サイコ・ダイバーズ 〜彼らは人類救済のため前世の歴史を改変する〜 (多比良栄一)
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ダイブ1 化天の夢幻の巻 〜 織田信長編 〜
第1話 ここは紀元前の臭いがする


「紀元前の臭いがする——」

 

 夢見聖(ゆめみせい)は鼻からおおきく息を吸い込んでから言った。

 

 高台から見る街は『古代コンクリート』で建てられた平屋の民家が、碁盤目上に整然と並んでいた。そのところどころに太い円柱の柱で構成された大型の施設。市街地の中央には、アーチ橋で作られた『ローマ水道』が、市街地を睥睨(へいげい)するほどの高さで通り抜けている。

 広場とも思えるほど広い通りには、露店があふれており、トーガを身に付けた人々が多数行きかっていた。

 

夢見聖(ゆめみせい)、残念。はずれだ」

 セイのうしろから、ゴスロリ風のドレスを着た幼女が嫌みな口調で言った。

 彼女の名前は、マリア・トラップ。

 セイとおなじ高校生だったが、どう見ても小学生にしか見えない容姿をしている。

 マリアはひと差し指を突き立て、風力を計るようなしぐさをすると、その指をぺろりとひとなめした。 

「ここの風は『虐殺』の味がする。たぶん三世紀。ディオクレティアヌス帝の時代だろう」

 

「そうですね。わたくしには『嘆き』の色が見えますわ。また『外れ』の時代に来てしまったようですわね」

 そう言って、マリアを加勢してきたのは、エヴァ・ガードナーだった。

 くるくる巻いた金髪の、お嬢様風の顔立ちをした美人で、とても肉感的な身体の持ち主だったが、いまは修道士(モンク)を思わせる、マントケープ・ローブガウンをまとっていて、魅力のほとんどを帳消しにしてしまっている。

 とはいえ、そのローブガウンはパステルカラーで彩られ、ところどころに艶やかな蝶柄があしらわれていた。女子力が全面にでしゃばりすぎて、本来あるべき荘重(そうちょう)さなどは微塵も感じさせない。

 

「セイ、おまえと潜ると、いつもこういう胸くそ悪い歴史ばかりに行き当たるな」

 マリアがさらに煽るように嫌みを重ねる。

「マリア、エヴァ。だからついて来るなって言ったのに……。

 だいたい、ふたりともそのカッコはなんだい。『潜る時代』にすこしは合わせて……」

「あら、詰め襟の学生服をお召しのセイさんには、言われたくありませんわ」

 セイが言い終わらないうちから、エヴァが文句をつけてきた。

「このクソ皇帝の時代に、服装なんぞ、どうでもいい!」 

「マリアさん、おことば過ぎますわ。ディオクレティアヌス帝は、軍人皇帝時代を収拾させて、帝国を建て直した名皇帝でもありま……」

「エヴァ、なにが名皇帝だ。何千人ものキリスト教徒を殺害した『うんこ野郎』だぞ」

「まぁ、マリアさん、はしたないですわ」

 マリアの不埒(ふらち)なことばにエヴァがぷいと顔をそむけた。

 マリアは幼女のような容姿ではあったが、ひとたび口を開くと、(とう)が立った狸婆(たぬきばばあ)のように、口さがなかった。セイはマリアの口から、皮肉か、悪態か、誹謗以外、あまり聞いたことがなかった。

 セイはため息を一度ついてから声を張りあげた。

「マリア、エヴァ。言い争いはあとにして。早くドナルド・カードさんを探そう」

 セイは豪華なトーガでめかし込んだ人々が、ぞろぞろとどこかにむかっているのを、ふたりに指さしてみせた。

「なにかイベントがあるのかしら?」

 エヴァがわくわくした表情で、セイの指さすほうに目をむけた。

 

 そこにコロッセオがあった。

 古代ローマ人にとっての娯楽と社交の場所として、隅々まで整備が行き届き、威風堂々とした外観をした闘技場。遺跡でみるコロッセオとはあきらかに違う、現在進行形で人々を魅了している建物ならではの、息遣いのようなものがそこに感じられた。

 

 かなたから人々のざわめくような声が聞こえてきた。

 それは誰かを誹謗中傷(ひぼうちゅしょう)する(あざけ)り声だった。その雑言(ぞうごん)に混って、ゴロゴロと地を這うような耳ざわりな音が聞こえてきたかと思うと、大通りに馬車が現れた。

 騎兵に先導されながら馬車が、ゆっくりコロッセオに向かっていく。馬車のまわりには武器をもった数人の兵士たち。その周りを遠巻きにしながら、心ないことばを浴びせかける民衆がついて回っている。

 しかもその数は馬車が進むにつれ、見る見る増え始めていた。

 その馬車の荷台の上には牢が(しつら)えられていた。

 

「セイ、あれか?」

「たぶん。あの牢屋のなかにカードさんの前世の人物がいるみたいだ」

「では急ぎましょう。カードさんの救助にはずいぶんお金をいただいておりますので」

「セイさん、マリアさん。多額の着手金をいただいておりますので……」

「エヴァ、わかってるよ。かならず助けるさ」

「は、相変わらず、貴様はお金のことばかりだな」

「あら、マリアさん、この任務で一番大切なものは『お金』でしょ」

「馬鹿言うな。神への『信心』があってこその任務だろうがぁ」

 そう反論されて、エヴァがため息まじりに言った。

「セイさんは、私とマリアさんのどちらが正しいとお思いですか?」

 

 セイはふたりのほうをふりむいて、にっこりと笑って言った。

「どっちでもない。一番肝心なものは『あきらめ』だよ……」

 

 

「こんな『力』を授けられちゃったんだもの……、あきらめるしかないだろ……」

 

 

「これがぼくの『使命』なんだって」

 



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第2話 ここはどこだじゃない。いつだ、が正しい

 派手な音をたてていた馬車の車輪の音がとまった。

 そのとたん、牢屋のなかにとらわれていた人々が悲痛な声をあげた。なかの数人かが胸のまえで十字を切って神に祈りはじめた。

 そのなかにまだ十歳にも届かないような風貌の少年がいた。どこか一点だけを見つめている。隣にいた彼の母親はもうずっと前から五指を組んで、一心不乱に神への祈りを唱え続けるだけで、自分からの問いかけには答えてくれない。

 ただ、自分がもうすこししたら死ぬ、ということだけはわかっていた。観衆のまえで猛獣に食われるのか、(はりつけ)になるかはわからなかったが、死からは逃れられない。少年はただ頭を垂れてじっとその時を待っていた。

 

「ドナルド・カード!!」

 聞きなれないことばが遠くから聞こえてきて、少年は耳をそばだてた。

「ドナルド・カード」

 もう一度、おなじ響きのことばが聞こえてくる。

 不思議なことに、そのことばに聞き覚えがあった。あきらかに異国のことば、と思われる発音にもかかわらず、なにか懐かしい気持ちになった。

 

「カードさん。見つけたよ」

 ふいにすぐそばで、その声が聞こえて、驚いて少年は顔をあげた。

 目の前に見慣れない格好をした少年と少女が立っていて、牢の格子越しにこちらをじっと見つめていた。少年は自分の周りになにがあるのか、と左右を見回した。

「あなたですよ。ドナルド・カードさん」

 牢屋の外から自分を見つめる少年を怪訝そうに見つめていると、彼は手のひらをこちらのほうへつきだした。

 とたんに、ふっと自分の頭のうえから、なにかが浮き出すのが感じられた。

 少年のあたまの上に、男性の顔が浮かびあがっていた。老年にさしかかった白人の中年男性の顔。ごつい顔つきの脂ぎった顔立ちからは、傲慢そうな性格が見て取れる。

 

「君たちはなにものだ?。なにが起きているんだ?」

 零体のように浮かびあがったドナルド・カードが声を震わせて訊いた。

 セイは会釈するように頭をさげて自己紹介をした。

「ぼくは夢見・聖(ゆめみ・せい)。二十一世紀の人間です」

「ユメミ?。21世紀……」

「ええ。21世紀はあなたが元々いた時代です」

「あぁ……。そうだ。わたしは、21世紀の人間だ」

 彼はあたりの風景を見回すと、その様子の違いにあらためて驚いた顔で訊いた。

「ここはどこだ?」

 

どこだ(WHERE)じゃない。いつ(WHEN)』だ、だ」

 横からマリアが口を挟んできたので、あわててセイがふたりを紹介をした。

「あ、こちらはマリア・トラップ。そして、こちらがエヴァ・ガードナー。ぼくらは、あなたを助けにきました」

「助けに?。それはどういうことだ?」

「おい、カード。おまえは『昏睡病』って覚えているか。21世紀のあたまっから流行しはじめた不治の伝染病だ」

 マリアのあまりに慎みがない物言いに、あわててエヴァが口を挟んだ。

「カードさん、あなたは先日、昏睡病にかかってしまいました。あなたはその病気のせいで、今あなたの『意識』はこの『前世』の記憶のなかに取り込まれてるんです……」

「ばかな。つまりこの子はわたしの前世だというのか……」

 憤慨したような表情をみせるカードにむかってセイが言った。

「この少年の『未練』をはらしてあげないと、あなたは元の世界に戻れないんです」

「このまま戻れないと、おまえは『植物人間』になるぞ」

 マリアのストレートなもの言いにカードがことばをうしなった。

「植物……人間……だと」

「マリアさん。ことばが過ぎます」

 エヴァがマリアを諌めたが、「本当のことを言ってなにが悪い。嘘は罪だからな」と仏頂面で反論した。

「じゃあ……、き、君らはどうやって……、ここに……?」

 ドナルド・カードがいくぶん蒼ざめてみえる表情で、セイに尋ねた。

 

「ぼくらは特殊な精神感応の力で、あなたの『前世の記憶』にダイブしてきました」

 

 マリアがしたり顔でそのあとを続けた。

「オレたちは、Psychic Cooperative Divers……。略して……

 

『サイコ・ダイバーズ(PSY・CO DIVERS)』と呼んでるがな」

 



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第3話 『現世』の魂を救い出すために、歴史を改ざんさせてもらう

 ガーンと牢屋の格子を叩きつける、激しい音が辺りに響いた。

「貴様ら、なにをしている?」

 ふいの音に、牢の囚われた少年は、びくっとからだを震わせた。その拍子に頭上に浮かんでいたドナルドのイメージがふっとひっこんで消えた。

 セイは音のしたほうを振りむいた。そこにおそろしい形相の大男が立っていた。

「あぁ、隊長さん。気にしないでください。この少年を助けに来ただけ……」

「なんだとぉ!。そんな真似できるわけなかろう」

 そう言いながら大男は、背後にいた兵士たちに手をふった。カチャカチャという金属音とともに、兵隊たちがセイの周りをとり囲んできたのがわかった。

「貴様たちも、イエス・キリストとかいうヤツを信じる異端者どもだな」

 セイは首をよこにふった。

「ぜーんぜん」

「おい、あたいはゴリゴリのクリスチャンだぞ」

 宗教がからむと黙っていられないのか、横からマリアがさりげなくカミングアウトした。すると、それに釣られるようにエヴァまでも小さく挙手して「わたくしもキリスト教信者ですわ。プロテスタントですが……」と告白した。

 話をややこしくしてくれたな、と思ったが、いまさら仕方がないので、セイは肩をすくめた。

「だって——」

 

 大男が目をぎらつかせた。

「ほう、俺さまの前で異教徒を告白するとはな。貴様ら、俺さまを誰だと思っている。俺さまは、ディオクレティアヌス皇帝直属の……」

 セイが手をつきだして隊長のことばを制した。

「ごめん。あんた、名乗らなくていいよ。だって、あんた……」

 

「試験にでないもん」

 

「ただ、邪魔をするなら排除させてもらう」

 

 そう言うと、セイは手のひらを天空にむけて突きあげた。手の中に眩い光が灯ったかと思うと、次の瞬間にはセイの手に剣が握られていた。古代ローマでは見ることがない、サムライが使っていた細身の刀。

 その神がかった光景にセイたちをとり囲んでいた兵たちがどよめいた。

 セイはドナルド・カードの魂にむかって言った。

 

「その子に宿ったあなたの『魂』を救うために、歴史を改変させてもらいます」

 

 セイはすうっと鞘から刀身を引き抜いた。刃がぎらりと怪しげな光を投げ掛ける。セイはすっかり及び腰になっている兵隊たちに向かってウィンクした。

「あんたらは二千年近く前にとっくに死んでいるんだけど……」

 

「わるいね。もう一度、死んでもらったよ」

 

 周りを取り囲んでいた兵士たちが目をぱちくりさせたが、一瞬ののちに一斉に首から血煙を吹き出させてその場に崩れ落ちた。

 それを見るなり、マリアが舌打ちして叫んだ。

 

「おい、待て、セイ。オレの()る分は残ってねぇのかよ」

 



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第4話 昏睡病……『現世』の魂が『前世』の記憶に取り込まれ帰ってこれない病気

 昏睡病——

 二十世紀末からひそかに流行をはじめた奇病。それに罹患(りかん)したものは、その病名通り眠り続ける。脳波が目まぐるしい波形を描き、覚醒を証明しているにもかかわらず、寿命までこんこんと……。

 専門医からは「脳は活動していているのに、『魂』だけが、『自我』だけが、戻ってこない」。そんなイメージで語られる。

 

 だが、その『魂』は自らの、ある『遺伝子』に(から)めとられていた。

 

 だれもが『DNA』を通じて継承する『前世の記憶』という『遺伝子』に。

 

 もしそのなかに『沈潜』してしまったら、『魂』にそこから生還する方法はない。

 

 

 たったひとつの方法を除いて——

 

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『さすが、聖ちゃん。引き揚げ(サルベージ)成功よ』

 広瀬・花香里(ひろせ・かがり)は水底に沈んだまま眠っている、夢見・聖(ゆめみ・せい)の姿をガラス越しに眺めながらそう呟いた。

 そこは十メートル四方ほどの広さのプールが、2メートルほどの間隔で仕切られた施設だった。水深は一メートもなかったが、周りはすべて透明なガラスで仕切られ、四方から全部見えるようになっている。そのプールには仕切りごとに、大仰なアームが十数基もついた大型の機器が(しつら)えられており、その一部の配線やら端末部分がプールの中に張り巡らされていた。

 聖はそのプールの水底に、四肢を伸ばして横たわっていた。その顔にはゴーグル、口元には酸素を供給するマスク、そしてからだの各所にはセンサーが貼り付けられており、ヴァイタルデータを計測していた。

 ガラス面に映る自分の顔をかがりは覗き込んだ。

 むかしから学級委員長タイプだと言われてきた、まじめを絵に描いたような顔がそこにあった。どちらかといえば美人にはいるほうだという自負があったが、生来の性格のせいで、気をつかわずにすむような友人に恵まれたことはない。

  

 ふいに聖の隣の水槽に横たわっていたマリア・トラップが、がばっと体を起こして立ちあがると、大声で訊いた。

「おい、花香里(かがり)。あのしけたおっさんは、戻ってきたか?」

 かがりは思わず吹き出した。どんなときでも戻ってくるときは、いつもマリアが一番早い。むこうの世界でどんな活躍をしているかは、伝聞でしか知らなかったが、よっぽど結果に興味があるのだろう。

「マリア、大丈夫よ、目を醒ましたってお父さんが言ってたわ。それに、しけたおっさんじゃなく、ドナルド・カードさん……」

「そうよ、失礼よ、マリアさん。アメリカの次期大統領って言われている人ですよ」

 反対側の一角の水槽から、濡れた髪の毛の水滴を手で梳きながらエヴァ・ガードナーが口を挟んできた。

 最後に戻ってきたのは聖だった。聖はゆっくりとゴーグルと呼吸器を外しながら、プールからからだを起こしてきた。

「聖ちゃん。お疲れさまでした」

 かがりがバスタオルを差し出しすと、聖はすこし気落ちした様子で「かがり、今日も冴のいる時代じゃなかったよ」と一言だけ呟いた。毎回のことだったが、かがりはこんな時、なんて声をかけていいかわからず、いつも聖がプールからあがる様をじっと見守るだけだった。

「シャワー浴びてくるよ」

 聖はそれだけ言うと、出口のほうへ歩いていった。が、反対側からドアが開いて白衣姿の夢見輝男が部屋にはいってきた。

「お父さん」

 かがりが声をかけたが、父、輝男はうれしそうに目の前の半裸の聖をハグした。

「やぁ、聖。さすがだな。依頼人はワシントンのラボで、無事、覚醒したそうだよ」

「まぁ、簡単な敵だったからね」

「それだ。大統領候補なんて聞いてたのに、あんなしょぼい前世とはな。まったくがっかりしたぞ」

 タオルでからだを拭きながら、マリアが悪態をついた。

「マリア、なにを偉そうにしてらっしゃるの。あなたが倒したわけじゃないでしょう……」

「それはエヴァ。おまえも一緒だ」

「んまぁ、そうですが……。あの隊長は強すぎましたわ」

「時間があれば、オレだって倒せたぞ」

「時間があればでしょ……」

「はぁぁ。これでもオレは神の潜睡士(ダイバー・オブ・ゴッド)では優秀なほうだったんだぞ」とマリアがため息まじりに愚痴をこぼした。

「それならわたしだって……。これでもマインド・ダイバー財団のS級エージェントのライセンス所持してるんですよ」

 マリアとエヴァの落ち込んでいる様子をかいま見て、かがりが尋ねた。

「ねぇ、聖はそんなに強いの?」

 

 マリアとエヴァがふたり同時に、バッとかがりのほうをみた。その勢いのあまり、まだぬぐいきれていない水滴が、かがりの顔に降りかかる。

「聖が強いか?、ですって」とエヴァがヒステリックな声をあげた。

 マリアがかがりの目を睨みつけて、忌々しげに言った。

 

「あんなに楽しそうに、人類の歴史をもてあそぶ奴は、ほかにいねぇよ」

 



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第5話 あの日から、もうすぐ五年経つ……

 聖はベッドに横たわる少女を覗き込んでいた。

 からだ中には痛々しいほどに、いくつものセンサー類が取りつけられていた。そのセンサーが読み取るヴァイタル信号は、どれも規則的なピッチをなだらかに刻んでいて、安静な状態を示していた。

「ごめんな、冴。またおまえがいた時代じゃなかった」

 聖は妹、夢見冴(ゆめみ・さえ)の顔をじっと見つめた。聖よりもずいぶん年下、小学校高学年程度にしか見えなかったが、面持ちや雰囲気がとても聖に似ていた。

『双子だったなんて言っても、もう誰も信じてもらえないな……』

 聖は嘆息しそうになったが、すぐに顔を天井にむけてふっーと息を吐いた。

『冴の前でため息はだめだよな』

 聖は冴の腕をかるく擦った。ちいさく細く、白くて、柔らかな腕だった。

『冴……、あの日から、もうすぐ五年経つよ……』

 

    ------------------------------------------------------------

 

「女、子供が先だ!」

 豪華な客船の甲板の上でおびただしい人数の人々が蒼ざめた顔で右往左往していた。

 そのなかでも、船員の指示に従いながら、優先的に救命ボートに乗り込んでいく女性たちがいた。そこにいる人々のほとんどが豪華なドレスや高級そうな装飾を身に付けていて、ひとめでお金持ちであることがわかる。しかし今はそのドレスの上に味気のない救命胴衣を着ていて、身なりに構っている余裕はない状況だった。

「船を降ろすぞ」

 船員の声とともに、救命ボートが船の横腹に沿いながら、ゆっくりと海面へと降ろされていく。

 その時、パーンというおおきな音とともに、夜空に救命信号弾の花火が炸裂した。

 船尾の甲板のうえに立ちつくしている少女が、思わず上空を見上げる。光に照らしだされる少女の顔。だが、その少女の出で立ちは、救命ボートで脱出した人々とは異なり、簡素でみすぼらしさすら感じさせる。

 その少女の頭上に、ふいに幽体とも思えるような、不思議な顔が浮き出た。少女よりもう少しだけ年上の少女。あきらかに東洋の血をひいている顔だちだった。

『おにいちゃん…ここはどこ…どこなの?…』

 

 そう少女が呟いた時、ふいに中空に少年の姿が現れた。夜空から降ってきたとも、別の空間から飛び込んできたともとれるほど、あまりにも唐突な出現だった。少年はそのまま甲板の上に落下して、ごろごろと転がった。

「おにいちゃん!!」

 少年はすぐに立ちあがると、意識をしっかりさせようとして、頭をふりながら少女のもとへ歩き出そうとした。が、ふいに船がぐっと傾いだ。

 そこかしこで悲鳴があがる。

 少女は「きゃっ」とちいさな悲鳴をあげるなり、バランスを崩して転げそうになった。からだが空中で泳ぎそうになるが、その手を少年の手がしっかりと掴んだ。

「大丈夫」

 そう言った少年の顔を少女が見つめた。

 

 まだすこしあどけなさが残る少年時代の夢見聖(ゆめみせい)の姿がそこにあった。

「おにいちゃん」

 手を掴まれた少女の頭上にうかぶ、妹、夢見冴(ゆめみさえ)の顔が叫んだ。

「冴!。戻るぞ」

「おにいちゃん、ここ、どこなの?」

「知らない。でも、ボクらがいるトコじゃない」

 セイは天空にむけて、空いているほうの手を伸ばした。すると、手の先から光の粒子が漏れではじめて、眩い光を放ちながらだんだんと濃くなってきた。

「おにいちゃん、それはなに?」

「ぼくもわからない。でもこうすれば、元の世界に戻れるって……なぜかわかるんだ」

 セイは自分の手のひらの周りに集まってきた光を不思議そうに見つめたが、突然、妹の冴の手をにぎる腕を力いっぱい引っ張られた。冴の手が聖の手からはなれる。

 セイがはっとして冴のほうへ目をむけると、帽子を目深にかぶった背の高い男が冴の肩を掴んでいた。

「なにをする!」

 聖は思わず声を荒げた。ふいに月明かりに照らされて、帽子の下の顔が垣間みえた。

 そこに顔はなかった。

 ただ、黒い空間の中から冷たい目だけが光っているだけだった。

 セイは怖気(おぞけ)だったが、それでも気力を振り絞って大声をだした。

「きさまぁ、冴をはなせ!」

 セイ、光の粒が宿っている手の方で拳をつくると、顔なし男へ殴りかかった。その拳が男のからだを掠める。拳が掠めた男の腰の部分が、おおきくえぐれて黒い穴を穿(うが)った。顔なし男が驚いた声を漏らす。

「ほう……、こんな力をもつ人間がいるのか?」

 だが、その声はまるで動物の鳴き声、機械の音、ともつかないくぐもった響きで聞いたこともないほど耳障りなものだった。「声」とは呼べない「音」だったが、セイの耳にはそう、はっきりと聞こえた。

 冴が憑依していた少女が恐怖に顔をゆがめて、セイのほうへ手を伸ばした。

「助けて!」

 セイも手を伸ばしたが、その手には先ほどまで宿っていたあの不思議な光の粒はいつの間にか消えていた。

 男がにやりと笑って、なにもない空間に手を突き出した。

 

 その瞬間、セイのからだは空中に突き飛ばされていた。どこも触られてないはずなのに、もの凄い力で押されて、そしてうしろから引っ張られていた。一瞬にしてセイのからだは甲板から飛び出し、漆黒に染まった冷たい海にむかって落ちていった。

「さえぇぇ〜〜」

 セイは力の限り叫んだ。

「おにいちゃあ〜〜ん」

 冴の声がかすかに聞こえた。

 

 セイが最後に見たのは、船尾に取り付けられたこの客船の船名だった。

 

「TITANIC(タイタニック)」

 

 だが、それも一瞬だった。 

 暗い深淵に引きずり込まれたセイは、そこで意識をうしなった——。 

 



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第6話 絶対に妹を救ってみせるから……

「聖はずっと泣いていたよ」

 聖と冴がいる病室の様子をモニタリングしながら、夢見輝男は誰にむかって言うでもなく呟いた。

「おとうさん……。聖ちゃん、いつか冴ちゃんを助け出せるよね」

 かがりがモニタ画面を見つめたまま、輝男に尋ねた。答えがわかっているので、目をあわせて正面切って訊けない……。そんな問いかけだった。

 だが、それに割って入って、残酷な現実を突きつけたのはマリアだった。

「残念だが、それは望み薄だな。かがり、おまえも知っているはずだ」

「えぇ。あの子はすでに前世に魂を取り込まれてしまってますわ。そうなったらもう……」

「じゃあ、なんで聖ちゃんは人の魂のなかに潜っているの?。あなたたちと違って、任務もお金も関係ない。冴ちゃんを助けるっていう一点だけで、毎日のように命をかけてるわ」

「かがりさん、魂に潜るのは大変ですが、命懸けってほどでは……」

 エヴァが諭すように反論したが、かがりはすこしヒステリックに声を張りあげた。

「エヴァ、嘘はやめて。わたし知ってるの。聖ちゃん、一度死にかけたことがある。もしあなたたちが患者の前世の記憶の『未練』に共鳴したり、入り口が閉じるまでに戻ってこれなかったら、あなたたちは脳死する」

 かがりの剣幕に、マリアもエヴァもうつむいて黙り込んだ。

「大丈夫だよ」

 それまで口を開くことのなかった輝男が、満面の笑みでかがりに答えた。

「聖ならきっとやれる。絶対だ……」

 

 

 輝男の脳裏にそのときの聖の様子がよみがえってきた。 

 少年の日の聖は『集中治療室』のランプが赤々と点灯しているドアの前に、立ち尽くして泣いていた。輝男が心配そうにうしろから近づくと、聖はふりむきもせず言った。

「輝雄おじさん……。ボク……、冴を救えなかった……」

「救えなかった?。それはどういう意味だ」

「ぼく、冴と一緒に知らない世界に行ったんだ」

「聖、夢でもみたんじゃ……」

「ちがう!!」

 聖は輝男の顔を睨みつけて、おどろくほどの大声で叫んだ。

「冴は沈みかかった大きな船のうえにいた……。ぼくは助けようと手を伸ばしたんだ……

 だけど不気味な男が現れて……」

「船とか不気味な男とか……、聖、オマエなにを言ってる?」

 聖は輝男の顔をみあげた。その顔はまだ涙で濡れていたが、目の奥には決意のような強い光が感じられた。まなじりをキッと上げて、輝男を睨みつけた。

「ぼくは何回でも潜るよ。もっと長く潜れるようになって、かならずあの時代に戻ってみせる……」

 

「絶対に冴を救ってみせるから」

 



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第7話 『サイコ・ダイバーズ』と呼ぶ決まりだ

 十日後、かがりは学校が終わるやいなや、まっすぐ研究所にむかう聖を見つけて声をかけた。父、輝男から聖が今日で10日連続ダイブしていることを聞いていたので、聖の体調が不安で仕方がなかった。

「10日間連続って聞いたわ。大丈夫なの?」

「あぁ、おじ貴からの依頼だからね」

「うん、もう、お父さん、聖をこき使いすぎていると思うわ」

「日に日に患者数が増えてきているから仕方がないさ。それに全員救えたわけじゃない」

「うん、わかってる……。四人に一人は救えなかったって」

「21世紀の現世にもどりたいと思わない人や、前世の魂に感情にひっぱられて同化してしまった人は、どうやっても心変わりをさせられなかった」

 かがりはため息まじりに「あ〜ぁ、またあの娘たちがもうちょっと役立ってくれたらなぁ……」と不満を漏らした。

 

「役立たずですまなかったな」

 ふいにうしろから威圧するような声が聞こえた。ふりむかなくてもわかった。

 マリアだ。

 かがりは、うしろをくるりと振り向いて言った。

「あら、役立たずなんて言ってないわよ。ただ、たいした働きをしてないって……」

「ふん、おなじことだ。それに力及ばずながら、一応は連携している……」

 

Cooperative(協調する)・Divers だからな」

 

 そのネーミングに聖が文句を言った。

「マリア。その名称はどうにかならない?。ぼくはひとりで潜っていた時は勝手に『Soul・Diver(ソウル・ダイバー)』って名乗ってたんだけどね」

「ダメだ。バチカンが決めた正式名称だ。一人で潜っている時はその『厨二病』的な名称を名乗っても構わんが、みんなで潜る時は『サイコ・ダイバーズ』だ」

「弱ったね。エヴァも『コーマ・ディジーズ財団』での名称『Mind・Diver(マインド・ダイバー)』のほうがいい、って言ってたんだけどなぁ」

「オレが決めたわけじゃねぇ、聖。連携している時は『サイコ・ダイバーズ』と呼ぶ決まりだ。『アヴェンジャーズ』みたいにな」

 聖はそれ以上の議論は不毛とばかりに、肩をすくめてみせた。

 かがりは、聖がマリアに言いくるめられたのが、どうにも納得いかなかった。咽に魚の骨がひっかかったような、些細な不快感だったが、ちょっと意趣返しがしたくなった。

「マリア、そう言えば、このあいだの、ドナルドさんの一件……」

「あぁ、次期アメリカ大統領とかいう、しょっぼい前世のおっさんか」

「あれ、聖ちゃんがいなきゃ救えなかったって、お父さんから聞いたわよ」

「はん、ご心配なく。オレだってやれたよ。たぶん……」

「いいわね。いつも聖ちゃんに助けられてばかりで!」

 すこしくだけた調子で揶揄(やゆ)してみたが、マリアは(すが)めた目をかがりに向けると、口元に意地悪そうな笑みを浮かべて言った。

「かがり。おまえ、オレと聖のこと嫉妬してるのか?」

「な、なによ、べ、べ、別に、そ、そんなわけないでしょ」

「マリア、失礼だよ。ぼくとかがりは従姉妹だ。ぼくのことは弟みたいに心配しているだけだよ」

「聖!。オマエ、はあいかわらずの……でくのぼう……、いや……ぼんくら……、あ、いや、朴念仁(ぼくねんじん)だな」

「どういうことだ?」

「おい、かがり、こんな女心がわからんバカやめとけ!」

「ちょっと、マリア、勝手なこと言わないでよ」

 文句を言うかがりにマリアはにたりと笑ってみせると、すぐうしろを親指で指し示しながら言った。

「そうかな、かがり。では、あいつを見てもそんなに冷静でいられるかな」

 かがりが振り向くと、そこにエヴァがいた。

 インターナショナルスクールのおしゃれな制服。だがそのスカート丈は短く、ひょんな動作で下着がまる見えになりそうだ。いまは首元のネクタイをゆるめて、第二ボタンまではずしているせいで、胸の谷間がこれでもかと女を主張している。さらに歩くたびにゆれるバストが、その谷間の魅力を強力にアシストする。

 マリアがにたりと笑みを浮かべながら皮肉っぽく言った。

「かがり、もし聖のことがすこしでも気になるなら、常にアラートを鳴らしておけ」

 

「あれは……」

「結構な究極兵器(リーサル・ウェポン)だ」

 



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第8話 聖ちゃん…、助けて……。脳が縮む

 精神へのダイブの時間まで、少々時間があるということで、四人は研究所近くのハンバーガー・ショップですこし時間をつぶすことになった。

 マリアに焚きつけられたたせいで、かがりはどうにも落ち着かない気分で、エヴァの方をちらちらみていた。その視線がさすがに気になって、エヴァがかがりに尋ねた。

「かがり、どうしたの?」

 かがりは「なんでもないよ」と手を振ってごまかしたが、マリアがドリンクをストローで、ズズッと嫌な音がするまで一気に吸い込んでから言った。

「エヴァ、かがりは、おまえに聖がとられるんじゃないかって心配だとよ!」

「ち、ちょっと、マリア。な、なに言うのよ」

 あまりにダイレクトな攻撃に、かがりはからだをおおきく前にのりだして否定した。

 そのしぐさをみて聖は、そちらからも否定して欲しいというサインと受け取ったのか、マリアのほうにからだをむけて諭すように言った。

「マリア、さっきから君は勘違いばかりしてるよ。ぼくとかがりは、いとこ同士なんだ。だから……」

 その反論をマリアが手を前につきだして封じると、ことさら嫌らしげな笑みをうかべてエヴァに言った。

「な、エヴァ、こいつほんとうに鈍感力は半端ねーだろ」

 だが、エヴァはきょとんとした類でマリアを見ていた。

「マリア、あなた、何を言ってるのかしら?」

 その反応に、マリアはできるだけ派手な音が立つように、紙コップの底をわざとテーブルに強く打ちつけた。

「かぁーーっ、エヴァ、おめーもかよ。この天然記念物どもがぁ。ちゃんと意味がわかってんの、オレとかがりだけじゃねぇか」

「ちょーっと、わたしを巻き込まないでよ」

 かがりは芝居がかった調子で反駁してみせた。こんな場でなりゆきで、濡れ衣を着せられるのは勘弁だった。しかも、それが本当は濡れ衣でないのならなおさらだ。

 その心根を見透かしたのか、マリアはうんざりした表情をした。

「かがり、元々はおまえが、聖とエヴァが潜っている間に、オレたちがデキちまうンじゃないかって心配してたからだろ」

 エヴァがそのことば尻だけとらえて、すぐに反応した。

「あら、私たちのことを心配してくれてるのね。ありがとう、かがり」

 マリアはさらにうんざりとした顔つきで、エヴァに向き直った。

「エヴァ、おまえは(おか)にあがると、とたんにポンコツになるな。やり手エージェントモードにもどって、金、金、言っているほうが、よっぽどおまえらしい」

「あら、マリア、聖職者があまり金のことを言うもんじゃ」

「おめえに言われたくねぇ」

 そのやりとりを見ながら聖はけらけらと笑っていた。

 聖の屈託のない笑顔を横目に、かがりは嘆息した。

 

 こんな笑顔みせられちゃあね……。

 冴ちゃんがむこうの世界に閉じこめられてから、聖ちゃんはずっと一人で歯くいしばって潜ってたから……。

 なんかくやしいな……。

 

 その時、頭の中にキーンという音叉のような音が聞こえた。一瞬、耳鳴りかなにかと思ったが、すぐに、その音が『音』ではないことに気づいた。

 だれかが、自分の頭のなかでなにかを呟いている。

 いや、呪詛のような耳障りな言霊を詠唱している……。あまりに高速すぎて高周波の音として、聞こえているのだ。

 かがりはセイに訴えかけようと、唇をうごかした。が、そのとたん、脳を無数の針のようなもので、直接突き刺されたような痛みに悶絶した。体中の毛穴から汗が吹き出し、目がかすむ。

 かがりはよろめいて、テーブルの上のドリンクを床にぶちまけた。

 まわりの人間がかがりの異変に気づいて、声をかけた。聖が真っ先に顔をのぞき込む。

 あまり見せたことがない心配そうな表情……。

 だが、かがりはそんな聖にむかって、一言しぼり出すのが精いっぱいだった。

 

 

「聖ちゃん……。助けて……。脳が縮む」

 



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第9話 ぼくらが歴史を変えに行く

「あなたの娘さんは、昏睡病にかかっています」

 聖が輝男を前に静かにそう言った。

「聖、なんの真似だ。そんなことはわかってる。わたしは昏睡病の権威なんだぞ」

「輝男おじさん、わかってる。今、あなたは当事者なんだ。肩書きは忘れて」

「そんなことできるか!」

 聖は輝男の横でうなだれている女性、かがりの母、祐子に目をむけた。

「それに、祐子おばさんの方はどうしていいのかわかっていないよ」

 かがりの母、祐子が顔をあげて聖のほうをみた。

「聖ちゃん。かがり、どうなっちゃうの?」

 聖はかがりの母親に会うのは久しぶりだった。

 数年前に父親が失踪して聖と妹の冴は、この叔父夫婦に引き取られた。一人娘のかがりとは兄弟同然にして育てられたが、つい二年前にふたりは離婚した。

 聖は叔父に引き取られて『夢見』姓を名乗り、かがりは母方の『広瀬』の姓になった。それでも、かがりは父親のラボに頻繁に顔を出していた。だが聖のほうはダイブに時間をとられて、叔母と会う機会にはなかなか恵まれなかった。

 この『昏睡病』の研究が離婚の遠因にもなったときけば、なおさら顔をあわせづらい。

 叔母には冴ともども、とても良くしてもらったという思いがあったが、正直、聖は苦手だった。あまりにも叔父の研究に理解がない、という気持ちがどうしても先にたつ。

 聖はこんな形で、叔母と対面することになったのが残念でならなかった。

 

「祐子おばさん、大丈夫です。ぼくたちに任せてください」

 そのことばに急に気づいたように、叔母が聖のうしろに控えているマリアとエヴァのほうに目をむけた。幼い女の子と今どきの女子高生、しかも外国人というのに、返って不安を覚えたのか、思わず輝男のほうに目をやった。

 その目は険しかった。

 この子たちをどう信じろというのだ……、と顔に書いてあった。

 その無言の圧力に、輝男が煩わしげに言った。

「わかってる。わたしがなんとかする……」

 

「輝男おじさん!」

 聖が語気をつよめて輝男を制した。その場しのぎに適当にあしらわれては、その後の結果次第では返って溝を深める。たまったものではない。

「おじさん。もう一度言うよ。おじさんたちは、今は、娘が難病にかかって、それを心配している家族、当事者なんだ。それにおばさんはこの病気のことをよく知らない……」

「聖、バカを言わないでくれ。専門家がそんなことでは……」

「夢見博士、バカはあんただろうが!」

 マリアがたまらず口を狭んだ。日頃から、オレは現実世界のやっかいごとには口を挟まない主義を公言していたが、どうにも我慢がきかなかったらしい。

「博士、専門家だからどうした?。いまのあんたは『患者の家族』なんだよ」

「そうですわ、夢見博士。こんな時だからこそ、平常時とおなじ手順で物事を進めさせてください。わたしたち、専門家に」

 エヴァの提言に、輝男が力なく頷いた。

「あぁ……、あぁ、そうだな、エヴァ、マリア。君たちの言うとおりだ。続けてくれ」

 

 聖はもう一度、最初から手順を繰り返すことにした。

「あなたたちの娘のかがりさんは昏睡病にかかっています。娘さんの意識はDNAのなかに受け継がれた前世の記憶のなかに取り込まれそうになっています」

「取り込まれる?。どういうこと?」

「かがりの意識は、今、前世の記憶を追体験してるんです。何度も、何度も……。それが繰り返されると、それが自分の記憶だと錯覚に陥って、それを肯定してしまうんです」

「そうなったら、どうなるの?」

「一生戻ってこれなくなる」とマリアがしゃしゃりでてくる。

「ちょっと、マリア!」

 不安を煽るような言い方を、あわててエヴァがたしなめた。

 聖もマリアを怒鳴りつけたい気持ちだったが、叔母の顔色がさっと変わったのを見て取ってすぐにことばを繋いだ。

「安心して。戻ってこれるから。心配ない」

 だがそのひと言では心がおさまらなかったのか、叔母がたまらず、輝男に声を荒げた。

「あなたが、こんな研究をしているから、かがりが巻き込まれたのよ!」

「何を言っている?」

「わたしは、この研究室にかがりが顔を出すのは、ずっと反対していたの!。この研究に没頭して家庭を顧みないから、離婚したっていうのに。今度は、かがりまで奪うつもり!」

 ヒステリックに声をはりあげる祐子に、聖が堂々とした声で宣言した。

「おばさん、ぼくが必ず助ける。だから安心して」

「どうやって!。前世の記憶に取り込まれるんでしょ」

 

「ぼくらがその記憶を変えに行く」

 

 その力強いことばに、祐子が涙で濡れた目を聖にむけた、

「心配しないで、おばさん。ぼくがかがりを『過去』から引き揚げてきます」

「聖ちゃん、本当に、本当にかがりを救えるの?」

 

「それができるのが、ここにいるぼくら『サイコ・ダイバーズ』なんだよ」



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第10話 死ぬ気で引き揚げろ、だ!

 がらがらっと、はるかうしろのほうでなにかが崩れ落ちる音がした。

 だれかが叫んだ。

 

「寺が……、本能寺が……焼け落ちます」

 

 狭い路地を息を切らしながら走っていた人々が、うしろを振り向くと、木々に隠れたその向こう側で、燃え盛るお寺の屋根が崩れ落ちていく様子が見えた。

 そのなかにいるひときわ若い女性が動揺のあまり、思わずその場にへたりこみそうになったが、年上の女性がうしろから手を差し伸べて支えた。

 若い女性はハッとして気を取り直して歩を進めたが、どうしても目から涙がとまらなかった。

 彼女は燃え盛るお寺のほうをもう一度だけふりむいた。

 そのとき、すっと彼女の頭のうえから、別の女性の顔が浮き出るように現れた。

 かがりの顔だった。

 かがりはその若い女性とおなじように悲痛な表情を浮かべたまま呟いた。

 

『信長様……』

 

   ------------------------------------------------------------

 

 夢見聖は『念導液』と呼ばれる液体のプールのなかにからだを沈めた。すでに上半身は裸でからだ中にはいくつものセンサーが貼りついている。 

 聖は自分のからだの各所に取り付けられたこのコードを見るたびに、これは自分を操る『糸』で、自分は見えない『何者』かに操り人形のように、ただ操られているだけではないかと感じていた。

 それが『運命の糸』に操られている、という出来過ぎな答えに思える時もあったが、結果が思わしくない時は、この糸に引き摺り回された、と気分が落ち込んだ。

 だが、今日だけはそんな気持ちは微塵もなかった。いや、考えてはならなかった。

『この糸は手綱だ。操られるんじゃない、ぼくが操るものだ』

 聖は天井付近に設置されたモニタをじっと睨みつけた。そこには別室で昏々と眠るかがりの姿が映し出されていた。

「おい、聖。おまえ、顔に余裕がねぇぞ。しっかりしろ」

 すぐ横のプールから首までからだを沈めたマリアが声をかけてきた。

「マリアさん、だれだってこういう時って、プレッシャーを感じるものでしょう」

 そうエヴァに言われて、聖はかがりが映し出されたモニタをじっと見つめた。

「聖さん、とにかくベストをつくしましょう」

 エヴァはそう言ってゴーグルをかぶせると、こめかみ部分にあるスイッチをいれた。それに続いて、マリアもゴーグルのスイッチを押しながら言った。

「聖、俺からの助言はひとつ」

 

「死ぬ気で引き揚げろ、だ!」

 

 ふたりがプールの底に横たわったのを確認すると、聖は頭上のもうひとつのモニタのほうに声をかけた。そこにはいつものように、叔父、夢見輝男がいた。だがいつもと違い、すこし強ばった顔つきでモニタを覗き込んでいた。

「おじさん、マリアの言うように、死ぬ気で引き揚げるから」

 輝男がモニタのむこうで頭を垂れた。

「すまん、聖、頼む」

 聖はすべての器具を装着すると、プールにからだを横たえた。

 輝男のくぐもった声が聞こえた。

 

『ナイト・キャップ始動』

 

 目の前に光が点灯しはじめたかと思うと、眼前の光が一気にスピードをあげ、膨大な星の光の槍となって奥へ飛んでいく。イヤフォンからは「キーン」という高周波音。

 

 一瞬ののち、光と音の洪水に体中を包みこまれる。

 



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第11話 聖、おまえとの思い出ばかりだな

 聖たちは水のなかにいた。

 だが、そこはとても明るかった。透明度が高いのはもちろんだったが、水底のほうから眩いばかりの光が差し込んでいることがその理由だった。

 聖たちはその明るい深淵にむかって頭から潜っていた。聖を先頭にして、マリアとエヴァが続いている。

 ときおり、下から上へ短い光のパルスが槍となって彼らの横を勢いよく通り抜けていく。

 水のなかには、複雑にぐるぐると螺旋(らせん)状に丸まった草のようなものが、無数に浮かんでいた。その茎や葉にあたる部分は、粒が集まったような形をしていて、それがよく目にする藻や海藻の類いではないことがわかる。

「は、なかなかきれいなDNAじゃないか」

 マリアが素直な口調で言った。

「螺旋の海もとても透き通って、よどみがないですわ」

 エヴァもそれに追随するように、やさしいことばをかける。聖はふだんそんな感想を口にすることなどない二人が、いくぶんナーバスになっている自分を(おもんばか)ってくれているのだと、すぐにわかった。

「マリア、エヴァ……、ありがとう。でも気をつかわなくていい」

 

 そのとき、目の前に幻影のような映像がイメージとなって通り過ぎた。一瞬で認知しにくかったが、それはかがりが生れてはじめて、自分の目で見た父と母の顔のようだった。

 次に見えたのは、幼稚園のかけっこで一番になった時のうれしそうな顔。

 

 奥底から湧いてでたイメージの泡が、彼らのあいだをいくつもいくつもすり抜けていく。

 

 聖と冴と一緒に遊んだ幼少の頃の思い出……。

 小学校の頃の一時期、クラスメートに疎まれて寂しい思いをした哀しい記憶……。

 ピアノのコンクールで準優勝を勝ち取った晴れがましい日……。

 愛犬の『ピノ』が重い病気で死んでしまった時の胸の苦しみ。

 冴が昏睡病に倒れ、嘆き悲しむ聖に声もかけられずにいるもどかしい気持ち。

 精神へのダイブ中に、聖のヴァイタル・モニタがアラートを鳴り響かせはじめたときの、足が震えるような恐怖……。

 聖がマリアとエヴァを紹介してきたときの、なんとも複雑な面持ち……。

 

 

「聖、おまえとの思い出ばかりだな」

「当然だろ。いとこなんだから」

 

 水底が見えてくる。その深淵の奥底に半透明のドーム状の物質があった。それはクラゲのカサのようで、無機物なのか有機物なのかも見当もつかない質感で底に貼り付いていた。

 底にたどりついた聖は、なんの躊躇(ちゅうちょ)もなく、そのカサに両手をあてがうと、一気にそのなかに腕を突っ込んだ。

「大丈夫だ。まだ、柔らかい」

「当たり前だ。昏睡病の発症からまだ数時間も経ってない。これで固まられてたら、オレたちの『任務』はあがったりだ」

 マリアがあきれ返ったように聖に言った。

「まぁまぁ、あっという間に重症化した例もありますから、まずは潜れそうでよかったと安心しましょ」

 エヴァが聖の心中を(おもんばか)って、マリアをいさめる。

 

「ありがとう、エヴァ。でも安心するのは、かがりを引き揚げてからだ」

 聖がカサに突っ込んだ腕をおおきく広げると、おおきな穴が開いた。なかから眩い光が漏れ出し、聖の顔をぎらぎらと照らしだす。

 

「さぁ、いくよ!」

 



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第12話 さて、どちらから切り刻まれてぇかな?

 兄、森蘭丸の言いつけで、弟の森坊丸は、末弟の力丸をつれて、寺の門の鍵の解錠にむかっていた。

 兄の蘭丸はすでに十八歳となり、そろそろ『元服』をとの声もあがっており、小姓の役目から退くこととなっていた。そうなれば、一歳違いの坊丸、二歳違いの力丸がその跡目を継いで、小姓の筆頭として、御屋形様の身の回りの世話にあたらねばならないと考えていた。なので、今、兄、蘭丸より言いつけられる命は、いずれ自分の身になること。進んで引き受けていくべきと、心に期していた。

 しかし、その覚悟がまだできていない末弟の力丸は、坊丸にむかってすこし不満そうな声をあげた。 

「まったく兄者は、我々、弟に瑣末な仕事ばかり申し付けるのぉ」

「力丸、これも大事な仕事じゃ」

「なにゆえ、御屋形様は『上賀茂神社』に参ると?」

「秀吉様の毛利討伐はあとひと息とのことじゃ。その陣中見舞いの前に必勝の願掛けとは、御屋形様は心の高ぶりを静められたいのだろう」

「しかし、こんな朝、はようなくても……」

「いてもたってもいられんのだ。毛利を討てば、いよいよ天下統一じゃからな」

 そう言いながら、坊丸と力丸は寺の正面の門を両側に押し開いた。

 

 その門の入り口に見慣れない人物たちが立っていた。

 坊丸はおもわずぎょっとして、手をとめたが、力丸は腰元に手をあて、すぐにも抜刀できる構えにはいっていた。

「何者?」

 坊丸は誰何(すいか)しながら、そこにいる者たちの姿に目をみはった。

 

 真ん中にいる男は自分とおなじ年ごろに見えたが、見慣れない服装をしていた。上から下まで真っ黒な出で立ち。このような目立たぬ地味な格好をするものはひとつしか心当たりがない。

「貴様、忍者か?」

 そう尋ねたが、すぐに両隣りにいる人物のほうをみて、自分が間違えていることに気づいた。両側には驚くほど華美な装飾が施された衣服を着た稚児と、どこかの『家紋』らしき花の絵柄があしらわれた華やかな色の衣装をきた女性がいた。

 力丸もそれに気づいたらしく自分の見解を言ってきた。

「兄上、忍者があんな目立つ出で立ちの女子(おなご)と稚児を連れ立ってること……」

 

 そのやりとりを耳にして、幼女がドスの利いた声をあげた。

「おい、誰が稚児だぁ。おまえら叩き斬るぞ」

 その迫力のある声色に坊丸はすっと刀を引き抜いた。力丸のほうに目をむけ、警戒を促すよう目配せをする。力丸もその意図を感じ取って、ゆっくりと鞘から刀を引き抜いて、正面に構えた。

「お、やる気か?」

 幼女はそう言うと、右腕を正面に突き出して、「待った」の合図でもするかのようにその小さな手のひらを開いた。と思うまもなく、その手のまわりに『雲』のような(もや)が集まりはじめた。どす黒く、重々しい陰鬱な空気をまとって。

 手のなかに『暗雲』が垂れ込めている——。

 森坊丸は幼女の手の回りで起きている『妖術』に見入られていた。真っ黒な雲が幼女の手を完全に覆った。が、一瞬にしてその雲は霧消し、その手にはいつのまにか剣が握られていた。

「な、なんと!」

 思わず驚愕のことばが、口をついて出た。

 それは見たこともないような巨大な刀だった。自分たちのもつ細身の刀剣とは似ても似つかない形をしていた。刀は『(まさかり)』のような幅広で分厚い刃がついており、祭祀で使われる『矛』のような形をしていた。遠めからでも、あれを振り回すことは容易ではないと感じるほど、重々しくみえる。

 幼女はその刀の柄をぎゅっと握ると、正面に身構えた。その切っ先はぴくりともぶれない。

『ばかな……』

 

「さて、どちらから切り刻まれてぇかな?」

 



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第13話 かがりの前世は、実に楽しませてくれそうだ

「マリア、落ち着いて!」

 セイが声を荒げて、マリアを叱責した。

 マリアが過去の世界で一悶着おこすのには慣れていたが、今日はそんな茶番には付き合っていられなかった。

 その怒気を含んだ声色に、マリアはたちまちしゅんとした。

「すまん、セイ」

 そういうなり、マリアは大剣を事も無げに持ち上げると、背中に背負った専用のおおきな鞘におさめた。

 

 セイがまだ警戒の色を解けずに、刀を前に突き出して身構える森坊丸と力丸のほうへ一歩踏み出すと、頭をさげた。

「仲間が大変失礼しました」

 坊丸と力丸が目配せをするのを無視して、セイが話を続けた

「ぼくの名前は夢見聖といいます。ちょっとお尋ねしたいのですが、今は何年で、ここはどこか教えていただけないでしょうか?」

 そう尋ねていると、セイの背後からエヴァのはしゃいだような声が聞こえた。

「まぁーー、かがりったら、こんな『時代』に来ちゃってるんだ」

「エヴァ、どうやら、今がいつか、わかったみたいだな?」

 マリアがエヴァに問いかけると、「えぇ。ほら」というなにかを指し示すようなやりとりがあったのち、マリアがセイにむかって声をあげた。

「セイ、今がいつかわかったぞ」

 セイはまだ警戒の色をあらわにしている坊丸と力丸から目を離さず、マリアに尋ねた。

「マリア、教えてくれ。今は『いつ』だ」

 

「さぁ、いつかは詳しくは知らん……だが、ここは『本能寺』だ」

 

 そのことばに思わず、セイはうしろを振り返った。

 正面の門の『本能寺』の表札が掲げられているのが見えた。

 

 マリアが口元をゆるめて、実にうれしそうに言った。

「セイ、ついてきて正解だな……。かがりの前世は、実に楽しませてくれそうだ」

 

 セイはマリアのことばを無視すると、坊丸たちのほうに向き直って言った。

「お侍さん。ぼくらを織田信長さんの元へ案内してください」

 たちまちわかりやすいほどに二人の表情が豹変し、それまで以上に緊張の色が強くなったが、セイには彼らの立場を忖度(そんたく)している暇はないと判断した。

 セイは大声で叫んだ。 

「いそいでください!」

 

「もうすぐここは『明智光秀軍』に取り囲まれます……」

 

 

------------------------------------------------------------

 

 森坊丸と力丸の案内で、セイとマリア、エヴァは寺のなかに招き入れられた。すぐに寺の奥のほうから何人もの家臣たちがはせ参じ、周りを取り囲んできた。誰もがすぐに抜刀できるような姿勢で、セイたちの脇を固めている。

 中庭に到着したときには、その人数はゆうに二十人は超えていた。そのなかには、興味にかられて顔をのぞかせる公家の者や、数名の女性たちの姿もあった。

『ここに、かがりがいてもおかしくない……よな……』

 

 セイは右手の中指を額に押し当てた。

 その指先に光がぼわっと灯る。

 その光を額に押し当てながら、まわりにいる人々の顔や姿をぐるっと見回した。

 すると、そのなかにぼんやりとした、光輪が浮かび上がって見える人物がいるのに気づいた。

「かがり!」

 その方向にむけてセイは叫んだ。まわりの家臣たちはぎょっとして、態度を固くしたが、マリアとエヴァはすぐにセイが声をかけた方向に目をむけた。

 そこに若い女性がいた。下働きの飯炊きおんなと思われる簡素な出で立ちで、驚いた表情でそこに立ち尽くしていた。

「かがりだと?。セイ、見つけたか?」

 マリアが問いただしてが、すでにセイは正面にいる女性のほうにむかって走り出していた。有無をも言わず転身してきたセイに、家臣の多くがたじろいだ。だが腕に覚えがある数人の刀侍はやにわに刀を引き抜くと、セイの行き先を遮るように前に立ちふさがった。

「控えろ。ここで殺傷沙汰をするつもりはない」

 セイはそう警告したが、抜刀した者が簡単に応じるはずもなかった。

 セイは拳をぎゅっと握ると、両側に水平におおきく腕を開いて、手のひらを突き出した。

 と、両脇に陣取っていた家臣が、空中にパーンとはじかれ、背後にはね飛ばされた。何人かが後方に控えていた者を巻き込む。 

 あっという間に庭にいた者たちのほとんどが、なぎ倒され、玉砂利の上に仰向けになって転がっていた。

 

 

「なんと!。これはどういうことだ」

 ふいに寺の奥のほうから、おおきな声が聞こえた。

 たった一声で、その場の空気が変わった。家臣たちはみなあわてて腰を落とすと、その場に(かしず)きはじめた。セイに倒されてみっともなく仰臥させられた者も、そそくさと乱れた身なりをただすと、すぐにその場に膝をつき(こうべ)をたれた。あたりの空気がみるみる張りつめていく。

 

「お主はなにものじゃ」

 

 奥の部屋から姿を現した男はおおきな男だった。

 背が高いわけではない。満身からあふれ出る迫力がそう感じさせた。その威圧感は、まるで殺気や狂気のような凶暴な『気』そのものが具現化し、情念の経帷子(きょうかたびら)(まと)った姿で、立ちはだかっているのではないか、とすら錯覚させられる。

 セイにはすぐにわかった。

 

 この男が、織田信長だ——。

 



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第14話 ぼくらは四百年以上も未来の日本から来ました

「おい、信長。そこの女と話をさせろ」

 マリア・トラップだった。

 だれもがその存在そのものに気圧(けお)されているはずだったが、マリアだけは、そんなことはどこ吹く風とばかりに、いつもの調子で話かけた。

「そこの稚児、御屋形様になんという口を利く」

 家臣のひとりが腰の刀の柄に手をやりながら、大きな声で叱責した。子供であってもすぐに斬る、という決意が見て取れた。

 

「今、口を開いたそこのヤツ、おまえ誰だ?」

「わたしは、森蘭丸。信長様の……」

「おい、おまえ、次、オレを稚児呼ばわりしたら、叩き斬るぞ」

 先ほどから、散々、稚児呼ばわりされていて、マリアの沸点はかなり低くなっているようだった。初対面にもかかわらず、すでに臨戦態勢。あまり良い状況とは言えない。

「マリア、もめ事はあとまわしで頼むよ」

「おい、セイ、貴様だって今さっき、ひと悶着起こしたんだ。オレにもすこし暴れさせろ。不公平だ」

 そう言うなり背中の鞘に収めていた、大剣をぬっと引き抜き、目の前に身構えた。

 

「な、なんと、あんなおおきな剣を!」

 

 驚きの声を真っ先にあげたのは、信長だった。小さな女の子が、大男でも振り回せるかという剣を、いともたやすく扱っている姿を目の当たりにして、興味が湧いたらしかった。

 先ほどまでの信長の覇気の宿った眼力は、嘘のように消えていた。代わりに、珍しいものを見つけて、好奇にきらきらと煌めく少年のような目があった。

 

「おい、その(ほう)たちは何者だ?」

「ぼくは夢見聖。そして、こちらがマリア。そしてエヴァ……」

 そこまで聞いたところで、信長が背筋をすっと伸ばした。

「マリアだと……。そちらはキリシタンか?」

「違います」「そうだ」

 セイとマリアが同時に違う返事をした。マリアがそのまま会話を続けた。

「オレはキリシタンだ。だが、信長、マリアっていう名前にいちいち反応するな。こんな名前は世の中にはごまんといる」

「それよりもセイの話をちゃんと聞け。時間がない」

 

 マリアに諭されて信長がセイの方に向き直った。

「で、そちはどこから来た?」

「異世界から来ました」

「異世界から?。異国ではないのか?」

 

「いいえ。ぼくらは四百年後の未来の日本から来ました」

「ぼくらは、もうすこししたら、あなたがこの本能寺で死ぬことを知っています」

 

「な、なにぃ?」

 さすがの信長もそのことばに驚いて声が少々裏返った。

 

「明智光秀軍に謀反をおこされてね」

 

 それを聞いて信長が黙り込んだ。家臣たちにいたっては、(ひざまず)いたまま言葉を発せないどころか、身じろぎもできないほどの緊張感に包まれていた。(かしづ)いた男たちの顔から汗がふきだし、顎にむかってつーっと伝い落ちて行くのが見える。

 

「それは本当か?」

 気力で自分の唇を引き剥がすようにして、信長が尋ねた。

「あと数分もすればわかりますよ」

 セイはあくまでも事務的な口調で言った。

「ならば、そなたは、なにをしに来たのじゃ」

「それは、まだわかりません」

「わからない?。それはどういうことじゃ」

 

 セイは家臣たちの輪の端のほうで、柱に身を隠すようにしてこちらを覗いている若い女性のほうを指さした。信長をはじめ、そこにいるものが一斉に彼女に目をむける。

 

「あの若い女性が、あなたをどうしたいと思っているか……」

 

 そのとき、マリアが意地悪げな口調で、補足説明をいれてきた。

「そうだな。信長、おまえの運命はあの女次第だ。あの女が親指を突き上げれば、命を助けてやる。だが、親指を下にむけたら、今すぐこいつの首を刎ねてやる」

「マリアさん、この日本ではそんなジェスチャーはありませんよ」

 エヴァがマリアの間違いをただしたが、マリアはそんな小言など聞いていなかった。手にしていた大剣の刃を、ドンと地面に突き立てると、親指を下向きにしてから言った。

 

「オレはぜひ、親指を下にむけて欲しいところだな」

 



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第15話 女どもは苦しからず。急ぎ罷り出でよ

 信長が奥にいる家臣に目配せをした。すぐに数人の家臣によって、若い女性がセイの元へ連れてこられた。なにがなにやらわからないまま、衆目に晒されることになって、彼女の顔は蒼ざめていた。なによりも今にも喰らいつきそうな信長の目に見据えられて、人生で一番の恐怖のどん底を味わっているに違いなかった。

「おい、女、こいつに怯えなくてもいいぞ……」

 マリアは若い女性にそう言ったかと思うと、瞬時にして背中から大剣を引き抜いた。周りの者が気づいた時には、マリアは信長の首筋に大剣の刃を押し当てていた。

「おまえの答え次第では、この信長の首はこの場に転がる。おまえに手出しする暇もなくな」

 マリアは気を使ったつもりらしかったが、かえって彼女の恐怖を煽ってしまっている。真っ青になった彼女は、からだの震えがとまらず、その場にへたり込んでしまった。

 セイは彼女の近くまで歩み寄ると、頭上に手をかざした。

 

「かがり!。でてきて」

 すっと頭の上に、かがりの顔が浮かび上がった。かがりは目を閉じて、眠っているようにみえた。その輪郭はうすく透き通っていて、ややおぼつかなく感じられる。

「セイさん、これ、ちょっとまずいんじゃありません?」 

 かがりの姿をみて、脇からエヴァが心配そうに言った。

「あぁ。かなり精神への浸潤がすすんでる。急がないと、この人の『未練』の気持ちと同化して、完全に飲み込まれる」

 セイはかがりの頭の近くに手のひらを近づけると、かがりがふっと目を開いた。

「セイ……、ちゃん?」

「かがり、引き揚げにきた」

「引き揚げ?。どういうこと……?」

 セイはふーっと嘆息すると、かがりの顔に自分の顔を近づけて言った。

「かがり、きみは今『昏睡病』にかかってここにいる。この若い女性の『未練』を晴らさないときみは元の世界にもどれないんだ」

「この人の『未練』はなんだ?。かがり、教えてくれ」

 かがりは一瞬なにか考え事をしているような顔つきになったが、すぐに若い女性のからだのなかにひっこんだ。

 とたんに、若い女がふいに目頭を抑えて泣き始めた。口元を震えさせながらじつに悔しそうな表情でことばを漏らした。

 

「わたしは、信長様の天下を見てみたかった」

 

 

「ちっ!。この男を救えってか」

 マリア・トラップは唾棄するように言い捨てると、信長の首筋にあてがっていた大剣の刃をひいた。そのとたん信長がどすんと尻餅をつく。さすがの信長も生きた気がしなかったのだろう。あわてて蘭丸たちがうしろから支える。

 セイはからだを震わせる女性の肩に、やさしく手をおいてから信長に言った。

「信長さん。今からこの寺を明智光秀軍を取り囲みます。信長さんは逃げてください…;」

 ぼくらが、あなたを助けます」

「助けるぅだとぉ!。笑止。おぬしら子供数人でなにができる」

 蘭丸に支えられながら、よろよろと起ちあがった信長が声を張った。

「わしは馬でここから逃げる。弥助、馬を曳けぃ!」

「はっ」

 うしろに控えていた大きな黒人が、ぬっと前にからだを踏み出した。弥助は、その背丈の高さもさることながら、お世辞にも似合っているとは言い難い武士の出で立ちのせいもあって、なにやら本当の異世界から来た人物のようにみえる。

「信長さん、逃げられないと思うよ」

「セイ殿、わしの早駆けの腕前を知らぬから……」

「光秀軍は一万三千の兵で、この寺を取り囲んでいます」

 信長がことばを飲み込んだ。(うまや)に向かおうとしていた弥助の動きがとまった。その数字を耳にした者たちは、だれもがそこに立ちすくんだ。

「一万三千……だとぉ」

 マリアが腹を抱えるようなしぐさをして、信長に言った。

「うはは。しんがりのほうは、ここでおまえが討たれてることすら知らないだろうな」

 だが、信長はそんな態度を歯牙にもかけなかった。すこし考え込むような顔をすると、すっかり明けた空をみあげながら言った。

「まぁ、しかたがあるまい。人生五十年……、これも天命……」

 まわりを護衛していたお付きの者たちも、信長の覚悟のことばに身をただして(かしこ)まった。森蘭丸が無念そうにぎゅっと目を閉じながら呟いた。

「御屋形様……」

 信長はくっと顔をあげると、家臣を見渡して言った。

 

「女どもは苦しからず。急ぎ(まか)り出でよ(苦しゅうない、おんなたちは逃げよ)」

 女衆たちがあわただしく、奥の方へ向かい始める。

 



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第16話 このあと、豊臣秀吉が天下を統一する

 マリアがはーっとおおきくため息をついた。

「おい、信長。おめー、まさかここで死ぬつもりじゃねーだろうな」

「マリアどの、致し方ない。こちらは百人……。さすがの信長も一万あまりの兵を相手に勝ち抜けると思うほど、己を知らぬわけではない」

「ばーか。おまえがどうくたばろうと知ったことじゃないがな、こっちはそこの若い女を助けにきたんだ。とりあえず、おまえを今死なせるわけにはいかねぇーーんだよ」

「そうですよ。勝手に死なれては困ります」

 エヴァもたまらず、信長を説得しようとする。だが、信長の顔つきはすでに、自分の行く末を己で決めた、覚悟に充ち満ちていて、容易に翻意できそうもないように見えた。

「セイさん、あなたからもなんか言ってください」

 エヴァからそう促されて、セイはおおきく嘆息した。

「エヴァ、マリア、あきらめよう。仕方ないよ」

「おい、セイ、貴様、なにを……?」

 マリアが狼狽(うろた)えたが、セイはそれには構わず信長を正面にみすえて続けた。

「だって、この日の本(ひのもと)の歴史に、なんにも残せなかった武将だからね、織田信長という人は!」

「なにぃ!」

 信長がセイを睨みつけた。殺意がむきだしになったようなギラつく視線に、セイはからだが射竦(いすく)められるのを感じた。

 さすが、織田信長——。

 ひりひりと心臓の奥底まで焦がすような、おそろしいほどの眼力を肌で味わいながら、セイは事もなげな口調で信長に言い放った。

 

「このあと、豊臣秀吉が天下を統一する」

 

 そのひとことに辺りの空気が凍りついた。驚愕という表現では生ぬるいほどの衝撃に、だれもが思考をとめられ、身じろぎもできなくなっていた。

 だが、ひとり、信長だけはちがっていた。先ほどのセイへの怒りの発露など、子供の癇癪程度と思えるほどに信長の顔色はみるみる変わっていった。

 からだは憤怒でがたがたと震え、その姿はまるで鬼神だった。『怒髪、天をつく』という表現がこれほど似合う男はいない、とセイは感じた。

 

「ひ・で・よ・し・だとぉ……」

 

 信長の口元から、呪詛のように「秀吉」の名前が漏れ出してきた。

「えぇ、天下人(てんかびと)になった秀吉は、関白、そのあと、太閤になって栄華を欲しいままにします」

 信長の形相が、鬼神のごとく歪んだ。

「あの猿がきゃ……。あの足軽のハゲネズミが、天下人になるのきゃ」

「物分かりが悪りーな、信長。セイは、さっきから何度も言ってる……」

 

「太閤秀吉様とな」

 マリアが残酷な笑みを浮かべながら言った。セイの意をすぐに察したらしい。

「秀吉様の『安土桃山時代』は絢爛豪華な良い時代になるんですよーー」

 本人はまったく自覚していないようだったが、エヴァもさらに火に油を注いでみせた。

 

 その時、城の入り口のほうで、なにやら言い合いをする声が聞こえてきた。

「さぁ、信長さん、時間だ。光秀軍の第一陣がここに流れ込んでくる」

 セイがそう言うと、すぐにあわただしく廊下の床を踏みならして、数人の女が走り込んできた。

「御屋形様、大変です」

謀反(むほん)か!。明智光秀が謀反を起こしたか!」

「はい。その少年の申す通り、桔梗の旗です。光秀めが謀反を!」

 

 信長はセイのほうを振り向いた。セイはゆっくりと、諭すように、そして有無を言わさず決断を迫るような口調で言った。

「で、ここで潰《つい》えますか?、ここで。こんなとこで!」

 

 信長は黙したままだった。

「御屋形様、どうなさいま……」

 森蘭丸は信長の顔をのぞき込んだ途端、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

 ゆっくりと顔をあげた信長の顔は、まさに悪鬼のように歪んでいた。

「是非に…」

「是非に及ぶ、わぁ!」

 

(つい)えやせん。そんな終わり方をこの信長、己に許しはせんわ!」

 

 そのことばを聞いてセイはマリアとエヴァに指示をとばした。

「エヴァ、きみはぼくと一緒に敵を迎え撃って。マリア、きみは信長さんとかがりの護衛をお願い!」

 マリアは当然のように、その指示に異議をとなえた。

 

「おい、セイ。なんでオレが護衛だ」



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第17話 信長公におかれましては、お覚悟を!

 その時、鉄砲部隊と弓隊がわらわらと敷地内に入ってきた。

 総勢で百人はいなかったが、寺の境内に(たむろ)するにはいささか多すぎる人数で、信長たちがいる庭は、たちまち敵兵に埋め尽くされた。鉄砲隊はすぐに前に進み出ると、その場に膝をつき鉄砲筒を水平に構えた。そのうしろには立位のまま弓に矢をつがえる弓隊が控える。

 その無駄のない見事な動きは、本物の戦場で命懸けで鍛え抜かれたものなのだろう。

 隊の責任者らしきものが一歩前に足を踏みだし、信長の顔をみて言う。

「我が名は惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)(明智光秀)の先鋒、三宅孫十郎……」

「信長公におかれましては、お覚悟を!」

 

「そうはいかないよ」

 セイがポケットに手を突っ込んだまま、ポーンとジャンプしながら言った。

 セイのからだは上空をふわりと浮いたかと思うと、おおきな円弧を描きながらゆっくりと降りてくる。天空から降りたったかのようなセイの姿に、おもわず孫十郎がひるんだ。

「き、貴様、なにものだ?」

「信長さんをちょこっと助けに、未来からきた者だよ」

 そのすぐうしろにエヴァとマリアがぴたりと張り付いて、正面に立ちはだかった。

 孫十郎が信長にむかって叫ぶ。

「信長様、往生が悪すぎますぞ。小姓や稚児を盾にされるとは!」

 マリアがギロリとした視線を、孫十郎にむけて悪態をついた。

「おい、そこのくそったれ、だれが稚児だ」

 マリアが汚らしいことば遣いで罵倒したが、孫十郎はそれを無視して、ことさらに優しげな表情を作ってマリアを手招きをした。

「そこの稚児、危ないぞ。こちらへこられよ」

 うんざりとした表情のマリアが、エヴァのほうに顔をむけた。

「おい、エヴァ。あれ、オレが()っていいか?」

「マリアさん。あなたは信長様の護衛を頼まれたのでしょ」

 そう言うと、エヴァは手を前につきだして、手のひらを下にむけた。一瞬にしてその手のひらから、雷のような閃光がまたたいたかと思うと、その足元にミニチュアサイズの『拳銃』が転がっていた。

「わたくしが代わりに成敗しますから、お待ちください」

 エヴァがその銃をつま先で真上に蹴り上げると、ぼわっとおおきな煙が立ち昇った。その煙のなかから、とんでもなくおおきい銃がぬっと現れた。

 取り巻く者たちのあいだから、どよめきの声があがった。

 敵兵たちからは目を疑うような所業に思わず怯んだ驚愕の声。

 信長たちは目を見張る光景に思わずあがった驚嘆の声。

 銃の砲身はゆうに人間とおなじほどの長さがあった。拳銃の形こそしていたが、サイズは大砲と言っていい。だが、いたるところから拳銃にも大砲にもない把手のようなものが出ていて、どう見てもオートバイにしか見えない。車輪もなく空中に浮いている上、正面のカウルのど真ん中に、吸気口らしき大きな穴があいたバイク。

 エヴァがひらりと軽やかな動きで、砲身の上のシートにまたがる。

「エヴァ、またこの世に存在しない武器を創ったね」

 セイがいくぶんあきれたような口調で、エヴァに言った。

「セイさん、これは『ピストル・バイク』。どこの世にも存在しない武器ですわ」

「エヴァ、なんでもいいから、あのおっさんに吠え面をかかせろ」

 マリアがしびれを切らしたように、エヴァをせかした。

 エヴァはマリアのことばに返事をすることもなく、ハンドル部分についたトリガーに指をかけると、思いっきり引いた。

 

 ズドーォオオン。

 

 地響きのような音をたてて、オートバイの正面の吸気口と思われた穴から弾丸が発射された。バイクの後部テール部分から生えている何本もの排気用マフラーから、一気に排気が吹き出す。うしろにいた信長たちにもろに吹きかかり、みな思わず顔を覆ったり、そむけたりする。

「な、なんじゃ、今のは?」

 信長が叫んだが、目の前の光景をみて、おもわず目をみはった。

 

 一瞬にして銃口の前にいた武士たちが消し飛んでいた。あたりの木々はなぎ倒され、灯籠は砕け散り、塀は影も形もとどめないほどに壊れ、大きな穴が開いていた。

「な、なんと……」

 信長は呆然として、そのあとのことばが続かないようだった。だが、その様子を横目で見ながら、マリアががっかりとした声色でエヴァに文句を言った。

 

「おい、エヴァ。さっきのおっさん。跡形もなく消し飛んじまったんで、吠え面、見れなかったじゃねぇか」

 



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第18話 信長、うるさいぞ!。このばか!。はやく奥へ引っ込め!

 自分たちのすぐ脇を固めていた部隊が跡形もなく吹き飛んだの目の当たりにして、残された兵士たちが動揺のあまり、後方にたたらを踏んだ。

 セイが背後の信長たちのほうへ叫んだ。 

「マリア、信長さんを奥へ!。今の騒動で、次の部隊が境内になだれ込んでくる」

「いい感じで、塀もなくなったしな」とマリアが皮肉を挟み込むが、言っている間もなく、壊れた塀から、うぉーっという鬨の声をあげて、槍侍たちが境内になだれ込んできた。寺の周囲は堀に囲まれていたが、塀のあいだから見える信長の姿を目にしては、奮い立たないものはいない。われこそが一番槍を、と勇む者たちが、どんどんと飛び越えてくる。

「マリアさん、ここはわたしが相手します。はやく信長様を!」

 エヴァが『ピストル・バイク』のうえから叫んだ。

 

「マリア、かがりも……、その女の人も奥へ!」

 そう叫んでセイが、右手を大空につきあげる。

 手のひらに光が集まりはじめる。その光が目もくらむほど光ったかと思うと、セイの手の中には刀剣がにぎられていた。

「うおお……。なんだ今のは?」

 信長が興奮を抑えきれず、大声をあげて欄干からからだを乗り出す。

「信長!、うるさいぞ!。このばか!。はやく奥へ引っ込め!」

 そう(ののし)りながら、マリアが信長の尻を押して奥の間へ押しこもうとしていると、やにわに自分のうしろに大きな影が落ちたのに気づいた。マリアが振り向くと、自分と信長の盾になるように、黒人の弥助が立ちはだかっていた。

「おい、弥助、おまえも手伝え。おまえの馬鹿力で、この信長を奥の部屋へ押し込んでくれ!」

 罵声とともに名指しされた弥助は、驚いてふりむくと、自分を指さしてマリアに尋ねた。

「ワタシ……デスか?」

「なにぃ?。弥助は、ここにふたりいンのかぁ」

「ア、ハイ……イエ……」

 マリアはちいさく舌打ちすると、弥助を見あげた。稚児に間違われるほどの短躯のマリアが、大男の黒人の弥助と真正面から対峙する。

「弥助ぇ。おまえ、元々はイエズス会のヴァリニャーノが連れてきた奴隷だったらしいな」

 そのことばに背後にいた信長が割って入ってきた。

「あぁ、そうじゃ。だがわしが気に入って『弥助』と名付け、家来にした。マリア殿、なにか文句でもあるのか!」

 

「すまなかった」

 マリアが深々と頭をさげた。

 その思いがけない姿に、信長も弥助も虚をつかれた。

「今より未来のローマ法王の代理人として詫びる。時代が時代であった、とは言え、キリスト教の布教のため、罪なき男を奴隷として扱い、その人生を翻弄した……」

「許してほしい」

 

 マリアの真摯(しんし)な謝罪にどうして良いかわからず、弥助がおろおろとしていると、信長が高笑いをして言った。

「マリア殿、なにかわからんが、その謝罪、快く受けようぞ」

「ちょっと待て、信長。なぜ、おまえが上から目線で言う」

 

 マリアが信長にさらに罵声をぶつけようとしたところへ、森蘭丸と弟の坊丸と力丸の三兄弟が、床に膝をついて信長にむけて(こうべ)を垂れた。

「御屋形様、わがままを申さず、マリア様のご指示にお従いください」

 その真剣な表情に、さきほどまではしゃいでいた信長の表情が(りん)とひきしまった。

「うむ。わかった」

 信長が(ふすま)を両側に勢いよく開け放って、奥の間に歩をすすめた。

 

 その姿をみて、マリアがまだ(かしず)いたままでいる森兄弟の元へ進みでると、真ん中に控える森蘭丸に顔を近づける。

「よく言った。蘭丸。さすが信長の寵愛(ちょうあい)を受けていただけある」

「マリア殿、な、なにを申される」

「隠すな。おまえと信長の関係は、あちらの世界では大変人気があるぞ」

「あ、あちらの世界……。マリア様がいらっしゃる未来でですか?……」

「あ、いや、未来の特殊な世界だ。BLと言ってな。特定の女性が恋い焦がれているのだ」

「『びいえる』ですか?」

「あぁ、BL。ボーイズ・ラブの世界だ。蘭丸、オレもおまえに会えて光栄だぞ」

 そのやりとりを聞いていた弟の坊丸が、マリアににじり寄る。

「マリア様、わたしは……、わたしは後世でどのように語られているのですか?」

 そのことばにあわてて、末弟の力丸も申し出る。

「わ、わたしもです。わたしはどのように?」

 マリアはにこっと笑うと、坊丸の額に自分の額をくっつけた。驚いて坊丸は頭をうしろへひこうとするが、マリアが後頭部をがっちり押さえつけて言う。

 

「おまえたちは、この本能寺で死ぬ。なにも後世に残せぬままにな」

 坊丸は顔色ひとつ変えなかった。まだ小姓の身とはいえ、武士のさだめとして、常日ごろから死ぬ覚悟はしているという矜持がそこにみてとれた。

 だが坊丸はまさに目の前にあるマリアの虹彩(こうさい)に映った、自分の顔に気づいてハッとした。そこに映った自分は泣いていた。

 いつの間にか目から涙があふれでていた。

「わたしは……」

 

「だから、おまえたちは生きろ!」

 

 マリアはつかんだ坊丸の頭に力をこめて言った。

「おまえは、おまえたち三兄弟は、ここでは、この世界では死ぬな。生き延びろ。信長なんかのために命を落とすんじゃない」

「しかし……マリア様……」

 

「信長の命はオレが守ってやる!。絶対にだ」

 

 その時マリアの背後から敵兵の声が浴びせかけられた。

「信長様、覚悟!」

 

 振り向くと、いつの間にか、鎧武者に率いられた槍持ちの足軽たちに囲まれていた。その数、二十人以上。

 



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第19話 弥助、おめーえは死なねぇんだ

 じぶんたちのまわりが敵兵に取り囲まれているのを見て、マリアがすっくと立ちあがった。

「おい、エヴァ。どういうことだ?。(つね)の間(寝所)のほうに兵がきてるぞ」

「マリア、ごめんなさい。弾切れしちゃった」

 上空を見あげると、屋根の(ひさし)のうえにピストル・バイクにまたがったエヴァがいた。舌を半分だして、片手で自分の頭をこづくようなポーズをしている。

「エヴァ、こんなとこで『てへぺろ』たぁー、どういう了見だ」

 無数の槍先をつきだされたまま兵たちがじりじりと近づいてくる。マリアが叫んだ。

「おい、てめぇ、弥助。さっきは詫びをいれたんだから、おまえはこっちを手伝え」

「イヤ、シカシ……」

「心配するな。おまえはこの本能寺では死なねぇ」

「ソ、ソウナンデスカ?」

「あぁ、オレが保証する」

「ワカリマシタ!」

 マリアのことばに勢いを得て、弥助は最前面へ飛び出して、槍持ちの足軽たちを睨みつけた。その巨躯と黒い顔は、彼らが畏怖を与えるに充分な力があった。だが、足軽たちは恐れのあまり、うわーーーっと大声をあげると、弥助にむけて一斉に槍を突き出した。

 弥助の顔が苦悶にゆがむ。

 突き出された何本も槍先のうちの一本が、黒光りする弥助の右腕を貫いていた。

「弥助!」

 その様子を背後から見ていた信長が思わず、奥の間から飛び出してくる。

 が、突き出された何本もの槍先のうち、弥助のからだに刺さったのはその一本だけだった。それ以外は弥助の正面に、突然あらわれた「盾」によって防がれていた。

 それはマリアの大剣の刃だった。

 背中の大剣の刃をとっさに引き抜いたマリアが、彌助《やすけ》の前にかざして、槍の突きを受けとめていた。

 マリアが信長にむかって叫ぶ。

「信長、なにもどってきやがった。はやく奥にひっこんでろ」

「マリアサン、ヤラレタデス」

 彌助《やすけ》が顔をしかめながら言った。

「ざけんな。弥助。刺さったのは腕に一本だけだろうが!。おめーえは死なねぇんだ」

「シカシ……」

「しかしもへったくれもねぇぞ」

 マリアはそう言い捨てるなり、大剣を槍を突き出した体勢の足軽たちのほうにふるった。

大剣をもったまま、マリアがぐるんとからだを一回転させる。勢いあまって剣先が、ちかくにあった石灯籠にふれた。石灯籠はゆらりと揺れて傾いたかと思うと、自重に耐えきれず、ドスンという音させて倒れた。

 そのわずかな振動に呼応するかのように、取り囲んでいた兵士たちの首から血が噴き出し、ぼとり、ぼとりと地面に転がり落ちた。

 

 それを目の当たりにした信長が目を輝かせるのも当然だった。

「なんと、あんな大剣ををふりまわしておるぞ、あの稚児は……」

「おい、信長。なんど言わせる。オレを稚児よばわりせんでもらおうか。次、稚児扱いしたら……」

 マリアはドンと大剣の刃を地面に突き立てて言った。

 

「信長、おまえ、ぶった斬るからな!」

 

 その脇で森三兄弟がとまどった表情で、お互いの顔を見合っていた。さっきの宣言は、なんだったんだ、ということらしい。

 



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第20話 いや必要ない。こっちはもう討たせてもらった

 足軽たちがその場に飛び散ったあとも、弓侍、刀侍、槍侍たちが次々と中庭にのりこんできた。ザザッと派手な玉砂利の音をさせて、槍侍たちがセイたちを取り囲む陣形をとる。

その奥から立派な鎧に身を包んだ鎧武者が姿を現した。その軍勢を率いている隊長とおもわしき男が、ひときわ長い槍を抱えて前に進み出る。

 鎧武者は先陣をきった部隊がことごとく倒されているのを見て、その中心に立っているセイに目をむけた。

「これはきさまがやったのか」

「そうだ。この三人の若者が全部やったのだ!」

 信長がからだを前のめりにしゃしゃりでると、わが事のように威張りくさった

「信長、黙ってろ!!」

 マリアが信長を大声でしかりつけた。

 

 鎧武者がセイの目を見て言った。

「きさま何者だ。どうやら、バテレンとも違うようだが……」

「誰だっていいでしょ。あなたが知るには及ばないよ」

「きさま、私が誰だと!」

「知ってるよ。あんたが信長に致命傷をおわせる男だからね。安田国継さん、いや天野源右エ門さんか……」

 

「なんと!」

 国継が驚愕とも困惑ともとれるような表情を浮かべたが、セイは突き放すように言った。

「でも、どうだっていいや。だってあんた……」

 

「試験にでないもん」

 

 安田国継の形相が変わった。

「なにかは知らねど、私を愚弄するとはいい度胸だ。小姓だと思って目こぼしをしようと思うたが、信長の前にまずはお主を討たせてもらおうか?」

 安田国継が槍を構え、セイの方にむける。

「いや必要ない。こっちはもう討たせてもらった」

 

「なにい」

 安田国継が怒りの声を発したが、その一瞬ののち槍をかまえた両手がぼとりと地面におちた。槍の先が緑石にぶつかり、カランと乾いた音をたてる。

 国継が、なくなった上腕を唖然として見つめるが、その表情のまま首から血を吹きださせると、切断面を見せながら頭がうしろに倒れた。その場に崩れ落ちる国継のからだ。

「あいかわらず、みごとな太刀筋ですねぇ」

 エヴァがピストル・バイクのシートにしなだれかかったまま、うっとりとした目つきで言った。

 

 安田国継が目にもとまらぬ速さで討取られて、部下たちはたじろいだ。が、思わずうしろに半歩さがった途端、首元から血煙を吹きださせて、バタバタと倒れていった。

 彼らの前にいつのまにか、剣を抜いたマリアがいた。

「エヴァ、オレの太刀筋も、見事だろうが」

「はいはい、見事ですわよ」

 ピストル・バイクの車体に寝そべったまま、エヴァが気のない拍手を数回してみせる。

 

 信長は興奮を隠せず、蘭丸の胸元をつかんで大きくゆさぶった。

「うはははは。蘭丸!!。見たか、セイの太刀を!、あの稚……、マリアどのの太刀を!」

「あ、はい……、いえ、信長様、どちらもわたしにはまったく……見えませんでした」

「そうじゃ、いつ抜いたのか、いつ斬ったのか、まったくわからんかった」

 エヴァが額に青筋をたてんばかりに顔をゆがめて、うしろをふりむいた。

「静かにしろ、信長。いい加減、叩き斬るぞ。このうつけ者!!」

 

 後続の部隊がすぐに攻めてきそうもない気配を感じ取って、セイは空にむかって大声で叫んだ。

 

「明智光秀!!」

 

「あんたがすぐそこの、三条堀川に陣をかまえているのはわかってる」

 



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第21話 光秀、やはり、おまえでは力不足だったな

「どうしたということだ。わたしの名を呼ぶ者がおるぞ」

 自分の名を呼ぶ声に明智光秀は、床几(しょうぎ)と呼ばれる折畳み椅子から思わず立ちあがった。背後に鎮座していた斎藤利三(としみつ)がいかめしい顔で光秀に言う。

「信長公を討ち取ったという鬨の声ではありますまいか」

 そこへ別の兵に肩を抱えられながら、痛々しい姿の伝令が光秀の前に歩み出ると、顔をゆがめながら跪いた。

「どうした。信長公を討取ったか?」

「恐れながら、光秀様。信長公討伐先鋒、三宅孫十郎様、安田作兵衛国継様・明智左馬助秀満様が討ち死にされました」

「な、なんと申した」

「先鋒の部隊はほぼ全滅状態でございます」

「ど、どういうことだ。まさか信長公が兵を隠して、我々を(たばか)ったという……」

 光秀は動揺のあまりことばに詰まってしまった。それを見て取った五宿老のひとり、藤田伝五が進み出て伝令に尋ねる。

「信長公の嫡男、信忠殿の兵が加勢にきたのか?」

「いえ。それが……、それが、たった三人の小姓に討取られてございます」

「たった三人の小姓……だと……」

 光秀の声は消えいりそうなほど小さくなった。圧倒的な戦力差、しかも朝早くから奇襲をしかけたのだ。

 信長をひとり討取るのに、てこずるなどという状況をどうして信じられようか?。

 光秀が次の一手をどうしていいかわからず、周りに重臣たちのほうに意見を求めようとした。

 その時、またあの声がきこえてきた。

「光秀さん。あなたに話がある。こちらに来てほしい」

 伝令が(かしず)いたまま、悔しさまじりに叫んだ。

「あいつが……、あの小姓が、我が方の兵を撃破した小姓です」

「ど、どうすればーーー」

 

「光秀、やはり、おまえでは力不足だったな」

 光秀の背後からどっしりと重たい声がきこえてきた。

 斎藤利三(としみつ)だった。

 ただならぬ気配を感じて光秀がふりむく。そこにおおきく足を広げて、ふてぶてしい姿で座っている利三がいた。

「利三、お主、どうしたのだ。おまえらしくない……」

「黙れ光秀、おまえはもう用済みだ」

 ただならぬ利三の雰囲気に、光秀の娘婿で五宿老のひとり、明智光忠が刀の柄に手をかける。

「利三どの、おことばが過ぎま……」

 光忠の叱責のことばは、そのまま彼の最後のひと息となった。

 利三が突き出した右腕が、まるで槍のように光忠の腹を貫いていた。堅牢な胴鎧をも易々と突き破って、利三の腕が光忠の背中からつきだしている。

「明智光忠どの。おまえは、もっと用済みなんだよ」

 

 あたりの家臣たちが、刀や槍を構えて利三を遠巻きにする。一番正面にいる槍侍が嘆願するような声で叫んだ。

「利三どの!。お控え下さい」

「利三どの……ね。貴様らは俺様が利三だとまだ思うてるか」

 利三は家臣たちをぐるりと見回した。

「ふむぅ、なかには使えそうな兵が、まだおるようだな」

 利三が天空に腕をつきあげると、空中でなにかを掴むような仕草で、拳を握りしめた。とたんに、家臣たちの顔が驚きにゆがむ。いつのまにか利三の手の中に、どす黒い光を放つ光の矢が幾束も握られていた。その光の矢は矢の形をしてはいたが、まるで生き物のようにぬたぬたとのたくっていた。矢じりは鎌首をもたげ、羽根は断末の虫の羽のようにびりびりと嫌な羽音を響かせる。

 利三はぐるりとからだを回転させて、その矢をまわりを取り囲む兵たちに投げつけた。

 矢は放射状に飛び出したかと思うと、次々と兵士を貫いていった。

 次々と兵士たちがその場に崩れ落ちていくのを見て、明智光秀は呆然とするだけだった。自分の片腕と見込んで長年信頼をおいてきた斎藤利三が豹変し、娘婿の明智光忠が惨死し、いままた古参の腕利きの家臣を一瞬にして奪われた。光秀にすれば、この場で膝をおることなく立っていることだけが、信長の家来として戦場を駆けた男としての矜持。

 だが、その矜持だけでは対峙できない敵がここにいる。

「さすが光秀軍の精鋭。なかなかどうして、ずいぶんな数の(おとこ)が蘇ったものだな」

 利三のそのことばに、はっとして顔をあげた光秀は、さきほど矢に射ぬかれた家臣たちが、ゆっくりと立ちあがってきていることに気づいた。

「おぉ、皆の者、無事であったか。伝五殿も……」

 そこまで言って異変に気づいた。立ちあがってきた家臣は、光秀が旧知の者たちではなかった。その顔はまるで伝承で語られる悪鬼そのもの。その体躯からは腐った臭いがまき散らされ、満腔から凶事だけを感じさせる気を放っていた。

「こ、これはなんとしたことだ……」

「光秀、完遂するぞ」

 利三が光秀を睨みつけた。その瞳のなかの邪気に気圧されて、思わず足がすくむ。

「な、なにを完遂すると……」

 利三は200メートルむこうに見えている本能寺の屋根を見やりながら言った。

 

「しれたこと、信長を討つのだ」



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第22話 行って、織田信長を食い散らせ!

 寺の塀の外から「うぉーっ」と聞こえてきた(とき)の声の異変に、最初に気づいたのは織田信長だった。あまたの戦場で聞きなれた武将ならではの気づきだったのかもしれない。

「なんじゃ、あの鬨の声は?。あれは誠に人の発するものなのか?」

 森蘭丸がすぐさま尋ねる。

「御屋形様、それはどういうことでしょう?」

「だれも感じんのか?。あの三条堀川から聞こえてくる声は、人間のものではない!」

 セイがピストル・バイクにまたがったエヴァに言った。

「エヴァ。上から見てきて」

「そうですわね。気になりますわ」

 そういうとスロットルをふかして、バイクをさらに上に上昇させた。寺の庇をこえる位置まで上昇したところで、マリアがはーっとため息をついた。

「セイさん、マリアさん、たいへん困った事態になりましたわ」

「おい、おい、なにを見つけた。もったいぶるなよ」

「魔物の軍団がこちらに向かっていますわよ」

「なに、魔物だと?」

 信長が驚きの声をあげたのを聞いて、蘭丸がエヴァのほうを見あげながら、声を張りあげた。

「エヴァ殿、見間違いではござらぬか。そんなものは、この時代にはおりませぬぞ」

 蘭丸の見解にエヴァがすこしふてくされたように口をとがらせた。

「だってぇ、いっぱいいるんですよ。鬼……、そう鬼みたいなのが」

「鬼じゃとぉ」

 信長が素っ頓狂な声をあげて驚いた。

「信長、いちいちうるせーぞ。殿様はどーんと構えておけ」

 マリアがエヴァのほうに目をむけたまま、言葉だけを信長のほうへ投げかけた。

 その時、エヴァが叫んだ。

「なにか飛んできます!」

 

 その瞬間、ものすごい爆発音と共に三条堀川方面の壁が吹き飛んだ。立っていられないほどの爆風が、本能寺の境内を吹き抜ける。寺の障子や戸板が外れて、部屋のなかに飛び込んでくる。おびただしい爆煙が地表を這い、目も空けていられないほど立ちこめる。

「御屋形様!」

 弥助がとっさに己のからだを盾にして、飛翔物がぶつからないように信長に覆いかぶさった。爆風はすぐにおさまったが、爆風に煽られた家臣や小姓たちが、もんどりうって庭に転がっていた。

 セイたちはそれぞれの方法で難を逃れていた。セイは正面に形作った光のバリアで、マリアは地面に突き立てた大剣の刃を衝立にして。

「来ます!」

 高見からエヴァが叫んだ。

 煙が晴れ渡ってくると、三条堀川側の壁は元からなかったかのように、すっかり崩れ落ちているのがわかった。そして河川敷からここまでの約二百メートルの家や壁や塀は、完全になぎ払われており、そこには不自然なほど開けた空間があった。

 

 そのむこうから魔物がぞろぞろとこちらへむかってきていた。

 その中心に総大将らしき男がいた。魔物ほどは大きくなかったが、その体躯は禍々しい『邪気』をまとっていた。総大将は人間を紐で縛りつけ、ずるずると引き摺りまわしていた。

 

 明智光秀だった。

 

「光秀!」

 弥助の身体の脇から、それを見つけた信長が叫ぶ。

 その声にゆっくりと明智光秀が顔をあげた。顔はすでに地面にこすりつけられ血だらけで、衣服もぼろぼろになって、いたるところに血が滲んでいた。

 

「御屋形様……」

 光秀が消え入りそうな声で言った。

 それを聞いて光秀のからだを引き摺っていた総大将が高笑いした。

「この斎藤利三。この明智光秀をたぶらかして、信長公を討つことを決意させたが、まさか小姓どもに、その計画を防がれるとは思いもせんかったわ」

「なんと、貴様だったか。光秀を(そそのか)したのは!」

「あぁ。だが小細工するまでもなかったわ」

 斎藤利三は明智光秀のからだをひっ掴むと、思い切り信長のほうへ放り投げた。おそろしい怪力で飛ばされた光秀のからだは、数十メートルもの弧を描いて本能寺の境内の玉砂利のうえに落ちた。

「光秀!」

 おもわず光秀に駆け寄ろうとする信長を、森兄弟と弥助が押しとどめる。

「御屋形様、なにかの罠かもしれませぬ。お控えください」

 

 

 そのとき、斎藤利三がまわりにはべる魔物たちにむかって手をふった。

 

「行け!。行って、織田信長を食い散らせ!」

 



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第23話 信長、てめえの命を救うのは、まったく楽じゃねぇぞ

「たまらんな!」

 ものすごい数の悪鬼の軍団が三条堀川から走ってくるのをみて、マリアがうれしそうな顔つきをした。

「今日はサービス・ダイブだと思ってましたのに、そうそうラッキーは続きませんのね」

 エヴァがため息まじりにマリアに愚痴をこぼした。

「エヴァ、なにを言ってる。充分なサービス・ダイブだ。エキストラ・ステージ付きとは、破格のサービスじゃねーか」

「まぁ、信長様ほどの方の歴史に干渉しておいて、はいお終い、とはいかないのはわかっていましたけど。けっきょく超過勤務になるのですね」

「は、そもそも、こいつはボランティアだろう」

 うしろからセイがふたりにむかって声をかけてきた。

「マリア、エヴァ、数が多すぎる。ぼくは中央の敵をやるから、君らは左と右にわかれて、その両側の敵を頼む」

 だが、マリアはそれにたいして、別の提案をしてきた。

「いや、セイ、おまえは右半分の敵をやってくれ。左半分はオレとエヴァの二人で殲滅(せんめつ)する」

「二人で?。珍しいね」

「マリアさん、いつ私があなたと一緒に戦うと承諾いたしました?」

 エヴァが突然の申し出にすぐに異論を唱えたが、マリアは殊勝な態度で頭を下げた。

「エヴァ、頼む。協力してくれ」

 マリアらしくない態度に、エヴァが思わずためらった。

「この戦い。さっさと済ませてぇんだ……。

 ドラマの最終回、録画しわすれてきたのを思い出したんでな」

「えーー、なんですの、それ……」

「つべこべ言うなよな。こんな時の、コーオペレイティブ・ダイバーだろ」

「まったく、都合にいいときだけ、そんなこと言うンですね

 まったく悪びれることないマリアに、エヴァがぶ然とした顔をむけながら言った。

「それで、マリアさん、どうすればいいの?」

「そのピストル・バイクで敵陣深くとびこんで、一発ぶっぱなしてくれりゃあいい。あとはオレが蹴散らす」

「ぶっ放す?。もうこのピストルには……」

「けちけちすんな。どうせもう充分すぎるほど『気』は回復してんだろ?」

 図星を言い当てられたのか、エヴァがあわてて言い訳をした。

「だって、今回はただ働きなんですよ」

 マリアはそれを聞き流すと、エヴァのピストル・バイクの後部座席に飛び乗った。マリアが勢いよく座席に座ったので、空中に浮かんでいるバイクのうしろ部分がぐっと沈み込んだ。

「マリアさん、勢いよく乗らないでくださいな」

 エヴァはうしろを振り向いて文句を言ったが、マリアは気にも留めずエヴァの耳元に口をよせて囁いた。

「エヴァ、こんな事態でも出し惜しむつもりか」

「マリアさん、だって……」

「オレは嫌いじゃねーぜ。そういうブレねーのは。だが、セイが知ったらどう思うだろうだろうな」

 そのひとことにエヴァが観念した表情に変わっていった。すぐに正面に向き直るなり、バイクのエンジンをブオンと吹かした。

「突撃するから、ちゃんと掴まっててくださいね、マリアさん」

「エヴァぁ、ものわかりがよくなったじゃねぇか」

 マリアが後部座席で満足そうにほくそ笑んだが、エヴァはそれを無視するように、ぐいっと思いっきりスロットルレバーをひねった。

 ピストル・バイクがカタパルト射出装置から発射されたような勢いで、どんと敵陣上空へ一気に飛びだした。

 

 信長が「うおおっ」と感嘆の声をあげた。

 興奮が抑えきれないのか、すぐ脇に控えている森坊丸の頭を叩きながら大声をあげた。

「坊丸、見たか。なんという荒馬じゃ!。一気に空を()けよったぞ」

「ですが、わたくしはあのマリア様が心配でございます。御屋形様」

 ずいぶん、(かしこ)まった物言いに信長が坊丸の顔を覗き込む。

「どうした坊丸。そちはあの幼子に興味があるのか?」

 坊丸が顔をすこし赤らめると、下をむいたまま言った。

「おことばですが、御屋形様。マリア様はわたくしと同い年でございます。幼子では……」

 信長がいじわるそうな目つきを坊丸を見てから、兄、森蘭丸に囁くように言った。

「坊丸はあのような、気の荒い女子(おのこ)が好みなのじゃな」

 森坊丸がますます顔を赤らめた。

 

 

 空中に踊りでたエヴァとマリアの車体に、魔物の兵士たちが一斉に目をむけた。獲物を見つけたという爛々とした目。それだけでなく、猛獣を思わせる低い唸り声や、舌なめずりする音、カチャ、カチャという装具がぶつかる音が、そこかしこから聞こえてくる。

「あいつら死ぬのがわかってねーな」

「とりあえず、おおまかに、はらいます」

 そう言うと、エヴァがハンドルのトリガーをひいた。

 

 あたりを揺るがすような爆発音とともに、一瞬にして十体以上の魔物たちが吹き飛んだ。

 マリアはその爆心地のど真中に飛び降りると、まずは手負いになった数体を大剣で串刺しにした。すかさず奥へ突進し、舞いあがった煙で前方がよく見えずに右往左往しいている魔物たちをぶった斬りはじめた。

 地面に黒々とたなびく煙のなかに、背のひくいマリアのからだが埋もれて、魔物たちには、大きな剣がまるでひとりでに動き回っているようにしか見えない。のたくるような軌跡で動きまわる大剣の切っ先だけが、手ぎわよく魔物ののど笛を掻き切っていく。

 煙が消えた時には、あらかたの魔物は斬り伏せられていた。

 だが、さすがのマリアもかなり体力を消耗したらしく、地面に突き立てた大剣にからだをもたれかけさせて肩で息をしている。

 頭上からピストル・バイクに乗ったエヴァが心配そうに声をかける。

「マリア、大丈夫?」

 マリアは視線だけを上にむけた

「参ったよ。こちらはただの精神体なのに、こんなに息があがってる。どういう仕組みだ、本当に。まったく難儀でいけねぇ」

「マリアさん、でも、むこうの体、今ごろで3kgくらいダイエットできてるわよ。よかったじゃない」

「ふざけるな。それでなくても大きくなれなくて困ってんだ。小さくなってどうする!」

 マリアがエヴァに悪態をついたが、残り魔物たちがじりじりと距離を縮めてきているのに気づいて、もたれかかっていた大剣を引き抜いた。

「やれやれ、休ませねぇーってか」

 マリアはうんざりとした表情で、本能寺のほうにむかって大声で叫んだ。

 

「信長ぁぁ、てめえの命を救うのは、まったく楽じゃねぇぞ!!」



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第24話 我が名は惟任日向守 五宿老、藤田伝五!!。参る!。

 右側の敵に対峙するセイのうごきは実にシンプルだった。

 セイはこちらに突進してくる敵陣に正面からとびこむと、からだをぐっと沈みこませて、滑りこむようにしてまずは横に一太刀ふるった。刃をふりだす強烈なスピードに刀身がしなったかと思うと、そのまま数倍もの長さにひゅんと伸びる。十メートルはあろうかという刀身が魔物たちの足元をすくう。

 そのひと太刀目で、先鋒の一列目の魔物たちの、膝から下を断ち切った。

 前のめりで突進してきた魔物たちの膝から上だけが、その勢いのまま前に放りだされる。そのすぐうしろを走っていた部隊は、その残された足や転がったからだにつまずきそうになって、あわてて避けようとする。それだけ注意がそれれば、セイにとってあとはたやすかった。ふた太刀目は、魔物たちに首筋を狙って一閃されていた。一瞬でも足元に気をとられた者の首は、もう次の瞬間には空中に舞っていた。

 一瞬にして数個の頭が地面に転がる。

 

「うおおおー」

 信長が雄叫びのような奇声をあげる。同時進行しているマリアとエヴァの活躍を合わ見ている。信長の興奮は収まるどころか、さらに高まっていた。今度は弥助の胸ぐらにしがみついて激しく揺さぶりながら言った。

「なんという太刀筋じゃ!。一気に十人は斬り伏せおったわ」

「大変……凄うご……ざいますな、御屋形……様」

 興奮した信長にからだを揺さぶられては、弥助もなんとかことばを返すのがやっとだった。

 

 一群となって斬りかかってきた魔物を倒した先にいたのは、二体の魔物だった。

 さきほど殲滅(せんめつ)した魔物よりも一回り大きな体躯で、首回りは太く強靱そうな体つき。防具も重厚かつ強固で、臑当(すねあて)を見ただけでも、先ほどのように足や首を薙ぎ払うようなまねは難しそうだった。

 

 ラスボス前の中ボスってところか……。

 

 セイは走りながら、空中にむけて手をあげた。

 手の中に光が走って、三本の刀が空中に出現した。刀は突っ込んでいくセイの上を追従するようについてくる。

 正面の中ボスに近づくと「我が名は惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)五宿老、藤田伝五……」と名乗りをあげてきた。

 セイはそんな武士の作法に、一切配慮なく、けさ懸けに藤田伝五に刀を振り降ろした。伝五が力強い力でその太刀を正面から受けてくる。セイはそのままその刀を押し込むと、その剣から手を離した。セイの手が離れたにもかかわらず刀は力を加え続け、藤田伝五の刀を押しとどめ続ける。

 セイは頭上に浮いている三本の刀の一本の柄に手をかけると、勢いよく引き抜き、そのまま藤田伝五の首筋むけて打ち下ろした。セイが手放した刀と(つば)ぜりあいをさせられていた伝五は、その太刀を受けるすべがなかった。刃が首の中心部分までざっくりと食い込む。

 だが、伝五のからだはまったく揺らぎもしない。首に刀が刺さったまま、ぎろりと凶悪な目をセイにむける余裕すらあった。

「そんななまくら刀では、我を斬るのはでき……」

 そう(うそぶ)いたが、矢継ぎ早にセイが頭上から二本目の刀を引き抜き、伝五ののど笛に突き立てるのは見えなかった。咽を貫かれことばが途切れた。

 二本の刀を首にさされて、さすがの魔物もうしろによろめいた。(つば)ぜりあいをしていた無人の刀が、ここぞとばかりに、ぐっと伝五のからだを押し込む。バランスをうしなって、うしろに倒れる伝五。

 その背後に三本目の刀を抜いて待ちかまえているセイがいた。倒れてくる伝五の延髄(えんずい)付近をめがけて刀を突き出す。

 どーんと派手な音をたてて倒れた時には、自重と倒れた勢いもあって、完全に刀身は首をうしろから前に貫いていた。

 すでに勝負はついていたが、セイは無人で魔物の相手をしていた剣を掴むと、魔物のうえに飛び乗り、三本もの刀が刺さった首筋にむけて、四本目の刀を突き立ててとどめをさした。

 

 セイは絶命した藤田伝五のからだから飛び降りて、マリアたちが戦っている方角をみた。

 場合によっては左の中ボスも倒さねばならない。

 

 と、ドーンとあたりの空気を震わせるようなひときわ大きな爆発音がして、左側の中ボスの上半身が吹き飛ぶのが見えた。ぱらぱらと辺りに肉片が飛び散る。

 その足元には剣を地面に突き立てたマリアが、そしてそのすぐ上にピストル・バイクに乗ったエヴァがいた。セイはすぐにふたりがどうやって倒したかわかった。

 マリアが中ボスに接近戦を挑み、足に剣を突き立てて身動きできなくしたところで、至近距離からエヴァが一発見舞った、ということだ。

 セイが見ているのに気づいて、疲れ切った顔でマリアが親指を立てて見せてきた。

 

 そのとき、ふっと空気が揺らぐのを感じた。

 セイがとっさに剣を構える。

 刃と刃の噛み合う音。

 

 襲ってきたのは斉藤利三(さいとうとしみつ)だった。

 



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第25話 そろそろ正体、現してくれるかなぁ

 利三の振り降ろした一撃は、とてつもなく重たいものだった。セイはその一の太刀を正面から受けきることこそできたが、そのまま地面に叩き伏せられていた。

「うはははは。小童(こわっぱ)。よく受けた。だが、次はない」

 セイは次の攻撃にそなえて、刀を身の前で構えた。だが、先ほどの打擲ですでに限界をむかえていた刀身は、ひび割れた漆喰のようにばらけ落ちた。

 セイは柄だけになった刀をいまいましげに投げ捨てると、すぐに空中から新しい刀を現出させて、再度身構えた。

「刀は何本でも出せるようだが、そんな(なまく)ら刀、何万本あっても無駄だわ」

 セイは利三にむかってニコリと笑って言った

「なんでだろ。自分が強いと勘違いしているヤツって、必ず負ける前に同じようなことばを吐くんだよね」

「なにぃ」

 利三が気色ばんだのを見てセイがさらに言う。

「そう、それそれ。煽ると今度はその反応だ。まさか自分が死ぬフラグ……知ってる?」

「フラグだと。ばかにするな」

 セイは自分の額に手をあてて、苦笑いした。

「ごめん。二十一世紀の外来語を使った……。でもあんた、この意味わかってるよね……」

「じゃあ、そろそろ正体、現してくれるかなぁ」

「いいだろう」

 そう言うと、利三の白目と黒目がくるくると、めまぐるしく入れ替わりはじめた。人間がやれる芸当からはすでにおおきく逸脱している動き。しばらくすると、山羊の目のような四角い瞳孔が現われた。

「我が名は……ザレオス」

 その名を叫ぶと、体がむくむくと膨れあがり、どんどん肥大化しはじめた。鎧や防具はその変化に耐えきれず、弾け飛んでいく。

 その体は人間の大きさの範疇を越え、さらにおおきくなっていく。

 

「ついに『トラウマ』が正体をあらわしたね」

「なにをおっしゃるの、セイ。あれはたんまりお金が稼げるお宝。『トレジャー』と呼ぶべきですわ」

「セイ、エヴァ、おまえらは馬鹿か……」

 大剣をずるずるとひきずりながら、マリアがセイの方に歩いてきながら叫んだ。

「あいつ、ザレオスと名乗ったよな。つまり、あいつは正真正銘の『悪魔(デーモン)』だ」

「へー、そう言えば、なんか言ってたね」

 

 冷静な表情で答えるセイに、ピストル・バイクのエヴァが上空から声をかけた。

「セイさん。これちょっとまずいんじゃありません」

「そうかい?」

「すくなくとも、あのドナルド・カードさんのときと同じくらいは巨大化してますわよ」

「バカが!。あれと一緒にするな。このザレオスは65番目の悪魔だぞ。格が違う」

 マリアはそう指摘すると、エヴァのピストル・バイクの後部座席に飛び乗った。エヴァは無言のまま、すぐにバイクのハンドルを反転させ、信長たちがいる本殿のほうへむかう。

マリアが後方をふりむくと、ザレオスはすでにビルの三階ほど大きさにまで巨大化し、このあたりの建物のすべてを睥睨するまでになっていた。

「残念だがエヴァ、あれはオレたちの手には負えない」

 それを聞いたエヴァはスロットルを引き絞りながら、かがりの魂が宿る若い女性にむかって大声をあげた。

「かがりさん、あなたの出番です!」

 かがりが頭のうえに現れた。

「エヴァ。なにをするの?」

「セイさんに力を貸してください」

「セイに力を?」

 

 そのとき、セイの叫ぶ声が聞こえた。

「かがり、元の時代に戻りたいって願え!」

 セイは巨大化しているザレオスに背をむけ、こちらにむかってきていた。

「21世紀に戻りたいって願ってくれ」

「でも、信長様が……」

「かがり、その思いは君のものじゃない!」

「きみは21世紀に生きている、ただの女子高生だ。ヒップホップ・ダンスに夢中で、英語がちょっと苦手で、アイドルに興味があって、駅前にできたSNS映えするスイーツ店が気になってる、ふつうの女子高校生なんだ……」

「えぇ。でも……」

「かがり、信長の天下統一なんかよりも、そっちがずっと大事だろ』

 セイがにこりと笑ってみせた。

「さぁ、帰ろう」

 かがりが素直にうなずいた。

「うん」 

 



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第26話 元の時代にもどりたいって願え!

 マリアは廊下から状況を見守っている信長たちの上空にくると、ピストル・バイクの後部座席から飛び降りた。

「マリア殿。よくぞご無事で」

 森力丸が心配そうな顔でマリアの元に駆け寄ろうとしたが、マリアはまっすぐ信長の元にむかっていく。

「おい、信長。ここを離れろ」

「マ、マリアどの、どうされた?」

「セイは本気を出すつもりだ。逃げねえと危ねぇ」

「なんと。それならば、わしはセイどのの本気を見てみたいぞ」

「このうつけ。おめぇが巻き添えくっては元も子もねぇだろうがぁ」

「そうはいかぬ」

 マリアはちっと舌打ちをすると、脇でどうしていいか判断しかねている蘭丸たちに声をかけた。

「おい、森兄弟。弥助。この馬鹿を連れ出すのに協力しろ!」

「許さん。わしをここから引き離そうとしたものは、切腹を申し付けるぞ」

 信長が先制して家臣たちを恫喝(どうかつ)した。そのことばに(ひる)んで、誰一人としてマリアのことばに従うことができずにいた。

「くそ!。この馬鹿野郎が」

 頭にきたマリアは信長の(まげ)に飛びついて、信長を引き倒した。廊下に大の字に信長のからだが転がる。

「マリアどの、おやめください」

 あわてて蘭丸以下家臣たちが、信長の(まげ)を引っ張るマリアを引き剥がしにかかる。

 

 

 セイがおおきく息を吸って、かがりに力強く叫んだ。

「かがり、もう一度言うよ……」

 

「元の時代にもどりたいって願え!」

 

 かがりが指をからだの前で組んで、目をつぶって強い思いを叫んだ。

「元の時代に……、聖ちゃんたちがいる時代にもどりたい!」

 

 

 その瞬間、太陽が落ちてきたかと思うほどの目もくらむような光が、セイの手の中から立ち昇った。その光をセイがぐっと掴む。

「こい。『未練の力(リグレット)!』」

 すぐにその光が刀の柄となって具現化する。

 そしてその柄から刀身が伸びはじめる。のたうち回る光の渦が、刀身となって肉づいていく。長く、おおきく……。

 

 セイは刀をふりあげて肩越しに振りかぶった。圧倒的な光量に、信長も、マリアも、家臣たちもみな目を開けていられず、思わず動きがとまる。

「マリア殿。あれはなんじゃ」と信長が叫んだ。

「あれは『心残り』を晴らしたいという、あの女の思いだ。セイは、あいつには、その『思い』を手にすることで、無敵になれる能力がある。まったくチートだよ」

「ちぃと?」

「いや…;、だが、これは、まずいな」

 マリアが呟くと、マリアの下に組み敷かれていた信長もさすがに、これは一大事とばかりにからだを起こして、マリアに尋ねた。

「マリア殿、どちらに逃げればよい」

 マリアは再度舌打ちしてから、家臣にも聞こえる声で言った。

「みな、とりあえずこの本殿から出ろ。この寺は砕け散る」

 

 

 目の前で巨大化を続けていたザレオスのからだは、『五重の塔』ほどの高さほどになったところで、とまった。

 目の前で手を背中にむけたままのセイを睨みつける。山羊のような四角い光彩が、生き物すべての精気を奪いとるような力をはらんでいく。飛んでいる鳥すら、その場で命をうしなって落ちてくると思われるほどの、圧倒的な凶気。

「どうした。あまりの恐怖に動けなくなったか」

 ザレオスが邪悪な笑みをうかべて、セイをあざ笑った。

「いいや。あんたの最大級のまぬけ面をみたくて待ってた」

「貴様ぁ、この後に及んで愚弄するとは……」

「『大男、総身に知恵が回りかね』ってね。でかくなると、まぬけになるンだよねぇ」

「なにぃ。おまえなど一撃で消し飛ばしてやる」

 ザレオスが前に足を踏みだし、セイに殴りかかろうとする。

 

「トラウマ、おまえを浄化(クレンジング)する!」

 

 セイがうしろに振りかぶっていた刀の柄を、正面のザレオスにむけて振りあげた。

 まず最初にかなたで雷鳴のような音がした。そして地震のような地響き。ばりばりという破壊音が近づいてくる。本能寺の本殿の天井が真っ二つに割けたかと思うと、奥の間から光の刃が姿をあらわした。

 セイが手を真上にもちあげると、手のひらから伸びる光の剣が天空をも貫こうかという高さまで達していることがわかった。それはまるで地上から天にむかって駆け登った(いかずち)。光の柱。

 ザレオスがその場に固まったかのように立ち止まった。上を見あげる。その場のすべてを圧倒するような光の凶器に声をふるわせた。

「き、貴様、なにを……」

 セイはザレオスの言葉を無視して、そのまま剣を振り降ろした。上空にとてつもなく大きな光の円弧が描かれると、ザレオスめがけて光の刃が振り降ろされてくる。

 ザレオスは右に向き直ると、巨躯を揺らしながら走り出した。

「セイさん、ザレオスが逃げますわ」

 エヴァがピストル・バイクの上から叫ぶと、マリアも信長たちと(うまや)のほうへ逃げながら追従する。

「セイ、逃げられンじゃねぇぞ」

 

 



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第27話 是非におよばず

 ザレオスは『下京総構』と呼ばれる防壁を蹴破り、民家を踏みつぶしながら、一気に数百メートルを駆け抜けていた。尋常ならざるスピード。

 走りながら上を見あげるザレオス。その顔が恐怖にゆがむ。

 光の剣はいつのまにか扇状に広がっていた。光の刃の到達位置から逃れていたはずなのに、真上にはまだ光の剣があって空を完全に被っていた。

 ザレオスが遥かむこうに垣間見える青空に気づいた。遥かかなただったが、光の剣の切れ目がそこにあった。ザレオスがそこにむけて渾身の力で爆走しはじめた。その顔にはセイを(あざけ)っていたときの余裕はなかった。

 だが、ザレオスがどんなにあがいても、剣が横に広がっていくスピードのほうが速かった。さきほどまで見えていた光の剣の切れ目は、すでに遥か彼方になっていた。

 ザレオスが、悲鳴とも咆哮ともつかぬ雄叫びをあげるのが聞こえた。

「くそぉおぉおぉおぉ、にげきれんんんんんん……」

 

「セイ、あいかわらず、エゲつないな」

 満足そうな笑みを浮かべてマリアが呟く。

 

 セイが地面にむけて剣を振り降ろした。剣はすでに横に広がりすぎて横幅数キロに及ぶ『扇』と化していたが、ザレオスはその『扇』の傘の下からとうとう逃れきれなかった。

 地面に叩きつけられた光の刃が、ザレオスを、京の街を、林や森を、田畑を、叩きつぶした。轟音があたりに響き渡り、大地を揺らしたが、彼方で『ぷちっ』となにか生き物が潰れる音がかすかに聞こえた。

 セイが刀を振り降ろし終えたあとも、その太刀は数キロ先にもおよび京の街を上から押しつぶし続けた。遥か彼方でなにかが壊れる音が聞こえ続けた。

 しばらくして音がやむと、エヴァがピストル・バイクを上昇させて、その方角を俯瞰すると、あきれ返ったような声をあげた。

「セイさん、やりすぎです。『二条城』がぺしゃんこになっていましてよ」

 

 セイは上をみあげるとエヴァに弁明した。

「ぼくじゃない。かがりの帰りたいという『思い』が強すぎるんだ」

 セイは頭をかきながら、うしろを振り向いた。若い女性の上に浮かんでいるかがりの魂のほうに目をむけて、ため息交じりに言った。

 

『かがり。帰りたいにもほどがあるよ』

 

    ------------------------------------------------------------

 

 信長は跡形もなく崩れた本殿を横目で見ながら、立ちあがった。マリアに促されて本殿から飛びだしたおかげで、下敷きにならずに済んだことで胸をなで下ろした。

「いや、マリアどののおかげで助かったわ」

「おまえが駄々こねたおかげで、たっぷり埃はかぶったがな」

 悪態をつくマリアの脇にいた家臣たちも顔をあげて立ち上がりはじめた。

 そのとき、信長が庭に横たわっている明智光秀に気づいた。

「光秀!! 」

 玉砂利に足をとられ、つんのめりそうになりながらも信長が必死の形相で、光秀に駆け寄った。光秀は血だらけだったが、そんなことに構わず、信長が光秀を抱き起こす。

「光秀!」

 その訴えかけに、光秀がうっすらと目を開けた。

「おや……かた……さま……」

「光秀、なぜじゃ。きさま、なぜわしを討とうと思った」

「し、四国征伐でございます……」

「一度は長宗我部に、四国は切り取り次第と約束しておきながら、突然翻意され、無理難題をおおせになりました」

「私の家臣、斉藤利三と石谷頼辰は長宗我部と親族の間柄でございます。ですからわたしは何度も説得し、長宗我部も秦順の意を示してくれました。四国も御屋形様の領地となったのです……」

「ですが、御屋形様は長宗我部を討つと申されました。これではわたしも利三らも立場がございません」

「そうじゃったか。わしがお主を追いつめておったか……。光秀、許せ」

「わたしこそ……長年御恩を賜りながら、謀反などと……」

 光秀の目からつーっと一筋の涙がつたい落ちた。

「御屋形……さま……。どうかおゆるし……を……」

 そこまでだった。光秀の腕がだらりと落ちると同時に、からだが弛緩した。

 織田信長は光秀の亡骸(なきがら)をぐっと抱きしめて、静かに言った。

 

「是非に及ばず(しかたがないことだ)」

 



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第28話 あなたは日本の歴史上、もっとも嫌われた人物ですよ

 セイが戻ってくると、信長がたちあがりセイのほうへ向き直った。もうその目には光秀にむけていた哀しみの光はなかった。

「セイか、大儀であった」

「いえ……」

「セイ、どうじゃ、わしに仕えてみんか。おまえになら『信濃』か『越後』をまるごとくれてやってもかまわん」

「信長、おまえはばかか。えらそーに上から目線で抜かしやがって。セイが本気を出せばおまえなんぞ一発で捻り潰せるのだぞ」

 偉そうな態度で、マリアが信長をこずく。信長はマリアのちょっかいなど、どこ吹く風で、子供のように目をキラキラさせて、もう一度問うた。

「どうじゃ、セイ」

 セイはふっとため息をつくと、エヴァに目で訴えかけてきた。その視線に気づいたエヴァがあわてて信長に進言した。

「信長さま。セイはこちらの世界とはちがう異世界の者です。そろそろ戻らぬばなりません」

「エヴァどの、おぬしらが異国から来ているのはわかっておる。弥助同様に少々キテレツな服をきておるからな」

「いえ、異国とかそういう次元ではないんですけどぉ……」

 エヴァがそれ以上なんと言っていいか言いあぐねているのをみて、セイが信長に顔を近づけて、すこしだけ凄みのある声で言った。

 

「信長さん、ぼくはあなたとこの世界で出会うのはこれで二度目だ」

「そうか。他生の縁があったというのか……」

「その時は比叡山を焼き打ちする前に、ぼくはあなたを討ちとった」

「なんと!!」

 信長が声をうしなった。

 

「また、次に会う機会があったとしたら、次もあなたを打ち取ると思う。『桶狭間の戦い』とか『長篠の戦い』とかでね。あなたを殺したいひとは山ほどいるから……」

 

「無礼な!」

 おもわず蘭丸たちがいきり立ったが、すぐに信長がそれを手で諌めた。信長は臣下たちを制したままの状態でセイに訊いた。

 

「セイ、わしはそんなに憎まれているのか?」

「そうですね。日本の歴史上、もっとも嫌われた人物ですよ。あなたは」

 あまりに赤裸々な物言いに思わず、エヴァが「ちょっと、セイ!」と叱責のことばを狭んだが、マリアのほうは「いいぞ。言ってやれ、言ってやれ」とさらにけしかける。

「あなたは人を(あや)めすぎました。一回の戦争で毎回、二万人は死んでる。それ以外に理不尽な理由で、いくつもの家を取り潰している。敵がいないわけがない」

 核心的なことを言われて、信長が神妙な面持ちになった。

 

「でも、日本の歴史で、あなたほど人気のある人はいません」

 

 信長はあからさまに驚いた表情をした。あまりに望外なことばだったのだろう、すがるような目をセイにむけた。

「それは……、それは、まことか」

「ええ。あなたの生き様は、後世の多くの物書きが書き記し、多くの歴史学者に研究され続けています。なんども映画……、いえ、劇で演じられ、ゲーム……、いえ、あなたを主人公にした未来の遊びも人気です」

「そうか、そうか、そうか……。わしの生き様はまちごうておらんかったか!」

 信長がうれしさを隠しきれないようだった。徐々に油断ならない戦国の覇者の顔に、戻ってきていた。

「信長様。大きくまちがえられているから、多くの人々の恨みをかってましてよ」

 エヴァがやんわりとした口調で叱責したが、信長はそれを無視してセイを指すと、高らかに宣言した。

「セイ、きさま、次に会った時はわしを討取ると言うたな。だが、もしその時が訪れても、わしは易々とはやられはせんからな。覚悟するがいい」

「ぶわはは。ふつうの人間の残滓(ざんし)ごときが、セイに勝てると思っているのか?。信長、おまえは、ほんとにうつけだな」

 マリアが信長の宣言を鼻で笑いとばした。信長はマリアの頭の上にぽんと手をおいて、優しい顔で言った。

「うつけで良い、マリアどの。天下統一のためなら、わしは天下一のうつけものを演じてみせるわ」

 声色はとても素直でやさしい実直さにあふれていた。が、その眼光は鋭く、たとえ幼女であっても、容赦しないといわんばかりの迫力に満ちていた。

「おいおい、今にもオレを(くび)り殺しそうに見えるぞ」

「もし、いつかお主らのようなものが現れ、天下統一を邪魔しようとするなら、それが赤子や幼女であったとしても斬って捨てるわ!」

「あんまり高らかに宣言しないでほしいなぁ」

 セイがマリアの頭の上に置いた信長の手のひらを、にこにことした顔で、力づくでゆっくりと引き剥がしながら言った。

「その願いや意志は、さっきのような悪鬼、『トラウマ』を呼び寄せる」

 

「あんなヤツに乗っ取られたあなたと戦うのは……」

 

「わりと厄介なんですけどね」

 

 

「さあ、セイさん、そろそろ時間ですわよ」

 エヴァが信長の世話係の若い女を手で指し示しながら声をかけてきた。ちょうど彼女のからだから、かがりの魂が抜けだすところだった。今度は顔だけでなく全身が抜け出てきていた。

「前世の悔いがはらされたようだ」とセイは晴れやかな声で言った。

 かがりの体がゆらりと上に舞いあがりはじめた、かがりが訊いた。

「セイちゃん、私どうすれば?」

「そのまま一番上までのぼっていけばいい。そうすれば現世の意識が目覚める」

「でも、わたし、怖い」

 セイはやれやれという顔をすると、かがりの手をつかんだ。

「かがり、良かったな。特別待遇だ」

 マリアが皮肉たっぷりに言ったが、かがりの表情は、からだが透き通っている状態もあって、伺い知れなかった。

 

「マリア、エヴァ、君らも一緒に帰るよ」

 四人の足が地面から離れ、からだが浮かびあがりはじめた。

 その様子をみた森坊丸が前にふらふらと歩み出してきて、マリアの前に跪いて五指を組んだ。

「マリア様……」

 マリアは目の前の坊丸のほうに手を伸ばすと、頬をやさしくなでながら言った。

 

「おまえ、死ななかったぞ」

「えぇ。死にませんでした。わたしも、兄も、力丸も……」

 そこから先は声が続かなかった。涙にくれて嗚咽(おえつ)となった。うしろから力丸が駆け寄り坊丸の背中にすがりつくようして言った。

「兄上、みっとものうございますぞ。おなごの前で涙なぞ……」

 そう言いながら力丸も涙にむせんだ。

 そこへ弥助がおずおずと進み出てきた。

「マリアサン、ワタシモ、シニマセンデシタ」

「弥助、おまえは死なねぇんだよ、最初から!」

 そう怒鳴られて弥助はシュンとしてうつむいたが、マリアは続けて言った。

「だが、主君を最後まで守った……。よくやった弥助……」

 

「いや……、ヤスフェ」

 はっとして弥助が顔をあげる。

 本名を呼ばれたうれしさに、その表情は輝いていた。

 

 

 四人のからだはすでに人間の頭ほどの高さまで昇っていた。

 セイ、マリア、エヴァ、そしてセイに手を握られたかがり。四人が空に上っていく様子を腕を組んだまま、泰然自若として見あげている信長に気づいたエヴァが声をあげた。

「信長さまぁ。世界に名が轟く信長さまとご一緒できて光栄でしたわ」

「それと、森蘭丸様ぁ、お目にかかれて光栄でした。でも、もうちょっとお話ししたかったですぅ〜〜」

 森蘭丸を指名した呼びかけに、おもわず信長が蘭丸のほうを見る。

「なんじゃ、蘭丸、ずいぶんな人気ではないか」

「いえ、御屋形様。わたくしと御屋形様の関係が、未来では『びいえる』と申してたいそう人気とのことで……」

「なに『びいえる』?……」

 

 蘭丸からのことばに感慨深げにする信長に、マリアが叫んだ。

「おい、信長。おまえは天下一のうつけだったが……、まぁまぁ楽しかったぞ」

「おぉ、マリア殿も大儀であった。わしもそちらと(たわむ)れられて楽しかったぞ」

 信長はそう言うと、セイのほうに目をむけて、不遜な笑いをむけて言った。

「セイどの。今回は命を救ってもらった。礼を言う」

 セイは手をつないだかがりに目をむけてから、信長のうしろにいる若い世話女を指し示して言った。

 

「信長さん。今回は、その人に感謝してください。

 でも、次は手加減しません。御覚悟を!」

 

 そのことばに口元をにやつかせながら信長が応えた。

「だまれ、小童(こわっぱ)。返り討ちにしてやる」

 

 だが、ことばとは裏腹に、信長の表情は実に晴れやかで、そしてとても名残惜しそうに見えた。

 



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第29話 信長の亡骸は見つからなかったンだ。本物の墓があるわけねぇだろ

「夢?」

 寺の本殿の前で、手をあわせている聖のほうをむいて、かがりが訊いた。まわりには参拝客にまじって多くの外国人客も散見され、にぎわっていた。すでに聖たちのうしろには行列ができ、拝殿が済むのを待っている。

「みたいなモンさ。歴史はなんにも変わっちゃあいないんだから」

「そうだぜ。この本能寺だって偽物だ。あん時の寺は歴史通り、信長と一緒に焼け落ちてなくなっている」

 本殿の天井をみあげながら、マリアが憎まれ口を叩いた。かがりはそのことばに納得がいかないのか、マリアに抗議するように言った。

「でも、確かにあの時、わたし、いえ、わたしの前世だったあの女の人の願いが叶って、織田信長は助かったわ」

「あぁ、あの馬鹿は、オレたちが助けた」

「まぁ、気が進まない歴史の改竄でしたけど……」

 マリアとエヴァがそれぞれの感想を述べると、かがりはいたたまれない気持ちになった。

「ごめんなさい」

「かがり、なぜ謝る。オレはけっこう楽しかったぞ」

「えぇ。ボランティアでしたから、気が乗らなかっただけですわ」

 かがりはふたりの返答にどう返していいかわからず、黙り込んだ。見かねて聖が言った。

「まぁ、ぼくらにとっちゃあ、いつもの通常任務さ。気にかける必要はないよ」

「そ、そう……」

「祐子おばさんにもすこしはぼくらのこと、理解してもらえたし……」

 聖のなぐさめのことばにも、かがりはどう答えていいかわからなかった。

 

「聖さん。せっかく京都にきたんですから。信長さんのお墓に参りましょうよ」

 空気を読んだか、読まなかったかわからなかったが、ふいにエヴァが提案してきた。

「エヴァ、いろんなところにあるから行っても無駄だと思うけど……」

「いろんなところにですか?」

「あぁ、信長の亡骸は見つからなかったンだ。本物の墓があるわけねぇだろ」とマリア。

「ゆかりがあるところが、勝手に奉っているだけだからね」

「まぁ、それでも、どこかの神社に参りましょ」

「おまえ、まさか金儲けの願掛けとかじゃないよな」

「マリアさん、そんなわけないでしょ」

 ふいにかがりが感慨深げに呟くように言った。

「もし、信長様……、いえ、信長の亡骸(なきがら)が見つかっていたら、光秀は天下人(てんかびと)になれたのよね」

「あぁ、歴史研究家はそう言ってるね」と聖が答えると、エヴァもしみじみと呟いた。

「自分に謀反を働いた光秀さんには、意地でも天下を譲らない、ということだったんでしょうね」

「あの大うつけ、何度叩き斬ってやろうかと思ったがな……」

 マリアの感想は皮肉たっぷりだったが、聖がその言外に含まれる心情を感じ取って言った。

「でも、本物の侍だった」

「まぁな」

 聖の誘導につい本音を漏らさせられて、すこし恥ずかしくなったのか、マリアは聖の顔を覗き込んで挑戦的な目をむけた。

「おい、聖。次、もし信長とあいまみえることがあったら、オレを絶対に呼べよ」

 すると聖より先にかがりとエヴァが反応した。

「あーー、マリア。もしかして森坊丸くんに会いに行くとか」

「まぁ、それはいいわ。マリアさん。坊丸さん、とてもイケ面だったし」

「バーカ。そんなのどーでもいい」

「じゃあ、なによぉ」

「かがり、おまえの前世、楽しかったがな。やはり物足りねぇ……」

 

 

「次はかならず、オレが信長の御首(みしるし)をいただく」

 



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第30話 ボクたちは『サイコ・ダイバーズ』〜信長編 完結〜

 夕日が傾きはじめた美術室で、ウィーン美術アカデミー教授のクリスチャン・グリーペンケァルは、生徒たちの絵を採点していた。先の大戦で疲弊したこのドイツでは、国民にのしかかる膨大な賠償金のせいで、だれもかれもが将来に不安を覚えながら暮らしている。

 グリーペンケァルもそのひとりだったが、彼には没頭できる『美術』という仕事が残されていた。それはこれ以上ないほどの幸せだった。

 彼はある生徒が描いた絵をしみじみと眺めながら、ふうlっと息を吐きだした。

 この生徒は天才だ。

 彼には確信があった。

 かれは間違いなく歴史に名を刻むであろう——。

 このような生徒に巡り合うことができた僥倖(ぎょうこう)を神に感謝しないわけにはいかない。この生徒の今後生み出す作品を想像しただけで、期待に胸が膨らむ。

 

「クリスチャン・グリーペンケァル教授ですよね」

 ふいに教室の入り口から声をかけられて、グリーペンケァルはすこし驚いた。今日は午前中だけだったので、残っている生徒がいるとは思ってもみなかった。

 グリーペンケァルが目を向けると、そこに軍服のような服を着た少年と、数世紀前のフランス風の服の幼女、そして修道僧のような格好をした少女が立っていた。

「君らはなにものだね」

「ぼくはセイ。そしてこちらはマリアとエヴァ。未来から来た者です」

「未来から?。なにを言って……」

 セイが懐から銃を引き抜いて目の前に突き出した。グリーペンケァルは言葉をうしなった。

「な、なにをする」

「おいおい、見てわからねぇのか?。お手玉してるようには見えるか」とマリアが言う。

「わたしがなにをした」

「グリーペンケァル教授、あなたは有望な美術学生を二度も落第させましたわ」

 エヴァがわかりやすく補足説明をした。

「バカな。そんなことで逆恨みされては……」

「逆恨みじゃないですよ、グリーペンケァル教授。あなたがおかした罪です」

 セイはグリーペンケァルの目を見据えて言った。

「な、なんの罪だと?」

「なんの罪?。口にするのもはばかれるな。全人類に対する罪だよ」

 マリアはグリーペンケァルを軽蔑するような目つきでみあげて言った。

「全人類……だとぉ。わたしはただの美術教授だ。優秀な学生を育てるのが仕事で、そんな大それたことできるわけが……」

 そこまで言って、ふと、自分の脇に立て掛けられている学生たちの絵に目をとめると、セイたちにむかって手を突き出して『待った』の合図を送った。

「ちょっと、これを見てくれ」

 教授がさきほどまで見ていた絵を指さして言った。

「これは、わたしの教え子の『エゴン・シーレ』君の絵だ。彼は天才だ。絵の歴史に確実な遺産を残す人物だよ。わたしがやっているのは、こういうすぐれた才能を見つけ出して、世に送りだすことなんだ」

 セイは残念そうに横に首をふった。

「残念ですが、あのときの選択を間違えていたという『未練』を持った人からの依頼なんです」

「だ、誰なんだ。それは?」

 

「グリーペンケァル教授、あなた自身ですよ」

 

「な、なにぃ!!」

「あなたは晩年、この事をずっと悔いていられたんだと思いますよ」

「まぁ、オレがあんたの立場でも、かなり落ち込むと思うから、仕方がないだろうな」

 今度はマリアが同情のこもった目つきをグリーペンケァルにむけた。

 セイは銃の安全装置をカチリと外して、教授の眉間に銃口をつけた。

「グリーペンケァル教授、トラウマを浄化(クレンジング)します」

「ま、待ってくれ……」

 グリーペンケァルの額から汗が噴きだす。

「往生際がわりぃな。おまえがその美術学生を二度も落第させなければ、世界規模の悲劇は起きなかったって言われてるんだよ」

「だ、誰なんだ。その学生は?」

 

 

「ヒトラー……、アドルフ・ヒトラー」

 

 

 セイのあげた名前にグリーペンケァルは戸惑った。すぐには思い出せない名前だった。「アドルフ・ヒトラー……。ヒトラー……」

 彼は天井をみあげてその名前を反芻して必死で記憶をたどった。ふいにその男の痩せこけてすこし病的な顔立ちを思い出した。

「あ、あぁ、思い出した。あの絵の下手な男か!」

「ヤ、ヤツがなにをするというのだ。彼は人物デッサンすらまともにできない。あんなヤツが……なにを……」

「教授は知らないほままのほうがよいですわ。でも、あなたが彼を合格させていれば、歴史は確実に変わってましたわよ」

 エヴァがやさしい口調で、最後通告をつきつけた。

「そ、そんな……」

「残念だがな……」とマリアも沈痛な表情を装ってみせる。

「き、きみたちはなにものなんだ」

 

 グリーペンケァルは執拗なまでに食らいついた。セイは手にした小型セミオートマチック拳銃『ワルサーPPK』のトリガーを引き絞りながら言った。

 

「ボクたちは『サイコ・ダイバーズ』——

 

 

 

「前世の歴史を改変する者……」

 



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ダイブ2 不気味の国のアリスの巻 〜 ルイス・キャロル 編〜
第1話 不気味の国のアリス(Alice in Weired Land)


 これは、夢見・聖(ゆめみ・せい)がみずからを『ソウル・ダイバー』と名乗り、まだたったひとりで『トラウマ』と戦っていたときの話。

マリアやエヴァたちと出会う前の、孤独な戦いのなかのひとつ。

 

 

 

「ソウル・ダイバー」

 ダイブ2 不気味の国のアリス(Alice In Weired Land)

      ルイス・キャロル篇

 

 その青年は招かれたその部屋の間の、気品に満ちた荘厳さに気圧(けお)されていた。

 彼はほんの数メートルむこうにいる、この城の主の女性を見つめた。

 豪華な玉座に深々と腰かけているのはヴィクトリア女王だった。ずいぶん歳を重ねられていたが、匂い立つような優雅さや気高さは、謁見するものを圧倒する。

 青年は『晴れ』の場にふさわしい礼装でこの場に臨んでいたが、あまり似合っているとは言いがたかった。その華奢なからだに既製服がどうにも馴染まず、いくぶんだぶついて、どうにも収まりが悪い。

「あー、あのぉぉ、ぼ、ぼくみたいなのが、じょ、じょ、女王陛下に、は、拝謁しても、よ、よ、良いのでしょうか?」

 青年は目の前にいる初老のボディ・ガード、ジョン・ブラウンに、おそるおそる尋ねた。ブラウンは振り向きもせず、青年にむかって厳めしい口調で断じた。

「いいわけなかろう」

 青年は一喝されて肝を潰しそうになったが、ブラウンはそのままの口調で続けた。

「だが女王陛下がご所望されるのだからしかたあるまい。それにもっと昔にはおまえより酷いやつらも謁見を許されておる。『サーカス』とかいう道化ショウの『親指トム将軍』とかいう小人とか、からだがくっついた『シャム双生児』の兄弟とか奇妙なヤツらが、おまえのいるその絨毯に立っておったこともある。安心しろ」

 そう言うとブラウンは青年の背中を軽くおして前に進み出るように促した。

 青年は促されるまま女王の前に進みでると、あわてて(かしず)いた。女王は手元においた一冊の本の表紙にちらりと目を配らせてから、玉座の前で(かしこ)まっている青年に声をかけた。

「ドジソンさん……。あなたのこの本、大変気に入りましたよ」

「あー、あー、ありがとうございます」

「他に何か書いていないのですか?」

 ドジソンは顔をあげると、表情を華やがせた。

「あー、えー、ヴィー、ヴィクトリア女王さま、もー、もちろんです」

 彼は吃音まみれでそう言うと、手元のカバンから危なっかしい手つきで本を(まさぐ)りはじめた。が、どうにも見つからないのか、かばんをひっくり返して、絨毯のうえに中身をぶちまけてしまう。その様子に女王の脇を固める警備兵が、思わず前かがみになるが、女王が手を挙げてそれを制した。

「す、すーー、すみません。ありました」

 青年は照れ笑いをしながら、一冊の本を拾いあげると、楚々と前に進み出て女王にそれを手渡した。(うやうや)しい態度でその本を受け取った女王は、その本をめくるなり目をぱちくりさせた。

「これはなんです?。何やらわけのわからぬ数字が羅列されているだけのようですが……」

「あ、はい。そ、それは、ぼー、ぼー、ぼくの最新作で『行列式概要』というものです」

「行列……。意味がわからぬのですが」

「あ、ぼー、ぼくは、ほー、本職は数学者なんです。オックスフォード大学で、きょ、きょ、教鞭をとっております」

 うれしそうにしている青年の顔を眺めながら、ヴィクトリア女王は溜息をついた。

「では、この本の続きが書けましたら、是非とも送ってくださいね。チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン……」

 

「いえ、ルイス・キャロル」

 

 女王が手にした本の表紙には、木の枝の上で笑っている猫を見上げている少女の絵が描かれていた。そしてその横には本のタイトルが筆記体で記されていた。

 

「Alice In Wonderland(不思議の国のアリス)」

 

 



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第2話 あなた、チェシャ猫さん?

「今回の依頼はイギリスからだ」

 叔父の夢見・輝男(ゆめみ・輝男)がにこにこしながら聖に言った。

 夢見・聖(ゆめみ・せい)は液晶画面のなかの被験者の映像をのぞき込んだ。どこかのベッドに横たわる、まだあどけなさが残る黒人少年が映っていた。

「叔父貴、なぜにそんなににこにこしてる?」

「あ、いやーー、にこにこなんか……」

「どうせ、クライアントがお金持ちなんでしょう?」

 横から広瀬・花香里(ひろせ・かがり)がしゃしゃりでてきた。

「あ、いや、そういうわけ……」

「お父さん、別に隠さなくてもいいわよ。研究費、稼がなきゃでしょ」

「あー、いやー、聖、悪いねぇ」

「別に。お金は大事だしね」

 聖は事もなげに言った。

「聖ちゃん、簡単に言わない。魂へのダイブって一歩間違えたら命にかかわるんでしょ」

「慣れたもんだよ」

「もーう。実際、危ない時あったでしょ」

「い、いや、無茶もなにも……。わたしだってよくわからんのだよ」

「かがりぃ。それこそ無茶言うなよ。無茶かどうか、潜ってみないことにはわからない」

 聖のそのことばに納得がいってない顔で、かがりが輝男に訊いた。

「で、お父さん。聖ちゃん、今度はなに時代に潜るの?」

「かがり。いつも言っているだろ、潜ってみないとわからんのだ」

「そう。いつだってぶっつけ本番さ。時代も場所もね」

 聖が服を脱ぎながら、かがりに説きはじめた。

 突然、真横で服を脱ぎ始めた聖に驚いて、かがりがあわてて横に飛び退きながら叫んだ。

「聖ちゃん、ちょっとぉ、ここで裸になる気?」

「え、なにか……。子供ん時から見慣れてんだろ」

「バカ言わないで。もう高校生なんだから。わたしがここで裸になったら、聖ちゃんも困るでしょ」

「いや、なんも。子供ン時とそんな変わらないし……」

 聖の視線はかがりの胸元にむいていた。

 それに気づいて、かがりはヒステリックに声を張りあげた。

「なんてこと言うのよぉ。もう、何時代なりと勝手に潜って、ちょっとくらい溺れてくればいいわ」

 というなり、そのまま出口にすたすたと向かうと、ドアをこれ見よがしに、荒っぽく閉めて出ていった。

「おいおい、いまのは聖がわるいぞぉ」

 輝男がおろおろとした表情で聖に言った。

「あぁでも言わないと、心配して離れやしないんだから仕方ないだろ」

 

「かがりには、ぼくに構わず『今』を一生懸命生きて欲しいンだよ」

 

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 目の前にふいに森があらわれた。

 牧歌的というべき、のどかな田園風景が木々越しに広がっているのが見える。今までの経験では、前世の『未練』というのは、なにかしら事件の渦中にあることがほとんどで、日常の延長のような風景は、むしろ戸惑いの対象でしかない。

『いったい、ここはどこなんだ?』

 

 依頼者の前世の記憶

 のなかにダイブしたセイは、自分が降り立った場所にとまどった。

 セイはあたりの風景を見渡した。あたりは森に囲まれていて、セイのいる場所はすこし開けた広場になっていた。そして、彼は一本の木の張りだした枝の上に座っていた。

『なんで、こんな不安定な場所に?……』

 ふと自分の服装をみてみると、いつの間にかワイシャツにチョッキを着ていた。

『げっ、なんだ。このカッコ』

 

「あなた、だあれ?」

 ふいに下から声がした。セイがあわてて見下すと、ひとりの少女がこちらを見上げていた。年のころは6〜7歳程度だろうか、裾の広がったスカートとエプロンがセットになったふんわりとしたエプロンドレスを着ている。手元に本を抱えているところをみると、木の下で読書していたらしい。

「あなた、チェシャ猫さん?」

「猫?」

「だって、チェシャ猫のように突然現れたわ」

「ボクは猫じゃないよ」

「そう。じゃあ、にやにや笑いしてみて?」

「にやにや笑い?」

 セイは意味がわからず首をひねったが、少女に言われるまま口角をあげてみせた。

「ほら、やっぱりチェシャ猫じゃない。木の枝に座ってにやにや笑いをするのはチェシャ猫だけだもの」

 どうにも話が噛みあわないのに困惑したが、とりあえずこの木の枝に座っているのが混乱のもとだと考えて、セイは枝から飛び降りた。

「ぼくの名前はユメミ・セイ。セイと呼んでくれ。キミの名は?」

「アリス。アリス・プレザンス・リデルよ」

 セイはアリスと握手をしようとして、自分のチョッキのポケットになにかが入っていることに気づいた。ポケットのなかには懐中時計がはいっていた。

 セイは懐中時計を開いて、時刻盤を見るなりアリスに言った。

 

 

「アリス。わるいけど、時間がないんだ」

 



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第3話 こいつら『トラウマ』じゃないか!!!

「アリス!」

 その時、アリスを呼ぶおとこの人の声が聞こえた。その声にアリスの顔がうれしそうにほころんだ。

「セイ、紹介したいひとがいるの。来て」

 アリスはセイの手をとるなり、強引にひっぱって声のするほうへ駆けだした。木々のあいだをぬけると、ふいに視界がひろがった。そこには遠くまで続く田園風景がひろがっていた。そのちかくに三階だての立派な洋館がある。

 ここがだれかの邸宅の庭であることが、やっとセイにはわかった。

 アリスがセイをひっぱっていく先、ひときわ大きな木のしたで、2人の青年がお茶の準備をしているのが見えた。山高帽をかぶった髭面の男と、ひょろりとした印象をうける優男。

「やあ、アリスがお友達を連れてきたようだ」

 連れ立ってくるセイとアリスに、山高帽の男が先に気づいた。

「エドガーさん、この子、チェシャ猫なの」

「おや、おや、キミも犠牲者らしいな。ボクはこんな山高帽をかぶってるから『おかしな帽子屋』にされてしまってるんだよ」

 彼はそう言いながら山高帽を脱ぐと、手をセイの方へさしだした。

「ボクはエドガー・ウェストヒル」

「ぼくはユメミ・セイ、セイと呼んでください」

「あまり聞かない響きの名前だね」

「えぇ。ここからずっと遠くの、びっくりする(ワンダー)ようなところからきました」

 エドガーはセイと握手しながら、にんまりとした。

「あー、その言い方。きみも彼のファンなんだね」

「彼?」

 エドガーはお茶会の準備そっちのけで写真機をいじりまわしている男を指さして紹介した。

「あそこにいるのがチャールズ・L・ドジソンだよ」

 ドジソン、見知らぬ客の姿に気づいて、写真機を操作する手をとめると、ゆっくりセイのほうへ歩みよりながら言った。

「よろしく。ボクは、チャールズ・ドー、ドー、ドジソン」

「ドジソン先生ったら、こんなに大きくなったのに、吃《ども》る癖がなおらないのよ」

「セイ、きみは彼に会いにきたんだろ?」とエドガーが言った。

「いえ。ちょっと……」

「あぁ、失敬。きみが知っているのは、本名のドジソンじゃなくてペンネームのほうだよね」

 エドガーはアリスが持っていた本に手をやると、表紙を見せながら言った。

「彼はルイス・キャロル。『不思議の国のアリス』の著者だよ」

「不思議の国のアリス……。子供のころ、アニメでみたことがあります」

「え、きみの子供の頃?。アニメってなんだい」

「あ、いえ、なんでもないです。ぼくの国でもその作品は有名です」

 あわててセイがごまかすと、エドガーはさきほどより、さらににんまりとした顔で、ドジソンの背中をどんと叩いた。

「聞いたか、チャールズ。きみの作品はイギリスだけでなく、彼の国でもひろく知られているらしい」

「あー、あー、うう、うれしいよ」

 アリスがセイの服の裾をひっぱって、うれしそうに言った。

「セイ、実はね、あのお話はこの森の話なの。私がこの森で見たり、聞いたりしたことをドジソン先生がお話しにしたの」

「そ、そうなんだ。アリスはこの森にいる奇妙な生き物たちが見えるらしいんだ」

「セイには見えない?。今も私のまわりにステキな友達がいっぱいきているのよ」

 セイはこぶしに光の力を宿らせた。まわりの人々に気づかれない程度のほんのりとした輝きがセイのこぶしを縁取る。その手でさりげなく、目元をもむしぐさをすると、目の前に、さきほどまでは見えなかったものが見えてきた。

 

 いくつもの見慣れない生物が、アリスの周辺を取りまいていた。

 むき出しの乱杭歯で威嚇する、半分腐ったようなおぞましい姿の「ウサギ」。

 卵のようなずんぐりむっくりとした二人組の男。からだの一部がどろりとスライム状に溶けていて、いまにも腐臭が臭ってきそうにみえる。

 病気に冒されているような目つきで、ぼうっとしている「やまねずみ」。だが、その目は悪魔のように目が吊り上がり、存在だけで誰もを不安にさせる。

 アリスよりも大きな背丈をした「大いも虫」は、ぶよぶよとした体についた無数の触手を不快な動きでゆすらせていた。その皮膚はとても薄く、外から内臓の動きや血液の流れが透けてみえて、不快感を倍増させる。今はその腹のなかになにかまだ生きて蠢いているものを飲み込んでいて、それがもがき苦しんでいるのが見えていた。

 ドードー、とけたたましい鳴き声をさせて鳥が舞い降りてきた。鳥は降り立つやいなや、鋭利なくちばしをこちらへ突き出して敵対心をむき出しにしてきた。目が左右非対称にゆがんでついていて、本当に「鳥」という生物なのか、疑わしく感じる。

 アリスの言う『すてきな友達』は、どう控えめにみても、おどろおどろしい化け物の集まりにしか見えなかった。

 

『こいつら、「トラウマ」じゃないか』

 セイはアリスにむかって叫んだ。

「アリス、そいつらから離れて。それは『友達』じゃない!」

 セイがこぶしを握りしめて、アリスのうしろにいる『トラウマ』たちに近づこうとした。

しかし、その前に手を広げてアリスが立ちふさがった。

 

「やめて、セイ。お友達に乱暴をしないで!」

 



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第4話 チャールズはアリスに恋してる

 午後になると、ドジソンはアリスと一緒に、テムズ川でのボート下りを楽しむことになった。アリスとルイスがボート漕ぎにでるのを見送ると、セイはエドガーと一緒に、下っていくボートを追いかけるように川沿いを歩き出した。

 数メートル歩いたところで、セイはエドガーのほうへ手のひらをかざした。『心残り』の力がエドガーに宿った現世の魂を引き摺りだす。

 黒人の少年の顔がエドガーの頭上に現れた。突然意識を表にだされて、少年は一瞬とまどったような表情を見せたが、目の前のセイに気づいて、怪訝そうに聞いてきた。

「あなたは誰?。この時代の人間じゃないよね」

「ぼくはセイ。きみを引き揚げ(サルベージ)しに、21世紀からきました」

「本当に?。もどれるの?。元の時代に?」

「『昏睡病』のせいで、きみの『魂』は、自分の『前世の記憶』に飲み込まれたんだよ」

「セイ、どうすれば……戻れるんの?」

「このひと……、エドガーさんが『心残り』にしていることを教えてくれるかい。それを晴らすことができたら、きみは21世紀ににもどれるんだ」

 それを聞いた黒人の少年の残像が、ふっとエドガーのからだの中に消えた。

 

 エドガーが川沿いに歩き出しながら、噛みしめるように話しはじめた。

「私には取り立てて心残りや後悔といったものはない……。ただあるとしたら、チャールズの秘めた思いをこんなに近くにいながら果たしてあげられなかったことくらいかな」

「それって何です?」

 エドガーはすこし言いよどむそぶりを見せたが、 ボートに乗ってはしゃぐアリスの姿を遠めに見ながら口を開いた。

 

「チャールズはアリスに恋してる」

 

  ------------------------------------------------------------

 

「親子ほども年が離れていませんか」

 セイはエドガーとともに洋館の一室にいた。壁をうめつくすような蔵書がそこにはあったが、反対の壁にはおおきく引き伸ばされた写真がいくつも貼られていた。

「わかっている。でもこれを見てくれ」

 エドガー、壁のいちばん目立つところに貼られていた何枚かの写真を紹介した。どれもが今よりもうすこし幼いアリスの写真で、なかにはヌードの写真まであった。

「げ、ロリコンじゃん?」

「ロリ…;、なんだい。それは?」

「いや、あーー。ぼくらの国では、幼い子供がすきな人をそう呼ぶ;;」

「彼は出会ったころから、真剣にアリスのことを愛してるんだ」

「それは、ちょっとまずいんじゃあ……」

「しょせん、かなわぬ恋なのは承知だよ。だけど彼は一度もその思いを告白することができなかった。アリスを傷つけたくないって言ってね。どうにかしてアリスを傷つけずに告白させてあげられないだろうか」

「いや、告白したら、マジでまずいことになると思うけど……」

 エドガーは困った様子のセイの顔をしげしげと眺めながら、「わるくないな……」とひとこと言った。

「え、ど、いうこと?」

 エドガーは小さな小瓶を懐から取り出すと、セイに手渡した。

「これを一滴、飲んでくれないか」

 セイはその小瓶のラベルに目を落とした。

『DRINK ME(私を飲んで)』と書かれていた。

 セイは上気したような表情でこちらをみるエドガーに促されて、その瓶のコルクを抜くと舌先に一滴垂らした。刺激的な味がすると思っていたが、無味無臭そのものだった。

「エドガーさん、なにも……」

 と、目の前のエドガーがみるみる巨人のようにおおきくなるのを感じた。それだけではない。テーブルも椅子もどんどんおおきくなっていく。

 セイは手の持ったボトルのラベルをもう一度みた。そしてわかった。

 

 ぼくが縮んでいる……。

 

 思い出した。

『「DRINK ME(私を飲んで)」は、この世界での『スモール・ライト、ビッグ・ライト』だ』

 



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第5話 ハンプティ・ダンプティ、アリスはどこだ!

 セイは日陰になった森の、ひときわ大きな木のたもとにある立ち木の裏に座り込んでいた。アリスとおなじエプロンドレスを着せられ、カツラをつけて女装をしている。

 セイはさきほどまでのエドガーとの会話を思い出していた。

 

『この森の暗さなら大丈夫。遠目にはわからないよ』

『立ったらバレますよ』

『大丈夫だ。いまのきみはアリスの背丈とあまり変わらない』

『でも、しゃべったらばれるよ』

『そうかい。背丈にあわせてずいぶんかわいい声になってるけどね』

『そんなわけ……』

 少女のような声色になっているのに気づいて、セイは思わず口元をおさえた。

『セイ。きみはここでアリスとして、チャールズの告白を受けて欲しい。告白されたら恥ずかしそうに首を横にふって駆け出せばいい。それで彼はすべて納得するはずだ」

『でも、エドガーさん。納得しなかったら……』

『すぐにぼくが出ていって彼を説得する……』

『やっぱ、無理です。だまし通せる自信なんて全然ない!』

 セイはエドガーに猛烈な剣幕で噛みついた。

 するとエドガーの顔の上に、宿主となった青年の顔がふっと浮かんだ。

『セイ、頼むよ。きみはぼくを救いに来たんだろ。そのためにはこのエドガーの『心残り』をはらさないといけない」

『だからと言って、こんな無策な作戦……。第一にぼくが恥ずかしい!』

『頼むよ、エドガーの『心残り』を組んでやってくれよ』

 セイは顔を赤らめたまま、腕を組んでぶすっと黙り込んだ。

 

 

 小枝がパチンと折れる音がして、セイは追想からひきもどされた。見あげると、ドジソンの影が木漏れ日に浮かび上がった。

「アー、アリスかい」

 セイはとりあえず、こくりと頷くことにした。

「さっきは楽しかったね」

「うん」

 ドジソンはセイの近くまで来ると、背中をむけて芝生のうえに座り込んだ。

「今度、しー、しー、写真をまた、とー、撮らせてくれないかい」

 セイは一瞬、頭にさきほどのヌード写真が浮かんで、反吐がでそうになったが、「うん」とだけ返した。

「さっき、エー、エドガーに言われてね。ぼー、ぼくの気持ちを、アリスにつー、伝えたほうがいいって……」

「うん」

「ぼー、ぼくは、アリス。きー、きみのこと……」

 

 そのとき、森の奥から少女の悲鳴が聞こえた。

 ドジソンの動きは速かった。バネでもはいっているように起き上がると、耳をそばだてた。ドジソンがアリスの姉と妹の名前を呟いた。

「あの悲鳴は……、ロリーナ?、イーディス?」

 森の奥からエドガーが叫ぶ声が聞こえた。

「チャールズ、大変だ。早くきてくれ!!」

 ドジソンはアリスに扮したセイのほうを一瞥して「ごめん、アリス。いかなきゃ」としっかりとした口ぶりで伝えると、一気に駆け出した。

 セイはその姿を見送ると、からだについた芝生の葉を叩きながら立ちあがった。ティアラをはずして放り投げると、ドジソンを追って駆けだそうとした。

 すると、その横を卵の形をした人間大の化け物が二体、横を飛び跳ねるように通り抜けていった。

 セイは、肩をくんで走っていく二人組を怒鳴りつけた。

「ハンプティ・ダンプティ、アリスはどこだ!」

 これ以上ない怒声を浴びせたつもりだったが、咽からでてきたのは、かわいらしいコロコロとした声だった。

 

「アリス……」

 片方が高い声で名前を反芻すると、もう一方が低い声でおなじように名前を反芻した。

「まったく意味のない名前だ」

「意味など関係ない。おまえらの仲間がなにをしたか聞いている」

「きみの名前はなんという?」と低い声の男。

「セイ。ユメミ・セイ」

「YOU・MAY・ME・SAY?」と高い声の男。

「私になにを言ってもかまいません……かね」

「文法が間違っておる。まったく汚《きたな》らしい名前だ」

「名前というのは体と一致するものじゃなくてはならんのだよ。我々のようにハンプティ・ダンプティ、つまり『ずんぐりむっくり』みたいにな」

「名前と体にずれがあるのは間抜けだ。文法が間違えているのは特にね」

 甲高い声と腹に響く低い声のアンサンブルに、さきほどからいらつきが収まらなった。セイがぎゅっとこぶしを握りしめると『心残り《リグレット》』の力がこぶしに宿り、光の粒子に包まれた。

「ははぁ、それともキミはよくおしゃべり(SAY)するのかね」

 低い声の男が言った。セイはにっこりと笑った。

「逆だよ。しゃべるより先に手が出るのさ」

 と言って、卵の兄弟に渾身のパンチをぶち込んだ。力を得た一撃にハンプティ・ダンプティ兄弟はおどろくほど簡単にふっとぶと、岩にぶつかってベッチャリと潰れた。 

 中からとろりと黄身が流れ出る。

 

「は、生半可なことを言うわけだ」

 



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第6話 To be or not to be, that is the question

 セイが森のなかを走り抜けていると、すこし開けた場所にいきあたった。そこには大きなテーブルが置かれ、そのまわりではお茶会をやっている『三月うさぎ』と『おかしな帽子屋』がいた。セイは三月うさぎに尋ねた。

「きみたちは、アリスがどこに行ったか知ってるかい?」

「アリスって?。おいしいのかい?。お茶菓子に最適だとうれしいな」

 三月うさぎが目の焦点があっていない目つきで、セイの顔をのぞき込みながら言った。

「ちょうどお茶の時間なんだ。邪魔せんでもらおう」

 おかしな帽子屋が怒るような口調で言った。

「ここはいつだってお茶の時間なんだ。この帽子屋が『時間』と喧嘩して以来、『時間』がいうことをきいてくれないのさ」

「ふん、『時間』の言うことなんかきいてたら、日が暮れちまうだろうが」

「そうだね。おかげでここではいつだってお茶が楽しめる」

 とうれしそうに言った三月うさぎだったが、セイの耳元に手をあてがうと本音を囁く。

「ま、それ以外はなんにもできないんだけどサ」

「聞こえているぞ。三月うさぎ」

「ははぁーー。なんにもできないこと万歳!!」

 セイはさすがにうんざりした気分になった。

「口が減らないやつらだな。さっさと浄化(クレンジング)しちゃおう」

 セイが目の前の二体のイカれた『トラウマ』を浄化しようと拳を構えた。

「やれやれ、『時間』に我慢できない愚か者だな。わしらを相手にしても『時間』の思うつぼだがね。セイ、あんたは、どれくらい『時間』を無駄にするつもりかね?」

 おかしな帽子屋が紅茶を注ぎながら、したり顔で森のほうに顎をしゃくった。

 セイがこぶしを振りあげかけたまま、帽子屋が促したほうに目をむけた。

 

 空をおびただしい数のドードー鳥や、メガネ鳥が埋め尽くしていた。広場の手前には、いやというほどの数の『やまね』がうろちょろして、何匹もの『白うさぎ』が重力を無視したまま、懐中時計を見ながら空中を走りまわっていた。木の上や根元には『大いも虫』だけでなく『中いも虫』らしきものが、うじゃうじゃと蠢いている。

「マジかぁ。なんでこんなに湧いてでてるんだ」

 三月うさぎが、いびつな顔を寄せて、セイの耳元で囁く。

「そりゃ、きみを歓迎しているからに決まってるだろ」

「うそだーー。邪魔してるだけじゃないか」

「セイ、邪魔してるのは君さ。ぼくらの『お茶の時間』をね。ぼくらはいつだって『お茶の時間』なんだ。おかしな帽子屋が『時間』と喧嘩したおかげで、『時間』がへそを曲げちゃって……」

「さっき、聞いたよ!」

 セイが三月うさぎとくだらないやり取りをしている間にも、『トラウマ』は続々と増えていった。

『くそっ、こりゃきりがないぞ。なんとか一ヶ所に集められないか……』

 セイが帽子屋にむかって叫んだ。

「帽子屋、ここにいる連中全員でお茶会をしたい。やったほうがいい?、やらないほうがいい?(TO BE?、OR NOT TO BE?)」

「それは問題だ(THAT IS THE QUESTION)」と帽子屋が答えると、「そう、こいつは問題だね(THIS IS THE QUESTION)」と三月兎が追従する。

「なるほど……『問題(QUESTION)』か……」

 セイは両手をメガホンのように掲げると、森のほうにむかって大きな声で叫んだ。

 

「時間の単位の中で一番、愚かな(Weak)ヤツはだ〜れだ」

 



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第7話 だれが正解なのか、はやく教えてくれ

 その問いかけに『トラウマ』たちが一斉に耳をそばだてたのがわかった。

 その『問題』に興味がそそられたのだろう。お互いを牽制していたかと思うと、すぐにぞろぞろと、お茶会の席の近くに集まりはじめた。

 まずは、好奇心旺盛な『やまね』が口をきった。

「時間の単位の中で一番、愚かなヤツだって?。そんな問題、簡単さ、それは『分(minute)』に決まってる。なにせ『つまらない(minute)』だからね」

 ものしり自慢の『大いも虫』が、あたりの化け物たちに言い聞かすように言った。

「簡単な問題だ。『愚かな(Weak)』だろう。だったら『週(Week)』さ」

 それに異議を唱えたのは、『眠りネズミ』だった。

「そいつは引っかけさ。一番愚かなのは『秒(Seconds)、あいつらは一番速いつもりでいるけど。いつも複数で群れてないと、『二番目(Second)』にしかなれやしない』

 小動物の『トラウマ』たちが口々に、自分たちの解答を披瀝しはじめる。

 三月ウサギがテーブルの上に飛び乗ると、指をたててみんなに弁舌しはじめた。

「『時間(タイム)さ。なんでぼくらがティーパーティーを開いていると思うのさ。ティータイムの『T』は『TIME』の『T』。あいつらの愚かさをあざ笑うために開いているパーティーなんだからさ」

 その意見に、おかしな帽子屋が喰ってかかった。

「バカ言っては困る。一番愚かなヤツは『時間(Hour)』だよ。わしがなんで『時間』と喧嘩したか知っているのかね。あいつが愚かだからだよ」と得意げに言った。

「いや、参った。あたりだ」

 セイはみんなにむかって降参とばかりに手をあげた。その様子にセイの周りに集まってきた大勢の化け物たちが、答えを聞こうとセイに視線をむけた。

 トラウマたちがみな顔を見合わせ、うれしそうに顔をゆがめる。

「だれが正解なのか、はやく教えてくれ」

 

「答えは『時間(Hour)』だ」

 おかしな帽子屋が、ほかの化け物にむかって得意げに胸をはってみせる。

「ほら、わしの言う通りだ」

 セイは自分のまわりに、庭中に散逸していた化け物がみな集まってきていることを確認して、満足そうに言った。

 

「よくわかったね。一番愚かなのが『我々(Our)』だなんてね」

 

 セイはそう言うなり、地面にてのひらをおしつけて念の力をこめた。セイの手のひらから、目にみえない波動のようなものが押し出され、地面を波紋のように這っていく。

 その波動がまわりを取り囲む化け物にふれると、一瞬にしてパチン、パチンと弾けとんでいく。波紋がひろがっていくと、その場に集まっていた化け物たちが、遥か先まですべて消し飛んでいた。

『これで『TーPARTY』……、『トラウマ・一行(PARTY)』、が全滅だとありがたいんだけどね』

 

「きゃーーーー」

 はるか上のほうから、アリスの叫び声が聞こえた。

 セイがゆっくりとみあげると、数十メートルもあろうかという巨人がアリスを掴んで、こちらにむかってきていた。性悪さを絵に描いたような顔つき、はち切れんばかりにでっぷりとした体。彼女はハートをあしらったドレスを着ていた。

 

 

「ハートの女王……のお出ましか」

 



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第8話 セイ、首を刎ねてやるわ

「セイ、首を刎ねてやるわ」

 女王は足下にいるセイを見おろして、開口一番、わめくように言った。

「ハートの女王様、そんなむごいこと、やめて」

 女王の手につかまれているアリスが命乞いをした。

「許さないわよ。こいつはこの庭にいるものを全部殺したのよ」

「でも、首を刎ねるのはよしてちょうだい」

「じゃあ、踏みつぶしてやる」

 そういうなり、女王は足をおおきくあげて、ドン、と力いっぱい踏みつけた。セイは逃げる間もなく、女王の足の下敷きになった。

「セイ!!」

 アリスが悲鳴をあげた。

「大丈夫。アリス。心配ないよ」

 踏みつけたられたはずの女王の足下から、セイの声が聞こえた。アリスが上からのぞき見ると、セイが女王の足下からはい出てくるのが見えた。

「女王、ハイヒールは踏みつけるのには不向きだよ」

 セイが下から大声で助言すると、女王は怒り心頭という顔つきで叫んだ。

「衛兵。この男を捕らえなさい」

 ふと見ると、いつのまにか、まわりを、トランプのからだをした兵隊たちに囲まれていることに気づいた。トランプたちは皆手に槍を掲げて、セイのほうへ先端をむけていた。

「あれ、あれ、囲まれるにもほどがあるな」

 そういうと、セイは小瓶をとりだして、ぐびり、と今度はたっぷりと咽に流し込んだ。

 見る見るセイのからだがおおきくなっていきはじめていく。まわりを取り囲んでいた兵隊たちのうえに落ちた、黒い影が伸びていく。驚きの表情でじりっと後退する兵隊たち。

 ハートの女王とおなじくらいおおきくなったところで、セイが大地を蹴飛ばして風をおこした。その風に煽られたトランプの兵隊たちは、テムズ川まで飛ばされそのまま流されていった。セイがテムズ川の水面にうつる自分の姿に気づいた。

 そこにはエプロンドレス姿に女装した巨人がいた。思わずセイが漏らす。

「すげー、恥ずかしいンですけどぉ」

「なんて、破廉恥な!」女王が怒りまかせに叫んだ。

「ですよ・ね!」とセイも同調する。

「そんな薬を隠し持っているなんて、恥をしるべきです」

「あ、そっち?」

 

「セイ、迎えにきてくれたのね」

 女王のてのなかのアリスの声にセイがすぐに反応した。

「女王陛下、失礼します」というなり、顔にびんたをくらわせる。虚をつかれて手が緩んだところをセイは見逃さない。女王の右手からアリスを取り戻すと、やさしく手に包みこんだ。

「アリス、大丈夫だった?」

「セイ。なんともないわ」

 セイはほっとして、にんまりと笑った。が、そのままセイの顔が引きつった。

 ハッとして気づくと、ハートの女王がセイの首をむんずと掴んでいた。

「首を握りつぶしてやるわ」

 身動きを封じられた上、息ができなくなったが、セイはまずはアリスを助けようと、しゃがみ込んで地面にむけて手をのばした。 

 だが、なぜか地面に手が届かなかった。

「セイ、届かないわ。もうちょっと下よ」

 こんなに大きくなっているのに、数メートル先の地面に届かないのが腑に落ちない。セイはハッとした。

 

 縮んでいる……!。

 

 この巨人の姿は、あの小瓶のなかの液体を飲んでも、そんなに長続きしないのか。

 

 セイは女王に首元をつかまれたままの状態で、精いっぱい叫んだ。

「ドジソン!。チャールズ・ドジソン!、どこだぁぁぁ」

 するとすぐ下の木立から声がした。

「セイ、ぼー、ぼくはここだ」

 セイは顔をしかめながら、ドジソンに言った。

「そこでアリスを受けとめてくれ」

「むー、むー、無理だ。ぼー、ぼくの力では」

「ぼくのからだは縮んでいる。はやくしないと手遅れになる」

「でー、でも……」

 

「ルイス。ルイス・キャロル!!。きみのアリスへの愛をいま見せてくれ」

 



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第9話 アリス、飛んで。ぼくが受けとめる

 ルイスは「アリスへの愛を見せてくれ」というそのことばに勇気を奮い起こした。木立から走り出て、セイの手にぶら下がっているアリスのほうへ手を伸ばした。

「アリス、飛んで。ぼくが受けとめる……」

「怖いわ」

 

「大丈夫。ぼくが絶対に受けとめるから!」

 

 アリスが身を踊らせた。

 ルイスは死んでも落とさない、という気迫で、その落下点に飛び込んだ。

 おおきく手をひろげてルイスはアリスのからだを受けとめる。

 ルイスがぎゅっとアリスを抱きしめて叫んだ。

「アリス、愛してるよ」

 

 アリスの無事を見届け、ほっとしたセイは自分がすでに元のおおきさに戻ってきていることに気づいた。首を掴まれていたはずが、いつのまにか体を掴まれている状態になっている。

「女王、首を握りつぶせなくて残念だったね」

 女王はちいさくなったセイを威嚇するように、顔を近づけた。まさに目と鼻の先に凶悪な顔をした女王のおおきな顔があった。女王が勝ち誇ったように言った。

「おまえの首を食いちぎってやる」

「いえ。ぼくがあなたの首を刎ねる番だよ」

「は、そんなちいさな体でなにができる?。このまま、おまえをトマトみたいに握り潰してもいいんだよ」

 セイは小瓶をとりだして、女王の目の前に掲げた。

「ほう、その小瓶でどうしようっていうのかい。またでかくなるのかい。それともあたしにそれを飲ませて小さくしようとでも」

「いいえ、ちがう」

 セイはそういうと、ペンをとりだし、小瓶の字に線を書き足した。

 『DR「U」NK ME(酔っぱらえ)』

 セイは躊躇なくその小瓶を『ハートの女王』の口のなかに投げ入れた。瓶が口のなかに入るなり『女王』の目はくるくると周り、顔が一気に赤らんだ。

「お、おまヱ;;、なにヲ;;、酔わせたくらいデ、勝てると思ってるの!;;」

 若干ろれつがまわらない口調で、女王が悪態をついた。

 セイはこぶしの『心残り』の力を宿すと、手が炎に包まれた。

「からだ中にアルコールが回っているみたいだよ」

 ハッとして女王が自分のからだをみると、おなかのハートマークの周りが赤い色になっているのがわかる。

「火(Fire)ですってぇ!」

 セイが炎の宿った手を女王の口のなかにうちつけると、ボッと一気に女王のからだが燃えあがった。

 

「そうだよ、女王様。あなた『くび(Fire)』だもん」

 

  ------------------------------------------------------------ 

 ルイスはアリスを腕に担ぎあげて、黒煙をあげて燃えていく女王を見ていた。

「ドジソン先生……」

「私もあなたのこと愛してるわ。だってお写真撮るの上手だし、どもるところが可愛いもの。何百万回だってキスしてあげるわ」

 ルイスはアリスの屈託のない笑顔をみて、ふっとやさしく笑った。

「アリス、それはとっても難しい話だよ。数学的にね。何百万回もキスしてくれるのはうれしいけど、何百万回って最低でも二百万回だろ。一分間に二十回キスするとしても1666時間キスし続けてなくちゃならないんだ。もし1日12時間としても、ボクは23週間もキミからのキスを受けてないといけない」

 アリスは、突然、ルイスの頬にキスをした。

「このキスは何百万回分のキスと同じくらい価値があるの」

 

 その様子を遠くから見ていたエドガーが、横でエプロンドレスを着替えているセイに言った。

「ありがとう。思いが叶ったよ」

 エドガーが微笑んだ。そのとたんエドガーのからだから、黒人の少年の『魂』がふっと幽体離脱のようにぬけだした、そのまま天空にむかって浮かびあがりはじめる。

 それを満足そうに見あげながら、セイが言った。

「引き揚げ《サルベージ》終了……」

 

「……じゃなさそうだな」

 

 背後からなにかがセイに襲いかかってきた。セイがそれを軽くいなすように避ける。

 

「なぁ、ハンプティ・ダンプティ?」

 



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第10話 とびっきりすてきな人(the cat's whiskers)

「なぜ、わかった?」

 手に持ったステッキでもういちど身構えながら、ハンプティ・ダンプティが言った。先ほど倒したはずの姿とは似ても似つかないほど醜悪で、強靱な姿に変貌していた。

「ぼくの知識とマッチ(match)しないんだよ」

「マッチしない?」

「あんたはこの話に出てこない。兄弟一緒にでてくるのは、『トゥイードルダムとトゥイードルディー』だ。あんたは『鏡の国のアリス』の住人のはずだ」

「特別に出張サービスさ。こちらは君と『対戦(match)』したくてね。あの魂の代わりに、おまえにここにとどまってもらうさ」

 セイは肩をすくめた。

「そんなことしたら、現世のぼくが『昏睡病』になっちゃうな」

「それが我々の使命だよ」

「さっき、ぼくにやられたくせに」

「『そんな昔のことは覚えてないな』」

「じゃあ、思い出してもらおうかな」

心残りの力(リグレット)。こい!」

 セイのこぶしに光が宿りはじめる。

「トラウマ、おまえを浄化(クレンジング)する」

 セイはハンプティ・ダンプティにむかって、無数の正拳突きをくりだした。目に見えないほどのスピードでこぶしがねじ込まれる。

 だが、ぶよぶよとやわらかいハンプティ・ダンプティのからだが「ボヨン、ボヨン」とたわんで、その鉄拳をはねのける。

「は、ずいぶん弾むからだだな。『ビヨン・ビヨン(Boing Boing)』に名前を変えたほうがいいな」

 すると、ハンプティ・ダンプティが親指を下にして不服そうに言った。

「『ビヨン・ビヨン(Boing Boing)』などまったく美しくない名前だ。ブーイング(Booing)だよ」

 セイは再度、パンチを打ち込んだが、ハンプティ・ダンプティはまたもや余裕でそれを受け止めた。まったく効いた様子がないのに、セイが悔しそうな顔をした。

「タフだな」

「もちろんだ。『タフでなければ生きてはいけない』からな」

「それ、マッチしないな。そのセリフは、この時代よりもっとあとに生み出されるし、そもそも、ここイギリスではなく、アメリカが発祥なんだよ……」

「ことばが大事なんじゃなかったのかい」

「い、いや……」

 ハンプティ・ダンプティがうろたえたような声をあげた。セイは手を挙げて空中から『マッチ(match)』をとり出すと、からだにすり付けてパチンと火をつけた。セイが火のついたマッチを握りしめて、火の力をこぶしに宿らせる。

 セイがハンプティ・ダンプティのからだに手のひらを押しつけた。ゆっくりと表面の白身が溶けはじめる。

「なにをするつもりだ……」

 ハンプティ・ダンプティが苦悶の叫び声をあげるが、セイは涼しい顔で言った。

「『そんな先のことはわからない』」

 セイが一気にハンプティ・ダンプティのからだの奥まで、手のひらを押し込んだ。ハンプティダンプティはぎゃっと声をあげたかと思うと、そのまま絶命した。そのからだには、セイの手のひらの形に穴が空いて、そこからどろりとした黄身が流れ出していた。

セイは手についた『黄身』を振り払いながら言った。

 

「なんだよ。『ハード・ボイルド《固ゆで卵》』じゃないじゃん」

 

 

 アリスはルイスに抱き上げられたまま、森をじっと見ていた。やがて、とても寂しそうな顔でつぶやいた。

「ドジソンさん。お友達、いなくなったから、もうお話が書けないのね」

 ドジソンは汚れた顔でにっこり笑った。

「アリス、心配しなくてもいいよ。キミの友達がいなくてもお話は書けるから」

「本当?。今度はどんな話?」

「今度はアリスが『鏡の国』にいく話しなんだ」

 アリスの顔が期待いっぱいに華やいだ。

「ドジソンさん、今度それ聞かせて」

「あぁ、もちろん。もちろんだよ」

 

 アリスがふとなにかに気づいて、あたりを見渡した。

「ねぇ、エドガーさんは?」

「エドガーって?」

「エドガー・ウェストヒルおじさんよ」

「アリス。そんな人はいないよ。ロビンソン・ダックワースのことじゃないのかい」

「ううん、ダックおじさんじゃない。エドガーさんよ」

「でも、アリス。そんな人は存在しないんだ」

 

「エドガー・ウェストヒルは使われなかったボクのもう一つのペンネームだもの」

 

「アリス!」

 アリスが森の方から呼ぶ声にふりむくと、チョッキ姿にもどったセイが木の枝の上に座って笑っていた。

「セイ!」

 アリスが声をかけたが、セイのからだはすうーっと消えはじめ、最後ににやにや笑いだけが残った。

 

 が、やがて全部消えてしまった。

 

「ほうら、セイ、あなた、やっぱり猫だったのね……」

 

「だって、とびっきりすてきな人(the cat's whiskers)だったもの」

 

 

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■参考文献

不思議の国のアリス 著 ルイス・キャロル

数の国のルイス・キャロル  著 ロビン・ウィルソン

 

■参照ホームページ

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ルイス・キャロル

アリス・リデル

ヴィクトリア (イギリス女王)

ジョン・ブラウン (使用人)

P・T・バーナム

 

 

イングランドの笑う猫 

http://agrinningcheshirecat.blogspot.com/2008/01/grin-like-cheshire-cat-grin-like.html

 

キャロルさんの皮肉炸裂☆「不思議の国のアリス」が狂いまくってるワケ

https://matome.naver.jp/odai/2143018694192400801?&page=1

 



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ダイブ3 クォ=ヴァディスの巻 〜 暴君ネロ 編 〜
第1話 ローマに火を放った異端者。その名はキリスト教徒!


 これは夢見聖(ゆめみせい)が、初めてマリア・トラップとエヴァ・ガードナーと出会った 第一話の前日譚。そして、この「昏睡病」がただの病気ではなく、1000年前の『ミレニアム』の時にかわされたある契約が元凶であることを知る序章。

 

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 喊声(かんせい)が地響きのように、地を揺るがした。

 コロシアムを埋め尽くす観衆は、目の前の残虐な行為に興奮、陶酔し、取り憑かれたように雄叫びをあげていた。

 その狂気のるつぼの中心、競技場の中にはおびただしい数の死体が転がっていた。どの遺体も、血まみれで、身は引き裂かれ、腕や足は原形をとどめず、内蔵は散乱していた。

 まだ息のあるものもいたが、すでに身動きする力はなく、ときおり呻くだけの肉塊と化していた。だがその生きている証の呻き声も、観衆たちの狂乱に飲み込まれて、だれの耳に届くことはなかった。

 生きている命のなかに、一人の少女がいた。

 彼女はおびえた表情で壁に背中にしてうずくまっていた。少女の服はボロボロに裂け、血があちこちから滲んでいるのがわかる。

 少女の顔に影がおちた。そのとたん、あたりの血の臭いより強烈な、獣の臭いが鼻をついてきた。もうわかっているという表情で少女が、ゆっくりと顔をあげた。

 そこに雄ライオンの顔があった。獲物を狩るときに見せる、鋭い眼光が少女の目を射った。血だらけの口元から、「がるるる……」という威嚇するように咽を鳴らす音が聞こえ始める。競技場の地面を這うように、低く重々しい雑味のある音が棚引く。

 もう少女は恐怖に震えることもなければ、悲鳴をあげることもなかった。目を静かにとじて、胸の前で五指を組むと、囁くような声で祈りはじめた。すこし口角が上向いて笑顔めいた表情が少女の顔に浮かんだ。それは、まるで神に殉じることを待ちわびていたかのような、すがすがしさを感じさせた。

「がおぉぉぉっ」という咆哮とともに、ライオンが少女に飛びかかった。

 わーっと歓声と拍手が巻き起こり、観衆がみな立ちあがる。

 

皇帝(インペラトール)!」

「万歳!。ネロ皇帝」

 

「わははは、見たか。ティゲリヌス!。さすがに百獣の王だな。まったく容赦がない」

 皇帝ネロが玉座の横に(かしず)いている近衛隊長官ティゲリヌスに話しかけた。ネロは玉座からずり落ちそうなほど身体を乗り出し、ティゲリヌスの頭のうえから唾を飛ばしていたが、気にする様子はない。

「さようで…」

 ティゲリヌスはあたまの上から降りかかるネロの唾にも動じることなく、微動もせずに答えた。

「う〜ん。さすがのワシもあそこまで冷徹にはなれんよのう。スポルス」

 ネロが隣に腰掛けている妻のスポルスに語りかけた。

 まだ少女のような顔立ちの王妃は、蒼白になった顔面をうつむけるようにして、「皇帝陛下のおっしゃる通りでございます」とだけ答えた。

「うほほほほ。よくわかっておる。ま、そなたには特に優しくしておるからのぉ」

 

 玉座のうしろに控えている腹心の一人、執政官のペトロニウスがネロに耳打ちした。

「皇帝陛下。そろそろ、民衆にこたえてやらねば…」

「ペトロニウス、おまえがやってくれ。ワシは面倒くさい」

「皇帝陛下!。皇帝とはすなわち神。神の代わりは私ごときにはつとまりません。ぜひとも皇帝のその美声を民衆にお聞かせください」

 ネロ、すがめた目でまわりの人々の顔色をうかがうと、ペトロニウスの世辞にまんざらでもない様子で言った。

「ふうむ、そうだな。確かにおまえでは神の代わりはつとまらん」

 ネロはゆっくりと玉座から立ちあがると、手を挙げて観衆たちのうねるような歓声と興奮を満身にうけた。

 トーガをまとった、その体躯はずんぐりとして愚鈍な感じを思わせるが、目だけはせわしなく動き、生来の小心ぶりを物語っている。

 ネロは人々の歓声を押さえるように手を挙げて、高らかに宣言した。

「ローマ市民諸君!。今、正義はなされた」

「ローマに火をはなち、諸君の肉親を、友を、財産を奪った者たちに正義の裁きが下されたのだ。その者の名はキリスト教徒!」

「新奇で有害な迷信を信じる邪教集団である!」

 うぉーっとより大きな歓声があがる。

 

「万歳!。ネロ皇帝」

 皇帝をたたえる民衆の声は、しばらくやみそうになかった。

 



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第2話 まるでおまえが潜っているときと似た波形なんだ

『なんでこんなに(よど)んでいる?』

 叔父の夢見輝雄の依頼をうけて、DNAの海に潜った夢見聖(ゆめみせい)は、そこが思いもよらないほど淀んでいることに驚いた。

 

 自分がダイブする前にモニタで確認した患者はイタリアの少女で、まだ小学校にあがったばかりくらいのあどけない顔立ちだった。まだDNAが汚れるような年齢ではない。ふつうなら水底からの眩しい光が行き先を導いてくれるのに、この子のDNAの海は下から薄ぼんやりとした明かりが灯っている程度にしか感じられない。

 あまりに視界がわるいので、螺旋(らせん)状に丸まったDNAの塩基にぶつかりそうになる。ときおり、下から上へあがってくる短い光のパルスが照らしてくれなければ、DNAの螺旋に絡まってもおかしくないレベルだった。

『この子の脳波がおかしな波形を描いていたことと関係があるのか?』

 

 ふと聖は自分がダイブする直前の、叔父の夢見輝雄とのやりとりを思い出した。

 

「叔父さん、その子の脳波がおかしいってどういうこと?」

 聖はモニタに映る白人の少女の寝顔をじっと見ながら、輝雄に疑問を投げかけた。輝雄はモニタ画面の下方に表示されているいくつもの計測データのグラフのなかのひとつを指し示した。

「聖、この子は今回依頼のあったイタリアの少女なんだが、なんだかおかしいんだよ」

 聖は叔父夢見輝雄が疑問をおおっぴらに口にしてきたことに驚いた。

 輝雄は聖の協力もあって、いまでは『昏睡病』の世界的権威とも言える立場で、官民財が出資するこの『昏睡病センター』の所長でもある。

 当然、その「なんだかおかしいんだよ」はトップ・シークレットの事項であるはずなのに、疑問を構わず口にできる叔父の鷹揚さにはいつも振り回される。

 実際、聖が軽く目を配っただけでも、周りで叔父の指示に従って忙しく立ち働いているゼミの学生たちは耳をそばだてているし、何人かいる職員のひとりは手を休めてこちらを見ている。 叔父はよくもわるくも目の前に『命題』を突きつけられると、なりふり構わず猪突猛進するタイプなのだろう。まじめだとか、ひとがいいと言えば、ことばはいいが、誰かに出し抜かれたり、騙されたりすることは考えていない。

 研究者としては優秀だが、責任者としては疑問符がともる。

 自分とおなじようにそれを危惧してか、娘の広瀬・花香里(ひろせ・かがり)がその横で苛だった様子で腕を組んで立っていた。

「もう、父さん。そんなことを軽々しく口にしないの!」

「ん、あぁ、そうか。悪かったね」

「ところで、聖、この子の脳波計の波形を見てくれないか」

 輝雄は娘の忠告などどこふく風とばかりに聞き流すと、聖をモニタの前に連れて行った。聖は促されるままにモニタに目を転じた。

 

 そこにはすこしエッジが立った折れ線が刻まれているグラフがあった。すこし違和感のある波形であったが、それがいつもとどう違うのかがわからない聖は、輝雄にむけて肩をすくめて見せた。

「いつもを知らないから、どう違うのかが……」

「まるでおまえが潜っているときと似た波形なんだ……」

「ぼくが潜っているときと?」

「お父さん、それはどういう意味なの?」

 かがりが思わず脇から口を挟む。

「それがわからんから困っているんだよ」

「わからないって……、お父さん。世界的権威なんでしょ」

 かがりの声がすこしヒステリックな色を帯びてきているようだったので、聖が輝雄に言った。

「叔父さん。ぼくが潜って確かめてくる」

「だが、まだ安全に潜れるかどうか確認してからじゃないと……」

 

 聖は叔父の肩に手をやって、にっこりと笑って言った。

「安全じゃなかったら、その子を助けないわけじゃないでしょ」

 

「ぼくにできるのは、目の前の患者の『魂』を引き揚げること。それだけだよ」

 



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第3話 こっちこそ見つけたぞ!

 地面に降りたつやいなや、セイの耳に興奮を帯びた観衆たちの怒声が聞こえてきた。

 今、ここがどの時代で、どの国かもわからなかったが、そこに集う人々の異様な精神状態が、セイの頭をしめつける。

 ダイブした精神世界ではその世界を包む空気やその時代の死生観などが、二十一世紀の常識や倫理観に浸潤してくる。それが毎回からだの痛みとなってセイを苦しめた。

 

「ケラドゥス!、殺せ!」

 

 ひときわ大きな声にセイは顔をあげた。その声は狂気じみた物言いだったが、驚いたことに誰かに対する応援の色を帯びていた。

 そこは円形競技場だった。

 巨大なグラウンドをぐるりと取り囲んだ観覧席は、古代コンクリートで固められただけの粗っぽい作りだったが、幾層にも広がり、数万人もの観衆を収容できるような設計になっている。

 今その円形競技場は満員の観衆に埋め尽くされ、むせ返るほどの興奮に包まれていた。 みるみるその歓声が高まりはじめる。スポーツ観戦で耳にするような応援めいた歓声ではない。悪意や殺意のようなものが入り交じった飛礫(つぶて)のようなものが、円形競技場のコンクリートの壁に打ちつけられ、地響きとなって競技場全体を揺さぶっているようだった。そこには、競技を楽しみにきた、という牧歌的な雰囲気はない。

 精神世界を(くぐ)ってきたセイに痛みを与えていたのは、その肌を焼くようなひりひりとした狂気だった。

 セイは観衆たちが目を釘付けにされている方角を見た。

 

 そこにいたのは、二人の剣闘士の姿。

 競技場中央で大振りの剣をふりまわして戦っている。競技場がひろすぎてセイの位置からは、ふたりが豆粒ほどにしか見えなかったが、羽根飾りのついた兜をかぶった剣闘士が優勢で、相手の男はその剣先に翻弄されているのは容易に見て取れた。

「ケラドゥス〜、ヤッちゃいなさい」

 セイのすぐ近くで女性の嬌声(きょうせい)にも似た声が聞こえてきた。さきほどから感じている反吐がでるような狂気の渦に、女性たちの『恍惚(こうこつ)』が混じっていることにセイは驚いた。

 

 圧倒的な声援に応えるように、羽根飾りの兜の剣士ケラドゥスの剣先の速度が一気にあがる。それまでなんとか剣先をいなしていた相手剣闘士の手数が、徐々におぼつかなくなり始める。その懸命なまでの防戦の様子に、勝負の終焉(しゅうえん)を感じ取った観衆がさらにヒートアップしはじめる。

 やがてケラドゥスの剣を受けきれなくなり、とうとう剣闘士は腹を貫かれて、その場にどうと倒れた。地面が朱に染まっていく。

 爆発するような歓声が円形競技場全体を包みこんだ。

 親指を下にむかってつきたてながら、観衆たちが叫ぶ。口から泡をとばし、目を血走らせ、顔を真っ赤にして。そこにあるのは、淀みない称賛と、無慈悲なまでの嘲罵。

「殺せ!。殺せ!」

「ヤツは勇敢じゃなかった。殺せ!」

「皇帝陛下、裁きを!」

 

 口々に叫ぶ観衆の視線は円形競技場の正面の上方に(しつら)えられているバルコニーへ向けられていた。セイからはその顔が見えなかったが、取り巻きのものに促されて、皇帝らしき男が玉座から立ちあがりその手を前につきだした。その親指は上にたちあがっている。

 その仕草に観衆たちのボルテージがさらにあがり、歓声が地響きとなってグラウンドを一周して、天空に立ち昇っていく。

 皇帝は一身に集まる観衆の視線や期待の目を存分に堪能しているようだった。何度も満足げに頷くと、ここというタイミングをはかって、親指を下に突き降ろした。その合図にケラドゥスは顔色ひとつ変えることなく、倒れた剣闘士の胸に深々と剣を突き立てた。

 円形競技場に渦巻いていた狂乱という火薬が爆発したかのように、一気に歓声となって吹き上がりはじめた。

 兜を脱ぎ、その端正な顔を観衆のほうにむけたケラドゥスが、ふりそそぐ歓声にこたえて手をあげる。

 

「嫌な世界だ。早く終わらせよう……」

 セイはこめかみを指で押さえながら、あたりを見渡した。現世の魂が紛れ込んでいるとしたら、この精神感応の方法であぶり出すことができるはずだった。

 セイは皇帝のいるバルコニーのほうに目をむけた。そこにぼわっとした淡い光がさした。

 皇帝の横の玉座に座っている少女の姿が目に入った。きらびやかな衣装をまとい、可愛いというより美しいという顔立ちをしていたが、どこか寂しげな目をしてうつむいている少女。

 

「見つけた!。あの子だ」

 そのとき、背後から予想外の声がした。

 

「こっちこそ見つけたぞ!」

 



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