『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』外伝:戦後の新線 (あさかぜ)
しおりを挟む

関東新路線
関東新路線①:神奈川東部方面線


 2019年11月30日、相模鉄道(相鉄)の西谷~羽沢横浜国大が開業した。これにより、相鉄は長年の悲願である東京方面への直通が実現した。最初期の予定では2015年4月の開業だったが、貨物列車の合間を縫っての工事による遅れによって数回の延期の末、漸く実現した。

 3年後の2022年には、残る羽沢横浜国大~新横浜が開業して相鉄新横浜線は全線開業し、同時に日吉~新綱島~新横浜の東急新横浜線が開業して、第二の東京への直通ルートが完成する。こちらも、当初予定では2019年4月の開業だったが、工事の遅れと地質調査によって数回延期している。

 相鉄新横浜線の原型は、1985年の運輸政策審議会答申第7号にある「二俣川から新横浜を経て大倉山・川崎方面に至る路線」である。2000年の運輸政策審議会答申第18号にて川崎方面が削除されたり、起点が二俣川から西谷に、終点が大倉山から日吉に変更されるなどの点はあるものの、ランクについては最高のA1と評価された。

 

 しかし、相鉄の東京方面への延伸計画は古くからあった。1966年の都市交通審議会答申第9号には、「横浜6号線」として茅ヶ崎~六会付近~二俣川~勝田~東京方面が検討されている。六会付近は現在の湘南台、勝田は港北ニュータウンとなる。つまり、半世紀も前から相鉄の都心直通計画は存在しており、港北ニュータウンの住人の東京都心への通勤・通学路線としての目的もあった。

 だが、この路線はあくまで「検討」止まりであり、実際に建設するかはこの段階では決まっていなかった。同時期に計画された横浜1~5号線(※1)の建設が先だった為だろう。

 また、横浜6号線とは別に、1972年の都市交通審議会答申第15号では東京6号線(都営三田線)の終点が港北ニュータウンになっていた。目黒~港北ニュータウンの新線のルートもかなり明確に予定されていた、その区間の用地の買収も一部で行われていたなど、かなり実現性の高い路線と見られていた。

 

 この路線の内、「六会付近~二俣川」は二俣川~湘南台のいずみ野線として実現しており、「茅ヶ崎~六会付近」は湘南台~平塚の免許として現在も保有し続けている。残る「二俣川~勝田~東京方面」だが、形こそ違えど横浜市営地下鉄グリーンラインと東急目黒線として港北ニュータウン~日吉~目黒が実現しているが、どちらかと言えば東京6号線の計画に近い。2016年の交通政策審議会答申第198号には、「横浜環状鉄道」としてグリーンラインの中山~二俣川の計画が存在する。

 開業しなかった目黒~港北ニュータウンの新線だが、用地の一部は痕跡が残っており、センター北~センター南のブルーラインとグリーンラインの間の空間が東京6号線の導入予定地だったらしい。

 

 では、もし相鉄の東京方面への路線が早く開業していたら。

 

____________________________________________

 

 前提条件は都市交通審議会答申第9号と第15号だが、『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』世界の場合だと少々問題がある。前者は史実通り入るだろうが、後者が入るかが分からない。何故なら、この世界の三田線は京急との直通を行っている為である(これについては本編の『番外編:戦後の日本の鉄道(関東)』参照)。相鉄と京急では軌間が異なっている上、既に京急という郊外路線が存在する事から、新たに港北ニュータウン方面へ延伸する意義は薄い。

 三田線の延伸という形は恐らく無理だが、南北線(※2)の延伸という形ならば入るかもしれない。南北線も目黒が起点として計画された為、その路線の延伸という形で答申に組み込まれる可能性がある。その為、目黒~港北ニュータウンの路線は計画されたかもしれない。

 一方で、この路線が本当に建設されるかは不明である。目蒲線の目黒~多摩川園(現・多摩川)と東横線の並行線である事から、東急とすれば二重投資になる。加えて、田園都市線(※3)とも並行線になる為、尚更東急としては建設する意義は薄かった。建設するにしても、目黒~多摩川園の長大編成化・高速化、多摩川園~日吉の複々線化、日吉~港北ニュータウンの建設の方が既存路線を活用出来る分、メリットが大きい。

 

 では、答申に組み込まれなかった場合はどうだろうか。その場合、東京側のルートが問題になるが、この付近には計画止まりに終わった路線が存在する。1962年の都市交通審議会答申第6号に組み込まれた東京9号線である。この路線は後に千代田線となるが、起点が喜多見となっており、世田谷通りと淡島通りに沿う形で明治神宮前に至る予定だった。

 しかし、建設中だった田園都市線との兼ね合い、地下化する必要があった事による工事費の懸念などから建設には至らず、代々木上原~喜多見~向ヶ丘遊園の複々線化となった。

 この路線に接続する形であれば、千代田線と直通して東京都心への乗り入れが可能になる。また、相鉄は小田急と資本関係が強い事から(※4)、可能性としてはゼロとは言い切れないだろう。

 しかし、やはり東急の勢力圏を通るのは東急としては気持ちの良い事では無い。小田急と相鉄はかつて東急の一因だったが、戦後に相鉄を巡って小田急と東急がやり合った経緯がある為、尚更反発する可能性が高い。

 

 これらの事を踏まえると、やはり史実と同じ様に新横浜経由での直通が最適となるだろう。1964年の新幹線開業を理由に、新横浜経由で東横線と相鉄を結ぶ路線が答申に組み込まれれば、1980年代に開業した可能性はある。

 尤も、開業当初の新横浜の周りは畑しか無く、1976年のダイヤ改正までこだましか停車しなかった事、港北ニュータウンの居住者の輸送の方が重視された事などを考えると、どちらの優先順位が高いと考えるのかが疑問である。

 それでも、相鉄からすれば港北ニュータウンを経由するのは遠回りになって速達性が弱くなる事、東急からすれば新線建設の距離が短くなり建設費が少なく済む事を考えると、建設しないという選択肢は考えにくい。南北線の目黒延伸による目蒲線の直通や自治体・住人との協議も考えると、こちらの方が優先順位が高くなる可能性がある。

 

____________________________________________

 

 歴史の転換点は1972年の都市交通審議会答申第15号だった。この答申の中で東京8号線の終点が港北ニュータウンと新横浜の2つが編入された。前者は人口増加が著しい港北ニュータウンと東京都心を結ぶ目的で、後者は新横浜へのアクセスが不便な事を解消する事と相鉄沿線の住宅地と東京都心を結ぶ目的があった。

 相鉄としては、ターミナルであった横浜の利用者の減少、新たなターミナルとなる新横浜の開発が進んでいない事から消極的だったが、改めて検討した所、東京都心への乗り入れによる沿線の価値の向上、新規路線の二俣川~平塚の沿線の開発が促進するなどのメリットが見られ、「都心延伸実現の暁には沿線にキャンパスを置きたい」という某大学からの言葉もあり、積極的賛成に転換した。

 その為、相鉄はいずみ野線の二俣川~いずみ野が開業した1976年に西谷~新横浜の免許を申請した。同時に、東急も大倉山~新横浜の免許を申請し、目黒~多摩川の長大編成化と多摩川~日吉~大倉山の複々線の計画を立てた。

 

 1980年、相鉄・東急が申請した免許が認可され、土地の収容が始まった。東急はその前から長大編成化と複々線化の為の土地の収容を行っており、相鉄もいずみ野~湘南台の建設と湘南台~平塚の土地の収容を促進させた。

 幸い、この頃は第二次オイルショックの影響で景気が下がり気味で、バブルが始まる前だった事から地価の高騰はそれ程でも無かった為、土地の収容は順調に進んだ。

 

 そして1985年、相鉄のいずみ野~湘南台が開業した。1990年には大倉山~新横浜~西谷が開業し、大倉山~日吉の複々線化が実現した。これにより相鉄と東急東横線の直通運転が行われ、海老名・湘南台~渋谷のルートが完成した。

 だが、両者の本命はいずみ野線の全通と南北線の目黒延伸に伴う直通運転の開始だった。それが実現するのは1997年まで待つ必要があった。

 

 東急との直通の為、相鉄では規格変更工事が行われた。共に1067㎜・直流1500Vだが、車体の幅が異なる為、そのままでは直通出来ない。相鉄は280~2950㎜に対し、東急は2770~2800mmと相鉄は幅が広くなっている。その為、相鉄線内の規格を東急側に寄せる工事が土地の収容と同時進行で行われ、1993年に全線で工事が完了した。

 規格変更により、車輛も変更となった。この頃、相鉄が導入していた車両は新7000系だが、この車輛を基に東急・営団に直通可能な新型車輛の設計が1987年から始まった。

 尤も、運転台をツーハンドルからワンハンドルに、走行機器・保安装置を東急寄りにする、側面の表示に行き先を追加するぐらいの為、原設計から大きな変更はされなかった事から、1年で設計が完了した。1989年には「8000系」の名称で試作編成が配備され、この車輛が相鉄の新たな主力車輛となる事が決定した事で、いずみ野線の開業や既存車輛の置き換え用に大量配備される事となった。

 この影響で、史実の8000系以降の製造・配備は行われなくなり、既存の5000系・2100系・6000系・7000系・新7000系は相鉄線内のみの運用になった。また、8000系以降の車輛の増備は8両で固定する事が決定した。

 

____________________________________________

 

 そして1997年、遂に両者の目標が実現した。相鉄側はいずみ野線の平塚延伸と西谷~二俣川の複々線化、東急側は目蒲線の目黒~多摩川と多摩川~蒲田の分離(前者は多摩川~大倉山~新横浜と合わせて目黒線、後者は東急多摩川線と改称)と目黒線の8両対応である。加えて、営団側も南北線の全通と目黒線との直通が行われた事で、相鉄・東急・営団の3者直通運転が実施された。

 同時に、横浜市営地下鉄2号線(レッドライン)の横浜延伸と東横線の直通運転が実施された。これにより、ダイヤが大幅に改正された。

 

〈相鉄・東急〉

・相鉄と東急を直通する電車の本数を、毎時8本から毎時12本に変更する。内訳は、東横線―相鉄本線と東横線―いずみ野線を2本ずつ、目黒線―相鉄本線・目黒線―いずみ野線を4本ずつとする。

 

〈東急〉

・渋谷―新横浜と目黒―横浜のルートを新設する。運行本数はそれぞれ4本とする。

・急行の上位種別として「特急」を追加する。停車駅は、東横線内は渋谷・自由が丘・武蔵小杉・菊名・横浜、目黒線内は目黒・大岡山・武蔵小杉・新横浜。

 

〈相鉄〉

・快速を急行に統合する。急行の停車駅に星川と鶴ヶ峰を追加。

・急行の上位種別として「特急」を設定する。停車駅は、本線内は横浜・二俣川・大和・海老名、いずみ野線と新横浜線内は新横浜・二俣川・いずみ野・湘南台・香川・平塚。

 

〈東急・横浜市営〉

・全列車直通運転を実施する。但し、東武からの直通運転及び東武への直通運転の場合に限り、吉野町発着とする。

 

 これにより、相鉄は長らくの悲願であった都心延伸が実現した。これにより、停滞気味だった本線・いずみ野線の開発も息を吹き返し、慶応義塾大学など複数の大学のキャンパス移転も合わさり、通勤・通学需要が上昇した。一時は懸念されていた横浜の空洞化も一時的なものに過ぎず、寧ろいずみ野線沿線から最も近い大商業圏という事から直ぐに以前の数値に戻った。

 その後、東横線の副都心線との直通によって新宿・池袋へのアクセス、東武・西武沿線と湘南を結ぶ新ルートの開拓などが行われる事となった。




※1:横浜1号線と3号線はブルーライン、2号線は未成に終わった京急との直通線、4号線はグリーンライン、5号線は未成に終わった川崎市営地下鉄の原型。
※2:史実の東京7号線だが、この世界では本編の『番外編:戦後の日本の鉄道(関東)』にあるが白金線が東京7号線となった為、それ以降の番号が1つずつズレる。その為、この世界の東京8号線が南北線となる(史実では有楽町線)。以降、「〇号線」の名称はこの世界における名称とする。
※3:1972年当時の田園都市線は、大井町~二子玉川園(現・二子玉川)~すずかけ台だった。新玉川線(渋谷~二子玉川園)が開業するのは1977年4月7日、新玉川線と田園都市線の直通運転開始は同年11月、大井町線(大井町~二子玉川園)の分離は1979年8月12日。
※4:相鉄の筆頭株主が小田急。かつては小田急が相鉄を合併する構想もあった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

関東新路線②:東神高速鉄道・東京メトロ六本木線

 『関東新路線①』で相鉄と東急の直通線が1990年に開業した。これにより、相鉄の悲願である東京都心への乗り入れが実現した。

 しかし、当初の目的である東京都心と港北ニュータウンを結ぶ目的は果たされなかった。目黒~港北ニュータウンの新線も開業しなかったが、こちらは目黒線とグリーンラインによって後年実現した。

 また、千代田線の原宿~喜多見の別線も、建設費や速度の問題、小田急の複々線化への変更となって実現しなかった。

 

 では、この路線が形を変えて実現させる場合、どうするべきか。実現した場合、どうなっていたか。

 

___________________________________________

 

 正直、この路線だが開業させるまでの道程が非常に難しいと考えている。東急と小田急の勢力圏に挟まれている事から独立路線はまずあり得ない、そうなると東急か小田急のどちらかが運営する事になるが、どちらも勢力圏に入られるのは嫌うだろう。戦時中は大東急として一つだったが、小田急としては不本意であったし、戦後に大東急解体の音頭を取ったのは元小田急の社員であった。また、相鉄を巡って東急と小田急が張り合った事もある為、どちらかが建設しようものなら猛烈な反対をして潰すだろう。営団だと営業圏外の敷設は嫌がるだろうし、沿線自治体に建設するだけの資金を用意出来るのかも不明である。

 そうなると、東急と小田急、沿線自治体が出資する第三セクターが妥当となる。そうでもしないと、運営母体が決まらず、建設そのものが不可能となる。

 

 一応、運営母体を強引に決めたが、規格の問題もある。この路線は千代田線の延長の為、1067㎜・直流1500Vとするのが普通だが、港北ニュータウンに延伸する場合、横浜市営地下鉄ブルーラインと直通する事も考える必要がある。ブルーラインは1435㎜・直流750Vの第三軌条方式の為、直通は不可能である。ブルーラインの新横浜~あざみ野の開業は1993年なので規格の変更は可能だが、開業済みの新横浜~横浜~上永谷の方は不可能なので、結局規格の変更は不可能となる。

 4号線(グリーンライン)は未開業なので、そちらに合わせれば良いだろうか。この世界は大東京鉄道が開業しており、鶴見~末吉~元住吉が完全な並行線となる事からその区間は外されるだろうが、残る区間の整備は行われるだろう。

 尤も、ブルーラインの整備が終わってからになろうだろうが、港北ニュータウンと東京を直接結べる為、整備しないという選択はしないだろう。

 

 だが、そうなると気になる問題がある。4号線の計画では日吉が起点となるが、日吉だと新路線のルートから外れる為、そのままでは直通は不可能となる。

 一方、ブルーラインの終点は元石川(たまプラーザかあざみ野)の為、直通するとしたらこちらの方が相応しい。

 考えとしては2つあり、1つは元石川~港北ニュータウンを複々線で建設し、一方はブルーラインと、もう一方は新路線と4号線に繋がる。もう1つは、港北ニュータウン~日吉をブルーラインに変更する事である。

 しかし、そうなると横浜~日吉で東急と並行する事になり、東急が良い顔をしないだろう。『関東新路線①』の神奈川東部方面線の並行線にもなる為、二重整備として批判される可能性もある。

 

 そうなると、この路線が東急・小田急・横浜市の3者に都合が良いだろうか。原宿から砧、溝の口を経由し、そこから南西に進み港北ニュータウンに入る。これならば3者の勢力圏に収まりつつ、4号線とブルーラインのルートと重複しない。

 

___________________________________________

 

 1973年、前年に策定した都市交通審議会答申第15号の一部が変更された。変更されたのは千代田線の郊外部であり、砧・溝の口を経由して港北ニュータウンに至る路線が追加された。これは、千代田線が日比谷線の輸送力強化や小田急線の都心直通だけでなく、港北ニュータウンから都心直通も担う事を意味した。

 しかし、実際に千代田線の分岐線とする気は無かった。既に建設の大半が完了している状態で、新たな分岐線の建設は不可能な為である。工事するにしても、千代田線と小田急線の接続が遅れる事になり、それは避けたかった。

 だが、この路線を単体で整備しても、東京都心へ繋がるルートが無ければ意味が無い。利用者は多少いるだろうが、莫大な費用を掛けて整備する意味が無い。

 その為、新たに東京都心の地下鉄線が計画された。ルートは渋谷を起点に六本木通りを通り溜池まで行き、そこから環二通りを経由して新橋に、そこから新大橋通りを経由して築地に、そこから東に進路を変えて有楽町線と複々線で合流して豊洲へ至る。豊洲から有楽町線の分岐線を通り住吉に至り、そこから半蔵門線と複々線で押上まで行き、そこから国道6号線経由で四ツ木、金町を通り松戸に至る路線となる。東側の多くが有楽町線と半蔵門線の計画と意図的に重複させており、西側は既存路線の隙間を通る形となる。

 新橋~松戸で国鉄の月島線と並行する為、「二重投資」という批判も出た。しかし、目的の違いから整備する事となった。

 この路線と接続させる為、郊外路線の起点は渋谷となった。起点側のルートも一部変更され、京王井の頭線の渋谷~駒場東大前と並行する事となる。

 しかし、地下鉄が答申に入っていない事から整備する意味は無い為、この時は計画は進展する事は無かった。それでも、東急が1975年に渋谷~松濤~駒場東大前~砧本村~津田山~宮崎台~有馬~港北ニュータウンの免許を申請し、1980年に認可された。

 

 1985年、運輸政策審議会答申第7号に上記の地下鉄(「東京16号線」と命名された)と郊外路線が組み込まれた。これにより、翌年には渋谷~六本木~月島を営団が申請し、東急が持っていた免許を東急・小田急・京王・営団・沿線自治体が出資して設立した第三セクター「東神高速鉄道(東神高速)」に譲渡した。

 同時に、常磐線及び京成筑波線の混雑緩和を目的とした「新常磐線」構想も答申に組み込まれた。区間は、千住又は松戸~南流山~豊四季~稲戸井~土浦とされた。

 1989年、営団の新路線となった東京16号線と東神高速の工事が始まった。答申に組み込まれる以前から調査は行われていた為、ルートの作成は早かった。

 しかし、建設開始がバブル景気と重なった為、収容費用が高騰した。また、収容完了までの時期も長引き、建設費用は当初の4割増し、収容期間も6年から9年になった。

 収容が完了した場所から工事が行われ、1997年9月30日に東神高速の渋谷~宮崎台と六本木線(16号線から改称)の渋谷~汐留が開業した。規格は1067㎜・直流1500Vとオーソドックスなものとなったが、需要が低いと見られた事、並行路線が多い事から4両編成での開業となった。しかし、駅などの設備は将来の輸送力強化に対応出来る様に8両化に対応している。

 

 両路線の車輛だが、東神高速は1000形、六本木線は05系が投入された。05系は東西線で運用されている車輛と同じであるが、1000形の見た目は史実の神戸市営地下鉄海岸線の5000形となっている。しかし、本来の車輛と異なり、20m・4ドア・運転台は左側・1067㎜の台車・リニアモーターカーでは無いなど、見た目以外の共通点は無いに等しい。

 

___________________________________________

 

 東神高速と六本木線が開業したが、当初見込んでいた乗客数の7割程度しか利用しなかった。矢張り他の路線が並行している事もあるが、開業区間が短い事から利用者が限られていた。

 東神高速の方は東急田園都市線と完全に並行している上にやや遠回りであり、運賃も高かった事から利用者が少なかった。また、急行運転を行っていない事から、田園都市線と比較して速達性の優位が無かった事も伸び悩んだ要因だった。

 だが、砧や宿河原から乗り換え無しで渋谷に出られるという事で、そこそこ利用者はいた。沿線の交通の多くはバスだが、この付近の道路は狭く交通渋滞も頻発していた事から、渋滞が無い鉄道の存在は重宝される事となる。

 一方、六本木線の方は多少利用者がいた。日比谷線・銀座線とは並行しているが、山手線との連絡駅の違い、六本木を経由する事などから、ある程度の棲み分けがあった。それ処か、バスと違って渋滞が無い事からバスの利用者を奪う事に成功した。

 それでも、距離の短さや運賃の高さから敬遠された。バブル景気の終息やその後の極東危機などもあり沿線の開発や延伸工事も低調気味だが、当初の目的の実現と交通網の充実を目的に整備は続けられた。

 

 2004年4月1日に営団が「東京地下鉄」として民営化した後も、15号線(後の副都心線)と共に工事は続けられた。2006年3月18日に汐留~押上と宮崎台~センター南が開業した。合わせて、新常磐線である「新都市高速鉄道(新都高速)」も開業し、直通運転も開始された。

 六本木線の内、有楽町線・半蔵門線との共用区間となる月島~豊洲と住吉~押上は複々線で開業した。月島~豊洲は外側が有楽町線、内側が六本木線となり、住吉~押上は二層式複々線で上が押上方面、下が渋谷方面となった。押上駅のみ方向別複々線となり、外側が半蔵門線、内側が六本木線となった。

 当初、センター南から更に延伸し、中山・二俣川・根岸方面に延伸、又は横浜市営地下鉄と直通する計画もあったが、横浜市との調整が難航した事、東急目黒線・相鉄新横浜線と並行線になる事、京浜東北線・根岸線との競争に劣る事などから、計画が白紙となった。また、六本木線も押上~四ツ木~松戸の整備が予定されていたが、こちらは新都高速に譲渡した。その為、東神高速と六本木線は全線開業した事になる。

 

 全線開業を前に、東神高速と六本木線の6両化対応工事が行われた。全線開業及び首都圏高速鉄道との直通による輸送量の増加を見越しての事だった。また、新都高速と直通運転する事により運行距離が長くなる為、優等列車の運行も実施される事になり、使用されなかった東神高速の待避線の使用も開始される事となった。

 港北ニュータウンから直接東京都心に行ける事で、ブルーラインや東急田園都市線から利用者の一部が東神高速に移ったなどの効果が認められた。運賃が高いというデメリットこそあるものの、乗り換え無しで行ける事、港北ニュータウンから座って通勤できるメリットは大きかった。また、延伸区間の開発も進み、利用者は順調に増加した。

 一方、汐留~押上の利用者の伸びは少なく、当初予定の半分程度の利用者となった。六本木線はルートこそ違うが銀座線と半蔵門線、浅草線の並行線であり、新しく開業した汐留~押上はJR城東線とも並行している。その様な中で六本木線が開業しても、移る利用者は限られる。

 それでも、新都高速と直通しているのは六本木線の為、通過客は多かった。沿線の開発こそ少ないものの、各路線の目的の違い(※)から一定数の利用者は存在している。

 

 2013年、六本木線は注目を浴びる事となる。この年にブエノスアイレスで行われた国際オリンピック委員会(IOC)の総会で、2020年のオリンピック開催都市が東京となる事が決定した。主要会場がベイエリアに置かれる事が決定し、そのアクセスの一つとして六本木線が活用される予定となった。また、沿線地域でも再開発計画が立てられ、俄かに注目が集まった。

 その為、東京メトロは六本木線の各駅の改良工事(導線の改良、ホーム拡張など)、8両化の計画が立てられた。前者は開業が新しい事から大規模な工事はしないと見られているものの、後者は車輛の増備計画やら設備強化などで時間が掛かり、完了するのが2025年と見られている。東京オリンピックに間に合わないものの、設備強化によって円滑な運行を行う必要はある為、先に改良工事を全て終わらせる方針となった。

 2020年現在、改良工事は昨年8月に完了し、現在は8両化の工事が行われている。8両化は2023年度と予定されている。

 

___________________________________________

 

(東神高速鉄道)

◎センター南:横浜市営地下鉄ブルーライン・グリーンライン

◎センター北:横浜市営地下鉄ブルーライン・グリーンライン

・北山田

・東有馬

・馬絹

◎宮崎台:東急田園都市線

・むかいが丘

◎津田山:JR南武線

・宇奈根

・砧本村

・砧公園

・世田谷大蔵

・上用賀

◎弦巻:大東京鉄道

◎若林:東急世田谷線

・太子堂

・代沢

◎駒場東大前:京王井の頭線

・松濤

◎渋谷:JR山手線・湘南新宿ライン、東急東横線・田園都市線、京王井の頭線、東京メトロ銀座線・半蔵門線・副都心線

↓東京メトロ六本木線と乗り入れ

 

(東京メトロ六本木線)

↑東神高速鉄道と乗り入れ

◎渋谷:JR山手線・湘南新宿ライン、東急東横線・田園都市線、京王井の頭線、東京メトロ銀座線・半蔵門線・副都心線

◎高樹町:東京メトロ白金線

◎六本木:東京メトロ日比谷線、都営大江戸線

◎溜池山王:東京メトロ銀座線・南北線、東京メトロ丸ノ内線・千代田線(国会議事堂前)

・西新橋

◎汐留:JR城東線、都営大江戸線、ゆりかもめ

◎築地:東京メトロ日比谷線、東京メトロ有楽町線(新富町)

◎月島:東京メトロ有楽町線

◎地下鉄豊洲:東京メトロ有楽町線、JR城東線(豊洲)

・辰巳の森海浜公園

◎越中島:JR城東線・京葉線

◎東陽町:東京メトロ東西線

・千石

◎住吉:東京メトロ半蔵門線、都営新宿線

◎錦糸町:JR総武本線、東京メトロ半蔵門線

◎押上:東京メトロ半蔵門線、東武伊勢崎線、京成押上線、都営浅草線

↓新都市高速鉄道と乗り入れ




※:六本木線は東神高速と新都高速の都心直通、半蔵門線は田園都市線と伊勢崎線の都心直通と銀座線のバイパス、浅草線は京成の都心直通、JR城東線は常磐線と総武本線、東海道本線の連絡と下町の南北の輸送の改善。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

関東新路線③:新都市高速鉄道

 この路線は、常磐線及び京成筑波線の混雑緩和を目的に計画された。史実のつくばエクスプレスと同様の経緯だが、ルートが全く異なる。この路線のルートは、松戸から南流山・豊四季・稲戸井・牛久・阿見を経由して土浦に至る路線となる。

 筑波方面は既に京成筑波線として存在している。史実のつくばエクスプレスと似たルートの為、計画されなかった。

 その代わり、牛久~土浦で常磐線の東側を通り、鉄道空白地帯の解消と沿線の開発を目的としている。

 

___________________________________________

 

 高度経済成長期以降、常磐線と筑波線の沿線にも宅地化の波が押し寄せた。これにより、沿線の松戸市や柏市、守谷市などで人口が急増した。

 一方、人口の増加は輸送量の増加に繋がった。筑波線は京成による輸送力強化や設備強化が行われた事で対応出来たが、常磐線は多種多様な車輛・種別が通る事、営団千代田線との直通で沿線と拗れた事などから、今一つ進んでいなかった。

 オイルショック後も沿線人口は増加し続けている一方、常磐線の輸送力は限界に近付きつつあった。その様な中で計画されたのが「新常磐線」構想である。

 

 新常磐線は、常磐線沿線を起点とし(北千住か松戸と見られた)、流山・豊四季を経由して土浦に至る路線として計画された。常磐線の複々線では無く新線として計画された理由は、常磐線から離れた地域の開発も目的に含まれていた為である。整備主体は決まっていなかったが、常磐線のバイパスの為、国鉄と予定されていた。

 1985年の運輸政策審議会答申第8号に新常磐線が組み込まれた。しかし、膨大な赤字を抱えている国鉄に整備する余裕が無い為、この時は計画だけとなった。

 1987年4月1日の国鉄民営化でJRグループとして新たなスタートを切ったが、新常磐線の受け皿と目されていたJR東日本は消極的だった。発足したばかりの為、経営の安定の注力したかった事、未開発地域が多い事から利用者が少ないと見込んでいた事などが理由だった。

 

 1991年、新常磐線計画は動き出した。この年に新常磐線の建設主体である「新都市高速鉄道」が設立された。出資者は沿線自治体と京成グループ(京成、関鉄など)が主となった。

 設立された経緯は沿線開発や常磐線及び筑波線の混雑緩和もあるが、法整備が進んだ事で建設し易い環境が整えられた事もある。ライバルの京成グループが出資者に連ねているのは、少しでも影響力を持つ事で、ライバルを抑えようと考えたからである。

 兎に角、新常磐線計画は急速に進展した。翌年には申請した東京~土浦の免許も認可され、営団から押上~松戸の免許の譲渡を受けた事で、営団との直通が行われる事も決定した。第1期線として押上~稲戸井、第2期線として秋葉原~新曳舟と稲戸井~土浦、第3期線として秋葉原~東京の整備とされたが、沿線自治体からの強い要望によって、第2期線を第1期線として繰り上げ、第3期線が第2期線に変更された。1993年に松戸で起工式が行われ、秋葉原・押上・松戸・豊四季の4か所で工事が開始した。

 建設が始まったが、バブル終息後の不景気や沿線の地権者の反対、東京側の軟弱地盤などによって、工事の進捗は遅かった。当初の予定では2000年度には開業予定だったが、工事の遅れから不可能となり、1996年に2002年度開業に変更となった。工事の遅れは中々解消されず、極東危機による工事の停止もあり、1999年に更に延期が発表され2004年度開業とされた。

 工事は2003年に完了したが、今度は営団六本木線の押上延伸が遅れている為、当初予定の2004年までに開業出来ないという問題が発生した。その為、先に秋葉原~稲戸井を開業させ、押上~新曳舟は六本木線開業と同時に開業すると変更された。その為、秋葉原~稲戸井は2004年開業に、押上~新曳舟は2006年開業に変更された。

 

 2004年3月28日、漸く長年の悲願だった秋葉原~稲戸井が開業した。2年後の2006年3月18日には東京メトロ六本木線の汐留~土浦と東神高速鉄道の宮崎台~センター南が開業し、同日に押上~新曳舟が開業した。合わせて、両線との直通運転が開始された。

 

___________________________________________

 

 新都高速は全線複線・1067㎜となっている。電化方式は、秋葉原~稲戸井と押上~新曳舟が直流1500V、稲戸井~土浦が交流20000Vとなっている。

 当初は全線直流1500Vとする予定だった。終点の土浦の北側の石岡市柿岡には地磁気観測所が存在する為、通常は地磁気観測への影響が小さい交流電化を採用するが、数キロ毎に変電所を置く直直デッドセクション方式であれば直流電化でも地磁気観測所に影響を与えない事(実例として内房線や日立電鉄が存在する)、直通先の六本木線・東神高速の車輛の乗り入れも考慮しての事だった。

 しかし、変電所のコストや長距離直通のメリットが小さい事などから全線直流は却下され、稲戸井~土浦は交流電化に変更された。

 

 車輛については、史実のつくばエクスプレスと同じ車輛が導入された。しかし、地下鉄との直通がある為、車体幅はやや狭くなっている。将来的な輸送量の増加に対応出来る様に、8両まで対応出来る。

 地下鉄に直通する車輛としては珍しく、長距離運転になる事が想定された為、土浦寄りの先頭車の後方にトイレが設置されている。他には福岡市営地下鉄空港線に直通しているJR筑肥線のみであり、直通先の六本木線・東神高速でも導入していない。

 

 ダイヤについては、直流電車用と交直流電車用とで分かれている。

 直流電車は、多くが押上方面へ行く。押上と渋谷に引き上げ線の設備が無い為、全て六本木線・東神高速への直通となる。その為、センター南・宮崎台~松戸・豊四季・稲戸井というダイヤとなる。

 尚、データイムの運行本数は6本であり、松戸発着・豊四季発着・稲戸井発着がそれぞれ2本ずつとなっている。

 交直流電車は、設備の関係上地下鉄と直通出来ない為(※)、全て秋葉原~土浦となる。こちらもデータ伊有無の運行本数は6本となっている。

 快速の運行も開始され、他社線との乗換駅以外は通過する。本数はデータイムに毎時4本であり、線内のみと六本木線直通が各2本となっている。130㎞/hで走行可能という事もあり、押上~土浦約61㎞を最速47分、秋葉原~土浦約66㎞を最速51分で走行する。これは常磐線の特別快速よりも早い数字であり、六本木線と直通しても汐留まで最速68分、渋谷まで最速82分とJRに充分対抗可能な数字となっている。

 

___________________________________________

 

 開業直後は、運賃の高さや並行路線の存在から、初年度の乗客数である13万人には到達しないのではと見られた。報道でもその様に見られており、北総鉄道や東葉高速鉄道の様になるのではという意見も多かった。

 しかし、新都高速の利用者は時が経つ毎に増加し、初年度の乗客数は15万人と想定より1割以上多い結果となった。沿線に未開発地が多い事、常磐線よりも早い事、1本で銀座・新橋・渋谷に行ける事、JR武蔵野線・東武野田線からの乗り換え客の存在が、当初の想定より多い利用者に繋がった。

 尤も、当初の想定では関東鉄道常総線からの乗り換え客も見込んでいたが、関東鉄道は京成グループであり筑波線とも連絡しており、新都高速に流れる利用者は少なかった。もし、新都高速にもう少し流れていたら16万人台に達していたと見込まれた。

 一方、当初はあまり期待していなかった関東鉄道筑波線からの乗り換え客が多く見られた。

 兎に角、初年度の新都高速の出だしは好調だった。

 

 その後も順調に利用者は増加した。また、今まで開発が低調だった豊四季~土浦の沿線及び関東鉄道筑波線の土浦~筑波の大規模な開発が計画され、更なる利用者の増加が見込まれた。

 新都高速の開業によって、京成とJRは危機感を感じた。出資者である京成は特にその意識が強く、開業前のダイヤ改正で特急・急行などの優等列車の増発や上野~筑波山口の増便、退避設備の増加による優等列車の高速化などを行っていた。その為、開業後の利用者の流出は最小限となる処か、筑波山への観光客が増えるという予想外のメリットもあった。

 JRも、新都高速開業直前のダイヤ改正で上野~土浦に特別快速の運行を開始した。既存の快速より停車駅を絞り、最高時速130㎞/hで最速55分と完全に新都高速への対抗だった。だが、新都高速の快速と比較して本数が圧倒的に少ない事(JRの特別快速:データイムに6往復・新都高速の快速:ラッシュ時以外に毎時4本)、時間もJRがやや不利な事から、対抗するには少々不足だった。

 

 2020年現在、新都高速の経営は順調である。2008年度に初めて黒字を記録し、2017年度では初めて利益剰余金を出すなど順調そのものである。利用者の増加も著しく、2013年には8両化の計画が計画され、2025年頃に供用開始とされた。2020年の東京オリンピック開催が決定した事もあり、沿線の開発の促進も見られた。少子化による人口減少が懸念されているが、沿線の人口は2040年代中頃まで増加すると見込まれており、今後20年程は利用増に対処する事になるだろう。

 

___________________________________________

 

◎秋葉原:JR山手線・京浜東北線・総武線各駅停車、東京メトロ日比谷線、都営新宿線(岩本町)

◎新御徒町:都営大江戸線

・元浅草

・隅田公園

↓新曳舟

↑東京メトロ六本木線と乗り入れ

◎押上:東京メトロ半蔵門線、東武伊勢崎線、都営浅草線、京成押上線

◎新曳舟:東武伊勢崎線(曳舟)、京成押上線(京成曳舟)

・新八広

・四ツ木橋

・立石

・白鳥

・青戸八丁目

◎金町広小路:JR常磐線・常磐緩行線・城東線(金町)、京成金町線(京成金町)

・松戸街道

◎松戸:JR常磐線・常磐緩行線

・古ヶ崎

・旭町

◎南流山:JR武蔵野線

・前ヶ崎

◎豊四季:東武野田線

・高田

・松葉町

・宿連寺

◎稲戸井:関東鉄道常総線

・上平柳

・牛久沼

◎牛久:JR常磐線

・岡見

・実穀

・県立医大前

・阿見

・霞ヶ浦総合公園

◎土浦:JR常磐線、関東鉄道筑波線




※:交直流電車の場合、交流と直流両方に対応した設備を載せる必要がある。その為、パンタグラフ周辺が複雑・大型になり易い。直通先の地下鉄の規格が合っていない場合、外壁を擦る可能性がある。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

関東新路線④:京成常陸線・常陸交通常陸線・常陸交通常北線

 本編の『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(関東②)』にある水戸電気鉄道、史実では途中までしか開業しなかった上に廃線となったが、この世界では当初の予定通り水戸~石岡が開業した。その後、戦時中に茨城交通の一員となり、「水石線」と名称を変えて地域交通の一端を担った。

 

 戦後、京成は東武及び国鉄への対抗から千葉・茨城への進出を強化した。千葉方面については本編の『番外編:戦後の日本の鉄道(中外グループ関係)(北海道・東北・関東)』に譲るとして、茨城方面は筑波線から分岐して石岡までの路線を建設し、茨城交通水石線を改軌と電化を行い上野~水戸を私鉄だけで結ぶという計画が1962年に立てられた。千葉方面の影響力強化が1950年代後半から60年代前半にかけて行われた為、完了した後に実施とされた。

 一方の茨城交通側は、京成に地盤に踏み込まれる事は嫌ったものの、水石線の輸送力強化については否定しなかった。沿線の宅地化によって輸送量は増加しているものの、茨城交通の資金力の弱さから車輛増備や軌道強化などの輸送力強化が芳しくなかった。

 その一方で、バス部門の強化が行われ、バス会社としての性格を強めていた。将来的には、鉄道部門を全てバス転換する構想もあった。

 

 茨城交通は京成の提案を飲んだが、京成が提示した条件のうちの一つである「常総筑波鉄道及び鹿島参宮鉄道との合併」は受け入れられなかった。公正取引委員会からも「地域交通の独占」を理由に認可しなかった為、合併については京成も特に問わなかった。

 代わりに、茨城交通の7.5%分の株式を京成が引き受ける事となった。京成は、株式と新線建設、水石線の改軌・電化工事の費用の負担をする事となったが、茨城県内の主要交通会社に影響力を持つ事に成功した。

 京成系の常総筑波鉄道・鹿島参宮鉄道(1965年に合併して関東鉄道)との合併は流れたが、交渉中に後述の日立電鉄との合併が代案として提案され、これについては京成・茨城交通・日立電鉄・公取委も反対しなかった為、1967年に認可された。

 

___________________________________________

 

 京成と茨城交通の交渉の最中、日立電鉄がこの話に加わりたいと言ってきた。日立電鉄曰く、「上野~日立の都市間交通及び水戸~日立の地域交通の核を担いたい」と。

 京成としては、日立電鉄の考えが分からない訳では無かったし、県北にも影響力を持つ事が出来るのは悪い話では無かった。だが、日立電鉄も一緒に工事を行うのは資金的に厳しく、水石線の工事が完了してからで無いと難しかった。

 その様な中で、「東武が水戸への延伸線を計画している」、「東武が日立電鉄と連携して浅草~水戸・日立の運行を計画している」という情報が入ってきた。京成と東武は戦前からのライバルであり、両者は茨城県にも影響力を持っているので、あり得ない話では無かった。実際は、後者は嘘情報だったが、前者は実際に計画しており(後に「日光や榛名などに注力する」として中止)、実現した場合の防衛策として日立電鉄との協力に傾いた。

 1965年から京成・茨城交通の協議に日立電鉄が参加し、翌年には正式に3社の直通が決定した。

 

 また、事業の円滑化と交通事業者の整理を理由に茨城交通と日立電鉄の合併も俎上に載った。これについては、茨城交通・日立電鉄・両社の株主も大きな反対をする事は無かった。

 1967年に両社の合併が認可され、翌年に日立電鉄が存続会社となり「常陸交通」となった。会長は日立電鉄社長、社長は茨城交通社長、主要株主は京成グループと日立製作所となった。旧・日立電鉄線は「常北線」と改称された。

 

 元々、戦時中の陸運統制令では常北地域は水浜電車(茨城交通水浜線の前身)を中心に統合する予定だったが、常北電気鉄道(日立電鉄の前身)が日立製作所系だった事から、県央と県北に分割した経緯がある。今回の合併は、当初の構想通りの形になった。

 

___________________________________________

 

 この計画では、新線建設と既存設備の改良の2つに分かれる。新線建設は、京成が葛城~常陸藤沢~石岡を、常陸交通が水戸~久慈浜と鮎川~日立をそれぞれ建設する事になる。既存設備の改良は、水石線全線と常北線の久慈浜~鮎川が対象となる。

 また、この時は計画止まりだが、常北太田~常陸大宮の新線も計画された。これは改正鉄道敷設法第40号(※1)の計画を実現させるものであり、常北地域の東西間の輸送強化及び日立グループの通勤輸送、沿線の学校への通学輸送など多くの目的があった。

 だが、本線の計画が完全に固まっていない状況で支線の計画をしても意味が無い為、「本線開業後に改めて議論する」としてこの時は保留となった。

 

 1966年には、京成が葛城~石岡の、茨城交通が水戸~常陸青柳~勝田の、日立電鉄が勝田~久慈浜と鮎川~日立の免許を申請した(鮎川~日立は以前保有していたが1959年に失効した為、再申請となった)。1969年に全ての免許が認可され、同年に水石線・常北線の改良工事も認可された。翌年から予定区間での土地収用が始められ、1972年から一部区間での工事が始まった。

 しかし、1973年のオイルショックによる物価の高騰、経済成長による人件費・地価の高騰によって土地収用と工事が鈍化する事となった。また、京成としては成田空港(1978年3月30日開港)への延伸もあった為、茨城方面だけに注力する事は難しかった。

 オイルショックによる影響は常陸交通にも現れた。物価・人件費・地価の高騰は体力が弱い常陸交通には痛く、工事する余裕が無くなった。稼ぎ頭であるバス事業及び不動産事業が不振になったのが大きな原因だった。

 それでも、オイルショックによる景気減退が落ち着いた1975年には工事が再開された。都心回帰が進みつつあったものの東京の人口集中は変わっておらず、周辺への人口分散もあり、路線の必要性は変わらなかった。また、中外銀行や協和大同銀行などの中外グループ系の金融機関、日本興業銀行や日本動産銀行などの長期信用銀行、日本鉄道建設公団への建設委託などによって1977年から急速に進んだ。

 

 これにより、1980年3月に葛城~石岡の新線と常陸交通水石線の改良工事が完了した。開業初日から、上野~水戸の直通特急「なかがわ」が運行された。

 この3年後の1983年8月に、久慈浜~鮎川の改良と残る水戸~久慈浜と鮎川~日立が開業して全線開業した。この時、石岡~水戸~日立が「常陸線」と改称して一体的に運用される事となり、「なかがわ」の半分が日立まで延伸した。

 

 尚、常北太田~常陸大宮の新線は1970年から具体的な計画が練られ、1975年には計画が完成した。1977年に免許を申請し、1980年に認可されて土地の収容も行われたものの、道路整備が進んだ事で一時はバスで充分として工事中止となりかけた。

 だが、予定区間には多くの学校や日立グループの工場が存在する事から、バスだけでは輸送は難しいという意見が内外からあった。極め付けは日立製作所からの「鉄道を希望する」というメッセージであり、1982年に工事は再開された。日立グループの支援もあり、1985年3月に開業した。この路線は「常北線」と名付けられた。

 

 京成常陸線は、葛城で筑波線から分岐し、関東鉄道筑波線の常陸藤沢を経由して石岡に至る。藤沢まではほぼ直線に行き、藤沢から国道6号線と常磐自動車道の間を縫う様にして石岡に至る。

 常陸交通常陸線の内、石岡~水戸は概ね国道6号線に沿う形となっている。柵町の手前で地下に入り、2面4線の水戸駅に進入する。

 水戸から暫く地下を行き、那珂川に並行しながら地上に出て、出て直ぐに那珂川を渡り常陸青柳に至る。そこから東進して勝田に行き、更に東進して国道245号線の手前で北に方向を変え、国道245号線に沿う形で久慈浜に至る。久慈浜から鮎川までは旧・日立電鉄線を行き、鮎川から日立は常磐線に沿う形となっている。

 常北線は、常陸大宮から山を貫く様にして常北太田に向かう。そこから旧・日立電鉄線に入り、久慈浜に至る。全電車が日立まで乗り入れる。

 

___________________________________________

 

 この世界の京成の軌間は1372㎜のままの為(※2)、常陸線も1372㎜で建設された。常北線は貨物輸送も考慮された事から、軌間は1067㎜となった。また、久慈浜~鮎川は1372㎜と1067㎜の三線軌条となっており、鮎川には常磐線への繋がる連絡線が存在する。

 全線単線だが、葛城~水戸は2駅に1駅の、水戸~日立は3駅に1駅の割合で交換設備が設けられており、その全てで高速走行が可能となっている。常北線は、交換可能駅の有効長を長くとっており、貨物列車の交換が可能になっている。

 電化方式は、全線直流1500Vを採用している。柿岡に存在する地磁気観測所の関係で、直流1500Vの採用は難しいが、数キロ毎に変電所を設置すれば対処可能な為、コストが掛かるという問題を除けば実現性はあった。それを敢えて使用した理由は、水戸駅の配置の変更にあった。

 当初の予定では水戸駅は高架とし、常陸交通の区間は全線非電化の予定だった。それが、水戸駅周辺の地権者の反対によって高架は不可能となり、急遽地下に変更となった。地下化と日立側の出口が急勾配になる事で、ディーゼル車では対応が難しいと判断され、直流電化に変更となった。交流電化にしなかった理由は、京成筑波線が全線直流1500Vかつ上記の方法で対応している為である。

 

 上記の電化方式と工事の遅れによって、建設費は当初予定の倍近くにまで膨れ上がった。その為、この後10年程は京成と常陸交通は不採算事業の整理や多角化の抑制、債務の圧縮などに追われる事となる。

 一方で、車輛の融通がし易く、価格も比較的安価な直流電車の導入で済む為、長期的にはこちらの方が有利になった。実際、京成で活躍した車輛が、後に常陸交通で運用されるという事例は複数存在する。

 

___________________________________________

 

 常陸線・常北線の開業は、沿線・国鉄・京成グループに大きな影響を与えた。

 沿線地域の影響は、筑波線や常陸線沿線の宅地開発が進んだ。今までの沿線は農村が主体だったが、開業以降は宅地開発や商業地域の建設が多く見られる様になった。また、空洞化が進みつつあった水戸市中心部の再開発が行われたり、周辺市町村から水戸市への人口の流入も見られた。

 一方で、開発によって古い町並みなどの解体が進められた事で、それらの保全運動も盛んになった。特に筑波線沿線や石岡で顕著であった。保全運動によって開発一辺倒の考えが抑止され、後に観光資源として再生する事となる。

 

 国鉄としては、今まで独占していた上野~水戸・日立に並行線が出来た影響は大きかった。その為、開業後は台所事情を考慮しつつ、特急「ひたち」の増便や上野~水戸・日立の特別快速を運行する様になる。

 民営化後もその動きは続けられ、「ひたち」の1/3が水戸・日立止まりとなった。快速の水戸・勝田発着の本数も増やされ、ホームを15両編成対応にするなど輸送力を強化した。

 

 京成グループは、今まで取引が無かった日立にも車輛の発注をする様になった。1990年代から製造する車輛の一部が日立製となった。

 その中で大きなものが、AE100形を基に分割・併合可能な設計にしたME200形電車(「ME」は{Multipurpose Express(多目的特急)」の略)である。この車輛の導入によって、今まで使用していた旧型特急の置き換えが進められ、サービスや速達性の向上になった。

 

___________________________________________

 

 21世紀になって、京成とJRの競争は激化している。JRは京成に対抗の為、増便や速達性の向上、城東線との直通で汐留・品川へ、山手貨物線との直通で池袋・新宿・渋谷へ乗り換え無しで行けるルートの開拓など、多くを実施している。

 京成も、周遊券の販売や特急の増便、駅前再開発などで対抗している。また、これを機にエキナカ事業やレジャー部門など副業の強化や、駅併設型のショッピングモールやシネマコンプレックスの整備などが進められる様になる。

 

 2004年3月以降は、新都市高速鉄道(新都高速)の開業でもう1本並行線が出来た事で、更なる競争相手となった。秋葉原~牛久では完全な並行線であり、地下鉄でも経由地に汐留が入っており、尚更ライバルとなっている。新都高速は京成の関係会社ではあるものの、第三セクター故に影響力は限られている。

 一方で、関鉄筑波線の開発が進んだり観光利用が増加するなどのメリットもある為、単純なライバル関係とは言えない。目的の違いもある為、ライバルよりも協調関係の方が強い。

 

 常陸線の方は良いが、常北線の方は少々厳しい事になっている。沿線には未だに学校や工場が多く存在し、通勤・通学輸送に活用されているが、1990年代中頃から少子化による学校の統廃合、合理化による工場の閉鎖などで、利用者が減少している。大きく減少はしていないが緩やかに減少しているのは事実であり、10年以内の廃線は無いと見られているが、それ以降となると厳しいと見られている。

 その梃入れとして、通学用定期の値下げやダイヤ改正で通学に利用しやすい時間への変更、パークアンドライドの実施などが行われた。利用者の増加は見られたが、数値的には微々たるものだった。だが、利用者の増加は事実であり、パークアンドライドは好評だった為、他路線でも実施される事となった。

 その後、常北線は京成グループにおける「新技術の実験場」としての性格を帯びる様になり、2000年代中頃から新車や保安設備の実験などが行われる様になる。

 

___________________________________________

 

(京成常陸線)

↑京成筑波線と直通

・葛城

・吾妻

・花室

・古来

・上坂田

◎常陸藤沢:関東鉄道筑波線

・紫ヶ丘

・上稲吉

・千代田町

・常陸市川

・田島

◎石岡:JR常磐線、関東鉄道鉾田線

↓常陸交通常陸線と直通

 

(常陸交通常陸線)

↑京成常陸線と直通

◎石岡:JR常磐線、関東鉄道鉾田線

・東ノ辻

・東府中

・竹原

・中野谷

・大曲

・堅倉

・小岩戸

・西郷地

・上野合

・小幡

・奥ノ谷

・小鶴

・常陸長岡

・矢頭

・吉沢

・中吉沢

・一里塚

・古宿

・蓮乗寺

・紺屋町

・柵町

◎水戸:JR常磐線・水郡線、真岡鐡道真岡線、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線

・北見町

◎常陸青柳:JR水郡線

・枝川

・武田新地

◎勝田:JR常磐線、常陸交通湊線

・東石川

・笹野町

・本郷台

・馬渡

・新光町

・長砂

・村松

・阿漕ヶ浦運動公園

・白方

・豊岡

・留町

◎久慈浜:常陸交通常北線

◎大甕:JR常磐線

・水木

・大沼

・河原子

・桜川

・鮎川

・市民運動公園

・相賀町

◎日立:JR常磐線

 

(常陸交通常北線)

◎常陸大宮:JR水郡線

・日向神社

・不動下

・本郷

・大方

・久米

・新宿町

・西三町

◎常北太田:JR水郡線(常陸太田)

・小沢

・常陸岡田

・川中子

・大橋

・茂宮

・南高野

◎久慈浜:常陸交通常陸線




※1:原文は『茨城県常陸大宮ヨリ太田ヲ経テ大甕ニ至ル鉄道』。後半の『太田ヲ経テ大甕』が常北線の常北太田~大甕となる。
※2:史実よりも路線長が長い為、改軌するコストが会社の体力が超えると見込まれ、1435㎜への改軌が破棄された。この余波で、都営浅草線も1372㎜となり、京急との直通は行われていない。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東海新路線
東海新路線①:名古屋市営地下鉄金山線・東部線


 2020年現在、名古屋市営地下鉄は6路線が運行されている(東山線、名城線、名港線、鶴舞線、桜通線、上飯田線)。

 この6路線以外にも、東部線、金山線、南部線の計画が存在する。これらの計画線は1992年の運輸政策審議会答申第12号に組み込まれた路線で、それぞれ以下の様になっていた。

 

・東部線:笹島(現・ささしまライブ。当時は未開業)~丸田町~吹上~星丘~高針台~岩崎

・金山線:戸田~金山~丸田町~黒川~楠町

・南部線:桜本町~大江~名古屋港~稲永

 

 この内、東部線と南部線はこの答申から組み込まれたが、金山線は1972年の都市交通審議会答申第14号の5号線(伏屋~金山)と8号線(枇杷島~浅間町~矢場町~高岳~黒川~楠町)が原型となっている。前者は近鉄との直通を、後者は名古屋市北部と都心部の連絡を目的とした。

 

 東部線は笹島から関西本線・西名古屋港線(現・名古屋臨海高速鉄道あおなみ線)と、金山線は戸田から近鉄名古屋線と直通する構想だった。また、丸田町で延伸予定の上飯田線との直通も想定された。南部線は輸送量が少ない事から、新交通システムが計画されていた。

 この3線の内、東部線の笹島~高針台がA線(=2008年までに開業する事が望ましい)、金山線の戸田~黒川がB線(=2008年までに建設に着手する事が望ましい)、残る区間がC線(=今後建設するか検討する)とされた。

 だが、東部線は答申で示された2008年までに開業処か、建設すらされなかった。A線の東部線でこれな為、後の2路線も同様であった。恐らくだが、並行路線の存在や東海地域の経済低迷、それに伴う需要減から、建設に至らなかったのだろう。

 

 もし、これらの路線が開業していたら。

 

___________________________________________

 

 この世界でも名古屋市営地下鉄は存在するが、桜通線と上飯田線が史実と異なる。

 桜通線は、1435㎜・直流1500Vとなっており、京阪名古屋線と直通運転を行っている。特急列車の直通も行われており、淀屋橋~久屋大通という長大運転が行われている(※1)。

 上飯田線は、この世界では存在しない。小牧線が大曽根まで延伸した為、瀬戸線経由で名古屋中心部への乗り入れが実現した為である(※2)。

 

 1992年の答申だが、史実と内容が異なる部分がある。それは、金山線と上飯田線が事実上統合された事、東部線の区間が延伸された事である。

 先述の通り、この世界では小牧線が大曽根で瀬戸線と繋がった事で、名古屋市中心部への乗り入れが実現している。その為、上飯田線の存在意義はほぼ無くなった。

 一方で、副都心として整備が計画されている金山と大曽根を結び、中心部である栄へのアクセスが既存の名城線だけでは不足すると見られた。また、近鉄が名古屋市内への乗り入れを要望した事から、戸田~金山~新栄町~大曽根が「金山線」として答申に組み込まれた。この路線はA線とされた。

 

 一方の東部線は、最大の目的である「東山線の混雑緩和」が桜通線の開業で実現した事、その桜通線が京阪との直通を考慮した設計(19m×8両)となっており、輸送量強化が実現した。それらの理由から、全線がA線に設定されながらも「建設する場合、他のA線の新線を建設した後とする」という但し書きが付けられた。つまり、東部線は最も評価の低いA線とされた。

 だが、名鉄が1982年に枇杷島口~柳橋~金山橋を建設して事実上の複々線化を行ったものの、須ヶ口~神宮前の混雑の緩和が進まなかった事、東海道本線・関西本線・庄内川に挟まれた名古屋市西部の交通網の面的拡充などを目的に、須ヶ口~中村日赤~笹島が追加された。こちらもA線と評価され、東部線全体ではこの区間の方が評価が高かった。

 

 しかし、須ヶ口~笹島が追加された事で、当初の構想にあった東部線と西名古屋港線・関西本線との直通構想は流れる事となった。また、JRにとって東部線への直通は名古屋や既存の繁華街を経由しない事からリスクが大きいと判断して乗り気でなかった。この時のJRは、関西本線の複線化の方を重視していた事もあった。

 

___________________________________________

 

 近鉄は、京阪が桜通線と直通を開始した事で、名古屋市内へのアクセス強化の観点から金山線への直通を要望した。1972年の答申でも伏屋~金山の計画はあったものの、この時は名古屋線の輸送量が逼迫していなかった事や金山の開発が行われていなかった事から興味を示さなかった。

 それが、1989年の京阪名古屋線と桜通線の直通開始によって大きく変わった。今まで国鉄・JRを除いた名阪間の移動は近鉄:京阪が12:8だったが、直通から2年後には9:11と逆転された。元々、運賃では京阪の方が(名阪間で380円)、時間では近鉄の方が有利だったが(最速同士の比較で15分)、特急の久屋大通乗り入れと名古屋線の大改良によって、時間的優位はほぼ無くなった。また、栄と淀屋橋という名阪のビジネス街同士が結ばれた事で、ビジネス利用者の多くが京阪に移った事も逆転された理由だった。。

 近鉄は巻き返しの為、金山線と直通して都心部への乗り入れを要望した。答申時、金山が新たなターミナルとして整備され副都心として整備されつつあった為、そこへの乗り入れにより利用者も見込んだ。

 近鉄のアプローチによって、名古屋市も金山線の建設に動いた。1994年に戸田~大曽根の免許を取得し、1997年に工事が開始した。工事開始直後にアジア通貨危機・極東危機と重なった事で工事は停滞したが、2001年から工事のスピードは早められた。

 

 2005年3月20日、戸田~新栄町が開業した。同日、名古屋線との直通運転が開始された。当初はこの時に全線開業する予定だったが、工事に手間取った事、愛知万博へのアクセスルートとする為に途中開業となった。開業日は開催5日前と、正にギリギリでの開業だった。その後、残る新栄町~大曽根が2008年3月23日に開業した事で金山線は全線開業した。

 大曽根からの延伸構想は存在し、答申時は志段味線を金山線の延伸扱いとする事や、名古屋空港への延伸が考えられた。しかし、需要が限定的な事、名鉄が反対している事などから、延伸は非現実的である。名古屋市から出る事、名古屋市がこれ以上の地下鉄建設を考えていない事から、構想以上の域を出ない。

 

___________________________________________

 

 万博直前に開業した事で、利用者輸送の特需の恩恵を受けた。開業前の一日の平均輸送人員を20万人を想定していたが、開業初年で23万人を記録した。翌年は落ち着いたものの、それでも18.5万人を記録し、その後も順調に増加した。金山・栄へ一本で行ける事によるアクセスの良さによって、金山線・名古屋線沿線の開発や再開発が進んだ事が利用者増加に繋がった。また、高畑で連絡する東山線、荒子で連絡するあおなみ線からの利用者が一部移転した事も要因だった。

 全線開業時には34万人になると想定されたが、32万人とやや少なかった。名城線や名鉄瀬戸線と並行しており、移転する客が少なかったのが要因だった。

 だが、金山線が全線開業した事で名古屋線沿線から名古屋市の主要部へ一本で行ける事で名古屋線沿線の価値が更に上昇した。それに伴い、沿線にマンションが多数建設されるなどして利用者が増加し続けた。利用者の伸びは年々増加し、2019年には37万人を記録している。

 

 開業時のダイヤは、データイムは1時間に10本、ラッシュ時は1時間に15本だった。その後、沿線の開発が進むと増発され、2020年現在ではデータイムで1時間に12本、ラッシュ時は1時間に16本となっている。

 直通運転は開業時から行われたが、開業当初は1時間に2本だけで、残りは戸田で接続というダイヤだった。直通先は検車場のある富吉までだった。名古屋線の線路容量に余裕が無い為であった。

 全線開業時のダイヤ改正で1時間に4本となり、既存の2本は直通先が近鉄四日市までのびた。増便された2本の内の1本はラッシュ時は富吉発着の普通だが、データイムは新栄町~宇治山田の特急となる。金山線内の停車駅は金山だけであり、新栄町に新たに特急発着ホームが設けられた(スペースそのものは開業時から存在)。戸田は運転停車のみで、客の乗降は出来ない。

 その後、2013年の名古屋線の戸田~近鉄弥富の複々線化と近鉄弥富~近鉄四日市の交換駅増設が完了した事によるダイヤ改正では1時間に6本と更に増便され、新設された2本は津新町まで直通する急行となった。新設された急行は「直通急行」という名称であり、名古屋線内を急行運転し、金山線内は各駅停車となる。また、通常の急行と異なり戸田に停車する。

 

 車輛は、桜通線で使用している6000形を基とした5000形が投入された。軌間・車両長(※3)・電圧などの共通点が多い為である。

 だが、6000系は1987年運用開始の為、15年以上経過している事から、新技術が多数導入された。また、建設費が高騰した事から、車輛の製造コストを下げる為に直線が多用されるなどした。前面も変更された為、寧ろ史実の7000形(上飯田線用車輛)に近い形となった。

 

___________________________________________

 

 金山線の戸田~丸田町の工事が始まった翌年、東部線の建設計画が浮上した。1997年に2005年開催予定の万博が愛知県で開催される事が決定した。極東危機で開催が危ぶまれたものの、最終的に当初の予定通りに開催される事となった。愛知万博開催決定によって、愛知県における交通・都市などの各種インフラ整備、新都心開発が促進された。金山線建設もその一環である。

 桜通線が開業したものの、東山線の乗車率は依然として180%台を記録していた。また、名鉄名古屋本線の混雑緩和も進んでおらず、愛知万博開催による中京圏再開発構想によって沿線の再開発が進み、乗車率がオイルショック時の180%台まで悪化した。他にも、東部線沿線予定地の名古屋市西部の渋滞の緩和、笹島貨物駅跡地の再開発促進などから東部線の建設計画が浮上した。

 この時は、名城線と金山線の建設を優先した事から具体的な動きとならなかったが、1999年に東部線に関する予算が組まれた。その結果、採算性が確認された事から、2001年からルートの策定が行われた。

 2003年に本陣通~名古屋大学までのルートが定められた。須ヶ口から名鉄の地下を通り、新川の手前で県道59号線に入る。五条川と合流する手前で南に進路を変え、庄内川の下を通って名古屋市に入る。本陣通から南下し、東宿町で東進して中村日赤で東山線と連絡する。中村日赤から県道190号線に入り千成通2丁目で市道岩塚牧野線を東進、太閤三丁目で南下して笹島に至る。笹島から名古屋高速5号万場線・2号東山線の地下を通り、吹上を出たら2号東山線から離れて名古屋大学に至る、というものになった。

 

 だが、残る須ヶ口~本陣通と名古屋大学~岩崎台のルートについては確定していなかった。前者は清須市の意見が統一されなかった事、後者は東山線と近過ぎる事が懸念された為である。

 須ヶ口~本陣通は清須市の為、名古屋市だけでは調査が出来なかった。清須市と共同して調査する予定だったが、清須市内で終点を須ヶ口にするか枇杷島にするかで統一されていなかった。須ヶ口案は「答申でそうなっている以上、それ通りに建設するべき」、「名鉄のバイパスという目的がある為、起点は名鉄の駅が望ましい」というものだった。枇杷島案は「清須市役所へのアクセス改善」というものだった。

 名古屋市は清須市に「2年以内に意見の統一が出来なければ、清須市への延伸は白紙とする」と警告したものの、2年経過しても意見は統一されなかった。結局、東側の終点は名古屋市と清須市の境付近の本陣通となった。

 

 名古屋大学~岩崎台は、答申案では星が丘を経由する事になっているが、答申通りだと東山線に近過ぎる事、東山動植物園の地下を通る事などから反対意見も多かった。代案として、「名古屋大学から再び2号東山線に入り高針出入口まで東進し、そこから県道59号線に入り、高針橋東で東進し、以降は市道沿いに高針・岩崎台に至る」という通称・2号東山線ルートが出された。

 他にも、「高針から南下し、国道302号線・国道153号線を経由して赤池に至る」通称・赤池ルートも考えられた。この場合、東山線の支線として星が丘から分岐して高針・岩崎台に至る路線を建設する事になっていた。

 最終的に、答申内容から大きく外れない事、距離が数百m短くなる事、建設が比較的容易と見られた2号東山線ルートが採用された。この区間のルート変更の願いが行われ、2005年に認可された。

 

 2008年、東部線全線の免許が認可された。工事が認可され、着手されたのは2012年となった。東部線の規格は、東山線や名城線と同じ1435㎜・直流600V・第三軌条方式となった。車輛の規格統一やトンネルの小型化による建設費・導入コストの削減を狙った。

 工事が始まると、笹島~吹上は道路の下を建設すれば良いので大きな問題は無かった。だが、須ヶ口~笹島と吹上~岩崎が難工事となった。これらの区間は狭い道路の下を通る事が多い為、土地収用や工事に制約が大きく、工事に着工するまでに時間が掛かった。

 

 2015年3月22日、最初の区間である笹島~名古屋大学が開業した。その後、2016年12月18日に中村日赤~笹島と名古屋大学~牧の原、2018年3月18日に豊公橋(開業前に本陣通から改称)~中村日赤と牧の原~高針、2019年11月17日に高針~岩崎台が開業した。

 当初予定だった清須市側では、豊公橋から須ヶ口駅・清須市役所を経由して枇杷島駅のバスが名古屋市・清須市・名鉄バスが共同運行する事で対応した。このバスが便利だった為、須ヶ口延伸は白紙となった。

 その為、岩崎台延伸を以て東部線は全線開業した。

 

___________________________________________

 

 開業したものの、利用者は決して多いとは言えなかった。開業当初の一日の平均輸送人員を16万人と見込んでいたものの、実際は10万人に僅かに満たない数字しかなかった。その後も利用者は延びているが想定よりも鈍く、2019年では見込み・27万人に対して19.5万人となった。

 東山線のバイパスとして建設されたものの、名古屋市の主要部から外れている事がネックだった。主要部に行くには、他の路線に乗り換える必要があった。当初は笹島へのアクセスとして期待されていたが、あおなみ線が開業した事や近鉄の米野駅がささしまライブ24地区へのアクセス駅として整備した事などから利用者が延びなかった。

 また、JRとの乗換駅が存在しない事から、旅行客やビジネス客など外部の利用者が増加しなかった。新幹線で訪れるなら東山線か桜通線を、京阪沿線なら桜通線を、近鉄沿線なら金山線を利用する為、わざわざ東部線に乗り換える利用者は少数だった。

 

 一方で、沿線の中村区から名古屋大学へ一本で行ける事となり、沿線で再開発を兼ねた学生向け賃貸住宅の整備が行われる様になった。乗り換え無しで行け、東山線や名城線程混雑していない事から、通学し易いと見られた。名古屋市も混雑緩和の観点から、この動きを歓迎した。

 利用者はそこそこ増えたが、東山線・名城線ルートと比較すると3:7と依然として多くなかった。名駅や栄といった繁華街を通らない事が理由だった。

 それでも、沿線の再開発が進んだ事は事実であり、特に今まで軌道系交通手段が無かった香久山・岩崎地区の再開発が進んだ。また、鉄道が開通した事で高齢者の安定した交通手段の提供となり、高齢者向け施設の建設が進んだ。

 

___________________________________________

 

(名古屋市営地下鉄金山線)

↑近鉄名古屋線に乗り入れ

・戸田

・榎津

・前田西町

・野田二丁目

◎高畑:名古屋市営地下鉄東山線

◎荒子:名古屋臨海高速鉄道あおなみ線

・松葉公園

・八神町

・八熊通

◎金山:名古屋市営地下鉄名城線・名港線、JR東海道本線・中央本線・名古屋環状線、名鉄名古屋本線・押切線

・向田橋

◎鶴舞:名古屋市営地下鉄鶴舞線、JR中央本線・名古屋環状線

◎千代田:名古屋市営地下鉄東部線

◎新栄町:名古屋市営地下鉄東山線

・平田町

◎森下:名古屋鉄道瀬戸線

◎大曽根:名古屋市営地下鉄名城線、名古屋ガイドウェイバス、JR中央本線・名古屋環状線、名古屋鉄道瀬戸線・小牧線

 

(名古屋市営地下鉄東部線)

・豊公橋

・豊国神社

◎中村日赤:名古屋市営地下鉄東山線

◎太閤通:京阪名古屋線

・千成通

◎ささしまライブ:名古屋臨海高速鉄道あおなみ線、近鉄名古屋線(米野)

◎名駅南:名鉄押切線(水主町)

◎大須観音:名古屋市営地下鉄鶴舞線

◎矢場町:名古屋市営地下鉄名城線

・丸田町

◎千代田:名古屋市営地下鉄金山線

・御器所

◎吹上:名古屋市営地下鉄桜通線

・南明町

・大島町

・伊勝町

◎名古屋大学:名古屋市営地下鉄名城線

・東山動植物園

・藤巻町

・牧の原

・高針橋

・高針

・極楽

・岩崎台




※1:本編の『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(近畿②)』と『番外編:戦後の日本の鉄道(東海)』参照。
※2:本編の『番外編:戦後の日本の鉄道(東海②)』参照。
※3:この世界の近鉄は早くから阪神と直通している為、車体長は19mとなっている。京阪も、輸送量強化から18.5mから19mに拡大している。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

東海新路線②:伊勢臨海鉄道

 かつて、近鉄名古屋線の海側に別の路線が存在した。近鉄伊勢線であり、この路線は津市の江戸橋を起点に津新地・松ヶ崎・新松阪・徳和を経由して、外宮付近の大神宮前の区間だった。

 多くの区間で近鉄山田線やJR紀勢本線・参宮線と並行しているが、これは「伊勢電気鉄道(伊勢電)」が建設した為である。

 

 伊勢電の歴史はここでは詳しく記さないが、参宮急行電鉄(参急:大阪電気軌道の子会社で近鉄の前身の一つ)と伊勢・名古屋の進出競争を繰り広げていたが、名古屋延伸を巡っての贈賄事件、伊勢電のメインバンクである四日市銀行(現・三重銀行)が取り付け騒ぎに合うなどして経営不振に陥った。これによって伊勢電は競争に敗北し、1936年9月17日に参急に合併された。参急は1931年3月に宇治山田まで、1932年4月まで津まで開業していた為、旧・伊勢電は「名古屋伊勢本線」という名称ながら、江戸橋~大神宮前は事実上のローカル線となった。

 その後はローカル線となりながらも複線電化で存続していたが、日中紛争(※1)と大東亜戦争によって戦争は激化し、産業上重要な路線の輸送力強化に努める一方、不要不急な路線の休止や単線化が行われた。伊勢線(※2)も並行する参宮線と山田線の存在から、1942年8月11日に新松阪~大神宮前が廃止となった。また、残る江戸橋~新松阪も津新地~結城神社前を除いて全線で単線化された。これらの資材は名古屋線の複線化などに転用されたという。

 

 何とか存続した伊勢線だが、ローカル線かつ並行路線という事で利用者が伸び悩んだ。その為、昭和30年代には既に廃止が検討されていた。その為、名古屋線で計画されていた1435㎜への改軌工事も(※3)、伊勢線についてはそのままとされた。

 それが、1959年9月26日に上陸した台風15号(伊勢湾台風)によって、東海地方が大打撃を受けた。豪雨による増水や暴風による高潮によって、河口部など低地を中心に水害が深刻だった。名古屋線・伊勢線も被災し、特に名古屋線は多くの区間で路盤の流出などの被害が生じた。

 一方で、この被災による復旧と合わせて、予定されていた改軌工事も前倒しされた。急ピッチで工事は行われ、11月27日に全線の復旧と改軌が完了した。12月12日からは大阪線・山田線との直通運転も行われ、長年の悲願だった名阪・名伊特急の直通運転が実現した。

 

 伊勢線も復旧したが、既に廃止が予定されていた為、改軌はされなかった。そして、残る江戸橋~新松阪は1961年1月22日に廃止となった。

 廃止の翌年の5月12日、鉄道敷設法が改正されて新しい路線が編入された。第75号の3だが、『三重県津附近ヨリ松阪ヲ経テ伊勢ニ至ル鉄道』とされ、「南伊勢線」の仮称が付けられた。目的は「沿線予定地の工業開発、廃止された近鉄伊勢線の代わりに貨車の乗り入れの実施」だが、このルートの前半は近鉄伊勢線と重複していた。後半も廃止された区間を経由していたが、予定では海岸寄りのルートを通る事になっていた。

 

___________________________________________

 

 当初、近鉄は伊勢線を廃止する予定だった。しかし、沿線から貨車の乗り入れの継続と海岸寄りに伊勢市まで延伸して欲しいという要望が挙げられた。三重県沿岸部が工業地帯として開発される計画がある事は近鉄も知っており、伊勢線がその地域と一部重複している事も知っていた。

 しかし、この頃の近鉄は奈良電気鉄道(京都線)や三重電気鉄道(志摩線・湯の山線、三岐鉄道北勢線、四日市あすなろう鉄道内部線・八王子線)、信貴生駒電鉄(生駒線・田原本線)の買収、鳥羽線や難波線、新生駒トンネルの建設など拡張の真っ只中であり、これ以上の新規事業を行うのは難しかった。また、沿線の開発が不透明な地域への延伸はリスクが大きい事も、参入に消極的になった。国鉄線として整備してもらおうという動きもある事も拍車を掛ける。

 

 一方で、国鉄線として建設されるには鉄道敷設法に編入される事、予定線から建設線に昇格される事、建設される事、そして開業という流れになる。その為、開業までに長時間掛かり、とてもではないが沿線自治体はそこまで気長に待つ事は出来なかった。現状、津~伊勢市の国鉄線建設運動が存在するが、実を結ぶかは不明だった。

 そこで浮上したのが、近鉄と自治体、有力企業が共同出資して新会社を設立、伊勢線をその会社に譲渡して残る区間を開業させようというものだった。この方法なら鉄道敷設法に編入する必要が無い事、専用線の建設を行い易い事などのメリットがあった。近鉄も単独建設で無い事から負担も小さく、影響力を維持出来た為、決して不利益な案では無かった。

 だが、この方式は臨海鉄道の建設でよく見られるのだが、1960年時点では何所も行っていなかった。この方式で設立された最初の会社が京葉臨海鉄道だが、会社設立が1962年11月20日とまだ先の事だった。法整備が進んでいない事が最大のネックだった。

 この判断が付かなかった事が伊勢線の存廃問題と合わさり、当初は1961年に廃止予定だったが、3年間の様子見という名の現状維持が決定された。そして、1962年に南伊勢線が鉄道敷設法に掲載された。

 

 1963年8月、近鉄は伊勢線の臨海鉄道化に舵を切った。前年に京葉臨海鉄道が、同年の6月に神奈川臨海鉄道が設立された事で、臨海鉄道に対する明確な根拠が確立された。伊勢線を流用して津~松阪港~伊勢市の臨海鉄道が計画された。

 同年11月1日、近鉄・国鉄・自治体・企業の出資で「伊勢臨海鉄道」が設立され、同日付で伊勢線が譲渡された。合わせて、米ノ庄~大口~伊勢市の免許を申請し、これは1964年2月に認可された。また、「江戸橋~津新地の改良」の名目で津~津新地に付け替える工事も申請し、こちらは1964年3月に認可された。

 予定では、起点を津に変更し、津新地で伊勢線に合流する。津新地から米ノ庄までは既存線を流用し、米ノ庄から松阪港方面にルートを変える。概ね国道23号線の南勢バイパス(※4)に沿う形で伊勢市に向かい、宮川を越えた所で進路を南に変えて山田線に合流する。宮町を出たら参宮線と合流して伊勢市に至る、という事になっている。

 

 1964年7月、津付近の路線付け替え工事及び米ノ庄~伊勢市の建設工事が始まった。付け替え工事は短い区間の為、年内に完了した。これ以降の運転は津~新松阪となった。運転区間の変更と共に、日本鋼管津造船所(現・ジャパンマリンユナイテッド津事業所及びJFEエンジニアリング津製作所)など沿線の工場への専用線が開業した。

 その後、貨物輸送の早期実現の為に米ノ庄~大口~松阪港が1965年2月に開業し、セントラル硝子の貨物輸送が開始した。残る大口~伊勢市の建設も進められ、1965年11月に開業した。

 これにより全線が開業したが、全線開業と貨物輸送の実施が優先された為、開業から約1年は米ノ庄~伊勢市の旅客運転は実施されなかった。旅客運用が始まったのは1966年9月からだった。同時に、米ノ庄~新松阪は廃止となった。

 

___________________________________________

 

 伊勢臨海鉄道は、近鉄から譲渡された路線については電化されていたが、津への乗り入れ時に非電化に切り替えた。電化設備などは撤去されたが、設備が再設置可能となっており、新線区間も電化が可能な設計になっている。また、将来的な輸送力強化や国鉄線のバイパスとしての性格もある為、全線で複線化が可能な用地が確保されている。

 

 車輛は、国鉄のキハ20系に準じた「キハ6600形」が投入された。この車輛は、車体構造や各種計器類は暖地向けのキハ20形に準じているものの、ドア配置は酷寒地向けのキハ22形に準じている。デッキが付いていない事を除けば、内装もキハ22形に準じている。1964年の付け替え工事完了時に2両投入され、全線開業時に3両、全線旅客営業開始時に3両が増備された。その後も増備が続けられ、1970年までに合計18両が導入された。

 だが、開業から数年はキハ6600形の増備が間に合わなかった為、国鉄からキハ07形やキハ04形を4両ずつ払い下げてもらった。共に戦前製だが、使い勝手の良い大きさや増備が完了するまでの繋ぎであった為、数年間はこれで問題無かった。これらは1970年までに全車廃車となった。

 旅客用車輛以外に、貨物用として「ID55形」ディーゼル機関車が投入された。国鉄のDD13形が基となっており、手頃な大きさや性能から多くの臨海鉄道や私鉄でも派生型が活躍している。1963年から1971年まで合わせて8両が投入された。

 それ以外にも、構内入換用の小型ディーゼル機関車を数両配備したが、こちらはID55形が揃うと使い道に困り、1975年までに全車廃車となった。

 

 ダイヤだが、旅客列車は全線を運行する列車が6時から22時まで40分毎に1本の間隔で運行していた。伊勢線時代と比較すると増便であり、時間も偶数時なら0分か40分、奇数時なら20分と分かり易くなった。その合間に津~香良洲や大口~伊勢市の区間運転なども存在する為、地域の足となる様に設定された。

 貨物列車も設定されたが、津~雲出や津~松阪港が殆ど。大口の貨物輸送がこの区間しか存在しない為である。農産物や郵便など小口の輸送も実施しているが、モータリゼーション到来と重複した事で15年程で終了となった。

 

___________________________________________

 

 開業したものの、貨物・旅客共に奮わなかった。沿線が工業地帯として開発される予定だったが、四日市ぜんそくの影響で中止になった為である。その後のオイルショックによって、新規開発は完全に白紙となった。これによって、沿線が工業地帯として開発される構想は幻となった。

 工業地帯として整備されなければ、労働者とその家族が沿線に住む事は無い為、宅地開発も低調だった。バスより本数が多い事から地域住民の足として重宝されたものの、本来の目的とはかけ離れたものとなった。

 

 このままでは存続は難しいと判断され、不動産開発や近鉄の一部事業の委託など多角化が勧められた。特に熱心だったのは、繊維工業や食品加工業、玩具製造などの軽工業向けの工業団地の整備だった。沿線の工業開発が失敗した理由は、石油化学や製鉄など重化学工業がメインだった為であり、その反省と都市部から追い出された軽工業の受け皿を目的とした。

 名古屋・京阪神に近い事から、繊維や食品関係が多く移転した。玩具については、水害が多い事から敬遠された。その代わり、家具製造が移転してきた。

 工場の移転によって労働者とその家族の移住が見られたが、多くは地元住民が雇用された為、宅地開発は大きなものとならなかった。また、これらの製品は軽量で輸送量が少ない為、貨物の収入は大きく増えなかった。

 それでも、収入を増やす事には成功した。決して安心出来る状況ではないものの、数年から10年程は何とか保てる状況にまでは落ち着いた。

 

___________________________________________

 

 2020年現在、伊勢臨海鉄道は存続している。貨物事業はJFEやジャパンマリン関係の製品の輸送は未だに続いている。そして、1978年に松阪港に中部電力が石炭火力発電所を建設した事で、発電所から生じるフライアッシュや脱硫用の炭酸カルシウムの輸送という大きな需要を獲得した。これによって、伊勢臨海鉄道は苦境を脱する事に成功し、中部電力も株主として名を連ねる事になった。

 旅客輸送も、沿線の開発によってある程度の人口の定着が見られている。しかし、大きな街との繋がりや弱い事、名古屋に直接行けない事などから利用者は伸びていない。

 

 車輛については、未だに全通時からのキハ6600形が存在する。保守部品等は国鉄末期からJR初期にかけて、キハ20系列の部品を大量に購入した事で、現在でも使用に耐えられる状況になっている。1980年頃から冷房化も実施され、現在までワンマン化や保安装置の更新などが行われた。

 それでも、導入から50年以上経過している事、運用コストの高騰などから、2015年から「キハ2100形」が投入されている。この車輛は、関東鉄道のキハ5000形が基となっているが、扉配置や車内の座席配置などはキハ6600形に準じている。

 2015年に1両が導入され、その後は1年に1両のペースで増備が行われている。それに伴い、2020年現在までに5両のキハ6600形が廃車となっている。

 機関車は老朽化から4両が廃車されている。残る4両も10年以内に廃車になると見られている。代替車として、2013年から「ID60形」ディーゼル機関車の導入が行われている。これは神奈川臨海鉄道のDD60形と同形式で、2020年までに3両配備されている。

 

 鉄道事業だけでなく、不動産事業(土地造成・駐車場運営・貸しビル業)や近鉄・JRの駅の委託などを行っている。また、子会社で倉庫業や運送業、小売業などを行っている。これらの事業は1980年代から広げられ、少しでも収益を増やす事が求められた。

 どの事業も収益を上げており、今後も続けていく事となっている。特に、不動産事業と倉庫業が収益源となっており、新たな事業の核と位置付けられている。




※1:この世界でも日本と中華民国は戦争状態になったが、日本が内陸部への進出をしなかった。その為、後世の呼び名として「日中紛争」となった。
※2:大阪電気軌道と参宮急行電鉄が1941年3月15日に合併して「関西急行鉄道」となった。これに合わせて路線名の整理が行われ、旧・伊勢電の区間は江戸橋を境に名古屋線と伊勢線に分断された。
※3:桑名~名古屋の開業は参急子会社の関西急行電鉄(関急電)が行ったが、早急に開業させる為に伊勢電の計画のまま開業させた。その結果、名古屋線は1067㎜、大阪線と山田線は1435㎜と直通出来なかった。
※4:松阪市と伊勢市を結ぶ。1970年に事業化、1975年に暫定2車線で開業、1994年に4車線化で開業した。この世界では伊勢臨海鉄道と一体で計画された。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

関西新路線
関西新路線①:新国道線


 阪神電鉄だが、かつて阪急に対抗する為に「第二阪神線」という名称で高速新線を計画した。この路線が計画された背景は、1920年に箕面有馬電気軌道改め阪神急行電鉄が十三~神戸(後に上筒井に改称、廃止)を開業させた事に始まる。国鉄を挟んで山側を通る並行線であり、沿線の利用者こそ少ないものの、最初から専用軌道で建設された事から高速運転が可能だった。これ以降、阪神と阪急の対立関係が始まる事となる。

 一方の阪神だが、併用軌道と急曲線も多い事から高速運転と長大編成化が難しい為、阪急の様に高速新線が計画された。それが第二阪神線だが、阪急の開業前から危惧していたらしく、特許が1919年に許可されている。その後、一部区間の修正などが行われるなどしたが、実際に用地の買収や工事に着手している為、阪神側は相当脅威に映ったのだろう。

 しかし、昭和恐慌などによる経済不況、戦時体制による資材不足によって工事は進まなかった。その間に本線の高速化と長大編成化が実現してしまい、第二阪神線を整備する意味が薄れた。1959年には全線の特許が失効し、第二阪神線は未成に終わった。

 それでも全く開業しなかった訳では無かった。阪神なんば線の大物~千鳥橋は元々第二阪神線として整備された区間であり、御影~石屋川の留置線も第二阪神線の用地を転用して設置された。

 

 第二阪神線とは別に、阪神は「阪神国道線」という別の阪神間の路線も持っていた。阪神国道(国道2号線の大阪神戸間)上を走行する事が名称の由来だった。この路線は阪神国道電軌という別会社が1927年に西野田(阪神の野田)~神戸東口(後に「東神戸」に改称。阪神本線だと岩屋が最寄)を開業したが、この会社は阪神電鉄の子会社であり、翌年には阪神電鉄に合併された。

 当初こそ、阪神国道を走る自動車が無かった事から高速運転が可能であり、沿線の宅地化や阪神工業地帯の整備によって利用者がぞうかした。戦後にモータリゼーションが加速すると、都市部の路面電車と同様に速度の低下と定時性の確保が出来なくなり利用者が低下した。1969年に西灘~東神戸が廃止になったのを皮切りに、1974年に上甲子園~西灘が廃止され、翌年に残る野田~上甲子園が廃止となった。

 これと前後して、1973年に甲子園線(上甲子園~甲子園~浜甲子園~中津浜)の浜甲子園~中津浜が廃止となり(戦時中に休止状態だったが、戦後に復活せず)、1975年に甲子園線の残りの区間と北大阪線(野田~中津~天神橋筋六丁目)も廃止となった。甲子園線は専用軌道で、北大阪線はモータリゼーションの影響が小さく共にそこそこの利用者があったが、車輛が国道線と共用で車庫も国道線の浜田車庫を利用していた為、それが利用出来なくなる事から廃止となった。

 

 では、国道線が形を変えて存続する事が出来たら。それが形を変えた第二阪神線となったら。

 

________________________________________

 

 転換期は1960年だった。この頃、阪神本線の高速化と長大編成化の見込みが付いた事から、前年に第二阪神線の特許は全て失効した。

 しかし、阪神間の利用者は年々増加しており、このまま推移すれば現行の路線だけでは対処出来ない程増加すると見られていた。その為、輸送力増強は今後も必要になるが、路面電車が基の本線の改良ではいずれ限界が来ると見られていた。また、現在計画・建設中の西大阪線(尼崎~西九条~難波)が開業すれば難波方面へも走らせる必要があり、現状では許容量を超えると見られた。

 一方、国道線だがモータリゼーションの波は押し寄せており、定時性の低下が深刻化した。沿線自治体からは廃止要請が出ており、廃止を検討していた。

 

 それが、本線の状況と西大阪線の存在によって変更された。それが「国道線の全線立体化による高速新線への脱皮」だった。当初は「全線地下化」としていたが、当時は淀川などの下を地下化する技術が確立されていなかった為、高架も含めた「立体化」に変更された。

 この案を出した時、内外から歓迎されなかった。社内からは「費用の無駄」、「そこまで需要があるのか」と、外部からは「道路整備の邪魔になる(建設省)」、「並行路線故に許容出来ない(阪急)」、「整備予定の路線と重複する(大阪市)」などと言われた。実際、全線立体化の費用は膨大であり、西大阪線の建設と同時に行う事を考えると現実的では無かった。

 それでも、本線の輸送量の増強を進めているが頭打ちであり、尼宝線や西大阪線の直通用に本数を調整する必要があるのも事実だった。それに、バス転換した場合、阪急バスが参入して更なる競合関係になる可能性も考えると、鉄道にして地盤を維持した方が良いという意見もあった。また、大阪市も「直通運転を行わせてくれるなら並行区間の特許を取り消す」と打診してきた為、一層実現の可能性が高まった。

 尤も、大阪市営地下鉄との乗り入れだが、千日前線との直通が考えられるが、ルートが難波~三宮で西大阪線と本線の完全な並行線になる為、阪神側としては二つ返事での了承とはいかなかった。大阪市側も最終的に反対した為、直通案は破棄された。

 

 大阪府・兵庫県・沿線自治体・建設省との協議の結果、1965年に国道線の立体化計画が次の様に纏まった。

 

・野田~上甲子園は高架、上甲子園~東神戸を地下で建設する。

・規格は本線と同じ全線複線・直流1500V・1435㎜とし(本線の600V→1500Vへの昇圧は1967年)、車輛の規格も本線に合わせる。

・東神戸~春日野道を新設し、梅田~野田と春日野道~三宮を複々線化する。

・土地の関係から待避線は設けられない。その為、運行するのは各駅停車のみとする。

・車庫は浜田車庫を高架化して活用する。

・甲子園線は上甲子園~甲子園を廃止するが、残る甲子園~浜甲子園は存続する。

・北大阪線は廃止してバス転換する。

 

____________________________________________

 

 内容が固まった翌年、早速東神戸~春日野道の特許と全線の工事の申請が行われ、1969年に許可が下りた。同年、東神戸~西灘の併用軌道が廃止され、その区間の地下化工事も始まった。その後、国道線の廃止は史実と同じペースで進み、立体化工事も進められた。

 しかし、1973年のオイルショックの影響で工事が中断した。その後も物価・地価の高騰による工事費の増大、西大阪線への注力、本線の輸送量の増加が鈍化した事などから、工事の中止の検討がされた事が何度もあった。

 それでも、既に工事が進んでいる事(3割完成)、日本鉄道建設公団(鉄建公団)による建設の肩代わりなどから工事の続行は可能と判断され、工事は続行された。1976年に西大阪線が全通した事から、工事が国道線に注力された。この間、本線系統が軌道から鉄道に変更されたが、国道線については軌道のままで建設された。第二次オイルショックがあったものの工事は続けられ、1985年頭に全線の工事が終了した。開業は、同年の5月6日とされた。この日の10年前に軌道時代の国道線が全廃した為、この日が相応しいとされた。

 

 1985年5月6日、遂に野田~上甲子園~脇浜町(東神戸から改称)~春日野道の新線が開業した。名称は新しい国道線という事で「新国道線」となったが、多くの利用者からは国道線と呼ばれ、社内での呼び方も国道線と呼ばれる事が多かった。国道線の駅は以下の通りである。

 見方は、「◎」が乗換駅、「・」が単独駅となる。「:」の後ろが乗り換え路線で、「()」がある場合は乗り換え路線の駅名が異なる場合の駅名となる。

 

◎梅田:国鉄東海道本線・大阪環状線(大阪)、阪急京都本線・宝塚本線・神戸本線、大阪市営地下鉄御堂筋線・住之江線、大阪市営地下鉄谷町線(東梅田)、大阪市営地下鉄四つ橋線(西梅田)

◎福島:大阪環状線

=以上、阪神本線と共用=

◎野田:阪神本線、大阪市営地下鉄千日前線(野田阪神)

・中海老江

・野里

・御幣島

・左門橋

・東長州

◎尼崎玉江橋:阪神本線・尼宝線・西大阪線(阪神尼崎)、阪急伊丹線(阪急尼崎)

・難波国道

・浜田車庫前

◎西大島:阪神尼宝線

・上甲子園

・瓦木

◎北今津:阪急今津線(阪神国道)

◎西宮池田町:国鉄東海道本線(西ノ宮)

・西宮戎

・森具

◎芦屋宮塚:国鉄東海道本線(芦屋)

・津知

・森

・本山中町

・甲南町

◎住吉有馬通:国鉄東海道本線(住吉)

・御影上石屋

・烏帽子町

・大石川

◎西灘:阪神本線

・脇浜町

◎春日野道:阪神本線

=以下、阪神本線と共用=

◎三宮:国鉄東海道本線(三ノ宮)、阪急神戸本線・神戸市営地下鉄山手線(三宮)

 

 国道線の車輛は、新しく5351形が投入された。この車輛はジェットカーの流れを汲むが、廃車の部品を流用したり、本線のジェットカーより性能を低くするなどして製造コストを抑えている。その為、国道線専用の車輛となっている。それでも足りない為、本線から運用を離脱した旧式車で数を揃えるか、完全新車を投入した。

 5351形は2両編成で投入された。朝夕のラッシュ時は併結して4両で運行し、それ以外の時間帯は2両で運行する様に設計されている。これは、軌道線時代の輸送量から日中の輸送量は高くないと判断された事とラッシュ時の大量輸送に対応する為である。

 

 ダイヤは、日中は毎時8本、ラッシュ時は毎時12本の運行となる。各駅停車のみの運行の為、スッキリとしたダイヤになっている。

 運行パターンは、日中の場合は梅田~三宮の全線通しが6本、梅田~上甲子園が2本となる。これがラッシュ時の場合、梅田~三宮が8本、梅田~上甲子園が4本となる。

 

____________________________________________

 

 国道線が開業した年、阪神には目出度い事が多かった。阪神タイガースが1964年以来、21年ぶりのリーグ優勝を果たし、日本シリーズで西武オリオンズを4勝2敗で下して初めての日本一に輝いた。花電車の運行が国道線で行われ、国道線にとって華やかなスタートを切る事が出来た。

 一方で、8月12日の日本航空123便の事故で取締役2名(内1名は球団社長)が亡くなるというアクシデントもあった。

 

 その後、利用者は急増し、軌道線時代以上の利用者が記録された。各駅停車のみの運行の為、所要時間が約1時間と並行する東海道本線や神戸本線より時間が掛かるが、元々軌道故にもっと時間が掛かっていた頃と比べると遥かに早くなった事、車が原因で遅れる事が無くなった事による定時性の向上のメリットの方が大きかった。

 一方で、本線と運賃体系が別な事(初乗り運賃が本線系統より20円高い)と各駅停車鹿運行していない事から、当初予定していた利用者数を下回った(1日平均20万人と予測していたが、85%の17万人)。途中駅からの利用者こそ多いものの、各駅停車しか運行していない事から梅田~三宮の通しの利用者が少ない事と、阪神線との接続が起終点を除くと西大島と西灘だけの事から、本線から乗り換えた利用者が少なかったのが理由だった。

 それでも、新たな高速輸送手段が確立した事で自家用車やバスから切り替えた利用者によって年々利用者は増加しており、阪神国道の渋滞も緩和するといった事も確認された。阪神電鉄バスの利用者の減少こそあったものの、寧ろ短距離路線の充実に舵を切る転機になった。

 

 こうして、開業から順調に運行したが、1995年1月17日早朝に発生した阪神・淡路大震災によって沿線が大きな被害を被った。国道線も無事では済まず、地下区間の被害が大きく、特に西灘~春日野道の各駅が一部崩落した事で、この区間が暫く運休になり、全列車が梅田~上甲子園の折り返しとなった。復旧工事が進められたものの、地下区間が長い事、その区間の多くが何らかの被害を被っている事、本線の復旧を優先させた事で、全線復旧したのが阪神間の路線で最も遅い8月頭になった。

 その結果、多くの利用者をJRや阪急に捕られ、復旧翌年の1日の平均利用者数が過去最低の15万人を記録するなど、最も危ない時期だった。

 

 しかし、復旧後に客足は戻り、2003年には震災前の数値まで戻った。それでも、本線と比較すると利用者の増加は鈍く、今後はどの様にして利用者を増やしていくかがカギになっている。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

関西新路線②:関西急行鉄道本線

 1963年10月1日、奈良電気鉄道(奈良電)が近畿日本鉄道(近鉄)と合併した。この路線が、現在の近鉄京都線である。

 元々、奈良電は設立時から近鉄(当時は大阪電気軌道・大軌)と資本関係にあり、1950年代中頃から近鉄主導による経営再建や近鉄の京都進出も絡んでいた事が、奈良電を合併した理由だった。

 

 合併直前の奈良電は京都~大和西大寺のみの路線だが、それ以外の路線の計画が存在した。小倉から分岐して宇治に至る路線、小倉から分岐して玉造に至る路線、平城駅の京都寄りから分岐して奈良・桜井に至る路線、東寺から京都駅烏丸口への乗り入れ線が計画された。この内、小倉~宇治が本線として計画された区間であり、当初予定では宇治~大和西大寺となる筈だった。

 保有していた免許の内、奈良・桜井への延伸線は1942年に失効したものの、残りは戦後も保有し続けた。その後、1959年に小倉~宇治が失効し、合併直後に烏丸口乗り入れ線が失効した。残る小倉~玉造が失効したのは1967年の事だった。

 

 奈良電が多くの免許を保有していた理由は、既存の京都~大和西大寺だけでは需要が不安定という事情があった。起点の京都と大和西大寺から大軌に直通して奈良・橿原神宮前、沿線の桃山御陵前は年末年始や皇室に関係する日(天長節(※1)や紀元節(※2)など)の需要は高かったが、それ以外の時期の需要は低かった。経営の安定及び大軌・京阪からの独立の為には、長大路線網の整備と都市間輸送の確立が必要と判断された。

 だが、昭和恐慌によってそれは叶わず、最初に開業した区間のみで細々と経営するに留まった。最終的に、大軌の後身である近鉄の軍門に下る事となり、長大路線網は幻となった。

 

 もし、奈良電で最後まで残った小倉~玉造が何らかの形で実現したとしたら。

 

___________________________________________

 

 切欠は、近江鉄道の親会社である国土計画興業(※3)が、1949年に湖東・湖南と京都府南部の観光開発、宅地開発、米原と大阪の短絡を目的とした新線を計画した。計画では、奈良電が保有している宇治~小倉と小倉~玉造の免許を買収し、この2つと近江鉄道本線、国鉄信楽線を繋ぎ合わせようと考えた。残る信楽~宇治は新たに近江鉄道に免許を申請させ、信楽線を買収又は譲渡出来なかった場合は、保有している近鉄伊賀線への延伸線を流用して貴生川~信楽の免許を申請する事になっていた。

 国鉄に掛け合った結果、信楽線については買収も譲渡も認められなかった。これを認めてしまえば他の路線も認める必要がある上、収まりつつあった戦時買収私鉄の払い下げ騒動をぶり返しかねないとして認められなかった。その為、貴生川~信楽の新線建設に変更となった。

 新線の免許だが、こちらはすんなりと認められた。終戦から数年しか経過していない当時、国鉄は戦時中に酷使した設備、特に幹線の更新に注力しており、地方にまでとてもではないが手が回らなかった。運輸省は、地方交通の整備を私鉄に任せる事にした。その為、1951年に貴生川~信楽~宇治の免許が認められた。

 その代わり、以前から保有していた伊賀線への延伸線の免許は破棄された。

 

 貴生川~宇治については、実際に建設出来るかという問題を除いて実現する可能性が出た。

 一方、奈良電の宇治~小倉~玉造の免許の譲渡は難航した。戦前の様に、免許の利権化を運輸省が嫌っていただけでなく、奈良電が近鉄・京阪に吸収されない為の切り札としていた為である。切り札である故、奈良電が手放す訳が無かった。

 それが変化したのは1953年の事だった。この年の9月に発生した台風13号による水害で、一部区間の浸水によって不通となった。その後復旧したが、翌年3月から始まった国鉄奈良線のディーゼルカーの運行開始、1959年の伊勢湾台風による水害などによって、奈良電は出費の増大と収入の減少によって経営が苦しくなった結果、1958年には無配(※4)になった。

 

 これに目を付けたのが国土計画興業だった。経営不振の奈良電の株を買い占め、奈良電が保有している小倉~宇治と小倉~玉造の免許を近江鉄道に譲渡させようとした。その為に、一般株主から株を買い占め、1959年時点で全体の20%を国土計画興業と近江鉄道が保有する事となった。

 その様な中で待ったをかけたのが近鉄と京阪だった。近鉄は奈良電を傘下に収めようと奈良電の株の買い占めを行っており、行動が被っていた。京阪は近鉄と同様の理由に加え、近江鉄道宇治延伸線の沿線を営業圏とする宇治田原自動車(後の京阪宇治交通。2006年に京阪バスと合併して解散)の買収での競合や、おとぎ電車(※5)の並行線となる事が理由だった。

 1959年5月に近鉄・京阪・国土計画興業の3者で協議が為され、国土計画興業は奈良電の経営権の獲得では無く奈良電が保有する免許が目的だとして、「免許さえ手に入れば奈良電の株を譲渡しても良い」とした。実現した場合は並行路線となる宇治~小倉~玉造の免許の譲渡に難色を示した近鉄と京阪だが、ここでごねて奈良電株を保有し続けられるのも困るし、3者の混乱による奈良電の更なる経営悪化はもっと困るので、最終的に近鉄が「国土計画興業が保有する奈良電株を1株800円で売却してくれれば免許を譲渡する」とした。京阪は反対したが、京阪は淀屋橋延伸や江若鉄道の子会社化などで資金的に余裕が無かった事で、反対する事は難しかった。

 最終的に、1960年2月に3者の取り決めによって、次の事が決定した。

 

・国土計画興業と近江鉄道が保有するする全ての奈良電株を1株750円で近鉄と京阪に売却する。

・売却比率は近鉄が7、京阪が3とする。

・売却と同時に奈良電が保有する宇治~小倉と小倉~玉造の免許を近江鉄道に譲渡する(※6)。

・国土計画興業が保有する近江鉄道の株式の内、7.5%を近鉄に、5%を京阪に売却する。

・近江鉄道株の売却価格は1株100円とする。

 

 これによって、懸念事項だった大阪への免許を保有する事が出来た。規格の違いや計画の古さなどから手直しをする必要があるものの、これで計画は大きく進んだ。

 一方で、近江鉄道に近鉄と京阪の影響力が入った事でもある。尤も、近江鉄道における西武グループの影響力は絶大で、近鉄・京阪は株を持つだけであった。

 

 1961年、宇治~小倉~玉造の免許の一部変更と貴生川~宇治の工事が始まった。天ヶ瀬ダムの工事がまだ残っているので(天ヶ瀬ダムの利用開始は1964年)宇治手前の宇治田原までだが、10年前には免許を取得していた為、土地の収容は殆ど完了していた。工事も地元業者を使う事で反発が小さく、資金力の大きさもあり2年後には貴生川~宇治田原が開業した。宇治田原にとっては京都・大阪に繋がるルートでは無いものの、初めて町内に通った鉄道となった。

 その後、工事は順調に進み、1964年に宇治田原~新宇治、1967年に新宇治~新小倉、1971年に新小倉~玉造が開業した。これにより、近江鉄道が計画した大阪延伸線が開業した。

 全通に合わせて、社名を「関西急行鉄道(略称・関急)」と改めた。「近江鉄道」の社名は実態にそぐわなくなった事、大阪進出によって近江鉄道の略称である「近鉄」は近畿日本鉄道と被る事、近鉄や国鉄への当てつけなどが理由だった。

 また、全通によって新宇治と新小倉がそれぞれ「関急宇治」、「関急小倉」に改称された。

 

___________________________________________

 

 開業後、関急及び国土計画(1965年に「国土計画興業」から改称)が行ったのは、沿線の観光開発と宅地開発だった。大阪と繋がる区間は後から開業した為、先に宅地開発をしても定住者が少ないと見込まれた。その為、宅地開発の準備をしつつ、先に観光開発が進められた。

 沿線には天ヶ瀬ダムや信楽、多くの寺社仏閣、やや離れるが紫香楽宮跡などがある為、観光開発する場所は苦労しなかった。また、山がちな地形を生かしてハイキングコースやグラススキー場の整備、山を切り開いてゴルフ場や総合スポーツ施設に整備、そしてグループのプリンスホテルの進出など、西武鉄道グループの総力を挙げての信楽・宇治地域の開発が計画された。

 オイルショックによる影響はあったものの小さく、国民所得の向上による余暇への費用の増加などもあり、観光開発は積極的に行われた。1979年にグラススキー場や野球場、サッカー場などを備える信楽高原総合スポーツ公園が、1982年に信楽プリンスホテルがそれぞれオープンし、信楽は西武の村となった。

 それを象徴する様に、1979年のスポーツ公園オープンのこけら落としとして西武オリオンズの試合が行われた(対戦相手は大洋ホエールズ、結果は4-2で勝利)。これが好評であり、プリンスホテルオープン以降は毎年5月に大洋・近鉄バファローズ・名鉄レッドソックスの内1球団と2試合行われる様になった。

 信楽以外でも、天ヶ瀬ダムの観光開発、宇治地域の観光案内の充実が図られたが、こちらは近鉄や京阪の存在から大きく行えなかった。実際、この地域では関急は最後発であり、参入出来る余地は少なかった。

 

 宅地開発も進められた。1971年に全線開業した事で大阪へのルートが完成し、沿線から大阪に直接行ける事から宅地造成が加速した。山がちな貴生川や信楽、宇治田原では山を切り崩して団地にしたり、鉄道から外れていた久御山や京阪本線と国鉄片町線に挟まれた地域の宅地開発も進んだ。

 また、既存の米原~貴生川の複線化(新線区間は全線複線か複線に対応して整備されていた)や路盤強化、待避線の増設などの設備強化が行われた。米原~玉造の速達列車の運行が行われる為であり、西武鉄道並みの設備を持たせる予定とした。既存線の改良が完了した1975年に特急が運行され、米原~玉造約130㎞を105分で運行した。毎時2本の運行と安価な特急料金が利用者に好評で、沿線の宅地開発や工業団地の整備の機運が高まった。

 関急の特急運行開始の影響は大きく、国鉄は1978年10月のダイヤ改正で一部の新快速を米原発着にし(※7)、1985年3月に湖西線に入る新快速を除いて全て米原発着になった。片町線では、1979年10月に田辺(現・京田辺)まで電化された(※8)。信楽線は、全通による乗客の流出が激しく、赤字92線(※9)に選出され1972年3月に廃止となった。

 京阪は、本線と名古屋線(この世界では名古屋急行電鉄が実現した)の設備強化が行われ、特急の高速化と増便が行われた。また、複々線化も中書島まで計画される事となった。

 

 関急の大阪延伸線の開業で、もう一つ影響を受けたものがある。それは1971年の都市交通審議会答申第13号の大阪七号線と烏丸線と両線を繋ぎ合わせた通称「第二京阪線」である。

 この路線は長堀鶴見緑地線の原型だが、計画では交野市から野江・谷町四丁目を経由して本町に至るとなっていた。烏丸線は、北山大橋(史実の烏丸線の北大路~北山の中間付近)を起点に烏丸通を南下し京都・竹田を経由し三栖(京阪本線の淀~中書島の中間付近)に至る路線であり、計画では更に南下するとされた。南下先は交野市と考えられ、そこで大阪七号線と繋がり一体運用されると考えられた。

 この世界では、関急によって第二京阪線の大阪側は完成しており、大阪七号線の延伸は考えられなかった。近鉄四条畷線も存在する事から大阪市郊外への路線は必要無しと判断され、この路線を活用して関急の市内乗り入れが検討された。

 京都側は、路面電車が存続した事から地下鉄整備に消極的だったが、幹線の烏丸線の輸送量が追い付かなくなった事、京都市南部の新都心へのアクセスなどを考えた結果、地下鉄建設は必要と判断された。しかし、市電が通っている烏丸通の地下に新線を建設する事は難しい一方、市電堀川線(※10)の輸送力強化や設備更新などから、堀川通の地下を通る路線に変更され、起点も上賀茂神社付近に変更となった。

 

___________________________________________

 

 近江鉄道から関西急行鉄道に改称して以降、西武グループの資金力と信用力を最大限に活用して、沿線の開発だけでなく多角化を行ってきた。1980年の関急百貨店の設立(営業開始は翌年)、不動産やバス・タクシー事業の拡大などが行われた。百貨店事業はセゾングループ(※11)と対立していたが、それ以外の分野では協力関係にあり、関急も小売業への多角化は慎重だった。

 事業だけでなく、文化・スポーツ事業への注力も大きかった。前述の観光開発やスポーツ施設だけでなく、1981年には社会人野球に進出し、1984年には米原に大型スケート場の建設とアイスホッケーチームの設立、1987年にはラグビーに進出するなど、西武グループやセゾングループと同様、拡大に邁進した。

 

 拡大戦略はバブル期までは良かったものの、バブル終息後には裏目に出た。地価の下落は含み損を齎し、無軌道な拡張は採算を無視した出店となった。西武グループ及びセゾングループにとっては大きな悩みだったが、関急グループは不動産こそ痛手はあったものの、小売業の進出は小さかった為、大きな損失とはならなかった。

 寧ろ、沿線開発による人口増加とそれに伴う輸送量の増大で、堅実に経営していた。それ処か、滋賀県・京都府・大阪府での影響力拡大を目論み、それらに存在する西武グループ・セゾングループの施設の買い取りを積極的に行うなど、グループの自立を目指した。

 

 2020年現在、西武ホールディングス及び旧・セゾングループによる株式の株式の持ち合いこそあるものの、両グループからの影響力は小さなものになっている。それでも、かつては同じグループであった事から繋がりは維持されており、関急百貨店では西武オリオンズの優勝セールを実施したり、グループ企業同士の懇親会が行われるなどしている。

 また、人口増加が事実上停滞した2000年以降、他の在阪私鉄との関係は徐々に改善されている。2005年にはスルッとKANSAIを導入し(在阪大手私鉄では最後)、近鉄や京阪との乗換駅での連絡の改善などが行われた。

 2010年頃から増加した外国人旅行客に対応する為、英語表記の観光案内の実施だけでなく南海と協力しての関空~京都・滋賀周遊きっぷの販売、観光特急の運行なども行われた。

 滋賀・京都・大阪の3つを結んでいる事から、暫くは安定した成長が見込まれる。人口減が懸念されているが、新たな価値の創出や他社との連携で対応していく事になるだろう。

 

___________________________________________

 

(貴生川までは史実の近江鉄道と同じ)

・甲南深川

・新治

・遊免

・神山

・信楽

・中野

・朝宮

・奥山田

・宇治田原

・天ヶ瀬

◎新宇治(→関急宇治):JR奈良線(宇治)

・蔭山

・新小倉(→関急小倉)

・伊勢田

・佐山

◎上津屋:関急京都線

・内里

・美濃山

・関急長尾

・藤阪

・春日

◎交野市:京阪交野線

・関急星田

・関急寝屋川(→寝屋川公園)

・小路

・四條畷蔀屋

・門真四宮

・三ツ島

・茨田大宮

◎諸口:近鉄四条畷線

・関急横堤

◎放出:JR片町線・おおさか東線

◎深江橋:大阪市営地下鉄中央線

・大今里

◎玉造:JR大阪環状線

↓大阪市営地下鉄長堀線と直通




※1:今上天皇の誕生日。奈良電が存在した時は4月29日(現在の昭和の日)。
※2:初代天皇である神武天皇が即位した(とされる)日。現在の建国記念の日。
※3:後のコクド。西武鉄道、プリンスホテルなど西武鉄道グループのかつての親会社。2006年にプリンスホテルと合併して解散。コクドが近江鉄道を傘下に収めたのは1943年で、当時の社名は箱根土地。翌年に「国土計画興業」と改称。
※4:株主に配当金が支払われ無くなる事。創立から数十年の企業が無配になった場合、経営不振に陥っていると見られる場合が殆どで、株価も低迷する。
※5:宇治川沿いの天ヶ瀬~堰堤を走っていた鉄道。1924年に敷設された専用鉄道が基となっている。法的には児童福祉法に基づく「遊戯物」扱いだった。運行は京阪が行っていたが、施設の保有は関西電力だった。1950年から運行開始したが、天ヶ瀬ダム建設を理由に1960年に廃止。
※6:史実での宇治~小倉の免許が失効したのは1959年8月3日。この世界では、国土計画興業経由で免許が申請された事で譲渡時点でも保有していた。
※7:史実の米原発着設定は1988年3月のダイヤ改正から。それ以前は、1985年3月に一部が彦根発着に、1986年11月に彦根~草津で快速運転が実施された。
※8:史実では1989年3月に長尾~木津が電化した事で全線電化。
※9:史実の赤字83線だが、南樺太と千島に国鉄線が存在する事、それ以外の4島の国鉄線が多い事から、史実よりも選出路線が増加した。
※10:通称「北野線」。京都市電唯一の狭軌路線だった。西洞院通や中立売通など幅の狭い通りを通る為、開業以来の小型車による運行が行われ、集電装置も。史実では1961年8月1日に廃止。
※11:西武百貨店を核とする企業グループ。主な系列会社として西武百貨店の他、クレディセゾン、西友、ファミリーマート、ロフトなどがある。かつては西武鉄道と同じ「西武企業グループ」だったが、創業者の堤康次郎の死後にグループが再編され、次男が西武百貨店を相続した(三男が相続したのが国土計画や西武鉄道などグループの本流)。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

関西新路線③:関西急行鉄道京都線・京都市営地下鉄堀川線・大阪市営地下鉄長堀線

 前話の『関西新路線②』で、近江鉄道改め関西急行鉄道(関急)による米原~玉造の新線が建設されたが、1971年の都市交通審議会答申第13号で京都側の新線建設と大阪側での地下鉄乗り入れが検討された。史実でも同様の計画があり、場合によっては第二京阪線構想は現実していたかもしれない。

 因みに、「第二京阪線」の名称の由来は、1971年当時建設中だった第二京阪道路(全通は2010年)に沿うか地下を通るルートが検討されていた為である。

 

___________________________________________

 

 京都市の地下鉄構想は、1968年から始まる。唯一狭軌だった堀川線の設備更新と輸送力強化、並行する市電烏丸線の輸送力強化を目的に、堀川通に地下鉄を通す計画が立てられた。計画では、上賀茂神社付近を起点に堀川通を南下、塩小路通とぶつかる付近で南東に方向を変えて京都駅に至る。京都からは烏丸通を経由して南下し、鴨川沿いを通りながら京阪国道(国道1号線)に入る。京阪国道を南下して久御山を経由し、関急本線の上津屋に至り関急と直通する。

 当初の予定では近鉄京都線の竹田を経由する事になっており、竹田及び京阪本線の中書島~淀に中間駅を設置して両線に乗り入れる事になっていた。しかし、直通が複雑になる事、近鉄・京阪のターミナルでの売り上げの減少などから、両社が直通に否定的となった。この話を関急に持ち込んだ所、京都への乗り入れに意欲を示した事で、直通先は関急一本になった。

 但し、条件として京都以南は関急の路線とする事となった。これは、京都乗り入れをしたい関急の要望であったが、京都市としても財政問題で揺れていた事もあり、京都で分割され北側は京都市が南側が関急がそれぞれ保有する事となった。

 

 近鉄・京阪としては、関急のこれ以上の拡大に猛反対だった。しかし、京都市は関急の京都乗り入れに賛成であり、沿線自治体からも鉄道が通り京都や大阪の市内に乗り入れられるメリットは大きいとして反対しなかった。

 そもそも、両社が地下鉄乗り入れに賛成の意向を示していればこの様な事にならなかった訳であり、後の祭りでしかなかった。

 

 1974年、京都で地下鉄及び関急新線の起工式が行われ、上津屋・京都・北大路の3か所で工事が始まった。予定では、近鉄京都線を潜った先から上津屋までが高架となり、それ以外の区間では地下線となる。軟弱地盤や遺跡の多さから工事は遅れ気味となり、開業は1981年5月29日となった。この開業も、関急側は全線開業したものの、京都市営側は北大路までであり、北大路~上賀茂神社の開業はもう少し時間が掛かった。

 最終的に、北大路~上賀茂神社が開業したのは1988年6月11日の事だった。

 

 地下鉄の車輛は、史実の烏丸線と同じ10系が導入された。電圧や車体の大きさなどは史実通りだが、関急の軌間が1067㎜の為、地下鉄の軌間も1067㎜となっている。

 地下鉄の開業に伴い、関急にも地下鉄直通用の車輛が増備された。「1100系」と名付けられたこの車輛は、地下鉄10系の車体に史実の東葉高速鉄道1000系の前面を付けたイメージとなる。直通時に導入されたのが試作車と1次車、地下鉄全通時に導入されたのが2次車となっている。

 共に6両編成で投入され、京阪間の各停や急行の運用に就いている。

 

 京都初の地下鉄の開業は、メインストリートである烏丸通の混雑の緩和になるとして歓迎された。また、京都市内から乗り換え無しで大阪市内に行けるメリット、主要観光地である上賀茂神社へのアクセスとなる事もあり、概ね高評価だった。

 一方で、建設費の高さによる高運賃が悩みの種であり、直通客や観光客以外の利用者は決して多くなかった。京都市民にとって市内交通の要は依然として路面電車であり、「地下鉄は路面電車の代替にならない」と改めて認識される事となった。

 関急の京都延伸によって、京阪間に新たなライバルが生まれた。特に、最も近隣かつ滋賀大阪間でも競合関係の京阪にとっては死活問題であり、本数の増加や高速化、付加価値の創造などに着手する様になる。

 

___________________________________________

 

 一方、大阪側は玉造から長堀通を経由して、伯楽橋西詰から大正通に入り大正を経由して鶴町に至る地下鉄との直通計画が立てられた。この路線は輸送量が小さいと見込まれた事から、当初は新交通システムか小型地下鉄での建設を予定していたが、関急との直通を想定した事から規格が変更となった。

 計画は1971年から存在したが、内容が固まったのは1978年だった。関急が実際に利用されるかの判断が付かなかった事、御堂筋線の混雑解消が優先された事などが理由だった。

 1984年に建設が始まり、玉造では直通が行える様に改良工事が行われた。大正~鶴町の地盤の緩さから来る道路と高架の一体工事が遅れた事で、当初の予定だった1990年内の全線開業は不可能となった。1990年3月20日に先に工事が完了した玉造~心斎橋が開業し、「長堀線」と名付けられた。運転開始と同時に、関急との直通運転が開始した。

 残る心斎橋~鶴町が開業したのは1996年12月11日となった。

 

 長堀線の車輛は、コストダウンを意識した設計となっている。当時大阪市交通局が導入を進めていた新型車輛である80系が導入された。この車輛は、御堂筋線や千日前線などの新20系シリーズ、谷町線や堺筋線、中央線の70系シリーズ(※1)の親戚とも言え、同じ1067㎜・直流1500V・20m級車体・4ドアの四つ橋線にも導入された(※2)。

 長堀線の開業によって、関急は1100系(3次車)を増備した。だが、京都市営地下鉄直通時から10年経過している為、主要機器の変更や更なる軽量化が図られた。後に、1100系の試作車・1次車・2次車も更新工事で主要機器を3次車に合わせる事となる。

 

 長堀線の開業によって、関急は大阪市内へのアクセスが実現した。中心街である梅田や難波へは御堂筋線に乗り換える必要はあるものの、百貨店や高級店が多い心斎橋へ一本で行ける事は大きかった。また、古い町並みや廃工場などが多かった鶴町付近の再開発が進み、高層マンションや大型量販店の進出が進み、人口増加に寄与した。

 中央線とは大阪市を東西に横断、私鉄との直通、起点がウォーターフロントという共通点があり、重複している部分も多い。しかし、直通先の違い(長堀線:京都、中央線:奈良)や目的の違いから完全な競合相手とはなっていない。

 

___________________________________________

 

(京都市営地下鉄堀川線)

・上賀茂神社

・北山

◎北大路:京都市電北大路線(北大路堀川)

・上御霊前

◎今出川:京都市電今出川線(今出川堀川)

・下長者町

◎丸太町:京都市電丸太町線(堀川丸太町)

・二条城前

◎四条:京都市電四条線(四条堀川)

・五条

◎七条:京都市電七条線(七条堀川)

◎京都:JR東海道新幹線・東海道本線・山陰本線・奈良線、近鉄京都線、京都市電烏丸線・河原町線(京都駅前)

↓関西急行鉄道京都線と直通

 

(関西急行鉄道京都線)

↑京都市営地下鉄堀川線と直通

◎京都:JR東海道新幹線・東海道本線・山陰本線・奈良線、近鉄京都線、京都市電烏丸線・河原町線(京都駅前)

◎九条:京都市電九条線(九条烏丸)

・十条鳥羽

・水鶏橋

・鳥羽大橋

・下鳥羽

・大手筋

◎三栖:京阪本線

・巨椋池

・御牧森

・久御山

・上津屋

↓関西急行鉄道本線に直通

 

(大阪市営地下鉄長堀線)

↑関西急行鉄道本線と直通

◎玉造:JR大阪環状線

◎谷町四丁目:大阪市営地下鉄谷町線

◎長堀橋:大阪市営地下鉄堺筋線

◎心斎橋:大阪市営地下鉄御堂筋線、大阪市営地下鉄四つ橋線(四ツ橋)

・西長堀

◎千代崎:阪神西大阪線(岩崎橋)

◎大正:JR大阪環状線

・泉尾

・大正区役所前

・千鳥公園

・平尾

・大運橋

・鶴町




※1:史実の66系。この世界の大阪市営地下鉄は直通運転が多い事から(谷町線が京阪と南急、堺筋線が阪急と南急、中央線が近鉄。全て1435㎜・直流1500V・架線集電方式)、導入本数が多い。
※2:この世界の四つ橋線は南海と直通している。大国町~住之江公園は御堂筋線の支線扱いとなっている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

関西新路線④:大阪市営地下鉄今里長居線

 この世界の大阪府は、中外グループによる堺を始めとした泉州地域における経済活動によって、南部の地盤沈下は最小限だった。

 それ処か、泉北の開発が進み、堺市の政令指定都市化は早く、1969年には堺市・和泉市・泉大津市・高石市・松原市・忠岡町の5市1町が合併し、新しい「堺市」が誕生した。2020年現在の堺市の人口は約145万人であり、関西では大阪市・神戸市に次ぎ京都市とほぼ同数の人口を有している。

 今後も、関西は首都圏に次ぐ経済圏として、それに相応しい人口を維持すると見られている。

 

___________________________________________

 

 堺市の拡張によって、大阪市南部の人口も増加した。それによって、周辺道路の渋滞は悪化し、周辺地域から大阪市への放射状の鉄道の輸送量も限界に近付きつつあった。特に、東西間の交通が貧弱な南部の整備が叫ばれる様になるのは必然であり、その中でも鉄軌道の整備は沿線住民が最も熱望した。

 1982年に大阪府と大阪市が共同で構想した「鉄道網整備調査委員会」において、今里長居線の南北部分に当たる太子橋今市~湯里六丁目が検討された。ここまでは史実通りだが、この時に住之江公園~喜連瓜破も追加された。南部の交通網改善が叫ばれていた事から編入された。

 その後、1989年の運輸政策審議会答申第10号において、上新庄~今里~湯里六丁目と住之江公園~湯里六丁目~喜連瓜破の両方が組み込まれたが、両方とも「整備をするか検討すべき路線」という最低評価が下された。前者は、この世界の千日前線は南巽から南進して八尾南に至っている為、部分的とは言え並行路線となる事が評価を下げた。後者は、南部の交通網の整備という目的があるものの、こちらも南海急行電鉄八尾線と並行している事から、緊急の整備をする必要は無いと判断された。

 

 しかし、南部の人口増加は早く、1994年には住之江公園~湯里六丁目~喜連瓜破の特許が許可された事で、1996年に整備される予定だった。それが、前年に発生した阪神・淡路大震災の影響で延期となり、その間に上新庄~今里~湯里六丁目の沿線予定地での宅地開発が進んだ事で、同時に整備される事となった。

 また、別の路線とするよりも1つの路線とした方が効率的であるという意見が多かった事、井高野経由に変更した事などもあり、1999年に住之江公園~湯里六丁目~今里~井高野~岸辺というルートに変更された。規格は、環状線としての性格が強い事、それ故に輸送量は決して多くないと見られた事、新技術導入から1435㎜・直流1500V・鉄輪式リニアモーターカーとされた。

 

 工事は1998年に住之江公園側から始まった。翌年には湯里六丁目でも工事が始まり、2000年には湯里六丁目~今里~井高野での工事も始まった。井高野~正雀は阪急との協議が遅れており、工事開始は2003年となった。

 工事だが、多くの場所で遅れ気味だった。後発故に地下深く掘る必要があり、予定地の多くが軟弱地盤である事から、細心の注意を払う必要があった。また、道路幅が狭い場所もあり、その様な場所では上下にトンネルを建設するなど、今までとは違う工事を行う事が多かった。その為、当初の予定では4500億円と見積もられていた建設費だが、最終的に7000億近くも掛かる事となった。

 それでも、2005年8月21日に最初の区間である住之江公園~湯里六丁目が開業した。開業前に、新線に「今里長居線」の名称が付与された。その後は順次開業し、2006年12月24日に湯里六丁目~今里、2007年10月28日に今里~北江口、2013年3月23日に北江口~岸辺が開業した事で全線が開業した。

 

 車輛は、2005年の開業時に導入されたのが史実の70系であり、その後延伸による増備が行われ、2次車以降は史実の80系となる。

 建設費が高騰した事から当初予定されていた自動運転は取り止めとなり、2次車以降はATO(自動列車運転装置)に関する設備は設置されていない。だが、導入した場合を考慮して、設置スペースは確保されている。また、製造コストの削減から、2次車以降は直線が多用されている。これにより、全線開業時に増備された4次車と1次車とでは15%のコスト削減に成功している。

 

___________________________________________

 

 開業した今里長居線だが、利用者はそこそこいるのだが、決して多くない。開業前の予測では1日の平均利用者数を17.5万人と見込んでいたが、開業初年度は9.8万人と10万人を切る数字だった。その後は少しずつ増加しているが、2020年現在でも12.5万人と開業前の予測に達していない。

 理由は複数あり、他路線への乗り換えを重視して繁華街など集客力のある場所を通っていない事、並行するバスの存在、運賃の高さが挙げられる。これらの要因から、バスの利用者が地下鉄にシフトせず伸び悩んでいる。建設費の想定外の高騰もあり、大阪市交通局の赤字を増加させた元凶と見做される事が多い。

 

 一方で、今までバスしか公共交通機関が無かった場所に大量輸送機関である地下鉄が通った影響は大きかった。沿線の再開発や大型量販店の進出、地下鉄へシフトする利用者の増加による渋滞の減少、駅周辺の駐輪場の整備による不法駐輪の減少などが見られ、少しずつではあるが利用者は増加している。今里長居線と連絡している路線の混雑率も数%から10数%ではあるが低下しており、別路線へのフィーダーとしての機能を発揮している。

 それでも、大阪市高速電気軌道(2018年4月1日に民営化。愛称は「大阪メトロ」)の路線では最も利用者が少ない路線であり、増便はされているものの6両化の目処は立っていない。沿線人口の増加も鈍化しており、急速な高齢化の兆候も見られており、「大阪メトロの中で、将来性が一番良くない」という評価が下されている。利用者増の具体策は中々出ず、沿線の開発は管轄外である事から、将来性は今一つと言われている。

 

___________________________________________

 

(大阪市営地下鉄今里長堀線)

◎住之江公園:大阪市営地下鉄御堂筋線支線、大阪市交通局南港ポートタウン線

・住之江区役所前

・千躰

◎長居:JR阪和線、大阪市営地下鉄御堂筋線

・長居公園東口

・湯里六丁目

・中野

・今川

◎東部市場前:JR関西本線

・大池橋

◎今里:大阪市営地下鉄千日前線

◎緑橋:大阪市営地下鉄中央線

◎鴫野:JR片町線・おおさか東線

・蒲生四丁目

◎関目成育:京阪本線(関目)

・新森古市

・清水

◎太子橋今市:大阪市営地下鉄谷町線

・だいどう豊里

・瑞光四丁目

・北江口

・井高野

◎正雀:阪急京都線

◎岸辺:JR東海道本線



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。