絆跡 -きせき- (藤宮ぽぽ)
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前編

  

 ――風は、まだ少しばかり冷たい。

  

 降り注ぐ淡い陽光にぬくもりを感じさせてくれていた時間も、そのピークを過ぎれば、ほどなく冬の残党に勢力図を塗りかえられてしまう。

 夕刻となっていくらも経たないうちに陽はすっかりと落ち、急速にあたりは闇色に染まってゆく。

 すれ違う通行人が、小さく体を震わせながら過ぎ去っていく。

 風。まだ少しばかり冷たい。

  

 ……けれども。

  

「あ、恭也さん、見てください。あそこの桜の木、もうすぐ咲きそうですよ」

  

 そう言って俺たちの斜め前方にある、ほころびかけの花をつけた桜の樹まで小走りに駆けていって。

 彼女はそこで振りかえり、桜の樹を背にして穏やかに微笑んだ。

  

 さああぁ……。

 桜の枝を揺する風が、栗色がかった彼女の髪を()くように波打ちながら逃げていく。

  

 季節は……もうじき、春。

 いつしか――彼女を名字から名前で呼ぶようになって。

  

 俺と那美さんが出会ってから迎える、何度めかの”春”。

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇

  

  

 しーん。

  

 あたりは陰々と静まり返り、建物の壁を隔てただけの内側と外側が、まるで別々の次元のように感じる。

 静寂という名の檻……そんな錯覚にすら陥ってしまいそうなほど、空虚が支配する世界。

 極力、足音を忍ばせつつ。

 ゆっくりと、一歩ごとに周囲へと気を配りながら歩を進めていく。

  

「……やっぱり、いますか?」

「はい……。気をつけてくださいね、恭也さん」

「……那美さんも」

  

 短く、それだけの言葉を互いに交わしあう。

 真剣な眼差しで、前方を見据える彼女。こちらに振り向きなどはしなかったが、それでも俺のことを気遣う気持ちは十分に伝わってきた。

  

 ――昼間の喧騒が全くの嘘であるかのように、俺たち以外に人間の気配が根絶した、とある学校の校舎。

 ひんやりとしたコンクリートの左右から、上下から、四方から。忍び寄ってくるのは、ただただ無機的な冷気ばかりだ。

 俺たちの母校――私立風芽丘とは違う学校。ゆえに、この校舎に足を踏み入れるのは、当然のことながら初めてのことになる。

 それでもおなじ学校施設である以上、そうそう大きな差異があるわけでもない。特に迷うこともなく、着実に目的の場所への距離を詰めていく。

 すっかり照明の落ちた薄闇のなかを、事前に担当の者から手渡された校舎の見取り図の描かれたメモを手にしながら。

 俺と那美さん、そして久遠は、やがてとある部屋の内部へと足を踏み入れた。

  

「……くぅん」

  

 と。

 それの気配を察した久遠が、俺と那美さんにいっそうの警戒を促してくる。

  

「……いました。あそこです」

  

 那美さんに言われるよりも先に、俺もその姿に気がついていた。

 人の形を(まと)いながら……しかし、すでにヒトでないもの。

  

 ――基本的にこういった類のものは、今までは見えるどころか感じることもなかったのだが。那美さんの身を案じて、いくつかの現場へ彼女とともに赴くようになってから。

 そして、数年前のあの日。彼女の大切な友達である久遠に施されていた封印をめぐって、ひとつの事件を経てから――

 それまではただ単に「気が向いたときについて行く」だけという感じだった久遠自身も、今では必ず那美さんの『お仕事』に同行するようになり。

 以後、除霊の場に立ち会うたびに、なんとはなしに研ぎ澄まされてきた感覚。

 その感覚が、あるべきでないものの存在を、俺にもだいぶはっきりと知覚させるようになっていた。

 とはいえ、本来はなんの特性を持ち合わせているわけでもない俺だから、鋭さはとうてい那美さんに及ばない。にもかかわらず、その姿が克明に認識できるほど……眼前に姿を見せている霊の「残念」は、とても強いのだろう。

  

 『それ』は。この学校の制服を身に付けた、一人の少女だった。

 音楽室。その大きさからひときわ目立つグランドピアノの横に、ポツンと体育座りの姿勢のまま膝の中に顔を埋めている……が。

 滲むようにその身体から吹き出してくる、よどんだ悪意。

 とめどなく放たれる、重く圧迫されるような負の感情。

 『それ』がすでにこちらの気配を察していることは、疑いようがなかった。

  

 …………。

  

 憎しみと、淀み固まった情念と。禍々しいほどの執着心と、底のうかがい知れぬ怨念と。渦を巻く負のエネルギーが、刻々と強みを帯びていく。

 一瞬、背筋がぞわりと粟立った。

  

「……ねえ、どんな悲しいことがあったの……。私でよかったら話して……ね?」

  

 立ち止まった俺と久遠から離れ、那美さんはゆっくりと少女の霊に近づいていく。

 一歩一歩、優しく包み込むようにして。少女の霊に語りかけながら。

  

  

  

 説明するまでもないかもしれないが、俺と那美さんは今、除霊のためにこの学校へ訪れている。

 霊となった少女――それは、生者の世界と切り離されたはずの人間。

 その彼女が、生前どれほどまでに強い絶望感に打ちのめされたのか。自ら命を絶つほど肥大化するに至った虚無感や、オーバーフローしてしまった諦念の深さは……当人でない俺たちにとっては、きっと想像の及ばないものだろう。

  

 ――なんでも彼女は、学校内でいじめられていたらしい。

 心地のよい話では決してないが、それでもよくある話だ。一部の心無いクラスメートたちによる醜い行跡の数々は責められて当然であるけれども、しかしそれは今なすべきこととは違う。

 彼女の心が折れてしまったのは、それだけではなかった。いじめと時を同じくして――まるで不幸が連鎖するかのように、両親が不慮の事故で亡くなってしまったのだ。

 家族の仲は非常に良好だったそうだから、学校でひどい仕打ちを受けても、両親の存在が彼女をかろうじて支えていたのだろう。

 でも。そんな両親も、もうどこにも存在しなくなってしまった。

  

 ……そして少女は、霊になってここにいる。

 生前、少女はこの音楽室を好んでいたという。そして事件後にこの教室が利用されるたび、彼女のかつてのクラスメイトたちのなかに、1人、また1人と大小さまざまな「霊害」が広がっていって。

 ついにこれ以上看過することは困難との判断が下された結果。依頼を受けた那美さんが、その霊を「鎮魂」するために、ここにやってきたというわけだった。

  

 そんなことを……俺がことの経緯を思い返している間にも。那美さんの説得は、ずっと続けられていた。

 が、少女の霊は、まったく耳を貸そうとはしない。

 強い怨念として現世に魂を留めた霊は、そのほとんどが生ある者に対して危害を与えるだけのものに変わり果ててしまっている。たとえかつて共に笑い合い、同じ時間を共有した者だったとしても、もはや共生することはできないのだ。

 霊害がはっきりと起きているくらいだから、この少女の魂も強い怨念としてのみ現世に執着しているのだろう。

 でも……。その中に、ほんの少し。

 人の心に、那美さんの声にうなずいてくれる霊もいるから。

  

「――ごめんね。どんなにあなたが打ち明けてくれようと、過去の苦しみが消えてなくなりはしないよね。ても、お願い……少しだけでもいから、聞いてほしいの」

  

 那美さんは必死に、根気強く相手に語りかける。

  

「――ここにこのまま、ずっといても。暗くて、寒いばっかりだよ……」

  

 死後の世界がどんな場所であるかは、もちろん俺には知りようもない。

 が、少なくとも……今のように生者に危害を加えてなお存在をつづけることが、良かろう道理は決してない。

  

「――心残りが、あるんだよね? だからこうして、あなたはこの場所にとどまっているんだよね……?」

  

 自ら死を選んだ人間の、心残りとなるもの。

 ……そういえば、彼女はなぜ、霊として居残る場所にこの音楽室を選んだのだろう?

 早朝、まだ誰も登校していない自分の教室で、少女は手首に刃物を当てて事切れていたという。

 だとすれば、クラスメートたちへの復讐も考えると、教室を「拠点」としてもおかしくないはずだ。それが音楽室というのは、生前の彼女が好んでいたためなのか、それとも……。

  

「私たちが、ね? きっとあなたの、力になってみせるから……」  

「…………」

  

 ちら。

 ようやく少女の霊が顔を上げ、こちらを窺い見る。

 これは……脈がある、ということなのだろうか。

  

「話を、聞かせて。そして……還ろう?」

  

 何度もあきらめず、優しく微笑む那美さんに――

 少女の霊は、ほんのわずかながら、うなずいたように見えて。

 俺と久遠はほとんど同時に、安堵の吐息をもらす。

 期せずして、俺たちは同時に、霊のほうへと一歩だけ踏みこんだ。那美さんは一言半句たりと霊の意思を聞き漏らすまいとして、そして俺と久遠はその那美さんの身を案じて。

 

 …………。

 突如として風向きが変わったことを、俺は察した。

  

「……な…み……あぶな……!!」

  

 闇が光明を呑み込む。

 少女の霊からひときわ強烈な悪意が発せられるのを感じ取った久遠が、警告を発した。

  

「……んっ!」

  

 霊から発せられる黒い瘴気を顔の前でとっさに腕を交差するようにして防ぐと、我が身を守るために愛刀・「雪月」の柄に手を掛け――

 ……いや、このままでは間に合わない。

 霊はやおら空中に浮き上がると、那美さんをめがけて突進してくる。

 久遠も慌てて那美さんの隣に駆け寄ろうとする――が、それよりも霊の突進するスピードの方が、わずかに早い。

 那美さんもそれに気づいたらしく、雪月を鞘から引き抜きながら防御の体勢を整えようとするが……。

  

 ――ひゅっ!

 刹那。その霊の眼前を、一条の光の(きらめ)きがかすめ過ぎていった。

 それは……俺がとっさに放った「鋼糸」だった。

 直径わずか0.数ミリ。気を抜いていれば視認することすら困難となるであろうその銀灰色の細い個体金属が、かすかに窓から入りこんでくる屋外の明かりを反射すると、自身の存在を誇示するかのように輝く。

 俺の技のほとんどは、こういった怨霊のように実体を持たないものに対しては、効果が限定されてしまう。

 だから、那美さんの『お仕事』に一緒についてきても、除霊そのものに関しては……直接的に何かの役に立てるということは、あまりない。

 ……だが。

 このように相手の意表を瞬間的にでも突き、その集中を反らす程度のことなら、いくらでも出来る。

  

 案の定、かたわらで突然輝きを放った物体に――少女の霊は、反射的に気を取られた。

 そして、それは那美さんが体勢を立て直すのに充分な「間」を生み出す糸口となる。

 途中でいかなる進展があったにせよ、ここに至ったとあっては。もはや霊自身にしても、増幅と拡散をはじめたみずからの怨念を制御することは不可能だろう。

 ためらうことは、今は最低の選択肢だ。

  

 ――口に出さなくても、分かる。

 やむを得ないこととは知りながら。那美さんはそうする事にひどく悲しみながらも……それでも。

  

「……やああぁぁぁぁっっ!!!」

  

 雪月を少女の霊に向かって、一閃させた。

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇

  

  

「――お聞きになられたいというのは、どのようなお話でしょうか……?」

  

 翌日。

 昨夜の除霊についての達成報告を目的に、俺と那美さんの姿は地域の役所の一室にあった。

 公立の学校で起きた霊害ということで、依頼は役所から正式に出たものだったからだ。

 当該の事件が解決した以上は、早々に手を引くべきということは理解している。踏みこむには陰気すぎる案件であるならば、依頼した担当者にとってもすみやかに過去の領域に放り投げたいと思っているはずだ。

 ただ、それでも。どうしても素直に腑に落ちてくれない部分が、しこりのように残りつづけていたのだ。

  

 明らかに、事態は良い方向へと流れかけていた。

 情味のこもった那美さんのあたたかな言葉の前に、少女の霊は応じる気配を見せていたはずだ。

 それなのに……最期は悪意の奔流に呑みこまれ、忌むべき怨霊と化して、那美さんの雪月によって消滅させられるという結末を迎えてしまった。

  

 巧妙に害意を内側に秘め、こちらの説得に耳を傾ける姿勢を示しつつ機会をうかがうという霊も、いないことはないらしい。

  

「でも、あの霊は……それとは違うと思うんです。あの子は、本当はとても素直で……」

「……ええ。あれは俺から見ても、いきなり心境が変化した、といった感じでした。はじめから一貫して危害を加えようと考えていたわけではない、と思います」

  

 あれからずっと、引っかかっていること。

 彼女が最後に見せた激発ぶりは、まるで豹変というべきものであっただろうと、俺と那美さんは見ている。 

  

 ――那美さんの除霊に本格的に同行するようになってから。

 滞りなく役目を遂行したのち、そのまま別れるのはお互いに忍び難さを感じて。そんなタイミングに敏感に気を利かせてくれる久遠もときには一緒に伴って、しばしばこのカフェに訪れては、ともに時間を過ごすようになっていた。

 この手の店なら翠屋を――という発想も浮かびはしたものの。とはいえやはり、特に『お仕事』の内容が内容なだけに、なるべく身内と切り離したところでくつろげる場所がひとつくらいほしいというのも、また本音だったりする。

 もっとも、そんな俺の内心はフィアッセにあっさりと看破されてしまい、その彼女に紹介してもらったカフェであったりするのだが。

  

 クライアントへの報告を済ませ、それから新しい情報を少しばかり得たあと。

 昼食時を迎えるにはまだ早い時刻の店内は、適度な余裕ぶりがうかがえて心地よかった。

  

「それで、彼女が突然態度を改めた理由ですけど。……那美さんは、どう思います?」

「……私もやっぱり、『あれ』が原因だったかもしれないと……いえ、原因だったのだろうと思います」

「ですよね。どうして彼女が霊害を起こす舞台が自分の教室でなく、音楽室だったのか……」

  

 最初からその点に思いが至っていれば、ひょっとしたら結末は変わっていたかもしれない。  

 

 ――少女の霊のかたわらにあった、グランドピアノ。

 小さいころに手ほどきを受けたことがあったのか、生前の少女のピアノ演奏の腕前は学校の音楽教師を中心として、他の教師たちの間にも知られるほどだったという。

 つまり。少女にとっては、ピアノはひときわ大切な存在――あるいは友達といったような感覚で接していたのかもしれない。

 そして、それを……。自分をいじめていた人間が安易に、気安く触れようものなら、少女はどう感じるだろうか――

  

 思えば。俺や那美さん、そして久遠も。そんな情報を事前に受け取ることなく、少女との距離を詰めていって。

 すでに少女は、「残念」している。つまり彼女の警戒心にしろ現世に置き忘れた執着心にしろ、もはや普通の物差しで推し量ることは困難な状態となっていた。

  

「きっと……あの子は守ろうとしたんです。私たちから、とても大切に思っていたであろうピアノを」

「……かもしれません」

「だからまだ、話し合える余地は残っていたんです。なのにそれを、私は……」

「……那美さん」

  

 つとめて穏やかに、俺は彼女の名を呼んだ。

 瞳の奥。さまざまな感情がもつれあい、揺らめいている。それは平穏とは、まったく反対の波。

 だから……俺はあえて、冷徹とも受け取られかねない意見を述べた。

  

「いずれにしても、終わったことです。理由がどうあろうと、俺はあの霊が那美さんに襲いかかろうとしていると判断しました」

  

 迎えるべくして迎えた終幕だったのだと、俺は断言する。

 ……つまるところ、「あれは仕方のないことだったのだ」という、言い訳じみた論法だ。

 たとえどのように感じたにせよ、割り切って腹の中に収めねばならぬときがある。とりわけ那美さんの『お仕事』は、そういった割り切りとは背中合わせの関係だ。

 『祓い師』として、その程度のことを承知していない那美さんではない。だけど、それでも――人を斬るということは、これほどまでに重い。

  

「……恭也さん。私、行ってみてもいいでしょうか……」

「どこへ、です……?」

「もう一度、あの学校へ。最後に一言だけ……ちゃんとお別れをしたいと思うんです」

「……」

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇

  

  

 那美さんの願いは……。けっきょく、叶わなかった。

 実に、あっさりと。

  

 臨時休校中の学校側と話をつけ、あらためて向かったのが正午を過ぎてまもなくの頃合い。

 生徒の姿こそないものの、すでに役所から連絡を受けたとみられる管理事務の人たちが業務を再開しており。彼らののんびりとした昼食時間を、いそいそと来校した俺と那美さんは邪魔してしまうことになってしまった。

 本来であれば依頼主の要求をこなした時点で、ふたたびこの学校に訪れる理由はなくなるのが道理だ。だからカフェから直線的に向かうのではなく、正式に再訪の手続きを踏んだうえでのことだったのだが……。

  

「――すでに午前のうちに搬出済みとは……俺がこう言うのもなんですが、性急すぎではないでしょうか?」

  

 少女の霊にとって大切な存在であった音楽室のピアノは、対策が組まれた時点ですでに処分が決まっていたらしかった。

 ……たしかにあのピアノの周辺で霊害が起きていたなら、事件が終息したとはいえ気持ちよく使用することはもう不可能だろう。とはいえ高価な備品ゆえにすぐに新しいものと交換というわけにもいかず、しばらくはピアノを使わずに音楽の授業を行っていくというのが学校の方針として決定しているのだという。

  

「……私らも詳しいことはわからないけど。学校としてみれば、1日でも早く再開したいんじゃないですかねぇ……」

「そう……ですか……」

  

 那美さんの様子を見ながら、申し訳なさそうに話す事務員。

  

「昨日のうちに全部片づく、と私らも聞いてたんで。まさかそれが長引いてるなんて、少しも思わなかったもんでねぇ」

「いえ、すでに解決しています。その点についてはご心配なく」

  

 不安げな表情を浮かべた事務員に、俺は胸を叩く。

 ……学校が再開するのは明日からだという。つまりは何もかも、最初からスケジューリングされたなかで動いていただけの話だったのだ。

 しかし、それが世の中というものなのだ。責めるわけにはいかないし、責めるようなものでもない。

  

 ――俺はけっきょく、何をなすこともないまま。

 消沈する那美さんをそっと促して、ただ学校をあとにするほかなかった……。

 

   

  ◇  ◇  ◇  ◇

  

  

「おにーちゃん、ちょっといい?」

  

 久しぶりに予定のページが空白なままになっている、とある休日の昼下がり。

 もともと秒刻みや分単位で日常生活を送るような性分ではないとはいえ、ぽっかりと空いてしまった時間を持て余しぎみにしながら、縁側に座ってぼーっと青空なぞを眺めている。

 ああ、今日もいい天気だ……。

  

 と――

 そんな穏やかな時間というものの貴重さをなかなか理解してくれない、我が家の小さな住人によって、安穏とした雰囲気はいっぺんに崩れ去ってしまった。

 話しかけながら、こちらへとてとてと小走りに駆け寄ってくるのを見やりつつ……。

  

「……家の中では、むやみに走らないこと」

「はにゃ。あう~、ごめんなさい」

  

 少しばかりしゅんとした表情になる我が妹――高町なのは。

  

「で……どうした?」

  

 が、俺の次の問いかけに、ぱあっと顔をほころばせる。

 ……たとえるなら、瞬間芸。本当に反省したのかちょっと気になるところだが、まあいいかと思い直す。このくらいの年頃の子供には、沈んだ表情よりも笑顔のほうがふさわしいはずだから。

  

「あっ、そうそう! あのね……」

  

  

   

 ……。

 …………。

 ……うーむ。

  

 つまり、なのはの話を要約すると、こうだ。

  

『う~んとね。那美さん、なんだかさいきん元気がないみたいだけど……おにーちゃん、知ってる?』

  

 …………。

 今でも毎日のように久遠のもとに通って、一緒に遊んでいるなのは。それを嬉しそうに見守っている那美さん、なのだが。

 久遠とただ遊んでいるだけのように見えて、なのはなりに周囲を観察してもいるのだろう。子供とて、あなどることはできない。

 その一方で、我が妹にまで底にある感情を見透かされているという、那美さんの素直さは微笑ましく思う。しかし同時にそれは、なのは以外にも同じことに気付いた者がいるだろうことをも示していた。

  

「……」

  

 言わずもがな、俺もそのことは先刻承知している。

  

 ――この世に心残りを置いたまま留まっている「霊」。

 鎮魂させ、成仏させる事ができなければ……人に害なすものとして、いかなる理由があろうと、その存在を消滅せねばならない。

 生者には生者の、霊には霊の棲む世界がある。住むべき世界に生を享けた人々を、守らなくてはならない。

 言葉を重ねるまでもない。いやというほど、充分に理解している。

 それでも、優しいひとだから……。

 那美さんはそんな彼らを、なるべく安らかに眠らせてあげたいと想っていて。

  

 無念を残して亡くなっていった霊を、斬ることに。

 今でも、ためらいと深い罪悪感を残している。

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇  

  

  

「あ~、そうですね。俺もよく訓練しに神社へ行くんですけど、やっぱり那美さん……」

  

 ――最近元気がないように見えますね。

  

 家族そろってテーブルを囲んでの夕食時。なのはの感想に、うんうんと同意を示す晶。

 別にとりたてて話題にしようと思ったのではないが、なんとなく、誰からともなく再びこの話題が飛び出して。

  

「う~ん。うちもこの前買い物帰りにちょこっとお会いしたんで、挨拶したんですけど。そーいや、ちょうそんな感じだったかも……」

「……美由希、お前はどう思う?」

  

 あまり事を大きくはしたくなかったのだが、晶に続いてレンまでもが同じ印象を口にするので、俺は美由希にも聞いてみた。

 と、彼女は持っていた箸と茶碗をテーブルに戻して。

  

「……うん。確かになのはや晶、レンの言う通りだったかな。いくらか、思いつめているような感じで……」

  

 そしてさらに、「あの除霊の日あたりからだよね」と付け加える美由希。

 俺と那美さんが交際しているのは、家族にはすでに知られていることだから。面映い気分になることも多々あるが、純粋に応援してくれるその気持ちをとても嬉しく思っている。

 そのため、俺は那美さんの除霊の仕事に付き合う際、いつもその旨を家族に知らせてから出かけている。つい先日の少女の除霊もまた、当然ながらその例に漏れることはなかった。

  

「……恭也。その日、何かあったの……?」

  

 と、いくらか真剣な眼差しで、フィアッセが俺のことを見つめた。

  

「ん~……まぁ、少し……」

  

 厳しいかもしれない。が、これは那美さん自身が心のうちに抱えた問題だ。たとえ相手がフィアッセやかーさんたちとはいえ、俺が口にすべきかどうかやはり迷った。

 と。言葉を濁す俺のかたわらで――なにやらアイ・コンタクトを交わし合う、レンとかーさんの2人。

 時間にしてほんの数瞬ほど。それでいながら、費やした時間とは比べものにならないくらい密度の濃い会話が繰り広げられたということは、両者の顔色を見ればすぐに分かった。

  

 ……な、なにを話し合ってたんだろう?

  

「う~ん……。これは桃子ちゃん、ひとつうちらで何かぱーっとしたコトをしてあげたほうがええんやないかなぁ?」

「うん……そうね。那美ちゃんはもう私たちにとっても『他人』じゃないもんね」

「あ、グッドアイデア! いいね、それ♪」

  

 さも一家の重大事のような表情を作ってうなずきあう2人に、フィアッセが賛意を示して――

 そこにすかさず晶、なのはまでが加わって。俺がなにか口にするよりも先に、さっそく計画という名の花が咲きほころんでいく。

  

  

 ――押し付けでなく、見返りを求めてのことでもなく。

 ただ純粋に、ごく当たり前のように那美さんのことを考え、想ってくれているみんなの姿を見ながら。

 俺はこの優しい家族に、その思いやりに、声には出さずに心の中でひそかに感謝をした。

  

  

  

  



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後編

  

「はあ……」

  

 なんとはなしに、漏れてしまったため息。

 今日という一日だけで、もう何回目になるだろう。

 はっと気がつき、慌てて「いけない」とかぶりを振る。

  

 ……手に持ったほうきを、再びちゃんと握りなおして。

 余計なことを考えはすまいと、私は神社の境内の掃除に専念しようと努める。

  

 それでも……ときおり、またあの瞬間のことが頭をかすめて――

 いつまでも、何度でも湧きあがる、答えの見出せない疑念。

 ……ああ。

  

「私、あのとき……。本当にあれで、良かったのかな……」

  

  

  

  

「那美ちゃん、最近元気がないね。どうかした……?」

  

 私の下宿先、『さざなみ寮』での朝。

 それは、たまたま早起きをした私が、朝食作りを手伝っていたとき。

 うう……だけど私は食器やお皿をテーブルへと運ぶ係になっちゃっているのが、ちょっぴり悲しい。

 ここにはたくさんの人たちが一緒に住んでいるから、大きめのボウルに野菜のサラダが山盛りに盛られて。それをテーブルの真ん中に置いてキッチンに戻ってきたとき、ここの管理人さんである槙原さんが、そう私に尋ねてきた。

  

「え、えっと~……」

  

 反射的にいつもの自分を取り繕おうとして……すべて見抜かれてしまっているのに気がつく。

  

「あはは……。やっぱり、分かっちゃいます……?」

  

 あまりみんなに心配をかけたくはないから、なるべく表には出ないようにしてきたつもりだったんだけど。

 ……あいかわらず嘘とか隠し事といったことが下手だなあ、私。

 そんな私に、槙原――耕介さんは、優しい笑顔を向けながら聞いてくる。

  

「それは……俺や愛さん、それに真雪さんたちには、話しにくいことなのかい?」

  

 私は、あわてて首を横に振った。

  

「そ、そんなことないですよ。……耕介さんやみなさん、本当に優しいですし……」

  

 それは本心からの、私の思い。

 ここに住んでいる人々は、たとえ話を茶化すことはあっても、その裏では真剣に悩みに耳を傾けてくれることはわかっている。

  

 ……ここのみんなは、本当にあたたかくて優しい人たちばかりで。そして、とても強い人たちで。

 それぞれいろんな境遇を抱えながらも、私を支えてくれるから。

 だから……なおさら。

 私と同じ、「両親のいなくなった子」の霊を安らかに成仏させてあげられなかったことに、いつまでもくよくよと思い悩んでいる私が……情けなく思えてきて。

 まだまだ未熟な自分が、とても悔しくて。

  

 ――愛さんや。

 ちょっと形は違うかもしれないけど……リスティさんや、そして――恭也さんたちも。

 本当の両親はもういないけれど、それでも優しく、暖かい気持ちを忘れずに持ったまま、暮らしている。

 あの子だってもっと話し合えば、そうなったかもしれないのに。あの子の想い、あの子が好きだったものをよく知って、ちゃんと寄り添ってあげることができていたら。心の奥底に沈んだ光明を、引き上げてあげられたかもしれないのに……。

 もとの優しい子に立ちかえって、みんなに笑顔を向けながら成仏することだってあり得たかもしれない。

  

 それなのに……。

 それを私は、「雪月」で斬った。未練も怨念も晴らしてあげることのないまま、霊を消滅させてしまった。

  

 後悔しても、もう戻らない。時間を逆戻しにすることなど、できはしない。

 そして何より、これが『神咲一灯流』の道だということもわかっている……けれど。

 それでも……。

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇ 

  

  

 …………。

 さっさっさっ……。

  

 今日も私は学校から帰ってくると、神社の掃除に励んでいる。

 境内のあちこちに散らかった落ち葉やちょっとしたゴミ類をほうきでかき集めて、用意したゴミ袋の中に次々と入れていく。

 あと少ししたら地面いっぱいに広がった桜の花びらで、これまでとは比べものにならないくらいに大忙しになるだろう。いたるところに舞い散った薄桃色の羽根を無造作に集めては捨てていく行為に少しだけ心が痛むけれど、現実はそうも言っていられない。

  

 ――現実。

 今の私には、それが少し重たかった。

  

「あ、こっちにもありますよ」

  

 もう一本、手渡したほうきを握って……私を手伝ってくれる恭也さん。

 私からお願いしたわけでもないのに、それが当たり前であるかのようにしてくれる、そんな気遣いが嬉しくて。

 恭也さんといるときは、私の心の中もいくらか穏やかな晴れ間を見せてくれる。

 だから、こんな時間がこれからも長く続いてくれるといいなと、私は誰にも聞こえないようにこっそりと呟いてみる。

  

 ……そしてしばらく2人で、境内の掃除をすませたあと。

 私に一枚の手紙を手渡してくる、恭也さん。なんだかちょっぴり複雑な顔といっしょに。

  

「ええっと……招待状、ですか?」

  

 女の子向けの可愛らしい装飾が縁取り部分に施された、その手紙の表題に目をやって……。

 私が何か言おうとするよりも早く。

  

「ウチの連中がどうしても、というので……」

  

 …………。

 あはは。と、私はちょっぴり笑う。

  

『第1回 那美さん、これからも恭也をよろしくねパーティ』

  

 ――恭也さんが手渡すときに複雑な表情をしていた理由。嬉しさといっしょに少しばかりくすぐったさも感じている、きっと今の私と同じ気持ちでいるのだろう。

  

「……シメてやろうと思ったんですが、なにぶん相手が相手なもので……」

  

 その言葉に、また私はくすりと笑った。

 この題名の発案者が誰なのか、私にもだいたいの察しはついたから。

 恭也さんが頭の上がらない相手……きっと桃子さんか、フィアッセさん。

  

「まぁ……なんのかんのと言って、ただ宴会したりみんなで楽しんだりできる口実が欲しいだけなんですよ、ウチの住人は」

  

 あはは……と笑いながら、きっとそんなつもりだけで開いてくれるんじゃないってことが、私にもわかった。

 私を誘ってくれるとき、少しだけ無愛想っぽくなるのは、恭也さん一流の照れ隠し。

 誰よりもそばにいてほしい人が、誰にも負けないくらいに心配してくれていたんだなぁ……と、それにようやく気付いたから。

 私は何ひとつ迷うことなく、この招待に身を委ねることにした。

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇

  

  

「那美ぃ~。ホラ飲め。じゃんじゃん行けぇ~!」

  

 とすんっ。

 と、私の目の前に、日本酒がなみなみと注がれたコップが勢いよく置かれる。

  

 本人いわく『秘蔵の一本』というその液体は、どこまでも透き通っていて。

 ただの真水のように見えながら、だけど水とは似て非なるもの。

 当のお酒を注いでくれた人は、当たり前のことだといわんばかりに涼しい顔をしているんだけど……。

  

「あ、あの……? 私って厳密に言うと、まだ未成年なんですけど……」

  

 そして、明日は恭也さんたちに招待されている日の当日。

 だからなおさら、酔っぱらったりしちゃうと困るんだけど……。

  

「ンだとぉ、あたしの酒が飲めないってのか?」

  

 続けざまに「あ~あ。これだから、やっぱり神咲の人間ってのは……」と、盛大なため息とともに首を振る真雪さん。

  

「……まあまあ、無理に勧めちゃダメですよ~」

  

 見かねた愛さんが優しい声音とともに間に入って、私のコップをジュースで満たされたそれと交換してくれる。

  

 ――私が呼ばれて「さざなみ寮」の中にあるリビングルームに入ったときは……愛さんと、そして耕介さんに真雪さんは、すでにちょっとした酒盛りの真っ最中で。

 時刻は、そろそろ深夜にさしかかろうとするころ。真雪さんや耕介さんをはじめとしたさざなみ寮の大人たちは、わりと日ごろからこうしてお酒を酌み交わしているみたいだけど……。

 私は未成年だし、お酒にも弱いので……ごくたまにリスティさんも加わっていると聞くこの席には、あまり参加したことがない。

  

「どう? 明日の出かける準備は、もうちゃんとできた?」

「あ、あはは。そんな、別に大して用意するものとかもありませんでしたし……」

  

 愛さんが入れてくれたジュースを飲みながら、苦笑いを返す私。

 あ……ちょっぴり甘めな、りんごジュースだ……。

 言葉遣いや話し方はみんなそれぞれ違うけれど、耕介さんや真雪さんも、私に向けてくる視線はいつも暖かさに満ちていて。

 

 と。

 そんな私の肩に、機嫌を直したらしい真雪さんが、不意に身を寄せてきて。

  

「……そういやさ。あたしの知り合いに、それまで持っていた連載を終えたばかりの作家がいるんだけどさ」

「……はい?」

「作品を完結させてから、今になっていろいろと後悔してるんだと。あのときこういう展開にしておけばよかった、あのシーンで別の結末を用意しとけばよかった、とかさ」

「はあ……」

  

 そう語る真雪さんはプロの漫画家さんだから、共感できたりするのかもしれないけど。私には詳しいことはよくわからない。

  

「でも、もう大団円を迎えて終わった作品を、今さら根幹から崩して改変するなんてできないよな。それは外伝とか、元の作品とは違う世界軸の物語になっちまう」

「む、難しいんですね、漫画の世界も」

「そ。簡単じゃないよな、どこの世界も」

  

 どこまで話を理解できているか不安になりながら応じる私に、語りながらコップの中身を口へと運ぶ真雪さん。

  

「でさ。終わった物語を作り変えるつもりはない、だけど後悔だけはいつまでも残っている……」

「……はい」

「そんなとき、どうすればいいと思う?」

「……え、えっと……」

「……そいつはさ、決めたんだ。後悔も、反省も全部ひっくるめて、その上で自分が描いたキャラクターたちのことを絶対に忘れないようにしよう、って」

  

 あ……。

  

 少女の霊と、同じことかもしれない。

 いくら後悔したところで、時間は戻せない。世界を変えることも、できはしない。

 だからといって、いつまでも立ち止まっているわけにもいかない。今この瞬間にも、次の『お仕事』が舞いこんでくるかもしれない。

 だから……真雪さんの話すその作家さんは、自分なりに前を向く方法を決めたんだ。

  

 ――隠そうとしていたものの、私の気落ちぶりは恭也さんをはじめみんなに気づかれてしまっていたようで。それでも、その理由までは明かしていないはずなのに。

 こういうとき、耕介さんや真雪さん、愛さんたちの前では、私はまだまだ子供だなと痛感してしまう。

 そして、そんな私でも、いつか大人になるのなら。目の前にいる人たちのような大人になりたい。

  

「あ~、それで。その。なんだ……」

  

 真雪さんの話に、みんながそれぞれの思いにふけってしまったようで。そんな空気を一掃するかのように、あらためて真雪さんは一度大きく咳払いをすると……。

 どこか照れた様子ながらも、私の肩をぽんと優しく叩いて。

  

「まぁ、明日は思いっきり楽しんで……嫌な気持ちを吹き飛ばせるといいな」

  

 そう言いながら一方の腕を伸ばして、促すように耕介さんをつっつく真雪さん。

 すると長身の耕介さんは椅子から立ち上がって。テーブルごしに、少しだけうつむいた私の頭をそっと撫でてくれた。

 ……あったかいな……。

  

「だけど、さ。俺たちの存在も、忘れないでくれよ? 相談とか悩み事とか、ここにいるみんなで解決したい、し合おうって思うからさ」

「……はい」

  

 ……ここの住人になって。

 たくさんの幸せとぬくもり包まれて……包んでくれた、やさしい人たちに……。

 本当にみなさん、ありがとう――

 私は言葉にならないくらいのたくさんの感謝を、胸の奥で何度もつぶやいた。

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇

  

  

「――さあ! 今日はひさびさ、桃子さん特製のスペシャルメニューも用意したわよ~。さ、那美ちゃんもみんなも、遠慮しないでたくさん食べてね!」

「あ、もちろんうちらも腕によりをかけて作りましたんでー」

「俺が作ったのも、いっぱい食べてくださいね!」

「はにゃ~。ど、どれから食べようか、迷っちゃう……」

  

 桃子さんやレンちゃん、それに晶ちゃんが作った、テーブルいっぱいの料理の数々――

 和洋中の全部がそろって色彩豊かなだけでなく、どれもが私にはとても真似できないくらいに美味しそう……。

 そして同じように目を丸くしながら、なのはちゃんがつけたコメントが――まさに私の感想そのものだったりするわけで。

  

「あはは……それにしてもかーさん、ちょっと作りすぎなんじゃない?」

  

 そんな美由希ちゃんのコメントに、桃子さんは軽く口もとに指を当てながら「ちっちっちっ」と否定の仕草をしてみせる。

  

「な~に言ってんの。育ち盛りの人間がこれだけいるんだもの、きっとみんな食べきってくれるに違いないでしょ? かーさんは、そう信じてるから♪」

「あ、あはは。そうですねー」

  

 私はちょっとぎこちない笑みを桃子さんに向けながら……ちらりと恭也さんの方に視線を送った。

 あ。恭也さんも、ちょっと困っているみたい。

  

「ま、なにはともあれ……準備も整ったことですし」

「それじゃ、そろそろ始めましょうか。あ、桃子さん、乾杯の音頭をお願いします!」

  

 レンちゃんと晶ちゃん、それぞれから促されて――

  

「え~、それでは。僭越ながらこの高町桃子が、乾杯の音頭などを……」

  

 その桃子さんの声に合わせて、みんなは手に持ったグラスをそれぞれ重ねあわせていく。

  

  

  

 はあ……。

 みんな、すごいなぁ……。

 両手でグラスを持ちながら。半分ほど残っているジュースに唇を湿らすように、ことさらゆっくりと飲む。

 みんなの熱気にあてられたように、頬がちょっぴり赤くなっている気がする。

  

 ひとりひとりと、そして次から次へと触れ合いながら、今はひと休み。

 そんな私の横で、レンちゃんと晶ちゃんは、いつものように元気たっぷりに騒いでいて。

 一見するとケンカをしてばかりいるようにも見えるけれど、本当はあいかわらずの仲良しさんで。

 そして、私と一緒に招待された久遠も……なのはちゃんに抱かれながら、その輪の中に加わって楽しそうにしている。

  

「……那美。ここ、いいかな?」

  

 と。

 休憩している私に、フィアッセさんがかたわらの椅子を指差して声をかけてきた。

  

「あ、はい。どうぞどうぞ」

「それじゃ、ちょっとお邪魔して……っと」

  

 そう言うと、フィアッセさんは私の横に腰を下ろして。

  

「あ、そういえば。もうお酒、飲めるようになった?」

  

 もちろん、フィアッセさんのグラスに注がれているのは、まぎれもなくお酒。

  

「あ、あはは。私、まだ未成年ですし……」

  

 きのう真雪さんに言った言葉を、私はフィアッセさんにも繰り返した。

 するとフィアッセさんは、少しいたずらっぽい微笑を口もとにたたえながら……。

  

「恭也もね、お酒あんまり飲めないんだよねー。だからそのぶん、那美には期待しちゃおっかな~♪」

「わ、私も、ぜんぜん強くなんてないですよー?」

  

 思わず慌ててしまう、そんな私を――なんだか楽しそうな表情でフィアッセさんは見つめると。

『でも酔った時の那美の姿も、可愛かったよ~♪』、などとおっしゃる。

 恭也さんと子供のとき以来の……2度目に出会った年。そのときに行われたお花見の席で、情けなくも甘酒に酔っぱらっちゃって……。

 それからも数回ばかり、フィアッセさんやみんなの前でお酒を飲む機会があったけれど。そちら方面に関しては、これから何年経っても大きな進展は見込めないような気がする。

 あああ。だけどフィアッセさんは、あの時の恥ずかしい私の姿が、きっと鮮明に焼きついちゃっているのに違いない。

 

「……よくよく考えてみると、ちょっと不思議な光景だよね……」

「え……?」

  

 きょとんとする私に、優しい微笑みを向けながらフィアッセさんがつづける。

  

「だって、生まれた国とか、本当の実家とか、みんな全員いっしょ、というわけじゃないよね。なのに私にとっては、かけがえのない家族なんだもの」

「……はい。よくわかります……」

  

 人と人とのめぐり合わせ。それは本当に、どんな形で訪れるのか、誰にもわからない。

  

「那美とはこれからも、一緒にグラスを重ね合わせて……。そして、いろんなことを話したいな……」

  

 だから、そこに幸せがあるのなら。幸せであることを、忘れてはいけないと思う。

  

 ――フィアッセさんだけでなく。

 この場にいるみんなが、きっとフィアッセさんと同じ思いを抱いてくれている。

  

「楽しいことも……悲しいことも。私や、恭也に……いっぱいいっぱい。お互いにいろんなことを話し合いたいね……」

「……はい。私も……」

  

 そんなフィアッセさんの……そしてみんなの心遣いが嬉しくて――

  

「……あ」

  

 と、不意にフィアッセさんは立ち上がる。

  

「それじゃ……あとは本命の方にお任せしま~す♪」

  

 こちらの方に近づいてきた恭也さんに、『こいこい』と手を振って合図をすると。入れ替わるようにしてフィアッセさんは桃子さんたちの輪の中にさっと加わってしまった。

  

「……あ、あはは」

  

 私と恭也さんは、お互いに顔を見合わせると少しだけ笑って。

 …………。

  

「……元気、出ました」

  

 わずかな沈黙のあと。恭也さんが口を開くよりも早く、私はそう告げる。

  

「みんなにこんなに親切に、優しく気遣ってもらえて。これからもがんばろう、って……」

「そうですか……それは良かった」

  

 普段はあまり笑顔を見せない恭也さんだけれど、このときばかりは口元をほころばせてくれた。

 笑うことには慣れていない人だから、少しばかりぎこちないかもしれないけれど……私には見える、優しい笑顔。

 そしてまたしばらく……そっと沈黙が舞い降りて。

 あまり口数の多くない恭也さん。――でも、言葉はなくても、気持ちは私にはちゃんと伝わってくる。

  

「……本当に海鳴の人たちは……ここのみんなは、とても優しい方たちばかりですよね……」

  

 さざなみ寮のみんな。そして桃子さんをはじめとした、高町家の人たち。

 それに――恭也さん。

 たくさんの優しい人たちが、私を育ててくれている。

  

「『ありがとう』という気持ちは、本当に言葉では言い尽くせないくらいで……けれど、いつか。私からも、ちゃんと恩返しをしたいな、って……」

  

 その日が来るのは、いつになるか……今はまだ、わからないけれど。

 そのときが来るまで、この感謝の気持ちはずっと忘れないように。大切にしまっておこう。

  

 そして。

 少女の霊に伝えるべきものは、悔恨の念にとらわれた私ではなく。

 少女のことを、そんな彼女を斬ってしまったことをずっと忘れない、私の姿。

 そしていつか、ひょっとして。どこかの世界に生きる彼女と再会することがあったなら――

「人生、捨てたものじゃないよ」と、笑顔とともに話してあげたいと思う。

  

  

  

  

 一生忘れられない出会い……。

 幾つも過ごす季節の中、「出会えた奇跡」をずっと大切でいられるように。

 大切に思う気持ち、ちゃんと、伝えられるように――。

  

「ありがとう……恭也さん、みなさん……」

  

 私は……。

 今の私ができる、精一杯の感謝の気持ちをこめて。

  

 ここにいるみんなに、心の底からの笑顔を向けた。

  

  

  



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