サイコキネシス文芸部 (氷の泥)
しおりを挟む

01 浮いた先輩

 蜜柑が人間の腹部を貫通することで殺人が行われるとか、そんなことあり得るのだろうか。……あらすじを読んで衝動買いしてしまった文庫本を読みながら、ぼくはいつも通り先輩が来るのを待っていた。

 日当たりの悪い位置にあるせいか、あまり人の寄り付かない校舎の隅。その角部屋である文芸部部室には、今のところぼくしか来ていない。そして先輩がここへ来たとしても、それ以上部員が来ることはない。我が校の文芸部は、九割方幽霊部員で構成されている。

 ぼくが本を長机の上に置いて、時計を見たのとまったく同じタイミングで、ガラガラと無駄に大きな音がした。建付けの悪い部室の引き戸が開く。

「いつも早いね」

 幕のように垂れ下がる制服のスカートが、いつ見てもぼくに妙な違和感を寄越す。今この瞬間、部活の皆勤記録を更新した先輩、あるいは部長は、当然のように宙に浮かんでいた。隣に鞄も浮かんでいる。

 彼女には肩から先の両腕と、太ももより先の両足がなかった。

「どうも」

 会釈するぼくを満足そうに眺めて、彼女は自分の意思で動く風船みたいに、ふわふわとぼくの向かいの机に向かう。

 使用者が二名しかいない文芸部部室には、会議でもするかのように長机が四角形に配置されていて、ぼくも先輩も必ず壁を背にして座った。外の景色が見える窓と、廊下に通じるドアがある方向には、もはや椅子さえ置かれていない。部室に入って右側に座るのは、決まってぼくだった。特に理由はないけれど、いつの間にかそうなっていた。

 椅子を引いて、その上にストンと座る先輩。過去、その様子に「人形を置いたみたいだ」と言ったら、恐れ知らずか、と返されたことがある。

 浮いていることから察せるが、先輩は超能力が使える。サイコキネシス、念動力だ。触れずとも物を動かせる上、その力は人間離れした怪力でもある。彼女には見えない腕と足があるようなもので、五体満足の人間だって誰一人として、彼女と喧嘩して勝てるやつはいないのだ。

「それ、何読んでるの?」

「ミステリです」

「ミステリ好きだっけ?」

「いいえ、特には」

 栞代わりの「話題の新刊!」と書かれ広告じみた紙切れが、ちょうど文庫本のページ半分あたりの箇所に刺さっているのを見て、先輩はぼくに本の話題を振ってきた。先輩は好意的な方の意味で、教室で美少女キャラの絵を描く、オタクの生態を観察するような表情を見せている。

「蜜柑でね、人が死ぬんですよ」

「ほう?」

「しかも密室殺人なんですよ」

「ふむ」

 ぼくは先輩から見て正位置になるように、本を持ち上げて表紙を見せた。

「それでこのタイトルですよ」

「なるほど」

 蜜柑で人が死ぬ密室系ミステリの、そのタイトルは、「アルミ缶の中にあるミカン」。表紙絵では、細身のアルミ缶の中に懐中時計が入っていて、時計の文字盤にはオレンジの絵が載っている。

「衝動買いしちゃいました」

「面白いのか」

「まだわかりません」

「半分も読んだのに?」

 少なくとも現時点、つまらなくはない。けれども、探偵役は今のところ蜜柑を食ってばかりで、殺人のトリックはさっぱり明かされない。これでトリックの真相がそれこそ「サイコキネシスによる怪力で、部屋の外から犯人は超高速で蜜柑を動かし、被害者の腹を貫通させたのです」とかだったら、ぼくはもう少し理性的に本を選ぼうと反省することになる。

 いや、そもそも蜜柑って、高速で動かせば人体を貫通するのか? この本に納得のいく結末が果たして用意されているのか。それは定かではないが、今のところ読むのが苦とは感じていない。

「半分読んだだけじゃわかりませんよ」

「ふむ、まぁそういうものか」

 言って先輩は、ぼくの本に興味を失ったようだった。聞いたところ先輩は、本を一冊読み終えた経験がないらしい。強いていえば、小学生の頃に絵本を読み切ったことはあるらしいけれど。

 ぼくの向かいで、学校指定の鞄が独りでに開いて、中からスマホが飛び出してきた。トースターから飛び出るパンか、そうでなければソシャゲのガチャ演出を連想する。

「五月ってさ」

 見えない力で顔の高さに固定されたスマホを見ながら、先輩が呟く。表情は隠れて見えないけれど、スケジュール帳でも確認しているのだろうか。

「なんでこう、「必要?」って感じがするのかな」

「五月病って言葉もあるくらいですからね」

 第六感で、もう今日は読まないだろうと悟って、蜜柑のミステリは鞄にしまう。

「わかるよ。一年が十二月周期なのは、偉い人が決めたせいじゃないって。決めようと決めなかろうと、地球の仕組みはそうなっているからね」

「はい」

「けど、出会いと別れの四月、梅雨の六月、夏到来の七月とあって、五月はなに、五月病の五月?」

「中間テストの五月じゃないですか?」

「必要かな?」

「必要でしょう」

 先輩は常時、なんとなく勉強が出来そうなオーラを出している。これで彼女が赤点補習の常連なら、それはそれでギャップとして良いのだろうけど、そうなるとぼくはテスト明けからしばらく、部室で一人になってしまう。一人で本を読むだけなら、家に帰ればいい。

 けれどやっぱり、補習から命からがら解放された先輩がどんな顔してここに来るのか、一度見てみたい気もした。なんだかもしそうなっても、今日と同じ様子で来そうだけれど。

 先輩のスマホが、さっきの光景を逆再生するかのように鞄へしまわれる。それをチラとも見ずに、本人はため息を吐いた。

 正直、彼女の容姿は、見るたび無駄に美人だと思う。

来栖(くるす)

「はい」

「何か面白い話をしてくれ」

 様式美だ、と思った。ぼくにはその台詞が、始業を知らせるチャイムのような物に思える。何度も聞いていて、またその意味を知っているから。まだ彼女と知り合ってひと月程度なのに。

「そうですね。……最近思ったことだと、あまり愉快な話ではありませんけど、どうします?」

「今さらだよ」

 まぁ、そうだ。ぼくはかつて先輩から「恐れ知らずか」と言われたけれど、あれを言われてからわずか数日後、先輩の中でぼくのあだ名は「サイコ野郎」になっていた。サイコキネシスからサイコパス呼ばわりされるとは、なかなか面白い構図だと思う。

「卑猥な話になりますけど」

「いいって」

「じゃあ、話しますけど。……あのですね、世の中にはですね、先輩のような人に対して、「軽くて」……こう……オモチャみたいだって台詞が出てくる、そういう本があるんですよ」

 先輩の言う「面白い話をしろ」は、より正確に言うと「お前にしか出来ない話をしろ」という意味だ。ぼくは名付けられたあだ名に恥じぬよう、毎度その意図を汲んで話をしている。今回もそのつもりだ。

 が、今回、先輩はとても渋い表情を見せた。小規模なトロッコ問題が実生活に降りかかってきたかのような顔だ。

「……なんだろうな、不思議な気分だよ。言葉を選べないわけじゃないんだよな、君も」

「恐縮です」

「ああ、うん。褒めた褒めた」

 腕があれば心のこもっていない拍手をしていそうな、白けた顔で賞賛してくれる。もちろん百パーセント褒められたわけではないが、どうやら経験上、その真逆というわけでもないらしいことをぼくは知っている。

「で、なんですけど」

「うん」

「先輩がそういう本を目にしたら、やっぱり傷ついたり、怒りが湧いてきたりするものですか」

 両手を机の上に置いて組み、無意識のうちに前のめりになる。この部屋の配置がそうさせるのか、なんだか会議を行っているような気分だ。椅子に座るというより置かれているように見える先輩相手では、どちらかというと尋問に見えてしまうけれど。

「うーん、……いや、怖いかな」

「あ、そうか」

「そう、だってそれを書いたやつは、普通に生きているんだ。私が「ハンカチ落としましたよ」と声をかけた相手が、その本を書いた人だとも限らない。そう考えるとやっぱり、世の中が恐ろしくなってくるよ」

「なるほど」

 恐ろしいとは言いつつも、先輩の言葉にはまったく感情が宿っていなかった。個人的には心にもないことを、義務感か何かで口にしているような雰囲気だった。

 ぼくの質問に答えながら、何かを想像するように斜め上を見つめていた先輩が、スっとぼくに目を合わせてくる。

「前にも聞いた気がするけれど、君は私からそういうことを聞いてどうしたいんだ?」

「どう、と言われても。知りたいだけです。興味深いんですよ、先輩は」

「ほう〜、そうかそうか」

 小声で、サイコ〜と聞こえた。おちょくるような声だった。

「まぁ、私の場合は危険な輩に絡まれても、捻り潰せば良いだけだからな。怖いっていうのも、たかが知れている」

 言って、チラとぼくを見る。物理的な意味で、ぼくは先輩へ必要以上には近付かない。何かあったら本気で捻り潰されかねない。先輩の目の前でスチール缶が、気圧に負けたかのように押し潰れる光景を見たことがある。

 けれどあれは、今思えば少しニュアンスが違った。ぼくはその光景を見たのではなく、見せられたのだ。

「ところで君は」

 身動ぎしながら、さして重要でもなさそうに、

「その本をどういう経緯で見たんだろう?」

 窓の外へ視線を向けながら、そう聞かれた。

「経緯と言われましても、先輩。ああいう物は、インターネットでも意外と乱雑に置かれているんです。興味の有無に関わらず、目に入る表紙は多様で」

「ふむ」

「で、まぁ、偶然目に入って。するとこう、あれじゃないですか。それでクリックしましたね」

「あれとは?」

「あれとは、つまり、だから、……あれです、連想ですよ」

「私を?」

 ぼくを鼻で笑う横顔だった。

「聞かれたことに答えただけですよ」

「ああ、仕方ないだろうね。私もドラマなんかでサイコパスを見ると、君を思い出す」

 みんな君より顔がいいんだ。そう言って先輩は笑った。そりゃ俳優なんだからそうだろうと思ったし、何なら彼らはサイコパスではないとも思った。演技なんだから。

 一方でぼくは、たぶん、本物なんだろうと思う。冗談か本気かはさておき、ぼくをサイコと呼ぶのは先輩だけではないし、ぼくは先輩の退屈を解消するためだけに、今回の話題を出したわけでもないのだ。

「……先輩」

「うん?」

「ちょっと言いたいことがあるんですけど」

 生半可なことではないぞ、という気持ちが伝わったのか、横顔だけ見せていた彼女がぼくに向き直る。

「うん。……なに? こわいよ、改まられると」

「気に触っても殴るくらいで許してもらえませんか」

「わかった」

 即答だった。サイコキネシスは、使う側に「感触」がないからだろうか。先輩はどうやら暴力に躊躇がない。

「そのー、気になっちゃったんですよね」

「なにが」

「本当にその、……軽いのかなって」

 ……先輩は、ぜんまい仕掛けのようにゆっくりと、また窓の外を見た。ぼくもそれに追従した。外は曇り空で、一面に広がる、鬱屈とした灰色があった。

「足りないな」

 静かながらも、叩きつけるような台詞だった。

「足りない?」

「私から君への、好感度が」

「……まぁ、そうですよね」

 この世は極論、愛か金。先輩が物理的に軽いかどうか、それを確かめるには、ぼくには何もかもが足りなかった。

 そんなに露骨に落胆の色が顔に出たのだろうか。先輩はこっちを見るなり、またぼくのことを鼻で笑った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

02 ゴースト

 無事受験を突破して高校生になったものの、部活は中学と同じで帰宅部を選ぼうとしていた。同じと言っても、中学では初めの頃だけ、一応文芸部に所属していた。で、人間関係でいろいろやらかして、それからはずっと帰宅部だ。確か一年目の夏休みに入るよりも早く、ぼくは帰宅部デビューしていたと思う。

 新入生を自らの所属する部に誘うべく、それぞれユニフォーム等を身につけた先輩たちが、部の紹介という名のチラシを配りながら、あの手この手のトークで新入部員の確保に乗り出している。……控えめに言って、あまり好きではないノリだった。

 勧誘というのは基本的に、向こうが得をするようになっている。ギャンブルと同じだ。言われるがまま入部して、そのおかげで楽しい学生ライフを送れたとして、それは単なるラッキーでしかない。低い確率の当たりを偶然一度で引き当てただけの話だ。

 思い返してみれば、中学の文芸部も、誰かに誘われて入ったのだった。それが当時の何だったのか、友達だったのか先輩だったのか、はたまた先生だったのか、今となっては忘れてしまっている。退部後ほとんど関わらなかったから。

 下校するために廊下を抜けていくぼくの顔には、たぶん嫌悪感がそのまま出ていた。そうでなければ体格が物語っていた。運動部の人たちは、ぼくのことが見えてないフリをし続けている。きっと金を積まれたって入部しないだろうから、屈強な先輩たちの判断はとても正しい。お互い幸せになれる素晴らしい判断だ。

 が、しかし、文化系はちょくちょくぼくにも声をかけてくる。……思うに、ぼくは入る高校を間違えた。部活動が盛んだとは聞いていたけれど、興味がなければスルーすればいいだけだと思っていたし、文化祭や学校見学会の時のノリは、宣伝のため特別派手なだけだと思っていた。

 それが今、ぼくはただ家に帰りたいだけなのに、ぼくを無視する運動部の群れを通り過ぎたかと思えば、今度は合唱部とイラスト部から声をかけられ、それを断ったという具合である。歌や楽器は運動部だと主張する人たちがよくいるけれど、こういう時にぼくへ声をかけるようだから、準運動部扱いされてしまうのだ、まったく。

 一年生の教室がなぜか一階ではないのは、今日の日のための陰謀なのではないか。そんな疑いと共にようやく一階まで降りてきたぼくは、やっとこのアウェー空間を脱出できると思ったのだけれど……。

 なんとなく廊下の隅を見て、目を疑った。腕も足もない女性が、制服を着て浮かんでいるように見えたから。けれど、それは「そう見えた」というより、実際そうだった。

 彼女のまわりに、チラシが舞っている。散らかされ風に踊らされている……という意味ではない。美しく舞っているのだ、独りでに、自分たちを誇示するみたいに。

「文芸部に入部したい人〜、いないか〜? 校内一気楽な活動を約束するぞ〜。それとそう、今なら待遇もいい。歓迎するぞ〜」

 腕と足が無く、宙に浮かぶ女生徒。彼女を中心として、自立して動き回るチラシ。近未来SFを感じさせる光景のわりに、チラシのデザインは古臭かった。

 そして本人からは、微塵のやる気も感じられない。今なら待遇がいいとは、部員の数が少ない、下手すれば廃部もありえるということだろうけど、彼女からは「いっそ廃部になってしまえ」というような退廃的オーラを感じる。

 ……いや、文芸部? あの妙な女性は文芸部所属なのか? 手品部でもなく、演劇部でもなく、CG技術に関する部活動でもなく?

「あ、おーいそこの少年」

 彼女と目が合った。「ぼくのこと?」と自分を指さしてみると、さして歓迎していなさそうな表情で頷かれた。

「なんですか」

「少年、文芸部に入らないかい」

「入りません」

 頭を下げて、回れ右をする。

「あ、ちょっと、話くらい聞いてくれてもいいじゃないか」

「入部しないのに?」

「いや、きっと聞けば気が変わる」

「変わりません」

 ばっさり切ったら、振り返らず去る。近くで見ると彼女は思っていたよりも美人で、ぼくも男なわけだから美人は好きだけれど、しかし拾わない猫には見向きもするなってことだ。

「ま、待ってくれ。頼む、助けてくれ!」

 さっきまでやる気のなさそうだった彼女が、妙に切羽詰ったような声を出すもので、思わず振り返ってしまった。

「新入部員が一人も取れないと、廃部になってしまうんだ。頼む、人助けだと思って」

 手があれば顔の前で手のひらを合わせていそうな、悲痛な表情だった。

「廃部になると、困るんですか?」

「え? ああ、それなりに自由に使える空き教室を没収されるのは、なかなか困る」

 やられた、と思った。たぶんこの人はやる気がないだけで、その気になれば上手く媚びを売れるタイプの人間だ。信じられないほど詰めは甘いけれど。

「お気の毒に」

「いや、入ってよ、頼むから。君も空き教室の半分が手に入るんだぞ? 悪い話じゃないはず」

「いりません。……え、ちょっと待ってください。半分って、他の部員は?」 

「ほか? ああ、ウチのメンバーは基本的に、これさ」

 彼女がそう言った途端、舞っていたチラシが捻れ、集まり、彼女の肩から連なって、腕の形を成した。

 安い紙で出来た腕は、「うらめしや」というように手首を曲げていた。

「……いや、なんなんですかこれ」

「これ?」

「浮いてますし、いろいろと」

「あー、これはね、超能力だよ」

「は?」

「私、超能力者なんだ」

 途端、ぼくたちのいる廊下の窓が勝手に開き、そして閉じた。また開き、再び閉じる。ばたんばたんと音を立てて、勢いよく窓が往復している。よく見ると、一往復ごとにちゃんと、鍵の開け閉めまでしていた。

 かと思えば同時に、天井の電球が勝手に外れたが落下はせず、それは浮かんだまま再び取り付けられた。スイッチは遠くにあるはずなのに、電気が不規則に、なおかつリズミカルに、チカチカと点滅した。

 腕の形になっていたチラシは再び散開し、やがて先輩の背後で大きなハートマークとなる。そしてとどめとばかりに、ぼくの鞄が勝手に開いて、中から教科書が全て出てきては宙に浮かび、フォークダンスみたいにくるくる回り始めた。

「まぁ、どれだけ見せても、信じたくない人は信じないのだろうけど」

 その台詞が合図となったのか、全ての怪奇現象はピタリと止まって、教科書は全て元通りの並びで鞄の中に帰ってきた。

「今入部すると空き教室が使えて、超能力者とお喋りできる。どうだろう少年、悪い話ではないはずだけれど」

 そう言う彼女の顔には、これっぽっちも期待の色がなかったように思う。これほど割り切ったダメ元は初めて見た。

「それは魅力的ですね。ただ生憎」

「うん」

「中学の頃、人間関係でトラブって部活辞めたんですよ。それも文芸部を」

「へえ」

 空き教室が半分使えるというのは、まさか仕切りを置いてそれぞれ個室化させるってわけじゃないだろう。何と言っても今入部すれば、お得なことに、超能力者とのお喋りが特典として付いてくるのだから。ということは、それはつまり、ぼくが一番関わっちゃいけない部活だということだ。

 じゃあそういうことで、と再び回れ右をしようとしたぼくを、彼女の言葉が止めた。

「どんな風にトラブったの?」

「え、聞いてどうするんですか」

「気になっちゃって」

 ……もしかして、ぼくはかまってちゃんに見えたのか? ロクにお互いのことを知らないはずの先輩は、それっぽく友好的な態度を見せて、ぼくを入部させる方向に持っていくつもりなのかもしれない。

 さすがにそう一貫して、自分の都合のための物として扱われると、ぼくも良い気にはなれない。どうせ入部はしないわけで、こちらもそこそこ迷惑被っているのだから、言ってしまってもおあいこってことになるんじゃないだろうか。

 だとすると、わざわざ隠すほどでもないと思った。

「人の心がないと言われました」

「部の人に? そうは見えないけど」

「でも先輩を一目見た時、幽霊かと思いましたよ」

 ……本当のことをそのまま伝えたのだけれど、ぼくは一瞬、先輩には聞こえなかったのかと思った。妙な間があった。

 そしてぼそっと、

「いや、人間だぞ」

 と言われる。「何言ってんだコイツ」という顔で。

「……いや、そうじゃなくて。だから、最初見た時、化け物かと思ったんですよ」

「いや、だから人間だって。超能力者も人間だと、少なくとも私は思っている」

 ……え、人の心がないのか?

 かつて友人だったか先輩だったかがぼくに言った台詞を、気付いた時には心で反復していた。ぼくにそれを言った人間は、こんな気持ちだったのか……?

「ああわかったぞ、今のようなことをところ構わず言い散らかして、それで弾き出されたのか。あはは、馬鹿だ!」

 先輩は笑った。指があれば、指さして笑っていただろう。

「あ、ごめん。悪かった。笑い事じゃなかった」

 突然真顔に戻った先輩にはとりあえず、ぼくの機嫌を取ろうという気がサラサラないことを理解した。だとすると「気になっちゃって」と言ったのは、本心そのままだったのか。なんというか、なんとも、奇怪な人だ。

「もしも君が、私とのコミュニケーションを心配しているなら、それはたぶん大丈夫だよ。私を避ける人間は五万といるけれど、私が避けた人間は一人もいない」

「……そうですか」

 だから、入部しろと言うのか。別にぼくは話し相手なんて求めていないのだけれど。

 けれど、どうやらマジ物らしい超能力者を目の当たりにして、しかもそれが美人と来たら、まったく興味が湧かないわけではなかった。ここを逃せば、遠い将来今日の日を思い出した時に、自分は漠然と後悔するのではないか。二度とない機会を逃してしまったと、振り返るたび悔やむのでは。

 そんな風に思いはしたけれど、けれどその考え方は、負けがこんできたギャンブラーのそれでもある。

「あー、えっと」

「うん?」

「一度持ち帰ってもいいですか? 入部の件」

「ああ、もちろん」

 それから先輩は思い出したかのように、いや、たぶん実際に今思い出して、去っていくぼくの背中に向けて言った。

「あ、そうそう、入部しても別に顔出す義務とかないから、気楽にねー!」

 言うのが遅すぎる、とは思ったものの、言われてみれば納得だった。文芸部のメンバーの大半が、幽霊部員であることにも頷ける。出席しなくてもいいなら、そりゃそうなるだろう。

 そうなると本当に、部室はあの人の天下なのだ。超能力がある代わりに、なぜか四肢を持たない、今まで見たことのないタイプの性格をした美女が。

 それから三日後、ぼくは文芸部に入部した。当日、先輩の顔には絶対「あ、ラッキー」と書いてあったように思う。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

03 飾り

 六月。外は大雨だった。ぼく以外誰もいない部室は静まり返って、止む気配のない雨音がよく聞こえる。……傘を忘れたぼくとしては、空なり神なりに嘲笑されるような気分だった。

 突然、そんな雨音をかき消す騒音がガタガタ鳴る。部室のドアが揺れる音だ。本当に「騒音」と呼べるレベルでガタガタいうので、思わず眉をひそめてしまった。建付けはなんとかならないのだろうか。

「今日も早いねー」

 知り合ってから二ヶ月、先輩のその台詞はもはや挨拶のようになっていた。おはよう、こんにちは、こんばんは、全てを表す便利な言葉だ。あるいは定型文か。

「先輩が赤点取るところ、見てみたかったんですけどね」

「三年生だぞ? 私は。勉強くらいちゃんとするさ」

 肩から先がない先輩は当然、ペンを超能力で動かしてテストを受けたのだろう。超能力とは、使う側にとってどういう感覚の物なのだろう。字を書くというのは、結構複雑で繊細な動きのように思えるけれど。

 何はともあれ、ぼくたち文芸部唯一の出席メンバーは、両者とも中間テストの赤点を無事に回避したのであった。テスト返しがあった週、何食わぬ顔で先輩がここへ来た時には、正直ちょっとがっかりしたものだ。なんだ、やっぱりイメージ通りかって。

「来栖には、私がどう見える?」

「え?」

 いつもの席に座った先輩が、何がおかしいのか少しニヤついて言う。

「君、私に赤点を取ってほしかったんだろう」

「はぁ、まぁ、そうですね。補習明けここに来る先輩の顔は、見てみたかったです」

「本当にいい性格しているな。で、実際どうかな。私はこうして無事だったわけだけど、「やっぱり」と思ってないかな」

「思ってますね」

 これで先輩が「なんとなく勉強出来そうオーラ」に無自覚だったら、なかなかの天然だなと思ってしまう。そんなことがあったら、自分のことを天才だと思ってるバカと、ほとんど意味合いは同じじゃないか。

 だから、

「よく言われるんだ、根室(ねむろ)は勉強出来そうだなって」

 と言われても、でしょうねとしか思わなかった。先輩がバツの悪そうな顔をしなければ、それが嫌味に聞こえる可能性にさえ気が付かなかっただろう。

 それよりもむしろ、先輩が自分の名前を口にすることが、なんだか面白かった。失礼といえば失礼な感想だけれども。

「ぼくもそう思ってます」

「だろうね。……けれど実際はね、これでも必死に頑張っているんだよ。だから来栖、私は絶対に赤点を取らないけれど、けれどもしも、うっかり取ってしまったら。……その時に後輩から笑われでもしたら、いくら私でもつらいんだぞ……?」

 そう言って、目を伏せた彼女を見て。あれ、こんな表情見たことあったか……? と思った時には、舌が動いていた。

「笑いませんよ」

 先輩はニヤりとした。

「良い物を見たと思うだけだって?」

 少し迷ってから頷くと、先輩は「ぷッ」とツバを吐くフリをした。ラマか。あれ、アルパカだっけ?

「いいさ、背水の陣ってやつだな」

 かっこいい言い回しとは裏腹に、先輩はあざとくも唇をとがらせていた。それを見て、ふと、そういえばこの人彼氏とかいないのかな、いたことはないのかな、と想像してしまった。いてもいなくても、ここではあまり関係ないけれど。

「あのですね先輩」

「何かな後輩」

「ぼくはですね、人の慰め方を知らないんですよ」

 きょとんとされた。むしろこのぼくが、人を慰めることに限って達者だったら、それより不気味なことは他にないだろうに。

「だから先輩がそう言うなら、本当に絶対赤点とか取らないでくださいね」

 と付け加えても、依然として先輩の、機能停止したような表情は変わらない。そしてそのままの顔で、

「来栖」

 と、ぼくの名を呼ぶ。

「はい」

「ごめん、冗談のつもりだった。君に笑われたって痛くも痒くもないよ、私は」

 冗談と言うわりに、いつの間にか先輩の表情は、今日一番真剣だった。まぁ、今日先輩と過ごした時間は現在進行形で、たったの数分しかないのだけれども。

「そんなマジな顔して冗談言う人がいますか」

「いや、何を乙女みたいなこと言ってんすかって反応を期待していたんだ。それか、つらいならその様子も見てみたいって言われるか」

「ぼくを何だと思ってるんですか」

 候補に上げられたうち、後者の方さえあり得ると思われるのも、まぁ仕方がないのかなと思うところはある。ぼくにはぼくの倫理観があるのだけれど、それが理解されるとは思っていない。何せぼくも「常識的倫理観」ってやつがちっともわからない。

「いや、悪かった、本当にその通りだ。ちょっと君のことを軽く見すぎた。君も人間なのに」

「な、なんですか急に」

「君が私を慰める可能性なんて、頭になかったんだ。……ごめん」

 ……先輩が来る数分前を再現したような、雨音未満の静寂が訪れる。その異様な静けさがぼくには、今の状況は間違っていると叫んでいるように感じられた。

 思えば入部から二ヶ月、ぼくと先輩はほぼ毎日この部屋で顔を合わせては、何かしら話をしていて、二人揃っているのに、これほど静かになったということはなかった。

 彼女がぼくに対して今そうなっているように、ぼくの方も少し、先輩のことがわからなくなってしまった。

「いや、ぼくだってさっき言われるまで、先輩を慰めることなんて想像もしませんでしたよ」

「それはよかった」

 そう言って笑う先輩が、なんだか本当にほっとしていそうで、いたたまれない。本来、先輩がぼくを何だと思おうと勝手なのだ。そうでないと、ぼくが先輩に何を話すのも勝手だと言えなくなってしまう。

 ぼくを何だと思っているのかなんて、それこそ冗談で言ったのだ。先輩がぼくを何だと思おうと、ぼくはそれには興味がない。

「さて、気を取り直して。今日もお願いしようかな」

「えっ?」

 あまりに唐突で、肩でも揉めと言われたのかと思った。それで出た素っ頓狂な返事に、先輩もほんの少し戸惑ったように見える。

「面白い話だよ、来栖後輩。私たちといえばそれじゃないか」

 そう言われると、「確かに」と肯定せざるを得ない。今日まで先輩とはそれなりに色々な話をした。というかそれは大抵、ぼくから先輩への質問だった。初めの頃は顔色を窺いながらだったけれど、入部から一ヶ月も経った頃には、どうもこの人は何を言っても機嫌を損ねないし、傷つきもしないらしいと分かってきていたものだ。

 いつの日か、外を歩けばきっと注目されるだろうけど、人の視線は嫌じゃないんですかと聞いた日があった。というか「歩く」という表現は正しいのかとも聞いた。返ってきた答えは「視線がストレスになるような人間が君と話していたら死んでしまう」「便宜上「歩く」と呼ぶ」とのことだった。

 先輩と話すのはとても楽しかった。けれど、

「ぼくたちと言えば、というのはわかりますけど。しかし先輩、ぼくらもかれこれ二ヶ月ですよ。さすがに尽きますって、「面白い話」も」

 ぼくの話題も無尽蔵ではないのだ。

「そんなこともあろうかと、今日は私が話題を用意している」

「おお」

 ということはつまり、ぼくが質問される側になるということだ。先輩がぼくに何を聞くのか、ちょっと興味がある。

「君は前に、奇抜なエロ本を読んで私を連想したと言ったね」

 へえ、この人は「エロ本」と口にすることにまるで躊躇がないのか、と感心した。ぼくは聞く分にはいいが、自分で言うのには若干抵抗がある。

「あー、言いましたね」

 もはや懐かしい。ぼくは瞬時に、良き思い出のようにそれを振り返った。結局その本のヒロインは、先輩とは似ても似つかぬ小動物系の性格をしていたのだ。

「なら、何かほかに私を連想する物はあるのかな。と、気になった」

「なるほど。ありますね、パっと思いつくのが一つ」

「それは?」

「いや、言ってもわからないかもですよ」

 ぼくの頭の中には、明確なシルエットが一つ思い浮かんでいる。けれどもそれは、クラスの男子ならともかく、これといってオタクらしくもない先輩に通じるかどうか、怪しいところだった。

「む、なんだ? いいから言ってみて」

「ガンダムに出てくるやつなんですけど」

「ガンダム?」

「ジオングっていう」

「ああ」

 知ってる、と彼女は確かに言った。ガンダムやザク、アムロやシャアだけでなく、ジオングまでそんなに知名度があったとは驚きだ。

「なんで知ってるんですか」

「足なんて飾りです、って台詞をどこかで聞いたんだ。それでその台詞に感銘を受けて調べてみた」

「なるほど」

 先輩の体をチラと見て、聞く。

「足なんて飾りなんですか?」

「飾りだろうね。タダでもらえるとしてもいらないよ」

 超能力者ともなると、そういう考えに至るのか。ニュータイプはエスパーではないとは言うものの、実際先輩の超能力はサイコミュ兵器みたいな物だしなぁ。

「けれどあれは、腕は付いていたんじゃなかったか? 前回の例と比べると、私とは少し違うような」

「いや、でも腕は飛ぶじゃないですか」

「とぶ?」

「切り離して」

「……そうなのか?」

「知ってるんじゃなかったんですか」

「見た目だけだよ。まさかこの話題で見た目以上の話になるとは」

 オタクってのは怖いな〜、とでも言いたげな目だけを向けて、先輩は何も言わなかった。しかしぼくはオタクではない、ガンダムの本編に至っては、一話たりとも見たことがない。

 ぼくと話している時は余裕有り気に見える先輩も、案外ガチのオタクに早口でまくし立てられでもすれば、目をうずまき模様にして参ってしまうのかもしれない。そう妄想してみると、それも見てみたいなと思えてしまった。これといってサディストなつもりはないのだけれど。

「何にせよ、腕も足も飾りですよ。私以外にはそれが分からんのです」

「そうですね」

 しかし先輩もまた、地面を踏みしめる感覚は分からないだろうと思った。けれど考えてみれば、だったら何だという話なので、口にはしなかった。

 かわりに、聞きたいことがある。

「ところで先輩って」

「うん」

「なんで手足がないんですか?」

「……なんで、かぁ」

 ぽかーんと上を向く先輩。多少アホっぽいところを見せたって様になるのだから、美人は得だなと思った。

「生まれつきだから、分からない」

「そうなんですね」

「ちなみに超能力も生まれつきだよ。だから神様は分かってたんだろうね、私に手足はいらないって」

 だとすればそれは超能力だけではなく、メンタル面まで含めてそうなんだろうと思った。けれど神様なんて、そんな律儀な人じゃないだろう。先輩の例は偶然で、大抵の場合は理不尽で、ズルい。

 けれど人の心がないと言われたところで、今日も元気に生きている自分のことを思うと、それもまた先輩と同じような幸運の例だった。幸運なことに、ぼくは神を恨んだことがない。

「さて、そろそろ帰るかな。することもないし」

 強力な磁石で反発したみたいに、先輩がふわっと浮かび上がる。いつも通り鞄もそれに追従する。

「……どうした?」

 窓の外を眺めて動かないぼくを、訝しげな声が見逃さなかった。

「もうちょっとここにいます」

「うん……? いいけど、なぜ?」

「傘忘れたんです」

 ふっ、と笑い声が聞こえた。窓の外を眺めたまま動く気がないぼくは、根拠はないのだけれど、しかし先輩がすごく嬉しそうにしている気がした。まるでそう、先輩が赤点を取っていたら、ぼくがそうしていたような喜び方で。

「一緒に帰ろうか?」

「電車ですよ」

「駅はどこ」

「下りに三つです」

「私は四つだ。幸運な後輩だな」

「そんなに大きな傘持ってきたんですか?」

「なんだ君は、席を譲られたのに素直に座らない老人か?」

 それもそうだな、と思った。

 正直なことを言うなら、ぼくは女子の傘に入って帰ることが恥ずかしかった。そして高校生にもなってそんなことを言うこと自体、同じように恥ずかしかった。けれどそれは、傘を忘れた者には、元々選択肢なんかないことだったのだ。

 先輩と並んで歩き昇降口まで行く。もしかするとぼくは今日初めて、この人と並んで歩いたのかもしれない。というのも、超能力で浮かんでいるだけなのに、なぜかこの人は、ぼくより少し高い位置に頭を持ってこようとするのだ。そのことに今日初めて気が付いた。たぶん彼女に足があったら、そのつま先は床から離れているだろう。

「……え、傘は?」

 靴を履き替えて外に出たところで、先輩は未だ傘を手にしていなかった。校舎が屋根となるギリギリの場所まで来て持っていないということは、つまり彼女も傘を持っていない。あるいは……いや、折りたたみで二人はさすがに無理がないか?

「足も腕も飾りだけれど」

 先輩は、躊躇いなく屋根の下から飛び出した。

「傘も飾りだよ」

 雨が、見えないドームに弾かれるみたいに、先輩の頭上で弾け続けていた。……ぼくは以前、彼女には見えない手足があるのだと解釈したけれど、それは間違いだったらしい。彼女の力は、ぼくの手足よりも自由だ。

 ぼくたちはただ横に並んで、晴れた日みたいに歩いて帰った。先輩はぼくの家まで着いてきてくれた。そして「生憎、超能力に疲労の概念はないんだ」とか言って、結局一駅歩くことにしたらしい。……便宜上「歩いて」だ。

 自分で傘を差した日よりも、遥かに濡れず帰ってこられた。それでぼくは今日初めて、傘を差さずに帰る雨の日も、一駅歩くのを何とも思わないことも、先輩にとっては当たり前なのだと知った。

 だとするとぼくが思っていたよりもさらに、ぼくと先輩では、見えている世界が違うらしい。少し考えればわかりそうなことなのに、今日までちっとも気が付かなった。

 今日はそういうことに気が付く日だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

04 エスケープ

 七月。少なくともぼくが住む地域では、文字通り肌を焼くような日差しが、今か今かとスタメン入りを待ち構える気候になっていた。

 ニュースは毎日「本格的な夏到来」と「昨日から一転した涼しさ」を交互に語り続ける。まだ夏は来ない、まだ熱中症での死者は出ない、と言い聞かせているかのようだった。あと一週間もすれば、蜃気楼が見えてきそうな夏が来るに違いないと、誰もが理解しているのに。

 文芸部の部室にエアコンは無い。もしも真夏日をここで過ごすというのなら、天井近くに設置された扇風機だけを頼りにしなければならない。だがその扇風機は、リハーサルのような暑さの現在でさえ、「無理無理」と首を横に振っている。

 必死に首を振りながら、申し訳程度の風しかくれないのだ。首を固定して、ぼくにだけ風を集中させる方法を、せいぜい一生徒である自分は知らない。そんな扇風機を頼りに現代日本の夏へ立ち向かうのはあまりに無謀、無茶だ。

 アブラゼミの鳴き声が窓を貫通してきて鬱陶しい。音は時として、弱った人間をさらに追い込んでくる。ぼくは心頭滅却して、手元の文庫本に視線を戻すことにした。しかし確実に湧き続ける汗が、いつか落ちるのではないかと思うと集中できなかった。心頭滅却とは?

 帰ろうかな、そう思った時、ガタガタとドアが唸った。気を持ち直して、制服の袖で額の汗をぬぐう。ハンカチはすでに水分過多で死んでいる。

「あっつい」

 やって来た先輩がお決まりの台詞を言わなかったので、よほど参っているのだなと理解した。

「いや、何度見ても小さいな」

 扇風機を見上げながら、忌々しげに言う先輩。とっくに済んだ衣替えで半袖になった彼女に、「それ意味あるんですか?」と聞くのはもうやった。

「撤収だ、来栖。こんなところにいては死んでしまう」

「まだ今日は最高気温35℃ですよ。ジャブみたいなものです」

「ゴリラのジャブは人を殺すんだ」

「いつから夏はバナナ好きになったんですか」

 しかし言われてみれば、バナナは暑い環境で育つイメージがある。ゴリラは夏のことを気に入っているのだろうか?

 先輩が心底嫌そうな顔で「早くしろ」と急かすので、ぼくは荷物をまとめて部室を出る。そして校舎からも出て、そういえばあの部屋は日差しが当たりづらいのだったと思い出した。屋根の下を抜け出してみると、ジャブでも直撃すればたまったものではなかったのだ。

「今日をもって、文芸部の活動はしばらく休止だ」

 頭上に浮かべた鞄を気休め程度の日除けにしながら、部長から事も無げにそんな宣告が下された。

「え、活動って、あの部屋でお喋りすることですか?」

 学校から最寄りの駅へ向かって歩を進める。暑さを拒む物がない「外」から早く解放されたくて、足を動かす速度は無意識のうちに早まってしまう。するとさらに汗をかくことになるのだけれど。

「それ以外に何がある?」

「いや、ていうか、今さらですけど、文芸部ってそれでいいんですか……?」

 入部から三ヶ月。夏休みの入り口が見えてきている今日この頃になって、ようやくそんな話題をぼくは持ち出したのだった。自主的かつ独断による活動休止を言い渡されでもしなければ、「そもそも我々は今まで「活動」をしていたのか?」……なんてことに興味を持ちはしなかったように思う。我が校の文芸部員は不真面目だ。

「それでっていうのは、もっと物質的な意味で成果を残さなくてもいいのか、ということ? それとも、勝手に休んでもいいのかということ?」

「前者です。で、その話をするなら、物質的以外の意味でも、ぼくらに成果って無くないですか? 文芸部としては。確かにお喋りは楽しいですけど、それって文芸じゃないような」

 スカートのポケットからハンカチがふわりと現れて、先輩の汗をぬぐった。

「……そもそも文芸とは何だ」

「え? 哲学的な話ですか?」

「私は文芸が何かを知らないんだよ、後輩」

 ハンカチは元の場所へ帰った。

 ところで、先輩がやはり頑なに、ぼくより高い位置に頭を配置しようとするので、話を聞きながら彼女の方を見ると、どうも胸元のあたりが視界に収まってしまう。

 ……何か、男には馴染みのない物が見えた気がして、ぼくは眉ひとつ動かさず前を向いた。ぼくもそうだけれど、先輩は汗かきだ。

「文芸が何かを知らない? ……哲学的な話ですか?」

「おちょくってるのか……?」

「いや全然」

 どこかで聞いた話、人間の物事へ対する理解度と自己肯定度は、グラフにすれば谷折りの曲線を描くらしい。理解が浅いうちと、とても深く理解した時が、自己肯定感の高い状態で、中くらいに理解している時が、一番自信を失ってしまうらしい。

 だから先輩の「文芸とは何だ?」発言は、彼女が中くらいの場所にいるからなのかなと思った。……でなければ、彼女にとっての文芸とは、浅いどころの話ではなくなってしまう。

「まさかとは思いますけど」

「うむ」

「先輩は文芸部の部長をやりながら、文芸部が本来何をするべきなのか、何も知らないんですか?」

 ジージーというセミの鳴き声が忙しなく、サイレンのように鳴る。鳴り続ける。

 永遠に耳の中でこだましそうな、その不愉快な音が、かえって先輩の声を際立たせた。

「知らない」

 毅然とした態度で堂々と言えば、何でも格好がつくんじゃないか。そう思わされてしまって、自分の価値観や感覚を疑わされた。

 と、どこからか飛んできたセミが、壊れた玩具みたいなうめき声を上げながら、先輩の顔面に突っ込んでくる。しかし、それは先輩に触れるより先に、ガシュッと軽い素材が潰れるような音を立てて、消え失せた。

 ジッ、……と短い断末魔。ぼくの背筋は急激に冷えた。心臓が縮んだ気がする。

「えーと、文芸部というのはですね」

「うむ」

「とにかく何か文章を書くんですよ」

「……というと作文か、あるいは自作小説?」

「エッセイでも批評でも宣伝でも、とにかく何でも」

「書いて、それでどうする」

「部誌にまとめて、文化祭とかで売るんじゃないですか?」

「最後だけ投げやりに言ってないか?」

「中学一年の今頃、ぼくは部活をやめてましたからね。最低限の知識以外は知らないんですよ」

 あの時の文芸部が部誌を刷ったのか、刷ったとすればどんな内容だったのか。ぼくは一切知らない。興味もなかった。

 けれどこれだけは知っている。言ってはなんだけれど、仲良くもない素人の書いた文章なんて、わざわざ見るほどの物ではないのだ。

「部誌か。……書きたい?」

「いや」

「私もだ」

「……それで怒られたりしないんですか?」

「うーむ」

 車が一台、ぼくらを追い越して走っていく。この国の法律は、超能力による運転に免許を与えるのだろうか? 今度先輩に聞いてみよう。

「ゴーストライターに書かせようか」

「え?」

「我が部のゴーストを誰か、ライターにしよう」

「あぁ」

 そうだった。本当の本当に一度も顔を見たことがないので、文芸部の部員は決してたったの二人ではないことを忘れていた。

「書いてくれそうな人、いるんですか」

「書かせるさ」

「ど、どうやって」

 さっきのセミの断末魔が頭の中に帰ってくる。あれで「次はお前だ」と言われたら、ぼくなら書く。

「君はそもそも幽霊部員たちが、どうして籍を置き続けるのだと思う? やめてしまえばいいじゃないか、何もしないのなら」

「はぁ、たしかに」

「なぜ幽霊たちはいつまでも部員なのか。答えは、帰宅部という肩書きの肩身が狭いからだ」

「……そんなことで?」

「そんなことでだよ。まぁ、私から「何か書け」と言われるまで、幽霊たちはそれをノーリスクだと信じきっているからこそ、そうするのだろうけど」

 なるほど、タダならもらっておこうの精神か。何百人と存在する生徒の中からほんの数人くらいなら、確かにそういう理由で籍だけ置く人もいるのかもしれない。

「けどそれだと、面倒を感じた瞬間辞めちゃいませんか?」

「私はそれはないと思っている」

「なぜ」

「来栖、相手は「私は帰宅部です」と言うことにさえ気が進まないような人間だぞ。籍だけ置いて顔は出さず、少しでも不都合があればエスケープ。……なんて根性があるようには、私には思えない」

「なるほど」

「誰もが君のように恐れ知らずなわけではないんだよ」

 そう言われてしまうと、ともかく納得するしかない。今までの人生で、自分が少数派であるらしいことは重々自覚させられた。君の感覚は間違っていると言われればそれまでだ。

 でもたぶん、先輩も相当な少数派だと思う。明らかに生まれのせいではあるけれども。

「というわけで、適当に誰かを脅そう。自分が三年生であることを幸いに思ったのは初めてだ」

「いや、言い方」

「君にそれを言われるとは」

 駅に着いた。二人とも通学定期でスムーズに改札を抜ける。エスカレーターでホームに降りたら二つ三つ遠い乗車口を選んで電車を待つ。先輩もぼくの隣でそうしていた。

「あれ」

「ん?」

「なんで一緒に帰ってるんですかぼくたち」

「え、今?」

 早く帰るぞと急かされて部室を出てから、なんとなく流れでここまで来てしまった。先輩とお喋りをすることがルーティーンと化した結果なのかもしれない。ぼくと先輩は普段、ぼくが傘を忘れでもしない限り、一緒に帰ったりなんかしない。

 大抵は先輩が「よし、帰るか」みたいなことを言って、先に帰っていく。そのタイミングは不規則だ。予定があるから帰るのか、飽きたから帰るのか、きっとその日ごとに理由があるのだろうけど、時間がランダムなこともあって全く法則性が掴めない。

 ぼくは先輩に対して、必ず少し間を置いてから帰る。読みかけの本が気になることが理由である日もそこそこあったけれど、基本はいつも変わらない。特に理由もなく女子と並んで下校することが恥ずかしいからだ。

 なぜ恥ずかしいのだろう、誰も見てやしないのに。自分でもそう思うけれど、強いて言えば先輩が見ている。ぼくには部室という舞台と、部活という名目が必要なのだ。

 ……と思っていたのは、単なる自己暗示だったのかもしれない。

「まぁいいじゃないか、たまには。しばらく会わなくなるっていうのもあるけれど」

「あー」

 プライベートで先輩に会ったことはない。学年が違うのだから当然、部活を除いて学校でも会わない。文芸部の活動が休止されるということは、再びあの部室に役目が与えられる時まで、先輩の顔を見ることもなくなってしまうわけだ。

 当然お喋りする時間なんかは、万に一つも成立しなくなるだろう。

「なに、もしかして寂しい?」

「それはまぁ」

「……そんなに可愛らしいことを言う後輩だったっけ?」

「どんな後輩だと思ってたんですか」

「さぁね」

 電車がやって来て、ドアが乗車口からほんの少しズレてから止まる。車内の冷房は期待ほどではなかったけれど、それでもかなりありがたい物だった。

 中はそれなりに混んでいた。パーソナルスペースが何重にも重なることはなくても、空いた席は一つとしてない。

 発車してすぐに、雨の中家まで送ってもらった日とまったく同じことを思った。超能力者は浮いているから、電車の揺れをものともしないのが羨ましい。ぼくは吊り革を持つ。

「昼休みにでも来ればいい」

 どこを見るでもなく、それを聞いた。

「他学年他クラスの生徒が遊びに来たって、とやかく言う人はいないよ」

 がたごと鳴る車輪、何度聞いても聞き取れない英語の案内音声。窓の外に見えた誰かの家のソーラーパネルの輝きが、水を得た魚のように感じられる。

「私が君の教室に行ってもいい」

 一つ目の駅に着いて、ぼくらの背中側のドアが開いた。誰も降りず、誰も乗ってこなかった。

「先輩って、そんなに後輩思いでしたっけ」

「私を何だと思っているんだ」

「体重を確かめさせてくれない人」

「ははは!」

 座布団がもらえそうなウケようだった。

「じゃあまぁ、お邪魔させてもらいます」

「おお」

「先輩ってクラス何なんですか?」

「Dだよ」

 放課後の部員顔合わせが昼休みにズレ込むことくらい、別に何でもないだろう。エアコンも設置してもらえない辺境の小さな教室から、設備の整った大きな教室に一時避難するだけだ。実質それは部活である。

 どうせ近々夏休みに入ったら、それが明けるまでぼくらは一度も会わなくなる。それを何も自分たちから早めることはないっていう、それだけの話だ。

「慣れない場所でも先輩のことは見つけやすそうですよね」

「どうかな」

 二つ目の駅に着く。数人が乗り込んできて、それからあらゆる他人がそうするのと同じように、先輩のことをチラと見たあと、何でもなさそうな顔をする。

 ぼくが初めて彼女のことを見た時も、同じように感情のこもっていない顔をしていただろうか。そんな顔が出来ていただろうか? 基本一人で帰っていたからか、未だに、先輩の姿を見てギョッとする人を見たことがない。ただの一度も見たことがない。

 隣で先輩が大きなあくびをした。口元を隠すためにハンカチ等が飛び出してくることは、どうやらないらしかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

05 麗らか

 約束、あるいは約束らしき言葉を交わしたので、とにかく後日の昼休み、初めて三年生の教室に赴いてみた。

 都合よく出入口の傍でたむろってくれている人はいない。さて冷房のために閉め切られたドアをノックしてみるか、ノックしてからの大きな声で「根室さ〜ん」と呼んでみるか、どうするかな。……後者は万が一先輩が離席していた時が怖いのでやめておこう。

「どしたん?」

「うおっ」

 背後から急に話しかけられて肩が跳ねた。声の主は背の高い女性だった。きっとここの、三年D組の人だろう。

「ウチのクラスに用事?」

「あ、はい。一のCの来栖といいます。根室先輩を探しているのですが」

「ねむろ? ……どっちの?」

「え、どっち……?」

 二人いるのか、ネムロという名前が。電車の中で先輩が不敵な笑みを浮かべていたことを思い出す。先輩は見つけやすそうですよねと言うと、あの人は「どうかな」と言って笑っていた。……ような気がする。

 なるほどこれのことか、と思いつつ、ちょっと困ってしまった。ど直球に「腕と足がない方」と言ってしまっていいのだろうか。良い悪い以前に、もう一人のネムロが五体満足である確証もない。……いや、そんなことを言っていたら何もかもキリがないか。

「超能力の方?」

「ああ、そうです、その根室さんです」

「おっけー、ちょっと待ってて」

 名前のわからない上級生は駆け足で教室に入っていった。ドアは開けっ放しにされている。……先輩が教室にいる時はどんな様子でいるのか、気にならないわけではない。敷居は跨がず、首だけ伸ばして教室の中を眺めてみる。

 見さえすれば先輩の居場所はすぐにわかるに決まっている……と思ったのだけれど、名も知らぬ親切な先輩がどこへ駆けていったのか、まったく判断つかなかった。眺めても眺めても、一発で先輩だとわかる女生徒は見当たらない。

 先輩の髪が奇抜な色をしていればまだしも、腕や足の有無は、案外わかりにくいものだった。教室に座っている人間は、細かい部分が椅子と机に隠れて意外なほど見えづらく、間違い探しをしているような気分になる。

 けれど、一言声をかけられた人がふわりとその場で浮かび上がった時、今までなんでそれが先輩だと見分けられなかったのか不思議なほど、それはどう見てもその人が先輩だった。なんだか悔しくなる。

「やあ、遠路はるばる」

 結界に阻まれる魔物のように一歩も踏み入らず、廊下から教室の中を見回す下級生のもとに、勝ち誇ったような顔の先輩がやって来た。気持ちいつもよりさらに見下ろされている気がする。

「入りなよ。チャイムが鳴る前に出れば問題ない」

「どうも」

 言われるがまま敷居を跨ぐと、そこかしこでお喋りをしていたグループが数人、ぼくのことを物珍しそうにチラチラ見てきた。絶対に、間違いなく、ぼくを見た。

 まるで浮遊する先輩よりも、夏服の袖でさえ風鈴に付いた短冊のようにひらひらと揺れる先輩のことよりも、ぼくの方がずっと珍しがられているように感じた。

「まあ座って座って」

 誰の物とも知れない空いた席を勧められて、とりあえずは座っておく。どうも落ち着かなくて周囲を見渡すと、さっきの上級生と目が合った。軽く頭を下げると、ものすごく良い笑顔が返ってきた。backnumberの代表曲を思い出した。

「どうかな、三年生の教室は」

「どうと言われても、って感じですね」

「よく言うね、そんなに挙動不審で」

「どこがですか」

「さぁ、どこがだろうね。けどまぁ、それでいいんじゃないかな。我が物顔しているよりもさ」

 そりゃあ印象としてはその方がいいのだろうけど、仮に先輩が一年の教室の方へやって来たら、我が物顔とやらをしているだろうことが容易に想像できる。先輩後輩の違いはあるけれど、それだけが理由だとは思えない。

「さて、せっかく来てもらったのだし、一つ朗報を聞いてくれ」

「朗報?」

「見つかったよ、ライターが」

 早い。早いけれど、しかし「やはり」と思うところもある。不思議な気持ちだ。

「それはよかったです」

「数人捕まえられて、代表者も決まった。十一月の文化祭までにはなんとかしてくれるそうだ」

「代表者って、部長とは別に?」

「あぁ、表には「代表」と紹介されることはないけれどね。ゴーストライターらしいだろう?」

「本人たちはそれでいいんですか」

「むしろその方がいいんだ。目立ちたくないそうだから」

「そんなもんですか」

「代表者に金が入るというわけでもない、そんなものだろう」

 トントン拍子で話が進んだようだけれど、本当に平気なのだろうか。知らないうちにぼくは貴族になっているのかもしれない。庶民から取り立てた税で何不自由なく暮らす、パンが無ければケーキを食べる人のように。

「が、悪い報せもある」

「え」

 わざわざ口にするほどのことでもないといった様子で、どうでもよさそうな顔をして部長は言う。

「部長が何も書かないというわけにはいかないそうだ。本気でゴーストライターを出そうかとも思ったけれど、さすがにやめておこうと思う」

「へぇ」

 素直な感想として、ぼくは言った。

「読んでみたいです、先輩の文章」

 それがどうも、虚をついたようだった。なかなか見られない驚きの表情で、彼女はぼくの目を覗き込んでくる。

「何を期待しているんだ……?」

「特に何も」

「ふむ……?」

 別に先輩に憧れや幻想を抱いているわけではないし、拙い文章を笑ってやろうという気もない。ただ単に気になるだけだ。きっといざ読んでみれば、まぁこんなものかと冷めて終わりだろう。

「ところで」

「うん?」

「先輩の下の名前って何なんですか?」

 ふっ、と吹き出すような笑いがあった。

「教えたら、恋人のように呼んでくれるとか?」

「いや、このクラスにネムロが二人いるようなので、区別するために」

「あぁ、なるほど」

 突然、先輩の机の中から筆箱が飛び出してきた。その筆箱は箱というよりは、袋だった。それも透明な素材で中身が見える。入っている物は全て各種ペンや消しゴムに定規など、これといって特別なことはなかった。

 そしてその中から今度はシャーペンが一つ這い出るように外へ出た。それは方位磁針のように、一回転した後ある一点を指して停止する。

「彼女がもう一人の根室だ」

 ペンが指し示したのは、さっきぼくに声をかけてくれた上級生女子だった。

「驚いただろうね、根室はいるかなんて聞かれて。君の顔も知らないのに」

「あまりそういう風には見えませんでしたけど」

「そう? じゃあ大抵の根室はこっちだと思っているのかな。それはそれで、なんだか申し訳なくなるけれど」

 たしかに、それはあまり愉快ではないことなのかもしれない。ぼくはもう一人の来栖に出会ったことが未だ無いので分からないけれど。

「で、名前だったね」

「はい」

「うらら」

「え?」

「うららだよ。根室うらら」

「……え?」

 思わず聞き返してしまった。嘘だろ、と思ったわけじゃない。先輩の声が単なる音としか認識されなくて、頭の中には平仮名一つさえ文字が浮かばなかったのだ。

「わからないってことないだろう、麗らかって書いて一文字だよ」

「……へぇー」

 意外、とは思ったけれど、口にしなかった。逆に何ならイメージ通りだったのかと言われると、わからないからだ。

「ちなみに彼女は根室萌葉。萌え〜に葉っぱだ」

 思わず、今度はこっちが吹き出すかと思った。先輩の口から「萌え〜」が来るとは、それが今だったことがあまりにもったいない。きっと彼女は二度とそれを言わないだろう。

「初めて聞きましたよ、人の名前を説明する時に「萌え〜」の萌えって」

「ぶふっ」

 先輩は明らかにぼくの「萌え〜」で笑っていた。さっき自分は真顔で言ったのに、どんな神経してるんだ。

 一瞬おそろしくなって、萌葉さんの方をチラリと確認した。彼女は友達との談笑に夢中で、こちらのことなどすでに忘れたかのようにさえ見えた。そんな文芸部部長と同姓の親切な先輩は、まさか自分の名前にまつわる会話で笑いが起こっているとは思わないだろう。

「あー、それで? 君は?」

「え?」

「私が名乗ったんだ、次は君の番」

「あー」

 なんだか嫌な予感がした。どんな名前ならぼくのイメージに合うのか、それはわからない。けれどなんとなく嫌な予感がした。とはいえ隠せばなおさらハードルが上がる一方。損切りという言葉を思い出しながら、言う。

「アレンです。来栖亜漣。亜空間のアに、レンは……なんだろうな……レン……」

「錬金術のレン?」

「いや、あのー、あれです。サザナミ」

「あぁ」

 ぼくは自分の名前の中にある「漣」が「サザナミ」とも読むことを某ゲームで知ったのだけれど、そういう物と縁遠そうな先輩にそれで伝わったのが、なんだか意外に思えた。

 そして先輩は容赦なく、

「はは、すかした名前だ」

 と言ってのけた。

「あ、ぼくは言わないようにしてたのに」

「何を?」

「うららって、先輩がうららって面白いですよって」

「そうかな。「麗」って漢字で書けば、そこそこ似合っていると自負しているのだけれど」

「あー……、それはそうかも。自負してるのはそれはそれで面白いですけど」

「君は自分の名前のこと、どう思ってるんだ?」

「どうって」

 亜漣という名前で生きてきて、十年とちょっと。自分の名前に対する感想は、小学生の頃から何も変わらない。

「横文字みたいですよね」

「そうだね」

 ゲームの主人公に自分の名前をつける時、様になる度合いならそれなりの自信を持っている。だからなんだと言ったレベルのことだけれど。

「それで亜漣は、今日はどんな面白い話を持ってきてくれたのかな」

「やめてください名前」

「ははは」

 新しいオモチャを見つけた、と先輩の顔に書いてあった。人のことは言えないのだろうけど、彼女も結構いい性格をしていると思う。

「面白い話ねぇ。……じゃあクイズです。サンタさんからサッカーボールと自転車をもらった子どもは、それを全く喜びませんでした。一体なぜ?」

「世界一簡単なクイズなんじゃないか……? 正解は足がなかったからだろう」

「そうです。で、最近体育の時間にサッカーやったじゃないですか」

「あったね」

「先輩あれどうしてたんですか」

「見学している」

 とっくに指差し代わりの役目を終えて机の上に転がっていたシャーペンが、再び魂を与えられたかのように動き出した。狂ったかのように回転して、机の上を飛び交っている。

「私が参加すると、半ばイナズマイレブンになってしまうからね」

「楽しそうじゃないですか」

「地味だよ」

 地味か派手かといえば地味だろうけど、マグナム級の勢いでネットにめり込むボールとかは見てみたい。けれども確かに欲を言うなら、先輩に必要なのは手足ではなく、超能力に付けられる派手なエフェクトと効果音なのかもしれない。

「小出しに質問されても困るから言うけれど、体育は基本見学しているよ」

「へー」

 この高校は体育が基本男女別で、異性が体育の時間に活動している様子を、間近で見ることは一切無い。プールの時間さえ別だった。部活が盛んなだけあってということか、我が校にはプールが二つあるのだ。ちなみに、さすがに校庭と体育館は一つしかない。

「それで体育の成績どうやってつけてるんですか?」

「適当なんじゃないか。仮に手足を付けたところで、超能力については信用問題の域を越えられない」

「え、そんなふわっとした認識でいいんですか。成績ですよ」

「だから体育に限らず、筆記だけで出来ることは努力しているよ。それが出来ていれば評価する側だって、多少なりとも「まぁいいか」という気分になるだろう」

「成績とか評価って気分なんですか」

「さぁ?」

 そのあまりにも適当な返事は、自分の生まれた星のもとへの諦めなのか、それとも自信の現れなのか。所詮成績の付け方なんかまるで知らない一高校生のぼくには判断つかなかった。

「ところで亜漣は、運動の方はどうなんだ?」

「だからやめてくださいって。……運動は、先輩にだけは見られたくないですね」

「どうして?」

「弱みを握られたくないです」

「なぜ?」

「……なんとなく」

 名前を教えただけでこの調子なんだから、そりゃ本能的にそうも思うだろう。

 時計の針が昼休み終了五分前を指しているのに気が付いて、「それじゃあ」とぼくは席を立つ。

 教室を出る時に、どこかから戻ってきた男子生徒と鉢合わせた。彼は訝しげな顔でこちらを睨みつけるようにしたっきり、何事もなかったかのように自分の席へ向かっていった。

 そして知った。先輩の隣の席は彼だったのだ。なんとなく、どうかぼくがさっきまで彼の席に座っていたことがバレませんように……と祈る。バレたから何というわけでもないはずなのに。

 そしてもう一つ祈った。どうか明日からも、彼が昼休み離席しますように……。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

06 サマーバケーション

 夏休みに入って何日が経ったのか、もはや覚えていない。カレンダーの類を見るなと言われれば、今日が何日で何曜日なのかも答えられない状態だ。つまり醍醐味の真っただ中にいる。大変結構。

 ゴーストライターと名付けられた部員たちは、今頃何かしら原稿を書いているのだろうか。それともまさかすでに書き上げて、それらを部誌にまとめるにあたってどうするかなんてことを決める段階にいたりするのだろうか。予算とかどんな感じなんだろう。そういうことは先輩もちゃんとやってくれてるのかな。ぼくは何一つ聞かされてないけど。

 いや、ちゃんとも何も、あの人だって何かしら書いて載せるのだ。……なんだか自分だけがサボっている気分になる。実際どうなのだろう、ゴーストライターというのが幽霊部員たちの全員を指す名称なら、ぼくはたった一人のサボりということになる。部員が何名いるのかすらぼくは知らない。

 ……一応何かしら書いておいてみるか?

 と思った矢先、書くなら書くともっと早く言ってくれ……と嫌そうな顔で先輩に言われる光景が思い浮かんだ。LINEでも交換しておけばよかったのかもしれない。……その場合なんと言って交換を持ちかけるのだろう? 下の名前も知ったことですしここは勢いで、とか? 鼻で笑われそうだ。

「ちっ」

 考え事をしていたからか、遊んでいたゲーム内で敵のしょうもない攻撃をくらってしまった。いや、正直、考え事をしていなくてもしょっちゅうくらうけど。

 ぼくが操作しているキャラは隻腕で、戦闘用の義手からビームを出したり、風圧を出して空へ飛びあがったり、ロケットパンチを繰り出したりしている。先輩的にはそういうアイテムってどうですか、と聞いてみた日もあったなぁと記憶がよみがえってきた。

 

「逆に私は疑問なんだ。私の持ったオモチャのピストルからBB弾が発射されて、それが人体を貫きかねない威力を発揮出来すれば、そのオモチャは銃刀法違反になるのだろうか? わからないから、あまり怪しいことはしないようにしている。夢とロマンに溢れる義手も却下」

 

 見たわけじゃないけれど、たぶん先輩が本気を出せば、消しゴムも弾丸になるのだと直感している。だとすれば、モデルガンを銃刀法で規制すると、彼女は何一つ物を持てなくなってしまう。だから日本の法律は、彼女にも平等に一切例外を与えません……となるのかどうか、ぼくには何もわからないけれども。

 画面の中で隻腕のイケメンが、その力で次々と悪魔を狩っていく。そういえばぼくは「人の心がない」「サイコパス」とか言われたことはあったけれど、「悪魔」と言われたことはなかった。けれどいつか言われる気がする。

 ゲームがキリのいいところまで進んだので、それで気が変わった。何の意味があるのかわからないため息を一つ吐いて、ゲーム機の電源を切る。かわりにノートパソコンを立ち上げた。家族兼用の物だ。

 そして文章を書ける状態にして、最初の一行も書かないうちから腕を組み、石像のように停止する。作文じゃあるまいし、まさか手書き必須ということはなかろうとパソコンを立ち上げたはいいけれど、まるでアイデアが降りてこなかった。

 とりあえず、最近思ったことを書いてみる。

 

「犯行トリックが大がかりなミステリは嫌いだ。本当にそれが現実に再現できるのか、自分では確かめられず、上手く想像することさえ出来ない。けれど大がかりなトリックを用いるミステリに罪はない。なぜならぼくは納豆が嫌いだけれど、まさか納豆に罪はないだろうから。」

 

 そこまで書いて、全部消した。ここから話を広げられる気がしない。ずいぶん前に読み終わってからというもの、どうもモヤモヤしている「アルミ缶の中にあるミカン」についての愚痴は、また別の機会にしよう。

 

「最近流行りのあのバンド。名前にキングなんて付いているだけあって、どの曲も難しすぎてカラオケで上手く歌えない。たまには庶民gnuになってほしい。」

 

 書いて、当然これも全部消した。普段思っていることを書き込んでいれば、そのうち何か文芸の神が降りてこないかと期待したのだけれど、やはりそんなに甘いものではないらしい。それとぼくは何を歌っても基本歌が下手だ。

 ……先輩は、どんな物を書くのだろう? というか先輩は、この夏休みをどう過ごしているのだろう。本は読まないらしいけれど、もしかして「最後まで読めた試しがない」というのは、途中までなら頻繁に読むということだったりするのだろうか。……まさかなぁ。

 ゲームをするイメージもない。アウトドアを楽しむイメージでもない。ドラマは見るらしいけど、面白いドラマだってそう無限にある物ではないだろうし。……勉強か? 勉強しているのか……? あり得る、なんだか想像出来てしまう、それを苦とも思わない彼女のことが。

 けれどぼくとしては、先輩には何か特別なことをしていてほしい。

 ライブの観客席で、一つだけ宙に浮いて揺れているペンライトがあってほしい。海や川で溺れそうになった人を、秒で助ける超能力者がいてほしい。浴衣を着ると案外本来の姿がバレなかったりするのだろうか、夏休み明けに聞いてみよう。それに、夜のキャンプ場で初めて彼女を見てびびらない人類って、全体の何パーセントいるのかも気になる。

 ……やっぱり突然、部誌に載せるための物を書いたと言っても、迷惑がられるだけなのだろうか。

 

「好奇心も、人の心ではないのか。純粋に気になって、知りたいと思ったことを人に聞くと、お前には人の心がないのかと言われることがある。疑問に思うのは、その台詞を口にする瞬間、その人の中には、人の心があるのだろうかということだ。」

 

 全部消した。パソコンの電源を切った。自分には向いていない。小学校の卒業文集を書いた時のことを思い出す。要するにぼくは文章においても、当たり障りのない話をすることが苦手らしい。あるいは場をわきまえた話か。

 そうやって雑に昔を振り返ったからだろうか。そういえば先輩から、ぼくについてを聞き返されたことが少ないと気が付いた。

 下の名前を聞くと、聞き返された。次は君の番だろうと。けれど、それくらいだった。体育の時間のことを聞いても、ぼくは何も聞き返されなかった。本はよく読むのかと聞いても、「君は?」とは言われなかった。気のせいだろうか、ぼくは先輩から何かを聞き出してばかりいて、逆にこちらのことを話す機会は少ないように思える。

 先輩から「私を連想する物はあるか」と聞かれて、モビルスーツの名前を答えたことはあった。あの時彼女にそれを聞かれて「珍しい」と思ったものだ。先輩がぼくに何かを聞くことは、来栖亜漣の生態を知りたがる先輩は、きっとレアだ。

 はたして今度は聞かれるのだろうか。で、君は夏休み何をしていたの?……と。その時何を答えよう。夏休みらしい何かをしたのかと言われたら、墓参りくらいしか思いつかない。

 けれどぼくは、それが良いのだ。泳げないし、虫は苦手だし、人混みも苦手で、屋台の食べ物は皆ぼったくりに感じ、クソみたいな暑さにも人々の熱気にも関わりたくない。ゲームして、本を読んで、おいしい物食べて、何の不安もなく眠る。それの繰り返しこそ、ぼくにとっては正しいことだ。

 そう思うのに、先輩には特別を願うなんてひどい話なのかもしれないと、一瞬だけ思った。けれどどうだろう、もしぼくに親しい友人がいれば、そいつはこう言うんじゃないか。せっかくの夏休みなんだから、って。その台詞が何かの免罪符なのだと思い込んで、ぼくをどこかへ連れていくかもしれない。たぶんみんなそんなものだ。

 ほんの少しとはいえ文章を書くことに挑んだので、なんだか気分がそちらへ傾き、ぼくは読みかけの本を手に取った。「魔女の星」というタイトルの、なんだろう、SFなのだろうか。それともファンタジー? SFの定義がぼくは未だにわからない。とにかくニュアンスとしてはそういうジャンルだ。

 あらすじは、確かこうだった。

 

 魔女の星の物語は、あらゆる物を無尽蔵かつ瞬時に、「無」から生み出せる能力を持った女が、地球を牛耳るところから始まる。と言っても、そのくだりはそう長くは描かれず、あらすじだけを聞かされるような感じで軽く話が展開される。

 あらゆる物とは「命」も例外ではなく、魔女は無敵だった。突如現れた彼女は瞬く間に世界を制圧した。が、地球上のトップとなった彼女は、その時点で自分にはこれ以上争う気がないことを告げる。争うどころか何を奪う気もなく、むしろ与えるのだと。魔女は一度支配した人類に対して嘘みたいに協力的で、しかしその協力を拒むことは許さなかった。

 かくして、人類の生活は魔女に依存することになる。あらゆる物は全て魔女が生み出す。インフラや産業は当然の如く彼女ありきの物となり、ついでにあらゆる環境問題は改善され、最低限のベーシックインカムも実現され、労働は完全な義務ではなくなった。

 魔女が見返りに求めた物と言えば、遊園地のアトラクションへ並ばずに乗れる権利だとか、発売日のより早く漫画やゲームを渡してもらう権利だとか、あらゆるイベント事をVIP席で見られる権利だとか、せいぜいそんな物ばかりだった。

 いつしか人間はかつての侵略者を、会いに行けて触れられる神のように扱い始めるようになった。そして魔女はそれを喜んだ。彼女の物を生み出す能力は、「何を生み出すか」を決めなければ使うことが出来ない。だから人間の想像力というものが、彼女にとってはとても愛おしい物だったのだ。自らの力と権限で金銭の価値を保たせたことも、金銭的に人間の最低限の生活は保証しつつ、それ以上は渡さないこともそれが理由だった。

 世界がそうして彼女の物になってから、どれだけの時が過ぎたかわからない。けれどある日突然、魔女の排除を目的とした集団が現れた。彼らは世界中の人に語りかける。

「例えそれが全能で不滅の神だったとしても、一人の他人に依存して成り立つ世界なんて物はどうしようもなく間違っている。我々はもう一度、触れられる神のいない世界に戻らなければならない。我々が人間である限り、必ずそのようにあらなくてはならない!」

 ほぼ全ての人がそれを戯れ言だと笑ったが、彼らが魔女と対面し「この星から出ていってくれ。あなたなら出来るはずだ」と言い放った光景が全世界に広まってから、様子は少しずつ変わり始めた。つまりは、大多数の人にとって魔女とは生活の要、人生の要であり、万が一にでも失われてはならない物である一方、妙なカルト集団共は、死んだからといってどうということもない存在だったのだ。

 けれど、「十字架の足」と名乗った彼らに味方する者がいた。魔女本人だった。彼女は世界中に声明を公表する。

「十字架の足の活動を妨害する者に、私は一切容赦しない。これは警告だ。彼らが私を追い出せるのかどうか、ぜひ身をもって確かめてみたい。それを邪魔する部外者は全員殺す。かつて世界がまだ、私の物ではなかった時のようにな」

 命を無尽蔵に生み出す魔女を追放するには、殺害ではなく隔離でなくてはならない。十字架の足がそれをどのように成し遂げる気なのか、それは人類にも魔女にも皆目見当つかないことだったが、しかし「魔女追放」を掲げる当人たちだけは、常に自信に満ち溢れていた。それがまた、魔女の期待を煽るのだ……。

 

 ……というのが、ぼくが読み進めたところまでの、「魔女の星」のあらすじだ。

 床に寝転がって、時間の有り余った素晴らしき夏期休暇らしく、それをだらだらと読み進めていく。ぼくが思うにこの物語の結末は、魔女の横暴が加速していくにつれて十字架の足に賛同する者が増え、やがて人間を見限った魔女が地球を滅ぼすなり、どこかへ立ち去るなりするのではないかと思っている。

 何せ読書を再開して早々、ついに人死にが出た。魔女が殺した。どうも彼女と頻繁に交流していた日本のお偉方のうち一人が、十字架の足の暗殺を目論んで、それが魔女にバレたらしい。魔女は血の滴る生首を小脇に抱えて、声明映像を公開した。

「諸君、見ての通り、江澤は死んだ。私が殺した。十字架の足を殺そうとしたからだ。私も彼……江澤とは親しく、良い友人だと思っていたので心苦しい。しかし裏切りは友情に勝る。彼をこの手にかけた苦しみより、裏切られた悲しみの方がずっと大きかった。どうか誰も、二度と馬鹿な真似はしないように頼む。これで警告は二度目だ。二度目だからな。今回は一思いに首を落としたが、次はじっくり拷問する。だが頼むから私にそんなことをさせないでくれ。皆が知っているように、私は人間を愛している」

 ……そんな声明を配信し終えた魔女は、生首を床に置いて、果実酒を一口飲み、ゲームのコントローラーを握って、ぽつり呟いた。

「やはり立場に差があっては、友人も何もないか」

 あっ、と何か思い出した声を上げ、コントローラーを再び床に置いた彼女は、今度は携帯を持ってくる。

「すみません、魔女の日野です。声明見ました? あ、見てない。じゃあすぐ見てください。それを見てもらったらわかると思うんですけど、あのー、人間の埋葬ってどうやるんでしたっけ? え? いや、私が殺しました、今。……いや、だからそれは声明を、……えっ? いや、だからですね、あの、あのすいませんちょっと、質問に答えてもらえますか? 葬儀屋ですよね? あの、首をはねられた死体って、……あ? もしもし……!? 聞いてますかー? おーい? ……ちっ」

 魔女はまたコントローラーを手に取った。適温の室内ならば、肉塊とてそうすぐに腐るものでもないだろうと思って。

 ……という具合なので、きっとぼくの予想はいい線いっていると思う。

 しかし、読んでいてふと、そういえば先輩の超能力って無限機関なんじゃないか? と思う。超能力に疲労の概念はないらしいけれど、あの力は無尽蔵なのだろうか? もしも超能力が無限の力なら、それは無限機関のパーツになれてしまうはずだ。

 もしもそうなら、どうして先輩は普通に高校生をやれているのだろう? 本来なら国が動いていてもおかしくないんじゃないか。だって先輩は魔女ではないから、人間だから、決して無敵ではないのだ。大勢の人間が寄ってたかって彼女を利用しようとすれば、不可能ってことはないのではないか。

 そういえばぼくは先輩のことを、あの日この目で見るまで知らなかった。あんなに普通に生活している人なのに、電車に乗って学校に通うくらいなのに、大勢の人が彼女の異様さを見ているはずなのに、どうやらちっとも話題になったりはしないようだ。

 何かおかしい。なんとなくスルーしてきたことだったのに、時間が余ってくると途端に気になってしまう。

 考えれば考えるだけ、不安になってきた。本当に夏休みが明ければ、先輩は学校にいるのだろうか。本物の超能力者が、爪を隠すでもなく平然とそこにいることに慣れてしまっていたけど、やっぱり全部おかしくないか。

 LINEを聞いておくべきだった。そう心底後悔した時、そんなことを知る由もない声が聞こえてきた。夕飯が出来たとぼくを呼ぶ、台所にいる母の声だった。返事をして自分の部屋を出る。

 ぼくは今日の日をもって急激に、魔女の星の結末を確かめる気が失せてしまった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

07 報告の九月

 夏休みが明けて九月。先輩は普通に学校に来ていた。高校生が休み明けに登校することは、当然と言えば当然だ。超能力者も例外じゃなかった。

 若干の慣れや馴染みのような物を感じながら。ぼくは先輩の隣の空席に座っている。夏休みが明けてから二日が過ぎた。初日は下校時間が早かったりして、なんやかんや先輩とまともに話せる時間に乏しく、それでやっと今日の昼休み、三年D組の教室である。かつてのアウェーも、もはや憩いの地だ。

「タイミングを失ってしまった」

 先輩がさして深刻でもなさそうに言う。

「何のですか」

「部室へ戻るタイミング」

「制服の袖が長くなってからとか」

「来月か。思ったより長く離れることになったな」

 きっと今の日本の気候では、十月になったところでまだまだ涼しいとは言えない状態が続くのだろうけど、とはいえ「こんなところにいたら死んでしまう」というレベルはとりあえず脱せるだろう。

「ところで来栖、君にぜひ話したいことがある」

「え、なんですか」

「調べたのだけれど、腕や足が分離するロボットは結構いるんだね。ヴィクトリーガンダムと、ターンXだったか」

「なぜそんなことを……」

 確かにどれも腕や足を武器として分離し飛ばす機体だ。ジオングの話からそう繋がってくるとは思いもしなかったけど。

「夏休みは暇だったからね。調べてみた」

「ご苦労さまです」

「これでコスプレには困るまい」

「コスプレ? するんですか?」

 先輩にオタク趣味は縁遠そうな印象だったけれど、まさかそこまで深い趣味を持っていたのか。確かに美人の特権であると言えばそうなのだけれども。

「うん、あぁ、まだわからない。候補としてあるんだ」

「何な話です……?」

「文化祭の、ウチのクラスの出し物。喫茶店のような物をやることだけは決定しているんだ。もしかしたらそのテーマがコスプレになるかもしれない」

「……それでモビルスーツをやろうっていうんですか?」

「面白いだろう? ほら、誰かがやっていたじゃないか。あのスターウォーズの、なんだったか、あのロボット」

「あー」

 確かに見た。何年か前の年末の番組で、手足のない人がそんな感じのコスプレで登場して笑いを取っていた。……いや、あれは笑いを取っていたのか? 笑わざるをない状況を作ることを、笑いを取ると言えるのだろうか。

「やめときませんか」

「どうして?」

「コスプレ喫茶にガンダムを見に来る人はいませんよ」

「そんなことを言ったら、みんな五体満足のメイドを見に来るんだよ」

「そうなんですか?」

「そうだよ」

 てっきり、少なくとも三年生の間に限った程度なら、先輩は有名人になっているのかと思っていた。校内の三分の一が「あのクラスにはインパクトある見た目の超能力者がいる」と知っていれば、それがその日だけメイドの格好をしていたからといって、それほど騒ぐことでもないと思うのだけれど。

 しかし実際はそうではなくて、ぼくがこの目で見るまで先輩の存在を知らなかったように、案外三年生たちも先輩のことを認識していないのかもしれない。せいぜい同じクラスの人しか彼女のことを知らない。……そんなことあるのだろうか? 情報や噂って、そんなに流通しない物なのか……?

 何にせよ、モビルスーツはどうかと思うけれど。

「まぁしかし、全ての女子が表に出なければならないわけでもない。適当にやるよ」

「頑張ってください」

「君のクラスは何をやるの?」

「スタンプラリーになりそうですね。こっちも仮装した人が判子を持って、決まった場所をうろちょろするんじゃないかと」

「へぇ、じゃあそっちの方が向いてそうだ。私はハチ公より目立つ」

「……先輩なんか、自虐ネタ増えました?」

 身体的特徴にどれだけコメントされてもビクともしないメンタルは、ぼくが入部した当初から変わらない物だけれど。

「そう? だとしたら、君のせいだろうね」

「否めません」

「否めないどころじゃないよ」

 先輩のすごいところは、「聞かせて」とか「言ってみて」とは言うのに、まるで大多数の他人みたいにぼくの話を「悪」として扱うことだ。その上で楽しんでいる。これがバランス感覚ってやつなのだろうか。

「でもそれを言ったら、ぼくだって先輩のせいってことはありますからね」

「ほう?」

「最近はもう、腕や足がどうのこうのしていなくても、超能力チックな物が出てくるたびに、先輩のことを思い出すんですよ」

「例えば?」

「それこそスターウォーズも」

 フォースとかいうパワーがあったはずだ、あの作品には。コマーシャルが流れるたびフォースフォースと聞こえるので、あー、あの超能力みたいなやつかと思うと、そのたび先輩のことが頭をよぎる。

 まぁぼくはスターウォーズを一作たりとも見ていないから、フォースとやらが実際どんな物なのかは知らない……と言っても過言ではないのだけれども。

「それは私に言われても。君のお喋りと違って、生活に必要不可欠な物なんだから」

「なるほど。ぼくが、お喋りしなければ死んでしまう体で、生まれてこなかったばかりに」

「君がそんな体に生まれていたら、さぞ大変なことになっていただろうなぁ」

 と思ったけどカウンセラーは腐るほどいるか、ははは。と先輩は笑った。

「ところでですけど」

 流れをぶった切って言う。

「先輩って夏休み何してたんですか?」

「何って?」

「イベント的な」

 まさかガンダムにちょっと詳しくなった程度で、夏休みの全てを食いつぶしてはいないだろう。

「イベントねぇ。……海に行ったな」

 ビンゴ! と心の中で叫ぶ。聞きたかった話がついに来た。

「先輩って海で何するんですか。泳ぐにしても超能力だとやり甲斐なさそうですし、それは砂浜で城を作っても同じでしょうし」

「お、急にスロットル入ってきたね。マッドサイエンティストに燃料を与えてしまったか」

 言いながら彼女は機嫌が良さそうだった。

「確かに君の言う通りだけれど、海には私しか出来ない遊びがあるんだよ。数年ぶりにそれをした」

「それとは?」

「モーゼごっこ」

「ああ、なるほど」

 完全に盲点だった。そうだ、超能力者のする遊びが全て、ぼくら平凡な人間と同じだと考えること自体間違っていたんだ。

「楽しそうですね」

「いいや全然。隅っこで小さくやるだけだからね。さもなくば人だかりが出来てしまう」

「本当のモーゼみたいに、やろうと思えば出来るんですか?」

「さぁ? 試したこともない」

 先輩の超能力は強力だ。いつか出てきたBB弾の例えは、人ではなくとも何かに向かって試したことがあるから出た話なんじゃないか……とぼくは勝手に思っている。そうでなくても、少なくともスチール缶をペットボトルみたいにぐしゃぐしゃに出来ることは知っている。

 とはいえ、地平線の彼方まで海を割れるのかというと、あまりそういう絵面は想像できなかった。先輩の言う通り、誰にも迷惑をかけずそれを確かめる方法はないのだろうけど。

「だから海はあまり面白くなかったな」

「逆になんで行ったんですか」

「親戚が遊びに来て、向こうには小学生の子どもがいたからね。流れだよ」

「へー」

 子どもと上手く付き合う先輩が想像できなかったけれど、同じく子どもに懐かれる先輩も想像できず、隅っこでモーゼごっこをしていたということは、そういうことなのかもしれない。

「子どもって」

「うん」

「なんでおねーちゃんには手や足がないの、って聞いてきたりしないんですか」

「それが、しないんだよ。君と違って」

「へぇ」

 子どもっていうのは好奇心旺盛なもので、なおかつ遠慮もない生き物だと思っていたけれど、まさかこちらの方が幼児扱いされるとは。親に口止めでもされたのか、それとも先輩にびびってるのか、何かあるような気はする。

 けれどそうか……と、なんだか感慨深いような気持ちになる。そうか、先輩も親戚と出かけたりするのか。平和なものだ。……本当に平和だ。超能力者も、普通の人間と変わらず暮らしている。

「先輩」

「うん?」

「先輩は夏休みに、部誌に載せる物とか書きましたか」

「いいや」

 小学生の頃から七月中に宿題を終わらせてきたような顔をして、ニコリともせずに彼女は言う。

「書きたい物が出来たら書くよ」

「それで間に合うんですか」

「間に合わせる」

「……書きたいものって、たとえば?」

「さぁね。見当もつかない」

「…………」

「なに?」

 先輩は疑念の眼差しに敏感だった。

「ぼくは、一瞬書こうと思ったんですよ」

「へぇ。初耳だね。書くつもりだったんだ?」

「いや、書かなくていいなら、そうしたいです。上手くいかなかったので」

「書くのかどうか、今月中に決めてくれると助かる」

「はい」

 文化祭は十一月にある。十月を丸々一つ開けておけば、ぼくが書こうと書かなかろうと調節は出来るのだろう。ただその十月には体育祭があり、その練習は本番が近くなるにつれて放課後にも及ぶので、暇かと言われればそうでもなさそうではある。

「そのうち幽霊のリーダーが、部誌の見本を持ってやってくる。来月中には間違いなく来る」

「はぁ。部室にですか」

「そうだ。だから、もし会ったら受け取っておいてほしい」

「あー、いいですけど」

 先輩は部室に来るのがぼくよりも少し遅い。遅いと言ってもせいぜい五分、長くて十分程度だけれど。先輩いわくその理由は、担任のホームルーム進行がトロいせいらしい。ぼくのクラスの担任が「はい解散さよなら〜」って感じなので、むしろ彼女のクラスの方が標準なのではないかと薄々思っている。

「初対面の人間同士、あの部屋で私を待つのも気まずいだろう」

「まぁ、そうかもですね」

 本当に、その人が何年生で、男性なのか女性なのかさえ知らない。聞けば教えてもらえるだろうけど、だからなんだと言うのか。関わりが無さすぎることに何も変わりはないのだ。

「くれぐれも、そいつにまで何か言うことだけはやめてくれよ……?」

「何かって?」

「さぁ、なんだろう。君の言うことは想像つかない」

「下の名前を教えてとか?」

「やめろやめろ。さっき君が「おねーちゃん」と口にした時でさえゾッとした」

 言われてみるとそれはそうだろうと思う。先輩に恋愛経験はあるのかと気にした日もあったけれど、仮に先輩に彼氏がいれば、自然と下の名前で呼ばれることもあるだろう。けれど「おねーちゃん」はない。そういうつもりで言ったわけではなかったが、ゾッとされたならそれも仕方ないのかもしれない。

 しかしまぁ、心配されることはわかるけれど、特に何もやらかしようはないように思える。部誌の見本を受け取る、ほんの一瞬、たった数秒だけのやり取りじゃないか。相手が五体満足で、異能力の類と無縁なら大丈夫だ。

「何も変なことなんか言いませんよ。先輩相手じゃあるまいし」

「でも中学ではトラブったんでしょ」

「一ヶ月はやってましたよ、部活。一ヶ月やってれば、そういうこともあります。一ヶ月もやってれば」

「はいはい。わかったよ、心配性で済まなかった。後輩を信頼するよ」

「……そう言われるとなんか胡散臭いですね」

「でしょう?」

 ぼくは意外と流されやすいタイプなのかもしれない。信頼するなんて言われると、自分は常時警戒されていて然るべきなのではと思えてくる。

 ……だとするとぼくは、部誌に載せる文章の件について、先輩からどう思われているのだろうか。どうせ書かないだろう……なのか、きっと何か載せるはずだ……なのか。

 考えてみるとぼくと先輩の関係は、お喋り以外のこととなると、信頼するもしないも決められないくらい、お互いのことを何もしらないのかもしれない。そしてそれは、彼女が海水浴場の隅っこで海を割っているところを目撃したって、大して変わりはしないだろう。

 だからかもしれない。文章というクッションを挟んで、ぼくは先輩が何を語るのか見てみたいのだ。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

08 チキンレース

 お祭り騒ぎをする時には、なぜ各国の国旗を頭上に張り巡らせるのか。ぼくはその理由を未だに知らない。知ろうとも思わない。よーいドンを告げる鉄砲が空砲だということを知ったのは、小学校高学年になってからだった。知ろうと思って知ったわけじゃなかった。サンタの正体を知るように、いつの間にか知っていたのだ。

 十月の某日、土曜日。我が校では体育祭が絶賛開催されていた。

「A組速い! 圧倒的です! C組も追い上げてきました! さぁいよいよ最後のランナーです!」

 実況席の放送委員はどんな気持ちでマイクに向かっているのだろう。あまり楽しくはなさそうだ。状況に合わせて定型文を選ぶだけのゲームだもの。

 三年生のリレー競走を他の生徒と同じように場外の椅子から見守るぼくは、そのレースの行方にまるで興味がない。先輩が走らないからだ。彼女は言った、超能力がある以上、たとえ自分に手足があろうと出場は出来ないと。

 つまらない競技だと思う。ある日先輩が、愚鈍な凡人共には付き合っていられない……とか言い出しても、仕方ないんじゃないかとさえ思えてくる。まぁ、だったら彼女が義足でも付けて走れば見栄えしたのかというと、そうでもなさそうだけれど。

 要するにぼくは、身内贔屓の応援とやらがしてみたかったのだ。結局それは叶わなかったので拗ねている。

「ゴォール!! 一着はA組! 二着は……」

 校舎の高い位置に取り付けられた時計が、校庭にいればよく見える。だからこの場の全員が知っているはずだ。このリレーが終われば始まる予定の昼休憩は、すでに十五分も遅れているのだということを。

 どうしてプログラム表を配るくらい用意周到なはずの行事が、いざ始めればこんなグダグダになってしまうのだろう。一つのイベントを実行することの難しさをひしひしと感じながら、ぼくは若干イライラしている。

 仮に先輩が毎日部室へ十五分遅く来たとして、ぼくはそんなに腹を立てるだろうか。そんなことはないはず。……ならなぜ今こんなにイライラする? そう考えれば心当たりがないこともなかった。

 仮説だけれど、そういえば部活は必ず放課後で、ぼくは部室で腹を好かせたことがなかったのだ。

「えー、これで午前のプログラムは全て終了しました。時間が押してしまったので、昼の休憩を十五分延長して、十三時十五分から午後の部の開始を予定しております」

 家に帰ったからといってさほど楽しみがあるわけでもないので、ぼくとしてはその放送にこれといって文句はなかった。が、そうではない人たちもいるようで、そりゃ閉会も遅れるってことなんじゃないか、運営側の手際が悪いから……とぶつくさ愚痴っている男子たちもそこかしこで見かけられる。

 ともかく休憩時間だ。弁当を食べに行って、どこか涼しいところで休もう。十月とはいえ、雲一つない空の下に一日出されて、しかもまわりが「いけー!」とか「がんばれー!」とか騒いでいると、さすがにこっちも座ってるだけなのに疲れてくる。その上ちょくちょく競技にも出るわけだし。

 各自持参の弁当は教室に置いてあるので、一度中履きに履き替えて階段を上る。すると途中で、ぽんぽんと肩を叩かれた気がした。振り返るとそこには、肩の叩きようもなさそうな人が、浮かんでいた。

「一日働きましたって顔してるね」

 そういう先輩は涼しい顔をしていた。言うなら、今来ましたって顔だ。

「先輩は余裕そうですね」

「余裕さ。座ってるだけだからね。何一つやらせてもらえないんだ。あーあ、私も走ったり跳ねたり踊ったりしたかったなー。でも出来ないから仕方ない、あぁ残念、とても残念」

 何かしら煽りの意味があるのか、先輩はその場で上下にゆらゆら揺れた。

「煽りとも言いきれない微妙な煽りですね」

「え? 前にも言ったじゃないか。手足なんて無料でもいらないよ」

「ぼくは走る友人を応援してみたかったんですけど」

 そう伝えると、先輩は一瞬「なぜ?」というような顔をしたけれど、特にコメントはされなかった。

「私は君のことを応援していたよ。走る時ちょっと面白い顔をするんだなぁって」

「……お昼食べましょう」

「あれ、ごめん。怒るなよー」

「怒りゃしませんよ」

 怒ってはないけど、自分が走ってる時の顔なんて考えたこともなかった。そもそも本来ぼくのダッシュをまじまじと見守る人間なんて、小学校時代に運動会を見学しに来ていた親くらいのものなのだ。

「そう? じゃあ余程お腹が減っているのか」

「かもですね」

「弁当は教室に?」

「先輩もそうでしょ」

「うむ。だから取る物取ったら、またウチの教室に来ない?」

「久しぶりですね」

 予定通り十月には衣替えが行われ、宣言通りぼくたちはお喋りの舞台を放課後の部室に戻した。けれどひと月も経たないうちに、再び三年D組へ足を踏み入れることになるとは。いよいよアウェーを通り越し、憩いの地も通り越し、ホーム感が出てきた。

 さっさと弁当を取って自分の教室にさよならする。ちらりと確認した限り、男子も女子も皆思い思いのグループで集まり昼食の時間を過ごしていた。

「そういえば」

 上級生の教室へ向かうべく、さらに階段を上る。足音がぼく一人分だけしか響かないので、浮遊する先輩はきっとエスカレーターにありがたみを感じたことがないのだろうなと思った。

「先輩が何か食べるところを見るのって初めてですね」

「……来栖、今のはなんか、いつもと違う方向に気持ち悪いぞ」

「えっ、うそ」

「誰しもまじまじと見られて気持ちのいいものじゃないだろう、食事の最中なんて」

 そういうものだろうか。確かにぼくもマナーにうるさい人は嫌いだけれど、別にそういう意味で言ったわけでもないし。

「そう嫌われるとは予想外でした」

「いや、内心でほくそ笑まれるよりはいい。というか、君のいいところはそこだよ。邪悪だけど素直だ」

「欠点じゃないですかそれ。馬鹿だけど強欲みたいな」

「物は言いようってね」

「なるほどですね」

 時々忘れそうになるけど、先輩は三年生だ。物は言いようなんて、まさに三年生らしい考え方だと思う。ぼくも中学三年生の時に嫌というほど体感した。面接対策に自分の長所短所を考えると、どちらも全て「言いよう」なのだ。

 先輩のクラスに着くと、かつて半ば定位置と化していた位置の席は空いていなかった。が、一方で人口密度自体は大幅減少している。今のぼくのように他クラスへ遊びに行った人が多いのかもしれない。体育祭の昼休憩ならではの状況だ。

 適当な椅子と机をくっ付けて、先輩と向かい合って座る。そして二人とも黙々と弁当を広げる。先輩は小さな声で「いただきます」と言ったけれど、合掌の代わりに目を閉じたのが印象的だった。……いや、合掌と目を閉じることはセットか? なに分やったことがないもので。

 先輩に対して返事をするかのように、弁当箱の蓋を開けながらいただきますと言う。

「……あ、そうじゃん」

「え?」

「いや、こっちの話です」

 卵焼きが宙に浮かび上がって先輩の口にとびこんでいったのを見て、そうか箸の類は彼女に必要ないんだと初めて気付いた。どうも箸が浮遊するところを想像してしまっていた。

 とか考えているうちに、蓋をコップにするタイプの水筒がさも自動であるかのようにお茶を注ぎ始める。口元までやって来たそれを飲む先輩を見ていると、見えない執事に甘やかされているようにも見えてくる。

「君に聞きたいことがあるのだけれど」

「なんですか」

「君のご両親は今日来ていたりする?」

 それを聞いてどうするんだろう、とは思いつつ。

「来てませんよ。体育祭の見学なんて、小学生じゃあるまいし」

「だよね」

 唐揚げを一つ箸でつまんで食べる。最近の冷凍食品は「解凍」という手間が省かれるようになってきて革命を感じている。放っておいたら解けるってどういう仕組みなんだろう。コマーシャルをやっていたアイドルは味の話ばかりで、そのあたりは教えてくれなかった。

「ウチは来てるんだ」

「え?」

「両親が、二人とも」

 何とは無しに言うけれど、なんだか先輩が意図的にぼくから目を逸らしている気がした。その俯きは単に、弁当箱の中から次に何を浮かせるか迷っていただけかもしれないけど。

「面白いでしょ。私は競技に出ないのに、必ず来るんだ。小学校どころか、幼稚園の頃からずっと」

「……いいんじゃないですか? 恥ずかしいとか?」

「それもある」

 真顔で言われたので、

「先輩にも親が来て恥ずかしいって感覚があるんですね」

 と言いたくなってしまった。

「ううむ、まぁ、そうだなぁ。恥ずかしいというか、申し訳ないというか、なんだかね」

「煮え切りませんね、珍しく」

「小学生じゃあるまいし、と言われたからね」

 ジッと視線を向けられた。

 それは、もちろん本心からの言葉だったけれど、同時に事実として、それは一般論でもあったはずだ。今回ばかりはそんなにひどいことを言ってないはず。

「先輩の地雷は変な場所にありますね」

「え? あぁ、ごめん、そういうつもりじゃなかった。一般論を確かめたかったんだ」

「うーん……?」

「私の親が、わざわざ見学に来るのはさ」

 またお茶が注がれる。よく見ると、注いでいる間は先輩の視線が水筒に集中していて、やはりあれは自動などではないのだなと思う。

「気遣いと意地なんだ。自分たちの子どもが四肢欠損の超能力者で、体育祭の競技になんか一切出ないとしても、それを理由に「じゃあ行かない」なんて絶対に言うものか……っていう」

「……あー、なんか、なるほど」

 ぼくにはわからない。仮に自分がまだ幼い子どもだったとして、自分が競技に参加できない体育祭を親に見に来てほしいと思ったのかどうか。想像も出来ない。たまたま怪我をして今年の分は不参加、なんてわけじゃなくて、一生それが続くなんてことは。

 だから先輩が、両親のその「気遣いと意地」とやらをどう思っているのかはわからない。今聞いてみたところで上っ面しか理解できないだろう。

「でも今君に言われた通り、普通は高校の体育祭なんか親が見に来るものじゃない」

「まぁ、そうですね」

「ね。だから亡霊みたいなものなんだよ。私への気遣いと言えば聞こえはいいけど、やってること自体は、何を恨んでいたのかも忘れて、憎しみだけで人を呪う亡霊だ」

「……霊が多いですね」

「え?」

「幽霊部員だとか、亡霊だとか」

「あぁ、ははっ、そうだね」

 さすがに高校生ともなれば、「子ども」と呼ばれる側も限りなく大人に近づくから、誰の親が来ていたって「ふーん」以上の感想は持たないけれど。それでも口ぶりからすると、先輩は親が来ることを嫌がっているように感じる。

「先輩は、親に来ないでいてほしいんですか」

「さぁ、なんとも言い難い。意地だけで来られては見ている方がつらいけれど、突き放すなんてことも出来ない」

「複雑ですね」

「本当に」

 とはいえ、ぼくにはどうしようも出来ないが。

 一つ救いがあるとすれば、先輩はもう三年生。進学した先の文化祭とかに親が来る可能性を考えても、社会人まで進めばさすがに親の出番はない。……まさかいわゆるヘリコプターペアレントということもないだろう。だとすればあと少しで、複雑さとやらは自然消滅するのだ。

 ……残りの期間を「少し」と呼べるのか、そもそも待つしかないものを「救い」と呼べるのか、全部他人事の理屈なのではないか……とは思うけれど。しかし、だからといってぼくに出来ることは何もない。

「そこでだ」

「はい?」

「来栖後輩よ、うちの親に会っていきたまえ」

「はぁ?」

 先輩は今までで一二を争う、意地の悪い笑みを口元に貼り付けていた。

「私の親は無意味な意地で来たのではない、娘に近づく怪しい男の視察に来たのだ。……ということにするのはどうだろう、と思ってね」

「いや、どうも何も」

 考える余地もない。ぼくは自分が何も出来ないのではなく、何もしたくないのだと理解した。

「嫌ですよ、普通に」

「どうして?」

「どうしてって、いつも仲良くさせてもらってます来栖ですーって出ていくんですか? なんだこいつって話でしょう」

「どうかな。案外、体育会系の世界では、先輩の両親が来たとなれば挨拶をしに行くのかもしれないぞ。知らないけど」

「偏見フルスロットルですね。そしてぼくらは文芸部です。絶対行きませんからね」

 文芸部、それは体育会と対極にある部活だ。事実上の運動部と言われる歌や楽器関係とは違い、寄り付く人間のタイプ的な偏りから文化部寄り扱いされる卓球部とも違う。文芸部は純度百パーセントの文化系だ。行くもんか、挨拶なんか。いや体育会系も行かないけど。

「そうか……。いや、まぁ、無理を言ったな」

 そう言って俯く先輩が、意外なほど悲しそうな顔をするので、半分以上冗談だと思っていたぼくは驚かされた。うっ、と声に出そうになる。

 ぼくにも良心ってものがあるのだ。

「いや、いや先輩、それは、そういうのはずるくないですか?」

「そういうのって?」

「ぼくが悪者みたいじゃないですか」

「…………」

「……先輩?」

 突然の沈黙。電池でも切れたかのように、先輩は俯いたまま喋らなくなってしまった。何が起こったのか分からず、おそるおそる覗き込む。

「……くっ、ふふっ」

「先輩……?」

 先輩は、なぜかめちゃめちゃウケていた。箸が落ちても笑う年頃ってやつかと思うくらい、ずっと噛み殺した笑いに取り憑かれている。

「来栖後輩、私は、私は君が心配だ」

「え、なんですか急に」

「ちょろすぎる」

 意地の悪い笑みだと思っていたものは、悪魔の笑みだったのかもしれない。それがまた先輩の口元に戻ってきていた。

「泣けば何でもしてくれるんじゃないか?」

「人をなんだと思ってるんですか……」

「ごめんごめん。しないよ、良心を人質にするなんて」

 恐ろしい話だ、恐ろしい発想だ。良心を人質にするなんて。ただそれで、いつか言われたことを思い出した。先輩に言われたことじゃない。親に言われたわけでもない。けれど誰に言われたかを思い出せるわけでもない。誰かから言われた、言葉だけを覚えている。

 具体的に思い出せない誰かいわく、ぼくに良心があることが、またなおさら不気味であるらしい。

「けれど既にね、君のことは両親に話してしまったんだ」

「は?」

 何事かと思う。話してしまったって、何を……?

「部活で出来た友達が面白いやつなんだって、ついうっかり。口が滑った」

「いや、面白いやつって、具体的にどんな」

「めちゃめちゃ喋るやつだ、って。……安心しなよ、まずそうな内容までは言ってない。ビビりすぎ!」

「びびりますよ、告発じゃないですか」

「じゃあなんで言われたらまずいこと話すのさ」

「話したいからですよ」

「あははっ。ほら、面白いやつだ」

 教室の外、校庭の方から、何やら放送の声が聞こえてきた。さっきのリレーに進路妨害等の不正があったとかないとか、そんな話をしている。その声は明らかに実況と同じ声、放送委員の生徒の声だった。昼休憩というのは、生徒に平等な物ではないらしい。

 放送委員は、自分が放送委員でよかったと思う時なんてあるのだろうか。なんだか気の毒になってくるけれど、ぼくは文芸部でよかったと思う。先輩がこれ以上両親に対して口を滑らせない限りは。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

09 迫る文化祭

 体育祭から一週間後。放課後の部室で本を読みながら先輩を待っていると、カタッ……カタッ……と、気のせいかと思うくらい控えめな音が鳴った。部室の扉が、じわりじわりと開いていく。

 やがて人間の顔半分ほどの幅が開くと、そこから女生徒が一人こちらの様子を伺っていた。短髪で童顔、かつ背の低い女子だった。人様に童顔と言えるほどぼくが大人びているわけでもないけれど。

「す、すみませーん……?」

「はい」

「部長さんいますか……? 文芸部の……」

「根室先輩ならそのうち来るはずですけど」

 先輩から「受け取っておいて」と言われたことをぼくは忘れていない。たぶんこの人がそうなのだろうなと思った。いよいよって感じだ。

「あれですか、部誌の件ですか」

 びくっと相手が肩を震わせた。

「あ、はい……。その、文芸部の活動として、作ってきたんですけど。ま、まだ見本しかなくて」

「大丈夫です、先輩から聞いてます。受け取っておいてくれとも」

「あ、……来栖さん?」

「はい、来栖です」

 ぼくの名前を聞くと多少警戒心が解けたのか、もう少し大きく開いた扉の隙間からそろ〜っと入ってくる。

 そこでハッとした。そうか、幽霊部員の人たちは部室に来なさすぎて、「そこにいるのが根室でなければ来栖だ」ってことを知らないんだ。

「あの、じゃあ、これ……」

 手渡された紙の束は、表紙に「表紙」と書いてあった。シャーペンで走り書きした文字だ。

 ぼくがそこに注目していたからだろうか、女生徒はソプラノみたいな声で、

「そ、それは見本で、完成品はちゃんと表紙とかあるので……!」

 と、消え入りそうな早口で言ってくれた。漫画なら頭上に汗マークの演出が入ってきそうだった。

「まぁ、ぼくにはよくわかりませんけど。先輩に渡しておきます」

 じゃあ先輩なら何か良し悪しがわかるのかというと……違ったら失礼だけど、先輩だって何もわからなさそうに見える。

「あ、お、お願いします。それじゃあ私はこれで……ひっ」

 ガラララァ!と大きな音を立てて、開きかけだった扉が全開された。そしてその向こう側に女性が一人浮かんでいる。彼女には腕がなく、足もない。根室麗三年生がやって来たのだった。

 ちょうど出ていこうとしたところで鉢合わせた女生徒は、尻もちでもつきそうなくらい後ずさった。

「おお、凪か」

 凪、というのが彼女の名前らしい。彼女を一瞥してから、ぼくの持つ紙の束に目を向けた先輩は、大体のことを理解したらしく、

「ご苦労」

 と一言彼女を労った。部長というか生徒会長みたいなオーラを出している。

 凪さんは、聞き取れないくらい小さな声で何か言ってから、逃げるように部室を去っていった。たぶん一文字目は「し」だったので、失礼しますと言ったのかもしれない。だとすると逃げる際前傾姿勢になったのかと思った彼女の動きは、小さくお辞儀をしていたのかもしれない。

「それ、見せて」

 走り去った部員は話題にも出されず、そう言われて部誌の見本を渡そうと思い、あれ、手がない人にどうやって渡せばいいんだろうと、しばらく自分の動きが停止する。すると部誌は独りでに、ぼくの手の中からスルスルと逃げ出していった。

 ペラペラと、たぶん適当にページをめくって、最後まで見終えた先輩は言った。

「よくわからないけど、たぶんこれで大丈夫でしょう」

 やっぱりよくわからないんだ。ぼくの印象は間違っていなかった。

 部誌(見本)は部室の大半を占拠する長机の一角、先輩の席の目の前に置かれ、以降特に読まれることはなかった。けれどそういえば、あの中にはすでに先輩の書いた文章が載っているのかもしれない。だとすれば先輩が来る前に見ておけばよかったか。

 受け取りのミッションも終わったので、普段通りお互い向かい合って座る。四角形に設置された長机特有の間に、距離に、近頃なんだか違和感を覚える。教室で話した経験が結構長かったからかもしれない。

「あの女子、凪野乃子という人なのだけれど」

 椅子に座ったというより置かれたように見える先輩が言う。そんな先輩にも見慣れたものだ。人形みたいだとか言っていた頃が懐かしい。たかだか半年程度が経っただけなのに。

「あれで三年生なんだ」

「へえ、それはまた、なんというか……控えめに言ってすごく腰の低い」

「ああ、だから言ったんだ、受け渡しに来る人に変なことを言うなよって。かわいそうだからね」

「なるほど」

 たしかに彼女は先輩とは真逆の人間に見えた。蚊も殺せないような、という例えがしっくり来る人間を現実で初めて見た。ちょっとでも過激な話をすればひっくり返りそうだ。

「……ところでそれ、面白い?」

 先輩が顎で指したのは、さっきまで読んでいた、ぼくの真ん前に置かれている文庫本だった。タイトルは「享年29歳」。独立した計四本の短編集であり、表題作が一本目の話になっている。

「まぁまぁですね」

 たぶん先輩は、ぼくの読書の趣味に興味を持っていない。先輩がぼくという人間そのものに興味を持った例はあまりないのに、なぜ本人にとってアウェーである読書の話にだけ興味を持つんだ、と不思議に思ったことがある。

 彼女はぼくの読書に興味がない……と仮定して物を見ると、彼女がぼくに本の話を振る時というのは大抵、他に話すことがない時か、すでに話したいことが決まっていて、その布石を打っているかの、どちらかなように思えてくる。そしてぼくはそれが正解なのだと信じてやまない。

 そして、それなのに時々、先輩はこう言うのだ。

「どういう話?」

 そう来るだろうと身構えていたからか、思ったより流暢に話し出せた。

「ある日森の中で、男が死体を見つけるんです。強姦された末に殺された、若い女性の死体だったんですけど、その女性は胸が大きくて」

「え、ちょっと、十八禁?」

「いや、違うと思います。思いますけど、それでその男は無類の巨乳好きで、しかし女性の胸を揉んだことがない、いわゆる童貞でした。それで出来心で、死体の胸を揉むんですよ」

「ほう」

「すると女性の体が黄金に輝き、その輝きが収まると、明らかに死んでいた彼女が蘇ったんです。それでなんやかんや騒ぎがあって、最終的にその男は、女性の胸を揉むことで命を呼び戻す力を持っていたことが明らかになりました」

「ファンタジーだね」

「ですね。で、男はその力で商売を始めます。命を呼び戻すことは、死後すぐでなければ出来ないのですけど、病魔を退けることはもっと容易だったんです。だから彼は医者もどきを始めました。何かしら難病を抱えた女性が彼のもとを訪れては、胸を揉ませることと引き換えに健康になっていくのです。あぁもちろんお金も支払いますけど、揉むと言っても服の上からなので、末期癌まで治るならそれはもう大盛況なわけですよ」

「ふむ」

「で、そうして彼が下心のままに巨額の財産を築き上げた時、ある告発をする女性が現れたんです。その女性は、胸を揉ませれば病が治ると聞いたから行ってみれば、それ以上のことを、つまり強姦をされたと主張し始めました。それが一人現れると、私も私もと、次々「被害者」が名乗りを上げ始めるんですよ」

「……それで?」

「男はそれを否定し続けました。自分は無実だと。そしてこれは読者にだけ明かされる真実ですが、実際彼はそんなことしていないんです。彼にとって女性に乱暴することは、死体の胸を揉むより、もっと覚悟のいることだったようで。しかし彼の有罪を証明する証拠が出ないかわりに、彼の無罪を証明する証拠もありませんでした。やがて彼は非難の嵐に耐えかねて、自殺しました。それがタイトルにある享年29歳です」

「うん。……えっ、おわり?」

 先輩が目を丸くするので、ちょっと「してやったり」な気持ちになる。もちろん物語はこれで終わりではない。

「いいえ。その後、男の死後から数十年経って、奇妙な現象が各地で起こります。一部の老人が唐突に若返り始め、みるみるうちに子どもに、さらには赤ん坊にまで歳を遡っていくのです。老人は一週間もすれば赤ん坊になり、そしてどうやらその赤ん坊は、普通の人間と同じ速度で成長していく。寿命の「巻き戻り」が起こっていました」

「それって、巻き戻った人は全員女性?」

「……そうです」

 ちくしょう、と内心で毒づく。本は読まないらしいのに、なんでそう鋭いんだろう。

「やがて、巻き戻りが起こった人は全員、過去に例の男から治療を受けた……つまり胸を揉まれた人物であったことが判明します。つまり男の力は三つありました。一つ目は死後間もない命を呼び戻す力、二つ目はあらゆる病魔を退ける力、そして三つ目は「死ぬ寸前に寿命を巻き戻す効果」をあらかじめかけておく力です。そして彼のことを強姦魔だと告発していた人たちは、巻き戻りが起こることもなく、一人また一人と老衰で死んでいきました。彼の無実が証明されたのです。……もう何十年も前に、彼は死んでしまったわけですが。……おしまい」

「なるほどね。いや、面白かった……!」

 そう言う先輩は普段とさほど表情が変わらなかったけれど、とはいえ退屈だったというわけでもないらしい。ぼくとしてもそれなりに満足だ。自分が書いた話だというわけでもないのに。

 ふと、先輩が今思いついたかのように言った。

「けれど、寿命の巻き戻しとは、病気を治すことと違って、悪い面が大きくないかな。記憶がどうなるのか知らないから望まない「二週目」についてはさておき、少なくとも赤ん坊にはもう親がいないじゃないか」

 実際今思い至ったのだと思う。すると先輩は鋭いというより、賢いのかもしれない。一を言えば十まで分かるタイプか。

「そうです。だから巻き戻りは作中でも「呪い」と言われていました。告発していた女性以外が呪われるなんて理不尽ですけどね」

「そんなものだと思うよ、呪いなんて。俺を庇わなかった女どもはみんな敵だーって感じなんじゃない?」

 そのあたりは作中にも書かれていなかった。が、先輩の言うことはなぜか当たっている気がする。根拠はないけれど、男女関わらず、人を呪う人間なんてみんな、全てを敵視しているんじゃないかと。

「ところでさ」

 楽しそうに、笑みを浮かべて、

「君は、私の死体が転がってたらどうする? 誰も見ていない場所にさ」

「縁起でもないこと言わないでください」

 先輩は目を丸くした。

「君に言われるとは」

 はたしてぼくは今まで、縁起でもないことを言ってきただろうか。……言ってきたかもしれない。

「で、どうなの?」

「続けるんですかその話」

「気になっちゃったから」

 恋バナでもするみたいに言ってくれる。いつか先輩に自虐ネタが増えた気がした日があったけれど、これもぼくからの影響だというのか。

 例えるならそう、ぼくが昔「四肢欠損の女性を性的な玩具扱いする趣向の本が世の中にはあるんです」と話した時、あの時に「君もそうなの?」と聞かれるような感じだ。先輩はそこまでは言わなかった。

 ……先輩はぼくという人間そのものには興味がない、という前提が間違っていたのか? あるいは、前提が崩れてきている……?

「もしも、明らかに死体だとわかる状態なら」

「うん」

「持つでしょうね」

「持つ?」

「前にも言ったじゃないですか」

 彼女から目を逸らして、窓の方を見ながら言う。

「先輩みたいな人って本当に軽いのかなって」

「あぁ、懐かしいね……!」

 そうかそうか、と彼女は何度も頷いた。

「ぼくからも質問いいですか?」

「なんだい?」

 手元の本の、表紙を見ながら。

「先輩って、やっぱり本は読まないんですか?」

「読まないよ」

「不思議ですね。ぼくの読んでる本にも興味ないんじゃないですか?」

 すると先輩は、バツが悪そうにクスりと笑う。

「あぁ、今日は」

 バサバサッと、紙の束が音を立てる。部誌の見本が踊っていた。

「その本を見た時、これ、売れても29部くらいかなと思って」

「あー」

 納得してしまった。そう言われてみるとこの本の表紙は、不吉な予言の書のようだった。中に書いてある内容に関係なく、「29」という数字だけが浮かび上がって見える。

「君が何も書いてくれなかったから、きっと売れない」

「ぼくが書いていたら、今頃逆のこと言ってません?」

「あはは」

 思い出される。ぼくが九月の最後の登校日に「書けそうもない」と伝えると、「きちんと期限内に伝えてもらえて助かる」と褒められたのだ。むしろもっと時間に余裕を持てと言われるかと思ったのに。

 先輩はスマホで何か操作して、「凪にこれで良いと伝えたよ」と言った。それで部誌の見本は鞄に仕舞われる。

 ぼくも先輩も、この部誌にかける思いなんか、夏休みの宿題で書いた読書感想文に対する物のような、あるのかないのか分からない思い入れしかないだろう。凪先輩と、その他の部員たちもそうであることを祈る。でないと気の毒だ。あるいは、誰も顔を出さないのが悪いのかもしれないけれど。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

10 エッセイ

 十一月。三年D組の教室を見てみると、聞いていた通りメイドがわんさかといた。けれど先輩の姿はなかった。まぁ、クレイジーなモビルスーツのコスプレをされるよりはマシだ。

 絶賛開催中である我が校の文化祭は、そこそこ気合が入っている方だと思う。たぶん今頃体育館のステージでは、オリジナルの漫才が繰り広げられているはずだ。面白いかどうかはさておき、各々気合いは入っている。

 メイド店員として働く先輩という、にわかには想像し難い光景を見てみたかったのだけれど、無いものは無く仕方ないので、諦めて部室に戻る。こんな校舎の隅の隅にある辺境誰も来るまいと、部誌の販売については無人の野菜売り場みたいに放置してきてしまった。なぜそんなことするハメになったのかといえば、幽霊部員たちは今日もことごとく幽霊だからなのだけれど。

 ガラガラとクソうるさいドアを引いて戻って来てみると、誰かが真正面に座っていた。正体は一目でわかる。はたして、腕のない売り子から部誌を買う者はいるのだろうか。

 部室のセッティングが終わってからというもの、姿を見せなかった先輩が帰還していた。

「ただいまです」

「職務放棄だぞ後輩」

「先輩こそ今まで何やってたんですか」

「職務放棄だよ後輩」

 バイト代も出ない労働環境なんてこんなものだった。先輩は数時間前に「ちょっと用事」と言って部室を出ていったのだけれど、この調子だとそれさえ嘘だったのかもしれない。単なるサボりが用事と呼べるのか。

 先輩の隣に座って、慎ましい量が積まれた部誌を一冊手に取り、ペラペラとめくってみる。表紙は誰に頼んだのか、インターネットでよく見かけるような今時のアニメ絵が描かれていた。ちなみにタイトルは「文芸アラカルト部」。……最後の「部」は必要なのだろうか?

「あー、ちょっと、商品だぞ」

 中身のデザインはどんなものかと確認していたら部長に咎められた。立ち読み禁止らしい。

「じゃあ買います」

 見るからに原価の知れた見栄えの貯金箱に、百円玉を数枚入れる。振ってみると、今ぼくが入れた分しか入っていないような感じがした。

「おお、本当に載ってる」

 目次の初っ端に、根室麗と確かに書かれている。彼女が書いた作品のタイトルは「エッセイ」。しかし内容を読んでみると、それはおそらく詩集だった。それもいきなり会話形式で始まる。

 

 

 

「本心から「愛してる」と言われたいなんて、くだらない。夢を見すぎたロマンチストみたい。結局のところ心なんて確認のしようがないんだから、内心何を思っていたって、「愛してる」と言ってくれたならそれでいいのよ」

「愛されてもいないのに「愛してる」と言ってもらえるつもりなの? そっちの方がよっぽど夢見がちじゃない……?」

 

 

 

 ……根室麗名義で載せられた文章を、本人の隣で読んでいる。それは明らかなのに、先輩は何も言ってこない。だからぼくも黙って読む。会話形式の文章はそれきりだった。

 以降、詩が続く。

 

 

 

ー 遠くに見える、あの綺麗な光の正体が、ネオンライトだろうと、火事の炎だろうと、ぼくはどちらでも構わない。ぼくは美しさに白状だった。 ー

 

ー 人の見た目を貶すことが「悪」とされるのは、人の見た目が、容易には変えられない物だからだ。だから皆、内面の方は平気で貶す。馬鹿みたいだけれど、みんな人の内面は容易に変えられると思っているのだ。 ー

 

ー 指から滑り落ちた飴玉が、からころと癪に障る音をたててフローリングの床に落ちる。それで、転んで泣き出す子どもを連想した。自分は本当に子どもが嫌いらしい。 ー

 

 

 

 その他にも詩は多数載っていたけれど、読み進めていくとやがて、余白の多いページにたどり着いた。先輩の作品はそこで終わりなのだ。最後の一文はこうだった。

 

 

 

ー 「自分に嘘をつかない」という言葉の価値を、奈落に落とす人生です。 ー

 

 

 

 最後の句読点までしっかりと目に入れて、ぼくは部誌を閉じた。そしてもう一度目次を開くと、やはり詩集「エッセイ」の書き手は、根室麗だと記してあった。

 自分の膝の上にそっと部誌を閉じて置く。そしてぼくは、「詩」の定義は知らないけれど。

「先輩って詩人だったんですね」

「茶化したければ、君も何か載せるべきだったね」

 そう言って自嘲っぽい笑みを見せた彼女は、どうやら部誌を購入する意思がないようだった。なるほど確かに、ぼくが書かなかったせいで売上は落ちるらしい。

「……いや、よく考えると優しいな。詩人か」

「え、何がです」

「いいかい後輩、こういうのはね、ポエマーって言うんだよ。ひどい話だ、部室が欲しけりゃ恥をかけってね」

「恥をかくと文章の「書く」がかかってるんですか?」

「え? あー、あぁ、うん。ありがとう、君も一緒に恥をかいてくれるんだ」

「誰が」

 たぶん先輩と会話する中で初めて駄洒落を言った瞬間だったけれど、反応はそこそこ辛辣だった。パソコン画面とにらめっこしながら、お笑いの方面に向かおうと考えたことはなかったけれど、部誌に何も載せなかったのは案外正解だったのかもしれない。茶化されてはたまらない。 

「先輩って今まで何してたんですか? 用事って言ってましたけど」

「何って、まずクレープを食べたでしょ、たこ焼きを食べて、タピオカ飲んで、お化け屋敷は並んでたから」

「がッッッッつり遊んでますね。しかも食ってばっかじゃないですか」

「それが文化祭だろう?」

「用事っていうのは?」

「そりゃ遊ぶことだよ。……一緒に回りたかったのかい?」

 イエスかノーかで言えばイエスだった。ぼくは屋台で物を買うことの何が楽しいのかを理解できない性分ではあるけれども、結果論ながら先輩のいない三年D組コスプレ喫茶を覗くよりは、誰も来ない部室に飽きるまで座っているよりは、先輩について行った方がずっと楽しそうだった。

「なんで誘ってくれなかったんですか」

「……プライド? 建前? 仮にも部長の身で、一緒に部活ほっぽりだそうよ、とは言えなかった。ごめん」

「あー、それは納得です」

「けれど今言われてハッとしたよ。結局ここはさっきまで無人になっていたんだから」

 言われてこっちもハッとする。ぼくが先輩の建前を無にしてしまったわけだ。申し訳ない。……いや、言ってくれれば交代制にも出来たし、部員が他に一人でも来てくれればなおさらだった。座ってくれているだけでいいのに。

「……今から行く?」

「え?」

「文化祭はまだまだ続いているけど、客は一向に来ないんだ」

「もうお腹いっぱいなんじゃないですか?」

「食べるだけが文化祭じゃないよ」

 そのわりには話を聞く限りかなり食べていたけれども。お化け屋敷は行列のあまり諦めたらしいけど、食べ物は全てそれより空いていたのだろうか。ぼくは怪しく思う。

「何か面白い物ありましたっけ。混んでるお化け屋敷とか?」

「適材適所ということで、私がお化け役として働くから裏口入場させてもらえないかな」

 そう言って先輩は怪しげに、ゆらゆら揺れながら浮かび上がっていった。自虐も持ちネタになってきたのか。

「無理でしょう」

「そりゃそうだよ。並ぶのは得意?」

「全然」

「私も」

「……漫才見に行きます? 体育館の」

 一瞬、先輩は鼻で笑った。高校に入ってから初めての文化祭、その真っ只中にいるぼくと、卒業も迫ってきた先輩では、何か知っていることが違うのかもしれない。

「漫才はそろそろ終わってしまうんじゃなかったかな。次はダンス部の催しが始まるよ」

「へぇー」

「去年見た限り、ダンスは良かったよ」

「ダンス「は」っていう言い回しに意味はありますか?」

「ものすごくある」

 やっぱり、と思った。素人学生の漫才は危険だ。立派に売れた芸人が持つ若かりし頃の録画映像でさえ、学生の漫才というのは共感性羞恥を起こすスイッチだとぼくは考えている。

「見に行きますか、ダンス」

 重いのだか軽いのだか分からない腰を上げる。買った部誌は大切に鞄の中に仕舞っておいた。凪先輩の作品や、顔も知らない部員の作品も載っているはずだし、あとでゆっくり読ませてもらおう。

「ん、行こうか」

 これといって処置もせず二人で部室を出る。料金を記した紙の筒は初めから立ててあるし、貯金箱も置いてあるし、いちいちこんな場所まで来て、わざわざ部誌を万引いていく輩もいるまい。貯金箱の方だって、持った瞬間盗む気持ちも萎えるはずだ。

 体育館までの渡り廊下に出ると、さすがに寒く感じる季節だった。最近の日本の季節は極端に切り替わる。夏から冬へ、冬から夏へ。六段階あるギアを一気に三つ回すような急激な変化で移り変わる。

「さむ」

 思わず言ったのはぼくだった。しかし夏場はあんなに参っていた先輩は、

「そう?」

 と何でもなさそうに言ってくる。まずいな、部室にストーブを運んでくるためには、彼女の超能力に頼りたいところなのに。

 渡り廊下を抜けて体育館に入ってみると、待ち構えられたかのように音楽がかかり始めた。ドゥンドゥンと内臓に響くようなそのBGMが、音とは振動なのだと言うことを思い出させてくる。

 二つ並んで空いている席を適当に見つけて座る。いっそいかがわしいほどの光量で、赤青黄と次々色の変わるライトがステージに降り注いでいた。誰の趣味なんだろう。

 踊りの表現に言葉は不要ということなのだろうか、MCの類は現れず、流れるBGMにも歌詞はない。ただ唐突に舞台袖から登場してくるダンサーたちが、初めは思い思いに舞っていた。

 やがて一人ずつのパフォーマンスに移ると、男女混合のダンス部は、前菜扱いでいとも簡単にムーンウォークを披露する。そしてフードを被った男がセンターに来たかと思えば、彼は激しいブレイクダンスで回転し始めた。そしてその回転は、何か仕掛けがあるのではと疑いたくなるほど、その気になれば永久に回れそうな勢いで続いていった。

 舞台の袖から袖まで連続のバク宙を決める女子もいた。ロボットのように静と動が二極化したパフォーマンスをする者もいた。何かが披露されるたび大きな拍手が起こる。体育祭を超える熱狂がここにあった。

「手があれば拍手くらいするのだけれどね」

 歓声まで上がり始める中、先輩の声だけはなぜか綺麗に聞き取れた。

「ぼくが代わりにしておきますよ」

 そう言ってぼくが熱狂の一員に混じると、たぶん先輩は笑った気がする。まぁそうだ、拍手に代わりも何もない。

 さすがに派手なパフォーマンスは、ネタ的にも体力的にも長く続くきはしなかったらしい。ダンス部は魅せるだけ魅せて、早々に退場していった。そして会場はお喋りの声で埋め尽くされ、どよめくことになる。

 ぼくらはアイコンタクトで以心伝心となり、ある程度整った人混みをかき分け体育館を抜け出した。

「凄すぎましたね」

 外に出ると途端に静かになり、途端に寒くなる。背後に遠ざかる群衆のざわめきが、何かのエンディングのようだった。

「でしょう」

「ダンスがあのレベルなら、漫才だって」

「そう思うなら来年は見てみるといい」

 言った先輩はクスりとも笑わず、口角を上げさえしなかった。逆に気になってくる。来年は見よう。

 部室に戻ってくると、部誌が明らかに数冊減っていた。貯金箱を持ち上げてみると、こちらも明らかに重くなっている。

「売れましたね」

「義理なんじゃないか。幽霊たちの」

「ああ」

 そう言われればその通りな気がした。普段の活動はせずとも籍だけは起きたがり、義理で部誌作成に協力はするが、当日には姿を見せない。幽霊部員とはそういう人たちなのだから、金だけ落とすというのはいかにもやりそうなことだ。

「ところでこれ、半分以上売れ残ったらどうするんですか」

「怒られるな、予算的に。私が」

「……うーむ」

「仕方ない。為すすべ無しだ」

 部誌は計三十部が刷られた。例の本のタイトルから、大体三十冊くらいは売れてくれるだろうと祈りを捧げたのだ。が、現状を見ると、それさえ甘い見積もりだったのかもしれない。……しかし全校生徒は何百という単位だぞ。それが、たったの三十部もダメなのか。

 先輩とため息を吐いた。

「仕方ないけれど、立地が悪い。そもそも誰もここを通りかからない」

「あ、じゃあ宣伝したらどうですか。ぼくがここに入部したのも、先輩があの時そうしていたからですし」

 たとえ実際には踏み入らない場所でも、そこが目に映る場所であるならば、超常現象を目撃して注目しない人はいない。近寄り難さも全開になるが、誰の目にも入らないより絶対マシだろう。

「それは最後の手段かな」

「なんでですか」

「自分の詩を宣伝して回る詩人を見たことがある?」

「ポエマーは嬉しそうに不特定多数へ見せつけるイメージですけど」

 先輩の知名度がそうでもないのなら、根室麗という名前を見たところで「あいつ自分で自分の宣伝を」と気付く者はいないだろう。……まぁ恥じらいというのは、本人の中だけでの問題なのかもしれないけれど。

 それによく考えてみれば、先輩が新入部員の募集を行った結果だけれど、今ここに座っている人間はたったの二人だけじゃないか。

「ところで先輩」

「うん?」

「この表紙の絵は誰が描いたんですか」

 大きな図書館のような場所で優雅に本を読む、アニメ調の少女を指して聞く。

「…………聞きたい?」

 先輩は天を仰いでいた。おぉジーザス……とでもいった具合に。まさか……。

「え、もしかして」

「凪だよ。凪野乃子」

「なんだぁ」

「君は本当に騙されやすいな。大丈夫か」

 むっとして睨むと、良心に訴えてはいないだろうと反論された。まぁ、確かに。

 最後の手段を実行する気にはならないらしい先輩と一緒に、見つめ続ければ客が現れるのではないかというほどに、ただただ正面の扉だけを見つめボーッとする時間。文化祭を楽しむには、ぼくには何かが足りない気がする。……あるいは「ぼくらには」か。

 十一月の部室は、風こそ防いでくれるもののそれ以上のことはしてくれず、人気のない体育館とどっこいどっこいの冷気を内包してしまっている。暇ならいっそストーブを取りに行こうと、先輩に提案してみようか?

 そう思って隣を見ると、彼女は目を閉じていた。まさか眠っているわけではないだろうけど、それでぼくはなんとなく、提案を飲み込んだのだった。

 今にも彼女が、「何か面白い話をしておくれよ」と言い出しそうな気がしてならない。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

11 達磨

 十二月。今朝、今年初めての降雪と聞いてから外に出てみれば、埃みたいな雪が空中で風に翻弄されていた。間違っても積もりはしない。

 とはいえ雪が舞うくらいなので、部室はいよいよ極寒と言って差し支えない状態となっている。北国の方に比べればしょうもない寒さなのかもしれないけれど、ぼくにとっては恐れるに十分すぎる物だった。が、この部屋にストーブはない。当然暖房も。

 ある日先輩に声をかけて、倉庫に放置されているストーブを二人仲良く取りに行ったことがある。先生から鍵を借りて、校舎一階の階段傍にある倉庫へ向かった。倉庫の中は窓が無くて薄暗く、そして埃っぽい。唯一の明かりである電球はむき出しで吊るされており、閉鎖されたトンネルをイメージさせる場所だった。ストーブは倉庫に一つしか置かれていなかった。

 超能力で浮かび上がったストーブが、そのまま部室まで運び込まれる。灯油もついでに運んできた。先輩の力に猛烈に感謝しつつ、セッティングを終えてスイッチオン。ストーブの中に赤熱した部分が見えて、これにて一件落着……と思ったところまではよかったのだ。

 ひと段落したことを喜びつつ、雑談しながら椅子に座ってダラダラしていると、何か視界が不鮮明になったような気がした。目をこすってみるけれど、白いモヤがかかったようになったまま治らない。自分の目はどうしてしまったのだろう、まぁこの程度なら一生続くとしても耐えられないわけでは……とか考え出したところで、そうかと気が付いた。

 視界にモヤがかかっているというのは違う、この部屋にモヤがかかっているんだ。そのモヤとは何だ? それはそう……煙だ! そう気が付いた時には、部屋に充満する煙の色は黒になっていた。

「先輩!」

「焦らない焦らない」

 先輩もほぼ同じタイミングで気付いたようだった。ストーブから黒煙が立ち上っている。何が原因かはわからないけれど、あの倉庫に残っていたラストワンは福がある残り物なんかではなくて、論理的根拠があって除け者にされた物だったのかもしれない。

 先輩の超能力でスイッチはすでに切られていたが、黒煙がピタリと止むわけではなかった。部室はみるみるうちに黒く煙たく満たされて、中にいれば防災訓練を連想してしまう。すると今言うべきはこうだろう。これは訓練ではない、繰り返す、これは訓練ではない。

「先生を呼びに行こう」

「窓とか開けなくていいんですか」

「開けた方がいいのか、こういう時って」

「知りませんけど」

「私も知らない。分からないことはしない」

 ぼくもそれに賛成して部室を出た。二人とも、出来るだけ責任を負いたくないのだ。窓を開けたせいで爆発しましたとか、言われてみれば絶対に御免だった。

 そうしてぼくらは職員室へ飛び込み、少なくともぼくは、大人の表情がスッとシリアスになる光景を初めて現実に見た。先生を連れて、人にぶつからない程度の速度で廊下を走り抜け、黒煙立ち込める部室に戻ってきた頃には、ストーブは無事完全に動きを停止していた。先生に言われるがまま窓を開ければ、ものの数分で換気が完了する。

「このストーブはダメだな」

 先生からそう言われてはどうしようもなく、かくして文芸部から暖房機器は半永久的に消え去ったのだった。少なくとも先輩が卒業するより早く、新たなストーブが入荷されることはないだろう。

 ……ということがあって、それから数日。今日もぼくは震えながら部室で本を読んでいる。寒いから集合をまた昼休みの教室にしませんかとは、どうにも言い出す気になれない。それだと情けなさすぎるじゃないか。

「おお、早いね」

 ガタガタゴトンと電車みたいな音を立てて扉が開き、明らかにオーバーサイズなコートを羽織った先輩がやって来た。扉の建付けは悪化の一途を辿っている気がする。

「いつも通りですよ」

「寒さに負けて来ないかと」

「まさか。体調が良ければ皆勤です」

 先輩はコートを脱がずそのまま座った。長い丈の下半分が、ぺろんと飾りのように椅子から垂れ下がる。浮かんでさえいれば足元を隠し、遠目には足があるように見えないこともなくさせるその丈も、座ってしまえば見た目の異様さを際立たせるアイテムとなってしまうようだった。

「カイロいる?」

 聞かれて、ぼくはポケットの中から自分のカイロを取り出し見せつける。こんな物で解決するなら苦労はないのだと。……いや、こんな物呼ばわりはよくない、無くては困る。

「……君は、彼女とかいたんだっけ」

 口に何か含んでいたら吹き出しているところだった。

「いませんけど」

「私も恋人の類はいない。けど、クリスマスが来るね」

「来ますね」

 我が家にサンタはもういない。正体を知ったが最後消えてしまう概念が、この世には存在するのだ。そしてサンタの正体を知りつつ、恋人を作ることの出来なかった人間にとって、クリスマスとは世界がアウェーになる日である。ケーキにもさほど魅力を感じないし。

「ぼくに彼女がいたら、ここで先輩と二人きりっていうのはまずいでしょう」

「どうして?」

「……そういうものじゃないんですか?」

「わからない」

 不毛な会話だった。我々は恋愛において、日本から出たことがないくせに「海外では常識」とか言ってみたりすることと同じ類の話しか出来ない。

 妙に釈然としない気分になって、背もたれに体重を預けた。大きなチキンは食べづらく、ケーキは甘ったるい。その上イルミネーションを見ても何も感じず……まるで「生きていて楽しいの?」と街が言ってくるような、そんなクリスマスがまた来るのか。子どもの頃はあんなに楽しみにしていたのに。ウルトラマンの人形を一つ枕元に置かれるだけで跳ね回って喜んでいた。あの頃のぼくはいずこへ。

「最近、切れ味が落ちたね」

「え?」

「言葉の切れ味。顔が良くても手足がないんじゃプラマイゼロ、むしろマイナスですよ……くらい昔なら言っていたんじゃないか」

「そんなことないでしょう」

 そんなことはないけれど、今の言葉で二つほど話題が浮かんだ。

「そんなことはないですけど、聞きたいことが出来ました」

「言ってみて」

「世の初々しい恋人たちは「手を繋ぐタイミング」なんかで悩んだりしてるらしいですけど、先輩はそこらへんどう思いますか」

「さぁね。君の肩を叩いた時のように、手を握る感触を再現するくらいが私にはせいぜいだよ」

 いや、逆にそれが出来るのだからすごい。試されるのは彼氏の想像力だ。見えない手を心の目で見られるような人でなければ、先輩の彼氏は務まらないのかもしれない。

「なるほど。じゃあそれともう一つ」

「うん」

「先輩って、自分が美人なこと自覚してたんですね」

 きょとんとした顔をされた。

「そりゃそうでしょ?」

 客観性の獲得はそんなに簡単なことではないはずだけれども、どうやら先輩が鏡を見れば、ぼくが先輩を見た時と同じものがちゃんと映っているらしい。

「思うに、美人というのは大体二種類ある。模範解答タイプと、唯一無二のタイプだ。私は自分を後者だと思っている」

「合ってると思います」

「そしてこれは、男性である君に確認したいのだけれど、男っていうのはどちらのタイプの美人も好きな生き物じゃないの?」

「人によりけりですけど、大方はそうなんじゃないですか」

「……となるとやっぱり、手足が無いからか」

 ぼそりと小声でぼやく先輩。仮に先輩に手足があって、超能力はなかったとしても、一定の近寄り難さは残る気がするのだけれどどうだろう。ぼくだって勧誘という体で向こうから話しかけられなければ、仮に同じクラスにいたとしても一生関わらなかったと思う。

「む、何か言いたそうな顔だね」

「手足なんていらないって言ったくせに、と思ったんですよ」

「あぁ、だから彼氏もいらない」

 先輩には悪いけれど、隣のブドウは酸っぱいと主張することは、どうしようもなく滑稽だった。ぼくは素直に彼女がほしい。ただ、そのために手を繋ぐ繋がないであれこれ考えろとか、クソ寒い中イルミネーションを見るためだけに外へ出ろと言われれば、ぼくも先輩のように諦めてしまいそうではある。

「そういえば先輩、言葉の切れ味って言ってましたけど、切れ味良かった時って逆にいつですか」

「え、それはもう、あれさ。夏服に衣替えした時、君私に何て言った」

「……あぁ、「それ意味あります?」でしたっけ」

「大体そんな感じだ」

 肩から先の部位がない先輩にとって、袖が長かろうと短かろうと体感温度に変わりはないだろう……と思っての一言だった。懐かしい。懐かしいのに、あれからまだ半年も経っていない。

「あのたった一言でエグりに来るような言葉には、いっそ芸術を感じたよ。刃物に例えれば、名刀を通り越して妖刀の類だと思っている」

「根に持ってるってことですか」

「思い出にしているんだ。たぶんこの先の人生で言われることないだろうから」

「わかりませんよ?」

 自分が世界にたった一人のレアな人材だとは思えない。高校を卒業したとして、先輩に第二第三の刺客がやって来ないとも限らないだろう。

「それに比べて最近は何か、パッとしない」

「そんなこと言われても」

「もっと神経を疑うような面白いことを言ってよ」

「そんな無茶な」

 というか神経を疑われていたこと自体初耳だ。ぼくは先輩が面白がるのをいいことに自分の言いたいことを言っていただけだし、それは今でも変わらない。つまらないと言われればそれは困るけれど、しかしどうしようもないのだ。

 ただ、もしも本当にぼくがつまらないヤツになったのなら、その理由にはなんとなく察しがつく。

「思うに、先輩とぼくの付き合いが長くなったからじゃないですか」

「ほう?」

「出会ったばかりの間柄で言われると嫌だけれど、親しくなってからならどうってことない話ってあるじゃないですか。ぼくの出す話題はそれなんじゃないですか?」

「親しくないと嫌な話って、例えば?」

「例えば……? えーと、だから、あれだ。男には分からないから聞きたいんだけど、先輩って髪の手入れとかどんな感じにしてるんですか? とか」

「それは今でもそこそこ気持ち悪いが」

「あれれ?」

 神経を疑われるだけあって、一般的な基準というやつが分かっていなかったのか? ぼくは先輩と違ってまだ客観性が獲得出来ていないみたいだ。

「いや、とにかくニュアンスで受け取ってくださいよ」

「ふむ、つまり新鮮さがなくなってしまったということか。飽きたんだな」

「悲しい言い方しないでください。慣れですよ慣れ」

 とはいえそれが本当なら、なおさらぼくにはどうしようもないことになる。相手に合わせた話題を持ってこられるエンターテイナーにはなれる気がしない。

「君が新鮮さを取り戻せばいいんだよ。……あ、それで思い出した。昨日寝る前に思いついたことがあるんだ」

「なんですか」

「ちょっと待ってね」

 言うと先輩は椅子を大きく引いた。見た目としてはむしろ、椅子が先輩を連れて引いたように見えるけれど。

 椅子の足から彼女の頭まで、全体が見えるように離れた先輩は、その場で少しだけ浮き、椅子と自分との間に鞄を寝かせて挟んだ。

「いくよ」

「え……? はい」

 きっと先輩は浮きっぱなしで、鞄に体重はかかっていないのだろう。鞄の中から教科書の束が飛び出し、菱餅のように一塊となって浮かんだ。教科書の束はちょうど鞄と同じ高さにある。

 そしてその束が、高速で移動した。いや、突っ込んだ。ぼすっ、という音を立てて鞄にめり込む。すると不自然な強力さで、鞄は椅子と先輩の間から抜け出し、すぽーんと吹き飛んで行った。

 先輩がストンと椅子の上に落ちる。

「はい、だるま落とし!」

「…………」

 ……先輩が正確な客観性の持ち主だというのなら、彼女にディスられまくった文化祭の漫才とやらは、いったいどれだけおぞましいクオリティだったのだろう。

 達磨(だるま)。言うまでもないけれど、悪趣味な言い回しをする者が、手足がない人のことをそう呼ぶことがある。

「先輩、わかりましたよ」

「おお、何がだろう」

「ぼくがつまらなくなったんじゃなくて、先輩が変わったんですよ」

 達磨を見るにはまだ時期が早い。初詣の時期になれば、どこかで赤い達磨が大量に売られているところを見て、それで先輩を思い出すこともあったかもしれない。けれど、それはぼくがやることだったはずだ、今までの流れなら。

 ぼくたちは変わってしまった。ぼくは新鮮味を失い、そして先輩はどうやら、たった一つの朱といるうちに赤く染まったらしい。

「どうしてそう思う」

「先輩のことを達磨呼ばわりするとしたら、ぼくの側だったはずです」

「そうかな……? 私だってそういう表現くらい知っているよ」

 そう言われてみれば、先輩に「やばい趣向のエロ本がある」という話をした時、「玩具」という言い回しで全てが伝わっていた。「玩具」が何を指すのか、あの時の彼女はすでに知っていたのか……? 別に言葉のまま受け取っていても意味は通じるから、何も言わなかったけれど。

「そうかもしれませんけど、明らかに自虐ネタは増えましたよ」

「だとしたら、インスピレーションというやつさ。私が変わったというなら、私は君を超えたのかもしれないね」

 そう言って彼女は勝ち誇った顔をする。吹き飛んだ鞄が帰ってきて、教科書の束を収納して、そっと元の場所に戻った。大きく引かれていた椅子も長机に引き寄せられるようにして戻ってくる。

 根拠は上手く言葉に出来ないけれど、今のやり取りでなんとなく、今年もぼくたちには恋人が出来ないことを確信した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

12 カウントダウン

 年が明けた。新たなる一年の始まりだ。十六周目の一月の始まりだ。

 学校の中の様子は、新年になったからといってどうということはない。ここは社会の縮図という名の閉鎖空間だ。学期という独自のサイクルが一周するまでは、外の世界で除夜の鐘が鳴ろうと鏡餅が開かれようと知ったことではない。

 けれど、それでもサイクルがあるだけマシだ。我らが文芸部の部室の扉は、いつまで経っても改善される気配がない。今日もガタゴトガッタンとひどい音を立てて、その扉が開かれた。ぼくは読みかけの本を閉じる。

「早いね」

「どうも」

 相変わらず寒い部屋の中で文芸部の会合が、たった二人で開かれる。幸いお互い健康が続いているので、文芸部員は皆勤か全欠勤かの大きな二択に分かれていた。これがオールオアナッシングというやつか。

 あけましておめでとうのやり取りはとっくの一週間以上前に済ませてしまった。するとテレビ番組がまだお正月ムードを引きずる時期でも、ぼくたちには何も特別な感覚は残されていない。

「昨日のサザエさん見た?」

 え? と思わず聞き返しそうになる。「今日は良い天気ですね」みたいな類の話かと思った。先輩が使うその手の手法は「その本面白い?」なのだけれど。

「見てませんけど」

 あの時間帯のアニメは、見ないと決めているわけじゃないけど、見ると決めているわけでもない。

「受験生の話をしていたよ」

「あー……」

 今にも舌打ちしそうな先輩を見ていて、一年生のぼくはなるほどと思う。明日……というほど近くもないけれど、しかし明日は我が身だ。

「不思議なことに、それを見て腹が立った。無数に実在する人間を、春の桜や夏の蝉のように扱うっていうのは、懲らしめられるべきことだと、結構本気で思ったよ」

「きっと受験生も大人から見れば、秋の紅葉や冬の雪と同じような物なんですよ」

「だから懲らしめられるべきだと言っている」

 二年後、きっとぼくは今の会話を思い出すのだろう。そして二年越しに先輩へ大賛成するのだ。古い動画のコメント欄みたいな現象だなと思う。

「けれど、考えてみればおかしな話じゃないか? 私がそんなことを思うなんて」

「どうしてです? 先輩も受験生でしょ」

「でも私は、君に何か言われて怒ったことがない」

「それは」

 たしかにぼくの出す話題は、苦労する人間や苦悩する人間を風物詩扱いすることと、大差なかったのかもしれないけれど。そうだとしても、だからといって先輩がぼくに怒らないのは、別に、怒らないのは……。

 ……あれ、なんでだろう? 言われてみると不思議な話だった。

「それは?」

「いや、言われてみれば不思議でした」

「そうだろう。何せ君は私に何か言う時、大抵超能力ではなく、四肢の欠損について話す。受験生ほど分かりやすくはないだろうけど、でも同じなんだよ。無数に実在する人間を、玩具にしようっていうのは君も同じだ。というか、むしろ君の方が邪悪だけど……でも君に怒りを感じたことはない」

 話しながら、なんとなくだけれど、先輩はすでに答えを見つけているように感じた。それが何かぼくは知らないけれど、先輩は不思議の答えをすでに知っていて、その上でぼくにこんな話をしている。彼女はなぜか、悲しいような寂しいような、憂いの感情をその顔に浮かべていた。

 静かで冷たい部屋の中、いくら間を置いても黙ったままのぼくには目も合わさず、彼女は続ける。ぼくは先輩のことをずっと見ていた。

「人並みに人の気も知らないアニメを見るのと、人並外れて邪悪な君と話すのとで、何で感想が違ってくるんだろう。昨日布団の中で考え始めて、よく眠れなかった。けれどおかげで分かったんだ」

 どう見ても、先輩は目の下にクマなんか一切作っていなかったけれど。

「答えは簡単、「面と向かって言われるといっそ清々しい」から。理由はそれだけなんだよ。それ以上でもそれ以下でもない」

「なるほど」

 答えを言いながらニコりともしない彼女に、ぼくは聞いてみることにした。

「じゃあもしもぼくがツイッターなんかに、先輩に話してきたような内容を書き込んでいて、それを先輩が偶然見つけたりしたら」

「きっと腹を立てるんだろう」

「そのあとで「実はあれぼくでした」って言ったら?」

「さぁ、どうだろう。どうせ頻繁に会うのだから、その時言えばいいのに……くらいは言うかもしれないね」

 きっと人類の中には、先輩とまったく逆パターンの人もいるのだろうと思う。何にせよ先輩とは単純に相性が良いみたいで助かった。

「というわけで」

 何かのスイッチが入ったかのように、突然ぼくは凝視される。そして先輩はニヤりと笑う。

「今日も面と向かって、何か一つ面白い話をちょうだいしよう」

「そう言われましても」

 年末にも話したけれど、ぼくは結構ネタ切れだ。先輩の身体的特徴に関わる内容だと、話すべきことは大体話してしまった。そしてそれ以外に「面白い話」をぼくは持っていない。

 最近流行りの輪っか型コントローラーを使うエクササイズゲームは四肢欠損の超能力者的にどうなんだろうとか、そもそも運動という概念に乏しそうな先輩はなぜ太らないのかとか、そういう話はこれまでの間に全て終えてしまった。ちなみに答えは「そもそもゲームをしないからどうと言われても困る」「私にもよく分からない」だった。

「あ、じゃあ一つ聞きますけど」

「うむ」

「先輩がゲームしないのって、超能力でコントローラー動かしてもつまらないからですか?」

 あまり心に響く面白さがなかったのか、若干退屈そうな顔をされた。

「いや、ゲームは単純に興味がない。けどスポーツならその通りだ。単純につまらない」

「サッカーとかもはや何が何だかわかりませんもんね」

 ハンドも何もない。文字通り手がないのだから。

「基本的に全てそうだよ。私は、人間が野球を楽しく思えるのは、空中にあるボールを制御出来ないからなんだと思っている」

 一瞬、超能力があればピッチャーが「打たせまい」投げたボールを、打ちやすい場所に飛んでくるよう変化させられるから「つまらない」のかと思った。けれどよく考えてみると、先輩はそもそもバットに当てなくてもボールを遠くに吹き飛ばせるのだ。そういうところが、彼女が体育に参加出来ない所以でもある。

 出来ることをわざわざ封印してする遊びは楽しいのだろうか? そう考えてみれば、何もぼくは超能力者の気持ちが分かるわけではないけれど、自分たち凡人の方が確かに野球を楽しめているだろうなと直感できてしまう。

「ゲームも言われてみれば、ガチャガチャ動かしてることが楽しい気がしますね。アクションとか格闘とか」

 しかしゲームといえども幅広く、日本には世界に誇る大作RPGもいくつかあるわけで、それらは「複雑な操作をする楽しさ」とはまた別なところにあると思う。それもやらないというなら、本当にシンプルに興味がないのだろう。

「逆に先輩が思う、これは超能力者が一番楽しんでいるだろうって遊びとかあります?」

「ない」

 あまりにも速い断言だった。たった二文字の意味を飲み込むため、こっちの方が時間を要したくらいに。

「そもそも私はあまり遊びに詳しくない」

「モーゼごっこはするのに?」

「あれも別に、久しぶりにやったはいいものの楽しくはなかった」

「じゃあ普段何してるんですか?」

「……勉強?」

 いよいよ年も明けたというのに、ぼくは初めて、先輩の闇を垣間見た気がした。ぼくが文庫本を開くノリで先輩が参考書を開いていても何ら違和感はないと思っていたけれど、「楽しい遊びなんてない」という文脈からそこに来られると、唯一無二な星のもとに生まれた先輩の闇を感じざるを得ない。

「いや、そんな顔をしないでよ。例えばガンダムのことを調べたのだって勉強だ。今言った「勉強」は、たぶん君が思っていることと違う」

 自分がどんな顔をしていたかはわからないけれど、試しに、

「じゃあ趣味はネットサーフィン?」

 と聞いてみれば、

「……うーむ。そう言われると、そういうわけでもないね」

 と返ってきた。やっぱりって感じだ。ぼくが見たのはやっぱり闇だった。

「趣味と言われると思いつかない。君はゲームが趣味なのか?」

「まぁ、そこそこ」

「読書は?」

「それもそこそこ。あれですよ、特に深くやってることはないですよ」

「……難しいな」

 首を捻る先輩からはどうも、人間の倫理観が理解できない化け物みたいな雰囲気が出てきていた。ならば、たぶんだけれど、人付き合いっていうのは何から何まで話さなきゃいけないわけじゃないだろう。だから今後先輩に趣味の話を振るのはやめよう。闇の深度は未知数だ。

「趣味がないことって、人として問題があると思う……?」

 引き返すには遅すぎたのか……と内心では頭を抱えつつ、答える。

「ないでしょう」

 仮にぼくが「ある」と思っていても、それを口に出せるものか。……それとも先輩は、ぼくならそれさえ口に出すだろうと思ったから聞いたのか? だとすれば心外である。ぼくに人の心がないのだとしたら、それは興味が心を押しのけているのであって、ぼくは人を罵ることが趣味なわけではない。

 が、まぁ当然ながら、ぼくから「そんなことはない」と言われたところで、先輩にとってそれが大した救いになるわけではないようだった。浮かない顔をした先輩が、夢中になれる物を見つけられる日がいつか来ることを願う。

「今日の先輩は全体的に浮かない顔が多いですね」

「体は浮くのにって?」

「そういうわけじゃないですけど」

 本当にこの人の自虐癖はどうしてこうなってしまったのだろう。まさかぼくに関わる人間の全てがそうなるわけでもないだろうし。

「浮かない顔か。……あれかな、受験のプレッシャーで……みたいな」

「まぁそれは誰しも……あっ、ていうか先輩って何系に進学するんですか?」

「理系」

「へー、詩人だったのに」

「理系にもポエマーくらいいる」

 そうだろうけど、理系の大学に進む人が文芸部の部長をやっていて、ああいう文章を部誌に載せたという事実はちょっと面白い物だと思う。

「そういえば先輩は、凪先輩の書いた小説読みました?」

「読んだよ」

 文化祭の終わり際に知った話だけれど、先輩の家にはすでに部誌の完成品が一冊あったらしい。凪先輩がくれたのだと言うけれど、あの日の先輩は結局「仕方ないから」と言って、部誌を一冊取って貯金箱に百円玉を数枚入れ込んでいた。

 それで文化祭は終わり、部誌は無事にそこそこ売れ残って、教師陣から「まぁそんなもんだろう」という言葉をいただいたのだった。

「どうでした?」

「君の方こそ」

「ぼくは、あれはあれで有りかなと」

「え、正気?」

 凪先輩が部誌に載せた小説はすごかった。パンを咥えながら遅刻遅刻〜と走り出した主人公(女子中学生)が案の定交差点でイケメンとぶつかり、そこからラブコメが始まるのかと思いきや、特に何の盛り上がりもなく、なんだかすんなり二人が付き合い始める。

 が、さらに話が進むと昼ドラのような不倫展開が始まり、やがてその中で殺人事件が起こるのだ。そして極めつけに宇宙から侵略者が襲来し、それを撃退した主人公(美少女)とイケメンは無二の愛を得る……という話が、わずか約三十ページで完結する。

 読後、自分は何を見せられたんだろうと呆然とすることになったが、やがて「そうかこれは「ギャグ」ジャンルか」と気が付く。しかし凪先輩が本当にそれをギャグ小説として書いたのか、内容からも本人の人柄からも、なんとも断言しきれないところが怖い。作者のことを考える経緯まで含めれば、その小説は若干ホラーだった。ラブコメ昼ドラサスペンスSFバトル超大作短編ホラー、それが彼女の書いた作品。タイトルは「鉛の愛」。まぁ確かに、宇宙人にとどめを刺したのは二人が放った銃弾だったけれども。

「私は正直、凪乃野子という人間を舐めていたところがあるんだ。良くないとはわかっていても、向こうの態度があれだから、どうしてもね。けれど小説を読んで印象が変わったよ」

「どんな風に?」

「人間って怖いな、って。……それが小説への感想というか、作者への感想かな」

 ぼくも一度、「断る」という言葉が己の辞書に無さそうに見えたあの凪先輩が、こんな自己主張の塊みたいな小説を書くのかと愕然とした。けれどすぐに思い直したのだ。もしかしてこれ、部長から無理やり、部誌に載せる物を書かされた当てつけなのかなと。

 ギャグとして書かれたのか、何かの当てつけなのか、それとも真剣で本気だったのか。真実は闇の中だけれども、何にせよぼくとしては、表現として駄作ということはないように思える。あの内容は並の人間の発想ではないし、それを書ききったことがなお凄い。

「ぼくは何か可能性というか新しさというか、こういうことしてもいいんだっていう、捨て置けない何かを感じましたけどね」

「現代アートってこと?」

「まぁ、そういう捉え方もあります」

 要約すれば「言ったもの勝ち」だ。売れない現代アートは果たしてアートなのだろうか、という話はここではしないことにする。

 …………あれ? と思った時には、ぼくはどうして部誌の話なんかしていたのだったか、忘れてしまっていた。なんでだっけと記憶を振り返る。先輩が詩人あるいはポエマーなのに理系と言うから、あぁそうだ、先輩が大学へ行く話をしていたのだった。

 先輩は大学へ行く。なんだか実感が持てないけれど、彼女はもうすぐ卒業して、この学校からいなくなってしまう。それまであと三ヶ月も残っていない。文芸部に顔を出すメンバーはぼくだけになる。誰が顔を出しているのかなんて、誰も確かめることはなくなる。

 ぼくは一人になる。ぼくには恋人どころか、先輩以外には友達もいない。

「受験のプレッシャーって言ってましたけど」

「え、うん」

「ぼくも憂鬱です」

 先輩がへらっと笑った。

「すぐに自分の番になるから?」

「先輩がいなくなるからですよ」

「……へぇ」

 その時の彼女の表情が、いったいどのような感情を表すものだったのか、ぼくにはわからなかった。

「君は私のことを「変わった」というけれど、お互い様なんじゃないかな。いったいいつから、そんな可愛らしい後輩になったんだい」

「元からですよ」

「あはは」

 北風が吹きつけてガタガタと窓を震わせる。毎日このストーブもない部室に来るものだから、毎日この先輩がいる部室に来るものだから、ぼくはもう寒さにも慣れてきた。

 せっかく慣れてきたのに、ここでこうしてお喋りすることは、もう何日もないのか。そう思えばぼくだって、受験生をネタにするアニメの存在が不愉快になってきた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

13 合格

 二月。いつも通り部室で本を読んでいると、ある日先輩は、いつもと違った様子で現れた。

「あーはっはっはっ!」

 その高笑いは非常に……非っ常にうるさく、建付けの悪いドアの騒音さえ霞ませた。

「ど、どうしたんですか」

「受かった!」

「えっ、あ、大学……?」

「そうとも!」

「おめでとうございます」

 興奮しっぱなしの先輩は無意味に、なおかつリズミカルに、クルクルと回転しながら部屋に入ってくる。腕があれば大きく広げ、足があれば喜びのステップでも踏んでいたのかもしれない。

「いやはや、これで肩の荷が下りたというものだよ。今考えてみれば馬鹿みたいだなぁ、受験ネタを使ったアニメにキレちゃったりしてさ」

 ぼくは、凪先輩の小説を読んだ時よりもさらに唖然とさせられた。自分はこれまで一度たりとも、一瞬たりとも、先輩が今の状態に至るほど重い「肩の荷」のことを、一切認識できていなかったらしい。先輩ほどの人でも受験はやはりつらいのだなとは思っていたけれど、そういうレベルじゃ無いじゃないか。

 もしかして出会った時からずっと、肩の荷は乗りっぱなしだったんじゃないか。そう考えてしまうくらい、先輩は見たことのない満面の笑みをしていた。正直かわいい。美人を自覚しているだけのことはある。

「あれ、なんだなんだ、来栖君は元気がないな? ……そうか、寂しがりやの後輩にとって、私の合格は嬉しくないのか」

「いや、それは素直におめでたいですけど。受かろうと受からなかろうと、先輩がここに残れるわけじゃないですし」

「ならもっと喜べ! 祝え! 奉るんだ!」

 そのうち宙返りでもするんじゃないかってくらい先輩がはしゃいでいる。あんまりはしゃぎすぎて、浮遊する彼女の垂れ幕のような制服スカートが揺れ、激しくはためき……。だんだん不安になってきたので、ぼくはそこから目を逸らした。

「先輩、酒でも飲んだんじゃないですか」

 思わずそう口にした瞬間、禁句を口にしてしまったかと思うほど、スッと場の空気ごと彼女の表情が冷めた。上がっていた口角も下がっていた目尻も元に戻り、不気味なほど無感情な真顔になる。

「誰が飲むか。素行には気を付けている」

「す、すいません」

「いや怒ってるわけじゃない。けれどそうだな、浮かれすぎたな」

 言って、ようやっと彼女はいつもの席に座った。

「ともかく、これで私は卒業を待つばかりになった」

「よかったです」

「……何も今生の別れというわけじゃないでしょうに」

 卒業という言葉を受けて、ぼくの顔に何か浮かんで見て取れたのか、先輩はこちらを見るなり苦笑いしていた。

「ぼくの顔に「先輩がいなくなったら寂しいよ〜」って書いてましたか?」

 寂しいよ〜のあたりを裏声で言ってみると、先輩は「うわ……」と言葉にはしなくても、そのように表情を歪める。

「書いてあったよ。びっくりだ」

「別にびっくりすることでもないでしょ」

「へぇ、どうして?」

「ぼくの唯一の友人が先輩だからです」

「……唯一?」

 聞き間違いか? とでも言うように復唱される。抉るような復唱だ。

「唯一です。先輩がいなくなったら、ぼくは孤独ですよ」

 とは言いつつ、本当に孤独な人が聞けば怒り狂うだろうなとも思う。友達がいないということと、天涯孤独だということの差は、天文学的な距離があるから。

「君、友達いないの……?」

「逆にぼくが人望の厚い人間に見えますか」

「それは見えないけど。……そうか、一人も」

 友達も満足に作れないような人間が、部長を除いて唯一皆勤の部員になっていることがよほど由々しき問題だったのか、先輩は手があれば頭を抱えていそうな顔をする。

 そして彼女が頭を捻りに捻って、ようやく絞り出したらしき答えが、

「まぁ、そのうちいいことあるよ」

 だった。見捨てられた気分だ。

「こうして部室でお喋りしてるわけですし、ぼくに幸運なんかあるわけないとは確かに言えませんけど……。投げやりじゃないですか?」

「投げやりになるしかない」

「それもそうなんですけどね」

 こうすればきっと友達が作れるよ、なんてアドバイスをされて素直に聞く人間は、そもそもアドバイスなんかなくたって友達を作れるのだ。

 その類の話をぼっちのパラドックスとでも呼ぼうかと思ったけれど、別に何も矛盾していないただの人付き合い下手な人間の話でしかなかったので、脳内から出すこともなく却下した。

「……ん、あれ、ちょっと待って」

 家の鍵でも閉め忘れたのか、何かを思い出しては慌てた様子の先輩が、超能力を使って鞄からスマホを取り出す。そしてしばらく画面を眺めていくと、彼女の慌てっぷりは増していった。

「大変だ」

「なんですか」

「私たち、連絡先を知らないのか」

「そりゃ知りませんよ」

 同じクラスなら連絡網があるけれど、学年から違う先輩の連絡先なんか知る由もない。

「いや、言ってよ」

「え?」

「LINEとか、そろそろ交換しましょうよって」

「……え?」

 学校の外で連絡を取らなければいけない状況が皆無だったこの一年を思い返しながら、

「言ってもいいんですか、そういうのって……?」

 唖然と、いや、絶句された。

「それは、だってそうしないと、どうするつもりなのこれから」

「これからとは」

「私が卒業してから!」

 先輩は卒業を今生の別れではないと言った。確かにぼくたちの住んでいる場所はせいぜい一駅離れた距離で、何なら先輩はぼくの家の在処を知っている。ずっと前に、雨の日に送ってもらったきりのことだから、もう忘れてしまっているのかもしれないけれど。

 大学の名前だって聞けば教えてもらえるだろうし、会おうと思えばいくらでもやりようはある。別れじゃないというのは、そういう意味だと思っていたのだけれど。

「危ない、危うく連絡もつかなくなるところだった。なんで言わないんだ君は」

「いや、なんかこう、嫌かなと思って」

「嫌?」

「いきなり連絡先聞くとか、何か機会があったわけでもないのに」

 部誌を作る時に連絡が取れないとまずいとか、そういうことがあればとっくにLINEくらい聞いていたと思う。けれどそんな機会はなかった。部誌は全て先輩に任せ切りだった。ぼくたちに連絡先は不要だったのだ。

「いきなりって、もうすぐ知り合って一年になる」

「そうですけど、じゃあ具体的にいつからなんですか?」

「は……?」

「知り合ってからどれくらい経てば、連絡先って聞いてもいいんですか」

「……え、いや、そんなものは決まってないけど」

 なんだか、今までどんな話題を投げつけてきた時よりも、先輩がぼくのことを、化け物を見るような目で見ている気がした。もうそれが誰だったか覚えていないけれど、きっとぼくに「人の心がない」と言った誰かも、そんな目をしていたような気がする。

「いや、逆に君は、例えば半年経てば連絡先を聞いても良いと私が言えば、その頃に「LINE交換しましょうよ」と言ってきたっていうの……?」

「言ったでしょうね」

「だとすると、なぜそうじゃなければ、聞こうと思わないんだ……?」

「それは先輩だってそうじゃないですか」

 コミュニケーション強者のいわゆる陽キャたちは、何の脈絡もなく連絡先の交換を申し出るのかもしれないけれど、ぼくはそういうのとは違う。そしてそれは、先輩も同じだと思っていた。しかしこの話の流れはどうやら……。

「私は忘れてた、完全に。もうとっくに交換したと思っていた」

「えっ」

「それで不便がなかった、ということか……」

 天を仰ぐ先輩。見えるのは若干高い天井だけだろう。

「いや、いいや、何でも。とにかく今交換しよう」

「え」

「え、じゃないよ。さすがに卒業後は必要になる」

「……おはようとおやすみを言うために?」

「……あぁ、そういうイメージだから聞いてこなかったのか」

「いやいやいや冗談ですけど」

 それはさすがに冗談だけれども、しかしそうでなければ逆に、なんでLINEなんか聞くんだって話じゃないか。先輩に出先の写真でも送りつけるためか?

「後輩の将来を思って言うけれど」

「はぁ」

「LINEくらい気軽に聞いていいんだよ」

「そうなんですか」

「そうなんだよ」

 言いながらQRコードを差し出された。慌てて自分のスマホを取り出しそれを読み込む。先輩のLINEアイコンは、白黒ツートンカラーの猫だった。猫の足先の毛が上手いこと白くなっていて、靴下を履いているように見える。

「先輩猫飼ってるんですか?」

「いいや。好きなだけ」

 一方、ぼくのアイコンはキノコだった。舞茸だ。母と業務連絡のようなLINEをするうち、初期アイコンだったぼくに母が「何か設定すれば?」と言ってきたので、その日調理される予定だった舞茸の写真を急遽、なんとなく撮ったのである。

「このキノコは?」

「舞茸です」

「それはわかる。好きなの?」

「普通ですかね。たまたまそこにあったから撮ったんですよ」

「……個性が出るな」

 ちなみに母のアイコンは本人の顔写真なのだけど、そのチョイスばかりはぼくにも理解できない。

 ともかくQRを読み込んだ結果、父と母の他に、二度と連絡を取ることもないだろう中学時代の部活仲間(一ヶ月きりの仲)や、その他スマホゲームなどの公式アカウントだけが並んでいた友達リストに、突然「ねむろ」という名前の猫アイコンが並んだ。ちょっと感慨深い。

「よし、これで安心」

「ありがとうございます」

「……君のために言う、というのは嘘になるかもしれないけど」

 スマホを超能力で鞄に滑り込ませながら、

「連絡先の交換をあんまり大袈裟に捉えているのは、こっちとしてはちょっと引くぞ」

「……それは、世間一般的に?」

「うん、たぶん」

 それが本当だとすれば、友達がいないタイプの人間には知識が足りなさすぎると思った。言われなければ分からない初見殺しだらけの世の中だ。先輩が慈悲深くてよかった。

「気を付けます」

「……何か次は出会い頭に連絡先を聞きそうで怖いんだよね」

「しませんよそんなこと。ぼくをどんなポンコツだと思ってるんですか」

「相当なポンコツだと」

「ひどい」

 先輩とのお喋りで「え……?」みたいな反応をされたことなんて、きっと今日が初めてなのに。話題選びが多少過激だったことは認めるけれど、それに至っては先輩が自分でネタにしてしまうくらいだし、ぼくがそれほどポンコツってこともないと思うのだけれど……。

 が、そんなことは友達リストの中の猫を見ていれば、どうでもよくなってくるのだった。先輩が卒業したって、もうこの部室で話す機会がなくなったって、この靴下を履いたような猫に話しかければいいのだ。これからはスマホ画面の中が部室になる。

「まぁ、これで今度こそ何の心配もいらない。進路は決まり、後輩の連絡先を確保して、順風満帆だ」

「大学生活への不安とかないんですか?」

「……嫌なこと言わないでよ」

 順風満帆とやらは、ひどく刹那的な物らしかった。先輩も人並みに未知の環境へ不安を感じたりするんだな……としみじみ思う。今すぐにでも彼女に手足を付けて、超能力を取り上げれば、その瞬間からよくいる普通の人間になりそうだ。

 いや、整った顔立ちだけはちょっと普通とは違うか……? なんて考えていると凝視してしまっていたようで、こちらの視線に気付いた先輩に怪訝そうな顔をされる。

「そういえば先輩って、美人で得したことあります?」

「ものすごく見てくるなと思ったら、そういうことか……。無いよ」

「美人はそうじゃない人より年間百万円分くらい得をするって何かの番組で見たんですけど、やっぱりそこまでじゃないですよね」

「さぁ、どうだろう。ここでこうしてお喋りしていられるのも、この顔のおかげかもしれないからね。何とも言えない」

 そう言いながら先輩の頬は、見えない手に押されたかのようにプニプニと小刻みにへこんだ。超能力を使えばものすごい変顔とか出来るのかもしれない。

「顔のおかげって、ぼくがそれ目当てにここへ来てると?」

「違う?」

「……メインのモチベーションではないでしょう」

「へぇー?」

 それはぼくも男なので、関わる異性の見た目が良いに越したことはないけれど。

「じゃあメインのモチベーションは何?」

「ぼくを部活から追い出さない先輩とお喋りすることですかね」

「追い出すって、あぁ、中学の話? ははは、低いハードルだ」

 先輩は笑った。けれど、そうなのだろうか? 本当にそれが低いハードルだとすれば、ぼくは中学時代に相当不運な目にあったことになる。そう思い込もうとすれば、それも無理な話じゃないのだろうけど……。

 と、そんなことを考えていると、なぜか急に我に返った。ぼくは自分の話ばかりしているじゃないか……と。

「先輩は」

「うん?」

「先輩は逆に、なんで毎日ここへ来てくれるんですか?」

 先輩がお喋り相手を務めてくれることは、それは素直にとても嬉しいことだ。この放課後の時間がなければ、ぼくの高校生活はかなり退屈な物になっていただろう。

 けれど先輩もさすがに、そんなぼくへ対する慈善事業として毎日ここに来ているわけじゃない。部室への出席に「モチベーション」が必要なら、彼女が幽霊部員にならない理由はどこにあるのだろう。部長という肩書きがそうさせるのか……?

「なんでだと思う?」

「……部長だから?」

「あははっ、ハズレ」

「はぁ。…………いや、で、答えは?」

「答えは、君を部活に勧誘した時に言ったよ」

「え……?」

 必死に思い出してみる。あの日初めて見た、宙を舞う勧誘チラシに囲まれて、自分自身も浮かんだ四肢欠損の女子のことを。確か先輩はあの手この手の誘い文句で、どうにかぼくを引き止めようとしていた。

 籍を置いても出席の義務はないとか、空き教室を好きにする権利が実質手に入るだとか、いろいろ言われた気がする。……あぁそうか。

「先輩はこの教室を使いたかったんでしたっけ」

「え?」

「ほぼプライベート空間ですもんね」

 とは言っても、部室を自分好みにデコレーションしたり、ロッカーでは収まらないほどの物置にしたり、あるいは本来持ち込み禁止の物を持ち込んでいたり、何かの遊び等にここを使っていたりした痕跡なんて、ぼくの知る限り何一つないけれど。

「あー、まぁそれもそうだ。確かにこの部室は貴重だ」

「けど何に使ってるんです?」

「自習とか」

「自習……?」

「昼休みとかね。教室だと落ち着かないし、図書室っていうのはなんだか、アウェーな感じがする。ここが一番いいんだ」

「…………」

「なにその顔は」

 思わず言葉を失ってしまった。休み時間に勉強する人間が実在していた衝撃と、しかもそれと知らずその人とずっとお喋りしていた事実に、空いた口が塞がらない。大学受験を控えると皆そうならざるを得ないのだろうか。ぼくは高校受験の時も、昼休みは休んでたのに。

「勉強熱心なんですね」

「他にすることがないんだ」

「そんなに……?」

「うん」

 どうも謙遜で言っている感じがしないところから、言い表しきれない不気味さを感じる。ぼくはまたそれが顔に出たらしかった。先輩が慌てて訂正に来る。

「って、あのね、違う違う。確かにそれも言ったけど、私が言いたかったことはそれじゃない」

「はぁ」

「初めて会った日に言ったはずだよ。私のことを避ける人間は五万といるけれど、私が避ける人間はいないって」

「あー」

 言われて思い出す。確かにそんなことを言っていた。

「だから私の答えはこう。お喋りしたがっている後輩を、避けたりなんかしない」

「ぼくが毎日来るから、それに付き合ってくれたってことですか?」

「形としてはそうなるけど、付き合ったっていうのは違うかな。現に私は君と喋ることでとても楽しませてもらってる。受け身の姿勢でいた気はないよ」

「それならよかったですけど」

 でもそうすると、仮にぼくが先輩にとって「つまらない話」ばかりしていたら、先輩は部活に来る頻度を落としていたのだろうか。「避けない」の理屈通り考えるなら、それでもぼくに付き合ってくれていた風に聞こえたけれど。

 不意に不安になってきた。ぼくは連絡先を知ったところで、文章上で面白い話が出来るのだろうか。先輩の卒業後、彼女に「受け身の姿勢」をさせることはないと言いきれるのか。いやそれどころか、今でさえぼくは先輩に言わせれば、かつての切れ味を失っているというのに。

 ……と、不安になっていく最中で、また突然我に返る。こんな思考、まるで先輩に対して、自分に興味を持ってほしいと思っているみたいじゃないか。いや、愛想を尽かされて、唯一の友人を失うのが怖いのか……?

「どうしたの、難しい顔して」

「……いや、来年からの部長って誰になるのかなって」

「部長? そんなの、君がやればいい」

「勘弁してくださいよ。それか部誌の概念を消してから卒業してください」

「あはは。無理」

「ですよねー」

 二人で笑う。先輩が大学生活への不安を努めて考えないようにしているのと同じで、ぼくも先のことは考えないようにした。何にしても同じことだからだ。

 先を考えることに意味はない。このぼくに、他人の顔色を伺いながらお喋りをするスキルなんてないから。何であれぼくは自分の話したいことを話すしかないのだ。

 それに、「ぼくを避けない」という言質が取れたのはいいことだ。天涯孤独には程遠くたって、先輩に避けられては、ぼくはとても困ってしまう。

 一度持ってみると、友人という存在は手放し難く感じるものだった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

終 デュラハン

 三月。学生にとっては、卒業の季節。小中学校と何ら変わらない、およそ効率や合理性からは遠く思える卒業式練習を、今年もまた何度繰り返してきたかわからない。

 聞くところによると、高校にもなると在校生が卒業式に参加しない学校もあるらしい。去年の春、部活勧誘の嵐に「入る学校を間違えたか」と思ったぼくだけれど、我が校の卒業式には在校生も参加するということで、今となっては「この学校でよかった」と思っている。

 壇上に浮かぶ先輩を目に焼き付けるつもりだ。「はい!」と大きく返事をする先輩が、未だに全然想像できないけれど。なんというか、キャラじゃない。

 そんなことを考えているのだと、先輩に言ってしまっていいのだろうか。キャラじゃないことなんて本人が一番わかっているだろうに、今このタイミングで茶化していいのだろうか。そんな思考を彼女が聞いたら、相変わらず変なところで変なことを気にするやつだと言われそうだけれど。

 ドンガラガラドンと相変わらずうるさい部室の扉が開くたび、逃げ道を潰されるような気持ちになる。そうしていよいよ、ぼくがその音を聞く日は最後になった。

 この部室で先輩と過ごす、最後の日。それはあまりにも当然のようにやってきて、現実を突きつけてくる。

「いや、あのさ」

 先輩は絵に描いたような困り顔をしている。

 椅子に座った彼女のスカートは、先の方がぺたんと平べったくなっている。彼女に太ももより先がないからだ。長い袖は薄くだらりと垂れている。彼女に肩より先がないからだ。

「そんな顔されると、こっちも卒業しづらいよ」

「そう言っても、最悪式を休んだとして、留年するわけじゃないですよ」

 ぼくはこれまで何度も、表情について先輩からツッコまれてきた。そのたび鏡があるわけでもなく、ぼくは自分がどんな顔をしているのかなんて知らないけれど、今日は一段とひどいらしい。

「この話も何度目かわからないけれど、何もお別れってわけじゃないでしょう? いっそ、おはようからおやすみまでLINEをくれても構わないよ」

「しませんってそんなこと」

 おはようやおやすみが、「面白い話」だとは思えないから。それともそれを言っていれば、先輩は今と同じままの先輩でいてくれるのか? あるいはそれを言っていないと、先輩はどこか遠くへ行ってしまうのか……?

 先のことは考えない、意味がないから。そう何度も自分に言い聞かせているうちに、その「先」とやらは、すぐそこまで来てしまっていた。

「じゃあわかった、時々遊びに来よう。卒業生なんだから、立ち入り禁止ってこともない」

「いや、いいですよ。忙しいのに。しかもそんな、一回や二回でしょう、来れても」

「どうして卒業した途端忙しくなるのさ。今こうしていられるってことは、この先も同じってことだよ」

「わかんないじゃないですかそんなの!」

 大して声を張ったつもりはなかったのに、部屋が震えるような感覚があった。ハッとして先輩を見ると、彼女は今までに何度か見たことのある表情……目を丸くして少し驚いたような顔をしていた。

「正直、驚いてる」

 先輩が椅子を引き寄せる。少しの音も立たなかった。

「君がそこまで私に懐いてくれていたなんて」

「それは、ぼくもです」

 少なくとも二月の時点では、あぁ寂しくなる、残念だ、ぼくの学校生活はこれからひどくつまらない物になる……そう思っているくらいだった。それが今となっては、しがみついて「行かないでくれ」と懇願しそうな勢いじゃないか。

 自分はどうしてしまったんだろう。そう考えるようになったのは何日か前からだ。いや何週間か前なのかもしれない。どちらにせよぼくは、先輩から言われるまでもなく自分がおかしいことを自覚していた。

 高校受験をした時を除けば、ぼくが何かに苦悩したことなんてこれが初めてかもしれない。

「だからずっと考えてたんですよ。だって中学の頃には当然、ぼくにとった先輩はいなかったんですから。その時代に戻ると考えれば、何もそこまでつらい話ではないわけで」

「うん」

 ここ数日、何度も考えた。かつてアニメの内容に怒っていた時の先輩がそうしたように、夜の布団の中で考えてもみた。先輩と違ってちょっと目にクマが出来たけれど、その代わり答えも導き出せたのだ。

 けれどその答えは、たどり着かなかったことにしておいた方がいいのかもしれない。……というのは気のせいで、むしろその答えは積極的に披露していった方がいいのかもしれない。いや、でも、やっぱり……と、そんな無限ループの思考を何重にも重ねているうちに、今日という日になってしまった。

「……おかしいんですよ。放課後に話すことが、ぼくの中でそんなに重い扱いなのかといえば、夏頃は昼休みに喋っていたんだからそれはない。同じくこの部室にこだわっているわけでもない。先輩の言う通り、今生の別れじゃないし、LINEも交換した。文章のやり取りが出来ればそれでいいはずなんです。何も問題はないはず」

「ほうほう。……もし私の声がお気に入りだというなら、ボイスメッセージでも通話でも何でもいいよ。それか前に話した通り、この顔がお望みなら、写真でも動画でも、いくらでもあげる」

 そう言ってまた彼女は超能力を使い、自分の頬をマッサージする。自分のことさえ指させないというのはちょっと不便そうだ。

「……なんでそんなに優しいんですか」

「私はいつでも優しい」

 今までのことを、この一年を振り返って、確かにそうだと思う。先輩は優しい。だからそれを肯定してぼくは頷く。すると彼女は、「ふっ」とそれを笑った。これもまた振り返ってみるとわかったけれど、先輩は優しい反面、時々ちょっと意地が悪い。

「じゃあまぁ、全部ぼくの思い通りになったと考えましょう。声が聞けて、顔が見れて、動いている姿も見れる。話したいだけ話せて、先輩はぼくの話をなんでも聞いてくれる」

「うん」

「仮にそこまで揃えば、ぼくが先輩の卒業を悲しむ理由なんかないと思いませんか」

「思うよ、理屈だけで言えばね。君が、私と同じ学校に通っていることに何か特別を感じるような、ロマンチストでもない限りは」

 今度はぼくがそれを鼻で笑った。すると先輩もつられたように笑う。そりゃそうだ、ぼくがロマンチストだったら面白い。ぼくが夜景を前に「君の方が綺麗だよ」とか言っていたら、それは間違いなくギャグだ。

「どうするんです、ぼくがロマンチストだったら」

「苦笑いするしかないよ」

「でしょうね」

 自分で自分を茶化して、目を逸らす。窓の外は晴天だった。憎たらしいくらい空が青い。たぶんぼく以外の全ては、先輩の卒業をめでたいことだと思っている。腐っているのはぼくだけだ。

 鞄の中に、いつもより多く本を詰めてきた。基本的に本は一冊しか持ち運ばない性格だけれど、今回はそれがまた良かった。持ってきた本たちはお守りなのだ。お守りというのは、特別感があった方がいい。

 本のラインナップはこうだ。「アルミ缶の中にあるミカン」「魔女の星」「享年29歳」「文芸アラカルト部」……その計四冊。なんとなく、これだと思った物を持ってきた。

「でも先輩」

 意識して、まっすぐ彼女を見据えて言う。

「ぼくは先輩が卒業してしまうのが、やっぱり嫌です。理屈で何を言っても、どうしても「お別れ」という感じがするんです。いくらぼくが理屈を並べても、いくら先輩が優しくしてくれても、世界が、神が、それはお別れだと決めているんですよ」

「……驚いた。君のことは無神論者だと思っていたよ」

「もちろんそうです」

「なら私と同じだね」

 先輩が微笑んだ。彼女いわく「ちょろすぎる」ぼくでも、それはわざとらしいと思った。愛想笑いだ。今までどんな話を彼女にしても、そんな反応が返ってきたことはなかったのに。

「じゃあ、先輩だって神に祈った試しが無いわけじゃないでしょう?」

「まぁ、それは人並みに」

「それなんですよ。先輩の卒業は、人並みにお別れなんです」

「……よくわからないな」

「先輩、ぼくは……!」

 膝の上で拳を握りしめる。今にも先輩から目をそらして、机に視線を落としてしまいたくなる。

 今ならまだ引き返せる。ぼくはただ寂しいだけなんだと、そう言えば今の先輩なら、きっとそれらしく慰めてくれるだろう。ぼくと違ってきっと彼女にはそれが出来るように思う。

 ……けれどぼくは、慰めてほしいわけじゃない。ぼくらの関係は自然消滅してしまう。それを直感しているから、ぼくは彼女の卒業を喜ぶ気になれない。直感を信じて間違ったなら、自分を責めればいい、悔めばいい。けれど理屈に従って、それでダメだったら、ぼくは一体何を恨めばいいんだろう。そういう話だ。

「……ぼくは?」

 その時の先輩の声は、初めて聞く声だった。子どもをなだめるような声だった。

 それでぼくは、ようやく思い出した。理屈でも、直感でもない。ぼくはどうしたって、自分の話したいことを話すしかない。それしか出来ない、そういう人間なのだ。そういう人間だから、ぼくは……。

 深呼吸なんかしたら、言葉を飲み込んでしまいそうで、二度とそれを吐き出せそうもなくて、勢いに任せて口にする。

「ぼくは、先輩のことが好きです」

 頑張ろうとしていたはずなのに、言い終えた時、視界は長机の焦げ茶色で埋め尽くされていた。胸が詰まるような感じがして、吐きそうになる。自分以外の世界の全ての、時が止まってしまったような感覚に襲われる。

 その時を、どうにか動かしたくて続ける。我ながら必死に。

「好きっていうのが、友達としてなのか、それ以上の意味なのか、自分でもわかりません。でも好きです。理屈じゃなくて、先輩が卒業してしまうのが嫌です。どうしても嫌です。ずっとこうやって、放課後お喋りする日に続いてほしいんです。ぼくは、ずっと今のままがいい……」

「…………」

 そんなことは不可能だとわかっていたけれど。何がどうなっても先輩は卒業してしまうのだと知っているけれど、嫌なものは嫌だった。

 思い切って顔を上げると、見たことのない顔をした先輩がそこにいた。ぼくは彼女が心底楽しそうに笑うところも、嫌そうに苦い笑みを浮かべるところも、ついさっきの愛想笑いも見たことがあるけれど、その時の笑みはそれらのどれとも違った。

 それは、さっきのなだめるような声は、確実に彼女の物だったんだな……と、そう確信させてくれるような微笑みだった。

「ごめんね」

 胸が詰まる。

「嬉しいよ、ありがとう。本当に嬉しい。出来れば何もかも、君の望むようにしてあげたいと思うくらい。……けれど私は卒業しなければならないんだ」

「……そうでしょうね」

 そんなことは分かりきっている。仮にもしも何らかの方法で、先輩にもう一度三年生を繰り返してもらえるとして、ぼくがどうやってその責任を取るというのか。

 どうしようもないことは知っている。それでも嫌だと言うことに、意味がないことも知っている。……けれど先輩の次の言葉だけは、まったく予想だにしていない物だった。

「人生で初めての友達に、そこまで好いてもらえるなんて。生きていてよかった」

「……え?」

「私は一つ、君に嘘をついてしまった。今のうちに白状しておくよ。アニメの話をした時だ」

 いつものお喋りをするように、彼女は何でもなさそうに淡々と語る。

「私のことを出汁にしている点でアニメと君は同じだけれど、面と向かって言ってくる君のことは嫌じゃないと言ったね。けれどあれは嘘だ。私はたぶん、君に何を言われても怒る気にはならないけど、それは、君が面と向かって来るからじゃない。……君が友達だからだ。アニメは友達じゃない」

「う、うそだ」

 思わず否定してしまう。信じ難さに声が震えた。なんなら先輩に好意を伝えた時より、動揺していたかもしれない。

「明らかに人慣れしてるのに」

「私から見れば君も、物怖じしない百戦錬磨に見える」

「そんな馬鹿な」

「でも事実だ。全部事実。私には君以外の友達がいない」

 そんな台詞でさえ、人との会話に、人の扱いに慣れた風に聞こえる。

「だったら、全部……?」

 先輩はぼくに友達がいないことを聞くなり、「そのうちいいことあるよ」と投げやりなことを言ってきた。あれは自分への言い聞かせでもあったのか?

 先輩が体育祭の日に言った「口が滑って親に君のことを話してしまった」というのは、初めて友達が出来たことを親に報告したって意味だったのか?

 部活勧誘の時に言っていた「私のことを避ける人間は五万といるけれど」って文句は、そういう意味だったのか……? 昼休みは自習しているって、教室も図書室も避けてこの部室で一人になっていたって、そういうことだったのか……?

 それなら、先輩がぼくを怒らない理由が、さっき語られた通りなら。先輩がぼくにくれたものは全部全部、それが理由ってことになる。……それが真実?

「全部とは?」

「先輩は、他に友達がいたら、ぼくに優しくなかったってことですか」

 ははっ、とおかしそうに彼女は笑った。そして、義務教育で習ったことをわざわざ改めて教えるように、諭すようにぼくに向かって言う。

「存在しなかった「もしも」を考えるのは、意味がないことだよ。君だって他に友達がいれば、私にこんなに懐いてくれることはなかったかもしれない」

「そんなことはない!」

 もしも、なんて話をすることに意味がないというのは、すごくわかる。それは宝くじが当たった時のことを考えるのと同じだ。笑い話にはなっても、真剣な話題に持ち込むものじゃない。わけも分からず生きていた幼児の時期ならまだしも、まわりの人間共々ある程度精神が成長した今となっては、蝶の羽ばたき程度では、ぼくに友達なんか出来やしないことは明白だ。

 だから、その「もしも」の話に対して、躍起になって反論することほど無意味なこともないのだけれど。

「それでも、先輩は先輩ですよ。ぼくは先輩が好きです」

 喉元過ぎれば、というやつなのか。「好き」と言葉にすることにもう抵抗はなかった。

「……そんなに言われたら、仕方ないな」

 軽そうに空っぽだった制服の袖が、中身が入ったみたいにごく自然な動作で持ち上げられた。超能力で持ち上げられたその袖は空洞だ。筒のようになった袖が、両手を広げる形で持ち上げられている。

「何がどうあっても私は卒業する。これからも友達でいるだけでは、君が満足できないって言うのなら、一つだけ私からプレゼントをあげるよ」

 腕を模して広げられた袖が、何かを受け入れるような形で静止している。

「持ち上げていいよ」

「え?」

「私の体が軽いのか、知りたいんでしょう?」

「えっ」

 ものすごい速さで記憶が蘇っていく。あの日、その話をした日、先輩はぼくに言った。「好感度が足りない」と。だから自分の体を持ち上げさせて、本当に軽いのかどうかを確かめさせてなんかやらないと。

「い、いいんですか」

「特別にね」

 ゴクリと唾を飲む。それを実践できる日は、一生来ないのだとばかり思っていた。

 椅子を引いて立ち上がり、おそるおそる先輩に近寄る。超能力の射程なんてきっと部屋中に及んでいて、彼女には腕も足もないのに、一定以上距離を詰めると、何か立ち入ってはいけないテリトリーに、足を踏み入れてしまったような感じがする。間合いという物に入ってしまったような感覚だ。

 今まで先輩の隣に座ったことくらい何度もあった。パーソナルスペースもクソもない。なのに今は、ただ緊張するというだけで、何でもなかったことがものすごい意味を持つような気がしてきてしまう。

「……どうしたの? 今だけだよ、こんなこと許すのは」

 風船みたいで硬さの感じられない袖が、ひょいひょいと上下してはこちらを煽ってくる。もちろんこの機会を逃すなんてあり得ない。

 けれどどうも、いざとなると、こう、問題があった。先輩の胴体のあたりを見つめつつ言う。

「あの、普通にセクハラになりませんか、これ」

「……だからそれを一瞬だけ許可するって話なんだけど。……え、今? 今その段階の話をするの?」

「い、いや……」

 あの話をした時には、まさか出来るとは思わなかったから、実際的なことをほとんど意識していなかったのだ。けれどいざ実践となると、女子の手さえ握ったこともない男が、いきなり女子の体を持ち上げるというのは、ものすごくおかしなことのように思える。

「早くしなよ。あ、それから言うまでもないけど、変な箇所は触らないように」

「いや、それはもちろん言われるまでもなく。……本当にいいんですね?」

「どうぞ」

 やはり何度見ても、椅子に置かれた人形みたいな先輩に、慎重に手を伸ばす。そして一思いに持ち上げた。服越しとはいえ触れる感触だとか、そういうものを出来るだけ考えないようにする。連絡先交換の件から学んだように、あまり腫れ物を触るように扱っては逆にまずいと思ったから、一気にやった。

 ……そして持ち上げた瞬間に、ぼくは気付いてしまった。

「……どう?」

「先輩……」

 小さな子どもを持ち上げたら、こんな感じになるのかなという距離に、先輩の顔がある。袖はいつもの垂れ下がった状態に戻っていた。

「とても重要なことに気が付きました」

「ほう」

「ぼくは、「軽い」と言うしかなかったんです。持ち上げるまでもなく」

「どうして……?」

「先輩が、女性だから」

 たぶんこの一年の中で、一番大きくウケた。

「あはは! はははっ! なるほど……! やっぱり君は変なところで、変なことを気にするんだね」

 突然、ぐいっと腕を外側に引っ張られる感じがした。唐突なその力に逆らえず、「落ちる」と思った時には、先輩は水に沈むように緩やかな落下で、椅子の上に戻っていた。

「はい、おしまい。……これで悔いはない?」

「悔いは、無いと言ったら嘘になりますけど」

「でも私は卒業するよ」

「そうですね」

 そうやって話しながらなんとなく目が合って、よくわからないけれどお互い困ったように笑った。

 別れを感じさせる一つの節目に涙を流すのでもなく、進路も決まってめでたく卒業する先輩を満面の笑顔で送り出せるわけでもなく、ただなんとも言えず、「終わっちゃったね」というふうに、微妙な笑みを浮かべるだけだった。

 結局それがぼくたちの、部室での最後のやり取りになる。眠って起きてを何度か繰り返せば、先輩がいた高校生活というのは、容赦なく、そしてあっけなく終わってしまったのだった。

 

 

 

 

 

 それからすぐ、ぼくは二年生になった。先輩が卒業したあと、ぼくのLINEには、おはようとおやすみが飛び交っている。先輩がふざけてぼくを下の名前で読んだ日があったように、冗談で「おはよう」とか「おやすみ」とか言ってきたのが、いつの間にか習慣化していた。

 連絡はずっと続いている。最近あった面白いこととか、今までと同じく先輩に聞きたくなったことだとか、部室で話していた時みたいにいろいろと喋っている。たまに通話もするし、向こうからはいろいろと写真も送ってもらえる。それもまた超能力の使い道ということなのか、先輩は憎たらしいほど自撮りが上手かった。

 ……けれど、何かが足りない。ぼくはあれから、昼休みを部室で過ごすようになった。今やあの場所は完全に、ぼく一人だけのプライベート空間になっている。かといって何か特別なことをするわけでもなく、そこでいつも本を読んでいる。「それ面白い?」「どんな話?」と聞いてくる人は、当然ながら誰もいないけれど。

 通話する時に、最近読んだ本のことを話す日もある。でも何か物足りない。相変わらず先輩はどんなことを聞いても答えてくれるけれど、それでも何かが足りない。あの頃の放課後の部室に比べると、夏の昼休みの三年D組教室に比べると、なんというか、充実感がない。

 文章は文章でしかない。そういうのは、一年に一回先輩の書いた詩を読むくらいでちょうどいい。写真は写真、動画は動画でしかなくて、通話も機械を通した音声でしかない。上手く言えないけれど、何一つ「生の存在」には到底足りない。

 それに何よりまずいのは、先輩と話せるのは夜になってからということだ。向こうも忙しいのだろうし仕方がないというか、むしろ話してもらえるだけ嬉しいのだけれど、でもあの放課後の会合は、もう二度と戻ってこない。予想していた通り、先輩がいない学校はうんざりするほど退屈で、楽しみなんて何一つない場所になってしまった。

 一度得た物を失うのは、何も得ないことよりつらい。中学時代に戻ったのだと思えばいいと自分に言い聞かせても、何の慰めにもならなかった。中学時代のぼくは、先輩とお喋りする時間なんて想像もしていなかった。今から意識だけでもそれに戻ろうなんて、まるで話にならないことだ。

 気付けばぼくは口癖のように、あの頃に戻りたい、あの頃に戻りたい……と愚痴るようになっていた。先輩はそんなぼくにも愛想を尽かさないでいてくれる。それが嬉しい反面、弱みにつけこんでいるような気持ちにもなる。もしもの話は、もうあり得ない仮定なんかじゃない。高校でぼくという友達を作った先輩が、大学で友達を作れない理屈はないのだ。

 いつかその日が来たら、その時こそぼくは飽きられてしまうのだろうか。そんなことばかり考える日々が続いて、ある日ついにそれは起こってしまった。

 

「大学で面白いやつと仲良くなった」

 

 そのメッセージを見た時、今自分は終わりの始まりを目にしたのだと確信させられた。ただ不可解なのは、そのメッセージのすぐあとに、動画が送られてきていたということ。

 新しい友達とお得意の自撮りをしてきた、というのならわかる。しかし、なぜわざわざ動画なんだろう? 漠然とした嫌な予感を覚えつつ、タイトルのないビデオテープを再生機に入れるような緊張感で、ぼくは再生ボタンを押す。

 ……アニメの美少女キャラクターみたいな声が聞こえてきた。明らかに先輩の声ではない。

「こんにちはー! 最近根室さんと仲良くなりました〜宝井です! この動画を見ている来栖亜漣くん! 話は聞かせてもらったぜ! いや〜こんなかわいい子をものにするとは、聞く限りではクレイジーな趣味してるくせにやるもんですなぁ〜?」

 動画に映っていたのは、言っては悪いけど、バカみたいなハイテンションで話す女性だった。……たぶん、女性だ。胸焼けがするほどフェミニンに振り切った趣味の服を着ていて、あと明らかに胸が大きい。

 動画はビデオメッセージだった。宝井と名乗った女性の隣で、四肢のない超能力者はニヤニヤしたまま、カメラと宝井さんへ交互に目線を送っている。

 一方で新人物である宝井さんは、自分の胸に手を当てたり、こちらを指さしたり、手の平をひらひら揺らしたり、実にフィジカル的な感情表現の多い人だった。

「そんな来栖くんに朗報だ! 今後この宝井に聞きたいことがあれば、根室さん経由で何でも、いくらでも聞くがいい! 正直私は年下が好きだ! 何を聞かれても機嫌良く答えることを保証しようじゃないか! そう、根室麗のようにね!」

「というわけだ来栖、よかったね? 私に泣いて感謝するといい。君、こういう人好きでしょ?」

 ……ぼくは、胸の高鳴りが抑えきれなくなる。そして本当に先輩には、涙こそ流れないものの、泣いて感謝といって差し支えないくらい、激しく感謝の念を抱いた。

 相手にいつか別の友達が出来たら……、そう考えるのは、もしかすると向こうも同じだったんじゃないか。そうだとしたら、それでもなお宝井という新たな人材をぼくに紹介してくれたのは、ぼくを慰めるためだったに違いない。暗に先輩が言っている気がする、あの頃に戻りたいなんて、嘆いたりするなと。

 それとも、ぼくから好意を伝えられて、あの人も自信をつけたのだろうか。元々自信はありそうだったというか、どこか得体のしれない人だから、動画を見てもそのあたりはよく分からなかったけれど。

「じゃあねー!」

 過剰に元気な声で、宝井さんが「バイバイ」と手を振っていた。そこで動画は終わる。

 宝井というアニメ声の、いかにも女性らしい格好をした女性が、先輩の新たな友人らしい。彼女は先輩と対照的に、その両足で大地に立ち、腕の振りを存分に使って感情表現する人だった。

 そして彼女には、首から上がなかった。

 

「こんにちはー! 最近根室さんと仲良くなりました〜宝井です! この動画を見ている来栖亜漣くん! 話は聞かせてもらったぜ!」

 

 もう一度動画を再生してみても、やはりどう見たって首がない。彼女の首は途中で途切れていて、本来頭があるべき箇所の断面は、闇より深い黒色で塗りつぶされている。まさかCG技術の賜物ってことはないだろう。先輩が言った「こういう人好きでしょ?」は、完全にそういう意味だ。

 感情表現のためせわしなく動き回る宝井さんは、しかし注意深く観察してみると、どうやら彼女はカメラの位置を把握しているようだった。顔がないのに、目もないのに、どうやって? というか、彼女の声はいったいどこから出ているのだろう。そもそも頭がないということは脳がないように見えるが、どうやって思考している? 聞きたいことは山ほどある。

 どうやらぼくの高校生活は、まだ始まったばかりのようだった。学校そのものに楽しみがないことなんて、今となってはもう、取るに足らないことのように思えてきた!



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。