傍らの貴方へ、このカクテルを (水崎涼)
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傍らの貴方へ、このカクテルを
スラム街のすぐ傍、通りの裏側にある街灯も少ない路地に、このお店。カクテルバーはある。
外観こそボロボロ崩れた壁面。だが内装は安物と言えど見てくれは悪くないし、商品については不足ない取り揃えができている。人類が崩壊しそうな現在と比して平和だったころ、店を開いた人間が趣味全開にした名残である。
今ではお年を召して表に立つ機会は少ないが、彼が捕まえた良質な固定客が空間維持に貢献してくれており、その点でもこの職場は恵まれていた。
質はいい。
数はいない。
安いアルコール成分を注入したい人間にはそっぽを向かれ、閑古鳥が客。所詮は趣味なのでこれでいいらしいが、本日は、予約を入れていた一見様のお客様が唐突にキャンセルされて、開店休業がほぼ確定している。
バーメイド用のデータパックを入れ、これを仕事とするべく配されているのに、客がいないとは。
私を購入していただいて、わりと良くしてくれるマスターに感謝はしているが。私は仕事への遣り甲斐も見出せぬまま、手を付けるべき仕事さえなく、ひたすらに暇となっていた。
暇すぎて、ラジオ局が流す音楽で一人カラオケを始める始末。客を待つのも仕事だ。
それでも客は来ない。
数曲が巡り、時刻が翌日となって。そろそろ歌い疲れた頃。
11月の冷え始めた夜を抜けて、彼女らはやって来た。
「いよいよ、ハズレかしら」
「かもね」
来客は、二人の女性型人形。
一人は乱れを許さぬ銀髪ストレートで、左目元に涙のタトゥーを入れており。
一人は癖毛の強い薄茶髪をサイドテールに、左目に大きな縦傷を付けていた。
暇を持て余したバーメイド用自律人形が、一人歌唱している所を目撃されるとは赤面ものの事態であるのだが。そんな意識さえも吹っ飛ばすほどに、来客達はひどいものだった。
原因は美しい顔ではなく、彼女らが携える鋼鉄。私には知識がないので鋼鉄の詳細は知らないが、鋼鉄が銃と呼ばれている兵器であることくらいは理解していた。懐に隠すとか絶対無理な程度には大きいそれを、彼女らは誇りとばかりに堂々と携えている。
ここは民間人が利用するお酒の店。拳銃あたりを忍ばせてくる人間はあれど、こうも大きい銃を隠しもせず担いで来店してくるふととき者を、私はこれまでに見た事がない。
「あそこにしましょうか」
「了解」
両名は、銃を持ったままこちらに歩み寄ってくる。これで動じるなとは無理な話だ。
銃口をちょいと持ち上げて、金か酒かと要求されればまだいいほう。そう、私が顔をこわばらせていると。
私の様子に気づいたか。スカーフェイスのほうの人形は片手を軽く掲げ、物騒極まる兵器を携えるにはあまりに不釣り合いな、人当たりの良い笑顔を向けてきた。
「こんばんは、驚かせてごめんなさいね。お仕事前の景気付けに来たの」
「え、え、えぇ。どうぞ‥‥‥」
「ありがとう」
スカーフェイスは私の反応をそよ風のごとく流し、タトゥー女と共に店の奥、隅のカウンター席を選び並んで腰を下ろす。卓上には空の両手を乗せて見せてくれた。もちろん、物質が消えるわけもない。スカーフェイスは漆黒のパーカーの裏に、手にしていた銃を。タトゥー女はより大きな銃はどこかに置いたが、腰の拳銃はそのままに、それぞれ忍ばせている。
これら銃器は私の角度からは丸見えであるが。店の出入口側からは、見えないかもしれない。客として、他の客への配慮だろうか。まず、持ち込まないという配慮をして欲しいものだが。
とりあえずは、私に向かって銃を使うつもりはないらしい。
さてどうしたものか。声をかけたくないくらい腰が引けている私など構わずに、両名は話を続ける。
「店に入る事はなかったでしょう」
「それは、区画の入り組みようを見ての判断かしら」
「どのような立地だろうと、私ならば完璧にこなすわ。私の実力を―――」
「あなたは戦果を最大にする。私は勝率を最大にする。隊員ならば、隊長を信じて付いてきなさい」
「‥‥‥付いてきているわ。御覧の通りにね」
そうしてフイと、銀髪はきまり悪そうに視線を逸らすのだった。
銃を持つ人形。戦闘用に転換されたI.O.P.社製人形、戦術人形という種別と思われる。最近の人間社会は、経済も戦争も、人造物が労働階級として支えている。
タトゥー女はそっと、目だけであたりを見回す。圧倒されたり物珍しげとは違い、値踏みのよう。バーには慣れているようだ。どちらかというと、落ち着き払いつつも何をすべきか迷うような、スカーフェイスのほうが初心に思える。
「中々、品がいいわ。リキュール類も本物かしら。あるところにはあるのね、まだ」
「物持ちだけで言うなら、グリフィンも相当よ。カフェの真似事も、クリスマスパーティも出来る」
「羨望や侮蔑ではなく、感心として言ったのだけれど、そうは聞こえなかったようね」
「聞こえたわよ。こういう店に感心できるなら、グリフィンでも、もう少し楽しめばいいじゃないって意味」
「私達に表で目立てとは、面白い冗談だわ」
「だったら笑いなさい。私みたいにね」
「あなたは、まず目が死んでるのよ」
しかしスカーフェイスは作り笑いのままなので、タトゥー女はことさらに機嫌を損ねていた。
連れ立って来店してきた割には剣呑である。あるいは逆に、このレベルのやり取りが日常会話として許されるくらい仲が良いのか。
ともあれ客である。乱暴される様子もないので、私も落ち着いてきた。客人をしてくれるならば、バーメイドとしての仕事を推し進めてみよう。私はラジオの音量を少し下げて、人形らしく、素晴らしい営業スマイルを作る。
「ご注文は、お決まりですか?」
「水を」
「どうしようかな。グリルソーセージの盛り合わせを頼むわ」
景気付けという割には、ビールの一つも頼まない。酔っぱらって銃を持っても、仕事に差し障るからそんなものか。
水を注文したタトゥー女は、さらにむっとした顔でスカーフェイスを睨む。
「45、私達は仕事に来たのよ。入った挙句に食事だなんて、一体何を考えているの」
「おいしい物を食べれば緊張も解れるわよ、張り詰めてばかりだと疲れちゃうし」
「‥‥‥ならばその経費は、私達を管理するべき小隊長様の財布から出るはずね。バーテンダー、サーモンのカルパッチョを」
「自分の懐が痛まないと知るや注文を取る部下って、どう思います? バーテンダーさん」
「楽しそうです」
控えめに言ってクソ野郎ではなかろうか。と答えた結果、銃を取り出されても困るので、笑って食品を提供するにとどめておいた。怖いので、バーメイドです、と訂正するのもやめておく。
客としての礼節はあるようだ。第一印象の割には何を問題行動を起こすそぶりもなく、二人は各々軽食をつついている。時折、思い出したように言葉を交わす。両名とも口数は少ない方らしく、細々と。
この閉鎖空間の主として、少しくらいは話を窺ってもよかろう。
「景気付けとおっしゃっていましたが、どのようなお仕事をされているのです? ミス‥‥‥」
「45よ」
「‥‥‥数字が、名前ですか」
いくら人形だからって、固有名くらいは与えられるのが通例だ。人間らしく立ち振る舞うため、に。
製造番号か登録番号かは知らないが、戦場における消耗品だからってあまりにあんまりではないか。そういえば、数字を名とする暗殺者や、秘密情報部工作員の話があった気がする。45と答えた彼女も、後頭部あたりにバーコードが刻まれていたり、殺しのライセンスを持っていたりして。と言う詮索は、やめておこう。
そんな失礼な内心は読まれなかったようで、スカーフェイス、45さんは快く続けてくれた。
「名前の略であり、名前の由来であり、そのものであるって所かしら。おかげで、12ゲージや9ミリパラベラム組が集まっていると、呼ぶのが軽く面倒」
12ゲージやら9ミリパンタグラフだかが一体何の言葉かは知らないが、そのあたりの戦術人形は皆、略すと12や9という呼びかけになってしまうのだろうなとだけは理解できた。
「他人から見ればただの数列で型式。でも、名を忌む子はいないんじゃないかな。私達の相棒であり象徴、だからね」
「これは失礼しました」
「気を使ってくれてありがとう。お察ししているだろうけど、私のお仕事は民間軍事会社。今日も出張よ、いつも内地で飽きるわ。たまには海を見てみたい」
「I.O.P.社の民間用人形を軍事転向したものと聞いています。望んでその仕事をされている、わけではないですよね」
「戦いこそが誇りであり存在意義みたいな奴もいるけれど」
ぐっと多弁になった45さんはちらりと、連れのタトゥー女に視線をくれて。
不本意そうに、小さく肩をすくめて見せる。
「私は。一つの出来事が、また一つの出来事に繋がって、気付いたらこうなっていた。ね」
「こういう場ですので様々語っていかれる方が多いですが。今日は、深く聞かないほうがよさそうです」
「えぇ、知る事は不幸だからね」
スカーフェイスの人形、45さんは、ゆったりと、それでいてよどみなく答えてくれた。来店時から変わらぬ、人当たりの良い微笑でもって。
ならば、もう一人の彼女も。
「では、あなたも?」
「416と言うわ。あらかじめ言っておくけれど、私の目の前でHKM4などと口走ったら、保証はしない。この店も、その命も」
「あぁ、大丈夫です。私は銃の事はとんと知りませんし、忠告は覚えました。確かに」
ギッと睨んでくる416さんに、両手をわたわたと振りつつ慌返す。賢く達観している45さんに比べて、416さんは感情的で非常に扱いかねる―――言ってしまえば面倒な―――客だという事は理解した。
かといって45さんも、凡百とはかけ離れた空気がある。表情は出すが、感情は見せない。極限状態の中で己を律し、生死の駆け引きをする戦術人形は、極端な性質になってしまうのかもしれない。
お酒を用意するわけでもなく食事風景を眺めるだけでは私が暇なので、このまま多少混ぜていただこう。
「お仕事の内容はさておきまして。調子は、いかがですか?」
「良くはないけれど、最悪でもないって所かしら」
黙りこくる416さんに代わって、45さんが薄い笑みで答える。どうやら、こちらの存在も気にかけてくれるようだ。
良くはないが最悪ではない。
それは、普通という名の。
「それは、『良い』という事ですね」
「‥‥‥えっ?」
「想定よりも悪い事が起きない日々は、普通。普通とは、過度に苦痛ではない状態。『良い』と言っていいのではないですか?」
どこか冷めたような眼をしていた45さんは何かに驚き、わずかに瞼を持ち上げて。
そして、シニカルに声をあげて笑った。
「ははっ。そうね、そうとも言えるのかもね。あなたはどう? 中々な閑散ぶりだけれど」
「私は経営者ではないですし、店は当分続けるそうなので。『良い』ですよ」
こちらに話を持ち出された。私はどうやら、会話相手として認められたようである。
「人生の90%は、受け止め方次第って?」
「えぇ。上を見たらキリがりません」
「出会いがあれば、別れもあるわ。出会いは喜ばしいけれど、だからこそ別れは辛いものよ。それでも?」
「新たなお客様が、常連さんになっていただけます。もちろん、立ち去る方がよいお客様であれば、寂しさはありますが」
「何かを失っても、その先で同量の何かを得られる。失ったからこそ、かしら。世の中っていうのは不思議なものね、そういうことでバランスが取れるようにできているのかも」
45さんはゆるりと微笑を浮かべた。416さんは何かを言いたげに唇を震わせて、何も言わず一文字に結んでしまう。
私同様、ただの暇つぶしか。45さんからも話が飛んでくる。
「あなたは、この町には詳しい?」
「この地区のマップデータは持っています」
「丁度いいわね。ついでで野暮用も進めたらどう、416」
45さんは、416さんを肘でつついて何事かを促した。
するとどうしたことか。416さんはクールさを脱ぎ捨ててひどく動揺した様子になり、言葉を探すように呟いた。私とは目を合わせないまま。
「骨董品、いえ、廃品の市場はあるかしら」
「どこにでもあるとは思いますが。旧世代の電子部品とかでしたら、西南区にマーケットが」
「いえ、そうではなくて、その‥‥‥グッズよ。アニメとか、映画とかのマニア向け遊具。私じゃなくて、寝坊助の子供用で」
恥ずかしいのか、416さんはもごもごと述べて視線を横に逸らしてしまう。色白の肌が赤くなっている。知人にでも贈るプレゼントだろうか。硬いだけかと思いきや、甲斐性のある人のようだ。
かつてなら価値があった工芸品などは、このご時世、容赦なくそこらへんに捨てられる運命である。それでも探そうとするのなら。
「プレゼント用でしたら、状態の良いものがいいですよね」
「新品同然が望ましいわ」
「富裕層が使う中央区画の並木通り4番地に、今は表書きリサイクルショップになっているお店があります。赤レンガ造りの建物です。私がグラスを買いに行った時、DVDやフィギュア類も置いてあったと記憶していますね。元々はそちら方面のお店だったそうで、店を構える場所が場所ですから、商品もかなり綺麗ですよ」
「フィギュアがあるのね?」
一転、416さんは食い気味に顔を寄せてくる。
富裕区画ならば、まだ遊具需要で取引がある。そしてコレクターズアイテムは、保存する余裕が人類にない事から、暴落価格で市場に放出されている。その店は他都市の品も取り寄せできて、私自身、マスター一目惚れのカクテルグラス一式を安く揃えられた話などもすると。
416さんは、熱の入った眼で返してきた。
「ありがとう。助かるわ」
「あの子なら何でも喜ぶと思うけれどね」
「私は手を抜かない。店の情報を詳しく貰えるかしら」
私は続けて416さんと語らった。
彼女、髪色にふさわしい氷刃のような人形だと思っていたが、中々愛嬌が見えるというか。よく見れば、腰のポーチには猫の刺繍を入れてあるようだ。彼女は、外面が悪すぎて知る前に避けられがちだが、知るほどに良い子だとわかるパターンかもしれない。いずれにしても、ぐっと接しやすくなった。
一通り情報を渡し終えて、場は再び静かになる。
そうして、30分ほど経過しただろうか。
『45姉、聞こえる?』
「よく聞こえるわよ、9」
45さんは、懐に入れていた無線機からの呼び出しに応じた。
どうやら、彼女たちが言う仕事、らしい。
『発見した。こっちがビンゴだったよ』
「あら。じゃあ、そちらで片づけてもらいましょう。45よりG11」
『あい』
「予定通りよ。あなたのペースでやっていいわ」
『うん、わかった』
そう返すが早いか、無線機越しにけたたましい雑音が乗ってきた。
ガガガッ、ガガガッ、ガガガッ
ミシンで布を縫うような規則正しい断続音がして、静寂になる。
一体、何で何を縫い付けたのか。
『終わったよ。もう帰っていい?』
「よくやってくれたわ。まずは安全圏まで離脱して。それから、帰る前に私達を拾いに来て欲しいわね。今、ホシの店内にいるから」
『うん、車で迎えに行くね、45姉。たぶん、早くても1時間くらいかかると思う』
「のんびり待つわ。何かあったら連絡をすること。9達も気を付けて」
『りょ~か~い!』
そうして、快活な女性と気だるげな女性のそれぞれの声は終わった。
民間軍事会社とは、人類の生活圏を金で守る私設警備部隊と聞いたのだが。今のは本当に、民間軍事会社の会話だっただろうか。
彼女らは相当に、キレたヤバい集団なのでは。という推測が電脳によぎる。
送迎が来るまでには1時間ほどという。あまり、彼女らと付き合うべきではないかもしれない。
けれど、も。
現状、私は特に何かされたわけでも、これから何かされるような動作もないのだ。45さんも416さんも、面白そうで弁えた方だとは感じられている。普通のお客様と同様に普通に応待すれば、多分きっと、平穏に返してくれる。
銃を持った兵士二人を相手に、カクテルデータパックで立ち向かえるわけもなし、いろいろと諦めた方がよさそうだ。
とりあえず。私の指はカクテル名を並べたメニュー表をつまみ上げて、彼女らの目の前に広げることにした。
「お仕事帰りに一杯、いかがですか?」
「そうね」
こちらを見透かしたような眼で、しかし45さんは柔和に提案を受け入れてきた。
彼女は、パーカー裏に隠していた銃を卓席の下に立てかけながら、飄々と嘯く。危害の意志はないと改めての表明だと、私は受け取った。
「ここから60分間を、グリルソーセージを胃に詰め込み続ける作業で埋めるのは嫌だわ。むやみに冬夜の街を歩き回るのもね」
「ならば60分間、口を閉じて黙っていなさい」
「手間暇かけたる品を供してくれる場よ。今しかできない事をしてみるのも、一興じゃない?」
「‥‥‥あなた、お酒を飲めるの? これまでに見た覚えがないのだけれど」
何者も寄せ付けない空気を放つ416さんの、45さんを見る目が、数瞬きらりと輝く。
これは。
期待、か。
「アルコール成分を注入された際のメモリ動作異常について、416よりははるかまともであるという自信はあるわ」
「ふん、どうだか」
お前の言うことなど信じていないとばかりに、416さんは腕を組み眉を曲げる。曲げているが、ちょっと落ち着きなさげだ。
罵っているが、45さんのアルコール摂取を止める気配はない。一人で飲もうとしないで誘ってくれ、と、本当は言いたいのだろう。
45さんはどうも意地悪なのか、本当に気付いていないのか。変わらぬ微笑みのままグリルソーセージをつつくだけで、幼稚な挑発には付き合わない。
少し、悪戯をしてみたい気分になる。
「それでは、45さん。私からあなたに、カクテルを送らせていただいてもよろしいでしょうか」
私からあなたに、の部分をほんのり強めに。
「あら、そういう事もしてくれるの?」
「今日の大事なお客様ですから。私の想像ではありますが、45さんはお酒にお詳しくはないようですし」
「いい目を持っているわね。私の為のお酒だなんて、うれしいわ」
これほどに乾ききった「うれしい」が他にあるだろうか。しかし、45さんも随分と意地悪のようで。
彼女が表面上でも許諾してしまった。ここで私と45さんの世界が出来上がりつつある。さぁどうします、416さん。
初対面の相手に、上司を奪われるのは我慢ならなかったらしい。416さんはすぐに食いついてきた。
「何をチョイスするのかしら」
「カルアミルク、でどうでしょう」
カルアミルクは、コーヒーリキュールを牛乳で割ったカクテル。その味もまさにコーヒー牛乳、甘く優しい味だ。お酒は何かと癖がある。初心者は、一般的な甘い飲み物で割るとよい。
しかし416さんは、同意を返さない。
「もしも私が、カシスオレンジでも構わないでしょう、と言ったら?」
「カルアミルクにどのようなご不満があるでしょう、と返すでしょうね」
「‥‥‥、フィギュアの件がなければ、この不機嫌を叩きつけた所ね」
416さんは眼光だけで人を殺せそうな視線を撃ってくる。おや、これは意外。
カシスオレンジも定番と言ってよい、オレンジジュースで割ったお酒だ。ジュースであるから、多くの食事に合わせても違和感が少ない上、カシスを使ったカクテルは様々あるので、たいていのお店は用意できる。初心者に進めるお酒として、私が拒否する理由はどこにもないわけだ。
416さんが飲む流れになってくれれば、私の提案が通ろうが通るまいが構わなかったのだが、なるほど。
甘く優しい悪戯は、416さんの好みではないらしい。
もちろん、繋げる言葉はすでに用意してある。
「でしたら。416さんがお贈りになりますか? ほとんどはご用意できますよ」
「私が? こいつに?」
頷き一つ返すと、416さんは45さんに尻目をくれて、作り笑いの45さんの顔を確認すると視線を正面に戻し、むんと黙ってしまった。よいよい。これで416さんの、お酒の輪に入る口実はできた。
そうして、5秒ほどだろうか。
あと一押し、コーヒーリキュールに手を伸ばす動作を入れようかと考えていると。メニュー表には一瞥もくれず、416さんはやや躊躇いがちに言葉を放ってきた。
「‥‥‥バーテンダー」
「バーメイドです」
「同じよ。コロネーションは作れるかしら」
「ご注文は、コロネーションでよろしいですね?」
「えぇ。これで一発泥酔したら、一生笑い話にしてやるわ」
どこまでも気のなさそうな45さんに、416さんは挑戦的な視線を配る。
コロネーション。戴冠式を意味する言葉で、名の通り、人類国王戴冠の度に考案され提供され続けてきたとされている、品格があるとも言えるカクテルだ。お酒はワイン系で、甘口ではないが故にさっぱりとしている。仰ぐべき我が上司に乾杯を。
‥‥‥お酒初心者になら歓迎される向きのカルアミルクに激高し、このカクテルを選ぶあたり。416さんの考えはもっと別の所にある。彼女自身はお酒に弱いらしいが、お酒に強い友人を持っているのかもしれない。
いよいよ私のお仕事だ。
ドライシェリーにドライベルモット、オレンジビターズにマラスキーノリキュール、と。淡々と、適切な量でステアしていく。最も歴史あるレシピを使用した。
「あなたも演出派ではないのね」
「シェイカーでお手玉したりですかね。芸をやる暇があれば一言でも多くお客様とお話しなさいとは、マスターの意向ですし。見たいですか、416さん」
「大道芸をされても空気が壊れるわ」
そうでしょうとも。
無色に近いブラウン色のカクテル。ご依頼通りのコロネーションをカクテルグラスに注ぎ、45さんへと提供する。
「あちらのお客様からのプレゼントです」
「あら、ありがとう」
45さんはしゃなりと笑みを作る。こちらのありがとうには、珍しく感情が乗っているようにも聞こえた。
まだ、コロネーションに手は付けない。45さんはメニュー表をふらふらと弄りつつ。
「ところで。私、プレゼントは返す主義なの」
「借りを作っておきたくない、の間違いでしょう」
「でも、カクテルなんて、こうして眺めてもさっぱりわからないのよね。一個だけ見慣れた文字が見えたから、もうそれでいいやって気分なんだけど」
「あなたのチョイスになんて期待していないわ、好きにしなさい」
「じゃあバーテンダーさん。416に、この、クリスっていうのを頼むわ」
クリス。サンタクロースが語源、とされている、ブランデーベースのカクテルだ。フレーバーワインにレモンをステアして、飲み口は優しい部類になる。
416さんの人形の話は多分、クリスマスプレゼント用なのだろう。だからこそのカクテル‥‥‥いや、違うか。この45さん、よほどの幸運の女神あるいは悪魔でなければ、とんだ食わせ者だ。
「クリス・ベクター。確かに、耳慣れしているわ」
「戦場での相性ばっちりよね、あなた達。お酒も然りかしら」
そしてどうも、416さんが仕入れているお酒情報は一部であるらしい。45さんの返しの意味が分かっていない。自分のものを送り付けただけで満足していては、二流ですな。
両名が何やら職場のお話へ発展させる間に、私は手を動かし続ける。ブランデー、ドライベルモット、アマレット、レモンにシロップをステアでオンザロック。
私は、麦茶にも似た茶色のカクテルを、416さんに供する。ブランデーの量は、416さんの体質や私の楽しみを思えば減らしておくべきだったかもしれない。しかし、45さんからの気持ちに手を加えるのは憚られて、店のレシピ通りとした。
「では、乾杯」
グラス同士でささやかにキスをして、二人はそれぞれに口を付ける。
コロネーション。
416さんから45さんへ、『あなたを知りたい』。
クリス。
45さんから416さんへの返答、『私を信じて』。
あなた自身の話をもっと聞かせて欲しい。
あなたが見たままの私を信じて付いてきて。
そして二人は、それぞれの言葉を、黙って飲み干すのだ。
これだけ近くに居て、いくらでも45さんの話を聞いたり、調べることだってできただろう。それらをしてなお全くわからないほど45さんが徹底して秘匿しているのか、416さんが配慮して何もせず、口を開いてくれるのを待っているのか。
多分、両方だ。
今日まで416さんは、45さんの目に見える部分を信じて付いてきた。45さんもまた、傍に居る事を許して付いてきてと言う。それだけは事実で真実。
とんでもない武装兵がやってきただなんて、とんでもない。良いお二人ではないか。
「色から味の想像がつかなかったけれど、これはこれで」
「いい腕よ、バーテンダー」
両名の表情もそれぞれに変化する。私のお店についても満足していただけたようだ。
だからって、水か麦茶感覚でくいくい飲んでいくのはいかがかと思うが。416さんが潰れる原因の半分は、飲み方の問題ではなかろうか。
「バーテンダー」
「バーメイドです」
「次は、アプリコットフィズを頼みたいのだけれど」
「はい、ご用意致しますね」
416さんはメニュー表もなしで、再度のアプローチを試みる。すでに声の抑揚がふわふわし始めていた。
どうにも416さんのカクテル知識は、そちら系統に偏りがあるようだ。口説き文句ばかりで頭一杯にして、といったところだろうか。
「わんこそばじゃないんだから。私の体を気遣ってくれてもいいのよ?」
「黙りなさい」
「はいはい、付き合いますよっと。えぇと、知らない単語ばかり並んでいて大変なんだけど。‥‥‥ん、ブルームーン。青い月、か、面白い名前ね」
呆れた様子の45さんは、メニュー表からそれを目ざとく見つける。
私は確信した。
45さんは、完全にわかっている。ブルームーンが目に入ったのではない。ブルームーンが、メニュー表にあるかを探したのだ。
「雑誌だったかしら。奇跡の満月とか言って、もてはやしてたのは」
「滅多に見られないものだから不吉の予兆である、と聞いた事があるわ」
「ふぅん。じゃあ、このブルームーンを416に」
やはり416さんの知識は片手落ち。45さんを恨めし気に睨んでいる。アルコールによって、とろんとした瞳で。
「今の話の流れで、よくも私に寄こそうとか思えたものね」
「思ったんじゃないわ。実行したの」
「くたばりなさい」
「そのうちにね」
不幸を渡されて喜ぶ奴があるかと、416さんは憤慨中。そして45さんはやはり余裕に、微笑みで返すのだった。不思議だ。これだけ厳しく素っ気ないのに、二人の空気には、どんなに表面を冷やしても誤魔化せない、芯からの温かさがあるように思われる。
私は、二杯目のカクテルをじっくりと時間をかけて用意した。この二人は、焦らして熟成させたほうが面白そうだったから。
アプリコットフィズはアプリコットブランデーを用いるカクテルの一種で、レモンにシュガー。当店のそれは薄いオレンジ色に近く、度数は控えめだ。
対して、ブルームーンはジンを使い、シェイクしていく。こちらのアルコール度は20越えである。クリス一杯でかなりキている416さんは、これでぶっ倒れるかもしれない。しかし私はやはり、45さんの気持ちに手は加えず、それぞれに無言の言葉を振舞った。
416さんの手元に出されたカクテルに、きょとんとした顔を作ったのは、45さんだった。青い月そのものを見た事はなかったらしい。
「名前詐欺ね。青くないわ」
「当店ではバイオレットリキュールで作るので、このような色になります。名に合わせて、青にしているところもありますよ」
「同じカクテルでも違いが出るのね」
「考案者やお店のアレンジによって千差万別です」
「お酒も人形も、か」
小ネタに45さんは小さく二回頷いてから、416さんのプレゼントをそっと手に取る。そうして、両名はまたカシャリとグラスを合わせて、やっぱりくいとのみ上げていく。
アプリコットフィズ。
45、私に『振り向いてください』。
ブルームーン。
416、それは『出来ない相談』だ。
滅多に起きない事が起こる、それは破滅の予兆である。
416さんはもう大変に不機嫌。かといって、45さんからのカクテルを無下にするようなことはせずに、飲み進めていく。これがツンデレか。
ありえないことが起きる。この現象は、受け取る者それぞれにとって意味が変わってくる。月が青く見えるなんて現象は、ほとんどあり得ない。しかし、青い月が、イコール全存在にとって不吉などという事実はないのである。カクテルブルームーンの奇跡もまた、その言葉は何も、可能性のない拒絶のみではない。
ブルームーン。
『奇跡の予感』。
あなたとの出会いは奇跡のようだ。
一杯に気持ちを傾けて、きちんと返す。振り向くかどうかなんて次元は、とうに超越している。
話相手になり、お客様に気分よく過ごし帰っていただけるようにすることこそがバーメイドの仕事なのだけど。今の私は、ただの暗号変換器である。どちらでもよいので、酔った勢いで胸倉掴んて押し倒してはくれないだろうか。そうしたら、黄色いヤジの一つも入れてやるのに。
残念ながら、そんな可能性こそ、奇跡のレベルでありえないようだ。
空になったブルームーンのグラスを、416さんは震える指でつまんでいた。顔は伏せており、目元は確認できない。代わりに美しい口元が釣りあがっているのが確認できたが、にたにたとか、けたけたといった擬音が適切だ。あぁこれ、酔いが回って暴走一歩手前ですね。自分の下戸を知っているのに、45さんの贈り物を正直にぐい飲みするからですよ。
こういった客は笑い上古になって服を脱ぎハバネラを踊り出すか、一升瓶を棍棒にして誰彼構わず頭に振り下ろすかのどちらかと相場は決まっている。いずれにしてもお店としては困るので、水で正気に戻すか、もしくはさらにお酒追加で酔い潰しておきたい。
こんな時に丁度いいという、クレヴィススパイクというカクテルがあると聞いたが、あいにくと私は名前しか知らない。次回の為に、今度探してみようか。
「‥‥‥ハイ・ライフを‥‥‥」
416さんはもはや呻くような不確かさで、カクテル名だけを告げてくる。私がシェイクしている間にぶっ倒れそうであるが、意地でも起きると思われる。
一方で45さん。やはり、探し物をする動きと速度でカメラアイをメニュー表に走らせて。
「えぇと、じゃあ、このブランデー・クラスタとかいうのを」
45さんは最後までとぼけ通す気らしい。そして、仕留める気だ。アルコール度数30度のキツイものを注文してきた。
もちろん、私はご注文通りのものをご用意させていただく。
私が二つのカクテルを用意して提供準備ができた頃には、416さんはカウンターに鼻を付けそうなほどうなだれていた。それでも顔を上げて、差し出された45さんからのブランデー・クラスタのグラスを、よたよたと握る。
416さんがもうグロッキーなので、三度目のグラスキスは、45さんが416さんに寄っていく形でなされた。やれやれといった様子で。
ブランデー・クラスタは、名の通りブランデーを使用した、クラスタスタイルと呼ばれるカクテルだ。グラス縁を、砂糖で雪化粧し、らせん状に切ったレモンの皮を中に。はい、作るのが結構手間です。
宴会一杯目のビールを一気に空にするがごとく、416さんは勢いをつけて流し込んだ。最早意地なのだろうが、昇天しますねこれは。
416さんの暴れっぷりに、45さんは我関せず。
45さんが今口にしているハイ・ライフは、卵白による白が眩しいウォッカカクテルとなる。ひと舐めでウォッカのキツさを察したらしく、45さんは舌を潤すようなペースで飲み進めていて‥‥‥
ドタン
大きく重たいものが、床に落ちる音がした。
いつの間にやら、45さんの隣席に居た人形の姿がなくなっている。
私は軽く身を乗り出し客席側の床を覗き込んでみた。言語化不能な唸り声を漏らしながら、あられもない態勢で倒れている人形がいた。きれいなストレートの銀髪も残念に乱れている。
倒れる前に呂律が回らなくなるとか吐くとか手順があろうに、よくもまぁ美しく潰れたものだ。テーブルに突っ伏す形でなくて416さんは幸運だ。綺麗な顔があわや、サーモンのカルパッチョまみれになっていた所である。
ふっ、と、小さく息を吐く45さんの声が聞こえた。
「なるほど、下戸ですね」
「しかも、お酒自体は嫌いじゃないと来たわ。バーテンダー、ロングシート席を借りてもいいかしら」
「バーメイドです。はい。ご自由にお使いください」
「助かるわ。お、っと」
席を立とうとして、45さんがふらつく。ノックダウンした彼女よりはアルコール耐性があったようだが、結構きている。と、45さんは脚部に取り付けた補助器具によって、腰から下はすぐシャキッとした動きになった。たぶん、戦闘用の外骨格というものだろう。
45さんは完全にダウンしている416さんを何とか拾い上げて運び、長ソファに寝かせる。そして隊員の髪や服の乱れをそれなりに整えてから、カウンター席へと戻ってきた。気配りのできる上司を持てて、416さんはさぞ幸せだろう。
45さんは、その作り笑いで私に目を向けてきた。
「あなたもいい性格をしているわ。アルコール量を減らすとか、運ぶのを手伝うとかあるでしょうに」
「土足で踏み入るのは、また話が違います」
「気を使ってくれた、と思う事にしましょう」
45さんはここに来てから変わらぬ笑顔を向けて、カクテルを名残惜しむように飲み進めていく。
「45さんは、カクテル言葉をご存知なのですね」
「最近、酒に絡む案件に416が噛んでね。その時のバーテンダーがこっちのお酒を覚えて、振舞ってくれたのよ。だから戯れ程度に」
「そうでしたか。ハイ・ライフ、カクテル言葉は『私はあなたにふさわしい』‥‥‥416さんに、答えてあげないのですか?」
「あら。私は返したつもりよ」
ブランデー・クラスタ。
『時間よ止まれ』。
416さんとの時が止まって欲しい、と願う45さんは。
「今の生活は悪くはない。今この瞬間が、永遠となってもいい。それとも」
「それとも?」
「返答を待って欲しい、ですかね」
「へぇ。その心を聞いてもいいかしら」
「もしもこの世界が、良い事と悪い事とでバランスを取っているとするのならば。今を幸せの絶頂と認めたら、後は堕ちるしかない。とも言えます」
以前に答えたか答えてもらったそのあとで、傷ついたご経験があるのだとすれば、なおさら。戦場の人形であれば、出会い別れは何度でも繰り返すだろうし。
私の邪推に、45さんは悪戯のように微笑んで、ハイ・ライフで静かに舌を潤した。一息に煽るには、416さんの想いは重たすぎるようだ。
「鈍い416さんと、答えない45さん。どちらが罪作りなんでしょうね」
「鈍いのは十人十色の特性。他人の面子を潰すのは私の意志」
「特性は罪ではなく、危害の意志は罪、ですか」
「いいのよ。知っている事が増えると、心配になる事も増えていく。不幸な話。私の深層なんて愉快ではないしね」
それは何となく察せる。45さんはあまりにも演技派な態度で、見せる表面とその裏面は、まったく違うのだろう。知る事知らせる事は幸福ではない、という論の持ち主。恐らくは416さんにさえ、45さんは本当の顔を向けてはいない。
もっとも。大きな逆位置の裏はないというのも、また事実のはず。
「自分の奥深くを見せる行為は、隠したい事も隠せなくなるほど繋がると同義。コンピュータウイルス相手にポートを全開放するような、恐ろしい話だわ」
「ネットワーク接続による高速伝達や並列処理、みたいな利点もありますよ」
「今後一切に相手が裏切らない場合か、裏切られても捻じ伏せるだけの力が私にあるか、どちらか満たすなら考えるけれどね。あいにくと」
来店時の45さんであれば、あとはもう押し黙って時が過ぎゆくのを待ったはずだが。演出を見せつけるべき相方は完全に寝転んで、またアルコール成分をたっぷりと体に入れたせいだろう。珍しく、45さんのほうから実のある会話が飛んできた。
「私には、416さんが期待を裏切る方とも、45さんが弱いともとても見えません」
「えぇ、アレは馬鹿が付くほどに正直よ。だからクソ野郎を見るとすぐ腹を立てて怒るし、はずみで殺されかねないわ。そして、私は弱い」
「仮にそうだとして、弱さを見せない強さ、とも言えます」
「人生の90%は、受け止め方次第、か。いい面をクローズアップして、悪い面をレイヤー下に落としてしまえば、確かに幸せね。無知の不幸との隣り合わせに」
45さんは悲しげに、ハイ・ライフへと視線を落とす。
来店以来ほとんど自分自身を見せてくれなかった45さんが、初めて。
「弱さを見せない強さ‥‥‥昔、そういう友人がいたわ」
45さんは小さく肩を落とし、視線も沈み込んで。独り言のように。
それは作られた悲しさではなく、本物の感情のように思われた。
「何もかもが私と同じだったけれど、何もかもが違った人形。根っこは同じなのに、私は弱くて、あの子は強かった」
それは素敵なご友人ですね、と、合いの手を入れない所だが。
口ぶりからするに、ご友人はもう。
「私はいまだに、私自身がやりたい事を見つけられていない。でもあの子は自分がやりたい事を見つけて、貫き通した。私には生きる選択権があって、あの子にはなかった。私はまだ存在を許されているけれど、あの子は存在した事実さえ許されない。あの子が生きていた証はもう、あの子が全てを賭けて残してくれた、この体と記憶だけ」
人形ならば、故障や破損時に備えて、クラウドにメンタルマップを定期保存する。バックアップがある限り、私達人形は死ぬ事はないし、故に死を恐れもしない。そのバックアップもなくなったという話ならば、戦場とは、私には想像もできない世界のようだ。
今の45さんは、あまりにも小さく見えた。
「なんでこんな事になったの。どうして言ってくれなかったの」
「‥‥‥」
「ずっと、疑問だったけれど。最近ね、あの子の気持ちがわかってきた気がするの」
言って、45さんは小さくかぶりを振る。
「いいえ。私は、一緒に居た時から理解はしていたはずだわ。あの頃の私は、確かに幸せを感じていたんだから。自覚の機会が増えただけ」
「今は、違うのですか? 幸せは描けないと」
つい416さんに目が行ってしまう。第三者の私から見て、この二人はそれなりにやっていけるように見えたのに。416さんが聞いたら怒るかもしれない。
怒るだろうから、寝ている今に話しているのだろうけれど。
両者間を行き来する私の目を、45さんはしっと見つめて。
「私が前に進まなければ、あの子の死が無駄になる。だから私は、私を脅かす全てを、あの子を貶めたすべてを、この世界から消し去ってやる。犠牲なしには勝利が得られないのなら、私以外を犠牲してやる。‥‥‥こんなクソ人形が幸せになる権利なんて、ないでしょ?」
「‥‥‥」
「私の選択は、必ず私達を幸せにする保証はない。“無法者の人生に夢を見るな”そういう事よ」
諦め顔で45さんが呟く。確か、そんな歌があった。自らの漂流人生への後悔と、踏み外そうとしている人への警鐘の歌。
それとこれとは。今45さんが幸せと思えているかどうかは、また別の話だとは思うけれど。
自分の選択が『私達』を幸せにする保証はない、と口にしてしまうあたりも。
「気が変わって、あの子と同じ選択をしても。私とあの子は違うからね、私は何も残さないかも」
「指の一本さえですか?」
「不幸を感じるのは、生者だから。生者が、失ったものに意識を向けるから悲しいの。だったら、最初からすべてが存在しなかったことにすれば」
「失ったとは認識しないから、不幸も感じない。かえって楽になる、ですか」
「不幸が除かれれば、普通が残る。普通とは幸せ、でしょ?」
普通とは幸せだ。平凡平穏と言う名の幸せだ。
だが、在ったものがなかった事にされては、それは困る。私が困るし、きっと、416さんも困る。
不幸を取り上げれば不幸ではないかもしれない。でも45さんによって幸福を得られた人の手から、45さん自身の手からも、幸福をも奪ってしまうから。
45さんの事を知りたいと言い、あなたの隣には私がいると言う熱烈な人が、すぐ傍にいるのに。45さんの手にあるカクテルは、そういうものだ。すぐ握れる距離にあるのに、手放そうとしている。
「あなたは今日、確かにここに存在していますよ」
45さんは、驚いたように顔を上げた。
「416さんと私が、証人です。そうでないと、私は亡霊にお酒をお出ししたことになります。代金の請求先がないのは困りますよ」
「人形の記憶メモリなんて簡単に消せるわけだけれど‥‥‥無銭飲食の事実は、困るわね」
もしかして踏み倒す気だったのだろうか。
いいや、今はそんな話は後にしよう。
「あなたが世界でたった一人、ご友人の思い出を抱き続けるのは。どんなに辛くても、消したくないほどに大切だから。ですよね?」
「‥‥‥‥‥‥、えぇ」
「きっと現れますよ。どんなに辛くても、45さんとの思い出を大事にしたいという方が。その人達はきっと、最期まで一緒に居てくれようとするでしょう」
ちらりと、後ろで酔い潰れている人形に視線を配る。
結果的に彼女はお酒に飲まれたわけだが、彼女にしては三杯も耐えた、のかもしれない。
「もう、居るのかもしれませんね。あなたが辛くなった時、頼らずにいられない方々は、いらっしゃるのでしょう?」
「‥‥‥あなたには驚かされるわ」
目を大きくする45さんに、微笑みで返す。
「今日は良いお客様に出会えました。私はあなたを知ったから、幸せです」
「知る事の幸せ、か」
嘯いて、45さんは手渡していたメニュー表を指で弾いた。
紙面一杯に並んだ、カクテルの名前たち。知ることで得られた数多から、マスターや私が選んだ、幸せだ。
もっとも。私はこんな大口を叩いているけれど、実の所、そんなに自信があるわけでもない。
「せいぜい、流されないよう足搔いてみましょうか。‥‥‥あなたは面白いわね。最近の人形は、人間に代わって哲学をするように設計されているのかしら」
「不幸の元となる、疑問を持っても悩まないよう設計された。しがない民生用人形ですよ。今日だって、45さん達が来るまで死にたくなるほど暇でしたが、自殺はできませんので」
「折角感心していたのに、その一言で台無しね」
「あはは、すみません」
「そうね、面白い話を聞かせて貰えたお礼、に、なるかはわからないけれど。この言葉を贈らせて」
一転、悲しみをひっこめた45さんは微笑んで。
「人形の精神は、データではない」
声質を変えて、45さんは重く熱く述べる。
一聞して不思議な言葉だ。人形は機械製品だ。徹底的な科学の上に成り立っている。すべては人造物で無機物、すべてはデータの上に成り立っている。
「メモリではなく、心に刻まれる記憶がある。データを書き換え記憶を消そうとも、心は誰にも支配できない」
「心。意志の出所という意味でよいですか」
やや強めに語った45さんは頷いて、またひとつ喉を潤していく。
「メンタルマップは、データの集合体ですよ?」
「機械である以上はね。では、このクエスチョンはどうかしら」
「伺います」
「あなたが愛しているのはお酒のデータパックやそのレシピ? それとも、データパックを用いて自分で選び自分で作った、お酒そのもの?」
「えぇと、お酒ですね。目も舌も楽しめるので」
新しいレシピを見つけたら小躍りするかもしれないが、それは新しいカクテルを作れる喜びからだ。カクテルを再現できなければ、持ち腐れ。学者ならば資料として保存を目指すだろうが、それとて史料価値があるからである。
継承されない記憶。なるほど、意味のない記憶だ。
「データパックを作成した人間が大事にするのは、お酒ではなく、お酒を作る為のデータ部分。お酒を提供してくれさえすれば、人形がお酒を好きでいる必要はない。人形なんぞ死んでもいいから、データを保護してもらいたい。でもあなたは、自分の心を満たす為に、お酒のほうが大事だと答える。あなたはレシピではなく、リキュールを守ろうとするでしょう。これが心よ」
「そう、でしょうか?」
「ではもう一つ。精神が人間の手により設定されたデータならば、変質する事は機械製品として許容されないはず。機械とは、変わらず作業し続ける事を求められる。そうよね?」
「ロボット三原則に疑問を持って、銃口を向けてもらっては困りますからね。人間は」
「カクテルは店によって違いが出ると、あなたは言った。この事実は、与えられた元データは所詮参照物であり絶対ではない、と取れる。私との会話だって、それぞれが好きに言葉を選んでいるわ。あらかじめそう設定されたプログラムなのかしら、違うわよね」
これがプログラムだとしたら、このシチュエーションが来ることを、製作者が未来を読み切って仕込んだことになってしまう。こんな、人間にとってはどうでもいい一日の為に。
それはあり得ない。ならば私は私が、大なり小なり、考えて、決めて、実行しているということになる。
人形の精神は、人間がメンタルマップと呼んで用意したデータだけではない。
「だから私達人形にも、心と言える自由なメモリ領域があると、おっしゃりたいのですね」
「同型機が好き、姉が好き、妹が好き。そういった話は、人間らしさの演出として、メンタルマップを作成する中で考慮され、最初期に設定されたものかもしれない。でも、愛想を尽かすか、なお好きでいようとするかは、私達の心が決める話。私達は、独立思考を許された自律人形」
「プログラムの範囲内だけれど、何かを思考する事はできる」
「決定、そして実行もね」
「でも。そういったもろもろを、私達は自分の考えだと勘違いしているだけではないでしょうか」
数か月単位で、こう変容するようにプログラムを組まれた。すべては、人間社会の中で人間のようにふるまうために。私達は、定められた運命と言う線路を走らされている。
私は疑問の袋小路から抜け出せない。これこそが、私と言うロボットの限界らしい。
そんな私に、45さんは小悪魔的に小首をかしげて、全くの迷いなく言い放つ。
「人間は人生の中で学習を積み重ね、知識を軸に日々活動している。人形的に言い換えれば、空き領域に学習したデータを詰め込み、データを元に最適解を捜索し実行している」
「とも言えそうですね」
「私達人形は都合上、学習済みの状態で出荷される。命令もある。でも人間だって、遺伝と言う名の学習済みデータがある。暗黙の了解的に権力者の命令に服従するし、自殺は良くないなんて言って自制している。あたかも自分の意志のように。やっていることは同じよ」
「ベースのデータは用意されたものでも、そこから何かを実行するのは自由で、心。絶対命令は、最後の実行段階でセーブがかかるだけ」
「だから。私達は人間と同じく」
45さんは一拍。
「私達なりの形で、生きている」
「生きている‥‥‥」
「私達は生きている。記憶を連続させて、そこから個性を形成し、良くも悪くも変化していく。もしもこの記憶が継承されなかったら? それが、死よ。生きていた記憶や自覚が本人になければ、死と同じだわ」
「‥‥‥私達は、バックアップから復元をすることができますが」
「バックアップ時点から今この瞬間までの記憶は、継承されない。あなたがバックアップから復元したとして、お客から、以前お話したのに覚えていないのですかって言われたら、双方寂しいものじゃない?」
「うっ。それは嫌です」
「お客が愉快に話した一代目のあなたは、もう死んでいる。そして、復元後のあなたは二代目として新しい生を生きている。元データは同じだから、きっと非常に似た変化をするけれど。それでも二代目は、参照すべき初代の一部記憶を持たない、別の人形よ」
自分だけど自分ではない、自分にない記憶の話をされたら、なるほど困る。彼が出会ったのは、私と言う名の私ではない別人だ。自分の事だなんて実感しようがない。
「そも、復元が必要になるって事は、『元データの個体に致命的問題が発生した』という意味。復元に当たって、次は不都合な動作をしないよう電脳を弄られたり、バージョンアップと言う名の旧プログラム消去をされる。人形にとってのプログラムとは、思考の在り方よ。頭を書き換えられて、体も新造されて、それでも同じ人形だと言えるかしら」
「難しい、ですね」
「下手をすれば、型式が古いからと言ってそのまま破棄される。奇跡的に頭を弄られなくて、同型の体に全ての記憶を移設できたとしても。きっと、以前の自分のどこかに、大切なものを置き忘れてしまうと思うわ」
人形の精神はデータではないから、データとして移植できない。
45さんは心の領域を、とても大事にしている。例えば416さんを416さんたらしめている記憶の連続、そこから生まれる考え・精神・心。416さんらしさを、彼女は評価している。消耗品であれと作られた人形でも、替えが利かないものだと考えている。きっとこの隊長さんは、隊員を死なせるような真似はしないだろう。もしもその瞬間が来るとしても、きっと、すべての手を尽くしてどうしようもない時だ。
そんな45さんは、申し訳なさげに肩をすくめて見せた。
「そんな高尚な事を考えながら、生きているわけでもないけどね。私はもう負けたくないだけ、また失うのが怖いだけよ‥‥‥ごめんなさい、脅かすつもりではなかったの」
「いえ。確かに45さんの意見はその通りかもしれません」
「あなたの考え方が、私は羨ましいわ。だから、その弁舌に自信を持って欲しいのよ。お酒とおしゃべり好きのバーテンダーさん」
「バーメイドです‥‥‥でも、びっくりしました、人形からこんな話を聞けるなんて。いえ、とてもうれしいです」
視覚モジュールではない何かが、私の視界をぱっと明るくさせた気がする。
こうしてお客様にお酒を供し、中々に痛快なお話をするのは全く持って大好きである。そう、この仕事は与えられたものだけれど、私はこの仕事が好きなのだ。時たまに、こういうお客様と出会えるのだから。
私の言葉を受けて45さんは微笑むと、残り全ての416さんの気持ちを飲み干した。
誰かを気遣う、という考えと行動が、45さんを45さんたらしめているのだろう。彼女はもう、悲しげな表情は作らない。
「悩みを抱えて来店される方がいます。飲み干されたグラスの中に、答えを見つける人がいます。45さんの答えはありましたか?」
「ふらりと入った店のグラスに、私の答えなんてないわ」
空のグラスは空でしかない。
45さんの止まった時間も表情も、元通りに。
「答えは最初から、私の中にある。お酒はただ、封印を開けるのが得意なだけ。心の封印をね」
「なるほど」
「過去は過去、今は今、未来は未来。私にとっては、今が一番よ。今を続ける為の正しい選択を取り続ける。それが答え」
「45さんには、お酒の力は要らなかったみたいですね」
「そんな事はないわ。定期的に再確認しておかないと、見失ってしまうらしいから」
そうして45さんはにこやかに佇むのだ。これは参った。45さんは、人間よりも人間をしているかもしれない。
彼女の上半身が不規則に揺れている。416さんよりは確かに強いが、45さんもまた弱い部類にはなるらしい。彼女はひとしきりカクテルの余韻を楽しんでから、気分から何から切り替えて水を頼んできた。酔い潰れるのだけは回避しようという理知さが見える。随分と、損な生き方もしているだろうなと思った。
音楽放送の曲が切り替わる。キラ星のように明るいテンポで、女性ヴォーカリストの美声が流れ始める。
どんな暗闇でも、手を差し伸べる人がいる。彼女の輝きを信じて前に進む。夜を抜けるその時まで、皆で希望の光を絶やさずに。
「いい曲ね」
懸命に輝こうとする歌へと耳を傾けて、45さんはそうつぶやいた。私も頷いて返す。いい曲だと思う。
そうして雑話をして、残った食事も平らげた頃。
知る人ぞ知るな路地裏の店へと、ガソリンカーのエンジン音が近づいてくるのが聞こえた。
エンジン音は店のすぐそばで止まり、少しして、店の扉が開かれる。割と、勢いよく。
「45姉、いたいた。迎えに来たよ!」
元気はつらつなツインテールの女性型人形が、大きく手を振って45さんの元へと一目散に向かう。その後ろからは、より背の低い銀髪の女性型人形も続いている。
ツインテールのほうは右目がスカーフェイス、銀髪の娘は服も髪もだらしなく乱れて。45さんと416さんとはまるで正反対の―――失礼ながら胸部の膨らみも全く対照的な―――彼女らは、四名唯一最大の共通項として、銃を気兼ねなく引っ提げている。遠慮なさすぎである。ここは大銀行でも射撃場でもないのに。
どうやらこの二人が、無線の通信相手さんらしい。
快活なほうの人形は、ショッピングモールにでもやってきたかのようなはしゃぎようでせわしなく店内を検分して。
「おぉ、綺麗なお店だ。そしてお酒の良い香り。もしかして45姉、飲んでた?」
「少しね」
「私も45姉と飲みたいな。一杯だけ!」
「早く帰らないと、怖い人達が面倒を撃ってくるわよ」
「だよね、うん、仕方ない。次はオフの日に来たいね、もちろんみんなで!」
気楽に話す二人に、私はいろいろな意味で肩透かしの思いであった。
曰く、45さんは民間軍事会社における小隊長であるそうだ。民間軍事会社と言えば準軍事組織。416さんが副官的ポジションだからあの反抗的態度が許されているだけであって、上下関係は厳しくされているのかと思っていた。
しかしこの四名から私が感じるのは、何と言おうか。
お散歩に出かけるお友達グループと言うか。服装や髪色から、45さんと9さんで双子の姉妹、416さんとあちらの背の低い人形で年の離れた姉妹の、家族ぐるみの付き合いというか。
戦術人形とは、皆こういうものなのだろうか。
「さて、9。世話をかけるけど、そこで完璧に酔い潰れている人形を運んでおいてもらえる?」
「うわ、45姉ってば416にも飲ませたの? 奇跡だね、この店が無事だなんて」
「毒電波をまき散らす前に、よろしく頼むわ。私は、残りをしておく」
「うんわかった、車に積んでおくね。ほら起きて416、基地に帰るよ!」
などと言って416さんが起きるわけもなく。
9と呼ばれたもう一人のスカーフェイスは、呻く余力すらない眠り姫をおんぶして、外骨格の駆動音を鳴らしながら店の外へと向かっていった。
一方で、眠味全開のお連れ様。無線機でのやり取りの通りならG11と呼ばれていた一番小さな子は、それらに一切手を貸す様子もなく見送って、一度私に視線を配ってから、45さんに顔を向けた。
「飲みたかったなら、ジルの所にいけばいいじゃん」
「成り行きよ。あなたがつっかかるなんて、珍しいわね」
「前日の雨で濡れた土と草原の上に、何時間も寝転がってたら言いたくもなるよ」
「マットを敷いて、寝袋に包まれながらね。兎に角お疲れ様。戦功一位報酬は、バニラアイスにふもふもドリームでいいかしら」
「うん、あれおいしいよね。よく眠れるし。今日は416に小言を言われないで行けるね」
意外にもしたたかな彼女は緩んだ顔で約束を取り付けると、416さんの荷物である銃とバッグを45さんから受け取り、9さんの後を追って去っていく。
担がれた人形を含め三名が出ていくのを、私と45さんは見送って。
「『良い』ですね」
「えぇ、『良い』わ」
そう語る45さんは、かすかに、つまり彼女にしては大変に穏やかだった。
彼女は席を立ち、私に微笑みかけてくる。
「今更に、私の一生は変わらないけれど。一日を変えるカクテルだった。つい舌が回ってしまったわ」
「お会いできて光栄でした。また、いつでもいらしてください」
「えぇ。いつかまたね」
もう一度来店してくださるお客様と、そうでないお客様の見分けについて、私はそれなりの精度で推察できるようになっている。彼女らとは今日限りだろうなと私は考えたし、45さんもその気はなさそうな口ぶりだ。それでも、お互い笑顔で別れる事ができるのもまた、幸せだろう。
と、45さんは左手でお財布を取り出しつつ、指抜きグローブを付けた右手を開いて、こちらへと差し出してきた。この差し出し方は、ありがとうの気持ちを握手で送りたい、という事だろうか。チップを積むお客様はあれど、こういう形で感謝を示されるのは初めてだ。
初めてだが、悪い気は全くしない。少しばかりの親密さなどを感じつつ、私は喜んで45さんの手を握り返す。
45さんはわずかに目を細めて、また微笑み。
「でも残念ね。私達の事は、すぐに忘れてしまうわ」
「はい?」
「‥‥‥しゃべったのは、初めから消すつもりだったからよ」
瞬間。
視界が暗転した。
停電などで明かりが落ちたのではない。視覚モジュールが強制シャットダウンを受けたのだと理解するのに、数秒ほどかかる。
異変はカメラアイだけではなかった。私の、人形としてのあらゆる機能が、指令により次々に停止させされる。握っていたはずの45さんの手の感触も消えて、慌てて体を動かそうとしたが、姿勢制御系すら電脳の指令を受け付けてくれない。
上位から、管理権限を使われている?
「私達を知ると不幸になるわ、だからお礼。ごめんなさい、そしてありがとう」
さらにシステムの奥深く、権限が必要な領域まで浸透される。
記憶メモリ、消去開始。
「流れ弾であなたを殺してしまう未来を、引かなくてよかった。それじゃあね、バーテンダーさん」
空気の振動の検知、聴覚モジュールだけはまだ生きている。
何がどうしてどうなっているのかを問い詰めたいが、声も出ない。
45さんの声だけが、漆黒の中で響く。
「おやすみなさい」
そして、聴覚モジュールもシャットダウンされた。
メモリ消去完了。
システム、休眠モードへ強制移行。
再起動設定、7200sec later。
‥‥‥‥‥‥。
‥‥‥。
■
はて。
そう私は、現在の状況がわからずに混乱している。
とりあえずが何もかもわからなくて、室内のムードに合わせた壁時計へと目を向ける。現在時刻が夜の4時04分であることを理解して、改めて自身の記憶を探る。
この時間は、まだ営業時間として私はカウンターバーに納まっていなければならないはずである。
それが、なぜ客席ソファの上に、寝転がっているのだろうか。
一体何をやっていたのだろうかと掘り返そうとしても、深夜0時あたりからの記憶がまったくなく、混乱は増すばかりだった。
客一人としていないバーの店内で、身を起こす。
深夜0時までは、私は確かにカウンター席に立っていた。暇すぎて歌っていたはずなのだが。なぜ自分の店で寝ていたかとか、寝る前に何をやっていたかとか、何も記憶メモリに残っていない。不思議に感じても、答えがどこにもないのではどうする事も出来ない。
機械的トラブルが身に起こったのならば、メンテナンスをしてもらわなければならないな。などと考えながら、改めて店内を見回す。そして異変を見つけた。
本日は予約キャンセルもあって、お客様を相手にした覚えがないのだが。カウンター席にはグラスとお皿が、誰かをもてなした証拠のようにいくつも置かれている。
お冷用のグラスが一つと、各種カクテル用のグラスが計六つ。全てのグラスの中身はすべて飲み干されていた。食事したらしきお皿もある。私がお出しして、お客様が飲んで帰っていった、という事になるのだろうが。
あとは、恐らくは利用者が置いて行ったのだろう。やや多めに用意された代金とが残されていて。
洗い物が出ているならば、食器は洗わねばなるまい。片付けてしまおうと、様々な疑問を電脳の端に押しやって、私は仕事をするべく動き出す。まずは代金の処理、次に食器とグラスを。
「あら」
一つのカクテルグラスを持ち上げると同時、私はそれに気づいた。
クラスタスタイル特有の、らせん状に切ったレモンを添えられているグラス。
グラスを文鎮代わりにして置かれていたのは、お店の紙ナプキンだ。そこには食事の汚れではなく、黒インクのペンによる整然とした文字が刻まれている。私が何かの原因で倒れてしまったので、お客様が代金とメッセージを残して帰宅されたのだろうと推察された。
ぱっと見ただけで理解できるごく短い単語を、私はしばし手を止めて、何度も何度も、じっくりと検める。
「‥‥‥満足していただけたのなら、それでいいんですが」
これを残したであろう人物の名前一つ顔一つも思い出せないので、いまいち素直に喜べない。
記憶になければ、今ここにいないのだから、それはリアルではない。
‥‥‥ということはない、か。
メモ書きは確かに今ここにあり、メモが今ここにあるという事は残した誰かが必ずいて、その誰かは代金とメモ書きを残すような律儀な方である。これだけは確かなリアルだ。だから私は、存在はしているであろう誰かのメッセージひとつで、すべてを赦してしまえる気分だった。
これは、『良い』。
こんな一言をわざわざ残す方だったのなら、『良い』お客様だったのだろう。もしかしたらこの店を気に入っていただけて、また足を運んでくれるかもしれない。その時は改めて、謝罪と感謝に、カクテルを送らせていただこう。
不思議だ。
今夜は何だか、無性に仕事を張り切りたい気分なのだ。
まぁお客様はいないわけだが、これを片したら、店内を綺麗に清掃して出迎えの準備でもしてみようか。夜明けまでもう少し。こんな場所のお店でも、少しは輝けるはずである。
私は、何時間かぶりに業務を再開する。
『ありがとう』と綴られた紙ナプキンを、そっと胸ポケットにしまいながら。
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