラッド)輸血(ボーン)』。

 禊達を不老たらしめている、奇跡の御業。

 そう、禊達の全身に流れている血は、すべてが瑠衣の血だ。

 その血の流れを止めてしまえば、動くことさえ出来なくなるのは必定だ。

 

 禊はそれでも、笑おうとしたようだった。

 唇の端が僅かに笑みの形になったようだが、それまでだった。

 自分の頚の、頸動脈のあたりを押さえて唇を噛んだ。

 全身の血管が脈打っているのか、露出している肌の部分が不気味に蠢いていた。

 

「フン。ソレデ?」

 

 そんな禊を見下ろしながら、瑠花は興味も無さそうな声で言った。

 

「キミモ同ジ目ニ合イタイノカナ」

「あ、いやあ。おじさんは痛いのとか苦しいのとか、そういうのはちょっと遠慮したいかなあ、っと」

 

 へへへ、とどこか三下めいた様子で、様子を窺っていたらしい犬井が顔を出して来た。

 ガッチリとした体形の男が卑屈なポーズをとっても、しかし卑屈には見えなかった。

 というのも、実際に彼は、何も卑屈になりに来たわけではないのだ。

 彼は、()()に来ただけだったのだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「確認?」

「そうそう。1個だけ教えてほしいことがありましてえ」

「お前、その三下ムーヴは何なんだよ……」

 

 獪岳がすっかりツッコミ役になっている。

 彼の弟分がもしもこの場にいたなら、「え、何それ怖…」と呟いていただろう。

 そして炭彦には、もはや彼ら彼女らの関係性が見えなくなっていた。

 

 瑠衣が倒れ、禊が苦しんでいるのに、気にした様子が無い。

 心配するでも気遣うでもなく、普通に、いつも通りで。

 瑠衣のために怒った炭彦からすれば、理解の外に在るような、そんな人々。関係性。

 これを、何と言えば良いのか。炭彦の人生の辞書にはまだ無かっただろう。

 

「あんた今、瑠衣ちゃんから()()したと思うんだけど」

 

 人差し指を上げながら、犬井は言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 数瞬の間、瑠花は――と言うか、その場にいる者達は――犬井の言葉の意味を、考えた。

 考えて、そして思い至ったのだろう。

 ああ、と、笑った。

 

「デキルトシテ、ドウスルノ」

 

 そう言って、瑠花は瑠衣を指差した。

 

()()()()()()瑠衣ヲ殺セッテ言ッタラ、ヤルワケ?」

「……! 何てことを……!」

「アア、マア、炭彦(ソッチ)デモ良イケド」

 

 瑠衣か、炭彦を殺せ。

 そう言う瑠花の声に、躊躇(ためら)いというのものは見られなかった。

 悩んだ様子もない。

 それもまた、炭彦には信じられないものだったが。

 

「それだけで良いのかい?」

 

 犬井の声もまた、酷く気安いものだった。

 彼は日輪刀を――それはもうあっさりと――鞘から抜くと、ゆっくりとした足取りで炭彦と瑠衣に近付いて行った。

 意図は、明白だった。

 

「やめてください。仲間でしょう!?」

「まあ、それを言われると弱いんだけどねえ」

 

 困ったように頭を掻いて、しかし犬井の歩みは止まらなかった。

 瑠花は、今はそれをただ見守るだけだった。

 

「そうは言っても、おじさんにも事情ってもんがあるからさ。悪く思わないでくれるかい」

「そんなの……!」

 

 どうするべきだ。炭彦は思考した。

 瑠衣や禊を抱えて逃げる。不可能だ。

 戦うか。相手は2人かそれ以上。やはり不可能だ。

 懇願は、今の様子から見ても無意味だ。

 どうすることも出来ない。そういう結論になる。

 

「ごめんね」

 

 そうこうする内に、犬井が目の前にまで来ていた。

 せめてもの抵抗に刀を突き出そうとするが、すかさず刃先を踏まれて防がれてしまった。

 そして、白刃が煌めき。

 赤い赤い、血の花が咲いた。

 

「…………イヤ」

 

 瑠花は、顔を手で覆うようにした。

 それは目の前で起こった惨劇から目を逸らす、というような仕草ではない。

 目の前の出来事について少し考えるような、そんな仕草だった。

 

 無理もない。

 すぐ傍で見ていた炭彦だって、目の前で起こった出来事に言葉を失っていた。

 繰り返すが、無理もない。

 誰だって、目の前で頸動脈が切られる様を見れば、そうもなる。

 

()()()()()()()()

 

 白刃を晒した犬井の日輪刀を掴み、自らの頸動脈を切った。

 簡単に言うが、これはとんでもないことだった。普通は死ぬ行為だ。

 当然、傷口からは血が噴き出し、ボタボタと地面に滴り落ちる。

 それはまるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「簡単じゃない。血が邪魔なんだったら、()()()()()()()

 

 そう言って、禊はゆっくりと立ち上がった。

 動けないはずの禊が、動いた。

 冷たい汗と熱い血潮を噴出させながらも、その顔には凄絶なまでの笑みが浮かべられていた。

 血の拘束で動けないなら、その血を排除すれば良い。

 そんなとんでもない理屈を口にする禊に、瑠花は。

 

「マジカヨ」

 

 と、再び呟いたのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

問題です。
ここからハッピーエンドに持って行くために必要なものとは?(え)

それでは、また次回。


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第88話:「炎の瞳」

 心臓が止まれば、人間は死ぬ。

 それは、肉体や他の臓器が活動するために必要なエネルギーを送れなくなるからだ。

 そのエネルギーを運ぶのが、血液の役割だ。

 すなわり血液とは、文字通り生命を支えているのだ。

 

「イヤイヤ」

 

 血液の支えなくして、どんな生命も活動することは出来ない。

 というより、そんなことは誰かに教えられるまでもないことだ。

 学術的なことはわからなくても、血液を大量に失えば死ぬ、ということはわかるはずだ。

 常識と言い替えても良いだろう。

 

 どんな人間であれ、いや動物であれ、いやいや昆虫や植物でさえ、そんなことは理解している。

 血を失えば死ぬ。繰り返すが、自明の理だ。

 もしもそれを理解していないか、あるいは理解していてなお無視する者がいるとすれば。

 それは、愚かという言葉でさえ生温く感じる程の愚行だろう。

 

「イヤイヤイヤ」

 

 自ら頸動脈を掻き切り。

 自分の肉体に流れている血液のほとんどを捨て去って。

 それでいてなお身体を動かす。しかも全力で。

 あり得ないことだ。あり得ないことなのだが。

 

「イヤイヤイヤイヤ」

 

 ()()が今、目の前で起こっているのだった。

 

「アリ得ナクナイ?」

 

 再び自分の喉を狙いに来た槍先を、手の甲で――瑠花の肉体は、日輪刀よりも遥かに硬度が高い――弾きながら、瑠花は驚きの声を上げていた。

 顔は笑っているが、それはどちらかと言えば呆れの色の方が濃かった。

 原因は言うまでも無く、自分の自分の血を抜いた禊の()()だった。

 

「流石ニサ、常識ッテ言ウモノヲ考エタ方ガ良イト思ウヨ」

「常識ぃ? 聞いたこともないわね、そんな単語」

 

 まあ、仮にあったとしても?

 

「わたしは常識に従ったことなんかないわよ。常識がわたしに跪くなら考えてあげなくもないけどね」

 

 ――――欺の呼吸・壱ノ型『石跳び』。

 かわされた槍が、一息で六槍に分割する。

 分割して宙を舞った短槍の柄を打ち、蹴り、軌道が変わる。

 そのすべてが瑠花の喉元を狙いに行くあたり、徹底ている。

 

 禊の顔は、真っ白だった。

 当たり前だろう。血液を大量に失っているのだから、血色が良かろうはずもない。

 首から下だけが、流した(おびただ)しい血の赤に染まっている。

 しかしその動きには、一切の乱れが無かった。

 

「キミ、本当ニ人間?」

「あら、失礼ね。そんなの決まっているじゃない」

 

 その問いに対する答えを、禊は1つしか持たない。

 

()()()()

 

 それ以上でも、それ以下でもなく。

 そこにはただ、1個の「我」があるだけだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 とは言え。

 とは言え、だ。

 さしもの禊も、今の状況に対して何も思わないわけではない。

 自分の置かれた状況を理解できない程、向こう見ずではない。

 

 手足の先は痺れていて、実はほとんど感覚が無い。

 身体は何とか動かしているものの、実を言うと常中の呼吸を維持できていない。

 そもそも酸素を行き渡らせる血流が体内に存在しないので、呼吸法の意味が無い。

 できて一呼吸。いわばその一呼吸を、()()行って誤魔化している状態だ。

 

(おまけに、こいつったら滅茶苦茶に強いじゃないのよ)

 

 禊が穿つ必殺の一閃を、瑠花は全て難なく迎撃している。

 正面からの攻撃は一切通用しない。

 筋肉量、反射速度、体力に動体視力。全てが段違い。

 ありとあらゆるパラメータで負けている。

 

(参ったわね)

 

 こちらの状況は最悪。

 相対している敵は万全。

 そもそもお互いに万全だったとしても負けている。

 その状況に。

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 禊は、白い顔で嗤ったのだった。

 

「おーおー、テンション上がっちゃってんなアイツ」

 

 心底どうでも良さそうな顔で――実際、心底どうでも良いと思っている――獪岳が言った。

 彼は日輪刀を肩に担いでいて、それで自分の肩をとんとんと叩いていた。

 それは暇を持て余しているようでもあり、苛立ちを示しているようにも見える。

 あるいは、その両方かもしれない。

 

「助けに行かなくて良いのかい?」

「……はあ? 何たって俺様があんな女を助けに行かなくちゃならないんだよ」

 

 実際、獪岳には禊を助けに行くという考えは毛頭なかった。

 さりとて、瑠花と戦うという選択肢もない。

 と言うか、全身の血を抜いてでも戦うという考えが理解できない。

 獪岳にとって、何を置いてもまず生きることが優先されるべきだったからだ。

 

「俺は他のことなんざ、どうだって良いね」

「……その割には」

「あ?」

「いや、その割にはさ。()()()()()()()()()()()()()()()思ってさ」

 

 獪岳の立っている位置は、犬井の正面だった。

 それは瑠花と戦う禊との間のようでもあり。

 そして、炭彦と――瑠衣の間に立っているようでもあった。

 まるで、犬井がどちらにも行けないようにしているかのように。

 

「あ~、お前さあ。前々からさあ」

 

 獪岳はガシガシと頭を掻き、一度天を仰いでから、言った。

 

「気に入らねえと思ってたんだよなァ」

「そうかな。おじさんは結構、お前さんのこと気に入ってたんだけどねえ」

 

 彼らがいるのは、令和の日本では無かった。

 大正初期の日本に、彼らはいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 炭彦は、怒りを感じていた。

 目の前に横たわる瑠衣を見ていると、どうしても怒りが湧いてくるのだ。

 それは瑠花に対しての怒りであり、そして自分自身への怒りだった。

 

 瑠衣を騙して、自分をも騙していたと言う瑠花。

 そして騙されていることに気付かず、間抜けにも瑠衣のところまで案内してしまった自分。

 怒りを、憤りを感じずにはいられなかった。

 腸が煮えくり返るとは、まさにこのことだろう。

 もしも可能であれば、自分で自分を殴ってやりたかった。

 

「瑠衣さん……」

 

 膝に抱いた瑠衣の身体は、冷たかった。

 今の彼女が身に着けている物は、着物の羽織りしかない。

 しかしそれだけが原因でないことは、明らかだった。

 その白すぎる()からは、生物の持つ温もりが一切感じられなかった。

 

「……呼吸を」

 

 それでも、何をさせないといけないのかはわかっていた。

 呼吸だ。

 呼吸を、させなければ。

 

「呼吸をしてください。瑠衣さん」

 

 全集中の呼吸を、させなければならない。

 瑠衣は生気を失っているが、死んでいるわけではない。

 起き上がることはないが、完全に意識を失っているわけではない。

 

 例えて言うのであれば、溺れた直後の状態に近い。

 だから必要なのは、声をかけ続けることだ。

 そして、()()()()()()()()()

 そう、最初に瑠衣が自分にしてくれたように、だ。

 

「瑠衣さん、呼吸を。お願いします……どうにか……」

 

 だが、どうすれば良いのか。

 人命救助の方法など知らない。

 まして全集中の呼吸のさせ方など、わかるはずもない。

 どうすれば良いのだと、気が急き始めた時。

 

「大丈夫だよ」

 

 禰豆子が、やって来た。

 力を使い果たしているせいか、幼女のような姿になっていた。

 炭彦には知りようもないことだが、ダメージの再生を優先した結果だった。

 まあ、そこは今、注目すべき点では無かった。

 

「禰豆子さん。大丈夫って……?」

「うん。きっと……このためだったんだと思う。私が、今ここにいるのは」

 

 ふ、と微笑んで、禰豆子はその場に膝をついた。

 炭彦と瑠衣の顔を見て、ほう、と息を吐いて。

 それから、空を見上げた。

 

「そうだよね、お兄ちゃん」

 

 禰豆子は、天空にいる誰かに差し伸べるように、手を伸ばした。

 そして、意を決したような顔をして、拳を握った。

 すう、と、息を吸う。

 それから、きょとんとした表情を浮かべる炭彦に微笑みかけた後。

 

「……ッ。起きろおおおおぉぉぉ――――――――ッッ!!!!」

 

 と、叫んで。

 その拳を、瑠衣の鳩尾(みぞおち)に打ち込んだのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 思えば不思議な関係だ、と、榛名は思った。

 仲間、という括りで終わらせるには、100年という時間軸は(いささ)か長すぎる。

 と言って、家族や同志という表現をするには、統一感というものが足りない。

 馴れ合いというには、深い位置で繋がり過ぎているようにも思う。

 

「一緒にお握りを食べる関係、っていうのは、どうかしらねぇ。怒られちゃうかしらぁ」

「…………」

 

 こくり、と隣で頷く柚羽に、榛名は苦笑を浮かべた。

 実際、お握りの作り方と味は100年経っても大して違っていない。

 多少の品種改良もあるのだろうが、米と塩は今も昔も同じだ。

 100年経っても変わらない味、というやつだ。

 

 まあ、禊や獪岳が聞けば「米と一緒にするんじゃねえ(ないわ)よ!」と怒るだろうが。

 ただ榛名にとって、彼ら彼女らの関係はそういうものだった。

 100年間、何の変化もない関係だった。

 もちろん、それが正しいとか間違っているとか、そんな話をしたいのではない。

 

「ありがとう」

 

 黙したまま、柚羽は車椅子に座る榛名の横顔に視線を向けた。

 そこには、相変わらずの柔和な表情が浮かんでいた。

 

「ずっと、変わらないでいてくれて」

 

 ()()()()()()()()

 柚羽の瞼が、僅かに震えた。

 そこで初めて、榛名は柚羽の方を向いた。

 

「わたしもね、本当は」

 

 そしてその唇を、柚羽は人差し指を添えて止めた。

 目を丸くする榛名に対して、柚羽は目だけで頷きを返した。

 それ以上のことは、2人の間では必要では無かった。

 

 100年前に、すでに()()()()()()2人。

 この2人が鬼殺隊に求めていたことは、実は100年前の時点で終わっている。

 だからあの時、あっさりと瑠衣について鬼殺隊を出奔することが出来たのだ。

 そんな共通項を持つ2人だからこそ、ここまでを一緒に過ごして来た。

 

「男の子達は、元気で良いわねぇ」

 

 だからこそ、それを素直に表現できる男の子達が少し羨ましいとも思うのだ。

 

「まあ、でも。そろそろ……止めに入りましょうかぁ」

 

 車椅子の背中の機構からエアーが抜け、蓋が開いた。

 そこから二振りの日輪刀が半分ほど外に飛び出してきて、鞘が榛名の手の位置にまで傾いた。

 それを見て、柚羽もまた自らの日輪刀に手をかけた。

 

「こらぁ、喧嘩しちゃ駄目でしょ~」

 

 嗚呼、本当に。

 我々の関係を、どう表現するべきだろうか。

 柚羽もまた、そう思うのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何だか知らないが、外野が五月蠅い。

 まったくもって不愉快だが、賑やかな中で()()のには慣れている。

 むしろ本職だ。どうと言うことはない。

 

「キミノコトダカラ、気ガ付イテイルト思ウケド」

「……何よ?」

「私ハ、別ニキミト戦ワナクテモ勝テルンダヨネ」

 

 実際、瑠花はほとんど禊には攻撃していない。

 する必要がないからだ。

 わざわざ攻撃などしなくとも、血を失った禊はいずれ動けなくなる。

 と言うより、こうしている間にも少しずつ動きは鈍くなっていっている。

 

 そして何より、禊の呼吸は返し技が多い。

 欺の呼吸などと(うそぶ)いているのも、あながち間違いではない。

 本人もそうだが、見た目の派手さに騙されると碌なことにならない。

 逆に言えば、誘いに乗らなければ致命打を見舞われることも無い。

 

「マア、別ニ当タッテモドウッテコトハ無インダケドネ」

 

 しかし、面倒ではある。

 だから自分は戦わない。

 打ち合いを避け、力尽きるのをただ、ただ待ち続ける。

 だけど、と、瑠花は言った。

 

「キミ。実ハソレヲワカッテイテ、ヤッテイルヨネ」

「……は」

 

 禊は、鼻で笑った。

 こいつは何を言っているのかと、本気で思った。

 

「マア、良イケド」

 

 嘆息ひとつ。

 瑠衣は見下すような目で、禊を見つめた。

 

「デモネ、キミハドンドン弱ッテイク。私ノ倒シ方モワカラナイ。ソンナキミニ出来ルコトト言ッタラサ」

 

 そんなものは、1つしかない。

 

「タダノ、時間稼ギダロ」

 

 結局のところ、そうなってくる。

 禊にも、自分の圧倒的な不利は理解できている。

 そしてこの不利は、技術や根性で覆るようなものでは無いということも。

 

 だからせいぜい、時間稼ぎにしかならない。

 何の時間を稼いでいるのかなど、言うまでもない。

 瑠衣だ。

 瑠衣が戻って来るまでの時間を、あるいは炭彦が立ち上がるまでの時間を、禊は稼ごうとしているのだ。

 

「はあ?」

 

 と、誰もが思うかもしれない。

 普通ならば、瑠花の判断は正しい。

 しかし、瑠花は結局のところ、禊という少女を知らない。

 

「わたしは普通に、あんたをぶっ殺してやるつもりだけど?」

 

 ()()()()()()()()

 それがわかって、瑠花は一瞬、呆気にとられたような顔をした。

 それから、禊が舌打ちをするのが聞こえた。

 何かと思ったが、すぐにわかった。

 ()()()

 

「…………ええ。ええ、貴女はそう言うでしょうね。禊さん」

 

 視線を、そちらへと向ける。

 するとそこに、足を引きずるようにして――何故か下腹部のあたりを押さえながら――やって来る、少女の姿が見えた。

 もちろん、誰かなどと聞く必要も無い。

 

「瑠衣カ」

「ええ、ええ。私です。()()()

 

 はあ、と、苦し気な吐息を漏らして、瑠衣は頷いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 久しぶりに、()()()()を吸ったような気がする。

 これまでの記憶は、薄い霧に覆われたかのようにはっきりしない。

 ただ1つわかっていることは、自分が失敗したということだった。

 目の前で立っている瑠花()の姿を見て、そう思う。

 

「うわ、ひっどい顔」

「そこは触れないでいただけると……」

 

 禊に言われずとも、今の自分が酷い状態なのはわかっている。

 まず、あらゆる意味で()が足りない。

 身体の中にあった全能感に近い力も、今はまったく感じ取ることが出来ない。

 何より()()()()()が最悪だった。

 

 あんな起こされ方をすれば、誰だって絶不調で目覚めるだろう。

 おかげで今も下腹部に鈍痛が残っている。

 けれどそのおかげで、自分は起きることが出来た。

 起きることが出来たならば、立ち上がらなければならなかった。

 何故ならば、それが。

 

「マサカトハ思ウケド」

 

 瑠衣の手にある小太刀の一振りを見て、瑠花は言った。

 

「ソノ身体デ戦ウツモリ?」

 

 わかっている。

 瑠花は、瑠衣が持っていた力のほとんどを奪い取って行った。

 何しろそのあたりに敏感な禊が向かって行った程なのだ。

 瑠衣の手元に残っている力など、言ってしまえば残りかすのようなものだろう。

 

「それでも」

 

 それでも、責務というものがあるだろう。

 責任というものが、あるだろう。

 何の責務か、何の責任かと言われるかもしれない。

 もはや鬼狩りでも、煉獄家の一員でもない自分に課せられた何かがあるのか、と。

 

 ()()

 今は、はっきりと「ある」と言える。

 それは、目を覚ました自分が最初に見たあの眼差しを目にした時に、確信した。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

「意地ってものが、あるんですよ」

 

 それにだ。

 何よりもまず、誰しもが忘れているのかもしれないが、そもそも論としてだ。

 片足を軽く地面から上げながら、瑠衣は言った。

 それはきっと、すべての()に共通するものだった。

 

()()()()()()()()()、面倒を見るのは妹の義務でしょう……!」

 

 ()()()()、と。

 足裏で地面を叩くようにしながら、瑠衣の身体が上下に跳ねていく。

 とんとん、とんとん、と。繰り返し、小刻みに跳ねた。

 それはもはや、懐かしいとさえ言えるような、そんな動作だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 日輪刀の色は、適性のある呼吸によって決まる。

 いわば天性の才能がそのまま表れるわけだ。

 そして己の()()に戦闘を依存してきた瑠衣は、結局のところ。

 どこまでも、風の呼吸の才に恵まれていた、と言える。

 

(私の力を奪い取ったとするならば、瑠花(姉さん)は本当の意味で不死身の存在ということ)

 

 四方を()()()()ながら、瑠衣は瑠花の様子を窺っていた。

 瑠衣の動きはすでに人智を超えたものだが、しかし当然のように瑠花は目で追ってくる。

 身体を向けて来ないのは、どこから攻撃されても対応できるという自信があるからだろう。

 

 ここが開けた空間だというのも、瑠衣にとっては不利だった。

 例えば道場や森林のような限定空間であれば、左右だけでなく上下にも跳ねることが出来た。

 だが、今はそれを言っても仕方がない。

 それに、そもそもそこまでの体力的な余裕が無い。

 

(全力で動けるのは、保って……数分……!)

 

 感覚でわかる。

 意識が覚醒したとは言え、()()()()()()は取り戻せない。

 今の自分は、言ってしまえば絞り切ったスポンジのようなものだ。

 いくら振っても水気は出て来ない。

 

(短期決戦、で……!)

 

 そして、()()()()()

 その呼吸音は、かつては良く聞いていたもの。

 しかし今では、懐かしいもの。

 ただ100年前に体得したその呼吸は、今でも瑠衣の身体に良く馴染んだのだった。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 突進しながらの斬撃。この型は、瑠衣が最も多用する技だった。

 思えば、師範である不死川もこの技を最も得意としていた。

 それはこの技が、移動しながら攻撃できるという合理的なものだからだ。

 

「……意外ですね」

 

 攻撃が受け止められることは、想定していた。

 四方を跳び、突進して、全力の斬撃。

 それを容易く受け止められたとしても、瑠花の力を思えば不思議ではない。

 

「別ニ、大シタ意味ハ無イヨ」

 

 瑠花は、血で作った刀で瑠衣の斬撃を受け止めていた。

 その気になれば指一本で受け止めることも、折ることも出来たはずだった。

 それを、わざわざ血刀で受け止めた。

 擦れ合う刃から、ギリギリという音が響いていた。

 

「……ふふ」

「何ガオカシイノ」

「ええ、いえ。何と言えば良いのか」

 

 繰り返しになるが。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 今までこんな風に考え方たことも無かったが。

 

「意外と、()()()()()だったのかもしれませんね」

 

 そう言って、瑠衣は受け止められた日輪刀の刃を――瑠花ではなく、自分の刀の――握った。

 以前であれば、皮膚でさえ強靭な硬度を誇る瑠衣の手が傷つくことは無かっただろう。

 だが今は違う。皮膚は破れ、傷口が開き、血が流れる。

 ()()()()()

 

「何ヲ」

 

 その血が。

 

「……『()()』……!」

 

 紅く、燃え上がった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 肌が、乾いていた。

 いや、()()()()()()

 座り込んだまま立ち上がれずにいる禰豆子を、炭彦は支えていた。

 その禰豆子の顔が、まるで陶器が剥がれ落ちるように罅割(ひびわ)れていた。

 

「禰豆子さん、禰豆子さん……!」

「うん、うん……大丈夫だよ」

 

 小さな声で喋るだけで、唇が割れて剥がれそうだった。

 壊れかけの硝子細工のようだ。

 炭彦は、禰豆子の身体を支えるために肩に腕を回している。

 その手から伝わってくるのは柔らかさでも温もりでもなく、頼りない固さだった。

 

 指先から感じるパキパキという感触を、他にどう表現すれば良いのかわからなかった。

 わかるのだ。

 この後どうなるのか。医者でもない炭彦にさえわかる。

 だがそれを口にすることは、恐ろしくて出来なかった。

 

「……瑠衣さん、は……」

「瑠衣さんは」

 

 炭彦が顔を上げるのと、火柱(ほばしら)が上がるのは、ほとんど同時だった。

 その火柱の中心にいる瑠衣の背中を、炭彦は見つめていた。

 

「瑠衣さんは、戦っています」

「そう……良かった……」

 

 心の底からほっとした顔で、禰豆子は微笑んだ。

 彼女自身はもう、自分の目で瑠衣の姿を見ることが出来ない。

 

「私、の……力。ほとんど、全部……あげちゃった……から」

 

 つい先ほど、禰豆子は瑠衣を起こした。

 鳩尾を殴りつけるという乱暴な起こし方だったが、確かに瑠衣の意識は覚醒した。

 けれどその代わりに、禰豆子はあるものを支払った。

 すべてを、瑠衣に託したのだ。

 

「だか、ら」

「禰豆子さん、もう喋らないで……!」

 

 禰豆子は一応、鬼舞辻無惨系列の鬼ということになる。

 しかし彼女自身の資質の高さによって、独自の進化を遂げ、系列を外れた特異な鬼だった。

 人間の捕食が出来ない彼女の補給方法は、睡眠しかない。

 非効率的だが、今までは何とか凌いできた。

 

 しかし人間がそうであるように、睡眠による回復にも限界はある。

 禰豆子の今の状態は、それを超えてしまった結果だった。

 それが意味するところを、もちろん、禰豆子自身も理解していた。

 理解していて躊躇しない。それが、竈門禰豆子という少女だった。

 

「だから、これだけ……」

 

 禰豆子の手が、炭彦の手を掴んだ。

 熱い、と、思った。

 力は弱々しいのに、焼け付くような熱さがあって、炭彦は小さく呻いた。

 

「少ない、けど……大事に、だい、じに、つか……うん、だよ……」

 

 禰豆子の声は、まるで祖母が孫にお小遣いをあげるような、そんな色合いが含まれていた。

 けれどその熱さは、明らかにそれ以上の何かを炭彦に伝えてくれていた。

 その熱さに、炭彦は呻き続けていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「ウオオオオオオオオオオオオオオッッ!?」

 

 瑠花が、悲鳴を上げていた。

 『爆血』の炎に巻かれて、悲鳴を上げていた。

 ()()()()()

 完全無欠なはずの瑠花に、『爆血』の火炎が効いていた。

 

「……何で燃えてんの、アイツ?」

 

 禊の口から出た疑問は、当然のものだった。

 瑠衣は鬼を喰う鬼だ。血鬼術でさえ例外では無い。

 その力を得た瑠花が、血鬼術の炎で燃えるのはどういうことだ。

 そもそも、なぜ瑠衣が禰豆子の血鬼術を使えるのか。

 

 今の瑠衣には捕食能力は無いはずだ。

 しかし現実に、瑠衣は禰豆子の血鬼術である『爆血』を使った。

 これはいったい、どういうことなのか。

 

()()()()()()()()()()()

 

 その時、禊に話しかけてくる男がいた。

 犬井が、何食わぬ顔で――しかし微妙にボロボロな姿で――禊の傍にやって来て、そう言った。

 

「譲ったァ?」

「あの禰豆子ちゃんって子が、瑠衣ちゃんにさ。こう、ぼうっ、とね」

「…………ああ。()()()()()ってことね」

「ご名答」

 

 禊が連想したのは、火移りだった。

 貰い火と言った方が意味は通りやすいか。

 言葉の意味としては必ずしも良い意味では無いが、要は他人の火を取るということだ。

 松明(たいまつ)から松明へと、火を移すようなものだ。

 

「良い子ちゃんらしいと言えば、らしいかもね」

 

 簡単に言っているが、尋常なことではない。

 血鬼術は多くの場合、その鬼の根幹を表している。

 それは性質であったり、深層心理の形であったり、色々だ。

 そしてだからこそ、同じ血鬼術は1つとして存在しないのだ。

 

 血鬼術を譲るということは、いわば自分の心臓を抜き取って相手に移植するようなものだ。

 普通やらない。と言うより、出来ない。

 もしも仮に、出来る者がいるとすれば。

 その人物はきっと、他人のためなら自分の持ち物を分け与えてしまうような、超がつく程のお人好しだけだろう。

 

「つまらない血鬼術だわ」

 

 心の底から、禊はそう言った。

 

「どこへ行くんだい?」

「決まっているじゃない」

 

 『爆血』の炎が弱まるのを見て、禊は歩き出した。

 

「ぶっ殺しに行くのよ――――二人ともね」

 

 それを聞いて、犬井は肩を竦めた。

 もちろん禊はそんな犬井に見向きもしなかったし、犬井も期待していなかった。

 肩を竦めた後、犬井も歩き出したのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 息が切れて、瑠衣はその場に膝をついてしまった。

 やはり今のこの身体では、全集中の呼吸を使った全力戦闘は数分と保たない。

 せいぜいが、『爆血』の不意討ちを喰らわせるのが関の山だ。

 

「ウオオオオオオオオオオオオオオッッ!?」

 

 『爆血』の炎に焼かれて、瑠花が悲鳴を上げていた。

 この炎、『爆血』。この炎で、禰豆子は瑠衣の捕食を防いでいた。

 逆に言えば、瑠衣はこの炎の()()を突破できなかったのだ。

 そして瑠衣が攻撃に使えば、瑠花は防御できないかもしれないと思った。

 

 掌を見つめると、そこに不思議な紋様が刻まれていた。

 それは、禰豆子の鬼化が進行した時に浮かび上がる紋様に良く似ていた。

 そして実際、それは禰豆子の『火移し』の血鬼術によって刻まれたものだった。

 自分の力を他人に分け与えるため()()の血鬼術。

 禰豆子らしい、優しい血鬼術だった。

 

(姉さん……)

 

 炎に巻かれて苦しむ瑠花を、瑠衣は見つめていた。

 その顔には、複雑な感情が見て取れる。

 喜ぶわけでもなければ、疎むわけでもない。

 これは、やらなければならないこと。

 

「お、何だよ。もしかしてもう終わっちまったのか?」

 

 そう言いながら姿を現したのは、獪岳だった。

 何故か微妙にズタボロになっていて、まるで今しがた一戦交えて来たかのようだった。

 

「獪岳、また喧嘩ですか?」

「おう、当然勝ったのは俺だ」

 

 どうやら、喧嘩してきたばかりだったらしい。

 良い年をして何をしているのかとも思ったが、今の自分の様子を客観的に俯瞰(ふかん)してみて、やめた。

 とても人のことを言えるような立場では無い、と思ったからだった。

 

「それで、もう終わったのか」

 

 炎に包まれる瑠花を見て、獪岳がそんなことを言った。

 瑠衣もまた、瑠花を見つめる。

 『爆血』の炎は、確実に瑠花を捉えている。 

 その手応えは、瑠衣の掌に確かにあった。

 しかし、だ。

 

「…………いいえ」

 

 残念ながら、そして想定通り、終わりではない。

 むしろ逆だ。

 ()()()()()

 

「むしろ、大変なのは……ここからですよ」

 

 瑠花を巻いて上がる『爆血』の火柱。

 煌々と揺れるその炎の中から、瑠衣を見つめる眼があった。

 まるで獰猛な肉食獣が暗闇の中からこちらを見つめているような、そんな眼差しだった。

 ――――金色の瞳が、瑠衣を見つめていた。




最後までお読みいただき有難うございます。

かつての敵の技を使う。

……好き!(挨拶)

それでは、また次回。


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第89話:「紅炎」

 自由とは何か?

 私は時々、考えることがある。

 人間は誰しも、それこそ古来から自由を求めて来た生き物だ。

 そして人間は、実に多くのものから自由になりたいと願う生き物だ。

 

 例えば抑圧。規制。束縛。

 それは政治的なものであったり、所属するコミュニティによるものであったり。

 あるいは、親や家族や友人、というものも含めることが出来るだろう。

 濃淡の差はあれど、一度はこうしたものから自由になりたいと、考えたことはないだろうか?

 

 他に例示するとすれば、そう。

 能力、というものもあるかもしれない。

 人は誰であれ、自分の能力の限界というものを有している。

 その限界のために、欲しいものや望む結果に手が届かない、という経験は誰でも持っているだろう。

 そういう限界を取り払い、何でも意のままにしたいと思ったことはないだろうか?

 

 後は――――寿()()

 あるいは健康、怪我、病気。()()()()()()()()()()

 すなわち、死からの自由。

 ()()()()だ。

 それこそはまさに、古来から数多の人間が求めては果たせなかった最大の()()だ。

 

「モシモ」

 

 もしも、()()を手に入れることが出来たとしたら?

 あるいは、手に入れることが出来る位置に立ったとしたら?

 人間は、どうするだろうか。

 私は、どうするのだろうか。

 

 手を伸ばすのか。それとも、目を逸らすのか。

 私は、()()()()()()()()()()()人間だ。

 自由を掴んでほしかった。

 何ものにも縛られず、自由な世界を歩いてほしかった。

 欲しがって、ほしかった。

 

「モシモ」

 

 もしも、自分が()()を手に入れられるとしたら。

 ()()を持っていた者が投げ捨てたそれが、目の前に転がっていたとしたら。

 私は、どうするのだろうか。

 どうするべき、なのだろうか。何かをするべきだったのか、逆に、何もすべきでは無かったのか。

 

 ――――考えても、仕方がない。考えていても、仕方がない。

 思考の湖に身を浸していても、答えなんていうものは、浮かんで来たりはしないのだから。

 だから私は、拾うことにした。

 元々、考えることは苦手だった。だから、行動することにした。

 行動してしまえば、後はもう、やるだけなのだから。

 

「モシモ、私ガ――――」

 

 これはそんな、()()()の話――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 メドゥーサ、という怪物を知っているだろうか。

 蛇の髪を持ち、見た者を石に変える魔眼を持つ神話上の存在だ。

 『爆血』の炎の中から現れた存在は、まさにそんな容貌をしていた。

 

 急激に長く伸びた髪の毛は、1本1本が紅く燃えて蛇のように波打っていた。

 金色の虹彩はいよいよ輝きを強めて、その瞳を見つめていると身が竦むような感覚を相手に与えた。

 瑠衣と同じく少女体のままで止まっていたはずの肉体は、数歳ほど成長しているように見えた。

 細い輪郭。しかし目元が鋭い。その風貌は、瑠衣の記憶を刺激した。

 

「……母様……」

 

 煉獄瑠火。瑠衣の育ての母だ。

 大人の年恰好になったせいか、本当にそっくりだった。

 違いがあるとすれば、顔や身体中に走る黒い幾何学模様だけだ。

 ()

 剣士の身には一部にしか浮かび上がらないそれが、全身に浮かび上がっている。

 

「……全盛期ッテサ」

「……?」

 

 声質も、変わっていた。

 少女らしさの残る高い声から、落ち着いた低い声に。

 そしてそれは、まさに母の声だった。

 

「人間ノ全盛期ハ、18歳ッテ話ガアルヨネ」

「……? 何の話です」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 例えば鬼になる時、基本的にその時の年齢で鬼に変化する。

 中には肉体が大きく異形化する――手鬼や玉壺のような――場合もあるが、多くの場合は、その時の肉体年齢が基準になる。

 ただ鬼の場合、人間を喰らうことで成長するため、全盛期という言葉は実は当て嵌まらない。

 強いて言えば、最も多く人間を喰らった時が全盛期と言える。

 

「デモソレハ身体能力ダケヲ見タ場合デアッテ、生物学的ニハ違ウヨネ」

 

 もちろん個人差はあるが、人間は概ね10代後半に身体能力のピークを迎える。

 特に女性の場合は、7の倍数で歳を取ると呼ばれる。

 すなわち14歳から21歳にかけて身体能力の向上が終わり、生物として成熟期を迎える。

 そしてその成熟期の最後を迎える7の年。その年齢。つまり今の彼女の肉体年齢は。

 

「28歳。今ノ私ノ肉体年齢ガソレダ」

 

 人間の女性が最も力強く、生命力に溢れ、最も充実する時代。

 その年齢にまで肉体を強制的に成長させ、固定化する。

 基盤となる肉体が絶頂期を迎えた状態で、瑠花は瑠衣の力を完全に我が物とした。

 それが意味するところは、つまり。

 

「キミハ私ニ勝テナイ」

 

 状況は、絶望的だと言うことだ。

 

    ◆  ◆  ◆

 

 煉獄瑠花は、奇跡の存在だ。

 鬼の女から生まれた()()の少女、瑠衣。

 その瑠衣の中で、意識だけの存在として瑠衣の中に残り続けた鬼の娘。

 

 それが今、青い彼岸花を――瑠衣の口を通して――飲み、さらには瑠衣の体内に巣食い()()()いた鬼舞辻無惨の細胞をも取り込んだ。

 鬼子の出生。青い彼岸花。そして無惨。

 ()()()()()()()

 

「……ぞっとしませんね」

 

 それを今朝まで自分の身体の中に持っていたと言うのだから、恐ろしい話だ。

 ゆっくりと立ち上がり――というより、機敏に立ち上がることがもはや難しい――ながら、瑠衣は変化した瑠花を睨んだ。

 なるほど、こうして立ち合うだけで、生物としての力の差をひしひしと感じる。

 けれど、そんなことは。

 

「カンケーねェよなあ」

 

 ――――そう言ったのは、獪岳だった。

 もちろん、彼もまた瑠花の変化の意味を理解している。

 生物として別のステージに立っている、ということを肌で感じている。

 そういう感性においては、彼は誰よりも敏感だった。

 

「お前がどんだけ凄いのかなんて、カンケーねーんだよ」

 

 それでも、彼は()()()()にいた。

 何故か、なんて、それこそ口にする必要はない。

 獪岳の表情を見れば、説明の必要など無いからだ。

 

「気に入らねェ」

 

 嗚呼、と、瑠衣は思った。

 同期の彼を、現役時代はずっといがみあってきた彼のことを、想った。

 彼はいつだって、()()()()()

 今も、怒っている。

 それがわかって、何故か無性に――ほっとした。

 

「オイ」

 

 そして、もう1人。

 

「お前も何か言ってやれ」

「……はあ? 別に言いたいことなんて特にないわよ。()()()()()

 

 特に隠れるでもなく、隠すでもなく、文字通り堂々と、禊もやって来た。

 そして「言いたいことなど無い」と言いつつも、形の良い顎に指で触れながら、ふむと考えて。

 

「でも、そうねえ。強いて言えば……」

 

 禊は、小さく首を傾げるようにして獪岳に視線を向けた。

 その意味するところを理解したのか、獪岳も不意に笑った。

 意味が理解できなかった瑠衣は、2人の間で「ん?」と、ただ嫌な予感を覚えた。

 そして何か不味い気がしたので止めた方が良いかもと思ったが、今までの付き合いの中で、瑠衣の制止が間に合ったことは無かった。

 もちろん、今回も同じだった。

 

「「()()()()()()()」」

 

 2人はほぼ同時に、そう言った。

 普段は真逆な癖に、こういう時に限って息が合う。

 そして言われた側、つまりは瑠花だが、彼女は2人の言葉を聞くと、()()()()()()()()()

 それはそれは、綺麗な笑みだった。

 

「あ」

 

 と、瑠衣が声を漏らした、次の瞬間。

 瑠花から放たれた光が視界を焼き、次いで、衝撃が来た――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 はっ、と気が付いて、桃寿郎は()()()()()

 彼はつい先ほどまで、全速力で駆けていた。

 その彼がどうして()()()()()()

 いや、()()()()()()()()()()()()

 

 桃寿郎自身、すぐにはわからなかった。

 だが頭を打ったせいか、ガンガンと痛む後頭部が彼に何が起こったのかを思い出させてくれた。

 そうだ。自分は。

 目的地と思しき場所に近付いた時、()()()()()()()()()

 

「うわっ、うわああああ!」

「し、消防車……いや、救急車かパトカーか!?」

「そんなこと言ってる場合か、まず逃げ……()()()()()()()()()()ッッ!?」

 

 周囲が騒がしかった。

 赤い火の粉が視界の中でちらついていて、頬や肌には熱を感じた。

 焚火(たきび)をした時に感じるような、そんな熱だった。

 しかし目の前で起こっていることは、そんなレベルでは無かった。

 

()()()()! いや、火事……()()()()()ォ――――ッ!!」

 

 公園、があった場所が、火に包まれていた。

 その炎は周辺の建物にまで広がりかけていて、火事に気付いた人々が叫びながら逃げ惑っていた。

 そしてその中に、公園が爆発した、というものがあった。

 当然ながら、普通の公園に爆発するような物など無い。

 

 つまりこの火事は、爆発は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その意味に気が付いた人々はさらに恐慌状態に陥り、収拾がつかない程に混乱が広がっていく。

 炎の熱と恐慌の中で、桃寿郎は呻きながら立ち上がった。

 

「炭彦……」

 

 行かなければならない。

 彼を突き動かすのは、その思いだけだった。

 頭がガンガンと痛もうと、身体が軋もうと、行かなければならない。

 

 不意に何かに気付いて周囲を見渡す。

 目的の物は足元に落ちていて、ほっと息を吐いた。

 それを掴んで、足を半ば足を引きずるようにして駆け出した。

 

「お、おいキミ。危ないぞ!!」

 

 そんな声を振り切って、桃寿郎は燃え盛る公園の中へと跳び込んだ。

 炎に焼かれた空気のせいで、肺が痛んで咳き込んだ。

 口元に手を当てて、目の端に涙を浮かべながら、桃寿郎は辿り着いた。

 

「おお……!」

 

 そこで彼は、まるで神話のような光景を見た。

 炎の怪物と、それと戦う剣士達の姿を。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――風の呼吸・壱の型『塵旋風・削ぎ』。

 火焔の中を、瑠衣は駆けた。

 火の粉が頬を叩き、熱風が眼球を焼く。

 だがそれでも、瑠衣が刃先を狂わせることは無かった。

 

「……これは、髪の毛……!?」

 

 寸分狂わぬ突撃の刃は、しかし瑠花に届くことは無かった。

 日輪刀の刃に巻き付いた髪の毛――紅く燃える、瑠花の髪――によって、攻撃を止められてしまった。

 そして瑠衣にとって、動きを止められる――脚力を活かせないという展開は、最も悪い展開だった。

 

「……!」

 

 そして瑠花が、瑠衣の眼前に掌を向けた。

 意思は明白だった。

 しかし刀を手放すわけにはいかない。

 だから瑠衣は日輪刀を握ったまま、全身に力を込めた。

 

「オラァッ!」

 

 ――――雷の呼吸・参ノ型『聚蚊(しゅうぶん)成雷(せいらい)』。

 小さな、しかし激しい連撃が、瑠花の腕を()()()

 それはまるで金属の棒でも打ち合ったかのような、武骨すぎる音だった。

 斬撃が通らずに打撃に終わったのだ。

 

(硬ェッ! 鉄の塊でも殴ってるみてえだ!)

 

 獪岳の攻撃を受けても、瑠花の腕はびくともしなかった。

 瑠衣の拘束は解けない。

 獪岳は舌打ちして、着地と同時に反転しようとした。

 

「アンタは温いのよ」

 

 ――――欺の呼吸・壱ノ型『石跳び』。

 分解した短槍の穂先を殴りつけて、禊は瑠花の顔面を襲った。

 腕などという悠長なことを言わずに直接急所を狙いに行くあたり、性格が良く出ていた。

 しかしそれも、先程の獪岳の攻撃と同じ状態に陥った。

 

 やはり、鉄の塊のような防御力に攻撃を防がれたのだ。

 ギリギリと槍が軋み、禊がいくら力を込めても皮一枚破ることが出来ない。

 普通に言っているが、これは異常事態である。

 かつての上弦の鬼――いや、鬼舞辻無惨でさえ、斬ることも突くことも出来た。

 

「カウンターノ技デ先制シチャ駄目デショ」

 

 もう一度言うが、異常事態だ。明らかにおかしい。

 ついさっきまでは、瑠花も他の鬼と同じように斬れる相手だったはずだ。

 実際、禊が一度は喉を貫いたりしていたではないか。

 

(おいおいマジか、こいつ……)

(つまりコイツは、今この瞬間に()()しているんだわ)

()よりも硬く、体内にあるもの。それは……まさか……!)

 

 そしてこの時、3人はほぼ同時に同じ仮説(答え)に辿り着いていた。

 しかしそれをそれぞれが次の動作に活かすよりも数瞬早く、瑠花の方が先に動いた。

 身を沈めて3人の視界の下に潜り、熱気と共に紅い髪が蠢いた。

 

 まず日輪刀に巻き付いていた髪が伸び、それでも手を放さなかった瑠衣ごと持ち上げ、そのまま地面に叩きつけた。

 獪岳と禊はそんな瑠衣には構わず、左右から瑠花を襲った――――が。

 2人が前に跳んだ直後、禊の腹部と獪岳の胸部には、それぞれ瑠花の踵と掌が打ち込まれていた。

 

「ドーン」

 

 それで終わらない。

 崩れた3人ともを、異常に伸びた髪の毛で絡め取り、縛る。

 そしてそのまま、先程の瑠衣のように地面に叩きつけた。

 何度も。

 ――――何度も。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()

 ()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()

 

 人間が地面に叩きつけられる音に、炭彦は身を固くしていた。

 目が乾いて痛みさえ感じる程だったが、瞬きをすることも出来なかった。

 浅い呼吸を繰り返しながら、目の前の出来事を見つめていることしか出来なかった。

 普通に考えれば、当たり前のことだ。

 

「う……あ……」

 

 炭彦は、剣士では無い。

 とは言え、透き通る世界への入門を果たした彼は、並の剣士相手なら問題にしない実力をすでに備えてしまっている。

 そしてだからこそ、瑠花の恐ろしさがわかってしまった。

 

 瑠衣達3人は、それぞれに最善の動きをしていた。

 透き通る世界を通じて観察していた炭彦には、それが良くわかる。

 しかしそれが、まるで歯牙にもかけられていなかった。

 今もまた、瑠衣達は髪の毛に絡め取られて地面に叩きつけられ続けている。

 

「や……やめ……」 

 

 最初こそ何かしらの反応をしていたが、それもだんだんと弱くなっていた。

 コンクリートや岩でこそないが、固い地面に叩きつけられているのだ。

 反応が弱くなるのは、弱っていくのは、当たり前だった。

 死んでしまう。当たり前に、そう感じた。

 

「やめろ――――」

 

 敵うわけがない。どうにかできるわけがない。

 しかしそれでも、炭彦は立とうとした。

 立って、止めに入ろうとした。

 

「だいじょうぶ」

 

 そして、そんな炭彦の手を取って、禰豆子が止めた。

 彼女は相変わらず衰弱したままだったが、止める力は、不思議と強かった。

 

「ね、禰豆子さん。大丈夫って、でも!」

「だいじょうぶ、だよ」

「……っ」

 

 禰豆子の微笑みが余りにも優しくて、炭彦は口を噤んだ。

 禰豆子は横たわった姿勢のまま頭だけを動かして、戦いの様子を眺めた。

 

「良く視て」

 

 言われて、炭彦は顔を上げた。

 そこには、相変わらず地面に叩きつけられる瑠衣達がいた。

 良く視ろと言われても、何も変わっていない。

 

「誰も、()()()()()()()()()()()()()

 

 また言われて、しかし今度ははっとした。

 そして事実、その通りだった。

 瑠衣も、他の2人も。

 いつ死んでも、意識を失ってもおかしくない衝撃の中にありながら、日輪刀だけは手放していなかった。

 

「瑠衣さん……!」

 

 一瞬、瑠衣の目がこちらを見た。

 そんな気がした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 最終的に、地面の方が根負けした。そんな風だった。

 あるいは全身から流れ出た血が滑って、ようやく瑠衣は地獄から解放された。

 (もっと)も、解放された先も地獄には変わりないのだが。

 顔面から、地面に落ちた。

 普通ならそれだけで悶絶ものだが、幸か不幸か痛覚はもうまともに機能していなかった。

 

「……随分と、好き放題……して、くれて……」

 

 地面に手をついて身を起こそうとすると、頭からボタボタと垂れた血が手の甲を濡らした。

 いや、両手はすでに――と言うより、全身で血に濡れていない箇所はもはや無いので、今さら新たに血を被ったところで同じことだった。

 こちらはもはや不死身ではないのに、思う様に痛めつけてくれたものだ。

 

 周囲もまた、完全に破壊され尽くしてしまっていた。

 人間大の塊を何回も、あるいは何十回も叩きつけていれば、公園など跡形も残らないだろう。

 遊具も樹木草花も根こそぎ吹き飛んで、地面は罅割れ陥没して月面か何かのようだ。

 おまけに、周囲は大火事。

 こうなってしまっては、もうこの公園が元の姿を取り戻すことはないだろう。

 

「我が姉ながら……風情が、ない、なあ……」

 

 必死に受け身を試みたことが功を奏したのか、身体はまだ動いた。

 とは言え、もはやまともに動く箇所の方が少ない。

 考える頭と、利き腕と利き足。心臓に肺、脊椎と背骨。

 それらを最低限のダメージで庇うのが、精一杯だった。

 それと、日輪刀だ。

 

「やれ、やれ」

 

 日輪刀を杖代わりにして、膝を着いた。

 視界が赤いのは、眼球の血管が破裂しているせいか、あるいは顔面を濡らす血のせいか。

 

「さて……」

 

 それらには構わず、瑠衣は瑠花を正面に見据えた。

 追撃、の素振りは無い。

 余裕か、油断か。あるいは他に何があるのか。

 しかしそれらについては、瑠衣はあえて考えなかった。

 

「あの硬度……」

 

 考えるのは、なぜ日輪刀を通さない程に硬化できるのか、ということだった。

 その正体については、何となく見当がついていた。

 何しろ()()()()()()()()()()

 だから何をすれば同じ効果が得られるか、という風に考えることは、不可能では無かった。

 

「あの硬度を、抜くには」

 

 とは言え、1人では厳しい。

 そう思って、左右を見た。

 そして、吐息のように小さな声で、言った。

 

「……手伝って……ほしいんですけど……」

 

 答えは、大きな声で返って来た。

 

「「嫌(よ)(だね)」」

 

 そんなあ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 掌を確認すると、禰豆子に刻まれた『爆血』の痣が少し薄くなっていた。

 時間なのか、発動回数なのかはわからない。

 元々、借りものの血鬼術だ。自由自在

 ただ直感として、あと使えて――。

 

「あと、2回ってところです」

「ふうん」

「あっそお」

 

 誤解のないように言っておくが、禊と獪岳の状態も、瑠衣と大差なかった。

 あれだけ地面に叩きつけられれば当然だ。

 激しく血を流し、身体中の骨が折れ、筋肉が断裂している。

 3人の無事な部分を合わせればようやく人間1人分になるだろうか、という状態だった。

 

 そして目の前には、燃えるような紅い髪を蠢かせる瑠花の姿がある。

 もちろん、ダメージや疲労などは無い。

 さらに不味いことに、公園の周辺では火災が起きているらしい。

 空気中の酸素が減り、徐々にだが呼吸もしにくくなってきていた。

 

「外部からの攻撃は、あの硬化で弾かれてしまいます」

「見たらわかるわよ」

「あんなん余裕だっつの」

「ええと……」

 

 瑠花がこちらに向かって歩き出すのが見えた。

 幸い、投げ飛ばされたおかげで瑠花とは今距離がある。

 とは言えもちろん、そこまで時間がかかる距離でも無い。

 まして髪の毛の射程距離は相当に長い。

 

「このままだと、確実に……殺されます。でも、3人で一緒にかかれば」

「言われてるわよ」

「お前だろ」

「ううん……」

 

 今の瑠衣の状態では、いや獪岳も禊も、1人でこの状況を突破するのは困難だ。

 このままでは、何も出来ずにただやられてしまうだろう。

 禰豆子の『爆血』も、今の瑠花には怯ませる程度の効果しか期待できないだろう。

 

 だから、2人の協力が必要だった。

 3人で連携して、同時にかかれば、何とか戦えるはずだった。

 そしてそんなことは、2人ほどの剣士なら瑠衣に言われるまでもなく理解しているはずだ。

 しかし我の強い性格故か、それで協力してくれるような2人では無かった。

 

(たしか、昔……似たようなことがあったような……)

 

 もう100年以上前のことだが、思い出した。

 今となっては、ただ懐かしいと感じる。

 そして感じた懐かしさと共に、瑠衣はそれに倣うことにした。

 

「はあ……まあ、仕方ありませんね」

 

 嘆息1つ零して、瑠衣は言った。

 

「2人には、難しいお話でしたよね……連携とか。高度過ぎて」

 

 ビキ、と、何かが軋む音が聞こえた気がした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 3人が立ち上がるのを、瑠花は見ていた。

 しかしだからと言って彼女が何か対応する、ということは無かった。

 する必要が無かったからだ。

 

 瑠衣が『爆血』を使ったことは予想外だったが、それだけだった。

 今、瑠花の肉体は通常の強度に加えて、血鬼術によって()()が形成されている。

 髪が紅く燃えているのは、いわばその()()()だ。

 そして今の瑠衣達には、この副産物ですら突破することは出来ない。

 

「逃ゲタ方ガ良イト思ウケドネ」

 

 それは、実は瑠花の本心だった。

 瑠花は一言も、瑠衣達を皆殺しにするとは言っていない。

 と言うより、彼女の()()はすでに達成されている。

 だからこの場での戦いは、少なくとも瑠花にとっては無駄な行動だった。

 

「モウ一度言ウケレド。キミ達ジャ私ニハ勝テナイヨ」

 

 というより、戦う必要が無い。

 瑠花はかつての鬼舞辻無惨のように、同類を増やすということも無い。

 それはかつてその立場にあった瑠衣が一番よく知っているはずだ。

 煉獄瑠花には、同類は必要ない。

 

 何故ならば、彼女は1人ですでに完全だからだ。

 鬼舞辻無惨のように、あるいは人間のように、不足していない。

 充足している。だから、捕食や繁殖のような行為をする必要が無い。

 だからこの戦いは、本当に、無駄なのだった。

 

「……姉さんが、言ったんでしょう?」

 

 その時、立ち上がった瑠衣が言った。

 瑠花を真っ直ぐに見つめて、どこか皮肉そうな笑みを口元に浮かべていた。

 

()()()()()()()

 

 瑠衣のその言葉に、瑠花は一瞬、真顔になった。

 純粋に驚いた。そんな表情だった。

 しかしすぐに破顔して、頷いた。

 

「アア、アア。確カニ、ソウダネ。()()()()()()()()()()()

 

 そういうことならば、と、瑠花は思った。

 むしろ機嫌よく、迎え入れるように両手を広げて見せる。

 さあおいで、と、それこそ姉が妹にそうするように。

 

「ジャア、来ルト良イ」

「――――ええ、それじゃあ遠慮なく」

 

 ――――欺の呼吸・真弐ノ型『剣弾き』。

 瑠花がさらに一歩を進むのと、それはほぼ同時に放たれた。

 土の中か、あるいはそれ以外のどこかか。火の中かもしれない。

 しかし()()は――ここまでやっておいて――瑠衣ではなく、禊によって放たれた攻撃だった。

 

「遠慮ガ無イナア、本当ニ」

 

 死角から飛んで来た短槍。

 敵に気付かれずに仕込み、不用意に近付いたところを攻撃する。

 なるほど、禊らしい攻撃と言える。

 とは言え、それは普通の鬼が相手の場合だ。

 瑠花に対しては、死角からの奇襲など。

 

「――――効かねえよなあ!」

 

 振り向いた先、獪岳が日輪刀を構えていた。

 ――――()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 雷の呼吸・壱ノ型『霹靂一閃』。

 それは雷の呼吸の中で、()()必殺という言葉が似合う技だ。

 基本であり、奥義なのだ。

 呼吸は数多あれど、特定の技を、まして壱ノ型を奥義(必殺の剣)に昇華した呼吸は他に無いだろう。

 

 その証拠に雷の呼吸の他の弐から陸の型はいずれも、連続して斬撃を繰り出したり、相手の動きを拘束するような()()()ばかりだ。

 全ては相手を削り、壱の型(決め技)に繋げるための技だ。

 だから他の型を会得できても、壱ノ型ができなければ、雷の呼吸を極めたとは言えないのだ――――。

 

(……善逸よォ。お前は、壱ノ型(これ)しか出来なかったよなあ)

 

 我妻善逸。

 同じ師に師事した弟弟子――認めたことなど無いが――だった少年。

 もういない。何十年も前に死んでいる。死ぬまでに再会もしなかった。

 それでもあの憎らしい顔は、何故か今でも鮮明に思い出すことが出来た。

 

(ああ、苛々するぜ。何十年も鍛錬しても、俺は結局――――)

 

 壱ノ型『霹靂一閃』の肝は、脚力にあった。

 血管の一本まで集中して、足に溜めた力を爆発させる。

 そして爆発させた速度の中で刀を抜き、正確に相手の頚を捉える。

 それが、それがいかに困難であるか。

 

壱ノ型(これ)が、()()()()出来なかったんだからな……!)

 

 ――――雷の呼吸・陸ノ型『電轟(でんごう)雷轟(らいごう)』。

 獪岳の狙いは、瑠花の頚では無い。

 この加速の中で一点を狙う技量を、彼はついに習得することが出来なかった。

 口惜しさで死んでしまいそうな程だ。

 

 しかしその代わりに、雷鳴のような斬撃を周囲に飛ばした。

 速く鋭い無数の斬撃。

 だが繰り返すが、獪岳の狙いは瑠花の頚では無かった。

 死角から飛来した禊の短槍だ。

 短槍の速度に追いつくために、『霹靂一閃』の速さが必要だったのだ。

 

(刀デ刀ヲ……?)

 

 高速で擦過した金属が、嫌な音を立てる。

 ギャリギャリという、耳障りな音だ。

 すると不意に、宙を舞う短槍の刃に変化が起こった。

 

(刃ガ、(アカ)ク……!)

 

 赫刀化。

 刀を構成する鋼の温度が上がると、日輪刀は色が変わる。

 色変わりの刀。その真の意味がこれだった。

 そして温度が上がることで、太陽のエネルギーが増幅される。

 すなわち、鬼に対して効果が高まるのだ。

 

「喰らいなさい!」

 

 ――――欺の呼吸・真壱ノ型『器械人形』。

 赫刀と化した無数の短槍が、四方八方から瑠花に襲い掛かって来た。

 並の鬼、いや上弦の鬼であっても、この攻撃には手を焼くだろう。

 しかし逆に言えば、()()()()だった。

 この時、瑠花が感じたのは。

 

(……今サラ赫刀?)

 

 今このタイミングで、打つ手がこれか?

 僅かな、いや、正直に言ってかなりがっかりした。

 今さらこんなもので、自分がどうにか出来ると思っているのか。

 

「今サラコンナモノデ、何ガ出来ルノサ!」

 

 紅い髪の毛が、一気の広がった。

 それは鞭のように()()()、短槍を(ことごと)く弾き飛ばした。

 熱気が拡散し、爆風の如く周囲に襲い掛かった。

 

「……っついわね!」

 

 ――――欺の呼吸・真壱ノ型『器械人形』!

 熱風の隙間を、禊の日輪刀が奔る。

 しかしそれも当然、瑠花の髪の毛によって全て弾き飛ばされてしまう。

 何度やろうが同じだ。

 

 そう思い、瑠花の目がいよいよ禊や獪岳自身を向いた時だ。

 その段になって、瑠花は気付いた。

 ()()()()()()

 

「……? 何ノ音……」

 

 ()()()()という音が、頭上からした。

 良く視て見れば、獪岳が禊の日輪刀の1つを踏みつけて地面に固定していた。

 反対側は当然、禊が持っている。

 そしてその音は、2人の間――その空中から響いていた。

 

「「跳べ……!」」

「はい!」

 

 禊の鋼糸を足場に、まるで弓につがえられた矢のような姿で、瑠衣がそこにいた。

 そして次の瞬間、禊と獪岳の言う通り、鋼糸の反発を利用して、瑠衣が跳んだ。

 その手には当然、日輪刀。

 日輪刀の切っ先が、真っ直ぐに瑠花の胸を目掛けて突き出された――――。




最後までお読みいただき有難うございます。

また少し遅刻。

腹を切ってお詫びいたします(え)

それでは、また次回。


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第90話:「復職」

※姉妹百合表現が苦手な人はご注意ください。


 鈍い音がした。

 それは肌が裂かれ、肉が抉られる音だった。

 次いで、血が流れ出る独特の灼熱感と不快感。

 その感覚に、()()()身体がぐらついた。

 

「ソモソモサ」

 

 静かな口調で、瑠花は言った。

 

「刺シタトコロデ、私ニハ意味ガ無イッテワカッテイルデショ」

 

 瑠衣の刀は、瑠花の手の甲によって逸らされていた。

 一方で瑠花の爪は、瑠衣の胸を引き裂いていた。

 胸元の柔肌が痛々しく裂け、赤い鮮血が瑠花の手を濡らしていた。

 

 そもそもが、意味の無い行為なのだ。

 日輪刀では瑠花は(たお)せない。

 そんなことは瑠衣も、いやこの場にいる誰もが知っている。

 

「……ええ、もちろん」

 

 血で汚れた唇を開いて、瑠衣は言った。

 その表情は、意外な程に穏やかに見えた。

 少なくとも、目論見が外れた人間の顔では無かった。

 

 まだ何かあるのか、と瑠花は思った。

 この状況下で何か瑠衣に打てる手があるのだろうか、と。

 しかしいくら考えても、何もあるはずが無かった。

 

「マサカトハ思ウケド、後ロデコソコソシテイル奴ニ期待シテイルノ?」

「おっとお……」

 

 視線だけを後ろに向ける。

 するとそこには、犬井がいた。

 ()()()()()身を屈めて、隠れるようにしていた。

 その手には当然日輪刀があるわけだが、背中から斬られたとしても脅威にはならない。

 

 姿は見えないが、さらに気配を探れば、柚羽や榛名もどこかにいるはずだった。

 だが仮に2人が奇襲してきたとしても、瑠花には意味が無い。

 何度も繰り返すが、日輪刀では瑠花は殺せないのだ。

 いや、完全なる生物である瑠花を殺す方法など、もはやこの世に存在しない。

 

「いいえ」

 

 しかし、瑠衣は否定する。

 あらゆる意味で、否定した。

 

「貴女を殺すのは私です。姉さん」

 

 どうやって?

 そう視線で問う姉に対して、瑠衣は微笑んだ。

 血に濡れた顔で、微笑んだ。

 そうして、瑠衣は手を伸ばして来た。

 

 何をするつもりなのか、瑠花にもわからなかった。

 明らかに無理なことを、そして無駄なことを瑠衣はしている。

 そうとしか思えなかったのだ。

 だから何も対処せずに、()()を受ける羽目になった。

 

()()()()()

 

 瑠衣の両腕が、するりと瑠花の頚に絡みついた。

 このまま頚を取るつもりだろうか。

 いや違う。

 そのまま、瑠衣は瑠花に身を寄せて行った。

 やがて、2人の間の距離はなくなり。

 

「ンン……!?」

 

 ゼロになった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 キス。

 口づけ。

 口吸い。

 まあ、言い方は様々あるだろうが、行いは全て同じだ。

 

「ンン……!?」

 

 お互いの唇を、合わせることだ。

 瑠衣は目を閉じていたが、瑠花は目を見開いていた。

 だから瑠花は、瑠衣の青白い顔を文字通り間近で見ることが出来た。

 

 血を失ったせいか、瑠衣の唇は冷たかった。

 しかし柔らかで、慣れ親しんだ匂いが鼻腔を(くすぐ)った。

 流石の瑠花も、これには流石に虚を突かれてしまった。

 

「……グ!?」

 

 ()()()、と、瑠花の喉が動いた。

 何かを嚥下した。

 いや、鉄分めいたこの味を、瑠花は知っている。

 ()()

 

 ()()()()()

 このために、瑠衣はあえて瑠花の攻撃を受けたのだ。

 口内を己の血で満たし、そして瑠花に口付けた。

 その意図は明白だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

(瑠衣ノ、血……!)

 

 そして、瑠衣の血は今、()()()()()()()()()()()

 その血を瑠花に飲ませた。

 つまり、この後には。

 

「血鬼術――――『爆血』……!」

 

 ()()()()()()()()

 流石に、声を上げることも出来なかった。

 どれほどの達人も、あるいは強靭な防御力も、体内にまでは及ばない。

 血とも炎ともつかない何かが、びしゃりと瑠衣の顔を濡らした。

 

「えっぐいわね、色々と」

 

 禊がそう言った。

 もちろん、彼女達も瑠衣の作戦のすべてを理解していたわけではない。

 というより、話し合っている時間などは無かった。

 ただ何かあるだろうとは思っていたので、隙を作る手伝いをした。

 

「あいつは元々えぐいこと考える奴だよ」

 

 禊の日輪刀の1つを手の中で弄びながら――「触るんじゃないわよ」とすぐに鋼糸で引き寄せられた――獪岳が言った。

 同期の頃からの付き合いの彼が言うと、妙な説得力があった。

 

「あー、でもさ。おじさんの目にはさ」

 

 犬井はらしくもなく頬に汗など流しながら、珍しく言うかどうか迷っている様子を見せた。

 しかし迷ったところで目の前で起こっていることは変わらないので、観念したように、言った。

 

「あんまりさ、その……効いていないように、おじさんには見えるんだけどねえ」

 

 そう言う犬井の目の前で、瑠花が動いていた。

 己の血で濡れた瑠衣の顔を、瑠花が掴んでいた――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ぎしり、と、頭蓋骨が軋む音が聞こえた。

 それでもトマトのように潰されないだけ温情があるのだろう、と瑠衣は思った。

 そしてそれは、瑠花の()()の表れであることを、瑠衣は理解していた。

 

(痣が……!)

 

 瑠花の痣がどんどん広がり、全身を覆っていくのが指の間から見えた。

 それは肌のほとんどを覆ってしまい、もはや痣というより肌の色そのものが変化したと言った方が良かった。

 黒い女。金色の虹彩を放つ瞳だけが異彩を放っている。

 

「コレデ終ワリ?」

 

 ああ、他にもあった。

 口内に垣間見える赤い舌に、妙に鮮烈な印象を受ける。

 まるで今にもその口に飲み込まれてしまいそうな、そんな錯覚を覚えてしまった。

 

 体内で『爆血』が爆ぜたはずだが、効いているようには見えなかった。

 最初から効果が無かったのか、即座に再生したのか。あるいはその両方か。

 いずれにしても、あと2発しかない『爆血』の無駄打ちに終わったのは確かだった。

 瑠花には、まるでダメージは無い。

 

「く……!」

 

 自分の顔を掴む腕に、手をかけた。

 もちろんのこと、腕力で勝てる相手ではない。

 いくら力を込めても、瑠花の拘束を解くことは出来ない。

 

「他ノ連中モ役ニハ立タナカッタネ」

 

 禊や獪岳、あるいは犬井も、瑠花に有効打を与えることは出来ない。

 仮に柚羽や榛名がさらに加わったとしても、結果は同じだろう。

 何度でも言うが、煉獄瑠花は無敵だ。

 完全なる生物であり、唯一無二(アルテミット)の怪物(・ワン)

 

「そうですね……絶対に勝てません」

 

 そしてそれは、瑠衣が誰よりも良く知っている。

 つい先程まで自分がそうだったのだ。知らないはずが無い。

 知らないはずが無いのに、意味が無いとわかっていることを繰り返した。

 何度も、繰り返したのだ。

 

()()()()()()

 

 瑠衣がそう言った、次の瞬間だった。

 瑠花は自分の脇腹のあたりから、とん、と言う軽い音を聞いた。

 禊達かと思ったが、瑠花の鋭敏な感覚がそんな奇襲を見逃すはずが無かった。

 では何だ、と思い、視線をそちらに向けた。

 

「ハ……?」

 

 そこにいたのは、炭彦だった。

 あり得ない。まずそう思った。自分が気付かないはずが無い。

 そこには今の一瞬まで、誰もいなかった。

 ()()()()()()()()()()()()()()、人間の気配など無かった。

 

 だが確かに、炭彦はそこにいた。

 遠くを見ているような、近くを見ているような、そんな不思議な()を瑠花に向けて。

 その手に持った()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()

 かつて、珠世が限られた数だけ製造した薬品だ。

 その効能は、文字通り鬼化した者を人間へと戻すこと。

 より正確に言おう。

 珠代の薬の効能は、()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

「カ……ナ……ッ!?」

 

 馬鹿な、と、瑠花は思った。

 自分の肉体に注射器を刺されるまで、炭彦の存在に気付かなかった。

 いや、こうしている今も、炭彦の存在感は希薄なままだった。

 

()()を教えてくれたのは、貴女です……瑠花さん」

 

 透き通る世界。

 その領域に至った者は、他者の肉体が透き通って視えるようになる。

 さらには他者の肉体だけではなく、視界にある物――いや、自身の周囲にある全てを知覚することが出来る。

 それはさながら、自分以外の時間が遅くなったように感じる程。

 

 全集中の呼吸を習得した者がこの領域に達した時、彼の動きはすべて自然なままに行われる。

 闘気も剣気も、殺気も害意も、そこには存在しない。

 (もっと)も、竈門炭彦という少年には、最初からそんなものは無い。

 彼にあったのは、最初から1つだけだ。

 瑠衣を助けたい。それだけが、彼の行動原理だった。

 

「コンナ、モノ……デ……!」

 

 瑠花の肉体の中で、何かが急速に変化している。

 そしてそれは、全身に広がりかけていた痣がゆっくりと引いていくことで外見的にも把握できた。

 それはつまり、瑠花が弱体化した瞬間を全員が目撃した、ということだ。

 

「……今!」

「――――わたしに」

 

 瑠衣は、瑠花の手を放さなかった。

 むしろ掴んだ手に力を込めて、瑠花がそちらに一瞬、気を取られる。

 そしてその背に、猛禽類の如く跳びかかる者がいた。

 

「――――指図するんじゃないわよ!」

 

 ――――欺の呼吸・弐ノ型『面子』!

 二槍に分割した日輪刀で、禊が瑠花の背中に斬りかかった。

 ()()()()()()

 ぞぶり、という肉を引き裂く独特の感触が、禊の手に直接伝わって来た。

 

 ()()()()()

 その事実が全員に周知された瞬間だった。

 一瞬前まで無敵だったはずの肉体に、日輪刀の刃は通る。

 傷口自体はすぐに塞がり、再生力の高さだけは健在のようだった。

 だが攻撃自体は通る。それは大きな違いだった。

 

「今の貴女なら勝てそうですね――――姉さん」

 

 姉の手に爪を立てながら、瑠衣がそう言った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 人間は薬と呼び分けているが、その本質は毒と変わらない。

 相手の意思に関係なく、一度投与されれば、その肉体を()()()()()

 その意味において、薬も毒も違いはない。

 薬と毒の本質。それは、()()である。

 

「…………」

 

 最初の一瞬は、静かだった。

 だが次の瞬間、禊が斬り付けた背中の傷から、斬撃とは無関係に血が噴き出した。

 出血というより、内側からの圧力に耐え切れずに噴き出した、という方が正しそうだった。

 

「ガ……グ……!」

 

 体内で、意図しない変化が急速に起こっている。

 それもただの変化ではない。

 鬼の細胞を人間の細胞に変化させるという、異常事態だ。

 もはや共通理解のようになっている珠世の人間化薬だが、その作用はもはや神の領域に達していると言える。

 

 これがただの毒であれば、あるいは瑠花は即座に解毒しただろう。

 鬼舞辻無惨でも可能だった。いや上弦の鬼レベルの者なら、簡単に出来ることだ。

 だが珠世の作った「鬼舞辻無惨(とその系統)の細胞を根こそぎ滅する」というこの薬は、瑠花であっても容易には解毒が出来ない。

 何故ならば、薬の効能に対抗しようと動かす細胞そのものが「鬼舞辻無惨(系統)の細胞」だからだ。

 対応しようとする端から細胞が変質していくわけだから、対応そのものが出来ないのだ。

 

「……瑠衣イイイイイィィッッ!」

「悲しいですね、姉さん。結局、私達は()()()()()()()

 

 瑠衣と分かたれて純粋な鬼になってしまったからこそ、瑠花は人間化薬への耐性を失ってしまった。

 以前の状態であれば、愈史郎の鬼化促進薬に抵抗(レジスト)したように、珠世の人間化薬にも抵抗することが出来たはずだ。

 何故なら瑠衣は、()()()()()

 

 つまりは、ここに1つの残酷な事実がある。

 すなわち瑠花が瑠衣から奪った力は、結局は瑠衣の持ち物であって、瑠花の物ではない、という事実だ。

 結局、瑠衣と瑠花は違う存在だった。

 しかしそれは、当然と言えば当然のことだったのかもしれない。

 2人は同じ身体を共有する姉妹だが、しかし、同じ存在ではなかった。

 

「オ前……ッ」

「う、わ」

「はあい、駄目よぉ」

 

 ――――空の呼吸・壱ノ型『空裂』。

 注射器を刺した炭彦の背を、瑠花が掴む。

 そして掴んだその腕を、どこかから跳んで来た榛名が切断する。

 

「終わりです。――――終わりにしましょう。姉さん」

 

 妹の宣告に、姉が奥歯が噛む音が響いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 腕を切断されたからと言って、瑠花は行動を変えなかった。

 切断面から肉の鞭の如き触手を生み出して、炭彦へと伸ばす。

 注射器を打ち込むことに集中していた炭彦は、それに対応できない。

 

「炭彦君!」

 

 ――――水の呼吸・参ノ型『流流舞い』。

 そんな炭彦を瑠衣が胸に掻き抱いて跳び退(すさ)るのと、どこからともなく現れた柚羽が触手を撃ち落とすのはほぼ同時だった。

 目の前で弾け飛ぶ肉片に、炭彦が小さな悲鳴を上げる。

 

 それでも、彼は「透き通る世界」を閉じなかった。

 普通の人間には不可能な、超高度の集中。

 その(すべ)を教えたのが瑠花だと言うのは、もはや皮肉と言う他なかった。

 

「ハッハァ! どうしたよ、動きが鈍いじゃあねえかァ!」

 

 自らも攻撃を繰り出しながら、獪岳は嗤った。

 元々、彼は戦いを愉しむタイプではない。

 彼はどちらかと言うと、勝つのが好きなタイプだ。

 だから瑠花の動きが鈍り、一方的に攻撃が通る状況は、彼が最も好むシチュエーションと言える。

 

「ってオイ! 何サボってんだお前ら!」

「うっさいわね。指図するんじゃないわよ」

 

 一方で、禊は手を止めていた。

 血を失い消耗が激しいというのもあるが、嗜好の問題でもあっただろう。

 彼女もまた獪岳と同じく、戦いそのものよりも勝利の方を好むタイプだ。

 ただ禊が獪岳と違う点があるとすれば、それは彼女が獪岳よりも()()()だということだろうか。

 

 そんな彼女の横で「たはは」と頭を掻いているのは、犬井だった。

 彼もまた、戦いに参加する様子は無かった。

 まあ、より正確に言うのであれば。

 犬井は最初から今まで、()()()()()()この戦いに参加していないわけなのだが。

 

「おじさんは、まあ、他に用事があってねえ」

「……あっそお」

 

 当然、禊は犬井の「用事」には全くと言って良いほど興味が無い。

 興味は無いがしかし、その方が()()()と知っていたので、あえて言った。

 

「いったいどんな用事なのかしら」

 

 そんなに()()()()()

 性格悪すぎだろ、と獪岳は思ったが、しかし彼は口には出さなかった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「さあねえ。どんな用事だったかな」

 

 そして、この直後だった。

 誰にとっても、これで終わりだと思える。

 そんな瞬間が、やって来る。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――何故だ。

 瑠花は、自問していた。

 ――――どこで間違えた。

 瑠花は、やはり自問した。

 

 何も、何も間違えてなどいないはずだ。

 瑠衣()を完全生物として覚醒させ、その力を奪い取って独立する。

 そのためにこの100年。いや、()()()()()()()()()()、立ち回って来た。

 どれ1つを取っても、成功していた。自分は完璧だったはずだ。

 ただ、想定外があったことは事実だ。

 

(マズ、コイツラダ)

 

 禊や獪岳、榛名に柚羽、それに犬井。

 瑠衣がこの連中に力を分け与えたのも想定外だし、この連中がそれに付き合ったのも想定外だ。

 しかもメンバーの過半数が瑠衣への好意以外、もとい好意以上の理由でそうしているなど、どうやって想定できるものか。

 普通、拒絶するだろう。何なのだ、この連中は。普通ではない。

 

(ソレト、コイツダ)

 

 そして最大の想定外は、この時代に「()()()()()()()()」と確信した、奇跡とも言える存在にこそあった。

 竈門炭彦。到達人。この時代における継国縁壱。

 透き通る世界に到達した稀有なる少年。彼がいなければ瑠衣を誘き出せなかった。

 炭彦の瑠衣への強い想いこそが、瑠花の計画に必要不可欠なピースだった。しかし。

 

(コイツガ、マサカ薬ヲ持ッテイルナンテ)

 

 だから禰豆子の存在もまた、瑠花にとっては誤算だったろう。

 彼女の存在が無ければ、炭彦は途中で挫けていたかもしれない。

 今この瞬間のために今日まで生きて来たと、禰豆子は言った。

 それはけして誇張では無く、事実その通りだったのだ。

 

「ア、ア、ア」

 

 ()()()()

 一般的には、臓器移植等の医学用語として有名だろう。

 他人の臓器を移植した際に肉体が移植臓器を異物と判断してしまい、臓器としての機能を果たさなくなり、最悪の場合は命を落としてしまう。

 今、瑠花の身に起きている事態は、そういうものだった。

 

「アア、アアアアア」

 

 維持できない。

 維持することが出来ない。この肉の器を、保つことが出来ない。

 元々、自分の()()()では無かった。

 瑠衣から人ならざる部分を()()()奪って作った、仮初(かりそめ)の器。

 それを繋ぎ止める細胞が暴走してしまって、制御不能に陥ってしまう。

 

「アアア、アアアア、ル、イ――――御免ね」

「……え?」

 

 維持できない。維持できない。

 決壊する。崩壊する。

 嗚呼、全てが終わる。

 なにもかも、これでおしまい。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――何もかもが、(てのひら)から零れ落ちていく。

 力も、命も、……も。何もかもが、失われていく。

 失われて、失われて、手の中には、何も残らない。

 

「ドウシテダ」

 

 呟いてみたところで、それらが自分の手の中に戻って来るわけでは無い。

 虚しいだけだ。

 それがわかっていても、口にするしかない。

 人間とはかくも虚しい生き物なのかと、いっそ冷笑したくもなった。

 

 ああ、いや。

 そもそも自分は、人間ですらなかったか。

 やはり冷笑。いや、嘲笑じみた笑みが、瑠花の口元に浮かんだ。

 

「いいえ、それは違います」

 

 不意に、誰もいないはずの空間に声が聞こえた。

 声の主はすぐ傍にいるようであり、遠くにいるようでもあった。

 ただ、確かに耳に届いてくる。

 

「結局のところ、私達は……人間だったのです」

 

 たとえ、肉体が鬼と化そうとも。

 人体構造が変わり果てようとも、不老不死になろうとも。

 結局、人間は人間でしかない。

 

 何かに憤り、何かに哀しみ、何かを求めて手を伸ばす。

 その姿は、人間と何も変わらない。

 それは細胞の状態によって変わるものではない。

 変わるはずのない、人間の生まれ持った性質(サガ)なのだった。

 

「人と鬼は正反対の存在ではなく、その根は同じなのですから」

 

 人間と鬼の、千年の争い。

 それはまるで、人間の内面世界の争いのようにも思えた。

 理性と欲望の。

 善と悪の。

 心の相克。それをそのまま映し出したかのような。

 

「ソウダトシテモ」

 

 ()()()()()()()

 根は同じだとしても、鏡写しに過ぎないのだとしても。

 それでも、人間と鬼は違うものだ。

 

「ソノ証拠ニ、私ハ何ノ影響モ受ケテイナイ」

 

 瑠衣とは違う。

 父・槇寿郎からも、母・瑠火からも、兄・杏寿郎からも、弟・千寿郎からも。

 何の影響も受けていない。

 彼らとの関りは、自分に何の影響も与えなかった。

 

 何も。

 何も受け取らなかった。

 何も、受け継がなかった。

 だから自分は、瑠衣とは違う。

 

「ソレハ、オ前タチモダロウ」

 

 結局、瑠花は声の主を見なかった。

 それはもしかしたら、白衣を着た和服の女性だったかもしれないし。

 書生姿の、目つきの悪い青年だったかもしれないし。

 袴に刀の武士然とした男だったかもしれないし。

 金髪の洋装の少女だったかもしれない。

 

「ダカラモウ、黙ッテ見テイロヨ」

 

 物語の、お終い(エピローグ)を。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 メキメキと、肉が潰れるような音が響く。

 いや、逆だ。内側から、さらに内側から、()()()()()()

 細胞が、筋組織が、暴走するままに膨張を続けているのだ。

 それはさながら、膨らみ切った水風船が内圧に耐え切れずに破裂する様のようだった。

 実際、その場にいる全員の目には瑠花の姿が一瞬膨らみ、次の瞬間に弾け飛んだように見えた。

 

「ぞっとしますね。本当に」

 

 ()()を見つめていた瑠衣は、冷や汗を一つ流しながら、そう呟いた。

 

()()()()()が私の中にあったと思うと」

 

 それは、無尽蔵に成長を続ける肉塊とも言うべき姿をしていた。

 赤黒い、あるいは紫色に染まったブヨブヨとした肉が、内側から折り重なるようにしてどんどん大きさを増して言っている。

 表皮には大小の血管が脈打っており、脈の圧力によって、ところどころから赤い血が噴水のように噴き出していた。

 

 それは、瑠花の肉体という殻を破って表に出て来た。

 いや、正確には違う。あれは()()()()()()()()

 瑠花の肉体は――瑠衣と共有していたものを除いて――この世に存在しない。

 先程まで瑠花に見えていたものは、言うなれば粘土を()ねてそれらしい物を作っていただけなのだ。

 

(人間化の薬で細胞変化を制御できなくなって、形を維持できなくなった……と言うわけですか)

 

 それでも、薬を打たれたのが瑠衣であったなら、おそらく耐え切っただろう。

 変化前も変化後も、それは瑠衣の持ち物なのだから。

 だが瑠花は違う。

 さっきも言った通り、他人の持ち物を自分の物にすることは出来ない――――。

 

「それで、どうするのよ」

「……()()なってしまうと、私でも制御が……」

 

 禊の言葉に、目を細めながらそう答えた。

 瑠衣の眼には、肉塊の内部で荒れ狂う細胞暴走の様子が視て取れた。

 例えて言えば、爆弾を爆発する前に処理することは出来るだろう。

 しかし爆発してしまったら、どうすることも出来ない。

 今の状況はそれと同じだった。手遅れとしか言いようがない。

 

「ま、待ってください」

 

 その時だった。

 瑠衣の胸の中で――色々な部位が当たって顔を赤くしながら――もぞもぞと、炭彦が顔を出した。

 その()は、瑠花が変貌した肉塊をじっと見つめていた。

 瑠衣はそれを見て、幾度か言葉を考える素振りを見せた後、言った。

 

「……()()()()()、炭彦君」

「はい……はい。()()()()

 

 炭彦の言葉に、瑠衣は目を細めた。

 禊や獪岳などは「うえー」という顔をしていたが、瑠衣は「そうですか」と頷いた。

 そして、思う。

 嗚呼、やはりこの子こそが、運命の子どもだったのだ、と。

 

「……優しいですね。炭彦君は」

 

 そう言って、胸の中で少年の頭を撫でた。

 また別の意味で朱色に染まる顔を見て、可愛いな、と思った。

 ()()()()()も、そうだったのだろうか、と。

 そんなことも、また、思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「状況をまとめましょう」

 

 まず公園の周囲からは、人の声がほとんどしなくなっていた。

 消防車や救急車、あるいはパトカーの音は遠くから聞こえるが、それも段々と数が減って来ているような気がした。

 今、この周囲1キロ圏内には、彼女達以外の人間はいないと思って良いだろう。

 

 ただしそれも、いつまで安心できるかはわからない。

 肉塊と化した瑠花は、今もなお膨張を続けている。

 もちろん無限ではないだろうが、それが被害の拡大速度に比例するというわけでもない。

 つまり、可能な限り短期間で問題を解決しなければならない。

 

「まあ、私達は別にこの町がどうなっても構わないのですけれど……」

「だ、駄目ですよね? 放っておいたら駄目ですよね!?」

「いやー。マジでコイツを優等生だと思ってた隊士連中に見せてやりたいぜ」

 

 瑠衣は獪岳に笑顔を向けた。獪岳は黙った。

 瑠衣は炭彦に笑顔を向けた。炭彦はほっとした表情を見せた。

 同じ行為なのに結果が真逆になるというのは、興味深い現象とも言えたかもしれない。

 

「女なら普通よ」

「うちの妹は素直な子だったからなあ」

「見せてなかっただけでしょ」

「いやあ、違うんじゃないかな。……え、違うよね?」

 

 そして、問題の肉塊――瑠花についてだ。

 彼女は今も膨張を、肥大化を続けている。

 人間化の薬によって細胞分裂を制御できず、ただただ力を発露し、ばら撒いている。

 このまま放置すれば、結果がどうなるかは誰にもわからない。

 少なくとも、大きな被害が出ることは疑いないだろう。

 

「その被害を、姉が……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()

 もちろん、今さら煉獄家の誇りがどうだのと言うつもりは瑠衣には無かった。

 そんなことを言う資格は、自分には無い。

 言おうとも思わない。

 

 ただ、今この場で姉を止めることが出来るのは自分だけだ。

 この場にはもう、父も母も、兄も弟もいないのだ。

 だったら、自分が何とかするしかないだろう。

 それこそが煉獄家で生きて来た人間がせめて果たすべき、最低限のことだと、そう思うから。

 

「炭彦君。もう一度だけ確認させてください」

「は、はい」

 

 自分を見上げる炭彦の目には、純粋な信頼の色があった。

 それはかつて、自分が家族や仲間に対して向けていたものと同じだった。

 懐かしさと、寂しさと、少しだけの苦さ。

 それらすべてを覆い隠すように、瑠衣は微笑んだ。

 

「炭彦君には、視えているのですね」

「はい。視えています」

 

 透き通る世界。

 その()界で、炭彦は確かに視ている。

 それを確信して、瑠衣は頷いた。

 

「さてと、それでは……」

 

 日輪刀を、握り締める。

 呼吸を、整える。

 それを見て取って、他の面々もそれぞれに日輪刀を構えた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そして久しぶりに、瑠衣はある言葉を使った。

 それはかつて、師範と呼んだ男から教わった言葉だった。

 

「見鬼、滅殺」

 

 鬼を見たら、必ず殺せ。

 師範の声が、風の音と共に聞こえたような気がした。




最後までお読みいただき有難うございます。

あくまで私は姉妹百合と言い張る(え)

さて、物語もいよいよ佳境です。
ここまで読んでくれた読者の皆様には今さら言うまでもないと思いますが、私はハッピーエンド至上主義者です(くもりなきまなこ)。
みんなで幸せになりましょうね!(綺麗な笑顔)。

それでは、また次回。


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第91話:「蜘蛛」

 作戦自体は、シンプルなものだ。

 と言うより、シンプルなものにならざるを得ない。

 何故ならば、鬼殺隊は超常の存在に対して、たった1つの方法しか持たないからだ。

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 膨張を続ける肉体に、斬撃を叩き込む。

 深い傷は期待できない。だから、手数の多い型でとにかく斬る。

 切り刻む。

 

「とにかく、攻撃を続けてください!」

「一方的にか!?」

「一方的にです!」

「そいつぁ良いなァ!」

 

 ――――雷の呼吸・参ノ型『聚蚊(しゅうぶん)成雷(せいらい)』。

 肉塊の周囲を跳び回り、まさに稲妻の如き速度で切り刻んだ。

 瑠衣と獪岳の斬撃によって、肉が裂ける音と血飛沫が上がった。

 口が無いので、悲鳴が上がるわけでは無い。

 しかし痛覚はあるのだろう。ウゾウゾと蠢いて悶えていた。

 

「…………」

 

 それを、瑠衣は眉を動かさずに見ていた。

 一方的。そう、これは一方的な攻撃だった。

 何しろ肉塊には手も牙も無いのだ。一方的になるしかない。

 反撃の手段が、あの肉塊には無いのだ。

 

 全員で、ひたすらに攻撃する。

 当然だが、再生はする。それも凄まじい速度だ。

 ただし再生と言っても、元の形の通りに治るわけでは無い。

 元の形など、もはやあってないようなものだからか。

 

「うーん」

 

 攻撃の後、犬井の傍に着地した。

 肉塊の様子を観察していたのだろう。

 顎先に手指を当てて、小さく唸っていた。

 

「どうしました?」

「いや、うーん。何だろう、様子がおかしい気がする」

「様子?」

 

 聞き返すと、犬井は頷いた。

 目を細めて、蠢く肉塊を見つめている。

 そう言われて、瑠衣も改めて肉塊を見つめた。

 

 仲間達の攻撃を受け、そして再生している。

 日輪刀による斬撃でも、ダメージ自体は少ない。

 だがそれは、元の状態がそうなのだから不思議なことではない。

 しかし、それでも。

 

「何かが、おかしい」

 

 犬井は、何か違和感を感じている様子だった。

 彼は何かを()()()()

 瑠衣にはそれがわかった。

 ただそれを上手く言語化できないので、何か、という言い方しか出来ないのだ。

 

(何か……何だ。何かを見落としているの……?)

 

 だから瑠衣も、斬撃と再生を繰り返す肉塊を見つめた。

 そこに何かの見落としがあるのではないか、と、そう思って。

 瑠衣は、視つめた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何かが起こっている。

 それはわかっているのだが、上手く言葉にすることが出来ない。

 今の炭彦の状態を表現するのであれば、そういうことになる。

 彼もまた、いやこの場にいる誰よりも良く()()()()()炭彦だからこそ、余計にそうなってしまう。

 

「何かが、動いてる……?」

 

 不気味に蠢く肉塊の中で、さらに何かが蠢いている。

 今さらだが、あの(おぞ)ましい肉塊を視ていると、何かに似ている気がしてきた。

 何だろう。いったい何に似ているのだろう。

 

 その疑問は、次の瞬間には氷解した。

 楕円形の塊。その内側で蠢く何か。

 そこから連想されるものを、炭彦は口にした。

 

「…………卵?」

 

 口にしてみれば、なるほど、と思った。

 確かにあれば、卵のように見えた。

 硬い殻にこそ覆われていない――いや、弾力のある肉と無尽蔵の再生力が「殻」そのものなのか――が、卵の()()は、あんな風に視えるのかもしれない。

 卵をレントゲンやX線とかで透視すると、あんな風に見えるのかもしれない。

 

「え、でも……卵って、ことは?」

 

 そんな印象を受けてしまったせいだろうか。

 急激に、嫌な予感がした。

 肉塊は瑠衣達の攻撃を受け続けて、そして傷を負い続けて、嫌な音を立てて血を噴き出し続けている。

 

 今にも、死んでしまいそうだ。

 一方的。そう、一方的に攻撃している。

 傍目には、そう見える。

 だが炭彦の眼には、別のものが視えているのだった。

 

「卵、だったら。じゃあ、()()って」

 

 そう。あれが卵だとしたら、当然、連想されるものがある。

 肉塊()の中で蠢くもの。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 すぐには言葉に出来なかった。

 

 だがそれは、無理もないことだった。

 だって、そうだろう?

 誰だって、()()()()()()()()()()()()()と言われれば困るはずだ。

 ましてそれが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「瑠衣さ――――……!」

 

 それでも、言葉にしようとした。

 警告しようとした。注意を、呼びかけなければと思った。

 けれどそれは、ほんの一瞬だけ遅かった。

 

 それもまた、仕方のないことだ。

 何故ならば、内部で蠢く程に()()していたのだから。

 そこまで()()()()()()から気付いたのだから、間に合わなくても、仕方が無かった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()()()()()()

 表現するのであれば、そういうことになるのだろう。

 変化は、外観上は急激に起こった。

 ウゾウゾと蠢くだけだった肉塊が、一瞬、大きく膨らんだのだ。

 

(――――何だ!?)

 

 最初に動きを止めたのは――そのあたりの反応は流石と言うべきか――獪岳だった。

 先程まで一方的な攻撃を愉しんでいたのだが、ピタリと止まった。

 肌感覚は優れた男だった。粗野なように見えて、その実誰よりも慎重だった。

 その男が、肌の粟立ちを感じて止まったのである。

 

 何かがある。と、仲間達に即座に伝わる。

 一種のレーダーのような役割を意図せずして果たしている。

 禊などは「カナリアかしら」と茶化すかもしれないが、幸いにして、今この場でそう言うことは無かった。

 

「あらぁ」

 

 とは言え、と、榛名は思う。

 目の前で、あの肉塊は確かに奇妙な変化を見せている。

 大きく膨らんだかと思えば縮み、そしてまた膨らむ。

 それを繰り返すと、表面に罅のようなものが生まれていった。

 肉の表面に罅割れ。おかしな表現だが、そうとしか説明が出来なかった。

 

(慎重策を取っている余裕。実は無いのよねぇ)

 

 理由は明白。瑠衣の限界が近い。

 瑠衣の『爆血』も、使えてあと1回というところだろう。

 しかも瑠衣の弱体化は()()()()()()進んでいる。

 時間が経てば経つ程に、こちらが不利になっていく。

 

 だから、ある程度の危険を覚悟して突っ込むしかない。

 問題は、その役割を誰がやるかだ。

 獪岳はやらないだろう。禊もそうだ。犬井は、良くわからない。

 もちろん、大将(瑠衣)にさせるわけにもいかない。

 

(わたしが)

 

 と思った矢先、傍を駆け抜けていった者がいた。

 

(柚羽ちゃん)

 

 見るに見かねて、斥候役を買って出てくれたのだ。

 有難う、と、心の中で思った。

 この形になるのであれば、榛名のすべきことも(おの)ずと決まって来る。

 柚羽の後に続き、後詰の位置でついて行く。

 

 そして、見開いた紫眼を光らせながら、柚羽が先を駆けた。

 柚羽が狙うのは、最も大きい罅割れ。

 肉塊を縦に裂いている、あの空隙だ。

 

(何が出るにせよ。手を出して見なければ何もわからない)

 

 ――――水の呼吸・参ノ型『流流舞い』。

 日輪刀を、空隙に滑り込ませる。

 そして。

 

「瑠衣さ――――……!」

 

 炭彦の警告は、そのタイミングで来たのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 あ、と、誰かが声を上げた。

 ただその声が音として周囲の耳に届く前に、柚羽の身に結果が()()()()()()()()

 柚羽はまず、衝撃を感じた。次いで懐かしさすら覚える灼熱感を覚えた。

 

「柚羽ちゃん!」

 

 榛名が声を上げる。

 それに対して、柚羽は歯を噛んで空中で身を翻した。

 灼熱感はまだ続いていたが、何とか着地しようとした。

 

「……ッ」

 

 しかし、その着地が問題だった。

 いや、着地自体はした。

 したのだが、バランスを崩してガクンと半身が落ちてしまった。

 

 理由は単純で、体の軸線がブレてしまったからだ。

 剣士として熟達の域にある柚羽がバランスを崩すなど、本来は考えにくい。

 だが、()()()()()()()()()()()()()()()

 

(私の、腕は)

 

 腕を失って、バランスを崩した。

 無いと意識できれば修正は可能だが、即座には難しい。

 一方で自分の腕を探せば、それはすぐに見つかった。

 肉塊()の空隙から伸びた()が、だらりと脱力した――まあ、もはや力の込めようもないのだが――柚羽の腕があった。

 

 がしゃ、と、目の前に日輪刀が落ちて来た。

 柚羽の日輪刀だ。流石と言うべきか、咄嗟に投げていたらしい。

 尤も、日輪刀を掴む腕が無い、という問題があるわけだが。

 それでも、武器を残したという意味は小さくない、と思うことにした。

 

(少しでも情報を)

 

 一番対象の近くにいる自分が、情報を得なければならない。

 そう思い、足先で日輪刀を蹴り上げ、そして口に咥えた。

 千切られた傷口からはボタボタと血が流れ落ちていたが、大きな血管は呼吸で塞いだ。

 

 ――――水の呼吸・壱ノ型『水面斬り』。

 両腕が無い状態では、使える型にも限りがある。

 だからこれは攻撃というより、威力偵察に近い。

 そして威力については、すでに腕を千切られたことで証明しているようなものだ。

 

(これ、は)

 

 再び、肉塊に迫った。

 罅割れが大きくなっており、そこから伸びた腕が自分の腕を掴んでいる。

 そしてその罅割れた隙間の間から、何かの目がこちらを窺っていた。

 そう、目だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(不味い)

 

 一瞬で、イメージ()()()()()

 次の瞬間、千切られた腕のようにされるという確信。

 無数の腕に全身を掴まれ、バラバラにされるという映像(ビジョン)が、柚羽の脳内に強く浮かんだ。

 そして実際、その通りになった。

 柚羽の身体に、無数の黒い腕が伸びて来た――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――水の呼吸・肆ノ型『打ち潮』。

 柚羽の身体を掴んだ無数の黒い腕を、日輪刀の刃が打ち払った。

 水の呼吸。柚羽と同じ呼吸だが、柚羽では無い。

 そしてこの場で水の呼吸を遣うのは、あと1人だけだ。

 

「いやあ、今のはヤバかったねえ」

 

 犬井が、日輪刀を片手に、そして片手に柚羽を抱えていた。

 黒い腕の群れを打ち払い、肉塊から大きく距離を取った。

 

「ってえ、いやいやいや!」

 

 しかし黒い腕は、どこまでも追って来た。

 一連を振り切ればさらに一連と、それが何度も続いた。

 その度に犬井は危険な位置にいる腕を打ち払い、後ろへ後ろへと跳躍した。

 それを何度も繰り返す。

 

「お、おおっ、おおおおおっと、っと、っとお。どわあっ!?」

 

 追撃の勢いが余りにも凄まじく、彼は最後には尻餅をついて倒れてしまった。

 黒い腕が迫る。しかも無数に。凄まじい速度、そして威力で。

 直撃すれば、人間の頭など簡単に砕けてしまいそうだった。

 だが犬井は、立ち上がることなくそのままでいた。

 

 そんな彼の眼前で、黒い腕の1つが振り下ろされた。

 しかしそれは犬井には寸でのところで触れることなく、彼の足元の地面に突き刺さった。

 コンクリートで舗装された地面にめり込む程の威力。

 だがそれを前にしても、犬井は日輪刀を持った手で頭を掻いていた。

 

「いやあ、おじさんゾっとしちゃったよ」

 

 黒い腕が、口惜しそうに左右に振れながら戻って行く。

 それを見送りながら、犬井は日輪刀を眼前に縦に構えた。

 

「ひい、ふう、みい、の……20メートルってところかねえ」

「2人とも、大丈夫!?」

「まあ、おじさんは大丈夫だけど」

 

 そこへ榛名が駆け付けてきて、車椅子が倒れるのも構わずに、柚羽に縋り付いた。

 柚羽は意識はあった。口に咥えた日輪刀を放すことも無かった。

 とは言え、とても戦えるような状態には見えなかった。

 

「さて、次はいったい何が出てくることやら……」

 

 肉塊は、もう膨張を止めていた。

 というより、膨張したり縮小したりするような柔軟さを失っていた。

 先程までは、確かに柔らかい肉の塊であったはずだ。

 それがいつのまにか、文字通り卵の殻のように硬くなっていた。

 

 その肉の殻を、無数の黒い腕が()()()()()()()

 罅割れによって生まれた隙間に指をかけ、無理矢理に割っているのだ。

 まるで、自分で自分を喰っているように見える。

 それは余りにも(おぞ)ましく、怖気(おぞけ)の走る光景だった。

 

「う……」

 

 ()()過ぎる炭彦は、口元を押さえてしまった。

 気持ちは良くわかると、瑠衣は思った。

 何しろ、あの肉の殻から出てこようとしているものは、それ程に悍ましい化物だったのだから。

 かつて鬼舞辻無惨を前にした時でさえ、ここまでの嫌悪感を抱きはしなかった。

 

「まあ、それはそうでしょうね……」

 

 ふ、と笑って、瑠衣は言った。

 

「これが、同族嫌悪、というものなのでしょうか」

 

 ()()()()()()()()()()()

 瑠衣が、そう思った時だ。

 ()()は、生まれた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()が表に出て来ると、まるで花が(しお)れるかのように、黒い腕が力なく倒れていった。

 そして黒い腕を踏み潰しながら、()()は瑠衣達の前に進み出て来た。

 空気が、冷たかった。周囲の気温が数度は下がったような、そんな気がした。

 

「これは、また」

 

 犬井が感嘆とも取れる声を上げる。

 長い人生――文字通り長い時間を生きたという意味で――の中で、色々と見て来たが、()()はその中でも群を抜いている。

 かつて見てきた鬼と比較しても、()()()()()()()()

 

「ハハ……()()()()()()()

 

 それを見上げながら、獪岳が笑った。

 もはや笑うしかない。まさにそんな反応だった。

 そして獪岳の言った通り、それは巨体だった。

 全長数メートル…いや十数メートルはあるだろうか。

 人間が人形サイズに見える。

 

「えっと……クモ、に見えるわ、ねぇ」

 

 榛名が告げた通り、そもそもそれは人間の形をしていなかった。

 四対の脚が、胴体と思われる部分から伸びていた。

 それらの脚は鉱物のように硬く、鈍い光沢を放っていた。

 金属の蜘蛛。表現するとすれば、そうなるだろうか。

 

「あ、あれは……?」

 

 そして誰もが、それを()()と表現する。

 何故ならば、まるで船の舳先のシンボルのように、頭部があるべき胴体前部に、女の上半身が磔にされていたからだ。

 両腕を左右に広げたその姿は、文字通り罪人のようにも見えた。

 女の顔は、伏せられていて見えない。

 だがその容姿は、瑠衣に良く似ていた。

 

「……あまり、良い気分はしませんね」

 

 と、瑠衣が呟いたせいでもないだろうが、それが反応した。

 ()()()()()

 しかし、磔の女は顔を伏せたままだった。

 

 金属じみた黒い光沢を放つ表面に、突然、無数の目玉が現れたのだ。

 それも一つ二つでは無い。複眼だ。それも全身、隈なく、だ。

 血走った無数の目玉が、ギョロギョロとあたりを、瑠衣達を見つめて来た。

 そして、さらに次の瞬間だった。

 

「Aa――――――――ッッッッ!!」

 

 絶叫。声ですらない。ただの音。

 耳をつんざくような、周囲の空気を揺さぶるような、そんな大音量が、()()()を覆った。

 その声だけで、建物の一つ二つは破砕してしまいそうだ。

 

「へえ、まあ」

 

 巨大な蜘蛛女(アトラク・ナクア)とも言うべき怪物を前にして、禊は言った。

 

「悪くないじゃない」

「いや、その感想はおかしいと思いますけど」

 

 呆れたように言う瑠衣に、禊は「ふふん」と胸を反らして見せたのだった。

 ガチン、と、日輪刀の槍が音を立てた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「AAAaaa――――――――ッッ!」

 

 空気が震える。

 磔の女の口は閉じているのに、どこから音を出しているのかわからない。

 全身に出現した目玉は、周囲にあるものを1ミリたりとも見逃すまいと忙しなく見つめ、睨んでいる。

 叫び。視線。そのいずれも、瑠衣には覚えのあるものだった。

 

「ああ、本当に……アレは、私そのもの、ですね」

「アンタの感傷にはこれっぽっちも興味ないわ」

「悲劇のヒロインってか? 今さら過ぎてウケるな」

「もう少しオブラートに包んでくれませんかね」

 

 ふう、と息を吐いて呟けば、辛辣な反応が左右から返って来た。

 元より同調や同情など求めたりはしていなかったが、それにしたって辛辣だった。

 まあ、それはさておくとして。

 

「ンなことより、喚くばっかで動かねえぞアレ」

 

 獪岳の言う通り、蜘蛛はその場で叫び声を上げるばかりで、動こうとはしていなかった。

 叫び、睨み、それでいて存在だけは大きくて、無視できない。

 かと思えば、先程の黒い腕のように、()()()()のだ。

 それはまるで、()()()()()()

 

「たださっきの様子だと、日輪刀の効果は薄いでしょうね」

 

 黒い腕もそうだったが、あの金属質な脚や胴体も、闇雲に斬ったところで無意味だろう。

 そもそも、太陽を克服した存在なのは変わらない。

 狙うとすれば、やはり――――。

 

「あの、見るからに柔らかそうな女、だよな」 

「助平」

「ちょっと言い方が気持ち悪いです」

「お前らマジで殺すぞ」

 

 磔の女。

 金属の蜘蛛の中で、女の上半身だけ外に露出している。

 獪岳の言う通り、攻撃するとすればあの部分だろう。

 日輪刀の数も不足している中で、そう何度も硬質な部分と打ち合うことは出来ない。

 

「でも、アレの頚を落とせば死ぬってわけじゃないでしょう?」

 

 禊がそう言った。それもまた、おそらくは正しい。

 まさか、今さら見た目通りの頚が弱点ということはないはずだ。

 磔の女の頚を落とすことには、意味が無い。

 

「端からバラバラにすれば良いでしょ。どれか当たるわよ」

「猟奇的すぎんだろ」

「禊さんって、本当そういうところありますよね」

「アンタ達からバラバラにしてやりましょうか?」

 

 バラバラに、と言うわけでは無いが。

 しかしこういう場面で有効な方法を、瑠衣は1つしか思いつかなかった。

 

()()()で、貫く」

 

 ポツリと呟くように言えば、禊は鼻を鳴らし、獪岳は眉を上げた。

 瑠衣のやろうとしていることを、理解している顔だった。

 だから瑠衣はいちいち確認など取らず、握っていた小太刀を翻して、言った。

 ()()()()()()()

 

「刀を貸してくれますか。炭彦君」

「え?」

 

 きょとんとした顔をする炭彦に、瑠衣は微笑んで見せたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 生半可な攻撃は、きっと効果が無い。

 獪岳や禊は強いが、瞬間火力という点ではやや劣る。

 犬井や柚羽の水の呼吸も、榛名も、その点では同じだ。

 そして残念ながら、瑠衣の風の呼吸もそうだ。

 

(きっと蜘蛛(アレ)は、見た目通りじゃない)

 

 磔の女の身体も、実際のところ弱点かどうかはわからない。

 突破口には違いないが、確証はない。

 だから、()()()()()()

 一瞬の火力が、すべてだった。

 

 しかし、この場にいる人間の技――自分も含めて――では、その火力が出せない。

 だが、瑠衣は知っている。

 いや、覚えている。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()、大火力を。

 その、技を。

 

(久しぶりに、()()()()()()()()()()()

 

 今さら、かもしれない。

 ()()を使う資格など、とうの昔に自分で捨ててしまったのに。

 それでも、これしか思いつかなかったのだ。

 目の前の蜘蛛を、煉獄瑠花の成れの果てを、(ほふ)る方法を、他には。

 

(ごめんなさい、()()()。今だけ、この刀……貸してくださいね)

 

 ()()()()

 日輪刀は一度色が変わると、二度と変化することは無い。

 100年経っても、変わることが無い。

 そして今なら、竈門炭治郎の日輪刀が黒色に変わった理由も何となくわかっている。

 

 刀身に、掌を当てた。

 そのまま刃先まで、掌を滑らせる。

 当然、掌は切れる。切れて、血が流れる。

 そしてその血は、燃え上がる。

 

(禰豆子さんの、最後の、『爆血』)

 

 文字通り、最後の一発だ。

 次の補充は無い。竈門禰豆子には、もう何の力も残っていない。

 竈門兄妹が遺した最後の力を自分が使う。躊躇が無いわけではない。

 だが、それでも、あえて思う。

 ()()()()()()()

 

「……一撃で」

 

 日輪刀を両手で持ち、そのままの構えで大きく背中側の逸らす。

 まるでバネを引き絞るかのように、腰を回す。

 全身の筋肉が軋む。

 呼吸で筋繊維の1本まで知覚できている今、それは頭の中に鮮明に響く。

 そのまま、半身を傾けせて、姿勢を低くする。

 

「一瞬で、多くの面積を、根こそぎ、抉り……斬る!」

 

 長い鍛錬と、永い生で得た力を、ただただ自分のために使って来た。

 今さら剣士を気取るつもりは無い。

 燃やすべき心は、もはや無い。

 無辜(むこ)の人々を守ろうと言う気概も、何も無い。

 

 けれど、責任はあるだろう。

 自分の、そして身内()の不始末に対する責任が、あるだろう。

 それだけは、それだけのためなら。

 自分はまだ、この力を使える。

 

「AAAaaa――――――――ッッ!」

 

 何かに感づいたのだろうか。

 それまで叫ぶばかりで動くことの無かった蜘蛛が、突然、こちらを向いた。

 全身の目玉が瑠衣の方を向いて、丸太のように太い金属の脚が動き始めた。

 コンクリートの地面を貫きながら、蜘蛛の巨体がこちらへと走り出した。

 

「行き、ます!」

 

 しかし、瑠衣は止まらなかった。

 否、止められなかった。この技を、途中で止める力は無かった。

 黒い刀身が、『爆血』で燃える。

 全身の血が沸騰するような錯覚を、瑠衣は覚えた。

 

「『煉獄』――――――――ッッ!!」

 

 これが、正真正銘、最後の一撃。

 瑠衣の人生で放つ、最初で最後の『煉獄』だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「チッ、勝手に始めやがってよ!」

 

 そう言って、獪岳が駆け出していく。

 その背中を、禊は呆れたような、というか呆れて見ていた。

 何だかんだと言いつつ、この男は瑠衣に付き合ってしまうのだ。

 それでいて瑠衣のことを「嫌い」と公言――していたかどうか覚えていないが、したということにしておいて――しているのだから、呆れる他ない。

 

 煉獄瑠衣という少女もまあ「どうかしている」と常々思っていたが、この男もなかなかだ。

 犬井はまだわかる。あれはそもそも瑠衣の味方でも何でも無い。

 榛名や柚羽もわからなくはない。あれはお互いが一番の類だ。ややお人好しが過ぎるが。

 しかし獪岳は、損得とか友愛とか、そういうものでは無い。

 

(面倒くさいやつ)

 

 瑠衣も獪岳も、どちらも面倒な性格をしている。

 もちろん、いちいちそれを指摘してやるつもりは無い。

 別に友達でも仲間でも、きょうだいでも無いのだ。

 ただ、呆れと共に思うことはある。

 

(まあ、無防備に背中を晒してくれちゃってさあ)

 

 瑠衣もそうだし、獪岳は瑠衣に対抗しようとするので自然とそうなるのだが。

 この2人は常に――禊がそうしようとしない限り――先に駆けて行く。

 すると当然のことだが、禊に背中を向けることになる。

 自分で言うのもおかしいが、それってどうなんだ、と思う。

 

 まさか。

 まさかとは思うが、自分を信用してでもいるのだろうか。

 あ、駄目だ考えただけで吐き気がしてきた。

 おえー。

 

「まあ、獲物を取られるのも(しゃく)だし……って」

 

 その時だった。

 視界の端に、あるものが映った。

 蜘蛛を正面に見据えていたので、視界の端ということは、方角的にはほぼ真横ということだ。

 とは言え普段なら、危険でも無い限り無視していただろう。

 

(あれは……)

 

 しかし、()()は目を引いた。

 何故ならば、その少年はとても良く似ていたから。

 100年。何世代も経っているはずだが、容貌はまさに瓜二つだった。

 燃えるような髪色の、あの少年。

 

 煉獄桃寿郎。

 現代に生きる、煉獄家の末裔。

 ただ彼は煉獄杏寿郎の子孫では無い。嫡流はすでに絶えている。

 彼は、()()()寿()()()()()()()()

 

「は?」

 

 そして、どういうわけかはわからないが。

 蜘蛛が、正面の自分達を無視して、桃寿郎へとその目玉の群れを向けた。

 理由なんて知らない。興味もない。どうだって良い。

 ただそれに気付いた時、禊の額に青筋が走った。

 オイ、と、ドスの効いた声が形の良い唇から発された。

 

「わたしの()に、手ェ出してんじゃないわよ――――」

 

 そして、決着の時が来る。

 誰にとっても、決着の時が。

 もう、すぐそこまで迫って来ていた。




最後までお読みいただき有難うございます。

滑り込みセーフ!

次回、決着の時……に、なる、はず(え)

いずれにしても、ハッピーエンドをお約束します(くもりなきまなこ)。

それでは、また次回。


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第92話:「煉獄瑠花」

 ――――伍ノ型までが、限界だった。

 炎の呼吸は9つあるのだが、瑠衣が会得できたのは伍ノ型までだった。

 より正確に言えば、型そのものは習得できていたが、技と呼べる程に昇華できなかった。

 何故ならば瑠衣の身体が、炎の呼吸への適性を有していなかったからだ。

 

「気にすることはない。瑠衣」

 

 かつて兄はそう言って、自分を慰めたものだ。

 ああ、いや。あの兄に限って、慰めたつもりなどないのだろう。

 きっと心の底から、素直に声をかけてくれたに違いないのだ。

 人それぞれに出来ることがあり。不要な人間などいないのだと。

 

 かつてはそれを、尊敬していたこともあった。

 今は、ただ眩しい。煌めくような思い出だ。

 兄は、煉獄杏寿郎は、瑠衣にとって――――太陽だった。

 だからもう、目にすることは無い。

 

(色変わりの刀。日輪刀)

 

 ()()()()()

 一言で言えば、それはとても簡単なことだ。

 だが、考えてみてほしい。

 呼吸の適性は、日輪刀が何色に染まるかで決まる。

 

 赤なら炎。青なら水。緑なら風。

 だがそれは、裏を返せばこういう意味になる。

 日輪刀を握るまで、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それ以外の方法では、その人間が何の呼吸に適応しているのかわからないのだ。

 だが考えてみれば、()()()()()()()

 

(日輪刀は、どうして色が変わるのか)

 

 日輪刀を打っていた刀鍛冶でさえ、その理屈はわかっていなかった。

 あるいは里長や各一族の長は知っていたのかもしれないが、今となっては語る者はいない。

 しかし、ヒントはあった。

 赫刀だ。

 

(痣者が日輪刀を強く握ると、体温が刀身に伝わり、(あか)く変わる)

 

 つまり日輪刀は、握った人間の体質を()()いるのだ。

 体温。握力。心臓の鼓動。血の流れ方。肺や横隔膜の収縮。掌の形。骨や筋肉の動き方。

 それらを視て、最も適した呼吸の色に刀身を変えるのだ。

 すなわち日輪刀とは、体温計であり触診器のような物なのだ。

 

(つまり、あるはずなんだ)

 

 ()()()()()()()()()

 もちろん、体質や所作を変えることは出来ない。真の適性は変えられない。

 けれども、一瞬だけ。この瞬間だけ、この一撃を放つ間だけ。

 今だけ、日輪刀よ、太陽の刀よ。既に黒刀に変わりし刀よ。

 赤色に、変わり給え――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 この時、瑠衣は集中を必要としていた。

 まず『煉獄』を撃つために、全身の力を――おそらくは最後の力を――余すところなく使わなければならない。

 しかもこの『煉獄』は最後の『爆血』を前提にしている。

 絶対に外すことが出来ない。

 

(目指すは一点。あいつの、頭部!)

 

 磔の女の部位から突撃し、斬り抉りながら核を潰す。

 そしてそれを成功させるためには、可能な限り正面から突撃をかける必要がある。

 真っ直ぐに行き、真っ直ぐに抜ける。

 力のロスを最小限にしなければ、おそらく最奥部まで進むことが出来ない。

 

 極度の集中は、瑠衣の眼に目指すべき核を視せていた。

 しかし逆に言えば、それ以外に対する視覚を放棄しているとも言えた。

 実際、瑠衣は『煉獄』を核に向けて撃ち込むことに集中していて、他のことは考えていない。

 そうでなければ、透き通る世界から弾き出されてしまう。

 

(この馬鹿マジで前しか見てねえ!)

 

 その他のことは、()()()()()()()()

 蜘蛛の手足が瑠衣を狙って動いたとしても、今の瑠衣には対応が出来ない。

 だからそうしたものは、獪岳が対処するしかなかった。

 機動力と広範囲攻撃に優れる雷の呼吸だからこそ、可能なことでもあった。

 能力的には可能だが、当然ながら、心情的にどう感じるかというのはまた別の話だった。

 

「お前! 後で覚えてろよ!」

 

 瑠衣の背中にそう悪態を吐いたところで、今の瑠衣には聞こえていない。

 それなら瑠衣を見捨てれば良いじゃないかと、他人は言うかもしれない。

 どうしてわざわざ援護するような真似をするのかと、きっと言うだろう。

 例えばあの小憎たらしい弟弟子(善逸)などは、そう言うだろう。

 

 しかし、考えてみてほしい。

 もしもここで獪岳が瑠衣を見捨てたとする。放置したとしよう。

 すると瑠衣はこう言うだろう。

 いや、口には出さないだろうが、目で言ってくるだろう。

 

「良いですよ。別に期待とかしていませんでしたから」

 

 ――――想像しただけで腹が立つ。

 もしも瑠衣に見下されながらそんなことを言われた日には、額を地面に叩きつけて死んでしまうかもしれない。

 獪岳にとって、瑠衣に見下されることはそれ程の屈辱なのだった。

 

 なので獪岳としては、瑠衣を援護する以外に選択肢が無い。

 そしてそれを瑠衣がきっと見透かしているだろう、とも思っている。

 だからさらに腹が立つ。余りにも腹が立って仕方がないので。

 

「オラァッ!」

 

 ――――雷の呼吸・弐ノ型『稲魂』。

 仕方がないので、獪岳はその鬱憤(うっぷん)を蜘蛛にぶつけるのだった。

 黒い稲妻が、戦場を駆け抜けていった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 炎の呼吸・玖ノ型『煉獄』。

 上半身を大きく()じり、そのまま突撃、全身のバネを利用して斬撃を浴びせる。

 豪()の権化とも言うべき奥義であり、その威力は線ではなく面を削ってしまう程だ。

 しかしその分だけ、放つ側に要求されるものも大きい。

 

(身体が軋む……! 筋肉が裂けそう……!)

 

 斬撃の力を溜める肝は、構えの時点の上半身の捻じりにある。

 この時点で身体に相当の負荷がかかるが、溜めた力を一気に放つ際の負担はその比では無い。

 おそらくこの『煉獄』を放った後、瑠衣の身体は壊れるだろう。

 眼前に蜘蛛の頭部――磔の女の姿が迫る中で、しかし瑠衣は躊躇しなかった。

 

(どうせ、後が無いんだから……壊れたって良い!!)

 

 どの道、最後の一撃なのだ。

 次が無いのであれば、技の後に身体に残るダメージなど考慮する必要は無い。

 そもそも失敗すれば、死ぬのだ。

 目の前の蜘蛛に踏み潰されるか、千切られるか、喰われるかして、死ぬのだ。

 

「オイ! ()るんだったらさっさとやれ!」

 

 獪岳の声。けして聞こえていないわけでは無い。

 ただ、答える余裕は無かった。

 (もっと)もその余裕があったとしても、攻撃に全て割り振っただろう。

 

「――――姉さんッッ!!」

 

 聞こえているのかは、わからない。

 しかし瑠衣は、目の前にいる蜘蛛に――その中にいるだろう瑠花に、呼びかけた。

 それは、かつて炭治郎がやったような、敵に攻撃を報せるものでは無い。

 思わず口を吐いて出てしまった。そんな呼びかけだ。

 

 百年。いや、それ以上だ。

 上弦と遭遇した無限列車の時から、いや生まれた時から、共に在った。

 こうしている今も、胸の内に喪失感を感じて止まない。

 だからそれを誤魔化すために、声を上げた。

 

(……変われ)

 

 そして、『煉獄』が完成する。

 刀身は『爆血』で燃えているが、まだ黒い。

 思い出せ。百年の向こう側の記憶を、思い出す。

 

(……変われ)

 

 兄は、父は、どんな風に刀を握って、どんな風に持って、どんな風に振っていた。

 それを見ていたのは、もうずっと昔のことだけれど。

 今でも鮮明に、思い出せる。

 ギシ、と、握り締めた刀の柄から音が響いた。

 

 心を燃やせ、と、父と兄は良く言っていた。

 瑠衣はそれを一種の精神論だと思っていた。

 でも、本当は違った。

 誰よりも、どの呼吸よりも熱く、熱く、呼吸を、体温を上げて。

 ()()()()と、そういう意味だった!

 

「か、わ、れ、ええええええええええええっっ!!」

 

 その刀身を、蜘蛛の頭に、磔の女に振り下ろした。

 確実に、女の胸に届き、肉を裂く鈍い感触が伝わって来て。

 そして。

 

「えええ――――……え?」

 

 ()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 一瞬、その場にいる全員の時間が止まった。

 瑠衣の日輪刀は、確かに蜘蛛の肌を裂き、肉を斬り裂いた。

 しかし、そこまでだった。

 核に到達する前に、瑠衣の――炭治郎の黒刀は、限界を迎えてしまった。

 

()()()!)

 

 攻撃に、『煉獄』に全てを振っていたので、気がつかなかった。

 黒刀に、()()()()()()()

 ぱっと見では気付かない。透き通る眼で視てやっと気づく程の小さな、しかし致命的な――()()()()だ。

 考えてみれば、当然のことだった。

 

 いくら綺麗に保存されていても、100年である。

 竈門家は剣士として家系を遺して来たわけでは無い。刀の保存状態には限界があった。

 そしてさらに悪いことでに、先ほど炭彦はこの刀で肉を斬った。

 その時に付着した血液に強力な腐食作用があり、深刻なダメージを鋼に与えていたのだ。

 

(マジでヤバい!)

 

 と思ったのは、この場である意味で最も正統な剣士と言えるだろう、獪岳だった。

 彼は、日輪刀が折れるという意味を誰よりも理解していただろう。

 もちろん、瑠衣は攻撃を続行するだろう。

 続行するだろうが、しかし厳しい。

 折れた刀では攻撃の威力も範囲もまるで違うからだ。

 

「……ッ!」

 

 それでも、瑠衣は日輪刀を振り上げようとした。

 どの道、今さら止めようがない。

 止めれば死ぬ。『爆血』も消える。だから止めない。

 続けるんだ。そう、思った時だった。

 

 ()()が、視界に入って来た。

 

 ()()()()()()()()()()()

 どこからともなく飛来したそれを、瑠衣は反射的に掴んだ。

 握り締めた柄に感触に、奇妙な懐かしさを感じた。

 それは炭治郎の黒刀よりも、より()()()()

 

(この、刀は……)

 

 赤い刀身。炎のような飾り。

 嗚呼、と、自然と嘆息した。

 潤みそうになる視界を、きっと横に振って。

 

「使え――――ッ!!」

 

 と、()()()()()()()()()()()

 いや、懐かしいというのは瑠衣の勝手な郷愁だ。

 何故ならばその相手は、瑠衣の知る人間とは違う。別人だ。

 

 ()()()寿()()()()()()()()()()()()()()()()

 彼はきっと、自分がどうしてそんな行動に出たのか、わかっていないだろう。

 わかっていないのに、そうしたのだろう。

 ()()()と、そう思った。

 

「燃えろ……!」

 

 『爆血』の()を、桃寿郎の――煉獄家の日輪刀に移す。

 炎は今にも消えそうで頼りないが、構わなかった。

 この刀は、それ自体が()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 桃寿郎は、ほとんど無意識の内に行動していた。

 何かに突き動かされるように、彼は気が付けば刀を投げてしまっていた。

 自分でも驚く程のコントロールの良さに、自分で感心してしまう程だった。

 

「むう! 近付き過ぎたかもしれん!」

 

 思ったことは口に出さざるを得ない。そういう性格だった。

 しかし実際、行為に対する代償は小さくは無かった。

 蜘蛛の全身の目が、明らかに桃寿郎の方を向いていたからだ。

 血走った無数の目が一斉に自分の方を向いて、さしもの桃寿郎も怖気を感じてしまった。

 

「桃寿郎君!」

「来るな、炭彦!」

 

 蜘蛛の脚が自分の方へ向けられるのを、桃寿郎は意外な程に冷静に見ていた。

 もちろん、驚いてはいる。脅威を感じてもいる。何なら恐怖も感じている。

 しかし一方で、腹の底は落ち着いていた。

 まるでこの状況を何度も経験してきたかのような、そんな様子だった。

 

(とはいえ、これは駄目かもしれんな!)

 

 振り下ろされる巨大な金属の脚を前に、そんなことを思った。

 何しろ、桃寿郎自身は呼吸の訓練を受けていない。

 天性の才能で身体能力は高く、()()()()()()()()()()()が、本格的な鍛錬を経たものではない。

 

 姿勢は、刀を投げ終えた体勢から戻っていない。

 どうしても一呼吸の間が空く。

 だから今この瞬間において、蜘蛛の脚を回避することが出来ない。

 頭の冷静な部分が、次の瞬間には自分が死んでいる、と告げていた。

 

(しかし、不思議だ。何だったのだろう、さっきの感覚は)

 

 瑠衣が攻撃に動いた時、実は桃寿郎もすでに駆け出していた。

 ()()()()()()()()()()()

 強くそう感じた。そして感じた心のままに、桃寿郎は動いた。

 身体よりも、あるいは感情よりも、心の方が強かった。

 

(父上、母上、申し訳ございません)

 

 自分は親不孝者だ、と思った。

 だけどきっと、父も母も、今の自分の行動を認めてくれるだろう。

 それだけは、確信があった。

 きっと両親はわかってくれるだろうと、そう思った。

 

 そして、桃寿郎は自分の「死」を見つめた。

 目を逸らすことも、閉じることも無かった。

 驚くほど落ち着いた心境で、桃寿郎は自分の「死」を見つめて、否。

 ()()()、そして。

 

「勝手に」

 

 そして、鮮烈な鶴が桃寿郎と「死」の間に割って入って来たのだった。

 

「死んでるんじゃないわよ……!」

 

 鮮烈な赤色が、桃寿郎の視界で散った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 禊の日輪刀は、最大で6つの短槍(パーツ)に分割が可能だ。

 それらを鋼糸で繋いで操作する独特の剣技は、禊の性格と相まって強力無比な型を生んだ。

 独特で強力過ぎて他に使い手がいないと言う意味では、日の呼吸や月の呼吸にも匹敵するだろう。

 人によっては、何て寂しい型なのだろう、などと言うのかもしれない。

 

 しかし禊は、もちろんそんなことは気にしていなかった。

 自分の呼吸を他人に伝えるなど考えたこともないし、そもそも他人のことを考えたことが無い。

 禊はただ、愉しみたかっただけだ。

 この世を全力で、自分らしく謳歌していただけだ。

 

「この力と技でね」

 

 美貌。器量。教養。技術。

 己の持つ全てを使って、人生を愉しむ。

 けれどそれって、普通のことでしょう?

 

 誰でも、そうやって生きている。

 生きていくって、そういうものでしょう。

 我慢とか、遠慮とか、そんなことを考えていたらキリが無いったらない。

 だからもしも仮に、この世から去ることがあるのだとしても、悔いだけは残さないし。

 

()()()()()()()()()()

 

 そう言って、嗤うだろう。

 そして、()()()()()()()

 我ながら、徹頭徹尾趣旨貫徹。見上げたものだと思った。

 

 ただ1つ、ミスをしてしまった。

 それは禊にとってはまさに痛恨の極みであり、珍しく悪態を吐きたくなった。

 ただ、それは表には出さなかった。

 失敗の上塗りをするわけにはいかない。それは、遊女の矜持が許さなかった。

 

「だから、そんな顔をするんじゃないわよ」

 

 自分を()()()()桃寿郎の頬に、手を当てた。

 顔立ちも肌触りも、どこか懐かしい。

 もちろん、彼は千寿郎ではない。彼女の客ではない。

 けれど、100年前に()()()()()()()()()というのは、気分が悪い。

 素質や資産が引き継がれるというのなら、客としての継続も継続されるだろう。

 

「まったく」

 

 男というのは、単純だ。

 ほとんど話したこともないような相手でも、情のようなものを向ければ、感情を返して来る。

 生殺与奪の権を、簡単に明け渡して来るのだ。

 今だって、禊が少し腕を動かすだけで、頚から上が胴体と泣き別れしてしまうと言うのに。

 

()()()()()、泣き虫ねえ」

 

 酒が呑みたい。そんな気分だった。

 ただ、腹から下は潰れてしまったので、酒を流し込む胃がないことに気付いた。

 まあ、味はわかるだろうし、良いか。

 そんなことを、思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そして、瑠衣の『煉獄』が完成する。

 煉獄の日輪刀で以って、()()()『煉獄』が完成する。

 しかしその偽物は、煉獄瑠衣という少女が重ねた100年の、全霊が込められていた。

 

「ハアアアアアァァァ――――ッッ!!」

 

 磔の女を縦に斬り裂いた。

 しかし、まだ進む。核はこの奥だ。

 この日輪刀もいつまで保つかはわからない。

 だから、初撃の勢いのまま突っ切るしかなかった。

 

 何よりも、瑠衣の肉体が先に潰れる。

 『爆血』の効果で敵の装甲を溶かし、『煉獄』の突撃力で斬り裂く。

 それで、終わりだ。

 成功するにせよ、失敗するにせよ。

 

「AAAaaa――――――――!!」

 

 蜘蛛が叫ぶ。苦悶の叫びだった。断末魔の叫びと言っても良い。

 

「……ッ」

 

 不意に、蜘蛛の()()()()()()

 胴体が沈み、まるで顎のように脚が逆側に、つまり瑠衣の側に向かって閉じた。

 包み込むように、脚が迫る。

 獪岳らの援護は、間に合わない。

 

(関係ない)

 

 このまま、()る。

 たとえ、この肉体がズタズタにされようとも。

 この蜘蛛の核だけは、何としても潰す。

 

 しかし、眼前にまで迫った蜘蛛の脚を、真横から一閃するものがあった。

 それは、砕けた槍――の日輪刀だった。

 槍の穂先が脚の関節を撃ち抜いて、瑠衣を守った。

 

「私の槍は6つしかない」

 

 ――――欺の呼吸・真参ノ型『八十八夜』。

 

「……なんて、言った覚えはないけど?」

 

 鋼糸を握り締めながら、桃寿郎に半身を支えられた状態の禊が嗤っていた。

 思い込みは良くない。欺の呼吸は、人の思い込みにこそ最も効果を発揮するのだから。

 ()()()の槍を忍ばせて撃ち抜くなんて、良くある話だ。

 

(禊さん――――)

 

 蜘蛛の体を縦に真っ二つに斬り裂いて、瑠衣の身体が縦に回転する。

 二つに分かれた蜘蛛の胴体が、どうと音を立てて地面に崩れ落ちた。

 そして、硬質な金属質な――それでいて、どこか液体のように揺れてもいる――(それ)を、そのまま空中で横に回転して、斬った。

 ゼリー状の物を斬った。そんな感覚が、掌に伝わって来た。

 

 一瞬、蜘蛛の体が膨張した。

 そして次の瞬間、一気に縮み、たわんだかと思うと、弾け飛んだ。

 黒い雨、黒い泥――そう思える黒い水滴が、周囲に飛び散り、雨のように降り注いだ。

 その黒い水溜まりの中に、瑠衣は落ちた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 泥の中、瑠衣は身を起こした。

 手の中を見ると、日輪刀の刀身が罅割れていることに気付いた。

 やはり炭治郎の日輪刀と同じで、元々限界が近かったのだろう。

 あるいは、役割を終えた、と言うことなのかもしれない。

 それは流石に、感傷的に過ぎるだろうか。

 

「……ああ、まあ、貴方だろうとは思っていました」

 

 顔を上げると、そこに獪岳がいた。

 雷の日輪刀を持った彼は、座り込んだままの瑠衣を見下ろしていた。

 そんな獪岳に、瑠衣はふ、と微笑んだ。

 

「きっといつか、寝首を掻きに来ると思っていたのですが。意外と、遅かったですね」

 

 獪岳との付き合いは、もう随分になる。

 同期だった。

 柱の弟子という共通項があったせいか、他人からは何かと比較されていたような気がする。

 瑠衣は余り気にはしていなかったが、獪岳は違っただろう。

 今は、それが理解できる。

 

「どうぞ」

 

 どの道、力は残っていない。

 完全生物としての力はすべて瑠花に奪われたし、日輪刀は壊れ、呼吸を維持する力も無い。

 これ以上ない程に、無力な状態だった。

 

 それに、とも、思う。

 もしも自分に引導を渡す役目というものがあるとして、獪岳は一番適任だと思えた。

 何故ならば彼は、彼だけは、ずっと自分を嫌っていた。

 最初から最後まで、同じ感情を向け続けてくれていた。

 

「…………」

 

 獪岳が日輪刀を振り上げるのを見て、瑠衣は目を閉じた。

 静かな数瞬が、しばらく続いた。

 不意に、空気を切る音がして、さらに足先で軽い音がした。

 肝心な衝撃は、来なかった。

 

「……?」

 

 少ししてから、目を開けた。

 すると、獪岳はいなかった。

 その代わりに、瑠衣の足先に日輪刀が突き立っていた。

 雷の紋様が刻まれたその日輪刀は、主がそうだったように、何も語っては来なかった。

 

「……私を殺したくて、ついて来てくれたのではなかったんですか」

 

 虚空にそう問いかけても、答えるものは無かった。

 しかし、衝撃は来た。

 横から少年が飛びついてきて、瑠衣は小さな悲鳴を上げて、衝撃に耐え切れずに倒れた。

 

「……残酷なひと」

 

 獪岳。何度も呼んだその名前は、もう誰にも受け取っては貰えない。

 そんなことを考えながら、瑠衣は手を動かして、自分に飛びついて来た炭彦の頭を撫でた。

 この子が泥で汚れてしまうな、と、そんなことを考えた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何だあれは、と、禊は思った。

 まったく男というものは非合理的な生き物だ、と思わざるを得ない。

 格好をつけなければ死んでしまう生き物なのだろうか。

 まあ、ああいうのも見方によっては一種の美学と言えるのかもしれない。

 

「ほんと、バカみたい」

「まあ、男は大事なことはひとつ胸に秘めていれば、後はどうにでもなっちゃうからねえ」

「何それ。意味わかんないんですけど」

「あはは。まあ、男にしかわからないこともあるってこと、さ……っと」

 

 視線を巡らせて――何しろ、もう動かせる身体が無い――見れば、犬井が泥の中で何かをしていた。

 蜘蛛の残骸、黒い泥の中に手を入れて、何かを探している様子だった。

 どう考えても人体に良いはずが無いそれに、犬井は頓着(とんちゃく)せずに手を突っ込んでいた。

 

「……で、アンタは何をしているわけ?」

「いやあ、まあね」

 

 不意に、何かを泥の中から掬い上げていた。

 それは、小さな塊にも見えた。

 ただの石のようにも見えたし、金髪の西洋人形(ビスクドール)の頭のようにも見えた。

 それが何なのか、禊にはわからなかったし、さして興味も無かった。

 

 それがアンタの「大事なこと」なわけ?

 と、口に出そうとしたが、舌が回らなかった。

 まあ、それを大事そうに抱え込んで座り込む犬井の背中を見れば、答えは決まっていた。

 

「獪岳ちゃんは、行っちゃったのねぇ」

 

 榛名と柚羽は、相変わらず寄り添っている。

 最後までべたべたと、仲の良いことだと思った。

 獪岳はそういうのは嫌っていた。その点だけは、共感できた部分かもしれない。

 

(参ったわね)

 

 最後に考えることがそんなことだなんて、それこそ死にたくなってくる。

 最後。そう、最後だ。

 彼女達は、瑠衣の血鬼術によって事実上の不老長寿を得ていた。

 その瑠衣の力が失われた以上、不老の血鬼術も失われる。

 桃寿郎を庇わなくとも、どうせ寿命が尽きる運命だったのだ。

 

(地獄の鬼っていうのは、強いのかしらね)

 

 鬼と言っても、自分が知っている鬼ではなく、伝説に聞く地獄の極卒だ。

 きっと強いのだろう。何しろ、地獄で人間や鬼を虐め抜いているのだ。

 自分が殺した鬼は、今も地獄にいるのだろうか。

 閻魔大王は実在するのだろうか。実在するとすれば、やはり強いのだろう。

 

(愉しみね)

 

 そんな閻魔や地獄の鬼が、表情を歪めて膝を屈する様を思うと、自然とにやけてしまう。

 嗚呼、愉しみだ。

 本当に、愉しみだ――――。

 

「女の子が最後にする顔がそれって、ヤバくないかしらぁ」

 

 五月蠅いわね。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その少女は、黒い泥の中で、仰向けに倒れていた。

 自分の命が尽きようとしていることは、理解していた。

 そもそも、指一本動かす力さえ残っていない。

 

「……姉さん」

 

 そんな少女に、瑠衣は声をかけた。

 炭彦に肩を支えられながら、仰向けに倒れる瑠花を見下ろしていた。

 僅かに目を開けて、瑠花は妹を見た。

 その眼には、もう何の虹彩も紋様も輝いてはいなかった。

 

「……上手ク……行カナイ……モノダネ……」

 

 そう、何も上手くいかなかった。

 瑠花が望み、思い描いたもののほとんどは、砂粒のように掌から零れてしまった。

 まあ、それも仕方なかったのかもしれない。

 何故なら瑠花は、この世に存在したことが無かったのだから。

 

「……私ハ結局……貴女ノ一部デシカ……無カッタ……」

 

 煉獄瑠衣という少女の中に、たまたま残った鬼の細胞。

 妹の生命力にへばりついていただけの、本来は死ぬべき(アポトーシス)細胞。

 それが、煉獄瑠花という少女の正体だった。

 奇跡のような確率で、たまたま自我や人格に似た何かが芽生えただけの、小さな存在だった。

 

 本体から一部の細胞だけで独立したところで、存在が維持できるわけが無かった。

 それでも、瑠花には後悔だけは無かった。

 たとえ僅かな時でも、この世界で存在を主張できたことは、彼女にとっては大いなる喜びだった。

 それに。

 

「有難う。姉さん」

「……ナニガ……有難ウ……ナノ……」

「姉さんは」

 

 はらはらと、瑠衣の頬を、血の滲んだ透明な雫が滴り落ちる。

 尽きたと思っていたそれが、何故か今は自然と溢れて来た。

 

「姉さんは、私を救おうとしてくれた」

「…………ハハ」

 

 この期に及んで、この妹は何を言っているのだろう。

 お人好しにも程がある。

 自分はただ、自分のやりたいことを、思うままにやっただけだと言うのに。

 嗚呼、面倒だ。もう何もかも面倒だから。

 

「……セイゼイ……残リノ人生ヲ……苦労スルト……良イ……」

 

 肉体が崩壊する。

 核を砕かれているのだから、当然だ。

 もはや抵抗しようとも思わない。

 余計な会話を、もうする必要は無い。

 私なんて、このまま、消えてしまえ。

 

「……普通ノ……人間トシテ……生キテ……」

 

 妹には、瑠衣には、何も残してやらない。

 煉獄瑠衣が得た力のすべては、自分が持って行く。

 化物としての煉獄瑠衣は、自分と一緒に地獄に堕ちるのだ。

 いい気味だ。そう思った。

 

(……嗚呼……ヤメテクレヨ……)

 

 死の間際、瞼の裏に浮かんだのは、煉獄家の人々だった。

 槇寿郎、杏寿郎、千寿郎に――そして、瑠火。

 こんな時に思い出すのが、それだった。

 けれど、瑠花はそれらを意識から振り払った。

 

(私ハ違ウ。オ前達カラ何ノ影響モ受ケテイナイ)

 

 何も継いでいない。

 ――――何も。

 だって。

 

「……ソレハ……瑠衣ノ……ダカラ……」

 

 だから、置いて逝く。

 光差す地上に、人間の世界に、置いて。

 このまま、逝かせて――――。




最後までお読みいただき有難うございます。

ハッピーエンドにしようとしたが、キャラクターに拒否されました(妄言)

この作品も随分と長期になりましたが、あともう少しちょこちょこ遊んで、締めにしようと思っています。

それでは皆様、もう少しだけお付き合いくださいませ。

それでは、また次回。


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エピローグ

 その山には、名前が無かった。

 昔は名前もあったし、今も法律上は名前があるのだろうが、それを呼ぶ者はいない。

 麓にあった小さな町も、時代の流れと共に寂れていき、今では僅かな名残りを遺すばかりだ。

 

「はあ……はあ……」

 

 その名も無き――いや、長い時間の中で名前を失った山には、中腹あたりに小屋があった。

 小屋と言っても、もはや使用に耐えるものでは無い。

 屋根は雨風に傷み、壁や床は植物に覆われてほとんど見ることは出来ない。

 ほとんどの人間にとって、それはもう何の役にも立たない廃屋だろう。

 

 しかしその少女にとっては、目を細めて眺めるに足る大切な物だった。

 小屋の裏手に――少女は随分と足取りが重そうだった――回ると、少し開けた場所に出た。

 広場の中心に、小綺麗な岩と、岩を囲むようにして広がる白詰草の花々が目に入った。

 岩の足元の地面は、他と比較して色合いが少し違うようにも見えた。

 

()()()()

 

 その岩の前に、少女は――竈門禰豆子は、膝を落とした。

 崩れ落ちる。まさに、そんな風な膝の落ち方だった。

 パキ、と音がしたのは、小枝を踏んだからではなく、彼女の肉体が硝子のように罅割れていたからだ。

 罅割れはもはや全身に及んでいて、顔の一部や手指の先など、欠けてさえいた。

 

「ただいま、みんな。終わった、よ」

 

 終わり。

 世界最後の鬼である禰豆子は、本来は不老不死に最も近い存在だ。

 しかし最後の力まで他人に渡してしまった彼女は、もはや回復(睡眠)しようがない程に衰弱していた。

 いや、あるいは全力で回復に入れば、多少の延命くらいは出来たのかもしれない。

 

 だが、禰豆子はそうしなかった。

 元々、永遠の命などに関心がない娘だった。

 そもそも、永遠の命などあってはならないのだ。

 神ならざる人間に、そんなものは不必要なのだと、禰豆子は信じていた。

 そして、彼女の兄も。

 

「遅くなって、ごめん、ね」

 

 それでも、禰豆子は仮初(かりそめ)の永遠を保持し続けた。

 それは、約束だったから。

 兄との、仲間との、約束だったから。

 

『あの人を、瑠衣さんのことを、頼む』

 

 瑠衣は、良い人だった。

 鬼殺隊の先輩として、兄も自分も良く面倒を見てもらったと思う。

 そんな人がああなってしまったのは、とても哀しいことだった。

 (もっと)も、瑠衣が聞けば「気にしなくても良いのに」と呆れたかもしれない。

 

 ただ、自分には瑠衣を救えない。そういう確信もあった。

 だから、待った。

 瑠衣を救ってくれる誰かを、100年前からずっと。

 それが自分達の家の子孫(炭彦)だったというのは、意外なような、納得なような。

 

「……話したいこと……たくさん……」

 

 話そう。そう思った。

 この100年のこと。可愛い子孫達のこと。瑠衣との決着のこと。

 この物語の、結末のことを。

 たくさん話そう。

 きっと、自分の家族なら、嫌な顔ひとつせずに、聞いてくれる。

 

「……あのね……」

 

 さあ、まずは何から話そうか――――。




最後までお読みいただき有難うございます。

というわけで、『鬼滅の刃―鬼眼の少女―』は本話で完結です。
3年…いや4年?
やっぱり月2回だけの更新だと長くかかってしまうなと思いつつ、皆様のおかげで概ね締め切り通りの投稿を続けることが出来ました。
いやー大人になると時間ってなかなか取れないものですね(言い訳)

ま、まあとにかく(目逸らし)。
読んでくれた方、キャラクター等を投稿してくれた方、誤字脱字を毎回ご指摘くださる方(目逸らし)、皆様の助けがあって今話まで来ることが出来ました。
本当に感謝に堪えません。

ありがとうございましたー!


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プロローグ②

というわけで、第二部です(え)


 ――――これは、おかしいのではないだろうか。

 自分が置かれている状況を俯瞰(ふかん)してみて、瑠衣はそう思った。

 もちろん、今さら悲劇のヒロインのように嘆いたりはしない。

 瑠衣は自分がヒロインだとは考えていなかったし、自分の扱いに対して不当を訴えようとも思っていなかった。

 

(まあ、今さら訴えるような()()もありませんしね)

 

 自分のこれまでのことを思えば、お姫様扱いやお客様扱いなど望むべくもない。

 そのくらいのことは、瑠衣は弁えている。

 だから今さらどのような状況に置かれたとしても、不平不満を口にするつもりは無かった。

 とは言え、だ。

 

(それにしたって、限度というものはあるでしょう)

 

 とも、思わずにはいられなかった。

 それ程に、今の瑠衣が置かれた状況は()()()()なものだった。

 ちら、と、視線を下に向ける。

 徐々に()()()()()()()()()()()()()()、瑠衣は溜息を吐いた。

 

(さて、どうしたものですか)

 

 煉獄瑠花()と離別したことで、瑠衣は不老不死を失っている。

 鬼の力も無く、かつて程の呼吸の力も無い。

 普通の人間よりも、ほんのちょっぴり優れているだけに過ぎない。

 

 もはや超人とはとても言えない。ただの小娘だ。

 なので、あんまりな状況を前にすれば「ええ…」という気分にもなる。

 (もっと)も、あんまりだ、と天に叫んだところでどうにもならない。

 

「ふーむ」

 

 別に本当に天に叫ぼうとしたわけではないが、視界を空に向ければ、そこには満点の星空があった。

 無数の星々が煌めいていて、都会では見られない素晴らしい宝石の夜空だった。

 これが原っぱに寝転んで見上げた景色であれば、さぞ心が癒されたことだろう。

 しかし今は、とてもそんな気分にはなれない。

 むしろ置かれた状況の深刻さがより深まって、また溜息を吐いてしまった。

 

「はあ……今の季節は、やはり冷たいのでしょうね……」

 

 頬を打つ冷たい夜風、掌に伝わる振動、足先に迫る水面――()()

 ()()()()()。比喩でも何でもなく、それは事実だった。

 胴体が半ばから折れ、舳先(へさき)側の先端部の手すりに掴まった形の瑠衣は、数秒後に訪れるだろう結末を前に、何度目かわからない溜息を吐いた。

 

(どうしてこうなったのでしたっけ)

 

 そして、今の状況に至るまでのことを思い返した。

 この期に及んで悠長なことだと自分でも思うが、どうしても考えてしまうのだった。

 いったいどうして、何故、こうなってしまったのか。

 今の自分の窮地(きゅうち)を生み出した、その原因を――――。




新章開始です。

ちなみにここからはぶっちゃけ遊び心で書くので、どうぞご容赦ください(え)


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第93話:「平和な日常」

「――――豪華客船?」

 

 いつもの公園、いつもの場所。

 今となってはわざわざそんな場所で会う必要はない――隠れて会う必要がなくなったという意味において――のだが、今でも瑠衣は炭彦とそこで会っていた。

 あの戦い――煉獄瑠花との戦いから、すでに1年が経とうとしていた。

 その時間の経過を示すかのように、破壊され尽くした公園は元通りの姿を取り戻していた。

 

 以前と違う点があるとすれば、中央にあの「事故」の犠牲者を悼む慰霊碑が建てられていることだろうか。

 周囲の建物についても、竈門家のマンションも含めて再建がかなり進められていた。

 たった1年余りでそこまでの工事を進めてしまうあたり、産屋敷家の影響力は現代でも生きているのだなと、瑠衣は呆れ混じりに感心していた。

 まあ、それはさておくとして。

 

「……と、言うと?」

 

 瑠衣は頬に指を当てて、小さく首を傾げた。

 もちろん、豪華客船という言葉の意味がわからなかったわけではない。

 現代知識くらいは身に着けているし、それくらいのものは大正時代にもあった。

 

「えっと、産屋敷さんが誘ってくれて」

「なるほど」

 

 まあ、それくらいしかないだろう。

 こう言っては何だが、竈門家自体はさほど裕福な家庭とは言い難い。

 もちろん困窮しているわけではないが、気軽に豪華客船などに乗れるような家庭では無い。

 そんな炭彦が豪華客船などと言い出すとすれば、産屋敷関係しか思い当たらない。

 

「つまり船遊びですか。良いですね」

「……! はい!」

 

 瑠衣がそう言うと、炭彦は嬉しそうに頷いた。

 それを見て、可愛いな、と瑠衣は微笑んだ。

 名家とは言え武家の娘である瑠衣は、船遊びとか、そういった経験はない。

 

 ただ伝え聞くところによれば、なかなかに楽しいものと聞く。

 非日常の中で普段は出来ない経験をするだけでも、年若い炭彦には刺激的で面白いだろう。

 だから瑠衣は、微笑みながらこう言った。

 

「楽しんできてくださいね」

 

 しかし、そんな瑠衣の言葉に何故か炭彦は表情を暗くした。

 喜色から一転、何とも言えない哀し気な表情に変わってしまった。

 

(あ、あれ?)

 

 いったいどうしてそんな哀しそうな顔をするのか。

 今の会話に、そんな哀しい顔をする要素は何も無かったはずだ。

 その理由がわからなくて、若干の動揺と共に、瑠衣は頭の上に疑問符を浮かべたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何をやっているんだ、と、二重の意味でカナタは思っていた。

 1つには、炭彦のことである。

 会話が止まってしまってワタワタと慌てている様子の弟に、何とも言えない微妙な感情を覚える。

 

 炭彦は相変わらず瑠衣にご執心――何故か本人は「そ、そそそんなことないよ!?」と誤魔化せているつもり――のようだが、あれである。

 今さら弟の女性の趣味をどうこう言うつもりはないが、すでに出会って1年である。

 ああも会話すらままならないと言うのは、流石に問題なのではないだろうか。

 

「まあ、それを覗き見している俺もどうかと思うけど……」

 

 そして2つ目には、今の自分の状況に対してである。

 今のカナタがどうしているのかと言うと、瑠衣と話す炭彦の様子を遠目に見ていた。

 いったい何をしているのかと、自分で自分に呆れてしまっていた。

 とは言え、彼は1人でそれをやっているわけでは無かった。

 

「うーん。なかなか上手くいきませんね」

「炭彦君は奥手だもの。仕方ないわよ」

「うむ! ここはやはり助け舟を出すべきではないだろうか! ……我ながら上手い!」

 

 カナタの下には――比喩ではなく物理的な意味で――しのぶ、カナエ、桃寿郎がいた。

 彼らは縦に並んで、物陰から炭彦と瑠衣の様子を窺っていた。

 彼らが何をしに来ているのかと言うと、簡単である。

 友人(弟分)の恋愛事情を応援(デバガメ)していたのである。

 

「桃寿郎君の発言はともかく……サポートに行ってあげた方が良い?」

「うーん。そうねえ……………………もう少し、炭彦君の頑張りを信じましょう!」

「姉さん、面白がってない?」

「あら、そんなことないわよ。炭彦君は可愛い弟だもの。こんなおも……大事なことって無いじゃない?」

「もう、姉さんは仕方がないんだから」

「そんなこと言って、しのぶだって興味津々なんじゃない」

「私は純粋に炭彦君のことを心配しているんです」

 

 何をやっているんだろうなあ、本当に!

 と、カナタは天を仰いだ。

 幼馴染の姉妹は、喜々として弟分の恋愛模様を見守っている。

 桃寿郎は付き合いは良いのだが、この方面の相談相手には向かない。

 額をぐりぐりと指先で押さえながら、カナタは小さく唸った。

 

「え、これもしかして俺が何とかしないといけないわけ?」

 

 最近のカナタは、順調に頭痛ないし胃痛持ちへと進化しつつあった。

 なお医学薬学に精通するはずの幼馴染の姉妹は、その原因について不明と診断してきた。

 この世の理不尽に憤慨(ふんがい)する、カナタなのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 寡聞にして、瑠衣は豪華客船などというものに乗ったことが無かった。

 船に乗った経験は幾度かあるものの、それらは移動のためのものであって、乗ること自体を娯楽とするものでは無かった。

 それもタンカーだとか軍艦だとか、大きなものでは無かった。だから……。

 

「……大きな船ですね」

 

 全長約300メートル。総トン数およそ10万トン。旅客定員2200名。

 これまでの瑠衣の――永い――人生でも、余りお目にかかったことが無い大きな船だった。

 視界を巡らせれば、右から左へ、船の端から端までを見るのに視界と首の可動域の大部分を使わなければならない。

 

 こんな大きな船に乗った経験は、今までにない。

 しかも2200人の客を乗せることが出来るこの船に、()()()()()()()乗る、などという経験はない。

 100年を優に超える瑠衣の人生において、数少ない初体験の1つと言えた。

 

「大きくて、明るくて……現代の船は凄いですね……」

 

 などと年寄りのようなことを言っているが、実際その船は見事なものだった。

 客室が複数階層あり、そのすべてに電気が入っているのだろう、船全体が太陽のように眩しかった。

 夜の港は暗いので、特にそう感じるのだろう。

 

「さて、それは良いとして。炭彦君たちはどこでしょうか」

 

 瑠衣は当初、ここに来るはずでは無かった。というより、来るつもりが無かった。

 それは1年前の、あるいはそれ以前のことを思えば、自分が船遊びに誘われるとは思っていなかったからだ。

 ただ炭彦が何やら必死な様子で「る、るるるる瑠衣さんもい、いいいっしょににに」と誘ってくれたので、思わず頷いてしまったのだ。

 

「バウッ」

「にゃあん」

 

 と、その時だった。

 聞き覚えのある鳴き声に、視線を落とした。

 瑠衣の足元に、1匹の犬と1匹の猫が寄って来ていた。

 

「あら、コロさん。茶々丸さん」

 

 鬼の犬と、鬼の猫。

 1年前の瑠衣であれば、おそらく喰い殺していただろう。

 ただこの2匹はけして瑠衣に近寄らなかったから、その機会が無かったとも言える。

 そんな2匹が普通に瑠衣に姿を見せる。

 郷愁のような、感傷のような。そんな感覚を覚えてしまった。

 

「こんばんは」

 

 そんな瑠衣に、声をかけてくる者がいた。

 機械の音声ではない。肉声だ。

 しかし、かつて聞いたような、心に染み入るような音では無い。

 喉が治りたての元病人、という表現が最もしっくりくるだろう。

 そしてそこに立っていた――否、車椅子に座っていたのは、文字通り元病人だった。

 

「……こんばんは、()()()()

 

 あの病室にいた現代の産屋敷家当主が、快復した姿でそこにいた。

 まさか産屋敷と挨拶を交わすことになるとは、さしもの瑠衣も考えもしなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 不思議なことに、産屋敷の容体はこの1年間で急快復していた。

 理由は判然としないが、当人曰く「呪いが解けた」ということだった。

 確かに代々の産屋敷家の当主は短命で、全身が(ただ)れるようになって死ぬのも同じだった。

 歴代の当主が生きている間に症状を快復させた例は、瑠衣が知る限りは無い。

 

 なるほど、確かに病気というよりは呪いと言った方がしっくり来るだろう。

 遺伝性の病気であれば、外部要因で快復することはまずあり得ない。

 この調子ならば、もう(しばら)くすれば完全に快復してしまいそうだった。

 まあ、(もっと)も、産屋敷の呪いが解かれたからと言って。

 

「やめましょう」

 

 今さら、瑠衣に感慨などは湧いて来ないのだった。

 

「謝ったり、謝られたり。貴方にそれをしても、されても、もう何の意味もないのですから」

 

 瑠衣と()()()の関係は、もう終わっているから。

 100年前のあの日に決別して、それで終わったのだ。

 だから改善にも悪化にも、もはや何の意味もない。

 意味を持たせる()()も、無いのだから。

 

「ああ、でも。ご招待いただいたことについては、お礼を申し上げますね」

 

 その点についてだけは、瑠衣は素直に頭を下げた。

 ただそれは、自分が招待されたこと自体に対するものと言うよりは。

 

「あの子達が、とても喜んでいるようなので」

 

 遠目に、自分を見つけて走って来る少年の姿に、瑠衣は目を細めた。

 その少年――炭彦の後ろには、彼の友人達の姿も見える。

 どこか懐かしい、100年前の面影を残す子ども達だ。

 もちろん、彼らは()()とは違う存在だ。

 

 けれど、たしかに繋がっている。

 繋いで、100年間繋ぎ続けて、今日ここにいる命。

 それは、自分には出来なかったことだ。

 人間として断絶してしまった自分には、あり得なかった未来だ。

 

「それは、良かったと思っています」

 

 眩しいものを見つめるような表情で、そう言った。

 実際、彼らは瑠衣には余りにも眩しい存在に映ったのだった。

 

「……そうか」

 

 そして産屋敷は、そうか、とだけ答えた。

 当然のことながら、当世の産屋敷は()()()()()()()()()()

 だから彼にとって、瑠衣は――鬼舞辻無惨と同じように――口伝で聞いただけの存在だ。

 それも、この世で最も恐ろしく、最も滅さなければならない存在として。

 

 そんな存在が、目の前で柔らかな微笑みを子ども達に向けている。

 この光景を見て先祖がどう判断するのか、それは彼にもわからない。

 ただ、悪くは思わないだろうと、そう思った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 中に入ってみると、想像以上の広さが待っていた。

 入船すると、まずシャンデリアや燭台型の灯りに照らされたホールが客人を出迎える。

 赤絨毯に、手の込んだ装飾の施された手すりの階段。

 上の階層までは吹き抜けになっており、天井に豪奢なシャンデリアが見て取れる。

 

 絵画や調度品に至るまで拘られているが、いやらしさはなく、瀟洒にまとめられていた。

 炭彦を始めとした子ども達は、当然だが、このような船には乗ったことが無い。

 そのために、ホールに入った時点で興奮の歓声を上げていた。

 

「わあ、凄いねカナタ!」

「このくらいで騒ぐなよ。恥ずかしいな」

 

 大喜びの炭彦にそんなことを言いつつ、しかしカナタもチラチラと周囲を見ていた。

 弟の手前平静を装っているが、端から見ていると隠せていない。

 そんな幼馴染の様子を見て、カナエは口元に手を当ててクスクスと笑った。

 

「もう、姉さん。笑ったら可哀想でしょう」

「うふふ。ごめんごめん。でもしのぶだってソワソワして、後で探検に行きましょうね」

「いやっ、違っ、これは姉さんが迷子にならないか心配しているだけよ!」

「あら、お姉ちゃんそこまで方向音痴じゃないわよ~」

 

 ドタドタと炭彦のところに駆けて来たのは、桃寿郎だった。

 彼はカナタのように興奮を隠すこともなく、顔を紅潮させて言った。

 

「炭彦! 船の中を探検に行こう!」

「うん!」

「ちょっと、他に人がいないからって勝手なことしたら駄目だよ。仕方ないな、俺もついて行くからね」

 

 言葉の上では止めつつ、自分もついていくとこっそり宣言するカナタだった。

 まあ、しかし年頃の少年少女が豪華客船なんていうものに乗り込めば、そんな風に興奮してしまうのは無理もないことだった。

 大人しくしていろと言う方が、この場合は無粋というものだろう。

 

「探検ですか。良いですね」

「あっ……る、瑠衣さんも、どうですか?」

「あら、私が一緒に行っても良いのですか?」

「も、ももも、もちろんです!」

 

 物凄い勢いで頭を上下させる炭彦に微笑みながら、瑠衣は「でも」と言った。

 

「その前に、産屋敷……さん、の説明を聞きましょうか」

 

 船旅の日程は、体験航海ということで2日間だけだ。

 明後日の夜にはこの港に戻って来る。寄港も無い。

 それでも非日常には違いない。

 少年少女達の胸は期待に膨らんで、嫌でも高まろうというものだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 説明と言っても、別に難しい話がされたわけではない。

 ただそれぞれの部屋の鍵と、行ってはいけない場所の説明があっただけだ。

 行ってはいけない場所も、船長室だとか機関室だとか、一般的に禁止される場所ばかりだ。

 その他、人が入っていない客室も基本的に入室禁止になっている。

 

「それでは、簡単にだが当船のスタッフを紹介するよ」

 

 それと、一部のスタッフの紹介があった。

 紹介されるのが一部に留まるのは、流石に全員を紹介できないというのが1つと、単純に乗客が少ないという点が1つだ。

 つまり、炭彦達に関わる人間が少ないので、他を紹介する必要がない、ということだ。

 

「船長の船木です」

「副船長と、設備関係も担当しております。坂本です。どうぞよろしく」

 

 まず、船長と副船長。

 乗客に関わるかというと微妙なところだが、オーナーである産屋敷の客ということで出てきているのだろう。

 これと言って特徴があるわけではない。どちらも初老の男性だ。

 強いて言えば、副船長の坂本はやや腹が出て小太りなことだろうか。

 

「料理長の立川です。明後日のランチまでですが、私の方で用意させていただきます。もしも苦手な食べ物などがあれば、どうぞお申し付けください」

 

 次に、40代くらいの女性。この船の料理長だ。

 料理人らしくコック服を身に纏っており、柔和な雰囲気の人物だった。

 

「客室を担当します。田村です」

「同じく。サリアです。よろしくお願いします」

 

 それから、いわゆるお世話係の立場になる人物の紹介になった。

 年の頃は、2人とも20代前半というところだろうか。

 どちらも制服を着た女性で、1人は名前からもわかる通り日本人では無かった。

 金髪白磁の、国まではわからないが西洋人だった。

 客室担当ということで、ある意味で子ども達に一番接する立場と言える。

 

「サリア君には外国人客の対応もお願いしていてね。ただ日本語は堪能(たんのう)だから、心配しないでほしい」

「航海中、何でもお申し付けくださいね」

 

 よろしくお願いしまーす、と、子ども達が声を揃える中で、瑠衣はそのサリアという女性を見ていた。

 大正時代を生きた瑠衣にとって、外国人とこういう形で接する機会はあまり無かった。

 大して興味も無かった。

 強いて言えば、戦時中に多少関わり合いを持った程度だろう。

 

「よろしくお願い致します」

 

 そう言って頭を下げて来るサリアに、瑠衣もまた目礼と会釈を返したのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「良し、では探検に……むう!」

 

 関係者の自己紹介も終わって、さあ探検に行こう、というところで桃寿郎のお腹が鳴った。

 空腹には敵わないと皆で笑って、それなら部屋に荷物を置いて、先に入浴してしまおう、という話になった。

 瑠衣はそれを、少し離れて眺めていた。

 

 子ども達がきゃっきゃっと楽しそうにしている姿を見て、自然と口元が(ほころ)ぶ。

 流石に、あの輪の中に入るような年齢――見た目は10代のままだが――では無い。

 他に大人がいないので、気持ちとしては引率に来たという感覚が強い。

 と言うか、竈門家と胡蝶家の親達はどういう心境で来るのをやめたのか。

 

(まさか、私を信頼して……と言うわけでも無いでしょうにね)

 

 それこそ、まさか、というものだ。

 しかし実際に竈門の親も胡蝶の親も来ていない以上、子ども達のことは自分が見ていよう、と瑠衣は思っていた。

 (もっと)も、産屋敷家の船でそうそう危険などあるはずもない。

 それに……。

 

(もう、鬼もいないのだから)

 

 瑠衣に考えを察したわけではないだろうが、足元にコロと茶々丸が寄って来ていた。

 確かに彼らは鬼だが、もはや意味の無い属性だった。

 ああ、いや。それともお目付け役なのだろうか、この子達は。

 そう思うと、妙な納得感があった。

 

(鬼のいない世で、私は何をすれば良いのだろう)

 

 ふとした時に、考える。

 考えても栓無きことだが、結局のところ瑠衣は現代の人間では無い。

 とは言え、他の普通の人間のように生きることは出来ない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(まあ、今考えても仕方のないことですが……っと)

 

 その時、不意に両腕を掴まれた。

 何事かと思って顔を向けると。

 

「ええと……どうかしましたか?」

 

 瑠衣の腕を掴んでいたのは、カナエとしのぶだった。

 胡蝶家の娘。名前と言い顔と言い、まさに先祖返りの娘達だった。

 性格や雰囲気もそっくりで、同一人物だと言われれば信じてしまいそうだ。

 もちろん、そんなことはないわけだが。

 

「うふふふふ」

「え……ええ?」

「すみません。姉さんが待ち切れないみたいなので」

「待ち切れないって何が……うわ力強っ」

 

 そんな2人にぐいぐいと引っ張られて、瑠衣は歩き出した。

 どこに向かうのか、そんなことは言うまでも無い。

 大浴場だ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 今にして思えば、胡蝶姉妹のことが瑠衣は苦手だった。

 そこまで親交があったわけではないが、けして付き合いが短かったわけでは無い。

 胡蝶姉妹の人となりも、好意を抱きこそすれ嫌う要素は無かった。

 しかしそれでも、両者の関係はせいぜいが「同僚」止まりだった。

 何故か。理由はひどくシンプルである。

 

「きゃあっ、瑠衣さんってお肌スベスベ~」

「いや……あの……近……」

「もう。姉さんったら失礼ですよ。……それにしてもウエスト細いですね」

「ええ……いや……だから……」

 

 本質的に、胡蝶姉妹が()()()だったからだ。

 カナエは見た目通りだが、しのぶも真面目に見えて姉とそっくりである。

 姉妹仲が良いせいなのか知らないが、スキンシップも激しい。

 それも、めちゃくちゃ激しい。距離感が凄い。

 

(い、今どきの子って、こんな感じなのでしょうか……?)

 

 豪華客船というだけあって、船内の大浴場は大きなものだった。

 ただ湯船が広いというだけでなく、壁や柱、鏡に洋風の装飾が施されていて、ヨーロッパのどこぞの宮殿を模したと言われても納得してしまいそうだった。

 柔らかめの照明が明るすぎず暗すぎず、湯気の中でも視界を通してくれていた。

 

「だいたい、スベスベで細いと言ったらお2人の方でしょう」

「えー、そうかしら? しのぶはたしかに細いけど」

「姉さんは単純にむ……一部が大きすぎるだけでしょ」

 

 先にも言ったかもしれないが、瑠衣の肉体は現代日本人のものではない。

 大正時代の、平均的な女性のものだ。

 現代の女性とは食べている物も、遺伝子情報も違う。

 

 身長も、身体的なサイズも、現代と大正時代では全くと言って良いほど違う。

 具体的に言えば、身長は高く、()()()()()はよりメリハリがついている。

 しかも大正時代とは健康状態が雲泥の差だ。肌の白さや張りも全く違う。

 つまるところ、どう考えても勝負にならない。

 

「ふふ、お楽しみいただけていますか?」

 

 その時、部品の補充に来たらしい田村と目が合った。

 シャンプーやら何やらを並べながら、こちらを微笑ましそうに見ている。

 まあ、端から見れば年頃の少女達がはしゃいでいるように見えるのだろう。

 

(1人は100歳を優に超えていますけどね)

 

 もちろん、そんなことは言えないわけだが。

 

「うふふ、そーれっ」

「わっ、ちょっと姉さんやめてよ。もう!」

「あはははっ」

 

 左右からじゃぶじゃぶとお湯をかけられる羽目になりながら、瑠衣は熱を孕んだ吐息を吐いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 意外なことに、食事はビュッフェスタイルだった。

 この少人数で非効率的なような気もしたが、その考えはすぐに改められた。

 育ち盛りの子どもが集まって、コース料理の量で足りるはずが無かったのだ。

 

「うまい!」

 

 特に、桃寿郎の食欲は旺盛(おうせい)どころの騒ぎでは無かった。

 彼のテーブル――の脇には、彼が使っただろうお皿が柱の如くうず高く積み上げられていた。

 ちなみに1つ1つの皿に料理は山盛りにされていた。

 そして回収していないのではなく、回収が間に合わない速度で新たに積まれるだけである。

 

「もうキミ、料理の盆ごと持って行ったら良いんじゃない?」

 

 と呆れて言うのはカナタだった。

 尤も、その彼にしてもすでに何度かおかわり済みである。

 比較的小柄な炭彦も同じで、カナエやしのぶでさえ慎ましやかにモリモリ食べている。

 育ち盛りとは、侮り難いものだった。

 

「もうなくなった!? うちの息子どもより凄いわ~」

 

 という料理長・立川の悲鳴とも驚愕とも取れる声が、厨房から聞こえて来たとか来なかったとか。

 

「うまい! うまい! うまい!」

 

 桃寿郎は一口食べるごとに、料理が美味しいと主張していた。

 それでいて少しも食べ零さないのだから、器用なものである。

 思ったことを言っているというより、癖のようなものなのだろう。

 

「よし! おかわりだ!」

 

 豪快かつ、しかし音を立てずにお皿を置くという器用な芸当をやってのけて――親の教育の賜物(たまもの)と思われる――桃寿郎は席を立った。

 その時、桃寿郎は視線を感じた。

 む、と目を向けたその先には、瑠衣がいた。

 彼女は目をまん丸く見開いて、桃寿郎をじっと見つめていた。

 

「…………ああ」

 

 桃寿郎が自分に気付いたと思ったのか、瑠衣は「ごめんなさい」と謝った。

 その表情は苦笑というか、けして意地の悪いものでは無かった。

 

「少し、知り合いに似ていたので」

「……そうか!」

 

 知り合いとは、誰のことだろうか。

 一瞬そんな考えが頭を(よぎ)ったが、口には出さなかった。

 何故かはわからないが、口に出してはいけないような気がしたのだ。

 それに何より、腹の虫を前にすれば大体のことは些事であった。

 お腹を鳴らしながらおかわりを取りに行く桃寿郎の背中を、瑠衣はまた苦笑の目を向けていた。

 

「ねえ、カナタ。もしかして瑠衣さんって桃寿郎君のこと」

「知らないよ」

 

 そしてカナタは、心の底からどうでも良さそうにそう言った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「うわ、暗いなあ」

 

 夜半、トイレに立った炭彦は、廊下の暗さに思わずそう言った。

 お風呂と食事の後、皆で船を探検し、談話室でゲームなどに興じた。

 解散したのはほんの30分ほど前だ。

 ただたくさん飲み食いしたせいか、すぐにトイレに行きたくなってしまった。

 

 廊下は消灯されていて、小さな誘導灯が僅かな光を見せているだけだった。

 30分ほど前までは十分な明かりがついていたのに、子ども達が寝静まったと思って消されてしまったのだろうか。

 いずれにせよ、トイレまでの短くも暗い道のりを歩かなければならなかった。

 廊下の壁に手をつきながら、ゆっくりと進んだ。

 

「……あれ……?」

 

 そうして少しすると、炭彦は眉を寄せた。

 目を閉じて、スンスン、と鼻を鳴らした。

 

「何だろう。この臭い」

 

 炭彦は鼻が利く。

 だから遠くから漂ってくる臭いも、かなり正確に嗅ぎ分けることが出来る。

 ただその臭いについては、すぐには何の臭いだ、と判別することが出来なかった。

 

 その臭いは、廊下を進むごとに少しずつ強くなっていった。

 料理の匂い、というわけでは無い。食堂は遠い。

 トイレの臭いでも無い。と思う。

 もっと生物的で、そう、サファリパークで感じるような、()()()()()()

 

「……()()()()()……?」

 

 しかし、ここは海の上だ。動物などいるはずもない。

 茶々丸とコロは、鬼であるせいか、自然物の匂いが実はしない。

 だから、こんな――()()()()()()()()()()()()

 

「何か、いる……?」

 

 自然と、歩く速さはゆっくりとしたものになっていった。

 周囲が静かなせいか、自分の心臓の音が良く聞こえるような気がした。

 薄暗い廊下の先、その暗闇で、何かが動いたような、そんな錯覚を覚える。

 

 いや、はたしてそれは錯覚だったろうか。

 あれは、実在するものではないのか。

 しかし()()は、余りにも、おぞましく――――。

 

「炭彦くん」

 

 はっとして、炭彦は後ろを振り向いた。

 いつの間にそこにいたんか、ほんの数歩後ろの位置に、瑠衣が立っていた。

 浴衣に羽織をかけた姿で、いつもの着物姿よりは緩く感じて、炭彦はどぎまぎしてしまった。

 瑠衣は不思議そうな顔をして、そんな炭彦を見つめた。

 

「どうしたんですか。こんな時間に」

「えっと、ちょっとトイレに」

「……? お手洗いなら自室にもあるでしょう」

「…………あっ」

 

 そうだった。忘れていた。炭彦は恥ずかしさで顔を赤くした。

 船と言っても豪華客船。いわばホテルである。 

 自室にもシャワーとトイレが設置されていることを、今思い出した。

 部屋もろくに見ずに船内探検にかまけていたため、外の共用トイレの存在しか頭に無かったのだ。

 

「さあ、廊下は冷えます。お部屋まで送りますから、戻りましょう」

「い、いえ。僕が瑠衣さんを送ります!」

「大丈夫ですよ。子どもなんですから、遠慮しなくても」

「もう高校生なので!」

「ふふ……では、お願いしますね。行きましょうか」

 

 そうして、炭彦は元来た道を引き返した。

 いつの間にか、あの臭いも感じなくなっていた。

 

「…………」

 

 そして炭彦と歩きながら、瑠衣は廊下の向こう側に目をやった。

 炭彦が歩いていたその先に、視線を向けた。

 しかし何も言わず、感心も興味も向けず、すぐに前を向いた。

 前を歩く少年の背を追って、瑠衣は歩いた。




最後までお読みいただき有難うございます。

これからは平和な日常編です。
不穏なことなんて少しもありません。
だってほら、鬼いないし。

私はここに誓いましょう。
もう瑠衣が苦しんだり傷ついたりすることはない…と!(くもりなきまなこ)


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第94話:「豪華客船殺人事件」

 朝は食が細くなる人間もいるが、炭彦達には当て嵌まらないようだった。

 胡蝶姉妹こそ――表向き――お(しと)やかにしているが、他の男子達は、朝食としてテーブルに運ばれたプレートを次々に空にしていた。

 流石は成長期。今朝から厨房が悲鳴を上げている様が容易に想像できそうだ。

 

 瑠衣の前にも、当然だが同じ朝食プレートが置かれている。

 焼きたてのクロワッサンに、温野菜にポテトサラダ。スクランブルエッグに焼きベーコン。

 それから、温かいコーンスープにアメリカンコーヒー。

 まさに、洋食レストランのご機嫌な朝食だ。

 

(まあ、元気なのは良いことですね)

 

 自分の朝食には手を付けずに、バクバクと食べ続ける子ども達を見て、瑠衣は微笑んだ。

 その膝と足元では茶々丸とコロが丸くなっていて、返事の代わりに尻尾を揺らしていた。

 

「あの、瑠衣様。申し訳ございません」

 

 そうしてゆったりとした朝食の時間を過ごしていると、耳元で囁く声があった。

 

「貴女は……田村さん、でしたか。何か御用でしょうか」

「その、ちょっと……産屋敷様がすぐに来てほしいと」

「産屋敷……さんが?」

 

 子ども達に聞こえないようにだろう。給仕の田村の声は小さく落とされていた。

 その時点で、この「呼び出し」がただならぬものであることはすぐにわかった。

 瑠衣は一度目を伏せて、小さく息を吐いた。

 

「瑠衣さん?」

「大丈夫ですよ。ゆっくり食べてくださいね。良く噛むんですよ」

「こ、子ども扱いしないでくださいよ」

「ふふ」

 

 炭彦達に微笑みを向けてから、瑠衣は席を立った。

 田村はそんな瑠衣に一礼して、背を向けて先導した。

 ちなみに、茶々丸とコロはついて来なかった。

 

(さて、いったい何の用でしょう)

 

 朝食の席で呼び出される。普通に考えて、穏やかではない。

 田村の足取りも、どこか急いでいる様子だった。

 ――――まあ、(もっと)も。

 

(――――私には関わりの無いこと、ですがね)

 

 そうして、田村にある部屋まで案内された。

 そこはスタッフの区画で、その部屋のドアは他よりも少しだけ大きく作られていた。

 ドアのプレートには「船長室」と刻印されていた。

 

「失礼します。瑠衣様をお連れしました」

 

 ドアをノックして、田村が瑠衣を室内へと促した。

 そうしてドアを潜り、部屋の中に入った瞬間、瑠衣は自分が呼ばれた理由を察した。

 部屋の中に、()()()()()が充満していたからだ。

 ――――()()()()に、瑠衣は目を細めた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 鉄錆の臭い、と、良く言われる。

 だが実際には、もっと鼻腔や喉の粘膜に貼り付くような、不快な臭いになる。

 そして鬼殺隊の場合には、血の臭いとは自分や仲間の臭いということになる。

 鬼は血の臭いをさせる間もなく再生するか塵になってしまうからだ。

 

 だから鬼殺隊士には、血の臭いを嗅いだ瞬間に警戒する本能のようなものがある。

 それは瑠衣も例外ではなく、室内に充満するむせ返るような血の臭いに目を細めた。

 実際、船長室は酷い有様だった。

 

「朝早くに呼び立てて申し訳ない」

 

 車椅子に座った産屋敷が、瑠衣の姿を認めると小さく頭を下げて来た。

 それに対しては目線だけで返して、周りを見た。 

 副船長の坂本が産屋敷の傍にいて、瑠衣を案内してきた田村が扉の横に立っていた。

 この2人は何も言葉を発さず、緊張した面持ちで瑠衣を見ているだけだった。

 

 さて、穏やかでないのは彼らの足元だ。

 酷い有様、だ。

 まず、彼らの足元は()()()()()()

 比喩ではなく、文字通り真っ赤に染まっていたのだ。

 カーペットも、家具も、壁紙も、あるいは天井でさえも、真っ赤なペンキをぶちまけたかのようになっていたのだ。

 

「…………」

 

 そしてその全てが、血だ。ぶちまけられていたのは血液だった。

 もちろん、何もないところに血液など出て来ない。()がいる。

 その元は、船長室に(しつら)えられたベッドの上にいた。

 

「……この人は?」

「船木君です」

 

 船長室で寝ているのは船長しかいない。

 それがわかっていても聞かなければならない程に、彼の姿は異常だった。

 ()()()()()()()()()

 胸から腹部に欠けて大きく口を開けて、そこは()()()()()になっていた。

 

 あるべき内臓(モノ)が、そこには無かった。

 まるで外部から無理矢理に抉じ開けられたかのように、肋骨が数本、外に飛び出した状態で折れていた。

 ()()はわかるが、状況が余りにも異常だった。

 

「私がやった、と?」

「まさか。ただ……」

 

 瑠衣も、産屋敷達が自分を疑っているとは思っていない。

 仮に犯人が瑠衣だとしても、こんなやり方はしない。

 こんな、こんな――――。

 

()()()()()()()()

 

 人間の内臓を、喰うような真似はしない。

 現場を見ただけでわかる。

 船長の船木は、何者かに()()()()のだ。

 それも、生きたまま――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 状況をまとめると、こういうことになる。

 まず、船長室は内側から鍵がかけられていた。

 いちおうマスターキーはあるが、所定の場所にしまわれたままだった。

 つまり昨夜から今朝に至るまで、この船長室は「密室」だったということになる。

 

 何者かが密室状態の船長室に侵入し、船木を殺害――当然、これが自殺だなどという者はいない――した。

 状況だけで見るなら、そういうことになるだろう。

 いわゆる不可能犯罪というやつだ。

 ただしこの世には、不可能事を可能にしてしまう存在も()()()()いる、という事実を抜きにすれば、の話だが。

 

「恥ずかしながら、我々にはこういった状況に対する知見がありません」

「……そうでしょうね」

 

 産屋敷の言葉に、瑠衣は頷く。

 何しろ100年前の時点で、鬼はいなくなっていたのだ。

 鬼舞辻無惨滅亡後の鬼殺隊は、ただただ煉獄瑠衣を討伐するために存続していたに過ぎない。

 だからこそ、鬼狩りの技のほとんども現代まで保つことが出来なかったのだ。

 

「どうすべきと思いますか?」

「先にそちらの意見を聞きましょう」

「……すぐに元の港に戻り、スタッフ以外の人間それまでは自室待機」

 

 その説明に、瑠衣は頷いた。

 産屋敷の提案はセオリー通りのもので、正しい対応と言える。

 

「ただしそれは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「どういうことでしょう?」

「今この船には私達しか乗っていません。出航計画も多人数が知っていたというわけでも無いのですよね? つまり犯人の目的は、船に乗っている人間」

 

 もしもそうだとするのなら、(おか)に上がった後も犯人は標的を狙い続けるかもしれない。

 ここは海の上。瑠衣達も逃げられないが、犯人も()()()()()

 つまり船の中にいた方が、()()()()()()()()()()

 

「子ども達はまだ食堂ですね……他のスタッフの方は?」

「た、立川さんは厨房で。サリアさんは自室に……その、船長を最初に見つけて、ショックが大きかったので……」

「……なるほど」

 

 そして、これはおそらく産屋敷が最も把握できていないことだろうが。

 

「では、まあ、とりあえず子ども達のところへ戻りましょうか」

「事情を説明しに行くのであれば、我々も」

「いいえ、そういうことではなく。大体ですね」

 

 ふう、と溜息を吐いて、瑠衣は言った。

 

「あの子達が、大人しく自室待機なんて出来るわけがないでしょう?」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 カナタは頭を抱えていた。

 いや、訂正しよう。最近はずっと頭を抱え続けている。

 それもこれも、あの女のせいだ、とカナタは()()を睨んだ。

 

「船長が変死しました」

 

 朝食の後しばらくして、瑠衣がやって来た。

 その時にすでに嫌な予感がしたのだ。

 しかしカナタが何かの行動を起こすよりも早く、瑠衣がそう告げた。

 それはもう、効果覿面(てきめん)だった。

 

「変死……って、普通じゃない死に方ってことですよね」

「まあ、そういうことになりますね」

 

 緊張した面持ちで言う炭彦に、瑠衣は頷いた。

 特に隠し立てするようなこともでない。そう考えているのだろう。

 だがカナタとしては、そこは隠し立てしろよ、と言いたくて仕方が無かった。

 むしろわざとやっているんじゃないか、と瑠衣を睨みつける。

 

 するとどうだ。瑠衣はカナタの視線に気付いた。

 そして、ふ、と微笑んで見せた。

 それはまあ炭彦が見ればポヤ~っとするのかもしれないが、そこはカナタである。

 むしろ、イラッとした。

 

「そういうわけですので、残りの旅程はすべて自室待機ということになりました。内側から鍵をかけて、誰も中に入れないようにすること」

「自室待機、だって……!?」

「ええ、そうですよ。少し窮屈(きゅうくつ)かもしれませんが、我慢してくださいね」

 

 衝撃を受けたような――実際、受けている――カナタに、やはり微笑んだまま瑠衣はそう言った。

 その瑠衣の目を見た瞬間、カナタは瞬時に察した。

 この女――この女!

 ()()()()()()()()()

 

「必要な物があれば、お部屋の内線電話で私に言ってくださいね」

 

 そして言外に、自分はずっと部屋にいると言った。

 当然のように、炭彦ら子ども達は「はあい」と声を揃えた。

 普通なら変死体が出たという話に少しは怯えるものだろうが、残念ながら、この場にいる子ども達はおよそ「普通」とはかけ離れている。

 1年前の地獄を潜り抜けた経験がそうさせていた。

 

「ねえカナタ、相談があるんだけど」

「うむ!」

 

 自室に移動しようとなった段で、炭彦と桃寿郎が声をかけて来た。

 炭彦と桃寿郎。その組み合わせで、カナタには「相談」の内容が大方のところ察せてしまった。

 相談。何て嫌な響きの言葉なのだろうと心底思う。

 

「…………何?」

 

 自分がしっかりしなければ、と、カナタは思ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――夜になるのを待って、部屋を抜け出した。

 子ども達の部屋はほぼ隣同士だったので、時間さえ示し合わせれば合流は容易だった。

 海の上なので携帯電話(スマホ)で連絡が取れないのが難点だったが、幸い誰1人遅れることなく炭彦の部屋の前で集合することが出来た。

 

「うむ! 全員揃ったな!」

「ちょ、声が大きいよ桃寿郎君」

「そうですよ。あの人(瑠衣さん)に聞こえたらどうするんですか」

「揃いも揃って……」

「うふふ、みんな揃ったわね~」

 

 桃寿郎、炭彦、しのぶ、カナタ、カナエ。

 その5人で、夜までは大人しくしていた。

 その甲斐あってなのか、大人達には――瑠衣も含めて――怪しまれた様子は無かった。

 

 ただ、彼らも流石に探検気分のままでは無かったのだろう。

 炭彦と桃寿郎は竹刀袋を持っていたし、胡蝶姉妹も懐に何かしら仕込んでいる様子で、たまにカチャカチャと音を立てていた。

 それに対して微妙に納得がいっていないのか、カナタはジト目で言った。

 

「何でそんなに準備がいいわけ……?」

「あらあら乙女の(たしな)みよ~」

 

 それは絶対に違うだろうと思ったが、言っても仕方が無いのでそれ以上は口にしなかった。

 

「……それで? この先なわけ、気になる場所って言うのは」

「うん」

 

 カナタの言葉に、炭彦は頷いた。

 炭彦達は何も、大人達の目を誤魔化すためだけに深夜まで待っていたわけでは無い。

 昨夜、炭彦が奇妙な気配と()()を感じた時間まで待っていたのだ。

 

 炭彦は昨夜、トイレに立って深夜の廊下を歩いていた。

 その途上、暗闇の中に何かを視た、気がする。

 気配と臭いが強くなったタイミングで瑠衣が声をかけて来たので、有耶無耶(うやむや)になってしまった。

 

「どういう臭いだったの?」

「すごく、生臭いっていうか……たぶん、すぐにわかると思う」

 

 炭彦は嗅覚に優れる方だが、あの臭いは鼻の良い悪いで嗅ぎ逃せるものでは無い。

 場合によっては吐き気を催してしまいそうな、そんな臭いなのだ。

 だから()()()()()()()、確実にわかるはずだった。

 

「どっち?」

「あ、こっちだよ。たぶん」

 

 昨日と同じ暗闇の中に、炭彦は進んでいった。

 竹刀袋を握り締めて、その硬質な感触を確かめながら、歩き出す。

 そんな炭彦の後ろを、カナタ達もついて行った。

 海の上を航海しているにも関わらず、廊下は何の音もしていなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「…………ふむ」

 

 瑠衣は、自室でじっとしていた。

 部屋の構造は、子ども達の部屋と同じだ。

 それはそうだろう。同じ階層の同じ通路沿いの部屋なのだから。

 (もっと)も、瑠衣としてはベッドーー欲を言えば布団――があれば事足りると思っていたが。

 

 今も、ベッドに腰かける形で目を閉じている。

 その他の備品は、動かした形跡すらも無い。引き出しも、備え付けのコップでさえもだ。

 傍目から見れば、着物姿の日本人形が鎮座しているようにも見えるだろう。

 しかしこの()()は、呼吸をしている。確かに、生きているのだった。

 

「我ながら、慣れないことをしていると思いますが……」

 

 瑠衣は、ずっと考えていた。

 1年前に()()()()()()()()()あの時から、考え続けている。

 姉の言葉がどうであれ、今さら現代の人間と同じように生きていけるとは思っていない。

 

 それでも、生きている以上は、生きていかなければならない。

 生きていく以上は、何かをしなければならない。

 何もしていないのは、生きていないのと同じだから。

 だとすれば、今の自分は何をすべきなのか。どう生きるべきなのか。

 

「……お腹を抱えて笑う姉さんの姿が見えるようです、よ」

 

 目を開ける。

 部屋は、明かりをつけていない。だから真っ暗だった。

 ただ目をずっと閉じていたせいもあって、暗闇の中でも視界は通っていた。

 そして瑠衣の目は、真っ直ぐに部屋のドアへと向けられていた。

 まるで、ドアの向こう側が見えているかのように。

 

「まあ、仕方ありません。ある意味、()()()()()()()()

 

 良く見ると、瑠衣の足元にコロが丸まっていた。

 相槌のつもりなのか、尻尾を一度だけ振っていた。

 その感覚を足元に感じながら、瑠衣は膝に乗せていたそれを両手で持ち上げた。

 長尺の鞘。ずっしりと感じる重みに、目を細める。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ス、と、それを抜く。

 暗闇の中にも関わらず、刀身は鈍く輝き、瑠衣の顔を映し込んでいた。

 打たれてから文字通り100年が経っているが、変わっていない。

 打った刀鍛冶も、手入れした()()()()も、凄腕だったのだろう。

 

「やれやれ、ですね。……そう思いません?」

 

 コロはただ、瑠衣の足元で尻尾を振っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 一歩進むごとに、口数は減って行った。

 それは誰かに見つかるかもしれない、という漠然とした懸念のせい――では無かった。

 誰もが何かを感じ取っている。

 

「炭彦、どう」

「……まだ、何も感じない、かな」

 

 すんすんと鼻を鳴らす炭彦の言葉に、一瞬だけ、その場の緊張が弛緩(しかん)した。

 ただ、不思議と安心は出来なかった。

 感じるのだ。と言うと、ただ神経過敏なだけとも取れる。

 しかしこの場にいるのは、良くも悪くも普通もの子どもでは無い。

 

 ()()()()()子どもだ。

 この世ならざるもの。超常なるもの。その存在感を、気配を、経験した者達だ。

 だから、わかるのだ。

 唇が渇き、背筋に冷ややかな物が滴る。その感覚を。

 

(あの時と、同じだ)

 

 1年前、犬人間と遭遇した時のことが思い出される。

 その後もよりヤバい状況に遭遇したと言うのに、思い出すのはいつも同じだった。

 初体験の衝撃はなかなか上書きされない、ということなのかもしれない。

 

「…………待って」

 

 不意に、炭彦が足を止めた。

 先頭を進んでいた炭彦が足を止めたので、自然、全体の足も止まった。

 

()()

 

 続く言葉に、再び緊張が高まった。

 思わず、と言った風に、炭彦の視線を追って正面を見据えた。

 (にお)い、は、感じ取れなかった。

 しかし確かに、正面から何かがこちらへと近付いて来ていた。

 

 暗闇の中で、何かが蠢いている。

 匂いは、それが人間ではないと教えていた。

 それでいてその存在は、己を隠そうという気がないようだった。

 炭彦たち全員が足を止める前で、()()は暗闇の中から、ぬっと姿を現した。

 そして。

 

()()()()

 

 猫だった。

 茶々丸が、子ども達を見上げて一声鳴いたのだった。

 一気に、どっと疲れた。

 はあ、と、その場にいる全員が深く息を吐いた程だった。

 カナタに至っては炭彦に蹴りを入れていた。

 

「痛い!」

「もっと痛がりなよ。何だよ妖しい気配が~って。茶々丸じゃないか」

「いや待って。あの時はもっと違う臭いだったような」

「しつこいなあ。起きてるのに寝言とかやめて――――」 

 

 その時だった。

 緊張が解れて、笑みさえ零れそうな、その隙間に捻じ込まれるようにして。

 ――――悲鳴が、聞こえた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 悲鳴がどこから聞こえたのか、すぐにわかった。

 何故ならばそこは、食堂だったからだ。

 もう何度も部屋から通った道を、炭彦達は全速力で駆けて行った。

 

「――――大丈夫ですか!?」

 

 と、食堂に駆け込むや炭彦は叫んだ。

 普通に考えれば悪手ではあるのだが、それ以上に炭彦を焦らせていたのは、食堂に入った瞬間からむっとする程に匂い立つ()()()()()だ。

 ドッ、と、心臓が痛くなる。全身を流れる血が冷えたような錯覚を覚える。

 

 竹刀袋を解き、日輪刀を掴んだ。

 誤解や勘違いはあり得ない。その確信があったからだ。

 そして炭彦の呼びかけに応えるように、厨房の方から大きな音がした。

 金属音。ガラスの割れる音。それも立て続けに。

 どう考えても穏やかではない。

 

「大じょ」

 

 再び声を上げかけた炭彦の顔の前に、カナタが掌を翳した。

 

「静かに行こう」

 

 と、短く言った。

 そんな兄に頷きつつ、身を低くして、音の方へと進む。

 厨房からは、それ以上は何の音も聞こえてこなかった。

 しかし、気配はあった。

 

「足元に気をつけてね」

 

 厨房に入る時、カナエがそう声をかけてきた。

 そのおかげで、炭彦は厨房入口にまで転がって来ていた鍋を蹴らずに済んだ。

 ただ結論から言うと、その注意は必要では無かった。

 何故ならば、再び厨房の中で大きな音が響いたからだ。

 

 誰かいる。

 しのぶがそちらへと懐中電灯を――準備が良いと言うか、抜け目がない――向けた。

 懐中電灯の光で、金色の髪が一瞬煌めていた。

 そしてこの船内で、金髪は1人しかいなかった。

 

「サリアさん、大丈夫ですか!?」

 

 腰を抜かしているのか、尻餅をついた姿勢だった。

 周囲には鍋や割れた皿が散乱しており、先程までの音の正体もサリアだったことがわかる。

 サリアは厨房に駆け込んで来た子ども達の方は見ずに、青褪(あおざ)めた顔で、口をパクパクとさせながら、指を差した。

 炭彦達は、素直にそちらを向いてしまった。

 

「ヒッ……!」

 

 と、声を上げたのはしのぶだった。

 ただすぐに姉が彼女の頭を抱き締めたので、それ以上は無かった。

 そして他の子ども達は、声を上げることも出来ず、ただただ()()を凝視していた。

 

 薄暗い中でも、誤解しようがないほど真っ赤に染まった厨房の壁。

 腹の真ん中のあたりから引き裂かれたコック服。

 そして、恐怖に引き攣った、顔。

 明らかに光の無い、空洞のような、目。

 た、と、誰かが声を発した。

 

「立、川……さん……」

 

 料理長の立川が、変わり果てた姿でそこにいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 そして、再び朝食の時間が来た。

 予定では夜には港に着くはずだが、それを話題にする者はいなかった。

 

「う……」

 

 魚料理に口をつけたしのぶが、ナプキンで口元を押さえた。

 流石に――料理長がいなくなったこともあり――肉料理が出て来ることは無かったが、それでも胃が受け付けなかった様子だった。

 と言うより、そもそも食欲のある者がいなかった。

 

 朝食プレートをうず高く積み上げていた桃寿郎も、今朝は余り食が進んでいない。

 昨夜――深夜に立川の遺体を発見して、まだ数時間しか経っていない。

 そういう意味では無理もないことであるし、むしろ1人も欠けずに出て来たことが凄いと言える。

 それだけ、立川の遺体は状況も状態も悪かった。

 

「こういう時こそ、きちんと食べないといけませんよ」

 

 そう言って、瑠衣が子ども達1人1人に声をかけて回ったのだった。

 そういうことをするタイプには見えなかったので、意外に思ったのは内緒である。

 いずれにせよ、その甲斐あって朝食の席には炭彦たち全員が揃っていた。

 そして人数が減ったために、産屋敷や船のスタッフも一緒に朝食を摂っていた。

 (もっと)も、大人達もとても食が進んでいるという風では無かったが。

 

「カナタ、大丈夫?」

「うん……」

 

 カナタも、顔色が良くは無かった。

 もちろん炭彦も不調を感じていたが、何とかパンを口に運んでいた。

 いかに1年前の経験があるとは言え、そこまで神経が図太くはない。

 一方で、炭彦は理解していなかった。

 

 1年前の超常の事件を経験した彼らでさえ、あるいはそれを知っている産屋敷でさえ、そうなのだ。

 であれば、それを経験したことがない者、知らない者が受ける衝撃はどれほどのものなのか。

 それを、炭彦は想像も出来なかった。

 ただそれは炭彦の罪というより、子ども故に仕方がないと言った方が良いだろう。

 子どもの時分に、わかるはずがないのだ。

 

「う……う……」

「……あ、あの、坂本さん? 大丈夫ですか?」

 

 隣の席で朝食にまったく手をつけず、身体を前後に揺らす副船長の坂本に、田村が声をかけていた。

 しかし坂本はそれに答えず、ブツブツと何事かを呟き続けていた。

 明らかに様子がおかしい。

 田村は周囲の――特に子ども達の――様子を気にしながら、坂本の肩に振れて。

 

「坂本さん!」

 

 と、声をかけた。

 その、瞬間だった。

 

「うわあああああああっ!!」

 

 ――――そう、炭彦が想像できるはずが無かったのだ。

 彼は知らなかった。

 たとえ自分よりずっと大人の人であっても、必ずしも、子ども達よりも強いわけではない、ということに。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 土台、無理な話なのである。

 海上の船という密室の中で、猟奇殺人事件が立て続けに起こって。

 その犯人が()()()()()()()()()()()可能性を言われて。

 そんな中でまともな精神状態でいろと言う方が、本来は無理なのである。

 今は現代。戦国時代でも、大正時代でも無いのだ。

 

「うわあああああああっ!!」

 

 叫び声を上げて、坂本が食堂から飛び出していった。

 余りにも突然のことだったので、子ども達は呆然とそれを見送るしか出来なかった。

 産屋敷は何とか声を発したが、当然、追えるはずもない。

 田村はそんな産屋敷を見て、視線で判断を求めはしたが、それ以上は何も出来なかった。

 

 そして瑠衣は、視線を坂本に向けることさえしなかった。

 目を閉じ、姿勢よく座ってじっとしている。

 もちろん、炭彦達に何をしろと言うこともなかった。

 

「瑠衣さん!」

「はい」

 

 一方で、炭彦が声をかければ、目を開けてこちらを向いてくれた。

 彼女は炭彦に一つ頷くと、いつものように微笑んで見せた。

 

「気をつけてくださいね」

「……はい!」

 

 その微笑に背中を押されるようにして、炭彦は席を立った。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 竹刀袋を掴んで、席を立った。

 

「炭彦、待って」

 

 そして炭彦が動いたことで、他の子ども達も彼を追いかける形で動き出した。

 カナタは炭彦を追いかけながら、一瞬だけ瑠衣の方を振り返った。

 瑠衣はそのままの位置で、座ったままだった。

 

 一方の炭彦は、食堂を出たところで二の足を踏んでいた。

 食堂を出たは良いものの、坂本の姿は見えなかった。

 どこへ向かうべきかと迷っていると、サリアが出入口の側でしゃがみ込んでいるのを見つけた。

 

「サリアさん、大丈夫ですか?」

「は、はい。でも、坂本さんが外に……」

 

 サリアが指差したのは、甲板に通じる方向だった。

 幸いサリアは驚いて転んだだけで、怪我などはしていなかった。

 その場にサリアを残して、炭彦はそちらへと走った。

 

 いつの間にか、外は雨が降っていた。

 起きた時には晴れていたはずだが、空は暗く、風が吹き始めていた。

 顔を濡らしながら、炭彦は外に出た。

 しかし甲板に、坂本の姿は無かった。

 

「坂本さん! どこですか――っ!?」

 

 声を上げたが、返事は無かった。

 その代わりに、()()()()()

 え、と己の嗅覚を疑った次の瞬間、炭彦の足元に何かが落ちた。

 ぼとり、と音を立てたそれに、目を向ける。

 

「う、あ」

 

 革靴だった。右足用だった。

 落ちた時に、靴の面が炭彦の方を向いていた。

 だから炭彦の目には、その革靴に()()があることが見えてしまった。

 真新しい傷口から、骨と、肉と、流れ落ちる血が、見えていた。

 

 ほとんど無意識の内に、炭彦は頭上を仰ぎ見ていた。

 雨粒が顔を打ち、肌と衣服を濡らしていった。

 ただその冷たさを、炭彦はほとんど感じることが出来なかった。 

 そして仰ぎ見たその先には、何も無かった。

 

「坂本さん……!」

 

 呼んだところで、答える者はいなかった。

 まるでその代わりだと言うように、雨粒の勢いだけが徐々に強さを増していった。

 カナタ達が追い付いてくるまで、炭彦はその場に立ち尽くしていた。

 雨雲の向こうに何かを見つけようとするかのように、頭上を見つめ続けていた。




最後までお読みいただき有難うございます。

今年も1年間、お世話になりました。
来年もよろしくお願いします。

それでは、良いお年を!


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第95話:「礎石」

 ――――美味(うま)い。

 ()は、そう思った。

 生まれて初めてご馳走を口にした人間がそうであるように、感動さえしていた。

 

 その、喉を(うるお)す濃厚な喉ごしに。

 鼻腔から肺腑を満たすかぐわしい香りに。

 口内に広がる()()の味に、彼は酔った。

 呑み慣れていない人間が強い酒を呑んだ時のように、夢中になった。

 

 ――――美味い。

 1つ()()を口にする度に、彼は同じことを思った。

 そして次第に、それを口にしていない時が辛く思えるようになっていった。

 

 渇き、である。

 飢え、である。

 彼はそれを知らなかった。そして知ってしまった。

 耐え難い。堪え難い。我慢し難い。

 余りにも辛く、苦しく、気が狂ってしまいそうな程の飢餓と渇望。

 

 ――――もっと、食べたい。

 だから彼は、獲物を探し求めた。

 この飢えを、渇きを、癒やすための獲物を探し始めた。

 幸いなことに、彼が与えられた()()にはまだ十分な獲物が残っていた。

 

 だから彼は、次の獲物を探し始めた。

 暗闇の中に身を(ひそ)めながら、じっくりと。

 しかし、すぐに食べたいと思いながら――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 甲板をいくら探しても、坂本を――足首から下を除いて――見つけることは出来なかった。

 外にい続けるのも危険なため、何の収穫もない形で船内に戻った。

 

「え……」

 

 そして戻った瞬間、炭彦はすぐに異変に気付いた。

 ()()()()()

 つい先程までは感じなかったのに、あの生臭い臭いが通路から、いや船内中に充満していた。

 余りにも臭いが強すぎて、文字通り鼻が曲がりそうだった。

 

「あ、皆さん。良かった、無事で」

 

 炭彦が鼻先を擦っていると、ほっとした表情の田村がやって来た。

 子ども達を探していたのか、通路の向こうからこちらへと駆けて来る。

 それを見て、炭彦達もとりあえず田村のいる方へと歩き出した。

 

「カナタ、どう思う?」

「……わからない」

 

 実際、何もわからなかった。

 何かが起こっていることは確かだ。

 そして、()()()()()ことも確かだ。

 

 だが、その()()とはいったい何だと言うのか。

 普通に考えれば、人間だ。

 人間が人間を殺している。それも猟奇的に。

 だが、そうすると犯人は船内にいる人間ということになる。

 

「一番怪しいのは……」

 

 目の前にいる田村だろうか。

 だがあの細腕で、大の男を何人も殺せるものだろうか。

 船木や坂本は、少なくとも田村よりもずっと体も大きく、海の男らしく筋肉質だった。

 何の反撃も受けずに、一方的に腹を裂くなんてことが可能なのだろうか。

 

 産屋敷はどうだ。いや、論外だ。

 いくら復調したと言っても、炭彦もカナタも衰弱した産屋敷の姿を忘れていない。

 しかしそうすると、一連の殺人を実行可能な()()は1人しかいない。

 

「煉獄瑠衣……」

「絶対違うよ!!」

「……って言うのはわかっているから、耳元で叫ぶのはやめて」

「ご、ごめん」

 

 そう、瑠衣しかいない。

 いないのだが、動機が無い、はずだ。

 そもそも瑠衣であれば、死体をあんな風に損壊させる必要もない。

 しかしそうなると、候補がいない。容疑者がいなくなってしまう。

 残るは外部犯だが。外部の犯行だとして、普通の人間に実行可能かという問題は残る。

 

「皆さん、とりあえズェ」

 

 不意に、そう、まさに不意に、だった。

 こちらへと歩いて来ていた田村の姿が、()()()

 いや、消えたのではない。田村は()()()()()()()()

 ある部屋の――客室の扉が不意に開き、そこへ、何者かに引きずり込まれたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「待て!!」

 

 全員が反射的に動こうとした時、カナタが声を上げた。

 彼がここまでの大声を上げることは珍しく、その場にいる全員が驚いた顔でカナタを見つめた。

 

「待て……待って、皆。止まるんだ」

「で、でもカナタ。田村さんが中に!」

「わかってる」

 

 カナタは、見た。

 おそらく動体視力ではこの中で一番だろうカナタは、()()()()()確かに目にした。

 客室から何かが伸びてきて、田村を引きずり込んだ。

 しかしその一瞬に見えたのは、()()()()()()()()()()

 

(何だ。あれは、手……いや。()()……?)

 

 一瞬、しかも半透明だったから、確証は無かった。

 しかし確かに、人間の手では無かった。

 糸こんにゃくのような、半透明のブヨブヨした何かだった。

 触手、と表現するのが、一番しっくりする。

 

 そして、音がした。

 同時に「グエッ」という蛙が潰れたような声がして、静かになった。

 その声は、田村の声に良く似ていた。

 部屋のドアは、内開きのその扉は、開いたままだった。

 

「行こう」

 

 最初にそう言ったのは、桃寿郎だった。

 

「正気? 近付いたら、田村さんみたいになるよ」

「多分だが、大丈夫だろう」

「……どうしてそう言えるの?」

「勘だ!」

 

 勘かよ、とカナタは思った。

 何が面白かったのか、カナエがクスクスと笑っていた。

 こんな時に笑うとは、なかなかに神経が太い。

 

「わかったよ。でも、ゆっくりだよ」

「ああ!」

 

 桃寿郎は竹刀袋から日輪刀を取り出した。

 炭彦も、同じようにする。

 そしてその上で頷き合って、少しずつ、田村が引きずり込まれた部屋の前まで近付いて行った。

 

 近付くにつれて、生臭い臭いが強くなった。

 それはもはや炭彦でなくても感じ取れる程で、カナタ達も思わず顔を(しか)めてしまった。

 そしてそれ以上に、室内から聞こえてくる小さな音の方が問題だった。

 とても、(おぞ)ましい音だ。

 

「…………」

 

 炭彦も、田村さん、と呼びかけることをしなかった。

 彼も、本能的に理解していたのだ。

 もう呼びかけに意味がないばかりか、危険でさえあるということに。

 中から聞こえてくる悍ましい音が、炭彦にそう教えていた。

 

「開けるぞ」

 

 そう言って、桃寿郎が日輪刀の鞘の先で半開きのドアを押した。

 キイ、と、音を立てて、ドアがゆっくりと開く。

 そして、その先に。

 地獄が、広がっていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 手を止めることなく、瑠衣は紅茶に口をつけた。

 備え付けのティーパックの物だが、流石は豪華客船というべきか、それでも上質な香りだった。

 (もっと)も今の瑠衣の場合、香りも味も大した意味を持っていないのだが。

 

「私は手を出しません」

 

 カップをテーブルに置き、瑠衣は言った。

 場所は、食堂のままだ。瑠衣は食堂から動いていない。

 そしてテーブルを挟んで向かい合っているのは、産屋敷だった。

 

 彼女達がいる食堂にも、例の生臭い臭いは充満している。

 人ならざる気配も、肌を刺すように感じ取っている。

 しかしそれでも、瑠衣がその場から動く様子は無かった。

 

「それは、何故か。理由を聞いても良いだろうか」

「……私は、この時代の人間ではありません」

 

 肉体が人間になったからと言って、瑠衣が100年以上前の時代の人物であることは間違いない。

 本当なら、すでにこの世にいないはずの人間なのだ。

 それが今こうして生きているのは、いくつもの偶然、いや奇跡が重なった結果に過ぎない。

 いないはずの人間が、今を生きる世代を押し退けて良いはずが無い。

 たとえそれが、どれだけの危機だったとしても。

 

「この時代に生じた問題は、この時代の人間が解決すべきです」

 

 鬼舞辻無惨のように、負の遺産であれば古い世代に責任がある。

 だが今、子ども達が相対している危機は、()()()()()()()()()()()()

 だから瑠衣は、自ら手助けをすべきだ、とは考えていない。

 

「それよりも、私も聞きたいことがあります」

「何でしょうか」

「どうして、私を誘っていただけたのでしょうか」

 

 元々、瑠衣はこの船に乗る予定は無かった。

 産屋敷が誘ったのは子ども達で、瑠衣はその中に含まれていなかった。

 瑠衣を誘ったのは、炭彦だ。

 しかしいざ来てみれば、瑠衣の部屋も含めて準備がしてあった。

 

 部屋はたくさん余っているので、予備の部屋をあてがわれただけかもしれない。

 一部屋追加で準備をするくらい、造作もないことなのかもしれない。

 それでも瑠衣は、それは違うと思っていた。

 そしてその考えに、間違いはないとも確信してもいた。

 産屋敷は答えない。しかし、否定もしなかった。

 

「……始まったようですね」

 

 少し離れた場所で、戦闘の気配がした。

 臭いは、さらに強まっていた。

 紅茶の香りは、ほとんどわからなくなっていた。

 

「大丈夫ですよ」

 

 じっと自分を見つめて来る産屋敷に対して、瑠衣は言った。

 

「あの子達なら、大丈夫です」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 匂い立つ、とは、こういうことを言うのだろうか。

 ドアを開けた途端、室内からむっと強い鉄錆の臭いが流れて来た。

 部屋の窓が割れているため、風がドア側――廊下側へと流れ込んだのだ。

 

「田村さん……!」

 

 田村は、()()に全身を掴まれていた。

 すでに生きていないことは、見ただけでわかった。

 半透明の触手が田村の腹部に何本も突き立っていて、衣服の下、いや皮膚の下をウゾウゾと蠢いていた。

 あれで生きていられる人間が、いるはずが無かった。

 

「喰ってるのか。内臓を」

 

 ジュルジュルという音に、カナタがそう言って顔を顰めた。

 思えば、他の死体も臓物がなくなっていた。

 ああやって(すす)っていたのだろう。

 

 それにしても、()()の何と異形なことか。

 触手の塊、というべきなのだろうか。

 一応は人の形に近いが、全身がブヨブヨとした半透明の大小の触手に覆われていた。

 まさに、悍ましいと表現するしかない。

 

「む!」

 

 最初に気付いたのは、一番先頭にいた桃寿郎だった。

 その触手の化物が、()()()()()()()()()()()()()

 

「逃げろ!」

 

 咄嗟(とっさ)に、桃寿郎は叫んでいた。

 そして彼自身もまた、ドアから離れて駆け出した。

 一番先頭にいたので、今度は彼が一番後方にいる形になった。

 

「うおおおお!」

 

 田村の死体が、廊下の壁にグシャリと叩きつけられた。

 あと数瞬反応が遅れていれば、田村の死体に潰されていただろう。

 

「止まるな! 走れ走れ!」

 

 腕を振り回しながら、自身も体勢を立て直しながら桃寿郎が叫ぶ。

 弾かれたように、子ども達が走る。

 示し合わせたかのように同じ方向に駆け出したのは、流石と言うべきか。

 その直後、田村の死体を踏み潰すようにして、触手の化物が部屋から飛び出して来た。

 

 ビチャビチャと、血なのか他の何かなのかはわからないが、色々と撒き散らしていた。

 同時に生臭い臭いが強まる。あれが確実に臭いの基だとわかった。

 それが、触手を伸ばしながら追いかけて来た。

 見た目の割に素早いが、しかし追いつかれる程ではなさそうだった。

 とは言え、余裕をかまして良い状況では無いのも確かだ。

 

「どうする!?」

「ここじゃ不味い。狭すぎる! どこか広いところへ!」

 

 広い場所。甲板では駄目だ。

 なるべく広く、出来れば吹き抜けた高さがあると良いだろう。

 思い当たる場所は、1つしか無かった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 彼らが目指したのは、ホールだった。

 豪華客船の玄関とも言うべき、最初の広間。

 天井にシャンデリアが飾られていて、複数の階層が吹き抜けになっている場所だ。

 そこへ、炭彦達が駆け込んで来た。

 

「やつは!?」

「大丈夫! あいつそんなに速くないよ!」

 

 跳ぶように階段を下りて、炭彦は後ろを振り返った。

 すでに日輪刀は抜いている。

 しかし振り返ったそこに、あの触手の化物の姿は見えなかった。

 どうやら、走っている間に距離が開いてしまったらしい。

 

 ただ、あの生臭い臭いは強いままだ。そこまで離れてはいないのだろう。

 だから炭彦達はすぐに、迎撃の態勢を整えた。

 今まさに自分達が抜けて来た廊下の出口を、きっと睨んだ。

 

「…………?」

 

 しかし、化物はいつまで経っても姿を見せなかった。

 警戒を解くことも出来ずに、顎先から汗の雫を滴らせながら、じっと見つめ続ける。

 

「……? 何の音……?」

 

 キイ、と、軋むような音が聞こえた。

 それも何度も、同じ間隔で聞こえて来た。

 キイ、キイ、と、何度も。

 その音は、上から聞こえて来ていた。

 

「え?」

 

 天井を振り仰ぐと、シャンデリアが大きく傾いて、左右に揺れていた。

 そして傾いている側のシャンデリア側面に、奇妙な()()があった。

 レンズでも通して景色を見ているかのような、そんな歪み、()()()だ。

 

()()()()()()()()()()!」

 

 誰かが叫ぶと同時に、落ちて来た。

 見えないが、確かに大きな質量が落ちて来た。

 ずしん、と、船体が揺れたのではないかと思えるくらいの衝撃が伝わって来た。

 ホールの中心に落ちて来たのは触手の化物で間違いない。無いのだが。

 

「見えない……!?」

 

 微かに景色が歪んでいるので、そこにいるのはわかる。

 だが、さっきまでは半透明だが確かに見えていた。

 しかし今は目視できるか怪しいレベルにまで、透明になってしまっていた。

 

「うあっ」

 

 透明な触手が、まさに炭彦の鼻先を掠めた。

 咄嗟に、避けた。

 嗅覚に優れた炭彦でなければ、避け切れなかったかもしれない。

 標的を外した触手は、ホールの柱の1本を易々とへし折ってしまった。

 

 姿の見えない敵。

 そんな存在に、どうやって立ち向かえば良いのか。

 日輪刀を握り締めて、炭彦は目の前の脅威を睨みつけた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

『呼吸ですよ、炭彦君』

 

 すべては呼吸だ、と、その(ヒト)は言った。

 危険を感じた時、人間の肉体は()()()ように出来ている。

 危機的状況から脱するために脳内物質を分泌し、瞬間的に肉体を強化する。

 

 呼吸遣い――鬼狩りは、いわばそれを意図的に引き起こしている。

 本来は瞬間的にしか発生しない肉体強化を、可能な限り持続させる。

 そのためには、普段は無意識に、あるいは偶然に行っている呼吸を意識して行わなければならない。

 それが、全集中の呼吸。

 

「全――――」

 

 深く息を吸い、それが身体に与える影響を、血管の1本、筋肉の繊維1本に至るまで理解すること。

 そうすれば。

 

「――――集中!」

 

 そうすれば、奇跡だって起こせる。

 

「ふむふむ」

 

 カンッ、と、乾いた音がした。

 缶ジュースが放り投げられて、触手がそれを貫いた音だった。

 ジュースの缶は、即座に音を立ててひしゃげた。

 中身を吸われたのだ。

 

「なるほどなるほど」

 

 投げたのは、しのぶだった。

 彼女は自分の行動の結果を見つめて、ふんふんと頷いた。

 

「やはり、透明になっていたのは()()()()()()()()()

「流石しのぶ、見事なドヤ顔だわ~」

「姉さん、真面目に!」

 

 この化物は、元々が透明なのだ。

 先ほど半透明に見えていたのは、田村の血肉を取り込んでいた影響だろう。

 ホールに来るまでの間に消化が進み、透明になったということだろう。

 

 それに対して、化物の動きはやはり緩慢だった。

 もしかしたら、エネルギー効率の悪い種なのかもしれない。

 例外は近距離の触手の動き。缶ジュースを貫いた動きだけは素早かった。

 そうとなれば、答えは1つ。

 

「突撃だ! 炭彦!」

「うん!」

 

 一撃離脱。

 触手が反応できない速度で斬り、そして()()()()()

 炭彦と桃寿郎の口から発される()()()は、奇しくも同じだった。

 

 ――――炎の呼吸・壱ノ型『不知火』。

 桃寿郎の実家の道場で型を教わり、瑠衣との訓練で鍛えた呼吸法。

 先祖に比べれば、明らかに拙い。

 しかし触手を擦り抜け、斬撃を与えるだけならば、十分な威力を持っていた。

 

「ギャアアアアッ」

 

 交差するように放たれた2つの『不知火』で、化物の「頚」が跳んだ。

 日輪刀は、驚く程スムーズに化物の触手と肉を斬り裂いた。

 まるで熱したナイフでバターを切るように、スッと化物の頚を刎ね飛ばした。

 そして断末魔の叫びを1つ遺して、化物は動かなくなった。

 

「やった……?」

 

 着地して振り向いた体勢のまま、炭彦は言った。

 それに対して、桃寿郎が「うむ!」と興奮した様子で答えた。

 

「うむ! やったな、炭彦!」

「そっか……そうなんだ」

 

 桃寿郎の言葉で、実感が追い付いて来た。

 じんわりと胸に広がるその感覚の名前を、炭彦はまだ知らない。

 何故ならばそれは、炭彦が得る初めてのもの。

 

「やったんだ……!」

 

 勝利の味を、炭彦は噛み締めたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 危険が排除されたということで、船は予定の港に入港した。

 産屋敷家の手配した警察関係者――普通の警察とは違うのだろうか――の事情聴取を受けた後、実にあっさりと、炭彦達は解放された。

 聴取も形ばかりのもので、緊張していたのが馬鹿らしく思える程だった。

 

「瑠衣さん!」

 

 炭彦達は皆揃ってタラップを降りていたのだが、途中で瑠衣だけが足を止めた。

 それが気になって、炭彦も足を止めたのだった。

 振り向くと、瑠衣はいつも通りの優しい微笑みを向けてくれた。

 

「私はまだ中でお話があるので、炭彦君たちはこのまま先にお家に戻ってください」

「でも……」

「疲れたでしょう。色々あって。今夜はゆっくりと休んでくださいね」

 

 瑠衣に微笑みながらそう言われてしまうと、炭彦にはもう何も言えなかった。

 こういう時、何だか大人と子どもの差が目に見えてしまっているようで、もやもやとした気持ちになってしまう。

 ただそのもやもやを晴らす方法を、炭彦はまだ知らなかった。

 

 そうしていると、炭彦は不意に頬に(ぬく)もりを感じた。

 目線を上げると、瑠衣の手が頬に添えられていることに気付いた。

 自分の顔面が紅潮しているのが、すぐにわかった。

 

「今日は、良く頑張りましたね」

「そ、そうですか?」

「ええ、立派に……立派に、やれていましたよ」

 

 化物に勝利した時に感じたものとは、また違った。

 胸の奥からこみ上げてくるこの高揚を、炭彦はやはり言葉で表現することが出来ない。

 しかし彼の明るい表情を見ると、そもそも言葉は不要なのかもしれない。

 

「炭彦――――!」

「ほら、皆が待っていますよ」

 

 すっと離れた温もりに、ほんの少し、寂しさを覚えた。

 

「はい! 瑠衣さん、えっと……また明日!」

「……明日って何か約束していましたか?」

「えっ、あっ……ええっと」

「ふふ、冗談ですよ。またね」

 

 顔を紅くしたまま、炭彦はタラップを降りていった。

 振り向いて手を振ると、瑠衣も笑顔で手を振り返してくれた。

 いつまでもそうしているわけにはいかないので、カナタ達が待っているところまで小走りに駆けて行った。

 

「遅いよ」

「ご、ごめん」

 

 振り向くと、瑠衣はまだタラップの上からこちらを見守っていた。

 あたりは、すっかり夜になっていた。

 月明かりと港の照明に照らされて、瑠衣の姿はどこか揺らめいて見えて、炭彦は幻想的な何かを見ているような気持ちになった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 炭彦達を見送った後、瑠衣は船内に戻った。

 そしてホールに戻った彼女を、1人の女性が出迎えた。

 

「煉獄様?」

 

 その女性は、驚いた()()()顔で瑠衣を見た。

 金髪の侍従(メイド)は、瑠衣を見て姿勢を正した。

 

「どうかなさいましたか? 何かお忘れ物でも?」

 

 そう言って小さく首を傾げるサリアを、瑠衣は見つめた。

 ()()()()()()()()()

 それから、ふう、と溜息を吐いて。

 

「もう結構です」

 

 と、言った。

 なおも首を傾げるサリアに、瑠衣はもう一度溜息を吐いた。

 

()()()()()()()()()()()()()()

「な、何のことでしょうか? 私は産屋敷家お抱えの……」

「そうですか。ではどうして」

 

 サリアを、いやサリアを取り巻くモノを見つめて、瑠衣は言った。

 

「貴女の肉体は、()()()()()に覆われているのですか?」

「…………」

 

 瑠衣の言葉に、サリアは笑顔のままだった。

 しかし笑顔の質が、劇的に変わっていった。

 それまでのいかにも侍従と言った柔和なものから、どこか陰のあるものに。

 どこか、攻撃的なものに。

 

「いつから気付いていました?」

「最初に貴女を見た時からですよ」

 

 サリアの周囲が、歪んで見えるようになった。

 もはや隠す必要が無いと判断したのか、()()でも見えるようになった。

 それは、あの透明な触手だった。

 不可視の触手が、サリアの衣服――いや、肌の上を這い回っていた。

 

 姿が見えると同時に、生臭い独特の臭いが充満した。

 炭彦がこの場にいれば、余りの臭いに卒倒してしまっていただろう。

 ただ瑠衣は、臭いには特に関心を示すことは無かった。

 

「炭彦君には、異変を感じたらすぐに「視る」ということを教えてあげないといけないですね」

 

 透き通る世界。

 極限にまで集中することで、特別な視覚で世界を視ることが出来る。

 現代では、瑠衣と炭彦の2名だけがその域に達している。

 ただこの1年は平穏だったこともあって、炭彦はまだ意識的に使いこなせていないのだろう。

 

「船のスタッフを殺したのは、貴女ですね」

「それは、この触腕を持っているから、でしょうか?」

「……私は警察でも名探偵でもありませんので、いちいち説明などはしませんが」

 

 瑠衣は別に、この殺人事件を解決したいわけではない。

 ついでに言えば、犯人を罰しようとか考えているわけでは無い。

 そんなことには関心が無い。

 彼女が関心を持っているのは、もっと別のことだ。

 

「あからさま過ぎるんですよ、貴女」

 

 第一の事件からずっと、サリアは最初に死体を発見していた。

 坂本は違うが、最後の彼の姿を見たのもサリアだった。

 そもそも密室の船長室の遺体を、マスターキーも持ち出さずにどう確認すると言うのか。

 それこそ推理小説でもあるまいし、そんな状況はあり得ないだろう。

 

「犯人は、貴女です」

 

 サリアは、答えなかった。

 答えの代わりに飛んで来たのは、透明な見えない触手だった。

 それは、()()()()()()()伸びて来ていたが。

 

「ありがとうございます」

 

 まず、注射針が突き刺さり。

 次いで、牙の日輪刀が触手を輪切りにした。

 そして彼らは、瑠衣の足元に着地した。

 

「茶々丸さん、コロさん」

 

 着物の袖からするりと落とした小太刀を掴み取って、瑠衣は一歩前に出た。

 サリアは笑みを作ったまま、自らも一歩前に進み出たのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「お待ちください」

 

 サリアは両手を上げて、そう言った。

 

「煉獄様と争うつもりはありません」

「……先ほど、私に手を伸ばして来たようですけど」

「いえいえ、あれは冗談のようなものですよ」

 

 一歩だけ前に進み、横へ少しずつ移動する。

 円を描くようなその動きは、瑠衣と距離を取りつつ出口を目指す動きだった。

 

「煉獄様は産屋敷様に仰っていましたよね。現在の危機は今の世代が解決すべきで、ご自分は手を出されないと」

「……まあ、確かに」

「そうであれば、我々が争う必要はないはず。そうではありませんか?」

 

 確かに、そういう話をした。どうやら盗み聞ぎされていたらしい。

 今の危機は、今の世代が解決すべきだ。

 そうしてほしいと、瑠衣は確かに思っている。

 

「逃げると言うのであれば、それも良いでしょうけれど」

 

 透き通る世界の瞳でサリアを見つめながら、瑠衣は言った。

 

「ずっと、違和感がありました」

 

 もはや本人にも隠すつもりがないようだが、サリアは明らかに人間では無かった。

 では鬼かと言われると、違うようにも思える。

 似ているが、違う。

 極めて鬼に近いが、何かが違う。そんな生物だ。

 

「でも、その違和感に拘ったのが誤りでした」

 

 そう、実は最初の印象こそが正解だったのだ。

 鬼に似た何かではない。

 ()()

 前言と矛盾するようにも聞こえるが、()()()()()()

 

 ただし、瑠衣の知る鬼ではない。

 鬼舞辻無惨を祖とする鬼ではなく、ましてかつての瑠衣とも違う。

 つまり、それ以外を祖とする()()()()()

 それが。

 

「貴女は鬼です。サリアさん」

 

 それが、サリアの正体だった。

 

「いいえ、違います」

 

 しかし、サリアはそれを否定した。

 そのまま、彼女は言葉を続ける。

 瑠衣は、それを静かに聞いていた。

 

「貴女の言う鬼というのは、アレでしょう? この国にいた食屍鬼(グール)のことでしょう?」

 

 グール――食屍鬼。

 瑠衣には聞き慣れない名称だが、何となく意味は通じる。

 鬼にも種類があるのだろうか、と、そんなことを思いもした。

 

「そんなモノと一緒にしないでほしいですね。()()は屍肉など口にしません。私達が糧とするのは、生命の源とも言うべき尊き紅色(レッド)――――」

 

 口を開けて嗤うサリアに、今までは見えなかったものが見えた。

 それは鬼の牙に似ているが、より小さく、より鋭い。

 

血液(ブラッド)です」

 

 日本の鬼ではない。別系統の鬼。

 西()()()()

 血を吸う鬼――吸血鬼(ヴァンパイア)

 

「どうぞ、以後お見知りおきを」

 

 そう言って胸に手を当てて、サリアは慇懃(いんぎん)に礼をした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 考えてみれば、不思議なことでは無い。

 何も「鬼」という種が、日本にしか生まれない特別な種というわけでは無いだろう。

 日本以外の地に「鬼」が存在していたとしても、おかしいことでは無い。

 

「では、これで失礼させていただきますよ」

 

 瑠衣から距離を取ったまま、サリアは言った。

 ついにサリアは――最初に会った時から一貫して――瑠衣に一定以上近付くことなく、この場を去ろうとしていた。

 

「いや、しかし僥倖(ぎょうこう)でした」

 

 クスクスと、サリアの嗤う声が響いた。

 瑠衣は、僅かに目を伏せた。

 

「500年前には、この国には非常に強力な食屍鬼(グール)狩人(スレイヤー)のネットワークがありました。80年前には、それらを上回るより強力な女王(クイーン)がいた」

 

 ピクリ、と、瑠衣の眉が動いた。

 それは、瑠衣がサリアとの会話の中で見せた初めての感情の発露だった。

 

()()()()()()()()()()()。これは本当に嬉しい誤算でした。この報せを、きっと我が王もお喜びになるでしょう」

 

 そしてついに、サリアは出口に到達する。

 扉に手をかけて、退去の姿勢を見せている。

 それを一瞬だけ目で確認して、サリアは再び瑠衣の見た。

 

 しかし、そこに瑠衣はいなかった。

 

 茶々丸とコロが、まるでつい先程まで瑠衣がいたことを証明するかのように、そこにいただけだ。

 そして次の瞬間、サリアは非常に軽い音を()()で聞いた。

 何かを喪失した。その感覚に目をそちらへと向ける。

 扉にかけた片腕が、肘のあたりから落とされていた。

 

「――――――――は?」

 

 扉にかかったままダラリと垂れているのが自分の腕だと気が付いた時、サリアの脳は事態を理解した。

 涼し気だった顔に汗が浮かび、苦悶に歪んだ。

 

「ハ、ア……アアアアアアアッ!? わ、わたしの腕がアァ……ッ!」

「おや、痛みは感じるのですね。やはり太陽に弱いのか、それとも他の要因があるのか……興味深いですね」

 

 言葉ほどには興味無さそうに、瑠衣は言った。

 その両手には二振りの小太刀が握られており、片方に血が付着していた。

 言うまでもなく、サリアの腕を斬ったのは瑠衣だった。

 

「なッ……何故ッ!? 争うつもりは無いと言ったはずです!」

 

 事実である。

 サリアは本当に、このまま去ろうとしていた。

 もしも瑠衣が攻撃しなければ、それで終わりだった。

 しかし、瑠衣は攻撃した。

 

「貴女は、今の問題には関与しないと言った。そして実際に子ども達を助けに行かなかった!」

 

 なのに何故、とサリアは言った。

 そうですね、と瑠衣は答えた。

 

「確かに、私は今の世代の問題に介入するつもりはありません」

 

 これも、事実だ。

 瑠衣はそう思っているし、そうするべきだとも思っている。

 だから今の世代が対処すべき問題に対して、手を出すつもりは無かった。

 ()()()()()()()()()()を退治する役目を、子ども達に託した。

 

「でも、貴女は違う。貴女は今の世代の子達が生まれるよりも遥か以前から存在しているのでしょう?」

 

 ならば、()()()()()()()()

 むしろ逆だ。

 自分達の世代が片付け損ねた問題を、今の世代に引き渡してはならない。

 まして人に害なす負の遺産を、のさばらせてはならない。

 むしろ、本来はそれこそが。

 

「そういう存在を斬ることが、鬼狩りの本来の使命なのですから」

「鬼狩り……狩人(スレイヤー)のことか。まさか貴女は、ハシラとか言う存在なのか」

「柱? まさか。私はもう鬼狩り……鬼殺隊では無いので。柱にはなれないし、なるべきでもない」

 

 でも、もう鬼狩りはいない。鬼殺隊はない。

 かつての鬼狩りの姿を、鬼殺隊士の戦いを、知っているのは瑠衣だけだ。

 自分しかいない。

 だから最後に残った者として、()()()として、瑠衣は刀を振るおうと思った。

 

「私は、柱ではありません」

 

 過去を知り、現代を見守り、未来へと引き渡す。

 新たな柱が立つまで。

 いつか自分を追い抜いていくだろう子らを、支える者。

 すなわち、瑠衣は。

 

「私は次代の柱のための――――()()となるべき者です」

「――――ッ。殺せエッ!」

 

 急激に、殺意が膨らんだ。

 不可視の触手を持つ怪物が、瑠衣の四方から、今度こそ襲い掛かって来た。

 だが瑠衣は、それらを見ようともしなかった。

 何故ならば、ちゃんと視ていたから。

 

 ――――風の呼吸・捌ノ型『初烈風斬り』。

 一瞬の交錯。その速度に、サリアの意識はついて来られなかった。

 目の前で、配下の怪物がまとめて両断されていた。

 気が付かない内に頚を刎ねられていて、自分が死んだことに気付いたのは、頭が床に落ちてからだった。

 

「わ――――」

 

 余りにも自分の死に気付くのが遅かったため、サリアは最期の言葉を遺すことも出来なかった。

 最期の言葉を紡ぐ前に、力尽きてしまったからだ。

 そんなサリアの最期にはさして興味を向けずに、瑠衣は駆け寄って来た茶々丸とコロを抱き上げた。

 まん丸い2匹の目を見つめながら、瑠衣は言った。

 

「さて、西洋の鬼(吸血鬼)というのは、何体いるのでしょうね?」

「くぅーん?」

 

 首を傾げるコロに、瑠衣は「ですよねえ」と笑ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――バキッ、と、何かが割れる音がした。

 暗く、冷然とした空気の中、その音は大きく響いた。

 割れたのは、赤色の水晶だった。

 

 台座の上に置かれていたそれが、前触れもなく砕けたようだった。

 夜なのか、台座と水晶の破片以外は見えない。

 というより、水晶自体が淡く光っているようだった。

 ただその輝きも、少しずつ薄まっていた。

 

「…………」

 

 不意に、暗闇の中から細い指先が伸びて来た。

 それは破片の1つを摘まむと、数秒だけ指先で弄び、ポトリと落とした。

 

()()()()()()()

 

 闇の中で、赤色がいくつも浮かんでいた。




最後までお読みいただき有難うございます。

ぶっちゃけ勢いで始めた「その後」編ですが、そこまでの量にはならないはずです。
たぶん。きっと。予定では……。

ところで関係ない話ですが、最近某呪術アニメにハマりました(本当に関係ない)

それでは、また次回。


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第96話:「育手」

 ――――紅い円卓。

 血のように紅い円卓に、やはり血のように紅い背の高い石の椅子が6つ並んでいた。

 埋まっているのは、その内の4つだ。

 

「――――サリアが死んだ」

 

 誰かがそう言った。

 それは、起こった事実をただ淡々と伝えるだけの言葉だった。

 この場にいない同胞の死を伝えるその言葉に、他の3人は三者三葉の反応を見せた。

 

「ハッ、アイツ死んだのか。まあ、たかだか500年そこそこしか生きていない小娘だ」

 

 1人がそう言った。

 他の3人に比べて、遥かに大きな体躯(たいく)

 その声もまた、肉体に合わせたように大きく響くものだった。

 声を発するだけで、その場の空気がビリビリと揺らぐような気さえしてくる。

 

「どうせまた1人で調子に乗ったのでしょう。若気の至りで死ぬとは、愚かなことです」

 

 1人がそう言った。

 他の3人に比べて静かな声だが、しかしどこか冷然としていた。

 自分以外の誰にも興味が無い。

 実際、他の誰をも見ずに、手遊びなどに興じていた。

 

「とは言え、殺されたというのは問題であろう。我らの沽券(こけん)に関わる」

 

 1人がそう言った。

 声質は固く、厳格そうな雰囲気が滲み出ていた。

 同胞の死を悲しむというよりは、自分達の威厳の方を案じている様子だった。

 どこか神経質そうに、指先で椅子の肘置きを叩いている。

 

「いかがなさいますか」

 

 最初に発言した1人が、第五の人物に声を向けた。

 それは最初から椅子に座ることなく、いや話の内容にさえ関心は無いのか、離れたところで()()()()()()

 これは比喩でも何でもなく、文字通り宙に浮いているのだ。

 その背には、黒い羽根が生えていた。

 

「我が()よ」

 

 王と呼ばれたその人物は、声をかけられても特に振り向きはしなかった。

 退屈そうに、いや、実際に退屈なのだろう。

 黒い一対の翼は、子どもが足をぶらぶらさせるように、ゆっくりと動いていた。

 

「そのような些事、私の耳に入れるまでも無いことだ」

 

 だが、と、王は言った。

 

「サリアを殺した女狩人(ハンター)には興味がある」

 

 ()()

 王は言った。

 

「殺せ! その女狩人(ハンター)を。私の前に血を献上せよ」

 

 暗闇の中で、血の色の双眸(そうぼう)が紅く輝いた。

 殺せ、と、王は繰り返し言った。

 サリアを殺した鬼狩り――――煉獄瑠衣を殺せ、と。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「――――廃倉庫、ですか」

 

 ある日、瑠衣は産屋敷の呼び出しを受けた。

 呼び出しというには(いささ)か丁寧過ぎるそれに応じて屋敷を訪れると、産屋敷は皆と――豪華客船が出航した港――の近くにある廃倉庫の話をした。

 それは、瑠衣が調査を頼んでいた件でもあった。

 

 例の、吸血鬼の件である。

 豪華客船の乗員は全員、産屋敷家のチェックをクリアしている。

 にも関わらず紛れ込まれていた。

 それ自体が由々しき事態だが、逆に言えば、何か痕跡が追えるはずだった。

 その調査の中で出た「廃倉庫」だ。無関係ではないだろう。

 

「サリアは度々、その廃倉庫に立ち寄っていたようだ」

「その倉庫は産屋敷家の所有ですか?」

「いや、違う。だからこうやって調べるまで、サリアが立ち寄っていたことにも気付いていなかった」

「その倉庫に所有者は?」

「…………()()()()()()

 

 一つ頷いて、それ以上は聞かなかった。

 

「これが廃倉庫の写真だ」

「……当たり前ですけど、ただの倉庫に見えますね」

「そうだね。ただ、中まではわからなかった」

「どうしてですか?」

 

 産屋敷家の調査が、外観で終わるとも考えにくい。

 そう思って聞いたのだが、産屋敷は小さく首を横に振った。

 なるほど。と、瑠衣はやはりそれ以上は聞かなかった。

 聞いても栓のないことだ。

 

 ただ、それだけに信憑性(しんぴょうせい)が高かった。

 と言うより、ここまで来るとわざとだろうと思えた。

 隠れるつもりが無い。そうとしか考えられない。

 つまり、こちらを誘っているのだ。

 

「……罠ですね」

「うん、我々も同じ見解だ」

 

 鬼――吸血鬼、とサリアは自分達のことをそう呼んだ。

 一般的に、吸血鬼は夜に力を発揮し、太陽が弱点とされる。

 その点は日本の鬼と同じだ。ならば、やりやすい。

 太陽を克服した吸血鬼がいるのかはわからないが、克服していたとしても、夜の方が強力なはずだ。

 すなわち、瑠衣がこの廃倉庫に向かうとすれば。

 

()()()()()()、その廃倉庫とやらに向かいます」

「夜に行くのかい?」

「ええ、その方が色々と都合が良いでしょう」

 

 そう言って、瑠衣は席を立った。

 瑠衣の背中を追いながら、産屋敷は言った。

 

「しかし、1人で行くのは……」

「いいえ?」

 

 首だけで振り向いて、瑠衣は笑った。

 

「1人では行きませんよ」

 

  ◆  ◆  ◆

 

 気になる異性に呼び出されたら、年頃の男の子ならばドキッとするものだろう。

 それも学校の下駄箱に手紙――しかも毛筆らしき文字で――という古典的な方法。

 もう、期待するなと言う方が無理というものだった。

 

「すみません! お待たせしちゃいましたか!」

 

 今日ばかりはランニングマン呼ばわりもやむなし。

 そんな気持ちで、学校からいつもの公園までダッシュで向かった。

 呼吸遣いらしく、息一つ切らせずにかなりの距離を走った。

 先に来ていたらしい瑠衣は、いつものベンチで炭彦を待っていた。

 

「こんにちは、炭彦君」

 

 炭彦の顔を見て微笑むと、瑠衣は読んでいた文庫本を閉じて膝に置いた。

 流行りの小説ではなく、古典というところが瑠衣らしく見えた。

 そこまでであれば、炭彦はいつものように笑顔を浮かべていただろう。

 しかし瑠衣の隣に()()()が座っていて、炭彦は困惑した。

 

「おお、炭彦か! あまり待っていないぞ。俺も今来たところだ!」

 

 桃寿郎が元気な声で手を上げていた。

 今まで、瑠衣との待ち合わせで桃寿郎がいたことは無い。

 いったいどうして桃寿郎がいるのだろうと、思春期の少年の脳内を色々な考えが駆け抜けていった。

 ま、まさか、と良からぬ考えが思い浮かびもしたが。

 

『いや、無いよ。桃寿郎だよ?』

 

 と、頭の中のカナタが呆れたようにそう言ったことで、すぐに正気を取り戻した。

 

「2人とも、日輪刀は持ってきていますね?」

「あ、はい。普段から持ち歩くようにって言われていたので……」

「うむ! 道場から持ってきた!」

 

 炭彦と桃寿郎の手には竹刀袋が握られていて、それを確認して、瑠衣は頷いた。

 

「さて、それでは行きましょうか」

「行くって、どこへですか? もうすぐ日が暮れちゃいますけど」

「む、夕飯か!?」

「ふふ、お夕飯の前に、すみませんが私に付き合ってくださいね」

 

 クスクスと笑いながら、瑠衣は公園の入口へと歩き出した。

 その先には、いつの間にそこにいたのか、黒塗りの車が停まっていた。

 見るからに高級車というのがわかる。

 一緒にいるのが瑠衣でなければ、近付かずに離れていただろう。

 

「そんなに時間はかからないと思いますから」

 

 車の前で立ち止まって、瑠衣はそう言ってまた微笑んだ。

 それに対して、炭彦と桃寿郎はお互いを見やって、それから瑠衣の方見て、頷いたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 寡黙(かもく)なのかそう教育されているのか、運転手は何も話さなかった。

 そして瑠衣も行き先を告げなかったので、炭彦はそわそわと車の外を見たりしていた。

 すると、何となく見覚えのある道を走っていることに気付いた。

 

「あれ、ここって……」

「はい、港の近くですよ」

 

 あの豪華客船に乗って港だ。

 車は静かに港の区画に入って行き、段々と明かりも少なくなっていった。

 どうやら、同じ港でも随分と寂れた区画に向かっているようだった。

 

「船で見た怪物のこと、覚えていますか?」

「……はい」

 

 もちろん、覚えている。

 あの豪華客船で、船員の多くを殺害した透明な触手の怪物。

 余りにも鮮烈なその光景を、忘れることは出来ない。

 

 そこで、炭彦はハッとした顔で瑠衣を見た。

 瑠衣は自分に目を向けて来た炭彦に対して、ゆっくりと頷いて見せた。

 それでようやく、炭彦は自分が呼ばれた理由を理解した。

 

「大丈夫ですよ」

 

 そんな炭彦を見て、瑠衣は言った。

 

「私がいますから」

 

 言われてしまった、と、炭彦は複雑な気分になった。

 本当は、男の自分がそう言わなければならなかったのに、と。

 その時、不意に車が停まった。

 降りましょうか、と瑠衣が言ったので、炭彦も桃寿郎もそれに従った。

 

「ここは……?」

「倉庫に見えるな!」

 

 桃寿郎の言う通り、倉庫があった。

 というより、そういう区画なのだろう。周囲には倉庫しかなかった。

 しかし他の倉庫が――それなりに雑然としつつも――手入れされているのに対して、炭彦達の前に(そび)え立つ倉庫は、酷く荒れていた。

 壁は錆びや罅割れが目立ち、トタンの一部は割れてさえいた。

 

(……()()

 

 そして何より、炭彦は敏感に()()()()()

 倉庫の中から漂う、嫌な臭いに。

 この倉庫の中には、人間では何かが存在している。

 まだ倉庫の扉を開けてもいない時点で、炭彦はそれを理解した。

 思わず、足が(すく)んでしまった。

 

「さて、それじゃあ2人とも」

 

 対照的に、瑠衣はまったく緊張した様子を見せていなかった。

 ゆっくりとした足取りで倉庫に近付きながら、目は炭彦と桃寿郎を見つめていた。

 

()()()()()()()()()()、2人とも」

 

 そう言って、瑠衣は倉庫の扉を開けた。

 扉を開けた途端、嫌な臭いが一気に強まった。

 まるで、腐った空気がそのまま外に逆流してきたかのようだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 意外なことに、廃倉庫の電気はまだ生きていた。

 てっきりこっそり入るのかと思ったが、瑠衣は正面から堂々と入った。

 そして、入口横の電気のスイッチを躊躇(ちゅうちょ)なく入れたのだった。

 

「ほう! コソ泥のように嗅ぎまわるかと思ったら、存外に豪気な奴だな!」

 

 そして、相手も姿を隠すことを躊躇していなかった。

 廃倉庫の中には、目立つ物は何も無かった。

 壊れかけの照明が照らすのは、埃の積もった床と、いくらかの壊れた台車や木箱くらい。

 その中に、1人の大男が立っていた。

 

「しかし東洋人はやはり行儀が悪いな。ノックもせずに勝手に上がり込んで来るとは」

 

 巨体。まさにその言葉が当て嵌まる男だった。

 身長は2メートルを遥かに上回っているだろう。

 横幅も広い。筋肉が巨木のように肥大している。

 着ているスーツは仕立てが良さそうに見えるが、巨体のせいではち切れそうになっている。

 

 それ以外の特徴は、欧米人、ということくらいしかわからなかった。

 話している言葉が日本語なのが、印象のアンバランスさに拍車をかけていた。

 それから、牙だ。

 口の端に、犬歯にしては鋭すぎる牙がちらりと見えた。

 

()()()

 

 そんな男を見上げるようにして、瑠衣がそう言うのを炭彦は聞いた。

 

(……吸血鬼?)

「吸血鬼って何だ?」

「と、桃寿郎君……」

 

 流石の炭彦も声に出さない方が良いと思っていたが、桃寿郎は普通に声に出した。

 だが炭彦の呆れは、すぐに引っ込んだ。

 ()()()()男が、瑠衣の後ろにいる炭彦と桃寿郎の方を向いたからだ。

 その意識が、2人へと向けられる。

 

「あ……」

 

 不意に。そう、まさに不意に、だ。

 男に視線を向けられたその瞬間、身体が重くなった。

 まるで重りでも背中に乗せられたかのように、ずしりと重くなったのだ。

 

 それは例えて言うのであれば、貧血の時の、血の気が引くようなあの感覚に近かった。

 男は何もしていない。ただ見つめただけだ。

 それだけなのに、蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなってしまったのだ。

 身体は驚くほど冷たく感じるのに、背中にはじっとりとした汗が浮き出る。

 

(……怖い……)

 

 それは、恐怖だった。

 かつての2つの戦いは、無我夢中だった。

 緊張する間も恐怖する間も炭彦には許されなかった。

 しかし今は、通常の状態で炭彦は敵と相対することになった。

 いわば、炭彦は今日が()()だった。

 

「大丈夫ですよ」

 

 瑠衣の背中が、男からの視線を遮った。

 それだけで、ふ、と身体が軽くなった。

 

「あんな奴、私がやっつけちゃいますから」

 

 まるで近所に買い物にでも行くかのような口調で、瑠衣はそう言った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「我が()よ」

 

 光の消えた紅い円卓に、少女の声が響いた。

 それを聞いているのは、黒い羽根の女だった。

 鴉のような鳥の羽根ではなく、蝙蝠のそれだった。

 ふよふよと動くそれは、自分に声がかけられると、ついと止まった。

 

「クアドが例の狩人(ハンター)に接触したようです」

「…………そうか、まずクアドが当たったか」

 

 く、と、蝙蝠の女が笑った。

 くくく、と身を震わせるその姿は、どこか幼くも見えた。

 それに合わせて、蝙蝠の羽根も小さく動いた。

 

 声をかけた少女は、それ以上は何も言葉を続けなかった。

 それ以上に報告することがないのか、あるいは発言を求められていないと考えているのか。

 それとも、そもそも()()()()()()()()()

 

「セッカとサドはどうしている?」

「クアドとほぼ同時期に上陸し、それぞれに縄張りを決めたようです」

「なるほど。一番単純なクアドが最初に感づかれたわけだな」

 

 くくく、と蝙蝠の女が嗤った。

 円卓の席は6つ。

 1つは永遠に欠けた。2つはここにあり、3つは席を外している。

 今2人が話しているのは、その3つの席のことだった。

 

「それにしても面白い。クアドは我らの中で最も単純で粗暴だ。そんな彼奴(きゃつ)が最初に狩人(ハンター)(まみ)えることになろうとはな」

 

 隠れるのが下手というのも、考え様かもしれないな。

 蝙蝠の女はそう言って、また嗤った。

 それを静かに見つめる少女は、蝙蝠の女をじっと見つめるだけで、やはり何も言わなかった。

 

「お前はどう思う?」

「私ですか」

「そう。クアドはどうすると思う」

 

 問われれば、答えは返す。

 今も蝙蝠の女に問われて、小さく首を傾げて見せた。

 その仕草はやはり、どこか幼く見えた。

 そして答えは、(よど)みなく出て来た。

 

「クアドならば、正面から狩人(ハンター)に戦いを挑むでしょう」

「そうであろうな」

 

 蝙蝠の女は、1つ頷いた。

 

「ならば、その後はどうなるか。彼奴が狩人(ハンター)に戦いを挑み、その後は」

「その後は」

 

 答えは、やはり澱みなく返って来た。

 

「クアドの剛力に、ただの人間では抗し得ないでしょう」

「くくく、そうだな。そうであろうよ」

 

 蝙蝠の羽根が、愉快そうに震えていた。

 少女の紅い双眸(そうぼう)が、それをじっと見つめていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 吸血鬼の男――クアドは、両腕を瑠衣に対して振り下ろした。

 丸太のように極太の腕は、触れるだけで瑠衣の頭蓋(ずがい)を割ってしまいそうだった。

 そして実際、直撃すればそうなっていただろう。

 

「ハアッ! 逃げ足だけは達者だなァッ!!」

 

 とんとん、と跳躍の音が響く。

 廃倉庫の床を砕いたクアドが顔を上げると、瑠衣の姿は天井の(はり)にいた。

 梁を、柱を跳躍し、壁を跳ね、床を滑った。

 

 目にも止まらぬ速度で跳び回る瑠衣の姿は、常人では目で捉えることさえ出来ないだろう。

 たとえ鬼であっても、十二鬼月クラスの実力でも無ければ追えないだろう。

 巨体のクアドもまた、そのスピードについて来られない。

 

「――――なぁんて、思ってるんだろうがァ!!」

 

 廃工場が揺れた。

 地震と錯覚する程の衝撃は、クアドの踏み込みの音だった。

 

「……ッ!」

 

 瑠衣の着地の瞬間を狙った突撃。

 丸太のような太い腕が、広げられた掌が、瑠衣の顔面を目掛けて振り下ろされる。

 突撃の勢いも乗せられたそれは、風よりも音よりも先に瑠衣の皮膚に届こうとしていた。

 瑠衣は目を細めて、身を低くした。

 

 そしてそのまま瑠衣は身体を横に半分だけ回転させ、クアドの手の甲を叩いた。

 もちろん、それで攻撃を止められるわけでは無い。

 少なく見積もっても、クアドの膂力は十二鬼月クラスだ。

 だからこれはむしろ、瑠衣の身体をずらすための()()だった。

 手を弾き、攻撃から自分の身体を逸らし、空中に逃げた。

 

「フンッ、それで――――」

 

 グン、と、クアドの上半身があり得ない角度に曲がった。

 腰のあたりが180度回転し、駒のようになった。

 当然ながら、両腕もその動きに追随してくる。

 

「――――逃げたつもりかよォッ!!」

 

 瑠衣は空中だ。そこから方向を変えることは出来ない。

 自分を追撃して来る太い腕に対して、二振りの小太刀を重ねて盾にした。

 そしてその盾に、クアドの拳が直撃した。

 瑠衣の肉体に、久方ぶりの衝撃が走った。

 肉体の内側から、骨と筋肉が軋む音が響き渡った。

 

「ぐ……ッ、……!」

 

 ゴムボールか何かのように、瑠衣の身体が吹き飛んだ。

 まず床にぶつかり、ついで廃工場の壁に激突、脆い壁を砕いて外に転がり出た。

 廃工場そのものが、崩れかけて傾いた。

 吸血鬼の哄笑が、工場の中で鈍く響いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それは、時間にしてほんの十数秒の攻防だった。

 

「フンッ! 何だ。口ほどにも無い奴。サリアの小娘はこんな程度の奴に()られたのかよ」

 

 だから炭彦と桃寿郎には、瑠衣があっという間に倒されてしまったように見える。

 と言うか、実際にそうだった。

 瑠衣はクアドに殴り飛ばされて、廃工場の外にまで吹き飛ばされてしまった。

 

「や……やられてしまったのか!?」

「瑠衣さん!」

 

 助けに行こうとした時、クアドが2人の行く手を遮った。

 その瞬間、瑠衣が遮ってくれたあの重圧が再び2人の少年の全身を押さえ付けて来た。

 首のあたりから押さえ付けられているような、そんな感覚だ。

 2人の表情からそれを悟ったのか、クアドは顎先を撫でながらニヤリと笑った。

 

「何だ、こっちはただのガキかよ」

 

 戦わなければ、と、頭ではわかっている。

 竹刀袋から日輪刀を抜き、その切っ先を向けるべきだ。

 そう、頭ではわかっている。

 

 それなのに、身体が動かない。

 恐怖ならば、1年前も、豪華客船の時も感じた。

 しかしあの時と違って、炭彦は自分の身体が動かせなかった。

 まるで自分の身体が、自分のものでなくなってしまったかのように。

 

「まあ、さっさと片付けて――――血を貰うとしよう」

 

 白い牙が、クアドの口の端から覗いた。

 唇を舐める紅い舌先が、近付いてくる一歩が、さらに恐怖感を増す。

 竹刀袋を握る手に力が自然に力が籠り、鞘がカタカタと音を立てた。

 

(た、戦わなきゃ)

 

 意識は、炭彦にそう告げている。

 桃寿郎も同じだった。

 そもそも動物は、死の危険を前にした時に、本能的に2つの行動を取ろうとする。

 すなわち、逃走か、闘争か、である。

 

 しかしそれは、ある程度までの話だ。

 恐怖が一定のレベルを超えてしまった場合、人間はまた別の反応を示す。

 硬直だ。

 本当の恐怖を前にした時、人は硬直してしまう。

 

(僕が)

 

 その硬直を解くには、相当の意思の力が要る。

 死の恐怖をも超えるような、強靭な意思が。

 

(僕が、戦わなきゃ……!)

 

 それは。

 

「ほおう?」

 

 それは、戦う意思を示すには、余りにも(ささ)やかなこと。

 身体は動かせず、恐怖の硬直も完全には解けず、しかし。

 目だけは、敵から逸らさなかった。

 

「クソ生意気な目つきだ。気に入らねェ」

「――――あら、そうですか?」

 

 不意に聞こえた声に、全員の目がそちらへと向いた。

 そしてそこには当然のように、声の通りの人物が立っていた。

 炭彦が思わず声を上げると、その人物はふ、と微笑んだ。

 

「私は、その目が可愛くて仕方ないのですけど」

 

 瑠衣が、額から血を流しながらそこに立っていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 瑠衣が血を流している。

 着物の下も傷を負っているのか、手首の先から滴った血の雫が、刀の切っ先から床にポタポタと落ちていた。

 痛々しい姿なのに、しかし瑠衣の表情は逆だった。

 

「ああ? 何だよ、そのまま寝ておけば死なずにしんだかもしれねぇのに」

 

 クアドが嘲るようにそう言った。

 しかしそれでも、瑠衣の表情はどこか晴れやかだった。

 両手に小太刀を持ち、切っ先を床に向けて、血の印をつけながらゆっくりと歩いている。

 

 一歩進む度に、艶やかな黒髪が揺れる。

 薄暗い倉庫の中、どこからか漏れる光に照らされて、薄く緑に映えて見える。

 それはまるで、この世の者ではないかのようだった。

 

「どうしたよ、何とか言ったらどうだ」

「……そうですね」

 

 風を斬り、小太刀の切っ先を一度振った。

 紅い雫が舞い、滴っていた血を払った。

 

()()()()

「はぁ?」

 

 クアドが怪訝そうな顔をした。

 それだけ、瑠衣の言葉の意味がわからなかったのだろう。

 そして実際、瑠衣は()()()()()()()()()()()()()()()

 

「呼吸は身体能力を強化するだけではありません。こうして傷口を塞ぎ、応急処置をすることも出来ます」

 

 ()()()()()()()()()()

 炭彦には、それがわかった。

 ()()()()()()

 瑠衣は、炭彦に呼吸の使い方を講義している。

 まるで、いつも通りの公園にいるかのような錯覚を、炭彦は覚えた。

 

「コツとしては、お腹の下(丹田)に力を込める感じでしょうか。太い血管の1本1本を、まずは意識するところから始めましょう」

「――――オイ」

 

 しかし、当然のことながら、クアドには瑠衣の言っていることはわからない。

 瑠衣が目の前の、自分自身を殺しかけている脅威(吸血鬼)を前にして、それを無視するような真似、普通では考えられない。

 だが実際に、瑠衣はクアドの存在を無視していた。

 

「まあ、とは言え、攻撃を喰らわないに越したことはありません。呼吸使いは超人ではないので、怪我をすれば消耗しますし、何より痛いですしね」

「オイ、おま」

「鬼と言えども、五体を持つ存在です。動きには限界があり、また傾向もあります。良く視て観察して、最善の距離を見極めるようにしましょう」

「ふざ……」

「鬼と戦う上で重要になるのは、異能の存在です。鬼殺隊では血鬼術と呼ばれていましたが、対策の種類は実はそう多くありません。基本的に、先に潰すか。発動後の隙を狙うかです」

「ふざけるなァッ!!」

 

 とうとう、クアドが激昂した。

 ただでさえ大きな肉体がさらに膨れ上がり、瑠衣を覆い尽くさんと襲い掛かった。

 炭彦が叫び声を上げた。そして。

 

「――――さて、では最後に」

 

 ()()()()()()

 2度、重みのある物体が床に落ちる音がした。

 節くれだった細い肉の塊が2つ、クアドの足元に落ちていた。

 それは、クアドの両手。その手首から先だった。

 

「ヌ、オォ……ッ!?」

 

 いつの間にか、瑠衣とクアドの位置が入れ替わっていた。

 クアドは膝を着いていて、彼の斜め後ろに瑠衣が立っていた。

 小太刀の切っ先が、気が付けば再び朱に染まっていた。

 そして今度のそれは、瑠衣の血ではないことは一目瞭然(りょうぜん)だった。

 

「最後に、鬼の斬り方を教えましょう」

「キ、様アアアァ……!」

 

 ギリギリと歯軋りするクアドを、文字通り尻目に、瑠衣は言った。

 鬼の斬り方を教えると、そう言った。

 その言葉を向けたのは、やはりクアドでは無い。

 瑠衣が見ているのは、炭彦、そして桃寿郎だった。

 

 これは。

 これは、戦いでは無かった。

 これは、訓練だ。

 煉獄瑠衣から、竈門炭彦と煉獄桃寿郎に対する、鍛錬だった。




最後までお読みいただき有難うございます。

少々遅刻しました…。

それはそれとして、おねショタ師弟って、良いとは思いませんか(え)

それでは、また次回。


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第97話:「見稽古」

 鬼殺隊は壊滅した。

 これは鬼狩りの剣士が全滅したとか、隠や刀鍛冶が全滅したとか、それだけでは無い。

 ()()()()()()()を意味する。

 

 呼吸法を筆頭に、日本全土に張り巡らせていた後方支援のノウハウが失われた。

 辛うじて現代まで残っていた竈門家や胡蝶家でさえ、呼吸や型を伝えることは出来なかった。

 これは、日本という国自体が大正から激動の時代に入ったことも無関係ではない。

 産屋敷家の力を()ってしても、守り切ることは出来なかった。

 

「全集中の呼吸は、鬼狩りの剣士にとってすべての基礎です」

 

 しかしここに、奇跡の人がいた。

 失われた技術を持つ人間が、現代に復活していた。

 100年前から現代へと、渡って来た剣士。

 世界唯一の正統なる呼吸遣い。本物の鬼狩りの剣士。

 

 煉獄瑠衣がこの場にいるという奇跡が、消えかけた鬼殺隊の命脈を辛うじて繋ぐことになった。

 それは、瑠衣のこれまでを思えば、皮肉としか思えないことでもあった。

 よりにもよって瑠衣が、鬼殺隊の未来を守ることになるとは。

 たとえ神でも、思いもしなかった展開だろう。

 

「貴方が会得した目、透き通る世界も、呼吸があってこそです。たとえ視えていたとしても、身体がついて来れなければ意味がありません」

 

 そして、もう1つの奇跡があった。

 竈門炭彦という少年の存在だ。

 いくら瑠衣という生き字引がいても、受け継ぐ者がいなければ意味が無い。

 この時代に炭彦がいたことが、鬼殺の技術継承を可能にしたのだった。

 

「呼吸を極め、剣技を磨き、眼を養う。これを怠らなければ、どんな鬼に対しても後れを取ることは無くなります」

 

 そういう意味では、鬼殺隊が消滅していて良かった、と言えるかもしれない。

 何故ならば、もしも鬼殺隊が現代まで続いていれば、子孫である炭彦にも煉獄瑠衣という()()の存在が教えられていただろうからだ。

 そうなっていたら、炭彦が瑠衣を慕うことも、瑠衣が炭彦を受け入れることも無かっただろう。

 いずれにせよ、いくつもの奇跡が重なったことが、今の幸運をもたらしたのだ。

 

「そうすれば」

「……グッ……ガッ……」

「どんな鬼にも、勝てるようになりますよ」

 

 こんな風に、と瑠衣が見下ろした足元に、クアドが膝を着いていた。

 いや、()()()()()()

 二の腕から先の腕、(もも)から先の足が無かった。

 見下す者と地に伏す者、2人の力関係をそのまま示したかのような構図が、そこにはあった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 凄い、と、炭彦は思った。

 ほんの一瞬、ほんの(まばた)きの間に、クアドが細切れにされていたのだ。

 瑠衣の持つ日輪刀の剣先がぶれたと思った、次の瞬間にはそうなっていた。

 何という剣速。目で追うことさえ出来なかった。

 

「訓練すれば、このくらいのことは出来るようになりますよ」

「そ、そうかなあ」

 

 瑠衣はそう言うが、正直なところ、まるで自信がなかった。

 そういう不安は、瑠衣にも良く分かった。

 

「大丈夫ですよ。私より強い剣士は何人もいたんですから」

「そうなんですか!?」

「ええ……本当に」

 

 柱と呼ばれた剣士達。

 鬼の妹を連れた少年と、その仲間達。

 時代にすれば100年以上前のことだが、瑠衣は昨日のことのように思い出せる。

 皆、瑠衣よりもずっと強かった。

 

「つまり、もっと頑張れと言うことだな!」

「うん!」

 

 そう言って拳を握る桃寿郎の姿に、瑠衣は目を細めた。

 桃寿郎の容姿は、瑠衣にとっては眩しいものだった。

 

「……さて、もう1つ大事なことを教えましょう」

「大事なこと?」

「ええ」

 

 コツ、と一歩を進み、瑠衣は目の前に(うずくま)るクアドに日輪刀を向けた。

 

()()()()()()()()()()

「グ、グ……貴様……ッ」

 

 歯軋りをして、クアドが瑠衣を睨む。

 だが瑠衣は、その視線の圧力を受け流した。

 

「そう言ったのは、私の友人……あ、いえ、友人って言ったら怒られそうな……」

「瑠衣さん?」

「ん、んんっ。とにかく、そう言った人がいましたが。それを噛み砕いて言うと、こういうことです」

 

 突き付けた日輪刀を、そのまま振るった。

 再生したクアドの両腕と両足が、動き出す前に切断された。

 クアドの口から、苦し気な呻き声が響いた。

 

「強い者は、何をしても良い、ということです」

「いや、それは言い過ぎじゃ」

「そんなことは無いですよ。だって……」

 

 目を伏せて、瑠衣は言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()

 

 言葉の意味を、炭彦と桃寿郎は数秒ほど遅れて理解した。

 それは、瑠衣が生きた時代には当たり前だったこと。

 

「もう一度、言いますね」

 

 あるいは、現代でも変わらないこと。

 

「強い者は、何をしても良いのです」

 

 弱い者は、何も主張することが出来ない。

 その残酷な真実を、瑠衣は子ども達に教えなければならなかった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 強い者は、相手の生殺与奪の権を握ることが出来る。

 生かすも殺すも、強者――立場が上の者が自由に決めることが出来る。

 弱い者が何を言っても、何も叶えることは出来ない。

 

「さて、子ども達にあまり悪影響を与えてもいけないので、早めに教えてくれると有難いのですが」

 

 再生する手足を、再生する端から斬り捨て続ける。

 その度に呻き声を上げ、クアドが額を地面に擦り付ける。

 どちらが強者でどちらが弱者か、どちらがどちらの生殺与奪の権を握っているのか、一目瞭然(りょうぜん)だった。

 

 瑠衣はクアドの手足を斬る際に、一切の表情を浮かべていなかった。

 その余りに執拗ぶり、徹底ぶりに、さしもの炭彦と桃寿郎も引いた顔をしていた。

 文字通り「教育に悪そう」である。

 しかし瑠衣も、別に意味もなく相手を甚振(いたぶ)っているわけでは無い。

 

「もう一度だけ、聞いてあげますね」

 

 刀を振るって血を払いながら、瑠衣は言った。

 

「日本に来ている鬼は……ああ、吸血鬼でしたか、まあ良いです……あと何体ですか?」

「アア? いったい何を……ッ」

「何体ですか?」

「グオッ、ガッ」

「何体ですか? 能力は? 居場所は? アジトは?」

 

 右腕を斬って数を聞き、左足を斬って能力を問うた。

 左腕を斬って居場所を聞き、右足を斬ってアジトを問うた。

 拷問、である。

 一方的な程の実力の差が、それを可能にしていた。

 崩れた廃倉庫の中、中天に差し掛かった月明かりの下で、吸血鬼の男の鈍い呻き声が続いた。

 

「はあ、いい加減に話してほしいのですが……」

 

 ふむ、と頷いて、瑠衣はクアドの傷口を見た。

 少しずつだが、再生の速度が落ちてきている。

 強さから考えて、クアドとサリアは下弦の鬼と同程度の力と見て良いだろう。

 それも、中の下と言ったところか。

 

(話しぶりからして、そう数はいないようですが……)

 

 瑠衣の予測では、10体はいない。上弦と同じ6体あたりが妥当と見ていた。

 ただこちら側の戦力は、ほぼ瑠衣1人なのだ。

 なるべく効率的に行きたかった、のだが。

 

(まあ、簡単に話してくれるとは思ってませんでしたが)

 

 これ以上は無駄か、と判断して、ゆらりと剣先を揺らした。

 それを敏感に察したのか、クアドが顔を上げた。

 その顔は、屈辱と、そして恐怖の色に染まっていた。

 

「こ、の……人間などに、俺が……俺が……!」

 

 ギチ、と音を立てて、手足が再生しかけた。

 その、次の瞬間。

 グアドの視界が、180度反転した。

 地面の上を転がっているのが自分自身の頭だと気付いたのは、意識が暗転した後のことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 気が付いた時、炭彦と桃寿郎は首根っこを掴まれていた。

 そのままぐいっと襟を引っ張られて、一瞬息が詰まった。

 ぐえっ、と、蛙が潰れたような声が口から出た。

 

「げほっ。な、何が……?」

 

 咳き込みながら顔を上げると、クアドの頭が転がっていて、炭彦は息を呑んだ。

 くわっとこちらを睨んだ表情のまま、クアドは事切れていた。

 瑠衣がやったのだろうかと、すぐに思った。

 

 しかし瑠衣を見上げると、厳しい表情で前を見ていた。

 瑠衣が斬ったのではない、というのがそれでわかった。

 ではいったい、何者がクアドの頚を()ねたのだろうか。

 

「まったく、嘆かわしいですよ。クアド」

 

 上から、声が降って来た。

 崩れた廃倉庫の屋根、夜空が覗く隙間に、それはいた。

 猫の目のような縦長の瞳孔の目が、星のように輝きを放っていた。

 

「たかが人間に(なぶ)られるなんて、私ならそれだけで自死を選びますよ」

 

 ショートカットの黒髪の、長身の女だった。

 黒髪と言ってもアジア人とは髪質が違って見える。顔立ちも西洋風だ。

 着ている服も黒のスーツで、夜空に溶けてしまいそうだ。

 

「あまりにも可哀想だったので、ついトドメを刺してしまいました」

 

 そこまでで興味を失ったのか、その女は視線をこちらへ――瑠衣へと向けて来た。

 

「さて、お前がレンゴクルイか」

 

 視線は、鋭い。

 クアドよりもなお強い威圧感が、炭彦の肌にピリピリとした痺れを感じさせた。

 それだけで、目の前の女がクアドよりも強いことがわかった。

 そして、クアドの頚を刎ねたのがこの女ということも理解した。

 

(仲間なんじゃ、無いの……?)

 

 仲間を、おそらく躊躇もせずに殺した。

 その事実が、炭彦を恐怖で竦ませるよりも先に、怒りへと駆り立てた。

 炭彦の怒気を感じたのか、炭彦を掴む瑠衣の手が少し強くなった。

 

「……人の名前を気安く呼ぶ前に」

 

 少年2人を抱えたまま、瑠衣はその場に立ち上がった。

 

「まず、自分が名乗ったらどうですか?」

「ふん。人間風情が偉そうに。しかし自分を殺す相手の名前を知らないというのも、哀れです」

 

 上から廃倉庫の中へ跳び下りながら、その女は言った。

 

「我が名はサド。呼ぶ必要はありません。あの世に行ってから復唱するようになさい」

 

 瑠衣が炭彦と桃寿郎から手を放して小太刀を掌に落とすのと、その女――サドが着地するのとは、ほとんど同時だった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 金属同士が打ち合うような音が響いた。

 目の前で、火花が幾度も飛んだ。

 瑠衣が、こちらに飛んで来た何かを斬り飛ばしたことだけは炭彦にもわかった。

 火花のいくつかは顔の前で起きていたから、瑠衣が動かなければ頭を撃ち抜かれていただろう。

 

「これは、石……? 骨……?」

 

 カラン、と音を立てて落ちたそれは、白い軽石のような、棒状の物体だった。

 人体には不要な程に鋭利に尖ってはいたものの、それは確かに骨だった。

 もしもそれが顔に当たっていたらと思うと、ぞっとした。

 

「物凄い反射速度だったな!」

 

 流石の桃寿郎も冷や汗を掻いていた。

 もしも瑠衣が傍にいなければ、首根っこを押さえて引っ張ってくれていなければ、これが直撃していたのだ。

 ただ桃寿郎の言い方では、正確では無かった。

 

 瑠衣は反射で動いたのではなく、()()()()()()()()()()

 まずクアドの頚は、気が付いたら刎ねられていた。

 つまり飛び道具か、サリアのように不可視の攻撃が加えられた可能性が高い。

 それも鬼――吸血鬼を絶命させる攻撃。触れるだけでも危険と思われた。

 だから炭彦と桃寿郎を傍に置き、斬撃の弾幕で守ったのだ。

 

「まあ、経験ですね。その内に慣れますよ」

「な、慣れる……かなあ」

「ええ、きっと」

 

 二振りの小太刀を掌の中で回転させて、逆手に持ち替えた。

 その上で、無造作に一歩前に出た。

 

「まあ、つまり……その程度の相手、と言うことですから」

「……どういう意味でしょう? こちらの認識が間違っていなければ、侮られているように聞こえましたが」

「はい。そう言ったんですよ。伝わっていたようで何よりです」

 

 ビキ、とサドの額に血管が浮き上がった。

 それを視界に収めながら、瑠衣の身体が()()()()と揺れ始めた。

 とん、と、最後の一歩を踏む。

 その次の瞬間、瑠衣の姿はサドの斜め後ろにいた。

 

「な……!」

 

 速い、と言うのとは少し違う。

 意識の空白の中を歩いて来た、と言った方が正しい。

 瑠衣の小刻みの跳躍は、全集中の呼吸によって尋常ならざる域にまで達している。

 

「その通り」

 

 跳躍した状態のまま、瑠衣は続けた。

 

「私は貴女よりも強いので」

 

 自信と確信に満ちたその言葉は、鋭い刃となってサドの胸を突き刺した。

 それはさらなる青筋という形で、額に表れた。

 尤も、サドの怒気を感じてもなお、瑠衣の表情が険しくなることは無かった。

 むしろ笑みを明るくして、そのまま次の跳躍を始めた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 サドの血鬼術は、骨を操るというものだった。

 人体に206個ある骨を、文字通り自在に操ることが出来る異能だ。

 長さを伸ばすことも、指先から弾丸のように飛ばすことも出来る。

 そして鬼の再生能力は骨も含まれるので、()()()が起こることも無い。

 

「逆に言えば、それだけの能力です」

 

 跳躍を続けながら、瑠衣は言った。

 骨を操る能力は確かに強力だが、基本が人体の骨である以上、人体構造を理解していれば、何となく何を仕掛けて来るか想定することは難しくない。

 そして呼吸遣いほど、人体構造を認識している者はいない。

 つまり、サドの血鬼術は。

 

「ここまで私達と相性の悪い能力も、そうは無いでしょうね」

 

 全集中の呼吸を極めた者にとっては、それほど怖いものでは無かった。

 最初はまだ余裕のあったサドだが、次第にその表情は焦りの色に変わって行った。

 その心の内は、何故、という疑問に満ちたものだった。

 

 そしてそれが、瑠衣には手に取るようにわかった。

 同時に、確信する。

 サド、そしてクアドとサリア。彼女らには共通点があった。

 それは、彼女らが()()()()()()()()()()()()()()

 

()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 サリアの不可視の攻撃も、クアドの怪力も、あるいはサドの異能も。

 それらの能力自体は、確かに強力だ。

 おそらく下弦の鬼に匹敵するだろう。

 その点は、瑠衣も認めていた。

 

 だがその精度や使い方については、下弦の鬼を遥かに下回っている。

 強力な異能を持ちながら、しかし使い方は拙い。

 これが意味するところは、1つしかない。

 ()()()()()()()()

 

「動物の世界でも、個体数の少ない種や天敵の少ない種は、生涯でほとんど他者と戦うことが無いとか」

 

 天敵のいない種で育った動物は、自分よりも明らかに強い存在を前にしても、平気で威嚇する。

 自分の持っている武器が相手に通じるのかも、わからないのに。

 そして自分の武器が通じないとわかった時、彼らはどうするだろうか。

 サド達の様子は、その答えを見ている側に教えてくれた。

 

「正直なところ、私も驚いていますよ」

 

 まさか、ここまで違うのか、と。

 

「戦乱の中にいた鬼と、おそらくは太平だったのだろう外の鬼が、ここまで違うだなんて」

 

 ――――風の呼吸・壱ノ型『塵旋風・削ぎ』。

 瑠衣の剣速は、100年前――()()()()()の、そのままだった。

 それは、炭彦達も、そしてサドでさえ見たことが無いものだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 井の中の蛙、大海を知らず。

 これは狭い世界にいる者は、世界の広さを知らないという意味の言葉だ。

 しかし逆に、こうも受け取れないだろうか。

 大海にいる者は、井戸の中を知らない。

 

「この国の鬼は、あるいは鬼狩りは、常に命懸けのやり取りをしていました」

 

 数百年、いや千年。

 鬼は人間を喰らい、人間は鬼を狩って来た。

 その争いの中で、血鬼術も呼吸の技術も進化を続けて来た。

 これは、実は瑠衣にとっても誤算でもあった。

 

 おそらく国外にも、鬼はいるのだろう。

 しかし先に読んだ通り、個体数が少ない。

 個体数が少ない一方で、世界は広い。日本の何十倍も広大な空間だ。

 つまり彼らは、それだけ外敵と遭遇する確率が低い、ということだ。

 

「貴女達が何百年生きて来たのかは知りませんし、興味もありません。でもこれで得心しました」

 

 サリアとの戦いの時から、ずっと違和感を感じてはいた。

 強力な能力を有する割に、切迫した脅威感が無い。

 クアドなど攻撃を直撃するチャンスまで得ておきながら、仕留め損なっている。

 要するに、()()()()()

 

「貴女達が今まで何故、この国への侵攻に失敗してきたのか」

 

 跳躍は、いつしか止まっていた。

 四方には朱に塗れた骨の欠片が散らばっているが、その血に瑠衣の物は含まれていない。

 そのすべては、サドの血だった。

 

「ゴフッ」

 

 地に倒れたサドは、有り体に言って死にかけていた。

 壱ノ型(塵旋風)の一撃のどれをも、サドはかわすことが出来なかった。

 それは、サリアとクアドとやはり同じだった。

 彼女達は、自分達の実力以上の攻撃を受けた経験がほとんど無かった。

 だから対処の仕方もわからず、ただ攻撃を受けることになっている。

 

「さて、もう何度目かわからない質問をしますね」

 

 頚に刃をかけながら、瑠衣は言った。

 

「仲間はあと2人ですか。3人ですか?」

「――――ハ」

 

 もはや動くことさえ出来ないサドが、口の端を歪めた。

 後には、ハハハ、と乾いた嗤い声が響く。

 それは、きっかり十秒も続いた。

 嗤い声が止まる。

 そして。

 

「危ない!」

 

 炭彦の声よりも先に、瑠衣は動いていた。

 倒れたサドより距離を取って、全身から伸びた骨の針から逃れた。

 それはほとんど、爆発と言って良かっただろう。

 サドの肉体の全てから、全ての骨が急激に膨れ上がった。

 文字通り、それは自分自身でさえ制御できない程の術だった。

 

「……自死を選ぶとは」

 

 滅茶苦茶に伸びた骨の塊が、崩れた廃倉庫の地面に横たわっていた。

 まるで、骨の花だ。

 (もっと)もその花を美しいとは、瑠衣は思わなかったが。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 実を言うと、クアドやサドとの戦闘はそこまで長い時間はかかっていない。

 それぞれほんの数分の攻防だっただろう。

 だがそのほんの数分の間に、炭彦は重い疲労を感じるようになっていた。

 

「疲れましたか?」

 

 瑠衣に声をかけられると、一層疲労感が強くなった。

 

「自分で動いた方が楽でしょう?」

 

 怪我をしているはずだが、そんな様子は露とも感じさせなかった。

 そして瑠衣の言う通り、自分で戦った時の方が不思議と疲れは感じなかった。

 ほんの数分見ていた方が疲労が重いのは、それだけ炭彦と桃寿郎が真剣に「視て」いたからだ。

 

 ここまで来ると、瑠衣が2人を連れて来た理由もはっきりした。

 つまり瑠衣は、炭彦と桃寿郎に見取り稽古をさせたかったのだ。

 ただ鍛錬を続けるよりも、実戦を見た方がずっと身になることがある。

 瑠衣自身、自分より優れた剣士達を見て育ったのだから。

 

「凄かった」

 

 桃寿郎が、呟くようにそう言った。

 彼は瑠衣を見上げるようにしていて、真っ直ぐな視線を瑠衣に向けていた。

 その表情は、素直な感嘆の色に染まっていた。

 

 そんな桃寿郎に、瑠衣は一度目を閉じた。

 (まばた)きと言うには、(いささ)か長い瞑目(めいもく)だった。

 そして次に目を開いた時、その顔にはいつもの微笑みがあった。

 

「それなら良かったです」

 

 そんな瑠衣に、炭彦は言い様の無い気持ちを感じた。

 瑠衣の眼差しが、桃寿郎ではなく、どこか遠くを見ているような気がしたからだ。

 

「炭彦くん?」

「あ、いえ……何でもないです」

 

 何でも無いわけは無かったが、それを言葉にすることが、今の炭彦には出来なかった。

 もっと自分が大人になったら、何か言うことが出来たのだろうか。

 そんなことを言えるはずもなく、炭彦はただ瑠衣を見上げるしか出来なかった。

 それが瑠衣との距離をそのまま表したかのようで、胸がちくりと痛んだ。

 

「疲れたでしょう。今日のところは帰りましょうか」

「……はい」

「おう!」

 

 だから今は、ただ頷いた。

 ふと気が付けば、廃倉庫の外で車の音がしていることに気付いた。

 迎えが来ていたのだろう。炭彦は、そんなことにも気がつけなかった。

 

(強くなろう)

 

 強く、そう思った。

 そしてそれが、きっと瑠衣の望みでもあのだと、そう思った。

 瑠衣の望みを叶えてあげたいと、炭彦は思ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 吸血鬼討伐の報告は、瑠衣が自分で伝えに来た。

 情報を渡したその日の内に、しかも散歩帰りか何かの調子で言って来たのだ。

 正直なところ、流石だと思った。

 

「流石だね、瑠衣さんは」

 

 思ったので、そのまま言葉にした。

 ただ産屋敷(自分)に感嘆などされても、瑠衣は少しも嬉しくないだろう、とも思った。

 だから産屋敷もそれ以上は称賛の言葉を発することは無かった。

 

 しかし瑠衣がやったことは、控え目に言って偉業だった。

 並の人間、いや軍隊が相手でも、鬼を殺すことは出来ない。

 まして異能持ちの鬼となればなおさらだ。

 彼らの力は文字通り人智を越えており、銃や爆弾でどうにか出来る相手では無い。

 

(極端に聞こえるかもしれないが、日本という国を守った、と言うことになるね)

 

 煉獄瑠衣という()()()()が無ければ、吸血鬼達は無人の野を行くが如く、この国を侵略しただろう。

 そしてかつての鬼舞辻無惨のように、力と恐怖で全てを支配したに違いない。

 それを避け得たのは、煉獄瑠衣がいたと言うただ1つの幸運があったからに他ならない。

 本当に、運が良かったのだ。

 

 

「貴女がいてくれて本当に良かった」

「お世辞は結構です」

 

 本心からの言葉だったのだが、当の瑠衣はそうは受け取らなかったらしかった。

 まあ、元より心が通っている間柄というわけでは無い。

 主従でも無ければ仲間でも無い。単に利害が一致しているだけ。

 それ以上の物は、それこそ100年前に置いて来た。

 

「他の吸血鬼の情報は?」

「今はまだ何も」

 

 まだと言うよりは、そもそも人外を探索すること自体が困難を極めることだった。

 現代の情報収集は概ね衛星やカメラによる分析や、通信の傍受、地道な聞き込みを手段とする。

 ただしこれが、(はなは)だ手間も時間もコストもかかる。

 かつての隠や鎹鴉の情報ネットワークの方が、よほど効率的だっただろう。

 

 今回の廃倉庫の発見も、実はほとんど偶然に近い。

 豪華客船の事件の後に、それまで放置されていた場所で目立つ動きがあったので、調べたら当たりだったというだけの話だ。

 もしもクアドやサドよりも慎重か、あるいは巧妙な相手がいた場合、発見はかなり難しい。

 

「まあ、問題ないでしょう」

 

 それでも、瑠衣は言った。

 

「待っていれば、向こうから来るでしょうから」

 

 サリアに続き、クアドとサドを(たお)した。

 そんな瑠衣の存在を、無視できるとは思えない。

 仇討ちにせよ何にせよ、何らかの()()()をつけさせようとするはずだ。

 産屋敷家の調査で発見できれば御の字で、最悪は迎撃でも構わない。

 二段構え、というやつだ。

 

「有難う、瑠衣さん」

「先程のお世辞もそうですが、お礼はもっと不要です」

 

 形式か、あるいは実が伴っているのかもわからない産屋敷の言葉に、瑠衣は心底つまらなそうな表情を向けた。

 

「だって、私は別に産屋敷家(あなたたち)のために戦ったわけではないのですから」

 

 だからお世辞も、お礼も、むしろ筋違いと言うものだった。

 

「あの子達のためですから」

「……それで構いません。それでも、有難うございます」

「真面目ですね」

 

 お互いが、お互いの言葉をその通りに受け取ろうとはしない。

 会話はキャッチボールだというが、この2人の場合、横に並んで壁にボールを投げているだけだった。

 平行線、ですらない。ただ単純に、交わらないというだけのことだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 翌朝。炭彦は普通に寝坊した。

 尤も、これは夜更かしが原因ではなく、元々の彼の悪癖――まあ、本人は悪癖と思っているのか定かではないが――なだけだった。

 そしていつもの通り、彼は近所の子ども達から「ランニングマン」と呼ばれることになった。

 なお、カナタもまたいつも通り、弟を置いてさっさと登校していた。

 

「炭彦!」

 

 登校の途中で、桃寿郎と出会った。

 これもまた、いつも通りと言えばいつも通りだった。

 

「昨夜は興奮してしまって、なかなか寝付けなかった!」

「うん」

 

 全力で走りながら、会話が出来る。

 これは以前からそうだったが、今はさらに楽にそれが出来ている。

 全集中の呼吸を意識して仕えているからだと、今ならわかる。

 

「凄かったな」

「うん」

 

 一晩経ったが、昨日のことはまだはっきりと目に浮かぶ。

 吸血鬼を圧倒した、瑠衣の戦い。

 1年前の戦いの時は、あそこまでじっくりと観戦することは無かった。

 見取り稽古。見本を見ると言うのは、思っていた以上に効果があるのだと知った。

 

 正直なことを言えば、今すぐにでも訓練をしたかった。

 ただ、瑠衣は学校を休んで訓練をすることには良い顔をしなかった。

 意外というか何というか、学校にはきちんと通うように、というのが瑠衣の言だった。

 

『学校に行ける環境にいるのなら、行った方が良いですよ』

 

 それはその通りかもしれないが、今は非常時ではないのか、という思いもあった。

 

『良く勉学に励んで、立派な人間になってくださいね』

 

 ただ、微笑みと共にそう言われてしまえば、炭彦は瑠衣に対して何も言えなかった。

 確かに、理由はどうあれズル休みは良くない。やはり皆勤賞も欲しい。

 だからこうして、炭彦と桃寿郎は普通に通学しているわけだ。

 

「む? 何だアレは」

 

 止まることなく駆けて行くと、そう時間もかからずに学校に着いた。

 脚も速くなっているのか、遅刻寸前ということも無く、ちらほらと他の生徒の姿も見えた。

 だがその日は、いつもと様子が違った。

 校門の前に、小さな人だかりが出来ていたのだ。

 

 見れば、何やらいかにもな黒塗りの車が校門の前に停まっていた。

 産屋敷があんな車に乗っていたような気もするが、それでも学校に乗り入れるようなことは無かった。

 そんな車が何故と思った矢先、車のドアが開いた。

 

「わあ、キレイな子だなあ」

 

 車の中から出て来たのは、炭彦がそう言ってしまう程に美しい少女だった。

 日本人では無い。西洋人だった。

 金色の髪に蒼い瞳。白磁の肌。ヨーロッパ人形のように整った顔立ち。

 そんな少女が、キメツ学園の制服を着て、そこに立っていた。

 

「――――ごきげんよう」

 

 鈴を転がしたような声が、静かなその声は、不思議と頭の中に響いた。




最後までお読みいただき有難うございます。

割と中編的な意識でいるので、サクサク行きます(え)

それでは、また次回。


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第98話:「謎の転校生」

 円卓の水晶は、すでに半分になってしまっていた。

 気のせいか、その分だけ空気が薄くなったようにも思える。

 しかしそれでも、()()()は自身に満ち溢れていた。

 

「クアドとサドめ、実にあっさりとやられたものだな」

 

 薄く紅い照明の中、その声は聞こえた。

 手の中でグラスを揺らしながら、照明を反射して紅く染まる液体に、そっと口をつけた。

 飲む量が少ないのか、口を放した後でもグラスにはたっぷりと液体が残っていた。

 

「口ほどにも無い奴らだ。いや、それとも……あのレンゴクルイとか言う狩人(ハンター)が思っていた以上に腕が立つのかな」

 

 数百年を共に生きただろう同胞、あるいは部下だろうか、それが失われた。

 ただそれでも、彼女の様子は変わっていない。

 むしろ同胞を討ち果たした相手の方をこそ、称賛している様子だった。

 そのあたりは、鬼舞辻無惨とは違っていた。

 

「しかし、次はそう簡単にはいかんだろうよ」

「次というと、セッカのことでしょうか。我が()よ」

「ああ、そうだ。奴はクアドやサドと違って、()湿()()()()()

 

 ククク、と、低い笑い声が響いた。

 それに応じる声は、対照的に冷静だった。

 

「陰湿、ですか」

「クアドとサドは強いが、奴らは正面から挑み過ぎた。それはレンゴクルイにとって、最も得意な分野だったのだろう」

「セッカは違うと?」

「ああ、奴は正面から戦いを挑むタイプではない」

 

 単純な力の強さで言えば、すでに敗れた2人の方が上だろう。

 そういう()の言葉に、冷静な声は返事を返す。

 

「クアドやサドよりも弱ければ、やられてしまうのではありませんか」

「かもしれん、な」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

「逆、ですか」

「そうだ。奴はクアドやサドのように正面から挑むことは無い。陰険な奴だからな」

 

 陰険という言葉を、さらに繰り返した。

 ククク、と、低い笑い声がまた響いた。

 グラスに口をつける。やはり、グラスの中の液体が減った様子は無かった。

 ただ、唇だけは妖しく濡れていた。

 

「楽しみだ。実にな。セッカがいかにして狩人(ハンター)に仕掛けるのか。それはきっと、レンゴクルイとやらにとっても予想だにしない方法であろうよ」

「左様でございますか」

 

 円卓に残された水晶もまた、紅い輝きを放っていた。

 残り、半分――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 キメツ学園は、季節外れの転校生の話題で持ち切りだった。

 しかもそれが外国人の、まして絶世の美少女となれば、なおさらのことだった。

 巣を(つつ)かれた鳩のように、キメツ学園は(にわ)かに騒がしくなっていた。

 

「おい、来たぞ」

「あの子か」

「ほんと綺麗」

 

 華やかな金色の髪を(なび)かせながら廊下を歩く少女。

 廊下を歩く。ただそれだけのことで、彼女は周囲の生徒の目を引いていた。

 陽の光に照らされて、金色の髪先から光が散っているように見えた。

 

 それに彩りを添えているのは、彼女の笑顔だろう。

 廊下を歩く彼女、あるいは教室にいる彼女の周囲には、常に人がいた。

 しかも男女問わず常に周りに人がいて、彼女は笑顔を浮かべて談笑していた。

 その光景がまるで一枚の絵画のようで、見る者の心を奪うのだった。

 

「凄い人気だな! あの転校生は!」

「うん、そうだね」

 

 しかもその転校生が、炭彦のクラスに転校してきたとあっては、炭彦も無関係というわけにはいかなかった。

 休憩時間にお喋りに来た桃寿郎――全集中の呼吸のこともあって、最近は良く話すようになった――も、転校生の人気ぶりは認めざるを得なかった。

 元々キメツ学園には三大美女なる非公式の呼称があったが、そこに新規参入する逸材が登場したわけだ。

 

「……!」

 

 その転校生が、ちらっとこちらを見た気がした。

 炭彦と桃寿郎を見たと言うよりは、炭彦個人を見つめているように思った。

 一瞬で目線を外されたので、自意識過剰かとも思ったが、()()がそう言ってはいなかった。

 ただ炭彦は、己が嗅いだ匂いに(かす)かな違和感も感じた。

 

(何だろう、この感じ)

 

 鬼、ではない。吸血鬼でもない。とも思う。

 彼が今まで経験した匂いはいくつかあるが、その経験から言うと、鬼と吸血鬼のいずれでも無い。

 つまり、人間だ。

 この時期に西洋人の転校生とあって、炭彦も気になってはいた。

 しかし彼の鼻を信じる限り、転校生は――セッカという名前の――人間だった。

 

「どうした、炭彦」

「あ、ごめん。訓練の話だけど、やっぱり自分達でもやった方が良いと思うんだ。瑠衣さんに教わるばかりじゃなくて」

 

 考えすぎだったのだろう。

 ちなみに言っておくと、炭彦もセッカという転校生の美貌については認めていた。

 認めていたが、心動かされることも無かった。

 何故なら彼の心には、すでに別の人物が住んでいたのだから。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 転校生(セッカ)の存在に違和感を覚えたのは、炭彦だけでは無かった。

 季節外れの転校生に湧く一般生徒はともかく、()()を知る人間であれば、炭彦でなくとも警戒心を抱くだろう。

 胡蝶姉妹とカナタは、その筆頭と言えた。

 

「どう思います? あの転校生のこと」

「…………」

 

 カナタが図書室で静かに本を読んでいると、しのぶがやって来て、そんなことを言った。

 その問いかけに対して、カナタは片眉を動かした。

 

「どうって、()()()()()()()

「あら、どうしてそう思うんです?」

「…………」

「そんなに面倒くさそうな顔をしなくても良いじゃないですか……」

 

 カナタの見たところ、あのセッカとかいう転校生は()()()だった。

 ほとんど直感の判断だが、吸血鬼の一派だ。

 どうして太陽の下を歩いているとか、色々と考えられることはあるが、カナタはそう確信していた。

 そしてこんなことを聞いてくる以上、しのぶもまた同じ意見ということだろう。

 

 しのぶもまた、セッカを怪しいと感じていた。

 むしろ怪しいところしかない。タイミングもそうだが、周囲の反応が、だ。

 いくら絶世の美少女だとは言え、ここまで無数の生徒達に持て(はや)されることは無い。

 何と言っても、個性派揃いのキメツ学園である。

 

「まあ、お互いの意見が一致したところで……」

 

 異能、血鬼術。そう疑うのが自然だろう。

 他人の心理に影響を与える力なのか、いわゆる洗脳というものなのか。

 それは、実際のところわからない。

 敵の能力を見破る力は、カナタやしのぶにはまだ無かった。

 

「どうします?」

「難しいところだね」

 

 とは言え、このまま放っておくわけにもいかない。

 その点についても、カナタとしのぶの意見も一致していた。

 そのため、ここでいう「どうする」と言うのは、実は1つの意味でしかない。

 

「煉獄瑠衣に知らせるかどうか、か」

「そうですね。と言っても、あの人が学校に入って来られるかと言うと」

「難しいだろうね」

 

 そう、難しい。

 ただここで言う「難しい」には、実に色々な意味が込められている。

 キメツ学園に煉獄瑠衣を入れることは、確かに難しい。

 

 しかしそれ以上に難しいのは、彼らと煉獄瑠衣との距離感だった。

 彼らは炭彦と桃寿郎ほどには、煉獄瑠衣との距離が近くない。

 それこそ、どうするべきか、というものだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 同様の懸念、というより議論は、別の場所でも行われていた。

 

「キメツ学園に西洋人の転校生、か」

 

 当然、その情報は産屋敷の下にも入っている。

 何しろキメツ学園は産屋敷家の息のかかった学校施設だ。

 そこに突然転校生がやって来たとなれば、嫌でもわかる。

 

 しかも転校生が来ると言うことを、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ここまで来ると、怪しむな、という方がおかしいだろう。

 ただ同時に、怪し過ぎて怪しい、ということもあった。

 しかしその情報に対して何を思い、どう行動するか。これは難しい判断と言えた。

 

「まあ、調べないわけにもいかないな……。とりあえず、この転校生の少女の素性を洗えるだけ洗ってみてくれ。おそらくは、無駄足になるだろうけどね」

 

 戸籍でも住民票でも何でも良いが、おそらくは存在しない。

 仮にあったとしても偽物だろう。偽造は調べれば矛盾点が見つかる。

 ただ偽造であっても、書かれている情報から何かを得られるかもしれない。

 そういう意味においては、徒労に終わるかもしれないとしても、完全な無駄足になるわけではない。

 

「承知いたしました」

 

 かつての隠や鎹鴉ほどではないが、産屋敷家にはまだそれなりの人員がいた。

 まあ、表向きには情報系の民間企業を装って――実際に収益を得ているわけだから見せかけというわけではないが――いるので、昔ほど隠れているわけではない。

 ただし隠れていない分だけ色々と厄介なこともあるが、それは本筋とは関係の無い話だった。

 

「あの……」

「うん?」

「あの方は、本当に信用できるのでしょうか」

 

 そう言う部下の顔に、産屋敷は目線だけを向けた。

 部下が誰のことを言っているのか、というのは、聞くまでも無かった。

 名前を出さないのは、部下のせめてもの気遣いだろう。

 その気遣いを無為にしないだけの甲斐性は、産屋敷にもあった。

 

「さあ、どうだろうか」

 

 信用できるのか。

 と言う問いには、もう意味が無いと産屋敷は思っていた。

 何故ならば、彼らにはそもそも選択肢が無いからだ。

 他に選択肢が無いのに、どうもこうも無いのだった。

 だからもう、そんなことを問う必要は無い。

 何故ならば。

 

「ただ私は、あの人を信じることにしているよ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 この1年の間、瑠衣にはある日課があった。

 散歩である。

 それは現代日本の街並みを見て回るという意味もあったし、単に暇を持て余していたというのもあった。

 何をするでもなく、1日かけて、町の隅から隅まで歩くのだ。

 

「……ふう」

 

 最後には、いつもの公園のいつものベンチに座る。

 朝から外に出て、夕方にはその場所に来る。

 ここにいれば、学校を終えた炭彦とも合流できるからだ。

 

 ちなみに散歩の行き先は、特に定めていない。

 川べりを歩くこともあれば、寂れた路地裏に入ることもあった。

 気まま、と言えばそれまでだが、全く目的が無いわけでもなかった。

 

「日がな一日、町を練り歩いてみたものの……特に何も感じませんでしたね」

 

 姿()()()()

 そうしてみるだけでも、得るものはあるものだ。

 今日1日かけて外を歩いてみて、何事も生じなかった。

 それがわかっただけでも、収穫にはなる。

 

 この町には吸血鬼がいないのか。

 やはり陽のある内は活動が出来ないのか。

 あるいは潜んでいて、あえて手を出して来ないのか。

 少なくとも、ぼんやり過ごすよりは有意義というものだった。

 

(あるいは、単に臆病者、ということも考えられますが……)

 

 臆病者というものは、どのような意味であれ厄介なものだ。

 過去に出会った吸血鬼は自信過剰でプライドの高い傾向にあったが、残りはどうだろうか。

 しかし、この点において瑠衣は実はすでに結論を出していた。

 

()()()()()

 

 個体数の少ない吸血鬼。しかも過去に外敵の脅威を受けていない。

 それが3体も殺されて、臆病風に吹かれるということはあり得ない。

 どんな感情に起因するものにせよ、必ず何か仕掛けて来るはずだ。

 直接的にか、それとも間接的にかまでは、わからないが。

 

「私が思っているよりも、残りは少ないのかもしれませんね」

 

 できれば、殲滅したいものだ。

 下手に撃退、つまり国外に逃げられてしまうと面倒だ。

 流石の瑠衣も、国外まで追いかけていくわけにはいかない。

 そしてそうなった場合、吸血鬼達は瑠衣が死ぬまでやって来ることは無いだろう。

 

 鬼舞辻無惨がそうだった。

 寿命差による有利を活かされると、継国縁壱でさえ勝つことは出来ない。

 なるべく、後世に面倒事は残しておきたくない。

 

「特に私は、時間が味方してくれることはありませんからね」

 

 瑠衣にとって後世とは、子ども(炭彦)達のことだから。

 今さら、子ども達に何かを遺そうなどと、偉そうなことを言うつもりはないが。

 せめて、掃除くらいはして去りたいのだ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 その日、キメツ学園の一角がざわめいた。

 

()()()()()()()()()()

 

 学内三大美女の1人、胡蝶しのぶが、美貌の転校生に声をかけたのだ。

 それだけでキメツ学園の報道関係の部活が色めき立つほどの話題性だ。

 それを目撃した生徒達がざわつくのも、無理からぬことだろう。

 

 何しろしのぶとセッカの間には、これと言った接点が無い。

 これは別にこの2人に限った話ではなく、学年やクラスが違えば一言も交わさずに卒業するなどザワだ。

 キメツ学園のようなマンモス校ならば、なおさらそうだろう。

 たとえ学園三大美女と言われたところで、それは変わらない。

 

()()()()()()()

 

 実際のところ、最初に動くのはいつもしのぶだった。

 カナタは見た目通り、そしてカナエは見た目に反して、あの2人は慎重派だ。

 時折、見ているこちらがもどかしくなる程に慎重だ。

 慎重なのは結構なことだが、それだけでは状況が動かない。

 

 だから、こういう時にはしのぶは自分が動くことにしている。

 これは、何かの動きを見せなければ何のアクションも返ってこないという考えからだ。

 相手の反応を知ることで、ようやく何かを得ることが出来る。

 加えて言えば、これは一種の()()()()でもあった。

 つまり、自分が何かをしくじっても、姉が何とかしてくれるという、妹側の無条件の信頼である。

 

「少しお話がしたのですけど、ちょっと良いですか?」

 

 とは言え、相手が自分の誘いに応じてくれるかどうかは、また別の話だった。

 先ほども説明したが、何しろ接点が無い。

 知らない生徒に「話をしたい」と誘われて、はいそうですかと応じる者がはたして何人いるだろうか。

 これがしのぶでなければ、周囲の反応もむしろそれに近いものだっただろう。

 

「はい、良いですよ」

 

 しかし意外なことに、それこそ意外なほどにあっさりと、セッカはしのぶの誘いに乗って来た。

 ほとんどノータイムで、彼女はしのぶを見上げて笑顔を向けて来たのだった。

 

(ふむ、邪気は見えませんね)

 

 セッカの笑顔からは、邪な色は僅かも見られなかった。

 どこまでも、それは心からのものにしか見えない。

 あるいは本当にそうなのかもしれない、とさえ思えた。

 

「ここではなんですし、場所を変えましょう。ジュースくらいはご馳走しますよ」

「わあ、ありがとうございます」

 

 そしてしのぶもまた、席を立つセッカに対して、邪心のない笑顔を向けたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 人は変わるものだ。

 炭彦を見ていると、カナタはつくづくそう思うのだった。

 少し前まで、炭彦は暇さえあれば寝ているような少年だった。

 

 もしも無人島に何かを持って行くなら間違いなく布団を選ぶ。

 カナタの知る炭彦という少年は、まさにそんな性格の少年だった。

 それが最近は、酷く勤勉になった。

 

「ふっ! んっ! ふっ!」

 

 炭彦は二段ベッドの上段に足を引っかけて、腹筋をしていた。

 筋トレ、というやつである。

 汗を流して筋トレに励んでいる弟を見ていると、カナタは人間の過去と未来に思いを馳せずにはいられなかった。

 

「ねえ、炭彦。前から思っていたんだけど」

「え? うん、なに?」

 

 勉強机の椅子に座るカナタを見ながら、しかし筋トレはやめない。

 真顔で宙吊り腹筋を続ける弟というのは、なかなかシュールだった。

 

煉獄瑠衣(あのひと)のどこが好きなの?」

 

 炭彦は、頭から床に落ちた。

 

「……大丈夫?」

「だ、大丈夫」

 

 かなり鈍い音がしたが、本人が大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう。

 

「で、どこが好きなの?」

「き、急にどうしたの!? すごいグイグイ来るね!?」

「いや、だって不思議で仕方なくて。そんなに一生懸命に筋トレするとか、前は無かったじゃないか」

「う、うーん。どこがって言われても」

 

 頬を掻きながら、炭彦は何度か口を開いては閉じてを繰り返した。

 何かの言葉を紡ごうとして、しかし言葉にはならず、言い澱んでいる。そんな風だった。

 

「どこがって言われると、困るけど」

 

 最初は、目だった、と思う。

 初めて出会った時、炭彦は瑠衣の目から視線を外すことが出来なかった。

 ただ今にして思えば、あれはけして目や目元が好きということでは無かったように思う。

 では何か、と聞かれてしまうと、やはり言葉に迷ってしまう。

 

 それから呼吸の訓練が始まって、良く話をするようになった。

 この1年に限るのであれば、家族以外では最も長い時間を過ごした相手と言えるかもしれない。

 立ち居振る舞い。話し方。声。優しさ。そして時折見せる、儚さも。

 そのすべてから、炭彦は目が離せなかった。

 

「あ、うん。もう良いよ」

「ええ!?」

 

 処置無し、という風にカナタは肩を竦めた。

 炭彦はショックを受けた顔をしているが、カナタはもうそれに目も向けなかった。

 

(どうしようもないな、これは)

 

 特段の好きになった理由も挙げられずに、しかし好きであることは意識している。

 つまり相手の存在自体に意味を見出している、と言うことだ。

 だから、()()()()()()()()

 我ながら、つまらないことを聞いたものだ。

 暇潰しにスマホでも弄ろうと、それを手に取った時だ。

 

「……ん?」

 

 ちょうどその時、カナタのスマホの画面にメッセージの着信を知らせる通知が表示された。

 

「あれ、僕の方にも来た?」

 

 炭彦のスマホにも、同時に通知が来た。

 差出人は、2人とも同じだった。

 炭彦とカナタは、互いに顔を見合わせた。

 2人のスマホの画面には、差出人の名前が書かれている。

 ――――()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 夜の学校というのは、何度見ても薄気味が悪いものだった。

 昼間の学校が余りにも明るくて賑やかなので、余計にそう思ってしまうのかもしれない。

 毎日が万国びっくりショーのようなキメツ学園ならば、余計にそうだろう。

 もっとも、今はまた別の理由から薄気味が悪く見えているのだが。

 

「……妙ね」

 

 深夜にも関わらず()()()()()()()()()()()、カナエは呟いた。

 他に人気は無い。彼女1人だ。

 学園の内外ともに、周辺には誰もいない。

 だがカナエが奇妙に感じているのは、その点では無かった。

 

()()()()()()

 

 たとえ無人であっても、稼働している建造物である以上、何らかの音はあるものだ。

 しかし今は、キメツ学園の校舎からは何の音も気配もしていない。

 空気でさえも、動きを止めてしまっているようだ。

 

 そしてもう1つ。カナエは()()()()()

 これは、瑠衣や炭彦の透き通る世界とは別の意味合いになる。

 この世ならざるものが見える。

 しかしそのカナエをして、今のキメツ学園は()()なのだった。

 

「どう考えても奇妙。けど、避けては通れない。そうでしょう、カナエ(わたし)

 

 ぎゅ、と、手の中のスマホを握り締めて、カナエはそう言った。

 

「さあ、行きましょうか」

 

 誰に対してか、カナエはそう言った。

 (まなじり)を決し、内外の境界線である校門を越える。

 肌が冷たくなったような気がしたが、はたしてそれは錯覚だったのか、どうなのか。

 カナエは歩みを止めることなく、そのまま校舎の中へと入って行った――――。

 

 ――――そして、カナエが夜の校舎に入ってきっかり10分後。

 つい10分前にカナエが立っていたまさにその場所に、息せき切って3人の少年が駆けて来た。

 正確に言えば、2人と1人が駆けて来て、校門前で合流したのだった。

 すなわち、炭彦とカナタ、そして桃寿郎である。

 

「おお! お前達2人も来たのか!」

「桃寿郎君も!?」

「……ということは、用件は同じみたいだね」

 

 3人の少年は、無言のままに互いのスマホの画面を互いに向けた。

 そこには、しのぶからのメッセージ画面が映し出されている。

 メッセージ画面には、こう書かれていた。

 

『転校生について話したいことがあります。すぐに学校に来てください』

 

 3人はお互いにしのぶから同じメッセージを受け取っていたことを確認すると、校門の前に並んだ。

 そして、夜のキメツ学園の校舎を見上げた。

 物言わぬ校舎が、月明かりに照らされていた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 当然と言えば当然だが、校舎には誰もいなかった。

 

「しのぶさん、どこにいるんだろう……」

 

 いざ学校に到着してから気付いたことだが、しのぶのメッセージには場所が書いていなかった。

 ただ、学校に来てくれとしか書かれていない。

 加えて言えば時間の指定も無い。

 すぐに、と切迫感を表すような言葉が目について、文字通り「すぐに」飛び出して来ただけだ。

 

「外から確認した時には、明かりのついている教室は無かったぞ!」

「と言っても、校門側から見える範囲だけだけどね」

 

 こちらからメッセージも送ってみたが、返事は無かった。

 既読さえもつかないので、心配は増していた。

 何しろ夜の学校に呼び出されるという時点で、穏やかではない。

 すでにして異常事態。

 

「……! この匂いは……」

 

 校舎の廊下を歩いていくと、不意に鼻先を独特の香りが掠めた。

 

「薬品の匂いだ」

 

 理科室。どこに学校にでもあるだろう。

 そこで足を止めたのは、鼻腔を(くすぐ)る薬品の匂いに既視感を覚えたからだ。

 そして理科室は、化学部であるしのぶにとって馴染み深い場所でもある。

 だから炭彦は、何となく理科室の扉に手をかけたのだった。

 

 扉を開けると、薬品の匂いはさらに強くなった。

 電気がついていないので、理科室の中は暗く、室内を完全に見通すことさえ難しかった。

 とは言え、普通に明かりを()けるのは(はばか)られた。

 代わりにスマートフォンのライトを点けて、室内を照らした。

 

「しのぶさん……? いませんかー……?」

 

 しかし理科室には、しのぶの姿はおろか、誰もいなかった。

 せいぜい、授業用の人体模型が――暗がりで見ると声を上げる程に不気味だ――鎮座していただけだ。

 まあ、人体模型は厳密には座っているのではなく、立っているのだが。

 

「どうした! いたか!」

「ううん。いないみたい」

 

 そう言って、ライトを消そうとスマホを持ち上げた時だった。

 スマホのライトに照らされて、何かが光った。

 机の上に置かれたそれは、光ったのではなく、ライトを反射したのだった。

 小さく四角い掌サイズのそれは、スマートフォンだった。

 電源が落ちているのか画面が暗く、その画面がライトを受けて光ったのだ。

 

「携帯だ。誰かの忘れ物かな……?」

「……それ」

 

 炭彦がそのスマホを手に取ると、カナタが指を差した。

 紫色の、蝶の模様の入ったカバー。

 カナタはそれに、見覚えがあった。

 

「しのぶさんのだ」

 

 胡蝶しのぶの携帯電話。

 炭彦の手の中で、それはまったく熱を放たず、冷え切っていた。




最後までお読みいただき有難うございます。

謎の転校生って良い響きですよね(え)

転校生編はたぶんあと2話くらい…かなあ(適当)

それでは、また次回。


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第99話:「学園の罠」

 カナエは、学校の中を真っ直ぐに歩いていた。

 明かりを点けることもなく、まるで見えているようだった。

 

「……そう、ここにいたのね。しのぶ」

 

 理科室の机の片隅に置かれていたスマホそれを、指先で撫でた。

 冷え切ったそれに、カナエは目を伏せた。

 そして、その次の瞬間だった。

 

 しのぶのスマホから放れた手が、虚空で何かを掴んだ。

 掌を握り込んだ時、パキ、という軽い音がした。

 目に見えていない何かを、カナエは掴んでいた。

 

「なるほど、()()のせい」

 

 カナエの白く細い手の中で、()()は砕けていた。

 成人とは言え、女性の力で簡単に割れてしまう程に脆く、そして小さい。

 掌の中でそれを弄んだ後、カナエは息を吹きかけた。

 塵となって消えるそれに、カナエの眉が厳しい形に歪む。

 

「…………」

 

 それから、自分が入って来た理科室の扉を見つめた。

 何かが視えているのか、あるいは何かが聞こえているのか、カナエはその場から動いた。

 元々入って来た――今は閉ざされている――その扉とは別の扉、つまり教室の反対側の扉に向けて、歩き出した。

 

「……まったく」

 

 ふう、と、息を吐いて、カナエは呟くように言った。

 

「しのぶも助けなきゃいけないし、あの子達も守らなきゃいけない。両方しなくちゃいけないのが、お姉ちゃんの辛いところね」

 

 とは言え、これは先に生まれた者の宿命だ。

 人によっては嫌がる宿命かもしれないが、カナエはむしろ喜びとさえ感じていた。

 長子という立場は、望んで手に入るものではないのだから。

 だからその立場に立った者は、それを貴重な宝物として握り締めなければならない。

 

 それに弟妹という存在は不思議なもので、自分に力を与えてくれるのだ。

 弟妹が見ていると思えばこそ、背筋は伸びるものだ。

 情けない背中を見せるわけにはいかないと、そう思うからだ。

 だから長子は強くなれるのだと、

 

「お姉ちゃん、頑張るぞ、っと」

 

 そう言って、カナエは理科室後方の扉から廊下へと出た。

 そのほんの数分後に、入れ替わるようにして、理科室前方の扉が開くことになる。

 カナエの消えた教室に顔を覗かせたのは、顔立ちに幼さを残す少年だった。

 彼は恐る恐ると言った様子で理科室の中に入ると、きょろきょろを中を見回した。

 

「しのぶさん……?」

 

 炭彦がやって来たのは、そのタイミングだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 理科室に残されていたしのぶのスマホには、それ自体には変わったところは無かった。

 ごくごく普通のスマートフォンであって、それだけだった。

 黒い画面を眺めて見たり、裏返してみたりしたが、普通だった。

 

「うーん」

「どうしたの?」

「何か無いかなって」

「起動してみたら?」

「でも、ロックとかあるんじゃ……って、あれ?」

 

 カナタに言われてスマホを起動すると、ふっと画面が点いた。

 スライド画面からロック画面に行くのかと思ったが、そのまま進めてしまった。

 どうやら、何のロック設定もパスワード設定もされてしまなかったようだ。

 しのぶにしては、警戒心が無いと言える。

 

(まあ、わざとかな)

 

 カナタには、しのぶの意図がわかるような気がした。

 あのしのぶに限って、自分のスマホにフリー設定などという無警戒なことをするはずが無い。

 となれば、わざとそうしていると考えるのが妥当だった。

 

 すると、何故そうしたのか、という問題が出て来る。

 ああ見えて警戒心の塊のような少女だ。

 何の意味もなくそんなことをするような人間では無い。

 つまり、しのぶはスマホこれを見せたいのだ。

 

「あれ、でも変だよ。これ」

「変って?」

「うむ! 何も入っていないな! 綺麗さっぱりだ!」

 

 しのぶのスマホの画面には、何も入っていなかった。

 デスクトップもデフォルトの状態で、まるで購入直後――いや、購入したての方がマシなくらいだ――のように、何のアプリも表示されていなかった。

 いや、1つだけ。画面をスライドしていくと残されていたものがあった。

 

「何だろう。メモかな」

 

 メモアプリが、スマホの画面の片隅に1つだけ残されていた。

 最初の画面で何も無いと諦めていれば、気が付かなかっただろう。

 保存されていたメモには、タイトルも何も無かった。

 開けて見ないことには、何もわからない。

 

「開けてみる……?」

「そうだね」

 

 と言うより、開く以外に選択肢があるとも思えなかった。

 このままあてもなく校舎を歩くよりかは、いくらか生産的だろう。

 

「じゃあ、開けてみるね」

「うん」

「おう!」

 

 カナタと桃寿郎を左右にして、炭彦はメモアプリを起動させた。

 メモにもパスワードは設定されておらず、すぐに開くことが出来た。

 開いたメモに書かれていたのは――――しのぶの、()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 転校生が来た。

 季節外れの転校生だけれど、それだけなら何とも思わなかった。

 でもこの転校生は、明らかにおかしかった。

 

「いえ、違いますね」

 

 そこでしのぶは考える。

 己の表現の正確性について考える。

 転校生は、何もおかしくはない。

 外国人という特徴以外には、これと言った特徴は無い。

 

 素行が悪いとか、問題を起こしたとか、そういうことも無い。

 この転校生自身には、何の問題も無かった。

 だから、転校生がおかしい、という表現は正確さに欠けている。

 では、どう言い直すべきだろうか。

 

「おかしいのは、()()()ですね」

 

 転校生自身ではなく、転校生の周囲にいる生徒がおかしい。

 最初は物珍しさで人が集まっても、その内に落ち着くのが転校生の常というものだろう。

 それがどうしたことか、あの転校生の周囲からは人が消えることが無かった。

 むしろ逆だ。

 

 日を追うごとに、転校生の周りには人が増えて行った。

 最初は数人、やがてクラス全体に広がり、普段は会話することもない他のクラスの生徒にまで、その輪は広がり続けた。

 まるで感染力の弱い、しかし毒性の強い病のように。

 それは、広がり続けて行ったのだった。

 

「でも、彼女の周りにいる生徒に話しかけても、不審な点は見つからなかった」

 

 あったのは、()()()()()()()()()()()()()()

 誰に話を聞いても、転校生を悪く言う人間はいなかった。

 肯定的と言っても、盲目的に称賛するということでは無い。

 ただ、()()()()()()

 

 10人に聞けば、誰かしらは悪口を言う者がいるものだ。

 人に嫌われるように見えないカナエや炭彦でさえ、悪く言う者はいる。

 しかしこの転校生には、そう言った者が皆無だった。

 そんなことが、果たして普通の人間に可能なのだろうか。

 

()()()()()()()()()()()()

 

 ()()()()()()()()

 そう判断した上で、しのぶは考える。

 それは、今の時点では仮説に過ぎない。

 仮説を証明するには、どうするべきだろうか。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 けれど、それは危険を伴う。

 だから、カナタに相談しておこう。

 そして、念のために私が来るとわかる場所に()()を置いておこう。

 あの子達ならきっと見つけてくれると、そう信じて――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 しばらく、沈黙が続いた。

 炭彦はしのぶスマホを手にしたまま、カナタと桃寿郎と顔を見合わせた。

 

「しのぶさんは、危険だとわかっていて」

「……うん」

 

 特に、カナタの気持ちは複雑だった。

 しのぶは行動を起こす前に、カナタと話をしている。

 カナタはしのぶの考えに同意しつつも、しかし実際に行動を起こそうとはしなかった。

 

 おそらくこれは、カナタとしのぶの立ち位置の違いから来るものだ。

 長男と、次女の違いだ。

 この両者の間には、その行動様式に小さな、しかし決定的な違いが出て来る。

 動と静の違いも、そこから生まれて来るのだった。

 

「みんなが何かされてるかもしれないって、どういうことだろう」

「何かの術と言うことか?」

「それはわからないね。けど……」

 

 その時、3人のスマホが同時にメッセージの着信を知らせた。

 音は切っていたはずだが、通知音はそのままだった。

 3人は再び顔を見合わせて、そしてそれぞれ自分のスマートフォンを取り出した。

 手に取って操作すると、やはり、着信したメッセージは3人とも同じだった。

 

『体育館に来てください』

 

 ()()()()()()()()()()

 冷たい何かが、背筋を伝うのを感じた。

 しのぶのスマホは炭彦の手の中にあるというのに、しのぶから3人にメッセージが届いたのだ。

 ごくり、と、誰かが生唾を呑み込む音が響いた。

 

「……どうする?」

「…………行くしかないだろうね」

 

 不安気な弟に、カナタはそう言った。

 このメッセージの差出人がどういうつもりであれ、このタイミングでメッセージを送って来たということは、自分達が学校にいることを知っているということだ。

 とすれば、余計な動きをするのはかえって危険だということになる。

 

 その時だ。バンッ、と、理科室の窓が大きな音を立てた。

 桃寿郎の口から大きな、炭彦の口から小さな悲鳴が上がった。

 カナタは歯を噛んで耐えたが、内心は口から内臓が飛び出そうな程に驚いていた。

 音は一度きりで、その後は続かなかった。何の物音も気配も、その後はしなかった。

 

「行こう」

「う、うん」

 

 行くしか無かった。

 体育館に待っているのがしのぶであれ、あるいは他の何者かであれ、この場に留まるのは得策では無かった。

 理科室後方の扉を静かに開けて、廊下が無人であることを確かめる。

 後ろの2人に手で合図をして、カナタは冷たい空気が張り詰める廊下へと出て行った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 体育館は、校舎からそう遠くない程よい位置にある。

 炭彦達も、授業や生徒集会で何度も移動している。

 それにも関わらず、まるで何キロもある道のりのように感じられた。

 

「……静かだね。やっぱり」

 

 炭彦の言葉に、カナタと桃寿郎は頷きを返した。

 マンモス校だけあって、キメツ学園の体育館も非常に大きい。

 標準的な公立校の1.5倍ほどはあるだろう。

 場合によっては複数のクラスが合同で授業を行うので、大きな設計になっているのだ。

 

 そのため、普段は校舎以上に賑やかな場所でもある。

 しかしそれが今は、何の物音ひとつも聞こえてこない。

 今まで通って来た校舎と同様、静か過ぎる程の静寂に包まれていた。

 

「本当に、ここにしのぶさんがいるのかな」

「入って見ないとわからないだろ」

 

 それは、カナタの言う通りだった。

 ただ正面入口のガラス戸から見ただけでも、中が真っ暗であることはわかる。

 怖気おじけづいてしまうのも、無理は無かった。

 

「開けるぞ」

 

 桃寿郎が、体育館の入口のドアを開けた。

 軋む音を立てて開いていく扉。

 開き切ったその先にあるのは、暗闇だ。

 まるで巨人が大きく口を開いているような、そんなイメージを受けた。

 

「……しのぶさん?」

 

 暗い。余りにも暗かった。

 ある程度は視界が暗がりに慣れて来たものの、人のいない体育館は寒々しい程に暗い。

 そう、体育館には誰もいなかった。

 

「誰も、いないね……」

「匂いはしないの?」

「うん、何だか変なんだ。匂いをほとんど感じ取れない……」

 

 入口から、体育館の中央あたりにまで歩いた。

 響くのは炭彦達の足音ばかりで、それ以外は何の音も気配もしなかった。

 周りを見ても、暗闇があるばかりで誰もいない。

 誰も、いない。

 

 その時だった。体育館の奥、壇上の照明が点いたのは。

 急に光が弾けたので、炭彦は小さく呻きながら目を庇った。

 何事かと思って、目を瞬かせながら、そちらを見た。

 そして、壇上に立っていた人物に、炭彦は目を丸くすることになった。

 

「……しのぶさん……!?」

 

 壇上の照明の光の中で、美貌の少女は一枚の絵画のように美しかった。

 しかし、闇の中で唯一の光に包まれるその姿は、美しさと同時に、不思議な畏れを抱かせた。

 そんな炭彦の考えを知ってか知らずか、しのぶは静かに微笑んでいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「しのぶさん! 良かった、無事だったんですね」

 

 しのぶの姿を認めて、炭彦は心底からほっとした。

 何しろ、ここまでとにかく不気味だった。

 それがようやくしのぶの無事な顔が見れて、安堵するなと言う方が無理だろう。

 だからそのまま、炭彦はしのぶに駆け寄ろうとした。

 

 しかしそんな炭彦の顔の前に、カナタの掌が広げられた。

 駆け出そうとしたところを制された形で、炭彦はその場でつんのめってしまった。

 だがそれでも、カナタは炭彦を前に出さなかった。

 

「か、カナタ?」

 

 カナタは、厳しい顔でしのぶを睨んでいた。

 

()()()()()()

 

 え、と、炭彦はあたりを見渡した。

 壇上の照明が点いたとは言え、体育館全体はやはり暗い。

 しかしそれを差し引いて考えても、人気は無い。誰の姿も見えなかった。

 そう訴えるように、炭彦はカナタを見た。

 

()()

「電気って…………あ」

 

 言われてみれば、だ。

 先ほど、しのぶが立っている体育館奥の壇上の照明が点いたことを思い出した。

 ()()()()()()()()()()()

 

 当たり前の話だが、壇上に電気のスイッチなどは存在しない。

 壇上の照明装置は、別の場所にあるのだ。

 つまり、()()()()()()()()()()()()()()()、と言うことだ。

 

「どうしたんですか? 早くこっちに来てください」

 

 当のしのぶは、微笑みながら壇上に立っていた。

 その姿からは、何の怪しさも感じなかった。

 しかしこの場合、怪しいところが無い、ということ自体が怪しさを証明していた。

 

「……その前に、ちょっと教えてくれないかな」

「何をでしょう?」

「あの転校生のことは、何かわかったの?」

「はい。その話をするために、まずこちらに来てくれませんか?」

 

 しのぶの表情は、やはり変わらない。

 

「……さっきのメッセージ」

「はい」

 

 理科室で受けたメッセージのことを、カナタは言った。

 

「どうやって送ったの?」

「もちろん、私が送信したんですよ」

「へえ、キミのスマホは理科室にあったけど?」

「ええ、ですから理科室で」

「……俺達はその時、理科室にいたんだけど」

 

 カナタがそう言うと、しのぶは一瞬、考えるような仕草をした。

 しかしすぐに面倒になったのか、宙を舞った視線をカナタ達に戻った。

 そして、ゆっくりと、唇の両端を三日月の形に吊り上げた。

 それは、余りにも邪悪に歪んでいるように見えた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「存外、上手くいかないものですね」

 

 ()()()、と、しのぶの顔に誰かの手が貼り付いた。

 細く白いそれは少女のもので、そしてその少女はしのぶの後ろに立っていた。

 

(何だ? いつからいた? 壇上には誰もいなかったはずだ)

 

 突然、現れた。

 そうとしか表現できない。

 だが今は、どうやって、ということを考察している場合では無かった。

 誰が、というのも考える必要は無い。

 何故ならしのぶの後ろから顔を出したのは、カナタ達の想像通りの人物だったからだ。

 

「こうしてお話をするのは、初めてでしたか?」

「さあ、どうだったかな」

 

 西洋人の、美しい少女。転校生――――セッカだった。

 しのぶの身体に絡みつくようにして、彼女は立っていた。

 ああ見えて、しのぶはパーソナルスペースが広い方だ。

 あそこまでの距離感で触れ合える存在がいるとすれば、それこそカナエだけだろう。

 

 それがどうだ。まるで反応を示していない。

 受け入れるとか、跳ねのけるとか、そういうことでさえ無い。

 ()()()()

 ()()()()()()()()()

 

「炭彦、何か感じる?」

「う、うん」

 

 外面の情報だけでも異常だが、炭彦が()()()()()()はさらに異常だった。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 いや、それも正確では無かった。

 何かがいると言うよりは、ある、と言った方が正しい。

 ()()は生物というよりは、植物に近かった。

 植物の根のようなものが、しのぶの体内に蔓延(はびこ)っていたのだ。

 透き通る世界を通じて、炭彦にはそれが視えていた。

 

「……しのぶさんに、何をした!?」

「何もしていないですよ。人聞きが悪い。ただ、()()()()()()()()()

 

 そう答えながら、セッカが片方の手を炭彦達に向けた。

 何かが来る、と、素人でもそう判断するだろう、そんな動作だった。

 

「あなた達も、私とお友達になりましょう?」

 

 第一に、警戒を解かずに集中していたこと。

 そして第二に、透き通る世界を継続していたこと。これが良かった。

 そうしていなければ、そこで()()()()()()

 

 渇いた音がした。

 

 咄嗟の判断で、炭彦はカナタと桃寿郎の袖を掴んで倒れ込んだ。

 2人は、意外なことに抵抗しなかった。それもまた良かった。

 そうでなければ、()()()()()()()

 聞こえた音の方に目を向ければ、体育館の床板に何かが突き刺さっているのが見えた。

 

「あれは……!?」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 それは、種子というには大ぶりだった。

 親指の先程の大きさをしていて、僅かに根のようなものも見える。

 それがウネウネと動いていて、不気味だった。

 

「まあ、酷い」

 

 クスクスと、セッカが嗤っていた。

 

「どうして避けちゃうんですか?」

 

 そりゃ避けるよ! と、3人は思った。

 ここまで来れば、しのぶに何が起こったのかは明らかだった。

 絡繰りは不明だが、あの種子を打ち込まれると、セッカの支配下に置かれるのだろう。

 この時点で確定する。

 ()()()()()()()()()()()()()

 

「どうする!?」

「どうするって言われてもな……」

「しのぶさんを置いていけないよ!」

「それはそうだけど……」

 

 数で言えば、三対一である。

 しかし人数で上回っているとしても、実力までその通りでは無い。

 いや、むしろ純粋な力という意味では、人間3人で吸血鬼1人に勝つのは無理だ。

 いくら炭彦や桃寿郎が日輪刀を持っているとしても、それは変わらない。

 

(何より、今のこの状況は相手が作ったものだ。まずここから抜け出さないとマズい)

 

 まして、相手の土俵での戦いとなればなおさらだ。

 まずはこの体育館、いや校舎から外に出なければならない。

 と言うのが、カナタの冷静な部分。

 しかし同時に彼はそれが不可能なことも知っていた。

 

 しのぶが、()()にされているからだ。

 すると、もう「この場から抜け出す」という選択そのものが取れない。

 カナタもそうだが、炭彦や桃寿郎はそういう()()()性格をしていない。

 

(どうする……?)

 

 逃げることは出来ない。

 一方で、自力での解決は難しい。

 そういう場合において、人間は――否。

 

「カナタ! 桃寿郎くん! しのぶさんを!」

「うむ!」

「待て! 2人とも、待って!」

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 答えは簡単だ。というか1つしかない。

 大正時代ならばいざ知らず、今は令和だ。

 ()()()()()()()()()()()()

 

(とはいえ、まさか目の前で連絡す(スマホを弄)るわけにもいかない)

 

 となれば。

 

「良いのかな、悠長なことをしていて」

 

 セッカに向かって、カナタは言った。

 

()()()()()()()()()()()()()

「…………あらあら」

 

 そして、セッカの顔から微笑みが消えた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 カカカ、と、聞いたことも無い音がした。

 それはどこから聞こえたのかも判然としなかったが、確かに笑い声だった。

 背筋が凍り付くような、そんな声が、どこからともなく耳朶を打って来た。

 

「カカカ、面白いではないか。良いぞ、()()

 

 それがセッカの声だと理解するまでに、少し時間を要した。

 何故ならばその声が、セッカからしている声だと認識できなかったからだ。

 矛盾するようだが、実際にそう思えたのだから仕方がない。

 

 そして実際、セッカの声はそれまでと違っていた。

 話し方も、声音も、急に変わった。

 年若い少女のようでもあり、しわがれた老婆のようでもあった。

 

()()()()()()()()()

 

 何よりも、この威圧感だ。

 炭彦や桃寿郎が廃倉庫の戦いで感じたものより、さらに強かった。

 頭の先端から、何かで押さえ付けられている感覚。

 汗が引き、対照的に喉が激しく渇きを訴えて来る。

 

(呼んじゃ駄目だ)

 

 当たり前だが、炭彦はカナタが瑠衣を呼んでいないことを知っている。

 だから、さっきのカナタの発言がブラフーー炭彦は嘘が吐けない――だということはわかっている。

 その意図までは理解できていなかったが、何か狙いがあってのことだとは思っていた。

 そして相手が「瑠衣を呼べ」と言ったことが、カナタの狙いとは違っていたことも、わかっていた。

 

 つまり、今が非常に不味い状況であることを理解していた。

 そしてそれ以上に、自分達の立場を理解した。

 セッカは、しのぶを使って自分達を呼び出したのではない。

 ()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(瑠衣さんを、呼んじゃ)

「まあ、ただ呼ぶのなら早くした方が良いと思うがの」

「……え!?」

 

 その時だ。炭彦達がやって来た体育館の扉が開いた。

 いや、扉だけでは無い。窓から倉庫の扉から、何もかもが音を立てて開いた。

 そしてそこから()()()()()()()に、ぞっとした。

 

「もしかして、とは思っていたけれど……」

 

 外れていて欲しかった、という意味合いを言外に込めつつ、カナタが言った。

 

「ああ、そうじゃよ」

 

 セッカの嗤い声が、返事だった。

 

()()()()()()()()()…………そうじゃろう?」

 

 体育館に押し寄せて来たのは、()()()()()()()()()()()()

 セッカのクラスメイト、いや、何人か教師も混ざっている。

 というより、学園外の人間の姿もある。十数人――いや、数十人の人間が、体育館に殺到してきた。

 突然に、何の予告も無く、いきなり。

 余りにも急激な状況の変化に、ついて行けない程に。

 

「ほれほれ」

 

 そんな炭彦達を嘲笑うように――実際、嘲笑っている――セッカは言った。

 

「早くせんと、お前達も――――お友達(しもべ)になってしまうぞ?」

 

 カカカ、という嗤い声だけが、耳に響いて来た。

 それでも、なお。

 呼んじゃ駄目だ、と、炭彦は胸中で思ったのだった。




最後までお読みいただき有難うございます。

不覚にも風邪をひいてしまいました…。
皆様もお気を付けください。

それでは、また次回。


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第100話:「吸血鬼セッカ」

 体育館に入り込んで来た人間は、全員がしのぶと同じ状態だった。

 炭彦の眼には、彼らの体内に根を生やした種子が視えていた。

 ぎ、と、炭彦は奥歯を噛み締めた。

 

「何とかしないと!」

「今はそれどころじゃない!」

 

 カナタが言った通り、それどころでは無かった。

 何しろ何十人もの人間に囲まれている。

 むしろ危機にあるのは自分達の方であって、他人の心配をしている場合では無い。

 

 しかし実のところを言えば、危機ではあるが、()()()()危機では無かった。

 何故ならば、呼吸遣いにとって常人は脅威にはならないからだ。

 呼吸を使う者とそうでない者との間には、文字通り雲泥の差がある。

 だから炭彦らが()()()にさえなれば、斬り抜けられない状況では無い。

 

「すまん! 許せよ!」

 

 無いのだが。

 

「ぬ……!」

 

 流石に刀を抜くことはせず、鞘で殴った。

 しかしそれでも、()の入った鞘である。

 普通の人間であれば、それだけで骨折し、あるいは昏睡するだろう重い一撃だ。

 もちろん桃寿郎も加減はした。

 

()()()()

 

 だが、殴打された側はまったく意に介していなかった。

 桃寿郎に脇を打たれて――逆の立場であれば、悶絶不可避の――いるにも関わらず、その男子生徒は痛がりもしなかったし、揺らぎもしなかった。

 その代わりに口から漏れるのは、唸り声とも呻き声とも取れる不快な音だった。

 

「ほれほれ、そんな程度ではどうにもならんぞ」

 

 さらに不快な女の嗤い声が、どこからともなく響いてくる。

 しかし、これ以上の力で殴れば怪我では済まない。

 そのために、桃寿郎は一瞬、躊躇した。

 だが今の状況での躊躇は、そのまま大きな隙に繋がってしまう。

 

「ぬっ……ぐおっ!」

 

 鞘を打たれた男子生徒が脇に刀を抱え込み、引き抜けなくなった。

 そうして咄嗟に動けなくなったところを、数人の生徒が掴みかかり、そのまま床に倒れ込んだ。

 続々と折り重なって来る生徒達に、さしもの桃寿郎も身動きを封じられてしまう。

 

「桃寿郎く……うわあっ!」

「炭彦! うわっ!」

 

 桃寿郎に気を取られて、炭彦とカナタも同じ状態にされた。

 それでも刀を抜けば、また違っていたのかもしれない。

 しかし彼らには、その選択は出来なかった。

 

「何だ、あっけないの」

 

 そんな炭彦達の体たらくに、カカカ、と女の不快な嗤い声が降りかかって来た。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「うぐっ」

 

 頬をしたたかに床に打ち付けて、炭彦は呻いた。

 状況は、最悪である。

 呼吸遣いとは言え、何人もの人間に押さえ込まれれば、流石に厳しい。

 炭彦がそうなのだから、他の2人はなおさらだ。

 

 しかも周りには、まだまだ何十人もいるのだ。

 そのどれもが、明らかに正気では無い。

 感情の抜け落ちた顔で、ただそこに立っている。

 そのくせ、こちらを押さえ付ける力は万力のように強かった。

 

「心配せずとも良い。何も命まで取るわけではない」

 

 カカカ、と、女の嗤い声が降って来る。

 セッカは目の前にいるのだが、しかし口は開いていない。

 彼女の声では無いのか。

 そうだとして、この声の主はどこにいるのか。

 透き通る世界にいる炭彦が、その声の主を探し当てることが出来ずにいる。

 

「ただ、我が夜の()()()になって貰うだけよ。こやつらと同じようになあ」

(ま、まずい。これは、まずい事態だ……!)

 

 一歩こちらに近付いて来たセッカに、炭彦は焦った。

 何をされるのか具体的にはわからないが、あの種子を植え付けるつもりなのだろう。

 周りの人間の様子を見る限り、碌なことにならないのは明白だった。

 文字通りセッカの、あるいはこの声の主のしもべにされてしまう、ということだ。

 

「……ッ」

 

 その時、セッカが動いたことで、彼女の陰に隠れる形になっていたしのぶが見えた。

 

「しのぶさん……!」

 

 声をかけても、しのぶが反応することは無かった。

 感情の消えた表情で、ただこちらを見下ろしてきている。

 周りの生徒達と、同じ状態だった。

 

「……え?」

 

 そのはずだったが、不意に変化が起きた。

 ()()()()()()()()()()

 それまで顔を触れても微動だにしなかったしのぶが、視線を斜め上へと向けたのだ。

 自然、炭彦の眼もそちらへと向けられる。

 そして、そこにあったのは、いや、()()()()

 

「カ……!」

 

 体育館の二階、窓枠のカーテンの陰。

 自前の物なのか、それとも弓道部の物でも拝借したのか、手には弓を持っていて、口には何か細長い紙のような物を咥えていた。

 

「カナエさん……!?」

 

 カナエの弓には3本の矢がつがえられていた。

 矢じりの先端には、口に咥えているものと同じ細長い紙が突き刺さっていた。

 そして炭彦が名を呼ぶと同時に、彼女はその3本を撃ち放ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 言うまでも無いことだが。

 カナエは別に、特別な力を持って生まれた、というわけでは無い。

 確かに少し、人より()()()()()()()()()()()()()

 だから、打ち放った矢そのものには、()()()()()()()

 

(――――何じゃ?)

 

 だが、それは()()にはわからない。

 胡蝶カナエのことを知らない彼女は、彼女の行為の意図を考えざるを得ない。

 何の意味もなく現れて、何の意味も無い行動をするわけがないと、そう思う。

 あのこれ見よがしについている札には、何かの術でもかかっているのではないのか、と。

 だが。

 

(何も、起こらんぞ?)

 

 ()()()()()()()

 カナエの矢が2本、反対側の壁に突き立つのを彼女は見た。

 そして3本目の矢が、窓を割って外に飛び出すのを見た。

 それで何かが起こるのかと、ほんの数瞬、待ってみる。

 

「……カカカ」

 

 いくら待っても、何も起こらない。

 その事実を確認して、彼女は嗤った。

 時間稼ぎのつもりだったのか知らないが、そうだとしても稚拙(ちせつ)に過ぎる。

 

 確かに、今の今まで自分の目から逃れていた点は評価してやっても良い。

 しかし逆に言えば、それだけだった。

 姿を見せてしまった以上、しもべ達によってすぐに捕らえられる。

 そして、カナエもまた自分のしもべとなるのだ。

 

「良いのかしら、私ばかりに気にしていて」

 

 自身に向けられた害意に気が付いたのか、カナエがそう言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()

 

 何を馬鹿な、と、彼女は思った。

 つい先ほど、カナタという少年も同じことを言った。

 見え透いた脅し、挑発、はったりだ。

 そんなものに、動じるはずも無し。

 

「構う必要は無い。そうら、我がしもべ達よ。その者達も」

 

 その時だった。

 彼女が割れた窓から意識を逸らそうとした、まさにその瞬間だ。

 窓の外から、ある()が聞こえて来たのだ。

 いや、正確には、それは声では無く――――。

 

()()()()

 

 ――――鳴き声、だった。

 視線を、再び割れた窓へと向ける。

 煌々と照る月が、窓が割れ、風で吹き上げられるカーテンの間から顔を覗かせている。

 そしてそんな月光を背に、細い窓枠に足を乗せて、()()()()

 

「――――にゃあん」

 

 茶々丸が、体育館の中を覗き込むようにして、そこにいた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 奇妙な気配は、ずっと感じていた。

 ただそれは感知というより直感のようなものなので、どこで何が起こっているのかまではわからない。

 探索ついでの夜の散歩。

 産屋敷から連絡が来たのは、そんな時だった。

 

「夜中に出歩いて、いけない子ども達ですね」

 

 まあ、任務で夜間活動が当たり前だった自分が言っても説得力は皆無だろうが。

 それはそれとして、産屋敷からの連絡だ。

 産屋敷は竈門家や胡蝶家の様子を監視しているので、子ども達が夜の学校を訪れたことは把握していた。

 

 連絡は、それにも関わらず「子ども達を見失った」というものだった。

 肉眼で見失ったとは思えない。すると、()()()()だ。

 何者かの力が、キメツ学園を覆っているのだろう。

 

()()()()()

 

 にゃあん、という猫の鳴き声に、瑠衣は微笑む。

 茶々丸は猫ということもあって、校内のどこへでも行ける。

 ただ、自分でドアや窓を開けたりということは難しい。

 

「ふむ、それなりに状況は切迫しているようですね」

 

 すると、急がなければならない。

 瑠衣は足元のコロに手を伸ばして抱き上げると、肩に抱くようにした。

 

「コロさん、すみませんが掴まっていてくださいね」

 

 バウ?、と首を傾げるコロに微笑みかけて、瑠衣はもう片方の手に小太刀を握った。

 そのまま、身を深く沈めた。

 そして、()()

 

「……すげえな」

「ああ」

 

 学校の校門前で様子を見ていた産屋敷家のエージェントは、高く跳躍して姿を消した瑠衣を見て、呟くように言った。

 

「もう、どっちが化物かわかんねえよな……」

 

 そんな会話には微塵(みじん)の興味も示さずに、瑠衣は空中で視線を巡らせた。

 体育館、という施設は、すぐに見つかった。

 一度だけ校舎の壁を蹴り、体勢を整える。

 体育館の中ほど――階層的には2階――に、茶々丸の姿を見つけた。

 加えて、透き通る世界による位置調整。

 

「うーん、まあ」

 

 宙を蹴って、そのままの勢いで刀を振るった。

 肩の上で、コロが「バウウッ!?」と鳴いていたが、そのまま行った。

 

「何とか通れるでしょう」

 

 ――――風の呼吸・伍ノ型『木枯らし(おろし)』。

 窓枠、をいやその周りの壁を破壊しながら、突撃した。

 けたたましい音と共に体育館の中に入れば、そこには数十人の人間がひしめき合う不気味な光景が広がっていた。

 そして、じろりと透き通る世界の眼で状況を一瞥して後。

 瑠衣は、状況をほぼ正確に把握したのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 体育館のちょうど中央に降り立った瑠衣は、その場に留まるようなことをしなかった。

 ()()()

 着地と同時にそれは開始されて、体育館の固い床板を踏み砕きながら、瑠衣は縦横無尽に駆けた。

 物言わぬ()()()の生徒達を、炭彦達から蹴り放していく。

 

「瑠衣さん!」

「はい、私ですよ」

 

 自分の側に降り立った瑠衣を見上げると、いつもの優しい微笑みが目に入った。

 

「さて、今の状況を説明して貰えますか?」

「え、えっと。みんなセッカさんに操られていて……体の中に、変な種子があって」

「種子……ああ、確かに。何かありますね、頭のあたりに」

 

 透き通る世界で視て見れば、すぐに種子(それ)に気付いた。

 自然の物ではなく、明らかに血鬼術によるもの。

 つまりは、吸血鬼。

 

「ふむ、そういう系統の術ですか」

 

 顎先を指で撫でる瑠衣の前に、セッカが進み出て来た。

 彼女は瑠衣を見つめて微笑み、制服のスカートの端を摘まんで礼をして見せた。

 

「こんばんは、レンゴク・ルイ。貴女を歓迎しますわ」

 

 そして、セッカはそのまま何か言葉を紡ごうとした。

 小さく形の良い唇を開き、鈴を転がすような声が次の瞬間には相手の耳朶を打っただろう。

 と、炭彦が、いやその場にいる誰もが思っていた。

 しかし実際に起こったのは、それとはまったく別のことだった。

 

「さ――――」

 

 その音の後に、セッカが何を言うつもりだったのかはわからなかった。

 何故ならば、セッカを、いやその頭を、一瞬で距離を詰めた瑠衣が()()()()()()()()

 悲鳴のような物を発して、セッカの身体がゴムボールか何かのように吹き飛んだ。

 しっかり二度、体育館の床をバウンドし、何人かのしもべを巻き込んで、転がった。

 凄まじい音がした後、セッカはピクリとも動かなくなった。

 

「え……ええええええっ!?」

 

 炭彦が驚愕の声を上げる。

 

「る、瑠衣さん、どうして!?」

「どうしてと言われても」

 

 炭彦の言葉に、瑠衣は困ったような表情を浮かべた。

 

「どう見ても敵だったもので」

「そっ……れは、そう、なのかも、しれないですけどお……」

 

 それにしたって、躊躇なしで蹴りに行くとは思わなかった。

 とは言え、もやっとした物を胸中に感じてしまう。

 炭彦がそんな風に複雑な感情を抱いていると、それに、と瑠衣は言った。

 

「それに、()()()()()()()()()()()()()()()()

「え……?」

 

 ――――偽物?

 首を傾げる炭彦に、しかし瑠衣は視線を戻さなかった。

 彼女の視線は、炭彦達でも、未だ2階にいるカナエや茶々丸でも、床に倒れて動かないセッカでもなく。

 

「――――カカカ」

 

 暗闇の中から、()()()と現れた、金髪の少女に向けられていたのだから。

 

「偽物だとわかっていても、そこまで容赦なく攻撃するとは……貴様」

 

 その声は、炭彦達に降り注いでいた、あの声と全く同じだった。

 

「貴様、とんだ人でなしじゃなあ」

 

 そう言って、暗闇から姿を見せた吸血鬼は、再びカカカと嗤った。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 人でなしと言われたところで、瑠衣は特にどうとも思いはしなかった。

 何と言っても、人外の化物に人間の道理などを語られたくはない。

 それに、瑠衣も自分が人間らしい道理や道徳心を持ち合わせているなどとは思っていない。

 

「……随分と、簡単に出てきましたね」

「何、お前が出て来たとあれば、傀儡どもでは心もとないからな」

 

 呻き声を上げながら、種子を植え付けられた生徒達が瑠衣を取り囲み始める。

 一方でその隙に、カナタと桃寿郎は炭彦の傍に行った。

 バウッ、と何とも言えない表情で、コロも寄って来た。

 カナエは変わらず、茶々丸と2階にいる。

 

「なるほど、彼らは生きているんですね」

「ああ、その通り。殺してはおらぬ。血も吸っておらぬし、眷属化もしておらぬ」

(……眷属化。新しい単語ですね)

 

 透き通る世界で視る限り、生徒達は生きている。

 ただ、眷属化、という言葉の意味はわからない。

 口ぶりからして、鬼化とはまた別の意味合いの言葉のように聞こえる。

 まあ、いずれにせよ碌なことでは無いだろうが。

 

「さて、どうする?」

「どうする、とは」

「それがわからぬ貴様ではあるまい? わざとか、それとも本当に察しが悪いのか?」

 

 カカカ、と吸血鬼が嗤う。

 瑠衣と正面から対峙しておきながら、セッカは悠然としていた。

 瑠衣の手に二振りの小太刀――日輪刀があることを見ても、動揺した様子は見られなかった。

 

(……何か、ありますね)

 

 それが何なのかまでは、今の時点ではわからない。

 まあ、この状況ならば、大方は予想できることではあるが。

 

「今も言ったが、この者達は我が種子によって私の支配下にある。肉体は人間のまま生きておる」

 

 意識の無い傀儡の人形と化しているが、命に別状はない。

 繰り返すが、()()()()()

 

「ただし私の気が変われば、その限りでは無い」

 

 わかるな、と、笑みの形に歪んだ目が語っていた。

 ()()()。先程セッカが言った言葉が瑠衣の脳裏に浮かんだ。

 つまりその気ひとつで、彼らの命は失われる、という意味だ。

 すなわちセッカにとって、彼らは()()なのだった。

 

「卑怯な……!」

 

 誰かが口にしたその言葉に、セッカはカカカとまた嗤った。

 まるでそれが最高の誉め言葉だとも言いたいのか、今までよりも高い声で嗤った。

 瑠衣は笑わず、ただ小さく首を傾げた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 何だ、と、セッカは瑠衣を眺めた。

 彼女が想定していたような――まさに他の者達が示しているような――反応では無かったからだ。

 瑠衣はセッカの言葉に小さく首を傾げて、そして。

 

 ()()()()

 何を笑っているのかと、セッカの方が思ってしまった。

 いったいこいつは、何を考えているのかと。

 

「――――どうぞ?」

「……何?」

「どうぞ、好きにすれば良いと思いますよ」

「瑠衣さん……?」

 

 炭彦は、瑠衣の背中を見つめていた。

 その視線を無視するように、瑠衣は言葉を続けた。

 

「私は別に、正義の味方ではありません」

 

 かつての煉獄家の長女ならば、別のことを言ったかもしれない。

 

「彼らの家族でもなければ、友人でもありません」

 

 不老不死を生きた100年を経た瑠衣は、かつての瑠衣では違うことを言った。

 自分は正義の味方ではない。

 生徒達の親でもなければ、時間を共有した友では無い。

 

「私には、彼ら彼女らを助けなければならない義務などありません」

 

 この両手で救えるものには、限りがあって。

 この両足が間に合うもには、限りがあって。

 だから救うものは、選ばないといけない。

 そして、選んだのならば。

()()()()()()()()

 

「だからどうぞ、ご随意にされれば良いでしょう。ただし」

 

 日輪刀を持つ両手に力を込めて、瑠衣は歩き出した。

 躊躇することなく、セッカとの距離を詰めている。

 

「ただし、()()()()()――――貴女の頚と胴は、泣き別れになっているでしょうけれど」

「貴様……」

 

 微笑みを浮かべたまま近付いてくる瑠衣に、セッカは言った。

 

「本当に人間か?」

「いいえ、違います」

 

 ()()()()()()()()()

 人間である彼女は、100年前のあの時にすでに死んでいる。

 それはもう、当然すぎて、今さらの話だった。

 

「私は、貴女を殺すモノです」

「……!」

 

 この時点で、セッカは認識を改めた。

 煉獄瑠衣という女に対する認識を、改めた。

 炭彦らを助けに来たことから、普通の人間と同じ感性を持っていると思っていたが。

 瑠衣の微笑みは、そして対照的にまったく笑っていないあの眼からは、およそ常人らしい感情は感じ取れない。

 

「狂人め……!」

「ふふふ、鬼に言われると、存外おかしく思えるものですね」

 

 クスクスと、瑠衣の笑う声が響いた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ――――それでも。

 それでも、炭彦()が瑠衣を見つめる目は変わらなかった。

 あんなにも非道なことを言っているのに、彼の瑠衣に対する信頼は(いささ)かも揺らいでいない。

 この意思の固さは、美徳ではありが、ただ頑固なだけとも言える。

 

 一方で、カナタはそこまで瑠衣を信頼していない。

 しかしそれとは別に、瑠衣の言動を否定するつもりも無かった。

 それは、彼の性質は皮肉にも瑠衣の言葉と一部重なっていたからだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「とは言え、どうするつもりなんだ……?」

 

 言葉通りに他を省みず、本体(セッカ)を叩くのか。

 カナタは、瑠衣の人となりは信頼していないが、実力は信用している。

 だから本当に瑠衣は他の犠牲を気にせずに戦った場合、セッカを倒せるだろうと半ば確信していた。

 問題は、瑠衣が本当にそうするのかどうかという点で――――。

 

「なっ!?」

 

 そこで、さしものカナタにも予想外の行動を、瑠衣がした。

 予想通り、瑠衣は他を省みる様子を見せずに、セッカを攻撃すべく跳んだ。

 予想が外れたのは、瑠衣が跳んだ先にいるのが()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――!」

 

 さらに、予想外なことが起こる。

 それは、瑠衣が斬りかかったしのぶの身体を、セッカが突き飛ばして庇ったのだ。

 まるで、状況が()()()()である。

 どたりと尻餅をついたしのぶの側を瑠衣の刃が通り過ぎ、それはしのぶを庇ったセッカの腕を斬った。

 

「おや、庇いましたね」

 

 肘のあたりから血を噴き出したセッカを横目に、瑠衣は笑った。

 

「不思議ですね。鬼である貴女が、人間であるしのぶさんを庇う理由は無いはずですが」

「貴様……もしや、()()()()()()()?」

「さあ、何のことでしょう」

 

 セッカの傷は、()()()()()()()

 代わりにセッカは表情を消して、腕を振るった。

 すると周囲の生徒達が、一斉に瑠衣に襲い掛かった。

 

「殺せ!」

 

 四方から、いや八方から襲い掛かって来る生徒達に、瑠衣は身を深く沈めた。

 小太刀の片方を口に咥えて持ち、空いた片手を床についた。

 そしてそのままの態勢で、コマのように回転した。

 その爪先が生徒達の足を、脇腹を、首を、蹴り飛ばしていった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 戦いが、始まった。

 いや、厳密に言えばとっくに始まっていたのだが、本格的な戦闘になった。

 何十人もの人間が、1人の女に襲い掛かって行く。

 普通ならば、一方的だ。いや、実際に一方的ではあった。

 

「ふむ」

 

 ()()()()蹴散らしながら、瑠衣は操られている生徒達の様子を観察していた。

 まず、耐久力。呼吸遣いの蹴りを受けても、怯みはするが倒れはしない。

 瑠衣の足先には骨が砕ける感触が確かにあるのだが、傷んだ箇所を庇う様子すらない。

 どうやら、彼らには痛覚というものが無いらしい。

 種子が脳に取り付いているせいかもしれない。

 

「痛みを感じない分、身体が損傷しても構わずに追撃してくる」

 

 伸ばされてきた手を払いながら、瑠衣は跳んだ。

 動きが緩慢な分、瑠衣の跳躍にはついて来られない。

 しかし、表情も無く追いかけ続けて来る様は、言い様の無い圧力を追われる者に与えて来る。

 

「下手な鬼や剣士を相手にするよりも、厄介かもしれませんね」

 

 頚を斬り落とせば、止まるのだろうか?

 種子が頭の中にある以上、止まりそうな気もする。

 あるいは本体では無いので、頚を斬り落としても止まらない可能性もある。

 それに「頚を斬り落とす」という一動作のために、二手は遅れる。

 そうすると、だ。

 

「おっと」

 

 死角から飛来した小さな種子を、頭の位置をずらすことで回避する。

 いわずもがな、アレを喰らえば瑠衣も操り人形の仲間入りだ。

 無数の人形に攻撃させて、隙を見て種子を撃ち込む。

 それが、セッカの戦闘スタイルのようだった。

 

 堅実だ。手堅いスタイルと言える。

 少なくとも、先に戦った3人の吸血鬼とは違うタイプだ。

 彼らよりは場数を踏み、経験を積んで来たのかもしれない。

 しかし、戦場に体育館という閉鎖空間を選んだのは、はっきりとしたミスだっただろう。

 

「チィッ、ちょこまかと羽虫のようなやつ!」

 

 短距離の高速跳躍。

 操り人形である生徒達は、追いかけることは出来るが、瑠衣を捉えることが出来ない。

 だがセッカも当然、自分と瑠衣の間に最も厚く生徒達を並べている。

 言ってしまえば肉の盾だ。

 いちいち蹴散らしていれば、横から他の生徒に組みつかれるだろう。

 

「じゃあ、()()します」

 

 ただしそれは、1人1人を相手にすれば、の話だった。

 瑠衣はそうはしなかった。

 生徒そのものを、道に――()()()()()()

 

「なっ!?」

 

 生徒の顔を、踏んだ。あるいは肩を。

 地面にそうするかのように、生徒達に()()して、駆けた。

 セッカが敷いた肉の盾を、()()()()()()

 

「人の心は無いのか貴様はァ!」

「ええ、まあ。姉が持って行ってしまいましたので」

 

 肉の道を跳んで、瑠衣はセッカに日輪刀を振り下ろした。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 セッカは舌打ちした。

 まさか、人質を物ともせずに攻撃してくるとは思わなかった。

 はったりかと思えば、本当に躊躇なく攻撃してきたのだ。

 あまつさえ、胡蝶(本命)しのぶ(の人質)に対しても斬りかかって来た。

 

 はったりであれば、セッカはあの攻撃を防がなかっただろう。

 しかし瑠衣の刀身には、明確に殺意が乗っていた。

 そのために、セッカもしのぶへの攻撃を止めに入らざるを得なかった。

 何故ならば、そうしなければ――――。

 

「――――ほう、止めましたね。一度ならず二度までも」

「まったく、本当に、人の心が無いやつじゃ」

 

 振り下ろされた二振りの小太刀が、セッカの左右の細腕に食い込んでいた。

 骨にまで達しているのか、ギリギリと擦れるような振動が互いの体内に響く。

 刃を受け止めたセッカの両腕からはボタボタと血が床に滴り落ちて、水溜まりを作っていた。

 

あの娘(しのぶ)は、お前の知人では無かったのか?」

「ええ、まあ。複雑な関係、とでも言っておきましょうか」

 

 瑠衣の攻撃は、セッカではなく、やはりしのぶに向けられたものだった。

 それを、再びセッカが止めた形だ。

 ここまで繰り返されれば、お互いに確信する。

 

「それに、人が悪いと言えば貴女もそうでしょう?」

 

 まあ、貴方は元から人ではありませんけど、と、瑠衣は言った。

 

「さも私が本体です、と言うような顔をして、()()()()()()()()()()()()()

「…………………」

 

 それに対して、セッカは答えなかった。

 その代わり、というわけでは無いだろうが、自分の両手に食い込んだ日輪刀の刃を、無理矢理に掴んだ。

 当然、掌は裂ける。床に滴り落ちる血はさらに増した。

 

「なるほど。人の心が無いなら、傀儡人形がいくら傷もうが気にもとめまいな」

 

 だが、と、セッカは嗤った。

 

「だが、貴様は知らぬな。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「何の話を……ッ!」

 

 不意に、影が差した。

 ()()は瑠衣とセッカの四方に、()()()()()()()

 一見すれば、組体操のようにも見えたかもしれない。

 生徒達が何人も、何段も肩を、手足を組み、踏んで、高く、高く(そび)えていた。

 

「いかな貴様と言えども、()()は効くであろう?」

 

 しのぶは、セッカによって()の中から蹴り出されていた。

 なるほど、徹底している。

 瑠衣は口笛でも吹きたい気分になったが、そういう状況では無かった。

 

「く……ッ!」

 

 刀を引いたが、セッカの腕は離れなかった。

 小太刀はセッカの掌と腕の肉によって、びくともしなかった。

 影が、大きく、濃くなっていく。

 

「これは、まず――――」

 

 その次の瞬間、十数人の()()()が、折り重なるようにして2人の頭上に倒れ込んで来た。

 肉の潰れる、嫌な音が体育館に響き渡った。




最後までお読みいただき有難うございます。

記念すべき第100話です。
まあ、100話だからって話のキリが良くなったりはしないですけど(え)

100話も続けられたのは、読んでいただける皆さんのおかげです。
今後も最終完結まで頑張ります。

それでは、また次回。


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第101話:「招待」

 十数人の生徒達が折り重なり、嫌な音を立てながら体育館の床に倒れた。

 文字通りの人柱。

 合わせて数百キロの重量が、中心にいた2人の頭上に落ちて来た形だ。

 当然、無事で済むはずが無い。

 

「…………ッ」

 

 咄嗟の判断だった。

 右手の小太刀から手を放し、左手の小太刀を両手で握った。

 その上で、左手の小太刀を力づくで振り切り、セッカの右手首を斬り飛ばした。

 しかしそのために、二手は遅れた。

 

 押し潰される、という事態は何とか回避した。

 ただし、ノーダメージとまでは行かなかった。

 挟まれたか掴まれたか、脱出する際に右腕に異常を感じた。

 そして着地と同時に右腕を確認すると、()()()()()

 

「瑠衣さんッ!」

 

 炭彦の悲痛な声にも、今度ばかりは応じなかった。

 大丈夫と返したところで、安堵させることは出来ないだろう。

 何しろ瑠衣の右腕は、あり得ない方向に曲がってぶら下がっていたのだから。

 

「カカカ、良い姿になったではないか」

 

 愉快そうなセッカの声。

 彼女は瑠衣と違って、脱出することが出来なかった。

 最後まで瑠衣の腕を掴み、動きを封じていたからだ。

 そのために、瑠衣が腕を犠牲に脱出した一方で、彼女は()()()犠牲にした。

 

「あ、あいつもやられているぞ……!?」

 

 それは目を背けたい程に凄惨(せいさん)な光景だった。

 セッカはもちろん、折り重なって倒れた生徒達も無事では無い。

 血が、肉が、骨が、飛び散っていた。

 同じ年頃の、中には顔を合わせたこともあるだろう生徒達の変わり果てた姿は、衝撃的に過ぎた。

 しかしそれ以上に桃寿郎達を困惑させたのは、セッカだった。

 

「カカカ……」

 

 セッカは、下半身を潰されていた。

 下半身は折り重なった生徒達の中にあり、どうなっているかもわからない。

 しかし唇から下は(おびただ)しい量の血に染まっており、身体の内側が傷ついていることは明白だった。

 自分で仕掛けた攻撃に巻き込まれて、瑠衣よりも甚大なダメージを被っている。

 

「……何も、不思議なことはありませんよ」

 

 動かなくなった右腕を()()()と垂らしたまま、瑠衣は立ち上がった。

 ふう、と息を吐くその顔には、汗の一筋が流れている。

 

()()()()()()()()()()()

 

 そして、そんな瑠衣の言葉に、セッカは朱に塗れた顔で嗤ったのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 至極単純な理屈だ。

 本体では無い。だから平気で切り捨てられる。

 言ってしまえば、それだけのこと。

 

「本体じゃない、って……」

「偽物……ってこと?」

「ええ」

 

 そもそも、瑠衣には最初から違和感があった。

 大量の操り人形を作って隠れ潜むような相手が、瑠衣が現れた瞬間にすぐに姿を見せた。

 この時点でおかしい。性質としても戦術としても矛盾している。

 

「じゃあ、本物のセッカさんがどこかに……!?」

「いや、だが本人にしか見えなかったぞ?」

 

 一方の炭彦達から見て、体育館にいたセッカは本人そのものだった。

 瑠衣が蹴り飛ばすその瞬間まで、()()だった。

 

「私はその人のことを知らないので、それについては何とも言えません」

 

 ただ瑠衣の経験上、わかっていることもあった。

 この手の血鬼術の場合、術者は人形の側にいることが多い。

 長距離からの遠隔では、これだけの数を操ることは難しいからだ。

 仮に出来たとしても、相手と正確に会話できる程のリアルタイムの操作は困難になる。

 

「ただ、偽物というわけではありません。目の前にいるこの()()も、偽物というわけではないでしょう」

 

 どちらも()()だ。

 ただ本体では無い、というだけで、本物には違いが無い。

 そして繰り返すが、術者は近くにいる。

 

 どこにいるのか?

 本当に近くだ。()()

 今、目の前にいる。

 ()()()()()()()()()

 

「しのぶさんの……中っ!?」

 

 セッカは途中から、明らかにしのぶを庇っていた。

 そしてセッカは負傷しても、傷が再生しなかった。

 それが意味するところは、1つしかない。

 

「あら、バレてしまいましたか」

 

 潰れた生徒達の間から、するりとしのぶが姿を現した。

 ただしその表情は、先程と違って、悪意に満ちていた。

 口の端を吊り上げるような、目が狐のように細く歪むような、そんな邪悪な笑みだ。

 しのぶ程の美貌でそんな顔をすると、一層妖しく見えてしまう。

 

「では、改めて名乗っておきましょうか」

 

 ()()()、と、しのぶは嗤った。

 

()()()()()()()。誇り高き吸血鬼の一族よ」

 

 どうすれば良い。と、炭彦は思った。

 このままでは、自分達も、瑠衣も、きっと殺されてしまう。

 しかし相手は、しのぶ――の身体――なのである。

 しのぶを倒す? そんなことが果たして出来るだろうか。

 

 出来るはずがない。しのぶを傷つけるなど、自分達には出来ない。

 しかし、それが意味するところは。

 ――――自分達の、死だ。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 カナエは、ゆっくりとした動作で弓に矢をつがえた。

 すでに生徒達の姿は2階には無い。

 セッカの最優先の標的が瑠衣であって、他は餌かおまけくらいにしか考えていないからだろう。

 だから今、2階にいるカナエには脅威は無い。

 

「……しのぶ……」

 

 カナエは、炭彦達よりも先に学校に来ていた。

 それは、炭彦達より先にしのぶのメッセージを見つけたためだ。

 自宅にカナエ宛てのメッセージが残されていて、それを見てカナエは動いた。

 

 内容は、炭彦達が見たものとほぼ同じだ。

 ただ1つ違う点があるとすれば、カナエ宛ての明確なメッセージがあったことだ。

 ()()()

 もしも自分の身に、何かがあった時。()()()()()()()()()()()()()()

 

「……!」

 

 不意に、カナエは矢じりを上げた。

 階下の瑠衣が、自分のことを見た気がしたからだ。

 その視線の圧力に押されるようにして、つがえた弦を緩めてしまった。

 

 そして緩めたその手に、ふわふわとした感触があった。

 視線を下げれば、茶々丸がカナエの手に肉球を当てていた。

 猫の眼差しは、カナエに何かを訴えかけているように見えた。

 

「何もするな……ってこと?」

 

 猫は、茶々丸は、当たり前だが言葉を発することはない。

 ただ100年を生きた猫は、カナエよりも遥かに多くのことを見て来たし、経験してきた。

 それ故に、小動物でありながら、その肉球はずしりとした重みをカナエに与えてくるのだった。

 

「……そうだろうよ。貴様ならば、そうするであろうよ」

 

 そして、階下にも動きがあった。

 瑠衣は左手に握った日輪刀の切っ先を、しのぶに向けていた。

 意思は明確だった。

 すなわち―――見鬼滅殺。

 

「本当に、人の心がない奴だ」

 

 そしてそれを、もはやセッカも疑っていない。

 瑠衣であれば、たとえしのぶが相手でも頚を刎ねるだろう。

 それを、もはや誰も疑っていない。

 

「流石にこの状態で頚を斬られれば、無傷ではいられぬ。よって、()()だ」

 

 セッカは、指先で銃のような形を作った。

 すると制服のシャツの袖から、何かが()()()と這い出て来た。

 それは蛇ようにも、ミミズのようにも見えた。

 

「貴様のことだ、ただの種子では効かぬかもしれぬ。だが……()()ならどうかな」

 

 メキメキと音を立ててしのぶの指先を這い出る()()こそが。

 ()()()()()()()()()()()()

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()はある意味で、炭彦達が初めて見るモノだった。

 煉獄瑠花という怪物とも、船で視た不可視の怪物とも、違う。

 余りにも小さく、惨めな程に小さく、それでいて(おぞ)ましい何か。

 それを何と呼べば良いのか、炭彦にはわからなかった。

 

「まるで、虫けらのようだ」

 

 そう言ったのは、カナタだった。

 彼はこういう時、容赦なく毒を吐く。

 普通ならそれを聞いて怒り出すだろうに、しかしセッカはそうはしなかった。

 

「ああ、そうだな。まさに虫けらのような存在よ」

 

 しかし、セッカはそれを否定しなかった。

 それどころか、嗤いさえしていた。

 

「だがそんな虫けらに、貴様は殺される」

 

 その瞬間に、その場にいる誰もが理解した。

 セッカの狙い、その策略を理解した。

 すべては瑠衣を誘き寄せるため。

 しかもただ誘き寄せるだけではなく、()()()()()()()()()()()

 

「サリア達と同じ轍は踏まぬ」

 

 煉獄瑠衣は、全集中の呼吸がほぼ絶えた現代において、地上最強の存在と言って良かった。

 それは相手が鬼や吸血鬼のような超常の存在でも、である。

 もはや絶技の位置にある呼吸術と剣技に加えて、100年間の経験という()()

 あるいはかつての上弦の鬼でさえ、今の瑠衣を倒すのは容易ではないかもしれない。

 それほどまでに、煉獄瑠衣という剣士は、鬼狩りは強かった。

 

 だから、待った。

 慎重に姿を隠しながら、瑠衣を誘き寄せる。

 人間を盾にしたところで、瑠衣が躊躇しないことは織り込み済みだ。

 だから純粋な物量で攻め、負傷するまで待った。

 確実だと確信できるまで、けして前には出ず、ひたすらに。

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 すべては。

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 すべては、この瞬間のための布石だった。

 セッカは最初から、瑠衣を倒すつもりは無かった。

 誘き出し、弱らせ、その肉体を奪うこと。

 そのために、ここまで時間をかけ、仕掛け、嵌めたのだ。

 

「…………」

 

 瑠衣が一瞬、頭の位置を下げた。

 それは加速の前兆だったが、今のこの瞬間に限っては、セッカの方が一手早かった。

 瑠衣が跳躍に入るよりも、セッカが撃つ方が早い。

 ()()は、寸分狂わずに、瑠衣の額に向かって飛んだ――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 止めようとして伸ばした手は、届かなかった。

 カナタの制止を振り切って、炭彦は駆けた。

 何か考えがあったわけでは無い。

 身体が勝手に動いた。それだけだった。

 

「なにぃ――――?」

 

 不快気なセッカの声。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 不思議なことに、傷は無かった。

 ただ、胸の中央当たりの服に穴が開いていた。

 

 それだけが、悍ましいミミズの如き肉塊が、そこに飛び込んだという証拠だった。

 しのぶの指先から飛んだ肉塊の前に、炭彦は身を晒した。

 ほとんど無意識だった。

 瑠衣を守らなければ、という意識で、炭彦の身体は動いた。

 

(速い)

 

 と、瑠衣が思ってしまう程の速度だった。

 瑠衣が反応しきれない程の速度で、炭彦は瑠衣の壁となった。

 そしてその壁に、セッカは自らを撃ち込んだのだった。

 

「…………」

 

 炭彦は、何かを喋ろうとした。

 口を動かして、何かを言おうとした。

 あるいは手を動かそうとした。足を動かそうともした。

 だがそのいずれも、果たすことは出来なかった。

 

()()()

 

 だが、()()()は勝手に口から紡がれる。

 

「無駄よ。小僧。貴様の肉体はすでに我が支配下に置かれつつある」

 

 自分の声だが、別の声もダブって聞こえる。

 正直に言って、気味が悪かった。気持ちが悪かった。

 だがそれ以上に、自分の肉体が思い通りにならないことの方が、恐ろしかった。

 頭の奥の、深いところを、撫で回されているかのような感覚に、吐き気を覚えた。

 

「自ら飛び込んで来るとは、まったく愚かな小僧よな」

 

 抵抗しなければ、と頭のどこかで声がした。

 自分の思考。それだけが、まだ自分の自由になるものだった。

 

「だがそれも、もうすぐ消える」

 

 自分の口(セッカ)がそう告げる。冷徹に、冷酷に。

 そして炭彦自身も、自分の意識に指をかけれているのを感じていた。

 言葉の表現としておかしいが、そうとしか言いようのない感覚だった。

 

「お前の意識はもう消える。せいぜい、最期の言葉を……いや、最期に何かを思うのだな」

 

 お前が庇ったあの女(瑠衣)への恨み言でもな、と、自分の口(セッカ)は言った。

 そして次の一瞬で、自分の意識は消えるのだろう。

 恐怖はあった。死への恐怖は、拭いようが無かった。

 だが、後悔は無かった。

 

 瑠衣を守れた。それだけで良かった。

 この後のことは心配していない。

 瑠衣ならばきっと、自分ごとセッカを斬ってくれるはずだから。

 しのぶやカナタを殺させたくは無かった。だから、自分で良かったのだ、と。

 

(後は頼みます。瑠衣さん)

 

 それが、炭彦の最期の思考(言葉)だった。

 そして、そんな炭彦を。

 

「駄目ですよ、炭彦くん」

 

 瑠衣は、抱き締めた。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「炭彦ッ!?」

 

 炭彦の腕が、炭彦自身の意思に反して動いた。

 炭彦を抱き締めた瑠衣の細い首に、炭彦の手がかけられていた。

 爪先が皮膚に食い込み、ギリギリと頸動脈を絞め上げている。

 

 炭彦は悲鳴を上げたかったが、声帯を奪われていて無理だった。

 必死で腕を外そうとしても、腕は自分の自由には出来なかった。

 どうしたら良いのかと、心が絶望に沈みかけた時だった。

 

「炭彦君」

 

 首を絞められていても、不思議と瑠衣の声には澱みが無かった。

 そして、彼女は言った。

 いつものように。

 

()()()()()()()()()

 

 その瞬間、炭彦の()()()()が入った。

 呼吸。

 全集中の、呼吸。

 全集中の呼吸を、しなければ。

 

「カカカ、何が呼吸じゃ。馬鹿馬鹿しい」

「……随分と悠長なのですね」

「何じゃと?」

「それで?」

 

 首を絞められたまま、瑠衣は言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 セッカは確かに、炭彦の意識に指先をかけていた。

 しかしそこから、意識を刈り取るところまでは行っていなかった。

 そしてその事実に、瑠衣に指摘されるまで気が付くことが出来ていなかった。

 

「――――深く」

 

 炭彦を抱き締める力を強くしながら、瑠衣は囁くように言った。

 

「深く、深く、深く――――呼吸を、もっと、深く」

 

 ()()()()()()()()()

 炭彦の掌に、瑠衣の鼓動音が伝わって来る。

 こんな状況でも変わらず、一定のリズムを刻むそれが、それだけが、炭彦の道標だった。

 それ以外の何もかもが、意識から抜け落ちて行った。

 

 呼吸をすることだけに、すべての意識が向かって行く。

 普段の訓練の、賜物と言えるだろう。

 それはもはや、習慣というか、習性とさえ言えてしまうかもしれない。

 瑠衣に呼吸をしろと言われれば、自然とそうしてしまう。

 

「深く」

 

 呼吸を、深く。

 

「――――熱く」

 

 呼吸を、熱く。

 少しずつ、速く、呼吸を繰り返す。

 深く、長く、速く、すなわち――()()

 

「――――何じゃ」

 

 呼吸の隙間を縫うように、セッカが困惑の声を上げる。

 炭彦の意識に指をかけている、すなわち()()()()()彼女は、もはや戸惑いを隠せなかった。

 自分が触れている()()()()()が、段々と、()を持ち始めている――――。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 セッカの血鬼術は、人間の脳を支配するものだ。

 脳内部のある神経を、セッカの体内で生成した疑似神経と繋ぐことで、肉体を奪う。

 人間の思考、いや人格そのものを司るとも言える脳の神経を弄られるために、宿主は意識そのものを奪われる。

 

 肉体的には生きている。しかし、脳は別物になってしまっている。

 だからそれは、死んでしまったのと同じことだった。

 そして体内に入った異物を取り出すことは、人間には出来ない。

 だからセッカに寄生された時点で、宿主の人間は死んだも同然だった。

 

「何じゃ、これは」

 

 セッカは数百年を生きた吸血鬼だ。

 今まで何百人もの人間を傀儡人形に変え、乗っ取って来た。

 だから人間の脳や肉体の構造は誰よりも理解していたし、肉体を奪うことも容易だった。

 そのはずだった。そのはずだったのに。

 

「何じゃ、この……()()!?」

 

 セッカの入り込んでいる炭彦の肉体が、急激に熱を持ち始めたのだ。

 体温が、異常と思える程に上昇している。

 それは体内にいるセッカからすれば、まるで沸騰しているかのように感じられた。

 

「いかん。もうすぐにでも、この小僧を」

 

 数百年生きて来て、初めて出会う異常事態だ。

 だからセッカは、すぐにも炭彦の意識を刈り取ろうとした。

 そのために炭彦の脳神経に触れる。そのまま自分の疑似神経に繋ごうとして。

 

「――――ッ!?」

 

 炭彦の脳神経に触れた指先――この形態で指先というのも奇妙だが――が、()()()

 ぎゃっ、と悲鳴が口をついて出た。

 何事が起こったのか、セッカは理解できなかった。

 

 何故ならば、彼女は知らなかったからだ。

 全集中の呼吸というものを、知らなかったからだ。

 その真髄を、()()を、セッカは知らなかった。

 

「何じゃ、何が……何なのじゃ、この体はあッ!?」

 

 音がする。炭彦の身体中に響くその音は、()()()だった。

 最初はただの呼吸音だったはずのその音は、段々と、別の音のように聞こえて来た。

 ゴオオ、という、まるでジェット気流のような、激しい音だ。

 

 その音が強まって、長く、激しくなっていくにつれて、熱量も上がっていく。

 セッカを灼く。焼く。燃やす。

 灼熱の輝きに、セッカは悲鳴を上げた。

 

「ギャアアアアアアアアアアアアアッッ!!??」

 

 たまらず、セッカは炭彦の意識から手を放した。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 自分の身体から何かが抜け出ていくのを、炭彦は感じた。

 ()()が排出されると同時に、歪んでいた視界はクリアになり、息苦しさからも解放された。

 身体の自由も、戻って来た。

 

「ギャアアアアアアアアアアアアアッッ!!??」

 

 悲鳴を上げて、セッカーーその小さくも悍ましい、ミミズのような本体が、体育館の床に落ちた。

 いざ床のうちで蠢いているそれを見ると、何て小さいのだろうと思った。

 その小さなものが、つい先ほどまで自分の中にいたのだと思うと、ぞっとした。

 そして、その小さなものを。

 

「グエエッ!?」

 

 瑠衣が、踏みつけた。

 彼女の足の下で、セッカの本体が苦痛に身を歪ませる。

 

「バーーーーバカなっ、こんな、ことがっ!?」

 

 信じられない。

 文字通り全身で、セッカはそう訴えていた。

 瑠衣の足の下で藻掻(もが)いているが、抜け出すことが出来ない。

 

「し――しもべ達! こいつを殺せ!!」

 

 だが、傀儡人形は動かなかった。

 しのぶも、他の生徒達も、微動だにしなかった。

 ()()の命令に従うことなく、突っ立っている。

 

「忘れないでくださいね。炭彦君」

「え……?」

 

 喚き散らすセッカを無視して、瑠衣は炭彦に言った。

 

()()()()()、忘れないでくださいね」

 

 だが、他の人間が見れば、炭彦の顔をこそ凝視していただろう。

 その、()()()()()()()()()()()()()()()()

 炭彦自身もまだ認識していない、肉体の変化を。

 

「その感覚を忘れない限り、どんな鬼にも勝てますよ」

 

 ()()()()

 究極にして始まりの呼吸。今やその遣い手は歴史の彼方に消えた。

 しかし今こうして、ここに、その呼吸を発現せしめた者が現れた。

 奇しくもその少年は、また、()()()()()()()()()()

 

「感謝していますよ。貴女には」

 

 踏みつける力は一切緩めずに、瑠衣は言った。

 

「貴女のおかげで、炭彦君がさらに成長することが出来たのですから」

「き、貴様、まさか」

()()()()()()()()()

 

 ()()()

 ()()()()()()()()()()

 

「今、言いましたよ」

 

 不意に、全身を押さえ込んでいた圧迫感が消える。

 足先で、器用に中空に蹴り上げられる。1メートルと少しほどの高さに。

 ふわりと、潰れたミミズのようなものが、浮かび上がった。

 

(大丈夫だ)

 

 それでも、セッカは油断しなかった。

 瑠衣の日輪刀は片腕の1振りだけ。それを凌げば、他の人形に逃げ込める。

 弱って遠隔操作は出来なくなってしまったが、直接入り込めば操れるはずだ。

 だから、まだ大丈夫――――。

 

「――――バウッ」

「は……?」

 

 正面の瑠衣にばかり目を向けていたから、気が付くのが遅れた。

 横から跳んで来たコロが、その口に咥えた牙の日輪刀で、セッカを胴体から真っ二つに両断してしまった。

 

「そんな、バカ、な」

 

 この私が。

 この私が、この私を討つのが、こんな。

 こんな、犬畜生だ、などと。

 そんなこと。

 

「みと、めら、れ、ぬ」

 

 そうして、セッカの意識は消えていく。

 それまで彼女が数多の生命に対してそうしてきたように。

 彼女の同意なく、理不尽に、一方的に、顔に布を被せられるかのように。

 ()()()と、セッカは目の前が真っ暗に塗り潰されてしまった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

「炭彦!」

「炭彦、大丈夫か!?」

 

 セッカの消滅を呆然と見ていると、カナタと桃寿郎が飛びついて来た。

 そして彼らは炭彦の身体に触れると、顔色を変えた。

 

「お前、凄い熱じゃないか!」

「え?」

「え? じゃない。自覚がないのか?」

 

 カナタにペタペタと額や首筋を触られて、くすぐったそうに身をよじった。

 ただ、本当に熱が出ているという意識は無かった。

 炭彦も風邪を引いたことくらいはある。だから発熱時の辛さも知っている。

 だが今は辛いどころか、むしろ身体が軽くて仕方が無かった。

 今ならば何でも出来てしまいそうな、そんな風に思えてしまう程に。

 

「と言うか、何この……痣?」

「痣?」

 

 鏡が無いので、炭彦は自分の顔がわからない。

 だから自分の顔にくっきりと浮かび上がった痣を、自覚することが出来なかった。

 

「大丈夫ですよ」

 

 落としたもう一振りの日輪刀を拾い上げながら、瑠衣は言った。

 

「今はまだ、()()()()()出ただけですから。一晩休めば消えますし、熱も下がります」

「……随分と詳しいね」

「ええ、まあ、()()()()()()

 

 専門という言葉を、瑠衣はあえて使った。

 実際、今の世にあっては瑠衣こそが呼吸の専門家と言っても過言ではない。

 ただ「専門」という言葉を使う際、瑠衣はどこか遠くを見るような目をした。

 そしてすぐに、自嘲気味に笑ったのだった。

 

「しのぶっ!!」

 

 視界の端で、カナエが倒れたしのぶを抱き起こしているのが見えた。

 しのぶは、無事だろうか。

 セッカに身体を奪われかけた炭彦だからこそ、深刻さがわかる。

 無事だろうか。治るだろうか。それがまず先に来た。

 

「…………」

 

 瑠衣は、もちろんそちらも見ていた。

 見ていたが、しかし今度は「大丈夫」という言葉を言わなかった。

 言って、くれなかった。

 

「カナタ君」

 

 その代わりに、カナタに声をかけた。

 思えば、瑠衣がカナタの名前を呼んだのはこれが初めてではないだろうか。

 警戒心を隠さずに目を向けて来るカナタに、しかし瑠衣は微笑んで言った。

 

「茶々丸さんの鞄の中に、すまーとふぉん、が入っているので。すみませんが、産屋敷家に連絡してくれませんか」

 

 私はアレの操作が出来なくて、と、瑠衣は笑った。

 ここに来て酷く日常的なことを言う瑠衣に、カナタは実に嫌そうな顔をして。

 

「…………はあ」

 

 と、深く溜息を吐いたのだった。

 

  ◆  ◆  ◆

 

 ()()()()()()()()()()()

 紅い水晶はすべて砕け散り、もはや机の上で輝く物は無い。

 全滅。壊滅。殲滅。

 その事実だけが、場に残っていた。

 

「我が()よ」

「言うな。わかっている」

 

 鬼にも、いわば血統がある。

 たとえば源氏や平氏、藤原氏と言った、一党ともいうべき血脈がある。

 日本の鬼は、ほぼ鬼舞辻無惨系統の鬼だった。

 言ってしまえば、鬼舞辻氏とでも言うべき鬼の血統だ。

 もっとも、その血統は絶滅してしまったわけだが。

 

「存外、役に立たない奴らだったな」

 

 そして今、彼女らの血統も絶えようとしていた。

 そもそも不老不死である鬼は、子孫や仲間を増やす必要が無い。

 鬼舞辻無惨が鬼を増やしていたのは、単に太陽を克服する手段とするためだった。

 そういう理由でも無ければ、無惨とてあれ程の数の鬼を作りはしなかっただろう。

 

 彼女達もまた、その例に漏れない。

 そして彼女達は、鬼舞辻無惨のように同胞を増やしたりはしなかった。

 と言うより、それが()()()のスタンダードなのだ。

 極めて小さなコミュニティを形成し、けして大きくはならない。

 

「それとも、あの女狩人(ハンター)が私の思っていたよりも()()のかな……」

 

 そして、一度傾けば、元に戻すことは出来ない。

 そのまま、滅び行くのみ、だ。

 

「どうなさいますか」

「どうもこうもあるまい。こうなれば、潔く()()()()()()()()

 

 嗚呼、だが、滅びるならば。

 そうとも。滅びるならば、いっそのこと。

 いっそのこと、盛大に、美しく――――だ。

 

「ファス」

「はい、我が()よ」

 

 それならば、()が必要だ。

 相応しい場を用意しなければならない。

 そして、舞台を整えたのならば、役者が必要だ。

 いや、この場合は、()()、だろうか?

 

 どちらでも構わない。どちらでも同じことだからだ。

 いずれにせよ、やることは変わらない。

 く、と口の端を歪めて、傍らの従者に対して言う。

 

「招待状を出してくれ。あの女狩人(ハンター)に、その同志たちにも」

「かしこまりました」

 

 そうして、王と呼ばれた吸血鬼は、再び宙に浮かび始めた。

 ふわふわと、遊ぶように、床に足が届かない子どもがそうするように、ぶらぶらと足を揺らして。

 黒い羽根を、揺らしていた。

 

「招待しよう。我が居城に――――我が、()()

 

 こうして、最後の2人は、()()()1()()()招待状を渡す。

 それはこの物語の最後の場所。

 鬼退治の物語。最終局面である。




最後までお読みいただき有難うございます。

中編のつもりが何故か長編になりつつある今日この頃。

しかしこの編もあと少し。最後まで書き切りたいですね。

それでは、また次回。


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