ロリコンによる聖杯戦争 (えだまめ。)
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ロリコンが目覚めた
その男は、まるで何かに取りつかれたように廊下を足早に歩いていた。彼が走っていないのは、お世辞にも自分の顔が平静を保っているといえないからだろう。たとえば彼がこれ以上動揺を外に出せば、尋常ではないことは誰の目にも歴然だ。それは彼にとって嬉しくない。時間は昼前。しかし昼休みにはまだ早い、三つ目と四つ目の授業との合間の休み時間。彼はときに談笑する生徒達を押しのけながら、それでも目的の場所を目指した。
今、彼には確証のない確信があった。
それは彼が授業終了のチャイムがなり、いつも通りに教室を出た時───学校には不釣り合いな真っ白いフリルを着た少女を見た時だった。
かわいい子だと、彼はただそんな感想を抱いた。
また、家に帰ればもっとたくさんの子供達の顔を見れるとも思った。
そして、そんな思考にストップをかけたのも、彼だった。
それはおかしい。なにせ兄弟はいない。親戚の子供なんて、そもそもいるのかどうかも分からない。彼の家には両親と自分しかいないはずなのだから。
普段ならば、そんな些細な勘違いなんて気にも留めなかっただろう。だが、その時の彼は何となくそれがひっかかってしまった。
だから、思い出した。
自分は、学生じゃないと。
ここは、地球じゃないと。
自分には弟も妹もいない。だが、守るべき子供達がいるのだ、と。
そして自分は、ロリコンであった───と。
この際、自分の『記憶』を取り戻したことは置いておいてよかった。否、確かに重要な事項だが、大事なのはその後の行動。
かつてまだ地球に彼がいたころ、ここ月に来る前に見た、一つのヒント。それは“一階の突当り”。
現在彼は記憶を頼りに、一階の突当りを目指していた。見慣れない一年生の顔が怪しげに彼に向く。それにしかめっ面を返す暇も惜しい。
突当りは校舎の構造上二つ存在する。彼は気乗りしないながらも、まずは面倒な一年生の溢れる教室方向の突当りへ向かった。ただの勘───しかし果たして、彼のその直感は正しかった。
知らなければ気付かないような小さな違和感。目を凝らせば分かるような仕掛けが、そこにはあった。
扉。
触れてみればわかりやすい。そもそも触ろうなんて思いもしないし、意識しなければ気付かないようにつくられているのだろう。冷たい無機物の扉にステンレスのドアノブがついていた。名義上では、ここは用務員室らしい。
意を決して彼が扉を開けても、周りにいたはずの一年生たちは声すら上げなかった。不思議とそんなことにも思考が傾いた。やはり自分も怖いのだと、漠然と思考する。
中は、思いのほか真っ当に用務員室の様をしていた。無論、不気味に立つ無貌のドールと先の知れない黒いゲートがなければ、の話だが。
顔のないドールは、彼が歩くと命令せずともその後ろに追従するように歩いた。それと同じようにして、部屋に声が響く。どうやら、身を守ってくれるらしい。
ゲートを潜れば、あとは道なり。
深海を思わせる風景を行けば、その先には大きな魚の群れがあった。おそらくはアジなのだろうか。それがただのオブジェクトでないことは明白。
おそらくはポータルだろうと見当をつけた彼は、ギラギラと光を反射する魚の群れに、足を踏み入れた。
◇
───彼の名は陰凪折矢《ほとな おりや》といった。
月の聖杯戦争の存在を信じた人々に順番をつけるならば、きっと彼はあとに名前が挙がることだろう。月海原学園での立ち位置は、2年2組の28番。驚くほどに普通の学生で、あいにく部活動には入っていなかった。いわゆる帰宅部という奴だろうが、そういう仕事が与えられていたらしい。彼はできることなら部活動を経験してみたかったと、感慨にふける。
なぜこんな思いを打ち明けているといえば、有体に、彼に命の危機が迫っていたからだった。
彼に追従していた人形は、転移した先に佇んでいた血濡れの自律人形の前にあっさりと倒れ伏した。不甲斐ないボディガードに歯噛みするものの、自分の指示不足が原因であることも分かる以上、彼はやはり地団駄を踏むくらいしかできない。
折矢の周りには、倒れ伏した見覚えのあるような生徒の顔。そのどれもが土色で、お世辞にも息があるようには見えない。彼らに手を下したのは、見る限りではにじり寄ってくる紅い人形なのだろう。彼は、自分もその仲間入りをしてしまうことだけは、嫌だった。
記憶では、聖杯戦争の参加者には戦闘代行者が与えられるといった。だから、彼はそれを欲した。命惜しさに、彼は身を守る者を望んだ。
自分には生きねばならぬ理由がある。叶えるべき願いがある。まことしやかに嘯かれる聖杯戦争の、命をかけるという謳い文句を怖がりながらも、それでもなお必要とする奇跡を欲しているのだ───!
目の前には人形が迫ってきている。
思いはいくら打ち明けても、誰も現れはしない。
最後に浮かんだのは子供達の顔。
突き刺すような鋭い痛みが右手に宿ったのは、死を覚悟したそんな時だった。
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