ぼくときみのかくれんぼ (善吉)
しおりを挟む

第1話

in USA


 赤井秀一には親友がいる。

 

 いつも真っ黒でお世辞にも愛想が良いとは思われない彼は、職場の付き合いに顔を出しはするが、唯一がいるようにも思われていなかった。恋人の存在がちらつくこともあったが、常に1人。孤高の存在。冷たいようで、信念を灯すその瞳に映るものは、難事件しかないと思われていた。

 だから、ごくわずかの事実を知る人々は驚くのだ。

 

まるで正反対。柔和な笑みを浮かべ、赤井秀一の隣に立つ親友。

――ユーリの存在について。

 

01

 

「おい。そちらへ進むのは危ないぞ」

 

 まるで、先の見えない暗闇でもがいているようだった。

 焦りと、不安と。良くないものだらけが心を占める中、低くゆったりとしたその声は、よく響いた。

 振り返れば、男がひとり。

 その男は近場の店に勤める店員のようだった。休憩中なのか、白シャツの襟元を崩し紫煙をくゆらすその姿は、裏通りの怪しげな雰囲気と相まって、こちらの目が醒めるような存在感があった。

 

「ありがとうございます、でもどうしても探しているんです」

 

 同郷だろうか、と根拠ない勘を働かせ日本語で返すと、少し目を見開かれる。

 見つけなければ、先に進めないと思った。

 一つのことに集中すると周りが見えなくなるのは、昔からよく言われる悪い癖だ。

自分でも気がつかないうちにこんなところまで来てしまったらしい。街中の雑踏も聞こえない、つまりここで窃盗など犯罪に巻き込まれたとしても、自分の助けは誰にも届かないだろう。

 

「だとしても、焦りすぎだ。あと少しでイカれた連中の狩場にぶち当たる。お前が大事そうに抱えている荷物の中身も、すべて持って行かれるだろうな。たとえ言葉で拒絶しても、連中にはどんな言語も通じない。唯一通じるのは、暴力だけだ」

 

「そ、そんな……」

 

 ずいぶんな脅し文句に驚きながらも、その場を離れない自分をその男は苛立たしい様子でにらみ、深く紫煙とともに息を吐いた。

 

「……何を探している?モノか?人か?」

 

「店を。――という店をご存知ですか?」

 

 遠い昔にきいた店の名前、場所。街の案内マップはおろか、地図アプリでもお店は検索に引っかからなかったのだ。当時から隠れ家のような場所だったと、笑う彼らの、両親の声が遠くで聞こえる。それでも、諦めるわけにはいかなかったのだ。

 

「ああ、よく知っている。俺はそこの店員だ」

 

◇◇

 

 案内された店は、両親からの話に聞いた通りだった。

隠れ家のような入り口を通された先には、古めかしいバーがあった。もちろん、お店の看板はない。あたたかみのある照明が暗い店内と、所狭しとならんだ数多の酒瓶を照らす。陽が落ちてから間もないというのに、そう広くない店内は早々と客で賑わっていた。彼らはどうやってこの店を見つけたのだろうか。

 カウンターでは老年のマスターがグラスを磨き、奥にはこじんまりとしたステージもある。

 母はここで弾き語りし、客であった父に出会ったらしい。お互いに一目惚れだったそうだ。黒光りしたピアノも鎮座しているが、長い間、演奏の予定はなかったらしい。ワインレッドのカバーは埃で薄汚れている。

 

「見ない顔だね、きみはピアノに興味があるのかい?よかったら弾いていく?」

 ぼんやりとピアノを眺めながら、グラスを傾けていれば老年の男性が話しかけてきた。

 

「いえ、楽器はさっぱりなもので…あのピアノは母と父の運命だったらしいので、気になって。どうしても、会いたかったんです。」

 

 一生懸命にピアノを教えてくれた母の姿を思い出す。

だが、どうしても音楽の神は自分に微笑むことはなく、逆にここまでとは、と家族で笑いあったのも懐かしい思い出だった。今は、もう大好きだった母の音色を聴くことも叶わない。母の名前を告げると、マスターは目元を濡らした。

 

「ああ、そうか。きみが、彼女と彼の息子か…」

 

「どうしても、両親のはじまりであったこの店に訪れてみたくて……。でも、今はもう演奏はされていないんですね」

 

「たまに地元の連中がリサイタルライブとしてこの店を使ってくれるが、昔ほどは……だが、せっかく来てくれたんだ。少し待っていなさい」

 

 その言葉を残し、マスターは奥へと引っ込んでしまう。

待つこと数分。じんわりと照明が落ちるのと同時に、店内にかかっていたレコードは徐々にフェードアウトされ、ステージにライトが当たる。

 

 やわらかな光のなかに写ったのは、あの男の人だった。

 親切な人。優しい人。僕の道を、照らしてくれた人。

 その人は、抱えたアコーディオンをゆっくりと奏で始める。深く切ない音色が店内に広がり、しっとりと空気を震わせる。その場に居合わせた他のお客さんからしたら、なんでもない1日のおわりの、ちょっとしたスパイスなのだろう。

ただ、その名前もわからない曲はじんわりと自分の胸をしめつけた。温度のある音色は、じんわりとつかれた体を包んだ。熱い何かがこみ上げる。限界まで引き伸ばされ、悲鳴をあげていた糸がきれると、あとはもう崩壊するだけで。

 

 そこで、ようやくだった。

とつぜん、家族をいちどに失ってから、はじめて僕は涙を流したのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第2話

02

 

「シュウくん。いろいろあったけど、きみと仲良くなれて、うれしいよ」

 

「それはもう何度も聞いた。いいからさっさと進め」

 

 冷たい潮風が頬を撫でる。朝から引っ張り出してきたために、隣の彼はいつも以上に目つきが悪い。多分視線でひとりくらいなら殺せるんじゃないかってくらい目つきが悪い。

それでも付き合ってくれるのだから、うぬぼれではなく、彼は僕に甘いと思う。

 あれからというものの、例のお店に通いつめてこの男、シュウ君と仲良くなったのだ。

 あの時は必死すぎて何も思わなかったが、ピアノの音を聴きたかったのにアコーディオンって……、と突っ込まざるを得なかったけど、マスター曰くなんでもいいからお店で音楽を聴かせてやりたかったらしい。うっかり涙を零してしまい、せき止められていた涙腺が、まさに崩壊したようにぼろ泣きをしてしまい、結局そのままお店で眠りについてしまったのだ。

め、迷惑すぎる客だ…。そして目を覚ませば、知らない一室のベッドにいて。取り乱した様子の僕をあきれた視線で落ち着かせてくれた。どうやら店じまいのタイミングでシュウ君は起こしてくれたらしいが、うんともすんとも言わない僕にしびれを切らして、背負って連れてきたと。つまるところ、店内でボロ泣きした迷惑な客の面倒を見てくれたのだ。シュウ君の部屋に厄介になったのである。

 

「あのときのお前は目も当てられないくらいだったからな。店の前に捨てておこうかとも迷ったぐらいだぜ」

 

 シュウ君に言わせると、どうしようもないボロ泣きクソ野郎(これでもオブラートに包んだ表現にしている。彼のスラングはなかなか過激だ)はたいそう傑作だったらしく、いまでもネタにされる。

 

 彼は、目的があってわざわざグリーンカードもアメリカ国籍もとったらしい。こんなとき、僕は親族にアメリカ国籍を持った人がいてよかったとつくづく思う。

シュウ君は本命までのつなぎとして、あのバーで働いているとのこと。ちなみにアコーディオン演奏ができるってことで、なかなか割にイイらしい。それほど彼の演奏は素晴らしいのだ。

 もしも同じクラスにいたら、どちらかといえば図書委員タイプの僕と(実際学生時代の委員会活動は図書委員だったし)、一匹狼のヤンキータイプであろう彼で「えっ。あいつらって仲がいいの?」と驚かれてしまうような組み合わせだけど、ちょこちょこあっているうちにいつの間にか仲良くなっているのだから、人生何が起こるかわからない。

 

 一度、怪しげな密売人のチャイニーズが、いたいけな少年に恐喝しているように見えたのか、職質されたときは大爆笑した。彼と僕の年はそう変わらないはずなのに、どうしてこうも勘違いされるのか。僕の容姿の問題ではなく、彼の目つきの問題だと思いたい。

 

 面倒くさがりというわけではないが、基本的にシュウ君はオフの時は部屋に篭っているようだった。最初のうちはそれに付き合って、のんびりだらだらごろごろと一緒に過ごしていたが、最近では、無理やり僕が引っ張っていっては有名どころを見て回っている。図書委員タイプだけど、アクティビティな図書委員なのだ。旅行も観光も大好きである。

 

それに、こっちにいるんだから、もしも突然シュウ君のご家族がアメリカに遊びに来た時に、観光の一つでも案内してやれないでどうするんだ!と説得をすれば、不機嫌そうな彼は(無言で頭をつかまれ、鳥の巣のように髪を乱されたが、)しぶしぶ付いて来てくれるようになったのだ。

本日も、約束の時間まで寝こけていた彼を起こし、終点のサウスフェリー駅で降りる。

 そしてとにかく海に向かって岸壁沿いを歩き、バッテリパークの見晴らしのよい海沿いまで出ると、本日の目的であるスタチューオブリバティー、世界を照らす自由こと自由の女神像がもう遠くに見えた。観光地としてはコテコテの名所である。

 覚悟はしていたが、もうとっくにクラウンへの入場チケットは売り切れていたため、島への入場のフェリーチケットのみ。

 観光地でとにかく人が賑わっているためスリも多いらしい。チケットブースでお金を払おうと財布を用意しようとした時に、見つからず焦る。するとシュウ君のポケットから僕の財布が出てきた。僕が気づかないうちに財布をスられたらしいが、シュウ君がスりかえしたらしく、いつもの「もっと警戒心をもて」という小言をうけながら財布を返された。

 フェリーで揺れることだいたい20分くらい。船に弱いことを知っている彼は下船後にコーヒーを買ってくれた。

 

「船酔いするのがわかっているのに、ユーリのその行動力はどうにかならないのか」

 

「えへへ。今日は酔い止めを忘れちゃって。それに数十分程度なら大丈夫だよ。さすがに数時間以上の移

動ってなるといろいろ覚悟をしなきゃいけないけど」

 

 言葉自体はすこしぶっきらぼうだが、心配しているのはしっかり伝わってきたので、へらりと笑えば、また髪の毛をぐしゃぐしゃにされた。

 

「そういえばね、ようやく決まったんだ。…出版」

 

「そうか。なら今日は祝いだな」

 

 両親が共に亡くなってから、僕はそのままアメリカにいる祖母の家で、厄介になっていた。

音楽の神様は微笑むことはなかったけれど、かわりに美術の神に愛されているのね、と笑った両親の言葉通り、幼い頃から描き続けていた絵が、偶然にもおばあさまのお客様の目に止まり、いたく気に入られ、そのままパトロンとして支援させてほしいとお話を受けて、今に至る。個展を開かせていただいたりする中で、あるパトロンのお孫さんが誕生日を迎えると知り絵本をプレゼントをしたら、知らぬところで多大な評価を受け、この度めでたく出版に至ったのだ。

 

「もちろん乾杯はありがたくいただくけど、君のそのウイスキー党には付き合いきれないからね。手加減してくれよ」

 

「ユーリが弱すぎるんだ」

 

「いやいやシュウ君がザルなんだよ……。あのペースで付き合ったら、死んじゃうって」

 

「死なない程度に、手ほどきしてやるさ」

 

 僕は駆け出しの作家、彼は仕送りもいっさい受け取っていない身。

そのため、金銭の余裕は互いにない。だから酒盛りをするときは大概、彼の家におじゃまをする。がらんとして、余計なものどころか必要なものも欠けた部屋だけれども、備え付けの棚を開けると、これでもかというくらい酒瓶が並んでいるのを僕は知っている。そして彼はいっとうウイスキーを好んで飲むことも。

 酒盛りをする口実ができたからなのか、それとも僕の出版を心から喜んでくれているのか。

先ほどとは打って変わって、機嫌が上昇した彼に引きずられるようにサクサクと観光を終わらせられ、フェリーに押し込まれた。うぷ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第3話

03

 

 吐く息は白い。冷たい雨が街を包む。

 

 先日テレビで放送されていた予報が正しい情報であれば、あと数日もすれば初雪を観測するだろう。もしかすると、このまま雨が雪に変わるのかもしれない。はあ、寒い。

フードトラックで購入したベーグルは、たっぷりのマヨネーズベースのエッグフィリングと、薄くスライスされたハムがサンドされている。そしてお供に熱々のコーヒを2人分。暖を取りつつ、雨露から紙袋をかばいながら進む。

テンポよく古ぼけ軋む階段を登ればすぐだ。

 

「ハァイ!シュウ君おはよう!今日は雨!絶好の美術館日和だ‼」

 

「……」

 

「おはよー!」

 

「……おはよう」

 

◇◇

 

 ベッド脇のサイドボードには、本が積み重なっている。また夜ふかしをして、ミステリーを貪っていたのだろうか。

 朝がめっぽう弱い彼から過激な言葉が出る前に、コーヒーとベーグルを渡せば、のそのそと口に運び、食べ終わる頃には覚醒したようだった。

シュウ君はブラック。僕は砂糖とたっぷりのミルク。どうもなんでも黒っぽいものが好きみたいで、クローゼットと呼ぶにはさみしい棚に並べられた数着の服も、重たい色合いのものが多い。

 

「あー、今日の予定か……。いつも以上に寒い。それに雨だから、家でゆっくり本でも読む、だったか。そうだ、ちょうど読み終わったいいミステリーがあるから貸してやる」

 

「それじゃあ僕はデリの配達員じゃん!そうじゃなくて、美術館に行こう!」

 

「ああ、デリはうまかった。ありがとう」

 

「どうも!ええと、本はありがたく借りるけど、これ、大丈夫?シュウ君が貸してくれる本って大抵……心臓に悪いというか。後を引く怖さが、夜に寝れなくなる……」

 

「ユーリが弱すぎるんだ。人が死なないミステリーは手元にあったか……」

 

「ミステリー以外は手持ちにないんだね……。じゃーなーくーて!その手には乗らないよ!美術館、行くよ!」

 

「無理……さむ…勘弁してくれ……」

 

 残念ながら、僕は朝食のデリ配達員ではないのだ。

流石に一度引っかかった手口にはもうかからない。彼のバイブルとも言えるホームズを渡され、言いくるめられたことは記憶に新しい。もちろん、借りたホームズは大切に読みました。

 ベッドに戻ろうとする彼に、着替えを渡し、無造作に転がっているニット帽を無理やり被せ、黒いマフラーを首にぐるりと巻いてやり引っ張ると、シュウ君は観念したように、その長い脚を踏み出し、ようやく動き出した。

              ◇◇

 前に訪れた自由の女神像から距離はさほど離れていない。

セントラルパーク内に重厚な姿で佇む、メトロポリタン美術館。

さすが世界最大級の美術館。ここもコテコテの観光名所であるので、雨にも関わらず多くの人で賑わっていた。地元民にはMET(メット)の愛称で呼ばれるここは、普段からピクニック感覚で愛されている。

晴れの日は、入口前の階段で読書をする人々も少なくない。流石に今日は濡れた広場に座り込む人はいなかったけど。

館内はそれはもう圧倒的な空間だ。実はすでに勉強や趣味で数回訪れたことがあるが、それでも広すぎるので、全てを観覧したことはなかった。日本の美術館とは違い自由なここは、入館料はあくまでもドネーション、つまり寄付であるという考えの為に、支払う金額は観覧者が任意で決めることが出来るのも、日本で育った僕には新鮮な考えだった。

 最初はシュウ君にあわせて一緒に展示をふらふらと回っていたが、僕がとある絵画の前で動かなくなると、彼はいつの間にかいなくなっていた。帰ってきた彼からは、ほのかに煙草のにおいがしたから、どこかで吸ってきたのだろう。

 すっかり歩き疲れてしまった。館内のソファに腰掛け、団体客や小学生の課外活動、学生らの会話を片耳に聞きながら、ぼそぼそとくだらない会話をする。もちろん小声ね。会話も可能というのもいいよね。迷惑になってしまう声量はダメだけどね。さすが自由の国。

 

 最初は僕が絵画の解説をしていたはずなのに、いつの間にか、僕らの前を通る女性についての話になってしまったから、僕らもまだまだ若いよね。いや若いんだけどさ!

 

「アレは論外だ。胸元を広げすぎている。こんなに寒いのに何を考えているんだ。それにすれ違った時に、臭ったのは大層なブランドの香水だ。付き合うには金がかかる。まあ、ワンナイトにはいいお相手かもしれないが。……ユーリは胸がでかい女ばかり見ているな」

 

「まあ……僕、おっぱいだいすきだし……。シュウ君はさあ、意外と大和撫子っぽい女の子が好きだよね。バーに通ってくれている、えーと…アメリアだっけ。ブロンドのボインちゃん、せっかくアピールしてくれているのに見向きもしないから、この前彼女に、シュウはゲイなの?って詰め寄られたんだけど」

 

「アイツはアバ……好みじゃない。俺は身持ちの硬い大和男子なんでな、あんまりしつこいようならゲイ案もいいかもしれんな。そのときはおまえもゲイに仕立てて、ゲイカップルでも演じるか?」

 

 ベンチに投げ出していた僕の指の又を、シュウ君の骨ばった指がするりと撫でる。

笑いながらとんでもない提案をするなあ。

流石に閑静な美術館内ではいつものスラングは飛び出なかったが、日頃スラングを聞いているので、みなまで聞かなくても言いたいことは分かってしまった。そもそも、身持ちの固い大和男子ってなんだよ。ちゃんと君は後腐れのない関係と遊んでいることを、知っているぞ。

 

「ええ…僕とばっちりやだ……。その案なら、君だけがゲイになってくれ」

 

 怪しげな動きをする指から逃げて、とんでもないことを言うのはこの口か!とシュウ君の薄い頬をつまめば、やっぱり髪の毛を鳥の巣状態にされた。見るも無残な乱れ具合である。

 

◇◇

 

 美術館を出れば、雨は止んでいた。

すっかりと暗くなっているというのに、階段には地元民や、観光客がたむろっている。空気は刺すように冷たい。雪は振らなくてよかった。

 ハァイ!と目のあった学生っぽいの女の子グループに挨拶されたから、お返しに、へらりとした笑みを浮かべながら軽く手を振れば、きゃっきゃと色めき立ってくれた。うれしい。でも知っているぞ。こんなに喜んでくれているけど、君らが目当てなのは、僕じゃなくて、隣の真っ黒な男だってことは!

 

「余計なのを釣ってくれるなよ」

 

「やっぱりさあ、女の子にはみんなに優しくありたいじゃん。好感もたれたいし」

 

「その結果、変な女を引き当てて、警察沙汰になったのはどこの誰だ」

 

「あー、ええと。まあ、そうなんだけどさ……。その節はお世話になりました……」

 

 べつに全くモテないというわけではないけど、隣の彼がありえないくらいにモテるから、ちょっと悔しい。確かにシュウ君は男の僕から見てもいい男だけどさ。

 僕はというと、いろんな人種を見てきた米国の彼女らの目には、アジアとヨーロッパが混じった、細っこい容姿は頼りのない幼い少年に見えるらしい。それを気にしてトレーニングをしているが、筋肉が付きにくい体質なのか変わった様子はない。シュウ君はムキムキである。

 

 だからなのか、少年趣味の女性とか、嗜虐志向の女性を引き寄せる。

 この前、バーで知り合った女性に、変な薬を盛られた上、気がついたら見知らぬ部屋で拘束された状態で、鼻息荒くマウント取られていたときはいろいろ覚悟した。シュウ君が助けてくれたけど。

 

 ぼんやりとその時のことを思い出しているときだった。

突然、腰をつかまれる。おおう、シュウ君どうした。

 

「お前が釣った女たちがついて来てる。お前が蒔いた種なのだから、覚悟しろよ」

 

 彼の吐息混じりの低い声がぽそぽそと、耳元で響く。くすぐったい。

 ねえ、なんだか悪目立ちしすぎじゃありません?ぴったりと身体を密着させられ、スタスタ歩く彼の長いコンパスに併せて、慌てて足を動かす。なんだかんだ言ってカップルの振りするの楽しんでいるよね⁉僕の微妙な表情見て笑っているし!それに結構歩いたけど、まだついてきているの?女の子たちしつこすぎない?そして、本当に君は足が長いな!

 

「もういいんじゃないかな。それにしても、君すごーく手が冷たいね⁉ってうわ!」

 

「ホォ――?」

 

 やられっぱなしも悔しいので、ガッチリと掴まれていた腰の手を外そうと奮闘すると、あっけなく外される。おお、珍しく素直だと思ったのに、彼は意味深げにニヤリと笑うと、冷たい手を首元いれてきたのである。

 

「ぎゃあ!つめたい!つめたすぎ!やめて‼」

 

 するすると伸びる手は、首元を通過して背中まで侵入してくる。冷たすぎる。上機嫌な彼にゾワゾワと悪寒を感じ、逃げようとすると容赦なく、もたれかかるように体重までかけてきやがった!つぶれるってば!

 

「もう女の子達、追いかけて来てないでしょ!」

 

「なんだ、気づいていたのか」

 

「流石に気づくよ!ただ暖を取りたいだけだろ!」

 

 容疑者シュウイチは、寒すぎたせいだ、と供述。初犯ということで情緒酌量の余地ありとし、ようやくこのふざけたじゃれあいも終わらせた。

 

 でも味をしめたようで、たびたび首元に容赦なく手を突っ込まれるようになったから、勘弁してほしい。僕が仕返しで同じことをやり返そうとすると、すぐに察知して逃げるから、今後の対応を検討する必要があるなあ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第4話

04

 

 僕はよくシュウ君の家に行く(正しくは押しかける)けど、その逆は多くはない。彼は一人暮らしで、僕はおばあさまと二人で暮らしているからだ。

 それでも、彼が自発的にこの家に訪れることはある。

 

 1つは食事。

いつの間にかぼくのおばあさまと仲良くなっていて、夕方頃に呼び鈴がなり「そういえば、今日はシュウちゃんが来る日ねえ」なんて、いきなり聞かされ驚くことも少なくない。おばあさまはとても顔が広い方なので、友達がたくさんいる。僕の知らない間にシュウ君と交流を深めていたことは流石に驚いたけど、おばあさまの友達は老若男女だし。

 

 可愛らしいクラシカルな食器に盛り付けれられた食事を、丁寧な所作で口に運ぶシュウ君の姿は初めのうちは不思議だったけど、食卓を囲む人数は多い方がよい。

それに、シュウ君の食生活はそれはもう……ずさんなのだ。自分で包丁を握ったことがない僕に心配されてしまうほどである。煙草はご飯ではないし、カロリーメイトでは満足な栄養は得られない。

 そしてもう一つ、彼が僕の家を訪れる理由がある。これは喜ばしいことでは、ないけれど。

 

「わ、窓から入ってくるのは危ないよ!」

 

「ユーリは無用心だな。侵入者が現れたら、どうするんだ」

 

「今、まさにシュウ君に侵入されているよ⁉」

 

「……」

 

「…ってうわ!また派手にやってきたね、まってて」

 

 シュウ君の来訪。それは、喧嘩っ早い彼が怪我をした時である。

 痛い思いをする彼を見るのは嫌だ。けれど、それを隠されるほうが、もっと嫌である。訪ねてくれるということは、それなりに頼られていると思いたい。

 せっかくの端正な顔立ちは、いつも以上に男前になっている。唇の端から血が流れ、右頬も打撲痕があった。よく見ると腕にもちいさな切り傷まである。うわあ、刃物を持った奴を相手にしたのか。出血自体は多くないけれど、皮膚が切れているので、消毒は必要だな。顔周りの皮膚は薄いから、すぐに腫れる。それも、どうにかしないと。

 

「ほら座って。あとこれ当てて」

 

「ん」

 

 今日も無事に帰還して、屍の山を作り上げたらしい。

 シュウ君は自分でもいうほどめっぽう強いらしいので、サシで負けることは絶対にないとのこと。(実際に立ち会ったことはない)売られた喧嘩は丁寧に買ってしまうので、いつのまにか、このあたりのゴロツキやらヤンキーを集めてしまい、最近では一対十数人もザラだとか。

 彼は自分自身のことにはどこか無頓着なところがある。彼の部屋には、消毒液なんてないし、包帯もないのである。なので、以前、立派な切り傷をそのままにしている状態の彼をみて叫んだ僕は、これくらい平気だと突っぱねる彼を自宅まで引っ張り治療した。

本人曰く怪我なんて唾をつけておけば治るらしい。そう言ってのけた口は引っ張りの刑である。

 無理やり手当をしてからいうもの、怪我をするたびに、時間に関わらず僕の部屋までやってくる。ここ二階なんだけどね。運動神経すごいなあ。するする~っと、庭の絶妙な配置にある幹のしっかりした桜の木を登ってくるのだ。

玄関を通らないのは、うるさくしておばあさまを起こさないように、っていうのと怪我をしている姿を見せて驚かせたくないらしい。その配慮を彼自身に向けてほしい。あと僕にも。できることなら、もっと心穏やかに生きて欲しい。

こうして怪我をして部屋を訪れるシュウ君は、なんだか……瞳がギラギラしている。それに僕だって血とかめちゃくちゃこわい。見るだけで痛い。僕が痛くなってくる。

 音を立てないように慎重に詰めてきた氷嚢を渡せば、冷たさに思わず眉をひそめていた。そうだね、シュウ君は冷たいのとか、寒いの苦手だもんね。でも冷やさなきゃ明日にはもっと男前になっちゃうのをわかっているからか、難しい顔をしながら無言で右頬に当てている。

 

「大丈夫?痛いよね」

 

「痛くない」

 

 いや、痛いだろ…。むっすりとした彼は不満げである。

 

「今日は何人だったの?」

 

「わからん。途中から数えるのをやめた。クソ……最後にあの野郎のツラに、唾でも吐いてくりゃよかった」

 

「えーとなんだっけ。なんたらケンポー?で今日も勝ったの?」

 

「当たり前だろう。ジークンドーだ。あいつらが束になっても負ける気はしないし、いい加減に俺に勝てないことを学んで欲しいものだ。って、痛えな!」

 

「消毒は染みるもの!今の、俺には勝てないぜ云々って本人たちに言ったんでしょ……そりゃ逆上して毎度押し寄せてくるよ。これで少しは反省してよね」

 

「俺は悪いと思っていない。喧嘩を売ってくるアイツ等が悪い……」

 

 ここまで全てヒソヒソと囁く程度の声量である。あんまりにも血の気が多すぎるので、消毒脱脂綿を予告なしに当てれば相当しみたようで怒られた。だけど僕だって怒っているんだからね!

 そのあとは、当たり前のように僕のベッドへ潜り込もうとしたシュウ君を、丁重にソファーへと案内した。こういう時に、一緒に寝るとあんまり良いことが起きない。おやすみなさい。髪をするりと撫でてあげれば、難しそうに寄っていた眉間のシワがすこし薄まった。

 朝、寝苦しさに目を覚ますと、ソファで寝たはずのシュウ君の顔が、視界いっぱいに広がっていた。どうやら暖を取るために、結局潜り込んできたらしい。

 

◇◇

Side: Shuichi

 

「ミスター!大変だ!」

 

 アコーディオンの仕事は休み。夕日で照らされる街をふらりと歩く。

いつかのクソ野郎に絡まれたら、その顔面に唾でも吐いてやろうか。それとも、物好きなアイツに会いに行こうか。そうだ、それがいい。映画フィルムが5番街で上映されるという案内ポスターがちょうど視線の先にある。たしか、ユーリが見たいと言っていた作品である。近くには日本食のチェーン店もあるらしいから喜ぶだろう。

 

 秀一の冒されている熱病は変わらず治らないままであったが、穏やかな心地よさに浸る安らぎに価値を見出していた。共に過ごす時間の、楽しさも。

無自覚のまま、ぼんやりとこれからの予定を組立てながら、迎えに行く道をたどっている時だった。

 突然前に飛び出してきたのは、見たことのあるような、ないような、ホームドラマに出てきそうな枠にはまったそばかすの小太り野郎。誰だったか。

 

「やっぱり覚えていないね!わかってましたけど!ほら!ユーリんちの近所に住んでるドミニク!ドムってユーリは呼ぶんだけど覚えてないかい?前に君がユーリの家にいるときにも、カリフォルニアに住んでいるおじさんが持ってきてくれたオレンジを持っていったんだけどなあ!」

 

「さっぱり覚えがないな。それで、そのご近所さんとやらがなんのようだ?」

 

「オーウ!君って興味のないことはとことん興味がないんだね!べつにそれは今話し合う論点ではありませんけどね!」

 

 興奮し、これでもかというほどの早口でべらべらとまくしたてる。ほかにもぐちゃぐちゃと言っていたようだが騒音として聞き流れていった。絶対にこいつとは上手くやれそうにないな。すでに、秀一はイラついていた。

 

「結論からいえ。ただ長話がしたいだけなら、帰ってテメエのママにでも付き合ってもらうんだな」

 

「悪いニュースだ!ユーリが連れて行かれた!」

 

「それをはじめに言え。場所は!」

 

「わからない!でもキャップをかぶったガタイのいい奴を中心に5人くらいに囲まれていましたぞ!しかも首元にジャラジャラしたやつを!ぼくは知っております⁉たしかこの辺のヤンチャな奴らがボスと慕っている!あんな連中みるからにユーリの趣味じゃあないだろう!なら君関連しか考えられませんな!どうしよう!ユーリがリンチされちゃうよ!ってああ!もういない!足はや‼あっ、ぼくのバイクちゃん!どうぞ、ユーリと、バイクちゃんを、くれぐれも、ご丁寧にー!」

 

◇◇

 

 熱い汗で、濡れた髪の毛が頬にはりつく。

 ユーリは思い切りこそいいが、それは暴力にまったく当て嵌まらない。むしろ向かないくらいだ。本人は否定するが、あの細っこい腕なんて、ちょっと乱暴に

したらすぐに折れてしまうだろう。白い肌が血に染まっていたら。それに、あの指から紡がれる色と、繊細な加減で描く線は誰にも真似は出来ない。身体は熱いのに、冷えた頭は悪い想像ばかりが秀一の脳裏をよぎった。

 

 この地域のそういうしろ暗い奴や、暴力で物事を解決しようとする奴らがたむろしている人目につかない場所はだいたい知っている。めぼしいところを回って数件目。古い建物が並ぶこの地区は、バイクも通れないような、目立たない細い小道が多い。

 小道の手前でバイクを降りれば、あのやわらかい声色が聞こえてきた。近い。――秀一は、脇目も振らず駆け出した。

 

「ユーリ‼」

 

「えっ…?シュウ君?」

 

「ゲ!やっぱり奴が来たか!そそっかしいドムのやつが見ていたから、まさかとは思ったが、こうも現実になるなんて!」

 

Side: Yuri

 

 突然の友人の登場にユーリは目を白黒させた。あれ?なんで?いつも涼しそうな顔をしているのに、シュウ君のひたいには玉のような汗が吹き出ていて、息も荒い。そうか、彼はここまで走って駆けつけてくれたのか。しかし思いつくことは何一つない。それに、目の前の依頼をしてくれた彼も頭を抱えて天を仰いでいる。ジーザス、だなんて。なにかあったのだろうか。

 

「おい…このふざけた集まりはなんだ…」

 

「やめろ、完全に誤解だ‼まて!近づくな‼」

 

「…ああ!彼の年の離れた妹さんが僕の絵本のファンなんだって。へへ。サインが欲しいってわざわざ来てくれたんだよ!でも恥ずかしいから、人目につかないところで書いて欲しいって言われてね。まさかこんなに近くにファンがいてくれるなんて嬉しいな」

 

 そう、見た目はちょっと派手で驚いたものの、妹思いのお兄さんらしい。彼の友人さんたちも何を介して知ったのか、サインをして欲しいと集まってくれたのだ。ちょっと照れる。どうやら彼らはシュウ君の知り合いだったよう。そしてシュウ君が彼らにどんどん迫っている。仲が良いなあ。

 

「ホゥ――?」

 

「俺らとお前は確かに何度も拳を交わした間だが、あんたのダチに手を出すほど俺らだって腐っちゃねえよ!頼むからこっちに来るな!あんたの技は初手で殺ろうとする気満々だから危なくてしょうがねえ!ユーリさん!この狂犬を抑え、グアッ!」

 

 空気を裂くような鋭さがある拳は、彼らが助けを求めたユーリの目には映ることはなかった。

 

「ユーリ、時計は確認したか?」

 

「あ、もうこんな時間!急がないと。ごめんなさい、失礼しますね。妹さんによろしくお伝えください。あ、今日来る?」

 

「ああ、ちょっと野暮用を済ませてから行く。なに、5分もかからないから先に帰っていてくれ」

 

「りょーかい」

 

 パタパタと慌てて駆ける友人の背中を見送る。秀一は特別に虫の居所が悪かった。いろんな感情が複雑に混じって、自分でもどう処理をすれば良いのかもわからない。ただ、わかるのは、すべてこのクソどもが誤解をさせたせいだ。秀一は、力任せにボロボロの屍を積み上げ、「二度と近づくな」という言葉を吐き去った。

 

◇◇

 

「そういえば、さっきものすごく急いでたけど、なにかあったの?」

 

「……忘れた」

 

 その日秀一が感じた複雑な感情は、夕食のトマトシチューとともに胃の中に飲み込まれてしまったので、ユーリが知ることはきっとない。それでもたしかに感じてしまったのだ。願ったこともない神に柄でもなく祈ってしまった。心を繋げ、懐に入れる。それは満たされ、あたたかく、幸せなことでもあると同時に、恐怖でもある。入れ込むほど、自分にとっての弱みが大きくなることと同義だ。これからも似たような出来事、もっと最悪なことも起こるかも知れない。それでも、失い難いと思ってしまったから、どうしたものか。

 

 例の件に巻き込むつもりは一切ない。しかし、若く、未熟で、満たされる感覚を知ってしまった彼には、この友人との縁を切る未来は、想像することもできなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第5話

05

 

 とっくに太陽が沈んだ街は、雪化粧ですっかり白く染まっていた。いたるところで雪がつもり、道路も氷で覆われている。街角では、3段積みのスノーマンが微笑んでいた。出かける前にもニュースで転倒事故があって怪我人が出たとキャスターが注意を呼びかけていたから、気をつけなくては。

 

 冬本番とあって、外は痛いくらいの寒さだが、店内はしっかりと暖房がきいている。

 久しぶりに訪れたバーは相変わらずゆっくり時間が流れるような落ち着いた空間で、ユーリを安心させた。キャメル色のダッフルコートを脱ぎマフラー、耳あて、ついでに手袋まで外し、定位置に腰をかけると、じんわりと汗が肌を濡らすのを感じた。かちゃり、控えめな食器の音とともに、用意されたものは香り高いダージリンである。

 このバーにいて酒を頼まないのはユーリくらいだが、このマスターがいれる紅茶は特別に美味しいのだ。

 

「ユーリ君じゃないか。最近は見なかったが、元気にしていたかい?もしかして、寝不足気味なのかな、顔色が優れないようだが…」

 

「マスター、お久しぶりです。仕事がようやくひと段落しまして。せっかくなので、この子達を自慢しようかと」

 

 ユーリが指したものは、身につけているセーターだった。伝統的なノルディック柄にはトナカイたちが規則的に並んでいる。

 

「…ああ、素敵なセーターだね。もしかして、イイ人からのプレゼントかい?」

 

「ふふ、ありがとうございます。実はこれ、おばあさまがクリスマスに贈ってくれたプレゼントなんです。それに、イイ人は…そうですね、今はここで働いている彼にぞっこんなんで」

 

「ははは!君たちは仲が本当にいいな!だが君のイイ人はここ最近へそを曲げているよ。今日は覚悟をしておいたほうがいいな」

 

 はて、僕のイイ人に何があったのだろうか。疑問がよぎったが、心当たりがない。

 ここのマスターにはとても良くしてもらっていて、シュウ君目当てで通っている間に、マスターとも距離が縮まった。彼は僕の両親のことも知っているので、まるでお爺ちゃんのようだった。和やかにマスターと会話をしていれば、近づく足音がある。そして、不穏な気配も。久しぶりだけど、元気そうで何よりだ。

 

「久しぶりだな…darling?クリスマス以来か?」

 

「えーとシュウ君。ごぶさたしております…?」

 

「はっはっは!君たちは随分と感動的な再会をするんだね」

 

 未だに海外のノリは難しい。両親のおかげでヒアリングもライティングも一切心配することはないが、日本にいた時間が長かったので、細かいニュアンスにときどき戸惑う。はにーもだーりんも特に男女関係なく使うんだって。前にかわいこちゃん、って呼ばれたときは何事かと思った。いや、でもやっぱりおかしくない?

 

 まあ、それはそれ。これはこれ。久々の再開に友人はおかんむりなようで、拳を脇腹をぐりぐりと当ててくる。彼に比べて筋肉があるわけではないから、冬の間に溜め込んでしまった脂肪がばれてしまう。そもそも、なにか怒らせたっけ。

 考えることを放棄して、降参したと両手をあげながら後ろを振り返ると、僕のイイ人がその端正な顔をいつも以上にしかめていた。

 

「どうしたの?なにかあった?」

 

「クソッタレ!どうしたもこうしたもあるか!家に行けばもぬけの殻で、おばあさんまでいない。最初は強盗にでも襲われたのかと思ったぜ」

 

「あ、」

 

「荒らされた形跡もなかったから、様子を見ていたが、それが2週間も続けばおかしいと思うだろう!」

 

「なるほど。だから家に帰ったときドムが、チューケンハチコーを生で見た!って騒いでいたのかってぐああ、やーめーて――」

 

 ぐわんぐわんといつも以上に頭を髪の毛を揺さぶられて、乱される。ボサボサになった頭はひどい有様だろうな。でも、そうか。シュウくんのほうがよっぽどかわいこちゃんじゃないか。

 

「ふーんそっか、へへへ、なるほどね」

 

「あ?」

 

「心配してくれたんだね、honey♡寂しかった?」

 

 胸のあたりがほわほわした。へえ、そうか。シュウ君が。

 別に故意に言わなかったわけではないし、実は言ったつもりになっていた。えへ。それは素直に謝ろう。

 

 でも、なによりこの友人が2週間も僕と連絡を取れないことに、おかしいと思ってくれたことが嬉しかった。だってみんなが口を揃えていうのは、来るもの拒まず、去る者追わずのシュウイチ、だし。

 ちなみにおばあさまは、寒さから逃げるために、仲の良い御婦人方と南カリフォルニアのサンディエゴまで長旅に行ってしまった。帰宅はまだまだ先。お土産が楽しみである。僕の観光好きはおばあさまの血を受け継いだのだろう。

本当に行っちゃうの、おばあさま。僕も連れて行って逃避行したい~!と、ぐずる僕を置いてサッと飛び立ってしまった。温暖な気候なので、とても羨ましい。

 

 僕はといえば、アトリエにずっとこもっていた。

 というか、半分くらい監禁状態だった。締め切り間際の原稿をいつもの調子でのんびり進めていたら、出版社の担当さんであるのケイトが半狂乱で悲鳴をあげた。

そんな調子じゃ、指定日までに終わらないですよね⁉スケジュールを伝えたの覚えていますか⁉詰め寄られたのは何度目だったか。

 

「…別に。お前を見ればわかる。画材が爪の間に挟まっているし、顔にもついている。それに隈まであって、ひどい顔だ。仕事を片付けて、すぐにここに来てくれたんだろ」

 

「うん。寂しいのは僕だって同じだよ、ってあいたたた!いはいよ!」

 

 目元をなぞられ、頬を拭われる。身を任せていれば、両頬を思い切りつままれてしまった。痛い。照れるとすぐに手がでるのは良くないと思います。

 

「ごめんね。連絡取れなくなる時は、ちゃんと教えるね。僕だって寂しいんだから、君もふらっといなくなる前にちゃんと教えてね」

 

「……どうだかな」

 

 そうつぶやいた時の彼は、綺麗なエバーグリーンの瞳を合わせてくれなかった。ここではない、どこかを見ているような。不安になった僕はお返しとばかりに、彼の薄い頬を軽くつねる。ああ、彼もどこかへ行ってしまうのだろうか。

 

◇◇

 

 結局、彼の仕事が終わるまではうつらうつらと眠気の波に漂いながら、紅茶を片手にバーに入り浸った。気がつかなかったが、どうやらハイになっていたようでここ数週間分のツケがどっと押し寄せた感じ。ぐにゃぐにゃになった僕のうでを引いて、一緒に帰り道を歩いている。まだおばあさまは旅行中だから、そのまま彼の家に泊まる予定だ。あの大きな家に一人は、寂しい。

 

「あ、その手袋使ってくれてるんだね」

 

「ああ。お前のその耳あても、いいんじゃないのか。おい、歩きながら寝るな」

 

「ん~。ちょっと可愛すぎない?これ。でもすごくあったかいから重宝しているよ」

 

 今年のクリスマスは、おばあさまと、僕、そしてシュウ君の三人で過ごした。日本じゃクリスマス日は恋人の日だなんて言われているけど、英語圏じゃ家族の日としてみんなでクリスマスディナーを囲むのが普通らしい。

 家族のもとに帰る予定はない、とシュウ君の話を聞いたおばあさまがそれなら3人で美味しいものを食べましょう、とささやかながらも会を開いてくれたのだ。七面鳥に、クリスマスプディング、ほかにもいろいろ季節にあわせた料理を披露してくれた。ゲロ甘いカラフルモンスターお菓子の心配はない。おばあさまは日本の文化にも理解が深いし、料理が趣味のような人だからね。

 

 プレゼントも交換をした。おばあさまは僕たちに手編みのセーターを用意してくれた。シュウ君はプレゼント交換なんてガラじゃないと言っていたけど、おばあさまに紅茶の茶葉セット、そしてふわふわしたファー仕様のこの耳あてをくれたのだ。

 どんな顔をしてお店で買ったんだろう。僕はおばあさまにエプロン、そしてシュウ君に手袋をあげた。よく手をポケットに入れている姿を見るし、ひえひえの手を僕の首元で暖を取ろうとするしね。

 

「寒いね、早く春にならないかなあ。そしたらブルックリンで桜を見よう。桜祭りがあるんだって」

 

「桜か。こっちのほうじゃ4月の終わりがシーズンだからまだまだ先だな」

 

「そうなのか、じゃああったか~い銭湯にでもいく?この前教えてもらったお店がたしか…」

 

「アー…。この前ユーリにしつこく言い寄っていた奴が口にしていた店だろう?やめておけ」

 

「え?なんで?あれ、こっちの銭湯だと水着が必須なんだっけ」

 

「……アッチのやつらの御用達しだ」

 

「アッチって、ああー、そっちかー。じゃあ僕らは行かない方がいいね、う~む」

 

 久しぶりの銭湯はお預けである。まあ、いつか別の機会に行ければいいや。

 寝不足も相まってふらふらとした調子で雪を踏みしめる。滑りそうになるたびに助けてもらうのだから、なんだか情けない。なんで彼はそんなにしっかり歩けるんだろう。

 

 それからも、久しぶりの会話は取り留めのないものばかりだったけど楽しかった。僕が勝手に、感情を揺らさなければ。

 

「お前なら、いつかいきなりチケットを渡してきて、そのままハワイへひとっ飛び、なんてこともありそうだな」

 

「あはは……、そこまで思い切りは良くないって」

 

「どうだか。いまから荷物を詰めておいたほうがいいか?」

 

「そんなことしなくてもいいって。えーと、そういえばさあ、」

 

「水着も用意しなきゃいけないだろうから、飛行機での旅は早くに伝えておいてくれよ」

 

「だから!飛行機は、ひこうきは、乗らない!のらないってば…」

 

「…そうか、悪い」

 

「僕も急に大きな声をだしてごめん」

 

 飛行機。そのワードが秀一の友人を刺激させたらしい。

隣の友人は、急にうつむき、表情が暗くなった。不安定だ。締め切り明けということを差し引いても、である。探求心のままに引き出そうと、踏み荒らしてしまったことを、今更ながら秀一は後悔した。

 

 先ほどまで会話の楽しさで和らいでい外気の温度も、急に冷たく感じた秀一は、己に巻いていたマフラーを外し、熱を分け与えるべく友人の首元に巻いてやった。

 

 その後は何もなかったかのように振舞うユーリに合わせていたが、不安げな様子は隠しきれていなかった。顔色は先程に比べて随分と青ざめている。

 寒さと寝不足だけが原因ではないだろう。家についても相変わらず無理に笑おうとする姿は、痛々しくて見ていられない。さっさと寝ろと言わんばかりに、秀一はユーリをベットへ放り投げる。慰め方なんて知るか。

 黙って毛布も上からかければ、苦し気な抗議の声が上がったが、毛布の上からポン、ポンとゆっくりしたテンポで叩けば静かになった。

 

「…これは寝言だから、気にしないでほしんだけど」

 

「ああ」

 

「飛行機、に、いい思い出がなくて」

 

「そうか」

 

「日本に置いてきたものもたくさんあるんだけど、さ」

 

「……」

 

「家族が、事故で、えーと…うん…」

 

「……」

 

「だから、その、飛行機には、乗れない…きみと行きたいところもたくさんあるし、両親は日本で眠っているんだけど、まだ会いに行けてない。ええと、だから、ごめん」

 

 ここまで弱っている姿を人に見せるのはユーリにとって初めての事だったが、秀一がそれを知ることはもちろん無い。ぽそぽそとずっと謝罪を繰り返しこぼしながら眠ってしまったが、寝苦しそうで魘されている。

 

 片手を包むように握ってやったが、彼のために行ったというよりは、縋るように小さく握られることで満たされる歪んだ安心感を得るための自己満足であった。その懺悔は目の前にいる自分へ向けたものではない。きっと日本に残してきた多くに対してなのだろう。ああ、そうだろう。お前のような奴が、一人なわけがない。

 

 本人には伝えたことはないが、秀一が気に入っているあのやわらかな笑みと、心地の良い声、そしてその思いを多くの人に分け与え、注ぎ、心を通わせたのだ。

こうして、遠い異国の地で懺悔をする程に。ああ、それでも、彼の大切な心の一部に触れてしまった。不謹慎にもどこかホッとしている自分に嫌気が指す。

それに、重要な情報も手に入れた。飛行機に乗れないということは、この国からは出られない。囚われている。

 

 自ら追っている事件の全貌は掴めていない。舞台もどこになるかは不明だ。ただ、万が一の際は自分が国を出てしまえば、この友人を巻き込むことはない。そして追いかけてくることもできないのだ。いつか来る別れは、自分から一方的に彼に押し付けることになるのだろう。そのような未来が訪れたら、彼はどのような行動をとるのだろう。

 

 抱えた矛盾に目を背けたまま窓を覗けば、いつのまにかまたしんしんと雪が降っている。明日も寒い一日になるのだろう。ユーリに貸していた片手をするりと抜き取る。せっかくの分け与えられた熱はすぐに冷えてしまった。ざわざわと落ち着かない心を静めるために、雪が降る寒空へ出て、マッチに火を灯し紫煙をくゆらせたが、秀一の心が満たされることはなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第6話

06

 

 長年住んだこの部屋とも別れだ。

 

 赤井秀一はようやく念願の連邦捜査局、FBIに名を連ねることになるのである。

 実際に確認することもなく、立地と家賃のみで即決してしまった部屋だが、日当たりが多少悪いくらいで他に目立つ問題もない。気が付けばそれなりに愛着も湧いていた。業者を手配するほどの荷物もないので、奴との約束までの時間には十分間に合うだろう。新居では家電や家具は備え付けのものを利用するので、用意したダンボール1箱で事足りてしまう。

 衣類と、本。酒は荷物になるので、残り数日で空けてしまう予定だ。残った細々としたものをダンボールに詰めていると、すっかり部屋に溶け込んでしまったが忘れてはならないものが目に入る。

 この部屋の唯一と言ってもいいユーモアだろう。洒落っ気というには主張の強い自由の女神像を模したジッポーが目に入りる。

 

 懐かしい。

 

 奴との出会いももう数年前になるのか。まだ出会って月日がそう経っていないあの頃、むっすりとした顔で引きずられていたが、無関心であったわけではない。ただ、素直ではなかったのだ。冷たい手を引いてくれるあたたかな手は心地がよかった。だが、今まで経験したことのない感情にどうすればよいのかわからなかったから、ぞんざいな態度をしてしまうこともあった。

 それでも、楽しかった。こうして思い出すくらいには。さんざんに市内を連れまわされたあとは、奴の出版祝いと称して酒盛りをしたのだ。この部屋で。ああ、そうだ。たしか当時所有していた中でも一番の上物で乾杯をしたが、奴は結局最初の1杯で出来上がってしまったんだ。本題はそこではない。一服するかとタバコをくわえた時だ。「あっ!」とまるで待っていました!とばかりに嬉しそうな声が聞こえたのだ。

 

「ん?」

 

「じゃーん。実は、きょうは、プレゼントがあるのです!」

 

 自由の女神が持っているトーチ部分に灯る小さな火を自信満々に差し出されたのだ。ここまでふざけたジッポーも初めて見た。

 

「ふふん、シュウくんのために選んだんだよ 」

 

「……あー、それは、どうも」

 

 くらりとしたのは、アルコールのせいか、それとも惜しげもなく向けられるその表情にか。酔ったせいか、いつもより数段しまりのない口調で渡されたそれ。 頬を上気させながら、あんまりにも誇らしげに渡してくるので、うっかりかわいいだなんて思ってしまったが俺も酔っていたのだから仕方がないだろう。

 

 変に気を使ってこの部屋に物を置いていこうとしない奴が、置いていった唯一の品である。自分のテリトリーははっきりさせているので、女を連れ込むどころかこの数年で奴以外を招いたことなどなかったが、それを伝えたこともなかったから無理もない。

 普段はマッチを持ち歩いている。利便性もだが、火を灯した瞬間に肺に流れる煙に火薬特有の風味が広がる感覚が好きだから。しかし、このジッポーを手放す理由にはならない。部屋で思い出に浸りながら使うには十分だった。丁寧に古新聞で包み、ダンボールへ詰める。

 

 私物が少ないのは今更だが、一つ一つに思い出はある。確かに世間一般で荷造りに時間がかかる訳を、秀一は改めて感じた。

 雪深かった季節も終わりの兆しを見せ始めたころ。ブルックリンへ花見を、桜を見に行こうと誘われたこともあった。

 

「ねえ、桜はちり紙じゃないよね⁉シュウ君はそんなこと言わないよね⁉」

 

 珍しく取り乱しながら、すごい剣幕で迫られたのはこの数年でもあまり見ない表情だった。聞くと次に出す本の参考資料として、日本の桜の写真を南米出身の担当に見せたら「アー、日本の桜はまるで丸まったちり紙がくっついているみたいね?」と言われたことにショックを受けたらしい。確かに南米の鮮やかで華美な花に囲まれ育ったら、そう反応をされてもおかしくない。

 落ち込む奴を宥めて、いつもとは逆に俺が奴を引っ張って桜を見に行けば、「アメリカの桜って、主張が強い…」と呆然としていた。「なら、いつか日本の桜を見せてくれ」と交わした口約束はまだ果たされていない。

 

 ――奴は初の出版以降は、自分の書籍の出版日など詳しいことを俺に伝えることはなかった。だが、その数ヵ月後に出版された、情緒ある淡い色があふれる、日本の桜をモチーフに描き上げられた内容の本であることを秀一はちゃんと知ってる。本棚に並んだ数冊の絵本と、ホームズの文庫本を共に詰めた。

 

 その並びには、2つのヘルメットが並べられている。車の代替として、足として利用してきた相棒の単車は売っ払ってしまった。そのため残念だが、これも処分だ。これにも思い出はある。奴の「ヤシの実にストロー刺した、いかにも!って感じのココナッツジュースを飲みに行こう」という唐突な思いつきの元、当ても無く海岸沿いを単車で駆け抜けたのだ。ようやくそれらしいフードトラックの移動販売を見つけた頃には、喉がカラカラに乾き、食い気味にトラックの定員に注文をしたのも覚えている。俺たちの期待値といったら、オアシスを見つけた旅人のようだった。

 ヤシの実の緑の外皮とともに中央が五角形にくり抜かれ、その隙間には紫の花まで添えてあるジュースはずっしりとした重みがある。 ようやく念願のヤシの実ジュースにありつけたことがよっぽど嬉しかったのか、笑いながら「デンファレにはわがままな美人って花言葉があるんだよ」といじっていた花は結局どうしたか。味は覚えていない。ただ長時間太陽が降りしきる中での移動で火照った体には、ココナッツジュースはとにかくぬるくて物足りなかった。そりゃあ、あんな殻が分厚いんだから冷えにくくて当たり前だ。

 結局コークを買って飲んでいたら、風情がないなー、でも僕もサイダー…と二人してキンキンに冷えた別のものを飲み干したのも、いい思い出なのだろう。そのあと、二人して日焼けで苦しめられたというオチもある。

 

 クローゼットを整理すれば、丁寧に保管していた冬用の手袋まででてきた。黒の本革製のそれは、丈夫な作りで冷たい外気から隙間なく守ってくれる。受け取って以降は毎度冬が訪れる事に活躍した。

 いつかのクリスマスプレゼントで受け取ったものだ。たしかあの時、俺からは耳あてを送った。奴の色素の薄いあまい鳶色の髪に似合うと思ったモノが、偶然女物だったのだ。いつもの意趣返しというか、どんな反応がかえってくるだろうかと、ちょっとした悪戯心で贈れば、「ちょっと可愛すぎない?」と疑問に思われたが、似合うと伝えれば「ならいいか~ありがと!」とそのまま納得したのである。それでいいのか、少しは人を疑うことを覚えろ。

 あまり使われることのなかったキッチンには、来客時にしか使うことのなかった紅茶のティーバックがある。自分は飲まないし、奴が新居に来ることはできない。勿体無いが、残りの数も少ないから破棄だ。

 

 振り返れば、奴との出来事ばかりだな、と苦笑してしまう。

 あと少しすれば、自分はようやく念願の連邦捜査局、FBIに名を連ねることになる。ワシントン郊外にある研修センターの寮に訓練生として入寮するのだ。

 誰にもビュロウになるとは一切告げてはいなかった。だが、ユーリにだけは、この地を離れることだけはきちんと告げた。

 もちろん奴以外とも付き合いはあった。だが、別れを惜しむほどでもなく、それまでの関係だった。今まで家族以外で執着を持ったこともなかったし、長く続いたこともない。だから、この地から離れることを、当然のように奴に伝えた自分に驚いた。きっと数年前までの自分であれば伝えることはなかった。奴と出会った数年で、なにかが変わったのだ。

 

 やはり、失い難い。この数年、先の見えない焦燥感や飢えを感じることもあったが、冷たい心を満たし、安寧を与えてくれたのは、あのやさしい友人だった。穏やかで気の抜けた笑顔は、不思議と心を落ち着かせた。キャンパスに命を吹き込むあたたかな指先は、俺の心にも目には見えない何かを吹き込んだのだ。

 ともに過ごす時間は、かけがえのなかった。ああ、友人と表すには、物足りない。この関係を、なんと呼べばよいのだろうか。もっと深い繋がりのようにも思う。

 

 そうだな、ティーンの青臭い友情みたいで笑えるが、奴、ユーリは俺にとっての親友、なのだろう。

 

 今まで、関係性に対して意識したことなどなかったが、それはしっくりとくる響きだった。親友。そうだ、ユーリは俺の親友だ。感傷に浸りながら、残りの荷物を片付ければ、気づく頃には約束の時間が迫っていた。

 どこへ行き、何をするだなんて、詳しいことを伝えることはしない。友人だから、親友だからといって全てをさらけ出す必要などない。それは互いに共通している。目的を達成するための手段が一つ、手に入った、だからこの地から離れる、と伝えれば、揺れる瞳に寂しさを隠しきれていなかったがそれでも自分のように喜んでくれた。

 そして「なら、お祝いだね」と。うまい飯を奢ると張り切っていた。

 たしか、地中海料理の名店で、ピタが名物だと。食には対して関心はなかったが、与えられるものがどれも旨いので、この数年で舌も肥えた。奴が選ぶ店にはハズレがないから楽しみだ。

 

 大切なものがたくさん詰まったダンボール箱をしっかり梱包し、秀一は軽い足取りで家から出た。この別れは、おわりではない。自身にとっては、始まりだ。さあ、親友に会いに行こう。たいせつな、親友に。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第7話

07

 

「懐かしいね。ヤシの実…ココナッツジュース飲みにいったの」

 

「ああ、そうだな」

 

「そう、その後のこと覚えている?もう大変。僕も君も日焼けは残らなかったけど、鼻まで真っ赤になったよね」

 

「それでユーリが泣きついてきたのは覚えている。ああいうプレイはしたことがなかったが、シーツがぐちゃぐちゃに…」

 

「う、保湿用冷感ジェルをシュウくんのベッドでぶちまけちゃったのは本当に悪かったと思っているって…」

 

 どんどん言葉尻が小さくなっていくのを、バドワイザーをちびちびと口に含むことで誤魔化す。彼はもう何本目だったろうか。

 

「あの夜は激しかったな」

 

「激しかった……?あ、確かに、ふたりともジェルまみれになったねえ。おかげで日焼けを長く引きずらないで済んだけど」

 

 いつも思慮深そうに澄ました顔をしているから、多くの人が彼のことを誤解しているが、彼だってふざけるしお酒が入れば陽気になる。それに、機嫌が悪い時に出てくるFワードだけでなく、あの心地の良い低い声で際どいジョークをかまして僕を振り回すことだってある。

 

「そういえばさ、ドムって何者なのか未だによくわからないんだよね」

 

「……?」

 

「ドム、ドミニク!僕の隣の家に住んでいる、前にカリフォルニアの叔父さんからのオレンジを分けてくれた彼だよ!いかつい単車も何台かコレクションしていたあの彼!最近だと餞別ですぞ〜、って君にナパ・バレーのワインをくれたドム!」

 

「ユーリのモノマネは似てないな」

 

「ドムのこと、わかっているじゃないか!」

 

「ワインで思い出した」

 

 小さい口を結び首をかしげる姿はとってもキュートだけど、本気なのかわからないジョークが飛び出てくるのは、とっても小悪魔的だ。こればっかりは長く一緒にいても、判断が難しい。

 

「へへ、シュウ君と一緒に呑んで、僕もいける口に成長したかなぁ」

 

「酒に呑まれないでいられるのが、乾杯の1杯から2杯目に変わっただけじゃねぇか」

 

「それでも、おおきなせいちょうでしょ、ふふ」

 

「ああ。…ただ、気をつけろよ」

 これからは、俺がそばにいるわけではないんだからな。

 

◇◇

 

 最後まで、僕は自然な笑顔でいられただろうか。

 

 冷たいクラフトビールで乾杯して、いつものように他愛のない話をして、僕が笑って、彼も笑って。そして、あっけなく僕たち別れた。

昔から嘘をつくのが下手だ、と言われてきたけれど、自分のためではなく、人のための偽りは得意だった。

ここぞという時に、自分を押し殺し、ほんとうの気持ちを嘘で塗り固めてなかったことにしてしまうのだ。ここから車で数時間の距離だ、心配するな、また会える。と、彼は言ったけれど、別れはいくつになっても辛い。心にぽっかりと穴が空くような寂しさを感じさせる。その相手がシュウ君ならなおさらだ。

 

 それに、なんだよ。

 

「明日からワシントン郊外に住む。詳しいことは教えられないが、それでも落ち着いたら連絡をする」って。彼はもともとおしゃべりな奴ではないが、必要なことはちゃんと話してくれる。教えてくれなかったのは、彼にとって僕ってその程度だったのかなあ。

僕は聖人でも何でもない、ただのユーリだから、いくら表情や言葉がやさしくっても拒絶を感じてしまった。彼が大きな秘密を抱えていることは、とっくに気づいていたし。

 

 それでも、彼のことは許してしまう自分がいる。

 嫌いになんてなれっこないし、これっきりなんてありえない。ただ、心配するな、って言ってだけど、これで、もしなにかが彼に起きたら、怒ってやろう。怒って、そうして、すごく心配したってことを散々に言ってやるのだ。多くを知らせてはもらえないけど、心配する権利ぐらいは僕にだってあるだろう。

これじゃあまた、ボロ泣き野郎めって、笑われちゃうなあ。そう思いながらも、真っ暗な自室のベッドに乱暴に飛び込み、枕を濡らした。

 

◇◇

 

 それから僕らは年を重ねた。

 

 ありがたいことに僕は絵本作家として、軌道に乗ってきた。

 結局シュウ君は、何をしているのかは、僕に教えてくれないままだった。

 彼がワシントン郊外にいたのは数年。その後は、忙しそうに国じゅうを飛び回っているみたいで、どこに住んでいるのかは、全くわからない。

 

 僕らの連絡は3つ。

 

 まずひとつは電話。まるでこちらの様子などお見通しというタイミングでかかってくる。まるで君はホームズみたいだね、と言ったら電話口で大笑いされた。彼曰く、「いいや、俺はワトソンさ」らしい。

 

 あとはポストカード。差出人の名前だけが綺麗な字で添えられ、美しい風景や観光地の写真が送られてくる。

 

 3つ目は、正しく言えば連絡とは言わない。出版社宛にS、というイニシャルでファンレターが届くのだ。隠す気ないだろ。

 その手紙は、新刊が発行されるたびに届いた。電話でも話しているというのに、不思議とそれが文字になるだけでより特別なもののように感じられるのだから不思議だ。それに、シュウ君は文字の方が饒舌なのだ。感想と、応援の優しい言葉。恥ずかしさやら照れくさい気持ちで毎回いっぱいいっぱいになってしまうが、嬉しい。手紙でしか素直になれないなんて、困ったちゃんめ。

 

 僕が彼に連絡を取ることはできなかった。送られてくる手紙には、一方的で彼の住所は載ってなかったし、電話もいつも公衆電話や非通知だった。

 それでも、大概一ヶ月に1度くらいは連絡をしていた。忙しそうながらも予定をあわせて、二人でこの広大な米国の誇る観光地も巡った。もう大丈夫だろう、と彼に空港にも観光で連れて行ってもらったこともあった。だが、相変わらず体質は変わらないようで、立ちくらみを起こし、すぐにシュウ君から退場を言い渡された。結局、この米国からは出られていない。

 

 そう、僕らの友情は続いていたのである。

 

◇◇

 

「今度、日本に行く」

 

「え、あ、うん」

 

 いつか、彼がこの地を離れる前に訪れた地中海料理が美味しいお店で、同じようにピタをほおばっていた時だった。

 

 この数年で、彼は髪を伸ばすことにしたらしい。癖のある前髪を撫で付け、一括りにしている。揺れる様子はなんだか尻尾のようで、手慰みに僕のおもちゃになっていた。

 

 この日も突然だった。運良くまとまった時間が取れたという彼が、突然近くまで来てくれたのだ。僕が軽い調子で、君の昔の城とか、マスターに挨拶に行く?と誘ったが、なにか思いつめた様子でさっさとお店の個室に押し込まれた。珍しい。

 

 いつも、これからどこへ行くだなんて教えてくれたことはなかった。大概、ポストカードで事後報告だし。今までで一度でも彼の口から教えてもらったことはあっただろうか?

 

「…今後長い期間会えなくなる。連絡も出来ない」

 

「うん、それってどれくらいか聞いてもいい?」

 

「わからない。ただ、数年は掛かる」

 

「すうねん…」

 

「…そんな顔をするな」

 

 目を伏せながら告げてきた彼は、すぐに手が出るとことは変わらないようで、やさしく頬を摘まれる。僕はどんな顔をしていたんだろうか。そうか、やっぱり、さみしいなあ。彼はいつも前を向いて進んでいるから、僕が彼を止めることなんてできない。僕も、そろそろ前を向かなければならないなあ。だけど描くことができるのは、いつまでも沈んでいる心を表しているように、かなしげな作品。ふと一人になった時に過るのは空虚ばかりで。飛行機も乗れない。故郷である日本は、ずっと遠くの場所になってしまった。

 

「これを」

 

 手のひらに握らされたのは一枚の紙切れだった。並んでいる数字の列は、電話番号。今まで、彼が頑なに教えてくれなかった、連絡先だ。

 

「…?連絡していいの?」

 

「ああ、だが…そうだな、一度だけだ。ユーリが、どうしようもなくなったときは教えて欲しい。そんな時が来ないことを、願うがな。取れるかもわからないが、お守り替わりと思って持っていてくれ」

 

「ふふ、イギリスのクイズ番組みたい。ライフラインのテレフォン、だっけ」

 

 くすくす笑うと、日本行きを告げた時の彼のこわばった顔もだいぶ穏やかになった。相変わらずだなあ。まったく、もう。それでも僕は目を細め、笑顔を向けた。彼は、いつかみたいに、心配するな、大丈夫だ、と告げ、この話は終わりだ、とばかりにクラフトビールをあおったあとは、また他愛のない話で笑いあった。

 

 これで、もし、彼が危ない目にあっていたら怒ってやろう。なんで怒るのかって?大切な存在だからだ。

 そして、僕はきちんとあの日と同じように、彼の言う気の抜けた笑顔で送りだした。

 

 

 ただ、このとき素直に見送ったことをこれほど後悔するとは、この時の僕は露ほど思わなかった。怒る相手が、この世から、いなくなってしまうなんて。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第8話

08

 

 ――安らかな眠りをお祈りいたします。

 

 おばあさまが、亡くなった。穏やかな顔で、眠るように息を引きとった。老衰である。僕は黒を身に纏い、いっぱいの花に囲まれた祖母を、静かに見送った。

 手先から徐々に感覚がなくなるような呆然とした喪失感は、薄情かもしれないが数週間もすれば、大丈夫だと、思ったのだ。時間が解決すると。それに、頭の中できちんと覚悟をしていた。すかすかの心はいつもよりも冷たいが、むしろ落ち着いていた。大丈夫、別れは初めてではない。心を放っておけば、雪解けのように自然と凍てついた大地と同じで、普段通りの生活を取り戻せると思ったのだ。

 しかし周りの目から見た僕はひどいものだったらしい。

 まわりの人たちは、随分と僕のことを心配してくれた。「ユーリ、大丈夫かい?」、笑っちゃうくらいに誰もがこの言葉を僕に向けた。

 

 鏡を覗けば、ひどい顔をした暗い表情の男が映っている。頬がこけ、いつか誰かに褒めてもらえた瞳の色は暗く澱んでいた。血色もわるい。あは、まるでゾンビみたいだ。ユーリ、大丈夫かい?自分のことなのに他人のように思えた。でも、大丈夫、時間がきっと解決してくれる。一瞬よぎった真っ黒な彼の姿は、すぐに脳内から消した。

 

 その時の僕は、人に頼るということは心が弱っていることを認めてしまったかのように感じてしまったから。その代わりに、もっと昔のことばかりを思い出すようになった。春の芽吹きに咲き誇る桜の花、袖が余ってしまった真新しい学生服。早く、あたたかくなってくれないかな。

 

 日本に置いてきた大切な人たちとの思い出ばかりが溢れる。脳内の棚からぽつりぽつりと花開くように、存在を主張するのだ。

 おばあさまと過ごした家は早々に引き払ってしまった。大切にしていた家財に埃が積もっていくことが忍びないから、という大義名分を掲げたが、結局は逃げ出しただけだ。日本から逃げるように離れた時みたいに、思い出から、目を背けるように。

 

 あの時も、無かったことにするために、すべてのつながりを絶った。連絡先は誰にも伝えなかった。

 いつか、大人になったら、謝ろう。音も相手も存在しない独りよがりの懺悔を何度心の中で呟いたか。大丈夫。きっと笑って許してくれる。でも、それは結局10年近く経っても実現していない。あの人たちは僕のことを覚えているかな。覚えているといいな。日本に残してきた、大切な彼らは、今は何をしているのだろう。記憶の彼らの時は、学生服を着たままだった。

 

 大人ってなんだろう。年を重ねても、1通りの経験をしても、いつまで経っても自分の知っているような大人にはなれない。考えたって答えの出ない問いで、気を紛らわすように、過去の美しい思い出に縋って自分を保っていた。そうでもしなければ、崩れ落ちてしまいそうだったのだ。

 

 ゆるやかに、元の生活に戻っている。「ユーリ、大丈夫かい?」、もう大丈夫。鏡に映る男も、相変わらず頼りない痩せっぽっちだったが、少し前までよりはずっと健康そうに戻っていた。それだというのに、夢を見るのだ。大切な人たちの夢を。

 空の色は今よりもずっと深く、青い。夢だからか。僕達を取り巻く景色は、流れる汗ですら輝いている。二度と戻らない学生時代の思い出は、ささいなものでも、時が経つにつれかけがえのない、特別なものだ。

 

 僕には、幼馴染がいた。家族ぐるみで付き合いのあった、年下の頼りになる彼。兄弟のいない僕にとっては彼が弟のような存在だったが、手を引いてくれるのは彼ばかりであったので、彼のほうがずっと兄らしかった。大切な、うつくしい思い出。

 

 入道雲。アスファルトは茹だるように揺らめいているが、肌にまとわりつくような暑さは感じない。それもそうだ、夢なのだから。二人で加えているのは、割り勘で購入した氷菓子。そう、いつも彼の方が早く食べ終わってしまうのだ。そして口淋しいのか、空になったプラスチック容器をいつまでも加えていたのだ。懐かしい。なんてことのない、下校道。

 

「…、……」

 

「なあに、けんちゃん。わからないよ」

 

「……、…」

 

「わからない、わからないよ…」

 

 一生懸命何かを伝えようとしているが、声は届かなかった。

蝉の喧しいばかりの主張は聞こえてくるのに、なぜ彼の声は聞こえない。彼は伝わらないと気づくと否や、寂しそうな顔をし、立ち止まってしまった。夢はそこで終わってしまった。 

 

 なんで、立ち止まるんだよ。距離こそは離れているが、君だって君の人生を歩みつづけているのだろう。

 

 彼はどんな大人になったのだろうか。やだな、そんな、夢枕に立つだなんて。過去にばかり目を向けてしまっているからだろうか。 縁起でもない。勝手に逃げ出してしまっても、僕は今でも君の幸せを願っている。きっと、日本で元気にやっているのだろう。そうだ、そうに決まっている。

 

 それだと言うのに、出版社へ僕宛のとある手紙が届いた。嫌な予感がした。送り主は日本人。聞き覚えのある、苗字。日本に残してきた幼馴染の、お母さんからだった。

 

「うそだ…」

 

 手紙は、幼馴染が7年前に亡くなったという内容。

 なんで。彼は、僕の両親が亡くなった飛行機事故が起きてから、連絡がつかなくなった僕のことをいつまでも心配していてくれたらしい。そのことを覚えていた彼のお母さんは、ある日、書店にならんだ僕の本を見つけて、たいそう驚いたそうだ。そして、いつか日本に戻ったときには、墓前に手を合わせて欲しい、って。そんな内容が綴ってあった。

 

 また、心臓が凍りついた。

 

 こちらが勝手につながりを切ったというのに、身勝手にもいつまでも、当たり前のように待っていてくれると思ったのだ。僕よりも年下なのに、僕よりもしっかりしていて、まるで兄のように振舞うおちゃらけた彼。きっと帰れば、「おせーんだよ!心配したんだからな」と額を小突いてくるんだろうな、なんて。彼のことだから、とっくに可愛い奥さんをもらって、幸せな家庭を築いているだろうって、思ってた。情けないことに、彼が夢として追いかけていた警察官になったということも、その手紙で初めて知った。それなのに、もう、7年も。

 

 凍てつく心臓と一緒に冷え切った指先。慌てて、デスクをひっくり返し、眠っていた紙切れを取り出した。一度しか使えないというお守りを取り出した。シュウ君の連絡先だ。

 そのとき、何を思ってその電話にかけたのか。渦巻く感情は、悪いものばかりだった。ただ、あの低く落ち着いた声を聞いて安心をしたかったのかもしれない。幼馴染が知らないうちに死んでいたからって、俺も一緒に殺すな、大丈夫だ、なんて言葉を聞きたかったのかもしれない。とにかく、大丈夫であるという確証が欲しかった。今の自分をあたためてくれるなにかが。

 

「おかけになった電話番号は現在つかわれておりません、…」

 

 慌ててかけたから、番号を間違えたのだろう。震える手で、再度プッシュしなおしたが、相変わらず同じアナウンスが流れる。何度も、何度も、かけ直しをしたが、ついぞ、つながることはなかった。

 心臓が大きな音を立てている。静かな部屋で自分の鼓動がやけに響いて聞こえた。悪いものがひたひたとこちらに近づいているような。体中の血の気がスウ、と引いていく。

 

 でも、だいじょうぶ。きっと、だいじょうぶ。根拠のない「大丈夫」を無理やりのみこんで、自分を騙し、数日を過ごした。でも、ぜんぜん大丈夫ではなかった。

 

◇◇

 

「これを、君に、って、アイツが」

 

 出版社に現れたのは目元と鼻先を赤く腫らした、大柄な男性だった。彼は筋肉質の大きな身体を縮こませながら、小さく鼻をすする。なに、だれ。見知らぬ男は、ちいさな紙袋を携えていた。

 

 渡されたのは、いつか僕がリバティ島で買った自由の女神像のジッポーであった。これを渡したのは、あなたじゃない。ぼくは彼に渡した。どうしてあなたがこれを持ってくるの?聞きたくない。

 

「シュウのやつ…写真ひとつない、色気のないデスクだったんだ。でも、それだけは、彼のデスクにあってね。ふざけた俺が、彼のデスクからふざけて持ち出そうとしたときにはメチャクチャ怒られたよ。普段自分のことなんて、話さないやつなのに、大切な贈り物なんだ、って」

 

「…」

 

「その時に、そんなに大切なら君が吹っ飛んだときは、どうするんだい?形見として、俺がもらってやろうか?ってつい憎まれ口を叩いてね。アー、俺もバカだよな、同じチームだった、っていうのに。勝手にライバル視して嫌っていたんだ。あのシュウイチだっていうのに。そしたら、アイツがな、テメエがふざけた責任として、元の持ち主に届けろって、また偉そうに話したんだ。だと言うのに、元の持ち主の話は一切ないんだぜ?その時の俺は、アイツの無茶ぶりに怒って話は終わったが、珍しいこともあるんだと、シュウがそう言っていたのをいつまでも忘れられなかった」

 

 彼の声が、だんだん遠くに聞こえてくる。あの時の俺は、気になっていた女の子を取られちまった後だったから突っかかったとか、そんなの、どうでもいい。

大柄な男はべらべらと余計な言葉を並べているようだったが、そんなの、知ったことか。極限まで擦り切れ、ゆらゆらと危ない不安定な、大丈夫という言葉で騙し続けて、どうにかつなげていた糸が悲鳴を上げている。やめろ、その先は、聞きたくない。

 

「彼のデスクの荷物は俺らの上司が預かる、ってさっさと引き上げられていくのを、こっそり拝借したんだ。それから、調べた。捜査官としての腕はアイツに勝ったことはないが、これでも優秀な方なんだ。もとはあんたのものだったんだろう?」

 

「…、そう。僕が、渡したものだ…」

 

 なんとか喉を震わせて返した言葉は、情けないほどに小さかった。いやだ。なんでだよ。どうして、みんないなくなってしまうの。そんな。こんなもの、いらないから。

 今すぐ彼を、彼を。

 

 

「――君の親友は、先日、日本で殉職した。赤井秀一は立派な最後を遂げたよ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第9話

in Beika City


あれはなんだ、あれは。あいつは、いったい。

 

 蛇口をひねり、流れる水を止める。

排水溝に吸い込まれていく水のようには胸のざわつきは綺麗に収まってくれる筈もなかった。鏡の前には男がひとり。頬に大きな火傷を負った死人の顔。目的であったFBI捜査官の反応の調査。特徴のある帽子をかぶっていたことで、無事にターゲットのFBIをおびき寄せることを成功させ、ドイツ系の大柄な男性捜査官の前に死人の姿をチラつかすことができた。残念ながら、結果は自分の思い描くものではなかったが。そして、どうやら余計なものまでおびき寄せたらしい。

 

 嫌な瞳だった。心がざわついた。あの瞳で見つめられたら、遠い昔に置いてきたはずの何かを思い出しそうだった。それに…、思考を無理やり止める。気分が悪い。

 

 知らない男だ。どう見ても奴の所属する機関とは無関係だろう。もちろん、組織とも。数年前、不本意にも同じチームを組まされていた間の奴の姿を思い出しても、どうにもしっくりこない。どうしてあんな男が、アイツと繋がりを持っているのか、腑に落ちない。くそ。探り屋として一度芽生えてしまった疑問は、徹底的に洗い出すのが性分だ。

 

「…は、いつ見ても、腹が立つ」

 

 ビリ、と引き裂くような音が誰もいない化粧室から響けば、死人の顔はもういない。

そこにいるのはバーボン。冷たい瞳をした別の男がそこにいた。

 

◇◇

 

「ダメよシュウ!外に出ないで‼」

 

 米花百貨店では、夏のクリアランスセール、全国うまいもの市といった催事が行われ、近年客足が遠のいている百貨店業界の悩みも吹き飛ぶような賑わいを見せていた。そして、予期せぬ賑わいも。――爆弾騒ぎである。

しかし、その爆発予告の騒ぎも犯人が捕まり、怪我人が出ることもなく、事件は収束した。依然、熱の冷めない野次馬を除き、人々はなに食わぬ顔をして先ほどの騒ぎなどもう忘れてしまったかのように、買い物を楽しんでいる。

 その中で女性の悲鳴は、フロアに響いた。もちろん、ここにいるはずのなかったユーリにも。

 

だめよ、しゅう。そとにでないで。しゅう、…しゅう?

 暑さとは別の汗が頬を伝った。朦朧とした脳内は処理が追いつかないようで、今の悲鳴が音として処理された。未だ、言葉の意味としては捉えきれていない。しゅう、くん。本能のように、人の波をかき分けながら、音の方へすすむ。だめよ、しゅう。まって、おねがい。もう一度。そうしないと、僕は――。

 

「あ、え……」

 

 小さく見えたのは、真っ黒な後ろ姿だけであった。

 キャップをかぶった彼は、前だけ見ている。くそ。こっちみろ。こちらを振り返る様子はない。止まる気配もなしに、人の波に飲まれて消えていく。まって、お願い。もうすこし。喉はたしかに震えているのに、引きつったようなかすれた声しか出ない。こんなんじゃ、届かない。

 ひとつのことに没頭すると、周りが見えなくなるのは悪い癖だな、なんて遠い昔のぶっきらぼうの優しい声を思い出す。身体が心にぜんぜん追いついてくれない。ああ、視界は端からじわじわと黒いモヤが覆いかぶさってくる。あ、これ、まずい。

 

 ――遠くかすんでくる意識の中で、最後に見えたのは、求めていたなつかしい緑のような気がした。

 




原作軸スタートです


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第10話

「おつかれさま、検査結果もまあ問題ないし、きみ、退院ね。もうこれっきりにしなさい。もっと自分をたいせつに。お大事にね」

 

「はい、ありがとうございました」

 

 数日意識を失っていたままだった僕が目覚めたのは、昨日。

 情けないことに、米花百貨店でひっくり返った僕はそのまま救急車で病院まで運ばれた。百貨店内の救護室に運ぼうとしてくれた人もいたらしいが、爆弾騒ぎで気分を悪くした人で混み合っていたこともあり、僕の容態を心配して気をきかせてくれた人がいたらしい。

 

しかもその人たちが、救急車の付き添いまでしてくれたのだ。病気ではない。先生は細かく症状を説明してくれたけど、簡単に言えば疲労と、不養生が祟ったということ。あとストレス性の、なんとか。運ばれたときに、大掛かりの装置を使ったり採血をして、内臓の機能から血液濃度まで調べたらしいが、よくまあこんな状態で来日したねえ、かなり辛かったでしょう、意識もほとんど朦朧としてたんじゃないの?空港で引っかからなくてよかったね、という言葉をもらった。正直に答えた食生活に対する指導とともに。

 

 少ない荷物を片付けていると、看護師さんが現れた。あれ、そういえばこれ誰が用意してくれたんだろう。おはようからおやすみまで見守ってくれたのは、1匹のくまのぬいぐるみまであった。

なぜぬいぐるみ。しかも大きい。手触りはふわふわで、毛並みはやさしいブラウン。膝に座らせるとちょうどよいくらいのフィット感がある。病棟に生花の持ち込みを禁止されているからって、ぬいぐるみで室内をにぎやかされるとは…。ちょっと照れくさい。

 

「ユーリさん、元気になってすぐに退院できてよかったですね」

 

「はい。ここ、静かなのは好きなんですがこのままいると、ボケちゃいそうで…お世話になりました」

 

 書類を抱えた看護師さんが来てくれた。彼女は僕の担当さんだったらしく、いろいろお世話してくれたらしい。僕の意識はなかったけど。

 

「そういえば、荷物やぬいぐるみってどなたが用意をしてくれたんですか?救急車を呼んでくれた方でしょうか?」

 

「あら。それなら、ファンの方と聞きましたよ。米花百貨店で転倒したのを目撃した、って。詳しくは聞かなかったんですけど、ユーリさんって絵本作家さんらしいですよね」

 

「え?」

 

 ファンの方。たしかにメディアにも何度か顔を出したことはあるけど、よくわかってくれたなあ。自分で言うのもなんだけど、ゾンビみたいな顔をしていたと思うし。

 

「最初は、ご家族の方かとおもったんです。なので、入院に関する案内とか説明してしまったんですけど、話が終わったあとに困った顔で自分はファンだ、とおっしゃっていて」

 

「はあ」

 

「顔立ちはそっくりと言うわけではなかったのだけど、不思議ねえ。どこか同じ…そう、髪よ。とっても似ていらっしゃったから、お兄さんかと。あなたを見る目もなんだか優しそうでね。それにその方、毎日いらっしゃったのよ。一応お名前を伺ったんだけど、一介のファンですので、って断られちゃったのよねえ」

 

 残念ながら僕に兄はいない。思い当たるような親戚も。毎日お見舞いに来てくれたというその人は、いろいろと世話をしてくれたらしい。こんなに親切にしてくれて、似た髪色。ぐったりした顔を見ただけで、絵本作家のユーリだとわかってくれた。何者なんだろう、……もしかして。

 

「よほどのユーリさんのファンなのかしらねえ」

 

 それだ。

 

◇◇

 

 いつもそのファンの方が現れるという時間帯まで粘っていたが、待てども来なかった。今日は何かあったのかなあ、まだ見ぬその親切な人が心配だ。結局、僕の目が覚めてからパタリと来訪は途絶えてしまい、彼の正体は不明のまま退院を果たしたのである。

 

 呼んでもらったタクシーに乗り込んで、向かったのはホテルだった。

実家もあの事件以降、とっくに手放していたし、事実からは目を逸らしたままだったから。米花の町に近い場所に居を構えた方が手っ取り早いというもっともらしい大義名分を言い訳のように自分に言い聞かせてぼんやりと外を眺めた。夕方といっても、まだまだ明るい。淡紅と橙と藍色をベールのようにまとったような鮮やかな夏の夕暮れ空だ。

遠くからは、ひぐらしの物哀しい鳴き声も聞こえる。ああ、ついに帰ってきてしまった。日本だ。帰ってくることなんて、ないと思っていたのに。

 

 あの日、自由の女神像が手元に戻った日から死んだように生きていた僕の心臓に火を灯したのは、偶然閲覧した1つのネットニュースだった。母国で銀行強盗があったという記事を開けば、現地のニュース映像まで動画配信されていた。その動画で見たものは、彼の姿だった。もう帰ってくることはないと思っていた、大切なひと。シュウ君。

 米花町の帝都銀行。それだけを頭に入れて、そこからは、もう、無我夢中だった。真っ暗な暗闇のなかに現れた一筋の光だったのだから。あれだけ鬼門だった飛行機も、吐き気やめまいを誤魔化すためにお医者さまの言うぼろぼろの内臓に薬を流し込み、無理矢理突破をした。そのおかげで今回の入院もちょっと伸びたらしいけど。

 

果たして往路は死に物狂いで来たが、復路のことはしばらく考えられないなあ。行きはよいよい、かえりはなんとやらってね。

 僕のゾンビ紀行は強力なサポーターの支援なしには成し得なかった。チケットの用意。

それと、「ユーリ氏にとってミスターが大きな存在だとはわかっていたけれど、本当には理解できていなかったようだ!そもそもユーリ氏は己の体調わかっているのかい⁉最後に口にしたものは…いやいい、その様子をみればロクなものを摂っていなかったのなんてすぐにわかりますぞ。(このあとは早すぎて聞き取れなかったけど、とにかく心配してくれていることは伝わった)でも行くのでしょう。まったく!君たちは手がかかる!ミスターからいつかのバイクの借りは返してもらえてないままですが、他でもないユーリ氏の頼みなら断ることなんて出来るはずがない!さあ、これを」とニュースに映っていた彼の服装より調べたという、購入元の米花百貨店を割り出した資料とカルフォルニアのオレンジを渡してくれたドムに感謝だ。

 

 フラフラになりながら、空港からまっすぐ米花町に来て帽子について聞き込みをしようと百貨店に入れば、事件真っ只中だったのである。そして、思わぬ収穫も。

 倒れる瞬間に、ふつりと変なスイッチが入って安堵してしまった。いや、むしろスイッチはオフになったから今の心は凪いでいるのだろう。なぜか。まだ、目的は達成されていないのに。突然姿を消してしまった彼は、まだ遠い存在のままだというのに。うすらぼんやりと見えた緑は願望からの妄想ではないのか、と懐疑的な気持ちもあったがピンと張った緊張状態はいつの間にか余裕を取り戻している。感情は追いつかないが、よほど身体は都合の良い方向へ考えると決めたらしい。

 

「ああ、もう。…次会った時は、覚悟しておけよ」

 

 彼と出会ってからスラングの語録は随分と増えた。滅多に使わないスラングとともに呟いた言葉は、ホテルの一室にある華美な椅子に座らされた、くまのぬいぐるみだけが聞いていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第11話

百貨店の洋菓子から和菓子、フルーツまで取り揃えているあの空間はいつ訪れても心が躍る。ユーリはいつだってこの空間が好きだ。家族と手を繋いでいた時も、学校帰りに友人らの目を気にしながらホワイトデイのお返しを探しに来た時も。ディスプレイに並べられたケーキに品良く鎮座するてらりと艶めく苺はまるで宝石だ。鮮やかな赤は甘い誘惑である。ほんのりとしたレモン風味のジュレの中に寒天で作られた可愛らしい金魚が泳いでいるゼリーは見た目も涼やかで美しい。

 

 様々な誘惑に駆られながらも、一通りチェックし選んだのは最初に立ち寄った洋菓子店の焼き菓子の詰め合わせという無難な選択だった。喜んでもらえるだろうか。喜んでもらえるといいな。若いお嬢さんと小学生の男の子も一緒に暮らしていると聞いているので、それも意識したチョイスでもある。

 

「やっぱり名探偵ともなると、名刺も立派なんだなあ…」

 

 黄金の名刺を片手に住所を確認する。名刺の黄金色に因んで、金塊に似ていると由来のものを選んだのは、実はちょっとした遊びだ。これからユーリは米花百貨店で用意した詰め合わせを手に、毛利小五郎氏の事務所に向かうのだ。依頼ではない。米花百貨店で倒れた自分を介抱してくれたお礼をするのである。

 

◇◇

 

「つい話し込んで、長居をしてしまって申し訳ないです。先日は本当にありがとうございました」

 

「いえいえ!人として当然のことをしたまでです。そして!お困りの際には、ぜひこの毛利探偵事務所にお任せください!」

 

 毛利さんはユーモアあふれる、お話上手のおもしろい方だった。この頼りになる名探偵さんは、あの日起きた米花百貨店の爆弾事件を解決しただけではなく、ひっくり返って意識を失った僕を助けてくれた命の恩人でもあるのだ。お仕事の邪魔になってしまうとお礼の品を渡してすぐに退散しようとしたが、高校生のお嬢さんの毛利蘭さんと、江戸川コナンくんも帰宅したようで、ついつい話し込んでしまった。詰め合わせも喜んでもらえたし良かった。

 

「お元気になったようで安心しました。暗いので帰り道、お気をつけくださいね」

 

 しっかり者の蘭さんは、高校生の身でありながら家事を任されているらしい。す、すごい。僕が高校生の時はもっとちゃらんぽらんで、幼馴染たちとアホなことばっかりやっていたのに。

 

 別れの言葉を告げて、探偵事務所の扉に手をかけた時だった。

 

「まって、ユーリさん!最後に聞かせて!どうして日本に来たの?お仕事?」

 

 きらりと瞳を光らせながら好奇心をいっぱいに問いかけてきたのは江戸川コナン君だった。不思議な子だ。無邪気に人懐っこく笑う姿はどうみても小学1年生の年相応さがあるのに、話す言葉の節々に知性を感じる。

 

「えーと、ね。両親と、友達に会いにだよ。じゃあ、またね。コナン君」

 

 このまま話していると、全てを打ち明けてしまいそうな、根拠はないがこの小さな男の子にはそんな力があるように思えてしまったのだ。そして、あのあたたかい場に湿っぽい話を持ち込むのは憚られた。

 

 当たり障りのない言葉で別れを告げたあとにはひらりと手を振り、外に繋がる階段を下りる。ああ、もう夕方か。外からうっすらと差し込む日は、落ち着いた色だった。

 

「……?」

 

 あれ、そういえば。ほんの少しの違和感に歩みが止まる。毛利さんたちと話した内容には米国から日本に戻ったとは伝えていないのだ。何故コナン君は僕がまるで海外から来たような口ぶりで質問をしてきたのだろう。うーむ。もしかして、エスパー?

 

◇◇

 

side Conan

 

「蘭ねーちゃん、どうしたの?」

 

「え?」

 

「さっきから、考え事しているでしょ」

 

 まさか、さっきのユーリさんに…、とかはねえだろうな。彼がいなくなってからどことなく上の空の幼馴染に、思わずジットリと疑うような目線を向けてしまう。キッチンでいつもは軽快に響く調理している音も、今日はいつもよりテンポが悪いように聞こえる。

 

 わずかな時間ではあったが、たしかに魅力的な人間であった。落ち着いていて、空気がゆっくりと流れるような穏やかさがあって、日本人にしては彫りも深く華やかな顔立ちをしている。病み上がりということもあり、線が細い印象であったがそれも相まってすこし浮世離れしたような美しさを感じた。子供の頃から(いまも薬のせいで子供だが)両親に連れられて、様々な他人を観察してきたがそういった業界の人達と比べても遜色はない。いや、だからといってあの人がこの空手を嗜む蘭、絶対に無理そうで…むしろ一突きで倒れてしまうような…いや、俺だって無理だけどよ…じゃなくて…

 

「ばれちゃったのね。実はさ、ユーリさんなんだけど…」

 

「うん(おいおいマジかよ、まさか…)」

 

「最近見た誰かに似ているなあ、って思うんだよね。綺麗な顔をしていたから芸能人かなあ、って思ったんだけど、そうじゃない気がして…誰だったかなあ」

 

「へ?」

 

「うーん、最近会った人だと思うんだけど…、コナン君、心当たり無いかな?」

 

 似た人。なるほど。狭い事務所内に二つのちいさな安堵のため息が溢れた。ちゃっかりおっちゃんも気になっていたんじゃねーか。

 

「うーん。ボクもわからないなぁ。蘭ねーちゃんの気のせいじゃない?」

 

 いや、一人だけ脳内に該当する人がいた。そっくりかと言われれば、首をかしげてしまう。しかし、上っ面の雰囲気や髪色など共通点はあるかもしれない。多く会話を重ねればはっきりと違うと思うのだが、たしかにビジュアルの要素としては共通点が多いのだ。だから、蘭の記憶に引っかかるのは正しい。

 

 鏡合わせにしては歪だ。あの人、個人としてのキャラクターは完成されているが、それでもカスタマイズされて、分岐する前の、そう、お手本となった土台のような存在。

 

 それに、米花百貨店での様子。客を避難させる手段として、商品券の配布を叫んだ自分に対してスマートではないと接触してきたあの時、笑顔の裏になにかを隠しているように見えたのは気のせいではなかったのだろうか。

 正直に答えてくれるかな…、小さな探偵は留守を任せた大学院生の姿を脳裏に浮かべた。

 

◇◇

 

 久しぶりに、人と沢山話したかもしれない。自分でも気がついていなかったが、随分と緊張していたようで笑顔で別れた後、いままでこわばっていた体がほぐれたようだった。

 

 もちろん、依頼を考えなかったわけではない。しかし、生きているのか死んでいるかもわからない人物の捜索を依頼するのは気が引けるし、心のどこかで恐れていることもあった。

 嫌な想像を振り切るように階段を進みながら、目先のことを考える。そういえば毛利探偵事務所さんと同じ通りにお寿司屋さんがあったなあ、いろは寿司さんだったっけ。今日の夕食は退院祝いも兼ねて奮発するのもいいかもしれない。

 

 その時だった。下りきった階段口から曲がろうとした瞬間。

 

「わっ!」

 

「ああっ!すみません。大丈夫でしょうか?」

 

 強い衝撃で思わずふらつき、転んでしまった僕にひとりの男性が手を差し出してくれる。夏の終わりを感じさせる穏やかな橙は僕らを照らしたが、逆光となって彼の表情を一瞬隠してしまった。差し出された手は夏だというのにすこしひんやりとしている。水仕事でも、していたのだろうか。エプロンをつけているから、きっと隣のカフェの店員さんだろう。

 

「こちらこそ、不注意で申し訳ないです。それで、あの、手を……」 

 

 体制を整えるも、握られた手が離されることはない。ええ、もう手は離してくれてもいいのだけど…?頭のてっぺんからつま先までじっくりと見られるのはすこし気恥ずかしい。そして、彼の表情が急にぱあ、と明るくなった。驚いているうちに、左手も追加された。少なくとも、初対面のはずだ。ええ、僕が覚えていないだけとか…?もしそうなら大変申し訳ない。ううむ。うーん。どうしてもわからない。

 

「あの、もしかして、作家の……ユーリ先生ではないでしょうか?絵を描いていらっしゃいますよね」

 

「え?…あ、はい」

 

「やっぱり!あまりメディアへの露出が多くないようで確信が持てなかったのですが、中指のたこに、爪先に残った画材。これらで確信が持てました。自分、先生の大ファンなんです!」

 

「あ、えっ!ありがとうございます!」

 

 ニコニコという音が出てくるような笑顔がまぶしい。

 そして、ちょっぴり、顔が近い。端正な顔立ちに配置されているのは大きなたれ目。小麦の肌に柔らかな金の髪色の配色は、一層彼の甘い顔立ちを際立たせていた。綺麗な子だ。

 

それにしても、パーソナルスペースが近い。

 

「ユーリ先生は普段アメリカで活動をされていますよね。ですので、まさか会えるなんてとびっくりして興奮しちゃって…!それに、僕この街で同じ年頃の男性の知り合いがそう多くないんです。…よかったら米花町を案内させてください!お近づきになれたら嬉しいです」

 

「は、はい。助かります」

 

 怒涛の勢いで迫られ、いつの間にか僕の携帯電話が彼の手に渡り、メッセージアプリの連絡先まで交換をしていた。すごい手際の良さである。赤外線でメールアドレスを交換しあったあの時代はもう過去になってしまった。

 それにしても、この町って僕のファンの方が多いのだろうか。今まで外を歩いていて絵本作家のユーリとして知られることなんて、そうそうなかったのに珍しいこともあったものだ。

 

 知らないあたらしい街に、あたらしい出会い。素敵な予感を感じたっていいじゃないか。その時の僕は、笑顔の裏に隠された思惑なんて、知らなかった。彼の抱える問題も、もちろん知っているはずもない。

 だから、こうして僕は米花町でひとりの友人を得たのである。

 

 

「ああ、申し遅れました。僕は安室透。この喫茶ポアロでアルバイトとして働きながら、毛利小五郎先生に弟子入りをしている探偵です。ユーリさん、よろしくお願いしますね」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第12話

――時は、おおよそ半日ほど遡る。

 

 毛利探偵事務所へ訪問する前、米花百貨店に立ち寄ったのはもちろんお礼の品を購入するだけではなかった。

 ドムが調べてくれた、あの帽子。後頭部側に入っているという特徴的な米の字のワンポイントはこのデパートのオリジナル限定商品ということを示したのだ。果たせなかった一筋の手がかりを求め、各フロアをさ迷い、たどり着いたのはスポーツ用品売場だった。あの日のフロアはまるで物語の舞台のようであったというのに、その痕は一切うかがわせず、爆弾事件などまるでなかったかのように夏らしいさわやかな音楽が流されていた。あれだけ大騒ぎだったのに、呆気ないな。

 

「あの、すみません。この帽子について聞きたいんですが…」

 

「あら…そんなにその帽子って特別なものだったんです?」

 

「え、特別って」

 

「実はお客様で3人目なんですよ、そちらの商品についてのご質問をいただくのは」

 

 うわ、ドキドキと心臓が音を立て騒いでいる。 思わず口の中に溜まった唾を飲んでしまった。和やかに話してくれたのは、販売員の中年の女性である。僕で3人目、僕以外にも同じように探している人がいる、か。

 

「あの、変な質問かもしれないのですが…もしかして、その人たちは帽子の話の他に、顔に火傷の跡がある男の話をしていませんでしたか?」

 

「そうなのよ!みなさんの探し人のようで…。特に外国の女性がしきりに聞いてきたのよ。残念だけど、その人達にも話したように、そのようなお客様は来られていないんです。力になれずごめんなさいね」

 

 ここだけの話、どうしてみなさんその方を探しているのかしら?もしかして、貸したお金が帰ってこないとか…、それならわたくし共ではなく警察に相談してみても…というアドバイスに笑みでうやむやに誤魔化す。ああ、唯一の手がかりもダメだったか…。ここには来ていない、かあ。いや、まだだ。落胆している暇などないのだ。まだ知らなきゃならないことはある。僕よりも先に、火傷の跡がある彼を探しに来たという人たちのことを問えば、親切にも丁寧に教えてくれた。(本当に聞いてしまってよいのだろうかというためらいもあったけど、そうも言ってはいられない)

 

「そうね、たしかひと組目は外国人のお客様だったわ。体格のいい男性と、メガネをかけた金髪の美人さんね」

 

「外国の…。最近は観光客の方も多いですから大変ですね。店員さんは語学も堪能なんですね」

 

「私は海外の言葉はからっきしよ。その外国人のお客様が日本語ペラペラでねえ」

 

 日本語が堪能な外国人のカップル。随分と目立つ組み合わせである。米国であれば不可能に近いけれど、彼らが日本の米花町から離れていなければ、特定することは可能かも知れない。

 

「あともう1人の方はどんな人物でしたか?」

 

「そうねぇ…その外国のお客様たちが去ってすぐに来たのよ。たしかその方もメガネを掛けていて…特徴ねえ…。あ!目元ね。細目をしていたわ。メガネの度が合っていなかったのかしら…」

 

 メガネをかけた細目の男か。この特徴じゃ、探すのは難しそうだな。やはり、外国人カップルを探すのを優先させたほうがいいのかもしれない。彼らが僕が探す人の手がかりを持っているかは、もちろんわからないけれど何もせずに足踏みをしているという選択はなかった。

 

「では、店員さんがこの…キャップと火傷の男性の話をしたというのは、僕を含めて3人なんですね。お忙しいのにすみません。ありがとうございました」

 

 聞きたいことは聞けたので、さてこれから毛利探偵宛にお礼の品の手土産を買いに行こう。その時だった。

「あ…、話をしたのはもうひとりいたわ。毛利探偵と一緒にいた小さな男の子も、気にしていたみたい」

 

「小さな男の子…」

 

「それと…メガネの男性。よく思い出してみたら、なんとなくだけど、…あなたに似ていたかもしれないわ」

 

◇◇

 

「安室くん、こんにちは。お待たせしたみたいでごめんね…。今日はよろしくおねがいします」

 

「ユーリさん!僕も先ほど着いたばかりですよ…こちらこそよろしく、おねがいします。それと…僕のことは、透、と呼んで欲しいお願いしたのですが、やはり難しいでしょうか」

 

「あー、えーと。透くん、とおるくん、とーるくん…よし、透くんね。透くんが声をかけてくれて本当によかった。もし、透くんが行きたいところがあったらさ、遠慮なく教えてね。せっかく、そう。友達になれたんだし」

 

「いえ、お気になさらないでください。ユーリさんにそう言っていただけて光栄です。……そのときは、よろしくお願いしますね」

 

 夏らしく抜けるような青さが澄み切る、晴れた日だった。外にいるだけで汗ばむ気温で、途中で暑さに耐え切れず購入したペットボトルの麦茶は結露でべっちゃりとしている。心なしかもうぬるい。

 

 彼と出会った日、すぐに出かける日程は決まった。車を出すと提案してくれたが、実際に歩いて米花町を覚えたいと申し出れば快く頷いてくれたのである。

 

 米花ホテルまで迎えに来てくれた彼とともに、僕にとっては初めての街をのんびりと歩いた。ここで暮らしている人々は、どんな毎日をおくって、どのように生活を送っているのだろう。

 地元の人にとっては代わり映えのない景色かもしれないけれど、過去から連綿と続く人の営みの集合体の形が、今のこの街なのだ。それってとても特別なことで、素晴らしいことだよね。米花町のシンボルである東都タワーはどの場所にいてもよく見える。いつか行ってみたいね、なんて透くんと話しながら、書店から穴場の古本屋さん、さらに図書館も教えてもらい、貸出カードを作るところまで付き合ってもらった。行く先々でスマートに道案内や地域のイベントのことまで説明してくれるのだから、きっと彼は真面目な性格なのだろう。

 

 ぜひ夕食も一緒にということになり、連れられたのは小洒落たイタリアンのお店だった。畏まりすぎないので、カップルばかりということもなく、駅からの立地も良いために女性はもちろん、多くのスーツ姿のサラリーマンさん達まで席を埋め、店内はおおいに賑わっている。

 

「ユーリさん、他になにか…知りたいことであったり気になる場所はありませんか?」

 

「うーん、透くんのおかげでほとんど解決しちゃったしなあ…」

 

 せっかくなので、と透くんに勧められ生ビールで乾杯をした。とりあえず生、ってやつだ。久しぶりに聞いた言葉だな。相変わらずアルコールは得意ではないけれど、昔よりはほんの少しだけ許容キャパシティは増えたはず。それに、お酒の場の雰囲気がすきだ。賑やかで、陽気で、楽しい。その感覚を透くんとともに共有したかった。僕らのはじまりは偶然のもので、彼がファンと言ってくれたことがきっかけであったが、今日という短い時間でも僕はもうとっくに透くんのファンになっていた。

 

 喉を過ぎていくキンキンに冷やされたビールは、暑さで火照った体に染み渡る。実は久しぶりのアルコール摂取である。おいしい。

 

「ユーリさんは、とても本がお好きなんですね」

 

「うん。でも実は、若い頃はいまほど読まなかったんだけどね。ええと、そう。友達に読書家の奴がいて…彼の影響かなあ」

 

「へえ、そうなんですね…そのお友達も作家さんなのでしょうか?」

 

 ジョッキから一口喉を潤す。そう、そうなのである。本格的に目覚めたのは、米国に渡ってからなのだ。くぁん、おや、あれ。体の軸がふわっとゆれる。ああ、酔いが回ってきたのかもしれない。だって仕方がない、身体がびっくりしているのかも。

 

「いや、彼は…ええと…。それがさぁ、よくわからないんだよねえ…あーでも、そうなのかなあ。実は、彼も作家…?すごいクールで、格好いい奴なんだ。それでときどきね、すっごく情熱的で詩的な表現に、言われた僕のほうが照れちゃってさ…いや、まさかな」

 

 透くんは変わらぬ笑顔で問いかけてくる。カプレーゼおいしい。シンプルなのに最高においしい組み合わせだ。芸術か?芸術なのか?カプレーゼ…。汗をかいたから、なのかな?頭がふわふわと揺れる。脳みそが、くわんくわんするのだ。

 

「そうなんですね…何か、特徴とかはないんでしょうか?自分、探偵なので、もしかしたら推理でなにかわかるかもしれないですし」

 

「うーん。僕がわかるのは、いろんなところを転々としていたことぐらいかなあ。なんだかとーるくん、僕よりも友達に興味があるみたい。もしかして、心当たりがあったりする…?」

 

「いえ、まさか。先生の…ユーリさんのことは、なんでも知りたんですよ……」

 

 なんだかとんでもないことをさらっと言われたな。じい、っと向けられた視線は熱い。ううん、いや僕があついんだ。目の前まで揺れているので、真面目な顔をして覗き込んでくる透くんは3人くらいにみえる。

 

「あはは、すごい!熱烈な口説き文句だあ。かわいー女の子に言ってあげて。でもうれしい、ぼくも、とおるくんのこと、たくさんしりたいな」

 

 アルコールで正常な判断ができない僕は、空いていた手を彼の頭にのせて、ガシガシと乱暴になでる。まっすぐでやわらかい髪の毛がきもちいい。あー。彼が、しゅーくんが、ぼくの髪の毛をよく触ってきた気持ちが少しわかるかもしれない…。あいつは人のは触っておいて、自分のは帽子で隠す、ずるいやつだった、くそ、…ああ、はあ…。

 

◇◇

 

「っと、ユーリさん。大丈夫ですか?…、って、え…?」

 

 もちろん避けることもできたが、安室透がそれをやれば不自然だ。甘んじて彼の手を受け入れ、顔を上げれば、目の前にある瞳から、はらはらと静かな雫が溢れていた。酔っ払いは泣いている。

 

「うー…くそ…いつか、ぜったいに帽子をひん剥いてぐしゃぐしゃにして…一発お見舞いしてやる…くそ、ううう…」

 

 涙でぼろぼろの彼が何を言っているのかうまく聞き取れない。繊細そうな見た目に反して、涙を腕で拭うのは勇ましかった。ふうん、こういう一面もあるのか。そして、手の届く距離にいるはずなのに目の前の人が見つめいているのは、随分と遠い景色にいる誰かのように思えた。

 

 白い肌が上気して汗ばみ、頬は血色よく染まっている。唇からは顔に似合わないえげつないスラングがこぼれた。日本語でなくてよかった。

 

 でろでろの酩酊状態である。酒に弱いのは事前に知っていたが、ここまでひどく酔いが回るとは思わなかった。用量を少なめにしておいてよかった。組織からくすねた薬物、後遺症はもちろん水に溶けて痕跡も残らない酔いを促進させる粉末をアルコールに混入したことは、自分、安室透しか知らない。

 

 通常、前後不覚の人間が漏らす言葉は母語だ。それなのに、彼があえて海の向こうの国のスラングをブツブツとつぶやいているのは、汚い言葉を知っているのがあの国のものだけなのか、今ユーリが脳裏に思っている人間と関係があるのか。

 

 やはりこの男は自分にとって、嫌な人間だ。近づくのは危険だと、遠くで警報が鳴っているのが聞こえる。コイツと一緒にいると、心の奥を無遠慮に踏み荒らされ、抉られているような気持ちになるのだ。探り屋として、関係性を確かめ利用できるか調べるために近づいたが、らしくもなく後悔をしていた。頬を伝う涙が、妙に羨ましく映る。自分も、ああやって、みっともなく人前で喚いて、心をさらけ出すことができれば何かが変わったのか、なんて。馬鹿らしい。そんなことを考える自分に吐き気を覚える。くそ。気分が悪いどころではない。最悪だ。

 

 女に取り入るのは、簡単だ。容姿と甘い言葉を利用すれば堕ちない女はいなかった。上司に取り入るのも苦労はしない。自分の有能さ、相手が求めることを提供すればいいのだ。仕事上の人間関係は簡単に取り繕えた。そうやって、今までうまく生きてきた。

 

 ――なら、友人は?目の前で、泣きながら眠りこける男の前では、何をすればいいのか検討もつかない。何をこの人は安室透に求めているのか。

 確かに、出版された作品を褒めれば喜んだ。だが、彼が自分に心を預けてくれる言葉は検討もつかない。そんなもん知るか。とっくの昔に、忘れた。穏便にせずに、一般人相手に柄でもないが弱みを握り揺すればよかった。そうしたら、今、こんなに悩むことはなかったのに。

 

「あーー、くっそ。ムカつく。寝るんだか、泣くんだか、どっちかにしろよ。それに友達ってなんだよ…簡単に言いやがって…。ともだち、って難しすぎるんだよ、くそ…」

 

 誰にも聞こえないつぶやきは、グラスに残ったビールの泡と一緒に乱暴に消えていった。眠りこけた男に構うことなく、もう一杯のアルコールを頼んだ。当たり前だが、こんな状態でウイスキーなんて、飲む気はなかった。すぐに用意されたのは2杯目の生ビールだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第13話

 目覚めは、慣れないコーヒーの香りだった。‬

 

 ‪とろりと押し寄せる眠気も吹っ飛んだのは、知らない部屋だったからだ。やけに、殺風景である。綺麗すぎる空間は、誰かが暮らして生活を営むというよりは、まるでモデルルームのような印象を持った。

ええと、ここどこだ。‬革張りのソファから身体を起こせば、毛布が一枚。心なしか体も痛い。‬‬‬‬‬‬‬

 

 あ、そうだ。家主に借りたんだった。そう、僕は酔いつぶれたのである。‬

 

‪「……お目覚めですね、おはようございます」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「とーるくん…ほんと、ごめ…ごめんなさい……。おはようございます…」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

 ‪人様に迷惑をかけるほど飲んでしまったのは学生以来かもしれない。次の日を考えずに遊んでいられたあの頃、幼馴染や友人に連れられ全国チェーンの居酒屋に入っては、グループでピッチャーの注文を頼み、結果的には面倒を見てもらってばかりだった。それからというものの、自制してそれは米国でも続けていたのだけれども今回はダメだったらしい。年長者としてちょっとくらいはビシッと決めたかったのに、惨敗である。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

 ‪キッチンから現れた家主、透くんはとっくに身支度をすませて、マグを片手に挨拶をしてくれた。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「起こしてしまってすみません…。無理にお酒を勧めてしまったのは僕なので、むしろ申し訳ないです。気にしないでください。それよりも体調は大丈夫でしょうか…?」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「ひと晩寝たら随分すっきりしたよ。毛布、ありがとね。でもなんでだろ。こんなに酔ったの久しぶりかもしれない。アルコールに弱くなったのかも…」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

 ‪安室くんは朝食の用意までしてくれた。おいしい。さすがカフェの店員さんである。傷一つないダイニングテーブルに並んだのは、トーストに半熟の目玉焼き。目玉焼きにはどれがいいですか?とソースに醤油、ケチャップを並べられたが、塩味で十分だったので何もかけなかった。彼はしょうゆ派らしい。‬‬‬‬‬‬‬‬

 ‪誰かと一緒に食べる朝ごはんは久しぶりで、普段あまり選ばないコーヒーがやけに美味しく感じたのはそのおかげだろうか。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「食欲もあって、顔色も良いようで安心しました。本当に大事ないようでよかったです。欲を言えばもう少しユーリさんのことを知りたかったのですが、それはまたこれから機会を作れば良いですからね」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「本当に迷惑かけたよね…でも、これに懲りずにまた遊んでくれたら嬉しいな」

‬‬‬‬‬‬‬‬

‪「ぜひ、こちらこそ」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪ どこまでも紳士な彼は嫌な顔や苦い顔を一切せず、次の約束までしてくれた。‬‬‬‬‬‬‬

 ああ、彼と一緒にいる間に流れる空気が好きだ。良くも悪くも、まだ僕らは出会ったばかりで多くのことを知らない。例えば、僕の過去を知る昔からの地元の友人とはまた違った気軽さや安心感がある。知っているからこそ気を使われ、腫れ物を扱うような空気も流れることがあるのだ。ビジネスの関係でもないので、肩の力を抜いた会話も出来る。

 

 それが、僕にとっては充分だった。遠く離れた知らない街で、ようやく見つけた息をつける場所であったのだ。‬

 それにしても体が痛い。ソファーで寝たからとか、節々の痛みではなく、まるで打ち付けたような痛みだ。おかしいと思いちらっと腕や脚を見たら身に覚えのない痣があったので、きっと酔った最中にぶつけたのだろう。‬

 

‪◇◇‬‬‬‬‬‬‬‬

 

side Amuro

 

‪ この男と朝食を囲む。変な気分だ。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪ ユーリを引きずるように戻ってきた拠点の冷蔵庫はもちろん空っぽであったので、慌てて補充し朝食を拵えたのである。‬‪コンビニPBの食パンと中途半端に余った生卵が2つ。一人暮らしにしては大きすぎる冷蔵庫に残っている。4つパックしか売ってなかったのだ。どうせ食べないのだから、ひとり2玉使った目玉焼きを作れば良かった、なんてどうでもいいことを考えながら口に運ぶ朝食は多少投げやりに作った割には美味しく感じた。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪ この家は人を呼ぶことを想定していないのでペアのマグなんてあるはずもない。使わない食器棚には、なにかの景品でもらったマグが箱に入ったまま仕舞ってあったので、封を開けてなんとか2人分のそれらしい食卓を完成させたのである。ワレモノの破棄を面倒がって残しておいた過去の自分を褒めたい。‬‬‬‬‬‬‬‬

 ‪安室は目の前で、ふうふうとマグに息を吹きかける男をじいと眺めた。なんだ、思ったより体調は普通そうだ。不謹慎にも、心のどこかで残念にも思う自分がいた。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

 ‪ぐずぐずとすすり泣きながら寝ていたと思ったら、顔を真っ青にさせて突然立ち上がった時は驚いた。ふらふらと店内の奥へ行ってしまったので、まさかと思って後ろを追いかければ、鍵のかかっていない個室から吐瀉音が響いたのだ。薬の相性が悪かったか。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

 ‪疲れた顔をして手洗い場でうがいをしたユーリの背中をさすってやれば、死にそうな声で「も…ごめん…ぼくかえる…きょうはありがとね…」と力なく会計に向かおうとしたので、タクシーに押し込み安室透名義で借りているマンションまで連れてきたのである。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

 ‪タクシーでえずいたときは、運転手が 「シートは汚さないでくださいねぇ、それやられちゃうと今日の営業できなくなっちゃうんですよぉ」とトゲのある言葉が苛々としている心中に油を注いだが、ことの元凶は薬を盛った自分である。道端にこの男を捨て置くことも出来た。

しかし、この人は隙がありすぎるのだ。自分と出掛けたその夜に犯罪にでも巻き込まれたら寝覚めも悪い。‬‪苦い顔をしながら引きずるように部屋まで連れ、そのままソファーに転がした。道中にゴン、だかドン、だか鈍い音を立てたのはご愛嬌ということにしておく。痣ができるなんてしるか。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪ 過失の割合はどう考えても安室の方に天秤は傾くが、理不尽に腹を立てたままだったのでユーリの脛と腕は犠牲になったのだ。翌日見事に紫色に腫れ上がった原因はこれである。‬‪鬼ではないが、聖人でもない。見られて困るものは家にはないが、自分の中で存在を消化しきれていない男にベッドを貸すつもりはなかったので、夏用の薄手の毛布を貸し与え、枕元に洗面器(部屋を汚されたら困る)、スポーツドリンク(脱水症状対策である、アルコールを摂取すると陥りやすい)を置いてリビングに残し、書斎にこもった。破格の対応だと思って欲しい。安室はこの時点で、自分が薬を持ったことは勝手に水に流している。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬

 人がいる家で寝れるわけもないので、その後は夜が更けるまでキーボードを叩いて気を紛らわしていた。仕事はちっともはかどらなかった。

‪「実は乾杯してからの記憶が全然ないんだけど、失礼なこと言ってないかな?大丈夫?ほんとごめん…恥ずかしい…」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「本当に僕は気にしていないので、謝らないでください。そうだ、そこまで言うのなら今度は僕が行きたいところに付き合ってもらおうかな。あなたと過ごす時間は、とても楽しい」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪ 本心を覆い隠す笑顔で、嘘を吐く。脳天気にもお前に薬を盛った犯人が目の前にいるっていうのに気づかない姿に苛々するんだ。今すぐその顔をひっぱたいて、驚いた顔をしたコイツに真実を告げたらどんな顔をするんだろう。‬‬‬‬‬‬‬‬

 ‪この男と一緒にいると、気さくで、親切な、やさしいという、安室透を見失いそうになる。心に潜む暗いドロドロとした何かを隠しまま、黄身が潰れた卵を口に運んだ。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

◇◇‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪ 探偵ごっこが上手くいくのは、フィクションの世界だけの話である。

‬‬‬‬‬‬‬‬

‪ きっと大丈夫、すぐに見つかると意気込み、例の外国人カップルを探して闇雲に米花町を歩き回ったけれども、数日経ってもひっかかりもしないのだ。流石に気落ちする。公園のベンチで休憩がてら、うなだれていたら小さな影が現れた。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

「ねえお兄さん!お兄さんは迷子なの?」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

「え?」

‬‬‬‬‬‬‬‬

‪ カチューシャがよく似合う小さな女の子が無邪気に話しかけてきた。ランドセルを背負っているから小学生か。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「お兄さんからは…なにか困ったオーラが出ていますね!」

‬‬‬‬‬‬‬‬

‪「困ったことがあったらオレたち少年探偵団にまかせろ!」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

 ‪あっという間に男の子達にも囲まれる。そばかすが特徴的な子にふくよかな子。みんな同じ学年なのかな。絵本作家という肩書きを持っているけれど、実際に子どもと触れ合う機会は多くないし、最近の子の発育は良いのだ。とんと検討がつかなかった。それにしても、少年探偵団か。たしか、江戸川乱歩の小説にも登場していたなあ。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「おい!オメーら突然走り出して…ってユーリさん!」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪ この子達を追いかけるように現れたのは、毛利探偵事務所で会った江戸川コナンくんだった。数日ぶりの再会である。わあわあと、子ども特有の軽く高い声をあげながら囲まれたときはどうしようかと思ったが、彼が上手く状況の説明をしてくれた。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

 ‪メンバーである元太くんが、この米花公園で落し物をしたようで学校帰りにみんなで寄り道をしたらしい。落し物自体はすぐに見つかったので、これから日頃お世話になっているという、はかせさんのお家でみんなで宿題を片付けるとのこと。あとコナン君から僕は迷子ではないという説明もしてもらった。僕の表情が迷子のように不安そうに見えたらしい。子どもって感性豊かだ。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「みんなで落し物を探すのと、はかせさんの家に寄るのはおうちの人は知っているのかな?心配していない?」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「それなら大丈夫だぜ!」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「僕らには、頼れる助っ人がいますからね!」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「ユーリさん安心して、近所に住んでいる大学院生の人と帰り道に偶然出会って、落し物探しに付き合ってもらったんだよ」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪ コナン君がまた上手に説明をしてくれた。小学生と仲の良い大学院生。へえ。そんな親切な人もいるのなら、安心だ。――どんな人なのかな。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「あれ?そういえば、昴のお兄さん来ていないね?哀ちゃん知っている?」

‬‬‬‬‬‬‬‬

‪ カチューシャの子、えーと、たしか歩美ちゃんが、これまたクールそうな女の子に話しかけた。彼女はのんびり屋さんなのか、走った様子もなく登場した。哀ちゃんと言うのか。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「ああ…あの人なら、あなたたちがこのお兄さんを見つけて駆けていった時、博士のお茶の準備を手伝うって先に行ってしまったけど。そういえば、随分慌てていたわね…」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪ 慌てて行ってしまったのか。残念だ。――ぜひ会ってみたかった。‬‬‬‬‬‬‬‬

 ‪会話にちょっと出てきただけの人物が不思議と気になる。この米花町で一人でも友達を増やしたかったからなのか、自分でもうまく説明ができないが、とにかく興味を覚えた。慌てて行ってしまうなんて、その人は忙しいのだろう。学生さんだししょうがないか。学業も大変だろうに子どもの面倒もみるなんて、素晴らしい人なんだろうな。‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「……」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

‪「どうしたの?」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

「いえ、別に…」

‪ 会えなかった大学院生さんに思いを馳せていると、気のせいではない視線を感じた。‬‬‬‬‬‬‬‬

 ‪哀ちゃんが、こちらを伺うように視線を向けている。気になって笑ってみたら、フイと知らないふりをされた。ちょっと悲しい。‬‪落ち込む僕は未だ少年探偵団に囲まれたままだった。随分かわいらしい表情をしながら、コナン君は口をひらく。

‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬

‪「ねぇユーリさんは、ここで何をしていたの?」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

 ‪コナンくんの瞳はあいかわらず、不思議な力を持っているように輝いていた。悩んだけれど、まあ、とりあえず話すだけなら、ありかも知れないなあ。それで彼らも、納得してくれるだろう。心をときめかすような大事件の予感を期待している少年探偵団の諸君も、きっとちっぽけな問題にがっかりして飽きてしまうだろう。期待に添えなくて申し訳ない。そう思いながら、僕は口を開いた。

‬‬‬‬‬‬‬‬

‪「人を、探しているんだ。ね、君たち…メガネをかけた金髪の美人な女性と、大柄な男性の外国人カップルって、知っているかな?」‬‬‬‬‬‬‬‬

 

 その時の少年探偵団の表情ったら。子どもって、素直で、かわいい。‬

 

 そして僕は、新たな手がかりを得ることになる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第14話

 閑静な住宅地である。

 

 古めかしい洋風の屋敷の隣に、阿笠さんのお宅はあった。この研究所のような立派な家に哀ちゃんと二人暮らしというのだから驚きである。

 

 あの後、外国人カップルについて知り得る限りの情報を、破竹の勢いで話してくれた子どもたちへ感謝の言葉と、お礼として公園の自販機で紙パックのジュースをご馳走したら、とても喜んでもらえた。そして、そうだ!兄ちゃんもハカセの家来いよ!と元太くんを筆頭に少年探偵団が誘ってくれたのである。

 

 ハカセくんとやらは、同級生のお友達のあだ名かと思えば52歳のおヒゲがチャーミングな男性とは思いもしなかった。(いつも怒られていると元太くんが教えてくれた)家主の許可無く、そんな勝手に人数を増やしてもいいのかな…?と思ったが、哀ちゃんが「まあ、別にいいけど」と許可を出してくれて今に至る。

 勝手知ったる様子で門扉を開く哀ちゃんに続いて子どもたちが進む。オロオロしているとコナン君が「ユーリさん、ほら、行こ」と招いてくれた。優しい。

 

それはそうと、呼び鈴鳴らさなくても大丈夫かなあ。

 

「博士、ただいま」

 

「博士ー!おじゃましまーす‼」

 

「阿笠さん~!突然すみません、おじゃましますー!」

 

 子どもたちにも負けないような声で挨拶をしてみれば、奥の部屋から、ガタッと鈍い音がした。たぶん、人が、モノにぶつかってしまったような音。玄関まで届くほどの音だ。きっとかなりの痛手なのでは。もしかして、突然の訪問に驚かせてしまったのだろうか。

 

 ――さっき米花公園で会えなかった、噂の大学院生のスバルさんとは会えるかな。期待に胸を弾ませながら、リビングへと踏み入れた。

 

◇◇

 

 せっかくユーリ兄ちゃんが来てくれたんだから、宿題はやっぱり家でやろうぜ…、と提案した元太くんを哀ちゃんが一蹴するということも起きたが、きちんとやり終えてから阿笠さん作のテレビゲームをみんなで楽しんだ。軌道修正をかける哀ちゃんも偉いし阿笠さんもゲームを個人で作っているというのだからすごい。

 

 結局、期待をしていた大学院生の昴さんには会えずじまいだった。

阿笠さんに迎えられリビングに行けば、背の低いソファの前には子どもたちのお茶請けの準備と、5人分のグラス、先ほど阿笠さんが飲んでいたであろうオレンジジュースのみで。ただ、その目の前には、何故か飲みかけのアイスコーヒーが置いたままだった。

 

 会えなくて残念に想う気持ちと、残されたアイスコーヒーの謎は、子どもたちのゲームを楽しむ歓声にかき消されていった。きっと同じ町にいれば、いつか会える機会はあるだろう。

 

 だから、阿笠さんとコナン君のひっそりとした会話は聞こえなかった。

 

「あれ、昴さんはいないの?」

 

「そうなんじゃよ、し…コナン君。ほんのついさっきまで一緒に君たちを待っていたんじゃが、戻ってしまったんじゃ。どうやら大学院の研究が忙しいようでな…」

 

「へーえ…」

 

 思わずコナンは半目になってしまった。おいおい。沖矢昴が『普通の』大学院生ではないことは、こちとら百どころか千も承知だっての。ちら、と訪問者に目を向けるが気づいた様子はなく子どもたちと話をしている。

 

 慣れ親しんだ阿笠邸の内部を把握しているからこそ、博士の発言の矛盾に気がついた。まあ、おおかたあの人が博士を言いくるめただろう。

 テーブルに残された結露が付着したままのグラスが証明するのは、ほんの少し前まであの人はここにいたという事。玄関からこのリビングまでの道のりで、すれ違っていないとすると窓から出て行ったか、もしくはまだどこかに隠れているだろうことを推理した。あの人逃げたな……。

 

 以前に探りを入れた際、ひらりと交わされてしまいユーリさんとの関係を聞けずじまいだった。その為公園から阿笠邸まで、連絡を入れず意表を付こうとしたが効果は抜群すぎたようである。謎は解くためにある。特に、秘密の多いあの人を解き明かすカギを握っているであろう新たな人物の登場。先ほどのサプライズがどれほど、あの人の心を揺さぶることが出来たのかは不明だが、そろそろ、重く閉ざされた口を開いてくれるだろうか。

 

「コナンくーん、僕と一緒に協力してゲームしてくれないかな」

 

「ユーリさん、コナン君はテレビゲームは弱いので戦力にはなりませんよ」

 

「そうだぞ、ユーリの兄ちゃん」

 

「歩美がユーリお兄さんのお手伝いしてあげるね!」

 

 ゲームの腕前への辛口すぎるコメントが突き刺さる。ほのほの笑っているこの人と、まるでナイフのように研ぎ澄まされたキレ者のあの人との関係。

それとなくあたりはついているが、あまり想像はつかない。今の仮の姿でこそ、あの目つきの悪さは隠されているが、並んで歩いている様子など、とんと検討もつかなかった。

 

 ――蘭はああ言っていたが、やっぱり全然似てねえだろ…。

 

 世の中には解き明かされていない謎はまだたくさん存在するのである。

 

◇◇

 

「ってことがあって、可愛い探偵さんたちとお友達になれたんだ」

 

「おや、世間はとても狭いですね。僕も少年探偵団の子どもたちとは面識がありますよ」

 

 掻い摘んで今日出会った少年探偵団を名乗る子どもたちと友達になったことを話せば、カウンター越しにカップを拭きながら笑顔で透くんは答えてくれた。

 

 いつでも会いに来てくださいね、僕がユーリさんに会いたいので、と熱烈な言葉を送ってくれた彼は定期的にバイトのシフトまで連絡してくれるので、話し相手欲しさに彼のバイト先である喫茶ポアロに足繁く通うようになった。ちょっと早めの夕飯は透くんお手製である。ミートソーススパゲッティおいしい。

 

 ホテルでの生活は楽だ。でも、一人の食事は味気ない。そのため、誰にも言えない残念な習慣までできてしまった。その一つである、 寂しすぎてテディベアのくま君に話しかけながらルームサービスを囲む食卓もそろそろ卒業したいのだ。もちろんくま君からの返事はない。お行儀よく話を聞いてくれる。

 僕だって年齢的にも社会的にもアウトなのは承知しているから、このことはトップシークレットである。

 

 キイ、と扉の開く音がした。お客さんかな。目を向ければ、制服姿の少女たちが会話に花を咲かせながら入ってきた。高校生かな。と、よく見れば知った顔ぶれだった。

 

「あ」

 

「ユーリさん!」

 

 僕の名前を呼ぶ声が、3つ重なる。驚いた様子で彼女たちは互の顔を見合わせたが、僕からすると彼女たちが友達というのが驚きである。

 

 ああ。透くんの言うとおりだ、ほんとうに世間は狭い。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第15話

side ???

 

 その声は、心までも震わせた。

 

 実際に聞くのは数年ぶりの声が鼓膜を震わせた時、立ち上がってしまったのは思わずであった。今はまだその時ではない。

 

この姿で会うのは多くのリスクもある。その一瞬で多くの物事を脳裏に巡らせたが思った以上に慌てていたようで、沖矢昴――赤井秀一は阿笠邸のローテーブルに脛を打ってしまった。痛みはまだ取れない。

 

 ユーリが、すぐ近くにいる。

 人並み以上の視力をこれほど感謝したことはないだろう。子ども達の付き添いで公園に来て、目的の物を見つける事が出来たまでは良かった。しかし、何の偶然か。遠くのベンチで項垂れていたのはよく知る人物だったのである。慌てて退散をし、いただいたアイスコーヒーで取り乱した心臓を落ち着かせていた矢先にこれだ。

 

 予想だにしないことに驚きと焦りばかりが先走ってしまい、証拠も何もかもを残したまま部屋を飛び出してしまったのは痛いが仕方がない。ああ、現職のFBIが形無しだ。後で博士に謝らなければ。

 

 窓から退散した男は、ガラス張りの家屋の構造もなんなくクリアをし、無事に見つかることなく阿笠邸から脱出をした。遠目で公園でユーリを確認したときは、顔色などわかる距離でもなかったので、顔くらいこっそり覗いておけばよかったとも思ったが、それで見つかってしまっては本末転倒だ。倒れてからは随分と時間が経ったが、体調は元通りだろうか。変わりは、ないだろうか。

 

 小さな名探偵からの追求にも、もう誤魔化しは利かないだろう。今までのらりくらりと躱してきたが、そろそろ無理がある。このまま、工藤邸に篭るのは悪手と思えてならなかった。あの知りたがりのボウヤが訪ねてくることは、推理するまでもない。まさかとは思うがアイツを連れて突撃されても困る。そして先程から乱されてばかりだが、これだけは忘れてはならない。アイツの新刊が日本で店頭に並ぶのは本日なのだ。それだと言うのに、ふらふらと何をしているのか。何故、あの時公園にいたのか。

 

 答えの出ない推理を放棄した秀一は、書店へ向かうことを決め、不用心にもデスクに転がしたままの箱から吸い慣れた1本を取り出した。

 ああ、いつもアイツは俺を振り回す。心の中で呟かれた言葉とは裏腹に、長く吐かれた煙に紛れた表情は柔らかかった。

 

◇◇

 

「それでユーリさん!ユーリさんはもしかして梓さん狙いなんですか⁉それとも大穴で世良ちゃん⁉」

 

「園子くん!ユーリさんが困っちゃうだろ。ボクとユーリさんはそんな関係じゃないって!」

 

「でもユーリさんが世良ちゃんを見る目って、なんだかほかとちょっと違う…気がするのよ!女の勘よ!むしろ世良ちゃん関係の恋愛話、ほとんど聞いたことがないからむしろあって欲しい~!」

 

「ちょっと、園子ったら落ち着いて……!園子の願望が入っているじゃない!」

 

「もちろん梓さんとの美男美女カップルも捨てがたいけど!あっ⁉もしかして安室さんと三角関係だったり⁉キャー!この喫茶ポアロからラブロマンスが始まっちゃうのかしら…‼」

 

 安室透が律儀にもユーリへ断りを入れ、お店の奥へ消えてから随分と経つ。

 

 ちょうど3人の女子高生が来店したタイミングだった。買い出しを言い渡されたのか、展開を予想し飛び火を避けるためだったのか。

 

 ポアロ店内の明るいトーンの声が響くテーブルにはグラスやティーカップが合わせて4つ並んでいる。

 世良真純と、毛利蘭、鈴木園子、そしてユーリが使用したものであった。おもに女子高生組が食したパンケーキが載せられていたプレートは、親切な女性店員によってすでに下げられている。

 そのため空いたスペースに手を付き、身を乗り出すように、園子はユーリに詰め寄った。みなぎるフレッシュなパワーを正面から受けながらも、ユーリはいつのもやわらかい笑顔である。

 

 ――女子高校生3人組とユーリは、もちろん全員とも出会った経緯は別であった。

 

 毛利蘭とユーリは、先日米花百貨店で知り合った仲であり、状況も含めて説明すれば、こっそりと園子が「なるほど…虚弱体質な白皙の美青年だなんて、ユーリさんも罪深いわね…」とボソリと呟いた。言葉は運良く本人の耳には入らなかったのは、不幸中の幸いである。

 

 鈴木園子とは鈴木財閥が主催をするパーティーで知り合った仲である。

 分家筋に鈴木会長と同じく美術品の蒐集家がいて、絵画から漫画、絵本など絵であればなんでも気に入ったものを集めているその男は、随分とユーリの絵本に入れ込んでいるのだ。

 事あるごとにパーティーへ招いては、熱心に口説き強請っている姿はよく見かけていた。また、整った容姿は着飾った紳士淑女が集う会場においても十分に招待客の視線を奪った。実際に会話を交わしたのは数回のみだが、園子がユーリの存在を忘れる訳はなかったのである。

 

「じゃあ、この中ではボクが一番ユーリさんと仲良しだね」

 

「一人で朝食を食べている世良ちゃんに、相席を申し込むなんて…。ユーリさん、まるでドラマの登場人物みたい…」

 

「そうかな。実は不審者って思われたらどうしようかと心配だったんだよね」

 

 この空間にいた誰もが、それはありえないと声には出さないツッコミを入れた。

 

 ホテルで高校生の女の子が長期宿泊をしている。同じように利用をしているユーリは、そのことにすぐに気がついた。

 彼女、世良真純がカフェテリアスペースでよく一人で朝食を摂っていることも。

 初めは物珍しさに目を引いたが、それだけではなかった。彼女の背中がどこか寂しそうに見えてしまったのだ。それが自分の願望であるのか、または自分と重ねてしまったのかはわからなかったが、放ってもおけなかった。そして、彼女の容姿に抱く既視感も。そこで他にも空席があったにも関わらず、話しかけたのが始まりだ。

 

 普段は双方ともにルームサービスを利用することが多いが、時間が合えばカフェテリアでお茶をしたりもするのだ。

 

 ほとんど女子高校生たちに主導権を握られながら、各々ユーリとの出会いを説明すれば、あれよあれよと話題はいつの間にか恋人の話題になっていた。恋愛ネタは女子高校生の話題における基本の必修科目なのは、いつの時代も変わらないのだと気を抜いたが最後、話題の矛先はユーリに向けられたのである。

 

「それで、ユーリさんが狙っているのは誰なんですか⁉やっぱり世良ちゃん⁉」

 

「確かに真純ちゃんのことは素敵だと思っているけど、僕にはもったいないよ…。それに、年も離れているしね。僕が捕まっちゃう」

 

「えっ、ユーリさんっておいくつなんですか…?梓さんと同じくらいかなって思ってました」

 

「えーと、梓さんってさっきの店員さんかな。僕はあのかわいい店員さんの年齢はわからないけど、安室くんより年上。だから君たちとは1回り以上は年上」

 

 ええー!と絶叫する彼女らに苦笑しながら、ふいにユーリは昔のことを思い出した。高校時代、ともに過ごした幼馴染たちのことを。あの時は、クラスで同じ委員会に所属していた女の子と二人で行動している様子を目撃されて、他のクラスメイトにからかわれたのだ。

 

 ほのかに芽生えていた恋心はその程度では折られはしなかったけれど、相手の女の子は噂を随分と気にしたようでそれからそっけなくされたな、なんて。そのあと幼馴染に泣きついたのもいい思い出だ。あの頃から泣き虫は変わっていない。ああ、気が付いたらまた昔のことばかり思い出している。

 ずいぶんと遠いところまで来てしまった。彼女たちと同じように制服を身にまとっていた僕は、今の自分を想像できただろうか。いいな、高校生。笑って、バカなことをして騒いで、みんなもいた。なつかしい。

 

 会話の内容はしっかりと耳から脳へ伝わって来る。ただ、取り残されたような物哀しさはどうしても自分を誤魔化せなかった。

 

「本当にユーリさんって、今はフリーなんですか⁉もしくはアメリカに本命がいるとか!」

 

「あー、うーん。そうだなあ。僕の今の一番は…十数年来の親友かな、なんてね」

 

 ひとまず答えを出せば、納得すると思ったけれど、逆効果のようでさらに可憐な女子高校たちは盛り上がった。

 申し訳なく思いながらも、答えた言葉はどこか投げやりだった。大丈夫、気持ちを隠して取り繕うことは年数を重ねることに上手くなったのだ。3人は気づいていないようできゃあきゃあと叫んでいる。

 

 しかし、ユーリのティーカップの紅茶はすっかり冷め切っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第16話

 物音のないからっぽの部屋に戻るのは、ひどく億劫に感じた。

がらんどうとした心を埋めるために当ても無く夜の街をゆらゆらとふらつくが満たされることはない。ポアロを出た時には見えていた夕日も随分前に姿を隠し、どれだけの時間が経ったのかもわからなかった。彼女たちは何も悪くない。悪くないのだ。僕が勝手に懐かしんで、かなしくなって、寂しくなっただけだった。誰でもいいから隣にいて欲しいと望んでしまった。安心させて欲しい。でも、誰がいる?みんな、いなくなってしまったというのに。夜の暗さと、光り輝くネオンの賑やかさは一層、自分がひとりぼっちだという孤独を浮き彫りにさせた。

 

「あ、…」

 

 突然、ポケットに収まっていた携帯から木琴の軽快な音楽が響き、軽く震える。誰だ。明るいディスプレイに表示されていた名前は、この米花町に来て知った彼だった。

 

◇◇

side ???

 

「昴さん。おかえりなさい、遅かったね」

 

「…コナン君。もう夜も遅い。毛利探偵事務所の皆さんも心配しますよ。送っていくので…」

 

「大丈夫!今日は博士の家に泊まってくるって伝えたから大丈夫。それに、新一兄ちゃんにも連絡をしたからね、たっぷりお話をできるよ」

 

「……」

 

 どっぷりと日が暮れ、流石にもう諦めただろうと工藤邸に戻れば、玄関口で満面の笑みを浮かべたボウヤに迎えられた。こちらがもう諦めろ、ということか。

 

「今日、ユーリさんが現れるたびに昴さんがあの人を避けていたのって、偶然、じゃないよね?」

 

「それは…」

 

「それに、ユーリさんの容姿と、昴さんの容姿。性格とか、言動は全く違うから昴さんをそれなりに知っていると印象は変わってくるけど、見た目はどこか似通っている」

 

 このままだと本当にユーリを無理やり目の前に連れ出されそうな勢いだ。ここまでか。ユーリと似ていると指摘された男は、後ろの扉がしっかりと閉まったことを確認し、ハイネックに隠されていた襟元をずらした。

 

 軽くタップすれば小さな電子音が響く。チョーカー型変声期の電源が切れた音だ。そして細められていた瞼が開くと、深いエバーグリーンの瞳が現れた。

 

「特別なことは何もない。ボウヤの考えた通りだ」

 

 両手を上げ降参のポーズを取りながら、軽く肩をすくめる。もう大学院生の沖矢昴はいない。そこにいたのは、FBI捜査官として殉職した、赤井秀一だった。

 悪魔的な偶然が重なった一日であった。米花公園でのエンカウントから始まり、響いた声に驚いて、阿笠邸で打った脛は痣になるだろう。…別にどうってことはないが。

 

 そして、最後に見たユーリの姿。二度あることは三度ある、とは良くいったものだ。ダラダラと街をうろつき、書店に篭っていれば、また出会いそうになったのだ。しかも、隣にはとある人物を引き連れて。

 

 逃げたくはないが、そうも言ってはいられない。沖矢昴としての役割を果たすためにも、会うべきではないのだ。アイツをこちら側の領域に踏み込ませず、近づかせないのが一番なのはわかっている。ただ、彼の隣にいた人物がどうしても気に食わなかった。ユーリに近づいても、赤井秀一にはたどり着けない。だからそれ以上関わってくれるな。そう言って、引き離すことができればどんなに楽か。まさか、自分はこんな子供じみた感情を持て余していたとは。

 

「それで、ユーリさんと赤井さんの関係って…」

 

「一括りに関係と言っても、難しいが、そうだな……」

 

「ユーリは、……赤井秀一の、親友だ」

 

「親友……」

 

「0から1を生み出すのは難しい。この世にいない人間を、1から構成し沖矢昴を造るよりも、参考になる手本がいたら良いと思ったんだ」

 

「……だから赤井さんにとって身近な存在だったユーリさんを選んだんだね」

 

「ただ、俺が演じると少しばかり毒気が強すぎてな……。ユーリの性格までは、完全に合致させることはしなかった」

 

 そう続いた言葉には、質問をした小さな探偵は妙に納得してしまった。こちらまで気を抜いてしまうあの雰囲気は、誰にも真似できないだろう。

 

 説明をする赤井の脳裏には、沖矢昴になるために協力してもらった工藤有希子氏の演技指導と変装術指導がよぎった。存在する本人そっくりにするには演技力など諸々のハードルが高くなるため、あくまでもモデルとしてユーリを参考にしたまでだが、自身の体格などにも合うようにカスタマイズをして沖矢昴が生まれたのである。

 

 有希子さんには随分と遊ばれ、最後にはこの一言を贈られたのだ。

 

 

「秀ちゃんってばその人のこと、と~っても大好きなのね♥」

 

 

◇◇

 

side amuro

 

 紙袋の包みが2つ。時々カサ、と音を鳴らしている。とある新刊の絵本だった。安室は、がちゃりと音を立て錠を開け、招く。ここは、安室透のマンションの一室である。――どうしろってんだ。

 

 客とは、手元にある絵本の作者であるユーリだった。

 ポアロに賑やかな女子高校生達が来店し、ユーリが囲まれたところまでは確認している。その後、店長から食材や備品の購入を任され、買い物を済ませれば思いのほか時間が掛かったようで、女子高校生もユーリも、とっくに退店していた。

 

 そんなものだろうと気にもしなかったが、愛車を走らせ街道沿いを走行していると最近やけに脳裏にちらつくその人がいたのだ。伝票とレシートを確認して計算した退店時間からは、もう数時間も立っている。俯いているために前髪で表情が見えないが、消えてしまいそうなほど暗い。何があったかはわからないが、心が弱っているのなら付け入る絶好の機会だ。

 

 ユーリの心に近づき、信頼を得る。そう、目的のために。誰かに聞かせるわけでもない理由を心につぶやきながら電話帳を開き連絡を取った。そうだな、要件はさっきは挨拶もないまま店から消えてしまったことと、本日発売のユーリの新刊について。下心をたっぷり含ませた電話をし、取り入る段取りをしたが、やはりこの人は自分にとって思い通りにならない嫌な人間であった。

 

「無理にお誘いしてすみません、どうしてもユーリさんを放っておけなくて」

 

「……え?」

 

 さっきからこの調子ばかりだ。話しかけてもうわの空。目線の先は何を見ているのかもわからなかった。愛車に乗せ、書店に向かったものの、思った以上に、ユーリはぼんやりしているようで、芳しい反応もない。

 安室はどうすれば良いのかもわからなかった。対象が女性であれば熱く抱きしめ唇を奪えば、また変わってきていたかもしれないが、自分は友人という立場だ。肉欲や金品を求めるような男でもない。なんの打算もない関係の相手には何をすればよいのか、この男が何を求めているのか、やはり分からなかった。

 

 もやもやとしながらユーリを引き連れ書店で新刊を購入し、結局答えは見つけられないままホテルまで送った。

 

「ユーリさん。今日はお疲れだったのに、無理に振り回してすみません。早く休んで元気になってくださいね」

 

「あ…、ごめん、透くん。その、ありがとうね」

 

 気を使わせてごめん…という言葉が小さくこぼれた。分かっているのなら、さっさと普段通りに戻れ。そうしていつもみたいに、ぼけっと笑え。安室の冷たい部分が理不尽に囁いたが、もちろん口には出さない。

 

 エントランスから溢れる光は互の表情を鮮明にさせたが、ユーリの表情は車中から覗いた時からちっとも変わらなかった。ああ、自分じゃこの人の心を変えることはまだ難しいのか。もどかしい気持ちを抱えながら、では、また今度、と傍に止めていた車に戻ろうとすれば、突然腕を引かれる。

 

「あ、」

 

「…?」

 

 驚いたのはこちらだが、ユーリも思わずの行為のようで、どこか狼狽えていた。

 

「えっと、その、あー、気をつけて帰ってね」

 

「はい」

 

 そう返すも、掴まれた腕の拘束は解かれそうにない。

 

「…ユーリさん?大丈夫ですか?あの、なにか」

 

「えーと、ごめん。あ…あの、」

 

 いつまでも、あ、だの、えっとだの、意味のなさない言葉が続けられてたが、しんぼう強く安室は口を閉ざして待った。この言葉の先に、答えがあると信じて。

 

 そして、続けられた言葉は、冷えた安室の心の底にわずかばかりの悦びを生んだが、当の本人は気がつかない振りをした。

 

◇◇

 

 風呂上りの着替えとしてユーリに貸した白のスウェット姿は、安室の方が筋肉など体の厚みが有るため、だいぶ袖や裾が余り、ダボついていた。身長もそう変わらないはずなのに、袖からは指がちらとしか出ていない。転ぶなよ。堂々とすればよいとはわかっているが、何故か悔しいのでなんの興味もありませんよといった風に装い、観察は数秒でとどめた。

 

 普段だったら絶対に断るであろう望みも、弱々しい懇願に負け、安室透としての拠点の1つに招いた。しかし、表情はちっとも晴れない。何がしたいんだ。

 

「遠慮なく、好きにくつろいでくださいね。ソファですみません、先に寝ていてください」

 

「ありがとう…、ごめん」

 

 扱いに困ってさっさと入浴を進めた安室は、本人がいない場で先ほど購入した本を読んだ。他の作品以上に暗い色合いと重いテーマで描かれた絵本である。

 絵は時にその人の心理状態を表すと言うが、果たしてあの男の死からこの本が出来上がったのだろうか。ということは、未だ帰結するのは早急だが、やはりこの男はあのFBIについて死亡した以上のことは知らないということか。

 

 ただでさえ、この能天気な男のこと以外にも考えなくてはならないことがあるのだ。制作時期や、内容について聞くことが出来れば手がかりに繋がるのでは、など思考で頭をいっぱいにさせていたからだろう。

 ユーリがぽそぽそと続けた、じゃあ、失礼します、という言葉に気がつかなかった。

 

 油断をしていた訳はなかった。武闘を嗜む身としては情けない。しかし、余りにも予想しなかったことで時が止まったかのように固まってしまったのである。押し倒されたのだ。ユーリに。しかも、自分の上に重なるように相手も倒れてきたのだ。

 

「は、……?」

 

 ホテルでのやりとりとは逆で、今度はこちらが油の切れて動きがぎこちなくなったロボットのように、歯切れの悪い、容量の得ない言葉ばかりが口からこぼれる。

 隙間なく密着された体温はあたたかい。そりゃあ入浴後すぐなのだから当たり前か。同じ石鹸を使っているのに、漂う香りは目の前にいる人を表すようにどこか甘かった。もちろん性的ないやらしさは一切ない。抱きしめられるというよりも、過去に読んだ書籍で見た親に甘えて擦り寄る子供のようで、安室を下敷きにしたユーリの頭は、安室の心臓の真上でぴったりとくっついている。

 

「……、」

 

「あの、ユーリさん、その」

 

 邪魔だ、早く退け。

 

 しかし、何故かそれを言い出せない自分もいる。久しぶりに感じた人の体温は、妙に心地よく感じるのだ。のしかかったまま、動かなくなったユーリは顔を押しつぶすかのように安室の胸に押し付けているので、表情は見えない。どうすることもできないまま困惑した安室は身体が自由だったら頭を抱えていただろう。

 

 自ら選択することを放棄した安室は、もうどうにでもなれと好きなようにさせていた。好きにくつろげといったが、好き勝手にしすぎだろ。

 

 そして数分後。押し倒された時と同様に、その熱は唐突に離れた。

 

「えっと…変なお願い、聞いてくれてありがとう」

 

「いえ、構わないでください」

 

 一応事前に許可をとられていたことに、ようやく気が付く。

 

「驚かせてごめんね、ちょっと落ち着いた。本当にありがとう」

 

 まだお腹の中にいる時に、お母さんの心臓の音を聞いているから、人の心臓の音って安心感があるんだって。だから昔から僕がダメになったときは誰かの心臓を借りて、音を聴かせてもらったんだ。そう続いた音への理解はなかなか追いつかない。少し上ずった返事は誤魔化せただろうか。

 

「そうですか。確かに、心臓の音っていいですよね。そういえば赤ん坊には、テレビの砂嵐のようなホワイトノイズもいいらしいですよ。不思議ですよね」

 

「へえ、不思議だねえ」

 

「はは……。あー、僕はもう部屋に戻りますね。ええと、おやすみなさい」

 

「うん、おやすみ」

 

 緊張からか、口数が多くなる自分に落ち着け、と念じる。慣れない就寝の挨拶を交わし、部屋に戻る。バクバクと心臓の音がうるさかった。なんなんだ。変に穏やかでない気持ちのまま、自室にこもる。

 

 だがその後、ユーリの入浴中にソファ下に仕掛けておいた、盗聴器からこぼれた寝言がイヤホンから響くと脳内は冷めた。他人の体温の熱に当てられて、逆上せていた脳内は一瞬で醒めた。なんだよ、シュウクン、って。ここにいて、お前に音を聴かせたのは、安室透だ。くそ。

 

 ――結局、自分はこれにとって、代替品でしかないのか。自分では、その心を埋めることはできないのか。腹の底に渦巻いた感情は無視をするには苦く重すぎたが、それがどうしてなのかは、答えは知るはずもなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第17話

 

「殺し屋、か…」

 

 誤解はしないで欲しい。依頼をするために探しているわけではないのだ。

 ストローを吸えば、特製フルーツジュースのさっぱりとした甘さが喉を潤す。結局、持ち込んだ本の内容は頭に入ってこなかった。周囲を見渡しても、穏やかな時間を過ごしている老人、スーツ姿の生真面目そうな男性、華奢なティーカップ片手に会話に花を咲かせているご婦人方しかいない。目当ての殺し屋さんはいないようだった。

 

 子ども達から得た情報は多かった。

 外国人カップルの名前は、ジョディ先生にアンドレ・キャメルさん。ジョディ先生と呼ばれるその人は、元高校の英語教師でとても強い女性とのこと。なんでも少年探偵団はバスジャック事件や銀行強盗も一緒に解決したとか、していないとか。

そしてアンドレ・キャメルさん。殺し屋のような風貌で、以前ニュー米花ホテルで起きた殺人事件の容疑者として疑われたらしい。それにしても、少年探偵団は物騒な事件に巻き込まれすぎだよね。残念ながら、探偵団の諸君たちは彼らの居場所はわからないと言っていた。

 

 けれど、キャメルさんは時間が空くとニュー米花ホテルの階段をトレーニングに使っていて、トレーニング後は毎回屋上のレストランで休憩をしているらしい。その話を聞いた僕は、住まいをニュー米花ホテルに移動したのである。それからというもの、暇があれば屋上のレストランに張り込みをしている。

 

 しかし子どもたち曰く目つきの悪い、まるで国際指名手配犯の殺し屋のような人相の男性は未だに現れていない。「絶対にすぐにわかりますよ!」と自信満々に教えてくれたけど、殺し屋のような顔ってどんな顔だろう。見ればわかる、とは言われたもの、そろそろレストランのメニューも全部制覇しそうだ。もちろんおすすめは特製フルーツジュースである。果汁100%だ。おいしい。

 

 一番店内を見渡しやすいこの席は、いつの間にか僕の指定席になっていた。何も言わなくても案内してもらえるようになったので、ありがたい。流石大きなホテルということもあって、フロアの通路を利用する人も多い。

 

 その時であった。殺し屋さんが、レストラン前の通路を足早に進んでいたのだ。

 

 (……いた)

 

 今なら少年探偵団のみんなが言っていたこともわかる。たしかに、殺し屋っぽい。

 

 その男の人はひたすらに黒だった。

 黒いコート。目深に被られた黒い帽子は表情を隠している。見るからに怪しい。まるで世を忍ぶ殺し屋ですと宣伝しているような格好だ。(忍んでいるのに宣伝ってよくわからないけど)それに、ちらとしか見えなかったけど、銀の長髪の隙間から覗いた瞳はぞっとするような冷たさがあった。背筋にぞわぞわと悪寒が這う。あの人はきっとこわい。恐ろしい人に見える。…でも、そうも言ってはいられない。それに、人を見かけで判断するのは失礼なことだ。あの人が、きっと、アンドレ・キャメルさん。大丈夫、子どもたちも、見た目は怖いけど良い人だったと教えてくれた。

 

 その人を追いかけるべく、慌てて立ち上がり伝票を手にする。急がないと。

 

 いそがなきゃ、はやく、それで――

 はやる気持ちばかりが先行してしまい、注意を怠ったからだろう。

 

「あっ、」

 

「えっ‼」

 

 ゴトンとガラスの倒れる音が響く。他のお客さんのグラスが、倒れたのだ。

 避けたはずだったのに、ぶつかったらしい。背の高いグラスからは、アイスコーヒーと氷が一緒にサラサラと流れてテーブルを汚していく。僕が通りすぎたタイミングで、倒れたということはそういうことなのだろう。やってしまった。

 

 生真面目そうに見えたスーツ姿の男性は、先程までキリリと上げていた特徴的な眉を下げて慌てて立ち上がっている。彼のスラックスには床から跳ね返ったコーヒーで茶色いシミが所々にできている。あー、悪いのは僕だ。ああ、もう。ごめんなさい。もちろん、まだあのキャメルさんを追いかけたいと思う気持ちは冷めないが、このまま駆け出すことも出来ない。

 

 男性に謝罪とクリーニング代を支払うことを申し出れば、目立たないので問題ない、むしろ急いでいるところを引き止めてしまって申し訳ない、と丁寧に謝られた。

 

 結局、クリーニング代も受け取ってもらえないまま、彼はこのあと予定がありますので失礼します、とメガネのブリッジを抑えながら去ってしまった。

 名前と連絡先くらい聞いておけばよかった、と反省しても後の祭りだ。

 

 行き場のなくなった視線をふと携帯に目線を向ける。あ、そういえば最近透くんからの連絡がぱったりと止まってしまったのだ。探偵業が忙しいのだろう。無理に連絡を取って相手の負担になるくらいなら、待つ方がよっぽど良い。必要があればきっとまた連絡をくれるだろう。

 

「用心をして、くださいね」

 

 眼鏡の彼が去り際に残した言葉だ。そりゃあ、こんなことがあったのだから一言モノを申したいのは当たり前だろう。けれど、彼が伝えたかったのは別のことらしい。僕はそのことを知る由もなかったけれど。

 

◇◇

 

side kazami

 

 風見裕也は優秀な警察官である。それも、ごく限られた人数しか接触することが出来ないゼロに属する人物と接触が可能なほどに。

 

「……」

 

「珍しく荒れていますね、どうされたんです?」

 

 処理するスピードもいつもと変わらず迅速だ。しかし、静かに書類を整理している上司の雰囲気がピリピリしていることは長い付き合いの部下はきちんと感じ取っていた。ダブルフェイスをこなす上司が、久しぶりに登庁をしたと思えば、絶対零度の様子で殺伐としているのだから部下として心配をしてしまうのは仕方の無いことだった。

 

 触らぬ神に祟りなしとは言うが、この人の場合は溜め込みすぎている案件が多い。

少しでも心労を取り除くことが出来れば、とつついたのが凶だった。

 

「…普通、毎日メールやメッセージが届いた相手から突然連絡が途絶えたらどう思う」

 

「…なにか、あったかと心配するのでは?」

 

「そうだよな…。そうなんだよ。それが当たり前だ。一般的な解答だ」

 

 あっ、これは本当に触らないほうがいい案件だったな…プライベートなことだろうか。残念ながら出払っていて執務室には自分と上司しかいない。退路も閉ざされている。

 

「ええと、」

 

「連絡が来ないのなら、電話の1本なり、メールの一つでも送ってきてもいいはずなのに、こない!」

 

 珍しいこともあったものだ。この人も、人間だったのか。ほんの一部を除き(赤い色はNGが合言葉だ)強い執着を見るのは初めてだと、風見裕也は驚いた。

 

 つまるところ上司こと、安室透改め降谷零は怒っている。

 

◇◇

 

 降谷零は激怒した。

必ず、かの邪智暴虐で脳天気な訳の分からない男を自分の心から除かなければならぬと決意した。降谷零にはわからないものなど、なかったのだ。降谷零は、公僕である。部下を指揮し、喫茶ポアロで茶を入れ、組織では探り屋として活躍をして来た。けれどもこの持て余した感情に対しては、人一倍に敏感であったのである。

 

 ユーリの寝言を盗み聞きしてしまった時から、かき乱されていた心はさらに荒れた。冬の日本海ぐらい。心臓を貸したのも、安室透だから頼られたのではない。あの男にとっては誰でも良かったのだ。そうに決まっている。

 

 無性に腹が立って、毎日送り続けいていた連絡をあれ以降は突然やめた。少しぐらい慌ててしまえ、と思ったのだ。それなのに考えれば考えるほど「え~?そういえば連絡来ないねえ、忙しいのかな」とほのほの笑って気にもしていないユーリが脳内をよぎる。そして、引っ込みがつかなくなってしまったのだ。もう1週間も、一方的に怒り続けて音信不通にしている。

 

「…むしろ相手にも何かがあったと考えてみては?」

 

「いや、それはない。くそ…俺だけが意識しているみたいで、腹が立つな…」

 

 やけに即答したのが気になったが、気にすべき点ではない。上司は怒りを顕にして目の前の書類をグシャグシャに丸めた。ああ、シュレッダーにかけるときに丸まった紙は直さないといけないのに。まるで、恋人と喧嘩をして相手からの謝罪を待つ女性のようだとは聡明な部下は口に出さなかった。

 

 いつも去る者追わずの上司が珍しい。それに、こんなにも感情をあらわにする事も。女性関係のトラブルだろうか。あんなに整った顔立ちの上司でも悩む事があるのか。純粋に、部下である風見裕也は驚いた。

 上司は忙しいのだ。優秀な頭脳に狂いはないはずだが、疲れているのだろう。薄々気がついていたが、上司は変なところで、そう、面倒なところがある。風見は眼鏡のブリッジを触った。

 

 その後、女性関係の問題ではなく目的のために近づいている人物がいると説明され、仕事の都合でニュー米花ホテル内のレストランで遅めのランチを摂っていれば、渦中の人物がまさに同じ空間にいたのだから驚きだ。

 

 こっそりと様子を観察していたが、その視線の先に、上司の潜入先組織の幹部である、要注意人物の『ジン』がいたのも。

 店員にトレーニング帰りの外国人男性は来ていないか?と訪ねる様子をみた時には、降谷さんに報告する内容ができたな、これであの人の問題が解決できれば…と思ったが物事はうまく進まない。人を探していることは判明したが、彼が探し人だと判断した相手が悪すぎる。あれは絶対に彼が探している人物ではないだろう。

 

 しかし、聞こえてしまったのだ。彼が「いた」と小さくつぶやいたのが。よく見ろ、あれは見るからに本物の殺し屋だ。どこがトレーニング帰りだ。君が探している人物像は殺し屋なのか?たしかに外国人男性だが、脳みそを働かせてくれ。自分の安全を省みろ。祈る心はもちろん届かない。ユーリ氏は本物の殺し屋を追いかけに、伝票を掴み立ち上がってしまった。

 

 引き返せ、君が探しているであろうトレーニング帰りの外国人男性ではない。どこにトレーニング要素があるというのだ。明らかに違う。自分たちが秘密裏に仕事として動いている時には、滅多に姿を現さないというのになぜこんな真昼間に、このタイミングで、ニュー米花ホテルにいるんだ!と口が裂けても言えないような叫びを脳内で吠えながら、組織幹部が現れたことを上司に報告をした。この間わずか30秒ほどである。彼は優秀な警察官だからだ。

 

 そして、あの上司が意識をしている彼が通り過ぎるまであと数秒ほど。ああ、まずい。周囲の状況も確認しながら、多くものを天秤にかけた。一般人の脳天に風穴があくか、この場で多少目立つか。

 

 まったく、市民の日常を守る存在とは損な役回りだらけだ。そして、風見裕也は腹を決めたのである。

 

ゴトン。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第18話

 

side Furuya

 

 書類を確認しながら、感覚で掴んだマグを傾ければ落ちてきたのは数滴の雫だった。そうだ、先ほどで飲みきってしまったのだ。ちょうどキリもいい。降谷零は凝り固まった身体をほぐしながら、マグを片手に立ち上がった。普段から締め切ったままのブラインドからのぞく空の色はすっかり暗い。明るすぎる都会の空では、瞬く星は地上の光に打ち消されてしまい、月だけがポッカリと浮かんでいる。風景の一部のビル群は、時間も時間だというのに、星の代わりと言わんばかりにギラギラと輝いていた。

 

 リフレッシュとして、マグの中身を補給しに立ち上がれば、避けていたことに思考を支配される。自分をコントロールすることには長けていると自負していたが、持て余しているこの感情は無視をしても、放っても悪化しそうで気持ちが悪い。そのため、ここ最近は仕事にがむしゃらに打ち込み、体も脳みそも酷使していたが、少しでも緩むと雑音が聴こえてくるのだ。ユーリのことばかり考えてしまうのだ。

 

 肝が冷えた。風見から報告を受けたあの日、怒鳴りつけに行きたくて仕方が無かった。あの男が、どれだけ危険かわかっているのか、と。いや、わかっていないと理解はしている。なんの知識もない一般市民に対して、勝手すぎる言い分なのは承知している。だからこそ、腹の底に渦巻く感情は吐き出しようがないのだ。

 だが、それだけではない。安室透は探偵だ。その事は伝えているというのに、そもそも、なぜ、俺に話さない。

 

 レストラン店員にトレーニング帰りの外国人男性は来ていないか、だなんて。彼が人探しをしていることなど、風見の報告で初めて知ったのだ。

 安室透は探偵だ。それはあの男も知っている。以前、米花町に訪れた理由を聞いた時には「友達と家族に挨拶とかかな」とはぐらかされてしまった記憶が、脳裏をよぎる。そのときは深入りするのを諦めた。しかし、そうか、人探し。一言ぐらい相談があってもいいのではないか。

 

 目眩がするほどの強烈な怒りを感じる。いつの間にか、強く握り締めていた拳はきつく爪が食い込んでいた。サーバーで補充したコーヒーは一瞬で飲み干してしまった。落ち着くために深く息を吐く。どうした、降谷零。こんなこと、流してしまえばいいじゃないか。ただでさえ成さねばならないことが多いのに、余計な首を突っ込んでどうする。無理やりクールダウンをしたところで、スーツのポケットにあるスマートフォンがずっしり存在を主張しただけだった。

 

 数週間ぶりに、声を聞けばまた変わるかも知れない。このよくわからない怒りも収まるかも知れない。

 

 一方的に連絡を絶っていたが、まだユーリには聞かなければならないこともたくさんあるのだ。そう、これは仕事だ。しっかりしろ降谷零。日は暮れているが、非常識な時間ではないはずだ。何度も開いては閉じてしまった電話帳から慣れた手つきで目当ての名前を選択して通話ボタンをプッシュする。つながるまでの空白の時間が、やけに長く感じた。

 

「……あああくそ‼」

 

 聞こえてきたのは、ツー、ツー、と冷たいビジートーン。話中音である。降谷零の怒りは、まだ収まりそうもない。

 

◇◇

 

「…もしもし。こんばんは、あ、そっちだと、おはようかな」

 

 通話中の電話が繋がっていたのは、海の向こうだった。早口で捲し立てるように喋る癖は何年たっても変わらない。降谷の電話がつながるよりも先に回線を奪っていたのは、古い付き合いの男――ドミニクだった。

 

「まったく…名前と特徴だけだなんて、調べるのも骨が折れましたぞ!」

 

「えへ……調べものなら、ドムに頼らない手はないなって思って。それでも、ちゃんと調べてくれたんでしょう?」

 

 ユーリは地道にホテルで張り込みをするのと同時に、旧友に助けを求めたのだ。ジョディ・サンテミリオンとアンドレ・キャメル。子ども達から得た断片的な情報を伝え、何者なのかの調査を依頼した。なにしろ、彼は優秀な情報通だからである。あ、フレークの音が聞こえる。朝食中なのかな。

 

「もちろんですぞ!見くびらないで頂きたい。それで、ミスターを探し回っているのは、とんでもない連中ですな!まあ、それでも特定することは可能でしたけどね!驚かないで欲しいものですな、そう。奴らです。聞いて驚かないでくださいよ!」

 

「うん…、おねがい。教えて」

 

 ドムには多くを伝えていない。自分と同じようにシュウ君を追っているカップルだと伝えてある。米花百貨店に現れた彼らは一体何者なのか。

 

「ユーリが探しているという、ジョディ・サンテミリオン改めジョディ・スターリングとアンドレ・キャメルは、ビュロウの捜査官ですぞ…‼」

 

「びゅろう…」

 

「あまりピンと来てないですな⁉そんなことあります⁉」

 

「教えて、最強のハカー、ドミニクさま……」

 

「ごほん、そこまで言われては仕方がないですな。お茶の間のドラマではよく登場していたから、馴染みがあると思ったんですがね…⁉ってああ~!そうか、たしかにユーリ氏の好みの展開は少なそうだ!血なまぐさかったり、暴力表現を伴う作品もありますしね。では解説に入りましょう。それでビュロウというのはですね。単刀直入に申し上げますと、連邦捜査局、つまりFBI!」

 

 FBI。なるほど警察関係者。

 だけど、なぜ警察関係者が彼を探しているのか?それにどうして本来アメリカにいるはずの連邦捜査官が日本に?ドムの情報収集能力は信頼できる。なんてったって最強のハカーだからだ。(本人談)彼は、普段『依頼』があれば調べ上げて報酬を得ているらしい。つまり情報で食っているのだ。世の中には様々な働き方があるものだと驚いたのは数年前の出来事だ。

 

「これは…もしかすると、もしかしてかもしれませんぞ…FBIの関係者が探しているとなると、穏やかではありませんな。アブナイにおいがむんむんしますぞ。お覚悟を決めておいた方がいいかもしれませんな」

 

「う、ん…」

 

 結局まだ会えていないアンドレ・キャメルさんとジョディ・スターリングさん。たしかに、あの時のアンドレさんの眼光は驚く程に冷たかった。あの彼に探されている、だなんて、ただ事ではない。

 

 シュウくんが死んだ、と聞いてからあの映像を見るまではまるで死人のように過ごしていた。じくじくと痛む心から目を背けるために感情も閉ざして。偶然見つけることができた銀行強盗のネットニュースがなければ、自分はまだ動けないままだっただろう。だけど、わずかな希望があるのなら。例え、どんなことがあろうとも、諦めるわけにはいかない。だから、

 

「……だいじょうぶ、僕はシュウ君を信じているから。大丈夫だよ」

 

 ドミニクだって、信じたかった。少々乱暴者で口も悪かったが、ユーリと並ぶシューイチ・アカイは面白いやつだった。しかし、この件はきな臭いと長年の勘がむずむずと告げている。深入りするのは危険だ。『情報』を取り扱う際には、己の領分を見極めなければ待っているのは身の破滅である。だけど、ほかならぬユーリの依頼だからこそ調べたのだ。

 

 そして、遠からず予感は当たってしまった。調べたのはユーリに依頼された、日本にいる外国人カップルの素性だけだ。それ以上は触れていない。敵の多いビュロウの情報なんて叩けばボロボロと出てくるだろうが、ここまでが、自らが関与できる領域だからだ。

 

 ユーリに幸あれ。普段人の幸せなんて祈ったことなどなかったが、ドミニクは自然とユーリの幸福を願うくらいには愛着を持っていた。このお人好しが死人に戻りませんように、と。

 

「…それはそうと!ユーリ氏は今屋外でござるか?ホテルの部屋にしては風の音が入ってきますな」

 

「そう。前の部屋もだったんだけどさ、ホテルって意外と電波がよくないようなんだよね。今はホテルからちょっと歩いたところにある公園にいるよ。夜の公園ってドキドキするね。さっき通り道のサラリーマンが僕を見て逃げていったんだけどなんでかな」

 

 それは、なまじ見目の良いユーリがぼんやり月明かりに浮かんでいたら、誰だって幽霊だと思うだろう、とドムは思ったが珍しく口には出さなかった。それよりも気になることがある。

 

「と、いいますと?電波が悪いとは災難ですな。日本の回線は快適だとばかり思っておりました」

 

「ね、なんでだろう…。仕事でね、出版社の方と電話をしたんだけど、その時にノイズがはいったんだ。それが何度も続いたから、電波に問題があるのかなあって。それもあって、前の部屋から今の張り込みしているホテルに移動したんだけど、やっぱり変わらないんだ。2度も電波がよくない部屋に当たるなんて運がないよね」

 

 通話中にノイズ。ドミニクはこの電話が室内ではなく屋外で行われたことに心底安心した。今の時代、誰がどこで聞き耳を立てているのかはわからないのだ。やっぱりきな臭い。

 

◇◇

 

「くまくんおはよ」

 

「……」

 

 返事はない。ただのぬいぐるみである。

 くまくんは相変わらず、お行儀よくルームチェアに座ったままだ。ひとりと1匹の部屋は静かな空間である。もぞもぞと緩慢な動きでパジャマを脱ぎ捨て、顔を洗う。時間には十分に余裕があった。

 

 紙袋から取り出した服のタグを外して袖を通せば、ようやく目が冴えてきた。最近の流行がわからなかったユーリはこの日のために、遠出をしてショップの店員にコーディネートをしてもらったのである。なにせビックイベントだ。一緒に連れて行かないのか、と心なしか寂しげな表情をしているくまくんに行ってきます、と声をかけて返事のない部屋を出れば、見慣れたホテルマンさんが挨拶をしてくれた。長く住んでいると顔見知りも増えるのである。

 

「素敵なお召し物ですね、お出かけですか?」

 

「はい、デートなんです」

 

◇◇

 

side Bourbon

 

「バーボン。あなた最近楽しそうなことをしているわね、私も混ぜてくれないかしら?」

 

「……なんのことですか?」

 

 用件を告げられることもなく、電話一本で呼び出されたバーボンは、車のハンドルを握りながら薄い笑みを貼り付け、意識をしながらゆっくりと返答をした。見なくてもわかる。隣の助手席に座っている女は食えない笑みを浮かべて、鮮やかに彩られたルージュを弓形に弧を描いているのだろう。

 ただの足なら、組織の末端を使えば良い。この秘密の多い女の周りには甘い蜜のお零れに預かろうと、群がる蟻のように存在しているのだ。カルヴァトスが消えてからもそれは顕著で、手足として使われている様子を、たびたび目にする。組織の一員らしく、それらが手段も選ばないところも。

 

 わざわざこの女が、わずか移動のために呼び出した理由をバーボンは理解した。心当たりは一つしかない。

 

「あら、ごまかしてもダメよ。あなたが組織から薬をくすねたのは知っているのよ。随分と手段を選んでないようだけど、そんなに手強いのかしら」

 

「あなたこそ、僕の行動がそんなにも気になるのですか?大丈夫ですよ、約束は守っています。あなたの秘密も――」

 

「バーボン、私はそんな会話のために、あなたを呼び出したのではないわ。質問に答えなさい」

 

 いつかユーリのアルコールに混入させた薬物を思い出す。使い勝手が良かったので、他の対象にもたびたび使っていたが、この女にはユーリに使用したことも筒抜けなのだろう。くそ。咄嗟に話題を変えようと焦ってしまったが、さすがに誤魔化されてくれるはずもない。伊達に組織の幹部ではないのだろう。この女に余計な手出しをされるリスクに加え、最近の自分の行動を把握されてはいないだろうか、と冷たい汗が背中を伝った。ユーリの存在を知られてしまったことも、状況としては芳しくない。赤信号で減速をする先行車に合わせて車を停止させ、重たい口を開いた。

 

「…別にあなたが気にするほどの男ではないですよ。僕の計画で利用価値がありそうだったので周辺を探っているだけです。それ以上でもそれ以下でもありません」

 

「ふうん。今はそういうことにしておいてあげるわ」

 

「お気遣いありがとうございます」

 

 相手が納得する答えではないことはわかっていた。しかし、苦々しい様子のバーボンをみて満足したのか会話はそこで途絶える。殺伐とした車中からは、母親に手を引かれながら横断歩道を渡る子供が見えた。

 

 子供の手には、空に向かってふわふわと漂う風船へつながる紐が握られている。掴みどころがあるんだか、ないんだか、単純に見えて捕まえることが出来ないところがそっくりだ。

 思い通りならずに、好き勝手に飛んでいってしまうところも。

 

◇◇

 

 休日ということもあり、賑わう人の隙間を縫うように順路を進む。水槽の中をゆったりと泳ぐ魚の方がよっぽど快適だろう。米花町から離れたここは、近年オープンしたばかりの水族館であった。

 

「はい、真純ちゃん。チョコミントで良かったんだよね」

 

「ありがとな、ユーリさん!」

 

 水族館のペアチケットをもらったのは偶然だった。日本で懇意にしている出版社の方がくれたのだ。誰と行こうと、携帯の着信履歴を開けば一番上には安室透の表示が。そうだ、ドムとの電話中に着信が入っていたが、用事があるのなら、また連絡をくれるだろうと折り返すことをすっかりと忘れていたのだ。

 

 そういえば、あれだけ会っていたのに最近はぱったりだとプッシュをするも、電話は繋がらず。運が悪い。

 残念だけど、しょうがない。透くんはまた次の機会に誘おう。なにせ観覧したいプログラムの終演が迫っていたので、すぐにでも約束を取り付けたかったのだ。そうして、2番目のドムの履歴に下にあった可愛らしい女子高校生を誘ったのである。

 

「でも、本当によかったのか?ボクじゃなくてもユーリさんなら…」

 

「まだポアロでの会話を気にしているのかな?お恥ずかしいことに、米花町に友達と呼べる人が少なくてね。頂き物のチケットだから、気にしないで。むしろ一緒に来れて良かった」

 

 ひとつひとつの展示に、誰かを彷彿とさせるような瞳を輝かせ、弾むような軽快さは一緒にいるだけで楽しかった。ペンギンの仕草に二人で癒されながら、ショーステージが行われるエリアのベンチに腰をかけて、ようやくひと呼吸をつく。ステージでは、派手な音楽と光の演出で、イルカがのびのびと演技をしていた。最前列に陣とっている小学生たちは、これでもかとびしょ濡れになるまで水をかけられては、きゃあきゃあ騒いでいる。

 

「それで、もっと聞かせてくれよ!ユーリさんのアメリカでのやんちゃ話!すっごく面白いな!」

 

「ふふ、やんちゃをしたのは僕じゃなくて、親友だよ。そうだなあ、あとは何があったっけ……。あ、お店でマナーの悪いお客さん相手に大立ち回りした話はしたかな。自分の倍ある体格のお客さんをポーンと投げちゃった時はビックリしちゃった」

 

 真純ちゃんとのデートで話題に上がったのは、アメリカでの生活についてだった。真純ちゃんは3年ほどアメリカのスクールに通っていたらしい。当時の思い出を明快に話してくれた。そして、僕も同じように思い出を話す。もちろんどの思い出にも彼が出てくるので、「ユーリさんの親友さんってカッコイイな!」と覚えられてしまった。

 

 ボクって日本に居てもアメリカにいても、男の子に見られたんだぜ、まあこれから成長予定だけどな!と誇らしく語ってくれた彼女の愛嬌ある笑顔は、年相応の少女らしくとても可愛らしい。イルカは大ジャンプをする大技を決め、しなやかに水面へと戻る。細かい水しぶきが頬にまで当たり、拭っていると、興味深そうな視線で射抜かれる。

 

「あれ、ユーリさんってピアスを開けていたのか?」

 

「うん、昔のことだから、もう塞がっちゃっているけどね。アー、例の親友のピアスホールを手伝ってね。ついでに僕も開けてもらったんだ」

 

 もちろん、それぞれピアッサーを用意したよ。親友なんて、最初は安全ピンでやろうとしてさ…、危ないから真純ちゃんは真似しちゃだめだよ、と続ければ、想像をしたのか痛そうな表情を浮かべていた。

 

「ユーリさんもやっぱりいろんなやんちゃして来たんだね」

 

「うっ、そうなのかな…」

 

 自分では自覚がないが、そうなのかもしれない。その後はのんびりとした時間を過ごし、暗闇にぼんやり美しい光でライトアップされた幻想的なクラゲの展示や、水族館近くのカフェでパンケーキに舌鼓を打った。

 

 あまり年頃のお嬢さんを遅くまで振り回してはいけないと、日が沈む前に解散しようと二人で駅まで向かえば、今日一番の好奇心を含んだ目線で、とある広告ポスターを彼女は、じいっと見ていた。あ、これって。

 

「そういえば、真純ちゃんって探偵さんなんだよね」

 

「そうさ!女子高校生探偵ってことで、この前も事件を解決したんだ!もしかして、依頼かな?なにか困っていることがあるのかい?ユーリさんなら特別に請け負っちゃうよ!」

 

「ええと、依頼じゃないんだけどね、謎解きとかが好きならこれもどうかなって」

 

 園子ちゃんとも知り合うきっかけになった、鈴木家の分家筋に当たるらしい方と先日お会いした際に頂いたのだ。

 

「こ、これってもしかして…!」

 

「うん、オリエント急行を模した豪華列車なんだって。よかったら、一緒にどうかな?」

 

 小ぶりだけど、しっかりとした作りのそれを、彼女の掌の上に渡す。列車の紋様が刻まれているそれは、漆黒の特急・ミステリートレインのパスリングである。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。