鬼狩りは嗤う (夜野 桜)
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第1幕
懐かしい夢


二次初めて書きます!
笑って泣ける作品!鬼滅様!!
御一読頂けると嬉しいです!

主人公の名前は
雨笠 信乃逗(アマガサ シノズ)と読みます!


 

 

 その日は、起きた時から何かがおかしかった。

 

 俺の家は両親と姉と妹の5人家族、父は猟師でよくみんなにお肉をとってきてくれる。

 

 母は口うるさいけど優しくて、姉は妙に歳上ぶっていろいろ言ってくるけど頭をよく撫でてくれる。妹はわがままだし、よく泣くけど俺の後ろをチョコチョコついてきて可愛い。

 

 大好きだった。

 当たり前にあった日常で、これからもずっと当たり前に続いていくんだとそう思っていた。

 

 当たり前なんて言葉がどれだけ愚かで、簡単に崩れるまやかしのようなものなのか、この時の俺は気づいていなかった。

 

 

 

 

 

信乃逗(しのず)、ほら今日はおじさんのところに薪を持っていくんだから早く支度をしなさい」

 

 

 紅葉が色づいて綺麗な色をつけ始めた秋の朝に、今日も母は口うるさく注意してくる。

 

 

(今やろうと思ったのに……)

 

 

 そんな文句を言えば火に油であることは、勿論信乃逗(しのず)も学習している。

 

 

「はいはい、今からするよー」

 

「返事は一度でいいの!二回もはいって言わない!」

 

 

 しかしこちらは予想外。

 

 

 最近、今までよりも更に面倒くささに拍車をかけてきた姉がまるで母のように口うるさく注意を促してくる。正直なところ最近は母よりもこちらの方がやかましいというのが信乃逗の認識だ。

 

 

「お兄ちゃん、また怒られてるー」

 

 

 一体何がおかしいのか、妹は信乃逗が怒られるのを見るとキャッキャと笑い声を上げて楽しげに信乃逗に指を差す。

 

 

 絶対、将来いい女にはなれないと信乃逗は確信している。

 

 

「はぁー、2人ともうるさいなー」

 

 

 若干の苛つきを感じながらも、信乃逗は早く用事を済ませようと出かける身支度を急ぐ。この時期は徐々に日が暮れるのが早くなっていく。最近はなにかと物騒な事件が多いと村でも噂になっているし、急ぐに越したことはない。

 

 

 

「じゃあ、行ってくるから」

 

 

「ああ、信乃逗(しのず)!これ!お父さんがお寺の飛野瑞(ひのず)さんに渡してって」

 

 

 口うるさい姉と妹から逃れるために信乃逗が急いで出かけようとしたところを今度は母に捕まってしまう。

 

 振り向いた信乃逗に母が手渡してきたのは何やら古びた手紙だった。

 

 

「えぇー、お寺は村の外れじゃないか、今から薪を届けてからお寺に行ったんじゃ日が暮れちゃうよ」

 

 

 母のこと付けてきた用事は今の信乃逗にとっては非常に面倒だ。なにしろお寺は村の外れにある上、おじさんの家からはちょうど真反対に位置しているのだ。往復するだけでもかなり時間がかかる。

 

 日が暮れる前に帰ってこようと急いでいるのに、これでは確実に日が暮れてまう。

 

 

「あんたが動き出すのが遅いからでしょう!それに父さんは必ず今日届けてくれって言ってたんだから」

 

 

 なら自分で行けばいいのにと、信乃逗は内心で思いもしたが此処でこれ以上反論すると後が怖いことは明白だ。

 

 

「わ、分かったよ!じゃあ行ってくるから!」

 

 

 これ以上怒られないようにと信乃逗は慌てて母の手から手紙を奪いとって家を出た。

 

 

 その瞬間だった。

 

 

 信乃逗の胸に何かゾワゾワするような嫌な感覚が走って飛び出てきた家を思わず振り返る。ただこの時の信乃逗は母にまたガミガミとしつこく言われるのが嫌でその妙な違和感を捨て首を傾げるだけで、そのまま家を離れてしまった。

 

 

 

 もしもの話、例えこの時家に信乃逗が戻っていてもきっと何かが変わったわけではない。

 

 

 だが、後になって信乃逗は思うのだ。

 

 

 母の顔も姉の顔も妹の顔ももっとみておけばよかったんだと。

 

 もっともっと話しをしておけばよかったと。

 

 あの日常を少しでも、ほんの僅かでも長く続けていたかったと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 首がかくんと傾いた衝撃で信乃逗は目が醒める。眠りへと誘われていた意識は急激に浮上し、視界に映る光景に自らの置かれた状況を思い出す。

 

 

(……懐かしい夢だったな)

 

 

 暖かくて、心が休まるような、あの懐かしい日々を思い出して、信乃逗の心にどうしようもない喪失感が訪れる。

 

 あの日、信乃逗は全てを喪った。

 

 日が暮れた時間、家に帰った信乃逗を待っていたのは暖かく口うるさい家族ではなく、物言わない静かな肉の残骸と真っ赤に染まった血臭に塗れた惨劇だった。

 

 脳裏に浮かび上がるあの時の光景と共に湧き上がる憎しみと怒り、そしてとてつもない後悔(・・)に、信乃逗はゆっくりと深呼吸をする。

 

 

 この藤の牢獄に入って既に5日。蓄積された疲労が信乃逗の鍛え上げてきた精神を阻害しているのだろう。雑念を振り払い、すっと彼はいつものように自身に湧き上がる全ての心情に蓋をする。

 

 

(これでよし……)

 

 

 あの日から3年、自分は今、新しい道への入り口にたどり着こうとしている。

 

 

 

 ——— 鬼殺隊

 

 

 

 鬼を殺す、ただそのためだけに存在する政府非公認の謎に包まれた組織。

 

 

 その組織に入隊するために信乃逗は今、藤襲山(ふじかさねやま)と呼ばれる一年中藤の花が咲き狂う不思議な山の中で5日目の夜を迎えていた。

 

 

 この山に入ってからというもの、久しく人肉を喰らっていない理性のない鬼共にすでに幾度となく襲撃を受けている。

 

 

 家族を喪ってから3年の間、信乃逗はただ鬼を殺すためだけにひたすらに地獄のような鍛錬で体と心を鍛えてきた。だがこの山での度重なる襲撃と、日が出ている時以外はまるで気の休まる時間のない切迫した状況にさすがの心身も限界が迫ってきている。

 

 

(あと二日、あと二日生き延びることができれば、俺は鬼殺隊に入隊することができる)

 

 

 ようやくここまできたのだ。

 

 やっとここまで来れたのだ。

 

 絶対に失敗する訳にはいかない。

 

 

 家族の仇をうつために、ようやくこの復讐心を果たすために、自身の心に決着を付ける為に、最初の一歩を踏み出せる。

 

 

 

 ——— ぱきっ

 

 

 再度、身の内から湧き上がる自らの中の想いにその身を浸していると、その小高い音が信乃逗の耳に入る。

 

 

 地面に落ちた枝を踏みおるような、自然には起こらない音。

 

 

「……本当に、キリがないなぁ」

 

 

 音の聞こえた方向に信乃逗が体を向ければ、そこにいるのは涎まみれのみっともない顔を晒す一匹の鬼。

 

 

「肉っ、久しぶりの人肉!喰わせろぉ!」

 

 

 理性を失い、人を喰らうという欲望だけにその身を任せてただまっすぐと、しかし高速で近づいてくるその鬼の姿を見て信乃逗はニタリとその口を歪めて嗤う。

 

 

 

「やっぱり、お前たちはそうじゃないとね」

 

 

 

 

 

 

 

 鬼にとってこの選別の7日間は数少ない食事にありつけるチャンスである。あと少し、あと少しで久しぶりの食事にありつける。鬼がその手を信乃逗に届かせようとしたその時、鬼の視界がぐわんと不自然に揺れる。

 

 地面へと勝手に落ちていく鬼の視界に映ったのは、いつの間にか手に刀を握った人間と自分の体が人間の男に手を伸ばした姿勢のままボロボロと崩れていく様子だった。

 

 

 (斬られたのか?一体いつ? )

 

 

 その疑問の答えを出すこともなく鬼の意識は静かにそこで途切れた。

 

 

 

 




読んで頂きまして本当にありがとうございます。
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少女との出会い

 

 

 

 『鬼殺隊』

 

 遥か昔、戦国の時代よりも以前から、鬼という、人を喰らう化け物と戦い続けるその組織は、明治の世となり、様変わりする世の在り方とは対象的に変わることなくあり続ける。廃刀令が出て尚、刀を捨てることなく腰に差し、しかし社会から認められることのない彼等は今日も人知れず、その刃を振るっている。

 

 

 

 無垢な命を守る為に。

 

 

 

 

 春は陽気、見渡す限り一面が田畑となっているその長閑な道並を1人の白髪の少年が歩いてる。

 

 齢12,3程度に見える少年は、背中に滅の文字を入れた黒い衣服に全身を包み、その腰に今は許されない刀を差して堂々と道を歩く。

 

 陽だまりのような気持ちの良い陽気に照らされた先行きとは対象的に少年の表情は何故か暗い。

 

 

「カァー!次は南南西!南南西!カァー!」

 

 

 少年の頭上を舞う一羽の鴉。漆黒の身体に大きな黒い翼を広げて大空を羽ばたく彼等は、不吉の象徴とも言われる。そんな不吉が当たり前のように人語を話し、頭上にいる。

 

 

 普通であれば、悲鳴を挙げて逃げ出すようなその場面で、白髪の少年、雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)はそっと息を吐いた。

 

 

「はいはい。少しは休みが欲しいんだけども。……いや切実に」

 

 

 あの藤の牢獄で行われた選別試験からおよそ10カ月ほど、信乃逗(しのず)は念願であった鬼殺隊に無事入隊し、人語を話す鴉を通して与えられる指令を着実に忠実にこなしていた。

 

 鬼を殺す為に鬼殺隊に入ったのだからそれはある意味では当然のこと。当然のことではあるのだが、物事には限度という物があると信乃逗は思う。

 

 鬼殺隊に入隊してからというもの鬼を狩っては移動、狩っては移動の繰り返しで全くと言っていいほどに休む暇がない。

 

 昼間は移動、夜は鬼狩り、その繰り返しを毎日毎日10カ月もの間文句の一つも言わずにこなしてきたのだ。いい加減休みの一つでも欲しいところではある。

 

 

(いやまあおかげで昇級したし、給金もいいのだけども)

 

 

 入隊してからほぼ毎夜、鬼を狩り続けてきた信乃逗は入隊1年と経たずにその階級を辛にまで上げていた。

 

 

「いやね、お金も大事ではあるけども、自分の時間も大事だと思うのですよ、俺は」

 

「カァー!信乃逗(しのず)は贅沢!贅沢!」

 

 

 なぜに、鳥に人間様の贅沢を語られなければならんのだろうかと、信乃逗は心底疑問に思う。

 

 

「カァー!急げ信乃逗(しのず)!走れ!走れ!カァー!」

 

「あぁ、もう分かったから少し静かにしててくれ!」

 

 

 人語を話す(からす)など、一般人に目撃でもされたらそれこそ妖怪扱いされる。ただでさえ黒一色に白髪という見た目は目立つのだ。そこにさらに妖怪を連れ歩く白髪の子供なんて噂をたてられたら、この辺りではまともに宿もとれなくなってしまう。

 

 

 人の頭上でギャーギャーと喚く(からす)を一喝して、信乃逗は次の任務地まで走りはじめる。

 

 

 

 

 

 そうして2日、散々頭上で遅いだ、走れだ、進めだと喚きたてられながら、信乃逗はようやく次の指令場所である辺鄙な村に到着した。

 

 

(あー、疲れた。もう寝たい。なんで丸2日も走らにゃならんのだ)

 

 

 この2日間、碌に眠ることすらできずにこの村に着くまでひたすら走らされ続けたお陰で、鬼と戦う前から信乃逗(しのず)は疲労困憊状態だった。

 

 

(だいたいなんで2日も走って全く宿場も村も何も存在しない訳?)

 

 

 2日間の長距離走を経て信乃逗の心の内よりでる疑問はそれだけだった。大体の場合、山奥にある村の途中には旅人や行商人の為に宿場のようなものがあるのが通例だ。ところがこの2日間、信乃逗の視界にそのような建物は一つとして映らなかった。

 

 その結果人がいないことで調子にのった鴉に散々頭上で喚きたてられ、到着に至るまで走り続けることになった訳だ。

 

 

(もうこんな辺鄙(へんぴ)な場所に村なんて作らないで欲しい)

 

 

「カァー!現地の別の隊士と合流せよ!」

 

「……は?え、なに?他にも隊士がきてるの?聞いてないんだけど」

 

 

 ここに到着するまで全く聞いていなかった新情報に信乃逗(しのず)から困惑の声がでてくる。

 

 しかしそれは無理もないことだろう。他にも隊士がきているのなら夜通し走ってまで急いでくる必要ははたしてあったのだろうか?自分のこの疲労具合は果たして必要あったのだろうか?とか疑問は次々に浮かんでくる訳で……。

 

 

「カァー!……そういこともある!テヘ!」

 

「テメェ、クソ(からす)!絶対忘れてただろう!降りてこいこら!」

 

 

 普段散々低空を飛行している癖に、こんな時ばかり高高度を飛行する鴉に向かって思わず漆黒の鞘から白銀の刀身を抜きながら、信乃逗(しのず)は怒鳴り声を上げる。

 

(なにがそういうこともあるだよ!!)

 

 人を散々煽って夜通し走り続けさせといて伝言し忘れてましたなんて、そんな馬鹿なことが許されるわけがないと信乃逗は怒りに打ち震えていた。

 

 

(決めた、今日は焼き鳥だ)

 

 

「……信乃逗(しのず)?」

 

 

 呼吸を使ってでも(からす)を叩き斬ろうと構えたその時、背後から自身の名前を呼ばれて信乃逗(しのず)はピタリと動きを止める。

 

 

「うん?あ、お前は…」

 

 

 ゆっくりと振り向いた先にいたのは仮面を頭の端につけた小柄な少女だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗い山の中、この夜すでに4体の鬼を葬った信乃逗(しのず)はゆっくりと蒸気のような息を吐きながら腰にある鞘へと刀を戻す。

 

 藤襲山(ふじかさねやま)に入山して今日で最終日、最後の夜。

 

 信乃逗(しのず)が滅殺した鬼の数は合計ですでに20を軽く超えている。そのほとんどが理性のない単調な動きばかりの所謂雑魚であったが、それにしても一人で葬った数にしては随分と多い。

 

 

 果たしてこの藤の牢獄には、一体どれだけの数の鬼が閉じ込められているのだろうか。或いはここの鬼を全て殺せば、簡単に鬼殺隊の上位の階級とかになれるのではなかろうか。

 

 そんな単純な疑問が、信乃逗(しのず)の頭には浮かぶが、すぐにそれが自身の思いとはいかに違うものであるかを思い出す。

 

 こんな雑魚ばかりいくら狩ったところで、結局のところ強くなどなれない。自分の目的は、鬼殺隊で出世することなどではないのだ。目的を違えてはならない。

 

 

 そうやって信乃逗(しのず)が自身の考えに浸っている時だった。暗い森の中に、一際甲高い悲鳴が響いたのは。

 

 

 考えに集中力を乱していた信乃逗は、悲鳴が聞こえた方角を見やると高速で駆け出す。

 

 乱雑に生えた木々を避けながら悲鳴が聞こえた方向へと向かう。選別で生きるか死ぬか、それが合否となるなら本来ならば下手に他の候補者を助けるべきではない。こんな雑魚にやられているようでは助けたところで入隊後まもなく命を落とすことは火を見るより明らかなのだから。

 

 

 だが、そうは言っても人の命。無闇に捨て置くことも憚られる。

 

 

 そう思って駆け出してしまった訳だが、やがて見える光景に信乃逗はその考えを大きく改めることになる。

 

 

 木々の隙間から月光に照らし出されるその光景に、信乃逗の足はすぐさま急停止をかける。

 

 

(いやいやいや、それは駄目でしょっ!?)

 

 

 開けた信乃逗(しのず)の視界には明らかに人の形を捨てた異形が映っていた。身体中から手を生やしたようなその姿は異形の鬼と呼ばれる種類の鬼で、人の姿を捨てたようなその姿は人を多く食べた強力な鬼が見せる特徴の一つだ。

 

 基本的に鬼の強さは人を食べた数に比例すると言われており、この森には鬼殺初心者の為にあまり人を食べていない、所謂雑魚鬼だけが閉じ込められているはずなのだ。

 

 しかし目の前の鬼は明らかにそんな初心者用の鬼ではない。

 

 

 明らかに多くの人間を食べて力をつけている。本来ならこんな鬼が初心者ばかりの選別試験で登場するわけがないのだが……

 

 

(……あれは無理だな)

 

 

 初心者に対してあの鬼は明らかに過剰戦力だ。並の試験参加者の手に負える相手ではない。

 

 そしてそれは信乃逗(しのず)にとっても同じである。あの鬼に自分はまだ勝てない。この藤の牢獄で斬ってきた雑多な鬼とはまさしく格が違う。

 

 

 信乃逗(しのず)は急いで回れ右をして戦闘の回避を試みようとその足を動かすが、視界の隅に映り込んだその小さな姿を捉えた瞬間、逃げようとする意思とは裏腹に体は異形の鬼へと向かっていってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女は怒っていた。

 

 齢十と少しばかりではあるが、今までこれほどの怒りを抱いたことなどない。それほどまでに目の前の存在が許せなかった。

 

 孤児だった少女を見つけてご飯を食べさせてくれた。寝る場所をくれた。生きる術を教えてくれた。愛情をくれた。

 

 そして鬼を殺す術を教えてくれた。

 

 大好きなあの人を、鱗滝(うろこだき)さんを、目の前のこいつは苦しめる。

 

 これまで、鱗滝(うろこだき)がどれほどの思いで、今まで自分と同じような子供たちをこの最終選別に送り出してきたのか、少女、真菰(まこも)は知っている。本当は自分をここにいかせたくなかったこともわかっている。

 

 生きて帰ってこない弟子達にあの人がどれほど苦悩したことか……

 

 その全ての元凶が今、目の前にいる。こいつだけは許せない。こいつだけは私が殺さなければいけない。

 

 そんな怒りに身を任せていたから、駄目だったのかもしれない。自身の四肢を掴む異形の腕を見て真菰(まこも)は絶望する。怒りに身を任せて鱗滝(うろこだき)が教えてくれた呼吸が乱れ、水の極意を忘れてしまった。静かに流れる清流のその真意を、忘れてしまっていた。

 

「きひひひ、やっと捕まえた。これでまた鱗滝(うろこだき)の弟子を殺せる。自分の弟子がまた帰ってこなくて、あいつはどんな顔をして苦しむのかなぁ」

 

 自身を掴む異形の腕に徐々に加わるその力に自らの生の終わりを悟った真菰(まこも)はきつく唇を噛み締めて目を閉じる。

 

(ごめんなさい、鱗滝(うろこだき)さん)

 

 必ず生きて帰るとそう約束したのに真菰にはその約束を果たせそうにない。無念の想いに身を包まれながら真菰が大好きな鱗滝(うろこだき)の姿を思い浮かべたその時、その声は聞こえた。

 

 

(から)の呼吸 壱ノ型(いちのかた) 震葬(しんそう)

 

 

 自身の周囲の空気が揺れたようだった。それを感じた瞬間、自身を捕らえていた全ての腕から鮮血が吹き上がって、ついでふわりと体が宙に浮くような感覚が襲う。

 

 

「なっ!?」

 

 

 異形の鬼が突然斬り落とされた自身の腕を驚愕に目を見開いて見つめている。

 

 支える腕がかなくなったことで突然襲う浮遊間に真菰(まこも)も慌てて受け身を取ろうと身を構えるが、彼女の身体が地面に落ちるよりも先に横合から飛び込んできた人影が真菰を横抱きにしてさらっていく。

 

 

「へ?」

 

 

 思わず間抜けな声を出して自身を抱えて疾走する人影を真菰は見つめる。

 

 飛び込んできた人影は真菰(まこも)を抱えたままの状態で勢いを一切緩めることなく、とてつもない速度で異形の鬼から遠ざかっていく。

 

 

「くそっ!あと少しだったのに!待てぇ!鱗滝(うろこだき)の弟子!!」

 

 

 真菰を殺し損ねた異形の鬼が怒りの形相を浮かべて叫んでいるのが後ろに見える。あまりの急激な状況の変化に呆けていた真菰はそこまで至ってようやくあの鬼への怒りを思い出した。

 

 

「ま、待って!私は、あいつに勝たないといけないの!」

 

 

 あの鬼を野放しには出来ない。

 

 鱗滝(うろこだき)の想いを踏みにじるあの鬼を生かしておいてはいけない。これまで殺された他の弟子達の為にも、これから挑むかもしれない他の弟子達の為にもあれは殺さなければいけない。

 

 

 急速に遠ざかっていく鬼の姿に焦って暴れる真菰をその人影は黒い宝石のような瞳で見下ろし、静かに……

 

 

「黙れこの馬鹿っ!!実力差も分からずに突っ込みやがって!勝てる訳がないだろうが!」

 

 

 全然静かではなかった。

 

 鼓膜が破れるかと思うほどの大きな声でしかも真菰の耳元で叫ぶ。そのあまりの声量に真菰は先ほどまで彼女の頭の中の大半を占めていた鬼への怒りも忘れて呆然としてしまう。

 

 

「よく勝たないといけないとか言えたね!君は阿呆なの!?俺が助けてなかったら死んでたからね!」

 

 

 

(あ、阿呆!?なんなのこの人!?)

 

 

「な、阿呆ってなんなの!?さっきのはちょっと失敗しただけだよ!」

 

 

 そのあまりの言われように真菰は助けてもらった恩すら忘れて怒り返してしまう。

 

 

 

 これが鱗滝真菰と彼、雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)との最初の出会いだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 深い闇の広がる森の中で、1組の男女が荒い息を吐きながら向い合っていた。

 

 

「……落ち着いたか?」

 

 

 そう問いかけるのは、肩まで届くような白い長い髪を後ろ手に縛った少年、雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)だ。

 

 

 

「うん、ちょっと落ち着いた」

 

 

 信乃逗(しのず)の問いかけに答えるのは真菰(まこも)という黒髪で狐の面を頭につけた小柄な少女だ。2人の息が荒いのは決していろめかしい事情によってではない。いましがたまで互いに怒鳴りあっていたからだ。

 

 

 実力で及ばない鬼に真正面から向かって行こうとする真菰(まこも)信乃逗(しのず)が止めようとした結果起こってしまった、まさに事故である。

 

 

「全く……なんであんな無茶をした?……あの鬼が他の鬼とは比較にならないくらい強いのはわかるだろう?」

 

 

 真菰(まこも)の命を大事にしようとしない、無謀極まるその戦い方に信乃逗(しのず)は思わず苦言を呈する。実際のところ、あれは本当に選抜試験に参加するような人間が相手にする鬼ではない。下手をすればこの選抜を突破した鬼殺隊の一員ですらやられかねない、その次元の相手だ。

 

 

「……あの鬼は私の大事な人を傷つける。だからあの鬼を殺したかった、絶対に」

 

 

 真菰(まこも)が呟くように語るその理由に信乃逗(しのず)はなんと言っていいか分からず思わず顔をしかめる。

 

 

「……助けてくれてありがとう。おかげでまだ戦える」

 

 あれだけ説得したにもかかわらず、まだあの鬼と戦おうとする小さな少女に信乃逗(しのず)は溜息を吐きたくなる。この聞き分けのなさは亡き姉によく似ている。

 

 

「……あの鬼が大事な人を傷つけるって言ったが、お前が死んだらそれはお前の大事な人を傷つけることになるんじゃないのか?」

 

 

 信乃逗(しのず)の言葉に、真菰はピクリと肩を震わせる。

 

 

 真菰(まこも)の脳裏にこの最終選抜に出発する時の光景が浮かび上がった。「必ず生きて帰ってこい」そう言って真菰を抱きしめてくれる、初老の老人の姿だ。

 

 

 もし真菰が死んだら生きて帰って来なかったら鱗滝はきっと酷く悲しむ。悲しんでくれる。真菰とてそれを考えていなかったわけではない。

 

 ただせっかく育ててもらったのに何の恩も返せずに、ただ死んで悲しませるなんてそんな恩を仇で返すような行いを自分がしようとしているのだと明確に言葉で指摘されて真菰の動きは止まる。

 

 

「……それにその足の怪我でどうやってあの化け物に勝つつもりだ?」

 

「っ!?」

 

(……あぁ、ばれてたのか)

 

 信乃逗の指摘した通り、真菰の足首の骨にはヒビが入っている。おそらくは異形の鬼につかまれた時だろう。身体が潰れてしまうのではないかという程の力で圧迫されていたのだ。おおよそ無理のない話ではある。

 

 立っているだけでも痛みを感じるこの状況では真菰の得意とする速度に頼った戦い方はできない。力がないが故に速度を重視する真菰の戦い方で、足の怪我というのは致命的だ。

 

 

 地面に俯き落ち込む真菰に追い討ちをかけるように、信乃逗は次々と言葉を重ねてくる。

 

 

「今のお前はあの鬼どころか、その辺りの雑魚鬼にすらやられかねないんだぞ」

 

 

 その指摘もおおよそ正しい。一体一体で襲ってくるのであれば怪我を負った真菰であっても恐らくは勝てる。だが、この藤の牢獄の中では鬼は我先にと複数体で襲ってくることが多い。

 

 そうならばいくら真菰でも、ろくに抵抗も出来ずにやられる可能性が高い。最終日。今日さえ生き抜けば最終選別を突破できるのだ。また鱗滝の待ってくれている家に帰ることができる。

 

 

 どちらを選ぶべきだろうか。

 

 

 死ぬと分かってそれでも尚、あの異形の鬼に挑むか。生き残る為にこれまで鱗滝を苦しめてきたあの異形の鬼から手を引くのか。

 

 だが例え手を引いたとしても、この足で果たしてどこまでできるというのか、彼のいう通り別の鬼にやられて結局は鱗滝との約束を破ることになるのではないか?

 

 

 どちらにしろ死ぬというのならいっそのこと……いやしかし……

 

 

 解のでない問いかけが真菰の頭で巡りつづける。

 

 

 明らかに俯いて落ち込む目の前の少女に信乃逗(しのず)はいつかの記憶を思い出す。母に怒られてよく落ち込んでいた妹の姿と目の前の少女の姿が一瞬重なって見えた。

 

 

(これじゃあ俺が虐めてるみたいじゃん)

 

 

 溜息を吐きながら信乃逗(しのず)は少女へとある提案を持ちかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が昇り、最終選別の終了した時、山の入り口の広場に立っていたのはわずか4人だった。試験開始時には20人以上はいたはずだが、随分と減っている。

 

 

 信乃逗(しのず)が生き残ることができたことを感慨深く思いながら、周囲を見渡していると、選別に生き残った4人の内の1人が声をかけてくる。

 

 

信乃逗(しのず)、ありがとね」

 

 

 信乃逗が助けた仮面をつけた小柄な少女、真菰(まこも)だ。

 

 

 あの夜、信乃逗(しのず)は真菰にこう提案した。

 

 

「俺は疲れたからしばらくここを動かん。当然、ここを襲ってくる鬼がいたら俺は反撃する。そこにたまたま怪我をしたお前がいるだけなら、別に助けたことにはならんだろし、試験違反とかそういうことにもならんだろ……というか別に助けちゃ駄目とかそんなこと聞いてないな……」

 

 

 その提案を聞いた時、真菰(まこも)は唖然としたものだ。提案といいながら彼女に拒否するような選択は事実上ほぼ不可能だったのだから。生きて帰るつもりがあるのなら、鱗滝に「ただいま」とそう言いたいのであれば彼の案にのる他、真菰には選択肢がない。

 

 

 助ける気など微塵もなさそうな態度で立っているのに自分では勝てないと分かっている鬼から命懸けで真菰を助けてくれて今度は怪我をした彼女を守ろうとしてくれている。

 

 

 素直じゃない、優しいのに優しくない振りをする。そんなツンケンとした信乃逗の態度に、真菰(まこも)は少し微笑ましく思ってしまった。

 

 

信乃逗(しのず)って変わってるね」

 

 

「他の誰に言われてもいいがお前にだけは言われたかねーよ」

 

 

 そうして信乃逗は、本当にそこから動かずに日が昇るまで真菰の側にいた。

 

 

 

 ——— 不思議な人

 

 

 

 

 

「……別にいい。俺は疲れたからあそこで休んでただけだし、お前を助けたかったとかじゃないから」

 

 

(やっぱり素直じゃない……)

 

 

信乃逗(しのず)は、やっぱり変わってるね」

 

「はぁ!?」

 

 

 疲れたといいながら、そんな様子などまるで見せない彼に真菰(まこも)は思わず笑ってしまった。

 

 

 




読んでいただいてありがとうございます!
ご感想、ご意見を頂ければ幸いでございます。
次回も是非お読み頂ければ幸いです。

そして真菰ちゃんは神です


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村の異変

真菰ちゃんは神でございます!


 

 

 あの夜、自身を死の淵から助け出してくれた人がいま再び目の前に立っている。そう考えると真菰としてはこの再開はなにやら感慨深いものがある。

 

 

 約10カ月ぶりに会った彼は少し背が伸びただろうか。以前よりも見上げる角度が大きくなっている気がする。

 

 

(私は全然身長が伸びないのに、男の子はやっぱりずるいなぁ)

 

 

「久しぶりだね、元気そうで良かった」

 

「……ああ、そっちこそ元気そうで何よりだ、マグロ」

 

「……」

 

 

(……それはどこのお魚だろうか?)

 

 

 なぜ急に海に棲むという魚の名前を、彼は呼び始めたのだろうか?

 

 まさか、自分の名前を呼んだのではあるまいと真菰は笑顔で首を傾げる。

 

 あれから10カ月、その間確かに会うことはなかったとはいえあれだけ散々会話をしておきながら名前を忘れましたなんてそんな馬鹿なことが許されるわけがないのだから。

 

 

「うん?どうした急に黙って?マグロ」

 

 

 あぁ、そういえば、今日の夕飯に人肉が必要な存在がこの村の近くにはいる筈だ。ちょうど目の前に罠に使えそうな手頃なお肉があるではないか。

 

 

 にっこりと微笑みを浮かべて、真菰は腰に差した漆黒の鞘から、雄大な空の青さを思わせる色合いをした刀を抜き放つと、そのまま信乃逗の元へと歩を進める。

 

 

「……なぜ刀を抜く?そしてなぜ無言で近づいてくるんですかね、お嬢さん?」

 

「自分の胸に手を当ててよく考えてみるといいよ、信乃逗(しのず)

 

 

「いや待て、待つんだッ!!ギャーー!?」

 

 

 

 

 

 アーホー、アーホー

 

 

 せっかくの綺麗な青空に、間抜けな鳴き声を出して台無しにする鴉をボーッと眺めながら信乃逗(しのず)は考えていた。

 

 

(俺、これから鬼狩りするんだよね?なんで戦う前からボロボロになってる訳?)

 

 

 雑魚鬼の爪では斬り裂けないという説明の隊服がところどころ切れて、信乃逗のやや色白の肌が垣間見えてしまっている。

 

 

(あとここぞとばかりにその鳴き方するのをやめてほしい。今までそんな鳴き方したことないじゃん、クソ鴉)

 

 

「……信乃逗(しのず)が悪い」

 

「いや冗談だからね!普通に憶えてたから!本当に忘れる訳ないじゃん!」

 

「なおさら悪い」

 

 

(ぐっ、怖い!怖いよこの娘!)

 

 

 なんで最近の子は冗談が通じないんだろうかと、信乃逗は身体を震わせる。

 

 

「カァー!信乃逗(しのず)は記憶力が悪い!カァー!」

 

「必要な情報忘れてたテメェにだけは言われたくないわ!」

 

 

 ギャーギャーと騒ぎ立てる信乃逗(しのず)鎹烏(かすがいからす)を横目に真菰(まこも)はそっと微笑む。

 

 

 再会の仕方こそ困ったものだったが、相変わらず彼は元気そうだ。

 

 

「……それで信乃逗(しのず)が応援の隊士の人ってことでいいの?」

 

 

 再会を懐かしむのも悪くはないが、今はそれよりも先にやらなければいけないことがある。自分達は鬼狩りとしてこの村にきているのだから。

 

 

「……うん?応援?」

 

「あれ?違うの?指令が来たわけじゃないの?」

 

 

 想像とは違う反応を返す信乃逗(しのず)に、真菰(まこも)は困った様子で彼へと問うが、当の信乃逗はその視線を肩にとまる鎹烏(かすがいからす)へと向けると……

 

 

「おいこら鴉君、お前まだ伝え忘れてることがあるんじゃないか?」

 

「……カァー!信乃逗(しのず)真菰(まこも)と共に任務にあたれ!

 2人でいくのだ!カァー!」

 

「いま言うんかい!最初に言えよ!絶対忘れてだろうが!いま妙な間があったぞ!……あっ、待てコラ!降りてこいクソ鴉!」

 

 

(……本当に元気そうで何よりだ)

 

 

 言うだけ言って素早く信乃逗の肩から飛び去っていく鴉と、再び騒ぎ出す信乃逗を尻目に真菰は静かに溜息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 この村で起きている異変。

 

 村の端にある御堂の近くで遊んでいた村の子供達が、何人も消えているのだという。それほど人口の多くないこの村では将来の働き手が何人も消えていくのは非常に致命的である。

 

 しかし、ただ子供が数人消えただけなら本当に鬼が出たとは限らない。人攫(ひとさら)いにあったという線も濃厚だ。鬼のいる確証もないのにたいして人数も多くない隊士を2人もこんな辺鄙(へんぴ)な村に送り込む必要はない。

 

 

 では、なぜ隊士を2人も派遣したのか。

 

 

 それはこの村に派遣されたそこそこ手練れの鬼殺隊の隊士がすでに1人、連絡が取れなくなっているからだ。手練れの隊士がただの人攫いに連絡も取れずにやられたというのは考えにくい。

 

 

 おそらく鬼。それもただの雑魚鬼ではない。異形の鬼、あるいは血鬼術という特異な能力を使用する異能の鬼といわれる類の強力な鬼だ。

 

 

「……なるほどね。すでに1人やられてるわけね。そして、そんな重要な情報をうちの鴉君は忘れていたと……やっぱり焼き鳥だな」

 

「ナヌッ!?」

 

「なぬ、じゃねーよ!当たり前だろうが!あとなんでテメェは真菰の肩にのってんだ!テメェは俺の鎹烏(かすがいからす)じゃないんですかね!?」

 

(……話がすすまないなぁ)

 

 

 何か事情を説明するとこの組み合わせはすぐに言い争いをはじめる。仲が良いのか悪いのかよくわからないがこれでは一向に話が進まない。まだ陽は高いので鬼の活動時間ではないのが幸いだが時間が有り余ってるわけでもない。真菰としては早めに説明を終わらせて調査に移りたいのだ。

 

 

「信乃逗も落ち着いて。あとこっちの鴉が煩くなるから君も降りてくれる?」

 

「カァー!真菰は優しい!信乃逗は口煩い!カァー!」

 

(え、今の優しかったっけ?)

 

 真菰としては全く優しくしたつもりはないのだが、今ので優しいと捉えるとは信乃逗は普段どんな扱いをしているのだろうか?

 

 

「テメェが伝達内容を忘れるからだろうが!……おいこら、なんで真菰は鴉を膝の上に置いてんだ?」

 

「可哀想かなぁと思って?」

 

「どこが!?明らかにその鴉がおかしいから!なんで俺が責められてる感じになるわけ!?」

 

「カァー!役得!」

 

「役を果たしてからいえよ!お前は得しかしてないじゃん!……真菰、刀を抜くな!それは鬼に振るうものだから!」

 

 

 変態なのだろうか?と、条件反射で真菰は思わず腰に差した自身の日輪刀を抜いてしまった。

 

 

「鬼と変態は斬れってうろ、……育ての人が教えてくれたから」

 

「怖いわ!なに教えてんのその人!日輪刀を向けるのは鬼!隊員同士でやり合うのは御法度だから!」

 

「カァー!早く鬼狩りに行け!カァー!」

 

「誰のせいだと思ってんだ!クソ鴉!」

 

 

 このまま会話を進めるのは信乃逗としては腹立たしいことこの上ないがすでに多くの犠牲者がでている以上、鴉のいう通り一刻も早い解決が望まれているのは間違いない。

 

 とはいえすでに隊士がやられている状況で闇雲に鬼を探して回るのは危険だ。

 

 

「ところで、真菰は何か情報を得られたのか?」

 

 

 手がかりでもなんでも、今はなるべく情報が欲しい。自分よりも随分と早くに村についていたらしい真菰へと信乃逗が問いかける。

 

 

「怪しい話とかを聴いて回ったけど、決定的なものはなにもなかった。あまり家に人がいないみたいでこの村の人ともそんなにまだ会えてないから。……ただ、会えた村の人の話だとここ最近よく村の近くに霧が出るらしいの」

 

 

(……霧?)

 

 

 それは信乃逗には別段引っかかるような情報ではないように感じたのだが、真菰にはそうではなかったようだ。

 

 

「この時期にこんな山裾の村で霧が出るのは少し妙だと思う。……それに霧が出始めた時期と子供たちが消えた時期はほぼ一緒。派遣された隊士の人と連絡が取れなくなった日にもこの村では霧が出てたみたいだから、かなり怪しいと思う」

 

 

(なるほどね……)

 

 

 それが事実なら確かに偶然にしてはよくできた話だ。自分と数刻程度しか到着時刻は離れていない筈だが、短時間で随分と有益な情報を真菰は集めることができている。

 

 だが、もし真菰の集めた情報通りに霧と鬼に関係があるとなればそれはそれで厄介なことになる。

 

 

「……そうなると今回の鬼は異能の鬼か、厄介だなぁ」

 

「多分ね。能力はまだはっきりしないけど、霧に関連した血鬼術を使う鬼だと思う」

 

(……帰りたくなってきたなぁ)

 

 異能の鬼というのは総じて面倒だ。何をしてくるかわからない上、下手に近づくと異能の犠牲になるなんてことも更にある。

 

 身の内から湧き上がるその衝動に信乃逗はげんなりとした表情で空を仰ぎ見る。何しろこの村に着くまで信乃逗は丸2日寝ていないのだ。睡眠不足から鬼狩りに赴く気力が全く湧いてこない。

 

 

(真菰に任せても大丈夫な気がするし、もうこれ、村で寝ててもよくない?)

 

 

「カァー!信乃逗、減給!減給!カァー!」

 

「そういう機敏なところは別の場所で発揮してくんないかな!?」

 

 どうして重要な情報は全て忘れるくせにこういうところだけはやたら目敏いのだろうかとそう思った瞬間、信乃逗の全身に悪寒がはしる。

 

 

(はっ!)

 

 

 鴉に文句を言う信乃逗がその感覚に勢いよく振り向くと、真菰の信乃逗を見る目が明らかに冷たくなっていた。

 

 

「いや、違うよ!別にさぼって寝ようとかしてないから!真菰に任せといても大丈夫だとか思ってないから!」

 

 

(あれ?よく考えたらこれ、逆効果じゃない?)

 

 焦って呟いた後に信乃逗はそのことに気づいた。じんわりと身体を包み込む冷気にも似た何かに信乃逗は思わず腕をさすり、そっと再び真菰に視線を合わせた信乃逗はその感覚が決して間違いではないことを悟った。

 

 

「よ、よっしゃ、さっそく御堂に向かってみますかね!さあ、働こう!労働って大事!!頑張ろう!」

 

 

 何やら気まずくなってしまった空気をなんとか誤魔化そうと背中に冷気を感じながら信乃逗は子供たちが消えたと言う御堂まで現地調査に赴むこうと、勇んで足を動かし始めた。

 

 




今回も御一読頂いてありがとうございます!
御意見・御感想頂けましたら幸いで御座います。

そしてやはり真菰ちゃんは神です。


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まやかしの御堂

主人公名:雨笠 信乃逗(アマガサ シノズ)
宜しくね!



 

 

 

 人気の少ない村の中、件の御堂へと近づく信乃逗(しのず)真菰(まこも)の2人はさっそく妙な違和感を感じていた。

 

 

「なぁ?さっから背中に当たる冷気以外にも何か干渉を受けているような感じがするんだけども、これって気のせい?」

 

「多分、背中の冷気は気のせいだよ。……でも、確かに御堂に近づくほど妙な感じが強くなってる気がする」

 

 

 背中にあたる冷気も決して気のせいではないのだが、この場で突っ込むのはあとが怖いのでやめておこうと信乃逗は冷静にそう判断した。

 

 

「ここから見る限り御堂自体は至って普通の綺麗な建物に見えるけどな……確かになんか妙な気配を感じるよなぁ?」

 

 

 建物の正面に立った2人は、その表情を一層険しくして辺りを見渡す。

 

 建て替えたのだろうか、こんな辺鄙な村にあるにしては妙に立派なその御堂から感じる強烈な違和感。一見すると御堂の周りは草が生えたただの空き地だがその場所からも奇妙な違和感を感じて信乃逗(しのず)は御堂の周りをグルグルと警戒するように回り始める。

 

 

 一方の真菰(まこも)はいつでも抜刀できるようにと警戒しながら、御堂の扉を開ける。

 

 

 ギィーと立て付けの悪い音を立てながら、ゆっくりと開いていく扉に真菰(まこも)は僅かに違和感を感じて目を細める。だが開いた扉の先にあるのはなんの変哲もない、極めて一般的な御堂の部屋である。

 

 

 鬼が潜んでいるわけでも血臭や血の跡が残っているわけでもない。若干拍子抜けをした真菰(まこも)は僅かに強張った肩の力を抜いて、御堂の外へと出る。

 

 

信乃逗(しのず)、御堂の中には特に変わったものはなかったよ?……外には何かあるの?」

 

 

 真菰(まこも)が御堂に入った時と同じように依然としてグルグルとお堂の周りを歩き回っている信乃逗に向けて真菰が問いかける。

 

 

「あぁ、真菰(まこも)、御堂の中っていうよりは外の方にも何だか妙な気配がするような気がしてな。その違和感を探しているんだが……おぉ、この辺だな」

 

 

 そう言って信乃逗(しのず)が立ち止まったその場所は一見なんの変哲もないただの草むらで、そこから先にはただ林が覆い茂っているだけだ。

 

 

「これは、思ったよりも厄介な能力だな、先にきた隊士がやられたのも無理ないねこりゃ」

 

 

 そう言って信乃逗(しのず)は違和感のあるという場所で立ち止まると、腰に差した日輪刀を抜き放って何もないように見える草むらに向けて横一線に振り抜いた。

 

 

「うん?……へ!?そんな!?ここは確かに草むらで……」

 

 

 真菰(まこも)には信乃逗(しのず)が急に草刈りでも始めたようにすら見えたが、どうやらそれは間違いだったようだ。信乃逗が切ったのは草ではない、信じられないことに空間そのものだ。

 

 草を切るはずの信乃逗(しのず)の放った一閃は草をすり抜けるようにスラリと振り抜かれ、その次の瞬間にはただ草むらのように見えた空間は、ボロボロとまるで煉瓦の壁が崩れるように消え去り、その先に全く別の光景を映し出していた。

 

 今まで見ていた光景はなんだったのかと、そう疑問に思ってしまうほどそこに映る光景はあまりにも違う。新たに現れたその空間は洞穴のようになっており、見事なまでの階段が地下に向かってまっすぐに伸びていっている。

 

 

「やっぱりそうか。いや、なんとなく振ってみたら斬れたわ」

 

 

 呆然とした様子でその階段を見る真菰(まこも)とは対称的に、陽気な様子で嗤う信乃逗(しのず)の笑顔は普段見せる気さくなそれとは違って恐怖を覚えるような不気味なものだった。

 

 

信乃逗(しのず)……これ、どういうこと?」

 

 

 困惑のあまり言葉を詰まらせながら、真菰は信乃逗に問いかける。

 

 

「……まぁ言ってしまえば単純なんだけど、要は幻覚だったってことよ。あの草むらはただのまやかしで、この階段を隠してたってところでしょ」

 

「幻覚、そんな特殊な血鬼術を使うなんて……ぁっ」

 

 

 そこで真菰(まこも)は先程御堂に感じた違和感を思いだした。

 

 

 外からこの場所を見たとき、こんな辺鄙な場所にある村にしてはやけに真新しい御堂だと思った。だけど、実際に入って扉を開けたりした時に感じたあの床の軋み方、そして扉を開く音。まるで長年使ったかのような古びた物特有の匂い。これらから察するにこの御堂も先程信乃逗が斬った草むらと同じ幻覚に違いない。

 

 

「……信乃逗(しのず)、多分この御堂も幻覚」

 

「あぁ、何だかそれっぽい感じはしてると思ったけど、真菰(まこも)のその反応を見るにそっちも幻覚かなぁ。ただこっちとは違ってそっちは古びた御堂を真新しく見せてるだけみたいだけど」

 

 

 真菰(まこも)の言う御堂の幻覚は、先程信乃逗(しのず)が見つけたような何もない場所に虚像を作って誤魔化すだけのものではない。何もない場所に御堂の幻覚など創り出しても、触れようとした瞬間には透過してすぐに気付く。

 

 

 今回の場合は古びた御堂の上に御堂自体を不気味に感じさせないよう真新しく見せる幻覚がかけられている。実体のあるものに見た目には全く違和感を持たせないだけの幻覚を重ねかけているのだ。

 

 

 だから真菰も入るまで気付くことができなかった。

 

 

 これだけの精度の幻覚を持続的に創り出す。それだけでも十分に脅威的な能力だ。間違いなくその辺りにいる雑魚鬼ではない。並の隊士が何人来たところで十分に対処できるだけの力をこの鬼は持っている可能性が高い。

 

 

「もしかして今回の鬼って十二鬼月ってやつなのかな?」

 

 

 鬼の持つあまりの能力の高さに同じ結論に至ったのか、不安そうな口調で真菰が信乃逗に問い掛ける。

 

 

 その疑問には信乃逗(しのず)も否定は出来ない。

 

 

 答えを返さない信乃逗(しのず)の様子を見て、真菰(まこも)は一層不安な気持ちになる。これはもしかして、いやもしかしなくても最悪な状況に陥ってるのではなかろうか。そんな懸念が真菰の中には浮かび上がる。

 

 

 仮に十二鬼月のような強力な鬼が相手なら、新米隊士2人だけではあまりに荷が重い。十二鬼月でなかったとしてもここの鬼の能力は非常に厄介だ。2人だけでは万が一の場合、全滅することも十分にあり得る。

 

 

「……万が一を考えると確かに一度引いて、増援を呼んだ方がいいかもなぁ」

 

 

 命に関わる危機的状況にもかかわらず、信乃逗は割と呑気なものでどういうわけかあまり深刻には捉えていないようだ。

 

 

「…さっきから妙に余裕だけど一体、「あらら、そんなこともできるわけ」……っ!?」

 

 

 何をそんなに自信を持っているのか、そう問おうとした時、信乃逗(しのず)が呟くように真菰(まこも)の言葉に重ねてくる。

 

 口調こそ先程と変わらず呑気なものだが、彼の表情は厳しく視線を鋭くして周囲を見渡している。

 

 

「……これは、霧?」

 

 

 急に変わった信乃逗(しのず)の雰囲気に真菰(まこも)も慌てて周囲を見渡せば、先ほどまで日の光がさしていた筈の御堂の庭の周りは一体いつ現れたのかというほどの濃い霧に囲まれていた。

 

 

(……全く予兆がなかった。これも幻覚?)

 

 

 あまりにも濃い霧に阻まれ、先程まで眩しいほどに差し込んでいた陽光も完全に陰ってしまっている。

 

 

 それはつまり今この場所は、鬼が活動できるようになったということだ。

 

 

「……いやー昼間だと思って油断したわ。日が差している時間も活動が可能とはね」

 

「呑気なこと言ってる場合?……これだけの霧をこんな短時間で作りだすことができるなんて明らかに並の鬼じゃない」

 

 

 緊張から真菰(まこも)の額には冷や汗が浮かぶ。

 

 

「この霧がただの幻覚で能力が人を惑わすことに長けているだけなら、案外大したことない鬼かもしれんぞ」

 

 

 なんという楽観的な考え方。

 

 

 能天気にも程があると真菰(まこも)が注意しようとしたその時、それはやってきた。

 

 

「へぇ〜言ってくれるじゃん。なら、試してみる?大したことないやつかどうか。……ねぇ、鬼狩りさん」

 

 

 空気が明らかに変わった。

 

 それが姿を見せた途端、言葉を発した瞬間、重苦しい、重厚感のあるものへと空気が変質する。

 

 

 2人の鬼狩りはほぼ同時に声の聞こえた方に顔を向ける。

 

 

「……ねぇ信乃逗(しのず)、あれのどこが大したことないって?」

 

「ごめんなさい、調子に乗りました。いやまさか本当に出てくるとは。……見た目は可愛いんだけどね。てか、なんであいつ浮いてんの?」

 

 

 身長よりも長い黒い髪を垂れ下げた少女の姿をしたその鬼は、2人の頭上に、まるで最初からそこにいたかのようになんの前ぶれもなく現れた。

 

 

 容姿こそ真菰と大して変わらない年齢のように見える。だか、鬼に見た目通りの年齢など期待できない。

 

 事実、目の前のあれは明らかに鬼になって数年なんて生易しいものでは恐らくない。一体何人喰らえばあのような禍禍しい空気を出せるのか。

 

 今まで感じたこともない重苦しい空気に真菰(まこも)は緊張から思わず喉を鳴らして唾を飲み込む。

 

 

「人様の家の扉をいきなり壊してくれた上に、そんな風に言われたんじゃ無事には返せそうにはないよねー」

 

 

 完全に萎縮した様子の人間を見て、ニタリと口元を不気味に歪めて少女の鬼は囁く。

 

 

「……あれー?なんかそれ、全部俺のことじゃない?登場したばっかなのに俺にだけ随分と殺意高くない?」

 

「……自業自得だね。頑張って追い掛けられて」

 

「冷たくない!?その反応はあんまりじゃない!?」

 

「くふふふ、お兄さん達面白いね。どう?大人しく私のご飯になってくれるなら楽に殺してあげるよ」

 

 

 2人を頭上から見下ろしていた鬼の少女は、どうやらこの会話が気に入ったらしい。嗤いながら、明らかに人を見下した提案をしてくる。

 

 

「貴方には悪いけど、鬼の食事になんて絶対ならない」

 

「俺も。可愛い子とご飯を食べるならともかく、可愛い鬼の食事になる気はさらさらないです」

 

 

 無論、鬼狩りである2人がそんな提案を受け入れるわけもない。

 

 

「……残念だなぁ。じゃあ苦しんで死ね」

 

 

 彼女のこの一言で戦いの幕は切って落とされた。

 

 見開かれた少女の瞳には下弦 陸と、確かに刻まれていた。

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
ご感想•ご意見を頂けましたら幸いです!
皆様是非宜しくお願い致します!


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十二鬼月の少女 上

 

 

 

「うぉぉぉー!?」

 

 

 深い霧の中に、地面を抉るような激しい轟音と共に、その悲鳴なのか雄叫びなのか分からない声は、鳴り響いていた。

 

 声の主はもちろん信乃逗(しのず)だ。

 

 宙に浮いた少女の姿をした鬼が、そのか細い腕を振るう度に信乃逗(しのず)が直前まで立っていたはずの地面が轟音と共に陥没する。

 

 

「あははは!いいよ!いいよ!お兄さん、もっと私を楽しませて!」

 

「やだ!なにこの暴力的な娘!?お前を楽しませるために叫んでんじゃねーよ!?」

 

 

 子供のように無邪気に笑いながら、腕を振るい続ける鬼に信乃逗(しのず)は叫びながら身を捻って得体のしれない鬼の攻撃から逃げ続ける。

 

 

(くそ!いったいどういう理屈でそうなる!?)

 

 

 割と余裕でやり取りをしているように見える信乃逗(しのず)だが、実のところはかなりギリギリである。

 

 あの鬼の少女は登場してから一度たりとも動いていない。最初に現れたあの場所から宙にむかってひたすらに右へ左へと腕を振るっているだけだ。

 

 だが、たったそれだけの動作で少女の腕の振るう方向にあるものはまるで何かとてつもない力で殴られたかのように凄まじい衝撃を受けて轟音と共に大きく抉り取られる。完全なる不可視の攻撃。その攻撃の正体が全く見えない。

 

 幸い、少女の振るう腕の向きに気をつけていれば今のように避けられない事はない。

 

 ただし、一発でもまともに受ければ、か弱い人間など即死ものの衝撃であることは、目の前の小さな落とし穴のようになった地面から見ても明らかだ。

 

 

(どんだけ穴を掘るのが好きなんだよ!もうお庭が穴ぼこだらけにってなるんですけど!?これ掠っただけで成仏出来ちゃいそうなんだけど!)

 

 

 鬼の攻撃を避けるのに精一杯な信乃逗は、腰に差した刀の間合いにまだ一度たりとも入ることができていない。

 

 その為信乃逗はただひたすらに避け続ける。叫びながら、鬼の注意を引くように、鬼が気付かないように。信乃逗の一挙一足、全ての動きが鬼の少女の目を、注意を、意識を、信乃逗へと引きつける。

 

 この場にいるのは信乃逗だけではない。

 

 もう1人、怖ーい鬼狩りの少女がこの場にはいるのだ。

 

 ニタリと口元を歪めて嗤う信乃逗を見た鬼の少女の全身にぞくりと悪寒がはしった。

 

 

(な、なに、今のは?)

 

 

 妙な胸騒ぎのような得体の知れない感覚に鬼の少女の思考が一瞬停止する。

 

 

「全集中 水の呼吸 」

 

 

(!?)

 

 

 突然聞こえたその声に、鬼の少女は勢いよく頭上に向けて顔を上げる。

 

 そこには先ほどまで地面を這い回って逃げる男と一緒にいた筈のお面をつけた小柄な少女が、蒸気のような息を吐きながら、握り締めた刀を今にも振り抜こうとしている姿があった。

 

 

(上!?いつのまに!?)

 

 

 完全に認識できていなかった真菰(まこも)の動きに、鬼の少女は驚愕して目を見開く。

 

 

壱ノ型(いちのかた) 水面斬り(みなもぎり)

 

 

 文字通り水面を斬るかのように水平に放たれた斬撃は斬ったと、真菰(まこも)がそう確信するほど完璧なタイミングでの奇襲だった。

 

 

 しかし、それは間違いである。

 

 

(っ!?手応えがない!)

 

 

 真菰(まこも)の放ったその斬撃は、間違いなく鬼の少女の首を捉えた筈だ。だが、放った技はまるで空気を斬ったかのようにするりと少女の首をすり抜ける。

 

 

 仕留め損なったことを悟った真菰(まこも)は、瞬時に離脱を図ろうと空中でその身を(ひね)るが横合いから強烈な衝撃を受けて大きく吹き飛ばされる。

 

 

「かはっ!?」

 

 

 真菰(まこも)は御堂の近くに生えた大樹に受け身も取れずに衝突し、衝撃で肺から強制的に息を吐かされ地面へと崩れ落ちる。

 

 

真菰(まこも)!っく!?」

 

 

 確かに鬼の首を斬ったはずの真菰(まこも)が、空中で突然弾き飛ばされた光景を下から見ていた信乃逗は大樹にぶつかった真菰に駆け寄ろうと走りだすが、その信乃逗(しのず)の一歩先の地面が轟音と共に陥没する。

 

 

「ダメダメ、お兄さんは今は私と遊んでるんだから、他の女の子のところになんて言っちゃダメだよ?」

 

 

 まるで先程と変わった様子もなく、依然として余裕の表情で頭上に浮かぶ鬼の少女の姿に横目で倒れた真菰(まこも)を見ながら信乃逗(しのず)は歯噛みする。

 

 

 先程の攻撃は目の前の鬼にとって完璧な奇襲だったはず。あの反応を見るに間違いなくあの鬼は真菰の動きには勘付いていなかった。

 

 

「……あらら、嫉妬してくれてるのかなぁ。……ねぇお嬢さん。お兄さんちょっと聴きたいんだけど、今のは一体どうやったのかなぁ?」

 

 

 信乃逗(しのず)の目にも、真菰(まこも)の刀は間違いなく鬼の急所である少女の首を捉えていたように見えた。

 

 

 だが、不思議なことに眼前の浮遊する鬼の少女はまるで斬られた様子が見えない。

 

 

 ただ斬れなかったのならまだ分かる。眼前の少女が本当に十二鬼月であるというなら、当然簡単に首は落とせないだろうとは思っていた。

 

 しかし、真菰(まこも)の刀は強力な鬼に特有の硬度な皮膚で止められることはなかった。まるで空気を切るかのように素振りでもしていたかのようにするりとその刀身は鬼の首をすり抜けた。

 

 

「うーん、お兄さんがさっきのお姉さんをどうやって隠したのか。それを教えてくれたら、私も教えてあげてもいいよ?さっきのはお兄さんがやったんでしょう?」

 

 

 どうやら目の前の鬼は厄介な血鬼術以外にも、幼い見た目にはそぐわない頭の良さまで持ち合わせているようだ。

 

 

(……まいったなぁ)

 

 

 先程の奇襲の絡繰の内容まではばれてないようだが、仕掛人が信乃逗であることは既にこの鬼には悟られているようだ。

 

 正直なところこの技量の相手にそう何度も通用するような技でもないのだが、少ない手札を自分からばらすようなことを少なくとも信乃逗(しのず)はしない。

 

 

「……悪いけど、種明かしはしない主義なんだ」

 

「へぇー、そう。じゃあ私も教えてあーげない!つまらなくなってきたら殺しちゃうからまだ何か面白いことできるなら早く見せてね、お兄さん」

 

 

 ニタリと幼い見た目には似合わない妖美な微笑みを浮かべて、少女は再びその腕を振るい始める。

 

 

 




よく考えたらアクション系のシーン初めて書きました。
すっごく難しくない?
読みずらかったら申し訳ないです。

今回も御一読頂いてありがとうございます!
御意見・御感想頂けますと幸いです!
次回もお楽しみに!


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十二鬼月の少女 中

上ときたらやっぱり中もいれないとね!


 

 

 

「おっとっと!?いや、ほんとにっ、暴力的だね!」

 

 

 鬼の少女が腕を振るい始めたと同時に、轟音と共に再び抉れ始める地面に信乃逗(しのず)は必死に身を捻って躱し続ける。

 

 威力も速度も先程と全く変わった様子はない。

 

 この威力で至近距離から受けたのならば、真菰(まこも)は果たして無事なのか。吹き飛ばされた真菰(まこも)の様子を横目に確認しながら信乃逗(しのず)は考える。

 

 この威力をまともに受けたのなら、五体満足でいられるとも思えないが、少なくともこの場から見る限り、真菰(まこも)は人の姿を保っている。

 

 

(あー!もう!診にいきたいけど、この攻撃がほんとに邪魔!もはやうざいわ!?)

 

 

 頭もよく、理解出来ない複雑な血鬼術、そして地面を陥没させるほどの攻撃力の高さ。

 

 これで本人は未だに遊んでいるつもり、あの様子ではまだ全く、あの鬼の少女は本気を出していない。幼い容姿をしていようとも、さすがに十二鬼月(じゅうにきづき)と言われるだけの類の強さがある。

 

 

 これまで倒してきた鬼などこの鬼の少女の前では赤子同然。

 

 

 まさしく格が違い過ぎる。

 

 

 だが、これでも下弦(かげん)、それも(ろく)だ。

 

 

 信乃逗が強いとそう認識している目の前の彼女ですら十二鬼月(じゅうにきづき)の最弱。

 

 

 なら自分が殺そうとしている鬼は一体どれほど強いのだろうか。

 

 

 信乃逗(しのず)の脳裏に嘗て経験した惨劇が浮かび上がる。そしてそれに付随するかのように信乃逗(しのず)の中の憎しみと怒りも同時にかま首を上げる。

 

 

(……俺は殺すと決めた。あの夜に鬼を消すと、そう決めた筈だ)

 

 

 ならばこの程度の相手に一体自分は何をもたついているのか。

 

 

(考えろ。必ず何か秘密がある……)

 

 

 あの鬼の能力は幻覚だとしても、この地面を抉る攻撃やさっき真菰を吹き飛ばした衝撃は明らかに幻などではない。実態をともなったなんらかの攻撃が幻で隠されていると見るのが妥当だが、その正体がなんなのかが今の信乃逗にはまるで掴めていない。

 

 

 そして信乃逗にとってなによりも不可解なのがこの霧だ。どれだけ巧妙で実物そっくりに作り出そうとも幻は幻だ。幻覚で霧を生み出したところで、本当に陽の光を霧で覆えているわけではないはずなのだ。

 

 だから最初霧が出てきた時に、信乃逗(しのず)は鬼が出てくることを考えていなかった。言うなれば焦って退却させようとしているブラフのようなものかと考えたのだ。

 

 

 だが、実際に鬼は出てきた。

 

 

 陽光に照らし出されることを恐れるわけでもなく。自信たっぷり余裕綽綽(よゆうしゃくしゃく)の様子で、頭上にまるで最初からそこに居ましたというように。

 

 

 鬼が出てきている以上少なくともこの濃霧は本物の霧だ。瞬時に陽光を遮る程の濃霧を作り上げ、幻覚を生み出す力があり、さらには地面を陥没させるほどの衝撃波のような攻撃が可能な血鬼術。

 

 

(多才過ぎるだろ!?そんな才能羨ましいわ!?)

 

 

 考えれば考えるほど絶望的な気がしてくる。

 

 これで十二鬼月(じゅうにきづき)最弱なのだから面白い冗談だ。

 

 ただの幻覚なら、信乃逗(しのず)にとって見破ること自体は難しいことではない。あの地下に続く階段のように無い物をあるように見せかけているだけなら集中してみれば分かる。

 

 

 だがその信乃逗(しのず)の感覚を持ってしても、あそこには確かに少女の鬼がいるのだ。

 

 

(なら何故、さっき真菰の刃はすり抜けた!?)

 

 

 幻覚で認識させられた少女ではない。あの空間には間違いなく少女がいる。にも関わらずまるで幻覚であるかのようにあの少女の首元を真菰の刃は通り抜けた。その事実がより一層信乃逗(しのず)を混乱させる。

 

 

「さっきから避けるばかりでつまらないよ、お兄さん。もう、せっかく久しぶりに人と遊べると思ったのにもっと楽しませてよ!」

 

 

 少女のその言葉に信乃逗(しのず)は一瞬、違和感を感じる。彼女の言いようではまるで人と会うのが久しぶりであるかのように感じたのだ。

 

 

(子供や隊士が行方不明になっているのはこの鬼が原因じゃないのか?)

 

 

 信乃逗(しのず)の意識が一瞬思考に持って行かれたその時、鬼の少女がニタリと不気味に嗤う。

 

 

 別段、少女の腕を振るう速度が早まったわけではない、だというのに地面の抉れる範囲が広がった。突然に拡がった攻撃範囲に信乃逗(しのず)は飛び上がって避けようと試みるが僅かに間に合わず左足が衝撃の範囲内に残ってしまう。

 

 

「がぁぁっ!?」

 

 

 足に激痛が走り、次いで地面を抉る衝撃の余波を受けて、信乃逗はゴロゴロと地面を転がっていく。

 

 

 回転する身体で、なんとか受け身を取りながらフラフラと立ち上がろうとする信乃逗(しのず)を鬼の少女は余裕の表情で見つめる。

 

 

「あれー?それで終わり?それじゃあつまらない、つまらないよお兄さん。

つまらないなら死んっ!?」

 

 

 よろよろと立ち上がる信乃逗(しのず)に向けて鬼の少女が手を振るおうとしたその時、不意に彼女の全身に怖気が走る。

 

 

「水の呼吸 捌ノ型(はちのかた) 滝壺(たきつぼ)!」

 

 

(また、上!?)

 

 

 突如響くその声に、鬼の少女が上を見上げれば今まさに刀を振り抜こうとする鬼狩りの少女の姿。

 

 

 それを認識した瞬間、再び水の刃が彼女の頭上から襲いかかる。

 

「あがっ!?」

 

「あたった!」

 

 

 今度こそ得られたその手応えに真菰《まこも》は驚愕の声を上げる。彼女が鬼の頭上から地面に向けて放ったその技は確かに鬼の少女の両手を確かに切断していた。

 

 その様子を下から見ていた信乃逗(しのず)は、左脚の傷を確認しながら思わず嗤う。

 

 

(あぁ、そういうことかクソ鬼め)

 

 

 自らの振るう刃があの鬼の首をはねる場面を想像して信乃逗(しのず)は残酷に嗤う。

 

 

 

 

 一方の鬼の少女は、両腕に走るその衝撃に目を見開いて驚愕していた。

 

 

 鬼になって数十年、幾度となく鬼狩り達に襲われてきた。だが鬼になってこれまで1度としてここまでの傷を負ったことはない。

 

 

(斬られた?私が?誰に?)

 

 

 斬られて飛んでいく両腕を横目に自身の腕を始めて切断した相手を見やる。

 

 

(あぁ、この女かぁ、こいつはまだ動けたのか、こいつは私が斬れるのか?私のおもちゃの癖に、私を傷つけるのか)

 

 

「痛いなぁ、痛いなぁ!!おもちゃの癖に!人間の癖にぃ!!血鬼術!幻影鋼弾(げんえいこうだん)!」

 

 

 瞬時に再生を終えた鬼の少女がその手に握るのは、自身の血で染め上げて強度を上げたいくつもの小さな鉄の玉。その鉄の玉を渾身の力で投げつけ幻で隠す。そうすればこの鉄の玉は人間にとっては不可視の攻撃となる。

 

 

 先程まで信乃逗達を翻弄していたのはまさしくこの異能によるもの。

 

 

 鬼の持つ能力の中でも、最も近距離において高い威力を誇るその技を鬼の少女は真菰(まこも)へと繰り出す。

 

 

(今度こそ殺した!この女を殺した!)

 

 

 完全に避けることの不可能なそのタイミングに、真菰の死を確信した鬼の少女は次に聞こえた声に驚愕することになる。

 

 

「おいおい、俺を忘れてるぞっ!鬼っころ!」

 

 

 声のする方向に再び意識を向ければ、先程自身が間違いなく壊しかけた筈のもう一つの玩具が真下にいた。

 

 

「なっ!?」

 

 

(あいつは片足を壊したはず!何故立っていられる!?)

 

 

 鬼の少女の真下から蒸気のような息を吐きながら、信乃逗(しのず)は居合いのような構えを上空へと向けてとる。

 

 

(から)の呼吸 参ノ型(さんのかた) 轟天雷(ごうてんらい)(こく)

 

 

 漆黒の稲妻が空へと立ち昇っていくように大きく跳躍した信乃逗がその勢いを一切殺すことなく、下から宙に浮かぶ鬼の少女を斬りあげる。少女の放った数多の鉄の玉すらも含めて少女の身体は縦に斬り裂かれる。

 

 

「なぁぁ!?」

 

 

 その強烈な痛みに少女の身体には似つかわしくない呻き声を上げながら、斬られた衝撃で脚を踏み外したように鬼の少女は地面へと落ちていく。

 

 

 それと殆ど同時に少女がただ浮かんでいるように見えたその空間に亀裂が走り、ぼろぼろと剥がれ落ちていく。隠された空間に出てきたのは木と木の間に結ばれた一本の太い締め縄のようなもの。鬼の少女がまるで浮いているように見えたその仕掛けは、実に単純なものだった。

 

 

 幻術で隠した締め縄の上に彼女はただ立っていただけだったのだ。

 

 

「やっとわかったよ、お嬢さんの異能のからくりが。……どうだい今まで見下ろしてた人間に見下ろされる気分は?」

 

 

「くぅっ!」

 

 

 

 地面へと落ちた鬼の少女は苦痛に顔を歪めながら数歩先に立つ信乃逗(しのず)を見上げる。その様子を信乃逗(しのず)は楽しそうに口元を歪めて見つめていた。

 

 

 

 




はい!今回も御一読頂きましてありがとうございます!
御意見・御感想頂けますと幸いで御座います!

毎回の如くいいますが真菰ちゃんは神です。

次回も宜しくお願い致します!


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十二鬼月の少女 下

上・中・下にすると文字数の配分が難しいという事実に気づきました。


 

 

 

 少女の姿をした鬼は焦っていた。今まで自分をここまで傷つけれる鬼狩りなど存在しなかった。鬼である自分が人間に見下されるなんてそんなことがあっていいはずがないのに。

 

 何よりも鬼にとって理解出来ないのは目の前に立つこの男だ。

 

 

「なんなの!?お前っ、さっきから一体、私に何をした!?」

 

 

(おかしい!何故!?何故!?さっきからこいつらを見失う!)

 

 

 先程からまるでそこにいたことを忘れてしまうかのように鬼狩りの存在が気にならなくなる。この男が何かをしていたことは分かっているが、一体何をされれば攻撃を受けるまで相手が迫っていることに気付かないなどという現象を起こせるというのか。

 

 

 あまりにも不可解。いっそ此方が幻覚でも見せられているのかと勘繰ってしまうその状況に鬼の少女は思わず声を荒げて問いかける。

 

 

「おいおい、ボロが出てるぞ、クソ鬼。幼い少女面はどうした?」

 

 

 片足から激しく出血しながらも悠然とした様子で佇んで信乃逗(しのず)は鬼へと嗤いかける。

 

 

「くっ!お前こそ、さっきまで唯の玩具だった癖に!随分と生意気な顔をするじゃなっ!?」

 

 

 そこまで言いかけて鬼の少女は思い出した。自身の繰り出した必殺の一撃は己の両腕を斬り飛ばした少女には当たっていない。この場にいる玩具は目の前にいる男だけではない筈だ。

 

 

 ならもう1人の鬼狩りはどこに行った?

 

 

 その疑問が彼女の命を救った。

 

 

「水の呼吸 弐ノ型(にのかた) 水車(みずぐるま)

 

「血鬼術 幻影身像(げんえいしんぞう)

 

 

 背後から聞こえた声に振り向きもせず、殆ど反射の領域で異能を発動させる。己の身体を瞬間的に操作し身体の大きさを任意に縮めることで横なぎに放たれた首元への一撃を辛うじて回避する。

 

 

 鬼狩りという連中は常に鬼の首を狙ってくる。目に見えるその首の位置目掛けて彼らはいつも刃を振るう。鬼の少女はそれを逆手にとることで、数多の鬼狩りを葬ってきた。

 

 

 身長を縮めることで、首を狙う彼等の刃は少女の頭上を斬り裂く。幻影によって鬼の少女の背が縮んでいることに気づかない彼等の目には鬼の首を刃が透過したように見えるという訳だ。

 

 

 これまで首が斬れず慌てふためく鬼狩り達の姿に少女は笑い転げながら彼等を壊してきた。

 

 

 だが、目の前の2人のこの鬼狩りは首を透過する刃を見ても冷静に確実に自分を追い詰めてくる。

 

 

「……仕留め損ねた。ごめん、信乃逗(しのず)

 

 

(今度は後ろっ!)

 

 

 まただ、どちらかの玩具を見るともう片方の存在が意識から抜け落ちる。未だ理解出来ないその現象に鬼は困惑から立ち直れない。

 

 

「いや、いいよ。気にすんな。向こうもだいぶ慣れてきたみたいだ、効き目が薄い。それよりも真菰(まこも)は大丈夫なのか?直撃してるように見えたんだけど?」

 

 

 怪訝そうに眉を顰めて信乃逗は真菰に問いかける。

 

 

 あのタイミングで回避は不可能だったはずでどう考えてもまともに攻撃を受けていたように信乃逗には見えていたのだが、存外に真菰(まこも)は平気そうに立っている。

 

 

「私はこれ来てるから、大丈夫」

 

 

 そう言って彼女は自身の横脇腹を指で示す。

 

 雑魚鬼の爪では切り裂くことすら出来ないと言われる隊服の繊維が、その部分だけ跡形もなく消し飛んでいる。だが、その下には本来見える筈の彼女の肌は見えない。

 

 

 彼女の脇腹には網目状に編まれた鉄の服、所謂鎖帷子(くさりかたびら)と言われる防具が仕込まれていた。

 

 

「はぁ!?ずるっ!なにそれ!?俺にも寄越せよ!」

 

 

(ていうかこの娘、こんなもの付けてあの速度で動ける訳!?)

 

 

 鎖帷子(くさりかたびら)は確かに仕込みやすい防具ではあるが、それほど利便性のいい物では無い。まずかなり重いし、鉄であるから動きが阻害され易い。

 

 彼女は以前力が無いと嘆いていたが、その割には随分と重い物を身につけてかなりの速度で動いている。

 

 

「うん、これのお陰で助かった、また鱗滝(うろこだき)さんに助けてもらった。あばらがちょっと折れただけで戦うのは全然問題無い」

 

 

(いや、普通それは全然大丈夫じゃ無いです。はい)

 

 

 あばらが折れていて果たしてなにが大丈夫なのだろうか。大丈夫の基準が随分と可笑しい目前の少女に、信乃逗(しのず)は心中で静かに突っ込む。

 

 

「おもちゃが私をコケにするなんてっ!!」

 

 

 2人が余裕の様子で会話をするのを見て鬼の少女が苛立ちを露わに叫ぶ。

 

 

 十二鬼月(じゅうにきづき)である自分を前にしてただの鬼狩りが、人間如きが悠長に会話をしている、その事実が鬼を一層苛立たせる。

 

 しかし今の会話ではっきりした。この違和感の原因はやはり男の鬼狩りの方だと。こちらを先に仕留めなければ先のように不意打ちばかり受けて面倒だと、努めて冷静に鬼の少女は2人を分析する。

 

「どうやら縦への攻撃は効果があるみたいだなぁ。この手の相手は種が割れちまえば、もう決着はついたようなもんだ」

 

 

 だが、信乃逗の放ったこの一言が冷静さを取り戻そうとする鬼を狂わせる。

 

(あのお方に頂いた私の能力を看破したとでも言うのかっ、人間風情が!)

 

 

「調子に乗るなよ人間!血鬼術、幻影鋼弾(げんえいこうだん)!」

 

 

 虚実の入り混じった無数の鋼鉄の弾丸が信乃逗(しのず)真菰(まこも)の2人に迫る。

 

 

(そうだ!人間如きに私の幻覚を見破れなんてしない!あいつらは迫りくる鉄の塊に気付いてもいない!)

 

 

(から)の呼吸 陸ノ型(ろくのかた) 虚構(きょこう)

 

 

 空気が揺れた。そう思った時には無数に見えた鋼鉄の弾丸が一瞬で掻き消えていた。

 

 

「……な、に、なんで?……何をした、の?」

 

 

 鬼の少女には目の前で起きたその現象を理解出来なかった。

 

 空間に黒い線が奔った、そう思った時には鬼の放った鉄の玉は、全てその漆黒に呑まれて消えていた。

 

 

(どうして?あの技はなに?そもそもなぜこいつは、私の攻撃が見えているの?)

 

 

 思い返せば、あの鬼狩りの男はずっと自分の攻撃を避けていた。

 

 鬼の内心が疑問で埋め尽くされ、理解できない現象に困惑ばかりを生んでいく。

 

 

(ありえない、そんなこと、あるわけが……)

 

 

 自身の血鬼術が全く通用しない相手。そんな相手にこれまで出会ったことはなかった。

 

 鬼の心に初めて生まれる人間への恐怖。己の全てを否定され、理解さえさせてくれない不条理な力に、鬼は恐怖し、身体を震わせる。

 

 

 だが、その恐怖は決してそこで終わりではない。

 

 

「そうだな、簡単に教えてやると……」

 

 その声に鬼の少女は更なる困惑に陥ることになる。

 

 

(え?)

 

 

 何故ならその男の声が、自身の真横から聞こえてくるから。

 

 

(そんな、目の前には2人とも揃って……)

 

 

 そこではたと鬼の少女は気がついた。いつの間にか目の前には女の鬼狩りしかいなくなっていることに。

 

 

「俺もさ、誰かを騙すのが得意なんだよ」

 

 

 鬼の視界が意図せず地面へと向かっていく。そして急に視界が真っ暗に染まった、その命が終わるまで、永遠に。

 

 

「どうだい、怖いか?クソ鬼。俺の技はちょっと特殊でな。人体には点穴って呼ばれる急所みたいなものがあるんだが、それを正確に突いてやると、人間の持つ視力や触覚なんて機能を停止させてやることができるわけよ」

 

 

 暗く、どこまでも続いているような闇の中で鬼の少女はどこから聞こえてくるかもわからない、その鬼狩りの男の声へと耳を貸す。

 

 

「鬼であっても、その人体の特徴は変わらなくてな、いま俺はお前の点穴をついてやって視覚と触覚を停止させた。これから聴覚も停止させるけど、その前にきちんと種明かしをしてやろうと思って、こうして話をしているわけだよ」

 

 

 

「お前は今から目を開いても何も見えない、どこまでも続くような暗い虚空(きょくう)で永遠のように感じる時間を過ごすんだ。最も点穴(てんけつ)をついて体感時間を伸ばしてるだけだから、お前がいつこの声を聞いてるのかもわからないけどね。どうかできるだけ長い時間、暗闇で苦しんで消えろ、お前が喰らった人達の為にね」

 

 

 その声を聞き終わったのは、一体どれほどの時間がたった時だろうか。鬼の少女はすでに何年もこの場所にいるような気がしていた。体感時間を伸ばすと言っていたから、現実ではそれほど時間は経ってないのかもしれない。

 

 

 

(もう嫌だ、暗い、真っ暗で何も見えない)

 

 

 長い長い間その暗闇に囚われている少女は、気が狂いそうになっていた。一体いつまで、この(とこしえ)に続くような闇の中に閉じ込められるのか。

 

 

(どうして、どうして私がこんな目に、私はただ遊んで欲しかっただけなのに。あの人に遊んで欲しかっただけなのに、1人は嫌だよ)

 

 

 永遠とも思える暗闇の時間の中で、鬼の少女の脳裏にもはや消えかけていた人間だったころの記憶が蘇る。

 

 

 

−−−−

 

 

 

 

 私の家はとても裕福だった。

 

 

 食事に困ったこともないし、遊ぶ時間もたっぷりあったし、欲しかったものはなんでも買ってもらえた。でも、お父さんもお母さんもどちらも仕事ばかりで全然私に構ってくれない。

 

 

 私はいつも1人だった。

 

 

 いつも1人で外にも出れず家の中にいた。

 

 

 だけどある日から、私はお部屋で父がお金で雇ったお世話係のお姉さんと遊べるようになった。

 

 

 

 その日から、私は1人じゃなくなった。

 

 

 

 お姉さんが贈ってくれるお人形でお姉さんと遊んでいた。自分が作ったお話やお姉さんが聞かせてくれる物語を、お姉さんがくれたお人形に演じさせるのだ。

 

 

 お父さんやお母さんとお話できなかったのは、寂しかったけど、私はお姉さんと遊ぶのがとても楽しくなっていた。毎日、毎日、お姉さんがくるのを楽しみに待っていた。

 

 

 これからもこの楽しい日々はずっと続くんだと、愚かにもそう信じていた。

 

 

 そんな私の愚かな願いは思いもかけない形で裏切られることになった。

 

 ある日、お姉さんは知らないおじさん達と一緒に部屋に入ってきて私とお出掛けしようと言ってきた。生まれてからあまり外に出たことのなかった私は、外の世界を見れることに浮き足立って二つ返事で了承してお姉さん達と外に出た。

 

 

 そして、二度と家には帰れなかった。

 

 

 私は誘拐されたのだ。

 

 

 

 家を出てからお姉さんは私と一言も喋ってくれない。私が話しかけても泣いても、家に帰りたいと言っても、お姉さんは私の目を見ない。いつものように目を合わせて優しく微笑んではくれない。

 

 

 結局お姉さんは1度もこちらを見なかった。

 

 

 泣き喚く私を、おじさんやお姉さんは知らない場所で知らない部屋にずっと閉じ込めた。

 

 

 そうして数日後、私の家からお金を受け取ったと言うおじさん達はもう用がないと私を殺そうと小刀を片手に持って近づいてくる。

 

 

 怖かった。ごめんなさい。やめてと、そう泣いて頭を抱えて縮こまる私を彼らは嘲笑った。

 

 

 その時だった、頭の上で怒鳴り声がして、バタバタと暴れ回るような音が小さな部屋に響き渡る。

 

 

 怒鳴っていたのはお姉さんだった。

 

 

 小刀を持ったおじさんの腕に飛びかかるようにして、必死にしがみつくお姉さんはまるで私を守ろうとするかのように「逃げてっ」と大きな声でそう叫んだ。

 

 

 でもやがて、別のおじさんに黒い筒のようなものを向けられて一際大きな音が響いたと思ったらお姉さんは静かに床に倒れた。

 

 床に倒れたお姉さんが口から紅い何かをこぼしながら、ここに来てから初めて私の目を見た。私と目が合った姉さんは紅くなったその口元をゆっくりと動かしたあと全く動かなくなった。

 

 

 その時だった、あのお方が来てくれたのは。

 

 

 黒い筒や小刀を持ったおじさん達は一瞬でいなくなった。真っ赤になったその部屋であのお方は涙を流す私にいかに人間という存在が脆弱で愚かであるか教えてくれた。

 

 

 鬼になってから長い間あの時お姉さんがなんと言ったのか、どうしてあの時私が涙を流したのか、ずっと思い出せなかった。

 

 

 でも、やっと思い出させた。

 

 あの時、お姉さんは私に謝っていたんだ。

 

 

『守れなくて……ごめん、ね……遊んで、あげれ、なくて……ごめん、ね……弟を……助け、たかったの』

 

 

 お姉さんは大事な人を守りたかったんだ。

 

 

 きっと、私も守ってくれてたんだ。

 

 思い返せば、お姉さんはずっと私の閉じ込められて部屋の扉の前にいて、あのおじさん達は最後の瞬間まで私に手を出してこなかった。

 

 

 お姉さんはずっと扉の前で私を守ってくれていたんだ。

 

 

 あぁ、私はずっと守って貰っていたんだ。

 

 

 酷いことを言ってごめんなさい、守ってくれてありがとう。

 

 

 だけど、たくさんたくさん殺した私が誰かに守ってもらう筋合いなんてきっとなかったんだ。あの鬼狩りの言う通り私は罰を受けないと、その為にこの孤独な暗闇の底で苦しみを受けないといけない。

 

 

 

 

 そう心の底から少女が思った時だった。

 

 

 真っ暗だったはずの暗い闇の底に何か輝くようなものが見えたのは。

 

 

 あれ?

 

 なんだろう、小さな光?

 

 暖かい、誰かが私の手を握ってる?

 

 

 暗い闇の底で、その小さな光の点はとても大きく見えて、とても暖かかった。

 

 

 光の向こうに何かが見える。

 

 それはいつの日か見た誰かの微笑み。

 

 あぁ、なんだ、私は独りじゃなかった。

 

 

 ずっとそばで守ってくれてんだ。

 

 

 

 ——— お姉さんっ

 

 

 

 

 少女に続いていた長い悪夢は、やっと終わった。

 

 

 

 




今回もご一読頂きましてありがとうございます。
御意見・御感想をお寄せ頂けましたら幸いです!

次回もぜひお立ち寄り頂ければ幸いです。

そして真菰ちゃんは神です。


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鬼狩りの想い

語彙力が想像に追いつかない(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)


 

 

 

 鬼の少女が温もりに包まれて長い眠りについた頃、真菰(まこも)信乃逗(しのず)は互いに非常に険悪になっていた。いや、正確に言えば信乃逗(しのず)が一方的に真菰に対して苛立っていただけだ。

 

 何故なら、真菰(まこも)がとったその行いは信乃逗(しのず)が黙って許容することができないものだったからだ。

 

 

「……ねぇ、何のつもり?真菰(まこも)?」

 

「別に……なんでもないよ」

 

「なんでもなくはないでしょ、何で鬼の手なんて握ってるわけ?……離しなよ」

 

 

 そう、真菰(まこも)はボロボロと崩れ落ちる少女の姿をした鬼に近づくとその手を優しく握りだしたのだ。まるで母親が娘の死を悼むかのように、大事そうに両手で崩れ逝く少女の手を彼女は掴む。

 

 

「…… 信乃逗(しのず)が鬼を憎んでて何か復讐をしたいのは理解した。でも、私はそうじゃない。この人からはいま凄く悲しい感じがする。だから手を握ってあげたいって……そう思っただけ」

 

「お前っ……鬼に同情するってのか?」

 

 

 それはまるで自分を理解したかのような言い様で信乃逗(しのず)の言葉に一層の苛立ちを込められる。

 

 

「別に同情してるわけじゃないよ。ただ、私はその行いに苦しんで後悔してる人にこれ以上、苦しみを与えたりなんてしたくない……それだけだよ」

 

「それは人じゃないっ!鬼だ!!それにっ、これまで散々人に苦しみを与えてきた奴が、いまその報いを受けてるだけだろうが!」

 

 

 自分の行いを咎めるような真菰(まこも)の言葉に信乃逗(しのず)の感じる苛立ちは止まらない。どころか加速度的に強くなっていく。

 

 そもそも何故この鬼が後悔しているかどうかなんてことが真菰(まこも)にわかるというのか。

 

 それに例えそうだったのだとしても今更どれだけ後悔をしようが関係などない。どれだけこの鬼が懺悔しようとも、彼女に奪われた命も幸せも何ひとつとして戻ってこないのだから。

 

 

 脳裏に浮かぶあの日の光景が信乃逗を囚えて離さないのだ。家族の笑顔が頭から消えない。一度喪ったあの光景は二度と戻っては来ないのだと、そう呟き続ける誰かが信乃逗は堪らなく憎い。

 

 

 憎しみと悲しみの感情に歯を食い縛る信乃逗(しのず)真菰(まこも)は悲しそうに見つめる。

 

 

信乃逗(しのず)……鬼は最初から鬼だったんじゃないよ、鬼は人だった。人が鬼になったんだよ。…… 信乃逗(しのず)のその想いを否定したいわけじゃない。だけど信乃逗(しのず)に想いがあるように、私にも私の想いがある」

 

 

 真菰(まこも)の言葉が信乃逗(しのず)のあの日の記憶を刺激する。

 

 

 信乃逗だって知っているのだ。そんなことは分かっている。鬼が人間だったことなど、今更言われるまでもない明白な事実だ。

 

 

 そんなことは自分一番よく分かっている。

 

 

(やめろ、そんな目で俺を見るな。なんなんだ、俺は間違ってなんていない筈だろっ)

 

 

 真菰は間違っている。鬼の死を哀れむような言動など、鬼殺の剣士には相応しくない。

 

 

 鬼は殺すべき存在で

 

 

 殺さなければなからない害悪で

 

 

 鬼になったのであればそれは殺さなければならないのだ。

 

 

 信乃逗は鬼殺の剣士として何一つとして間違ったことは言っていない筈だ。

 

 

 だが、本当に間違っていないのだというのならどうして今こんなにも信乃逗の胸はざわついているのだろうか?

 

 

「なんだよ……言ってみろよっ!さぞや大層な想いなんだろうな?」

 

 

 治らない苛立ちと、焦燥感にも似た得体のしれない感情が嘗て信乃逗が蓋をした筈の心に隙間を開けていく。

 

 

「それで気が済むなら言うけど……その前に 信乃逗(しのず)の言う報いってなに?苦しめられて、苦しませて、また苦しめられて、そしてまた苦しめる。……終わらないよ。信乃逗(しのず)はずっとそれを続けるの?」

 

 

 

 悲しそうな、少し寂しそうな表情で真菰(まこも)信乃逗(しのず)に言葉を紡ぐ。

 

 

 彼女の言葉を聞いた信乃逗(しのず)はあまりにも理不尽なその言葉に呆然と口を空けて佇んでしまう。

 

 

(なんだよ、それ?……じゃあ我慢しろってのか?)

 

 

 知らず知らずのうちに信乃逗(しのず)が握る拳に力がこもる。

 

 

 

(誰かがどこかで我慢しないといけないってのか?そんなのただの泣き寝入りじゃねーか!)

 

 

 

 どうしようもない怒りの感情に支配されそうになった時、ふと信乃逗(しのず)の脳裏にいつかの姉の言葉が蘇る。

 

 

『もう、信乃逗(しのず)はまた喧嘩して!何ですぐに手を出すの!』

 

 

 あれは確か、当時友人だった村の二つ上の男の子と殴り合いの喧嘩をしたときだっただろうか。

 

 

『だって!あいつから殴ってきたんだぞ!先に手を出してきたのはあいつだ!俺は悪くないだろう!』

 

 

 いつも相手の味方をする姉に俺はよく反発して怒っていた。

 

 

『もう、叩いたら叩き返して、叩き返えされたから叩き返して、あんた達いつまで殴り合うつもり!?』

 

 

『なんだよそれ!じゃあ我慢すればよかったってのかよ!』

 

 

 殴られても我慢していたらやられたい放題だ。

 それじゃあこっちが損するばかりだ。

 

 

『別に我慢しろなんて言ってないでしょ!一発殴られたんなら、一発殴り返してやればいいじゃない!』

 

『はぁー!?言ってることがめちゃくちゃだろうが!さっき俺が殴り返したのは怒ったくせに!』

 

 

 いま思い返しても、めちゃくちゃだ。

 

 

 しかし、いま真菰が信乃逗に言ってることとあの時姉に言われたことは酷く似ている。

 

 

 あの時、姉は自分になんと言っただろうか?

 

 

『さっき怒ったのはあんた達がいつまでもずっと殴り合ってるからでしょう!

もう!あんたが怒ったのにだって理由があるんでしょ?それと同じで向こうにだって向こうが怒った理由があるの。……向こうもあんたも、おんなじように心で感じるんだから、相手の事情や気持ちも少しは考えれるようになりなさいな』

 

 

 

(あぁ、そうだ……そう言われた)

 

 

 あの時、姉は信乃逗の胸に指を差して優しく微笑んでくれた。目の前に立つ自分よりも小さな少女にはあの時の姉と同じ物が見えていて、今の自分にはそれが見えていないと、そういうことなのだろうか。

 

 

(だけど……俺にはわからないよ、姉さん)

 

 

 そう思うと同時に、信乃逗の視界が大きく歪み霞んでくる。

 

 

(拙い……足から出血してるの忘れてた)

 

 

 徐々に力が抜けて、立つために必要な筋肉すら弛緩していく。それと同時に先ほどまであれほど冷静に信乃逗を追い詰めていた真菰(まこも)が慌てた様子で近づいてくるのが暗くなっていく視界に映り込む。

 

 

(なんだよ……なんでそんなに焦るんだよ)

 

 

 さっきまであんなに信乃逗はあんなに真菰に苛立ちを見せていたのにどうしてそんな相手にそんな顔をするのか。

 

 

 

 分からないことだらけだ。

 

 

 

 

(俺には、誰かに心配されるような資格なんてないのに……)

 

 

 

 その想いを最後に信乃逗の意識は途切れた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

——— 夢だ

 

 

 

 

——— これは夢だ

 

 

 

 父さんがいて、母さんがご飯をよそってる。そこに妹が笑いながら走っていく。それを姉さんが母の邪魔にならないようにと困ったように止めに行く。

 

 

 みんなが笑ってる。

 あぁ、駄目だ、寂しい。またみんなで笑いたい。馬鹿なことを言ってまた怒られたい。あの時の喧騒が——

 

 

 もう一度

 

 

 

 もう一度

 

 

 

 —— この耳に欲しい。

 

 

 

 

 深い悲しみと共に信乃逗(しのず)が目を開けるとそこには知らない天井が広がっていた。

 

 

 

(……あれ?天井が滲でる?)

 

 

 あぁ、違う、俺の眼に涙が溜まっているのか。

 

 

 

 

 懐かしい夢だった。

 

 最近はずっと見ていなかったのに。あの頃に当たり前に自分の中にあった幸せが、今の自分にはない。その事実が信乃逗に胸にぽっかりと穴が空いてしまったような、どうしようもない虚しさを味合わせる。

 

 

 

(……寂しい、か)

 

 

 

 こんな夢を見るのは多分、いや十中八九彼女のせいだろう。自身が意識を失う直前に言い争っていた少女の顔を思い出して、信乃逗(しのず)は僅かに胸が痛む。

 

 

 真菰(まこも)があんなことを言うから昔を思い出してしまったのだ。

 

 

(……そういえば、ここはどこだ?)

 

 

 意識を失う直前とは明らかに違う、見覚えのない景色に信乃逗はようやく然るべき反応を示した。

 

 

 周囲を見渡すように信乃逗がそっと視線を走らせていくと、妙に近くから誰かの寝息が聞こえてくる。

 

 

「スゥー、スゥー」

 

 

 よく見ると自分が横になっている寝台の縁で頭の端に仮面をつけた小柄な少女が眠りこけている。

 

 

 真菰(まこも)だ。

 

 

(いや……なにしてんねん、こいつ)

 

 

 普通、年頃の娘が怪我で寝ているとはいえ男の寝台の淵で眠るだろうか。

 

 

 答えはもちろん否である。

 

 

 ともすれば勘違いで襲われても仕方ない気がするのだが、なんという無防備だろうか。これで剣士だというのだから全く面白い冗談である。

 

 

(全く……これは信頼されていると捉えていいのか?)

 

 

 およそ彼女がここまで無防備になれる相手になれたのかと思えばいいのか、それとも単に彼女の本質が元からこうなのか、理解に苦しむところではあるがどうであれこの状況はあまり良くない。

 

 

 なにしろ信乃逗とて男の子だ。それなりに女性に興味だってある。

 

 

 しかもこの小柄な少女、普段はどこかポワポワとしていて危なっかしいことこの上ないが、はっきり言って美少女である。もう男が10人、いや100人いても100人全員振り返るだろうくらいには美少女だ。

 

 

 そっと信乃逗(しのず)の手が少女へと伸びてふわりと少女の頭に手が触れる。そのまま、さらりさらりと少女の綺麗な黒い髪を撫でる。気持ち良さそうに眠る少女の姿に信乃逗(しのず)も少し穏やかな気持ちになる。

 

 

 気がつくと信乃逗(しのず)が起きた時に感じていた筈のどうしようもない寂しさは消えていた。

 

 

「で、いつまでそこで見てるんですか?」

 

 

 人がせっかく気分良くしているというのに、いつの間にか扉の隙間から不躾な視線を向けてくる人影がいる。完全なる覗き見というやつに信乃逗(しのず)も僅かに不機嫌になりながら問いかける。

 

 

「あらあら、気づかれてたのねー。ごめんなさいね」

 

 

 そう申し訳なさそうに謝りながらその人影は扉を開けて入ってきた。

 

 

「いえ、途中までは全く気付きませんでしたから」

 

 

 入ってきた女性の姿を見て信乃逗(しのず)は少し驚く。

 

 

(こりゃまた、やたらと美人な人が出てきたもんだ)

 

 

 入ってきた女性は腰まで届きそうな長い髪を背中に回して大きな蝶のような髪飾りをつけていた。そして何より驚くのは彼女が身に付けた羽織りの下に鬼殺隊の隊服を着ていることだろう。

 

 

(なんか、鬼殺隊って地味に女性が多いな。しかも割とみんな美人って)

 

 

 真菰(まこも)といい、この人といい、鬼と命掛けで戦わないといけないことを除くと給金もよくて美人と一緒に仕事ができる割といい就職先なのではなかろうか。

 

 

「もういつ手を出すのかなって、お姉さん待ち遠しくてしょうがなかったのよ!」

 

「待つなよ!?止めろよ!?というか誰が手を出すか!?」

 

 

 初対面でなんということをいうのだろうか。いきなり始まった問題発言に信乃逗(しのず)も初対面であることを忘れて明らかに年上の女性へと条件反射で声を荒げてしまう。

 

 

 真菰の容姿は美がつくがかなり幼い見た目だ。こんな幼女、もとい少女に手を出したら間違いなくお縄になってしまうと言える。

 

 

「まあまあ、そう言わずに。この娘、ずっと貴方の側にいて看病してたのよ。

もう、とっても可愛かったんだから!」

 

 

 可憐な声色でそう語る女性に信乃逗はなんとも言えない面持ちとなる。

 

 

(なんだろうこの人……見た目は凄く綺麗で若々しい女性らしい姿なのに村の井戸場に集まる叔母さん臭が凄いな)

 

 

 小さな頃に村の家々の女性が集まってはやれ誰がどこでなんと言っていただの、誰がどこの家の女性にうつつを抜かしていただの、彼女達は本当に物凄い情報収集力でもって会話をしていたのだが、あの時の光景と、目の前の女性が奇妙なことに信乃逗には一致して見える。

 

 

「あらあら、何かとても失礼なことを考えてないかしら?」

 

「いいえ、気のせいです。お姉さん美人だなぁって思ってました」

 

 

 もちろん嘘ではない。

 思ったそのあとに何かあったのだとしても少なくとも嘘ではない。

 

 

(だから笑顔で背景に彼岸花咲かせないでくれませんかね?……怖いので、いや切実に)

 

 

 華々しく見える紅い色合を幻視して信乃逗は内心で冷や汗をかいていた。

 

 

「ああ、そういえばこちらはどこなのでしょうか?それとまだ、貴方のお名前をお伺いしていなかったですよね?」

 

 

 最初に行うべき一番重要な部分を全てすっ飛ばしてどうでも良い会話に突入していたことを思い出して、信乃逗(しのず)は正体不明の女性に問いかける。

 

 

「そういえばそうね。ごめんなさい、うっかりしていたわ。私は胡蝶(こちょう)カナエ。此処は(ちょう)屋敷、鬼殺隊の医療所ってところかしら。貴方達が負傷していたところを隠の人達がここに運んでくれたのよ」

 

 

 

 (ちょう)屋敷。

 

 

 その名前は信乃逗も聞いたことがある。確か現在の(はな)柱が滞在する屋敷じゃなかっただろうか。そんなところが鬼殺隊の医療所として使われているとは、意外だ。

 

 

(うん?胡蝶(こちょう)カナエ?あれ?確か今の花柱も胡蝶って言う人だったような?うん?て言うかいま……)

 

 

「今、貴方達って仰っていましたが真菰(まこも)もどこか怪我を?」

 

 

 そういえば彼女もあの鬼の攻撃をもろに受けていた筈だ。本人もあの時ちょっとあばらが折れただけ、とかおかしなことを言っていたがここで寝ていると言うことはそれほど重い怪我ではなかったのだろうか?

 

 

「まあ!心配?心配なのね!」

 

 

 信乃逗(しのず)の心配そうな表情にカナエはすかさず反応を返す。それはもう楽しそうに、飛び上がって目をキラキラとさせながら2人の関係が気になりますオーラを全開にして信乃逗(しのず)へと詰め寄る。

 

 

(なにこれ、凄い面倒臭いんですけど)

 

 

 村の噂を集めて回る近所のおばさん並みに厄介だ。

 

 

「貴方と同じくらい重傷だったのよ。この娘のあばら、4本も折れてたんだから」

 

 

(……はい?)

 

 

 信乃逗(しのず)の視界がゆっくりと寝台の縁の少女に向けられる。上半身を信乃逗(しのず)の寝ていた寝台へと預けて、すやすやと気持ち良さそうに眠る真菰(まこも)を確認した信乃逗が、今度は勢いよくカナエの方へと顔を向ける。

 

 

「そうそう、その娘のことよー」

 

 

 

 

 ——— ピキッ

 

 

 

 

 信乃逗(しのず)の額に青筋が浮かんでそう擬音が入るのをカナエは確かに聞いた気がした。

 

 

 

「いや、此処で寝るなよ!看病しとる場合か!?お前が休めよ!お前が看病されろよ!」

 

 

 カナエの言葉を信乃逗が理解した瞬間、彼は途端にけたたましい叫び声を荒げて騒ぎ立てる。肋骨が4本も折れるというのはかなりの重傷だ。そんな重傷患者が寝台から起き上った挙句、しかも寝台に頭を預けるように前のめりになって座っているなどどう考えても怪我に悪い。

 

 

「そもそもなんで重傷患者が重傷患者の看病してんの!?どこの野戦病院ですか、ここは!?」

 

 

 

(どんだけ人手不足なんだ鬼殺隊!いっそ普通に病院に行かせろよ!)

 

 

 起きて早々にもはや留まるところを知らないツッコミどころ満載のこの状況に、ゼェゼェと息を荒くしながら文字通り命を削って信乃逗は声高々に叫び倒す。

 

 

「あらあら、心配?し「はい、もうそこっ!黙っててくれます!?」……あらあら」

 

 

(これ以上俺に声を出させるんじゃねー!)

 

 

 バンッ!

 

 

「ちょっと煩いですよ!病室では静かにって!?姉さん!こんなところで何やってるの!?」

 

 

 少々騒ぎすぎたのか、どうやら信乃逗(しのず)のツッコミは廊下まで響いていたようだ。いくら対応の酷い場所とはいえここは仮にも鬼殺隊の診療所、他にも患者がいるのだろうから騒ぎ過ぎはよくない。

 

 

 慌てて謝罪しようと扉を勢いよく開けて入ってきた人に振り向くとそこにいたのはこれまた鬼殺隊の隊服を着た女性だった。

 

 

「あらあら、見つかっちゃったわね」

 

 

 入ってきた女性はこれまた随分な美人である。顔立ちがどことなく似ているし、付けている髪飾りも一緒、呼び方も姉さんというからにはおそらく姉妹なのだろうが。

 

 

(まあ、そんことよりもだ)

 

 

「テメェはいつまでここで寝てんだ、こら!」

 

 

 これだけ騒がしくしているのに全く起きる気配のない真菰(まこも)の様子に信乃逗は仕方ないと頭にチョップをくらわせて強制的に目を覚まさせる。

 

 

「いたっ!……信乃逗(しのず)、怪我人の頭を叩くのはよくないよ?」

 

 

 突如飛来した衝撃に気持ちよく寝ていた少女はゆっくりと目を開いて、不機嫌そうにのそりと上体を起こすと、自身を文字通り叩き起こした信乃逗へと不満たっぷりの表情で文句をいう。

 

 

「正論だけども!正論だけれども!そうじゃないでしょう!?なに怪我してるのに寝台から起き上がってんだ!お前が横になってろよ!」

 

「……信乃逗だって、いま起きてるよ?」

 

「オメェのせいだろうが!?」

 

 

 まるで自分の行動を省みない真菰(まこも)の発言に信乃逗は声を荒げるばかりで休まる暇が全くない。

 

 

 真菰と信乃逗が互いに不毛な言い合いを始めた一方で、もう片方の姉妹でもいつものような攻防が始まっていた。

 

 

「もう!姉さんはすぐに人にちょっかい出すんだから!此処の人は重傷なんだから、あんまり騒がせちゃダメって言ったでしょ!だいたい、柱の姉さんがうろうろしてると男連中が群がってきて鬱陶しいでしょう」

 

 

 この蝶屋敷の主人であり花柱であるカナエにこのように注意できるのは、この場所では妹である胡蝶(こちょう)しのぶくらいのものである。

 

 

 しのぶとしても、姉のことはもちろん大好きだし、鬼殺の隊士として(はしら)である姉のことを誇りに思ってはいるが、毎回のようにこうして騒ぎを起こす姉の行動だけは流石に困りものである。

 

 

「まあまあ、しのぶも落ち着いて。姉さんはしのぶの笑った顔が好きだなぁ」

 

「今はそんな話はしてないでしょうが!」

 

 

 何故か毎度話の噛み合わなくなる姉に向かってしのぶは額に青筋を浮かべて怒鳴り声を出す。笑顔を褒めてくれるのは嬉しいが完全に話を逸らそうとしているのが丸わかりだ。

 

 

「ごめんね、しのぶ。この部屋にいる子に少し話を聞いておきたかったの」

 

 

 本当に申し訳なさそうにいうその言葉で、ようやくしのぶはカナエがどうしてこの部屋にいるのかを理解した。確かこの部屋で休んでいるのは新人でありながら、あの十二鬼月(じゅうにきづき)を倒したと最近噂になっている青年だったはずだ。

 

 十二鬼月を倒すことは鬼殺隊では非常に誉高い行いだ。階級が上がることはもちろん、(はしら)と呼ばれる鬼殺隊最強の称号を会得する為の最低条件にもなっている。

 

 現柱の1人であるカナエが件の青年に話を聞くというのならそれは、いつもの気まぐれによる行動ではなく花柱としての仕事をするためであろう。

 

 そうであるなら此処で自分がカナエに怒鳴るのも不相応だろう。

 

 

「姉さん、そういうことは先に言ってよ。仕事だというなら私だって怒ったりなんてしないわよ。……だいたい会話ができるかどうかは私が診察してからの話よ」

 

 

 確かあの患者は足に風穴が数カ所は空いていた筈だ。そんな状態で鬼と斬り合っていたというのだから出血量もだいぶ多い。完治までは絶対に安静にしていることが必要なのだ。

 

 

「うーん、それなら心配いらなさそうよ。だってほら……」

 

 

 少し困ったような、面白いと言った風に微笑みながらカナエは患者を寝かせる寝台に向かって指先を向ける。

 

 

(……うん?)

 

 

 その動きにつられらようにしのぶも視界を姉の指が指し示す寝台へと向けると……

 

 

「とっても元気そうだもの」

 

 

(なぁ!?)

 

 

 なんとそこには、寝台の上に立って地団駄を踏みながら元気よく喧嘩をしている絶対安静の筈の患者の姿がある。それも2人もだ。その光景を見てしのぶは驚愕に目を見開いて固まり、ついで湧き上がってくるとある感情に我を忘れた。

 

 

 ——— カッチーン

 

 

 そう、しのぶの中にその音が響いたのを姉である胡蝶カナエは確かに聞いた。

 

 

「そこの君!何してるんですか!?

 貴方は絶対安静なんですよ!なんで立ち上がってるんですか!?死にたいんですか!?それと真菰(まこも)さんもあばらがまだ治ってないんだから横になっててって言ったでしょう!どうして言うことを聞かないんですか!?」

 

 

「あらあら、大変ねぇー」

 

 

 

 しのぶの怒号が響き渡る蝶屋敷は今日もとても平和だ。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想頂けますと幸いで御座います。

真菰ちゃんは神なんだよ。


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蝶屋敷の休息

 

 

 避けなければ、この場から逃げ切らなければ!

 

 信乃逗(しのず)はただその一心で身をよじる。

 

 だが信乃逗(しのず)は今、身動きがとれない。どれだけ動かそうとも右腕も左腕もそして両足もまるで動くことはない。今の信乃逗はかつてないほど危機的な状態と言っても良い。

 

 

(来る!来てしまう!)

 

 

 眼前に迫りくるその塊りが今、無情にも信乃逗(しのず)の口の前に差し出された。

 

 

「はい、あーん」

 

「ギャー!」

 

 

 そう、今現在信乃逗(しのず)真菰(まこも)に食べ物を食べさせてもらっているのだ。それも「あーん」などという言葉をセットにしてだ。

 

 美少女に看病してもらって、その上食事まで取らせてもらえるなど、世が世なら俗世の男共が許してはおかないだろう。

 

 

 

 ——— いや、世が世でなくともその行いはきっと許せない

 

 

 現に扉の隙間から真菰(まこも)の噂を聞きつけた他の隊士や隠しの男共がギラギラと目を光らせている。

 

 

(いやもう、なんの拷問ですかこれ?)

 

 

 信乃逗(しのず)がそう思うのも無理はない。

 

 ことの発端は数日前、信乃逗(しのず)が鬼との負傷から目を覚ましたその日だ。信乃逗と同じく重症でありながら、寝台から起き上っていた真菰(まこも)に信乃逗は自分の体を大事にしろと、怒って寝台に戻そうとしたのだが、この娘は非常に聞き分けがなかった。

 

 いつまでも戻らない真菰(まこも)に信乃逗が地団駄を踏みながら説得を続けた結果、信乃逗の足の傷が開いたのだ。そしてそれを見たこの屋敷の裏の主人、胡蝶(こちょう)しのぶによってもう完治まで動けないよう徹底的に縛り上げられたのだ。

 

 あの時の、額に青筋を浮かべたしのぶの微笑みといったらまぁ怖い。しかしそのおかげで、真菰(まこも)もしのぶによってずるずると寝台にひきづられていく事になったので、信乃逗の説得(笑)も無駄ではなかったのだろう。

 

 

 しかし一体どういう訳なのか、信乃逗はテコでも動けないというほどにしっかりと寝台に縛られているというのに、真菰(まこも)は寝台に固定されていない。それどころかこうして食事の時間になると、ウキウキした様子で食事を食べさせにくるほど自由である。

 

 

 ただでさえ、動けないように両手足を縛られて拘束までされているのにその上、衆人観衆の中でご飯を食べさせてもらっているのだ。信乃逗の心境は押して余りあるものがある。

 

 

(恥ずかしい!とにかく恥ずかしい!)

 

 

 信乃逗だって年頃の男の子だ。真菰(まこも)のような美少女に「あーん」をしてもらえるなど勿論嬉しいし、それこそ村に住んでいた時ならこんな状況、考えることすらおこがましい程に夢の又夢の話であった。

 

 だがそれはこんなに殺気だった気配を漂わせる馬鹿共さえいなければの話である。

 

 

(っていうか仕事しろよ!なんでここの屋敷はこんなに暇人が多いの!?真菰(まこも)に見舞い品買って来るなら、鬼を狩ってこいよ!ていうかなんで俺にはないんだよ!?ふざけんなよ!俺、十ヵ月でようやく怪我で療養って感じなんですけど!?)

 

 

 鬼殺隊に入ってからというもの鬼を狩っては移動を狩っては移動という生活を続けていた信乃逗(しのず)にはこんなにたくさん他の隊士がいるところを目撃する場面など今までなかった。

 

 

 こんな怪我を負うまで、自分はろくに休みも取れなかったのに、いざ他の隊士を見てみると他人の病室を覗きみるほどに暇な様子ではないか。

 

 

 

 そして信乃逗(しのず)が何よりも嫌なのが……

 

 

 

「きゃー、もう真菰(まこも)ちゃんは可愛いわねー」

 

 

 

 これである。

 

 現、花柱の胡蝶(こちょう)カナエ様が真菰(まこも)に会いに来るのだ。ただ会いに来るだけなら信乃逗(しのず)だって好きにすればいいと思う。

 

 

 だが、毎回食事の時間を狙ったかのように現れ、こうして信乃逗(しのず)真菰(まこも)に食べさせられる姿を一通り鑑賞してから仕事に戻っていくのだ。

 

 

(もうなんなの?暇なの?柱って暇なの?それとも蝶屋敷が暇なの?)

 

 

 そうかと思えば、彼女の妹である胡蝶しのぶは随分と忙しそうな様子である。花柱のカナエの話ではこの蝶屋敷が鬼殺隊の診療所のような場所として活用できているのは彼女がいるからこそだそうだ。鬼殺の剣士でありながら若くして薬学や医学にも精通しているという彼女は非常に優秀でその頭脳は鬼殺隊どころか国という枠組みの中ですら類を見ない程だそうだ。

 

 

 信乃逗(しのず)が出血多量で死んでいないのも、足にいくつも穴が空いたのに再び歩けるようになるのも全て彼女のお陰だそうだ。もう信乃逗は彼女には頭が上がりそうにない。

 

 

(まあ、俺を寝台に縛り上げたのも彼女なので恨みもあるが……)

 

 

 療養しているはずなのに全く休めている気がしないこの状況に信乃逗(しのず)は若干疲れていた。

 

 

「あら?貴方達、またこんな処で覗き見ですか?随分と暇なんですね?そんなに暇なら私が今から言う物を買ってきてください」

 

「え、いえその、我々にも指令が、その……」

 

 そう信乃逗(しのず)が思っていると廊下に都合よく件の命の恩人が通りがかったようだ。覗き見をしていた隊士たちの随分と焦った声と彼女の若干怒りを宿した声が聞こえてくる。

 

「まぁ、まさかとは思いますが、指令も出ているのに怪我人のいるお部屋を呑気に盗み見ていたわけではないですよね?仮にもこの部屋にいるのは貴方達よりも階級の上の者だと言うのに。」

 

 廊下を見なくてもしのぶが御怒りになっている様子がひしひしと伝わって来る。おおよそ額に青筋でも浮かべて、微笑みを浮かべながら背景にゴゴゴという異音を出しているに違いない。

 

「くっくっく、人を呪わば穴二つだ、ざまぁみろ」

 

「…… 信乃逗(しのず)、それは自分にも帰ってくる言葉かもよ」

 

 

 しのぶの御怒りに触れた暇人共を嘲笑っていると真菰(まこも)が静かにそう忠告してくる。

 

 

(……うん?あ、)

 

 

 一瞬、真菰(まこも)の言う言葉の意味が分からず信乃逗は首を傾げるがすぐにはっとした表情になる。

 

 

 そうだ。いま信乃逗は真菰に食事を取らせてもらった。つまり、ご飯を食べたのだ。そして療養などという文字通り体が弱っているときには必ずと言っていいほど食後にはとあるものが出されるではないか。

 

 

 そう、薬という名の毒だ。

 

 

「……誰の薬が毒ですか?これは歴とした治療ですよ」

 

「ギャー!?毒殺される!」

 

 いつの間にか部屋に入ってきていたしのぶが額に青筋を浮かべながら信乃逗(しのず)に向かって微笑みを受かべながら問えば、それに気付かなかった信乃逗は悲鳴を上げて身を捩る。

 

「……そんなに毒が飲みたいなら今度から一緒に研究しましょうか。ちょうど人間の被験体が欲しかったところです」

 

 

(おんぎゃー!?)

 

 

 今、微笑みながら凄いこと言ったよこの人。そこらの鬼よりよっぽど鬼なこと言ったよこの人。

 

 

(くっ、この手は使いたくなかったがこうなれば止む終えまい!)

 

 

「か、カナエ様、妹さんがご乱心です!人間を実験に使おうとしてますよ!」

 

 

 この場で信乃逗(しのず)がしのぶの魔の手から逃れようとすがった人物は、信乃逗にとって奥の手中の奥の手、この屋敷の主人でもある現花柱の胡蝶カナエ、その人である。柱とは鬼殺隊最強の称号でもあり、隊士達の憧れでもあり、尊敬の対象、その効果は鬼殺隊隊士には絶大なのだ。そしてなおかつ彼女はしのぶさんの姉、姉の言うことに妹は逆らえまい。

 

 

「えー、うーん。しのぶも笑顔がとっても可愛いわー」

 

 

(使えね!?使えねーよ花柱!そもそも今そんな話はしてねーよ!確かにすっごく美人だけども!止めろよ妹を!今あなたの妹さん人を実験に使う気でしたからね!?)

 

 

 想像以上に使用出来ない花柱の可愛い物好きに信乃逗(しのず)は心中で叫ぶが、全く効果がなかったわけではない。

 

 

「姉さん!?なんでまたここにいるの!?指令はどうしたの!?」

 

「あらあら、大丈夫よ、しのぶ。……もう終わらせてきたから」

 

 

 そう、しのぶにとってもこの部屋に姉がいることは予想外だったのだ。何故またここにいるのかとしのぶもついカナエに意識を移す。

 

 

(しめた!僅かでもしのぶさんの気を逸らす効果はあった!)

 

 

「それならそうと先に一報を頂戴よ!カナヲだって姉さんが帰ってくるのを待ってたんだから!」

 

 

 

 ———ガタっ

 

 

 

 そう音がした時には既にその場に花柱の姿はなかった。

 

 

(いや!はや!?いろいろな意味で早いわ!)

 

 

 一瞬で移動するその速度もさることながら、しのぶに除去される速度も尋常ではなく早かった。

 

 

 やはり家族、互いのことはよくわかっている。ひょっとでの怪我人が扱いきれるものではなかったか……

 

「くっ、胡蝶姉妹恐るべし」

 

「…… 信乃逗(しのず)ってやっぱり変わってると思うよ」

 

 

 終始静かに見ていた真菰(まこも)は、若干呆れたような表情でにそう口にする。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい、じゃあ薬のお時間ですよ、ほら口を開けて下さい」

 

 

(きたー!?きちゃったよ!またこの時間だよ!?どんだけみんな人の口にもの入れるの好きなんだよ!)

 

 

 両腕すら動かすことの出来ない信乃逗は食事もそうだが当然薬も飲ませてもらっているような状況だ。真菰(まこも)の次はなんとしのぶに薬を飲ませてもらえる。美少女と美人2人にそのように扱ってもらえるなどそれはどんな天国だろうか、とこんな状況でもなければ信乃逗だってそう思っていただろう。

 

 

 だが、ただの食事ならともかく、それだけは、それだけは絶対に口に入れてなるものか!

 

 

「……なんで口がへの字になる程力を入れて閉じてるんですか?……私、口を開けて下さいって言ったんですけど?」

 

 

 強い意思で持って信乃逗(しのず)は口を必死に閉じ、顔を青くして、首を必死に横に振る。

 

 しのぶは凄い。彼女の診察は的確で信乃逗の身体も着実に良くなっていっている。しのぶの作る薬の効果は無茶苦茶すごいというのは日々飲んでいる信乃逗とて当然理解している。

 

 

 だが、その効果以上にまずい、不味すぎる、1ヵ月間干した腐ったサンマですらそんな味はしない。食後すぐに食べるともはや拷問だ。彼女の薬の前ではどれだけ口が堅いものでも簡単に吐いてしまうだろう。

 

 

「…… 信乃逗(しのず)、飲まないと体がよくならないよ」

 

 

 そしてこの薬の最も恐ろしいところ、それは無臭であることだ。

 

 

 真菰は信乃逗(しのず)に向けて駄々をこねる子供を見るような困った顔で言うがそんな心が和むような我が儘では決してない。

 

 

 そう、真菰の様子からも分かる通り、この薬の不味さは匂いでは判別できないのだ。

 

 

 多くの場合、吐くほど不味いものは割と強烈な匂いを発しているものだが、この薬からはそれが一切しない。故にこの薬の不味さは他人には分からない、飲んだものにしかわからないのだ。

 

 

 最初、信乃逗(しのず)もその無臭っぷりに騙されて一気にそれを飲んだ、なんの心構えもなしに。そしてしんだ、一日中、吐き気に襲われた、不味さ故に。

 

 

 以来、この薬を飲むのは信乃逗(しのず)にとってトラウマレベルの恐怖なのだ。だが、薬を飲んでいない真菰は当然それを理解していない。

 

 

「薬が苦いのはしょうがないよ、信乃逗(しのず)も子供だなぁ」

 

 

 なーんて呑気なことをいってくるほどだ。

 

 

(馬鹿が!この薬はそんじゃそこらのやつとは違うんだよ!いろいろな意味でな!真菰もいつかこの恐ろしさを味わうがいい!)

 

 

 何がなんでも口を開けようとしない信乃逗(しのず)の様子にしのぶの機嫌はどんどん下がっていく。

 

 

「そうですか、そんなに口を開けたくないなら仕方ないですね。…頬を切り割いて穴を別に開けてから薬を飲ませてあげましょう」

 

 

 額の青筋を一層濃くしたしのぶは妖美に微笑みながら手際よく片手にメスを取り出して信乃逗に近づいていく。

 

 

「怖いわ!?傷直す為に傷つくるの!?がはっ!?」

 

 

 非常に恐ろしいことを笑顔で言いながら近づいてくるしのぶに信乃逗(しのず)は思わず口を開けてツッコミを入れるがそんな隙を他ならぬ胡蝶しのぶが見過ごすはずもなく、信乃逗の開けた口に瞬時に薬を突っ込み飲み込まさせる。

 

 

「し、しまった、ごはっ!?」

 

「ふう、全く、私も忙しいんですから、あんまり手間をかけさせないでください」

 

 

 見事な手際で信乃逗(しのず)に薬を飲ませたしのぶは一仕事終えたというように手をパッパと打ち合わせながらそう呟く。薬を飲まされた信乃逗は口に広がる激不味っぷりに涙目で身を捩って苦しむ。

 

 

「全く薬を飲むくらいで大袈裟ですねぇ、君も今や鬼殺隊の上位者、階級がヒノトに上がったのですから、少しは上位者らしく振る舞って下さい」

 

 

 そう、この様子を見ただけでは全く信じられないが信乃逗(しのず)もそして真菰も下弦とはいえ十二鬼月をたった2人で倒したものとしてその階級は信じられないほど異例の高速昇進を遂げている。

 

 

 だが、目の前の2人がそれに喜ぶことはない。それどころか片方はその話をする度に顔を俯きけて明らかに落ち込んだ様子になる。

 

 

(……どっちも普通じゃないわね)

 

 

 こういう話は大抵の隊士が喜ぶものだが、片方は喜ぶように見せてはいるが興味なさげでもう片方は明らかに嫌がっている、まるで分不相応だとでもいうかのように。

 

 

 あまりの薬の不味さに意識を飛ばした信乃逗(しのず)と顔を俯けて落ち込んだ様子の少女、真菰を残してしのぶは早々に部屋を去っていった。

 

 




御一読ありがとうございます。
御意見・御感想いただけましたら幸いです!
今後とも宜しくお願いします!

真菰様は神です。


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月夜の悩み

なんか長くなっちゃっいました(>人<;)
テンポよく進めたい今日この頃です。


 

 

 深夜、随分と夜が更けてきた頃、一際小柄な人影が1人蝶屋敷の屋根の上へと登っていく。数週間前に鬼との戦いによる負傷によってこの屋敷へと運ばれた少女、真菰(まこも)だ。

 

 

(月が綺麗だなぁ)

 

 

 屋根上に登った彼女は独り、もの想いに耽りながら頭上で綺麗な輝きを見せるその月光に見惚れていた。

 

 

 夜は好きだ。こうして月が見れるし、何よりも静かだ。鬼の活動時間でさえなければ、こんなにもいい時間はないだろう。

 

 

 

——— 鬼

 

 

 人を喰らい、人を嘲り、人を不幸にする化け物。だから斬らなければいけない。真菰を育ててくれた鱗滝(うろこだき)も真菰にそう教えてくれたし、彼らが何の罪もない人々を喰らい、不幸を作り続ける以上それは勿論そうするべきだと真菰自身思っている。

 

 今まで一体どれだけの人々が鬼という存在に苦しめられてきたのか。きっと真菰に想像できるよりも遥かに膨大な数の人が鬼という暗闇に苦しめられてきたのだろう。

 

 

 そしてまた、彼もきっとそうなのだろう。

 

 真菰の脳裏に過ぎるのは1人の少年の姿だ。

 普段は陽気に笑い、人を元気にさせるように振る舞う彼が、鬼を前にすると時々人が変わったようになる。残酷に残虐に、そう、あれはまるで鬼が人を見て嗤うように、ぞくりとした怖気を感じるような微笑みを彼は浮かべる時がある。

 

 

 鬼を憎んで、鬼を恨んでいる。

 

 

 そう考えるのが普通なのだが、だけど本当にそれだけだろうか?

 

 

 真菰(まこも)には信乃逗(しのず)がただ鬼に対しての怨みだけで、鬼狩りをしているようには見えない。鬼は斬らないといけない、剣士達はいつもそう思って鬼の首をはねる。

 

 

 人の行いにはそれがどんな行いであろうとも、そこには必ず付随する想いがあると真菰は考えている。

 

 

 家族を想い、働く父、家事をする母。

 

 国を想い、考え続ける治世者。

 

 鬼を憎み、人を想う鬼殺の剣士。

 

 

 そこにある想いは様々でいい想いもあれば悪い想いだってある。鬼狩りを行う多くの人達には、悲しみや絶望や使命感、そして怨み、この想いがある。

 

 この蝶屋敷にいる人たちも同じ。少し変わっているとすれば花柱(はなばしら)のカナエだろうか。彼女の中にあるのはただの怨みや怒りではない。言ってしまえば哀れみ、鬼という存在を憐れむ自身の抱く想いに近いものを感じている。

 

 

 ところが、信乃逗(しのず)からは鬼狩りという行いから想いを強く感じない。一見、壮絶な怨みや怒りを顕にしているように見えるのにその実、彼の想いは酷く薄い。怨みの想いが存在していないわけではない。だけど彼が鬼の首を跳ねた時、そこにあった想いはその表情はとても空虚なものだった。

 

 

(あれは鬼に対して怨みを抱いているというよりは……)

 

 

「何をしているんですか?こんなところで?」

 

 

 そう自身の考えに耽っている時、隣から突如掛けられた声に真菰(まこも)は思考を現実へと戻す。屋根に登っている筈なのに非常に近くからしたその声の主を見やれば、既に自分の間隣へとしのぶが座っていた。

 

 

「下から何度も声をかけたんですよ?真菰(まこも)さんったら全然気付かないんだから仕方なく登ってきちゃいました」

 

 

 困ったようにそう微笑むしのぶに真菰(まこも)は申し訳ないような恥ずかしいような気持ちでいっぱいになった。

 

「すいません。その、考え事をしていて、全然気付きませんでした」

 

「別に怒ってるわけじゃないんですよ?

まだあばらが完治してない筈の人が、こんな時間にこんな場所に居たからって私は怒ったりなんて全然していませんから」

 

 

(怒ってる、すっごく怒ってる)

 

 

 笑顔で真菰(まこも)に微笑み掛けながらそう言うしのぶは確かに一見怒ってなんていないように見えるが本当に怒っていない人は額に青筋を浮かべたりはしないものだ。

 

 

「くすっ、冗談ですよ。ただ、何か思い悩んでいるようでしたので少し気になっただけです」

 

 

 やや慌てたようにあたふたとする真菰(まこも)に、しのぶは我慢出来なかったかのように笑い出してその真意を明かす。しのぶの言葉に真菰は少し驚く。あまり顔には出さないようにしていたと思っていたのだが、目の前の彼女にはすっかりバレてしまっているようだ。

 

 

「上がった階級に不満でもあるんですか?」

 

 

 しのぶは簡潔に真菰へとそう問い掛ける。今悩んでいたことではないが、しのぶが問い掛けてきたのは間違いなく最近の真菰の悩みの一つだ。

 

 

「……いえ、その、私には不相応な気がして」

 

「そんなことはないと思いますけど、あの十二鬼月をたった2人で倒したのですから」

 

 

 しのぶのその言葉に真菰の顔に再び影が差す。

 

 

「……私はほとんど何もしていません。信乃逗(しのず)が居なかったら、私はきっと一撃も与えられずに死んでいました。何もしていないのに階級だけお溢れをもらうみたいに上がっただけです。私には、階級に伴った実力がない」

 

 

 あの十二鬼月の少女の能力を自分は何一つとして看破していない。信乃逗(しのず)があの鬼の注意を引きつけてくれなければ、自分はあの鬼に近づくことすら出来なかっただろう。

 

 あの選別試験で信乃逗(しのず)に命を助けて貰ってからこれまで、必死になって鍛えてきた、あの時及ばなかった力を少しでもましなものにしようと努力し鍛錬を続けてきた。

 

 

 なのに、今回、またしても自身の無力を痛感させられた。

 

 

 届かない、必死になってあの時の彼の背中を追い続けても、ふと顔を上げてみれば彼との距離は少しも縮まっていなかった。それどころか、一層遠くになっているようにすら感じる。

 

 

 どんどんと強くなって先に進んでいく彼に自分は助けてもらってばかりで何も返してあげられない。信乃逗(しのず)との距離があまりにも遠くなっていてその実力差に真菰(まこも)の心は折れそうになっていた。

 

 

「…… 真菰(まこも)さんは雨笠(あまがさ)君に憧れてるんですね」

 

 

「憧れ……そう、かも知れません。信乃逗(しのず)は私を助けてくれるだけの強さがあるのに、私には信乃逗(しのず)を助けてあげられるだけの強さがない。彼の持つ強さが羨ましいんだと思います。」

 

 

 信乃逗(しのず)は強い、ように見える。

 

 少なくとも鬼との戦いにおいて、真菰など足元にも及ばないであろうことはあの十二鬼月の少女との戦いでよく分かった。

 

 信乃逗(しのず)が凄いのはその速度でも太刀筋でもない。戦い方そのものが上手い、というより異質だ。

 

 あの鬼がどれだけ注意して見ようとも、いや、注意すればするほど信乃逗の一挙一動、全てがあの鬼を惑わせた。対して真菰では、どれだけ速度であの鬼を上回ろうとも、あの鬼の間合いに単独で入ることは出来なかった。

 

 

 自身の無力を痛感して落ち込む真菰(まこも)の姿をしのぶは優しく微笑んで見詰める。

 

 

「…… 真菰(まこも)さんは私と似ていますねぇ。私も姉に憧れています。

柱である姉が、いつも笑顔で笑っている優しい姉が私は大好きです。まだ私が小さかった頃、私の家族は鬼に襲われました。姉と私は鬼殺隊の方に救われましたが、母と父は鬼に殺されてしまった。……私達家族の幸せはその時に壊れたんです。……でも、その時に姉と約束したんですよ」

 

 ——— 強くなってまだ壊されていない幸福を守ろう

 

 鬼を倒そう、一体でも多く、2人で、私達と同じ思いを他の人にはさせない

 

 

「その為に私達は鬼殺隊に入りました。

……ですが、なかなかままならないもので、知っていますか?真菰(まこも)さん。私、鬼の首を斬れないんですよ。毒を使わなければ自身の力だけでは鬼を殺せない。姉はどんどんと強くなって、今では鬼殺隊最強と言われる柱の1人にまでなったのに。……焦りました。姉はあの時の約束を果たして進んで行くのに、私だけまるで姉に置いていかれたみたいで」

 

 

 月を淋しそうな表情で見つめながら、しのぶは自身の経験してきた想いを語る。月光を浴びて眩しそうに月を見詰めるしのぶから、真菰(まこも)は目を離すことができなかった。彼女の今の姿しか知らない真菰には、とてもしのぶが自分と同じような焦りを感じているようには見えなかったのだ。

 

 

「どうやって、その気持ちを乗り越えたんですか?」

 

「……乗り越えたわけではないんですよ。今でも、力の及ばない自分に悔しさを感じることなんて、幾らでもあります。もし、今の真菰さんと違うところがあるとすれば、それは相手との距離ですかね」

 

 

(……距離?)

 

 

 どういうことなのだろうか?信乃逗(しのず)と自分はそんなに距離があるように見えるのだろうか?よくわからないと言った風に首を傾げる真菰の様子にしのぶは思わず苦笑する。

 

 

「実際に体験した方が早いかも知れませんね。ちょうどいい時間なので少し付き合ってもらえますか、真菰さん?」

 

 

 そう言って見惚れるくらい綺麗な微笑みを浮かべながら立ち上がると、しのぶは真菰を伴って蝶屋敷の広い御庭の一角へと向かった。そして建物の角で、急に立ち止まるとそっと壁から顔だけを覗かせて庭の奥を覗き見る。

 

 

「……全く、相変わらずですね。真菰さん、そっとあちらを覗いてみてください」

 

 しのぶは少し困ったように微笑みながら、真菰にそっと壁の角から御庭の奥を指し示して、覗きみるように言ってくる。真菰(まこも)は少し首を傾げながらもしのぶの言うことに従ってそっと壁側から庭の奥を覗き込む。

 

 蝶屋敷の御庭は信じられないくらい広い、夜も大分更けてきたこの時間遠くの暗闇を見るのには目が慣れるまで少し時間がかかる。庭の奥はちょっとした林のようになっていて幾本かの木が生えていた。その木の間を何か黒い影のようなものが動いている。

 

 少しずつ闇夜に目が慣れてきた頃、その場所にちょうど雲の切間から月光が差し込んだ。月光に照らし出され、顕になったその影の正体に、真菰(まこも)は唖然とした。

 

 

「な、なんであんなところに……」

 

 影の正体は信乃逗(しのず)だった。庭に生えた木と木の間をゆっくりと縫うように僅かに足を引きづる様子を見せながら体を動かしている。

 

 寝台で動けないように拘束までされているはずの彼が、どうしてこんなところにいるのか。なぜ、そんなことをしているのか、真菰(まこも)は半ば困惑気味にしのぶの顔を見る。

 

 

雨笠(あまがさ)君は、夜な夜な自力で拘束を解いて寝台を抜け出しては、ああやって鍛錬をしているようです。日が昇る前には寝台に戻って、また自分で拘束し直す徹底ぶりですから……本人はばれてないと思っているようですが、本当に困った人です」

 

 

 呆れたような表情でしのぶはそう言うが、彼女が信乃逗(しのず)を止めにいくような様子はない。真菰(まこも)が今まで見てきた普段の彼女ならば怒りを顕に寝台に引きずり戻しに行きそうなものだがどうして止めに行かないのだろうか。

 

 そんな疑問を抱いていることが顔に出ていたのか問いもしていないのにしのぶは真菰の気になっていた疑問に答えていく

 

 

「まあ最近の傷の具合をみるに、あれくらいならば確かに問題はないと思いますから止めはしません。多少は体を動かした方がいいのも事実ですし、彼がじっとしていられない気持ちもわからないでもありませんから」

 

 

 そう言ってしのぶは優しそうな、少し悲しげな表情で信乃逗(しのず)を見つめる。しのぶの脳裏に思い起こされるのは、以前、彼が放ったある一言。

 

 

真菰(まこも)がいなければ、俺は鬼の能力を理解することもできなかった……自身の無力を痛感しました』

 

 

 大きな成果をあげたと言うのに互いに自身の力量不足を嘆いているなど随分と似た者同士だ。それにお互い、かなりの不器用ときたものだ。

 

 

 信乃逗(しのず)の言葉が脳裏に浮かぶと同時にしのぶは思い出すのだ、あの夜、姉と共に十二鬼月を倒した経緯を信乃逗に聞いたときの彼の表情を。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
今回は文字量が多めになっていましたので人によっては読みにくい内容になっていたかもしれません。
そう言った方には大変申し訳ありません!次回も割と文字量多めになります。

御意見・御感想等頂けましたら幸いでございます!
なるべく読み易くまとめていけたらと思いますので次回もよろしくお願い致します!


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空虚な理由

うん(´・∀・`)
話のテンポが難しいです。


 

 

 

 

 ——— 数週間前

 

 

鎹烏(かすがいからす)から粗方のお話は聞いていますが、もう一度貴方からも直接報告を頂きたいのです。怪我を負っているところ申し訳ないのですが、少しお時間を頂きたいのです」

 

 とても下の者に対して行うような態度ではない丁寧な口調で、柱である姉は十二鬼月を倒したという少年、雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)へと言葉をかける。

 

 この言葉に最初面をくらったのは当然信乃逗(しのず)だ。

 

 柱というのは鬼殺隊の中でも相当に上位、というよりも実質的な現場のトップのような者達だと聞いていたからだ。そんな立場の人が、功績を上げたとはいえ自分のような新人に対してお願いするかのような対応をすることは流石に予想外だった。

 

(命令すれば良いのに……変わった人だな)

 

「いえ、その、むしろ申し訳ありません。柱であるカナエ様に足を運んで頂いた上にあのような醜態を見せてしまいまして」

 

 信乃逗(しのず)の脳裏に先日の騒ぎが思い起こされる。思い返せば、鬼殺隊最強の1人である花柱に対して知らなかったとはいえ随分と失礼なことを言っていた。

 

 まあ、勿論それもほとんどが目前の人のせいではあるが。

 

「気にすることではありません。怪我をしている貴方に無理をさせる訳にもいきませんし。…それにとっても面白かったから!」

 

 思い出すだけで楽しいと言った様子で頬に片手を当てて周囲の空気を桃色に染め上げながら、カナエは楽しげに話す。

 

(…あぁ、まあもうこの人はこんな感じでいいんだろう)

 

 全く自身のペースを崩さない花柱の姿に半ば悟りを開いたかのような表情で信乃逗(しのず)は見つめる。視界の端でも妹の胡蝶しのぶが頭が痛いと言った風な感じで眉間を抑えている。

 

「…姉さん、そろそろ話を戻して。

雨笠(あまがさ)君もまだ目が覚めたばかりなんだからあんまり無理して起きていてはいけませんよ?」

 

 いつまでも桃色の空間から帰ってこない姉の様子にカナエの後ろで控えるように立っていたしのぶが呆れた様子で会話の再開を促していく。

 

(いや、まあ起きるっていうか、寝台に固定されてて全く起きれてはいないんだけれども)

 

 そう、信乃逗は決して起き上がっている訳ではない、寝台で横になっているのだ、強制的に。これも先日の騒ぎのせいだが、真菰(まこも)に対して全力で説得を続けていた信乃逗(しのず)は折角塞がり欠けていた足の傷が開いて出血してしまったのだ。

 

 その瞬間を見ていたしのぶの適切な処置によってことなき終えたが、結果として完治するまで二度と動けないように、拘束具のような物で寝台に固定されてしまったという訳である。

 

 その時のしのぶの静かな怒り心頭と言った様子を思い出して信乃逗(しのず)は思わず身震いする。可愛らしい、綺麗な容姿ではあるがこの人も鬼殺隊の他の女性の例に漏れず普通とは言いがたい。

 

「…雨笠(あまがさ)君、今何か失礼なことを考えませんでしたか?」

 

「いいえ、気のせいです。しのぶさんは綺麗だなぁって思ってました。」

 

 嘘ではない。思ったそのあとに何かあったとしても少なくとも嘘ではない。

 

 だから笑顔で背景に蝶を舞わせないでくれませんかね?怖いので、いや切実に。

 

 そして何やらこのやりとりも非常に既視感がある。やはり姉妹、なんだかんだ言ってもそっくりである。

 

 

 

 

「なるほど、やはり隠しの方の報告の通り、そこは既に廃村だったという訳ですか」

 

 信乃逗の報告を聴き終えたカナエは静かにそう呟いた。

 

 そう、俺達が指令を受けて向かった先にあったあの村は、もう数十年も前に廃棄されていた廃村だったのだ。

 

 鬼が消えたあと、側からは人が住んでいるように見えたあの村は、唐突に霧の中に呑まれ、隠しの者達が入ったときにはとても先程まで人が住んでいたとは思えない、荒れ果てた畑と朽ち果てた家々が広がっていただけだという。

 

 俺達は当初、鬼の能力によってあの霧が生み出されていたと思っていたが、そもそも霧が現れたのは突然でもなんでもない、あの霧は最初からそこにあったのだ。本来、あの一帯はずっと霧に閉ざされた場所であり、あの場所に陽光が差しこむこと自体が滅多にない。

 

 まるで霧がないかのように陽光に照らし出されたあの様相こそ、あの鬼の少女が血気術で作り上げていた幻だったのだ。

 

 

「はい、真菰は村の住人と会ったと言っていましたが、恐らくそれも鬼の血気術による幻です。カラスの指令ではあの村から子供の行方不明者が出ているとありました。ですがあの鬼は…」

 

 信乃逗の脳裏に浮かぶのはあの鬼の少女との会話。

 

『せっかく久しぶりに人と遊べると思ったのに、もっと楽しませてよ!』

 

 この言葉、とてもつい最近人を喰らったことのある鬼のものとは思えない。まるでここ暫く人と会っていないかのようにあの少女の鬼は語っていた。

 

「あの御堂は村からもそれほど離れていない場所にありました。畑も御堂からよく見える位置にあった。

なのに、御堂の近くで子供が居なくなったと言う人がいて、その犯人だと思われていた鬼は人を見るのが久しぶりと言う。これには違和感しか感じません。

それにあの村に到着するまでの2日間、一つとして宿場も村もありませんでした。

いくら辺鄙な場所とはいえあのような長距離に渡って村も宿場もないのではとても鬼殺隊と連絡がとれるような生活をしていたとは思えません。」

 

 それに俺はあの村の住人とは誰一人として会えていないし、見かけてもいない。村の入り口にほど近い場所で真菰(まこも)と出会ってからそのまま御堂に向かった俺は村の中には入っていない。

 

 それだけなら単に会えなかっただけかも知れない。だが、御堂から見えた畑には人影は一切なかった。まだ日も高かったはずのあの時間に畑に一切人がいないなど今考えれば奇妙なことこの上ない。

 

「日もまだ高いあの時間に畑に誰もいないなど、少なくとも農村では考えられません。その事実と合わせて鬼の能力、発言を統合して考えた結果…」

 

「行方不明の子供など最初からいなかった、貴方はそう判断した訳ですね」

 

「はい。村の件から考えても、今回の行方不明になった子供がいるという噂そのものが流言であったのは、間違いありません。しかも、あれほどの規模で血気術を行使し続けることが可能な鬼が待ち構えていた訳ですから、どう考えても罠であったとしか思えません」

 

 あの鬼の少女が、どれほどの間血気術による幻を作り上げていたのかは不明だが、少なくともあれほどの規模の血気術を、数年以上もの間行使し続けられるのなら下弦の鬼、それも陸などという括りではおさまらないはずだ。

 

 ならばあの鬼が血気術を行使し始めたのは、どれだけ長くとも数ヶ月程度前といったところのはず。そんな時にタイミングよくそのような流言が流れたとなれば、それは明らかに鬼殺隊を誘き寄せる為の餌と考えるのが妥当だろう。

 

「…恐らくは雨笠(あまがさ)君の言う通り、こちらの情報収集を逆手にとった罠だったのでしょうね。ですが、やはり目的が見えませんね。一体何が狙いだったのか。」

 

 信乃逗(しのず)の言う通り仮に罠だったとして何のためにそのような手間の掛かることをしたのか。一体どんな目的でそれが行われたのかは全くと言っていいほどに手掛かりがない。

 

 そしてそれ以上に疑問として残るのは…

 

「姉さん、疑問は他にもあるわ。最初に派遣されていた筈の隊士は一体、何処に消えたの?…その鬼の言いようでは隊士とは遭遇していないということでしょう?」

 

「恐らく、としか言えませんが、他の隊士と遭遇していれば鬼もあのような発言はしなかった筈です」

 

 忽然とその姿を消した1人の隊士だ。あの鬼の少女が鬼狩りと遭遇していたのなら仮にも久しぶりなどとは言うまい。十二鬼月と遭遇していない筈の隊士が消息をたっている理由は一体なんなのか。

 

「これ以上はこの場で考えても仕方ありませんね。…雨笠(あまがさ)君、改めて十二鬼月の討伐と貴重な情報、ご苦労様でした。追ってなんらかの連絡があると思いますが、まずは怪我を優先して治すように努めてくださいね。」

 

 答えの出ないその疑問にカナエは静かに終止符を打ってこの報告会の幕を降す。

 

「…十二鬼月の討伐は俺1人では不可能でした。真菰(まこも)がいなければ俺はあの鬼の能力を理解することすら出来なかった。あれほど広範囲に術を使って消耗していた筈の相手にすら1人では勝てない、自身の無力を痛感致しました」

 

 本当に悔しそうに、無念であるというように信乃逗は口を噛みしめてそういう。

 

 自分よりも歳の低い者があの十二鬼月の1人を倒したという事実がしのぶの心に嫉妬にも似たような感情を味合わせていた。しかし今こうして彼の様子を見た後ではそんな感情は微塵も湧いてこない。

 

 あの十二鬼月を倒したというのに本人は随分と謙虚な様子で、自身の強さに傲るわけでもなく、寧ろ自身の弱さに打ちのめされたかのようなその様子にはしのぶも好感が持てる。

 

 だが、彼の悔しそうな表情は間違いなく目の前でしのぶの視界にも映っているのにその様子には何か違和感を感じさせる。

 

 この時しのぶが感じた違和感を、カナエも感じていた。しかしその違和感の正体を、カナエはしのぶよりも正確に把握していた。彼に感じた違和感を確信へと導く為に、彼女はある質問をすることにした。

 

「…雨笠(あまがさ)君は、どうして鬼殺隊に入ったのですか?」

 

 唐突にカナエによって始まったその詮索に一瞬会話が止まる。

 

 信乃逗(しのず)は突然に行われたその問いかけに僅かに困惑してしまう。不思議な方だとは思っていたが一隊士の過去なんてそんなことをこの場で聴かれることになるとは思っていなかった。信乃逗の虚を突いたこのタイミングでの質問は非常に効果的だった。

 

「…よくある話しですよ。家族が鬼に殺された。

だから、だから俺は鬼を殺す、殺さないといけない。理由なんて、それだけです。」

 

 そう話す信乃逗(しのず)の表情はその言葉とは裏腹に殺意や憎しみに塗れた様子ではなかった。酷く疲れたようなそんな様子でそう言う彼の表情は酷く空虚で、発言の内容と彼の表情はまるで噛み合っていない。

 

 まるでそうでなければという、ともすれば義務感のような、そんな様子で喋る信乃逗にしのぶは言葉が出なかった。

 

 目の前にいるのは一体誰だろうか、そんな疑問がしのぶの中には浮かび上がる。しのぶの知っている彼はいつもおちゃらけた様子で、笑顔で周りを楽しませるように会話を繰り広げる。それが彼女の知っている雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)という人間だ。 

 

 だが、今の彼の様子を見たあとでは、普段の彼の笑顔が、まるで張り付いた仮面であったかのようにすら思えてしまう。

 

 先程彼が見せた悔しそうな表情は何だったのか、彼が今まで見せてきた笑顔は本当に笑顔だったのか。しのぶには急に目の前にいる雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)という人間が酷く希薄に思えてくる。

 

 唖然とした様子のしのぶとは対称的に信乃逗(しのず)へと問い掛けたカナエは彼の表情を見つめると静かにその瞳を伏せて信乃逗へといつものように微笑みを浮かべる。

 

「…そうですか、ごめんなさい。

込み入ったことを聞いてしまいましたね。」

 

「いえ、カナエ様に気にして頂くようなことではありません。」

 

 そう言ってカナエに笑いかける信乃逗(しのず)の様子に先程垣間見せた疲れ切ったような様子は微塵も感じられない。そのことがしのぶにより一層の痛増しさすら感じさせる。

 

それを最後にカナエとしのぶは静かに信乃逗の病室を後にした。

 

 

 

 

「姉さん、どうしてあんなことを聴いたの?」

 

 部屋を出て廊下を歩くしのぶは前を行く姉に静かに問い掛ける。姉は普段確かに気が抜けているようなふわふわとした様子を見せてはいるが、何気なしにあのように他人の過去を詮索するようなことを聞くような人ではなかった筈だ。

 

「うーん、どうしてかしらねぇ?…しのぶはどうしてだと思う?」

 

「姉さん、私は真剣に聞いて「姉さんももちろん真剣よ?」…」

 

 急に立ち止まって此方を振り向いたカナエは、先程まで浮かべていたいつものふわふわとした胡蝶しのぶの姉としての表情ではなく、鬼殺隊花柱の胡蝶カナエとしての凛とした表情へと、その身に纏う雰囲気と共に変わっていた。

 

 急に変わったその変化に戸惑いながらも、しのぶは真剣に考える。そうしてしのぶは先程彼に感じた、ある違和感を思い出した。

 

「…彼の人柄を確かめるため?」

 

「うん、そうね、姉さんは嬉しいわ。

…しのぶはさっきの雨笠(あまがさ)君を見てどう感じたの?」

 

 しのぶの導き出したその答えにカナエは嬉しそうに微笑みながらしのぶへと再度問い掛ける。

 

「…カナヲに少し似てるような気がしたわ。

まだはっきりとはよく分からないけど、私には少なくとも彼の言った理由には彼の気持ちがあるようには見えなかった」

 

 口数も少なく、自分の意思で何かを決めることが出来ないあの娘に、まるで正反対に見える信乃逗(しのず)が何故か似ているような気がした。

 

 彼の放ったその言葉と彼の表情は酷く矛盾したものになっていた。何よりあの瞬間の彼は酷く希薄で、まるで今にも消えてしまいそうな儚さすら感じるようなそんな様子だった。普段笑っている彼とあの時見ることのできた彼は一体どちらが本当の彼なのだろうか。

 

「そうね。しのぶの言う通り、今の彼の理由には彼自身の想いがない。

いえ、迷っていると言った方がいいのかしら。どちらにせよ、自分の想いを見つけることが出来ないでいる。

きっと普段の彼のあり方も、そうでなければらないというただの義務感からきている振る舞いでしかないのでしょうね。そういう意味では彼は確かにカナヲに似ているわね」

 

 

 カナエはいつものように朗らかに微笑んでそう言うが、しのぶにとってはやはり衝撃が大きい。信頼する姉が、彼の普段浮かべる笑顔もそのあり方も偽りのそれだとはっきりとそう言っているのだから。

 

 そんなしのぶの様子を見てカナエは安心させるような優しい声色でそっと声をかける。

 

「ねぇ、しのぶ。…あの子はただ見失っているだけ、自分のあり方も自分の意思も、今は何もないように見えるかもしれない。だけど、きっといつか彼も自分をもう一度見つけることができるわ。だから、しのぶも優しく見守ってあげて」

 

 

 カナエの脳裏には、怪我をして眠る彼の側に寄り添うように、ずっと側で彼が目を覚ますのを待っていた少女の姿が浮かび上がる。

 

 

 —きっかけさえあれば人の心は大きく花開く—

 

 

 あの少女が彼の側にいれば彼もいつか気付く、自分の意思に、想いにきっと気づける。だから心配することはない、カナエはいつものようにそう優しい笑顔を浮かべてしのぶを見つめる。

 

「…姉さん」

 

 姉が誰かを思いやって見せるその優しい笑顔にしのぶは嬉しくて仕方がなくない。この人が私の姉だと、自身を持って周囲に自慢できる。姉は私の誇りだ。

 

「それに、真菰(まこも)ちゃんは可愛いもの!」

 

 再び背景に花畑を作り上げるような朗らかな満面の笑みでカナエは頷く。

 

「だから、今はそんな話はしてないでしょう!」

 

 結局はいつものやりとりにはなるのだが。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想頂けますと幸いで御座います!

次回もお楽しみにして頂けますと幸いです!


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鬼狩りの迷い

皆さん、しのぶさんも神なんですよ(*´∇`*)


 

 あの夜から数週間、しのぶの前にいる信乃逗(しのず)は相も変わらず笑い続けている。

 

 だが、これまで、観察してきていくつか分かったことがある。本の一瞬僅かな間、稀に彼はあの時見せた空虚な、それでいて疲れたようなそんな表情を浮かべる時がある。

 

 そして彼が私や他の人と喋っている時と真菰(まこも)さんと話している時に見せるその笑顔は僅かに違う。側から見れば些細な差でしかない、だけど気付いてしまえば、それは酷く目立つ。彼の中で明らかな線引きがある。

 

 しのぶの目の前で、鍛錬を続ける信乃逗(しのず)を心配そうに覗き見る彼女は、彼を助けられないと言っていたが少なくとも私の目にはそうは見えない。

 

(…きっと彼は真菰(まこも)さんに助けられている。)

 

 結局奇妙なもので、この2人は自覚のないまま互いに助け合っているのだ。姉の言う様に彼がいつか自分の想いを見つけられるように見守っていこうと思ったが、自分が何かするまでもなく、この娘がきっと彼の笑顔を本物にしてくれる。

 

 だから、自分は見ていよう。そうやってしのぶは姉のカナエの様な優しい微笑みを浮かべて信乃逗(しのず)を見つめ続ける。

 

「ギャー、血がまた出たー!!ヤバイ!しのぶさんに処刑される!」

 

 蝶屋敷の庭に響き渡るこの声を聞くまでは。

 

 

 

 

「さぁ、往生して口を開けなさい。…それとも本当に頬を斬られたいんですか?」

 

(ひぃぃー!!死ぬー!死んでしまう!)

 

 小刀のような小さな刃物を片手に微笑みながら信乃逗(しのず)へと近づいていくその姿はさながら死の天使とでも言うのだろうか。

 

 微笑みを浮かべるその姿こそ本人の美しさも相まって見惚れるほどに綺麗だが、その実内面は鬼のように恐ろしい。

 

「…誰の内面が鬼ですか?女性にそんなことばかり言ってると、そのうち刺されますよ」

 

(いや、そのうちっていうか今じゃん!?現在進行形で人の頬を切り裂こうとしてる人が何言ってるんでしょうね!…あれ?)

 

「今!心読んだ!?読みまし、だはっ!?」

 

 何気なく会話が成立している事実に、信乃逗(しのず)も一瞬気付かなかったが、今自分は口に出して言っていただろうか。信乃逗(しのず)はそんな馬鹿なと、思わず口を開けてツッコミを入れるが、そんな隙を他ならぬ胡蝶しのぶが見過ごすはずもなく、信乃逗の開けた口に瞬時に薬を突っ込み飲み込まさせる。それもいつもの2倍の量を。

 

「ふう、何度も言わせないでください。私も忙しいんですよ。それと言っておきますけど、さっきの言葉は全部口に出ていましたからね。…年頃の女性にあまりそういうことを言ってはいけませんよ」

 

 見事な手際で再び信乃逗(しのず)に薬を飲ませたしのぶは、以前と同じ様に一仕事終えたというように手をパッパと打ち合わせながらそう呟く。ちなみに投薬された信乃逗(しのず)は口に広がるいつもの2倍の激不味っぷりに、涙目で身を捩って苦しみ数秒で意識を消失した。これは信乃逗が入院してからの最速ラップである。

 

「…しのぶさん、信乃逗(しのず)ならもう気絶してるから聴いてないと思う」

 

 口に入れられてからものの数秒で気絶した信乃逗(しのず)を見て、薬ってそんなに苦かったっけと若干疑問に思いながらも、一連の流れを静かに見つめていた真菰(まこも)は現状をしのぶへと伝える。

 

「…全く情けないですね。真菰(まこも)さん、このお馬鹿さんが拘束を解かないように見張っていてくださいね」

 

 それだけ言うとしのぶは足早に信乃逗(しのず)の病室を去っていく。その耳を僅かに赤く染めて。

 

 

 

 

 

 深夜、目が覚めた信乃逗(しのず)はゆっくりと瞼を開いて声を出す。

 

「あのさ、いつまでそこにいるつもりなの?」

 

 窓からさす月光だけが唯一の光源となった暗い静かな部屋の中で、信乃逗(しのず)の声は響き渡る。

 

「…気付いてたんだ。」

 

 その声に反応するように月光ですら照らし出されていない部屋の暗い影の中からまるで忍びのようにすっと出て来たのは小柄な少女、真菰(まこも)だ。

 

「まあな、で、真菰(まこも)はそこで何をしてるわけ?」

 

 バツの悪そうな表情で月光に照らされた信乃逗(しのず)の寝台へ近づいてくる彼女に信乃逗は驚く様子もなく、静かな口調で問い掛ける。

 

信乃逗(しのず)が拘束を解いて鍛錬し始めないか見張ってただけだよ」

 

「いや、流石に昨日出血しまくったのにやらないでしょ。安心して部屋に戻りなよ」

 

 普通なら彼の言う通り、あれほど散々しのぶさんにこってり絞られたのだから、そのすぐ後に動くとは思わないだろう。だが、目の前の彼ははっきり言って普通とは言えないと真菰(まこも)は思う。

 

 真菰(まこも)がこんな時間までここにいるのは、しのぶに頼まれたというのも勿論あるが、一重にこの目の前の男の言に疑念があるからだ。今まで散々寝台を抜け出して鍛錬をしていた彼の言うことだから、ある意味では当然なのだが、真菰(まこも)がそれ以上に気になっているのは、昨夜見た鍛錬をする信乃逗(しのず)の様子が、何やら鬼気迫るようなものに見えたのだ。

 

「…絶対嘘だと思う。信乃逗(しのず)はまだ懲りてないでしょ?」

 

 現に今、どうやったのか信乃逗は手をしっしっと虫を払うかのように動かした。つまり腕の拘束を既に解いているという訳だ。

 

「あっ、い、いやこれは上半身が窮屈だから、その、脚の拘束は解かないから、上半身起こしたりするだけだからさ、鍛錬にも行かないし」

 

 腕にじっと視線を向けながらそういえば信乃逗(しのず)ははっとした表情で取り繕うように下手な言い訳を始める。

 

「やっぱりしのぶさんに報告を「待ってください真菰(まこも)様!どうかそれだけはご勘弁を!!」……」

 

 凄まじい速度で寝台から起き上がって、部屋を出ようとした真菰(まこも)の腕を掴んで引き止めはじめた信乃逗(しのず)の姿を、真菰は目を細めて見つめる。

 

 一見、信乃逗はいつものように調子良くそう言うがやはり、真菰にはどうにも無理をしている様に見える。どことなく彼から壊れてしまいそうな、そんな危なっかしいような空気を感じるのだ。

 

 

「ねぇ、信乃逗(しのず)は何をそんなに焦っているの?」

 

 

 真菰(まこも)の言葉に信乃逗(しのず)の頬がぴくりと僅かに動く、だが次の瞬間には笑顔になる。まるで貼り付けた様なそんな気持ちの悪い笑顔を。

 

「…何言ってんだよ、急に。焦ってなんかないよ。

もう、遅いんだし早く部屋に戻らないとしのぶさんに怒られるぞ。」

 

(…嘘つき)

 

 ここに来て真菰(まこも)信乃逗(しのず)の異変に確信を持った。今まで信乃逗の笑顔を数多く見て来た真菰だからこそはっきりとわかる違和感。あれだけさっきまで真菰を引き止めようとしていたのに、確信をついた途端、明らかに彼はこの会話を早く終わらせようとしている。

 

「…その笑顔、やめた方がいいよ。

すぐに嘘だって分かっちゃう。少なくとも、私には」

 

 静かに呟かれた真菰(まこも)の言葉に信乃逗(しのず)は驚きに目を見開いて、ついで諦めた様にため息を吐いた。

 

「はぁ、真菰(まこも)って本当に目敏いというか何というか。

いちよ聞くけどさ、どうして俺が焦ってるって思ったわけ?」

 

 思いのほか素直に信乃逗(しのず)は自分が嘘をついていたことを認めると、自分の何が彼女に疑念を与える要因となったのかを聞き出そうと試みる。

 

「昨日の信乃逗(しのず)の鍛錬を見てて、なんとなく…それに、」

 

(…なるほどね、随分と早くにしのぶさんが来たとは思ったけど、真菰(まこも)にも見られてわけだ)

 

 思わぬ出血にかなり大きな声で叫んだからしのぶさんには気付かれても可笑しくはないと思っていたがそれにしても登場するのが早すぎた。おおよそ、見られていた可能性は考えていたが、しのぶだけではなく目の前の少女も一緒になってということだった様だ。

 

 しかも昨夜しのぶが真菰(まこも)と一緒に見ていたというのなら、おそらくしのぶ自身が気づいたのはそれより以前という可能性が高い。

 

(…一体いつから気付かれていたのやら)

 

 だが、真菰(まこも)が勘付いた理由はそれだけではない様だ。何やら続きを言いにくそうに此方の表情をちらちらと伺うその様子は、小動物を連想させる可愛いさを持っていて、信乃逗(しのず)の心を和ませるが、意を決した様に続いた真菰の言葉に、信乃逗はこの夜2度目の驚愕を味わうことになる。

 

「…今日はいつもより信乃逗(しのず)が無理して笑っている様に見えたから」

 

 真菰(まこも)が俯き気味に言ったその言葉に信乃逗(しのず)は目を見開いて固まる。

 

 今、この目の前に立つ少女はなんと言った?

 

 彼女に先程の笑顔が、貼り付けた仮面であることを見抜かれたのは、焦りを見抜かれたことによる虚を突かれたからだろうと思っていた。だが、彼女は今、間違いなく今日と言った。それどころか、いつもよりなどと言わなかっただろうか。それではまるで…

 

(…ずっと前から気付かれていた?)

 

「…い、いつから、いつから気付いてた?」

 

 動揺のあまり、信乃逗(しのず)はうまく言葉を紡ぐことができない。辿々しい様な口調になりながら、愕然とした表情で、信乃逗は目の前の少女にそう問い掛ける。

 

「…多分、あの村で会話してる時かな」

 

 正確にはよく思い出せない、と言った風に真菰(まこも)は呟くが、信乃逗(しのず)としては衝撃的な事実を叩きつけられた様な気分だ。

 

(…ほとんど最初からじゃん)

 

 真菰(まこも)とはそれほど長い付き合いというわけではない、とは言ってもそもそも信乃逗には付き合いの長いものなどいないのだが。とはいえ、初めて会ってからまだ一年も経っていない彼女に、それも会話した時などに至ってはひと月程度でしかない相手に、自信たっぷりに見せていた笑顔が貼り付けた仮面であると、再開した当初からばれていたということだ。

 

(なんだろう、無性に恥ずかしくなって来た)

 

「…なに、俺ってそんなに笑うの下手だったわけ?」

 

「別に下手じゃない、寧ろ上手なんだと思う。最初は少し妙だなって思っただけだから。でもここに来てから信乃逗が他の人と話してるのを見て、本当は無理して笑ってるんだなってそう思っただけ。

 多分、カナエ様とか、あとはしのぶさんとかも気付いてるんじゃないかな?

…あの人達は信乃逗(しのず)を見る目がすっごく優しいから」

 

 さらに衝撃的な事実を叩きつけられた。

 

 見る目が優しいとか、そんなあからさまにわかる様な目つきで見られていたのか。カナエ様は柱だから納得できなくもないけどもしのぶさんにまで気付かれているのか。もし真菰(まこも)が言うことが事実で本当に気付かれているのであれば…

 

(明日からどんな顔して合えばいいわけ?)

 

信乃逗(しのず)、話を逸らそうとしてない?」

 

「……今日の真菰(まこも)は目敏すぎて怖いね」

 

 信乃逗(しのず)としてはあまりにも言い当てられることが多過ぎて頭の整理が追いつかない状況なのだ。

 

 

「焦ってる理由だっけ?…よく分からなくなっただけだよ、自分の向かう先がさ」

 

 窓から覗く月を静かに見上げながら信乃逗はゆっくりとその悩みを打ち明かしてくれる。

 

「向かう先?」

 

「そう、真菰(まこも)が言ったでしょ、『鬼は人だった、人が鬼になったんだ』って。その言葉を聞いて今までを思い返した、鬼は憎い、そのはずなのに、刀を振るうたびに、鬼の首を落とすたびに、それが本当に正しい行いだったのか、意味のある行いだったのか、よく分からなくなる」

 

 自分でも理由は良く分からないんだけどね、そう肩を竦めながら、信乃逗(しのず)は家族を喪ってから初めて、他人に自身の本当の気持ちを打ち明ける。

 

 寂しそうに笑う彼の笑顔を見て、真菰(まこも)は少しほっとした。彼の今の微笑みは、無理に偽って出たものではない。それはつまり、彼が本当の心を見せてくれると言っているに等しい。それを理解すると同時に、少し罪悪感の様なものも感じる。昨夜の鬼気迫る様な彼の鍛錬も、彼の焦燥感も、自身の放った言葉が原因だったのだから。

 

(… 信乃逗(しのず)は迷っているんだ。)

 

 今の信乃逗(しのず)は指針として来たものが何か分からなくなっている。迷いがあるということは彼の中に自覚のない鬼に対する憎しみ以外の何かがあるということだ。ならば、それを知って貰えばいい。

 

信乃逗(しのず)はどうして、鬼狩りになったの?」

 

 原点に還る。彼が鬼を知ったその時の気持ちを思い返す。それは彼にとって、きっといい記憶ではない。だけど今の信乃逗(しのず)にはきっと必要なことだ。

 

「…なんか前にも聞かれたな、それ、よくある話しだよ。俺の家族は、鬼に殺された。それがきっかけだよ。…もしも他の人と違うところがあるとしたら…」

 

 

 —家族を殺したのは鬼だけじゃないってところかな—

 

 

 そう言って信乃逗(しのず)は鬼狩りとしての彼の原点を教えてくれた。

 

 

 




御一読ありがとうございます。
御意見・御感想頂けますと幸いでございます!

次回は明かされる信乃逗の過去!?
お楽しみに!!

そして真菰ちゃんは神です。


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壊れた幸せ

 

 

 

 俺の家は父と母、それから姉のちよと妹のハル、俺も合わせて5人の騒がしい、とても幸せな家族だった。

 

 母は何かと口うるさいし、父は頷くばかりで話を聞いているのかいないのかよく分からない。妹はキャキャっと、なにが可笑しいのか分からないことでいつも笑っているし、姉は母のように口を開けばお小言ばかりだ。

 

 でも、そんなあの人達が俺は大好きだった。

 当たり前のように愛情をくれて、当たり前のように話を聞いてくれて、当たり前のように怒ってくれて、当たり前のように笑ってくれる。

 

 いま思えば、あの頃、毎日が楽しくて幸せだったんだ。こんな日々が当たり前に続くことを、疑いもしてなかった。

 

 

 だけど当たり前なんてものは結局のところただの人の願望でしかない。

 

 

 幸せなんてものは簡単に、ある日突然に壊れてしまうものなんだ。俺はそれをあの日、あの絶望の夜に思い知った。

 

 

 

 

 

 

 

 その日、信乃逗は母にこと付けられた用事のせいで、家に帰るのが夜遅くになった。

 

 

(あれ?……灯が消えてる?)

 

 

 家に着く前に変だとは感じた。遅くなったとはいえ、未だ陽が暮れたばかりの時間だ。こんな時間から家の灯りを消すなんて普段ならあり得ない。

 

 だが、その日は何故か道から家の灯りが見えなかった。奇妙な違和感を覚えつつも信乃逗はそれでも家へと歩を進めた。

 

 

 或いは、もう少し、ほんの少しでも時間が変わればまた違った未来もあったのかもしれない。

 

 

 

 

「……な、なんだよ、これ……なんなんだよ」

 

 

 その光景を信乃逗は忘れることが出来ない。

 

 

 家に入った信乃逗を迎えてくれたのはいつもの心が暖かくなるような騒がしさではなく、耳が痛くなるような静寂と赤くて、紅い……血の海だった。

 

 

 床や壁、家の中には当たり前のように血が飛び散っていて、むせ返るような血臭が玄関先に立つ信乃逗まで漂ってくる。そこには間違いようなない死が広がっていた。家の土間では父が、部屋の奥には母が妹に覆いかぶさるようにしてこときれていた。

 

 

(……なんで……一体なにが……)

 

 

 どうなっているのか、一体何が起きたのか、信乃逗には訳が分からなかった。家の入り口に立ったまま呆然とする信乃逗の疑問には誰も答えてくれない。ただ、いつもは神棚に飾られているはずの立派な刀だけが、月の光を浴びて信乃逗の瞳に冷たい輝きを浴びせるだけ。

 

 

(父さんの刀……なんで……ここに……)

 

 

 場違いな疑問だった。普段は家宝として飾られている刀が何故か土間に落ちているのだとしても、そんなことを疑問に思う余地など本来ならどこにも存在しない。

 

 家族が、愛する者達が血を流して倒れているのだ。その光景を前にして家宝の刀などに気を止めるなど、普通であればあり得ない。

 

 

 だが、それでも信乃逗にはそう思うよりほかになかったのだ。

 

 あまりにも残酷で残虐で惨たらしいその光景が現実であるということを信乃逗は認められなかった。

 

 目を逸らしたかったのだ。

 

 

 現実から

 

 

 与えられた悲劇を

 

 

 瞳に映していたくなかったのだ。

 

 

 それはきっと無理のない反応だったのだろう。彼はただいつものように に、ただ帰ってきただけだ。「行ってらっしゃい」と言われて、家を出て帰ってきたら「お帰り」と、そう言われるのが当たり前だったのだから。

 

 

 

 この惨劇をみるまではそれこそが、雨笠信乃逗の日常だったのだから。

 

 

 

 ただ、この惨劇はそこで終わりではなかった。

 

 

 この時の彼には「お帰り」と言ってくれたかもしれない人がまだいたのだ。

 

 

 

 ガタッ

 

 

 

 不意に、家の奥、暗闇の向こうで人影が映る。

 そしてその影はゆらゆらと信乃逗に向かって歩いてきた。

 

 

「ひっ!?……だ、だれだ!?」

 

 

 身の危険を感じるその状況に、信乃逗は無意識のうちに足元にある刀を手に取っていた。

 

 震える腕で切先を影へと向け、さも勇ましい姿で刀を構える信乃逗の声は怯えきっていて、ガタガタと身体と刀身を震わせる様子はとても戦えるようには見えない。

 

 

「………………」

 

 

 信乃逗の問い掛けにも無言のまま、怪しげな人影が少しずつ、少しずつ近づいてくる。

 

 

「ね、姉さん、……姉さんっ!大丈夫か!?一体どうしたんだよ!?」

 

 

 やがて家の入り口から入ってくる月光に微かに見えてくる影の輪郭を見て、信乃逗は血相を変えて駆け出す。

 

 

 

 近づいて来たその人影は、信乃逗の姉、ちよだった。

 

 

 荒い息を吐きながら、血塗れになってゆっくりと歩いてくるちよに、信乃逗の怯えきった心が一瞬だけ冷静さを取り戻させた。訳の分からない状況、惨たらしい光景、静かすぎる空間、追いつくことすら難しい感情の波に翻弄されきっている信乃逗にとって、親しみなれた姉の姿は彼の精神をこの世に繋ぎ止めることの出来る唯一の光だった。

 

 安堵を求めた信乃逗の腕はしかし、他の誰でもない彼女の姉自身によって止められた。

 

 

「……ないで、……こっちに来ないで!!」

 

 

 家の静けさのせいなのか、それとも単にちよの声はが大きかっただけなのか、この時の信乃逗には彼女の声は、いつもより数段大きく聞こえた。鬼気迫るような様子の姉の言葉に信乃逗は一瞬、躊躇うようにして立ち止まってしまった。

 

 

「……お願いだから、今はこっちに来ないで」

 

 

 泣きそうな声色で、懇願するかのように、ちよは信乃逗へとそう言った。信乃逗は姉の言葉に一瞬戸惑いを見せるが血塗れの姉がすぐ目の前にいて放置するなど出来るはずもない。

 

 ましてあまりにも現実離れした光景を目の当たりにしているのだ。これ以上、家族を失わない為にも信乃逗は姉の言葉に従う訳にはいかなかった。

 

 

「な、なに言ってんだよ、血塗れだろうが……すぐに手当てしないとっ」

 

「……嫌だ、やめて、……私、信乃逗(しのず)を食べたくない、食べたくないのっ!……だから……来ないで」

 

 

 それはこの時の信乃逗にとっては到底理解出来ない言動だった。訳の分からないことを言う姉の様子を見て、信乃逗はこんな悲惨な状況に錯乱しているのだろうとそう思った。

 

 

「訳がわかんないこと言ってないで、早く手当てを」

 

 

「来ないでって……言ってるでしょっ!!」

 

 

 

 なおも近づこうとする信乃逗を見て、ちよは先程よりも余程大きな声で叫びながら、家の壁を叩いた。

 

 

 その時、当時の信乃逗の知る人の身では、不可能な現象が起きた。ちよの拳が振われた瞬間家の壁が轟音ともに崩れ落ちて、彼女が叩いたその壁には人が通れるくらいの大きな大きな穴が空いていた。

 

 

「………っ……」

 

 響渡った音とあまりにも衝撃的な光景に腰を抜かしたように、信乃逗はその場に座り込んでしまった。呆然と穴の空いた家の壁を眺める信乃逗を、ちよは今にも泣き出してしまいそうな表情で見つめながら、静かに微笑んだ。

 

 

「……私は、もう人間じゃないの。……鬼に、なっちゃったの。だから、私に、近づいちゃ駄目なのよ」

 

 

「…………な、なに言ってんだよ?」

 

 

 意味が分からない。

 理解出来ない。

 今日信乃逗の前にあらわれた光景の全てにあまりにも現実味がない。

 

 

「とうさんに、教えて……もらったでしょ、……人を食べる、化け物がいるって……」

 

「あっ、あんなの父さんの作り話だろ!そんなのいる訳が「いたのよっ!…いたから……こんなことに、なっちゃったのよ」っ!?」

 

 

 信乃逗が鬼の存在を否定するその声を悲痛な声色で叫ぶちよの声が掻き消す。嗚咽をこらえるようにちよが語ったこんなことが、この惨状を現しているのはいまの信乃逗にも理解できた。

 

 確かに信乃逗の父はしきりにそういう存在がいると、彼等に話をしてきた。人を殺し喰らう化け物がいることを、人が殺さなければならない化け物がこの世に存在していることを家族以外にも沢山話して聞かせていた。しかしそんな荒唐無稽な話を村の誰も信じていなかったし、当時の信乃逗にとっても素直に認められるものではなかった。

 

 

(鬼なんて……そんなの……いる訳が……)

 

 

 動揺しながらも信乃逗は内心でちよの言葉を否定していた。

 

 当然だろう。普通はそんな話を信じられる訳がない。見たこともない化け物が家族を殺して、人間だった筈の姉は鬼になった。そんな馬鹿げた話を一体どうやって信じれば良いというのか。

 

 

 時間が必要だった。

 次々と訪れる思考と感情の波を整理する為の時間が必要だったのだ。

 

 

 

 だが、運命とは残酷なもので

 彼には、いや、彼等に与えられた時間は余りにも短かった。

 

 

 

 ぜぇぜぇと荒い息を吐きながら、ちよは呆然と座り込む信乃逗の手に握られた刀を見て、それまで絶望一色だったその顔色を急に救いを見たかのような、そんな表情へと変えた。

 

 

「かたな、……とうさんの……刀……」

 

 

 信乃逗の手に握られた刀がちよの瞳にはっきりと映り込む。彼女はその瞬間理解したのだろう。その刀が普通の刀ではないことを。その刀が鬼にとってどれほどの意味を持つものであるかを、彼女は自らの血で理解してしまったのだ。

 

 

「……しのず……お願い……」

 

 

 

 そうしてちよが信乃逗に懇願したその内容は、彼女に取っての最後の、唯一の、希望だったのだろう。

 

 

 

「その刀で……私の首を……斬って……」

 

 

 

 しかし同時にそれは、信乃逗にとっての地獄だった。

 

 

 

 

「い、いやだ……なに言ってんだよ、姉さん……そんなことっ、できる訳ないだろう!?」

 

 

 

 信乃逗(しのず)の悲痛の叫びにも似たその言葉は、ちよにとっては更なる絶望だった。

 

 

「お願い!このままじゃあ私っ、信乃逗(しのず)を殺しちゃう!……いやなの、しのずを食べたくないのよっ!」

 

 

 

 そう言って一歩暗闇から前へと踏み出したちよの姿を見て、信乃逗は言葉を失った。

 

 

「……姉、さん、……その顔…」

 

 

 崩れ落ちた壁から月光が入り込み、その月の光に浮かびあがった彼女の顔はもはや人間のそれではなかった。紅い瞳、血管の浮き上がったような青白い顔、鋭く尖った歯、そして額から生えた、一本の角。

 

 

 今の彼女を見て、彼女を人間だと、そう思える者が果たして一体何人いるか。

 

 

「分かったでしょう……わたしっ……もう……人間じゃない……」

 

 

 絶望に満ちた声を出すちよは、恐らく人を食べたいと言う欲望を必死に我慢していたのだろう。涙と同時におびただしい量の涎を垂れ流している。必死に懇願する彼女の体には鋭く生えた爪が深く食い込む程、力強く両腕が抱え込まれていた。

 

 

「誰も食べたくない、殺したくないのよ。……とうさんやかあさんを、……ハルを、食べたくないよっ……しのずを…食べたくないの!……お願いだから、最期くらい、姉さんの言う事を……聞いてよ……御願いだから……」

 

 

 ちよの必死の形相を見て、信乃逗はやっと彼女の願いが本当に心の内から来たもので、姉がもう人ではないのだということを出来てしまった。

 

 

 『人が鬼を殺すには、首を斬るしかない』

 

 『鬼は絶対に殺さなければいけない』

 

 

 嘗て、信乃逗の父は鬼についてそう語った。

 

 鬼は殺さなければならない。人を喰らうから。

 鬼は殺さなければならない。人を不幸にするから。

 鬼は殺さなければならない。人にとって悪だから。

 

 

(俺の前にいるのは……姉さんだろ?……人じゃない?鬼になった?……それでも姉さんだろう?)

 

 

 信乃逗の前にいるのは信乃逗が大好きな姉だ。

 信乃逗の大好きな家族の一人で、信乃逗の大切な家族の一人で、信乃逗の愛する大事な大事な姉だ。

 

 

 例え、それが人ではないのだとしても。

 例え、それが人にとって許されない存在なのだとしても。

 

 

 信乃逗にとって彼女は紛うことなき、家族だ。

 

 

 「……姉さんっ……ねえさん……」

 

 

 絞りだすようなちよの悲痛な声に信乃逗の体は気がつくとひとりでに動いていた。

 

 

 カタカタとその刀身を震わせながら、信乃逗はゆっくりと鬼へと変わってしまったちよに近づいていく。ちよの悲痛な叫びが、願いが、信乃逗の体をちよへと動かしていく。

 

 

 昔、父が信乃逗に刀の振り方を教えてくれていた。家族を守る為に、愛する人を守れるようにと父が教えてくれた拙い技術だ。

 

 

「……ごめんね、しのず……」

 

 

 がくがくと震える体を必死に押さえ込みながら、滲む視界を必死に拭いながら、自身の前に立つ信乃逗を見て、ちよはその瞳に涙を浮かべながら、微笑んで謝罪の言葉を口にする。

 

 

 信乃逗にとって姉は口うるさい人だったが、同時にとても優しい人だった。いつも誰かを心配していた。その大半はきっと信乃逗や妹のハルのことだったのだと思う。信乃逗が笑顔でいられるように、家族が笑顔であれるように彼女はいつも考えていてくれていたのだ。

 

 

 そんな優しい姉が涙を流して、家族の信乃逗に願うのだ。

 

 家族を喰らわぬ為に、愛する弟を殺さないでいいようにと、弟に一生消えぬ罪を背負うことを願ったのだ。

 

 

 

 もう信乃逗にしか、彼にしか、ちよの願いは叶えられない。

 

 

 優しい優しい姉が、人を殺す悪鬼にならぬように。

 大好きな姉が、人の心のままに逝けるように。

 彼女の心を守る為に。

 

 

「うぁぁぁぁ!!!」

 

 

 信乃逗はその日、父に刀を教えてもらいはじめてから、一番上手く、刀を振るえた。

 

 

 

「ありがとう、……し、のず、……だいすき、だ、よ」

 

 

 

 その言葉を最期にちよは安堵したかのように微笑んで、ぼろぼろと崩れるように消えていった。

 

 

 後には何一つとして残っていない。

 

 

 まるで最初からそこには何もいなかったかのように。

 

 

 姉の姿も

 

 

 家族の笑顔も

 

 

 信乃逗の幸せも

 

 

 全てが消えていた。

 

 

 

「……かあさん……とうさん…ハル…………ねえさん……俺は……おれはっ……」

 

 

 

 

 

 それは、鈴虫が鳴き始めた頃の秋の一夜。

 

 

 

 嘗て笑い声の絶えない賑やかで幸せに溢れた一軒の家の中で、1人の少年の慟哭だけが、虚しく鳴り響いていた。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想頂けますと幸いでございます!

今回はシリアス!
ついに明かされる信乃逗の過去って感じで書いてみました!
真菰ちゃんは一切出て来てないけど真菰ちゃんは神です。


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月夜の涙

真菰ちゃんは神なんだよ(°▽°)


 

 

 

「その後、家にあった刀は日輪刀で、父が元鬼殺隊の隊士だったってことを知った俺は、その伝を頼りにして鬼狩りになったってわけ」

 

 

 (おど)けたような明るい口調で、信乃逗(しのず)はそう締めくくる。

 

 

 ただそれが努めてそうしていることは真菰(まこも)から見てもいや、きっと誰が見ても明らかだった。

 

 

 月を見上げる信乃逗の月光に照らされたその表情は、悲しそうで、寂しそうで、儚くて、もう届くことのないいつかの思い出に手を伸ばすようなそんな彼の姿が真菰は酷く痛ましくて……哀しかった。

 

 

「姉さんを殺したのは俺だ。……他に方法はなかった。それが最善だった。家族を殺したのは鬼だ。どれだけそう自分に言い聞かせても、俺の中にはあの時の選択の是非を問う声が鳴りやまないんだよ。……鬼は殺さないといけない、鬼は人を不幸にするから、鬼は悪だ。悪でなければならないんだって、そう想い続けて俺は刀を振るってきた。あの時の選択は間違いではなかったんだって……そう思いたかった」

 

 

 しかしどれだけ信乃逗がたくさんの鬼の首をはねてその存在を消そうとも、彼の中に湧き上がる疑念の声を消すことが出来ない。

 

 

 どれだけ鬼という存在の残虐さを見ても、どれだけ鬼に不幸にされた人達を見ても、信乃逗が選んだあの夜の選択が間違いではなかったのだという確信を抱かせてはくれない。

 

 

 それどころか鬼を殺せば殺すほど、信乃逗の中にどうしようもない虚しさと寂しさだけがただひたすらに蓄積されていく。

 

 

「……俺が鬼を殺してるのは復讐の為でも、誰かの幸せを守る為でもない。俺は、あの時姉さんを殺してしまったことを肯定する為に……ただそれだけの為にずっと鬼を殺してるんだよ」

 

 

 鬼殺隊の隊士になる多くの者達がきっと自分の中の何か大切なものを鬼によって喪ってしまった者達だ。

 

 

 彼らはきっと鬼が憎いのだろう。

 

 

 鬼が許せないのだろう。

 

 

 大切な何かを喪ってしまったことを何よりも悔いていて、鬼によって引き起こされる悲劇を食い止めようと、未来のために日々刀を振るっている。

 

 

 

 対して信乃逗はどうだろうか?

 

 

 

 信乃逗には刀を振るうことにそんな大層な理由などない。鬼を狩れば狩るほど、その行為に信乃逗は虚しさしか感じることができない。鬼の首をはねることに意味を見出せなくなってきている。

 

 

 笑顔だってそうだ。

 

 

 あの夜から信乃逗は昔のように笑うことが難しくなってしまった。今までどうやって笑っていたのか、分からなくてなってしまったのだ。

 

 

 そうであるなら無理に笑っている必要など本当はなかったのかもしれない。

 

 

 ただそれでも信乃逗は、記憶の中にいるいつも笑顔だった家族を消したくなかった。

 

 

 家族はもう笑うことすら出来ない。なのに生き残った信乃逗まで笑うことが出来なくなってしまったら……それはまるで本当に家族が消えてしまうような、家族が笑顔でいたことすら、ただの幻になってしまうような、そんな恐れにも似た感情が彼の中にはあった。

 

 

 だからそれが例え張りぼての笑顔であったとしても、例え誰かに嘘の笑顔だと指摘されようとも信乃逗は笑顔でいたかった。最期のその瞬間まで微笑んでいた姉のちよのようにいつまでも笑っていたかった。

 

 

 しかし最近はそんな想いにも少し疲れてしまった。頑張って笑うのは思いの外難しい。信乃逗にはもうあの夜までどうやって笑っていたのか、上手く思い出すことすらできない。

 

 

 

「……結局さ。俺もきっと、あの時に壊れちまったんだろうな」

 

 

 

 月の光を、眩しそうに眺めながら目を細めて信乃逗(しのず)は静かに呟く。

 

 

 

 家族を喪ったあの日に

 

 

 幸せが壊れたあの日に

 

 

 姉を殺したあの時に

 

 

 信乃逗も、彼の想いも、きっと壊れてしまったのだ。

 

 

 

 

 果てのない諦観にくれたように月をぼんやりと信乃逗は眺める。

 

 

 

 

 

 その時だった。

 

 

 

 不意に信乃逗の視界が暗くなる。優しい月の輝きが真っ暗な暗闇に包まれ、同時に彼の体をふわりと暖かい感触が撫でて、甘い匂いが彼の鼻腔をくすぐった。

 

 

 

(……あれ?)

 

 

 

 月を見上げていた信乃逗(しのず)の頭を真菰(まこも)が優しく抱きこんだのだ。

 

 

 

 まるで壊れ物を扱うかのように、そっと優しくその胸に信乃逗の頭を包み込んでいた。

 

 

 

「壊れてなんかないよ……信乃逗(しのず)の想いはちゃんとここにある。信乃逗はお姉さんを殺してしまったことを悔いているんだね……その想いは確かに忘れちゃいけない、大事なものだと思う。……だけどそれとは別に、信乃逗が忘れちゃいけない大切な想いもある」

 

 

 

 突然の真菰(まこも)の行動に信乃逗(しのず)は呆然とその思考を止めてしまう。あまりにもとっぴな真菰の行動に理解が追いつかず自分が一体何をされているのかすら彼には分からなかった。

 

 

 

「それはね……信乃逗(しのず)が本当はお姉さんを殺したくなかったんだっていうこと」

 

 

「…………っ」

 

 

 

 ただ、続いて真菰の言葉に信乃逗は思わず息を呑んでしまう。

 

 

 思考が追いつかず止まってしまった頭の中に、真菰の言葉がすんなりと入り込んでくる。

 

 

「信乃逗がお姉さんに刀を振るったのは鬼が悪だからじゃない。鬼になったお姉さんがそう願ったから、信乃逗は刀を振るったんだよ。……信乃逗はただ、お姉さんの願いを想いを守ったんだよ。誰かを傷つけたくない、家族を食べたくない、信乃逗を傷つけたくない。……そんなお姉さんの優しい想いを信乃逗は守ったんだよ」

 

 

 

 そこまで聞いて信乃逗(しのず)は、ようやく自分が真菰(まこも)に抱き締められているのだということに気付いた。

 

 

 

(そんなものは……)

 

 

 

 理解が追いつくと同時に真菰(まこも)のいう言葉に信乃逗は咄嗟に反論しそうになる。彼女の言う言葉は結局のところ詭弁だ。そんなのはただの綺麗ごとでしかない。ただの慰め、いや慰めにもならない同情の言葉だ。

 

 そう否定しようとする心とは裏腹にその言葉を信乃逗(しのず)は口にすることが出来なかった。

 

 

 口が上手く動かないのだ。

 

 

 まるで喉の奥に蓋でもされてしまったかのように、信乃逗はその思いを声にすることが出来なかった。

 

 

「……信乃逗(しのず)のお姉さんは凄い人だね。今まで鬼になってしまった誰もが我慢できなかった鬼の血に信乃逗のお姉さんは抗ったんだね。……本当に凄い、立派で優しい人だったんだね」

 

 

 それはまるで幼子をあやすかのようにゆったりとした口調で優しく信乃逗(しのず)の頭を撫でながら真菰(まこも)は言葉を紡いでいく。

 

 

 紡がれたその言葉に信乃逗(しのず)は目を大きく見開いて固まった。信乃逗が自らの過去を語ったことは殆どない。唯一、自らの師である育ての男に語ったことはあるが、「彼は鬼は殺さないければならない」、「仕方ない」とそう言うばかりでちよのことを鬼としてしか見てはくれなかった。

 

 

 だが真菰はいま、信乃逗の姉を凄い人なんだと、立派な人だったんだとそう言ってくれた。ちよを人として見てくれた。鬼ではなく、人の心のままに逝った姉を信乃逗は初めて誰かに認めらた気がしたのだ。

 

 

 

「……あぁ…姉さんは、凄い人だったんだ。……優しい人だったんだ」

 

 

 信乃逗の脳裏に指が腕に食い込むほど力を込めて自身の体を抱きしめていた姉の姿が思い起こされる。

 

 

(鬼じゃない。……姉さんは最後まで人の心を忘れてなんていなかった。姉さんは鬼と、鬼の血と最期まで戦ってたんだ)

 

 

 

 気が付くと一滴の雫が信乃逗(しのず)の頬をつたって落ちていく。

 

 

「ねぇ、信乃逗(しのず)は……お姉さんを殺したくなんてなかったんでしょ?」

 

「……あぁ、ころしたくなかった。……だけど、俺がやるしかなかったんだ。それが、姉さんの願いだったんだ……だから……」

 

 

 あの時のちよの願いは死ぬことで、それを叶えることが出来るのは信乃逗しか居なかった。他の誰にも、彼女の願いを叶えることは出来なかった。

 

 

 でも、信乃逗は本当はそれを叶えたくなんてなかった。実の姉を殺すことを望む筈がない。あんなことになるまで側にいるのがあまりにも当たり前だったから、気付かなかったのだ。

 

 

 

 1人になるのがこんなにも寂しくて辛いことだと、信乃逗は知らなかった。

 

 

 

「なら、信乃逗(しのず)はお姉さんを殺してしまったことだけを無理に肯定なんてしなくていいんだよ。……信乃逗は鬼だからお姉さんを殺したんじゃない。鬼になったお姉さんがそう願ったから、それを叶えたんだよ。……お姉さんの願いを叶える為に泣きたいくらい辛かったのに頑張ったんでしょう。ずっと我慢してたんでしょう?」

 

 

 真菰(まこも)の労うようなその言葉が、信乃逗(しのず)の嘗ての記憶を刺激する。

 

 

 

信乃逗(しのず)、よく頑張ったね。……姉さんは嬉しいよ』

 

 

 

 昔、ちよが珍しく信乃逗を褒めてくれるときも、こうして今の真菰(まこも)のように優しく頭を撫でてくれた。いつからか思い出せなくなっていた幸せだったあの頃の記憶が次々と溢れて信乃逗(しのず)の心をじんわりと暖めていく。

 

 

信乃逗(しのず)は自分の想いが分からなくなっていただけ。……だから信乃逗は壊れてなんかないし、信乃逗が振るった刀も、間違いなんかじゃない。だって、大切な人の優しい想いの為に信乃逗は頑張っただけなんだから」

 

 

 

 

 

 ——— 私が間違いだなんて言わせないよ

 

 

 

 

 

 真菰(まこも)がかける優しい言葉で信乃逗(しのず)の視界はどんどんと滲んでいく。まるで堰をきった水門のようにとめどなく溢れる涙が、信乃逗の頬を次々とつたっては落ちていく。

 

 

(あぁ……俺は間違いじゃないって間違いじゃなかったんだって……誰かに言って欲しかっただけだったのか……)

 

 

 

『ありがとう、信乃逗(しのず)

 

 

 姉の最期の言葉が信乃逗の脳裏に甦る。

 

 

(……姉さん、俺は貴方に……生きて欲しかった)

 

 

 その夜、長い間道に迷っていた孤独な少年は月の光に照らし出された1人の少女の腕の中で静かに涙を流し続けた。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想頂けますと幸いで御座います!

真菰ちゃん神回で御座いました!
書いててめちゃくちゃ楽しかったです(≧∇≦)
次回も是非お読みいただけますと幸いです!


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変化

お久しぶりで御座います!
一週間ぶりの投稿になります!


「……それで?今度は一体どんな言い訳を聞かせてくれるんですか?雨笠(あまがさ)君、私、言いましたよね。まだ、激しい鍛錬はしないでくださいって?聞いていなかったのですか?それとも理解できなかったとでも?」

 

 例の如く額に青筋を浮かべたしのぶは目の前で腰を抜かしたように座り込む信乃逗(しのず)に向けて満面の笑みでそう微笑む。

 

 

「ひぃぃー!ち、違うんですよ。しのぶさん、これはそう!血の巡りを良くするための準備運動っていうやつでして!……けっけして、その、激しい運動では……」

 

 

 背景に炎炎と燃え盛る豪火を宿したようなしのぶの微笑みに信乃逗(しのず)は悲鳴を上げながら後ずさって、必死の形相で言い訳を始める。

 

 

「……木の枝から木の枝に飛び移るのは貴方にとっては準備運動で、そのあとに岩を持ち上げるのも貴方にとっては激しい運動ではないと?

 そうですか、そうですか……いいでしょう、それほど血の巡りを良くしたいというのなら私が巡らせてあげますよ」

 

(ギャーー!!)

 

 

 信乃逗(しのず)の言い訳を聴きながら、下を向いてぷるぷると震えていたしのぶが再び顔を上げたその表情を見て、信乃逗は心の中で絶叫した。ちゃきりと懐から小刀のようなものを取り出して、鞘から抜き放ったしのぶが、地獄のような荒地を背景に浮かべて微笑みながら歩んでくるその姿は、さながら地獄の王とも言われる閻魔の様相を呈していた。

 

 

「待って!?しのぶさん待って!?巡りませんよ!?それで斬られたら巡るもんも巡らないですから!?どこまでも流れていくだけですから!!」

 

「どんな川の流れにも終わりはあるものです。大丈夫ですよ。……そのうち止まりますから」

 

「大丈夫じゃねーよ!?なんの安心感もないから!?血の流れと一緒に鼓動も止まっちゃってるから!?」

 

 

 そんな死の漫才を繰り広げる2人を屋敷の廊下から真菰(まこも)は静かに見つめる。あの夜から6日程経ったが信乃逗(しのず)は前と全く変わらずにいつも通りしのぶさんの怒りを買っている。よくもまあ、懲りもせずに毎度毎度しのぶさんの怒りを買えるものだが、今回のような無茶をして信乃逗が怒られるのは久しぶりだ。

 

 あの夜以降、信乃逗(しのず)から感じていたあの危うげな雰囲気はすっかり見えなくなっているし、夜な夜な寝台を抜け出しては焦って無理な鍛錬をするようなこともなくなっている。見かけにははっきりとした変化は見えないが、きっとあの日に流した涙で、彼の中の何かが変わったのだろう。失った幸せを切望し、家族を殺した鬼を憎み、姉を殺した自身を責め、己の振るう刀にずっと疑問を抱き続けてきた彼が今、少しずつ、その想いに自信を取り戻しつつある。

 

 何より、笑顔が変わった。全てではないが、彼が浮かべる笑顔に自然な感じが少しずつ、しかし確実に増えている。少しずつでもいい、いつか信乃逗(しのず)が本当に心の底から笑える日がきっとくる。それが少し、真菰(まこも)には楽しみだった。真菰がしのぶに怒られている信乃逗の様子を少し微笑ましく思って、見ているとふと、彼と目が合った。

 

 そう認識した次の瞬間には信乃逗(しのず)はなぜか焦ったように顔を逸らしていた。その動作に真菰(まこも)は首を傾げる。

 

 

(まただ……どうしたんだろう?)

 

 

 よくよく考えてみると、彼は最近こういう謎の動作が少し増えているように思う。自分と目線が合うと信乃逗(しのず)はいつも慌てたように目を逸らす。どうにもそんな気がするのだ。しのぶさんや他の人達とは目を合わせて喋っているのに、何故か自分とは合わせない。自分に何か思うところでもあるのだろうか?

 

 真菰(まこも)の抱いた疑念は概ね正解である。

 

 あの夜以降、信乃逗(しのず)はまともに真菰の目を見ることが出来ないでいる。彼女の目を見るとどうしても思い出してしまうのだ。優しく抱きしめて頭を撫でてくれた彼女を、その彼女の腕の中で涙を流し続けてしまった自分の醜態を。

 

 

(無理!!普通に無理!!恥ずかしいわ!)

 

 

 信乃逗(しのず)真菰(まこも)より年齢こそ上だが未だ思春期真っ盛りの少年だ。そんな少年が年下の少女の腕の中で頭を撫でてもらいながら幼子のように涙を流したのだ。こうなるのはある意味必然と言ってもいい。以前と同じように彼女をみることなど信乃逗にできるわけがないのだ。

 

 

 だが、そんな信乃逗(しのず)の気持ちに真菰(まこも)は全く気付いていない。故に、彼女は変わることなく以前と同じように信乃逗へと接してくる。

 

 

 そこでようやく信乃逗(しのず)は気づいたのだ、この少女は自分に対して異様なまでに距離間が近いということに。心理的な距離間はもちろん、物理的にも、彼女は随分と信乃逗との距離が近い。ふと振り返れば目の前に真菰(まこも)の顔があったなんてことはもはや数えきれないほどあった。しかも誰に対してもという訳でもない、信乃逗以外の隊士達と話す時などはしっかりと適切な距離間を保っている。

 

 この事実に気付いた時、信乃逗(しのず)は顔を真っ赤に染め上げてなんとか距離を離そうとしたのだが、それに気付いた真菰(まこも)が少し悲しそうな表情を浮かべて

 

 

「私、何かしちゃった?」

 

 

 なんて聞いてくるものだから、あまりの罪悪感に信乃逗(しのず)は一瞬で離した距離を元に戻した。

 

 

 真菰(まこも)の目を見ていられない。真菰の顔を見るたびに信乃逗(しのず)の脈が早くなる。真菰と会話する度に心が暖かくなる。

 

 信乃逗(しのず)は自身の異変がただの恥ずかしさからきているものだと思い込もうとしているが、当然それだけではない。長年彼が溺れ続けてきた暗い泥沼の中から真菰(まこも)は手を伸ばして救い上げてくれたのだ。

 

 信乃逗(しのず)の心は真菰(まこも)によって救われたのだ。なら、彼女に信乃逗が懸想するのもある意味では無理からぬことだろう。

 

 だが彼にとってこの気持ちを認め受け止めることは簡単なことではない。確かに信乃逗(しのず)は少しずつ変わってきている。しかし彼は数年以上もの間自身の本当の気持ちをずっと虚勢と願望で塗り潰してきたのだ。

 

 そんな状態でいきなり恋愛などという大きな感情を素直に表現しろというのはいくらなんでも酷というものだ。

 

 

 

 そんな信乃逗(しのず)の変化には、蝶屋敷の面々も当然気付いている。というよりは他から見ていても信乃逗の態度は非常に分かり易い。

 

 

 今もしのぶの目の前で信乃逗はあからさまに真菰(まこも)から目を逸らしているし、はっきりと見て分かるほどに顔を赤く染め上げているのだ。これで気付かぬ方がどうかしているというほど分かり易いというのに、全くと言っていいほどに真菰は信乃逗の想いには気がついていない。

 

 真菰(まこも)信乃逗(しのず)の異変にこそ気付いている様子だが、首を傾げるばかりで自身に向けられるその想いに気付く様子はない。

 

 

(……なんて焦ったい光景)

 

 

 これが眼前で繰り広げられるあまりにも初々しい光景を見て抱いたしのぶの感想である。

 

 はっきり言えば背だけ高い子供が、目の前に突然現れた得体の知れないものをちょんちょんとおっかなびっくり突き続けているようなものなのだ。それだけ聴けばほんわかするような心和む光景に思えるだろうが、それが四六時中永遠と目の前でくり広げられるのだ。しのぶとしてはいっそ後ろから突き飛ばしたい気持ちすら感じている。

 

 一方、カナエなどはこの光景を見てもいつも通り背景にほんわかとした花畑を浮かべながら

 

「あらあら、初々しくて素敵ねぇー」

 

 

 などと言って微笑みながら見守っているが、物にはいくらなんでも限度というものがある。なにより、しのぶはこの2人の場合見守っているだけでは全く持って関係が進展する気がしないのだ。

 

 

(だいたいこういう時は男の方がもうちょっと積極的になるものでしょうが!)

 

 

 普段の様子からは想像もできないほど奥手な様子を見せる信乃逗(しのず)の姿にしのぶは苛立ちを禁じ得ない。

 

 何よりも自分達は鬼殺隊の隊士だ。今でこそこうして彼らも毎日を穏やかに過ごしているが怪我が完治してしまえば明日を望めるかも分からない激闘の日々に再びその身を投じることになるのだ。

 

 この蝶屋敷は鬼殺隊の医療所となってまだ数年と経っていない。けれどその数年で、しのぶがこの屋敷で最期を看取った人は決して少なくはない。

 

 鬼との戦いにおいて遺体が残るのであればそれはまだいい方だ。鬼殺隊が日々失っていく仲間の多くは遺体すら残らないのだから。今日隣で笑っている人が明日にも同じように笑っていられるとは限らない。むしろこの鬼殺隊では生きて朝日を拝ることの方が圧倒的に少ないのだ。

 

 だからこそ、彼らは1日1日を大切に過ごさなくてはいけない。伝えたい想いがあるのなら、それを伝えることを躊躇っていてはいけない。いつでも相手に想いを伝えることができる訳ではないのだから。

 

 

 

 しのぶが一計を案じようと考えたのはそんな理由からだった。

 

 

 

 動きたいと言っていた信乃逗(しのず)にはちょうどよく、真菰(まこも)と信乃逗のこの関係性が進展する可能性のある……とある策を。

 

 

 

雨笠(あまがさ)君、そんなに動きたいなら一つ提案があるのですが……少々お使いに行ってきてくれませんか……真菰(まこも)さんと一緒に」

 

「……はい?」

 

 

 

 無論、しのぶのこの提案を信乃逗(しのず)が拒否することなど、当然出来ない。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
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鬼狩りの休み

 

 

 

 —— 逢瀬(おうせ) ——

 

 

 主にお互い恋愛感情を抱く男女と2人でひとめを忍んで過ごす時間をそう表現するそうだ。まあ、お互いに恋愛感情を抱いてる訳でもないし、お使いと言われたその時間にも少なくとも当てはまるものではないのだが。

 

 

「………」

 

「………」

 

 

 町が賑わいを見せ、多くの人々が行き交う市場を1組の男女が会話もなく黙々と歩いていた。

 

 信乃逗(しのず)はひたすらにしのぶから渡された覚書を見るふりをしながら、ちらちらとその視線を忙しなく動かす。その視線の先にいるのは無論真菰(まこも)だ。だがその姿は、普段信乃逗が見ていた隊服姿の真菰ではない。

 

 真菰(まこも)は今、いつもの隊服ではなく可愛らしい綺麗な花柄の着物を着て、さながら商家の娘のような格好で信乃逗(しのず)の隣を歩いているのだ。

 

 何故普段の隊服姿ではないのか、ということの始まりは、しのぶさんに頼まれて蝶屋敷を出るところまで戻る。覚書を持って、2人がさぁ出掛けるぞという時、一体どこから聞きつけてきたのか突然現れたカナエ様に、隊服で出掛けるなど言語道断だと、2人揃って着替えさせられたのだ。

 

 最初は着替えなどないし、これでいいと真菰(まこも)信乃逗(しのず)は拒んでいたのだが

 

「あらあら、折角真菰(まこも)ちゃんが着飾るっていうのに隊服のままだなんて、…雨笠(あまがさ)君は女の子に恥をかかせたいの?」

 

 と珍しく、静かな怒りを顔に浮かべたカナエの様子に結局信乃逗(しのず)は首を縦に振るしかなかった。真菰(まこも)に至っては、もはや拒否など聞こえないというかのように、問答無用で首根っこを掴まれてずるずると廊下を引きづられて連れ去られて行った。

 

 そうして着替えを終えた信乃逗(しのず)は、玄関先で真菰が来るのを待っていたのだが、なかなかに時間がかかる。

 

「待たせてしまってごめんなさいね、雨笠(あまが)君」

 

 僅かに響く足音と聞こえてきたカナエの声に、やっときたのかという心境を顕にして振り返った信乃逗(しのず)は、真菰(まこも)の姿をその視界に捉えた瞬間、体に雷が落ちたような衝撃が走り去っていくのを感じた。まるで一瞬時が止まってしまったかのように、着飾ったという真菰の姿に信乃逗は目が離せなくなった。

 

「… 信乃逗(しのず)?どうかしたの?」

 

 振り返った信乃逗(しのず)が唖然としたように口を開けて固まるその様子に真菰(まこも)は首を傾けて尋ねる。その様子が信乃逗へと更なる衝撃を与えていく。

 

「な、なんでも、ないよ、…行こう、か」

 

「あらあら、これはしょうがないわねー

 頑張ってちょうだいね。雨笠(あまがさ)君」

 

 息も絶え絶えの様子でそう告げる信乃逗(しのず)を見て、首を傾げる真菰(まこも)とは対象的に、カナエは喜びのあまり口に手を当てながらそう呟く。こうして蝶屋敷を出掛けてきた訳だが、そんな様子で出掛けてきたものだから、ここに至るまで信乃逗は真菰を一度として直視できないでいるという訳だ。

 

(可愛すぎる!!何、これ、もうどうすれば良いわけ!?)

 

 蝶屋敷を出てからというもの、真菰(まこも)を一瞬視界に収める度に信乃逗(しのず)はこの思考を永遠と繰り返し続けていた。視界に入れるだけでこの有様なのだ、会話に至っては

 

信乃逗(しのず)、周る店が多いから、大きいものは後で買いに行こう」

 

「…わかった」

 

 以上である。

 

 蝶屋敷からここまで少なくとも30分以上は歩き続けていながら、両者の間で行われた会話は僅かにこれだけ。信乃逗(しのず)に至ってはたったの4文字しか口に出していない。

 

 ある意味で奇跡的な状況だ。少なくともしのぶが望んだような展開には一切、発展していない。

 

 だが、そんなあからさまに様子の可笑しくなっている信乃逗に、真菰が気がつかない訳もない。彼は先程からやたらと視線を自分に向けてくる割には、全く声を掛けてくる様子もない。

 

(もしかして体調があまり良くないのだろうか?)

 

 しのぶやカナエからは信乃逗(しのず)の様子をあまり気にしないようにことづけられているが、怪我が完治していないのだからそういう訳にも行かないだろう。それにいくらなんでも先程からの挙動は少々不審に過ぎる。

 

「ねぇ信乃逗(しのず)、さっきから様子がおかしいけど具合が良くないの?」

 

「えっ、可笑しいか?」

 

 どうやら彼には自覚がなかったようだ。あるいは隠せていると思っていたのだろうか。どちらにせよ、いつもの信乃逗(しのず)らしくないことに変わりはない。

 

「うん、誰が見ても可笑しいと思う」

 

「えっと、…そうか、すまん。体調は悪くはないんだ、その、なんというか」

 

 少し気まずそうに信乃逗(しのず)は体調は悪くないと主張するが、真菰(まこも)としてはとてもそうは思えない。少なくとも様子が可笑しいのは間違いない。実際、口調は辿々しいし、その内容も要領を得ない。良く見ると体温も高くなっているのだろうか、そこはかとなく顔も赤いような気がする。

 

「そこにちょうど甘味処があるから、ちょっと休もっか。久しぶりの人混みでちょっと疲れたのかも知れないし」

 

 真菰(まこも)信乃逗(しのず)の体調をそう気遣って甘味処(かんみどころ)へと足を向けて歩いていく。

 

「お、おい、真菰(まこも)!俺は大丈夫だって!」

 

(…頑固だなぁ)

 

 どう見ても大丈夫じゃないのに、なおも問題ないといい張る信乃逗(しのず)を無視して真菰(まこも)は甘味処へと入っていく。

 

 

 

 

 甘味処に入った2人は暖簾(のれん)の下にある長椅子に腰をかける。

 

「おばちゃん、みたらし団子2つ、お願い。」

 

 慣れた様子で注文する真菰(まこも)の様子に信乃逗(しのず)は少し驚いた。彼女はあまりこのようなやり取りが好きではなさそうに見えるのだが、存外に手馴れた様子だ。そういえば、この前の任務の時にも、1人で村での聞き取り調査を行っていた訳だから、人が苦手というわけではないようだ。その割には他の隊士とは随分と距離をとって話をしているようだが。

 

「手馴れてるけど、真菰(まこも)はこの店に来たことがあるのか?」

 

「何度かね。しのぶさんの買い出しのお手伝いをしたことがあって、その時にいつも立ち寄ってたんだ。」

 

 なるほど、どうやら、自分の知らないところで既に真菰(まこも)は屋敷を何度か外に出ているようだ。

 

 (あゆみ)に随分と迷いがないとは思っていたが、それならば迷わずに市場まで来れたのにも納得だ。自分はずっと篭りっきりだったし、元々村の出身だからあまり市場の喧騒にはどうにも馴れない。体の具合が悪いわけではないが、そういう意味では確かにこういう場所での休憩はありがたかったかも知れない。

 

 だが問題もある。一体ここから先何を話せばいいのか、そもそもどうやって会話をすればいいのか。その道筋がとんと経たない。何か話すべきなのだろう。しかし、どうすればいい、今どういう話題が流行っているのかなど鬼殺に明け暮れていた信乃逗(しのず)にははっきり言って全くわからない。

 

 そもそも女性と2人で甘味処に入ること自体が信乃逗(しのず)にとっては初めての経験なのだ。何か身近な話題で、真菰(まこも)と話せる内容。チラリと横目で真菰の姿を見遣る。だが結局すぐさま目線を正面へと戻すことになる。姿を直視するだけで心臓がとてつもなく早くなるのだ、いっそ何かの病気ではないかと疑いたくなるほどだ。

 

 そして何故よりにもよって今日の服装がいつもの物と違うのだろうか。隊服であればもう少し増しな対応が出来たと思うのだが、平時でさえ目を合わせるのにも苦労しているというのに、こんな綺麗な格好をされてしまうともはや姿を視界に入れるのですら一苦労である。

 

 そこでふと彼女の今日の装いの中に一つだけ普段と同じ物をつけている所があることに思い至った。

 

真菰(まこも)はいつもそのお面を付けてるな?」

 

 そう、お面だ。彼女がその頭に必ずと言っていいほど付けている狐を象ったそのお面を、当然のように今日も頭につけている。狐面の左頬には綺麗な青い花が描かれていて、今日の装いにもとてもよく似合っている。というより普段の彼女の隊服姿よりもきっと此方の方が似合っている。鬼殺の任務でも付けていたことから、おそらく彼女には余程大事なものなのだろうが。一体どのような思い入れがあるのか、少しだけ気になった。

 

「あぁ、うん、このお面はね。厄徐(やくじょ)のお面っていうの。私の育ての人、鱗滝(うろこだき)さんがくれた、とても、とても大切なお面なんだ」

 

 案の定、彼女にとってこの話題は花が咲かせやすい内容だったようだ。嬉しそうに微笑みながらお面に手を当てる彼女の様子に信乃逗(しのず)は再び顔に熱が上がってくるような感覚を覚える。

 

 厄徐(やくじょ)の面、厄を祓うための手彫りの面、育ての者が合格時や選別時に弟子に贈り物をすることは、多々あることだが、彼女の反応を見るに、それはどうやらただの贈り物ではなく、真菰(まこも)にとって失くしがたいようなとても大事な贈り物のようだ。

 

鱗滝(うろこだき)、その人が初めてあった時に言ってた大切な人なのか?」

 

 確か最終選別の時も、彼女は同じようなことを言っていたな。今なら問題ないだろうが、当時の彼女では敵わないような相手に正面から向かって行く有様には、流石の信乃逗(しのず)も慌てたものだ。例え死んでも殺すと言うような、そんな空気すら感じさせるほどの無謀な特攻を見せてくれた訳だから、おそらく今でも相当にあの鬼には怒りや憎しみがあるのだろうが、あの時の真菰(まこも)は今の真菰からは想像もつかないほど激情に駆られた様子だった。普段冷静な真菰がそこまでするほど何よりも大切な存在、それが鱗滝(うろこだき)という人なのだろう。

 

「そうだよ。私、鱗滝(うろこだき)さんが大好きなんだ。孤児だった私を見つけて、育ててくれた。私の、お父さんみたいな人、かな?」

 

「なんで疑問系なんだ?」

 

「うーん、…鱗滝(うろこだき)さんは確かに私を大事に育ててくれた。でも、血の繋がりもない私がお父さんって呼んでもいいのかよく分からなくて」

 

 真菰(まこも)は僅かに顔を曇らせて俯いた。自分は確かにあの人に育てて貰った。まるで本当の家族のように、娘のように愛情を注いでくれているのだと思う。いや、そう思いたいのか。決して直接聞いた訳ではないし、そう呼んだこともない。お父さんと呼びたい気持ちはある。でも、もし拒絶されたら?

 

 きっと鱗滝(うろこだき)さんはそんなことは言わない。それはもちろん分かっている。だけど、怖い、不安なのだ、そうなったらと思うと、どうしてもその一歩を踏み出せない。

 

 

「…真菰(まこも)って変なところで臆病だな。」

 

 

 少し呆れたようにそういう信乃逗(しのず)の態度に流石に真菰(まこも)もムッとしてしまう。

 

 

「あのな、家族っていうのは血縁者を指す言葉じゃないんだぞ。血の繋がりがあるかないかなんて家族って言う言葉の前じゃ些細な差でしかない。その鱗滝(うろこだき)さんって人が真菰(まこも)をずっとこれまで育ててくれたんだろ?なら、真菰のお父さんはその鱗滝さんって人なんだろ。」

 

 確かに、家族とはそういう言葉なのかも知れない。でも、それは真菰(まこも)鱗滝(うろこだき)が家族であると自信を持って言える根拠のある言葉ではない。増して、彼は鱗滝(うろこだき)さんを知らないのだ。知らない人間のことをどうしてそうも断言出来る?

 

 信乃逗(しのず)の言うことは結局のところ、きっとそんなことはないというという根拠のない励ましの言葉でしかない。これでは真菰(まこも)の不安が消えることはない。

 

「それに、優しい真菰(まこも)がそんなに大事に想う人なら、その人はきっと凄く優しい人なんだろう」

 

 誤魔化すように笑顔を浮かべようとした真菰(まこも)は、続いた信乃逗(しのず)の言葉に、それがとんでもない勘違いであることを思い知った。

 

 あぁ、彼は知りもしない誰かを信用したんじゃない。目の前にいる私を信じてくれていたんだ。不安に考えるあまり、彼の優しい思いやりを勘違いしてしまった。

 

 

「俺もその人に感謝しないとな、こうして俺が真菰(まこも)に逢えたのもその鱗滝(うろこだき)さんが真菰を見つけてくれたお陰ってことだもんな」

 

 

 —ドキッ—

 

 まるで陽の光を浴びているかのような暖かさを感じさせる彼のにっこりと無邪気に微笑むその姿に、不思議と胸が高鳴った。

 

(あれ?…なんだろう、これ?)

 

 ふいに顔が熱くなるような感覚が込み上げてくる。今の彼の微笑みは、無理に彼がつくったものじゃない。本当に心の底から出た笑顔だった。まるで自分に逢えたことが、とても嬉しいことのように表現してくれる彼の様子は、とてもつい先日自分の腕の中で涙を流していた人と同じ人物には見えなかった。

 

 何故だろうか、呼吸を使った訳でもないのに普段より鼓動が大きくて、少し速い。真菰(まこも)には、この時自身が抱いた想いの正体がよく分からなかった。だけど、信乃逗(しのず)のこの言葉は真菰の中に確かに残った。

 

「あ、いや、その、一期一会ともいうしな!」

 

 自分の言った言葉が急に恥ずかしくでもなったのか、慌てた様子で言い始める信乃逗(しのず)の姿が少し可愛くて、可笑しくて、つい笑ってしまう。こんな風に私を信じてくれる人がいる。その人が大丈夫だと言ってくれるのだから、自分も応えないといけない。

 

 少し、ほんの少しだけでも一歩を踏みだす勇気が持てたかもしれない。

 

信乃逗(しのず)、ありがとうね」

 

 満面の笑みを浮かべて礼をする真菰(まこも)に、ボンっと破裂するかのような音をさせて、信乃逗(しのず)は急激に顔を真っ赤に染め上げると、そっぽを向くようにして「お互い様だ」と小さく呟いた。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
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真菰ちゃん神ー!!です!


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第2幕
胡蝶家の娘達


錆兎様は仏です(°▽°)


 

 

 ある日の夜、日中に世界をぎらぎらと照らし続けた太陽に変わって、今日も月と星々のほのかな光が大地へと注がれる。その静かに世界を色付ける淡い光はある種の優しさすら感じさせてくれる。

 

 

 だというのに、今日も世界の夜には優しさなどまるで感じることのできない、悲惨で残酷な嗤い声が響渡っている。

 

 

 

「ひゃっはっはっは!!こんなもんかよ!鬼狩り様よ!!」

 

 

 

「あがっ、はぁはぁはぁ」

 

 

 負けられない、負けらないんだ、僕は必ず鬼を、この世から消すんだ。誓ったのだ。死んだ家族に、殺された妹に、もう2度とこんな悲劇を起こさせないと、なのに、なのに、どうして身体が動かない!

 

 

 策はあった。油断していた鬼の頭上からの奇襲、それ自体は成功した。鬼は心底驚愕していたし、気づいた時には随分と慌てていたものだ。

 

 だがそこで、この作戦の要である鬼の首を断ち切ることができなかったのだ。振り下ろした刃は鬼の首の半ばで止まりそこから振り抜くことができなかった。

 

 目の前で自身の急所に刃を突き立て、今まさに振り抜こうと力を入れている人間を鬼が黙って見ているわけもない。一瞬で殴られ、蹴られ、裂かれ、内臓に至るほどの深い裂傷を受けて、少年は弾き飛ばされるように地面を転がっていく。そうして今の状況に至るわけだ。

 

「残念だったなぁ、首を斬れなくて。噂の鬼狩り様とやらも、やっぱり所詮は人間だなぁ。人間が鬼に勝てる訳がないんだよ。無駄な努力を御苦労さんだったなぁ」

 

 にったりと口元を歪めて嗤う鬼が涎を垂らしながら、仰向けに倒れ込んだ鬼狩りの少年へと近づいていく。悔しい、そう思う少年の目元からは涙が溢れた。僕の努力は無駄だったのか?僕の誓いは、想いは果たされないのか?

 

 家族を殺されてからずっと鬼を殺すためだけに刀を振るってきた、なのに届かない。どれだけ努力しようとも結局自分の刃は目の前のただの鬼にすら届くことはなかった。

 

 輝く月と星を見上げるように仰向けに倒れた少年の心に絶望の暗雲が広がっていく。

 

 

 — (から)の呼吸 壱ノ型(いちのかた) 震葬(しんそう)

 

 

 突然空気が震えた。そう錯覚するような振動が倒れた少年へと伝わる。そして、その振動を受けたその時、こちらに歩いてきていた鬼の体にはもう首がなかった。

 

「どうせ死ぬのに無駄に人間殺してんじゃねぇーよ、鬼っころが」

 

 

 いつの間に現れたのか、次いで聞こえたその声の主の姿を見て少年は安堵の息を吐いた。白く長い髪を後ろ手に縛った自分とそう歳の変わらない少年が身に纏った黒い服装に滅の1文字、鬼殺隊の隊士だった。

 

 

 

 

 

 

「…喋れるか?名前が言えるか?」

 

 

 間に合わなかった、眼下で無残にも内臓を引き裂かれ、息も絶え絶えの様子の1人の隊士を見て信乃逗(しのず)は静かに目を伏せる。

 

 

「っ…ゴホッ、なり、た、…けい、いち…」

 

 

「…けいいち、何か言い遺すことはあるか?」

 

 

 臓器にも達しているその傷は深く、このような山中ではどうやっても彼を救うことは出来ないだろう。なら、自分にできることは死に行く彼を見守り、その最期の言葉を聞き届けることだけだ。

 

 

「はぁはぁっ…お、にを、…ころし、てっ…もう、っだれも、くわ、れないように……どう、か…ど、う、か…」

 

 

「…あぁ、鬼は必ず殺す。鬼に人を喰わせたりはしない。お前の想いは消えはしない、必ず俺が持っていく。だから安心して眠れ」

 

 

 信乃逗(しのず)の言葉が聴こえたのか、苦しんでいた少年の表情がほんの少しだけ、安堵したかのような、ほっとしたようなそんな表情に変わった。そしてそのまま、少年はゆっくりと瞼を閉じると静かに息を引き取った。

 

 

「…けいいちさんの死亡報告を頼みます。俺は、次の任務に向かうので」

 

 

 月の光に導かれるように、夜の闇の中で長い眠りについた少年から目を離すことなく、信乃逗(しのず)は後ろからやってきた隠しの者たちに告げるとそのまま次の任務へと赴く為に走り出す。走るのは当たり前、止まることなど許されない、自分は生きているのだから、約束してしまったのだから。

 

 信乃逗(しのず)の背中に増えていく仲間達の想いの数々が、彼の背中を押し続ける。1人走り続ける信乃逗の姿を月の光は今日も彼を照らし続けた。夜はまだまだ長いのだ。

 

 

 

 

「なるほど、それで連日連夜動きまわって、鬼を倒し続けた訳ですか。…意思は理解出来ますが、それでこのような怪我を負うようでは本末転倒ではないのですか?一体これで何度目ですかね、貴方の治療をするのは?…私も暇じゃないんですよ?分かってるんですか、雨笠(あまがさ)君?」

 

 そう呆れたような、僅かに怒っているような、そんな表情をして信乃逗(しのず)へと治療を施すのは蝶屋敷の裏の主人であり、信乃逗の命の恩人でもある胡蝶しのぶだ。鬼殺の隊士としても働き、同時に鬼殺隊の診療所で医者の役割をもこなす彼女は、かなり多忙だ。それこそ休む暇がないとは彼女にこそ相応しい言葉だろう。 

 

 

「いやぁー、分かっていても止まれない時ってあるじゃないですか。怪我をするのは、えっと、そう!しのぶさんに会いたくて!」

 

 

「…呆れて物も言えないという言葉がよく分かったわ」

 

 

 心底、呆れたと言った様子で、しのぶはそう呟いた。だいたい、この男は何かと慌てると言い訳にこういうことを言うが、意味がわかっているのだろうか。好いている相手がいながら女性を拐かすような発言をするという部分が非常に釈に触るのだが、彼がまた生きて戻ったことに安堵もしている。

 

 自分がこうして同じ人に何度も傷の治療ができるということは彼がそれだけ鬼との戦いで生き残っているということでもある。大抵の隊士達はそもそも助からない。仮に一度治療できたとしても再起不能となるか、回復したとしても次には生きて戻っては来ない。それを考えれば自分の発言が如何に贅沢なものであるかということも分かる。

 

 仕方ないと言った風に信乃逗(しのず)の傷を診ていれば、急に扉の外が何やら慌ただしくなる。

 

「こ、困ります!しのぶ様はまだ診察中でして…あっ!?」

 

「しのぶさん、怪我したから見て欲し、あ、信乃逗だ。久しぶりだね」

 

 入室を止める声にも関わらず急に扉を開けて入ってきた人物はしのぶもそして信乃逗(しのず)もよく知る人物だった。

 

真菰(まこも)さん、貴方もですか。…はぁー、きよ、ここはいいから他の方のところに行って大丈夫よ」

 

 彼女もまたしのぶが何度も診察してきた数少ない人間の1人、いわばこの蝶屋敷の常連だ。しのぶは溜息をついて、真菰の入室を必死に止めていたまだ幼い少女であるきよに大丈夫だという旨を伝える。

 

「…あぁ、久しぶりだな、真菰(まこも)、4カ月ぶりくらいか?」

 

「そうだね、前にあったのは合同任務の時だから、それくらい前だね」

 

 その間にも真菰(まこも)信乃逗(しのず)の2人は再開の挨拶を続ける。しのぶは度々怪我をした真菰と信乃逗を治療することがあったのでよく顔を見ていたが、そういえばこの2人を同時に診るのは随分と懐かしい気がする。思い返してみれば、この2人を最初に診療してからもう半年以上経とうとてしている訳だ。きっと普通は半年程度で長い付き合いとはならないのだろう。だが、この鬼殺隊では半年間もの間、こうして何度も顔を合わすことができるなど、なかなかできることではない。そう思えば、ある意味この2人とも、長い付き合いということになる。自分が治療した人が、こうしてまた元気に再開の挨拶を交わしている様子がしのぶには少し嬉しく感じた。

 

 

「それで、貴方は今度はどこを怪我されたんですか?」

 

 

 一通り再開の挨拶を交わした様子の2人を見て、しのぶは真菰(まこも)へと声を掛けた。見る限り、腕に切り傷のようなものがあるが、それ以外には目立った外傷は見当たらないように見える。

 

「大したことない擦り傷なんだけど、…ちょっと毒を貰ったみたいで、口から血が止まらなくて」

 

「はぁー!?」

 

「なんで平気な顔して歩いてくるんですか!?大したことでしょうが!!すぐにそこに横になってください!!全くもう!!毎度毎度、貴方達2人はもう少し身体を大事にしてください!」

 

 一瞬で、感じた嬉しさを吹き飛ばしてくれる驚愕の発言に、しのぶは怒鳴り散らして真菰(まこも)へと横になるように言い含める。毒を受けておいて何が大したことがないというのか教えて欲しいものだ。そもそも鬼の毒を受けておいてどうして平然と歩いて来れるのか訳が分からない。

 

「えー、俺もですか?真菰(まこも)よりはましだと思うんですけど…」

 

 

「あばらが三本も折れて内臓に刺さってるのに、平然と歩いてここまで来た人が何を仰ってるんですか?馬鹿なんですか?死ぬんですか?いっそ死にます?」

 

 

「なんのおすすめ!?怖いわ!!途中からただの罵倒でしかないじゃん!?」

 

 

「ああ、もういいですから、これから真菰(まこも)さんを診るので早く出て行ってください。ていうか、とっとと寝台で眠ってください。すみ、なほ!」

 

 

 しのぶの大きな呼び声に遠くから、とてとてと小さな足音が2組ほど廊下を走ってくる音が聞こえてくる。

 

 

「失礼します!しのぶ様、お呼びでしょうか」

 

 

 そう言って部屋の扉を開けたのは小さな女の子が2人。言葉遣いはともかく、まだ、幼いその容姿はとても侍女のようには思えない。そういえば先程真菰(まこも)が部屋に入る時にも随分と幼い姿をした少女がいたような気がする。

 

「あのー、しのぶさん?この子達は一体?」

 

「あぁ、そういえば雨笠(あまがさ)君は彼女達と会うのは初めてでしたね。この子達は一月ほど前からこの蝶屋敷で引き取らせて頂いた子供達です。幼いですが、とてもよく働いてくれるんですよ」

 

 

「すみといいます。宜しくお願いします!」

 

「なほといいます。宜しくお願いします!」

 

 

 ひと月前と言うと、ちょうど俺が怪我が治って任務に出た時だろうか。となると、この少女達とはちょうど入れ替わりのようになったということだろうか。

 

 しかし、蝶屋敷に引き取られるということは、それはおそらく普通の慈善活動とは異なる。幼いと言っていたからには見た目通りの年齢などなのだろう。歳の割には丁寧な口調で、尚且つ仕草も普通の村娘とは違って随分と綺麗だ。それはつまりお金をかけて教育を受けているということになる。そんな子供達を蝶屋敷で引き取るということは、おそらくこの子達にも鬼関連で何かあったということだろう。

 

 さりげなくしのぶに視線を向けると、彼女もこちらの意図に気づいたのか、僅かに目を伏せる。信乃逗(しのず)にもそれだけで伝わった。しのぶの反応をみればおおよその予想はつく。彼女達もまた鬼に大切な何かを奪われ、悲しい過去に囚われた者、そして同時にその悲劇に立ち向かう者だ。幼い小さなその背中にきっと傍目には想像も出来ないような過去と覚悟を背負っているのだろう。

 

 ならば彼女達もまた想いを背負う自分の仲間だ。

 

「なほ、すみ、その人を空いている寝台に寝かせて、起き上がれないように縛りつけておいてください」

 

 

「分かりました!」

 

「はい!固定します!」

 

(……はい?)

 

 1つだけ言えることはこの子達に悪気はなかった。ただ幼い子供とは素直なのだ。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想頂けますと幸いで御座います。

少々作中の時間を開けました!
次回も読んで頂けますと幸いです!

真菰ちゃんは神ですので!


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鬼殺の剣士

お久しぶりの投稿です!


 

「それで、信乃逗(しのず)はどれくらいかかりそうなの?」

 

 

 しのぶの治療を終えたらしい真菰(まこも)信乃逗(しのず)が横になっている寝台の脇に座ってそう問いかける。

 

 

「しのぶさんの話だと二週間くらいは安静にしとくようにって話だから、まあ復帰も考えると三週間ってところかな?」

 

 

 

「……あばら三本も折れてたって聞いたけど二週間で良くなるんだ。信乃逗って身体が丈夫なんだね」

 

 

 

 

「いや、毒を食らったのに平然と起きてるお前には言われたくねーよ」

 

 

 

 自分が人外じみた回復力を見せていることはなんとなく分かっているが、毒を受けたと言うのに治療を終えた次の日にはピンピンしてるような奴に言われるのは少々、というよりかなり癪である。

 

 

 昔から傷の治りは早い方だったが、いくらなんでも骨折が二週間で治る程ではなかったと思う。これほど治りが早くなっていることに心当たりがあるとすれば、しのぶさんの用意する薬くらいのものだ。 彼女の用意する薬は相変わらずまずいが、それでも一番最初に飲んだ時よりは随分とマシな味になったと思う。あるいは単に俺が味に慣れてしまっただけなのかもしれないが。

 

 

 

「ていうか、なんでお前は固定されてないわけ?俺、起き上がることすらできないんだけど?」

 

 

「…日頃の行いの差じゃないかな?」

 

 

 なるほどいつも通りと言えばいつも通りだ。だが納得出来ている訳では当然ない。というか普通に容赦がない、俺を縛りつけたあの女の子達は普段とても優しいのだ。何かと体調を気遣ってくれるし、食事も薬も笑顔で運んでくれる。

 

 

 だがしのぶに指示された拘束だけは何を言っても外してくれないし、それどころか夜中に監視されているような気配すら感じる。

 

 

 おおよその検討はつくが、恐らく俺がこれまで何度も寝台を抜け出してきた常習犯だとでも言い含められているのだろう。俺を寝台に縛りつけていく様子など、そこらの隊士にも負けないような見事な捕縛術を披露して下さったわけだから、やはり見た目通りのただの子供ではないのだろうということはよく分かった。

 

 

 

「それで、そっちはどうだったの?応援で向かったんでしょ?」

 

 

 

「まぁな、鬼は狩れたけど、結局要請を入れた隊士の救援は間に合わなかった。…着いた時には手遅れで、虫の息だった。どう足掻いてもあの傷じゃ救えなかったよ」

 

 

 

 きっと彼もまた、鬼に大切な何かを奪われてしまった者の1人だったのだろう。

 

 

 今際の際で、鬼に誰も喰われないことを祈るほど、彼には鬼に対する執念があった。必死に生きてきたはずだ、最期のその瞬間まで、手から日輪刀を手放すことなく握り続けていた彼のその手は、硬く、よく鍛えられていた。

 

 

 しかしその最期は、彼の努力に報いるものではなかった。生者が死に行く者にしてやれることなどあまりにも少ない。だからその少ない何かを生者は必死にやり遂げなければならない。彼が生きていたことを忘れない。彼の最期を忘れない。彼の抱いた想いを、背負って生きていく、そして最期にその想いを繋げるのだ。

 

 

 

「…そっか。ねぇ信乃逗(しのず)?1人じゃないんだからね?」

 

 

 

 日々失っていく仲間たちと背中に増えていく彼等の想いに一層の覚悟を決める信乃逗(しのず)の様子に、真菰(まこも)は僅かに目を細めてそっと微笑む。

 

 

 

「うん?」

 

 

 

信乃逗(しのず)が1人で背追い込む必要はないってこと。私達は鬼殺隊。1人じゃないの、仲間の死も想いも全部背負って鬼と戦う。鬼に狙われる人たちを守る。鬼殺隊で戦っているみんなが同じ。…だから、聞かせて?信乃逗(しのず)が託されたその人のこと。私もその人の想いを背負って戦いたいから」

 

 

 

 真菰(まこも)の言葉に信乃逗(しのず)は僅かに目を見開く。

 

 

 この少女に驚かされるのは一体何度目だろうか。そうだ、自分は1人で戦っているのではない。鬼殺隊という集団で多くの仲間達と共に戦っているのだ。何より死んでいった彼がいたことを他の人にも話して行かなければ、自分が死んでしまった時に、彼が確かにここで生きていたのだということを、誰にも伝えられなくなってしまう。それでは彼が生きていたという事実すらも消えてしまうことになるのではないか。

 

 

 

「……あぁ」

 

 

 

 真菰(まこも)はやっぱり凄い奴だ。優しい奴だ。たぶんこれも彼女が鬼と戦う理由の一つなのだろう。仲間の想いも俺の想いも真菰はいつも考えてくれている。きっと真菰は鬼の想いすらみているのだと思う。彼女にとって人だろうが鬼だろうが、想いを抱いて死に行く者に違いなどないのだろう。

 

 

 自分も繋いでいかなければならない、想いも思い出も、それがきっと生きている自分にできる数少ないことなのだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 —例えそれが誰であっても—

 

 

 

 

 

 

 

 

「カァー!緊急!緊急!北西!北西の街にいけ!信乃逗(しのず)真菰(まこも)、共に任務に赴くのだ!」

 

 

 

 朝早く、空気の入れ替えの為に開かれた窓から、ばさばさと翼をはためかせながら勢い良く室内に入ってきた鎹鴉(かすがいからす)の声におよそ二週間あまりの短い平和な療養生活は終わりを告げた。

 

 

 

「え、でも、まだ信乃逗(しのず)さんは体力が…」

 

 

 

 (からす)の指令に、ちょうど部屋に薬を持ってきてくれていたきよちゃんが俺の体調を気遣って、心配そうに声を上げる。

 

 

 

「…きよちゃん、俺なら大丈夫だよ。鬼殺の剣士なら、怪我している状況でも戦うことなんてしょっちゅうあることだから。それに比べれば、俺の傷はもう治っている訳だから…全然問題ないさ。それにどうやら緊急事態みたいだから」

 

 

 

 初めてあってから僅か二週間程度しか経っていないというのに、こんなにも自分を心配してくれるとは、やはり優しい娘だ。

 

 

 だが、だからこそ、こんなにも優しいこの娘が家族を失うようなことがあってはいけなかった。この娘のような優しい娘が家族を失う前に鬼から守ってあげなければいけなかった。それが鬼殺の剣士が帯びる責務の一つなのだ。彼女達のような娘が涙を流さないで済むように、自分は刀を振るわなければいけない。

 

 

 

「うぅ、信乃逗(しのず)さんが、かっこよく見えるなんてやっぱり不安です!」

 

 

 

「…君もしのぶさんに似て大分、毒を吐くようになったよね」

 

 

 こんなに優しい娘なのに将来が不安でしょうがない。しかもこの娘の場合、しのぶさんとは違って悪意がまるでないのがたちの悪さに拍車を掛けている。そんなやり取りをしながら出発の為の支度を急いでいると、既に準備を終えたらしい真菰(まこも)が部屋を訪ねてきた。

 

 

信乃逗(しのず)、緊急の指令は…聞いてるみたいだね」

 

 

 信乃逗(しのず)が着替える様子をみて真菰(まこも)は安心する。信乃逗についている鎹烏はなにかと情報の伝達不足が多い。今回も緊急の連絡が届いているかどうか真菰としては不安だった訳だ。

 

 

「あぁ、内容は分からんけど緊急で北西の街に向かうように、今鴉から聞いたところだ…よし、悪い待たせたな、行くか、真菰(まこも)

 

 

 

「うん、急ごう、内容は救援の要請みたいだから」

 

 

 

「……(からす)は後で絞めることにする。じゃあ、きよちゃん行ってくるから、しのぶさんが任務から帰ってきたら、決して寝台を抜け出した訳ではない事は伝えといてね!」

 

 

 

「すみちゃん、治療ありがとう。また怪我したら宜しくね。なほちゃんときよちゃんにもよろしく伝えて」

 

 

 

 そう言って2人は足早に屋敷を出て行く。遠ざかって行く2人のその背中が見えなくなるまで、きよは深々と頭を下げ続けた。

 

 

 

 

 

 —どうかお二人が御無事でありますように—

 

 

 

 

 そう願いを込めて。

 

 

 

 

 

 

 

 頭上を飛ぶ鎹鴉(かすがいからす)の後を追って2つの人影が高速で走り続ける。蝶屋敷から北西の街となると最短でも半日は走り続けなければならない。

 

 

「…救援っていっても、半日もかかるんじゃ間に合うか分からんぞ」

 

 

「今は可能性を信じて走るしかない、けど今日は陽がさしてないから、条件はあまり良くないね」

 

 

 

 どんよりとした分厚い雲に覆われたこの空では陽の光が地上に指すことはないだろう。陽が照っていてくれさえすれば、鬼は外で活動することはできない。だがそうでないなら、本来活動制限となる夜以外の時間にも鬼が動き回ることができてしまう。

 

 救援の要請は通常、最も近くにいる隊士へと届くものだ。最短でも半日もかかる場所にしか他の隊士がいないというのは珍しい。

 

 

 

「というか、真菰(まこも)(からす)には救援って内容が伝わってるのに、どうして俺には場所しか伝えられてないのか意味が分からん」

 

 

 

「ただの救援じゃないみたいだよ、北西の街の近くにいた隊士達には手当たり次第に連絡が送られてるみたいだから、相当強力な鬼なのかもしれない。この前の合同任務で一緒だった柱の人がまだ近くにいてくれれば、救援に向かってくれてるかもしれない」

 

 

 

 この情報量の違いは一体なんなのだろうか。今まで結構な頻度で情報不足な任務が多かった気がするが、ひょっとして全て自分の鎹鴉(かすがいからす)が例の如く伝え忘れているだけだったのではなかろうかという疑惑が信乃逗(しのず)の中で膨らみ始める。

 

 

(俺も優秀な(からす)が良かったなぁ)

 

 

 もういっそのこと真菰(まこも)(からす)と交換できないだろうかという考えが信乃逗(しのず)の脳裏を過ぎったのだが、先程の真菰(まこも)の言葉に気になる単語が含まれていたことを思い出した。

 

 

「…ってかこの前の任務、柱と一緒だったのか?」

 

 

「うん。岩柱の悲鳴嶼(ひめじま)様、すっごく強かったよ。…まだ近くにいてくださるといいんだけど」

 

 

 一緒に戦った時のことを思い出したのか、真菰(まこも)にしては珍しく興奮した様子で、強かったと褒め称えるその様子に、信乃逗(しのず)には僅かに嫉妬の感情が芽生えた。

 

 

 信乃逗は未だ、花柱のカナエ以外の柱とはあったこともない。普段冷静な真菰をしてあの様子では、岩柱の悲鳴嶼(ひめじま)様というのは相当に腕が立つのだろうけど……なんだろうか、非常に釈然としない。

 

 

 当然自分はまだ柱よりも弱いし、岩柱というと入れ替わりの多い柱の方の中でも長い間勤められている鬼殺隊の中でも相当の古参だったはずだ。そんな方と自分を比べるのもおかしな事なのだが、信乃逗も1人の男として目の前で親しい女性に別の男を褒められてしまうと少々心苦しいものがある。

 

 

 

(はぁ、せっかく久しぶりに真菰(まこも)と2人の任務だってのに、なんだか上手くいかないなぁ)

 

 

 

 信乃逗(しのず)真菰(まこも)と2人きりで任務を受けるのは実に半年ぶりなのだ。4ヶ月程前に受けた任務でも真菰とは逢えたのだが、他にも複数の隊士との合同の任務であったし、分散して鬼を追い詰める作戦だったので真菰とゆっくり話す時間もなかった。病室ではなほちゃんや他の隊士もいるので、なかなか真菰と2人きりで話す時間は本当に久しぶりだったのだ。まぁその離れていた時間のおかげで、真菰に所謂恋心という奴を抱いているという自身の気持ちを受け止めることができたのだが。

 

 

「はぁー」

 

 

 心の内に溜まって行く些細な不満の数々を思い出して信乃逗(しのず)はつい溜息をついてしまう。

 

 

 

「…信乃逗(しのず)、今不満って顔してるけど、どうかしたの?」

 

 

 

「はいっ!?なに、顔!?」

 

 

 

 急に心の内を言い当てられた信乃逗は思わず顔を抑えるという実に分かり易い反応をしてしまう。そんな信乃逗(しのず)の様子をみて真菰(まこも)はくすくすと面白そうに口元を抑えて笑う。

 

 

 

「ふふ、信乃逗(しのず)、それは分かり易す過ぎるよ」

 

 

 しまった、鎌をかけられた訳だ。油断してしまった、この少女は観察力が非常に高いのだ。目の前であからさまに溜息など付けば不満でもあるのかと気づくに決まってる。

 

 

 

「…今のはさすがにずるくないか?」

 

 

 

「ごめんごめん。それで、なにが不満だったの?」

 

 

 まんまと罠にかかった信乃逗(しのず)の抗議の声に、全く悪いとは思っていなさそうな様子で苦笑しながら真菰(まこも)は信乃逗へと問いかける。

 

 

 

「…別に、不満というか、その、……せっかく久しぶりに真菰(まこも)と2人きりの任務なんだから、もうちょっとゆっくり話したいと思っただけだ」

 

 

 

「……へ?」

 

 

 

 言いづらそうに顔を俯けて、辿々しい口調で耳を真っ赤に染め上げながら素直に本音を語る信乃逗(しのず)のその様子に、真菰(まこも)も一瞬唖然としてしまう。少し遅れてその言葉の意味を理解した真菰も恥ずかしげに顔を俯かせながら、走る信乃逗の姿をみて徐々に頬が赤くなる。

 

 

 ずるいのは彼も一緒ではないだろうか、これはかなりの不意打ちだ。なんだかんだ言っても、意外と素直な信乃逗(しのず)のことだから狙って言っている訳ではないのだろう。聴いたのは自分だし、正直に自分の気持ちを打ち明けてくれた信乃逗に対して声高々に文句もいえない。真菰(まこも)は顔が熱くなるのを自覚しながら心の中で抗議の声を上げていた。

 

 

 

「…私も、信乃逗(しのず)と久しぶりにゆっくり話したい」

 

 

 

「っ!………じゃあ、この任務の後、また一緒に出かけないか?」

 

 

 

「…いいよ。任務がなければだけどね」

 

 

 

「…あぁ……ないといいなぁ」

 

 

「ふふふ、あ、そういえば、私今、鱗滝(うろこだき)さんのことお父さんって呼んでるんだよ。…信乃逗(しのず)が背中を押してくれたおかげだよ、ありがとう」

 

 

 

「…そうか、いや、俺は何も「信乃逗(しのず)のことを手紙で話したらね、お父さんが今度連れてきなさいって」……はい?」

 

 

 余程楽しみなのか、「もし機会があったら一緒に行こうね」と満面の笑みで微笑む真菰(まこも)とは対象的に信乃逗(しのず)の表情は完全に固まっている。

 

 

 今度連れてきなさいというのは、果たしてどういう意味で捉えるべきなのだろうか。信乃逗(しのず)の思考は一重にこの一点に尽きる。単に育てとして自身の弟子の同期の腕を見たいとか?それとも真菰(まこも)の保護者、引いては父親として連れてきなさいと言っているのか。前者ならともかく後者ならば大問題だ。

 

 

 

(えっなに?挨拶なの?いろいろ段階吹っ飛ばして御実家にご挨拶な訳?)

 

 

 

 いや、そんな馬鹿な、いくらなんでもいきなり手紙に書かれただけの同僚をそんな風には考えまい。そう自分に言い聞かせる信乃逗(しのず)真菰(まこも)から更なる口撃が加えられる。

 

 

 

「なんだかお父さんは信乃逗(しのず)と話がしたいみたい。手紙には試したいって書いてあったんだけど、何を試したいのかは良く分からなかったんだ」

 

 

 

(いやそこが重要!!話したいって何!?試したいって何を!?どんな手紙書いたのこの娘!)

 

 

 

 普通まだお付き合いにも発展してない男女の仲に、父親が出張ってくるものだろうか。村で育った信乃逗(しのず)の常識的には否だ。だが、この時代お金持ちならば、結婚相手など普通は家同士の付き合いで決まるもので、逆に個人の恋愛感情が尊守されるようなことの方が少ないと言える。無論村育ちの信乃逗とは無縁の話だ。

 

 

 

 今まで真菰(まこも)の話を聞いてきた限り、鱗滝(うろこだき)という人は相当に彼女を大事にしているし、彼女にとっても鱗滝という人物は父親と呼びたいという程に大事な存在だ。もし真菰との関係がそういうことになれば、そのうちそういうことになる可能性は確かに考えなくもなかった。しかし、あまりにも展開が早過ぎる。何よりも問題なのは手紙を読んでいないにも関わらず、敵意のような物を感じることだろう。

 

 

 

 信乃逗(しのず)は起こりうる可能性のある未来を想像して早くも胃が痛くなってきていた。

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
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真菰ちゃんは神ですので宜しくお願いします(≧∇≦)


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澱んだ街

 

 

 

 救援の為に走り続けてしばらく、見えてきた街並を見て、信乃逗(しのず)真菰(まこも)の2人は顔を顰める。遠くから眺めているのにも関わらず明らかに街の様子が可笑しかったからだ。

 

 

 街の中心部だけが空気が淀んでいるかのような、まるで濁った水面を通して見ているかのような、誰が見てもわかるほどの明らかな異変に晒されていた。一体なにが起きているのか、時刻は昼を超えたところだが相変わらず分厚い雲に覆われた空模様で、陽の光が差し込む様子は見られない。この空模様で、あのような明らかな異常事態の中に真っ直ぐ飛び込んでいくのは少々無謀に過ぎる。

 

 

「これは……血鬼術、なのか?」

 

 

「多分、…でも、どんな能力なのか、ここから見るだけじゃ分からないね」

 

 

 明らかに通常の現象ではない。鬼の能力と見るのが妥当だが、漠然と街を包むように感じる空気の淀みのようなものだけではその正体まで突き止めることはできない。街の目前まできて、2人は一度足を止めることになった。

 

 

 この異常を鬼の能力と仮定するなら、街に入るだけでも何らかの影響を受けることになる可能性は否めない。何よりも街の中心部を覆う程の血鬼術ともなると、今回の相手はかなりの確率で強力な鬼、それも以前真菰(まこも)と2人で倒した十二鬼月にも匹敵する可能性がある。

 

 

「…厄介だな、もし毒の類なら、街に入るのも難しいぞ?」

 

 

「でも、毒みたいな感じはしないよ。街の中はみんな普通に生活してるみたいだし」

 

 

 そう、戸惑う点があるとすれば、これほどはっきりとした異常が起きているにも関わらず、街の入り口から見る限りでは街の住人達には異常が見られないということだ。街に起きている異変に誰も気がついていないかのように、至って平凡に自然と生活しているように見える。どこにでもある、街の日常の風景がそこにはあった。

 

 

 しかし、この淀んだ空気の中ではそれ自体が異常なことのようにも感じる。

 

 

「…入るしかねぇかなぁ、どの道、鬼はこの街の中にいるんだろうし」

 

 

「…普通に人が生活できている以上、少なくとも人間に対して即効性のある毒ではないはず。救援の要請を出した隊士もきっと街の中だろうから、調査するにしてもどの道、街には入るしかないね」

 

 

「あぁ。情報が欲しいし、ひとまずは他の隊士との合流を目指そう。いくら陽がさしていないとはいえ、鬼がこの時間に堂々と外を出歩いてるとも思えんし…なんとか夜までに情報を集めたいな」

 

 

 分厚い雲に覆われているとはいえ、雲の切れ目から陽が差さないとも限らない。いつ陽の光に照らされるかも分からないような状況で、鬼が陽の当たるような場所にいるとはあまり思えない。おそらくは何処か一目につきにくい屋内など、日陰のある場所で潜伏している可能性が高い。ならば鬼が本格的に活動を開始し始める前に可能な限り情報を集めること、救援を要請した隊士の無事を確認するのが先決となる。

 

 

 それに救援を要請した隊士なら鬼の情報を握っている可能性も高い。

 

 

 一旦の方針の確認を終えた2人は、ひとまず救援を要請した隊士の居場所まで(からす)に案内させながら街の中を走り抜けることにした。

 

 

 

 街に入った2人が驚いたのは外から見た時に感じた異変を街の中からはまるで認知できないということだ。目で見る限り、淀んだような空気も濁った水面を通して見ているかのような違和感も、一切感じることができない。これならば街の住人達が気付かないのも無理はない。だが、鬼殺の剣士として生きる信乃逗(しのず)真菰(まこも)の2人には街の中に歪な空気が漂っていることを確かに感じとることが出来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (からす)に案内されて、辿り着いたのは大きな蔵が複数集まって出来た街の一画、その中でも一際大きな蔵の前に信乃逗(しのず)真菰(まこも)は立っていた。鴉はここで止まった、つまりこの中に救援を要請した隊士がいるということになる。

 

 

 

 だが、どうやら無事ではないようだ。蔵の方から僅かに漂ってくる血臭を感じて信乃逗(しのず)真菰(まこも)は目を見合わせる。

 

 

 

 蔵が立ち並ぶだけの一画であるせいか周辺の通りには明らかに人が少ない上、大きな蔵が立ち並ぶこの通りは1日を通して日陰になるであろう場所が多い。それはこの場所が鬼にとって絶好の隠れ場所となり得るということでもある。

 

 

 警戒を強めた2人は慎重に、しかし素早く蔵の入り口の両脇に立つと、顔を見合わせ、息を合わせて蔵の中へと同時に飛び込む。

 

 

 

 蔵に入った瞬間、急激に濃度を増した血臭を感じ、次いで視界に入ったその光景に信乃逗(しのず)真菰(まこも)は揃って顔を顰める。

 

 

 

 薄暗い蔵の床に血溜まりを作って横たわる三つの人影、血に塗れた身体はぴくりとも動かずその様子から3人は明らかに既に事切れていた。床に落ちた三本の日輪刀に加え、滅の1文字の入ったそ装いは彼等が紛れもなく鬼殺隊の隊士であることを表している。

 

 

 また間に合わなかった、そう無念に想う気持ちが信乃逗(しのず)へと訪れようとしたその時、掠れたような声が2人へと届く。

 

 

 

 

 

「…増、援か…逃げ、ろ、あいつが…くる…」

 

 

 

 

 背後から唐突に聴こえたその声に信乃逗(しのず)真菰(まこも)が勢いよく振り返ると、蔵の扉の脇に息も絶え絶えの様子で言葉を発している隊服を着た若い男が、ぐったりとした様子で蔵の壁に背を預けていた。

 

 

 

「生きてる!」

 

 

 

 まだ息のあるその様子に真菰(まこも)は隊士へと駆け寄っていく。

 

 

「…逃げ、てくれ、…柱を、呼ぶん、だ」

 

 

 傷の具合を確認する真菰(まこも)に必死の形相で力なく手を伸ばす男の様子を信乃逗(しのず)は目を細めて見る。

 

 

 

真菰(まこも)、その人は動かせそうか?」

 

 

 

 異常なまでに怯えた様子を見せる男の様子に信乃逗(しのず)は一度この場を離れた方がいいと判断した。

 

 

 どの道怪我をしているのなら治療する必要がある。陽の差し込むことのない屋内で怪我人の手当てを行うのは、少々危険過ぎる。この様子なら鬼の情報も握っているようだし、出来るだけ早く、落ち着いた場所で今の状況を聴いておきたい。

 

 

「傷は多いけど、そこまで深くはないから移動はできる。でも、血を流しすぎているから早く止血しないと、これ以上は危ない」

 

 

「なら担いで逃げるか…っ真菰(まこも)

 

 

 

 突然、蔵の奥を睨みつけるように見つめる信乃逗(しのず)の様子を見て、真菰(まこも)も気付いた。カタン、カタンと甲高い不気味な音が徐々に近づいてきていることに。

 

 

 

 

 

 

 

 — ぞくっ —

 

 

 

 

 

 薄暗い暗闇の中からぼんやりと徐々に姿を顕にした音の正体を視界に入れた瞬間、信乃逗(しのず)真菰(まこも)の背筋には冷たい汗が大量に浮かび上がる。

 

 

 

 

「おやおや、またお客さんですか?

…それもその格好は鬼狩りさんですね。

いやぁ、次から次へと鬼狩さんにいらっしゃって頂けるとは今日は実についていますね。」

 

 

 

 黒い髪に真っ赤な羽織りのようなものを羽織って足には下駄を履いたその姿は一見、若い好青年のようにも見える。だが、それが決して人間などではないことは信乃逗(しのず)にも真菰(まこも)にもはっきりと分かることだった。

 

 

 

 あれが現れた瞬間、明らかに空気が変わった。一瞬でも気を抜けば、この人の形をした化け物の前では生きることすら許されない。

 

 

 

 こいつは鬼だ。それも、ただの鬼ではない。この重苦しいような重圧感には覚えがある。もう半年も前に真菰(まこも)と共に戦った少女の姿をした鬼と、十二鬼月の下弦ノ陸と戦った時と似たような感覚だ。

 

 

 だが、あの時よりも明らかに感じる重圧が強い。身体中に重りをつけられたような動き辛さ、呼吸を一瞬忘れるほどの重圧、目の前にいるこの鬼はあの時の十二鬼月の鬼の少女よりも強い。

 

 

 

 

「……真菰、俺が気を引く、そいつを連れてこの蔵から出ろ」

 

 

 

 

「…死ぬ気?2人がかりでも一撃入れられるかすらわからないよ」

 

 

 

 ただそこに立っているだけで感じる圧倒的な存在感の強さに、信乃逗(しのず)は怪我した隊士を連れて逃げるように真菰(まこも)へと促すが、あの存在にたった1人で挑むということは自殺行為に等しい。いくら怪我人がいるとはいえ、そんなことを真菰が了承するはずがない。

 

 

 

「おや、もう逃げる算段を立てらっしゃるのですか?

まあまあ、もう少しゆっくりなさって行ってくださいよ。

私は赫周(かくしゅう)と申します。鬼狩りさん達のお名前は?」

 

 

 

 にっこりと不気味な微笑みを浮かべて、逃げようとする2人を諭すようにゆったりとした口調で赫周(かくしゅう)と名乗ったその鬼は呑気に自己紹介を促してくる。

 

 

 

 

「……雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)だ。」

 

 

 

「…鱗滝(うろこだき)真菰(まこも)

 

 

 

 鬼が人に名前を聞くなど一体何が狙いなのか。とはいえ、いきなり戦闘に突入しなくていいのならこちらとしても好都合だ。会話で時間を稼げれば、まだ増援が来てくれる可能性がある。運が良ければ、柱が来てくれるかもしれない。真菰(まこも)も同じ結論に至ったのか信乃逗(しのず)に続いて赫周(かくしゅう)へと名前を教える。

 

 

 

「おぉ!素晴らしい!貴方方はきちんと挨拶を返してくれるのですね!」

 

 

 

 その返答に赫周(かくしゅう)は大手を振って喜ぶ。唐突に興奮したようにあまりにも大袈裟に喜ぶ赫周の様子に信乃逗(しのず)真菰(まこも)も思わず半歩程、身を引いてしまう。

 

 

「あぁ失礼、みっともないところをお見せしてしまいましたね。其方の方々はなかなか名前を教えて頂けなかったもので、素直に仰って頂けたことが嬉し過ぎて、少々興奮してしまいました」

 

 

 名前を教えただけで随分と大袈裟に喜ぶものだと思ったが、どうやら、目の前で事切れている3人からは名前を教えては貰えなかったようだ。まあ鬼とまともに会話しようという者の方が少ないだろうから、名前を聞けなかったのは無理もないことだろう。そもそも自己紹介を促す鬼など信乃逗(しのず)とてあったことがない。人間を食料としか見ていない彼等が人間に興味を示すということの方が可笑しいのだ。

 

 

「…鬼の貴方がどうして人間の名前に興味を示すの?」

 

 

 同じことを疑問に思ったのか真菰(まこも)赫周(かくしゅう)へとその疑問をぶつける。

 

 

「うん?どうしてと言われましても、気にはなるでしょう。同じく喋ることのできる生き物なのですから、例え殺すのだとしても僅かな時間くらいは会話を楽しんでもいいでしょう?」

 

 

 

 

 — 異質 —

 

 

 

 目の前の鬼は妙だ。感じる威圧感もそのあり方も今まで会ってきた鬼とは違う。少なくとも人との会話を楽しむなどという鬼は信乃逗の知る鬼という存在とは酷く異なる。理解できない発言をして、どこか歪な気配を漂わせる赫周(かくしゅう)信乃逗(しのず)真菰(まこも)には酷く不気味に映った。

 

 

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想を頂けますと幸いで御座います!

真菰様!神!!(*≧∀≦*)


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鬼と人

アクション難しいんですよねー(´;ω;`)


 

 

 薄暗い蔵の中、微笑みながら、さも人間に興味があるかのように言う赫周(かくしゅう)の姿が真菰(まこも)には一層不気味に映っていた。

 

 

「…会話を楽しんだ相手を貴方は殺すの?」

 

 

 湧き上がる疑問に真菰(まこも)は思わず赫周(かくしゅう)へと疑問を呈する。

 

 

「それはまあ刃を向けられれば殺すしかないでしょう?

…それに鍛えている人間はとても美味しいですからね」

 

 

 まるで正当防衛なのだから仕方がないとでも言うように赫周(かくしゅう)は答えるが、続いた言葉は結局のところ人を喰らうことしか考えていない邪悪極まりないものだった。

 

 

「意味が分からないな、結局は喰らうつもりなんだろうが。会話を楽しんでその上で美味しい肉が喰えるから嬉しいとでも?何故お前は人間を喰らう?」

 

 

「うん?…おかしなことを聞きますね。私は鬼なのだから、人を食べるのは当たり前でしょうとも。それのどこに疑問があるというのですか?…貴方は私の言っていることをきちんと理解しているじゃないですか」

 

 

 信乃逗(しのず)の疑問に今度は赫周(かくしゅう)の方が何が分からないのかよくわからないと言った風に首を傾げながら呟く。

 

 

 

 あぁ、やはりこいつは鬼だ。

 

 真菰(まこも)信乃逗(しのず)はこの瞬間、確かに目の前の存在を倒すべき鬼だと認識した。こいつは結局のところ他の鬼と何も変わらない、人を食料としか見ていない。その上で会話を楽しみたいなどとふざけたことを言っている。自身を殺すことが分かっている相手とどう会話を楽しめというのか。

 

 

 

「はぁ、貴方達鬼狩りはいつもそうですね。

人を喰らうのが悪だと貴方達は仰いますが、果たして本当にそうでしょうか?」

 

 

 

 あからさまに嫌悪感を顕にする2人の様子に赫周(かくしゅう)はやれやれと言った様子で疑問口にする。

 

 

 

「…何が言いたい?」

 

 

 

 人を喰らうことが悪でないのなら一体なんだというのか。自分が行うことが善行だとでも言いたいのか?

 

 

 信乃逗(しのず)の脳裏に今まで鬼の犠牲となった者達の姿が過ぎる。殺された仲間、なぜもっと早く来てくれなかったのかと言う遺族の嘆き、そして信乃逗の家族。それらが辿ってきた道は様々だったが結末は変わらない、彼等の誰1人として幸せではなかった、笑顔ではなかった。

 

 

 

「貴方達人間も私達と同じように肉を喰らうでしょう?最近では牛鍋とか言うのが流行り出しているのだとか。牛を殺し喰らう、山で狩りをしてシカやイノシシを殺し、そして喰らう。これらの一体何処に問題があるというのですか?貴方達人間が生きる為に必要だからと行うその行為は、我々と一体何が違うのでしょうか?」

 

 

 

 —こいつは、一体何を言っている?—

 

 

 

 信乃逗(しのず)には赫周(かくしゅう)の放った言葉を一瞬理解することができなかった。

 

 

 人を殺すこととシカやイノシシを殺すことが一緒だと?人が食事をすることと鬼が食事をすることの何が違うかだと?

 

 

 違うに決まっているじゃないか。そんなもの、同じであっていいはずがない。

 

 

(違う…違う筈だ)

 

 

 信乃逗(しのず)の心は確かに赫周(かくしゅう)の言葉を否定している筈なのに、頭の何処かでなぜかその言葉を否定しきれない自分がいる。

 

 

「生きる為に必要だからと行うその殺戮も、引いては我々と同じ食事の為でしょう?…人は他の生き物を喰らうことをよしとしているのに、我々鬼が人を喰らうことは悪だと言う。いやはや困った者だ。我々はただ、貴方達と同じように食事をしているだけだと言うのにね」

 

 

 

 

(…なんだ、なんなんだ。…違うだろう)

 

 

 こいつの言っていることは間違ってる、その筈なのに、どうして否定できない?鬼と人、一体何が違うと言うのか、その答えが出ない。今まで何気なくしてきた食事と言う行為は、鬼がしていることと何一つとして変わらないのではないか。

 

 

 一度抱かされたその疑念は信乃逗(しのず)の中で急速に膨れ上がっていく。

 

 

 生きる為に食べると言う行為が、如何に残酷で恐ろしい行為であったのか自覚もないまましていた自分はなんなのか。この目の前にいる鬼が言うように自分達は結局鬼と何も変わらないのではないか。

 

 

 ならば、なぜ自分は鬼を斬る?鬼だから?鬼が悪だから?

 

 

 赫周(かくしゅう)の放つ異様な空気に信乃逗(しのず)が呑まれかけたその時、それまで沈黙を保っていた真菰(まこも)が口を開いた。

 

 

「…そうだね。貴方の言う通り、鬼も人も何かを犠牲に生きている。そう言う点では確かに私達は何も違わない」

 

 

 

 真菰(まこも)の言葉に信乃逗(しのず)は驚愕する。真菰は今、自分達の行いは鬼がすることと何も変わらないと認めたのだ。

 

 

 そしてそれは鬼である赫周(かくしゅう)も同様だった。

 

 

「…へぇ、…お嬢さんはそれを分かっていて鬼を殺すのですか?理解して尚、鬼を悪だと言うのですか?」

 

 

 興味深そうに、その不気味な微笑みを深めて赫周(かくしゅう)真菰(まこも)の姿を見つめながら疑問を口にする。

 

 

 この問いに今までまともな答えを返せた者はいない。大抵が信乃逗(しのず)と名乗った少年のように鬼と人、その行いに一体何の違いがあるのか、疑念の渦に囚われる。そうして最後には、自身に言い聞かせるかのように鬼は悪なのだと言いながら斬り掛かってくる。今まで自分の元へきた全ての鬼狩り達も同じだ。根拠のない想いでもって鬼を悪だと決めつけ、さも自分が正義であるかのように振る舞う。なんとも無様で醜悪な姿を晒してくれていたものだが。

 

 

 

 しかし、どうやら眼前の少女はそうではないらしい。

 

 

 

「私は鬼を悪だと思って斬ってる訳でも、鬼を斬ることを正義だと思ったこともない。人に善悪があるように、鬼にも善悪があるって知ってる。

…私が鬼を斬るのは私がただ人を護りたいから。

幸せに暮らす誰かの当たり前の日常を守る、それが…私が貴方を斬る理由」

 

 

 

 真菰(まこも)の言葉に、信乃逗(しのず)もはっとした表情をする。あの優しい温もりに包まれて月の光を浴びた夜の記憶が、信乃逗の脳裏に浮かび上がる。

 

 

 

信乃逗(しのず)がお姉さんに刀を振るったのは、鬼が悪だからじゃない。鬼になったお姉さんがそう願ったから、信乃逗は刀を振るったんだよ。』

 

 

 

 あぁ、何を迷っているんだ俺は。あの時、もう答えを教えて貰っていたじゃないか。姉さんは悪じゃなかった、鬼になっても、姉さんは優しかった。

 

 

 俺が鬼を斬る理由は鬼が悪だからじゃない。

 

 

 かつて喪ってしまったあの懐かしい幸せな日々を、もう失わせない為に。まだ失しなわれていない笑顔を守る為に。鬼殺隊の仲間が文字通り命掛けで守って来た人の営みを俺も護る。

 

 

 預かった想いがあった。背負った命があった。守りたい命がある。

 

 

 

 俺が刀を振るう理由はもうとっくに定まってる。

 

 

 

「……それは、随分と身勝手な理由だとは思わないのですか?」

 

 

 

「身勝手だと思うよ。だからこそ、人も鬼も覚悟しないといけない。互いに自分勝手な理由で何かを奪おうとしているんだから、その罰を…いつか受けることになる」

 

 

 

 自身の問い掛けに何の迷いもなく答える目の前の少女を見て赫周(かくしゅう)は湧き上がる歓喜にその身を震わせる。

 

 

(あぁ、面白い。今日はなんていい日なんだ!)

 

 

 今まで赫周(かくしゅう)が出会った鬼狩り達は覚悟もなく、定まらない想いだけで刀を振るう者ばかりだった。だが、眼前の少女は違う。飾り立てた正義感で刀を握っている訳でも、他人に渡されただけのつまらない使命感で刀を振るっている訳でもない。自身の中に確固たる答えを、想いを持ってその刀を振るう強者だ。

 

 

 そして、隣に立つ彼もまた、その胸に決意と想いを抱いた者、未だ揺らぎながらも少女の言葉を聞いて目に力が戻った。何かを思い出したかのようにその面立ちに覚悟が宿っている。

 

 

 

 このように覚悟を秘めた者と同時に2人も出会うことができた。

 

 

 

「くっくっ、あはははは!いい!いいですね!

今日は本当に素晴らしい日だ!!貴方達のような方に巡り合うことが出来るなんて!」

 

 

 

 赫周(かくしゅう)はその喜びのあまり、顔を手に天を仰いで賛辞の言葉を口にする。その明らかに異常な赫周の様子に信乃逗(しのず)もそして真菰(まこも)も僅かに後ずさってしまう。

 

 

 

「覚悟をしないといけない。なるほど仰る通りだ!

貴方達が覚悟を持ってその刃を振るう者だと言うのなら、私も覚悟しなければいけないのでしょうね。…しかし簡単にはいきませんよ、私も十二鬼月に席を置く者の1人。

さぁ、貴方達にその覚悟を保つだけの強さがあるのか、下弦ノ弐に席を頂くこの赫周(かくしゅう)が、試させて貰いましょう」

 

 

 — 血気術 血槍乱舞(けっそうらんぶ)

 

 

 突如、蔵の床面から生えるように先端の尖った複数の真っ赤な槍のような物が信乃逗(しのず)真菰(まこも)の2人に向かって勢いよく伸びていく。予兆のない攻撃に2人は咄嗟に後ろに向かって飛び跳ねる。その一瞬後には2人が立っていたその場所に赤い槍が次々と突き刺さり破壊の轟音と共に砂塵が舞い上がる。舞い上がった砂塵が蔵の中へと徐々に広まり、急速に視界が悪くなっていく。

 

 

 後方へと着地した瞬間、2人に向かって砂塵の中からさらに赤槍が伸びていく、2人は左右へと別々に地面を転がるようにしてそれを回避する。

 

 

(分断された!)

 

 

 2人の間の地面へと再び轟音と共に突き刺さった幾本もの赤槍が分かれた2人を追うように左右へとそれぞれ突き進んでくる。次次と襲い掛かってくる赤槍を、左右へと身体を捻りながら紙一重のところで信乃逗(しのず)は躱し続ける。舞い上がった砂塵の影響で視界が悪く、真菰(まこも)の方を確認できない。何より、息を吐くのもやっとな勢いで次々と砂塵の中から姿を表す赤槍を躱すのに精一杯で合流することもままならない。

 

 

 そもそも砂塵の舞い上がったこの視界の悪さで、どうやってここまで正確に此方の位置を把握しているのか、それぞれの槍に意思でもあるのかと言うほど的確に赤槍は信乃逗(しのず)へと向かってくる。

 

 

 この赤槍は蔵の地面が突然盛り上がるようにして出現した。これがこの鬼の血気術なのだろうが、能力の詳細はわからない上、その発動の予兆をまるで感じなかった。

 

 

 この閉鎖空間でこの視界の悪さでは此方が一方的に嬲られるだけだ。下手に音を立てれば居場所を特定されることになると思ったがこの赤槍の攻撃を見る限り、奴はなんらかの方法で此方の居場所を既に特定している。どの道場所がばれているなら遠慮することもない。

 

 

 

真菰(まこも)!外に出ろ!!」

 

 

 

 そう大声で口に出すと同時に蔵の壁に向かって赤槍が当たるように攻撃を誘導する。思惑通り轟音を鳴らしながら蔵の壁を赤槍が破壊したのを確認すると同時に破壊された壁の穴から外に向かって転がるようにして飛び出る。信乃逗(しのず)が飛び出たのは蔵の入り口に程近い壁だったようで飛び出した右側には自分達が入った扉が見える。

 

 

 蔵の中から赤槍が追ってくるとか思って身構えていたが、どう言う訳か蔵の中から赤槍が飛び出してくるようなことはなかった。追ってこない赤槍を信乃逗(しのず)が不思議に思っていると蔵の入り口から怪我をした隊士を背負った真菰(まこも)が勢いよく飛び出してきた。

 

 

 

真菰(まこも)!無事か!?」

 

 

 

 背負った隊士をそのままに僅かに上がった息を整える真菰(まこも)信乃逗(しのず)は駆け寄りながら声を掛ける。

 

 

 

「…なんとかね。……陽はさしてないんだ」

 

 

 信乃逗(しのず)の声に答えながら空を見上げた真菰(まこも)は険しい表情をして呟く。

 

 

 

「あぁ、残念ながら空模様は相変わらずだ」

 

 

 

 空は蔵に入った時と変わらず相変わらず分厚い雲に覆われている。信乃逗(しのず)も陽が差し込むことを僅かに期待していたがこの天気では陽が差すことは望めそうにはない。まだ夜ではないがこの天気ならあの赫周(かくしゅう)という鬼が外に出てくる可能性は十分にある。何よりすでに時刻は夕刻に差し掛かろうとしている。どうであれこのまま時間がたって夜になれば、赫周(かくしゅう)が動き回ることには何の問題も懸念もなくなる。

 

 

 奴は危険だ、思想も能力も厄介極まることが予想される。ここで止めなければ、どれだけの被害が出るか分かったものではない。応援か柱がくるまで、なんとかあの鬼をこの場に留めなければならないが、負傷した隊士を庇いながら十二鬼月の足止めを行うのは非常に困難だ。今のところ赫周(かくしゅう)が蔵の外に出てくる様子は見られないが、このまま赫周が蔵の中で大人しくしてくれるとも思えない。

 

 

 

真菰(まこも)、そいつを連れて逃げろ」

 

 

 

「……何言ってるの?…あの十二鬼月を、赫周(かくしゅう)を1人で倒せると思ってるの?」

 

 

 

 無謀なことをいい出す信乃逗(しのず)の様子に真菰(まこも)は呆れを通りこして静かに怒りの感情を顕にする。

 

 

 

「…倒せるとは思ってない。だが、時間くらいは稼げる」

 

 

 

「2人でも一方的にやられてたのに1人でなんて無茶にも程がある」

 

 

 

 信乃逗(しのず)の覚悟に素直に首を縦に振ってくれない真菰(まこも)の様子にどうやって納得させようかと信乃逗が苦心しているとそれまで静かに話を聞いていた真菰の背に担がれた隊士の男が辿々しく口を開く。

 

 

「…すまない、俺が、足を引っ張っているんだな、

悪いが、降ろしてくれないか?」

 

 

「馬鹿か、今のあんたを降ろして攻撃されたら、避けられんだろうが。あんたを抱え直してる余裕なんてないんだ。大人しく抱えられてろ」

 

 

 いつ攻撃を受けるか分からない状況でゆっくり地面に寝かせてやる余裕など自分達にはない。もし降ろした後にあの赤い槍を受ければまともに動くこともできないこの男は一瞬で命を落とすことになる。もしも降ろせるのなら真菰(まこも)1人に逃げろなどとは言わない。

 

 

 

 だが、そんな信乃逗(しのず)の懸念とは対象的に真菰(まこも)が放った言葉は意外なものだった。

 

 

「……歩ける?」

 

 

 背負った隊士の表情をじっと見つめていた真菰(まこも)は負傷した隊士へと静かに問い掛ける。

 

 

「…あぁ、…この場を離れるくらいは、出来る」

 

 

 男の答えを聞いた真菰(まこも)はその顔を一瞬伏せるとゆっくりと地面にその男を降ろし始める。

 

 

「…真菰(まこも)?何故?」

 

 

 信乃逗(しのず)は蔵の方を警戒しながら、真菰(しのず)にその真意を問う。

 

 

 

「……この人も…鬼殺隊の隊士だから。

…此処は私達に任せて、(からす)を飛ばしてるから、もうしばらくしたら街の外に隠しの人達が到着する筈。それまで呼吸でなるべく出血を押さえて、耐えて」

 

 

「…すまない…すまないっ…鬼を、頼むっ」

 

 

「…大丈夫、生きることも、戦いだから。

生きていれば、貴方はきっとまた誰かを護れる。

だから私達のことは気にしないで、貴方は生き残ることに集中して」

 

 

 真菰(まこも)の言葉に男の隊士は目に涙を浮かべながら謝罪の言葉を口にすると、ゆっくりと立ち上がってふらふらと覚束ない足取りで歩いていく。

 

 

 

 その様子に信乃逗(しのず)はようやく真菰(まこも)とその男のやりとりの意味を理解した。あの男の傷は決して軽いものではない、何より出血量が多い。この傷では自分の足で街の外まで歩けるかも分からない。街の外までたとえ歩けたとしても、治療が間に合うかは分からない。だがそれはここで真菰に背負われたままでも大きくは変わらない。あの鬼との戦闘になった時に今の彼はむしろ邪魔になる。

 

 

 

 これは彼の成した選択だ。自分達は鬼殺隊、鬼を殺し、人を護ることこそが役目。鬼との戦いで足手まといになってしまうくらいならば、例え命を落とす結果になろうとも、自分の足で戦闘の場を去る。自身の無力に自分より幼い者達に鬼を任せて去る。どれほど無念だったことか。だがこれが彼が見せた覚悟だ。

 

 

 彼が最後に流した涙は無念の涙。言葉通り、託されたのだ、彼の想いを。信乃逗の背中にまた一つ、預かった想いが増えた。

 

 

 




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真菰ちゃんは神回でした!


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下弦ノ弐

 

 

 覚束ない足取りでゆっくりと遠ざかって行く男の姿はボロボロなのに何故だか去って行くその背中は信乃逗(しのず)にはとても大きく見えた。

 

 

 

信乃逗(しのず)、あの人の分まで頑張ろう」

 

 

 

 真菰(まこも)は離れていく彼の後ろ姿を見ながらそっと口ずさむように言った。

 

 

 

「……あぁ、そうだな」

 

 

 

 相変わらず真菰(まこも)には色々と驚かされる。自分には彼の想いをたったのあれだけの会話で汲み取ることなど出来なかった。真菰は時々、まるで人の心を読んでいるかのように信乃逗(しのず)には理解できない言動をするが、今回のようにそれには全て意味がある。

 

 

 

 信乃逗(しのず)が改めて真菰(まこも)の凄さを感じている時、その声は聞こえてきた。

 

 

 

「そろそろいいですかねぇ?」

 

 

 

 声が聞こえた瞬間、信乃逗(しのず)は驚愕にすぐさま声のした方を見遣ってぞわりとする怖気に再び襲われた。何故なら、その声がした方向は、先程信乃逗達が決死の思いで出できた蔵とはまるで反対側の建物の屋根上だったからだ。

 

 

 

 視線の先にいる声の主人は間違いなく赫周(かくしゅう)だった。

 

 

 

(……馬鹿な、一体いつの間に)

 

 

 

 信乃逗(しのず)は蔵の方向への警戒は一切緩めていなかった。蔵の入り口から声が聞こえたなら驚きなどないが、まるで反対の建物となると話は別だ。一体いつの間に蔵から出てきて自身達を飛び越えたというのか。それに赫周(かくしゅう)が言葉を発するまであの場所からはまるで気配を感じなかった。あの言いようから赫周は長らくその場にいた筈だが、信乃逗は勿論真菰もそれを微塵も察知することが出来なかった。

 

 

 

 だが、そうだとすれば自分達が涙ぐましいやり取りをしている最中でもこの鬼は十分に攻撃出来たと言う事だ。機会は幾らでもあった筈、なのに何故攻撃してこなかった?

 

 

 

「…なんで、見逃したの?」

 

 

 

 同じことを疑問に思ったのか、厳しい表情で真菰(まこも)赫周(かくしゅう)に問い掛ける。

 

 

 

「うーん、別に深い理由はないんですけどねぇ。

強いてあげるなら彼にはそれほど興味がありませんので、無理に殺す必要がなかったというところでしょうか」

 

 

 

「…貴方は…随分と変わった鬼だね」

 

 

 単に興味がなかったと言うなら納得できなくもないが、それはそれで珍しい。鬼という生き物は人間に対してそもそも興味云々など口にしない。興味があろうがなかろうが殺して喰らう、一部の例外を除いて、それが真菰(まこも)信乃逗(しのず)が知る鬼という存在だ。

 

 

「貴方達に言われたくはありませんがねぇ。鬼狩りの癖に鬼と会話をし、ある種の理解を示そうとするその態度が、私にはどうにも理解出来ないのですが。……まぁそれも今は構いません。場所も広くなりましたし、折角足手纏いがいなくなったのですから、貴方方ももう少しまともに動けるようになるのでしょう?期待していますよ?」

 

 

 先程までの蔵での遣り取りもかなりギリギリだったのだが、この鬼からすれば小手調べ程度のものでしかなかったようだ。あの少女の鬼といい、十二鬼月ともなるとやはり化け物じみた強さを持つ者ばかりのようだ。それに今回は下弦ノ弍。感じる威圧感からもおそらく下弦ノ陸よりもはるかに強力な鬼だ。

 

 

 だが、真菰(まこも)と俺は2人で下弦ノ陸を倒している。少なくともあの時の連携は下弦ノ陸にも有効だった。ならば同じように2人で協力すれば倒せないまでも柱がくるまで時間を稼ぐくらいのことはできるかもしれない。

 

 

「随分と余裕じゃないか、前にあった下弦ノ陸もお前と同じように余裕ぶっていたが、十二鬼月っていうのはどいつもこいつも人間舐めすぎなんじゃねぇか?」

 

 

 信乃逗(しのず)の挑発とも言えるその言葉に赫周(かくしゅう)は頬を僅かにぴくりとさせる。

 

 

 今までと同じだ、奴の意識をこちらへと誘導する。真菰(まこも)の動きから目を逸させ、一切認識できないようにする。眼の良いもの程この手の技はかかりやすくなる、俺の声、重心の移動、指の動きに至るまで一挙一動その全ての動きに奴が注目するようにする。

 

 

 

 既にあの時と同じように真菰(まこも)は動いてくれている。

 

 

「…そういえば、下弦ノ陸は変わったのでしたね。なるほど、彼女を殺したのは貴方だったという訳ですか。これはこれは、既に十二鬼月の1人を狩るだけの実力はお持ちだったとは、尚更楽しめそうじゃないですか」

 

 

 

 やはり互いに十二鬼月、以前戦った下弦ノ陸の少女とも赫周(かくしゅう)は顔見知りだったようだ。信乃逗(しのず)の言葉に赫周は興味を示し、今その注意を信乃逗へと向けている。どんな実力の持ち主でも虚を突かれれば致命打を受けることなどざらにある。

 

 

 

 — 水の呼吸 (いち)ノ型 水面斬(みなもぎ)り ー

 

 

 赫周(かくしゅう)の背後へと勢いよく跳躍した真菰(まこも)が赫周の首元目掛けてその刀を水平に奮う。

 

 だが、その刀が赫周(かくしゅう)の首元へと届くことはなかった。

 

 

 

 — ギンッ —

 

 

「おっと、危ない、危ない。」

 

 

 

「なっ!?」

 

 

 完全に虚をついたかに思われた真菰(まこも)のその一撃は赫周(かくしゅう)が手に握る槍によって阻まれていた。

 

 

 

「っ!槍!?」

 

 

 一体どこから取り出したというのか、それまで何も持っていなかった赫周(かくしゅう)の手の中には深紅の槍が握られていた。蔵の中で突如出現した赤い槍よりも一層深みをました紅いその槍はまるで虚空(こくう)から抜き出るように突如として赫周の手元に現れた。

 

 

 

「驚きました?…鬼狩りさん達はどういう訳か鬼が武器を使用するとは思ってないようで、これを使うといつも皆さん驚かれるのですよね。…それにしても信乃逗君でしたか?君は随分と面白い技を使いますね。視線を、いえ、意識を誘導しているのですか?…いやぁお陰でお嬢さんが近づいてきていることに気付くのが遅れてしまいましたよ」

 

 

 

 頭上から勢いをつけた真菰(まこも)の一撃を片手で持った槍で楽々と受け止めながら、涼しい顔して喋る赫周(かくしゅう)の様子に真菰も信乃逗(しのず)も驚愕に目を見開く。

 

 

 確かに意識の誘導からの奇襲は信乃逗と真菰が常用する手ではあるが、たったの一度見せただけで信乃逗の最も得意とする技をこれほどまで完璧に看破されたことなど今迄なかった。

 

 

 

「お嬢さんも随分と素早い。ですが、少々力不足ですね。

これでは私の首を斬りとばすのは難しいですよ」

 

 

 そう言うと赫周(かくしゅう)は受け止めていた真菰(まこも)の刀を弾き飛ばすように振り上げるとくるりと槍の柄を回転させながら、真菰の腹部に向けてまるで棒切れでも手にしているかのように軽々と振り抜く。

 

 

「あっぁ!?」

 

 

 空中で人外の速度で持って振るわれた強力な一振りをもろに受けた真菰はゴキっ!と、決して人がたててはいけない音を発して、近くにあった小さな木製の小屋へと豪快に吹き飛ばされる。

 

 

真菰(まこも)っ!?」

 

 

 小屋を突き破り半壊させるほどの勢いで吹き飛ばされた真菰(まこも)の姿に信乃逗(しのず)は焦りのあまり駆け出しそうになるが、目の前の存在がそれを許してはくれない。

 

 

「おっと、何処に行かれるのですか?」

 

 

「っ!?」

 

 

 小屋に向かって一歩踏み出した瞬間に目前へと突如現れた赫周(かくしゅう)の姿に信乃逗(しのず)は咄嗟に後方に跳び下がる。

 

 

 速い、速すぎる、先程までこいつは屋根上にいた筈なのに一瞬で目の前に現れた。

 

 

「おや?長物を持つ相手にそれは悪手ですよ?」

 

 

 自身の命を狙う相手に対してゆったりとした口調で忠告しながらも、素早い動きで信乃逗(しのず)の顔面へと正確に狙いを定めた突きを入れてくる。その突きを半身を引くことで、すんでのところで信乃逗は躱すが赫周(かくしゅう)の攻撃はそれでは終わらない。

 

 

「私は一流とはいきませんし、他人に自慢できるような大した腕前ではないのですが、この槍は長年使っていますから素人よりはそこそこ自信があるのですよ」

 

 

「くっ!?」

 

 

 余裕綽綽(よゆうしゃくしゃく)の様子で、息も切らせぬ連撃を行いながらにっこりと微笑む赫周(かくしゅう)信乃逗(しのず)は内心で焦りを禁じ得ない。これで大したことがない腕、素人よりは増しだなどとは、随分とふざけたことを言う。まるで自身の体の一部であるかのように滑らかに隙なく槍を扱うその様子は、どう考えても並の域を超えている。

 

 

 胸•腹•喉と連続で繰り出されていく鋭い突きの数々を、紙一重で躱し、時に刀で受け流しながら、厳しい表情で信乃逗(しのず)は攻撃を凌いでいく。これまで槍のような長物を使う相手と戦った経験が信乃逗にはない。稽古で刀を持つ人間相手ならば幾度となくやりあってきたが、槍のような長物を使う相手は想定していなかった。戦ってきた鬼に至っては殆どが素手、稀に特異な能力を使用してくる者がいた程度で赫周(かくしゅう)のように長物、それも人間が扱う武器を使ってくる者など全くいなかった。

 

 

 

(くそっ!間合いがとりづらい!…それにこいつ、どんどん速くなっている!)

 

 

 

 

 通常突きというのは連続で行えば人間ならば疲労によって徐々に速度が落ちるものだ。だが、目の前の存在は人間ではない、人の限界など容易く超えて鋭い突きを続け、それどころか徐々にその速度が上がってきている。

 

 

 突きという点での攻撃にも関わらず、まるで線での攻撃を受けているかのような凄まじい連撃が信乃逗(しのず)の体を徐々に掠め始める。

 

 

「くっくっ、おやまぁ、なすすべもありませんか、最弱とはいえ仮にも十二鬼月に数えられた彼女を倒したという割には、大したことのない腕前ですねぇ…うん?」

 

 

 攻撃を一切緩めることなく赫周(かくしゅう)が傷が増えていく信乃逗(しのず)を嘲るように嗤っていると、何かに気が付いたように赫周が僅かに信乃逗から意識を逸らした。

 

 

 

 — 水の呼吸 (しち)ノ型 雫波紋突(しずくはもんづ)き —

 

 

 

 次の瞬間に、まるで弾丸のような凄まじい勢いで突っ込んできた真菰(まこも)が強烈な突きを赫周(かくしゅう)の顔面に目掛けて放つ。瞬きの間に距離を詰めて来た真菰の姿に驚愕し、僅かに目を見開きながらも赫周は冷静に槍の柄でもってそれを受け止めようする。

 

 

 

 ガキィン!と金属と金属がぶつかる強烈な音を周囲に響かせながら、真菰(まこも)の強烈な一突きを受け止めきれなかった赫周(かくしゅう)の体が土煙を舞い上げながら勢いよく後方へと弾きとばされていく。

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想を頂けますと幸いで御座います。

戦闘描写は難しいですね(>_<)
読み辛かったら大変申し訳ありません(~_~;)

真菰ちゃんは神ですので今後とも読んで頂けますと幸いで御座います。


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届かない刃

真菰様ー!!(((o(*゚▽゚*)o)))


 

 

 

 

 真菰(まこも)のお陰で赫周(かくしゅう)と距離を取ることができた信乃逗(しのず)は、息継ぎをする暇すらなかった連撃からようやく抜けだすことが出来た安堵に胸を撫で下ろしながら呼吸を整える。

 

 

「はぁはぁ、悪い、真菰(まこも)。助かっ、真菰(まこも)!?」

 

 

 強烈な突きの連撃を受け続けた信乃逗(しのず)は荒くなった息を落ち着かせながら、真菰(まこも)へと感謝の言葉を口にするが、その視界に彼女の姿を入れた途端、信乃逗は焦りのあまり呼吸を整えることも忘れて真菰へと駆け寄る。

 

 

 それほどまでに彼女の姿はあまりにもボロボロだった。

 

 刀を地に突き刺して支えにすることでなんとか立っていると言った様子の彼女は、口や額からぼたぼたと血を流しながら息も絶え絶えで、もういつ倒れ伏しても不思議ではない状態だった。

 

 

「はぁはぁ、…気に、しないで、…私はだい、じょうぶ、だから」

 

 

「大丈夫じゃないだろうが!?」

 

 

 焦燥感に満ちた声色で信乃逗は叫んだ。

 

 刀を支えにして立っているのが精一杯の様子の彼女を見て、気にしないでいられるわけがない。

 

 額の出血はそれほど深い傷ではない。だが口から溢れ落ちる血の色は明かに濃い。黒見を帯びた血の色合いからして内臓が傷ついている可能性が高い。先程腹部に受けた攻撃で内臓に損傷を負っていることは殆ど疑いようがなく、一刻も早い治療が望まれる。

 

 

 しかし信乃逗が真菰の傷をゆっくりと診ているような時間も今はない。カタンカタンと軽快に足音を鳴らして近づいてくる鬼を止めなければ治療などと言っている暇すらないのだから。

 

 

「いやぁ、今のは効ききましたよ、お嬢さん。感嘆に値する素晴らしい突きでした。……ですがその少年の言う通り、あまりその傷で無茶な動きをするものではありませんよ」

 

 

 もくもくと舞い上がった土煙の中から真菰(まこも)の放った突きを絶賛しながら赫周(かくしゅう)が再びその姿を現す。

 

 

 

「ハァハァ……っ無傷で…受けきっておいて、嫌味のつもり?…信乃逗(しのず)、今は…私のことより……赫周に…集中して」

 

 

 自身の放った渾身の突きを受けておきながら傷一つなく現れた赫周(かくしゅう)の姿に真菰(まこも)は顔を顰めながら、信乃逗(しのず)へと忠告する。

 

 

「いやいや、そのようなつもりはありませんよ。実際、防げていなければ頭が弾け飛んでいたでしょうしね。それに、私の槍に(ひび)を入れることができたのは貴方が初めてですよ」

 

 

 そう言って赫周(かくしゅう)は片手に持つ槍をぶんぶんと振り回しながら、尚も真菰(まこも)の放った突きの威力を絶賛し続ける。

 

 確かに赫周の持つ槍の柄には遠目からでも分かるほどのくっきりとした大きな亀裂が入っていた。縦に地割れのように入ったその亀裂の大きさが、真菰の放った攻撃が如何に強力な一撃であったかを物語っている。

 

 

 

「まぁ、すぐに直るんですけどね」

 

 

 しかし、そんな槍にとって明らかに致命的な罅も赫周がなぞるように指を沿っていくと瞬く間にその姿を消す。

 

 まるで新品のように深紅の輝きを放ちはじめた槍の姿に信乃逗(しのず)真菰(まこも)も驚愕に目を見開く。

 

 

 

「くっくっく、この槍は私の血で出来ていますから、この程度は造作もありません。あぁ、でもがっかりする必要はありませんよ?この槍は私に出来る最高の硬度ですから、傷を入れられるなら私の首を落とすことも不可能ではないということです。……よかったですね、まだ可能性があって」

 

 

 

「やっぱり嫌味じゃねぇか……俺、お前のこと無茶苦茶嫌いだわ」

 

 

 舌打ちすらしそうな苛立った口調で信乃逗は赫周へと言葉を投げかける。

 

 

 一度素晴らしいと持ち上げて起きながら絶望に落とすようなやり口からして、赫周の性格は明かに悪い。出来ればあまり話したくはない手合いだが、嫌でも会話をした甲斐はあった。

 

 先の言葉で、この鬼の異能の一つが血液を媒介にして槍を作ることができる物であるということは分かった。

 

 あの空中に突然現れた槍も、こいつが血液で造りあげたもので、蔵の中で地面から飛び出してきた複数の赤い槍も恐らくこいつの血液を媒介にしたもの。

 

 

 

 血を介して槍を作る異能。

 

 

 単純ではあるがそれ故に強力な能力だ。

 

 

 

 しかし奇妙なことに蔵の外に出てからというもの、奴は手に持った一本の槍しか攻撃に使ってこない。蔵の中で使っていた血溜まりを用いて複数の槍を生み出して自在に操ったあの厄介な能力を、赫周は外に出てから一度も使ってきていないのだ。

 

 

 恐らく使用にはなんらかの条件があるのだろうが、それが一体なんなのか。

 

 

 

信乃逗(しのず)……あいつ、多分探知系の能力も持ってると思う」

 

 

「探知系?」

 

 

「うん、前にカナエ様にっ……聴いたことがある。……鬼の中には視界以外でも、物や人の場所が分かる能力を…持ってる鬼もいるって。

さっきの突きは……完全に死角からの攻撃だったのにっ……赫周(かくしゅう)は私が近づく前には……もう気付いてた。それに蔵の中でも、煙で何も見えなかった筈なのに、ずっと正確に攻撃を続けてきてたでしょう?赫周にはきっと目以外でも……私達の場所を把握できる能力がある」

 

 

 確かに真菰(まこも)の言うように赫周の察知能力は異常に高い。

 

 思い返せば真菰が最初に攻撃した時も、視線や注意は間違いなく此方に誘導出来ていたはずなのに、直前になって奴は彼女の攻撃に感づいた。

 

 赫周が視覚ではない、なんらかの別の感覚を用いている可能性は多いにあり得るだろう。

 

 だが問題は、赫周の用いているその感覚の正体だ。仮にその感覚も赫周の異能だとすれば、血液を媒介にするこれまでの能力と同様の物である可能性が高いが、それでどうやって此方の動きを探知しているのかがまるでわからない。

 

 

(血の異能……血液……量か?)

 

 

 そこで信乃逗(しのず)はふと蔵の中の様子を思い出した。

 

 

 蔵の地面には血溜まりができる程度には血があった。

 それにあの槍が生み出されたのはその血溜まりがあった場所からだったはずだ。もしも赫周のあの能力が血の量によって制限を受けるなら、奴の血鬼術には大きな制限があるということになる。いくら鬼とはいえ、なんの供給もなく無限に血液を作り出せるわけではない。傷の再生をするにしろ、消耗したのであれば人の血肉を喰らって力を補給しなければならないのだから。

 

 

(この街のあの濁った空気……それにこいつの能力……)

 

 

 もしも自分の推理があたっているのだとすれば、能力にある程度の目星は着く。それを打破することも不可能ではないだろう。しかし……

 

 

(……アイツは異能よりも身体能力の方が厄介だ)

 

 

 赫周の最も恐ろしいところはあの槍を使った戦闘技術にこそある。正直なところ真菰(まこも)と共に2人で戦ったところであの鬼に、赫周(かくしゅう)に勝てる算段が信乃逗(しのず)にはまるでつかない。

 

 

 なにより真菰(まこも)の状態は既に満身創痍と言ってもいい。本来なら今すぐにでも治療を受けるべきほどの傷を既に真菰は受けている。そんな状態では赫周に勝つどころか、この場を生き延びることすら困難だ。

 

 街の外に隠が到着しているのならば、真菰だけでもこの場からなんとか逃げて治療を受けるべきだと、信乃逗がそう考えてしまうのはある意味では当然だった。

 

 

 

真菰(まこも)……俺が時間を稼ぐ、お前はっ!?」

 

 

 逃げろ、と信乃逗(しのず)はその言葉は最後まで言うことが出来なかった。

 

 何故なら信乃逗の口元に真菰(まこも)の人差し指がそっと当てられていて彼がそれ以上喋ることを遮っているから。

 

 

 

 

信乃逗(しのず)……それ以上は、駄目だよ…」

 

 

 

 少し悲しそうに微笑みながら真菰(まこも)信乃逗(しのず)にその続きを言わないように懇願した。彼女の言う「それ」が何をさすのかはもちろん信乃逗にもわかる。

 

 

 

 

「……俺は真菰(まこも)に死んで欲しくない」

 

 

 

 

「それは私も……信乃逗(しのず)に死んで欲しくない」

 

 

 

 信乃逗(しのず)だけが残ればきっと信乃逗は死ぬ。

 真菰(まこも)だけが残っても今の状態ではきっと時間稼ぎにもならない。

 

 2人で残れば両方死ぬかもしれないし、両方生き残ることができるかもしれない。あるいはどちらかが死んでしまうかもしれない。

 

 

 両者の認識は一致していた。

 

 

「もう夜になる。……私達は鬼殺隊……この街の人を守るのは、私達の責務でしょう?……正面からあの槍を受けるのはっ……ちょと難しいけど……時間稼ぎくらいならなんとかなる」

 

 

「………はぁ〜」

 

 

 真菰(まこも)の出した答えに信乃逗(しのず)は溜息を吐きながら目を伏せる。

 

 やはり、真菰(まこも)は素直に引いてなどくれる訳がなかった。互いに互いが死なせたくない、だが自分も真菰も鬼殺隊の隊士だ。剣士としての責務がある。

 

 

「……頑固者め……なら、真菰(まこも)は援護に徹してくれ」

 

 

 

「うん……ごめんね、信乃逗(しのず)も、怪我してるのに」

 

 

 

「お馬鹿……謝るな。……今の真菰(まこも)ほど酷くない……真菰、頼むからあまり無理をしないでくれ」

 

 

 

「……信乃逗(しのず)もね」

 

 

 

 懇願するかのような声色で真菰(まこも)を心配そうに見詰める信乃逗(しのず)の言葉に真菰も優しげに微笑みながら信乃逗の目を見返す。互いに見つめ合いながら無事を願う2人の様子を赫周(かくしゅう)は面白そうに見つめる。

 

 

 

「……なにやらいい雰囲気のところ申し訳ないのですが、一つ質問しても宜しいでしょうか?」

 

 

「うるせぇ、いい雰囲気だって分かるなら邪魔すんな」

 

 

「……お邪魔虫」

 

 

「おやおや、私が悪いんですかねぇ?」

 

 

 とても戦闘中だとは思えないような雰囲気を漂わせる2人の姿に赫周(かくしゅう)もとうとう我慢できなくなって話かけたのだが、返ってきた言葉は少々以上に理不尽な言葉だった。

 

 

「……まぁいいですけど。……そんなことよりどうしてお二方とも揃って逃げると言う選択肢はないのでしょうか?……先程から貴方達のお話には必ず何方かが私と戦うという選択肢しかないようですが、死にたくないのなら2人とも揃って逃げだしてしまえばいいでしょう?」

 

 

 理解できないと言った風に赫周(かくしゅう)信乃逗(しのず)真菰(まこも)に抱いた疑問を投げ掛ける。

 

 

「そんなのお前を止める為に決まってるだろうが」

 

「このまま私達が居なくなったら、貴方は消耗した体力を回復する為に人を喰らう。……それを許す訳にはいかない」

 

 

 何を当たり前のことを聞くのかと言わんばかりの勢いで信乃逗(しのず)真菰(まこも)赫周(かくしゅう)の疑問に何の迷いもなく即答した。

 

 

「ふむ……よくわかりませんね。貴方達は互いに死んで欲しくないとそう願いながら、知りもしない他人を守る為に……死ぬと分かって私に挑むと?」

 

 

 あまりにも理解し難いその言動に赫周も思わず首を傾げる。

 赫周の前にいる2人が死んで欲しくないと互いに言い合い、それを願っているのだということは彼にとっても既に明白だ。

 

 しかしそうであるなら、戦わずに逃げるという選択が最も無難な物である筈だ。

 

 信乃逗と真菰が語る願いとその行動はあまりにも矛盾している。死から逃れることを望みながら、何故見ず知らずの垢の他人を守る為に、死へと続く道を選ぶと言うのか。

 

 

 赫周(かくしゅう)にはそれが理解出来なかった。

 

 

「俺達鬼殺隊はその為にあるんだよ。……少しでも、ほんの僅かにでも、鬼によって壊される笑顔を減らす為に、あの悲しみと絶望を知らないでいいように……俺達は戦ってきた。この刀も、身に付けた技術も全てが鬼から人を守る為の物だ」

 

 

「これまで貴方を倒しに来た、全ての隊士もその為に貴方と戦った。……私も信乃逗(しのず)も死にたい訳じゃない。でも、託された想いがある、繋いでくれた未来があった。彼等が遺してくれたそれを……今度は私達が未来に想いを繋ぐ。だから例えこれが悪あがきでしかないのだとしても、貴方から逃げる訳にはいかない」

 

 

 

 決意を語るかのように自身の投げ掛けた疑問に応える2人を見て赫周(かくしゅう)はその胸に満ち溢れた喜びの感情に、まさに感無量だと言わんばかりの表情を浮かべる。

 

 

 

(……あぁ、面白い……本当に素晴らしい)

 

 

 こんなにも胸の躍る素晴らしい心意気を宿した人間と会ったのは本当に久しい。死を恐れながら、立ちはだかる死に弱者を守る為に挑むそのあり方は古き時代の武士を彷彿させるほどの気骨に富んだものだった。

 

 

(惜しむべきは……彼等の肉体の弱さ……)

 

 

 赫周の目の前にいる2人の戦士はかたやすでに満身創痍と言ってもいい少女、そして残るもう1人もその身に大量の切り傷を負っている。

 

 そのような有り様で果たして十二鬼月である自分とどこまで戦えるというのか。戦うという点において既に勝機は決していると言ってもいい。人の肉体はあまりにも脆弱だ。彼等の傷ではおそらくこの戦いを長く楽しむことは出来ないだろう。

 

 

(まぁ、楽しみはまだありますけど……)

 

 

 想いなどと言うまやかしでは実力差は埋まらない。そんな幻想に囚われ、悲壮な覚悟を持って自分に挑んでくるあの2人の表情をどのようにして絶望と恐怖に変えるか、それを考えると赫周(かくしゅう)は愉しくて仕方がなくなる。

 

 

「……やはり、貴方達はいいですねぇ。貴方達にとって想いというものがどれほど大事な物なのかは分かりましたよ。ですが、そのような無様な有様で、本当に私を止められますかねぇ?」

 

 

 ただの時間稼ぎ、それすらも本来ならままならないはずの2人を見据えて赫周は微笑む。

 

 

「……それはゆっくり、試してみればいいさ」

 

 

 蒸気のようなものを口から吐きながら信乃逗(しのず)は両手をぶらりと垂れ下げる。

 

 

 

 — (から)の呼吸 弐ノ型 一迅千葬(いちじんせんそう) —

 

 

 

 少年が脱力したようにだらりと腕を垂らした、そう赫周(かくしゅう)が認識した時には既に眼前に少年がいた。20m以上あった距離を瞬きの合間に詰めてきた少年に赫周は喜びのあまり笑みを深める。

 

 

(本当に、どこまでも楽しませてくれる!!)

 

 

 咄嗟に地面に槍を突き刺すようにして柄の部分を盾のように扱うことで凄まじい速度で横凪に一閃された刀を弾く。だが目の前の少年はそれでは止まらない。刀を弾かれた勢いを利用して身体を捻るようにそのまま半回転し側面から刀を振るって更なる一撃を入れようとしてくる。

 

 

 瞬時に攻撃を切り替えてくるその判断力に舌を巻きながら、赫周(かくしゅう)は突き刺した槍を支えに跳躍して信乃逗(しのず)の一撃を躱す。だが、跳び上がったその先で赫周の視界にはまたも意表を突く驚愕の光景が待ち構えていた。

 

 赫周がそこに来ることを読んでいたかのように、彼の目の前には真菰(まこも)が大きく刀を振り上げ技を放とうとしている姿がある。

 

 

 

 — 水の呼吸 捌ノ型(はちのかた) 滝壺(たきつぼ) —

 

 

 

 上段から振り降ろされるその刀を赫周(かくしゅう)は自らの血液を使って新たに一本の槍を創り出して防せごうと試みる。だが咄嗟に創ったその槍の色合いは地面に突き刺さった深紅の槍のように濃いものではない。まるで大きな河川の水が何十メートルもあるような高さから地面へと落ちていくかのような強力な一撃に、創り出した槍は半ばで両断され、赫周(かくしゅう)の顔から胸元に掛けて深い傷をつくりあげる。

 

 

 

 真菰(まこも)に一撃を入れられて体勢を崩した赫周(かくしゅう)の背後に向けて信乃逗(しのず)が跳び上がる。

 

 

 

 — (から)の呼吸 壱ノ型(いちのかた) 震葬(しんそう) —

 

 

 

 深傷を受けた赫周(かくしゅう)のその首を斬り落とそうと信乃逗(しのず)が技を放ち、その首元へと刃を入れる。

 

 

 

(斬ったっ!!)

 

 

 

 完璧なまでに決まった一連の動きに信乃逗(しのず)が勝利を確信したその時、赫周(かくしゅう)がその口元を不気味に歪める。

 

 

 

 — 血鬼術 血槍弾(けっそうだん)•乱 —

 

 

 

 首の半ばまで信乃逗(しのず)の刃が斬りさいたその時、赫周(かくしゅう)の凶悪な血鬼術が発動する。真菰(まこも)が斬りつけた傷と信乃逗が斬ろうとした赫周の首筋から噴き出る血液が、空中で槍の穂先のような形へと変わり無差別に四方八方へと弾け飛んでいく。

 

 

「うぐっ!?」

 

 

 赫周(かくしゅう)の背後に跳び上がっていた信乃逗(しのず)は至近距離から迫りくる槍の穂先を防ぐことも出来ず、信乃逗の肩や足に数発ずつ命中して、貫通していく。その衝撃で信乃逗の身体は赫周の首を斬り落とすことなく後方へと大きく弾き飛ばされる。

 

 

 

 この瞬間、信乃逗(しのず)の刀はまたしても届くことがなかった。

 

 

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想頂けますと幸いで御座います。


鬼殺隊ってこういうカッコいい組織であって欲しいという願望を詰め込みました!(≧∀≦)

真菰様は神になる!


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繋がれた想い

真菰様ー!!


 

 

 

 受けた攻撃の衝撃で弾き飛ばされた信乃逗(しのず)は、地面へと受け身を取ってなんとか着地するが、その衝撃で身体に走る激痛に顔を歪めることになる。手にした日輪刀を支えにしてなんとか立ち上がるが身体に走る痛みは相当な物で呼吸も随分と荒くなる。

 

 

 

「……はぁはぁ、っ痛ぇ……」

 

 

 

 攻撃が貫通した足と肩から身体中に走る激痛と首を切れなかった悔しさから信乃逗(しのず)は歯を食い縛る。

 

 

 あと少しだった、ほんの少しだった。赫周の首の半ばまで刃を斬り込むことができたというのに刎ねることが出来なかった。

 

 

(ちくしょうが……でも、アイツの感覚の正体はわかった……)

 

 

 だがこれで、赫周が死角を把握できる理由ははっきりした。信乃逗の想定した通り外から観たこの街の澱んだような空気、それこそが奴の探知能力の正体。

 

 

 おそらく赫周は自分の血液を介して物を見ることができるのだろう。死角外からの攻撃を把握できたのは、自身の血液を空中に散布して知覚範囲を拡大していたから。街が澱んで見えたのは空中にばら撒かれた奴の血液のせいだ。あの蔵の中で砂塵の舞い上がる中であっても正確に自分達の位置を把握していたのも、攻撃してきた血の槍そのものが赫周の目の代わりになっていたのだ。

 

 

 きっとやろうと思えば赫周はこの街の全ての人や物の場所を把握出来る。この街全体が澱んで見えたことから見てもそれは間違いないだろう。ただ、そうだとすれば恐ろしい程広範囲に渡る能力だ。下弦というだけのことはある。

 

 

 とはいえ、その能力を僅かな時間ではあったが誤魔化せた、信乃逗にできる最速の動きでもって起こした風圧で、赫周の血の混じっているであろう空気を吹き飛ばすことで奴の知覚できない道を作った。その道を通って真菰が奇襲を掛ける。

 

 

 まさに一発勝負、一度しか通用しない術。だが赫周にとって、それは致命的な一撃になる筈だった。だというのに信乃逗はその首を斬り落とすことができなかった。

 

 渾身の一撃だった筈だ。今の自分達にできる最高の連携だった。

 

 

 それが結局は首を斬り落とすことができずに、逆にこちらが深傷を受けてしまった。折角真菰(まこも)が作ってくれた機会だったというのに……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——— 待て

 

 

 

 

 

 

 

(あの瞬間、あの攻撃を真菰(まこも)は回避できたのか?)

 

 

 

 信乃逗(しのず)の脳裏に先程の様子が思い起こされる。真菰(まこも)は技を放った直後だった、しかも赫周の傷から噴き出した血液はどう考えても真菰の方が量が多かった筈だ。

 

 

 

 

 

 ——— 無理だ

 

 

 

 

 

 

 不可能だ、とてもそんな時間はなかった。回避なんて出来るわけがない。

 

 

 

 なら、真菰(まこも)は、あの至近距離で無数とも言える血の雨を、信乃逗の足や肩を貫くほどの威力を持った強力無比な攻撃を受けたことになる。

 

 

 

(真菰っ!!)

 

 

 慌てて周囲を見渡す信乃逗(しのず)の視界に真菰の姿が映った瞬間、彼は傷の痛みも忘れて彼女に向かって走り出した。

 

 

 

 

 

 

 分かっていた筈だ、こうなるかもしれないと覚悟していた筈だった。

 

 

 当たり前なんて言葉がどれだけ簡単に崩れてしまうものなのか自分はよく知っていた筈なのに。

 

 

(やめろっ……やめろっ……真菰っ)

 

 

 幸せだと思うその時間がいつまでも続いて欲しいというのは実に人間らしい願望だ。この時間を終わらせたくないと、この幸せをずっと感じていたいと、人はそれが永遠であることを願う。

 

 

 

 だが、例えそれがどんなものであろうとも終わりというのはやってくる。

 

 

 

 永遠という言葉は本来、人の身には余りにも過ぎた願い。もしも永遠という言葉を許されているのだとすればそれは時の流れだけだ。時間とは、自然で残酷に、人の身にはあまりにも強大な力で当たり前のように、ただ先へと流れ続ける。鬼が滅びようが、人が滅びようが、全てのものが消えても時間だけは滅びることはない。

 

 

 

 そんな時の流れの中では信乃逗(しのず)の願いは余りにも儚かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(あれ?……私、どうして倒れてるんだっけ?)

 

 

 一体何があったのか、薄らと開かられた真菰(まこも)の視界には分厚い雲に覆われた薄暗い空が広がっていた。起き上がろうとしても身体に上手く力が入らないのか、思うように手足が動いてくれない。

 

 

 

(……寒い……地面が…冷たい、……濡れてる?雨なんて降ったっけ?)

 

 

 

 ふと、真菰の頭によぎったその疑問で彼女は直前の出来事を思い出した。

 

 

 

(……あぁ違う、雨なんかじゃない。……これは、私の血だ)

 

 

 

 自身の身体から何かが流れていくような、すっとした冷たい感覚がある。その感覚と地面の冷たさで、自分の今の身体の状況をようやく理解することができた。

 

 

 信乃逗(しのず)赫周(かくしゅう)の首を斬れただろうか。

 

 

 いや、あの様子では斬り飛ばせてはいないだろう。まさか斬りつけた身体から噴き出した血液を、ああも一瞬で攻撃に転用してくるとは、思っても見なかった。随分と初見殺しの技だったし、直前に浮かべた笑みといい、やはり赫周(かくしゅう)という鬼は相当に性格が悪い。

 

 

 

真菰(まこも)真菰(まこも)!!しっかり、しろ!」

 

 

 

 やけに遠くから自分を呼ぶ声がして、次いで背中に感じていた冷たさが消えて人の温もりに包まれるような安心する暖かさに体が包まれた。

 

 聞こえた声は信乃逗(しのず)のものだ。

 

 

 

「……ごほっ……っし……のずっ……」

 

 

 放つ言葉にすら混じる濃い紅色。

 

 

(あぁ、……声が上手く出ない)

 

 

 それまでどうやって自然に話せていたのか分からなくなってしまうほど、今の真菰には満足に言葉すら発せられない。あれだけ攻撃をもろに受けたのだということを考えれば、それも無理のないことなのかもしれない。荒い息遣いでは呼吸による止血すらままならない。

 

 

真菰(まこも)っ!……いま止血する!気をしっかり持て!!」

 

 

 

 ゆっくりと重くだるい瞼を開いていけば、焦っているような、今にも泣き出してしまいそうな表情をした信乃逗(しのず)の顔が視界に映る。その必死な声色からも自分の身を心配してくれてる様子がとてもよく分かる。

 

 

(止血は……無理……かな……)

 

 

 自分の身体を見た訳ではないが直感的に真菰はそれを悟っていた。姿見でもあればはっきりするが、そうでなくとも自分の身体の傷の具合ならば、多少は理解出来る。

 

 傷が多すぎるのだ。もともと最初の赫周からの一撃で内臓が傷ついていた上に、今は肺もやられたのか、普通の呼吸すら苦しく感じる。

 

 

 

「……はぁはぁ…し…のず……ゴホッゴホッ……お願いが…あるの」

 

 

 

 おそらく、自分はもう長くは持たない。無理はしないと約束したばかりだというのに、このようなことになるとは、全くもって不甲斐ない。

 

 

(もっと一杯話しておくんだったな……)

 

 話したいことは沢山あった。言葉にして伝えたいことが尽きない程にあった。それを伝えきれていないことにほんの少し、後悔のような気持ちが真菰の心中に湧き上がってくる。

 

 

 だけど、残念ながら今は時間がない。

 

 

 刻々と身体からは血が流れ、意識はどんどんと薄暗くなっていく。喋れるうちに伝えられることは伝えないといけないのだ。繋げられていく想い、それこそが、鬼殺の剣士がこの哀しい世界で生きていた証になるのだから。

 

 

(信乃逗……)

 

 目の前の彼ならきっと紡いでくれるだろう。自分の罪を知り、その罪に苦しみ、それでも尚、刀を奮い続けてきた彼なら、本当はとっても優しいのにぶっきらぼうに振る舞う不器用な彼なら、私の想いも安心して預けられる。

 

 

 

「っ後で聴く!後で聴くから!!今は、あまり喋るなっ!傷が「…信乃逗(しのず)、お願い」!……っ……」

 

 

 

 ゆっくりとした動作で重い腕を持ち上げて、自分の口元に震える人差し指を力なく当てて微笑む真菰(まこも)の姿に、信乃逗はそこから先の言葉を言えなかった。

 

 

 

「……分かるで…しょう、信乃逗(しのず)

 

 

 

「っ………」

 

 

 

 一目見た時から信乃逗(しのず)にも分かっていたのだ。

 

 信乃逗に出来ることなど既にどこにもない。

 

 真菰(まこも)の傷は深い上に数が多い、多すぎる。ひとつの傷口を抑えたところで意味がない。真菰の身体からは止めどなく血が流れていく。手の施しようがない、救えない、目の前で彼女の命が流れていくのを止められない。

 

 

 目を閉じて、歯を食いしばるようにきつく口を閉じて無言でいる信乃逗(しのず)の様子を見て、真菰(まこも)は信乃逗の口元に当てていた指をゆっくりと下す。信乃逗の口元には真菰の指先から鮮やかな赤い色の液体がべっとりと付着する。

 

 

 

「蝶……屋敷のっ……私の寝台の下に……手紙が…あるの。それを……お父さんに……渡して欲しい」

 

 

 真菰は鬼殺の剣士だから、いつかこうなるかもしれないと、蝶屋敷でカナエから貸し出された個室の寝台の下に自らの父親である鱗滝に宛てた手紙を書いて置いておいたのだ。

 

 

 その手紙には鱗滝への真菰の気持ちが込めれるだけ込めたものだ。本当はその遺書とも呼ぶべき手紙を渡すことがなによりの不孝となるのだろうが、なに一つとして遺せないのはそれはそれで不孝だ。

 

 

 

「……あぁ、必ずっ、必ず届ける!」

 

 

 

 押し殺したような声色でそう言う信乃逗(しのず)の目尻からは溜めきれなかった雫が止めどなく溢れ落ちていく。

 

 

 

「……良かった。ねぇ……信乃逗(しのず)…」

 

 

 嗚咽(おえつ)を堪えるように涙を流してくれる信乃逗(しのず)の姿を見て、真菰(まこも)は少し場違いな感情を思い浮かべていた。

 

 

(……変、だね)

 

 

 そういえば信乃逗(しのず)が涙を流す姿を見るのはこれで2度目だが、今度の涙は自分の為に流してくれているのだと、そう理解した瞬間、心に奇妙な喜びが広がっていく。

 

 

 自分の心を偽ってずっと本当の想いに蓋をしてきた彼が今、私の為に心の底から涙を流してくれている。

 

 

 それが何故だかとても嬉しいのだ。

 

 

 彼の流す涙も自分を抱えてくれる彼の身体もとても暖かく感じる。

 

 

 

「……ありがと……ね……信乃逗(しのず)が……あの時…助けてくれなかったら私は……もうとっくに死んでた、信乃逗のお陰で私はお父さんのところにまた帰れた。……鱗滝さんをお父さんって…呼べるようになった。私は信乃逗に……たくさん…もらったけど…私はっ……少しでも…信乃逗に……何か返せたかな?」

 

 

 

「っ!……あぁ……」

 

 

 寂しそうに、不安そうに微笑む真菰(まこも)の言葉に信乃逗(しのず)は思わず息を呑んで静かに呟くように応えるが内心ではそれとは全く違う想いを抱いていた。

 

 

(違うんだよ真菰……本当はそうじゃない。もらっていたのは……俺の方だ)

 

 

 振るった刃を後悔ばかりしていた自分に本当の想いを思い出させてくれたのは真菰だ。

 

 嗤うことしか出来なくなった自分を笑えるようにしてくれたのも真菰だ。

 

 

 想いを繋ぐことの大切さを教えてくれたのも、振るった刃が間違いではなかったのだと言ってくれたのも、何もかも全部、真菰(まこも)がくれたものだった。

 

 

 空っぽだった信乃逗の心を真菰が埋めてくれたのだ。

 

 

(何も返せていないのは俺の方なんだよ……)

 

 

 

 だから、まだ逝かないでくれ。俺をまた……

 

 

 

 

 

 ——— 1人にしないでくれ

 

 

 

 

 

 そう言いたいのに声が出てくれない、言葉が紡げない。代わりにぽたぽたと目から雫が溢れて真菰(まこも)の身体に次々に落ちていく。

 

 

 

 

「……信乃逗(しのず)、これからも……きっと辛いことも…悲しくなるようなことも……たくさんある。だけど…信乃逗が…心の底から笑えるような…ことも……きっと…たくさんある……だ…から…心を閉じないで…信乃逗の…想いを、忘れないで…いき…てね」

 

 

 

 

(あぁ、駄目だ、もっともっと伝えたいことが…たくさんあるのに…なんだか凄く眠い……)

 

 

 

 (まぶた)が酷く重くて目を開けていられない。

 

 

 

 

「……まこも?……真菰(まこも)!?駄目だっ!目を閉じるな!!」

 

 

 

 ゆっくりと瞼を下ろしていく真菰(まこも)の様子に信乃逗(しのず)は焦ったように懇願するように真菰を呼び続ける。

 

 

 

 

 信乃逗(しのず)が自分を呼ぶ声が少しずつ遠くなっていく。もう、この満ち足りた幸せな時間も終わりのようだ。

 

 

 

 いつか死ぬかもしれないことは勿論覚悟していたが、こんなにも暖かい最期を迎えられるとは思ってもみなかった。鬼狩りをする自分の最期は鬼に喰われるのだろうと、そう思っていたのだ。だが、なかなかどうして分からないものだ。

 

 

(暖かい……なぁ……)

 

 

 独りだった自分を鱗滝(うろこだき)さんが見つけてくれて、愛情をくれた。

 

 何の恩も返せずに、ただ死ぬだけだった自分を信乃逗(しのず)が助けてくれた。

 

 大好きな鱗滝さんの元に、信乃逗のお陰で帰ることができた。

 

 

 沢山の人を守る機会をくれた。

 

 

 辛いこともたくさんあったけど、思い返してみれば、独りだった時からは想像も出来ないほど自分の中には沢山の暖かい思い出で満ち溢れている。

 

 

 

 

 なにより今、こうして大好きな人の腕の中で、こんなにも幸せな気持ちで最期を迎えることができている。

 

 

 

 

 

「……わたし……しあ…わせ……だったなぁ……」

 

 

 

 想いは繋げたのだ。後は……信じるだけ。

 

 

 

真菰(まこも)っ!!いやだっ、待ってくれ…… 真菰(まこも)っ!!」

 

 

 

 焦ったような、怖がっているかのような悲しみに満ちた信乃逗の声がどんどんと遠ざかっていく。

 

 

 

 

 

 (大丈夫だよ、信乃逗(しのず)……私は大好きなお父(うろこだき)さんのところに帰るだけ……だから……)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——— きっといつか、また逢えるよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想を頂けますと幸いで御座います。

そして真菰教徒の皆様、今まで散々真菰ちゃんは神と言いながら、このような形のお話となりましたこと謹んでお詫び申し上げます(切腹)

憎むべくワニの呼吸の使い手をどうかお許し頂けますと幸いで御座います。


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覚悟

それでも真菰ちゃんは神です。


 

 

 自らの腕の中で静かに息を引き取った真菰(まこも)の体を信乃逗(しのず)は強く抱きしめる。

 

 

「お願いだ真菰(まこも)、目を開けてくれ。

俺はまだ、お前と話ができていない……今度一緒に出掛けるって…約束したじゃないか。俺をお前のお父さんのところに、連れていくんじゃ…なかったのかよ。なぁ、返事をしてくれよ…まこも」

 

 

 信乃逗(しのず)のその言葉に少女が答えを返すことは無論ありはしない。彼女の声を聴くこともその美しい瞳に信乃逗が映ることも、もうない。

 

 

 いやだ、喪いたくない。俺はまだ、何も伝えていない。今度こそ守るってそう思ったのに、大切な誰かを守るために、父が教えてくれた刀で、今度こそ愛する人を守るってそう決めたんじゃないのか。

 

 

 

 なのに、どうして……どうして真菰(まこも)が死ぬんだ。

 

 

「いやぁ、焦りました、首に刃を通されるのは初めてのことでしたから、再生にも手間取ってしまいました。

それにしてもまさか私の探知法に気付いていたとはねぇ。

単純な速度に頼った一閃かと思えば、私の血を混ぜた空気を風圧で吹き飛ばして探知を阻害することが狙いだったとは、…彼女との連携も併せて私はもう感嘆しましたよ」

 

 

 信乃逗(しのず)の背後から、受けた傷の再生を終えた赫周(かくしゅう)が愉快そうに嗤いながら、歩いてくる。

 

 

 あれだけの傷を受けようとも、赫周(かくしゅう)は鬼だ。

 

 首を斬り落とさない限り、人間ならば致命傷になりうる攻撃であろうとも、たちどころに再生してしまう。信乃逗(しのず)が斬りかけた首も、真菰(まこも)が決死の想いで付けた傷も、まるで何も無かったかのように平然とした様子で信乃逗へと近いていく。

 

 

 

「おや?そういえば其方の彼女は随分とお静かですね?……血の匂いも随分と濃い。もしかして……死んじゃいましたかぁ?」

 

 

 信乃逗(しのず)の腕に抱き抱えられたままぴくりとも動かない真菰(まこも)の姿と感じる血臭の濃さに赫周(かくしゅう)はにたりと口元を歪めて愉しそうに信乃逗(しのず)に問い掛ける。

 

 

 

「…………」

 

 

 

 赫周(かくしゅう)の問いに答えることなく、腕に抱えた真菰(まこも)信乃逗(しのず)はゆっくりと丁寧に地面に横たえると静かに立ち上がる。

 

 

 

「あららー、まさかあれで死んでしまうとは……覚悟や想いを語る姿は実に立派でしたが、その割には実力が伴っていなかったと。……いやはや、残念ですねぇ、結局のところ彼女の言う想いなんていうものも、その程度のものだったということですか」

 

 

 返ってこない返答に気にした様子もなく、けらけらと赫周(かくしゅう)真菰(まこも)の死を嘲笑う。

 

 

 明らかな挑発行為だ。

 

 互いに随分と想いやっていた2人を見たときから赫周(かくしゅう)はどちらかが死んだ時このように挑発しようと考えていたのだ。例え死んだのが信乃逗(しのず)であっても赫周(かくしゅう)は同じように真菰(まこも)を挑発しただろう。大切に想う人間を殺された時の人間の感情を見るのは赫周の楽しみの1つなのだから。

 

 

 勿論それが挑発であることは信乃逗(しのず)とて分かっている。だが、どれだけ頭で理解していようとも昂る感情を抑えられないこともある。未熟、そう思われようとも、信乃逗はこの言葉に対する怒りを押さえられない。

 

 

 

「………取り消せ」

 

 

 

 真菰(まこも)の想いも覚悟も、決してその程度のものなどと侮辱されるような軽いものなどではなかった。

 

 

 死の間際ですらこんなどうしようもない自分を心配して、その先行く道を照らそうとしてくれた彼女の想いをあんな鬼に、あんな外道に貶められて尚、許せるはずがない。

 

 

 

 彼女を奪ったあの鬼へと湧き上がる怒りと憎しみを抑えられるはずもない。

 

 

 

「うん?何か仰いましたか?すいませんねぇ。お声が小さくてよく聴こえませんでした、もう一度言って頂けます?」

 

 

 小さくボソリと呟かれたその言葉を聞き取れなかったと、尚も挑発する姿勢を崩すことなく赫周は信乃逗(しのず)へと再度問いかける。

 

 

 

 

 その次の瞬間には数mは離れていたはずの信乃逗(しのず)の姿は赫周(かくしゅう)の間隣にあった。

 

 

 

 

「……取り消せと、言ったんだよっ!!」

 

 

 信乃逗(しのず)は強い怒気を露わにしながら赫周(かくしゅう)へと聞こえるように怒号を轟かせ、勢いよく刀を横一閃に振り抜く。

 

 

 

 

 —— ガキィン ——

 

 

 

 

 金属と金属がぶつかったときのような甲高い音をたてながら、信乃逗(しのず)の満身の力で振るった一閃は赫周(かくしゅう)の持つ深紅の槍に阻まれる。

 

 

 

「おやおや、随分と感情的な攻撃ですね。……そんなにあの少女が死んだのが衝撃的だったのですか?」

 

 

 

 槍の柄を盾のように扱って一閃を受け止めた赫周(かくしゅう)は怒りに呑まれたような信乃逗(しのず)の様子を愉快そうに口元を歪めながらさらに挑発する。

 

 

 

 赫周(かくしゅう)の言葉に信乃逗(しのず)の脳裏に優しく微笑えんで自分を呼ぶ少女の姿が過ぎる。

 

 

 

信乃逗(しのず)

 

 

 

 あぁ彼女ともう一度笑いたかったとも。またどこかに出掛けて、甘いものを食べて、2人で話して、幸せにありたいとそう願った。

 

 

 

 だがそれはもう叶わない。叶えなくさせたのは他ならぬ目前の鬼だ。

 

 

 

 自身の叶うことのない願望が信乃逗(しのず)に更なる憤怒の感情すら発露させる。

 

 

 

「黙れぇぇ!」

 

 

 

 ギリギリと音をたてながら鍔迫り合いの様相すらみせていた信乃逗(しのず)が地面に亀裂が入る程、力強く踏み込んで刀を押し込む。湧き上がる憎悪にも似た感情に後押しされ、この一瞬、鬼である赫周(かくしゅう)の膂力を信乃逗(しのず)が僅かに上回った。

 

 

 信乃逗(しのず)の力に赫周(かくしゅう)の体が僅かに後ろに押し出される。その力に、驚愕したように目を見開く赫周の首元に信乃逗の刀が剛速で迫る。

 

 

 しかし、またしてもその刀が首に届くことはなかった。赫周(かくしゅう)の手に現れた二本目の槍が首へと迫る信乃逗(しのず)の刀を防いだのだ。

 

 

 僅かな時間で創られた新たな槍の姿に悔しさから信乃逗(しのず)はギリッと歯を食い縛る。

 

 

(くそったれがっ!)

 

 

 何故、届かない、どうしていつも!俺の刀は護りたいものに届かないのか。

 

 怒涛の勢いで刀を振るい続ける信乃逗(しのず)だが、その刃は一太刀たりとも赫周(かくしゅう)には届いていない。怒りに呑まれた者の太刀筋は殊の外単純だ。僅かな足運びと二本の槍の柄でもって赫周は余裕を持って信乃逗の攻撃を防いでいく。

 

 

 

(怒りに呑まれているせいか、あるいは少女を喪ったことによる衝撃からか、何方にせよ先程私を追い込んだような動きはまるで出来ていない)

 

 

 

「無様ですね……奪う覚悟も奪われる覚悟も持って貴方も彼女も、私と相対していたのではないのですか?」

 

 

 力もあるし、剣速もたいしたものだ。だが、その太刀筋は直線的に過ぎる。虚術もなく感情のままにただ刀を振るっているだけだ。これなら先程までの方がまだ楽しめただろう。少年を絶望へと墜とすまでの流れは良かった、少女の遺体を抱きしめる少年の表情は赫周(かくしゅう)にとてつもない程の愉悦の感情をもたらした。

 

 

 その後の怒りの感情も悪くはないが、先程首を斬り落とされる一歩手前までいった相手がこの様というのは少々といわずかなり興醒めだ。

 

 

 

 

 

 — 血気術 飛翔血槍(ひしょうけっそう)

 

 

 

 

 赫周(かくしゅう)の手にある一本の槍が短く幾本にも分裂して、次々と信乃逗(しのず)に向かって高速で飛翔していく。

 

 

 

 唐突に自身に迫る全ての槍を信乃逗はその剛剣でもって弾き飛ばしていく。

 

 

 

 その様子に赫周(かくしゅう)はにたりと不気味に嗤うと、飛翔してくる槍の最後の一本を弾いた信乃逗(しのず)の真横へと高速で移動し、そのまま右手に握る自身の最硬度の槍を横薙ぎに振るう。人外の力でもって振るわれたその一撃は、風圧だけで地面の表層を抉り飛ばしながら信乃逗(しのず)の身体を大きく吹き飛ばす。

 

 

 轟音と共に舞い上がる土煙の中、宙に浮いた体を何度も地面に叩きつけられながら信乃逗(しのず)は地面を転がっていく。

 

 

 

 土煙が落ち着いた時、地面へと倒れ伏した信乃逗(しのず)の姿が見えて赫周(かくしゅう)は心底落胆した。

 

 

 

(覚悟だ、想いだと大層なことを言っても所詮はこの程度か。……最初が盛り上がっただけにこの呆気なさはやはり興醒めですね)

 

 

 

 まあそれでも久しぶりに随分と楽しむことが出来た。あれほど大事そうに少女の遺体を抱いていたのだ。余程大切な者だったのだろう、ならばもう終わりにしてあの世へと共に送ってやるのが戦士としてせめてもの礼儀というものだろう。

 

 

 

 槍を片手に地面へと倒れ伏した信乃逗(しのず)へととどめを刺すべく赫周(かくしゅう)は近づいていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうして、どうしてこの世界は生きていて欲しいと、そう願う人から死んでいくのだろうか。

 

 

 

(どうして……俺の前からみんな消えてしまうんだ)

 

 

 

 死ぬかもしれない、そんなことは……分かっていたことだ。分かっていたから、逃げて欲しかったんだ。君に生きていて欲しかった。

 

 

 

 努力してきた。目の前の幸せを守りたくて、もう届くことのないと思っていた幸せに手を伸ばして、必死に鍛えてきた。

 

 

 

 だが、結局はこの有様だ。

 

 

 

 愛した人の命も守れず、怒りと憎しみに呑まれて、感情のままに刀を振るい、今無様にも地面に這いつくばっている。身体はぼろぼろで、立つことすらままならい。

 

 

 

 

 俺は何の為に今まで刀を振るってきたのだろうか。

 

 

 

 

 父さんも母さんも姉さんも妹も、そして真菰(まこも)も俺が護りたかった人を、結局俺は誰1人として救えない。

 

 

 

 

 あいつが、赫周(かくしゅう)が近づいてくる。とどめでも刺す気だろうか、放って置いてもこの傷ならそのうち死ぬだろうに。

 

 

 

 だが、それも悪くないのかもしれない。

 真菰がいない世界で俺はどう生きていけばいい?

 

 

 

 こんな殺伐とした世界ではなく、鬼がいない世界で真菰(まこも)と出会えていたなら、この想いを彼女に伝えられていただろうか。彼女と笑い合って共に過ごすことが出来ただろうか。

 

 

 今更、そんなことを考えるべきではないのかもしれない。

 

 

 

 だけどそれでも、考えてしまうんだ、彼女と笑っている幸せな未来を。

 

 

 

 真菰(まこも)と2人で一緒に暮らす未来を想像してしまうと幸せだということ以外にうまく想像できなかった。彼女が微笑んでくれている、それが何よりも幸せだった。

 

 

 

 真菰(まこも)の微笑む様子を思い出しているのと同時にまるで叱咜されているかのように彼女とのつい先刻の会話が思い出される。

 

 

 

信乃逗(しのず)、私達は鬼殺隊の剣士、この街を守るのは私達の責務でしょう』

 

 

 

(あぁ……わかってる、分かってるさ。このまま死ぬのは違うよなぁ)

 

 

 

 

 どれだけ願っても、もう過去には戻れない、起きたことは巻き戻せない。

 

 

 俺は確かに失った、大事な人をまた守れなかった。だけど、まだ、失っていない人達がいる。幸せに笑ってくれている人達がいる。俺の過去じゃない、誰かの未来の為に、預かった想いをここで絶やして良い訳がない。抗うことを諦めて、諦観の中で命をおとすなど、そんな選択は……俺が今まで預かってきた全ての想いに対する裏切りだ。

 

 

 

 きっと真菰(まこも)にもさぞ怒られることだろう。

 

 

 

 例え、ここで死ぬことに変わりがないのだとしても、俺は最期までこの刀を振るい続けなければならない。この命の使い道はあの月の夜に、彼女の腕の中でもう決めていたのだから。

 

 

 

 

 —— この想いくらいは、伝えとくんだったなぁ

 

 

 

 

 

 ぷるぷると震える体を叱咜しながら、信乃逗(しのず)はその地に刀を突き刺して支えにすることで、なんとか立ち上がる。呼吸をするだけで肺が痛い、少しでも体を動かす度に激痛が走る。それでも、ここで倒れるわけにはいかない。この命をかけて最期までこの想いを繋ぐことを……諦めてなるものか。

 

 

 

 

「……まだ動けるのですか。頑丈なのは結構ですが、あまり無茶はいけませんよ。血は肉を味つけるとても良い調味料ですから、あまり流しすぎるのは良くないのです。……あの少女も早く食べてあげないと、どんどん味が落ちてしまいますから貴方にはもう諦めて動かないで頂きたいのですが」

 

 

 

 

 生まれたての小鹿のように脚を震わせ、血をぼたぼたと垂れ流しながらも必死の形相で立ち上がる信乃逗(しのず)の様子を見て赫周(かくしゅう)は目を見開く。実力はともかくこの傷でも尚立ち上がるその心意気だけは、称賛に値する。

 

 

 

 だが、それはもはやただの悪あがきだ。立ち上がることすら精一杯のその様で一体何ができるというのか。

 

 

 嘲笑うように告げる赫周(かくしゅう)の言葉に信乃逗(しのず)の心は一層奮い立つ。

 

 

 

 真菰(まこも)を喰らうと、そう告げたこの鬼だけはこいつだけは絶対に許せない。

 

 

 真菰(まこも)の命を奪ったこの鬼を倒すために、想いを先に繋ぐ為に俺の全てをかけろ。

 

 

 

 

「……赫周(かくしゅう)……悪いがお前に…真菰はやらねぇよ……お前が喰らっていいのは……俺のこの、刃だけだ」

 

 

 

 

 これ以上、あの鬼に真菰(まこも)を傷付けさせてなるものか。指一本たりとも、真菰(まこも)にはもう触れさせない

 

 

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
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外伝とかで真菰と信乃逗の話作成しようかな?


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空の呼吸

 

 

 

 地に顔をむけ信乃逗は自らの呼吸に意識を集中していく。

 

 

 

 空の呼吸は、俺の呼吸だ。俺の心を空っぽなのだから、今までずっとそうだったんだから。あの時に戻る、いやあの時よりももっと、自分すらも溶けて消えてしまうような暗闇に飛び込む。

 

 

 怒りも、憎しみも、悲しみも、愛情も全ての感情を俺の中から消し去れ。痛みも苦しみも俺の動きを邪魔する全てを何一つ感じないでいいように。ただ一つ、目の前の鬼を倒すことだけに俺の全てを使う。

 

 

 呼吸が深くなればなるほど痛みも苦しみも徐々に引いていき、やがて感じなくなる。それと同時に信乃逗(しのず)の世界が少しずつ色褪せていく、色のない世界を見ているかのように視界の全てが白と黒だけになっていく。

 

 

 

 そうして信乃逗(しのず)が再び顔をあげたその瞳を見た瞬間、ぞわりとする感覚が赫周(かくしゅう)の全身を走りぬけた。

 

 

 何もないのだ。

 

 此方を見るその瞳は確かに赫周を映し出しているはずなのに、そこにあるのはただどこまでも続く暗い闇だ。先程まで、激情ともいえる程の感情を面に出していた少年と同一人物とは思えないほどその瞳には一切の感情が見えなかった。

 

 

 

 信乃逗(しのず)のその黒く暗いガラス玉のようになった瞳が赫周(かくしゅう)を捉えて静かに見つめる。

 

 

 

 それはさながら、人の形をしただけの魂の抜け殻、まるで人形のようだった。

 

 

 

 

 —— (から)の呼吸 ()ノ型 燕戒(えんかい) ——

 

 

 

 

 動く、そう思った時には既に赫周(かくしゅう)の目前には信乃逗(しのず)が迫っていた。

 

 

 

(速い!)

 

 

 

 文字通り瞬きの間に距離を詰めてきた信乃逗(しのず)の動きに、赫周(かくしゅう)は目を見開く。防ぐ間もない程のその速さに、赫周(かくしゅう)は咄嗟に後ろへと跳躍するが、その速度を一切殺すことなく低い体勢から横薙に放たれた鋭い一閃がなんとか刀の間合いから逃れようとする赫周(かくしゅう)の両腕を斬り飛ばす。

 

 

 

「なっ!?」

 

 

 

 瞬きの間に自身の両腕を斬り飛ばしたその剣速に赫周(かくしゅう)は初めて驚愕に満ちた言葉を呟く。

 

 

 

 赫周(かくしゅう)には少年の腕がぶれて見えていた、それはつまり赫周の認識を超えた速度でその刀身が振るわれたということ。

 

 

 

 あってはならないことだ。だが、両腕を斬り落とされたところですぐに再生できる。こんな傷は自身にとっては擦り傷も同然。焦ることはない。首を斬られないかぎり鬼である自分が死ぬことはないのだ。まして相手の少年は既に満身創痍の身だ。自身の圧倒的な優位は何も覆ってなどいない。

 

 

 

 苦渋に満ちた表情を浮かべながら自分に言い聞かせる赫周(かくしゅう)は後方に着地しようとした時、ようやく気付いた。

 

 

 

 斬られていたのは両腕だけではなかったということに。

 

 

 

 自身の左脚の太腿から先がなくなっている。

 

 

 

「くっ!?」

 

 

 

 予想打にしていなかった片足での着地に体勢を崩した赫周(かくしゅう)へとすかさず信乃逗(しのず)が高速で距離を詰める。その速度にのったまま地面を擦るような低い位置から跳ねるように赫周の胴を斬り上げ、返す刃で首元に目掛けて袈裟懸けに降り下ろす。

 

 

 しかしそこはそのまま大人しく首を斬られてやる赫周(かくしゅう)ではない。肩から腰にかけて大きく斬り裂かれながらも、器用に一本の足で体を捻って刀を躱すとその回転を利用して勢いよく跳躍し、再び信乃逗(しのず)から距離をとる。

 

 

 

 — 血鬼術 血槍弾(けっそうだん)(らん)

 

 

 

 

 信乃逗(しのず)に斬られた傷口から溢れ出る血液が無数の槍の穂先のような形へと変わり、さらに赫周(かくしゅう)へと距離を詰めようとする信乃逗へと襲いかかる。

 

 

 

 — (から)の呼吸 ()ノ型 燕戒(えんかい)剛壁 (ごうへき)

 

 

 

 同時に複数の方向から迫るその血槍に向けて少年の腕がぶれた、そう認識した時には全ての血槍が弾き飛ばされていた。

 

 

 

 その不可解な現象に赫周(かくしゅう)は額から冷や汗を流す。

 

 

 

(まただ、一体どうなっている?)

 

 

 

 理解出来ない、理に反している。赫周(かくしゅう)にはやはり少年の腕がぶれたようにしか見えなかった。信乃逗(しのず)から距離を取りながら斬られた腕と脚の再生を終えた赫周の頭には疑念が湧き起こる。

 

 

 

 先程から少年の太刀筋が見えない。腕の動きから恐らく横薙の一閃だと推測したが、それでは起きた現象に説明ができない。無差別に多方向から迫る全ての血槍をただの一閃で弾き飛ばせる訳がない。

 

 

 

 それに先程の両腕への攻撃、自分は一体いつ脚を斬りとばされたというのか。鋭い一撃ではあったがただの横薙の一閃で腕と全く同時に脚を斬り飛ばせる訳がない。

 

 

 

(……ありえない……だが、これは…)

 

 

 

 

 認めたくない。認めたくはないが、この状況で考えられる可能性など一つしかない。あの技だ、この少年はあの瞬間、同時にも感じるような瞬きの時間で複数の剣戟を振るっている。

 

 

 

 だが、そんなことが果たして出来るものか。鬼の自分ですら不可能なその動きを人の身で行なうことが可能なのか。例え出来たとしても、そのような動きは人間にはかなりの負荷となるはずだ。まして眼前の少年は、肩や脚には風穴が空いているような状態、出血もかなりの量の筈だ。

 

 

 

 自身の体を省みない、まるで死を恐れていないようなその戦い方には赫周をして戦慄すら覚えさせる。

 

 

 

 赫周(かくしゅう)の刹那の思考の間にも信乃逗(しのず)は刀の間合いに入ろうと再び高速で距離をつめていく。上下左右あらゆる方向から振るわれる刃を薄皮一枚のところで避け続ける赫周の額には冷や汗が流れ始める。

 

 

 

(再生が追いつかない!一体いつまで続けれる!?)

 

 

 

 ここにきて目の前の鬼狩りの刃を振るう速度が徐々に上がってきている。既に息を吐かせぬ程の連撃だというのに、尚も上がっていく剣速に赫周(かくしゅう)の身体に徐々に傷が増えていく。

 

 

 

 とはいえ、人間の体にも当然限界はある。

 

 未だ完全に呼吸を使いこなせているとは言えない信乃逗(しのず)の身体が徐々にその速度についていけなくなっていく。既に限界をとうに超えた動きで蓄積されていく負荷が信乃逗の体に強烈な痛みを引き起こし、僅かに連撃に隙を生む。その一瞬にも満たない硬直を赫周(かくしゅう)は見逃さなかった。

 

 

 

 

 — 血鬼術 刺突流(しとつりゅう)

 

 

 

 赫周(かくしゅう)の身体へと付けられた刀傷から流れ出していた血液が集まり鋭い槍のようになっていく。まるで体から槍が生えているかのように複数の細い血の槍が赫周(かくしゅう)の身体から伸び立ち信乃逗(しのず)の身体を貫く。

 

 

 

 信乃逗(しのず)の腹部を刺し貫いた数本の血の槍を見て赫周(かくしゅう)は勝利を確信し、安堵に顔を歪める。だが、そんな安心感は信乃逗(しのず)の表情と瞳を見た瞬間に、恐怖の感情へと塗り潰される。

 

 

 

(なんだ、お前は……腹を刺されているんだぞ。もうすぐ死ぬんだぞ。なのに、どうして、お前は嗤っている?嗤っているのに……どうしてそんなにも瞳には何も映っていない?)

 

 

 

 信乃逗(しのず)は嗤っていた。

 

 

 腹部に致命的ともいえる傷を負い全身を血で染めながら、まるで愉悦でも感じているかのように口元を醜く歪め、嗤っている。そして間違いなく赫周(かくしゅう)を、倒すべき鬼をその瞳に捉えながら信乃逗のその黒い瞳は何も見ていない。吸い込まれるような暗くどこまでも続くような闇だけが信乃逗(しのず)の瞳には広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 —— 狂気 ——

 

 

 

 

 

 

 まさにそう表現できる様相がそこにはあった。

 

 

 

 

 

 — (から)の呼吸 伍ノ型 苦患深淵(くざんしんえん) —

 

 

 

 

 

 信乃逗(しのず)の表情に虚を突かれたように固まった赫周(かくしゅう)に向けて、空の呼吸の中でも最も残酷で最も苦しみを与える技を放つ。

 

 

 

 

 

 赫周(かくしゅう)の身体の芯、重心の最もかかった腹部に信乃逗(しのず)の日輪刀が深々と突き刺さり、ジグザグと身体を斬り裂きながら首に向けて刀身を斬り上げていく。

 

 

 

 

「がっぁ、ぁぁ!!」

 

 

 

 

 文字通り身体の中心から裂かれる激痛に赫周(かくしゅう)は苦悶の声を上げるも、自身の身体を斬り裂きながら徐々に首へと迫るその刀身をすんでのところで両手で掴んで止める。

 

 

 首まで斬りあげようとする信乃逗(しのず)の力と、食い止めようとする赫周(かくしゅう)の力が釣り合う。カタカタと時折刀身を僅かに揺らしながら、それまで息継ぎさえままならないほどの激しい戦闘を繰り広げていた両者の間で奇妙な均衡が保たれる。

 

 

 

 

「……残念…でした…ね。やはり貴方に……私の首は、斬れませんよ…」

 

 

 

 

 刀を止める手から少しでも力を抜けば、この少年は一瞬で自分の首を斬り落とすだろう。

 

 

 だが、信乃逗の腹部には血の槍が突き刺さっている。これまでの出血は既に相当量でその上、人の限界を超えたような技を数度にわたって行使したのだ。このまま赫周が刀を止め続ければそれ程時を置かずに信乃逗の命は尽きる。

 

 

 

 

 この戦いは赫周の勝ちだ。

 

 

 人間はやはり脆い、こんなにも簡単に死んでしまう。

 

 

 

 

「………」

 

 

 

 

「無視、ですか?……それとも既に声すら発せられませんか?」

 

 

 

 この少年はもう死ぬだけだ。何を気にすることもない。ただいつものように殺して喰らえばいい。自身の傷の再生も既に終えた、満身創痍のこの少年が自身に勝つ芽は既にない。

 

 

 

 だが、あとは死に逝くだけの信乃逗に対して赫周(かくしゅう)はどうしても気にくわないことがある。

 

 

 

 それは、信乃逗の瞳だ。

 

 

 

 まるで世界の全てを拒絶するかのような何もうつさないその瞳が、何も持っていないかのような暗闇に満ちたその瞳が。何よりもそんな目に恐怖した自分が腹立たしい。

 

 

 この少年は壊れただけだ。あの少女を殺され、失ったと言う事実に絶望しただけの哀れな人間だ。何も怖がることなどないのだ。狂気にその身を浸し、自らを追い詰めるような脆弱な人間に鬼である自分が一体何を恐れる必要があるというのか。

 

 

 

 

「……つまらない人間ですね、貴方は。もうすぐ死ぬというのに、無反応、無感動。自身の弱さ故に喪った過去に想いでも馳せているのですか?」

 

 

 

 

 結局この少年もその心は人の域を出ることのできなかった弱い人間だったのだ。どれほどの覚悟を持っていようとも、どれほど人智を超えた技を行使しようとも、鬼となった自分には勝てなかった。

 

 

 

 

 誰かを救うことを願いながら、大切な誰かを守りたいと祈り、努力しながら、結局のところは何も出来なかった()()と同じ哀れな弱者だ。

 

 

 

 赫周(かくしゅう)がそれまで見せてきた愉悦の表情とは違う、諦観のような、残念だというような憂いに満ちた表情を浮かべたその時、それまで沈黙を貫いていた少年から辿々しい口調で言葉が発せられる。

 

 

 

「……あぁ……お前の…言う通り、俺は……弱い。もう2度と……喪いたくなかった。……1人に…なりたくなかった。だけど……そうじゃねぇよな、俺がやるべきことは……託されたことは、そんな想いじゃない」

 

 

 赫周(かくしゅう)の問いかけに答えながらも、まるで1人ごとのように信乃逗(しのず)は語りはじめる。

 

 

 

 信乃逗はずっと後悔してきた。

 

 喪ったあの日常を、あの時振るうしかなかった刃をずっと後悔して生きてきた。言い訳を重ねて、自分の行いが正しいと言い聞かせて、信乃逗はずっと過去に生きてきた。

 

 未来を教えてくれた真菰を、愛した彼女を守れなかった……大切な人を、誰1人として信乃逗は守れなかった。喪った哀しみと奪われた憎しみに心を呑まれそうになった。喪ったことばかりに目がいって遺してくれたものを信乃逗は何一つとして見ようとしてなかった。

 

 

 

「……もう、昔とは違う。……俺には……教えて…くれた…人がいた。仲間から…預かった…想いを繋ぐことの意味を、大切さを。いつか再開するその時、あいつの顔を真っ直ぐ見れるように……俺は繋いでいかないといけない、最期まで諦めずに責務を果たさなければない」

 

 

 

 

 あの夜、月の光の中で信乃逗が見ようとしてこなかった想いを教えてくれた人がいた。信乃逗の想いが、振るった刃は間違いでなかったのだとそう言ってくれる人がいた。過去しか見ることが出来なかった信乃逗に未来を見ることを教えてくれた。その人に胸を張って再開できるように、信乃逗は彼に託された想いを繋ぎ続ける。

 

 

 最期まで諦めずにこの責務を果たす。

 

 

 

 一語一語、噛み締めるかのように呟かれた信乃逗(しのず)の言葉に赫周(かくしゅう)は目を見開いて驚く。

 

 

 瞳に意思が戻った。今この瞬間、信乃逗(しのず)の瞳には赫周(かくしゅう)の姿が間違いなく映し出されている。

 

 

 だが、なんだこの感覚は……

 

 

 目の前にいるのは満身創痍の少年、ただ1人だ。だというのに、感じる視線の数はそうではない。この少年1人からまるで何十、いや何百もの人に見られているような妙な威圧感を感じる。これは……

 

 

 

 

(……背負った想い、永きに渡って紡がれてきた人の意志が、この少年を通して私を見ているとでもいうのか……)

 

 

 

 

 この少年は何も諦めてなどいない、自らに迫る死を前にして、大切な人の死を眼前で見ても尚、逝った者達の想いを繋ぐことを諦めていない。

 

 

 

 

「……赫周(かくしゅう)……この刃を忘れるなよ。……例えここで俺が死んでも俺の想いは、消えない。お前が鬼である限り……人を害する鬼である限り、鬼殺隊は……いつか必ずお前の首に、この刃を届ける…」

 

 

 

 

 

 

 

 ——— なんという眩しさ

 

 

 

 

 

 

 赫周は決して陽の光を浴びているわけではない。だが目の前で自らに刃を突き立てる満身創痍の少年の姿が、まるで陽の光のように暖かでとても輝かしい物であるように赫周(かくしゅう)には感じていた。

 

 

 何故このような感情を抱くのか。これではまるで……

 

 

 

 

(鬼である私が、死に逝く人間の少年に憧景でもしているかのようではないか)

 

 

 

 

 赫周(かくしゅう)の脳裏に古き日の記憶が過ぎる。

 

 

 

 自らがまだ脆弱な人間だった頃、少年のように、未来の為に志ざしを共に戦った者達がいた。道半ばで逝った者達の想いを背負って必ず成し遂げると誓って戦うことを諦めなかった自分がいた筈だ。だというのに、いつから自分はこうなってしまったのだろうか。

 

 

 

 赫周(かくしゅう)信乃逗(しのず)へと憧れともいえるような感情を抱いていたその時、何処からともなくその声の主は現れた。

 

 

 

 

「よく言いました、その通りです。邪悪なる鬼は滅殺あるのみ」

 

 

 

 

 その声が聞こえたとそう認識できた時には既に、赫周(かくしゅう)の首は体から離れていた。

 

 

 

 増援、それも私の探知を掻い潜ってくるとは、最後の最期で随分と豪の者がやってきたものですね。ぼとりと打ち付けるような衝撃と共に頭が地面へと落ちる。

 

 

 

 地より自分の体と少年を見つめるのはなんとも奇妙な気分だ。

 

 

 

「……背後から突然襲い掛かるとは、随分と姑息な真似をしますね」

 

 

 

 

 自らの首をはねたであろう大柄の男に向けてできるだけ嫌味を込めてそう告げる。

 

 

 

 

「鬼を狩る為ならばそれもまた仕方無し、もとより貴様等鬼に避難される謂れはない」

 

 

 

 

 見たこともない随分と珍しい武器を手に持つその男は、紛れもない強者の風格を漂わせている。正面から打ち合ったとしても、おおよそ自身の拙い槍の技量ではまるで歯が立つまい。鬼の中でも比較的武術を嗜むんできた赫周(かくしゅう)をしてそう断言出来る程、その男の纏う闘気はまごうことなき戦士のそれだった。

 

 

 

 

 

「なるほど、最もですね」

 

 

 

 

 思えば我々鬼もまた闇夜に紛れて、人へと襲い掛かる姑息極まりない生き物でもある。まだ血気術も使えぬ弱き鬼でしかなかった頃、自らも散々そうしてきた。

 

 

 脆い炭のように身体が崩れはじめる。

 

 

 なんとも締らない幕引きではあったが、お陰で思い出せたこともある。走馬灯とでも言うのだろうか。嘗て自分が何を目指し、何を為そうとしていたのか、いつの間にか忘れてしまった大切な記憶を今になって思い出してしまった。

 

 

 

 私が少年を憧景するのも無理はなかった。今の信乃逗(しのず)という少年の在り方は、嘗て私が目指した姿そのものなのだから。互いの信念を信じ、いつか訪れる未来を勝ち取る為に殺し、殺される覚悟を持って仲間と共に、愛した彼女と共に戦ってきた。

 

 

 

 

 なのに私は鬼となり、守ると誓った彼女を自ら喰らい絶望に明け暮れ、諦観の中で仲間の想いも果たすべく誓いも忘れてただ欲望のまま人を喰らうことで生きてきた。私は鬼となったのだから仕方がないと自分自身に言い聞かせるかのように人を喰らい続け、その実自分にはできなかったことを為し得る誰かを探していたのだ。

 

 

 絶望の中でも、絶えることのない信念の灯火を宿す誰かが愚かな私を討ち滅ぼすことをいつの日からか願っていたのだ。

 

 

 

 なんとも滑稽で無様なものではないか。受け継がれる想いや覚悟をその程度と侮辱しながら、結局のところ私は背負った想いを捨てた自分自身に言い訳を続けていただけなのだから。

 

 

 

 

 もしも、もしも……

 

 

 

 

(この少年のように、生きられたのなら、私は何かを変えられただろうか)

 

 

 

 

 刀を持つことを誇りと信じて、信念の名の元に共に戦った者達の想いを繋ぐことができていたのなら、今の私は槍ではなく嘗てのように刀を握ることが出来ただろうか。この今の世を少しでも嘗ての武士達が生きやすい世にすることが出来ただろうか。

 

 

 

 そんなありもしない世界を願う自分のなんと愚かなことか。崩れゆく自らの身体を眺めながら、愚行に走る自らの思考を赫周(かくしゅう)は内心で嘲笑する。

 

 

 

 

 今更何を願おうが、過去には戻れないし、奪った命も戻せはしない。この身が犯した過ちの罰は受けなければならない。

 

 

 

 だが、こうして自らの罪を知って死ねることを私は感謝しなければならない。私に私を思い出せてくれた彼等に感謝しなければない。

 

 

 

 

「……信乃逗(しのず)君、貴方方の受け継ぐその志は、実に、見事でした……願わくは貴方達の想いが成就せんことを」

 

 

 

 嘗ての仲間達や彼女の元へは逝けまいが、いつか私の罪が赦される時が来るのだとすれば、その時は謝りたいものだ。

 

 

 

 その想いを最期に赫周(かくしゅう)の意識は途切れた。

 

 

 

 今宵、後の世で戊辰戦争と呼ばれるその戦において、国の未来の為にと永きに渡って烈しい戦いに身を投じてきた最期の武士が静かに眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 燃え尽きるようにその場から消えた鬼の姿を悲鳴嶼(ひめじま)は両の手を合わせて見届ける。鬼が最期に告げたあの言葉が何を指すのか、それは悲鳴嶼(ひめじま)には分からない。だが、死を受け入れ、己が罪を受け入れたかのような潔いその最期には敬意を表する。無論、同情している訳ではない、鬼とは罪であり、人を不幸にする恐ろしき病だ。

 

 

 

 要請を受け、すぐ様駆け付けたが果たしてこれを間にあったといって良いものか。

 

 

 十二鬼月がいるとそう鎹鴉(かすがいからす)より報告を受けた時点で、既に隊士達に犠牲が出ているであろうことは予想の範疇だった。決死の想いでもってあの鬼を足止めしていた少年は既に満身創痍。もはや生きていることが不思議に思える程の手傷。

 

 

 

 そんな重傷にも関わらず先程からどこを目指しているのか、ゆっくりとその少年が歩き出している。

 

 

 

 

「……少年、その傷で無理に動いてはいけない。死を早めることになる」

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 

 

 

 信乃逗(しのず)を心配しての言葉だったのだが、悲鳴嶼(ひめじま)の忠告を受けても信乃逗の足は止まらない。

 

 

 

(この少年……既に気を失っているのか)

 

 

 

 ふらふらと覚束ない足取りで言葉を返さずに歩みを続ける信乃逗(しのず)の様子から悲鳴嶼(ひめじま)はそう確信する。傷は決して浅くはない、歩けるのが不思議なほど血を流しすぎている。既に命すら危うい傷を負っているのだ。

 

 

 

 歩みを止めなければいけない。そう思って動いた悲鳴嶼(ひめじま)信乃逗(しのず)の向かう先を理解した途端その足を止めた。

 

 

 

 信乃逗(しのず)の向かう先には、地に横たわる少女がいる。指先一つ、呼吸に胸を動かす様子すら見られないその少女が既に息絶えていることは誰が見ても間違いないだろう。

 

 

 

(……意識を失って尚、少女を守ろうとでもいうのか)

 

 

 

 意識を失って尚、既に息絶えた少女の元へと歩み寄ろうとするその姿が余りにも悲壮で悲鳴嶼(ひめじま)には信乃逗(しのず)を止めることが憚かられた。結局、彼女の元にたどり着いた信乃逗がその場に崩れ落ちるまで悲鳴嶼にはただ見ていることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想頂けますと幸いで御座います。

真菰様ー!!_:(´ཀ`」 ∠):


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戻らない日々

お久しぶりでございます!


 

 

 

 陽が昇り始めた早朝、今日も当たり前のように差し込む朝陽が世界を色鮮やかに飾り付ける。

 

 

 窓辺から差し込む明るい陽の光に照らされながら今日も彼は深い眠りから醒めることなく眠り続ける。

 

 

 そんな彼の様子をしのぶは今日もゆっくりと診ていく。ここ最近は指令がある時や急患以外では殆ど日課のように彼の様子を診ている。ともすれば死んでしまっているのではないかと疑うほどに安らかに眠り付いている彼の静かな呼吸を聞いてほんの少し安堵する自分がいる。

 

 

 彼がこの長い眠りについてから既に2ヶ月が経とうとしている。

 

 

 

(怪我は随分とよくなってきている。なのに……どうして意識が戻らないのよ)

 

 

 

 あの時と変わらず、安心したように微笑んだまま眠り続ける信乃逗(しのず)の様子をしのぶは悲しい表情を浮かべてみつめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2ヶ月前、近くの街に十二鬼月が現れたという連絡と応援の要請を受けてしのぶもすぐにその場に向かった。あいにくと別の指令を受けて蝶屋敷を離れていた自分には随分と遠い場所だったが、半日以上走ってなんとか件の街に着いたのだ。

 

 

 だが、ついた時には全てが終わった後だった。岩柱の悲鳴嶼(ひめじま)、姉としのぶにとって命の恩人でもあるその人が十二鬼月を狩ってくれていたのだそうだ。

 

 

 事が既に終わっているとはいえ、それでもしのぶに要請があった以上この場には怪我人がいるはずだ。まして相手は十二鬼月、それも下弦とはいえ弐。

 

 

 簡単に言えば十二鬼月という鬼舞辻配下の強力な鬼の中でも8番目に強い鬼ということになる。悲鳴嶼(ひめじま)は応援の要請を受けてきたと言っていた。ならばそれまで十二鬼月と戦っていたもの達がいる筈だ。最悪の場合、被害は鬼殺隊だけではなくこの街に住む住人にも及んでいる可能性がある。

 

 

 そうして事後処理に当たっていた隠の者に話を聞けば非常に重篤な隊士が1人いるのだという。

 

 

(それを先に伝えなさいよっ!)

 

 

 怪我人がいるのであれば最も優先するのは事後処理ではなく救命活動だ。蝶屋敷でしのぶが治療を初めてからというもの強く訴え続けてはいるが、どうもそのあたりの考えが未だに鬼殺隊内には浸透していない。

 

 

 若干の苛立ちを覚えながらも他の怪我人の情報を聞いていくと、その被害はしのぶの想像していたものより随分と少なかった。死者4名、重傷者2名、これらの被害は全て鬼殺の剣士が受けたもので、この街の一般人への被害は全くなかったそうだ。

 

 

 

(……頑張ったのね)

 

 

 

 十二鬼月が現れたとは思えない程の犠牲者の少なさにしのぶは驚愕する。なにより、一般人に被害が及んでいないという事実が悲鳴嶼(ひめじま)が来るまで戦い続けたというその隊士達の努力を物語っていた。

 

 

 隠の者に案内されて怪我を負った隊士の元へと向かったしのぶはこの時抱いた思いを一生後悔することになる。

 

 

 

 目に映ったその光景に時が止まってしまったかのようにしのぶの動きも表情も固まった。

 

 

 なぜなら視界に入った一列に並べられた横たわる隊士達の姿の中にいたのはしのぶのよく知る人物だったからだ。

 

 

 だが、そんな筈はない、ある訳がないのだ。視界にはっきりと映るその光景を理解することをしのぶは拒絶した。何故なら彼等は他ならぬ自分の(すま)う屋敷でまだ療養中の筈なのだから。

 

 

 

 彼の肋骨は治ってもまだ傷んだ臓器は完治していない筈だ。

 

 

 彼女の身体は毒で弱っていた。

 

 

 以前と同じように動けるようになるまで、どれだけ早くても2人ともまだ一週間は休んでいなければならない筈なのだ。雨笠(あまがさ)信乃逗も鱗滝(うろこだき)真菰(まこも)もこんな場所にいる筈はない、ここにいていい筈がないのだ。

 

 

 治療用の道具が入った包みが呆然と佇むしのぶの手からするりと地面へと抜け落ちる。ドサッとそれが地面に落ちた音でしのぶはようやく我に返った。

 

 

 現実から目を背けている場合ではない。

 

 

 目の前にいるのは間違いなく自分のよく知る人物だ。しかし医師でもある自分が知人であるかどうかで手を止めるなどあってはならないことだ。いま目の前でまさに失われていこうとしている命を止めなければ……。

 

 

 地に落ちた治療具の包みを拾い上げ、彼等の元に駆け寄る。

 

 

 重篤と言われた信乃逗の傷はあまりにも酷かった。いま生きているのが不思議な程、身体中に切り傷や刺し傷がある。酷いものに至っては身体に風穴が空いてしまっている。応急的な止血はしてあるが、既に流れている血の量はあまりにも多い。顔色などはもはや死人のそれだ。輸血もしなければならないが、ひとまずは多過ぎる傷口を塞いでいかなければ輸血の意味がない。

 

 

 だが、無意識なのか信乃逗も呼吸で止血を試みているようで応急的な止血とも相まって今の出血量はそれほど多くはない。予断を許さないがこれならば、まだ助かるかもしれない。

 

 

 必死の形相で信乃逗(しのず)の治療をするしのぶの視界の隅に信乃逗(しのず)の隣で横たわる真菰(まこも)の姿が映る。信乃逗(しのず)同様に血塗れで手酷い傷を負っている彼女の胸が呼吸に動く様子はみられない、医療に従事するしのぶには彼女が既に亡くなっていることがそれだけで理解できた。

 

 

 ポタリと信乃逗(しのず)の身体に雫が落ちる。

 

 

 しのぶの両眼が滲んでいく、眼に溜め切れなかった涙が雫となって信乃逗の身体に落ちていく。

 

 

(……どうして……)

 

 

 泣いている暇などない、手を休める訳にはいかない。

 隊士が死んでいく。これは鬼殺隊ではよくあることだ。

 

 

 今まで何人もの仲間が目の前で死んで逝った。こんな光景をしのぶは何度となく見てきた。彼等が鬼殺の剣士である限り、いつ訪れてもおかしくはないことが今訪れてしまった。それだけのことだ。

 

 

(……いつか来るかもしれない、そう覚悟していたはず)

 

 

 絶対なんて言葉はこの世にはない、必ずなんてそんな言葉の如何に無責任なことか。死はいつだって生きる者の隣にいるのだ。鬼殺に文字通り命をかけて戦うのが剣士達の役目であり、その為に日々刀を振るい続けている。

 

 

 

 だからこの結果もまた、何も不思議なことではない。

 

 

 

 だが、慣れとは恐ろしいもので、幾度も彼等を治療して行く内に怪我を負っても彼等が生きて帰ってくることにある種の確信のようなものを抱いていた。心のどこかで彼等なら大丈夫だという思い込みがしのぶの中に生まれてしまっていた。

 

 

 しかしこの光景を前に、それが自身の単なる願望であったことを理解せざるを得なかった。昨日笑っていた人が今日もまた同じように隣で笑っていてくれている、人はそんな思い込みをいつの間にか抱いてしまっている。それがどれほどの奇跡によって成り立つことなのか多くの人はきっと知らない。多くの仲間を喪っていく中でしのぶはそれを理解しているつもりだった。

 

 

 だけど今日この光景を前にそんな自信はなくなった。

 

 

 信乃逗(しのず)真菰(まこも)と交わす何気ない日常の会話や馬鹿なことを言い合って、また笑い合っている姿を見ることがしのぶの中で当たり前にある日常の一つになってしまっていた。

 

 

 これからも当然に続いていくある種の楽しみにもなっていた。

 

 

 この2人がお互いに想い合っていたことを知っているからこそ、こんな状況がしのぶの中に遣るせない想いを抱かせる。そしてその想いを彼等の表情が一層強めるのだ。

 

 

(……なんでっ…笑ってるのよっ…)

 

 

 信乃逗(しのず)真菰(まこも)もお互いに何故か笑っているのだ。ボロボロの血塗れになりながら、まるで何かをやり切ったかのように安心したように信乃逗(しのず)真菰(まこも)もその口元に微笑みを浮かべている。

 

 

 彼等のその表情がしのぶに涙を流させて止めさせてくれないのだ。何より先程自らが抱いた思いがしのぶには悔やまれて仕方がない。

 

 

 被害が少ない?

 

 なんて馬鹿なことを思ってしまったのだろうか。4人の死者と2人の重傷者、なるほど確かに被害の数で見ればこれは格段に少ない。

 

 

 

 しのぶもそう思った。

 

 

 

 ……そう思ってしまった。

 

 

 数だけを聴いて、まるで他人事のように安堵してしまっていた。だがその少ない犠牲者の中にこうして知人がいただけで、しのぶにはもう、先程のように犠牲が少なかったなどと安堵することは出来なくなってしまった。

 

 

 彼等が一体どれほど頑張ったのかなど、この傷を見れば明らかだ。何より今この場にある結果が全てを物語っている。夜分に差し掛かった時間で一般人には全く被害が出ていない。悲鳴嶼(ひめじま)がくるまで柱の誰かがくるまで十二鬼月を逃さずその場に押し留め続けた。

 

 

 この街に住む人々を彼等は文字通り命を懸けて守った。力を持つ者として鬼殺の剣士としてのその責務を彼等は見事に果たして見せた。

 

 

 なら、しのぶには泣いている暇などない。涙を拭う暇などない。

 

 

 後輩である彼らがやり遂げた結果に先達として報いなければいけない。だからしのぶはしのぶに今できる精一杯の責務を果たす。助ける手立てがあるのなら死なせなどしない。

 

 

 この少年を死なせたくない。その一心でしのぶは手を動かし続けた。

 

 

 

 だが結局、しのぶの瞳から溢れる涙が止まることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼の出血箇所の縫合が終わるか彼の命が尽きるのが先か、五分五分だった。

 

 

 いつ死んでもおかしくない傷だったというのに、それでも彼は耐えた。意識もない彼から諦めてなるものかという意志が伝わってきたようで、しのぶも必死になって治療の手を動かした。その甲斐があったのかどうかは分からないが事実として彼の命は持ち堪えて、今はもう目を覚ますのを待つだけだとなる程度に傷は回復している。だが問題はその意識が未だに戻らないことにある。

 

 

 

 この2ヶ月の間に真菰(まこも)さんの葬儀も既に終わっている。彼女の育てでもあり父親でもあった元水柱の鱗滝(うろこだき)という御仁が天狗の面の下で涙を流していた様子をしのぶは今でも鮮明に覚えている。鬼殺隊を率いるお館様を始め、隠の者達や他の鬼殺の剣士達も真菰(まこも)の葬儀に参加したものは想像以上に多かった。皆、指令もあるので終始参加出来ていた訳ではない。だが今でも彼女の墓に訪れるものは決して少なくない。

 

 

 

 雨笠(あまがさ)君の部屋にも多くの見舞い品が置かれている。食べ物などは腐ってしまう前に此方で処理しなければいけないが、それ以外の物は全て彼の眠るこの病室に置かれている。

 

 

 

 彼の病室に飾られている花瓶の花は毎日のように種類が変わっている。

 

 

 きっといつものようにきよが取り替えているのだろう。彼等がこの蝶屋敷から赴く時、その後ろ姿を見送ったという彼女は一際大きな声で泣いていたものだ。

 

 

 

 見舞いに部屋を訪れる人も多い、姉さんは勿論、岩柱の悲鳴嶼(ひめじま)さんやお身体の悪いお館様まで、希に彼の様子を見に来られる。

 

 

 

 雨笠(あまがさ)君も真菰(まこも)さんも鬼殺隊に入隊して未だ2年と経たないというのに、これ程多くの者達に慕われている。彼等の普段の明るいやり取りはいつの間にか鬼殺に明け暮れ、傷を負ってこの蝶屋敷を訪れる者達にとってとても心安らぐ光景になっていたのだ。

 

 

 

 なにより十二鬼月を前に一歩も引くことなく戦い続けた彼等の在り方は多くの隊士の士気を上げた。

 

 

 

 これほど多くの者達が雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)という人間の目覚めを待ち望み、願っている。

 

 

 

「……早く目を覚ましてくださいよ……私も忙しいのですよ…」

 

 

 しのぶもその内の1人だ。

 

 この言葉は彼がこの蝶屋敷に来るともはや毎回のようにいうお決まりの台詞だ。いつも彼には苦労させられた、怪我をしているのに寝台を抜け出して鍛錬を始めるし、薬は駄々をこねる子供のように飲もうとしないし。しょっちゅう怪我をしてくるので治療する時間を確保するのも大変だ。

 

 

 だけどそんな日常が掛け替えのない宝だったのだと今回しのぶは痛感させられた。

 

 

 

 眠りに着く信乃逗(しのず)を優しげな、少し寂しそうな表情でしばらく見つめるとしのぶは静かに部屋を出ていく。

 

 

 

 果たすべく役割が彼女にはたくさんあるのだ。責務を果たした後輩に先輩として顔向けできるように、いつか彼が目を覚ましたその時にいつものようにまた目一杯叱れるようにしのぶは今日も己が務めを果たし続ける。

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想頂けますと幸いでございます。

今回はしのぶさん視点でした!
真菰様ー_:(´ཀ`」 ∠):


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目覚め

 

 

 

 

 ——— 暗い 。

 

 

 そう思うしかないほど、その場所は常世の闇のようにただただ暗い世界が広がっていた。

 

 

 そんな自分すらも溶けて消えてしまいそうな暗闇の中で信乃逗(しのず)は力なく漂っていた。

 

 

 ここはどこだろうか?

 

 

 自分は死んだのだろうか?

 

 

 おぼろげな意識でもってなんとか自分の状況を確認しようとするが、どれだけ力を入れても体が動くような気がしない。それどころか本当に体があるのかどうかすら今の俺には分からない。

 

 

 もしも俺が死んでいるというのなら、何も為し得ることができなかった自分にはこの何もない暗闇はこれ以上ないほどにふさわしい場所なのかもしれない。意識を失う直前の光景を思い出して信乃逗(しのず)の心にどうしようもない程の無力感が訪れる。

 

 

 結局、赫周(かくしゅう)の首に俺の刃を届かせることは出来なかった。

 

 どんな代償を得ようとも構わないと空の呼吸の最たる力を使っても自身の刀はあの鬼の首には届かなかった。

 

 

 何も救えず、何も守れず、犯した過ちを後悔し、努力しようとも、結局は預かった想いすら繋げることが出来なかった。だとしたら……

 

 

(…俺は何の為に生まれてきたのだろうか)

 

 

 

 何も為し得なかった俺が生まれてきたことに果たして意味はあったのだろうか。そんな苦悩に信乃逗(しのず)が呑まれそうになった時、何処からともなく唐突にその声は聞こえてきた。

 

 

『……………信乃逗(しのず)

 

 

 

(……誰だ?)

 

 

 暗闇の中で姿も見えず何処から聞こえてくるのかも分からない声が信乃逗(しのず)に呼び掛けてくる。

 

 

 頭の中に直接響いてくるかのようなその声に朧げだった意識が徐々に明瞭になってくる。

 

 

『……… 信乃逗(しのず)

 

 

 知っている、この声を俺は知っている。

 頭の中に優しげに目を細めて此方に微笑み掛けてくる少女の姿が思い浮かんでくる。

 

 

(あぁ、そうだ、彼女は俺の大事な人で…)

 

 

「…ま、こも……」

 

 

 もう会うことが出来なくなってしまった、俺の光だ。

 

 

 信乃逗(しのず)の耳に入ったその声はひどく掠れていて、まるで長年使っていなかった横笛のように枯れていた。

 

 

 喋った感覚は確かにあるのに、どう考えても聴き慣れている自分の声だとは思えないその音にゆっくりと重い瞼を開けば涙でも流していたのか視界が潤んで酷く歪んで見えた。潤んだ瞳に映るのは、何処か見覚えのある天井で何故か懐かしいような不思議な気持ちが湧き上がってくる。

 

 

 

「…こ、こは…?」

 

 

 口の中も唇も乾ききっているようで、もそもそもとしていて非常に動かし辛い。

 

 

 目覚めたばかりで何処かボーッとした様子の信乃逗(しのず)の頭を、そよ風のようなふわりとした優しい風が撫でて、和やかな気持ちになるようないい匂いが鼻腔をくすぐる。

 

 

 

 どこから漂ってくるのかと重たい頭をなんとか動かして周囲を見回せば、寝台のすぐ脇に置かれた台の上に置かれた花瓶に飾られた美しい黄色い花が目に入る。どうやらこの花から香ってくるようだ。空気の入れ替えの為だろうか花瓶の奥に見える窓は開け放たれていてそこから入り込んでくる心地の良い風がこの香りを運んできてくれている。見慣れた木目の天井に、この部屋の間取り、しかも寝台に寝かされている状況から察するにやはりここは蝶屋敷なのだろう。

 

 

 

 どういう訳か部屋には花瓶に生けてある花以外にも随分と沢山の花束が置いてあるし、見舞い品なのだろうか、果物や書物、それに扇子?まあ兎にも角にもたくさんの物が置いてある。蝶屋敷には何度もお世話になっているがこんなに見舞い品を貰ったことなど一度もない。というかそもそも見舞い品なのだろうか?実は寝台の空きがないから物置に無理矢理突っ込まれたとかそういうおちじゃないよな?

 

 

 

 そんなことを思いながら体を起こそうとするのだが、どうにも思うように動いてくれない。ちょっとでも動かそうとすると身体の節々が酷く痛むうえ、とんでもなく重たいのだ。腕には細い管のようなものが吊るされたビンのようなものに繋がっていっている。これは見たことがある、同部屋の奴が治療の一環で受けていた確か「点滴」と言っていたような気がする。身体もろくに動かせないうえこんな物までつけられているところを見ると今回は相当に危なかったのかもしれない。仕方なく起きるのを諦めて身体を寝台に任せて目を閉じる。

 

 

 

 

 …喉が渇いたなぁ。口の中もからからだし、水が欲しい。

 

 

 そういえばどうして俺は怪我を負ったのだろうか?確か真菰(まこも)と2人で……

 

 

 そこまで思い至って、信乃逗(しのず)はガバッと勢いよく身体を起き上がらせようとして、再び襲いかかる痛みに顔を叱ることになった。

 

 

 だけど、そんな痛みに躊躇している場合でも、ましてこんなところでゆっくりと寝ている場合でもない。確かめたいことが、確かめなければならないことがある。

 

 

 

「…ごほっごほっ…ま…こもっ…」

 

 

 

 しゃがれたような声で叫びながら、大切な人の名前を呼びながら必死に身を起こそうとする。急に身体を動かした上、カラカラに渇いている喉で声を出そうとするせいか咳まで出はじめるが、その甲斐もあったのか、バンッと扉を勢いよく開けて小さな人影が部屋に飛び込んでくる。

 

 

 

「…… 信乃逗(しのず)さんっ!」

 

 

 

 一瞬、目を見開いて此方を凝視したかと思えば目尻から大粒の涙を流しながら駆け寄ってきたのはあの任務でこの屋敷を出る時に見送ってくれたきよという少女だった。

 

 

「うわーん、良かったです〜」

 

 

 涙を止めるそぶりもなく寝台に駆け寄ってきた彼女は大きな声で泣き始めてしまった。

 

 

「…きよっ、ごほっごほっ」

 

 

 泣け叫ぶ彼女を宥めようと声を掛けるが、喉が枯れているせいか碌に声が出せない。

 

 

「あっ、無理に喋っちゃ駄目です!今水をお持ちしますから!横になっていてください」

 

 

 咳き込む俺を見て慌てたように彼女は涙を拭いもせずに今度は部屋を駆け出していく。

 

 

 入る時も出る時もあまりにも慌し過ぎて止める暇すらなかった。声さえきちんと出てくれていれば良かったのだが、結局一番聞きたいことが聞けなかった。あの後、俺が気を失った後にどうなったのか。赫周(かくしゅう)は倒せたのか、街の人を守ることはできたのだろうか。

 

 

 俺が気を失う直前、誰かが来てくれたのは覚えている。だけど首を落とせたのかどうか、記憶がはっきりしない。そして何より、真菰(まこも)は……

 

 

 

「…全く、どうして起き上がっているのよ?」

 

 

 

 聞き覚えのあるその声に顔を上げれば、部屋の入り口にどこか見覚えのある羽織りを纏ったしのぶさんが信じられないと言った表情で立っていた。考えに集中し過ぎていて全く気づかなかった。

 

 

 

「しのっ…ごほっごほっ…しのぶさん」

 

 

 咳込みすぎて相変わらずろくに喋れないがなんとか名前を呼べた。

 

 

「はぁー、無理に喋らないでください、半年も眠っていたのですから、いきなり声を出そうとしても喉を痛めることになりますよ」

 

 

(…は?……半年?)

 

 

 呆れたような口調で言いながら此方へと近づいてくる彼女の言葉を一瞬理解できなかった。

 

 

「きよが今水を持ってきます、それまで診察しますから横になってください」

 

 

 半年眠っていた?あの指令から、あの戦いからそれほどの時が経っていると言うのか?そんな、なら…

 

 

 しのぶは力なく呆然としている信乃逗(しのず)の上半身を優しく押すとボフンッと彼の頭を枕にゆっくりとつけるとそのまま腕や胸を触診していく。

 

 

 

「傷はもう問題ありませんね、ですが半年の長い眠りで身体はかなり弱ってしまっていますから、あまりっ…どうしましたか?」

 

 

 しのぶの言葉を止めるように信乃逗(しのず)はほとんど力の入らない手で可能な限り力一杯に彼女の腕を掴む。彼女は俺の身体を診ながら一度も俺の目を見ない。それが何を意味するのか何となく分かっている、だけどこれだけはどうしても今はっきりとした言葉で聞いておきたい。だから、しっかりと彼女の目を此方から合わせて問うのだ。

 

 

「…まこ、もはっ…」

 

 

 無理矢理に目を合わせて問う俺に一瞬息を呑んで固まると、彼女は目を伏せるようにして真実を教えてくれた。

 

 

「っ…真菰(まこも)さんは……真菰(まこも)さんは亡くなりました。葬儀も…半年前に終わっています」

 

 

 

 …あぁ、やっぱり…そうだよなぁ

 

 

 分かっていたことだ。理解していたことだ。彼女の最期を看取ったのは他でもない俺なのだから。

 

 

 それでも…聞いておきたかった、俺の中に生まれようとするこの愚かな希望の芽を潰してしまいたかった。あれが夢ではなかったのだと、あの時預かった彼女の想いは間違いなく俺の中にあるのだと、これではっきりと自覚出来るから。

 

 でもそうなると、赫周(かくしゅう)は、街の人達はどうなったのか、今度はそれが気になってくる。そんな思いが顔にでも出ていたのか聞いてもいないのに、しのぶさんはその疑問に答えてくれる。

 

 

「十二鬼月は岩柱の悲鳴嶼(ひめじま)さんが討ち取りました。貴方達のお陰で街の方にも被害はありませんでした」

 

 

 そうか…よかった、間にあってくれたのか。なら…俺の、俺達のあの戦いは決して無駄なんかじゃなかったんだ。俺の刃は赫周(かくしゅう)には届かなかったけど、俺達の刃は赫周(かくしゅう)に届いた、届けてくれた。彼女の想いは、あそこで死んだ他の剣士達の命は無意味にはならなかった、きちんと繋げれた。

 

 

 悲鳴嶼(ひめじま)という方の顔は上手く思い出せないがきっとあの時きてくれた人のことなのだろう。

 

 

「…思ったより落ち着いているのですね」

 

 

 安堵したような俺の様子が意外だったのか、しのぶさんは少し訝しげな様子で俺にそう言う。

 

 それはきっと無理もないことで、先程まであれだけ騒ぎ立てて真菰(まこも)の安否を気にしていた筈の人物が彼女の死を告げたにも関わらず一変して、安堵するかのような表情をすれば疑問にも思うだろう。

 

 

 俺自身、自らの気持ちに整理がついていないせいかどうしてこんなにも気持ちが落ち着いているのか、よく分からない。彼女を喪ったという喪失感は確かに感じているし、どうしようもない程に寂しいとも思っている。だけど今の俺には、その気持ちを表現する行動が分からない。

 

 

「……そう、ですね……」

 

 

 だから、この時の俺にはそう返すことしか出来なかった。その返答にしのぶは息を呑んで、何か衝撃を受けたかのように目を見開いて信乃逗(しのず)の顔をまじまじと見つめる。

 

 

 しのぶには目の前にいる彼の表情があまりに色がないように見えたのだ。いつか自分が感じ、姉がはっきりさせた彼への違和感。

 

 

 真菰(まこも)さんと過ごす内に彼から消えていった筈の空虚な微笑みが帰ってきている。でも、妙だ、彼の浮べるその微笑みはあの時と同じようで、何処かが違う。何が違うとはっきり言える訳でもないのに、しのぶには今の彼の状態が単に真菰(まこも)さんと過ごす前の彼に戻ったというだけではないという妙な確信があった。

 

 

 

「お待たせしました。お水をお持ちしました!」

 

 

 

 その正体をしのぶが確かめようとした時、しのぶが言付けた水を用意したきよが戻ってきてしまった。

 

 

 こうなってしまっては仕方がない。きよの前で、あまり彼の内面を探るのも良いとは言えない。それによく考えれば彼は意識を取り戻したばかりなのだから、あまり性急に事を暴こうとするのも良くない。医者としての判断からこの場で違和感の正体を明らかにすることをしのぶは一先ず諦めた。

 

 

 

「どうぞ」

 

 

「…ゴホッゴホッ、…あり、がとね」

 

 

「…ゆっくり少しずつ飲んで下さい、軽く薬を混ぜてあります。少し苦いでしょうが以前のように駄々をこねないで下さいね」

 

 

 きよから水を受け取った信乃逗(しのず)はしのぶから注意を促されながら、それを少しずつ口に含んでいく。

 

 

「…………」

 

 

 水を口に含んだ信乃逗(しのず)は苦虫を噛み潰したようかのような表情をしてそのまま水を飲みきった。

 

 

 ……苦い、か。

 

 飲んだ水は冷たくもなく、熱くもない、強いて言えば少し温いような状態のただの水。長い間眠っていた胃に負担をあまりかけないように準備してくれたんだろう。

 

 

「…どうかしましたか?悶絶するほど苦くはないと思うのですけど?」

 

 

 水を飲んで固まっている俺の姿を見て不思議に思ったのかしのぶさんは首を傾げて俺を見ている。

 

 

「…いえ、…ただ、飲む前、に、言ってくださいよ」

 

 

 やはり喉がカラカラだったのが原因だったようだ。まだ声はガラガラだが水を飲むだけで最初のほとんど喋れない状況よりは大分マシになった。きっと混ぜてあるという薬の効果もあるのだろう、彼女の薬はとても凄い効能があるのだから。

 

 

「それだけ、文句が言えるなら大丈夫そうですね。今日はそのまま横になっていてください。意識が戻っても体力が回復した訳ではありませんから、多分すぐに眠れると思いますよ」

 

 

 彼女の言う通り、横になっていなくても既にかなりの眠気が襲ってきていた。少し喋っただけで随分と疲れたような気もする。彼女に促されるまま寝台に横になると一気に瞼が重くなって、意識も朦朧としてきた。

 

 

 薄れいく視界の中に微笑みを浮かべるしのぶさんの姿が映り込む。そういえば今日の彼女はいつもより随分と笑顔が多い。たまたま機嫌が良かったのかもしれないけど、それは何処かで見たことのあるような、妙な既視感を覚えさせる笑顔で、不思議と彼女が心配になった。

 

 

 

 

 

 雨笠(あまがさ)君が目を覚ましてから二週間程経った。

 その僅か二週間で雨笠(あまがさ)君は半年間眠っていたとは思えない程の驚異的な回復力を見せている。そもそも最初からして驚きの連続だった。

 

 

 普通半年もの間眠り続ければ起きて直ぐに声を出すことなど出来ないし、筋力などほとんど落ちてしまうので全く動けない筈なのだ。しかし、彼は意識を取り戻して直ぐに寝台から体を起こし、曲がりなりにも自力で身体を動かした上、声帯を痛めながらも喋って見せた。はっきり言って常識外れにも程がある。一体どう言う身体の構造をしているのか非常に気になるところだ。

 

 

 その後の経過にしても一月程度は眠ったり起きたりを繰り返すことになると思ったのだが、彼は僅か二週間でもう1日起きていることが出来るようになってしまっている。食事も重湯を卒業して固形物に移行しても問題ない程度に胃の状態も問題なくなっている。この調子で回復するなら2ヶ月もあれば彼は任務に復帰できるようになってしまうだろう。

 

 

 ここまでくると少々異常だ。呼吸を極めた者であれば、その回復力は常人の比ではなくなると言うことはしのぶもよく分かっている。姉や柱の者達は異常な程、傷の治癒も早かった。

 

 

 しかし、彼はそれに該当しない。未だ【全集中•常中】も完全にできていない彼が柱の者達に近い回復力を見せている。

 

 

 それについて彼に心あたりを聞いても

 

 

「…きっとしのぶさんの薬のお陰ですよ」

 

 

 というばかりで、どうにも誤魔化されてしまっているような感じが否めない。確かに薬にはそれなりの自信があるが、この異常な回復力を説明出来るだけの効能があるかと言われれば、それは否とはっきり言える。薬を嫌がらずに飲むようになったのは良い傾向だが、こういう風に誤魔化そうとする辺りは相変わらずだ。

 

 

 

 妙なのは回復力だけではない。当初心配していた彼の精神状態にもこの二週間では大きな混乱が見られない。

 

 目覚めた当初こそ、彼は真菰(まこも)さんの安否をそれこそ必死の形相で確かめてきた。力の入らない手で弱々しく私の腕を掴んで、懇願するかのような眼差しで答えを待つ彼の様子に、最悪の予想が現実に起きてしまうのだと内心不安に思ってしまったのだが、真菰(まこも)さんの死去を告げた後の彼は予想に反して妙に落ち着いた様子で、何処か達観したような、感情が読めない表情をしていた。そのあとの私やきよ達とのやり取りも彼は至って普通に、まるで以前と同じように会話をするのだ。

 

 

 有り得るのだろうか?

 

 彼が真菰(まこも)さんをとても大事に想っていたのは間違いのない事実であるはずだ。そんな大事な人を失ってまるで今までと変わらないなんてことがあり得るのだろうか。

 

 

 少なくとも私には無理だ。どれだけ取り繕っても、どれだけ努力しても以前と同じようになんてそんな風には振舞えない。だから、彼の今の様子がしのぶにはより異常で、不気味にうつってしまう。何よりあの時感じた彼への違和感の正体、それが未だに分かっていない。

 

 

 何処かが可笑しいのだ、何かが以前の彼とは決定的なまでに違う、愛した人を亡くしたのだから変化があるのはある意味では当たり前。でもそうじゃない、この変化は良くない、このまま放っておけば何か取り返しのつかないことになるようなそんな気がする。

 

 

「姉さん、彼の意識が戻ってもう二週間経ったわ。まるで昔に戻ったみたいに彼は元気に話をしてくれる。でも変よね、私にはやっぱり彼が以前と同じようには見えない。違和感が消えない。……私じゃなくて、姉さんだったらきっと彼の異変の正体が分かるんでしょうね」

 

 

 暗く静かなその部屋ではしのぶの声だけが響いて、その呼びかけに以前のような明るく安心させてくれる姉の声は返ってこない。そのことが酷く寂しくて、悔しくて、しのぶの心の中を暗雲が覆っていく。視線を下に悔しげに唇を噛み締めて、しのぶは自らの中に湧き上がる憤りを必死に抑え込む。

 

 

 また彼等の前でいつものように、姉の大好きな笑顔でいられるように。

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想を頂けますと幸いで御座います!

不穏な空気を醸し出してます(>人<;)


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異変

 

 

 

 俺の意識が戻ってから早いものでもう三週間も経った。

 

 

 この三週間は本当に辛かった。半年という長い眠りは想像以上に俺の体力を奪っていたようで、最初の一週間ばかりは眠って起きてというのを何度も繰り返していて、正直なところ起きていられる時間の方が明らかに少なかった。食事も重湯ばかり、当然身体もほとんど碌に動かせないので(かわや)にも一人で行くことが出来ないような、なんとも恥ずかしい生活を四六時中続けていた。

 

 

 しかしそれも今では日中の殆どの時間を起きていられるようになっているし、身体をある程度動かすことができるようになってきているので厠にも一人で行けるようになっている。もうこれだけで感無量だ。まあ、寝台から起き上がれるようになっただけで、未だに1人では何か杖のような支えがないと立ち上がることすら出来きないのだけど。

 

 

 

 それでも、しのぶさんから言わせると驚異的な回復力だそうで

 

 

「一度きちんと調べてみたいですね」

 

 などと満面の笑顔で言う姿には西洋にいると言う悪魔を彷彿させる程の恐ろしさを感じた。

 

 

 どうか冗談であって欲しい。

 

 

 きよちゃんとすみちゃんとなほちゃんの蝶屋敷のちびっこ3人組は、仕事の合間を縫って俺の病室に来て色々なことを教えてくれる。今日はどんな人が怪我で運ばれてきたとか、しのぶさんにどんなことを教えて貰ったとか、彼女達の日常的な出来事を楽しげに話して聞かせてくれる。それ事態は俺も楽しい。

 

 でも、笑顔で楽しそうに語る彼女達の姿を微笑ましく見ていると、ふと思い出してしまう、彼女がいないことを。今まで自分が寝台で寝込んでいる時、こうして話をしにきてくれていた彼女の姿がいない。いる筈の場所にいる筈の人がいない。一度思い出してしまうと途端に寂しくて切なくなる。

 

 

 でも、きっとそのうち、こんな寂しさも切なさも悲しさも()()()しまう。

 

 

 なるべく以前と変わらないように振る舞っているつもりだが、体力に余裕が出てきたせいか最近は気がつくとこんなことばかり考えてしまっていた。

 

 

 

 

 そんな時だったあの人が俺を訪ねてきたのは。

 

 

 

 

 

 

 

「えーっと、貴方が鬼殺隊を率いてらっしゃる、お館様であってますでしょうか?」

 

 

 

 

「そうだね、私は率いている訳ではないのだけど、ありがたいことに、みんなはそう呼んでくれているよ」

 

 

 緊張のあまり妙な日本語になった上、戸惑いがちに聞いたその問いに鬼殺隊の主、お館様は苦笑しながら答えてくれる。そう、今俺の前にはまさに鬼殺隊の頂点に君臨されているお方、産屋敷(うぶやしき)耀哉(かがや)様がいらっしゃっているのだ。

 

 

 何故こうなったのか、はっきり言って全く分からない。

 

 

 何しろそもそもが本当に唐突だったのだ。

 

 

 ことの始まりはその日の朝だ。

 

 

 最近では定例になっている俺の朝の診察を終えたしのぶさんから

 

 

「そういえば今日、お館様が雨笠(あまがさ)君に会いにいらっしゃってくれるそうですよ。

……言うまでもないことですがくれぐれも失礼のないようにしてくださいね」

 

 

 と、まるでなんでもないことのように重大な発言だけを残して病室を去って行ったのだ。

 

 

「……はい?」

 

 

 寝耳に水にも程がある。

 

 何故よりにもよって一隊士でしかない自分にそんなお偉い方がわざわざ見舞いなどにくるのか全くもって理解出来ない。しかもこんな病室で俺に至っては寝台からようやく起き上がれるようになった状態な訳だからもう失礼がないようになんて、最初から不可能である。

 

 

 しのぶさんのお馬鹿!意外とおっちょこちょいめ!!

 

 

 とまあ内心絶叫していたのだが、どうやら既にこのお方は俺の意識がない時にも何度か見舞いにいらっしゃってくれていたようで、この病室に来るのも初めてではないそうだ。そして今日はどうやら何か俺に大事な話があるのだと言う。

 

 

信乃逗(しのず)にはきちんと話をしておかないといけないと思っていたんだ。だがその前に、信乃逗(しのず)、よく頑張って十二鬼月と戦ってくれたね。君達のお陰で街の人々は誰も死ななかった。ありがとう」

 

 

 お館様の言葉に俺は驚愕のあまり目を見開いて固まってしまった。だって、そんなことを言われるなんて想像もしていなかったから。

 

 俺と真菰(まこも)は、ただ喰われるしかない人の命と未来を守る為に、いつかその人達に訪れる幸せを守る為に、その想いがあったから俺達はあの時、十二鬼月という強大な力に抗えた。

 

 でも、一方で俺達が鬼と戦うのは鬼殺の剣士である限り当然の責務で、街の人々を守るのは力を得た時から生じる義務でもあるから、こんな風に面と向かって、よりにもよって鬼殺隊の当主に御礼を言われるなんて思いもしていなかった。

 

 

「……御礼を言われるようなことでは、俺も真菰(まこも)もやるべきことを為すために戦った。…それだけです。」

 

 

 

「十二鬼月のような強力な力を持った鬼と相対することは義務感だけで成し遂げられることではないんだよ。人は弱くとても脆い、どれだけ体や技を鍛えても鬼の攻撃の前では吹けば飛んで消えてしまう程、その命は儚い。死ぬかもしれないと思いながら圧倒的な脅威に立ち向かうのは決して簡単なことでないんだ。だからこそ君達は、その簡単ではない凄いことを成し遂げた者として皆に慕われている」

 

 

 この部屋がそれを証明していると、この部屋に置かれた沢山の見舞い品を見ながらお館様は労いの言葉を掛けてくれる。

「頑張ったね」なんてそんな言葉を掛けられるのは随分と久しぶりで、小っ恥ずかしくて、なんだか妙にくすぐったいような、むずむずするような気持ちになる。

 

 

「えっと、それで、その、お話というのは」

 

 

 これ以上褒め殺されても堪らないので、少々無理矢理に話題を逸らそうと、元々お館様が予定されていたお話の内容を伺う。

 

 

「ふふっ、信乃逗(しのず)はあまり褒められ慣れていないのかな。

…話というのは、君が変わった呼吸を使うと以前、カナエから聞いてね。その呼吸のことで少し話をしておきたかったんだ」

 

 

 突然の話題変更にお館様は苦笑しながら、今日わざわざ来られた目的の話を切り出してくれるが、その内容を聞いて俺は一瞬、時間が止まったかのような錯覚を覚えてしまう。

 

 

 信乃逗(しのず)の背筋にぶわっと冷たい汗が浮かび上がる。

 

 

 何故今になって、この時期にこの話を聞かれるのか。それも鬼殺隊の当主自ら足を運んでまで。

 

 

 空の呼吸について安易に話すことは信乃逗(しのず)にとって躊躇われる内容なのだ。特にこの状況になってしまった今となっては。緊張のあまり心臓がばくばくとする感覚がハッキリと分かる。

 

 

「ごめんね、緊張することはないんだよ。私はその呼吸のことを知っているから。ただ、信乃逗(しのず)が空の呼吸がどういう呼吸なのかわかっているかどうか、それを確認しておきたかったんだ。…その危険性も含めてね」

 

 

 申し訳なさそうに微笑むお館様の表情に不思議と緊張で強張った身体が解れていく。

 

 同時になるほどという納得の気持ちも浮かんでくる。師匠からは空の呼吸の歴史は古く、数百年も昔からあったと聞いている。その危険性の高さから今はまともな使い手は絶えているとも。

 

 しかし、目の前にいるのはそれこそ数百年もの間鬼と戦い続けてきた一族の長。空の呼吸のことを知っていてもなんら不思議なことではない。

 

 今までまるで聞かれることもなかったし、この呼吸の使い手も見なかったことから鬼殺隊からは既に失われたのだと勝手に思っていたのだがどうやら勘違いだったようだ。

 

 

「……そう、でしたか、…この呼吸がどういうものであるかは、俺を育ててくれた人から聞いてます。危険性についてはちょうど今実感しているところです。もう知っている人はいないと思っていたのですが、お館様はご存知なんですね」

 

 

 危険性という言葉が出てくるならこの人が言っていることに嘘はないだろう。

 

 空の呼吸は元来、血流の操作で脳の一部を活性化させることで他の呼吸と比較しても飛躍的に身体能力•判断能力を向上させることができる特性を持った呼吸だ。つまりある程度、全集中の呼吸ができて、血流の操作ができるようになれば誰にだって出来るようになる、これがお館様の言う空の呼吸の有用性だ。

 

 では危険性とは何か、それは脳への負担だ。脳とは人間の急所であり、人を人たらしめる非常に重要な器官だそうだ。繊細な血管が多く集まった脳への血流の集中は脳の血管に過度な負担を与える。その結果、適性のない者が使えば使ったその日のうちに使い手が亡くなることが多発したそうだ。適性のある者でも許容出来る血の量を誤れば、脳に甚大な損傷を与えることがある。それ故にこの呼吸を使える者も使う者も今ではほとんどいない。

 

 

 お館様が知っているというのならここで嘘をついても仕方がないし、どういう訳か誤魔化す気にもならなかった。

 

 不思議なもので、この方と話していると妙に落ち着くのだ。きっとそのせいなのだろう、今自分の身に起きていることも含めてこの人に話すことにこの時は躊躇いを覚えなかった。

 

 

「ここ100年以上、空の呼吸をきちんと使えた者は鬼殺隊にはいなかったから、私が知っていることは言い伝えでしかないのだけどね。

それでも、その呼吸の有用性も危険性もある程度は伝え聞いているよ。……実感ということは信乃逗(しのず)はもう踏み込んでしまったんだね」

 

 

 僅かに目を細めて少し悲しそうに微笑みながら此方を見つめるお館様に俺は少し驚いてしまった。

 

 

「……はい、どうも味覚が可笑しくなっているようで、俺にはもう味が分からないんです。まあ、そのおかげでしのぶさんの薬も難なく飲めちゃうんですけど。…でもそこまで知ってらっしゃるならお館様の知識は十分だと思いますよ」

 

 

 踏み込むというのは空の呼吸に適性がある者が自身の許容量を超えて血流操作を行うことを言うのだが、これは謂わば門外不出と言ってもいい情報なので、踏み込むという言葉が出てくるだけの知識があるのなら、十分以上にお館様はこの呼吸のことをわかっている。

 

 この踏み込むという行為を一度でも行った者は脳になんらかの損傷が起き、多くは感覚器官の喪失から始まり、感情や記憶の喪失など人間として重要なものが十年程度の間に欠落していくそうだ。その最期を俺の師匠は人ではなくなると表現した。

 

 

 俺の場合は味覚の喪失から始まったが、それは人によってバラバラで次にどんな症状がいつ起こるのかはわからない。

 

 

 だがいつかは、俺がここでこうして過ごしたことも真菰(まこも)と一緒にいたことも忘れて師匠の言う人ではないという状態になる。

 

 

「もう、はっきりとした症状があるんだね。辛くはないかい?」

 

 

「今は、それほど辛くはないです、踏み込んだことに後悔もしてません。あの時、俺が果たすべきことをやる為には、どうしても必要なことだったと思っています。まあそこまでしてもこの様ですので情けない限りですけど。…それにどう嘆いても後はもう時間の問題ですから。」

 

 

 嘘ではない。確かに食べ物の味が分からないというのは酷く怖いが、しのぶさんの激不味の薬を味合わないでいいということに関してだけいえば、むしろ歓迎だった。

 

 

 それにあの時、俺にはどうしても踏み込む必要があった。その後どうなろうともあの場で赫周(かくしゅう)と渡り合う為には為さなければいけないことだったと思う。むしろもっと早くそうしていれば良かったんだ。確実に出来るかどうかは分からなかったけど、あの場で出来たなら、もっと早くに出来ていたのなら、真菰(まこも)を死なせることなんてなかったのかもしれない。今も隣にいてくれたかもしれない。そう思うと使ったことに後悔はなくとも、もっと早くに出来ていればという後悔は生まれてしまう。でも今こんなに悔しいという気持ちを持っているのにいつかこの気持ちも消えてしまう、それを思うと怖くて、何より…虚しい。

 

 

 悔しそうに唇を噛みしめながらも、何処か投げやりな印象を持たせる信乃逗(しのず)の様子を輝哉(かがや)はじっと見つめると静かに口を開いた。

 

 

「……信乃逗(しのず)、人の持つ最も強い力はなんだと思う?」

 

 

 少し間を開けて唐突に始まったその問いかけに信乃逗(しのず)は首を傾げて訝しげな表情でお館様を見つめるがお館様は優しい微笑みのまま此方を見つめるばかりでその意図を教えてはくれない。

 

 

 

「…呼吸でしょうか?」

 

 

 

 少し考えて、俺の答えを待っている様子のお館様にそう伝えるが、彼はそれを首を横に振るって否定の意を示す。

 

 

「そうではないよ。君の中にも受け継がれているものだ。」

 

 

 そのまま苦笑しながらヒントのようなものを出してくれたがそれを元に考えても一向に思い付かない。

 

 受け継ぐというからには先人がいた筈だ。それをもとに考えると呼吸というのが最も当て嵌まる気がするが、違うと否定されている。ならば剣術だろうか?しかし、『そうではない』という仰りようからして根本的に何かがずれていると言われているようにも感じる。

 

 

 真剣に考えているのだがその答えにまるで見当がつかず、遂には唸り出してしまった俺の様子を見て、お館様はゆったりとした動作で俺の胸元を指差す。

 

 

「心、想いだよ」

 

 

 その言葉を聞いた信乃逗(しのず)はハッとした表情で輝哉(かぐや)の顔を見つめる。

 

 

「人が鬼という強大な力に立ち向かう為に最も必要とされるものは呼吸でも、日輪刀でもない。人に脈々と受け継がれてきた意志、それが私達鬼殺隊の持つ最も強い力であり、強靭な刃なんだよ。君が真菰(まこも)の想いを引き継いだように、私達人は先人達の想いを持って鬼と戦っている。…信乃逗(しのず)の振るう刃は信乃逗(しのず)の心にある。内に秘めた心という刃を失わない限り君は最期まで信乃逗(しのず)でいられる。だから諦めてはいけない、忘れてはいけないよ、信乃逗(しのず)の想いを信乃逗(しのず)が預かってきた者達の想いを」

 

 

 諭すようなお館様のその言葉がストンと俺の心の底に入って、俺の中にずっとあったモヤモヤとしていた気持ちがすっと晴れていく。それはきっと見た目には見ることのできないような小さな変化だった。だけど俺にとってそれはとても大きな変化で、とても大事な約束だった。

 

 

 何より、俺はあの時、真菰(まこも)に言われていたじゃないか。『心を閉じないで、生きて』と言われていた、彼女の最後の願いで彼女との最後の大事な約束だった。

 

 

 俺の未来を案じて彼女が願ってくれたあの言葉を思い出して、いつの間にか涙が流れていた。

 

 

信乃逗(しのず)が沢山の者達の想いを引き継いできたように、信乃逗(しのず)の想いを引き継いでくれる者達が必ず現れる。鬼に抗い戦った者達を無念の想いだけで死なせはしない……その為の鬼殺隊でもあるんだ。私も信乃逗(しのず)の想いを忘れない、君達が助けた人々がいたことを忘れない。信乃逗(しのず)は1人ではない。だから信乃逗(しのず)も諦めずに最期まで抗って欲しい」

 

 

 いつの日か何も感じることが出来なくなってしまうという恐怖から、どうせ何をやっても消えてしまうという虚無感から、その避けられない未来にいつの間にか投げやりになってしまっていた。彼女を失ってしまった喪失感ともう時間の問題なのだという諦観から、彼女の願いを預かった想いを踏みにじろうとしていた。

 

 

 

「……は、い……はいっ…」

 

 

 

 嗚咽をするあまり、きちんと返事ができない。

 

 それでも言葉を発することを諦めたくなかった。忘れてはいけない大事なことを教えてくれた。俺のことを、俺達の想いを忘れないと言ってくれた。いつか俺が俺でなくなっても、何処かで俺が死んでしまっても、きっとこの人が、鬼殺隊が想いを繋いでくれる。

 

 

 

 この人の元に鬼殺隊が集まっている、その理由が分かった瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 お館様がいらっしゃってくれた日から数日後、まだ足の筋力が戻りきっていないので杖なしでは歩くことは出来ないが、それでも杖があれば多少出歩くことが出来るようになっていたので、俺はしのぶさんに無理を言ってとある場所を訪れていた。

 

 

「…悪いな、真菰(まこも)。来るのが随分と遅くなっちまった」

 

 

 真菰(まこも)のお墓だ。

 

 俺は意識を失っていて、葬儀にも参加出来なかったし、意識が戻ってからこれまでも一度も訪れたことがなかった。

 

 誰かが清掃してくれているのだろう。お墓はとても綺麗で線香まで添えてあって、その上沢山のお花が生けてある。話には聞いていたが本当に沢山の人が真菰(まこも)のお墓を訪れてくれているのだと実感できた。

 

 

「俺、半年も寝込んじまったみたいでさ、お前の葬儀にも出れなかった。それにさ、手紙も折角真菰(まこも)が俺に頼んでくれたのに、俺が寝てる間にしのぶさんがお前のお父さんに渡してくれてたみたいなんだ」

 

 

 蝶屋敷にあった真菰(まこも)の遺品は、俺が眠っている間に全て真菰(まこも)の育ての親である鱗滝(うろこだき)さんに渡されたそうだ。

 

 

 本当はここに来ることもお館様と話すまでは迷っていた。

 

 真菰(まこも)との最期の約束も果たせずに、どの面下げて会いに行けばいいのかってずっと思ってた。何より俺は真菰(まこも)のいない世界でどう生きればいいのかよくわからなかった、今までずっと1人で生きてきたのに、いつの間にか真菰(まこも)がいることが当たり前で、俺の生きる理由になっていた。

 

 

 だから、もういいかと思ったんだ。いつか俺の大事な記憶も想いも何もかも忘れて、人じゃないと言われるようになるくらいならそうなる前にもう死んだっていいと思ってた。

 

 

 でも、そんなのやっぱり駄目だよな。俺にはまだ真菰(まこも)との約束が残ってた、真菰(まこも)に預かった想いも他の隊士たちの想いも俺はまだはっきりと憶えている。みんなの想いを捨てて逃げるなんて真似は、それこそみんなを消しさってしまうようなもので、それを自覚してしまった俺にはもう出来ない。

 

 

 それに返さなきゃいけない恩もある。俺と真菰(まこも)の共通の恩人。死にそうだった俺達の命を何度も助けてくれたあの人が、今苦しんでいる。俺達の憩いの場が今、壊れかけてる。機会はいくらでもあったのにお館様に言われるまで気付きもしなかった。自分のことに精一杯になりすぎていて、あの人やあの子達の苦しみに気付いてあげられなかった。お館様に頼まれなくとも蝶屋敷には何度も世話になったのだから、今度は俺があの人達を助けてあげたい。

 

 

「ごめんな、真菰(まこも)、お前との再会はもう少し先になりそうだ。手紙の約束は果たせなかったけど、お前のお父さんには今度会いに行こうと思ってる。お前が凄いやつだったってことをお前のお父さんにいっぱい話して聞かせる。お前に俺がどれだけ救われたかも、お前が鱗滝(うろこだき)さんのことがどれだけ好きだって言ってたかも、沢山沢山、話して聞かせる。他の隊士たちにもいっぱい言うんだ。そうしたら……そうしたらさぁ、きっと俺が、忘れても、誰かが真菰(まこも)のことを……憶えててくれるよな?」

 

 

 後半は勝手に涙が流れてなんだか情けない声になってしまった。

 

 自分が自分でなくなるのも、少しずつ感覚がなくなっていくのも、大事なことを忘れてもしまうのも全てが怖い。だけど、語り継いでいけば俺が預かった想いは誰かがついでくれるかもしれない。少なくともお館様は俺達の想いを背負ってくれている。

 

 

 これまで死んでいった多くの隊士達の想いをあんな華奢で病弱な身体で背負ってらっしゃる。

 

 

 なら、俺も頑張らないといけない。

 

 

 真菰(まこも)、俺は俺が俺である限り、みんなの想いを忘れてしまうその時まで、いつか俺達の想いを受け継いでくれる人が現れるその時までもう少し頑張ってみることにするよ。

 

 

 — 頑張ってね、信乃逗 (しのず)

 

 

 気のせいかもしれない、だけど確かにその声が聞こえた気がした。

 

 




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やれることを

 

 

「ということで、どうかお願いします」

 

 早朝、定期的に行っている雨笠(あまがさ)君の診察のために私が病室を訪れると、何故か彼は寝台の上で土下座をしていた。

 

「……雨笠(あまがさ)君、何がということで、なのでしょうか?

いろいろと飛ばし過ぎじゃないですか?もう全くもって意味が分かりません」

 

 

 寝台の上で土下座しながら頼み込む信乃逗(しのず)の姿にしのぶはニッコリとした微笑みを引きつらせながら溜息混じりに息を吐く。

 何を頼まれたのかも分からないのにその状態でいきなりお願いしますと言われても、分かりましたなんて了承の言葉が吐けるわけがない。

 

 

「はぁ、診察をしながら伺いますから、ひとまずきちんと座ってもらえますか?」

 

 いつまでも頭を上げず、内容も言わない信乃逗(しのず)の様子に溜息を吐いて取り敢えず話を聞くと言うとようやく信乃逗(しのず)は頭を上げていつも診察を受ける時と同じように寝台の端に座る。

 

 

「…それで、私に何をお願いしたいのですか?」

 

 いつものように信乃逗(しのず)の身体を診ながらしのぶは信乃逗(しのず)に話の続きを促す。

 

 

 

「俺に稽古を付けて欲しいんです」

 

「……なんと仰いました?」

 

「ですから、しのぶさんに俺の稽古をお願いしたいんです」

 

「……意味が分かりません。何故私に稽古をお願いするのですか?」

 

 

 前振りもなく突然に行われた信乃逗(しのず)のお願いの内容にしのぶは戸惑いを隠せない。

 

 

 何故信乃逗(しのず)がこんなお願いをするのか、その理由は数日前の産屋敷輝哉(かがや)との面会にまで遡る。

 

 

 

 

 

 

 

信乃逗(しのず)、君にお願いしたいことがあるんだ」

 

 

 

「なんでしょうか、今の俺に出来ることならすぐにでも取り掛かります」

 

 

 

 輝哉(かがや)の突然のお願いに信乃逗(しのず)は躊躇うことなく了承の意を示す。

 

 

 この人には大きな恩が出来た。忘れてはならない大事なことに気付かせてくれたのだ。今の俺は碌に歩くこともできないような身体だが、この人が望むことなら出来る限り叶えたい。

 

 

「ありがとう、信乃逗(しのず)。でも気負う必要はないからね。身体に無理のない範囲で頼みたいんだ」

 

 

 先程の落ち込んだような様子とは打って変わって勢いよく了承した信乃逗(しのず)の姿に苦笑しながら輝哉(かがや)は無理をしないように注意する。

 

 

 幼子のように昂ってしまった姿を指摘され、少し恥ずかしい気持ちになった信乃逗(しのず)は頬を赤らめてお館様の言葉の続きを待つ。

 

 

「…信乃逗(しのず)にお願いしたいのは、しのぶのことなんだ」

 

 切り出されたお願いの内容に信乃逗(しのず)は思わず首を傾ける。

 

 

 …しのぶさんの何をお願いされているんだろうか。

 

 

信乃逗(しのず)、カナエのことは聞いているかい?」

 

 

 カナエ様?何のことだろうか?

 お館様の言葉にまたしても信乃逗(しのず)は首を傾げることになる。

 

 

 確かに意識を取り戻して以降、信乃逗(しのず)の耳にカナエの話は一切入っていなかった。それどころかカナエ様とは目が覚めてから一度も会えていない。

 

 

 それを意識した途端、信乃逗(しのず)の頭に急速に嫌な予感、いや予想が広がっていく。

 

「…その様子ではやはり、信乃逗はまだ聞いていなかったんだね。

 カナエは2ヶ月前に十二鬼月に襲撃されてね、亡くなってしまったんだ」

 

 

 お館様の仰った言葉を信乃逗は愕然とした面持ちで受け取る。

 

「……そんなっ…」

 

 カナエ様が亡くなっていた、その事実が信乃逗の心にとてつもない衝撃を与える。

 

 信乃逗にとってそれはあまりにも唐突で受け入れがたい現実だった。真菰と俺にとても良くしてくれたあの人が、いつも朗らかに優しく笑いかけてくれたあの人がもう居ない、それも2ヶ月も前から。自分が悠長に眠りこけていた間に大事な人を俺はまた失っていた。

 

 

 そこで信乃逗は思い出す、今、御館様はしのぶさんを頼みたいと言った。それはつまり、御館様から見て今のしのぶさんの様子が良くないと判断したからなのか?

 

 

 俺よりも繋がりの深い、あんなにもカナエ様を慕っていたしのぶさんなら、その悲しみは自分の比ではない筈だ。

 

 

 ……気付かなかった。言われるまでまるで気づくことが出来なかった。

 

 

 よく思い返せばいろいろな所にその状況を窺わせる材料があったのだ。

 

 

 彼女の着る羽織は見覚えのある物だと思っていた、あれはカナエ様の羽織だ。カナエ様は今まで俺がこの屋敷で寝込む度にあんなに顔を見せて下さっていたのに、意識を取り戻してから今日に至るまで一度も見かけなかった。しのぶさんの様子だって、よく思い返せばおかしかった、あんなにいつも微笑んでいる人じゃなかった。まるで無理をして貼り付けているかのような、昔の自分のような中身のない笑顔を浮かべる人じゃなかった。

 

 

 どうして気付かなかったのか、幾らでも気付く機会はあったはずなのに。

 悔しい、辛いのが俺だけな訳がないじゃないか、自分のことばかりで周りの人が苦しんでいることに微塵も気付かなかった。

 

 

 

 その事実が信乃逗の心へと悔しさと後悔の念を押し寄せてくる。

 

 

 

信乃逗(しのず)が悔しがる必要はないんだよ、しのぶもきっと君に気付かれないように注意していたのだろうから」

 

 

 

「……どうして、どうして俺に隠しているのでしょうか?」

 

 

「……信乃逗(しのず)は怪我人で、それもかなりの重傷だったからね。きっと君に余計な心労を負わせたくはなかったのだと私は思うよ。

 だけど今の彼女の変化は彼女の心を確実に蝕んでいくものだ。だから信乃逗(しのず)に彼女を支える手助けをして欲しいんだ。私が直接話をしてもあの子は一線を引いてしまっているから中々彼女の助けになってあげることが出来ないんだ」

 

 

「……お館様にも出来ないのに俺に出来るでしょうか」

 

 

「ふふふ、信乃逗(しのず)は気づいていないのかもしれないけど、彼女は君に、いや君達に心を許している伏しがあるからね。だからこそ私は信乃逗(しのず)にお願いしたいんだ」

 

 

 

 お館様はそう言うが信乃逗(しのず)にははっきり言って自信がなかった。

 

 

 確かに、鬼殺隊の中ではしのぶさんとはそれなりに長い付き合いにはなる。何しろ今まで散々怪我を治療してもらっていたので、鬼殺隊に入隊して以来指令以外は殆ど蝶屋敷にいたと言っても過言ではない。だけど長い付き合いだからというだけで、それがそのまま心を許されているということにもならないだろう。

 

 

 ……しのぶさんには怒られてばかりだったし、あまり気を許されているような感じはしないんだけど。

 

 

「無理はしなくてもいいんだよ、むしろ、信乃逗(しのず)にはいつも通りにしのぶと接して欲しいと思っている。ただ、少しだけしのぶの変化を気に掛けてあげて欲しい、きっとそれだけでも彼女にはとても助けになると思うんだ」

 

 

 不安そうに首を捻る信乃逗(しのず)の様子に苦笑しながらお館様は大丈夫だと言うが、それでも信乃逗(しのず)の不安が完全に払拭されることはない。

 

 尚も不安そうに下を向く信乃逗の様子に、ならばと輝哉(かがや)はもう一つ、信乃逗(しのず)に提案をすることにした。

 

 

「なら、信乃逗(しのず)にはもう一つお願いをすることにしようか」

 

 

「もう一つ、お願いですか?」

 

 

「君の学んでいる知識で本の少し、しのぶの仕事を手助けしてくれないかい?きっとそうすれば信乃逗(しのず)も彼女の助けになれるとわかるよ」

 

 

「……はい?」

 

 

 この新たな提案の内容に信乃逗(しのず)は頭を抱えることになるのだが、後から思えばこの提案が大きな分岐点だったのだ。

 

 

 この提案が信乃逗(しのず)とそしてしのぶの未来を大きく変えることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

「先日、お館様からしのぶさんの仕事を手伝うように御願いされました」

 

 

 

「仕事の手伝い?それは鬼狩りの指令に共に赴けと言うことですか?」

 

 

 稽古をお願いされていた筈なのに、脈絡もなく今度は仕事の手伝いをお願いされたといい始める信乃逗(しのず)に、しのぶは眉を顰めて対応するがお館様の名前が出てきた以上、あまり無碍にも出来ない。

 

 

 確かに数日程前に雨笠(あまがさ)君はお館様と面会している。お願いされたというのなら恐らくその時だろうが、何故そんなことを雨笠(あまがさ)君に指令でもなく、お願いという形で頼んでいるのだろうか。

 

 

 

「それもありますけど、その……」

 

 

 

「……まさか、蝶屋敷の仕事も含めてと言うことですか?」

 

 

 言い淀む信乃逗(しのず)の様子にしのぶはまさかと言う表情で問えば、なんと信乃逗(しのず)は首を縦に振ったのだ。

 

 

 しのぶは声のないその返答に絶句した。

 

 

 ……あり得ない。雨笠(あまがさ)君は今や鬼殺隊の中でも非常に有望な若手の剣士だ。ただでさえ不足しがちな剣士をわざわざ後方の支援要員に回す理由がしのぶには分からなかった。

 

 

 確かに最近の自分は忙しい。鬼殺の任務に加えてこの所、蝶屋敷に運ばれてくる怪我人の数が増えているので医療の仕事にもかなり携わっている。夜は鬼狩りの指令、屋敷に戻れば診察や薬の調合、すみ達に手伝ってもらっていても蝶屋敷の機能は限界まできてしまっている。だから、増員の要求はした、けれどそれは隠から補充されることになっていた筈だ。

 

 それに鬼殺の任務ならともかく、医療の仕事となるとそう簡単に手伝わせる訳にもいかない。雨笠(あまがさ)君は確かに有能な隊士だがそれは鬼殺に関してはという限定的なものだ、知識もない人間にいきなり医療行為をさせるとなれば精々が応急処置程度が関の山だ。その程度ならはっきり言って今いる隠の者達で十分に事足りている。

 

 

 必要性が見当たらない。だが、お館様がその程度のことが分からない筈もない、ならばそのお願いには何か意図がある筈だ。

 

 

 雨笠(あまがさ)君にしてもこんな嘘をつくとも思えないし、そんな嘘を言う理由が彼にあるようにも見えない。

 

 

「……雨笠(あまがさ)君にはこの蝶屋敷で何が出来るのですか?」

 

 

 一見すれば厳しいとも取られるような口調で確認を取るが、これは聞いておかなければならないことだ。医療について一から何かを教えている余裕など今の自分にはないのだ、何も出来ないのなら雨笠(あまがさ)君には悪いがその話は断らせてもらうことになる。

 

 

 

「えーそのですね……簡単な薬の調合くらいなら、なんとか出来ます」

 

 

「……雨笠(あまがさ)君は薬学を学んだことがあるのですか?」

 

 

 断ることを前提に考えていたしのぶはあまりにも想定外だった信乃逗(しのず)の言葉を受けて目を見開いて驚きを露わにする。

 

 

「学んだなんてそんな大層な物ではないんですけど、俺の師匠は薬師も営んでいたので、軟膏や胃薬、あとは熱冷ましの配合程度なら何度もやらされています。ただ、その、しのぶさんの作る薬のような凄い効果がある物ではないですし、最近市場で出回ってる西洋の薬の調合が出来る訳でもないので、余り役に立てるかは分からないのですが」

 

 

 信乃逗(しのず)はそう言って申し訳なさそうに顔を下に向けるが、しのぶからすれば思わぬ所から宝が出てきたような気分だ。

 

 

 今の会話だけでも彼が薬学の知識をある程度持っていることが窺える言葉が幾つもあった。

 西洋の薬と今のこの国の薬の違いがわかるだけでも十分に凄いことだ。しのぶの薬は基本的は西洋医学を基礎にした物だが、和漢薬(わかんやく)をまるで使わない訳ではない。基本的に蝶屋敷で使われている薬はしのぶ独自の技術で持って作られた薬なのだ。彼が所謂(いわゆる)和漢薬の調合に携わっていたというのなら薬の調合の基礎的な知識を持ち合わせているということになる。

 

 

 ……使える。

 彼がどれほどの知識を持ち合わせているのか、どの程度の薬まで作れるのかは確かめなければいけないが、少しでも調合が出来るのなら今はそれこそ喉から手が出るほどに欲しい人材だ。

 今この蝶屋敷で本格的に調薬が出来るのは私だけなのだ。町の薬師や医者からある程度の薬は調達出来るが劇的な効果が望めるものではない。彼に私の技術を伝えてある程度任せられるようになるのなら、蝶屋敷での負担は大きく減るし、そうすれば、自らの鍛錬にもう少し時間を費やすことが出来るようになるかもしれない。

 

 

 だが、彼はそれでいいのだろうか?もしそうなれば私はとても助かるが、彼はこれまでとは比べ物にならないほど忙しい生活を送ってもらうことになる。それにこの話と最初にお願いされた稽古をつけて欲しいというお願いがどう結びつくのだろうか?

 

 

「お館様からのお願いの内容は分かりました。

 ですがその話と最初の雨笠君のお願いがどう関係があるのですか?」

 

 

 当然の疑問、しのぶが最初に聞いたのは何故自分に稽古をつけて欲しいと頼むのかだ。此処までの話で信乃逗(しのず)のお願いとお館様のお願いにはなんの脈絡もない。彼女からこの質問が飛んでくるのは必然だ。だから、信乃逗(しのず)も当然、それに対する答えは準備している。

 

「俺は俺に出来ることでしのぶさんを可能な限り手伝います。だから変わりに俺を指導して欲しいんです。お館様からしのぶさんは【全集中•常中】を既に会得されていると伺いました。剣技において非常に優秀であるとも。

 ……俺は未熟です。【常中】も会得出来ていませんし、前回の戦いで自身の剣技の拙さも痛感しました」

 

 

 要は交換条件だ。お館様のお願いを受けてしのぶを手伝うから代わりに自分のことを鍛えてくれと信乃逗(しのず)はそう言っているのだ。

 

 

 強力な鬼であれば有るほど身体能力も戦闘の技量も高くなってくる。実際、赫周(かくしゅう)の槍の技術は凄かった。突きという点での攻撃を線での攻撃と錯覚するほど、鋭くそして速い、無駄な力みも動きも一切ない。

 

 空の呼吸に頼らなければきっとまるで歯がたたなかった。

 だけどそれでは駄目だ。強敵と相対する度に踏み込んでいたのでは俺はきっと十年も持たない。根本的に強くならなければいけない。これ以上踏み込まないでいいように、俺が俺でいる為に、みんなの想いを少しでも長く憶えていられるように。

 その為に【常中】の会得は勿論、剣技そのものを磨いていかなければいけない。

 

 

「俺は強くなりたい、もう大事な人を亡くしたくないんです。

 みんなの想いを叶える為に、強くなって今度こそ誰かを守れるようになりたい。こんな俺に良くしてくれた、きよちゃん達を、しのぶさんも守れるくらい強くなりたい。だからどうかご指導頂けないでしょうか」

 

 

 このお願いは打算に満ちたものだ。もし、しのぶさんが俺がお館様から頼まれているのが仕事量ではなく、彼女の今の心理的状態を心配してのことだと知れば、きっと彼女は俺に対しても一線を引く。一度でもそうなれば彼女の支えになるなんてことはもう不可能だ。

 

 

 しのぶさんが無理し過ぎないように仕事を手伝うこと、彼女が辛くなった時彼女を支えること、俺がこれ以上空の呼吸に踏み込まないでいいように俺自身が強くなること、これらの全ての願いをしのぶさんに違和感を与えずに叶える為にわざわざこんな頼み方をしている。

 

 

 こんなことを思いつくなんて我ながら嫌な性格をしていると思う。でも、嘘はついていない、しのぶさんは俺と真菰(まこも)の命を何度も助けてくれた。きよちゃん達も辛いことがいっぱいあった筈なのに俺達を一生懸命看病してくれる。この人達を守れるくらい強くなりたい、本気でそう思っている。

 

 

 だから、頭を下げて必死になって信乃逗(しのず)はしのぶに頼み込む。

 

 

「…………………」

 

 

 しかし、なぜかしのぶさんから返事が返ってこない。

 

 

 あれ?(だんま)り?もしかして駄目だったかな?

 

 

 中々返事が返って来ない様子に不安になった信乃逗(しのず)が恐る恐る顔を上げて行くとそこには予想外の光景が広がっていた。

 

 

「ふっふふふ、私を守るって言いながら、その私に教えを請うなんて、ふふふ」

 

 

 しのぶさんは笑っていた。

 

 口元を押さえて必死に笑いを堪えようとする彼女の姿を信乃逗(しのず)は唖然とした表情で見つめる。

 

 

「はぁー、もう、疲れているんですからあまり笑わせないでください。

 ……稽古の件、いいですよ。そのかわり私は厳しいですから、仕事も稽古もしっかりこなして下さいね。泣き言は聞いてあげませんから」

 

 

 そう言ってにっこりと微笑む彼女の笑顔はここ数週間見ていた、無理に貼り付けたものでも、中身のない仮面でもなかった。

 

 

 以前、カナエ様が元気だった頃に彼女が浮かべていた、彼女の本当の笑顔だ。

 

 

「……良かった、やっと笑ってくれた」

 

 

 だから、つい言葉が口から漏れた。

 

 

「……え?」

 

 

「しのぶさんには…やっぱりその笑顔が一番ですね」

 

 

 お館様、あんまり自信は無かったんですけど、もしかしたらこの我慢強い、頑張り屋さんを俺でも少しは支えることが出来るかもしれません。

 

 

 驚いたような表情をするしのぶに向けて優しい微笑みを返しながら信乃逗(しのず)は、この日、ほんの少しだけ自分に自信が持てた。

 

 

 




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あの日の約束

 

 

 ボロボロと脆い炭のように崩れていくその異形の前で信乃逗(しのず)はただ1人ポツンと佇んでいた。

 

 ……今日は暗いな。

 

 分厚い雲が目に映る空一杯に広がり、月や星の美しい輝きを覆い隠してしまっている。

 目を瞑って空を見あげればポタポタと顔に大きな雨粒が当たってくる。

 ザァーザァーと雨足が強くなって大きな雨粒が勢いよく地面を穿ち続ける。

 鼻腔いっぱいに広がる雨の匂い、泥の匂い、そして血の匂い。

 

 匂いの元を辿るかのように信乃逗(しのず)が振り変えるとそこには3つの大きな塊りが地に伏せっている。

 家族だろうか、2つの大きな人影は1つの小さな人影を守かのように覆いかぶさってその生涯を終えている。

 しかし、そこまでしても小さな人影を守りきることは残念ながらできなかったようだ。齢は6歳か7歳かそれくらいの小さな子供の命も既に此処にはない。

 

 ……また、間に合わなかった。

 強くなったと思っていた。沢山努力して沢山稽古を付けてもらって強くなったとそう思っていた。

 それでも、時間には勝てない。

 どれだけ強くなってもどれだけ速くなってももっと早く来ていればとそう思う光景を何度となく見せつけられる。

 眼前に広がる目を覆いたくなるようなその光景を信乃逗はじっと見つめ続ける。

 この光景を忘れない様に、消えてしまわない様に脳裏に焼き付ける。

 

 忘れたくない、消したくない。

 どれだけそう思って、願っても一度始まってしまった崩壊は止められない。

 身の丈に合わない力は自らを滅ぼすと先人達は言ったそうだが、まさにその通りだろう。

 俺の身体はあの時の代償というように確実に滅びへと進み続けている。

 

 最初に味が分からなくなった。いつからか細かい色の判別が難しくなっていた。

 真菰(まこも)と会うまで俺の全てだった家族の顔が思い出せない、どんな風に笑っていたのか、どんな話を家族としたのそれを思い出すことすら出来なくなっている。

 こうやって少しづつ、しかし確実に自分の中の大切な何かが欠けていく。

 押し寄せてくるその感覚がとてつもなく怖かった。

 

 

 それでもどれだけ恐怖に陥ろうとも俺は止まるわけにはいかない。

 約束したから、誓ったから此処で逃げ出すわけにはいかない。

 

 信乃逗の脳裏にあの日のあの人との会話が蘇る。

 

 

 

 

「よく来てくれたな」

 

 嗄れた声、どこか疲れたような声色で彼、鱗滝(うろこだき)左近次(さこんじ)は俺を出迎えた。

 

 

 どんよりとした雲に覆われた空模様もあって室内は薄暗く空気も何処かどんよりと重い。

 そんな重苦しい空気の中俺と鱗滝さんは互いに向かい合うようにして座っていた。

 こう言ってはなんだが俺が案内された室内は元柱が暮らしているとは到底思えないほど質素で狭い造りだ。

 多くの鬼を狩り、多くの人々の命を救ってきた柱が何故このような山小屋で暮らしているのか単純に疑問に思ったし、それより尚疑問なのはなぜそんなお面を顔につけているのかということだ。

 

 このように聞きたいことは沢山あるのだが今日はそれよりもしなければいけない話がある。

 

「半年も意識がなかったと聞いたが身体に支障はないのか」

 

「はい、蝶屋敷で十分な休養を頂きましたので、今はこの通り健康そのものです」

 

「……そうか、ならいい」

 

 ふと会話が途切れて室内は静寂な空気に包まれる。

 会話もなく2人はただ座って口を開くこともなく互いの眼から視線を逸らすことなく見つめ続ける。

 やがて頃合いよしとでもいうかのように鱗滝は口を開いた。

 

「お前はあの子の最期を看取ったときいている」

 

「はい、俺は真菰(まこも)の……貴方の娘さんの最期の言葉を聴きました」

 

「……そうか。なぁ信乃逗(しのず)、あの子はお前から見てどんな子だった?」

 

 耳が痛むような静寂を破って紡がれたその言葉はとても重々しくて、決して軽い気持ちでの質問ではないということを伺わせるのには十分だった。

 

「真菰は……真菰は、とても、とても明るくて、いつも笑顔で……俺を救ってくれた恩人です」

 

 鱗滝さんの質問に答えるために、思い出せば思い出すほど言葉が紡げなくなっていく。

 

 俺にとって真菰がどんなやつだったかと聞かれれば勿論恩人だとそう答える。

 彼女があの時、あの美しい月の夜に紡いでくれた言葉で俺の心は救われた。

 そして、其処から始まったんだ。

 今も尚、俺の中にあり続けるこの想いはあの時から俺の中でずっと成長し続けている。

 

「鱗滝さん、今日は貴方に真菰の最期の言葉を伝える為に参りました」

 

「……なるほど、あの子はなんと?」

 

 手紙は渡せなかった。あいつとの最期の約束を俺は果たすことができなかった。

 あの手紙は既にこの御仁の手の中にある。果たすべき約束はもう終わっている。

 それでも俺が此処にきたのはこの言葉を伝える為だ。

 

『…わたし…しあ…わせ…だったなぁ…』

 

 穏やかに本当に幸せそうに微笑みながら彼女はそう言った。

 あの言葉はきっとこれ迄の彼女人生の全てが込められていた。

 俺が真菰と過ごした時間は決して長くはない。

 目の前に座る彼と比べればその差は歴然だ。

 彼女を幸せにしたのは俺ではない。

 目の前にいる彼女の育ての親、鱗滝(うろこだき)左近次(さこんじ)だ。

 なら、この言葉は彼にこそ伝えられるべき言葉であるはずだ。

 

 

 手紙ではない、正真正銘彼女の最期の言葉を。

 

 

「幸せだったと、真菰はそう口にしました」

 

「っ……そう、か……あの子は幸せだったか」

 

 意を決して放った先には言葉にし難い想いが溢れていた。

 ポタポタと彼の面の下を流れるそれは間違いなく娘を愛する親のみせる涙だ。

 

 ……あぁ、やっぱり貴方は真菰の父親だ。

 例え血が繋がっていないのだとしてもこの人は間違いなく真菰の父親だ。

 真菰が不安に思うことなど何一つとしてなかった。彼は真菰の父親だ。

 

「鱗滝さん、申し訳ありませんでした」

 

 だから、俺は謝罪しなければいけない。

 涙を流す目の前の1人の父親に向かって俺は頭を下げた。

 

「……信乃逗、なぜお前が謝る?」

 

 唐突に謝り出した俺に鱗滝さんは怪訝そうな声色で問いかけてくる。

 

「俺が……弱かったから、真菰を守れませんでした。

 ……俺が強くなかったから真菰を、貴方の娘を死なせてしまった」

 

 彼は、鱗滝さんは真菰の父親だ。ならば彼には俺を責める資格がある。

 俺の独白を鱗滝さんは口を開くことなく静かに聞き続けてくれる。

 

「彼女が死んだのは俺の弱さ故です。

 俺があの時、もっと早く撤退を決めていれば彼女は死ななかった。

 俺が躊躇わずに力を振るえていたならきっと彼女は生きていた。

 真菰ではなく俺が死んでいれば「其処までにしておけ」っ……はい」

 

 今まで誰にも口にすることが許されなかった俺の懺悔は半ばで他の誰でもない鱗滝の強い口調で止められた。

 

「それ以上は口にするな、すれば儂はお前を斬る」

 

「……すいません」

 

 鱗滝の顔に被されたお面のせいで彼がどんな表情をしているのかは分からない。

 だがその語気からして彼が怒りに満ちた表情をしていることは間違い無いだろう。

 

「今お前が口にしようとしたことはあの子に対する裏切りに等しい言葉だ。

 それを許すことはできん。お前も分かっているはずだ」

 

 鱗滝さんのいう通り本来これが許されない言葉だということは俺も分かっていた。

 それでもどうしてかこの時は口にせずにはいられなかった。

 

 今思えば俺は誰かに責めて欲しかったのかもしれない。

 お前が悪いのだとそう言って欲しかったのかもしれない。

 彼女を守れなかった俺の弱さを裁いて欲しかったのかもしれない。

 

「確かに真菰が死んだのはお前の短慮、精神的な未熟さ、そして伴っていない実力、それらが一因としてあるのやもしれん。だがそれは一因でしかない、それが全てではないのだ。

 失敗を後から考えれば、あげればあげるだけ問題ばかりある、原因など山のように出てくるのだろう。それを考えること自体は決して過ちではない。

 ……だが、生き残ったお前が死んだあの子の代わりであったらなどと考えることにはなんの意味もありはしない」

 

 

 鱗滝の言葉を俺はじっと聞き続ける。

 彼の言うことは分かる。

 そんなことを考えても何も変わらないこともそれを考えることがどうしようもない過ちであることも理解はしている。

 

 それでも考えてしまう。もしもそうだったらと考えずにはいられなかった。

 

「信乃逗、お前の悔いる気持ちはあの子を育てた儂としては嬉しい。それだけあの子をお前が想ってくれているのだと儂も理解できた。

 ……だが、だからこそお前は今一度思い出すべきだ」

 

 ……思い出す?

 

 一体何を思い出せと彼は言っているのだろうか。

 静かに諭すような鱗滝さんの言葉に俺は内心で首を傾ける。

 忘れていることなどないはずだ。

 あの日のことは今でも数瞬前のことのように思い出すことができる。

 

「お前の想いは今曇っている。

自分を責める気持ちだけが先行し、あの子とお前が示した覚悟を忘れてしまっているように儂には見える」

 

「忘れてなどいません!!」

 

 あの時の俺たちの覚悟を貶めるかのようなその言葉を俺は思わず語気を強めて否定する。

 

「では答えてみせろ、信乃逗。お前と真菰は何のために十二鬼月に立ち向かった?」

 

「それはっ……それはあの街の人たちを……守ために……」

 

 其処でようやく俺は鱗滝さんの言わんとすることに気付いた。

 

「気付いたか?

 お前と真菰は自らの意思で街の人々を守る為に敵わぬと分かっている強大な敵に立ち向った筈だ。

 結果はどうだ?確かにあの子は死んだが、無垢な命を守ろうと立ち上がったあの子の想いは見事に果たされたはずだ。

 ……そしてそれを成したのは他でもない信乃逗、お前だ」

 

「……でもっ、俺はっ……」

 

「信乃逗、下を向くな、前を見ろ。お前は誇れ。

 あの子の決意を、あの子の想いを、それを成し得た己を誇れ。

 お前が本当にあの子を愛しているのならあの子の示した最期の想いを後悔するな」

 

 

「っ……はいっ」

 

 

「あの子からお前のことを初めて聞いた時は何処の馬の骨かと思ったものだが、こうして会ってみればなかなか気骨のある子供で安心した」

 

「っ……」

 

 彼の言葉に心がじんわりと暖かくなっていくのを感じる。

 本当は此処には2人で来るはずだった。あの街に行く道すがらに『もし機会があったら一緒に行こうね』とそう約束した。真菰と俺と鱗滝さんの3人で此処にいるはずだった。楽しく談笑しているはずだったのだ。

 

「信乃逗、強くなれ。そして生きろ。お前があの子の想いを持っていくのだ。

 当たり前の日常を過ごす人々を護りたいとあの子はいつも言っていた。

 その想いを持ってどうか生きてくれ」

 

「……はい、俺はっ、この命尽きるその時まで想いを繋ぎ続けますっ。

 真菰の想いも、他の仲間達の想いも、預かった全ての想いを必ず次に繋げます」

 

 此処で終わらせたりはしない。

 

『幸せに暮らす誰かの当たり前の日常を守る』

 

 真菰のこの想いは俺と共に生きている。

 俺がどれだけ壊れてしまってもこの想いを俺だけで途切れさせたりしない。

 

 誰かを護りたいという彼女の優しい願いは、人を守りたいという想いは不滅なのだから——

 

 

 

 

 

 あの時、俺は鱗滝さんに約束した。

 必ずあの想いを繋ぎ続けると。

 

 鱗滝さんとしたあの日の誓いは俺の中で生き続けている。

 あの日の約束が俺を支える柱になってくれている。

 

 それでもどれだけ固く誓おうとも俺に残された時間は着実に少なくなっていく。

 崩壊は確実にゆっくりと迫ってきていた。

 

 

 

 

 

 




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蝶屋敷での仕事

 

 

 ……ゴリゴリ……ゴリゴリ……

 

 それほど広くもない静閑な室内に何かが動くような不自然で歪な音が響き渡る。

 

「……こんなものかな」

 

 薬研という植物や鉱物をすりつぶす為の特殊な道具を動かしながら信乃逗はボソリと呟く。

 薬研とは古くからある薬作りには欠かせない非常に便利な道具で、師匠の元にいた時もこれをよく使っていた。

 

 今は昨日乾燥させておいたセンブリという植物を粉末状にすり潰して粉薬にしている。この薬草は基本的には消化不良の改善や食欲増進の効果があるので、怪我で食の細くなった者や胃が弱っている者には覿面効果があるのだ。

 まあかなり苦いので隊士達からは不評だが、良薬は口に苦しと思ってどうか我慢して欲しい。

 

 茎一本を丸々煎じてもいいのだがそれだと長期の保存はできないし、連続で使えるのは一本あたり2回か3回が限度なので経費の観点もあってこの蝶屋敷ではあまり行っていない。きちんと粉末状にしておけば乾燥容器に入れて暫く保存が効くのでそれなりに使い勝手がいいのだ。

 

 これが今の俺の仕事の一つ。しのぶさんに稽古を付けてもらう代わりに俺が請け負うと言った薬作りの仕事。勿論それだけではなく怪我人の治療や包帯の取替えなどにも力を貸している。怪我が完治してからというもの日中の殆どをこの蝶屋敷で仕事をして過ごしている。あいにくと俺もしのぶさんも忙しいので最近は毎日稽古というわけにもいかず合間を縫って週に2回程時間を合わせてもらって稽古をしてもらっている。

 

「アオイちゃん、悪いんだけどこれ山本と清水に飲ませてきてくれるかな?」

 

「あのお二人ですか……分かりました」

 

 僅かに顔を顰めながらも仕方なしと言った風に了承してくれる彼女の名前は神崎アオイ。

 鬼殺の剣士としてこの蝶屋敷で働く数少ない同僚だ。

 歳は俺が上だし、入隊したのも俺が先だけど俺が眠っていた半年の間にここで働くようになったそうだから蝶屋敷において言えば彼女の方が先輩になる。

 

 彼女は今俺が粉末状にした薬を乾燥容器に入れてくれる作業を手伝ってくれている。

 

「あいつらがまた拒否するようならいってね。問答無用で口の中にぶち込むからさ!」

 

「……いえ、私の仕事ですから」

 

 そう言って彼女は出来上がった薬瓶を持って部屋を出ていく。

 見る人が見れば少し素っ気ない態度に見えるだろうが、別に彼女の機嫌が悪い訳ではない。彼女の俺への対応は割といつもこんなものだ。

 決して嫌われている訳ではない……と思う。

 俺に対していろいろと思うところはあるみたいだけど、それは彼女がこの蝶屋敷で働くことになった経緯を考えれば無理もないことなのかもしれない。鬼を殺せないからここで働く彼女と鬼を殺せてその上でこの蝶屋敷で働く俺、それを比較して劣等感のようなものを感じているのだと思う。

 

 それについて俺にはどうすることもできない、彼女自身が自分の中で折り合いをつけるしかない。

 

「ぎゃー!!薬は嫌だー!!!」

 

 まあそれでも、薬を嫌がる馬鹿の処理くらいは手伝ってあげるけどね。

 

 

 

 

 

「アガガガガっ!??」

 

「悪いね、アオイちゃん俺の同期(・・)が迷惑かけて」

 

 

 薬を嫌だと騒いで廊下を走って逃げる馬鹿を鎮圧した後縛り上げて薬を馬鹿の喉に流し込みながら俺はアオイちゃんにそう声を掛ける。

 

 

「いえ、えっと、その私もうまく説得出来なかったので。

 ……あの少しやり過ぎでは?」

 

「何言ってるのアオイちゃん、こんなの嫌がる奴の方が悪いんだからそんなの気にしなくていいよ」

 

 少々過激な状況をみて戸惑い気味になっている彼女を励ますようにそう声を掛ける。

 

「ごほっ、ごほっ!!いやっこれはどう考えてもやり過ぎだろうが!?」

 

 肺に入ったらどうすんだっと派手に咳き込みながらも元気よく文句を言ってくる少年の名前は山本宗一。

 俺と同じ年に最終選別を突破した所謂同期という奴だ。

 坊主頭の彼は身体は小さく19歳という年齢でありながら身長がしのぶさんと同じくらいしかない。

 その割には妙に力があって腕まわりの筋肉量は俺が引くほどの発達っぷりをしている。

 

「煩い山本、お前が大人しく薬を飲まないのが悪い」

 

「仕方ねぇだろ!?だってその薬不味いんだよ!」

 

「この程度で何言ってんの?言っとくけど俺の薬なんてまだ良心的だからね」

 

 俺の薬なんてまだ全然飲める方だ。薬を飲んだ後でも山本がこうして元気に喋れているのがその証拠だ。

 しのぶさんの薬の場合、飲んだ後こんなふうに勢いよく喋ることなどまず間違いなく出来ない、あまりの不味さに悶絶しまくって半日は意識を飛ばすことになる。

 まあその分効果も段違いなんだけど。

 

「なぁに?またやってるの?飽きないねー」

 

 ギャーギャーと文句をいう山本を適当にいなしていると唐突に背後から声がかけられる。

 その声に振り替えれば部屋の入り口からひょっこりと頭を出して此方を覗いてくる少女がひとり。

 彼女も信乃逗の数少ない同期の一人、名前を清水ハルという。

 年の頃は20と同期の中では最年長者だ。

 手入れをしていないのかと思うほど髪がボサボサでその上目を隠してしまうほど髪が長いので、一見しただけではとっつきにくそうな印象を受けるが喋ってみるとその印象が一変するほど非常に明るく元気な人だ。

 

 

「はぁ、清水さんまたかは此方の台詞ですよ。此処は男性用の病室だと何度も申しましたでしょう!?」

 

 断りもなく他人のそれも男用の病室に入って来た清水の姿を見てアオイは「もうっ」と呆れたように騒ぎ立てる。

 

「あちゃーアオイちゃんもいたのね。ごめんごめん、同期が揃うなんて珍しいからついね」

 

「おい清水、お前は薬飲んだのかよ」

 

「勿論、君と一緒にしないでよ。私は信乃逗の薬はきちんと飲んだわよ」

 

「……凄く苦そうにはしてましたけどね」

 

「アオイちゃん、それは内緒にしてよぉ〜」

 

 死に溢れたこの鬼殺隊では珍しいほどに明るく元気のいい笑声が病室に響き渡る。

 その光景をみて信乃逗はほっと安心したように息を吐く。こうして仲間達が笑って過ごしている光景を見るのが信乃逗の中である種の支えになっているのだ。

 信乃逗が蝶屋敷で働き始めてから2年半、力及ばず此処で何人もの仲間を看取ってきた。そんな地獄のような日々の中で同じ年に最終選別を突破したこの2人がこうして生きて此処で笑っている。そのことが信乃逗は嬉しかった。

 

 此処にあと1人、真菰が居てくれれば、全員揃ったと大手を振って喜べるのに。

 

「アオイちゃん、その辺にしといてあげて、生きて同期とこうして会えることなんてなかなかないことだからさ」

 

 なんとか清水を彼女の病室に戻そうと怒り続けているアオイに信乃逗はお目溢しを要求する。

 実際こんな機会でもなければなかなか同期とゆっくり話すことなど出来ないのだ。

 

「そう言えば信乃逗さんもお二方とは同期でしたか」

 

「そうそう、俺と信乃逗とそこのボサボサ頭の女の3人で生き残ってる同期は勢揃いってとこだ」

 

「……まぁ、同期って言っても信乃逗と其処の坊主頭じゃ実力は段違いだけどね」

 

「なんだとボサボサ頭!!」

 

「何よ!?事実でしょうが!!」

 

 ギャーギャーと揃って再び騒ぎ立て始める2人を尻目に信乃逗はアオイに仕事に戻るように促す。

 

「はぁー、アオイちゃんは仕事に戻っていいよ。俺はこの馬鹿2人を鎮めるから」

 

 この2人に付き合っていてはいつまで経っても仕事が終わらなくなる。

 他にも患者はいるし、薬の準備、洗濯、備品の買い出しなどやるべきことは山ほどあるのだから。

 

 アオイは信乃逗にそっと会釈すると呆れた様な表情をして部屋から出ていった。

 

「おい、そろそろ静かにしないと物理的に黙らせるぞ」

 

「「はい!黙ります!!すいませんでした」」

 

「おっおう。分かればいいんだけど」

 

 見事なまでに完全一致の動作で謝る2人に信乃逗は頬を痙攣らせて若干引き気味で応える。

 

「それにしても信乃逗はだいぶ出世したよなぁ」

 

「なんだよ唐突に?」

 

 唐突に変わった話題に信乃逗は怪訝な表情で応える。

 

「いやだってさ、今お前の階級って(きのえ)だろ?」

 

「まあ、そうだけど」

 

「いいなぁ、出世し過ぎだろ。どんだけ高速昇進してんだよ、羨ましい」

 

「確かに私達なんてまだ(つちのえ)だもんね」

 

「……そんないいことでもないけどな」

 

 僅か数年の間に十二鬼月と二回も遭遇して、何度も死にかけた結果のこの昇進なのでそこまで今の階級を喜んだことなどない。

 

「まあ選抜の時から信乃逗と、真菰ちゃんは飛び抜けて強かったからある意味納得だけどな」

 

「あの時は驚いたわよね、あんな小さな子供が選抜を突破するなんて思ってもみなかったもの」

 

「そんなに小さかったか?」

 

「そりゃ、だってあの時の信乃逗は確か俺より背が低かったぞ」

 

 言われてみればあの時は俺も真菰と身長はそんなに変わらなかった気がする。

 でも、当時の俺はまだ12歳だったし、身長云々を言われても正直なところ困るのだが

 

「選抜からもう4年でしょ?順調にいけば来年には信乃逗が柱になってるかもよ?」

 

「いや、それは無いと思うぞ」

 

 清水の浮き足だった意見を信乃逗はすかさず否定する。

 確かに才能のある者は早ければ入隊から5年ほどで柱になれると一般隊士達の間では噂になっている。

 だが、今回に限って言えば恐らくそれは当てはまらない。

 

「なんでだ?信乃逗は強いし才能あるし、いけると思うけど」

 

「今、柱は9人揃ってるし、そもそも俺じゃあまだ実力不足だからな」

 

 現柱の方々は9人全員が揃っている。

 そして、その9人全員が化け物並みに強い。

 9人の中のどなたかが引退すれば勿論その可能性はある。

 しかし、正直なところ信乃逗には彼等が引退する様な事態に追い込まれる所がまるで想像できないのだ。

 

「そう言えば信乃逗は胡蝶様に稽古付けてもらってるんだっけ?

 いいよなぁ、柱に稽古つけてもらえるなんて」

 

「……まあな」

 

 この会話からも分かる様にしのぶさんは今俺が化け物と称した柱の一画に就任している。

 今から1年程前、カナエ様が亡くなってからわずか1年半程で彼女は鬼殺隊最強の1人にまで登り詰めた。

 そんな人に稽古をつけて貰えるなんていうのは側からみている他の隊士達からすれば羨ましいことなのだろう。

 実際、そのお陰で俺はあの頃より随分と強くなれたと思う。

 【常中】を獲得出来たのもしのぶさんの助言があってこそだった。

 

 しかし、一方で俺がしのぶさんの役に立てているのかどうかは分からない。

 勿論、蝶屋敷での仕事では多少なりとも役に立てていると思う。

 でも、それだけ、逆にいえば単純に労働力にしかなっていないのだ。

 それでは御館様に言われた本当の頼み事からは程遠い。今の俺には彼女の貼り付けた笑みを本当の笑顔にすることがまだ出来ていないのだから。

 

 

「あっおい、信乃逗、後ろ」

 

 急に何かに気づいた様に山本が俺に声をかける。

 その視線は俺の背後に固定されていて促されるまま俺も部屋の入り口を見る。すると其処には大きな蝶の髪飾りを付けた少女が1人ちょこんと立っていた。

 

「あれ、カナヲちゃん?どうしたの?」

 

 栗花落カナヲ、苗字は違うがカナエ様としのぶさんの妹だそうでこの広い屋敷に住んでいる数少ない住人の1人だ。

 しのぶさん謂く幼い頃暴力を受けていたそうでそれが原因で今は自分の考えが持てない状態なのだそうだ。

 その為彼女はとにかく無口で表情もほとんど変わらない。

 彼女は普段、屋敷の奥でキヨちゃん達と家事をしているか最近では木刀を振っていることが多いのだが今日はどういう訳か表に出てきている様だ。

 

「…………」

 

「あっひょっとしてお客さん?」

 

 微笑んだまま無言で此方を見つめてくるカナヲちゃんに向かってあり得そうな用件を告げると

 コクンと僅かに首を縦に動かしてくれる。

 

 ……珍しい。

 こんな風に正解かどうかを伝える動作をしてくれることも珍しい。滅多なことでは喋りも反応することすらないのでどうすればいいか悩むことも少なくないのだが今回は割とすんなりといった。

 

「ありがとう、今から行くよ」

 

 俺がお礼と了承の旨を伝えると彼女はそのまま屋敷の奥に向かって歩いて行く。

 

「……お前よくあれで伝わるな」

 

「ほんと、凄いね」

 

「慣れだよ、慣れ。もう2年以上だからな、なんとなく分かるんだよ。

 じゃあ俺は行くから2人ともまた後でな」

 

 感心したように頷く2人に仕事を戻る旨を伝えて俺は正面口へと向かっていく。

 

 

 



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違和感

「すいません、お待たせしました。本日はどうされましたか、富岡さん」

 

 蝶屋敷の来客用の玄関に向かうと、其処にいたのは珍しいことに現水柱の富岡(とみおか)義勇(ぎゆう)だった。

 

「……雨笠(あまがさ)か、今日は胡蝶(こちょう)は不在か?」

 

「はい、しのぶさんは今、指令に赴いていますので。……怪我をされたのですか?」

 

 信乃逗(しのず)がその出立をよく見ると、彼の肩口には切り傷のようなものが見える。どうやら負傷したようだ。

 

(……柱に傷を負わせるほどの鬼か、やっぱり最近強力な鬼が多いっていう噂は本当みたいだな)

 

 どうも近頃、鬼狩りの指令が多い上、随分と隊士に犠牲者が出ているようで、この蝶屋敷にも重傷者が運び込まれる頻度が増えている。柱の中でもさらに化け物の類の強さを持っている水柱に手傷を負わせるほどの鬼となると、余程強力な鬼だったのだろう。

 

「どうぞ、上がってください。すぐに手当てをしましょう」

 

「ああ、悪いが頼む」

 

 信乃逗は屋敷の奥、普段はしのぶさんが診察室として使っている部屋へと富岡を案内する。

 

「肩以外に傷を負った場所はありますか?」

 

 見たところ肩口にある鋭い爪で裂かれたかのような裂傷以外、傷は見当たらない。

 

「傷は其処だけだ。ただ少し、目が回るような気がするな」

 

 (……目が回る?血を流しすぎたのだろうか?)

 

 其処まで深い傷では無いし、既に呼吸で止血されているので、失血が原因とは考えにくいが。他に何か症状がないか信乃逗(しのず)が聞こうとした時、再び富岡が口を開く。

 

「あと此処に来るまでに何度か吐血した」

 

「……は?」

 

「寒気のようなものも感じる、恐らく毒だな」

 

「……はっはいぃぃぃぃ!?」

 

「どうした?急に騒いで」

 

 いや、お前のせいだよ!!さらに言えばどうかしたかじゃねーよ!?

 何キリッとした感じでとんでもない発言してんだこいつ!?

 

「アオイちゃーん!!診察室に解毒薬持ってきて!!!!」

 

 信乃逗はあらんかぎりの大声でアオイに用件を伝えると、すぐに富岡を診察室にある寝台へと横になるように指示を出す。

 

「全く!!なんで直ぐに言わないんですかね!?」

 

「……大した傷ではなかったからな」

 

「傷の話じゃねーよ!?毒の話だよ!!富岡さん実は馬鹿なんですか!?」

 

 というよりなんだかとてつも無い既視感があるやりとりだ。そういえばこの人も鱗滝さんの弟子だったな。真菰といい富岡さんといい鱗滝さんに育てられると、どうしてこうも怪我に鈍くなるのだろうか。

 

「カァー!!信乃逗(しのず)!!指令に迎え!!」

 

 アオイに持ってきてもらった解毒薬を注射しながら富岡さんに説教していると、開けていた窓から部屋の中に(かすがい)烏が飛び込んでくる。

 

「今治療中だよ!ちょっと待っててくれる!?」

 

「カァー!!手際が悪い!!早くしろ!!」

 

「喧しいわ!?」

 

「……俺は馬鹿ではない」

 

 何故に烏に治療の手際で説教されにゃいかんのか全く理解できない。あともう富岡さんは黙っててください。

 

 

 とまあこんな感じで、日中はこの蝶屋敷で薬の調合にけが人の治療、夜間は鬼狩りの指令と、今の信乃逗は蝶屋敷で働き始める前と比べるとかなり忙しい生活を送っている。救いがあるとすれば、鬼狩りの指令は毎晩のようにある訳ではないので、全く睡眠時間がない訳ではないというところだろうか。まあそれでも、富岡のような急患や、急な指令やらで、徹夜が3日続いたりなんてことはざらにあるが。実際今日も指令から帰ってきてから、まだ一睡も出来ていない。一昨日もそんな感じだったから、幾ら眠気を感じにくくなってきてしまっているとは言っても眠い。こんな生活を1人でしようとしていた訳だから、しのぶが如何に無茶をしていたのかということがよく分かるというものだ。しのぶの大変さと、それを実感できる自身の成長を噛みしめたところで、信乃逗は指令の準備のためにアオイと交代して診察室を出た。

 

 

 

 

 

 神崎アオイにとって雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)という男は、不思議な人だった。はじめ、彼がこの蝶屋敷で働くと聞いた時は、絶対に無理だと思った。人の怪我を治療するというのは言葉で言うよりずっと難しいことだ。鬼殺の剣士として生きることが生半可な道ではないように、人の命を救うという道もまた並外れた覚悟と努力がいる道。

 

 専門の勉強をして知識を身につけ、包帯の巻き方ひとつ取っても何度も練習しなければいけない。

 カナエ様が亡くなってから日々増えていく怪我人の多さに、しのぶ様を始め、この蝶屋敷で働く者は精神的にも肉体的にも、限界に近い状態だった。そんな状況で、知識も経験もない新人を入れるなんてどう考えても無茶だ。今の私達に新人の面倒など見ている暇などない、一から丁寧に教えている余裕などない。しかも聞けば彼は鬼殺の剣士としての仕事をこなしながら、この蝶屋敷で働くのだというではないか。二足の草鞋などそんなことが出来るのはしのぶ様くらいのものだ。一つでも大変な仕事を二つも掛け持ちするような半端なことがそう易々と出来る訳がない。

 

 もしもそれが出来るというのなら私は……剣士でありながら刀を持つことができなくなった私は……

 

 だから彼が蝶屋敷で働くことに私は反対した。

 

 でも、他でもないあの人が現状を最も理解していて、今一番苦しんでいるはずの彼女が、それでもこの蝶屋敷で彼を働かせることを許可しているというのなら、私には口を出すようなことは出来ない。

 

 苦しんでいるあの人の負担が、これ以上増えないように、少しでもあの人の肩の荷が軽くなるように、私がしっかりしなければ。

 

 そんな身勝手な決意は彼が仕事を始めて直ぐに瓦解した。

 

 新人などとんでもない、包帯の巻き方など教える必要がなかった。彼は既に十分に医療に精通していたのだから。西洋の医療器具の取り扱いなどは確かに教えなければいけなかったが、それ以外のことで私が教えることができたことなどまるでない。薬の名前、飲ませ方、当て木の仕方、傷口の縫合、どれも彼ははじめから正確に出来ていた。それどころか私には出来ない、薬の調合すら手際よくして見せる。

 

 しのぶ様にしか出来なかった、調薬を行い、しのぶ様と薬の話を対等にして見せる彼に、私は酷く嫉妬した。彼の才能が羨ましい。あの十二鬼月をも倒すほど、鬼殺の剣士として優秀で、その上医療従事者としてもこの上なく優秀など、信じられなかったし、信じたくなかった。選抜でも運良く生き残って、おこぼれのように剣士になって、その上で刀を握ることができなくなった私とは大違いだ。

 

 ……嫌になる。間近で優秀だと見せ付けるかのようにどんどん前を進んでいく彼も、そんな彼に劣等感しか抱けずに、いつまでも前に進むことの出来ない私という存在も。

 

 

「慌しくて申し訳ありません、水柱様」

 

 急な指令にバタバタと支度をして出て行った信乃逗(しのず)に代わってアオイは富岡の怪我の手当てを行い始める。解毒薬は信乃逗が打っていたので後は傷口の消毒と縫合をするだけだ。

 

「別にいい」

 

 申し訳なさそうに謝るアオイに、表情を一切変えることなく、相も変わらず仏頂面で富岡は答える。彼のこの調子がアオイは少し苦手だった。何を考えているのかまるで分からない。とにかく無口で、それでいていつも不機嫌に見える表情。

 

「アイツは、雨笠(あまがさ)胡蝶(こちょう)に似てきたな」

 

 そんな彼が、どういう訳か今日は珍しくよく口を開く。煮沸消毒した縫合用の針を準備しながら、アオイは彼の言葉に耳を傾ける。

 

「胡蝶も昔はよく怒鳴ってきた」

 

 昔は、というのは、きっとカナエ様が亡くなる以前のことだろう。この人も、カナエ様も、よく怪我をしては大した傷ではないと言ってしのぶ様に怒られていた。

 

「水柱様は御自分の怪我の具合に、少し無頓着なところがありますから」

 

 その姿を見ることは今ではもうできない。カナエ様が亡くなってから、しのぶ様は変わられてしまった。怒ったり、大きな声を出すことが極端に少なくなって、その代わりのようにいつも微笑んでいるようになった。それがいいことなのか、それとも悪いことなのか、私には判断がつかない。でも、しのぶ様の笑顔が私は好きだ。しのぶ様には笑っていてほしいと、そう思う。

 

 其処でふいに、アオイの脳裏に信乃逗(しのず)の笑顔が過ぎる。

 

 (……あれ?似ている?)

 

 その瞬間、何故か2人の笑顔がアオイには重なって見えた。まるで顔の違う2人の笑顔が、どういう訳かこの時のアオイには、酷く似ているように感じたのだ。

 

 ないないと、アオイは脳裏に浮かぶ信乃逗の笑顔を、頭を左右にぶんぶんと振って消し去る。

 

「傷口を消毒して縫合しますので、当て布をお取りしますね」

 

 (……うわぁ)

 

 傷口の確認をしようと、当て布をとったアオイは傷の状態に頬を痙攣らせた。恐らく毒の影響だろう、富岡の傷口周辺の肌が、紫色に変色していたのだ。解毒薬を注射したせいか、徐徐に肌の色は元に戻って行っているようだが、その性で一層気味が悪く見える。ただの裂傷なら、今まで何度も縫合してきたアオイがこんな反応をすることはなかっただろう。しかし、こうまで明かに異常な色彩をした肌を見るのはアオイも初めてだった。

 

(……あれ?なんで?)

 

 そこまで考えたところで、アオイは奇妙な違和感を覚える。富岡の傷は明かに異常だ、一目見ただけでただの裂傷ではないと分かる。

 

 

 そう一目(・・)で分かるのだ。

 

 

 

 なら、どうして彼は気づかなかった?

 

 

 傷の確認をすればこれほどの変色だ、一目瞭然の筈なのに、本人の症状を聞くまで毒に気付かなかったのはどうして?

 

 

 ふと気付いた単純な疑問、しかし考えれば考えるほどに、それは強烈な違和感へと変わっていく。こんな状態の傷に気づかないなんてことがあるだろうか。

 

「……どうかしたか?」

 

「あっいえ、すいません。……傷口を消毒しますね」

 

 考えに集中しすぎるあまり、目の前の患者のことを忘れていた。今はひとまず彼の傷の手当てをしないと。

 

 アオイは誤魔化すように心の中でそう呟いたが、胸の奥に一度燻り出してしまった違和感が消えることはなかった。

 




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呼ばれた先で

また、オリキャラ出しました!


 

 

 1日の中で最も日照りを強く感じる正午。

 町の人々の喧騒がやまない市場の中で信乃逗(しのず)は1人ポツンと立っていた。

 

(……遅い)

 

 鬼狩りの増援に呼ばれて、待ち合わせ場所である道具屋の暖簾下に信乃逗がついてから、かれこれ半刻は経つが、未だに待ち人は現れない。すれ違う人々から、ちらちらと奇異の視線で見られながら、待ちぼうけを喰らっている信乃逗は、早くこの場を立ち去ってしまいたくて仕方なかった。こんな日照りの強い日に、全身真っ黒な装いの隊服で半刻以上もの間、買い物もせずにずっとそこに立っているのだから、周囲の人から見れば、それは不審極まりないことだろう。流石に昼間の市場とあって人通りも多いので、刀は布で包んで持っているが、これでいつものように腰に刀などさしていようものなら、警官隊に通報されていても文句は言えなかった。

 

(……こんなことなら羽織でも羽織ってくるんだったな)

 

 信乃逗の持つ羽織は、白を基調に薄らと流水紋が描かれた少々特殊な物で、信乃逗が甲に昇級した際にしのぶから贈られた祝い品だ。なので祝い事や特殊なこと以外では着ないようにしているのだが、こんな人気の多い場所で待ちぼうけを喰らうのなら、きてくればよかったかもしれない。

 

「こんにちは、お待たせしてしまいましたね」

 

 いい加減我慢の限界だと信乃逗が思い始めた頃、ようやく信乃逗を呼びつけた張本人達がゆったりとした口調で登場した。

 

「……遅いですよ、しのぶさん」

 

 甲の階級に当たる信乃逗を呼びつけておいて、その上半刻以上も待たせたのは他でもない現蟲柱、胡蝶しのぶその人だ。鬼殺隊の頂点に君臨する方だ、当然立場も上なので本来なら待ちぼうけなど喰らっても文句など言えないのだが、そこはしのぶと信乃逗、勝手知ったる間柄なので互いに遠慮はない。それにしのぶがなんの理由もなく時間に遅れるということもないだろう。遅れたことにも何かしら理由があるはずだと信乃逗もある程度の配慮を知っている。

 

「申し訳ありません、雨笠(あまがさ)君。そこに美味しそうな甘味処があったものでつい」

 

「うん、俺の信頼を返してください」

 

 遅刻を謝って起きながら語られたその理由が全くなってない。

 

(と言うことはなんだろうか?俺はしのぶさん達が美味しく食事をとってる間、炎天下の中で半刻もの間立ちっぱなしで待たされていたと?)

 

 それはいくらなんでも酷すぎやしないだろうか?と、あまりの仕打ちに信乃逗の表情が一気にげんなりとしたものに変わる。

 

「まあまあ、お土産を買ってきましたから許してください」

 

「許しましょう」

 

 しのぶのお土産発言と手に持った包みを見て、信乃逗(しのず)の表情は餌を与えられた犬のように、一瞬で輝かしい表情へと変わる。ちょろいものである。しのぶなどは一瞬で変わった信乃逗の表情に、手で口元を覆い隠して爆笑中である。この手のやり取りはしのぶに中では半ば定番となっている。勿論信乃逗が味覚を消失していることなど、しのぶはしらない。だが、信乃逗は決して甘い物が好きな演技をしているわけでも、しのぶが信乃逗は甘いものが好きだと勘違いしている訳でもない。事実として信乃逗は甘いものが好きなのだ。

 

 味覚を失って以降、食事を楽しむことができなくなった信乃逗だが、極端に甘いものであると、本当に微かに甘みを感じることがあるのだ。だから今の信乃逗は、それを僅かでも味わうことができるかもしれない甘味が大好きだ。なので、このように不機嫌になることがあっても、今のように甘い手土産などを持ち寄れば、大抵のことは解決するのだ。

 

 いつものやり取り、しかしそれはしのぶと信乃逗にとっての『いつも』だ。この光景に慣れてない者からすれば信乃逗のそれは柱に対する態度にしては随分と馴れ馴れしいと、そう思われるような態度となる。

 

「ちょっと雨笠さん!いつも言っていますが、柱であるしのぶ様に対する態度が失礼過ぎるのではありませんかっ?」

 

 故に、こう言う声も上がってしまう。

 しのぶの背後に控えるように立っていた淡い栗色の髪の少女。

 

 

——— 高野(たかの)(かえで)

 

 

 怒涛の勢いで多数の鬼を狩り、齢16で乙まで昇格した、しのぶの継ぐ子だ。彼女がしのぶの継ぐ子になって半年、ある程度月日は経つが、忙しいしのぶと信乃逗(しのず)が、こうして立場を考えないやり取りをする場面を目にする機会は、そこまで多くなかった。何より楓にとって、胡蝶しのぶは鬼殺隊の頂点に君臨する柱の1人。普段はお淑やかに微笑んで、しかし非常時ともなれば、毅然とした態度をとっているというのが、楓にとってのしのぶなのだ。

 

 だからこそ、こうしてたまに見るしのぶと信乃逗の会話は、この少女にとって酷く目につく光景となってしまう。小難しく言い回したが、要は彼女は上下関係にやたらと厳しいのだ。

 

 これまでも何度か、彼女は信乃逗のしのぶに対する尊大にも見える態度を注意してきたが、一向に直る様子もなく、しのぶの方からも別段注意することもない。楓としては、しのぶから注意してもらえば一発で直るだろうと思っているのだが、そんなことを柱である彼女に意見するのも気が引ける。なので、こうしていつも楓から信乃逗へと注意を促しているのだ。

 

「はいはい、悪かったよ高野」

 

 そしていつもにように、信乃逗はその注意を適当に返事をすることで受け流す。

 

 勿論、信乃逗とてしのぶのことは尊敬しているし、楓のいうことも分かるので、時と場所は選んで言葉遣いを直すこともある。だが、この場合はそれには当たらないと信乃逗は判断している。信乃逗はしのぶとの付き合いがそこそこに長い。それこそ彼女が柱になる前からの付き合いなのだ。稽古の時やお館様の前ならともかく、このような私情の場まで柱と言うガラス越しに話かける必要はないだろう。

 

「またそんな適当な返事を!だいたい雨笠さんはいつもそういうのに直らないではありませんか!」

 

 (かえで)にとって信乃逗(しのず)は鬼殺隊の先輩であり、階級も一つではあるが上の人間だ。人の死が当たり前のように横行する鬼殺隊において、信乃逗ほど手柄を立てて長い間生きている隊員も、柱を除けばそこまで多くはない。

 

 というよりほとんどいない。

 

 そういう点では、信乃逗のことを尊敬できる先輩と思っているし、最初はそれこそ柱に対するかのように振る舞っていた。信乃逗は鬼殺隊内では次期柱候補とまで云われる実力の持ち主であり、一度はあの十二鬼月すら倒している。それを考えれば、楓が信乃逗を尊敬するのもある意味必然だった。ところがいざ話をしてみれば、どうにも本人にはその自覚が薄く、しのぶのような実力者としての風格がいまひとつ見えない。

 

 その上、立場が上のはずの柱であるしのぶに対する態度は随分とおざなりだ。上下関係を絶対とする彼女としては、信乃逗のそのあり方がどうにも気に食わなかった。まあ要するに信乃逗と楓は性格が合わないのだ。致命的なまでに。

 

 まるで母親のように口やかましく言葉遣いに注意してくる楓に、信乃逗も若干うんざりした様子で溜息をつく。

 

「はぁ〜」

 

「あらあら、大変そうですね」

 

「何を他人事のように仰っているんですかね?これは貴方の継ぐ子でしょう。なんとかしてくださいよ」

 

 微笑みながら「大変そう」と楽しそうにそう言うしのぶに、信乃逗は呆れた様子でそう頼み込む。

 

 「これとはなんですかっ!?これとは!?」としのぶの後ろで何やら騒いでいる者がいるが、信乃逗は無視を決め込んでいる。いちいち反応していてはキリがないのだ。

 

「確かに楓は私の大事な継ぐ子ですが、彼女の在り方を変える権限までは持ち合わせていません」

 

「しのぶ様ー」

 

 何やら小難しく言っているが、要は不可能と言っているだけだ。そしてある意味で手に負えないと言われているはずの彼女は、何やら感極まった様子で両手を前に組んで、瞳をウルウルさして喜びをあらわにしている。どうやら「大事な」と言うところが彼女的にだいぶ点数が高かったようだ。総合で見ればマイナス点のはずだが、全く言葉の裏に気付いていないあたり、楓もだいぶちょろいやつである。

 

「それで、柱ともあろうお方が態々俺まで呼びつけてどうなさったんですか?」

 

 随分と長い間雑談に勤しんでしまったが、信乃逗がこの場に来た目的は(からす)によって増援を要請されたからだ。そろそろ今日の本題について話すべきだろうと、信乃逗は話題を切り替えた。それを受けて、しのぶもふわふわとした雰囲気を真剣なものへと切り替えて本題を話し始める。

 

「雨笠君はこの街で起きている事件はご存知ですか?」

 

「この街の近くにある山の中で街の住人や旅人の行方が分からなくなっているという件なら、鴉からは聞いていますよ」

 

「えぇ、この数ヶ月で50は下らぬ人が消えています。そしてその中には鬼殺隊の隊士も数名含まれています」

 

「まぁそうなると十中八九、鬼でしょうね」

 

 ただの旅人が消えただけなら熊の可能性もあるが、鬼殺隊の隊士、それも複数人が消えているというのなら、それはおそらく鬼で間違いないだろう。

 

「えぇ。実際鬼は居ました」

 

「もう鬼を見つけているんですか?なら……」

 

 どうして狩りに行かないのかと、問いかけそうになったところで信乃逗は口をつぐんだ。

 

 目の前にいる人物は普段はお淑やかに微笑んでいる女性だが、列記とした柱だ。その実力は疑うまでもなく、鬼殺隊最強の一角を担うに相応しいものだ。故に、そんな彼女が既に多くの人を喰らっているであろう鬼を見つけて狩りに行かない筈もない。恐らく一度は鬼と戦ったはず、そしてその上で応援が必要だと判断した。だからこそ自分が呼ばれたのだ。と、信乃逗は口をつぐんだ一瞬でそう判断した。

 

「どんな厄介な能力を持ってるんですか、その鬼は?」

 

 げんなりとした表情でそう問いかける信乃逗の様子に、しのぶは満足そうに頷く。

 

「流石は雨笠君ですね。話が早くて助かります」

 

「確かに、妙に察しが良いのは間違いないですね。あとはしのぶ様への態度さえ改めて頂ければ問題ありませんのに……」

 

 2人の反応に信乃逗も満更でもなさそうに、頬を緩ませる。褒め言葉にも弱いのが信乃逗だ。ちなみに、楓の発言の後半は信乃逗の耳には入っていない。自らにとって都合の悪い発言を切り捨てるのは長生きの秘訣だと信乃逗は思っている。

 

「それで、どうなんですか?」

 

「一言で言うなら、土人形、ですかね」

 

「はい?つち、人形、ですか?」

 

 信乃逗の問いに対する返答は、しのぶにしては珍しく歯切れが悪い。

 

 

 どう言う能力なのか、いまいち想像のつかない信乃逗は、おうむ返しのようにそう呟いて首を捻る。

 

「順序だてて説明しましょうか。楓、雨笠君に説明を」

 

「はい、しのぶ様。……まず鬼のいる場所ですが、町の正面にある、あの山の中腹にある大きな洞窟の中です。厄介なことに洞窟は酷く入り組んでいて、基本的に鬼はそこから出てきません」

 

「うん?……出てこない?」

 

「はい。陽のある間は勿論。夜間にも鬼が洞窟から出てくる事はありません」

 

「ならどうやって人を攫っているんだ?」

 

 単純な疑問。昼間、陽がさしている時に鬼が外に出てこないのは当然のことだろうが、夜になっても洞窟から出てこないというのは理解できない。しのぶ達がきたことで、鬼が警戒して洞窟から出てこないというのならば話は単純だが、楓の言い方からして鬼は最初から洞窟から出てこないという風に聞こえる。

 

 それに、鬼という生き物は存外に単純な生き物だ。人さえ喰えればそれでいい、人が喰いたい。ただ、それだけの為に生きる生物、それが鬼だ。単純ではあるが、だからこそその一つのことに非常に執着する。何日も洞窟内に篭城して人を喰わないでいるなど、彼らの本能が許さない筈だし、耐えられるとは思えない。

 

「いい着眼点です、雨笠さん。褒めてあげます」

 

 どうでもいいが、何故彼女は自分に対して上から目線なのだろうか?いちよ自分は彼女の先輩に当たる訳で、彼女の言う上下関係をしっかりという言い分に当てはめるのであれば、自分は当然上に当たる筈なのだが、と信乃逗は楓の100%上から目線な態度に首を捻って考える。

 

「そこで登場するのが、先程しのぶ様が仰った土人形です。恐らく血鬼術でしょうが、鬼は自ら外に出るのではなく、その土人形に人を攫わせて洞窟内に運んでいるようなのです」

 

「なるほど、本体は洞窟の中で潜んで、血鬼術で作りあげた、その土人形を使って人間を供給している訳か」

 

 楓の説明のおかげで、鬼のとる手段は理解することができた。しかし、それなら、対処方法はそんなに難しくもない。外に出てくる土人形を破壊してしまえば、鬼は食料の供給路を失うことになるし、なんなら洞窟の中に突入して鬼の本体を狩れば良いだけの話でしかない。そんな事は柱であるしのぶは勿論、目の前の優秀な後輩にも分かっている筈だ。

 

 だが、現状鬼を退治することもなく、こうして自分は鬼狩りの応援としてこの場に呼ばれている。他にも何か厄介な能力があると見ていいだろうと、信乃逗は楓に視線でもって話の続きを促す。

 

「……お察しの通り、この鬼の厄介なところはそこではありません。土人形とは言ってもその戦闘能力は私達からすれば案山子同然のもの、戦っても負けることはありません。ですが、やたらと頑丈です。その上数が多い。10体程度までならともかく、50、60も出てくると流石に手に負えません」

 

 なるほど、と信乃逗は今回の応援に至った全貌を理解した。この鬼の厄介なところというのはおそらく彼女達の技との相性の悪さにある。彼女達の呼吸、蟲の呼吸というのは、突き技に特化した呼吸であり、貫通力という点において、他に類を見ないほどの脅威的な威力を誇る。が、その有効性は対人に限られる。毒という特殊性を持たなければ、鬼に対しての効果は当然望めないし、土人形などの急所らしい急所の見当たらない相手となると、突き技は非常に相性が悪いと言えるだろう。

 

 土人形の実物を見ていないので戦闘能力云々はなんとも言い難いが、彼女達の得意とする突きも毒も効かない相手が複数向かってくるというのなら、応援を呼ぶのも納得できる。

 

 

 




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宝石の森

 

「なら、俺はその土人形どもの相手をすればいい、そういうことですか?」

 

「そうですね、私の毒も土人形相手では効果がありません。洞窟内で鬼を見つけるまで、向かってくる土人形の相手を雨笠君と楓にお任せしたいとは思っています」

 

 案山子同然とまで言われている土人形なら、50だろうが100だろうが粉砕できるだろう。鬼の本体はしのぶに任せられるのなら、思いの外楽に終わるかもしれないと、信乃逗(しのず)は安堵に頬を緩めるがそれは早計というもの。

 

「そういえば、雨笠(あまがさ)君と指令を受けるのも久しぶりですし、折角ですから、少し試験でもしましょうか」

 

「へ?試験?」

 

「えぇ。暫く稽古も見てあげれていませんし、折角の一緒の指令ですから、実戦修練といきましょう」

 

 にっこりと満面の笑みを浮かべて、そう言うしのぶに嫌な予感を覚えた信乃逗は一歩、後ろへと足を引く。

 

「あぁ、でもただ修練というのもつまらないですし、もしも一撃でもあの土人形に攻撃を受けたなら……」

 

「そこで溜めないで下さいよ!?受けたのなら、な、なにをさせようというんですかっ!?」

 

「……ふふっ、そうですね。私の新しい薬の研究にでも付き合ってもらいましょうか」

 

 新しい薬の研究、その言葉に信乃逗は全身の血が引いていくようなすぅとした冷たい感覚に襲われる。

 

 味覚はとうの昔に失ったはずなのに、嘗て体験した記憶があの劇マズの薬を信乃逗の舌の上に再現してくる。

 

「おぇぇ……絶対、絶対攻撃なんて受けないぞ!!!」

 

 あまりに懐かしい嘗ての地獄の記憶に、信乃逗は思わず地面に膝を付くも、次の瞬間には嘗てないほど、やる気を張りめぐらせて、盛大に叫ぶ。

 

「あらあら、相変わらず失礼ですね」

 

「薬の研究を手伝うくらいで何をそんなに嫌がっているのですかっ?もっと光栄に思うべきでしょうに!」

 

 薬も過ぎれば毒となるというが、完成されていないしのぶの薬は正に毒だ。口に苦いとかそう言う次元の話ですらない。彼女の薬は完成していれば怪我や毒に対して信じられないほど劇的な効果をもたらすが、研究段階にあるそれは、人を死の淵に追いやる正に凶器。嘗て療養中に散々実験に付き合わされ、療養中に効果があるかわからないが試してみてと言われたあの薬で、一体何度意識を飛ばしたことか。

 

 そこのところを(かえで)は理解できていない。信乃逗(しのず)は嘗ての記憶を思い出して顔色を真っ青に変えている。

 

(だが待てよ。今の俺には味覚がない。つまり、あの劇マズな薬でもそれを感じることはないということ!ならばまだ俺にも生存への道が!)

 

 自らの状況に、勝機を見いだしたと言わんばかりに、信乃逗は突然顔色を輝かせて、立ち上がる。

 

「さぁ、行きましょう!鬼でも土人形でもドンとこいですよ!」

 

 と、先程までの絶望に染まった姿は何だったのかというくらい、意気揚々と1人ではしゃぎ始めた信乃逗の様子に、しのぶも楓も互いに顔を見合わせて、キョトンと首を捻る。

 

 信乃逗としてはもはや死角はないと思っているのだろうが、しかし、それは大きな勘違いである。しのぶの研究は薬に関すること。薬とは体に影響を与えるものだ。味覚がなくなったからと言って、薬の効果に耐性がついた訳でも、体への影響がなくなる訳でもない。今まで信乃逗が意識を失ってきたのは、何もその味のせいだけではないのだ。が、勿論そんなことを、気絶していた信乃逗が気付くわけもない。信乃逗のこの思い込みが凶と出るか吉と出るか、それは今の段階では誰にも分からない。

 

 

 

 

 

 

 風に揺られるこの葉の隙間から差し込む陽光の光が、キラキラとまるで装飾品のような美しい輝き見せる。宝石の森と、そう表現できる程の美しい山の中で、心地の良い風が運んでくる緑の香りに、信乃逗(しのず)はほっと息をつく。

 

「いい天気ですね、しのぶさん」

 

 陽の光を眩しそうに見上げる信乃逗の表情は、穏やかで、とてもこれから戦いに赴くようには見えない。

 

 

「そうですね。まあ貴方は今からその光の届かない洞窟に飛び込むわけですが」

 

 信乃逗の横に立って、目の前に広がる巨大な暗闇を見つめながらしのぶはそっと呟く。

 

「……人が折角現実から逃避してるんですから、このまま逃してくれてもいいじゃないですか」

 

「雨笠さん、鬼殺隊隊士が鬼狩りの指令から逃げれるわけないじゃないですか」

 

 しのぶと楓の言葉に空へと追いやった視線を正面へと戻した信乃逗は、はぁっと溜息をつく。

 

 緑に覆われた一面の中で、ポッカリと穴でも空いてしまったかのようなその光景はさながら落とし穴のようだ。穴の入り口には刺々しい岩がいくつも乱立していて、その様子は見るものが見れば地獄への入り口のようにも見えることだろう。

 

「ここまで来て何を嫌がっているのですか、貴方は」

 

「ここまで来たから余計に嫌になったんですよ。なんですか、このあからさまにやばそうな洞窟は……羅生門だってもう少し穏やかな入り口してますよ」

 

 入り口からしてこうもあからさまに禍々しい雰囲気を醸し出しているような洞窟に、誰が好き好んで突っ込みたいものか。可能な限り回避したいと思うのも至極当然の事だろう。いっそ大人しく向こうの方から出てきてくれないだろうか。

 

「安心してください。骨は拾いますから」

 

「死ぬ前提で話を進めないでくれます?」

 

「海に流すのと川に流すの、どちらが良いかは選んでおいてください」

 

「……土に埋める選択肢はないんですか?っていうかそれ、選べるように見せかけてますけど、結局両方海じゃないですか」

 

「西洋では、あらゆる生物は海から生まれたと言われているそうです。ならば終わりの時もまた、海に帰るというのが自然の摂理というものではないでしょうか?」

 

「うちの国の埋葬方式を全否定するのは辞めてもらえますか?」

 

「否定はしませんよ、ですが一つの選択肢としてはありなのではないかと思っているだけです」

 

 急に始まった訳の分からない論争に終止符をうったのは、この会話を唯一外野から見守っていた楓だった。

 

「あのお二方とも、そろそろ本題に……」

 

 下らない問いかけから、何故か論争に発展を遂げていく2人の会話の様子に、楓は若干引き気味になりながら2人にそう声を掛ける。

 

「ごめんなさいね、楓。雨笠君があまりにもしつこく食い下がってくるものですから、つい……」

 

「えぇ〜、俺が悪いんですかね」

 

 鬼の本拠地を前にしても全く、動じた様子のない2人に、(かえで)の無意識に強張った体が少しずつ解れていく。

 

 そう。2人の一見、全く意味のなさそうに見えたこのやり取りは、楓の緊張を解く為のもの。楓は鬼殺隊入隊後、僅か一年で乙の位まで昇り詰めた優秀な剣士ではあるが、それ故に経験値が圧倒的に足りていない。鬼の本拠地を前に、楓は無意識のうちに酷く緊張し体を強張らせていたのだ。まぁ、このような威圧的な雰囲気をした洞窟を前にしてしまえば、それも仕方のないことではある。

 

 だが、自分達が生きるこの場所は、僅かな動きの遅れが一瞬で死に繋がる世界。刹那の瞬間に判断し、行動しなければ、生き残ることさえできないのが鬼狩りという生き物だ。

 

 特に、今回のような多数を相手にする場合は、僅かにでも判断を誤ればその一つで命を落とす危険がある。

 

「楓、眼が慣れるまでは私か雨笠君の何方から、下手に離れないように注意してください」

 

「はい!必ずやしのぶ様のお役に立って見せます!」

 

 聞いているのか聞いていないのか、よく分からない返答だが、妙な硬さは取れたようだと、信乃逗は少しほっとして後輩である楓を見る。

 

 この洞窟の前に立ってから、妙に緊張した様子を見せていたので、信乃逗も心配していたのだ。普段やたらと口うるさい後輩ではあるが、それでも大事な仲間だ。こんなところで死んで欲しくはない。それに、もしもそうなれば、彼女の様子もまた心配だ。信乃逗は視界の端で自らの継ぐ子に優しく微笑み、注意点を教え続けるしのぶの姿をそっと捉える。

 

「それでは先頭は俺が担当で、中衛が高野、後衛がしのぶさんって感じでいいですかね?」

 

「そうですね、それで問題ないでしょう。楓、宜しく頼みますよ」

 

「はい!お任せ下さい、しのぶ様!」

 

「雨笠君も、洞窟内では恐らくかなりの数の土人形がいる筈です。十分に注意して進んでください」

 

「了解です。なんならしのぶさんの手を煩わせることはないかもしれませんけどね」

 

「雨笠さん!しのぶ様に対する口の聞き方がなっていないと何度言えばわかっていただけるんですかっ!」

 

 いつものように信乃逗へと声高々に突っかかっていく楓の様子を、しのぶは柔らかい微笑みを浮かべてみつめる。

 

 普段どれだけ実力のある者であっても、環境のまるで違う場所での戦闘となると、極端に実力が下がることがある。緊張が視野を狭くし、筋肉を硬直させるからだ。今回のような洞窟での戦闘はしのぶの知る限り、楓にとって初めての環境での戦いとなる筈。

 

 月夜とはまた違った暗闇での戦い。楓にとってこれは一つの試練ともなる。あるいは命を落としてしまうかもしれない自らの継ぐ子を、しのぶもまた心配しているのだ。柱である自分がついているからといって、楓を守り切れると言える程、しのぶは自分の力に酔ってはいない。しのぶは柱の誰よりも、自らの弱さを自覚している。

 

 自覚しているからこそ、信乃逗をこの場に呼んだ。

 

 しのぶは弱い。毒を使わねば雑魚鬼ですら狩れないほどに。才能がないと断言できる程、決定的なまでに筋力が足りない。だからこそしのぶは入念な準備によってその弱さを補う。2手3手先を常に読み、思考し、対応策を練ってことに当たる。常に最悪の状況を考えて動くその思考力こそがしのぶの強みであり、今、鬼殺隊最強の一角を担うに相応しい人物へと引き上げている。そんなしのぶが自信を持って選んだ増援が信乃逗だ。

 

 鬼殺隊の隊士の中で最も強い者というのであれば、しのぶは勿論他の柱の者達を思い浮かべる。彼らの強さは柱に到達した自分からしても異次元の強さだからだ。しかし、鬼殺隊の隊士の中で、最も信頼できる者と言われれば、目の前にいる、おちゃらけた少年、雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)を思い浮かべるだろう。彼の強さは確かに他の柱には一歩及ばないかもしれない。それでもその戦闘能力は、既に他の一般隊士の追随を許さないものとなっているし、稽古をつけたせいか、自らの動きに瞬時に合わせて、最適な行動をとってくれる。

 

 奥深い洞窟内で多数を相手にした戦闘という、不確定要素の多い状況ではこれがしのぶの持つ最適解だった。

 




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蠢く影

 

 

 洞窟、その言葉を聞いた時、人はどう思うだろうか。謎めいたその言葉に心躍らせ、冒険心に満ち溢れた表情でもって嬉々として向うのか、或いは陽の光の差し込まない、常世の闇の世界に恐怖し、背を向けて逃げ出すのか。その選択をできるのは洞窟の前に立った人だけだ。

 

「いやー、それにしても暗いですね、だから洞窟って嫌いなんですよねー」

 

 鬼という危険を知る信乃逗(しのず)は、できれば後者を選びたいところだ。しかし、鬼殺の剣士として、鬼狩りの指令を受けた以上、信乃逗に取れる選択肢は前者しかない。故に信乃逗は前へ前と足を進める。妨害とでも言うように正面を塞ぎにくる大きな何かを斬り崩しながら。

 

 陽の光の届かない、暗闇の洞窟内ではその正体をはっきりと見ることはできないが、鈍重な動きと、大男のような体躯から見て、事前に聞いていた土人形という奴だろう。洞窟に入ってから既に四半刻程、ここに至るまで、粉砕した土人形は両手足の指の数をとっくに超えている。際限なく現れる土人形の姿に信乃逗は早くもうんざりとしていた。幸い、連中は鈍く、単調な動きしかしてこないので相手をするのは楽だ。が、いくら対処が簡単でも、こうも懲りずに何度も突っ込んで来られると流石に面倒だ。

 

雨笠(あまがさ)君、無駄口はいいですから、足と腕を振るってくださいね」

 

 ゴツゴツとした岩肌に足を取られないように慎重に、しかし、常人の倍以上の速さで先へと進む信乃逗に、容赦なく振りそそぐしのぶの駄目だし。

 

「えぇぇ、俺、割と頑張って進んでるんですけどね」

 

 背後から飛んでくる言葉の刃にそういえばこれは試験だったと、信乃逗は街でのしのぶとの会話を思い出して、一層げんなりとする。

 そうやって戦闘とは別のことを考えながらも、信乃逗の身体は勝手に動く。左から風なりを伴って放たれた土人形の拳を僅かに首を傾けることで躱し、それと同時に右手に握った刀で土人形を袈裟斬りにする。ボロボロと崩れる土人形を尻目に信乃逗は何もなかったかのように足を前へと進める。

 

 そんな信乃逗(しのず)の姿を、すぐ後ろで見ている(かえで)は、その圧倒的とも言える立ち振る舞いに呆然としていた。こんな視界の悪さの中で、正確に敵の位置を捉える察知能力、一撃で土人形を屠ってしまう攻撃力、そして、その上でまるで無人の野を歩いているかのように、乱れることのない歩み。そのどれもが、信乃逗が自分よりも遥かに格上の剣士であることを物語っていた。これまで、楓は自分の強さを誇っていた。しのぶの継ぐ子になる以前から、数多くの鬼を狩ってきたし、しのぶの継ぐ子となってからは更に実力をつけていると確信している。このままいけばいずれは十二鬼月だって倒せる。楓はそう思っていた。だが今、柱でもない階級が一つ上なだけの先輩を前にして、如何に自分が弱いのかを教え込まれている。楓は信乃逗が戦うところを見るのはこれが初めて。勿論、話では信乃逗が強いということは知っていた。十二鬼月を倒し、今最も柱に近い男として、隊内では有名な話だったから。しかし、楓はその話に半身半疑だった。人の噂というのは尾鰭がつきやすいもの、会話をしても強者独特の風格を感じない彼をそこまで強い人だと思うことはできなかった。だが、実際に今目の当たりにしている現実は信乃逗が強いと、そうはっきり自分に認識させるにふさわしいものだった。

 

 目の前にいる彼と同じことが自分にできるだろうか?できるようになるのだろうか?そんな疑問が楓の頭の中を埋め尽くし、歩みを遅らせる。

 

「楓、雨笠君と距離が少し離れてきています。もう少し歩みを速くしてください」

 

 徐々に開いていく信乃逗との距離に背後にいるしのぶから急ぐように指示される。

 

「も、申し訳ありません!」

 

「……楓、焦りすぎてはいけませんよ。貴方の考えはわからなくもありませんが、それ以上はここを出てからにしなさい」

 

 考えに溺れていた楓は、しのぶの声にハッとして、意識を瞬時に切り替える。いくら襲撃者が案山子同然の戦闘力しかもっていないとはいえ、今楓がいる場所は間違いなく鬼の拠点の中。意識を逸らしていい理由などどこにもない。確かにしのぶのいう通り、今の自分は焦っていた。今この時、確かに自分の力は目の前を歩く男には及ばないかもしれない。しかし、未来永劫にそうであるとは限らない。いつか、目の前にいる男に自分を強いと言わせる。その為に、今はこの場を生き残らなければ。

 

「はい、申し訳ありませんでした」

 

「分かれば問題ありません。さぁ、雨笠君に追いつきましょう」

 

 背中を押すようなしのぶの声に、楓の歩みは先程よりも随分と速くなる。「前に進むのはいいのですが、後ろのことが疎かになりすぎですね。これは減点ですね」と、いう言葉がボソッと後ろから聴こえて楓は頬を痙攣らせる。どうやら厳しい師の前では、あれだけの強さを持つ彼もまた、未熟者でしかないようだ。

 

 減点を喰らっているとは知りもしない信乃逗だが、2人と少し距離が離れていることには気づいていた。だが2人が戦っている様子もないし、楓だけならともかく、最後尾にはしのぶもいる。特に心配はいらないだろうと、歩みを止めることなく正面から向かってくる土人形の相手に勤めていたのだ。しのぶへの信頼感が減点の理由だとしれば、信乃逗としてはさぞかし納得がいかないだろうがなんと言おうと彼女の採点が覆ることはない。

 

 徐々に追いついてくる2人の気配に、信乃逗はほっと安堵の息を吐く。歩みを止める必要はないと思ってはいたが、心配していなかった訳ではない。何か問題でもあったのかと、背後から近づいてくる気配にそう問いかけようとしたところで、信乃逗は妙な違和感を感じる。

 

 背後にいる筈の2人のその更に後ろから同じく2人の人間の気配がする。そう気づいた瞬間、信乃逗は正面へと大きく跳躍する。信乃逗がその場を飛び去った瞬間、信乃逗が先ほどまで立っていた場所に巨大な何かが直撃する。歩きにくかったゴテゴテとした岩肌を綺麗に更地にしてくれるその威力に信乃逗は舌を巻く。直撃していれば命はなかった。飛んできた音の方向からして今のは背後の2人、いや、2人に見える何かと言ったほうがいいだろうか。とにかく攻撃をしてきたのはその何かで間違いないだろう。信乃逗ですら気付かない間に背後へと周りこまれていたのだ。

 

(一体いつの間に……それに、この気配は……)

 

 妙なのはいつ回り込まれたのかというだけではない。その何かから感じる気配、それは今までの土人形とは全く違うもの。まるで生きた人間のような気配を漂わせるその何かを、信乃逗(しのず)は視界に収める。

 

(土人形、なのか?)

 

 暗闇に包まれた洞窟の中ではその全貌をはっきりと確認し切ることはできないが、薄らと確認できるゴテゴテとした容姿から先程まで襲撃してきていた土人形の一種ではないかと信乃逗は推察した。一種という表現をしたのは、その大きさが今までの大男のような物とは違い、信乃逗と対して変わらない背丈をしているからだ。人間のような気配を纏った小柄な二体の土人形。姿形からして明らかにこれまでとは違う。

 

 信乃逗が警戒して刀を構えると、それまで何故か止まっていた二体の人形が信乃逗へと勢いよく飛びかかっていく。

 

(速いっ!)

 

 その動きにこれまでの土人形のような鈍重さはまるで見られない。無駄のない動きは鋭く、今までの土人形の動きに慣れた信乃逗の目には随分と速く見える。が、単調であるが故に動きを予測しやすい。急接近する土人形の一体を半身を引くことで躱し、その反動を利用してくるりとその場で回転、飛びかかってきた二体目の土人形の胴体に勢いよく回し蹴りを叩き込む。

 

(っ!?なんだ?)

 

 回し蹴りが直撃した土人形が勢いよく洞窟の壁へと吹き飛んでいくのを尻目に、信乃逗は今の土人形に触れた足の感触に驚愕する。今までの土人形はその見た目通り、ゴテゴテとした感触の地面のような手応えだった。しかし、今の人形はそうではない。土や岩のような硬い感触ではなく、柔らかい、そう、まるで————人間の腹のような柔らかい感触。

 

 一瞬の思考の合間にも、もう一体の土人形を背後から襲いかかってくる。信乃逗は振り向きざまに自らへと伸ばされた土人形の腕を片腕で掴むと背負い投げの要領で地面へと叩きつける。地面へと打ち付けた土人形のその感触に信乃逗は再びその正体に疑念を抱く。

 

「まさかっ!?」

 

 思い当たった最悪の予想。怖気が走るようなその予感に、信乃逗は抑えつけた土の塊に手刀の要領で土人形の表面を削ぎ落とす。

 

(くそったれがっ!)

 

 土を削ぎ落とした先にあった感触に信乃逗は自らの予想が当たってしまったことを理解し、思わず地面を殴りたい衝動に駆られる。

 が、そんなことをしている余裕もない。信乃逗がこの土人形の正体に気付いたとほぼ同時に、先ほど蹴り飛ばしたもう一体の土人形が再び飛びかかってくる。咄嗟に抑えつけた土人形を壁際に投げつけて、その場から後ろに大きく跳躍して飛びかかってくる土人形を回避する。ドゴォン!と地面が砕ける轟音が洞窟内に響き渡る。その光景を信乃逗は冷や汗を流して見る。今の一瞬、もしもあの土人形を壁際に投げ飛ばしていなければ、今砕かれたのは地面などではなく、あの土人形だった。

 

 背後に着地すると同時に離れていた2人が信乃逗との合流に成功する。

 

雨笠(あまがさ)さん、無事ですか!?」

 

 これまで洞窟内に響いていた破砕音とは違った音の響きにしのぶと(かえで)も早足で信乃逗との合流を目指したのだ。

 

「あぁ、俺は無事なんだけど……厄介なことになった」

 

 心配そうに声を響かせる楓を視界の端で収めながら、信乃逗は苦虫を噛み潰したかのような表情でそう呟く。

 

「何か問題ですか?見たところ今までの土人形とは姿形が違うようですが?」

 

 信乃逗の声色の様子から、しのぶも厄介事と判断し、即座に状況を把握しようと努める。

 

「あれはこれまでの土人形とは全くの別物ですね。速さも、力も今までより数段上です」

 

 戦闘音からして、これまでの土人形ではないということにはしのぶも気付いていた。実際に見てみれば姿形も随分と人間らしいものに変わっており、纏う気配もこれまでの無機質な人形のものではなく、まるで生きた人間がそこにいると錯覚してしまいそうになるほど人に酷似したものになっている。或いは鬼の本体が出てきたかとも思ったがどうやら違うようだ。しかし、いくらこれまでの土人形より強力だと言ってもそれはあくまでこれまでと比較しての話。信乃逗とあの土人形でまともな戦闘にはなるとも思えないので、厄介という表現は当て嵌まらないはず。ならば、彼が厄介と評する何かが別にあるはずと、しのぶは信乃逗の次の言葉を待つ。

 

「それだけならたいした問題じゃないんですが、……どうもあの人形の中、人がいるみたいなんですよね」

 

 続いた信乃逗の言葉に、楓もそしてしのぶも背筋に戦慄が走る。今回、鬼の異能の力は単純に土で出来た人形を作成し、自在に操作することにあるという認識がこの3人の中にはあった。土人形をつくり出すことが能力だというのなら、複数の種類の人形を作成出来ることは容易に想像がつく。当然その中には戦闘力に特化した種類のものがいることも予想はできていた。故に種類の違う土人形が出てきたところでそれ自体は大した問題ではない。だが、それは単純に土人形を破壊することが出来ることを前提としての話。中に人がいるというのであればこの想定は大きく変わる。

 

「あれは土で表面を覆っただけで、中身は完全に人間です。おそらく鬼に攫われた人だと思うんですが、こんな使い方をしてくるとは思いませんでしたよ」

 

「……生死は?」

 

 想定外の自体にもしのぶは冷静に分析を始める。この質問の回答次第で相手の脅威度が大きく変わってくる。単に死体を土で覆っているだけなら最悪ではあるが破壊できなくもない。すでに死んでしまっている以上、救出云々の話の段階ではない。此方に犠牲が出る前に活動を停止させる必要がある。

 

「分かりません。でも、一瞬触った感じではまだ暖かかった」

 

 なるほど、厄介な上にこの鬼の性格は最悪だ。としのぶは今回の鬼に対しての怒りを静かに募らせいく。

 

「あの状態でまだ息があるんですかっ!?」

 

 信乃逗(しのず)の言葉に(かえで)も驚きの声を響かせる。一見すればあれは人の身体を土で覆い隠しているだけのものだ。普通に考えれば呼吸出来ずに死んでいるのではないかと思うのも無理のないこと。それでも生存の可能性があるのであれば、簡単には破壊出来ない。人間の心理をついたなんとも嫌らしい手法。謂わばあれは攻撃の為の剣であると同時に肉の盾でもあるわけだ。

 

「生きている可能性があるのなら、破壊する訳にもいきませんね」

 

 問答無用で破壊する手もなくはないのだが、それは人として取ってはならない最悪の一手。無論、今回の鬼の狙いはそこにこそあるのだろうが、狙いが分かっていようともこの状況でそれを回避することは極めて困難だ。最良の一手は破壊することなく無力化してしまうことだが、それも難しい。そうこう考えている間にも状況はますます悪くなっていく。

 

「しのぶ様!囲まれていますっ!」

 

 先ほどまで全く気配を感じなかった暗闇の空間に次々と気配が満ちていく。土人形でも鬼の気配でもない、生きた人間のような気配。間違いなく、人を元にした土人形だろうという想像は容易につく。攫われた人間全てが土人形にされているのだろうかと錯覚してしまうほどの数の気配。それが今まで歩いてきた洞窟の出入り口を塞ぐように唐突に姿を現したのだ。戦闘において数とは実に単純な暴力。数が多いというのはそれだけで面倒だが、それが破壊できない相手ともなれば尚更に厄介。

 

「4、50体程といったところでしょうか。雨笠君、作戦変更です。この土人形の相手は私がしますので鬼は貴方と楓に任せます」

 

「そんな!?しのぶ様1人を残していくなんて!」

 

 1人でこの数の土人形を相手取るというしのぶに楓は無茶だと言わんばかりに叫び声をあげるが、一方の信乃逗はしのぶの意見には肯定的だった。

 

「それがいいでしょうね。正直、この手の相手は俺よりもしのぶさんの方がいい」

 

「雨笠さんまで!」

 

「楓、落ち着きなさい。私はこの程度の相手におくれをとるつもりはありません」

 

「ですがっ、あまりにも数が……」

 

 いくら柱の一画を担うしのぶであってもこれほどの数を相手に手加減して戦うなど、あまりにも条件が不利だ。楓はなんとかしのぶを説得しようと試みるが、当の本人であるしのぶはもちろん、信乃逗までもが一見無謀ともいえる作戦に賛成している状況に唖然としてしまう。

 

 

「俺達がいてもしのぶさんの足を引っ張るだけだ。逆に俺達がとっとと鬼を狩ってしまえば、しのぶさんを助けることにもなる。退路を塞がれている以上、鬼の首をはねるのが一番手っ取り早い。ほら、いくぞ」

 

 一切迷いを見せることなく信乃逗は洞窟の奥へと足を進めていく。その信乃逗に引っ張られるように楓も歩みを進めるが、背後に悠然と佇むしのぶの姿に楓はキョロキョロと視線を向けてしまう。

 

「楓、私は大丈夫ですから。鬼は任せますよ」

 

 後ろ手を引かれるように自らに視線を向けてくる楓にしのぶは安心させるような声色でそっと呟く。

 

「っ、はい!!」

 

 多数を相手にしても一歩も引くことなく、堂々と立つ師の姿はあまりにも大きく、眩しくて、楓は思わず憧憬の眼差しを向けてしまう。同時に彼女にかけられた期待の言葉に応えるべく楓は、高揚とした気分で信乃逗の後を早足で追いかけていく。

 

 

 




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岩の鬼

 

 

 洞窟内は酷く暗い。日の光の差し込むことのない常しえの暗闇は人の存在を許さない、まさしく鬼の世界。奥に進めば進むほど洞窟は光の届かない深海のような暗闇を作り上げる。そんな深い闇の中を、足早に進む影が二つ。

 

 この暗闇であってもまるで視界を確保できているかのように、飛び出る岩や落とし穴のようになった起伏に富んだ道を回避し、進んでいく。

 

雨笠(あまがさ)さん!随分迷いなく進んでいますが、鬼は本当にこっちにいるんですかっ!?」

 

 二つの影の片割れである高野(たかの)(かえで)はそう声高々に前を突き進むもう一つの影へと問い掛ける。

 

「あぁ!こっちで間違いないよ!」

 

 間を開けることなく、瞬時に返答を返したもう一つの影の持ち主、雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)も声を張ってそう答える。

 

 あまりに自信たっぷりな様子に楓は思わず信乃逗に追従しているが、内心は疑問に溢れている。洞窟の中は複雑な構造をしており、しのぶと別れてからここまでいくつもの別れ道があった。にも関わらず信乃逗はそのどれもを迷うことなく選択し、止まることなく進み続けている。楓も通常なら鬼の気配を辿っていくことで同じような動作をすることもできる。だが、この洞窟内はあちこちに配置された土人形のせいか鬼の気配が非常に分かりづらい。この洞窟内に入ってからというもの、どこを見渡しても鬼の気配がするのだ。そんな中でどうして信乃逗は鬼の居場所が分かるのか。楓はそれが疑問で仕方なかった。

 

(雨笠さんは気配じゃない別の何かで、鬼の居場所が特定出来るってこと?)

 

 実のところ楓のこの推測は半分不正解だ。信乃逗は普段気配以外で鬼の居場所を特定出来るような特殊な技能は持ち合わせていない。元水柱の鱗滝(うろこだき)は匂いで鬼の居場所を特定することができたというが、信乃逗にはそこまで優れた嗅覚はない。なら、何故今、信乃逗は楓には分からない鬼の位置を正確に把握することができるのか。それはここまでに配置された土人形の位置にある。信乃逗達が洞窟に入ってすぐ、小出しにするかのように点々と現れた土人形達。信乃逗は当初、波状攻撃による此方の疲労による撤退を狙ったものと思った。洞窟に隠れて人を攫うやり方といい、この鬼は直接戦闘を避けているとそう捉えたのだ。しかし、しのぶを残してきたあの人を元にした土人形の配置の仕方でその見方を大きく変えた。もしも撤退を目論むのであれば入り口を塞ぐようにして強力な土人形を配置する理由がない。あれは完全に此方を逃す気がない駒の置き方。明らかにこの鬼は此方を封殺しにきている。それを念頭に考えなおせば、そもそも最初の土人形の小出しの仕方は洞窟内部へと自分達をおびき寄せる為の罠で、ある程度奥に入ってきたところで入り口を封鎖、奥に進むしかない状況を鬼自らが狙って作り出しているということになる。鬼の狙いは此方の自滅。暗く入り組んだ洞窟の中では並の人間なら、すぐに正常な精神状態を保てなくなる。どんな強者であっても精神状態を保てなくては実力を発揮することはできない。増してこの暗闇では、まともに刀を振るうこともできないだろう。

 

 一見、臆病にも感じるこの鬼の戦い方は実に狡猾で、何よりも好戦的だ。だが、それ故に分かりやすくもある。暗闇の中で自滅を狙うにはある程度時間をかける必要がある。よって自分の居場所をすぐに見つけられるわけには当然いかない。だからこそ、自分の気配を散りばめるように土人形を配置しているのだろうが、今回はそれが仇になった。気配の分散のさせ方に偏りがあるのだ。

 

 嘘をつく時、生き物は得てして他の場所に真を作ろうと、嘘をその場所に集中さえやすい。本当の気配に気づかれないようにそれよりも強い気配を他の場所に作る、それがこの鬼のやり方だと信乃逗は早々に勘付いた。故に信乃逗は気配が他の箇所に比べて薄い道を辿っているだけ。鬼の居場所を正確に特定しているわけではなく、逆算して導き出しただけのただの推理だ。

 

 ドゴォォン!と時折、洞窟の中に響いてくる戦闘音に、楓は心配になって背後を見返す。

 

「高野。今は自分のことに集中しろよ」

 

 そんな楓に信乃逗は振り返ることなく忠告してくる。

 

「分かっていますけど、……でも心配じゃないですか。雨笠さんはしのぶ様が心配ではないんですか?」

 

「心配ねぇ?柱でもあるしのぶさんが心配とは、中々余裕だな高野も」

 

「うっ、確かには私如きが柱の一画を担うしのぶ様の心配なんておこがましいかもしれませんけど……」

 

 しのぶの実力には遠く及ばない楓が、そのしのぶの心配というのは、聞くものが聞けば傲と捉えられてもおかしくないものだ。それを信乃逗に指摘され、楓も思わず俯いてしまう。

 

 そんな楓を尻目に言い過ぎたかと、信乃逗は反省気味に楓に声をかける。

 

「まぁ、高野の感覚も間違いじゃないけどな」

 

「へ?」

 

 先ほどまで自分の間違いを指摘していた人物からとは思えない言葉に、楓は思わず間の抜けた声を出してしまう。

 

「鬼だろうが人だろうが、それが命のやり取りである以上、絶対なんてもんはない。どんな実力者も死ぬ時は呆気なく死ぬ。柱だから大丈夫なんてそんな道理は当然ない」

 

 信乃逗の脳裏に嘗て花柱と言われた1人の女性の姿が一瞬過ぎる。柱であろうとも戦えば死ぬことだってもちろんある。命のやり取りをしているのだ、それはある意味当然の事。どんな実力者でも死は必ず隣にいるのだと、彼女はそう教えてくれる。強かろうが弱かろうが死ぬことを遮る理由にはなり得ない。どんな大切なものでも終わりはあまりに簡単で呆気なく、それまでの日常という時間を嘲笑うかのように一瞬で訪れる。腕の中で失われていく温もりを思い出して信乃逗の身体に知らず知らずのうちに力がはいる。

 

「雨笠さん?」

 

 急に雰囲気の変わった信乃逗に楓はそう戸惑いがちに声をかける。

 

「そろそろ鬼がいる場所だ、死ぬなよ高野」

 

「誰に言ってるんですかっ!私は蟲柱、胡蝶しのぶ様の継ぐ子ですよ!こんなところでは絶対に死にません!」

 

「……お前、俺の話聞いてた?」

 

 先ほど戦いには絶対なんてないと言ったばかりにも関わらず返された言葉に信乃逗は呆れたようにそう呟く。

 

「意気込みの問題です。雨笠さんこそヘマしない様に気をつけてくださいね」

 

「……一応言っとくけど俺お前より先輩だからな?階級上だからな?」

 

 普段散々目上に対する態度がなってないと自らにいってくる人物と同一人物とは思えない言葉遣いに信乃逗は頬を引きつらせて、そういうが楓はまるで聴こえていませんとでも言うようにけろっとしている。

 

「年は一緒じゃないですか?ちょっと鬼狩りになる時期が違っただけですよ」

 

「人はそれを経験の差というんだけど……っと、おいでなすったな」

 

 暗闇の奥、明らかにそれまでの気配とは違った、はっきりとした鬼の気配を感じて信乃逗は静かに意識を切り替える。僅かに遅れて楓も鬼の気配に感づく。

 

「合わせろ」

 

 信乃逗は一言、そう呟くと、次の瞬間には岩に覆われた地面を踏み砕くほどの勢いで踏み込んで一気に鬼に向かって加速する。

 

— 空の呼吸 弐ノ型 一迅千葬 —

 

 鬼まで目算で20mほど、その距離を瞬きの間で詰め、その勢いを一切殺すことなく、抜刀。鬼の首目掛けて、居合い切りの様に横薙ぎに一閃する。キィンッ!と鋭い音が洞窟内に響き渡り、その音と手に伝わる感触から奇襲による首の切断が失敗したことを悟った信乃逗は瞬時にその場から飛び跳ねるようにして後方へと下がる。

 

「あーあ、見つかっちゃったなぁ〜」

 

 ボソリと暗闇で佇む黒い影はそう呟く。

 

(失敗か、随分と硬いなぁ)

 

 首筋目掛けた一閃は間違いなく鬼の首を捉えていた。にも関わらず鬼の首を斬り落とすことは叶わなかった。その事実に信乃逗は舌を巻く。今のを防ぐというのは中々に厄介だと信乃逗は鬼に対する警戒度を一段引き上げて、背後から駆け寄ってくる後輩に文句を付ける。

 

「おーい、合わせろって言ったのになんで来ないの?」

 

「無茶言わないでください!あんないきなり、あんな速度で突っ込まれて合わせられるわけないじゃないですか!」

 

 さも、当たり前のように信乃逗は楓を非難する声を上げるが楓としては堪ったものではない。たいしてろくに一緒に鍛錬もしたことがない相手とあんな一瞬で合わせられるなら、そもそも連携の鍛錬なんて必要ない。

 

「え?出来ないの?それはそれは高野さん、ちょっと鍛錬が足りてませんなぁ〜」

 

「はぁ!?出来ますし!余裕ですし!さっきのはたまたまいきなりだったからできなかっただけですから!」

 

「ほぉ〜〜。じゃぁ次からは余裕だな?」

 

「当たり前じゃないですかっ!!いつでもかかってこいって感じですけどっ!」

 

 ちょろい、と信乃逗は内心でほくそ笑む。今までの会話から楓が割と負けず嫌いであることはわかっていたので、こう言う言い方をすればのってくるであろうことは予想の範囲内だ。まぁ、それにしてもあまりにも簡単に挑発に乗りすぎではあるが……

 

「おいおい、僕を前にして随分と余裕ぶってくれるじゃないか」

 

 一撃を防がれたはずなのにまるで動揺することなく、眼中にないとでも言う様に振る舞う信乃逗と楓の態度に鬼は若干の苛立ちを込めてそういう。

 

「あぁ、悪いな。また木偶の坊が出たかと思ったんだけど。なんだ、喋れるんだ?」

 

 鬼の口調からそのことを察した信乃逗は好機とばかりに挑発の色をのせて嘲笑うかのように言葉を重ねる。

 

「……この僕を木偶の坊呼ばわりか〜。お前、よっぽど死にたいらしいね」

 

 瞬間、信乃逗は半歩後ろにいる楓の襟元を掴んで大きく後ろに跳躍する。次の瞬間にはゴォォーン!!という大きな地鳴りが入り組んだ洞窟内に響き渡る。

 

「なぁっ!?」

 

 唐突に信乃逗に首元を掴まれて勢いよく引っ張りまわされた楓はその光景に思わず目を疑った。先ほどまで自分達が立っていた地面から先の尖った岩が乱立しており、それはさながら幾本もの槍が地面から生えた様相を程していたからだ。もしも、あそこに自分が立っていたら、そう想像して楓は思わず身震いする。一瞬の油断が命取りの世界だと楓もそのことはよく知っている。今の自分は油断しているつもりはなかった。意識を張り巡らせいつ飛びかかられても対処できる様に構えていたつもりだった。にも関わらず、自分はこの攻撃の予兆を感知出来なかった。信乃逗に引っ張られていなければ確実に今自分は死んでいたのだとそう突きつけられて楓は血の気が引いたように顔を青く染める。

 

 鬼と距離をとって着地した信乃逗は「悪い」と言って楓の襟元から手を離す。

 

「いえ、その、助かりました。今の、よく気づけましたね」

 

「あぁ。あの攻撃の直前に足元からかすかに振動を感じたからな。ヤバイ気がして跳んだ」

 

 鬼から目を逸らすことなく、信乃逗は自らが気づいた鬼の攻撃の予兆を伝える。

 足元の振動と聞いて楓も先ほどの一瞬、妙な振動を感じたことを思い出した。あれがそうかと、楓は得心しながらもあの一瞬で、背後に跳躍する判断をした信乃逗を素直に尊敬した。自分ではあぁも素早く危険を察知することはできなかった。これが経験の差なのか、あるいは才能なのかと、楓は内心で自身の至らなさに歯噛みをする。

 

「それより、あの鬼の首を刎ねるのは結構面倒だぞ」

 

 信乃逗の心底面倒臭いと言わんばかりの声色に楓は先ほどの信乃逗が鬼首を斬りそこねた時の光景を思い出す。

 

「あの鬼の首、雨笠さんでも斬れないなんて、相当強力な鬼ですね」

 

 見た目は子供のような身長の鬼だが、随分と肥えて太っているし、長い年月を生きているのだろう。先ほどの攻撃から考えても非常に戦闘力の高い使い勝手の言い血鬼術を持っているようだし、自分よりも遥かに力のある信乃逗ですら首を斬れないともなるともしかすると相手は十二鬼月なのやもしれない。

 

「いや、別に首が硬い訳じゃないぞ、あいつ」

 

「え?でもさっき雨笠さんの刀で……」

 

「俺が刀を弾かれたのはあいつの首じゃない。岩だ」

 

「い、岩?」

 

「そう。よく見てみろよ。あいつの体、おかしいだろう」

 

 信乃逗に促されて、視線を鬼の方へと向けその姿形をもう一度よく見てみる。洞窟の暗闇ではっきりとその相貌を拝むことは出来ないが、暗闇に浮かびあがっている影で鬼の姿形はよくわかる。身長は幼少期の子供のように低いが体はブクブクと横に肥えて太っているように見える。特に首周りなどははっきり言って胴体と区別がつかない程太くゴテゴテしているように見える。

 

(あれ?ゴテゴテ?)

 

 自分でそう思って楓はようやくその異変に気付いた。この鬼の姿形は全体的に肥えて太っているように見えるが、ブクブクとしているのは胴回りだけで、首元だけがなんだか所々微妙に尖っているような硬い印象を受ける。あれではまるで……

 

「石みたい?」

 

「そういうこと」

 

 楓の口から思わず溢れでたその言葉に信乃逗はやっと分かったかと、うんうんと首を大きく縦に振って答える。

 

「正確には石じゃなくて岩石なんだろうけど。あいつは首元を硬度の高い岩石で覆って防御しているだけ。言ってしまえば人間が鎧をきているようなもんだな」

 

「なぁっ!?そんな姑息な……」

 

「まぁ、首元はあいつらの唯一の急所だからな。そこを守る為に策を講じるってのはある意味じゃ当たり前だけど、あんな守り方するやつはなかなか見ないな。多分あれもあいつの血鬼術なんだろうけどさ」

 

 やっていること自体は実に単純だが、それ故に効果は高い。あの見た目でこの暗さ、普通であれば、首元を岩石で覆っているなどと検討もつかないだろう。単純に首が硬くて斬れないというのは鬼狩りにとって致命的な敗北要因だ。鬼を狩るには首を刈りとる以外には太陽にあてるしかない。しかし、こんな洞窟内で太陽の光に鬼をあてるというのはほぼ間違いなく不可能だ。首も刈れず太陽の光にも当てられないとなれば、並の隊士であればすぐに撤退を考える。そうやって弱腰になったところをこの鬼は土人形や先程の岩の槍のような攻撃で仕留めてきたのだろう。実に厄介。が、それは岩を斬れなければの話だ。単純に膂力があれば正直あの鬼の首はその岩ごと綺麗に刈れる。柱であれば問答無用で防御など無いも同然に切り裂くだろうし、信乃逗でも力を込めた連撃を与えれば首を刎ね飛ばす自信はある。

 

(まぁ、それよりも単純に方をつけることもできるんだけどな)

 

 あの鬼は、首を斬られることを恐れて、ああいう対策をしているのだろう。自分達に見つかっても逃げることなく堂々と佇むその姿から自分の防御に絶対の自信を持っていることは明白だ。首さえ斬られなければ大丈夫、鬼狩りは自分には勝てない。そう思っているからこそあれほどまでに鈍重な身体で堂々と立っているのだろう。そしてその自信を裏付けるだけの経験もあの鬼は持っている。何度となく首を斬れずに絶望した隊士達の顔を愉悦に染まった顔で見ていたことは信乃逗が首を斬り損ねた時の声色から分かる。腹立たしいと、信乃逗は内心に怒りの感情を溜め続ける。この鬼の性格の悪さがこの短いやり取りの中でもよくわかるからだ。人間を盾にするような土人形の使い方、戦いに選んでいるこの場所、そして鬼本体の戦い方、全てが人を絶望させ、戸惑わせ、苦しめるやり方だ。この鬼は人を苦しめ、絶望に満ちる姿をさながら玩具を扱う子供のように楽しんでいる。

 

「高野、お前の出番だ。俺があいつの攻撃を引きつけるからお前が止めをさせ」

 

 あの鬼は思ってもみないだろう。鬼を殺す方法はなにも首を斬り落とすことだけでは無いのだということを。

 なら、その身をもって教えてあげるべきだ。これまで自らの悦楽の為に人を苦しみ続けたその罪と共に。

 

「分かりました。私がしのぶ様の継ぐ子である所以をしっかりとお見せいたしましょう」

 

 信乃逗からの言葉で、自らの役割を理解した楓は了承の為に大きく首を縦に振って、暗闇の奥にいる影に鋭い視線を向けた。

 




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鬼殺の方法

 

 ドゴォォーン!!

 

 暗く閉ざされたその空間に激しい戦闘を思わせる強烈な破砕音が響き渡り、ボロボロと天井から脆くなった石くずが重力に従っておちていく。

 

「ちっ!」

 

 そんな時折落ちてくる小石を煩わしそうに舌打ちをしながら信乃逗(しのず)は眼前に迫る巨大な何かを身を捩って回避する。

 

 暗闇に薄らと見えるその何かは人の手だった。血鬼術だ。地面から生えるように現れたいくつもの巨大な人の手の形をした岩。その岩を飛び跳ねて回避し、時に破壊しながら信乃逗と楓は洞窟の奥に悠然と佇む鬼へと接近を試みるが、幾度となく現れる岩の手と地面から生えてくる岩槍によってそれを阻まれる。

 

「ほら、逃げろ!逃げろ!逃げ惑って虫のように潰されてしまえ!」

 

 洞窟の奥で一歩たりとも動くことなくその鬼は、愉悦に染まりきった表情で信乃逗達に向けて自らの誇る血鬼術を行使し続ける。

 

 今回自らの首を刈りにわざわざ拠点に乗り込んできた鬼狩りは3人。ろくな時間稼ぎも出来ずに破壊されていく土人形達に、最初こそ焦りを感じたが、それも奥の手である人を元につくった土人形を出すことで思惑通り人数を分散させることが出来た。今回きた鬼狩りは以前殺した鬼狩りよりも随分としぶといが、それでもやはり所詮は人間。これまできた鬼狩りと同じように生きた人間を媒介にした土人形を出せば、面白いように動きが鈍る。躊躇せずに破壊すればいいものを、時間をかけてなるべく傷付けないように相手をしてくれる。なんとも良心的でお優しい、愚かな連中だ。

 

「どうした鬼狩りぃ!そんな様では僕の首を刈れないぞ!!」

 

 鬼狩りというのは決まって自らの首を狙ってくる。非力で脆弱な人間が鬼を殺すにはそれしか方法がないからだ。故に対処は実に単純だ。確かに鬼にとって奴等の振るう刀は脅威だが、それは刃がとおればの話。自らの血を大量に含ませた最硬度を誇るこの首輪に刃を通せたものは今までただの1人も存在しない。土人形を突破し、意気揚々と首に刀を振るってくる鬼狩りの表情が無様に青く染まり、絶望を体現したかのように震える姿を見る瞬間が鬼はなによりも好きだった。それこそ人を喰らうことと同じくらいに。

 

 

 今回も同じ。凄まじい速度で斬りかかってこられたが、それでもあの鬼狩りの男も自らの首を刎ね飛ばすことはできなかった。いつものように絶望に染まりきった表情を見てやろうと、愉悦に満ちた表情で向かってきた鬼狩りの顔に目を向けるが、そこには鬼が期待していたものは何一つとして存在していなかった。首が斬れなかった、それどころか刃先すら通せなかった癖にその鬼狩りの顔色には恐怖も絶望も一切ない。ただただ冷静に分析でもしているかのように逸らすことなく此方に視線を向けてくる。そしてその上で後ろからやってきた女の鬼狩りと悠長に会話をし始める。

 

(気に食わないなっ!)

 

 高々、人間風情が不遜にも鬼を殺そうなどと甚だしい思い上がりをして自らに向かってくる。それだけでも腹立たしいというのにあの人間はよりにもよって鬼である自らを木偶の坊呼ばわりした。脆弱で突いただけで潰れてしまうような虫けら風情があのお方に頂いたこの体を土で出来た玩具と同じだと言った。

 

「死ねよ、虫けらがァッ!あのお方に選ばれもしなかった屑が調子にのるなぁ!!」

 

 地面や壁、天井から次々と岩手を放ち、槍を作り出し、2人の鬼狩りを追い詰めていく。地面を砕き粉塵を舞い上がらせ、絶え間なく攻撃を続けている。だが、当たらない。この暗闇で息をする間すらないほどの連続攻撃をあの2人はまるで全て見えているかのように捌ききる。

 

(クソがッ!何故あたらない!)

 

 取るに足らない脆弱な虫けらを相手に一向に決着がつかない。そんな状況に焦った鬼は攻撃の手数を更に増やす。

 

— 血鬼術 絡繰(からくり)演舞 (えんぶ)

 

 鬼の周りの地面に埋まっていた土人形が一斉に起動し、まるで地面に埋まる死者が目覚めたかのように這い出てくる。事前に自らの血を込めた土を周囲に配置して埋めておいたのだ。そう、ここは鬼自身が用意した鬼の拠点の中。鬼狩りを殺すための準備は入念にしてある。

 

(焦る必要なんてない、僕の首はあいつらには斬れない。僕が負ける要素なんて何一つないんだっ)

 

「お前達に勝ち目はないんだよ!諦めて死ねぇッ!!」

 

 その鬼の言葉を合図としたかのように信乃逗(しのず)(かえで)の周囲を取り囲むように配置された土人形が一斉に襲いかかり、同時に2人の頭上から隙間なく襲いかかる岩手。鬼が勝利を確信し、この後に訪れるであろう甘美なる一時を思って愉悦に口元を歪める。

 

(仕留めた!これでもう逃げ場は……)

 

— 空の呼吸 ()ノ型 燕戒(えんかい)円陣(えんじん) —

 

 瞬間、全てが砕けた。鬼狩りへと囲むように向かっていた土人形も、頭上から押し寄せる無数の岩手も全てが木っ端微塵に砕け散った。

 

「は?」

 

 間の抜けたような声を出して鬼は呆然と固まる。理解できない。目の前で今起きた現象は一体なんだ?今、一体何をした?間違いなく自らの攻撃は2人の鬼狩りを仕留めた筈だ。なのに何故、奴は無傷で平然とそこに立っているのだ?

 

「どうやら、お前の攻撃のねたも尽きたようだな、木偶の坊君?」

 

 その声に、鬼は理解した。あの男だ。あの鬼狩りの片割れ、あの男が何かをしたのだ。

 

「お前ぇッ!なんだッ!?一体何をしたぁッ!?」

 

「あれれ?分かんなかった?そっかぁ〜、では問題です、俺は一体何をしたんでしょうか?」

 

 目の前に悠然と佇む鬼狩りの男の顔に浮かぶのは明確な嘲笑。小馬鹿にしたようにほくそ笑み、嘲るように声を出す。

 

「なぁっ!お前ぇッ!この僕をこけにしてるのかぁッ!?」

 

「いや、まぁ馬鹿にはしてるかもだけど、別にこけにはしてないぞ?」

 

 返ってきた言葉は否定を装った肯定。耳に入るその言葉に今、鬼は嘗て感じたことがないほどの憤怒の激情に晒されていた。

 

「……赦さん、赦さんぞォォォ!!!」

 

 ビリビリと空気が震えるかのような咆哮。我を忘れてしまうような激情に突き動かされて鬼は憤怒の怒号をあげる。

 

「吹けば飛ぶような塵にも等しい芥がァァッ!あのお方に選ばれたこの僕を虚仮にし、あまつさえ馬鹿にしているだとォォォッ!お前達人間は僕たちのただの食料だろうがァッ!家畜のように黙って飼われていればいいものォォ!!調子に乗り上がってェェッ!!」

 

 未知を恐れる幼子のように喚きたてる鬼の姿に信乃逗は哀れな者を見るように呟く。

 

「煩いやつだなぁ、答えられないなら別の問題に変更でもするとしよう」

 

 この後に及んでまだなぞなぞをしようとする信乃逗の態度に鬼が再び怒りの咆哮をあげようとした瞬間、再び信乃逗が口を開く。ニタリとその口元を弧に歪めて。

 

「ここにいるのは俺だけじゃない。さぁ、もう1人はどこでしょう?」

 

 ゾクリッ

 

 鬼の背筋に怖気が走る。そうだ、ここにきた鬼狩り2人、男の鬼狩りともう1人。女の鬼狩りがいた。だが、今目の前には男の鬼狩りしかいない。どこに……

 

— 蟲の呼吸

 

(後ろっ!?)

 

  蝶の舞 戯れ —

 

 背後に感じた僅かな気配に鬼が咄嗟に後ろを振り向いた瞬間、身体のあちこちを押されるような妙な感触を受け、次いで一陣の旋風が体を通り過ぎていく。あまりにも爽やかで心地の良いその風を受けて、鬼は洞窟内にいることを忘れ、一瞬広大な草原に立っているかのような錯覚を覚える。

 

 

 チャキーン!と洞窟内に響く納刀の音に鬼は我を取り戻して、風の向かった先へと視線を向ける。そこには先程まで鬼が探していた鬼狩りの片割れの少女が、今し方納刀したであろう状態で此方に背を向けて立っていた。ハッとした表情で思わず鬼は首元に手をやるが、きちんと首は繋がっているし、首を守る首輪も壊されることなくそこにある。身体を見れば幾つかの刺し傷、そのどれもが深く、心臓にすら届いているものもあるが、鬼である自分にとって、それはなんら致命傷にはなり得ない。その事実に鬼は思わず安堵の息を吐き、目の前で納刀したまま此方に背を向けて突っ立ている女の鬼狩り目掛けて、血鬼術を使おうと腕を伸ばす。

 

「背後からの奇襲とは多少頭を使ったようだが、結局僕の首は斬れなかったなぁ〜鬼狩りッ!?……あがァッ、な、んだぁッ」

 

 術を使おうとした瞬間、鬼の視界が突如歪み、体は急激に平衡感覚を失っていく。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえ、拍動に合わせて全身に焼けるような痛みがはしる。まるで体内を火で炙られているかのような苦痛に鬼は苦悶の声をあげながら地面へと膝をつく。

 

「調子に乗ってるのはお前だ。お前は人を殺しすぎた。人を殺して喰らう以上、人に殺される覚悟くらいはしとくんだったな、木偶の坊君」

 

 膝をつき、蹲って悶え苦しむ鬼の姿を冷めた目つきで信乃逗は見つめる。本来であればこの一言に鬼は再び激昂するところであるが、生憎と今はそれどころではない。全身に走る耐えがたい激痛に、鬼は今生命が持つ原初の感情を想起していた。すなわち恐怖。己が身に起こる未知への恐怖。そして、死への恐怖だ。

 

「ば、かぁ、なァッ!?」

 

 首は斬られていない。自らの急所たり得る首には傷一つ付いていない。この体が滅びへと向かう道理はどこにもないはず。にも関わらず身のうちから湧き上がる死への恐怖。確信している。本能が、原初より生命が持ちうる感覚が自らの死を確信している。

 

「な、ぜぇ、なぜだァァッ!!!」

 

「貴方は首さえ守れば殺されることはないと高を括っていたみたいですけど、鬼を殺す方法は首を刎ねる以外にもあるということです」

 

 鬼の疑問の叫びは可憐な声色で持って解を得る。痛みに歪む視界をゆっくりとその声の主に向ければ、そこにいるのは先程自らを傷付けた鬼狩りの女。

 

「人は常に思考し前へと進む生き物。いつまでも貴方達鬼にいいように喰われるだけの存在じゃない。貴方の敗因は人間をただの玩具としか見なかったこと。私達は貴方の都合の良い玩具じゃない。……人間を、あまり舐めないで」

 

 ———コイツッ!!

 

 見下されている。下等な筈の人間に、あのお方に選ばれた特別な自分が、土で固めなければ突くだけで死んでしまうような脆弱な人間の小娘に、今、憐まれている。

 

 屈辱。

 

 耐えがたい激痛の嵐の中であっても鬼はその感情をはっきりと認識できた。

 

 認めない。認められない。鬼である自分が、高貴なるあのお方に分けて頂いた血の流れる己が身が、下等な人間に穢されている。このような蛮行、赦せるものか。赦せようはずもない。

 

「自惚れるなよ虫ケラがァァ!!!」

 

— 血鬼術 岩血槍 (がんけつそう)

 

 それは執念とも言うべき咆哮。常軌を逸した、絶対的なまでの強者としての矜恃。それが鬼の全身に走る耐えがたい激痛を一瞬忘れさせ、最期の力を振り絞らせる。蹲る鬼の手元から鬼の血を含んだ岩石が隆起し、先端を鋭く尖らせて勢いよく楓へと迫る。驚愕に目を見開いたまま固まる楓の姿にほくそ笑みながら、鬼の意識は静かに途絶えた。

 

 




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抱いた想い

 

 

 窓辺から清々しい朝日の差し込む一室。空気の入れ替えの為に開け放たれた小窓から、薄らと寒さを感じる風がふわっと吹き込み、チュンチュンと雀の鳴き声が聞こえて来る。

 

 すぅっと大きく息を吸い込むと風と共に草と土の香りを含んだ空気が運ばれ、信乃逗(しのず)の心を落ち着かせる。そしてそのまま吸い込んだ空気を「はぁー」と盛大に吐き出した。朝とはいいものだ。心地よい風、心地よい音、心地よい温度。どれも人を安心させ、1日の始まりとして適度な高揚感を与えてくれる。世界が明るく輝き始める朝という時間が信乃逗は好きだった。

 

()()()さん、今日もいい天気ですねー」

 

 好きだったのだ。

 傍から聞こえる可憐な声色に、信乃逗がそっと顔を向ければ、そこには声から想像できる通りの可憐と表現できる1人の少女がいる。肩より上で揃えられたふんわりとした淡い栗色の髪が窓から差し込む光を浴びて輝き、さながら御光のようになっている。高野(たかの)(かえで)、現蟲柱、胡蝶しのぶの継ぐ子であり、年齢こそ一緒だが、信乃逗の後輩にあたる歴とした鬼殺隊員。実力、見た目、そして本人の性格から鬼殺隊で半ば天使のように扱われている美少女だ。

 

「あぁ、そうだな」

 

 そんな美少女かつ優秀な後輩に信乃逗は仏頂面でそう答える。素っ気ないとも取れる言葉だが、それを受けた楓は何故か嬉しそうに歯に噛んで信乃逗の口元へと自らの手を近づける。匙を握って。

 

「じゃあ、はい、口を開けてください」

 

 見るものが蕩けてしまうような微笑みを浮かべて少女は信乃逗へと迫るが——

 

「だが、断る」

 

 一瞬の躊躇いすらなく信乃逗はそれを拒絶した。

 

「なっ、なんでですかっ!?」

 

「嫌だからに決まってんだろうがっ!?」

 

 天使のような微笑みを崩して怒号をあげる楓にこれまた怒号でもって信乃逗が返す。

 

「はぁー!?こんな美少女が甲斐甲斐しく世話を焼こうとしてるのに、毎度毎度、信乃逗さんは一体何が不満なんですかっ!?」

 

「そこだよ、そこ!そこが一番嫌なんだよ!!ていうか自分で美少女とか言ってんじゃねぇー!」

 

「そこってどこですかっ!?…はっ!まさか信乃逗さん、女より男に食事を取らせて欲しいんですか?可愛い女の子より男の方がいいんですかっ!?」

 

「ちげーよ!?なんでそうなるの!?食事くらい自分でとるっていってんだよ!誤解されること言ってんじゃねー!」

 

「両手が使えないのにどうやって自分で食べるんですかっ!」

 

 楓の大声に信乃逗はうっと言葉を詰まらせる。

 

 そもそも齢16にして乙まで階級を上げるほど優秀な彼女がなぜこんな朝早くから信乃逗の隣にいるのか、そして何故甲斐甲斐しく食事を取らせようとしているのか、その理由は今の信乃逗の状態にある。信乃逗は今両手が使えない、どころか起き上がることもできない。

 

 先日の洞窟内での戦闘。信乃逗は自らの打ち込んだ毒で鬼を仕留めたと油断しきっていた楓を庇って負傷した。驚異的な速度で発動した血鬼術、先端を鋭く尖らせて幾本も迫りくる岩槍に身体を貫かれた信乃逗は両腕と腹部に風穴を空け、結果、この蝶屋敷で久しぶりの療養生活を味わうこととなったのだ。最近は治療する側に回っていたし、最後に寝台に横になっていなければならない程の傷を負ったのは一年以上は前なので、きよ達には随分と心配をかけたようで、蝶屋敷で意識を取り戻した時には泣いて喜んでくれた。そこまではいい。これ程の怪我を負ったが、意識はきちんとあるし、後遺症らしい後遺症も今のところはない。強いて問題があるとすればそれは両腕が未だ使えないが為に、こうして色々世話を焼こうとする彼女の存在だ。

 

 どうも楓は自らが油断したが為に信乃逗が重傷を負ってしまったと、随分と塞ぎ込んでいたようで数日間意識が戻らなかった信乃逗につきっきりで看病していたと、同じ病室に入っている同期の山本からは聞いた。しかし、こうして信乃逗が意識を取り戻して見る限り、そんな様子は微塵も感じさせない。むしろ何故か生き生きとしているように見える。今だってやたらと信乃逗に食事を取らせようと匙を口に向けて「あーん」なんて言ってくる程だ。これのどこが落ち込んで塞いでいるのか全く理解できない。というかこの光景にはいっそ既視感しかないのだが……

 

「おかしいなぁ、しのぶ様はこれで元気になるって言ってたのに……」

 

 犯人発覚。

 

(おのれ、しのぶさ〜ん!!余計なことを言いやがってぇ!!)

 

 何故、こうも甲斐甲斐しく世話を焼こうとするのか疑問だったのだが、どうも裏で糸を引いている黒幕がいるようだ。

 

「食事を多少抜いたからって死にはしない。余計なことばっかりしてないで、少しは強くなるように鍛錬でもしてろよ」

 

 割と強い口調で出たその言葉に、ピクッと楓が若干傷付いたように顔を伏せる。

 

(言いすぎたか。いやでもこれはしのぶさんが悪いだろ)

 

「おいおい信乃逗、テメェも懲りない奴だなぁ」

 

 信乃逗が内心でしのぶにあらんかぎりの罵詈雑言を浴びせていると、同じ病室に入っている鬼殺隊の隊員が寝台から起き上がりゆっくりと近づいてくる。

 

「なんだよ、山本。藪から棒に」

 

 同期の山本。信乃逗より年上の男子でありながらしのぶ並みの低身長で、両腕筋肉お化けと称される程上腕二頭筋が発達した階級(つちのえ)の鬼殺の剣士だ。ひと月程前に内臓に至る程の深い裂傷を受けて入院していたのだが、こうして寝台から起き上がって自由に動き回れる程度には回復したようだ。ゆっくりと歩み寄ってくる山本の姿に若干安堵しながらもその言動に怪訝そうに信乃逗は首を傾げる。

 

「おいおいしらを切るきか?往生際が悪いぜ、信乃逗」

 

「いや、だからなんの話だよ?」

 

 そこはかとなく怒っているかのような、問い詰めるかのような空気を醸し出している山本に信乃逗は戸惑いながらそう声をかけると、

 

「そんな可愛い後輩に飯を食わせてもらおうなんてくそ程羨ましいことをしておきながら、嫌がる素振りで俺達に見せつけ、挙句彼女のお預け状態を愉しむとは、なんて性格の悪い奴だ!!この人でなしぃ!!」

 

「誰が人でなしだ!?どこからどう見ても楽しんでねーだろうがッ!妄想力豊かすぎんだろう、この目腐り野郎!!」

 

「うるせぇー!お表に出ろやコラァ!お前のような外道は、俺達生真面目で可愛らしい女を侍らせる男抹殺隊、略して『キサツタイ』が滅殺してやらァァ!!!」

 

「知らねーよそんな組織!!どんな隊作ってんだ!!代表者出せやコラァ!!」

 

「俺だぁ!!」

 

「お前かよっ!?」

 

(恥ずかしい!同期がそんな馬鹿で阿呆な男だったなんて恥ずかしい過ぎる!!)

 

 信乃逗があまりにも哀れな同期の姿に内心で悶え苦しんでいる時それはやってきた。この場にいる全員よく考えるべきだった。ここは何処なのか、何をする場所なのか、そして、誰の管理下にあるのかということを。

 

 スゥーと、決して激しくもなく、かといって無音というわけでもない。ただ静かになんの変哲もなくいつものように病室の引き戸は開かれた。扉の向こうに静かな怒りを伴った閻魔を宿して。

 

「あらあら、一体何を騒いでいるのでしょうか?」

 

 鈴の音のような凛とした声が室内に響き渡る。

 瞬間、それまで静寂とは何かと問いたくなるほどに音の絶えなかった部屋が一瞬で無音となる。寝台で横になる信乃逗は笑顔のままピキッと固まり、寝台の横に立つ楓は顔を青ざめてガタガタと震え、扉を背にして寝台へと体を向けていた山本は壊れたブリキのようにギチギチと硬くなった首を回し、視線を扉へと向ける。

 

 3人の視線に共通して映るのは微笑みを携えた美女。蟲柱、胡蝶しのぶだ。見るものを魅了し、顔を赤く染め上げてしまうような微笑みを受けているにも関わらず3人の顔色は何故か悪い。

 

「どうしたのですか3人とも、黙っていたのでは分かりませんよ。私は質問しているのですが……」

 

 一層微笑みを深めて一歩室内に足を進めるしのぶの姿に、山本と楓はひっと声を上げて後ずさる。

 

「聞こえなかったのならもう一度聴きましょう。こんな朝早くに、怪我人のいる病室で、一体何をそんなに騒いでいるのかと私は聴いているのです」

 

 にっこりと最大級の微笑みを浮かべたしのぶに3人は声を揃えてこう言った。

 

「「「ごめんなさいっ!」」」と。

 

 無論、彼女の回答はこうだ。

 

「許しませんよ」

 

 

 

「全く、貴方達は毎度毎度反省の色が全くないのですから、これで少しは懲りてくださいね」

 

 しのぶは満面の笑みを浮かべて病室を後にする。そんな笑顔で額に青筋を浮かべるという器用な師を前にして、(かえで)は顔を青ざめてプルプルと震える。

 

「さて、楓はこちらに、貴方はしばらく道場で鍛錬です」

 

 この鍛錬が名ばかりの罰則であることは楓も十分に理解できた。どんな恐ろしい鍛錬かと楓が想像に恐怖していると

 

「楓、雨笠(あまがさ)君の怪我に負い目を感じるのはわかりますが、あまり焦って雨笠君に付き纏い過ぎてもかえって迷惑になりますよ」

 

 道すがら、しのぶは後ろをちびちびとついてくる自らの弟子にそう声をかける。

 

 信乃逗(しのず)が負傷したあの洞窟で、しのぶが気配を頼りに駆けつけた時、楓は半狂乱でしのぶに綴ってきた。助けて欲しいと、私のせいだ、と自らを責めたて、ろくに会話も出来ない様子にしのぶは随分と苦労をしたものだ。よくよく話を聞いて整理してみれば、確かに信乃逗が負傷したのは油断した楓を庇ってくれた結果のもの、自分のせいで誰かが命を落としかけていると思えば、あの取り乱しようも仕方ない。特に楓は規律に厳しく、責任感は人一倍強いところがある。その苦しみは常人の比ではないだろう。

 

 幸い彼の傷は急所は避けていたし、止血が手早かったおかげか、出血量もそこまで多くはない。蝶屋敷で治療すれば命に別状はないだろう。そう判断したしのぶが楓に告げれば彼女は一瞬安堵し、数秒後には再び自己嫌悪の渦に呑まれてしまう。

 

 まぁそうなるだろうと、しのぶも予想はしていたが、蝶屋敷についてからの落ち込みようは流石に目に余るものがあった。信乃逗が目覚めるまで彼女は頑なに信乃逗から離れようとしないし、ろくに睡眠もとっていない様子。このままでは先に楓が倒れると、しのぶは苦心の末、信乃逗の看病を楓に任せこう言ったのだ。

 

「この両腕では、雨笠君はしばらくは自分で食事はとれないでしょう。楓、貴方が食べさせてあげなさい。そうすればきっと雨笠君も元気になるでしょう」

 

 と、確かにしのぶはそう言った。よもや、あそこまで信乃逗が拒絶するとも思わなかったし、そこまで頑なに自らの手で信乃逗に食事を取らせようとする楓の意地の張りようにも正直驚きだ。

 

 最初はそれでも楓が元気になり、信乃逗もいつも通りの調子を取り戻しつつあるので、いいだろうと見逃してきていたが、5日も同じ状況が続いているのは流石に目に余る。特に信乃逗の拒絶の仕方は日に日に強くなってきているし、楓もそれに合わせるかのように意地を強めているように見受けられる。あまりいい状況ではないと、しのぶもついに口を出すことにしたのだ。

 

「雨笠君が貴方の行いを拒絶していることには気付いているのでしょう?どうして意地になって続けるのですか?」

 

 どんなお仕置きかと身構えていた楓としては諭すようなしのぶの言葉に思わず拍子抜けしてしまう。

 

「もちろん、私も気付いてはいますが、その、ここで、引くわけにもいかないと言いますか……」

 

 後半は何やらモゴモゴとして非常に聞き取りづらい。しのぶは煮え切らない様子の楓に思わず溜息をついてしまう。

 

「はぁー、貴方は一体何と戦っているのですか?雨笠君に申し訳ないと思うのであれば、一歩引いて見ることも大事だと思いますよ。押しつけがましい善意は悪意となんら変わりありません。雨笠君が嫌がっているのであれば、やめておくほうが無難です」

 

 楓にそう諭しながらも、しのぶは今の信乃逗の態度には大いに文句を言いたい。楓はしのぶの大切な継ぐ子で、根はとても優しい女の子だ。そんな子がああも献身的に毎日看病にきているのに、意識を戻した信乃逗の態度は妙に辛辣に見える。負い目を抱える相手がああいう行動に出るのは信乃逗ならわかるはずだがなぜそうも頑なに拒むのか……

 

「その、しのぶ様、私は負い目から()()()さんの看病をしたいのではありません」

 

 ふとかけられたその言葉に、しのぶは思考に追いやられた意識を戻す。そういえば、彼女はいつの間に信乃逗のことを下の名で呼ぶようになったのだろうか?彼が眠りについている間も、彼女はずっと上の名で呼んでいたはずだが。自分の知らないところでこの2人に何かあったのだろうか?

 

「負い目からではない?では、楓は何の為にそんなに雨笠君の看病にこだわっているのですか?」

 

 何気なく聞いた言葉だった。しのぶにはそれほど深い意味があるとはこの時は考えていなかった。だが、問いかけた後になって、彼女の意を決したような表情を見て、しのぶは全てを悟った。

 

 (あの男は私の弟子に一体何をしてくれたんでしょうかねぇ〜)

 

 しのぶは頬を痙攣らせて一層、青筋を深めた。

 

 

 




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 怒りの微笑みを浮かべた美女、胡蝶しのぶが去った後、病室では2人の男が青白い顔をして寝台でぐったりと倒れ込んでいた。方や寝台でピクピクと痙攣し、方や達観した死にかけの老人のように窓から外の景色を見て黄昏ている。

 

 2人の寝台の横の台には、まだほのかに熱を持った湯呑みと粉薬を入れたであろう薬包が空になって置いてある。この蝶屋敷において騒がしい怪我人を黙らせる最強の宝具。しのぶお手製の毒薬、もとい薬である。

 

 それを受けた信乃逗(しのず)と山本はこうして怪我人らしく静かになった。

 

 尚、(かえで)はこの場にはいない。笑顔のまま青筋を額に浮かべたしのぶに、首元を猫のように引っ張られて蝶屋敷の道場にいった。おおよそ、今頃はこの2人と似たようなことになっていることは想像に難くない。

 

「信乃逗、俺が、間違ってた。お前の薬は……確かに、良心的だ、ぅっぷ」

 

 ピクピクと体を痙攣させ、吐き気を催しながら山本は信乃逗の薬を絶賛する。

 

「そうだろうとも、分かれば、いい」

 

 ようやく自らの薬の素晴らしさとしのぶの薬の脅威を同期に理解してもらった信乃逗はそっと口元に微笑みを浮かべる。

 

 まるで燃え尽きた灰のように真っ白になった2人を病室の入り口からそっと見ていた少女は、はぁーと大きな溜息をつく。

 

「あんた達、今物凄い馬鹿にしか見えないからね」

 

 疲れ切った様子で2人が声の聞こえた方に目を向ければそこには信乃逗のもう1人の同期、清水ハルが立っていた。

 

「馬鹿め清水、お前もいずれわかる。この薬の恐ろしさを」

 

「そうだぞ、清水。お前も飲んでみろ。俺の薬とは違って一撃必殺だ。動く気力さえわかなくなる」

 

 2人の無駄に意味深な説得を鼻で笑いながら、清水は山本の寝台横にある椅子に座る。

 

「馬鹿に馬鹿って言われたくないわよ。あと、薬に必殺っておかしいから」

 

 そう言って清水は山本の寝台脇の籠の中に置いてあったみかんに手をつけ始める。

 

「お前、それ俺の見舞い品だぞ」

 

「いいじゃない、どうせあんた今食べれないでしょう?」

 

 力なく、寝台に横たわったまま山本は清水に文句を言うが、彼女は意にもかえさず皮を剥き口に頬張る。

 

「信乃逗も食べる?甘くて美味しいわよ?」

 

「魅力的なお誘いだけど、生憎とこの腕なんでね。遠慮しとくよ」

 

 肩を竦めるようにして両腕が使えないことをアピールする信乃逗を清水は目を細めてみやる。

 

「そう?なんなら食べさせてあげよっか?」

 

 意地悪く口元を弧に歪めてそう言う清水に信乃逗は首を横に振って「結構だ」という。

 

「そう、残念」

 

「おい、俺には?」

 

「あんたは両手使えるじゃない。自分で剥いて食べなさいよ」

 

「……この格差は如何に?」

 

 2人のやり取りを尻目に、信乃逗はそっと外を見遣る。

 こうしてゆっくりとした時間を過ごすのは酷く久しぶりだった。寝台に横になって療養するなんて、昔を思い出してしまう。そっと信乃逗は先程まで楓が座っていた見舞い客用の椅子に視線を落とす。

 

 自分が怪我をして寝台に横になっている時、そこに座っているのはいつも狐の面をつけた小柄な彼女だった。

 

 

『大丈夫?信乃逗』

 

 

 脳裏に過ぎるいつかの彼女の声に、信乃逗はそっと目を細めて空いたままの席を見続ける。どうしようもないほど切なくて空虚な想いを抱えたまま。

 

 そんな信乃逗を見つめる視線があることに彼は気付かない。

 

「ねぇ、信乃逗はさ、どうして高野さんを拒絶するの?」

 

 唐突にかけられた声に、信乃逗は一瞬反応が遅れる。声が聞こえたほうに目を向ければこちらを見つめる視線が一つ。清水だ。

 

「拒絶って、なんのことだよ?」

 

 問われた言葉の意味が分からず、わずかに遅れて信乃逗はそう問い返す。

 

「毎日毎日、信乃逗を心配して寝る間も惜しんで看病しに来て、体を拭いたり、食事をとらせようとしてくれてるのに、信乃逗は全部断ってるでしょ?

1番の問題は彼女の気遣いにお礼の一つもいうところを私が全然見てないってところ。他に見舞いに来てくれる人にはきちんと対応して、御礼も言ってるのにいつも彼女だけは追い払おうとしてる。なんだか信乃逗らしくないわよ。ねぇ、なんで?」

 

 戸惑う信乃逗を、目を細めて見つめながら清水はにっこりと微笑んでそう問いかける。彼女の声色は静かなまま、声を荒げている訳でも尖った言い方をしている訳でもなく、いつもと何も変わらず明るい口調のまま。

 

 しかし、彼女の口から語られるその内容は決して平和とは言いがたいもの。

 

「別に、追い払おうとなんて……」

 

 普段のおちゃらけた様子とはどこか違う雰囲気を放つ清水の姿に、信乃逗は戸惑いながらも彼女の言葉を否定する。

 

「してるわよ。信乃逗は、高野さんを追い払おうとしてる。……その席からね」

 

 ピクッとそれまで戸惑いの表情しか見せていなかった信乃逗が僅かには眉を寄せる。

 

「そう……やっぱりね。

 信乃逗は高野さんが嫌いなのかと最初は思ってたけど、この数日の彼女とのやり取りを見てれば誰だってそうじゃないってことはわかるわ」

 

「……何が言いたいんだ?」

 

 徐々に悪くなる2人のやり取りを止めるわけでもなく、山本は寝台に顔を伏せたまま静かに話を聞く。

 

 いつも飄々とした態度で誰とでも気軽に接する信乃逗だが、そのやり取りにはどこか壁を感じる時がある。しかし、そんな彼が楓とは割と近い距離で会話をしている。そのことから信乃逗は楓が嫌いな訳でも苦手な訳でもないということは清水は勿論、この病室で2人の会話を見てきた山本ですら分かっている。なら、どうして彼女にだけ突き放した対応をするのか。薄々とは山本も分かっていた。高野楓が今やろうとしていることは全て……

 

「信乃逗。あんた、真菰(まこも)ちゃんと高野さんを重ねてんの?」

 

 部屋の時間が止まった。そう錯覚するほど重苦しく、静かで停滞した空気に室内は包まれた。

 

 

 

 ーー鱗滝(うろこだき)真菰(まこも)

 

 

 

 山本、信乃逗、清水の同期であり、既に故人となってしまった少女。

 信乃逗の想い人でもあり、信乃逗の怪我を誰よりも心配し、誰よりも信乃逗の看病をしてきた彼女。信乃逗が怪我をして寝台に横になっていれば、必ずと言っていいほど真菰は彼の隣にいた。今信乃逗の横になる寝台の隣にある見舞い客用の椅子に座っているのはいつも彼女だった。だから誰かが信乃逗の見舞いに来ても信乃逗の寝台の隣には誰も座らない。そこは彼女の席だといつのまにか全員の認識になってしまっていたから。

 

 だが、彼女は死んだ。信乃逗の寝台の隣に鱗滝真菰が座ることはもう、ない。信乃逗の隣は空席のまま、これから埋まることもないのだと誰もがそう思っていた。

 

 ところが最近、そんな席に、これまた知ってか知らずか、1人の少女が座るようになった。怪我を負った信乃逗を心配し、甲斐甲斐しく世話を焼き、食事をとらせようと、匙を信乃逗の口元に運ぶその姿はいつかみた光景を思い出させるもので、それはまるで彼女が帰ってきたようだと、信乃逗と真菰を知る誰もが一度は幻視したことだろう。

 

 だが、それは信乃逗にとって、許せるものではなかったのかもしれない。意識してのことか、それとも無意識なのか、信乃逗はそれを拒絶した。表面上は穏やかに、おちゃらけながら、それでも断固たる意志を持って、信乃逗が楓の運ぶ匙を口に入れることは一度もなかった。

 

「何言ってんだよ?真菰と高野を重ねる?悪いけど全然意味が分からないな」

 

 どれほど時間が経ったのか、数秒かあるいは数分か、どちらとも思えるような長い沈黙の先で信乃逗が出した言葉は否定でも肯定でもなかった。信乃逗はにっこりと笑ってそう答えているがその内心が穏やかでないことは誰の目にも明らかだった。

 

「……そう。じゃあいいわ」

 

 信乃逗のその表情を見て、清水は目をゆっくりと伏せてそう言う。

 これ以上何かを言っても信乃逗は受け取らないだろう、そういう諦めからきた言葉だった。このまま何も変わらず終わる、そう清水が溜息を吐きたくなった時、その言葉は発せられた。

 

「あいつは自分の弱さで俺が怪我をしたことに負い目を感じてるだけで、俺を心配してる訳じゃない。下らない自己嫌悪で俺の看病をして自分を赦そうとしてるだけだ」

 

「なっ……」

 

 信乃逗の言葉に清水は驚愕し、思わず言葉を詰まらせる。

 今、彼がなんと言ったのか、それを理解出来なかった。いや、理解したくなかったのだ。

 

 清水は鬼殺の剣士としての実力はともかく、人を見る目には自信があった。その清水の経験が信乃逗はそんなことを言うような人間ではないと確信を持っている。人の想いを誰よりも大切にしてきた信乃逗が、他人からの想いを溝に捨てるような言葉を言うはずがない。そう思いたかった。

 

「あんた、それ……本気で言ってんの?」

 

「なんでここで嘘を言う必要がある?事実だろ」

 

 だから、信乃逗の肯定の言葉に反応が遅れた。それを本心で言うような人じゃないことはわかっていても、彼の口からそうだと言われてしまえば、それが彼の本心になってしまう。楓が本心から心配して信乃逗の看病をしていたのは誰が見ても明白だ。確かに信乃逗を怪我に追いやったことへの負い目が全くないとは思えないが、それが全てのように言うのは間違っている。それではあれほどまでに懸命に努力する楓に対してあんまりではないか。

 

 湧き上がる怒りに清水が口を開こうとした時、バサッと大きな音を立てて視界の端で勢いよく何か動く。

 

「やめとけよ」

 

 つられるように動いたものに視線を向ければ、先ほどまで薬が不味いと寝台で項垂れていたはずの山本が起き上がって、神妙な顔つきで信乃逗に視線を向けている。頭をボリボリとかいて気まずそうにしながら山本は口を開く。

 

「あんまりしょうもない嘘つくなよ、信乃逗」

 

「……山本までなんだよ?さっきも言ったけど、嘘を言う必要なんかどこにもないだろう」

 

「あぁ、お前の言う通り必要ねーんだ。だからよ、これ以上はやめとけよ」

 

「だから俺は嘘なんかついてないって」

 

「いや、ついたよ、お前は。

 高野が心の底からお前のことを心配してくれてることくらいお前だってわかってるだろ?」

 

「……違うよ。あいつは自分の為に「下らねぇ嘘で自分を納得させようとしてんじゃねぇ!!」っ!?」

 

 信乃逗と清水が思わずビクッとするほどの怒号が山本から放たれた。

 

 清水からは山本の後ろ姿しか見えないが、その小さな背中から珍しく迫力を感じる。勢いよく寝台から立ち上がった山本はそのまま清水に一切視線を向けることなく信乃逗だけをその心中に捉えて、真っ直ぐに信乃逗が横になる寝台へと向かうと、いきなり信乃逗の胸ぐらを勢いよく掴む。

 

「ちょっ!?」

 

 先程まで怒りの感情に支配されそうになっていた清水が思わず静止の言葉をかけてしまいそうになるほど、今の山本は一触即発の空気を醸し出していた。

 

「信乃逗、テメェが真菰ちゃんへの想いを大事にすることはテメェの自由だし、俺も推奨する。だけどな、テメェの気持ちを偽ってテメェ自身に嘘をついてあの子の優しさを否定しようとしてんじゃねぇ!!」

 

 普段、山本は騒がしくはあるが、これほどまでに怒りの感情をあらわにするところを信乃逗も清水も見たことがなかった。

 

 唐突に胸ぐらを掴まれた信乃逗は痛みと驚愕に一瞬、顔を顰めるが、すぐに剣呑な目つきで山本を見返す。

 

「……痛いな山本、なんのつもりだ?俺は嘘なんかついてないって何度も言ってるはずだけど」

 

 それに対して山本も一切怯むことなく信乃逗から目線を逸らさずに言葉を返す。

 

「そうかよ。あくまで認めねーってんなら、俺が突きつけてやるよ、お前の本心をな」

 

「何を……」

 

 自信満々に一歩たりとも引くことなく戸惑いもせずに真っ直ぐに向けられるその視線の鋭さに信乃逗は一瞬たじろぐ。

 

「お前は認めたくねーんだ。高野ちゃんからの言葉を、あの子がくれる優しさを理解するのがお前は怖いんだ。真菰ちゃんが与えてくれていたものを他の誰かがかわりに与えてくれるのが、お前は怖いんだ!」

 

「っ!?」

 

「だから彼女がやってくれる全ての優しさを彼女が負い目を持ってるからだって嘘をついて、真菰ちゃんと区別しようとしてやがる。さっきのお前の言葉は俺達に言ってたんじゃない。全部お前が自分自身にそうだって言い聞かせようとしてただけだ」

 

「…………」

 

 驚愕に目を見開いて、息を呑んで信乃逗は山本を見つめる。あるいはその反応が山本の言葉を証明しているとも知らずに。

 

「信乃逗、俺はお前が怖いって思う気持を否定しようとは思わねぇ。真菰ちゃんだけがくれた施しを、他の誰かがくれる。それを認めて、受け入れるのはきっとすげぇ怖いことだと思う」

 

「っ!なら……」

 

「でもな、その恐怖に負けて、高野ちゃんの優しさまで否定するのは違うだろ?」

 

「それは……」

 

 怒声から諭すように声色を変えた山本の言葉に信乃逗は思わず俯いてしまう。

 

 山本のいうことは概ね正解だった。信乃逗は高野と真菰の姿を重ねている。真菰の座っていた席に高野が座り、真菰が運んでくれていた匙を高野が運んでくる。彼女がしてくれる優しさが、嘗て真菰がくれていたものとあまりにも似ていて、信乃逗は受け入れることが出来なかった。もしも受け入れてしまったのなら、真菰のくれたそれが消えて無くなってしまいそうで、本当の意味で真菰がもうこの世界のどこにもいないのだと認めてしまう気がして怖かった。もしも記憶に支障をきたした時、記憶にある真菰の姿が消えて、それが高野に変わってしまったら、そう思うと恐怖でおかしくなってしまいそうだった。

 

 だからどうにかしてそれを否定したかった。例えそれが虚構であったとしても、真菰と高野は違うと、彼女から与えられるものとは全くの別物なんだと、そう思い込めればどうにかなるような気がして。

 

 しかし、山本の言う通りそれが間違っているというのなら、自分は一体どうすればいいというのか、それが信乃逗には分からない。

 

 俯いたまま、歯を食いしばる信乃逗の様子に山本もゆっくりと掴んでいた胸ぐらから手を離して、信乃逗を正面から見つめる。

 

「信乃逗、高野ちゃんは真菰ちゃんの真似をしてるんじゃねぇ、それはお前も本当はわかってるんだろう?」

 

「…………あぁ」

 

「なら、お前が無理に理由づけして、2人を区別する必要はないだろ。高野ちゃんがお前の看病をするのは、そりゃあ確かに負い目だってあるだろうさ。だけどお前を心配する気持ちが微塵もないなんてこともない。むしろ、俺には、お前が心配で仕方ないっていう風にしか見えないけどな」

 

「…………」

 

「変に嘘をついて自分を納得させるんじゃなくて、ありのままを見てみろよ。そうすりゃあ、お前も気付くよ。高野ちゃんと真菰ちゃんは別。やってくれてることが一緒だからって、真菰ちゃんから受けた優しさが無くなる訳じゃないってことがさ」

 

 ぽんぽんと頭を撫でながら、ゆっくりと優しく山本は信乃逗へと言葉を重ねていく。それはさながら兄が世話のかかる弟を宥めているかのようで、後ろから見ていた清水は思わずくすりと小さく笑ってしまう。

 

「お前は鬼狩りはともかく人付き合いの経験が少な過ぎる。他人からの気持ちを素直に見てみれば、案外お前を心配してるやつはたくさんいるんだってことにも気付けるよ。真菰ちゃんも、高野ちゃんも、しのぶ様も、勿論、俺も清水も。お前の側にいる奴は怪我して帰ってくるお前を見て大抵心配して、世話のかかる奴だって笑いながら、それでも生きて帰ってくれたことに感謝してる。まあ、いっちまえば、ここはお前の家みたいなもんだ。

……うん?そう考えると俺は信乃逗の兄ちゃんってとこか?どうだ信乃逗!いい兄貴だろ!」

 

 思わずといった風に山本は先程まで2人に見せていた貫禄を全て捨て去ってそう言う。あまりの豹変っぷりに清水は今度こそ我慢出来ないとばかりに大声で笑い始める。

 

「あははっ!あんたはせいぜい、たまに家にくる親戚のおじさんってところよ」

 

「テメェ清水!俺はまだ19だぞっ!」

 

 先程まで見るものが見ればすぐ様退散したくなるような重苦しい空気だったのに、そんなものはなかったとでも言うように2人は言葉を重ねる。そんな2人を信乃逗は若干唖然とした様子で口をポカーンとあけて、目をパチパチと瞬いて見つめてしまう。

 

「おい、信乃逗、随分間抜けな表情になってんぞ」

 

「ほんとだ。なんかびっくりしてる」

 

 そんな信乃逗に気づいた2人が、にひひっと笑顔で近づいてくる。2人のその姿に信乃逗はなんだか急に力が抜ける。ほっと息を吐いて、目を閉じれば、妙に安心したような納得してしまったような、落ち着いた気持ちになる。

 

(ここが俺の家、か)

 

 山本の言葉が、信乃逗の心にほのかな灯火をつける。内心で呟いた言葉に心がじんわりと温まっていくような不思議な感覚になる。この感覚には信乃逗も覚えがあった。嘗て自分を優しく抱きしめてくれた1人の少女が与えてくれた、安心という安らぎ。数えで二桁にも年齢がいかぬうちに家族を失った信乃逗は、人が与えてくれる温もりに疎い。心配だと、こんな正面から言われるその言葉が今までの信乃逗ではとても得難いものだった。

 

(心配……)

 

 真菰と高野を勝手に重ねて、その行いが一緒だからと、彼女の気持ちを勝手に捻じ曲げて拒絶していた。思い返せばあんなにも信乃逗が拒絶していたのに、彼女は一度も、無理矢理口に匙を突っ込むことはしなかった。両腕が塞がって、起き上がってもいけないと言われているのだから、やろうと思えば簡単にできたはずなのに。単なる負い目で信乃逗の看病をしているのであれば、食べさせたという結果さえあれば、彼女にとってはそれで十分なはずなのに。

 

 『心配』、山本の言ったこの言葉が信乃逗の脳裏に過ぎる。

 

(俺がしてたのは、ただの八つ当たりか)

 

 正直なところ、どんな気持ちであれ、素直にあれを受け入れられるかは今の信乃逗には分からない。それでも、もう少しだけでもあの子のむけてくれる優しさに向き合うべきなのかもしれない。

 

「悪かった、清水、山本」

 

 目を開けた信乃逗は目の前で尚も賑やかな会話する2人に向けて頭を下げる。

 

「あぁ、気にすんな、間違った道に行ったらぶん殴ってでも止めるのが同期ってやつよ」

 

「ちょっと、そこは家族っていいなさいよ。まったくもう、言い方はともかくとして悩んでるんなら相談の一つでもしなさいよね。なんて言ったって私は信乃逗のお姉ちゃんなんだからさ」

 

 にっこりと何ごともなかったように笑顔でそう言う2人の姿に、信乃逗はほんの少し救われたような、心が軽くなるような気がした。

 

「はっ!おばさんの間違いだろう」

 

「なんですって!?私はまだ20よ!」

 

「おうおう、このままいくと適齢期は過ぎるな」

 

「余計なお世話よ、はげ頭!」

 

「なんだと、この年増!」

 

 バァン!

 

「ちょっと!病室で何を騒いでるらっしゃるんですかっ!?」

 

「「げっ!アオイちゃん」」

 

 声を抑えようともせずに騒ぎ立てた結果、病室の引き戸を勢いよく開けて、深海のように深い青を宿した瞳を鋭く光らせて蝶屋敷のもう1人の番人、神崎アオイが現れた。

 

「また貴方達!!一体何度注意されれば気が済むのでしょうか!!それに清水さん、ここは男用の病室だと何度も申しましたでしょう!?」

 

「「ひぃぃ!?」」

 

「……ぷっ!あはははっ」

 

 先ほどまでの頼れる姉と兄の威厳を一瞬で消失させた2人の様子に、信乃逗は思わず吹き出して、笑い転げる。

 

 

 

 

 

 

 

「はい、怪我はもう大丈夫そうですね。あと数日は様子を見たほうがいいでしょうから、もうしばらく此方に滞在して下さい。それと今後はこの薬を毎食後に飲んでくださいね……お大事に」

 

 陽が落ちかけた夕焼けの空、薄暗くなってきている外の風景を尻目に、しのぶはこの日最後の診察を終えた。しのぶの1日は非常に目まぐるしい速度で進んでいく。入院患者の診察を行い、足りない薬を調薬し、自らの鍛錬に加えて継ぐ子の指導、対鬼の毒薬の調合、そして鬼狩りの指令。いつもなら1日を終えた余韻に浸る暇すらなく、このまま管轄区域の巡回及び鬼狩りの指令に向かうのだが、今日はその任務に久しぶりの休みを貰ったのだ。生憎と蝶屋敷の業務についてはしのぶの代わりをこなせる者はいないので、休むことは出来ないが、夜の時間が空くだけでも随分と気分が違う。

 

 病室を後にしたしのぶは廊下を歩きながら、この後の薬の研究に思いをはせていた。上弦の鬼を倒す為の理論が、もう少しで出来そうなのだ。これを策とは言えないのかもしれないが、もしも実現できれば、あるいは上弦の鬼を、姉を殺した鬼を殺せるかもしれない。体の奥底から湧き上がる復讐心と強烈な怒りの感情に、しのぶは目を伏せて、スゥーと息を吸い込み、溢れ出しそうになったそれに蓋をする。

 

(落ち着いて、感情の制御ができない者は未熟者)

 

 しのぶは内心で自身にそう言い続ける。感情を抑え、笑顔を作り、声を整える。そうしていつも通り、蟲柱、胡蝶しのぶに戻るのだ。

 

「あの、しのぶ様」

 

 廊下で立ち止まってしまっていたしのぶに背後から、躊躇いがちにそう声をかける者が1人。

 

「どうしたのアオイ?」

 

 しのぶが振り向いて声の主に視線を向けると、どこか落ち着かない様子でその少女、神崎アオイが立っていた。

 

「……その、御相談があるのです」

 

 意を決したような決意に満ちた何処か不安そうな表情でアオイはしのぶにそう声をかけた。

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想をいただけますと幸いでございます。

信乃逗君の人間としての不出来なところも暖かい目で見ていただければ幸いです!

オリキャラの兄貴感が出したかったf^_^;


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駆け引き

 

 翌日の昼、信乃逗(しのず)は病室に1人、窓の外を眺めて黄昏ていた。

 

 いつもなら、同室の山本が信乃逗を巻き込んで病室を喧しく騒ぎ立てているのだが、昨日の騒ぎの一件で薬によるお仕置きくらった後に今度はアオイからも説教を受けたこともあって、

 

「山本君はそんなに元気が有り余っているのであれば、是非体力を戻す治療に移行しましょうね」

 

 と背景に花が咲き誇るような満面の微笑みを携えたしのぶに強制的に道場へと連れて行かれたので生憎と今は1人だ。おそらくはしのぶ考案の機能回復訓練をしているのだろうが、今頃はしのぶの背景に咲いている花がチューリップや薔薇のような愛くるしい花々ではなく、地獄へ続く護岸に咲き乱れる彼岸花であったことに気づいている頃だろう。

 

 哀れ山本。安らかに。

 

 山本の冥福を祈りつつ、信乃逗は昨日自分がきっかけで起きた騒動を思い出す。『家族』、とうの昔に失ったはずのその絆が今再び自分の手のにあるとそう言われた。もしもそれが事実で、この蝶屋敷が俺の家だというのなら、この家に住む他のみんなは自分にとってなんなんだろうか?

 

 ふと、信乃逗の中に生まれたその疑問。

 彼女達は自分にとって本当に家族と言ってもいいのだろうかと、そう考えてしまう。あるいはもしも家族を名乗ることを許されたというのなら、きよちゃん達は、まぁ言わずもがな妹だろう。かなりしっかりしているし、怪我人には妙に厳しいところがあるが、かなり慕ってもらっているとは思う。逆にアオイとはそこまで仲がいいとも言えない。そこまで親しく会話をしたこともあまりないし、彼女の方から少し避けられていることには信乃逗も気付いていた。彼女の中に信乃逗を許容出来ない何かがあるのだろう。他人にも自分にも厳しいところのある彼女は、融通が効かないところがあるが根は優しい普通の女の子だ。仮に家族だというのなら、彼女も妹と言ったところだろうか。高野もそうだ。規律に厳しく、自分も他人も律する彼女は口うるさい妹というのがピッタリだ。なら、しのぶは———

 

「しのぶさんか……」

 

 ボソリと窓辺に向けて信乃逗の口から声となって考えが漏れる。

 

「私がどうかしましたか?」

 

「うおっ!?ちょっ!?……急に出てこないでくださいよ、しのぶさん。心臓に悪い」

 

 唐突に耳に入る凛とした声色に信乃逗は驚きのあまり飛び起きそうになってしまうのものの、動いてはいけないと言われたことを思い出して、なんとか跳ね起きたい衝動を抑えると今度は疲れたように、しのぶへと苦情を申しつける。

 

「あら?それは申し訳ありませんでした。ですが入る前に声はかけましたよ。返事をくれずにぼーっとしていた雨笠(あまがさ)君も良くないのではないでしょうか?」

 

 まるで堪えた様子もなく、しのぶは笑顔のまま信乃逗が横になる寝台の横へと患者用の椅子を移動させて上品に座り込む。その手に何やら二つの湯呑みと茶菓子ののったお盆を持って。

 

 その光景に信乃逗はキョトンと首を傾げてしまう。

 

 彼女が病室で椅子に座るのは余程の重症患者を見る時以外では見たことがない。大抵の場合、彼女は立ったままで診察を済ませてさっさと病室を出て行く。信乃逗がこれまで入院した時もずっとそうだった。それが今回は珍しく、見舞いにでも来たかのようにお茶に加えて、茶菓子まで持参して座り込んでいる。明らかにゆっくりしいていきますよという格好はいつも忙しいしのぶとしては非常に珍しい姿だ。しかも今日はどういう訳か、羽織りを着ていない。非常に不自然だ。

 

「あの、しのぶさん?どうかしたんですか?」

 

「うん?なにがですか?」

 

 思わず、信乃逗はしのぶへとそう問いかけてしまう。

 信乃逗の疑問など到底頭にはないしのぶはお盆を寝台脇にある台に移動させながら、首を傾げて逆に信乃逗に問い掛ける。

 

「いやだって、あの忙しいしのぶさんが俺のお見舞いに来た感じになってるって、そんな馬鹿なって感じなんですけど……」

 

「貴方は私をなんだと思っているのですか?親しい相手が怪我をしたのならお見舞いくらいしますよ。まぁ勿論、時間があればですけど」

 

「親しいって、しのぶさん……熱でもあるんですか?」

 

「あらあら、雨笠君がそんなに私の研究に付き合いたいなら私としては大歓迎ですけど?」

 

「いいえ結構です。ごめんなさい」

 

 普段のしのぶからはなかなか聞くことのできない言葉に信乃逗は思わず彼女の正気を疑ったが、額に青筋を浮かべながらにっこりと微笑む様子に直ちに思い直した。

 

「まったく、最近は随分と手が掛からなくなって来たと思えば、途端にこれですからね。貴方は本当に怪我が絶えない人ですよ」

 

「返す言葉もございません」

 

 いやまったくおっしゃる通りで、と信乃逗は内心でしのぶに平謝り状態となる。確かに最近は、こんな怪我を負うことはほとんどなかったので、自覚が薄れつつあったが、俺はしのぶさんの中でほぼ毎回死にかけて帰ってくるかなりの問題児になっている。実際以前は一月に一度は必ずこの蝶屋敷を訪れることになっていたし、場合によっては一週間と空けずに帰還したこともある。ここまでの頻度で負傷してくる隊士も滅多にいない。まぁ客観的に見ればそれだけ鬼と戦って生きて帰ってくるということの表れでもあるのだが、当事者としては申し訳ないという気持ちでいっぱいである。

 

「まぁでも、今回ばかりはお礼を言わせてください」

 

 そう言って急に頭を下げるしのぶの姿に信乃逗は慌てふためく、

 

「え、ちょっ、しのぶさん!?えっと、どうしたんですか?」

 

「貴方が身を挺して(かえで)を庇ってくれたと、本人からそう聞いてます。実際、貴方が庇ってくれていなければ楓は命を落としていたでしょう。だから、お礼を言わせてくださいと言ったのです」

 

「いやいや、俺が勝手にしたことですし、その、しのぶさんに頭を下げてもらう必要なんて……」

 

 しのぶの言葉に信乃逗は戸惑いを隠せずにあたふたと慌てるばかりで、言葉がうまく纏まらない。しのぶにこんな風に頭を下げてもらうことなんて今の今まで一度たりともなかったし、信乃逗としてはむしろ此方の方が頭を下げたいくらいだった。これまで一体何度、しのぶによって命を助けられたことか。一度でも大き過ぎる借りをもう何度も信乃逗はしのぶにつくっている。それに比べればこれくらい、大したことではない。

 

「楓は私の継ぐ子です。弟子の命を助けられたのですから師として、礼をするのは当然ですよ」

 

「分かりました!分かりましたからっ!頭を上げて下さい」

 

 信乃逗の慌てふためくその声にようやく長々と下げていた頭を上げたしのぶに、信乃逗はほっと息をついて安堵する。

 しのぶに頭を下げさせたくて楓を助けたわけではない。こんな風に畏まった態度をされても心苦しいばかりで、ちっともいいことをした気にはならない。

 

「ふふっ、そんなに嫌がらなくても良いではないですか。柱が頭を下げることなんて滅多にないのですから堪能すればいいのに」

 

「嫌ですよそんなの。まったく特別感も湧きませんし、後のことを考えた方が怖いですよ」

 

「後のこと?」

 

 キョトンと首を傾げるしのぶの姿に信乃逗はそっと溜息を吐く。目の前の麗しい女性は自分がどれほど平隊士達から人気があるのか理解していない。美人で強くて、その上自分たちの命を助けてくれる。柱になる前からしのぶは鬼殺隊の癒しとして代表的な人物だったのだ。柱となってからはさらに人気に拍車が掛かってもはや手が付けれない状態だ。もしも、そんな人に頭を下げさせたなどと知れたらどうなるかなんて、火を見るより明らかだ。連中、見舞い品と称して毒でも渡してきかねん。最悪の場合、闇夜に紛れて暗殺なんて事まであるかもしれない。

 

 薄暗い想像に、信乃逗は思わずブルリと体を震わせる。

 

「雨笠君?大丈夫ですか?顔色があまり良くありませんが」

 

「大丈夫です。えぇ、きっと大丈夫ですよ」

 

 しのぶが心配そうに信乃逗に声をかけるが大丈夫、大丈夫としのぶに言うようにして自分に言い聞かせている。

 

「そういえば、楓が随分とご迷惑をお掛けしているようですね」

 

 ふと切り替わった話題に信乃逗はキョトンと首を傾げてしのぶに顔を向ける。

 

(迷惑……?あぁ)

 

 一拍遅れて、信乃逗はそれが恐らく毎日のお見舞い兼看病のことであろうことを察した。

 

「いや、まぁ困ってはいますけど迷惑とまでは……」

 

「別に遠慮する必要はありませんよ?昨日の話は清水さんから聞いています」

 

 後半の言葉に信乃逗はピクッと眉を寄せて、ため息をつく。

 

「もしかしなくても、今日きたのはそれが理由ですね?」

 

 確信を持って呟かれた言葉といい、この様子ではしのぶは昨日の騒動の原因について話をしにきたのだろう。そうでなければ昨日の今日で都合よくそんな話をしてくるとも思えない。

 

「さぁ?どうでしょうか?」

 

 なんとも白々しい態度であるが、これは肯定ととってもいい返事だろう。ジト目でしのぶを見つめれば彼女は肩を竦めてみせる。

 

「まぁ、今回の件は雨笠君の事情を考えていなかった私の落ち度ですから、少し話をしておかなければと思ったのは事実ですよ」

 

「……その言い方だとあらましどころか全部聞いてますね」

 

「えぇ、まぁ大体は」

 

 はぁー、と信乃逗は盛大にため息を吐く。よりにもよってこの人に知られるとは、意外とお節介でお人好しな彼女のことだ、柄にもなく自分を責めたりしてはいないだろうかと心配になる。今回の高野の一連の行動のきっかけはどうやらしのぶの一言を要因とするものらしいので、彼女が昨日の話を聞けばここにくるだろうことは容易に想像できる。

 

(口止めしとかなかったのが失敗だったなぁ〜)

 

 清水のやつは大概お喋りだということを認識していなかった。

 

「雨笠君の反応であの子は少々今意地になっていますが、事情を話せば楓も身を引くでしょう。今回の件のお詫びというわけではありませんが、私の方から楓に言って聞かせましょうか?」

 

「……いえ、それは大丈夫です」

 

 しのぶの提案に、一瞬考え込むようにしながらも信乃逗は静かに首を横に振りながらそれを断った。

 

「……どうして?」

 

 予想外の信乃逗の回答にしのぶは目を細めて信乃逗の顔を見つめる。その表情の変化を観察するかのような鋭い瞳で。

 

「高野に負い目を感じて欲しいわけじゃないんですよ、俺は」

 

 そっと目を伏せて信乃逗はそう呟く。確かにしのぶの提案に乗れば、根が優しい高野なら間違いなく俺の元に訪れることはなくなるだろう。だが、生真面目なあいつのことだ。おおよそ自分のせいでまた俺を傷つけたなどと余計な気を回し始めることは目に見える。それに……

 

「来なくなるのは、それはそれで寂しいもんなんですよ」

 

 昨日一晩、ずっと考えてみた。真菰(まこも)と高野は違う。山本のいう通りそれは当たり前のことだ。同じことをしてくれるからと言ってこの二人を無理に区別しようとするのはたしかにいいことではない。だが、それを理解していたところで、心の中に浮かび上がる拒否感を消せる訳じゃない。高野の行いを受け入れるにはきっと時間がかかるし、最終的に受け入れられるのか確約なんて当然出来ない。

 

 それでも、毎日毎日、どれだけ拒絶しても懲りもせずに病室を訪れて騒ぎ立てる高野の姿に思うところがない訳じゃない。あの喧騒を耳にすることをある種楽しみにしている自分が僅かではあるがたしかに存在しているのだと、信乃逗は気付いてしまった。

 

「……そうですか。貴方がそれでいいのなら、この件で私にできることは特になさそうですね」

 

「すいません。折角来てもらったのに」

 

「別に構いませんよ。貴方がそれだけ真菰さんを好いていたというのを実感できましたし、私としては御馳走様という気分です」

 

「御馳走様って、しのぶさん、井戸端会議してるおばさ、ひっ!?……なんでもないです、ごめんなさい」

 

 にっこりと頬笑みを深めるしのぶに信乃逗は短い悲鳴をあげると言いかけたその言葉を咄嗟に引っ込める。

 

「あら、どうしました雨笠君、変な汗が出ていますよ?」

 

「いえ、なんでもないです、ちょっと妙な寒気を感じてまして」

 

「あらあら、それはよくありませんね。これでも飲んで落ち着いてください」

 

 そう言ってしのぶはそっと飲み口のついた特殊な湯呑みを信乃逗の口元に運んでくる。手が使えない人の為にある湯呑みだが、これには薬を入れるのが定番となっている。見たところ中身は無色透明だが、彼女のことだからそう言う薬を開発していてもなんら不思議ではない。

 

「あのぉ、しのぶさんこれは?」

 

「心配しなくてもこれは()ですよ。怪我人にお茶というのもあれですし、腕が使えない人にただの湯呑みで飲めというほど私は酷くありません」

 

 怪訝そうに問い掛ける信乃逗にしのぶは若干眉を寄せて失礼なと言った風にそう言う。

 

「あははーすいません」

 

 空笑いをしながら信乃逗はそっと飲み口に唇をつけ、ゆっくりと飲んでいく。信乃逗のペースに合わせるようにゆっくりとしのぶは湯呑みを傾けていく。

 

 その様子をしのぶは片時も視線を逸らすことなく見続ける。

 

「あぁ、喉が潤います。ありがとうございます、しのぶさん」

 

 湯呑みの中をのみほした信乃逗が満面の笑みを浮かべてそういえば、しのぶは手に持った湯呑みをそっと盆に戻して

 

「……美味しかったですか?」

 

 と問いかけた。

 

「え?まぁ喉が乾いてはいましたから美味しかったですよ」

 

 ただの水を美味しいかどうかと聞かれると若干困るのだが、今回は普通に喉が乾いていたので多分美味しいと表現できるはず、そう思って信乃逗はそのまましのぶに伝える。

 

「……そう、ですか」

 

 そう呟くと、しのぶは視線を床に向けるように俯いてしまう。

 

「しのぶさん?どうかしましたか?」

 

 急に様子の変わったしのぶの様子に信乃逗が怪訝そうに問いかけたと時、ガラッと病室の扉が勢いよく引かれる。

 

「信乃逗助けて!」

 

 扉を開けるとほぼ同時に声高々にそう言って部屋に駆け込んできたのは同室の山本だった。唐突に助けてと大声で言われ、目をパチクリと瞬かせて驚きをあらわにする信乃逗にも気づかずに山本は自分の寝台に飛び込むと布団に顔を突っ込んで叫び始める。

 

「もう無理だ!なんの拷問だ、あれ!?どんだけ人の身体曲げるの!どんだけ人の身体にお湯かけるの!どんだけ追いかけっこ好きなの!もうただのいじめじゃん!胡蝶様ってどんだけいじめっこなの!」

 

(えー!!?や、山本ぉー!!!?)

 

「背が小さいから、心も小さいんだよあの人!怪我人をいじめてほくそ笑んでるに違いない!」

 

(止まってぇ!?それ以上は進んじゃ駄目!!周りをみろ山本ぉ!!!)

 

 布団から顔を出すことなく、大声で文句を言い続ける山本の様子に信乃逗は内心で絶叫をあげる。僅か一呼吸で述べられたその言葉数の多さは流石は鬼殺隊の剣士といったところだろうが、今の山本の状態はさながら周りを確認せずにがむしゃらに走り続ける暴走した馬の様相を呈している。その危険性は計り知れない。

 

 信乃逗がチラリと視線を横にずらすといつの間に立ち上がったのか、しのぶがゆらりゆらりと山本の寝転がる寝台に向かって歩き始めている。

 

(あ、駄目だこれ)

 

 信乃逗は全てが手遅れあったことを悟り、内心で合唱を捧げる。

 

 幽鬼のように寝台へと近づいたしのぶは布団に顔を伏せて倒れ込む山本の肩にそっと手をのせる。

 

「なんだよ信乃逗!俺は今胡蝶家一派のせいで傷心中なんだよ!そっとしておいてくれぇ!」

 

 肩にのったその手を信乃逗だと勘違いしたのだろう。山本はその手が誰か確認することなく、布団に顔を伏せしのぶ達への文句を言い続ける。その声が聞こえるまでは。

 

「それはそれは大変でしたね〜」

 

 ピキッ!と空気に罅が入ったようなそんな音がして、それまで喚き立てていた山本の動きが固まる。

 

「貴方は確か、私の考案した機能回復訓練を受けていた筈ですよね?それでそんなに傷心してしまうとは思いもしませんでした」

 

 ギギギッと壊れたブリキのように首を後ろにゆっくりと向ける山本。

 

「まあ私は背も心も小さい、ひどいいじめっ子らしいので全く気にしませんが」

 

 背後にいる悪魔を明確に視界に映した時、山本は今度こそ完璧なまでに固まり驚愕の表情へと変わる。

 

「こっ胡蝶様ー!?うそぉぉ!?え!?なんで!?」

 

 あまりの驚きに山本は口を大きく開けて唖然とする。

 

「山本、今度から愚痴を言う時は部屋の中をよく確認した方がいいぞ」

 

 心底呆れたといった様子で信乃逗は忠告する。手が包帯でぐるぐる巻きにされていなければ、頭を抱えていたことだろう。

 

「誰かいるのは気付いてたけど、まさか胡蝶様とはっ!なんという罠!」

 

「凄い分かりやすい罠もあったもんだな。誰がどう見てもしのぶさんだろう」

 

 あれを罠と表現するのであれば、山本は自分で作りあげた罠に自ら足を突っ込んだただの間抜けでしかない。

 

「いやだって、いつも着てる羽織りも着てないし、こんなの後ろ姿じゃぁ気付けねーよ!おまけに髪の色は違うしよぉ!」

 

(……うん?)

 

 山本のぼやきにピクッと信乃逗が僅かに反応する。

 

 今、山本は何と言っただろうか?羽織りを着ていない?

 そうだ。彼女の羽織りを着ていない姿はあまりみることがない。人前に出る時、彼女はいつもカナエ様の羽織りを羽織っている。今日それを着ていないことを珍しく思うことに何も不自然なことなどない。

 

 なら、俺は今、何をそんなに焦っている?

 

 信乃逗の胸のうちに突如現れた得体の知れない焦燥感。その感覚に信乃逗が戸惑っている間にも2人の会話は進んでいく。

 

「あぁ、この髪、気付きました?山本君はお目が高いですね〜」

 

「いやそりゃこんな変わってたら誰だって気付きますよ!ていうかどうやってるんですかそれ?」

 

 一見平和に見える2人のたわいないやり取りに信乃逗は思わず目を見開いて固まる。

 

 待て、なんだそれは?この2人は一体今何を話している?変わっている?しのぶさんの?どこが?

 

 信乃逗の目に映るしのぶの姿はいつもと何も変わらない。変わらない筈だ。いつもと同じ黒い髪で……

 

 

 ーー待て

 

 

 自分の思うしのぶの『いつも』の姿は一体いつからの『いつも』だ?

 

(まさか……)

 

 信乃逗はそこで気づいた。色がわからなくなり始めてから、信乃逗にはしのぶの髪の色は黒く見えるようになっていた。薄く紫がかった色合いを信乃逗は認識できなくなったのだ。しかしもともと、しのぶの髪色は黒を基調としたもの、多少紫がかった色合いが見えなくなっていても今まではなんら問題がなかった。だがもしも、もしも、髪の色をしのぶが変えたのだとして、それを今自分が認識出来ていないだけなのだとしたら……

 

 

「これはお手製の染色液なんですけど、洗うとすぐに落ちてしまうので、今日一日の限定です。山本君は運がいいですね。……まぁでも、確かに」

 

 

 

——— 普通なら、誰だって気付きますよね?

 

 

 

「っ!?」

 

 ゆっくりと振り向いたしのぶの表情は笑顔だった。いつものように妖艶な微笑みでもって相手を魅了する美しい笑顔だ。ただ、目だけは笑っていないその笑顔に信乃逗は急激に顔色を青く染めていく。

 

 不自然。

 しのぶが信乃逗の目の前に現れてから、信乃逗はただの一度も彼女の髪色の変化には触れていない。当然だ。信乃逗にはしのぶの髪色は何一つ変化していないように見えているのだから。だが、それはしのぶにはさぞかしおかしく見えたことだろう。目の前であからさまに髪の色が変わった人物がいたとして、それに対して無反応などというのはあまりにも不自然だ。

 

「山本君、疲れているようですし、これでも飲んで落ち着いてください」

 

 視線を下に顔を青く染めて俯く信乃逗の横から一つの湯呑みを持ってしのぶは山本へと近寄る。

 

「おぉぉ!ありがとうございます!」

 

 お礼を言って山本は湯呑みを受け取り、一気に口元へと持っていった。

 

「ぶふっ!」

 

 山本が湯呑みを傾けて水を飲んだと思った瞬間、彼は盛大に水を吐き出した。

 

「ゴホッゴホッ!!うへぇ、な、なんすか、これ?滅茶苦茶塩っぱいんですけど」

 

 咳き込んで、うえぇと気持ち悪そうにする山本を見て、信乃逗は思わずばっと振り向いて顔を自らが飲みほした湯呑みへと向け、ついでしのぶへと勢いよく視線を移動させる。

 

 

「あらあら、ごめんなさい。うっかりしていました。これ、ただの水じゃなくて、海水よりも濃い塩水だったんですよ」

 

 

 (なっ!?)

 

 

 驚愕のあまり目を見開いて固まる信乃逗にしのぶはそっと視線を向けて目を細めて微笑んでこう言った。

 

 

 

——— まぁ、普通はこうなりますよね

 

 

 

 妖艶で可憐な声色は明確な意思でもって、一つの虚構を突き崩す。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
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不穏な空気を醸し出しつつ、しのぶさんなんかカッコいいを目指した回です 笑笑


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しのぶの怒り

 

 

 シーンとした静寂に包み込まれた室内。

 音を出すことが憚られるようなその空間で1組の男女が向かいあっていた。

 

 

 しのぶと信乃逗(しのず)だ。

 

 

 先程までここにはもう1人、山本がいたのだが、今はしのぶによって追い出されている。

 

「山本君、今すぐに機能回復訓練に戻るのであれば、私の髪に気付いてくれたことと、この水を飲んでくれたことに免じてこの場は見逃してあげましょう。さぁどうしますか?」

 

「直ちに戻ります!失礼しましたっ!!」

 

 その脅迫じみた問いに考えるまでもなく、即答で山本は病室を出ていった。よって今この部屋にいるのは信乃逗としのぶの2人きり。山本が来る前に戻った訳だが、2人の間に流れる空気は先程までとは大きく異なる。

 

「雨笠君、私の言いたいことはもう分かりますよね?」

 

「…………」

 

 しのぶの問い掛けに信乃逗は咄嗟に言葉を返すことが出来ない。険しい表情のまま口を開くことなく、じっと視線を下に向けたまま固まっている。

 

「ここまで来て、まだ、黙っているつもりですか?」

 

「…………」

 

 信乃逗から言葉は返ってこない。その状況にしのぶも口調が厳しくなって、その顔に貼り付けられている笑顔も徐々に姿を隠していく。

 

「そうですか。なら、私が言葉にしてあげますよ」

 

「ッ!……何を、ですか?」

 

「貴方の隠している、貴方の体の異常について」

 

(っ!!)

 

 はっきりと述べられたその言葉に、信乃逗はそれまで下に向けていた視線をしのぶへと向けた。そこにはいつのまにかそれが当たり前になっていた偽りの仮面はない。微笑みは消え失せ、ただただ厳しい表情で信乃逗へと向けられるその視線には間違いようのない怒りの感情がこもっていた。

 

「雨笠君、貴方には今、色が分からない。そして、味が分からない。違いますか?」

 

「っ!!」

 

 信乃逗の隠している物の正体、その確信をつく。明確な言葉でもって、しのぶは信乃逗を追い詰める。はっきりと告げられたその言葉に信乃逗は息を呑み、目を見開いて彼女に視線を向ける。

 

「……どうやって気付いたんですか?」

 

 思わず、零れ落ちるように呟かれたその言葉は信乃逗の今の気持ちの全てを表していた。今日、ここに至るまで、誰かに気付かれないように、ずっと過ごしてきたはずだった。失われていく感覚に、怯え、恐怖しながらも、誰にも悟られないように、信乃逗は細心の注意をはらって生活していた。なのに、どうして今、1番知られたくなかった人から、信乃逗が1番隠しておきたかった事実が出てきてしまうのだろうか。

 

「確信を得たのはつい先程ですが、きっかけを与えてくれたのは私ではなくアオイです」

 

「アオイちゃんから?」

 

「えぇ。先日アオイからある相談を受けました。雨笠君の様子がおかしいと」

 

 しのぶの言葉に信乃逗は自らの記憶をなぞっていく。自分が一体いつ、神崎アオイの前で気取られるようなことをしたのか、信乃逗はそれが知りたかった。だが、どれだけ思い返そうとも、それに該当しそうな記憶は一切出てこない。

 

「先日、貴方は富岡さんの怪我の治療をしたそうですね」

 

「……えぇ。肩の裂傷と毒の解毒をしました」

 

 思い返えすまでもない。それはつい先日のことだ。この怪我を負う前、あの洞窟での戦いの直前にあった出来事。結局信乃逗は途中できた鴉の指令によって、傷の縫合をアオイに任せて鬼狩りの指令へと赴いた。あの時かと、信乃逗はつい顔を顰める。確かにあの場で信乃逗はアオイへと富岡の治療を引き継いだ。そこで何か、自分が気づかない何かが起きたのだ。本来なら気付いていなければいけない異常に信乃逗は気づかなかったのだ。一体何が起きたのかと、信乃逗は内心で歯噛みをしてしのぶの次の言葉を待つ。

 

「その時、富岡さんは毒の影響で怪我をした患部の皮膚の色が紫色に変色していたそうですよ。貴方は気付かなかったようですが」

 

「っ!……なるほど、そうでしたか」

 

 しのぶのその言葉に信乃逗は得心がいった。治療にあたり、傷口の確認は絶対に行うもの。増してあの時は、当て布をし、解毒の為に注射までした。そこまでしておきながら、あの時の自分は富岡からの毒の症状を効くまで毒を受けていることに気付かなかった。一目見てわかるだけの肌の異常に信乃逗は気付けなかった。それに対してアオイがおかしいと思うのは無理のないこと。

 

「最初は貴方にも自覚がないだけなのかと思いましたが、先程の貴方の反応でそうではないと確信しました」

 

「……それを確かめる為にわざわざ髪まで染めてきた訳ですか?」

 

「えぇ。貴方にアオイの言う症状が本当にあるのか、最初は半信半疑でしたが、目の前にいるにも関わらず貴方は私の変化に全く反応しなかった。まるで髪の色が変わっていることに気付いていないみたいに」

 

 一見してすぐ分かるように、しのぶは髪の色をあからさまに変えていた。実際山本などは最初、それがしのぶだと気付かなかった。それほどの変化に、信乃逗は全く反応を示さなかった。髪の色を言及することも、その変化に驚き目を見開くこともなく、平然といつも通りにしのぶと会話をしていた。その変化が見えていないかのように、その変化を知らないかのように。

 

「全てしのぶさんの手のひらの上だった訳ですか。……なら、味が分からないというのはどうして?」

 

 しのぶの計略に信乃逗は苦笑いをしながら、もう一つの疑問をぶつける。

 今の説明。しのぶがアオイから相談を受けたのはあくまでも色の判別についてのみ。だが、今日彼女が指摘してきたのはそれだけではない。

 

「ただの違和感ですよ」

 

「違和感?」

 

「えぇ。雨笠君、覚えていますか?貴方は昔、私の薬を不味いといって飲もうとしなかった」

 

「……覚えていますよ」

 

 当時を懐かしむように、しのぶは記憶をなぞっていく。

 あの頃、信乃逗がどれほど失礼な言動で薬から逃れてようとしてきたか、飲んだ途端に身をよじって気絶していたこと、どれも今の信乃逗には見られない光景だ。大人しく飲むようになったこと自体は喜ばしいことだろう。だが、その変化はあまりにも急激に過ぎた。

 

「最初は、貴方が成長したのだと思いこもうとしていましたが、それにしても貴方は変わり過ぎです。気絶することも嫌がることもない。顔色一つ変えずに貴方は私の薬を飲むようになった。まるで薬の苦さを感じなくなったように」

 

「……それで塩水ですか」

 

「えぇ。実際、私が感じた違和感は間違いではなかった。貴方は普通なら咽せて飲めないような水を、顔色一つ変えずにのみほした」

 

 山本が咄嗟に吹き出すようなその水を、信乃逗は違和感すら感じていないかのようにのみほし、こう言った。

 

『美味しかった』と。

 

「だから、あの時美味しかったかと聞いたわけですか。なるほど、俺は見事にしのぶさんの計略に嵌った訳だ」

 

 自嘲するように、信乃逗は笑みを浮かべ、抵抗を諦めたかのように目を閉じる。最初から妙ではあった。しのぶが度々茶菓子まで持って見舞いに来たのもそうだが、湯呑みを二つ持ってきた割には彼女がそれに口をつけることはなかったし、茶菓子も全く減っていない。最初に楓の話をしたのは一種の引っ掛けのような物、突然信乃逗の見舞いに訪れたことに違和感をもたせないための策略。実際信乃逗はそこに目が行き当初感じていた疑問に勝手に答えを入れてしまっていた。だが、信乃逗がその答えを聞いた時彼女はこう言った。

 

『さぁ?どうでしょう?』 と。

 

 嘘はついていない。彼女は最初から信乃逗の身体の異常を確かめる為に今日態々見舞いに来たのだ。

 

「そういうことです。私の言うことは何か間違っていますか?」

 

 これまでの答え合わせを終え、その結果を確認するようにしのぶは笑顔で信乃逗に問いかける。

 

「……いえ、正解ですよ、しのぶさん。やっぱり貴方は凄い」

 

 断片的な情報だけから真相にたどり着く推理力も俺の反応をみる洞察力も相手に有無を言わせず的確に先回りして追い詰めていく思考力もどれをとっても俺には真似できそうにない。信乃逗は困ったように笑いながらほっと息を吐いてしのぶを見つめる。

 

「そうですか。では雨笠君、歯を食い縛ってくださいね」

 

「へ?」

 

 にっこりとわらったまま呟かれたその言葉を一瞬理解できず、信乃逗は間の抜けた声を出してしまう。

 

 直後、バシィン!という、何かを打つような音が室内に響き、信乃逗の視界が大きくぶれる。

 

「怪我を負った貴方にこうすることは私の本意ではありませんが、我慢もできませんでしたので……」

 

 震えるような口調で呟かれた声が耳に入り、呆然としていた信乃逗を少しずつ現実へと戻していく。

 ジンジンと痺れるような鈍い痛みが走る頬にそっと手を当てて、指先からいつもより僅かに高く感じる熱を確認して、信乃逗はようやく今自分が何をされたのかを理解した。

 

(……ぶたれた?)

 

 理解した信乃逗がゆっくりとしのぶに視線を向ければ、先程まで偽りの笑顔を浮かべていた彼女はもう何処にもいなかった。目尻を吊り上げ此方を睨み付ける彼女の表情にははっきりとした怒りの感情が満ちていて、彼女が怒り心頭であることを察するのには十分だった。

 

 そんなしのぶの様子に信乃逗は思わず目を見開く。

 彼女がこんなにもはっきりとした感情を表に出した表情を見せてくれるのは随分と久しぶりのことだったから。

 

「どうして……どうして黙っていたの?そんな状態をっ……どうしてずっと放置していたの!!」

 

 普段彼女が見せることのない激情。どんな時でも平然とした様子で自らの感情を隠そうとしている彼女が、今自分にありのままの感情を見せている。口調までもが変わった彼女のその姿を信乃逗は唖然とした表情で見つめる。

 

「答えなさい雨笠君っ。もしも私の考え通りなら貴方は3年近くその症状を抱えたまま過ごしていたことになるわ。それだけの長い間、私に何の相談もしなかったのは一体どうしてっ!?」

 

 はっきりとした糾弾。

 機会はいくらでもあった筈だ。信乃逗がしのぶとこの蝶屋敷で働き始めてから3年近く、その間、どうして信乃逗は一切を黙っていたのか、しのぶの怒りはそこにある。嘘も誤魔化しも許さないと、そうはっきりと告げるかのように鋭く細められたその瞳でしのぶは信乃逗を咎める。逸らされることなくただ一点を、信乃逗の瞳を捉え続けるその視線に彼もまた真っ直ぐにしのぶの瞳を見返す。

 

 それは数秒か、あるいは数分だったかもしれない。互いに見つめ合う沈黙の空間は信乃逗がゆっくりと口を開いたことで終わりを告げる。

 

「どうしようもなかったからですよ」

 

「それは……どういう意味ですか?」

 

「言葉通りです。しのぶさんに相談してもどうにかなる問題ではなかった。だから相談しませんでした」

 

 はっきりと貴方では無理だと、力不足だと、そう告げられたしのぶは歯を食い縛って信乃逗に鋭い視線を向ける。しのぶは鬼殺隊の隊士であると同時に、薬師であり、医師でもある。そのプライドが信乃逗の言を頭から否定してしようとしている。

 

 一瞬、噴き出そうとする感情を抑えるかのように目を閉じ、深呼吸のように深く息を吸って吐き出す。

 

「その言い方、貴方は原因がわかっているということね」

 

「えぇ、まぁ。これはなるべくしてなったある意味で自業自得な結果ですから」

 

 自嘲するかのような口調で笑う信乃逗の姿にしのぶは不気味なものを感じた。

 

「自業自得?」

 

「はい。……過ぎたる力は自分の身を滅ぼす。誰の言葉かは知りませんが、随分と的を得た言葉だとは思いますよ」

 

 信乃逗の言葉にしのぶは目を細めて視線を下に考える。

 彼は今抱える症状は自業自得の結果だと表現した。それはつまり彼が自分で選んだ結果であるということ。では、過ぎたる力とは何か、人の身である彼の持つ力が自らの領域を超えたものであると言っている。だが、彼にそれほど強力な何かがあるところをしのぶは見たことがない。鬼殺の剣士として優れてはいるが未だ柱にも至れていない彼が自分達とは違う、人の領域を外れるような力を持っているとは考えにくい。

 

 では、彼のいう力とは一体何を指すのか。際だつ程特別なものではなく、彼が持つ自分達とは違う何か。そこまで考えてしのぶははたと気付いた。あるではないか、彼の扱う特別が。彼でしか見たことのない珍しいもので、それはきっと彼自身が選んだ道であるものが。

 

「貴方の扱う呼吸に秘密があると?」

 

 答えを確認するように、しのぶは信乃逗へと再び鋭い視線を向ける。高速で働いたしのぶの頭脳が結論を出すのにかかった時間は本の数秒だ。その数秒の間も信乃逗は考えこむしのぶの姿からずっと視線を逸らすことなく見続けていたのだろう。しのぶの向けた視線は一部の迷いもなく、真っ直ぐに信乃逗の瞳を捉えた。僅かに見開く瞳孔とそっと苦笑いを浮かべる信乃逗の姿にそれが正解であることをしのぶは悟った。

 

「今ので分かるのか。本当に凄いな、しのぶさんは」

 

 苦笑する信乃逗は、観念したかのようにゆっくりと話し始める。空の呼吸と呼ばれる、その呼吸の正体を。如何に危険で、死と隣り合わせの呼吸であるかを。

 

 まるで他人事のように、悠々と何の恐れも感じさせぬ口調で語られるその真相に、しのぶの目は驚愕に見開かれ、重ねる言葉が増えるほど、どんどんとその表情を険しくしていく。

 

 




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ちょっと間があいちゃいまして申し訳ないですヽ(´o`;


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誓約

ひとつだけ先に言っておきますが真菰は神です(・∀・)


 

 

 空の呼吸とは何か、その真相の全てを知ったしのぶが最初に発した言葉は、糾弾だった。

 

 

「貴方はっ、どうして、どうしてそんな呼吸を選んだのっ!?」

 

 正気とは思えなかった。あまりにも無謀で何よりも破滅的だ。一瞬でも体の動きを誤れば、それだけで死んでしまうようなものをどうして好んで使うのか、しのぶにはそれが理解できなかった。だが、理解出来ないからこそ分かることがある。

 

(……狂ってるっ)

 

 この呼吸を使う者は、目の前の彼は、致命的なまでに狂っている。自分の命など意にも返さず、その辺に落ちている石ころよりも軽く見ている。鬼を殺す為に力を得ることしか考えていない。そしてその上で、例え本懐を果たせずに死んでも構わない。そんな矛盾した狂気をもっていなければ、こんな呼吸を使おうとは思わないはずだ。いや、あるいはこの呼吸を使う者は死ぬことすらも望んでいるのやもしれない。

 

 これまで、空の呼吸という呼吸を彼以外で全くと言っていいほど聞かなかったのも、これならばある意味当然だ。使った者も、使おうとした者も、死んでしまうというのなら、伝承自体がそもそも困難だ。ましてそれを伝え聞いたものがまともであるならば、存在そのものを隠してしまってもなんら不思議ではない程の禁忌。

 

 しのぶをしてそう言い切れるほど空の呼吸はあまりにも破滅的でなによりも自滅的に過ぎる。

 

 しのぶとて、鬼殺の剣士、それも今や柱の一画。命を落としてしまうことは当然覚悟しているし、鬼を殺す為ならばそれを拒むつもりもない。だが、そんなしのぶの覚悟を持ってしても、その呼吸の在り方はあまりにも異質で異常だ。

 

 そしてそんな呼吸を数多ある呼吸の中から選び、使っている彼もまた同様に異常だ。

 

「あの時の俺には、必要でしたから。他の呼吸は俺にはあまり適性がなかったですし……力が得られるのなら、他のことはどうでもよかった。もしも適性がなくて修行の途中で死んでしまったとしてもあの時は別にそれでも良かった。寧ろ、いっそ死ねたならとでも思っていたかもしれない」

 

 目を細めて、当時を懐かしむように信乃逗(しのず)は言葉を紡ぐ。

 

「……どうして」

 

 あまりにも退廃的なその言葉に、しのぶは思わず疑問を口にする。

 しのぶとて鬼に対する復讐心は持っていた。両親を殺した鬼が赦せなくて、鬼を殺す為ならどんなことでもするとそう心に誓っていた。例え鬼と戦って命を落とすことになるとしても、鬼狩りの道を諦めることなどあの時の自分には出来なかっただろう。だけど、それは鬼と戦いの末であることが前提だ。鬼と戦うことも出来ずに修行の中で命を落としてもいいと思ったことはない。まして死にたいなどと思ったことも一度としてない。

 

「前に俺の家族は鬼に殺されたって言いましたよね」

 

「……えぇ」

 

 もう4年近くも前に、信乃逗が初めてこの蝶屋敷に運ばれてきた時に姉と2人で彼が鬼狩りになった理由を聞いたことがあった。その時の彼の表情をしのぶは今でもよく覚えている。鬼殺隊に入隊するほとんどの隊士は鬼に対して復讐心を抱いている。だから鬼狩りになる起源を話す時、普通なら憎しみと怒りを感じさせる表情をするものだ。

 

 しかし、当時彼がその理由を語った時、彼の表情から見えたその感情は憎しみでも怒りでも悲しみでもなく、やつれ、疲れきった老人のように、空虚で虚しい感情だけだった。

 

「あの日、俺が家に帰った時、俺を出迎えてくれたのはむせ返るような血臭と物言わぬ亡骸になった家族、そして……鬼に変えられた姉でした」

 

 重く、苦しそうに語られた信乃逗の過去にしのぶは瞠目する。

 

 家族を殺され、挙句、鬼に変えられた。それまで人間だった彼の姉が鬼に変えられたというのなら彼の家族の仇は、史上最悪にして最凶の鬼、鬼が起こす全ての悲劇の生みの親である始まりの鬼、鬼舞辻(きぶつじ)無惨(むざん)ということになる。

 

 悲劇的な話だ。家族を殺され、愛する姉を鬼に変えられた。この世界にありふれる悲しみと憎しみの連鎖の一つ。

 

 だが、彼にとっての悲劇はきっとそこからだったのだろう。

 

「鬼に変えられた姉を殺したのは俺です」

 

 それは幼い子供だった彼の心を殺して狂わせるのには、きっと十分過ぎる出来事だった。最愛の姉に殺してくれと頼まれ、その手段が彼の手の中にはあった。或いはもしも自分がその立場だったのなら、私もきっとまともではいられなかった。

 

 あまりにも悲惨で、そしてある意味では奇跡のような出来事。鬼にされたものが理性を保ち、人の心を失うことなく、殺して欲しいと願うなど、そんな話は聞いたことがない。ともすれば、彼の姉は歴史上唯一、鬼の血にうち勝つことができた人間なのかもしれない。

 

 嘗て私の姉が願った夢。鬼と仲良くすると言うまさしく夢物語のようなそれが、彼の姉によって希望を持った。……持ってしまった。

 

 

「家族を殺したのは鬼です。でも、姉さんを殺したのは間違いなく俺だ。姉さんが鬼だから。鬼になってしまったから仕方がないんだと、そう思い込もうとして、俺は鬼狩りになった。鬼を殺すことが、あの時姉を殺したことが正しいことなんだと、そう思う為に俺は師匠の元に行って、空の呼吸を学んだ。ほとんどの人が使えずに死んでしまうというのは最初に聞いてだけど、俺はそれでも良かったんですよ。だって—」

 

 

 

———もしも途中で死んでしまったのだとしたら、それはきっと俺が姉を殺した罰になるから

 

 

 信乃逗の最後の言葉にしのぶは絶句すると同時に、心の何処かでその気持ちを理解してしまった。

 

 

 もしも、もしもカナエが鬼に変えられて、姉を自分の手で殺すことになったとしたら、私も同じことを思うかもしれない。鬼への憎しみだってあるだろう、姉を鬼に変えたのは鬼なのだから。だけどそれ以上に、自らの手で大事な者を殺めるというのは心に大きな苦しみを与える。

 

 きっと彼が最も罰を与えたいのは鬼ではなく、ずっと自分自身だったのだろう。死んでもいいのではなく、彼はずっと死にたかったのだ。姉を殺してしまった自分を、愛する家族を殺した自分を、彼は赦すことができずに、蹲って、もがき苦しんで、引きちぎれてしまいそうな心で無理矢理歩き続けた。

 

 

 それが雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)という男で有り、嘗て私が彼に感じた空虚な違和感の正体。

 

 

 この蝶屋敷で彼に初めて会った時に感じた違和感、あの時姉は彼には彼自身の想いがないとそう言っていた。その予想は大部分はあたっていたが、1番理解していないといけなかった場所はそこではない。そもそもあの時の彼には生きようとする意思がなかったのだ。例え、死んでしまっても、それは自らの犯した罪に罰が与えられただけ。彼からすればようやく罪から解放されると言った心境なのだろう。

 

 生きる意志もなく、わずかに残った憎しみの感情だけで自らに課せられた義務のように鬼を殺し、いずれくる死を彼は待ちわびていた。

 

 だが、皮肉にも彼には空の呼吸への適性があり、死ぬことも出来ずに、今日には階級を甲に至るまでの実力をつけた。

 

 それは一体、どれほどの苦しみだったのだろうか?

 私は最愛の姉を鬼によって殺されたことで、こんなにも胸の内を怒りと憎しみで焦がしているというのに。自らの手で姉を殺し、ずっと自責しながら、死にたいと思いながら生きることは、計り知れない程の苦しみと絶望だった筈だ。

 

 死を望み、鬼を殺す力を求める彼には空の呼吸という禁忌はきっと喉から手が出るほど魅力的に見えたのだろう。

 

「経緯は、分かりました。……ですが、医師としても私個人としても、貴方のその考えを認める訳にはいきません」

 

 例え信乃逗にどんな過去があろうとも、医師としては言うまでもなく、個人としても、彼のその破滅的な行いを見過ごすことは出来ない。この蝶屋敷で彼と共に働き始めてからすでに三年。これほどの間共に仕事をこなしてきた相手が死にたがっているなんて言う状況を放っておけるわけがない。

 

 

「まぁ、しのぶさんなら、そう言うと思いました」

 

 眉を寄せて苦しげな表情でそう言うしのぶに、信乃逗は思わず苦笑する。

 自分の過去を彼女が真剣に捉えて、その上で選んだ選択にある程度理解を示してくれていることは信乃逗にもわかる。そしてその上で彼女がそんな死にたがりのあり方を認める訳がないという確信もあった。だてに三年以上も一緒に仕事をしているわけではない。互いにある程度の考えは読める。

 

 まあだからこそ、しのぶが少し勘違いをしていることもわかるのだが。

 

「しのぶさん、今のは昔の俺の話です。今は少し違うんですよ」

 

 目を優しげに細めてゆったりとした口調で口にする信乃逗に、しのぶは訝しげに問いかける。

 

「……どう違うんですか?」

 

「今の俺は死にたいとは思っていないんですよ」

 

「…………」

 

「嘘じゃないですよ」

 

 優しげな微笑みを浮かべてそう言う信乃逗の瞳を、しのぶはことの真偽を見極めるかのように鋭い眼差しで見つめる。

 

 確かに、言われてみれば違和感はある。3年前の彼が昏睡におちいったあの時、彼からは確かに生きようとする意思を感じた。もしも死んでもいいと思っていたのなら、彼はきっとあの時の傷で死んでいた筈だ。となれば、今の彼の話にも信憑性が出てくる。彼のそれまでの価値観や考え方を変えてしまう何かがあった。彼の破滅的な想いを何かが変えてくれたのだ。

 

 

 その何かに、思い当たる節がなくもない。

 

 

真菰(まこも)が教えてくれたんですよ。俺が姉さんに振るったあの刃は間違いじゃないって。姉さんの願いを叶えるために頑張っただけなんだって、姉さんは凄い人だって……そう言ってくれた。彼女は俺に、俺が見ようとしてこなかった俺自身の想いを教えてくれた」

 

 

 (あぁ、やっぱり……)

 

 だから彼は真菰さんに想いを寄せたんだ。ある日突然真菰に対する態度が変わった信乃逗の様子をしのぶは思い出した。幸せそうに2人で会話をして、ウブな子供のように顔を赤く染めていた彼はきっとあの時、救われていたのだろう。自分では気づくことのできなかった彼の心の悲鳴に彼女は気づいてそっと手を差し伸べていた。

 

 だけど、なら、どうして彼は以前と変わらないように振る舞える?

 苦しむ彼を救い上げ、手を差し伸べてくれていた彼女はもうこの世界のどこにもいないというのに。それまでの心の在り方でさえ変えてしまうほどの愛を持っている相手を再び奪われて、貴方は……どうしてそんなにも笑っていられるの?

 

 気になり始めたその疑問は、しのぶの中で膨れ上がり続け、やがてポツリと口から漏れ出た。

 

「……どうして、どうして雨笠(あまがさ)君は変わらずにいられるんですか?」

 

「……ぇ?」

 

「貴方は鬼が憎くはないんですか?」

 

 口から漏れ出たその言葉を信乃逗もそして言い放った本人であるしのぶですらも一瞬理解出来なかった。

 

(っ……私、なんて馬鹿なことをっ)

 

 僅かに遅れて自らが放った言葉の意味を理解したしのぶは内心でそう苦慮する。明らかな失言だ。鬼殺隊の隊士に、鬼に身内を、愛する者を殺された者に対して、行ってもいい質問ではない。普段のしのぶであれば絶対にそんな愚かしい質問はしなかっただろうと断言できる程に、その答えは明白だった。

 

「ごめんなさい、失言でした。忘れて「憎いですよ」っ……」

 

 忘れてくださいとそう言いかけた時、しのぶの言葉に被せられるようにして信乃逗は口を開く。

 

 その内容はしのぶの想像通りのもの、いや、誰が聞いたのだとしても予想できる回答だった。

 

「無茶苦茶憎いですよ。赫周(かくしゅう)のことを思い出すと今でも腹わたが煮えくり返ります。あの野郎の首を落としたのが俺ではないというのがまた実に腹立たしいです。……でもって、目の前で大事な人を守れなかった俺の無力が一番憎い」

 

「…………」

 

「しのぶさん、俺は弱いです。こんな呼吸に頼らなきゃ、剣士として立つことすら出来ないほど俺は非力で、無力な男です。でも、俺はそれでも、戦いの場から離れるわけにはいかない。いつかくる終わりの時まで、俺は刀を握り続けたい。鬼が憎いからじゃありません。死んでしまった仲間の想いを途切れさせないように、今度こそ守りたい人を守りきれるように、俺は強くありたいんです」

 

「守りたい人?」

 

 信乃逗の覚悟に染まった瞳を一身に受けて、しのぶは思わず呟く。空の呼吸を使い続けてまで戦うというのは当然彼にとって非常に危険を伴う選択だ。それでも尚今の言葉が出るというのなら、己が身を犠牲にしてでも守りたい人がいると彼ははっきりとそう言っていることになる。この表現からして、その対象はすでに故人となっている真菰ではない。なら彼女以外に彼にここまで言わせるほどの相手ができているということになる。そんな兆候には全く気づかなかったが、一体いつの間に……

 

 そんな風に疑問に思っているのが顔に出てしまっていたのだろう。私の質問とも言えない呟きに彼は苦笑して答える。

 

「貴方のことなんですけどね」

 

 

 

「…………ぇ?」

 

 一瞬彼が何を言っているのか、しのぶには理解できなかった。貴方とは、誰のことだろうか?だが今この部屋にいるのはしのぶだけだ。貴方という言葉が該当するのは自分しかいない。何より、常世の闇のような深い黒を宿した彼のその瞳は合わせ鏡のようにしのぶだけを写して優しげに細められている。

 

「前にも言ったでしょう?俺は、俺達の命を何度も救ってくれたこの蝶屋敷のみんなを、しのぶさんを守りたいって」

 

 その言葉にしのぶは目を見開く。

 

『俺は強くなりたい、もう大事な人を亡くしたくないんです。みんなの想いを叶える為に、強くなって今度こそ誰かを守れるようになりたい。こんな俺に良くしてくれた、きよちゃん達を、しのぶさんも守れるくらい強くなりたい。だからどうかご指導頂けないでしょうか』

 

 以前、そう言って頭を下げてきた信乃逗の姿がしのぶの脳裏に思い起こされる。

 

 あの時、たしかに彼はそう言って私に教えを乞うてきた。だが、それは修行をつけてもらうための方便のようなものだろうと勝手にそう思っていた。

 

 しかし今、目の前にいる彼がそんな方便をいう理由はない。ならば、彼は本気で言っているのだろうか?己が身の破滅を見据えながら私達を守りたいなどと、そんな自己犠牲を本気で願っているというのか?

 

 

 信乃逗がやろうとしていること、その本質を理解した途端、しのぶは悟った。

 

 

(……私に、彼を止める資格はない)

 

 

 

 自分が今から行おうとしていることと、彼がやってきたことは本質的には何一つとして違わない。自分と全く同じ想いを彼はとうの昔に覚悟し、実行していたのだ。そのことに、言いようのない奇妙な感覚をしのぶは感じた。

 

 

 

「力を求める今の俺に、空の呼吸はぴったりなんですよ。だから、この呼吸を選んだことに後悔はないです。何しろしのぶさんは強いですからね〜。強いしのぶさんを守るには俺も強くなくちゃ話になりません」

 

 

 トクンッとしのぶの心臓が平時とは違う脈をうつ。

 

 

 先ほどまでの真剣な雰囲気を感じさせない、おちゃらけたように笑う信乃逗の笑顔からしのぶは視線を晒すことができない。

 

 顔が熱い、心臓の鼓動がいつもより随分と大きく聞こえる。

 

 

(な、に……これ?)

 

 

 体験したことがないその現象に、しのぶは一瞬戸惑う。

 ドクンッドクンッと激しく感じる拍動にしのぶは思わず左胸に手を当ててしまう。

 

「俺は、俺の守りたいものの為に、今できる全力を尽くしたいんです。いずれ、人として致命的に壊れてしまうのだとしても、いつか訪れる終わりの瞬間を後悔で終えたくない。預かった想いを皆の夢に届ける。そして今度こそ、俺は俺の守りたいものを守る。しのぶさんも、しのぶさんの大事なものも全部守ってみせる」

 

 

「ッ〜〜〜!!」

 

 

 一切視線を逸らすことなくしのぶの瞳を見据えて誓いを立てるかのようにそう告げる信乃逗に、しのぶは今度こそ顔から火が出たと思った。

 

 

 頬が熱い、鏡を見なくても自分の顔が真っ赤に染まっていることがはっきりと分かる。拍動は強まるばかりで、一向に治まらず、いっそ苦しくすらある。こんな経験は今までしたことがない。

 

 

 しかし、しのぶの優秀な頭脳は経験のないその現象にも短時間でその正体に思い至った。至ってしまった。

 

 

(不覚っ!一生の不覚っ!)

 

 

 理解した瞬間、しのぶは顔を下に向け、内心であらんかぎりに叫ぶ。

 

 信乃逗とは比較的長い付き合いになる。おっちょこちょいで、すぐ怪我をしてくるし、すぐに調子にのる、世話のかかる弟のような存在が彼だった筈。故にそれはあり得ない。あってはならない。年下の、それも信乃逗の姿にときめくなんて、そんなことは断じて有り得ない。

 

 

(落ち着きなさい、しのぶ。感情が制御出来ないものは未熟者)

 

 

 乱れに乱れる心をなんとか鎮めようとしのぶは自分にいい聞かせながら深呼吸をする。そもそも異性に向かってこうも堂々と必ず守るなどという言葉をはく彼の神経が信じがたい。これはまるで口説かれているようではないか。

 

 しのぶは美人だ。その見た目故に当然異性の目を惹きやすい。言い寄られたことなどそれこそ数知れぬほどあるが、こうも真正面から堂々と迫られたことはなかった。

 

 それ故にいつになく動揺してしまう。

 

「えーっと、だから、その、そんなに怒らないで欲しいかなぁ〜、なんて……」

 

 突然顔をうつむけて、深呼吸を始めたしのぶの姿に何を勘違いしたのか信乃逗は全く見当違いの話を始める。

 

(はぁ〜この男は……)

 

 そんな信乃逗の姿に冷静さを取り戻しつつあった、しのぶは内心で盛大に溜息をつく。

 

 狙ってやっているわけではないのだろうが、よくよく考えるとこの男は昔から女性に対してこういう誤魔化し方をするところが多々見受けられた。あんな言葉を堂々と恥しげもなく口にするあたり、きっと彼は天性の女たらしだ。信乃逗のことをよく知らなければ告白でもされていると勘違いしてしまうところだった。

 

 そもそも、今は彼が症状を黙っていたことを糾弾していた筈。なのにどうして私が顔を赤く染めて俯かなくてはならないのか、これでは完全にいいようにあしらわれているかのようではないか。

 

 

(なんだかだんだん腹が立ってきたわね)

 

 

「あの〜、しのぶさん?」

 

「ふふふっ、別に私は怒ってなんかいませんよ。えぇ、そうですとも、私は全く、全然、怒ってなんかいません」

 

「あははっ〜……嘘だぁ〜」

 

 やっと顔を上げたしのぶの表情を見て信乃逗は確信する。

 

 怒っている。目の前にいる女性、胡蝶しのぶは間違いなく怒っている。微笑みを浮かべるしのぶの姿は確かに一見すれば怒っていないように見えるだろう。だが、本当に怒っていない人間というのは額に青筋を色濃く浮かび上げたりはしないものだ。

 

「いえいえ怒ってなんかいませんよ〜。ですがそうですね。そこまで言うからには必ず守ってもらわないと困りますね」

 

「えっ…それは勿論そのつもりですけど」

 

 当たり前のようにキョトンとした様子で口にする信乃逗の様子にしのぶは再び心を乱される。

 

(ッ〜〜!!本当にこの男はっ!)

 

 しのぶは再度深呼吸をすると、そっと右腕を信乃逗へと伸ばしていく。

 

「……では、約束です。指切りでもしましょうか」

 

「いいですけど、俺、腕動かせないんで振ったりしないでくださいよ」

 

「貴方は誰にものを言ってるんですか?それくらい私が分かっていない訳ないでしょう。君は指だけ伸ばせばいいんですよ」

 

 怪我の治療をした張本人がその程度のことが分からない訳がないだろうと、しのぶは呆れながら信乃逗の小指に自分の指を絡める。

 

「じゃあ、はい、これで指切りです。嘘をついたら、一生私の薬の被験体になってもらいますからね」

 

「うわぁ〜、それはとてつもなく不味いですね」

 

「嘘をつかなければいいんです」

 

「まぁそのつもりですけど」

 

 肩を竦めてそう言うしのぶに信乃逗は苦笑しながら答えると、しのぶの瞳を見据えてそっと笑いかける。

 

「約束です。でもその代わりしのぶさんはもう少し体を大事にしてくださいよ?女の子なんですから」

 

 自分の研究の為、治療の為に何日も寝ずにいることが多い彼女を蝶屋敷のみんなも信乃逗もとても心配しているのだ。最近ではよくアオイに強制的に寝台まで運ばれているが、それでも一度波に乗ると懲りずに何日も寝ないのだから手に負えない。少しは自重するようにという意味合いからでた信乃逗のありがたいお言葉だった。

 

「貴方が体を大事になんて鏡でも持ってきましょうか?……まぁ努力はしましょう」

 

 視線を合わせまいとしのぶは信乃逗から顔を背ける。もしも信乃逗の色覚が狂ってさえいなければ堪能出来ただろう。朱色に染まった彼女の耳の可愛らしさを。

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
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皆のもの、しのぶ神がご降臨なされたm(_ _)m


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いつも通りの蝶屋敷

 

「はぁー」

 

 人々が動き始める朝の時間、負傷した信乃逗(しのず)は寝台の上で盛大に溜息をついていた。

 

 

 先日、3年近くに渡って隠し通してきた自らの体の異常を、ついにしのぶに気づかれた。

 

 徹底的に追い詰められ、気付いた時には手遅れなほどの情報を与えてしまっており、その手際の良さは見事と称する他ないほど素晴らしい計略だった。

 

 

 もはや素直に話す以外の選択肢も取れなさそうだったので、体の異常から空の呼吸の正体まで、門外秘密と言われている情報も全て話してしまったわけだが、案の定、物凄く怒られた。

 

 

 あんなに怒り心頭なしのぶを見たのは本当に久しぶりだ。カナエ様が亡くなるまでは結構な頻度で怒らせていたのだが、その中でも歴代1位の座を勝ち取っているかもしれないほどの激情っぷりだった。目尻を吊り上げ睨み付けるように此方を見る姿など、いつもおおらかに笑っている印象がついているしのぶからは想像も出来ないという奴がきっと大半だろう。かなり貴重な表情で信乃逗としてもなぜか役得感を感じていた。

 

 

(しかし、困った。いや、ほんとどうしよ)

 

 

 が、しかし、そんな信乃逗は今、かなりの困難に直面していた。心の底からどうしよう?とそう考えて悩んでしまうような状況。

 

 

 

 一体何をそんなに悩んでいるのかといえば……

 

 

 

「はい、次はこれです。口を開けてください」

 

 

 これだ。またかと思ったそこの君、うん、俺も思うよ。

 

 

 見るものを虜にしてしまいそうな笑みを浮かべながら匙を差し出してくる悪魔、もとい女神の存在。

 

 笑顔で嬉々として何やら赤い液体に満たされた匙を口元へと近づけてくるしのぶに頬を痙攣らせながら信乃逗は口を開く。

 

 そっと赤い液体が匙から溢れないように、しのぶは信乃逗の口に匙を運び、口内にゆっくりと匙を傾けて赤い液体を信乃逗の口に含ませる。

 

「どうですか?」

 

 匙を引きながら、上目遣いにしのぶは信乃逗へそう問い掛ける。

 

 

 ギリッ

 

 

 室内に響く異音。

 それは歯を食い縛る音だったのかもしれないし、誰かが万力でもって拳を握った音なのかもしれない。少なくとも発したのは信乃逗ではない。

 

 

(あ〜あ、もうほんとね。……死にたい)

 

 

 見るものが見れば、男女がいちゃこらしているようにしか見えない光景。そんな光景は男所帯の鬼殺隊では御法度。許されるものではない。当然そんなうらやまけしから光景を鬼殺隊の馬鹿共、もとい隊士が和やかに見つめれるわけがない。

 

 

 信乃逗に向けられる数多の怨嗟の視線。まして、今いちゃこら中の相手は鬼殺隊の女神とまで称される輝かしき乙女、胡蝶しのぶ。赦されようはずもない。

 

 

 僅かに開いた病室の扉の隙間からあらんかぎりの恨みを込められた視線という名の凶器が信乃逗の体に深々と突き刺さる。

 

 

「おのれ信乃逗〜!真菰(まこも)ちゃんに加え高野(たかの)ちゃん、そしてあろうことか胡蝶様まで毒牙にかけるとは、なんて羨まし、最低な奴なんだっ!!……許せんっ許せんぞッ、てめーら!『キサツタイ』に召集かけんぞッ!」

 

「「「おうっ!」」」

 

「ねぇー清水さん。なんであの人、私の時は食べなかった癖にしのぶ様のは食べるんですかね。やっぱり胸?男は胸がないと駄目なわけ?」

 

「男どもはいつも通りだからいいけど、高野ちゃんは一回落ち着こうか〜。目から光が消えてるよ」

 

 ワイワイガヤガヤと病室の外から聞こえてくる怨嗟の声の数々に信乃逗はすでに疲労困憊気味であった。

 

 

(なんでこの屋敷ってこんな馬鹿しかいないんだろう?最終選別以外にも試験追加するべきじゃない?主に知能面の方で)

 

 

 『キサツタイ』ってなんだよ。何処の馬鹿の集まり?山本に至っては自分の願望垂れ流しだし、他の連中も同じだろ。あとなんでちゃっかり高野と清水まで混じってるの?どんだけみんな暇なの?仕事しろよ、鬼狩り行けよ。そもそも他人の病室を覗きにくること自体がおかしいということに気づいて欲しい。覗きは犯罪、これ常識。

 

 

(まぁ、問題は外の連中より……)

 

 

雨笠(あまがさ)君、聞いているんですか?」

 

 若干むすっとしたような様子しのぶが問いかけてくる。

 

「こっちだよな」

 

「何がこっちなんですか?」

 

 キョトンと首を傾げて答えるしのぶに信乃逗は溜息をつく。

 

「……しのぶさん、分かっててやってますね?」

 

「なんのことでしょう?」

 

 微笑みを浮かべて首を傾ける彼女のなんと白々しいことか。

 そもそも柱でもある優秀な剣士の彼女がこんなにも悪意の籠もった視線の数々に気付かない筈もない。扉の外の騒動も、四方八方から感じるギラギラとした視線も彼女は間違いなく気付いているはずなのだ。そして気付いていて尚、続けている。

 

(嫌がらせもいいところだな)

 

 態とだ。彼女のこの一連の行いは信乃逗に対する意趣返しのようなものだとそう確信している。

 

 鬼殺隊は基本的に男所帯である。確かに女性隊士もいるにはいるが、その数は全体の2割に届くか届かないかと言ったところだ。そんな中で相手を見つけるというのは中々に困難だ。市中に相手を見つけようにも鬼狩りに生きる彼等と一般人では価値観も生活の時間帯も全く合わない。そしてこれが一番の問題なのだが、鬼殺に関わるものの命が長く続くことはほとんどの場合ない。大抵の隊士は戦えばそう長くないうちに死んでしまう。いつ死ぬかも分からない相手と添い遂げたいと思える人間というのはそれほど多くはない。ましてそれが隊士同士であるなら尚更。

 

 だから、鬼殺隊の多くの隊士は相手を作らない。作れないとも言えるが。相手は欲しいが実情を考えるとどうしても尻込みしてしまう。でもやっぱり相手が欲しい。そんな思春期の学生が恋愛感を拗らせたかのような集団こそが鬼殺隊なのだ。

 

 そんな集団の中で抜け駆けをしようものがいれば、それはまあ注目もされるだろう。しかも相手は胡蝶しのぶという絶世の美人。いつの世も美人と付き合う男など射殺されんばかりの視線を浴びるのが摂理というもの。

 

 そして目の前の彼女はそれをよーく理解している。

 いっそ清々しいほど堂々と、まるで見せつけるかのように、手に持つ匙を一人の男の口元へ運び続ける彼女の姿に外の男どもは歯を食いしばって涙を流している。哀れな。

 

 

(なんでこうなったんだろうか……)

 

 

 そもそも何故しのぶが信乃逗に匙を運ぶことになったのか、ことの始まりは先日、信乃逗が無自覚に、告白じみた約束をたてたことで終わったかに見えた話の後にある。

 

 

 

 

 ーーー

 

 

 

「では、治療の話をしましょうか」

 

「……はい?」

 

 突然の治療宣言に一体何を言われているのか理解できない信乃逗はポケーッと口を開けて問い返す。

 

「貴方が私に黙っていた理由も、そうなってまでその呼吸を使い続ける理由も、まぁ鬼殺の剣士である以上、一応納得しておきましょう。ですが、それを放置するかどうかは別問題です。まずは私にはどうにもできないなどと判断した貴方のお馬鹿な脳の治療方法の模索から行いましょうか」

 

「あの〜、しのぶさん?」

 

「いえ、それよりはまずは舌の状態の確認がいりますね。色覚の方も色々と確認しなければいけませんし、他の症状が出ていないとも限りません……」

 

「もしもーし、しのぶさ〜ん?聞こえてますか〜?」

 

 と、まぁこのようにしのぶは信乃逗の言葉など耳に入らないとばかりに、一人で黙々と治療計画を立て始めた。医師としての誇り故か、彼女はどうやら、信乃逗がしのぶに相談したところで意味がないと判断したあたりがよほど気に食わなかったらしい。有無を言わせぬ空気を纏って病室を出ていく彼女の後ろ姿を信乃逗は呆然と見送った。

 

 

 もしもここでしのぶは止めることができていれば、あるいは違った未来もあったのだろうが、所詮はたらればの話。一晩しっかりと治療計画を練った彼女が次に病室を訪れたときにはもう何もかもが手遅れであった。

 

 

 昨日の怒り具合はなんだったのかと言いたくなるほど、意気揚々とした様子で信乃逗の寝台の隣に座った彼女は持ち込んだお盆にのせられた謎の液体が入った小瓶を見せつけるようにゆらゆらと揺らすと

 

 

「では、治療を始めましょうか」

 

 

 そう言って花が散るように、可憐に微笑んだという。無論散った花は彼岸花だ。

 

 

 

 

「それで?どうなんですか?何か感じますか?」

 

 聞こえてきたしのぶの声に、信乃逗は過去へと飛ばしていた意識を現実へと戻す。

 

「どうって言われても、特に味は感じませんけどね」

 

「そうですか、これも駄目と」

 

 しのぶ曰く、この恥ずかしい食事風景は一応治療の一環らしい。なんでもまずは症状の詳細を確認する必要があるということで、しのぶが飲ませてくれた液体に何か違和感や感じることがあればなんでも言って欲しいと言われている。

 

 口に入った謎の液体を舌で遊ばせながら信乃逗は素直にそう答える。相も変わらず味は感じない。が、妙に舌が痺れるようなピリピリとした感じと喉が若干焼けるような違和感を感じる。

 

「あー、でも何か凄い舌が痺れるというか、喉が熱いというか、顔から汗が出るというか、……これは一体何を飲ませたんですかね?」

 

「なるほど、触覚はある程度まともなんですね。発汗機能にも問題はないと」

 

 しのぶは手元にある紙に何やら書き足しながら、そっと呟く。結果を紙に纏めているのだそうだ。薬の実験の時も彼女は同じように、そうやって得られた情報を整理していたようだから、今回もああやって考察してくれるのだろうが……

 

 

(そこはかとなく、怪しい実験に付き合わされているような気がしなくもないんだが)

 

 

 実際、彼女はこの作業を始めてから何やら妙に生き生きしているし、心なしか口調も普段より明るい気がする。治療という名目で半ば趣味の実験になっていやしないだろうかと思わなくもないのだが、折角機嫌良さそうにしているところにそんなことを言うほど信乃逗も無粋ではない。

 

 

(本当は、ずっとこうしていられた方が幸せなのかな)

 

 

 刀を持ち、鬼を殺す姿よりもそうして、何かを考えながら唸っている今のしのぶの姿の方が正直なところ何倍も似合っている。そう言うと、きっと彼女は怒るのだろうが、それでもそう思わずにもいられなかった。

 

 

「ちなみに先程の液体は唐辛子を溶けるまで煮込んだものに、イナゴとバッタ、それからネズミの尻尾を混ぜ合わせた薬品です。羽虫程度なら、追い払える程度の効果があります」

 

「ブフーっ!?、ゴホッゴホっ!……あんた何とんでもないもの人の口に放り込んでるんですかっ!?」

 

「あら?人体には特に影響はありませんし、味を感じないのなら問題ないのでは?」

 

「おおありだわっ!?俺の心におおありだよっ!?」

 

 そんな訳の分からないものを飲まされて平然としている方が問題だろうと、信乃逗はあらんかぎりの大声で突っ込みを入れる。そもそも羽虫を追い払うような効果を持つ薬品が本当に人体に無害なのか改めて問い直したい。

 

 が、当のしのぶはそんな愚痴を聞いてやるつもりは毛頭ない。

 

「繊細な心ですね。はい、では次はこれです」

 

「……それはまともなんでしょうね?」

 

「…………」

 

「せめてなんか安心させるようなこと言ってくれません!?」

 

 問題無用。そう言わんばかりに微笑んで、また口元に匙を運ぶしのぶの姿に信乃逗は諦めたかのように項垂れて、ゆっくりと口を開く。結局、この日治療と称して飲まされた謎の液体は薬瓶にして20本以上にのぼったという。

 

 

 

 

「それでは、また。くれぐれも、くれぐれも安静にしていてくださいね」

 

 持ち込んだ全ての小瓶を信乃逗に飲ませたしのぶは、そう言って病室を後にする。

 

 

(思った以上に深刻ね)

 

 

 廊下を歩きながら、しのぶは先ほど信乃逗に飲ませた液体の結果を纏めた紙にそっと目をおとす。彼の体の異常を知ってから、何とかその症状を把握しようと動いているものの、結果はあまり良くない。味覚や色覚など明らかな違和感ならまだしも、記憶や人格、感情にまで影響が出ていればしのぶといえど把握しきれるものではない。特に脳の医療などほとんど未開発と言ってもいい分野で、しのぶにとっても不明瞭な部分が多い。かと言って一から勉強する時間もあまりないので、手っ取り早く味覚の状態を確認しようとしたわけだが……

 

「まさか全部味を感じないとは……」

 

 今回用意した液体は口から火が出るほど辛いものから、吐き気がするほど甘いもの、苦味のあまり気絶してしまうような物までかなりの種類を準備してきたのだが、信乃逗はその全てにおいて無反応だった。彼の話では、甘味はまだ感じることができると言っていたが今日の結果を見る限り、それも怪しいところだ。本人の申告がないので、無確定ではあるが、口内の触覚も怪しい。信乃逗に飲ませた赤い液体は拒否反応で咽せていてもおかしくはない代物だったのだが、彼は舌が痺れるとか喉が熱いとかその程度の反応しか示さなかった。

 

「やっぱり、どう考えても反応が鈍すぎる」

 

 思い返せば、塩水を飲ませた時も彼は咽せずに飲みきっていたし、目に涙すら浮かべていなかった。彼は味覚がないことにしか目がいっていないようだが、今回行った一連の実験から見ても彼の症状がそれだけではないのは明らかだ。

 

 

(進行している……)

 

 

 彼の話では、今の症状は進行するもので、10年程の間に感覚の全てが消失するという内容だった。彼が症状を認めてからすでに三年、残り七年はあるとしても僅かな間に味覚を完全に消失し、色覚にも異常をきたし、今触覚すら失おうとしている。

 

「……早すぎる」

 

 どう考えても、彼の話以上の速度で彼の体は異常をきたしている。このままの勢いで症状が進むのであれば、彼が剣士として生きれるのは二年あるのかすら定かではない。味覚はともかく触覚すら失えば普通の生活にすらも困難をきたすようになる。この上さらに進行して果ては視覚、聴覚すらも失うというのであれば、彼は無音の暗闇で朽ちていくことになる。最悪の想像にしのぶはゾッとしてしまう。

 

 こんな呼吸を考えついた人間も、それを使おうとする信乃逗も本当にどうかしている。

 

 しかし、当時の彼の心境を考えれば、責めることも難しい。悲しみと絶望の果てにたどり着いたのがあの呼吸だったというのなら、きっとそれは私が文句をつけていい代物ではない。それに過去の彼と今の彼では使う呼吸は一緒でも、使う理由がまるで違う。もう死を望む彼はいないのだから、今は生きようとする彼に少しでも時間を与えることが医師として唯一できることだ。それに、あれだけ格好をつけて守ると言ったのだから、そう簡単に死んでもらっては困る。

 

 先日の信乃逗の姿を思い出してしのぶは思わず俯いて頬を染める。

 

 異性にあれだけ堂々と守ると宣言されたのはしのぶにとっても生まれて初めての事だった。しのぶとて女。男に全く興味がないわけではないし、あれほどまで真剣な表情をされて言われれば照れの一つもする。意趣返しにと、今日は嘗て真菰(まこも)が信乃逗にやっていた『あーん』とやらをやってみたが、どうも彼にはあまり堪えた様子がない。むしろあまりの観客の多さにやっているこちらが恥ずかしい気分になる程だ。幸いにして信乃逗には気付かれなかったようだが、しのぶはいつ自分の心臓の音が彼の耳に聞こえやしないかと気が気ではなかった。かと言ってあそこまできて此方から引いてしまったのでは敗北感もいいところだ。

 

「はぁー、なんで私は張り合っているのかしらね」

 

 これでは(かえで)のことを言えない。弟子が好いている相手に師がせまってどうするのか、としのぶは自らの行いに溜息をついてしまう。そもそも彼の方も私を好いて言っているわけではない。単純に彼の怪我の治療を行ったことを彼が恩義に感じているだけで、彼の心は未だ真菰という一人の少女に向いている。正直、彼が真菰以外に心を向ける未来など全く持って見えないほどの溺愛っぷりだ。楓には少々荷が重いかもしれない。

 

 

(それに、恋愛なんて、今の私には……)

 

 

 あるいは鬼狩りなどしていなければ、普通の町娘のように結婚する道もきっとあっただろうし、恋の一つでもしていたかもしれない。だが、それも所詮、あったかもしれない未来の一つ。今ここにおいてもしもの話に意味なんてない。自分が今いる道も、これから進もうとしている道にも、姉が願った幸せな未来はないのだから。

 

「藤の花の毒の理論、これを実行すれば、私は……」

 

 静かな廊下でしのぶの小さな呟きがそっと響いて誰に聞かれることもなく消えていった。

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
ご意見•御感想等いただけますと幸いでございます。

正直原作でも時系列に不明瞭な点のあるしのぶの身体の毒をどのように解釈していくか非常に悩ましいヽ(´o`;


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同じ想い

最近気付いたんですが、この話、最初のあたりと最新話で文体変えすぎてるよね 笑笑

処女作なんで許してください(^人^)
時間ある時、もっといい文章に改稿してきますんで(╹◡╹)


 

「暑い〜」

 

 日照りが強く残暑の厳しい秋の朝、信乃逗(しのず)はジワジワと汗に蝕まれる首元の布地を掴んでパタパタと上下させる。汗を吸って僅かに重みを増している布地が空気を肌へと送り、心地の良い風となる。

 

 

 まぁ、焼け石に水程度の心地良さではあるが……

 

 

「信乃逗さん、そんな意味のないことに手を使うより、私の荷物の方を持ってくださいませんか?」

 

 扇子を仰いだほうが幾分ましだろうというその涙ぐましい努力を無意味と断じた声の主人に、信乃逗がジト目で瞳を向ければ、上下黒の隊服に白い布地で薄らと花柄の紋様を透かした羽織りを着込んだ可憐な少女の姿があった。

 

「よくこんな暑い日に羽織りまで来てくる気になったな、高野」

 

 その言葉に信乃逗の視線の先にいる少女、高野(かえで)はムスッと頬を僅かに膨らませて不満気な表情をする。

 

「なんですか、その言い方は?折角のしのぶ様からの頂き物を肌身離さず着ていたいという私の気持ちがわからないんですかね?」

 

「分からんな、俺はほとんど着てないし。あと、それで俺がわかるって言ったらどうよ?」

 

「気持ち悪いです。一度浄化されてきてください」

 

「一瞬でもいいから悩めよ」

 

 間髪入れずに呟かれた言葉に信乃逗はげんなりとした表情で突っ込む。汗をかくような暑さの中を上下黒の隊服で歩いているのだ。体感温度は実際の気温よりも高い。あまりの暑さに意識をどこかに放り投げてしまい欲求を必死に耐えているというのに、その上でこの罵倒だ。信乃逗でなくとも項垂れるだろう。

 

「そんなことより、この荷物持ってくださいよ」

 

 気をおとしている信乃逗の姿など意にも返さず楓は信乃逗にそっと自分の手を塞ぐ手提げ袋を差し出す。信乃逗はそれをチラリと横目で見ると視線を上に自らの腕を抱えてふっと笑った。

 

「いや、俺の腕がまだ重いものはやめとっけって言ってるからさ」

 

「二週間も前に完治宣言されといて今更何を言ってるんですか?」

 

「…………ちっ」

 

 舌打ちまでして嫌そうに顔を背ける信乃逗の姿に今度は楓が信乃逗を呆れたようにジト目で見つめる。

 

「どれだけ嫌なんですか?私これでも女の子なんですから、少しくらいそれらしく扱って頂いても罰は当たらないと思いますけど?」

 

「女の子ねぇ」

 

 そっと呟きながら信乃逗は楓に視線を向ける。

 

「な、なんですか?」

 

 信乃逗の観察するかのようなじっとりとした視線を受けて楓はいぶかしげな顔をして一歩後ずさる。

 

 肩口でふんわりと揃えられた癖のある淡い栗色の髪に包まれた顔は小さな卵型で、大きな榛色の瞳の奥には凛とした光を宿している。スッと通った鼻筋の下に桜色の唇が鮮やかな彩を見せて、彼女の顔が如何に整っているのかを感じさせる。しのぶよりは僅かに高いがそれでも信乃逗から見れば小柄な身長で、すらりとした体型に黒を基調とした隊服で身を包み、腰に挿した白銀の鞘は彼女の着込んだ白い羽織りとよく似合っていて、彼女の魅力を一層引き立てている。

 

(まぁ、たしかに美少女ではある……が)

 

 ここまで外面だけを見れば欠点らしい欠点など皆無であるが、唯一残念と表現できる箇所があるとすれば、それは彼女の胸部。全くふくらみが見えない訳ではないが、信乃逗の周囲にいる人間と比較するのがおこがましいと言えるような胸部装甲に、信乃逗が視線を向ける。

 

「ふっ……」

 

 鼻で笑って視線を前に戻した。

 

「なっ!今どこを見て鼻でわらいましたか!?」

 

「どこって、まぁ……どこだよ」

 

「だからどこですか!?もうっ、最低です!信乃逗さんの変態っ!助平っ!女の敵っ!!」

 

 市場へと続く比較的往来の多い通りで突然放たれた怒鳴り声に周囲を歩く人々の注目が集まる。

 

 ちらちらと向けられる視線の数に信乃逗は慌てて楓へと詰め寄る。

 

「うわっ、馬鹿っ!こんな往来でなんてことを言いやがるっ!誤解されるようなこと言うんじゃねぇ!?」

 

「事実じゃないですかっ!ちょっと近寄らないでくれますっ!?」

 

 自らを止めようと近づいてくる信乃逗の姿に楓は両手で体を包み込むように抱きしめて信乃逗から数歩遠ざかる。その姿がまたなんとも誤解を招く光景を生んでおり、それを見る周囲の人間はヒソヒソと耳を寄せ合って会話を始める。

 

「変態だってよ、警察呼ぶか?」

 

「まぁ、男が女に言い寄ってみっともない」

 

「あぁ、なんだこんな朝っぱらから変態かよ」

 

「お熱いことで、燃え尽きればいいのに」

 

「高野ちゃんと逢瀬とか死ねばいいのに……」

 

 などなど、言われることは様々だ。

 

(最悪だっ!なんでこんな往来で変態扱いされにゃいけないわけっ!)

 

「ていうか最後のやつ!絶対隊士だろ!?誰だこらっ!?」

 

 ビシッと信乃逗は野次を飛ばす群衆に指を指して喚き立てる。

 

「お2人とも〜!どうなさったんですか〜?」

 

 そうやって往来で騒ぐ2人の元にとてとてと走って近づいてくる小さな影が一つ。

 

「あ、きよちゃん」

 

 蝶屋敷のちびっこ3人組の1人、きよだ。未だ幼いながらも蝶屋敷の看護婦として立派に仕事をこなす信乃逗の同僚だ。

 

「もう、振り向いたらお二人ともいらっしゃらないのでびっくりしましたよ〜」

 

 はぁはぁと息を吐きながら信乃逗と楓の元にたどり着くときよはムスッとした表情で2人に抗議の声を挙げる。

 

「ごめんね、きよ。無神経な男性がいたものでつい騒いじゃって」

 

「往来で、変態やら女の敵とか叫んでくれるのもなかなかに無神経だと思うけど……」

 

「女性の胸に不躾な視線を向けて、挙句鼻で笑うなんて無神経の鑑みたいなことしといて何言ってるんですか?」

 

「「むぅ」」

 

 文句を言い合って互いに不満そうに見つめ合う2人の様子をきよは溜息を吐いて見つめる。

 

「お2人とも仲が良いのは良いんですけど、早く買い出しの続きをしないと帰りが遅くなってしまいますよぅ」

 

 きよは手に持った大きめの手提げを掲げながら2人に向かって困ったようにそう告げる。

 

 この炎天下の中、3人が街中にいるのには勿論理由がある。今日は蝶屋敷の備品と薬の材料の買い出しに来ているのだ。本来ならきよと信乃逗の2人で赴くことになっていたのだが、たまたまこの買い出しについて聞きつけた楓が、これまた、たまたま暇だった為に手伝うといい、それをきよが快諾してしまったので現在に至るという訳だ。まぁ買い出しの量は基本的に多いので、荷物持ちが増える分には問題ないかと、信乃逗も了承したのだが、こんなことになるならやはり連れてこなければよかったかもしれないと、信乃逗は盛大に溜息をつく。

 

 蝶屋敷を出たのは割と早朝だったが、太陽の昇り具合を見るにもうまもなく正午だ。やらなければいけないことは沢山あるので、きよのいう通りこんなところで時間を使っていては時間が足りなくなってしまう。

 

「ったく、しょうがない急ぐぞ」

 

 上を見上げた信乃逗はそう言って楓へと手を差し出した。

 

「へ?……なんですか?この手は?」

 

 目の前に突然差し出されて信乃逗の腕に楓は思わず首を傾げてしまうが、その様子を見て信乃逗は心底呆れたと言った表情をする。

 

「お前、自分で荷物持ってくれって言ったんだろうが。ほら、重いんだろ?早く寄越せ」

 

「あ、ちょっと」

 

 時間がないと、やや強引に楓の手から荷物を取り上げると信乃逗は「暑〜」と言いながら通りをきよとともに進んでいく。荷物を取り上げられる形となった楓はそんな信乃逗の背後姿に「……ほんと、あついです」ボソっと耳を赤く染めてそう呟いた。

 

 

 

 

———

 

 

 

「そういえば、お昼はどうしましょうか?」

 

 日が完全に真上へと昇り、一層の暑さを感じさせる正午。頭に被る麦わら帽子を傾けながら、きよはそう言った。

 

 信乃逗はゴソゴソと動きにくそうに周囲を見渡す。背負った籠も手に持った籠もすでに半分は埋まっており、中々の重量感となっている。これでまだ半分程しか買い出しを終えていないのだから、蝶屋敷の物資不足もなかなかなものである。

 

「何処かの店に入りたいとこだが、この荷物だとな……」

 

 今3人がいる場所は人の集まる市場。当然、食事処は山ほどある。が、人が集まる場所であるが故に当然そう言った場所には特に人が多い。対して広くもない店にこんなに荷物を大量に抱えた3人は正直いって邪魔もいいところだ。昼時の、彼等にとっての稼ぎの時間帯ともなれば、尚更歓迎されないだろう。

 

 何処か客の少ない店はないかと信乃逗は周囲を見渡し、ふとひらひらと風に舞う暖簾を目にした。おそらくは赤いであろう暖簾に甘味処を示す文字。暖簾したに設置された簡易の長椅子。人も少ない開けた空間は荷物を大量に抱えた自分達にとって食事を取るのには最適な場所だ。昼時という時間も考えると此処以外に空いている店は他にないだろう。

 

 だが、そんな条件の良い店を前にして、信乃逗はその店にはいることに躊躇いを覚えていた。

 

「あ、彼処いいんじゃないですか?」

 

 偶然か否か、隣で辺りをキョロキョロと見渡していた楓も信乃逗の視線の先にある甘味処に目がいってしまったらしい。言うがいなや彼女はとことこと店に小走りで向かっていく。つられるようにして、半歩後ろにいたきよも楓のいる方に走り始める。

 

「信乃逗さん、早く来てくださいよ!席なくなっちゃいますよー」

 

「ぁ……」

 

 1人離れたところで呆然と佇む信乃逗に向けられた楓の言葉が彼の脳裏にいつかの懐かしい記憶を呼び起こす。

 

 

『何してるの信乃逗?早く来ないと席なくなるよ?』

 

 

 それは信乃逗にとってとても懐かしく、暖かい記憶。初めて真菰(まこも)と2人で買い出しに赴いた時、訪れた甘味処。店に入ることをしぶる信乃逗に早く来いとそう告げる彼女の姿と今目の前で、手を振って年甲斐もなくはしゃぐ楓の姿がどうしてか、重なって見えた。

 

 

(どうして……)

 

 

 どうして楓と真菰の姿がこんなにも重なって見えてしまうのだろうか。姿形も、性格も、声も、全てが違うのに、どうして彼女が真菰に似ていると感じているのか。何故彼女の行う行動に真菰の姿を幻視するのか。

 

 その疑問に答えてくれるものなど当然いないし、考えたところで直ぐに答えが出てくるものでもない。

 

 身の内に湧き上がるその疑問と、少しばかりの哀愁に蓋をして、信乃逗は呼び声に答えるように店に向けて歩を進める。

 

「お姉さん、餡蜜を二つください!信乃逗さんは何にしますか?」

 

「……みたらし団子を三つ」

 

「はいよ!」

 

 席につくなり注文をする楓の姿に思わず首を傾げる。

 

(いやに機嫌がいい?というかなんかうきうきしてる?)

 

「なあ?なんでそんなにはしゃいでるの?」

 

 先程まで暑い暑いとあれだけ項垂れた様子を見せていたというのに随分な変わりようだと、信乃逗は思わず内心の疑問を口に出す。

 

「え?……はしゃいでます?」

 

「ああ。初めて雪を見た犬みたいになってるぞ」

 

「……愛らしい光景ではありますけど、せめて人の姿に例えてくれません?まぁ私も女の子ですから、滅多に食べれない甘いものともなれば、機嫌だって良くなりますよ。ねぇ、きよ」

 

「はい!私も甘いものは大好きです」

 

「ああ、そういうもん?」

 

「そういうものです」と2人揃って笑い合う様子に信乃逗は良く分からないという感じに曖昧な返事をする。そういえば真菰もここで団子を頬張っていた時は機嫌が良かったし、しのぶさんも少ない時間を使って甘味処に良く足を運んでいたようだし、どうも男には預かり知らない女性ならではの感覚があるらしい。

 

(甘いってどんな感じだったかな)

 

 そっと運ばれてきた団子を口に運んで、信乃逗はそっと溜息を吐く。

 

「それにしても平和ですね〜」

 

 ふと、通りを過ぎゆく人々を見ながらきよはそう口にした。

 

 その言葉に信乃逗もそっと視線を通りへと向ける。

 

 確かに一見すれば賑わいを見せるこの街は平和そのものだ。ただそれは『今は』という期限付きのものになる。入り乱れる人の波は、この街の賑わいを表している光景でもあり、これだけの人々がこの街にいるということでもあるが、それはつまり鬼にとっての食料がそれだけ溢れているということにもなる。大きな街であればあるほど、人が多ければ多いほど、鬼の被害というのはその全容を把握するのが難しくなる。人が消えたり死んだりするのは、何も鬼だけが原因ではないからだ。人も人を殺し、時に拐い、人売りなどをしているものもいる。こういう栄えた街ではそういった被害も当然多い。その中から鬼の被害を断定するのは決して容易ではないのだ。この炎天下の中では鬼が活動することは出来ないが、一度日が沈めば、この街は鬼にとって格好の餌場になる。

 

 そこまで考えて、信乃逗はブンブンと首を横に振る。

 

(あー、いかんいかん。今のはそういう意味合いじゃないよな)

 

 思わず鬼殺の剣士としてこの街の危険性を考えてしまったが、きよが今言った言葉は決してそういう意味合いを考えてのものではない。ただ漠然と人が笑い合って、喋りながら歩く光景を見て彼女はそう言ったのだ。そんな薄暗い想定ばかりしていては折角の彼女の気分が台無しになってしまう。

 

 信乃逗にしてはまともな懸念であったが、一般的に見ればきよの発言も十分に異質だ。彼女と同じ年代の普通の少女がこの光景を見て平和と思うことはまずないだろう。普通に街に暮らし、通りを歩く彼女達にとってこの通りの光景は当たり前のものでしかない。毎日を笑顔で過ごせることがいかに貴重で、尊いものであるか、それをきよは知っているからそんな言葉が出てくるのだ。

 

 そしてそれは楓も同じ。

 大通りの光景を、空の青さを仰ぎ見て彼女はそっと呟く。

 

 

「そうだね。こうしてるとなんだか忘れちゃいそうになるよ。鬼に喰われてしまう人がいることも、鬼にされて苦しんでいる人がいることも、全部」

 

 

「……ぇ?」

 

 

 それは、誰が呟いた言葉だったのだろうか。きよか、あるいは鬼の存在など知らない店の主人か、それとも——

 

 

「うん?どうしたんですか、信乃逗さん?そんな呆けた顔をして」

 

 苦笑した楓の問いかけで信乃逗はようやく気づいた。自分が今どんな表情で彼女を見ているのかを。

 

 目を見開き、口を半開きにしているその表情は確かに呆けていると評するに相応しいものだろう。

 

(今……)

 

 楓からでた言葉に驚き表情を固める一方で信乃逗の内心は慌ただしく変化し続けていた。

 

 聞き間違いだろうか?彼女は今、鬼にされて苦しむ人とそう言わなかっただろうか?

 

 その言葉は鬼を憎む者から出る言葉ではない。鬼を人だったと、鬼もまた哀れな被害者なのだと、そう見ていなければ出ない言葉だ。

 

 鬼殺の剣士にとって鬼は家族を殺した仇であり、憎むべき脅威であり、滅殺するべき敵なのだ。彼らにとって鬼は救済の対象ではない。鬼はいつだって人に危害を加える加害者なのだから。

 

 これまで鬼の救済を謳った剣士は信乃逗の知る限り、たったの2人しかいない。1人は胡蝶カナエ、元花柱であり、現蟲柱、胡蝶しのぶの姉。鬼を哀れみ鬼の首を跳ねなくても良い方法を模索した非常に稀な剣士。そしてもう1人が、鱗滝真菰。人を守る為に鬼を斬るべき敵と見定めながら、鬼の想いを見ることをやめなかった少女。

 

「なぁ、お前今、鬼にされて苦しむ人って、そう言ったか?」

 

「…ぁ、その、言いましたけど……何か気に障りましたか?」

 

 おっかなびっくりという感じで、楓は信乃逗の顔色を伺う。

 

「いや、気に障ったんじゃない。ただ……珍しいと思ってさ」

 

「良かった〜」

 

 信乃逗の返した言葉に楓は安心したようにほっと息を吐き、そう口ずさむとニコッと笑った。

 

「こういうこと言うと怒る人もいるので、あんまり言わないようにしてるんですけど……ちょっと気が緩んじゃいましたね」

 

 「失敗です」と頬をポリポリと掻いて楓は苦笑した。

 鬼殺の剣士になるものには家族や大事な人を殺され、恨みを抱くものが多い。そんな中で鬼を哀れむような発言をすればある程度の反感は当然買うことになる。だから彼女が自分の気持ちを隠そうとする気持ちも分からなくもない。信乃逗とて、鬼に身内を殺された者の1人。鬼に対する恨みは相応にあるが、彼の姉の存在が信乃逗の心が鬼への憎しみで溢れることを辛うじて防いでいる。故に彼女が不安に思うようなことにはなり得ないのだ。

 

「なんで、鬼にされた人が苦しんでるって思うんだ?」

 

 鬼は自らの欲求を抑えることが出来ない。本能の赴くまま人を喰らい続ける、そういう生き物なのだ。

 

「うーん、多分、望んで鬼になった人ってそんなにいないと思うんですよ。鬼の存在なんか知りもしなかったのに、ある日突然鬼にされて人を食べないといけなくなる。それってきっと凄く苦しいことですよね。私だったらきっと耐えられない」

 

「……鬼に変えられた時点でそんな感情すらきっと無くなっていると思うけど」

 

「でも、変えられなければ人間だったんですよ。彼らはみんなただの人間で鬼に変えられてしまった、私達が救うことのできなかった人達なんですよ。今の私達には彼らを殺すことでしか彼等を止められないけど……いつか、きっといつか鬼を殺さないでもいい日がくるんじゃないかってちょっと夢は見てます」

 

 

 ニッコリと微笑んで夢を語る楓の姿が信乃逗の脳裏に、一人の少女の姿を呼び起こす。

 

 

(あぁ、同じだ。彼女は、真菰と同じだ)

 

 

 『鬼は人だった。人が鬼になった』

 

 嘗て、真菰が信乃逗に語った想い。

 鬼をただ殺すべき敵として認識するのではなく、あくまで自分達の力が及ばず救えなかった人間として見ている。そしてその上で、彼等を殺す覚悟をしている。

 

(……強い、な)

 

 彼女の実力は決して弱くはないが、強者として見ることは難しいとそう思っていた。実際、その実力は柱には遠く及ばないし、先日での合同任務の時のようにところどころで詰めが甘い点も多々見受けられる。戦闘力という点で見れば楓は確かに強者とは言いがたい。

 

 だが、その心の在り方はまさしく持って強者と呼ぶに相応しいものがある。鬼を敵だと、人を殺す邪悪なのだと、多くの剣士はそう思って刀を振るう。鬼に妙な情をもち、その刃を鈍らせれば、命を落とすのは自分自身。故に真菰の想いも、カナエの想いも、周囲の理解を得ることは決してなかったし、彼女達の想いを継ごうというものもまた同等にいない。

 

 仲間の想いを汲み、果たされなかった彼等の想いを彼等が夢見た世界へと持っていく、それを目指す信乃逗にとって、彼女達の想いを継ぐ者が現れないことは何よりの絶望だった。

 

「まあ、結局は鬼無辻無惨が諸悪の根源な訳ですから、鬼無辻を倒せばみんな鬼から人に戻るとかだったらいいんですけどね」

 

 だが今、何の因果か、目の前に彼女達の想いを汲み取ることができる者が現れた。

 

「あの〜信乃逗さん、どうしてそんなににやけてらっしゃるんですか?」

 

 不意に正面の長椅子に座るきよがいい辛そうにそう言ってくる。

 

「うわっ、ホントだ。信乃逗さんそれは気持ち悪い感じのやつですよ」

 

 横合に座っている楓もきよの声に、ヒョっと顔を覗き込むと、頬を痙攣らせている。

 

 女性陣2人のあまりの反応に信乃逗は思わず口元に手を当てる。指に当たる感触に確かに今自分の口角は上がっているのだとそう自覚して、信乃逗は急激に顔を赤く染める。

 

「「ぶふっ!」」

 

「……汚いよ、君達」

 

 顔を俯け口元を抑えて咳き込む2人の様子に信乃逗は思わずそう呟く。

 

「だって……信乃逗さんがそんな初心な女の子みたいな反応を急にするから」

 

「う〜今のは不意打ちですよ〜」

 

 言い訳を重ねる2人を半目で見据えて信乃逗はそっと苦笑する。

 

「きよちゃん、君は女の子なんだからこんな往来の激しいところでそういうことはしちゃ駄目だ」

 

「うー、すいません。反省してます」

 

「あの、信乃逗さん?その言い方だと私は女の子じゃないみたいに聞こえるんですけど」

 

「……さぁ、食べたら買い物の続きに行くか」

 

「無視!?せめて一言くらい言ってくれません!?」

 

「おばちゃん、お勘定!」

 

「目も合わせませんかっ!?むきぃぃぃ!」

 

 信乃逗は懐から銀貨を取り出すと、猿のように喚き立てる楓を背にそっと歩き出す。

 

 この時、楓がもしも冷静に信乃逗のことを見ていればあるいは気づいたかもしれない。彼が意図して楓を見ないようにしていることに。その耳が未だに赤く染まったままであることに。

 




御一読頂きましてありがとうございます!
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楓の甘酸っぱい感じ、ちょっとは伝わったかな?
最初の頃よりは多少はマシになってきたと思いますけどまだまだ描写力が足りないかなぁ〜


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夕闇の恐怖

先に謝っておきます。ごめんなさい


 

 

「こんなもんかな」

 

 夕暮れ時、世界を赤く染め上げる茜色の空の下で3人はゆっくりと帰路についていた。その両手に大量の荷物を抱えて。

 

「これ、買い込み過ぎなのでは?」

 

 両腕にかかる重量感に楓は思わずと言ったふうに呟く。片手に三つずつ持った大きめの木編みの籠はすでにパンパンで正直なところ籠が途中で壊れないかと心配になる程だ。毎日買い出しをする訳にはいかないからある程度の買い込みは確かに必要だろうが、いくらなんでもこれは買い過ぎなのではないだろうか。

 

 そんな(かえで)の懸念にきよと信乃逗(しのず)は揃って首を横に振るとどこか遠くを見るような目でそっとぼやく。

 

「いえいえ、これでも足りなくて困るくらいです」

 

「今日の買い付けで大体10日持つかってところだ。全く持って足りん」

 

 そう言って溜息を吐いて哀愁を漂わせる2人の姿に楓は頬を痙攣らせて苦笑いを浮かべる。

 

 今日の買い出しは手に持った荷物以外にも、蝶屋敷に直接届けてもらう手筈の品が幾つもあった筈なのだが、それですら足りないとは余程の数の怪我人が出入りするのだろう。

 

 彼等の忙しさは話では聞いていたし、自らの師であるしのぶも常に何か仕事をしているような状態なので大体わかっているつもりだったが、この分ではまだまだ理解が足りなかったようだ。信乃逗どころか見た目幼いきよまでもが達観した老人のような目をして茜色の空を見上げている光景は流石に如何なものかと思う。

 

(私も手伝えるようになった方がいいのかな?)

 

 蝶屋敷の状況を見ると、手伝える人は1人でも多い方がいい気はするし、何より自分は蝶屋敷の主人であるしのぶの継ぐ子。師が従事する医療分野に全く手が出せないというのも、弟子としてはなんとなく不甲斐ない。かと言って手伝いますといって一朝一夕で出来る程簡単なものでもない。楓ができることといえばせいぜいが毒の調合くらいのもの、しかしそれでは蝶屋敷では全く役には立てない。

 

 まあ、そんな悩みをしのぶが聞けば、彼女は気にしないでいいと間違いなく言うだろう。楓はあくまで鬼殺の剣士としての弟子であり、医療従事者ではないのだから。

 

(修行に加えて、医療の勉強なんて正直できる気がしないんだけど……)

 

 今でさえ鬼狩りと自らの鍛錬だけで手一杯なのだ。この上で何かを新しく始めるというのは流石に無理がある気がする。とはいえ、自らの師であるしのぶはもちろん、一見、唐変木に見える信乃逗でさえ、その二足の草鞋をこなしているわけだから、不可能と断定するわけにもいかない。

 

 そんな風に楓が内心で唸っている時、ふと何かに気づいたようにきよが声を上げる。

 

「あれ?どうしたんでしょうか?」

 

 急に立ち止まって訝しげな声を出すきよの視線を辿ってみれば、その先には1人の幼い少女がいた。

 

 道の端に蹲るようにしてしゃがみ込んでおり、何やら泣いているようにも見える。この辺りは商店の倉庫の為の小屋がたち並んでいる地域なので視線の先にいるような少女の姿はあまりにも場所に似合わない。

 

 周囲に彼女の親らしい影も見当たらないし、もう日が暮れてしまうような時間に流石に泣いている女の子を放置するわけにもいかないだろう。荷物が重いので早く蝶屋敷に戻りたいところではあるが、こうなっては仕方ない。

 

 楓がそう思った時、同じことを考えたのだろう。信乃逗と視線が合い、互いに言葉もなく苦笑してうなずく。

 

 その頃にはすでにきよが少女の元に小走りで向かっており、2人もそっとその背中を追いかける。

 

 

 

 

 蹲っていた少女の名はひよりというらしい。

 親と共に買い物にきていたらしいのだが、どうやら途中で逸れて迷子になってしまったようだ。

 

 必死になって親を探しているうちに石につまづいてこけてしまったそうで、膝には擦りむいたような傷ができている。抉れたような傷から垂れる赤い血は、少女の体にはなかなかに痛々しいものになっているが、幸いここにはそう言った怪我の治療ができるものが2人もいる。

 

「傷口は水で洗いましたから、取りあえず当て布だけしておきましょう。本当は消毒するべきなんですけど生憎手持ちにはありませんから」

 

 慣れた手つきできよは傷口についた土を洗い流して買ったばかりの白い布で傷口を塞ぐ。途中痛みのせいか、ひよりは顔を顰めて目に涙を浮かべていたが、傷口に白い布を当てるきよに「ありがとう、ございます」と不慣れであろう敬語を使って謝意を示した。そのことから彼女がある程度育ちの良い子供であることはわかる。

 

「周りに子供を探しているような大人は見当たらないしな、どうすっかな〜」

 

「こういうのは警察の方に任せた方がいいのしょうが、私達が派出所や交番まで行くわけにもいきませんしね」

 

 楓の言う通り、迷子の子供を預けるというのであれば警察がもっとも無難ではあるが、こんな時間に帯刀している人間が警察などに向かえば即お縄である。鬼殺隊はあくまで政府非公認の組織だ。法律上帯刀を許されている警察官や軍人とは違い、本来刀を持っていていい人間ではない。

 

「そもそもこの辺りに派出所とか交番はないんだよな」

 

「一旦蝶屋敷まで連れて帰りましょうか?もうかなり遅い時間ですし」

 

 そう言われて信乃逗も空を見上げる。確かに治療やら周囲の捜索やらでいつのまにか陽は完全に暮れ、辺りはすっかり暗くなっている。空には月が上り始めているし、これ以上ここにいてもらちがあかない。

 

(高野の言う通り、一度蝶屋敷まで連れて帰って明日また親御さんを探す方が無難かな)

 

 人買いが横行する時代だ。誘拐扱いされると面倒なのだが、このまま彼女を放っておけばそれこそ人買いに拐われる可能性が高い。

 

 

「しょうがない、一旦っ!?」

 

 蝶屋敷まで戻ろうと、そう言いかけた時、信じられないほどの悪寒を感じて信乃逗は背後へとしなる枝が戻るような勢いで振り返る。

 

 

 背後に広がるのは夜の帳、街灯の少ないこの倉庫街ではこの時間は物音も少なくシーンと静まり返った暗闇が一層の不気味さを漂わせている。信乃逗の視線はその暗闇のさらに奥、その一点に集約している。

 

「信乃逗さん?」

 

 急に様子の変わった信乃逗の姿を楓は訝しげに見つめ、その視線を辿っていく。彼の視線の先、そこにあるのはいつも見ている夜の暗闇。

 

 そう認識したその時、スゥっと闇の帳の隙間から何かが浮かび上がる。一切の違和感も気配も感じさせることなく、そこにそれは現れた。いや、正確には気配はあった。ただそれに気付かなかっただけで。

 

 人はそれがあまりにも巨大なものであった時、その全貌を理解するまでにある程度の時間を要する。故に楓は最初、それがなんなのか理解することができなかった。例えるのであればアリがゾウを見た時。楓の今の状態を簡潔に示すのであればそれが最も妥当であろう。

 

(……お、に?)

 

 数秒遅れて楓はそれが唯人ではないことを理解した。

 そう、きっと鬼だ。あれは人ではない。あんなものが人であっていいはずがない。

 

 暗闇から現れたそれは姿形こそ明らかな人だが、その顔と中身はあまりにも人とはかけ離れた存在。

 

 だが、あれは自分の知っている鬼とは似ても似つかない。見ていることを躊躇われるほどの怖気、圧倒的なまでの威圧感、そして恐怖。

 

 腰に刀を差し着物と袴を着たて現れたそれは、六つの瞳を怪しく光らせてそこに立つ。その有り様はまさしく死そのものだった。

 

「高野っ!!」

 

 頬を叩かれたと錯覚してしまうような鋭い語気に、楓はようやく現実へと意識を戻す。

 

 声の聞こえたやや斜め上へと視線を向ければ、いつの間にか刀を抜いている信乃逗がこちらに一切顔を向けることなく、闇の奥底に視線を向けている。

 

(あれ?)

 

 そこで楓はある違和感に気付いた。首を上げる角度が随分と急だ。いつから信乃逗はこんなに背が高くなったのだろうかと悠長にも楓が疑問に思った時、信乃逗が普段より随分と強張った声で「立てるか?」とそう尋ねてきた。

 

(立てる?)

 

 そう言われてようやく楓は気づいた。いつの間にか自分が地面に座り込んでいることに。

 

「なんで、私……」

 

 急いで立ち上がろうと、足に力を込めるが、プルプルと震えてすぐに立ち上がることができない。数秒の時間をかけてやっとの思いで立ち上がったが、普段のように十全に動けるような状態ではないことは一目瞭然だった。

 

「高野、いいかよく聞け。俺が合図したら後ろの2人を連れて全力で蝶屋敷まで走れ」

 

 そんな楓の様子を窺い見たのか信乃逗は有無を言わせぬ強い口調で語りかける。

 

 楓がちらりと後ろを見れば未だ幼い2人の少女は突然変わった場の雰囲気に、どちらも何が起きているのか正確には理解できていない様子で戸惑っている。いや、おそらくきよはある程度理解できているのだろう。小さな体で何も知らぬ無垢な幼子を抱き抱えるようにして立っている。

 

(情けないっ)

 

 そんなきよの姿を見て楓の心中に思わず自らへの雑言が浮かび上がる。

 鬼殺の剣士ではないきよですら、幼い子供を守ろうと言う意思を見せているのに、自分は今立つことすらままならない状態になっていたのだ。あまりの情けなさに、楓は唇を強く噛み締めてしまう。

 

「誰でもいい、柱を1人、いや2人以上呼べ。俺じゃあ大した時間稼ぎは出来ない」

 

「信乃逗さん、あれは、なんですか?」

 

 視線を奥に戻した楓は喉から絞り出したかのような震える声で、信乃逗にそう問いかける。

 信乃逗はその問いにも振り返ることはなく、変わらず視線を奥に答える。

 

「お前も知ってるだろ?数多いる鬼の中でも鬼無辻のお気に入りの十二体の鬼を」

 

 ヒュッと楓は息をのむ。彼女はこれまで数多くの鬼の首をはねてきたが、その中に十二鬼月はいない。遭遇することすら稀なそれを今日初めて楓は目にした。

 

「十二鬼月、その中でも最も強い鬼に与えられる数字、上弦の壱。……あれは鬼無辻を除けばこの世界で最強の鬼だ」

 

 奥深い暗闇に浮かび上がる怪しい光、月の光を反射するかのような三対六眼のその瞳の真ん中には上弦 壱とそう確かに刻まれていた。

 

 




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上弦ノ壱

 

「あれが、十二、鬼月」

 

 話には聞いていた。そこらにいるただの鬼とは比較すら出来ないほど強力な鬼だと。より多くの人を食べ、より多くの鬼殺の剣士を殺してきた、まさしくもって悪鬼の集まりだと。

 

 正直、もしも十二鬼月と出会えたとしても(かえで)は自分ならば戦えると思っていた。多くの鬼を狩ってきたし、しのぶの継ぐ子として確実に実力を伸ばしてきている。今では鬼殺隊の中でも柱を抜けば上から2番目の階級にまでなれたのだ。強力な鬼であっても戦い方次第で十分倒せると楓は自信を持っていた。

 

 

 ……今日までは。

 

 

(……無理、よ。こんなの、どうやって…)

 

 

  —— 怖い。

 

 楓の心に湧き上がる純粋な恐怖。震える手足に懸命に力を入れながらも、心の内を覆う絶望の暗雲。楓には目の前に立つそれが、巨大な死の壁のように見えていた。あまりにも圧倒的なそれは、生命の持つ原初の恐怖心を蜂起させる。すなわち死にたくないと、楓はそれを理解した瞬間そう思ってしまった。

 

「……鬼を前にして座り込むとは……鬼狩りの質も…随分と落ちたのだな…」

 

 初めて、人の形をした化け物から言葉が発せられた。暗闇から初めて発せられたその言葉は、放たれる人外の威圧感とは対象的に、呆れと失望という人の抱く感情を色濃く映し出していた。

 

「そう言われてもね、俺はともかく後ろのやつはまだ経験が浅いんでな、勘弁してやってほしいんだけど」

 

(っ!?……すごい)

 

 楓は斜め前に立つ信乃逗(しのず)を畏敬の念を込めて見つめる。

 

 あれを相手に、あの圧倒的な死を相手に、信乃逗は会話をしている。心臓が止まってしまいそうなほどの威圧を真正面から浴びておきながら、微塵も臆した様子を見せず、堂々と問答をしている。

 

「ほぉ…お前は…中々の胆力を持っているようだ。……素質は悪くない……柱ではないのか?」

 

「残念ながら、まだ柱ではないな」

 

「……そうか。……未だ咲かぬ花を摘み取るのは…忍びないが…それもやもなし…」

 

 瞬間、楓の身体に強烈な悪寒が走る。と同時に彼女の視界を覆うように信乃逗が楓の正面に勢いよく飛び込んでくる。

 

 

 

—— 空の呼吸 参ノ型 轟雷天(ごうらいてん) ——

 

 

 

 猛烈な速度で技を出し、信乃逗は何もないように見える空間目掛けて天へと昇る稲光のように刀を上へと斬りあげる。

 

 ほぼ同時に、途方もない衝撃音が街に響き渡り、強烈な風が信乃逗を中心に巻き起こる。風によって巻き上げられた砂埃が煙となって、ただでさえ暗闇で見にくい視界を悪くしていく。

 

「走れぇっ!!」

 

 数歩先までしか見えないような土煙の中で、信乃逗の鋭い叫び声が響き渡る。

 

 それに促されるように、我に返った楓は動き出す。

 

 背後にある2つの小さな気配、それを両脇に抱えるようにして全力で駆け抜ける。遠ざかる信乃逗の気配、そして圧倒的な死の気配。

 

(信乃逗さんっ……死なないでっ)

 

 あの圧倒的な死の前で、それが如何に困難なことであるか、楓とて理解している。あれを前にして一体どれほどの人間が生きながらえることができるというのか。そう楓に思わせるほど上弦の壱はこれまであってきた鬼とは存在の格が違った。まして、今はその化け物の前に信乃逗1人を残して逃げてきたのだ。自分達3人が生き残るために、信乃逗1人を犠牲にするかのような選択。その上で死なないでなどと、遠ざかる彼の背に対して願うことのなんと愚かなことか。

 

 

 だが、楓はそれでも、それを理解しても、そう願わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…斬撃を上に弾いたか。……良い腕だ……」

 

 徐々におさまる土煙の先で、先程までと全く変わらぬ佇まいでいる上弦の鬼の姿。そして頬から鮮血を流して刀を構える信乃逗の姿。

 

「はぁ、はぁ、そりゃ、どうも」

 

 呼吸をわずかに乱したように肩を上下させるその有り様はすでに何十合と打ち合った後のようにすら見える。しかしその実、受けた攻撃は未だ一太刀のみ。

 

「…空の呼吸の使い手とは……遭遇するのは200年ぶりか……懐かしや」

 

 嘗ての記憶でもなぞっているのか、余裕綽綽な態度で持って語る上弦の壱の姿を見て信乃逗は口元をきつく噛み締める。

 

 

(ふざけやがってっ、たった一撃、たった一太刀受けただけで、身体中の気力も体力も全部削ぎ落とされたような気分だぞっ)

 

 

 今のあの攻撃、信乃逗は確かに防いだ。だが、もう一度同じことをやれと言われてできる自信は、全くと言っていいほどない。上弦の壱の攻撃の軌跡が信乃逗には見えなかったからだ。辛うじて右手が一瞬ぶれた、その程度しか把握できていない。さっきのあの技はほとんど勘だけで刀を振るっていた。たまたま、本当にたまたま防げただけの奇跡のようなもの。

 

 

(手応えから見て、今のは腰に差した刀の一閃のはず……)

 

 

 明らかに刀の間合いではないし、振るった刀の紫電すら追えなかったが、手に残るあの感触は間違いなく刀身が打ち合ったもの。あの鬼は刀を使ってくる。

 

 人の使う武器を、鬼が使ってくる。

 

 その事実が信乃逗の脳裏に赫周(かくしゅう)の姿を思い起こさせる。あの鬼が使っていたのは槍だったし、そもそも下弦の鬼だったので、状況で言えば全く違うが、ただでさえ身体能力の高い鬼が、人の編み出した技巧を用いて戦ってくるとなれば、その厄介さは言うまでもない。

 

 

(それにこいつ、呼吸を……)

 

 

 人の編み出した鬼に対抗するための唯一無二の技術。これ無くして鬼を倒すのは不可能と言ってもいいほどに、今では対鬼の必須技術。鬼を殺すとき鬼殺の剣士であれば誰もが使う技術だ。そうであるが故に幾人もの剣士を殺しているであろう上弦の壱が、呼吸の存在を知っていることにはなんら不思議はない。

 

 だが、この鬼はただ知っているのではない。

 

 たった一度、信乃逗が技を出しただけで、この鬼はそれが空の呼吸だと看破してみせた。一般的な呼吸ならまだいい。水の呼吸や炎の呼吸など使う人数が多ければそれだけ露見する可能性は高いのだから。

 

 しかし、空の呼吸は違う。あまりにも危険度の高いこの呼吸を使うものは滅多にいない。お館様の話が事実ならここ100年近く、まともに空の呼吸を使っている剣士はいない。そんな稀な呼吸をたった一つ技を見ただけであの鬼は見抜いた。

 

 危険だ。この鬼はあまりにも呼吸に詳しすぎる。200年前にどれだけの人数が空の呼吸を使っていたのかは知らないが、危険性を鑑みればそれほど数は多くはないはずだ。そんな中で空の呼吸にこれだけ詳しいのであれば、他の呼吸についても当然知っているはず。こちらの手札を知られているというのは非常に厄介かつ危険極まる。

 

 スゥーと信乃逗は深く息を吸う。乱れた呼吸を整えるために。目の前にいる鬼から一分一秒でも長く生き延びるために。

 

 

(攻撃が見えない以上、後手に回っていたらすぐに死ぬ。なら、生きる為に、こっちから仕掛けるだけだっ!)

 

 

 

—— 空の呼吸 弐ノ型 一迅千葬(いちじんせんそう) ——

 

 

 疾風の如く信乃逗は前へと駆け出した。抜き放たれた刀身が月の光を反射し一筋の閃光となって上弦の壱目掛けて突っ込んでいく。地面を擦るような低い体勢から斜め上へと刀を斬りあげるもそこに手応えはない。視界に映るのは先程よりも半歩後ろに下がってこちらを見下ろす六つの赤い瞳。

 

 

—— 空の呼吸 肆ノ型 燕戒(えんかい)(ろう)——

 

 

 避けられること自体は想定内。信乃逗は技と技の切れ目を感じさせぬほどの速度で剣戟を振るう。ほとんど同時とも思えるような瞬きの合間に振るわれるその刀剣は、しかし最強の鬼には擦りさえしない。まるで刀を振り始めた子供を相手にしているかのように、あまりにも造作なく、わずかな足運びだけで上弦の鬼は信乃逗の振るう刃を躱していく。

 

 

(くそったれっ!目がいいとかそういう次元じゃない、全部読まれてやがるっ!)

 

 

 全ての攻撃において、この鬼は最小限の動きで持って回避している。信乃逗の放つ技の全てがどういう剣戟でどこを狙ってくるのか、その全てを把握されているとしか思えないほど完璧に躱されている。あるいは心でも読めるのかと、そう錯覚してしまいそうになる程あの鬼の先読みは異次元だ。

 

 このまま攻撃しても、全て避けられる。なら……

 

 

(避けられないくらい広範囲を一気に叩くっ)

 

 

 

—— 空の呼吸 漆ノ型 破刃(はじん) ——

 

 

 

 上空へと跳躍した信乃逗は刀を強く握りしめ、腕を鞭のようにしならせて下方に無数とも思える剣戟を放つ。

 

 これまでの線や点での攻撃ではなく面での攻撃。それも上空から地面に向けられたそれは圧倒的な広範囲に及ぶ。僅かな足運びだけでの回避は不可能。一撃入れたと、信乃逗が確信したその時、視界に入るその姿に目を見開いた。

 

 

 

 スゥー、と息を吸う、いや、呼吸する鬼の姿。

 

 

 

 

 

—— 月の呼吸 弐ノ型 珠華(しゅか)弄月 (ろうげつ)——

 

 

 

 

 直後、降り注ぐ無数の刃は宙に放たれたわずか三つの斬撃にかき消された。それと同時に信乃逗の体から鮮血が吹き上がる。

 

 

「がはっ」

 

 

 そのまま弾かれたように地面へと勢いよく墜ちた信乃逗は、痛みに鈍る思考を全力で回転させながら何が起きたのかを把握しようと努める。

 

 

(ぐっ、今の、は……)

 

 

 信じられない。信じたくない。だが見間違いでなければあれは……

 

 

「はぁはぁ、鬼が、呼吸を使うなんて、はぁ、ありかよっ」

 

 

 思わず零れ落ちた信乃逗の言葉に、相も変わらず悠然とした立ち振る舞いで上弦の壱は答える。

 

「……人の使える技を……鬼が使えぬ道理は…ない」

 

「っ…なるほど……はぁはぁ、そりゃ、そうだわな」

 

 鬼は人だったのだ。人であったが故に人の思考概念を持つ。赫周が槍を扱っていたように、目の前の鬼が刀を扱うように、彼等は人の扱うものを当然使うことができる。呼吸もまたその例に漏れない。鬼を殺す為の技術を鬼が使うはずがないなどというくだらない固定観念がこの失態を招いた。

 

 口から滴る鮮血を拭うこともせずに、なんとか立ち上がろうともがく信乃逗の様子を、上弦の壱、黒死牟は感嘆としたように見遣る。

 

「……よもや…空の呼吸をここまで使いこなすものが……未だ存命だったとは……興味深い」

 

 元来、使えば使うほどに死に近づく空の呼吸の使い手は、成熟しきる前に息たえるのが常。故に数百年の時を生きる黒死牟ですら、信乃逗ほど練り上げられた技を放つ空の呼吸の使い手と打ち合う機会は多くはなかった。200年もの間遭遇しなかったことと言い、使い勝手の悪さを考えても空の呼吸は途絶えたのだと思っていたが、200年ぶりに遭遇した使い手は中々に良質な剣士だった。

 

「稀血の匂いを……追ってきたのだが…思いがけぬ僥倖……」

 

 

(稀血、だと?)

 

 

 黒死牟の溢した言葉を信乃逗は聞き逃すことができなかった。

 

 自分はもちろん稀血などと言われる存在ではないし、これまでの鬼の反応を見るに楓もおそらくは稀血ではないはず。なら消去法的に考えて、ここにいた稀血はきよかひよりのどちらかということになる。きよとは長年過ごしているが、そんな話は聞いたことがない。逆にひよりは今日出会ったばかりの少女。どちらかがそうだというのであればひよりが最も可能性が高い。それに、彼女は怪我をしていた。あの鬼が血の匂いを辿ってきたことを考えるでのあればまず間違いなく稀血はひよりだ。

 

 

(余計に、ここを通すわけにはいかなくなったなぁ)

 

 

 あるいは蝶屋敷に逃げ込めることができれば、あのあたりには藤の花の香をいくつも設置してある。匂いを辿っているのであればそれで足取りは追えなくなるはずだ。だが、問題はそこまで時間が稼げるかどうか……

 

 こうも無惨に地を這うのは、真菰(まこも)が死んだあの時、赫周と戦った時以来だった。あの時は死ぬか死なぬかの戦いだったが、今回はさらに絶望的だ。死ぬ未来しか見えない、どう足掻いても自分の実力では奴にとって児戯に等しい闘いにしかならない。赫周の時はまだ、そこそこに戦えていた。だがこれはもはや闘いにすらならない。

 

 ただ、状況だけを見れば、あの時と似通ったような状態だ。今も走っている楓がなんとか蝶屋敷に逃げ込み、柱の増援が来てくれれば、あるいはなんとかなるかと、そう思いたいのだが……

 

 

(こんな化け物に、柱を呼んだところで、対処できるのか?)

 

 

 抱いてはいけない疑問が信乃逗の心に広がっていく。

 鬼殺隊にとって柱は希望の星、自分たちが敵わないような強力な鬼であっても柱なら倒せると多くの隊士はそう思っていることだろう。それ故に柱という称号は重い。

 

 だが柱とはいえど人間、無敵ではない。それは嘗ての花柱が証明している。強敵と戦うことになれば柱であろうとなかろうと、死の危険は溢れんばかりにある。まして今回の相手は上弦の壱、十二鬼月最強の鬼であり、呼吸という人間が身体能力を上げる為に編み出した技術、それを使いこなしているような相手だ。柱1人ではきっと無理だ。2人でも難しいかもしれない。最低でも3人、欲を言えば4人は欲しい。この化け物を相手どるには鬼殺隊最強の柱を4人は連れてこなければ駄目だ。

 

 それが信乃逗の出した結論だった。

 

 しかし、それほどの数の柱をこの場に集うことは現実的に考えて不可能だ。柱の多くは担当巡回地区を常に警戒して、広い範囲に分散配置されている。そのうちの4人が今晩中に同時に上弦の壱の元にくるなど、どう考えても無理だ。この街の区域的におそらくもっとも早く着くのはしのぶ、ついで水柱の富岡と言ったところだろう。運良くそれ以上が集まったとして、それでも同時というのは考えにくい。となれば、このまま柱を呼んだとしても各個撃破されてしまう危険性が非常に高い。これほどの相手に1人ずつ柱を波状的にぶつけるなど戦術的に考えれば愚の骨頂。

 

 柱を失うことは鬼殺隊にとって非常に大きな痛手だ。柱に匹敵する優秀な剣士の数は決して多くはないのだから。まして今の柱達は歴代の中でもかなり優秀な剣士達が集まっているという。

 

 ここで、無為に柱を失ってはいけない。……何より、あの人を死なせる訳にはいかない。

 

 

 信乃逗の脳裏に映る、いつからか偽りの仮面を被るようになった女性の姿。何度も何度も命を救われ、己が辿る道を支えてくれた彼女を、死なせたくない。

 

 信乃逗は思考を切り替える。柱が来てしまえば柱を失うことになる。なら、最前手は柱がくるまでにこの鬼に撤退してもらうこと。その為に自分に今できることは何か?鬼殺隊の為に、無垢な人々を1人でも多く守る為にできることは……

 

 

(鬼の足を止めているのは俺。なら、俺が死ねば奴は引いてくれるだろうか……)

 

 

 なんとか生き延びて、撤退することができるのならそれが一番いいのだが、この傷で、あの上弦の壱を相手に生きて離脱できるとも思えない。高野の足ならば、もうそろそろ蝶屋敷の近辺まではいけている筈。もう、しばらく戦って奴の足を止めることができれば、後は自分が死ぬだけで、鬼殺隊の被害を最小限に食い止められる。

 

 

 

(俺は……死ぬのか)

 

 

 

 それはこの場に残った瞬間から、いやそもそも最初から決まっていたことなのかもしれない。柱もなしに、上弦の壱にこんなところで出会ってしまった時点で、死ぬことはほとんど決まっていたと言ってもいい。こいつを相手に高野やきよ達を逃がせただけでも十分な戦果だろう。

 

 

(とうとう、俺の番が来たんだな……)

 

 

 これまで、目の前で一体どれだけの仲間が戦って死んでいったか。その数は計り知れない。鬼殺隊に入って、たくさんの仲間を得て、夢や想いをあずけあって、そして皆、死んでいった。これまではそれを見送る側だったが、ついに自分にもその役回りが回ってきたようだ、と信乃逗は場違いにも感慨深い想いを抱いてしまう。

 

 口から溢れ落ちる血を噛みしめながら、信乃逗はふらふらと立ち上がるとゆっくりと刀を構える。

 

 これ以上の時間を稼ぐ為には空の呼吸により踏み込む必要がある。それは自らの寿命を間違いなく縮める自殺行為。だが、今この瞬間、それを躊躇って仲間を失うくらいならば、どうせ死ぬのなら、最早今ここで、それを躊躇う必要はない。限界を超えてでも脳の血の廻りを加速させる。

 

 

「もう、少しだけ、付き合ってもらうぞ上弦の壱っ!」

 

 

 いうが否や信乃逗は地面すれすれを滑空するように黒死牟へと飛び込んでいく。その瞳は月の光ですら照らし出せない暗闇に満ちていた。

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
御意見・御感想等頂けますと幸いでございます。

まさに死亡フラグの塊の様な黒死牟、原作では柱が三人、隊士が1人で辛勝していましたが、あの三人、現柱の中でも特に戦闘力の高い面子、それでいて彼等は嘗ての柱達よりも更に優秀な剣士であったという点を鑑みると、普通に考えれば柱全員投入しないと黒死牟には勝てないですよね〜


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蟲の儚さ

黒死牟の喋り方めんどくさい 笑笑


 

 

 

 戦いは熾烈を極めた、そう表現できたならまだ良かったかもしれない。

 

 

 だが、おおよそそれを戦いと呼んでもいいのかは、疑問の残るところだ。

 

 

 

 脳の血流を加速させ、己が限界を超えた血流の操作を行い、飛躍的に身体能力を上げて信乃逗(しのず)は黒死牟へと挑んだ。縦横無尽に剣戟を振るう信乃逗の攻撃速度は異常を極め、並以上の実力を持つものでも、四方から同時に斬りかかられているのではと錯覚するほどの高速の立ち回り。数分に渡って続く文字通り命を燃やす剣戟はしかし、黒死牟に傷を与えることはなかった。

 

 

 避けられる。全ての攻撃の起こりを読まれているかのように、信乃逗の刀は空を斬るばかりで黒死牟の体へとは全く届かない。

 

 

「……凄まじい…気迫……だが……単調に過ぎる…」

 

 

 

—— 月の呼吸 闇月(やみづき)宵の宮 (よいのやみ)——

 

 

 

 振り抜く紫電も、鞘から刀を抜く瞬間すらも捉えられない神速の一撃が、信乃逗の技の起こりを潰し、一際頑丈な建物の壁面へと弾き飛ばす。

 

 

「がふっ」

 

 

 耳をつんざくような衝撃音、石で出来たその壁面を僅かに崩す程の威力で吹き飛ばされた信乃逗は、背中に走るあまりの衝撃に意識を飛ばしかける。全身に走る激痛、限界を超えて血流を加速させている影響か、知覚が普段よりかなり鋭くなっていて、痛みをいつも以上に感じてしまう。

 

 

(痛い、熱い、苦しい、骨が軋むっ)

 

 

 それでも、体は染み付いた癖のように刀を握ろうと腕を動かす。だが、その腕が刀を掴むことはなかった。

 

 

 信乃逗の右手首から先はすでにそこにはない。

 

 

 ドバドバと腕の先から溢れ出る濃い液体と腕に感じる途方もない熱に、痛みに揺れ動く信乃逗の意識は一瞬で覚醒し、自らの髪紐で強烈に腕を縛って止血を試みる。呼吸と合わせて行った止血で血の出る量は大きく減少したが、感じる痛みがなくなる訳ではない。

 

 

 体に走る激痛と息苦しさ、そして途方もない頭痛。限界を超えた血流操作ではやくも脳に影響を及ぼし始めているのかもしれない。

 

 

(もう、いい……かな)

 

 

 背を壁面に預けて、力なく座り込む満身創痍の姿は諦観に満ちていた。

 

 片腕を無くしてはもう満足に戦うことは出来ないだろう。時間は稼げた。きっと高野達は逃げきれたはずだ。足止めの役を果たせたのなら後は死んで、柱が来る前にこいつに移動してもらわなければいけない。咄嗟に止血をしてしまったが死ぬのであればその必要はなかったかもしれない。

 

 一歩づつゆったりとした歩調で上弦の壱が近づいてくる。諦めからか、強張っていた体から徐々に力が抜けていくのを感じる。

 

 

「……闘志は失せたか…たわいない…」

 

 止めをさしにくる。目を細めて信乃逗は黒死牟の姿を見やる。やがて自らの正面に立った六眼の鬼に信乃逗はゆっくりと眼を閉じる。

 

 

 思い返せば、失ってばかりの人生だった。

 

 

 家族を失い、姉を殺し、愛した女性を殺され、自らの体を失い、今命をも失おうとしている。この生において自分は一体何を得られたのだろうか?何を為せたのだろうか?

 

 

 その答えは出ない。

 

 

 あるいは何も得られず、何も為せなかったのかもしれない。

 

 

 

 

『信乃逗』

 

 

 

 

(真菰、俺があの時、生き残った意味はあったのかな?)

 

 

 

 意識が遠ざかり、眠りにつく前のように心地よい微睡みに包まれていく。

 

 

 

『信乃逗』

 

 

 

 あぁ、真菰が呼んでいる。いかないと——

 

 

 

 

「信乃逗さんっ!!」

 

 耳に飛び込むその声に沈みかけた信乃逗の意識が急激に浮上していく。自らを呼ぶ覚えのあるその声にパッと目を開けば、その先にいたのは嘗ての侍のような格好をした六眼の鬼ではない。黒い隊服に滅の1文字、淡い栗色の少し癖のある髪の毛。高野(かえで)がそこにいた。

 

「……なん、で…」

 

「……良かったぁ、生きてる、神様、生きてるよぉ」

 

 信乃逗に背を向けるように立つ楓は、信乃逗の出した声に一筋の涙を流して喜ぶ。振り返ることなくつぶやかれた喜びの声だが、その声色で彼女が今どんな表情をしているのかは想像がつく。だが信乃逗の心境は彼女の心情を推し量れるような余裕のあるものではなかった。

 

「上弦の、鬼は……」

 

 状況の分からない信乃逗は何が起きたのかとあたりを見渡す。

 

「上弦の壱なら、そこに……」

 

 信乃逗の呟きが聞こえたのか楓はそう答える。チャキっと刀を持ち直すような音が響き、楓が涙に濡れる瞳を険しく細めて正面へと向ける。楓の言葉に信乃逗は彼女の先へと視線を送れば、そこには変わらず悠然とした様子で佇む六眼の鬼の姿。

 

 その光景に信乃逗は血の気が引いたような感覚に陥る。

 

 

「なん、でっ…なんで戻ってきたっ!」

 

 

 あまりの衝撃に走る痛みも状況も忘れて、信乃逗は楓に向けてそう叫ぶ。

 

 

(くそっ!どうしてっ、これじゃあ高野までっ)

 

 

 状況は信乃逗にとって最悪だった。自分1人で済んだはずの犠牲がこれでは2人も死者を出してしまうことになってしまう。将来有望な継ぐ子である楓まで死なすことになってしまう。しのぶの大事なものを死なせてしまう。真菰と同じ想いを持つ彼女を死なせてしまう。

 

 

(なんとかしないと、これじゃあ、さっきまでの時間稼ぎが無意味だっ)

 

 

「答えろ馬鹿っ!なんで逃げなかったっ!お前まで死ぬんだぞっ!?」

 

 頭ではこんな問答が無意味であることは重々承知している。それでも聞かずにはいられなかった。分かっているはずだ。あの鬼に勝てないことくらい、あの鬼を前に生きることが如何に困難であるかは、楓にだって分かっているはずなのだ。なのにどうして……

 

 全身に走る痛みにも構わず、半ば怒号のように信乃逗はそう叫ぶ。

 

「分かってますよっ!自分が馬鹿なことをしてることくらいっ!」

 

「ならなんでっ」

 

「だってっ!……だってっ、好きな人が死ぬのを、黙って見てられるわけないじゃないですかっ!?」

 

 

 その場を支配する一瞬の沈黙。

 

 

「……はぁ!?」

 

 半ば涙声になって返された楓の言葉を信乃逗は一瞬理解出来なかった。

 

「……くだらぬ…」

 

 その呟きが耳に入った時、楓の前には既に黒死牟が立っていた。

 

「っ!?」

 

 それをはっきりと認識する間もなく、半ば反射で楓はその場から飛んでいた。次の瞬間には、先ほどまで楓が立っていた地面には激しい爆音ともに深い孔が穿たれていた。

 

「高野っ、あっぐぅ」

 

 後輩の危機に信乃逗もなんとか立ち上がろうとするが、先ほどまでの傷が影響して、すぐに立ち上がることはできない。

 

 

(意識を晒した訳でもないのにっ、追えなかったっ)

 

 

 信じられない速度だ。黒死牟の見せた速度に、楓は瞠目する。速さにおいて、楓はそこそこの自信をもっていたが、あの鬼のそれは自分の速度を遥かに上回っている。一撃の威力も桁違い、その上で速度もある。純粋な身体能力だけで、他を圧倒している。異能の力も見せてないのにこの強さはさすがは十二鬼月。

 

 

(でもっ、一撃でも入れればっ)

 

 

 楓にとって唯一の勝算はしのぶの作り出した毒、藤の花から作られた鬼を殺すための毒。今までこの毒が効かなかった鬼はいない。相手がどれほど格上であったとしても、鬼であるなら藤の花の毒は効果があるはず。上弦の鬼に効果を出すために、今できる最高の毒を調合する。

 

 

 地面へと着地すると一瞬で身を翻して、楓は黒死牟へと飛びかかる。

 

 

 

—— 蟲の呼吸 (ちょう)の舞 (たわむ)れ ——

 

 

 

 

 瞬きの合間に月の光の輝きを伴った幾条もの閃光が放たれる。余程の手練れであっても反応することもできずに突き刺すであろうその鋭い突きは、しかし黒死牟には擦りもしない。

 

「っ!?、ならっ!」

 

 

 

—— 蟲の呼吸 蜻蛉(せいれい)の舞 複眼六角(ふくがんろっかく)——

 

 

 

 懐に入った状態、ほとんど距離のない状況で放たれたその六つの刺突はあまりの速さに純白の残光すら残している。もはや同時とも言えるような刀速、この距離でこれを避けることなど不可能だと、楓は確信していた。

 

 技を放ち終わったその時、先程までと何も変わらぬ様子で佇むその鬼の姿を見るまでは。

 

「なっ!?」

 

 驚くべきことに、その鬼の佇まいに一歩たりとも動いた様子は見られない。まるで攻撃などなかったと言わんばかりに平然と立っている。いっそ刀が刺さらなかったのかとそう思ってしまうような有り様だが、そうではない。

 

 

(この鬼っ、突きに合わせて身体を逸らしたっ!)

 

 

 楓が放った突きは常人には同時とも思えるような瞬きの合間に放たれたものだが、実際に同時に放たれているわけではない。一つ一つの突きには若干の時間差がある。無論人が知覚できるような時間ではないが、そこには確かに間がある。黒死牟はその一瞬の間でバラバラに狙った六条の閃光、その一つ一つを襲いかかる順番に正確に避けたのだ。

 

 楓にとって今できる最速の攻撃は、黒死牟にとって止まっているも同然ということになる。

 

「……憶えのない技……新たに派生した呼吸か……興味深い…」

 

 六つの瞳を怪しく光らせて細めるその姿に、楓は背筋が凍るような怖気を感じた。

 

 

(怖い……)

 

 

 その出立ちも漂わせる雰囲気も、そして自分のして来たこと全てが通じぬ圧倒的な力量差も、この鬼から感じる全ての感覚が冷たく、怖い。見ているだけで足が震え刀を持つ手に力が入り辛くなる。かいた汗のせいか体はひどく冷たい。

 

 

「高野っ、ごほっごほっ」

 

 

 だが、今自分の後ろにいるあの人は、恐怖で氷のように冷たくなったこの体を、優しい光で暖めてくれる。ボロボロになって、片腕すら失って、痛いだろうに、未だ整わぬ呼吸で懸命に私を守ろうとしてくれる。自分が死ぬことに何の躊躇もしない癖に、他人が死ぬことには身を捩るほどの苦しみを感じるこの人が、誰かを捨てて逃げられるわけがない。

 

 何度見たことか、死に行く隊士の手を握り、安心させるように笑っている彼の姿を。何度見たことか、死んでしまった隊士の手を握って涙を流す彼の姿を。何度も何度もあの屋敷で見てきた。彼の背中に増え続ける仲間の想いに彼が潰されてしまいそうになっている姿を、見ていることしかできなかった。それでも、苦しそうに捥がく彼はただの一度も、彼等の想いから逃げようとはしなかった。

 

 

 だからだろう、私がこの人から背を向けて逃げることができないのは。

 

 

 馬鹿なことをしている。全く持ってその通りだ。彼の稼いだ時間を無駄にして、出なくてもいい犠牲を出そうとしている。鬼殺の剣士として、鬼殺隊の隊士として、この判断は過ちかもしれない。でも、たとえ誰かにそう言われても。私は此処に立ったことを後悔できない。

 

 

 放って置いたらすぐに人を庇って、1人で死んでいってしまいそうなこの人を、孤独な背中に死者の想いだけを背負っていく彼を、1人にしておきたくなかった。死者ばかりを背負って歩く彼の隣を1人くらい生者が歩いていたっていいはずだ。

 

 

 目の前にあるそれがどれだけ絶対的な死でも、この人を1人にしないためなら私は刀を握れる。

 

 

 

—— 蟲の呼吸 蜈蚣ノ舞(ごこうのまい) 百足蛇腹 (ひゃくそくじゃばら)——

 

 

 

 地面が抉れるほどの力強い踏み込みで、左右にうねりながら楓は黒死牟へと接近する。避けられるのは動きを読まれているから。元より直線的な突きは狙いを読まれやすい。なら、的を絞らせないように相手の読みを崩して近く。

 

 

 

(今度は私がっ、あの人を守るっ)

 

 

 

 一撃必殺とも思えるような威力を伴ったその突きは風を切り裂いて黒死牟へと迫り——

 

 

「ぁっ……」

 

 

 今にも消えてしまいそうな小さな声が、夜の帳に包まれて溶けていく。

 

 

 渾身の威力が込められた楓の刀身は、黒死牟の片手、いや僅か二本の指に包まれただけで、その動きを止めた。

 

 代わりとでもいうように、彼女の腹部にあいた小さな風穴からこぼれ落ちる鮮血。

 

 

「……突きというのは……相手に刀身を見せぬが…真髄…お前のそれでは…到底足りぬ……」

 

 

 刀を指に挟んだまま、黒死牟は突きの極意を語る。

 楓が技を止められると同時に放たれた神速の一撃。それが彼女の腹部を指し貫いたのだ。もはや残像すらも見えないほどの高速の突き。傍目には黒死牟が動いたようにすら見えない。

 

「…だが……解せぬ……何故……お前は……突き技しか使ってこない…」

 

 目を細めて、黒死牟は楓へと問いかける。純粋に疑問に思ったことを尋ねるように、首を傾げて不可思議だと言わんばかりに。

 

「鬼を殺すには……首を跳ねる必要がある…それはお前達もよく理解しているはず……だが…お前の技で…首を刎ねることは…不可能……何が狙いだ?」

 

「…………」

 

 抑揚をのない声色で問いかける黒死牟に楓が口を開くことはない。

 

 腹部からなおも出血し、震える足に必死に力を入れて楓はその場に佇む。掴まれた刀の柄から決して手を離すまいと、顔を下に必死にしがみついている。

 

「……急所は外したはずだが…喋れんか……」

 

 一向に答えを返さない楓の様子に黒死牟は目を閉じる。人の脆さは何年経とうと変わりはしない。僅か一突きで言葉を返す気力すらなくすとは、そも鬼狩りとしての素質が低いようにすら思える。この程度の人間に時間をかけることの愚かしさに黒死牟は止めの一撃をくれてやろうと腰の刀に手をやる。

 

「……ょ」

 

「……?」

 

 小さな囁きのような声が黒死牟の耳に入る。あまりにも小さなそれは鬼となり強化されている黒死牟の耳にすら届かない。聞き取ろうと僅かに時間を与えた瞬間、取るにたらぬ小娘と認識していたそれが、溢れんばかりの意志を宿した瞳で黒死牟を見返す。

 

 

 

「…いつか、貴方を止める人が必ず来るよ」

 

 

「……そうか」

 

 闇夜にあって強い光を放つ楓の瞳を見返して、黒死牟はただ一言そう呟いた。

 

 

 刀においた手が今度こそ抜き放とうとした時、黒死牟に強烈な殺気が襲い掛かる。咄嗟に後ろに振り返った黒死牟の瞳に映る、黒い双眸。闇夜の全てを凝縮したかのようなその漆黒に染まった瞳が眼前に迫っていた。

 

 

 

—— 月の呼吸 (はち)ノ型 月龍輪尾 (げつりゅうりんび)——

 

 

 

 ほとんど反射的に、黒死牟はそれに向けて巨大な斬撃を放った。横薙ぎに放たれたそれは、射線上にあった家屋を全て破壊し、迫った脅威もろとも弾き飛ばしていく。轟音ともいうべき激しい破壊音と、とてつもない豪風が吹き荒れ、黒死牟の長い黒髪を揺らす。

 

「……よもや…あの傷で…まだ動くとは……」

 

 そう呟く黒死牟の片腕に先程まで掴んでいた楓の姿はない。どころか彼の左手もそこにはなかった。左手首から先のみが綺麗に斬り取られていた。瞬時に再生を終えた黒死牟はその動作を確認するかのように左手を開いたり閉じたりと繰り返えす。

 

「……手傷を負ったのは…300年ぶりか」

 

 

 感嘆の息を吐きながら黒死牟は2人の吹き飛んだ方向へとゆっくりと向かう。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等いただけますと幸いでございます!

どんな攻撃もあたならければ意味はない、を素で歩む黒死牟先生でした。
そも黒死牟に一対一で挑むことの無謀さよ。


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桜散る

 

 

 

 初めて貴方を見たのは、私がしのぶ様の継ぐ子となった日だった。

 

 あまりにも大きな蝶屋敷で、道がわからなくなっていた私を、貴方が見つけてくれた。

 

 

「何?ひょっとしてその年で迷子?」

 

 

 初対面の相手に対して、幼い子供を扱うように振る舞う貴方の態度に、少しムッとしていたことをよく憶えている。

 

 

(その年でって何よっ、しょうがないじゃない初めての場所なんだからっ!失礼な人っ)

 

 

 内心でそう思って、案内してくれる貴方の背中を追いかけてた。でもきっともうこの頃から、私は貴方の背中を追いかけてた。

 

 

 

 

 次に貴方を見たのはしのぶ様との稽古の時。

 

 継ぐ子でもない貴方が、柱であるしのぶ様から直接指導を受けて、褒められている様子に、何だか無性に腹が立ったのをよく憶えている。

 

 時折私の素振りを見て、揶揄うように話を振ってきたのは、きっと私を指導してくれていたんだね。

 

 

 

 

 

 その次に貴方を見たのは誰とも知らない隊士の病室。

 包帯で身体中を巻かれ、腕に針を刺し、点滴というものを受けていたその隊士は、きっともうどうやっても助からなかったのだろう。死に際の隊士の手を握って、鬼のいない世界を笑顔で語る貴方の顔をよく憶えている。

 

 鬼に奪われてきた人ばかりの鬼殺隊でせめて最後くらい、鬼のいない世界での幸福を見て欲しかったんだね。

 

 

 

 

 

 次に貴方を見たの空っぽになった病室で。

 誰もいない寝台に花を置いて、そっと涙を流す貴方の横顔をよく憶えている。

 

 いつも笑っている貴方が泣いているところはとても珍しいと思ったけど、きっと本当はいつも泣いていたんだね。

 

 

 

 

 次に貴方を見たのは貴方の眠る寝台。

 詰めの甘かった私を庇って体を貫かれ、血の気の失せたその顔をよく憶えている。

 

 死んでもおかしくなかったのに、どうして私を庇ったの?死にかけている貴方が、どうして笑って眠ってるの?貴方の口から寂しげにでる真菰って大事な人?なくしてしまったの?

 

 

 だから貴方はいつも、1人なの?

 

 

 

 孤独に見える貴方の背中を私はよく憶えている。

 

 

 

 

 

 

 

 静かに肌を撫でる夏の夜風に、楓は意識を呼び戻された。体に走る痛みに顔を歪めながら、楓は閉じた瞼を開く。

 

「うっ……こ、こは…」

 

 目にはいるそれは暗闇と月の光、そして半分壊れた木造の天井。

 

「お、気がついたか、高野」

 

「し、のずさん?」

 

 声と同時に視界いっぱいに広がる信乃逗の顔に、楓は思わず尋ねるような口調で声を出してしまう。

 

「おう、俺以外に見えるなら、今度、しのぶさんに相談、した方がいいな」

 

「なんで、……あれ、私、体が……」

 

 軽口を叩く信乃逗の姿に戸惑いながら、楓は自身の体を動かそうと力を入れるが、どういう訳か上手く体が動かない。というより、そもそも力が入っているような感じがしない。

 

(私、さっきまで……っ)

 

「上弦の鬼はっ、っ痛!?はぁはぁ……」

 

 直前まで起きていた激闘を思い出して、楓は身を捩って辺りを見渡そうとするが、体に走る激痛に思わず声を上げて、呼吸を荒くする。

 

「……無理に、動こうとするな。落ち着いて……まずは呼吸を整えろ」

 

 全身に広がる痛みに意識を持っていかれそうになりながらも、楓は信乃逗の言葉になんとか反応して、必死に呼吸を落ち着けようと深く息を吸う。酸素が体に行き渡り、痛みを僅かに軽減する。脳に染み渡った酸素の影響か、楓はようやく自分の身体の状況を把握することができた。

 

 腹部に突き刺さり、背中にむけて貫通している細長い木片。楓の体は今、その木片によって地面へと縫い止められている状態だった。

 

 痛い筈だと、楓は自分のことながら他人事のようにそう思った。

 

「状況は分かったか?」

 

「は、い。これ、抜いたら、まずい、ですかね?」

 

「出血多量で死ぬだろうな。……幸い急所は外れてるみたいだけど、今は可能な限り呼吸で出血を遅らせるぐらいしか、対処方がないから、その状態で…救助が来るまで我慢するしかない」

 

「でも、鬼が……」

 

 楓は不安気に声を出す。

 

 自分達はあの上弦の鬼と戦闘中だったのだから、悠長に出血を遅らせるとか、救助を待つとか言っている場合ではない筈だ。鬼はすぐそばに……あれ?

 

 そこまで考えて楓は気づいた。この半壊した小屋の外に、あの鬼の気配がある。隠す気すらない圧倒的とも言える存在感、生命の格の違いを教え込まれているかのような暴力的な気配が、小屋の直ぐ外で止まっている。まるで待ち人を待っているかのように、その場所でぴくりとも鬼の気配は動かない。

 

 小屋の外にいるのであれば、今は自分達を纏めて葬る絶好の機会である筈。にもかかわらず、あの上弦の鬼は技を放つ気配もなく、ただそこに鎮座している。

 

(なんで……)

 

「鬼のことは……気にすんな。お前は今から、生き残る事に集中しろ」

 

 そんな楓の思考を遮るように放たれた信乃逗の言葉は、鬼殺の剣士としてはあまりにも異質で珍妙なもので、楓は一瞬何を言われているのか理解出来なかった。

 

「気にしないで、いいって……何を、言ってるん、ですか?」

 

 目の前にもう鬼が迫ってきているのに、気にしないでいいというのがどういうことなのか、楓にはわからなかった。

 

「鬼のことは俺に任せて、お前はとにかく生き残れって言ってんの」

 

「な、何を、言ってるんですかっ!?っ痛……あれを相手に、1人でなんて、無茶にも、ほどがありますっ!」

 

「はぁー、お前こそ何いってんの?さっきまでそのあれに1人で挑んでたのはどこのどいつだよ。……それにそんなボロボロで、喋るのすら精一杯の様子でどうやって戦うつもりだ?……はっきりいって今のお前の状態なら、いない方が幾分マシなくらいだ」

 

「なっ……それは、でも、そんなの信乃逗さんが……」

 

 呆れたように溜息を吐いて肩を竦める信乃逗の言葉は、楓にとってあまりにも認めがたいもので、なんとか言い返そうと思考を巡らせるも、彼の言葉を否定するだけの物は何一つとして思い浮かばない。

 

 

(何か、何か言わないと。このままじゃ……)

 

 

 このままでは信乃逗は1人であの上弦の壱に再び向かっていくことになる。あの異次元の強さを持つ、まさしく格の違う鬼を相手に、たった1人で立ち向かうなど無謀もいいところだ。

 

 最速の突きは全て躱され、渾身の一撃を片手で掴まれ、一太刀振るわれただけで、自分は瀕死の傷を負っている。このまま彼が1人で挑めば、その先に待つ未来など一つしかない。

 

「柱でもない隊士が2人いたところで……あの鬼の前じゃあ大して意味はねぇよ。だからこれは甲としての命令だ。なんとしても生き残って、上弦の壱の情報を鬼殺隊に知らせろ。それがお前の任務だ。……今度はきちんと守れよ」

 

「ぁ……」

 

 此方を安心させる為だろうか、いつになく優し気な口調で口元を緩ませる信乃逗の表情で、楓は唐突に理解した。

 

 

 

 

 —— この人はまた1人で逝こうとしている。

 

 

 

 

「駄目、です、信乃逗さん。そんなの、嫌ですよ」

 

 辿々しく声を詰まらせ、今にも泣き出してしまいそうな悲痛な表情で、楓は信乃逗へと震える手を伸ばす。

 

 あの時と同じ、死際の隊士を安心させるための笑顔を、今彼は私に使っている。人を安心させるための笑顔。それを使って自分は死ぬけどお前は生きろと、彼は私にそう言っている。

 

 自分が死ぬ覚悟ならいつだってしている。命のやり取りをしているのだ。私も彼もいずれ死ぬことになるのはある意味では当然の帰結。だけど、彼だけを死に追いやって私だけが生き残るなんて、そんなことを認められる訳がない。好きな人が、想いを寄せる人が死にしか続いていない道をたった1人で歩もうとしている光景に黙ってうなづける人間が果たしてどれだけいるというのか。

 

 少なくとも楓には出来ない。

 戦って死ねと言われるのであればまだいい、だけどこんな局面で生きろとそう命令されることがどれだけ苦しいことか。なにより、ここで彼を1人で行かせてしまっては戻ってきた意味がない。彼を1人で死なせないために、私はここに戻ってきたのではないか。

 

 必死の形相で止めようとする楓の様子に、信乃逗は困ったように苦笑すると、そっと彼女の頭へと残された手を伸ばす。

 

 

「なぁ、高野、俺は嬉しかったんだよ。お前が俺に語ってくれた想いが真菰(まこも)と同じものでさ」

 

 

 1人ごとでも聞かせるように、信乃逗は今まで見たことがないような穏やかで優しい相貌をして楓を見つめる。

 

 

「鬼を憐んで、鬼の想いを見る真菰の想いを預かっておきながら、俺にはそれを継ぎきることができそうになかった。鬼が、真菰を殺した鬼がいつからか憎くて仕方なくなってた。鬼の血に負けてしまった彼等が、俺は赦せそうになかった。このまま、あいつに託された想いも俺の体と共に朽ちていくのかって諦めかけてたけど、あいつの語ってくれた想いは……もう、とっくに引き継がれてたんだな」

 

 

 ゆったりと彼女の頭を撫でながら、語られる信乃逗の言葉はとても穏やかで、心底安心したとでも言いたげなもので、楓は目を見開いて、言葉をなくしてしまったかのように唖然とした様子で、ただじっと、信乃逗の言葉を聞き続ける。

 

 

「いつか、いつかきっと、鬼に殺される人も、鬼にされる人もいなくなる。そんな夢みたいな日を目指して俺達はずっと刀を振り続けてきた。今はまだ、吹けば飛んで消えてしまうような蝋燭に灯るか細い炎かもしれないけど、絶えずに燃やし続けることができれば、炎はいつか蝋を溶かす。俺達の夢はきっとその時に叶うんだ。……だから、俺達の意味はお前に託すことにするよ」

 

 

 託す、そう言って静かに立ち上がった信乃逗はにっこりと微笑んで、楓に背中を向けた。道なき道を歩むために。

 

 

「っ……いやです、信乃逗さん。死な、ないでっ」

 

 

(動いてっ、動いてよ、私の体っ!どうして、強くなったのにっ!なんでっ!?)

 

 

 もう二度と、理不尽に大切なものが奪われることのないようにと、刀を手に取った。普通の女性としての幸せを捨てて、戦う道を選んだ。せめて彼の側で死にたいとあの強大な死に立ち向かった。

 

 その筈なのに、どうして今再び大事なものがこの手から零れ落ちていこうとするのか。どうして私の体は動かないのか。どうして、彼はまた1人で逝こうとしているのか。

 

 力の入らない震える腕を必死に伸ばして、懸命に体を動かそうとするが、楓の体は僅かに地面に擦れるばかりでまともに動いてくれない。

 

「最後にお前と話せてよかったよ。…まぁ心配すんな、俺は……お前の先輩だからな。後輩を守るのは先達の務めだ。……だからさ、俺達の想いを頼むな、(かえで)

 

「ぁっ」

 

 半壊した小屋の外に歩を進める彼の姿はあまりにも遠くて、楓の手は擦りさえしない。そのあまりにも大きく、孤独な背中を、楓は綴るように見ることしか出来なかった。

 

 

「いやだ、いやだよ、信乃、逗さん、信乃逗さんっ!」

 

 

 少女の伸ばした腕も、絞り出された震える声も、信乃逗の足を止めることは出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 一際広い道の真ん中で、二つの黒い影は相対していた。夏の月夜にふさわしい満月に照らし出されたその影は、方や人の姿をした六眼の化け物。方や額から血を流し、片腕を失った人間の青年。

 

 

「別れは…すんだか?」

 

 

 六つの瞳に青年を捉えた人喰いの化け物はその出立ちに相応しい抑揚のない声でそう問いかける。

 

「ああ、あんたが、くれた時間は……俺にとって貴重なものになったよ。でも、なんで攻撃してこなかったんだ?」

 

 

「女との……最期の逢瀬を邪魔するほど……私は無粋ではない」

 

 

「……そうかい」

 

 

 思いの外人間らしいその言葉に、信乃逗は僅かに目を見開いて驚きながらも、次の瞬間には目を伏せてそっと下段に刀を構える。月の光を反射する白銀の刀身の輝きが、暗闇に包まれた空間を僅かに明るく照らす。隙なく、明確な闘気を宿したその瞳を見て黒死牟は「ほぅ」と感嘆の唸りをあげる。

 

 

「良い気迫だ……柱ではないというのが信じがたい」

 

「覚悟しといた方がいい。今の柱の方々は俺よりも…もっとおっかない人ばかりだぞ」

 

「そうか……それは…楽しみだ」

 

 

 強者を相手取ることに怯むことなく、楽しみだとそう言って刀も構えず、悠然と佇む鬼の姿は、圧倒的強者として相応しい風格を漂わせている。慢心ともとれるその態度にはしかし一部の隙もなく、立ち姿のみで凡弱な人間を圧倒してしまう。そんな人の域を超えた人外の化け物に相対する青年はまさしく人間。剣の一撫で血を流し、死に至る脆弱極まる生き物。

 

 

 だが、侮るなかれ。人の強かさは命の強度にあらず。

 

 

「構えろよ上弦の壱。空の呼吸の真髄、見せてやるよ」

 

 

 ギラギラと失われることのない闘気、絶望を理解して尚失われることのない精神力、練り上げられた技、どれを取ってもこれまで討ち取ってきた柱に匹敵する見事なもの。だが、何よりも黒死牟の目を引いたのは信乃逗の身体に浮き上がる紋様。

 

 

(花弁……痣の出現か)

 

 

 信乃逗の顔に、散りゆく桜の花弁のような紋様が広がっていく。奇妙なのはそれが顔のみではなく、首や手など全身に広がっていること。黒死牟をして見たことのないその現象は、彼に純粋な興味を抱かせた。元々空の呼吸という使い手の少ない珍しい呼吸に加えてこの現象……

 

 

(皮膚の表層の血管が破れて花弁を象っている……興味深い)

 

 

 黒死牟の瞳には、信乃逗の体に今何が起きているのかが正確に映し出されている。信乃逗の体に浮き上がる紋様は、皮膚の下で出血した為に起きている現象であり、通常の痣の出現とは異なる。

 

 恐らくは血流操作に長けた空の呼吸の技によるところであろうが、これほど全身に出血すれば当然人間の身体には相当の負担となる筈。

 

 ならばこれは、まさしく命をかけた一振りとなる。人とは比べものにならないほど長い年月を戦いに費やしてきた黒死牟は、直感でそのことを理解した。

 

 

「これほどの技……抜かねば此方が無作法か」

 

 

 戦闘が始まってから一度たりとも刀身を相手に拝ませることのなかったそれが、ついに抜き放たれた。月の光を反射するその刀身にはいくつもの瞳が埋め込まれ、色合いも併せて実に禍々しい空気を漂わせている。妖刀、そう評するのにこれ以上最適なものはないだろう。

 

 まさに鬼が使うに相応しき禍々しさ。まさしく死を体現したであろうその姿を前にしても、信乃逗の表情から戦意が失せることはない。

 

 

 

『好きな人が死ぬのを黙って見ていられる訳ないじゃないですかっ!?』

 

(……初めて言われたな……そんなこと……けど…悪くない)

 

 熱烈な告白だったと、信乃逗は思わず口元に微笑みを浮かべてしまう。

 

 大事な後輩、大事な仲間、そしてしのぶの大事な継ぐ子……

 

 

 

『じゃあ、はい、これで指切りです』

 

 

 信乃逗の脳裏に過ぎるあの日の約束。

 

 

 

(約束、ですよ。だから、どうか……)

 

 

 口の端から溢れ落ちる鮮血を拭うことすらもなく、信乃逗はただ前だけを見据える。

 

 

 互いに刀を構え、無言で佇む2人の影。両者が交わした言葉は決して多くはない。だが、元より命のやり取りをする間柄。これ以上の余計な会話は必要ない。

 

 世界から全ての音が消え去ったかと錯覚するほど静寂に満ちた時間は、両者の激突を持って終わりを告げる。

 

 

 示し合わせた訳でもなく、2人は全く同時に飛び出し、互いに距離を詰める。

 

 

 

 —— 空の呼吸 終ノ型 桜紋散華(おうもんさんげ) ——

 

 

 

 —— 月の呼吸 陸ノ型 常世孤月(とこよこげつ)無間(むけん) ——

 

 

 

 技と技のぶつかり合い、練度の高い両者の技は激突と同時に激しい衝撃音を打ち鳴らし、風圧だけで大地を削り、土煙を派手に舞い上がらせる。

 

 

 

 

 — チャキン

 

 

 

 

 ただ一つ、終幕を思わせる納刀の音を最後に、それ以降、土煙の中から音が響くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜の帳の終幕の時間が近づいている。ただただ広がる暗闇に、徐々に混じる明るさ、日の出は近い。

 

 

 そんな薄暗いと表現できる街中を、一つの影が凄まじい速度で駆け抜けていく。

 

 常人であれば視界に捉えることすら困難な速度で進むその影の正体は、見た目麗しき1人の女性、胡蝶しのぶだ。

 

 担当地区の巡回にあたっていたしのぶの元に鴉の指令が来たのは、今より3時間以上前のこと。伝えられた内容を聞いた瞬間、しのぶは全力で駆け出した。

 

 そのしのぶの表情は、普段には見られないほど焦りと苦悶に満ちている。

 

 上弦の鬼が出た、出現の度合いがあまりにも稀であるため、柱ですら滅多に出会うことのない存在。それが今自分のすぐ近くにいる。あるいは姉を殺した鬼である可能性すらもあるのだ。普段冷静なしのぶがそうなるのも無理のないこと。だが、しのぶから冷静さを奪いとった原因はそれではない。上弦の鬼の情報とともにもたらせたもう一つの情報。

 

 運良く、あるいは運悪く遭遇してしまった隊士の名が、今、彼女をここまで追い詰めている。

 

 

(どうしてっ、どうしてっ、あの2人がっ)

 

 

 あるいは遭遇してしまった隊士が、彼女にとって初めて聞く名で、顔も見たこともない相手であれば、彼女がここまで取り乱すことはなかっただろう。だが、運命とは残酷なもので、今回鴉の口から出た名前はどちらもしのぶがよく知る、縁の深い人物だった。雨笠信乃逗、高野楓。前者は古くからの馴染みであり、今や蝶屋敷の同僚でもある。後者は自らの呼吸を教えている愛弟子。

 

 失いたくない、失ってはならない、どちらもしのぶにとって大切な人物。そんな2人が柱ですらも勝てるか分からない鬼と死闘を繰り広げている。

 

 言いようのない焦燥感に内心を焼き尽くされてしまいそうになりながら、しのぶはきつく唇を噛み締めて全力で走り抜ける。

 

 

(もうすぐ、あと少し…… )

 

 

 そう思いながら、一つの角を曲がった先で、広がる景色を視界に捉えた瞬間、しのぶの足は急速にその速度を落としていく。

 

 日の上がる直前、未だ薄暗い広い通りにまばらに集まりひそひそと話す人々、そんな人々に家に戻るように語りかける隠の姿。そのどれもが鬼が既にこの場にいないと理解するのに、相応しい光景だった。

 

 だが、しのぶの瞳には両者のいずれも映し出されてはいない。

 

 しのぶの瞳を捉えて離さぬその光景、一際広いその通りの一角は、大地が抉れ、周囲の小屋は倒壊し、まるで刃の嵐でも通り抜けたのかと言わんばかりの破壊の跡。その様相は何も知らぬものが見れば、天変地異でも起きたのだと錯覚するほど燦々たるもの。

 

 ふらふらと、それまでの力強い足取りを全く感じさせぬほど、力の抜けた歩みで、しのぶは茫然と足を前とすすめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『しのぶさーん!また怪我しちゃいまして、治療してくださいな』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こ、胡蝶様……」

 

 途中かけられた隠の言葉にすら気づかずに、しのぶはただ一点を見つめて、一際地面が大きく抉れた破壊痕の中に入っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『しのぶさん、ほらこれ、甲ですよ甲!俺もあと少しで柱ですかね〜』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幽鬼のようにふらふらと覚束ない足取りで、それでもしのぶは前へと足を進める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『しのぶさん見てください、羽織り似合ってますかね?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがて辿り着いた破壊痕の中心で、しのぶはようやく歩を止めた。地面を見下ろす彼女の視界に映るのは大地に突き刺さる1本の鋼と、夥しい量の血痕。人が生きる為に必要な血の量を遥かにうわまる出血痕は、この血の持ち主の死を伺わせるのには十分過ぎるもの。

 

 

 足から力が抜けたように、彼女はドサッと地面へ膝をつく。

 

 

 

 

 

 

 

『しのぶさん』

 

 

 

 

 

 

 

 脳裏を過ぎる誰かの声。自分の名を呼び、自分に駆け寄ってくる誰かの姿。

 

 

 ツゥーと、一筋の光が彼女の頬を流れ落ちていく。

 

 

「私の大事な物は、貴方が全部守ってくれるのではなかったの?」

 

 

 ボソっと力なく放たれたその言葉に、いつもの明るい無邪気な声が返ってくることはない。

 

 

 ただ、大地に突き刺さる白銀の刀身だけが、燃えるような赤い朝日を一身に受け、光輝いていた。

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
御意見・御感想頂けますと幸いでございます。

今回は一言、

 ワニの呼吸を許してください


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喪われたもの

まだ続きます。


 

 

 秋の暮れ、峰々は陽の光を浴びて輝き、染料をしたかのように朱に染まっている。まるで山火事のように染まった紅葉の中に、その屋敷はあった。

 

 

 ——— 産屋敷(うぶやしき)邸 

 

 

 鬼殺隊本部であり、鬼殺隊当主である産屋敷一族の住う邸宅でもある。

 

 昨今、近代化の煽りを受け、各々の威厳を示す為に豪華絢爛な邸宅を用意する多くの資産家達とは違い、産屋敷という資産家はそこに威厳を求めない。広く、美しい、それでいて質素で静謐な雰囲気を持つその場所は、古き時代の侍達が好んだ屋敷そのもの。まさしく旧家と呼ぶに相応しい在り方であった。

 

 そんな日本古来の美を兼ね備えた屋敷の庭に、一人の歳若い男性と凛とした面立ちをした美しい女性が立っていた。

 

 彼らの元に訪れた一羽の黒からもたらされたそれは、一人の隊士の訃報であり、同時に鬼殺隊にとっての吉報でもあった。

 

「そうか……信乃逗(しのず)は頑張ったんだね……何百年もの間誰一人得ることのできなかった情報を持ち帰えらせてくれた……あの子は本当に凄い子だ……」

 

 

 そっと、もう世界の彩を映すことのなくなった瞳を伏せながら、産屋敷(うぶやしき)輝哉(かがや)は一人の少年の姿を思い出す。大事な者を守る為、命を削って戦い、多くの隊士達の命を助けた少年。愛する者を失っても、それでも前を向いて努力し続けた輝哉の自慢の子供。

 

 上弦の鬼の情報は鬼殺隊にとって鬼無辻の情報についで貴重なもの。

 

 下弦の鬼とはまさしく比べ物にならないほど強力な力を持った彼らを相手にして生きて戻ったものは、此処百年以上いない。鬼殺隊最強の柱ですらも、上弦の鬼の前ではかくも簡単に命を落としてしまう。それ故に彼らの能力も姿形も、どのような戦い方をするのかも、何の情報も今の鬼殺隊にはなかった。

 

 だが、今回、およそ百年ぶりに上弦を相手取って生きて帰ってきたものがいる。蟲柱である胡蝶しのぶの継ぐ子、高野(かえで)だ。極めて重傷ながらなんとかその一命を取り留めたと、そう報告が上がっている。

 

 それは輝哉にとってまさしく奇跡ともいえる偉業。

 

 何度も何度も、輝哉は見送ってきた。刀も持てず、鬼と戦うことすら出来ず、この屋敷に居座る自分に頭を下げ、慕ってくれる彼らの背中をいつだって輝哉は見送ってきた。ずっと、輝哉はここで待っていた、彼等が帰ってくる日を。

 

 

 そして今日、その一部は果たされた。

 

 

 失った命は戻らない。故に彼等の生が戻ってくることはない。だが、今日をもって高野楓と共に、これまで上弦の壱と戦い死んでいった子供達は帰ってきたのだ。

 

「お帰り、みんな……ありがとう、楓、信乃逗」

 

 輝哉の言葉に込められた万感の想いを知る者は、彼の背後に控えるように立つ一人の女性のみ。

 

 天を仰ぐように空を見上げる輝哉の姿を彼女、天音は普段他人には見せることのないような穏やか表情で見つめていた。

 

 不意に、輝哉は天音へと振り返ると、穏やかな表情でこう言った。

 

 

「義勇を呼んでくれるかな」

 

 

 

 

 

 

 秋の晴天、雲は高く、広がる青がより一層手の届かぬものであると実感する今日。

 

 

 

「これより、この度の戦闘で命を落とした雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)の葬儀をとり行う」

 

 

 鬼殺隊 階級(きのえ) 雨笠信乃逗の葬儀は厳かにとり行われた。

 

 身寄りを全て鬼によって失っている信乃逗に、死後の引き取り手はない。よって彼は鬼殺隊の所有する共同墓地へと入ることになる。

 

 だが、彼の墓にその遺灰が入ることはない。鬼に殺された者は一定の割合で遺体が残らない。

 

 

 鬼が食べるからだ。

 

 

 残念ながら信乃逗の場合もその例に漏れない。彼の墓には、彼が最後まで振るっていたと思われる刀が奉納されるのみでそれ以外には何もない。

 

 空っぽの墓、唯一あるのは刀のみ。なんとも空虚なその墓は、しかし多くの想いで溢れている。

 

 決して広くはない敷地にあふれんばかりに集まる人の数。その全てが黒で埋め尽くされた光景は、集まった人々が如何に多いかを感じさせる。その数実に60名。鬼殺隊に所属する実に数十分の1の人員が今日ここに集まった。

 

 彼らの多くは蝶屋敷で信乃逗に命を拾われた者達。献身的な治療を施す屋敷の治療は多くの隊士に強い恩義を与えていた。普段決して人望があるように見えない信乃逗の在り方は、これほど多くの人間が別れを告げにくるほど偉大なものであった。

 

 その中には彼の同期であった山本と清水の姿、蝶屋敷の同僚であった幼い少女きよ達、神崎あおい等彼にとって親しい間柄のものも多く参列している。

 

 

 

 しかしその場所に、彼に『託す』と言われた少女の姿はどこにもなかった。

 

 

 

 

 

———

 

 

 

 

 

 静観な病室。寝台に起き上がる(かえで)は開かれた窓からあまりにも高い空を見上げていた。

 

 雄大な青空の下、太陽を透かした庭に生えたカエデの葉群れが、色で染めたように赤い。空気はカラリと乾いていて気持ちの良い風が吹き抜けると開け放たれた窓から枯れ葉の匂いをたっぷり含んだ風が室内へと運び込まれる。

 

 ついこの前まで残暑の厳しかった秋の陽が懐かしく思えてしまうほど、今、外の世界は秋一色。

 

 きっともうすぐ冬がくるのだろう。ほんのりと感じる外の空気は少し肌寒い。彼女の着る服は患者用の薄着だ。あまり長時間窓を開けていれば傷を負い弱った身体はすぐに風邪を引いてしまうだろう。

 

 

「…………」

 

 

 そうは思いながらも、それでも彼女は辞めることが出来ずに、ただじっと、空の青さを仰ぎ見る。

 

 ガラリと、病室の引き戸が引かれる音が室内に響く。とことこと寝台に近づくその足音で誰かが入ってきたことを伺うには十分だが、それが誰なのか、楓は振り向いて確かめることすらしない。

 

 そっと、寝台の横に立つ1つの影。

 

「楓、風邪を引いてしまいますよ」

 

 一際優しい声色でかけられた鈴の音のような気持ちの良い声。彼女を心配してかけられたその声に、ようやく楓はゆっくりと声の主人へと視線を向ける。

 

「……おはようございます」

 

 淡々と、そう告げた楓は、しかしすぐに視線を空へと戻してしまう。柱であり、師範でもあるしのぶを前にしているには、あまりにも素っ気ない態度。だが彼女のその様子をみてもしのぶは注意することもなく、ただそっと目を伏せる。

 

 

 上弦の壱の襲撃、それによって信乃逗が命を落とし、楓が重症を負った日から既にひと月が経った。

 

 

 腹部に木片が突き刺さり、意識を失った状態で半壊した小屋の中から発見された彼女の姿をしのぶは瞳を潤ませながら抱き締めた。

 

 彼女の出血は酷いもので、傷自体は奇跡的に致命傷を避けていたが、その治療は慎重を極めた。刺さった木片を他の臓器や血管を傷つけぬように抜き、血管を縫合、出血箇所の傷口を塞ぎ、輸血を行うことで楓はなんとか持ち直した。彼女の命が失われるのが先か、血管の縫合が完了するのが先か、正直、かなり部は悪かった。それでも彼女は生きながらえて見せた。上弦の壱を相手に楓は生き残ったのだ。

 

 それはまさしく奇跡と言っても良いほどの快挙。

 

 だが、そんな快挙を成し遂げた楓が意識を取り戻した時、彼女を見た誰もがその目を伏せることになる。

 

 意識を取り戻した楓の姿が、以前の楓とはまるで別人のように見えてしまったからだ。全ての感情を削ぎ落としてしまったかのように、一切の喜怒哀楽を表現しない、まるで能面のような表情になってしまった彼女の姿に誰も胸を痛めた。

 

『上弦の壱は、どうなりましたか?』

 

 目覚めた当初、彼女が一番に尋ねたそれは、共に戦ったであろう信乃逗の安否ではなく、敵である上弦の壱の情報。

 

 何の感情も感じさせず、ただ淡々と何が起きたのか、上弦の壱はどういう戦い方をするのか、その情報を語る彼女の姿をしのぶは忘れられない。

 

 楓はとても愛嬌のある娘で、表情をころころと変えて笑う素敵な女の子だった。しかし今の彼女の姿を見て、しのぶと同じようにそう思う者はきっといないだろう。

 

 心が壊れてしまったのかと、誰もがそう思っている。彼女が信乃逗を好いていたことは、この蝶屋敷で彼等を見たことのある多くの隊士が気付いている。

 

 愛する者を失って心を狂わせる。それはこの世界にありふれる、よくある光景。礼儀に厳しいところはあれど、明るく、人一倍優しい面を持っていた彼女が、それで心を壊してしまったとしても何も不思議なことではない。

 

 

 

(違う……そうじゃない)

 

 

 ただ、しのぶだけはそれは違うと、そう確信している。

 

 

 楓のその無表情はどこか歪だった。心が壊れてしまった者は、ほとんどが他者の言葉に耳など貸さない。何の反応も示さない。故に今の楓のように誰かの言葉に反応を返すことはないはずなのだ。

 

 

 

 ならば狂ってしまったのか?愛する者を失い、憎しみと喪失感に狂気に堕ちてしまったのか?

 

 それにもしのぶは否と答える。彼女のその在り方は、心を狂わせたものが見せる性急さを感じさせない。何より狂っているのであれば、こうして淡々とした様子で会話に応じることはない。

 

 

 壊れた訳でも狂った訳でもない。

 

 ならば彼女の今の有り様はどういうことなのか。

 

 その答えを、しのぶは今日確認しにきたのだ。

 

 

 

「……今日は雨笠君の葬儀ですね。晴れてくれてよかったわ」

 

 

 しのぶはそっと窓辺に歩を進めながら、そう呟く。

 遺体の遺らなかった彼の葬儀は上弦の壱の襲撃騒動からひと月も経った今日、ようやく行われるのだ。その対応は普通よりも随分と遅いが、今回の件は百年以上全く情報がなかった上弦の鬼が動いたとあって、周辺の捜索や警戒に大量の人員を動かした。

 

 上弦を一体でも倒せば、無垢な人々を何百、いや千人規模で助けることにつながるやもしれない大事だ。遺体もない、唯一彼の所有する白銀の日輪刀だけが遺された信乃逗の葬儀は急ぐ必要がなかった。故人となった者よりも生者を優先した対応を行うことは無理のない判断だった。

 

 だが、結果的に見れば、それに意味はなかったのかもしれない。その後の上弦の壱の足取りは全くと言っていいほど何も追えていないのだから。まるでその場から消えてしまったように一切の痕跡が残っていない。忽然と、上弦の鬼はここ数百年と何も変わらないまま姿を消してしまった。

 

 唯一、彼女のもたらした情報という名の戦果だけを遺して。

 

 

「………そうですね」

 

「アオイやきよ達も今日は葬儀に赴いていますし、山本君も清水さんも出席されているようですよ」

 

「……そうですか」

 

「おかげで今日は蝶屋敷には人がいません」

 

「……そうですか」

 

 彼女の反応は無愛想で、素っ気なくて、まるで会話をしたくないと言っているかのように短い言葉だけを返す。声をかけるしのぶの顔を見ることもなく、楓はただ窓の外に広がる偉大なほど広い青をずっと見上げている。

 

 この一か月、誰が何を話しかけても、彼女はこんな反応だ。誰とも目を合わせない。誰にも感情を見せない。痛ましく、悲しい、そんな気持ちを蜂起させる愛弟子の姿にしのぶは胸が苦しくなる。愛する者を失ってしまった喪失感。しのぶ自身、その気持ちは痛いほどよく知っている。そして、だからこそわかってしまう、見覚えのある彼女の表情の正体に。

 

 

 窓の台へと手を置き、ふわりと吹き込む秋の風を顔に浴びながら、しのぶはそっと顔を寝台に起き上がって座り込む1人の少女に向ける。視界に人を入れようとしない彼女の瞳に無理矢理にでも入りこむように。

 

 

 ようやく、楓の瞳にしのぶが映った。

 

 

「ねぇ、楓?今日は誰もいないわ。私と貴方、2人だけ……だから……」

 

 

 

 

 

 

——— 今日は貴方が叫んでも誰にも聞こえないのよ

 

 

 

 

 

 

「っ……」

 

 

 風に靡く髪を気にもせず、優しげに目を細めてそう口にするしのぶに、それまでどんな言葉をかけられても無表情だった少女の顔色に僅かに変化が生じる。

 

 

 しのぶには分かっていた。

 彼女が務めて無表情でいることが。いつも浮かべていた明るい陽気な笑顔を、封じようと試みていることが。心から溢れ出してしまいそうな激情を必死に押さえ込んでいることが、理解できてしまった。

 

 いつか経験したその道を歩む弟子の姿を、しのぶはよく知っていた。

 

 彼女は淡々と上弦の壱に襲われた時の状況を話したが、唯一、僅かに言葉に詰まった箇所があった。それは、彼女が信乃逗に『託された』とそう言った時。彼女が溢れる想いを抑えきれなかった唯一の瞬間。それがしのぶに気づくきっかけを与えてくれた。

 

 

「悲しい時に泣いた方が良いように、苦しい時は苦しいって言ってもいいの」

 

 

 死に逝く誰かに何かを託される。それは時に、人によっては立ち上がることができないほどの重みとなることがある。信乃逗はその点で、普通では考えられないくらいに心が強かったと言える。

 

 ただ、彼にとって当たり前にできることを、他人が何でもないことのようにできるわけではない。

 

 楓は苦しかったのだろう。及ばぬ力があると知り、あまりにも届かぬ空の高さに絶望し、そんな絶望の中で託された大好きな人の意思は、彼女にとってそれまでの在り方すら変えてしまう程の苦しみだったのだろう。自らの心を閉さなければ、狂ってしまいそうなその苦悩を、彼女は必死に押し殺していたのだろう。

 

 しかし、そんなことを続けていれば彼女はきっと本当の意味で壊れてしまう。どれだけ必死に蓋をしようとも、中で膨れ上がり続ける感情が止まることはない。際限なく噴き上がる感情の濁流はいずれ器の限界の容量を超え、自らを抱える器そのものを壊してしまう。

 

 その時が彼女の心が本当に死を迎える時だ。

 

 他者の想いというのは、人にとって生きていく為の原動力となることもある。だが同時に、彼女を殺す毒となってしまうこともあるのだ。今の彼女に、抱え込みすぎた想いは強力無比な毒だ。少しでも吐き出してあげなければ彼女の心はいずれ死ぬ。

 

 

 それはきっと、信乃逗の望むところではない。

 

 

「ねぇ楓、貴方は苦しいのでしょう?」

 

 

 再度の問いかけ。

 一際強く吹き込む風に、赤く輝くカエデの葉群れが揺れた。

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等いただけますと幸いです。

天音と輝哉の在り方は本当につらい


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簡単なこと

連続で投稿します。
前話と含めて本来は一話です。


 

 

 

「……苦しい、ですっ」

 

 

 どれほどの間が空いたのか、やがてポタリと、寝台に引かれた布地に落ちていく水滴。それに合わせるように虚空へと放たれた苦しみの言葉。枯れきった喉から振り絞るかのように出された震えた声。

 

 ひと月もの間、溜め込まれ続けたそれは大粒の雫となってようやくその役割を果たす。

 

 一度溢れ出した流れに、それまでと同じように蓋をすることはできない。溜め込まれたそれは濁流となって楓の心から溢れ始める。

 

 

「届かないんですっ!何度……何度…刀を振るっても!あの鬼にっ、上弦の壱に、届かないっ!……どれだけ腕を長く伸ばしてもっ、あの人の背中に……触れないんですっ」

 

 

 それは、懺悔のような慟哭だった。

 弱い自分を許してくれと、あの日届かなかった手を許してくれと、そう叫ぶような嘆き。

 

 楓はあの日から、ずっと夢に見ていた。あの絶望の夜を。

 

 今までの自分の努力を羽虫を払うかのようにいなされ、まるで無意味だといわんばかりに止められた。必死に引き留めようとした手は彼の背中を擦りもせずに空を切った。何度も何度も、繰り返し夢に見て、何度やっても届かない。どれだけ鍛錬しようと、どれだけ走り続けようと、あの鬼に刃が届く気がしない。遠くを歩み続ける彼の背にこの手が届く気がしない。

 

 上弦の壱に見せつけられた圧倒的な実力差、それが今、絶望の暗雲となって楓の心を覆い尽くしている。

 

「……どんなに遠く見えても、貴方が諦めなければ、きっといつか届くわ」

 

「……無理ですよっ、わたしには何もできないっ」

 

 項垂れ、涙を流す楓の諦観の意に返ってきた師の言葉は、慰めにもならないまやかしの希望。

 

 きっと、いつか、そう言って何人が死んできたというのか、何年経てばそのいつかは訪れるというのか。

 

 

「……楓、諦めるのは簡単よ」

 

 

 しのぶの慰めのようなその言葉に、諦観に染まりきった表情をしていた楓の瞳が、信じられないものを見るかのように見開かれ、呆然とした様子で「……簡、単?」と掠れるような声でそう呟く。

 

 

 

 

 ――アキラメルノハ カンタン

 

 

 

 

 次の瞬間、ようやくしのぶに何を言われたのかを理解したように、楓はしかるべき反応を示した。

 

 

「……諦めるのが、諦めるのがっ……簡単な訳ないじゃないですかっ!!」

 

 目をきっと鋭く尖らせて、怒りに体を震わせるように楓の口から飛び出した憤怒の言葉。

 

 それは師であるしのぶに対して、きっととってはいけない言動。しかし、しのぶから放たれたその一言は彼女の状態を見れば配慮に欠けるのではとそう思われても仕方のない言葉。実際、それは今の彼女の心の許容を大きく超えたものだった。

 

 耳から入ってくる言葉に全身が凍ったように冷たくなって、頭の芯だけが発火したみたいに熱くなっている楓に、それを自制することは出来なかった。

 

 

「っ諦めるのは簡単なんかじゃないっ!どうにか届けたいって何度も思いましたっ!この1ヶ月何度も考えたっ!毎日毎日考え続けたっ!!でもっ、無理なんですっ!どうにもならないんですよっ!!道がどこにもないんですっ!諦める道にしか、続いていないんですっ!……私じゃあ、あの鬼には何も出来ないんですよ」

 

 

 目が覚めてからずっと考えて、想定して、夢で見て、それでも、あの強大な存在感を、死の壁を越えられない。僅か一太刀ですらもきりこめず、何もないかのように悠然と佇むあの姿。数年にも渡って磨いた楓の技は何一つとして上弦の壱には届かなかった。

 

 なんとかなると、そう思う方がよっぽど簡単だった。努力すればいずれ叶うと、そう思えた方が何倍も楽だった。しかし現実は、そんな理想ではどうにもならない。

 

 どれほど鍛錬をすれば、どれほど強くなればあれに届く?あの強靭な存在をどうすれば倒せる?

 

 そう考えて出た答えは、人がどれほど努力したところで、あの存在には届かない。

 

 あの圧倒的な絶望を、恐怖を、しのぶは知らないから、簡単などとそんなことが言えるのだ。

 

 

「いいえ、そんなことはないわ、楓……貴方は「っ…貴方に、貴方に私の何が分かるって言うんですかっ!?」……」

 

 

 ドンっと力一杯に寝台にきつく握り締めた拳を叩きつけながら、目をかっと見開いて、これ以上ないほどの怒声でもって楓はしのぶに向かって叫ぶ。耐えきれない鬱屈とした感情が炸裂し、胸の内に秘められた激情が灼熱の溶岩のように勢いよく噴き出していく。

 

 もしも他にその光景を見ている者が別にいたら、楓のその姿に酷く驚いたことだろう。楓はしのぶを師として仰ぎ、尊敬している。それは側から見ていても明白だった。いつもしのぶの後ろを歩き、良き弟子として振る舞っていた楓とは思えないその言動に、しのぶも僅かには目を見開いて驚くも、すぐにそっと目を細めて彼女の次の言葉を待つ。

 

 

「私はっ!……私は弱いんですっ。それなのに、少しは戦えるだなんて思いあがってっ、実力があるだなんて勘違いをしてっ、あの人を守るなんて意気込んでっ、1人で死なせたくないなんて格好をつけてっ、向かった挙げ句何も出来ないっ、手も足もでずに地面を這いつくばってっ、結果はあの人の足を引っ張っただけですよっ!……何一つとして為せないっ、刃先ですら届かせられないっ、大好きな人1人でさえ、この手を届かせられない!それが私ですよっ!それが私なんですよっ!!……そんな弱い私に、誰も叶えられなかった夢を託して、一体どうなるって言うんですかっ!?」

 

 

 それはもはや悲鳴だった。

 

 彼女の身に託された夢の重さが、彼女の心に立ち上がれないほどの重圧をかけている。心を引き裂くほどの絶望に、彼女の心が軋んでいる。

 

 彼女に託された想いは、これまで何人もの隊士が見てきた夢。千年の時を経て未だ続く果てのない願い。

 

 

 

『鬼のいない世界』

 

 

 

 だが今日に至るまで、夢半ばにすら辿り着けずに命を落とした隊士が一体どれほどいた?

 

 楓より強いものなどきっと山ほどいた筈だ。それでも届かなかったのだ。なのに、あの日、地を這うことしか出来なかった自分が、道半ばで果てた隊士の夢を想い続けた信乃逗に『託す』などと言われて、それを目指さなければいけない。

 

 夢を叶えるには、あの鬼よりももっとさらに強いであろう鬼無辻を倒さなければいけないのに。上弦の壱にすら届かない自分の刃で一体何ができる?そんなもの、答えなんて決まっている。

 

 

 出来はしない。

 

 

 上弦の壱を前に地を這う虫ケラでしかない自分が、鬼のいない世界を叶えるなんてそんなことができるはずがないのだ。

 

 

「……私じゃあ、無理ですよ」

 

 

 愛する者に信じて託されたそれは、楓には致命的なまでに重かった。途方もなく深い穴の底にいる自分が、空の果てに手が届くわけがない。あまりにも遠いその星は手を伸ばそうという気概すらも奪ってしまう。

 

 やがて静かに下を向いて押し黙る楓に、それまで黙って彼女の心の悲鳴を聞いていたしのぶが、そっと口を開く。

 

 

「……もう一度言いますよ楓。諦めるのは簡単です」

 

「……っ」

 

 師から告げられたその言葉に、楓はきつく目尻を吊り上げてしのぶを見つめる。理解されない、そう思った。あの絶望を知らない彼女に自分の気持ちを理解などできるはずがない。そんな絶望と、えもいえない怒りにも似た感情が、彼女の瞳を陰らせる。

 

 いっそ憎悪とも言えるような瞳を愛弟子に向けられる。そんな状況であっても、しのぶは楓から視線を逸らすことはない。紫根染めで染められた一級の絹のようなあざやかな紫色の双眸で楓の瞳を見続ける。

 

 

「諦めないことは酷く苦しいものです。無理だと思う気持ちと、託された夢を実現しようとする想い。その矛盾した想いの反発は貴方にとって酷く辛く、苦しいものになるでしょう。ただ、諦めてしまえばそれらを感じることはない。本当の意味で諦めてしまったものには、苦しみも悲しみも、怒りも何も感じることはありませんから」

 

 それはまさしく今の彼女を表した言葉だった。

 

 楓は苦しいのだ。この想いは、この夢は、無理なのだと、楓の中の理性がそう叫んでいる。

 

 でも、どれだけ無理だと、そう叫んだとしても、死んだ者には何も届かない。逝ってしまった信乃逗にこの叫びは届かない。だから楓は必死に堪えていたのだ。感情を抑えて、表情を消して、何も感じていないように振る舞っていた。そうでもしていなければ、胸の奥底から溢れ出るこの情けない感情が周囲に飛び散ってしまいそうで、飛び散ったその感情が、きよやアオイ達を傷つけてしまいそうで、怖かった。

 

 でもその戒めを師であるしのぶは解いてしまった。

 彼女の行為に甘えるように、優しげな音色に絆されるように、心にたまる絶望を吐き出して、弟子として信じられないような言動でもって師である彼女の言葉を否定した。鬼殺の剣士が鬼を倒す夢を無理だといい、己の振るう刃を否定する。それはなんとも情けない、これまで払った多くの犠牲を愚弄するかのような行い。

 

 きっとさぞかし、しのぶにも呆れられただろう。鬼の恐怖に屈して泣き喚く自分に彼女は失望しただろう。

 

 

(私が死ねば良かった、そうすればきっと……)

 

 

 あの時、信乃逗と自分が逆であれば、今日墓に葬られるのが自分であったなら、こんな醜態を晒すこともなかった筈だ。彼であれば、こんな風に託された想いを否定するようなことはしなかった筈だ。

 

 そんな勝手な想いが溢れ出しそうになった時、楓の冷たくなった頬にそっと何か暖かいものが触れる。

 

 唐突に訪れた感触にふと視線を上げれば、失望されたと、さぞかし冷たい視線を向けられるだろうと思っていたしのぶから与えられるのは、それとはまるで正反対のとても、暖かな優しい瞳。しのぶの手が楓の頬に添えられるように置かれている。

 

 

「貴方は先ほど無理だとそう言いましたね。この夢は叶えられないと。……ですが、貴方にはまだ、託された夢を苦しいと思う感覚がある。なら、貴方の心は、まだそれを叶えることを諦めていないわ」

 

「っ…………」

 

 慈しむような微笑みを浮かべ、そっとしのぶは楓を抱きしめる。彼女の苦しみも、弱音も、絶望も、楓の心に残る諦めたくないという気持ちすらも、温かな光で包み込んでしまう。

 

 

「苦しい気持ちも、辛い想いもあってはいけないものではないのよ。楓が感じるそれは人が人である為にとても大切なもの。泣いてもいいし、怒ってもいい、苦しんで蹲ったっていい。だって、貴方は生きているのだから」

 

「…………」

 

 師から与えられるその温もりは、冷たくなった楓の身体には、あまりにも離れがたい暖かみとなる。それまで駄々をこねる子供のように与えられる言葉を全て拒絶していた楓が、言葉を失ってしまったかのように唖然とした様子で虚空を見つめている。

 

 

「どれだけ貴方が鍛錬を重ね、上弦の鬼も、鬼無辻すらも倒せるほどに強くなったとしても、死んだ人を生き返らせることは出来ない。失った物は何一つとして戻って来ない。それは柱と呼ばれる私達であっても同じこと。だけどそれでも私達は、刀を振るうことを諦めない。何故か分かる?」

 

「…………」

 

 何故?そう問われても楓には答えなど想い浮かばない。仇をうっても、夢を叶えても、死んだ者は戻らない。私達が刀を手に取ったきっかけは何も変わらないのに、何も戻らないのに。なら、私達は何故鬼に抗うのか。これほどの犠牲を払って、それでも尚勝ち目の少ないこの戦いで、人は何故刀を振るうのか。

 

 

「……願っているのですよ。いつか誰かが私達と同じ想いをしなくてもよくなる平和な世界が来ることを、鬼殺を掲げる全ての者が夢見た世界が現実になる、そんな日々を」

 

「……ぁ……」

 

 しのぶの儚げなその声に、楓の脳裏にある言葉が蘇る。

 

 

 

 

『炎を絶やさず燃やすことができればいつか炎は蝋を溶かす、俺たちの夢はきっとその時に叶う』

 

 

 

 あの人が最後に残してくれた言葉。

 

 

 

「楓、貴方は1人ではないのよ。上弦の鬼を1人で倒そうとしなくてもいい。鬼のいない世界を1人で叶えようとしなくてもいい。貴方の託された想いは貴方1人で抱え込む必要はないのだから」

 

 

 しのぶの言葉が、楓の心の奥底にかちりとはまって、ふわふわとしていたものがストンと落ち着いた。

 

 

(私が、託されたのは、夢を叶えることじゃなくて……繋ぐことだったんだ)

 

 

 勘違いをしていた。信乃逗の『託す』とは夢を叶えろという意味ではない。蝋燭に灯った夢という名のか細い炎。それが消えてしまわぬよう誰かに火を渡し続ける。それこそが楓に『託された』信乃逗の想い。

 

 

「……私、に、私達に、為せるで、しょうか……」

 

 

 震える喉から絞り出すように出したその声は泣き声で割れていて、酷く聞き取りづらい。それでもしのぶはそっと頭を撫でながら大丈夫とそう言ってくれる。

 

 

「えぇ、いつかきっと為せるわ。私も貴方も、山本君や清水さんもきよ達だっているのですから」

 

 

 この残酷な世界ではありとあらゆる命があっという間に消えてしまう。そんな世界で必ずなどと、そう口にすることは出来ないけれど、「きっと」とそう口にすることくらいは許されてもいいだろう。

 

 

「……はいっ」

 

 

 1人ではない。そう思うだけで楓の心を覆っていた絶望の暗雲に、ほんの少し光が差し込む。あるいは、それはしのぶの与えてくれる温もりによるものだったのかもしれない。どうであれ、ひと月もの間彼女を苦しめた心の楔はようやく解き放たれたのだった。

 

 

「上を見上げて手を伸ばしなさい。今は届かない天高くある夢であるなら、尚更上を向きなさい。下を向いていたのでは夢の場所を見失ってしまうでしょう」

 

 

「……っは、い………はい……」

 

 柔らかく、暖かな暗闇に覆われた楓は静かに嗚咽する。やがてしのぶに抱きつくように腕を回し、堰が切れたかのように徐々に大きくなっていく楓の嘆きを、しのぶはずっと聞き続けていた。

 

 

 

 窓の外はいつのまにか、ちらちらと雪が降り始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 霧の深い森が鬱蒼と広がる山。

 周囲の山々に比べて標高の高いその山は空気が酷く薄く、訪れる者の呼吸を狂わせる。

 

 

 そんな山の中で、キィィンという一際甲高い音が響き渡る。それはまるで金属を石にぶつけたような酷く不快な音。

 

 

 しかしその人にとって不快な音は、ある一つの快挙を表していた。

 

 

 大の大人の身体すらも遥かに超えるような巨大な岩。綺麗な流線を描くような丸みを帯びたその岩は、しかし無残にも中心でぱかりと割れている。しめ縄もろともに二つに分かたれたその岩は、まるで刃で斬ったとでもいうかのような見事な切断面をしており、その有り様は伝説に謳われる柳生宗厳の残した一刀石を彷彿させるものであった。

 

 

 そんな巨石の前に、刀を振り抜いた体勢で固まる1人の少年の姿。赤みがかった髪と瞳を持ち、額に大きな傷痕を残すその少年は呆然とした様子で割れた岩の方向を見つめる。

 

 

 

「炭次郎」

 

 

 

 ふと聞こえてくる少女の声。憂いを含んだその声に、炭次郎と呼ばれた少年はふと視線を左に、声の主人を見やる。

 

 

 

「よくやったね、今のを忘れないで。……勝ってね炭次郎、アイツにも、あの人にも」

 

 

「……ぇ」

 

 

 

 

 

—— きっと炭次郎ならあの人を止められる。

 

 

 

 

 

 

 儚げな笑顔を浮かべて、花柄の着物をきて頭に狐面をつけた少女はそっと深い霧の中に消えていった。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
御意見・御感想等頂ければ幸いです!

不気味な感じで続かせますよ(^ω^)
やっと炭次郎出せた、長いなここまで 笑笑

しかしやっぱり、真菰は神なんだよ


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幕間 蟲の涙を知る者

外伝的な感じで書きました。


 

 

 ひと月もの間、心の中に溜め続けた苦悩を涙と共に吐き出した楓は泣き疲れたように眠りについた。元々怪我で体力は落ちているのだ。今は少しでも眠っていたほうがいい。

 

 穏やかな息をついて腕の中で眠る楓をそっと寝台に寝かせると、しのぶは愛おしい者を見るように楓を見つめ、そっと病室を後にする。

 

 

 弟子のたどる道はあまりにも辛い。実現困難な夢、不可能と思えるような夢に腕を伸ばすことは、とても勇気のいる行動だ。どれほどの努力をしても叶う保証がないというのなら、人はその道を進むことを躊躇ってしまう。

 

 努力は報われる、多くの人はそう信じたがるものだから。

 

 だが残念ながら、努力は必ずしも報われるものではない。

 

 あんなに頑張ったのに、あんなに苦しんだのに、声を上げて何故と、そう叫ぼうとも天は答えてはくれない。人はそれを恐れる。そうなることを恐れて人は一歩を踏み出せない。己が全てを欠けて、それでも尚叶わないというのなら、自分は何の為に生きたのか、自分の全ては無意味だったのではないかと、そう思ってしまう。

 

 だから人は諦める。無意味になるくらいなら、意味のあるものになりたいと、人は叶う保証のある夢を探し始める。叶う保証のない夢はそうやって捨てられていく。

 

 あるいは生涯で人が最も恐れるそれは、死ではなく、無意味になることなのかもしれない。

 

(……私も同じなんですよ、(かえで)

 

 どれだけ手を伸ばそうとも、姉の想いには届かない。姉の願った世界には近づけない。不可能とも思える姉の夢は、しのぶの感じる鬼への怒りにあまりにも反していて、手を伸ばすことをやめてしまいたくなる程の苦しみを与えてくる。どれだけしのぶが考えても、鬼は人を喰らい、幸せを壊し、無垢な人々を苦しめる。この努力に果たして如何程の意味があるというのか。あるいは私のこの行いの全ては、無意味なものなのではないか、そう思ってしまう。

 

 大事な者を全て壊していく鬼と、私はどうやって仲良くなればいいのだろうか。

 

 

 両親を殺された。

 

 

 仲間が殺された。

 

 

 姉を殺された。

 

 

 世話のかかる弟のようにすら想っていた信乃逗が殺された。

 

 

 大事な継ぐ子が、家族が、泣かされ、苦しめられた。

 

 

 

 これほどまでに奪われ、苦しめられ続けて、どうして仲良くなどと考えなければいけないのか、どうやって鬼と笑い合っていけばいいのか、しのぶには分からない。考えることすらもやめてしまいたくなる。もう無理なのだと諦めてしまえればどれだけ楽だろうか。

 

 諦めることは簡単だ、しのぶが楓に言った通りだ。だが、簡単にできることはこんなにも苦しく、度し難いものなのだ。

 

 苦しいとそう思う限り、しのぶはカナエの夢を叶える事を諦めてはいない。

 

 ただ、いつまでも終わらない苦しみに、しのぶの心は疲れ切っていた。

 

 

 いつまで、一体いつまで、この苦しみは続くのか?

 

 

 誰も答えてはくれない。当たり前だ。

 その問いに対する答えなど誰も持ち合わせてはいないのだから。

 

 

 

 

「……なんの御用でしょうか?」

 

 突然、廊下を歩くしのぶの後ろに現れた人の気配。なんの予兆もなく現れた気配の主に、しのぶは眉を顰めてそう問いかける。

 

「…………」

 

 返答がない。黙ったままでいるよく知るその気配に、しのぶはため息を吐いて振り向く。

 

「返事くらい返してくれませんか?…… 冨岡さん」

 

 視界に入った、左右で違う布地をした片身替わり模様の羽織りを纏った黒髪の男。水柱、冨岡義勇。

 

 目鼻立ちの整った端正な顔立ち、人の持ちうる感情を感じさせない深海のように黒く、深い青を宿したその瞳は、他人にその考えを読ませない。変化の乏しい表情で此方見つめてくる富岡に、しのぶはいつものように微笑みかける。

 

「わざわざ気配まで消していらっしゃたのですから、何かあるのでしょう?」

 

 この男、普段から影の薄いところはあれど、これ程接近されるまでしのぶが気づけないというのはあり得ない。しのぶとて柱の一画、いくら蝶屋敷という自分の庭のような場所で気が緩んでいたのだとしても、周囲の気配くらいは察せられる。そのしのぶが屋敷への侵入どころか、僅か数歩後ろに立たれるまで気付きもしなかったのだ。冨岡は明らかに意図して気配を消してきた、それを理解するには十分過ぎる状況。

 

「……話をしにきた」

 

 ようやくと言いたくなるほどの間を空けて、抑揚を感じさせない低い声で冨岡が口を開く。

 

「……此処ではなんですし、此方にどうぞ」

 

 未だ季節は秋、とはいえ雪が降るような寒さだ。廊下で長々と話すというのも身体に良くない。それに断りもなく上がり込んできているとはいえ、一応は冨岡も客人だ。部屋に通してやらねばさすがに失礼だろう。

 

(一体何を考えているのか……)

 

 大人しく後ろをついてくる冨岡を尻目に、しのぶはそっと内心でため息を吐いた。

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 客間へと冨岡を案内したしのぶは座布団を敷き、冨岡と対談のような形で向かいあっていた。

 

 本来なら茶の一杯でも出しておかねばならないところではあるが、その手の気がきくアオイ達は今は留守だ。それに無断で人の家に上がり込んでくる輩に、お茶まで出して歓迎してやる道理もない。

 

 今日は長々と他人と話ができるような心理状態でもないので、話だけしてとっとと帰れという意思表示でもあるのだが……目の前の男にそれが通じるのかは定かではない。

 

(まあ、通じないでしょうね)

 

 他人との会話や空気を読むと言った能力が極端に低い目の前の男に、しのぶの意図を考慮しろと要求するには些か以上に難易度が高い。

 

「お話があるということでしたが、一体どのような内容でしょうか?」

 

「…………」

 

 こうして対面してから随分と経ったが、冨岡はしのぶに瞳を向けるばかりで一向に喋りはじめない。痺れを切らしたようにしのぶの方から問いかけることにした訳だが、しのぶの問いを受けても、彼は何故か黙殺するかのように口を閉じている。

 

「あの、冨岡さん?お話があるのではないのですか?私も暇ではないので、早くしていただきたいのですが」

 

 一向に口を開く様子の見えない冨岡の様子に、徐々にしのぶも内心で徐々に苛立ちを募らせていく。ただ静かに、しのぶの方を見るばかりで肝心の話とやらが一向に進まない。一体何を考えているのやらと呆れ半分苛立ち半分でしのぶは息を吐く。

 

「……胡蝶」

 

「あ、はい、何でしょうか?」

 

 ようやく、やっと話を聞けるのかとしのぶは僅かに項垂れていたその居住まいを正して、冨岡の言葉を待つ。

 

 

 

「……泣け」

 

 

 

「………………………………はい?」

 

 

 目の前の男が一体何を言ったのか、しのぶにはまったくもって理解出来ない。思わずそう問い返したしのぶはきっと何も悪くないだろう。およそ誰が聴いても、彼女のような反応を返したことに、間違いはないのだから。

 

 

 故にしのぶは問い返す。

 

 

「……少々聞き取り辛かったので、もう一度言って頂けますか?」

 

「泣け、そう言った」

 

「…………」

 

 間髪入れずに返された富岡の言葉を、頭の中で何度も反芻して、しのぶはようやくそれが意味のある言語であることを理解した。理解してしまったが故に、しのぶは俯く。

 

 すぅぅっと、大量の空気を吸い込むような音が室内に響く。

 

(落ち着きなさいしのぶ、感情を乱すのは未熟者。そう、私は大丈夫。目の前にどんな馬鹿がいたとしても私は冷静でいられるわ)

 

 何の予告もなく現れた男に、忙しい時間を割いて、これほど待ってようやく告げられたそれは『泣け』の2文字。まったく意味が分からない。一体何をしにきたのだこの男はと、もはや呆れを通り越して怒りすら湧き上がってくる。

 

 一拍置いて吸い込んだ空気を吐き出すと、しのぶは笑顔で顔をあげ、馬鹿もとい冨岡の顔を見遣る。

 

「仰っている意味がよく分からないのですが、泣けとは一体どういうことなのか教えて頂けませんか?」

 

「涙を流せということだが?」

 

 

 

——ぴきっ

 

 

 

 室内に響く異音。しのぶの精一杯の努力は僅か一言で風前の灯火となった。

 

 何がわからないのだろうかとでも言いたげな表情で答える冨岡に、しのぶの笑顔は一層深みを増す。

 

 一体いつ、誰が、泣くという言葉の意味合いを説明しろと言ったのだろうか?

 

(えぇ、知っていましたとも。貴方がどうしようもなく馬鹿なのは勿論理解していますよ)

 

 目の前の男に普通の会話を求めることそのものが間違いだと、しのぶはよく知っているはずだった。担当巡回地区が近いこともあって、冨岡とはよく指令を共にする仲だ。その為、柱の中でも冨岡とは比較的よく接触することが多い。彼が口下手という度合いを遥かに超えて会話できない人間であることは、その時の経験でよく知っていた。それでも最近は経験故か、彼が何を言いたいのか、足りない行間をある程度察することが出来るようになってきたと、そう思っていたのだ。

 

 だが、現状を見るにその認識は誤りだったようだ。

 

「冨岡さんを相手にするには、聞き方が悪かったですね。私が聞きたいのは何の為に、どうして私が泣かなければならないのか、ということですよ。まさか冨岡さんに愛らしい女性を泣かせて喜ぶ趣味があるとは思いませんが、唐突に女性に泣けと仰るのは如何なものかと思いますよ」

 

「愛らしい?」

 

「何でそこで首を傾げるんですか?食いつくところはもっと他にあったでしょう?貴方、実は喧嘩を売りにきたんですか?」

 

 無論喧嘩を売られているのであればしのぶとしても高値で買う準備は十分にある。この短い時間の中で、富岡には既に十分すぎる程の押し売りをされているのだ。いつでも殺る準備は万端である。

 

「……必要と判断しただけだ」

 

「話になりませんね……どうして私が泣かなければいけないのですか?」

 

 その必要とする理由を聞いているのだが、どうしてこの男との会話はこうも遅々として進まないのだろうか。一つ一つ明確にしていかなければ、彼の言葉の真意を理解するのも難しい。なんとも手間のかかる男だとしのぶは今日何度目かのため息を吐く。

 

 仮にこれが他の柱であれば、この時点で冨岡との会話を既に断念することだろう。風柱や蛇柱ともなれば既に刀身が抜き放たれていても不思議ではない。ここまで余裕を持って冨岡と会話ができるのはおよそ柱の中ではしのぶを置いて他にはいないのだ。

 

 しかし、そんな彼女ですら余裕を持って冨岡に対応することができたのは此処までだった。

 

「……悲しい時は泣いた方がいいと、弟子に言っていなかったか?」

 

 何のことかとキョトンと首を傾げるも、徐々にその言葉の意味を理解していくうちに、しのぶの瞳は鋭く細められていく。

 

「……盗み聞きとは感心できませんね」

 

「すまなかった」

 

 思わず苦言を呈するしのぶに存外素直に謝る冨岡。あまりにも呆気なく謝るその姿にしのぶも毒気を抜かれたようにため息を吐く。

 

 今、冨岡が言った言葉は遂先ほど楓の病室でしのぶ自身が告げた言葉だ。あの場に彼はいなかったはずだが、どうやら気配を消して聞き耳を立てていたらしい。それ自体も感心できるものではないが、しのぶとしては彼が何を思ってその言葉を今自分に告げたのか、そこに焦点がいってしまう。

 

 これまでの彼の言葉を纏めるのであれば、彼の意図はこうだ。

 

 私が悲しんでいるから、私が涙を流すことが必要だと、目の前の男はそう言っていることになる。

 

「…… 冨岡さん?ひょっとして私を心配してくれているのですか?」

 

「あぁ」

 

 短く返されたその言葉にしのぶは絶句する。

 

 不可思議だ。まさに摩訶不思議だ。全く何も考えていなさそうに見える表情で、瞳で、どこからどう見ても、誰が見ても、唐変木としか認識できないこの男が、他人を気遣い、わざわざ声をかけてきたと?宇髄(うずい)や伊黒辺りが聞けばあり得ないと一蹴しそうな不思議現象が、いま目の前で起きている。しかもその対象は自分。

 

 いい夢?あるいは悪夢なのだろうか?急に雪が降り始めたのはひょっとしなくともこの男の奇妙な言動の前触れだったのでは?

 

 その手の珍妙な話をあまり信用していないしのぶですらそう思ってしまう程、冨岡の言動はあまりにも普段のそれとはかけ離れており、不可解極まるものであった。

 

「……心配してくださったことにはお礼を申し上げます。ですが、私にはそんな気遣いは必要ありませんよ」

 

 全く持って謎だが、どうであれ目の前の男が自分を心配していると、そう言っているのだから、それ自体はありがたいこと。素直に礼も言おう。

 

 だが、その心遣いは自分には必要ない。もっと別のところで行うべきだ。

 

「私達は柱です。仲間の死を悼み悲しむことはあれど、涙を流しはしません。鬼殺隊を支えるべき柱が、一人の隊士の死に涙を流し、感情を乱しているようでは柱として示しがつきません。それは水柱である貴方もよくわかっているはずです」

 

 柱とは文字通り、鬼殺隊という巨大な組織を支える役割を担う者のことを指す。選ばれた9人の柱は鬼殺に励む隊士達を皆平等に支えなければいけない。故に、誰か一人の隊士の為だけに流す涙など、見せるわけにはいかない。隊士達はいつだって死と隣合わせで、いつだって死んでいってしまうのだから。

 

「お前は俺とは違う」

 

「……どういう意味ですか?」

 

 思わず険のある声を出してしまう。

 

 自分が柱として劣っているとでも言いたいのだろうか。確かに柱としての経験で言えば、しのぶと冨岡の間には数年の隔たりがある。実力も打ち合えば冨岡に勝てる要素はほとんどない。無論簡単に負けてやるつもりもないが、それでも7割以上の確率でしのぶは冨岡には勝てないだろう。だが、例えそうであったとしても、柱としての任を賜ったその瞬間から、しのぶは歴とした柱であり、その役目も心得も、他の柱より劣るつもりは当然ない。

 

「支えるものがあってこそ柱は柱たり得る。支えるものが軽くなってしまえば天秤は簡単に揺れ動く、その揺れは、あるいは柱すらも揺るがしてしまうものかもしれない」

 

「……私が支える者に影響され、揺れ動くような柱だと、そう言いたいのですか?……ご忠告はありがたいのですが、そうであるなら揺れ動かないでもいいようになる強さを身につけるだけです」

 

 努めて平静を装いながら声を出すが、しのぶの内心は湧き上がる苛立ちを押さえ込むことに必死だった。己が役目をしのぶも理解している。柱として、その任を全うすべく、感情を制御してきた。立派な柱であった姉のように、微笑んでいられるように努めてきた。その努力を愚弄されるような忠告。彼が悪意を持ってそれを言っていないのはわかるが、悪気がなければ許されるわけではない。

 

「……お話が以上でしたら、私も忙しいので今日はお帰りください」

 

 可能な限りの微笑みを携えて、しのぶは冨岡に出て行けと案にそう告げる。

 しのぶは自らの感情の制御には自信がある。だがこのまま彼の顔を見ていれば、身の内に湧き上がる苛立ちを抑えこめていられる確信が持てない。今は彼のいう支える者を喪ったが為に、確かに自分の感情は不安定になっているのやもしれない。

 

 一も二もなく、しのぶはそっと席を立つと、一応の客である冨岡に背を向ける。

 

 礼儀作法を考えるのであれば、冨岡の退出を待ってからしのぶはこの部屋を出るべきだし、本当に客として扱うのであれば、玄関まで見送るべきだが、今のしのぶは一刻も早くこの部屋から出て行きたかった。何よりこれ以上冨岡の顔を見ていたくなかった。

 

 

 

 だが、冨岡という男はいつだってしのぶの思い通りにはさせてくれない。

 

 

 

 客間を出ようと襖に手を掛けるしのぶの背後に誰かの立つ気配。

 

 パッと振り返ろうとしたその瞬間、しのぶの全身を何かが包み込んでくるような暖かな感覚が襲う。

 

 襖に手を掛けたまま、振り返りかけた体勢のままの状態で、しのぶは固まってしまう。背中を覆う温もり、視界に入る随分と間近にある人の顔、ふんわりと鼻先をかすかにくすぐる香り、お腹辺りに回されたこの感触はこの顔の人物の腕だろうか。

 

(な、に?)

 

 宝石のような深い青を宿したその瞳を縁取る長い睫毛に、しのぶの視線は不思議と固定される。まるで石像のように動かない表情で、しのぶだけを見据えた青は、瞬き一つせずに、しのぶの驚愕に染まった表情を映し出している。

 

 突然に訪れたそれは、しのぶにとってあまりにも理解し難い状況で、彼女の脳が然るべき反応を示すまでには、数瞬の時間を必要とした。

 

「…… 冨岡さん、一体何をなさっているのですか?」

 

 どれほどの時間が経ったのか、やがて口を開いたしのぶは努めて笑顔で、背後から抱き付いてきた男にそう声をかける。

 

「……………」

 

「なんとか仰ったら如何でしょうか?このままでは私は貴方を警察に突き出すことになってしまいますが」

 

 黙秘するように口を閉じる富岡の姿に、しのぶもそろそろ我慢の限界だがと、額に濃い青筋を浮かべて普段より数段低い声色でそう忠告する。

 

 乙女の身体に突然抱きついてくるような男など、警察に突きつけられて当然。むしろこの場で斬り殺されないことに感謝してほしい程の暴挙だが、後ろに立つ男は仮にも鬼殺隊の頂点の一人。流石においそれと処断もできない。それに、この男がその手の邪な感情を持ってこの暴挙に及んだとは、しのぶも考えていない。かと言って一体何を考えてこれを行っているのか、それもしのぶにはわからない。故に今、この暴挙の真意を問いただしているのだ。

 

「こうすれば、大人しく泣くかと思った」

 

「……一応聞いておきますが、一体どうしてこれで私が泣くと思ったのでしょうか?」

 

「お前の弟子はこれで泣いていた。だからこうすれば、お前も泣けるのではないかと、そう考えた」

 

「覗き見は感心しませんね……それにしても、ここまでとは……」

 

 あまりの阿呆らしさに気が遠くなる。目の前で起こる全てを真似して学習する幼子のようなその思考回路のままで、一体よくもここまで成長できたものだと半ば感心すらしてしまう。

 

「冨岡さん、もう一度言いますが、私には必要ありませんので……離していただけますか?」

 

「いや、必要だ」

 

 必要ないとそう言った瞬間、逃がさないとでも言うかのように腕に込められた力が強まった。まるで駄々をこねる子供のように聞き分けのないその様子に、流石のしのぶも苛立ちを露わにする。

 

「私はそんなに倒れてしまいそうな弱い柱に見えますかっ?」

 

 苦しみはある。悲しくもある。信乃逗はしのぶにとってもまた、かけがえのない大事なものだったのだから。

 

 だがそれでもしのぶは柱だ。弱くあるわけにはいかない。そう信念を込めて歯を食い縛って柱という地位に立っているのだ。だがそんなしのぶの努力を、冨岡の言葉はまるで否定しているようで、彼が言葉を重ねる度に感情が吹き荒れそうになる。

 

「いや、お前は強い……羨ましく思うほどにお前のあの在り方は強く、柱に相応しい」

 

「そう思うならっ「だが」っ……」

 

「柱も人だ、感情を捨てることは出来ない。お前の感じる嘆きも悲しみも、覆い隠すことは出来ても、捨て去ることは出来ない」

 

「……何が、言いたいのですか?」

 

「吐き出せ……お前の溜めた溢れんばかりの悲しみを。お前が抱えるその怒りを、今日ここで吐き出せ」

 

 視界にはっきりと映り込む青の意志、波ひとつない湖面のような静けさの中にはっきり宿る青の炎。水の中ですら消えることのないその炎の力強さに、しのぶは思わず息をのむ。

 

「っ……私は、姉のように柱としての役目を果たさなければいけないんですよっ……感情の制御ができない者ではっ、柱として……」

 

 緊張しているかのように身体が強張る。久しく感じたことのない、奇妙な焦燥感に、しのぶは普段の装いを僅かに崩してしまう。それでも、なんとか柱たる者として確固たる心を見せようとする意志が、しのぶの口を動かす。

 

「感情を制御するというのは、押さえ込むことばかりを指すのではない。お前の姉は、そのことをよく知っていた筈だ」

 

「っ!?」

 

 しかし、そんなしのぶの足掻きすらも、冨岡は一蹴してしまう。制御とは確かに押さえ込むことだけを指す言葉ではない。時に押さえ込み、時に吐き出し、必要な時に求められる感情を装えるようにする。それこそが感情制御。しのぶの姉、花柱であったカナエは、確かに感情を押さえ込んでばかりいたのではない。むしろ情緒の非常に豊かな、様々な感情を表に出す人だった。

 

 

 しのぶの心の蓋を閉じている鎖が僅かに緩んでいく。

 

 

「それに……今日はここには誰もいない。お前の弟子は眠りについているし、ここで働く者達は皆出払っている。お前の声を聞くものは誰もいない」

 

 一度では開かぬ頑丈な蓋に、駄目押しとばかりに冨岡は追い討ちをかけてしのぶのかけた鎖を引き剥がしていく。

 

 今、蝶屋敷には人がいない。先ほど楓にしのぶ自身が言った、感情を吐き出す為の言い訳。それを今、冨岡に使われた。

 

 柱であるしのぶが、隊士達の前で泣き叫ぶことは確かに許されないし、守るべく家族ともいえるカナヲ達に心配をかけたくもない。だが今ここに彼らはいない。しのぶが涙を流すことを、悲しみの叫びを、怒りの声を挙げることを憚かるものは何一つとしてないのだと、冨岡はそう告げている。

 

「っ…… 冨岡さんが、いるじゃないですか」

 

「俺など気にするな。……いないも同じだ」

 

「……なんですか、それ……貴方がそんなだから……私はっ……」

 

 言い訳が思いつかなかった。声を出すことを憚かる理由はいくらだってあったはずなのに、泣いてはいけない理由も、感情を出してはならない理由も、幾つだってあったはずなのに、そんなものは知らないとばかりに、目の前の男に全て消されてしまった。

 

 もはや今ここに至って、しのぶの心の鎖は解けたも同然。あとはほんの少し蓋を緩めるだけで、中身は勝手に溢れ出していくだろう。

 

「私は、声を上げても……いいんですか?」

 

「いないも同じの俺の前でなら……いくらでも出せばいい」

 

「っ……言質は、とりましたからね……くっ……」

 

 そっと細められた湖面の瞳は、片腕を持ち上げるとぽんぽんと、しのぶの頭を優しく撫でる。それは昔、カナエが悪夢に魘されるしのぶを宥める時にしてくれた物と全く一緒のもので、もう、しのぶに零れ落ちる雫を抑えることはできなかった。

 

 

 

 長い間、開かれることのなかった心の蓋は、今日、一人の男の腕の中でそっと開かれた。

 

 

 

 

 その日から一つの蓋に、南京錠のような大きな錠が取り付けられた。

 

 

 

 

 鍵を持つのはたった一人の男だったという。

 

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
御意見•御感想等いただけますと幸いでございます!

お楽しみ頂けましたでしょうか?
義勇って喋る時めっちゃ喋るからこれくらいは言ってくれそうだなと思いまして、あとしのぶさんにこれくらいの救いはあっても良くない?っていうかいっそ幸せになれと願いを込めて書きました。

義勇がしのぶを後ろから抱きしめてる絵を想像したら尊すぎて魂飛び立ちそうになる。

あ、でもやっぱり作者は真菰が神ですから



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第3幕
月明の輝き


新章スタートします。
原作はもう少しだけ先です。


 

 

 

 月の輝きが夜を美しく彩っていく。淡い光に満たされた儚げな夜の世界は、しかして残酷な光景ばかりを生み出していく。

 

 

 

『夜』

 

 

 

 その時間は、人にとって1日の終わりの時間であり、明日への準備の為の時間であり、心と体を休める安らぎの時間でもある。

 

 どうであれ、多くの人にとってはいつまでも続く明日への区切れでしかない。

 

 

 

 だから、人は考えてもみない。

 

 

 ある日突然、いつまでも続く明日が来なくなることを。朝日をおがむことができなくなることを。

 

 

 『夜』という暗闇の時間を生き残ることが、人にとっていかに難しいことであるかを。

 

 

 

 「はぁはぁはぁ、っう……なんでっ」

 

 

 月の光に照らし出された細い道を少女は走っていた。キラキラと月光を反射する水面の輝きを顔に受けて、少女は僅かに視線を周囲へと向ける。

 

 道の両脇にある水を張られた水田には、植えられたばかりの稲の苗が雑草のように水面から顔を覗かせている。秋になり、陽の光が当たればさぞ美しい黄金色に輝くそれも、今の少女には、自らの死への案内人のようにすら見えてしまう。

 

 

「ひっ!?」

 

 

 何もかもが怖い。

 水面から覗き見るように顔を出す苗も、月の光を反射する水面も、暗闇の先に続くこの道も、頭上から降り注ぐ月の光ですらも。目に映る全てのものが少女は怖かった。

 

 ほんのつい数分前までは、少女にとってこの景色は自らの想いを高めてくれる心強い味方だった。想い人との夜の逢瀬。2人きりで歩くこの夜の細道は、2人の気持ちを高め、優しく降り注ぐ月の光は2人の恋を祝福しているかのようにすら感じられた。

 

 

 だが、それも今となっては過去の話。

 

 

(あんな化け物がっ、いるなんてっ)

 

 

 それはあまりにも突然の出来事だった。暗闇の奥から這うように現れた異形の化け物。腕を脚のように扱い、長い舌を垂らして向かってくるその姿の、なんとおぞましきこと。

 

 あまりの恐ろしさに、少女は悲鳴をあげることすら忘れて佇んでいた。その少女の腕を引っ張る想い人の姿。少女はなんとか我を取り戻し、想い人と共にその場から走り出した。だが、走り出した瞬間、想い人は息絶えた。彼の体を貫く長い長い腕、いやあの化け物にとっては脚なのかもしれない。歩数にして50歩以上離れている距離で、あれの腕は大陸のおとぎ話で聴く如意棒のように、想い人の心の臓を貫いた。倒れ伏す想い人の姿に、少女は脚を止めなければいけなかった筈だ。大切な人だったのだから。

 

 なのに、少女の脚は止まらない。一度動き出した恐怖は彼女の脚をまるで別の意思でもあるかのように動かして、恐怖から遠ざけていく。少女は倒れ伏す想い人を置いて逃げてしまった。

 

 走り続けて数分、彼女の脚はもはや歩いているのと大差ないほどに緩やかになっていた。

 

(なんでっ、こんなことに……)

 

 ぜぇぜぇと切れる息に、苦しそうに胸を押さえながら、少女はこの世の理不尽を呪う。夢ではないのかと、そう思いたくなる。

 

(そうよ、きっと夢よ。だってあんな化け物がいるはずないっ……あの人が死ぬはずないものっ)

 

 それはあまりにも都合のいい願望。大切な人が死ぬはずがないと、あんなものが存在するはずがないと、目の前にあるその光景を否定し、現実として受け入れることを拒否する。その愚かさに少女は気づかない。彼女の願うそれは叶わない。

 

 

 

 ペタ、ペタ

 

 

 

 暗闇の奥深く、少女が走ってきたその方向から響く音。

 普通であれば聴くことのないその不気味な音に、ビクッと少女は体を震わせる。ゆっくりと、強ばる体を捻り後ろへと視線を向ける。

 

 視界一杯に広がる夜の暗闇。

 その闇の淵から姿を現す異形の姿。

 

「ひっっ!?」

 

 最初と同じ、4つの脚を使ってゆっくり近づいてくる舌の長いそれは、下卑た笑みを浮かべて少女に近づく。

 

(逃げなくちゃ、逃げないと)

 

 少女の必死の思いとは裏腹に、おぞましい異形の姿に彼女の両脚は力を失い、ぺたりと地に座り込んでしまう。プルプルと震えるばかりで動かない脚を動かそうと必死になりながらも、少女は近づく異形から目を離せない。

 

 やがて目と鼻の先にたどり着いた異形を前に少女はこれは罰なのだと、そう思った。

 

 想い人を置いて逃げた自分への罰だ。大好きだと言いながら、大切だと言いながら、彼を捨てて逃げたこの嘘つきを罰する為に、神様が与えた罪なのだ。

 

 異形の鋭い爪を宿した腕が少女の前で高々と振り上げられる。

 

 それを振り下ろされればきっと自分は死ぬのだろう、自分のことだというのに少女はどこか他人事のようにその光景を眺めていた。

 

 やがて振り下ろされるその爪に少女はギュッと強く目を閉じる。訪れるべき衝撃と痛みに備えるために。

 

 

 

 どれほどの時が経ったか、数秒かあるいは数分だったのかもしれない。いつまで経っても訪れるべき罰がやってこないことを少女が疑問に思った時、不意に頭上から声が響く。

 

「大丈夫ですか?」

 

 それは異形の声とは思えないほど可憐な声色で、恐怖に凍りついていた少女の瞼をゆっくりと開けていく。

 

 少女が完全に視界を開いた時、その瞳に映った光景を彼女は生涯忘れることはできなかったという。

 

 月の光を背に、立つ淡い栗色の髪をした少女。白い羽織りと黒い衣服に身を包み、腰に白銀の鞘を差し、片手に黄緑に染まった刀を持つその少女は、異形に襲われた彼女にとって救いの女神であった。

 

 

 

———

 

 

 

 異形の首を斬り刎ねた、鬼狩りの少女。高野(かえで)は抜きなった刀をそっと鞘にしまうと、後ろで蹲る女性にそっと声をかける。

 

「大丈夫ですか?」

 

 ビクッと声に驚いたように身体を震わせて、ゆっくりと瞼を開く少女は楓と瞳があった瞬間、時が止まったかのように固まってしまった。

 

「ひょっとして、何処か怪我をしましたか?」

 

「…………」

 

 呆然とした様子で瞬きすらせず瞳を離さない少女の姿に、楓は心配になってそう問いかけるも、少女から返答は返ってこない。

 

 なんの応答もない少女に困ったと、楓が首を傾げて悩んでいると背後から自分を呼ぶ声がする。

 

「高野ちゃーん、鬼は何処だー?」

 

 随分と悠長にも聞こえる声の主人に楓が振り向くと、ちょうど闇の中を背の低い筋肉のお化けが走り寄ってくるところだった。

 

「山本さん、その声色で暗闇の中を走ってこないでくださいよ。鬼と間違えて斬ってしまうところですよ。……ちなみに鬼なら先ほど倒しましたよ」

 

 山本は楓に話しかけるとき、普段とは違う若干間の抜けたような声色で話しかけてくることがある。猫撫で声とでもいうのだろうか、楓に限らず山本は女性に話しかける時、大体はそのような声になる。例外もいるが。

 

「おぅ……なんだか高野ちゃんが日増しに辛辣になっていくような気がするぜ」

 

「当然でしょう」

 

 思わず呟かれた山本のぼやきに、ふんわりとした声色で答える落ち着いた女性の声。声の聞こえた方を山本が見上げれば、ちょうど楓の真横にゆっくりと舞い降りる1人の女性の姿。

 

「あ、ハルさん」

 

 優雅に自らの真横に舞い降りた彼女の姿に、相変わらず綺麗だ、なんて思いながら楓は顔を向ける。

 

「あ、じゃないわよ楓ちゃん。1人で突っ走っていくんだからお姉さん心配したわよ」

 

「すいません。緊急だったもので、つい」

 

 申し訳ないと、平謝りする楓の姿にその女性、清水ハルはそっと溜息をついて心配そうに見つめる。

 

「相手が弱かったからよかったけど、あんまり無理はしちゃ駄目よ」

 

「……はい、すいません」

 

「まぁ、そういうなよ清水。後ろの娘もそれで助かったわけだし、今回はそれで手打ちだろ。……それより、当然ってどういうことだよ?」

 

 項垂れた様子を見せる楓を庇うように山本はそっと清水の前に出る。

 

 先ほど、彼女は山本に対する楓の態度が日増しに辛辣になっていくことを当然と評した。一体自分の何処に問題があるのかと、山本は清水に詰め寄っていく。

 

「ちょっと、あんまり近づかないでくれる?……あれだけ気持ちの悪い声を毎度毎度懲りもせずに出していたら、楓ちゃんじゃなくても辛辣になるわよ。むしろ楓ちゃんだからこそその程度で済んでるって言ってもいいわね。私なら蹴飛ばしてるわ」

 

「俺の素晴らしい声色が原因だとぅ?テメェは相変わらず人に喧嘩売るのが上手だな?……そもそも高野ちゃんならともかく誰が好き好んで適齢期を過ぎそうな年増に言い寄るかってのっ」

 

 ピキッと夜の暗闇に響くその音はある意味で必然だった。

 

 肩を竦め、顔を歪ませてプププッと笑いをこらえるように声を張る山本の姿に、清水も額に青筋を浮かべて対応する。

 

「誰が適齢期を過ぎそうな年増のくそばばぁですって?……いい度胸じゃない?今日こそあんたのその鬼と見間違えんばかりの筋肉削ぎ落としてあげるわよ」

 

「テメェ、誰が鬼と見間違いそうな筋肉はげ頭だと?お前こそ無駄に育ったその乳を削ぎ落としてやろうかぁ、あぁん!?」

 

「はげ頭とまではいってないでしょう!?……でも、やっぱりのその頭気にしてる訳だぁ〜、大の男が情けないわね〜」

 

「オメェの方こそ俺は別にくそばばぁとまではいってねぇんだよなぁ?これはあれだろう、やっぱり年をとってることを気にしてらっしゃるんですかねぇ、あぁ年上ってほんと大変だなぁー」

 

「「あぁん!?」

 

「お二方とも本当に仲が良いですね」

 

「「はぁ!?何処が!?」」

 

「そういうところですよ」

 

 思わず呟かれた楓の言葉に、示し合わせた訳でもないのに息ぴったりと声を合わせる2人の姿は、誰がどう見ても仲が良いと思うだろう。溜息を吐いて楓は2人をジト目で見つめる。

 

「そんなことより、彼女なんですけど……」

 

 そう言って気まずそうに楓は視線をやや斜め下へと向ける。つられるように2人がそっと楓の視線の先へと目を向ければ、地面にへたり込んだまま呆然自失と言った様子で楓を見つめる1人の少女の姿。目を見開き、口を半分開け、その視線は楓のみを捉え、瞳は彼女以外何も映していない。

 

「……隠に任せましょう」

 

 少女の姿を見た清水はそっと目を伏せてそう呟く。先ほどまでいがみあっていた山本も清水の言葉にそっと頷き同意を示す。2人とも何度か、こうなった人間を見たことがある。

 

 人はあまりにも自分の知る現実からかけ離れた出来事に直面した時、その事実を認識することを拒絶することがある。彼女の命は確かに楓によって九死に一生を得た。だが残念ながら、彼女の心はそうはいかなかった。今この場に肉体はあれど、その心はすでにここにはない。恐怖と、覚悟した死、そして失ってしまった大切なものに、彼女の心は一度死んだのだ。

 

 バラバラに砕けてしまった彼女の心を、今すぐに取り戻す事は出来ない。彼女の心を元に戻すのには酷く時間がかかる。あるいは一生壊れたままとなってしまうかもしれない。どちらにせよ、この場で楓達ができることなど何もない。

 

「……ちょうど来たみたいだ。事情を説明して保護してもらおう」

 

「私が説明してくるわ」

 

 駆け寄ってくる数人の黒尽くめの衣装の者達を横目に山本がそう声をかけると、清水はそっと足音のする方へと向かっていく。

 

 こうしてやり取りをしている間も、少女はひたすら楓を見つめ続ける。開いた瞳孔に彼女の意思のようなものは感じられない。楓はしばらくその少女と視線を合わせ続け、やがてそっと少女に歩み寄ると、身をかがめ、ふわりと優しく抱きしめる。

 

「……間に合わなくて、ごめんなさい」

 

 瞼をきつく閉め、少女の耳元でポツリと楓はそうこぼした。

 

 今日、自分がもっと早く来ていれば、彼女の大切な者は死ななかったかもしれない。もっと早く刀を届かせていれば彼女の心は砕けなかったかもしれない。しかし、どんな後悔をしようとも、起きた事象を覆すことなど出来ない。ほんの数秒、ほんの少し、あとわずか、どれだけそう表現したとしても、たった一本、秒針が進んでしまっただけで、それはすでに過去なのだから。

 

 この言葉が彼女に届いているのかは分からないが、それでも今の楓にはそう謝ることしか出来なかった。

 

 

「……楓ちゃん、行きましょう」

 

 そっと清水の声が楓を呼ぶ。どれだけそうしていたのか、楓にはその正確な時間は分からないが、少なくとも清水が隠に少女の保護を説明する間はずっと彼女のそばに寄り添い続けていた。そっと閉じた瞼を開き、楓は一際強く少女を抱きしめる。どうか彼女がいつか心を取り戻しますようにと、そう願って。

 

 心を失ったはずの少女の瞳から流れ出る一粒の雫を見ていたのは、清水と山本だけだった。

 

 

 

 

 

—————

 

 

 

 

 月の傾きが大きくなり、まもなく夜が終わろうかという時間帯。未だ薄暗い森の中、鬼狩りの指令を終えた3人は藤の花の家紋の家を目指して歩いていた。

 

 この辺りには大きな街もなく、村とも呼べないような小さな民家が数軒ポツポツと点在しているだけなので、当然宿場もない。ただ、幸いにして藤の花の家紋の家が近場にあるということで、3人は仮眠を取る為に今、深い森の中に足を踏み入れている。

 

「それにしても、高野ちゃんは強くなったよなぁ〜」

 

 後味の悪い指令となった帰りの道すがら、それまでほとんど会話もなく先頭を歩いていた山本が、唐突にそう口にする。間延びしたような口調から、おそらく隣を歩く彼女の落ち込んだ空気を変えようと放たれたのだろうと、清水は察した。

 

 山本は口が悪いし、何かとすぐに女を口説こうとするところが見受けられる粗忽ものではあるが、こう言った場面で率先して雰囲気を変えようとする長男らしいきらいがある。先ほどの少女を見て以来、何処か意識を遠くにやっている様子の楓を見兼ねたのであろうことは想像に難くない。

 

(この娘は抱え込みすぎちゃってるのよね)

 

 あの少女の件は、決して楓が悪いわけではない。むしろあの距離から少女の命を狩りとられる前に鬼の首を刎ねることができたのだ。楓はよくやったと褒められこそすれ、責められるようなことは何一つとしてしていない。結果として少女の心は壊れてしまったが、それでもなんとか命は助けられたのだから、最善は尽くしたと言ってもいいだろう。それでも、楓はこの結果に責任を感じているらしい。

 

 

 全てを救うことなど土台出来ない。どれだけ手を伸ばして指を揃えようとも、指の隙間から零れ落ちていく水があるように、救いきれない命もあるのだ。

 

 剣士として鍛えあげ、呼吸を覚え、どれだけ普通の人よりも力を持とうとも、全ての理不尽を跳ね返せるほど万能ではない。故に、本来であれば、彼女のその気持ちはある意味では傲慢とも言える代物だ。

 

 

 だが、そう一概に怒ることもできない。

 

 

 彼女がここまで極端に救えない人を想うようになったのは、きっと自分達の同期のせいだから。

 

 

 『託す』

 

 

 そう言って最期を迎えた信乃逗(しのず)との縁、それがきっと彼女の心に大きな変化を与えたのだろう。目覚めた当初、もはや別人かと思う程に表情が乏しかったあの時よりは明らかにましだが、それでも彼女はあれ以来、その言葉を呪いのように呟いている。

 

 『託されたから』そう言って血反吐を吐くような鍛錬に勤しみ、指令もこなし、今では彼女は嘗て信乃逗が呼ばれていた次期柱候補とまで呼ばれるようになっていた。その階級も当然最高位の甲だ。そして驚くべきことに、彼女は忙しい指令の合間を縫って、蝶屋敷で薬の調薬まで行っているそうだ。

 

 つまり今の楓の立ち位置は、完全に嘗ての信乃逗の在り方そのものなのだ。

 

「いえ、私なんてまだまだですよ。……これでは全然足りませんから」

 

 多くの人は、楓のこの言葉を謙遜しているとそう捉えるだろうが、彼女は本心からそう思っている。確かにこの数ヶ月で、楓の実力は以前とは比べものにならないほど強くなっている。とは言ってもようやく師であるしのぶに速度という点で良い勝負ができるようになった程度。技の正確性や技量に於いては未だいくつもの課題を残している。だが、上弦の鬼には、上弦の壱には、それでは届かないのだ。

 

 

 夢も想いも、鬼殺を掲げる仲間と共に。

 

 

 しのぶにそう諭され、信乃逗の『託す』という言葉の真意も理解した。だからこそ、次に上弦の鬼とあった時、自分は戦える存在でありたい。託す仲間を守れる存在になりたい。

 

 あの日、楓の心の中に生まれた新たな一つの想いであった。

 

(それに……まだ未完成だし)

 

 

「そういわれると先輩なのに階級の低い俺達の立つ瀬がないんだが……」

 

「ちょっと、ちゃっかり私も同類みたいに言わないでくれる?」

 

 項垂れた様子で呟く山本の背中に、清水は不満そうに眉を寄せて声を出す。

 

「似たようなもんだろうが、階級同じだし、実力も五十歩百歩ってところだろ。まぁ俺の方が強いがな」

 

「はぁ?あんたこの前私に一本取られたの忘れた訳?」

 

「なっ、あれはたまたま、偶然だ!そう!あの日はきっと調子が悪かっただけなんだよ!通算で言えば俺の方が勝ち越してんだから、そうに決まってる」

 

「あーあ、みっともない言い訳しちゃって、情けないわねー。人は未来を生きる者なんだから過去の戦績をいつまでも引きずってるようじゃねぇ〜?」

 

「ほぉー、だったらこの場で決着をつけてやろうじゃねーか、刀を抜きやがれ年増」

 

「望むところじゃないはげ頭、鍛え上げた筋肉を削いで一からやり直しにしてやろうじゃない」

 

「「あぁん!!」」

 

 

(本当に仲が良ろしいことで……)

 

 

 この3人で指令を受けるようになってからすでに3ヶ月は経っているが、目の前の2人はことあるごとにこうやっていがみ合っては、決闘まがいの試合をしている。一見すれば仲が悪いのかと思わなくもないが、終始この調子なので見ていればそうではないということは分かる。最近ではいっそ仲の良さを見せつけられているのではないかと疑いたくなるほどだが、当人達には全くその気はないようだ。

 

 顔を突き合わせて、いがみ合う2人の姿を後ろからジト目で見ながら、楓は溜息をついて歩を進める。いい加減楓も慣れたものだ。いちいち付き合っていたらキリがないということをしっかりと学習している。

 

 目の前に見えた大きな屋敷の影に、楓は早く行こうと若干駆け足で藤の花の家紋の家へと向かっていった。

 

 

 

 




御一読いただきましてありがとうございます。
ご意見•御感想等いただけますと幸いでございます。

第三章、楓が主人公になっておりますので宜しくです。

あー早く真菰様の出番をっ!


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砦屋敷

今日はもう1話投稿します。


 

 

 藤の花の家紋の家、その一室に案内された楓一行は、中庭を一望できる座敷でこの家の当主を待っていた。

 

 屋敷に滞在させてもらうに当たって挨拶をする為だ。待ち人がくるまでの僅かな時間、ふと山本が口を開く。

 

「しかし、随分とでけぇ屋敷だな」

 

 室内を見渡しながら、共感を求めるように呟かれたその言葉に楓も清水も同意を示すように頷く。

 

 楓も今まで何度か藤の花の家紋の家には滞在させてもらったことがあるが、ここまで大きい屋敷は初めてだった。治療にあたって患者の病床の建物を増築された蝶屋敷と同等、いや、それ以上の広さを兼ね備えている。個人の持ちうる屋敷としては旧家の中でも最高位に匹敵しうるのではないかと思うほどこの屋敷は大きい。

 

 周囲に大きな集落のないこの山の中でこの大きさの屋敷ともなると、もはやちょっとした砦のようだ。

 

「ここはこの辺り一体を管轄する隊士達にとっては拠点みたいなものらしいわよ。この辺りって村も街もないから、宿にするにはここしかないらしいんだけど、隊士の利用頻度があまりにも高いからお館様がこの屋敷に資金を提供したとか、そんな話を聞いたわ」

 

 清水の話を、へぇ〜と聞いているのか聞いていないのか分からないような返答で楓も山本も口を開く。

 

「何よその反応?ちゃんと聞いてるの?」

 

 案の定、2人の反応が気になった清水は不満気に頬を膨らませて声を響かせる。

 

「いや、単に物知りだな〜って思っただけだけど、なあ?高野ちゃん」

 

「はい、そのような裏事情までは知りませんでしたから……どこでそのようなお話を伺ったのですか?」

 

「ふふ〜ん、それはね、「隊内では割と有名な話だよ」……うん?」

 

 清水の声にかぶせるように、低音でそれでいて聞き取りやすいしっかりとした響きが3人の耳に入る。

 

 声の発信元を辿るように3人が視線を中庭の方へと向ける。開いた障子のその先に見える2人の人影。黒い隊服に真っ白な羽織りを着た男性と、隊服に身を包んだ青年と思しき相貌の男。どちらも腰に刀を差した様子からして鬼殺の剣士であろうその2人はそっと3人の座る座敷の前へと歩みを進める。

 

「初めまして、というべきだろうね。私は、小牧(こまき)柊生(しゅうせい)。階級、(きのえ)の剣士だ」

 

「……階級、甲、高野楓です」

 

 こう言った階級を伴った挨拶は、序列が高い者から声を出すのがしきたりのようなところがある。故にこの3人の中ではもっとも階級の高い楓が一番に返答を求められる。その挨拶自体は別段おかしく思うところもないのだが、奇妙なことに目の前の人物は挨拶をする前から楓をじっと見ていた。それはつまり、この場で最も階級が高いものが楓であると知っているという意味合いに他ならない。 

 

 そのことに若干不気味な物を感じながら楓はそっと挨拶を返す。

 

「階級、(ひのと)、山本宗一っす」

 

「同じく階級、丁、清水ハルです」

 

 最も序列の高い者同士の挨拶が終わったことで山本も清水も楓に続くようにそう挨拶を返す。

 

 残るは1人、小牧と名乗った男の背後に控えるように立つ青年だけだ。

 

 ただその青年、どういう訳か、楓のことを睨みつけるように鋭い視線を向けており、口を一向に開かない。

 

(あれ?……なんで私、こんなに睨まれてるんだろう?)

 

 あまりにも隠す気のない視線の強さに楓は内心で冷や汗を垂らす。

 

 どう見てこの青年の態度は好意的ではない。いっそ敵意すらも感じそうな視線を向けてくるその青年に、どうしたものかと視線で小牧の方をチラリと見れば、彼も頭が痛いと言った風に額に手を当てて、背後に立つ青年へと口を開く。

 

明久(あきひさ)、挨拶くらいはまともにしなさい」

 

 まるで若い父親のように、忠言を口にするその姿に「ぶふっ」と山本が口に手を当てて顔を俯ける。おおよそ笑いを堪えきれなかったのだろうが、それは此方としても失礼というもの。案の定、隣に座る清水から頭を叩かれている。

 

 

「……桂木(かつらぎ)明久(あきひさ)だ。階級は……(かのえ)……」

 

 

(……桂木、明久、あれ?どこかで聞いたような……)

 

 どこか気まずそうにそっぽをむいてそう挨拶をする青年の名前を聞いて楓の脳裏に何か引っかかるものが生まれる。

 

 「うん?」と楓は初対面のはずの男性を前にして思わず首を傾げる。

 

「……やっぱり覚えてねぇか」

 

 ポツリと小さく呟かれた桂木と名乗った青年の声は、日の出始めた明るい庭の中で霞むように消えていった。ただ、前に立つ小牧の耳にだけは届いていたようで、彼はそっと肩を竦めるとやれやれと言った風に口を開く。

 

「私の弟子が失礼した。申し訳ないね」

 

「あ、いえいえ、気にしておりませんから……あの、それで、どのような御用件で」

 

 頭を下げる目上の男性の姿におっかなびっくりと言った様子で手を振りながら楓は小牧が話しかけてきた意図を探る。

 

「そう警戒しないで欲しいな、君の才能溢れる話はよく聞くものでね。是非一度話をしてみたかったんだ」

 

 明らかに身構えた様子の楓に、小牧はやんわりと気さくな様子でそう声をかける。上背のある体格をしていながら、すらりとしたその佇まい、唄うような耳触りの良いその声、さぞかし女性に人気があるだろうことは容易に想像がつく。現にその手のことにやたら過敏な山本などは目尻を吊り上げて、いけすかないと言わんばかりの品の悪い表情で小牧を見ている。無論それはあまりにも失礼だ。案の定、清水に拳で頭を殴られている。

 

「いえ、その、私などまだまだ至らぬところばかりで、そのように才能溢れるなど、おこがましい話です」

 

「謙遜することはないよ。君はあの胡蝶様の継ぐ子で、僅か2年半で階級を甲まで上げた鬼殺隊が誇るべきまさしく才女だよ」

 

「……そのように、仰って頂くのは光栄です」

 

 鬼殺隊も人間の組織、入隊間もなく上位の階級に至った楓を心よく思わない隊士も僅かにではあるが存在する。その容姿や、柱の継ぐ子であると言う点から面と向かって僻みや妬みを言われることはないが、そのような悪意ある視線を向けられていることや、影で言われていることは楓も当然知っている。なので、今回もあるいは遠回しに嫌味でも言われているのではないかと勘繰ってみたのだが、どうも目の前に立つ男性からそのような気配は見えない。

 

 しかし、純粋に才能を褒められていると言う割には小牧が楓に向ける視線は好意的とも言いがたい。どちらかと言えば観察対象のようにされているような、探るような目つき。この感じは女性と言うことでそう言う色恋の目で見られていると言うわけでもなさそうだ。

 

 ならば一体、彼は何が狙いなのだろうか。楓の頭はその疑問でいっぱいだった。

 

「私をまだ警戒しているね。……良い傾向だ。同じく人間であり、同じ剣士とはいえ、それが善人である保証はない。君達のその感覚は正しい物だよ」

 

「……はぁ…えっと…」

 

 小牧の視線から此方を探るような感覚が消え、柔和な微笑みを浮かべて楓や山本達の方へと視線を流す。満足とでもいうように、急に印象の柔らかくなった小牧の表情と、教えを与えるかのようなその口調に、楓はどう反応して良いのか分からず、生半可な返事になってしまう。

 

「ここは鬼殺隊の中でもそれなりの人員が集まる拠点だ。ある程度の実力がある者というのは、己が剣を高める為に強者を求める。私もその1人でね。今は近辺で鬼の被害が増えているから君達のような猛者が多く訪れる、それで興が乗ってしまったようだ。測る為につい不躾な視線を向けてしまった。許して欲しい」

 

 その言に、なるほどと、楓は内心で納得を示す。

 

 小牧の探るような視線の意図は此方の実力を測る為のもの。ある程度の実力に到達した者はその佇まいや、視線の置き方だけで相手の力量をある程度測ることができるという。彼はその域に至っているのだろう。

 

 確かに、一見何気なく立っているだけのように見える小牧には隙がない。いつでも戦闘に移行できるような状態を自然体で常に行えている。信乃逗(しのず)以外で甲の階級を見たのは楓としてもこれが初めてだったが、中々に遣手の様子。この様子なら、おそらく信乃逗とも良い勝負ができたかもしれない。

 

「お望みであれば、私のそれを肌で感じて頂けますよ」

 

「「なっ!?」」

 

 小牧の出す実力者としての風格に当てられたのか、楓もいつになく乗り気になってしまう。口調こそ丁寧ではあるが、その表情はやや挑発的だ。そんな楓の様子に山本と桂木の2人が意表をつかれたかのような驚きの声を上げて瞠目している。

 

「ほぅ、魅力的なお誘いだ。だが、今日は君達も指令の後のようだ。今は休息が必要だろう。……肌で感じるのはそれからでも遅くはない」

 

「ふふっ、そうですね。ではまた機会がございましたら」

 

「そうすることにしよう。では、ゆっくりと休みたまえ。……明久、お暇しよう」

 

 一見平和に笑顔でやり取りを行う両者だが、その表情の裏では互いに不敵に笑っている。固まったままでいる桂木を連れて、小牧は庭を横切り奥の回廊へと消えていく。

 

 その後ろ姿を見送りながら、楓はそっと息を吐く。

 

「面白い人でしたが、中々肩が凝るやり取りを好まれる方でしたね……ってあれ?」

 

 見えなくなった影に、そっと背後に座る清水と山本に顔を向けると方や目を見開いたまま固まっており、片や頭が痛いと言わんばかりに額を抑えている。

 

「あの、お二人ともどうかなさったんですか?」

 

 何故か様子のおかしい2人の様子に、楓は訝しげな表情で首を傾げながらそう尋ねる。

 

 すると、額に手を当てていた清水が、やれやれと言わんばかりに肩を竦める。

 

「やっぱり無自覚なのね。……楓ちゃん、今、貴方が言った言葉よーく思い返してみなさい」

 

「へ?……えーっと、また機会がござい「その前」…うん?」

 

 いつになく鋭い語気で指摘する清水の様子に、楓は嫌な予感を覚えつつも記憶をなぞる。

 

 別れの挨拶ではなく、その前に言った言葉に問題があるようだ。

 

 はて、なんと言ったか、確か……

 

 

 

『お望みとあらば、私のそれを肌で感じて頂けますよ』

 

 

 

(って言ったよね?……うん?……)

 

 

 

「……あァァァァッ!?」

 

 思考を巡った確かな記憶と、その表現が一般的にどう受け止めれるかを理解した途端、楓は急激に顔を赤く染めて叫ぶ。

 

「その様子だと、気づいたみたいね」

 

「……は、はい」

 

 呆れた様子で声をかけてくる清水に楓は両手で顔を覆って、震える声で返答する。

 

 耳まで赤く染めて、顔を俯けている楓の様子にどうやら反省はしているようだと清水は若干安心する。

 

「貴方は可愛い系の美人なんだから、肌でとかそんな直接的なお誘いをしない方がいいわよ。もうちょっと、こう、周りくどい感じで誘いなさい」

 

「忠告の論点がずれてますよっ!……うぅ、私はなんてはしたないことを…」

 

 清水のありがたーい助言を楓は顔を真っ赤にして放り投げる。

 

 確かに一般的に見れば、女性からあのような言葉を貰えば、色に盛んな男性であればすぐにそういう言葉だと認識するであろうことは否定しがたい。無論楓にはそのような意図はないが、人が人なら勘違いしてもおかしくはなかった。現に清水の隣にいる山本は、完全にそういうお誘いだと勘違いして、衝撃のあまり石像のように表情を固めて天井を見上げている。そんな山本の頭を木魚のようにポンポンと叩きながら、清水は項垂れた様子の楓に声をかける。

 

「まぁ大丈夫よ。あの小牧って人も意図はわかってたみたいだし、楓ちゃんがそんなに心配することはなさそうよ。っていうより中々良い面構えの男だと思うんだけど、むしろ狙ったら?」

 

「狙いませんよっ!……はぁ、……もう、小牧さんに顔向けできない」

 

 あんな発言をした後で、一体どんな表情をして彼の顔を拝めばいいのかと、楓は半ば虚になりながらそう声を発する。折角実力を上げる為にちょうど良さそうな相手と知り合えたというのに、これではおちおち試合も出来ないと、半ば戦闘狂のような思考回路で考える楓。もしも口に出していたのなら、それはそれで別の心配を呼ぶのだが、無論楓にそんな自覚はない。

 

 

「そうかっ!!小牧、そうだ思い出したー!!」

 

「「きゃッ」」

 

 唐突に、それまで清水の木魚としての役割を果たしていた山本が、そう叫び声を上げて勢いよく立ち上がる。

 

 あまりの声量と、急な動きに女性陣2人は思わず悲鳴を上げて山本から距離を取る。その女性ならではの甲高い2人の悲鳴を至近距離で耳に入れた山本もその声量に驚いて飛び跳ねる。

 

「うわッ、急に悲鳴をあげるなよっ。驚くじゃねーか」

 

「あんたが言うなっ!?驚いたのはこっちよ!!」

 

 自分のことを完全に棚に上げたその指摘に、清水は思わず山本に声を荒げて突っ込む。

 

「どうどうハルさん、落ち着いてください」

 

「……楓ちゃん?私のこと猛獣か何かと勘違いしてない?」

 

「ぁ……それで山本さんは何を思い出したんですか?」

 

「あって何よ!?誤魔化しきれてないわよ!」

 

「あぁ、それがな、あの小牧って人なんだが……」

 

 「無視ねっ!?無視なのね!?」と言って部屋の隅でいじけてしまった清水の背中を撫でながら、楓は視線で山本に続きを促す。

 

 立ち上がっていた山本は座布団の上によっこいしょっと、老人のような言葉を発しながら座り込むと自らの足に頬杖をついて口を開く。

 

「あの小牧ってのは高野ちゃんと同じ継ぐ子だったんだよ」

 

「……継ぐ子だった?」

 

 過去形で語られるその言葉に楓は首を傾げて山本に視線を送る。

 

 それが過去形である以上、小牧は現在、継ぐ子ではないということになる。

 

 継ぐ子を辞めさせられること自体は、別段あってもおかしくはない話だ。継ぐ子とは、柱が才能を見込んで己が技術を後継させる、鬼殺隊の次世代を支えるにふさわしい実力を与える為の仕組み。それ故に柱から才能がないと思われたり、柱を担うには不適格だと判断されれば、当然継ぐ子ではいられない。

 

 ただ、多くの場合、柱に鍛えられた者は相応の実力をつけているもの。鍛えられても実力がつかないというのは、そもそも継ぐ子として選んだ柱に見る目がないということにもなる。だから、あまり継ぐ子を辞めさせられたという話は聞かないのだ。

 

 まあそもそも、今代の柱達に継ぐ子はほとんどいないのだが……

 

「別に継ぐ子を辞めさせられたんじゃないぞ。あの人は今の柱の継ぐ子じゃないってだけだ」

 

「なるほど、先代の柱の継ぐ子ですか」

 

 得心が言ったという風に楓は頷く。

 本来、柱というのは継ぐ子から選ばれることが多い。柱に鍛えられた才ある者の実力は、他の一般隊士と比較しても歴然であるからだ。

 

 柱を継ぐ条件は2つ、十二鬼月を倒しているか否か、あるいは鬼を50体以上倒しているかどうか、そのどちらかを達成していてより実力のあると認められた者だけが、鬼殺隊を支える柱の称号を得ることができるのだ。ちなみに楓は後者の条件、鬼を50体という基準は既に達成している。が、今代の柱に既に空きがないこと、そして何よりも今代の柱の誰よりも楓の実力が劣っていることが彼女が柱入りしていない理由でもある。

 

「あぁ、あの人は元炎柱、煉獄槇寿郎さんの継ぐ子の1人だ」

 

「炎柱、なら、あの人は炎の呼吸を収めているわけですか。……確か、今代の炎柱様は…」

 

「煉獄家の嫡男が後継だった筈だ。あの家は代々柱を輩出してきた名家だからな」

 

 柱というのは実力で選ばれるものであって、決して世襲制のものではない。歴代に渡って柱を輩出するというのはある種の偉業であり、煉獄という名を持つ者、あるいは彼等に認められた者は、それだけで隊内では一目置かれる存在となる。長い鬼殺隊の歴史の中で煉獄家ほど柱に名を遺した家は他にはない。それほどの名家に継ぐ子として認められたということは、小牧は間違いなく隊内有数の実力者。

 

 だが、そうであるなら疑問も残る。

 

「小牧さんは、今代の炎柱様には認められなかったのでしょうか?」

 

 楓の疑問は、なぜそれほど優秀な小牧が、継ぐ子に再び選ばれなかったのかという点だ。

 

 継ぐ子というのはいつ死んでもおかしくはない柱の控えでもある。柱の空席という状況を可能な限りなくす為に、迅速に空いた穴を埋めるという役割を抱えているのだ。それ故に継ぐ子は一般の隊士との待遇が異なり、階級の上がる速度も一段速い。

 

 無論、柱の穴を埋めるというのには当然相応の実力が必要になってくる。だからこそ、継ぐ子は優秀であればあるほど良いのだ。昨今優秀な剣士が決して多いとは言えないこの状況で、元継ぐ子であった優秀な人材を持て余しているような余裕はない筈だ。となれば、小牧が継ぐ子ではない理由があるはずなのだが……

 

「いや、なんでも誘いはあったらしいが、小牧が断ったって話だ」

 

「断った……継ぐ子の誘いを、ですか」

 

 中々に聞かない話だ。

 確かに継ぐ子という役割は強制されるものではない。無理矢理稽古をつけ、鍛錬を施しても、本人にやる気がなければ意味がない。だが、継ぐ子に誘われるというのは鬼殺の剣士としてそれだけ才能を買われているということであり、剣士にとってはこれ以上ないほどの名誉だ。待遇も変わるし、給金だって、他の隊士達とは変わってくる。無論、それに伴う責任は一般の隊士達よりもはるかに大きなものとなるのも事実だが、多くの隊士はそんな良い話を断ったりはしないし、嫌々やるなんてこともない。

 

「理由までは知らないけどな。柱になるには実力が足りないとかそんな噂もあったが、元継ぐ子ってことで隊内じゃ一目置かれてるのは間違いねぇ。……おーい清水さんやい、君はいつまで落ち込んでるですかね」

 

 小牧の話は終わりとでも言うように、山本は尚も部屋の隅で丸くなってへの字を書いている清水に向かっていく。ビシビシと清水の背中を叩く山本が、顎に強烈な拳を入れられているのを横目に、楓は小牧について考えていた。

 

 

 継ぐ子を断りながら、剣士は辞めていない。鬼を狩ることを辞めたわけじゃない。そして今日感じた雰囲気からして強くなることを諦めたわけでもない。なら、彼は……

 

 

(……どんな気持ちで、刀を振るっているのかな?)

 

 

 彼は何を想って刀を振るい、何を想って鬼を殺すのか、彼の目指す夢は何なのかと、ふと楓は疑問に思った。

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
御意見•御感想等いただけますと幸いでございます。

継ぐ子のシステムは割と奥が深いと思う。


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継ぐ子

 

 

 

 楓が目を覚ましたのは、正午を少し回ったころだった。

 

 藤の花の家紋の屋敷の当主に挨拶を済ませた3人は、それぞれ案内された一室で休息をとっていたのだが、楓はあまり寝つきが良くなかったのか、睡眠を取り始めてから、4時間程度で目が覚めてしまった。

 

 指令とあらば連日で眠れない日もあるので、4時間も睡眠が取れれば別段支障はないのだが、剣士である以上は休息は取れる時にとっておいたほうがいいのも事実。

 

 そうは思ってみたものの、このまま布団に横になっても眠れそうにはない。

 

 楓はそっと起き上がると隊服に着替え、花を透かした白い布地の羽織りを着て、刀を腰に部屋を出る。

 

 

 改めて屋敷を歩いてみるとその広さに驚く。

 蝶屋敷に初めて入った時も、随分と広い屋敷だと思ったものだが、この屋敷はそれ以上だ。伊達に鬼殺隊の拠点の一つとは呼ばれていないようだ。すれ違う隊服をきた剣士の何と多いことか。隠もいるようだし、この屋敷には一体何人の隊士が集まっているのだろうか。

 

 そんな疑問に首を傾げながら、楓は屋敷の中庭に立つ。

 一際ひらけたその場所に立つと、楓はそっと周囲を見渡す。昼時ということもあってか、廊下でみた隊士達も中庭にはいないようだ。庭の手入れをしているような人も見当たらないし、鍛錬をするにはちょうどいいだろう。

 

 腰に差した刀を抜き放ち、楓はそっと水平に刀を構えると、そのまま瞼を下ろし、集中する。思い起こすのは、あの日、この身に受けた突きの鋭さ。もはや知覚することすら不可能の様に思えるあの神速の突きを、想起させ、そして

 

 

 

——— 放つ。

 

 

 

 キィンと、風を切り裂く様なその突きは金属と衝突したかの様な異様な高音を放って空を貫く。

 

 その後を追う様に吹き荒れる風、地に落ちた枯れ葉が剣圧によって舞い上がり、ゆっくりと楓の周囲を飾り立てる。

 

 そっと目を開ける楓は風が止み落ちいく枯れ葉を横目に、溜息を吐く。

 

(やっぱり、これじゃあ全然駄目だ)

 

 脳裏に思い描いた通りにはやはりいかない。あの日受けた突きはこんなものでなかった。もっと鋭かった。もっと速かった。上弦の壱はもっと凄かった。もっと、鍛錬しなくては、もっと強くならなければ、そんな焦燥にも似た感覚が楓に襲いかかる。

 

(いけない、焦りは禁物。落ち着いて、確実に)

 

 はやる心を押さえつけるように楓は自身に言い聞かせる。

 

 

 

——— パチパチパチパチ

 

 

 

 不意に手拍子のような、拍手のような、そんな音が聞こえて、楓は視線を音のなる方へ向けて、驚きに目を見開く。

 

「こ、小牧さん……」

 

 楓が立つその場所から僅かに離れた位置に立ち、称賛する様に手を叩く男は、つい数時間前に初めてあった手練れの剣士。元炎柱の継ぐ子小牧(こまき)柊生(しゅうせい)だった。

 

(いつのまに……気配を感じなかった)

 

 あまりにも自然にそこに立つ小牧の姿に、楓は内心で感嘆の息を吐く。彼の気配の消し方は柱にも匹敵する見事なものであった。

 

「見事な突きだったよ、楓君」

 

 賛辞の声と共に歩みよってくる小牧の姿に楓はそっと頭を下げる。

 

「ありがとうございます。ですがまだまだ、師には到底及ばぬ技ですよ」

 

 上弦の壱は勿論、しのぶの突き技にも楓は及んでいない。楓よりも尚速く、そして正確無比に彼女は突きを操る。彼女の突きを受けた者は皆口々にこう言う、「斬られたと思った」と。

 

 突きという点での攻撃にも関わらず、相手に線での攻撃だと錯覚させるほどの神技。楓の技では未だ至れない領域だ。

 

「君の師か。それほどの突きを放ちながら及ばないとは、胡蝶様は噂通り余程の手練れのようだね。君を見出したことといい、噂では最近もう一人、新たに素晴らしい才を持った少女が継ぐ子となったと聞いているし、その手の観の目も持っているということかな。いや、流石は新たな呼吸を生み出した方だ、実に素晴らしい」

 

 小牧の放った言葉に楓は僅かに目を見開き驚きをあらわにする。

 

 隊士の中に、しのぶを良く思わない者も少なからずいるからだ。優秀な剣士、優秀な医師、優秀な薬師、どれも彼女の持つ素晴らしい才能と人には知れぬ底知れない努力の結果だ。彼女ほど鬼殺隊に貢献した柱は歴代で見てもそうはいない。

 

 それでも彼女にくだらぬ言葉を影で囁く者達が跡を絶えないのは、彼女には致命的な欠点があるからだ。

 

 蟲柱、胡蝶しのぶは、鬼の首が斬れない。剣士としてはこれ以上ないほど致命的なその欠点は、愚かな者達の瞳から彼女の為した多くの功績すらも霞ませる。鬼の首を斬れない者が柱などと前代未聞だと、騒ぎ立てるものは未だに跡を絶たない。そういう者は彼女を良く知らない者が大半だ。首を斬れなくとも彼女は強い、首を斬れなくとも彼女は鬼を殺せる。

 

 首を斬れないという欠点を、彼女は鬼を殺す毒をつくり上げるという偉業でもって既に補っている。何百年と首を斬ることでしか殺せなかった鬼を殺す新たな道を見つけたのだ。これ以上の快挙はあるまい。しかしそれでも戯言をいう者はいるのだ。

 

 故に、小牧のようにしのぶを認めてくれる剣士というのは楓としても嬉しいものがある。

 

「はい、しのぶ様は強いお方です。私の自慢の師ですから」

 

 にっこりと笑顔でそういう楓の表情を、小牧は眩しいものでも見る様に目を細めて見る。

 

「師とは、良い関係を築けているようだね。いいことだ。……楓君、今朝の話だが、今からどうかな?」

 

「へ?……」

 

(今朝の話って……あぁぁ!?)

 

 突如、それまで平然と小牧と会話していた楓が顔を真っ赤にして顔を俯ける。

 

 そっと笑顔で尋ねてくる小牧は恐らくあの恥ずかしいやり取りのことを指しているのだろう。楓の言った一言。

 

 

『お望みとあらば、私のそれを肌で感じて頂けますよ』

 

 

 淑女としてあまり大きな声では言えないような発言を思い出して、楓は羞恥のあまり顔から火が出そうだった。

 

(手合わせってことだよね?……清水さんも大丈夫って言ってたし、大丈夫よね?)

 

 楓の内心呟きに答える者は当然いない。

 

「その、手合わせですよね?そうであれば、構いませんが……」

 

「あぁ、勿論、それ以外にはないよね?」

 

 にっこりと普通の女性が赤面してしまいそうな笑顔を小牧は浮かべる。ただ、楓にはなぜか彼の笑顔がとても黒い微笑みのように見えた。

 

「でしたら、木刀を借りてきます」

 

 ひとまず手合わせということで、楓は安堵の溜息を吐きながらそう提案する。さすがに真剣で手合わせと言うのは危険だ。

 

「それならもう借りてきてるから、大丈夫だよ」

 

 そう言って、後ろに組んだ腕を前に出した彼の手にはしっかりと二本の木刀が握られている。

 

(随分と準備がいい、というか良すぎでは?)

 

 これでは彼がここに訪れたのは最初から楓と手合わせをする為だったと言うことにはなるまいか。ふと感じた疑問だが、楓にそんなことを考えるような余力はすぐになくなることになる。

 

「あぁ、それから、私はこれでも愛妻家でね、妻以外には興味がないんだ。ごめんね」

 

 ポツリと放たれた小牧の一言。

 僅かに遅れてその真たる意味を理解した楓は、顔や耳どころか全身を赤に染めて絶叫した。

 

 

 その声は広い屋敷全てに響き渡ったという。

 

 

 

 

ーーーーー

 

 

 

 

 広大な屋敷の中庭、一際ひらけたその場所で5メートル程の間を開けて両者は木刀を構え向き合っていた。

 

 腰を落とし、木刀を中断で水平に構える楓、一方の小牧は下段に木刀を構えて緩めに立ち、自然体のように無理な力はどこにもかかっていないように見える。

 

(やっぱり、この人は強い)

 

 佇まいだけで、強者としての風格を漂わせるその姿に楓は内心で感嘆する。

 

 無論、命のやり取りであった上弦の壱とは比較にもならないが、この試合で感じるより近い者で言えば、しのぶに稽古をつけてもらっている感覚に近いものがある。彼の実力が柱であるしのぶに及んでいるとは思わないが、風格だけで見れば先達として十分以上に貫禄がある。

 

 およそその佇まいから、彼の初動を読むことは非常に困難。今回のようなある程度の実力者同士の戦いにおいて、初動の虚術の読み合いというのは非常に重要になる。

 

 例えば楓は今中段で木刀を水平に構えている。これはある程度実力のある者であるなら、走りにのった勢いのある突き技を警戒するであろう構えだ。一方の小牧は下段に木刀を構えている。当然、楓は下方向からの斬り上げによる攻撃を警戒する。無論その構え自体が虚術である可能性も大いにある。現に楓の構えも虚術の一つ。こちらが動けば小牧の構えも変わる可能性がある。

 

(初動を確実に読める相手じゃない。なら……仕掛けて誘う)

 

 ひらけた中庭に一際強い風が吹き込む。

 瞬間、楓は地を蹴った。沈み込んだ体勢から地面すれすれを滑空するかのような低空で突き進む。その勢いにのったまま強烈な突きを叩き込む、そう見せかけて、楓は小牧の直前でくるりと体を捻ると、右手に持った木刀を左斜め下から小牧へと叩きつける。が、木刀はその目標を捉えきれない。

 

 楓の動きに合わせるように小牧は半身を下げ、木刀の辿る軌跡から身体をずらすと、半身を下げた勢いで片足を軸にそのまま回転し、今度は小牧が回転の勢いをのせた木刀で左斜め下から楓を斬りあげる。だが、小牧のそれも空を斬る。

 

 咄嗟に重心を左に流した楓は、その場から飛び下がることで小牧の一撃を回避した。

 

 そのまま距離を取ろうとする楓だが、無論大人しくそうさせてやる程、小牧は甘くはない。お返しとばかりに力強く踏み込み、楓の正面へと距離を詰める。

 

 

 

——— 炎の呼吸 壱ノ型 不知火 ———

 

 

 

 その勢いにのったまま放たれた強力な横薙ぎ、剣圧で風を巻きつけたその一撃を、楓は咄嗟に足から力を抜くことで蹲み込んで回避する。

 

 一瞬で行われたその脱力の技巧と、判断力に小牧は僅かに目を見開いて驚きをあらわにする。しかし驚くのはまだ早い、楓の一連の動きはまだ終わったわけではないのだから。

 

 

 

——— 蟲の呼吸 蜂牙の舞 真靡き ———

 

 

 

 完全に脱力し、膝が地につく直前。楓は一気に脚に力を込め、前方に跳躍すると、同時にその勢いを全てのせた強烈な突きを小牧の顎に向けて下方向から放つ。

 

 

(捉えたっ!)

 

 

 そう確信するような決定的な一撃。だが、その思い違いを楓は小牧の表情を見て改める。

 

 弾丸のような勢いで迫る楓の突きに小牧はほくそ笑んでいた。

 

 

 

——— 炎の呼吸 弍ノ型 昇り炎天 ———

 

 

 

 技と技をつなげるかのように、一切の硬直を見せず、小牧は横薙ぎに放たれていた勢いにのせたまま木刀を円をかくように下から上へと斬り上げた。

 

 

 バキッと、強烈な破砕音が鳴り響き、楓の手から木刀が弾け飛んでいく。

 

 

「ぁっ………」

 

 小さな声を上げて、楓は呆然と自らの首元に当てられた木刀を見る。

 

 

 それはあまりにも決定的な敗北であった。

 

 

(信じられない……)

 

 

 あまりの出来事に楓は唖然とする。

 

 負けたことがではない。

 小牧が最後に放った技の正確性がだ。

 

 最後の一瞬、確実に捉えたとそう思った楓の突き技は小牧の放った下段からの斬り上げに弾き飛ばされた。斜め上へと向かう突き技を下からの衝撃で向きを逸らす。その考えは理解できる。だが果たして、あの一瞬でそれを実行できるものがどれほどいるというのだろうか。

 

 なにより、先ほどの一撃、楓自身には何の影響もない。せいぜい持っていた木刀を無理矢理飛ばされた手が痛いと言ったくらいのものだ。しかしそれはつまり、小牧はあの一瞬とも思えるようなあの僅かな時間の中で、高速で迫る楓の木刀だけにあの技を当てたということ。そんな神がかった正確性と即応性のある技を目の前の男はやってのけたのだ。

 

 

 元継ぐ子?柱に足る実力がない?とんでもない虚言だ。目の前にいる男は……

 

 

「君は噂以上に素晴らしい剣士だね。だけど、今回は私の勝ちだ」

 

 

(……この人は、柱の域に至っている)

 

 

 自らの首元に木刀をおき、口元に柔和な微笑みを浮かべるその男の立ち姿に楓は瞠目した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 新緑が深緑となったこの時期、草木の放つ香りはその濃さを増し、色とりどりに咲く花々の美しさを引き立たせる。

 

 そんな深緑の草木に覆われた中庭の一角、太陽の輝きを反射する池の辺りに1組の男女が座り込んでいた。

 

「あの、何もここまでしていただかなくても……」

 

 遠慮がちに、上目遣いで小牧をちらちらと見ながら楓は声を出す。

 

 片腕を小牧へと差し出した体勢で座り込む彼女は今、彼によって手に包帯を巻かれているのだ。

 

 木刀を弾かれた衝撃で指を少し痛めただけなのだが、彼は懐から打ち身や炎症に効果のある軟膏と包帯を笑顔で取り出して、楓の手を取ると「念のために」そう言って軟膏を塗りはじめた。

 

 楓としては擦り傷とも呼べないような怪我なので、放っておいても大丈夫だと思うのだが、

 

「剣士にとって手は命の次に重要だよ。手がなければ刀を握ることが出来ない。いざという時、一瞬の痛みで鈍る技もあるかもしれない。それが命取りになる可能性があるなら、可能な限り万全の態勢を作り上げるべきさ。これも常中戦人の心得だね」

 

「……はぁ、それは、まあ、そうかもしれませんが……」

 

 そう言われては断りづらい。彼のいうことにも一理あるのは間違いないし、治療はするべきだろう。が、しかしだ。これはいくらなんでも如何なものだろうか。

 

 池の辺りで殿方に手を差し出して包帯を巻いてもらうというのは、楓としては小恥ずかしい気持ちを持ってしまう。

 

 意識を逸らそうと手に巻かれる包帯からそっと視線を逸らす。

 

 水面に乱舞する柔らかい光を眺めながら、楓は先の一撃を脳裏を思いおこす。あの正確無比な技、自分にあれと同じことが果たしてできるだろうか。想定し、脳内で繰り返してみるが、あの一瞬での判断という点を考慮すると上手くいかない。くると分かっていて、万全の態勢を整えられていたのなら、あるいは自分にも可能だろうが、あの時の自分の突き技は完全に小牧の意表を突いていた。それでも尚反応されたのだ。言い訳のしようがないほどに見事な完敗である。

 

「はぁー」

 

 同じ階級の者にこうも簡単に敗北するとは、やはり自分はまだまだだと、楓が内心で項垂れていると、その様子を見た小牧は苦笑する。

 

「君の技のキレはなかなかに良かったと思うよ。だからそう落ち込まないでほしい。これでも剣士としての経験は君より随分と長いのでね。そう簡単に越されては此方としても立つ瀬がない」

 

 励ますように小牧は消沈した様子の楓にそう声をかける。

 

「……失礼ですが、小牧さんはいつから鬼狩りを?」

 

 小牧の言葉に楓は単純に疑問に思った。一体どれほどの経験を積めば、小牧やしのぶのような動きができるようになるのだろうかと。

 

 通常、才能がある者で、入隊から柱になるには5年ほどかかるというのが隊士達の一般的な意見だ。無論例外もいる。今の柱の中には刀を持ってから、僅か2ヶ月で柱になった者もいるという。楓はあったことがないが、そう言った際立った才能を持つ者であればその条件には当て嵌まらない。ただ、少なくとも歴代の柱達の歴史を振り返ると概ね五年という数字は正しいものであるらしい。楓の師であるしのぶも、鬼狩りとしての経験は相応に長い。柱候補とまで言われた信乃逗も入隊から4年以上は経っていた。

 

 対して自分は未だ2年目の半ばを超えたところ、多くの鬼を狩ったと思っていたが、比較すれば鬼狩りとしての経験は未だ未熟と言ってもいいかもしれない。

 

「私はあまり才能がある方ではなくてね。ここに至るまで15年は掛かっているよ」

 

「……じゅ、15年!?」

 

 想定を遥かに上回る年数に、楓ははしたなく口を大きく開けておうむ返しのように聞き返してしまう。淑女としてはあるまじきだが、楓がそうなるのも無理はない。15年という経験年数は今の鬼殺隊の中でも中々に長い。

 

「あの、小牧さんってお幾つですか?」

 

 なによりも恐ろしいのは彼の見た目20代前半と言った相貌だろうか。その場合、逆算すると彼が鬼狩りになったのは齢二桁もいかないような年齢という計算になってしまう。これまで、楓があったことのある最年少入隊者は信乃逗だった。彼は齢12で入隊を果たしたのだとそう聞いていたから。

 

 初めて楓がそれを聞いた時は酷く驚いたものだ。何しろ彼は剣士としては先輩でも年齢自体は自分と同じだったのだから。この世界のことを何も知らずに家族と幸せに自分が暮らしていたころ、彼はすでに鬼を殺す覚悟をしていた。そう思うと、心が締め付けられるような苦しみを感じた。小牧もそのような齢であの絶望を味わったのだろうか。暗い想像に楓の表情が曇る。

 

「私はこれでも今年で34になるんだ」

 

「………えぇっ!?」

 

 しかし、告げられたその数字は楓の想定していたものとはあまりにもかけ離れていた。本日何度目かという驚きの声を発して楓はその場から飛び上がる。

 

 

(34!?見えない!全然見えない!)

 

 

 虚言ではないかとそう疑ってしまいたくなるほど、小牧の見た目ははっきり言って若すぎた。

 

「驚くだろうとは思っていたけど、飛び上がるほどとはね」

 

「あ、その、すいません!失礼な反応を……」

 

 あまりの楓の驚きように小牧は苦笑してしまう。

 

「いや、構わないよ。大抵皆驚くからね。どうも私の見た目は随分と若く見えるらしいが、中身はおじさんと言ってもいい年代だからね」

 

「お、おじさんだなんて、そんな……でも、納得しました。15年もの経験ともなれば私など足元にも及びませんね。感服致しました」

 

 想像とは大きく違ったが、それほどの間鬼を狩っているというのなら、彼はまさしく熟練の鬼狩りだ。楓の2年の経験など比べることすらもおこがましい。それほどの長い間鬼と戦い続けているというのは素直に称賛に値する。彼が隊内で一目置かれているというなら、それは元継ぐ子というだけではなく、その経験年数も由来しているのであろう。歴戦の戦士というのはそれだけで貴重な存在なのだから。

 

 ただ、今の年齢が34で、15年前から鬼狩りをしているというのであれば、彼が入隊したのは19の時ということになる。

 

 筋肉や骨格を戦いに向くように鍛えるには、理想は16くらいまでがいいと、師であるしのぶはそう言っていた。その基準で見ると彼の入隊時期は幾分遅いようにも見える。

 

「いや、15年もの間剣士でありながら、未だこの程度というのは我が身の至らなさを痛感するばかりだよ。……才ある者には到底及ばない。今日は勝ったが、後1年もすれば私は君には勝てなくなっているよ」

 

 水面を渉ってくるひんやりとした風に髪を靡かせながら小牧は遠くを見るように目を細める。

 

 哀愁漂うその横顔に楓は思わず息をのむ。

 一瞬、彼の若く見える相貌が、深い年輪が刻まれた老人のように見えたのだ。

 

「楓君、君はその刀に何を想う?」

 

「……刀、ですか?」

 

 唐突に問われたその言葉の意味がわからず、楓は首を傾げて問い返す。

 

 

「君の振るう刃には、重みがある。何かを想い、欲し、努力し、叶わぬことを知る者独特の重みだ。その重みを持ちながら、君の刃には迷いがない。ならば君は叶わぬと知って尚、叶えたい想いを持っているということになる。一体何をそんなにも想っているのか、もし良ければ聴かせてくれないかい?」

 

 

 小牧の静謐な光を湛えた瞳が真っ直ぐに楓に向けられる。

 

 熟練の剣士は、刃を合わせただけで、相手の辿った道を理解するという。おとぎ話のような物だと思っていたが、目の前の彼はその領域にまで至っているというのだろうか。

 

「………重みというのがどのような物なのか、私には分かりませんが、願う想いなら確かにあります」

 

「それは、なんだい?」

 

「鬼に喰われる人も鬼にされる人も居なくなる。そんな夢のような世界。あの人が私に託すと、そう言ってくれた想い。この想いを、この炎を絶やすことなく繋げたい。私はそう願っています」

 

 

 そっと空を見上げて楓は手を伸ばす。

 叶わぬ願い、届かぬ想い、そうかもしれない。でも、叶って欲しいと、いつかきっと、この夢は現実になるんだと、そうやって手を伸ばしていれば、或いは夢の近くにいる人がこの手を握ってくれるかもしれない。

 

 

「私に託すと言って、勝手に先に言ってしまったあの人の背中に追いつきたい。この炎を燃やし続けることができたなら、そうしたらきっと、私は彼の隣を歩けるような気がするんです」

 

 

 少し強く吹いた風が、水面を波立たせ、楓の髪を揺らす。

 

 

「君は諦めてはいないんだね……」

 

 

 まるで太陽の光を見たかのように小牧は目を細めて、届かぬ想いに手を伸ばす楓を見つめる。

 

 

「一度は、諦めかけてしまいましたけどね……でも、私は1人じゃないってそう言ってくれた人がいましたから、想いを持つ人は私だけじゃないんだってそう思えたので、私はまだ刀を振るえています」

 

 楓の脳裏に思い浮かぶ、自分を優しく抱きしめてくれた1人の女性の姿、それと少し騒がしい2人の先輩の姿。楓を支え、背中を押し、一緒に手を伸ばしてくれる。そんな素敵な仲間たち。1人では届かない夢でもみんなで手を伸ばせば少しは夢に近づけるかもしれない。

 

「……鬼殺を掲げた者が願う夢は酷く儚いものだが、君達の炎は存外にしぶとそうだ」

 

 ポツリと発せられた言葉に楓は右隣にいる小牧に目を向ける。小牧はとても穏やかな表情で楓を見つめていた。

 

「私も、その炎が消えぬことを願おう。夢の叶うその時まで……」

 

 そっと立ち上がり、小牧は空を見上げる。

 

「さて、今日はお開きとしようか、随分と良い時間のようだからね」

 

 そう言われて改めて空を見上げれば、視界に広がるのは全天燃えるような夕焼けだった。

 

 いつのまにか随分と話し込んでしまったようだ。清水達も心配しているかもしれない。

 

「君達は今夜には立つのかい?」

 

「はい、なるべく早く蝶屋敷に戻っておかなければいけませんから、道すがら指令を受けて戻ろうと思っています」

 

「そうか……もう少し語らえたなら良かったのだが、仕方ないね。またいつか生きて会えることを期待しておこう」

 

「はい、そちらもご武運を」

 

 鬼殺の剣士は、いや、生きるという戦いに赴く者はいつだって死と隣合わせだ。今日会えた人が次も会えるとは限らない。互いに刃を振るう者、それが命のやり取りである以上、あるいは此方が鬼に殺されてしまうことだってあるのだ。

 

 

 

 故に剣士達は願うのだ。また、会えますようにと。

 

 

 

 二人の背中を赤く燃えるような夕陽がそっと照らしていた。

 

 

 

 

 




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悲劇の夜

 

 月が昇り始めた宵の口。

 

 優しげに輝く月光に森を歩く三つの影が照らし出される。

 

「はぁー」

 

 道すがらぼそりと吐かれた溜息に、(かえで)と清水は互いに眉を顰めて顔を見合わせる。

 

「ちょっと山本、あんた一体何回溜息つくきよ。辛気臭さがこっちまで移りそうなんだけど?」

 

 数えるのも億劫になる程何度も繰り返される溜息に、とうとう清水が訝しげな声色で山本に問いかける。

 

 言葉尻こそ辛辣なものに聞こえるが、清水にしては珍しく山本を心配した言葉だった。が、山本はその珍しい配慮の言葉にチラリと一瞬視線を向けただけで、声も返さずに視線を前へと戻してしまう。

 

「ちょっと、無視しないでくれない?」

 

「まあまあハルさん落ち着いてください。でも本当にどうしたんですか山本さん、何か悩み事なら伺いますけど?」

 

 あまりにもあからさまなその行いに、清水は苛立ちを隠そうともせずに詰め寄って行こうとする。あわや再び喧嘩勃発かと思われたが、ギリギリのところで、山本と清水の間に楓が身体を割り込ませることで事なき終えた。

 

(こんなところで足を止めてたら、日が昇るまでに蝶屋敷に帰れないよ)

 

 藤の花の家紋の屋敷から出てから未だ1時間と経たない。屋敷のある山を下ってすらいないのに、こんなところで決闘騒ぎなど再び起こされていては時間がいくらあっても足りない。蝶屋敷までの距離は決して近いとは言えないので、なるべく急ぎ足で行きたいところなのだ。

 

 足を止めている時間はあまりないのだが、そうは言っても山本の様子は気になる。屋敷を出てからというもの、どうも彼は何かに酷く落ち込んだ様子で、1時間のうちにもう二桁以上も溜息をついている。正直鬱陶しいと思わなくもないほどのあからさまな落ち込み具合だが、普段あれほど元気の良い山本がここまで落ち込んでいるというのは余程のことがあったのではないかと、そう察する程度には楓も山本のことを見ている。

 

 一体何があったのだろうかと、楓も半ば心配になってそう聞いてみたのだが、次に行われた山本の反応を見て、それが杞憂であったことを悟った。

 

「聞いてくれるかっ!高野ちゃん!?」

 

「わっ!?」

 

 それまでの落ち込み具合はなんだったのかと問い質したくなる程、喜色に富んだ様子で、ガシッと楓の両手を掴むと、涙を流しながら山本は楓へと詰め寄る。

 

 あまりの変わり具合と突然両手を掴まれたことに、楓も驚きの声を上げて一歩後ろに引こうとするが、存外に強い力で両手を掴まれていてそれも叶わない。見た目筋肉お化けの山本は背の小ささに反して力が異常に強い。楓が逃れることは不可能だった。

 

 そんな窮地に陥っていた後半を見兼ねたのか、清水が山本の胸部目掛けて掌底を放つ。

 

「ふんっ!」

 

「あべしっ!?」

 

 強烈なその一撃に油断しまくりであった山本は思わず楓の両手を離して、勢いよく後方に吹っ飛んでいく。

 

「大丈夫楓ちゃん?ごめんねもうちょっと早く助けてあげられたらよかったんだけど」

 

「あ、いえ、その大丈夫ですよ、いきなり手を掴まれたのでビックリはしましたけど……その、助かりました」

 

 目をパチクリと山本の飛んで行った方向に向けながら楓は手を摩る。かなり勢いよく吹っ飛んでいったが山本は大丈夫なのだろうかと、若干心配しながらも楓は清水に感心の目を向ける。山本は背こそ小さいが筋肉量がえげつないくらい多い為、それなりの重量がある。それを片手一本で弾き飛ばすとはなかなか簡単にできることではない。

 

「良いのよ……それにしてもあの変態、楓ちゃんの手に触れるなんて遂にとち狂ったのかしら」

 

(別に手に触られるくらいは良いんだけど、なんだろうこの扱いは……)

 

 何故自分の手に触れただけで狂ったような扱いを受けているのか全く持って謎だ。自分が特別に扱われているのか、あるいは山本の方が特別な変態扱いをされているのか、どちらにせよ、女性の手に触れただけで変質者扱いを受ける山本のなんと哀れなことか。

 

「おいこらっ!?殺す気かテメェ!?」

 

 そんな風に楓が哀れんでいると件の変態、もとい山本が凄い速度で戻ってきて、唾が飛び散るような勢いで清水へと詰め寄っていく。

 

「ちょっ!汚いでしょう!?あんたが楓ちゃんに触るからいけないんじゃないっ!」

 

「触ったって手だけだったよな!?なんで手握っただけで肋骨折れそうな勢いの攻撃受けれるんだよ!?俺じゃなかったら死んでんぞ!?」

 

「残念、いっそそのまま逝けばよかったのに……」

 

(あーあ、始まっちゃったよ)

 

 この二人、一度こうなると中々止まらない。ぎゃーぎゃーと終わらない罵倒の連鎖、このままの流れだと、いつも通りに刀を抜き放って決闘だなんだと言い合って、どちらかが一本とるまでは落ち着かない。

 

(蝶屋敷、明るくなるまでに帰りたかったんだけど……)

 

 こうなってしまってはもはや二人を止められない。夜明けまでには蝶屋敷に帰りたかったのだが、難しそうだと楓は溜息を吐いて空を見上げる。

 

 黒い空に星々が綺麗に煌めいていて、まるで底の黒い宝石箱を見ているようだ。と、現実逃避気味に楓が視線を空へと向けた時、ぼとりと、地に重量感のある何かが落ちてくる。突然鳴り響く鈍い音に楓も、いがみ合っている清水と山本も思わずそちらに視線を向けた。

 

 

 

「「「っ!?」」」

 

 地に落ちたそれが何であるか理解した途端、3人はほとんど同時に刀を抜き放ち、お互いが背を預けるようにして、それぞれの方向を警戒する。その様子に先ほどまでの緩んだ空気は一切ない。夜の森の静寂を断ち切るかのように騒いでいた山本と清水も緊迫した様子で視線を周囲に張り巡らせている。

 

「楓ちゃん、その鴉、どう?」

 

「……駄目ですね、もう息絶えてます」

 

 空から降ってきたそれは、全身を漆黒で覆う鴉。夜の帳の中では極めて発見困難なその身体は無残にも引き裂かれ、地面に落ちた衝撃でところどころが潰れている。

 

 単に鳥が落ちてきたというのにはそぐわない反応、そう思う者は少なくとも鬼殺隊ではないだろう。鴉とは鬼殺隊にとって伝達手段の要。人よりも早く、なんの障害もなく真っ直ぐに飛ぶことができる彼らは、情報を素早く伝えるのには非常に有用な生き物だ。鬼殺の剣士であれば一人一人に伝達用の鴉がつくほど、その存在は重要視されている。

 

 そんな鴉が突然空から堕ちてきた。これはこの場で起きたことを知らせる情報手段が途絶えてしまったに等しい、いわば緊急事態なのだ。

 

「俺の鴉は呼んでもこねぇ……そっちはどうだ?」

 

 警戒の目を緩めることなく山本は後ろにいる二人に問いかける。

 

「私もこないわ」

 

「私も駄目ですね」

 

「……これはやべぇな、随分と頭の周る奴がいるみたいだわ」

 

 返ってくる2人の言葉に山本は思わず冷や汗を垂らす。

 3人の鴉が揃ってこないというのなら、これは偶然などではない。意図して明らかに此方の情報を寸断しにかかっている。相手は一体何者かと、山本は思考を巡らせる。

 

 鬼殺隊の敵といえば無論鬼だ。だが、この攻撃、もしも鬼であるなら明らかに成り立ての雑魚ではない。3人の誰一人に気取られることなく頭上で鴉を狩り、未だ気配すら感じさせない。何より、鬼殺隊の情報伝達手段を知っていなければこのような手は取らない筈だ。長年の蓄積された経験から鬼が鴉の手法を知っている可能性は大いにありうるが、その場合敵はかなりの強敵だ。

 

「全く気配を感じないんだが、なんか感じるか?」

 

 以前として微塵も感知できない敵の姿に山本は痺れを切らしたかのように清水と楓に問いかける。

 

「……私も感じないわね」

 

 鬼の気配は独特だ。慣れたものなら鬼の居場所はその歪な気配でだいたい理解できるようになる。無論、ある程度の経験を積んだ者だけが得られる熟練の技ではあるが、少なくともこの場にいる者の中に、鬼の気配が分からないものはいない。清水も周囲の警戒の目は緩めていないが、その暗闇に不自然なものはない。不気味なほどの静けさで、暗い夜の帳が変わらずそこにあるだけだ。

 

「私も特にはっ……いえ、正面、4時の方向」

 

 前者二人と同じように何も感じない、そう言おうとした瞬間、楓の広げる意識の中に、自然の山の中には明らかに存在しない、歪な何かが過ぎる。そしてそれは徐々に此方へと近づいてきている。楓は気配のする方角を伝えると、刀を水平に構える。

 

 ガサガサと、葉をかき分けるような音と共に、それは現れた。

 

「あぁ、見つけた、鬼狩りだぁ。もう逃げてきたのかぁ?くひひひっ女が二人もいるじゃないかぁ、美味そうな奴らだな」

 

 下卑た笑い声を上げて、愉悦に染まったような薄気味悪い表情で月光を浴びるその姿は人ではない鬼特有のもの。これからありつく食事の様子を観察し、楽しみに舌舐めずりをする。まさしく悪鬼そのもののような姿。

 

 常人であれば、そのおぞましい雰囲気に逃げ出したくなるような姿だが、その鬼を見つめる6つの瞳に一切の怯えも恐怖もない。

 

「まさかこれがやったの?」

 

 思わずと言った様子で清水はそう呟く。その声色に恐怖の色はなく、ただ目の前にいる鬼に呆れたようにそう呟く。

 

「いやいや、まさか。どう見てもこいつ雑魚だぞ、頭も全然よくなさそうだし……」

 

 その問いとも言えない呟きに答えを返す山本も半ば阿保を見るような目で鬼に視線を向けている。

 

「ですが、この付近に彼以外の鬼の気配は感じませんよ」

 

「え、じゃあ本当にこのどう見ても馬鹿の塊みたいな鬼が私達の鴉を殺ったの?」

 

 楓の言葉に信じられないと言った様子で清水は口を開く。その情報が確かなら、三下もいいところの台詞を吐きながら堂々と3人の目の前に登場したこの鬼が、楓にすら気取られることなく鴉を始末し、鬼殺隊への情報伝達手段を潰したと、そういうことになる。

 

 だが、目の前にいる鬼にそんなことができるとは清水も山本も、辺りに他の鬼は見当たらないと告げた楓ですら信じられない。

 

 実行されたことと、目の前に付随する鬼の情報があまりにも一致しない。

 

「何をこそこそと話し合ってんだ?どんな作戦を立ててもお前らに逃げ場なんてねぇぞ。くひひひっ、この山にいる鬼狩りはみんな今日死ぬんだからなぁ」

 

(……この山にいる?)

 

 その言葉に楓は思わず眉を顰める。今の鬼の言葉は明らかに奇妙だ。目の前にいる自分達だけを指した言葉ではない。確かにこの山には楓達以外にも複数の鬼狩りがいる。あの藤の家紋の屋敷に滞在する鬼殺隊の数は40はくだらないだろう。それらを指して言っているというのなら先の表現事態には疑問はない。

 

 だが、どうしてそれをこの鬼が知っている?この山に鬼殺隊が集まっているということを何故この鬼は知っているのだ?

 

「どういう意味かな?」

 

 怪訝そうな様子で楓はさらなる情報を引き出そうと鬼へと問いかける。普通ならこんな挑発じみた問いかけ、よほどの馬鹿でもない限り答えはしないが、目の前にいる鬼は先程から随分と口が軽い。此方に勝ち目がないという態度を取って問い掛ければこの鬼は調子良く喋ってくれるだろうと、楓はそう予測した。

 

 そして案の定、この鬼はペラペラと喋ってくれる。楓の感じた違和感の正体と、その最悪な予感を。

 

「この山にいるのは俺だけじゃないんだよ。お前ら鬼狩りなんかよりももっと多い数の鬼がこの山を囲んでるんだ!くひひひっ、屋敷に行った十二鬼月の方から運良く逃げられた奴を俺達が殺す。最高だろうぉ?くひひひっ」

 

 口の軽い鬼の言葉に、3人は揃って驚愕に目を見開く。

 

 鬼の言葉がもしも真実なら、この一つの山を囲むことができる程の数の鬼が今周りにいることになる。決して小さくはないこの山を囲むというのなら、鬼の数は百はくだらない、どころかその倍、あるいは3倍か、それほどの数の鬼が集結しているということになる。そんな数の鬼が集まるなど聞いたこともない、まさしく前代未聞の襲撃。

 

 一体何の冗談なのか、そう問いたくなるほどそれはあまりにも現実味の薄い内容。虚言ではと、そう思ってもいた仕方ないが言葉ではある。だが、この状況でこの鬼がこんな大胆かつ複雑な嘘をいう理由も思い付かない。

 

 

 なによりも聞き捨てならないのは、『屋敷に行った十二鬼月の方』この言葉にある。

 

「十二鬼月がこの山に来てるってのかよ……しかも屋敷にってなんの冗談だよそりゃあ」

 

「悪夢みたいな状況に聞こえるわね」

 

 ぼやくように呟く山本と清水の額に流れる冷や汗は、この事態のひっ迫感をより明確にする。

 

 この鬼の言葉通りなら、つい先程までいたあの屋敷に対してあの十二鬼月が襲撃を仕掛けていることになる。数多いる鬼の中から選ばれた十二体の鬼、その内の一体がすぐ近くにいる。

 

 ゴクリと楓も思わず喉を鳴らして緊張感を露わにする。十二鬼月、それは楓にとって忘れられないあの最悪の夜を彷彿させるにたる十分な言葉。楓が初めて遭遇した十二鬼月である六眼の鬼、上弦の壱。あの圧倒的な絶望感、恐怖、足掻きようもない死の壁そのものであった存在が、再び近くにいるかもしれない。恐怖に竦み上がってしまいそうになる身体をなんとか抑え込みながら、楓は思考を巡らせる。

 

 

 仮にこの鬼のいうことが全て正しい情報なのだとすれば、今から起きる、あるいは起きている戦闘はこれまでの鬼との長い戦いにおいて、前列を見ないほどの大規模な集団戦になる。鴉を潰されている以上、この山への隊士の増援は望み難い、屋敷にいる剣士の鴉が一羽でも山を抜けれればあるいはその機会もあるが、此処まで徹底して此方を潰しにきている相手が、そう簡単に外部との連絡を取らせてくれるとは思えない。

 

 一番の問題は十二鬼月が屋敷を襲撃しているということ、あの屋敷には柱に匹敵しうる実力を持つ小牧がいるし、他にも多数の隊士達がいる。そう簡単にはやられないだろうと思いたいところ……だが、もしも仮に襲撃しているのがあの絶望の体現者たる上弦の壱であったなら、如何に小牧といえど数合と保たない。屋敷にいる隊士達程度では数にも入らない、それだけの力量差が上弦の壱とはある。もし仮に襲撃者が上弦の壱ではないのだとしても、小牧一人で他の隊士達を守りながら戦うのは極めて困難だ。

 

 どちらにせよ、一刻も早く屋敷の救援に行かなければいけない。

 

 (この鬼に構ってる余裕はない……)

 

 聞きたい情報はある程度聞けた。ならば、いつまでもここにいる必要はない。

 

 

 

——— 蟲の呼吸 蜂牙(ほうが)の舞 真靡(まなび)き ———

 

 

 

 バキっと大地を踏み割る音だけをその場に置いて楓は目にも止まらぬ速さで鬼へと距離を詰める。

 

 助走すらなく、踏み込みだけで鬼の懐へと入り込んだ楓はその勢いの全てを詰めた一突きで心の臓を貫く。

 

「っ!?この女っあがっ!?」

 

 目の前に突如現れた楓の姿に鋭い爪を生やした腕を振るおうとした瞬間、心臓という急所に与えられた毒が急速に鬼の全身に巡る。

 

 身体中に走る猛烈な痛み、体内を炙られたかのようなその苦しみに鬼の筋肉は硬直し、腕を振り被った体勢のまま何が起きたのか理解すらできずに、あまりにも呆気なく息絶えた。

 

 

「急いで屋敷に戻りましょう」

 

 素早く納刀し、いうが否や走り始めた楓の後ろ姿を清水も山本も目を点にして見詰める。

 

「……お前、今高野ちゃんの姿見えた?」

 

「……動いたことにも気付かなかったわよ」

 

 あまりにも圧倒的なその速さに残像すら確認することができなかったと、山本も清水も驚愕する。

 

 この二人の実力は決して低くはない。隊内で見れば十分に上位に組み込まれるだけの力は持っている。その二人をして認識出来ないほどの速さで動くことの出来る楓はまさしくもって格の違う実力者と言える。

 

「……取り敢えず行くか」

 

「そうね……もう姿が見えないわよ」

 

 既にその背中が見えないほど離れてしまった楓に、清水は呆れたように溜息をつく。一人で突っ込むなとつい昨日注意したばかりのはずだが、この緊急事態に既に彼女の頭からは抜け落ちてしまっているのだろう。本の数ヶ月前まで、少し強いなという程度の力量差しか感じていなかったというのに、これが若さというものなのだろうか、あまりにもずば抜けた成長力に清水の瞳に羨望の色が籠る。

 

(もう、お守りは必要ないのかもしれないわね)

 

 同期である信乃逗(しのず)が、その命を賭してまで生きながらえさせた命を守っていきたいと、そう思っていたが、あの様子ではその必要はないのかもしれない。彼女は自分などよりもう十分に強い、とうの昔に守られるだけの存在ではなくなっている。世話のかかる妹のような気さえしていたが、姉を自称して妹より弱いというのは立つ瀬がない。

 

「しけた面してんじゃねぇぞ清水。あの子が強くなることなんざわかってたことだ。……喜べよ、仲間が強くなるのはいいことだ」

 

「……分かってるわよ。でも仕方ないじゃない。あの子も信乃逗もどんどん強くなっていったのに、私は……」

 

 思わず言葉を詰まらせて清水は俯き気味に拳を握り締めてしまう。

 

 普段は見ることのない思い悩む清水の姿に山本は僅かに目を見開くも、いつものような軽口は出てこない。彼女が感じているであろうその気持ちは山本もよくわかるからだ。

 

 こうして間近で見てしまえば、その才能の差を嫌でも感じてしまう。楓も信乃逗も、歳下でありながら、山本や清水などよりよほど才能豊で、その上で努力も怠らない。同じ時間を鍛錬に費やそうとも二人の実力はどんどんと離れていってしまう。

 

 才ある者に才なき者が追いつくのは並大抵のことではない。一度離れた実力は、二人がどう足掻いたとこで既に追いつくことなどとうに出来ないほど遠くにあった。

 

 だが、人の持つ強さとは、何も戦う力だけにあるわけではない。

 

「……別に戦う力だけが必要なわけじゃねぇだろ。どれだけ強くたって一人じゃこの世界は生きていけねぇんだ。信乃逗が生かしたあの子の側に俺達がいることに意味があるんだとしたら、そりゃあきっと戦う力そのものにじゃない。あの子を守りたいって想う意志の強さにこそあるんじゃないのかって俺は思うけどな」

 

 普段の山本からはとても出てこなさそうな励ましの言葉を受けて、清水は驚愕に目を見開く。

 

「……熱でもあるの?」

 

「……二度とテメェに慰めの言葉なんてかけねぇ」

 

 項垂れた様子を見せる山本の姿に清水は思わず苦笑する。

 

 あの山本が自分を励ますなんてそんなことがあるのだろうかと、思わずそう言ってしまったが、どうやら本気で励ましてくれていたらしい。

 

「悪かったわよ。さ、早く行かないと楓ちゃんに追いつけないわ」

 

「追いつく頃には終わってたりしてな」

 

 軽口を叩きながら二人は走り出す。遠く遠く、先を走っていく少女の背中を目指して。

 

 

 その背が前へと進んでいけるように。

 

 

 

 

 

 




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ごめん、鴉


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血の惨劇 上

少々グロい表現がございます。


 

 

 夜の山、濃密な闇を宿した静観な森の中にあるその屋敷は、果てのない戦いに身を投じる者達にとって一時の憩いの場。日々続く戦いと命を賭して尚、足りないとばかりに失われていく命を見続ける彼らは、屋敷の歓迎を受けてその心と身体を休ませる。

 

 

 彼らにとって砂漠にあるオアシスのようなその場所は今宵、血濡れの悲劇に見舞われることになる。

 

 

 

 

 最初にそれに気づいたのは藤の花の家紋をその身に背負う一人の男だった。

 

「うん?」

 

 屋敷の庭の灯籠の蝋燭の点検に赴いていた男の視界に、ふと地面に落ちた一枚の布が目に映る。一体なんだろうかと、手を伸ばし触ってみれば、それは肌触りの良い大変上物の帯であった。

 

(どうしてこんなところにこんなものが落ちてるんだ?)

 

 この屋敷にも勿論女人はいるが、決して多くはない。数少ない彼女達にしてもこんな派手な帯を身につけるような娘はいなかったはずだ。そもそも庭にこんなに長い帯を落として気付かないということがあり得るのだろうか。

 

「それにしても随分と長い帯だな」

 

 地面に落ちた帯は庭の奥へと続いて伸びている。あまりにも長いそれは深い夜の闇に埋もれてその先端が見えないほどだ。

 

(屋敷まで持っていって落とし主を探すか)

 

 屋敷にいるのは大半が鬼殺隊の隊士達だ。普段なら男所帯の彼等の中にこの帯の持ち主がいるとは思えないが、最近では珍しく二人程女人の鬼狩りも来ていたはずだ。あるいはその二人のうちのどちらかもしれない。

 

 そう思って男は長い帯を手に手繰るように庭の奥へと進んでいく。

 

 

 男はそこで気付いておくべきだった。あまりにも長いその帯の異常さに。夜の闇に中にまるで釣り餌のように続くその帯の妖しさに。

 

 

 

 こうして一人の男が闇の中に消えた。

 

 

 

 

 血濡れの悲劇は始まっている。

 

 

 

 

 

 

——————

 

 

 

 

 

「あー、つまんないわねぇ〜」

 

 屋敷の庭の奥深く、昼間、小牧(こまき)(かえで)が仕合を行ったその場所で上弦の陸、堕姫(だき)は月を見上げるようにそうぼやいた。

 

 池の水面に浮かぶ月の輝きは美しく、風に靡く森の木々が奏でる音色はこの素晴らしい夜の日にはぴったりだと、つい先程まではそう思っていた。つい先ほどまでは。

 

「不細工ばかり、もうちょっと綺麗な顔の人間はいないのかしら」

 

 バシャンッ、と水の跳ねる音が庭に響き、静かな湖面を波立たせる。池を囲む護岸に打ち当たるその水の色は滲んだような赤色だった。

 

 屋敷に入ってから数十分程、巻いた餌に喰い付いた間抜けは先ほど殺した男で13人目、そのどれもが堕姫の望む容姿をした者ではなかった。自らの潜む花街には美しく綺麗な顔立ちをした上等の食料があれほどいるというのに、この屋敷にいるそれは硬い筋肉質の男か、嗄れた年寄りばかり、女人も数人いるようだが、それもギリギリ及第点と言ったところであまりそそられる者でもない。

 

「あーあ、そもそもこんな山奥にアタシが食べれる人間がいる訳がなかったのよ」

 

 柱の1人もいないなど勇んで来たのが馬鹿のようだ。面倒な役目を押し付けられたものだと、項垂れた様子を見せる堕姫は地に向けたその顔に歪な微笑みを浮かべる。

 

「あんた達もそう思うでしょう?」

 

 シーンと静まり返った闇の中に放たれた問い掛けは虚空に響き渡り、やがて風の唸りの中に消えていく。

 

 

 

「確かに君に食べさせる人間はこの山にはいないな」

 

 誰に放たれたかも分からない堕姫のその問いかけに、闇の中から一つの答えが返ってくる。と同時に庭に敷き詰められた砂利を踏む音が複数の方向から堕姫の耳へと届く。

 

「いや、正確にはこの山にではないな。この世界の何処にもと、言い直すことにしよう」

 

 闇の奥からスッと姿を現した男達の姿を見て堕姫はほくそ笑む。

 

「あら、美味しそうなのがいるじゃない」

 

 月の光に照らし出された鬼狩り達は10人程、中でも中心に立つ白い羽織りを着た男の姿に堕姫は目を細める。見た目は随分と年若い相貌だが、纏う雰囲気には妙な貫禄がある。何よりも堕姫の目を引くのは男の美貌だ。目鼻立ちはよく整っていて、細められた蒼穹のような瞳は雄大な空を思わせる。男にしては実に美しいその顔立ちは堕姫の求める食料に相応しいものだった。

 

「残念ながら、美味しいという感覚を君が感じることはもうないよ」

 

「あら、どうして?」

 

「君は此処で私達が滅するからだよ。……さあ麗しの悪鬼よ、己が罪を悔い改めたまえ」

 

 男の言葉を合図にでもしたかのように、周りに立つ他の鬼狩りが一斉に腰に差した刀を抜き放った。

 

「あんた生意気ね。あんた達みたいな雑魚にあの方に選ばれたアタシの首を斬れるわけないでしょう。大人しくしてたら楽に殺してあげるわよ」

 

「どれだけ君が強大な力を持っていたのだとしても、私達が刀を置く理由にはならないよ。寧ろ君の方こそ大人しく首を差し出したまえ。そうすれば地獄への案内は受け持とうじゃないか」

 

 か弱き人間の分際であまりにも尊大なその物言いに、堕姫は目尻を吊り上げて男を睨みつける。

 

「本当に生意気ね……ならいいわ。せいぜい光栄に思いなさいよ。上弦の陸に殺されることをね」

 

 瞳に刻まれた数字を見せつけるかのように目を見開くと、同時に幾本もの帯を操って上空から鬼狩り達に向かって叩き込む。

 

 

——— 炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり ———

 

 

 猛る炎の渦が空へと燃え上がるように、放たれた剣戟が鬼狩り達の頭上に迫る全ての帯を弾き返す。

 

「っ!?」

 

 かなりの速度で放ったはずの帯が一本残らず弾かれた。その光景に堕姫は目を見開く。今の剣戟はただの鬼狩りでは有り得ないほどの反応速度。この山に柱はいないと思っていたが勘違いだったのか?

 

 疑問に思う堕姫のその表情に気づいたかのように、小牧は言葉を紡ぐ。

 

「言ったはずだよ。どんな強大な力を持っていようとも、私達が刀を置く理由にはならないと。それは例え君が上弦の鬼だとしても、何の変わりもない」

 

 暗闇の中に悠然と佇む男の放つ異様な雰囲気に堕姫は僅かに呑まれる。

 

「あんた、柱ね?」

 

「うん?面白い冗談だね。残念ながら私は柱ではないよ」

 

 男から放たれた否定の言葉に堕姫は再び目を見開く。

 

 目の前にいる男が柱ではないというのなら、ただの下っ端風情に上弦の陸に選ばれた自分が気をされたと、そういうことになる。

 

(許されない、そんなのあり得ないわ)

 

「私程度で抗えるというのであれば、上弦の陸を相手取るのに今代の柱達なら何の苦戦もしないですみそうだね。……安心したよ」

 

 にたりと口元を歪めて、夜の闇にも負けない黒い微笑みを携えた男の姿に堕姫の表情にはっきりとした怒りが宿る。

 

 

「言ってくれるじゃないのっ、糞野郎!」

 

 

 怒りの咆哮と共に再び空に飛び出す帯の群れを、鬼狩りの男、小牧(こまき)柊生(しゅうせい)は厳しい表情で迎え撃った。

 

 

 

 ひと夜の血濡れた悲劇は未だ始まったばかりである。

 

 

 

 

 

——————

 

 

 

 

「見えた!屋敷っ」

 

 颯爽と山を駆け上がる楓の視界に入る巨大な建物の影。しかし、その屋敷の見え方に楓は息を呑む。

 

 本来ならばこの闇夜の中、月の光の輝きで淡く見えることはあっても、あのようにはっきりと揺らめくように見えることはない。

 

(火がついてる!?)

 

 屋敷を闇に浮かび上がらせた光は月光ではない。下から橙色に照らされたような色合いはあきらかに炎によるもの。

 

 

 屋敷の何処かで火の手が上がっているのだ。

 

 

「急がないとっ」

 

 足に込める力を一層強めて、楓は大きく跳躍すると、乱雑に生えた樹木の枝伝いに屋敷へと飛び込む。

 

(っ、庭が燃えてる!)

 

 宙に浮かぶ楓の視界に屋敷の全貌が映し出され、火の手の上がるその場所を正確に認識させる。

 

 今日楓が小牧と鍛錬をしたその場所が、美しかった庭園が、燃え落ちていく。炎の勢いが強く、中の様子までは分からないが、あの辺りから強い鬼の気配を感じる。

 

 他に人はと確認するように周辺を見渡すと、屋敷の入り口あたりにまばらに人影が見える。

 

「くっ」

 

 屋敷を取り囲む塀上に飛び乗った楓は、ひとまず状況を確認しようと、燃える庭とは反対に位置する屋敷の入り口へと駆け出す。

 

 途中視界の端で、空に向かって何かが伸びていくのが見える。チラリと意識を向ければ、燃える庭の中心辺りから幾本かの線のようなものが立ち上がり、次々に地上目掛けて勢いよく駆け落ちていく。それと同時に周囲に鳴り響く地面を抉るような轟音。

 

(誰かが戦ってる!)

 

 このまま反転して庭の方に駆け出してしまいたい衝動を必死に抑え込んで、楓は前へと足を進める。

 

 進入してきている鬼が一体とは限らない。山を囲むほどの数できているなら、屋敷にも複数の鬼が襲撃してきているかもしれない。なるべく今ある情報は共有しておきたい。それに、楓の持つ情報はなるべく多くの隊士に伝えなければいけない。

 

 ここにいる隊士の中には隠も多くいる。鬼に対する対抗手段を持たない彼らが山を下ればあっという間に鬼に殺されてしまう。他の剣士にしても不意打ちで複数の鬼に囲まれてしまえば、生きて山を出ることは困難だ。

 

 (からす)がいれば情報の伝達は彼らに任せられるのだが、楓達の鴉はすでに全て始末されてしまっている。情報の伝達が素早く出来ないことがこれほどの困難を招くとは思いもしなかった。鴉という存在の貴重さを改めて痛感する。

 

(もう少し、耐えてくださいっ)

 

 はっきりと見えた人の集団を見据えて、楓は炎の中で戦っているであろう剣士の武運を祈る。

 

 

 

 楓の駆け寄った入り口にいた集団は、応急処置を行う隠と屋敷にいた使用人の集まりだった。

 

 誰も彼もが忙しなく動き回り、石畳の床の上に寝かされた負傷者の治療に当たっている。決して狭くはないその空間に横たわる人の多さに、楓は息を呑む。

 

(短時間でこれほどの負傷者がっ)

 

 剣士や隠、戦闘員か否かそこに区別はない。屋敷の使用人も含め、20人以上が血塗れで倒れている。腕を斬り落とされ痛みに呻く声、臓物がはみ出し苦しみのあまり出る苦悶の声、手の内ようもなく息絶えた友の姿に泣き叫ぶ声、耳を塞ぎたくなるほどの叫びが一帯に響き渡っている。

 

 楓の立つこの場所は正しく阿鼻叫喚の地獄だった。

 

 無意識のうちに拳をギュッと握り込む。

 

 手の皮膚を食い破り、血が滲み出るほどの力が込められたその両手に不意に誰かが触れた。

 

 パッと下を見れば、そこには1人の小さな女の子が立っていた。

 

「おねえちゃん、だいじょうぶ?」

 

 血の滴る楓の手を心配するようにさすってくれるその少女の姿は、齡5つか6つ程度に見える。

 

 少女に言われて楓は初めて自分の手から血が滲んでいることに気付いた。

 

 

(この屋敷にこんな子供までいたなんて)

 

「心配してくれてありがとう。お姉ちゃんは大丈夫よ。……お嬢さん名前は?」

 

「わたし?わたしはね、陽子(ようこ)!」

 

 陽子と名乗ったその少女の屈託のない笑顔に、楓もつられるように口角が上がる。

 

「陽子ちゃんか、いい名前だね。お父さんかお母さんはどこかな?」

 

「えっとね、母様は今は忙しいから、ここで待っていてって、父様はあっちで横になってるんだけど、今は眠ってるからいっちゃ駄目だって母様がいうの。だから陽子はね、ここで母様が来るのを待ってるの」

 

 おそらく屋敷の者の子供であろうその子が指した場所を見て、楓は目を見開き、歯を食い縛る。父様が眠っている、こんな状況で出るその言葉の意味を楓は十分に理解できていた。

 

 指の向こうに横たわる男性の姿は真っ赤だった。鋭利なもので腹を斬られたのだろう。子供に見せるにはあまりにも悲惨な姿、母親が遠ざけたのも無理はない。

 

「……母様はどこにいるのかな?」

 

 この子の言い方では母親は生きている筈だ。ならばこの状況でなぜこんな幼い子供を放置しているのか。

 

「えっとね……あ、あそこにいる!」

 

 再び子供の指す方を見ると、隠と共に負傷した隊士の元を忙しなく行き来する女性の姿。懸命な様子で治療にあたっている彼女は、母親というにはまだ年若くみえる。子供の幼さを見れば齡22あたりといったところだろうか。あの様子では確かに子供に構っているのは難しいだろう。

 

(……今の状況で、この子の面倒を見れる余裕のある人はいない)

 

 周囲を見渡しても、この子供のことを見ていられるような人は残念ながら見当たらない。

 

「陽子ちゃんは偉いね、1人でちゃんと待てて。お母さんはきっと直ぐにここに来てくれるから、もう少しだけ待てるかな?」

 

「うん!陽子はね、いい子だって父様もいつも褒めてくれるの!だから母様が来るまでここでちゃんと待ってるよ!」

 

 純粋無垢なその姿に不意に楓の瞳が潤む。

 

「っ……そっか。いい子だね。うん、陽子ちゃんが頑張ってくれるからお姉ちゃんも頑張らないとね」

 

 幼い子供に今の地獄のようなこの状況は理解できない。母親が言った父親の眠りが永遠に覚めないことも、果たしてここから生きて出られるのかすら危ういということも。分からないからこそ、きっと彼女はこんなにも屈託なく笑えるのだろう。

 

 だが、この無垢で何も知らない笑顔は、今の楓達にとって、間違いなく希望であり、失わせてはならないという必死の活力を生み出す。

 

 少女にそっと別れを告げて、楓は忙しなく動き回る隠の元に赴き、今の状況を伝える。

 

 

 

「山を、鬼が……そんな、先程何人かの隊士が山を下っていってしまって……それでは彼らは……」

 

「もう山を下った人がいるのですかっ!?」

 

 もたらされる情報に遅かったかと、楓は内心で舌打ちすらしてしまう。

 

 確かに鬼に襲撃されてから既に数時間は経過しているので行動を起こしてしまっているものがいることには不思議はない。

 

(からす)がどこにも見当たらなくて、救援を呼ぼうと隠が……」

 

「くっ」

 

 彼らの考えは分からなくもないが、その判断は悪手だ。鴉が見当たらないという事態がそもそもあり得ない緊急事態、何が原因で鴉がいないのか分からない状態で安易に分散する選択をとるべきではない。

 

(どうする?隠の人たちを助けに急いで山を降りる?でも、ここの屋敷には十二鬼月がいる。小牧さん達だけに任せても勝てる保証はない)

 

 楓がここを離れて山を下った場合、屋敷の戦力はほとんどいなくなると言ってもいい。仮に今十二鬼月を留めているはずの小牧達が破られれば、この場所を守る人員は誰もいなくなる。そうなればここにいるもの達の生命はない。隠だろうが剣士だろうが、あの小さな女の子だって皆殺しにされる。

 

 今から山を下れば或いは隠は間に合うかもしれない。だがそれはこの場を見捨てるに等しい行為。

 

 それはできない。今のままでは、隠を助けに行く選択肢は選べない。

 

 仲間を見捨てることに歯痒い思いをしながらも歯を食い縛って決断しようとした時、不意に奇跡が舞い降りる。

 

「楓ちゃん!」

 

 背中から楓の名を呼ぶよく知るその声に、楓はパッと背後に振り返る。

 

「ハルさん!」

 

「やっと追いついた、早すぎるわよ楓ちゃん」

 

「高野ちゃん!俺達のこと置いてきすぎだろ」

 

 ふわりと空から舞い降りるかのように着地した2人の姿に楓は勝機を見いだしたかのように瞳を輝かせる。

 

「お2人とも!素晴らしいほど的確な時分です!」

 

「「え、それほどでも〜」」

 

 なぜか声を揃わせて喜びを露わにする2人の姿に、普段ならば呆れてため息を吐くところだが今日ばかりはそれもどうでもいい。

 

「はい!今すぐに山を下って山から出ようとする隠の方々を止めて来てください!このままでは彼らは犬死にです!」

 

「え、山を下るの?」

 

「……俺達、今上がってきてばかりなんだけど」

 

「ええ!このまま隠の方を見殺しにする訳にはいきません!屋敷にいる鬼の元には私が向かいますのでそちらを宜しくお願いします!」

 

 肩を上下させて息をする様子から全力で駆けてきたことはよくわかるが、状況的に彼らの文句を聞いている場合ではない。

 

 言うが否や楓は猛る炎が舞い上がる庭の方へと駆け出していく。

 

「あ、ちょっ、楓ちゃん!?」

 

「またかよ!?」

 

 先程と同じように一瞬で見えなくなった楓の背中に、2人は揃って顔を見合わせるとどちらからともなくため息を吐いて屋敷を飛び出した。

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
御意見・御感想等頂けますと幸いでございます!

ちょっとグロかったですかね?気を悪くしてしまった方いらっしゃいましたら申し訳ありません。ちょっと悲惨さを表現したかったので。


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血の惨劇 中

 

 

 宙を飛び交う無数とも思える帯の群れ。

 

 帯が宙をとび空を切り裂く、なんとも珍妙なその光景を生み出しているのは1人の白髪の女の鬼。上等の絹のようなその美しい白髪を闇夜に靡かせながら、堕姫は未だ息絶えない忌々しい人間達を見据える。

 

「いつまでも鬱陶しいわねっ!!なんで死なないのよ!」

 

 彼女の表情に現れる焦燥と苛立ちの濃い色合いにこの場の鬼狩りの筆頭たる小牧は、不敵に微笑む。

 

「おやおや、上弦ともあろうものがみっともないものだね」

 

「うるさいっ!死ね糞野郎!」

 

 明らかな挑発の言葉にも関わらず彼女は簡単にのってくる。苛立ちという感情がのった攻撃は存外に対処しやすい。

 

 強者でありながら感情をはっきりと面に出すこの鬼は小牧にとって非常に扱いやすいタイプだった。確かに攻撃の速度と帯の斬れ味は脅威的ではあるが、それも小牧にとって防げないものではない。

 

(……あまりにも単純に過ぎるね)

 

 正直なところ、これが本当に上弦に数えられたものなのかと疑問に思うほど、堕姫の戦闘力は低い。無論それでもこれまで滅してきた下弦の鬼よりはあきらかに強力ではあるが、それでも百年もの間、柱の誰も討ち取ることが出来なかったというのはにわかには信じがたい。

 

(とはいえ、決定打にかけるのは此方も同じか)

 

 チラリと一瞬、視線を周囲に渡らせる。

 

 小牧の瞳に映る6人の人影。

 

 当初10人はいたそれはあきらかに減っている。いかに小牧が歴代の柱達の実力に一歩足を踏み入れているとは言っても、この数の人間に対する攻撃を全て受け止めきることは出来ない。戦闘が始まってから30分と経たぬうちに4人が生命を落とした。

 

 そして1時間近くとなった今、刀を持ち立つ者達も殆どが負傷し、息が切れたかのように肩を上下させる者もいる。

 

(……このままでは此方が先に潰えるか)

 

 激しい帯の群れの攻撃の中で、なんとか首を斬る機会を作ろうとはしているが、あの鬼は攻撃の間合いも広く、そして速い。小牧が一瞬の隙を作り出しても、その一瞬に対応出来るだけの腕を持つ剣士がいないのだ。唯一その機会がありそうなのは弟子である桂木だが、彼もまた警戒されているのか、帯の攻撃が比較的激しい。

 

 小牧がいる限りなんとかこの面々の全滅は避けれるかもしれないが、鬼の首を落とさなければ此方の勝機も薄い。

 

 

「ふふっ、なんだあんた以外はもう時間の問題ってところかしら」

 

 小牧の内心の苦悩に気づいたかのように、堕姫は周りの鬼狩りを見渡してほくそ笑む。

 

「さて、どうかな?時間の問題なのは君の方じゃないのかな?」

 

「ふふっ、なによ負け惜しみ?あんた達人間とは違って鬼のアタシ達には限界なんてないのよ。本当、人間って惨めよね」

 

 既に勝ちが決まったかのように笑う堕姫の姿は余裕に満ちている。体力という面で確かに人間には超えられない壁があり、鬼にはそれがない。

 

 だが、鬼に限界がないというのは大きな勘違いだ。

 

「鬼にも限界はあるさ。時間という名の限界がね。君がこうして私達に構っている間にも月は動くんだよ。月の後に来るものは君達鬼が何よりも嫌うものだろう?」

 

 挑発の色を濃く浮かべた不敵な笑みで小牧は堕姫を見据える。

 

「どこまでも減らず口をっ!あんた達を始末するのに、陽が昇るまでかかる訳がないでしょう!!」

 

 瞬間、堕姫の攻撃の牙が小牧へと襲い掛かる。四方を取り囲むように張り巡らせたそれが同時に小牧へと襲い掛かる。

 

(死ね!糞野郎!)

 

 内心で勝ちを確信した堕姫が口角を上げて笑う。

 

「あぁ、言い忘れていたんだけど……」

 

 

 

——— 炎の呼吸 参ノ型 火炎柱(かえんばしら)・業 ———

 

 

 

 瞬間、全ての帯は切り裂かれた。立ち上る炎の柱のように、四方も頭上も、この男に死角などないのだと、そう理解させられるような技。舞い落ちる帯の切り端の隙間から堕姫は唖然として小牧を見つめる。

 

 

——— 私達は君の命を狙うことは諦めていないよ。

 

 

 ゾクリと、思わず背筋が凍るような冷美な微笑みを堕姫は垣間見た。

 

 

 

——— 蟲の呼吸  

 

 

 怖気の走るような恐怖にも似た感覚が堕姫の体に襲い掛かる。得体のしれないその感覚に咄嗟に背後を振り返った堕姫は目前に迫った人間の姿に目を見開く。

 

 

 

        蜻蛉(せいれい)の舞 複眼六角 ———

 

 

 

——— 血鬼術 八重帯(やえおび)の壁 ———

 

 

 

 

 目前に迫った煌く6つの星、眩しさすら感じるその光に、堕姫は殆ど反射の領域で血鬼術を発動させる。

 

 地面に埋められていた大量の帯が地表を食い破って空へと向かって伸びていく。直立した帯の群れはいっそ巨大な壁ができたのかとそう思うほどの堅牢さで楓の放った技を弾く。

 

「くっ!?」

 

 咄嗟に作ったにしては随分と頑強なその盾を楓は忌々しそうに見ると、即座に身体を反転させて、小牧の横に跳び下がる。

 

「小牧さんすいません。仕留め損ないました」

 

「いや、構わないよ。あのようなことが出来るとは私も想定外だ。伊達に上弦の陸は名乗ってないようだね」

 

 まるで打ち合わせしていたかのような完璧な時分であったが、堕姫の咄嗟の判断が2人の連携を僅かに上回った。小牧としても直情的で攻撃的な面の多い鬼であると思っていたので、あのような念の為の防御策を弄していたとは想像もつかなかった。

 

 先程まであれほどの数の帯を操り此方を攻撃してきていたというのに、尚且つ地面にあそこまで大量の帯を埋め込んでいたとは中々に器用な真似をすると、感心した様子で帯に包まれた堕姫を見据える。

 

「一突きしか当てれませんでしたから、毒の効果は対して望めません。……それにしても上弦の陸ですか、その割には随分と隙だらけでしたね」

 

 一瞬見ただけでしかないが楓の知る上弦の鬼とはあまりにも放つ雰囲気が違う。あの侍のような鬼の放つ空気はもっと重かった、もっと鋭かった。目の前に立つ矮小な存在を許さないあの圧倒的な死の気配を、上弦の陸からは感じない。

 

 無論強力な鬼であることは楓にも分かる。多くの人を喰らったのであろうその気配は上弦の壱を除けば嘗て楓が見てきた鬼の中でも最も強いと、そう思える。だがそれでもあの死の体現者と同じ括りで見ることは難しそうだ。

 

(上弦の壱と陸でこんなに違うものなの?)

 

 上弦の壱が他の上弦よりも圧倒的に強いだけなのか、末席の陸が単に弱いだけなのか、楓がその判断をつけることは出来ない。

 

 

「確かに想像していた上弦の強さとは余りにも似つかないが、それでも油断は禁物だよ、楓君。どうであれ強敵だ。首を落とすまでは気を緩めてはいけない」

 

「……そうですね」

 

 小牧の言う通り、上弦の壱と比較すればあまりにも低い位置にいるが、それはあくまで上弦の壱と比較した時だ。人間である自分達からすれば明らかに格上の相手。少なくとも楓が油断していいレベルの相手ではない。

 

 

 不意に堕姫を隠すように包み込んでいた帯が四方に散る。十数本にも及ぶ長い帯が宙へと飛び上がり楓と小牧の頭上から勢いよく駆け落ちてくる。

 

 2人は同時にその場から後方へと大きく跳躍し、落ちてくる帯を交わす。その数瞬あとに砲弾が着弾したかのような轟音を立てて、次々と地面へと激突する。地面を抉り、もくもくと漂う土煙りの中から、顔を手で押さえた堕姫がゆらゆらと歩いて来る。

 

「あんた、よくもやってくれたわねっ!そう!あのお方が言っていた毒を使うっていう剣士はあんたのことなのねっ!いいわ!あんたはアタシが殺してあげる!」

 

 顔から手を退け、怒りの感情をはっきりと浮かべて此方を見る堕姫の顔は毒の影響か、皮膚が僅かに爛れたようになっている。

 

「アタシの顔をこんなにするなんて、しかも中々治らないじゃないっ!絶対に殺してやるっ!」

 

 あらんかぎりの殺意を込めた瞳を向けられた楓は、先に放たれた堕姫の言葉に怪訝に眉を顰めていた。

 

(あのお方が言っていた?)

 

 堕姫の言葉は楓にとってあまりにも聞き捨てならないものだった。あの言いよう、明らかに堕姫は誰かから毒を使って鬼を殺す鬼殺の剣士がいることを事前に聞いていたことになる。

 

(毒に関する情報が共有されてるってこと?)

 

 上弦の陸という上位の立場の鬼が、あのお方と表現する相手などあまりにも限られてくる。彼女より上の数字を持つ上弦の鬼か、或いは鬼の頂点、鬼無辻無惨。どちらにせよ、毒について何かしらの情報が上弦の鬼の間で広められていることになる。

 

「……報告することが増えちゃったな」

 

 上弦の陸がこれほどの反応を示すということはそれだけ毒について警戒されていることに他ならない。同じく毒を使う師には報告しておかなければならない。

 

「楓君は向こうでも有名らしいね、結構なことだ」

 

「……全然嬉しくないですよ」

 

「ごちゃごちゃと煩いわねっ!!余裕のつもりっ!」

 

 己が激情を受けて尚、怯んだ様子すら見せずに悠長に会話を繰り広げる2人の鬼狩りの姿に堕姫はかつて感じたことがないほどの怒りに支配される。

 

 

「楓君、君は首を狙いたまえ、周りの帯は私と他の隊士で止めよう……明久(あきひさ)、まだやれるね?」

 

「はぁはぁ、帯ならば、幾らでも止めれますよ」

 

 威勢のいいその返答に、チラリと楓は数歩後ろで刀を明久と呼ばれた小牧の弟子を視界の端で見る。

 

 今朝方、桂木(かつらぎ)と名乗った彼は、頬の出血以外は全く負傷した様子は見られないが、その呼吸は随分と乱れ、肩を苦しそうに上下させている。

 

 どう見てもあまり長く持ちそうにはない。

 

 他の隊士達にしても、殆ど全員が全身に擦り傷を負っており、幾分出血し過ぎているように見受けられる。

 

(早めに決着をつけないと、犠牲が増えるばかりかな……)

 

 小牧と楓を除いてしまうと、ここでまともに戦力になりそうなのは、桂木くらいのものだ。それ以外は帯の攻撃を長々と受け切れるとは思えない。

 

 

 楓は先の小牧の言葉を思い返す。

 

 『首を狙え』

 

 この言葉は、普通に考えれば単に鬼を仕留めろという意味合いのものに聞こえる。だが、彼は他でもない毒の使い手である楓にそう言ってきたのだ。それはつまり、毒で殺すのではなく、首を落として殺せという意味合いになるのではないか?

 

(小牧さんも、しのぶ様と同じ意見ってこと?)

 

 楓の脳裏に、しのぶに言われた言葉が思い浮かぶ。

 

 上弦の壱と戦い負傷した後、長い療養期間で弱った筋力や体力の鍛え直しも兼ねて、楓はしのぶに徹底的に扱き上げられた。その際、しのぶにもしも次に上弦と出会うことがあれば、優先するのは毒を打ち込むことではなく、首を落とすことだと、はっきりと告げられている。

 

『楓、貴方は私とは違い、鬼の首を落とすのに必要な筋力が十分にあります。上弦の鬼と再び貴方が相対したならば、その時は首を狙いなさい』

 

『え、ですが、……毒を打ち込むことができれば鬼は……』

 

 毒さえ与えられれば鬼は死ぬのだ。そうであれば首を落とすより、これまで通り突きで鬼に毒を与えた方が無難なのではないだろうか。

 

 もしも仮に上弦の壱と再び相対したとして、あの鬼の首を狙うよりは、一突きでも身体に与えることを優先したほうがはるかに現実味がある。

 

 なぜあえて優位にたてる選択肢を捨てて首を狙う必要があるのか、楓の内心は疑問で溢れ、思わず首を傾げる。

 

『毒を打ち込めば鬼は死ぬ。ええ、貴方の言う通り、これまで、確かに私の作った毒は鬼を殺すことが出来ました。ですがそれには上弦以下の鬼は、という注釈がつくことを忘れてはいけません』

 

『それは……』

 

 しのぶの作り出した毒は、数字を持たない鬼ならば瞬きの内に絶命するし、下弦の鬼であったとしても、数秒で活動を停止させられる。

 

 だがそれはあくまでも、下弦の鬼までなのだ。

 

 上弦の鬼に対して、しのぶの作り上げた毒が果たして通用するのか否かは、未だ実証されていない未知のもの。

 

『上弦の鬼に対して私の作った毒が通ずるのかどうかは不明です。他に鬼殺の手段がないのならともかく、貴方は首を落とせる。なら、不明瞭な技術に頼るのではなく、確実に鬼を殺せると立証されている手を打つべきです』

 

 しのぶにとって、自身の作り上げた毒こそが、首を斬れない己が鬼殺を叶える唯一の手段。それを自らの手で否定するような言葉を吐くのはどれほどの苦しみだったのだろうか。

 

 あの時、悔しそうにそう語った師の姿を楓は忘れられない。

 

 

 

(毒自体は効果がある。でも、やけに効果が薄い)

 

 今、目の前にいるのは上弦の鬼。嘗ての夜とは違う鬼ではあるが、それでも括りは同じ。その上弦の陸には今間違いなく毒の成果が出ている。だが、その効果は僅かに皮膚を爛れさす程度のもので、その動きにさしたる影響はなさそうだ。

 

 先の一撃がいくら一突きしか出来ていなかったのだとしても、楓の経験則からすればあまりにも効果が薄い。

 

(しのぶ様にいい報告がしたかったけど、今は実験をしてる余裕はないかな)

 

 自らの師に、貴方の毒は上弦も殺せると、貴方の作った毒は凄いのだと、そう言いたかったが、周りの隊士達の状況からして、悠長に毒の成果を確かめている暇はない。

 

 

 ならば今は師や小牧の言う通り、自分は首を狙うべきだろう。

 

 

(今が使い時かもしれない……)

 

 

 上弦の壱との戦いの後、死にもの狂いで鍛錬をこなし、自らの望む理想を実現する為に積み上げたそれを、今こそ使うべきだ。

 

 

「小牧さん、あの鬼までの道をお願いします。一気に詰めます」

 

「ふむ、何やら秘策があるようだね。安心したまえ、君の通る道に障害は一切現れない。存分にやってきたまえ」

 

 尊大な物言いだが、小牧のその姿は自信に満ち溢れていて実に頼もしい。

 

 

「とっとと死になさいよっ!」

 

 

——— 血鬼術 八重帯斬り ———

 

 

 複数の帯が楓と小牧に向かって飛んでいく。

 幾重にも交叉したその帯の群れに人の逃げいる隙間はない。

 

 そのままであれば。

 

 

「明久!」

 

「はい!」

 

 

——— 炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり ———

 

 

 右を小牧が、左を桂木が、それぞれが放った全く同一のその技は、迫り来る左右に交叉した帯の群れを次々と弾いていく。

 

 やがて向かいくるすべての帯が弾かれた時、堕姫と楓の間に直線状の空間が出来上がる。

 

「なっ!?」

 

 驚愕に、堕姫の瞳が見開かれる。

 

 

 

——— (にじ)の呼吸 竜神の舞 八風(はっぷう) ———

 

 

 瞬間、楓の姿が堕姫の視界からかき消える。

 

 どこに行ったと、視線を周囲に巡らせようとした時、堕姫の顔にふんわりとした風が当たりそれと、殆ど同時に前へと突き出していた腕に強烈な痛みが奔る。

 

「っ!?」

 

 肘から先がなかった。

 

 あるべきところにあるべきものがいつのまにか消えている。

 

 堕姫の顔に再び風が吹く。

 なぜ?と、そう思う間すらなく、ガクンと、不意に堕姫の視界が大きく下がる。バランスを崩したかのように地に倒れ込みかけた堕姫は、その視界から己の足がなくなっていることに気づく。

 

 

 手がなくなった。足がなくなった。なら、次はどこだ?

 

 

 首だ。

 

 

 何が起きているのかすら理解できていなかった堕姫は訳がわからないまま、本能的に首を帯に変えてしならせる。

 

 瞬間、頭に奔る強烈な衝撃。伸ばした首を引っ張られるようなその感覚に堕姫はようやく何が起きていたのかを理解した。

 

 首にかかる黄緑の刀。視界からかき消えていた女が首元目掛けて刀を振り抜こうとしている。

 

 

(斬られてたっ!?腕も足もこいつが斬ったのねっ!)

 

 

 仮にも上弦の陸の数字を与えられている堕姫をして認識出来ないほどの速度で振るわれたその斬撃が堕姫の手足を奪い、今首すらも斬り飛ばそうとしている。

 

 堕姫にとっては幸いにも、首をしならせたことで、気付かない間に首がなくなっているとっていう最悪な状況は回避出来た。帯となってしなる首に、少しずつ刃先が斬り込んできているが、生まれたこの一瞬の時間があれば、首を斬られる前に、刀の持ち手を殺せる。

 

「あんたなんかにっ!アタシの首が斬れるわけないでしょうっ!!」

 

 刀を止められ驚愕に目を見開く楓の姿に、堕姫はしてやったと口元を歪めて嗤う。

 

 帯を操り、楓へと勢いよく向けて放つ。

 

 ガシッ

 

「へっ?」

 

 不意にしなる首の先にある頭が何者かに掴まれる。

 

「なるほど、首をこのように変化させることで斬撃に対する耐性を上げているわけか、面白い発想だね」

 

「あっ、あんたはっ!」

 

 自らの自慢の美髪を鷲掴みにする様に掴んだ男の鬼狩り、小牧柊生。

 

「布を切るのには小刀より、挟みが使われることが多い。それはきっとこんな時のためなんだろうね」

 

 黒く、そして不気味な微笑みを浮かべて小牧はしなる首目掛けて刀を振るう。楓の刀身とは反対の方向から斬り込められたそれは、まるで伸びる糸を挟みで切ったかのように何の障害もなくブツリと切断された。

 

 

 




御一読いただきましてありがとうございます!
御意見・御感想等頂けますと幸いでございます。

オリジナル呼吸、虹の呼吸でした。
何の派生かはまた次回をお楽しみください。
ちゃっかり炎の呼吸の参の型もオリジナルです。


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血の惨劇 下

今回は長めです。



 

 

 

 周囲を炎に包まれた血塗れの闘技場は、今、唖然とした空気に包まれていた。

 

 百年、人が普通生きる時の2倍にも及ぶその時間は、あまりにも長く、そして重い。それは千年の時を鬼と戦い続けてきた鬼殺隊も同じ。

 

 この長く重い時の中で、多くの鬼殺の剣士は、上弦の鬼には勝てないのではないか、そんな疑念すら抱いていた。

 

 

 だが、今日、目の前の光景に、その疑念は払拭された。

 

 

「……やった……のか?」

 

「ああ!勝ったぞ、上弦の鬼に勝ったんだ!」

 

「俺生きてるよなっ!?死んでないよなっ!?」

 

「夢みたいだ!上弦に勝てるなんて!」

 

 

 やがて、沈黙に包まれたその空間に、歓喜の声が湧き上がる。

 

 百年の絶望は、今日希望に変わった。

 

 人は勝てるのだ。

 

 上弦にも、人間は勝てる。

 

 ならばきっと、鬼無辻にも、人は勝てる。

 

 歓声の声は鳴り止まない。この喜びを、その場にいた誰もが噛み締めていた。

 

 

「ありがとうございました。小牧さん」

 

 歓声の中心に立つ楓は、いままさに英雄ともいえる所業を為し得た男に頭を下げる。

 

「礼をする必要はないだろう。君の最後の一撃がなければあれほど容易く首を斬ることは出来なかったのだから」

 

 この場の立役者でありながら、律儀に頭を下げてくる(かえで)の姿に、小牧は苦笑する。

 

「いえ、完全に首を斬れたと油断していましたから、小牧さんがいなければかなりの傷を負っていたと思います」

 

 悔しそうに唇を噛んで俯く楓の姿に、小牧は困ったように微笑む。

 

「あれは仕方あるまい。あのような首の守り方があるとは私も全くの想定外だった。あのような珍妙な仕掛けさえなければ、あの一撃は間違いなく首を刎ねていた筈だよ。私にも君の動きは殆ど見えなかったからね」

 

 先の楓の技のあまりの速さに、小牧は実のところかなり驚嘆していた。昼間の鍛錬の時にはみなかった技、それどころか、長い間鬼狩りを続ける小牧ですら全く聞いたことのない呼吸。

 

「あれは私にできる最速の動きなんです。本当は8回の斬撃を多方向から相手に当てる技なんですけど、まだ未完成ですし、速過ぎて自分でもうまく制御できないのが難点でして……」

 

「なるほど、だから最初の一撃で首ではなく腕を斬ったのか」

 

 最初の一撃で腕ではなく首に刀を振るっていれば、鬼が首に細工を施す余裕はなかった筈だ。なぜ一撃目で首を斬らなかったのかは疑問だったが、制御出来ないというのならばある意味では納得だ。

 

「となると、やはりあれは君の独自の呼吸か。技の名残に風の呼吸を感じたのだけど、それも自分で?」

 

 未完成という言葉からして、あの虹の呼吸という呼吸は、楓が作り出した、全くの新しい呼吸ということになる。

 

「え、よく分かりましたね。あの呼吸は蟲の呼吸と風の呼吸を参考に、私なりに合わせたものなんですけど……一度見ただけでわかるなんて流石は小牧さんですね」

 

「いや、ここは寧ろ君を流石と言うべきところだろう。新たな呼吸を生み出すなど、全くもって恐れ入る」

 

 呼吸を新たに作り出すというのは一つの快挙だ。本来呼吸というのはそう簡単に編み出せるものではない。最近では、蟲の呼吸や恋の呼吸という呼吸が生まれていたが、あれにしてもおよそ100年ぶりに生まれた新しい呼吸とあって隊内ではお祭り騒ぎだったのだ。まあ、毒という特異性と、求められる筋力と柔軟性から、使える剣士がほんとんどいないので、どちらも隊内に広がることはなかったのだが。

 

「新しいと言っても、私は元々風の呼吸の使い手ですし、今の蟲の呼吸と混ぜ合わせただけで、他の呼吸のように洗練されたものでは全然ないんですけど」

 

 恐縮したように、楓は言葉尻を縮ませながらそうぼやくが、それを受けた小牧は彼女の常識知らずに思わず頬を痙攣らせる。

 

 彼女はなんでもないことのように呼吸を混ぜ合わせると言ったが、そもそもそんなに簡単に違う呼吸同士を組み合わせること出来きるのであれば、呼吸はもっと多種類存在しているし、洗練というのは長い時をかけて行うべきものであり、蟲や恋のように本来は一世代でできるものではない。新たな呼吸の基礎を生み出しただけでも十分以上の偉業なのだが、彼女にとっては及第点以下らしい。

 

「……才在る者が常識外れと言われる理由を、私は垣間見た気がしたよ」

 

 慄き半分、呆れ半分といった具合で小牧が楓を見据えていると、不意に甲高い怒鳴り声が響く。

 

「ちょっと!いつまでアタシの頭を掴んでるのよ!離しなさいよっ!」

 

「うわっ!びっくりしたー」

 

 あまりにも近くから響いたその声量に、楓は思わず飛び上がる。声の聞こえた方に目を向ければ、小牧の手ががっしりと掴む鬼の頭部が、目を見開いて怒っている。

 

「まだ喋れるのかい、大人しく成仏したらどうかな」

 

「成仏なんてするわけないでしょう!?アタシはまだ負けてないんだから!」

 

「この後に及んでまだそんな減らず口をいうのかい。それに女性がそんなに大口を開けて、喚くものではない」

 

「うるさいっ!なんであんたにそんなこと言われなきゃいけないのよ!?」

 

 鬼の頭部を掴んで、説教を垂れる小牧の姿も、首をから上だけになってもまだ声を張る鬼の姿も、はっきり言ってかなり奇抜だ。

 

「全く、君は見た目は美人だが、中身は随分と醜いね」

 

「なんですって!アタシが醜いわけないでしょう!?」

 

「いや、君は醜いよ。どれだけ綺麗な衣服を着込んでも、どれだけ上手に化粧を施しても、綺麗な簪をつけ着飾ろうとも、君のその醜い心の内を覆い隠すことは出来ない。本当の意味で美しいというのは見た目ではないんだよ、お嬢さん」

 

「うるさいっ、うるさいっ、アタシ醜くなんてないんだからっ!綺麗だってみんな褒めるんだからっ!」

 

 わーんと遂に涙まで流して喚き出した鬼の姿に、楓は驚きに目を見開く、見た目は明らかに大人の女性だが、この鬼の中身は幼い子供とさして大差がない。

 

(あれ?この鬼?……どうして体が崩れないの?)

 

 ふと、楓の脳裏に浮かんだその疑問。

 

 この鬼の首を斬ってから、どれだけの時間が過ぎた?

 

 正確な時間は計っていないが、これだけ会話をして微塵も崩れる様子がないのはいくらなんでもおかしくはないか?

 

 急速に広がるその不気味な予感に、楓は思わず叫ぶ。

 

「小牧さんっ!!」

 

「虐められた!醜いって嗤われた!お兄ちゃああん!」

 

 それと全く同時に響く甲高い呼び声。

 その声にまさしく答えるように、不意にそれは響いた。

 

 

「うぅうううん」

 

 

 唸るような低いその声に、ばっと楓は声のする方へと勢いよく顔を向ける。

 

 

「っ!?」

 

 

 目に入るその光景を理解することができたものが、果たしてどれだけいただろうか。

 

 首を斬り倒された鬼の胴体から、生えるように姿を見せた新たな異形に、誰もが息を呑み、時が止まったかのように固まった。

 

 あまりにも非現実的なその光景は、歴戦の剣士であった小牧すらもその場に留める。驚愕に目を見開き、呼吸をすることすら忘れてその場に佇む小牧に、唯一動くことをやめなかった楓が叫ぶ。

 

 

「小牧さんっ!?」

 

「っ!……がっ!?」

 

 

 だが、それも一歩遅かった。

 

 楓の呼び声に、反射的に動こうとした小牧の身体に走る衝撃。強く押されたようなその衝撃に、小牧の瞳はその発生源を辿る。

 

 

————— ない

 

 

 その視界に、本来あるべきはずの腕がない。

 鬼の頭部を掴んでいた小牧の左腕は、肘から先が綺麗になくなっている。

 

「ぐっ!……」

 

 それを認識した途端、途方もない熱の塊と凄まじい激痛が、小牧に与えられる。

 

 

「なっ!?すぐに止血をっ!」

 

 

 血相を変えて駆け寄ってくる楓を、残った片腕で制して、小牧は痛みに霞む視界で自らの腕の行き場を見据える。

 

 

「ひっぐっ、ひぐっ」

 

「泣くな泣くなぁ、泣くより先に首をくっつけなきゃあなあぁ」

 

「お兄ちゃん、あいつらがアタシを醜いって虐めるのよ!」

 

「あぁ、そりゃあお前を妬んでんだ。こんな可愛い顔が醜いわけねぇのになあぁ」

 

「それだけじゃないの!アタシがあの方の命令を頑張って1人でやってたのに、こいつらがよってたかってみんなで虐めてきたのよぉ!!」

 

「そうだなあ、そうだなあ、そりゃあ許せねぇなあぁ。俺の可愛い妹が足りない頭を一生懸命使ってやってるのを虐めるような奴は皆殺しだ」

 

 

 そう言って振り返った新たな異形の瞳に見据えらた楓は、ゾクリと、背筋に強烈な怖気がはしる。

 

 

(上弦の、陸……)

 

 

 どうして?と、楓の心に浮かび上がる疑問の数々。

 

 上弦の陸は今首を斬ったはずだ。

 

 

 なのに、どうして再びその数字を持った鬼が目の前にいる?

 

 

 どうして首を斬ったはずの鬼が再び首をくっつけて喋っているのだ?

 

 

 鬼は首を斬れば死ぬのではないのか?

 

 

 あまりにも自分の知る常識とはかけ離れたその光景を、楓の脳は一瞬理解することを拒絶しそうになる。

 

 

「総員!!直ちに撤退っ!!山を下りなさいっ」

 

 

 突如、静寂に包まれたその空間に響く怒号にも思えるその命令が、現実から目を逸らしそうになっていた楓の体をびくりと震わす。

 

 

「あぁ?」

 

「生きて次の機会を待てっ!!」

 

 

 腕を斬り落とされ、およそ強烈な激痛に襲われているはずの小牧が放ったその声に、止まっていた空間は動き始める。

 

 ばっと、一斉に四方に散るように駆け出す隊士達。

 

 一糸乱れぬその動きの速さに、楓も上弦の鬼も目を見開く。

 

 これは堕姫と戦い始める前に、事前に小牧が隊士達へと告げていた言葉。もしも勝てないと、はっきりした時は、小牧が時間を稼いでいる間に離脱せよ。そうした取り決めを経て、彼らはこの場に立っていた。

 

「楓君、君も行きなさい」

 

「な、何を言ってっ!」

 

「聞きなさい、あの鬼の強さは先程の鬼の比ではない。今は生きのびて機を待つべきだ」

 

 小牧の正論に、楓は声を詰まらせる。理性では小牧の言うことを理解している。どう考えても小牧の言う通りにした方がいい、あばらが見えそうなほど細い身体つきをしているあの鬼の強さは、帯を操る鬼より数段は上だ。

 

 見ただけで、今の自分では勝てないとはっきりとわかる。怖気を感じるほど濃密な気配。その瞳に込められた殺気の強さ。先程の鬼より、余程上弦の壱に近いものを感じる。

 

 

「なあぁ、お前ら一つ勘違いしてるぞぉ」

 

 

 にんまりとした不気味な微笑みを浮かべて、三日月鎌のような武器を持った鬼が口を開く。

 

 

「ひひひっ、お前らがみっともなくしっぽ巻いて逃げだしたところで、死ぬことに変わりはないんだよなあぁ。なにしろこの山の周りは大量の鬼で囲んでるからなあぁ」

 

「そうよ!あんた達に逃げ場なんてないんだからっ!あんた達の鴉は皆殺しにしたし、助けだってこないわ!そいつも止血なんてしたってどうせ死ぬわよ!お兄ちゃんの鎌には毒があるんだもの!」

 

 

(毒っ!?)

 

 ばっと、楓は咄嗟に小牧の顔色を伺う。

 

 

「はぁはぁ、成る程、山を囲み、連絡手段を絶ったか、随分と念入りなことだ」

 

 

 苦笑するように口を開いた小牧の額には、尋常ではない量の冷や汗が浮かび、呼吸は常よりもかなり荒い。

 

 腕を斬り落とされ、出血していることが原因かと思っていたが、まさか毒まで与えられていたとは、これでは更に生存への道が遠のいてしまう。

 

 

「そういうことだからなあぁ、お前らはここで、」

 

 

 

 ギギィィッ!!

 

 

 

 突如、鬼の言葉を遮るように響く異音。

 なんの前触れもなく、庭先に生えた巨木が、上弦の陸へと倒れていく。

 

 炎に焼かれ、その自重を抑えきれなくなったのだろう。全身を炎に包んだその巨体が、猛烈な速度で迫ってくる様子に、上弦の陸は僅かに瞠目し、大きく後ろへと跳躍する。

 

 直後、先程まで自らが立っていたその場所に、強烈な轟音をたてて巨木が地面へと激突し、周囲を煙幕のように煙が覆う。

 

 

「ああぁあ、逃げても意味なんかねぇのになあぁ」

 

 

 煙が晴れたその場所に、楓も小牧の姿もどこにもない。

 

 天命を受けたかのようなその奇跡に、2人はこの場から離脱していた。

 

 

「ちょっとお兄ちゃん!なんで逃しちゃうのよ!」

 

「どうせ逃げられねぇんだからかわらねぇさ。それよりお前は屋敷に向かえ、俺は逃げた奴らを皆殺しにするからよぉ」

 

 

 屋敷に燃え移る炎を消そうとでもしているのか、まだチラチラと人の気配が屋敷にはある。

 

 堕姫と妓夫太郎(ぎゅうたろう)が受けた命令は、この山にいる人間を皆殺しにすること。鬼狩り以外の人間も無論その対象に入る。

 

 

「はいはい、行くわよ。お兄ちゃんあいつら絶対に殺してよね!」

 

「当たり前のことを言うなよなぁ、お前は本当に頭が足りねぇなあぁ」

 

 

 その様子に、これから行う行為に対する忌避感など全くない。2人は揚々と別れ、いつものようにその手を血で染め上げる。

 

 

 

 今宵謳われる血の悲劇は、未だ終わる様子を見せなかった。

 

 

 

 

 

—————

 

 

 

 

 突如として地獄の底に変化してしまった中庭からなんとか離脱した楓は、負傷した小牧に肩を貸して、屋敷の外に出ようと足を動かしていた。

 

 周囲に視線を走らせれば、混乱による影響か、屋敷のあちこちから火の手が上がり始めている。

 

 山本達は無事だろうか、と楓は心配するが、すぐに大丈夫だと自分に言い聞かせるように呟く。

 

 今はそれよりも、隣にいる小牧の方が問題だ。片腕を斬り飛ばされているのだ。既に出血量はかなりの物。呼吸で筋肉を締め付けて、なんとか止血を試みているようだが、先ほどからその呼吸もかなり荒い。鬼の言っていた毒が回っているのだろうか、どちらにせよ、このままでは命が危うい。

 

 進む足取りもかなり重く、なんとか自分で足を動かしているが、その速度は極めて鈍重だ。

 

 このままでは上弦の鬼に、あの鎌の鬼に追い付かれてしまう。追い詰められている緊張からか、あるいは火事によって周囲の温度が上がっているせいか、額から汗を流しながら、楓は懸命に思考を巡らせる。

 

 

「楓君、……もう、いい……私は置いて行きなさい」

 

「何言ってるんですかっ。そんなことできるわけないじゃないですかっ!?」

 

 力なく耳元でボソボソと声を出す小牧に、楓は声を大にして一蹴する。

 

 死にかけの仲間を、もう無理だと諦めて放り出すなんてことが、人としてできるはずがない。

 

 

「……私の体は山を降りるまで、もたない……鬼の毒は思った以上に強力だ……死に体の私を連れいくのは……無意味…ならばここで……私がやるべきことは、時間稼ぎだ」

 

 

「まだ助かるかもしれないじゃないですかっ!?」

 

 

 小牧の持ちかけてきた提案、それはあまりにも諦観に満ちた内容だった。確かに彼の傷は決して軽くはない。その上で上弦の鬼の毒をくらっているのだ。助かると断言することなど当然できようもない。

 

 この場ですぐに解毒できればいいのだが、材料も道具もない。まして毒の種類すらも分からない。師であるしのぶならなんとかできるかも知れないが、彼女はこの場にはいない。鴉を飛ばそうにも、山を囲む鬼や、あの帯女が飛ぶ鳥を全ておとしてしまっている。そもそもしのぶがくるまでに小牧が持つとも思えない。

 

 

 救援も呼べず、撤退すら困難。あまりにも絶望的な状況だ。

 

 

 だが、それでもまだ、今はまだ、小牧は生きているのだ。なら、楓が最後まで諦めたくないと思うのも無理からぬこと。

 

 

「聞きなさい……楓君……あの鬼のいう通りなら…この山の周囲は鬼に囲まれていることになる。…山を囲む鬼に私達を足止めさせ…上弦の鬼が山中の隊士を狩る…これは……そういう策だ。……怪我を負う私を背負っていては…上弦の鬼からは……逃れられない」

 

「それはっ………」

 

 諦めたくはない。だが、小牧の言う言葉は誰が聞いても正しいと思うもの。否定する要素を咄嗟にあげることができない時点で、この論争において楓が小牧を納得させることは不可能。楓自身、感情的になって声を荒げたところで、理性は小牧の判断が正しいとそう思ってしまっているのだから。

 

 

「鴉という情報伝達手段を……潰された以上、ここで起きたことを、誰かが報告する必要がある……時間さえあれば……君の実力なら、山を囲む鬼を突破し、上弦の鬼から……逃れられるはずだ」

 

 

 今回鬼が取った策、これは鬼殺隊がこれまで経験したことのない手法だった。鬼という生き物は群れて行動しない。時に共喰いすら行う彼等は、集団で統率された動きという行動をこれまで行ってこなかった。

 

 唯一の例外が、鬼無辻率いる十二鬼月だったが、それすらも今回のような統制の取れた動きをすることはなかった。策など弄さずとも、鬼は人間より強い。故に彼等は、単独で方をつけようと動くきらいがあった。これまではその慢心とも言える鬼の油断をついて、人間は鬼を葬ってきたのだ。

 

 しかし、今回鬼が取った行動にそのような慢心は存在しない。鬼により周囲の集落の被害を一時的に増やし、この山に隊士を集め、適度に集まったところで壁のように山を鬼が包囲、中にいる者を閉じ込め、救援を呼ぶ為の伝達手段を破壊して、上弦という並の隊士では決して歯が立たない戦力でもって、確実に内部に残る人間を殺しにきている。

 

 

 これは鬼がとった、明らかな殲滅戦だ。

 

 

 鬼がこのような手法をとった。これは必ず鬼殺隊に伝えなければならない。そうでなければ、今後再び鬼が同じような手法をとれば、鬼殺隊は更なる大損害を被ることになる。なによりも、首を斬っても死なない鬼がいるという情報は何としてでも伝えておかなければ、柱とてやられかねない。

 

 

「私が時間を稼ぎますっ!!そうすれば他の隊士達がきっとっ」

 

「……それは確実性が低い…上弦の鬼は二体いる……山を囲む鬼の実力も不明だ……君と私で時間を稼いでも…他の隊士が逃げきれる可能性は低い……何より、私はそう長くは上弦を留められない。君が一体を止めている間に、私が突破されれば意味がない……これは……時間との勝負だ…君よりも速いものは…この山にはいない。……適任者は君だ」

 

 山に残る隊士の内、逃れることが出来た者が幾人いたのかは不明だが、少なくとも楓よりも速く走れる隊士は存在しない。この状況から離脱するには山を囲む鬼を突破しなければならない。上弦の鬼の言いようからして、山を囲む鬼自体は数を揃えただけの雑魚だ。楓や小牧の行く手を阻めるような者達ではない筈。だからこそ、上弦の鬼も小牧と楓を優先して狙ってきている。

 

 だがそれは逆に言えば、他の隊士達であればどうとでもなるという、鬼側の意思表示でもある。

 

 もしも離脱の可能性が残されているとすれば、山本と清水、あの二人だが、それでも楓と比較すれば可能性は低い。

 

 最善手は、最も強く、最も速く、最も生き残れそうな者を離脱させること。

 

 

 

 今、それに相当する人物はこの山の中には一人しかいない。

 

 

 

「っ…………」

 

 嘗て覚えのないほどの激烈な葛藤に、楓は見舞われていた。言われていることは理解している。誰かが伝えなければならない、重要なことだ。これ以上の犠牲を生まない為にも、為さねばならないことだ。

 

 ただ、理解はしても、納得出来ないこともある。

 大事の為にこの山にいる仲間の命を見捨てろ、自分のことは捨てていけ、小牧の言うことは乃ちそう言う意味でもある。

 

 

「こらこら、女性がそんな顔をするものじゃない……これも……いつか訪れる夢の日の為だ……」

 

 

 目を目一杯見開き、唇を噛みしめ、この世の理不尽を呪うような怒りに満ちた形相をした楓に、小牧は苦笑して、楓の頭にポンポンと宥めるように優しく手を置く。

 

「楓君、私は妻を、妻と子を鬼に殺されてしまってね。その復讐の為に鬼狩りとなったんだよ」

 

 告げられた残酷な過去に、楓はパッと右側にある小牧の顔に見やる。

 彼が結婚していることは知っていた。子供がいると言うのは知らなかったが、結婚している以上子をもうけていても別に不思議なことではない。

 

 ただ、楓の脳裏に引っかかることがあるとすれば、それは以前、彼が言っていた言葉にある。

 

 

『こう見えても私は愛妻家でね、妻以外には興味がないんだ』

 

 

(奥さんは……もう亡くなってた……15年も前に……)

 

 自分のことを愛妻家と自ら表現するほど、彼は妻を愛していて、幸せな家庭を持っているのだろうと、楓はそう思っていた。あの時はとんでもない幸せ自慢だと、そう思った。だが、それは、とんでもない勘違いだった。

 

 小牧は一体どんな気持ちで、あの時、愛妻家とそう言ったのだろうか。

 

 15年もの間、鬼に殺された妻をずっと想い続けていた彼は、成る程、まさしく愛妻家だろう。ただ、それはなんとも悲しくて、切なくて、不意に楓の双眸から涙が溢れる。

 

「私は妻を愛している……生まれてくるはずだった子も、私は愛している…どれほどの時が経とうとも、私の想いは薄れることなく、此処にある……10年以上もこの身を復讐の業火に燃やし刀を振るったよ……」

 

 遥か昔を懐かしむように口を開く小牧の表情から、楓は目を逸せない。

 

 人の心は移ろいやすいもの、15年もの歳月があれば、人は簡単に変わってしまう。どんな感情も時間と共に風化し、いずれは消えてしまう。時が癒すと言う言葉があるが、それは時間が経てば、ある程度人はその壮絶な感情に整理をつけることができるようになるからこそ言われるものであり、同時に人の一時の壮絶な感情が風化することを期待した言葉でもある。

 

 ならば、彼にその言葉は相応しくはなかったのだろう。

 小牧の感情を時間が風化させることはなかった。妻への愛も、鬼への憎しみも、何一つ風化することなく、彼の中にあり続け、そして、彼を苦しめ続けた。

 

 ただ、その想いに何の変化もなかったわけではない。

 

「だが、ある日…妙な鬼に会ってね……若い女の鬼だった」

 

 それは、きっかけとも言える刹那の出会い。

 

 ある日の指令の折に、男の死体を貪り喰っていた鬼を見つけた。周囲に広がる惨たらしい血の跡。その光景が、小牧の脳裏に、あの時、冷たくなった妻の無残な遺体を、『お帰り』と、そう返ってこない絶望を蘇らせる。噴き上がる憎しみの感情、いつものようにその悪辣極まる所業に怒りに打ち震えながら、首を斬ろうと小牧は鬼へと向けて駆け出した。

 

 鬼もまた、刀を抜き放ち近づいてくる小牧に、その強化された感覚で気づいたのだろう、女の鬼は食事の手を止め、ふと顔を上げた。視界に映る鬼の口の周りは、男の血肉で真っ赤に染まっていた。だが、それとは別に、小牧の目を引くものがあった。

 

 それは鬼の涙だ。

 

 女の鬼は男を食べながら泣いていたのだ。血肉で口元を汚し、口角を上げながら、その鬼は泣いていた。既に刀を振りかぶっていた小牧は、その表情を見て一瞬、刀を振るう手が鈍った。僅かな遅れ、だがその隙は、鬼にとって潜在一隅の機会。逃れられると、加速した思考の中で小牧は自らの失態を罵った。

 

 だが、不思議なことに小牧の刀は鬼の首を刎ねていた。

 

 手におよぶその感覚に達成感を感じる間もなく、小牧は呆然と燃えた炭のようにぼろぼろと崩れる鬼を見つめる。あの瞬間、瞳に映った光景があまりにも信じられなくて、二度とはなれることのない程、明確に焼き付けられたその光景を、小牧は忘れることができない。

 

 両腕を目一杯広げて、自らの首を差し出すように前へと出した鬼の姿。女の双眸から流れる涙と、安心したようなあの微笑みが、小牧の脳裏に焼き付いて消えてくれないのだ。

 

 

 その日、小牧は初めて、鬼が元は人間であることを理解した。

 

 

 決して鬼への憎しみが消えた訳ではない。

 

 だが、それ以来、小牧の心中に復讐の対象でしかなかった鬼への、哀れみにも似た感情が生まれてしまった。鬼などいない方がいい、鬼は殺さなければいけない。その事実に何の変わりもありはしないが、或いは鬼の中にも、人の心を持つものがいるのではないか、鬼にされて人を喰らわねばならぬことに、苦しむ者がいるのではないか。

 

 

 そんな疑問を思い浮かべてしまうようになった。

 

 

「鬼とは……哀れな生き物だ…最初から鬼として生まれたのであれば……人を喰らうことに何の苦しみもあるまい……だが、この世の鬼の多くは……元は人間なのだ…私達が殺しているのは……昔人間だった者達なのだ……」

 

 

「…………」

 

 

 それは間違いない事実であり、どうしようもない真理であり、人の犯す罪の一つだった。

 

 

「鬼狩りという正義を行う私の手は、気がつけば血塗れだった……こんな手で、果たして私は妻と子に触れるのかと、優しかった彼女を、美しく純粋だった彼女を、汚してしまうのではないか……そう思った」

 

 無垢なる人々を守る為に、これからも続くであろう誰かの幸せな未来を守る為、人は鬼を殺す。それは何も知らぬ人にとって、さぞかし綺麗で、立派で、まさしく正義の行いのようであろう。

 

 事実、鬼によって喰われてしまうかもしれない人を助けているのだ。その意味で鬼狩りは間違いなく為さねばならないこと。

 

 

 

 だが、一方で、鬼狩りとは、鬼殺とは、そんな綺麗で立派なものではない。

 

 

 

 鬼がいると言うことは、乃ち鬼にされてしまった人がいると言うことであり、鬼を殺すとは、鬼にされてしまった人間を殺すと言うことだからだ。

 

 鬼を単なる害悪として見ているうちはいい。ただ、真実として、鬼が元は人であったということに気付いてしまえば、人を救う為のその行いが、ある種の殺人のようにすら思えてきてしまう。人を救っているはずの両腕がいつのまにか人の血で染まっているように見えてくる。

 

 仕方のないことではある。鬼を殺さなければ人が喰われるのだから。それは為さねばならぬことだ。殺すこと以外に鬼にされた人を止める術はない。ならばそれに気付いたところで、小牧にできることは、結局のところ鬼の首を刎ねること以外にはないのだ。

 

「だから…君の語った夢を、君達の描く夢を……私は願ったのだ……喰われる者も…鬼にされる者もいなくなる……そんな日々がもしも来れば……私はきっと何の気兼ねもなく妻と子といられる……もう一度、彼女に触れられる」

 

 遠く遠く、空の果ての向こうにあるようなその夢に、小牧は目を細めて手を伸ばす。血に塗れ、濡れ輝くこの両手が、乾き、彼女達を汚さなくなる日。再び愛する者達に触れられるその日を、小牧は幸せそうに語る。

 

「君には生きて欲しい……既に多くを背負う君に辛いことを言っているのはわかるが……それでもその夢をどうか未来へと……繋げて欲しい……それが私の想いだ……」

 

「っ……」

 

 

 きつくきつく歯を食い縛って、楓は小牧の言葉に無言で首を縦に振った。双眸から溢れ出る涙は止まらない。

 

 

「ありがとう……さぁ、もうお行き…上弦に追いつかれては元も子もない……」

 

 

 幼子をあやすかのような口調で小牧は微笑む。

 

 そっと押された背中に、涙の軌跡を残して、楓は走りはじめる。

  

 それは、小牧に肩を貸していた時とは比べ物にならない速さ。当然だ、楓の肩にもう小牧はいないのだから。

 

 

 

 ただ、彼女の感じる肩の重み、その感覚だけは消えることはなかった。

 

 

 

「きっと、きっと……この夢はっ…必ずっ……」

 

 

 

 燃え盛る屋敷から徐々に広がる炎は、やがて回廊を飲み込み、小牧の姿と共に消えていく。

 

 

 

 

 

 

 

—————

 

 

 

 

 

 燃え盛る屋敷の回廊、その道の真中に男は立っていた。

 

 

「あぁ?おめぇまだ生きてたのかあぁ?」

 

 屋敷から出てくる人影に、小牧はそっと振り返る。震える足を律し、霞む視界に力を入れ、口から鮮血を流すその有り様は、まさしく満身創痍。いつ死んでもおかしくないようにすら見えるその体で、小牧は刀を構える。

 

「………あぁ、悪いが、まだ…生きているよ」

 

「俺の血鎌には猛毒があるってのにぃ、どういぅことだこりゃぁ?」

 

「……私は……幼い頃から暗殺を警戒していてね……耐毒の訓練をしている…んだよ」

 

 とある要人の子供であった頃、必要とされて教え込まれた辛い日々だったが、存外に役に立つものだ。おかげでこうして己に課せられた役割を果たせるのだから。

 

「なるほどなあ、耐毒かあぁ、でも、お前ももう死にそうだなあぁ」

 

 口から止まらぬ鮮血。ふらつく足元、カタカタと震える刀身。どれも小牧の死期が間近に迫っていることを妓夫太郎に察せさせるのには、十分過ぎる情報だった。

 

「…………」

 

「ひひひっ、可哀想になあぁ、仲間に見捨てられてぇ、燃える屋敷で死ぬのかぁ。この火じゃぁ死体ものこらねぇなあぁ、こえぇよなぁ?」

 

 嘲笑うかのようなその声色、炎を背景に猫背の姿勢で鎌を持つ妓夫太郎の姿は、さながら地獄の案内人のようですらある。

 

 

「……私の死体など……どうとでもなればいいさ」

 

 

 ふっと小牧は苦笑する。

 

 死体などどうせ燃やすのだ。死ねばこの身はどうせ灰になる。むしろ火葬の手間が省けて丁度良いほどだ。

 

 

「真なる恐怖とは死ではない……私が恐れるものは……忘却だ……だが…それも今は……なんの心配もない……故に、私はここにいることに……なんの恐怖もない……」

 

「あぁ?」

 

 人が真に恐れるものが何なのか、それは人によって違うかもしれない。そこを断定することは小牧には出来ない。だが、少なくとも小牧が最も恐れるものは、この想いが、この記憶が、命すら賭した夢が、忘れられてしまうことだ。人は忘却する生き物、どれほどの大事であろうとも、時が経ち、世代がうつれば、事実は薄れ、やがて消えていく。そこに伝える意思がなければ。

 

「……人は鬼ほど強くもなければ、不老でもない。人は皆…死ぬのだ……その死や生き様に…差はあれど……死は必ず訪れる……だが、それでも語り継がれる限り、私達は不滅だ……」

 

 だが、意思さえあれば、大事は語り継がれ、未来に生きる者達へと届く。この鬼殺隊が千年の時を経て尚存在しているように、彼女と語らった夢もまた同等に続いていくのだ。

 

「今にも死にそうな人間が不滅だあぁ?ひひひっ、気でも狂っちまったかあぁ?」

 

「哀れな鬼よ……遥か歳月の果てか、或いは近い将来に……君も、いや君達もいずれ知ることになる……人のしぶとさをね」

 

 人は脆い生き物だ。些細なことで体は壊れ、心は簡単に移ろい行く。果てすら見えぬ夢の前ではあまりにも人間という存在は矮小に過ぎる。だがそれでもいずれは届く。底知れぬ人の強かさをかの鬼に届ける者達が、いずれ必ずやってくる。

 

 自信を持って、小牧はその口元に笑みを浮かべる。

 

「……気にくわねぇなあぁお前、もうすぐ死ぬってのに瞳をギラギラと笑いやがってぇ、嫌いな奴だぜ」

 

 ボリボリと頬を引っ掻きながら妓夫太郎はつまらなさそうに目を細める。

 

「奇遇だね。……私も君のことは……あまり好きではない」

 

 その言葉を最後に、両者の間は無言の空間となる。

 

 轟々と激しく燃える屋敷を背景に不意に炎の中で二つの影が重なり、やがて崩れ落ちる回廊に見えなくなっていった。

 

 

 

 

 地獄の業火の果て、長き時を駆けたその魂は、今宵ようやく眠りについた。

 

 

 

 

 『お帰りなさい、(しゅう)

 

 

 『あぁ、ただいま、燈華(とうか)

 

 

 

 

 長い長い眠りの先で、剣士はそっとそう呟いたそうだ。

 

 

 

 

 

 




御一読いただきましてありがとうございます。
御意見・御感想等頂けますと幸いでございます。

書いてて思いますけど音柱が強過ぎるんですよ。
小牧というオリキャラは如何でしたでしょうか?
楓と小牧なシーンはNARUTOの『ずっと見てた』というBGMを聴きながら書いたのでもし気が向かれたら方はそちらを聞きながら読んで頂ければ割と合うと思います。


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撤退戦

 

 

 

 走る。

 

 

 走る。

 

 

 屋敷を飛び出して、楓は山の中を走り続ける。

 

 本来ならば月の光のみを灯火とする深い森の中で、轟々と燃え盛る屋敷が、皮肉にも辺りを明るく照らし上げている。乱雑に生えた樹木を普段以上にはっきりと認識できるせいか、いつも以上に速く走れる。

 

 だが、それを喜ぶ感情を持つことなど、今の楓にはできない。

 

 走る彼女の後ろに水の道ができるかのように、彼女の瞳からは止めどなく水滴が溢れていく。

 

 

(何度っ、何度繰り返せばっ!)

 

 

 楓の心中に湧き上がるこの世の不条理への怒り。夢を託され、想いを託され、前へと進み、次へと繋げる。

 

 

 聞こえはいい。

 

 

 託される過程で喪った命さえ考えなければ、なんとも耳障りの良い言葉ではないか。

 

 

 だがその行いが、楓はなによりも憎く、度し難い。

 

 

 小牧はいい人だった。妻を愛し、子供を愛し、善悪を知り、人の業を知り、それでも尚歩を止めなかった彼は、きっと素晴らしい父親になれた筈だ。

 

 

 何故彼のような人が死なねばならない?

 

 

 何故彼の最愛のものは何一つとして守られなかった?

 

 

 これまで多くの人を助けてきた彼を、どうして誰も救えないのだ!!

 

 

 楓の心中に湧き上がるのは、この結果を受け入れるしかない無力な自分への憎しみにも似た怒りだった。

 

 

 何も変わらない。あの時、信乃逗に生きろとそう言われた時から、自分は何も変われていない。新しい呼吸が出来たからなんだというのだ。結局自分は仲間を置いて逃げることしか出来ていないじゃないか。

 

 自分は再び託された、託されてしまった。そうであるなら、何がなんでも自分は生きて次に繋げなければならない。例え手足がもげようとも、生きてこの山から脱出しなければいけない。

 

 そう決意を胸に、楓が一層足に力を込めようとした時、正面から近づいてくる人の気配を感知した。

 

 

 パッと顔を上げ、目を凝らせば、暗闇の中から出てきたのは一人の女性の姿。

 

「楓ちゃん!」

 

 声を張り、そう近づいてきたのは清水だった。山本と共に、山を下る隊士を止めて来て欲しいと楓がそう頼んだのだが、楓を心配したのか、再び山を昇ってきてしまったようだ。慣れ親しんだその姿に、楓の心を締め付ける決意の縄が、不意に緩んでしまう。

 

 

「良かったっ……無事だったの、ね……」

 

 互いの表情がはっきりと見える位置まで近づいたところで、清水は楓の瞳から零れ落ち続けるその雫を見て、思わず言葉を失う。

 

「ハルさん……私、また……託されちゃいました」

 

「っ!!」

 

 涙を流しながら、苦しそうに、困ったように微笑む楓の姿に、清水はきつく唇を噛み締めて、楓を抱き締める。

 

 楓は一瞬驚きに目を見開くが、やがて伝わる体の暖かさに、溺れるように清水の肩に顔を埋める。

 

「貴方が無事でよかった」

 

 万感の想いが込められたその言葉に、楓は嗚咽すらあげてしまう。

 

 

「清水っ!……と、高野ちゃんか!」

 

 不意に、2人を呼ぶ声が森の中に響く。

 

 そっと楓が顔をあげれば、清水のきた方角から走り寄ってくる小柄な人影。

 

「山本、大きな声を出さないでよ!鬼に見つかっちゃうでしょう!」

 

「喧しいわ!お前が上弦の鬼に喧嘩売る勢いで高野ちゃん探して突っ走ってくから、慌てて追いかけたんだろうが!」

 

「当たり前でしょう!よりによって楓ちゃんを上弦の鬼の前に残して逃げ出してくるなんてあの男共っ!許せないわっ!」

 

 この非常時において、普段と何も変わる様子のない2人のやりとりに、楓は一瞬、安心感のようなものを覚えてしまう。

 

「あの、どうしてお2人が上弦の鬼のことを?」

 

 落ち着いてきた影響か、楓の頭にふとそんな疑問が浮かぶ。

 

 この2人には、山を下る隊士を止めるようにお願いしていたはずだが、その時点では屋敷を襲撃している鬼が上弦の鬼だとは分かっていなかったはずだ。なら、どうしてこの2人が襲撃者の詳細を知っているのか。

 

「あぁ、高野ちゃんと上弦の鬼と戦ってたって奴らとさっき会ってな、状況はその連中から大体聞いた。おかげで今が最悪な状況なのは理解してる。それでだ、高野ちゃん、今、上弦の鬼はどうなった?」

 

 いつになく真剣味を帯びた表情で山本が問い掛けてくる。

 

「今は、多分、小牧さんがっ……足止めを……」

 

 その問いに情報を伝達をしようと、楓は声を出そうとするが、先の情景のあまりの悔しさを思い出して、一瞬言葉を詰まらせる。

 

「小牧さんがっ、時間を稼ぐのでっ、その間に撤退をとっ……鬼殺隊に報告をするために私に生き残れって……そう、言って」

 

 声を出し、言葉を重ねるほどに楓の視界は再び涙で歪んでいく。

 

「……そうか……あの人が……なら、余計に急がなきゃいけねぇな」

 

 楓から伝えられた深刻な情報に、山本は覚悟を決めたかのような表情で呟いた。

 

「山本、まさかあんた本気でやる気なの?」

 

 信じられないと言った様子で清水は山本に問い掛ける。

 

「もう時間がねぇ。こうして高野ちゃんの足を止めている時間が、小牧の時間稼ぎを無為にしちまってるんだ。一刻も早く行動を起こす必要がある」

 

「でも、いくらなんでも……」

 

「清水、言い争ってる時間はねぇって言ったろ。他に方法がない以上、今思いつく最善の手を打つしかないんだ」

 

 

 言い争うように言葉を紡ぐ二人の様子に、楓は全くついていけず、置いていかれた子供のように気まずそうな表情で、二人の顔を交互に見やる。

 

「あの、二人とも一体何の話を、早くこの山から脱出しないと」

 

 こうして止まって話をしている間にも、小牧の稼いだ時間が消えていくのだ。彼の覚悟と想いを無為にしたくないのであれば、一刻も早く山をくだらなければいけない。

 

 

「……その件なんだが高野ちゃん、落ち着いて聞いてくれ。今のままでこの山から、上弦の鬼から逃げるのはまず無理だ」

 

「っ!……どういうことですか?」

 

 山本の言葉に、思わず何を弱気なことをと、そう反論しそうになりながらも、彼の戦う意志の衰えないその瞳を見て、楓は山本の真意を問う。

 

「俺達はさっきこの山の外周を見てきた、何処か突破しやすい場所はないかと思ってな。残念ながらそんな場所はなかった……信じられないくらい大量の鬼がこの山を囲ってやがる。しかもその中に下弦の鬼がいた」

 

「なっ!?」

 

 この山に来ていた十二鬼月は、上弦だけではなかったのかと、楓は驚愕の声を上げる。上弦に加えて下弦までもが同時に動き、この包囲に参加しているというのなら、いくら楓と言えども突破は容易ではない。

 

 小牧の言っていた念入りという言葉が、これ程しっくりくる状況はないだろう。ここまで鬼が徹底して鬼殺隊を潰しに来ているのは、おそらく鬼無辻無惨の指示。宿敵ともいえるあの存在が、これまで、これほど大規模に鬼を動員して鬼殺隊を潰しにきたことはなかった。

 

 これはもはや、史上最大規模の鬼と人間の(いくさ)だ。

 

「俺と清水で一体ずつ、見かけてる。東と西で先に逃げ出した隊士や隠の連中がやられてた、なんとか助けたかったんだが俺達もちょっとヘマをしてな、俺は足をやられた。清水は腕だったか?」

 

「……えぇ、まあね」

 

「……そんな、すぐに手当てをっ!」

 

 見れば確かに、山本の脚部は隊服ごと鋭利なもので斬り裂かれており、左太ももから濃い血が出ている。清水は左腕に包帯が巻いてあるのが確認できるので、応急処置はしたのだろう。

 

 ただ、山本の傷はかなり深い。すぐに応急処置を施そうと、楓は山本に迫るが、山本自身がそれを止める。

 

「時間がないんだ高野ちゃん、今は話を聞いてくれ。……北と南には下弦の鬼は見当たらなかったが、その分鬼の数を多くして対応してやがる。あの数を上弦の鬼に追いつかれるまでに突破するのは、いくら高野ちゃんでも無理だ。負傷した隊士や屋敷の住人も、まずこの山を出られない」

 

「……他の隊士達、屋敷の人達もいらっしゃるのですか?」

 

 思い出したかのように楓はそう呟く。あまりの状況に気が動転していたのだろう。他の隊士達はもちろん、屋敷の一般人だってここにはいる。それを忘れてしまっていた。屋敷の入り口で見かけた少女だって、未だにこの地獄の山にいるのだ。

 

「屋敷の入り口にいた連中は粗方俺達に合流してる。負傷した隊士や隠もすぐ近くに集まってる」

 

 なら、彼等も共にこの山から脱出するべきだ。

 

 山本の言葉に、楓の思考はどうすれば一般人を含めた人の集団を、鬼が囲む山から脱出させられるか、そこに切り替わる。

 

 だがどれだけ考えたところで、現状があまりにも絶望的なことに変わりはない。

 

 今すぐにでも全員で山を下るべきだろうが、負傷した隊士や、一般人を連れての下山ともなると、その速度は鈍重を極める。おそらく鬼の包囲を突破する前に、上弦の鬼に追いつかれてしまう。そして一度でもあの鬼の視界に入れば、楓と言えども逃げきるのは不可能だ。小牧が時間を稼いでいるのは、そうならないように、その事態を避ける為だった。

 

 そもそも一般人や隠を守りながら、鬼の包囲を突破するというのが困難に過ぎる。楓1人であればどうとでもなるが、守る対象が出てくるとなると、速度に任せて一気に突っ切るという選択肢が取れない。

 

 鈍重に動く集団を、多数の鬼の攻撃から全て捌いて守るというのは、現実的ではない。突破を強行すれば、その時点で間違いなく犠牲者が出る。

 

 かと言って、このままここで手を拱いては、小牧が命を賭してまで作りあげてくれた時間が本当に無為になってしまう。

 

 

(どうすればっ)

 

 

 どんな手を打っても、全てを無事に済ませることは不可能だ。犠牲は出ると割り切って、今生き残っている人命を可能な限り離脱させるしかない。そんな逡巡に楓が表情を曇らせていると、意を決したように山本が口を開く。

 

 

「そこでだ……高野ちゃんに頼みがある」

 

 いつになく真剣な表情で山本から語られた頼みに、楓は唖然と声を失ったようにその場に佇んだ。

 

 

 

 悲劇は終わらず、まるで円環のように巡り続ける。

 

 

 

 

 

 

———

 

 

 

 

 

 比較的傾斜のなだらかな山の斜面、木の生え方が少ない開けたその場所に、屋敷からなんとか逃れることのできた隊士や屋敷の住人達が集まっていた。

 

 剣士に加え隠の者達、一般人も合わせれば、集った人員は合わせて30名以上にも上るが、それほどの人が集まっているとは思えないほど、その場は静寂に包まれていた。時折聞こえてくる怪我人の呻きや、今の状況を何も知らない無垢な子供の声以外は、一切響かない。

 

 

 誰もが重く口を閉ざし、一様に表情を暗くしている。

 

 

 それも、今のこの状況を考えれば無理のないことかもしれない。今夜、既に多くの血と命が流れた。普段と何も変わることなく過ぎ去るはずだった夜は、一瞬で地獄へと変わった。

 

 

 山を鬼に包囲され、撤退は困難。鴉と言う情報伝達手段を潰され、救援も望めない。

 

 

 何より、彼らの心を暗雲で覆うのは上弦の鬼の存在。柱ですら勝てるかわからない鬼が、柱よりも実力の大きく劣る自分達を殺しにきている。状況はあまりにも絶望的だった。

 

 しかも、この場にいる者の中には、あの時、中庭で楓と小牧が上弦の鬼の首を刎ねたところを見ている者もいる。首を斬っても上弦の鬼は、あの帯の鬼は死ななかった。その情報はこの場にいる剣士達には既に伝わっている。

 

 首を斬ることで鬼は死ぬ。その絶対的とも言える人間にとっての希望が、崩れ去った瞬間だった。

 

 首をきっても死なないのなら、どうすればあの鬼は死ぬのだ?どうやって人は鬼に勝つのだ?

 

 彼の抱いたその問いに答えはでない。木に背中を預け、項垂れたように地を見る彼らの瞳は絶望に満ちている。

 

 

 

 彼らの心は今や折れかけていた。

 

 

 

「おいこらテメェらっ!いつまでしょげた面してやがるっ!!」

 

 そんな彼らに、一際どすの効いた厳しい声がかかる。山彦すらしそうなその怒号に、集まった隊士達は一斉に視線を声の主へと向ける。

 

 多数の視線の見つめるその先にいるのは、一際小柄な、それでいて思わず引いてしまいそうになるほど両腕に筋肉をつけた坊主頭の男だった。

 

 

「俺は階級丁の剣士!山本宗一(そういち)だっ!!これからテメェらに、この局面を打開する作戦を伝えるっ!!耳の穴かっぽじってよく聞け!」

 

 集まる視線の数をものともせず、山本は堂々した佇まいで声を張る。

 

 

 その言葉の内容に、隊士達は目を見開く。

 

 

 この絶望的な状況を、打開する方法など本当にあるのか、と彼らは一様に瞳にほのかな希望を宿して、山本の言葉に耳をかす。

 

 

「よしっ、まず作戦の目的だが、第一に上弦の鬼の情報、鬼のとった今回の行動、これらを鬼殺隊に報告することだ。第二に、できる限りの人員を確実に生きてこの山から離脱させる、この二点が最終目標だ!」

 

 全員の視線が集まったことを感じて、山本は大きく声を張り、その打開策を語り始める。

 

 作戦の概要は、おおよそ当然と言ってもいいもの。

 

 殆ど情報のない上弦の鬼が姿を現したのだ。その能力を少しでも他の仲間に伝えなければいけない。特に首を落としても死ななかった、この情報は極めて重要だ。鬼は首を落とせば死ぬものだというのは、もはや鬼殺を掲げる者にとっては常識だった。その常識を覆す出来事が今回起きてしまった。

 

 

 それはなんとしても、鬼殺隊全員に伝える必要がある。

 

 

「……その為にまず、ここにいる隊士を二つの隊に分ける。一隊目の役割は、山を囲む鬼を突破して山を無理矢理に脱出することだ。その先鋒は蟲柱、胡蝶しのぶ様の継ぐ子、高野(たかの)(かえで)が務めてくれるっ!構成員はなるべく接敵を避けて迅速に離脱する為に、彼女の後を離れずについていく能力が必要だ。この意味はわかるな?」

 

 山本の問いかけに、首を傾げる隊士はいない。

 どれほどの鬼が山を囲んでいるのか分からない現状で、強制的に山を突破するのなら、途中倒れる仲間を気にしている余裕は、おそらくない。足を止めれば、その瞬間に鬼が集まってくる。戦力差があまりにも大きい現状では、この山にいる全ての人間が生き延びることは不可能だ。

 

 この作戦の鍵は、如何に素早く撤退できるかということにある。鬼に取り囲まれて死ぬと言う危険を回避する為に、高野楓について来れない仲間は見捨てていくことになる。

 

 山本が言っていることは、つまりはそう言うことだ。

 

 損耗率を度外視した作戦だが、後ろから上弦と言う圧倒的な死が近づいてくる以上は仕方がないことでもある。上弦の鬼がくれば、この場にいる隊士達など一瞬で全滅する。それは、この場にいる剣士達の共通認識だった。

 

 

「つうわけで、まず負傷者は一隊目からは外す。足の遅いやつもだ」

 

 

 山本の告げた言葉で、この場の多くは一隊目から外れることになる。この場にいるのは帯の鬼に傷を負わされた者がおおい。隠の者は傷こそ負っていないが、呼吸が満足に使えない時点で、身のこなしに大きな問題がある。そしてそれは、この場にいる数少ない一般人も、一隊目には所属しないことを意味している。

 

 20名近くいる隊士の中で、山本の言葉に該当する者は僅かに5名のみ。その中に、小牧の弟子であった桂木の姿もあった。

 

 

「よしっ、じゃぁそこの冴えない顔したあんた、一先ずあんたがまとめ役だ、名前は?」

 

「えぇっ俺!?纏め役ってそんな、俺には無理ですよ!」

 

「うるせぇーこらっ!冴えない顔で冴えないことばっかり言ってんじゃねぇ!いいから名前を言えっ」

 

「冴えない顔で悪かったですね!ううっ……村田です、階級は(かのえ)ですよ」

 

 山本の謎の選別で決まった一隊目の纏め役、村田と名乗ったその隊士は、なんとも頼りがいのない顔をした男だった。

 

 山本のきつい口調に、しぶしぶと言った様子で村田は纏め役を了承すると、不安気に溜息を吐く。

 

 

「村田くんな、弱っちそうだが安心しろ、お前は高野ちゃんの後をついていきゃーいいだけだ」

 

 そんな村田を励ますように、山本は苦笑してバシバシと村田の背を叩く。

 

「そんじゃ残りの連中が二隊目だな」

 

「おい、二隊目は何をすればいいんだ?」

 

 不意に上がった疑問の声に、再び視線が山本に集まる。当然の疑問ではある。何しろこの場にいるほとんどの者は、二隊目に属することになる。その役割はなんなのか、この場にいる全員の疑問だった。

 

 

 

「あぁ、それはな ———」

 

 

 

 

 

  ——— 殿(しんがり)だ。

 

 

 

 

 

 目尻を吊り上げ、挑発的に口角を上げて山本は笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 天高く、炎の巻き上がる屋敷を出た妓夫太郎(ぎゅうたろう)は、心地よい暗闇に包まれた森の中を歩いていた。

 

 

 みっともなく尻尾を巻いて逃げ出した人間を皆殺しにする為に、今日この山にいる人間を全て殺す為に、のそのそと歩を進める。

 

 比較的手練れだった鬼狩りの男は、炎に包まれた屋敷で殺した。あとは妹を追い詰めた毒を使う鬼狩りさえ殺せば、山の包囲を突破できるような鬼狩りは居なくなる。

 

 そうなれば、あとは妹に任せても問題はないだろう。屋敷に残る僅かな人間は妹が殺して回っているし、自分は森に潜む人間を狩っていくだけだが、決して狭くはないこの山の中で、人間を探し出して狩るというのは存外に手間だ。主人の命令とはいえ、面倒な仕事だと妓夫太郎は内心で溜息を吐く。

 

 この状況なら、人間はみっともなく隠れたまま朝陽がくるまでやり過ごそうとするだろう。そう予想していただけに、妓夫太郎は視界に映った光景に目を見開く。

 

 

「あぁ?なんだお前ぇ?」

 

「よぉ、鬼っころ。ちょいと面ァ貸せや」

 

 

 月の光を背に、闇夜に浮き上がるように現れたその男は、妓夫太郎を見据えて不敵に微笑んだ。

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました!
御意見・御感想等頂けますと幸いわいでございます!

上弦plus下弦を集めてフィバータイムしてます。
村田さんって経験年数の割には階級が低いという、なんとも謎のキャラですよね。でも、弱そうなキャラの割には、伊之助と同じくらいの速度で岩柱の訓練まで進んでいるという謎。

こんなおいしいキャラ、もう使うしかないですよね 笑


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鬼と戦う者達

 

 

 不気味な笑みを浮かべて、月の光を浴びる山本の言葉に、その空間はシーンと静まり返っていた。

 

 

 いつまでも続くかと思われた無音の空間に、やがて耐えきれなくなったかのように、一人の隊士が疑問の声を上げる。

 

 

「……今、なんて?」

 

「あ?聞こえなかったか?二隊目の役割は殿、一隊目が危険地帯を抜けるまでの間、後ろから追いかけてくる上弦の鬼の足止めをする。それが役割だ」

 

「っ!?」

 

 なんでもないことのように呟かれた山本の言葉に、張り詰めた静寂が、やがて低いどよめきに埋められていく。

 

「ふっ、ふざんけんなよっ!何の冗談だっ、上弦の鬼の足止めなんてできる訳ねぇだろうがっ」

 

 突然、一人の隊士が喚いた。ガバッと立ち上がって、右手で座り込む隊士達に向けて腕を振る。

 

「ここにいるのは柱じゃねぇんだぞっ!俺も含めてどいつもこいつ下弦の鬼にだって勝てない奴らだっ!あの小牧さんがやられるようなやつに、そんな連中が束になって向かったって、時間稼ぎにもならねぇよっ!!」

 

 その言葉は、まさしく真実だった。この場に集う剣士は12人、その隊士の誰一人として十二鬼月には勝てない。どころか、甲であった小牧に一本すら入れられない者達だ。その程度の実力しかない者達が、柱ですら勝てるかわからない上弦の鬼に向かっていくなど、ただの自殺行為でしかない。

 

「おいおい、こんな状況で冗談なんかいう訳ないだろうが。……それに時間稼ぎになるかどうかは戦い方次第だ」

 

 呆れたような表情でそう呟く山本に、声を上げた隊士はきつく歯を食い縛る。

 

「そもそもっ、一隊目を逃して、俺達が足止めをしたとして、どうやって……どうやって俺達は……離脱するんだよ?」

 

 後半の言葉には、力がこもっていなかった。

 

 彼も察してはいるのだろう。この二隊目の目的は、一隊目が逃げ切るまでの時間稼ぎ、上弦の足をとめることだけだ。山本の語った作戦の目的に、二隊目の離脱は含まれていない。一隊目が山の包囲を突破できれば、作戦の目的である情報伝達と、可能な限りの人員を脱出させるという主は為されたと、そう判断できてしまう。

 

 山本の目を、僅かに綴るような瞳で見つめてくるその隊士。他の隊士達も、山本がだす答えを、固唾を飲んで待ち構えている。あるいは自分達の及ばぬ生存への策があるのではないかと、そう希望を込めて、沈黙を耐える。

 

 

 

「俺達二隊目の隊士はこの山から離脱しない」

 

 その希望を、山本は斬って捨てる。

 

「っ……無茶苦茶だ……あんたは、俺達にここで死ねってのかっ!?」

 

 提示された作戦では、二隊目に選ばれた人員に生きる希望はない。山から離脱しないということは、乃ち死ぬことと同義に等しい。山本の語る作戦は、まさしくこの場にいる隊士達に死ねと、そう言っているのと同じだった。

 

「あぁ、そうだ」

 

「なっ!?」

 

 一も二もなく返された肯定の言葉。

 

 ここで死ねと、はっきりとそう言われて、この場にいる全ての隊士が驚愕に目を見開く。

 

「俺達が上弦の鬼を足止めして、囮になっている間に、一隊目の隊士がこの山から離脱する。そのあとに俺達が山を降りるのはまず不可能だ。そもそも上弦と接敵した時点で、俺達に生存の可能性はない。可能な限りの時間を稼いで、一隊目が逃げ延びる時間を稼ぐ」

 

 山本にとっても、これは苦渋の決断だった。上弦の鬼から一人でも多く生きて逃す方法を、山本はこれしか思いつくことができなかった。

 

 仮にこの場にいる全員が、山からの一点突破を同時に図ったとすれば、上弦の鬼は集まった集団に必ず向かってくる。一度でも上弦の視界に入ってしまえば、例え楓であっても、生きて離脱できる保証はない。最も速く走れる楓が死ねば、この場にいる全員、上弦どころか数字を持たない鬼からも逃れられないだろう。万が一他の鬼から逃れられても、二体いるという上弦の鬼のどちらかに捕殺されることになる。

 

 ならば全員が分散して別々の方向から離脱するのはどうか、これも無論考えた。だが、それには山を囲む鬼の数が多すぎる。無為に戦力を分散させても、鬼の包囲を食い破るだけの力がない。それでは各個撃破されるのが目に見えている。

 

 この集団の中で、確実に山を突破できる者は、おそらく楓のみ。自分と清水ですら確実に突破できるとはいえない。さらに問題なのは、この手法をとった場合、上弦の鬼は包囲を突破できる実力を持つ楓から狙ってくる筈。それはつまり、楓を囮にするということ。他の隊士の中に包囲を突破できると断言できる者がいない以上、この手法も、やはり確実性は低い。

 

 この山から生きて誰かが離脱する為には、大前提として、誰かが上弦の鬼の足を止める必要がある。小牧の足止めは、この集団が山から逃げきるまでもたない。となれば、隠や負傷した隊士を連れて鬼の包囲を突破し、上弦の鬼から逃げ切る事は到底不可能。

 

 

 殿は必要不可欠。

 

 

 その上で、可能な限りの隊士を生きて離脱させるには、もうこれしかない。

 

 

「あの、私達はどうすれば良いのでしょうか?」

 

 重苦しい雰囲気に支配されたその場で、不意にそう声を上げたのは、幼い子供を抱き抱えた一人の女性だった。

 

 身を包むその着物からして、屋敷の住人であろう。その佇まいは到底戦える者の振る舞いではない。

 

 確かに彼等一般人の扱いが、山本の作戦には全く含まれていない。一隊目にも二隊目にも、一般人を守りきるような余裕は到底ないし、どちらも一般人がついてくれば無為に命を落とすだけだ。

 

「……悪いが、あんた達にはここに残ってもらうことになる。藤の花から作った香り袋をいくつか置いておくが、上弦の鬼にどこまで効果があるかは分からない」

 

 何人かの隊士が、山本の言葉に息を呑む。

 

 今彼が言った言葉は、彼等一般人を見捨てることと同義だからだ。香り袋程度で上弦の鬼をなんとか出来るのなら、誰もがそれを持ち歩いている。ある程度の力を持った鬼に、香り袋など効果はない。山本の施す処置は、本当に気休め程度でしかない。

 

 無垢な人々を鬼の脅威から守る為にある鬼殺隊が、その渦中で、彼等を守ることを放棄すると、山本はそう言っているのだ。

 

 彼等に死ねと、そう言っているに等しい言葉に、当然、異を唱えるものも出る。

 

「おいっ!いくらなんでもそんなのっ、」

 

 声を上げたのは、小牧の弟子の一人、桂木(かつらぎ)明久(あきひさ)だった。人一倍正義感の強い彼には、山本の言葉があまりにも残酷に聞こえる。人を守る為の刀が、人を見捨ててどうするのか。

 

 炎の呼吸の使い手らしい、実に正義感あふれる声だった。

 

 

「なら守りきれるか?上弦の鬼に加えて、無数とも思えるような数の鬼を相手に、お前はこの人達を守りきれるのか?」

 

 だが、その反論を、山本は現実という避けようのない刃で斬り裂く。

 自分達の命すら捨てなければいけないような状況で、他の命を抱え込んでいる余裕があるのかと、山本は鋭い眼差しでそう問いかける。

 

 

「それはっ……ならせめて、一隊目に随伴させればっ」

 

「一隊目の目的は迅速な離脱だ。そこに一般人を入れれば、速度が要のこの作戦が成り立たない。勝手についてこいというのは良いが、どの道山を囲む鬼に皆殺しにされることになる」

 

 願った理想は全て、現実という刃で斬られる。反論をする桂木に、彼等を守りきるだけの実力があれば、彼の反論は通ったかもしれない。だが、もしもそんな力があるのであれば、彼は上弦の鬼から逃げ出したりはしなかった筈だ。

 

 

「くっ……」

 

 救えない。

 

 救いたいとそう思って握った刀を、振るうことすら許されずに、それを見捨てなければいけない。

 

 あまりにも受け入れがたいその現実に、桂木は血が滲むほど唇を噛みしめて俯く。

 

 

「俺達に、あんた達を守るだけの力はない。……すまねぇな」

 

 俯く桂木を視界の端に、山本はそっと屋敷の住人達に頭を下げる。

 

 ありとあらゆる罵詈雑言を、山本は覚悟していた。鬼殺隊は必ず人を守ってくれる。多くの一般人はそう思っている。だが実際には、鬼殺の剣士がいつだって人を守れる訳ではない。

 

 何度も何度も間に合わず、辛うじて生き残った者達に、『どうしてもっと早くきてくれなかったっ!?』と、そう罵られたことは、鬼狩りをしているものなら誰でも一度はあるだろう。

 

 

 今回もそうなると、山本は思っていた。

 

 

「……頭を上げてください、鬼狩り様。……私達も覚悟はしておりましたから」

 

 囁くようなその言葉に、山本も、桂木も、勢いよく顔を上げ、驚愕に満ちた表情で女性へと視線を向ける。

 

 桂木の驚愕の表情に、女性はそっと微笑むように口元を綻ばせる。不安に揺れる子供を安心させるかのような優しい笑顔に、桂木も、この場にいる他の隊士達も一様に息を呑み、彼女達を見つめる。

 

 

「この屋敷にいるものは皆、鬼に身内を殺されたものばかりです。鬼の恐怖も、卑劣さも知りながら、されど鬼狩り様のように戦う力も持てず、泣き寝入りのように蹲ることしか出来なかった私達に、鬼を狩る方々を影ながら支える役目を与えてくださった。直接鬼を倒すことができなくとも、その助力をさせてくださった。直接相対することはなくとも、私達は鬼の敵です。藤の花の家紋をこの身に背負ったその時から……今日の日がくることは、覚悟しておりました」

 

 そう語る女性のなんと勇ましきこと。唖然として桂木が視界を広げれば、屋敷の者達全員が顔を上げ、剣士達を見ている。その表情に絶望の色はない。

 

 

 彼等の着る服に施されたその藤の紋様は、彼等の決意の証。

 

 

「力なき私達にとって、貴方方は希望なのです。今日の日の敗北が、希望となって、やがて人に明るい未来を導くと私達は信じております」

 

「……そうか、あんたらは一般人じゃなかったか」

 

 予想とは全く違うその反応に、苦笑した様子で山本はそう呟いた。

 

 勘違いをしていたのだ。ここにいる者達は何も知らぬ無垢な一般人などではない。ここにいるのは鬼の絶望と悲劇を知り、その強大な力と戦うことを決意した歴とした仲間だった。

 

「一つだけ、お願いが御座います」

 

「なんだ?」

 

 決意を宿した瞳で、女性はそっと唖然としたまま、間抜けな表情で立ち竦む桂木に歩みよる。

 

「この子を連れて行ってはくださいませんか?」

 

 やがて桂木の前に立った女性が、一人の幼子を差し出してくる。

 

 齢4、5歳程の少女は疲れたのか、この絶望的な状況の中で、ぐっすりと眠っている。母の腕の温もりの中で、安心しきった様子で眠る子供を差し出され、桂木は、思わず半歩後ずさる。

 

 理解してしまう。この母の願いは、あまりにも重いのだと。この差し出された命が、どれほどの想いに満ち溢れているのかを。

 

「……なんで俺に、だって、俺じゃなくても……それに、俺が生きて山を下りれるかは……」

 

 故に、桂木は逡巡する。この命を簡単に受け止めてはいけないと、そう理解しているから。この手からこの命を受け取った時、その身にふりかかる責任の重さを、桂木は分かっている。

 

 一つの命を支えるには、さぞ頼りなく見えるはずの桂木の様子を見ても、なぜか女性は引き下がらない。どころか、安心したように笑って一層頼み込んでくる。

 

「ふふっ、私達の為に、そんなに苦しんでくださる貴方だからこそ、この子をお願いしたいのです。身勝手な願いとは承知しております。貴方が生きることの負担となってしまうと、そう理解してはいますが、親としてこの子に未来を生きてほしいと、そう願ってしまうのです」

 

「……俺は、」

 

 一人の母親の切実な願い。子を想い、生きてほしいと、そう願う母の強さに、桂木は揺れ、確認でも取るかのように、チラリと山本に視線を向ける。

 

「……お前がやれるんならやれば良い。言い訳も遅れもゆるさねぇけど、それでもできるってんならやれば良い」

 

 その意図に気付いたように、山本は好きにしろとそう告げる。

 

 如何に幼子とはいえ、決して軽くはない。子供一人抱えて山を下るので有れば、当然桂木にとって、それは大きな負担となる。まして、今から桂木は激しい鬼の攻撃にさらされることが目にみえているのだ。

 

 子を抱えて刀を振えるのか、鬼の攻撃から子を抱えたまま逃れられるのか、そう問われれば、絶対などとは、当然言えない。あるいは子供共々死んでしまうかもしれないのだ。生き延びることが命令である桂木にとって、死に至る可能性は極力減らすべき最優先の課題。

 

 

 

「必ずっ、この子に……朝陽を届けるっ」

 

 

 それでも、桂木にこの願いを断る事はできなかった。生きるべき多くの命を見捨てていくのだ。ならば、一つくらい拾える可能性があるものくらいは、本の僅かな希望くらいは持っていっても良いはずだ。

 

 

 噛み締めるように、誓いを立てるかのように、涙を目に浮かべて、桂木は命を受け取る。

 

 

「ありがとうございます。……名を陽子と言います。陽の光のように、暖かな子に育ってほしいとそう願って名付けました。どうか陽子を宜しくお願い致します」

 

 

 精一杯の誠意が込められたその礼に、どれほどの想いが込められているのか、そう察するのに果たして如何程の難があろうか。手渡された命は重く、慣れていなければ随分と持ちづらい。だが、その腕には、確かに命の暖かみがあった。

 

 

 

 状況に似合わない、暖かい眼差しが、桂木の腕の中で眠る少女に集まる。

 

 

 

 

 

 しかし、忘れてはいけない。最初に提示された問題は、何一つとして解決していないということを。

 

 

 

 

 

 

「……待てよ、俺は御免だぞっ、無意味に死ぬなんてっ、俺は御免だっ!!だいたいっ、そんな作戦に何の意味があるんだよ……ここでそいつらが生き残って、何になるって言うんだよっ!ここで俺達が死んで、ここからこいつらが生き残って、一体それに何の意味があるっ!?」

 

 

 

 不意に、一人の隊士がそう叫ぶ。

 

 

「あれを見ただろっ!?上弦の鬼の強さを見ただろっ!あの小牧さんですら勝てなかったんだ、首を斬ってもあの鬼は死ななかったんだ!!柱にだって勝ち目なんかねーよっ!首を斬っても死なない鬼なんてどうやって倒すんだよっ!?……無理なんだよ……そもそも鬼に人が勝てるはずがなかったんだよっ!俺達が鬼に抗うことに、意味なんてない、どうせ人間は、みんな死ぬんだ」

 

 自暴自棄とも言えるようなその言葉は、しかしこの場にいる多くの者の心にあった言葉でもある。小牧は強かった。それはこの場にいる誰もが知る事実。その小牧がやられた。それだけでも彼らにとっては絶望的なのに、上弦の鬼は首を斬り落としても死ななかった。その上、首を斬ったら新たな上弦の鬼が現れる始末。

 

 鬼が首を斬り落としても死なないというのは、鬼殺隊にとってはまさしく悪夢のような出来事。どんな実力者であっても、鬼を殺す為には首を斬るものだ。それは、柱であっても例外ではない。

 

 唯一この基準にあてはまらないのは、蟲柱である胡蝶しのぶのみ。だが、たった一人で上弦の鬼を二体も相手どれると、そう思い込めるほど、この場にいるもの達は夢見がちではない。

 

 

 あるいはもしかすれば、上弦の鬼は皆首を斬っても死なないのではないか?

 

 

 鬼無辻もそうなのでは?

 

 

 これから現れる鬼の中にも、首を斬っても死なない鬼が出てくるのではないか?

 

 

 彼らの心に埋め込まれた疑念の種は、彼らの希望を奪い尽くす。

 

 

 ここで誰かが生き残っても、結局はいつか上弦の鬼に殺される。情報を伝えたからなんだというのだ?より絶望に身を落とすだけではないか。結局人間は、鬼を滅ぼすことなど出来ない。

 

 

 なら、自分達がここで命を賭して戦うことに、一体どんな意味があるというのだ?

 

 

 そんな諦観という暗雲が、彼らの心を覆っている。

 

 

 剣士の誰も彼もが言葉を失い、絶望に顔を曇らせ、地に顔を俯けて、これから訪れる死に浸った。

 

 

「……あぁ、そうだな、テメェのいうとおりだよ」

 

「っ!?」

 

「山本……」

 

 思いもしなかった肯定の言葉に、周囲の隊士達は勿論、問いかけた隊士ですらも、驚愕に満ちた表情で山本を見つめている。その中に清水の姿もあった。

 

 この作戦の重要な鍵は時間でもあるが、それ以上に重要な最も懸念されたそれは、隊士達のこの反応だ。

 

 死ぬとわかっていて、生きる希望のないその無謀極まる自滅の戦いに、誰が意気揚々とのってくれるだろうか。彼らがこうなることは、清水にとっても山本にとっても、想定の範囲内であった。だが山本は、それを任せておけと、自分ひとりでできると、何一つ清水に相談もなく始めてしまった。

 

 この絶望に染まった問いかけに、肯定で返してどうするというのか、山本は一体何を考えているのか、それが清水にも分からなかった。

 

 

「お前の言う通り、人間は死ぬ。どんなに懸命に鬼に抗って生きても、幸せ一杯の笑顔で生きることができても、鉄砲の玉が飛び交う戦場で生きても、その日の食事すら取れない飢餓の中で生きようとも……どんな生活を送っていても、それが人間である限り、死は絶対に訪れるもんなんだ」

 

 

「……お前……何を言って……」

 

 

 理解出来ないその言葉の羅列に、唖然とした様子で、問いかけをした隊士は声を出すが、山本の放つ異様な雰囲気が、彼に大きな声で反論することを許さない。

 

 震えるように擦れた声で発せられたその声は、まるで彼の姿に、怯えているかのようなだった。

 

 

「ならよ、俺達が鬼に抗ったことに意味はねぇのか?血反吐を吐く様な鍛錬をこなして、刀を握ったことは無意味だったのか?あの日、俺達が生き残ったことに意味はなかったのか?……死んじまった仲間もそうなのか?あいつらが戦ったことに意味はなかったのか?願った夢は、叶うことのねぇ、無意味なもんなのか?」

 

「っ………」

 

 他を圧倒する異様な雰囲気で放たれた問いかけは、酷く湾曲していると言っても良い内容であったが、この場にいる隊士達に、その意味は通じていた。

 

 

 乃ち山本の問うたことはこうだ。

 

 

 鬼と戦おうが戦うまいが、どうであれ結局いつか人は死ぬというのなら、無垢な人々を死なせたくないと刀を持った自分達に、意味はないのか?

 

 

 鬼に喰われなくても人は死ぬのなら、鬼を殺すことに意味などあるのか?

 

 

 仲間達が命を賭して守った人々が、結局は死んでしまったというのなら、一体何の為に彼らは刀を握りしめて、死んでいったのだ?

 

 

 鬼がいなくても結局は人は死ぬというのなら、鬼がいない世界を願うことに、果たして意味はあったのか?

 

 

 これまで鬼殺隊が辿った全ては、無意味なものだったのか?

 

 

 

 無論、そこに答えを持つ者などいない。清水も楓も含めて、誰もがその答えを探して歩いている。

 

 

 極限の状況で、唐突に行われたその問いかけに、答えることができた者はただ一人。

 

 

 山本だけだ。

 

 

「っいや、違う!!人の一生は生きるか死ぬかの結論じゃねぇ!!!

 産まれてから死ぬまでに何を行えたか、その過程が、人の幸も不幸も決める!あいつらが刀を振るったのは、その過程の一瞬を守る為だっ!少しでも長く、誰かが幸せであるようにっ!あの地獄のような苦しみをっ、誰かが感じなくてもいいようにっ!一生のうちのそんな一瞬の時間を守る為にっ、俺達は刀を握ったんだ!

 全ての死から万能に人を守ることはできなくともっ、せめてっ、鬼に喰われる痛みを、鬼に大事な人が喰われるあの苦しみをっ、他の誰かが味わわなくてもいいように、俺達は今日ここに立ってんだっ!!」

 

 

 まさしく大気が震えるような怒号が放たれた。

 

 その小さな体のどこから出ているのだと言いたくなるほどの声。あらんかぎりの声量で持って、否と、これまでの自らの問いかけを否定する。

 

 ビリビリと空気が揺れ、耳を塞ぎたくなるような声にも関わらず、その場にいる誰もが言葉を失ってしまったかのように、唖然と口を開けて山本に視線を向けている。

 

 

 鬼殺の信念、これまでの死の意味、これからも戦うことの意味、それらの全てを集約した大義という名のそれは、この場にいる全ての隊士達の心を呑み込んだ。

 

 

「俺達は今日ここで死にっ!明日も刀を振りつづける仲間に、この願いを託す!!……それが、それこそが、俺達鬼殺隊が、このくそったれた残酷な世界に生きた、唯一の証になるんだっ!!!」

 

 

 満を辞して放たれた今日の意味。

 

 今日ここで戦い、そして死ぬことの意味。鬼の絶望を知らぬ人達が、知らぬままであれるように、沢山の人の死から、せめて鬼による犠牲がなくなる日々が来るように。

 

 

 そんないつかという淡く儚い願いが込められたその言葉に、誰も声を発せられない。

 

 

 世界から音が消えたように、その場は耳が痛くなる程の静寂に包まれた。月の光を灯し、森の木々のざわめきすらも消し去ったその空間は、切り離された異空のようですらあった。

 

 

 

 いつまでも無限に続くのではないかと思われたその異様な静寂は、一人の隊士が立ち上がることで終わりを告げる。

 

 立ち上がった隊士は、ゆっくりと一隊目に選ばれて、立ち竦む者達に歩み寄っていく。

 

 やがて彼らの目の前に立ったその隊士は、神妙な面持ちで、その重く乾ききった唇を開いた。

 

「俺は家族を誰も守れなかった。帰ってきたらみんな死んでて、凄く苦しくて辛くて、悲しくて……もう、こんな想いは誰にもして欲しくない、そう思って刀を握った……だから……後は頼むっ」

 

 ニコッと、無理矢理つくったかのような不器用な微笑みで、青年とも呼べる相貌をした隊士は願った。

 

「っ……」

 

 その場に、息をのんだような音が響く。一隊目の誰か、いや、あるいは全員だったのかもしれない。青年のその願いが、彼らの心を穿ち、二度と消えることのない傷跡のようになってそこに居座る。

 

 

 そして、その願いは連鎖する。

 

 

 青年につられるように、次々と地に沈んでいた隊士達が立ち上がっていく。誰も彼もが一隊目に選ばれた隊士達の前へと進み、各々の願いを口にしていく。

 

 彼らの顔に、緊張の色はあれど、絶望の色は既にない。

 

 

 その様子を、山本は何の感情も思わせないような瞳で見つめていた。

 

 一人黙って焼き付けるかのように、その光景を見据える山本の後ろに、そっと清水が立つ。

 

「……あんた、最低ね」

 

 辛辣な言葉が、山本の背中に突き刺さるが、彼はそれに表情を変えることなく、尚も続く異様な光景から視線を逸らさない。

 

「……あぁ」

 

 普段の山本であれば、軽口で反論の一つもしたであろうその言葉にも、彼はただ一言、振り返りもせずに肯定の言葉を返した。

 

 そんな山本の返答を予想していたかのように、清水も目を伏せる。

 

「最低で、最悪だったけど……今のアンタ、びっくりするくらい格好いいわよ」

 

「当たり前のことを言ってんじゃねぇ。あと俺はいつでも格好いいぞ」

 

 普段の清水であれば絶対に言わないようなその言葉にも、山本は驚くこともなく自信満々の様子で胸を張る。

 

「……そういうとこがなけりゃね」

 

「何をっ!?」

 

 呆れたように溜息を吐く清水に、山本は声を張って反論していく。その様子は彼等にとって間違いなく普段通りのもの。いつもと何も変わらず、楓が仲が良いと評した二人の姿、そのものであった。

 

「まあでも、見直したわ。アンタ、結構いい男じゃない」

 

 苦笑した様子で揶揄うように言いながらも、清水の表情はとても穏やかだ。

 

「ああ?今更気づいたのか?俺ほどいい男は世界中探したってそうはいねぇぞ」

 

 不敵な笑みを浮かべて山本は清水を見返す。

 

 

「……生意気ね」

 

 

 口元に浮かび上がる笑みをそっと呑み込んで、清水は夜空を飾りつける満天の星空を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

—————

 

 

 

 

 

「よぉ、鬼っころ。ちょいと面ァ貸せや」

 

「あぁ?」

 

 月の光を背に、目の前に現れた小柄な男と妙齢な女の姿を見て、妓夫太郎(ぎゅうたろう)は怪訝に眉を顰める。

 

 その手に抜き放たれた刀身の輝きに、その二人が鬼狩りであることはわかる。だが、なんとも凹凸の激しい組み合わせだ。

 

 片や子供ような上背でありながら、気持ち悪いほど発達した腕周りの筋肉、吊り上がった目尻で、不敵に微笑んで佇むその姿の、なんと歪で醜いこと。片や上背のある髪の長い女、一見美人に見えるその顔立ちだが、きつく吊り上がったその目つきが、なんとも近寄り難い雰囲気を漂わせている。

 

 

「たった二人でのこのことでてくるなんてなあぁ、お前等馬鹿なのかあぁ?」

 

 

 佇まいや感じる雰囲気からして、目の前の2人は柱ではない。

 

 ならば柱にもなれないただの下っ端が、上弦である自分と戦おうと今目の前に現れたことになる。柱ですらない鬼狩りに、自分が負けることはあり得ない。これ程圧倒的な力量差がありながら、まるで希望があるかのように二人から放たれる闘志。

 

 現実が見えていない愚か者としか言いようがないその姿に、妓夫太郎は嘲笑する。

 

 

「聞いた山本?たった二人ですって」

 

「はっ、テメェこそ馬鹿じゃねぇのか?たった二人でこんなところにくるわけねぇだろうが、感覚鈍いなお前」

 

「あぁ?」

 

 逆に嘲笑するかのような声色に、身の丈に合わぬ挑発かと、そう思った時、視界に入り込むその光景に、妓夫太郎は僅かに目を見開く。

 

 漆黒の帳の中、乱雑に生えた木々の隙間からそっと現れる複数の影。妓夫太郎を中心に、半円状に現れたその影の主達が月光に照らし出される。視界に映ったその姿はまさしく人間、それも黒い衣服に身を包み、手に刀を持つその姿は、鬼狩りである証。

 

 森のざわめきに紛れるように、耳にはいるその足音の多さが、妓夫太郎に疑問を植え付ける。

 

(全く気配を感じなかった……どうなってやがる?)

 

 仮にも十二鬼月、それも末席とはいえ上弦に数えられた自分が柱でもないただの人間の気配に気づかないなどあり得ない。視界に映る人影は14人、これ程の数の人間に取り囲まれるまで気づかないなど、上弦としてあってはならない事態。

 

 

 あるいはまだ潜んでいる鬼狩りがいるのかもしれないと、妓夫太郎は全周囲に警戒の目を走らせる。

 

(何かが邪魔してやがるなあぁ……鼻につくこの匂いは……藤の花か)

 

 鼻先に香る異臭、その正体に行き着いた妓夫太郎は、この奇妙な現象の答えを理解した。

 

(周囲に藤の花の香りを撒いて、俺の感覚を鈍らせてやがる訳か……くだらねぇなあぁ)

 

 視界に映る夜の光景にはなんの変哲もないが、おそらくこの一帯は藤の花の香りで満ちている。当たりに満ちた香りが、妓夫太郎の感覚に幕を引いたかのように障害を生じさせ、この一帯に潜む人間の気配を読みづらくしている。

 

 思い返してみれば、最初にあの二人の鬼狩りを視界に入れた時も、気配を感じていなかった。この藤の花の香り、鬼の身体に害を及ぼすような濃度のものではないが、感覚の鋭い鬼に対しては実に巧妙な一手。

 

 とはいえ、それで妓夫太郎との実力差を埋めることにはなり得ない。

 

「無意味なことしてんなあぁ……ぞろぞろと下っ端が出てきたところでお前らは全員死ぬんだからなあぁ、無駄に瞳をキラキラさせてんじゃねぇよ」

 

 気配が読めない程度は、妓夫太郎にとって何の障害にもなり得ない。たかが藤の花の香り程度で、自分を抑え込めたつもりになっているのであれば、図に乗りすぎだ。

 

 数でかかって来られようと、所詮は柱ですらないただの人間、それほど時間すら掛けずに皆殺しにできる。

 

 この場にいる人間は一人残らず殺す、それが彼等の主人、鬼無辻無惨からの命令なのだから。

 

 

「無意味かどうかはやってみないと分からんだろうよ」

 

「ひひひっ、みっともねぇ虚勢だなあぁ……弱い人間の体で、どこまでできるかなあぁぁ」

 

 相も変わらず不敵に微笑む小柄な鬼狩りの姿に、妓夫太郎は嘲笑し、挑発するように、その身に宿す殺気を周囲へとばら撒く。

 

 並の者なら、重く濃密なその殺気に当たっただけで、地へと膝をつく。妓夫太郎としても何度も見てきた光景。

 

 故に今回もそうなると思っていた。

 

「あぁ?」

 

 だが、視界に映る光景に膝をつく人間は誰一人としていない。冷や汗をかき、緊張に身体を震わせていながら、誰もがその瞳に闘志を宿している。

 

 

 

「テメェら根性を見せやがれ、一世一代の踏ん張り時だぜ」

 

 

「「「「おおうっ!!」」」」

 

 

 圧倒的な実力差を前にして、逃れられぬ死を前にしても、決して瞳から失われることのない光。死への恐怖も、痛みへの恐れも感じている様子を見せながら、未だ戦おうという意志が消えない。

 

(あの男と同じ……死にたがりの馬鹿か?)

 

 理解出来ないその在り方に、妓夫太郎は心底面倒くさいと表情を顰める。

 

 弱い人間であるなら、死を恐れて当然だろう。みっともなく蹲り、みっともなく泣き叫び、みっともなく天に吠える、それが人間という生き物だろう。なのに目の前の奴らは、そのみっともなさを認めようとしない。

 

 

「どいつこいつも、みっともねぇなあぁ……とっとと死ねよ雑魚」

 

 

 

——— 血鬼術 飛び血鎌 ———

 

 

 

「はっ!みっともなく足掻いてやろうじゃねぇか!!」

 

 

 

 

 夜の闇夜に鳴り響く怒号と、数多の剣戟、弱き人の奏でる一晩の幻想曲は、奏者がいなくなるその最期まで続いた。

 

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
御意見・御感想等頂けますと幸いでございます。

鬼殺隊の在り方って中々業が深い。
原作では一般隊士の心情とかが最期の戦い以外垣間見れないので、今回の話を書いてみました。

ちなみに、山本君の演説はとあるお方を参考に書いております。


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明日を生きる者達

気づけば60話超えてましたね( ̄∇ ̄)
まだまだ先は長い 笑
御一読頂きました皆様ありがとうございます。


 

 鬱蒼とした森の中を、凄まじい速度で駆け抜ける6つの影。

 

 風を置いていくような速度で走る影の周りを、取り囲むようにさらに多くの影が6つの影を追いかけていく。

 

「もっと速く走ってっ!!っ次!右から来ます!!」

 

 後を駆ける5つの影に、先頭を走り抜ける(かえで)は普段出さない怒号でもって鼓舞する。

 

 山の外周に差し掛かってから、次々と襲いかかってくる鬼の群れに楓達、一隊目の面々は苦戦を強いられていた。

 

 ガサガサと、多い茂る草を踏み分けるような音があちこちから聞こえる。少なくとも数十を超える鬼が今、走る楓達の周りに並走する様についてきているのだ。

 

 不意に幾つかの影が藪を飛び出して、楓達に飛びかかる。

 

「ヒャッハー!女だ!これは俺が喰うぜ!!」

 

「俺が先に目をつけたんだ!俺の獲物だっ!」

 

 先頭を走る楓の姿に目を眩ませたかのように、二体の鬼が一直線に楓に向かって飛びかかっていく。

 

 

——— 蟲の呼吸 蝶の舞 (たわむ)れ ———

 

 

 鬼と楓が交叉する直前、目にも止まらぬ速さで楓は二体の鬼の急所を突き刺すと、何もなかったかのようにそのまま止まることなく走り続ける。

 

「がっ、あ、」

 

「ぐぇ、な、ん」

 

 

 毒に苦しみ悶える鬼を置き去りに、一行はどんどんと前へ進む。

 

 

 この一行に止まることは許されない。ただの一度でも足を止めたなら、その瞬間には鬼に包囲され、嬲り殺しにされるだろう。

 

 彼等一隊目に選ばれた人員はここで死ぬことは許されないのだ。絶対に生きてこの山から出なければいけない。見た目には見えない沢山の預かった荷物を届ける為に、限界を超えた速度で、彼等は走り続ける。

 

(絶対に死なせないっ!これ以上は、もう誰もっ!!)

 

 決意を胸に先頭を駆け抜ける楓の表情はとても他人に見せられたものではなかった。

 

 歯を喰い縛り、目を見開き、瞳に血の涙すら浮かべたその形相は、怒りと憎しみ、そして悲しみに満ち溢れている。

 

 

 

 

—————

 

 

 

 

 

 

「そこでだ、高野ちゃん。頼みがある」

 

 

 抑揚の少ない声で山本は楓の瞳を見据える。

 

 

「……頼みって……何を……」

 

 目の前にいる男が普段決して見せることのないその静謐な瞳に、楓の内心に身を焦がすような焦燥が湧き立つ。

 

 この先を聞いてはいけない。ここから先に出る言葉はきっと自分を追い詰める。そうはっきりと認識できるほど、山本の放つの空気は重く、悲壮だった。

 

「無事な隊士を連れて、山を下って欲しい」

 

「無事、な隊士?」

 

 限定するようなその言葉に、楓は一層の不安を覚える。

 

 山を下るのなら全員でおりるのではないのか?

 

 なぜ無事という前置きをしたのだ?

 

 なぜ隊士だけを差した?

 

 この山には一般人だっていると、さっき彼自身がそう言っていたのに。

 

「怪我を負っていない隊士なら、高野ちゃんの後をなんとかくっついていけるかもしれない。高野ちゃんが先鋒に立って鬼の包囲を食い破る。その後を連中がついていければ、何人かは助かるかもしれない」

 

「……怪我を負った隊士はどうするんですか?屋敷の人達だって……それに、上弦の鬼はどうするんですか?」

 

 山本の頼みごとからは見えてこない様々な問題点を、楓は次々と上げていく。

 

 自分が隊士達を連れて山を下ること自体は問題ない。むしろすぐにでもそうしたい程だが、1番の問題はこのまま山を下っても、鬼の包囲を突破する前に上弦の鬼に追いつかれることだったはずだ。

 

 あの鎌を持った鬼に追いつかれれば、楓であっても逃げきれるとは言えない。複数の隊士達を守りながらの撤退ともなれば、それは実質的には不可能と言える。

 

 

「上弦の鬼は残った隊士で足止めをする。時間はそこで多少は稼げる筈だ」

 

「っ!そんな無茶なっ!みんな死んじゃいますよっ!?」

 

 山本の放ったその言葉に、楓は思わず声を荒げる。策とも呼べないその作戦は、あまりにも無謀で、なによりも自滅的だ。

 

「高野ちゃん、これしか手がねぇんだ。このままここで全滅する訳にはいかない。それは高野ちゃんだってわかるだろう?」

 

「っ……それは、でも、」

 

 

 なんとかしなければ、何か言わなくては、何か他に策を。諭すような山本の言葉に楓は必死に思考を巡らせる。

 

 しかし、どれだけ楓が必死に頭を働かせても、この場を乗り切る為の策は思いつかない。小牧の時と一緒だ。直ぐに反論が思い付かない時点で、山本の意を覆すことは出来ない。他に妙案が出てこない限り、彼は断固としてその破滅的な策を取るだろう。それこそが今とれる最善なんだと、そう言って。

 

 楓自身頭では理解できている。この場を全員が生きて逃げきることは出来ない。命の取捨選択、今楓に求められているのは正にそれだ。

 

 何を生かし、何を殺すのか、人間にとって、鬼殺隊にとって何が最も有益となるのか、その判断を下さなければいけない。

 

 

「私がっ!私が時間を稼ぎますっ!その間に皆さんが脱出してくれれば、」

 

「それは駄目だ」

 

 

 1も2もなく、山本は即座に楓の意見を切り捨てる。

 

「なっ、なんでですか!?時間を稼ぐなら私の方がきっと、長く稼げます!!絶対に稼ぎますからっ!だからっ!」

 

 提案の体を装いながら、それはいっそ懇願のようであった。不安気に揺れる瞳で自らを見つめる楓に、山本はそっと首を横に振る。

 

「確かに時間だけで見れば、高野ちゃんの方が長く稼げるだろうさ」

 

「だったらっ「だけどな」っ……」

 

 一瞬見せたその肯定の言葉に、楓は前のめり気味に言葉を発するが、山本はその言葉を遮るように声を被せる。山本の向けてくる鋭い眼差しに、楓は思わず言葉を詰まらせ、彼の放つ空気に呑まれたかのように押し黙ってしまう。

 

「……高野ちゃんがいるのといないのじゃあ、包囲を突破する速度にすげぇ差が出てくるんだ。仮に高野ちゃんの言う通りにして、稼ぐ時間が少し延びたとしても、その時間分か、それ以上に、包囲を突破するのに時間がかかる。……それじゃあ意味がねぇんだ」

 

「っ!」

 

 その正論に、返す言葉が見つからない。

 稼ぐ時間は長ければ長いほどいい。だが、包囲を突破するのはより素早く、より短時間で行われる必要がある。時間をかければかけるほど、山を囲む鬼が集まり、突破はより難しくなるからだ。

 

「それに、高野ちゃんがいないと包囲を突破できる可能性も低いしな」 

 

 圧倒的な数的不利の中で行われるこの撤退戦において、必要なのは一点突破の技量。

 

 如何に素早く、止まらずに、前を塞ぐ的を排除し、開いた道を通り抜けられるか、それこそがこの撤退戦の成否を分ける。

 

 多数の攻撃を受け、鬼を相手に止まることなく走り続けるのは、決して簡単なことではない。故に、それを為し得る人間は当然限られてくる。

 

 今この森で、その要項を満たしている人間は楓以外にはいない。

 

 

「私に……また、生き延びろと、そう言うんですか?……貴方達を置いてっ!私に逃げろとっ!そう言うんですかっ!?」

 

 

 絶叫が、森のざわめきを掻き消す。

 顔を俯かせて、ワナワナと拳を震わせた楓は、耐えがたい感情の濁流に呑まれまいと必死になっていた。

 

 

 負傷者はこの山に捨て置くと、山本はそういった。負傷者には上弦と戦って時間を稼いでもらうと、彼はそう言った。

 

 ならば、彼等は、目の前にいるこの二人はどうするのだ?

 

 先程、楓は二人の傷を見た。足を負傷した山本と、腕を負傷している清水、二人の傷を楓ははっきりと見ている。彼らは紛いもなく彼等のいうところの負傷者だ。

 

 山本の策をそのまま捉えるのであれば、それはつまり、山本と清水の二人を置いて、この山から逃げろと、そう言われているに等しい。

 

 

「あぁ、そうだ」

 

「っ……いやですよ、そんなのっ、絶対嫌ですよっ!そんな案にっ、私が首を縦に振れる訳がないじゃないですかっ!?」

 

 

 何の躊躇すらもなく肯定されたその案に、楓は息を呑んで喚き立てる。目を見開き、憎い仇で見るように楓は山本を見つめ、懇願する様に清水に視線を移す。

 

 

「ハルさんもっ、なんとか言ってくださいよ!こんなのおかしいってっ!いつもみたいに山本さんに反対してくださいよっ!!」

 

 

 普段、散々互いの言うことに反対ばかりしているのに、どうしてこういう時ばかり、静かにしているのかと、楓は押し黙ったままでいる清水に詰め寄っていく。

 

 普段は騒がしいとしか思わない傍迷惑なそれが、今はなによりも欲しかった。否定して欲しかった。山本の言う最適解を違うと、そう言って自分に同意してほしかった。

 

 瞳を潤ませ、僅かに上背の清水を下から見上げるように、楓は必死に懇願する。

 

 

 

「ごめんね、楓ちゃん」

 

 

 願いは届かない。

 

 

 望んだそれとは全く違う言葉と共に、楓の身体を包み込む温もり。両腕を背に清水の胸に顔を埋めるように強く、強く、楓は抱きしめられた。

 

 夜風に晒され、冷たくなった体に移ってくる清水の温もりに、不意に、双眸から溢れ出る雫を楓は止めることが出来なかった。

 

「っ、うっ……いや、だっ、嫌ですよっハルさんっ」

 

 違う、そうじゃないと、欲しい言葉はそうじゃないとそう言いたいのに、楓の口から出る言葉は嗚咽のような懇願だけ。

 

 大粒の涙で清水の胸元を濡らしながら、楓も清水の背中に手を回してぎゅうっと、力強く抱きしめる。離れたくないと、そう言うように、手の届かない場所に行こうとするそれを引き止めるように、楓は両腕に力を込める。

 

 

「こうして楓ちゃんを抱きしめれるなんて役得ね。でも、あんまりすぐに抱きつかれるような隙を見せちゃだめよ。楓ちゃんはうっかり屋さんなところがあるから、もうちょっとしっかりしないとね。男の人の視線にも少し疎いところがあるし、すぐに色んな人と仲良くなるのはいいことだけど、もう少し脇を締めて欲しいってお姉さんは思うわ」

 

 

 ぽんぽんと、泣きじゃくる幼子をあやすかのように清水は楓の髪を撫でる。

 

 

「それから、鍛錬や勉強に集中し過ぎて食事を摂るのを忘れちゃ駄目。貴方は成長期なんだから三食しっかり食べなさい。睡眠もしっかりとること、睡眠時間を削って鍛錬をしないこと。睡眠不足は美容の大敵らしいわよ。あとは、男を作るのなら、長生きして貴方を大事にしてくれる人を見つけなさい。貴方は私と同じで美人なんだから、男に妥協なんてしちゃあ駄目」

 

 なんとも量の多いその忠言は、さながら母親のお小言のようで、まるで別れの言葉だと言うように口を開く清水に楓は一層腕に力を込める。

 

 

「……お母さんみたいなことを、言わないでくださいよっ」

 

「お母さんって、私はそんな歳じゃないんだけど……どうせならお姉さんって言ってくれないかしら?」

 

「言って、ほしかったら……私と一緒にっ、来てくださいよぉぉ」

 

 喉から絞り出したかのような震える声で楓は呟く。

 

「そうねぇ、そう出来たら、きっと幸せなんでしょうね。……楓ちゃんがいて、信乃逗がいて、真菰ちゃんがいて、胡蝶様がいて、アオイちゃんがいて、きよちゃん達がいて、カナヲちゃんがいて、あとおまけで山本がいて」

 

「俺はおまけかよ」

 

 何処まで扱いの変わらないその様子に、山本は苦笑気味に呟くが、その瞳は普段の彼からはとても想像出来ない、穏やかな色を宿している。

 

「みんなが笑って、ご飯を食べて、馬鹿なことを言って笑いあって、おはようっていって、おやすみって言える。そんな世界がもしもあったら、きっと凄く幸せだと思うわ」

 

 清水の言葉に、楓の脳裏にも思い浮かぶ。彼女の語る幸せな世界。誰も死なずに誰もがそこにいてくれる。当たり前のように平和な日常を過ごして、当たり前のようにまた明日も会える世界。

 

 ほっこりとするような暖かな空想の世界。もう手に入ることのない夢の世界は、楓の心に一時の幸せと、途方もない悲しみを与えてくる。

 

「私はね、楓ちゃんにそれと同じくらい幸せだとそう思える何かを見つけて欲しいの」

 

 

 そんなものはない。

 

 反射的に楓はそう思ってしまう。失ってしまったその光景と同じ幸せなどあるはずもない。

 

 だって今の楓にとって、その光景こそが最も幸せで、最も手に入らないものなのだから。

 

 人は手に入らないものこそ必死になって手を伸ばそうとする生き物。手に入らないからこそ欲しくて堪らなくなる。死んでしまった人は戻らない。その夢の世界の光景は、もう絶対に楓の手に入ることはないのだ。

 

 だから、その光景と同じくらい幸せなものなんて見つかる訳がない。

 

 

「鬼殺に生きる私達にとって、幸せって凄く難しいものだけど、それでも諦めたくなんてないじゃない。生きているんだから幸せになりたいじゃない。私は貴方に幸せになって欲しいし、貴方に後悔で最後を迎えて欲しくない。楓ちゃんはまだ此処で終わるわけにはいかないんでしょう?託されてきたそれを諦めたくないんでしょう?」

 

「ぁっ……私はっ……」

 

 

 清水の言葉に、楓の脳裏に過ぎていく約束。『託す』とそう言った大好きな人の姿、『この夢を未来へ』とそう言ってくれた先達の姿。彼等の想いをまだ楓は繋いでいない。この夢をまだ楓は語り継いでいない。

 

 

 此処で約束を終わらせたくない。

 

 

「……諦めたくないですっ」

 

 振り絞るように楓は呟いて、唇を噛み締める。

 

「なら、貴方はやっぱり生きなさい。今はまだ貴方が終わる時じゃない。……長くて短い時の中で、満足だったってそう思って最期を迎えられたなら、きっと貴方の人生はとても充実したものになっている。少なくとも、私は貴方の先の道を作ることができるのなら、此処で終わることに、何も不満はないわ」

 

 楓の出した答えに、安心したように穏やかな笑みを浮かべ、無限の慈愛を湛えるような瞳で清水は楓を見つめる。

 

 

 

「……うぅっ、ああああぁぁっ」

 

 

 

 辿々しく、擦れるようなその泣き声は、不条理を受け入れることしか出来ない弱者らしい、実に弱々しく悲痛な叫びだった。

 

 

 

 

 

—————

 

 

 

 

 あの時、自分で選んだのだ。生きることを、夢を繋ぐことを諦めない為に、この不条理な結末を、楓は選択した。

 

 

「正面っ!待ち構えてるっ!!絶対に止まらないでっ!!!」

 

 数十近い鬼が、進路を塞ぐように楓達を待ち構えている。正面を数で押し止め、こちらの動きが止まったところを側面や後方から追いかけてくる鬼で押し潰す腹づもりだろう。

 

 蟲の呼吸は、本来多数を相手取るのに適した呼吸ではない。点での攻撃は貫通力こそ一級品だが、線や面での攻撃と比較すれば、圧倒的に攻撃範囲が狭くなる。

 

 特に対鬼の戦闘に置いては、数字を持たない鬼であっても、一瞬で絶命させるには、最低2回は急所に毒を突く必要がある。一つの技で相手どれるのはせいぜい三体が限度。瞬間的に多数を討ち取ることが望ましいこの状況において、その欠点はある意味では致命的だ。

 

 

 だが、楓の修める呼吸はなにも蟲の呼吸だけではない。

 

 

(消えていく……私の幸せな夢の世界にいて欲しい人達がっ、どんどんいなくなっていくっ!!)

 

 目の前にいる数多の鬼よりも、楓の脳裏に浮かぶのは幸せな夢の世界の住人達。自分が側にいて欲しいと、そう思う彼等は、どんどん自分の側から消えていく。

 

 いつだって、あの人達は当たり前のように自分を犠牲にすることを良しとする。自分が死ぬのに、彼らはいつだって他人の身を案じる。

 

 優しい人達、尊い人達、誰かを思いやる心を持った立派な人達。

 

 信乃逗(しのず)も、小牧も、山本も、清水も、みんな、誰かの為に刀を振り続けた。

 

 最期まで立派な志を持ち、最期まで戦い続けた彼等は間違いなく英雄で、誰もがそのあり方を称賛するのだろう。

 

 それでも、楓はこの最期が許せない。この最期を否定出来なかった自分が、この最期を与えた存在がとてつもなく憎いのだ。

 

 

(生きて欲しかったっ!一緒にっ、みんなで帰りたかったっ!!)

 

 

 生きてさえいてくれればそれでよかった。夢も想いも捨てたっていい。みっともなく足掻いて、みっともなく駆け回って、自分が生きのびることを最期まで諦めて欲しくなかった。楓の伸ばす腕はあまりにも短くて、先を進む彼等の背をいつだって掴めない。

 

 

 

 全部全部、奪われていく。楓の大事なものが、大切にしている絆が、消されてしまう。

 

 

 

「鬼がっ、鬼なんていなければぁっ!!!」

 

 

 

 

——— 虹の呼吸 風神の舞 窮奇広漠(きゅうきこうばく) ———

 

 

 

 

 この世のは全てを憎むかのようなあらん限りの絶叫で、楓は疾風の如く加速する。

 

 

 空気の壁を突き抜けて、周囲に起こる風圧すらも巻き付けて、前方を塞ぐ鬼の集団の頭上に飛び込むと、その勢いを利用して空中で身を捻って回転する。

 

 何の抵抗すらもなく、刃の回転に巻き込まれるかのように、一瞬にして数十の鬼の首が宙を舞う。

 

 

 文字通りの瞬殺。

 

 

 鬼の目論見であった足止めは、ものの1秒もせずに壊滅した。

 

 

「なっ!?」

 

 何の障害すらもなく、真っ直ぐに駆けて行く僅か6人の鬼狩りの姿を見て、側面を張り付くように並走する鬼の集団が僅かに怯む。

 

 これ程の妨害、これ程の数で囲んでいながら、未だ一人たりともあの鬼狩りの集団を殺せていない。どころかまるで無人の野を駆けて行くが如く、あの集団はこちらの攻撃を意にも返さず、その速度を緩めない。

 

(まずい、まずいぞっ!このままでは突破されるっ!)

 

 他の鬼に紛れるように側面から鬼狩りの集団を追いかけるその鬼、轆轤(ろくろ)は内心を焦燥で焼きつくしてしまいそうになっていた。

 

 黒い長髪に長い顎髭を生やした鬼の瞳には下弦、弐と刻まれ、彼が鬼の始祖、鬼無辻無惨によって選ばれし、十二体の鬼の内の1人であることを物語っている。

 

(あの人間共っ、放つ空気が尋常ではないっ!特に先頭を走るあの女っ!あれはもはや人間の領域ではないっ!)

 

 数多存在する鬼の中でも特に強大な力を持つ筈の彼は、今、たった1人の少女に恐れをなしていた。

 

 あの人間達が山を下り始めてから、既に50を超える鬼が襲撃しているにも関わらず、その全てがあの先頭を走る少女1人に撃滅されている。

 

 信じられないほど卓越した速度と技量で、視界に入る鬼の首を全て刎ねている。

 

(あんな小娘があれほどの強さとはっ、あれが鬼狩りの柱かっ!)

 

 鬼となって以来、ただの鬼狩りであれば今までに幾度も葬ってきた。だがこれまで、柱と呼ばれる鬼狩りの中でも卓越した力を持つ剣士には出会ったことがなかった。

 

 この光景を見るに、これまで自分はまさに運が良かったのだ。下弦の弍となり、鬼になった頃からでは比較にもならないほどの力を与えられているにも関わらず、あの少女に勝てる気がしない。視界に入れば、瞬きのうちに絶命する。

 

 仮にも下弦に選ばれた轆轤がそう思うほど、今の楓の力は常識の外にあった。

 

(役立たず共めっ!数秒でも足を止められればいいものをっ)

 

 正面から向かって行ったところで勝ち目はないだろうが、今は数で此方が勝っている。本の僅かな時間、他の鬼共があの少女の動きを止められれば、隙をついて仕留められると、こうして周囲の鬼共に紛れて機会を伺っているというのに、肝心の足止めすら出来ていない。

 

 今こうして思考する間にも、襲いかかっていく鬼の数は目減りし、人間共は確実に山の出口に近づいている。

 

(どうするっ!?あの方の命令は絶対、しかしこのままでは逃れられるっ)

 

 全ての鬼の生みの親であり、主人でもある存在。鬼無辻無惨からは、この山から出る人間を1人残らず殺せと、そう命じられている。この山から生きて人間を出すなという命令を、このままでは果たせない。

 

 そうなれば、どのような罰が待ち受けているのか、想像するだけでも恐ろしい。

 

 ゾクリと背筋を振るわせ、轆轤はなんとか打開策を講じよう、必死に思考を巡らせる。

 

 

 そしてその瞳が1人の鬼狩りの姿を捉える。

 

 

(なんだあの鬼狩りは、体型が歪だ、重心もおかしい)

 

 少女の僅か後ろを懸命な様子で走る5人の鬼狩り、その内の1人の姿があまりにも歪だ。腹部から胸部にかけてやけにデコボコと膨らんでいる。どう見ても自然な太り方ではない。あれはまるで……

 

 

(……何かを抱えているかのような、そうだ、幼子をくくり付けた母親のような姿形)

 

 その鬼狩りを見て、ふと思いつくのは赤子を腹に抱える母親の姿。紐で体に赤子でも巻き付ければ、丁度あのような形になるであろう。まさか本当に赤子ではあるまいが、ボゴボコと膨らんだ黒服の下にあの鬼狩りが何かを抱えているのは明白。

 

(なんであれ、あのような状態で、まともに刀を振れるとも思えぬ、まずは後方から崩すべきか)

 

 今のままでは、先頭の少女を食い止めることは出来ない。ならば、ひとまず先頭は捨て置き、後方を走る5人の鬼狩りを集中的に狙うべきだ。特に、あの何かを抱えている鬼狩りは、あの集団において間違いなく急所。腹に抱えた何かが邪魔をしてまともに刀を振ることも出来ない筈だ。

 

 

 1人でも崩せば、あの先頭を走る少女にも隙が生まれるかもしれない。

 

 

「足を止めないでっ!もうすぐ山を出れますっ!」

 

 襲いくる鬼の首を刎ながら、先頭を走る鬼狩りの少女がそう掛け声を響かせた瞬間、その希望の言葉に、後方を走る鬼狩り達に一瞬、気が抜けたような、僅かな隙が生まれる。

 

 

 その一瞬の隙を、轆轤は見逃さない。

 

 

(ここだっ!!)

 

 

 

——— 血鬼術 影踏(かげふ)みの渡り ———

 

 

 視界に収めた影の上に瞬時に移動する異能。瞬きの間に、轆轤は鬼狩りの集団の懐に入りこむ。轆轤の視界に入り込む、驚愕に染まった鬼狩りの表情。何かを腹に抱えたその鬼狩りは、咄嗟の事態に、しかし腹に抱える何かが邪魔をして刀を振るうことも出来ない。鋭い爪をはやした指を揃え、腹に大事そうに抱えたもの諸共に貫いてやろうと、貫手の要領で轆轤はその豪腕を振るう。

 

 

 風を斬り裂く程の猛烈な勢いで、致命の一撃が男を貫く、はずだった。

 

 

「なにっ!?」

 

 驚愕に染まりきった声で轆轤は瞠目する。

 確実に届くはずだった致命の一撃は、確かに鬼狩りの身体を貫通した。だがそれは、狙った鬼狩りの身体ではない。

 

 腹に何かを抱えた鬼狩りを庇うかのように、ギリギリで別の鬼狩りの男が身体を割り込ませてきた。

 

(馬鹿なっ、正気かコイツっ!?)

 

 自らの体を盾にまでして仲間を庇うなど尋常ではない。人は鬼とは違い、再生能力など持たない。腹を刺し貫かれれば、走ることは当然、その命すらも危ういというのに、一瞬の躊躇いすらなくこの人間は飛び込んできた。そこまでする程重要なものをこの男は運んでいるというのか?

 

(一体何を運んでっ!?)

 

 そう疑問を宿したところで、轆轤の全身に強烈な怖気が走る。

 

 

——— 蟲の呼吸 

 

 

 僅かに視線を横に向ければ、先ほどまで先頭を駆けていた鬼狩りの少女が、此方に向かって来ている。少女を襲撃していたはずの鬼を一人残らず灰に変え、その瞳に恐ろしいまでの暗い怒りの色を籠めて、刀を構えている。

 

(まずいっ、避けなくてはっ!?なっ、腕が抜けないっ!?)

 

 恐ろしさすら感じる少女の形相に、直ぐにこの場を離れようと足に力を込めるが、鬼狩りの腹を刺し貫らぬく腕が、万力で固定されたように動かない。驚愕に染まって腹部に視線を向ければ、死にたいの鬼狩りの男が自らの腕を離すまいと必死の形相で掴んでいる。

 

 今にも死んでしまいそうな表情をしながら、鬼である自分の膂力を上回るかのような力、とても腹を貫かれた人間の出せるものではない。

 

(この男っ、何処にこんな力がっ!まずいっ)

 

 予想外の事態に生まれた、一瞬の判断の遅れ。それは轆轤にとってあまりにも致命的なもの。既に少女は目前まで迫って来ている。

 

 

      蜻蛉(せいれい)の舞 複眼六角 ———

 

 

 視界一杯に広がる少女の姿と、六つの星の輝き。自らの命を冥府に運ぼうとする閃光に、反射の領域で血鬼術を発動させる。

 

 

 

 

——— 血鬼術 影踏み帰り ———

 

 

 

 

 轆轤の視界がぶれ、森の中とは全く思えない場所を瞳に映し出す。

 

 此処はとある街中の廃屋の中。あの山からは3日は離れているその街の中で、自らが事前に設定してあった緊急避難用の影の上に轆轤は移動して来ていたのだ。

 

「……危なかった」

 

 森とはまた違った静寂に包まれた光景に、そっと、轆轤は安堵の息を吐く。

 

 死んだと、そう思う程今の一撃は非常に危なかった。刃が届く前には逃げきったから良かったものの、まさに危機一髪の非常事態。まさかこの場所に逃げ込む程自分が追い詰められることになるとは思わなかった。この緊急用の異能、自らの命が危機に瀕した時、轆轤はこの異能の力で何度も生きながらえてきた。

 

 畏怖の念すら籠めて下弦の弐、轆轤は自らの腕の先で息絶えた鬼狩りの男を見据える。先頭を駆けていた鬼狩りといい、この男といい、あの山の鬼狩りの集団は異常に過ぎる。人間かどうかを問わず、生き物とは死ぬことを恐れる存在のはず。

 

 あの集団にしても、直前までは生きようとする凄まじい執念のようなものを感じていた。ところが、自分が鬼狩り達の前に現れた瞬間、その執念は別のものに一変していた。あの集団の誰もがたとえ死んでも構わない。そんな暗い光を宿した瞳をしていた。生きようとしていたはずの人間が、果たしてそんな一瞬で死ぬことを許容できるだろうか。増して、己が命を犠牲にしてでも仲間を生かそうとするとは、全くもって理解に苦しむ。

 

(なんにせよ、ひとまずは生き残ったのだ。今は柱に殺されぬように力をつけねば)

 

 あの場をやり過ごしたことに対する安堵に、轆轤が息を吐いた時、その音は響く。

 

 

 

 ベンっ!

 

 

 

 不意に、部屋から轆轤の姿が消える。急に無人となったその廃屋には、一人の男の死体だけが残り、その場所に轆轤が訪れることは、二度となかった。

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました。
ご意見•御感想等いただけますと幸いでございます。

シリアス展開疲れ気味かな?

下弦の弐の血鬼術はオリジナルで書いてみました。
影踏み鬼を元ネタにしてますね。
轆轤さんはお呼び出しコースですよ



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次はきっと

読者の皆様を泣かせたい病にかかってるかもしれない

進撃の巨人のサントラ
「omake-pfadlib」を聴きながら読んで頂くとそれで完成という感じの話になってますので、聴きながら読んで頂けるとより良い作品になるかも?


 

 

 

 春の月夜、森の木々の奏でる音色に導かれるように、山本はそっと意識を取り戻した。

 

「うっ……ここ、は……」

 

 重く、怠い瞼をそっと開き山本は呟く。

 開かれた瞳に映るのは、大きな木の枝とそれを飾りつける葉の数々。隙間から見える夜空は星の輝きを美しく広げ、夜の恐ろしさを忘れさせる。

 

 空を見上げて寝そべっている。

 

 その状況から、おおよそ地に横たわっていると、そう認識すべきなのに、山本の後頭部に当たる感触はそうではないと言っている。

 

 

「やっと起きた?」

 

 

 声と共に視界一杯に広がる女性の顔。同期の清水ハルだ。

 

 

「し、みず?」

 

 

 此方を見下ろす彼女の顔を見て、寝起きのような山本の頭脳は、ようやく状況を把握しはじめた。

 

 この後頭部に当たる感触と、彼女の顔の見える位置を相対的に考えると、思い当たる解答は一つ。

 

 

 

 乃ち膝枕。

 

 

 今自分は女性に膝枕をしてもらっている。

 

 

 

(清水だけど……)

 

 

 とはいえ女性ということに変わりなし。その事実に山本は大はしゃぎしようとして、身体中に走る強烈な痛みに気付いた。呼吸がしづらく、身体にうまく力も入らない。

 

 

「寝心地はいかが?」

 

 にんまりとそう笑って問い掛けてくる清水の姿に、山本はしてやられたという感じが否めない。普段から互いによく喧嘩をする間柄なので、この手のことで喜んでいる様子を見せてしまうと、後から色々と言われる。

 

 

「最悪だ」

 

 

 負けた気分がな、と内心で呟きながら、山本は顔を背ける。

 

 

「あらそう。残念」

 

 

 そうは言いながらも、全く残念そうには見えないあたり、山本の内心を察しているのだろう。してやったりといった表情で笑う清水は、いつになく活きいきとしている。その口の端からわずかに溢れる血さえなければ、彼女が上弦の鬼と戦ったとはとても思えない。

 

 

「上弦の、鬼は?」

 

 

 体に走る痛みと、周囲に広がる悲惨な光景に、山本は顔を顰めて清水にそう問いかける。

 

 

「わからないわ、多分、もうこの辺りにはいないと思う。……楓ちゃん達、逃げきれてるといいんだけど」

 

 

 雰囲気の変わった山本につられてか、清水もそれまでのふざけた空気を一切感じさせない、疲れた表情でそうこたえる。

 

 

「……他の連中は、どう、なった?生きてるやつはいるのか?」

 

 

 僅かな希望に綴るような声が静かな月夜に響きわたる。

 

 清水は目を伏せると、ゆっくりと首を横に振ることでそれに答える。

 

 

「……そう、か」

 

 

 静かにそっと山本は目を閉じる。

 

 

 随分と皮肉な話だ。

 

 死ぬのがわかっていて、他の隊士が上弦の鬼に立ち向かうように仕向けた張本人が未だ息をしていて、仕向けられた彼らが既に息絶えているというのだから。

 

 

「覚悟はしてたが、俺は……地獄いき、だな」

 

 

 苦笑いを浮かべて山本は口を開く。

 

 この場の誰も彼もが、きっと死にたくなんてなかったはずだ。与えられた命を、こんなところで落としてしまいたくなんてなかったはずだ。

 

 

 彼らはきっと、生きたかったはずだ。

 

 

 それを山本が捻じ曲げてしまった。

 

 

 彼らの死に意味があると(うた)い、今日の死がいつかくる夢の日のためになるとそう諭して、たった数名の隊士を生かすために、彼らを死に導いた。

 

 

 なんと罪深く、業の深い行いだろうか。

 

 

 彼らの命を奪ったのは確かに鬼だが、彼等を殺させたのは山本に他ならない。十数人の命を奪わせたと、そう考えれば、それは地獄に逝くのには相応しい罪だろう。

 

 

「……そうね。そうなるかもしれないわね」

 

 

 そっと頭上から響く清水の声は肯定を示すが、それは彼の行いを咎めるような口調ではなかった。

 

 

「なぁ……お前も、死ぬのか?」

 

「多分ね。あの鬼が言ってた毒のせいかしら……あんたが今どんな顔をしているのか、よくわからないわ」

 

 

 上弦の鬼の毒による影響か、清水の瞳にはもう、山本の顔も、森の木々の色合いも、月の光でさえ、はっきりと映すことはない。

 

 

「……そうか」

 

 

 清水の言葉に力なく返す山本の声は、ひどく弱々しく、か細いものだった。

 

 

(……俺も死ぬんだろうな)

 

 

 清水や彼等を死に追いやっておいて自分だけ生き残るなど正直耐えられそうもないので、そのことに異論はない。だが、この結果はあまりにも悲惨だ。

 

 たった数名の人間を逃すために、この山に募った人間が文字通り殆ど全滅したということになる。

 

 

「これで、私達の代は、全滅ね」

 

 

 ふと、清水が口にした言葉に、山本は脳裏に2人の人間の姿を思い浮かべる。

 

 

真菰(まこも)ちゃんと信乃逗(しのず)か。俺らより若いくせに、ごほっごほっ……俺達より先に逝っちまいやがったからな」

 

 

 鱗滝(うろこだき)真菰(まこも)雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)、どちらも山本や清水よりも年下の同期だった。幼い少女のような真菰と、老人のような真っ白な髪をした信乃逗の組み合わせは、側から見ていてもとても面白いものだった。

 

 

「あんな子供が同期だなんて、最初は信じられなかったけど、2人とも私達よりずっと強かったわね」

 

 

 清水も懐かしそうにそういう。

 あの選抜から早いものでもう5年以上。合格の発表の時、横に並んだ背の低い子供達を見て、ひどく動揺したのを清水はよく憶えている。多くの剣士の卵が命を落としたのに、彼等よりも遥かに幼いあの2人がどうやって選抜を突破したのかと、疑問に思った。

 

 同時に、まだ家族と無邪気に笑い合っていなければいけないような歳をした彼等が、刀を握り、命を掛けなければいけないこの世界に、絶望もした。

 

 

「なぁ、清水。お前はどうして、鬼狩りになったんだ?」

 

 

 不意に、山本から出た質問。

 

 その質問に、清水は僅かに目を見開いて驚きを露わにする。

 

 鬼殺隊に入っているものが、その理由を他者に聞くことは滅多にない。彼等も皆わかっているからだ。鬼狩りの起源は、決してその者にとって良い記憶ではないということを。

 

 

「珍しいわね。あんたがそんなことを聞くなんて」

 

 

 今清水の膝に横になる男は、その手の話題は極端に嫌がっていたはず。どうして今になってそんなことを聞くのだろうかと、純粋に疑問に思ってしまう。

 

 

「別に、いいだろう。……最期に聞いて起きたいって、思っただけだ」

 

 

 最期、その言葉に清水はそっと目を閉じる。

 

 

 理解はしている。

 

 もうどうしようもないことも、これ以上にここでやれることがないことも。そう理解しているが故に、その言葉の重みを痛感するのだ。

 

 

 なにより、清水にとってこれを他人に語ることは初めての事。

 

 

 

 一瞬深呼吸のように清水は息を吸い込み、心に余裕を与える。

 

 

 

「……よくある話よ……私の住んでた村は鬼に滅ぼされたの」

 

 

 それでも、あの日の地獄を思い出して、清水は僅かに顔を顰める。多くの隊士の例に漏れず、清水の鬼狩りとしての起源も、決していい記憶ではないのだから。

 

 

「村の祭りの夜に襲われて、私以外、皆死んだわ。家族も隣のお爺さんも、近所の友達も、みんな、みんなね。私1人だけが、たまたま来てくれた鬼殺隊の人に助けられて、生き残っちゃった。……さっきまで楽しく笑っていたみんなが次々に悲鳴を挙げて死んでいく。……あんな光景を二度と見たくなくて、私は鬼狩りになったの」

 

 

 その日は、村に住む人達にとって、とても楽しい夜になるはずだった。

 

 100人足らずの娯楽の少ない小さな村では、祭りというのは年に一度だけの特別な夜。誰もが笑いあい、明日からも続く厳しい毎日の糧とするはずの祭りは、一瞬にして、悲鳴の絶えない地獄のような光景へと変わってしまった。

 

 

 あちこちから吹き上がる鮮血、飛び散る血飛沫。涙を流して地を這う友達の姿。もう動かない男を、泣きじゃくって揺する女性の姿。私を庇うように抱きしめたまま動かなくなった母と父。

 

 

 誰も彼も、つい今し方まで笑って口を開き、そこで生きていた。

 

 

 何年も、何十年もかけて紡がれてきた私の大切な絆は、たった一晩、僅か一刻も経たぬうちに全てがなくなったのだ。

 

 

 そんな理不尽を果たして許せるだろうか?

 

 

 いや、そんなのは無理だ。

 考えるまでもなく、赦せるはずがない。

 

 

 奪われたものは、失ったものは何一つとして戻ってこないのだから。

 

 私の家族も、皆の命も、彼等の笑顔も、何一つとして帰ってこない。そしてこの世界には、残酷すぎるその行いを平然と行う生き物が、未だ数多くいるという。それを聞いて何もしないでいられるわけがない。

 

 

 刀を手に取り、鬼が憎いと、命を返せと、戦わずにはいられなかった。

 

 

 

「………」

 

 

 

 初めて語られる清水の過去に、山本は瞠目する。

 

 彼女も鬼殺の剣士、その過去が決して明るいものではないであろうことは山本にも想像がついていた。

 

 だが、いざ実際に彼女の口から聞いてしまうと、そのあまりに悲惨な過去に驚きを隠せない。語られる口調は重く、その胸のうちに怒りや憎しみを持っていることを確かに感じさせる。普段おちゃらけて笑っている姿ばかり見てきたせいか、こういう一面があるというのはどうにも意外に感じてしまう。

 

 

「そんなところよ。……そういうあんたは?」

 

「おれか?」

 

「人に喋らせといて、自分だけ黙りは却下よ?」

 

「……分かってるって……俺も似たようなもんだよ。……俺の家族も鬼に殺された」

 

 

 もう8年も前のことだけどなと、山本は目を閉じて、瞼の裏に嘗ての地獄を映し出す。

 

 

「なんでもない1日の終わりだったよ。いつもみたいに飯を食って……みんなでわいわいはしゃいで、後はお休みって言って寝るだけだった。それがいきなり鬼が…やって来て、おやじとお袋を殺して、妹を……喰らい始めた。あいつは俺の前で、妹を生きたまま喰らいやがった。……あの悲鳴が忘れられなくてな。もう二度とあんな声を聞きたくなくて……俺は鬼狩りになった」

 

 

 扉を破って入ってきたあの鬼さえいなければ、また「おはよう」と、いつもみたいに言える代わり映えのない日常を過ごせるはずだった。たった1匹、人を苦しめることを生き甲斐にするような鬼がいなければ、妹はあんなに苦しまなくてもすんだ筈だった。

 

 思い返せば昨日のことのようにそれを思い返せる。痛いと、助けてと、泣き叫ぶ妹の声を前に、何も出来ずに地に蹲るあの時の絶望を。

 

 忘れられない記憶。自分に見せつけるように嬉々とした様子で、妹を食べるあの鬼の表情も、あの鬼の声も、動けない自分も、全てが憎くて仕方なかった。だがその憎しみをぶつけるべきその鬼は、自らを殺す前に、駆けつけた鬼狩りに首を斬られて死んでしまった。

 

 

 無論、その時には妹はもう死んでいた。

 

 

 赦せるはずがない。

 

 

 ——— あんな仕打ちを

 

 

 ——— あんな痛みを

 

 

 与えた鬼を滅したいとそう思った。

 

 

 あんな悲鳴をもう聞きたくないと。

 

 助けてとそう言われた時、今度こそ、今度こそ助けられるように、この手できっと妹の手を掴めるようにと、俺はあの日、刀を握った。

 

 

 

「……だけど、結局はこの様だ。俺は……たくさんの屋敷の一般人を見殺しにしか出来なかった。助けてと、そう懇願されても俺は誰一人助けられなかった。挙句にこの殿(しんがり)だ。たくさんの仲間の悲鳴を、聴いたよ。悲鳴はもう、聴きたくなかったのに……俺は悲鳴を上げて死ぬような道に……あいつらを誘導した」

 

 

 山本の心中を暗雲が覆いつくしていく。

 

 何が強くなりたいだ、何が悲鳴を聴きたくないだ、何が今度こそ助けられるようにだ。

 

 

 何一つとして俺には出来ていなかった。

 

 

 今日、一体何人の仲間が助けてと言って死んでいった?

 

 

 今日、何人に俺は死ねと言った?

 

 

 自分の語った願いを自分自身の手で壊している。そんな気持ちに山本が陥ってしまうことはきっと何も不思議ではなかった。

 

 

「…………」

 

「俺は、結局、何も出来なかった。……あの夜喰われたのが、妹じゃなくて、俺だったなら、違った未来もあったのかもしれねーな。鬼のいない世界、そんな夢を、実現できたかも、しれ、ねぇ」

 

 

 この場にいたのが自分じゃなければ、もっと違う選択肢を出せたかもしれない。ここにいた全員が助かるような、そんな夢のような選択を選べたかもしれない。山本には為せなかった夢が別の誰かなら為せたかもしれない。

 

 

 無意味な想定だ。

 

 そんなたらればは、ここに至って何の意味もありはしない。だけどそれでも、もしもと、そう考えてしまうのは、人の愚かさたる所以なのかもしれない。

 

 

 瞼の裏に描かれた幸せな希望と、同時に沸き起こる絶望を山本が感じていた時、ふと頭にそっと当たる不思議な感触。

 

 

 

「……大丈夫よ」

 

 

 頭上から落ちてくるその優しい声色の言葉に、山本はそっと閉じた瞼を開く。

 

 

 瞳に映るのは間違いなく清水だ。だがそれは、普段山本が知っている清水には到底見えない。月光を背に優しい声色と、穏やかな双眸で頭上から此方を覗きみる彼女の姿に、山本は一瞬言葉をなくした。

 

 

「あんな絶望的な状況でみんなを纏めて、これからも続く戦いにほんの少しでも希望を残したんだもの。あんたはよくやったわ」

 

 

 安心させるように山本の頭を撫でながら、清水は山本の残した結果を称賛する。

 

 

「今日、私達は確かに死ぬことになるけど、何も残せなかった訳じゃない。代償は随分と高いけどね。……それでも、私達は私達の生きた意味を、きっと残せたわ。私達がここで戦ったことで、失われなかったものがある。今は叶わない夢かもしれないけど……私達の残した意味はいつかきっと私達の夢に届くわ。あんたの……聴きたくない悲鳴が上がらない日は……いつか……きっとやってくる。……だから、大丈夫よ」

 

 

「…………」

 

 

 そっと空を見上げるように、顔をあげて言葉を紡ぐ清水の姿を、山本は目を見開いて見つめる。

 

 

 毒の影響か、あるいはもう光が見えていないかのように月を探して未来を語る彼女の姿は、これまで山本が見てきたどんなものよりも美しくて、儚くて、綺麗だった。

 

 

「楓ちゃんは……強い子よ。……私達よりも、ずっと。……私達の意味も想いも、きっと夢に繋いでくれる。……だから、私達は、後輩を信じていれば……いいのよ」

 

 

 にっこりと微笑みながら、清水は再び顔を下に、山本へと向ける。その表情は自信たっぷりで、これから訪れる死にたいする不安も、己が果たせなかった夢への後悔もない。今は叶わぬ夢がいつか果たされることを純粋に信じるその姿のなんと強かなことか。

 

 

「……そう、だな」

 

 山本の心を覆う暗雲に風が吹いて大空に溶けていく。

 

 清水のその姿に後押しされるかのように、山本も楓の姿を思い起こす。信乃逗が死んで以来、見ている方が辛くなるような修行を彼女は黙々とこなしてきたのだ。その実力は柱に届くと言っても過言ではない。か細い体で、信じられないほどの強さを身につけた彼女なら、確かに自分達の意味を繋いでくれる気がする。

 

 いや、きっと届けてくれる。あの娘は確かに強い、心も実力も、ずっと強くなっている。そしてこれからもきっと強くなる。あの娘は少々背負いすぎるきらいもあるが、彼女も決して1人ではない。おっちょこちょいな三人娘に妙に気を張った真面目娘。そして最後にとんでもなく怖くて、優しくて、強い人が彼の娘の側にはいる。

 

 

 だから、きっと大丈夫だ。

 

 

 そう安心したせいか、山本は少しづつ瞼が重くなっていることに気づいた。

 

 

 終わりが近づいている。

 

 この一生に、幕が下りる時間がすぐそこに来ている。

 

 

 

(……最期に……気づけてよかった)

 

 安堵に満ちた想い。騒がしいだけの間柄だった筈だが、こうなると、途端に惜しい気持ちになる。もっと早く気づいておけば良かったのかもしれない。

 

 

「……お前……結構、いい……女だな」

 

 

 そっと、呟かれたその言葉に、清水は僅かに目を見開いて驚くが、次の瞬間には目を細めてにんまりと微笑みを浮かべる。してやったりと言うように。

 

 

「……なぁに?今更、気付いたの?そうよ…私ほどいい女なんて、きっと、世界中探しても……そうそう、いやしないわ」

 

 

「あぁ……今、に、なって……気づく、なんて……な」

 

 

 

「っ……そうねぇ。次からは、もっと、早く……気づくことを……おすすめ、するわ」

 

 

 

「……あぁ……そう、だな………もし、も………つぎ、が……ある…なら…そ、の……ときは…………きっ……と………………」

 

 

 

 

「………………………」

 

 

 

 

 

 静かに、言葉は途切れた。

 

 

 彼の口からその先が語られることは、もうない。

 

 

 膝の上で静かに止まってしまった拍動を感じながら、清水はそっと、彼の瞳があるであろうそこに手をやる。薄らと開かれた山本の双眸は清水の手で覆い隠され、そっと清水が手を離すと彼の瞳は閉じられていた。 

 

 

 一見、その表情はとても穏やかで、頬についた血さえなければ、一時の眠りについているだけのようにすら見える。

 

 

「……おやすみ……山本……お疲れ様」

 

 

 長い長い眠りについた山本を労うように、清水は囁やく。やがて、自らに訪れる幕引きの時間まで、彼女はそっと眠ってしまった彼の頭を撫で続けた。

 

 

 

「……きっと、の……その先……聴きた……かった……な……」

 

 

 最期に呟かれた彼女の願い。その呟きにこたえるのは、無音の暗闇とそっと髪を撫でる一陣の風。

 

 

 月の光に照らされ、長い眠りについた2人の儚い姿を記憶に留める者は、彼等のもたれる一本の大樹のみ。

 

 

 そっと吹いた風が、彼等の頭上で葉を鳴らす。その死を悲しむように、彼等の声に応えるように。二人の眠りが安心できるものであるように。

 

 

 

 しなる枝に、春には美しい短命な花を咲かせるその樹木の名は、しだれ桜。

 

 

 

 

 

 

 その別名を ———

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

         

               ——— 夢見草という

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございました。
御意見•御感想等いただけますと幸いでございます。

夢見草とは桜の別名で、本来は夢のように美しくも儚い花であるという意味合いですが、この場面では二人が眠りの中で幸せな夢を見られるようにと使わせて頂きました。

うるっときてくれたかな?







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変わる者達


短いですが、これで第三幕、最終回です。
幕間を挟んで第四幕です。



 

 

 

 その場所に世の理路整然とした理は存在しない。

 

 

 あらゆる向きが入り乱れ、重力という概念を感じさせないその場所に、下弦の弐、轆轤(ろくろ)は立っていた。

 

 

(なんだ……ここは、どこだ?)

 

 

 呆然と轆轤は周囲に視線を巡らせる。

 

 つい先程まで、轆轤はある街の廃屋の中に居たはずだった。

 

 だが、今視界に映るこの光景は、とても廃屋と呼べるようなものではない。この世に存在するありとあるゆる部屋を抜き取り、めちゃくちゃにくっ付けたような、上下の入り乱れた、法則性の欠けらも見当たらない空間が、そこには広がっている。

 

 

(これは、血鬼術か……)

 

 

 僅かに落ち着きを取り戻した轆轤は、目に映るその光景に、ある程度の当たりをつける。

 

 この光景、どう見ても人間の作り出せるものではない。世の法則の理を超えたこの空間は、まさしく血鬼術によるもの。自らと同じ鬼が、下弦に選ばれた自分を此処に閉じ込めたことになる。

 

 

(これ程の規模の血鬼術……他の十二鬼月の仕業か?そもそも一体何が狙いだ?)

 

 

 相手を強制的に異空間に閉じ込める能力、それに加えてこの巨大空間の創造、明らかに並の鬼に出来る範疇を超えている。自分と同じく数字を与えられた鬼か、大量の血を与えられていなければ説明のつかない規模の能力。だが、仮に同じ十二鬼月だとして、その目的が分からない。この場所に、下弦の弐である轆轤を閉じ込めるその意味は、一体どこにある。

 

 

 ベンッ!

 

 

 不意に、それまでただ静かに広がるだけだった空間に奇妙な音が走る。

 

 反射的に音の発生源を辿るように轆轤が振り返ると、視界に入るのは長い黒髪を垂らし、黒い着物を着込んだ、琵琶を持つ女の姿。

 

 

(あの女かっ!)

 

 

 

 ベンッ、ベベンッ、ベンッ

 

 

 軽快に鳴り響く琵琶の音。それを認識した瞬間、轆轤の視界が再び変わる。

 

 音に合わせるように、轆轤は先ほどまで立っていた畳が敷かれた和室のような部屋から、木目状の床材が敷かれた部屋へと移動していた。

 

 

(強制移動っ!この異空間でも自在に移動させられるのかっ!)

 

 

 あまりにも強力なその血鬼術に、轆轤は驚愕し、畏怖の念すら込めた瞳で、琵琶を持つ女を見据えようとしたとき、その視界の変化が、なにも部屋だけのことではなかったことに気付いた。

 

 目の前に佇む、1人の紳士然とした若い男の姿。

 

 轆轤とは全く真逆の今の時代に相応しい、帽子に白いスーツ姿、赤いネクタイを締めた装い。いっそ人間とも思えるような気配を漂わせているその男を認識した瞬間、凄まじい速度で轆轤は地に膝をつき、頭を床に付ける。

 

 

(なぜ此処にっ、無惨様がっ!?)

 

 

 目の前に悠然と立つその若い男こそ、遥か昔、千年の時を生きる最古の鬼であり、全ての鬼の始祖、鬼無辻無惨。彼こそが鬼という存在の頭領であり、十二鬼月である自分の主人。

 

 鬼となって半世紀にもなるが、これまでかの主人に、轆轤が目通りが叶った数は、片手で数えられるほどに少ない。

 

 十二鬼月である轆轤をして、まさしく雲の上のように遠くにいるお方。そんな存在が、目の前に突如として現れたのだ。彼の心境はいま、驚愕と恐怖に満ち溢れている。

 

 

「何をそんなにも驚くことがあるのだ、轆轤。なぜ此処にお前を呼んだのか、分からないか?」

 

 

 頭上から響く底冷えするような恐ろしい声色に、轆轤は思わず悲鳴を上げそうになるのを必死に堪える。

 

 呼ばれた理由、それを問われれば轆轤には当然思い当たる節がある。まさについ先程まで轆轤があたっていたとある命令だ。

 

 その命令から、轆轤は命からがら逃げ出しているのだから。

 

 

(間違いなく、先の命に関することっ、どうすればっ)

 

 

「ほぅ、わかっているではないか、轆轤」

 

「っ……」

 

 

 頭上から降り注ぐその言葉に、轆轤の頭は一瞬真っ白に染まる。

 

 今、自分は口に出していただろうか、そんな疑問が頭に浮かび、すぐにそれを否と否定する。

 

 自分はいま間違いなく喋ってなどいなかった。口を開いてなどいなかった。ならばなぜ、目の前の主人はあのようなことを?

 

 

(まさか思考をっ!?)

 

 

 一拍遅れて、轆轤は自らの考えが主人には筒抜けであることを悟った。

 

 

「何も疑問に思うことはない。お前をここに呼んだのは必然だ」

 

「ひッ!?」

 

 頭上から襲い掛かる圧倒的な怒気。その恐怖に、轆轤は今度こそ耐えきれずに悲鳴の声を漏らす。

 

 

「私は命じたはずだぞ、轆轤。あの山から出る全ての人間を殺せと、鬼狩りを全て殺せと、私はそう命じたはずだ……何か間違いがあるか?」

 

「いいえっ!ございませんっ!」

 

「ならばなぜ鬼狩り共を殺さなかった?なぜ生きて山を出た鬼狩りがいる?」

 

「そ、それはっ……」

 

 

 言葉を詰まらせながらも、轆轤は必死に思考を巡らせる。なぜ鬼狩りが生き残ったのかなど問われたところで、その解は多岐に渡る。そもそもあんな強い鬼狩りの女がいたことが計算違いであるし、周りにいた鬼どもがあまりにも弱かったことも一因にある。あれだけの数で囲んでおきながら、自分以外は1人も鬼狩りを殺していないのだから、どう考えても実力が足りていなかったことは明白だ。

 

 だが、それを言ったところで目の前の存在に通ずるとも思えない。根本的なところで言えば、自分があの鬼狩りの女から逃げ出したことが大きな要因であることは無論わかっているし、それを目の前の主人に言えばどうなるかも、轆轤はよく分かっている。

 

 

(難しいっ、なんと答えればっ)

 

 

 何を言うべきか、どう言い訳をするか、その判断の逡巡が轆轤の選択肢を奪う。

 

 

「何を考える必要がある?何も難しいことではないだろう轆轤。全てはお前が逃げ出したからだ……お前があの場から逃げた後、鬼狩り達は苦もなく山から逃げ延びたぞ。私が何の為にお前達下弦を山の外に留めたのか、お前はまるで理解出来ていない」

 

 

 お前のせいだと、そうはっきりと責任の在り処を告げる無惨に、轆轤は恐怖のあまり、目を見開いて否定する。

 

 

「ち、違いますっ!あれは他の鬼共がっ!」

 

「黙れ、何も違わない。私は何も間違えない。全ての決定権は私にあり、私の言うことは絶対である。お前はただの鬼狩り如きに恐れを抱き、私の与えた命に背いたのだ」

 

「あ、あれはただの鬼狩りではありませんっ!あれは鬼狩りの柱でっ!」

 

 

 唾が飛び散るような勢いで、轆轤は頭に浮かぶ言葉をただ羅列させる。もはや彼の頭は正常に機能しない。目前に迫る圧倒的な恐怖、これから訪れるあまりにも恐ろしい未来を回避する為だけに、回らない頭を必死に動かし続ける。

 

 

(あの女だっ、あの女の鬼狩りの柱さえいなければっ、私がこんな目にっ)

 

 

 全ての元凶は、あんな強い鬼狩りがいたからだ。そうでなければ、あの女さえあの場にいなければ、何の問題もなかったと、轆轤は内心でそう叫び続ける。

 

 

「あの娘は柱ではない。あの山に柱などいない。そもそもお前は勘違いをしている。柱であれば逃げても良いと、私が言うと思ったか?私がたかが柱程度の存在に臆するようなお前を許すと思ったか?」

 

 

 無論、無惨にそのような言い訳は通用しない。彼が必要としているのは、結果のみ。例え轆轤があの場で死のうとも、結果として鬼狩りが山を出ることができなければ、彼にとってはそれは成功であり、殉教の死を遂げた轆轤は無惨に咎められることはなかった筈だ。無論、鬼狩りに殺された下弦の鬼など、無惨の記憶に留まることすらないだろうが。

 

 だが、結果は鬼狩りを取り逃し、あろうことか人間から鬼が逃げ出すなどと言う不愉快極まりない光景を、轆轤は無惨に届けてしまった。

 

 

「ぁあっ………」

 

「私の命に背く者は十二鬼月には必要ない。私の命に背き、私の言葉を否定するお前は、死に値する」

 

 

 もはやその死の宣告は避けられなかった。告げられた言葉と共に、無惨の片腕がぶくぶくと膨れ上がり、巨大な犬の口のように変化していく。

 

 

「お、お待ちくださいっ!無惨様っ!どうかお慈悲をっ」

 

 恐怖に涙を流しながら、情けない悲鳴の声を上げて、轆轤は主に懇願する。

 

 己が部下の必死の願いを、無惨は受け入れた。その片腕が開いた巨大な口の中へと。

 

 

「アッギャァァッ!?」

 

 耳をつん裂くような絶叫と、バキバキと骨肉を噛み砕く咀嚼音が、異空に響き渡る。

 

 

 

 

 

「……(うつろ)

 

 やがて全ての血肉を食べ終え、再び静観な空気の戻った異空に、無惨の声が響く。

 

「……ここに」

 

 不意に、その呼び声に応えるように無惨の後ろに跪く影。

 

「今日よりお前が下弦の弐だ」

 

「……光栄にございます」

 

「お前のもたらした情報は随分と役に立った。鬼狩り共の鴉を始末した手際も中々だ。やはりお前の能力は使い勝手が良い。これからも私の為に尽くせ」

 

「……御意」

 

 

 ベンっ!

 

 

 再び琵琶の音が鳴り響く。音がなり終わる頃には、すでにそこに無惨の姿はない。

 

 後に残るのは床に残った血溜まりと、空と呼ばれる新たな下弦の弐。

 

 黒いフード付きのマントを着込み、顔に狐面を付けたその出立の鬼は、静かに立ち上がると、元下弦の弐の作りあげた血溜まりを静かに見つめる。

 

 

「今日はどちらに?」

 

 不意に、虚に掛かる声。

 虚が声の主人に視線を向ければ、そこにいるのはこの異空間の主、琵琶を持った女の鬼だ。琵琶の君、琵琶女、呼ばれる呼び名は多くあるが、そのどれもが彼女の本名ではない。

 

 彼女の名は鳴女(なるめ)、数字を与えられていない鬼の中で、無惨が最も重用する鬼。

 

「……天野山まで」

 

「数字入り、おめでとうございます」

 

 

 ベンッ!

 

 

 去り際に一言、祝言のように呟かれた言葉を最後に、琵琶の音が鳴り響く。

 

 その次の瞬間には空の瞳には鬱蒼とした森の木々が映り込んでいる。

 

 第三者が見れば、単的で実に短いそのやり取りに、仲が悪いのではないかと、そう勘ぐってしまいそうになるが、別に虚と鳴女の仲が極端に悪いわけではない。そもそも、鳴女は基本的に他者との会話を好まない。あの異空で1人琵琶を弾き続けることを唯一の望みとする彼女は、その役目以外では他の鬼には口を開かない。

 

 そんな彼女からの祝福の言葉ともなれば、彼女を知る他の鬼であればさぞかし喜んだことであろう。

 

 

「……嫌味か」

 

 だが、空がその祝福を言葉通りに受け取ることはない。短い付き合いながら、彼女が他の鬼を祝福するような性格をしていないことを、空はよく分かっている。

 

 

 大きく傾く月の光を見上げて、未だ暗い夜の森の中を空は歩く。

 

 

 

 

 この山で起きた悲劇、その序曲を作り上げた己が目で、今日の結果を確認する為に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空気に匂いを感じる。

 

 鼻腔に流れ込んでくる新鮮な空気は、冷たく、どこか湿っぽい。大量の情報を含んだその空気に(かえで)はゆっくりと目を開ける。

 

 その途端、脳の奥に突き刺さるような強烈な光を感じて、楓は慌てて瞼をギュッと閉じる。

 

 恐る恐る楓が瞼をもう一度開いてみると、瞳が映し出すのは、様々な色をした光の乱舞。虹色の宝石のような輝きに、楓は自身の瞳に大量の液体が溜まっていることに気付いた。

 

 楓は目を瞬いて、液体を追い出そうと試みるが、不思議と液体は後から後から溢れ出てきて、一向になくならない。

 

 それは涙だ。

 

 楓は今、泣いているのだった。

 

(どうして……)

 

 そんな疑問が彼女の心中に飛来する。胸の奥底に、激しく深い喪失の余韻だけが残り、それがせつない痛みとなって、楓の涙腺を刺激する。耳に残る誰かの呼び声、誰かが自分を呼んでいたようなそんな気がする。

 

 

『高野ちゃん』

 

 

『楓ちゃん』

 

 

 

(あぁ……そうだ……私は……)

 

 

 

 

——— 失くしてしまったんだ

 

 

 

 

 

 途方もないその喪失感に、楓は自分が選んだ喪失の道にいることを思い出した。

 

 

 

 

 

———

 

 

 

 

 薄暗い空の下、整然と立ち並ぶ沢山の御影石。区画で仕切られたその広場一杯に広がるその石柱の数こそ、千年にも渡る長き時の中で、鬼殺隊が積み上げてきた想いの証。数多の英霊達を静かな眠りへと誘うその場所の一画に、高野楓は佇んでいた。

 

 

 「……………」

 

 

 無言で、彼女は目の前にある冷たい墓石を見詰める。石材に刻まれた碑銘は彼女のよく知る者達の名前。

 

 

『山本 宗一 享年 20歳 』

 

『清水 ハル 享年 21歳 』

 

『雨笠 信乃逗 享年 16歳 』

 

 

 横一列に並ぶ三つの墓石は、いずれも彼女にとって、なくしたくない大事な人達だった。側にいて欲しい、もっと色んなことを語らいたい、大切な人達だった。だが、今彼等の誰もが、楓の言葉に声を返すことはない。

 

 冷たく、何も語らず、ただそこに鎮座する名前だけを刻まれたそれらから、楓は目を離さない。

 

 

「……楓、葬儀はもう終わったのよ……もうすぐ雨も降るわ……蝶屋敷に戻りましょう」

 

 不意に、楓の背にかかる優しげな声色。聞くものを安心させ、穏やかな心地にさせるその声の主に、楓はちらりと振り返る。

 

「……しのぶ様」

 

 楓の瞳に映るその人物は、楓にとって生きていてくれる数少ない大事な人。どんどんと少なくなっていく、楓の側にいて欲しい人の1人。自らの鬼狩りの師である胡蝶しのぶを見て、楓はそっと彼女の名を呟く。放たれた彼女のその声色は酷く疲れきっていて、今にも消えてしまいそうなほど儚く、か細いものだった。

 

 

 

 今日、血の惨劇を生み出したあの夜の犠牲者達は、その全員が葬儀を終えた。山に集った41名の隊士達、そのうち生き残ったのは僅かに5名。36名にも及ぶ大規模な葬儀は、鬼殺隊に決して少なくない衝撃を与えた。参列者は過去最多を記録し、親族や関係者以外の葬儀場への立ち入りは禁止されるほどだ。

 

 楓を含む生き残った5人の隊士達は、隊内では英雄のように扱われた。上弦の情報を持ち帰り、多くの鬼を討伐して生き延びた隊士達と、そうもてはやされた彼等は、しかし、皆揃って首を横に振った。あの山にいた彼等は分かっている。

 

 自分達は生かされただけだということを。

 

 真なる英雄というのであれば、それは間違いなく山に残り上弦と最期まで戦った、今日、墓碑に刻まれた彼等のことであると。

 

 生き残った彼等は一様にそう語った。それを語る声色も、決して喜色に富んだものではない。一様に暗く、そして重い、生き残ったことを彼等の誰一人として喜んでいるようには見受けられない。隊士の多くは、それを疑問そうにしているが、それは何も不思議なことでないと、しのぶはそう思う。

 

 

(……生き残るという、その重みを多くの隊士達は知らない)

 

 

 苛烈な戦場で、死に逝く仲間を目にして、死に逝く仲間に生きろと、そう言われることの辛さを、多くの隊士達は知らない。無論、それは決して無理のないことだ。そんな重みは、経験して初めてわかるもの。仲間に夢や未来を託される、そんな悲惨な経験を重ねた隊士は、毎夜鬼と戦い続ける鬼殺隊においても、決して多くはない。

 

 経験でしかわからない重みを、経験したことのない彼等に分かれと、そう言う方が理不尽だろう。

 

 今日の葬儀は、楓や生き残ったもの達にとっては酷く辛いものとなった筈だ。英雄達と一言でも声をかわそうと、場違いにもはしゃぐ隊士達や、何も知らないもの達からかけられる慰めの言葉は、彼等の心に大きな負荷となった筈だ。

 

 故に、しのぶは楓に、何も言わない。どんな言葉をかけても、今の彼女にとっては、心に振るわれる刃となってしまう。

 

 

「しのぶ様……私、分からないんです」

 

 

 不意に視線を墓石へと戻した楓が、そう呟いた。

 

 

「私、鬼は哀れな存在だと、そう思っています。彼等の多くは被害者で、なりたくもない鬼にされて、心のあり方すら無理矢理に変えられたあの人達を、私は助けられない……殺すことでしか彼等を止められません。彼等を殺すことなく救えたならって、本当はそう思っていました」

 

 

 ポツリと独白するように、楓は墓石を見据えたまま呟いた。

 

 他の隊士が聞けば、何を言っているのかと、そう罵声を浴びるかもしれない言葉。楓達がいるこの場所は、鬼に殺された者達が眠る場所なのだ。そんな場所で、こともあろうに鬼を救いたいなど、そうそう口に出していいものではない。

 

 ただ、幸いにも今ここに、楓としのぶ以外の人はいない。雨すら降り出しそうなその曇天に、墓場に長く居座る者はいない。

 

 

 楓のその独白を、しのぶは黙って聴き続ける。

 

 

「でも、今は……そう思えないっ」

 

 

「…………」

 

 

「鬼を哀れむ私に、小牧さんも、信乃逗(しのず)さんも、夢を託してくれたっ!それなのにっ、私はっ、あの夜……彼等に憎しみだけで刀を振るってしまったんです。みんなを奪った鬼が憎くて仕方がない……彼等を救いたいのに、その筈だったのにっ、私は彼等を殺してしまいたいと、そう思ってしまってるんですよっ」

 

 悔しそうに、歯を喰いしばって、楓は地の底に向かって叫ぶ。

 

 あの夜、山を駆ける楓は、沢山の鬼の首を刎ねた。道を塞ぐ鬼を、絶叫でもって怯ませ、その憎しみの篭った刃で、彼等の命を奪った。もはや数えることすら出来ない程、楓は多くの鬼を憎しみと怒りの中で殺した。

 

 それは本来、決して悪ではない。多くの鬼殺隊の隊士は皆、鬼を憎み、鬼に怒り、彼等のおこす惨事を防ごうと戦っているのだから。楓の尊敬するしのぶも、小牧も、信乃逗ですら、鬼には憎しみの感情を持っている。鬼を殺したいとそう思って殺すことを咎められるものなど、どこにもいない。

 

 

 唯一、彼女自身を除けば。

 

 

 高野楓にとって、鬼への殺意と憎しみに呑まれるということは、これまで彼女が抱いてきた想いへの裏切りに他ならない。鬼を救いたいという楓の意思の元、小牧や信乃逗から想いや未来への夢を預かった筈なのに、その元となる想いをなくしてしまったら、彼等の意志を裏切ってしまったようで、楓の心を、とてつもない苦しみが襲うのだ。

 

 

「もうっ、分からないんですっ……鬼にされた彼等を救いたいのかっ、それともただ鬼を殺してしまいたいのかっ……私には分からないっ」

 

 鬼を救いたいと、そう想い続けるには、楓が鬼に奪われた大事なものはあまりにも多過ぎた。胸の内から湧き上がってくる黒い憎しみの光が、楓の心中を染め上げていく。これまで、本心から鬼を救いたいと思っていたその気持ちが、殺意に塗り変わってしまう。

 

 それでも、楓は鬼を救う道を諦められない。救いたいと、そう思うことを捨てることができない。

 

 なぜなら、楓はもう夢を預かってしまっているから。この夢を諦めたくないとそう思って、選んでしまったから。

 

 

 託された想いを貫く為に、楓は鬼を救いたいと、そう思わなければいけない。

 

 

「っ…………楓…」

 

 楓のあげるいっそ悲鳴にも聞こえる苦しみの声に、しのぶは思わず彼女を背後から抱きしめる。

 

 楓の抱くその苦悩を、しのぶは解決することは出来ない。しのぶ自身、自らの抱えるその苦悩に、未だ答えが出ていないのだから。

 

 彼女の抱くその想いは、嘗ての花柱、胡蝶カナエの持っていたものと酷く類似したもの。そして同時に、今のしのぶの抱える感情と同種のもの。

 

 鬼を救いたい、でも鬼が憎い楓と、鬼が憎い、けれど救わなければいけないしのぶ。二人の抱く相反する想いは、他者には決してわからない苦悩で、彼女達だけが持つ、彼女達の持つ苦しみ。

 

 

 同じ苦しみを抱えてしまった弟子を前に、しのぶには、ただ抱きしめてあげることしか出来ない。

 

 

 

「……帰りましょう、楓、私達の家に」

 

 どれほどの時間そうしていたのかは分からない。やがて墓石から振り向いた楓に、しのぶはそっと呟いた。

 

 

 失ってしまったそれに手を伸ばす大事な弟子に、孤独になっていく大事な仲間に、同じ苦悩を抱く彼女の帰る場所になれるように、しのぶはそっと楓に手を差し出す。

 

 

「……………」

 

 

 小さく俯いた楓は、無言でそっとしのぶの手を掴んだ。

 

 

 

 

 暗く黒い曇天の下、地面には、ポツポツと水滴が落ち始めていた。

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等いただけますと幸いでございます。

無惨様、今作ではちゃっかり初登場でした。
無惨様の不条理感がいまいち出しきれなかったような気もしますが、一先ず轆轤ちゃんは退場です。


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幕間 桜の下で


ちょっと短いかな?


 

 

 

 黒く、分厚い曇が、この広い空を覆って何処までも続いていく。

 

 昼間だというのに、夜を思わせるような暗い空の景色の下で、黒服に身を包んだその集団は募っていた。

 

 

「これより、天野山での戦闘によって命を落とした者達の葬儀を執り行う」

 

 粛々と厳かな声色でもって、その集団の目的は幕を上げる。

 

 これまで多くの英雄達を受け入れて来たその場所に今日、新たな英雄達が加わる。

 

 天野山で起きた一晩の惨劇。家紋の屋敷に滞在していた隊士、36名、家紋の屋敷に住う一般人、28名、延べ64名が、僅か一晩の内にその命を落とした。その事件は、千年の時を渡る鬼殺隊を震撼させ、多くの隊士達にえも言えぬ恐れを植え付けた。

 

 上弦の鬼による家紋の家の襲撃、加えて山を取り囲む程の数による鬼の攻撃は、長い鬼殺隊の歴史の中でも、類を見ない程大規模な襲撃事件であり、もしもその場にいたのなら、きっと自分も死んでいたと、多くの隊士がそう思う程、あまりにも絶望的なもの。

 

 中でも僅かな生還者からもたらされた、首を斬っても死なぬ鬼がいるという情報は、既存の鬼殺の常識を打ち崩すには十分すぎるもので、その衝撃に刀を捨て、隊を離れる者まで出る始末。鬼の恐怖に屈してしまった者は二度と鬼には立ち向かえない。それを理解しているからこそ、刀を捨て去る者達を、誰も責める者はいなかった。

 

 鬼殺隊にとって、今回の人的損害はあまりにも大きく、得られたものは僅かな上弦の情報と鬼のとった行動のみ。一見、敗戦の影すら思わせるその結果にも関わらず、この葬儀の場に集った者達には不思議と、そのような暗い面差しは見えない。

 

 一様に顔を上げ、しっかりと前を見据えている。その瞳に絶望の色はなく、いっそ希望を見たかのように誰も彼もが芯のある光を宿してその場に立っている。

 

 あの山での戦いで、確かに鬼殺隊が得たそれは、限られた情報のみ。だが、それはこの場にいる者達にとって間違いなく前進であった。どんなに過酷な状況にあっても、戦うことを諦めず、死して尚、希望を託してくれた英雄達を彼等は決して忘れない。

 

 

 この墓地に名を刻まれた仲間たちのその偉大さを彼等は決して忘れない。

 

 

「階級、(きのえ)小牧(こまき)柊生(しゅうせい)、階級、丙、伊野陽太、階級———」

 

 

 その中の一人、甘露寺(かんろじ)蜜璃(みつり)は、読み上げられていく名前にそっと目を伏せる。

 

 炎の呼吸を扱う隊士の中で、小牧柊生を知らぬものはいない。甘露寺も、今では恋の呼吸という自らの編み出した呼吸を主体として柱にまでなったが、未だ炎の呼吸を修行中であった頃、研鑽されたその正確無比な技に、何度か教えを乞うたことがあった。

 

 自らの師であった煉獄(れんごく)杏寿郎(きょうじゅろう)が、是非継ぐ子となって欲しいと、絶賛する程の腕前だった彼ですら、上弦の鬼には勝てなかった。

 

 本来であれば、ここには炎柱である煉獄も出席していなければいけないのだが、鬼狩りの指令により、今は生憎と遠出をしていて、この葬儀には間に合わなかった。

 

 

「階級、(ひのと)山本(やまもと)宗一(そういち)、階級、丁、清水ハル、階級———」

 

 

「ぁ……」

 

 

 聞こえてくるその名前に、甘露寺は一瞬、瞳を潤ませる。

 

 

 

——— 山本宗一

 

 

 

——— 清水ハル

 

 

 

 この2人の名前が、甘露寺の脳裏に、あの日、天野山で見た記憶を呼び起こすのだ。

 

 

 

 

 

 

—————

 

 

 

 

 その日、ぽかぽかとした気持ちのいい朝陽を浴びながら、屋敷の縁側で刀の手入れをしていた甘露寺は、息をきらして屋敷に飛び込んできた鴉のもたらした情報に、すぐさま駆け出すことになる。

 

 

 上弦の鬼の出現の情報に加えて、大規模な鬼の群れが家紋の家を襲撃したとあっては、柱としては直ちに向かわなけれないけない。

 

 鴉より伝えられた甘露寺への指令は、天野山での鬼の警戒、生存者の捜査と救助、もしも生存者がいなければ遺体の回収まで、隠の護衛を行うこと。この指令は風柱、不死川実弥及び蟲柱、胡蝶しのぶにも同様に出ている。柱3名を動員する程の大規模な襲撃。甘露寺の心落ち着く休日は、一瞬にして命を失う覚悟を背負わせる過酷なものへと変わった。

 

 

(上弦の鬼に勝てるかなあ〜)

 

 

 友人であり、唯一柱の女性仲間でもある胡蝶しのぶからは、上弦の鬼は柱3人分の実力に匹敵すると聞かされている。もしも単独で上弦と接敵すれば、死ぬかもしれない。今は未だ昼前、陽が差している今の時間なら、恐らく鬼はいないはずだが、油断は出来ない。洞窟や日陰になっている場所に、鬼が潜んでいる可能性も十分にあり得るのだから。

 

 天野山なら、甘露寺がいる場所がおそらく最も近い。全力でかければ、夕方までには辿りつくだろう。

 

 

(上弦の鬼でもなんでも私が近いんだから、私がなんとかしなきゃ)

 

 

 そう勇んで山に到着した甘露寺の瞳が、鬼の姿を捉えることは、残念ながらなかった。

 

 

 

 代わりに視界に映るのは、あまりにも悲惨な光景。

 

 山の入り口に、打ち捨てられた亡骸の山。無残に喰い散らかされたそれは、もはや誰が誰の遺体なのか判別することすら難しい。

 

 

 

(なんなのっ、これっ……こんな酷いことをっ)

 

 

 あまりにも惨たらしいその光景に、甘露寺の心に怒りの炎が巻き起こる。

 

 

 だが、この地獄のような光景は甘露寺にとって未だ入り口でしかなかった。

 

 

 鬼を探し、生存者を探し、山中に足を進めていく甘露寺の瞳は、そのどちらも映すことはなかった。

 

 

 鬼はどこにもいない。

 

 

 ただ、生存者もいなかった。

 

 

 目に映るのは静かな自然の景色と、無残な遺体ばかり。屋敷は跡形もなく燃え尽きていて、遺体も屋敷にあったであろう思い出も、残らず灰となってしまっていた。山の中腹にある僅かに開けたその場所には、狭い場所に身を寄せ合うようにして、家紋の家の者達が斬り裂かれて息絶えていた。

 

 

 どこを見渡しても、甘露寺の瞳には静観な地獄しか映らない。

 

 

(誰かっ、誰かいないのっ、お願い、誰か生きているって言ってよっ)

 

 

 やがて懇願するように彼女は山を駆けていた。

 

 この山に起きた悲劇を、もう十分過ぎる程、彼女は理解していた。鬼なんていなくてもいい、誰か一人でも、たったの一人でもいいから声を出して欲しい。この静かな森の中に、たったの一つでも、人の声を聞きたかった。

 

 

 そうやって必死になって駆ける彼女の視界に、不意に、一つの花弁が舞い込む。

 

 

「さく、ら?」

 

 ひらひらと、風に乗って舞うその花弁が、甘露寺の足を止める。今は5月の下旬、本来であれば、桜の季節はとうに終わっている。こんな時期に、桜の花びらが宙を漂うなんてことがあるのだろうか。

 

 そう疑問に思うものの、現に甘露寺の目の前には桜の花弁が舞っている。風の流れにのって、次々と流れてくる桜の花びらに誘われるように、甘露寺はその出所へと歩を向ける。

 

 足を進める内に、甘露寺の視界には、またも静観な地獄のような光景が映る。あちこちに転がる刀と、滅の文字を背負ったその遺体は、鬼殺の剣士達のもの。

 

 きっとこの場所で鬼と戦い、果てたのだろう。そう察するのには十分な戦闘痕が、この開けた空間には広がっていた。

 

 

(……みんな死んでる)

 

 

 この場所に、この山に生存者はいない。山に残った者は一人残らず鬼に殺された。それを理解するのには、あまりにも十分過ぎる光景。

 

 

(もう、嫌だ)

 

 

 もうみたくなかった。こんな地獄のような景色を、ひたすらに確認する作業が、辛くて仕方がない。

 

 苦しかっただろう、怖かっただろう、目を閉じて、耳を塞ぎたくなるほどの叫びが、この山には響き渡っていた筈だ。シーンと静まりかえったこの山に、未だに彼等の苦悶の声が響いてくるようで、甘露寺も思わず耳を塞ぎたくなる。この景色をもうこれ以上見たくない、目を閉じてしまいたい、そう甘露寺が思った時、視界に再び花弁が舞う。

 

 

 

 視界を横切っていく花弁に釣られるように、甘露寺の瞳が動く。

 

 

「ぁ…………」

 

 

 目に入ったその光景に、甘露寺は目を見開き、驚きに小さな声を上げる。

 

 桜の花びらの出所がわかった。甘露寺の目の前に現れたのは巨大な枝垂れ桜。時期的に、やはり満開とはいかず、その大樹の殆どは緑に埋められているが、時期外れにも僅かに花を咲かせている。甘露寺をここまで運んだ花弁も、残った花から散ったもの。

 

 この時期に未だ桜が咲いているという事実は、確かに驚くべきこと。ただ、甘露寺の驚きの声は、決して時期外れの桜を見て出たものではない。

 

 

 彼女の視線は今、一本の大樹、その幹に背を預けて息絶えた一人の女性と、その女性の膝上に頭を預けて息絶えた男性に集約されている。

 

 

 不意に強く風が吹き、桜の花弁が宙を舞う。

 

 

 宙を舞う花弁が、彼等の側を舞い、地に落ちた花弁と草の葉が地面を彩る。風に揺れる葉の奏でる音色が、彼等の静かな眠りに対する子守唄のように、辺りに響いていく。

 

 

「っ…………」

 

 

 目に映るその光景に、甘露寺は息を呑む。

 

 この光景を、なんと表現したらいいのだろうか。

 

 

 『美しい』

 

 

 『綺麗』

 

 

 どれもこの状況には、あまりにも似つかわしくない言葉。もとよりそんな言葉で表せる光景ではない。この光景を人の言葉で表すことは、きっと出来ない。

 

 

 そう甘露寺が思うほど、目に映る光景はあまりにも幻想的で、儚かなかった。

 

 

 寄り添うように動きを止めた二人の姿から、甘露寺は目を離せない。

 

 恋仲だったのだろうか、二人の表情は、死に逝く人の表情としてはあまりにも穏やかで、こんな状況でもなければ、眠りについているだけだと、そう勘違いしてしまいそうになる。

 

 

 

 

「……おい甘露寺ィ、テメェ、何をボゥっと突っ立ってやが……」

 

 どれほどの間そうしていたのかは分からない。不意に、聞き覚えのある声が甘露寺の後ろから響く。野太く荒っぽい言葉遣いのその声は、同じく柱の一画に数えられた不死川のものだろう。彼にもまた、鴉の指令が行っていたはずなので、この場に来ることは何も不思議ではない。

 

 だが、その声も不自然なところで途切れると、甘露寺の隣に立って足を止める。

 

「……知り合いかァ?」

 

 彼にしては珍しく静かな、落ち着いた声色で、横に立つ甘露寺に向けて問い掛ける。視線を一切逸らすことなく、二人を見据えたまま、甘露寺は無言で首を横に振る。

 

 

「そうかよォ……すぐに隠が来る。陽が暮れる前にこいつらを連れて山を下るぞォ」

 

「……うん」

 

 

 一瞬、甘露寺は不死川の言うことに逡巡する。

 

 目の前にいるこの二人を、果たして引き剥がしてもいいものだろうかと、こんなに穏やかに眠る二人の周りを騒がせてもいいのかと、そう考えて、躊躇ってしまう。

 

 でも、不死川の言うように、ここに置き去りにすることは出来ない。鬼がくれば、いや、鬼が来なくとも、このままここにいれば彼等は食べられてしまう。それに、彼等の帰りを待つ人が居るかもしれない。

 

 一際強く、風が吹き、桜の花びらを舞い上がらせたその風が、甘露寺の長く美しい桜色の髪を靡かせる。

 

 

(……ごめんなさい)

 

 

 内心で眠りにつく彼等に謝罪をして、甘露寺は二人の姿をその瞳に、脳裏に焼き付ける。この哀しくて儚い光景を、忘れない為に、強く強く、彼女は隠が来るその時まで、そこで二人を見つめていた。

 

 

 

 

 

———

 

 

 

 あの時、あの天野山で見たあの光景を、甘露寺は忘れられない。

 

 後に、あの桜の下で眠っていた2人は、友人である胡蝶しのぶの知り合いで、生き残った隊士達を逃す為に、天野山で最期まで上弦の鬼と戦い続けた英雄のような存在であることを、甘露寺は知った。

 

 

(……満足だったのかな?)

 

 

 あの時の2人の表情を思い出して、甘露寺はそっと内心で問い掛ける。話に聞く彼等の壮絶な最期からは、想像も出来ないほど、彼女があの桜の木の下で見た2人の表情はあまりにも穏やかだった。身体に残る傷と、周りの風景から、彼等が死闘を演じていたことは間違いない。

 

 

 ただ、その表情から見て、彼等の最期を彩った感情は決して絶望ではなかったのだろう。

 

 

 桜の舞うあの新緑の地で眠る、何かをやり遂げたかのように安心して目を閉じる彼等の姿を思い出して、甘露寺はそっと微笑む。

 

 聞けば彼等は、喧嘩の絶えない、仲の良い友人ではあっても、恋仲ではなかったそうだ。しかし、人の心の触れ合いというのは外から見てもなかなか分からないもの。本当のところがどうなのかは結局、本人達にしか分からない。少なくとも甘露寺には、あの2人のあり方はなによりも尊く、その最期の姿は、決して絶えることのない愛情のようなものを感じた。

 

 

(……次は話してみたいな)

 

 

 もしも、もしも、来世という、そんな輪廻の輪が本当に存在しているのだとしたら、次に人として生まれ変われたのなら、その時は、彼等と話をしてみたい。

 

 

 もしも次があるなら、きっとその時は、彼等はまた一緒にいるはずだと、不思議と甘露寺は、そう思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は流れ、あの惨劇の夜から二か月程が過ぎた。

 

 

 月の眩く光るその夜、灯りの一つも灯していない暗い和室の中に楓はいた。

 

 月の光の輝きを受ける縁側とは間反対の部屋の奥、誰もいない暗闇を見据えて畳の上に正座する彼女の姿は酷く近寄り難い雰囲気を漂わせている。

 

 普通であれば、誰もが話かけることを躊躇するような居住まいにも関わらず、その楓に声を掛ける勇者が1人。

 

「楓……」

 

「どうしたんですか、カナヲ?」

 

 部屋の外、縁側の辺りに立って月の光に照らされるカナヲの姿に、楓は身に纏う雰囲気を一変させて柔らかな声色で問い掛ける。

 

 栗花落カナヲ、楓と同じく、蟲柱、胡蝶しのぶの継ぐ子であり、同時に胡蝶しのぶの妹でもある。声を聞くことができれば非常に運が良いと言われる程口数の少ない彼女が、珍しく声を発して楓の名を呼んでいる。

 

 

(大方、硬貨で表でも出たかな)

 

 

「師範が呼んでる。……私と一緒に師範に合流するように(からす)から」

 

「合流?」

 

 

 怪訝そうに楓は呟いた。カナヲに加えて、楓まで呼び寄せるとは余程広範囲での鬼の捜索か、あるいは鬼の数が多いのか、どちらにせよ通常の指令ではない。緊急性の高い案件ということ。

 

 

()()()()がいるかもしれないって」

 

 

 続いたカナヲの言葉にスッと、音もなく楓は立ち上がり、白を基調にした花柄の羽織りを手に部屋を出ると、縁側で待つカナヲに声を掛ける。

 

 

「行きましょうか……」

 

「っ……うん」

 

 月の光を背に白い羽織りをはためかせた楓の姿は実に美しいと、そう表現出来るはずなのに、カナヲの瞳には、彼女の浮べるその微笑みは、酷く歪んでいて不気味に見えた。

 

 

 

「指令の場所はどこかな?」

 

 

 

 

「……那谷蜘蛛(なたぐも)山だって」

 

 

 

 

 鬼狩りの物語は今宵、終幕へと向かい始める。

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等いただけますと幸いでございます。

はい、ということで新幕から原作に突入します。
いつになったら原作入るんだとお思いの方々、大変長らくお待たせしました。
いやほんと長かったです 笑

原作の流れと変わった点、変わっていない点、色々ございますが、今後ともお楽しみ頂ければ幸いでございます。



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第4幕
那谷蜘蛛山へ


お待たせしました。


 

 

 月影ささやかな夜のひととき、漆黒の帳に支配された世界を4つの影が駆け抜ける。

 

 闇夜を斬り裂くような速度で駆けるその影の一団は、その全員が腰に刀を差し、それぞれが特徴のある羽織りを風にはためかせていた。

 

富岡(とみおか)さん、富岡さん、今日はいつもよりお疲れのご様子ですね。ちゃんと睡眠は取っているんですか?」

 

 暗闇に凛とした鈴の音のような美しい声が響く。

 黒く紫がかった髪色をしたその女性は、見るものを虜にしてしまいそうなほどの妖艶な微笑みを浮かべて、隣を走る男の姿を見る。

 

 天女のような面持ちでそのような問いかけを受ければ、普通の男であれば緊張に声を詰まらせるか、あるいは意気揚々として返答していたかもしれない。だが、残念ながら彼女が声を掛けたその男は普通の男などと表現出来るような存在ではない。

 

「……問題ない」

 

 ただ一言、抑揚を一切感じさせない声色で短かく、 冨岡(とみおか)義勇(ぎゆう)は答えた。

 

 人が人なら機嫌が悪いのではないかと勘繰ってしまいそうな態度だが、彼にとってはこれが通常運転。他人との会話を極端に苦手とする冨岡は、その端正な顔立ちからは考えられないほど不器用な性格をしている。

 

「相変わらずつれない反応ですねぇ……折角心配して聞いているのですから、もう少し愛想をよく返答してくださいよ」

 

 変化の乏しい表情で前だけを見据える冨岡の姿に、しのぶは不満気にそう呟く。

 

「…………」

 

「聞いてるんですか冨岡さん?冨岡さーん?」

 

 無言になってしまった冨岡に、ねぇねぇと指でつつきながらしのぶは並走する。

 

 

 そんな二人の後ろ姿を、同じく並走する二つの影がじっと見つめている。

 

 その影の一つである栗色の髪をした少女、高野(かえで)は目前に繰り広げられる光景に、頭が痛いと言った様子で額に手を当てていた。

 

(……先に2人きりで行ってもらえばよかった)

 

 率直に楓はそう思う。こんな風に目の前でイチャイチャされるくらいなら、多少距離が離れようとも、見えないところを走って貰った方が断然良い。楓にとって、いや多くの隊士達にとって目の前の光景は精神的都合上大変よろしくない。

 

(まさか水柱様までいらっしゃるなんて……)

 

 楓がカナヲから伝えられた指令の内容は十二鬼月がいる可能性があることと、しのぶとの合流についてのみで、他にも隊士が派遣されるという情報は全くなかった。それ故、指示された合流地点に佇む水柱、冨岡義勇の姿に楓は酷く驚いたものだ。

 

(まあ十二鬼月がいるなら、当然の対応ではあるけど……)

 

 相手が十二鬼月である可能性がある以上、柱が1人では万が一の場合対応仕切れないといった事態も考えられる。いくら鬼殺隊最強と言われる剣士の1人であろうとも、万が一潜んでいるのが上弦の鬼だった場合、単独で挑むのは危険性が高い。そう判断するにたる十分な情報と被害を、鬼殺隊は此処数年の間に得ている。

 

(よりによってこの人か〜)

 

 内心で深く溜息を吐きながら、楓は目の前で繰り広げられるその光景を見つめる。

 

 普段のしのぶは、厳かな淑女然とした様子で誰に対しても平等かつ優しく接する大変気の良い女性だ。それでいて、有事の際にはその聡明な頭脳を遺憾なく発揮して的確に陣頭指揮をとり、剣術に於いては隊内屈指の妙手。もはやこれ以上優秀な人はいないだろうと、そう断言できる程、楓にとってしのぶは素晴らしい師なのだ。

 

 ところが、普段誰に対しても平等に接する彼女が、どういう訳かたった1人の男にだけ、他と同じとは思えない接し方をする。

 

 その男こそ、楓の斜め前を走るぶっきらぼうな男、水柱、冨岡義勇だ。

 

 冷静沈着、明鏡止水、彼を言い表す言葉は幾つもあるが、そのどれもが物静かで、何を考えているのか分からないという表現に行き着く。

 

 実際、楓としても富岡という男が何を考えているのか、それを読めたことはない。無口で、まるで感情などないとでも言うように変化のない表情をしたその男は、あまりにも人間味がなさ過ぎて正直なところ楓は苦手だった。

 

 だが、どうやら自らの師が彼に下す評価はそれは全く真逆のものになるようだ。

 

 一体彼の何処を気に入ったのか、しのぶは富岡を前にすると、まるで別人のように可愛い気なやりとりをする。

 

 今のように、指先でツンツンと冨岡の体をつつく光景は楓の中で半ば定例のようになりつつある。彼に会うたびにしのぶはその反応を楽しんでいるかのように楽し気に笑い、明るい声を出す。

 

 他の人、いや、他の男性に対しては絶対に彼女がとることのないその行動に加え、普段の微笑みよりよほど色の籠もった表情。そのどれを見てもしのぶが他の男性に対して抱いていない感情を冨岡には抱いているということが、一目でわかる光景だった。

 

(……なんでこれで無反応でいられるかな)

 

 普段のしのぶを知っていれば、分かりやすいという言葉では言い表せられない程、はっきりとした変化にも、なぜか冨岡は反応しない。その辺の男であれば、否応なしに顔を蕩けさせるようなことをされておいても、彼はその表情を一切変えず、無視するかのように声も出さない。さすがは明鏡止水の異名を持つ男と言ったところだろうか。いっそ彼女から向けられる好意に気づいていないかのようにすら見える。

 

(まさか本当に気付いていない訳じゃないよね?)

 

 一瞬、そんな疑問が楓の頭に過ぎるが、そんな筈はないと首を横に振ってその疑問を打ち消す。

 

 こんなあからさまな変化にも気付けないなら、それは明鏡止水でなく、ただの唐変木だ。仮にも柱ともあろうものが、こんなあからさまな変化に気がつかない訳がない。

 

(しのぶ様、私達がいるの忘れてるわけじゃないよね?)

 

 いつまで突いているのだろうかと言いたくなるほど、ひたすらに冨岡の肩に指先を向ける師の姿に、楓は頬が引き攣りそうになるのを必死に耐える。

 

 文句をつける訳ではないが、後ろに弟子が2人もいるのだということを理解して欲しい。

 

 無論、師とて女性であることは理解しているし、男性を求める気持ちは分からなくもないのだが、2人きりという訳ではないのだから、もう少し周りの目を、というか後ろの目を気にして欲しい。

 

 チラリと視線を横に並走するカナヲを見れば、彼女はいつもと何も変わらず、柔和な微笑みを浮かべて前を見ている。

 

(うん?……いつも通りではないのかな?)

 

 ぱっと見、その表情はいつもと何も変わることのないように見える。冨岡とはまた別の意味で、全く表情の変わらない彼女だが、よくよく見ると、彼女の瞳は全く笑っていない。

 

(なんだろう、心なしか怖い)

 

 彼女の視線の先にあるのは冨岡の背中だけ、楽しげに笑う師の姿など瞳には一切入っていない。瞬き一つすることなく冨岡の背中を穴が空いてしまいそうなほど凝視する姿からして、およそ普段全く感情を露わにしない彼女にしては珍しく、その心が穏やかではないことを楓は直感で理解した。

 

(……カナヲはしのぶ様が大好きだからなぁ〜)

 

 彼女が考えることの大半を楓は察することが出来ないが、この無口で無感情に見える少女が、しのぶのことが大好きで、とても大切に想っていることだけは理解できる。

 

 楓の脳裏にカナヲの可愛らしい一面が思い浮かぶ。しのぶの跡をついて回るところ、しのぶの掛ける声には一目散に反応するところ、そのどれもが普段何に対しても無関心なカナヲにとってしのぶの存在が如何に大きいかを理解するのには十分すぎる光景だった。

 

 そんな彼女が1人で藤襲山の選抜試験に赴いた聞いた時は、楓も酷く驚いたものだが、同時に納得もしていた。

 

(……カナヲは怖かったんだろうな)

 

 カナヲにとってしのぶはきっと世界の中心なのだ。カナヲの見る世界の全てはしのぶがいるからこそ成り立っている光景で、蝶屋敷という居場所も、アオイやなほ達との生活も、全てはしのぶありきの世界。カナヲの世界を支える柱はしのぶなのだ。そんな大事な存在が、いつ死ぬかも分からない場所で毎夜戦い続けている。鬼との戦いという自分の知らない世界で戦うしのぶが、もし帰ってこなかったら……

 

 蝶屋敷に住む彼女は、多くの隊士が死に逝くところを見てきた筈だ。信乃逗を含め、鬼と戦いに赴いて、帰ってこない隊士達の姿をきっと何度も見えてきた筈だ。しのぶも、いつか自分の知らない世界から帰ってこなくなってしまうかも知れない。

 

 そう思ってしまったら、きっと怖くて堪らなかったのだろう。

 

(私がカナヲの立場でも、きっと……待ってるだけなんて出来なかった)

 

 大事な人を信じて待つというのは、中々に難しいものだ。「必ず」なんて言葉程、この世界で信じられないものはないのだから。

 

 約束などというものは所詮は人の願う幻想でしかない。死という人間の理解を遥かに超越した概念の前では、そんな幻想は塵も同然。必ず帰ってくると言われてもそれが果たされる保証などどこにもないし、自分ではなく、他人の手に委ねるしかない約束ともなれば尚のこと不安にもなる。

 

 ならば、せめて少しでもその約束が果たされるように、「お帰り」と言いに行けるようにと、刀を手に取った彼女を誰が責められようか。少なくとも楓にカナヲのその行いを責める事は出来ない。

 

(まぁ、しのぶ様には大目玉を頂いた見たいだけど)

 

 あの時のしのぶの怒りようは凄まじいものがあった。蝶屋敷全体に響くのではないかと思うくらいの怒号を、あのしのぶがあげていたのだから、屋敷にいる者は皆こぞって扉の隙間から覗き見をしようと駆け寄ったものだ。無論、それらはアオイに尽く排除されたが。

 

「冨岡さんは本当に仏頂面ですね。今度、表情括約筋を診てあげますから蝶屋敷に来てくださいよ」

 

「…………」

 

 しのぶの言葉に不意に、カナヲの瞳が細まる。

 

 彼女の浮かべる柔和な笑みが、ニタッとした不気味な微笑みに変わった瞬間を目撃してしまった楓は、今度こそ頬を痙攣らせて視線を前へと戻した。

 

 

(水柱様、継ぐ子っているのかな?)

 

 

 尚もしのぶに肩を突かれながら走る1人の男の未来が、真っ暗に閉ざされているような気がして、楓は彼の後継がいることを切に願った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「はぁはぁはぁ、くそっ……」

 

 荒い息遣いが、暗く不気味な森の中に響き渡る。

 

 静寂極まる森の中では、その僅かな呼吸音ですら巨大な音となって辺りに響いてしまう。

 

 右腕から走る鋭い痛みに、村田は顔を顰めながらも周囲を警戒するように見渡す。この那谷蜘蛛山に入った当初はまだ宵の月だったが、既に随分と時間が経ってしまっているようだ。村田の視界に映る月の傾きは大きく、もう数時間もすれば陽が昇り始めるであろうことがすぐに分かる。

 

 陽が昇る時間は、鬼狩りを生業にする者達にとって、いつだって希望の時間。鬼を追い払うその光の輝きはまさしく御光といえる偉大さだ。

 

 だが、そんな時間を目前に控えても、村田の表情は晴れない。

 

(あと、数時間……生きてられるのか?)

 

 彼の心中に浮かぶその問い。

 未だ複数の鬼が潜んでいると思われる暗い山の中で、利き手を負傷し、孤立無援ともいえる状況であと数時間を生き残ることができるのか。

 

 この那谷蜘蛛山に潜む鬼が、かなりの数の人を食べていることは、此処までで出た犠牲者の数を見れば明白だ。山に入った当初、10人はいた隊士が、今では一体何人生き残っているのか、それすらも村田には把握できていない。

 

「村田、大丈夫?」

 

 唯一救いがあるとすれば、それは村田がいま一人ではないということだろうか。

 

 心配そうに不安げに揺れる瞳で村田に視線を向ける、女性の姿。長い黒髪を後ろ手に縛り、刀を持つ彼女は村田と同じく歴とした鬼殺の剣士。

 

「俺は大丈夫だ……尾崎こそ、足の傷は大丈夫なのか?」

 

 痛みを堪え、努めて笑顔で村田はそう答える。

 尾崎と呼ばれた彼女は、村田の言葉に安心したようにほっと息を吐く。

 

「私も大丈夫。殆ど擦り傷みたいなものだし、それより、村田の傷の方が……私のせいで、ごめん」

 

 顔を俯かせて、尾崎は申し訳なさそうに謝罪しながら、先に起きた光景を思い返す。

 

 村田が利き腕を負傷することになった原因、それは、尾崎を身を挺して庇ったことにある。

 

 鬼の血鬼術によって操られた多数の隊士との戦闘。仲間の身体を盾にも武器にもするその悪辣極まる異能に、村田も尾崎も、一方的な防戦を強いられた。なんとか状況を打開しようと刀を振るったが、戦っている相手は本来味方だ。相手の身体を労りながら防御に徹するというのは、精神的負担がかなり大きい。

 

 血鬼術であるなら、異能の根源である鬼本体を倒せばいい話ではあるが、この深い森の中で乱戦の様相を呈するこの戦場では、その居場所を特定することも出来ない。

 

 形勢は圧倒的に村田達に不利だった。そしてそんな状況が長く続けば、人間は当然集中力が持たない。

 

 

「ぁっ」

 

 そんな小さい悲鳴のような言葉と共に、尾崎の持つ刀が吹き飛ばされたのは、戦闘が始まってから既に数時間が経った頃だった。あまりにと長時間に及ぶ戦闘で、彼女の握力は持たなかったのだろう。弾き飛ばされた刀はクルクルと弧を描いて宙を飛んでいき、地面へと勢いよく突き刺さる。

 

 その様子を視界の端に入れながらも、彼女は眼前に迫りくる刀身の輝きから目が離せない。

 

(あぁ……私、此処で死ぬのか…)

 

 そう思った時、彼女の視界に映る世界の流れが変わった。

 

 まるで時が止まってしまったかのように、全てがゆっくりに見える。山を駆ける風のうねりも、操られた隊士の動きも、眼前に迫りくる刀身でさえ、何もかもが遅くなったように感じる。

 

 まるで死を受け入れる猶予を与えるかのような、刹那の時間。

 

(ごめんなさい……お兄ちゃん)

 

 死んだ兄に内心で謝罪しながら、尾崎は、目と鼻の先に迫ったその鋭い輝きを受け入れる筈だった。

 

 

 

「……ぇっ」

 

 不意に、尾崎の身体が強く引かれる。

 突然体にかかったその力の強さと、視界に映り込む光景に、彼女は目を見開く。

 

 男だ。先ほどまで、自分と同じようにこの状況に追い込まれていたその男が、尾崎に迫っていた死の脅威を片腕で受け止めている。彼の腕から迸る赤い鮮血は、間違いなく尾崎を庇って出来たもの。

 

 腕を深く斬られながら、尚も闘志の失せない村田の横顔を視界におさめながら、尾崎は地面へと倒れ込む。

 

 

(な、んで……)

 

 

 尾崎の頭の中はそんな疑問で一杯で一杯だった。

 自分の身すら危ういこの状況で、何故私を庇うのか。どうして自分の体を盾にするようにしてまで私の命を守るのか。私なんかの為に片腕を犠牲にしてどうやってここから生き残るというのか。

 

 村田のとった行動があまりにも信じがたくて、尾崎は目に映る危機的状況を前に、一瞬地に座り込んだまま呆然と固まってしまう。

 

 

 そんな彼女と痛みに顔を歪める村田の目が合う。

 

 

「諦めるなっ!!」

 

「っ!」

 

 その叫びに、頬を叩かれたようだった。

 

「あぁぁっ!!!」

 

 村田の言葉に、急速に呪縛から解かれたように尾崎の体が動く。背後から振り下ろされる刀を跳躍して避け、地に突き刺さった刀を手に、怒号を上げて、彼女は剣戟を舞う。

 

(死ねないっ、まだっ死ねない!!)

 

 そこから先のことを正直彼女はあまり覚えていない。

 

 ただひたすらに刀を振るい、近づく刀身を弾き飛ばし、切れる息を無視して、ひたすらに身体を動かしていると、不意に、操られていた隊士達がバタバタと倒れていったのだ。まるで糸の切れた操り人形のように、彼らは地に崩れ落ち、その場から動かなくなった。

 

 

 

 

 

 

 数時間前のことを思い出して、鎮痛な面持ちで謝罪を口にする尾崎に、村田は慌てたように手をバタバタと動かす。

 

「あぁ、いやっ、そのっ、気にしないでくれ。っ痛……俺も無我夢中で何がなんだかわかってなかったんだよ」

 

 右手に走る痛みに呻きながら、気まずそうに左手で頭をかいて、村田はそう呟く。

 

 村田としても、彼女に謝罪させるつもりで助けた訳ではない。実際あの時は、殆ど勝手に身体が動いていたので、あまり考えての行動ではなかった。

 

 ただ、目前に迫る刀身を仕方のないことのように素直に受け入れようとしている彼女を見て、頭がカッと沸騰したように熱くなって、気がついたら体を滑り込ませてしまっていたのだ。

 

(……あの夜生き残った奴なら、きっとみんなこうしただろうし)

 

 村田の脳裏に、血の惨劇を生み出した夜の光景が過ぎる。あの時、村田は痛感したのだ。己の無力と生かされることの意味を。

 

 生きたいと、そう願う多くの仲間を犠牲に、今日、自分は此処で息をしている。あの日預かってしまった仲間の声が、願いが、村田の体を動かしていた。

 

 目の前で生きることを諦めようとする尾崎の姿を、村田は黙って見ていることが出来なかった。

 

「……その、ありがとう」

 

 不意に、感謝の言葉を呟やく尾崎。

 照れ臭そうに顔を俯けて耳を赤く染めたその姿に、村田も場違いに頬を染めてしまう。

 

(いや、いかんいかん!此処は鬼の巣窟だぞっ!何考えてんだ俺はっ!)

 

 自らの心に湧き上がった得も言われぬ感情を、村田は首を横にブンブンと振って掻き消す。

 

 ここは戦場で、自分達はまさしく命の危機に瀕しているのだ。そんな状況で女に見惚れている場合ではない。

 

(煩悩退散っ、煩悩退散っ!懺悔懺悔、六根清浄っ!)

 

 修行中の山伏のように自らを律しようと内心で唱える村田の視界にそれは映った。

 

 尾崎の背後、森の奥、暗闇の中から駆けてくる白髪の着物を着た少女の姿。

 

(鬼っ!?)

 

 視界に映る少女が纏う気配は当然人のものではない。

 だが背後から駆けてくる鬼の姿に、彼女は未だ気付きもしない。

 

 声を出すよりも先に村田の身体が動いた。手を伸ばし尾崎の服を掴み、引っ張るようにして、彼女の前へと踊り出る。その時にはもう鬼は村田の目の前にいた。目と鼻の先に迫った鬼の少女の手の平、そこから吹き出る何かで村田の視界は真っ暗に染まっていく。

 

 視界に入る全てが緩やかになった世界で村田は、目前に広がる闇に瞠目する。

 

(これはっ、何かに閉じ込められるっ)

 

 月の光を遮り、村田の周囲を円状に囲うように覆われていくその壁に、村田の心に飛来する焦燥感。

 

(やばいっ、後ろには尾崎がっ……このままじゃっ)

 

 背後から差し込む月の光が、壁に覆われて消えていく。完全に覆われれば真っ暗な闇の空間に村田は囚われることになる。そうなれば、後ろにいる尾崎が単独で鬼と戦うことになる。この山にいる鬼が強力な異能を持っていることは既に明らかだ。正体の分からない異能を持つ鬼と単独で戦闘を行うには尾崎1人ではどう考えても力不足。

 

 このままでは2人ともやられてしまう。

 

(死ねないのにっ、まだっ、俺はっ)

 

 世界の全てが遅くなったその視界が暗闇に包まれていく。村田の想いなど知らないとばかりに世界が無情にも閉じていく。

 

 やがて視界の全てが闇となったその瞬間、

 

「お疲れ様です村田さん、後は変わります」

 

 聞き覚えのある可憐な声色が、暗い暗い漆黒の中に響いた。

 

(あぁ……なら、大丈夫、だ)

 

 心中に飛来する途轍もない安心感に村田の意識も闇へと落ちた。

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等頂けますと幸いでございます。

少し間が空きましたが、新幕スタートさせます。
展開がゆっくり目ですが楽しんいただければ幸いです!


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救いの手

 

 

 

 

——— 十二(じゅうに)鬼月(きづき)

 

 

 それは鬼の始祖、鬼無辻(きぶつじ)無惨(むざん)に選ばれし、十二体の鬼の総称。数多の鬼の中でも強大な力を秘めた彼等は、鬼無辻配下の証としてその瞳に数字を与えられる。一様に多くの人を喰らい、数多の不幸をばら撒く彼等は人間にとってまさしく『悪鬼』と呼ぶに相応しい業を重ねている。

 

 そんな『悪鬼』の1人、下弦の伍の数字を与えられた子供の容姿をした鬼、(るい)には他の鬼には垣間見えない、とある特性があった。

 

 通常、鬼は余程のことがない限り、群れて行動することはない。鬼という生き物は、縄張り意識も強く、狙った獲物が被った場合には殺し合いにすら発展する。協調性という言葉を持たず、個の意識が強い彼らにとって、下手に他の鬼と行動を共にすることは不利益しか生まないのだ。

 

 だが、累は違う。

 

 彼は単独では鬼狩りには勝てないような弱い鬼を集め、自らの周りに置く。彼は集まったその鬼達を『家族』と呼び、自らの血を分け与えることで、彼らの力の底上げと、自らの血縁に見えるように彼らの容姿を変えさせた。それぞれに母、父、兄、姉、と『家族』における役割を与え、彼の求める家族の役柄を演じさせる。

 

 見るものが見れば実に滑稽な姿。だが、そうやって笑った者を、累は尽く殺してきた。敵対する者、嘲笑う者、そして、逆らう者。

 

 累にとって、『家族』とは彼の求める、彼にとって理想の姿でなければならない。故に、役柄を与えられた者が僅かでも彼にとっての『家族』から外れた行動を取れば、その時は容赦なく罰を与えられた。時に殺すことすら厭わず、彼は弱き鬼達に『家族』であることを強いた。

 

 

 そうして何十年も、彼らは『家族』を続けてきた。

 

 

 しかし、恐怖の鎖で繋がれたその『家族』は今宵、終わりを迎えようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 蒼白い輝きに照らされた森の中を、累の姉の役割を与えられた鬼の少女、紗子(さえこ)は必死の形相で走っていた。

 

 

 今宵、紗子は累の前で初めて彼の求める『家族』の役割に削ぐわない行動をとってしまった。

 

 紗子にとって死の恐怖を彷彿させる鬼狩り達が、母の役割を与えられた鬼を倒して迫ってきている。その事実に動揺して累の目の前で、容姿を崩してしまった。彼の『家族』である為に必要な彼に似た容姿を、僅かに元の姿に戻してしまった。

 

 十年近くもの間、ただの一度も犯したことのなかった失態。累の姉として的確に振る舞い、強者の加護下で生き延びる選択をした彼女にとって、その強者である累を怒らせるような言動をとることはこの上なく不味い事態に繋がりかねない。

 

(死にたくないっ、早く殺さないとっ)

 

 累を怒らせた彼女は、本来であれば有無も言わせぬ手酷い罰を受けることになる。彼の扱う糸によってバラバラに切り刻まれるか、あるいは糸で吊るされ、陽の光で死なない程度に炙られるか、虫の居所の悪い彼にそのまま殺されてしまうことだって考えられる。これまで何人もの鬼達がそうやって彼に殺されてきた。

 

 だが、幸いにも、紗子には機会が与えられた。

 

 森の中をうろうろと動き回る鬼狩りを殺してくれば、許してやると、累は紗子にそう言った。だから紗子は懸命に走っている。待ち受ける恐ろしい罰を避ける為に、鬼狩りを殺す為に、彼女は必死になる。紗子にとって、生き延びることこそが何よりも重要なこと。他人のことなんてどうだっていい。生きる為に紗子は人を殺し、鬼を見殺しにする。

 

(生きる為なら、私はなんだってする)

 

 そんな悲壮な決意を宿した彼女の瞳が、2人の鬼狩りの姿を捉える。

 

 死の蔓延るこの森で、不用心にも紗子に背を向ける黒髪の女の鬼狩りと、怪我をした男の鬼狩りだ。何やら会話をしているのか、走る紗子に気づいた様子すらない。

 

(この2人ならっ、いける!)

 

 完全に油断している2人の姿を見て、紗子はほくそ笑む。直接の戦闘は紗子にとってあまり得意なものではない。鬼狩りという、戦うことに長けた人間を相手に正面から向かっていけば、いくら累の力を分けられた紗子といえど危険だ。だが、不意を打つことが出来れば、勝てる可能性は大いにある。

 

 紗子は佇む鬼狩りに向かって全力で駆け出すと、手を前に突き出し、此方に背を向ける女の鬼狩りへと向ける。

 

 

——— 血鬼術 繭玉(まゆたま)飾り ———

 

 

 紗子の掌から、大量の糸が吹き出し始める。

 対象を繭に閉じ込め、糸から分泌される溶解性の液体で捕らえた獲物を溶かすこの術は、紗子の持つ最も得意な異能。不意を打ったこの状況なら、確実に成功させられるという自信があった。

 

 だが、事は紗子の思惑通りには運んでくれない。

 

「っ!?」

 

 目に映るその光景に紗子は僅かに目を見開く。

 此方に背を向けている女の鬼狩りを庇うように、男の鬼狩りが紗子の前に踊り出てくる。

 

(馬鹿ねっ!どっちだって構わないのよっ)

 

 一瞬驚きはしたが、男は女を庇うので精一杯。なら、この術はどのみち成功だ。繭玉に捕われる対象が女の鬼狩りから男に変わっただけ。男を包んですぐに、女の鬼狩りも同じようにしてやればなんの問題もない。

 

 

 焦燥に満ちた表情で繭玉に包まれていく男の姿にほくそ笑みながら、紗子は未だ体勢を崩した状態で固まっている女の鬼狩りに向けて掌を向ける。女の鬼狩りは呆然と目を見開いて繭に包まれて消えていく男の鬼狩りの姿を見ている。

 

(馬鹿な女……今の間に刀でも握っていれば、助かったかもしれないのに)

 

 繭玉に向かって手を伸ばすその姿を、紗子は哀れな者を見るように見据える。

 

 折角庇ってもらっても、これでは順番が前後しただけで意味がないだろうに。無論、紗子としてはその方が下手に抵抗されるよりは余程楽なので、むしろありがたい程だが。

 

 

(じゃあね、馬鹿女)

 

 

 

——— 血鬼術 繭玉飾り ———

 

 

 女の鬼狩り目掛けて紗子の掌から大量の糸が飛び出す。男の鬼狩りと同じように繭玉に閉じ込めるべく、女に迫っていく大量の糸を見て、紗子は勝利に口角を吊り上げる。

 

 

(余裕ね、こんな連中だけなら私でもなんとかなるわ)

 

 

 勝利を確信して、紗子がほくそ笑んだその時、不意に糸がばらけた。

 

 

「……ぇ?」

 

 何が起きたのか分からず、紗子は思わずか細く声を上げる。

 

「お疲れ様でした村田さん。あとは変わります」

 

 突如暗闇に響く可憐な声に、紗子は目を見開く。

 

(……いつの間に…)

 

 声の聞こえるその方向は、女の鬼狩りを捕える為に紗子が糸を放った方向。雪のようにばらけて宙を舞う糸の先に、淡い栗色の髪をした女が立っている。黒い衣服に身を包み、花を透かした白い羽織りを着込んで、その手に黄緑に染まった刀を持つ彼女は、間違いなく鬼狩りを生業にする者。

 

 気配もなく、忽然と姿を現した新たな鬼狩りの姿に、紗子は瞠目し、僅かに後ずさる。

 

 直感でわかる。この女の鬼狩りはまずいと、先に繭玉に閉じ込めた男やそこで座り込む女の鬼狩りなど、相手にならない程、この栗色の髪の女は強い。強者の雰囲気に敏感な紗子はこのまま正面から戦っても勝てないということを本能で理解した。

 

 

 故に、理解した瞬間、紗子は脱兎の如く後ろに駆け出した。

 

 

(逃げないとっ)

 

 一心不乱に、この場を生き延びるべく、紗子は走り始める。この見切りの良さこそ、彼女が累の下で長く生きてこられた理由。力の弱い弱者であるが故に、自らの命に関わる事態には非常に敏感であり、己が分別を弁えたその対応力で、今まで何度も危機を乗り越えてきた。

 

 

 だが、それも今日に限って言えば通じなかったようだ。

 

 

「どちらに行かれるおつもりですか?」

 

「っ!?」

 

 駆ける紗子の正面に、栗色の髪をした鬼狩りの女が姿を現す。スッと闇の中から浮かび上がった彼女は紗子の行手を阻むように佇む。

 

「なんで前に!?あんたは後ろにいるはずっ」

 

 戸惑いに紗子は思わず叫ぶと、後ろを確認するように半身を振り向ける。視界に映るのは黒髪の女の鬼狩りと、縦に斬り裂かれた繭玉が一つ。黒髪の女の鬼狩りが、繭玉から男の鬼狩りを引っ張り出しているところだった。

 

 

(私の繭を斬ったの!?)

 

 

 驚愕に紗子は目を見開く。彼女の糸は、その硬度こそ非常に低いが、圧倒的な弾力性によって斬撃に対する耐性は非常に高い。紗子に一方的にやられるだけだった鬼狩り程度に斬れるようなものではない筈なのだ。

 

 ならばあの繭玉を斬ったのは黒髪の鬼狩りではなく、新たに現れた栗色の髪をした鬼狩り。あの一瞬で繭玉を斬り裂き、その上で余裕を持って自分に追いついてきたというのか。

 

「質問に質問で返さないでくれますか?」

 

 紗子が背後に広がる光景に驚愕していると、不意にその声が耳に入る。間近に聞こえたその声に、紗子が正面へと勢いよく視線を戻せば、吐息がかかりそうな程近い距離に、女の鬼狩りの顔がある。

 

「っ!?」

 

 驚きに息をのみ、紗子は反射的にその女に向かって手を向け、目眩しのように糸を吹きかけると、背後に大きく跳躍する。

 

 空中に飛び下がり、距離を取れると紗子が安堵した時、女に向かった糸が弾け飛ぶ。そして、それを認識した時には既に鬼狩りは目前に迫っていた。

 

「なっ!?」

 

 空中を浮く自分の目と鼻の先にあらわれた鬼狩りの姿に、紗子が焦って腕を突き出し、再び糸を出そうと力を込めた瞬間、強烈な痛みが彼女の身体を走り抜ける。

 

 彼女の瞳に映る鮮血、身体に走る焼けるような熱さ。

 

(っ腕がっ!?)

 

 突き出した紗子の両腕は肘から先が綺麗に消えていた。あるべきものがあるべきところになく、代わりとでも言うように真っ赤な液体が宙に軌跡を描いている。一体いつ斬られたのか、それを疑問に思う間もなく紗子は地面に背中から墜落する。上半身を女の鬼狩りに押さえつけられるように地面へと抑えられた紗子は背中に走る衝撃に一瞬息を詰まらせる。

 

「がっ!?」

 

「さて、質問の続きです」

 

 紗子の上に馬乗りになった女の鬼狩り、高野(かえで)はそっと刀身を紗子の首元へとあてがうと鈴の音にような可憐な声色で呟いた。

 

「ひっ!?」

 

 月の光を浴びた刀身が反射する冷たい輝きに、紗子は悲鳴を上げ、少しでも刃から遠ざかろうと首を捩る。

 

「あまり動かない方がいいですよ、下手に動くと斬れちゃうかもしれませんから」

 

 刃を首元に当てておきながら、ニコッと可憐に微笑む楓の姿に紗子は全身に怖気がはしったような気がした。

 

「ま、待ってっ!私はっ、貴方に何もしないっ!無理矢理従わされてるだけなのっ!逆らったらバラバラに刻まれるっ」

 

 震える喉から必死に声を絞り出して、紗子は悲痛な叫びを上げる。内容だけ聞けば酷く痛ましいものだが、その言葉を聞いても楓の表情は変わらない。

 

「……だから?」

 

「だ、だから?」

 

 にっこりと微笑んだまま、なんでもないことのように問われたその言葉に、紗子は動揺のあまり言葉を詰まらせる。相手の同情をかえるように咄嗟に発した言葉だったが、それを受けた楓が同情したような様子は一切見えない。人の心を持ち合わせているのなら、今頃は眉の一つでも顰めている筈だが、彼女の表情には一切の変化がなく、首に添えられた刀が引くような様子もない。

 

「刻まれるから、何なのか……私としてはそれを言って頂かないと、貴方がどうして欲しいのか分からないのですが?」

 

 可憐でいて、どこか冷たさを感じる楓の声色に、紗子は不気味なものを感じる。

 

(……なんなのこいつっ)

 

 この鬼狩りは何かがおかしいと、紗子の直感がそう囁いてくる。一見会話に応じる姿勢を見せているのに、放たれる声色からは話を聞く気があるようには思えない。

 

 いってしまえば、どうでも良いという、そういう態度に見えるのだ。

 

 このまま会話を続けても、この鬼狩りが此方のいう言葉を聞いてくれる気がしない。

 

 とはいえ、首元に刃を添えられているような状況では、紗子にできることなど、精々が口を開くことくらいだ。

 

「わ、私を助けて!脅されでもしなければ、私は人を殺したりしないしっ、本当は人を食べたくなんてないのっ、だから、お願いっ」

 

 懇願するように紗子は言葉を紡ぐ。

 弱々しく瞳を潤ませ、必死の形相で声を絞り出すその姿は、間違いなく弱者のそれで、到底人を喰らう化け物の姿には見えない。

 

「……いいですよ。貴方を救ってあげます」

 

 そのあまりにも哀れな鬼の姿に楓は目を細めてポツリとそう答えた。

 

「ほ、ほんとに?」

 

 あまりにも呆気なく認められて、紗子は思わず怪訝に眉を顰める。

 

「はい……でもその前に貴方に質問があります」

 

「質、問?……なにを聞きたいの?」

 

「簡単な質問ですよ……貴方を従わせれている鬼は十二鬼月ですか?」

 

「そ、そうよ」

 

 そんなことを聞いてどうするのか、そう戸惑いながら紗子が答えた瞬間、全身に冷や水を浴びせられたようにゾクリとした怖気がはしる。

 

 

 嗤ったのだ。

 

 

 それまで、何を言っても目の前の鬼狩りは可憐に微笑むだけだった。それが今はどうだ。可憐さなど何処にも見えない。不気味に口角を吊り上げ、ニヤリと口元を歪めて、醜く、それでいて酷く嬉しそうに嗤っている。

 

 

「……それは上弦の鬼ですか?」

 

「ち、違うわ。下弦の伍よ」

 

 いっそ、恐ろしさすら感じるその表情に、紗子は引き攣る喉を必死に動かして声を発する。

 

「……そうですか」

 

 途端、楓の表情が陰る。餌を見失った犬のように、まるで残念だとでもいうように、目を伏せて、そっと溜息を吐いている。

 

(この女、やっぱりおかしい)

 

 此処にきて、紗子は目の前にいる鬼狩りがまともではないことをはっきりと理解した。

 

 普通の鬼狩りならば、この山に下弦の鬼がいることを聞けば恐怖するものだ。十二鬼月に選ばれた鬼というのは、普通の鬼とは一線を画す強力な力を持っているのだ。

 

 そんな強力な鬼がいることを理解して尚、目の前の存在は恐怖するどころか、がっかりした様子を見せたのだ。「なんだ、下弦か」とでも言うように、上弦ではないことをこの鬼狩りは残念に思ったのだ。

 

 余程上弦の鬼に対する因縁があるのだろう。彼女の見せる姿は間違いなく憎悪に囚われた哀れな人間の一人だ。

 

「聞きたいことは聞けましたし、貴方を救ってあげましょう」

 

 不意に、楓の言葉が暗闇に響く。耳に入るその言葉に、紗子は先程まで感じていた恐怖も忘れて、喜色にとんだ表情を浮かべる。目の前の鬼狩りがどれだけ狂っていようが、命さえ助かるのであれば紗子にとってはどうだっていいことだ。

 

(こいつを累の前に連れて行けば、私の勝ちだっ)

 

 拘束を解いてもらえれば後は適当に彼女を累の元に連れて行けばいい。随分と自分の実力に自信を持っているようだが、累は十二鬼月、人間が勝てる相手じゃない。

 

 

 

 これまで累が追い詰められたところを見たことのない彼女は知らなかったのだ。

 

 

 人間の中には十二鬼月さえ殺してしまう強者がいることを。

 

 

 彼女は理解出来ていなかったのだ。

 

 

 目の前にいる鬼狩りが常軌を逸した考えを持った存在だということを。

 

 

 

 紗子が内心で勝利にほくそ笑んだ時、首に添えられた刀身が彼女の皮膚に喰い込む。

 

「あがっ、な、なんでっ!?」

 

 喉にかかる圧迫感と湧き出る鮮血に、紗子が驚きの声を上げる。

 

「なんでとは?」

 

 喉に添えた刀の峰に手を置き、ゆっくりとそれに体重を掛けて押し込みながら楓は不思議そうに問いかける。

 

「あぐっ、助けるっで、言ったのにっ」

 

「だから助けてあげてるんですよ」

 

「ごれのっ、どこがっ!?」

 

 楓の体重を受けて徐々に首に喰い込んでくる刀身に、紗子はなんとか逃れようと身体を捩りながら、この暴挙を止めようと必死に声を張る。

 

「……さっき貴方は、人を喰らいたくないと、そう言ったでしょう?人を喰らうことを嫌だと思う貴方が、鬼として生きていくのはさぞかし辛いでしょう。だからその苦しみから、私は貴方を救ってあげるんです」

 

 そんな紗子の様子を意にも返さず、楓はこれが救いだと、そうはっきりと言葉にする。

 

「ふっ、ぶざけたこどを、言っでん、じゃないわよっ!」

 

 そのあまりの暴論に、喰い込む刀身の存在すら忘れて紗子は怒りに声を張り上げて叫ぶ。

 

「ふざけてなんていませんけど?だって貴方達鬼を止めるには殺す以外の方法はないんですから」

 

 にっこりと歪んだ微笑みを浮かべる楓に、紗子は彼女が本気でこれを救いだと思っているのだと言うことを悟った。

 

 復讐に囚われた哀れな人間、楓に抱いたそんな印象は紗子の頭から一瞬で消し飛んだ。

 

 

 

——— 狂人

 

 

 

 目の前の女は、この鬼狩りはどうしようもなく狂っている。鬼を殺すその手が真っ赤に染まることを理解していながら、それこそが鬼を救う道なのだとこの女は笑って言ってのける。

 

 

(冗談じゃないっ!こんなの全然救われてないっ!!)

 

 

 しかし、どれだけ紗子が否定しようと楓の動きは止まらない。ゆっくりと、しかし確実に刃が喉に押し込まれていく。徐々に勢い増す血飛沫と、既に首の半ばまで斬り込まれたその刀身を見て、紗子は恐怖に頬を引き攣らせる。

 

 

「待っで!?ぉ願いっ、食べないがらっ!誰もっ、食べないがらっ!お願いよっ、殺ざないでっ」

 

 必死に、涙を流して紗子は懇願する。身を捩ってなんとか刃を退けようとするが、首から下は楓の足の挟まれ万力で圧縮されているかのようにピクリとも動かない。紗子がジタバタと捥がく間にも楓の体は前のめりになっていき、刀身にかかる重圧は徐々に増す。既に刀身は首の半ばを過ぎ、切断まで残り数センチといったところまできている。

 

 

「それは無理ですよ。だって貴方は鬼なんですから」

 

 

 鬼が人を食べるのを我慢できるわけがないでしょう?と、どこまでも和やかな表情でそう言うと楓は自らの身体を支える刀身に最後の圧をかけた。

 

 

「ひぃっ!?」

 

 

 

 ザクッ

 

 

 

 紗子の短い悲鳴と同時に、重い何かが裂かれるような鈍い音が、夜の闇に響き渡る。

 

 

 黄緑に染まった刀身は赤い雫をジワリと滴らせながら、その刃を大地に付けていた。

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等頂けますと幸いでございます。

というわけで、ちょっとやり方がエグい楓ちゃんでした。
累の姉は原作だと名前が出てこなかったので勝手につけちゃいました。

しのぶ様、出番、奪ってごめんなさい。


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仮面の襲撃

週一から週二くらいの投稿頻度になってしまっているなぁ〜


 

 

 

 ボロボロと灰のように崩れて消えていく鬼の姿を楓はジッと見据えていた。

 

 

 最期の瞬間、あの白髪の女の鬼は、あらん限りの絶叫で、「死にたくない」とそう叫んだ。彼女のその叫びが、いま山彦のようになって楓の頭に延々と響き続けている。

 

 

(これで良いはず……どの道、こうするしかないんだから)

 

 

 拳を握りしめ、楓はまるで自分自身に言い聞かせるかのようにそっと内心で呟く。

 

 

 楓は知っている。

 

 

 鬼は人を喰らうことを我慢出来ないことを。

 

 

 絶対に食べないと、どれだけ口でそう言おうとも、いざ人の血肉を前にすれば、彼女は眼の色を変えてそれに飛びつくだろう。彼等の抱える欲求はそんなに簡単に抑えられるものではない。そもそも抑えられるようになど変えられていないのだから。

 

 鬼という生き物になってしまった彼女が、人を喰らいたくないというのなら、その身を灰とする以外に方法はないのだ。

 

 もっとも、彼女が何処まで本気でそう言っていたのかは楓には分からないし、人を喰らいたくないというのが本音であるかどうかも定かではないが。

 

 あの繭の血鬼術は相応に人を喰らっていなければ身に付かない代物だ。人を食べたくないと、そう言っていた彼女は、おそらく五十は下らぬ人を食べていたはずだ。下手をすれば百に迫るかもしれない。それほどの人間を既に喰らっている彼女が、人を喰らうことに苦しみを感じるとは思えない。

 

 よしんば本当に苦しんでいたのだとしたら、尚更早く首を刎てあげるべきだった。彼女の抱える苦しみから解放してあげる為に。

 

 

(そう、これは救済。……復讐じゃない)

 

 

 私は鬼を救っているだけだと、楓は呟く。暗示のように、そうでなければならないのだと言うように、楓は見ようとしない。暗い光を宿した瞳の輝きから、身の内に湧き上がる喜びの感情から、黄緑に染まった刀身に映る自らの歪んだ表情から、彼女は目を背ける。

 

 

 

 静寂が耳に痛いその空間に、一際強く風が吹き、森の木々が騒めく。木の葉が擦れ、ガサガサと不穏に音を発して、それが不意に途切れる。

 

 

「っ!?」

 

 

 瞬間、楓はその場から跳躍していた。

 一瞬遅れて、風が止み静寂に包まれていた夜の森に轟音が鳴り響く。地面を抉るような勢いで、先程まで楓が立っていた場所に何かが勢いよく激突したのだ。その威力はかなりのもので、僅かにでも跳躍が遅れていれば彼女の命がなかったことは疑いようがない。

 

 

 空中で身を翻した楓は、衝撃で巻き起こる風圧に表情を歪めながら飛んできた何か(・・)を見据える。

 

 

 雲に隠れていた月がゆっくりと顔を出し、辺りを優しく照らし始める。土煙が止み、月光が照らし出したその正体は、闇夜に紛れるような漆黒のマントに身を包んだ人影だった。

 

 

(……鬼、だよね?)

 

 

 突然の襲撃者の正体を見据えた楓は、内心で自信なさげに呟く。

 

 なぜ楓が襲撃者の正体に自信が持てないのか、それは、目の前に立つ襲撃者の姿から感じる鬼の気配が非常に希薄だからだ。本来、楓程の実力がある鬼狩りになれば、鬼の気配など容易く察知できるようになるものだ。例えそれが視界外にいたのだとしても、鬼であるならその正確な位置まで把握出来る自信が楓にはあった。

 

 にもかかわらず、楓は目の前にいる襲撃者を直前まで察知できなかった。

 

 考えられる可能性としては襲撃者が意図して気配を隠すことができるだけの実力者であるか、或いは、鬼としての力が非常に弱いか。

 

 

(飛び込んできた速度からして、ほぼ間違いなく前者……こいつが十二鬼月かな?)

 

 

 襲撃者は漆黒の布地がコートと一体になって頭巾のように頭まで覆っている。この暗闇とその見た目からして、襲撃者の瞳に刻まれた数字を確認するのは難しい。

 

 

「貴方が下弦の伍ですか?」

 

 

 目の前の存在が今日一番の大物かどうかを確かめるべく、刀を構えながら楓は闇を纏ったような出立ちの鬼へと問い掛ける。

 

 

「…………」

 

 

 しかし、楓の問いかけにその鬼は答えない。

 

 

「黙りは困るんですけど……人間とは会話をする気にもなれませんか?」

 

 

 両手をブラリと脱力したように下げ、顔を地に俯けて無言を貫く鬼の姿に、楓は口元に笑みを浮かべ、挑発的な口調で問い掛ける。

 

 

「……………」

 

 

 小馬鹿にしたようなその声色にも鬼は閉口したまま一切の言葉を発しない。

 

 

 ただ、代わりとでも言うように地に向けらていた鬼の顔が楓へと向けられた。

 

 

(狐面?)

 

 

 襲撃者は顔を隠すように狐面を被っていた。漆黒のマントで頭まで身を包み、顔には狐面と、見た目だけ見れば非常に怪しげな風貌をしている。月光に照らされ、闇夜に浮かび上がるように見える蒼白い光沢を放つ仮面に楓は不気味な者を感じて、思わず生唾を飲む。

 

 その瞬間、楓の視界から狐面の姿が掻き消える。

 

 

(何処にっ!?)

 

 

 一瞬で視界外に移動する鬼の素早さに楓が驚嘆した瞬間、背後から強烈な殺気を感じる。

 

 

「っ!?」

 

 

 振り返る間すらなく、殆ど反射の領域で楓は半身を捻ると、殆ど同時に放たれた赤い閃光が楓の脇腹を掠める。

 

 

「痛っ!」

 

 

 痛みに顔を歪めながらも、楓は身を捻った勢いを利用して体を半回転させると、お返しとばかりに横薙ぎに刀身を振るう。

 

 キィンと、金属と金属がぶつかり合う甲高い音が夜の森に響き渡った。

 

 ずきずきと痛む脇腹を無視して、楓は目の前に立つ狐面の鬼を見据える。

 

 

(紅い、刀……)

 

 

 視界に映る赤色の刃、それがいま自らの放った黄緑の刀身と打ち合い、鍔迫り合いの様相を呈している。

 

 月光に映し出された血のように紅いその刀身を見て、楓の脳裏には最強の鬼の姿が思い浮かぶ。六つの瞳で此方を見下ろす死の体現者。上弦の壱と同じように、この鬼も刀を使ってくる。その事実に楓の中にえもいえない様々な感情の波が押し寄せる。

 

 あの時感じた死への恐怖、地を這う屈辱、何もできない虚無感、大切な者を奪われた怒り、そして、あの鬼と同じ武器を使う鬼を殺せる——— 喜び。

 

 

 

 ニヤリと楓の口元が弧を描く。

 

 

 

 怖気がはしるような歪んだ笑みを浮かべた楓が、不意に刀を押し込む腕から僅かに力を抜く。拮抗していた力の天秤が僅かに鬼へと傾き、鬼の刀が楓の刀を押し込む。だが、そのタイミングは仮面の鬼にとって予想外のもの。重心が僅かに前のめりになり、鬼の体勢が崩れてしまう。

 

 

「っ!?」

 

 

 瞬時に行われた脱力の技巧に驚愕したのか、仮面の下で息を呑む音が響く。だが、驚くのは些か早計というもの、何しろ楓の動きはこれで終わりではないのだから。

 

 

「ふっ!」

 

 

 鬼の身体が前へと崩れた瞬間、楓は押し込まれる刀の力を利用して身を捻るとその場で回転し、側面から水平に刃を振るう。首元目掛けて振るわれる黄緑の軌跡に、仮面の鬼は身体にかかる力に一切逆らわず、前へと転がるようにしてそれを回避した。

 

 そのまま距離を取ろうと地を転がる鬼の姿に、そうはさせまいと楓は力強く地面を踏み込むと凄まじい速度で仮面の鬼へと迫る。歩数にして数十歩以上離れた距離をひと呼吸のうちに縮めた楓は、その俊足によって生み出された勢いを一切殺すことなく刀身を横薙ぎに一閃する。

 

 未だ体勢を崩し、地面に膝をつく仮面の鬼にその一撃を防ぐことは不可能、そのはずだった……

 

 

 

 ガキィンッ!!

 

 

 

「っ!?」

 

 鳴り響く甲高い音に今度は楓が驚愕に息を呑む。

 

 彼女の見開かれた瞳に映るのは、突如空中に出現した赤い壁だ。仮面の鬼と楓を隔てるように現れた花弁を模した半透明の紅壁が楓の刀身を防いでいる。その様子はさながら盾。花弁を模した血のように紅い盾が主人を窮地から救い出し、楓の動きを止める。

 

 

(面倒なっ!)

 

 

 空中で止められた刃に楓は内心で毒づく。鬼が人の常識を外れた異能を使うことは鬼狩りにとっては当たり前のことではある。先の繭を作る鬼の異能に比べれば、仮面の鬼が使った盾を作るという異能の方が余程単純で明快だ。だが、それ故に先の鬼よりも余程強力な能力だ。なんの予備動作も、溜めすらもなく、楓の一撃を防ぐだけの強度を持った盾を瞬時に作り出せる。単純であるが故に強力とは、まさしく目の前の鬼の異能にぴったりな言葉であろう。先のように自在に盾を作り出せるのであれば、鬼自身の戦闘能力と鑑みてその脅威度は並の鬼の比ではない。

 

 

 完全に止まった黄緑の刃を前に、仮面の鬼はその場から後方へと跳び退ると、なぜか空中へと大きく跳躍した。上空へと飛び上がった仮面の鬼が最高点に達し、地面へと落ち始めると楓がそう認識した瞬間……

 

 

 

 

——— 血鬼術 天翼 • 紅刃(こうじん) ——

 

 

 

 

 鬼の身体に翼が生えた。

 鬼の背中から、血のように紅く輝く一対の翼が生え、地に堕ちるはずだった鬼の身体を宙へと停滞させている。暗闇の中、満月を背に宙に浮かぶその姿は、さながら聖書に登場する神の遣い、天使のようにすら感じられる。見に纏う衣が白く、生えた翼が純白であったならば信心深い者であればそれを天使と疑う者はいないだろう。

 

 視界に映るあまりにも現実離れしたその光景は、鬼の異能であると理解している楓すらも驚愕させ、その動きを止めてしまう。

 

 静寂な闇の中、月光を一身に浴びる仮面の鬼は、地を這う人を見下ろし、不意に、その翼を羽ばたかせた。

 

 

「っ!?」

 

 

 瞬間、紅い翼から降り注ぐ大量の羽根。いや、正確には羽根を模した血の刃と言ったところだろうか。鬼の背から生えた両翼より射出された無数とも思える刃が雨のように地に佇む楓へと迫りくる。

 

 楓は咄嗟に後方へと大きく跳躍するも、上空から放たれた広範囲の攻撃に回避しきれず、足や腕を羽根が掠めていく。

 

 

「くっ!」

 

 

 次々と地面に突き刺さる数多の羽根に、楓は避けきれないと判断した翼を黄緑の刀身で弾いていく。

 

 

 

 

 数秒以上もの間降り注いだ刃の嵐が止んだ時、楓の周囲は紅い羽根で殆ど隙間なく埋め尽くされていた。上空から見たそれはさながら巨大な血溜まりのようにすら見える。

 

「はぁっ、はぁっ……痛っ」

 

 荒い息遣いで刀を構える楓の姿は腕や頬、足など大量の切り傷を負っていて、薄らと出る血の色合いもあってなんとも痛々しい姿となっている。

 

「……逃げられた……はぁ〜」

 

 空を見上げる楓の瞳には既に仮面の鬼の姿はない。呼吸を整えるように深く息を吐きながら楓は周囲の気配を念入りに探るが、周囲一帯に鬼の気配は微塵も感じられない。あの羽根の攻撃を楓が必死に凌いでいる隙に、仮面の鬼はこの場から離脱を図っていたのだ。

 

 

(……なんだか、見逃されたみたい)

 

 

 未だ形を保って地に突き刺さる紅の羽根を見下ろして楓は内心で溜息を吐く。

 

 どれもこれも浅い傷ではあるが、楓の身体は全身傷だらけといってもいい程にあちこちに切り傷を負っている。対して楓があの鬼に与えた傷は皆無だ。相手の意表をついた攻撃も、全て仮面の鬼の異能でもって防がれている。与えた傷だけで見れば、完全に楓の敗北、しかも先程までは頭上をとられ、形勢を見れば圧倒的に楓不利の状況だった。そんな状況で撤退などされても、完全に見逃されたようにしか感じられない。

 

 無論、楓としても全力を出しきった状態ではないし、あの状況を打開する方法は幾つもあった。とはいえ、全力云々を言えば恐らく向こうもそうだろう。あの羽根の攻撃には、楓を仕留めようとする気配がなかった。適度に足止めをし、目を眩ませる為だけに放たれた攻撃。

 

 

(あれで下弦の伍?……あの帯の鬼よりよっぽど強く感じたけど……厄介だなぁ)

 

 

 異能の発動速度、本体の戦闘能力、どれを取っても楓をして強力と思わざる負えない程卓越している。少なくとも数ヶ月前に天野山で戦った、上弦の陸を名乗っていた帯を扱う鬼よりは余程厄介だと楓は確信していた。特にあの紅い翼、あの能力は非常に厄介だ。単に飾りとして生えた翼ならまだいいが、あの仮面の鬼は完全に空に浮かんでいた。もしもあの翼で自在に空を飛び回ることができるというのなら、その機動性や、頭上からの面制圧を兼ねた攻撃は並の隊士達では手に負えない程危険なものになる。

 

 

(それにあの剣技、かなりの練度だった)

 

 

 僅か数合打ち合っただけに過ぎないが、その数合であの仮面の鬼が剣技に秀でた鬼であることはよくわかった。

 

 通常、身体能力において圧倒的な有利を誇る鬼は、ほとんどの場合その優秀さにかまけて技術を学ぼうとはしない。拳も蹴りも、足運びすらも拙い、素人そのままに己が身体を扱う。無論、人間に取ってはそれでも十分に脅威だ。普通の人間であるならばそれで十分に事足りるだろうし、多少技術を囓った程度なら、身体能力の高さや再生力にものを言わせて押し潰せるだろう。だが、一定以上の力量を持つ相手には素人紛いの拳など基本的には殆ど通じない。如何に身体能力に優れようとも、ある程度技術を学んだ人間からすれば、彼等の動きを先読みすることなど造作もない。故に大抵の鬼は楓クラスの鬼狩りからすればちょっと動きが早いだけの人間と同レベルになってしまう。

 

 ところが、先の仮面の鬼のように、そこに技術が加われば話は大きく変わってくる。

 

 元来、技術とは身体能力で劣る弱者が、身体能力の高い強者と渡り合う為に生み出されたものだ。『技術で持って力を制す』、その言葉を実現する為に様々な研鑽の果てに生まれたものこそ、現在の武術であり、戦術なのだ。鬼を狩る為の呼吸しかり、ありとあらゆる技術はその概念をもとに構築されている。

 

 だが、その技術を強者であるところの鬼が身につけられない訳ではない。彼等もまた学ぼうとは思えばいつでも技術を手に入れられる。ただでさえ身体能力が優れた鬼が技術すらも手に入れれば、その厄介さはそれまでの比ではない。

 

 

(……あの鬼と同じ、刀を使い慣れている)

 

 

 楓の脳裏に浮かぶのは嘗て体験した絶望の権化。死の体現者にして、十二鬼月最強の鬼、上弦の壱。鬼を狩る為にある呼吸という技術を扱い、剣術に於いても類を見ないほど卓越した技巧を持つ楓の知る中で最強の鬼であり、想い人を奪った憎い仇でもある。

 

 あの鬼と同じく技術の道を歩む鬼が、十二鬼月とはいえ、未だ下弦の伍とは俄には信じがたい話だ。

 

 楓が確認できた能力だけで、自在に生み出される紅い盾、羽根を刃のように放ち宙を浮くことのできる翼、もしかすると、あの紅い刀も異能によって生み出されたものかもしれない。既に確認できるだけでもこれだけ多彩な能力を持っている。この上でまだ成長するというのなら、その脅威度は上弦に匹敵するかもしれない。

 

 

 

(……たくさん喰らったんだろうな)

 

 

 鬼が強い。

 

 

 それはつまり、それだけの犠牲者が出ているということを表している。鬼が異能を獲得するまでにどれだけの人を喰らえばいいのか、その正確なところは不明だ。個体差だってあるだろうし、浴びた血の量によっても、変わるのかもしれない。だがどちらにしても、その人数は10や20ではすまない。それだけの数の人間が鬼によって殺されているのだ。

 

 強い鬼がいるということは鬼による被害を鬼殺隊が食い止められなかった証となってしまう。

 

 楓の拳が強く握りしめられる。ギリギリと音を立て手に持つ刀をカタカタと震わせて、楓は悔しそうに歯を食い縛る。

 

 今日自分があの仮面を逃したことで、また人が喰われる。あるいは知っている隊士が死んでしまうかもしれない。そう考えれば、楓の心中に強烈な後悔が押し寄せてしまう。

 

 

「あの鬼は早く止めないと……」

 

 

 ポツリと呟かれたその言葉は鬼殺の剣士としてのものだったのか、或いは、人を喰らう鬼への憎しみに囚われた復讐者としてのものだったのか、それともこれ以上鬼となった人に罪を重ねさせないという高野楓としての想いだったのか。

 

 今となっては楓自身ですらはっきりとは分からない、不明瞭な呟きだった。

 

 

 

「カァー!」

 

 不意に、夜の闇の中に響く鳴き声。

 楓にとって馴染みの深いその鳴き声は、鬼殺隊の情報伝達の要である(からす)のもの。

 

 声のする方へと楓が視線を向ければ、僅か頭上を闇夜に紛れるように漆黒の翼を広げて飛んでいる。

 

 

(何かの通達かな?)

 

 

 いつも通りであれば、これは何らかの情報を鴉を通して隊士の誰かが伝達しようとしていることになる。

 

 

「伝令!本部より伝令!鬼殺の剣士、炭次郎、鬼のねずこ!両名を拘束し、本部まで連れ帰れ!連れ帰れ!カァー!」

 

 

 暗い闇の中に響くその声が表すのは楓が予想した情報の伝達ではなく、鬼殺隊本部からの命令。しかもその内容は楓にとって全く理解不能なもの。

 

 

「………はい?」

 

 

 暗闇に響くその予想外の内容に楓はキョトンと首を傾げて、間の抜けた声をもらした。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等いただけますと幸いでございます。

楓は現在、迷走中です。
そしてなにしに出てきたんだよぉって感じの仮面さん。
心情描写多めになっているので展開超スローリーですがお許し頂きたい。
短く纏める文章力をまだ持ち合わせておりません故に ʅ(◞‿◟)ʃ


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説教

 

 暗い闇の世界に薄らと暖かな光が混じり始める。

 

 多い茂る木の葉の隙間から差し込んでくる陽の光が、目に映る世界を鮮やかに色付け始めたことで、カナヲは自らに与えられた役目がもう間も無く終わることを理解した。

 

「栗花落様、此方の人員は全て回収致しました」

 

 不意にカナヲに声が掛かった。そっと背後に視線を向ければ、そこに立つのは黒子のような装束に身を包んだ人の姿。僅かに垣間見える身体の起伏と高い声色でようやくそれが女性であることが分かるような装いにも、カナヲが驚くことはない。鬼殺後の事後処理を専門に行う隠である彼等は、皆目の前の女性と同じような一見怪しげな装いをしている。カナヲとしても、随分と昔に慣れてしまった光景だった。

 

 

 チラリと、楓は少し離れたところで此方に背を向けて立つしのぶの背中に視線を向ける。

 

 

(……まだかかる)

 

 

 師の背中から伝わってくる常とは違う苛立った雰囲気に、カナヲは未だしのぶの用事が終わる様子を見せていないことを悟った。

 

 

「後は私が報告するから、貴方達は怪我人を連れて蝶屋敷に向かって」

 

 

 短くカナヲがそう指示を出せば、隠の女性は了承の返事をして駆け出していく。

 

 

 それを横目に確認するとカナヲは羽織りを翻して、師であるしのぶの元にゆっくりと足を進めていく。

 

 

 

「どうかしましたか?カナヲ?」

 

 

 しのぶの数歩後ろまで近づいたカナヲにゆったりとした口調で声が掛かる。

 

 

「終わりました」

 

 

 カナヲの方に背を向けたまま振り返ることなく掛けられた問いに、カナヲは短く、非常に簡潔な言葉で隠の事後処理が終了したことを報せる。

 

 

「そうですか。では、私達もそろそろ行かなければいけませんね。……そう言うことだそうなので、今回は此処までにしておきますがお2人共……」

 

 

 

 

——— 私のお話は理解して貰えましたか?

 

 

 

 

 ふんわりとした柔らかい声が空気を揺らし、宙に響き渡る。

 

 

 その声にびくりと、身体を震わせる哀れな影をカナヲは視界の隅に収める。

 

 そっと焦点を合わせるように、カナヲはしのぶの正面へと正座させられた姉弟子である楓と、水柱である富岡の姿を視線の中央へと捉える。

 

 楓の表情は酷く青ざめていて、身体をガタガタと震わせながら瞳に涙を浮かべて首を縦に何度も振っている。その様子から彼女が強い反省の念を持っていることはよく分かる。

 

「楓はいつもそうやって肯定してくれますね。ですが、本当に分かっているのでしょうか?私の記憶ではこのような遣り取りをもう幾度となく繰り返していると思うのですが……私がこうして貴方の傷を診るのは一体何度目でしょうね?」

 

 

「ひぃぃぃっ!?ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」

 

 

 しのぶの身体から噴き上がる怒気に楓は甲高い悲鳴を上げながら謝罪を連呼し始める。

 

 明らかに怯えた様子を見せている楓を前にしてもしのぶはにっこりと微笑んだまま、怒気を少しも緩めることなく彼女に視線を向け続ける。

 

 これまでにしのぶが楓の治療した回数は、傷の大小はあれど両手足の指の数よりも遥かに多い。無論、鬼との戦いは命のやり取り、そうである以上、怪我を負うなんてことはある意味では当たり前のこと。しのぶも本来であれば、一部例外を除いて、鬼との戦いで傷を負ったことに関して怒ることなどない。楓にしても本の一年前まではしのぶが彼女の負傷に声を尖らせることはなかった。

 

 しかし此処一年の間に楓が負った怪我の数は流石に目に余るものがあった。しのぶがこれまで診た楓の怪我の半数以上がこの一年以内に負った傷なのだ。僅か一年で、他の隊士の数年分にも当たる怪我をして帰ってくる弟子の姿に、師であるしのぶが危機感を覚えるのはある意味では当然のことだった。

 

 

 なんとかしようと、しのぶが柔かく注意を促しても、楓の負傷回数は一向に減らない。それどころか、傷が完治していないのにも関わらず、無茶な鍛錬をして悪化させてくることすらあった。それを見て流石のしのぶも我慢の限界だった。

 

 まるでいつかの信乃逗(しのず)の姿を彷彿させる楓の姿に、堪忍袋の切れたしのぶは強制的に寝台へと彼女を縛りつける方でもって対応すると

 

『私は今日楓と大事な話がありますので、今日一日何があっても部屋に入ってきては駄目よ』

 

 

 と、アオイ達に告げて楓の部屋の扉をバタンッと閉めた。

 

 

 一体中で何が行われていたのかそれは定かではないが、次に扉が開いた時、楓はもう鍛錬をさせてくれとは言わなくなっていた。代わりに『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と青ざめた表情でガタガタと震えながらひたすらに謝罪を口にしていたそうだ。

 

 

 以来、楓は傷を負うことをなるべく避け、無茶の上に無茶を重ねたような鍛錬をこなすことを自重するようになった。が、それでも鬼との戦いに怪我は付き物、楓が傷を負ってくるたびにしのぶは笑顔で楓に注意を促し、楓はそれを受けていつかの恐怖を思い出したかのようにガタガタと震えるというのが、いつのまにか定番となっていた。

 

 今回も同じだ。

 

 傷自体は浅いが、まるで刃の嵐に飛び込んだかのように身体中に切り傷を負って現れた楓の姿にしのぶは目眩がしそうだった。数時間前までは新品のように綺麗だった隊服も、あちこちがすっぱりと切れ、肌を露出したその姿は、妙に扇情的な様子にすら見えてくる。弟子のあられもない姿に思わず隣に立つ富岡に目潰しを敢行したしのぶはきっと何も悪くないはずだ。

 

 

「胡蝶、その辺にしておいてやれ」

 

 

 青ざめて震える楓の姿を流石に不憫に思ったのか、同じく楓の隣で正座させられた富岡から静止の声がかかる。

 

 

「あら、何を他人事のように仰っているんでしょうか?私、富岡さんを許すと言った覚えは全くないのですが?あらましの事情は伺いましたが、先程の件、もっと説明の仕方は色々とあった筈です。貴方のその口下手のせいで私は一体どれだけ苦労させられればいいのでしょうか?」

 

 

「……先程は胡蝶が話を遮った」

 

 

「人の首に腕を回しておいて長々と話をしようとするからです。私が防いでいなければ貴方の会話の最中に酸欠で気絶しているところですよ」

 

 

 額に青筋を浮かべたしのぶは目を閉じて先の情景を思い浮かべる。

 

 鬼とは仲良く出来ない、そう言っていた筈の富岡が隊律を犯してまで鬼を庇った。鬼を殺すべく振るわれた刃を防ぎ、鬼を逃す時間を稼ぐかのように彼はしのぶに立ち塞がった。

 

 柱という地位に立つ人物が隊律を犯し、鬼を庇う。それは間違いなく前代未聞の大事件で、しのぶをして驚愕に目を見開かざる負えない状況だった。詳しく話を聞こうにも彼の話をゆっくり聞いてから判断したのでは鬼に逃げられてしまう。

 

 しのぶとしては刃を振るわざる負えなかった。

 

 鴉による伝令が間に合わなければ、しのぶは富岡に刃を突き立てていたかもしれない。

 

 どういう意図があるにせよ、富岡のとった行動は間違いなく鬼殺隊への裏切りだ。ならば柱であるしのぶは当然、それに相応しい行動をとらなければならない。例えその相手にどんな想いを抱いていようとも、彼女が柱である限り、刃を振るうしかなかった。

 

 無論、しのぶとしても命を奪うつもりはなかった。とはいえ、それでも取り返しのつかない傷を彼に与えていたかもしれないのだ。

 

 それを考えれば、そんな行動をとらざるおえないような状況に追い込んだ富岡に対して怒りの一つも覚えるのは無理のないことだろう。

 

 

「……もう、二度としないでください。本当に」

 

 

 怒りと僅かに哀しみの感情を宿したようなしのぶの表情に、富岡は瞠目した。

 

 富岡という人間は他人の感情の機敏に非常に疎い。口数も少なく、表情の乏しい彼は、対人経験が非常に乏しく、自分の言動が周囲にどのような影響を与えるのかということをこれまであまり考えたことがなかった。

 

 しかし、いま目の前に立つ1人の女性の表情は、彼にも察せられるだけの苦しみに満ちていて、彼女を悲しませる要因が自分のとった行動にあることを察するのには、十分すぎる情報だった。

 

 

「…………すまない」

 

 

 故に、彼は素直に謝罪した。

 

 

(えっ、なにそれ可愛い)

 

 

 僅かに視線を下にしょんぼりとした様子で謝罪をする富岡の姿に、しのぶは思わず口元に手を当てて歯に噛んでしまう。

 

 正座をした状態で、下を向いて、大の男が叱られた幼子のようにしょげている。人によっては情けないと、余計に怒りを露わにしそうな仕草だが、しのぶにはそうは映らなかったようだ。

 

 愛らしい生物を見たかのように頬を紅く染め、にやけそうになる口元を手で隠すしのぶの姿に、先程まであった陳痛な雰囲気は何処にもない。

 

「ま、まあ、反省しているというのなら、これ以上は言いません。貴方も大人なのですから、同じことを繰り返したりはしないと信じることにしましょう。本当にこれっきりにしてくださいね」

 

「ああ?……分かった」

 

 謝罪した途端に変わったしのぶの雰囲気に富岡は首を傾げながらも、彼女に了承の返事をすると、その場にゆっくりと立ち上がった。

 

 

「楓も、もう結構ですよ。あとは屋敷に戻ってからにしましょう」

 

 

(あ、まだ続くんですね……)

 

 

 矛先が明らかに変わったことで自分の番は終わった、そう思って安心しきっていた楓に振るわれる容赦のない言葉の刃。あとは、とは一体何が残っているのだろうかと、楓は思わず頭を抱えて蹲ってしまう。

 

 

「さて、ではカナヲは屋敷に戻ってください。鴉でアオイ達には伝達済みですが、現場の状況を理解している者がいた方がいいでしょうから」

 

 

 とはいえ、富岡とのやり取りの影響か先程までの怒気は身を潜めたようで、幾分雰囲気が柔らかくなっている。

 

 

(あれ?……カナヲは?)

 

 

 しのぶの放った言葉に疑問を感じた楓は首を傾げる。

 

 

「あの、しのぶ様?私も屋敷に戻るのではないのですか?」

 

 今のしのぶの言い方では、楓は蝶屋敷には戻らないと言っているように聞こえる。てっきりこのまま屋敷に戻って長い長い説教を課せられるのかと思っていたのだが、どうも違うらしい。

 

「楓は私と一緒に本部に来てください」

 

「へっ!?……あの、私が本部に行っても良いのですか?」

 

 通常、鬼殺隊の本部に柱以外の者が赴くことはまずない。本部というのは文字通り鬼殺隊の司令塔であり、人体に例えれば頭脳のような場所。鬼殺隊にとって急所ともなるべくその場所に赴くことは一般隊士達ではまず許可が下りない。

 

 鬼に見つからぬように厳重に隠された本部に行き、鬼殺隊の当主である産屋敷一族に会うことが出来るのは基本的には柱だけなのだ。

 

「えぇ。私と富岡さんも本部には向かいますが、今日は柱合会議ですからその間、あの鬼を見張っていて欲しいのです」

 

 

 そう言って、しのぶは少し離れた地面に置かれた大きな木箱に視線を向けた。

 

 つられるように楓も赤茶色をした長方形型の木箱に目を向ける。幼子が入りそうな大きさの箱の中からは人ではない、鬼の気配を確かに感じる。

 

「……あの、本当に鬼を連れて本部に行くんですか?」

 

 その指示に戸惑いを隠せない、そう言った様子で楓はしのぶへと再度確認を取った。

 

 先も挙げたように、本部は間違いなく鬼殺隊にとって急所になり得る最重要拠点なのだ。そんな場所にこともあろうに鬼を運べと、そう指示をされている。

 

 チラリと、楓は視線を箱の横で腕を後ろに縛られて転がる少年を見据える。木箱に入った鬼はあの少年の妹だそうだが、隊律を犯した彼だけならばともかく、鬼まで運べといわれても「はい、そうですか」と何の疑問も持たずに命令を実行するのはいくらなんでも無理があるだろう。

 

 

「貴方の言いたいことは分かります。……ですが、それが今回の指令なのです。お館様の命である以上は、何か意図があるのでしょう」

 

 

 楓の疑問に同意を示しながらも、しのぶはあくまで指令を実行する意志を示した。

 

 本来であれば、しのぶとしても楓同様、この指令を実行するべきかどうかは大いに悩むところだ。いくら尊敬するお館様の命とはいえ、鬼を連れて産屋敷邸に赴くというのは危険過ぎる。富岡の話を聞いていなければ命令に反していた可能性は否めない。

 

 だが、もしも先に聞いた富岡の話が事実で、この箱の中にいる鬼が人を襲わず、2年もの間人間の兄と共に過ごしてきたというのであれば、それは間違いなく歴史上初めて、人が鬼の血に打ち勝ったという証明に他ならない。

 

 無論、そんな眉唾物の話を素直に信じることができる程、しのぶは無垢ではない。鬼が人を食べることを我慢できると、そんなおとぎ話を信じるにはしのぶも楓も鬼による悲劇を見過ぎてしまっていた。

 

 なら、なぜしのぶは富岡の語るお伽話を信じたのか。

 

 それは、以前それと似たような話を聞いた覚えがあったからだ。

 

 

 ある1人の隊士が嘗て体験した地獄、弟を喰らいたくないと、殺してくれとそう願った1人の少女の話を、しのぶは聞いたことがあった。

 

 

(もしも、雨笠(あまがさ)君のお姉さんのように、人の心を保った鬼がいたのだとしたら……)

 

 

 鬼殺隊の隊士として、到底信じられない話だ。柱として、そんなことは有り得ないと断言するべき幻想であるにも関わらず、しのぶはそんな幻を信じたいとそう思ってしまっていた。

 

 姉が願った鬼と仲良くするというそんな理想が、あるいは目の前にあるのではないかと、そう思いたくなった。

 

 

「しのぶ様は、水柱様の仰ったことを……信じていらっしゃるのですか?」

 

「……どうでしょうね。でも、本当なら良いなとは思ってますよ」

 

「……………」

 

「楓は信じられませんか?」

 

「私は、鬼が人を喰らわないなんて……信じられません」

 

 楓があの木箱の鬼に入った鬼が人を襲わず、喰らうこともないと、そう水柱である富岡から説明を受けてから未だ二時間と経っていない。

 

 如何に水柱の発言であろうとも、そのような突飛でなおかつ常識的には考えられないような説明を間に受けるのには、あまりにも整理する時間が少ない。

 

「そう……なら鬼の見張りは安心して任せられますね」

 

「えっ?」

 

 どういうことだろうか?ときょとんと首を傾げる楓にしのぶは苦笑して口を開く。

 

「富岡さんのお話は2年も前のことだそうですから、今も人を襲わないと断言するには正直証拠が不足し過ぎています。そんな不明確な話を鵜呑みにして油断しているようでは困りますから、楓に頼んで正解ですね」

 

 悪戯が成功したとでも言うかのように楽しげに微笑む彼女の表情を見て、楓は急激に顔を赤く染める。

 

「し、しのぶ様、もしかして、私を試してたんですか?」

 

「さぁ、どうでしょうか?」

 

「し、しのぶ様〜!」

 

 楓は真剣に悩んで答えたと言うのに、しのぶの方はこの深刻な事態にも関わらずあまり思い悩んではいないようだ。

 

 

「ふふっ、さて早く行きましょう。柱合会議に遅れてしまっては大変ですから。富岡さんはその坊やを負ぶってあげてくださいね」

 

 

 顔を赤らめて抗議の声を張り上げる楓にしのぶは口元を綻ばせる。笑みを隠すように手で口元を覆った彼女の姿はとても楽しそうで、弟子を揶揄って遊んでいるようにしか見えない。

 

 

 だから、彼女達が気がつかなかったことは決して無理のないことだった。

 

 

 彼女の隠す真実に。

 

 

 口元を覆った彼女の手に付着した紅に、カナヲも楓もこの時は気が付くことが出来なかった。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
御意見・御感想等頂けますと幸いでございます。

鬼殺隊の本部についてははっきり言って独自解釈多いです。こんな感じじゃない?って感じで書いているので変なところあったら教えて頂けるとありがたいです。

あと作者はぎゆしのも好きなので、ちょいちょい挟んでいっちゃいます。
なのに不穏な空気で終えるという矛盾……



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鬼殺隊本部

 何視点で書いているつもりなのかという質問がメッセージで来たのでこちらでも記載しておきます。

 筆者は大変勉強不足でして未だ視点の概念を完全には理解できておりません。この作品に関しては、三人称神視点が一番近いのではないかと思いますが、作者的には皆さんがアニメを見ているような視点で書いている感じが一番近いですね。

 勉強不足で申し訳ないですが、展開を楽しんで頂けている方が一人でもいらっしゃれば幸いでございます。




 太陽が支配する明るい世界。

 頭上から燦々と降り注ぐ暖かな光を浴びながらしのぶと冨岡の2人は地面に敷き詰められた砂利の上を歩いて進む。

 

 

「おっ、来たか。久しぶりじゃねぇか、冨岡、胡蝶。相変わらず派手に小さいやつだな」

 

 

 柱合会議を行う定例の場所となっている産屋敷邸の巨大な庭の一画に到着したしのぶと冨岡の2人を出迎えたのは、音柱、宇随(うずい)天元(てんげん)だった。

 

 

「あら、お久しぶりですね宇随さん。ですが出合い頭に小さいだなんて、冨岡さんが傷ついてしまいますよ?」

 

(いや、冨岡じゃなくてお前に言ったんだがな)

 

 一見無礼極まる宇随の発言は、誰が聞いてもしのぶに向けられた物であったが、彼女はそれを無理矢理冨岡に押しつけることで「まさか私に言ったんじゃないでしょうね?」と、案に宇随へとそう告げていた。

 

 普段、人の話の意図を全く理解出来ていない冨岡だが、流石に先の宇随の発言がしのぶに向けられたものであろうことは分かっていたようで、訝しげな表情でしのぶに視線を向ける。

 

「今のは胡蝶に「ほら宇随さん。冨岡さんが衝撃を受けてしまっていますよ。早く謝ってあげてください」……俺は小さくない」

 

 あくまで冨岡に向けられた言葉だったことにしたいのか、彼女は冨岡の言葉に重ねるようにして宇随に謝罪を求め、珍しく冨岡が気づいた疑念の声を押しつぶした。

 

 冨岡もにっこりと微笑んだしのぶを見て、その疑念を声にすることを諦めたらしい。どこか無念の想いを感じさせるような口調で小さくないと、宇随へと抗議の声を挙げた。

 

「ったく、相変わらず地味に尻に引かれやがって。冨岡よぉ、少しは男らしいとこ見せねぇと女に嫌われちまうぞ」

 

「……それは助言か?」

 

「おうとも。嫁を3人持ってる先達のありがたい助言だぜ」

 

「そうか……」

 

 宇随の発した『嫌われる』という言葉に、冨岡はピクリと反応を示した。数時間前にしのぶにも似たようなことを言われていた彼は今、この単語に非常に敏感になっている。

 

 彼は自分が周囲の人間に嫌われているとは思っていない。ただ、仲が良いと思っているわけでもない。嫌われてもいないければ、好かれてもいないというのが今の富岡が認識する他の柱達との友好度だ。

 

 無論、それは彼の大きな勘違いで、実際には嫌い側に傾いている柱もいる。

 

 とはいえ、彼は別に他人に嫌われたい訳ではない。どちらかと言われなくとも人には好かれたいと、仲良くなりたいと、そう思っている。

 

 彼の隣に立つ彼女にも当然、嫌われたくない。なら、有耶無耶にするのではなくきちんと口にするべきだと、彼は意を決したようにキリッとした表情で、しのぶへと視線を向ける。

 

 

「胡蝶、先の話だが「そういえば今日は鮭大根を作ろうと思っているんですが、よろしければ冨岡さんも如何ですか?」……行こう」

 

 

 あまりにも容易く、彼の抱いた決意は砕け散った。もはや彼には先の話の内容など何一つとして記憶にはない。眼前に提供された馳走が彼の心の視界を塞ぎ、それ以外の一切が見えなくなっている。

 

 

「……良いんだな冨岡?お前はそれで本当に良いんだな?」

 

 

 普段何処かいじいじとした様子を見せる冨岡が、珍しく男らしさを見せるのかと宇随は期待してみていたのだが、あまりにも容易くあしらわれてしまっている。いっそ見ているだけで情けなくなってくるその光景に、宇随は確認を取るように冨岡へと問いかける。

 

「胡蝶の鮭大根は旨いからな」

 

 常に無表情というか、何を考えているのか分からない感情の読み難い仏頂面をした冨岡が、気色の悪い笑顔を浮かべた様を見て、彼が完全にしのぶの手中に堕ちていることを宇随は理解した。

 

「なに派手に胃袋掴まれてんだ。鮭大根一杯の為に大事なもん色々落として行ってんじゃねぇよ」

 

「一杯の為じゃない」

 

「なに?」

 

「十杯は食べる」

 

「……おう、もう好きなだけ食えよ。十杯でも二十杯でも食っていいから、たかが夕飯で、夢見るガキみたいに派手に瞳を輝かせてんじゃねぇよ。気持ち悪い」

 

 まるで欲しいものを貰った時の子供のように、キラキラと瞳を輝かせる21歳の男を宇随はジト目で見据えると呆れたような声色で呟いた。

 

「あら、可愛いらしくていいじゃないですか。凄く冨岡さんらしいです」

 

「……お前も大概いい趣味してるな」

 

「ふふっ、お褒め頂いて光栄です」

 

 

 くえない奴、とでも思っているのだろうか、顔を顰めた宇随はそのまましのぶから視線逸らすと、冨岡の肩へと顔を向ける。

 

「んで?冨岡が肩に持ってんのが例のガキか?」

 

 宇随の瞳が、後手に縛られた1人の隊士の姿を映し込む。ボロボロになった隊服にあちこちに擦り傷を負っているその姿は実にみすぼらしく、宇随は胡散臭そうな表情をする。

 

「えぇ。鬼を連れていた隊士ですよ」

 

「ほぅこいつか。想像より地味な野郎だな。……俺が派手に介錯してやろうか?そういう仕事は得意分野だ」

 

「駄目ですよ宇随さん。お館様からは捕縛する様にだけ指示を頂いていますから」

 

「ふーん、なら鬼は何処だ?こいつと一緒に此処に連れてくるように指示出されてんだろ?鬼の方なら首を落としておいてもいいんじゃねぇか?」

 

「そんなことをしては連れてきた意味がないじゃないですか。鬼ならすぐそこで私の継ぐ子に見張ってもらってますから安心してください」

 

「お前の継ぐ子?……確かお前の妹だったっけか?」

 

「いいえ。カナヲは屋敷に戻しましたから」

 

「じゃあ、上弦から生き残った女の方か。上弦の鬼から二度も生き延びるたぁ派手に運のいい奴だよなぁ」

 

 宇随もしのぶの継ぐ子については何度か耳にしている。新しい呼吸を生み出した才能ある剣士で、一部では疫病神とも言われる彼女のことを。

 

 此処数年、上弦の鬼が過去に例を見ないほど活発に動いている。彼等が動いた場所では鬼殺隊にも相応の被害が出ているのだが、不思議なことに彼等が把握している上弦の事件には必ずと言って良いほど、高野楓がいるのだ。彼女と共に指令に向かえば上弦と出会ってしまう。命を落としてしまう。そんな根も葉もない噂が隊内には蔓延っていた。

 

 

「……そうですね」

 

 

 しのぶも、その噂については知っていた。発端はただの嫉妬だ。首を斬れないしのぶが影で妬まれていることと同様に、新しい呼吸を生み出し、様々な情報を持ち帰った楓の功績やその強さを妬んだ者が面白半分に言い出した、たわいのない噂話。それが今や隊内で知らぬものがいない程に広がりを見せてしまっていた。

 

(くだらないわね……本当に)

 

 鬼殺隊も所詮は人の組織だ。人の在り方はそれぞれで、柱という地位を持ってしても他人の人間性を変えることなどできない。楓の身内と言っても良い程仲の良いしのぶが、いくらその手の噂を注意したところでこの件に関しては火に油を注ぐようなもの。余計な波風を立てまいと、しのぶは自分の時と同じように傍観に徹した。

 

 

「しかし継ぐ子か、俺は1人もいねぇからなぁ。胡蝶は継ぐ子に恵まれてて羨ましいぜ」

 

「……えぇ、本当に。私には勿体ないくらいの良い子ですからね」

 

 

 噂など、信じたいものには信じさせれば良いとしのぶはそう思っている。ほんの少しでも楓のことを知っている者なら、そんな噂は馬鹿馬鹿しいと鼻で笑ってしまうだろう。そうしのぶが思うほどには楓は優しく、そして何より心の強い子だった。

 

 

(まぁ、もちろんあの子を泣かせるような人がいるのなら、その時は容赦しませんが…)

 

 

 風に靡く髪を押さえて妖艶に微笑む彼女をみて、まだ尚楓にちょっかいをかけられるならその人物は余程の怖いもの知らずか、あるいはただの馬鹿のどちらかであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なんでこんなことしてるんだろ」

 

 

 ぼやくように楓は口を開いた。

 彼女の瞳に映り込む赤茶色をした長方形の木箱は彼女の問いに返答を返すことなく、延々と降り注ぐ陽の光を浴びてただそこに鎮座している。

 

 この箱の中にいる、人ならざる者を見張ることこそが今の楓に与えられた役目ではあるが、正直なところ、その必要が何処まであるのかは疑問なところだった。箱を置いたその場所はひらけていて周囲には物陰もない。その上今日は快晴だ。仮にこの箱の中身が暴れ出したところで、箱を少しでも出ようものなら、その瞬間にはこの箱の中身は絶叫を上げることになるだろう。

 

「ちょっと暑いな」

 

 本格的な夏はまだとはいえ、全身真っ黒な隊服でずっと日差しの下にただ立っているというのは精神的に堪えるものがある。

 

 なによりこの指令について、楓は未だ納得しきれていないところが多い。納得のいかないことでも必要とあればやらねばならないし、それが命令であるなら文句など言わずきちんとこなすべきだが、納得のいっていないことをやり遂げるというのは存外に精神力を必要とするものだ。

 

 違反を犯した隊士の審議というのは当然行われるべきだろうが、鬼を目の前にしながら生かしておくというのは楓としても複雑な心境だ。

 

 冨岡の語った『この鬼は人を襲わない』という言葉が、楓には未だに信用ならない。彼の話は事実なら確かに凄い事だろう。鬼になった少女が人間の兄を庇って戦う。通常では確かに考えられないことだが、だから人を襲わないとは言いきれないだろう。冨岡は2年間この鬼は人を喰らっていないと言ったが、目の前でつきっきりで見ていたわけでもない彼がどうしてそれを事実だと断言できる?

 

 何より、これまで人を喰らっていないからこれからも人を喰らわないと、果たして本当に断言できるのか?

 

(此処で殺してしまった方が良い。鬼は人を喰らうことを我慢なんてできないんだから)

 

 そうは思うものの、命令である以上、箱の中の鬼に勝手に刀を振るうわけにもいかない。それに楓の師であるしのぶは富岡の語った話にどうもかなりの興味を抱いているようだった。いざとなったら躊躇することなく刀を振れと言われたが、そうでないなら絶対に殺してはいけないと彼女は楓にそう告げていた。

 

 

「はぁ〜」

 

 色々とままならないものだと、今日何度目かの溜息をはいた楓の耳に苦笑するような声が耳に入る。

 

「お疲れですか?継ぐ子様」

 

 陽に当たる木箱から声の方向へと視線を移すと、視界に映るのは隠の姿をした女性だ。

 

 彼女は本部の案内係にしのぶからつけられた隠だ。必要があれば柱合会議に木箱の鬼を連れていかなければならないので、その時は彼女に会議場まで案内してもらう手筈になっている。

 

「いえ、疲れているわけではないんですけど……」

 

「あまり無理はなされないでください。怪我もされていらっしゃるようですし」

 

 言葉を濁す楓に隠の女性は心配そうな声色を響かせる。どうやら彼女は楓が酷い怪我をして辛い思いをしているのだと勘違いをしているようだ。

 

 確かに体のあちこちに包帯を巻いている楓の姿は、一見かなりボロボロに見える。ただ、実際には傷の一つ一つが浅いため、見た目よりも随分と元気だった。正直この程度は傷の内にも入らないと楓は思っているので、こんな大袈裟に包帯など巻く必要などないのだが、そんなことをしのぶの前で言えばどうなるか分かったものではない。だからこそ大人しく治療を受けた訳だが、やはりこの包帯の量は大袈裟だったようだ。

 

 隠の女性の見せる気遣いは重傷者を前にしたかのような反応だし、何処となく視線が可哀想な者を見るような感じになっている。

 

「ありがとうございます。でも、これくらいは全然大丈夫ですよ」

 

 努めて笑顔で楓は大丈夫だと笑いながら、手をブンブンと振って体に全く問題がないように振る舞った。

 

 しかし、楓の思惑とは違い、その素振りを見た隠の女性の視線からは悲しみの色が消えない。どころか一層強まったようにすら見える。

 

(あれ?なんか余計に心配させちゃったかな?)

 

 楓は不思議そうに隠の女性の反応を見るが、本来、それは何も不思議なことではない。包帯を巻く程の傷というのは跡になることが多い。数年経って消えることもあるが多くは体に残ってしまう。いつの時代も体に傷が残ることを喜ぶ人は少ない。特にこの時代、そのような傷跡を持つ女性というのは嫁に行くのが困難になってしまう。剣士である楓にとって、傷跡など気にするようなものではないのかもしれないが、普通の女性として見れば楓の反応はあまりにも痛々しく映ってしまう。

 

「えっと、本当に大丈夫ですよ……傷なんてすぐに治りますし」

 

「……継ぐ子様はお強いんですね」

 

「……名前でいいですよ」

 

「え?」

 

「継ぐ子様って言いにくいでしょ?私は楓と呼んでいただいて全く問題ありません。そういえば貴方のお名前は?」

 

「……桂木あゆみと申します」

 

 黒衣の頭巾で楓には表情は見えなかったが、そう名乗った彼女の声はなぜか少し寂し気に聞こえた。

 

「桂木さんですか……うん?桂木?」

 

 彼女の名前を口にして不意に、楓の脳裏に1人の剣士の姿が思い浮かんだ。

 

 楓の尊敬する剣士の弟子だった彼と、全く同じ苗字。天野山で出会った炎の呼吸使う彼と目の前の女性は何か関係があるのだろうか?

 

「ひょっとして剣士に親族がいますか?」

 

「はい。兄が剣士をしております。天野山では兄が楓様にお世話になったと伺っております」

 

「お世話という程のことはしていないのですが……それにしても桂木さんに妹がいらっしゃったとは……なんだか意外です」

 

「意外、ですか?」

 

「絶対一人っ子か末っ子だと思っていましたから」

 

 楓は初めて桂木に会った時のことを思い出した。

 初対面にも関わらず、随分と失礼な視線で睨みつけられていたことは楓の脳裏にもはっきりと残っている。あのような失礼な態度を取る相手は経験上末っ子か一人っ子であることが多いというのが、楓の勝手な推論だった。

 

 

「兄が何か失礼なことを?」

 

「えっ、いやえっと……初対面なのに随分と睨みつけられたかなぁって思ったくらいで別にそんな失礼なことはされてないですよ」

 

 

 楓の言いようにあゆみは何か思うところでもあったのか、キッと鋭く目を細めて問いかけてくる。

 

 最初は誤魔化そうと思った楓だったが、妙に迫力があるその眼光に思わず及び腰になって答えてしまった。

 

 

「睨み付ける?はぁ、継ぐ子様になんてことを……申し訳ありません継ぐ子様。兄に代わって謝罪致します」

 

「あ、いえ、その、別に特に何もなかったわけだから、謝罪されるようなことでもないし」

 

「いいえ、隊士において上下関係というのは必要です。特に兄は未だ庚の階級でしかありません。甲の階級である継ぐ子様に対して睨み付けるなどあってはならないことです。必ず本人からも謝罪させますので」

 

 

(き、厳しい)

 

 

 蝶屋敷で信乃逗(しのず)や山本達と接する内に、幾分柔らかくはなっているが楓も元々は上下関係には厳しい方だ。今でも上役に対する無礼な態度や命令違反には見かける度に注意しているし、場を弁えていない言葉遣いにもそれなりに厳しく注意している。

 

 ただ、その楓を持ってしても厳しいと認識してしまうというのは、あゆみが如何に礼節に厳しいかを表していると言ってもいいだろう。

 

 

「……えっと、程々にね」

 

 義憤に燃えるかのようなあゆみの姿に楓は桂木(兄)の今後を憂いてそう声をかけた。

 

「はい!任せてください、楓ちゃん!」

 

 

 瞬間、世界の時が止まった。

 

 

 

(……楓ちゃん?)

 

 

 一体いつから、自分達はちゃん付けで呼ばれるような間柄になったのだろうかと、楓は疑問に思うものの、それを声にすることはできない。というより、何を言っていいのか分からないというのが正解だろうか。

 

 

「………………」

 

 

「………………」

 

 

 

 無言の静寂の中、2人は静止し、その間になんとも言えない非常に気まずい空気が流れる。

 

 

「………う、うん、その、頑張ってくださいね」

 

 

 数瞬の間を空けて、楓はなんとかこの無言の気まずい空気を壊そうと声を振り絞る。言うべき言葉が何一つとして出てこなかったので、何も問題はなかったと、先の発言はなかったとそういうスタンスでいこうとする楓だったが、それはあゆみに対する追い討ちにしかならなかった。

 

 

「…………」

 

 

 楓の激励に聞こえなくもない微妙な言葉を受けて、あゆみは無言のまま、不意にその場に膝をつき砂利の上で正座をし始める。

 

 

 それを見て楓は衝撃に息を呑む。

 

 

(これはっ、まさか土下座をするつもりではっ!?)

 

 

 これまでの話の流れを考えて、彼女のような礼儀を重んじる人が先の発言を何もなかったかのように過ごすのは無理がある。となれば、彼女が口を開けば間違いなく謝罪の言葉を出すであろうことは想像に難くない。そして今のこの行動、砂利の上で正座をした彼女が、謝罪の為に取る行動など土下座以外には考えられない。

 

 

「待ってください桂木さん!別に土下座とかしなくていいから!さっきのはなかったってことにしましょう!うん、それがいい!私は何も聞いていないから」

 

 

 楓としても別にちゃん付けで呼ばれたことを怒っているわけではないし、そういう呼ばれ方が嫌いな訳でもない。嘗てそう呼んでくれる人も先輩ではあったが存在していた。この場が正式なものであったならば兎も角、屋敷の片隅で仲良さげに呼ばれたからと言って、女性に土下座をさせるなど明らかにやり過ぎだ。

 

 

「土下座ではありません」

 

「へ?」

 

 必死になって声を出す楓に向けてあゆみは静かに呟き懐に手を入れると、その手に何故か短刀を持ち出していた。

 

「腹を切ってお詫びします」

 

「余計に悪いよ!?なんでちゃん付けで呼んだだけで切腹になるの!?予想の斜め上を行き過ぎです!」

 

「もうっ私にはこれしかっ」

 

「どれだけ追い詰められてるんですか!?いいよ、もう仲良しで!ちゃん付けで呼んでもおかしくないくらい仲良かったことにしよう!」

 

 

 短刀を抱え自らの腹に当てようとするあゆみの手から素早く得物を奪い取ると、楓は唾が飛び散るような勢いで必死に押し留める。

 

 

「いえしかし、継ぐ子様をそのようにお呼びするなどあってはならないことですし」

 

「ちゃん付けで名前を呼ばれただけで相手を切腹させる方があってはならない事態ですよ。それに他の目がある公式の場ならともかく、今は他には誰もいませんし、桂木さん……いえ、あゆみさんとはなんだか気が合いそうですから私は仲良くなっておきたいですよ」

 

「そのように仰っていただけるのであれば……分かりました、では昔のように楓ちゃんとお呼びいたします」

 

 

 楓のような美少女ににんまりと微笑んでそう言われてしまえば、如何に礼節を重視するあゆみとて断りにくい。というよりむしろここで頑なに断る方が失礼に当たるだろう。そうであるならあゆみは楓のその提案に乗る以外に道はない。

 

 楓の言葉にそっと苦笑するように微笑むとあゆみは彼女の提案通り仲良さげな呼び名を口にする。

 

 

(ってあれ?……昔?)

 

 

 ふと、今し方あゆみが述べた言葉が楓の脳裏に引っかかる。

 

 

「あの、あゆみさん?私達は今日が初対面ですよね?」

 

 

「……いいえ、違いますよ。以前、よくお会いしていました」

 

 

 返ってきたその言葉に楓は瞠目する。

 あゆみ曰く自分と彼女は初対面ではないそうだが、残念ながら楓の記憶には目の前の隠の女性の姿は一切浮かんでこない。礼儀を重んじる楓はなるべく人の名前や顔は覚えるように心がけているのだが、声も目元の印象も浮かばないとなると、こうして直接対面するのが初めてなのかもしれない。単にすれ違っただけとか、大規模な指令の事後処理であったとかであれば覚えていなくても無理はない。

 

 ただ、あゆみの言い様からして、どうも単にすれ違ったり見かけただけの間柄ではないように聞こえてくる。

 

「……えっと、いつ頃お会いしたことがあるのでしょうか?私、なるべく人の名前は覚えるようにしているんですけど、その、記憶になくて」

 

 怪訝そうに楓は問い掛ける。

 

「そうですね、最後にお会いしたのは7年は前でしょうか」

 

「………7年前?」

 

「はい、7年前ですよ」

 

 ポカーンと言葉の内容を理解出来ていないかのように首を傾げておうむ返しのように呟く楓に苦笑した様子であゆみは微笑む。

 

(え、いやいやいや………それはないよね。だって私まだ鬼殺隊入ってないよ)

 

 やや遅れて、あゆみの言葉の意味を理解した楓は内心で否定する。

 

 7年も前に隠の女性に会っているというのは正直考えにくい。その頃の楓はまだ鬼殺隊に入隊していないし、いっそ刀も持ったことのないその辺りの街娘と何も変わらないただの少女だったのだから。

 

「えっと、どなたかと間違えてませんか?私、7年前はまだ入隊もしてないですよ」

 

「いいえ、楓ちゃんで間違いありません」

 

 自信満々で人違いなどあり得ないといった様子で声を発するあゆみに楓は一層困惑する。

 

 

(……ひょっとして、鬼殺隊に助けて貰った時に来た人の中に居たのかな)

 

 

 7年前に唯一鬼殺隊と楓に接点があるとすれば、それは楓が大事な者を亡くしたあの日以外にはあり得ない。楓が初めて鬼という禍いを知った日。この世に起こる不条理を肌で体感したあの日に、もしかしたら彼女が来ていたのかもしれない。

 

 

 そう楓は思い至ったのだが、その考えはあゆみが次に発した言葉によって否定される。

 

 

「ちなみに私も7年前は入隊していません。その頃の私はまだ8歳ですから」

 

「8歳ですか……」

 

 

(ってことは年下だよね)

 

 

 楓は今16歳。あゆみが7年前に8歳だというのなら今は15歳ということになる。ならば当然、楓を助けてくれた隊士の中にあゆみがいるわけはない。鬼殺隊は過酷な組織だ。きよ達のような例外でもない限り、8歳という幼子が鬼殺隊に関与することはまずない。精精が育ての人間か、藤の花の家紋の家に引き取られるか、その程度の繋がりだろう。

 

 

 だが、楓が引き取られた育ての家に、あゆみのような歳の近い少女はいなかった。あの家に引き取られたのは楓と家族で唯一生き残った楓の()だけだったのだから。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等頂けますと幸いでございます。
誤字報告頂きました方、ありがとうございました。

本当はもっとぎゆしのイチャイチャさせたいけど、この作品の都合上過度にイチャつかせられるわけにもいかないという作者の葛藤をご理解頂きたい 笑笑
ていうか真菰を出したい……真菰様ー!!

あと微妙に楓の過去も出していければと思ってなんか書いておきました。



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懐かしい再会

 

 

(……お兄ちゃん)

 

 不意に、嘗て両親を失って泣き喚く(かえで)の背中を摩ってくれた暖かな手を思い出して、彼女の心にしんみりとした哀愁が漂う。

 

「ここまで言っても思い出してもらえませんか……」

 

 若干項垂れた様子の口調で呟かれたあゆみの言葉が楓の耳へと入り、彼女の意識を現実へと慌てて戻す。

 

「あっ、えっと……ごめんなさい、ゆみちゃん……うん?……ゆみちゃん!?」

 

 その瞬間、閃いた、そう言うが如く楓は叫んだ。

 

 楓が無意識に放った「ゆみちゃん」という呼び名が、彼女の脳裏に1人の少女の姿を思い浮かばせる。まだ楓が平凡な少女だった頃、よく一緒に遊んでいた隣人にそんな呼び名の少女がいた。両親の仲が良く、家が隣だったこともあって彼女達とは家族ぐるみの付き合いをしていた。あの頃、確かに彼女は自分のことを「楓ちゃん」とそう呼んでいた。

 

 

「そうですっ!ゆみです!やっと思い出してもらえましたか!」

 

「えぇぇっ嘘!?本当にっ!?」

 

 

 信じがたいものを見つめるように楓は瞠目し、大きく開いた口を両手で覆う。

 

 

 7年前、楓の家は鬼に襲われた。地に伏せ、大量の血を流す両親の姿と暗闇に怪しく光る鬼の瞳、その瞳を遮るように彼女の前に立った兄の背中を今でも楓はよく覚えている。ただ、漂ってくる血臭と倒れた大好きな両親の姿はまだ幼い少女だった楓の心には強烈過ぎた。目の前に広がる地獄の光景に数秒と持たず、楓の意識は途絶え、次に目が覚めたときには兄と共に育ての家に引き取られた後だった。

 

 友人だったあゆみとはその悲劇が起こる数時間前に「また明日も遊ぼう」とそう約束したきり会うことができなかった。楓は兄から、あゆみは無事だとそう聞いていたので安心はしていたのだが、もう2度と会うことは出来ないだろうとそう思っていた。

 

 

 それがまさかこんなところで再会することになるとは、世界とは存外に狭い。

 

 

「えっ、ちょっと待ってください……じゃあ、桂木さんは、あき兄ってこと?」

 

 

 戸惑いながらも楓は確認するようにあゆみに問いかける。

 

 楓が「ゆみちゃん」と呼んでいた彼女にも、確か兄がいた筈だ。やんちゃで乱暴な印象が強く残っている彼を当時楓は「あきにぃ」とそう呼んでいた。楓の兄とあゆみの兄は仲が良く、二人で共謀しては何度となく楓とあゆみに悪戯を仕掛けて泣かせてくれた。

 

 目の前にいるひよりが「ゆみちゃん」で、彼女の兄が桂木明久だというのなら、天野山で共に戦った彼は、嘗て楓を散々泣かせてきた悪戯好きの「あきにぃ」と同一人物ということになる。

 

 

(……全然気づかなかった)

 

 

「えぇ、まあ。楓ちゃんからすれば、愚兄にいい記憶などないでしょうけど、あれは一応私の兄ですから」

 

「……こう言ってはなんだけど、その、随分と変わられたんだね」

 

 

 正直、楓は両親を失う以前の記憶がかなり曖昧になっているので、桂木明久が「あきにぃ」だったことに気付けなかったこと自体は無理がないと言ってもいい。ただ、それにしても楓が僅かに覚えている「あきにぃ」と小牧の弟子として出会った明久はあまりにも似つかない。やんちゃで悪戯好きだった快活とした雰囲気を、あの時の明久からは感じなかった。どちらかといえば物静かで、それでいて人を寄せ付けない剣呑な雰囲気を感じた。

 

 

(あの時睨まれたのは、私のことに気付いていたからってこと?)

 

 

 天野山で挨拶をした時、初対面にも関わらずあんなに睨まれたのはもしかしなくともそれが原因かと楓は内心で納得した。

 

 

「……それを言うなら楓ちゃんも昔とは随分と変わってますけど……でも、そうですね。この7年色々ありましたから、兄も私も昔とは少し違うかもしれません」

 

「ゆみちゃん……」

 

 

 目を伏せてそう呟くあゆみの姿はどこか寂しそうで、哀愁漂うその声色に楓は眉を顰める。

 

 人は移りいく生き物。時の狭間で起きる出来事は姿は当然、性格だって難なく変えてしまう。7年もの長い時ならば、人なんて尚更簡単に変えてしまえる。

 

 楓の知らないこの7年が彼等の在り方を、幼かったあの頃のままにさせておいてはくれなかったのだろう。それは彼女がいま隠として目の前に立っていることからも容易に想像できる。

 

 

「……どうして2人が鬼殺隊に?」

 

 

 7年前、兄からは彼女達は無事だとそう聞いていた。だから楓はあの悲劇に彼女達は巻き込まれないで済んだのだとそう思い込んでいたのだが、それは勘違いだったのかもしれない。

 

 

「ぇ?……お兄さんからは何も聞いてないんですか?」

 

「2人は無事だから安心しろって言われただけで、それ以外は何も……」

 

「……そう、だったんですか……」

 

 

 そう呟いたあゆみの表情は黒い布地に阻まれて楓には伺い知ることが出来なかったが、聞こえてくる声色は明らかに困惑していた。

 

 

「……ゆみちゃん?」

 

 

 急に顔を俯け、様子の変わったあゆみに楓は怪訝そうに声をかける。

 

 

「あっ、えっとですね……7年前に私達は両親を失ってしまって、親戚の家に引き取られたんですけど、兄が剣士になるって聞かなくて……」

 

「っ!?」

 

 

 楓の訝しげな声色にハッと顔を上げたあゆみは何やら慌てた様子で彼女達に起きた悲劇を喋りはじめる。平時であれば、楓は彼女のその反応に違和感を覚えただろうが、今の楓は告げられた言葉があまりにも衝撃的でそれに構う余裕がなかった。

 

 

「そうだったんだ……ごめんなさい。私、てっきり二人は平穏に暮らせているとばかり、そんなことになっていたなんて」

 

 

 楓は7年前、「ゆみちゃんは大丈夫かな?」とそう兄に問いかけ、兄はそれに「ゆみちゃんも明久も無事だよ」とそう答えた。いま思い返せば、兄は彼女達の両親については一切言及していなかったのだ。嘘はついていない、実際2人はこうして無事生き延びているのだから。だがそれは明らかに意図して隠された情報だ。

 

 おそらくは幼い楓には聞かせなくても良いと彼女の兄はそう判断したのだろう。両親を失ったばかりの妹にこれ以上の心労をかけないようにと、兄から受けた気遣いが今ここに明らかになった。

 

 

「楓ちゃんが謝ることなんて全然ないですよ。寧ろ謝らないといけないのは私達の方で……」

 

「いやいや、ゆみちゃんが謝る必要こそ全然ないよ……それにしても不思議だね。こうしてまた会うことができるなんて」

 

 

 このままでは互いに謝りつづけなければいけない空気感が完成してしまいそうだと、楓は慌てて話題を変えるようにそう口ずさんだ。

 

 実際、この出会いはある意味では奇跡と言ってもいいだろう。7年前の事件で彼女達の縁は殆ど切れたと言っても良い状態だったのだから。それが何の因果か、こうして鬼殺隊として再び出会えた。

 

 

「不思議、ですか……私はこうなる運命だったような気がします」

 

「運命……そう言えなくもないかもしれないね」

 

 

 鬼によって切れた縁がこうして鬼の為にまた繋がった。そう考えれば、確かにこの再会はある意味彼女のいう通り必然なのかもしれない。

 

 

「お兄ちゃんがここにいれば完璧だったんだけどね」

 

「っ……そうですね」

 

 

 不意に楓が呟いた一言にあゆみは悲しそうに表情を歪める。

 

 

「あっ、ごめんね……なんだか暗い話しちゃって」

 

 

 慌てた様子でパタパタと手を振るって楓は謝罪を口にする。折角久しぶりに会えたと言うのに暗い話ばかりしていては再会の喜びが薄れてしまう。そう思って、楓は話題を変えようと思考を巡らせるが、それよりも先にあゆみの方が口を開いてしまった。

 

 

「いえ、その……楓さんはやっぱりお兄さんの仇を討つために鬼殺隊に?」

 

「……どうだろうね。そうだったかもしれないし、違ったかもしれない」

 

 

 楓としてはできれば早々に打ち切りたい話題ではあったが、元を辿れば自分から言い出してしまったことだ。仕方ないと割り切った様子で楓は口を開く。

 

 

「理由が……分からないんですか?」

 

 

 要領を得ないその回答にあゆみは怪訝そうに首を傾げている。

 

 

「うーん、そうだね。お兄ちゃんがもう帰ってこないって聞いた時は凄く悲しかったし、辛かったよ。また理不尽に大切なものを奪われたってそう思ってた」

 

 

 兄は楓にとって生き残った唯一の肉親で、大切な家族だった。両親に続き、兄まで鬼に奪われたとなれば、普通は憎しみに心を狂わせるものだ。だが、楓は兄が行方不明になって恐らくは鬼に喰われたのだろうと、そう聞いても鬼に対して憎しみだとそうはっきりとわかる感情が浮かんでこなかった。あまりにも伝えられた情報が衝撃的すぎて、彼女は胸に広がる想いを理解出来なかったのだ。

 

 代わりとでも言うように、彼女の心に浮かんだのは口癖のように兄が呟いていた『人を憎むな』という言葉だけ。

 

 鬼と呼ばれる彼等は病にかかっているだけなのだと、人を殺さねば、喰らわねば生きていくことができなくなった奇病で、彼等もまた病に苦しんでいるだけなのだと兄はいつも楓にそう言って聞かせた。

 

 今は彼等を病から治す方法はないが、いつか誰かが彼等の病を癒す術を見つけ出すと、その日が来ることを兄は願っていた。

 

 しかし、結局兄が生きてその日を迎えることはなかった。

 

 5年前、鬼狩りの指令を受けた楓の兄はその道中、行方不明となり、以降楓の前に姿を現すことは二度となかった。

 

 

「私、なんで鬼殺隊に入ったんだろうね」

 

 

 改めて問われると楓自身疑問に思う。

 

 あの時は、鬼を憎んでいたわけでもない。鬼という病を理不尽に思ってはいても彼等を滅してしまいたいと思うことはなかった。彼等の存在に憎しみの感情を抱いてしまったのは剣士になって仲間を失ってからのことだ。

 

 ならば果たして、自分は何のために、何を願って剣士になったのだろうか。

 

 

(どうでもいいか……)

 

 

 浮かびあがったその疑問は楓自身の手によってかき消される。

 

 きっかけなど、なんだっていい。今の自分には刀を振るう明確な理由が存在する。逝ってしまった仲間達から預かった願いや想いを未来に繋げる。信乃逗(しのず)や小牧、山本や清水が戦った意味を遺す為に自分は鬼の首に刃をふるい、彼等を救済し続けなければいけない。

 

 

 それが、それだけが高野楓が、いまここで生きている意味になる。

 

 

「楓ちゃん……」

 

 

 自嘲じみた微笑みを浮かべた楓をみて、あゆみは息を呑んでいた。寂しげに笑う楓の姿は確かに目の前に立っているのに、目を離したら次の瞬間には消えてしまいそうで、そのあまりにも希薄な佇まいに言葉を失ってしまう。

 

 目の前の彼女に何か声を掛けなければいけないと、焦燥に駆られたあゆみが再び口を開きかけた時、その声は聞こえてきた。

 

 

「おいおい、こいつは一体どういう了見だァ?」

 

 

 突然かかった剣呑な声色にあゆみと楓がパッと声の方を見据えれば、そこにはやや背の高い白髪の男が立っていた。吊り上がった目尻と傷だらけの風貌は、彼を見る者を思わず萎縮させてしまうような凶悪な雰囲気を放っている。

 

 

「テメェらは此処で何をしてんだァ?」

 

 

 威嚇するかのような口調と鋭い眼差しで見据えられた楓達は、彼の容姿を確認した瞬間にその場に素早く膝をついた。

 

 

「失礼しました風柱様」

 

 

 先ほどまでのあゆみと話していた優しい雰囲気を一切感じさせない他人行儀な声色で楓は口を開く。

 

 これは楓にとっての一種の切り替えだった。仕事において自分より立場が上の者と会話をするとき楓はこのように会話をする。

 

 正直、(きのえ)の階級に至っている楓よりも立場が上の隊士など今の鬼殺隊にはそれほど多くはない。だが、2人の目前に立つ男は、その風貌からはならず者のようにすら見えるが歴とした鬼殺隊の隊士であり、風の呼吸という長い歴史を持つ呼吸の中でも歴代最強と噂される程の実力の持ち主。

 

 

 

 

——— 現風柱 不死川(しなずがわ)実弥(さねみ)

 

 

 

 

 彼こそまさしく鬼を殺す為に生まれてきた。隊士達の間でそう噂されるほど楓達の前に立つ男は鬼狩りとして極めて優秀であり、なによりも鬼を殺すことに執着している。その言動から多くの隊士から畏怖される彼は、しかし一部の隊士達からは熱烈な支持を集めている。

 

 鬼殺隊に所属する殆どの者は鬼に対する憎しみの感情を持っているものだが、その中でも、鬼に対する憎しみが特に強く、その発言や行動に強硬な姿勢をみせる者達がいる。彼らは吹き出す憎悪のあまり、時折力の弱い鬼を痛ぶるように殺すことがある。隊士の中でも鬼に対して特に苛烈なその一派が、現状最も支持する柱こそ、不死川実弥なのだ。

 

 彼は鬼を無用に痛ぶることこそしないが、その言動は現柱の中で最も彼等に近しいものがある。

 

 その風貌と周囲に彷徨(うろつ)く隊士の特性が相まって彼に恐怖する隊士は決して少なくない。

 

 楓の隣で膝をつき頭を下げるあゆみもその内の1人。実弥の凶暴な声色と風貌に早くも身体を震わせている。

 

 

「能書きはどうでもいいんだよォ、質問に答えろやァ、テメェらは此処で何をしてやがる?あァ?」

 

 

「ひっ」

 

 

 短い悲鳴を上げたあゆみを横目に楓は僅かに眉を顰める。

 

 

(相変わらず、言葉遣いが荒い人……)

 

 

 楓は幾度かこの男と共に指令を受けたことがあるし、蝶屋敷でも何度か傷の手当てをしたことがある。噂に違わぬ凶悪な風貌に凶暴な言動、最初こそ楓も縮こまったものだが、それも数回も経験すれば随分と慣れた。

 

 

「風柱様、私達はしのぶ様に此処で後ろにある木箱に入っている鬼を見張るよう仰せつかっております」

 

「……テメェは確か胡蝶の弟子だったかァ?仮にも継ぐ子の立場にいやがる奴が一体何をしてやがるんだァ?」

 

 

(何をしてるって……いま説明しませんでしたかねぇ?)

 

 

「ですから此処にいる鬼が妙な動きをしないか見張っていっ!?」

 

 

 同じことを2度も質問されて楓は内心で溜息を吐きながら答えようと口を開くが、その言葉を最後まで声にすることは出来なかった。

 

 全身に冷や水を浴びせられたかのように楓の身体にゾクリとした感覚が走り抜け、肌が粟立つのを感じた。

 

 

「鬼を見張るだと?ふざけたことを抜かしてんじゃねぇぞォ、そんな必要が一体どこにあるんだァ?」

 

「……ここはお館様のいらっしゃる鬼殺隊の本部ですので、危険な鬼を見張る隊士は必要ではないかと思いますが」

 

 

 目前に立つ男から浴びせられる強烈な殺気に楓は思わず生唾を飲みこみ、あゆみは悪寒にガタガタと身体を震わせる。

 

 

「危険な鬼だァ?おいおい、お前は一体何を言ってんだァ?危険じゃねぇ鬼なんざ———」

 

 

 

 

 

 

 ——— この世のどこにもいねェんだよォ

 

 

 

 

 

 

 あゆみの耳にそう声が聞こえた瞬間、実弥の姿がその場から掻き消えた。

 

 

 

 

 キィンッ!!

 

 

 

 

 それと殆ど同時に、金属と金属の打ち合う甲高い音があゆみの背後から鳴り響く。

 

 慌てて振り向いたあゆみの顔にその音を追いかけるように一陣の風がサァッと吹き付け、彼女の身につける漆黒の頭巾を靡かせる。

 

 

「っ!?」

 

 

 目に入る光景の険悪さにあゆみは息を呑む。

 

 先程までポツンと長方形型の木箱が置かれていただけだったその場所で、黄緑に染まった刀と深緑の輝きを放つ刀が打ち合い、鍔迫り合いの様相を呈している。

 

 

「一体どういうおつもりですかっ、風柱様!?」

 

 

 木箱を背にして立つ楓が、実弥に刀を押し返すように力を入れながら問いかける。

 

 

「それは俺の言葉だろうがァ、鬼を庇うたァ一体どういう了見だァ?」

 

 

 しかし楓の押し返そうとする力を受けても、実弥の刀は震えるどころかびくりとも動かない。

 

 

(くっ、なんて力……押し返せない)

 

 

 一見、ギリギリと力が拮抗しているようにみえるが、どちらが優勢であるかは彼等の表情を見れば一目瞭然だった。

 

 

「お待ち下さいっ!その鬼は、隊律違反を犯した隊士の親族です。私も楓様も隊士への判決が下るまでその鬼は殺してはならないと、そう伺っていますっ」

 

 

 突然に飛来した緊迫したその空気感に一瞬唖然としながら、あゆみは焦った様子で声を張る。

 

 鬼を庇うという行為は鬼殺隊では隊律違反にあたり、場合によっては粛清されることもありえる重罪となる。今日審議で裁かれるであろう少年も鬼になった妹を匿い、庇いだてたが故に捕われることとなったのだ。

 

 命令を受けて遂行しているのにそんな疑いをかけられては堪ったものではない。楓が木箱の中にいる鬼を庇うのは情によるものではなく、あくまでそれが命令だからだ。

 

 

「判決を待つ必要なんざねぇだろうがァ」

 

「え?」

 

 

 だが、あゆみの懸命な訴えも実弥を納得させるには至らない。

 思わず疑問の声を上げてしまったあゆみを一瞥すると彼は嘲笑する。

 

 

「鬼を連れた馬鹿隊士がどうなろうが、鬼の首を刎ねることに一体何の変わりがあるってんだァ?」

 

「それはっ……」

 

 

 問われた質問にあゆみは言葉を詰まらせる。

 確かに実弥のいう通り、隊律違反を犯した隊士の進退がどうであれ、本来は鬼を殺すことには何の変わりもないはずだ。

 

 

「経緯なんざ関係ねェ……鬼がいるなら殺すだけだろうがァ、そんなことも理解出来ねぇ奴が鬼殺隊を名乗ってんじゃねぇよォ」

 

 

 あゆみの隊士としての資質を問うかのような発言に、それまで黙って聞いていた楓も眉を顰める。

 

 

「この鬼は人を襲わない可能性があると水柱様から示されています。その伝達は柱である貴方にも鴉よりなされているはずですが?」

 

 

 柱に対する態度としては如何なものかと聞きたくなる程、常の楓であれば絶対にしない冷たい声色でそう問い掛ける。

 

 

「鬼が人を襲わないなんてくだらねえ戯言を聞く義理はねぇよ。テメェはそんなことがあり得ると本気で思ってんのかァ?」

 

 

 刀を合わせ、睨み付けるように視線を向けてくる楓の言葉を鼻で笑いながら実弥は問い掛ける。

 

 

「それはっ……」

 

「はっはっはっ、テメェも信じちゃいねえんだろうが、自分が信じてねぇことを他人に語ってんじゃねぇぞォ……まあ、富岡の馬鹿の世迷言なんざいちいち聞く必要はねェ、そこを退けェ」

 

 

 咄嗟に言葉を返せない楓を愉快気に見据えて、実弥は小さく笑いながら邪魔をするなと忠告する。

 

 

「……退きません。この鬼から何かしてきたのなら兎も角、今のところ目立った動きはしていません。この鬼が大人しくしているのであれば殺してはならないと、私はそう命令を受けています」

 

 

 しかし幾ら相手が風柱とはいえ、楓も蟲柱であるしのぶから命を受けている以上、そう簡単に首を縦には振れない。

 

 

「命令、命令と、テメェは自分の頭で考えられねぇのかァ?」

 

「組織として動いている以上、上の命令には従うべきかと愚考します」

 

「なら俺が命令してやる。そこを退け……風柱としての命令だぜェ」

 

「私が命を受けているのは蟲柱であるしのぶ様です。柱の方の地位が同列である以上、しのぶ様に確認を取らなければその命令にはお応えしかねます」

 

 

 あくまでも譲る姿勢を見せない楓の様子に実弥も目を細める。先ほどから普通の隊士であれば意識が飛んでしまうような殺気を浴びせているのに微塵も堪えた様子もなく生意気にも睨み返してくる彼女の姿は、確かに蟲柱の継ぐ子として相応しい資格を持っているようだと、実弥は剣呑にほくそ笑む。

 

 

「くっくっくっ、テメェは随分と口先の回る奴だな……確認かァ、なら、俺が確認をとってきてやるぜェ!」

 

 

 ニタリと口元を歪めて、実弥はグッと迫り合う刀に力を籠めると、地面が割れる程の力で踏み込みでなぎ払うように刃を振りぬく。

 

 

「なっ!?」

 

 

 凄まじい力で振るわれた刃に、全力で押し込んでいたにも関わらず楓は手に握る刀と共にその場から大きく弾き飛ばされてしまう。

 

 

(膂力が違い過ぎるっ!)

 

 

 相手が男である以上、性別の差によって生まれる筋力の差は埋めがたいものがある。この状況に至るのは必然であったとも言える。

 

 

 楓は空中で身を捻ってなんとか衝撃を逸らすも、目に入る光景に思わず舌打ちをしそうになる。既に実弥は吹き飛ぶ楓には目も暮れず、そのまま鬼の入った箱を手に、しのぶ達の歩いていった方へと向かって行ってしまっている。

 

 

「お、お待ちくださいっ!不死川様っ!」

 

 

 慌てた様子であゆみが後を追って声をかけるが、実弥がその言葉に聞く耳を持つはずもない。

 

 ひゅるりと、身を翻して地面に着地した楓は、遠ざかる後ろ姿に歯を喰いしばる。

 

 自分は強くなっているとそう思っていたが、実弥には障害にもなり得ないとばかりに、造作なくあしらわれた。楓にとって不利な状況であったとはいえ、こうも容易く振り払われては流石に堪えるものがある。

 

 

『自分が信じていないことを他人に語るな』

 

 

 何より、楓の心に突き刺さったのはこの言葉だ。

 

 正直、楓は内心では実弥の言うことに納得していた。鬼が人を襲わないなどあり得る筈もないと楓自身そう思ってしまっている。

 

 千年の歴史を誇る鬼殺隊ですら、そんな鬼がいたという記録は無い。鬼になった者は皆例外なく人を襲い、喰らい続ける。彼等の息の根を止めるまでその暴虐が終わることはないのだ。

 

 そうであるが故に、楓は彼等の首に刀を振るっている。彼等を止める術はそれしかないのだから。

 

 

(あの人の言う通り……鬼が人を襲わないなんて有り得ない……分かってるはずなのにっ)

 

 

 長い歴史を見ても、楓自身の長い経験からしてもそれはあり得ないと、しのぶから受けた命令はおかしいと、そう思っているにも関わらず、楓はあの木箱の鬼に実弥の刃が振るわれることを恐れている。

 

 ギュッと楓の手に力が入る。抜き放った刃を鞘に納めると楓はあゆみ達の後を追いかけはじめる。

 

 

(もしも、もしも本当にあの鬼が、人を襲わない鬼だったら)

 

 

 楓の頭の片隅に小さく居座り続けるその考えはまさしく嘲笑に値する愚考だ。現実から目を逸らしているだけのあまりにも愚かな願望だ。

 

 

 

『楓は信じられませんか?』

 

 

 

 今朝、しのぶに問われた言葉が楓の脳裏を過ぎる。

 

 

 いつ聞かれたとしても楓はその問いには『信じられない』とそう返すだろう。

 

 

 

 ——— だが、

 

 

 

(……もしも、もしも許されるのなら)

 

 

 

 

 その愚かな希望を信じてみたいと、楓はそう思っていた。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等頂けますと幸いでございます。

楓の過去を交えつつ、実弥が到来!
なんか凄い悪者っぽく書いてしまったような……
あの兄弟完璧過ぎる感動をくれたからなぁ、作者は凄く好きなんですよ


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審問

この回、殆ど原作と変わりません!


 

 

 

 深い眠りの底で竈門(かまど)炭治郎(たんじろう)は夢を見ていた。

 

 

 昔、いやほんの少し前まで狭霧山で彼が時を共に過ごした少女との会話。

 

 錆人(さびと)に勝てるように、岩を斬れるようにと、彼女は炭治郎を鍛える為に沢山の助言をくれた。ただ、その中に時折不思議に思う言葉が混じっていた。

 

「炭治郎はどんどん強くなってる。頑張っていればもっと強くなる。でも、どれだけ強くなっても慢心しちゃ駄目。鬼の中には炭治郎には想像も出来ないくらい強い鬼がいる。それを忘れないでね」

 

「うん、気を付けるよ。ありがとう、真菰(まこも)

 

 そっと苦笑しながら炭治郎は微笑んだ。見た目は小さな女の子にしか見えないのに、真菰は時々その容姿に見合わない言動をする。例えるなら沢山の経験を重ねてきた大人達と会話しているときが近いだろうか。

 

「でも、鬼を相手にする前に岩を斬らないとな。錆人にも一本もいれられないままだし、俺は怪我をしてばかりだから。……少し情けないな」

 

 こんな会話をするには炭治郎はまだまだ力不足だった。真菰に貰う言葉はどれも的確で、鬼と戦うようになったらきっと役に立つ心得が多いのだろうが、炭治郎はそれを役立てる為の最初の場所にすら辿り着けていない。そう考えると折角色々教えてもらっているのに申し訳ない気がして、ほんの少し、焦る気持ちがでてくる。

 

「焦っちゃ駄目。炭治郎は強くなってる。それに炭治郎のそれは怪我には入らないよ。鬼殺隊に入って鬼を狩るようになったら、もっと一杯ひどい怪我をするようになる」

 

「あはは、そうか。なら今の内に怪我には慣れておかないといけないのか」

 

「うん。でも気をつけてね。鬼殺隊にはとっても腕のいい、でも怪我をすると怒ってくる優しくて怖い綺麗なお医者さんがいるから」

 

 不思議な言葉だった。

 真菰はずっと狭霧山にいると言っていたのに、ここには居ない鬼殺隊にいるその怖い医者を彼女はよく知っているような言い方だったから。

 

「よく怒ってくるのに優しいのか?」

 

 不思議そうに炭治郎は呟いた。

 

「うん。とっても優しいよ。きっと炭治郎が怪我をしたらその人が治してくれる。私もあの人も凄くお世話になったから」

 

 目を細めてここではない何処か遠くを見据える真菰は楽しげに笑っていたけど、同時にとても寂しそうに炭治郎には見えた。

 

「なら、きちんとお礼を言わないとな」

 

 気がつくと炭治郎はそう言っていた。

 

「え?」

 

「真菰がお世話になった人なら、俺もきちんとお礼を言っておきたいから」

 

 きっと、真菰はその人が大好きなんだろう。彼女はよく「鱗滝さんが大好き」と言っているが、今の彼女はその時に似た雰囲気を放っていた。

 

「……炭治郎は優しい子だね。なら、いつか炭治郎があの人に逢えたなら伝えてくれる?」

 

「うん、勿論だ!あっ、でもなんて名前の人なんだ?」

 

「ふふっ、炭治郎はおっちょこちょいだよね。その人の名前は———」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「———きろ」

 

 

 微かに聞こえる誰かの呼び声に心地の良い微睡の中、意識が表層へと舞い上がる。

 

 

「いつまで寝てんだっ!さっさと起きねぇかっ!!」

 

 

 不意に耳に届く怒号のような大きな声に、炭治郎は目を覚ました。

 

 ぱっと勢いよく見開いた瞳に入ってくる強烈な光に、炭治郎は思わず瞼をギュッと閉じる。

 

 恐る恐る炭治郎がもう一度瞼を開いてみると、瞳に映し出されたのは少し離れた場所から此方を興味深気に見下ろす6つの人影。

 

「ったく……柱の前だぞっ」

 

 呆れたような声色が頭上から響くが炭治郎の意識にその声は入ってこない。呆然と目を見開いたまま、炭治郎は目の前に立つ6つの人影を見据える。

 

「なんだぁ?鬼を連れた鬼殺隊員っていうから派手な奴を期待してたんだが、見た目だけじゃなく反応まで地味な奴だな、オイ」

 

「うむっ!これからこの少年の裁判を行うとっ!なるほど!」

 

 その様子に、音柱、宇随(うずい)天元(てんげん)は呆れたように息を吐き、炎柱、煉獄(れんごく)杏寿郎(きょうじゅろう)ははつらつと声を張り上げていた。

 

 彼等の声と向けられる探るような視線の嵐に、状況を全く把握できない炭治郎は戸惑いに思わず身を起こして口を開こうとする。

 

「なんだ、この人たちっ!?」

 

 途端、頭を強い力で地面へと押さえ付けられて、炭治郎は強制的に黙らされる。突然加わった衝撃に戸惑いながら視線を頭上へと向ければ、自分の頭を手で押さえる黒衣を纏った怪し気な風貌をした人物が視界に入る。

 

 事後処理部隊、隠に所属する後藤だ。未だ歳は若いが、数多くいる隠の中でも鬼殺隊の本部への出入りを許されている隠の精鋭の1人。

 

 

「まだ口を挟むな馬鹿野郎っ!誰の前にいると思ってんだっ……柱のまえだぞっ!」

 

 

(柱?……柱ってなんだ?なんのことだ?……この人達は誰なんだ?そもそもここは何処なんだ?)

 

 炭治郎の心中はいま混乱を極めていた。彼の記憶の最後にある光景と、いま目の前に広がる光景があまりにも違いすぎて彼の脳が素直に状況を受け入れることが出来ないのだ。

 

「ここは鬼殺隊の本部です。貴方はこれから裁判を受けるのですよ、竈門炭治郎君」

 

 挙動不審に視線を彷徨わせる炭治郎の様子を見兼ねたのか、彼の内心の疑問に答えるように蟲柱、胡蝶しのぶはそう声を発する。

 

 

 名前を呼ばれれば、自然と炭治郎の視線も声を発したしのぶへと向けられる。

 

 

(この人はっ!)

 

 

 視界に入った見覚えのある女性の姿に炭治郎は息を呑む。声を聞き、しっかりとその顔を見れば、彼女が自分が意識を失う直前に禰豆子(ねずこ)を殺すべき鬼として狙ってきた鬼殺隊の人だとはっきりと思い出すことができた。

 

 彼女がここにいて、自分の両腕はいま縛られている。ならば自分は鬼殺隊に捕まってしまったということに他ならない。

 

 未だ完全とは言い難いが炭治郎としても徐々に今の自分がいかに不味い状況にあるか察せざる終えなかった。

 

「裁判を始める前に、君の犯した罪の説明をして「裁判の必要などないだろうっ!」……うん?」

 

 顔を蒼く染め始めた炭治郎を見て、しのぶも彼が状況を察し始めたことを理解したのだろう。優し気な視線と微笑みを浮かべたまま、彼が捕まることになった原因を説明しようと口を開くが、彼女の言葉は途中で大きな声によって遮られてしまう。

 

「どいう意味ですか?煉獄さん」

 

 自らの言葉に声を被せたその人物にしのぶは視線を向けるとキョトンと首を傾げて問いかけた。

 

「鬼を庇うなど明らかな隊律違反!我らのみで対処可能!鬼諸共斬首する!」

 

「ならば俺が派手に首を斬ってやろう。誰よりも派手な血飛沫をあげて見せる。もう派手派手だ」

 

 

 煉獄の言葉に呼応するように宇随からも声が発せられる。

 

 

 炭治郎の運命を決めうる話し合いが目の前で行われているわけだが、彼がそれを気にする様子はない。というより余裕がないのだろう。彼にとって最も大事なものが、いまは彼の手元にないのだから。

 

(禰豆子……禰豆子はどこだっ)

 

 鬼に変えられてしまった妹、彼にとって唯一残った大切な家族の居場所を探すように炭治郎は必死に身を捩ってあちこちに視線を向ける。

 

「おい、お前……柱が話をしているというのに何処を見ている。このお方達は、鬼殺隊の中でも最も位の高い9名の剣士だぞ」

 

 落ち着きのない様子を見せる炭治郎に忠告するかのように彼の側に控える後藤が小さな声で囁く。

 

(剣士、鬼を殺す人達……禰豆子……禰豆子は何処だっ!)

 

 しかし今の炭治郎に彼の忠告を受け入れているような余裕はない。

 

 炭治郎がこうして捕まっている以上、妹も同じように捕まってしまった可能性は当然否めない。鬼である妹を鬼殺隊が見つければ、彼等が禰豆子を殺そうとするだろうことは炭治郎にも容易に想像できる。

 

 彼の心中に訪れるとてつもない不安感。もしも、もしも妹が殺されてしまっていたらと、考えることすらも恐ろしいその想像が彼の頭にこびりついて離れてくれないのだ。

 

「そんなことよりも冨岡はどうするのかね?拘束すらしていない様に俺は頭痛がしてくるんだが?」

 

 不意に炭治郎の耳に聞いたことのある人物の名前が入ってくる。

 

(冨岡さんっ!)

 

 炭治郎と禰豆子を庇って、逃がそうとしてくれた彼は一体どうなったのか、それが気になって仕方なくなる。

 

 思わず声のした方向に視線を向ければ、白い縞模様の羽織りを羽織って口元を包帯で覆った男が木の上で寝そべっている。

 

「胡蝶めの話によると隊律違反は富岡も同じだろう。どう処分する?どう責任を取らせる?どんな目に合わせてやろうか?……なんとか言ったらどうだ、冨岡?」

 

 首元に白い蛇を巻き付けたその人物は蛇柱、伊黒(いぐろ)小芭内(おばない)。彼は蔑むような表情で少し離れた場所で1人佇む冨岡に指を指すと、どこか楽しむように声を掛ける。

 

(俺のせいでっ、冨岡さんまでっ)

 

 伊黒の視線に釣られるようにして炭治郎は冨岡を視界に入れる。

 

 あまりの申し訳なさに炭治郎の瞳からは涙が溢れそうになる。彼等の会話から自分達を守る為に、責任を取らせる、どう処分するか、そう話し合われてしまうほど富岡の立場が追い詰められていることが、炭治郎にもはっきりと理解出来てしまう。

 

「まあいいじゃないですか……大人しく着いてきてくれたんですし。……処罰は後で考えるということで」

 

 優し気な声色で冨岡への詰問を遮ったのは、禰豆子を巡って冨岡と戦ったはずのしのぶだった。この中にあって唯一冨岡を庇うような発言をするしのぶの姿に、炭治郎は意外そうな表情で視線を向けた。炭治郎の記憶では、彼女は那谷蜘蛛山で随分と彼等に辛辣な言葉を吐いていた筈だったのだが、改めて見てみると彼女は思いのほか優し気な匂いを漂わせている。

 

「はっ、旦那が責められちゃあ堪んねえものな」

 

「あら宇随さん……何か仰いましたか?」

 

「しのぶちゃんっ!?そうだったのっ!?そうならそうと言ってくれれば良いのに!」

 

「誤解ですよ。甘露寺(かんろじ)さん、私と冨岡さんはそのような関係ではありません。…… 宇随さんの誤解は後でゆっくりと解いておきますから、少し口を閉じておいて下さいね」

 

「……派手に不吉な予感がするぜ」

 

「自業自得という言葉がこの国にはあるんですよ……まあそんなことより、私は坊やの方に話を聞きたいんです。鬼殺隊の隊士でありながら鬼を連れて任務にあたっている。そのことについて当人から説明を聞きたい……勿論このことは鬼殺隊の隊律違反に当たります。そのことは知っていますよね?」

 

 

「っ……」

 

 

 確認を取るようにかけられた問いかけに炭治郎は息を呑んだ。

 

 無論、そんなことは確認されるまでもないことだ。鬼殺隊とは文字通り鬼を殺す為の組織なのだから、そんなところに所属しておきながら鬼を匿うことが許されるとは炭治郎も思ってはいない。

 

 

(でも、禰豆子は他の鬼とは違うっ)

 

 

 炭治郎にとって禰豆子は鬼ではない。彼女は鬼になってから一度も人を喰ったことはないのだ。二年以上もの間、ただの一度も人を喰らうことなく禰逗子はこれまで過ごせてきた。ならばきっとこれからだって、禰豆子が人を襲うことはない。鬼になっても人の心を妹はきちんと保てているのだから。

 

 しかしそれはあくまで炭治郎にとっての禰豆子だ。

 

 彼以外、この場の誰一人として、禰豆子という鬼の特異性を理解しているものはいない。彼等にとって鬼とは等しく悪であり、殺すべき対象でしかない。

 

 

「竈門炭治郎君、なぜ鬼殺隊の隊士でありながら鬼を連れているのですか?」

 

 

 故に、彼は伝えなければいけない。

 

 禰豆子が他の鬼とは違うと。

 

 妹は人を襲わないと。

 

 彼女は人を喰らわない、人を守ることの出来る鬼なのだと。

 

 

「俺っ、俺の妹はっ、あがっ!?」

 

 しのぶの問いかけに炭治郎は声を出そうと口を開くが、強い意志を持って発した言葉は無念にも途中で途切れてしまった。砕けた顎から途轍もない痛みが走って、彼に上手く言葉を紡がせてくれない。

 

「水を飲んだ方が良いですね」

 

 痛みに咳き込み、悶えるような仕草を見せる炭治郎にしのぶはそっと近づくと何処から取り出したのか、艶のある赤茶色をした小さ目の瓢箪をそっと炭次郎の口元へと運んでいく。

 

(……水以外の匂いがする……飲んでもいいのか?)

 

「鎮痛薬が入っています。即効性が高いので飲めば少しは痛みが和らぎますよ」

 

 差し出されたそれを本当に飲んでも大丈夫かどうか、一瞬躊躇する様子を見せる炭治郎に優しく、労わるようにしのぶは声を掛ける。

 

(嘘を吐いてる匂いはしない……本当に心配してくれてるのか?)

 

 炭治郎の前に立っている彼女は、本来彼を問い詰め、処分しようとする側の人間であるはずなのに、彼の鋭敏な鼻は彼女の抱く優しい心情を正確に嗅ぎ取っていて、状況と矛盾する彼女の心情に炭治郎としては困惑してしまう。

 

(優しい目……心を痛めているような匂い)

 

 目線を合わせるように蹲み込んだしのぶの瞳を数秒みつめると、炭治郎は意を決したように彼女の差し出した瓢箪を口に含んでその中身を飲んでいく。

 

「顎を痛めていますから、ゆっくりと飲んでください」

 

 ゆっくりと瓢箪を傾けながらしのぶは炭治郎にそう声を掛ける。

 やがて十分な量を摂取したと判断したのか、しのぶが炭治郎の口元からそっと瓢箪を離す。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……痛みが……」

 

 自分で思っている以上に喉が渇いていたのか、炭治郎は荒く息をつきながら、その薬の効果に驚愕する。

 

 薬を飲んでから未だ数秒しか経っていないというのに感じる痛みが、先程より明らかに和らいでいるのだ。

 

(薬ってこんなに早く効くものだったっけ……)

 

 内心で彼が呟いたその疑問は、彼女の薬を飲んだ多くの隊士たちが一度は抱く疑問ではある。

 

「怪我が治ったわけではありませんので無理をしてはいけませんよ」

 

「……ありがとう、ございます」

 

 痛みが和らぎ喉が潤ったお陰で声を出すことに支障がなくなった。

 

「これも私の仕事ですからお気になさらず。……では、竈門炭治郎君、ゆっくりで良いので話してもらえますか?」

 

 炭治郎が喋れることを確認すると、しのぶは彼に先程言いかけていた続きを話すように促した。

 

「……鬼は俺の妹なんです。俺が家を留守にしている時に襲われ、家に帰ったら家族がみんな死んでいて……妹はその時、鬼になったけど、でもっ人を喰ったことはないんですっ!!今までもっ、これからもっ、人を傷つけることは絶対にしません!!」

 

 しのぶがゆっくりで良いと言ったのにも関わらず、炭治郎の言葉は後半にいくに連れて早く、声も大きくなっており、彼女が与えた鎮痛薬がなければ今頃は痛みに悶えて地面に蹲っていることは間違いない。

 

 医師でもあるしのぶは、本来なら今の炭治郎の様子は少し諫めなければいけない場面だった。しかし、今の彼女に平時の役割を期待することはかなり難しいだろう。

 

 それほどに竈門炭治郎という少年がしのぶに与えた衝撃は大きい。

 

 

——— 鬼に家族が殺されて、親族を鬼に変えられた

 

 

 それはしのぶにとって、とてもに聞き覚えのある話だった。もう二度と会うことは出来ない、弟のように思っていた彼、雨笠信乃逗が話してくれた彼の過去の話は炭次郎がいま話した内容ととてもよく似ている。

 

 違う点があるとすれば、炭治郎は鬼になった妹を守り、人間に戻す為に鬼殺隊に入ったが、信乃逗は鬼になった親族を自らの手で殺し、絶望の果てにこの鬼殺隊に入ったというところだろうか。

 

(彼が、こうなっていてもおかしくはなかった……)

 

 しのぶがそう思うのも無理はない。信乃逗の境遇がほんの少しで違えば、あるいは今しのぶの目の前にいる少年の場所に彼がいても不思議ではなかった。そしてそれは逆もまた同じだ。竈門炭治郎の妹が人を喰らうことを耐えていなければ、彼は信乃逗と同じように絶望の末、この鬼殺隊に入っていたかもしれない。

 

 しかしいま必死の形相で懇願する少年に、信乃逗のような死を願う退廃的な雰囲気をしのぶは感じることができない。彼にとって鬼になった妹こそが彼の生きる意味になっているのだろう。家族を失い、妹を鬼に変えられた彼は富岡の言った通り、妹を人間に戻すという、そんな叶えられるかもわからないまさしく夢のような希望を柱にして今日まで歩んできたのだろう。

 

 だからこそ彼は、その希望を失うまいと必死に妹の無実を訴えているのだと、しのぶは炭治郎の心情をそう察した。

 

「下らない妄言を吐き散らすな。そもそも身内なら庇って当たり前、言うこと全て信用出来ない。俺は信用しない」

 

 だが、やはりとでも言うべきか、炭治郎の訴えは鬼殺隊としては到底受け入れられるものではない。

 

「あぁ、可哀想に。鬼に取り憑かれているのだ。早くこの子供を殺して楽にしてあげよう」

 

 しのぶの大方の予想通り、他の柱達からは炭治郎の証言を否定する言葉が飛び交う。現柱の中で最も古参であり、経験豊富な剣士の岩柱、悲鳴嶋行冥ですら、炭治郎の姿を憐れみ、鬼諸共に殺すことを推奨している。

 

 千年という長い歴史を誇る鬼殺隊の記録にも、鬼が人を襲わなかった記録はなく、鬼を見逃したという事実もない。よしんば炭治郎の言う通り、2年もの間彼女が人を襲っていないのだとしても、これからも彼の妹が人を襲わないと断言することはしのぶは勿論、他の誰であるとも出来きることではない。

 

 そして、そうである以上、鬼殺隊として、柱として、炭治郎の言葉を信じ、鬼を見逃すことなど到底出来ないのだ。

 

「聞いてください!俺は禰豆子を人間に戻す為に鬼殺隊に入ったんです!!禰豆子が鬼になったのは2年も前のことでっ、その間に禰豆子は人を喰ったりしていないっ!!」

 

「話が地味にぐるぐる回ってるぞ、阿保が。人を襲っていないこと、これからも人を襲わないこと、口先だけじゃなくド派手に証明して見せろ」

 

 宇随の放った言葉に、しのぶは眉を顰めた。

 

 彼の言うことは確かに必要なことだろう。柱として、炭治郎の言葉をなんの証明もなく信用することが出来ないことにはしのぶも同意せざるを得ない。

 

 しかし、同時に彼の言うその証明が不可能であることもしのぶには理解出来ていた。

 

 富岡や彼の師である鱗滝(うろこだき)の証言で彼女が鬼になってからの2年の間に人を襲っていないことを証明出来たとしても、未来に対して『絶対』という証明は出来ない。まして、鬼が人を襲わない証明などどうやって行うというのか。

 

 しのぶの明晰な頭脳をもってしても、それはあまりに無理難題に過ぎる。

 

 その場に広がる空気感は、炭治郎と鬼である彼の妹を処分する方向で固まろうとしている。

 

 ところがそこで1人の柱が待ったをかける。

 

「あの〜、疑問があるんですけど……お館様がこのことを把握していないとは思えないんですけど……」

 

 恐る恐ると言った様子で口を開いた甘露寺に、それまで彼を処分しようと声を発していた全員が考え込むように無言となった。

 

(さすが甘露寺さん……そこが一番の問題なんですよ)

 

 感心するようにしのぶは甘露寺に視線を向ける。

 一見ふわふわとしていて抜けているところの多いように見える彼女は、存外に問題の本質を見抜くことに長けている。

 

 この一件、一番の問題は鬼殺隊の当主である産屋敷(うぶやしき)輝哉(かがや)にある。竈門炭治郎は鬼である妹と常に行動を共にしていたと語っていた。ならば鬼殺隊の当主である彼がそれを知らないはずはない。彼が任務に当たっている以上、鴉を通して輝哉はこの問題を知っていた筈だ。

 

 もっというなら、冨岡が2年前に彼等を見逃したという時点から彼等の存在を認知していた可能性が非常に高い。

 

(どちらにしろ、お館様は全て知っていた)

 

 それが表すことはつまり、竈門炭治郎が鬼を匿い行動することを鬼殺隊の当主である産屋敷輝哉が黙認していたということに他ならない。

 

(……一体なにを考えていらっしゃるのか)

 

 しのぶや他の柱達が思考の渦に呑まれたその時、一際大きな声で炭治郎は言葉を紡ぐ。

 

「妹はっ、妹は俺と一緒に戦えます!鬼殺隊としてっ、人を守る為に戦えるんですっ!」

 

 その叫びは宇随達には苦し紛れに発せられた言葉のように聞こえた。呆れたように少年を見下ろす彼等に、哀れみの感情はあってもその言葉を信じようとする意思はない。

 

 しかし、ただ一人、炭治郎の前にいるしのぶだけは彼等とは違った反応を返した。

 

 炭治郎の言葉に唖然とした様子で目を見開く彼女の脳裏には、いつか姉が言っていた夢の一つが思い浮かんでいた。

 

『鬼と仲良くすることが出来たら、その時はもしかしたら一緒に戦えることもあるかもしれないわよ』

 

 

(姉さん……)

 

 

 姉が語った夢の一つが、いま目の前にあるのだろうか?

 

 鬼と仲良くする夢への希望を彼は持っているのだろうか?

 

 彼なら鬼と仲良くすることが出来るのだろうか?

 

 しのぶの心の中に湧き上がってくる様々な疑問と言いようのない感情の波。心のどこかで諦めかけていた、不可能と思える夢が急に現実味を帯びたようでしのぶの心を嘗てないほどに沸き立てる。

 

「おいおい、なんだか面白いことになってるなァ……鬼を連れた馬鹿隊士ってのはそいつかい?」

 

 しかし彼女の昂ったその想いは、遅れて現れた最後の柱によって急激に霧散する。

 

「一体全体どういうつもりだィ?」

 

 相も変わらぬ剣呑な声色と面持ちで現れた風柱、不死川(しなずがわ)実弥(さねみ)の姿に、しのぶを含め柱の一同は揃って眉を顰め、炭治郎は驚愕に目を見開く。

 

(禰豆子っ!!)

 

 炭治郎にとって何よりも大事な妹、この論争の中心点である鬼の禰豆子が入っている木箱を実弥がこの場に持ってきているからだ。

 

(誰だ……あの人も柱なのか?)

 

 炭治郎にとっては、誰ともしれない男に妹の生殺与奪の権利を握られているような状態だ。当然その心の内は穏やかではいられない。

 

「困ります不死川様っ!どうか箱を手放しください!」

 

 実弥の後を追うように隠の装いをした女性が1人で屋敷の角を曲がって出てくる。

 

 それを見てしのぶは目を細めるとゆっくりと立ち上がる。

 

「不死川さん、その箱は私の弟子が見張っていたはずなのですが、どうして貴方がお持ちになっているのでしょうか?」

 

 いつになく、低い声色で問いかけられたその言葉はしのぶの内心が穏やかではないことを察するのに十分過ぎるもので、炭治郎を含めこの場に集った全員が彼女の問答に押し黙った。

 

「鬼を見張るなんざくだらねぇ命令を守ってたガキなら鬱陶しかったんでなァ、悪ィが少し吹き飛ばさせてもらったぜェ」

 

 

 しのぶの問いに実弥はニヤリと歪んだ笑みを浮かべると、挑発的に言葉を返す。

 

 鬼を見張るよう命令を出していたのはしのぶだ。それを下らないと吐き捨て、あまつさえその命令を尊守していた楓を吹き飛ばしてきたというのは、どう考えてもしのぶに対する宣戦布告のようなもの。

 

 

「彼女にそう命令していたのは私ですし、隊士に対する一方的な暴行は明らかな隊律違反ですが……どういうつもりなんでしょうか?」

 

「どういうつもりかだと?それは俺の台詞だぜ。鬼は見つけ次第殺すのが俺達鬼殺隊だろうがァ……それを鬼が妙な行動をとらないよう見張っているだとォ?下らねェ以外にどう表現すればいいんだァ?」

 

「…………」

 

 

 実弥の言にしのぶは押し黙る。

 確かに今の鬼殺隊の常識でいえば、実弥の言う通り、鬼は見つけ次第殺さなければいけない。

 

 しかし今回に限って言えば、その鬼は実弥のいうところの下らない命令によって生かされているのだ。他でもない産屋敷輝哉の命令によって。

 

 しのぶにはそのことが実弥には上手く伝わっていないように見受けられた。

 

 

「それに、随分と面白い話をしてるじゃねぇか。なぁ、坊主?鬼がなんだって?鬼殺隊として人を守る為に戦える?……そんなことはなァ、あり得ねぇんだよ馬鹿が!」

 

「あっ!?」

 

 刀を抜き放ち、その切っ先を手に持つ木箱へと向けた実弥にしのぶは眉を顰め、炭治郎は息を呑む。

 

 その光景を見る誰もが、実弥が何をしようとしているのか理解出来ていた。しかし、理解していながら柱の誰もそれを止めようとするものはいない。彼等は知っている。例え身体を貫かれようと鬼ならば問題ないと、首さえおとさなければどうせ再生するのだから。実弥のとった行動が人に対してどれだけの凶行であったとしても、鬼であるなら許される。

 

 

 その認識が如何に恐ろしいものであるか、彼等の誰一人として知りはしない。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等頂けますと幸いでございます。

真菰!真菰!真菰!

久しぶりに真菰出せて、嬉しいのでフィバーです。
ただ今回心情描写を詳しく書いただけで原作と殆ど変わりません。


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産屋敷という男

前回投稿時、まさかの原作主人公の漢字を間違えるという大失態を犯しておりました。ご報告頂きました方、ありがとうございました。



 

 

 

 実弥(さねみ)の持つ刀は勢いよく虚空に刺さった。

 

 

「……あァ?」

 

 

 右手が得られるはずだった手応えを得られず、左手にあったはずの重量感も感じない。実弥は思わず間の抜けた声を放つと、視線をそっと背後に広がる庭へと走らせた。

 

 

「なんのつもりだァ?ガキィ?」

 

 

 視界に入った一人の少女の姿。少し離れた場所に立った彼女の持つ木箱を見た実弥は殺気すら放ってそう問いかける。

 

 

「ガキではありません。私には高野(たかの)(かえで)という名前がございます。お見知り置き下さい」

 

「……テメェ」

 

 

 一見丁寧な口調でありながら、彼女のその声色は非常に挑発的だった。

 

 

「楓……」

 

 普段は垣間見えないその様子にしのぶは自らの弟子である楓の名を驚きに満ちた表情で呟く。

 

 

「ほぅ、あれが胡蝶の弟子か……派手にやるじゃねぇか」

 

「なかなかに筋が良い様子。腕の良い剣士が増えるのは良いことだ」

 

「うむ、素晴らしい速さだ!流石は胡蝶の継ぐ子だな!是非俺の継ぐ子にしたい!」

 

「えっと、煉獄(れんごく)さん、あの子はしのぶちゃんの継ぐ子だからそれは難しいと思いますけど……」

 

 

 

 柱の多くが口々に彼女がいま見せた行動を称賛して見せる。

 

 完全に不意を突いた行動ではあったものの、柱である実弥から箱を奪って見せたのだ。それも実弥が刀を抜き放ち、鬼の入った箱目掛けて突き刺そうとする一瞬の間の中でだ。並の隊士に出来ることでは当然ない。

 

 継ぐ子として相応しい力量を高野楓は持ち合わせている。それをこの場にいる柱全員が認識した瞬間だった。

 

 

「邪魔ばかりしやがってめんどくせぇ奴だなァ……そんなに鬼を庇いたいのかテメェ?」

 

 

(違う……私は、ただ……)

 

 

「突き刺したくらいじゃ鬼は死なねェだろうがァ、テメェのいうところの命令違反にはあたらねぇぞォ」

 

 

 なぜ今、実弥から箱を奪ったのか、なぜ今、鬼を庇うように箱を抱えているのか。実のところ、それは楓にもよくわかっていなかった。

 

 屋敷の門を曲がって目に入った光景に、気が付いたら体が動いていたのだ。

 

 

(どうして……どうして…私は……)

 

 

 彼のいう通り、鬼は刀で突き刺した程度では死なない。そんなことは数年もの間鬼狩りをしている楓にだってわかっている。死にはしないのだから、実弥のやろうとしたことを止める理由に命令という言い訳は使えない。楓が命令を受けているのはあくまで鬼を見張ることで、傷つけてはいけないとは言われてはいないのだから。

 

 

 いま自らの手で守ったそれは、楓が救いたいと、そう思った哀れむべき被害者であり、同時に彼女が殺意を抱いた彼等となんら変わりのない存在だ。楓の大事な者を奪ってきた、楓にとって憎むべき悪だ。

 

 

 

 

 ——— ならば、なぜ私はこの鬼を庇っているの?

 

 

 

 

 楓は自問する。

 

 鬼は刺した程度では死なないのだから、あれくらいは別にいいだろうと、傍観するべきだったのではないか?

 

 

(違う……気がする……)

 

 

 人をまだ喰っていない可能性があるとしても相手は鬼だ。いつか人を喰う鬼を庇う価値なんてない、そう思うことが自分にとって正解だったのだろうか。

 

 

『鬼を哀れんで鬼の想いを見る』

 

 

 そう託された自分が果たして今の光景を肯定することが本当に正しいことなのだろうか。

 

 答えが出ない。楓の中で鬼を庇う必要はないという感情と鬼を哀れむ感情が入り乱れ、正常な判断を下せない。

 

 

「私は……鬼を無為に傷つける行動には賛同しかねます」

 

 

 やがて数瞬の間を空けて楓はそう呟いた。

 

 鬼は殺すべき悪ではあるが、彼等はあくまで被害者でもある。そう考える楓が咄嗟に思い浮かべることの出来た言い訳はそれだけだった。今は整理のつかないその感情に蓋をするように楓は目を伏せる。

 

 

「……下らねぇなァ」

 

 

 そんな楓の様子に実弥が呟いた言葉は意外にもそれだけだった。

 細められたその瞳に籠もったその色は一体何を表していたのだろうか。それは下を向く楓にも彼の背後にいた他の柱達にも分からない。

 

 ただ何かを懐かしむかのように呟かれた彼の言葉に、しのぶだけは驚いたように目を見開いていた。まるで彼の瞳の先に何が見えているのか、それが理解出来たかのように。

 

 

 

「「お館様の御成です」」

 

 

 

 場に漂った一瞬の沈黙は、突如響いた抑揚の少ない幼気な声によって破られた。

 

 

 その声に釣られて、庭にいた全員の意識が屋敷の奥へと向かう。

 

 幾重にも連なった視線の先に2人の着物をきた子供に手を引かれながらゆっくりと歩を進めてくる若い男の姿がある。

 

 

「おはようみんな、今日はとてもいい天気だね。……空は青いのかな。顔触れが変わらず半年に一度の柱合会議を迎えられたこと嬉しく思うよ」

 

 

 たったそれだけ、彼が言葉を発したその瞬間には先ほどまでの張り詰めたような空気が霧散した。切り替わった空気に柱の誰もが一応に地面へと膝をつき、首を垂れる。

 

 楓もその動きに合わせるようにその場に膝をついた。ただ1人、炭次郎だけが状況を理解出来ずに現れた男性を呆然と見上げていた。

 

 

竈門(かまど)君、貴方も鬼殺隊の隊士であるなら、頭を下げて下さい。目の前の御仁は私達の組織の頂点にいらっしゃるお方ですよ」

 

 

 その炭治郎に忠告する様に彼の隣で膝をついていたしのぶが小さく囁く。

 その言葉に一瞬周囲を確認するように見渡した炭治郎は慌てた様子で頭を低くする。

 

 その様子を視界の端に収めながら楓はそっと視線を縁側に立つ男性を見据える。

 

 

 

 

——— 鬼殺隊当主 産屋敷(うぶやしき) 耀哉(かがや)

 

 

 

 

 楓が彼を見るのは何もこれが初めてのことではない。

 

 楓が初めて輝哉と会ったのは上弦の壱との戦いで傷ついた体を癒していた時だった。蝶屋敷に与えられた寝台で横になっていた彼女の部屋に、何の予告もなしに唐突に現れた彼のことは楓としても忘れ難い記憶となっている。

 

 

(顔の痣が広がってる……)

 

 

 視界に収めた耀哉の顔色は青白く決して健康的とは言いにくいが、なによりも目を引くのは彼の顔に広がる傷のような痣だろう。初めて楓が見た時よりも彼の病変は明らかに進行していた。産屋敷一族が代々に渡ってかかるというその病は、しのぶをして呪いと表現する程謎が深く、治療どころか進行を食い止めることすら困難だそうで、今では1日の半分は床で過ごさねばならないほど悪化しているそうだ。

 

 

「お館様におかれましてもご壮健で何よりです。益々の御多幸を節にお祈り申し上げます」

 

「ありがとう実弥」

 

(別人みたい……)

 

 

 そのやり取りを聞いて楓がそう思ったのも無理のないことだろう。

 

 実弥が礼節の御手本になるような態度をとる人間は決して多くはない。というより、ここまで彼が丁寧に接する人間は産屋敷耀哉以外には存在し得ないだろう。普段誰に対しても不遜かつぶっきらぼうな実弥が、これほどまでに敬う存在、それが産屋敷耀哉なのだ。

 

 

「恐れながら、柱合会議の前にこの竈門炭治郎なる鬼を連れた隊士について御説明を頂きたく存じてあげますがよろしいでしょうか?」

 

 

 しかし、それほどの敬意を抱く相手であっても彼の信義に反するこの状況に、悠々と会話を続けている余裕はなかったのだろう。ややせっついた様子で実弥は耀哉へと前のめり気味に問いかける。

 

 

「そうだね……驚かせてしまってすまなかった。炭治郎と禰豆子のことは私が容認していたんだ。……そしてみんなにも認めて欲しいと思っている」

 

 

 状況からして想定されていた言葉ではあるが、改めて口にされればやはり驚かざるおえない。

 

 従来の鬼殺隊にとって鬼との融和など有り得ない。彼等は人間にとって絶対的な敵だったのだ。千年もの長き時の中で、相手が鬼であるならただの一度も例外なく彼等の首を刎ねてきた。鬼に情けをかけるな、鬼に容赦するな、彼等は全からく敵だと、そう思って戦ってきた隊士は決して少なくない。

 

 にも関わらず、ここに来て組織の当主がその在り方を覆し兼ねない発言を柱全員の前でしたのだ。

 

 その意味は大きい。

 

 これまで圧倒的なカリスマによって柱を束ねてきた耀哉ではあるが、鬼殺隊の在り方を変え兼ねないその言葉には当然反発も出る。

 

 

「あぁ、例えお館様の願いであっても私は承知しかねる」

 

「俺も派手に反対するぜ。鬼を連れた隊士など認められない」

 

「私は、全てお館様の望むまま従います」

 

「僕はどちらでも……すぐに忘れるので」

 

「………」

 

「信用しない信用しない。そもそも鬼は大嫌いだ」

 

「心より尊敬するお館様だが、理解できないお考えだ!全力で反対する!」

 

 

 口々に柱達はそれぞれの意見を言葉にするが、鬼を迎え入れることに喜んで賛成する声はない。肯定的な意見にしてもどちらでも良いという解答であり、鬼という存在を見逃すことを許容したものではない。

 

 

 少し離れた位置で話を聞く楓も耀哉の意見には賛同しかねていた。ここで鬼の存在を容認し見逃したことで、あるいは未来に誰かが喰われてしまうかもしれない。この判断に人の生死が関わってくる。そう考えれば、容易に首を縦に振ることは憚られる。

 

 否定の意見ばかり出る状況を見て不安にでも思ったのか、不意に炭治郎が後ろへと振り向き楓へと視線を向けてくる。

 

 この中で唯一、炭治郎の前で明確に禰豆子を守ったのは冨岡を除けば楓だけ、彼が楓の反応を気にするのはある意味仕方のないことだった。

 

 

(……彼が妹に罪を背負わせ苦しませたくないなら、ここで殺しておくのが正解のはず……なのに……)

 

 

 綴るような瞳で自分に視線を向ける炭治郎に気づいた楓は苦悩する。

 彼の妹が鬼である限り、いつかは人を喰らい、他者にもそして自分にも不幸を撒き散らすことになる。そうであるなら、まだ人を喰らっていない内に殺してあげることが彼女にとっても竈門という少年にとってもきっと良い未来に繋がる。

 

 殺してあげることこそが鬼にとっての救済、それこそが楓の出した答えだった筈だ。

 

 

(どうして……こんなにも焦ってるの?……)

 

 

 それなのに、いまこの状況を前にして楓の心中にはとてつもない焦燥感が広がっている。自分は鬼殺隊として何も間違っていない筈なのに、まるでこのままでは駄目だとでも言うように鼓動が早まり、胸の内が穏やかではいられない。先の咄嗟の行動といい、楓の取る行動はその思考とはあまりにも矛盾していて、彼女自身その矛盾に答えを出すことが出来ないでいた。

 

 向けられた視線に何一つとして返すことができずに楓が無言のままでいると、やがて全ての意見を総括するように実弥は高らかに声を挙げる。

 

 

「鬼を滅殺してこその鬼殺隊。竈門、冨岡の両名の処罰を願います」

 

 

 柱の面々に流れる空気からして耀哉の言葉を受け入れることができないのは明らかだった。しかし彼等の明らかな拒絶の反応を見ても耀哉の表情に動揺の色はなく、穏やかに微笑んだままでいる。まるで彼等のその反応は想定した通りとでも言うかのように。

 

 

「……手紙を」

 

「はい」

 

 

 耀哉の脇に控えた幼い少女が懐から取り出したのは1通の手紙だった。

内容は簡潔に述べれば元水柱、鱗滝左近次がお館様に宛てた竈門兄弟の助命を願う嘆願書だ。元とはいえ、仮にも柱を勤めた者の証言ともなれば、その効果は絶大だ。鬼である禰豆子が2年間人を襲うことなく過ごしていたことは彼の手紙で保証されたと言ってもいいだろう。

 

 

 だが、その手紙では未来に対する保証ができない。

 

 

「切腹するからなんだというのかっ、死にたいなら勝手に死にくされよっ!何の保証にもなりはしません」

 

 

 実弥の言う通り、禰豆子が人を襲わないことに鱗滝と現柱の富岡の命を懸けたのだとしても、それが人を襲わないという保証にはなり得ない。

 

 

「不死川のいう通りです!人を喰い殺せば、取り返しが付かない!死んだ人は戻らない!」

 

 

 鬼である以上、人を襲う可能性は常に付き纏う。例え2年間人を襲っていないのだとしても、未来永劫人を襲わないとは言い切れないのだ。

 

 仮にもし、この例外を認めることが可能なのだとしたら、それはここにいる柱達が彼女が人を襲わないと信用するだけの何かが必要になってくる。だが、多くの鬼を見てきた柱達を信用させるに足り得るものなど早々あるわけがない。少なくとも楓には思いつかない。

 

 

(どうやっても証明なんて出来ないよ……)

 

 

 信用できない存在を生かしていつか人を襲うことになったらと、そう考えるのであれば、この場で手取り早く殺しておく方が鬼殺隊にとっては合理的だ。

 

 

「確かにそうだね……」

 

「ではっ!」

 

「お館様!」

 

 

 やがて耀哉から呟かれた言葉に実弥と煉獄の2人が揃って前のめり気味に声を張る。

 

 しかし、それは彼等が予想した同意の言葉ではなかった。

 

 

「人を襲わないという保証ができない、証明が出来ない。……ただ、人を襲うということもまた証明が出来ない」

 

 

「っ!?」

 

 

 その場に響く息を呑んだような音は、一体誰から発せられらた物だったのだろうか。柱の誰か、あるいは楓自身だったのかもしれない。

 

 

 

 

——— 鬼が人を襲うことを証明出来ない

 

 

 

 

 楓には一瞬、耀哉の放った言葉を理解することが出来なかった。それほどまでに彼の口から飛び出した言葉はあまりにも衝撃的で、これまでの彼女の考えを根本から打ち崩さんばかりの突飛な発言だった。

 

 

(……何を言っているの?)

 

 

 鬼が人を襲うことを証明出来ない?

 

 そんなはずはない。だって彼等は鬼だ。その存在そのものが人を襲うことを何よりも明確に示している。鬼が人を襲うことを、鬼殺隊は千年もの長き時を懸けて証明しているではないか。今日ここに至るまで鬼が人を襲わなかったという記録は何一つとしてない。歴史が鬼が人を襲うことを証明している。

 

 

 彼女の心に耀哉の放った言葉を否定する要素が次々と浮かんでいく。それはつまり、楓の心が輝哉の言葉を受け入れることを拒否したことを表していた。

 

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等頂けますと幸いでございます。

おや、サネミの様子が……
楓の想いは迷走中なので、ちょっと矛盾した行動が目立ちますぜぇ


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必要な証拠

作者のHPが徐々に低下しているので誰かベホマ掛けて欲しい


 

 

「恐れながらっ、恐れながら申し上げますっ!」

 

 

 気がつけば、(かえで)はそう声を発していた。堰が切れたかのように彼女の心から焦燥の波が溢れ、言葉となって流れ出ていく。

 

 

「楓っ、控えなさい!」

 

 

 この場はあくまで柱と鬼殺隊の当主である耀哉(かがや)の話し合いの場だ。本来楓がこの場に同席することは許されないし、勿論彼女に発言権も存在しない。師であるしのぶからは当然のように静止する言葉が走るが、今の楓の頭には入ってこない。

 

 

(鬼は人を襲う……彼等がそれを我慢できないからこそっ、私は……)

 

 

 普段冷静な楓の内心はいま、かつてない程の焦燥に駆られていた。心臓がバクバクと激しく鼓動し、呼吸も常より僅かに荒くなっている。

 

 彼女がいま掲げるようになった鬼殺の信念は鬼の救済にあるが、その大前提として鬼は必ず人を喰らうという考え方がある。鬼が人を襲うことを我慢出来ないという確固たる事実があったからこそ、彼女は救済という名目で彼等の首に刃を振るうことを良しとしたのだ。先の耀哉の言葉は楓のその信念の根本を打ち崩してしまいかねないほど強烈なもので、彼女がこの場において普段の冷静さを発揮することは不可能に近かった。

 

 

「いいんだよ、しのぶ……楓も来てくれていたんだね。どうしたのかな?」

 

 

 切羽詰まった様子の楓の声に耀哉はそこで初めて楓がこの場に同席していることに気がついたようで、穏やかな声色でしのぶを制するとゆったりとした口調で楓へと問いかけた。

 

 

「っ鬼が人を襲う証明は鬼殺隊の歴史が為している筈ですっ!鬼が人を襲わなかった例はこれまで一度もありませんっ!」

 

「そうだね。楓のいう通り、これまで私達が人を襲わない鬼と出会ったことは一度も記録されていない」

 

「でしたらっ」

 

 耀哉の返した肯定の言葉に楓は飛びつくように声を発するが、彼女の抱いた期待は次の瞬間に霧散することになる。

 

 

「でもそれは鬼が人を襲うことの証明にはなり得ないよ」

 

「なっ、何故ですかっ!?」

 

「前例がない、例外がない、それらの歴史は過去に存在しなかった証明にはなっても、今ここにいる禰豆子(ねずこ)という例外を否定することはできないんだよ」

 

「っ!?」

 

 

 楓は息を呑み瞠目して耀哉をみつめる。

 

 これまでの歴史で鬼は確かには人を襲い続け、人を喰らわない鬼という例外的な存在は一切確認出来なかった。だがそれはあくまで歴史という過去であり、今を生きる禰豆子の未来を確定させ得るものではない。

 

 歴史とは過去の記録を示す物であり、現在や未来を予言するものではないのだ。

 

 言ってしまえば当たり前のそれはしかし楓にとって、あまりにも衝撃的な事実だった。楓の考える証明は経験という名の歴史によってはじめて成り立つものでしかなかった。彼女が鬼は人を必ず喰らうという根拠はまさしくそれ以外の前例がなかったからに他ならない。

 

 

 楓の考える証明は耀哉の放った言葉によっていまここで意味を失くしてしまった。

 

 

(なら……私が振るった刀は……)

 

 

 楓の内心に浮かんだその疑問はある意味当然の帰結だった。鬼が必ずしも人を襲わないというのなら、鬼は人を襲うことを我慢できないから彼等がこれ以上罪を重ねない為にと、救済という名目で自分が振るってきた刃は本当に救済と呼べるものだったのだろうか?

 

 

 

『死にたくないっ』

 

 

 

 不意に、那谷蜘蛛山でそう叫んだ鬼の少女の姿が楓の脳裏に浮かび上がった。彼女は死にたくないとそう叫んだ。彼女は人を食べないとそう語った。それらの全てを楓は不可能だと嗤って拒絶した。その上で彼女を救済する為に、人を喰らうことが苦しいと語った彼女の首を斬った。彼女に与える死、それこそが彼女を救うのだと、そう信じて。しかし、もしも彼女が語った言葉通り、人を喰らうことを我慢出来る可能性が僅かにでもあったというのなら、それは本当に彼女にとっての救済になったのだろうか。

 

 

(私、あの時、笑ってた。……首を斬って喜んでいた)

 

 

 彼女の首を斬り落とした時、刃に映った自らの表情を思い出して、楓の心は絶望の暗雲に覆われる。

 

 

 救済という名目で刀を振るったあの時、自らの心の内に広がった暗い喜びの感情は、あの鬼に与えた死に歓喜していた証ではないのか。

 

 

(私は誰も救ってない……ただ……復讐していただけだった……)

 

 

 いつの日からか、自分は鬼を救いたいと言いながら、鬼を殺すことを望むようになってしまっていたのだ。救済という建前を使って、鬼を殺すことを肯定し、大切な人達を奪っていた鬼という存在そのものに復讐をしていただけなのだと、そのことを唐突に理解してしまって、彼女の心に暗い暗い闇のような暗雲が立ち込める。

 

 

 

「もう一つ手紙を読んでくれるかな?」

 

「はい」

 

 

 暗い表情をして黙り込んだ楓の姿が見えているかのように、耀哉は優しげに微笑むと、傍に佇む少女にそう頼み込んだ。

 

 

「此方の手紙は、上弦の壱との戦いでお亡くなりになられた、雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)様の遺書に同封されていたものになります」

 

 

 耳に届いたその名前に、暗い思考に溺れていた楓の意識が急速に浮上する。

 

 地面に俯いていた顔を勢いよくあげ、声を発した少女の顔を信じられない物を見るかのように凝視する。

 

 

(なんで……信乃逗さんの名前が……)

 

 

 この場で出る筈のないその人物の名は楓にとって、とても大切な人で、彼女が託される想いを繋ごうと思ったきっかけとなった故人。

 

 

「一部抜粋して読み上げます」

 

 

 

 

『私の姉、雨笠ちよは鬼に変えられながら人を喰らうことを良しとせず、鬼の血に抗っておりました。残念ながら姉は鬼の血に打ち勝つことが出来ず、人を喰らう前に殺して欲しいと、姉からの懇願を受け、私が首を刎ねることとなりました。今世において鬼へと変えられた者が人の理性を保つ例を私は姉以外に見ることはありませんでしたが、もしも、私の姉のように鬼の血に抗い、或いは打ち勝った者が今後、お館様の目に入ったのであれば、どうか処分の猶予を一考して頂きたく存じます。その者が人を喰らっていないのであれば、その者はまだ鬼ではない。鬼が人を喰らうのではなく、人を喰らった者が鬼なのだと私はそう思うのです。願わくば未だ鬼ではなく人であるその者に寛大なる処置を頂くこと、重ねてお願い申し上げます』

 

 

 

「…………」

 

 

 読み上げられた信乃逗の願いに、楓は言葉が出なかった。彼の過去も、人が鬼の血に抗った例があったことも何もかも彼女には初耳だった。

 

 家族を殺され、身内を鬼に変えられ、果ては自分の手で家族を殺した。それは一体どれほどの痛みだったのだろうか、どれほどの苦しみを彼に与えたのだろうか。

 

 

『鬼が憎い』、彼はあの夜そう言った。

 

 

 当たり前だ。家族を殺されたのだ、大事な者達を奪われたのだ、そんなもの、憎く思わない方が無理がある。

 

 

 ただ、同時に彼は救いたかったのだろう。鬼に変えられた姉をできることなら殺したくなかったのだろう。

 

『鬼が人を喰らうのではなく、人を喰らった者が鬼なのだ』

 

 これは彼の未練の想いだ。彼のこの言を借りるなら、彼の姉は未だ人だった筈だ。人を喰らうことを良しとしなかった姉を、人のまま手に掛けるしかなかった彼の無念が綴られた一言だ。

 

『鬼を憐んで、鬼の想いを見る真菰(まこも)の想いを預かっておきながら、俺にはそれを継ぎきることができそうになかった』

 

 だからあの時、彼は楓にこう言ったのだ。家族を奪った鬼を憎みながら、しかし彼等が姉のように元は人間であることを理解する彼は、鬼という存在を憐れんだ真菰という隊士の想いを預かった彼は、きっと刃を振るう度に苦しんでいたに違いない。

 

 

 今の自分と同じように。

 

 

「楓はきっと信乃逗と同じことに苦しんでいるんだね」

 

 

 まるで心の内が読めているかのような発言に楓は驚きに目を見開いて耀哉を見つめる。

 

 

「ごめんね楓……鬼になってしまった人に刃を振るうことは君にとってとても辛いことなのに……それでも私は君に刃を振るうことをお願いすることしか出来ない」

 

 

「っ…………」

 

 

 彼の言葉に楓は唖然とするしかなかった。なぜ彼が謝るのか、どうして彼がそんなにも悲しい顔をするのか、それらの全てが理解出来なくて、楓は言葉を失ったようにその場に佇んでいた。

 

 

「ただ、どうか忘れないで欲しい。君が苦しんで刀を振るってくれたおかげで助かった命があることを」

 

「っ…………」

 

 

 耀哉の言葉に楓の脳裏で様々な光景が思い起こされる。鬼を殺した後に『ありがとう』そうやって笑ってくれる人達の姿、上弦の壱との戦いでボロボロになって横になる自分にお礼を言いに来てくれた少女の姿。

 

 

「楓の振るった刀の先にあるのは憎しみの感情だけじゃないよ。鬼になった彼等を止めることが出来たのは、間違いなく楓が刃を振るったからなんだ。だから君達(・・)の振るった刃は決して間違いではないんだよ。……彼等を助けてくれてありがとう、楓」

 

 

 慈愛に満ちた声色で耀哉はそっと礼をする。優し気に細められた彼の瞳は決して楓の姿を耀哉へと届けてはくれないが、彼の瞳は間違いなく今、苦しみながら歩き続ける少女の姿を映し出していた。

 

 

 不意に楓の頬を熱い何かがつたっていく。

 

 その感覚に楓がそっと頬を触れば、指先に濡れたような感触が伝わってくる。恐る恐る楓が指先に視線を向ければそこには間違いなく水滴がついていて、楓はそれが涙であることをはっきりと理解した。

 

 そして理解した瞬間、温かな雫があとからあとから頬を伝って地面へとこぼれ落ちていく。

 

 

「なんで……」

 

 

 堰を切ったかのように止まらなくなった涙に、楓は戸惑いの声を上げるが、その答えは彼女の心の中でははっきりと出ていた。

 

 決して何かが解決した訳ではない。楓の中から鬼への憎しみが消えたわけでも、救済の意志がなくなったわけでもない。最初と何も変わらず、楓の抱える苦悩はそこに存在しているのに、たった一言、『ありがとう』とそう感謝されただけで、楓の重く沈んだ心が不思議と浮き上がってくる。

 

 

 

「信乃逗の姉のように鬼無辻の血に抗った者はこれまでも何人かはいたんだよ……でも誰も打ち勝つことは出来なかった……これまではね」

 

 

 楓の様子に気づいているのか、気づいていないのか、耀哉は柱達へと言葉を続ける。

 

 

「私は禰豆子こそ、信乃逗が言うところの鬼の血に打ち勝った人間なのだと思っている。彼女は未だ人喰らっていない、人の心を保った人間なんだ……鬼無辻の予想を遥かに超えた変化を遂げた彼女のことを、どうかみんなにも分かって欲しい」

 

 

 あくまでも穏やかな相貌で耀哉は跪く柱達に顔を向けるとそう懇願した。

 

 柱の誰もが耀哉の言葉に考え込むように口を閉ざす中、ただ一人口を開く者がいた。

 

 

「お館様の仰る旨は理解致しました……しかし、俺は承知しかねる」

 

「実弥……」

 

 実弥の表情は相も変わらず険悪そのもので、鬼を生かすという判断には至った耀哉の言葉に一定の理解を示しながらも、明確に彼の考えを拒否した。

 

「ここで何の確証もなくその鬼を認めれば、今後、その鬼が人を襲った時、俺達はこれまで犠牲となった隊士達にどう顔を向ければいいと言うのか……」

 

「……実弥はどんな確証が欲しいのかな?」

 

 実弥には、いや鬼殺隊には必要なのだ。はっきりとした証拠が。

 話題にのぼるその鬼が、本当に人を襲わないという確証を得なければ、言葉だけで安心だと野に放った鬼がいつか人を喰らってしまえばこの場に集った全ての柱はその立場そのものに泥を塗り、その信用を大きくおとすことになる。

 

 そのリスクを負って、誰かが殺されるかもしれない可能性を残しておくだけの価値が本当にあの鬼にあるのか、実弥にはそれを確証し得る方法が一つ思い浮かんでいた。相手が鬼であるならば絶対に抗えないと確信を持っていえるだけの方法を彼は身をもって知っている。

 

 

「あの鬼が本当に血に抗えるのかどうか、俺に試させて頂きたい」

 

 

 言うが否や、実弥はその場から掻き消える。

 疾風の如く速度で楓の脇に置かれた木箱を拐うと、次の瞬間には屋敷の縁側を超え、室内へと姿を現していた。

 

 

「っ!?」

 

 止めどなく溢れる涙を抑えることに必死になっていた楓は、一瞬何が起こったのかを理解することが出来ず、実弥の引き起こした風圧を浴びて初めて彼に鬼が入った木箱を奪われたことを理解した。

 

 屋敷の奥に立つ実弥に視線を向けた楓は慌てて箱を取り返す為に動こうとするが、それはしのぶによって制止される。

 

「楓、動いてはいけません」

 

「しかしっ、」

 

「遺憾ではありますが、不死川さんの言う確証は確かに必要なものです。貴方も彼の示す証拠を見ていなさい」

 

 眉を顰めたしのぶは厳しい口調で声を出すと、実弥のいる室内へと鋭い視線を向ける。一部たりとも見逃すまいという意思すら感じる師の後ろ姿に圧倒されるように楓も息を呑んで屋敷の奥を注視する。

 

 陽の光の届かない薄暗い室内へと向けられた数多の視線はそのどれもが真剣そのもので、これからあの場所で起こる何かを見逃すまいと必死だ。

 

「おい、鬼……飯の時間だ……テメェの本性をみせなァ」

 

 挑発的な微笑みを浮かべて実弥は床に禰豆子が入った箱を無造作に投げつけると、腰に刺した刀を抜き放ちながらゆっくりと木箱に歩み寄っていく。

 

 やがて、木箱の前に立った実弥はなんの躊躇いすらなく、その刃を箱へと突き立てた。

 

「ぁっ!?やめろぉぉ!!」

 

 悲痛な叫びが屋敷の庭に響き渡る。声の主は今刀を突き刺された鬼の少女の兄、竈門(かまど)炭治郎(たんじろう)だ。手を後ろに縛られて、地を這う彼は必死の形相で屋敷へと這いよろうとしている。

 

「………」

 

 楓はしのぶや他の柱の面々を見やるが、彼等が実弥の行いを止める様子は当然ない。

 

(これは、必要な、こと……)

 

 言い聞かせるように楓は先のしのぶの言葉を内心で呟く。

 炭治郎の挙げる悲痛な叫びに胸が痛むが、楓もしのぶの言葉で実弥がやろうとしていることの一旦を理解してしまっている。

 

 彼が今やっていることは、鬼である彼女が真に人にとって無害でいられるかどうかを試す為のもの。例えここで鬼である彼女が無害と認められたとしても、彼女が鬼であることにはなんの変わりもない。そうである限り、鬼である彼女は勿論、彼女を連れ立つ炭治郎も今後悪意のある視線に晒されることは疑いようがない。

 

 鬼は敵であるという意識の根付いている鬼殺隊では、例え彼女が人に襲われた側だとしても、人を喰らうことは許されない。どのような事情があったとしても鬼である彼女が人を傷つければ、それだけで彼女を危険だと言う人間が出てきかねない。彼女は耐えなければならないのだ。どれほど理不尽であろうとも、鬼である彼女が人の中で生きようというのであれば、その理不尽極まりない悪意に耐え、人を喰らう欲求を抑えなければならない。

 

 実弥が禰豆子に振るう刃以上の悪意をいつか竈門兄妹は受けるかもしれないのだ。

 

 その時、彼女が本当に鬼の血に抗うことが出来るのか、この場にいる柱達はそれは確認しなければいけない。

 

 

「我慢することはねェ……お前は鬼なんだ、人を喰らう生き物なんだからなァ」

 

 

 殺意に満ちた瞳で実弥は木箱の扉を刀の切っ先で開けながらニタニタと嗤う。

 

 彼の言葉に応えるように、開いた木箱の中から、長い黒髪を垂らした肌の白い少女が、荒い息を吐きながら現れる。

 

 

「くっくっくっ、苦しそうだなァ……さあご馳走をやるぜェ」

 

 

 現れた鬼の少女に小さく笑いながら実弥は自らの腕を前に出すと、その腕を刀で斬り裂いた。

 

 

「っ!?」

 

 

 実弥の腕から垂れ始める血を見て、禰豆子の顔色が明らかに変わった。それまでの息も見てわかるほどに荒く乱れていたのに、彼の血の香りが漂い出した瞬間に、彼女の呼吸の間隔が全力で走った後のように明らかに短くなった。何よりも明確な変化は彼女が咥える竹の隙間から溢れ出る唾液だろう。

 

 夥しい量の唾液が彼女の口元から垂れ流されている。止めどないその様子からして彼女が実弥に対して喰らいたいという欲求を感じていることは疑いようがない。

 

 

(普通の鬼なら、絶対に我慢出来ない)

 

 

 傷を負い、人の血肉を間近で見れば、普通の鬼であればまず耐えられない。湧き上がる欲求に身を任せ、その本能の赴くまま目の前にある食事にありつこうとするであろう。まして、いま彼女の目の前にあるそれは、鬼にとって普通の人間よりも遥かに美味とされる『稀血』の中でも更に極上の素材。

 

 たった一人食べるだけで普通の人間を数十人、いや、彼ならば数百人規模で食べたに等しいとされるその血肉は人の数倍の時を優に生きる鬼ですら一生に一人見かけることができるかどうかと言われるほどに希少な存在だ。

 

 そんな間違いないご馳走を前にして耐えられる鬼など普通に考えればまず存在しない。

 

 現に、彼はその血の特性を利用することで、今まで多くの鬼を狩ってきたのだ。彼の血を嗅いだ鬼は例外なく理性をなくし、酒に酔った人間のような知性の乏しい動きでもって、彼に襲いかかる。その光景を、彼と共に指令をこなした楓も何度か目にしている。

 

 故に、楓にはこの賭けともいえる実弥の行いに禰豆子が耐えられる未来が見えなかった。

 

 傷を負っていない鬼ですら、彼の血肉を嗅げばたちどころに理性をなくしてしまうのだ。あんなにも近くで、しかも無防備に腕を差し出されて、鬼である彼女が耐えられようはずがない。

 

 

 

 しかし楓の予想に反して、彼女は中々実弥に喰らいつかない。彼女の瞳は血の滴る実弥の腕に釘付けになっているのに、彼女は身の内に湧き上がる欲求に耐えるようにきつく両手を握り締めてその場に佇んでいる。

 

 

 

「うぅんっ!!」

 

 

 やがてくぐもったような鈍い声がシーンと静まり返った屋敷に響く。その声と共に目に映った光景に柱の誰もが目を見開いていた。

 

 

「……どうしたのかな?」

 

 

 驚愕に静まり返る空間に、耀哉の優し気な声が響き渡る。

 

 

「鬼の女の子はそっぽを向いています」

 

「不死川様に刺されていましたが、目の前に血塗れの腕を差し出されても我慢して噛み付きませんでした」

 

 

 耀哉の傍に立つ二人の少女から淡々と告げられるその事実が呆然と立ち竦む楓の耳に入り、変えようのない現実となっていく。

 

 

 

——— 鬼が人を喰らうことを我慢した

 

 

 

 あり得ないと思っていた光景が目の前に広がっている。夢ではないのだろうかと、そう思いたくなるような奇跡がいま、鬼を殺し続けてきた者達の前で起きた。

 

 

 

「ではこれで、禰豆子が人を襲うことを我慢出来る証明が出来たね」

 

 

 

 ここに、竈門(かまど)禰豆子(ねずこ)は鬼でありながら鬼ではない、人の心を保った人間であると示された。

 

 

 その証明を自らの手で示すことになった実弥は、耀哉の声を聞くと血にまみれた腕をそっと下げる。プンプンと怒ったような顔つきをした禰豆子に呆然と視線を向ける彼は、やがて歯を食い縛って抜き放った刀身を鞘へと戻し、ポツリと何かを呟いた。

 

 

 誰に届くこともないその呟きは、虚空へと呑まれ消えていく。もしも彼の言葉が彼の求める人へと届いていたのなら、きっと元気な声が返ってきていたことだろう。蝶の簪をつけた彼女ならば、いつものようにおっとりとした口調で困ったように微笑んで彼を嗜めるに違いないのだから。

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等頂けますと幸いでございます。


さねみはさねみんに進化した。
作者はサネカナも好きです。


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禰逗子という鬼

 

 

「ここが蝶屋敷です」

 

 小鳥の囀りが心地よく聞こえる暖かな日差しの中で、楓は目の前に広がる巨大な屋敷を背後にいる者達にそう紹介した。

 

「うわぁー、立派なお屋敷なんですね」

 

「えぇ、まあ、普通の屋敷ではありませんから」

 

「へぇー」

 

「…………」

 

 

 間延びするような声を出して、隠に背をわれたまま、呑気に屋敷を眺める炭治郎を(かえで)はジト目で見つめると、そっとため息を吐いた。

 

 実弥によって禰豆子(ねずこ)という鬼が人を襲わないことが証明されたあと、楓は師であるしのぶに、炭治郎(たんじろう)と禰豆子を連れて蝶屋敷に戻るように指示を出された。なので今、こうして後藤におぶわれた炭治郎と再び木箱に入った禰豆子を案内してきたのだが、どうも彼から危機感というものを感じないのだ。

 

 別に炭治郎や禰豆子を積極的に害そうなどと思ってるいわけではないが、仮にも先程まで生死を判断する側にいた人間を前にしているというのに、彼のいっそ能天気にも見える反応はあまりにも不適切だ。それにこれからいく場所は彼等にとって決して心休まるような場所ではない。蝶屋敷は鬼に傷つけられたもの達を労る場所でもあるのだ。その場所に鬼を連れていく、この危険性を彼はどうにも理解出来ていない。本部を出てからというもの妙に悠長な言葉ばかり口にしてくるのだから、楓としては頭が痛くなるばかりだ。

 

「よくそんな呑気な態度が取れますね。お館様から認められたとはいえ、此処は貴方の妹にとって敵地そのものですよ」

 

「あはは、すいません……でも、楓さんもいらっしゃるので、そんなに心配はいらないかと思って」

 

「……私がいることで、どうして貴方が安心出来るのかさっぱり分かりませんけど」

 

「それは勿論、楓さんが禰豆子を守ろうとしてくれる優しい人だからですよ」

 

「…………」

 

 純粋無垢な瞳で視線を合わせてくる炭治郎に楓は思わず言葉を失ってしまう。

 

 炭治郎はどうやら、楓が実弥から禰豆子を守るように動いたことに随分と好印象を抱いたようで、初対面であるにも関わらず妙に信頼した様子を見せるのだ。

 

「言っておきますが、あれはしのぶ様の命令があったから守っただけです。……私は貴方の妹をまだ完全に認めたわけではないことをきちんと留意して下さい」

 

「はいっ」

 

 楓の忠告を受けても、炭治郎からの信頼の眼差しは消えない。彼女の言葉に景気良く返事をするとニパァッと気持ちの良い笑顔を浮かべている。

 

 

(本当に分かってるのかなぁ、この子……妙に頑固だし……)

 

 

 無条件に寄せられる信頼の瞳に、楓は戸惑いを感じながら、産屋敷邸を出る際に起きたある意味で衝撃的な光景を思い返す。

 

 無害な鬼であることを立証する為とはいえ、妹である禰豆子を刺した実弥に炭治郎は酷く立腹しているようで、よりにもよって風柱に対して頭突きをさせろなどと無礼極まりない発言をかましたのだ。しかもそのタイミングは禰豆子と炭治郎の処分に関する話し合いが終わり、本格的な柱合会議が始まろうかという時だ。

 

 普段無口で何を言っても無視されているようにすら感じる霞柱が殺気を放った時には楓は勿論、後藤やあゆみまでもが内心で絶叫していた。彼が石を投げるに留めてくれなければもうひと騒動起きていても全く不思議ではなかった。

 

 

「言っておきますが、この場所は私にとっても大事な場所です。貴方の妹がもしもこの屋敷に住む者達に襲いかかるようであれば、例えお館様に認められていたのだとしても容赦なく首を刎ねますので、お忘れなく」

 

「はい、それは絶対にあり得ませんから、安心して下さい!」

 

 

(安心とか、そういうことを言ってた訳じゃないんですけどね……)

 

 

 屈託のない笑顔でそう答える炭治郎からそっと視線を逸らすと楓は蝶屋敷の敷地へと入っていく。

 

 

「本来はけが人はここではなく搬送用の入り口から入っていただくのですが、今回は緊急でもありませんし、背中に負ぶわれていらっしゃるので此方からどうぞ」

 

 

 後ろを歩くひよりと後藤を来客用に作られている正面玄関に案内すると、楓はそこから中に入っていく。

 

 

「どなたですか!」

 

 

 廊下の角を曲がって行ってしまった楓の後に続くように後藤とひよりの二人が玄関で履物を脱いで上がると二人の背後から一際大きな声でそう呼び声が掛かる。

 

 声量の大きさに二人が驚いて、どぎまぎと慌てた様子を見せていると楓がひょっこりと角から顔を出す。

 

 

「大丈夫だよ、アオイ。その人達はけが人を運んでくれただけ」

 

「楓、おかえりなさい。けが人ですか……でしたら此方にどうぞ」

 

 

 入り口の角から顔だけ覗かせた楓を見て、安心したように神崎アオイは息を吐くと、引率するようにテキパキと楓達を案内し始める。

 

 

「アオイ、いま使える個室ってあるかな?」

 

 

 病室への道すがら、楓は前を歩くアオイへと問いかける。

 

 

「うーん、今日は随分と沢山怪我人が運ばれてきたから……患者用の病室は空いてないわね」

 

「そっか……どうしようかな」

 

「どうかしたの?」

 

「ううん……ちょっと隔離用にね」

 

 

 アオイにだけ聞こえるように楓は囁いた。炭治郎の妹である禰豆子は確かに実弥に襲いかかることを我慢できた。鬼の理性を狂わせるあの血をあれ程間近で耐えることが出来たのだから、まず人を襲うことはないと思うが、それでも万が一を考えると怖いことも事実だ。アオイやなほ達、それに怪我を負った他の隊士の精神的な観点から言っても禰豆子は他の目が触れない別室に置いた方がいい。

 

 それに、鬼殺隊の頂点である耀哉や柱達にひとまず認められたとはいえ、他の全ての隊士達が禰豆子の存在を認めたわけではない。鬼殺隊が人の組織である以上、場合によっては鬼への憎しみから凶行に走る隊士が出てくることも十分以上に考えられる。

 

 蝶屋敷には常に多数の隊士が出入りするので、大部屋ではそう言った輩に注意するのは困難なのだ。

 

 

「隔離?」

 

「後で説明するよ……っていうよりしのぶ様から説明があると思う」

 

 

 疑問に首を傾げるアオイに、楓は案に重要な案件であることをほのめかす。

 

 

「そう……患者用の個室じゃなければ一部屋空いてるけど……」

 

「あ、ほんと?なら、そこを使わせてもらってもいい?」

 

 

 少し遠慮がちにアオイは空きがあることを教えてくれた。炭治郎が怪我を負っているので、出来ることなら炭治郎と禰豆子を一緒の部屋における患者用の個室がいいと思っていたが、この際別々の部屋に分けてもいいだろう。大部屋に禰豆子を置くよりは遥かに安全だし、此方としても警備上楽だ。

 

 

「私は大丈夫よ……雨笠(あまがさ)さんが亡くなってからは誰も使う人がいなかったから……少し掃除しないといけないけど」

 

 

 続いたアオイの言葉に、前へと進む楓の足が一瞬止まる。

 

 

「楓ちゃん、どうかしましたか?」

 

 

 後ろを歩くあゆみから不思議そうに声が掛かる。炭治郎や後藤も急に止まった楓に、キョトンと首を傾げている。

 

 

「……ううん、なんでもないよ」

 

 

 一瞬の間を空けて、楓は後ろに振り返るとにっこりと笑って、再び足を動かし始める。

 

 あゆみも後藤も、彼女の笑顔に何一つ気づくことはなかったが、前を歩くアオイと後藤の背中におぶわれた炭治郎だけは、その表情を曇らせていた。

 

 

(悲しい匂いがする。雨笠さんって手紙を遺してくれていた人だよな……)

 

 

 きっと彼女にとって大事な人だったのだろう。  

 炭治郎がそれを察することはそう難しいことではなかった。それ程までに彼の目の前を歩く楓から漂ってくる匂いは深い悲しみと憎しみの匂いに満ち溢れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 徐々に陽の光が傾き始めた頃、楓とあゆみは一足先にアオイに使っても良いと言われたその部屋の中に立っていた。

 

 アオイには炭治郎を背負った後藤をひとまず病室へと案内してもらっている。今頃は病室で身体でも拭かれているのではないだろうか。

 

 炭治郎のはいる病室には既に他の隊士が数名いる相部屋とのことなので、禰豆子を連れて行くのは色々と危険な可能性が高い。なのであゆみには悪いがここをすぐに使えるように掃除を手伝ってもらうことになった。

 

 楓が先人をきって扉を開け、部屋に入るが、彼女の動きはそこで止まってしまう。

 

 

「楓ちゃん?どうかしたんですか?」

 

 

 目の前で固まった楓の姿に、あゆみは先ほど廊下で聞いた時と同じように声をかける。

 

 

「ううん、なんでもないよ」

 

 

 楓も廊下の時と同じようにそう返した。

 

 

(ほんとうはちょっと寂しいって感じてるんだけどね)

 

 

 表面上はなんでもないように取り繕っているが楓は正直今にも泣き出してしまいそう気分だった。

 

 扉を開けて、部屋に立ち込める空気を感じた瞬間、楓にはそこが信乃逗が使っていた部屋だとはっきりと理解出来てしまったのだ。

 

 

(少しだけ、ほんの微かだけど、信乃逗(しのず)さんの匂いがする気がする……)

 

 

 部屋の持ち主の残り香を感じるほど、長い間彼はこの部屋を利用していたのだろう。部屋を開けてふわりと香った空気に、もう二度と近くに感じることのないはずの彼が一瞬帰ってきたような感覚を覚えて、しかしそれがただの幻想でしかないことも理解できて、楓の心は奇妙な哀愁で一杯だった。

 

 

「少し埃っぽいですね……喚起して後は掃き掃除をした方が良さそうです」

 

 

 あゆみの呟きに、楓は視線を床へと向ける。

 

 信乃逗が亡くなったあとは恐らく殆ど掃除もされていなかったのだろう。彼が亡くなってから未だ一年も経たないのだが、床には薄らと埃が積り始めている。

 

 

「そうだね……始めようか、ゆみちゃん」

 

 

 ほんの少し寂しい気分になりながらも楓は気分を切り替えるようにそう掛け声をかけた。

 

 

 

 

 窓を開けて、空気を入れ替え、床を掃き、雑巾で軽く拭く。一通りの掃除が終わる頃には空は赤く燃えるような夕焼けへと変わっていた。

 

 

「手伝ってくれてありがとうゆみちゃん……食事が一緒に取れればよかったんだけど……」

 

「すいません。夜はなるべく兄が預かってきた子供の側にいるようにしているんです。……やはり寂しいみたいですから」

 

 

 天野山で桂木が託された命は、いま引き取り手が見つかるまで彼の家で預かっているそうだ。陽子という名の子供だったはずだが、未だ6歳にも満たない彼女にはまだ両親を亡くしたことが理解できていないようで、いつも母と父に会いたいと寂しそうにしているのだそうだ。

 

 

「ううん、しょうがないよ。……今度その子を連れて蝶屋敷に遊びにおいで……なほたちもいるし、少しは遊びやすいと思うから」

 

「はい、是非。……それでは今日はこれで失礼します」

 

「うん、またね」

 

「楓ちゃんもどうかご無事で」

 

 

 なんの気なしの別れの挨拶も、普通の人の挨拶よりも随分と気持ちが重い。剣士も隠も互いに鬼と関わる者達、次に生きて会えるかどうかは分からない。だからこそ、また会おうという言葉は彼女達にとって酷く重い願いとなる。

 

 去っていくあゆみの背中を見送ると、楓はそっと息を吐く。

 

 出来る事ならもう少し彼女と語らいたかった。折角7年ぶりに再開出来たのだ。こんな奇跡的な出会いが出来たというのに、彼女とゆっくり喋ることは殆ど出来なかった。

 

 

(それもこれもあの兄妹のせいだけど)

 

 

 今日の騒動は楓にとってもあまりにも衝撃が大きくて、正直なところまだ感情を整理することが出来ていない。

 

 そっと部屋の床に置かれた木箱に視線を向けると、楓は木箱の前へと歩み寄っていく。

 

 

(鬼の気配……でも、確かに普通の鬼とは少し違うような、独特な感じがする)

 

 

 改めてこの箱に意識を集中すると、中からは確かに鬼の気配があるが、その感じは普通の鬼とはどこか違う。彼女が人を喰らうことを我慢出来るからこういう気配になるのだろうか?

 

 だとしたら、彼女のように人を喰らっていない鬼は気配である程度見分けがつくことになる。

 

 

「どうして、貴方は人を喰らわずにいられたんだろうね」

 

 

 気がつくと、楓は箱に向かって呟いていた。

 答えを期待したものではない。彼女が喋れないことは彼女の兄である炭治郎から聞いている。人を喰っていない影響なのか、知性が幼い子供のようになっているのだそうだ。これも他の鬼には見られない彼女ならではの特徴だ。

 

 

 

 ボリボリボリボリッ

 

 

 

 不意に奇妙な音が箱から響き始める。唐突に響だした音に一瞬驚きながら、楓は箱の動きを注視するように見続ける。

 

 

(これは……引っ掻いてるのかな?)

 

 

 音の聞こえ方からして、恐らく箱の中で彼女が木を引っ掻いているのだろう。ただ、なぜ箱を引っ掻いているのか、何がしたいのか、それは楓には分からない。

 

 

(何かを伝えようとしている?)

 

 

「それは箱から出たいの合図ですね」

 

 

 疑問に楓が首が傾げていた時、不意に背後からそう声が掛かる。

 

 

「竈門君……」

 

 

 振り返った楓の視界に映るのは扉の外から此方を見る炭治郎の姿だった。一通りの治療は受けたのか、彼の体にはところどころ包帯が巻いてあるし、服装も隊服から患者用の物に変わっている。

 

 

(迂闊……鬼に意識を集中し過ぎて背後が疎かになるなんて)

 

 

 ここまで近づかれていたのに、炭治郎の気配に気づくことが出来なかったのは楓にとって間違いなく失態だ。鬼を間近にしていることに緊張でもしているのだろうか、普通ではまず起こり得ない事態だ。

 

 

「もう起きて歩いても大丈夫なのですか?」

 

 

 蝶屋敷につくまで、炭治郎は身体の痛みから自力では歩けないと後藤におぶってもらっていたはずなので、こうして1人でここまで来ているという光景に楓としては驚きだった。

 

 

「あはは、身体中痛いのは痛いんですが、禰豆子が心配になってしまって」

 

 

 苦笑いしながら部屋へと辿々しい足の動きで入ってくる炭治郎を楓は心底呆れたように見つめる。

 

 

「無理をするとアオイに叱られますよ。……それに心配しなくても貴方の妹に危害を加えるつもりはありません」

 

「あははっ、心配っていうのはそういう意味じゃないですよ……部屋を使わせてくれるってアオイさんから聞いて……掃除してくださったんですね。手間を掛けさせてしまってすいません」

 

「お礼を言われることようなことではありませんよ。これはどちらかと言えば私達にとって必要なことですから」

 

 

 禰豆子を隔離しておきたいのは、隊士達やなほたちの安全面を考慮してのことで、炭治郎達の為に行っているわけではない。

 

 

「……そんなことより、彼女はいいのですか?先程からずっと音が響いてますけど」

 

 

 こうして会話を続けている間にもボリボリと音を発し続けている木箱に楓は視線をおとすと炭治郎へと確認を取る。心なしか音が先ほどより大きくなっているような気がするので、これは早くしろということではないかと察したのだ。

 

 

「ああっ、ごめんな、禰豆子!すいませんあの窓掛け閉じますね」

 

「ええ、いいですよ」

 

 

 楓の忠告に炭治郎は妹のことを忘れていたかのように、慌てて動き始める。

 

 

(なるほど……陽が差し込むから自分では箱から出られなかったのか)

 

 

 燃えるような夕陽が厚い布地の奥へと消えると、木箱の音が止んだ。

 

 

「これで良し、禰豆子、出てきても大丈夫だぞ」

 

 

 炭治郎の掛け声を待っていたかのように、彼の言葉が部屋に響いた瞬間、木箱がギィィっと音を立てて開くと、中からゆっくりと人影が這い出してくる。

 

 ヌッと暗い箱の中から出てくるその様子に、楓は一瞬身構えそうになるが、出てきた鬼の容姿を見ることで、力を抜いた。

 

 箱の大きさに合わせて身体の大きさを変えているのだろう。本部で楓が見た時よりも、彼女の姿は随分と小さい。なほたちよりも小さな身長で明らかに身体の大きさに合わない着物を着ているので、床に完全に布地が垂れている。

 

 

(……ちょっと可愛いかもしれない)

 

 

 容姿が非常に整っているせいか、それともその小さな身体のせいか、楓は現れた彼女の姿を見て内心でそう呟いていた。

 

 

「今日は痛い思いをさせてごめんな、禰豆子」

 

 

 沈痛な面持ちでそう声をだした炭治郎を見て、楓は少し胸が痛んだ。

 

 今日実弥が彼女達にやったことは確かに必要なことではあった。だが、この兄妹にとって、あれはさぞ理不尽に感じたことだろう。鬼はただ刺されても死にはしないが、痛みを感じないわけではない。

 

 

(本当に妹を大事にしてるんだね……)

 

 

 慈愛に満ちた瞳で禰豆子を見つめる炭治郎を見て楓は心底そう思った。話を聞く限り炭治郎にとって、彼女は生き残った唯一の家族だ。彼女以外の全てを失った彼は禰豆子という存在を生きがいにするしかなかったのだろう。

 

 

「楓さんも、ありがとうございました」

 

 

 気持ち良さそうに瞳を細める禰豆子の頭を撫でながら炭治郎は楓へとお礼の言葉を告げた。

 

 

「……なぜ私に礼をするんですか?」

 

 

 なぜいま炭治郎がお礼を言ったのか、それが理解出来なくて楓は怪訝に首を傾げる。

 

 

「禰豆子を守ってくれましたから」

 

「またそれですか……何度もいいますが、あれはそういう命令を受けていたからですよ。その証拠に、私はその娘が刺される時は見ていただけです」

 

「でも、助けに入ろうとしてくれてましたよね」

 

「…………」

 

 

 しれっと炭治郎が告げた言葉に楓は無言になる。確かにあの時、楓はしのぶに止められなければ実弥の行動を妨害していたことは間違いない。

 

 

「俺、本当は駄目かもって思ってたんです。鬼を連れた隊士なんて鬼殺隊に認められる訳がないってそう思って諦めかけてました」

 

「……普通は認められたりしませんからね」

 

 

 禰豆子の特異性があり、耀哉が認めたからこそ、炭治郎と禰豆子は一旦その存在を容認さられたのだ。そうでもなければ鬼殺隊が鬼という脅威の塊を度々見逃したりする訳がない。今回は本当に異例中の異例、まさしく前代未聞の大事件だったのだ。

 

 

「でも……あの時、楓さんがあの傷の人から禰豆子を庇ってくれたのを見て、俺……もしかしたらって思ったんです。もしかしたら、禰豆子を理解してくれる人が鬼殺隊にもいるかもしれないってそう思えた」

 

 

 炭治郎にとって、あの状況はまさしく絶望そのものだった。目が覚めたとき、周りに立った誰もが自分よりも強く、そして禰豆子に敵意を抱いていることが匂いで分かっていた。手は縛られ、身体は痛くてしょうがない。

 

 それでも炭治郎は長男であるから、妹を守らなければならない。手が動かせないなら口で、頭を使って、彼等に禰豆子のことを伝えるしかなかった。しかしどれだけ炭治郎が必死に禰豆子の特異性を訴えようとも、彼女の無実に誰も耳を貸してくれない。柱達にとって炭治郎の放つ言葉の何一つとして信用に足るものはなく、彼の訴えを聞くことを時間の無駄のようにすら捉えている人もいた。

 

 誰もが禰豆子を人としてみていなかった。あの瞬間、実弥が禰豆子を刺そうと切先を向けた時がその最たる例だ。誰もあの暴力に意義を唱えなかった。彼の行いを誰も止めようとはしてくれなかった。楓以外は。

 

 

「……私はまだ、貴方の妹を完全に認めた訳ではないですよ」

 

 

 楓はそう言ってずっと炭治郎が楓に向ける信頼を否定し続けるが、炭治郎はそれをみても笑顔を崩さない。彼にはあの時、楓が禰豆子の存在に戸惑いを感じていたことが匂いでわかっていたから。彼女からはあの場にいた誰よりも、明確な迷いの匂いがあった。禰豆子を鬼と理解していながら、それでも禰豆子を傷つけることに対して彼女だけがはっきりとした迷いの感情を匂いに表していたのだ。

 

 

 それは、炭治郎にとって十分な希望になり得た。

 

 

「はい、お館様からも言われた通り、結果を出さなければ、きっと誰も信用してはくれない。だから俺は結果を出します。鬼辻無惨を倒して、もう鬼に喰われる人も鬼される人もいなくなる優しい世界にして見せますっ!」

 

 

「っ!?」

 

 

 決意に満ちた表情で、炭治郎は叶えるべく夢を語る。嘗て誰かが夢見た理想の世界を。

 

 炭治郎のはなった言葉に驚きのあまり息を呑んで楓は彼へと視線を向けていた。

 

 

(なんで……いま…)

 

 

 

 

『いつか鬼に喰われる人も鬼にされる人もいなくなる』

 

 

 

 その言葉は楓にとって特別な言葉だ。楓が初めて託された想いで、楓が未来へと繋ぐことを選んだ想い。多くの大切な物を失いながら彼女が沢山の人達に託されてきた夢を、彼はよりにもよってこの部屋で口にしたのだ。信乃逗が語ってくれた夢を、彼が嘗て使っていた部屋で、一言一句違わずに言葉にするなど、これは一体なんの奇跡かと。

 

 

 炭治郎の言葉に呆然と佇んでいた楓の足元に不意に何かが触れる。

 

 

「うう?」

 

 そっと楓が下に視線を向ければ、キョトンと上目遣いで彼女を見上げる禰豆子がそこにいた。小さな身体で楓の足に抱きつくようにくっついていて何やらくぐもった声を発している。

 

 

(綺麗な瞳……)

 

 

 一瞬驚きに身を強張らせたが、自らを見上げる禰豆子の瞳はとても清らかで透き通っていて、そこには到底悪意など微塵もない。

 

 

「こら禰豆子、人にいきなりくっついたりしたら駄目だぞ」

 

「うぅぅ、ううう!」

 

 

 叱るような炭治郎の声に禰豆子は駄々をこねる子供のように首を横に振ると、一層力を込めて楓へと抱きつく。

 

 

「あの、竈門君……これはどう対応すれば良いのでしょうか」

 

 

 いきなりのことに楓もどうしたものかと、戸惑いながら声を出す。

 

 

「すいません、楓さん。暫くすれば禰豆子も気が済むとは思うんですが……多分、楓さんの側が落ち着くんでしょうね」

 

「私の側が……落ち着く?」

 

「はい……楓さんからは凄く安心するような優しい匂いがしますから、禰豆子もそれがわかるんだと思います」

 

「うんうん!」

 

 

 炭次郎の言葉に再び視線を禰豆子へと向けると、まるで肯いているように彼女は笑顔で声を発する。

 

 禰豆子のその無邪気で暖かい笑顔を楓は呆然と見つめる。この光景を一体誰が想像できただろうか。鬼狩りである楓に、鬼が懐いて抱きついてくるなど普通ならばまず有り得ない。

 

 鬼と人はいつだって殺し合ってきた。彼等と人が出会ってしまえば、喰うか喰われるか、殺すか、殺されるか、その選択以外にはなかったのだ。

 

 誰が想像出来ただろうか。

 

 そんな殺伐とした関係しかなかったはずの鬼と人が、こんなにも心暖まる光景を作ることができるのだと。

 

 誰が想像しただろうか。

 

 鬼と人が出会って、殺し合うことのなく笑顔を向けることが可能な光景を。

 

 

(殺すしかなかった……鬼を見つけても刀を振るうことしか出来なかった……)

 

 

 ずっと、ずっと、刃を振るうことしか許されなかった。楓がいくら鬼という存在を哀れみ、彼等も結局は被害者でしかないのだとそう思っていたとしても、彼等の首に刀を振るうことを止めることは出来ない。鬼となってしまった人を止める為には、そうする以外に方法はなかったから。だからこそ、楓はそれこそが鬼を救済する方法なのだと、自分に言い聞かせた。人を殺すしかない鬼を一刻も早く止めてあげることが、彼等を救う唯一の方法なのだとそう思い込むしかなかった。心に混じる鬼への憎悪が、救済という言葉を建前にして、その行いをただの復讐へと成り代わらせているのだと理解しても、そう考えるより他になかった。

 

 鬼を憎もうが、救いたいと思おうが、どちらにしろやることに変わりはなかったから、どうしたって二つの感情が混合してしまう。

 

 鬼と戦えば戦うほど、自らが振るう刀が鬼を救済する為のものなのか、それとも憎しみを晴らす為のものなのか、分からなくなっていく。

 

 いつまでも続く殺戮の連鎖は終わる日が見えず、自分はその命が終わる時まで永遠に鬼を殺し続けるのだとそう思っていた。

 

 

「ううう?」

 

 

 だけど、いま、目の前にいるこの鬼には、彼女には刀を振るわなくても良いのかもしれない。鬼である彼女に、身の内に巣食ってしまった憎しみをぶつける必要はないのかもしれない。楓は、いや、人は、今日初めて、鬼を殺す以外の選択肢を得たのだ。

 

 

 禰豆子から向けられる純粋無垢な瞳から目をそらすことの出来ない楓は、唐突にそのことを理解して、不意に双眸から涙を溢れたさせた。

 

 

「えっ、うわぁ、すいません楓さんっ!禰豆子、は、離れなさいっ、失礼だから!」

 

 

 楓の頬を伝う雫を見て炭治郎は慌てた様子で禰豆子を引き剥がそうとする。

 

 

「良いですよ…………」

 

 

 溢れる涙を拭うことすらせずら楓はそっと足に抱きつく禰豆子の頭にゆっくりと手を伸ばして、彼女の頭に触れた。

 

 

(暖かい……鬼の身体も暖かい……)

 

 

 こうして触れて始めて気付いた。足から伝わる温もりは間違いなく禰豆子の体温であり、人間のそれと何も変わらない温もりだ。彼女の頭をそっと撫でながら楓は止めどなく零れ落ちる水滴をもう片方の手で拭った。

 

 

「……禰豆子ちゃん……ありがとう」

 

 

 耀哉は言った。禰豆子こそ、鬼無辻の血に、鬼の血に打ち勝った人間なのだと。家族を奪われ、己が心の在り方を変えてしまう恐るべき病に彼女は打ち勝った。信乃逗が願った「鬼の血に打ち勝った人間」がまさしく彼女なのだ。

 

 

(信乃逗さん……貴方の夢の一つが今ここにありますよ)

 

 

 信乃逗が禰豆子を見ることは叶わなかったが、今ここに、彼がいつかと夢見て残した手紙が生かした命がある。

 

 彼女の体は間違いなく鬼だ。否定のしようがないほど彼女の身体は人とはかけ離れている。それでも彼女の心は間違いなく人なのだ。

 

 

 楓はこの瞬間、それを心の底から認めたのだ。

 

 

「これじゃあ……もう…認めないとは言えないですね……」

 

 

 どうかこのまま、彼女に刀を向ける日が来ませんようにと不思議そうに首を傾げる炭治郎を横目に楓は、昇り始めた月に向かってそう願った。

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
ご意見•御感想等頂けますと幸いでございます。

更新遅れ気味で申し訳ないです。
なんとか今週は書けました 笑
私の書く時間の為にもコロナおさまれー

読んでくださっている方々が今後とも楽しんで頂ければ幸いです!


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不穏な影

明けましておめでとうございます。
久しぶりの投稿です!
今回と次回は鬼殺隊と国の関係について独自解釈を多分に含みます。
素人紛いの解釈ですがどうか生暖かく見守っていただければ幸いです。


 

 

 

 陽が陰り、辺りが薄暗くなり始めた。

 

 

「皆の報告にあるように、鬼の被害はこれまで以上に増えている。人々の暮らしが嘗てなく脅かされつつあるということだね」

 

 

 薄暗くなった室内で提灯が放つ暖かい光を浴びながら、しのぶは産屋敷(うぶやしき)輝哉(かがや)の放った言葉を耳にする。

 

 

 

 

——— 柱合会議

 

 

 

 

 鬼殺隊最上位の幹部である9人の柱と当主が行う定例会議。およそ200年前から始まったこの定期的な報告会によって鬼殺隊はそれまで以上に効率的な人員配置や命令形等の確立などより近代的な組織的運営が行えるようになった。ほんの二十年前まで、この取り組みは一年に一度行われるのが通例であったが、耀哉の代より半年に一度という区切りに変わった。より密に、より素早い情報のやり取りこそ鬼無辻無惨を追い詰める鍵となるというのが輝哉の考えだったようだ。実際、これまでの数年はそのやり方によって鬼による被害は(かつ)ての規模よりはるかに減少していた。

 

 

 

 そう、これまでは……

 

 

 

 今日の会議で報告された内容の殆どは鬼による被害。この半年で発生した鬼による被害件数は400を優に超え500に迫ろうとしている。これはこれまでの会議で報告されてきた被害件数の2倍に届く数字だ。死者数に至っては1000人を超えている。僅か半年の間にこれほどの被害が出ているというのはしのぶとしても驚愕の報告だった。

 

 この驚異的な数字が一体何を暗示しているのか、その正確なところまでは分からないが、どうであれ鬼による被害が増大している以上、鬼殺隊としては一層の厳戒体勢でもって臨むよりほかにない。

 

 

「鬼殺隊としても剣士を増やさなければならないが、皆の意見を」

 

 

 戦力の増強は必至だった。各地に配置される人員の調整をし、警戒範囲を拡大し、加えて巡回をより密に行わなければならない。

 

 しかし鬼殺隊はあくまで政府非公認の組織であり、大々的な勢力の拡大は容易ではない。既に政府官僚の一部からは鬼殺隊を危険視し解体するべきだという声や国軍として政府管理下での取り扱いをするべきだという意見が上がっていると、柱達は耀哉から耳にしている。

 

 そしてなによりも問題なのは、単純に数を増やしただけではこの懸念事項は解決しないということだ。兼ねてから議題にのぼりつつはあったが、そのことが今回の件でより明確となってしまった。

 

 

「今回の那谷蜘蛛山ではっきりした……隊士の質が信じられないほど落ちている。殆ど使えない」

 

 

 耀哉の求めに最初に口を開いたのは風柱、不死川(しなずがわ)実弥(さねみ)だった。

 

 

「まず育ての目が節穴だ。使える奴か使えない奴かぐらいはわかりそうなもんだが……」

 

 

 言い方はまずいが実弥の挙げた意見はしのぶも、そして恐らくは柱の誰もが一度は抱いていたことのある問題点だった。

 

 呼吸を扱う才能など剣士であるならいうまでもなく必要ではあるが、戦闘における優劣は呼吸の才能だけではきまらない。剣技の才能、的確な状況判断、命令の尊守など必要な項目などあげればあがるだけ様々な能力が求められる。最近の隊士達には呼吸による剣技を扱うことはできてもそれ以外の能力が多いに不足していると言えるだろう。

 

 

「昼間の餓鬼はまだ使えそうだったがな、伊黒に抑えつけられていた割には派手に良い呼吸をしてたぜ」

 

 

 愉しげに笑を浮かべて音柱、宇随(うずい)天元(てんげん)は昼間の騒動を思い出したようにそう呟いた。

 

 彼の言葉でしのぶも昼間起きた奇跡が脳裏を過り、思わず心が高揚する。

 

 あり得るはずのない奇跡、巡り会うことを諦めかけていた最愛の姉の夢の一つが自身の目の前に現れたのだ。胸の中に湧き上がる感動は言葉にすることができないほど、しのぶにとってあれは大きな出来事だった。

 

 

「下弦の鬼にやられてるようじゃァまだ使えるとはいえねぇなァ」

 

「あら、嫌われ役が堪えましたか?」

 

 

 昼間のことを思い出したのか、やや不機嫌な口調で返す実弥を見て、しのぶは面白そうに彼に視線を向ける。

 

 

「テメェの弟子に嫌われたところで痛くも痒くもねェ……面白くもねぇ冗談を口にしてんじゃねェよォ」

 

「ふふっ、そうですか。それは失礼致しました」

 

 

 愉快気に微笑みながらしのぶは謝罪を口にするが、その目は全くと言って良いほど笑っていない。

 

 

(私は(かえで)のことについては一言も触れていないんですけどね)

 

 

 前に座る『殺』と書かれたその背中を見据えたあと、しのぶはそっと目を伏せる。彼女の先の言葉には楓を思わせるような言葉は一言も混じっていなかった。寧ろ先程までの会話の流れなら炭治郎のことだと認識するのが普通なはずだ。それにも関わらず彼の口から楓について出たということは、相応に彼が楓を意識している証拠でもある。

 

 

(大方、姉さんのことでも思い出したのでしょうね……)

 

 

 姉のカナエは生前よく実弥と指令に当たっていたようで、ぶっきらぼうな彼のことをしのぶは姉の口から大変よく聞いていた。楽しげに愉快そうに、そして幸せそうに実弥のことを話すカナエの姿はしのぶにとってとても印象的だった。姉にとって不死川実弥という男が特別な存在になりつつあるのではないかと、しのぶが懸念するほどにカナエは実弥を慕っていた。

 

 そしてそれはきっと、彼にとっても、不死川実弥にとっても同じだったのかもしれない。

 

 あの時、実弥が禰豆子(ねずこ)から切先を逸らし鞘に収めた時、しのぶは彼の口元の動きを見てそう思った。

 

 

『……カナエ』

 

 

(……彼はあの時そう言った、姉さんの名を…彼は呼んだ)

 

 

 悔しそうに、湧き上がる怒りを必死に抑えるように実弥はあの時、姉を呼んだのだ。どうして彼があの時姉の名前を呼んだのか、それがしのぶには理解出来ていた。姉の願いを、カナエの抱いた夢を知っているからこそ、分かってしまうのだ。

 

 

 きっと彼はこう思ったに違いない。

 

 

 

 

——— 何故今ここに、胡蝶カナエがいないのか

 

 

 

 

 鬼と仲良くすることを、鬼という存在を最も哀れみ、最も救いたいとそう願った彼女が、何故この奇跡の場にいないのか。

 

 これはあくまでしのぶの想像でしかない。しかしその想像にしのぶは確信を持っている。何故ならしのぶもあの時、あの光景を見て、心の底からそう思ったのだから。

 

 

 

 この場にもし姉がいたならと。

 

 

 

 今の彼の普段とは少し違った様子を見るにあの時の光景を経て、さらに楓と話しをしたことで、彼は楓と姉の姿を重ねかけていると言ったところではないだろうかと、しのぶはそう予想している。楓の見た目も話し方も全くと言って良いほど、カナエとは別人だが、鬼に対する考え方や胸に秘めたその想いは恐らく自分などよりよほどカナエに近いはずだから。

 

 

 それは本来許されないことだが、しのぶがそれをあえて指摘することはない。おそらく彼自身もそのことはよくわかっているだろうし、この場はそのような話をする場所ではないのだから。

 

 

「まぁ、質云々を言うのであれば今は仕方ないかもしれませんよ……天野山の一件で手練れの剣士が随分と亡くなりましたから」

 

 

 話を切り替えるようにしのぶは、数ヶ月前に起きた悲劇を口にした。

 

 かの上弦の陸との戦いで鬼殺隊は多大な損害を被っている。甲の階級であった小牧柊生をはじめ、比較的練度の高い剣士達があの山には集まっていたのだ。それが事実上ほぼ壊滅してしまっているのだから鬼殺隊の戦力低下はある意味ではやも負えない結果だった。

 

 

「うむ!確かに彼等を失ったことは鬼殺隊にとっても大きな損害だった!」

 

「上弦の鬼と渡り合うことは柱である我々にとっても危険が多い……情報を得られただけでも彼等は十分な戦果をあげている」

 

 

 しのぶの声に賛同する様に炎柱、煉獄(れんごく)杏寿郎(きょうじゅろう)と岩柱、悲鳴嶋(ひめじま)行冥(ぎょうめい)が口を開く。

 

 

「ふん、どのみち隊士の質の向上は必要だろう……今回の被害は明らかに状況と釣り合わない。そもそも命令にしたがっていない者までいるのだから実力以前の問題だ」

 

 

 今日の那谷蜘蛛山の仔細(しさい)報告がよっぽど気に入らなかったのか、蛇柱、伊黒小芭内(おばない)は不機嫌な様子で口を開くと隊士の質の向上を訴えた。

 

 

(まぁ、それは間違いないですね)

 

 

 しのぶとしても伊黒の言うことには概ね賛成だ。状況判断の甘さ、危機対処能力の低さ、命令違反、今日の報告を聞けば聞くほど柱達の機嫌は急降下していった。唯一、変化がないように見えたのは煉獄だが、彼にしても終始「それはまずいな!」とか「修行した方がいいな!」と口にするばかりで、決して肯定的なことは言っていなかった。

 

 それほどまでに今回那谷蜘蛛山に向かった隊士達の動きは拙かった。いっそ杜撰(ずさん)とも言える対応に加えて命令違反まで。しのぶとしても溜息を吐きたくなるほど今回の任務にあたった隊士達は練度が低い。及第点をあげられるのはここで報告してくれた尾崎と彼女と共に戦っていた村田という剣士の二人くらいだろうか。

 

 

「ただでさえ剣士は不足しがちだ。加えてここ最近の犠牲者の数の多さ、なんらかの対策を取らなければ鬼殺隊としての存続も危ういだろう」

 

 

 悲鳴嶼は落胆の息を溢しながらそう呟いた。そうなる気持ちはしのぶとしても分かる。改善すべき点は明白ではあるのだが、それを解決するのは容易なことではない。鬼殺隊という組織が政府非公認である以上、大々的な宣伝など到底行えるものではないし、そもそもこの国の殆どの住人は鬼という存在自体を知らないのだ。例え募集が出来ても精々が怪しい宗教組織に見られるのがおちだろう。

 

 よしんば人が集まったとしても、そこから呼吸を扱えるようになる者達が果たして幾人いるか。呼吸という技術は誰しもが扱える安易な技術ではない。とてつもない努力は勿論、才能も必要になってくる。いま鬼殺隊を影で支える隠という部隊に所属する者達も、剣士として呼吸を扱う才能がないが故に、仕方なく後方支援に加わっている者が大半だ。それだけ呼吸という技術は人を選ぶ。人は欲しいが、決して誰でもいいという訳ではないという聞くものが聞けばなんとも我儘な話ではあるが、それが今の鬼殺隊の現実なのだ。

 

 人手はなかなか増えない、なのに犠牲者は増えていく。当然、剣士は減っていくばかりだ。こんな状況では溜息の一つも吐きたくなる。

 

 

「その件だが、どうにもきな臭い動きがあるぜ」

 

 

 悲鳴嶼の嘆きに加えるように宇随が口を開く。

 含みのあるその言葉に柱達は揃って宇随へと視線を向ける。

 

 

「きな臭いとは?」

 

 

 この場を代表するように伊黒がそう問いかけると、宇随は懐からバラバラと紙切れを畳にばら撒いた。

 

 

「俺は最近、指令に赴いて行方不明になった隊士の追跡調査をやってるんだが、その中の数件、鬼の被害が全く出てない地域で行方が分からなくなってる例がある、この紙に書いてるやつな」

 

 

 指し示すように紙を他の柱達に見せながら、宇随はそう口ずさむ。

 

 剣士の行方が分からなくなる例はそれほど珍しいことではない。ここでの行方不明とは乃ち死体が見つからないというのが通例だ。鬼は人を喰らう。そうであるが故に鬼に挑んで敗北すれば、その者の辿る末路は想像に難くない。食べられてしまえば死体など当然残らないのだから。例え喰い散らかすような行儀の悪い鬼であっても、残った死体は他の動物に食べられる。捜索隊が到着する頃には分からなくなっていることなど珍しいことでもない。隊士の行方不明というのは鬼殺隊では本来ならそれほど珍しいことではないのだ。

 

 

 だが、それはあくまで鬼と遭遇していればの話。

 

 

「偶々移動中の隊士が偶々移動中の鬼に遭遇してやられただけならそこまで気にする問題でもねぇ。妙なのはこの件の隊士達は実際には鬼の被害の出てない地域で鬼が出たって情報を得て指令に当たってたことだ」

 

 

 鬼殺隊の隊士というのは総じて一般人よりも戦闘能力が高い。隊内でどれほど弱いと言われる者であっても、一般人からしてみれば達人に見える。極端な話だが、そうでもなければ鬼と戦って生き残ることなど到底出来ない。だからこそ剣士という存在は希少になるのだ。

 

 だがそれだけの強さを誇る筈の隊士達が鬼とは全く関係のないところで行方しれずになる例がここ数年で何件か報告されていると、宇随はそう告げているのだ。

 

 

欺瞞(ぎまん)情報ですか……」

 

「あぁ、派手にきな臭いだろう?」

 

 

 しのぶの元にも何件か報告が上がっている。鬼の被害が全く出ていない地域で鬼による被害があったという連絡。それだけなら誤報とも、タチの悪い噂話が大きくなっただけとも考えられるが、その中で稀に実際に向かった隊士が行方不明になることがある。住民の被害は一切なく、ただ赴いた隊士だけが忽然と姿を消す事例。それを初めてしのぶが聞いたのはまだカナエも信乃逗(しのず)も存命だった頃。

 

 

「その件は私の方でも伝手を伝って調べているよ。妙な噂話を友人から知らされているからね」

 

 

 ここで初めてこの件に関して耀哉が口を開いた。彼が口を開き、調査を行なっていると明言した以上、この件はそう遠くない内になんらかの進展を見せることになるだろう。

 

 産屋敷一族の情報網は極めて広い。決して歴史の表に出ることのない彼等ではあるが、その人脈は現在の政府にも通じる物があるようで、事あるごとに国の重要情報が柱合会議に流れ出てくるのだ。耀哉の友人というのが誰なのかは柱の誰一人として知るところではないが、およそ情報を外部に洩らしていることが世間に知れれば、まずい立場の人間であることは疑いようがない。

 

 だがそれは同時に、そんな人脈を使う必要がある相手が鬼殺隊に対して何かしらの動きを見せている可能性があるということでもある。しのぶは耀哉の言葉に若干眉を顰めてこの件に対する警戒を強めることを決めた。

 

 

「お館様がお知らべになっていらっしゃるのであれば、我々に出来ることは警戒する以上にはないだろう」

 

 

 現柱の中で最年長である悲鳴嶼が代表するようにそう口にする。この場での警戒とは自分達のことではなく、他の隊士や隠の者達の安全面での警戒だ。それぞれが担う警戒地区での人員を可能な限り守れるようにしなければならない。

 

 

 鬼からも、鬼ではない何かからも。

 

 

「欺瞞情報の犠牲者は以前からあったような気がするがな……いま確かな件だと一番古いので五年前か。廃村で子供の行方不明という情報で隊士が一人、行方不明になっているぞ」

 

 

 伊黒が発したその声にピクリとしのぶは反応する。宇随が出した紙に視線を落としながら、一番古い期日の行方不明者を見ると、そこにははっきりと見知った名前が記載されている。

 

 

「ああ、それも調べた。名前は高野優一(ゆういち)……こいつ胡蝶の弟子の兄貴だろ」

 

「……えぇ、そうですね」

 

 

 特に驚いた風もなく、しのぶは声を返す。

 高野優一、自らの弟子である高野楓の実の兄であり、既に故人として取り扱われている剣士。

 

 彼女の兄が欺瞞情報によって行方不明になっていることはしのぶも知っていた。というより、その報告の場にしのぶが居合わせていたから知っていた、というのが正解だろうか。

 

 

「だが、この件には実際に鬼がいたのだろう?それも十二鬼月が。欺瞞と言えるのか?」

 

「廃村で誰もいない地域で村の子供が行方不明ってのは間違いなく欺瞞だろうよ」

 

「偽情報で向かった先に偶々十二鬼月がいたってかァ?おいおい随分と都合の良い話じゃねぇかよォ。そいつも鬼にやられたんじゃねぇのかぁ?」

 

「当時応援で向かった隊士の話からしてそれはないというのが私と姉が下した判断ですよ」

 

 

 深まる議論にしのぶはそっと口を開いた。

 

 

「……証言を聞いたのはテメェらかよ」

 

「えぇ。蝶屋敷で負傷した隊士を手当したのは私と姉でしたから」

 

 

 五年前、初めてしのぶがあの二人に出会った頃だ。当時姉と共に信乃逗の語った推測をしのぶもよく覚えている。霧に覆われた廃村でいるはずのない子供が行方不明になったという情報が出回り、最初に派遣された高野優一が行方不明になった。鬼にやられたと考えるのが普通だが、その後間も無く応援で派遣された隊士が戦った鬼は人と戦うことを数年ぶりであるかのような言動をとったそうだ。

 

 そのことを真と捉えるなら、つまり高野優一は鬼と遭遇していないということになってしまう。なら、高野優一は一体どこに行ったのか、なぜ消息をたったのか。

 

 

 結局、その原因が分からないまま彼が行方不明になってから5年の歳月が流れてしまった。

 

 

「討伐した隊士は鱗滝(うろこだき)真菰(まこも)雨笠(あまがさ)信乃逗(しのず)……また胡蝶の関係者か」

 

 

 伊黒はどこか胡散臭そうな目でしのぶへ視線を向けるが、これに関して言えばしのぶとて望んでのことではない。

 

 

「お前の弟子は何かと厄介ごとに名前が挙がるな」

 

「私は勿論、本人達も望んではいないでしょうけどね。……それと雨笠君は私の弟子という訳ではありませんでしたよ」

 

 

 しのぶは肩を竦めて珍しく口を開いた冨岡へと言葉を返す。

 

 

「話を戻すようでなんだが、那谷蜘蛛山で胡蝶の弟子が遭遇した仮面をつけた鬼は取り逃したのだろう?十二鬼月かどうかもわからないのか?」

 

 

 急に思い出したように伊黒はしのぶと富岡に顔を向けるとそう問い掛ける。

 

 

「残念ながら……私も富岡さんもその鬼については目撃どころか気配すら感じていませんので……とはいえ、楓が苦戦する相手ですから十二鬼月の可能性は高いですね」

 

 

 その問いにしのぶは目を伏せてそう答える。

 

 楓がボロボロになる原因となった黒衣を纏い、仮面を付けた鬼には、しのぶや富岡の捜索でも見つけることは出来ず、およそ逃げられたことは間違いない。楓から(からす)を通して報告を受けるまで、存在することにすら気付かなかった。下弦の伍を倒したあと、鬼の気配は禰豆子(ねずこ)以外のものは消えたようにしのぶは感じていたのだ。

 

 

「テメェら2人揃って一体何をしてやがたんだァ?柱が2人も揃って逃げられるなんざ聞いてて呆れるぜェ?」

 

「それについては返す言葉もありませんね」

 

「……すまない」

 

 

 批判の言葉が実弥から飛んでくるが、しのぶも富岡もそれは甘んじて受け入れるしかない。実際二人としてもこの結果には不甲斐ないと自らを戒めるしかない。柱同士でいがみ合っている間に十二鬼月に匹敵するであろう鬼に逃げられたのだ。正直、穴があったら入りたくなるようなとんでもない失態だった。

 

 

「でも、気配を感じられないのはすごく厄介よね……楓ちゃんが無事で良かったわ」

 

「完全に気配を感じない訳ではないのだろう?胡蝶の弟子の話では近づくと薄らと気配を感じることができるのだ……なら不意打ちについては注意していれば問題ないだろう。甘露寺が心配することはない」

 

「そうかしら……ありがとう伊黒さん」

 

 

 楓の無事に心底安堵した様子で甘露寺(かんろじ)は声を発してくれる。その隣で彼女が指摘した仮面の鬼の対策について伊黒が講じ始める。

 

 

(相変わらず甘露寺さんが喋ると弁舌になるんですね、伊黒さんは……)

 

 

 彼がこれほど弁舌になるのは大抵甘露寺が口を開いたあとだということにしのぶは気付いていた。普段から視線はやたらと甘露寺に向かっているし、彼女と話す時はどことなく穏やかで他の柱とは違った柔和な印象を受ける。

 

 その様子からして彼が甘露寺に異性としての好感を持っていることは想像に難くない。

 

 

(甘露寺さんも気付かないし、伊黒さんは全く先に進む気がないみたいだし、この焦ったい感じは真菰さんと雨笠君を見ている時に似ていますね……)

 

 

 この二人を見ていると、時折真菰と信乃逗の姿が脳裏に過ぎる。この2組は似ても似つかないが、どちらもなかなか恋仲に進展しない焦ったさがある。まあそれが当て嵌るのは彼女達だけではないことにも気づいてはいるが。

 

 

「一番の問題はそこではない。仮にその仮面の鬼が十二鬼月だとすれば那谷蜘蛛山には十二鬼月が二体もいたことになる。……何か狙いがあったと見るのが無難だろう」

 

 

 悲鳴嶋の放った言葉にしのぶも他人の色恋に浮ついた思考を問題へと戻した。

 

 

(楓が一方的に傷を負わされるとなれば上弦であってもおかしくない……)

 

 

 自慢ではないが、自らの弟子に当たる楓の実力はすでに一介の隊士のものではない。しのぶの継ぐ子として彼女は既に完成された存在と言ってもいいだろう。いついかなる時にしのぶが死んだとしても、彼女は柱を継ぐに十分な実力を手にしている。

 

 言ってしまえば彼女は柱の地位にいない柱なのだ。あとはおよそ彼女の精神面さえ安定してしまえば、しのぶが心配することは何もなくなるのだが、今はまだ時期尚早だろうか……。

 

 

 とにもかくにも、しのぶがそう評価するほどの実力を持った彼女が今回、あれほどボロボロになったのだ。傷自体は浅いにしても、楓をあそこまで傷つけられる鬼ともなれば数字を持つ鬼であることは疑いようがない。それどころかしのぶにはその鬼が下弦とも思えない。上弦の陸とも戦って生き延びて見せた楓が下弦程度の鬼にそうも遅れをとるとは考え難いのだ。

 

 だが一方でもし仮に上弦の鬼だったというのなら、楓を仕留めず山から逃げ出した理由がわからない。

 

 

(悲鳴嶋さんのいう通り、何か目的があったと考えるべきでしょうね)

 

 

 どう考えても今回の一連の鬼の行動は奇妙だ。そもそもそれまで全く被害の情報のなかった下弦の伍があれ程まで派手に動いたというのが理解に苦しむ。近隣の村を襲撃し、中途半端に生存者を出して情報を外部に漏らすなど下弦に数えられる鬼がやることとは考え難い。あれではまるで鬼殺隊に見つけてくれとそう言っているかのようにすら思える。

 

 

「そうだね。……行冥の言う通り、彼等の目的がなんだったのかは気になるところだ」

 

 

 しのぶが謎めいた鬼の行動に思考を巡らせる中、耀哉の声が再び場に響いた。

 

 

「那谷蜘蛛山周辺は今も探ってもらっているところだけど、恐らく無惨はその近辺にはいないのだろうね……浅草もそうだが、彼は隠したい物があると騒ぎを起こして巧妙に私達の目を逸らそうとするところがあるからね」

 

 

 耀哉の表情も声色も最初と何も変わらず、人の心を落ち着かせる優しい雰囲気を放っている。にも関わらずしのぶは彼の今の様子から背筋にゾクリとした悪寒が走ってしまう執念のようなものを感じていた。

 

 

(お館様……やはり時間が……)

 

 

 彼の抱える病をしのぶは何度か診察したことがあったが、国の名医すら手を投げる彼の症状は流石のしのぶにもどうしようもなかった。肌にあらわれる痣のような病変が細胞の異常であることまでは分かった。しかし、その原因も進行を食い止める為の手段もまるで検討がつかない。痣の進行に合わせるように彼の重要器官に起きる様々な症状は悪化し、今では彼は満足に歩き回ることすら難しい状態になっている。

 

 

 そんな状態にも関わらず、彼は今こうして座り、顔も知らない誰かが鬼によって死ぬことを本気で憂いている。己が死を間近にしてもそれを恐れていない。ある意味では彼は狂人と言えるかもしれない。しのぶがそう思ってしまう程、耀哉の精神性は常軌を逸していた。

 

 

「今、ここにいる柱は戦国の時代、始まりの呼吸の剣士以来の精鋭達が集まったと私は思っている」

 

 

 

 ——— 音柱 宇随天元

 

 

 ——— 炎柱 煉獄杏寿郎

 

 

 ——— 蟲柱 胡蝶しのぶ

 

 

 ——— 恋柱 甘露寺蜜摛

 

 

 ——— 霞柱 時任無一郎

 

 

 ——— 岩柱 悲鳴嶋行冥

 

 

 ——— 風柱 不死川実弥

 

 

 ——— 蛇柱 伊黒小把内

 

 

 ——— 水柱 富岡義勇

 

 

 

「私の子供達、私はいつでも皆の活躍を期待している」

 

 

 一人一人、柱の顔を見据えながら、耀哉はそう声を発する。しのぶは彼を狂人と評すに相応しい感性を持っていると認識しながら、それでも彼が尊敬に値する心を持った人格者だと思っている。

 

 自分が蝶屋敷を継いで以降、いやそれよりもずっと前から、あの屋敷の運営を陰ながら支えてきてくれている。姉を含め、これまで傷つき、死んでいった隊士達は誰一人として忘れられることなく、彼の心に生き続けており、そしてこれからもまた彼等の存在が忘れられることはない。まさしく普通であれば耐えられない地獄を彼は、彼等産屋敷は歩み続けている。

 

 例え、耀哉が這い寄る死の音に飛びかかられようとも、彼の元に集った人の想いは、彼の意志も含めて不滅であり、いかなる悪意であってもこれを消し去ることはできないのだと、しのぶはそう思うのだ。

 

 

(あとを継ぎ、語り続けられる限り、私達は消えない。……姉さんも、私も……)

 

 

 しのぶの考えた通り、残された時間は決して多くはない。耀哉にも、そしてしのぶにも。自らの身体を巡りはじめているこの毒が、あとどれほどの時を与えてくれるのか、しのぶにも決して定かではなかった。ただ、少なくとも己の身体がこの毒を歓迎していないことだけは間違いのない事実なのだと、しのぶは背中に走る痛みに思考を鈍らせながらそう思った。

 

 

 そんな悲壮な彼女の背中に向けられる一対の視線に気づく者はいない。ただ一人彼等を正面から見る輝哉を除いて、この場の誰も気づかない。

 

 

 




御一読いただきましてありがとうございます。
御意見・御感想等いただけますと幸いでございます。

新年初投稿でした。
今年も皆様に楽しくお読みいただければと思いますので、宜しくお願い申し上げます。

今回は実弥とカナエの関係性はこうだったらとても嬉しいという作者の願望を表現していますね。あとはオリジナルの要素も交えつつ、鬼滅の世界観を上手く表現していきたいなぁという感じの回ですかね 笑




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鬼の敵


どうも
iPadが壊れて、書き溜めてた話が数話分消えて傷心中の作者です。
今回も独自解釈やオリジナル設定を多分に追加してます。


 

 

 

 ベンッ!

 

 

 ベベンッ!

 

 

 鳴り響くその優雅な音色に、彼等は集められた。大小様々な部屋が乱雑にくっつけられ、重力という概念を捻じ曲げるようなその空間の名は無限城。まさしく無限に広がるような巨大で複雑怪奇なその空間はたった一人の鬼によって作られている。

 

 数字を与えられていない鬼の中で、鬼無辻無惨が最も重宝する異能を持ったその鬼は眼下に集まった4つの人影と目の前に悠然と佇む己が主人の姿をそっと見据える。

 

 今日、ここに1人を除いて、現存する下弦の鬼を全員集めるよう彼女が指示を受けたのは、ほんの数分前のこと。

 

 命令を受けてから僅か数分で、百里以上離れている鬼達を1箇所に集結させることができる。無惨が彼女を重用するのはある意味では必然だった。

 

 

(……哀れな方々)

 

 

 目前に佇む主人の周囲に満ちた怒気に、眼下に集めた4人の鬼達は気づいていないのだろう。いや、もしかしたら目の前に立つのが主人であることにすら気づいていないのかもしれないと、鳴女は内心に満ちた哀れみをより一層深めて(かつ)て栄光に溢れた下弦と呼ばれる一団を見つめる。

 

 

 鳴女の主人、いや、全ての鬼の頂点に立つ彼、鬼無辻無惨は今は鬼と認識することすら難しい程、人に酷似した気配に擬態している。ある程度以上の実力がなければ、彼等の目の前に立つ着物をきた女性が鬼無辻無惨であることは勿論、鬼であることすら理解出来ないだろう。

 

 百年以上もの間鬼として生きる上弦の鬼達ならば主人の姿など一目で見抜くだろうが、いま鬼の始祖である無惨の目の前にいるのは入れ替わりの激しい下弦の鬼。それも今ここにいる下弦は今回初めてこの無限城に訪問を許された者達ばかり。

 

 何もかもが初見である彼等に完璧とも思える無惨の擬態を見抜けるわけがないのだ。

 

 

(こうべ)を垂れて(つくば)え……平伏せよ」

 

 

 そして鳴女の想像した通りにことは運んだ。いつまでも呆然とした様子で阿呆のように状況に翻弄され続ける下弦の鬼達を不快にでも思ったのか、苛立ちを宿した声色で無惨は彼等の身体を巡る鬼の血そのものに命令を下した。

 

 

「「「「っ!!?」」」」

 

 

 彼等の意に反して動く身体と全身に走った怖気で、この場に集められた鬼達はようやく目の前の存在が己が主人である鬼無辻無惨であることを悟ったようだ。一人を除いて全員が全身から恐怖の汗を滲み出し、ガタガタと体を震わせる者もいる。

 

 

「申し訳ございませんっ、お姿も気配も異なっていらしたものでっ「誰が喋って良いと言った?」っ!!」

 

 

 被せられたその言葉に謝罪を口にした下弦の肆、零余子(むかご)はビクリと大きく身体を震わせながら口を閉じる。案に黙れというのが今の無惨の言葉だ。尚も口を開き続ければ、その瞬間に彼女はこの場で血溜まりを作ることになっていただろう。主人の意を一言で組み、近づく不穏な気配を遠ざける。危機察知能力に関して言えば大したものだった。仮にも下弦に数えられた彼女だ、伊達に長く生き、人を喰らってきただけの無能ではない。

 

 

 もっとも今日に限って言えばそれも僅かに寿命が伸びただけに過ぎないのかもしれないが……。

 

 

「貴様共のくだらぬ意思でものを言うな。私に聞かれたことにのみ答えよ」

 

 

 鳴女が聞いてきた中でも特に強い苛立ちを宿した声色。ここまで無惨が怒りを宿している様子は鳴女が鬼となり、この無限城に籠るようになってからも初めての事かもしれない。

 

 

「累が殺された。下弦の伍だ。……私が問いたいのは一つのみ、何故に下弦の鬼はそれほどまでに弱いのか?」

 

 

 無惨の言葉を耳にして鳴女はその原因を悟った。無惨の口から出た鬼の名前は、下弦の中でも特に彼が気に入っていた鬼だった。身体の弱い人間であったにもかかわらず、鬼になった瞬間に既に血鬼術を行使できたという彼は、無惨には大層気に入られていた。その証拠というわけではないが、下弦では珍しく彼はこの無限城にも何度か招かれている。一体あの少年の何がそれほどまでに気に入ったのかは鳴女の知るところではないし、主人の気持ちを推し量ろうなどと考えるのは無礼というものだと、鳴女はそれ以上深く考えようとはしなかった。

 

 だがどうであれ、累という鬼はやはり無惨にとっては重要な鬼だったのだろう。それを察するには余りあるほど、今の彼はまさしく怒り心頭のように鳴女には見受けられた。

 

 

「十二鬼月に数えられたからと言って終わりではない。……そこからが始まりだ。より人を喰らい、より強くなり、私の役に立つ為の始まり。……ここ百年余り十二鬼月の上弦は顔ぶれが変わらない。鬼狩りの柱共を葬ってきたのは常に上弦の鬼達だ。……しかし下弦はどうか?何度入れ替わった?」

 

 

 何度、そう問われても怒りの矛先を向けられているこの場の鬼達には答えられるはずもない。この場に集められた鬼達はなんれも十二鬼月に数えられてから三十年と経たない謂わば新参者ばかりなのだから。最も長く生きていたのは先代の下弦の弐だったがそれもつい数ヶ月前に入れ替わってしまった。

 

 

 故に彼等が無惨の問いかけに答えられるはずもなく。そんな事情など全く知らない彼等に無惨の抱える怒りを理解できるはずもない。

 

 

 だからそれは仕方のないことだったのだ。

 

 

「そんなことを俺達に言われても?……なんだ?言ってみろ?」

 

 

 無惨の問いかけに静まりかえっていた空間に再び響く無惨自身の声。

 無惨の眼下で跪く彼等の誰一人として口を開いてにも関わらず、まるで誰かがそう言ったかのように唐突に無惨はそう問いかけた。

 

 およそ関係のない者には無惨が一人で会話をし始めたかのようにすら見える光景だっただろうが、彼の放った言葉に心当たりのある鬼にはそうは見えなかった。無惨の視線の先にいる下弦の陸、釜鵺(かまぬえ)は彼が放った言葉を耳にした瞬間にびくりと大きく体を震わせた。

 

 その様子は少し離れた位置にいる鳴女にもよくわかるもので、彼女の脳裏には数ヶ月前に起きたことが過っていた。

 

 先代の下弦の弐も彼と同じように鳴女の前でその心の内を暴露されていた。

 

 

(無惨様の前にいる限り、下手な思考は全て喋っているのと同じ)

 

 

 全ての鬼の始祖であり、全ての鬼の産みの親とも言える鬼無辻無惨は視界に入った鬼の思考の表層を読み取ることができる。彼等が口を開かずとも彼等の思考の表層に浮かんだ考えは全て無惨には筒抜けになってしまう。どんな裏切りも、反抗的な態度も、彼の前に出てしまえば瞬時に暴露される。もっとも、彼に血を与えられた鬼が彼に明確な裏切りの意思を持つことなど殆どないのだが。

 

 本来、与えられた血の量が多ければ多いほど、鬼という生き物は彼の忠実な道具になっていくのが常。人を喰らえば喰らうほど体内をめぐる鬼無辻無惨の血は強力になり、身体能力や異能の力は勿論、争うことすら愚かと思うほどの強力な忠誠心を生み出すこともある。鳴女を含め、強力な異能を持つ鬼というのは特にその傾向が強い。勿論、いま集められた下弦の鬼達がその領域に至るような気配は感じられないが、それでも下弦と呼ばれる彼等は強烈な血の支配を受けているって言ってもいい。

 

 

「何がまずい?……言ってみろっ」

 

「ひっ!?」

 

 

 今や釜鵺の表層思考は完全に無惨に読まれている。彼がどれだけ必死に口を閉ざそうとも無惨の視界内にいる限り、彼が内心で考えた内容は全て彼の血を通して主人である無惨へと伝わる。

 

 明らかな怒気のこもった無惨の言葉と共に彼の片腕がぶくぶくと膨れ上がり人の腕とは到底思えない異形へと変貌を遂げていく。幾重にも連なった巨人の腕のように太く螺旋を描いたその腕は、地面へと膝をつく釜鵺を掴み上げると彼を宙へと逆さ吊りにする。

 

 

「お許しくださいませっ鬼無辻様っ!!どうかっどうかお慈悲をっ!!」

 

 

 これから訪れる未来が想像出来たのだろう。恐怖に打ち震えらように釜鵺は必死の形相で声を発する。

 

 そしてその段階に至れば、独り言のようにも思えた無惨の呟きが釜鵺の思考を読んだものであることが他の下弦の鬼達にも理解できた。今主人である無惨が発した言葉は全て釜鵺の思考、そしてそうであるなら主人のこの怒気に満ち溢れた声色からして彼がどのような未来を辿るのかは彼等にとっても明白。

 

 

「許し?慈悲?……何故私がお前の願いを聞き入れなければならない?私の役にも立たず、私の問いにも答えない、私を不快にさせるばかりのお前に存在する価値があると思うか?」

 

「申し訳ありませんっ!申し訳ありませんっ!申し訳あっあぎゃぁっ!?」

 

 

 下弦の鬼達の頭上で響く必死の謝罪の声は僅かな悲鳴の中に途切れた。それと全く同時に彼等の頭上に降り注ぐ生暖かい濃色の液体と釜鵺の挙げた悲鳴の代わりのように、新たに鳴り響くバキバキという骨を砕くような咀嚼音。

 

 頭上で何が起こったのかを彼等が察するのに、それほど時間は要しなかった。

 

 

「お前達の存在価値は私の役に立つこと、それ以外には何もない。だというのにお前達下弦は今日この時に至るまで一体なんの役にたった?お前達の中に柱を殺したものが一人でもいたか?お前達の中に私の命令を果たしきれた者はどこにいる?」

 

 

 やがて咀嚼音がなり終わると無惨はまるで何事もなかったかのように膝をつく下弦の鬼達へと問答を続ける。

 

 

「わ、私はお役に立ちます!ご命令通り人間を殺して奴らの施設を破壊してまいりましたっ!」

 

 

 その場を支配する圧倒的な恐怖に耐えきれなくなったかのように下弦の肆、零余子(むかご)は声を震わせて必死の形相で自らの功績を訴えた。

 

 

「零余子、お前は何か勘違いをしているようだ……私がお前に命じたのは鬼を研究する人間の施設を全て(・・)破壊すること。だがお前が破壊してきた奴らの施設はこの5年でわずか二つ。一体いつになればあの者共を殲滅できる?」

 

「そ、それは……」

 

「お前は自慢気に私の役に立ったというが私の期待したところの指先にすら掠っていない。与えた命もこなせず、たかが柱程度の存在に怯え、鬼狩りから逃げまわる貴様を私が度々生かしておく理由がどこにある?」

 

「私はっ、柱に怯えてなどおりませんっ」

 

「怯えていない?鬼狩りの柱と遭遇した場合逃亡しようと考えているお前が怯えていないと?お前は私に虚偽を述べると言う訳か」

 

「いいえっ!私は嘘などついておりませんっ!私は命をかけて貴方様のために戦いますっ」

 

「……お前は私のいうことを否定するのか……」

 

「なっ」

 

 

 短い悲鳴とも思えないか細い声を最期に、それ以降零余子の声が響くことはなかった。かわりに肉と骨を砕く咀嚼音だけが重く暗い絶望に満ちた空間に鳴り響いていた。

 

 

「もはや十二鬼月は上弦だけで良いと考えている。私の役に立たないお前達は必要ない」

 

 

 それはこの場に集められた者達にとって処刑宣告に等しいものだった。最初の問答に意味などなく、この場に集った時からすでに彼等の死は確定していたのだ。最初から全員殺すつもりで無惨はこの場に彼等を集めた。

 

 

 どう足掻いたところで殺される、それを理解した下弦の参、病葉(わくらば)は選択を迫られていた。

 

 彼の思考に浮かんだ選択肢は戦うか、或いはこの場から逃げ出すかの二択。どうであれこのままここにいれば死ぬのだ。そうであるならば生き残るためには行動を起こすより他にない。しかし生き残るという目的を念頭におく病葉に無惨と戦うなどという選択がとれようはずもない。己が生みの親であり数多の鬼を束ねる無惨に勝てると思うほど病葉は楽観的でもなかった。ならば当然、選べる選択肢は一つのみ。

 

 

(戦って勝てるはずもない……なら…逃げるしかっ)

 

 

 結論が出てしまえば、あとは早かった。腰を僅かに浮かせた病葉は次の瞬間には脱兎のごとく飛び跳ね、凄まじい速度で無限城からの離脱を図った。出口もわからぬ異空間を少しでも死から距離をとろうと懸命に走り続ける。

 

 

(愚かなことを……)

 

 

 宙を飛び跳ね、撹乱するかのようにジグザグと無限城の中を駆け回る病葉の姿を見て、鳴女はその短慮に内心で呆れていた。

 

 戦ったところで鬼の始祖である無惨に勝てるはずはない。そうであるが故に逃げ出そうという意志が湧くこと自体は分からなくもないが、それを実行に移すとは、あまりにも短慮で愚か極まる。病葉がどれだけ激しく動き回ろうとも、この無限城の中にいる限り鳴女が一度琵琶を鳴らせば彼は最初と何も変わらぬ位置に戻って来ることになる。それが可能であることは彼等が強制的に集められた時点で理解できそうなものだが、どうやら今の彼はそれすらも気づくことができないようだ。

 

 もっとも、ここで鳴女が動かずとも許しもなく立ち上がり、この場を去ろうとする無礼な振る舞いを鬼の王たる無惨が許すはずもない。

 

 

 何の前兆すらもなく、縦横無尽に無限城を駆け回っていた病葉は無惨の元に戻ってきた。

 

 

 頭部のみという注釈をつけて。

 

 

(やられている!?馬鹿なっ琵琶の女の能力か?いや琵琶の音はしなかったはず……何故だ…身体が再生できない)

 

 

 驚愕のあまり病葉は目を見開いていた。短時間ではあるが病葉が走った距離は決して短くはない。人間とは比べ物にならない程の速度で駆けた彼は逃げ切れるだけの十分な距離を稼いだとそう思っていた。にも関わらず瞬きした間に病葉は無惨の繰り広げる処刑場へと戻ってきてしまっている。それも首を切断され頭部のみを無惨の手に掴まれるという形で。

 

 この場にいる誰一人として無惨が動いたようにすら見えなかった。鳴女にもそしてこの場に最期に残った下弦の壱、魘夢(えんむ)にも。

 

 

「最期に何か言い残すことはあるか?」

 

 

 無造作に血溜まりを作る床に向けて無惨は頭部だけとなった病葉を放り投げると、惚けたような表情で無惨を見据える魘夢へとそう問いかけた。

 

 普通であれば、これから訪れる死を回避しようと、弁明にしろ弁解にしろ、何かを無惨に伝えようと必死になるだろう。誰だって死にたくなどない。無惨の血を分け与えられることで生きながらえてきた鬼であるなら、その想いは一層強いはずだ。

 

 故にこれから起こるそれは、いつもとなにも変わらぬ光景であろうと鳴女はそう思った。醜く無様に生へとしがみつき、主人へと慈悲を願う。人に対してどんな慈悲も与えてこなかった悪鬼達の哀れ極まる光景が、愚曲と呼ぶに相応しい聞くに堪えない光景が繰り広げられることを、鳴女は予想していた。

 

 

「そうですねぇ〜」

 

 

 だが鳴女の予想に反して彼の放った声色は、訪れる死に対する恐怖を微塵も感じさせない。間延びするようなゆったりとした口調で魘夢は口を開いた。

 

 

「……私は夢心地でございます。あなた様直々に手を下して頂けること、他の鬼の断末魔を聞けて楽しかったぁ。幸せでした〜。人の不幸や苦しみを見るのが大好きなもので、夢に見るほど好きなので私を最後まで残してくれてありがとう」

 

 

 この血塗れの空間で頬を紅く染め、心底幸福だと言わんばかりの様子で許された最期の言葉を口にする魘夢に、鳴女は思わず怖気が走りそうになる。

 

 久しく感じることのなかった生物としての根源的な嫌悪感。

 

 他者の不幸を自らの至上の幸福と捉えるその思想は、鬼となっても未だ常人の感性しか持てない鳴女にはあまりにも理解し難い感覚。先程までこの場で生きていた下弦の鬼達はその能力はともかく、感性は人間の領域を超えたものではなかった。

 

 

 だが目の前にいるこの鬼は、魘夢は違う。

 

 

 彼はこの場で唯一上弦の鬼になるために必要な才能を持ち合わせた、正真正銘の悪鬼だ。

 

 

 彼が奏でたその曲は愚曲ではなく、無惨が好む狂曲だった。

 

 

「…………」

 

 

 鳴女が魘夢に対して明らかな嫌悪を感じている一方で、鬼の始祖たる無惨はその様子に微笑みを浮かべた。

 

 視界に入った鬼の思考を読める無惨には当然、魘夢が何を思ってそれを語るのかがわかる。魘夢は無惨からすれば未だ子鬼程度の力しか持たないが、その精神性は彼にとってとても好ましいものだった。己が幸せのために他者に不幸を与えることを厭わぬ圧倒的な個人主義。それでいて自身の立場を明確に弁え、主人である無惨に対する忠誠心も高い。この場で無惨に殺されることを魘夢は心底幸福だとそう考えている。

 

 ならば、そうであるならば、ここで殺してしまうよりも生かしておいた方が後々己が役に立つかもしれない。

 

 そう無惨が考えることはある種必然であった。

 

 

「あがっ!?」

 

 

 不意に首元に走った衝撃に魘夢は苦悶の声を挙げた。

 

 細い針のような触手が無惨の体から延びると魘夢の首元に突き刺さったのだ。

 

 

「気に入った。私の血をふんだんに分けてやろう。ただしお前は血の量に耐えきれず死ぬかもしれない。だが順応できたならば、さらなる強さを手に入れるだろう。そして私の役に立て」

 

 

 それはまさしく賛辞であった。

 

 彼の口から気に入ったとそう出ることは、そこらの鬼には決して与えられない祝言に等しい。この絶望的な状況を魘夢はその残酷極まる精神性でもって無惨に認められたのだ。無惨に血を与えられるとはすなわちそういうことだ。細胞の変異に魘夢が耐えきれたのなら、間違いなく魘夢の強さは今までの比ではなくなる。身体能力も異能も、そして彼の残酷さも、血の影響を受ければ立ち所により凶悪になる。

 

 

「鬼狩りの柱を殺せ。……耳に花札のような飾りをつけた鬼狩りを殺せば、もっと血を分けてやろう」

 

 

 無惨の血は鬼にとっては至上の幸福感をもたらすまさしく麻薬に等しい。現に魘夢は細胞の変化によって起こりうる激痛に身を悶えさせながらも心底幸せそうな表情で無惨の言葉を聞き続けている。これから、彼はますます無惨に忠誠を誓うだろう。その甘美な感覚を再び味わうために、人を喰らい、より強力な鬼となって鬼狩りの柱を殺そうとする。己が幸福が無惨の役に立つことであるとそう錯覚し、今以上に悪鬼となる。これまで何度となく鳴女の前で繰り返されてきた喜劇だ。

 

 

 誰も彼の血には逆らえない。鳴女もそして……

 

 

(うつろ)を呼べ」

 

 

 魘夢との会話は終わりだと、そう意思の込められた無惨の言葉に鳴女はすぐさま手に持った琵琶を鳴らす。

 

 

 

 ベンッ、べベンッ!

 

 

 音が鳴り終わった頃にはすでに血溜まりに横たわった魘夢の姿はない。しかし代わりとでもいうように、その場には黒衣に身を包み仮面を被った1匹の鬼が跪いていた。

 

 

「報告を聞かせろ」

 

 

 短的に無惨は目前に膝をつく空にそう問いかけた。

 

 

「……那谷蜘蛛山周辺の研究施設は全て破壊致しました」

 

 

 突然の呼び出しにも関わらず、空は驚いた様子もなく淡々と口を開く。その様子だけで、空がこの手の呼び出しに慣れていることを伺うには十分だった。あたりに広がる惨たらしい血の跡は間違いなく彼の視界に入っているはずだが、彼が動揺するような素振りは一切見えない。

 

 求められることのみを正確に示すその在り方こそ、彼が無惨に気に入られている要因の一つであり、同時に彼が無惨に示す忠誠度の高さの証にもなる。

 

 

「実験結果は全て回収し、関係者の始末も完了しております。再利用できぬよう地下施設の入り口は完全に崩落させましたので、あの鬼の研究施設が鬼殺隊に発見される恐れもございません」

 

 

 そもそも何故那谷蜘蛛山で下弦の伍である累があれほどまで派手に鬼殺隊の注目を集めたのか。その答えこそ空が放った言葉にある。

 

 

 

 ——— 鬼の研究施設

 

 

 

 それはこの国の近代化に伴ってあらわれた人の罪そのもの。

 

 

 鬼という存在を知る人間は何も鬼殺隊に限ったものではない。

 

 千年の時の中、人は鬼による被害を可能な限りひた隠し、その存在を知るものを鬼殺隊へと引き入れることで鬼への対抗力を集結させてきた。ところがこの数十年の間にこの国は近代化という時代の流れの転換点を迎えた。人々は赤子から死に際の老人に至るまで徹底してその存在を国に認知され、誰がどこで生まれ、どこでどうやって死んだのか、それを把握するようになった。当然そうなれば鬼による被害も明るみに出ることになる。だが、それは当時の新政府にとって都合の良い話ではなかった。時代の変革に伴い様々な物が、それまでの日常が変わっていく、人々が当たり前にしてきた生活の仕方が変わるというのは国民に大きな反発を生んだ。各地で起きる暴動寸前の民衆を見て、新政府は人々の反発を抑えることに躍起になっていた。

 

 そんな最中でもしも鬼などという人智を超えた化け物が人を喰らって回っているなど知れ渡れば、その混乱に拍車をかけるのは目に見えていた。

 

 彼等は鬼という存在を隠した。千年もの間鬼と戦ってきたという鬼殺隊に鬼による被害の対象を任せて、これまで通り、いやこれまで以上に鬼という存在を隠すことに決めた。

 

 ただ、そうである以上鬼殺隊という存在も公に認めることはできない。彼等の存在を認知するということはすなわち鬼という存在を政府が認めるということに他ならないからだ。

 

 彼等の存在を政府は公には関知しない。

 

 ただそれはあくまで表の話に過ぎない。政府の一部は当然鬼の存在を知っているし、裏では犠牲者の死因の工作なども行なっている。

 

 表において政府に一切関知されない鬼殺隊は、裏では政府と密接なつながりを持つ、謂わば秘密組織のような役割を担っていたのだ。

 

 しかしその為に一部の人間は鬼という存在を認知している。鬼という人を喰らう化け物が、太陽の光か、特殊な刀で首を斬らねば死ぬことのない不死の存在がいることを知ってしまった罪深い人間がいた。

 

 その人間は鬼という存在を研究し始めた。鬼とは何か、鬼とはどのような原理で生きる生き物なのか、なぜ彼等は人を喰らうのか、そしてどうすれば、人は鬼のような強さを手に入れられるのか。鬼の力を手に入れればこの国は、他国とは比較にならない程強くなる。

 

 こうして国家の力を使った鬼の研究は秘密裏に始まった。鬼殺隊にすら知らされることのないその研究組織は僅か十数年で力の弱い鬼を捉えることのできるほどの力を有し、着々と鬼に関する研究を進めている。

 

 それは鬼の始祖である鬼無辻無惨にとって許し難いことであった。彼等の行う鬼の研究とはすなわち鬼の元である無惨の血の研究に他ならないからだ。自分の同胞である鬼を増やすことすらも本来であれば許容したくはないのだ。にも関わらず彼にとって下等極まる人間が勝手に自分の血を調べ、その特性を我が物としようとしている。

 

 唯一無二の絶対的存在であると自負する無惨がそれを許しておく訳はない。

 

 各地に造られた研究施設を片端から破壊し、関係者は見つけ次第殺し尽くす。鬼殺隊と同じように。それが無惨が十二鬼月に下した命令だった。

 

 今回、累が那谷蜘蛛山で鬼殺隊の目に留まるように被害をだし続けたのは、山から少し離れた場所に作られた大規模な研究施設から鬼殺隊の目を背けるための囮。累が囮になっている間に空が施設を破壊し、関係者を皆殺しにする。それが無惨の出した指示だった。

 

 そしてその任は果たされた。鬼殺隊は何一つ気づくことなく、施設は破壊され、空によって関係者も皆始末できた。唯一無惨に誤算があったとすれば囮を担っていた累が殺されてしまったこと。それも数百年前に己を唯一死に近づけた男と全く同じ耳飾りをつけたあの子供を始末することなく。

 

 

「それで?」

 

「次の目標についても大まかには把握済みです。早急に場所を特定し、無惨様のご希望通りにっ!?」

 

 

 報告の途中、それまで流暢に口を開いていた空が不自然なところで言葉は途切れさせた。

 

 

「お前はどうやら何か勘違いをしているようだな、空……私が求めた報告は当たり前のことではない」

 

「っぐ…………」

 

 

 ピンと指を張りながら無惨は空へと侮蔑するような怒りに満ちた視線を向ける。

 

 そしてその視線に反応するかのように空の身体がピキリと強張る。同時に、彼の仮面の端から漏れ出る空気が増え、何やらぜぇぜぇと荒い息遣いが聞こえてくる。

 

 

「研究施設の一つ二つ破壊したからなんだというのか……お前が私の命令を達成することは当然のことだ。私の望みは身の程を弁えずに私の血を掠め取っていく人間共を皆殺しにすること、そして鬼殺隊の殲滅だ」

 

 

 徐々に重圧を増すかのように怒りの雰囲気を纏わせた声が刃となって空へと襲いかかる。無惨が言葉を発するごとに彼の体からはミシミシと、軋むような音が鳴り響いてくる。

 

 

「何故那谷蜘蛛山で鬼狩り共を始末してこなかった?わざわざ近くにいたお前を向かわせたというのに、一人として鬼狩りを殺していないとはどういうことなんだ?」

 

「申し訳、ありません……分身体では能力が足りず……夜明けが近かったので…やもおえず撤退を」

 

 

 苦しみに耐えるように辿々しい言葉遣いで空は声を返す。しかしその答えは無惨の示す怒りを一層増すことになった。

 

 

「誰が言い訳を聞かせろと言った?そもそも何の為の分身体だ?陽が昇ったところで本体に支障はない。そうであるからこそお前の能力は有能なのだ」

 

「ごほっ…あぐっ………」

 

 

 怒気を宿した無惨の声に空は苦し気な声と仮面の端から大量の血を漏らして答える。全ての鬼は無惨にとって己が役に立つための道具でしかない。例え優秀でそれまで己にとってお気に入りと言える鬼であったとしても、利用価値がないとそう判断できたのであれば無惨はその場でその鬼を壊すだろう。

 

 百年の間変わることのない上弦の鬼であろうとも、有能と評される空や鳴女であっても彼の意思一つで呆気なく終わりを迎える。

 

 

 鬼とはそういう生き物なのだ。

 

 

「空、私が何故お前を生かしているか分かるか?」

 

「……無惨様の、お役に……立つ為かと」

 

「そうだ。お前は私の役に立つ。だからこそ私はお前を生かし、血を分け与えたのだ。お前は私の道具だ。私の役に立ち、私の望みを叶える為の道具だ。そのことを忘れるな」

 

「……はい」

 

 

 それは間違いのない忠告であった。役に立たないのであれば壊して捨てると、彼は空にそう告げたのだ。

 

 

「猗窩座の元に分身体を送れ、青い彼岸花を探してこい。それと施設は見つけ次第全て破壊しろ」

 

 

「……御意」

 

 

  ベンッ!

 

 

 空の了承の言葉とともに鳴女はその手に持った琵琶は弾く。軽やかな音色は一瞬で無惨を無限城にくる以前にいた場所へと戻していく。

 

 後に残ったのは下弦の鬼達が作り上げた血溜まりと、その場に荒い息を吐きながら跪く空、そしてこの空間の主人、鳴女だけだ。

 

 

「いつまでそうしているのですか?早く回復すれば良いでしょう」

 

 

 凛とした声色でありながら、どこかめんどくさそうな口調で鳴女は声を発した。

 

 もしもここに鳴女を知る他の鬼がいれば、酷く驚いたことであろう。鳴女という鬼は普段滅多なことでは喋ることがない。必要なこと以外全くと言って良いほど口を開かない彼女は声が聞ければ何か良いことがあるのではと、そう一部の上弦の鬼の間で噂されるほど無口なのだ。

 

 

「相変わらず、厳しいことを…いうねぇ…鳴女さんは……」

 

 

 そんな鳴女を前にして、空が返した言葉は意外にも驚きの言葉ではなかった。それどころかどこか気安げな雰囲気を持たせる口調で彼は言葉を返す。その様子に鳴女の様子に対する驚きは微塵もなく、まるで彼女との会話を慣れ親しんでいるかの様子すら垣間見せる。

 

 

「あなた方お得意の呼吸というのを使えば、その荒い息遣いくらい簡単に戻せるでしょう」

 

「いやいや、無惨様のお仕置きをもらうと……肺もやられるからそっちの回復に時間がかかるんですよ。だからまずはそっちをね……」

 

 

 会話をしながら自らの体の修復を行なっていたのか、辿々しかった空の声が徐々に普通になっていく。

 

 

「……相変わらず貴方は私の前だとよく喋るんですね」

 

「それはお互い様でしょう。鳴女さんだって無惨様の前とか他の鬼達の前じゃほとんど喋らないでしょう?……それに俺の場合は知らない方の前では無口だけど、上弦の鬼の方々とは割と喋ってますよ。童魔(どうま)さんとか」

 

「無惨様の前では行儀よくしてらっしゃるではないですか。それと上弦の弐様は誰であってもよく話しかけられますよ」

 

「無惨様の前でこんな口調でいられる訳ないでしょう。……あぁ、童魔さんといえば、彼が鳴女さんをお茶に誘ってましたよ。なんでも上物の人間の血が手に入ったとか」

 

「それはお茶と呼ぶんですか?……まぁ、お断りしますとお伝えください。私はここから出ませんので」

 

「そんな理由だと、童魔さんはここに押しかけてきますよ」

 

「……断りだけ伝えてくだされば結構です。それよりも今日はどちらにお送りすれば?私はこれからここの清掃があるので早くお送りしたいのですが」

 

「あー、なるほど。こりゃ大変ですね。えーっと童魔さんのとこでお願いします。新しく分身体、作らないといけないので、ちょっと血を調達してきます」

 

 

 鳴女の言葉に空は視線を下へと向けて一面に広がった真っ赤な水溜りを見ると納得したように頷いた。

 

 

「貴方の能力には血液が必要なんでしたね。ここにちょうど良い量があると思いますが?」

 

「他の鬼の血は使えないんですよ。人間か俺自身の血じゃないと形にならないんで……ていうか、掃除がめんどくさいからって俺に押し付けようとしないでくださいよ」

 

「押し付けではなく再利用です。人聞きの悪るいことを仰らないでください。……それではこれで」

 

「人聞きというか、鬼聞きでは?……まぁ、お願いします。……あぁそれと、今日もいい音色でしたよ鳴女さんのっ」

 

 

 ベンッ!

 

 

 鳴女の琵琶にかき消されるように、空と彼の放つ言葉は虚空へと掻き消えた。

 

 

 血生臭い香りと光景だけを残して誰もいなくなった空間を、鳴女はじっと見続ける。

 

 鳴女は空が鬼となる以前のことを詳しくは知らない。ただ、彼が鬼となったばかりのことならば、よく知っている。空が無惨に血を与えられたのは他でもないこの無限城でのことなのだから。

 

 当初、決して人は喰らわないとそう言っていた彼も、やはり鬼としての因果からは逃れられなかった。もはや彼の中に人を喰らうことへの抵抗などないのだろう。むしろ、今では積極的に人を喰らっているようにすら見える。僅かな時で多くの人を喰らい、稀な異能を身につけ、今では無惨お気に入りの十二鬼月に選ばれている。その事実からして、彼の身体に流れる無惨の血は確実に彼の心を以前とは別物に変えているはずだ。

 

 

(変化はある。人を喰らう限り変わってしまうことは避けられない。なのに……)

 

 

『いい音色ですね……少し落ち着く』

 

 

 変わらないのだ。彼が人を喰らい、不幸をばら撒く悪鬼となっているは間違いないはずなのに、彼はあの頃と同じように鳴女の琴を褒める。

 

 鬼となる前も鬼となってからも鳴女の奏でる音色を褒めてくれたのは、彼を合わせてたったの二人しかいない。

 

 

「……命を奪うこの音が…いい音色のはずなんてないのに……」

 

 

 ぽつりと普段は口には決して出さない彼女の想いが溢れる。

 

 

 誰一人聞く者のいない空間で彼女の言葉は虚しく響き渡った。

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
御意見・御感想等頂けますと幸いでございます。

さて、結構な独自解釈とオリジナル設定突っ込んでいきましたが、割と有り得そうだなぁって思って、ちょっと時代背景も考えつつ妄想を膨らませてみました。とはいえズボラなところが多いと思いますので、生暖かく見守っていただければ幸いです!

以上、鳴女さんをもっと出していきたい作者でした。



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蝶屋敷の日々

 

 

 日差しの眩しい昼時。

 

 コトコトと心地よい音と食欲のそそる美味しそうな匂いが蝶屋敷の一室には充満していた。少し視線を巡らせれば鼻や耳の良い者でなくてもそれらの発生元はすぐに辿れるだろう。白い給仕用の衣服を羽織った少女が暖かな湯気を漂わせる土鍋の前に立ち、手に持った汁杓子(しゃくし)で掬い上げるように中身をかき混ぜていた。

 

 

「そろそろいいかな……アオイ、ちょっと味を見てくれる?」

 

 

 頃合いよしというように少女、高野(たかの)(かえで)はくるりと振り返ると彼女の背後でお(ひつ)から米を手に、むすびを握っているアオイへとそう声をかけた。

 

「えぇ、いいわよ」

 

「ありがとう」

 

 快く返事を返してくれたアオイに楓も笑顔で返すと、小さめな皿を手に杓子から煮汁を少し垂らしてアオイへと手渡した。

 

 

「……美味しいわ」

 

 

 渡された小皿を口へと運び、そっと傾けるとアオイはほっと息を吐くように呟いた。

 

 

「良かった……ちょっといつもより具材を多めにしてみたからどうだろうって思ってたんだけど、アオイがそう言ってくれるなら安心ね」

 

「……これはまた腕を上げたわね。もう薬膳料理じゃ楓には勝てそうにないわ」

 

「普通の料理ならアオイの方が圧倒的に人気じゃない。薬を作るのだってアオイの方が得意だし、治療もアオイの方が上手。ひとつくらいは勝たせてもらわないと私の立つ瀬がないわ」

 

 

 朱色の塗装が施されたお椀に煮汁を注ぎながら楓は少し得意げに声を出した。

 

 薬膳料理とは全ての食事は薬と同等の効果があるとする考え方を元にした食事療法のことだ。身体を作るのは日々の食事だと言うように、大陸では食事こそが薬と捉える考え方があり、楓の作る薬膳料理はそれを元に作り上げた独自の物だ。

 

 楓は薬の調薬や医療の練度でいえば蝶屋敷の中ではそれ程高くはない。アオイのように数年かけてしっかり学んだ者とでは当然技術に差も出る。最初の頃は失敗続きで蝶屋敷での仕事を手伝うどころか、むしろ足を引っ張っていた節すらあった。勿論、薬も医療も一朝一夕で出来るようになる技術でもないのでそれはある意味当たり前のこと。しのぶからも気にしないでいいと失敗の度にそう言われていたのだが、そこは楓の生来の気質故か、妙なところで負けん気の強い彼女の性格が発動したようだ。何か一人前になりたいという意思に火がついてしまったようで、彼女はやたらと色々な物に手を出し始めた。漢方から西洋医薬の調合に、掃除、洗濯、医療や看護の技術と、蝶屋敷で何か出来るようになろうと剣士として鬼を狩りながら必死に動き回った末に、ようやくたどり着いたのがこの薬膳料理というわけだ。

 

 薬膳料理はその名の通り食事を主体にした医療だ。元々料理を作ること自体それ程苦手ではなかった楓は、詰め込んだ西洋や漢方の知識を加えて様々な薬膳を研究した。彼女の振る舞うそれは、身体の弱った隊士たちに振舞われる食事としては非常に適していたし、実際、効能は確かな物で内臓の働きを促進させたり、時に炎症を抑え込んだり、解毒作用を高めたりと様々な結果を出してきた。今ではしのぶも認める立派な医療技術として蝶屋敷で大活躍中だ。

 

 

 ただ、そうなってくると少し立つ瀬がなくなってしまうのがアオイだ。

 

 

「それは私の台詞よ。剣士としてしのぶ様の継ぐ子までこなす貴方に、蝶屋敷での仕事まで負けていたら私の立つ瀬がないのよ」

 

 

 少し力の篭った声色で強がるように呟くとアオイは再び楓に背を向け米を握り始めてしまう。

 

 

「……アオイ」

 

 

 どこか寂しげでそれでいて罪悪感を秘めたようなそんな声色を放つアオイの背中を楓は少し悲しそうに見つめた。

 

 強く見えるように、いつも平気そうに振る舞っているがアオイは心にいつも重荷を背負っている。

 

 アオイは蝶屋敷の看護婦として普段は働いているが、彼女は本来鬼を狩る剣士として鬼殺隊に入隊した立派な隊士だ。剣士の不足する鬼殺隊で、剣士であるアオイをただの看護婦として使う余裕は本来なら存在しない。それでも彼女が鬼殺の剣士ではなく、蝶屋敷の看護婦としてだけ働くのには、それなりの訳がある。

 

 

 彼女は、神崎アオイは鬼と戦えない。

 

 

 呼吸を身につけ、剣技もある程度収めていながら、彼女は鬼と戦えない。鬼を目の前にするだけで、彼女は呼吸が荒くなり、まともに立つことすら難しくなる。

 

 その様子を見て、彼女は鬼の恐怖に屈したのだと、そう誰かが言っているのを楓も聞いたことがある。

 

 鬼は人を喰らう。人を殺す生き物だ。そんな鬼と相対することに人が恐怖を覚えるのは本来なら無理のないことで、多くは剣士として立つ前に自身に根付いてしまったどうしようもない恐怖心に気づく。或いはもしも剣士としての道を目指して呼吸と剣技を学んでも、鬼と戦えない者に最終選抜を生き残ることなど普通はまず出来ない。

 

 勿論、鬼との戦いの中で恐怖心が増長してしまい、結果アオイのように鬼と戦えなくなる例もごく稀ではあるが存在する。だがその手の者は基本的にはすぐに引退して、鬼殺隊から去っていくのが通例だ。アオイのように鬼殺隊に留まることなどない。

 

 だからこそ、鬼殺の剣士にアオイのような例はほとんどいない。そしてそうであるが故に多くの隊士に今の彼女は理解されない。

 

 本来、そう言った人は少なからず存在するし、人間であれば鬼に恐怖することは何も不思議なことではないのに、鬼に対する怒りと憎しみのあまり、それを理解出来ない者達が一定数いるのだ。

 

 しのぶや楓のように誰もがアオイの在り方に理解を示すわけではない。彼女が戦える力を持っているのなら鬼と戦うべきだという声を挙げる者もいるし、今の彼女を軟弱だと、非難する声が隊内で挙がることもある。

 

 しのぶも楓もそんな声を挙げる輩を極力アオイへと近づけないようにはしているが、それでも完全に防ぐことは出来ない。彼等の悪意の声は間違いなくアオイにも届いていた。そして僅かでもそれを聞けば生来真面目な気質である彼女は自責の念に駆られてしまう。

 

 

 なぜ鬼と戦えないのか。

 

 

 なぜ鬼を殺せないのか。

 

 

 そうやって、彼女は自分自身でいつも自分を責めている。

 

 

 鬼と戦えないことは罪ではないのに。

 

 

 彼女はそれを悪いことだとそう思い込んでしまっているのだ。本当は十分すぎる程、この蝶屋敷で鬼殺隊に貢献しているのに。足りない知識を必死に勉強し、日々誰かの命を助けるために一生懸命駆け回っている彼女が、戦っていないと、逃げていると、どうしてそう言えるのか。

 

 アオイはもう十分すぎるほどに戦っている。彼女が自分を責める必要など何処にもないのだ。

 

 だが、楓がそれを言ったとしてもアオイが納得することはないだろう。楓とアオイの距離が近すぎるが故に、彼女にとって楓やしのぶからかけられる言葉はただの慰めにしか聞こえなくなってしまうのだ。

 

 

 しのぶや楓のように彼女に近い者は見ていることしかできない。慰めの言葉など掛けても彼女のことを一層責めることにしかならない。だからアオイ自身が自分の心に整理をつけるまで待っていることしかできないのだ。

 

 

 それが楓には堪らなく辛かった。

 

 

「なんでなんだよぉぉおォォォぉ!!!」

 

 

 唐突に耳に入った叫び声にアオイになんと声をかけるか逡巡していた楓はビクリと身体を震わせた。

 

 

「な、何事?」

 

「またあの人……今度は一体何を騒いでいるのかしらっ」

 

 

 廊下の方から聞こえてきたその叫び声に驚きながらも怪訝そうに楓が首を傾げる一方で、響いた声にアオイはすぐに声の主が誰か見当がついたようで苛立った様子で廊下へと視線を向けた。

 

 

 そのアオイの反応をみて、楓もこの騒動の主が誰なのか、なんとなく思い浮かべることができた。この国では随分と珍しい黄色の髪の持ち主で、先の那谷蜘蛛山の戦いで深刻な毒に侵されていた重症患者の1人。

 

 

我妻(あがづま)君だったよね?……相変わらず今日も元気みたいだね」

 

「えぇ、本当に。元気なのは結構ですが、あの方は元気すぎます」

 

 

 苦笑いを浮かべる楓とは対称的にアオイはどこか呆れた様子でそう答える。

 

 

 (まぁ確かに、彼はちょっと元気があり余りすぎてるよね)

 

 

 楓が初めて我妻善逸(ぜんいつ)という隊士に会ったのは炭治郎の様子を見に病室を訪れた時のことだった。病室に入り炭治郎と話をしていると急に叫び声を上げ始め、かと思えばいきなり手を握ってお茶でもどうかという誘い文句をいきなり受けたので楓としても失礼な人として強く印象に残っている。

 

 体の状態で言えばあの病室では彼が一番安静にしていなければいけないはずなのだが、どうも彼には楓たちには理解できない謎の体力をもち合わせているようで、見た目にそぐわない元気な(騒がしい)様子を見せているのだ。

 

 

「ちょっと様子を見てきます。配膳をお願いしてもいいかしら?」

 

「うん。もうそんなに人も残ってないし、あとはやっとくよ」

 

 

 溜息を吐きながら布で手を拭うアオイに楓は笑顔で頷く。那谷蜘蛛山の惨事の後、蝶屋敷は一時満床に近い状態となり、手近にいる隠を総動員するほどめまぐるしい忙しさとなったのだが、今ではそれもだいぶ落ち着いている。

 

 病状の落ち着いた患者から別の療養施設や藤の花の家紋の家に移ってもらっているので、今、この蝶屋敷で療養している隊士は炭治郎達を含めて10名もいない。なので配膳と言ってもそれほど大した量ではない。これくらいならば楓一人でも十分にこなせる量だ。

 

 

 楓の心よい了承の返事を受けて、アオイはキリっと視線を尖らせて颯爽と厨房を出て行く。

 

 

「よし、やりますか」

 

 

 アオイの勇ましくも思える背中を見送った楓は、椀に次々と煮汁を注ぎ、握り飯を配膳台へと運んでいく。

 

 

「いャァぁぁあぁぁ!!!?」

 

 

 途中耳に入った悲鳴に肩を竦めながら楓は配膳のために厨房を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「次で最後だね」

 

 

 配膳をほぼほぼ終えた楓は屋敷の廊下で配膳台を運びながら呟いた。

 

 

「静かになさってくださいっ!!口まで塞がれたいんですかっ!」

 

「ひぃぃぃぃぃっ!」

 

 

(まだやってるのか……記録更新ね)

 

 

 耳に届く騒ぎ声に楓は内心でボソリと呟いた。

 

 人数が少ないとはいえ、楓はいま一人で配膳を行っているのでアオイが事態の収拾に向かってからそこそこ時間はたっているはずなのだが、いまだに廊下に響くほどの騒ぎが続いているとは、どうやら今まで以上に激しい騒動のようだ。

 

 扉を引いて部屋の中をそっと覗き込むように視線を走らせると、真っ先に視界に入ってきたのはアオイとなほの二人がかりで善逸を寝台へと拘束具で縛り付けているというなんとも言葉にし難い異様な光景だった。

 

 

(遂に縛られたのね……)

 

 

 食事を運びにきただけの病室にしては随分と過激なその光景にも、楓は心のどこかで納得していた。善逸の行動は正直普通の患者として対応するのが難しいものではあったし、何より女性に対する節操というものがかけている。蝶屋敷の看護婦であるアオイや手伝いを担う楓や隠の女性はもちろん、いまだ幼いなほやすみ達にまで気を持っている様子だった。楓としてもいつかこうなるのではないかと、そう思っていたのだ。

 

 

「あ、楓さん。おはようございます!」

 

 

 病室の入り口からひょっこりと顔を覗かせる楓に、同じ病室にいる炭治郎が気付いて元気よく挨拶をしてくる。

 

 おはようございますと言っても時刻はもう昼なのだが、そういえば炭治郎と会うのは今日はまだ初めてだったので間違いではないのかもしれないと、楓は内心で頭を捻りながら炭治郎のいっそ眩しくすらある笑顔に視線を向ける。

 

 

「おはようございます。炭治郎君。すいませんがこの光景を説明していただいてもよろしいですか?」

 

 

 何が原因でこうなったのかということに楓としても大体の想像はつくが、それはあくまで楓の想像でしかないので、彼が縛られるに値する行動を本当にとったのかどうかについては一応聞いておく必要がある。

 

 

「あー、えっと、それがですね……」

 

 

 楓の問いに、炭治郎は困った様子で視線を病室の奥へと向ける。彼の促すような視線を辿って目に入った光景に楓は大まかな事情を察した。

 

 どうやら今回の騒動の原因はこの病室の顔ぶれに問題があったようだ。

 

 炭治郎と楓が視線を向けていることに気づいたのか、彼、そして彼女は慌てた様子で弁明する。

 

 

「ち、違いますっ高野様!俺、ていうか俺たちは何もしてませんからっ」

 

「そ、そうです!継ぐ子様!私達は無実です!」

 

 

 慌てた様子で楓へと弁解の言葉を口にする1組の男女。前者は村田という男の剣士、後者は尾崎という女性の剣士だ。どちらも那谷蜘蛛山の戦いで負傷し、この蝶屋敷に運び込まれていた患者。この部屋に収容されているのは村田と善逸、炭次郎に、嘴平(はしびら)というとても静かなそれでいて珍妙な被り物をした隊士を合わせた4人だ。

 

 

「まぁ、そうでしょうけどね」

 

 

 溜息を吐きながら楓は2人の釈明に同意を示した。

 

 大方、この病室で療養中の村田を見舞いに来た尾崎を見て、同室の善逸が発狂したのだろう。彼は他の男性が女性と仲良くしている様子を見るとことさらに騒ぐ習性があることは楓もここ数週間で理解している。

 

 

(それに、この2人はどうも単に仲が良いだけじゃないみたいだし)

 

 

 確か尾崎という女性隊士は数日前に退院していたはずだ。それがこうして指令の合間をぬってお見舞いにくるというのは、単なる戦友という間柄以上に二人の関係性が発展しようとしている可能性は否めない。男女の関係にやたらと機敏な善逸がそのことを察知していたとしても何も不思議ではないし、そうであるなら、今回寝台に拘束されるまでに至った経緯にもある意味納得がいく。

 

 

(仕方がないですね、これは私がまた腕を振るわなくてはいけませんかね)

 

 

 妙な使命感に駆られたように楓は騒ぎ立てる善逸へと視線を向けた。その楓の心情を匂いで感じとった炭治郎は嫌な予感に苦笑い浮かべながら内心で頭を抱えるのだった。

 

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
御意見・御感想等頂けますと幸いです!

今回は蝶屋敷の日常回になってます。
炭治郎含め原作メンバーとオリ主を混ぜ合わせつつ村田さんを炭治郎達と同室配置にしてみましたー。それにより善逸過激化してます 笑




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蝶屋敷の説教

 

 

「お二人とも、仲が宜しいのは結構ですが、あまり見せつけるとこの手の輩が出てくることは否めませんからお気をつけください。まぁ彼の場合は少し過剰ですがっ!」

 

 

 アオイは善逸を寝台へと固定する拘束具を力強く締め付けながら、若干引き気味になって顔を引き攣らせる村田と尾崎にそう忠告した。

 

「痛いっ!これ締め付け過ぎじゃ無いっ!?だいたい俺悪くないじゃん!こんなところでいちゃつく方が悪いんだよ!ここは病室なんだよっ!体を休める場所なの!!イチャイチャと羨ましい音ばっかり立ててたら休めるもんも休めないでしょうっ!?」

 

 

 ギシッと音を立てる程の強い締め付けに善逸(ぜんいつ)も堪らず身を捩って暴れる。ガチャガチャと音を立てる拘束具にも負けない声量で尚も声を張る善逸に、アオイは眉を顰めて怒鳴り返す。

 

 

「訳の分からないことばかり仰らないでくださいっ!!そもそもここが病室だと分かっているのなら、貴方の方こそ静かになさるべきではありませんか!」

 

「ひぃぃぃぃ!怖いっ、アオイちゃん怖い!!炭治郎ぅ、助けてくれぇっ!」

 

 

 ギチギチと拘束具にきつく締められながら善逸は情けない声を出しながら炭治郎へと視線を向ける。

 

 

「落ち着くんだ善逸、これ以上騒ぐと本当にまずいから」

 

 

 いっそ哀れにも見える様子で助けを求めてくる善逸をなんとか宥めようと炭治郎はちらりと視線を楓へと向ける。

 

 

「ひっ!楓ちゃんっ」

 

 

 炭治郎の視線をたどるように顔を動かした善逸はようやく部屋に楓が来ていることに気づいたようで、アオイを相手にしていた時以上に、さぁっと顔が青褪めていく。

 

 

(……楓ちゃん?)

 

 

 一体いつからそんな親しげな呼び方を許可したのだろうかと内心で呟きながら楓は口を開く。

 

 

「なんですかその失礼な反応は……私は今日はまだ貴方に何もしていないはずですけど?」

 

 

 そもそも人の顔を見て途端に怯え始めるというのは如何に言っても失礼というものではなかろうかと、楓は目を細めて鋭い眼差しを善逸へと向ける。

 

 

「ひぃぃぃぃ!!ごめんなさいぃぃぃ」

 

 

 しかしこの状況でそんな視線を向けられては、生来臆病極まる性質を持っている善逸は一層縮こまるよりほかにない。加えて今の善逸には高野楓という女性が見た目通りに可愛いらしい人物ではないことが既に分かってしまっている。

 

 楓は見た目は非常に可憐な容姿をしているし、性格も基本的には他者に対する態度は非常に親切かつ丁寧なものだ。故に本来なら彼女は善逸がここまで怯えた様子を見せるような相手ではない。

 

 

 

 実際、楓も最初は善逸に対してもとても丁寧にあたっていた。

 

 

 

 いきなり手を握られるまでは……。

 

 

 

「だから失礼だと言っているのですけど?貴方にはまたしっかりと礼儀作法というものを教えてあげる必要があるようですね」

 

 

 出会って間も無く、いきなり手を握られ、その上口説かれた。正直内容は口説き文句でもなんでもないただの節操なしの言葉でしかなかったのだが、それでも彼からすれば口説きだったのだろう。

 

 ただ、それがどんなつもりで行われたにせよ、初対面の相手に対して、唐突に手を握り、擦り寄り、あまつさえ口説こうとする。そんな普通に考えれば失礼極まる行動をとられて、礼節を重んじる楓が黙っていられるわけがない。

 

 善逸の口ぶりから彼の女性に対する節操のなさに気づくと、腕を捻り上げ、そのままの状態で礼儀とは何か、人とはどう接するべきか、ということについて小一時間近く説教をしたのだ。

 

 勿論そんなことをされれば善逸としてはたまったものではない。何しろ彼の身体は鬼の毒で蜘蛛にされかけ、今や片腕や脚が赤子並みの小ささになっているのだ。そんな状態で腕を捻られたまま一時間近く説教などされれば彼の身体には相当な負担だ。実際楓の説教が終わる頃には彼の意識は遥か遠い世界に旅立ちかけていた。

 

 

「いぃゃぁぁぁぁっ!」

 

 

 結果、善逸は楓が苦手になった。というよりは怖がっているだけなのだが。

 

 

「また貴方はそうやって騒いでばかり!今度ばかりはじっくりお話させて頂くとしましょうか」

 

 

 そしてまた善逸にはとって運の悪いことに、楓は割と頭が固い。特にこと礼節に関して言えば炭治郎の頭なみに硬い。手加減という物を知らない彼女は、善逸の在り方に全く変化が見えないとなると、例え相手が病人怪我人であっても、更なる教義を取ろうとして譲らない。

 

 しかしいくら楓が礼節について語ったところで、恐怖でパニック状態になっている善逸の頭に彼女の言葉が入るわけがない。

 

 

 結果、微塵も礼節を理解しない善逸に楓はいつまでも諦めずに説得を続け、善逸は恐怖に叫び続け、病室はいつまでたっても騒がしいままという、極めて悪循環な状況が誕生する訳だ。

 

 

(あぁ、これは……拙い流れだわ)

 

 

 善逸を固定し終えたアオイは、楓の様子を見て苦虫を噛み潰したかのような表情をする。楓の説教は一度始まるとアオイであっても止めるのは容易ではない。こうなった楓を静止できるのは本来であればこの蝶屋敷の主人である胡蝶しのぶしかいないのだ。だが生憎、今はしのぶが屋敷をあけている。

 

 

(騒ぎを止めにきたはずなのに……)

 

 

 病室での騒動を止めて、静かにしてもらうためにこうして忙しい時間を割いて暴徒、もとい善逸を縛り上げているというのに、ここで楓が暴走してはこれまでの労力が全く意味をなさない。騒動を止める立場の人間が大きくしてどうするのかと、アオイはこの状況に内心で頭を抱えそうになる。

 

 

「あぁ!えっと、……楓さん!食事を運んでくれたんですよね!とても良い匂いがしますっ!」

 

 

 突然、炭治郎が何かを思い出したかのように大きな声を挙げながら楓の前に立つと善逸を背後に隠して慌ただしく手を動かす。

 

 

「ああっ!そういえばそうでした。汁物ですから温かいうちにと思ったのに忘れていましたよ」

 

 

 食事を運ぶ台車へと慌てた様子で身を翻す楓にアオイは目を見開いて炭治郎へと視線を向ける。

 

 

(あそこまでなった楓を止めるなんて……)

 

 

 炭治郎が告げた言葉自体に特別なものは何もない。楓が運ぶ料理について聞いただけで変わったことは何一つとして言っていない。にも関わらず炭治郎は一時的にでも楓の行動を止めて変えてみせた。

 

 たった一言、それもただの日常会話でこうも容易く楓が意識を逸らされるとはと、アオイは僅かに戦慄した様子で炭治郎を見据えていた。

 

 アオイの向ける視線に気づいたのか、或いは彼女から発せられる匂いに気づいたのか、炭治郎もアオイへと視線を向けると満面の笑みでぐっと握り拳を顔の前へと掲げる。その得意気な表情から炭治郎が狙って楓を止めたのだと理解したアオイも思わずよくやったと拳を握りしめる。

 

 

「いや、そんな誇るようなことなの?ご飯持ってきたって言っただけだよね?どういう扱いを受けてるのあの人?」

 

 

 側から見ればあまりに大袈裟な2人のやり取りに、善逸は呆れた様子で口を開くが、楓の性格をよく知らない者であればそれは当然の反応と言える。一見すれば炭治郎はただ食事を持ってきたことを楓に思い出させただけなのだから。

 

 

 だが、楓をよく知るアオイからすれば炭治郎の行いはある意味偉業だ。

 

 

 普段なら食事が冷めようがなんであろうが、楓は止まらない。蝶屋敷での目上の者に対する態度や女性隊士への扱いに彼女は並々以上に神経を尖らせているからだ。あの一見チャランポランな信乃逗(しのず)が逃げ回るほど礼節を説き続けた楓が、問題児の塊である善逸を前にして説教を後回しにするなどアオイからすれば奇跡に等しい出来事だった。

 

 

「なら止めてもらわない方が良かったと?そうなって一番困るのは善逸さんの方ではありませんか?」

 

「ありがとうぉ炭治郎っ!お前は本当にいいやつだよぉぉ」

 

「その変わり身の速さだけは賞賛に値しますね」

 

「はははっ許してやってください。善逸は根はとても優しいんですよ」

 

 アオイの問いかけを受けた途端、涙を流しながら炭治郎へと感謝を口にする善逸に彼女は酷く呆れた様子で声を出す。炭治郎は笑って善逸をフォローしようとするが一度根付いてしまった善逸の印象を変わることは容易ではない。

 

 アオイは溜息をつくと楓の運んでくる食事の為に彼等の寝台に患者用の特別な箱膳(はこぜん)を置いていく。通常の民家で使われる箱膳より一回り程小さいが寝台の幅でもきっちりと収まるし、柔らかい布団の上でもガタ付きがないように寝台に固定できる優れ物だ。

 

 

 アオイがそれを各々の寝台に設置していると丁度楓が台車から今日の食事を運んできた。

 

 

「うわぁ!凄いいい匂い!」

 

 

 もくもくとお椀から湯気を漂わせるその料理の香りに部屋にいた一同は目を輝かせて楓の運ぶ器へと視線を向ける。

 

 

(なんだろうこの料理。嗅いだことのない匂いだ)

 

 

 特に鼻の効く炭治郎は運ばれる料理に人一倍興味を持った。これまで嗅いだことのない全く新しい匂いともなればそれも無理のないことで、そしてそれは運ばれてくる料理を視界に入れることで一層高まった。

 

 

「あの、楓さんこの真っ白な椀はなんという料理なんですか?」

 

 

 楓の運んできた料理の中身は真っ白だったのだ。灰汁で濁ったような、汁もの特有の白っぽさとは全く違う本当に真っ白な料理。そんな料理を炭治郎は見たことがなかった。だから純粋に興味を持った炭治郎は楓へとそう問いかけた。

 

 

「あぁ、炭治郎君は見たことがありませんでしたか。これはシチューという料理で西洋から伝わった煮込み料理を私なりに色々と手を加えたものなんです」

 

「へぇー、セイヨウって海の先にある別の国でしたよね。そんな遠いところの料理を作れるなんて楓さんは凄いですね」

 

「海の先にある……まぁ間違いではありませんが……そんなに凄い料理ではありませんよ。食事処に行けば扱っている店もありますから。少々敷居は高いですけど」

 

 

 心底感心した様子の炭治郎に楓は微妙な顔をして答える。西洋という言葉をを単に海の先にある国と捉えている時点で、炭治郎の教養はあまり高くないことが分かってしまう。まぁ勿論それは炭治郎だけに限った話ではなく、鬼殺隊の隊士全般に言えることではあるのだが。

 

 基本的に鬼殺隊に所属する人間というのは勉学に熱心なものが少ない。特に剣士は日々の修行や鬼狩りの指令に追われる毎日なので、余計なことに時間を費やす余裕などないと、一般的な知識にも疎い者までいるほどだ。幼い頃に親兄弟を亡くした者が多い鬼殺隊では、まともな教育を受けていないこと自体は珍しいことではないのだ。

 

 だからこそしのぶやアオイ、楓といった医学や薬師としての知識のあるものが貴重な存在となる訳だが、正直楓としてはもう少し他の隊士達にも勉学に勤しんで欲しいとそう思ってしまう。無論、鬼殺の剣士として生きる以上は教養のなさはある程度仕方のないことではある。時間は限られており、1人の人間が成長できるだけの鍛錬は決して一定ではない。しのぶや楓のような両立が他の隊士達にも出来るとは言えないのだ。

 

 ただ、時代もまたそんな鬼札隊の事情を考慮などしてくれない。今は特に時代が様変わりしているので、異国に対する知識や新しい文化を身につけておかなければこの国で生きることすら難しくなるのではないだろうか。

 

 そう楓が考えてしまう程、今この国は急速な変化を遂げている。楓は曲がりなりにも薬学をしのぶから学び、異国からの新しい知識を身につけようと日々努力している。そうであるが故に余計に急速に変化していくこの国の技術や文化に戸惑うのだ。

 

 食文化、建築様式、服飾、車という乗り物に列車という巨大な代物まで、ありとあらゆる場所でこれまでの当たり前が変革している。そしてその変革に鬼殺隊はおろか、この国の大半の住民がついていけていない。

 

 

 楓の師であるしのぶは今のこの国の状況をこう表現した。

 

 

『人があって初めて存在するはずの文化や技術が今や人を置いてきぼりにしてしまっている』と。

 

 

 実に的を得ていると楓もそう思った。鬼殺隊に所属する他の隊士達を見ていると殊更にそれを実感してしまうのだ。鬼殺隊の誰一人として今のこの国の革新的な変化についていけていない。誰もこの国の変革に興味すら示していない。

 

 

 そのことに、ほんの少し恐ろしさのようなものを感じてしまう。

 

 

「はぁ〜」

 

「……楓さん?」

 

 

 褒めたはずなのに、どこかしんみりとした匂いを漂わせて溜息をつくと楓に炭治郎は怪訝そうに首を傾げた。

 

 

「ああ、すいません。ちょっと考え事をしてしまいました。……さて、冷めないうちに食べてくださいね。シチューは暖かいうちが一番美味しいですから」

 

 

 消沈したような面持ちを振り切るかのように楓は首を振ると努めて明るい声色でそういった。楓の掛け声に炭治郎も寝台へと座り込むといただきますと手を合わせ、それに習うように他の皆も食事に手をつけていく。

 

 

 一人を除いて。

 

 

「いや、この状況でどうやって食べろと……両手塞がれてるどころか全く動けないんですけど」

 

 

 周りが暖かい食事に舌鼓をうつ中で善逸は一人目の前に置かれるだけ置かれた湯気のたつ食事を見つめた。

 

 

「あぁ、我妻(あがづま)君はそのままでは食べれませんね……仕方がないので私が食べさせてあげましょう」

 

「えっ!?いいの!?」

 

 

 にっこりと微笑んでそう提案してくる楓に善逸の声は思わず大きくなる。

 

 目を見開いて期待にうち震えるように声を発する彼は気づかなかったのだ。彼女が発する不穏な音に。

 

 

(あ〜、なんだかとても怖い匂いがするんだけど……善逸、大丈夫かな?)

 

 

 楓の笑顔の裏に何か隠された意図があることを匂いで察知した炭治郎は視界の端で喜びの声を挙げながら固定された体でジタバタと寝台をゆらす善逸に不安そうに視線を向ける。

 

 

「……楓、お願いだからあまり騒動にならないようにしてよね」

 

「勿論……静かに、とても静粛にして見せましょう」

 

「……一応、怪我人であることを忘れないでね」

 

 

 楓が放つ不穏な雰囲気にアオイも彼女の意図を察したのだろう。可哀想なものを見るような目で善逸を見たあと、諦めたように溜息を吐いて、なほを伴ってそっと病室を後にした。

 

 

「さて、それでは我妻君……」

 

「はぁ〜い、えへへへ」

 

 

 だらしなく頬を緩め間延びした声で返事をする善逸の様子は目の前に餌をぶら下げられた犬のようで、普段なら気づけたはずの楓の放つ不穏な音には気づきもしない。女の子に食事を食べさせてもらうという彼にとってまさしく夢のような奇跡に、有頂天になっている善逸は思いもしない。つい先程まで自身に迫っていた危機が決して回避できた訳ではないということを。

 

 

「一口ごとに私が今から言うことを覚えてくださいね」

 

「へ?」

 

 

 続いた楓の言葉にキョトンと善逸は首を傾げる。

 

 

「先程の続きですよ。貴方は他人、特に女性に対する態度があまりにも節操がない。……ですから私が改善して差し上げます」

 

「え、えーと、ご飯を食べさせてくれるんじゃなかったのかなぁ〜なんて」

 

 

 先程の続きと言われれば想像できるのは炭治郎が回避してくれた楓の説教地獄以外にはない。そしてそこまでくれば如何に幸せに目が眩んだ善逸でも楓の放つ不穏な空気に、彼女の奏でる音色に気付くことできる。

 

 額に冷汗を浮かべながら苦笑いを浮かべて善逸は楓へと恐ろしげに視線を向ける。

 

 

「勿論、食事が取れないなんて可哀想ですし体に良くありませんから、きちんと食べさせてあげますよ。貴方に礼節を教えるついでにはちょうど良いでしょう」

 

「ひぃ!?」

 

 

 尚も笑顔でありながらその裏に隠された恐ろしい雰囲気を感じ取った善逸はにじり寄ってくる楓から思わず距離を取ろうと身を捩るが、無論寝台へとしっかりと固定された彼の体が動くわけもない。

 

 

「さぁ、冷める前には食べきってくださいね。折角作ったのですから」

 

「イィぃぃぃヤァァァ〜ッ!!!?」

 

 

 善逸の悲鳴は屋敷中に響き渡った。

 

 

 余談だが、彼はシチューを食べきるも、その間悲鳴を挙げながら終始不気味な笑顔を浮かべていたのだそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

「それで?言い訳があるなら聞きましょうか、楓?」

 

 

 意識を天へと飛ばしている善逸の容体を見ながらしのぶは淡々としかしはっきりと額に青筋を浮かべて楓へとそう問いかけた。およそ1時間にも及んだ楓の教育に弱った善逸の体は限界を迎えたのか、楓が食器を集めている最中に突然パタリと意識を失ってしまったのだ。不気味な微笑みを浮かべどこかやり遂げたかのような面持ちで白目を剥く善逸に炭治郎が悲鳴を挙げ、それを聞きつけたしのぶが病室へとやってきて今に至る。

 

 

「ちっ違うんですよしのぶ様、これは、そう!必要な教育という奴でして…その決して悪意によるものではなくてですね」

 

 

 微笑みながらどこか怒りの雰囲気を纏わせたしのぶの姿に、楓は慌てふためきながら言い訳じみた返答をする。

 

 

(……完全にやりすぎた……まさか気絶するほど体力を消耗していたなんて…)

 

 

 終始どこかポワポワとした幸せそうな空気を出し、聞いているのか聞いていないのか分からない善逸の様子に楓は手加減を誤ったのだ。善逸がかなりの女好きであるということを分かっていながら、食事を食べさせてあげるという彼にとって劇薬に等しい行動をとってしまった楓の完全な失敗であり、この状況をしのぶに見られた時点で下手な言い訳など通用するはずもない。

 

 

「悪意がなければ何をしても許される訳ではないのですよ……毎度のことながら貴方は手加減という言葉をもう少し勉強しなさい。彼は見た目以上に重傷なのですよ」

 

 

 善逸が随分と騒がしいという報告はしのぶも受けていたし、それに対して楓が注意を促したというのであれば、それを咎める必要などない。これが一度目であるならだが。

 

 

「これで一体何人目ですかね、貴方の説教の犠牲者は……」

 

「うぅ、申し訳ありません」

 

 

 呆れた表情をしてそう呟くしのぶに楓は所在なさげに謝罪を口にする。

 

 

((いや説教で犠牲者って表現が既におかしいでしょ))

 

 

 尾崎と村田は内心でそう突っ込みを入れながら、視界の端で繰り広げられる珍妙な光景を黙って見つめていた。

 

 

「貴方の礼節に対する考え方は嫌いではありませんし、それを人に説くのは素晴らしいことではありますが……ものには限度というものがあります」

 

「はい……すいません」

 

 

 鬼殺隊に所属する大半の人間はまともな教育など受けたこともない。運ばれてくる隊士に礼儀がなっていないと楓が突っかかっていく光景は蝶屋敷にとっては半ば日常的に行われている惨事だ。信乃逗が存命だった頃はそれこそ毎日のように行われていた光景でもあるのだから、しのぶとしても慣れたものだ。

 

 

「あははっ」

 

「ちょっ、炭次郎君っ!何がそんなに可笑しいんですか!?」

 

 

 突然、大きな笑い声をあげる炭治郎に楓は目を細めてそう声を荒げる。

 

 

「あっ、すいません。くっふふ、だって楓さんが叱られてる光景ってすごく珍しいから」

 

「わ、私だって失敗する時くらいありますよっ」

 

 

 込み上げる笑いを必死に堪えるように口を押さえて言葉を発する炭治郎に楓はいじけたように頬を僅かに膨らませて反論する。

 

 

 その様子にしのぶは僅かに目を見開く。柱合会議から暫くたつが、楓が炭治郎と親しげに会話をする光景を目にしたのはこれが初めてだった。最近は那谷蜘蛛山の事後処理や、怪我人の治療などで奔走していたので定期的な検診以外ではしのぶはあまり炭治郎と接触できていなかったのだ。

 

 

(楓がここまで心を許すなんてね……)

 

 

 天野山の一件以来、楓は誰かと一定上に親しくすることを避けているように見受けられた。信乃逗、山本、清水、と立て続けに親しい間柄の仲間を失くした彼女だ。

 

 人と親しくなればなる程失った時が辛くなる。

 

 それを実感した彼女が他人と親しくすることを無意識に避けること自体は無理のないことだとしのぶも思っていた。

 

 それにこの手の問題は時が経てばいずれは癒える。だからこそしのぶはそのことをあえて指摘することをしなかったのだが、今の彼女からそのような危うげな雰囲気は感じない。

 

 あの柱合会議の様子からしても、楓がそこまで炭治郎と積極的に会話をするとは思っていなかったし、やたらと繊細な一面を持つ楓のことだ。禰豆子(ねずこ)を殺そうとしていたことを気に病んで、彼等との接触を避けるかとそう予想していたのだが、現実はどうもしのぶが全く想定していなかった方向に進んでいるようだ。

 

 

「……二人は随分と仲が良くなったのですね」

 

「うっ!?しのぶ様っ!?なんだか凄く黒い微笑みですよっ」

 

 

 微笑ましい光景を見るかのようににっこりとした柔らかい表情でそう口にしたしのぶを見て楓は戸惑いの声をあげた。

 

 

「……怪我の具合はどうですか?」

 

 

 パタパタ手を必死に動かす楓を横目にしのぶは炭治郎へとそう問いかけた。

 

 

「だいぶ良くなってきているようです。痛みはもう全く感じませんから」

 

 

 しのぶの問いに炭治郎もにっこりと微笑んでそう返す。

 

 

「そうですか。……ではそろそろ機能回復訓練に移りましょうか!」

 

「機能回復訓練?」

 

「はい!」

 

「えっと、なんだかよくわかりませんが宜しくお願いします」

 

 

 その先に待つ厳しい厳しい訓練などつゆも知らない炭治郎は、花も恥じらうような満面の笑みを浮かべたしのぶの表情に僅かに頬を染めて頷いた。

 

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます。
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善逸君の態度って楓のような人から見ると相当ピキッ!な反応だと思うのでそういう間柄を描いてみました。

くしくも信乃逗ポジションですね 笑



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鍛錬

 

 

「で、彼等は一体何をしているのですか?」

 

 炭治郎達が機能回復訓練を開始してから10日ほどたったある日、楓は彼等の休む病室の前で炭治郎にそう問いかけていた。細められた瞳と前へと組まれた腕からして、普段の楓の様子より数段雰囲気が鋭い。

 

 

「あははは、えっと、そのぉ……休憩?」

 

 

 睨みつけられるように楓から視線を向けられた炭治郎は、苦笑いを浮かべて誤魔化すように首を傾げてそう呟いた。

 

 

「なぜ疑問系なんですか?……私はあの二人が三日も訓練に顔を出さないとアオイからは聞いているのですが?休憩というにはあまりにも長い気がしますけど?」

 

 

 炭治郎の言葉を受けて楓は細めた瞳に一層力をこめる。

 

 

 炭治郎と同じ時期に機能回復訓練を始めた伊之助という猪の被り物をした少年と、患者の中でも特に問題児の我妻善逸の二人が、最近になって機能回復訓練に顔を出さなくなった。

 

 

 そうアオイから愚痴のような相談を受けたので、こうして楓が二人と一度話でもしようかと足を運んだのだが、なぜかいま炭治郎によってそれを妨害されている。

 

 どうやって察知したのか、楓が廊下を歩いて病室に近づくと部屋から勢いよく飛び出してきて慌てた様子で楓を中に入れまいと試みているようなのだ。

 

 

(まぁ、彼を責めても仕方ないんですけど……)

 

 

 炭治郎は訓練に継続して参加していると聞いているので、別に咎めることなど特にないのだが、どういう訳か二人に自分を合わせないようにしようとする素振りをするものだから、つい楓もきつい口調で炭治郎へと詰問することになってしまった。

 

 

「えーっと、その、どうも訓練の難しさにちょっとへそを曲げてしまっているようで、俺が説得するので、その……楓さんにはもう少し様子を見て欲しいかなって」

 

 

 顔色を少し伺うように炭治郎は楓へと遠慮気味にそう言う。

 

 正直なところ、炭治郎には今のいじけた様子の二人と楓を合わせることがいい方向に進むようには思えなかったのだ。

 

 楓は良くも悪くも努力を怠らない、優しくも厳しい人柄をしている。そうであるが故に、努力を怠るものに対する認識には厳しいところがあり、加えて自身の意見を他者へとなんとか押し通そうとする気来も見受けられる。それは、他者に対する礼節を事細かく善逸に説く姿から見ても明らかで、そんな楓が今の二人に接すれば、また騒動の種になりかねないと炭治郎はそう懸念したのだ。

 

 だから楓が何やら不穏な匂いを漂わせて部屋に近づいてくることを察知した炭治郎は、彼女を今の2人に合わせまいと部屋の入り口へと立ち塞がっているという訳だ。

 

 

「はぁ〜〜、まぁそんなことだろうとは思いましたよ。アオイはともかくカナヲが参加しているのなら、彼等の実力では手も足も出ないでしょうからね。……全く意気地のない」

 

 

 頭が痛いとばかりに額に手を当てながら楓は盛大に溜息を吐いた。これまで機能回復訓練を主に担ってきたのはアオイやなほ達だが、最近ではカナヲが参加することが多い。彼女の師であるしのぶがそう命じているからだ。今回も炭治郎達への訓練にはアオイよりもカナヲの方が適任だろうという判断からか、しのぶはカナヲに訓練で炭治郎達の相手をするように命じていた。

 

 

(炭治郎君も含めて、カナヲの相手をするにはまだ早いと思ってはいたけど……)

 

 

 カナヲは楓から見ても間違いなく天才だ。

 

 彼女の剣術の才能も、呼吸の上達速度も並の隊士など比ではないほど速い。嘗ては楓も才能豊かとそうしのぶに評されてきたが、はっきり言ってカナヲのそれは楓の次元を遥かに超えている。

 

 楓はまともに【常中】を扱えるようになるのに半年はかかった。

 

 なのにカナヲはしのぶに【常中】の教えを受けてから、僅か3か月で実戦で使用できるまでに昇華させてみせたのだ。いっそ嫉妬してしまいそうになる程カナヲはとんでもない速度で強くなっている。

 

 

 そんな彼女といくら同期だからと言っても未だ【常中】という技術にすら気づいていない炭治郎達では、あまりにも差があり過ぎる。カナヲとの力量差に心が折れてしまうという可能性は楓にとっては十分に考慮出来る事態だった。

 

 

 

 とは言っても、10日と持たないというのはあまりにも根をあげるのが早い気がするが

 

 

 

「うぅ、すいません」

 

「別に貴方が謝る必要はないでしょう。貴方はきちんと訓練を続けているのですから」

 

「それは……でも、仲間ですから」

 

「……妙な考え方ですね。確かに彼等は同じ鬼殺隊の隊士ではありますが、それに固執する必要はないでしょう。……貴方はなすべきことをなし、彼等はそれを怠っている。なら、貴方がそれを気にしてあげる必要などない。やる気のない者など放っておけばいいのです。そんなことに気を使うより、貴方は貴方が強くなることに全力を尽くせばいいではありませんか」

 

 

 別に善逸や伊之助のような例が全くないわけではない。

 

 というより、この蝶屋敷で最後までまともに機能回復訓練の過程をこなした者の方が少ないと言ってもいい。訓練自体弱った体にはきついものになるし、しかも相手が女人だ。基本的に男所帯の鬼殺隊では、訓練に参加して女人に負けることに耐えられないといって途中で辞めていく軟弱極まる隊士は決して少なくなかった。

 

 

 そう言った輩に対する蝶屋敷の対処は基本的には放置だ。

 

 

 無理に努力を強いて嫌々やる者に結果などついてこない。強くなる気のない者に、時間を割いている余裕などアオイを含めてこの蝶屋敷にいる者達には存在しない。

 

 

 だから炭治郎からそう聞いた以上は、楓もこれまで通りに伊之助と善逸の2人は放置するつもりだった。

 

 

「そうでしょうか?……勿論、訓練には全力で取り組みますよ……カナヲやアオイさん達にあれだけ時間を割いてもらってますから。……でも、俺は一緒に訓練出来た方が楽しいですし、一緒に強くなれたらいいなって、そう思うんですけど」

 

「……お人好しというか、なんというか……まぁ炭治郎君の好きにすれば良い話ですけど」

 

 

 仲間想いというには行き過ぎたその考え方に、楓は呆れた様子で炭治郎へと視線を向けた。

 

 

「そういえば、楓さんは訓練には……」

 

「私が参加しても今の貴方にとって良い結果にはならないですよ。……そうですね。カナヲに触れられるようになれば訓練をつけても良いかもしれませんが、今の貴方ではまだ早いですね」

 

 

 炭治郎の期待したような眼差しを受けて楓は肩をすくめてそう言った。

 

 カナヲは確かに天才と呼ぶに相応しい才能を秘めているが、それでもまだ楓には及ばない。カナヲと楓では文字通り年季が違うのだから、それもある意味では当然のこと。積み上げてきた経験というのはそう簡単には覆すことはできない。未だにしのぶに及ばない楓だからこそ、そのことは身をもって理解している。

 

 カナヲに指一本触れられないようでは、楓の相手をするには時期尚早に過ぎる。せめて服の端くらいに触れるようでなければ、炭治郎の心が折れるのを早めるだけになってしまうだろう。

 

 

「うぅ、やっぱり全集中の呼吸をずっとできるようにならないと駄目なのかな……」

 

 

 項垂れた様子で呟かれた炭治郎の言葉に、楓はぴくりと傍目にも分かるほど大きな反応を示した。

 

 

「……どこでそれを?」

 

 

 怪訝そうに眉を顰めて、楓は炭治郎へと問いかけた。

 

 炭治郎の放った言葉が意味することはつまり、全集中という呼吸技術の一つである【常中】を彼が知ったということに他ならない。

 

 【常中】という技は本来そこまで秘匿される技術ではない。

 単純に実力のない者にやらせても出来ないというだけで、絶対に教えてはならないようなものではない。だから炭治郎が【常中】を知ったこと自体はそれほど問題ではない。

 

 ただ、気になるのは炭治郎がどうやって【常中】という技術の内容にまで行き着いたのか、ということだ。

 

 

 おそらくしのぶが教えることはない筈だ。

 

 彼女はカナヲ達に完全に炭治郎達の相手を任せているし、しのぶはその手の技術は安易に教えたりはしない。自分で相手との力量差を分析して、足りないことを見つける。それも今回の機能回復訓練でしのぶが課す一つの課題なのだから。

 

 

「あぁ、えっと、なほちゃん達が教えてくれたんです。カナヲや楓さん、柱の人達みたいに強い人はいつも全集中をしてるって」

 

 

(……あの子達は……全く)

 

 

 返ってきた返答に楓は思わず天を仰ぎみた。なほ達がまさかそれを教えてしまうとは楓としては想定外だった。これまでも多数の隊士に機能回復訓練を施してきた彼女達だが、【常中】のような技術的なことを隊士達に教えることはなかった。

 

 

「【常中】」

 

「え?」

 

 

「……私たちはそれをそう呼びます。貴方の目指すその技術は、階級が(きのと)以上の者ならば身につけていて当たり前の基本的な技術ですが、本来は入隊したての隊士が身につけられる代物ではありませんから、焦らずに努力することですね」

 

 

 中途半端に技術を伝えるというのは、呼吸のような実戦的武術においては本来あまり褒められたものではない。

 

 教えるならば徹底して、間違いのないように伝承していくのが本来の継承のやり方だ。しかし今の楓には炭治郎につきっきりで【常中】を教えているような余裕はない。カナヲが炭治郎達の訓練を言いつけられたように、しのぶから与えられた指示が楓にもあるのだ。

 

 

 それを果たすには今は時間が足りない。

 

 

 だから楓はその技術の名前と、それが今の彼には分不相応であることだけを案に告げた。

 

 

「え、でもカナヲは?」

 

「あの子は少々特殊な事例です。まぁ言ってしまえば天才という奴でしょうか?……ともかく彼女を基準に考えるのはお勧めしません。ゆっくり確実に強くなれるように、地道に努力し続けるのが最良ですよ」

 

 

 焦ったところで碌なことはない。

 

 あまりにも難易度の高い技術というのは、時に学ぼうという意思を持つ者の心を容易く折ってしまう。だからこそ己の力量に合ったところから、ゆっくりと確実にこなしていくことがより確実に早く強くなる道だと、そう言われるのだ。

 

 カナヲのような天才を間近に置き、比較対象として見てしまえば彼の焦りは普通よりも遥かに強くなるだろう。同期の、しかも女が、自分よりも遥かに高い位置にいるのだとそう理解すれば、他の普通の隊士ならば焦りに呑まれる。

 

 あるいは届かぬ高みに嫉妬に心を狂わせてしまうことすら十分にあり得るのだ。

 

 このような言われ方を女人にされれば、男児である彼はいい顔をしないかもしれない。この時代、男性は女性を下に見ることが多い傾向にあるので、そのような反応をされる可能性も多いにあった。

 

 それでも、少しでも彼の焦りを緩和できればと、そう思って楓は炭治郎へと忠言のつもりでそう告げた。

 

 

 ところが返ってきた炭治郎の反応は、楓の予想していたものとは大きく異なるものだった。

 

 

「そうなんですか。カナヲはやっぱり凄いんだなぁ。……うん!俺も頑張ります!」

 

 

 純粋に、あまりにも綺麗な瞳で炭治郎は楓を見返す。

 

 そこに嫉妬の色はなく、まるで心の底からカナヲを尊敬しているかのように、炭治郎は彼女を称賛する。

 

 

(焦りは感じているはず……それを完璧に制御できている?)

 

 

 炭治郎の反応に楓は僅かに目を見開いて驚きを露わにする。

 

 炭治郎の先程の様子には間違いなく今の力のない自身に焦りを感じていることが現れていた。

 

 何日も同期のカナヲに負け続けているのだろうから、それ自体は無理のないことだが、そんな状態が長く続けば、普通は高まる焦りに呑まれ、己を見失い、早く早くと結果を求め、理想に追いつけない自分に絶望するものだ。

 

 自分では至れないと、才能がないと諦めてしまう者達の多くが辿る道に彼も入ってしまう筈だが、その先端たる焦りに彼は未だ呑まれていない。

 

 

 焦りを制御しきるなど、本来なら並の人間にできることではない。理想が遠く大きければ大きいほど、人は早く走ろうとする生き物だ。

 

 

 意思の強いと、そう自負する楓ですら、一度は自分の至らなさに絶望し、足掻くことを諦めそうになった。それでも師の支えや、沢山の仲間達の想いのおかげでこうして今この場所に立って、遠い空へと手を伸ばし続けていられるのだ。

 

 にも関わらず、楓が1年かけて乗り越えてきたそれを未だ入隊したばかりの年下の少年がいま、誰の支えもなくたった一人で乗り越えようとしている。

 

 

(……信じてるんだ)

 

 

 炭治郎の瞳を見て楓はふとそう思った。

 

 純粋無垢で、妬みや泣き言など知らないとばかりに彼の瞳はただ未来の自分を、できるようになった自分を信じている。

 

 

(なんて綺麗で強い意志……)

 

 

 この分であれば楓の考える不安など杞憂でしかなかったのかもしれない。いっそ楓の助言など必要なかったのだろう。炭治郎は焦りで自分を見失うことなどなく、一人でも十分、地道な努力を続け、結果を目指していくことができるだけの強い心を持った人間だ。

 

 

「……私には私のやるべきことがあります。ですが、貴方が【常中】の入り口に立ったならば、その時は私も訓練に参加しても良いでしょう」

 

「はい!よろしくお願いします!」

 

 

 元気よく、笑顔で声を出す炭治郎に楓の頬を自然と緩む。

 

 

(さて……後輩がこれだけ頑張っているのですから先輩方にはもっと頑張ってもらわなければいけませんね)

 

 

 炭治郎の姿を見て触発されたように楓は内心でそっと呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「無理ですぅぅぅッッ!!」

 

 

 それまで閑静だった道場に悲鳴のような叫びが響き渡った。

 

 

「村田さん、何を叫んでいるのですか?……それにできる出来ないではなく、私はやれと言っているんですよ?」

 

 

 その叫びを聞いた楓はジタバタと手足を振るって叫ぶ村田に視線を向けてにっこりと微笑んだ。

 

 

「いや死にますっ!これ以上は死んじゃいますからっ」

 

「大袈裟な、たった(・・・)4分間息を吐き続けるだけで死ぬ訳ないでしょう?」

 

「いや、死にますっ!普通の人は死にます!人間は吸って吐かないと死ぬんですよ!そもそも2分でも限界だったのになんで急に2倍になるんですかっ!」

 

 

 駄々をこねる子供を扱うように楓は溜息を吐きながらやれやれと肩を竦めてみせるが、村田はそれに凄まじい形相で言い返す。

 

 村田が楓に稽古をつけてもらうようになってから10日程、炭治郎達の機能回復訓練と同時期に始まったこの訓練は、彼のあまりにも低い全集中の呼吸の精度を高める為に楓が提案した簡単な鍛錬法の一つなのだが、彼はそれを不可能と断じているようで、先程からこうしてジタバタと暴れ回っている。

 

 

(情けないなぁ……これは根性から鍛えた方がいいのかな?)

 

 

 先程の炭治郎の様子を見ていたせいか、村田のこの反応が楓には一層情けなく見えてしまう。

 

 

 だが村田のこの反応は決して彼が際立って軟弱というわけでは無い。

 

 この鍛錬法は楓にとっては初心者向け、謂わば造作もなくこなせなければいけない初歩の初歩なのだが、村田にとってはそうではない。というより、多くの隊士にとってそれは決して初心向けの技術ではない。楓の教える技術は【常中】を行うことを前提にしのぶから学んだ鍛錬法を模した技術なので、柱でもない、ごく一般的な隊士だった「育て」によって教育を受けただけの村田には初歩の初歩から地獄に見えるというわけだ。

 

 

(はぁ〜……このままじゃあしのぶ様のお役に立てないよ)

 

 

 楓がしのぶに命じられた任務。

 

 

 それは村田達、一般隊士への稽古をつけることだった。

 

 

 これは柱合会議でも議題に上った現在の鬼殺隊の最大の問題点である隊士達の質の低下への対策の一貫。

 

 

 

 現在、鬼殺隊の教育制度は「育て」が希望者に鍛錬を施す以外にはない。

 

 

 つまり一般隊士達には、入隊以降基本的に技術的な指導を受けるような場面がないのだ。

 

 正式な制度としては柱と継ぐ子の師弟関係があるが、施されるのは見込みのある極小数の隊士達だけで、それ以外の隊士達にはそのような機会は当然ない。時間的に制約の多い柱が多くの隊士に鍛錬をつけるのは現実的ではないのだから、これについてはある意味仕方がないことだったのだが、正直現在の鬼殺隊の戦力ではそうも言っていられない。

 

 そこでしのぶが思いついたのが楓達が行っているこの鍛錬法だ。機能回復訓練とは別に、能力の高い隊士に能力の低い隊士達への教育を行わせてある程度の底上げができるか否か、それを楓達に行わせて結果を見ることがしのぶの目的だった。

 

 柱以外で能力の高い者が能力の低い者に鍛錬を施せる制度が有れば、ある程度は隊士達の能力の均一化が図れるのではないか、そう考えたしのぶが実験的に取り行っている教育法の一つがこの鍛錬という訳だ。

 

 

 ところが、実際に初めてみると、この実験には非常に大きな難点があった。

 

 

 楓は剣士の中でも柱に準じる程に能力が高いが、そうであるが故に並の隊士でしかない村田達とはあまりに鍛錬に対する常識が違ったのだ。

 

 楓にとって常識的にこなせる鍛錬が、村田達にはなかなかこなせない。村田達が死にかけてしまうような鍛錬は楓にとっては出来て当たり前の造作ないものでしかない。

 

 

 その感覚の差から生まれた弊害が、いま村田の心を折りかけているという訳だ。

 

 

 普段の楓なら嫌ならやらなくていいと言って放置するところだが、今回ばかりはしのぶ直々の命令もあってそうもいかない。

 

 

(世話のかかる人ですね……)

 

 

 内心でため息をつきながら楓は村田へと発破をかけることにした。

 

 

「貴方達を強くする為に決まっているじゃないですか?……このままじゃ村田さん、階級まで炭治郎君に追い抜かれちゃいますよ?それでもいいんですか?このままでは駄目だと思ったから、しのぶ様に鍛錬をお願いしたのではないのですか?」

 

「うっ」

 

 

 はしゃいで転んで泣き喚く子供を相手取るかのような楓の反応に、村田は思わず言葉を詰まらせる。

 

 

 そう、元々この鍛錬を願い出たのは村田の方からだった。

 

 

 天野山、那谷蜘蛛山と、立て続けに窮地に陥り、多くの仲間を失った彼が己が力量の足りなさを痛感するのはそれほどおかしなことではない。加えて自分よりも遥かに年下で、階級も下の炭治郎達に実力で大きく劣っているとなれば、彼も男だ。なけなしの意地に火がついてしまうことはある意味仕方のないことだった。

 

 

 定期診察に来たしのぶに村田は額を床に擦りつける程頭を下げて稽古を願い出たのだ。自らの弱さを恥じるように必死に強くなろうと自分自身で決めたのだから、それを楓に指摘されてはどんな無理難題に見える鍛錬でも挑戦しない訳にはいかない。

 

 

「それに文句を言っているのは貴方だけですよ?ほら、尾崎さんは平気そうにやってるじゃないですか?」

 

 

 楓はふと村田から視線を外してこの場にいるもう一人の受講希望者へと目を向ける。その視線に促されるように村田も那谷蜘蛛山で共に死地をくぐり抜けた仲間へと視線を向けた。

 

 

「ふぅぅぅぅぅぅっっ#☆◆♪★」

 

「瞳孔が開いてる上に滅茶苦茶血走ってますけどっ!?阿鼻叫喚(あびきょうかん)じゃないですかっ!!どこが平気そうなんですかっ!?」

 

 

 村田同様、いつのまにかしのぶに鍛錬を願い出ていたらしい尾崎はいま、女性がしてはいけない形相で息を吐き続けていた。目を限界以上に見開き、尋常ではない汗をかきながら、しかも後半は言葉にならない悲鳴をあげている。

 

 

「尾崎っ、無茶するなっ!死んじゃうぞ!?」

 

 

 どう考えても平気そうではなく、いっそ今にも死んでしまいそうな表情をした尾崎に村田は慌てて駆け寄よると肩へと揺するように手を置いた。

 

 

「いや、だから死なないってば」

 

「高野様は黙っててください!」

 

「ぶふっ、はぁはぁ、大丈夫よ……村田君、こんなのなんてことないわ」

 

「尾崎……お前」

 

 

 呼吸を乱し、肩を激しく上下させる尾崎は今や酷く憔悴したような表情をしているのにその瞳からは決して消えることのない決意のようなものを村田は感じていた。

 

 

「私達、強くなるためにやってるんだから……弱いままでいたくないから、胡蝶様にお願いしたんだもの。命をかけることになってでも、強くなれるなら…私はどんな鬼畜な鍛錬にも挑めるわ……強くなって、今度は私が村田君を守ってあげる」

 

「っ……尾崎……あぁ!もう!やってやるさっ!例え死の淵に足を踏み入れることになっても、鬼畜極まる無茶苦茶な鍛錬だって、やってやる!!俺だって強くなりたいんだからなっ」

 

 

 尾崎が一体どれ程の覚悟でこの鍛錬に望み、そして何を願っているのか、それを聞いてもまだ尻込みしていられるほど、村田は男を捨ててはいない。折れかけた心を瞬時に立て直すと、彼は尾崎の横に座禅をするように座り込み呼吸を整え始めた。

 

 

「ふふっ……お互い、死なないように頑張りましょう」

 

 

 そんな村田を見て、そっと微笑む尾崎は同性である楓から見てもとても綺麗だった。

 

 

 綺麗ではあるのだが……

 

 

(なんだろうこの微笑ましい空気感、凄く居づらいんですけど……というか、私の訓練はそんなに鬼畜なの?)

 

 

 先程から死なないようにとか、鬼畜な訓練だとか、散々な言われようなのだが、これはあくまで彼等を強くする為に考えた訓練な訳で、決して楓は悪意を持っているわけではない。

 

 

 しかもこの二人、訓練の最中にありながら楓が戦慄しそうになる程の甘い空気感を漂わせてくる。なんの拷問だろうかと、一緒にいる楓がそう思ってしまうのも無理のないことだった。

 

 

「というか、この程度で死なないからね?」

 

 

「「高野様は黙ってて下さい」」

 

 

(……解せませんね)

 

 

 村田達とは別に、密かに心が折れそうになっている楓だった。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
御意見・御感想等頂けますと幸いです!

どうも、炭治郎の綺麗な心を見習いたい作者です。
まさかの村田・尾崎ペア強化ルートに向かいました 笑
あえて炭治郎達とは別のルートで修行という謎、解明は不可能です。
こじつけはしましたけど 笑笑

蝶屋敷の発言力って

  アオイ ≧ しのぶ > 楓 > カナヲ

こんな感じかな?
何気にアオイが最強だと面白いですよね 笑




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屋根の上、星の下



 ごめんなさい。
 長いわりには展開が進みません。




 

 

「フゥゥゥーー」

 

 

 夜の闇に包まれた体に月の光が優しく降り注ぐのを感じながら、炭治郎は呼吸へと意識を集中していた。

 

 

 体内を巡る血にたくさんの空気が含まれ全身に行き渡る。その感覚を何度も何度も繰り返し体に覚えさせるように続けていく。

 

 

(全集中の呼吸……やっぱり楓さんの言う通り、夜の方が呼吸をしやすい。昼間に体を動かして疲れ切っているから体が空気を求めてるのかな?)

 

 

 炭治郎が楓に【常中】という名前の技術があることを教えてもらってからすでに一週間以上、毎日毎日体を動かし筋肉を強化して、呼吸をしながら体を動かすことを意識してやってはいるものの、やはりそう簡単には会得できない。もう少し何か助言を貰えないかとそうは思ってみたが、楓はいま屋敷を留守にしているようでここ数日は全く逢えていない。

 

 

 まあ、訓練でもカナヲに触れるどころか未だ服にすら手が届かないのだから、今の段階で楓にこれ以上何かを求めるというのは、甘えが過ぎるのかもしれないし、彼女の言う通り時期尚早に過ぎる可能性も否めない。

 

 

 【常中】という技術が簡単な物ではないことは既に忠告を受けているのだから、今はこれをゆっくり地道に続けていくしかないのだろう。

 

 

(焦らない、焦らない……少しづつ前に進む。楓さんのいう通り簡単な技術じゃないんだから、努力し続けるしかない。……俺にはそれしか出来ないんだから)

 

 

 狭霧山の時と同じように。

 諦めずにただひたすら信じて続ける。

 

 

 炭治郎には本来際立った剣技の才はないし、カナヲのような天才と言われるだけの呼吸の才能もない。炭治郎の持つ際立った才といえば人智を超えた嗅覚だと彼を知る人ならばそういうかもしれない。実際、鬼と人の匂いは勿論、他人の感情の匂いまで嗅ぎ取るその嗅覚は、もはや異能とよんでも差し支えがない領域にある。

 

 

 しかし、炭治郎の実質的な師である鱗滝(うろこだき)に言わせれば彼の持つ最も優れた才能はそれではない。

 

 

 炭治郎の持つ最も優れた才能、それは信じることを止めないことにある。

 

 

 炭治郎は他の誰よりも信じることができる才能を持った人間であり、どんな地道で過酷で辛い時間も、途切れることなく彼は歩み続けることができる。

 

 

 見えない道のりに、常人で有れば絶対に諦めてしまうような状況にあっても彼は、彼だけはあきらめない。嘗て水柱だった鱗滝がそう自信を持って言えるほど、竈門炭治郎という男は努力を怠らない。

 

 

 自分を信じ、他人を信じ、そうであるが故に未来を信じることができる。そしてそれが竈門炭治郎という男をより強くする。

 

 

「集中……集中……」

 

 

 ポツポツと言葉をこぼしながら、月夜に一人で鍛錬に励む炭治郎の姿を覗き見る影が一つ。

 

 

(昔を思い出しますね……)

 

 

 この蝶屋敷の主人、胡蝶しのぶだ。

 

 今、しのぶの脳裏には昔こっそり寝台を抜け出しては怪我も治らぬうちから鍛錬に励む困った後輩達の姿が過っていた。

 

 

(竈門君は……あの二人にどことなく似てますね)

 

 

 一人は、嘗てこの蝶屋敷で共に働き、剣の手習いを付けた頑張り屋の少年、そしてもう一人は、優しく、儚く、それでいて芯の強い、純粋無垢な心を持った少女。

 

 まるで正反対だったあの二人にどうしてか、彼から似た雰囲気を感じる。

 

 

「もしもーし、竈門君ー」

 

 

 だからだろうか、本当は見ているだけのつもりだったのに、しのぶは気がつくとそう声を掛けてしまっていた。

 

 

「………ふぅ〜……ふぅ〜」

 

 

 間延びするような口調で屋根の上にいる炭治郎へとしのぶはそう呼び掛けるが、炭治郎は鍛錬に集中しているせいか、しのぶの呼び声に中々気が付かない。

 

 

(あらあら……集中し過ぎて声が聞こえてないと……そこは真菰(まこも)さんにそっくりね)

 

 

 もう何年も前のことだが、以前これと全く同じことが真菰とのやり取りでもあった。屋根の上で空を見上げて考えごとに集中する真菰にしのぶは何度も声を掛けたが、結局彼女はしのぶが横に座るまで全く気が付くことがなかった。

 

 真菰といい、炭治郎といい、水の呼吸の使い手は屋根の上が好きなだろうか?

 

 それとも、鱗滝の弟子である由縁なのか、もしそうなら彼も屋根の上が好きなのだろうか?

 

 

(今度富岡さんに聞いてみようかしら?)

 

 

 不意に頭に浮かんだ疑問を、同じく不意に顔が浮かんだ男に問うことにしたしのぶはそっと、屋根の上へと跳び上がると、集中した様子で呼吸の訓練を続ける炭治郎の隣に降り立つ。

 

 

「もしもし?」

 

 

 嘗てと同じようにしのぶはそうやって声を掛けるが、炭治郎は尚もしのぶには気付かず、全集中の呼吸に意識を向け続けている。

 

 

(これは真菰さんより重症ですね……)

 

 

 集中して鍛錬に励むのは勿論良いことだが、これはいき過ぎというものだ。周りの変化に意識がいかないようでは正直なところ実践的とは言い難い。

 

 

(仕方ありませんね〜)

 

 

「……もしもーし、もしも〜〜し?聞こえてますか?」

 

 

 いつかと同じようにしのぶは集中し過ぎて周りの見えていない困った後輩の耳元にそっと近づいて、そう声を掛けた。

 

 

「はいっ!?」

 

 

 殆ど距離のない状態で耳元に囁かれた鈴の音のような響きを持った声色に、過集中気味になっていた炭治郎もようやく気が付いたようで、びくりと身体を震わせると慌てた様子で返事を口にした。

 

 

「頑張っていますね」

 

「ぅあっ!?」

 

「お友達2人は何処かに行ってしまったのに……」

 

 

 あまりの距離の近さからか、頬を少し赤らめておどおどとした年頃の男児らしい反応をする炭治郎にしのぶはそっとほくそ笑む。

 

 

「1人で寂しくないですか?」

 

「ぁ、いえ!……出来るようになったら教えてあげられるので」

 

 

 一瞬恥ずかしそうにしながらも、距離を離すとすぐにハキハキとした口調で返事をする炭治郎にしのぶは心底感心した。

 

 

 人間という生き物は基本的に自分と同じ苦労をしていないものに対してあまりいい感情を持たない。自分はこんなに苦労しているのに、どうしてアイツばかり、なんて思ってしまうことは炭治郎が今置かれた状況からすれば別に不思議なことではないのだが、彼からはそう言った感情を感じない。

 

 

 優しくて、仲間想いで素直で純粋、それでいて芯の強い努力家でもあり、鬼を哀れむ心も持っている。

 

 自らの姉であるカナエにも、嘗てこの屋根の上で話をした真菰とも、炭治郎の心根はあまりにもそっくりで、しのぶは2人の姿を思わず幻視してしまいそうにすらなる。

 

 

「君は……本当によく似ていますね」

 

 

 だから思わず、しのぶの口から哀愁漂う想いが溢れでてしまった。

 

 

「え?」

 

 

 キョトンとした様子で炭治郎は首を傾げる。彼からすれば、何と似ているのか、さっぱり分からない言葉だったはずだからそれは当たり前の反応だった。

 

 彼が知るはずのない出来事を語ったところで何になるわけでもない。姉も彼女も、もうこの世界のどこにも存在しないのだから。未練がましく押しつけるかのように、カナエや真菰と炭治郎を重ねるべきではない。

 

 

「ごめんなさい……昔、この屋根の上で貴方によく似た女の子と話をしたことを思い出してしまったもので」

 

 

 そう思ったから、しのぶはそっと誤魔化すように笑った。このまま、話題を逸らそうと思って。

 

 

 しかし、その目論見は叶わない。

 

 

「女の子……ひょっとして、真菰のことですか?」

 

「っ……よく、分かりましたね」

 

 

 ひゅっと息を呑むようにしのぶは驚きに声を詰まらせながらなんとか口を開いた。心の内を読まれたかのような的確な言葉を受ければ、さしものしのぶも驚きは隠せない。

 

 

「あ、えっと、鱗滝さんから昔、その聴いたことがあって……」

 

 

 炭治郎の返答は随分と辿々しく、普段ハキハキとした言葉遣いをする彼にしてはかなり珍しい様子だったが、言っていること自体は別におかしなことではない。炭治郎は他でもない真菰の育ての父である鱗滝左近次の弟子なのだから。既に故人となった真菰の話を、彼が聞いていたのだとしても不思議ではなかった。

 

 

「そうですか……あの方に……」

 

「えっと、しのぶさんは鱗滝さんには……」

 

「お会いしたことはありますよ……たった一度だけ、話した時間もさほど長くはありませんが……」

 

 

 しのぶが鱗滝と会ったのはこれまででたったの1回だけ。

 話した時間も1時間となかった。

 

 

 ただ、たったそれだけの語らいではあったが、その僅かな時間は鱗滝という人間がどのような人であるかを理解するには十分過ぎるほどしのぶにとって濃密な物となった。

 

 

 しのぶが初めて鱗滝という御仁を目にしたのは、真菰との葬儀の場だった。蝶屋敷にあった彼女の遺品を手渡す為にしのぶは鱗滝へと声をかけた。

 

 

 終始天狗の面を被ったままでいるという少々不思議な格好をしたその老人は、やはり元柱というだけあって相応の気迫があった。鬼殺の剣士を引退してから随分と時が空いているはずなのに、彼の身体からは静かな闘気が迸っているように当時のしのぶには感じられたのだ。

 

 

 引退しようとも彼は依然、鬼と戦う戦士。

 

 

 育てた子の死であろうと、悲しみなどないと言うように葬儀の間、彼はずっと元水柱という肩書きに相応しい毅然とした態度を取り続けていた。

 

 

 

 ——— 唯一、真菰の遺品を手渡した瞬間、その一瞬以外を除いて。

 

 

 

竈門(かまど)君の師は本当に立派な方ですよ……」

 

 

 しのぶの手から、鱗滝の元に真菰の遺品が受け渡されたあの瞬間、彼は元水柱ではなく、1人の父親だった。

 

 

 目の前に立つ男が、愛した子を亡くした寂しさと哀しみに暮れる立派な父親なのだということを、天狗の面の隙間から溢れ落ちた水滴がしのぶにそう伝えてくれた。

 

 

「はい!鱗滝さんには本当に色々なことを教えてもらえて、優しくて……俺は、「鱗滝さんが大好き」っ!?」

 

 

 驚いた表情で固まる炭治郎を横目にしのぶはほくそ笑む。

 

 

「と、真菰さんなら仰るのでしょうね」

 

 

 

 『鱗滝さんが大好き』

 

 

 

 憶えのある言葉だ。懐かしさすら感じてしまう。だってこの言葉は真菰の口癖みたいなものだったのだから。姉と真菰と三人で出掛けた時や、指令に向かった時、食事の時ですらなんの脈絡もなく、唐突にそう呟くことすらあったのだから、きっと口癖で間違いないだろう。

 

 

 彼女が亡くなってからもう5年にもなる。

 

 

 生きていたなら、きっと炭治郎にとってとても良い姉弟子になった筈だ。今でも先達の兄弟子はいるはずだが、あの男にその手の人間関係を求めるのは少々どころか随分と酷だろう。

 

 

(でも、真菰さんがいてくれたら、富岡さんも少しは話が出来るようになってたかもしれませんし……)

 

 

 富岡と鱗滝は文通以外では碌に会話もしていないようだし、柱となった富岡に狭霧山に逐一足を運んでいる余裕はなかったのだろうが、そうであるならきっと真菰は、彼女なら二人の橋渡し役のように間を受け持ったのではないだろうか。

 

 

(……意味のない……下らない空想ね……)

 

 

 生まれた空虚な感覚にしのぶは眉を顰める。

 

 

 死者に対して、もしも生きていたならなんて幻想じみたことを考えたところで、そこにはなんの生産性もない。叶うことのない夢を見ても、途方もない虚無感と既に体に巣食っているどうしようもない程の憎悪の炎が一層燃え盛るだけだ。

 

 

「……あの」

 

 

 懐かしい、それと同時に強まる途方もない怒りの匂い、しのぶから感じるそれらの感情の匂いに炭治郎はなんと言ったら良いのか一瞬言葉を探してしまう。

 

 

「どうかしましたか?」

 

「あの……どうして俺達をここに連れてきてくれたんですか?」

 

 

 最初からずっと綺麗な笑顔を浮かべたままでいるしのぶに、炭治郎は会話を続ける為に咄嗟にそう聞いてしまう。目の前にいる女性から感じる匂いと表情があまりにも一致しない、時折しのぶから感じていた違和感が一層強くなり、それが炭治郎の戸惑いを一層大きなものとする。

 

 

禰豆子(ねずこ)さんの存在は公認となりましたし、君達は怪我も酷かったですからねぇ」

 

 

 当たり障りのない回答だった。怪我人を治療する役割を担う彼女を知る者であれば何も不思議ではない返答だ。

 

 

 その続きさえ聞かなければ———

 

 

「それと……君には私の夢を託そうと思って」

 

「夢?」

 

「はい。……鬼と仲良くする夢です……きっと君なら出来ますから」

 

 

 その口調はどこまでも穏やかで、先を見据えるその表情はいつもと何も変わらない綺麗な笑顔だった。そう、まるで着飾ったかのような作り物の笑顔だ。

 

 

「怒ってますか?」

 

 

 だから、炭治郎はそう聞かざるおえなかった。

 

 

「ぇ……」

 

 

 あまりにも唐突に、なんの脈絡もなく呟かれた炭治郎の言葉にしのぶは思わず目を見開き、無意識のうちに身体に力が入る。

 

 

「なんだかいつも怒っている匂いがしていて……ずっと笑顔ですけど……」

 

 

(匂い……)

 

 

 不意にしのぶの脳裏に、柱合会議の後どこぞの水柱とした会話が頭を過った。

 

 

『富岡さんは竈門君をどう思いますか?』

 

『……炭治郎は……鼻がいい』

 

『……あの、私の質問、聞いてましたか?』

 

『聞いていた』

 

『では、何をどう解釈したら今の発言になるのか教えて頂きたいのですが?』

 

『……すぐに分かる』

 

『答えになってないですよ……はぁ〜、もういいです』

 

 

 あの時のしのぶには富岡の言葉はあまりにも脈絡がなさ過ぎて全く意味が分からなかったのだが……

 

 

「……そう」

 

 

(鼻がいい……そういうことですか)

 

 

 嘗て、元水柱であった鱗滝左近次は匂いで鬼の強さを判別し、人の感情すら嗅ぎ分けたと言われている。与太話の類にすら思っていたが、目の前にある現実に加えて富岡の発言を統合すれば、出てくる結論など一つしかない。

 

 

 相変わらず富岡の言葉を全て理解するのは難しい。

 

 

 鼻がいいと聞いて匂いに敏感なのかと思うことはあっても、感情を嗅ぎ取る程に鼻がいいなんて誰も思わない。彼は本当にいつもいつも重要な言葉が一言足りないと、しのぶは嘆息する。

 

 

 とある一件以来、接点自体は増えているので、少しは彼のあまりに足りない言葉数も補って理解出来るようになったと思っていたのだが、どうやらまだまだ修行が足りなかったようだ。

 

 

(怒っている……か……)

 

 

 それはしのぶにとって、初めて言われた言葉だった。姉であるカナエを失ってから初めてそんなことを聞かれた。

 

 

 ずっと笑顔でいるしのぶに怒っているのか、なんて聞いてくる人はこれまで誰一人としていなかった。唯一泣いてもいいと言ってくれた誰かさんも、しのぶに怒っているのかなんて聞くことはなかったし、一定の線引きでもしているのか、しのぶがどれだけ話しかけても全く靡いてこない。

 

 

 だから、しのぶにとって、そのことについて真正面から考えるのは初めてのことだった。

 

 

「……そうですね。私はいつも怒っているかもしれない」

 

 

 言われて思い返せば、自分の中にはいつも憤りの感情で溢れていたかもしれない。

 

 

 

 鬼への怒り。

 

 

 理不尽な世界への怒り。

 

 

 そして……姉の願いに反する自分への怒り。

 

 

 感じ続けていたはずなのに、いつの間にか気づかなくなっていた自身に溢れる強烈な想い。

 

 

「……鬼に最愛の姉を惨殺された時から、鬼に大切な人を奪われた人々の涙を見るたびに、絶望の叫びを聞くたびに……私の中には怒りが蓄積され続け……膨らんでいく」

 

 

 ずっと、ずっとしのぶは見続けてきた。

 

 

 愛する姉が腕の中で冷たくなっていく光景を。

 

 

 愛する人を鬼に奪われて涙を流す彼等を。

 

 

 しのぶはずっと瞳に映してきた。

 

 

 信乃逗や楓、アオイやなほ達、他の沢山の人達の心の叫びを何度も聞き続けてきた。

 

 

 何度も何度も、当たり前のように繰り返される、終わりの見えない悲劇。

 

 

 それを見てしのぶはずっと歯を食い縛ってきた。

 

 

「体の一番深いところにどうしようもない嫌悪感がある。他の柱達や楓もきっと似たようなものです」

 

 

 鬼を許すなと、鬼を憎めと、自身の奥底に蠢く憎悪の闇がそう叫んでいるのをいつだって感じてしまう。

 

 

 しのぶの瞳に映るこの世界は、いつだって誰かが泣いていて、そしてその場所には必ず鬼の影がある。

 

 

 鬼がいなければ、鬼にさえ出会わなければ、きっと笑顔で暮らせていたはずの人達が、この世界には沢山いる。そのことにどうしようもない怒りを彷彿してしまうのはきっとしのぶだけではない。

 

 

 しのぶと同じく、幾度となくそんな光景を見続けてきたはずの他の柱達にも、きっと鬼という存在そのものに対する忌避感がある。だから柱合会議で当初、禰豆子(ねずこ)を生かすことに彼等もあれ程までに反発したのだろう。

 

 

 おそらく、あの場にいた柱達は全員がきっと楓と同じような気持ちだった筈だ。

 

 

 鬼が人を襲わないなんてあり得ない。

 

 

 鬼が人を襲うことは人にとっての常識で、覆し難い世界の道理なのだとそう思っていた。

 

 

 そしてだからこそ、禰豆子という鬼の存在を奇跡と表現するしかなかった。

 

 

 鬼という存在を少しでも知っている者なら、あの光景を現実として受け入れることは、とてつもない困難になるはずだ。

 

 

 鬼の中に人を襲わない例外がいるなんて本来なら考えたくもない地獄でしかない。

 

 

 鬼は悪、鬼となった者は殺すしかない。

 

 それがこれまでの鬼殺隊にとっての唯一無二の真実で、だからこそ彼等に刃を振るうことに誰も躊躇いなどなかったのだ。

 

 

「まぁ今回、彼等も人を喰ったことのない禰豆子さんを直接見て、気配は覚えたでしょうし、お館様の意向もあり……誰も表立って手を出すことはないと思いますが」

 

 

 ただ、それでも目の前に現実として人を襲わない鬼が存在する以上、それを否定することは出来ない。人を襲うことを我慢出来る鬼がいるということがどれだけ認め難いことであっても、真実として提示され、突き付けられれば見ない振りなど許されない。

 

 

 増してそれを証明したのは鬼殺隊の最高位に位置する柱の一人で、証言するのは鬼殺隊の当主である産屋敷(うぶやしき)耀哉(かがや)だ。鬼殺隊の当主自らが禰豆子という鬼の安全性を保証し、明言している以上、柱は勿論それ以下の隊士達も禰豆子や炭治郎に問答無用で襲いかかってくることはないだろう。

 

 

 少なくともしのぶや楓のような者達の目が届く表の範囲では。

 

 

「……私の姉も君のように優しい人だった。鬼に同情していた。自分が死ぬ間際ですら鬼を哀れんでいました」

 

 

 しのぶの姉であるカナエは鬼殺隊としてはまさしく異端児だった。

 

 鬼を憎み、滅することを望む多くの隊士達の中で、一人だけ鬼を哀れと言い続け、彼等を救うことはできないかと模索し続けてきた。そんなカナエの姿は妹であるしのぶですら理解出来ないもので、時に彼女の想いを否定しまうような言動をとったこともある。鬼に両親を殺されたことに憤りを感じないのかと、そんなことを思ってしまったことすらもあった。

 

 

「私はそんなふうに思えなかった……人を殺しておいて可哀想?そんな馬鹿な話はないです」

 

 

 でも、そんなはずはないのだ。

 

 

 あの時、両親を失ったのはカナエだって同じなのだから。

 

 

 カナエだって憎かった筈だ。

 

 

 悲しかった筈だ。

 

 

 あのまま鬼など知らず、両親と共に笑顔で幸せに暮らせていけたならと、そうであることを望んだ筈だ。しのぶと同じ絶望を、喪失感を、カナエだって味わっていた筈なのだ。

 

 それにも関わらず、カナエは鬼を憎むのではなく、怒りに叫ぶのでもなく、ただひたすらに可哀想だとそう言った。血を流して痛みにうめきながら、自身に致命の一撃を与えた鬼を哀れな鬼だとそう語り、彼等の存在を嘆いた。

 

 

 結局、カナエは最期までしのぶの前で鬼が憎いということは一度もなかった。

 

 

「でも、それが姉の想いだったなら……私が継がなければ……哀れな鬼を斬らなくても済む方法があるなら考え続けなければ……姉が好きだと言ってくれた笑顔を絶やすことなく」

 

 

 ならばそれこそが、カナエの心の底から溢れる願いだったのだろう。

 

 鬼を救うことが出来ればと、鬼を殺すことなく仲良く笑顔で語り合える日が来ることを、最愛の姉が心の底から願っていたというのなら、それこそが遺された姉の意志だというのであれば、妹であるしのぶはそれを叶えなければいけない。

 

 カナエの妹であるしのぶが、彼女の遺した願いを、想いを継いで繋げていかなければ、そうしなければ、胡蝶カナエは本当の意味でこの世界から消えてしまうのではないか。

 

 この残酷で暗い闇のような世界の中で、彼女が願ったあまりにも優しい光が途絶えてしまったら、光があったことすら誰の目にも止まらなくなってしまったら。

 

 姉が存在したという事実すら消えてしまうことが、しのぶは怖くてたまらない。

 

 

 だから、せめてカナエの想いだけは、彼女の願いだけは繋いでいきたい。

 

 

 嘗て信乃逗が、真菰や死に逝く隊士達の想いを背負って楓に託したように、しのぶもまた、カナエの想いを語り継ぎ、繋いでいかなければならない。

 

 例えそれがどれだけ自分の想いに反していようとも、胡蝶カナエの存在を少しでもこの世界にとどめておく為に、しのぶだけは彼女の異端ともえいる想いを繋ぐことを諦める訳にはいかなかった。

 

 

 そしてしのぶはそんな強烈な意思でもってここまで歩んできた。鬼の首が斬れない身でありながら柱にすらなり、速度だけで言えば鬼殺隊の中では類を見ない程の剣士となった。湧き上がる怒りと憎しみを、想いを繋げる意志でもって押さえつけ、笑顔の下に隠し続けた。

 

「だけど少し、疲れまして……」

 

 

 だがそれでも、しのぶとて所詮は人だ。抱いたそれがどれほどの強い意思であったのだとしても、疲労は蓄積され、心は摩耗していく。

 

 

「鬼は嘘ばかり言う。自分の保身の為、理性もなくし剥き出しの本能のまま人を襲う」

 

 

 何年もの間、カナエの願いを叶えようとずっと模索し続けて、何度も何度も不可能だと思い知って、その度に噴き上がる怒りと憎しみの感情を笑顔で覆って挑戦し続けた。

 

 

 幾度となく繰り返される悲劇を、いっそ喜劇とも思えるほどにやり直して、それでもまだ届かない。

 

 

 いつだって鬼は人を襲い、いつだってそれを正当化し、当然のように命乞いばかりしてくる。自分がどれだけ慈悲を求める人々を喰らったのかなど考えもせず、「助けてくれ」、「死にたくない」と慈悲を求めてそう叫ぶ。

 

 

 罪を償う意思もなく、欲望に抗う意志すら見せず、楽になりたいと望むというので有れば、しのぶにとれる道など一つしかない。

 

 

 鬼がどれだけ「人を喰らわない」とそう語ったところで、飢餓を感じれば彼等は一瞬でその言葉を忘れてしまう。

 

 彼等がそうであるなら、殺すしかないのだ。

 

 救うことなど出来る訳もない。

 

 目先の言葉で鬼を見逃せば、その先で死ぬのは鬼のことなど何も知らない、無邪気な人々ばかりなのだから。

 

 

 いつまで経っても人も救えず、鬼も救えない。

 姉の願いは叶わない。

 

 

 なのにそれに反するように、自分の中の憎しみだけは募り続ける。

 

 

 弟のようですらあった信乃逗を奪われ、愛弟子である楓を苦しませ、アオイやきよ達に涙を流せ続ける。

 

 

 そんな存在は赦せないと、その想いばかりが強くなっていく。

 

 

 鬼という存在をしのぶが許容するには、既に彼等に奪われた大切なものが、あまりにも大き過ぎた。

 

 

 手遅れなのだ。

 

 

 もうどうやっても、自分では姉の意志を継ぎきることは出来ない。

 

 

「炭治郎君、頑張ってくださいね……どうか禰豆子さんを守り抜いてね」

 

 

 だからしのぶはそう願うしかない。

 

 せめてもの償いのように。

 

 

 

 ——— どうか彼等が幸せになれますようにと

 

 

 

 竈門炭治郎という優しい光が鬼となった禰豆子を守り抜き、その為に努力し続け、いつか本当に禰豆子を人に戻せたなら、その時、姉の想いは……姉の夢見た世界は、きっと現実になる。

 

 

 それはしのぶの夢見たカナエが生きた証を遺せた世界。

 

 

「自分の代わりに君が頑張ってくれていると思うと、私は安心する。……気持ちが楽になる」

 

 

 カナエが想い、しのぶが願った世界。

 

 それを彼が継いでくれるというのなら、彼が歩んでくれるというのなら、しのぶの感じるこのどうしようもない焦燥はきっと和らぐ。

 

 

 例え、自分が姉の願いに反する道を歩もうとも、それでも姉の願いが潰えることがないというなら、この身から溢れるどうしようない罪悪感からもきっと少しは解放される。

 

 

(少し……喋り過ぎましたね……)

 

 

 特異な道を辿るとはいえ、炭治郎は未だ【常中】すら覚束ない一隊士でしかない。柱である自分が身の内を晒し過ぎるのはあまり褒められた行いではない。

 

 

(これは、誰かさんのせいで……口が緩んでしまっていますね)

 

 

 そっと瞼を下ろしたしのぶの脳裏に1人の男の姿が浮かぶ。

 

 彼に「泣け」とそう言われたあの時から、どうにも感情を締め付ける縄が緩みやすくなっているような気がしてならない。

 

 結局彼は、あの時の積極性が夢かと思う程、態度も口数もそれまでと全くと言って良いほど変わらない。

 

 

 それが少し腹立たしくもあり、同時に安心もする。

 

 

 そんな不可思議な気持ちを思い出してしのぶの口元は綻ぶ。

 

 

 

「……全集中の呼吸が止まってますよ」

 

「あ、」

 

 

 

 唖然とした様子で固まっていた炭治郎が慌てて呼吸に意識を戻そうとしているのを横目にしのぶは笑顔でその場を去った。

 

 

 

 

 

(……匂いが変わってた)

 

 

 唐突に現れ、掻き消えるように姿が見えなくなったしのぶが最後に見せた感情の匂い。怒りでも憎しみでも悲しみでもない。安堵と喜びと愛しさ、そんな暖かい感情の残り香に炭治郎も思わず笑顔になる。

 

 

「真菰……しのぶさんは本当に優しい人だね」

 

 

 その呟きに真っ暗な空で一際強く星が輝いた。

 

 

 




御一読いただきましてありがとうございます。
御意見・御感想等頂けますと幸いでございます。

流れは原作通りだけど文字数膨らむ〜
このシーンが好き過ぎて、心情描写を書きすぎました。
もう書いてる時、ずっとこのシーンのサウンドトラック聴いてましたよ 笑

おかげで展開が遅々として進まないぜぇ
あぁ、スピード感プリーズ_| ̄|○


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機能回復訓練


お久しぶりです!
最近初めて救命外来に運びこまれた作者です。
意識を失うという経験を初めてしたので起きたらびっくりでした。
ともあれ、不定期更新で申し訳ありませんが楽しんで頂ければ幸いです!





 

 

「すいません……もう一度言っていただけますか?」

 

 

 

 麗かな日差しの差し込むその日、久しぶりに蝶屋敷へと帰還していた楓は驚きのあまり目を瞬かせて目の前に立つ竈門炭治郎という新人にそう問いかけた。

 

 

「えっと、この前、カナヲに触れたので訓練を付けていただけないかと……」

 

「ちょっと待ってください……どんな理屈で、どんな鍛錬を施したらそうなるんですか!?」

 

 

 有り得ない。

 

 そうやって咄嗟に否定したくなる程、炭治郎の言葉は楓にとってあまりに現実味のない言葉だった。

 

 

「え?……えっと、陽が出ている時はひたすら身体を動かして、夜に瞑想をしてました」

 

「……それだけですか?」

 

「あとは、なほちゃん達からカナヲのやってる瓢箪の訓練を聞いたので、それも毎日やってました。寝ている間もなほちゃん達が手伝ってくれて、とっても助かりました」

 

「瓢箪……あの訓練ですか。確かにあれは効率的ですけど、それだけでこんなに……」

 

 

 ここ3週間ばかり、楓は村田達を引き連れ特訓という名の鬼狩りの指令に赴き、連日連夜指令と鍛錬を施すという鬼殺の剣士として見ればこれ以上ない程素晴らしい生活を繰り返していた。ただし村田と尾崎がそれをどう思っていたかについては察するに余りある苦行であったことだろう。

 

 

 ともあれ、ここしばらく楓は殆どの時間を蝶屋敷の外で過ごしていた為に、炭治郎達とも会う機会はなかったし、アオイやなほ達とは活動時間の差から全くと言っていい程会話をしていなかった。

 

 

 その為、楓は彼が今どのような段階にあるのかという情報をここに至るまで全く得ていなかったのだ。

 

 

(……たった1カ月……たったそれだけの時間で、しかも特別変わった鍛錬をした様子もない)

 

 

 どう考えても普通ではない。

 カナヲと炭治郎の実力差はたったの1カ月で埋められるようなものではなかった。触るだけといえば簡単だが、カナヲの動きについていくだけでも予想では最低でも数ヶ月以上はかかるし、下手をすれば一年かけてようやく互角までいけるか、と言った程度の力量差がカナヲと炭治郎の間にはあった筈だった。

 

 

 それをたった1ヶ月という信じ難い程の短期間で詰め上がったというのだ。一体どんな手品を使ったのかと疑いたくなるような状況ではあるが、少なくとも彼の言葉には嘘の気配はなさそうだ。

 

 

「…………嘘、ではないようですね」

 

 

 それが虚言であると楓が思うことは簡単だ。だが、知り合ってまもないとはいえ、炭治郎がそんな虚言を吐くよう人間ではないことは、楓にもわかっている。

 

 なによりも、そんなあり得ない現実があり得るのだと、目の前にいる竈門炭治郎という人間の姿が証明してしまっている。

 

 

 傍目には全く分からない変化。

 

 

 それでも目の前に立った炭治郎が1ヶ月前とは決定的に違うのだと楓には理解出来てしまう。

 

 

(常中を……こんなに簡単に……)

 

 

 竈門炭治郎は既に【常中】を会得している。

 

 柱になる為に必要な基本的な呼吸の能力であり、同時に階級が乙以上の者達が長い年月をかけてようやく辿り着く一つの奥義ともいうべき技術を、僅か1ヶ月程度で身に付けた。

 

 この会話中も、彼は全集中の呼吸を絶えることなく続けられているし、支障をきたす様子もない。未だぎこちなさのような物はあるが、恐らくそれがなくなるのも時間の問題だ。

 

「ちなみにカナヲに触れたというのは服ですか、それとも身体ですか?」

 

「えっと……腕ですね……触ったというか掴んだというか、毎回勝てる訳じゃないんですけど」

 

「……カナヲの腕を掴んだ?毎回勝てる訳じゃない?……頭が痛くなってきましたよ」

 

「えェッ、すいません!大丈夫ですかっ!?」

 

「いえ、まぁ貴方が悪いんですけど……別に謝る必要はないですよ」

 

 

 どうやら炭治郎は楓が想像よりも尚早い速度で成長しているようだ。この分では遠からず彼はカナヲに並び立つ存在になるだろう。楓が半年掛かった道を半分でこなしたカナヲよりも、尚速い速度で炭治郎は【常中】を使えるようになる。

 

 

(……全くもって度し難いですね)

 

 

 いくら毎日のように鍛錬のみに集中できるからと言っても【常中】は本来ならこんなに短期間で身に付けられるような容易い技術ではない。

 

 

 そんなに簡単に【常中】が獲得出来るので有れば鬼殺隊はもっと強力な組織になっているし、剣士の練度の低下なんて問題が出ることもなかっただろう。

 

 

(天才、か……)

 

 

 楓としてはそう思わざるおえなかった。

 

 多くの隊士が辿り着けない道にこうも早くたどり着くには、努力だけでは到底説明がつかない。努力など、剣士であるなら程度の差はあれ誰もが行なっている。必死に鍛錬をしようとも、それでも届かない者達がいるのだ。

 

 届くことのなかった彼等はみな非才であり、届いた者達が才を持つ者達、そしてその中でもずば抜けた速度で進む者を天才と、そう呼ぶのだ。

 

 

 楓の前に立った彼はその意味で間違いなく天才だ。

 

 

「えっと、楓さん?」

 

「……正直目眩がするような話ではありますが、約束は約束ですしね。分かりました、明日の訓練には私も顔を出すようにしましょう。アオイにも伝えておきます」

 

「うわぁ!ありがとうございます!それじゃ俺、鍛錬に戻りますね!引き留めてすいませんでした!楽しみにしてますね、楓さん!」

 

 

 心底嬉しいというようににっこりと笑ってさって行く炭治郎の表情に楓はそれまで胸に感じていた嫉妬の感情が薄まるのを感じた。

 

 

「全く……私が訓練をつけるといってあんなに喜んでくれるなんて、あの2人にも見習ってほしいですね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蝶屋敷の裏側には少し小高い山がある。

 

 面積は然程広くはないが、立派な木々が多く生え、豊かな土壌に芽吹く山菜は非常に質が良い。薬の材料としては上等な部類の山菜は蝶屋敷にとってはとても利便性が高い。採取の為にカナエとしのぶが願い、産屋敷一族が買い取ったその山は今や鬼殺隊によって立派な里山として活用されるようになっていた。

 

 

「無理ですっ!」

 

 

 そんな里山の中の少しひらけた一画に仏頂面をした村田の声が響き渡った。

 

 

「勘違いしないでくださいね、村田さん。私は出来る出来ないではなくやってくださいといっているんですよ?」

 

「横暴って言葉知ってますかっ!?」

 

「知ってますけど、知りません」

 

「どっちですか……」

 

 

 目を細めてじとっとした視線を楓へと向けながら村田はやや項垂れた様子で声を発する。

 

 

「高野様、確かに俺はまだまだ弱いですし、努力の至らないところが多いとは思います。……でも、それを差し引いてもいきなり【常中】をやれなんて言われて出来るわけないじゃないですか」

 

 

「えぇ、分かっていますとも……そうでしょうとも、普通はそうでしょう」

 

 

 村田の抗議の声はもっともな物で、楓が言っていることの方が余程無理難題であることなど勿論彼女だって分かっている。

 

 今の村田達に、いきなりずっと全集中をしていろなんて言ったところでせいぜい2、3時間待てばいい方だろう。それだって最初からすれば随分と成長した方なのだが……

 

 

「ですがそこをやってくれないと、私としてはもう立つ瀬がないんですよ……お分かりですか?」

 

 

 村田達よりも遥かに後輩で、新人で、しかも全く同時期に鍛錬を始めた少年が、楓がつきっきりで鍛錬をしているはずの村田達の数歩どころか百歩以上先を歩んでいるのだ。

 

 しかも炭治郎についているのはカナヲやなほ達だ。およそ技術的なことを教えるのが上手とは全くもって言い難い面子に囲まれておきながら、あれほどの成長力を見せられては村田達に付きっきりで鍛錬をつけている楓の立つ瀬がなくなってしまうのは無理のないことだった。

 

 

「分かりたくないですけど、なんとなく分かりました。炭治郎の奴、もう【常中】に手を伸ばしたのか〜」

 

「手を伸ばした、ですか。……そんな甘っちょろい言葉を出している時点で、彼との力量差が如何に広がっているのかがよーくわかりましたよ」

 

 

 ケッと地面へと吐き捨てるようにそう呟くと楓は大きく息を吐く。

 今の炭治郎は手を伸ばしているのではなく、もはや掴んでいるのだ。未だ指先を伸ばした程度で全く手の上がらない村田とはもはや比べ物にならない差がついてしまっているのだが、それを自覚するのも今は難しいらしい。

 

 勿論、鬼との戦闘が呼吸の技術力だけで決まる訳ではないので、一概に村田が成長していない訳ではない。実際彼も短期間で随分と強くはなっている。ただ、それも炭治郎達のような天才と比較するとどうしても雲泥の差となってしまうのはある意味では致し方のないことだ。

 

 

「ところでいつも(・・・)貴方とご一緒の尾崎さんは?」

 

 

 チラリと、楓は今日は姿が見えない同性を探して視線を彷徨わせるが、姿どころか気配もまるで感じない。

 

 

「言い方にかなりの悪意を感じましたけど……尾崎なら緊急で休暇をとるとかでしばらくは留守ですよ」

 

「緊急で休暇?」

 

 

 不可解な言葉だ。それにそんな話は全く聞いてなかったのだが、余程対応を迫られる案件だったのだろうかと、楓は思わず首を傾げる。

 

 

「なんでも実家に呼び出されたとかなんとか……詳しいことは俺も教えてもらってないんですよ」

 

 

 若干不貞腐れた様子で村田はそう口にする。

 

 

(実家ねぇ……まぁ、暫くは休息をとらせるつもりでしたので問題はないですけど……)

 

 

 なんでも尾崎はとある大商家の令嬢らしい。村田に見舞品として渡していた品はかなりの高級品だったし、蝶屋敷に御礼と称して贈られてきた品は輸入品の中でもかなりの値がつくものばかりだった。

 

 

 到底鬼を狩るだけの給金で賄えるようなものではなかったので、彼女がかなり特殊な家の出身であることは察していたが、そんな家から緊急で呼び出しを受けるということはきっと余程のことがあったのだろう。

 

 

 家柄の立派な彼女がどうして鬼狩りなど危険極まる道に進んだのか、気になるところではあるが他人の過去を無為に詮索することは余り褒められた行為ではない。特に鬼殺隊の隊士達は基本的に過去の詮索に良い顔はしない。だから楓も尾崎や村田が鬼と戦う理由などは聞いていない。

 

 

 

「そうですか……なら仕方ありませんね。村田さん、明日は私と一緒に道場に行きますよ」

 

 

 居ないというなら仕方ない。尾崎については諦めよう。それよりも問題なのは現状をまるで理解出来ていない様子でいる目の前の男の方だと、楓はニッコリと可憐な微笑みを見せる。

 

 

「……なんですかそれ……ものすごく嫌な予感がするんですが」

 

「……仮にも女性の笑顔を見て『それ』?しかも嫌な予感とは、村田さんも随分と失礼になってしまいましたねぇ〜」

 

 ゲゲっと言わんばかりに顔を引き攣らせて苦笑いを浮かべる村田の反応に、楓が思わず眉をピクピクと吊り上げてしまったのは仕方のないことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、朝食を食べ終えると、楓は約束通り、炭治郎が訓練の為に使用している道場へと顔を出した。その背後に疲れきって今にも倒れてしまいそうな表情をした村田を連れて。

 

 

「楓さん!来てくださってありがとうございます!今日は宜しくお願いします!あ、村田さんも!」

 

「なんだ……尾崎ちゃんいないのか」

 

「弱みそじゃねぇか、なんでここにいんだ?」

 

 

 相も変わらず見る者を元気にするような晴々とした笑顔をする炭治郎に楓は癒されるが、後ろにいた村田は他二人の言葉もあってか、疲れきったところに追い討ちをかけるかのような言葉の嵐に胸を押さえて涙ぐむ。

 

 

「……お前ら揃いも揃って俺をついでのように言うの止めろよ」

 

 

「実際ついでじゃないですか」

 

 

 背後から聞こえてきた嘆きに楓は反射的にそう言葉を掛けるが、それは村田にとって紛うことなき止めとなった。

 

 

「がはっ!?」

 

「村田さーんっ!!?」

 

 

 吐血するかのような勢いで膝をつく村田を見て炭治郎が驚きに声を上げながら介抱へと走るの横目に楓は呆れた表情をしたアオイへと向き直る。

 

 

「村田さんのことはいいんですよ……ですが、ちょっと待ってください、アオイこれは……」

 

「なに?どうかしたの、楓?」

 

 

 戸惑い気味に声を出す楓にアオイはゆったりと首を傾げて問い掛ける。

 

 

「えぇ、まぁこの開幕を私に何度やらせれば良いんですかとか……嘴平(はしびら)君や我妻(あがづま)君がいつの間にか戻って来てるなんて全く聞いてないこととか……言いたいことは山程あるんですけど、それを差し置いてもですよ———」

 

 

 伊之助や善逸が訓練に来なくなった愚痴を聞かされた身としては、彼等が戻ってきた旨は報告して欲しかったというのが楓の本音だ。なんなら昨晩久しぶりに一緒に夕食を食べたのだから、幾らでも話す機会はあったはずだがとか、アオイに言いたいことはあげようと思えば幾らでも出てきそうなのだが……

 

 そこはまぁ説明もつく。アオイからすれば変わることなく見慣れた光景になっているのだろうから、特段変わった光景として楓に伝える必要性を感じなかったとか、そんなところだろう。

 

 

 だが、正直いまはそんなことはどうでもいい。

 

 

 目の前に広がる光景と比較すれば、そんなお小言にもならない文句など些細どころか、目視すら不可能な程極小な問題だろう。

 

 

「なんであの2人まで【常中】を会得してるんですか?」

 

 

 楓は先輩であるはずの村田に平然と絡んでいく2人の姿に愕然とした面持ちで指を向ける。

 

 

「あぁ、そういうこと……私には見分けはつかないのだけど……10日くらい前にしのぶ様直々の指導を受けてからあの2人凄い鍛錬に励んでたから、その成果じゃない?」

 

「へぇ〜そう、10日、10日間も頑張ったのね……10日ね……10日か……10日……10日?」

 

「なんでそんなに10日を連発してるの?あとその顔はやめときなさいよ……怖いを通り越して引くわよ」

 

「いやだって10日っておかしいでしょう!!?10日って10日よ!?指の数よっ!?両手の指なのよ!?なんで足の指は足さないのっ!!?」

 

「ちょっ、落ち着きなさい楓!凄いのはわかるけど取り乱し過ぎよ!……あと、足の指を足しても結局20日にしかならないわ」

 

「理解出来ないわ……意味不明だわ……怪奇現象だわ……」

 

「貴方の方が余程理解出来ないんだけど……あれ?楓?ちょっと?……もう聞こえてないわね、これ」

 

 

 

 突然大声で騒ぎ出したかと思えば、ブツブツと1人何かを呟き始めた楓を見てアオイは頬を引き攣らせて冷や汗を流す。

 

 楓がここまで取り乱した様子を見せるのは非常に珍しい。

 

 おっちょこちょいで、時折阿呆のような間の抜けた失敗をすることはあったが、基本的に楓は冷静沈着で、落ち着いた性格をしている。

 

 

 こんな風に大声をあげて発狂する光景など、まず見ない。

 

 

(やっぱり普通じゃないのね……あの2人も)

 

 

 村田に絡み、炭治郎に止められる2人の様子からはとても信じられないが、楓がここまでの反応を示すということは、それだけ善逸と伊之助の会得期間がありえない物であるということになる。

 

 理解不能な言動の多い善逸に、全く常識が通用しない伊之助、挙句2人揃って訓練を休み、かと思えば急にやる気を出したりと、正直どちらもアオイからすれば極め付けの問題児でしかなかったのだが……

 

 

(なんだかんだ言っても……やっぱり剣士だものね……私とは違う……)

 

 

 伊之助も善逸も目の離せないとてつもない問題児だが、鬼と戦う意志と力を持つ、歴とした剣士なのだとアオイの中に羨望のような気持ちが広がってしまう。

 

 

「10日……10日……1ヶ月……3ヶ月…………半年……」

 

 

 一方、ポツリポツリと呪詛のように独り言を呟く楓は完全に呆然自失という感じで、頬を引き攣らせて苦笑いしている。

 

 

(……おかしいよね?おかしいわよ…おかしいでしょう……ぜったいおかしいもん……)

 

 

 楓の脳内にはもはやまともな言語が出てきそうにもない。ただひたすらに目の前に広がる才能の塊と言っても過言ではない面子から現実逃避することに必死になっている。

 

 カナヲは天才だと、楓はしのぶから聞いていた。

 実際、カナヲは呼吸を伴わない剣術ならば一回見ただけで大体模倣出来てしまったり、【常中】も殆ど苦戦することなく出来るようになるし、天才という言葉も納得出来る程の結果を出している。

 

 

 普通とは明らかに異なる成長力を見せるカナヲは楓から見ても間違いなく天才だ。

 

 しかし天才という評価は、大概が周囲との比較によって得られる客観的な視点から生まれるものだ。人を天才とそう評価するには、前提として普通という評価を下せる者が天才の周りにいなければならないのだ。

 

 嘗て、楓がしのぶに才能があると評価されたのも周囲と比較して能力が高いからこそ言われた言葉であり、楓1人では決して成り立たない評価だった。

 

 そしてその考えを今のこの状況に当て嵌めるとすれば、この道場に集った【常中】を会得している剣士の中で最も才能が低いと評されるのは、歴戦の剣士であり、炭治郎達より遥かに経験豊富な先輩剣士である高野楓、ということになってしまう。

 

 

(……天才がこんなに次々出てきて言い訳!?大体この子達全員同期じゃない!!最近はこれが普通なの!?)

 

 

 カナヲに炭治郎に善逸に伊之助と、僅か1世代に天才と評せる才能を持った人間が4人も現れ、その全員が蝶屋敷に集まって自分の目の前にいる。

 

 

「頭がおかしくなりそうだわ……」

 

 

 もはや信じることなど到底不可能と言えるような奇跡的な事態が、当たり前のように進行していく様子に楓は激しく左右に頭を振ってなんとか正気を保とうとする。

 

 

「なにやってんだ、あの女……頭おかしいんじゃねぇか……」

 

「こら伊之助!そういうこと言うの辞めろっ!人には色んな悩みがあるんだから」

 

「そうだぞ!やめとけ!楓ちゃんは可愛い顔して凄い怖い子でしかも無茶苦茶頭が固いんだぞ!」

 

「なにっぃ!?よしっ勝負だ!俺の方が頭が硬ぇぞ!!」

 

「そういう硬いじゃねぇ!!」

 

 

 止めようとしているのか、それとも加勢しているのか非常に判断に迷うところだが、兎にも角にも話は楓まで丸聞こえになっている。

 

 

(我妻君とはあとでゆっくり話すとして……よりによって、こんな頭の悪い会話してる子達が一番才能豊かって……)

 

 

「というか、アオイ……あれ……本当に嘴平君ですか?……イノシシの被り物しただけで中身別人とかじゃないんですか?」

 

「……言いたいことはなんとなく分かるけど、間違いなく本人よ」

 

「嘘でしょう……私の中の嘴平君が……」

 

 

 楓の知る伊之助とはあまりにも違うその態度に半ば絶望したように彼女は両手で顔を覆う。

 

 

「楓は暫く居なかったものね……病室にいた頃は怪我で弱ってたのか、随分と大人しくしていたけど……あっちが本性よ……私も最初は驚いたわ」

 

 

 那谷蜘蛛山から運び込まれた当初に見せていた大人しく静かな様子など、もはや微塵も見当たらない。ここ数日の伊之助は遊び盛りの男児のようにはしゃぎ回るし、口は悪いし、今となっては善逸以上に蝶屋敷の問題児になってしまっている。

 

 

「なんでも伊之助さんは山で動物と育ったみたいよ……そのせいなのか、私達の常識が尽く通じないわ」

 

「……捨て子ということですか?」

 

「……詳しくは聞いてないわ……本人が言うには親はいないって言うことだから、その可能性は高いでしょうけどね」

 

 

 それは決して珍しい話ではない。近代化などと豪語してはいるが、今のこの国は決して豊かな国ではない。貧しい暮らしの中で子供を売ったり、捨てたり、或いは殺してしまうということも決して少なくない。

 

 経緯こそ不明だが、伊之助が親がいないと言い、山の中で人と関わらず育ってきたというのなら、人の世界の常識が通じないというのは無理のない話ではある。 

 

 難しい話ではある。少しずつ、少しずつ伊之助が人の世界に慣れてくれば良いのだろうが、それは言う程簡単な話ではないだろう。

 

 

 ほんの少しの哀しみを楓が感じていた頃、それは響いた。

 

 

「おいっ変人女!俺と勝負だ!お前に勝って次はコンパチ郎に勝つ!そうすれば俺が1番頭が硬ぇってことだ!ガハハハッ」

 

 

 

ピキッ

 

 

 

「ヒィィィッ!!割れたよ!今絶対なんかヒビ入ったよぉぉ!!馬鹿だろアイツっ!なんで自分から鉄火場に行くのぉぉ!」

 

「なに考えてんだあのイノシシ!!なんで高野様に喧嘩売ってるんだよっ」

 

「伊之助っ!謝るんだ!今すぐにっ!」

 

 

 或いはこの三人の必死の説得が成功していれば、この後に訪れるはずの恐ろしい時間を少しは少なく出来たかもしれない。

 

 

 だが、残念ながら相手は伊之助だ。

 謝罪などというそんな臆病極まる行いが出来るはずもなく、結果この場の選択肢の中でも最悪クラスのとんでも発言をしてしまう。

 

 

「うるせぇぞテメェら!!俺はこの貧相な胸の女に勝ってこの屋敷の頂点に立つぜぇ!!!」

 

 

 

ピキピキッッ

 

 

 

(……変人女?お前?……貧相な胸の女?)

 

 

 それは楓にとって聞き捨てならない程、無礼かつ失礼な物だった。聞くものが聞けば、もはや侮辱されているに等しい言葉遣いに加えて、あまりにも品にかける発言、そして女性に対して決して言ってはならない完全なる侮辱。

 

 

 楓が黙っていられる要素があまりにも無さすぎた。

 

 

「ふっ……ふふふふっ……常識が通じない……なるほどなるほど……そうですか……アオイ……なにも問題ないですよ……そうですよ……最初からやり方なんて一つですもんね」

 

 

 不気味な微笑みを浮かべた楓の表情は残念ながら伊之助や炭治郎達からは見えない。彼等に背を向ける形で立っていた楓の表情の変化に気付けたのは唯一彼女の正面に立っていたアオイだけだ。

 

 

 視線を床に落として、不自然に肩を震わせる楓からアオイは少しずつ距離をとっていく。まるで山で熊に遭遇したかのような、慎重な後退りかたをするアオイに、村田はゴクリと思わず喉を鳴らし、恐怖の鐘の音を耳にした善逸はガクガクと震え始め、匂いから楓の怒りを察した炭治郎は額に冷や汗をかいている。

 

 

「あぁ?声が小さいぞ変人女!もっとデケェ声で喋れや!」

 

 

 状況が読めていないのはこの中ではたった1人、伊之助だけだ。

 

 その伊之助にゆったりとした動作で楓は振り返ると、不気味なまでに明るい笑顔を浮かべて伊之助へと視線を向けた。

 

 

「……教育されていないなら……教育すれば良いんですよね」

 

 

 その後、道場から悲鳴のような、雄叫びのような叫び声が響いたのは言うまでもない。

 

 

 




御一読頂きましてありがとうございます!
御意見・御感想等頂けますと幸いでございます!

今回は伊之助(元気バージョン)と楓の初邂逅ということで、当然普段の伊之助の言動を受けるとなれば楓の性格的にはピキピキとなるのはまぁ当然でしょう。

そしてちゃっかり尾崎さん独自設定を混ぜていく 笑
最近真菰様成分が足りないんですよ
真菰様の絵を見て癒されよ



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経験という名の力

 

 

「さて、教育に時間がかかって、随分とお待たせしましたが、これでようやく炭治郎君のお相手が出来ますね」

 

 すっきりしたとでも言うように、にっこりと輝かしいばかりの笑顔を振りまく楓に炭治郎や村田は引き攣った笑みで返し、アオイは酷く疲れた様子で溜息を吐いている。

 

 

「えっと、楓さん……」

 

「うん?どうかしましたか?炭治郎君」

 

 戸惑い気味な口調で炭治郎は楓へと声をかける。

 

「あの、伊之助はともかく……なんで善逸まで……」

 

 言葉と共にそっと道場の奥に炭治郎は視線を移す。

 

 若干薄暗い道場の奥では、白く燃え尽きた灰のようになった伊之助に加えて、こときれたかのように床に横たわる善逸までいる。

 

「あぁ……人のことを鉄火場とか表現する辺りに反省の色が全く見られませんでしたし、それに……なんとなくしておいた方が良い気がしたので……」

 

「あ、あはは……そ、そうですか」

 

 つまり、巻き込まれただけだとそう言うことなのかと、炭治郎は苦笑いで答えながら内心で善逸の不運に涙を流した。

 

 

 

「それで訓練ですけど……始める前に一つだけ忠告しておきます」

 

「忠告……ですか?」

 

 放たれる声の雰囲気が僅かに変化したことで炭治郎の意識がこれから始まる訓練へと戻る。

 

 

「はい……貴方と私では年季が違う……それを忘れないことです」

 

「……それは」

 

 

 その内容はただ淡々と事実を述べただけの言葉であり、同時に勝てないことを当然だと思えと、そう言われているに等しい言葉でもあった。

 

 

「ではアオイの合図で始めましょうか」

 

「えぇ……では、炭治郎さん、ご準備の程は?」

 

 

 これまでの訓練と同様、カナヲが相手の時と、全く同じように声を掛けられているはずなのに、アオイの言葉に覚悟を問うかのような重持ちを感じてしまう。

 

 

(落ち着け……心を鎮めて……呼吸を整えろ……)

 

 

 自身へと問いかけるように言葉を重ねて、規則正しく、大きく深く、身体に空気を巡らせて正しく呼吸をし続ける。

 

 

「……お願いしますっ!」

 

 気合いは十分。

 そう告げるが如く勢い良く力の籠った言葉を口にする炭治郎に楓は思わず口元を綻ばせる。

 

「では、はじめ!」

 

「うぉぉぉぉッッ!!」

 

 合図と共に、炭治郎は全力で床を蹴り楓へと向かって走り始める。

 

 真っ直ぐに、はっきりとした挙動で楓の腕を掴もうと手を伸ばし、その先で虚空を掴んだ。

 

 

「っ!?」

 

 

 驚愕に炭治郎は目を見開くが、状況はそれほど難しい物ではない。単純に楓が避けただけだ。腕へと真っ直ぐに向かってくる炭治郎から一歩半身を引いて、彼の手から逃れた。だだそれだけの動作だ。言葉にしてしまえば一呼吸の内に説明してしまえる程度の簡潔なもの。

 

「っふぅぅぅ!!」

 

 バッと身を翻した炭治郎の手が再び楓へと迫る。

 

 蒸気のように息を吐きながら、たわめた膝をバネのように弾ませて、凄まじい勢いで楓へと飛びかかる。

 

 

 

 

 しかしそれも届かない。

 

 

 

 右へ左へ、腕を伸ばし、足を動かし、床を飛び跳ねて、楓へと迫る炭治郎はその全てを尽く避けられる。

 

 

 再び半歩、楓が身体を背後に引いただけで勢いに任せた炭治郎の突撃は簡単に交わされてしまう。あと少し、ほんの少しで楓へと触れそうだという距離を炭治郎の腕が通り過ぎて行く。

 

 

(もう少しのはずなのにっ……)

 

 

 楓と炭治郎の実力がカナヲ以上に開いていることは最初からわかっていたことだ。カナヲの腕を掴めたからと言ってすぐに楓にも届く訳がないということは炭治郎にとっても明白だった。

 

 

 しかし、しかしだ。

 

 

 現実にあるそれは、炭治郎の理解を遥かに超えていた。

 

 

(遠い……一歩が、こんなにっ……)

 

 

 先程から楓と炭治郎の距離はあと一歩近づければ手が届くという距離までは来ているのに。

 

 そのたった一歩、あとほんの少しという距離が炭治郎にとってあまりにも遠い。

 

 

「威勢が良いのは結構ですが……動きが少々真っ直ぐ過ぎますよ」

 

 

 余裕綽々に助言の言葉まで差し伸べられて、それでもまだ届かない。

 

 

「くぅッ!……」

 

 

 そしてその言葉で炭治郎は決定的なまでに理解させられてしまう。

 

 

 楓とのあと少しという距離が、見た目通りの距離ではないことを。

 

 彼女がわざとギリギリの距離で持って避け続けていることを、嫌と言うほど理解させられてしまう。

 

 

 炭治郎から見ても楓の動作はあまりにも簡潔に過ぎる。

 

 

 無駄なく、冷静に炭治郎の動きを見極めて、必要な箇所だけ身体を動かしている。彼女はこの訓練が始まってから一度も炭治郎に背を向けず、一度も大きく距離を取らない。一歩、一歩と、ほんの少し足を動かし、重心を移動させ身体を傾ける。そんな最低限の動きだけで炭治郎の全身全霊の動作を全て避けきっている。

 

 

『貴方と私では年季が違う……そのことを忘れないことです』

 

 

 訓練開始の直前に楓から告げられた言葉が炭治郎の脳裏に過ぎる。

 

 あの言葉の意味は、単に自分では楓には勝てないという類の物だと思っていたが、それはあまりにも甘い認識でしかなかったのだということをいま痛感させられている。

 

 

(経験っ……楓さんと俺じゃあ本当に積み重ねてきたものが違うんだっ!)

 

 

 楓の動きは明らかに炭治郎の動きを予測している。単に走り回り、素早い動きで避けるだけだったカナヲの時との決定的な違いはそこだ。炭治郎がどこを狙い、どこを見据え、どこに身体を動かすのか、それが決定的なまでに読まれてしまっているのだ。しかもそれは、時間が経てば経つ程、より正解になってきているようにすら感じる。

 

 

 本来、動きの先読みという技術は経験に基づく分析によるところが大きい。楓の3年以上もの戦闘経験が炭治郎の動きの全てをこれほどまでに正確に予測させることを可能にしているのだ。

 

 

(このまま真っ直ぐ追いかけていても、楓さんは捕まえられない……楓さんの予想とは違う動きをしないと)

 

 

 このまま単に楓の動きを追いかけているだけでは彼女を捉えきることはできない。

 

 それは明確なのだが、楓が炭治郎の何をみてあそこまで正確な先読みをしているのか、それが分からなければ彼女の意表をつくことすら難しいだろう。

 

 

「動きが荒くなっていますよ……もっと柔軟に呼吸をして、身体の流れに呼吸をのせなさい」

 

 

 炭治郎がなんとか楓を捉えようと考えを巡らせるなか、彼女はあくまでも余裕のある様子で炭治郎へと呼吸の扱い方を教えるように言葉をかける。まるで炭治郎の心の内を覗いたかのような的確なタイミングで常とは少し違う凛と響くような不思議な声色を道場へと響き渡らせる。

 

 

 楓のその不思議な声が炭治郎の頭にスッと入ってくると、彼の焦りに包まれた思考が幾分落ち着きを取り戻してくる。

 

 

 そうすると、今まで炭治郎が気付くことが出来ていなかった楓の出す「ヒント」に目がいくようになっていく。

 

 

(楓さんの視線……ずっと俺の喉元を見てる?)

 

 

 ふと、炭治郎は楓の瞳が映す光景の中心が常に変わっていないことに気が付いた。彼女の視線は炭治郎がどれだけ激しく動きまわってもいつも同じ場所を見据えている。

 

 

(喉……そうかっ!筋肉の動き……楓さんは俺が呼吸する瞬間を見て、身体の流れを見てるんだ!!)

 

 

 

 炭治郎のその予想は大まかに言えば正解だった。

 

 

 「予備動作」という言葉がある。

 

 人の身体が動こうとする瞬間には自然とその兆候が現れるという考え方で、腕を前へと動かそうとすれば腕に繋がる胸や首の筋肉が先に動くというように、人が身体を動かす時にはそれと連動するように無意識の内にどこかの筋肉が収縮しているのだ。

 

 中でも喉の筋肉というのは特に無意識の連動が多くなる。炭治郎が呼吸をする際は勿論のこと、脚を踏み込むとき、腕を伸ばす瞬間、身体を捻る時、全ての動きに喉の筋肉が反応している。そしてその中には当然呼吸によって使われる筋肉の動きも如実に反映される。

 

 炭治郎の場合は全集中に意識を集中しながら動いている為に、余計に呼吸による筋肉動作が活発だ。力む直前や、動きを変える瞬間に大きく息を吸い込む行動が楓に次の動きを予測させる力添えとなっているのだ。

 

 勿論、その変化は極めて微細だ。本来なら常人では気付くことも出来ないような僅かなものでしかない。だが達人と言うわれるような者達はそんな微かな反応を見て相手の動きを予測できる。炭治郎の前にいる楓は蟲柱、胡蝶しのぶの継ぐ子として数年にもわたって鍛錬と実戦を重ねてきた、まさしく達人とも言える1人。

 

 

 楓が先に述べた通り、炭治郎と楓では文字通り重ねてきた経験が違うのだ。

 

 

(場所さえ分かれば……あとはっ……)

 

 

 だが炭治郎とて、伊達に2年以上も刀をふるってきた訳ではない。重ねてきた戦いの数もその濃さも楓とは明らかに違うが、前へと進もうとする意志だけなら、炭治郎は誰にも負けるつもりはない。

 

 

(考えて動けっ……楓さんの読みを崩す動きをする……呼吸の流れを自分の意思で動かすんだっ)

 

 

 炭治郎がそれを意識し始めたことで、彼の動きは楓からも目に見えて変化を始める。

 

 

「お粗末ですが……これはまた随分と反応が早いですね……」

 

 

 驚きに楓は僅かに目を見開く。これまで呼吸に合わせてただ真っ直ぐに向かってくるだけだった炭治郎に虚術を使うような仕草が出始めたのだ。

 

 

(わかりやすく視線を集中させていたとはいえ……こうも即座に解決策を導きだしましたか……想像以上に対応力が高いですね)

 

 

 既に炭治郎の動きは最初に駆け出した時とは全くの別物となっている。虚術を意識し、筋肉の動きや呼吸の流れを意識して身体を動かすことで楓の読みから外れるような動きへと変化した。一度目の鍛錬とは思えないほどの驚愕に値する成長力だ。

 

 

 ただ、それですぐに捉えられてあげるほど楓も甘くはない。

 

 結局、その日の訓練で炭治郎は楓を捕まえるどころか触れることすら出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

「はぁはぁはぁっ……ありがとう、はぁはぁ……ございましたぁ……はぁはぁ」

 

 

 道場の床に倒れ込み、息を荒立てながらもなんとか今日の訓練に対する礼を口にする炭治郎を見て、楓もほくそ笑む。

 

 

「いえいえ、炭治郎君にとって良い経験となれたなら、私も訓練に付き合った甲斐があったというものですよ」

 

 

 これが訓練である以上、炭治郎に何かを掴んでもらえたのなら楓としても上々の結果と言えるが、正直今回は彼が如何に優秀な人間であるかを思い知らされてばかりだった。

 

 まさか初回の訓練で、しかも本の1時間にも満たない時間の中で自分の問題点に気づき、修正しようと努力してくるとは楓としても想像以上の結果だった。

 

 

(末恐ろしいとはこういうのを言うのかな……彼がそれなりの経験を積んで戦い始めたなら、下弦程度は余裕で倒してくるようになるだろうね)

 

 

 これほどの短期間で、次々と当然のように技術を吸収できるのなら、【常中】を1ヶ月もかけずに会得したというのも納得だ。もちろん改善点はいくつもあるが、この調子ならばそう遠くないうちにそう言った問題も解消されていくだろうし、はっきり言って本当に時間の問題だろう。

 

 

 まぁ、勿論それは今のやる気に満ちた状態を維持し続けられればの話ではあるが。

 

 

「炭治郎君、今日の訓練で分かったとは思いますが貴方の動きははっきり言って読み易いことこの上ないです」

 

「はぁはぁ……はい、そう……ですよね……はぁはぁ」

 

「呼吸に意識を向けているからでしょうが、貴方は喉の筋肉を動かしすぎです。加えていうなら、踏み込む時に息を吐き、飛び込んだ先で息を吸うというのが貴方の一定の流れになってしまっているので、これも改善が必要です」

 

 

 動きに癖があるというのは人であるならば当然ではあるのだが、戦闘においてその癖を読まれることは致命的な弱点となりえる。

 

 

「十二鬼月の中には人の戦う技術を持っている者が複数います。彼等のような戦闘技術の高い鬼達との戦いになれば貴方の今の弱点は必ず狙われます」

 

「戦闘技術の高い鬼……ですか?」

 

 

 戦う相手が戦闘技術を学んだ者であるならば、今の炭治郎の弱点をつくのは当然とも言える。癖があるなら動きを先読みして返し技を与えることなどある程度以上の実力を持つなら造作なく行える。

 

 

 今の炭治郎の実力ならば、単純な戦闘技術は乙の他の隊士達の方が間違いなく上だろう。打ち合えば十中八九炭治郎は負ける。そして彼等に打ち負けている程度ならば、十二鬼月に、上弦の鬼達と戦うことは出来ない。

 

 

「十二鬼月の筆頭たる上弦の壱は刀を用います。加えて私達と同じ、いえ私達以上に卓越した呼吸の技術を会得しています。あの手の技術を持った鬼との戦いとなれば意識の読み合いによる攻防が必須になってきますから……今の貴方のようにがむしゃらに突っ込んでいくだけではきっと掠りもしないでしょう」

 

 

 向かっていくだけでは擦りもしないのだ。技を読み、技を突き、意識と意識の読み合い。その領域にたどり着いた初めて刀が打ち合える。そこに辿り着いていない者は刀を打ち合う資格すらないのだ。それを楓はよく知っている。

 

 

 もっとも、刀を打ち合えたから勝てる、という訳ではないのだが。

 

 

「……楓さんは……戦ったことがあるんですか」

 

 

 怪訝そうに炭治郎は首を傾げる。彼女のあまりにも詳しいその説明はどう考えても伝承や人伝で聞いたものというより、彼女自身が戦いを経験したかのように聞こえてくるのだ。

 

 

「……戦いにもなりませんでした……あの時の私では……」

 

 

 僅かに間を空けて楓は俯くように床へと顔を向けてそう呟いた。その言葉から深い深い悲しみと、大きな憎しみの匂いが漂っているのを炭治郎は確かに感じとった。

 

 

「………楓さん……」

 

 

 その戦いで一体何があったのか、炭治郎には分からない。だが、彼女の放つ匂いからして、何か、彼女にとってとても大切なものが奪われてしまったのだろうと、それを察することはそれほど難しいことではなかった。

 

 

 

「まぁなんであれ……炭治郎君の弱点はそう言う無意識になりがちな部分にありますから、そこはしっかりと矯正していったほうが良いですよ」

 

 

 漂い始めた重苦しいような空気を振り払うように楓は笑顔で炭治郎へと今日のは学びを口にする。

 

 

「……はい!」

 

 

 彼女のその意志に応えるように炭治郎も元気よく気分を切り替えるように明るく返事を返した。

 

 

 

 

「…………」

 

 

 その炭治郎へと厳しい視線を向ける村田を視界の端で見据えながら楓は今日のもう一つの訓練が上手くいったことを悟り満足気に頷くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 場所は移り。

 

 

 とある山中、闇夜に紛れた怪しげな影が二つ。

 

 

 

 

「どうも、お久しぶりですね〜……猗窩座(あかざ)さん」

 

「……行くぞ」

 

 

 軽快に声を弾ませて挨拶を口にする黒衣を纏う仮面の鬼と、短く実に単的に声を出す赤髪の鬼。鍛え抜かれた肉体を音もなく動かしながら猗窩座と呼ばれた鬼は歩を進め始める。

 

 

「相変わらず冷たいなぁ……俺は童魔さんじゃないですよぉ〜」

 

「……今では似たようなものだ」

 

「……あんなのと一緒にされるのは流石に癪ですね」

 

 

 振り返ることもなく、ただ前へと足を進める猗窩座に仮面の鬼、(うつろ)は僅かに声を低くして不機嫌そうに呟く。しかしその口調は猗窩座にとってどこか違和感を感じざる負えないもの。猗窩座がはじめてこの鬼と出逢った時とは似ても似つかない偽物とも表現出来る程の決定的な違い。

 

 

「ならその薄っぺらい喋り方を変えろ……そうすれば多少は違って見えるかもしれん」

 

「……それは無理ですよ」

 

 

 不意に低く、冷たい声色で空は猗窩座へと返した。それまでの飄々とした印象を一切感じさせない空の言葉に前を歩く猗窩座の足がピタリと止まる。

 

 

「なにしろ……これは俺に遺った数少ない意地ですからねぇ〜」

 

 

 いつもとは僅かに違う、違和感を感じさせる声色に猗窩座はそっと振り返るが、既にそこに猗窩座の求めるモノはない。

 

 猗窩座の視界に映るのはいつもと何も変わらない、飄々としていて気さくな印象を持たせようと努力する気持ちの悪い微笑みを仮面の下に隠す空の姿。

 

 

「……………くだらんな」

 

 

「もう辛辣過ぎて涙が出そうですよ」

 

 

 それを見て、吐き捨てるように呟く猗窩座に空は今までと何も変わらぬやり取りを続ける。

 

 

「……とっとと行くぞ……無惨様のご命令だ」

 

「青い彼岸花……今度こそ見つかると良いですねぇ」

 

「見つける……それが俺達の役目だ……お前は情報だけ抜き取ればいい」

 

「まぁその為にわざわざ分身作ってまで此処にきたわけですから、そちらはお任せを……というより猗窩座さんは手加減誤って壊しすぎないでくださいよ……生きてないと欲しい情報は抜き取れませんからね」

 

「……さっさと行くぞ」

 

 

 

 薄暗い闇の中、一つの因果が交錯し始める。

 

 悪夢は未だ終わる気配を見せない。

 

 

 

 

 




御一読いただきありがとうございます!
御意見・御感想等いただけますと幸いです!

最近投稿頻度減って申し訳ないです(>人<;)
中々筆が進まなくて 笑笑

ゆっくりではありますが今後とも読んでくださる皆様に楽しんで頂けるよう頑張ります! 笑


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しのぶの変化


 はい、お久しぶりの投稿です 笑


 

 

 それはあまりにも唐突な話だった。

 

 

「炎柱様の元に増援ですか?」

 

 

 蝶屋敷にあるしのぶの部屋の一つに(かえで)の不思議そうな声色が響く。

 

 

「えぇ……煉獄(れんごく)さんの管轄する地域で二週間程の内に40名近い行方不明者が出ています。加えて調査にあたっていた隠や剣士も数名、連絡が取れなくなっているそうです」

 

「……十二鬼月でしょうか?」

 

「可能性は拭えません……派遣された隊士達はいずれも乙の階級でしたから最低でも十二鬼月に近い力を持っていると思っておいた方が良いでしょうね」

 

 

 「最低でも」、それが意味することは楓にも明確にわかる。実力不明の鬼、痕跡を残さず比較的優秀な隊士達を始末する能力を持っているともなれば最悪の場合、相手が十二鬼月であることは十分に考えられる。

 

 

 よしんば十二鬼月ですらない鬼だったのだとしても、40人もの人間をわずか二週間で喰らったともなれば相応に力はつけている筈だ。異能次第では本当に油断はならない相手になっているだろう。

 

 

「ですが、宜しいのですか?……一時とはいえ私が抜けてはしのぶ様の管轄する地域が手薄になってしまいます」

 

 

 心配そうに表情を曇らせて楓は声を発する。

 

 

「十二鬼月の可能性のある案件はしのぶ様の担当地域でも複数出ていますし……もし其方が上弦の場合、しのぶ様が……」

 

 

 楓の懸念は単純だ。

 

 確かに煉獄の管轄地域の40名という犠牲者は看過出来ない数字になっているし、すでに手練れの隊士が犠牲になっている以上、相手が十二鬼月でないのだとしても一刻も早い解決が望まれる。

 

 

 しかし似たような事件は煉獄の管轄地域以外でもおきている。

 

 

 しのぶや他の柱の担当地域でも行方不明者や鬼によるものと思われる被害が広がっている地域は複数あるのだ。

 

 

 しのぶの管轄地域は彼女の役割上他の柱達よりも幾分狭いが、その分人員も減らされている。いくらしのぶが速くて強いといっても1人で対処できる量には限度がある。今はカナヲも加わっているとはいえ、楓は柱候補とまで言われる実力者だ。それが他の地域に派遣されれば当然しのぶの担当する地域は手薄になるだろう。

 

 

「心配はいりませんよ……カナヲもいますし、貴方が鍛えた村田君や尾崎さんもいますからね」

 

「で、ですが私はしのぶ様の継ぐ子ですし……なにより十二鬼月の可能性が高いなら他の柱の方に増援に行ってもらうのが適切ではないでしょうか?」

 

 

 いつになく不安気な表情で声を発する楓にしのぶはほんの少し意外なものを感じる。楓は基本的に指令には非常に素直だ。命令が有ればどんな場所であろうとも行く彼女が、このような反応を見せることはこれまでなかったのだが……

 

 

「確かに他の柱が増援でいけるのであればそれに越したことはありませんが、現状は難しいと言わざるおえないでしょう。……貴方の言った通り、十二鬼月の可能性のある被害は煉獄さんに限った話ではありませんからね」

 

 

 上弦の鬼の強さは柱3人分に匹敵すると、そう言われている。現在情報を得られている上弦の壱、上弦の陸の強さは確かに柱1人で対処するのは危険性が大きい。呼吸を扱い卓越した剣技と身体能力を誇る上弦の壱も、首を斬っても死ない2人の上弦の陸も、どちらにしても不明点が多過ぎて対応策すら満足に図れない。

 

 

 いくら歴代でも類を見ない程強力と言われる柱達とはいえ、そんな相手を1人で対処するのはあまりにも危険性が高過ぎる。

 

 

 もし仮に煉獄の管轄地域に十二鬼月がいて、更にそれが上弦の鬼であったなら楓のいう通り柱を増援として1人、或いは2人は最低でも派遣するべきなのだ。

 

 

 だが現実にそれを行うことは非常に困難だ。

 

 9人の柱はそれぞれが広大な管轄地域を持っていて、その中で起きる鬼の被害もまた膨大な量になる。柱が管轄地域外の応援に向かうということはその柱が担当する地域に致命的とも言える穴が開くことになるのだ。

 

 

 那谷蜘蛛山のように、柱を2人も同じ地域に送ることは滅多に出来ない。あの場所が2人の担当地域に隣接している場所であり、十二鬼月がいるという明確な情報がなければ富岡か、或いはしのぶのどちらかが赴くことになっていただろう。

 

 

「それはそうですが……」

 

「今日はどうしたのですか、楓?……一体何をそんなに心配しているの?」

 

 

 言い淀む楓にしのぶは怪訝そうに問いかける。

 

 

 ここまで楓が指令に赴くことを拒む理由がやはりしのぶには分からない。これが普通の隊士であるなら上弦の鬼がいる可能性に怯えているという線が考えられるのだが、彼女に限って言えばそれはないとしのぶは確信して言える。これまで彼女は上弦の鬼を倒す為に必死に強くなろうと、厳しいという言葉が生温い程の辛い鍛錬をこなしてきたのだから。

 

 

「……村田君や尾崎さんのことなら、2人は既に十分強くなっているし、貴方がついていなくとも十分戦えるだけの力はつけていると思いますよ」

 

 

 心あたりを探るようにしのぶは楓に彼女が最近手を焼いていた2人の隊士を挙げてみる。彼女はあまり成果が出なかったと落ち込んでいたが、短期間のうちに村田も尾崎も随分と強くなっている。比べる対象が悪過ぎて確かに成果が今一つのように見られるが、剣技や呼吸の精度は楓が稽古をつける前と後では全くの別人とも思えるような飛躍的な成長を遂げている。

 

 

 本来ならば十分な成果を出している楓が落ち込むようなことは全くないのだとしのぶは何度もそう諭しているのだが、彼女はどうにもそれでは納得がいかないようで任を解かれた今でも時折、彼等に稽古をつけている様子だった。

 

 

「た、確かにそれもかなり心配ではありますけどっ、いま私が心配しているのはそこじゃありませんっ!」

 

 

 ただ、今の楓の心配事はそこにはなかったようだ。

 

 

「はぁ……では何がそんなに心配なのですか?」

 

 

 声を荒げて憤慨した様子で否定の言葉を述べる楓に、しのぶはため息を吐いてもう一度彼女の悩みの種聞き出そうと問いかける。

 

 

「わ、私はしのぶ様が心配なんですっ!」

 

「……私ですか?」

 

 

 返ってきた弟子の言葉にしのぶは思わず息を呑みそうになるのを必死に堪えて、さも心当たりがないかのように自らに指を指してキョトンと首を傾げてみせる。

 

 

 見るものが見れば本当に心当たりなどなさそうな完璧な仕草だっただろうが楓もまた、しのぶとの付き合いは随分と長い。

 

 

 しのぶが何を隠しているのかまでは分からなくとも彼女が何かを隠したがっているのだということは今の動作だけでも十分にわかってしまう。

 

 

 本当に普段通りのしのぶならば楓の今の言葉にため息でも吐いて「私を心配する余裕があるなら自分のことに意識を集中しろ」と叱責の言葉が飛んでいてもおかしくはなかったはずだ。

 

 

 

 ところが今のしのぶの反応は楓の想像したそれとはまるで真逆のものだ。

 

 

 

 どうして私を?と、そう言わんばかりの彼女の反応は普段のそれと明らかに異なる。

 

 

 

 ここに至って楓はしのぶが何かを隠しているのだということに確信めいたものを感じていた。

 

 

「しのぶ様……最近、よく部屋に篭るようになられましたよね」

 

「えぇ、少し研究に熱が入っていましてね」

 

「ご飯も最近は一人で食べることが多いですよね」

 

「ごめんなさいね……研究に時間を使いたくてつい……」

 

「しのぶ様……化粧が随分と濃くなっていますよね」

 

「そうですか?私はこれが割と気に入っているのですけど……」

 

 

 まるで何気ない会話でも交わしているように、しのぶは淡々と困ったように微笑んで言葉を紡ぐ。いつもと同じように笑顔のまま、何一つとして表に出すことなく彼女は楓の追求を交わし続ける。

 

 

「アオイが最近、よくしのぶ様の部屋に出入りしていますよね……それも看護用の手拭いや薬品まで持ち込んで」

 

「あぁ、そういえば最近は研究に集中し過ぎてアオイによく怒られていますね。あの娘には頭が上がらなくなりそうだわ」

 

 

 元々、しのぶが無茶な生活を送っている裏にはアオイの支えがあった。放っておけば寝食を忘れて研究に打ち込む彼女を止めるのはいつだってアオイだった。だからアオイがしのぶの部屋に赴くこと自体は珍しい話ではない。

 

 

 アオイが怒って困ったように微笑むしのぶを引きずってくればいつも通りとも言える話だった。

 

 

 

 だが、最近になってそれが大きく変わっている。

 

 

 アオイがしのぶを連れ出さなくなったのだ。それどころか、手拭いや薬瓶、時に粥のような食事まで持ち込んで部屋で食事を摂らせるようになった。

 

 

 

 

 それはまるで病人を看護するかのように———

 

 

 

 

「吐き気止めに鎮痛薬、解熱剤……そんなものが今のしのぶ様の研究に必要なのですか?」

 

「……えぇ、必要なの」

 

 

 確信に近い部分を突かれてすらしのぶは微笑んでそう答える。

 

 

(……嘘だ)

 

 

 その笑顔を見ても楓の疑心は止まらない。吐き気止めを作る材料なら兎も角、既に出来上がった薬を研究に使うとは到底考えにくい。アオイが持ち込む薬瓶はどれも完全に人の為の薬だ。それを何度も持ち込んでいることから見てもその度に使用しているとしか考えられない。

 

 

(アオイは教えてくれなかったし……)

 

 

 しのぶに問いただす前に楓は当然アオイにも当たっている。最近のしのぶの生活はあまりにもおかしいからだ。機能回復訓練にも殆ど顔を見せず毎日行っていた回診もアオイに任せる頻度が増えている。

 

 状況から見てアオイがしのぶの変化について何かを知っているのは間違いない。だが楓がアオイに聞いても彼女は決して教えてはくれなかった。

 

 

『悪いけど私から言えることはないの……本人に聞いてみたら?』

 

 

 少し怒ったような苛立ったようなそんな様子でアオイは楓にそう答えただけだ。アオイが怒っているのはいつものことだが、あんなに苛立って不満の溜まった様子のアオイを見るのは楓も初めてだった。

 

 

 だからこそ楓は余計に不安になったのだ。

 

 

 敬愛する師に何か異変が起きているのではないかと、楓は心配で仕方がなかった。

 

 それでもここまで待ったのは、しのぶがいずれ自分から話してくれることを期待していたからだ。

 

 

 アオイには話して楓には話さないというなら、そこにはそれ相応の理由があるはずだと、いつか時がくれば話してくれるだろうと、そう思っていたのだが……しのぶはいつまで経っても自分からは話してくれない。

 

 

 

 それどころか今回の配置変えの話はまるで楓を遠ざけようとしているかのような意志すら感じてしまう。

 

 

「……しのぶ様……私には……言えないことなのですか?」

 

 

 か細く不安に揺れるように楓はしのぶを見据える。

 

 

 この問いに意味がないことは楓自身わかっていた。

 

 どれだけ確信に迫ってもしのぶは誤魔化すように言葉を飾る。楓の追求の全てを飾った微笑みの中に飲み込んでしまう。だから、この胸が苦しくなるような問いかけの答えもきっと先程までと何も変わらない。

 

 

「ごめんね……楓……私は大丈夫だから」

 

 

 しのぶはそう言って微笑む。

 困ったように、申し訳なさそうに、安堵させるようにそっと優しい笑みを浮かべた。

 

 

「っ…………分かりました」

 

 

 いつもの飾られたような綺麗な笑顔が霞んで見えてしまうような儚くて美しい笑顔。

 

 

 そんな表情をしておきながらしのぶが口にしたのは明確な拒絶だ。これ以上は聞くなという、話すことはできないという意志をはっきりと示されたのだ。

 

 

「……では、私は炎柱様の元に向かいます」

 

 

「えぇ、楓……くれぐれも油断なきように。生きて帰ってきなさい」

 

 

「っ……失礼します」

 

 

 普段よりも随分と急ぎ足でしのぶの前から去る。部屋を出て廊下を数歩進んだ先で唐突に彼女の足が止まった。

 

 

(ずるいよっ……)

 

 

 歯を食い縛った楓は床を見据えて溢れ落ちそうになる涙を必死に堪えた。握った拳がプルプルと震え、溢れる想いに胸が痛くなる。

 

 

 しのぶのあの笑顔、あの表情。

 

 

 それは楓にとってとても馴染み深い、それでいて一番見たくない表情だった。

 

 

 あれは嘗て楓が何度も見てきた死を覚悟した者がする表情だ。訪れる死を享受し、仲間のために己が身すら犠牲にする者達が先に進む者達に見せる表情。

 

 

 —— 信乃逗(しのず)

 

 

 —— 小牧(こまき)

 

 

 ——清水(しみず)

 

 

 ——山本(やまもと)

 

 

 楓が見てきた彼等の誰もが死の直前、あの儚げな笑顔を浮かべていた。

 

 

 しのぶの身に死が迫っているのではないか、そう彷彿させるに十分な材料が楓には示されている。敬愛する師が、楓にとっての大事な人に命の危機が迫っている。

 

 

 それなのに、楓にはそれを食い止めるどころか近づくことすら許されない。

 

 

 それがどれほど悔しいことか、無念なことなのかわかっているだろうに、しのぶはよりによってあの表情で、あんな笑顔で楓を遠ざけ、その上で『生きて帰ってきなさい』などとあんなにも慈愛に満ちた双眸で見つめてきたのだ。

 

 

「……これじゃあっ、怒るに怒れないじゃないですかっ」

 

 

 師に対する不満をぶち撒けてしまいたいのにそれすら禁じられたようで楓はえも言えない感情に内心を支配されていた。

 

 

 

 いつだって———

 

 

 

 いつだって———

 

 

 

 あの人達は誰かを心配して誰かに生きて欲しいと願いながら自分の身は平気で死へと投げ打ってしまう。想いが強ければ強い程、願いが高ければ高い程、彼等は死を厭わず次へと託すとそう言って手の届かない遠くへと旅立ってしまう。

 

 

 人として致命的なまでにどこか壊れてしまっている。

 

 そう表現できるのに、それを否定することは出来ない。

 

 

 それはきっと楓もまた、優しくてどうしようもなくお人好しな彼等と同じように、その身に高く、重く募ってしまった想いに命を捧げる覚悟をしてしまっているからなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え?また屋敷を留守にされるんですか?」

 

 

 しのぶの部屋を後にした楓は出立に必要な荷物を纏めると、道場で鍛錬をする村田や炭治郎達の元を訪れた。

 

 

「えぇ、新しい指令を頂きましてこれからすぐに立つことになりました。なので、申し訳ありませんが、しばらく鍛錬には付き合えそうにありません」

 

「それは全く構わないのですが、今回はまた随分と急ですね」

 

 

 楓は既に村田と尾崎の指導係の任は解かれている。楓が施した一定の期間の鍛錬によって十分な実力が村田達にはついたと判断されたからだが、任を解かれたあとも楓は暇を見ては村田や尾崎、そして炭治郎達にも稽古を施していた。

 

 他の柱の管轄地域に派遣されるとなれば、暫くは彼等に稽古をつけることは難しくなる。出立前に一応その辺りの挨拶はしておくのが礼儀というものだろう。

 

 

「仕方ありませんよ……相応に犠牲が出ているようですから……炭治郎君達もその様子では恐らくそう遠くないうちには任務に復帰できるでしょうし……本当に暫くは会えないかもしれませんね」

 

 

 楓の口調にほんの少し寂し気な色が混じる。

 鬼殺の剣士にとって、「また会いましょう」という言葉は世間一般にかわされる挨拶よりも幾分重い意味合いを持つ。

 

 鬼との戦いは何が起きるかわからないのが常で、命のやり取りをし続ける限り、その約束が必ずはたされる保証などどこにもないからだ。

 

 

「また会おう」とそう言って会えなくなった人が沢山いるのが鬼殺隊の常だ。

 

 

「そう言われると少し寂しくなりますけど……でも、楓さん達が教えてくださったことを発揮できるように頑張りますよ!」

 

 

 そんな重い雰囲気を知ってか知らずか、炭治郎は持ち前の明るくて前向きな笑顔で、楓の内心におちた暗い空気を吹き飛ばしていく。

 

 

「それを素で言えるの本当に尊敬するわ……」

 

 

 炭治郎の言葉を聞いて村田は尊敬したような、或いは心底呆れたように瞳を細めて炭治郎に視線を向ける。

 

 

「村田さんも少しは炭治郎君を見習ってくださいよ……そうすればもう少しそのなんとも言い難い立ち位置からも脱却できると思いますし、尾崎さんとの仲も進展すると私は思うんですけど」

 

 

 炭治郎の空気に釣られるように楓もクスクスと笑いながら村田と尾崎の仲を揶揄う。

 

 村田と尾崎の仲は側から見ている限り既にただの戦友というような仲を遥かに超えている。しょっちゅう二人で指令にあたり、休日を合わせては二人で出掛ける様子などどこからどう見ても恋仲だろう。ところが村田にそのあたりのことを聞いてみると、彼は恥ずかしそうにしながらも首を横に振るのだ。

 

 

「高野様……俺の個性を微妙な言い回しで否定しないでくれませんか……あと、何度もいいますけど尾崎と俺は特にそういう仲という訳ではないです」

 

 

 こんな感じで彼は尾崎との仲をあくまで戦友だと言い張る。彼女から向けられる好意に本当に気づいていないかのような態度に楓としてはため息をつくばかりだ。

 

 

「……そんなところばかり主人公のようにならないでください……炭治郎君はくれぐれもこんな唐変木になってはいけませんよ」

 

「えっと……気をつけます……」

 

「俺、泣いてもいいですか?」

 

 

 あまりの扱いの悪さに村田は瞳に雫を貯めてしまいそうな勢いで肩を落とすがこれについては楓でなくとも多くが同じ意見だろうから完全に村田の自業自得だ。

 

 

我妻(あがづま)君がいなくてよかったわね……)

 

 

 今はたまたまいないようだが、この会話を聞いていたなら間違いなく善逸(ぜんいつ)あたりが発狂して村田に強烈な拳をお見舞いしているであろうことは疑いようがない。

 

 

「まぁ、兎にも角にも私は出立します。また生きて会えたらならその時はもう少し強くなっていることを期待しておきましょう」

 

 

 急ぎの指令を受けている身としてはゆっくり会話を楽しむわけにもいかない。現地の事件の詳細な調査や、煉獄との合流などやらなければいけないことが楓には多い。

 

 

「はい!楓さんもお気をつけて」

 

「余計なお世話でしょうけど、高野様の無事を祈ってます」

 

 

 元気よく返事をして楓の無事を祈ってくれる二人に礼をして楓は最後に道場の端にいたアオイに視線を向ける。

 

 

「アオイ……しのぶ様を……お願いしますね」

 

 

 しのぶと話をしたことで楓は今の自分が彼女の為に出来ることが何もないのだということを心底痛感させられた。しのぶが隠す件で頼るのはアオイだけだ。ナホ達でもカナヲでもなくアオイただ一人なのだ。

 

 

 何一つすることが出来ない楓に唯一出来ることがあるとするのであれば、アオイにしのぶを頼むこと以外にはなかった。

 

 

「えぇ……分かってるわ」

 

 

 楓の哀しげに歪んだ微笑みを見てアオイは何かを悟ったように静かに瞼を下ろすとゆっくりと首を縦に振った。

 

 

 それを確認すると楓は静かに出発した。

 

 

 

——— 邂逅の時はゆっくりとしかし確実に近づいている。

 

 

 

 




御一読ありがとうございます!
御意見・御感想等頂けますと幸いです。

楓ちゃん感付くの巻です。
アオイは全て承知という設定でございますね!
考えれば考えるほどしのぶには協力者が必要な感じでしたのでアオイちゃんは全てを知っていた設定でいくことにしました(涙)

もうこれだけでアオイちゃんの二次書けそう 笑笑 



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明るい炎


お久しぶりです。
2ヶ月ぶりの更新になります!
気まぐれで申し訳ない(>人<;)

また楽しんで頂けますと幸いです!


 

 

 (かえで)(からす)に指示された地域に到着したのは蝶屋敷を出立した3日後の午後だった。途中寄り道のように鬼狩りの指令がくだされなければもう少し早く辿り着けただろうが、何故か楓の行くところ行くところで応援要請が出続けて本来1日あればつく筈のところに3日もかかってしまっていた。

 

 

 日照りが厳しく通りを歩く人々の額から汗がポタポタと流れ落ちる程の気温となった街中を、楓も彼等と同様に、汗ばんだ額を手拭いで軽く拭いながら人通りの激しい街中をキョロキョロと忙しなく視線を動かしながら歩いていた。

 

 

(暑いなぁ〜……もう炎柱様はどこにいるのよ〜)

 

 

 気温が高い日に鬼殺隊の隊服というのは非常に相性が悪い。黒地というのはただでさえ陽の暑さを感じやすい。加えて剣士の着る隊服は特殊な繊維が編み込んである為、防御力は非常に高いが反面通気性がかなり悪い。

 

 

「カナヲの隊服はそういう意味では楽かもね」

 

 

 楓の妹弟子に当たるカナヲの隊服は一般に剣士に支給される隊服とは随分と気色が違う。

 

 

 西洋では一般的らしい「スカート」という衣服がカナヲには支給されている。楓も継ぐ子になった当初、前田という眼鏡をかけた隠の男にそのような隊服を薦められたのだが、防御力という面と脚を出すということに抵抗を感じて彼女は断ったのだ。

 

 

 余談だが、楓が断った直後に涙を流して土下座して拝み倒そうと試みた前田はしのぶにその場で衣服をとりあげられると、地面に無造作に捨てられたうえ特殊な薬品をかけられて彼の目の前で燃やされたそうだ。

 

 

「しのぶ様も怖かったし……今の格好の方が落ち着いていていいんだけど……カナヲの格好も可愛かったなぁ」

 

 

 流行の差というのがあるのだろうが、日本でも徐々に「スカート」という文化も浸透してきている。カナヲのものとはまた違うが時折、袴とは違う丈の長い洋風の衣服を身につけた女性が道を歩いている。

 

 

「時代の変革、か……」

 

 

 場違いにも見える変わった衣服を見て楓はそっと息を吐く。

 

 この国の変わりようは凄まじいものがある。

 

 当たり前のように馬を連れているものがいる一方で、当たり前のように機械仕掛けの乗り物が人を運び、当たり前のように日本の食事を摂るものがいる一方で、当たり前のように西洋の食事を口にする者もいる。

 

 

 この国由来の物から様々な国の流行り物まで、沢山の色が混じり合っていて楓には幾分今の光景が酷く歪に見える。

 

 

 

 

 ポォーーーッ!!

 

 

 

 

 遠くから街に鳴り響く奇妙なこの音もまた、時代の変革の象徴の一つだろう。

 

 

「列車ね……」

 

 

 楓はあまり乗ったことがないのだが、この国にとってあれは今やなくてはならない革新的な技術の一つになっている。

 

 多くの人を一度に遠くに早く運ぶ。

 

 今まで数日はかかっていた距離を列車ならば僅か一日足らずで移動できる。とても便利な乗り物だそうだ。

 

 この街に住む者にとってはもはや慣れた音なのだろう。楓が思わず肩を震わせた奇妙な音にも首を傾げもせずに当然のように道を歩いている。

 

 

 

 

「……炎柱様ったら、ほんとどこにいるのよ」

 

 

 未だ見つからない探し人に楓はキョロキョロと視線を彷徨わせ続ける。

 

 そのあまりに落ち着きのない姿は完全に田舎から出てきたお上りさんと言った様子で、全身真っ黒な隊服も相まって余計に通りを歩く人々の視線を集めるのだ。

 

 

(見られてるなぁ……いつだったか信乃逗さんも嫌そうだったもんなぁ〜)

 

 

 それは、しのぶと楓が二人で指令に向かって信乃逗に応援を頼んだ折のこと。厄介な鬼の異能に対処するのに人数が必要とあって、彼に赴いてもらったのだが、その時の彼の目立ち様と言ったらかなりのものだった。

 

 雲一つない晴れた日で露店の多い通りだったこともあるだろうが、一際人の流れが多い中に一人通りで動かずただ佇んでいる黒ずくめの彼の様子は遠くから見てもよく分かったし、見ていて面白い殆どジロジロと視線を向けられていた。

 

 

 合流した時の彼の不機嫌な様子にこっそりしのぶと笑っていたのは内緒の話だが、視線の多さからしてきっと今の自分もあの時の信乃逗と同じくらい目立っていることだろう。

 

 

 などと懐かしげにそう思った時だった。

 

 

「っ!?」

 

 

 楓の背筋にゾクリとした怖気が走る。

 思わず布の下に隠した刀に手を伸ばしそうになるほどの明確な殺気を身に受けて楓はそれまでとは違う警戒の視線をあたりへと走らせる。

 

 

(視線を辿れない……気配の隠し方がかなりうまい……)

 

 

 楓が殺気を向けられたとそう思った瞬間には既にその視線の主は人混みに紛れて消えている。

 

 

(鬼、な訳ないよね……)

 

 

 こんな日照りの中で鬼が活動出来る筈がない。

 となれば、楓が感じ取れるほど明確な殺気を通りを歩く人間が出したことになる。

 

 

(完全に私に向けられていた……どういうこと?)

 

 

 鬼であるならば兎も角、楓は人間に殺気を向けられるような出来事を起こした覚えはない。

 

 加えて、この殺気の主は殺気を瞬時に消すことが出来るだけの経験を積んでいる。楓に視線を辿らせず、姿を人混みに紛れ込ませることができるだけの能力がある人間が鬼殺の剣士である楓に殺意を向けてくる。

 

 

(どうにも気になるけど……これ以上探しても見つかりそうにない、か……)

 

 

 この人混みの中では犯人を特定するのは非常に困難だ。既に視線が途絶えていることからしても、これ以上視線を彷徨わせたところで見つからないだろうと、楓がそう思った時……

 

 

「うむっ!!これはとても良い出来だ!」

 

「へいっ旦那、これは紀州の焼き物でして、酒をやるにはこれ以上ないほど贅沢な逸品でさ」

 

「なるほどっ!!素晴らしいな!一つ頂戴したいのだが!!」

 

「へいっ、金貨2枚でさ」

 

「高いなっ!!だが良い物だ!」

 

 

 耳に入る聞き覚えのある声に楓はそっと一際人が集まった通りの一角に視線を向ける。

 

 

「是非是非!これで呑めれば喉に加えて人生まで潤うってもんでさ」

 

「なんとっ!人生が……うむ、買った!!」

 

 

「まってくれ!俺も欲しいぞっ!」

 

「私も主人に欲しいわ!」

 

「いや我が家にこそ相応しい!」

 

 

 

「うむっ!困ったな!」

 

 

 溌溂とした元気の良い声が通りに響き渡り、露店の主人の上手い手腕によって完全に見世物になってしまっている。

 

 次々と上がる繁盛の為の声に満面の笑みを浮かべる露店の主人と鬼殺隊を支える柱の一画を見て、楓は思わずその場に倒れてしまいそうになる。

 

 

「何をやってらっしゃるのですか……炎柱様……」

 

 

 意識が遠のいてしまいそうになるのを必死に堪えながら、楓はなんとか商売の種、もとい炎柱、煉獄(れんごく)杏寿郎(きょうじゅろう)へと声をかける。

 

 

「うん?君は……確か胡蝶の継ぐ子だったな!……こんなところで会うとは奇遇だな!」

 

「勝手に偶然にしないでください!何の為に私がここに来たと思ってらっしゃるんですか!?」

 

「分からん!!何の為だ?」

 

「指令で来たんですよ!!炎柱様の応援をしろとしのぶ様に指示を頂いてきたんです!……まさか聞いてないんですか?」

 

 

 もしも煉獄がその話を聞いていないのだとしたら、これはしのぶが勝手に出した指示ということになる。そうであるなら蝶屋敷で楓が感じた通りしのぶが意図して楓を遠ざけているのが明確になってしまうのだが……

 

 

「そういえば胡蝶からそのような話があったな……すまない!忘れていた!」

 

 

 単に煉獄が忘れていただけの話だったようだ。

 

 

(……なんだろう……凄く疲れた……)

 

 

 僅か数分の会話だけで楓はその日の気力を全て持っていかれたかのような気分だった。

 

 

「……それで、炎柱様は此方で一体なにをなさっているのですか?」

 

「あぁ、父に土産を買っておこうかと思ってな。良い品がないか探していたのだ」

 

「……失礼ながら……それは鬼を狩った後では駄目なのでしょうか?」

 

 普通土産というのは帰り際によって買っていくものだ。用事の最中に荷物を増やすのはあまり得策とはいえない。大きな商店であれば遠くの街でも届けてくれることもあるが、こんな露天紛いの店にそこまで期待するのは酷というものだろう。となれば買ったものは煉獄にとって当然荷物になるわけでそれは鬼狩りの任においては邪魔にしかならない。

 

 

「なるほど!確かにそうだな!」

 

 

 勢いは衰えず、どころか一層増した声量が楓の鼓膜を震わせる。

 

 

「……帰りたい」

 

 

 心の底から湧き上がる疲労感に楓は思わずそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 ところ変わって、場所は藤の家紋の屋敷へと移る。

 この大きな街にあって唯一鬼殺隊に協力を示してくれる商家の一室に案内された煉獄と楓の2人は此度の鬼の一件についてようやく話し合うことができていた。

 

 

「さて、胡蝶の継ぐ子はどこまで仔細を耳にしている?」

 

「多数の行方不明者がいるということは伺っていますが仔細と言えるようなもの何も……私は未だこの街に着いたばかりですし、調査は炎柱様との情報共有の後にと思っておりましたので」

 

 

 楓にくだされた命は鬼の討伐というよりは、煉獄を手伝うことに主を置く内容だ。そうであるならばまず第一に煉獄と合流しようと試みることは何よりも重要と言っていい。楓としては先に現地入りしている煉獄から情報を得ることができるのであればそれが最も手っ取り早い手段でもあった。

 

 

「なるほど……それは良い判断だ」

 

 

 至って普通のことである筈なのだが、煉獄は楓の判断を感心したように頷いている。

 

 

(うん?)

 

 

 何やら含みを帯びた煉獄の言葉に楓は首を僅かに傾げる。

 

 

「君はこの街をどう思う?」

 

「……どう思うと聞かれましても、駅もあるせいか随分と賑わっていますし……その、良い街なのでは?」

 

 

 煉獄の質問の意図がいまいち読めず楓は当たり障りのないようにこの街の印象を単的に語った。人は多いし、繁盛している店も多い、名物紛いの列車まで通っていることからしてもこの街には他の街以上に活気で満ちている。経済が潤えば飢餓に苦しむ人間も減るし、治安も安定しやすい。鬼さえでなければこの街は本当に良い街なのだ。

 

 

「ふむ……君はこの街に入った時、何か違和感を覚えなかったか?」

 

「違和感、ですか?」

 

「うむ。例えば、視線……或いは殺気にも似た敵意の感情……そう言った物を向けられた覚えはないか?」

 

 

 そこまで言われてようやく楓はこの街にきた時に殺気のこもった視線を受けたことを思い出した。

 

 

「あります……人混みに紛れていたので追えませんでしたが……殺気を向けられたのは間違いありません」

 

「そうか……やはりな」

 

 

 納得したように頷きながら煉獄は眉を顰める。

 

 

「炎柱様もそのような視線を?」

 

「あぁ。気配を紛れ込ませることに随分と長けた相手だったようでな……後ろ姿も捉えられなかったが、随分と殺気立った視線を向けられた」

 

 

 その返答に楓は僅かに目を見開き驚きを露わにする。

 

 

(柱でも捉えられないなんて……)

 

 

 炎柱である煉獄ですら捉えられなかったとなればその時点で相手は相当の手練れであることが予測できる。

 

 ただここで最も問題となるのは「相手が手練れであるか否か」ということについてではない。

 

 

「私は日中に感じたのですが、炎柱様は?」

 

「俺もそうだ。陽光が指す只中で、周囲に鬼が隠れられるような場所はなかった」

 

 

 楓が視線を察知したのは陽が昇りきった時間帯、それも感じた場所は人が多く往来する大通りだった。鬼が隠れられる場所はなく、鬼と明確にわかる気配も感じることは出来なかった。

 

 

「となるとやはり……」

 

 

「うむ。視線の主は———」

 

 

 

 

     

          ——— 人間だろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこはとある邸の地下。

 

 

 決して陽の光が入ることがない暗く閉ざされたその空間は、常人にとってはひどく不気味で居心地が悪い場所だが、鬼である魘夢(えんむ)にとっては寧ろ過ごし易い。

 

 少し湿った空気も、肌寒さを感じさせる冷やりとした雰囲気も、染み付いた血の香りも、全てが魘夢にとっては最適なものと言える。

 

 

 

 この場所を用意した者は魘夢のことを実によく理解している。

 

 

 

 魘夢がその空間の居心地の良さに悦に入っていると彼のほんの数歩後ろに、一切の物音を立てることなく1人の人間が姿を現す。

 

 

 突如現れたその人間に魘夢は振り向くことすらなく気づくと、ただ一言声をかけた。

 

 

「おかえり、玲子(れいこ)

 

 

 彼にしては珍しく親み深く何処か楽しげな声色で口を開くと数歩後ろで跪く人間の少女に視線を落とす。三つ編みに髪を結い、薄い緑色の着物に身を包んだ少女。街を歩けばどこにでもいる普通の少女にしか見えない。

 

 

「ただいま戻りました。魘夢様」

 

 

 楽しげな雰囲気を出す魘夢とは異なり、彼女の口調は冷たく感情を覗かせない声色でどこか淡々とした様子を感じさせる。

 

 

 鬼という人を喰い殺す明確な脅威である魘夢と何処にでもいる町娘といった風貌の彼女が当然のように挨拶を交わしているというのは実に不可解で奇妙な光景だ。

 

 

 

「今日の収穫はどうだった?」

 

「……また鬼狩りが街にやって来ています」

 

「あぁ〜、そうなのかい?……ふふふっ、目立つようにやると本当に次々と喰いついてきてくれるねぇ〜。いま何人目だったかな?」

 

「この街に来てからという意味であれば……前回の鬼狩りで4人目です」

 

 

 魘夢の求める言葉に単的にそれでいて的確に答えていく様子は2人の関係性を一種の主従関係のように感じさせる。それは彼女が魘夢の前で跪いていることでより一層強固な予想となる。

 

 

「そっか。まだそんなものなんだね……それで今回はどんな奴かな?楽しい表情を見せてくれそうかい?」

 

 

 既に4人もの剣士を喰らっておきながらまだまだ足りないと言わんばかりに不満気な様子を見せる魘夢の姿は下弦の壱としては実に相応しいほどに悪辣で、同時に嘗ての魘夢とはかけ離れた姿だった。

 

 魘夢という鬼はあまり危険を好まない。自らが絶対に安全という領域に至るまで決して表には出ず、常に裏から人を壊し、狂わせる。彼は策士としては優秀ではあるが戦士としての能力はそこまで高くはない。それを理解する彼はこれまで鬼狩りという存在を極力避けて人を喰らってきた。

 

 今回も一見すれば手駒を用意し、道具を使ったこれまで通りの策士としての立ち回りに見えるが、自ら表舞台に立ち嬉々として鬼狩りを迎え撃つその様子はまるで人が変わってしまったようにすら感じる。

 

 

 

 少なくとも数年に亘って彼と共に歩む玲子ならば感づけてしまう程度には明確な違いとなっている。

 

 

「鬼狩りは男と女、合わせて2人確認していますが……申し訳ありません。彼等は私に気づいてしまったようで、あまり近づくことができませんでした」

 

「おや?……珍しいねぇ……君が俺の望む言葉を口に出来ないなんて」

 

 

 それは少女の失態を咎めるような口調ではなかった。

 

 

「申し訳ありません。罰はなんなりと……」

 

「ふふふっ、安心していいよぉ〜。俺は使えるおもちゃをすぐに壊したりはしない……でも、そうだねぇ。罰として君には君の大好きな悪夢を魅せてあげよう」

 

 

 大好きな悪夢という矛盾に満ちた言葉を魘夢は楽しんでいた。彼女の失態を、彼女の犯す過ちを、彼女のこれからを魘夢は夢想し酔いしれる。

 

 

「っ……ありがとうございます」

 

 

 恍惚とした様子で罰を与えることを告げる魘夢を見て玲子という少女はピクリと体を震わせると震える声を押しとどめるように感謝の言葉を口にした。

 

 

「いいんだよ。君のそういう素直なところが僕は大好きなんだから」

 

 

 まるで怯える子供に慈悲を与えるように魘夢は彼女の頬にそっと手を添えると瞳をそっと合わせる。

 

 

 

 ——— 血鬼術 夢操作 ———

 

 

 

 

「ぁ……………」

 

 

 次の瞬間、小さな声をあげて少女は眠りに堕ちた。

 

 

「ひぃっ……ぁぁっ………」

 

 

 深い眠りに堕ちながら表情を歪ませ、もがき苦しむように無意識に身体を動かす少女。

 

 

「ふふふっ……あぁ、本当に君は良いなぁぁ〜」

 

 

 その姿を魘夢は頬を染めてみつめる。眠りに堕ちた安堵の表情から悪夢に苦しむ表情へと一転する人の姿は彼、魘夢にとってなによりも甘美なものだ。中でもいま目の前にいる少女は一度で壊すことがもったいないとそう魘夢が思うほどには特別な反応を示してくれる。

 

 

「それにしても……玲子が近づけない鬼狩りか……これは柱でもきたのかな?」

 

 

 魘夢が彼女を重用する理由の一つに彼女の観察力と気配の隠匿の達人の息にあることがある。

 

 魘夢には目の前で見たところで鬼狩りと普通の人間との差など柱でもなければ理解できない。しかし彼女は鬼狩りとそうでない人間を見分け、魘夢へと報告してくれる。だからこそ鬼狩りが列車までくれば優先して殺すことができたし、その為の手駒も用意することが出来た。

 

 ただの鬼狩りであれば彼女はこれまで通りに彼等に近づき人相から、どんな人間であるかまで調べてくることができた筈だ。

 

 それが今回に限っては近づくことすら出来なかった。となれば、今回やってきた鬼狩りは今までの雑魚とは明らかに力量が違う。それなりに腕の立つ鬼狩りということになる。

 

 

「柱……柱かぁ〜……少し早いけど作戦を進めるかなぁ」

 

 

 苦しみ悶える少女を(さかな)に楽しみながら魘夢は次の段階へと作戦を進めるよう手順を考え始めるのだった。

 

 

 

 




御一読いただきましてありがとうございます。
御意見・御感想等頂けますと幸いでございます!


三つ編みの少女の名前は勝手に付けちゃいました。
この2人の関係性って色々想像できて意外と楽しいですよね〜


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誘われ、導かれ

明けましておめでとうございます。
久しぶりの投稿です。


 

 

 

 

 人通りもまばらな夜の時間、楓と煉獄は共に街中を巡回して歩き続けていた。

 

 

「今日も……どうやら襲撃はなさそうですね」

 

 

 もう間もなく夜が明ける。この時間帯で襲撃の気配どころか、鬼の気配の名残りすらも感じることができないなら恐らく今日も収穫は期待できないと、楓は肩を落とす。

 

 

「うむ!平和でなによりだ!」

 

「そうですね〜……って言っている場合ですか!?」

 

 

 どこまでも前向きな煉獄の言葉に楓もついつられて呑気な言葉を発してしまったが、状況が状況なだけに流石に反論せざるを得ず、楓にしては珍しく声を荒げて煉獄へと詰め寄る。

 

 

「もう三日ですよ!三日も収穫なしなんですよ!?」

 

「全く困ったものだな!はっはっはっ!」

 

「せめてもう少し困った顔で言ってくれませんか!?」

 

 

 楓が煉獄と合流し鬼の調査を本格的に始めてから既に三日が経ち、その夜が終わろうとしている。つまりこれから調査開始から四日目に突入しようとしている訳だ。

 

 

 それにもかかわらず2人は鬼の情報を未だになに一つとして入手できていないのだから楓が声を荒げてしまうの無理もない。

 

 ここまでの犠牲者の増加速度を考えるのであれば一刻も早い討伐が望まれるというのに、無力にも鬼の居所は勿論、被害者がどこから行方不明になったのかすら未だ定かになっていないのだ。

 

 

「もう街の内部は粗方調べ尽くしていますし……街の外部まで警戒線を広げた方が良いのではありませんか?」

 

 

 鬼が潜んでいそうな場所は隠にも手伝ってもらってしらみ潰しに探しているが痕跡一つ見つかっていない。普通鬼が食事をすればその場所には相応に痕跡が残るものなのだが、それが全く見つからないとなると鬼は被害者達を街の外部に連れて行って喰らっている可能性が高い。

 

 

「警戒線は街の外周部までで良い。鬼は間違いなくこの街の中にいるからな」

 

「……なぜそう思われるのですか?」

 

「無論、勘だ!」

 

「…………あぁ、そうですか」

 

 

 なにを思って「勘」にそこまでの確信を持っているのか、楓には全く理解できないがこうなっている煉獄はてこでも動かないことはこの短くも長い三日間で彼女も理解してしまっている。

 

 

(厳命無視して単独で動く人ってこんな心境だったのかな〜)

 

 

 と、楓にしては珍しく命令に従おうとしない者達の心境を理解できてしまう程度には彼女の心も煉獄の対応に疲れきっていた。

 

 

 というのも、今の捜索の仕方は楓から見ればはっきり言って効率があまりよくない。

 

 本来であれば楓と煉獄が二手に別れて別々に街の警備に当たるのが最良だ。人手不足の現状で戦闘能力の高い剣士を一箇所に固めれば警戒範囲が狭くなるのは言うまでもない。

 

 

 しかしいま現在、この街で活動する隊士は単独での行動を煉獄の命によって禁じられている。

 

 

 当初は腕を認められていないのかと、楓もつい反論しそうになったが煉獄の説明を聞いてそれは自重した。

 

 

『人間が敵に回っている可能性がある以上、単純な戦闘能力だけで考えるのは少々危うい。鬼との協力関係にあるのか、或いは全く別の第三勢力である可能性もある。単独での行動はなるべく避けたほうがいい』

 

 

 調査開始当初、隠を含めたこの街の担当員全員に言い聞かせられた言葉だ。

 

 第三勢力というのが一体何者なのか、それについて煉獄から詳しい説明はなかったが、人間が必ずしも味方ではないということは鬼殺隊にとってもそれほど珍しいことではない。鬼の恐怖に打ち負けて彼等の命令に従ってしまい、結果として鬼殺隊の敵となった人間も稀ではあるが確かに存在しているのだ。

 

 そして得てしてそういった件では鬼殺隊にけっして少なくない犠牲者が出てしまう。

 

 

 だから煉獄の言う単独で動くことの危険性自体は楓にも理解できる。

 

 

 理解はできるのだが、あるいはいまこの瞬間にも誰かが鬼に襲われていて命の危機に瀕しているかもしれないと考えた時、自らの保身を考えた末のこの捜索体制は鬼から人を守る立場にある者としては少々受け入れ難いものでもあるのだ。

 

 ただ、それは同じく鬼殺の剣士である煉獄も同じであるはず。

 

 

—— 早く鬼を見つけないと。

 

 そんな焦燥に楓が呑まれてしまいそうになるのも仕方ないことだった。

 

 

「焦りは禁物だ……君はいまこの場において俺の次に立場が上の人間だ。上に立つものがそういった感情に呑まれれば君を頼る他の者達にも少なくない影響を及ぼす。いずれ柱を継ぐ立場にいるのであればそういったことにも気を使わなければならない」

 

「っ……はい」

 

 

 唐突にそれまでの明るい雰囲気を変えて真剣な表情になった煉獄に楓は思わず言葉を詰まらせる。彼が放ったそれは鬼殺隊を支える柱という立場に立つ者の抱く責任ある言葉で、だからこそ楓にとって煉獄の忠告は他の隊士に向けられるそれより一層重く感じられるものだった。

 

 

 

『柱を継ぐ』

 

 

 普通の隊士達からすれば手の届かないような目標であっても楓にとってはそうではない。冗談でも、単なる目標でもなく、鼓舞でもなく、それは謂わば彼女にとって一つの義務なのだ。

 

 柱から直接指導を受け、生きる術を教えられるという他の隊士達とは一線を画す破格の待遇を受ける彼女に課せられた役目なのだ。

 

 

(私に……その資格はあるのかな?)

 

 

 しのぶの継ぐ子という立場にあるのに楓にはしのぶの抱える問題に近づくことすら許されなかった。しのぶから信頼されていると自信を持っていうことすらできない自分が果たして継ぐ子という立場にいても良いのだろうか。

 

 増して、いまや彼女の元にはいずれ自分より遥かに強くなるであろう子達が集まっているのに自分にその責を預かる資格はあるのだろうか?

 

 

 しのぶと話をしたあの時から胸の奥底で燻っていた途方もない不安感に楓は苛まれていた。

 

 

 なぜしのぶは継ぐ子である楓ではなくアオイを頼ったのか。

 もしかすればあの屋敷でしのぶの秘密を知らないのは自分だけだったのではないだろうか。

 

 根拠すらない疑心が彼女の思考を延々と回り続け、鬱屈とした感情としてとどまり続ける。

 

 

(私よりも……カナヲの方がきっと……)

 

 

 嫉妬とも言えるような醜い感情を抱き、自らの思考に溺れてしまう。

 

 

 

 

「ふむ。なにやら悩みがるようだが、それに溺れるよりもまずは責務を果たさねばな。胡蝶の継ぐ子」

 

 

 不意に響いた煉獄の言葉に意識を戻されるように楓はハッとしてあたりに注意を巡らせる。すると楓達から少し離れた場所に微かに鬼の気配を感じる。薄く広く気配を染み込ませるような不明瞭なそれに楓の反応は遅れてしまった。

 

 

 慌てて煉獄へと謝罪を口にしようとした時には彼は既に鬼の気配目掛けて走りはじめていた。

 

 

(っ……失態ばかり)

 

 

 悔しさが滲み出る表情で楓も煉獄の後を追いかける。

 速度には自信がある楓だ。実力では未だ遠く及ばない煉獄にも全力で駆け出せば追いつくことは不可能ではない。

 

 

「むっ!流石に胡蝶の継ぐ子だ!全力で走っているのだが速いな!」

 

 

 必死に走ってなんとか追いつけば煉獄は僅かに目を見開いて嬉しそうに声を張り上げる。

 

 

「申し訳ありません炎柱様!遅れました」

 

「なに、悩みに溺れようとも走り続けられるのなら問題あるまい!鬼の気配まであと少しだが……これはどうにも奇妙だな」

 

 

 煉獄は楓の謝罪をなんということもないと広い器量でもって笑顔で許すが、近づいてきた鬼の気配を前に眉を顰めると比較的高い民家の屋根上で足を止める。

 

 

「これは……」

 

 

 煉獄に僅かに遅れて楓も眼下に写った光景を前にして思わず言葉を失う。

 

 楓達の前に広がるのは所謂、車両基地だ。街の端に作られた列車の格納用の施設。その施設一帯に疎らに広がるように鬼の気配が充満している。

 

 

「鬼の気配が広がり過ぎていて正確な位置がわかりませんね」

 

「あぁ。ここ三日まるで姿を見せないことから察してはいたが気配の扱い方が随分と上手い鬼のようだな。……入り込まれた場所も厄介極まる」

 

 

 眼下に広がる施設を歩きまる複数の人間の姿を見て楓も苦虫を噛み潰したかのように表情を歪ませる。

 

 

 車両基地の中を歩く人間はおよそ一般人とは言い難いもの手にしている。

 

 

「……軍人ですか」

 

 

 

 ——— 銃

 

 

 

 嘗てこの国で当たり前の武装であった刀。それを置き換えた近代的な武装。遠くから一方的に効率的に人間を殺すための新しい兵器だ。

 

 

 それを手にした人間が施設一帯を警戒するように巡回している。

 

 

「ここは国軍の施設だな……警備も厳重だ。あの警戒を掻い潜って鬼を探して回るのはかなり骨が折れるな」

 

 

 鬼殺隊はあくまで政府非公認の組織だ。

 

 その存在をしり、許容しているのは国家の上層部の一握りでしかない。故に車両基地に鬼がいるから討伐させてくれと言って入り込もうとしても許可など下りる訳もない。狂人扱いされ問答無用で捕縛されるのがおちである。

 

 かと言って無断で侵入しどこにいるか不明の鬼を探して回るにはあまりにも警備の数が多い。途中で彼らに見つかりでもすれば無用な騒ぎを起こすことにもなるし、場合によっては彼らの武装の使用を促すことにもつながりかねない。

 

 

「しかし、このまま放置する訳には……」

 

「勿論放置はしない。だが今日はもう陽が昇る。鬼が大々的に動くことはできないだろう。その間にお館様と連絡をとって基地へと入れるよう手を回していただこう」

 

「そのような計らいまで出来るのですか……しかしどうにも面倒な鬼ですね」

 

「厄介であることは間違い無いだろう。ここまで念入りに気配を隠していたというのに唐突に気配をあらわにした件といい、潜伏している場所……なにやらよからぬ企みをしていそうではあるな」

 

「罠、ですか?」

 

「かもしれん。……まあそんなものあったところで纏めて叩き斬るだけだがな!」

 

「……えぇ、まぁ炎柱様ならそうなさるでしょうね」

 

 

 罠があると理解しながらそれでも正面から叩き潰すと宣言するあたりさすがと称えるべきか、それとも傲りが過ぎると忠告するべきか、一瞬の逡巡の後、楓は前者とも後者ともいえない曖昧な反応に留めた。

 

 

「ひとまず交代で見張る人員を用意しよう。陽光の差さない屋内であれば鬼も活動はできる。何か騒ぎが起きないか、それを把握しておく必要はあるだろうからな」

 

「承知しました。そのように取りはからいます」

 

「君も休むといい。あまり気を張って先のように固まっても大変だ。……おそらく今晩が勝負どころになるであろうしな。それまで体力は温存しておくといい」

 

「うっ……はい」

 

 

 思考に気を割かれ過ぎて肝心の任務を疎かにするなど継ぐ子としてはお粗末な話だ。なんであれ今は楓はしのぶの継ぐ子という立場にいるのだ。あまり醜態を晒すのはしのぶの面目にも影響を及ぼすことになる。

 

 

 少し恥ずかしげに落ち込んだ様子で返事をする楓をみて煉獄は面白げに笑うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さてさて、獲物は喰いついてくれたかな〜」

 

 

 格納庫に仕舞われた一つの車両の内部で魘夢(えんむ)はそっとほくそ笑む。

 

 

「折角俺の居場所を見つけても簡単には特定できない。しかも中々この場所には入りづらい。獲物を前にしてお預けをくらったあいつらは今頃どんな表情をしてるのかなぁ〜」

 

 

 ここ数日街の中で自分のことをうろちょろと探し回る鬼狩りのことを魘夢は玲子を通して確認していた。全く成果の上がらない彼らがようやく感じた自らの気配を辿ってきて、再び意気消沈する姿を想像して魘夢は楽しげに口元を歪める。

 

 

「魘夢様、一つよろしいでしょうか?」

 

 

 そんな魘夢に唯一声をかけるのは、本来決して鬼とあい入れることのない筈の人間の少女だった。

 

 

「うん?なんだい玲子?」

 

 

「確認できた鬼殺隊関係者は多数いますが、鬼狩りに相当する人間は2人だけでした。……なのになぜ……」

 

 

 魘夢を前に問いかけながら玲子は車両の中で幸せそうに眠りにつく4人の子供達へと視線を移した。

 

 

「あぁ、子供の数のことかい?」

 

「……はい」

 

 

 魘夢の能力であれば子供は2人もいれば事足りるはずだ。少なくともこれまでの鬼狩りはその人数に合わせて手駒を用意してきた。なのになぜ今回に限ってその倍にあたる4人もの人間の子供を用意したのか。それが玲子には不思議で仕方がなかった。

 

 

「う〜ん、簡単にいえば備えだよ」

 

「……予備ということですか?」

 

「そう。今回の鬼狩りはこれまでの鬼狩りよりも強い。となると精神の核までたどり着いても上手くはことが運ばないかもしれない。強い人間の中には眠りについていても相応に反撃してくる奴もいるからねぇ〜。相手が柱、ないしそれに準じる強さを持っているならきっとそうなる。だから手駒を破壊されたときようの代わりを用意しただけさ」

 

「…………」

 

 

 用意周到と、そう表現できるようなやり口だがそんな不確定な物の為に人生を狂わせれた方としては溜まったものではないだろう。少なくともこの場で眠る5人のうちの3人は「必要かはわからないけど念の為準備しとくか」とその程度の認識で一生を壊されたのだ。魘夢のような鬼にとって人間の命などその程度のものでしかない。

 

 使えれば使い、いらなくなれば喰らう。魘夢にさえ出会わなければまだ真っ当に生きられたかもしれない人間が一体どれほどいるのか、考えるだけでも恐ろしい。

 

 

 そしてきっと魘夢は、この悪鬼は「必要がないならいい」と彼らの命を造作もなく奪うのだろう。

 

 

 この5人の子供達は一時の幸福な夢という水泡に身を浸し、その最期に彼らにとっての悪夢に魘され苦しみながら一生に幕を下ろすのだろう。

 

 

 どうあっても決して救われることのない子供達がみせる幸せそうな表情があまりにも憐れで玲子は彼等を哀しそうに見つめる。

 

 

「おやおやぁ〜、君にもまだそんな表情ができたんだねぇ」

 

 

 そんな玲子を魘夢は愉悦に満ちたような外道な微笑みでもって見据えている。

 

 

「これまで散々夢を見るために俺に協力してきた君が……そんな風に他人を憐れむなんてねぇ〜」

 

「っ……私は……」

 

 

 

 魘夢の愉快気な言葉を耳にして玲子は苦しげに表情を歪ませる。

 

 

「ふふふっ、こっちにおいで君も夢を見ればいい。不運で不幸で残忍で残酷な夢をたっぷり見せてあげるよ」

 

 

 普通であればそんな誘い文句に嬉々として近づくものなどいないだろ。ところがそんな魘夢の言葉に玲子はふらふらと近づいていってしまう。表情を歪ませたまま、苦しそうに胸を押さえながらも魘夢の言葉に魅了されたかのようにゆっくりと歩を進める。

 

 

「そうそう。おいで……それが君が決めた——」

 

 

 

 

 ——— 贖罪なんだろう?

 

 

 

 

 




御一読いただきましてありがとうございます。
御意見・御感想等頂けますと幸いでございます。
つづきをお待ちくださっていた方申し訳ありません。

最近ようやく書く気力が戻ってまいりました。
少しづつ投稿再開していきますので楽しんでいただけると幸いです。


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無限の始まり

 

 夜明け、赤く輝く太陽がゆったりとした温もりを運び町全体をを包み込でいく。

 その光景を楓は一際高い民家の屋根上でぼーっと見つめていた。

 

 楓は夜明けが好きだった。

 昔は陽が昇るたびに安堵し厳しい戦いを生き延びたことを実感できていた。

 

 

「もう、昔みたいには……いかないな」

 

 

 今の楓は朝陽に安堵を感じることができない。

 繰り返し繰り返し朝陽が昇るたびに仲間を失ってきた。夜が終わったその時、目の前にあるのはいつだって仲間の亡骸だったから。

 

 脳裏に何度も何度も焼き付いてきた光景が朝陽とともに蘇ってくるようでいつの間にか楓はこの時間が嫌いになっていた。

 

 

「休むようにと言ったつもりだったのだがな」

 

 ふと、背中からかかった声に振り返るといつの間にか煉獄が立っていた。

 

「炎柱様……」

 

 気配を消していたのだろうか。声をかけられるまで楓はまるで気付くことができなかった。

 

 

「なにをしていたのだ?」

 

 

「少し、考え事をしておりました」

 

 

「なるほど……どうやら胡蝶の継子は随分と思い悩む性格のようだな」

 

 

「……否定はしにくいところですね」

 

 

「そうだろうな」

 

 

 吐息をこぼすように呟くと煉獄は楓のとなりにそっと腰を下ろした。

 

 

「それで?いったい何を考えていたのだ?」

 

「えっ、柱の方にお話しするほどのことでは」

 

「気が進まないなら無理に話す必要はないが、隊士の悩みに応じるのも柱の務めの一つだ。遠慮する必要はないぞ」

 

 快活な表情を一切崩すことなく煉獄は楓へと微笑みかける。

 

 

「私は……炎柱様から見てしのぶ様の継ぐ子に相応しいように見えるでしょうか?」

 

 

 楓は心に溜まった暗い淀みをそっと吐き出していく。

 師であるしのぶに信頼されていないのではないかと不安であること、そんな自分が果たしてしのぶの継ぐ子としてふさわしいと言えるのか。

 

「私はこれまでしのぶ様に沢山救われてきました。でも、私はしのぶ様に何一つ返すことが出来ていないんです」

 

 

 楓がしのぶに受けてきた恩は計り知れない。鬼と戦うための術を教わり、人を癒す方法を学び、傷を負えば癒してもらい、挫けそうになれば背中を支えてくれた。

 

 彼女がいたから、胡蝶しのぶがいてくれたからこそ高野楓は剣士として今もここに立ち続けられている。

 

 

 これほどの恩を受けているのに楓はしのぶになに一つとして返すことができないでいる。

 

 もしかしたら、しのぶはそんな楓に呆れてしまったのではないか。

  

 そんな普段なら決して考えないような事ばかりが彼女の頭の中を巡り続けてしまっていた。

 

 

「私はしのぶ様の継ぐ子には相応しくなかったのかもしれません」

 

 そうやって心の淵に溜まり始めていた毒気を吐き出した時、不意にそれまで静かに楓の言葉に耳を貸していた煉獄から思いもよらない言葉が飛び出してきた。

 

「君は……もしや阿呆なのか?」

 

「あ、阿呆?」

 

 思いもしなかった言葉に素っ頓狂な声が飛び出てしまう。

 

 

「やれやれ……これでは胡蝶も苦労するだろうな」

 

 楓の反応をよそに煉獄は呆れたような表情をする。

 

「君が胡蝶に恩義を感じるのもそれを返そうと考えることも十分に素晴らしいことだが、そこまで考えが及ぶなら何故師を信じようとはしない?」

 

「私が、しのぶ様を信じていない?そんなことは—―」

 

「ない、とは言えまい。君が胡蝶を信じているというのなら相応しくないなどという言葉はでてこなかっただろう」

 

「………」

 

 師を信じることが出来ない弟子などどう考えても最悪な部類だろう。

 咄嗟に否定しようとしたがそれすらも煉獄によって遮られる。

 

(信じていない、か……)

 

 楓はこれまでしのぶに忠実だった。弟子として師を尊敬しあらゆる教えを実行してきた。

 それは間違いなく楓がしのぶを信じていたからこそ、正しいと感じていたからこそそうできていたのだ。

 

 では、なぜ今の楓は嘗て自らを選んだしのぶの判断を信じようとはしないのか。

 どうしてこんなにも不安に駆られてしまうのだろうか?

 

 

「胡蝶が君を継ぐ子としたのはいずれ君が柱として鬼殺隊を支えていけると信じたからだ。そうでなければ継ぐ子を選んだりはしない」

 

「師が、判断を誤ることだってあるのではないですか?」

 

「ないとは言えないな。柱も人間だ、過ちを犯すこともあるだろう」

 

「でしたら「だが」」

 

「過ちをそのままにもしておかない」

 

「っ」

 

「君は胡蝶から継ぐ子から外すと言われたわけではないだろう」

 

「それはそうですが……」

 

 楓はしのぶから遠ざけられているとは感じているが、明確に継ぐ子の席から外すとは言われた訳ではない。

 そんな言葉を言われていたのならとてもまともな精神ではいられなかっただろう。

 

「君を継ぐ子に選んだことが過ちであったと胡蝶が判断したなら君はとっくに継ぐ子から外されている。そうでないなら君は胡蝶にとって継ぐ子に相応しいということだ」

 

 同じ柱として煉獄にはなにか共感できるところがあったのかもしれない。柱ではない楓には理解できなくとも煉獄の言葉には確信めいたなにかが秘められているような気がした。

 

「胡蝶は君を信じている。ならば君も君を選んだ胡蝶を信じなさい」

 

「……はい」

 

 自信に満ちた想いが煉獄からは溢れていて、楓はその想いに背中を押されるようなそんな頼もしさを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

「カァー!!車両基地に不審な動きあり!!動きあり!」

 

 その日の午後、未だ陽の高い時間でありながら見張りに当たっていた人員から鴉を通して報告が入ってくる。

 

 

「まだ陽が出てるのに不審な動き?」

 

 

 鬼が動き始める時間にしては随分と早い。

 雲はなく未だ陽は高々と登っているのだ、どう考えても鬼が動き回れるような環境にはないし、鬼の気配にも昨日と変わらず目立った動きはないように思える。

 

 それでも報告が挙がっている以上何かの間違いと無視するわけにもいかない。

 

 楓は壁に立て掛けていた刀を腰に挿すと宿の窓から屋根上へと一気に跳躍し車両基地へと駆け出し始めた。

 

 しばらく走ると見覚えのある景色が広がってくる。昨夜煉獄と共に車両基地を観察した場所と同じあたりまで到着したのだ。

 

 

(警備の数が増えてる?)

 

 眼下に広がる光景を見て楓がまず気づいたのは車両基地周辺に配備された軍人の数が増えていることだ。

 一瞬見ただけでもわかるほど明らかに巡回している人数が増加している。

 

 

「楓ちゃん!」

 

 暫く様子を見ていると少し離れた場所から楓を呼ぶ隠の姿が目に映る。

 全身黒づくめの装いからは判別できないが、楓をそのように呼ぶ隠は一人しかいない。

 

 楓の幼馴染で剣士である桂木明久の妹、桂木あゆみだ。

 

「ゆみちゃん!」

 

 思わぬ再会に楓も思わず舞い上がった声をあげてしまう。

 

「久しぶりですね」

 

 笑顔でそっと駆け寄っていくとあゆみも嬉しそうに声をかけてくる。

 

「見張りの人員ってゆみちゃんだったんだ。ほんとに久しぶり」

 

「はい。この辺りは今は私の班の担当地域なので、後ほど兄も増援として合流する予定です」

 

 鬼と戦う術を持たない隠は剣士とは違い基本的には複数人で行動している。鬼の痕跡を探したり情報の裏どりをしたり、鬼との戦闘の後始末など彼らの仕事は多岐にわたる。

 

「あきにぃもくるんだ……」

 

 ほんの少し気まずそうに楓は頬をかく。

 楓とあゆみは幼馴染で比較的仲が良いわけだが剣士である明久とは再会した時に全く思い出せなかったこともあって初対面の挨拶をして別れたままになっていた。

 

 お互いの忙しさも相まって中々会うこともなかったのでそういう意味では良い機会だが、やはり気まずいものは気まずい。

 

「それで報告についてなのですが」

 

「車両基地のことだね。警備の数が随分と増えてるけどなにかあったの?」

 

「はい。少し前に複数の車両が基地内に入っていってかなりの人員が追加されたようなんです。警備の数が多くてここからでは中でなにが起きているのか分からないのですが、明らかな異変ですので念のため報告をと思いまして」

 

「……鬼の気配には特に変わった様子はない、か」

 

 再び意識を車両基地周辺にひろげてみるが昨夜同様、鬼の気配は満遍なく車両基地全体に広がっていて依然として外からでは正確な位置の割り出しは難しい。

 鬼に動きがないのなら放置しても然程問題はないかもしれない。

 とはいえ、たかだか列車の基地の警備というにはあまりにも投入されている人数が多い。ここまで厳重な警備が敷かれるとなればそれなりの理由があるはずだ。

 

「鬼の痕跡でも見つかったのなら軍より憲兵隊が動きそうだし……一体中でなにが」

 

 もしも鬼が中で暴れているというのなら一刻も早く突入して討伐することが望ましいが、外からみる限りそういった騒動が起きているわけでは無さそうだ。

 

「警備の様子からして、中で何かが起きたというより中に何かを運び込んだように見えました」

 

「重要物資の運搬ってこと?」

 

「いえ、確証があるわけではないのですが要人の警護のような体制に見えましたので」

 

(要人の警護……そうなると鬼とは関係がない?)

 

 内部でなにか起きたわけでもなく単純に軍の都合による警備態勢の強化であったのなら鬼とは全く関係がないことになる。

 

「どっちにしても間が悪い」

 

 本来なら今夜にでも車両基地に突入して鬼を討伐する予定だったのにこの厳重な警備態勢を見る限りそう簡単に基地内に入る許可が出るとは思えない。

 

 許可が下りないなら強行突破で鬼を討伐するしかないが相応のリスクを伴う。

 最悪鬼との闘いに基地内にいる人間を巻き込む可能性もあるし、邪魔が入れば鬼を取り逃がしてしまう危険性もはらんでいる。

 

「とにかくこのことを炎柱様にっ!?」

 

 不意に鬼の気配が大きく揺らいだ。

 

(気配が……うごいた?)

 

 漠然と車両基地に広がっていた鬼の気配が唐突に動き出した。僅かに、しかし確実に移動を始めている。

 

「楓ちゃん?」

 

 突然動きが止まった楓を不自然に思ったのかあゆみが心配そうに声をかける。

 

「ゆみちゃん、炎柱様に鬼が動いたと報告を……私は気配を追います」

 

「っわかりました。……お気をつけて」

 

 緊迫した空気を纏った楓に当てられたようにあゆみは息をのむと少し不安気に声を出して駆け出していく。

 

 

 一人その場に残った楓は移動を始めた鬼の気配を慎重に辿っていく。

 

 陽は未だ高く鬼が動き出す時間には早い。それにも関わらず鬼は確実に車両基地内を移動している。

 

(日の当たらない屋内を移動している?)

 

 これまで細心の注意を払って欺瞞した気配を漂わせていたはずの鬼がここに来て大胆にもはっきりとした気配を漂わせて移動を始めている。

 

 まるで自分の居場所を誇示するかのように堂々として気配の出し方。これまでと一転して一切隠すつもりのないその在り方はあまりにも不自然だ。

 

 

「この動き、やっぱり…」

 

「おそらく罠だろう」

 

 不意に割り込んできた声に楓が背後へと振り返ると

 

「炎柱様!」

 

 いつのまにかそこに炎柱、煉獄杏寿郎が立っていた。

 声をかけられるまで気配一つ悟らせない技量の高さに楓は内心で舌を巻く。

 

「この方向、どうやら駅に向かっているようだ」

 

「え、駅ですか?ですが車両基地を出れば陽が……」

 

「確かにそのまま外に出れば陽によって滅びることになるだろうが、駅なら陽に当たらずに移動する方法がないわけではない」

 

 そう言いながら煉獄は蒸気を噴き上げながらゆっくりと移動を始めたそれを静かに見据える。

 

「まさか……」

 

「あぁ。奴は列車の中だ」

 

 

 

 

 敷かれた鉄の道を辿るその巨体は然るべき場所へとゆっくりと動き出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




御一読いただきましてありがとうございます。
ご意見・御感想等いただけますと幸いでございます。

次回からようやく無限列車編の本編に突入でございます。




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無限列車

 

「一班は引き続き車両基地周辺の見張りを、二班は医療班と共に無限列車到着駅に先回りして待機を」

 

 

 時刻は日の入り前、すでに半ばまで陽が落ちている。

 楓は街に集まった隊士達へと指示を出していた。

 

「無限列車内はどのようになさいますか?」

 

「列車には炎柱様と私で乗り込みます」

 

 

 無限列車が囮である可能性も考慮して、念のために周辺にも見張りを配置。

 車両内で民間人に犠牲者が出た時に備えて医療班も待機させておく。

 

 最も問題なのは鬼が出るであろう列車内だ。

 

 列車内は狭く多人数での戦闘には不向きであるため、車内に乗り込むのはなるべく少ない人数が望ましい。

 ただ、車両が10両とかなり多く楓と煉獄の二人でカバーするにはやや範囲が広い。

 

 (もう少し車内に人数を割くべき?…でも彼らの力量では)

 

 想定される鬼の力量を考えるなら最低でも【常中】を使える者が欲しいところだが残念ながらここにいる隊士にそれは期待できない。

  

 

「やっぱり今いる隊士で最善の配置はこれしかないか」

 

 十二鬼月が出現する可能性を考えるならなるべく精鋭を用意しておく必要がある。上弦が出現すれば楓や煉獄以外では時間稼ぎもままならないだろう。

 

「列車を止めることはできないのでしょうか?」

 

「残念ながら私達にその権利はありません」

 

 列車を止められるのならすぐにでも発車を取りやめるところだが政府非公認の組織である鬼殺隊にそのような力は当然ない。

 

 鬼が出るから列車をとめるように言ったところでそんな世迷言に誰も耳を貸したりはしない。

 

 

「それより炎柱様は?」

 

 先ほどから姿が見えない煉獄を探して楓はあたりに視線を走らせる。

 

 

「煉獄様ならさっきお弁当を買って列車に乗っていましたよ」

 

「……はぁ~全くどこまでも自然体というか、不真面目ではないのですがなんというかもう少し緊張感をもって頂きたいですね」

 

「煉獄様は周りの状況に左右されない方ですから」

 

「ゆみちゃんは炎柱様とは親しいのですか?」

 

「親しいというほどでは。…担当地域が一緒ですので御一緒させていただくことが多いのです。楓ちゃんもそのうち慣れると思いますよ」

 

「その前にしのぶ様の元に戻りたいところです」

 

 風柱は横暴だし、水柱は無口で無感情だし、炎柱は極めてマイペースで楓が面識を持つ柱達はどうにも一癖も二癖もあるような変わった者達ばかりだ。

 

 やはり自分の師匠が一番まともだと楓が思うのも無理のないことだった。

 

 

「それでは私も列車に乗り込みますのでゆみちゃんも医療班と共に行動してください」

 

「承知いたしました。途中で兄も合流する手筈になっていますが配置はどのようにいたしましょうか?」

 

「……出発時刻までに到着するなら列車内に、間に合わないようなら線路周辺の警戒人員に充ててください」

 

 

 桂木明久は炎柱の継子であった小牧の弟子だった男だ。【常中】が使えるわけではないが、到着すれば楓や煉獄を除いたこの場で最も腕が立つ隊士だ。

 

 警戒範囲が広く危険な森の中であっても彼ならば任せられる。天野山を生き抜いた桂木の力量を楓も信頼していた。

 

 

「かしこまりました。楓ちゃん、兄をよろしくお願いします」

 

「えぇ。それでは後ほど」

 

 

 

 

 

 

「弁当を買ったとはきいていましたが……これほど買い込んでいるとは」

 

 列車に乗ってすぐ煉獄は見つかった。

 大量に積まれた弁当の山、30人分くらいはあるだろうかという量が座席一杯に詰め込まれていて目印としてはこの上なく都合がよかった。

 

 

「むっ、来たか胡蝶の継子。君もどうだ?実にうまいぞ」

 

「生憎食事は済ませてきたので遠慮いたします」

 

「そうか。それは残念だ、これほど美味いものを食える機会だというのに」

 

「炎柱様はほんとうによく食べられますね」

 

 彼が食事をとるところを何度か見ているが毎度毎度どう考えても常人の数十倍は食している。仮にも柱に数えられる相手を常人扱いしてもいいのかは疑問だがどう見ても彼の胃袋に収まりきるとは思えない量を食しているのだ。蝶屋敷で医療に従事する者としては実に興味深い光景である。

 

「食べることは生きることだからな。美味いものはいくらでも食べられる」

 

「食べることは生きることですか……よい言葉ですね」

 

「そうだろう。よし!君も食べるといい!」

 

「さっきお断りしましたけど!?」

 

 人の言葉をきいているのか聞いていないのか、時折会話が通じなくなるのが珠に傷である。

 

「間もなく発車の時刻です。どうでてくるでしょうか?」

 

「わからない。だがここまで大掛かりな誘いを仕掛けてくる相手だ。相応にもてなしてくるだろう」

 

「……あまり受けたくないもてなしになりそうですね」

 

 そっと楓は窓の外に視線を送る。すでに外は随分と暗くなってきていて、鬼が動き回るには十分な暗闇だ。

 

 会話をしているうちに発車時刻になったようで大きな汽笛の音が鳴り響いて車体がゆっくりと動き出したのを感じた。

 

 

(鬼に動きはないか)

 

 列車内には相変わらず薄く伸びきったように鬼の気配が散漫していて列車内のどこにいるのか正確な位置は特定できない。

 

 距離はそれほど離れていないはずなのに、柱である煉獄をもってしても完全な位置を悟ることができないでいるのだ。それだけで今回の鬼が十二鬼月に匹敵する相手であることは疑いようがない。

 

 下弦か、あるいは上弦の鬼か。

 もしも後者であったなら状況はこちら側にとって極めて不利といえる。

 

 多くの乗客をのせたこの狭い車内では刀を振るうにも移動するにも進路が限定されすぎるのだ。

 

 ましてこの列車には二百人近い乗客が乗っているというのだ。それだけの数の一般人を守りながら戦うとなればかなりやりづらい戦いになることは想像に難くない。

 

 

 だというのに……

 

 

「美味い!」

 

 

 弁当を頬張りながら美味いと連呼し続けるこの男のなんと緊張感のないことか。

 

 

(……考えるだけ馬鹿みたい)

 

 

 どう戦うか思い悩んでいる自分がいっそ阿呆のようにすら感じる微笑ましい光景に楓は内心で溜息を吐いた。

 

 

 

 

「あ、楓さん!」

 

 

 唐突に聞き覚えのある声が楓の背後から聞こえてくる。

 

 

「炭治郎君!?どうしてここにっ!?」

 

 

 急に名前を呼ばれて驚いて振り返るとそこにいたのは新米の鬼殺の剣士、竈門炭治郎だった。

 

 

「えっと、鎹鴉からの伝達で無限列車にいる煉獄さんと合流するように指令を受けたので」

 

 

 楓も増援が来るということは聞いていたがまさか炭治郎が来るとは予想していなかった。

 

「ぬはははっ速ぇ!!ヌシすげぇな!!」

 

「馬鹿っ!窓から顔を出すな!」

 

 よく見れば炭治郎の後ろには伊之助と善逸も一緒にいる。

 蝶屋敷で療養中だった三人組がまとめて送られてきたというわけだ。

 

 

「合流ですか……増援がくることは聞いていましたがまさか炭治郎君達がくるとは」

 

「俺達の他にも桂木さんって方が来てますよ」

 

 

 (あきにぃ、列車の発車に間に合ったんだ)

 

 

 明久が増援として向かっていることは隠のあゆみから聞いていた。

 列車の発車時刻に間に合わないようなら駅周辺の警戒に当たってもらう予定になっていたが、この様子ではどうやら無事列車に乗れたようだ。

 

「それであき……桂木さんは今はどこに?」

 

「桂木さんなら列車の中を確認してくると仰っていました」

 

「単独でですか?」

 

「えっと、その……はい」

 

 思わずきつめの口調になったのを炭治郎も感じ取ったのだろう。

 若干気まずそうに彼も言葉を返す。

 

 

「はぁ……まずは合流を優先すべきでしょうに」

 

 

 鬼が出るかもしれない場所を単独で歩き回るというのは楓の立場としても感心できることではない。

 

 

「あの、それには少し理由があって」

 

 

「理由……ね。それは先ほどから大変騒がしくしている後ろの二人に関してですか?」

 

 

 ジロリと楓は炭治郎の後ろに視線を向ける。

 

 

「……はい」

 

 

 少し恥ずかしそうに炭治郎は眼を伏せる。

 

 

「ぬぉぉぉっ速ぇ速ぇぞ!!!」

 

 

「いいからこっち来い!馬鹿!」

 

 

 公共の場で『迷惑』という言葉を一切考えずにはしゃぎきっている伊之助とそれを止めようとして返って騒ぎを大きくしている善逸を楓は冷たく見据える。

 

 この騒ぎようだ。

 桂木でなくとも関係者だとは思われたくないだろう。彼が単独で動きたくなる気持ちも察せられるというものだ。

 

 

 

「ひぃぃぃ!」

 

 どんどん冷たい音を大きくしていく楓の気配に善逸はたまらず悲鳴を上げるが、とうの伊之助は気にもせずに騒ぎ続けている。

 

 

「はぁ~全くあなた達は……まぁこちらも似たようなものですけど」

 

 

 楓としても叱りつけたいのはやまやまだが、それよりも先に問題な男がいる。

 

 

「美味い!!!」

 

 

 先ほどからやたらと大きな声で「美味い」と連呼するこの男も周囲の乗客たちに多大な迷惑をかけているのだから。

 

 

「炎柱様!美味しいのはわかりましたからせめてもう少し声を抑えてください!周りの方に迷惑ですよ!」

 

 

「なんと!それはすまなかった!!」

 

 その大きな声に楓は溜息を吐きたい衝動にかられた。誠意はあるのだろうが反省しているのか、いないのか判断のつかない。

 

 

「私は桂木さんを探してきますので炭治郎君達は炎柱様と共にいてください」

 

「わかりました」

 

 

 

 鬼がいつ出るとも分からないのに緊張感が薄い面々に楓は溜息を吐きながら隣の車両へと移っていく。

 

 

 

 

 車両を移ると打って変って静かな空気が列車内には漂っていた。

 

 

 (まぁ普通はこうでしょうね)

 

 

 シーンと静まり返った車両の廊下を歩きながら楓は内心で頷く。

 そもそも公共の場であれだけ大騒ぎするのが間違いなのだ。

 

 煉獄にしても炎柱という立場にいるのだからもう少し常識的な行動をしてほしいものだが。

 

 

 

「切符、切符を拝見」

 

 

 そうやって考えながら廊下を歩いていると制服をきた男性が楓へと話しかけてきた。

 

 列車の車掌だ。

 

 

「あ、切符ですか。えっと……お待たせしました」

 

 

 楓は懐から列車に乗る前に購入した切符を車掌へと手渡す。

 

 

 (なんだか、随分と顔色の悪い方ですね)

 

 

 車掌の男性はうつむきがちで肌はどことなく青白く見える。

 動作もどこかぎこちなく楓は仕事柄、体調が悪いのではないかと疑ってしまう。

 

 

「あの、顔色がよくありませんがお加減が悪いのではないですか?」

 

 

 蝶屋敷での仕事柄体調が優れない人間を見分けることはしのぶほどではないが楓にも造作もなくできる。

 

 

「……いえ、問題ありませんので」

 

 

 あまりに具合が悪そうだったので思わず声をかけたが、車掌の男にはにべもなく断られてしまった。

 

 

「そうですか……」

 

 相手がいいというのなら立場上無理に診察するわけにもいかない。

 

 少し歯がゆい思いをしながらも楓は大人しく身を引いた。

 

 

 

「拝見いたしました」

 

 

 

 カチっという軽快な音が静まり返った車内でやけに大きく響いていた。

 

 

 

 

 

 




ご一読いただきましてありがとうございます!
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またまた間が空いての投稿になりまして申し訳ありません!
更新をお待ちくださっていた方々本当にありがとうございます!


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深い眠り

 

 そこはとある宿場町。

 なんの変哲もない平凡な町でごく普通の一家が日常の一幕を生活していた。

 

 遊びまわるほどの金はなく、けれども貧しすぎもしない。

 その日の食事に困ることもなく平和に平凡に、板葺きの小さな家で一家四人仲良く平和に暮らしていた。

 

 それが高野楓という少女の原点だった。

 

 

「楓!楓!」

 

 自分を呼ぶ大きな声に楓ははっとして周囲を見渡す。

 

 視界に映ったのは地面が剥き出しになった土間と割烹着を着た女性だ。淡い栗色の髪に榛色の瞳をしたその女性は楓のことを心配そうに見つめている。

 

 

「……おかあさん?」

 

 

 不意に自分の口から出たその言葉でその女性が誰なのか楓は明確に理解することができた。

 

 

「どうしたの楓?急にぼぉーっとして」

 

 心配そうな声色で楓に声をかけながら彼女は手に持った鍋を竈門の上にそっと置くと楓と視線を合わせるようにゆっくりと屈んでくる。

 

「あれ?……私」

 

 そこまで行って楓の頭脳はようやく状況を把握しようとそれまでの経緯を思い出そうとする。

 ところが楓の前後の記憶はどうも曖昧としている。まるで思考にもやがかかったような不思議な感覚で母を目の前にするまで何をしていたのか全く思い出せないのだ。

 

(私、なにをしてたんだっけ?)

 

 

 普段であれば明らかな異変だが、不思議なことに今の楓には奇妙な違和感こそ感じる者のここに至る経緯を思い出せないことがそれほどおかしなことには感じなかった。

 

「どうしたの?熱でもあるの?」

 

 楓の母は心配そうに楓へと近づくとそっと額に手を当ててくる。

 

(冷たくて、気持ちがいい)

 

 水仕事をするせいか彼女の手は少し冷たい。指はあかぎれのようにがさついていて決して肌触りが良いとは言えないがそれでも、額に触れたその手に楓はひどく安堵した。

 

 

「よかった。熱はないようね」

 

 

 しばらくそうしているとやがて彼女は安心したように息を吐くと楓の額からそっと手を放した。

 

 

「どこか具合が悪いのかい?」

 

「……ううん。大丈夫だよ」

 

 少し考えて楓はそう答えた。

 実際別に具合が悪いわけではなかった。

 ただ、ほんの少しなにかを忘れているような、そんな奇妙な違和感を感じただけ。

 

 その違和感もこうして母と話をしているうちに少しずつ薄れていっている。

 

 

「そう。それじゃあ竈門に火をいれてくれるかい?夕飯の支度をしないといけないからね」

 

 

「わかった」

 

 

 母の後を追うように楓は土間に降りると母と共に夕飯の支度を手伝っていく。

 

 

 (そういえば、いつもこうやって手伝ってたっけ)

 

 

 普段楓の家での役目は母を手伝うことだった。

 竈門に火を入れ米を洗って炊き、野菜の皮をむいていく。

 母と二人並んで台所に立って炊事に取り組む。

 

 そうやっているうちに帰ってくるのだ。

 父と兄の二人が。

 

「おっす。いま帰ったぞ」

 

「ただいまー」

 

 

「おかえり父さん、お兄ちゃん」

 

 

 仕事から帰ってきた二人を楓と母で出迎える。

 これが楓の日常。

 

 

 ―― あぁ、そうだった。

 

 

 目をつむればいつでもあの時の光景を思い出せる。

 

 嘗て確かに楓の手の中にあった幸せの記憶、失われてしまったあの日々を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「寝んねんころり、こんころり♪」

 

 

 その頃、魘夢は優雅に歌を歌いながら先頭車両の上に立っていた。

 

「夢を見ながら死ねるなんて幸せだよね。精神の核さえ破壊してしまえばどんなに強い鬼狩りだって関係ない」

 

 

 魘夢は人間の原動力は彼らが抱く心にあると考えている。人は想いを抱き、夢を見てそれを叶えんと動き続ける。

 

 

 ならばもしその原動力たる精神を破壊されれば人はどうなるのか?

 

 

 その答えを彼は自らの異能によって得てしまったのだ。

 

 人は心を壊されれば何もできない。

 指先一つ動かすことすらできず、ろくな言葉も発せられないいわゆる廃人になるのだ。

 

 だから魘夢は確信する。

 たとえ相手が柱と呼ばれる強者であっても心を壊してしまえばそれはもはや敵ではないと。

 

 

「魘夢様、私も精神の核の破壊に向かいます」

 

 

 勝利を確信し、酔いしれる魘夢の背後には一人の少女が立っていた。

 

 

「うん、行っておいで玲子。あの女の鬼狩りもだいぶ深い眠りに入っている頃だから」

 

 

 玲子は魘夢にとっての唯一と言っていいお気に入りの駒だった。

 簡単に壊してしまうには惜しいと彼が思うほど彼女の心は魘夢が大好きな苦悩と罪悪感で満ち溢れている。人を殺すことを、人を殺す手助けをすることに大きな罪悪感を抱きながらそれでも魘夢に従うことを良しとしている。

 

 

 その矛盾に満ちた在り方が魘夢にはなによりも愛おしく感じるのだ。

 

 

 

 

 

 

「楓ちゃん!待ってよ!」

 

「遅いよゆみちゃん!」

 

 

 楓は幼馴染の桂木あゆみと一緒に街はずれにある花畑に来ていた。

 そこは二人の定番の遊び場所で普段は花冠をつくったりして遊んでいる。

 

「ほら、お兄ちゃん達も早く早く!」

 

 今日はそこに楓の兄と明久が加わっている。

 

 

「やれやれ、明久呼ばれてるぞ」

 

「ぜぇぜぇ、なんであいつらあんなに元気なんだ。だいたい呼ばれてんのは……はぁはぁ、お前もだろうが」

 

 

 楓たちの家からこの花畑まで大人の足でもそこそこの距離がある。

 それをずっと走ってきたのだから明久の息の上がりようも無理のないことだった。

 

 

「街はずれまで走っただけでそんなになるなんて、あきにぃってばだらしないの」

 

「喧しい!お前ら兄妹の無尽蔵体力と一緒にするな!」

 

 

 楓は楽しげに明久を揶揄うと駆け寄ってきた兄の腕をそっと掴む。

 

 

「行こう、お兄ちゃん」

 

 

 今日は楓たちにとっては遊びではなく仕事の日だ。

 それぞれの家族の為に森の入り口で木の実や山菜を集めなければいけないのだ。

 

 この町の家では仕事を持たない子供達がそうやって集めた食材がその日の食事の足しになったりするのだ。ほかにも薪拾いだったり森の中にある畑の様子をみたりと彼らは意外と忙しく毎日を過ごしていた。

 

 

「そうだね、楓。今日はたくさん採って御馳走といこう」

 

「どうせなら俺が猪でも捕まえてやるよ!最高の夕食になるぜ!」

 

「兄さんったらできもしないこと言わないでよ」

 

「あきにぃにはどんぐり拾いがお似合いだよ」

 

「おい優一、お前の妹が俺に辛辣すぎるんだが」

 

「明久の日ごろの行いじゃないかな」

 

「ちくしょう嫌いだこいつら!」

 

 

 こうやって行われる楽しい談笑、たわいもない会話の数々が楓には酷く心地よく感じた。

 森の木々が風に揺られ、木の葉の隙間から差し込む陽光の光がキラキラと輝いていて楓の日常を一層きらびやかに魅せてくれる。

 

 まさしく幸せの日々。

 そう表現する以外にはない世界が目の前には広がっていた。

 

 

 

「あれ?」

 

 

 ふと楓の視界に大きな桜の木が移った気がした。

 

 

 思わず立ち止まってもう一度よく見ようと視線を走らせるが同じ景色はどこにも見当たらない。

 

 それもそのはず、桜が咲くような時期はとうに過ぎているのだから、いくら森の中とはいえこんな時期に桜が咲いているはずがないのだ。

 

 

「楓?どうした?」

 

 急に立ち止まってあたりをキョロキョロと見渡す楓に優一は心配そうに声をかける。

 

「いま……ううん。なんでもない」

 

 

 この場所には相応しくない奇妙な光景を見た気がした。しかしあたりをいくら見渡しても木々が多い茂っているばかりで同じものは見当たらない。

 

 

 きっと何かを見間違えたのだろうと楓はあらためてみんなを追いかけて歩を進めだした。

 

 

 

 そんな楓の様子を離れたところからそっと覗きこむ一人の少女がいた。

 

 

「はやく精神の核を探さないと」

 

 魘夢の協力者の玲子だ。

 楓の夢の中に無事侵入した彼女は楓の精神の核を破壊するために彼女の無意識領域を探して歩き回っていた。

 

 

 夢の世界の本人と接触してしまうと対象が夢から覚めてしまう可能性があるので隠れまわりながら玲子は楓の周囲を探っている。

 

 

(平凡な世界……どこにでもある当たり前の景色)

 

 

 楓の見る夢はひどく平凡で普通の人にとって当たり前に過ごす生活そのものでしかなかった。それはつまり楓が夢見る幸せはこんな誰もが当たり前に過ごしている日常にこそあったということ。

 

 この事実に玲子は楓を哀れに思った。

 

 魘夢が見せる夢は対象が心底幸せだと思う世界になる。そういう風に設定されているのだ。

 

 家族と過ごし笑いあうことが彼女にとって最高の幸せだというのなら現実の彼女に起きていることはその全くの逆。

 

 家族を失い、語らうことすら二度とできないそんな状況に楓が置かれているのだと夢の仕掛けを知る玲子にははっきりと理解できてしまう。

 

 

 そんな悲惨な人生を送ってきた楓を自分は廃人にしようとしているのだと思うと罪悪感は一層強くなっていく。

 

 

 それでも、玲子は止まるわけにはいかなかった。

 

 魘夢の魅せる夢のために大切な人を殺したあの瞬間から自分には幸せなど望む資格はない。彼の魅せる夢で苦しみ続けることだけが玲子にとっての贖罪なのだ。

 

 玲子もまた魘夢の夢に溺れた一人にすぎない。

 夢をみるためならどんな悪事にも手を貸そう。悪夢に溺れ、絶望するために何度でもあらたな罪を重ねよう。

 

 

 そうして今日も罪を重ねる。

 楓の精神の核を破壊し、その罪悪感におぼれながら魘夢の夢をみるのだ。

 

 

(みつけた)

 

 

 森の中、木々が多い茂ったその場所に楓の夢の境界線を見つけた。

 景色は先まで見通せるが見えない壁があるようにその先に進むことができない。

 

 

 ここが夢の端、つまり楓の無意識領域への入り口だ。

 

 

「ふっ!」

 

 

 手に持った杭をその空間に突き刺すと紙を破くように容易く引き裂いていく。

 

 

「これがあの子の無意識領域……」

 

 

 玲子の視界の先に広がっているのは夜のような暗闇と広い広い大河だった。

 

 

「変な無意識領域……こんなの初めて見た」

 

 

 暗い暗い世界を微かに照らすように大河には灯篭のようなものが次々と流れていく。

 

 

 それはまるで死者を弔う灯篭流しのようにポツンとした淡い光がどこからともなく現れては玲子の前を流されていくのだ。

 

 

「……綺麗」

 

 

 そのあまりにも幻想的な光景を前に玲子は時を忘れてしまったように見惚れてしまう。

 

 

 しかしそれも僅かな間。

 我を取り戻した玲子はあたりを見渡すと精神の核を見つけるためにあてもなく歩き始める。

 

 

 パシャリ、パシャリと歩いた場所が波紋を描き広がっていったその先に淡い緑色をした球体があった。

 

 

「見つけた」

 

 

 宙に浮かび輝きを放つその球体こそ玲子が探し求めていた楓の精神の核だった。

 

 玲子は球体の前へと近づくとそっと腕を振り上げ手に持った杭を振りかざす。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 小さく謝罪の言葉を口にして玲子はそのまま腕を振り下ろす。

 

 寸分たがわず狙い通りに杭が精神の核に刺さると思ったその瞬間、玲子の身体は紅い炎に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

「楓!楓!」

 

「っ、なに?お兄ちゃん」

 

「なにってまたぼーっとしてたぞ」

 

 その日何度目かのやり取りを楓は繰り返していた。

 

 

「えっごめん」

 

 慌てて謝罪を口にするがこの森に入ってから数回は行ったやり取り周りもいぶかし気になって楓を見つめる。

 

「楓ちゃん具合でも悪いの?」

 

 心配そうに瞳を揺らしながらあゆみは楓へと声をかける。

 

「ううん。大丈夫、どこも悪くないよ」

 

 努めて笑顔で楓はそう返すがそれが虚勢であることはだれの目から見ても明らかだった。

 

「嘘つけよ。楓ちゃんさっきからずっとその調子だぜ」

 

「あはは、ごめんねあきにぃ」

 

 

「本当に変だよ?家に帰るかい?」

 

 心配げにこちらを見る兄達には申し訳ないのだが楓の体調は悪くはない。むしろすこぶる好調といってもいいだろう。

 

 熱もないし体が怠いわけでもない。

 

 ただ、この森に入ってから強烈な違和感というか焦燥感のようなものを感じるのだ。

 

(あの桜の木を見た時からだ)

 

 この森に入って最初に感じた奇妙な違和感。

 見間違いだと断定したはずのあの光景が楓の脳裏からはなれてくれない。

 

 山菜取りにきたはずなのに気が付くとあの景色を森の中に探してしまっている。

 人がよりかかれそうなほど幹の太い巨大な枝垂桜がどこかにあるはずなのだと、なぜかそう思ってしまう。

 

 

(あれ?私なんでこんなに鮮明に……)

 

 

 最初は一瞬桜の木をみたような気がしたと、その程度の感覚だったはずだ。ところが今では幹の太さから桜の種類まで鮮明に脳裏に浮かべることができる。

 

 

 そう気づいた瞬間だった。

 身体中から紅い炎のようなものが吹き上がったのは。

 

 

―― 楓ちゃん

 

 

 

 その炎と共に楓は誰かに呼ばれたような気がした。

 

 

 兄ではない、あゆみでも、明久でもない。

 若い女の人の声だ。優しくて暖かくて落ち着くようなそんな声色で確かに楓を呼んだ。

 

 

―― 高野ちゃん

 

 

 まただ。

 今度は若い男性の声ではっきりと楓の耳に届いている。

 

 

「楓!??大丈夫か!?」

 

「大変楓ちゃんから火が!?」

 

 

 突然炎に包まれた楓を見て優一達は慌てて声をかけるが楓はそれが視界に入っていないかのように必死にあたりを見渡す。

 

 

 

(知ってる……私、この声を知ってる)

 

 

 

 楓の記憶の中にこの声の主がいる。

 かつて楓をそう呼んでくれていた大好きな人たちが……

 

 

 そこまで考えた時、楓の記憶に二人の男女が浮かび上がる。

 背は低いのにやたらと筋肉が発達した青年とふわふあとした長い髪をもったお姉さん。

 楓の大切な大切な宝物。

 当の昔に失われてしまった楓の大事な記憶。

 

 

「そう……だったんだ」

 

 

 失意のような、寂寥感のような感覚と共に今まで感じていた違和感や焦燥感が嘘のように消えていき、楓の思考がクリアになっていく。

 

 

「私は……鬼殺隊、高野楓」

 

 心の中に浮かんだその言葉を口に出して言うことでよりそれはより明確になった。

 自分が何者で何をすべき人間か、それをはっきりと思い出すと同時に楓は意識が急激に浮上していくのを感じ取った。

 

 

 

 

 

 

 




御一読ありがとうございました。
ご意見・御感想をいただければ幸いです。


お久しぶりの更新でした。
この辺りはかなり難産で何度も書き直しておりまして投稿遅くなりました。
お待ちいただいていた方には申し訳ない。

楽しんでいただければ幸いです。


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強襲

 

 

 意識が深い深い眠りという海から浮上し、瞼が開く。

 視界に移るのは列車の天井に備え付けられた電球色のライトで、目覚めの眼球には随分と沁みて楓は思わず目を細める。

 

 

「随分と腹立たしい夢を見せてくれたものですね」

 

 

 覚醒した瞬間、楓は腸が煮えくり返るような強烈な怒りを覚える。

 指令の最中、それも鬼が出るとわかっている場所で自分が悠長に眠るはずがない。

 となると必然的に先ほどまでの光景は鬼が異能によって作り出した幻ということになる。

 

 楓が感じた懐かしさも、心が安らぐようなあたたかな景色もすべてが作り物。

 人の記憶を勝手に覗き見て都合の良いように作り変えて見せていただけ。

 

 楓が怒りを感じるのも無理のないことだった。

 

「うぅぅ、ううう!」

 

 不意にくぐもった声が楓のとなりから聞こえてくる。

 

 

「禰豆子ちゃん」

 

 楓の隣にいたのは鬼の少女禰逗子だった。

 楓の頭をポンポンと優しくたたくと彼女は胸を張るようなポーズをとり褒めて褒めてと言わんばかりの自慢げな表情をする。

 

「ひょっとして禰豆子ちゃんがおこしてくれたの?」

 

「うぅぅ!」

 

 

 勿論と言わんばかりに禰豆子は首を縦に振った。

 楓が目を覚ますきっかけはおそらくあの紅い炎だったはずだがどうやらそれは禰豆子によるものだったようだ。

 

 

「ありがとう禰豆子ちゃん」

 

 

 そっと禰豆子の頭をなでると楓は立ち上がって周囲の気配を探る。

 

 

「それで貴方は何者でしょうか?」

 

 鬼の気配とは別に明らかな敵意を向けてくる人物に楓はそっと視線を向けた。

 

 

「まさかあの人の術から逃れる方法があるとは思わなかったわ」

 

 

 三つ編みに髪を束ねた少女、玲子だ。

 

「……仰りようからしてどうやら無関係ではないようですね」

 

 今回の鬼には人間の協力者がいる可能性が高いという旨は楓も煉獄から聞いていた。

 その協力者が目の前にいる少女だというのなら楓としても納得だ。

 

 目の前に立つ少女は明らかに一般人の立ち振る舞いではない。

 動作の一つ一つに隙が少ないし、楓に対する敵意にしても普通の少女が抱くものではない。

 

 

「申し訳ありませんが貴方を捕縛させていただきます」

 

 どんな事情があったのかは知らないが鬼に協力するということは殺人に手を貸したのと同じことだ。

 鬼を知らない人間社会の法律で裁くことはできないが、鬼殺隊として彼女を野放しにしておくことはできない。

 

「あんたとやりあっても勝てないでしょうから抵抗はしないわ」

 

「それは賢明な判断です」

 

「でも、私を捕まえるのはあの人に勝ってからにしたほうがいいわよ?」

 

 

 玲子がそう口にした直後列車の光景が一変する。

 

 

「っ……これは」

 

 

 突如としてぶよぶよとした肉の塊のようなものが出現して車両の壁面や天井を覆っていく。

 一瞬にしてあたり一面が肉塊に置き換わるとそこから座席にすわって眠りこけている乗客たちめがけて一斉に触手が伸びていく。

 

 

「……血鬼術かっ」

 

 

 楓は抜刀と同時に駆け出すと乗客を狙っていた触手を一掃する。

 ついでと言わんばかりに壁面を覆う肉塊も斬りつけてみるがものの数秒で再生していく。

 

 

「ほかの車両も似たような状況みたいですね」

 

 

 周囲の気配からしてどうやら列車全体が肉塊に覆われているようだ。

 この列車の車両は十両、客数は二百人以上いる。

 それだけの数の人数を守りながら一人で戦うなら楓の形勢はかなり不利だが……

 

 

「無事か、胡蝶の継ぐ子」

 

 

 列車内に凄まじい衝撃が走ったと感じた瞬間、楓の目の前には一人の男性が立っていた。

 

 

「炎柱様!」

 

 

 この列車には鬼殺隊最強の一画を占める炎柱、煉獄杏寿郎がいるのだ。

 いつもの様子を見ると不安になるかもしれないがこと戦闘において彼ほど頼りになる人物はなかなかいないだろう。

 

 

「申し訳ありません。不覚を取りました」

 

 まんまと鬼の血鬼術にかかって眠りこけてしまっていたというのは楓としても不甲斐ない限りだ。

 

「俺もだ、まんまと鬼の術中にかかってしまっていた。お互い穴があったら入りたいところだな。はっはっは」

 

 

 恥じ入るような言葉を吐きながらも態度には億尾も出さない。

 こんな時でも相変わらず悠長なものだが、楓にはこの時ばかりは随分と頼もしく感じた。

 

 

「どうやら鬼が列車と融合したようだ」

 

 

 鬼と列車の融合と聞いて楓は僅かに眉を顰める。

 物質と鬼が融合するという事例は聞いたことがないがそれが事実だとするとこの列車はまさしく鬼そのもの。

 つまりいま車両の中にいる人間は鬼の腹の中にいるに等しい状況ということだ。

 

「……なるほど、それは厄介ですね」

 

 状況は極めて深刻と言っていいだろう。

 列車全体が鬼となったならどの車両の乗客も鬼からすれば食べ放題。

 楓たちからすれば一度に二百人以上の人質をとられたに等しい。

 乗客すべてを守りながらかつ鬼の首をとらなければいけないという非常に難易度の高い状況だ。

 

 

「鬼の首は竈門少年と猪頭少年が探している。その間乗客は我々で守るぞ。後方三両は君に任せる」

 

 最適化どうかは判断には迷う状況だが、この場の最高意思決定権は柱である煉獄にある。

 

「承知いたしました」

 

 議論する時間はないと、楓も短く頷くと二人は疾風のように別々の方向に駆け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 煉獄と別れ後方車両に移動した楓は、乗客を守るべく煉獄に任せられた三両を覆う鬼の肉塊をひたすら斬り刻み続けていた。

 

 数字を与えられた鬼だけあっておびただしい数の斬撃を受けながらも数秒程度で傷はすべて回復していく。

 

 

(毒の効き目はほとんどないか)

 

 

 車両全体が鬼と化したと聞いて楓は蟲の呼吸をつかって手当たり次第に毒を与えてみたのだが体積に対して毒の量がすくないのか、動きが緩慢になる程度の効果しか見ることができなかった。

 

「急所がわかればそこに打ち込むんだけど」

 

 蟲の呼吸は本来人体の急所に打ち込むことで最大限の効果を発揮する。

 ところがこの鬼は列車と同化したことで人体の概念を完全に捨ててしまっているので急所が全く判別できないのだ。

 

 

 車内を縦横無尽に乱舞しながら楓は残りの車両の気配を探っていく。

 

 先頭車両に炭治郎と伊之助の気配、一号車には善逸と禰逗子の気配、二号車から六号車にかけて煉獄が凄まじい速度で移動しているのがわかる。

 

 

 隣の七号車は明久が守っているようだがどうやらわずかに圧されているようだ。

 

 

(あきにぃのところ以外は大丈夫みたいだね)

 

 

 

——— 虹の呼吸 風神の舞 窮奇広漠(きゅうきこうばく) ———

 

 

 

 疾風のような速度で剣戟を舞いながら楓は三両の車両を覆う肉塊を一気に斬り刻む。

 

 

(これで少しは回復に時間がかかるかな)

 

 

 相手が数字を持つ鬼とはいえ再生能力は下弦程度のもの。

 傷が多ければ再生にはそれなりに時間を要することはここまでの再生速度で分かっている。

 

 楓は地面を這うように跳躍すると一気に明久のいる車両まで飛び込む。

 

 

「桂木さん応援に来ました!」

 

 

「っ!すまねぇ!」

 

 

 車両に入ると同時に息も絶え絶えになった明久の姿が視界に入る。

 明久はこの列車にいる隊士の中で唯一【常中】を体得していない剣士だ。

 ある程度カバーが必要なのは煉獄にしても楓にしてもわかっていたことだった。

 

 

(この車両、客数が他より多い)

 

 

 さらに言えば明久が苦戦していたのは守るべき乗客の多さにもあったのかもしれない。

 人口密度が高く、刀の振り方や足運びにも細心の注意が必要な状況で一歩でも踏み込みを誤れば守るべき乗客すら傷つけかねない状況だった。

 

 

 楓は触手を斬り刻みながら天井や壁面にも傷をつけて少しでも再生速度を遅らせようと試みる。

 この列車内で楓たちがやらなければならないのはあくまでも時間稼ぎ、炭治郎達が鬼の首をみつけ跳ねるまで一人たりとも乗客に犠牲者をださない。

 そのために楓や煉獄が乗客を守る側に回ったのだ。

 

 

(最後尾の再生がそろそろ完了するはず)

 

 

 体感で僅か一分足らずだがそれでもかなりの時間を稼げた。

 これなら四両往復も可能だろうと楓がそう考えた時、一際大きな叫び声が列車内に響き渡る。

 

 思わず耳を塞ぎたくなるような強烈な叫び声に、炭治郎たちが鬼の首を刎ねたのかと思ったが鬼の気配はいまだに健在だ。

 

 

 どういうことかと前方車両に続く扉に視線を向けた時だ。

 

 

―――滑るように黒い影がそっと明久の背後へと忍び寄っていた。

 

 

「伏せてっ!!」

 

 

 叫ぶと同時に楓は全速力で明久の背後へと跳躍する。

 

 

 刹那のあとキィンとした金属同士がぶつかる甲高い音が二人の鼓膜を震わせた。

 

 

 明久の首元めがけて横一閃に振るわれた凶刃をすんでのところで楓が防いだのだ。

 

 

「貴方はっ!?」

 

「……止められたちゃったか」

 

 

 鈍く光る短刀の刃をはじかれ大きく後退したのは鬼の協力者と思われる人間の少女、玲子だった。

 

 

(気配をまるで感じなかったっ)

 

 立ち振る舞いからして一般人ではないとは思っていたがまさか楓をしてここまで気配を辿らせずにいられるほどの技量を持っているとは楓としても予想外だった。

 こうして視界にいれるまで存在することにすら気づくことができなかった上にいまですらふとした瞬間にその姿を見失ってしまいそうになるほど存在が希薄だ。

 

 

「桂木さん下がってください!この方は私が対処しますので貴方は乗客をっ」

 

「分かった!」

 

 この場で彼女が出てきたのは恐らく鬼の援護のためだろう。

 これほど気配を消して動けるのであれば炭治郎達であっても奇襲でやられていたかもしれない。

 そうなると正面からでもおそらく桂木一人では荷が重い。

 

「……武器をおろして大人しくしていてくれませんか?」

 

 楓はなるべく落ち着いた雰囲気で玲子へと降伏を促した。

 できることなら人間である彼女に日輪刀を向けることはしたくないが彼女が鬼の討伐を邪魔するなら斬ることも考えなければならない。

 

 本音を言えば楓としてはできれば彼女には大人しく投降してほしかった。

 

「それはできない相談ね」

 

「このまま戦っても貴方に勝ち目がないことは分かっているはずです」

 

 玲子の気配を消す技術は確かに見事なものだった。短刀の扱いも並みの隊士であればやられてしまっているかもしれない。

 

 とはいえそれも楓に及ぶものではない。

 

 正面からぶつかれば数秒と持たずに玲子は地に足をつくことになるだろう。

 それほど歴然とした力量差が二人の間にはあった。

 

 楓の実力を見抜いた玲子ならそのことも理解しているはずだがと、なおも抵抗の意思を示す彼女に疑念を抱く。

 

 

「確かに今の私じゃ貴方には勝てないでしょうね……今のままならねっ」

 

 喋ると同時に彼女は楓に斬られて灰になろうとしている鬼の肉塊を掴んでそのまま口へと放り込んだ。

 

「っ、なにを!?」

 

 玲子の動きを警戒していた楓もその突拍子もない奇天烈な行動に思わず目を見開いて固まってしまう。

 人が鬼を喰うなんて普通であればありえない光景だ。

 

 しかも鬼の肉を咀嚼する少女はみるみるうちにその気配を人ならざる者へと変えていく。

 

 

(これはまさかっ鬼喰いっ!?)

 

 

 鬼殺隊の資料にも過去数例しか記録に残っていない非常に特殊な事例であり、鬼の力を得るために人が行ったといわれる禁忌の手法。

 鬼が人を喰らうことで強くなるように人もまた鬼を喰らうことで強くなれるのではという考えから生まれた忌むべき手段がいま楓の目の前で行われているのだ。

 

 

「ぅぅっ、こうすればっ!私だって戦えるんだからっ」

 

 

 苦し気に胸を押さえながら玲子は楓を睨みつけてくる。

 その瞳は既に人とは別の色へと変貌しており、僅かながら顔の血色も青白く変化してしまっている。

 

「そこまでして鬼に加担するなんて」

 

 鬼を喰らうということは本来そう易々とできることではない。

 一朝一夕に強くなれるわけではないように当然鬼を喰らうことにも才能と相応のリスクが存在している。才能がないものが鬼を食べたところで苦しむだけでなんの変化も見ることはできない。

 

 そういう意味では楓の目の前にいる少女には才能があったのだろう。

 しかしそこから先には避けようのない鬼化という危険極まりないリスクが存在しているのだ。

 

 鬼化が進めば人格は変貌し、寿命は大きく縮む。

 あるいは一生普通の人間には戻れない可能性すらあるのだ。

 

 

「私はっ!夢のためならなんだってする!!」

 

 そう叫ぶが否や玲子は楓に向かって一直線に飛び掛かってくる。

 筋力が増強しているのかその速度は明らかに普通の人間の物ではない。

 姿形に大きな変化はないものの爪が長く非常に鋭利になっているところなどは明らかに鬼化の影響だろう。

 すでに人格にも影響が出ているのか、先ほどまでの虚実の富んだ動きではなく非常に直線的な動きだ。

 

 

(まともじゃないっ)

 

 玲子の在り方はどう見ても狂人のそれで、鬼への執着も自分の命への執着のなさもどちらも常軌を逸している。

 

 

 鬼を喰らった以上楓の目の前にいる少女はもはやただの人間とは言えない。

 他の隊士が見れば鬼殺隊として処分するべきだといってもおかしくはない。

 

 

(一撃で決着をつけなきゃ)

 

 

 これ以上彼女の時間稼ぎに付き合っていては乗客に犠牲が出かねない。

 早々にケリをつけて後方に戻らなければ鬼の肉体も再生してしまう。

 

 楓は刃を逆向きに持ち帰ると腕にあらん限りの力を込めて向かってくる少女の腹部へと一閃する。

 

 居合の要領で放たれた一撃は強化された少女の身体を勢いよく吹き飛ばし列車の壁へと叩きつけた。

 

「加減はしました……貴方がどんな想いでここに立っていたにしろ、私にも譲れないものがありますので」

 

 

 僅か一撃受けただけでずるずると崩れ落ちた少女を後目に楓はそっとつぶやいた。

 いかに鬼を喰らい強化されようとも精々がなり立ての鬼と同程度。

 そんな程度の力では柱に近い位置にいる楓には到底及ばない。

 文字通り一撃で少女を沈めた楓は再度車両を覆う肉塊を斬り刻むと明久に声をかけようと振り返る。

 

 

 瞬間、車体が大きく跳ね上がり先ほどに勝るような強烈な叫び声が車内全体に響き渡る。

 

 

「くっ!」

 

 

 車体は数回に渡って激しく跳ね、まるで鬼がのた打ち回っているかのように揺れ動く。

 身体を振り回され上下が反転するような揺れの中で楓は咄嗟に衝撃を和らげようと揺れる車両とは反対に向かって大きく刀を振るう。

 車体の揺れを軽減するために振るわれたそれは僅かに一度切りではあったが車両は激しい揺れを止め地面を擦るようにして停車させた。

 

「……桂木さん、無事ですか?」

 

 やがてようやく収まった振動に楓が顔を上げれば列車の側面に顔を突っ伏して横になる明久の姿が目に入る。

 

「……なんとか、な」

 

 年長者の矜持故か明久はボロボロになりながらも楓に手を挙げて見せる。

 

 

「……炭治郎君達は鬼を倒しましたか」

 

 明久の無事を確認した楓はそっと辺りへと視線を向けてぽつりとつぶやいた。

 車両の中をまるまる覆っていた鬼の肉塊はいまや灰となって消えつつある。

 

 列車の鬼が首を刎ねられた証拠だ。

 

 人を自在に夢へと誘う強力な血鬼術に列車との融合という例のない大技をやってのけた以上、ここにいたのは十二鬼月でまず間違いないだろう。

 

 炭治郎達で打倒できた以上上弦ではなく下弦だろうが、それでもわずか数か月前には【常中】も覚束なかった新入り達が一年とたたないうちに十二鬼月を打倒したのだ。

 

 まさしく快挙と言える大手柄だ。

 

 

(あとでしっかりと褒めてあげないといけないでしょうね)

 

 

 これほどの成果をみせてくれたのだ。

 訓練に付き合った楓としても鼻が高い。

 

 

「桂木さん、動けるなら乗客たちを外に運びましょう」

 

「そうだな、ケガをしている人が多そうだ」

 

 列車内の状況は正直に言ってあまりよろしくはない。

 車両を覆っていた鬼の肉塊のおかげで大半の衝撃は和らいだとはいえそれでもかなりの高速で脱線したのだ。

 死人はいなくとも骨折などの怪我をしている乗客は少なくないはずだ。

 

 蝶屋敷に働く者として怪我人が出ているのなら動かない訳にはいかないと楓は怪我をした乗客たちの治療をしながら列車の外へと誘導を始める。

 

 

 

 そうやってしばらく誘導を続けていれば案の条怪我人は多数見受けられたが緊急を要するような人は幸いにして見当たらなかった。

 

 

「桂木さん、隠が到着するまで乗客の治療を行います。少し手伝ってください」

 

「隠に任せておいた方がいいんじゃないか?」

 

「私は医者ではありませんがその手の知識を齧った者として怪我人を前にして人任せという訳にはいきません」

 

 これほど大きな事故に見舞われれば普通の人なら不安でたまらないはずだ。

 そこに怪我まで追っているとなればパニックになってもおかしくはない。

 知識がある者がいるならなるべく安心させられるように歩いて回った方がいい。

 

「鬼の首を刎ねることだけが鬼殺隊の仕事ではありませっ!?」

 

 そこまで言いかけたとき楓の感知内に信じられないほど濃密な鬼の気配が突如として現れたのを感じた。

 そしてそれと全く同時に先頭車両付近で砲弾が着弾したかのような轟音が響き渡る。

 

「桂木さん、前言撤回です。私は先頭車両の様子を見に行きます貴方は乗客の避難を続けてください」

 

「……分かった」

 

 厳しい表情で前方を見据える楓に明久も息を呑んで頷く。

 明久としては何が起きているのかは分からないが楓がこれほど厳しい表情を見せるのは天野山での地獄の撤退戦をこなした時以来だ。

 相応に厄介なことが起きていることを察するには十分すぎる材料だった。

 

 

 明久の了承を得た瞬間、楓は大きく跳躍すると轟音がした先頭車両付近まで駆け足でむかう。

 

 やがて列車とは少し離れた広々とした空間に煉獄の後ろ姿と起き上がろうとする炭治郎の姿が垣間見えてくる。

 

 その奥、煉獄と対するように立っている相手を視界に入れた瞬間、楓の中の殺意が急激に膨れ上がっていく。

 

 煉獄の奥から感じる鬼の気配、あれは間違いなく上弦の鬼だ。

 それも上弦の陸などとは比較にもならないほど濃密な鬼の気配、間違いなく上弦の壱に近い数字を持つ鬼が目と鼻の先にいる。

 

 

(助走距離は十分、こちらが知覚される前に一気に畳みかける!)

 

 

 

 ――― 蟲の呼吸 蜻蛉(せいれい)の舞 複眼六角(ふくがんろっかく)—―――

 

 

 足場にしている列車がへこむ程の力を脚へと入れ込むと楓はまっすぐに鬼へと目掛けて飛び込む。

 

 刀身はまっすぐ目標の鬼へと突き刺さる、その一歩手前で構えた刀が大きく弾き飛ばされた。

 

 

「っ!?」

 

 

 受けた衝撃を逃がすために楓は空中でくるりと反転すると煉獄と挟めるように鬼の背後へと陣取る。

 

 

「余計なことをするな、(うつろ)

 

 

「………………」

 

 

 いつの間にそこにいたのか、楓に気配を悟らせることなく鬼が一匹増えている。

 全身を黒衣に身を包み顔に狐面をつけたその鬼はいつか那谷蜘蛛(なたぐも)山でみかけた下弦の鬼だ。

 

 

(上弦と下弦が一緒に行動しているなんて)

 

 

 厄介なことになったと楓は顔を顰めて仮面の鬼を見据える。

 上弦単独ですら現状では勝てるか危ういというのに数の有利すらなくなったとなればこちらは迂闊に手が出せなくなる。

 

 加えてあの仮面の鬼は那谷蜘蛛(なたぐも)山で散々楓をいたぶってくれた鬼だ。

 異能の厄介さ、扱う剣術、なんれも簡単には攻略させてくれそうにはない難敵だ。

 

 とはいえ、仮面の鬼の手の内はある程度把握している。

 最初の時のような奇襲でもないのなら楓としても打つ手はある。

 

 

 一瞬、煉獄と楓の視線が交わる。

 その一瞬でお互いが何をするべきなのかを把握すると楓と煉獄は全く同時に地面を蹴った。

 

 

「ハァ!!」

 

「シッ!!」

 

 両者は全く同時に鬼と激突し、それぞれが刃を交え始める。

 

 

(短期決戦!一気に片を付けて炎柱様の援護にっ!)

 

 

 煉獄が上弦の鬼を食い止めているうちに楓が下弦を倒して再び数的有利を作り上げる。

 理にかなった策でありこの場ではそれ以外に打ちようもない。

 

 負傷している炭治郎を巻き込まないように少しづつ戦場を移動しながら両者は激しく打ち合う。

 

 

 重心を低く、地面を這うように滑空し一直線に仮面の鬼へと迫る。

 同時にその速度に乗った鋭い突きを首元めがけて放つが仮面の鬼は半歩下がって突きの間合いからでるとそのまま身体を半回転させて楓目掛けて横なぎに一閃してくる。

 

 楓にとっては予想内の反撃だ。

 前回の交戦時にこの鬼が剣術に長けていることは分かっていたので剣技の打ち合いになるであろうことは想定内。

 

 問題となるのは相手の異能だ。

 前回見た翼の血鬼術を使われれば空を自由に飛び回れるあちらが有利になるのは当然の帰結。

 

 

 故に楓に取れる最善手は異能を使わせる暇すら与えない絶え間のない連撃を放ち続けること。

 

 

 楓は両足から一気に力をぬいて身を伏せること横なぎの一閃を交わすと次の瞬間には脱力した力を一気に戻して仮面の鬼へと肉薄する。

 

 そのまま付かず離れず剣戟を舞い、異能を使わせないように連撃を加えていくが対する仮面の鬼は楓の剣舞を見切っているかのように悉く躱していく。

 

 

 あまりにも見事に最小限の動きで回避され続け、さすがの楓も舌打ちをしたくなってくるほどだ。

 楓の突きには鬼であるなら間違いなく致死性の猛毒が仕込まれているのだが、仮面の鬼の動きはまるでそれを理解しているかのようですらあった。

 

「此方の手の内はお見通しのようですね!」

 

 本来、鬼であるなら通常の突き技などよける必要すらないはずなのだ。

 再生能力のある彼らは首元目掛けた斬撃以外は防ぐ必要すらないのだから。

 実際、これまでの鬼の大半は首さえ斬られなければ死なないという明確な油断があった。

 

 それをここまで徹底して避けるということはやはり楓やしのぶの毒の情報は鬼側で共有されているということなのだろう。

 

 

 しかしそうであるなら、楓としてもやることは一つ。

 おそらく師であるしのぶも同じことを言うであろう。

 

 

 『避けられないほどの速さで突けばいい』と。

 

 

「―――シッ」

 

 

 それまでの速度からギアを一段上げたように楓は加速する。

 虚空を走る黄緑の軌跡は空気すら殺しつくして閃光のように仮面の鬼へと襲い掛かる。

 

 

「っ!?」

 

 それまでも十分に驚異的な速さであったのにここに来てさらに速くなった楓に、驚愕からか仮面の下から息を呑むような音がする。

 

 

 その瞬間だった。

 

 

 首元目掛けて放たれた切っ先が狙いを外れ、鬼がつけた狐の仮面を勢いよく弾き飛ばす。

 

 

(ようやく一撃っ!)

 

 

 かすった程度の当たりではあったがそれまでかすりもしなかった攻撃が当たったのだから、楓としてはまず一歩というところだった。

 

 

 次こそは首にあてると意気込み、さらに加速しようと力を入れた時――

 

 

 

 視界に入った鬼を見て楓にあった全ての動きは、完全に止まってしまった。

 

 

 

 

 




御一読ありがとうございました。
ご意見・御感想等いただけますと幸いです。

煉獄さんのカッコよさを描けない ( ;∀;)


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仮面の下

ついに明かされる


 

 高野楓は鬼殺の剣士だ。

 

 

 多くの鬼の首を刎ね、死線を乗り越えてきた歴戦の鬼狩り。

 

 

 彼女は自らの信念を、仲間達の想いを背負い、鬼滅の刃を振り続ける。

 

 

 

 だが、もしも―――

 

 

 もしも、彼女の目の前に嘗ての仲間が現れたとして

 

 その仲間が彼女にとって愛を囁く程に大切な人だったとして

 

 そんな大切な人が絶対的な敵対者になってしまったのだとしたら

 

 

 

  彼女は果たして

 

 

        目の前に現れた敵の首に刀を振れるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「う、そ……」

 

 

 隠された仮面の下、狐面の下から現れたその正体を見て楓は愕然と小さな呟きを放った。

 

 

 それは鬼殺の剣士として、いや戦いを生業とするものにとって許されない致命的とも言える停止。

 

 

 しかし、それもあるいは無理のないことだったのかもしれない。

 

 

 何故ならいま彼女の目の前に広がっている光景は本来なら決して許されない、あってはならないはずのもので同時に楓がなによりも求めた光景でもあったのだから。

 

 

 

「し、のず……さん」

 

 

 震える喉から絞り出したかのような掠れた声が辺りに響き、その視線はただ一点に集約している。

 

 

 彼女の視線の先、その場所には有り得るはずのない人物が居た。

 

 

 

「……久しぶりだな、高野」

 

 

 

 

――― 雨笠 信乃逗

 

 

 

 

 もう一年も前に命をおとした筈の人間が

 

 

 上弦の壱と戦って死んだ筈の人が

 

 

 高野楓が戦い続ける理由を得たきっかけをくれた人が

 

 

 失った筈の大切な宝が、いま楓の目の前にいる。

 

 

「記憶にあるより随分と速くなったんだな」

 

 

 それは楓にとってまるで嘗ての懐かしい日々が戻ってきたかのようで、あの頃と同じように穏やかで少しも変わったそぶりを見せずに呟かれた言葉に楓は激しく動揺する。

 

 

「……そんな、筈ないっ……だってっ……だって……」

 

 

 目の前に広がるその光景は楓にとってあまりに現実味のない光景だった。

 

 

 だって、雨笠信乃逗は死んだのだから。

 

 

 楓に想いを託して、彼女を庇うかのように上弦の壱と戦い、そして命をおとした筈なのだから。

 

 

 遺体すら残らず無惨な血の痕と彼の日輪刀だけを残して……

 

 

「っ!?」

 

 

 そこまで思考したとき、ピンと線が通ったように楓の中で急速に一つの予想が生まれ落ちる。

 

 

 

(遺、体は……なかった?)

 

 

 そうだ。

 

 雨笠信乃逗の遺体はない。

 現場に残った血の量と楓の報告を持って雨笠信乃逗は死亡したと、鬼に喰われ、遺体すら残らない無惨な死を遂げたとそう判断されたのだ。

 

 

 

――― だが

 

 

 

 もしも、もしもだ。

 

 

 

 

 信乃逗があの時死んでいなかったのだとしたら?

 

 信乃逗は鬼に喰われたのではなくその場から連れ去られたなのだとしたら?

 

 そしてその先で、雨笠信乃逗が人を辞めてしまったのだとしたら?

 

 

「うそ、よ……そんなことあるはずない……」

 

 どうしようもなく辻褄があってしまうその予測を楓は必死に否定する。

 

 こんなところに彼がいる訳がないのだと。

 

 目の前にいるのが信乃逗であるはずがない。

 

 彼が生きている筈がない。

 

 

 

 彼が、雨笠信乃逗が

 

 

   ――― 鬼になるはずがない

 

 

(そうよっ……きっとなにかの異能……列車の鬼と同じような血鬼術っ)

 

 

 否定の言葉が楓の心の中で連鎖し、この状況を説明出来る何かを見つけようと必死になっていく。

 

 

「……信じられないか?」

 

「っ……ええっ!妙な異能をお持ちのようですねっ」

 

 楓の心を読んだかのような言葉を空は平然と吐いていく。

 

「……なるほどな。血鬼術で姿を偽る、或いは幻でも見せていると、高野はそう判断するわけか」

 

「っ、それ以外には考えられませんから」

 

「ふーん。じゃあさ、そう思ってるならなんでお前、そんなに震えてるわけ?」

 

「っ!?」

 

 

 信乃逗の言葉を受けて、楓は初めて自らの身体が震えていることに気づいた。

 刀身はカタカタと小刻みに揺れ動き、手足もどこか頼りなく震えている。

 

 

「俺が信乃逗ではなく異能による別の個体だって認識したなら、なおさらお前は戦ってここで信乃逗を騙る鬼を滅殺するべきじゃないのか?」

 

 

「っそんなこと鬼の貴方に言われるまでもないっ!」

 

 

 

 耐えられないと、そう言わんばかりに楓は激しい動揺を身体に露わしたまま地を蹴り前へと飛び出した。

 

 

 

――― 蟲の呼吸 蜻蛉の舞 複眼六角 ―――

 

 

 

 疾風の如く加速した楓の鋭い突きの嵐が空へと迫り、

 

 

 

「あぁ、そうそう……お前に託した『蝋燭の火』はちゃんと繋げてくれたのか?」

 

 

「っ!?」

 

 

 空気の壁を突き破って楓の耳へと届いた空の言葉はやけにはっきりとしていて、その声色は怖気が立つほど冷たかった。

 

 

『今はまだ、吹けば飛んで消えてしまうような蝋燭に灯る、か細い炎かもしれないけど、絶えずに燃やし続けることができれば……炎はいつか蝋を溶かす。俺達の夢は、きっとその時に叶うんだ。……だから、俺達の意味はお前に託すことにするよ』

 

 

 

 それは

 

 

 信乃逗と楓が最期に交わした会話。

 信乃逗と楓の交わした最初で最期の約束。

 

 

 

(なんでっ、なんでそんなことまで!?)

 

 

 

 彼が放った言葉は信乃逗と楓しか知らないはずの内容で、楓と信乃逗だけが持つ大切な記憶。

 それが意味することに楓の心が一気に掻き狂わされる。

 

 

 心の乱れは技の乱れとすら言われるほど、人の放つ感情と剣技のきれには密接な繋がりがある。それが高度な一撃であればあるほど些細な感情の波すらも動きに反映してしまう。

 

 故に、楓がこの瞬間感じたとてつもない動揺もこの技の精度に大きく影響した。

 

 彼女の心に生まれた躊躇いを反映するが如く、空へと迫る技も鈍る。本来なら目にも止まらぬ筈であったの六つの閃光がその速度を大きく落としていく。

 

 上弦の鬼には及ばないとされる、下弦の弐である空が全て避けきれてしまうほどに。

 

 

「……あぁ、やっぱりこうなるのか。残念だよ高野」

 

 

 全ての刃を避けた空から呟かれた言葉は失意に満ちていた。

 

 

―――  (から)の呼吸 壱ノ型 震葬(しんそう) ―――

 

 

 周囲の空気を絡め取る程の強力な横凪の一閃が楓の胴目掛けて振われる。

 ギィンッと一際甲高い音色が薄暗い夜の帷へと響き渡り、それと同時に楓の身体が後方へと大きく弾き飛ばされる。

 楓は咄嗟に空中でくるりと回転して地面へと降り立った。

 

 

「うん?今のを防げたのか。いや、咄嗟に身体が動いたってところか?……まぁ、あえて後ろに飛んだのはいい判断だったな」

 

 

 飄々とした態度で、まるで教え子に教鞭を取るかのように空は楓の身のこなしを評価し賞賛する。

 

 一方で、空の攻撃を見事に受け切ったはずの楓は絶望に染まりきった表情をしていた。

 

 

(あぁ……こんなの、嘘だ……)

 

 

 空と名乗ったあの鬼が行った一連の動きがあまりにも衝撃的で、あまりにも信じられなくて、目の前に示された現実が楓の心に重くのしかかってくる。

 

 先程彼が放ったあの技、あれは間違いなく全集中の呼吸だった。

 上弦の壱と同様に下弦の弐である空という鬼は、本来鬼を倒す為に編み出された呼吸という技術を会得している。

 

 さらにいえば、いま使われた呼吸は鬼殺隊からは既に失われたはずの希少極まる呼吸。

 楓の知る限り、その呼吸を使える人は近代においてたった1人しかいなかったはずだ。

 

 

 本来であれば百年も前に途絶えていたはずの稀少な呼吸は雨笠信乃逗の死をもってこの世界から完全に途絶えた筈なのだから。

 

 

 ならば目の前の鬼は、どうして空の呼吸が使えるのだ?

 

 

 百年前から生きる鬼だとでもいうのか?

 

 百年前なら、まだ空の呼吸を扱える隊士も僅かに存在していたはずだ。

 

 

(そうよ……百年前にあの鬼が習得していたなら……)

 

 

 

――― なんの不思議もないって?

 

 

 それは違う。

 

 そんな訳がない。

 

 だってそれでは楓が今の一撃を防げたことに説明がつかない。

 

 彼の言う通り、先の一撃は楓の身体が咄嗟に動いたが故に防げたものだ。

 楓が意図して、自らの意思で身体を動かしたのではなく、自然と刀を持つ腕が動いたのだ。

 

 

 ―――まるで、彼の放つ攻撃がどこにくるのか、それを身体が分かっていたかのように。

 

 

(そうだ……私は知っていた……あの攻撃の癖を……身体が覚えていた……)

 

 

 先の攻撃を楓は何度も何度も、受けたことがあった。

 覚えのある一撃だったのだ。2人でしのぶに鍛えられた時、あの道場で何度もこの身に受けて地に這いつくばる度に必死に喰らいつて、いつの間にか覚えていた、あの人の癖。

 

 

 あれは間違いなく、

 

 

 

      ――― 雨笠信乃逗の剣だ

 

 

 

「………どうしてっ……」

 

 

 鬼の異能が見せる幻か、あるいは変装の類か、それとも此方の記憶を読んで物真似をしているだけなのか、ありとあらゆる可能性を考えた。

 

 目の前にある存在を信乃逗ではないと否定する為に、楓は考えられる限りの異能の力を想像した。

 

 

 だが、その全てにおいて辻褄が合わない。

 

 

 信乃逗の姿を真似たのだとしても、鬼がそう簡単に呼吸が使える訳はないのだ。

 

 

 全てが幻だったのだとしてもいま受けた一撃の感触は確かに現実で、その攻撃の癖まで信乃逗と全く一緒だったというのは幻術の類とも考え難い。

 

 それほどまでに正確な幻がここまで違和感なく見せられるなら、楓を仕留める手段は他に幾らでもある筈だし、そもそも今も彼女が生きていること自体が不自然に思える。

 

 

 どんな想像も楓の考えと現実が一致してくれない。

 

 

 たった一つ、目の前の鬼の正体が異能でもなんでもない、正真正銘の雨笠信乃逗であるという可能性を除いて。

 

 

「信乃逗さんっ……なんでっ……なんでなんですか!?」

 

「……………」

 

「貴方が本当に信乃逗さんなら……どうして鬼にっ!どうして下弦の弐になんかにっ!?」

 

 

 目の前にあるのは失った筈の宝物だ。

 嘗て鬼に奪われた幸せの一つがいま自分の前に確かにあるのに、楓はそれに対して喜びの感情を示すことが出来ないでいた。

 

 

 或いは彼が禰豆子のように人を襲わない鬼となっていたのなら、楓は信乃逗に笑顔を見せただろう。

 瞳に涙を浮かべて抱擁すらして見せたことだろう。

 

 

 しかし現実はそうではなかった。

 

 

「貴方の瞳のその数字はっ、一体っ……どれほどの人を喰らった証なんですかっ!?」

 

 

 彼の瞳に刻まれた下弦の弐という数字が、彼が鬼になっているという事実が楓の行動をとどめてしまう。

 その瞳が表すことの意味を明確に理解しているが故に、楓の心が示された現実に悲鳴をあげている。

 

 

 鬼の強さとは基本的には人を喰った数に比例すると言われている。

 稀に数人程度で異能の力を得る者もいるが、それでも十二鬼月に選ばれるには相当の数の人を喰らわねばならない筈だ。

 

 

 ならば当然、目の前にいる彼は食べたのだ。

 

 

 下弦の弐とそう評されるほどの数の人を殺して、喰らってきたのだ。

 

 

 沢山の人達から奪ってきたのだ。

 誰かに訪れるはずだった幸せな未来を。

 

 

「……………」

 

 

「答えて下さいよ!?信乃逗さんっ!!」

 

 

 無言のままで佇む空に、楓は必死の形相で問い詰める。

 

 

 或いは楓はこの問い掛けを否定して欲しかったのかもしれない。雨笠信乃逗は人を喰らっていないと、誰の未来も奪っていないと、そう答えて欲しかったのかもしれない。

 

 

 禰豆子という奇跡の存在を見て、縋りたかったのかもしれない。

 

 

「もしかすればあるかもしれない」、そんな幻想を楓は信じたかったのだ。

 

 

「さぁね。本当、何人喰ったんだろうな?……実際のところは俺もよく覚えてないんだよ。っていうかそんなこといちいち覚えていられないだろう」

 

 

「っ!?」

 

 

 しかしそんなものは結局のところ幻想だ。

 ありもしない幻でしかない。

 

 楓の渾身の嘆きを聞いても、彼には差したる変化は見えない。

 嘗ての信乃逗と同じように何処か間延びするような口調で、己が犯した罪の数を覚えてなどいないと悠然と語ってみせる。

 

 そんな彼を見て楓が愕然としてしまったのは無理のないことだったのかもしれない。

 

 だって楓の記憶にある信乃逗は優しい人だったから。

 

 多くの人々の命を救い、仲間を助け、逝ってしまった者達の想いをその身に宿す、命の重みを知る立派な人だった。

 

 

 そんな彼が、自らが喰らった人の命をさもどうでも良いことかのように覚えてないとせせら笑うなんてことを果たしてするだろうか?

 

 

「信乃逗さんが……そんなこと……いう筈が……」

 

 

 やはり目の前の存在は信乃逗ではないのではないかと、そう否定したくなる程、楓にとってそれはあまりにも信じ難い、いや……信じたくない出来事だった。

 

 

「……認めたくないなら、認める必要はないかもしれないぞ。どのみち今の俺はお前が知ってる雨笠信乃逗じゃあない。過程がどうであれお前の前にいるのは1匹の鬼で間違いないんだからな」

 

「なにを……言って」

 

「鬼殺の剣士、雨笠信乃逗はもう死んだってことだよ。いまお前の前にいるのはあのお方に下弦の弐の数字を頂いた、『空』という名の鬼なんだよ」

 

 

「っ……信乃逗さんっ!」

 

 

『あのお方』

 

 

 それが誰を指すのか、答えは明白だった。

 鬼殺の剣士であった信乃逗が怨敵たる鬼の王を敬うかのように表現するなど絶対にあってはならないことだった。

 

 

「ほら、しっかり構えてろよ。目の前にいるのは鬼だ。お前の敵なんだぞ」

 

 

「やめてください!信乃逗さんっ、貴方はっ!?」

 

 

 言葉の最中に楓の眼前に立っていた空の姿が掻き消えた。

 どこにいったのかと、視線を彷徨わせる間も無く殆ど反射的に楓の身体は後方へと跳躍していた。

 その数瞬先には、楓の立っていたその場所に紅い軌跡が弧を描いている。

 

 

「何度も言わせるなよ」

 

「っ!?」

 

「俺は……鬼なんだよ」

 

 

 楓の瞳に映る空の表情は決して喜色に満ちたものでも失意に満ち溢れたものでもなかった。

 冷たい声色で一切の感情を打ち消したかのような能面にも見える表情、ガラス玉のように意志を感じさせない漆黒の瞳。

 

 

 それを見た瞬間、楓の心に激情とも言える壮絶な怒りの感情が湧き上がる。

 

 

(……鬼舞辻……無惨っ)

 

 

 歯が軋む程キツく喰いしばられたその唇から赤い水滴が零れ落ちる。

 

 憎悪すら宿した瞳で今は見えないその存在を睨みつける。

 

 信乃逗が望んで鬼になるはずはない。

 彼は鬼殺の剣士で、鬼という存在を憎んですらいたのだから。

 

 

 だが人が鬼に変わる時、それを心底望んだ者が果たして何人いる?

 

 この世にいる鬼の一体何人が、望んだ未来を辿れているというのだ?

 

 

 そんなものこれまで手にかけてきた鬼達を見れば明らかだろう。

 

 

 人の意志など関係なく、想いなど意味を為さないとばかりに造作なくその在り方を変えてしまえる。

 それこそが鬼舞辻無惨という暴虐の体現者だ。

 

 どんな人間も鬼となれば人を喰らう。

 どれ程鬼を憎もうと、どれ程人を愛していようとも、そこにそれまでの人の意志が反映されることはないのだ。

 

 

 鬼舞辻無惨がそう変えてしまうから。

 

 

 これまで多くの人間が辿ったその道を、雨笠信乃逗もまた同じように辿った。

 

 

 たったそれだけのことなのだ。

 

 

 鬼の血に人間が抗うことは本来なら出来ない。

 

 

 だからこそ禰豆子という存在が奇跡と言われる。

 そして奇跡とはそう簡単には起こらないからこそ、そう表現されるのだ。

 

 

(よくも……よくもっ……この人をっ……)

 

 

 際限なく噴き上がる憎悪の奔流に楓の心が、精神が掻きまわされていく。

 

 

「そろそろやる気をもどしてくれたか?」

 

 

 対する空は先程までの能面のような意思を感じさせない表情のまま、口調だけは飄々とした様子で声を発する。

 

 

「私はっ……」

 

 

 戦わなければいけない。

 

 刀を振るわなければいけない。

 

 

(この人を……私がっ……)

 

 

 

   ――― 殺さなければいけない。

 

 

 やらなければいけないことは明白でこれまでしてきたことと何一つとして変わることのない、鬼殺の一つ。

 

 

 鬼殺の剣士として長い間戦い続けた彼女の冷静な頭脳はそれを明確に理解出来ている。

 

 

 なのに楓の心は、それを躊躇ってしまっている。

 

 

 カタカタと刀身が音を立てて揺れ、その輝きを鈍らせてしまう。

 震える手で構えた刀はまるで産まれたての子鹿のようで、彼女の心の揺れ動きを如実に反映してしまっている。

 

 

 側から見てもはっきりと分かってしまう程、明らかな動揺に楓は晒されていた。

 

 

「……高野……これ以上俺を失望させるなよ」

 

 

 スッと、楓の視界から再び空の姿が掻き消えると、次の瞬間には側面から気配を感じる。

 

 

「くっ!」

 

 

 横合いから振り下ろされる刃を楓は半歩身体を後ろへと引くことで回避する。

 

 

「避けるだけか、甘ちゃんにも程があるな……言っとくけど今の俺は例えお前であっても容赦なく殺せるんだぞ」

 

 

 

――― 空の呼吸 肆ノ型 燕怪(えんかい) ―――

 

 

 殆ど同時とも思えるような瞬きの間に複数の剣戟が楓の身体へと迫りいく。

 

 

――― 蟲の呼吸 蜈蚣ノ舞(ごこうのまい) 百足蛇腹(ひゃくそくじゃばら)  ―――

 

 

 多方向から迫る死の気配を、楓は咄嗟に技を放って避ける。

 踏み固まった地面に罅がはいる程の強い踏み込みを何度も繰り返し、乱れる剣戟からその身を遠ざけていく。

 

 

「技の応用か……百足蛇腹にそんな使い方があったとわな」

 

 

 感心したように口を開く空とは対象的に楓は地面へと視線をおとして固まっていた。

 

 

(本当に……殺すつもりだった……)

 

 

 今の空の攻撃には手加減の意思など微塵もなかった。

 楓が反射の領域で技を使わなければ、間違いなく身体はバラバラに切断され、無残な肉片となって辺りを紅く染め上げていたであろうことは疑いようがない。

 

 

 それはつまり先の宣言の通りいま目の前にいるこの男に、嘗て雨笠信乃逗と呼ばれた剣士には楓を殺すことに対する躊躇いが一切ないということを意味してしまっている。

 

 

「どうして……」

 

 失意のあまり楓の口からコロリと零れ落ちた。

 嘗て命を懸けてこの命を守ってくれた人が、いま鬼となって自らを本気で殺しにきている。

 楓にとってそれはまさしく地獄のような光景だった。

 

 列車の時のようにこの状況の全てが、いっそ夢か幻であってくれたならどれ程救われただろうか。

 

 

「どうして、か……どうしてときたか……それは俺の台詞なんだけどなぁ」

 

 

 楓にとって間違いのない悲劇となっているこの状況に、空もまた僅かに苛立ったような、哀しみを感じさせるような声色で静かに言葉を紡ぐ。

 

 

「俺はいま酷く虚しい……実に空虚だ。心の底から湧き上がる虚無感に打ちのめされていると言ってもいい。……那谷蜘蛛山の時とはまるで変わったな……今のお前はまるで空っぽだ」

 

 

「っ!」

 

 

 ただそれは楓が感じていた哀しみとはあまりにもかけ離れていた。

 

 

 那谷蜘蛛山とそう聞いて楓の脳裏に浮かぶのは、あの時の白い着物を纏った鬼の少女だ。

 『助けてくれ』、そう懇願するあの鬼に楓は自分勝手な救済を押しつけてその首を堕とした。

 身勝手極まりない罪悪感と暗い憎しみの感情にその身を浸らせて矛盾した想いに綴るように刀を振るっていたあの夜の楓を、空は見ていたのだ。

 

 

「あの夜、お前はあんなにも素晴らしい覚悟を見せていたのに……今の在り方はあまりにも希薄だ。俺が信乃逗だったことを理解しただけでこうも容易く揺れ動くなんてな……この短期間でどうしてお前はそんなにも弱くなった?」

 

 

「な、にを……言って……」

 

 

 動揺のあまり楓の喉からは引き絞ったような掠れた声が出るばかりだ。

 

 今の楓にとってあの夜自らが振るった刃は間違いではなくとも同時に正解でもない。

 禰豆子という奇跡の存在を知り、信乃逗が手紙に遺した想いを知った楓にはあの夜のように刀を振るうことはもはや出来ない。

 

 不意に空の視線が楓から外れる。

 月夜を見据えるように顔を上へと向ける空は思い出を語るように口を開いた。

 

 

「俺はお前が約束を守っているのだと思ってたんだよ。信乃逗と交わしたあの日の約束を……お前は継いでくれたんだと、そう思っていた」

 

「あ、あの時の私は……」

 

 

 今の楓にとってあの夜の行いは不正解ではなくとも正解でもない。

 自分は未だ仲間達が遺してくれた想いを継ぎきれていない。

 そう思っていた楓に空が向けた言葉は意外にも肯定だった。

 

 本来誰よりもあの夜の楓の姿を否定するべき筈の信乃逗が那谷蜘蛛山の楓を正解だとそう言っていることに楓は動揺に声を震わせる。

 

 

「想いを繋ぎ、想いを受け止め、想いで動き、想いで殺す……お前が鬼に与える救済の意志を見て俺は―――心底震えたんだよ

 

 

「っ−−−−−−」

 

 

 その言葉とともに再び自分に向けられた空の表情を見て、楓は恐怖に思わず息を呑んでしまう。

 

 

 空は嗤っていた。

 

 

 先程までの意志の薄い、感情の読みとり辛いだけだった表情にあらんかぎりの歓喜を示し、陶然と口元を綻ばせている。

 

 そこにあるのは純然たる悦びだ。

 

 なんの悪意も害意も敵意もなく、ただ純然と悦びを露わにする目の前の存在に楓は怖気が立つの止められない。

 全身の産毛が逆立ちゾワゾワとした得体の知れない感覚が次々と身体を駆け上がってくる。

 

 

「憐れに泣き叫び、愚かな空言を語り、意味のない救いを求めたあの鬼を、お前は見事に救済してみせたじゃないか」

 

 

「っ―――」

 

 

「感嘆の極み……そう表現するのに相応しい光景だったんだよ。虚言に溢れ、虚飾に満ちた人の歩みがこの空虚な世界で唯一無二の輝きを示すなんて思ってもみなかった。……それも俺たちの想いを継いだお前が示してくれたんだ。これほど喜ばしいことはない、そう思っていたのに……」

 

 

 空の放つそれは常人であるならば、全くもって理解出来ない言葉の羅列だった。

 当然、楓にも目の前の彼が何を言っているのか、それを理解することは出来ない。

 

 

 ただ、その内容がどれほど楓にとって理解不能なものであったとしてもわかってしまえることがあった。

 

 

 

 目の前にいる鬼は、嘗て信乃逗だったあの鬼はどうしようもない程に狂っている。

 

 

 

 口角を吊り上げ不気味な微笑みを浮かべ、黒曜の双眸に狂気的な光を宿して空はただ真っ直ぐに楓を見据える。

 

 そして楓もまた、その瞳から視線を逸らすことが出来ない。

 まるで蛇に睨まれた蛙のように楓の身体は硬直し、瞬き一つすらすることが出来ないでいた。

 

 

 

「あの哀れな鬼を救ってやった時、お前は確かに鬼滅の覚悟を示し、まさしく鬼殺の体現者だった……なのに……」

 

 

「や、めて……」

 

 

 空から突きつけられる全ての言葉に湧き上がる恐怖の感情。

 楓の知っている信乃逗が、決定的なまでに遠くに行ってしまっていると、そう理解することへの純然たる恐怖を、迫りくる圧倒的なまでの狂気を、楓は必死に拒絶しようとする。

 

 けれど、かぼそく掠れ消えてしまいそうな程小さな否定の声は、虚空へと虚しく溶けていくばかりで、空の元へとはまるで届かない。

 

 

「何故だ?あの時あれほどの輝きをみせたお前が、どうして今はそんなにも空虚なんだ?何故お前は俺を—−−」

 

 

 

――― 救済しようとしない?

 

 

 

「――っ」

 

 

「死こそ鬼にとっての救済だと……お前は気付いたんだろう?鬼にされた哀れな人間を殺してやることこそがお前達の役目なのだと理解したんじゃなかったのか?」

 

 

「それはっ……私は、あの時は……」

 

 

「……まさか空言だったのか?あの時お前が語った想いは、繋いでいた想いは……上辺だけの虚飾だったのか?」

 

 

「ち、違う……わたしは……貴方に、みんなが託してくれた想いを繋ぐために」

 

 

「ならなぜ恐れる?なにをそんなに怯えている?」

 

「わ、私はっ……信乃逗さんをっ」

 

「なにを言って……」

 

 

「信乃逗、信乃逗と……どこまでも認められないか。なら、もう仕方がないか。理解したよ。お前に、今のお前には俺たちの想いを繋ぐことは無理みたいだ」

 

 

「っ!?」

 

 

「お前は間違えた。選択を誤ったんだよ……どうしようもないほどにな」

 

 

(……まって)

 

 

 聞いてはならない。

 

 

 これ以上、空の放つ言葉を耳に入れてはならない。

 これより先を聞いてしまえば、楓の中にある決定的な何かが、決してなくしてはならない大事な物が崩れ去ってしまう。

 

 

 そんな予感めいた不吉な何かを楓は確かに感じとっていた。

 

 

 それでも、それを分かってはいても空の言葉は自然と楓の耳に入ってくる。

 視線は逸らせず、耳も塞げず、楓はただ内心で否定の言葉を叫ぶだけで目の前の存在から与えられる恐怖にワナワナと身体を震わせることしか出来ないでいた。

 

 

「随分と堕ちたもんだな……高野、どれだけ技が早くなっても上手くなってもお前の剣は軽い、あまりにも脆くて弱い」

 

 

「……やめて……」

 

 

「今のお前に……」

 

 

 狂気は、凶器に

 

 

 

「雨笠信乃逗の想いを、死んだ剣士の想いを背負う資格はない」

 

 

 

 空の言葉が、空の持つ刀が紛うことなき暴力となって楓の心と身体を貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 




御一読いただきましてありがとうございます。
ご意見・御感想等いただけますと幸いでございます。

さて、ようやく空の正体を明かせましたが大体の方が予想していらした通りかもしれません。

楓曇らせまっしぐらな展開ですが楽しんでいただけると嬉しいです。


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