理系が恋に落ちたけど証明のための時間がありません。 (狩る雄)
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理系が恋に落ちたらしいけど、ようやく告白した。

国立大学、その4文字に魅力を感じる理系学生及び親御さんは多いのではないか。

 

第一に学費。

親に支払ってもらうとかいう、今もなお『甘え』を行っているのだが、具体的な数字は私立大学と比べると小さい値であることは自明だと思う。

 

まあ、隣にいるガチ理系な先輩にそんな曖昧な数値で物事を判断すれば、ダメ出し間違いなしである。

 

ともかく、そんな国立彩玉大学へかなりの背伸びをして入った俺は、地獄の3年間を送ってきた。実際のところはレポート提出時や、テスト前日だけなのだけれど。

 

無事に進級できた俺は、この一ヶ月で個性的なメンバーの『人となり』をそれなりに知った。

 

 

「おはよう」

 

ハイヒールが地面を叩く音とともに、氷室先輩が美声を発する。水色のワイシャツの上に、白衣を身に纏う。少しラフにボタンを開けていて、キャンパス内の男子たちの視線を集めるのはいつものことだ。さらには、黒タイツでその美脚を包んでいる。あくまで理学的に、自分磨きをしているのだろう。

 

薄い化粧が、今日も完璧に行われている。

 

 

「おはようっす」

 

俺が挨拶を返すと、にこりと微笑む。

 

てか、最近は自分磨きがより顕著になってきた。主観的にだが、そう思う。その原因は隣にいるM1先輩にあることは、当事者2人以外にとって自明である。

 

「氷室、3分の遅刻だ。」

 

朝っぱらから、憎まれ口を叩くのは雪村先輩である。本来、この研究室にコアタイムはない。しかし、いつも定時に訪れる氷室先輩がいつ来るかそわそわしていたのを、俺は知っている。

 

そんな彼を、理系的ツンデレだと、俺たちB4は認識している。

 

「2分32秒よ。理工学専攻なら、時間は正確にね? 雪村君」

 

徹夜でゲームしてソファで熟睡中のM2先輩はともかく、俺にもその言葉はつきささる。

 

「ふんっ、この会話で3分間は過ぎたぞ。減らず口は作業の遅れを取り戻してから言え」

 

めんどくせっ、バルスすんぞ、雪村先輩。

 

 

「ふふっ、良いハンデでしょう」

 

挑発を返しながら、科学的に理想な姿勢で個人デスクに氷室先輩が座った。

 

てか、女性の準備には時間がかかるのだ。俺が立てる仮定では、雪村先輩に会う前に一度トイレの鏡で最終チェックを行ったのではないか。

 

 

「あー、雪村先輩。今日はこれをやればいいんです?」

「ん。ああ。」

 

腰まで届く髪をじっと見ていた、先輩に声をかける。これでもう、今日は邪魔しないですから。

 

「……いつまで?」

「自分で決めるんだな。卒業論文のテーマを決めることは、早いに超したことはない。」

「先輩が紹介してくれるなんてこと……ないですよねー、自分で考えます~」

 

ここ一ヶ月で、彼の無言が怖いことは理解した。

 

 

少し早く来て、先輩にいくつか論文を紹介してもらっていたのだ。積み上げられた紙の一枚を片手でチラ見しながら、我がWindowsノートパソコンを起動させる。支給されたMacのパソコンはまだ慣れない。

 

 

多項式時間帰着について、仲良く会話している先輩たちにとって、俺のことはもう眼中にない。ハミルトンパス問題ってなに。力学で習った気がするハミルトニアンしか知らないんだけど。

 

 

英和辞書に頼るしかないのだが。

うへぇ、これ統計じゃん。

せめて、量子にしてくれ。

 

 

 

「……そうだ、雪村君」

「……なんだ、氷室」

 

キーボードの音が響く、静寂の世界である。氷室先輩は改まって、何かを言おうとしている。

 

 

「私、貴方のこと好きみたい」

 

 

言ったァ!?

てか、超きまずいんですけど!?

 

思わず、氷室先輩の方へ振り返ってしまう。画面に映るのは数字の羅列だけで、反射によって彼女の表情はわからない。

 

先輩たちはまだ画面を見つめたままだ。

 

「何だと?」

「私、雪村君のこと、好きみたい」

 

氷室先輩は両手をもじもじさせ、対称的に雪村先輩は文字を打つスピードが上昇する。まあ、文章にはなっていないだろう。

 

 

「……俺は恋愛経験というものが、まるでない、と自分ではそう思っている」

 

こっそり離席しようとしたら、雪村先輩が発言する。俺がいるのに、このまま続けるんですかねぇ。ソファの毛布がピクピクしていて、聞き耳を立てている先輩がいることには俺しか気づいていない。

 

絶対、笑ってる。

 

 

「氷室、お前は聡明だ」

 

氷室先輩の、髪がピクピクしているのは非科学的だと思うのだけれど。今はそういう場合ではないか。

 

「俺とお前の関係を示すために、適する言葉を探したことがある。好敵手・同僚・同期生……確かにそれは当てはまるのだろう」

 

好きって言っちゃいなよ、先輩。

このあとは、全員でお祝いだ。

 

 

雪村先輩は、ごくりと息を飲んだ。

スッと、立ち上がる。

 

 

「何を証拠に、氷室は俺を『好き』だと仮定した」

 

なんでや、と関西人の血が騒いで叫びそうだったので、慌てて自分の口を抑える。

 

 

「なるほど。その証明問題を解くべき、ということね。」

 

顎に手を当てて、証拠を探していた氷室先輩がいつものキリッとした表情に戻る。

 

 

「少し待ってて」

 

カタカタカタと、圧倒的なスピードでプログラミングをしているように見える。まあ、Texかなにかで、文章やグラフを作成しているのである。

 

「月村君、プロジェクター」

「えっ、あっ、はいっ!」

 

えっ、俺のことを認識にしていたの。

告白はだれかに見られるのが好きなフレンズ?

 

 

「ありがとう」

 

急いで電源をつけた画面に、円グラフが表示された。コードを使わず、ワイヤレスとか次世代的である。

 

円グラフは、表計算ソフトで簡単に作れるグラフの一つだ。各事象の割合を、視覚的に理解することができる利点がある。

 

 

「これは、私が貴方を好きと判定するに至ったデータ。その構成要素の割合よ。数値について計測できないから、概算だけどね」

 

つまり、なんとなくですね。

自分の恋愛感情を分析した結果である。

 

さて。鼓動だの、目で追うだの、乙女的行動が見受けられる。夢に出てくるとか、無意識じゃん。

 

てか、乙女すぎないか。恋愛未経験者同士だったか。『好きな人の匂いを嗅ぎたい』って要素について、俺自身なら少なく見積もっても10%はあると思う。

 

「ほう、なるほどな。」

 

雪村先輩、目が泳いでいる。

 

項目ごとに意識ポイントを教えられた。いわゆる、『ねぇ、俺のどんなところが好きなの?』の回答を堂々と箇条書きされている。

 

「だが、これはお前の主観に基づくデータだ。確証性はない」

 

素数でも数えたのだろうか、キリッとした表情になる。

 

「そうね。だから、こう仮定しましょう」

 

キュッキュッと、ホワイトボードに言葉が書かれていく。その白く細い指は俺でも目で追ってしまう。彼女の授業とか、寝る人ゼロだろう。

 

「氷室菖蒲は雪村心夜を『好きダッシュ』であると仮定する。あのー、これはどういう意味で?」

 

俺からすれば、傘の下にカップルの名前を並べるやつを、理系的に書いたようにしか見えない。

 

「このデータが一般的な好きな証拠と合致するようならば、氷室の好きが一般論でいうところの好きの定義に含まれることによって、仮定が正しい、ということだ」

 

「な、なるほど」

わからん

 

「そして、こっちは貴方に対する意識度をグラフにしてみたわ。きっかけは4月12日、これも判断材料になるのではないかしら」

 

グラフにおいてその日から、1から対数的に上昇していることが視覚的にわかる。たまに上がり下がりしているのが、なんだかガチのグラフっぽい。

 

「そのきっかけとは?」

「貴方が夢に出たこと」

「不確定だな。俺も氷室が夢に出てきたことはある。もちろん、月村や他のやつもだ。」

 

夢に出てきたと聞いて明るくなって、他のやつもと聞いて落ち込む。氷室先輩が乙女すぎて一喜一憂である。

 

「ところで。夢に出てきた際の、内容は?」

「その情報は必要?」

「きっかけ、いや初期値がわかれば、かなり証明に近づく」

 

少し視線をずらして、両手をもじもじさせる。この仕草だけで何人もの男子が勢いあまって告白して、撃沈することだろう。B4男子は、好きな人及びキャラクターがいるから、そうはならない。

 

 

「手を、繋いでいたわ」

 

乙女かっ!

 

4月12日も少し研究室に来るのが遅かった時だった気もする。幸せな夢ってもう一度見ようとしても、無理な場合が多いけどな。

 

 

「ところで」

 

動揺を隠すように、ホワイトボードに追加情報を書き込んでいる雪村先輩のネクタイを掴んで振り向かせる。

 

大胆だ、俺も好きな人にやってほしい。

 

 

「雪村君は私が夢に出てきたことがあるって言ってたわね。その内容を教えなさい」

「その情報は必要か?」

「B→Aのグラフを作る際、必要になるわ」

 

少し視線をずらして、ネクタイを結び直して襟を正す。この仕草だけで何人もの女子が勢いあまって告白して、撃沈することだろう。彼女とかそこで聞き耳立てている女子先輩は、好きな人及びゲームがいるから、そうはならない。

 

俺には、まだ見ぬ強力なライバルがいるんだよなぁ。

 

 

「手を、繋いでいた」

 

雪村先輩も乙女かっ!

 

「共通項ですって。これはなにかしら裏付けを取らないと」 

 

4月12日って雪村先輩も遅かったよな。両片想いを半月ほど続けて、告白?したのは、早い方なのかな。

 

 

「月村、ここで一度君の意見を聞いておきたい」

 

まさか、このために第三者を置いていたのか。

 

 

「いや、でも、これはおふたりのことですし」

「謙遜することはないわ。時には、柔軟な思考や別の角度から見る視点が必要よ。そのために、研究室があるの」

「それに。なんだかんだ言いながら自分と向き合っているお前を、この1ヶ月で俺たちは評価している。たとえ今までの悲惨な成績があってもな」

 

照れる。まあ、いつも頼ってばかりの先輩に協力できるのなら。

 

 

「一般論に当てはめるために、うーん、あー、あれだ。デートしたらどうっすか。いわゆるカップルがする行動で、お互いどういう反応が起きるか確かめるっていうか」

 

デートと聞いて、2人とも顔が真っ赤になる。その姿だけでも相思相愛だ。こういうお似合いの2人だから、俺たち後輩が懐く。

 

 

「一理あるな。相手に恋愛的好意を持って行うことが、一般的なカップルでも引き起こるのなら、それは判定条件になる」

「その行動による、反応も見るべきということね。脳波は大がかりすぎるから……そうね。心拍数で構わないわね」

 

よくわからん数式を二人仲良く書き始めたことで、俺は蚊帳の外である。AIにディープラーニングさせて、好きと判断させる案が出るとか、才能、いや努力の賜物だろう。

 

 

「おはようございます……なにしてるの?」

 

縦縞のセーターの上に、白衣を身に纏う。タイツは身につけておらず、その健康的な脚をさらけ出している。いつも通りセミロングの茶髪に、小さな花のヘアピンを付けている。学部4年生ながら、あとげなさの残る彼女は、我が工学部同期の姫の1人である。

 

競争率も激しい上に、年上好き。

このままでは勝ち目がない。

 

 

 

「おはよう、奏さん。あれだ、ようやく告った」

「うそっ!? どっちから!?」

「氷室先輩から。でもまあ、まだ恋の証明をできていない」

「それで、これ……?」

 

奏さん的にも、思ったより早かったのだろう。それでいて、唖然としている。ホワイトボードに埋め尽くされていく、文字と数字は記念に、写真を撮っておこう。

 

「そうそう。はい、朝ごはん。どうせ食べてないんでしょ。徹夜するっていってたけど、どんな感じ?」

 

市販のメロンパンを手渡してくれる。ソファでまた熟睡を再開した先輩にまで買ってきてくれた。

 

また今度、お弁当でも作って、恩を返さねば。

 

「サンキュ。今日も昨日もレート10000位をうろうろだよ」

 

熟睡している先輩は、俺より試行回数は少なくとも、1000位前後である。ポケモンとキャンプでエンジョイするのを楽しむ奏さんには、あまり踏み込んでほしくない世界である。

 

「今日、ラプラスのレイドしておきたいんだけど、いいかな?」

「やろうか。てかそれ、俺の方が助かるんだけど。」

 

A0じゃなくとも、マスボ投げる。

 

そして、ソファに座って2人でメロンパンをもぐもぐしながら、先輩たちの議論に聞き耳を立てる。

 

目の前で繰り広げられる光景も理系なりの恋愛的行動だと思う。2種類の癖のある字が時折り重なって、ちゃんと相手の意見を理解しようとしていて、ちゃんと自分の意見も述べる。

 

 

「月村君、奏さん。恋愛も所詮は数字と情報の集合体よ」

「0か1か、それとも量子重ね合わせなのか。この恋、証明するぞ」

 

((何言ってんだ、このバカップル))

 

手伝えってことなのかね。

やはり、まだまだ長そうだ。

 

 

 



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理系が恋に落ちたらしいけど、ちょっと進んだ。

俺たちの研究室はカードキーさえあればいつでも入れるようになっている。ゴールデンウイーク後半でも、先輩たちは基本的にいる。今日はなんとなく論文を読むことに気が進まない。6月に控えた、新たなガラル地方のことばかりを考えている。

 

ゲーム大好き女子先輩は、今日もソファで熟睡中だ。もう1人のB4は引きこもってギャルゲするから、今日も来ないだろう。

 

 

「心拍数のグラフはもうできた?」

「待て。もう少しで完成する」

 

先輩たちは今日も仲良く恋の研究である。氷室先輩はスパゲッティサラダを食べながら、雪村先輩は大豆バーを齧りながらだ。

 

 

「休憩する?」

「ああ、そうする。」

 

大きく背伸びをして、俺たちも個人デスクから一度席を立った。

 

共用の冷蔵庫に溜めている残り物を電子レンジに次々と放り込んでいく。こういうとき、飲食店のバイトをしていると楽ができる。いくつか減っているのは、いつも通り酒のおつまみ代わりに先輩が食べたからだろう。

 

 

「今日もありがとね。それじゃあ、いただきます」

「ああ。いただきます」

 

俺が手渡した包みを開けると、奏さんは幸せそうにサンドイッチをモグモグし始めた。ご飯より、彼女はパン好きである。こうやって美味しく食べてくれる姿を見るのが、最近の楽しみだ。バイト先に食パンを持ち込んで作った甲斐がある。

 

てか、3年間課題レポートにおいて、どれほどお世話していただいたか計り知れない。無事に進級できたのは、彼女のおかげだ。

 

「ん~」

 

この1カ月でいつの間にか、彼女は研究室メンバーに市販のお菓子やパンを提供し、俺はご飯やおかず類を冷凍および冷蔵することが頻繁にある。酒類に関しては、熟睡中の先輩が買い出しついでに奢ってくれるのだが、彼女本人とB4男子用だ。

 

大豆バーばかり食べる雪村先輩はあまり冷蔵庫は使わないし、氷室先輩もOLみたいな食事量である。次々とおかずを口に含んでいく俺は、かなり燃費が悪い。

 

 

「できたぞ」

「……2人ともどう思う?」

 

恥ずかしそうに雪村先輩から目を逸らした氷室先輩が、俺たちに話しかけてくる。まあ、聴き耳を立てていたから、驚くことはない。

 

さて。顎クイ、壁ドン、そして密着、いわゆる有名どころはすべて実験で行ったということか。まずはそこを尊敬する。

 

縦軸が氷室先輩の心拍数、横軸が経過時間を示している。オプションとして、縦軸には平常時の心拍数、横軸にはどのタイミングでどの『イチャイチャ』をしたか、正確に記されている。視覚的にかなりわかりやすいグラフだ。

 

「あの、芋けんぴって何ですか?」

 

奏さんが唯一、理解できなかった『イチャイチャ』項目に注目する。そこだけは心拍数の値が少し下がっている。

 

「ソースはネットのものだ。芋けんぴがなかったから、実行には移せなかったがな」

 

眼鏡をクイっとさせて、雪村先輩が答えてくれる。そんな真面目に語られてもな。

 

「とある少女漫画で、経緯はともかく芋けんぴが髪に付く描写があって……まあ、桜の花びらが女子の髪に付いているのを取ってあげるって行動と似ていますね」

「博識ね、月村君」

「なるほど。花弁で代替が可能だったか」

 

雑学にすら含まれないと思う。てか、どこのサイトに芋けんぴが代表例で出てたんだ。

 

「あと、平常時よりも大きく下がっているところはなんです?」

 

かなりの一定値、それも長時間だ。奏さんと同じように、俺もそこが気になる。

 

「気にしないで、不測の事態よ」

 

先輩2人して顔を赤くしているので、密着状態のままスヤスヤしたと仮定する。M2先輩の面影を無意識に見て、二次元キャラを愛しているあいつに至っては、もはや抱き枕がないと眠れないらしいし。

 

 

「でもでも!氷室先輩がドキドキしているのは間違いないんですねっ!」

 

目をキラキラさせながら、奏さんが感嘆の声をあげる。恋バナが好きな女子は多いと思う。そういう統計データは見たことはないけれど。

 

 

まあ、これで証明できたし、祝杯をだな。

 

 

「その結論に達するはまだ早い」

「そうね」

 

その発言に俺たちは、こてっと首を傾げた。

さながらミミッキュのように。

 

「あくまでこれは1度のデータに過ぎない。外的条件によって心拍数が変わったことも可能性としてありうる」

「私としても、たまたまドキドキしただけかもしれないわ」

「帰無仮説だな」

「ええ。統計学的に5%以下にするには……」

 

((めんどくさっ! てか、帰無仮説ってなに!?))

 

「あくまで予想だが、50回ほど壁ドンしてデータを取ればいいだろう」

「ええ。実験を続けましょう」

 

((一生やっとれ、バカップル))

 

心拍数計の動作確認を始めた先輩たちを置いて、俺たちは再び英語の解読に戻った。

 

その後、氷室先輩の慣れによって、心拍数が低迷することにより、先輩たちが頭を抱えるのは自明である。

 

 

 

 

****

 

俺たちの所属する情報科学科の『池田研』は、世の中の様々な事象に対して、数理的な分析を行う。プログラミングを書いたり、PC上で計算させたり、まあ、後者に関してはパソコンのスペックとご相談なのだが。

 

プログラミングはともかく、統計学を得意としていない俺は苦戦する分野だ。だから、先輩に相談や質問をすることは多い。

 

 

「やっぱりFEは風花雪月が一番なんだよなぁ、嫁から借り受けたアイムール!」

「残念。先輩には勝てない。これは自明」

 

そう呟く頃には、敗北が決定した。

 

画面の向こうの剣士は、FE先輩剣士のカウンターで吹き飛んでいく。斧の初速度は小さいため、カウンターで容易に見切られることは知っている。それが定石であるからこそ、意表をつけたと思ったんだがな。

 

「参りました」

「まっ、トラスケよりは強いよ」

 

B4男子仲間の、キャプテン・ファルコン使いである。俺的には五分五分だと思っている。たとえ2人で挑んでも、この先輩には勝てない。

 

「プリンといい、先輩って強すぎませんかね。大会とか出ません?」

「こういうのは、ここでできるからいいの」

 

ふわぁ、と大きく欠伸をしているのは棘田先輩だ。この2文字で、イバラダと読む。この研究室で教授を除けば、最年長である。

 

M2なのに妖艶さとあどけなさを兼ね備えた容姿、ゆるふわな髪、少し低めの身長、いわゆるゴスロリファッション、ゲームやアニメに理解のある女性、件のトラスケの『タイプ』。

 

「おはようございます!……ってまた徹夜ですか?」

「おはよう」

「おは~」

 

そんな俺たちをほんのちょっと咎めるのは、お菓子の入ったビニール袋を持った奏さんである。ビールの空き缶を嫌な顔せず、テキパキと片付けてくれる。確か、弟や妹がいるんだっけか。

 

慌てて、俺も手伝うことはよくあることだ。

そして、棘田先輩はこれから仮眠を始める。

 

 

「いや、まあ、バイト終わりから、ここに来て少し研究テーマの話はしていたんだ」

 

2時間くらい話した後、モンハンを始めたけれど。

 

「もしかして、決まりそう?」

「ああ。量子系のこと」

 

まあ、1年上のM1先輩が『カオス理論を使ったタブー探索』なんてよくわからないものを早朝から議論しているので、自信を失くしてしまう。

 

「量子コンピュータを使った数値計算だ」

「それって、この彩玉大学でも……」

「ああ。わかってる」

 

俺のやろうとしていることも、彼や彼女たちの領域に近い。それでも、このテーマだけは時間をかけてやり遂げたい。

 

 

「そっちは?」

「私は最適化問題かなーって。」

「例えば、巡回セールスマン問題、か?」

 

名前だけは聞いたことがある。

かなり数学的な要素を含むはずだ。

 

 

「そうそう。なんだかパズルみたいじゃない?」

 

彼女は指を絡めて、何かを懐かしむような表情をする。

 

 

「ハノイの塔だったかなー、数学の先生がそういう話をよくしてくれてさ。」

 

少し頬を赤らめた彼女が、恋する乙女の姿なのだろう。

 

「数学を話すのに夢中なのがステキで、高橋先生に構ってほしくていっぱい勉強したなー」

 

リケジョになるきっかけということか。

それは、その人を好きにもなるよな。

 

今の俺ではその先生に敵わないし、課されたタイムリミットもある。院試関係の書類はまだ引き出しに入ったままだ。

 

 

「不思議だよね。好きな人と一緒にいるためなら何でも頑張れるだなんて」

 

笑顔でそう告げる。

 

俺は、一歩すら踏み出せてはいなかったのだろう。恋をその頃から経験している彼女は、何歩も先にいる。

 

 

「でさ、そのおかげで」

「なるほど。今の話をまとめると」

 

聞き耳を立てていた先輩が意気揚々とキーボードに『ベン図』を書き込んでいく。

 

「好きダッシュ奏ラヴ高橋、ということだな」

「オイイイ!勝手に定義付けないでくれます!?」

 

あくまで仮定だ。

失言とは言え、それは公開処刑である。

 

「奏!もっとデータが欲しい。過去、他に好きになった人はいるか?」

「そりゃあ。3人くらい、いますけども……」

 

彼女はあまり、嘘はつけない性格だ。

 

「4人分か。俺たちと合わせて、計5つのデータで構成要素を纏め上げ、その共通項こそが『好き』の一般条件ということだ。だからこそ、各構成要素が欲しい」

「で、でも……」

 

俺の方を奏さんがチラチラ見てくるのは、俺も恋バナをさらけ出せということか。これがリアルにおいては初恋で、当事者が目の前にいるんだけど。

 

 

「いい加減にしなさい」

 

ポンッと、氷室先輩のチョップが入る。やった本人もやられた本人も、顔を赤くした。そういうスキンシップをできることが羨ましい。

 

 

「くっ、だがこれは氷室の恋心をはっきりさせるためだ。何の犠牲も払わずに得られる成果などない!」

「っ!?」

 

両手で口を隠しながら、顔はさらに真っ赤になる。そんなカッコいいこと言われる時に、心拍数を計ればいいのに。

 

 

((人って、本当に湯気が出るんだ。てか、なんで髪が揺れるの。))

 

 

「おいっ、熱でもあるのか。この症状は急性の発熱なのだろうが、一体何の病気なんだ。くそっ、医学についてもっと学んでおくべきだったか」

 

冷静さを欠いた雪村先輩も珍しい。とりあえず、このイチャイチャが収束するまで、自分のパソコンと向き合うことにする。

 

 

 

「この場合、救急車が必要か!?」

「「いらないです」」

「その根拠は、確証はあるのか!」

 

 

 



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理系が恋に落ちた気がするけど、まるで猫のようだった。

柔道や剣道、そういった武道を体育の授業で経験したことがある人は多いのではないか。しかし、履修すれば、常日頃から技を使えるわけではない。警察学校においても、卒業までに初段を取得するかどうからしい。

 

 

扉を開けた瞬間だった。

 

目に入ったのは、プロの女性柔道家が高身長の男を、あざやかに投げ飛ばしていた光景である。頭をぶつけないように受け身を取れたのは、先輩の火事場力と体育の賜物だろう。

 

技をかけてしまった彼女は、とても慌てた様子である。

 

 

「雪村先輩、ごめんなさい~」

 

大の字で研究室の床に寝転んでいるのは、運動音痴の雪村先輩である。

 

「つ、捕まえてくれて、ありがとう……?」

 

氷室先輩は口元をヒクヒクさせている。雪村先輩が、心拍数測定から逃げようとしたというところか。

 

 

「あー、そのー」

 

この状況をどう収束すべきか、そう思っている俺を、涙目の奏さんは見つめてくる。

 

 

「いやあああ、またやっちゃったぁ!?」

 

俺はまだ、池田研メンバーについて知らないことが多いということだ。奏さんの怯えた表情からは、嫌われることを恐怖していることが読み取れる。

 

「高校のとき、柔道部?」

「……うん、そんなところ」

 

落ち込んだ様子で、ちょっとだけうなずく。

 

「とりあえず、先輩が起きたら謝ろうか」

 

たぶん、俺たちは過去を引きずっているままなのだろう。棘田先輩もトラスケも何かを隠している。雪村先輩や氷室先輩が、本当につよくてまぶしい。

 

 

 

****

 

まず雪村先輩は、冷静さを欠いていたことを反省した。氷室先輩関係になると感情的になるからな。恥ずかしいからって、思春期男子みたいに逃げ出したようだ。

 

奏さんが誠心誠意の謝罪もきちんと受け取った。ちゃんと謝ることのできる人には、先輩は寛容だからな。

 

 

ともかく。朝からトラブルが生じたが、先輩たちはいつも通り恋の研究を始めた。奏さんもお詫びにと、今日一日は先輩たちの恋愛成就のために一肌脱ぐつもりだ。

 

 

「男性をドキドキさせる方法ですか?」

「こういうとき、トラスケのやつがいればいいんですけどね」

 

今回は雪村先輩の心拍数の時間変化を見る。俺もそれなりにサブカルに詳しいとはいえ、彼ほどではない。あいつは毎日パソコンの画面を見ながら、様々なドキドキを味わっている。

 

「とりあえず、スキンシップからやってみましょうよ。氷室先輩なら、どんな堅物であろうとイチコロです」

「ありがとう、と言うべきなのかしら。」

「誰が堅物だ。理系なら柔軟な思考を持ってこそだ」

 

そんなことを言う先輩も、すぐ陥落すると思う。

 

2つの椅子を並べて、恋人繋ぎを始めたがすぐに雪村先輩の頬に汗が流れ始める。頬を赤らめている氷室先輩的には、あまり動揺しない彼がおもしろくないらしい。

 

 

「もっと近づいた方がいいのかしら」

 

黒タイツの足を絡め、体を寄せる。前回とは真逆で、研究者思考になっている氷室先輩は意気揚々と実験を続けている。

 

 

「なんか面白いことやってるね」

 

ソファで寝ていた棘田先輩がのそのそと動き始める。

 

「あっ、起きたんですね」

「なんか目が覚めた。地震でも起きたの?」

 

奏さんが目を逸らした。

さっきのトラブルのせいか。

 

「まっ、いいか。で、どんな感じ?」

「まだ、データを取り始めた段階ですが」

 

プロジェクターの電源を入れれば、グラフが表示される。氷室先輩の時と同等か、それ以上の数値であることは一目瞭然だ。氷室先輩は勝ち誇った笑みを浮かべる。

 

 

これにて両想いが証明され、今日はパーティーだな。

 

 

 

「ふーん、これさ。対照実験した?」

 

棘田先輩が呟くように告げる。

 

椅子に座った俺の頭で両腕を支えながらだ。あまいかおりが、嗅覚を刺激する。なるほど、女性とのスキンシップならば、男子はすぐに心拍数が上がるな。

 

「あのー、今回の場合はどのように? てか、月村君が重そうですよ?」

「ん、ごめん」

 

食事量が足りてるのかと思うくらい軽かった。てか、男子にとってはご褒美です。

 

「要はね。第三者Cに対して、Aはドキドキするのかを調べなきゃってわけ」

 

『AはBに対して、ドキドキしている』という命題の真か偽かを、今回は心拍数を根拠に調べている。平常時の心拍数については、B及びCがいない状態だ。

 

「これがネガティブ・コントロールって言われてる」

 

ホワイトボードに書き込みながら、冷静に説明してくれる。棘田先輩の説明は、簡潔でわかりやすい。トラスケのやつは、よく彼女にお世話していただいたのだろう。

 

 

「で、誰がCになるかなんだけど……」

 

こういうとき、譲り合いもとい押し付け合いが起きる場合は多い。そして、言い出しっぺの法則というものもある。

 

「つまりね。この男が氷室にドキドキしているのか」

 

棘田先輩は妖艶な笑みを浮かべながら、手袋を身につけた手で、雪村先輩の頬に触れた。

 

「それとも女なら見境なく興奮してしまう、思春期男子なのか」

 

か細い腕で、華奢な身体、そしてあとげなさの残る美女である。思春期をこじらせた男の1人として、先輩もこの女性を突き飛ばすことなどできない。

 

「さあ、私たちの実験を始めましょう?」

「き、きさまァ!」

 

スキンシップが、開始された。

 

棘田先輩は、どこのゲームでそんなテクニックを学んだのだ。彼女は、男の弱みなんていつでも握ることができるのだ。先輩の目が泳ぐことは、心拍数の増加を明示している。

 

これ以上続けると、雪村先輩の尊厳に関わってしまう。協力者の身であるが、実験を中止するべきだと提言するかどうか。

 

「ん、これ以上やると、氷室に嫌われそう」

 

冷静な顔のまま、棘田先輩が雪村先輩から離れる。荒い呼吸で、彼女を弱々しく睨んでいる先輩は拷問された後のようだ。

 

 

「じゃ。次は月村、行ってみようか」

 

((なんでそうなるのぉ!?))

 

「月村君って、男子ですよ!?」

「データは多い方がいいんだよ、奏」

 

まあ、一理ある。

 

「もし雪村が月村にドキドキしたら、まあ、そういうことだよね」

 

それだとボーイズラブのタグをつけないと、まずいですよ。俺個人としてはそういう話題については、否定も肯定もしないけれど。

 

 

「月村君、お願いできる?」

 

心配事を解消すべく、氷室先輩に懇願される。

 

 

「……わかりました」

 

俺は、ごくりと息を飲んだ。

 

(月村君、ホントにやるんだ!?)

 

 

 

てか、対照実験って、さっきのを再現した方がいいのか?

 

 

 

****

 

 

まあ、結果的に先輩は、一般的な思春期男子の傾向があった。『対月村』のデータは、心拍数が伸び悩んでいる。てか、序盤で突き飛ばされた。

 

 

問題なのは、ちょっとだけ頭をナデナデした『対奏』の場合ですら、心拍数が高い。対照実験として正しくはないのだが、これは氷室先輩を大いに動揺させるデータである。

 

 

「まっ、心拍数も恋のせいとは限らないってこと。じゃあどうやって両想いを実証するのか。」

 

大きくあくびをしながら、棘田先輩はソファに横になった。彼女の身長ならば、十分に収まる。枕と毛布が用意されていて、彼女の寝床だ。

 

「頑張んなさい」

 

それだけ告げて、すやすやと寝息をたて始める。また自由きままに起きて、気分次第で研究かゲームをするのだろう。まるで猫である。

 

 

「女なら、誰でもいいのね」

「くっ、待ってろ。この前作ったリストがある!」

 

先日のベン図のために作ったものだ。徹夜をしてまで作っていたし、氷室先輩と共同で行う恋の研究に、雪村先輩は本気で挑んでいるのだろう。

 

今日も先輩たちのイチャイチャをBGMに、俺たちは論文読解をすることになる。まあ、懐いている先輩たちだから、悪い気分ではない。

 

 

 

「ねぇ」

 

白衣の裾をちょこんと掴んで、引き留められた。少しでも傷つけないように、少しでも力を入れないように、そんな優しさが感じ取れる。

 

「武道が得意な女の子って、きらい?」

 

ずるい聞き方だが、真意はわかる。武道が得意な女の子全員を、俺は好きになるわけじゃない。たとえ一般的な思春期男子が、不特定多数の女の子とのスキンシップにドキドキしてしまうとしても。

 

たぶん、それは本物じゃない。

今この瞬間は、はぐらかしたくない。

 

 

「どう?」

「好きか嫌いかなんて、その点については根拠にならない。だが。」

 

雪村先輩を真似て、白衣のポケットに手をそれぞれ入れる。そうすれば、勇気が出る気がする。揺らぐことはない、持論を提示するべきタイミングだ。

 

 

「俺の知っている該当者は、たぶん。自分の身を守るだけじゃなくて。何かあれば誰かを助けるんだと思う」

 

がんばりやで、やさしいこの女性だからこそ。

 

「だから、俺的にはきらいじゃない。その該当者を心配するくらいだろう」

 

 

白衣を翻して、その女性は振り向いた。

 

「そっか」

 

背中を見せながら研究室から出ていった彼女の表情については、シュレディンガーの猫である。



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理系が恋に落ちたらしいですが、愛情を味わってみました!

研究棟の各階には共用休憩室があります。

 

机と椅子が用意されていて、ここで鍋パだってできそう。キッチンも備えられていて、自炊だってできちゃいます。

 

学内食堂、パン販売、コンビニ、カフェなど、みんなはそっちで食べているため、あまり使われていません。私もいつもはそうなんですけど。

 

 

「ご飯は炊けた?」

「ばっちりです!」

 

水玉模様のエプロンは、氷室先輩に似合っている。髪も綺麗だし、スタイル抜群。たった1年の差なのに、大人って感じだなぁ。

 

私もリケクマがプリントされたエプロンを身につける。中学生の頃に使ってたやつだけど、サイズは大丈夫そう。手をしっかり洗った後、炊きたてのご飯を一度軽くほぐしておく。

 

「家では簡単な料理をするくらいだけど、足手纏いにならないかしら」

 

1人暮らしだと、気分次第で自炊するかどうか決めることが多そう。大学の周りは飲食店も多いし、このキッチンが使われない理由なのかな。

 

「私も家ではお手伝いするくらいです。月村君ほどじゃありませんよ」

 

特に和食について、バイト先の食堂から学んでくる。それで、ここで実践することがよくあって、私たちにもよく食べさせてくれる。

 

「彼って、週に4回の頻度でアルバイトに行っているけれど、以前からなの?」

「みたいです。特にお金に困っているわけでもないと思いますけど」

 

帰ってきたら聞いてみようかな。

おっと。そろそろ始めないと。

 

丁寧に使われている共用の調理道具から、まずは2つボウルを選ぶ。無意識に溶き玉子を作れるようになったのは、何度もやってきたからだろう。

 

「今日は教えてもらう側になりそうね」

「いえいえ。私でよければ、いつでも」

 

片方のボウルの溶き卵にしょうゆをちょっと入れて、私たちは一度手を止める。

 

「確認するわね」

「はいっ!」

 

料理なんて化学実験と同じだーって雪村先輩が言い出したことが発端です。料理は愛情が大切だと意見した氷室先輩に対して、雪村先輩が非科学的だと言いました。

 

そんな先輩を私たちで見返してやろうということです。先輩本人は、多項式時間帰着の研究が滞っているため、そちらを頑張っています。

 

「私の定義では、愛情には2種類あるわ。まずは実在性愛情」

「相手のことを考えて、味つけを変えることですね!」

 

正解のようでにっこりと微笑んでくれる。

  

 

「そして、今回実証すべきは、精神性愛情ね」

 

味は変えないままで、精神的な影響によって美味しい料理を作ること。先日行った対照実験のように、AとBの料理を愛情の違いで作る。

 

 

頷き合って、卵焼き機を熱し始める。

 

「奏ちゃんは愛情で料理がおいしくなると思う?」

「私は……」

 

高校の時は、高橋先生のためにお弁当作ったっけ。

 

「なると思いますよ。頑張った気持ちは伝わるはずです」

 

月村君って、棘田先輩にいろいろ改善点を指摘されても、ちゃんとメモしてたなぁって。あと、彼が作るサンドイッチと比べると、最近なんだか市販のはちょっと物足りなかったり。

 

うまくやってるかな。

 

 

「先輩、少しずつ溶き卵を入れてくださいね」

「わかったわ」

 

丁寧に教えると、先輩はスポンジのように知識を吸収していく。真剣な目で、初めて作る卵焼きを形成していった。

 

「お見事です!」

 

ほっとしているようだ。この段階でも、すでにかなり愛情が入ってる気がするなぁ。

 

ウインナーも丁寧に焼き上げている。

 

「どんな風に愛情こめるんですか?」

「そうね……雪村君ね。研究に熱中するとすぐ食事忘れるし、いつも時間がもったいないからって大豆バーばっかり」

 

雪村先輩のことをちゃんと考えてる。私より少ない食事量だからなぁ。

 

「栄養がたくさんあるものを作ってあげて。それで元気でいてくれるといいわね」

「素敵です、先輩」

いいお嫁さんになりそう。

 

 

「あの、それは?」

「これは、ビタミンの液体サプリよ」

 

実験ノートと薬品ビンを鞄から取り出して、メスシリンダーで正確に測っている。

 

「水溶性食物繊維、植物性ケイ素濃縮液、この3つは奏ちゃんも覚えていて損はないわ」

 

これが先輩の、実在性愛情!?

てか、醤油とかなし!?

 

「私に任せておいて。奏ちゃんから教えてもらった通りにやるから」

 

なんだか溶き卵がちょっと水っぽいというか……

 

 

 

****

 

AとBのお皿が、雪村先輩の前に並べられた。ウィンナーと卵焼きというシンプルな組み合わせ。だが、Bの方は上手く作れたとは言いがたい。

 

焦げてはいないものの、形が崩れている。

作り直そうにも材料がなかった。

 

「見た目に違いがあるようだが、わざとか?」

 

そう呟きながら、先輩が箸でAの皿から卵焼きを口に入れる。ゆっくりと噛みながら、自分自身の味覚によってその味を確認している。

 

何も喋らず、Bの皿から卵焼きを口に入れた。

 

「……?」

 

一度、噛むことを中断した。

 

「どう?」

 

氷室先輩は、少し落ち込んだ様子だ。私はこの光景を見守るしかない。

 

「あの、先輩。どっちが美味しかったですか?」

 

「Bだ。実在性愛情など、余計なお世話だ」

 

氷室先輩は思わず、口を両手で抑える。私もびっくりしている。

 

「たしかに、大豆バーでは摂取できない栄養素もある」

 

普通の卵焼きより、不思議な味だったはず。何も知らない人なら、しょうゆでシンプルに作られたAを選ぶ。たぶん、雪村先輩だからこそ、氷室先輩の愛情を感じ取れたんだと思う。

 

一度席を立った雪村先輩が、自分のデスクにあるタッパーを持ってきた。

 

「レシピ通り、正確に作った料理だ。……俺はあまり料理が得意ではないのでな」

 

『シラスとほうれん草のスクランブルエッグ』をレシピ頼りに作ってくれたんだ。先輩いわく、脳にいいらしい。雪村先輩の不器用な愛情がこもった料理はとても美味しい。

 

好きな人が作ってくれた料理を幸せそうに食べる先輩たちを見て、私もなんだか嬉しくなりました。

 

 

今は昼休みだけど、月村君もちゃんと食べてるかな。

 

 

 

 

****

 

彼の机の上には、俺にとって難しい数学の本がたくさんある。パズルみたいだと言われたならば、確かにそう思える。

 

 

「お昼にすみません。高橋先生、お聞きしたいことが。」

「君は、たしか理科の……」

 

手作り弁当を食べる手が止まった。

 

「奏言葉という女子生徒を覚えていますか?」

 



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理系が恋に落ちたらしいけど、初志貫徹するみたいです!

先輩方の恋の研究は今日も続きます。

 

その目的は『好き』の一般条件を見つけ、自分たちの好きが『好き』に含まれるかを調べるということ。実験方法として、心拍数の変化を測定してきました。

 

でもこの理系たちは、すぐに実験値に左右されてしまうんです。心拍数は恋愛による要因だけで上昇するものではありません。したがって、棘田先輩や私でさえ、緊張してしまった雪村先輩は『女性慣れ』(ただし、氷室先輩を除く)を行うことを宣言しました。

 

「あのー雪村先輩、辛いんだったらやめます?」

「心拍数の値は少しずつ平常時の値に近づいている。瞬く間に、指数関数的減少をするだろう」

 

私には、緩やかな一次関数にしか見えませんけど。

 

「雪村君、いつになったらそうなるのかしら?」

 

頬をぷくーっと膨らませて、腕組みをしている氷室先輩は、とにかくかわいい。私と雪村先輩はいわゆる恋人繋ぎをしたまま、5分間ほど経過している。私的にも結構恥ずかしいのだが、それよりも氷室先輩に申し訳ない気分でいっぱいだ。

 

「……一度、実験を中止しよう」

 

手を放されると、しっとりとした手が空気に触れてひんやりする。協力するとは言ったけど、両想いカップルの彼氏の浮気現場に、私が立ち会ってるみたいなんだよなぁ……

 

だからといって、他の女子に頼むわけにもいかないし。

 

 

「うぃーす!」

 

先輩でも月村君でもない男性の声がした。

 

「おはよー、虎輔君」

 

ゴールデンウイーク前から久しぶりに研究室に来たんだけど、まるで変わっていない。ラフな格好で金髪、いわゆる不良っぽい見た目なんだけど、なんだかんだいいやつな同級生。

 

タバコじゃなくて、チュッパチャップスを口に咥えているし。

 

「暫く振りね。サッカーのサークルに行っていたのかしら?」

「いやいや、もう引退してますよ。まっ、ちょっとイベントのための準備にね」

 

研究室にコアタイムがあるわけではないから、氷室先輩も咎めることはない。先週のMTくらいは参加してほしかったのは本音だけどね。

 

「トラスケのことだから、バイトとゲームで忙しかったんでしょ」

「棘田ァ!どこに隠れてたァ!!」

 

目をこすりながら毛布を羽織っている棘田先輩は今日もいつも通りです。虎輔君のクールさはたちまち立ち消え、この研究室が一気に騒がしくなります。でも、見た目は不良でも、暴力は絶対しないから、安心して放っておける。

 

なんでも、2人は幼馴染だとか。

 

「ちょうどいい、犬飼」

「なんっすか、雪村先輩?」

 

ホワイトボードを見つめ続けて、何かを思案していた雪村先輩が声をかけた。

 

「お前に好きなやつはいるか。過去の恋愛遍歴を全て教えてもらいたい」

 

デリカシーの欠片もないっ!?

実は、男子同士だと気軽に聞いてるのかな?

 

「愚門っすね。オレぁ愛に生きる男っすよ」

 

確かにクールなんだけど、ドラマ以外でそんな台詞を言ってる人見るのは初めてだなぁ。

 

「ほう。では、まずは1人教えてもらおう」

「名前は、藍香……遠い世界にいる恋人っすよ」

 

なんだか感傷的になってるんだけど、なにか訳アリ?

 

「遠距離恋愛、というものかしら」

「なるほど。確かにそういう場合、あまり続かないってよく言いますよね。」

 

大学生同士で恋愛をするとなると、躊躇いがちになる理由の1つだと思う。卒業したら、別々の県に就職することだってある。まあ、氷室先輩や雪村先輩は進学するだろうけど。

 

「なるほど。犬飼ラヴアイカ、ということか」

 

また定義式出たぁ!? てか、私のやつもちゃっかり入っているし!

 

「次はこの構成要素だ。お前がそのアイカとやらを『好き』だと判定した根拠はなんだ」

「根拠っすか?」

 

少し思案しているけど、自信に満ちあふれた顔だ。雪村先輩よりずっと余裕を持って恋愛をしているらしい。氷室先輩も真剣に彼の話を聞こうとしている。

 

ところで、棘田先輩は虎輔君のパソコンで何のゲームをしているんだろう。……あー『藍香』って、いつもやってるギャルゲーのキャラクターだったんだ。

 

「ただ隣にいるだけで楽しくて。鼓動が高くなって。こういうのが、幸せってやつなんすかね」

 

しみじみと語る虎輔君の後ろで、棘田先輩が『藍香』と恋愛シミュレーションをしている。虎輔君の『好き』って特殊な場合なのでは。

 

「具体的な数値で表せるか?」

「ふっ、22万7千円って言えばどうっすか?」

 

高っ!?

 

「……ほう?」

「先月はちょっと藍香のために金を使いすぎましたかね。まっ、愛のためっすよ」

 

氷室先輩や雪村先輩が衝撃を受けている。お二人の頭の中では、今まで使ってあげた額と比較して、その倍率を計算しているのだろう。

 

「あとは、もう2年以上になるんすけど。藍香を抱き枕にして寝てますよ。最近はおはようのキスも、欠かさずにね」

 

いや、それはないわー

先輩たちは自分たちで当てはめて想像して、顔真っ赤。

 

「トラスケ、途中のデータはクリアしておいたよ?」

「い、棘田ァ!? よよよ、よくも俺の第二観賞用ゲームを!!」

 

恥ずかしそうに、虎輔君がキョロキョロしている。いや、まあ、抱き枕はさすがに引いたけどさ。

 

「俺の秘密がバレちまったァ!?」

「隠してるつもりあったの!?」

 

虎輔君が来る昼の時間なんて、基本的にメンバー全員が揃っている。

 

「だが、オタク趣味など珍しくはないだろう?」

 

先輩も定義オタクですからね。棘田先輩も理解してくれるだろうし。

 

「でも、気持ち悪いって言われることいっぱいあったんすよ。サッカー部のやつらとか特にそうでした」

 

彼は両膝をついた。『藍香』を否定されることが、たぶん彼にとって一番辛いことなんだと思う。心のどこかで理解していることを、認めてしまうから。

 

「……気持ち悪い、だと?」

 

先輩が膝をついている虎輔君の腕を引っ張り上げて、立たせた。慌てて止めようとしたら、棘田先輩の腕が私の前に伸びる。

 

「恋愛対象は人間でなければならない、といった定義は存在しない。そもそも、人の性的志向など多岐に渡る。異性愛、同性愛、多性愛、動物性愛、対物性愛」

 

先輩は自分のデスクに歩きながら、語った。

 

「俺はこの実験のために。恋とはなにか、愛とはなにか、そういった論文をかき集めた。2010年の動物性愛の事例、1979年の対物性愛の事例」

 

ちょっとそれ、英語なんで、なに書いてるかわかるのに時間がかかります。

 

「さて。ゲームやアニメのキャラクターに、なぜ人は惹かれるのか。それは魅力的な要素を組み合わせた『理想的な偶像』だからだ。世界に実在する『理想的な人間』である場合が、アイドルなのだ」

 

したがって、と言葉を紡いだ。

「貴様が『理想的な偶像』に対して、惹かれ、興奮し、そして近づきたいと思うことは、現実的に起こりうる。」

 

論理的に、肯定した。

なんかすごい。

 

「まっ、トラスケにわかるように、簡単に言うとさ」

 

棘田先輩が虎輔君の頭をよしよしと撫でながら、口を開いた。

 

「藍香に恋している気持ちは、本物だと思うでしょ?」

「へっ、お前に言われるまでもねぇよ!」

 

完全に立ち上がった彼は、引き出しからゲームソフトのパッケージを取り出した。

 

「あざっす。胸のつかえがとれたみてぇだ。オレは今まで通り、愛に生きる!」

 

思わず、少し拍手してしまった。

自分の意志を貫き通せるってすごいと思う。

 

「虎輔君、あなたの愛は見事だわ。そんなあなたにお願いがあるの」

「愛に生きる男に何か用っすか、氷室先輩?」

 

恋愛経験?なら、虎輔君が一番みたいです。

 

「雪村君の女性慣れを手伝ってほしいの」

「ふっ、お安い御用っす!」

 

 

 

****

 

2週間の教育実習は思ったよりあっという間だった。彩玉駅に着いた頃にはもうお昼過ぎだ。お土産もあるから、研究室に一度寄って行こうと考えた。

 

今日も先輩たちは恋の研究を続けているのだろうか、そう思いながら扉を開けた。

 

 

「雪村君、もう少し運動のパラメータを上げるべきだと思わない?」

「いや。彩玉大学に確実に合格するには、理系のパラメータが低すぎる」

 

PSPVitaを覗き込んでいるカップルがいた。

邪魔しちゃ悪いな。

 

「おっす、伊月。」

「トラスケ、久しぶり。」

「1ヶ月ぶりの出勤ってとこか。スーツ決まってんな!」

「教育実習に行くって、最初のMTで言っただろうに。」

 

ソファで熟睡中の棘田先輩、個人に貸し与えられたPCでギャルゲーをするトラスケ、そしてお菓子を幸せそうにもぐもぐしている奏さん。

 

いつも通りだ。

 

「奏さんも、2週間ぶり」

 

食べる手が止まっているが、どうしたんだ。

 

「そうそう。ときメモ借りたぜ」

「ああ。最近、switchしか使ってないから別にいいけどな」

「棘田のやつが、雪村先輩にはリケコイはまだ早いって言うもんでさ」

 

まあ、恋愛ゲーム初心者には早いな。

 

 

「その、どうだった?」

「意外と無難に終わったな」

 

偶然にも、奏さんの母校だった。

 

「高橋先生も元気そうだった」

「……そっか」

 

ほんと。どこで彼女の青春ラブコメは、ルート分岐したんだろうね。

 



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理系が恋に落ちた時に、お悩み相談した。

デート、それは日時や場所を定めて異性と会うことである。逢い引きとも言う。

 

つまり、辞書的意味によれば、事前に異性と会う約束をしている場合、異性とのお出かけはデートであるということだ。

 

「3人にこれからデートとは何かについて話してもらう。このことに関しては、俺たちは戦力にならない」

 

クイッと眼鏡を上げて、はっきりと弱さを見せた。これから、改善する努力をするのだろう。

 

雪村先輩たちは、日時や場所を定めるという点において、理系として吟味すべきだと考えた。入念な準備こそが、デートの成功か失敗かを決める要因になりうると。

 

ときメモをやっても、あまり先輩たちには効果がなかったらしい。何よりも議論していた点が、ゲームシステムについてだったからな。

 

「まずは奏。高橋という男とはデートしたことはあるのか?」

 

デリカシーねぇな、みたいな顔をしている。

 

「そりゃあ、まあ、高橋先生と二人きりで出かけたこともありますよ。でも、デートって言うべきなのか。今思えば、そのときは思い上がっていたっていうか……」

 

どんどん奏さんの表情が暗くなっていく。その時は、恋する乙女状態だったのだろう。

 

「奏ちゃん、大丈夫……?」

「すみません。ちょっと黒歴史を思い出してしまって」

 

まあ、高橋先生的には、自分の生徒と課外学習をしたような感じだろうな。

 

 

「デートのことなら、俺に任せときな!」

 

かっこつけながら、そう発言した。最近は研究室によく来るトラスケが自分のデスクに向かって、ゲームのセーブデータNo.18を読み込んだ。

 

『デートと言えば遊園地に決まってるでしょ!行くわよ、虎輔!』

「ふっ。わかってるさ、藍香」

 

藍香が画面の向こうの遊園地にいる。そして、トラスケの魂はすでにゲームの中だ。最初に向かうアトラクションは、トラスケの選択に委ねられた。

 

ここで、ルート分岐である。

 

「私、観覧車がいい!行くわよ、トラスケ!」

「ははっ、最初からクライマックスってわけか。観覧車に行こうか、藍香」

 

棘田先輩、声真似が上手いな。

てか、その選択肢が一覧にない。

 

「って、棘田ァ!?」

 

棘田先輩は追撃をかける。その細い両腕で、トラスケの腕を抱え込んだ。無意識に先輩の面影を見て藍香を愛している、そんなトラスケには効果は抜群だ。

 

ちなみに棘田先輩がトラスケをどう想っているかは、そう簡単に教えてくれない。まあ、嫌いでも無関心でもないだろう。

 

「ねぇ、もしかしてトラスケは私とのデートは楽しくないの?」

「そそそそそんなことねぇから!」

 

潤んだ瞳で訴えかける、そんな演技をする。相変わらず、幼なじみの純心を弄ぶのがお好きなようで。

 

 

「なるほど。男女二人きりで出かけること、デートの定番は遊園地に行くこと」

 

どんな情報であっても有益になる可能性はある。恋の実験ノートNo.2に雪村先輩がしっかり書き込んでいる。1冊目はすでに使い終わったらしい。

 

「月村、次だ」

「わかりました。まあ、俺の場合だと、客観的にデートと呼べるかはわかりませんが」

 

俺たちが所属する工学部には女子の数が決して多くはない。リケジョが増えてきたとはいっても、それは化学や生物分野で顕著である。

 

「とある女子がちょっとした悩みを抱えたことがあって」

 

同期だと、たった3人だ。必然的にその3人はよく行動することが多かった。

 

しかし授業によっては、工学部生が分割される時がある。例えば、実験の授業が当てはまる。その女子が遠慮したことで、周囲の男子も異性を相手に遠慮したのだろう。円滑に実験が終わらず、放課後まで延長した。

 

「相談っていうより、カフェで愚痴を聞いたっていうか。まあ、それだけでしたね」

 

自分のせいで迷惑をかけたと言っていた。その女子はみんなに優しい。自分には厳しいのに。

 

少し奏さんが赤くなっているのは、匿名とはいえ、すでに克服したことを話されているからだろう。後で謝っておかないと。

 

「ともかく俺的に、2人で同じ時間を過ごせれば、それがデートだと思います。いつも訪れる場所でも2人でなら新しい発見があったり、普段は気づかないその人の良さがわかったり」

 

それでまた、その人を好きになるのだろう。誰かに迷惑をかけないように、自分の弱さを見せないようにしている人って、案外強情で、気づかないところで苦しんでいる。

 

 

「……遊園地、か」

 

そう呟いた雪村先輩がホワイトボードに文字を書き始めた。デートの具体的行動の目的地として、遊園地を書き込んだ。

 

いまだ、そこに数式はない。

 

「遊園地についての知識はあれど、行ったことはない。なぜなら、行く必要性を感じなかったからだ」

 

自分のパソコンを操作して最寄りの遊園地の地図を、プロジェクターでもう1つのホワイトボードへ映した。

 

「だが、氷室。お前とならデートをしにここへ行きたい」

「ええ。私も同じ気持ち」

 

先輩たちにとって、遊園地は未知の世界らしい。

 

 

「では、始めようか」

「ええ」

 

遊園地野公式サイトを見ながら、どのアトラクションに行くかを2人で相談するのだろう。当日のことを考えながら、ドキドキでワクワクするのだ。

 

もしかすると、すでにここからデートが始まっているのかもしれない。初々しい先輩たちがドギマギしながらデートプランを考える、そんな光景が目の前で―――

 

 

「全ての目的地を効率的に巡回するための、最適なデートコースを構築しましょう」

「当日の時間は有限だ。少しでも多く、実験かつデートを行えるようにな」

 

((もっとワクワクドキドキしろよ!?))

 

入念な準備こそが、デートの成功か失敗かを決める要因になりうる。それをまだデートの定義だと考えているらしい。

 

出たとこ勝負もいいと思うんだけどなぁ。

 

 

「奏ちゃん、心の準備はいい?」

「まさか最適化問題ですか!?」

 

ホワイトボード上の地図に、各アトラクションごとに氷室先輩がマーカーでポイントを付けていく。その数は、22点。

 

「た、例えばですね!」

 

まさに抜き打ちテストである。俺やトラスケでは知識量的に援護することはできず、棘田先輩はニヤニヤして様子を見ている。

 

「出入り口から一番近い点へ、そこからまた別の一番近い点へ」

 

赤いホワイトボードマーカーで、地図に点同士を結ぶ線がいくつか引かれていく。ここで問題になるのが、線が交差している部分である。

 

「交差している部分については、それぞれ繋ぎ直していくのですが、これを何度も繰り返すことで最適なコースを導き出します」

 

先輩たちが大きく頷いたことで、奏さんは大きく息を吐いた。

 

「ただその方法が最短ルートを出せるとは限らない!」

「22点ならばこのPCでも十分算出可能ね」

 

どうやら別解も存在するようだ。

 

棘田先輩も珍しく、昼の時間に自分のデスクに座った。奏さんですら3人のやっていることにポカーンとしているので、俺やトラスケには遠い領域である。

 

印刷機が動き始めたということは、先輩たちの算出が終わったということだ。まずは雪村先輩と氷室先輩が1325.06m

で同値だった。同期であるし、同じ論文の計算式を参考にしたのだろう。

 

「1299.46m~」

 

のびのびした声で棘田先輩が告げる。その差は25m以上と、かなりの違いだ。氷室先輩や雪村先輩は一目散にその手法を確認している。

 

そして、3人に必死に食らいつこうとしている奏さんがいる。ほんと、がんばりやだな。

 

 

 

「なぁ、なんか訳した論文ないか?」

 

ひそひそと俺に相談してきたトラスケも、少しずつ前に進み始めたということだ。俺たちは静かに自分のデスクへ戻った。



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理系が恋に落ちたんだが、かなり踏み込んだ。

5月24日土曜日、午前10:00:00

天気晴れ、気温24℃、湿度25%

 A,B両者がハチ助像前に到着

 

「氷室先輩、白衣だね」

「雪村先輩も白衣」

 

俺たちの『ちょっともやもやした回数』を増やしたい。他の『各気持ち』も、今回は先輩たちが自分でカウントして計測するけれど。

 

実験ノート(別冊)に情報を書き込んだ後、俺たちは頷き合った。実験を中断させるべく俺たちは、意気揚々と歩き始めた2人の前へ立ちふさがった。

 

「なにか問題があったのか。ここから3分15秒で与野商店街に行かねばならないのだが」

「服です」

 

先輩たちは自分の身だしなみを整えた後、これでどうだと言わんばかりの顔である。

 

「なんでデートに白衣なんですか!?服を買ってきてください!もちろん、私服ですからね!」

 

奏さんの指摘を受けて、先輩たちは資料をぱらぱらとめくった。

 

「適切なアドバイス、感謝する。実験内容2.2.1『服などを選んでいる時、女性が男性にどっちがいいと思う?と尋ねる』を優先して行うとしよう」

 

((そうだけど、そうじゃないんだよなぁ))

 

「いけない。2分15秒の遅れだわ」

「実験にトラブルはつきものだ。ショッピングデートの時間、37分28秒間を短縮すればいい」

 

先輩たちが少し足早に歩いていく。俺たちは溜め息をついて、2人の後を追いかけた。

 

10:10ショッピングモール到着、実験2.2.1を行うために服飾店へ向かう。

 

 

 

****

 

俺が研究室に来ると、電気がついていなかった。休日だって、雪村先輩たちは基本的にいるはずだ。

 

「おっと、今日がデートだったか」

 

恋の研究を名目にして、デートへ行っているはずだ。しかし、俺なんかがギャルゲーの知識を語って『天才』たちに称賛されるなんて、人生わからんものだ。

 

自分のデスクにリラックスして座りながら思う、この研究室の居心地は悪くねぇと。

 

 

記録係として、伊月や奏も行っているんだろう。そうだとしても、土曜日に研究室に来れるかどうか伊月に聞かれたのは、なぜだ。

 

 

「まっ、ちょっと休んだら帰って寝ようかねぇ」

 

「ふわぁー、おはー」

 

なるほど、このためか。

 

ソファを根城にしている、棘田が目覚めた。寝起きでいつもよりふわふわした棘田を見ると、ドキッとしてしまう。口は悪いが、こいつはとんでもない美少女だからな。

 

「月村……氷室たちもいないのか」

 

こいつが起きた時には信頼できる誰かがいる、そんな状況が続いていた。だから、こいつはここで眠ることが多いのだと、俺にもわかる。

 

 

「でも、トラスケいるじゃん」

「俺で悪かったなぁ?」

 

やはり、俺の幼なじみは口が悪い。その辺の女子ならビビる低い声も、全く動じない。

 

「ゲーム、しよ」

 

俺が言うのもなんだが、自由きまますぎるだろう。机の上のお菓子に手を伸ばしている棘田を見て、俺は頭をかいた。

 

ご飯をちゃんと食べないから、そんなにチビなんだ。昔からな。

 

 

 

****

 

11:38:22 ランチデート開始

計画通り

 

 

「私たちも何か食べておく?」

「そうだな。メニュー見てていいぞ」

 

わざわざファミレスの席を隣にしてもらい、先輩たちのデートを観察する。心拍数といったバイタルデータの時間的推移について、各行動がどの時間に起きたか確認することは、記録係に懸かっている。

 

だから、可能な限り計画通りにデートをしているのだ。まあ、ガチ理系な先輩たちは自然に行っている。

 

「ハンバーグ、スパゲッティ、あー、パンケーキもいいなー」

 

食べることが好きな奏さんが、メニューを見ながら、うーうー唸っている。

 

そして、先輩たちは1つのメニューを顔を近づけ合って見ている。計画にはない自然な行動のため、しっかり時間とともにメモしておく。

 

 

「ねっ!月村君はなにがいいかな?」

 

目をキラキラさせながら聞いてきた。お腹が空いたこともあって、実験のことを忘れているようだ。

 

「メニューもう少し近づけてくれ」

「あっ、ごめんね」

 

まあ、時には休憩も大切だ。幸い、実験3.2の続きは注文した料理が届いてからだ。

 

 

実験のことを知らない人が見たら、俺たちの関係はどう見えるのだろうか。同級生、友達、同僚、そういった言葉がその解釈にあてはまらないのかもしれない。

 

 

 

****

 

アイテムなし、そして棘田はピカチュウじゃねぇ。そのハンデは舐められた気分だが、1度くらい勝たなきゃ男が廃るってものだ。

 

「はっ、所詮はピチューだ」

 

そのふっとびやすさから、俺のサッカー仲間からはランダムで出た際は負け確定と言われている。

 

「ここだァ!」

「隙だらけ」

 

ゴールデンウィーク中に、ファルコンパンチの出しどころは練習したはずだ。何度だって試行錯誤した。今日もまた、掴み技の前に敗北する。

 

「動いてくれ!ファルコン!」

 

いつからスマブラは格ゲーになってしまったんだ。コンボを受け続け、彼が電気鼠にめった打ちにされているのを俺は見ることしかできない。

 

「また負けた~」

「トラスケ、わかりやすいもん。単純」

 

勝てない理由を問うと、そういう答えがいつも返ってくる。一体どんな顔でそんなダメ出しを言ってくるのかと隣を見たことがある。

 

そんなことを言われたのがもしこいつ以外だったら、俺はキレてると思う。

 

「くっ、もう一度だ!」

 

こういうとき、棘田は子どもっぽく笑っているんだ。調子狂うんだよ。

 

 

「……の前に昼飯行くぞ」

「じゃあ、買ってきて」

 

知ってた。

 

「学食行くんだよ。少しくらい歩け」

 

俺が連れ出さなきゃ、棘田……いや恵那ちゃんはよく閉じ籠もってしまう。大学で少しくらい成長したかと思ったが、まだまだ自立はできなさそうだ。

 

たとえ恵那ちゃんが夜に帰ってこなくても、なんとも思わないんだろうな、あの人は。

 

 

****

 

12:42 遊園地に向かうためのバス停へ移動開始

※日和った雪村先輩のせいで、先にファミレスから氷室先輩が出ていってしまう。日和った雪村先輩のせいで。

 

 

「すまん」

「それは氷室先輩に言ってください。まあ、緊張していたこともわかりますけどね」

 

手を繋いで、店内から出るはずだった。

 

カップルジュース、食べさせあいっこ、そういった『イチャイチャ行動』を初心者男子がするならば、無事で済むはずがない。むしろよくやりきったと言いたい。

 

「実験にトラブルはつきものなんでしょ。それに、ようやく折り返しですから」

「ああ。次こそは確実に」

 

そういや、2人とも恋を自覚した(仮定)が夢で『手を繋いでいた』だったな。たぶん、そんなありふれた幸せが一番したかったことなんだろう。

 

「氷室と合流する。バス停へ行くぞ」

 

雪村先輩が自分の気持ちを冷静に分析しつつ、スマホでカウンターを押した。脳内でのシミュレーションも行っているのか、時折り深呼吸している。

 

 

 

そして、少し遠くにいる女性が目に入ってーーー

 

俺たちは駆け出していた。

 

 

 

「……やっちゃった」

 

柔道基本技の1つ大外刈りを男性に対して行ってしまったようだ。動揺している彼女の背後から、俺は勢いよく近づく。

 

「奏!」

 

いわゆる羽交い締めなのだが、できる限り抱きついているように見えるようにする。てか、怪力すぎないかっ!?

 

 

「……つきむらくん?」

 

一気に力が抜けて、今度は倒れそうになるのを支える。

 

受け身を上手く取れるような技だったので、背中を軽くぶつけた男性は仲間に支えられながら、ゆっくりと起き上がっていた。

 

 

「おねがい、きらいにならないで」

 

その言葉は、ちゃんと頭に入れた。

 

 

冷静に周囲を確認する。明らかに怒っている雪村先輩が涙目の氷室先輩の手を引いて、ここから離れていっている。そして、この騒ぎが気になって歩きを止めている人がいる。彼ら彼女らの目線は、こちらへ半分といったところか。

 

あくまでこれは仮定だ。2人をナンパしたが失敗した男性グループが口論で感情的になってしまい、思わず手を出してしまった。そして、氷室先輩もそこにいたがために、奏さんは頭に血が上り、反射的に『自衛』を行ってしまった。

 

 

だが、『暴力』を行ったと思う人もいる。この状況を打開する解答はこれしかない。『喧嘩両成敗』で有耶無耶にする、そんな卑怯で欺瞞な方法だ。

 

 

「こいつは俺の彼女だ」

 

舌打ちして離れていく男性たちの背中は、少しずつ遠ざかっていく。冷や汗をかく俺の心臓の鼓動は、確かに速まっていた。

 

 

 

 

 

 



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理系が恋に落ちたので、いっしょに証明する。

メリーゴーランド、コーヒーカップ、各種ジェットコースター、先輩たちは遊園地のアトランクションを最適に回っていく予定だった。

 

しかし土曜日であってかなり混んでいるため、それぞれに並んで待つ時間は計画上の時間では十分ではなかったらしい。正午過ぎから夕方にかけて、全てのアトラクションに乗ることは不可能だろう。

 

「だいじょうぶ?」

「知識としては知っていた。慣性力に加え、すさまじい空気抵抗だった……」

 

氷室先輩から手渡されたペットボトルの水を口に含んでいる。たとえ最適に遊園地を回ることが可能だとしても、雪村先輩が持ちそうにない。

 

てか、あれは間接キスだな。

 

「全ては無理そうだけど、できる限り行きましょう」

「ああ。次はお化け屋敷の予定か。残りは観覧車といったところだろう」

 

ちょっと雪村先輩が、ホッとしているな。お互いに手を差し出し合って、自然と繋がった。

 

さて、記録係の俺たちも追いかけないとなのだが。

 

 

「お化け屋敷ねぇ」

 

外からは先輩たちの様子が見れない。バイタルデータの推移を考えると、心拍数が別の要因で上がりそうだ。雪村先輩が特にホラー耐性がなさそうだから。

 

「奏さん」

「えっ、うん……」

 

さっきから俯いてばかりの研究室仲間に呼び掛けたが、あまり反応は良くない。またやり直せる研究のことより、帰って休むことを提案したが、そこは先輩思いな強情な女子だ。

 

「次はお化け屋敷だよね、いこっ」

 

努めて微笑んだ。

 

要因はわかっているけれども、これは本人でないと解決できない問題だ。解決するまで、支える人がちゃんといる。先輩たちがちゃんと導いてくれるはずだ。俺なんて、近くで味方でいられるのは1年もない。

 

 

「少し待ってくれ」

 

でも。それでもだ。

 

「迷惑をかけたことを気にしているのなら、借りを返してもらってそれでチャラっていうか……」

 

慰めるためとはいえ、傷心を利用する。こんな卑怯な俺を踏み台にして、奏さんはずっと先へ進んでいってくれればそれでいい。高橋先生のような素敵な人は、またいつか見つかるはずだ。

 

「俺と一緒に」

 

今日だけで皺だらけの実験ノートを、俺は一度閉じた。

 

 

 

「デート、してくれませんか」

 

 

 

この沈黙、恋愛初心者にはつらいものがある。

 

 

 

「……ほんと、ずるいよね」

 

そう小さく呟いた。

そして、俺の隣にやってくる。

 

「はい、喜んで」

 

改まった返事の声色からは、元気を出してくれたとわかる。度胸のない俺より先に、手を絡めてきた。

 

 

「先輩たち、追いかけよっか」

「はぐれたな。まっ、お化け屋敷と観覧車を順に回れば、いつか追いつくじゃないか」

 

奏さんも苦笑いである。それが最適解でないことはわかっている。

 

「その、ありがとね。さっきのことも、今も」

「……どういたしまして」

 

思わず、素直に感謝を受け取ってしまった。いつものように嘘や欺瞞ではぐらかすつもりだった。調子が狂うのは、心拍数が上昇しているせいか。

 

 

友達同士、家族連れ、そしてカップル、すれちがうグループはたくさんある。俺たちもそれに漏れず、男女2人きりで手を繋いで歩調を合わせている。そこには、いまだ名付けていない関係性しかないけれど。

 

 

「お化け屋敷っていつぶりかな」

 

ぎゅっと握る力が少し強くなる。まさか背後に立たれて反撃するのって、お化け屋敷の装置も対象内なのだろうか。

 

咄嗟に思い付いた解決策を提示する。

 

「俺の手を放すなよ」

「……よろしくお願いします」

 

真剣な声から、当たりだったことがわかる。

一体、どれだけ鍛えられたのやら。

 

 

「こちらの蝋燭をお持ちください」とスタッフに伝えられて、ライトを手渡される。俺たちは、塞がっていない手で受け取った。

 

「それでは冥府の世界へごあんなーい」

 

目の前には薄暗い世界が広がっている。前方からは悲鳴が響いてきた。てか、雪村先輩の低い声だった気がした。

 

「リラックスしていこうか」

「結構、余裕あるね」

「俺は怖いもの知らずだからな」

 

言い方が面白かったのか、奏さんの笑みが零れた。

 

 

「私のおじいちゃんって、道場やってるんだけどね」

 

横から来たゾンビ装置をスルーして世間話を始めたあたり、奏さんも怖いもの知らずである。

 

「才能があるからって、子どもの頃から武術を習ってきたの。まあ、嫌いじゃないんだけどね」

「柔道はあくまでその1つか」

 

薄暗い世界で、こくりと頷いた。

 

「でも、やっぱり普通の女の子でいたい。周りに溶け込んで、いつか氷室先輩みたいに凛としておしとやかになりたいなって」

 

『ゴリラ女』、それがあだ名だったと高橋先生から聞いた。さっきのように、街中で武術を見せてしまったらしい。幸い、その対象者は引ったくりだったらしいけれど。

 

ひどい失敗をしたのだと、ずっとその優しい心に傷を刻んでいる。

 

「普通に恋をして、普通に幸せな結婚をしたい。そう思ってた。でも先輩たちを見ていて、羨ましいなって。私もあんな素敵な恋がしたいって、そんな気持ちがどんどん強くなってる」

 

 

でもね、と言葉を紡いだ。

「やっぱり恋をするのが怖いの」

 

 

いまだ、過去に苦しんでいる。

明るい未来を夢見るだけだ。

 

 

「私なんかを好意的に思ってくれることは嬉しいよ。でも、月村君のことは嫌いじゃないけど、好きかどうかがわからないんだ。ごめんね」

 

俺が少なからず好意を持っていることなんて、お見通しか。知らず知らずのうちに、追い詰めてしまっていたのかもしれない。

 

 

「持論だけど、人はそう簡単には変われないと思う。俺は奏さんの悩みを聞いて、ありのままに受け入れることしかできない」

 

取り繕った答えじゃなくて、正直に言った。変わるきっかけというものは、自分では気づけないものだ。むしろ意識するほど、泥沼にはまっていく。

 

積み重ねてきた過去が、現在の自分を形づくっている。

 

 

「だから、俺の悩みも聞いてほしい」

 

薄暗い世界から出て、夕陽の方向にある観覧車を見た。

 

 

 

 

****

 

全長100mを超える観覧車からは、街が一望できる。2人して大学が見えるかどうか確認していて、くすりと笑い合った。

 

「今日は楽しかった。フィールドワークって感じで、外で実験したし」

「そういうの、俺たちは少ないからな」

 

生物や地学は多そうだ。

 

「もちろん、久しぶりのデートもね。あーあ、もっとおしゃれしてくるんだったなぁ」

 

尾行するため、あまり目立たない格好で来た。それでも、薄黄色のパーカーと黄緑色のスカートは、似合っていると思うけれど。

 

「先輩たちも乗ってるのかな」

「かなり大きいしな」

 

きゃっ、とこちらへ身体を密着させてきた。

 

さすがの武術家も、風で揺れるゴンドラは怖いらしい。実験時の氷室先輩くらい顔が赤い。普通の女の子らしさも、奏さんだけの魅力も、いっぱい持っている。

 

この静寂の間にも、時間は過ぎていく。止まってほしいとロマンチスト的に思ってしまう。

 

聞かせて、と真剣な目で告げられた。

 

「俺が、教員志望なのは知ってるだろ?」

「うん。院進しないんでしょ?」

 

推薦で大学院入試を受けることを確定させているのは、奏さんだけだ。

 

「ずいぶん背伸びしたけど、彩玉大にはなんとか受かった。でも、志望校について親と喧嘩して飛び出してきたっていうか。いつかはあっちへ戻らないといけない」

 

出身県はここよりずっと離れている。今のところ学費を払ってもらっているのも、将来は出身県に戻ることを条件としているからだ。

 

 

「遠距離恋愛は持続するかどうか、俺はそういう問題を考え続けている」

 

今のところ結論は、人それぞれ。

だから、不確定で怖い。

 

「それは……」

 

県職員である教員はその県で受かれば、県内でのみ働く。もちろん受け直すことも可能だが、一時的とはいえ進学を志す人とは離れ離れになる。

 

「我ながら女々しいことを言っているのもわかっているけど、父親が単身赴任だったのが大きいだろうな」

 

職場結婚だった両親の関係は、悪くはないが、良くもない。

 

「俺の好きな女性は、博士課程にだって行くかもしれない。その人は優しいから、恋愛を理由にして、進学をやめるかもしれない」

 

何かを言おうとしていた奏さんは、言い淀んだ。

 

「好きな人のためなら、なんだってやる人がいる。でも、俺は違う。」

 

どちらかが妥協して、自分の立てている目標をねじ曲げることになる。そんなことをしたら、2人とも傷ついてしまう。

 

だから、『本当に奏さんを好きかどうか』を証明することができない。いつだって迷い続け、中途半端に過ごしている。タイムリミットもある。

 

 

この時間も、やがて終わりを告げる。

 

 

 

「だったら、いっしょに探そう!」

 

まっすぐな目だ。

 

勉強に躓いた時、どれだけ時間がかかるとしても真剣に付き合ってくれた。愚痴を言い終わった後は、明日からがんばるねって決意する。

 

「先輩たちでも、好きってなにか、ずっと悩んでる。だから、私たちも実験を積み重ねて、それで……」

 

やる気に満ち溢れた目を見ると、こっちも熱くなるのだ。このままこの関係を有耶無耶にしてしまったのなら、たぶんずっと後悔する。

 

再び恋をすることに恐怖しながらも、過去を乗り越えようとしている。まだ不確定な未来を理由にして、俺が逃げるわけにはいかない。

 

 

「ああ。先輩たちにも負けないつもりでな」

「うんっ!」

 

言葉を借りるのなら。

この恋を証明してやる。



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理系が恋に落ちたはずだけど、言葉にできない。

キスとは、相手の身体のどこかに唇を接触させ、親愛・友愛・愛情を示す行為のことだ。文化によっては、日常的に行われる。

 

先輩たち主導の恋の研究は続く。我らが池田先生の許可も出ており、いつしか池田研の共通テーマとなった。もちろん、並行して自分の決めたテーマの研究も続けている。

 

 

「氷室、雪村。どっちからやる?」

 

『相手とキスをしたいか』、それが好きの一般条件である可能性が浮上した。日本人にとっては、キスに特別さを求める場合が多い。

 

「ふっ、俺なんか、毎朝藍香とキスしてますよ」

 

抱き枕なのか、フィギュアなのか、それともパソコンの画面なのか、トラスケには深く追及しないでおく。

 

「だが!キスなんてものは付き合っている者同士がやるのではないか!?」

 

冷静さを失った雪村先輩が熱弁した。氷室先輩関連になると、急に乙女思考になる。

 

「女同士ならよくやってるよ。あんたら男子が見てないとこで」

 

棘田先輩の発言に対して、思わず奏さんを見た。思いっきり両手を振っていることから、彼女には経験がないようだ。 

 

「まっ、私の女子高だけかもね」

「まさかこいつって、女が好きなのか?」

「そこらの男よりは好きよ」

 

棘田先輩にはそういう浮わついた話が全くない。『壁ドン対照実験』の際に、俺や雪村先輩はともかく、幼なじみのトラスケにすら全く動揺しないからな。

 

まあ、仲がいいのは確かだけれど。

 

「雪村が渋るなら、私が氷室としようか?」

「その……らしくないとは思いますが、ファーストキスは取っておきたいというか」

 

頬を赤くして、人差し指同士をつんつんする氷室先輩も、雪村先輩関連になると乙女思考になる。

 

「ですよね。初めてはやっぱりムードがある時じゃないと!」

 

なるほど。奏さん的にはムードがある時ならいいのか。しかし『ときメモ』知識だけでも、候補がいくつも思いつく。

 

「例えば?」

「うぇっ!?」

 

思わず、質問してしまった。

 

「夜景の見えるレストランとか、月夜の浜辺とか………あと夕方の観覧車とか」

 

負けないくらいロマンチストな乙女のようだ。てか、ちらちらこっちを見ながら答えるものだから、たぶん棘田先輩には気づかれた。

 

「確かに。観覧車なら、良かったかも」

 

氷室先輩の呟きに対して、雪村先輩は顎に手を当てながら、惜しいことをした的な顔である。再び観覧車に乗ったとしても、そのムードになるとは限らない。

 

「しかし、ムード値か」

「ムード値の定義式が必要ね」

 

((毎度のことながら、理系すぎないですかね!?))

 

予想通り、ホワイトボードに本日の議題が書き込まれていく。ここからまずはブレインストーミング式に、意見を出すことになるだろう。

 

「ムードが高いと思われる候補、いくつか並べてみます?」

「ああ。そうしよう」

 

ムード値が多項式になることは明白である。

 

「ほれ。愛に生きるトラスケ、出番」

「任せな。藍香とデートした場所は完璧に把握しているぜ」

 

 

先ほど奏さんが言った内容の他にも、プラネタリウムや夜景などが列挙された。季節イベントなら、花火やクリスマス、海もある。

 

 

「まっ、こんなところっすよ」

 

気づきづらいところで、家か。それって『藍香』をお持ち帰りしてそうだ。

 

「見事にばらばらだな」

「似ているところで、例えば2人きりとかですかね?」

 

奏さんって、デートもそうだったけど、2人きりになれる瞬間が好きなのか。ちゃんと頭の中にメモっておきます。

 

「プラネタリウムや映画館もあるし、完全に2人とは限らないわね」

 

棘田先輩がトラスケからマーカーを受け取り、ムード値を定義した。『注目している人数に反比例する』ということに誰もが納得する。

 

少ないほどいいということだ。

理想は2人きり。

 

 

「俺の場合、静かなところで藍香とキスするのが好きっす。おはようのキスなんか最高ですね」

「騒音に影響するということか。この値は後で決めるとして……」

 

dBの単位が出るってことは、まさかキスする前に測定しろということか。ガチ理系以外はムード下がりそうである。

 

 

「人の声も影響しそうじゃない。キスする2人も一定時間、沈黙してからとかね」

「はっ、チビ女なのにロマンチストなんだな」

 

棘田先輩が一度、咳払いした。

 

「トラスケの背が高すぎるのよ!」

「ははっ、そのうち伸びるさ………おまっ、急に藍香になんなよ!?」

 

棘田先輩の物真似が上手いのか、それとも『藍香』が棘田先輩に似ているところが多いのか。また幼なじみで言い争いが始まる。

 

この研究室、基本的に騒がしいよな。

 

「ほかにはどうだ?」

「夕方や夜の方がムードあるかなって思います」

「なるほど。照度の計測も行わないといけないわね」

 

((聞き慣れない数値きた!?))

 

次の段階として、ムード値を求めるために、各要素について立式されていく。中学数学で出るような文章題とは違って、その定数は適当に決めていく。

 

 

理系的な、適当である。

ここからが長い。

 

 

****

 

 

キスについても、対照実験を行う。

 

恋の研究のために、行うことになってしまった。さて、この研究室のメンバーは男子3人、女子3人である。組み合わせ次第では、ちょっとまずいことになる。

 

 

ガールズラブとボーイズラブのタグが必要になる可能性がある。まあ、キスをする部位は指定されなかったことが幸いだ。

 

 

「トラスケ、いくぞ」

「ああ」

 

夕日の屋上Aは、俺たちの決闘場である。30秒間、ファイティングポーズで待機していた。

 

「俺のこの手が光って唸る!」

「お前を倒せと輝き叫ぶ!」

 

「「シャイニングフィンガー!!」」

 

お互いの拳が唇に軽く触れる程度、殴るまではしない約束だ。てか、お互いに古いネタをよく知っているなと、誉め称える。

 

その後、俺たちは拳を打ち合わせた。

 

 

 

 

****

 

少しずつ日が落ちてきている。屋上Bに移動して待っていたのは、氷室先輩である。どっちかと言えば俺は雪村先輩に教えてもらうことが多い。

 

「月村君と2人で話すこと、あまりなかったわね」

「ええ、まあ」

 

てか、すごい美人だよな。海外の人の血が入っているのか、かなり色白だ。

 

「後輩が3人もできて、結構嬉しいのよ。今まではそういうこと、なかったから」

 

雪村先輩とイチャイチャしてないときは、氷室先輩はクールな場合が多い。その成績からも、高嶺の花として扱われていたのだろう。

 

「先輩たちのことは、兄や姉のように慕ってますよ」

「ふふっ、ありがとう」

 

雪村先輩は、イレギュラーなムード値低下によって髪の毛にキスをしたらしい。そういうわけで、俺も髪の毛にキスしてほしいらしい。

 

 

はっっっず!

 

「……これでいいっすか?」

「ええ。ばっちり」

 

髪の毛にキスするとか、雪村先輩はどこのサイトで学んだんだ。

 

 

 

****

 

また屋上Aまで戻った。

次は雪村先輩だ。

 

「お前も一瞬で終わらせるぞ」

 

男連続ということか。

 

「歯を食いしばれえ!」

 

兄のように慕っている人に、思いっきり頭突きをされた。

 

 

****

 

屋上Aで待機していると、絶世の美少女が現れた。

「月村。私のファーストキス、もらって?」

 

 

沈黙時間及び心の準備なんてない。

いきなり抱きついて誘惑された。

 

 

「ごめんなさい好きな人がいるので」

 

「優良物件だったのに、ざーんねん」

 

わかっててやってるのだから、質が悪い。まあ、こうやって、いじられるのも信頼されているからなのだろう。ソースはトラスケとの言い争い。

 

 

「月村って結構タイプなの」

 

動揺している間に、頬に柔らかな感触がした。

 

「……ども」

「ふふっ、それじゃあトラスケで遊んでくるわ」

 

俺とトラスケの共通項ってなんだろうな。手のかかるところとか、ゲームが好きなところとか。まあ、大きく違うところは幼なじみという点である。

 

裏切らないと確信を持てる人、そんな気がしてならない。

 

 

 

****

 

 

夕日はもうすぐ沈みそうで、やがて夜がくる。これから会う女性のことを考えると、遊園地からの帰り道を思いだしてしまう。

 

和風の家の前で、パーカーの袖を握られた。でも、俺はまだ決心できなかった。いつだって迷い続け、いつしか中途半端に終わって、俺は逃げるのだろう。 

 

 

「お待たせ」

 

頬を指でかきながら、こちらへやってきた。俺たちの白衣が風に揺れる。

 

「もう4年になるんだなぁ」

 

手すりで両手を支えて、2人きりで遠くを見つめる。屋上に来ることはあまりなかったが、ここにいると展望台にいる気分だ。

 

「俺はようやく慣れてきた頃だ。ここは都会だよ、ほんと」

 

雰囲気がまるで違う。まだ日本から出たこともないのに、世界の広さを感じるのだ。井の中の蛙だったんだなって自覚させられる。

 

「私さ、やっぱりこの街が好き」

 

棘田先輩や奏さんは宅通であり、他のメンバーも実家は近い。俺だけが遠くから来て、いつしか会わなくなる可能性が高い。

 

「遠くに住むってことはまだわからないけど、やっぱり近くにいてほしいんだろうね」

 

彩玉大に来てよかったと思っているのは確かだ。みんなと出会えたこともあるし、視野を広げることができた。

 

タイムリミットは刻一刻と近づいている。

 

 

「どこにする?」

 

「研究のためだし……」

 

尻すぼみになって、軽く首を振った。

そして、まっすぐ見つめてくる。

 

 

「……いいのか?」

 

俺なんかより、その価値はずっと高い。

 

「うん。後悔しない」 

 

一時の気の迷いでもない。俺に誰かを重ねていることもない。先日の罪悪感からでもない。

 

好きかどうかを確かめたい焦りと、確かめてほしいという優しさ。

 

 

「言葉」

 

ことのは、という珍しい名前だ。

 

「俺とキスしてくれませんか?」

「ファーストキス、あげます」

 

心臓の鼓動が速まることを自覚しつつ、唇に触れた。

 

 

 

「なんだかよくわからないね」

「まったくだ」

 

感情がぐちゃぐちゃになって、頭の中を整理できそうにない。理系失格かな。

 

 

「ちょっと熱冷まさないと。私たち、たぶん顔真っ赤だと思う」

「ああ。まだ極秘で実験していたいからな」

 

次はまた、ムード値が良い値になったらだ。



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理系が恋に落ちたために、『好き』の証拠を探す。

誤字報告、評価ありがとうございます。引き続き、アニメと漫画を見ながら書いていきます。


1学期が終わりに近づき、テストとレポートに明け暮れる大学生が一気に増えた。図書館や自習室は基本的に満員で、いつもより大学生の多さを感じる。

 

俺たちはいつも通り、池田研究室居室に集まり、定期MTを行っていた。特にB4は夏の大学合同合宿に向けて追い込みの時期であり、その進捗報告となる。

 

 

「というわけで、まずはリケコイ、そのアルゴリズムを研究中っす!」

 

トラスケのテーマが決まったのが1週間前なので、かなり荒削りである。雪村先輩が配布資料を真っ赤に赤ペン修正しているのだが、すでに俺や奏さんもその洗礼を受けた。

 

「あの、なにかあります……?」

 

質疑応答の時間が、理系にとって一番怖い。質問はちゃんと聞いているのだと伝えるためにある、そんな持論を持つ人がいる。

 

「思いついたものを箇条書きにしておいてやった。それぞれに自分で適切な回答を作っておけ」

「うっす!!」

 

これはあくまで練習の段階である。本番に向けて、増やすべき知識を身につけておかなければならない。闇雲に知識を増やすよりは方針を決めてくれると、俺やトラスケ的にはありがたい。

 

「渡した論文はちゃんと読んでるじゃん。ところどころ和訳まちがってたけどね」

「ぐぬぬ、そこ後で教えろよ」

「はいはい」

 

積極的に研究室に訪れるようになったトラスケを指導しているのは、棘田先輩である。B4の3人にそれぞれ、先輩1人ずつが名目上割り当てられているのはかなり優遇されていると思う。

 

「いやー、虎輔君も大丈夫そうですねぇ」

「先生あざっす!このテーマなら卒論まで書けそうっす!」

 

先輩たちも経験したおかげで、他大学の参加研究室から、池田研はすごいところだと思われているらしい。それでも、池田先生は、B4として学会発表の経験を身につけるだけでもいいと言ってくれる。

 

奏さんは同じく最適化問題をテーマとしている氷室先輩であり、俺が雪村先輩。

 

「では、他に発表したい方はいますか?」

「お時間があるようなので、我々から」

「はい、どうぞ」

 

司会役の奏さんに了承され、雪村先輩が準備を始めた。配布資料はなく、スライドのみらしい。

 

「先日幸運にも、好きの一般条件について重要なデータがとれました。こちらをどうぞ」

『ゆきむらくん、すきー』

 

氷室先輩の髪がぶんぶんと揺れ、雪村先輩へ抱きついている映像だ。酔っていない状態の彼女と比較すると、ここまで凄まじい変化だったのか。

 

幼児化して、いつもより素直に甘えている。

 

『ねぇねぇ、キスしよーやってやってー』

 

俺たち後輩は固まっていて、件の飲み会の時は酔って爆睡していた池田先生は微笑ましく見ている。

 

「だ、誰が撮ったの!?」

「ん」

 

棘田先輩がピースした。あの状況でスマホ片手に動画撮影していたということか。

 

「アルコールは理性を司る大脳新皮質の働きを抑制する。それにより、本能的な感情な表出した可能性がある」

「所詮は酔っ払いの発言でしょ!?」

 

リピート再生を始めたあたり、雪村先輩も虜になっているな。ワイヤレスでプロジェクターに通信しているノートパソコンを守っている。

 

「ごめんなさい、池田先生はこちらに……あら?」

 

黒髪で落ち着いた服装、文学少女っぽい女性だ。研究室のドアを開けた後、キョロキョロしている。てか、追いかけっこをしていた動画の出演者に興味津々だ。

 

「山本君。久しぶりですね!」

「池田先生!お元気そうでなによりです!」

 

立ち上がった池田先生が、空いている椅子に座るよう促している。

 

てか、誰だ。そう思っているのは俺だけじゃないだろう。

 

「ここのOB」

 

棘田先輩が頬杖をつきながら、興味なさげに教えてくれた。雪村先輩たちも知らないということは、棘田先輩がB4のときに、彼女はM2ってところか。

 

「これはどういう状況ですか?」

「こちらの氷室君と雪村君ですがね。なんと、恋愛研究をしているんですよ」

 

池田先生も認めている研究であり、先輩たちは誇らしげな様子だ。初めてメンバー以外に研究成果を伝えられる機会だしな。

 

「興味があるようなら、是非とも山田君にも聞いてもらいたいですね」

「ぜひ!」

「わかりました。まず俺たちの研究目標は、好きの一般条件を見つけることです。その目的は『好き』ダッシュが、一般的な好きにあてはまることを証明することです」

 

「なるほど」

 

なにかしら絵を描きながら、興味深そうに聞いている。この研究室の先輩ということもあって、理解がかなり早い。

 

「具体的な方法として、我々は心拍数や体温による計測を行ってきました。先ほどの動画は、本能的な感情を示した場合で」「さっきのデータは酔っ払いの妄言の可能性があるわ」

 

氷室先輩の意見に対して、雪村先輩は眼鏡を上げる仕草で返す。

 

「ならば、サンプル数を増やしてみようか」

 

雪村先輩はエンターキーを押して、スライドを進めた。

 

『えなちゃ~ん』

「ぐはァ!?」

 

今度はトラスケが胸を抑えて、椅子から転げ落ちた。

 

幼児化している彼が棘田先輩に抱きついている映像だ。その体格差は歴然であるが、手慣れた様子で彼の頭を撫でている。

 

「だ、誰が撮った!?棘田には不可能なはず!」

「私から月村に頼んだのよ。ていうか、いつも飲みすぎる度に小学1年くらいに戻るでしょ」

 

まあ、それは棘田先輩の前だからということもあると思う。学類飲みの時は、もっとノリノリでオーダーストップまで飲酒していた。

 

『えなちゃん、ひっこさない!? ほんとにひっこさない!?』

 

映像の音声が聞こえないように耳を塞ぎ、羞恥を隠すために彼は床に頭を伏せている。今もなお心の底にある本能的な感情な表出した可能性がある、ということだ。

 

『ゆきむらくん、はやくぅ!』

『えなちゃんとけっこんするぅぅ!』

『毎度イチャイチャしてんじゃねーぞ、バカップルどもぉ!!うらやましいんですよ!!』

 

2つのグループを映した映像に、付近から声が混じった。やがて、映像がぶれた。

 

スマホが床に落ちた衝撃が記録されている。

 

『ぐすん、私だってぇ~』

 

そんな女性の泣き声が聞こえたくらいで、映像がストップされた。その本人は慌てて俺を見たが、気にするなとジェスチャーで返した。

 

いつもよりずっと飲みすぎたことは、池田研の雰囲気の良さからだろう。酒癖は悪かったけれども、本能的な感情を吐露してくれた瞬間。

あと役得だった。

 

「……これは極端な例でしたが、『好き』の証拠は多岐に渡ります。この世のあらゆる人間の『好き』の証拠を集め、その共通項を見つけることができたのなら」

 

頬を赤くした雪村先輩は一度咳払いして、山本さんに伝えていく。そして、一度言葉を区切った。

 

「その共通項こそが、真なる好きの定義となります。」

「おもしろい……」

 

ニヤリと笑いながら、呟くようにそう告げる。そして、一枚の名刺を取り出した。

 

「申し遅れました。私、山本亜梨華と申します」

 

受け取った名刺を見て、雪村先輩は顎に手を当てる。ちらりと見えた感じ、なにかのキャラクターが描いてあった。

 

「漫画家……」

「まだ一度も連載したことはありませんがね」

 

雪村先輩が呟いたことに、俺たちも関心を持った。あくまでここは工学部である。そのOBということは理系職に就いていそうだったが、本業が漫画家だったとは。

 

「貴方たちをモチーフにした漫画を描かせていただきたいのです」

「それは、構いませんが」

 

漫画家と会うこと自体、俺たち理系にはめったにないことだ。実名を避けてもらえるだろうし、断る理由もない。

 

「ありがとうございます。そのお礼として研究協力をしたいと考えております」

「それはどういう?」

「その作品やSNSで募集します。みなさんの『好き』の証拠を」

 

先輩たち的には、渡りに船だろう。大学生に対するアンケート調査だけでは年齢層に偏りが出る。もし出版されたのなら、全国各地から証拠が集まる。

 

「是非やって貰いたい!」

「ふふ、こちらこそよろしくお願いしますね」

 

雪村先輩と山本さんは、握手で交渉成立を示している。

 

「どうやら、お互いに良い結果をもたらしそうですね」

 

池田先生は満面の笑みで喜んでいる。しかし俺は、棘田先輩の浮かない顔が気になった。

 

「そうだ! 今月にある夏合宿に山本君もOB枠で参加しませんか。まだ間に合うはずです」

「わぁ、懐かしい。まだやっていたんですね」

「なんと今年は、沖縄ですよ」

 

ぜひ、と告げる山本さんの口元に笑みが浮かんでいた。

 

 

 



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理系が恋に落ちたから、新たな証拠を探す。

四大学合同情報数理勉強会を来週に控え、俺たちB4は発表練習を入念に行っている。何度目かの配布資料も雪村先輩による訂正が少なくなってきた。教員志望はずの俺が、どれだけ伝える力が足りなかったかを実感させられる毎日だ。

 

そんな頼りになる先輩たちから、研究協力の依頼がきた。

 

「「「オキシトシン……?」」」

 

B4全員が、聞き慣れない言葉に首を傾げた。

 

「ホルモンの一種だから、知らないのも無理はないかもしれないわね」

「出産や授乳に関わっているとされているから、特に奏はよく聞くことになるでしょうね」

 

棘田先輩の発言に、奏さんは頬を少し赤らめた。ちらちらとこちらを見てくるが、いまだ将来不安定な身分なのでそういうことは決してしない。

 

度胸も覚悟もない。

 

「脳から分泌されるホルモンだな。オキシトシンは脳に作用する効果もあるとわかっていて、他者と有益な信頼関係を形成しやすいこと、他者の感情を読み取りやすくなること、そういう報告がされている。その実証として、自閉スペクトラム症へのオキシトシン経鼻スプレーの臨床試験が行われた。この日本でもな。」

 

雪村先輩は資料を見ながら、聞き取りやすいようはっきりと説明した。少し砕けているが、これが見本ということか。

 

「要は、安らぎや癒しを感じるときには、オキシトシンがドバドバ出てるってこと。トラスケも普段やってるじゃない」

「ふっ、藍香と過ごす時間はいつもオキシトシンに満ち溢れているってことか……」

 

トラスケは携帯の待ち受けすら『藍香』で、常にフィギュアを持ち歩いているくらいだからな。将来的には、(その愛情を三次元に向けられれば)さぞ愛妻家になることだろう。

 

「他者と過ごすことや触れ合うこと、ほかにも恋愛小説を読むことでも分泌されるようね」

 

それなら、俺や奏さんにも実感がわく。俺は暇があったら二次創作を漁るし、奏さんは少女漫画を息抜きがてらに読んでいるし。

 

「だから、私にはよくわからないけど、犬飼君のギャルゲーもあてはまるんじゃないかしら。もし雪村君に似たキャラクターがいたとして………否定はしないけど、私にはよくわからないわ」

「なんで2回言ったんすか!」

 

もし紹介したら、やり込みそうだ。俺もトラスケも乙女ゲーに関して、あまり知識は持っていないけどな。

 

「それで、私たちからのお願いなんだけど」

「さしあたって、この合宿中にお前たちの唾液がほしい」

 

((はい!?))

 

真剣な顔で雪村先輩が告げるから、驚いた。奏さんも目を見開いている。唾液を使う実験といえば、消化酵素の働きを確認する対照実験くらいしか思い浮かばない。

 

「他者と触れ合うことで分泌されるのだけどね。もちろん、誰でもいいというわけではないわ」

「オキシトシンの分泌量を調べれば、スキンシップを行った相手が好きかどうかわかる、ということだ」

 

特徴的な鞄から取り出されたのは、あまりこの研究室には似つかわしくないものだ。液体を保存するためのプラスチック容器……まあ、検尿容器みたいなもの。

 

「なるほど、接触行為の前後の唾液に含まれるオキシトシンを比較するのね。唾液からわかるだなんて、知らなかったわ」

 

生物寄りの化学分野だから、さすがの棘田先輩も知らなかったようだ。広い知識を持っておくべき理系というのは難しい。

 

「解析については、企業に委託する。だから、基本的に肉体的接触に関する記録と唾液の採取を任せたい。もちろん、自分達の研究発表を優先してもらっていい」

 

((ていうか、そんな企業あるんだ))

 

まあ、断る理由もない。

 

「………待てよ、先輩」

 

雪村先輩に言いたいことがありそうな、トラスケの表情がいつになく真剣である。

 

「どうした?」

「オキシトシンは多い方がいいんすよね...?」

「比較前より多く分泌される結果がほしいな」

 

ゆっくりと立ち上がったトラスケは、プロジェクター前にいる雪村先輩の両肩を持った

 

「沖縄の海でいっぱいスキンシップしていいんすか!?」

「構わん!どんどん触れ!」

 

一人は私利私欲のために、一人は研究のために。

 

「いつき!お前もわかってるよな!」

「えっ、いや、まあ」

 

一人の男として、友情を選ぶべきなのか。

 

「断ってもいいんだぞ」

「……いえ、俺も全力でスキンシップします!」

 

みんなでやれば怖くない精神だ。度胸を磨くための練習になるかもしれない。

 

 

ガシッッ

 

 

俺は背後から武道家に両肩を持たれた。雪村先輩は指示棒を突き付けられていて、トラスケはヤンデレ『藍香』演技に処されている。

 

彼女の握力ってどれほどなのだろうかと考えるほど、俺はやけに頭が冴えていた。

 

「沖縄で、他の女性に迷惑をかけないように……ね?」

「はい」

 

よろしい、と言いながら解放される。

 

 

「………合宿ではこのメンバーでやろう」

「「賛成!!」」

 

この女性陣に勝てるわけがない。

 

 

「私は雪村君と組むとして、どうします?」

「トラスケは私だね」

 

棘田から珍しくアプローチをかけた。まあ、奏さんを見ながらニヤニヤしているから、俺たちが目的なのだろう。

 

「俺は藍香で………」

「今回の実験方法、よく考えてみなさい」

「そりゃあ、藍香の唾液を……」

 

唾液が摂取できない、その事実にトラスケは自ら気づいた。二次元と三次元の壁は、彼を現実に叩き落とした。

 

 

「奏は、そうだな」

 

雪村先輩は、俺をちらりと見て。

 

「先生と月村、どっちがいい?」

「月村君で」

 

その選択肢だと、俺が消去法で選ばれたみたいじゃないか。

 

 

 

****

 

羽田空港は夏休みだから賑わっていた。オリンピックで盛り上がっている東京から、俺たちは飛行機で沖縄へ行くことになる。

 

交通費を大学出してくれる合宿なのだが、旅行気分だ。

子どもたちも多く乗っていることで、飛行機の中はかなり騒がしい。だから、俺たちが多少私語をしても気にされない。

 

「もっと密着しろ」

「ダメよ…こんなところで…」

 

後方の席から、聞き慣れた声がする。

 

「さあ、唾液をもらうぞ」

 

((おいいいい!?))

 

俺たちは身体を縮めて、無関係を装う。居心地の悪さを感じた。

 

「お客様、そろそろシートベルトを……」

「お騒がせして申し訳ありません」

 

キャビンアテンダントさんの呼び掛けが入り、氷室先輩が雪村先輩を止める。

 

「スキンシップ実験は人目のあるところではダメよ、いいわね?」

「……了解した」

 

ひそひそとそんな声がして、俺たちはほっと息をついた。

 

隣の席では、朝に弱くてぐっすりな棘田先輩と、フィギュアを抱いて静かに語り合っているトラスケがいる。池田先生や山本さんはこの位置からは見えない。

 

 

「ドキドキするなぁ」

「あまり飛行機に乗ったことはないのか?」

 

ベルト着用サインが点いており、もうすぐ離陸することがわかる。

 

「うん。覚えてない頃くらい」

「俺とか、東京に来る修学旅行でも飛行機だったけどな」

「どこ行ったの?」

「お台場の近くだったから、ガンダム見て、科学未来館行って、そんな感じ」

「あはは、理系だね」

 

渋谷にでも行ってショッピングをするべきだったのだろうか。そういやあの頃は、駅で右往左往したな。あれから、俺はどれだけ変われたのだろうか。

 

 

「わっ、そろそろだね」

 

車輪で滑走路を走りだし、やがて浮遊感。さらに気圧の変化によって耳に少し痛みを感じるが、もう慣れたものだ。

 

ベルト着用サインが消えたくらいには、かなり楽になる。

 

 

「始めようか、藍香」

 

((ここでもギャルゲーやるんだ))

 

 

飛行機がなぜ浮くかの議論をBGMにしながら、俺たちは目を閉じた。飛行機の揺れが俺たち的には心地いいらしい。それに、沖縄に着いた後のために、まだまだ体力は温存しておきたい。

 

スキンシップ実験を頭の中で想像すると、どうしても隣の女性が気になる。やがて、ほんの少し近づいてきた手と手が繋がった。

 

 

 



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理系が恋に落ちても、勝てなかった。

季節は真夏、さらに沖縄。

インドアな理系には厳しい暑さだ。

 

「南の島の青い海…青い空…打ち寄せる波の音…」

 

太平洋は純粋な青色で、瀬戸内海は濃緑に近い青だ。記憶の中の風景と比べてみると、目の前の海は水色に見える。

 

「似合ってるよ」

 

そんな砂浜に、この世の人間とは思えない可愛さの水着美少女がいた。ピンクの髪は太陽に照らされて輝いており、白いビキニは彼女の白い美肌を強調する。

 

彼氏に褒められても、表情一つ変えない。

 

「白い砂浜でも、君は一番輝いているぜ、藍香……」

 

沖縄に来ても、トラスケは通常運転だった。彼の頭の中では『藍香』と海で遊ぶ光景が浮かんでいるのだろう。理系であるからこそ、イメージ(妄想)はかなり鮮明にできる。

 

 

「ママー、あのおにいちゃんなにしてるの」

 

女の子に変な目で見られているが、トラスケは動じない。むしろ母親の方が深刻なダメージを受けている。

 

「うっ古傷が……だいじょうぶよ志波君よりパパが好きよ」

 

それって、ときメモの志波勝己?

 

まあ、俺にもそんな時代はあった。トラスケとは何度も秋葉原に行った。ていうか、現在進行形でシノン、いろは、小町、エーデルガルトとリシテア。

 

 

「この行動でもオキシトシンが……?」

 

雪村先輩が興味深そうに、トラスケをじっくりと観察していた。何人かの女子大生がひそひそと趣味を語り合っている。

 

 

 

「お待たせしましたー!!」

 

俺たちは期待を胸に、振り返った。 

 

 

 

((ダンベル何キロ持てますかねぇ!!))

 

「飲み物、買ってきましたよ」

 

普段は隠れている、ありとあらゆる筋肉が水着姿によってさらけ出されていた。衰えを決して見せない筋肉が、女を魅了し、男を圧倒している。

 

「「完敗です、先生」」

「……どうかしました?」

 

俺もトラスケも彼らに漏れず、膝をつく。池田先生の筋肉に、真の漢を見せられた。意中の相手を想うばかりで、俺たちは何も努力してこなかったのだと思い知らされた。

 

 

 

「えっと、なにかあった?」

 

活発な黄色が眩しいビキニの上にピンクのパーカーを羽織った奏さんにも程よく筋肉がついており、それでいて女性らしさもあり、しなやかさもある。

 

ワインレッドのパレオ付きビキニの氷室先輩は長身かつモデル体型である。ボンキュッボン。顔を赤くした雪村先輩は顔を背けながらもチラチラと見ている。

 

暑さでだらけた様子の棘田先輩は紫色を基調ときたビーチドレスで露出は控えめ。だが、透ける部分と透けない部分があるのが、むしろ蠱惑的だ。

 

山本さんも文学美女らしく、落ち着いたビーチドレスでスタイル抜群。

 

((レベルたけぇぇぇ!!))

 

普段から美白の美女美少女だと思っていたが、水着姿になることで数倍にもはね上がった。奏さんや氷室先輩は髪をシュシュで結ぶだけで、かなり印象が変わる。

 

さて。こちらの戦力を確認しよう。筋肉の体現者はともかく、モヤシ体型の雪村先輩、見た目ヤンキーのトラスケ、見た目も中身も冴えない俺。

 

「人生、最初で最後かもしれないな」

「ああ。この研究室選んでよかった」

 

てか、『藍香』のことを忘れて、棘田先輩のことを意識しているな。幼なじみだが、久しぶりに一緒に海に来ることができたのだろう。

 

「トラスケ~早くしてー」

「お、おう」

 

すでに暑さでダウンしている棘田先輩は、トラスケをからかう余裕がない。彼は急いでビーチパラソルを組み立て始めた。

 

「ではみなさんせっかくの海です!存分に遊びましょう!」

「「「おーっ!」」」

 

B4が中心となって大きく声をあげる。明日の合同勉強会のことなどすぐに頭から消えていた。

 

 

****

 

 

「トラスケ、唾液取っておいて」

 

海に来てまで、ゲーム機を離さない棘田が呟くように告げる。先生は遠泳をしに行き、他のメンバーも雰囲気を伺いながらどこかへ行った。

 

「……雪村先輩の頼みだしな」

 

藍香を一度持ち上げ、カバンから4つ容器を取り出した。ペアが流れで決められたが、こいつとスキンシップしなきゃいけないのか。

 

まあ、奏といつきのことを考えると、残り組だ。

 

「ほれ、お前も」

「ん」

 

たしか1mlだったな。この容器も半分とは、なかなか多い。

 

「ねぇ、トラスケは覚えてる?」

 

くそっ、こいつはまた黒歴史を。

 

「昔、トラスケのお母さんにはよく遊びに連れていってもらって、一度海にも行ったことあったよね」

 

うっすらと覚えている。お前より年下の俺がその時は何歳だと思ってるんだ。

 

「痕にならなかったのは幸い、かな」

 

えなちゃんは、ビーチドレスに包まれた白い腕をさすった。たしか、俺は無理を言って水遊びに誘って、それで。

 

迷惑かけてばかりだよ、俺は。

 

「あの頃は可愛いショタだったのにね。無駄にデカくなっちゃって」

 

くすっと笑った年上の女性は、あの頃と変わらなくて。

 

「はっ!そういうてめぇはチビのままだな。ちゃんと食ってんのか?」

 

細すぎるんだよ、昔も今も。

うちの母さんが何度飯を食べさせたか。

 

「まっ、おかげさまでね。愛に生きる男が守ってくれるんでしょ」

「よくもまあ、昔のこと覚えてるな」

 

俺は、守れなかっただろ。

 

「女性の脳は体験記憶能力が高いのよ。感情が動いた記憶はなかなか忘れないの。楽しかったことも辛かったこともね」

 

えなちゃんの笑顔の裏にはいろんな感情が隠されている。だから、あの人の『手懐け』はいまだ傷になっているってことじゃねぇか。

 

「ねぇ、トラスケはなんでここにいてくれるの」

「……別に」

 

続きの言葉が見つからなかった。日陰にいたかったからでも、何もやることがなかったわけでもない。少しでも離れると気になって、ここにいると安心できて。

 

「ナンパしてくるんじゃなかったの」

「それなら向こうに帰ってからでもできる」

 

あまり外に出ることは得意じゃないはずだ。俺が連れ出さないと、すぐに自分の殻に閉じ込もる。

 

「あと、幼なじみがナンパされるのは、いい気分じゃねぇ。お前に先越されるとかありえねぇから」

「そっか」

 

そう呟いた。

 

「だから、その、お前を守るためにだな」

 

誘導尋問された気分だぜ。

なんだかむず痒くて、俺は背を向けた。

 

「私は忘れないよ。今日のことも」

 

震えた声で、そっと背中に小さな手が触れた。近すぎず遠すぎず、この距離のスキンシップが一番ドキドキさせられる。

 

「ありがとね 守ってくれてありがとね」

「男の脳でも忘れねぇよ、女との約束くらいはな」

 

 

 

****

 

お互いの希望通り、人目のつかない場所を選んだ。波で削られて岩ばかりの場所だ。そこをひょいひょいとサンダルで歩くのだから、さすが武道家。

 

スキンシップといっても、多種多様である。手を繋ぐことや異性同士で抱きつくこともあてはまり、先日行ったキスだってある意味スキンシップだ。

 

「始めてからどれくらい?」

「1年くらいだと思う」

「ふーん、やっぱり男子だからなのかな」

 

 

スキンシップとして、さすさすと腹を触られている。先生はともかく、元サッカーサークル所属のトラスケと比べても、まだまだだと思う。

 

「私はいつのまにか続けていたからなぁ」

 

てか、目の前の武道家がかなり鍛えられている。触らせてもらうと、予想以上にがっしりだ。それでいて、太ももなど女性らしい柔らかさを持つ部位もある。

 

「でも、もっといろんな方法で試したほうがいいと思うよ。腹筋と腕立て伏せ、あとジョギングくらい?」

「とあるアニメで始めたんだが、さすがにジム通いまではなぁ」

 

最近は腕立て伏せばかりしている。目の前の武道家が怪力だと知ったことが影響した。ジム通いについては、お金と時間を理由に諦めている。

 

「家にダンベルあるけど、貸そうか?」

「それは助かる」

 

ペットボトルに水を入れて試したが、流体だからか違和感があった。

 

「ていうか、海まで来てこういう話って普通の女子っぽくないよね」

 

奏さんは目を逸らしながら告げる。

 

「女子と海に来たことがないから、普通がよくわからないけどな」

「うーん。ボールはないから、泳いだりとか、水をかけあったりとか」

「ところで水切りってできないか。こう拳でどーんっと」

 

リリカルなのはvividは川だったけれど。

 

「おじいちゃんならできるかもしれないけど、私はむりむり」

「いや、唐突に思いついただけだ」

 

ていうか、筋肉を触りながらの会話なんだけど、スキンシップ実験はこれでいいのだろうか。だからといって、他のスキンシップを記録として残すのは恥ずかしい。

 

とりあえず、唾液を採取するか。



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理系が恋に落ちたけど、学生の本分も果たしています。

 

「それでは」

 

B4の中でもトップバッターであって、緊張も人一倍大きいだろう。肩書は東京理工科大学、優しそうな顔出ちの学生は壇上へ上がった。パソコンへコードを繋ぎ、その発表スライドを表示させた。

 

「『多人数プレイヤーからなる非協力ゲームのナッシュ均衡を求めるタブーサーチの実装』」

 

(((……なにそれ)))

 

隣の席にいるトラスケも冷や汗をかいている。前の席にいる奏さん含めて、会場のB4はたぶん全員が騒然としているだろう。

 

各大学から集まった情報系学生が、ここ沖縄の大学に集まっていた。B4が外部で発表を行う貴重な場であり、輪講のようなものであって、また卒業研究の中間発表も兼ねている。

 

「まず、ナッシュ均衡とはなにかを説明します」

 

タイトルからスライドが切り替わると、その原理説明が書かれていた。どこからか引用した数式だろうが、それを理解してすらすらと説明している。他大学とはいえ、彼は同級生ながら大学院生の領域までたどり着いているのではないか。

 

「―――のときはそれぞれ期待利得が相手の行動に関して無差別でn次元平面上に各軸を行動確率としてpn,pn+1が考えられ各プレイヤーの最適反応をグラフで表わすこと―――」

 

少しずつ早口になっていく。緊張していることはわかるが、聞いている側としては非常に理解しづらい。スライドに羅列した数式も、俺的には不可解なものだから、ますます理解できない。

 

雪村先輩の表情も、険しいものとなっている。

 

「その目的として」「1つ質問いいですか?」

 

スライドを進めた彼の発表を区切るように、最前列にいる1人の教授が発言した。

 

「は、はいっ!どうぞ!」

「そのスライドの通りなら……ふむ、タブー探索ですか」

 

視覚的に、その教授は内容をすぐに理解したようだ。培ってきた知識量がまるで違う。

 

「タブー探索を使うとのことですが、よくある手法ですね。その先行研究は読みましたか?」

「は、はい!」

 

彼は急いで、いくつか資料をファイルから出している。その英語で書かれた論文もすぐには読めないだろうけれど。

 

「では。なぜタブー探索を使うことにしたのですか。その手法以外は考えましたか。」

「それは……」

「ナッシュ均衡は複数存在する場合が多い。私としては、同時探索できるアルゴリズムがよりよいと思いますが。」

 

つまり、と言葉を紡ぐ。

 

「タブー探索のメリットをまず教えてください」

 

教授は言葉を残した。

 

 

「それは、その……」

 

スライドを進めることはなく、彼は必死に論文の文字を見ている。彼が読んでいる論文のアブストラクト(要約)には、タブー探索の説明しか書いてはいないのではないか。

 

 

 

 

「あー、私からも1ついいですか。この分野は詳しくないので素人質問なんですけど」

 

それを見かねてか、池田先生も発言した。

 

「ナッシュ均衡を求めて、何の役に立ちます?」

 

その質問は、発表スライド作成において池田先生から徹底された内容だ。

 

「あ、えっと……」

 

これが勉強会とはいえ、初めからナッシュ均衡の原理説明であり、次はタブー探索の原理説明が続くのだろう。前知識がなければ、俺たちB4がその数式をすぐに理解することはできない。配布された資料もなく、まるで参考書を見せながらそれを読むだけの時間だった。

 

「答えられないなら解らないと言いましょう。」

 

和装の教授は、たぶん東京理工科大学の教授だ。彼はゆっくりと立ちあがった。

 

「事前に言いませんでしたか。せめてその分野については、解らないことを最小限にしろと。」

「……はい」

「専門分野で解らないことが存在するのは理系の恥ではありますが、罪ではありません。しかし、他に、君は重要なことを怠った。」

 

この数ヶ月、彼なりには努力したはずだ。未知の分野を学び始め、数式を1つ1つ時間をかけて理解した。

 

「緊張はしていましたが、それなりには練習をしていたようだ。」

 

ですが、と教授は続ける。

その表情は変わらない。

 

「発表中、君は何かがおかしいことに気づきませんでしたか。」

「そ、それは……」

 

慌てて彼は発表原稿を見ようとして、その手が止まる。

 

「答えられないなら解らないと言いましょう。」

「……わかりません」

 

 

「論外です。次の発表者に迷惑だ。席に戻ってよく考えなさい。」

 

 

 

 

****

 

空気が重い。

 

雪村先輩たちは去年この合宿を経験したからなのか、平然としている。

 

「練習通りにすればいい」

「……じゃあ、逝ってきます」

 

月村君は堅い表情のまま、壇上に上がっていった。この雰囲気の中、池田研B4は3人とも連続で発表しなければいけない。犬飼君はまだトイレから帰ってきてないけど、大丈夫かな。

 

「奏も心配しすぎだ。3人とも、あれだけ練習しただろう」

「で、でもあんなに難しそうな研究もダメだったんじゃ……」

 

途中で終わったけど、私たちがやっていることよりずっと難しい内容だった。私は氷室先輩に何度も見てもらったけど、失敗したらどうしようって考えはどんどん頭に浮かんでくる。

 

せっかく去年は先輩たちがすごかったのに、その評価を下げてしまう。

 

「月村君、大丈夫でしょうか」

「問題ない。俺が入念に指導したからな」

 

私のパソコンの最終チェックをしてくれている雪村先輩が答えを返してくれた。あいかわらず、自信に満ち溢れた先輩で、うらやましい。

 

「これは月村にも伝えたことだ」

 

チェックが終わったようで、こちらを向いた。

 

「お前たちは、知の象徴たる白衣をまとい、日々研鑽を積んだ池田研の一員だ。そもそも、大学の研究分野は各々が専門的なものだ。たとえ、同じ研究室メンバーであっても、完全には理解してはいない」

 

たしかに、私たちはお互いに発表を見せ合ったけど、今回の発表のことしか深く知らない。

 

「自分の研究テーマについては、この場にいる誰よりも詳しいと思え」

 

 

 

月村君は白衣を羽織い、マイクを持った。

その制服は、ここでは私たち池田研だけ。

 

 

「彩玉大学池田研、月村伊月が発表します。タイトルは『量子コンピュータ基礎』です」

 

次は、私の故郷の写真。

観覧車に乗った時に、街を撮っていた。

 

「夕暮れ時、東京の道路は非常に混んでいます。私も遊園地からバスで帰る時は時間がかかりました。」

 

雪村先輩的に、まずは注目を集めるためだ。タイトルからは想像できない写真に、教室の雰囲気が変わる。私の場合は、雪村先輩たちのツーショット写真なんだけど、だいじょうぶかなぁ

 

「こちらは、中国の研究者が北京で実証実験を行い、渋滞回避ルートを解析した結果です。北京空港まで直通で行くことのできる幅広い道路を中心に、長い渋滞ができていることがわかります」

 

赤色の濃さで渋滞が判断できる地図が示される。この解析処理はスーパーコンピューターでもできるかどうか。

 

「渋滞回避ルートを量子コンピュータで解析する、それが現段階で日本企業も実証実験が行っていると、〇〇新聞にも掲載されていました。詳しく知りたい方は、この勉強会後にこちらに示した論文を読んでいただければ」

 

私たちの発表スライドや発表資料は、あらかじめデータベースで配布されている。

 

「で、今日のところはそういった文献を読むための基礎知識を少し知ってほしいなと考えました。もし、量子コンピュータ分野の授業を受けていたのなら、復習がてらに聞いていただければ」

 

鋭い目つきを持った教授・助教授たちから、一挙一動を見られているように感じるはずだ。でも、月村君は少しずつ砕けた口調になっている。

 

「情報科学生も量子力学を学ぶ時代なんですかね。量子コンピュータが関わってくる論文を読む際の、きっかけになれば幸いです」

 

まずは量子コンピュータのメリットを示す、それが目的。

月村君の発表を、私は何度も見ている。

 

「アナログコンピュータの場合は0と1ですが、量子コンピュータでは量子重ね合わせを波動関数をもとに―――」

 

あの本から引用した数式や参考にして作った図ばかりだけど、それを必死に理解してきて、わかりやすくまとめている。時には、アニメーションで視覚的に式を説明する。特にB4が興味津々に発表を聞いていて、

 

彩玉大に合格するにはギリギリの成績だったらしくて、わからないことは多かったはず。先輩たちにどんどん質問して、MTの発表でいかにわかりやすく伝えることができるか考える。

 

それはたぶん、月村君が教育学を学んでいて教員志望で、量子力学にすごく興味を持って取り組んでいるからだと思う。時折り、先生たちから鋭い質問が来るけど、聞いている他大学の先輩たちにサポートしてもらいながら、その考えをまとめて判断してもらう。

 

 

「―――以上となります。自分なりに噛み砕いて、基礎を説明させていただきました。皆さん、度々ご協力していただきありがとうございました」

 

みんなはすっきりとした表情だ。個人の研究発表だけど、これは勉強会なんだって思わせてくれた。

 

「最後に質問があります。貴方は卒業研究テーマを決めていますか。」

 

さっきの和装の教授が真剣な表情で質問すると、一気に空気が引き締まった。

 

「……量子コンピュータの現状として、エラーが無視できない問題が残っています。だから、他研究室と連携し、材料物性の基礎実験を行っています」

「ほう。時間があれば是非とも聞きたかったものですな。」

 

タイムキーパーが教授を見たが、彼は手を上げて答えた。

 

「その話は卒業論文を完成させた時に聞くとしましょう」

「りょうかい、です」

 

一気にハードル上がっちゃたね。

月村君は、期待されると緊張しちゃうタイプ。

 

 

「まだB4ですよねぇ。流石、池田研だ。研究室に入ってまだ4ヶ月だというのに、よく勉強している。それに、こちらの反応を見ながら、解りやすく説明してくれた」

 

教授が、顎髭を触りながら発言した。

その声色はさっきよりずっと穏やか。

 

 

「いえ、先輩たちや先生、あと同期にも、まだまだおんぶにだっこです」

 

周りの人の表情を気にすることは多いし、人が多いところでは遠慮がちになるけど、人をよく見ている。明るさと人柄の良さを、月村君は持っている。

 

 

 

****

 

まだ心臓がバクバクと音を立てている。

 

緊張と雰囲気から、ノリと勢いでやってしまった。ところどころ、間違ったことを言って指摘された。雪村先輩による事後指導が激しいものとなるだろう。

 

「おつかれ」

「がんばれ」

 

片手にノートパソコンを持った奏さんと、バトンタッチした。

 

 

「彩玉大学池田研、奏言葉が発表します。タイトルは『可変待ち時間あり巡回セールスマン問題の提案』です」

 

奏さんも大丈夫そうだ。

 

「こちらの写真をご覧ください。これは先日私の先輩が遊園地デートをした時の写真です」

 

雪村先輩たちのツーショットが公開され、度肝を抜かれる。練習時はなかったはずだが、いつその写真を入れたんだ。

 

「彼らはデートを心から楽しみたい一心で、遊園地の乗り物を効率的に回る最適なデートコースを計算しました」

 

その時のことは今でも頭に浮かぶ。

 

彼女の卒業論文テーマは、懐いている先輩たちがきっかけになった。先輩や教授が紹介してくれて、積み上がった論文を読んでいる。そんな池田研メンバーの専門分野知識は伊達じゃない。天才肌の多い先輩たちに近づこうとしている奏さんは一番の努力家だ。

 

 

そして、トラスケと棘田先輩が会場に入ってくるのが、俺の目に入った。もう大丈夫そうだ。池田研メンバーの1人として、派手にそのギャルゲー愛を見せてほしい。

 

 

「その時、利用したのは巡回セールスマン問題で―――」

 

 

 

 



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理系が恋に落ちたまま、喧嘩した。

「可変待ち時間あり巡回セールスマン問題、とても面白かったです」

「あっ。えっと、どうも。その、あの後は大丈夫でした?」

「ええ、まあ。先生には、B4のうちに間違い気づけてよかったって言われました。みっともないところ見せちゃいましたね」

「あはは……私も普段から先輩に叱られてます」

「それはあんな発表ができるのもわかります。えっとこの点について聞きたいんですけど―――」

 

 

この勉強会中に発表内容を理解し、さらに意見を提示した。それはまるで、共通テーマについて語り合っている先輩たちのようで。

 

 

「―――ということですね。でも、そういう意見は参考になります。ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございました」

「いえいえ!」

「その、別の大学ですけど、これからもあなたとは科学の話をしてみたいというか……」

 

 

とある有名歌手が『恋とは自分本位なもの、愛とは相手本位なもの』と語ったのだが、その言葉がふと思い浮かんだ。

 

 

「……えっと、いきなり何言ってんだって思うだろうけど、大学も、それなりに近いけど、でも今言わないともう会えないと思うし」

 

たぶん、俺では釣り合わないのだろう。奏さんは『普通』じゃなくて、どんどん先へ行くリケジョだ。別れもあれば、新しい出会いもある。

 

「僕と……」

 

俺は、談笑している学生たちに混じって、逃げた。

 

 

 

 

****

 

男子組に少し遅れて、水族館へ入った。ギクシャクしているままみんなで行くよりは、こうして別々で行動する方がいいかなって。

 

少し、落ち着く時間も必要だし。

 

「これって、いわゆる女子会ですよね」

「そういえば、私たちだけで出かけるって初めてね」

 

そういう棘田先輩は、めったに研究室の外に出ない。氷室先輩もだけど、肌が真っ白でうらやましい。

 

「私あんまり女子会とかやったことなくて、なんだか嬉しいわ。高校でも、仲が良い女子はいなかったから」

「学部にもあまり女子がいないですからね」

「山本さんの時もやっぱりそうなんですね」

 

少しを頬を染めている氷室先輩は、同性の私から見てもかわいい。心を許した人にはとことん素を見せるからなぁ、先輩。

 

目の前で見れるのは、なんだか嬉しい。

 

「でも、本当は雪村君とも回りたかった……」

「仲直りすればいいじゃない」

 

ずーんとした感じになった先輩にあっけからんと棘田先輩が言うけど、先輩は誰かと喧嘩とかしたことないんだろうなって。

 

「その、私のせいで」

「いいえ、雪村君の発表方法ならあり得たことよ」

「去年もそうだったわね。その時は月村みたく、風景だったけど」

 

自分たちのツーショット写真を使って、度肝を抜かせろだもんね。もちろん、成功はしたんだけど。

 

「自分が正しいと思った事を貫き通せる、たとえ誰に何と言われようとも揺るがない。それが雪村君のすごいところよね」

 

憧れ、なのかな。恋愛は極端に奥手になるけれど、本来の雪村先輩や氷室先輩は孤高の存在になる。私たちは2人が揃っている姿を見たからこそ、懐いたのかもしれない。

 

「だから、付き合っている訳じゃないと言われたことも間違っていないのよ」

 

でも、その正論で、計算ではわからないものが傷ついた。

 

 

「で、奏は誰かとなにかあったの?」

「えっ、いや、特には」

 

話題を変えるためとはいえ、棘田先輩によってこっちに矛先が向くとは。

 

「そういえば。現在の恋愛事情は聞いていなかったわね」

「一緒に回りたかった男性がいるんですね!」

 

ぐいぐいと棘田先輩が腕を当ててくる。さすがに鋭い先輩だ。

 

「えっと、棘田先輩と犬飼君って仲良いですよね」

「あれはペットみたいなものよ」

 

はぐらかし方が下手だったけど、ホントかどうかわからない答えのおかげで話が逸れた気がする。

 

「奏ちゃん。もしかして犬飼君のこと……」

「まったくちがいます」

 

これじゃ誘導尋問じゃん。

山本さんもニコニコしている。

 

 

 

「噂をすれば、あいつらってば、中学生相手にナンパしてるじゃない」

「いや、さすがに……」

 

男子組は比較的速く行ってしまうだろうから、合流する可能性は低かったはずだ。壁際のある程度空いているスペースに行って、3人の様子を観察する。

 

「雪村君、女なら誰でもいいのね」

「トラスケならロリコンもあり得るわね」

 

 

****

 

研究発表会を終えた俺たちは心置きなく沖縄観光をする予定である。これで、交通費・宿泊費が大学から支給されているのだから、ありがたい。

 

「なぜ円柱にしたと思う、月村」

「あー、正方形の対角線と、円の半径を比べるとってことですかね」

「それが妥当だろうな」

 

氷室先輩とは、いつもこういう話を楽しそうにしているのだろう。周りの親子やカップルは、俺たち理系から少し離れていった。雪村先輩は堂々としているけれど。

 

「あの、ちょっといいっすか」

「どうした、犬飼」

「いや、野郎3人だけで水族館っすよ!?せっかくの旅行で!?」

 

それは非常に申し訳ないと思っている。『藍香』との水族館デートも、有名観光地における視線には耐えられなかったらしい。

 

「その、どうにかして仲直りしてくださいっすよ」

 

山本さん含む女子メンバーと男子メンバーは別々に行動していた。今日のところは、池田先生は教授たちと学会である。

 

「昨夜、なぜ氷室が怒っているか、分析したんだが」

 

『奏の発表スライドの変更』『合宿中の実験失敗』『俺たちは別に付き合っている訳じゃない発言』『後輩を重視しすぎたこと』『体調不良』『その他』

 

「それぞれ概算で割合も出してみた。だが、これは時間変化するということだから、いまだに正しいデータが出せないのだ……」

 

理系って、行動力ベクトルが別方向に向かっていたり、そもそもうじうじしたり。でも、氷室先輩を傷つけたのだと自覚しているなら、大丈夫だろう。

 

「……この場所は悪くない数値なんだがな」

 

 

あのー、とこちらへ呼びかける声がした。

 

「えっと、みなさんは大学生ですか?」

「ああ」

 

3人とも私服は着ているが、たぶん女子中学生だろう。大人よりは話しかけやすいとはいえ、かなり勇気のいることだ。

 

「何か困ったことがあった?」

「理科の宿題なんですけど、何を書けばいいのか決まらなくて」

 

プリントを見せてもらうと、生き物の観察をするように指示されている。近くに住んでいる彼女たちはこのために水族館へ来たのだろう。

 

かといって、俺たちはあまり生物に詳しくはない。

 

「例えば、ここに説明があって、こういうのをまとめればいいんじゃないかな」

 

彼女たちは、魚の説明文をじーっと見つめ始めた。

 

「マグロは時速7kmで泳ぐって、意外と遅いんですね」

「それだけ粘性抵抗が高いということだろう」

「100キロってどっかで聞きましたけど、言われてみれば全然っすね」

 

早々に助けを求めている彼女たちを見て、まずは『速さ』と『速度』をしようかと思った。みちのりはやさじかんという呪文が懐かしい。

 

 

 

****

 

高橋先生が私を見る目と似ているし、あれは教えてるだけだと思うけど。

 

「ほ、ほら。手を振って離れていきますよ」

「どうやら、夏休みの宿題を手伝っていただけのようですね」

 

胸を撫で下ろす氷室先輩を見たからなのか、私もほっとした。でも、高橋先生みたいに、いつか月村君は生徒から恋される事があるのかなって思った。

 

 

「うぅ、これじゃ馬鹿でめんどくさい女みたい」

 

しゅんとなった氷室先輩を、雪村先輩に今会わせるわけにはいかない。こちらに気づかず歩いていく3人の背中をそのまま見るだけ。

 

「そ、そんなことないですよ!」

「でも、『どうして怒ってるか分かるか』なんて質問、雪村君は本気にしちゃったし……」

「思わず聞いちゃったんですね。仕方ないですよ。わかりますっ!」

 

「身だしなみを整え、前を向いて、常に堂々と美しく、凛とする。でも、今のわたしは全然ね」

 

私も周りに溶け込んで、それでいいって思ってた。だから見せたくない部分を隠して、大学生活を過ごしていた。

 

「雪村君に嫌われたかな、わたし」

 

寂しそうに笑った。

 

嫌われることが怖い、その気持ちは私にはよくわかる。私はまだあの失敗を乗り越えてはいない。

 

「こんなんじゃ、好きなんて言えないかしらね」

「ちがいますっ!逆ですよ!」

 

自然と、その言葉が出ていた。自分よりすごい理系の人に、経験論を持って反論する。

 

「好きだから、こういう気持ちになるのかなって思います。他の女子と仲良くしてるのを見て嫉妬したり、こっちを見てくれないと寂しくなったり」

 

思わず感情的になってることに気づいて、私は自然と笑みがこぼれた。氷室先輩を励ますつもりだったのに、いつのまにか最近の自分の気持ちを吐露していた。

 

「きっと、恋ってこういうものなんだと思います」

 

氷室先輩の両手を取った。

 

「仲直りしましょう。私も先輩たちには楽しそうに恋の研究していてほしいですから」

「柄じゃないけど、去年から見てた後輩だから、サポートするわよ」

「微力ながら私もお手伝いしますよ」

 



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理系が恋に落ちたというより、愛していた。

 

私は独りで良い。

 

身だしなみを整え前を向いて、常に堂々と美しく、凛としていれば、それでいい。

 

「氷室さんっ、俺と付き合ってくださいっ!」

 

目の前の男子の様子は、目に見えて緊張しており、心拍数も上昇していた。でも、私の反応が芳しくないことから、少しずつ視線が屋上の床に下がっていった。

 

「ごめんなさい。私、恋愛とかよく分からないし、興味もないの」

「そう、だよね……俺なんかが氷室さんと釣り合うわけないよね」

 

彼は頭を下げて、先に去っていった。

 

クラスメイトのはずだけど、初めて話したはずだ。恐らく、容姿目的ではなかっただけに、私にはたぶん罪悪感のような気持ちが芽生えた。この感情に確証を持てないのは、私が青春に対して冷めきっているからだろう。

 

「また告られたらしいよ」

「なによ、ちょっと顔と頭がいいからって」

「それなー」

 

ひそひそと聞こえる声を無視して、席に座って本の字を見つめる。

 

無理に誰かと一緒にいる必要もない。このクラスメイトという関係性も大学へ行けば、やがて風化していく。人間が他者を解ることは容易ではない。

 

でも。

 

もし今の私を見て、彼がどう思うかについては気になるってしまう。彼の言葉通り、私は自己を確立した。彼は今どこで何をしているのだろうか。

 

今も変わらず、信念を貫いているのだろうか。

 

 

 

****

 

人で賑わうファミレスに行くと、私たちをちらちらと見る視線を感じる。普段は大学生の多い飲食店だけど、ここは観光地だからかな。

 

先輩たちって美人だし、歩いているだけで目を引きつける。そんな先輩の1人がいわゆる理系モードになっていました。

 

「これより、雪村君と仲直りする為の戦略を考えます」

(雪村君とメッチャ仲直りしたい青春したい)

 

ノートパソコンを開いて、メガネをかけた氷室先輩が音頭を取る。仲直りはまだだけど、すっかり本気になってくれていた。

 

「でも、私って誰かと喧嘩することが初めてなのよね。両親は家にいないことが多かったですから」

「実は私もなんですよね。弟たちはかなり幼くて、お母さんたちとも仲が良くて」

 

お爺ちゃんと喧嘩しても勝てるわけがないし。

 

「私の場合……あれは喧嘩とは言えないわね」

「えっと、棘田先輩?」

 

なんだか様子がおかしかった。あまり家に帰りたがらない理由なのかな。

 

「トラスケをからかうことは昔からよくあるけど、それでも暴力はしないのよね。まっ、しっかり手懐けたということ」

「あはは……」

 

鋭い目つきや金髪でかなり不良っぽいから、最初は近寄りづらかった。でも、むしろ私の方が強いまである。

 

「私も、喧嘩するほど仲が良い人はあまりいませんでした」

 

私以外のメンバーの交遊関係、狭すぎない?

 

「何か、有効な手法はあるかしら。この際、ソースは不確かだけど、ネットの情報で……」

「では。ありきたりですが、プレゼントを贈るのはどうでしょう」

「あっ、いいと思います!」

 

たしか前に、雪村先輩へ何かをあまり渡したことがないって言ってたし。

 

「なるほど。謝罪の意を含めたプレゼントとは、例えば?」

「私なら金一封が積まれればすぐ仲直りしちゃいますよ」

 

現金かよ。

 

「雪村はお酒飲まないもんね。ギャルゲーもしないし」

 

犬飼君はそれで機嫌が良くなるんだ。単純。

 

「えっと、あまり気負わず、ショッピングしながら考えるのがいいと思います。雪村先輩のことを考えながら、先輩が欲しいものを渡すっていうか」

「なるほどね」

 

でも、雪村先輩といい、月村君といい、普段あまり買い物をしない人に対しては、かなり困る。今あるもので済まそうとするからなぁ。

 

「そうね……雪村君は、今は……私がなぜ怒っているか分析しているはずだから……」

 

氷室先輩、雪村先輩も、ずっと仲直りしたいと思っている。その気持ちを伝えるだけでいいけど、たぶんその方法は普通ではない。

 

「だから、嘘偽りない気持ちを正確にプロットし、なぜ喧嘩するに至ったか及びどうすれば解決するか、これを謝罪論文として編纂します」

 

定期的に携帯触ってると思いきや、まだあのカウンターシステムやってたんだ。もしかして、遊園地のデートからずっとか。

 

しかも項目増えてるし。乙女心は複雑ってことか。

 

「まっ、雪村相手なら効果的かもね」

「では、善は急げですよ。プレゼントを探しにいきましょう!」

 

ファミレスを出て、私たちはショッピングセンターへ歩いていく。泊まっているホテルからは近いから、2時間くらいはここで過ごせるだろう。

 

でも、タイムリミットがあることは確かで、氷室先輩に釣られて少し足早になった。氷室先輩の表情は真剣そのもので、恋愛のために必死になれる先輩が眩しかった。

 

「じゃ、私はゲーム見てくるから。奏付いてきてー」

「ちょっ、棘田先輩!?」

「せっかく外に出たし、陳列されたものを見ると良ゲーが見つかるものなのよ。あまり時間はかからないわ」

 

か、勝手だ。まあ、棘田先輩なりのウィンドウショッピングだろう。

 

「それに、本来これは氷室と雪村が解決すべきことじゃない?」

「でも……」

 

振り替えると、顎に手を当てて雑貨屋で悩む氷室先輩が目に入った。すごく大人な女性だけど、たぶんドキドキしながら青春を味わっている。

 

雪村先輩のことをよく見ているから、ちゃんと選べるはずだけど、やはり心配になってくる。

 

 

「奏ってよくお姉ちゃんしてるよね」

「えっ……」

 

ある程度歩いたところで、棘田先輩が振り返って告げた。そして、休憩用のベンチに座ることを促される。

 

「過保護ってこと」

「それはどういう……」

 

相変わらず、何かを見透かそうとする目だ。自由きままな生き方をしているけど、誰よりも他人に怯えている年上の女性。

 

「言葉通り。自覚はあまりないだろうけど、みんなに優しいわよ。例えば、昨日の男子にも」

 

思わず、カバンから携帯を取り出したけど、電源をつけることはない。昨日、新たな連絡先が増えて、知り合いという関係性が増えた。

 

まだ、答えは出していない。

 

「私は裏切られるくらいなら、誰も好きにならないことを選んだわ。陽だまりのような池田研からも、いつかは巣立ちしないといけない。」

 

タイムリミットがあるということを、私はまだまだ遠く未来のことと考えていた。

 

「で、うじうじしてないで白状したら」

「……その、男子に告白されたんです」

「なるほどね。それで、月村は聞いちゃったわけか」

 

薄々感じてはいた。どこかよそよそしくて、出会った頃のような態度だった。いつかは離れることが分かっているから、ある程度距離を持って接してくる。

 

それが、入学したばかりの私にとって、楽な関係だった。

 

 

「月村のこと、ホントに好きなのかしら。実はキープしておきたいだけとか」

 

ここで、好きなのだとはっきり言い返せない自分が嫌になる。もし言ってしまったのなら、月村君との関係を言葉で表してしまう。

 

「私なら、恋した相手は首輪を付けてでも独占したい。絶対に裏切られないようにするし、自分が不幸にはならないようにするわ」

 

棘田先輩はたぶん、不幸になった女性を目の前で見てきたんだろう。

 

 

「でも、棘田先輩はそれをしないと思います。好きになった人をとことん愛しそうです!」

 

そうじゃなかったら、犬飼君のことにあんなに過保護にならないと思う。緊張で一度会場から出ていった彼に、ずっと付き添っていたらしい。

 

「ていうか、棘田先輩もお姉ちゃんしてますよ」

「……手のかかる後輩1号2号だからよ」

 

照れ隠しなんだろうなって、今ならわかる。氷室先輩たちの待ち合わせ場所をここにして、それまでゲームで時間を潰すようだ。

 

私に恋した男子に対する答えをメールで打つ。そして、大好きな先輩の1人に、ちゃんと自分の意思を言葉で伝える。

 

 

「私も、また恋をがんばってみようと思います」

「ん」

 

この青春ラブコメは、愛が先に芽生えた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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