セカイに強度が足りてない。 (はたけのなすび)
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その一

こんにちは。


推しキャラ(美少女)がTSしていた世界に生きる、頭がメタい転生者くんの話、です。
あとはドラゴン。

数話で終わります。


「先輩、オレ最近考えたんですけど、命かかってない状況だったなら、してみたかったかもしれません」

「……何をだ?」

「恋です。こーい。色恋のあれ」

「コイ」

「池の鯉が突然踊り出した、みたいな顔でこっち見るのやめてくれません?オレも流石に傷つくんスけど」

「……ああ、あっちの恋か」

「そっちの恋です」

 

 手の下できらきらと、宝石よりも眩しく輝く黒い龍鱗を、ブラシでごしごしと擦る夜のことである。

 話し相手としては、岩よりいくらかマシなだけ、と称されるほどに無愛想な先輩は、いつもと変わらない無表情であった。

 ドラゴンの鱗磨きという果てしない作業を夜にやり遂げるには、無駄話のひとつもしなければやってられないのだが、この先輩相手では話が広がらない。

 そう思っていると、意外なことに先輩のほうから話を続けてきた。

 

「支障が出ない範囲ならば、いいのではないだろうか?」

「何の話です?」

「恋だ、恋の話」

 

 お前が言い出したんだろうが、と言わんばかりのじとっとした目で見下され、うへぇ、と首を縮めた。

 やおら、ぐるぐる、と低い音が薄暗い龍舎に響く。

 先輩を首元に乗せたドラゴンが、群青の鱗をきらめかせて、首を動かしたのだ。

 がっちり噛み合った白い牙の隙間から、ちろちろと瞬く火が見えていた。

 

「……尤も、俺たちには難しい話だろうな」

「そうですねぇ。お前ら嫉妬深いもんなァ」

 

 ぽんぽん、と自分も自分のドラゴンの首の付け根を撫でるように叩く。

 薄い黒曜石を重ね合わせたような、強靱で美しい鱗を持つ黒のドラゴンは、気持ち良さそうにぐるるる、と喉を鳴らした。

 

 ドラゴン乗り、と先輩は言った。

 そのまま、言葉通りの意味である。

 自分も、そして先輩も、ドラゴンと繋がり、人龍一体となって空を駆けるドラゴンライダーであった。

 

「……ほんと、何でこうなったんだろ」

「ん?」

 

 顔を上げれば、そこにはドラゴンの首の付け根に跨り、片手に巨大タワシを持ってきょとんと首を傾げている先輩がいる。

 

 相変わらず、美少女と見紛うほど綺麗な顔であった。

 癖のないやや茶色がかった黒髪は紐で無造作に束ねられ、瞳は騎乗するドラゴンの鱗と同じ、澄んだ群青。肌は白くてなめらかで、顔の造り自体も人形師が手にかけたもののように整っている。

 だがしかし、男である。

 これだけ綺麗であって、先輩は男である。

 服の下なんか鍛えられていてえらくゴツい。少なくとも、自分よりは。

 

 割と、ムカつく。

 

「……どうした?」

「なんでもないです。先輩、鱗磨き粉、いります?」

「む……もらおう」

 

 何故こうなったかなんて、誰にも説明できやしない。

 ドラゴンの鱗を斑に染める血の汚れを落としながら、自分のこれまでを振り返ることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この世界は、物語である。

 そうと自覚したのは、遡ること十一年前、六歳のときである。

 育ての親共が集う、マッドで非合法な研究所にて、雷に打たれたようにバチッと悟ったのだ。

 原因は、生まれて初めてドラゴンの吐いた炎を間近に感じたことだった。くそ熱かった。

 

 頭の中に流れ込んできた知識によると、この世界のジャンルはファンタジー。

 媒体は漫画から始まり、メディアミックス展開はアニメと映画とその他諸々。

 ドラゴンと契約した人間、ドラゴンライダーを主軸に、人間と、魔の北大陸から進行してくる魔族との戦いを描いた王道の物語だった。

 

 主人公も、無論ドラゴンライダーである。

 

 山間の村で家族と共に静かに暮らしていたが、ある日突然魔族の侵攻を受け……みたいな、そんな話。

 実は伝説のドラゴンライダーだった行方不明の父がいて、そのドラゴンが産んだ卵を受け継いで、などという設定も王道に踏んでいて、最終的には主人公と主人公のドラゴンと仲間たちが、めちゃくちゃ頑張ってラスボスを倒し、魔族を押し返してこの世界を守り切る。

 

 主人公は努力家で熱血で、彼を支える幼馴染みは健気で一途で、彼ら二人を軸にした仲間たちでいつか世界を救う物語だ。

 

 ドラゴンと人が絆を育み戦う王道のファンタジーとして、人気だったのだ。

 漫画から始まり、アニメにもなっていた。

 特にドラゴンの戦闘シーンの作画の精密さ生々しさがエグいほど高く、ドラゴン動けば敵も死ぬけどアニメ作画班も死ぬ、などとネットで言われていたほどである。

 

 そんな超人気作品の唯一の問題点というか紹介する上で欠かせない作風の特徴は、キャラクターの死亡率が高いことだった。

 

 それは、仕方ない面もある。

 一般兵の魔族一人を人間が殺すには、熟練した人間の兵士三人が最低必要で、一対一で苦もなく魔族兵を殺せるのは、ほぼドラゴン抜きのドラゴンライダーのみ。

 魔族はその名の通り魔術を使ってくるのに対し、人間にはドラゴンライダー以外魔術を使えるやつは、僅かな例外を除いてほぼいない。

 情報がないまま魔将と戦闘すればドラゴンライダーが死ぬ、なんてことも割とあるのだ。

 誰でも彼でもドラゴンに選ばれて乗れるわけではなく、一人前のドラゴンライダーを育てるには、最低三年はかかるとされているため、一度開いた穴は痛い。

 

 流石に主人公と幼馴染みは死なないが重傷にはなるし、主人公の友人の一人は最終決戦に突入するより前に死んだ。

 連載初期から登場していた人気キャラクターですら死ぬ仕様に、ネット上ではファンによる追悼会まで開かれたレベルである。

 

 自分はといえば、アニメになる前から好きで、漫画も全巻揃えて、最終巻で泣いた、くらいのファンである。

 グッズや舞台に血道を上げるほどではなかったが、キャラクターの名前を全部そらで言えるくらいには読み込んだ。

 

 つまり、好きだったのだ。

 相棒のドラゴンとの絆、仲間との絆、すべてを集め束ねて、犠牲を払って、それでも世界を救う主人公の物語が。

 人を信じ、信じられ、諦めないで戦って生きられる主人公そのものが。

 

 だが、断言する。

 絶対に、転生したい世界ではなかった。

 

 

 何せ名のある魔将が敵ともなると、ドラゴンライダーとドラゴンが死にもの狂いで戦ってようやく倒せるか否かというクソゲー仕様。

 クソゲーというか、ここまで来るともう死にゲーの様相を呈している。

 これがゲームならば、死んでもセーブとロードでやり直しが効くし、死に覚えなんて手もあったが、そんなものはない。

 ある訳が、ない。

 

 そんな世界に、ぽんと転生してしまったわけだ。所謂、【原作知識持ち】として。

 ふざけるな馬鹿出来の悪い二次創作じゃねぇんだぞ。

 

 なんて悪口雑言吐き散らしていられたのは、今は昔である。

 自分の育ったところは、【神の子】を造ろうと企む控えめに言って、頭のおかしい研究者共が集う研究所であった。

 異次元に住まう神をこの世に降ろせば、魔族すら跳ね除けられる人間を生みだせるはずだという、彼らなりの救世の信念にとっつかれた研究者の手により、生まれてすぐにあれこれと実験に晒されたのが、自分である。

 生みの親は、知らない。

 

 その結果なのか、自分は六歳で転生した、という自覚に芽生えた。

 今考えると、異次元の【神】とはもしかすると原作者のことだったのかもしれない。

 クリエイターの中には、どこかから変な電波でも受信しているとしか思えないような、クリエイティブでパイオニアな作品をするする創るのもいる。

 だからもしかすると、あの物語の作者はこの世界からの電波だか思念だかを受け取って、漫画を描いていた、と考えることもできなくはない。

 大分、SFかつファンタジーに侵食された、メタい発想ではあるが。

 

 異次元の神を呼ぼうとして、自分のようなただのファンを呼んでしまったというならば、ご愁傷様である。

 電波の逆探知にしくじったようなものだ。

 ちなみに彼らは、救世のためにとバリバリ違法研究に手を染めていたため、ドラゴンとドラゴンライダーに薙ぎ払われた。

 アレは本当に、ご愁傷様だった、

 

 だが結局のところ、自分の転生にまつわる有象無象の理屈は、どうだっていい。どうだってよくなった。

 

 何故ならば、今は物語開始より遡ることざっと百年前。ドラゴン戦争真っ只中。

 作品中では【暗黒期】【苦闘の時代】【嘆きの五十年】。ファンからは【オワコン時代】【ただの世紀末】【人類は頑張ってた】とまでボロクソに言われる激戦期であったからだ。

 【原作知識】なんぞ、なんら意味をなさない。

 朝出撃していったドラゴンライダーが死体になって帰ってくるのはまだマシで、ドラゴンごと撃墜されててんやわんやになるのも稀にある。ドラゴンの遺体からはドラゴンの炎を跳ね返せる装備が作れるため、敵に奪取されると洒落にならず、死ぬ気で取り返すことになる。

 

 そんな地獄一歩手前な戦況で、主人公がいずれ戦うことになる敵幹部のことなど、知っていてなんの役に立つ。

 今は、海を隔てた北の魔大陸にいる敵の大将や将にすら届かず、人間側はどうにかこうにか、南大陸に上陸されるのを文字通りの水際で防いでいる時代。

 魔族の敵含め、原作キャラの大半は現れてすらいない。

 【暗黒期】は、人間側が制海権を取り戻すことで終わる。

 終わるはず、なのだ。

 

「先輩、百年後って世界はどうなってるんでしょうね?」

「……何事もなければ、お前も俺も存命だろう。ドラゴン乗りは長命だから」

「何事もなければ、なんてあり得ねぇ前置きしないでくださいって。あー、つまり、百年後なんて考えても仕方ないってことですね」

「そういうことだ。半人前のお前は、自分が生き残ることに集中しろ」

「はいはーい」

 

 だだっ広い食堂の席で先輩と向かい合わせに座り、カレーに似た、というか日本のカレーライスそのものと言っていい朝飯を食べる。

 この世界、やはりどことなくあっちの世界と似ているところがあるのだ。食事で似たものを見つけたときは、本当に嬉しかった。

 鱗磨きの夜が明け、先輩と自分とは久しぶりの出撃無しの日を噛み締めていた。

 ドラゴンライダーは、ドラゴンと繋がっているためか、皆大食いだ。

 先輩は男にしては見た目の線はやや細いし、自分もこの歳にしては少しチビだが、大男二人前は食う。

 

 ドラゴンと、その乗り手の絆は特別だ。

 ドラゴンと繋がった彼らは皆、体のどこかに龍鱗模様の痣が浮かぶ。

 【鱗印】とも呼ばれるそれは、ドラゴンライダーの証。

 先輩の鱗印は左手の甲、自分のは右の首筋にあり、それぞれ群青と黒の鱗をしていた。これを通じ、ドラゴンは自ら選んだ乗り手との意志の疎通をはかる。

 ドラゴンは、現状南大陸にのみ住まう生き物の形をした自然の暴威だ。炎を吹き、空を飛び、山を崩し、大河の流れを変え、寿命も人間や魔族と比べれば遥かに長い。

 同時に、ドラゴンは北大陸に住まう魔族そのものを憎悪していた。

 理由は、この世界生まれの人間たちにとっては定かではなく、【原作】を知る自分はハブとマングースのアレだと思っている。天敵って、そんなもんだろ。

 

 それだから、魔族が彼らの領土である北の大陸から、南の大陸へと侵攻した何百年か前、それまで深山に住まい、干渉してこなかったドラゴンは人間の前へ降り立った。

 ドラゴン同士は闘争本能が強すぎ、互いに手を取り合って共通の敵を相手取ることができない。

 故に、目に叶った人間を乗り手とすることで部隊を作り、魔族を迎え撃つと宣言したのだ。

 ドラゴン側の意志を人間に伝えたのは、初代のドラゴンライダーだったという。

 

 乗り手なしのドラゴン同士の連携が取れないというのは、本当だ。半径一キロに同性のドラゴン同士がいると、彼らはすぐ乱闘を始める。

 個体として強力な分縄張り意識が高く、侵入者に対して殺し合うほど熾烈になるドラゴンのサガだと生物学者は言うし、自分も漫画の考察などからしてそういうことだろうと思っている。

 だがその性質は、人間と魔力で繋がることで緩和される。人間の感情や情緒を感じることで、本能が幾分抑えられるのだそうだ。

 鱗印を通じ、ドラゴンの魔力が人間に流れ込み、神経回路にも似たある種の不可視の線が結ばれるというが、こちらの理屈は自分にはよくわからない。

 ドラゴンに繋がれた人間は、身体能力や回復力が魔族並みに高くなり、魔力を扱えるようになる。

 魔力とは自然に満ちる、これまた不可視なエネルギーとされているが、詳しい理はやはり、自分にはわからないのだ。

 

 とりあえず、ドラゴンに触れて体中が燃えるように熱くなって、鱗模様が体のどこかに浮かべば人間やめちゃった系の防人になる資格が得られますよ、という認識であるのだ。

 

 ドラゴンライダーは、寿命すら平均八百年というドラゴンと同じになるはずだ。

 殉職率が高すぎて、そんなに生きたやつを見ないが、老いは遅くなっているから、多分間違いではなかろう。

 首を落とされたり、心臓を完全に潰されたり、灰になるまで燃やされれば死ぬが、そこまでせねばドラゴンライダーはなかなか死なない。

 自分も、そういう人間やめかけの領域に踏み込んで早八年。

 マッド研究所生まれ、戦場育ちのどうしようもない赤毛の餓鬼は、ドラゴンライダーとして今日もあくせく空を駆ける日々を送っていた。

 

「先輩はどうすんですか?オレはコクヨウと森の縁辺りで過ごすつもりですけど、街にでも行きます?」

「俺もシランといる。あいつは森の縁が好きだからな」

 

 ふぅん、と自分は鼻を鳴らした。

 コクヨウと名をつけた黒鱗ドラゴンは、自分が卵から育てた。

 普通ならドラゴンは乗り手の人間が死ねば、また新しくライダーを選び、戦う。

 人間のほうがドラゴンより脆いから、乗り手が入れ替わることは珍しくない。魔術で狙撃されて乗っていた人間だけが戦死、というやつだ。

 だけどコクヨウは、卵のころに研究所によって母元から盗み出された。

 そして黒ドラゴンは、卵のころに出会い、唯一自分を実験動物扱いしなかった自分に、依存してしまったのだ。

 コクヨウは、誇り高くて我の強いドラゴンにあるまじき、雑魚メンタルトカゲなのである。自分がいなければ、すーぐ駄々っ子のように不機嫌になる。

 だから自分は、非番だろうが何だろうがコクヨウの側にいるしかない。

 別に街に行きたくなる理由なんぞないから、構いはしないが。

 これで普通のドラゴンならば、クソ雑魚メンタル火吹きトカゲなどと乗り手が考えた時点で、その首を食いちぎっている。

 乗り手の思考は、ドラゴンにほぼ直接伝わるからだ。思念の飛ばし合い、要するにテレパシーは、空中戦では必須技術だった。

 

 そういえば、主人公は人間ともテレパシーできるほどに思念能力が高かったなぁ、と思いだした。

 

 テレパシーには、憧れる。

 自分にもあったらいいのに。

 

「……何故俺を見る」

「いえ別に」

 

 やっぱりないほうがいいか、と目の前のこの先輩を見て手のひらを返した。

 

 原作開始百年前のこの時代、原作キャラのほとんどは確かに生まれてすらいない。

 だが、例外はいる。

 目の前の、このカレーライスをもぐもぐと頬張っている二十歳そこそこに見える青年なんかは、その一人だ。

 

 だがしかし。

 

「先輩は……ハイ、男ですよね」

「見ればわかるだろう」

「レト先輩の首から上は美少女です」

 

 自分の軽口に、割と真剣に不服そうな顔をする先輩、レト。

 【彼】は、【物語】の中では彼女だった。

 作中屈指の人気ヒロイン、【蒼の巫女】のレテであったのだ。

 

 人気ヒロインのTSとかマジで人を選んでやがる、と思いながら、自分はカレーの最後の一口を飲み込んだのだった。



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その二

十話くらいで終わります。


 

 

 

 【蒼の巫女】レテが登場するのは、全三十巻を超えるコミックスにおいて、物語も中盤に差し掛かったころである。

 端的に言うと、割と遅かった。

 だというのに、彼女がどうして人気投票で上位に食い込むほどのヒロインだったのかといえば、その背景と作中での活躍が原因だろう。

 原作の物語において、人間とドラゴンが守る南の大陸と、魔族が暮らす北の大陸の間の海には、壁が存在する。

 壁といってもそれは人間側が築いた結界であり、北の大陸からの侵攻を魔力で遮り、押しとどめている。

 薄い金色に輝く光のヴェール、誰が呼んだか【百年結界】。

 ドラゴンライダー・レテは、この結界を張るために身を捧げた【暗黒期】の英雄である。

 物語では、彼女の語る百年前の戦いは【過去編】として扱われる。そのシーンにおいて、彼女は腰まで届く青の髪に、自らが契約したドラゴンと同じ群青の瞳を持ち、敵軍を何度も蹴散らして侵攻を食い止め続けた戦女神さながらの戦士だった。

 【暗黒期】最後の戦いで、彼女と彼女が駆るドラゴンとは、魔族を一時的に押し返しそのまま【百年結界】の要石となる。

 当時最強レベルの魔力を持つレテとレテのドラゴンが人柱となることで結界は完成し、なんと百年もの間、魔族に海を渡らせなかった。

 これが破れかけるところから、物語の本編が始まるのだ。

 

 ともかく、レテはたった一人と一頭で結界を保ち続けた。

 物語中盤で結界が耐えられなくなったと悟った折、彼女は思念体を飛ばして主人公たちに寄り添う。

 ドラゴンとより深く繋がり、一体となって戦う術を教え、過去の戦いを語る。

 華奢な少女が背負わされた、人柱としての百年間を支えたのは、当時の人々を守りたいという純粋な愛だった。

 無口で無表情で苛烈に主人公を鍛える師匠として、かつての英雄として君臨したかと思うと、繊細で優しく、少し口下手な少女の面を覗かせるレテ。

 そんな彼女は、物語終盤において死ぬ。

 結界がついに耐えられなくなり、砕け散ったそのときに、彼女の人生も終わるのだ。

 思念体を飛ばしたのは、自分の後継を鍛えるため。戦いを受け継いでくれる希望の光を見つけるためだったのだと明かされるのも、このときだ。

 

 物語に登場した瞬間から、レテにはこの戦いを生き延びようという意志も、生き延びられる道もなかった。

 

 さようなら、愛しい世界、大好きだったあなた、と、儚い微笑みとともに主人公へ告げたレテが光の粒となって砕け散る最後の台詞は、涙無しには読めなかった。

 そこから、最終決戦が始まり、レテの最期の言葉は開戦の号砲となる。

 茶化さねばやってられないという悲壮感から、公開告白というやつもいたが、文字通りレテは、主人公への淡い想いを、淡い想いのまま抱いて、散ったのだ。

 

 で、そんな終わり方をした儚げ美少女キャラクターに、人気が出ないわけがなかった。

 キャラデザも、アニメでの声も文句なしとなれば、言うことはない。

 

 かく言う自分も、好きだった。

 キャラクターとして一番好きなのは主人公と幼馴染みのカップルだったが、場面としてならばレテの回想と最期のシーンが、最も好きだったのだ。

 

 だがそれは、過去の話である。

 

 百年前の、【蒼の巫女】レテ全盛期となるはずの時代において群青の雌のドラゴン・シランに乗っているのは、【蒼】のレトである。

 

 レトは、男である。

 どっからどう見ても、男なのである。

 あと髪も色が違う。眼は群青だけれども。

 

「無口無表情口下手って、美少女がやるから絵になるし許せるんであって、美形野郎がやってても、なァ……」

「お前はよく意味がわからないことを言う。が、今のはわかる。確実に俺を馬鹿にしただろう」

「してませんって。先輩が今日も美少女だなって思ってるだけです」

「……俺は男だ」

「そうですね。だから問題なんです」

 

 先輩のドラゴン、シランの角を磨きながら答える。

 普通なら、ドラゴンは己の認めた乗り手以外背に乗ることなど認めない。

 だが付き合いが長いお陰か、シランは自分が乗っても怒らないのだ。

 尚、コクヨウは先輩が背に乗るのを嫌がるし、なんなら乗り手の自分以外が側によるのも嫌がる。メンタルが基本ビビリのトカゲだからだ。

 などと考えていると、ベシ、と黒い棘の生えた尻尾が地面を叩き、足元が揺れた。ぼわん、と不機嫌の証である黒い煙が、真っ白い、人の腕以上の太さの牙の隙間から漏れる。

 しょうがねぇなぁとシランの背からコクヨウの背へ跳び移る。

 首の付け根の鱗をかいてやると、コクヨウは一抱えもある皿のように大きく赤い眼を細め、ぐるぐる喉を鳴らした。

 ドラゴン乗りの瞳の色は、繋がったドラゴンの瞳と、同じに染まる。

 コクヨウは違うが、大体のドラゴンは、鱗の色と瞳の色が同じだから、瞳の色を見たら契約龍の鱗の色も大体はわかる寸法だ。

 故に自分の瞳も、コクヨウと同じ血の赤色。髪も赤で、肌も褐色。

 何から何まで、【前】とは違う。

 

 

 地味に不満なのは、黒い鱗に紅い瞳なんて、まるでラスボスが乗ってそうなカラーリングであることだ。倒されそうじゃねぇか。

 乗り手の自分も、赤毛で赤眼なものだから、頭から血を被ったときはエライことになる。

 振る舞いは大型犬じみた、しかし面はあくまで凶暴な黒ドラゴンを撫でながら、自分はシランの足の付け根に座り、無表情で本を読む先輩に声をかけた。

 

「先輩、そういえば近々オレたちの側から敵さんに攻め込むってマジですか?」

 

 途端に、先輩は手に持っていた本を取り落としたのだから、自分はケタケタ笑ってしまった。

 【レテ】であったならば、普段はクールな美少女が見せるギャップということで収まるが、現実はドジなポニーテール野郎である。

 凄く、夢が無い。

 先輩が、【レテ】のように髪を伸ばしているのだって、シランが切るのを許さなかったというなんとも締まらない理由であるし。

 

「……誰から聞いた」

「まず否定しないってことは事実ってことでいいんですね」

 

 しまった、とばかりに先輩は一筆で描かれように整った眉を寄せた。

 

「だって、オレらドラゴン乗りに交代で休暇与えるとか、変じゃないスか。会いたいやつがいるんなら今の内に会っておけって、シャクラさんにも言われましたし」

「あのお喋りが……」

「気遣いってやつですよ」

 

 戦場で出会った人たち以外に、特に会いたい人も会うべき人もいない自分にとっては、今日の非番というのは完全に無用の長物だったのだ。

 てっきり、先輩は誰かに会いに行くものと思っていた。

 というのに、これである。

 この人、シランと後輩の自分以外でちゃんと話ができる相手がいるのか怪しい。

 【レテ】はその強さと、当時は一人しかいない例外の女ドラゴン乗りであるが故に、高嶺の花のように孤立していた感はあった。

 

 彼女と同じか、それ以上に強い先輩も同じことになっているのだが、ガワが美少女じゃない先輩がこうだと、単なるコミュニケーション能力の問題に見えてくる。ああ無情。

 

 落とした本を、何事もなかったみたいな顔をして拾う先輩を、コクヨウの背中の上から眺める。

 どう取り繕って説明しようか、先輩の頭の中は大回転しているだろう。

 無駄だけど。

 

 どうしようか、と思ったとき、地面が影に覆われる。見上げれば、朝日に眩しい白銀の鱗のドラゴンが舞い降りてくるところだった。

 背には、真っ黒な髪の丈高い青年が一人。

 何を考えているやらわからない先輩や、礼儀がなっちゃいない自分とは違い、貴公子然とした雰囲気を纏っていた。

 同じ黒を基調にし、銀色の手甲や脛当てをつけるドラゴン乗りの戦闘服を着ているのに、まったく印象が異なるのだ。

 凛と背を伸ばしたまま、そいつは地面に降り立つ。

 

「レト、ジザ。やはりここにいましたか」

「シャクラさん、どうもっす。帰って来たんですか?」

 

 コクヨウの角の根本に座る自分、シランの足元に座る先輩を見て、一人で勝手に納得したこのドラゴン乗りは、シャクラ。

 親父も爺さんも、そのまた爺さんもドラゴンライダーという由緒正しい家の出で、実際白銀龍のエラワーンとの戦闘では、鬼神さながらに暴れ回る。

 それからこの人は、主人公の父親だ。

 

「ええ。久方ぶりに母ときょうだいたちの顔を見ることができました。あなたがたは……」

 

 一度言葉を切って、ふむ、とシャクラは顎に手を当てる。

 

「いつも通り、というわけですね。楽しそうだ」

「楽しくねぇ……ですよ。昨日、ほぼ徹夜で鱗磨きしてたんですよ、こちとら」

「軟弱なことを。我々ドラゴン乗りが一晩二晩寝ずに過ごして、どうこうなるわけでもないでしょう」

 

 そうですけどねぇ、とグルルと唸り出したコクヨウの額の中心を叩きながら、苦笑いをこぼした。

 シャクラは決して、悪い人間ではない。むしろ、善い人だ。

 悪い人間ではないのだが、言うことが正論過ぎて人に嫌われやすい。

 他人に厳しいが、自分にはそれ以上に厳しい在り方は、きっと彼の父祖から継がれて来たものなのだろう。

 ここに、先祖代々ドラゴンライダーとして戦って来た名門の出という威光までくっつくのだから、何を言われても無表情で堪えない先輩と、その先輩とツーマンセルを組んでいる自分と、あともう一人くらいしか、気安く話せる人間がいない。

 周りが勝手に委縮し、人間として出来が良すぎて女も近寄れない有様だ。

 だけれど真剣に、もう少し友人を増やしてほしい。

 アンタが息子つくってくれないと世界滅ぶんですよ、と言いたいくらいだ。言えるわけがないけれど。

 

「おいシャクラ、ジザに何を言った」

「何を、とは」

「会いたいやつがいるならば会っておけと言ったんだろう」

「言いましたが、何か問題がありますか?」

「あったからこうなった」

「うわちょっと、待ってくださいって」

 

 コクヨウの背から跳び下り、二人の丁度間に着地した。

 

「ンなふうに角付き合わせんでくださいよ。先輩、大方総攻撃の話をオレにどう切り出すのか迷ってたんですよね?」

 

 遅かれ早かれ知っていたことだ。

 自分たちの上は近々、こちら側から打って出て魔族を海にまで押し戻し、そこで【結界】を発動させるつもりなのだ。

 その【結界】は、数体のドラゴンの亡骸を要石に配置し、数人のライダーが魔力を同時に流すことで発動する、大魔術だ。

 それによって生み出される結界で、五十年は魔族の侵攻を抑え、その隙に体勢を立て直そうという人間側の作戦である。

 が、【原作】でこの作戦は失敗する。

 正確に言えば、半分だけ成功するのだ。

 要であるドラゴンの遺体が、敵によって破壊されてしまい、その欠けを埋めるためにレテは己のドラゴン諸共魔術の中に飛び込み、生きたまま結界の要となる。

 百年後、それで彼女は死ぬ。

 尚、五十年で計画された壁が百年保たれたのは、ドラゴンと共に飛び込んだレテの魔力量が、想定外に高かったからである。最強すぎる。

 

「シャクラさんは単に教えてくれただけですって。先輩は何を怒っているんですか」

「……言おうと、思っていた」

「要するに、私が伝えるまで言ってすらいなかった、と。弟子の察しの良さにいつまでも甘えていてはいけませんよ。貴方はジザの師匠でしょう」

「ぐ……」

「そっちは煽るのやめてくださいって!レト先輩割と繊細なんですよこう見えても!」

「ドラゴンの炎が間近に駆け抜けても、眉一つ動かさないこの男がですか?面白い冗談ですね」

「こら」

 

 これまた別な声が、空から舞い降りて来た。

 ふわりと風を纏い、自分たち三人の真ん中に降り立ったのは、自分と然程歳の違わない少女である。

 金色の髪に金色の瞳をした彼女は、フェイ。名前の通り、妖精のような外見の小柄な女の子だ。

 フェイは、ドラゴン乗りではない。

 ドラゴン乗りではないが、自分たちと変わらないかそれ以上の魔力を扱うことができる【魔術師】で、シャクラの相棒なのだ。

 そして笑顔のまま魔力で以て魔族の首をねじ切り刈り取り、返り血を浴びて戦場に立つ物騒極まりない妖精少女。

 これまたついでに言えば、【主人公】の母親だ。

 イヤほんと勘弁してほしかった。主人公の母親の若かりしヤンチャぶりとかマジで知りたくなかった。

 

「シャクラ、あなた、人のことをどうこう言えたものではないでしょう?わたしとレトとジザくらいしか、友達いないことを地味ぃに悩んでるんだから。繊細なのは、あなたも同じじゃない」

「そうなのか、シャクラ?」

「なっ、悩んでなどいません!」

「……大丈夫だ。俺はお前の友人だからな」

「悩んでいないと言っているでしょう!その妙に勝ち誇った顔をやめなさい!」

 

 残念ながら、やめろと言われて先輩がドヤ顔をやめるわけない。

 涼し気な顔の先輩と、それに噛み付くシャクラを眺め、自分はこっそりため息を吐いた。

 

「あの二人、いつ見ても面白いわね」

「火ィつけたのはフェイだろ」

「ふふ。だって、からかうと楽しいのだもの」

「そんなものかな……」

 

 言葉の合間にこちらの頬を指でぷすぷすと突っつきながら、フェイはころころ笑い、宣う。

 くすぐったいのでやめて頂きたい。

 

「ジザはからかってもあんまり引っかかってくれないから、つまらないわ」

「オレまで引っかかってたら収集つかなくなるだろどう考えたって」

「そう?」

「そうなんだよ」

 

 ここには自分以外、天然ボケと、わざとやってるボケと、ツッコミに見せかけたボケしかいない。ツッコミが足りん。

 シャクラとフェイは、男と女として付き合うんだよなぁと、自分はいつも見ていて不安になる。

 子作りに成功しなきゃ世界が滅ぶカップルなんて、ここが地獄の三丁目か。

 

「で、フェイが来たってことは、次の戦いは、この四人で飛べってことでいいのか?」

 

 フニフニと自分の頬をつまんで引っ張ろうとする白い手を押し留めて尋ねれば、フェイは悪戯っぽそうな表情を吹き消して、頷いた。

 

「ええ。わたしたちは東方面を守るの。ジザは、作戦の中身は聞いたの?」

「いや、ゼンゼン。多分こっちの被害が甚大になりそうな作戦が始まるんだろうなってことくらい」

「本当に全然知らないのね。これはレトの怠慢だわ」

「いやー、多分今日中には言ってくれたと思うよ。あ、ほら、めっちゃ何か言いたげにこっち見てる」

「……出来がいいのも考えものね。ジザが視線だけで読み取ってたら、レトの口下手が悪化するわよ」

「あれより悪くはならないよ」

「あなたも何気にひどいわね」

 

 付き合い長いからなぁ、と返す。

 先輩は恩人だし、自分なりに尊敬もちゃんとしている。

 例え先輩が、美少女じゃないドのつく口下手でそのせいで諸々と苦労したとしても。

 シャクラに肩を突かれた先輩が、こっちへとやって来る。

 怜悧な刃物のような目でこちらを見下ろし、言うのだ。

 

「ジザ、お前は次の戦いには連れて行かない。だから、言う必要はないと思っていた」

 

 ぴし、と空気が凍る音がする。

 フェイは額に手を当て、シャクラは頭を抱えて肩を落とす。

 自分はと言えば、にっこりと丁寧極まりない笑みを浮かべ、口を開いた。

 

「上等だ表出ろこの石頭。オレも行くに決まってんだろうが」

「お前にはまだ、早い」

「何が早いってんだ。オレも戦えてる。力が足りないなんて言うんなら、今すぐここで模擬戦しろ。オレが勝ったら行くからな」

「……わかった。負けたら四の五の言わず、ここを守れ。いいな」

 

 付き合いが長い分、互いの言いたいこと、言わんとすることはわかる。

 先輩にはこちらを戦場に行かせる気はなく、自分にははいそうですかと頷くつもりは微塵もない。

 どちらも同じほど、頑固なのだ。

 階級上は、先輩も自分も同じ。ただのドラゴン乗りである。

 師匠ではあるが、この人は従わなければならない上官ではない。

 流れるように決闘を決めた自分と先輩に、シャクラとフェイがよく似た仕草で頭を抱えるのが目に入った。

 

 乗り手同士の闘争心を感じ取ったか、シランとコクヨウが伏せていた頭をもたげる。

 

 だけれどそのとき、空気を切って甲高い笛の音が響いた。

 ピィィィィィという音は、【龍笛】。

 つまりは敵襲を知らせる、戦闘開始の合図だった。




登場人物一覧

赤毛のジザ
語り手のチビ。口悪い柄悪い目つき悪い三拍子。
騎乗するのは、黒ドラゴンのコクヨウ。

蒼のレト
【原作】では美少女だった。無口無表情口下手。
騎乗するのは、群青ドラゴンのシラン。

白銀のシャクラ
【原作主人公】の父親。要するに御曹司。
騎乗するのは、白銀ドラゴンのエラワーン。

魔術師フェイ
【原作主人公】の母親。見た目は妖精、中身は……。
ドラゴンライダーではないが、魔力を扱える。

四人で組まされることが多い。


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その三

感想、評価、誤字報告くださった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

 

 【原作】において、【蒼の巫女】レテが戦っていたのは、ざっくり言えば世界のためだった。

 幼いころの彼女は、ごく普通の少女だった。

 父がいて、母がいて、兄と姉がいた。

 魔族との戦いの前線からやや離れた、とりたてて裕福ではないが、あたたかい食事を家族と共に笑顔で頬張り、一緒に遊んでももらえるような、そういう家だ。

 口下手も、どこか怜悧冷徹にあり続けられない雰囲気のやわらかさも、かわいがられて育った末の妹だったからなのかもしれないと、レテの背景を考えては萌えている、もとい悶ているファンもいた。

 

 だが、それらはすべて失われた日々だ。

 レテが住んでいた街は、魔族によって破壊された。

 特別な理由があったわけではなく、ただ運悪く、ドラゴンライダーの守りをすり抜け、深く侵攻してきた魔族の部隊の一つの目に留まり、運悪く破壊されたのだ。

 少なくともレテの想い出において、彼女や彼女の周りにいた人間たちが格別何かをしたために、魔族に襲撃されたという描写はなかった。

 

 大陸内部を突如襲った魔族を駆逐するべく、当然ドラゴンライダー側も駆けつけた。

 駆けつけたその瞬間、レテはまさに殺されかけていた。

 折り重なる家族の亡骸に庇われるようにして倒れ、殺されようとしていた小さな少女を、身を挺して庇ったドラゴン乗りがいたのだ。

 何故そのドラゴン乗りがそんな行動を取ったのか。それはわからない。

 描写が、なかったからだ。

 起きたことと言えば、無力な少女を庇って一人のドラゴン乗りが生命を落としたこと。

 残されたドラゴンが、自分の乗り手の死因ともいえる少女を、その場で次の乗り手に選んだことだった。

 

 これがまた、異例なことだったのだ。

 ドラゴンライダーは、レテが現れるまで男しかいなかった。

 魔力を生まれつき扱える【魔力持ち】たちは男女関係なくいるが、ドラゴン乗りは、男だけだった。 

 これに関して、理由は特に明かされなかった。

 作者は何か考えていたのかもしれないし、何かの形で発表していたかもしれない。

 だが少なくとも、自分の記憶では漫画の中でレテがドラゴンに選ばれた理由は、語られていなかった。

 

 案外、ただ単にレテが女のドラゴンライダーの一人目だった、というだけなのかもしれない。

 前例なんてものは所詮、いつか破られるために存在するのだから。

 実際、今から百年後の【原作】が始まる時期では、数は少ないが女の乗り手もいる。

 だけど同時に、常識を破ったやつは孤独になる。

 レテも、そうなった。

 本来、戦いとは無縁だった女の子は、孤独になって、見ず知らずの、自分が守るべき普通の人々を愛したのだ。

 自分の手の中から奪われたかつての毎日を、そこに見出したから。

 真っ当に愛され、真っ当に育った。

 当然魔族への憎しみはあったろうが、根っこには守るべき無力な人々への優しさがあった。

 だからレテは、真っ当に、自分が与えられたのと同じ愛を彼らに向けた。

 自分を庇って死んでいった家族と、本質においてまったく同じ愛を。

 

 だから彼女の末路は、必然だった。

 避けようがなかった、自分には何の落ち度もない悲劇に遭おうと心が砕けず、凛と力強く戦いながらも、儚くて芯が強い。

 そんな女の子など、ああそりゃあ見事に、人気にもなるだろう。見てくれだってかわいいのだから、言うことはない。

 強くて美しい人間がふと見せる脆さ、小さな優しさに、人は安心するからだ。

 弱さに、共感できるからだ。

 

 そしてもって、今このとき、自分が目の前にする現実では。

 

「ジザ!」

「はい!」

 

 片手に騎乗帯を巻き付け、片手に剣を持った自分は、空を駆けていた。

 耳元では風が鳴り、翼がぶつからない距離にはシランとその背に乗った先輩。上には、エラワーンとシャクラ、フェイがいた。

 警告音【龍笛】を発したドラゴンは既に戦闘に突入したらしく、前方では日の光を反射してきらめくドラゴンたちの鱗と、彼らが吐く炎が見え、肌を粟立たせる魔力反応を感じる。

 

『説明は後にするけど、今この陣地にはドラゴンの遺体が複数あるの。それを、一つも失わず守りきったらわたしたちの勝ち。わかった?』

 

 念話回路で指示を飛ばすフェイに、自分は了解と頷く。

 だが。

 

「守りきれって簡単に言ってくれるなぁ!要するに絶対に上陸させんなってことだろ!?」

「無駄口を叩いてる暇はないぞ!」

「わかってます!」

 

 天幕が張られた野営地を飛び越えた先にあるのは、黒く染められた海と、上陸しようと試みる干からびた歩く死体と、翼を持つ魔族。

 彼らと戦うドラゴンライダーたちのさらに上を飛び、自分たちが向かうのは沖合である。

 そこにあるのは、巨大なクジラ型の化物。

 フジツボがこびりつく、黒い腐肉の背には、黒く蠢く人影が見えた。

 

 こちらに気づいた魔族からの攻撃が来るより早く、空中で翼を広げて急停止したコクヨウとシラン、エラワーンが炎を吹いた。

 三筋の炎は絡み合い、一本の太い竜巻となってクジラモドキに直撃する。

 耳障りな声を上げ、肉が半ば腐り落ちた外見の海獣が悶えるのが見えた。

 背に乗せた魔族が火にまとわりつかれながら海へ落ち、沈んでいくが、クジラの化物そのものはまだ生きている。

 

 頭の前面にぼこぼこと隆起している五つの目玉がぎょろりと動き、こちらを映すのが目に入った。

 ぞ、と首筋が粟立つ。

 

「降下!」

 

 自分の叫びに反応したコクヨウは下へ、シランは上へ、エラワーンは左へ旋回し、回避行動を取る。

 開けた空間を、クジラの化物の口から放たれたどす黒い緑の霧が覆った。

 腐臭を放つあれは、毒だ。

 以前、まともに吸い込んだドラゴンライダーが一人、肺をやられて苦しんだ劇物。自分たちならともかく、並みの人間は死んでしまう。

 陸へ毒霧が届いてしまえば、すべて終わりだ。

 視界の端で、群青が翻った。

 

「シラン!」

 

 乗り手の意思を汲んで頭を巡らせた群青の龍の口から、再度の炎が吐かれた。

 霧は焼かれて消えるが、魔族へ背を向けたシランの乗り手の背後に影が差した。

 背中に蝙蝠の翼を生やし、骨だけの体を持つ魔族。有翼骸骨の剣が、がら空きになったドラゴンライダーの背を狙う。

 

 だが、剣は振り下ろされなかった。

 急上昇したコクヨウの背に乗った自分が割り込み、左腕を覆う篭手で、錆びた剣を受け止めたからだ。

 有翼骸骨の腕力は、他の魔族と比べれば弱く、武器も刃こぼれした鉈のような代物ならば、龍鱗を用いた篭手は斬られない。

 奇襲の一撃を受け止められて弾かれ、後ろへと傾いだ骸骨の胸骨を自分が剣の峰を叩きつけて飛ばし、コクヨウが炎を吹いて砕いた。

 残りの敵は、上空から降下して来たエラワーンの炎が燃やし尽くす。

 

「すまない。助かった」

「お互い様ですって」

 

 先輩がやっていなければ自分とコクヨウがやっていたし、その場合先輩に庇ってもらっていたろう。

 黒こげの残骸になって落ちていく骸骨を見送る間もなく、次の敵が近づく。

 ドラゴンよりは二回りは小さく、所々肉が削げて骨が剥き出しになった、屍竜の群れだ。

 ギィィィ、と嫌な声を上げて屍竜が啼いた。

 

『歩兵を載せた化物クジラをもう一頭、有翼骸骨五十体、中型屍竜十体を確認したわ。クジラと歩兵に、骸骨はこちらでやるから、そっちで屍竜を潰して。一匹たりとも、ここは越えさせないで』

 

 自分を中継ぎにして、こちらの四人の念話回路を繋ぐことのできるフェイの指示は、常に的確で、厳格ですらある。

 

「了解した」

「わかった。気をつけろよ」

『ええ。互いにね』

 

 誰も、空から墜ちることがないようにと、そう願いを込めて騎乗帯をきつく握り締める。

 

「アジィザ、飛ぶぞ」

 

 滅多に、呼ばれることがないほうの名を呼ばれ顔を横に向ければ、そこには群青の龍とその乗り手がいる。

 無造作に紐でくくられただけの髪が風になびいて、端正な顔が少し陰った。

 にぃ、とこちらも口元を吊り上げてわらう。

 

 笑って、わらって、生き残る。生きてやる。

 この世界で、自分はそうやって生きてきた。

 

─────これまでも、きっとこれからも。

 

 相棒である黒龍に振り落とされないよう、脚にしっかりと力を込める。

 炎を体内に宿すドラゴンの体は、風が吹きすさぶ空であってもあたたかい。

 

「わかってます。行きますよ」

 

 風で髪が巻き上げられる。

 剣を握る手に、一層力を込めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#####

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔族の正体は、【原作】において終盤になって明かされる。

 何百年も前に北の大陸から攻め寄せて来た異形の群れの正体は、長らく不明だった。

 天災のように攻め寄せてきた化物たちを打ち払うだけで南大陸側は精一杯だった、と話の中では語られている。

 何故、南大陸を襲うのか。

 何故、あれほど南大陸の生き物と姿形が異なるのか。

 何故、どうして、なぜ、なぜなぜなぜ……と、尽きない謎は、概ね解決される。

 まず、魔族とは本来こちらの大陸と変わらない生き物たちだった。

 それがああも変質し、化物としかいえない姿形となるのは、北大陸に開いた【孔】が原因だった。

 

 ここから、話はファンタジーからややSF調になる。

 千年も前、この惑星の外から飛来した一個の生命体があった。

 【それ】は北の大陸に隕石のように落ちて地を深く抉り、根付いた。

 外見としては、巨大な闇の塊としか言えない【それ】は、周辺の生きものを取り込み、喰らう性質を持っていた。

 喰らわれ呑まれたものは意志を奪われ、屍となっても使役される。

 宇宙から訪れた【それ】は、超はた迷惑な、邪神としか呼べないような存在だったのだ。

 【混沌】と仮称されるようになる【それ】に、意志らしい意志はない。

 正確に言えば、人間やドラゴンに理解できるような範疇の思考が最初から無いのだ。

 ただひたすら、自らの内側へ取り込み、喰らうものを求めて四方八方へと触手を伸ばす貪食者でしかない。

 

 北大陸はそうして、生命を根こそぎ喰いつくされ、呑まれた。

 大陸一つを喰いつくした【混沌】は、まだ生き残っている生命を貪るために、自身がかつて開いた【孔】の底から南の大陸へと手を伸ばした。

 植物のように、一度根付くと容易に動けなくなる【混沌】は、取り込んだ北大陸の生き物を尖兵として吐き出し、南大陸を攻め落とそうとする。

 これが、魔族なのだ。

 本来の性質はほぼ失われ、南大陸の生命を殺すか、取り込むことしか頭にない破壊衝動を持つ化物たちの群れ、【混沌】の触覚である。

 魔族に取り込まれたものは【混沌】の一部となり、また尖兵として使われることになる地獄の循環が、ここにはある。

 ただ殺されるだけのほうがどれだけマシか。

 

 星を喰らおうとする【混沌】の魔手を打ち払い、完全に【混沌】を滅しきるのが物語の結末となるはずなのだ。

 

 要するに、ドラゴンファンタジーかと思いきや、コズミックホラーもヤバイほど混ざっていたわけである。

 ラスボスが外なる神らしいナニカとかほんとやめろ。やめて。やめてください頼むから。

 

 尚、南大陸にいるドラゴンが北にはいなかったのかといえば、いたはいたそうだ。

 ただ北のドラゴンは、人間と組まなかった。自分たちのみで殺せると慢心してばらばらに【混沌】へと挑み、あべこべに喰らわれてしまったそうだ。

 ドラゴンを喰って尖兵として吐き出した【混沌】に、人間含めた他種族が適うわけもない。

 長らく生態系の頂点にいたがために慢心し、【混沌】の己の弱さを隠す擬態を見抜けず、北大陸のドラゴンは人間やそれ以外の生き物と共に、全滅した。

 この惑星の生き物の中で、個体としては最も強いはずの同族が、『何か』によって滅んだことを南大陸のドラゴンたちは感じ取り、単体としては弱かろうが、自分たちを円滑に『運用』できる種族として人間を選んだ。

 その結果生まれたのが、自分たちドラゴンライダーである。

 

 だが、こうして実際になってみて思う。

 

 ドラゴンも相当、イカれたことやってんな、と。

 

 短時間で本来の形質が歪むほどに体をつくり変え、超強化した生命体を異種族に複数作り出し、それを背に乗せて戦おうというのだ。

 フェイたちのように生まれつき魔力を扱える人間、【魔力持ち】も、ドラゴンライダーなくしては生まれなかった人間たちだ。

 彼ら彼女らは、ドラゴンライダーの子である。

 現在はまだ男しかいないドラゴンライダーと、普通の人間の女の間にできた子は、魔力を生まれながらに扱えることがあり、彼らが【魔力持ち】と呼ばれる。

 【魔力持ち】の女とドラゴンライダーが、結ばれた場合はほぼ確実に【魔力持ち】が生まれるのだ。【魔力持ち】同士でも同じく。

 

 本来、人間には魔力を先天的に扱える機能はない。

 ないはずの機能を持った【魔力持ち】も、後天的に同じ能力を獲得した自分たちドラゴンライダーも、果たして元の人間と同じであるのだろうか。

 【混沌】を倒すために、ドラゴンたちは新しい種族をつくったことになりはしないか。

 

 今はいい。

 今は、魔族と戦うのに皆必死だからだ。

 【魔力持ち】も、普通の人々も、ドラゴンライダーも、一丸となって北大陸からの侵攻を防いでいるし、ドラゴンライダーのこともごく単純に、ドラゴンに選ばれし者と、好意的に受け止められているからだ。

 

 だが、【混沌】がいなくなったその後、この世界はどうなるのだろう。

 主人公個人の人生のドラマではない。この世界が進む方向だ。

 【混沌】を倒したら、世界が混沌と化しましたなんて笑えないことが、あり得てしまいそうだ。

 

 尤も、そんな先の心配をしている人間は、この世界には自分ただ一人だけだろう。

 ドラゴンにすら【混沌】の存在はほぼ知られておらず、多くの人間にとって魔族はただひたすらに日々の暮らしを脅かす侵略者であり絶対悪。

 ドラゴンにとっては、自分たちを唯一脅かした憎むべき天敵でしかない。

 彼らも被害者であり、たとえ【混沌】を倒せたとしても、諸共滅ぶしかないほどに細胞に至るまで汚染されているなどと知れば、平静でいられなくなる者は必ず出る。

 

 だから、自分は何も言わない。

 機会があるまで、何も告げない。

 大体、自分が言ったとして信用されるかすら怪しい。

 

 そうやって戦う自分には、そのせいか、ある癖のようなものがある。

 

 屍竜の最後の一体。それがシランとコクヨウの炎で消し炭となって落ちるのを見届けてから、自分たちは陸地へ戻った。

 陸地で戦っていた仲間たちも無事であり、今日も魔族を凌いだことになる。

 周りの無事を確認してから、腐臭と、物の焦げるにおいが混ざる海からの風を嗅ぎながら、コクヨウの翼の下で、自分は水平線に向かって手を合わせるのだ。

 

 自分たちが今日倒した魔族も、昔はあんなふうな生き物じゃなかった。そのはずだ。

 だから、『次』があるならばもっと良いところに生まれて来られるように、と微かに覚えている祈りの端切れを、呟くのだ。

 

 願わくば、その『次』が自分みたいにろくでもない生でないようにとも、合わせて祈っておく。

 

 魔族への鎮魂なんて、この世界では異端中の異端である。

 が、彼らが元は同じであると知るからこそ、自分は祈らなければならない。

 そうしなければ収まらない、熱のような、触れると痛いものが心にずっと、ある。

 だけどバレたら面倒だから、コクヨウの翼の下でやるのだ。

  

「おい」

 

 ただしここには、まったく遠慮なく翼の下を覗く輩もいる。

 黒翼の下にぬっと入って来た先輩は、こっちの腕をがしりと掴んだ。

 

「さっき篭手で一撃受けただろう。見せろ」

「ンなもん、もう痛くないですよ」

 

 デリカシーという概念を明後日に忘れてきたのか。イケメン無罪とか自分は適用しないのである。

 相変わらず無表情な先輩は、こっちが祈ってようが何も言わない。

 お前は何をしているのかと一度だけ聞かれたことが昔あったが、祈りたいから祈ってると返してそれっきりになった。

 怪我の具合を心配してくれるのは有り難いが、先輩が美少女だったらもっと嬉しかったのに、なんて考えられる自分も、大分おめでたいやつだ。

 捻って先輩の腕を離して翼の下から出、コクヨウの背に飛び乗る。

 ガキじゃないのだから、怪我の確認なんて自分でやれるのだと鼻を鳴らしたとき、鞍の上に、ふわりと重みが加わった。

 振り返ると、フェイが乗っていた。頬に一筋、浅い傷ができていた。

 

「ジザ、レト、怪我はない?」

「大したのはないよ。フェイたちは?」

「同じようなものね」

「ええ、陣地は守れました」

 

 そっか、と呟きながら、ぐるぐる唸るコクヨウの体を軽く叩く。

 また、この四人と三頭で生き延びられたのだと息を吐いて、水平線の彼方へ目を向ける。

 

 向けたところで、毎度の如く淡々とした声がかかった。

 

「ジザ、腕試しはいつやる?」

「アンタほんとブレねぇな」

「もう少し空気を読めないのかしら」

「むむ……?」

 

 自分とフェイに同時にツッコまれ、嘆かわしいという顔をするシャクラにぽん、と肩を叩かれ、それでも解せぬとばかりに首を捻る先輩は、ひたすらに先輩であった。

 

 

 

 




アジィザはジザの本名です。
発音しにくいため、ジザと言っています。
割と敬語がブッ飛びます。


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その四

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

日刊ランキングのほうにも載れており、眼を剥いて嬉しがっていました。

では。


 

 

 

 先輩と自分が出会ったのは、十一年前のことだ。

 ある違法な研究所をドラゴンとその乗り手たちが発見し、襲撃したときにいた、黒龍との契約者。

 それが自分だ。

 あそこでは、主に【魔力持ち】を後天的につくり出そうとしていた。

 【魔力持ち】は、ドラゴンライダーと人間の女との間に生まれるが確実ではなく、【魔力持ち】同士は確実だが、なかなか子を授からない。

 魔族に対抗するために、人工的に【魔力持ち】を安定してつくり出すことができれば、という思想はわからないでもない。

 

 おまけにさらに頭のおかしい一派もいて、こいつらは救世を為せるだけの人間、【神の子】とやらをつくろうともしていたのだ。

 世界がここ一つだけというはずはなく、ここ以外の次元には【神】すらもいるはずだという持論を持つ学者先生どもだった。

 コズミックホラーじみた存在に侵略されかけている星だけあってか、人間の中にも相当に頭のネジを飛ばしているのが混ざっていたのだ。

 別次元の存在を降臨させようとか、マトモじゃない。

 仮に降臨できたとして、何故そいつが自分たちを無条件に救ってくれるとわかる。その確信を、何故持てた。

 

 マトモじゃない彼らは、マトモじゃないなりに世界を救いたかった。

 救おうとは、していたのだ。

 

 ただし、やり方がまずかった。

 非道だった。 

 

 攫ったり買ったりして連れてきた子どもらに高濃度の魔力を浴びせたり、魔力結晶を食わせたり、訳のわからん降臨実験に引き込んだり、果ては魔族の解剖と人への転用まで試みていた。

 自分があそこで生まれた子なのか、攫われた子なのか、売られた子なのか。それすら自分ではわからない。

 気がついたらあそこにいて、アジィザという名前以外何も与えられていなかったからだ。

 記録上は赤子のころからいたことになっており、あそこで生まれたも同然だ。

 

 子どもの何人かは、そうやって弄くり回されているうちに死んだ。悲しかったし、あそこにいた大人共を一人残さず恨んだ。

 そんなところで何故自分がドラゴン乗りに成れたのかといえば、実験の一環だった。

 ドラゴンの卵を人工的に孵化させようという実験で、子どもたちを順に卵に触らせるというものがあったのだ。

 自分の番が来たときに、コクヨウは自力で殻を割って腕の中に飛び込んで来た。

 ドラゴンの雛は卵の中からでも乗り手を選び、ふさわしいと思えるだけの人間と出会うと、殻をブチ割ってでも出てくるという発見が成された瞬間である。

 思い返すだに、生まれ方がアグレッシブ過ぎる。メンタル貧弱火吹きトカゲのクセに。

 

 こうして狂喜乱舞する研究者共の中、自分はドラゴンライダーになったわけだ。

 あのときの自分には、【前】の記憶なんてなかった。

 懐っこい子犬のように甘えてくるドラゴンをすぐ取り上げられた歳相応の自分は、周りが騒ぐ意味がわからなくて、ただひたすらにその日の晩飯の心配ばかりしていたと思う。

 実験の投薬次第で、飯が食える日と食えない日があったから。

 

 そんな馬鹿騒ぎから十日も経たないうちに、あそこはドラゴンとドラゴンライダーたちに踏み込まれた。

 子どもの売り買いは足がつきにくいが、流石にドラゴンの卵の盗難は上手く誤魔化すことができなかったのだ。

 探究心で身を滅ぼした間抜け共には、ざまあみろと言うべき末路だ。

 

 研究所を襲撃したドラゴンライダーたちの中に、先輩はいた。

 まだ十一歳の少年で、見習い中だった先輩は、修行の一つとして師匠に連れて来られていた。

 実際に前に出て戦うことよりも、戦いから目を逸らさない精神の鍛錬のほうに重きを置いた修行だったそうだ。

 

 だが、当時の先輩は十一歳。

 単独行動をしていたとき、盾になれと引きずり出されてきた顔色の悪い小さな子どもと弱々しいドラゴンを、襲撃に狼狽えた研究者が殴りつけ蹴り飛ばす光景に遭遇したのだ。

 それを見て、有り体に言って先輩はキレた。

 鉄面皮はそのままに、ブチ切れたのだ。

 

 乗り手の怒りを汲んだシランが吐いた炎は研究所の一部を融解せしめ、ドラゴンの魔力と、少年とはいえドラゴンを駆る者の芯からの怒りを間近に浴びた研究者は失神。

 後には、何がなんだかまったくわかっていないながら、幼龍を胸の前に抱えて身を丸め、縮こまる赤毛赤目の褐色の肌の子どもと、その子どもに縋り付いてミィミィ鳴いているちっぽけなドラゴンが残された。

 

 涙も流せず、ガタガタ震えるしかできない子どもの、赤い瞳の中に映った己の姿を見た途端、先輩は頭から氷水を浴びせられたように感じたそうだ。

 怒りなんて、子どもの怯えを前に跡形もなく消えてしまった。自分は子どもを怖がらせて何をしているのだと、我に返った。

 少年のドラゴン乗りはその場で膝をつき、後退ろうとする子どもに手を伸ばして、骨が浮いた背を撫でた。

 

「だ……大丈夫、だ」

 

 何やっとるんだこの馬鹿弟子、と慌てて駆けつけてきた師匠にぶっ飛ばされるまで、先輩は、小さなドラゴンを胸に抱きしめた子どもの背を撫で続けていた。

 だいじょうぶ、大丈夫だから、おれは怖くないから、お前たちにひどいことはしないから、とそればかり繰り返して。

 口下手は、既にこのころからであったらしい。

 

 言うまでもないが、その子どもが自分で、子どもが抱え込んでいたドラゴンが、コクヨウである。

 

 【前】の記憶が降りてきたのも、このときだ。

 シランの炎の熱を間近で感じたショックを引き金に、頭の中に知りもしないはずの光景が蘇り、ひどい頭痛が起きた。

 自分は先輩に怯えたというより、突如頭の中に降って湧いた記憶に怯えたのだ。まぁ、龍が吐いた豪炎と無表情で怒り狂う先輩が、怖くなかったのかといえば嘘になるが。

 

 連れて来た見習いは怒りで暴走して建物を炎で溶かすわ、その見習いが助け出した子どもには【印鱗】が出ているわ、黒いドラゴンは怯えて喚きまくるわと、予想していなかった出来事にドラゴンライダーたちは頭を抱えた。

 

 【印鱗】がある以上、子どもはドラゴン乗りにするしかない。

 するしかないのに、見習いの陰に隠れて視線もろくに合わそうとしない子どもには、さぞ困っただろう。

 やらかしたのはうちの馬鹿弟子だからうちで引き取る、と先輩の師匠が名乗り出てくれなければ、一体どうなっていたのやら。

 

 数年後に先輩の師匠が戦死してからは、自分の師匠は先輩になった。

 怒りで我を忘れかけながらも、怯える子どもに不器用に寄り添おうとした少年は、見事に無口無表情口下手な青年へ成長した。

 成長と呼べるのか微妙なところはあるが。

 

 怯えていた子どもも、ちっぽけだったドラゴンの背に乗り、魔族と戦うようになった。

 

 十一年前から続く先輩と自分との関係は、以上である。

 

 先輩はこちらの戦い方をよく知っているし、自分は先輩の戦い方をよく知っている。

 腕試しともなると、裏のかきあいからの新技の応酬に始まり、泥沼化するのが常だった。

 

「あいつら何やってんの?」

「知らん。だが、どうせまたレトがやらかして赤毛のチビを怒らせたんだろう」

「正解よ。だけど、チビはやめてくれないかしら?それだと、わたしまでチビ扱いになってしまうわ」

「はいよ。で、【魔術師】のフェイさんよ。あんたはどっちに賭ける?」

「うーん……ジザにしておくわ。負け越しているけれど」

 

 日が落ちた東野営地の龍舎前、好き勝手にくっちゃべる【魔力持ち】やらドラゴンライダー、一般兵士やらが関係なくわらわら集まって形作った円の中心にいるのは、自分と先輩だった。

 魔力と武器は有り、龍は無しの形式でやる手合わせは、ドラゴン乗りたちの中では一般的なものだ。

 自分も先輩も、武器はただ木を削って作った木剣だ。

 本来の武器は、並みの鋼より魔力の通りがよい魔鋼(まこう)を素材にした、無骨でひたすらに頑丈なだけの無銘の両刃剣である。

 斧、槍、曲刀などと、様々な武器を使うやつもいるが、自分たちは剣と、あとは弓だけだ。無論魔力で強化した弓だから、破壊力は桁違いであるが。

 だが今回、弓は使わない。使う暇がないのだ。

 

 身を低くするや、自分は地を蹴った。

 体格差があって向こうのほうが上背がある以上、近寄って斬る他ない。

 が、左腕を狙った一撃は、涼しい面の先輩に苦もなく受け止められた。

 即座に木剣を引き、絡め取られるのを防ぐ。

 だが既に間合いは詰められていた。

 中段からの横薙ぎの一撃を跳び上がってかわし、その勢いのまま蹴りを放つ。

 先輩は上半身を逸してかわした。

 

 これも避けられることくらい、想定済みだ。

 

 握った柄から魔力を木の刀身へと流し、踏み込んで突きを放つ。

 澱みなく最小の動きで避けようとした先輩は、しかし、寸でのところで後ろへ大きく跳んだ。

 剣先に、ごく軽い手応え。

 距離を取った先輩は、額に軽く触れ目を見開いた。

 

「斬りかかる寸前のみ、魔力で刀身を精製し、伸ばしたか。お前の剣の間合いを知っている者ほど惑わされる訳だ。……良い技だな」

「きっちり避けておいて何言ってんですか。どうせなら当たってください」

「断る。当たれば負けになる」

 

 無駄にキリッとした面構えで言い切った先輩は、自身の剣を握る手に新たに力を込める。

 そうする仕草にも、隙らしい隙がない。この人は戦いづらくって仕方がないのだ。

 

「……こうか」

 

 果たして、秒で先輩の剣の鋒には魔力刃が形成された。

 一見取り澄ました無表情であるが、よく見れば、ふふん、とばかりに大分得意そうな顔をしている。

 ひくり、と頬が引きつり、気づけば吠えていた。

 

「アンタの!ほんと!そういうとこ!そういうとこが苦手なんですよオレは!」

「何故、お前が怒る?技はともかく精神的に平静を保てないと言うならば、戦いに来る資格はない」

「うるさいですよ!オレと同い年のころのアンタはもっとヤンチャだったでしょうが!てか、成功すんのに三日かかった技を秒で再現されてみろ!キレるわ普通!」

 

 それはキレていいぞぉ、とどこかから野次が飛んでくる。声からして、食堂で飯を多めに盛ってくれるオッサンであろう。

 

「……俺はお前の真似をしただけだ」

「じゃあ、オレが戦いに行くの、認めてくれてもよくありません?てか、何で今更あんなこと言うんですか」

「それとこれは話が別だ」

 

 別なわけがあるかこの石頭、と木剣を握る手に力を込めた。

 

「来ないならば、こちらから行くぞ」

 

 無造作に言った瞬間、先輩の姿が消えた。

 

─────右!

 

 直感に従って体を横に捌き、右に回り込んで剣を振り下してきた先輩の一撃を剣で受けた。

 魔力で補強された木剣同士がぶつかり、赤と蒼の火花が散る。

 負荷に耐えられない木が軋む音が、お互いの得物から聞こえた。

 剣を引いた先輩が、胴を薙ぐ一撃を放つ。避けようとして、伸びて間合いを変えた刀身に強か脇腹を打たれた。

 地面に片膝ついたこちらの額を打ち据えようと迫る先輩の顔面目掛け、自分は足元の泥を掬い取って投げつけた。

 あちらが剣から片手を離し泥を払い除けたその隙に、自分は飛び退って剣を構え直した。

 目を落とすと、木剣の根元に、編みの目状の細かいひびが入っていた。

 遠ざかっていた周りの音が、急に戻ってくる。

 

「毎度のことながら、互いに容赦がありませんね。対人戦闘など、私たちには滅多にないのに」

「わたしたちの敵は、普通のヒトの形をしてるものが少なめだものね。だけどねシャクラ。魔族がこちらに容赦をくれたことなんてないじゃない。そんなもの、どぶにでも捨てなさいな」

「……」

「それに、首や心臓じゃなくて腕や胴を狙ってるあたり、どっちも手加減しているわ」

「だとしても、躊躇いなく弟子の腕を叩き折りにかかるのはどうかと思うのですが」

 

 そこの妖精と貴公子の二人組はちょっと黙っていただきたいと思いつつ、木剣の具合を確かめる。

 木剣がへし折れて、勝敗がわかりませんでしたになるのは御免だ。

 あちらも同じことを考えたのか、刀身全体に纏わせていた魔力を切り、鋒にのみ魔力を集めた剣を顔の横にまで持ち上げる。

 あからさまな突きの構えだった。力技で魔力障壁すらも突き崩すつもりとわかる。

 ただし、来るとわかっていても反応できる速さであるかは、また異なる。

 受けるだけでは止めようがない技と知るだけに、やるしかないと、こちらも鏡写しのように同じ構えを取った。

 

 野次を飛ばしていた周りも、水を打ったように静まり返る。

 

 す、と先輩の体がブレた瞬間、自分も前へと踏み込んでいた。

 引き伸ばされた時間の中、木剣が伸びてくるのがわかる。見える。その先端に集められた魔力の密度の高さも、自分の反応の遅れも。

 歯を食いしばり、前へと跳ぶ。

 光が瞬き、音が遠ざかる。

 

 が、剣と剣が激突することは、永遠になかった。

 

「そこまでだ。双方引け」

 

 両腕で苦も無く二本の木剣を掴み、受け止めている男がいたのだ。

 短く刈られた灰色の髪、瞳は金色(こんじき)

 フェイの瞳のようなきらきらと零れる砂金の光ではなく、人を狂わせる黄金の色だ。まさしく、そこにあるのは魔性だった。

 

「【蒼】のレト、【黒】のアジィザ。武器を納めろ」

 

 言われるまでもなく、木剣を引いて地に置いた。

 息を整え、自分よりかなり背が高い男の次の言葉を待つ。

 気配もなく近寄り、激突仕掛けの剣を掴んで攻撃を止めさせる、という絶技を容易くこなしたこの男の名は、レグルス。

 最初に人へ言葉を伝えた黄金龍、ナーガバラタと契約した、ドラゴン乗りたちの長である。

 彼の前では先輩もシャクラもフェイも自分も、【魔力持ち】やドラゴンライダーたちですら気圧され、背筋を正さねばならないという気にさせられる。

 

 この時代、ドラゴン乗りたちの間に、細かく明確な階級というのはない。見習いと呼ばれる段階はあるが、そこを抜ければ基本は横一線。

 例外は、長のレグルスと、彼直属の四人のドラゴン乗り、【四翼将】のみだ。

 レグルスと契約しているドラゴン、ナーガバラタは、最も強く、最も長く生き、そして人へ語りかけた始まりの龍である。

 ナーガバラタの三代目の乗り手として認められたレグルスの言葉は、ドラゴン乗りたちに『長』からの『命令』という形で下されるのだ。

 

 自分も、間近で(まみ)えるのは二度目だ。

 彼も【原作】に出てくる人物であり、つまりこれからの戦いで生き残るはずの人間だった。

 四十絡みの外見ではあるが、既に年齢は百を超えた古参兵である。

 

「話は聞いている。【蒼】のレト、【黒】のアジィザの参戦を止める権利は、貴様にはない」

「っ……!」

 

 ぎり、と先輩が唇を噛む。

 巌のように謹厳なドラゴン乗りの長は、小動ぎもしなかった。

 三十年も生きていない人間の睨みなど、物の数ではないのだ。

 

「これは確定事項だ。この二人以外も聞け。……見習いと、その守り手に選ばれた者たち以外のすべてのドラゴン、すべての騎手が次の戦いにおいて必要となる。これまでの中で最も激しい戦いだ。各々、心せよ」

 

 黄金の瞳で辺りを睥睨し、レグルスは宣言した。

 誰も彼もがそこに込められた重みに畏怖され、動けない……というわけではなかった。

 

「反対です」

 

 無表情のまま、否という先輩に、辺りがざわめく。立ち去りかけていたレグルスが、半身を返して、言い放った先輩を視線で射抜いた。

 人垣が揺れた。

 並みの人間にとって、ドラゴン乗りたちの長など、はっきり言って人の型に収まっているだけの、龍に等しい。

 それに真っ向から逆らうなど、あり得ない。

 人間の姿のまま、人間の枠を越えて戦う力を得た者同士の対峙など、彼らにとっては災害に出くわしたようなものだ。

 特にレグルスの気配は、激しい雷を腹に溜めた黒雲に近い。

 

「どういう意味だ。そこまで食い下がるからには根拠を述べてみせろ。【蒼】のレト」

 

 空気がぐんと重くなり、ドラゴン乗りと【魔力持ち】たち以外の顔色が悪くなる。

 頭を上から押さえつけられたような力を、彼らは感じていることだろう。

 相対する先輩は、群青の瞳を揺るがせることもなく、答えた。

 

「根拠は、ありません」

 

 【魔力持ち】たちの何人かが凍りつき、ドラゴン乗りたちは絶句する。それ以外の面子は青ざめた。

 レグルスから放たれる圧力が、一層強くなる。

 ほう、と彼が一歩足を前に進めようとした、その瞬間。

 

「もういいでしょう、先輩」

 

 木剣から伸びた魔力の鞭が、先輩の足元を掬い上げてよろめかせ、

 

「お前はいい加減にしないか」

 

 勢いの乗った回し蹴りが側頭部に叩き込まれ、

 

「はい、お終い」

 

 留めとばかりに、圧縮された風の塊が先輩を押しつぶした。

 

 三方向からの、殺気がほぼゼロの攻撃をまともにくらった先輩は、ぎゅむっと地面にうつ伏せに倒れる。

 ついに敬語をかなぐり捨てたシャクラの蹴りが特別綺麗に決まったらしく、襟首を掴んで持ち上げてみれば、先輩はぐるぐると目を回していた。

 ここまでやられておいて完全に気絶していないのだから、さすがの耐久力である。

 

「お騒がせしました!それでは!」

 

 俵よろしく先輩を肩に担ぎ上げるや、一応レグルスに敬礼をして踵を返した。

 周りの人間はまだ、一体何が起こったのかわかっておらずがやついていたが、こちらが近寄ればあっさりと道を開けてくれた。

 むしろ、関わり合いになりたくないとばかりにぱっくりと道ができあがる。

 先輩の分の木剣を拾ってくれたシャクラと、魔力で浮遊するフェイと共に、人垣の向こうにある龍舎の方を向く。

 向いたところで、重々しく告げられた。

 

「【黒】のアジィザ、貴様には追って任を伝える。心して聞け」

 

 振り返れば、レグルスが自分を見ていた。真っ直ぐに、逃さないとばかりに。

 

「……わかりました」

 

 面倒なことでないといいのに、ときっと叶わぬ願いをして、自分たちは一先ずその場を離脱したのだった。

 

 

 

 

 

 

 




それから感想なのですが、こちらのポカでネタバレをかましてしまいそうなため、返信を控えています。
とてもとても励みになっているのですが、だからこそ誤りたくないのでご理解のほどよろしくお願いします。


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その五

感想、評価、誤字報告くださった方々、ありがとうございました。

では。


 

 

「馬鹿ですかあなたは。いや真正の馬鹿でしょう。根拠を述べろと言われて、無いとはどういうことなのですか」

「……何も無いわけじゃない。ただ、あそこでは説明が難しかった」

「あのね、レト。あなた、もう少しわかりやすく言葉で伝えてくれないかしら。さっきのあなた、ドラゴン乗りの長に喧嘩を売ったも同然よ」

 

 獣脂を使った松明に照らされる龍舎の中である。

 車座になって座りつつ、先輩を言葉で袋叩きにする自分たちの姿が、地面に丸まるエラワーン、シラン、コクヨウの三頭の瞳に映っていた。

 こうして見ても、やはりコクヨウは他の二頭に比べると二回りほど小さい。まだ生まれて十一年しか経っていない若いドラゴンであるから、それは当然なのだが。

 完全におもしろがっている光を目の奥に浮かべているコクヨウの、鋭い脚の爪の付け根をかいてやっていると、シャクラに睨まれた。

 

「ジザ、あなたからも何か言ってください。そちらの兄弟子でしょう、こいつは」

 

 基本、誰に対しても丁寧な言葉遣いを崩さないシャクラなのに、こいつ呼ばわりとは相当頭に来ているのだなぁと思いながら、名残惜しい現実逃避をやめる。

 無表情のまま背筋をやたら伸ばして胡座をかいている先輩に、向き直った。

 

「あのですね、先輩。どんだけ付き合い長かろうが、オレにもわからないことはあるんですよ。そもそも、なんでいきなりオレに来るなとかいうんです?アンタ、そんなふうに加減する人じゃないでしょ」

 

 先輩と自分を鍛えてくれた師匠の教えは、一言で言えば『死ぬまで殺せ』である。

 魔族を見縊るな。

 一匹残さず殺し尽くせ。

 お前たちはドラゴン乗りなのだから。

 と、これが基本だった。

 あの人、魔族への殺意が異様に高かったし、魔族を殺すためなら他は些事だという変に世捨て人のようなところがあったのだ。

 恩師ではあるし尊敬もしているが、先輩のただでさえ乏しかった社交性が悪化した原因の一つは、間違いなくあの人である。

 そこに師事した結果か、先輩は手合わせでもなんでも他と比べると苛烈になりがちだ。

 さっきの手合わせも、こっちの両腕や肋骨を遠慮なく叩き折ろうとしていた。まともに当たれば粉砕骨折ものだ。

 かく言う自分も、先輩の額に突きを見舞おうとしていたから、鍛錬や戦いに関してあの師匠に習い、染まった自分たちは同レベルである。

 【原作】のレテも同じ師に教えを受けていたのかもしれないと考えると、さらに彼女の凄さがわかろうというものだ。

 

 だからこそ、今回は先輩らしくないのだ。

 戦う力と意志がある者に、戦うなというなんて、あり得ない。

 

 思い返すと改めて腹が立って来て、つい拳を固めた。

 

「ほら、口は悪いけど素直なジザが拳を持ち出したくなるほど、あなたやらかしてるのよ。キリキリ吐きなさい」

 

 風を纏い始めたフェイをちらりと見て、先輩は腕を組んだ。

 

「……夢を、見るようになったんだ」

 

 訥々と、先輩は語り出した。

 

「十日ほど前からだ。同じ夢を続けて見るようになった。……お前が、死ぬ夢だ」

 

 周りの音が、ひゅるりと落ちるように遠ざかった。

 

「オレ、ですか?」

「お前だ」

 

 こくりと、先輩は頷いた。

 

「俺たちは、海の上で魔族と戦っている。今まで経験したことがないような、ひどい戦いだ。シャクラもフェイもいるが、皆酷く傷ついている」

 

 何か言おうとしたシャクラを、自分は手を振って止めた。先輩の言葉は、遮らないほうが良い。

 

「その中で、お前が死ぬ。お前だけが死ぬんだ」

「……どうやって?」

「……お前が死ぬところは、俺にはよく見えない。見えないが、コクヨウが哭くのが聞こえる。あいつの【哭き唄】が、何度も何度も聞こえるんだ。頭が割れそうになるほどの、つらい音だ。目が覚めても、忘れられない」

 

 【哭き唄】は、乗り手を失ったドラゴンが放つ愛惜と追悼の咆哮だ。

 自分も聞いたことはあるが、胸を掻きむしり、耳を塞ぎたくなるほどの甲高い音である。

 敵を発見した際に発する警告音【龍笛】などと同じ、特別によく聞こえる龍の声。

 ドラゴン乗りであるならば、聞き間違いようがない。

 

「そういう夢が、ずっと続いている。……聞いた話なんだが、俺たち魔力を扱える人間の夢は未来を映すときがある、と」

「だから、正夢かもしれないと思って、オレに来るなって言ったんですか」

 

 もう一度、頷かれた。

 なんとも言えない沈黙が落ちるが、すぐさま破壊された。

 

「ばっかじゃないのかしら。いえ本当に、もう大ばかよ」

 

 肩の上にこぼれる金色の髪を軽やかに手で払い、フェイは指を先輩に突きつけた。

 

「わたしたちみたいなのが見る夢が、未来予知?そんなこと、あるわけが無いわ」

「十日も続いている夢なのにか?」

「それはそれであなたの心理的な問題だけれど、精神感応力がある【魔力持ち】でもドラゴン乗りでも予知夢なんて見ないわ。あのね、わたしたちは単に、本来の人にない器官を得て、自然に流れる魔力を使えるようになっただけ。未来なんて視えないの」

「いやそれだけでも十分凄くないか?てか【魔術師】でも未来は……」

「ジザ、あなたまで何を言っているの。未来は、観測できないものなの。ずっと昔の、ドラゴンと人間が繋がっていなかったころの『魔法使いのお話』には出てくるけれど、ああいうのは、全部おとぎ話よ」

 

 珍しくむきになったように、フェイは立て板に水とばかりに続けた。

 

「いい?未来は視えない。わたしたちにできるのは、頭で考え続け、考えることを捨て去らないで、足を止めないことだけ。定められた予知も、覆らない結末も、あってはたまらないわ」

 

 だというのに、とフェイの周りで風が渦巻く。水桶が揺れて、エラワーンの瞼が動いた。

 

「悪夢を見るほど不安があるなら、魘されるほどにひとりで背負い込むなら、勝手に決断する前になんとか言いなさい。なんの為に、わたしたちは四人で一緒に戦うの。できないことを、お互いで補うためでしょう」

「……確かに才や力だけで言うならば、お前が一番優れているでしょう、レト。ジザが最も経験が浅いのも、コクヨウが幼いドラゴンであるというのも事実です」

 

 けれど、とシャクラは白銀に光る瞳で言うのだ。

 

「お前の弟子を、舐めるな。それはお前たちの師や、お前自身をも貶める恥ずべき行為だろう」

 

 今度こそ、本当に沈黙が満ちた。

 ぐるる、とエラワーンとシランが喉を鳴らす音も、沈黙を破るには至らない。

 至らないが、この空気は破らなければならなかった。

 一丁の柝を入れるように、音高く手を叩く。三人がこちらを向き、なるべくなんでもないように聞こえるよう声を保つ。

 

「先輩。色々言いたいことはありますし、なんならちょっと一回その顔を殴っても許される気がしてるんですけど、フェイとシャクラさんが沢山言ってくれたからそれはやめときます」

 

 この中だと、自分が一番弱い。事実だ。

 魔力量はともかく、コントロールはフェイより下手。単純な話経験もなく、体格だってシャクラや先輩と比べれば遥かに貧弱。

 相棒のドラゴンすら、肉体面精神面共に幼いとくればお察しである。

 だけど、それでも、そんな自分でも、この世界に生きる大勢の人間たちより、強いのだ。足手まといにならないよう、死なないよう、必死に生きてきた。

 ドラゴン乗りの力を使うというのはそういうことで、逃げたいとも思わない。

 今にも壊れてしまいそうなこの世界で、ようやく手に入れた大切なもの、一番失いたくないものはすべてここにあり、ここ以外のどこにもない。

 抗える力を持つ人間は、足掻かなければならない。

 

「先輩が、オレに対して罪悪感みたいなものを覚える必要は、ありません。オレは、オレで選んでここにいます」

 

 凍てついた湖面のようだった瞳の奥に、ひびが入る。

 

─────ああ、やっぱり。

 

 群青の龍の契約者は、時々こちらをひどく傷ましい者を見るような目をするのだ。

 

 この人は、そういう人だ。

 傷だらけでやせっぽちで無力で、ただ怯える幼龍を庇うため、自分の体を盾にするしかなかった子どもを怯えさせたことを、ずっと悔やんでいる。

 魔族と戦う者になる以外の道を選ばせてやれなかったと、後悔している。自分だって、似たような境遇であったくせに。棚上げにもほどがある。

 

 どう考えたところで、悪いのは頭のネジ飛ばしやがっていたマッド研究者共である。

 あいつらを自力で殴り飛ばせなかったことは、確かに自分の後悔らしい後悔ではあるが、それは自分の問題であり、勝手に人の荷物を横取りしないでほしいのだ。

 

 やっぱりちょっと一回殴ってもいいだろうかこの野郎、と拳を固める。自分の腕力と先輩の耐久力ならば、そこまでの惨事にはならないはずだ。

 先輩は、儚げな美少女じゃなくてタダの美形だし。

 少し考え、拳を解いてぐしゃぐしゃと赤い髪をかきむしった。

 

「大体、今日の戦闘で誰が先輩庇ったと思ってるんですか。そりゃ当たっててもアンタなら凄く痛いだけの怪我で済んだかもしれませんけど、もうちょっと自分のこと顧みて戦っちゃくれませんか?肝冷えるんですよ、アレ」

「それは私も同感です。無辜の民を守るのは我々の役目であり、その姿勢は確かに素晴らしい。ですが、己の限度を頭に入れなさい」

「シランで元気に飛び出すあなたたちの速度まで考えて念話で指示を出さないといけないわたしの苦労も、少しは鑑みてくれないかしら。並列思考って、結構頭が痛くなるのよ」

「わ、わかった……。わかったから頼む、少し待ってくれ」

 

 追加口撃をやめ、ふんと鼻を鳴らした。

 先輩は顔を覆って、じっとしてしまう。

 普段の起伏が浅い人である分、一度感情の船が派手にひっくり返ると、立て直すのに時間がかかるのだ。

 元々激情家な面があるのに、暴走しないようにと感情を抑制し続けたため、たまに変な地雷が埋まってそのままになっており、うっかり踏もうものなら暴発するのが先輩のメンタルである。

 

 魔族を倒す、人々を守る、という二つが、先輩の精神の根幹だ。

 それを突き詰めた果てにあるのは、ただ戦ってさえいればいいという自動人形(オートマタ)かロボット。

 

 それじゃ困るのだ。

 だって、【原作】のレテはまさにそういう少女人形じみたところがあり、【主人公】たちと関わることで、薄れていた人間みを取り戻していく女の子だったのだから。

 同じことをやられては困る。

 【主人公】はいないのだ。最低、あと百年間は。道のりが長い。

 

 そういう人であるからこそ、()()()()に魘されてとんでもない結論に突っ走ったりする。

 

─────これは、やらかしたなぁ。

 

 実力差があっても、自分は相方なのだ。

 気づけなかった自分も悪い。負担を押し付けた自分にも大いに責任がある。

 むむむ、と腕組みして考え、まだ唸っている先輩の肩にぽん、と手を置いた。

 

「えーと……先輩、お互い一発殴って、それで手打ちにしません?オレも悪かったってことで」

「そっちはそっちで過程を蹴飛ばした突拍子もない結論に辿り着かないでちょうだい。この似た者同士」

 

 何故か、フェイに額を(はた)かれたのは自分だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺が悪かった」

 

 ようやっと感情の船の舵取りを元に戻したらしい先輩が口にしたのは、まずこれである。

 

「……お前たちを頼りにしてないわけでもないし、ジザを見縊っているわけでもない。俺の我儘で迷惑をかけたことは、済まなかった」

「どう思います?謝罪として及第点でよろしいか?」

 

 シャクラの問いに、自分とフェイはそれぞれ手で大きく丸を作った。

 よろしい、とシャクラが言う。

 

「ではこの話は、後々レトに我々全員の食事を奢らせることで手を打つとして」

「え」

 

 大食い揃いのドラゴン乗りに食事を奢るという言葉の意味を知るだけに、先輩から呆然とした声があがるが、やかましい、とシャクラに睨まれ、先輩は黙り込んだ。

 

「なんつーか……シャクラさんも大分愉快ってか、はっちゃけた性格になってきてるような気がするんだけど」

「かちこちの優等生みたいな昔よりずっといいじゃない。やりやすいもの」

「言うほど昔じゃないだろ……。オレたちがやりすぎたか、あっちが染まりやすかったかどっちだ?」

「どっちもよ、多分ね」

 

 ひそひそひそ、とフェイと並んで座りながら囁き合っていると、ぶふふ、とエラワーンの鼻の穴から煙が二本上がる。

 契約していないため、自分にはエラワーンの意識は読めないのだが、おもしろがっているであろうことは、白銀に輝く瞳を覗き込めば察せられた。

 

「では、レトが怠っていたジザへの作戦説明を致しましょう」

「はい、ありがとうございまーす。……手間じゃないですか?」

「どの道、擦り合わせのために確認は必要でしたし、そちらの兄弟子一人に任せて、また惨事になってはたまりませんから」

 

 どうやら、シャクラの中で先輩への信頼度が特定方面で最低値を記録したらしい。

 背嚢からシャクラが取り出したのは、地図だった。この世界の、すべてが描かれた地図だ。

 

「次の作戦で、我々は魔族を打ち払い、追い返します」

「え?」

 

 口から出たのは、心底からの驚愕の声だった。

 自分はこの作戦を『知っている』。方法も結末も、すべてだ。

 知っているはずなのに、ここで戦って来たドラゴン乗りとしての自分が、作戦に心底驚かされていた。

 

 あんな、倒しても倒しても尽きない黒雲のように湧いてくる魔族を、押し返す?

 

 『先』を知る自分と、『今』だけを生きる自分がぶつかって口からこぼれた、思いがけない声だった。

 だけれどそのお陰で、怪しまれずに済んだ。

 

「驚くのも無理ないけれど、事実よ」

 

 三日月型の大陸二つの間に広がる青色、大蒼洋をフェイが指さした。

 北と南、二つの大陸は鏡合わせのようによく似た三日月の形をしているのだ。

 二つの大陸の北端にあるのが、最も狭い黒海峡であり、自分たちが今いる場所でもある。

 距離は、十全な状態のドラゴンの翼で飛んで凡そ一日半。

 

 要するに、魔族との最前線なのだ。ほんと勘弁しろ。

 

 逆に大陸南端は広く離れており、こちらからは魔族が侵入して来ない。

 海流が読みづらいからとも、年中霧が深いからとも言われているが、本当の理由は別だ。

 魔族の行動範囲には、限度がある。

 【混沌】に喰われ、汚染された生命であるからこそ、【混沌】本体との距離には限界がある。距離が開けば開くほど、常時HPバーが削られるデバフがきつくなっていくようなものだ。

 

 現地で生命を喰うか、或いは地脈を手に入れることができれば、その限界は伸ばされるが、逆に言うと喰い続けるか、補給源を見つけなければ飢えに苛まれ、動けなくなる。

 この限界線があるおかげで、南大陸は魔族の侵入を水際で食い止めることができるし、同時にこっちを襲う魔族は、より凶暴化した貪食者になるというわけだ。

 ちなみにだが、自然エネルギーかつ生命エネルギーたる魔力の供給源である地脈に【混沌】がへばりついている北大陸では、全土に渡って魔族に活動限界は存在しない。

 ほんと【混沌】は一分一秒速く消滅しろ。今はどう足掻いても殺せないけど。

 

「大陸南端の守りに回している戦力も、【四翼将】もすべて集め、海洋魔族の温床になっている海を焼き払いながら押し返し、そこで【結界】を展開します」

 

 知っている単語に、眉が動くのを感じた。

 

「言葉のあやじゃなくて、本当の結界よ。設定した生体反応以外を自動で弾き飛ばす、大魔術による壁のこと。材料は、ドラゴンの遺体十体と、膨大な魔力」

「よくドラゴンが許したな。あいつら、同胞の亡骸弄られるの嫌いだろ」

「言っていられなくなったのよ。これもね、結局は魔族をすべて殲滅する作戦じゃないもの。このままだとわたしたち、すり潰されて終わりだから。要するに、時間稼ぎなの」

「……お前も気づいているだろう。最近、新たなドラゴン乗りがなかなか現れない」

 

 それも、知っていた。

 原因は単純。ドラゴンの卵が産まれにくくなっていることだ。

 地脈や大気から魔力を大量に取り込み、卵に内蔵して生まれる彼らは、地脈や大気の魔力が薄くなれば、新たな卵を孕めない。

 【混沌】の空気が僅かながらも途切れずに流れ込み、地脈にも触手が届きそうになりつつある今、ドラゴンたちは魔力不足に陥りつつあるのだ。

 だから【結界】を張り、一時的にでも地脈から魔力が奪われるのを防がなければならない。

 百年間、【結界】で覆えば、南大陸の魔力は溜まり、ドラゴンたちの卵も新たにつくられるようになるが、【混沌】が観測されていない今は、ただ原因不明にドラゴンたちの卵の数だけが減っていく不安の時代なのだ。

 

 やはりこの世界、元々詰みかけな状況であるのに加え、一つ間違うと全部が詰んでしまうのだ。

 

────これだから!これだから外なる神モドキは!!

 

 空きっ腹抱えて永遠宇宙をボッチで彷徨ってろよボケ星に降りてくんな、といつもの罵倒が口から出そうになった。

 

「……ジザ?」

「や、なんでもないです。話はわかりましたけど、結局オレたちは何を?」

「【結界】の要石になる遺体を、指定座標まで運ぶ船の護衛が主ね。これが三体以上沈没したら、【結界】は張れないわ」

「……うわ」

「絶句している場合ではありませんよ。【結界】発動には、ドラゴン乗り一人とドラゴン一体が、同時に魔力を五十秒間亡骸に注がなければなりません」

「術式を改良しつくしたんだけど、これ以上は短くできないそうよ。要するに、そのドラゴン乗りとドラゴンたちは、五十秒間案山子になっているしかないわ」

 

 見習い含め、千人いるかいないかのドラゴン乗りが総力戦を展開するど真ん中で、十人と十体が五十秒動けなくなり、三箇所以上欠けると即アウト。

 

 改めて聞いたら、とんでもなさすぎる。

 そこまでやっても、得られるのは敵の殲滅ではなく、一時的な延命でしかない。延ばしたその生命を使っても、魔族を殺し尽くせるかどうかすらわからないのだ。

 博打のほうが賭けとしてまだ成立してやしないか。

 しかし、この作戦を行う時期もまた、今しかない。

 これ以上魔族と戦い続ければ、ドラゴンが生まれなくなって、こちらは必然的に敗北する。レグルスもそれをわかっていて、指揮を取るのだろう。

 

 ドラゴンを失ったあとは、一人残さず喰われて死ぬだろう。

 生きた証も、生きる意味も、何もかも根こそぎにされる。

 ほぼ無意識に、首にある鱗模様に触れる。龍との繋がりの印は、熱もなく静かだった。

 

「……俺たちが守るドラゴンの亡骸に、最後に魔力を注ぐのはお前だ。ジザ。五十秒、へばるなよ」

 

 そして、ぼそりと告げられた先輩の一言に、自分はひくり、と口がまた引き攣った。

 

「先輩、やっぱり一回殴っていいですか?」

「……なぜだ?」

「あからさまに大事な任務じゃないですかそれ!!逆になんでオレを外して上の許可下りると思ったんですか!?」

 

 襟首掴んで締め上げてやろうかこの美少女面、と目を吊り上げる自分に対し、先輩は淡々としていた。

 

「……戦場で五十秒、ドラゴンごと一歩も動けなくなるんだぞ。飛び抜けて危険に決まっているだろうが」

「じゃ、アンタが五十秒間オレを守ってくれたらいい話じゃないですか。そしたら、死ぬ気で魔力でもなんでも使って成功させますよ」

「死ぬ気はいいが、死ぬのはやめておけ。……だが、わかった。その通りだな。今日、お前が俺にしてくれたように」

 

 ほんの微かに、先輩の無表情が緩む。

 次の瞬間、自分は後ろから何かに激突された。

 魔力で浮きあがったフェイの腕が首に回されており、自分は妖精のような女の子に、背中から抱きつかれていた。先輩も、シャクラに肩をど突かれている。

 

「なによ、ジザ。頼りにするのはレトだけなの?わたしたちもいるのに」

「言っておきますが私たちは四人一組ですからね。保有魔力量が最も多く、経験が最も浅いあなたを守り切る形が、最もやりやすい」

 

 グサッとくる正論だが、だからこそ自然な苦笑いがこぼれる。

 

「……ありがとう」

 

 小さく言った自分の赤い髪を、フェイが小さな手でくしゃくしゃと、かき混ぜたのだった。

 

 

 

 

 

 

 




魔力にまつわる諸々の設定を下に書きました。
不要な方はスルーで。

また、一部感想欄にて作品に対する考察が展開されておりますので、感想欄閲覧はお気をつけください。










  










この世界では、感覚で魔力を扱えるのがドラゴン乗りやドラゴン、理論を頭に入れ、術式を経て扱うのが【魔力持ち】です。
【魔術】は主に【魔力持ち】たちが組み上げた術式を指します。
起動コードとなる呪文を必要とする【魔術】は、噛んで呪文を間違うと発動できないため、魔力の扱いに理論や術式を必要とする【魔力持ち】の中で、特に戦場へ行く者に無詠唱魔術は最低限必要なスキルです。
尚、念話などの精神感応系は、呪文を必要とせずとも扱えます。

また、魔力で一から炎を起こして放つよりも、燃料と火種を魔力で掴んで敵にぶつけて燃やすか、大量の火薬付き火矢を魔力で遠くへ飛ばして爆発させるほうが楽、という世界です。


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その六

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

また、感想欄の一部にて予想考察が展開されておりますので、閲覧にはご注意下さい。

では。


 

 

 

 

 

 朝の目覚めは、翼の下で始まる。

 目を開けると、一番に目に入るのは薄い黒の飛膜なのだ。

 丸まった犬のような体勢で眠るドラゴンの、後ろ足の付け根辺りにできるくぼみ。そこが自分の寝る場所だ。

 十一年間、ずっと。

 

「おい。おい、おーきーろっ」

 

 くわぁ、と昨日の夜ふかしのせいで覚めない眠気を振り払うために欠伸をしつつ、頭から引っ被っていた毛布を畳み、下から翼を裏拳で叩くと、ぶふふ、と鼻息で返事が返ってくる。

 退かされた翼の下から這い出ると、大体目の前には牙が飛び出す黒ドラゴンの頭があるわけだ。

 

「おはよ、コクヨウ」

 

 この火吹きトカゲは、相棒の自分が側にいないと寝たがらない。

 卵のころに盗まれ、実験動物扱いされたことがよほどのショックだったらしく、乗り手を抱え込んでいないと、夜などは不安になってしまうのだ。自分は安眠枕か。

 

「しょうがねぇけどな」

 

 なので、こちとら人間用の寝台で寝る感覚がどんなものだったかすっかり忘れてしまったが、十一歳の女の子のやることと思えばまぁ、受け入れられる。

 喩え相手が【前】でいうところの、大型バスを縦にニ台重ねた分以上の大きさがある女の子でも、綺麗な黒い鱗を自慢にしている女の子であることに違いはない。

 髪を大事にしている人間の女子と同じだろう。

 自分とて、コクヨウの翼の下に隠してもらったりしているから、お互い様だ。

 火を腹に溜めたドラゴンの近くは、寒い冬は温いし。暑い夏はさておくとしても。

 ぐるる、と鼻をこちらに擦り寄せようとして来るのを手で抑えつつ顔を洗い終える。

 ふと横を見ると、群青と白銀の鱗を持つ龍たちが、こちらを見ていた。

 

「シラン、先輩は?」

「ここだ」

 

 にゅ、とシランの額の上から先輩の頭が出た。別に自分に付き合う必要もないのに、先輩も龍舎に寝泊まりしているのだ。

 お陰で自分たち二人とも、髪やら肌やら全身に龍のにおいが染み付きまくって、ほぼすべての獣にてんで近寄られない有様だ。

 

「おはようございます。朝飯行きます?」

「行く」

 

 シランの頭の上から、先輩はひらりと飛び降りて来た。頭に寝藁がついているのに、顔が良いと大して変にも見えないのは理不尽だ、という気分になる。

 

「先輩、頭に藁ついてますよ」

「どこだ?」

「頭のてっぺんです。いえ、もう少し右、や、左。って、違いますよ。先輩なんでそういうのは不器用なんスか」

「……」

 

 ただし、先輩は小柄な美少女じゃなく上背のある野郎なので、こちらからは地味に取りにくい。

 背伸びすると自分の小ささを思い知らされるため、取ってやりたくはないのだ。

 色とりどりの宝石のようなドラゴンたちの瞳に見送られながら龍舎を出る、いつも通りの朝であり─────作戦が始まる二日前の日の始まりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おぅ、昨日レグルスの長相手にやり合った若者二人ではないか」

 

 長テーブルがいくつも並べられた食堂に入った自分たちにそんな声をかけてきたのは、緑の瞳の大男だった。

 珍しい、と思いつつもそちらを向いた。

 

「オレはやり合ってないんですけど。やらかしたのは先輩だけです」

「そうは言うがな。お前たち、大体二人一組だから大差なかろうが」

 

 はっはっは、と大笑する髭面の大男の近くには、なんとも言えない顔をしている数人のドラゴン乗りがいる。

 周りを巻き込むような豪快さがにじみ出ているこの男は、レグルスの腹心にして、【四翼将】の一人だ。名はリュイロン。

 性格は見たままで豪放磊落。裏表がない。レグルスが黒い雷雲だとすると、こちらは白雲がわずかにたなびく晴天である。

 それから、声がでかい。見た目は四十そこそこだが、八十は超えているはずだ。

 ここでは、長く戦っていられる戦士は、見た目に反した爺になるから当然なのだが、つくづくドラゴン乗りが人間から外れていっているのを感じさせられる。

 自分たち四人は、見た目と実際の歳が同じであるが、そちらのほうが珍しいかもしれない。

 リュイロンが、猟犬のように鼻を動かした。

 

「まだ龍舎に寝泊りしておるのか。おい赤毛の、そこまでドラゴンにべったりでよいのか?」

「ジザは、必要なことをしているだけです」

 

 自分より先に前へ出て喋る先輩の背中は、なんとも広いものだった。

 その肩を自分は軽く叩いて、リュイロンを見上げる。

 

「オレんところのコクヨウは事情が事情ですんで、そりゃそれくらいはやりますよ」

 

 ドラゴンは、本質的には傲慢というか自種族以外を見下す。契約相手に人間を選んだのは、他よりも情緒面が発展していると判断したからで、個としてはともかく、種として対等な存在とは思っていないだろう。

 龍種が個体としての最強であるのは間違いないからなのだが、その慢心のせいで北の龍は全滅して【混沌】の肥やしにされたのだ。

 引き換えコクヨウは、史上初の人間に盗み出されて人間の下で卵から孵ったドラゴンだ。

 今更だが、盗んだやつらは間違いなく超有能だったと思う。

 頭のネジを何本か無くしてさえいなければ、もっと世のためになることができたろうに、あの場所諸共消し炭にされるとは勿体無い。

 やつらのせいでコクヨウは母龍の翼の下で学び、成龍になるために様々なことを教わるべき期間のほとんどを、自分の肩に乗っかったりカルガモの雛のようについてきたりして過ごしたのだ。

 

 果てがあの、乗り手をライナスの毛布にする甘えん坊黒ドラゴン。

 人間の成人が十五歳のこの世界で、十一歳の龍はまだ子どもだろう。

 エラワーンは三百だか四百だかの爺さんで、シランだって二百歳そこそこはあるのだ。婆さんドラゴン呼ばわりは殺されそうな気がしているので、間違ってもできないが。

 

 ともあれ、緑のドラゴンを駆る【四翼将】は、顎髭を撫でた。

 

「ま、己のドラゴンとの絆の育み方はそれぞれであるからな。……それにしてもお前らは緊張しとらんのか?非番を使わなかったのだろう」

 

 含みのある言い方である。

 何せ、会いたい者がいるならば会っておけ、とまで言われるほどだ。ここ数日の間に、家族や恋人、友人と今生の別れの挨拶をした者がいる。

 そして確かに、そのうちの何人かにとっては本当にそれが最期になるだろう。

 無表情のまま、淡々と先輩は言った。

 

「俺には、特段会うべき人はいませんから」

 

 そこは会うべき人ではなく、会いたい人であるべきなのじゃないか、と先輩を若干目を細めて見てしまった。

 が、先に言われたからには自分も何か言わなければならないわけで。

 

「オレ、そういう挨拶とか苦手なんです」

 

 湿っぽいのは、元々嫌いなのだ。

 さらに曰く言い難い顔になったリュイロンは、まだ何か言おうとしたようだが、それより先に先輩の腹がやかましい音を立てた。

 く、と笑いそうになるのをなんとか堪える。

 

「あの、オレたちはこれで失礼しても良いですか?先輩が腹空かしてますし」

「お前もだろう」

「先輩みたいにデカい腹音させるほどじゃないんで」

 

 むぅ、と口を結んだ先輩に、リュイロンはまたも呵呵と笑った。

 

「わかったわかった。朝飯時に引き留めて悪かったな」

 

 一礼して巨漢の横を通り抜ける。その瞬間、緑の瞳が自分だけを鋭く見ている気がして、寸の間振り返った。

 視線がぶつかり、リュイロンが口を開く。

 

「レグルスから話は聞いたのか、【黒】よ」

「……聞いてます。聞きました」

「それでよいのか、お前は」

「ま、オレなりに大事な任務を頑張りますよ。未熟ですけどね」

 

 【四翼将】がひとりはその答えに、またも眼を細め、かぶりを振った。

 良い人で、こわい人だ。年中しかめ面のレグルスよりずっと。

 

「応。では、お主らはもう一日休暇をやる。友と語り合ってこい。あの、【白銀】と【魔力持ち】の金色の髪の娘だ」

「え?」

「返事は、はい以外認めんぞ」

 

 どういうことだと狼狽えるも、リュイロンはもうこちらに目もくれなかった。彼の周りにいる他のドラゴン乗りも慌てているが、【四翼将】の一人は言を翻すつもりはさらさらないようだった。

 受け入れる他、なさそうである。

 前を向くと、そこには微妙な顔の先輩がいた。

 

「変な顔になってますよ、先輩。オレみたいなちっさいのが結界張りの一人に選ばれたの、まだ心配なんです?」

「当たり前だ」

「魔力量はオレのほうが先輩より多いの知ってるでしょ。大丈夫ですって」

「……俺が心配しているのは、お前の制御面だ。木剣をよく爆発させていただろう」

「それを持ち出すのは反則だと思います!」

 

 今では木剣を壊さずに魔力を纏わせることもできているが、やり過ぎて爆発させまくったのは、見習い時代の忘れたい思い出である。

 頬にそのときの怪我が薄く残っているし、師匠の拳は目玉が飛び出るんじゃないかと思うほど、痛かったから。

 

「おはよう、二人とも」

 

 先輩と話しながら歩いているとフェイとシャクラに出会う。二人とも朝食はまだというので、そのまま四人での朝食と相成った。

 

「私たちまで非番扱いですか。確かに海岸哨戒くらいしか任務はありませんでしたが」

「いいんじゃないかしら。どうせ二日後には生きるか死ぬかよ。美味しいご飯をゆっくり食べることくらいしてたって、罰は当たらないわよ」

 

 生真面目そうに眉根にしわが寄っていたシャクラに、フェイはからかうような笑みを向けていた。

 仲が良い。

 

「そういえば、オレと先輩は別に行くとこもないけどさ。フェイはいいのか?会いたいやつとか」

「別にわたしもいないわ。気遣いありがとう」

 

 どういたしまして、と返しながら肉と野菜を挟んだパンのようなものを齧る。

 言われてみればだが、自分もフェイの素性は知らない。なんなら、先輩のことも聞いていないし、自分のことも喋っていないくらいだ。

 知っているのはあくまで【レテ】の話だけだ。

 【レト】が、先輩が、どういう経緯を辿って今ここにいるのか、直接聞いたことはなかった。

 口下手な話を長々と聞くのが面倒くさくなったからとか、そういう理由ではない。断じて。

 だから、己の氏素性をはっきりさせているのは、この四人の中ではシャクラだけということになる。

 

「シャクラさんはきょうだいがいるんでしたっけ」

 

 二日後が二日後だからだろうか、気づけばそんなことを尋ねていた。

 少し面喰ったようだが、シャクラはすぐに応えてくれる。

 

「ええ。上に兄が一人、下には弟が二人いますね。男ばかりの四人兄弟です」

「うちと全然違うわね。うちはわたしの下に妹が一人よ。だけれど、そろそろどこかから婿を取っているかもしれないわ。姉のわたしがこうだから、誰かがあの家を継がないとならなかったし」

 

 跡を継がなければならない、それなりな規模の家の出だということをさらりと告げたフェイは、小さな口ではむはむとサンドイッチそっくりの食べ物を頬張っていた。

 南大陸には国はいくつかあるし、その中には無論名家旧家だってある。

 ただ、確かに国はあるのだが、ここ数百年は魔族の侵攻を食い止めるという方針で一致団結しており、人間同士の戦争はほぼ起きていない。

 争いはあれど、察知されればドラゴンが乗り手と共に調停役として飛んで行って治めるため、本格的な戦火が灯ったことはないのだ。

 ドラゴン乗りと【魔力持ち】たちは、現状どこの国にも属さずに魔族と戦うことを最優先にできる戦闘集団だ。国を超えて戦える者が集められるから、出身地も何もかもばらばらである。

 この時代のこの世界において、人間は人間同士で争っている場合ではないという見解を共有できているため、そういう世界が形作られている。言葉すらも【統一言語】が数百年前につくられ、広まっている。

 昨今は国の区別すら緩やかになっており、国の名前は単に自治権がある土地を、【州】として区別するための名称になりつつあった。

 ある意味では、平和な時代なのだ。

 魔族という共通の敵がある限り、の話だろうけど。

 シャクラは、まじまじと隣に座るフェイのやわらかい金色の髪を見下ろしていた。

 

「姉だったのですか……あなたのような奔放な姉がいる妹は苦労しそうだ」

「あら、わたしちゃんとあの子をかわいく思っていたわよ。だってあの子は素直な良い子だもの。だからお父さまとお母さまのお気に入りだったしね」

「おい、目が笑ってない笑顔やめてくれ。かわいい顔が台無しだぞ」

 

 パンを齧ろうとしていたフェイは、一瞬動きを止めた。止めてから、自分の隣で無言で食べ続けていた先輩の方を見る。

 

「レト!あなた弟子に何を教えたら、こうもさらっと真顔で口説き言葉がでるようになるの」

「……俺は何も教えていないし、こいつはつまらない世辞を言う性格じゃない」

「そもそも口説いてねぇっての」

「なおさら悪い!!」

 

 少し頬をふくらませる妖精みたいなこの女の子が、自分がここで会った誰よりも可愛い女の子なのは間違いないのだから。

 気のせいか、耳が桜貝のような色合いになっているフェイを見ながら、食事を続ける。

 

「フェイに、結婚をする予定はあったのか?」

 

 というのに、ぼそりと先輩が問うものだから水を吹きかけた。

 フェイがにっこり微笑む。耳の色は元に戻っていた。

 

「あったわよ。あったけれど、細かいことはどうでもいいでしょう。聞いても不快になるだろうし」

 

 つん、と横を向いたフェイに、シャクラは頷いた。

 

「大方予想はつきますがね。あなたの年齢と家柄で【魔力持ち】というなら、縁付きたい家はあったでしょうから」

「わたし、あなたに家のことを話した覚え、ないのだけれど」

「それくらい、立ち居振る舞いを見ればわかります」

 

 そういうモンなんですか、と聞くつもりで先輩の顔を覗き込むと、真顔で首を傾げられた。

 先輩にもわからないのだ。

 歩き方や走り方で、武術をやっているかはわかっても、さすがにそこまで高度なことまではわからない。

 教養がちゃんとある上流の出身者は凄いものだなぁ、と水をごくりと飲んだ。

 【魔力持ち】は、普通の人々にとっては有難がれるそうだから、そういう血を繋ぎたい家というのは、有り得そうな話だった。

 年齢一桁代のときから、ほぼ戦うこととドラゴンのことしかしてこなかった自分や先輩にも、それくらいは予想ができる。

 にしても、不毛な気がしてしまうのは【魔力持ち】同士の子は、元々授かりにくいと知っているからだろうか。

 

「で、そっちの澄まし顔は、なぜ突拍子もないことを聞いているのかしら。会話の脈絡がなさすぎるのはいつものことだけれど」

「お前より歳下の妹が結婚するというなら、お前にもそういう話があったのかと思ったんだ。俺の姉はお前より歳上だったが、そういう話が来たのはもっと後だったから」

「……ふぅん、そっちにはお姉さんがいたの」

 

 『いる』でなく、『いた』。

 フェイも何かを察したらしく、眉を下げた。

 井戸の釣瓶が落ちるように、空気が暗くなりかける。察したのか、先輩は手に持っていた食器を置いた。

 

「いやその……すまない。重くするつもりはなかった。俺はそういう話に疎いから、気になっただけだ。フェイがまだきな臭い話で困っていたなら、尋ねたほうがよいか、と思ったのだが……」

 

 余計な世話だったか、と無表情のまま内心は焦っているらしい先輩は、早口に言った。

 尖りかけていたフェイの眉が下がる。

 

「別に、余計ではないわ。【魔力持ち】にありがちな話と言うだけだから。女のほうが魔力を取り込みやすく、溜めやすいというだけで煩わされるのが、嫌だったの」

「何某か持ち込まれた話はあり、しかし貴女はそれを蹴り飛ばして家を出てきたということですか?」

「わたしの半生を纏めてくれてどうも。わたしはね、わたしより強い男の人とでないと、結婚しないって言っただけよ」

「そんなの早々いるわけねぇだろ……」

 

 強靭な翼が生えているドラゴンが駆ける空にまで上がり、魔族の首を捩じ切る胆力がある少女より強いやつなど、少なくとも並みの良家の子息にはいないだろう。

 思い切りが良すぎる。そこまで親の言うなりが嫌だったのか。

 フェイは、こてりと首を横に倒した。

 

「ええ、いなかったわ。だからわたしはここにいるの。……と、考えてみたら家のことを話したの、初めてかしら?」

「そうだな。オレは……うーん、名前くらいしか言えることねェな。アジィザって、強いって意味あるだろ」

「そんな意味、あったかしら?」

「オレの中では()()()()()。だから良いんだ。格好いいし」

 

 訝しげなフェイに向けて、に、笑ってみせる。

 確かに、この世界の言葉に照らし合わせると、自分の名前の音にそんな意味はない。たまたま、【前】の世界で聞いたことのある言葉と、同じ音であっただけだ。

 こちらの世界で、アジィザという言葉には精々数字の『七番目』だか『八番目』ぐらいの意味しかないのだ。

 食べるのを再開した先輩は、何か言いたげな視線をよこすが自分はそれを避けた。

 誰がくれたかも最早わからない雑な名だから、こういうのは気に入った者勝ちである。

 ジザと呼ばれるのも、嫌いではない。

 

 そうやって他愛ない話をして、今日という日は過ぎていった。

 

 

 

 

 




語り手赤毛氏の『女の子』の幅はわりと深淵です。


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その七

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

また、感想欄の一部にて予想考察が展開されておりますので、閲覧にはご注意下さい。

では。


 

 

 

 背丈の倍以上はある扉を、一人で開けた。

 音を立てないよう、細い隙間から体をねじ込むようにして、薄暗闇に忍び入る。

 探していたものは、すぐ見つかった。元から、探す必要もなかったのだが。

 

「聞こえていますか?おれですよ」

 

 暗闇に蹲る巨体に、声をかける。

 喉から出た声に、震えがないことに安堵する。

 怯えてはならず、怯えを悟られてはならなかった。

 懐に入っている、決して捨てられないものの重みを感じながら、告げた。

 

「あなたに、頼みがあるんだ」

 

 巌のような体が、闇の中で身を起こすのが見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先輩、シャクラ、フェイ、それから自分が護衛することになった東方面担当の輸送船の船長は、軍港に停められた船の側で出会うなり、開口一番こう言った。

 

「歴戦のドラゴン乗りと魔力持ちっていうから、どんなのが来ると思ったらチビとうらなりじゃない」

 

 頭ァ!と焦った声を上げる、日焼けしたむくつけき男共を従えているのは、自分やフェイとそれほど歳が違わなそうな、少女だったのだ。

 だがそれよりも、うらなり呼ばわりされてぽかんとしたシャクラの顔がおかしくて、つい吹いてしまう。

 一方先輩は毎度のような茫洋とした顔で、船と、船に繋がれている巨大な魔力結晶を見ているだけだ。

 見ようによってはなるほど、俺は確かにうらなりに違いないのだから驚くようなことではないだろう、とかなんとか自己完結しているのだ。

 何か言ったほうがいいだろうに。そういうところだと思うのだ。

 ともあれ先輩はいつも通りで、それを見たシャクラの裏切られたような顔がおかしくて、さらに止められなくなる。

 確かに、二人とも顔の造作が雄々しいとか逞しいとかよりも、綺麗とか美少女とかいう方面に整っている。

 ぶっちゃけた物言いをすれば、女装したら映えそうな顔なのだ。したことないだろうけど。

 なんにしても、ドラゴン乗りを捕まえてのうらなり呼ばわりは初めてだった。

 

「そこの赤毛のチビ、あんたは何を笑ってんのよ」

「ああ、すんません」

 

 少女の目がじろりとこちらを向いた。

 日焼けした褐色の肌に、よく光る黒い目。縮れ気味で癖の強い巻き毛も、黒々として艶があった。

 

「アンタ、【海のいとし子】ですよね。海辺で産まれた【魔力持ち】の中にそう呼ばれる船乗りがいるって聞いたことがありまスけど、会ったのは初めてです。よろしくお願いしますよ」

 

 【魔力持ち】やドラゴン乗りが南大陸で生まれるようになってから、数百年経っている。魔族と戦う道に身を投じた者もいれば、大陸の中に広がって普通の暮らしを育む者がいるのだ。戦う力があっても、全員がそれを殺すために振るえるわけじゃないのだから。

 彼らが生きていくその年月の中でできあがったものの中には、由来や根拠があるのかないのか定かでない風習や言い伝えも、数多あるのだ。

 【海のいとし子】は、その中で生まれた風習の一つで、海の側で生まれ波や風の扱いに長けた【魔力持ち】の子どもが、そう呼ばれる。

 彼らはふさわしい能力と胆力さえあるならば、年齢や性別に関わらず船の頭となることもあると聞いたことはあったが、実際に会うのは初めてだった。

 そうでないなら、この歳で船の頭にはなっていないはずだ。

 果たして、【海のいとし子】という言葉を聞くと、少女は眉を開いた。

 

「へぇ、空からあたしらを見下ろしてばっかりのトカゲ乗りかと思ったら、意外と物知りなやつもいるのね」

「トカゲはやめといたほうがいいですよ。聞かれたらぱっくり喰われると思うんで」

「……契約している龍を火吹きトカゲ呼ばわりして平気な人間は、こいつくらいだ。ドラゴン乗りでないならば、やめておいたほうが賢明だ」

 

 だからもう少しやわらかく言えないのだろうか。真実なのだが。

 こいつ、と言いつつこちらを親指で示した無表情な先輩と、ひょいと肩をすくめた自分を見て、少女はふぅんと鼻を鳴らした。

 

「悪かったわね。あんまり予想と違うのが来たから驚いたの。トカゲ乗りって言ったのは謝罪するわ。あたしはメイファ。あんたが言ったように【海のいとし子】で、こいつらの頭よ。今回はあのデカブツを運ぶ船の一隻を任されたってわけ」

 

 デカブツ、と言いつつメイファは、指で船に繋がれた巨大な魔力結晶を指した。

 つまり、結晶化するまで魔力を注がれた、とぐろを巻いた蛇のような形に固定されたドラゴンの亡骸を示したのである。

 この世界の生き物には、魔力限界と呼ばれる限界値が存在する。

 それを超えて魔力を注がれた生き物は、ああして体が結晶化し、水晶のような結晶体、魔力結晶になる。なってしまう。

 あのドラゴンは死んでから魔力を注がれて結晶化したようだが、生きている時分に多量の魔力を浴びても生き物は結晶化するし、死ぬ危険はある。

 魔力結晶自体は水に浮くほどに非常に軽い不思議な結晶で、砕くと中に詰まった魔力を開放できる特性上、燃料源のようにして様々に使われる。

 ちなみに、食べると口がひん曲がりそうなほどのエグみがある。見た目は光の加減で七色に光り綺麗なのだが、二度は食いたくない味をしているのだ。

 

「あたしらは、あれを指定された座標まで何が何でも運ぶ。あんたたちは護衛と、結界術発動が任務なのよね。魔力を注ぐ起点者になるのは誰なの?」

「オレです」

 

 ひょいと手を上げれば、メイファ以外の他のやつらがぎょっとした顔になった。

 ドラゴン乗り三人のうち、見た感じ一番貧弱そうなのが作戦の要の一つとかそりゃ不安であろうが、あからさま過ぎて少し凹む。

 が、船の頭は違ったらしかった。

 

「そ。じゃ、お互い死なないように頑張りましょ。船はあたしたちが死んでも進めるから、空は任せたわ」

「了解ですよ。だけど、死ぬってのはやめてくださいね。アンタ、船の長なんですから」

「物の喩えよ。頭の固いやつね。ま、あたしらの船壊したら、ぶち転がしてやるからね」

 

 歯切れよく言い切り、さっさと話を進めていく。こういう場合に交渉が上手いのはフェイであるため、自分は一歩下がった。

 自分だと、根本的に粗野というか、礼儀がなってないのがばれてしまうのだ。

 

「よく知っていたな」

 

 さくさく話を進める金髪と黒髪の女の子らを見ていると、腕組みをした先輩に話しかけられる。

 それか、と自分は頷いた。

 

「【いとし子】のことですか?前、海辺に住んでたっていう食堂の人から聞いたんですよ。ほら、時々多めによそってくれるオッサン、いるじゃないですか」

「だとしても、よく覚えていた」

「オレ、知ってることの偏りがひどいですからねぇ。知らないことは減らしておいたほうがいいでしょ?人と話すのは、そんなに嫌いじゃないですし」

「ええ。知識は力ですからね。良いことです」

 

 いきなり会話にひょっこり出て来たうらなり、じゃなかったシャクラは、妙に訳知り顔だった。

 とはいえ実質、戦い以外の知識が抜けがちで、下手をすると常識外れ呼ばわりされかねないのが、自分と先輩である。

 うんと幼い子どものころからドラゴンと契約していた分、精神的な繋がりも太く強く、人龍一体のように動ける。

 が、反面諸々が疎いし変に脆い。だから、あんな()()()()に我を忘れてしまったりする。

 普通の知識や振る舞いを学ぶ時間を、ほぼそっくりそのまま龍との修行に費やし、常に自意識の隣に龍の意識を感じ続けているからだ。それこそ、自分とドラゴンの自我の境目を見失うのではないかと思うほど。

 自分はまだいい。

 【前】の記憶がある上、契約したときのコクヨウの自我自意識はメレンゲのほうがまだ固いという有様であったから、自分の物心はすぐついた。

 だけど、先輩はどうなのだろう。

 年齢を鑑みても、一桁のころに龍と繋がったのは確実だ。

 

「レト、ひたむきに魔族を狩り続ける戦士としての在り方をやめろとは言いませんが、それ以外のことも学ぼうという姿勢を身につけるべきかと。先達として不甲斐ないではありませんか」

「……わかっている。反省している」

「失礼ながら、どこがですか」

「俺は、反省している」

「顔がぴくりとも動いていないのですが。そちらの前世は彫刻か何かだったのでは?」

「彫刻が生まれ変わるわけがないだろう。お前は何を言っているんだ」

 

 いや、やっぱり大丈夫か、と人の頭上でぽんぽんと景気よく交わされる会話を聞いて思う。

 一応今から生きるか死ぬかの戦いに行くのだが、この調子が崩れないのは肝が据わっているからなのか、なんなのか。

 ドラゴン乗りは、戦いを厭わないドラゴンの性質に染められていくと言うが、強ち迷信ではないのかもしれない。

 だから自分も、変に緊張しなくて済んでいるのだが。

 

 と、思ったところで自分たち三人の頭に、空気の塊がごん、ごん、こん、とぶっつけられた。

  

「そこのドラゴン乗り三人組。話がまとまったわ。さぁ、行くわよ」

 

 魔力でほんの少しだけ地面から浮遊したまま、腕組みをして仁王立ちをするのは、金色の髪を海からの風になびかせるフェイだった。

 その背中には黒い海が広がっていて、群青と、白銀と、黒の三頭のドラゴンたちが、翼を広げて飛んでいた。

 

「ふざけてねぇよ」

 

 言って、笑って、自分は桟橋の方へ、黒のドラゴンが待つ方へと歩いて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結界の要石の一つである魔力結晶を運ぶ船を守るのが自分たちだけなのかと言えば、無論そんな訳はない。

 レグルスの言う通り、次代の乗り手とその師匠に選ばれた者たち以外のすべてをかき集めた総力戦なのだ。

 そこまでせねば、もたないというのが本当のところだろうが。

 そうしてかき集められた戦力、複数のドラゴン乗りと【魔力持ち】たちからなる【組】によって、結界の要石を載せた船は、何重かの円を描くようにして守られる。

 自分たちの組は、その円の最も内側を担当するのだ。

 東方面第二結界石の起点者を任された自分が含まれている組が、最も船に近いところに配置されたのは、偏に結界を起動しやすくするためだ。つまり、一番落とされたら困るのだ。

 だから、自分たちからやや離れたところにはまた別な色のドラゴンたちが飛んでいるし、彼らの存在もなんとなく感じ取れた。

 飛び立つ前、その馬鹿魔力量で頼むぜ、と言ってきた人たちである。馬鹿は余計だ。

 

「やっぱり、バレるか」

 

 案の定、北大陸方面から湧いて来るのは、蝗の大軍のような黒い影共。

 些細な感傷など消し飛ばす光景を前に、そんな言葉が漏れた。

 ぐるる、とコクヨウが喉を鳴らし、鶴のように長い首を巡らせてこちらを見る。とんとん、と鞍の分厚い革越しに首を叩いた。

 

「炎はまだだ」

 

 ドラゴンの炎は文字通りの高火力だが、射程距離がやや乏しい。

 だからこっちだ、と弓を手に取る。

 

『総員、遠距離攻撃発射準備!』

 

 全体に念話で指示を飛ばすために、今は眼下の船に乗っているフェイの声が頭の中に響いた。

 視界の端で、シャクラと先輩がそれぞれに弓を構えるのが目に入る。

 前に展開したドラゴン乗りたちも同じくだろう。

 ドラゴン乗りの力にも耐えうる弓を、満月のように引き絞る。魔力を込め、弓の先に『圧縮』させた。

 

『撃て!』

 

 響いたフェイの『声』に従い、矢を解き放った。

 矢が飛び、黒い群れに突っ込むや否や爆発を起こす。

 着弾と同時に圧縮された空気が解放され、周りを吹き飛ばすのだ。間違っても、対人には使いたくない技で、そしてとても疲れる。

 洋上で蠢く黒い霞と比べれば余りにささやかな、火花のような光がいくつと瞬き、ばらばらといくつもの影が落ちていくが、霞が薄れる様子は一向になかった。

 

 当り前だ。

 あちらは大陸一つ分の生命をすべて腹に収めた化物。喰らい殺した亡骸を、いくらでも投入してくる。

 そこに生命はなく、感情もなければ恐怖もない。

 体が完全に破壊されない限り、何度でも動かせる傀儡の大軍だ。

 恐らく他の九つの船も、同じように襲われているのだろう。

 

 指定された海域まで船を守りつつ魔族を斬り払い、そこからさらに五十秒、魔結晶と起点者を壊されないようにしなければならない。

 そこに至るまでに、一体どれだけ死ぬのだろう。どれだけのドラゴンが落ち、哭き唄が空に轟くのだろう。

 

 それでも、この世界の生命を伸ばさなければならない。

 空と海の半ばを黒く染め上げられ、大陸は二つのうち一つが呑み込まれ、今尚喰らわれつつある世界であっても。

 

 今は無理でも、いつか、遠い未来。

 自分じゃない誰かが世界を救う、そのときまで。

 

「さぁてと、オレに今やれるだけの精一杯を、やりますかっと」

 

 次の矢を弓に番え、魔力を込める。

 半分だけ世界に残る青空を切り裂いて、高々と矢が飛んで行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 開戦してから数時間が経っても、まったく戦いは終わらなかった。敵が、減らないのだ。

 それも当然で、何せこちとら相手の本拠地である北大陸へ向かって行っている。数も増えれば、敵の層も当然分厚くなっていくのだ。

 

 ああ本当、堪らない。

 

「こッの!堕ちろ!」

 

 巨大化した烏のような化物鳥の羽を射抜いたところを、コクヨウが後ろ脚で蹴り飛ばす。骨の折れる鈍い音がした。

 キィィィィィ、と金物同士をこすり合わせたような不快な音をまき散らしながら、化物烏は海へと落ちていく。

 その遺体を下から飲み込むのは、巨大な鮫である。

 黒い体の所々からは肉が剥がれ、骨すら見えている。胸が悪くなるような腐臭が一気に辺りに広がった。

 そいつは大きく裂けた口を開き、化物烏を飲み込んだ。仲間を喰らった分で、自分の飢えを凌ごうというのだ。

 

「チッ!」

 

 ─────しくじった。燃やし損ねた。

 

 燃やしておかねば、ああして相手の糧になるなんてこと、わかっていたのに。

 自分とコクヨウが空に束の間留まったそのとき、濁り切った鮫の目が、ぎょろりと空にいるこちらを捕らえる。

 

「右旋回!」

 

 間一髪で、コクヨウが身を捻る。空いた空間を、鮫が吐いた黒い液体が駆け抜けた。 

 躱しそこなった液体が片腕に撥ねかかる。じゅ、と熱い痛みが走った。手綱を握った右手から、一瞬力が抜けた。

 同時に横殴りの強風が叩きつけられ、体が鞍から離れる。

 

 ─────落ちる!!

 

 逆さになった視界に刹那、群青の鱗が翻った。

 魔力で以て操った風で、ぐるりと体の上下を引っ繰り返す。足の下には、化物鮫の体があった。

 剣を両手で握りしめ、魔力を込める。刀身より長く、魔力刃が精製された。

 そのまま、銛のように長く伸ばした剣を鮫の頭に突き刺した。巨体がのたうち回り、黒い液体を吐き散らして鮫は荒れ狂う。

 深々と突き刺した剣に両手でしがみつく。そのまま、全身の力を使って剣を捻った。

 ぶちりと肉と神経、骨が断ち切れる太い音がした。しかし足が滑り、ふわりと宙に投げ出される。

 水面に叩きつけられる衝撃を予想して、ぎゅっと身を縮めた。

 

「ジザ!」

 

 だが直前で襟首を強い力で掴まれ、引っ張り上げられる。ぐえ、と喉が締まって変な声が出た。

 気づけば、剣を持ったまま自分は宙に浮いていた。

 ぶらぶらと頼りなく揺れる足の下では、白銀龍が吐いた炎で燃えつつ、黒い海へと沈んでいく鮫の巨体があった。

 あの化物鮫の黒い液体が撥ねた腕を見れば、防具の隙間から覗いている服が溶け、下の皮膚が爛れている。

 嫌なにおいまで漂って来て、うわ、と鼻にしわを寄せた。

 

「大丈夫か?」

 

 首を捩じれば、上には濃い青の瞳を大きく見開いた先輩の顔があった。割とぼろぼろというか、全体的に薄汚れているが、大きな怪我はないらしいことに安堵する。

 先輩が水面ギリギリをシランで飛んで、自分の襟首を掴み、引っ張り上げてくれたのだ。

 その背後には、かぎ爪を光らせる化物烏三匹が迫っていた。

 

「先輩!上!」

 

 ぱ、と先輩が襟首から手を離した。当然自分の体は石のように落ちていくが、下に飛んできていたコクヨウに掬い取られる。

 しがみつけた鞍の上から見上げれば、先輩が危なげなく化物烏の首を三匹まとめて斬り落としているのが目に入った。

 錐揉みしながら落ちていく鳥を、シランの炎が燃やした。

 

 ほ、と息を吐く。吐くと同時に、じくじくと腕が傷みを訴えて来た。

 酸のようなものをくらってしまったのだ。もしかしたら、胃液かもしれない。

 袖を捲り、鞍に下げた水を腕にかけて酸を濯ぐ。やらないよりましな応急処置だが、今はこれ以上のことはできそうになかった。

 

 まだ、終わっていないのだ。

 海面が不自然に揺れたかと思うと、飛び出して来るのは鱗をぬめらせる鰐。

 

「サメの次はワニかよ!」

 

 北大陸周辺の水生生物はどれだけ喰われていたのかと、今更な罵倒を心の中で吐く。

 海面からの一撃を避けたコクヨウの棘が生えた尻尾が、鰐の首を薙いだ。棘に切り裂かれて喚く鰐の脳天に、自分の放った矢が突き刺さり、爆発した。

 頭部を大きく抉られた鰐の巨体は、それでも動きが止まらない。

 しつこいとばかりに大口を開けたコクヨウが、その喉笛を食い千切った。

 千切れた鰐の頭と、黒いタールのような血を噴き上げる巨体が、銀色の泡を巻き込みながら海へ沈む。その体に、コクヨウが留めの炎を吹きかけた。

 海の中でも尚、魔族の体を焼く龍の炎は消えないのだ。

 

「コクヨウ、大丈夫か?」

 

 どろどろとした黒い血を浴びて、鼻面から牙からまっくろくろすけになってしまった黒龍は、赤い目を光らせながらぶふ、と鼻から白い煙を吹き上げる。

 

「よし、まだやれるな!」

 

 言いながら、横から飛びかかって来た有翼骸骨三体にまとめて剣を振るった。

 羽を斬り落とされて腰の骨を砕かれ、蹴り飛ばされて落ちていく骸骨を、コクヨウの炎が燃やす。

 はぁ、と息を継いで、ふと前を見た。

 それが、命運を分けた。

 

 黒い霞か蝗のように海の上に蟠る魔族の群れ、その中で何か、()()()、と光るものが視えた気がしたのだ。

 そちらに視線を合わせた瞬間背中を駆け抜けたのは、とてつもない悪寒。

 ただの魔族にはあり得ない『気配』が、あった。

 

 ここから逃げろ、と本能が叫ぶ。でも、逃げられない、と理性が叫んだ。

 

 だって、だって自分たちの背後には、船がある。

 船にはフェイが、自分の大事な友達がいる。

 メイファがいて、船員たちがいるのだ。

 

「先輩、シャクラさん!」

 

 上空にいる二人と二頭のドラゴンに届けと、全霊を込めて叫んだ。

 確信なんてない。

 ないけれど、ここを耐えなければならないのだと、その想いだけで自分は吠えた。合わせるようにコクヨウが空を向き、甲高く澄んだ声で鳴く。

 何かに気づいたかのような顔をした先輩を乗せた群青の龍と、たった今化物鳥の首を食い千切った白銀龍が、呆気にとられたかのような乗り手を乗せたまま、同時に舞い降りて来る。

 

「半球型防護壁、展開!」

 

 声と心の同時で叫んだ。

 叫ぶと同時に、視界が、真白に焼かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 




増えてきたので登場者名一覧です。

・アジィザ/ジザ
赤毛の語り手。ちびなドラゴン乗り。

・レト
ジザの先輩。常に無口無表情なドラゴン乗り。

・シャクラ
貴公子。先祖代々からのドラゴン乗り。

・フェイ
妖精(フェアリー)のような美少女。【魔力持ち】。

・コクヨウ
ジザのドラゴン。鱗は黒、雌。

・シラン
レトのドラゴン。鱗は群青、雌。

・エラワーン
シャクラのドラゴン。鱗は白銀、雄。



・レグルス
ドラゴン乗りたちの長。契約龍、黄金のナーガバラタ。

・リュイロン
長の直属、【四翼将】の一人。契約龍は未登場だが、瞳の色が緑であることは確定。


・メイファ
船長の少女。【魔力持ち】。


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その八

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

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では。


 

 

 

 

 

 視界が真白く焼かれた次に来たのは、骨まで響く衝撃だった。

 咄嗟に展開したにしては有り得ないほどに堅固な、四重の浅い半球型の防御壁。四人がかりで編み上げた半透明な魔力の壁が、こちらを貫こうと放たれた、()()()()を正面から受け止め、上へと逸らしたのだ。

 光は雲を貫き、消えていく。

 それでも衝撃を殺しきれなかった。

 最も小さく軽いコクヨウが反動をくらって、体が大きく傾ぐ。シランとエラワーンすら、ぐらりと翼を揺らした。

 

「しっかりしなさい、トカゲ乗り!」

 

 だが、そうはさせじとばかりに足元から海の水が立ち上がり、ドラゴンの体を下から押し上げる。

 ごく短い時間だったが、海水でできた海蛇の手助けで龍は三体とも体勢を戻す。

 今のは、メイファの声だった。

 

『点呼!無事なら名を告げて!総員、今すぐに!』

 

 頭の中でフェイの念話が響く。

 アジィザ、コクヨウと共に無事、とだけ頭の中で答え、そこでようやく視力が完全に元に戻る。

 

「うそ、だろ……」

 

 海が、割れていた。

 比喩でも何でもなく水面が割れ、煙を上げる水底の土が見えていたのだ。すぐさま両側からの海水が、たった今焼け焦げたと思しい海底を覆い隠したが、事実は変わらない。

 

 敵から放たれた黒い光が海を割り、海底を焼き、船に直撃しかけたのだ。

 攻撃の直前に気配を察知し、展開できた防御壁がなければ、全員消し飛ばされていたことだろう。

 

 口に辛いものが広がると思えば、それは自分の鼻血だった。

 いきなり大魔力を取り込み障壁として放出した結果、細い血管が何本か切れてしまったらしい。

 大気に満ちる魔力を取り込み体内で精製し、それを燃料に攻撃や防御、念話を行うのが自分たちドラゴン乗りだ。

 だから理論上、燃料だけは無限にある。

 あるのだが、燃料を使用可能なものに精製、変換し、機動させるスイッチと伝達する回路になるのが自身の体であるため、限界はあるのだ。

 機械と同じく、余りに負荷をかけすぎるとスイッチががたがたになって壊れ、回路が摩耗し焼き切れる。

 丁度、こんな具合に。

 げほ、と口に溜まったものを吐くと、明らかに血が混じった赤い液体が溢れた。色合いがグロい。

 鼻面を、ぐいと乱暴に拭う。口の中がぬめって気持ち悪かった。

 

「レト、ジザ!無事ですか!」

「はい!」

「同じく」

 

 エラワーンの背から叫ぶシャクラに、剣を握った右手を振る。

 頭の芯が、奇妙にぼうっとしていた。

 鼓膜がやられでもしたのか、左耳から入る音も不自然に反響している。

 何か、途轍もないことが起きていることはわかるのに、何も心が動かない。

 呆然としていながら、それでも身に染みついた動きだけで辺りを確認した。

 あれだけ周りにいた魔族が、消えていた。先ほどの攻撃は、魔族までも薙ぎ払う勢いで放たれていた。

 魔族ごと、船を沈めようとしたのだ。

 疲労でぼうっとする頭の中に、直接少女の声が叩き込まれた。 

 

『ジザ、シャクラ、レト、聞こえてる?念話を繋いだから言うわよ。……今の光で、ドラゴンが半分は撃墜された。わたしたちの担当領域で残っているまともに動ける【組】は、わたしたちを入れて三組だけ』

「目標地点までは、あと?」

『十五分。だけど、結界起動の合図はまだ来ていないわ』

「今のは、何だったのですか」

『……魔力感覚からすると、ドラゴンの炎』

「魔族にドラゴンがいるというのか」

 

 無表情のまま、先輩が告げた。

 しかし確認するまでもなく、全員が先ほどの黒い炎の気配は察していたのだ。

 あれは間違いなく、龍の炎なのだと。

 これまで、ドラゴンの形をした魔族など誰も交戦したことがない。

 仲間の半数が、一瞬で落とされたという事実にも絶望ができない。

 つい数時間前に、頑張ってくれよとこっちの肩を叩いて来た仲間が死んだというのに、絶望すらできる暇がない。

 

「今の黒い光、俺たちで防ぎ続けられるか?」

『無理よ。あれだけの魔力なら、多分あちらも再装填に時間がかかるだろうけど、わたしたち三人でやるならあと一度が限界。ジザは魔力を注がなきゃならないから。……待って、敵影反応あり!全員散開して!』

 

 三頭が三方向に散り、船の前面には障壁が広がった。

 直後に、上から舞い降りて来たのはドラゴンの鈍色の巨体。

 逞しい龍の体の背にいるのは紛れもなく、人間の姿だった。

 長身の人影が手に持った刃が、ぎらりと不吉にしろく輝いた。

 

 自分の思考が、今度こそ無防備な空白になる。

 ()()()()()()

 

「ジザ!」

 

 我に返った。

 気づけば、コクヨウの目の前に鈍色の鱗のドラゴンが接近していた。避けようとするも、黒龍は半歩遅かった。

 コクヨウが、鈍色のドラゴンによって蹴り飛ばされる。

 視界がぐるりと回る中、身の毛もよだつような冷風が首筋の近くを通り過ぎる。首を横に傾けると、髪がざくりと切れ、散った。

 さらに続けて、自分の体が小石のように引かれ、跳ぶのを感じた。

 反射的に背中にいくらか軟度がある防御壁を展開し、受け身を取る。

 吹っ飛ばされた自分が叩きつけられたのは、メイファたちの船の下甲板だった。木っ端が飛び、甲板の板が割れる。

 

「うわ!なんなんだチビ坊主!いきなり降って来るんじゃねぇよ!」

「好きで墜ちたんじゃねぇわ!」

 

 頭上から来た怒声に怒鳴り返し、全身を使って跳ね起きる。

 二本ある船の柱の一本目の根元に、自分は叩きつけられたらしかった。

 それをやったのは、上甲板の手摺からこちらを見下ろす、金色の髪の少女。やや青褪めながらも、取り乱した様子はなかった。

 

「ジザ、大丈夫?」

「なんとか。背中すげぇ痛いけど」

「そう。飛ばすのちょっと遅れたら、首、落とされかけていたわ。感謝してね」

「涙流して感謝しますよ。帰ってからな」

 

 離さなかった剣を杖にして立ち上がったとき、また悪寒を感じた。

 

「フェイ!」

 

 両脚に力を込め、跳び上がる。

 上甲板にいるフェイの前に出、剣を頭上に構えた。

 フェイの小さな頭を狙って振り下ろされた白刃の一撃を自分の剣が受け止め、赤と鈍色の火花が散る。

 

 ぶつかり合った剣越しに見えたのは、()()()()だった。

 先輩よりもいくつか歳嵩に見える、若さが残った精悍な黒い髪の男である。纏う衣はこちらと似た黒基調の軍服に似たもので、防具の類はない。

 ただし、その瞳は白目が黒く染まり、瞳であるはずの部分は、熾火を抱いた薪のようにちろちろと光が瞬いていた。

 白い陶器のような肌の、目から頬にかけてひび割れたような黒い線が幾筋も走り、その間からも濁った橙の光が漏れている異形の貌。

 剣に魔力を込めて力技で払い除け、横薙ぎに相手の首を狙う。しかし、襲撃者は軽々と跳んで避け下甲板に跳び下り、上甲板にいるこちらに向けて、刃を構えた。

 南の大陸側では見かけたことがない奇妙な形の、沿った刀身を持つ片刃の得物である。

 

「な、なんだコイツはっ!」

「敵だ!なんとかするから、アンタらは船を止めんな!進まなきゃ皆死ぬぞ!」

 

 船乗りの誰かの混乱に叫びで返し、甲板の手摺を飛び越え、下に着地する。

 南大陸からすれば不思議な形の武器────刀を構えた相手は、静かにこちらを見ていた。

 その風貌に、自分は見覚えがあった。

 

「アンタ、魔族のドラゴン乗りか?」

「そうだ」

 

 ()()()()()()()に、甲板にいる船乗りたちが動揺するのが見えた。

 言葉の通じない化物、形の崩れた生き物の成り損ない、喰うしか頭にない絶対悪。

 それが、この時代の魔族に対する人々の印象なのだ。

 だのにこいつは、まるで人間そのものだ。

 唯一の異形といえる風貌は、その二つの眼と、顔に走るひび割れ程度。

 有り得ないはずのヒト型の魔族が龍を駆り、龍の炎を浴びせ、天から襲い来て、留めにドラゴン乗りを名乗ったのだ。

 周りの空気は混乱と絶望の一歩手前で、だから逆に自分は冷静になれた。

 周りが正気であったなら、自分のほうが耐えられていない所だった。

 

 こいつは、魔将だ。

 今から百年先の時代において現れ、多くのドラゴン乗りを屠る()()()()魔族。【混沌】によって特別な力を与えられた尖兵だ。

 

 そして、この時代にはまだ、現れていないはずの存在だった。

 それが何の因果か、自分の前にいる。武器と殺気を向け、こちらを殺そうとしている。

 刀を使い、二十代半ばの男の外見をしたこいつの名は、ツチグモ。

 ドラゴン乗りを名乗る最凶の魔族であり、主人公の、家族の仇だった。

 

「小僧、貴様から殺す。あの場で唯一、私に気づき、反応した貴様は危険だ。その身に纏う異質な気配諸共、我が主のために、ここで排除する」

 

 淡々と、魔将が告げる。自分より頭一つ半は丈高く、構えには隙がなかった。

 それでも、歯を食いしばった。

 現れるはずのない存在がどうした。自分には関係ないと、剣をきつく握った。

 こいつが真っ先に狙ったのは、フェイの首だった。

 この領域のドラゴン乗りたちに指示を出しているのは、フェイだ。船に障壁を張り、遠見と念話で自分たちを繋いでくれている。

 だから狙われたのだろうし、こちらの統制を壊すには合理的である。

 が、それは自分が怒らない理由にはならない。

 眼前で、友人の首が狙われて、落とされかけたのだ。剣を取るには、十分すぎた。

 構えた長剣に、自分の顔が映る。

 左の襟足だけが雑に伸びた赤毛を海風に弄ばせ、赤い瞳をぎらつかせる凄まじい形相がそこにあった。

 引き攣れたような嗤いを浮かべながら、そいつは剣を向ける。

 ひどい顔の、ひどい目をした人間で、その(つら)を見て頭の芯が冷えた。

 

()()()?お前ら、誰かに仕えてんのか?」

「答える必要はない。待て、貴様は……」

 

 そいつが言葉を続ける前に、踏み込んだ。こいつから何かを聞く必要など、最初からない。ただ何か、注意を引くことさえできればそれでよかった。

 恐らくこの大陸のドラゴン乗りの誰も、刀を武器とする相手と戦ったことがない。

 刀を使う剣士が戦っていた国は北大陸にしかなく、それはもう遠い昔に大陸ごと滅んでしまっている。

 ツチグモは、かつてその国で生きていた名高い剣士の、成れの果てだ。

 人格が完璧に保存されているように見えるが、それはまやかし。

 ツチグモの素体になった人間は、とうに【混沌】によって喰われている。

 これは、ただ組み直された残滓が動き、往時を歪んだ形で再演しているに過ぎない。

 ただし、その残滓が非情なまでに強い。

 異形の化物との戦いが長すぎるほどに長く続き、頑丈さと耐久性を追求したのが自分たち南大陸の人間たちの武器であり、戦い方だ。

 ツチグモが扱うような、繊細な見た目だが強靭な対人用の武器は、その使い手も技も少なくなって久しい。

 

 並みの人間が相手にできない、怪物を殺すための技を磨いた戦士として戦って来た故に、ただひたすらに人を殺すに特化した技を持つツチグモは、ドラゴン乗りにとって最悪の相手だった。

 おまけにその天敵が、【混沌】によって凄まじい回復力と魔力、騎乗するための龍まで与えられているのだ。

 その龍が吐くのは炎ではなく、黒い光の束。

 再装填に時間はかかるが、距離と威力でこちらの龍の炎を上回って来る、最悪の光だ。

 

 手がつけられない暴威。

 それでも今、戦わなければならなかった。

 

 自分の鋼の長剣が、ツチグモに振るわれる。

 相手は最小の動きで避け、踏み込みと共に姿を消す。

 次の瞬間には、背後に気配が出現していた。

 身を屈め、体を回転させて剣を振るえば、ツチグモはそれを避けなかった。

 自分の長剣が相手の脇腹を切り裂く。だが、浅かった。

 

「……この程度か」

 

 呟きと共に、腹に衝撃が走り、自分の体が吹き飛ぶ。こちらを蹴り飛ばしたツチグモの体が、深く沈むのが見えた。

 腰の鞘に戻した刀の柄に、手がかかっている。─────神速の、抜刀術の構え。

 

「ッ!」

 

 吹き飛ばされ、宙に浮かされた体勢のまま、無理に身を捻って剣を、投げた。

 取り澄ましていたツチグモの顔が、驚愕でか凍りついた。

 

 礼儀作法に則った決闘の最中に武器を全力でぶん投げる馬鹿はまず、いない。

 かつての、人間のころのツチグモは、礼儀礼節を心得た剣士であったために、常識にかからない戦い方に慣れていない節があって、それが魔将となっても僅かに隙として残っていた、はずだ。

 こちとら、礼儀作法知ったこっちゃない化物とばかり戦ってきたのだ。

 武器だって投げるし、無ければないで噛みつきもするし殴りもする。殺されるより先に殺すだけだ。

 

 ツチグモの手元に、真っ直ぐ飛んだ剣が直撃する。抜刀の構えが狂ったその瞬間に、こちらはなんとか着地した。

 着地と同時に柄に巻いていた不可視の魔力糸を引き、手元に剣を引き戻す。

 再び手に収まった剣を構えると、右手と脇腹に激しい痛みが走り、吐き気に襲われる。

 酸で焼かれてしまった腕に加え、先程蹴り飛ばされたときに骨がどこかやられたのだ。

 翻ってこちらがツチグモにつけた傷は、最早塞がりかけていた。

 黒い、粘性の何かが傷口を覆い、修復していくのだ。

 チ、と舌打ちが漏れた。

 やはり首と手足を落とすでもしない限り、どうしようもない。

 それに斬り合って分かった。こいつは自分などより、遥かに剣技が格上だ。体格で負け、経験で負け、技でも負けの、クソったれの負け尽くしである。

 ツチグモもそれがわかっているのか、動きには余裕があった。だからさっきも、わざと斬られてこちらを試したのだ。

 熱も何もない口調でツチグモは問う。

 

「お前たちは、何をしようとしている。船を並べ立て、龍を飛ばし、何が目的だ」

「知らねぇよ。オレはな、凄く腹立ってんだ。ンなときに、べらべらお喋りすると思ってんのか?」

「……貴様は粗暴だ。まるで山猫だな」

「悪趣味な人形劇の人形よりはマシだ。アンタは喰われて、死んでおけばよかったんだ」

 

 自分自身と、自分の大切なものすべてを喰らい殺した相手によって仮初に生き返らされ、駒にされ、無に還ることもできない縛り付けられた動く死体。

 それが、ツチグモだ。

 感じるべき憐れみなんて、自分にはない。感じている余裕が、なかった。

 放たれる威圧感が桁違いだ。

 これまで戦ってきた魔族なんて、こいつに比べれば化物ですらない藁束だとさえ、思えてくる。

 

 自分にわかるのは、しくじったら大切な人たちがこうなるということ。

 目の前にいるのは、ここで踏みとどまれなかった自分たちの、末路だということだ。

 ツチグモの脚が動く、反応しようと剣を振るうより速く、間合いに踏み込まれていた。

 狙いが腕なのは視える。切断する気なのだ。

 そうとわかっても、体が反応できない。引き伸ばされたように遅く進む時間の中、自分は蝸牛のようにしか動けない。

 

 だが、自分の腕が切り落とされることはなかった。

 獣の唸り声さながらの気合いと共に、鋼の剣が自分とツチグモの間に割り込むように振り下ろされたからだ。

 ツチグモは飛び退り、自分は肩に体当たりされて突き飛ばされ、脚がもつれてよろめく。

 

 甲板の上で無様にすっ転んだ自分の前には、肩で息をしている広い背中があった。

 

「せ、せんぱ……」

「何をしている!立て!」

 

 打つような激しい声に、鍛錬で動きを叩き込まれた体のほうが先に応えた。

 剣を杖に立ち上がり、握る力が弱くなっている右手を魔力糸で剣に括り付けて構える。

 大気からの魔力吸収率と精製力だけは馬鹿のように速いこの体は、まだ動かせたし、人間離れした回復力で怪我も治りつつはある。

 本調子ではない。ないが、これ以上望むのは不可能だった。

 

「ジザ、なんだあれは」

「敵で、ドラゴン乗りです」

「見ればわかる。あいつの龍はシャクラたちが相手をしている」

 

 僅かに辺りを伺う余裕が出てみれば、確かに視界のどこか外で、聞き慣れたドラゴンたちの吠え声と炎を吐く音があった。

 

「状況は?」

「脚が速くて、対人技に特化してます。半端な傷はすぐに治ります」

「お前は?」

「右腕と、肋一本。どっちも動かせます、けど」

「わかった。……首を落とせば、殺せるだろう」

「それで、駄目だったら?」

「四肢を落として、心臓を潰す。……動けなくすれば、問題はない」

 

 揺らぎもせず、先輩は剣を構えた。

 秒もかけずに下した決断は簡潔で、明瞭だった。

 同じヒト型ならば、動けなくなるまで斬れば問題はないというわけだ。毎度だがこの兄弟子、魔族へは殺意しかないし、小揺るぎもしない無表情がおっかない。

 だけれど、龍に乗り、言葉を話す魔族を前にしても、いつもと変わらない背中はとても頼もしかった。

 

「……女の船長(ふなおさ)、女の術師、果てはお前のような未熟な龍使いまでがいるとは、貴様らは余程追い詰められていると見える」

 

 二人に増えたこちらを相手に、あっちは何事かほざいているようだったが、自分にはどうでもよかった。

 確固たる意志が込められているように聞こえる言葉の一つ一つすら、ツチグモの中に残った『名が無き者』の反響だ。

 そこに意味はなく、意義もない。

 だというのに。

 

「黙れ、お前はそれ以上喋るな。口を開くな。魔族が、その口で俺たちを語るな」

「その魔族という名すら、貴様らが勝手につけたものだろうが。自らと相容れぬ者共を魔と呼び、貶めるその態度。何も、感じぬのか」

「戯言を!」

  

 無表情はそのまま、先輩の怒りの気配だけが爆発するかと思うほど膨れ上がった。

 斬りかかり、そのまま戦闘に移行する。

 両刃の剣と、片刃の刀の使い手は、どちらも身体能力基が既に人間離れしていた。

 首を狙って刀が振るわれれば、胴体を一撃で両断せんばかりに剣が風を巻き込んで唸る。

 助太刀しようとしたとき、頭の中に声が響いた。

 

『ジザ!待って!到着したわ!ここよ!この場所が目的座標なの!』

「え?」

「え、じゃないわよあんた!いいからこっち来なさい!」

 

 いつの間にやら近寄って来ていたメイファが、こちらの腕を掴んで走り出した。

 

「あの化物はあのにいちゃんたちに任せるしかないわよ!あんたは起点者なの!そっちの役目果たして!」

 

 船長である少女は、船の後方へと走り出す。

 まったく気づけていなかったが、船は止まっていた。

 船の舳先近くで戦闘が起きていたのに、船乗りたちは船を進ませ続けていてくれたのだ。

 首だけ捻れば、白銀の魔力光が甲板へ着弾するところだった。あの人、船壊す気じゃなかろうな。

 

「結界が成功したら、あいつらはこっちの海域にはいられなくなるんでしょ!だからあんた、頑張って!」

 

 甲板を走り辿り着いたのは、船の最後尾に繋がれている魔力結晶のところだった。

 かつてドラゴンの亡骸だった巨大な透き通る結晶は、破壊されることなくそこにある。

 

「……わかった」

 

 船桁を蹴って、石の上に跳び移る。やり方は、教えられていた。

 魔力糸を解き、剣を腰の鞘へ。

 緊張で振るえそうな右の手首を左手で掴み、龍の亡骸へと触れた。

 

「接続、回路励起、起動────」

 

 地脈から生まれ、大気に流れるエネルギー体、魔力。自身の周りを囲み流れる不可視の水流のようなそれを、自分の体へ取り込み、精製し、この結晶へと流す。

 流すことで術式のスイッチが入り、結界が立ち上がるのだ。

 

 言うのは単純で、行うのは難しい。

 渾身の力を両腕に込め、全体重をかけて大岩を押そうとしているのに、足が滑るばかりでまったく動いてくれない、転がってくれない。

 そんな感じだ。

 

─────もっと、もっと速く、強く。

 

 そうでないと、みんなが、先輩が。

 

 魔力に耐えられない皮膚が内側から弾け裂けて、血が流れる。

 だけどもこの体を中心に集まってくる魔力は、血のような赤色に染まって行くのだ。

 コクヨウの瞳と同じ朱色(あけいろ)が、自分自身の色だった。

 これでは、宙を舞うのが自分の血なのだか、魔力光なのかもわからない。

 

 わからないまま、光の奔流の中心に立つ。立って、魔力をひたすらに結晶体へと流し込んでいく。

 無色で透明であるはずの結晶が、次第に色づいていく。薄紅から赤へ変わり、次第に音を奏で始めるのだ。

 遠く離れたところにある、他の要石との共鳴が完全になったときが、結界の完成。

 りぃんりぃん、と鈴が鳴るような音が結晶の中心から聞こえだし、流れて行く。

 頭の中に浮かぶ大岩が、もう少しで動く、と思った瞬間だ。

 

 ぱきり、と呆気なくガラスが割れるような音がした。

 収束し、注いでいた魔力が霧散する。朱色の侵食が止まり、鈴の音が止む。

 

 フェイ、と頭と声の両方で呼んだ。

 何が起きたのかなんてわかったけれど、わかりたくなかった。

 自分たちが、()()したなんて。

 

 ややあって、声が繋がった。

 

『……ジザ。よく聞いて。あのね……今、五つが、五つの船が落ちたっ……て』

 

 乾き切ったその声に、自分は打ち据えられたように膝をつくしかなかった。

 

 

 

 




バスタードソードVS刀みたいな話です。
あとは、ふっ飛ばされまくる赤毛氏。ちなみに受け身はめちゃくちゃ得意です。



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その九

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では。


 

 

 例えばの話。

 悪い王様がいて、苦しんでいる国があるとする。

 だけどその国には伝説があるのだ。

 いつの日にか国を救ってくださる良い王様が現れる。

 王様の証である岩に刺さった剣を引き抜いて、それを手にしてみんなを救ってくれるのだと。

 

 今は無理でも、苦しくても、()()()()()()()()()()()()()()と。

 耐えて耐えて耐えて、耐えていればいいのだと。

 

 良い王様が現れるときを待ち望み、いつか、いつか、と定められていない約束の時を希望にして、苦しみながら生きていく人々。

 彼らはただ、良い王様になる誰かが、その運命を辿るために生み出された『英雄』が、剣を引き抜き、現れるそのときまで、ただひたすらに待ち続けなければならない。

 

 救い手が現れるまで、彼らは決して救われない。

 救われたいと努力しても、戦っても、『良い王様』が現れるまで、あらゆる努力は無為で、無価値で、無駄なのだ。

 

 だって、物語とは、伝説とは、そういうものだ。

 定められた筋があり、定められた役目を与えられた人間がいる。

 手順がなくなれば物事は解かれず、ここに来るべきと決められたパズルのピースが欠け落ちるか、形が変わってしまえば、決して完成しない。

 

 完成しないパズルに価値はなく、こうあれかしと初めに描かれたものを崩せば、遊戯は成り立たない。

 

 そんなセカイが─────壊れそうなほど脆いものに思えて、仕方がなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 五つの船が、結晶諸共落ちた。

 それはつまり、作戦の失敗ということであり、海域から離脱しなければならないということになる。

 ぱきりと音がした懐に手を突っ込み、自分が取り出したのは二つに割れた()()()()

 それを見たときに、自分の中に生まれた衝動はなんだったのだろう。

 諦めとも覚悟ともとれない、冷たく燃えるものが胸の底に宿った瞬間だった。

 

「あんた、何してるの!速く戻って!」

 

 船べりに手をついて、叫ぶメイファの方を見た。悔しそうに唇を噛んでいる少女に、自分は首を振った。

 

「いや、オレは戻らないよ」

「は?」

「船長さん、この結晶、まだ使わなきゃならないんだ。まだ、全部が終わったわけじゃないから」

「何言ってるの!」

「ごめん、アンタと話せる時間がない。だから……おれの仲間に言っといてほしいんだ。ごめんなさい、って。頼んだよ」

 

 言うが速いか、自分は結晶から飛び降り、着水した。足裏にのみ展開した障壁を踏んで、水面を走る。

 あの黒い光線は、海中にいた魔族すら薙ぎ払ったようで人間が一人で水面を走っても、魔族に飲み込まれることはない。

 船の横を駆け抜けるとき、剣戟の音が聞こえた。先輩やシャクラにもフェイの声は聞こえたろうが、恐らく応えている暇がないのだ。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 二人の魔力の反応はまだ消えてない。まだ殺されてない。二人共、自分より強いのだから、と。

 

 だけど今から自分が失敗したら、本当にすべて終わりだった。

 

 怯えるな、止まるな、走れ、とそればかり繰り返し繰り返し、舳先の真下に辿り着く。高い空を見上げれば、龍たちが舞うように飛んでいた。

 いやよく見れば、鈍色の鱗のドラゴンを五頭のドラゴンが囲んで攻めているのだ。コクヨウたち三頭以外の、残っていたドラゴンたちが駆けつけてくれたらしい。

 だがそれだけの数で攻めていても、鈍色のドラゴンを仕留めきれない事実に背中が寒くなる。

 エラワーンよりも、体が一回り以上大きな鈍色龍を相手にしているコクヨウは、いつもよりさらに小さく華奢に見えた。

 口の横に手を当て、自分は肺一杯に吸い込んだ息で、声に魔力を乗せてその名を呼んだ。

 

()()()!」

 

 輪の外にいた群青のドラゴンの瞳と、自分の瞳が交わる。

 一声高く吠えて、シランはこちらへ向かって急降下してきた。水面を滑るように飛んでくるシランの鞍に飛びつき、空中で体勢を整えた。

 上昇したシランが一度だけ、ぐるりと船の上空で円を描いた。見下ろせば、甲板の上で斬り合う三つの人影がある。涅色の髪が靡いているのが見えた。

 多分、先輩はこっちを見ようとしたと思う。

 驚いて、そんなところで何をしているんだと、何をするつもりなのかと、そんなことを叫びかけていただろう。

 けれど、視線は交わらなかった。

 シランが翼を広げるや否や、一直線に空へと昇ったからだ。

 耳が千切れるかと思うほどの風圧に、鞍の上に伏せた。

 

「急いで!」

 

 そう言ったつもりだったのだが、声は声にすらならなかった。風で吹き散らされたのだ。

 雲を裂いて、空を昇って昇り続ける。

 コクヨウより大きく、成熟しているドラゴンの力は凄まじく、脚の下で熱を発するほど筋力が激しく動いているのがわかる。

 少しでも気を抜けば、振り落とされそうだった。

 

 そうして気づけば自分たちは、雲の上へ出ていた。瞼と肺が凍りつきそうなほどに寒い。

 ドラゴン乗りとはいえ、生身で来ていい領域ではなかった。

 どうせすぐ、寒さなんて関係がなくなるのだけれど。

 白い息を吐きながら魔力を全身に回し、剣を引き抜く。鞍の上でなんとか膝立ちになって刀身を魔力で包み、鋭く輝く伸びた剣の鋒で、シランの背、心臓の真上にあたる鱗に触れた。

 

 群青のドラゴンは、静かに羽ばたきながら、静止していた。足元には雲だけが広がり、切れ目から大陸の緑が微かに覗く。

 生き物の気配が凡そ龍と自分しかない高い空の上で、自分は口を開いた。

 

「シラン。おれの願い、聞いてくれたんですね」

 

 契約していない自分では、シランの言葉を汲み取れず、誰もこの龍の最期の言葉を聞き取ることができない。

 自分には、ぼんやりとシランの感情の大まかな形と揺らぎを感じ取ることしかできない。

 豊かな海の色の鱗を持つ龍の心はただ、凪いでいた。

 そこに猛る波はなく、逆巻く渦もない。

 あらゆるすべてを飲み込み、受け止める母なる海そのもののような、静けさだけがあった。

 

 喉から口へ出かかっていた、謝罪の言葉を直前で取り消す。

 

 自分は、自分だけは、この誇り高い龍に謝ってはならない。それは縋る行為で、赦しを求めるものだからだ。

 自分たちは同じ感情を綱にし、翼に乗せてここに至った。

 なのに己だけが謝るのは、筋を違えた行いだ。

 

 自分が、望みを聞いてくれた龍に対して告げていい言葉があるとするならば、たった一つだけ。

 

「ありがとう、ございました」

 

 鋼の色に輝く剣を、自分は真っ直ぐに振り下ろす。

 狙いはドラゴンの魔力の源であり、急所たる心臓、ただ一つだった。

 

 果てなき白雲が連なる海の上で、蒼き光が炸裂した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大気に魔力が満ち満ちるこの世界には、生命体の中に多くの特異な法則がある。

 生き物の雌雄に関わる特性などは、その一つ。

 

 精を受けて子を孕む雌、つまり女性は、魔力を体内に取り込みやすく、取り込むための精製回路が発達している。

 逆に雄、つまり男性は、魔力を取り込み溜める能力が女性よりは劣るが、魔力を放出するのに優れている。

 これは、ドラゴンや人間に限らず、体に雌雄の区別を持つすべての生物に共通する。だから、女の【魔力持ち】のほうが胎内に魔力を溜めやすいのだと、殊更婚姻話が盛んになったりする。

 とはいえこの体質も、一概には言えない。

 フェイの魔力の扱いはそこらの男の【魔力持ち】の追随を許さないほどだし、男であっても魔力容量が女の【魔力持ち】より優れた者はいる。

 

 だが少なくとも、ドラゴン乗りの中においては、魔力の吸収、精製能力が最も高いのは、一人しかいない()の乗り手であり、それが、自分なのだ。

 

 仮にそのドラゴン乗りが、魔力の吸収力と精製量が高すぎるせいで放出のコツを掴むのが上手くいかず、何度も何度も木剣を破裂させるような下ッ手クソであろうと、だ。

 

 【黒】のアジィザに最も可能性があるならば、賭けるしかない。

 結晶とドラゴン乗りたちによる結界展開にしくじった場合の、謂わばバックアップがないほうがおかしいのだ。

 

「……あぁ」

 

 ドラゴンの心臓に剣を突き立てるという、ドラゴン乗り史上誰も試みたことすらもないような蛮行をやったせいか、意識が一瞬飛んでいたらしかった。

 目を開けばそこはまだ空の上。

 自分の手は真赤に染まり、けれどそれ以上の勢いで可視化できるほどの濃度の群青の魔力が、辺りに吹き荒れていた。

 魔族すら焼き尽くす、海に落ちても消えない魔力の炎を吐くドラゴンの力の源、それは心臓にある。

 ドラゴンたちをこの世界の最強種族たらしめているだけの魔力が、心臓を軸に巨大な体を駆け巡っているのだ。

 自分はそこに剣を突き立て、抉った。

 

 当然、弾けた心臓から、堰を切られた大河のような勢いで魔力が流出する。

 ニ百年を超す歳月を経たドラゴンの、生きている心臓が放つ魔力の勢いは、屍となった龍の結晶に溜め込まれた魔力に比べ、遥かに激しい。

 加えて、生きているのだから生き続けるだけで魔力を発生し続けられる。心臓を抉られても、即死しないのがドラゴンなのだ。

 その量と勢いは、砕け落ちた五つの石に込められていた魔力の穴を埋められるほどだ。本当に、紙一重ではあるけれど。

 

 だけどこれだけでは、単に莫大な量のエネルギーが大爆発を起こし、周囲を吹き飛ばした後に四散するだけだ。

 魔力を回し、流れを整え、要石と繋ぎ、結界を編み上げるための変換装置が必要不可欠なのだ。

 そしてその操作は、破壊へ特化した能力を持つ龍種には、繊細過ぎて不可能。

 

 だから、変換装置となれるだけの精製能力を持つ人間が、どうしたって必要であった。

 

「ッ……!」

 

 爆発し、火山噴火のように荒れ狂う魔力を抑えて不可視の回路で以て体内に取り込み、変換し、結界の形へと転じさせる。

 それはさながら、濁流に生身で放り出されて揉まれながら、無数の綱を結びつけようとする行いだ。指は上手く動かず、体自体が水の流れに持っていかれそうになり、呼吸すらままならない。いや本当、本気でキツい。軽率な羽虫みたいに死にそうだ。

 変換し続けながら、大海原の各所へ散っている魔力結晶同士を繋ぐのだから。

 導とするのは、懐の中で割れた黄金龍の鱗。これと同じ魔力を帯びた鱗が仕込まれている結晶を、魔力探知能力で探り当て、結界を編むのが自分の任務だった。

 同時に、鱗が割れたときこそ、結界の回路となれという司令が下った報せだった。

 

 すべてのドラゴン乗りの中で、最もやり通せる可能性があるのが自分であった。自分が選ばれた理由、任が下された理由はそれだけだ。

 だけれど、生きたドラゴンとドラゴン乗りとが生体回路と起爆剤となるこの方法は、礎となる彼らにかかる負担が集中し、しかも一度一人と一頭が挫ければ成功しようのないという、抜群の不安定さ。

 だからレグルスは最初、より安定した複数人による結界展開を試みた。

 

 それが成功していたならば、自分なんて要らなかった。

 でも、船は落ち、一つ目の方法は潰された。

 起点者となるドラゴン乗りたちが足りないとなれば、次善の策を使うより他ない。

 

 ぱきぱき、ぴきぴき、と自身の手足の先から不穏な音がする。

 

 生命体にある魔力限界。いのちが持つ、定められた器の容量。

 その器が掬い取れるだけの量を超えた魔力を浴び続ければ、生きていようと細胞は変質し、結晶化する。

 それが、この世の法則だ。

 

 剣の柄を握る指が、風で暴れる髪の先が、しがみついている脚の先が水晶体となり、凍りついて行くのだ。

 痛みは、ない。

 ないのだが、末端から感覚が喪失していくというのは、恐怖でしかなかった。

 最悪的に最悪な発想だが、魔力を操る脳さえ最後に残ればいいと、捨て鉢を極めた考えが過る。

 大体、容量が多い自分だから耐えて結界を編めるのだ。自分以外だと術を編み上げる前に脳まで結晶化が進み、失敗してしまうと言われた。

 

 自爆特攻どころの話でない。

 自爆して自分の体を砕き続けながら、結界を創造しなければならないのだ。人体の限界の踏破を前提にしてやがる。

 

 せり上がって口から出た血も、風に叩かれ続けることで生理的に出る涙も、外気へと触れた瞬間に、輝く結晶体へと姿を変え、空へと散っていく。

 空へ散った自分の欠片同士にまで感覚を伸ばし、海へ設置された石を繋いでいく。

 

 『自分』という認識の境目が薄く薄く、世界全体へと広がっていくのを感じた。

 

 自分の体が結晶へ変質し、砕けて行くのに任せ、砕けたその破片一つ一つを糸として織物をつくり上げていく。

 

 誰だ、こんな大規模馬鹿魔術を組み上げたやつは。

 素体単体の根性論を要にしなければ成功しない作戦なんて、三流参謀どころの騒ぎじゃ無かろうが。

 

 ぽつりと胸の中に浮かんだ愚痴を引き金にしたかのように、感情が吹き上がる。

 それは他人から隠し、自分自身からも隠していた、なんら生産性のない喚きだった。

 

 ふざけるな、ふざけるなよ馬鹿野郎。

 なんなんだ本当、意味がわからない。

 なんで自分が頑張らなければ、世界が滅びそうになるのだ。

 ちっぽけな人間が単体で体を張った()()の頑張りで()()()()()()()()()()世界なんて、強度が足りない。強さが足りない。脆弱に過ぎる。

 この世はガラス細工か、カゲロウの翅なのか。

 世界なんて、そんなもんじゃないだろう。

 もっと大勢が蠢いて、意味不明で理解不能で、どちらを向いて歩いているのかすら定かでない混沌極めた煉獄魔境。

 矛盾だらけで底がない、一人で担いきれるわけがない熱の塊であるはずだ。

 そうであるべきだ。そうでなければならない。

 

 これほど重いものを、一人に背負わせるな。それで世界を成り立たせるな。

 一人が背負って立って成立する世界のほうがおかしいと、何故誰も思ってくれない。

 

 たった一人が頑張って、たかが生命一つをかけるだけの頑張り通しで護れてしまうなんて、嗚呼、なんて脆い。

 

 ──────耐えられない、耐えられない、耐えられない!!

 

 自分のいのちよりも大切な人がいると叫びながら戦う、数多の英雄(ヒーロー)がいる世界が、何故こんな、世界にどうしようもなく馴染めない塵屑の肩に載せられるのだ。

 

 こんなセカイ、自分は大嫌いだ。

 あの子のように、群青の髪の聖女の如き女の子のように、綺麗なものに恋焦がれる眼をして守ることなんてできない。

 到底無理だ。

 自分では優しい夢が見られない。そんな余裕すらない。

 違和感に苦しみ、現実しか目に入らず、その現実にすら脆い脆いと慟哭する獣だ。

 理想を愛せる恋心が、自分には徹底的に欠落している。

 

 未だ生まれてすらいない子ども、これから母や父になるはずの、自分の友人たちのいとし子がいなければ、究極的に救われもしない人々。

 百年後を待たなければ、決して星喰らいの魔を打ち払えないと定められた世界。

 未来を知っているからこその絶望を燃料に生きている人間の背に、どうして。

 

 それでも。

 どうして、どうしてと心で泣き叫びながらも、自分の頭は、体は、ひたすらに世界を守るための壁をつくり続けていく。

 砕けていくことで自分の意識領域を拡張し、手繰り寄せた結晶同士を繋ぎ、黄金色の膜を編み上げる。

 

 心は少しも納得していない。魂の渇きは癒されない。

 だけど。

 

 ちっぽけなおれの心なんて、本当はどうでもよかったのだ。

 置き去りにして、乾いて砕けて吹き散らされたって構わない。

 

 だから。

 もしいるならば、神様、どうかお願いします。

 

 おれの大事なものだけは、どうか、壊れないで。

 

 ここが壊れそうな世界だなんて思うことなく、ただひたむきに真っ直ぐに生きる仲間。

 決して壊れてほしくないと自分が願った人と、龍たち。セカイなんてどうだっていいけど、世界に生きる人は違うのだ。

 皆に死んでほしくない、生きていてほしい、笑っていてほしい、誰かの盾になんて、なってほしくない。

 

 自分がこうなることが、彼らの哀しみになることなんて、わかっている。

 自分が彼らを大切に思っているのと同じくらい、大切に思われていることなんて理解できているのだ。

 そこまで鈍い愚か者になったつもりはない。

 

 それでも、彼らの哀しみと引き換えにしてでも、自分にはやらなければならないことがあったのだ。

 ごめんなさい、ごめんなさい、本当のことを言えなくてごめんなさい、あなたたちを悲しませる結果しか導けないおれを赦してくださいと泣き喚きながら、体を砕き魔力を編み続ける。

 

 このときこの瞬間、自分は世界で一番の愚かものだった。

 

 ─────否。

 

 拡散し、惑星全体へと広がっていく自意識と自我の中、否定の感情が芽生えた。

 黒く覆われた北の大陸へと、目を向ける。

 人体に不可能なほどの莫大な魔力を扱える、生体回路となりつつある自分には、そこにあるモノが雲を透かして見えていた。

 そこにあると初めから知っていたのならば、見つけるのも容易い。

 

 大地に開いた大穴の、底の底にへばりつく黒くおぞましい塊。

 それが、視覚情報として捉えた【混沌】の姿だった。

 『眼』などないはずの【混沌】が、こちらを見た、ような気がした。

 ならば、睨み返すだけだ。 

 お前さえ、意地汚い大喰らいのお前さえ来なければよかったのに、本当の愚か者はお前のほうだ、と。

 

 純粋なる憎しみと八つ当たりで見据えたそれを、その姿を、自分は思念情報へと変える。 

 南大陸と海の一部を覆いつつある結界、その中へ、自分は思念情報を()()()

 

 南大陸に生きるすべての人間、すべての知性と自我ある生きものの脳裏に【混沌】の姿を映した視覚情報を、届ける。

 分にも満たない映像を届けた次にやることは、言葉を送ることだった。

 

『聞こえていますか、()()が、すべての元凶です』

 

 魔族を生む原因、魔に纏わるすべての災厄の生みの親。それを斃さなければ、決してこの世は救われないのだと酷薄に言った。

 

『百年。百年間、この結界は世界を守ります。あなたたちの今の生活が脅かされることは、ない。おれが、おれたちがこの身を捧げて、魔を防ぐからです』

 

 しかしそれは、救済ではない。

 何故なら、これは所詮百年しかもたないからだ。百年経てば、自分の体と結界自体が、耐えられなくなるのだから。

 百年を短いと取るか、長いと取るか、それは種族によって異なるだろう。

 だが。

 

『理解できましたか、それが敵です。それがすべての元凶です。おれたちが打ち倒さなければならない、魔の源です。自らの子が、孫が、子々孫々が、その絶望に食らいつくされるいつかの未来を認めないというならば』

 

 ─────戦い続けろ、と自分は無慈悲に告げた。

 

 百年の安寧を、無為に消費し尽くすことは許さない。忘れるなど以ての外。

 いつか壊れるとわかりきっている平穏を浪費し、ただひたすらに安穏と生涯を終えることなど認めない。

 

 本当の意味で生き残りたいならば、大切な者を守りたいと願うならば、決して油断をするな。魂を腐らせるな。質を落とすな。

 平穏の中で、生涯を終わらせることができると思うな。

 

 この世界は何も、何も救われていないのだから。

 自分はただ、途絶えそうな焚き火に、薪としてこの身を投じただけ。

 周囲から、押し潰さんと押し寄せてくる闇を晴らすには余りにも弱弱しい光を、ほんの僅かに永らえさせただけ。

 焚火が与えてくれるぬくもりに縋るだけの人生など、いつか生まれ来る幼い生命たちに世界の命運をすべて預けるなど、決して許しはしない。

 

 自分は世界に、紛れもない呪いをかけたのだ。

 

 そして呪いが成就すると同時に、結界が完成する。

 南の大陸と、海原の一部を囲い護る、薄く淡く輝く金色(こんじき)のヴェール。

 魔を寄せ付けない、最後の守りだった。

 

 ふと、気がつく。

 結界となって世界へと広がった意識が、起点となったそもそもの体に収束される。

 自分の体は上半身だけの半分になって、雲を突っ切って落ちていた。

 半ば以上水晶のようになっている腕を伸ばし、間近にある龍の鱗に触れる。

 シランはもう、とうの昔に冷たい屍となっていた。

 

 自分が、殺したのだ。

 

 最期に彼女が何を想ったのかもうわからず、遺言すら届けられない己が、恨めしかった。

 

 墜ちていきながら、開いたままだった龍の瞼を、閉じた。

 片目にしかできないことが、申し訳なかった。

 

 こちらも腰から下はとうに結晶と化し、砂のように細かく砕けて風の中へ吹き散らされて、結界となっている。

 左腕は肩から先がなくなっており、右手は動かした拍子に肘から先が砕けた。

 最後まで手放さなかった剣が、使い手である自分より速く、礫のように落ちていくのが、半分になった視界に映っていた。

 

 は、と残っていた息を吐く。

 呼吸のための肺すらも粒子となって砕けていくのだから、今のが最後の吐息になる。

 

 これから自分はどうなるのだろう、と漠然と思った。

 自分がこの手で心臓を抉り、殺したシランと違って、自分の意識はある。

 だが、意識の拠り所である身体そのものが砕けて散らばっていくのだ。

 『自分』が『自分』の体の枠を超えて、希釈され、広がっていく。結界を維持し続けるという機能を残した、回路へと変わっていくのだ。

 どこにでもいて、どこにもいない存在へと、自身が変わりつつあるのを感じた。

 恐らくこれから百年ずっと、そうやって希釈された自我で以て自分は世界に存在し続けるのだろう。

 人の器を失っただけで、ある意味では死んでいないのだ。尚、簡単に死ねなくなったとも言う。

 

 そうでなければ、生体回路を百年続けることなど、できはしない。

 生きたまま結晶化し、その身を砕いて術式を組んだならば、肉体の欠片が消費され尽くされるまで、術者は大気の魔力から結界を維持できるだけの魔力を、汲み取り続けられるパーツとなる。

 理論上はそうなる、はずだ。

 試したやつがいないから、確証はない。

 

 欠けた五つの結晶含む十個の結晶が内包する魔力を消費していく形式が、謂わば第一案であった。

 それが失敗したときのために用意された、人間とドラゴンを生きたまま起爆剤と魔力精製回路とし、結晶を単なる目印と補助電池に変えて行う疑似的永久機関形式の結界術が、第二案。

 

 今更過ぎるが、第二案を考えついたどっかの魔術師たちも、実行するために人選を真面目に選定したドラゴン乗りの長も、間違いなく世界最高レベルの馬鹿だと思うのだ。

 素体の精神力とか個体値とか、その他諸々に依存し過ぎである。作戦行動として危うい。

 泣き喚きながらも、曲がりになりにこうやって成功させた素体本人が、だらだらと文句をつけるのはなんだかおかしいが。

 

 まぁ、立案者が素体の数値上の可能性しか見ない相手だったからこそ、できたこともある。

 

 自分は結界を編むついでに、世界全体へと思念的に干渉した。レグルスにとっては、想定外の行為だ。

 これから百年休まず働くのだから、その程度の我儘勝手はやったって文句は言わせない。

 真実という名の絶望と恐怖を南大陸へとまき散らすことに、罪悪感がないではなかった。心の弱い者ならば、折れてしまったかもしれない。

 が、安穏としていれば牙を研ぐのをやめてしまうのが、人の性というものだ。

 百年の平和が続くとなれば、克己心を続けられる人間などほんの一握り。そうでない者は、恐怖で以て尻を蹴とばしてでもやらせるしかない。

 人間同士で争って、喰い合っている暇などあるわけがない。

 

 これからの未来で生まれる子どもたちが背負うものが、少しでも軽くなるように。

 自分のかけがえのない友達二人の間にできるだろう子どもが、ほんの僅かでもいいから救われるように。

 

 そんな祈りを、想った。

 

 想って願って、瞼を閉じようとしたとき、目方が随分減った自分の体が、何かに受け止められる。

 唐突に、落下が止まった。

 

 

 

 

 

 




『おれ』は誤字ではなく、本来の一人称です。
『オレ』はある種仮面であり、本来は穏やかな喋り方をする少女です。『色々』あって世界を呪いましたが。

というわけで、タイトルの意味回収回でした。
次が恐らくの最終話です。『色々』の話です。


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その十

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

また、感想欄の一部にて予想考察が展開されておりますので、閲覧にはご注意下さい。

では。


 

 

 

 

 

 

 遠くなってしまった、もう誰も知る人間がいない過去のことだ。

 一つの街に一人の平凡な少年がいた。

 平凡で、だけれどとても幸せに生きていた少年である。

 優しい家族と暮らし、外を駆け回って遊び、時々小さな悪戯をして叱られて、それでも次からはやるなよ、と頭を撫でられたらべそを引っ込めるような、そんな、少し人見知りなだけの、ごく普通の少年だった。

 運動だって勉強だって、並みにしかできなくて、ほんのわずか人と違うことといえば、双子の姉がいたことくらい。

 口下手で引っ込み思案な少年なんかとは全然違って、みんなから好かれる優しい双子の姉。可愛くて、頭だって良くて、走るのも速くて、みんなの憧れだった。

 双子なのに、と思わないでもなかったけれど、姉の輝きは少年のそんな拗ねた想いも包み込むようなあたたかなもので、嫌いだなんて思ったこと、一度もなかった。

 大好きだった。

 お前は男なんだから体が強い分、双子のお姉ちゃんを、()()を守らないといけないよ、と、上の兄や姉たちに言われながら育った。

 少年は少年で、人見知りながらも素直な性格だったから、うん、と大きく頷いていた。

 

 だけど、少年はその約束を、守れなかった。

 たまたま、偶然、空から落ちて来たほうき星に当たるみたいな不運で、故郷が魔族に襲われたからだ。

 

 魔族という名前は聞いていた。聞いていたが、周りの大人たちはいつも言っていたのだ。

 魔族は恐ろしい。襲われたらお終いだ。

 だけど、自分たちのことはドラゴン乗り様が守って下さる。何百年も前からずっとそうなのだから、大丈夫なのだ、と。

 

 何百年も続いてきたことが、明日も当然のように続くのだと、どうして無邪気に信じられたのだろう。

 

 街は、一瞬で炎に包まれた。

 屋根が崩れ、化物たちが空から押し寄せた。

 時計塔は砕けて、家の前にあった花屋はお店の人ごと燃え崩れた。遊んでいた広場も、友達と駆け抜けた石畳の路地も、砕かれ、抉られ、壊された。

 少年の家族の中で、最初に死んだのは父親だった。崩れた天井の下敷きになった。

 次は母親。倒れた柱に挟まれた。

 それから兄と姉。魔族を引きつけて走って行った。

 みんな、みんな、末の双子である少年と姉を守って死んでしまった。

 

 それでも姉の手を引いて、幼い少年は街を駆け抜けた。

 もつれそうになる脚を動かして、早く早くと双子の姉を急き立てて、人が燃えて、倒れている慣れ親しんだ道を走った。

 血を吐きそうになるほどの勢いで走って、走って、走って走って走って。

 

 大通りに飛び出した瞬間、あ、と呆気ない姉の声を聞いた。

 見上げればそこには、腐った顎を大きく開いた屍竜がいて、少年の横を飛び抜けて行った。

 

 姉さん、と叫ぶ間もなかった。双子の姉は、消えていた。喰われていた。庇う暇すらなかった。

 自分と姉の距離なんて、ほんの数歩しか離れていなかったのに、手だって繋いでいたのに、なのに、レテは一瞬で。

 

 ─────いなくなって、しまった。

 

 それから起きたことは、ほとんど覚えていない。

 気づいたら、少年はドラゴン乗りたちに助けられていた。

 たった一頭だけ、人が乗っていないドラゴンにその場で触れられ、右手に何か模様みたいなものが刻まれたけれど、それにも気づかなかった。

 周りは、契約を断ち切ったばかりのドラゴンが何故、と言っていたが、少年には聞こえていなかった。

 周りの音がちゃんと聞こえるようになってからようやく、自分がドラゴンに選ばれたのだと知らされた。

 選ばれたのならば、魔族と戦わなければならないと言われた。

 

 魔族は、許せなかった。

 友達を、家族を、姉を殺された。

 自分たちが何をしたというのだ。姉が何をしたというのだ。

 魔族という生き物がこの世に存在することが、許せなかった。

 

 師匠となるドラゴン乗りに引き取られ、ひたすらに修行した。

 でも少年は元々、何かが特別他の子よりも優れていることなんてなくて、師匠はとても厳しい人だったから、つらい修行の最中何度も、もしこれが姉だったらと考えた。

 双子の姉だったなら、レテだったなら、自分よりきっと、なんだって上手くできたはずなのだ。

 姉はそういう、特別な女の子だったから。

 周りの人々を明るい気分にさせて、いつも楽しそうに笑っていて、人見知りで楽しく喋るのが苦手な自分と双子であることが信じられないくらいだった。

 

 だけど、レテはもういない。

 魔族に、目の前で食べられてしまって、亡骸一つ残らなかった。

 死んでしまった者は、もう戻って来ない。

 だったらせめて、自分たちと同じ思いをする子どもが、家族が、少しでもいなくなるように、魔族を殺そう。

 

 少年が、レトが思うのはそれだけだった。

 

 だというのに、レトは失敗した。

 平常心であるようにと言われていたのに、修行の一つで赴いた場所で、怒りに任せてシランの炎を解き放ってしまったのだ。

 

 そこは狂人が集った場所で、世界を救うためと称して子どもたちを使い、怪し気な実験を繰り返していた。

 それだけなら、ドラゴン乗りが何人も赴くことはなかったはずだ。普通の兵隊だけで、事足りたはずだ。

 ただ、そこのやつらはあろうことか、ドラゴンの卵を盗んでいたのだ。

 相当に周到な装備を整えているのではないかと危惧され、レトの師匠とまだ見習いのレトと、あともう一人が向かった。

 

 結論だけで言えば、そこのやつらの限界は、ドラゴンの卵を盗むまでだった。

 あとは、何の役にも立たないような実験で、いたずらに子どもたちを弄り回していただけだったのだ。

 彼らがしていた所業を見て、子どもを物のように扱い、殴る様を見て、魔族でない人間があそこまでの地獄を創り出せるのだという現実を叩きつけられ、レトは生まれて初めて、心の底から激昂した。

 

 その怒りを汲み取ったシランが吐き出した炎は、建物を溶かした。

 かつて自分も卵のうちに子を失ったというシランは、レトと容易く同調した。してしまったのだ。

 

 だがその場には、一頭の龍と、一人の人間の怒りの巻き添えになった子どもが一人、いた。

 炎の熱で怯えたのか、小猫のように甲高く鳴く幼いドラゴンにしがみつかれ、自分だって震えているというのに、こちらを鋭く見据えた赤い瞳に映った自分の姿を見た瞬間、レトはあらゆる感情が凍りついた。 

 自分は、何をしているのだと思った。

 圧倒的な力を感情のままに振るって、あの日の自分たちのような小さな子どもを怯えさせる。

 何ひとつ、成長していない。こんな自分は、魔族と何も変わらない。

 ひゅ、と喉の奥が締まった。

 

 ちがうんだ、そんなつもりなかったんだ、ごめん、こわがらせようとしたんじゃないんだ、ごめん、本当にごめん、と壊れたからくりみたいに繰り返して、レトはその小さな龍と子どもの怯えを拭い去ろうと奮闘した。

 大騒ぎを聞きつけてすっ飛んで来た師匠に、何やってやがるこの大馬鹿弟子とすぐにぶっ飛ばされたが。

 

 それが、アジィザと出会ったときのことだ。

 うんと年下の少年と思っていたら少女で、しかもドラゴン乗りの証が首に出ているから弟子にする、と言われたとき、レトは初めて師匠に食って掛かった。

 

 だって、あんまりじゃないか。

 あんな小さな女の子が、ひどいところにずっと閉じ込められて、わけもわかっていないままドラゴンと契約して、魔族との戦いに駆り出されるなんて。

 だけど師匠は頑なだった。

 戦える力を持つ者が戦わずに暮らすことを、まるで罪のように考えている人だったから、ドラゴン乗りの証がでたならば、幼かろうが女であろうが戦うべきなのだと、考えを決して変えなかったのだ。

 食い下がったら殴られて、考えを覆すことはできなかった。

 

 ジザとあだ名がついた少女は、何も言わなかった。

 ドラゴン乗りになりたくないとも、なりたいとも言わずに、ぴぃぴぃと鳴き続ける黒いドラゴンを、血が乾いて固まったような赤い目で見つめながら、その頭をただひたすら優しく撫でて、宥めているだけだった。

 その日から、ジザはレトの妹弟子になった。

 

 ジザが来てから、レトは変わった。

 変わらざるを得なかった。

 

 魔力容量がレトより多いジザは、制御をよくしくじり、爆発ばかり引き起こしていた。

 木剣を破裂させて木屑が顔に刺さったときも、ひたすら失敗した自分を情けなく思ってか、悔し涙を流すだけだった。

 レテや上の姉は、かすり傷でも顔につくことを気にしていたのに、大きなあて布で片頬全部覆われても、傷が残ると言われても、ジザは気にしない。

 万事が万事これだから、危なっかしくて仕方がなかった。

 

「兄弟子、なんであなたのほうが痛そうな顔してるんですか?」

 

 挙げ句、剣の素振りをしながらそんなことを言ってくる。師匠が目を見張るぐらいの鍛錬を自分からする妹弟子を、レトはこのころ理解できなかった。

 だけどさすがに、年下の女の子が顔の怪我にも平気な顔をしているのを見て、切なくなるくらいの情はあったのだ。

 

「兄弟子は、おれのこと苦手かと思ってました。女の子……ああ確かに、おれは今女でしたね」

 

 男のままが良かった、とまるで自分が女でないときがあったかのような口調で言ったジザの顔には、暗い色があった。

 

「……どうしてだ?」

「だって、女の体って弱いじゃないですか。おれ、兄弟子より筋肉がつきにくいし、体もぐにゃぐにゃしてる。腕力だって、低いです。ドラゴンって、強いやつじゃないと仲間ってみとめないんでしょ?おれがザコだと、コクヨウがみじめになる」

 

 卵のまま盗まれた先で生まれた黒い龍は、師匠のドラゴンが呆れ返るほど人間のジザに依存していた。

 魔族と戦うための乗り手ではなく、母親を求めたから、契約者が女になったのではないかと言われるほどだ。

 最強と自負するドラゴンたちにとって、それは認められないことであるらしい。

 過去に、自分の卵を失くしたことのあるシランはコクヨウを気にかけていたが、それは例外なのだ。

 

「なんにも悪いことしてないコクヨウが、弱いってだけで仲間に嫌われるの、ムカつきます。おれが弱いせいで嫌われるの、もっとムカつきます。……今のあいつが頼りにできるの、おれだけみたいだから」

 

 いつも何かに対して怒っているようなジザは、そう言ってまた鍛錬に戻った。

 怪我をしても、悔し涙を浮かべても、弱音を吐かずに鍛錬する妹弟子よりも、何があったって絶対に『先』に立つ、とレトが誓ったのはこのときだ。

 才能だけで言ったらきっと、レトよりもジザのほうがある。

 木剣が爆発するのだって、魔力が多いから起きることで、特に取り得なんてないレトより、ジザはきっと、もっと強くなれるのだ。師匠もそうとわかっているから、手加減なくジザを鍛えている。

 強くなったら、ジザはレトを置いて先へ行くだろう。弱い兄弟子なんて、なんの役に立たないのだから。

 だけど一人になったらきっと、この女の子はどこかに一人で行ってしまう。

 

 レトは魔族に何もかもを奪われた。奪われたから、その怒りで剣を取ることができた。

 見知らぬ誰かを守りたいという綺麗な思いだけでは、戦えない。

 自分から大切なものを奪ったやつらを殺したいというどろどろと溶けた鉄のような思いが、いつも胸の底には燻っていた。

 でもジザは、魔族に直接何かをされたわけじゃない。彼女を一番苦しめたのは、あの研究所の人間たちだったのだ。

 ジザは自分じゃない誰か、それも勝手に自分に縋りついて来た、人間ですらないドラゴンのために剣を取った。

 自分しか頼りにできないドラゴンのために自分がやるというのは、凄いことだと思う。ジザは同情も憐憫も、大して感じていなかった。自分がやるべきだと思ったことを選んだだけ、という透徹した感情があったのだ。

 だけどそれなら、ジザは一体、誰を頼りにできるのだ。

 優しすぎるこの子を、絶対に一人にしたらだめなんだと自分に誓った。

 いなくなってしまった家族の分まで、レテの分まで、守ろうと思ったのだ。

 誰かに誓ったわけじゃない。レトがレトに、誓ったのだ。

 

 兄弟子という呼び方が、先輩に変わったのは、二人の師匠が魔族との戦いで亡くなったときからだった。

 お前があの子の師になれと遺言が残っていたから、ジザの師匠はレトになった。だが今更師匠呼びがやりづらいから先輩呼びがいいと、ジザのほうから言ってきたのだ。

 前のように、レテと自分を比べて卑下する間もなく必死で鍛錬し続けたから、まだレトはジザより強くあれた。

 だけど、やればやった分、ジザの才能は感じ取れた。

 女の体はやわくて脆いと本人は不服な顔をしていたが、体のしなやかさを生かした動きは人間というより猫のようで剣筋が読みにくく、厄介なのだ。元々乏しかった表情のおかげで、ジザには気づかれなかったが。

 

 見習いでなくなったジザとレトは、やはり同じ場所でずっと戦っていた。

 一人しかいない女性のドラゴン乗りは、やはり監視というか監督の必要性があると判断されて、それが兄弟子の自分が適任と判断されたらしかった。

 

「オレがちゃんと正式に契約したか疑ってるとこもあるんじゃないですかねぇ。あんなイカれた状況で契約したやつ、今までいなかったろうし、女のドラゴン乗りはオレ一人しかいないし、混ざりモンみたいに思われてんじゃないですか?」

「腹は立たないのか?俺は許せないのだが」

「全然ムカつかないわけじゃないスけど、なんも知らん他人さんからしたら、妥当な判断じゃないですかねぇ。先輩はちゃんとコクヨウとオレのこと知ってくれてるでしょ?」

 

 そんなことより魔族を倒しましょう、とジザは本気で気にしていないふうだった。

 コクヨウも、ぐるぐる唸っているだけだ。黒いドラゴンは、体は立派になったものの、乗り手がいいならそれでいいという、特大の甘えん坊になっていたからである。

 

「初めまして。あなたたちと組むことになったから、よろしくね」

「よろしくお願いします」

 

 ふわふわと浮いて飛ぶのが好きな少女と、堅物真面目を絵に描いたような青年と、四人一組になることが増えたのはそれからすぐのことだ。

 絶対にジザより先にいる兄弟子であろうと肉が骨から剥がれそうなほどの鍛錬に打ち込んだため、自分のことをよく知ってくれている師匠と妹弟子以外との会話がとことん下手になっていたレトには、二人は新しい風のような存在だった。

 

 口数が足りない、何を考えているかわかりづらい、後先考えずに結果だけ口にするな、過程を喋れ、もう少し表情を動かせ、妹弟子にいつまで通訳してもらうつもりだ、と結構容赦なく青年、シャクラに説かれまくったのである。

 ジザはそれを見て、にこにこしていた。

 初めての同性の友達ができたという少女、フェイと並んでシランの背中に座り、シャクラに滾々と説教される兄弟子を楽しそうに眺めていたのだ。

 兄弟子の危機をちょっとは助けてほしかったのだが、戦うときの、自分を鼓舞するための引き攣れたような笑顔でなく、心底からの微笑みだと言うことがわかったから、レトは文句も何もかも消えてしまうのだ。

 

 嬉しかった。

 戦い続ける毎日に何も変わりなんてなく、終わりなんて見えない。誰かが傷つかない日はなかった。

 師匠やその先代たちがそうだったように、きっと自分たちは一生ドラゴン乗りとして戦い続けて終わるのだろうが、それでも終わりに辿り着く前のあたたかい日が、失った昔が、戻って来たように思ったのだ。

 

 ──────そう、思っていたのに。

 

 これ以上、何も奪われくない。

 願うことなど、それだけだった。

 

 昔と同じだ。

 今日ある幸せが明日続くと、何故、無邪気に信じていられたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やめて!やめなさい、ジザ!お願い、お願いだからやめて!そんなことどうでもいいの!あなたがやらなくたっていいから!だから……だから、戻って、戻ってよぉ!」

 

 泣いている。

 届かない声を上げて、フェイが空に向かって叫んでいる。

 片腕を斬り落とされた傷を押さえ、シャクラが悔し気に天を睨み据えている。

 青年は─────レトは、歯をぎりりと食い縛った。

 目の前には人間の形をした魔族。だがそいつすらも、今眼前で起きている事態に戸惑っているのか、動きを寸の間止めていた。

 たった今、この場の全員の脳裏に直接、暴力的なまでの唐突さで割り込んできた光景は、この敵にとっても予想外の代物だったのだ。

 その明確な隙に、レトは斬りかかる。

 過たず、剣が片腕を斬り落とした。

 だが、相手は首を狙った一撃を最小の動きで躱し、一歩で背後で羽ばたいている鈍色の龍の背に飛び乗った。

 

「群青の瞳の剣士、その顔を覚えたぞ。必ずその首、叩き落す」

 

 言うが速いか、敵は一直線にこちらのドラゴンたちの囲みを突き破り、海上の彼方へと飛び去って行った。

 形成されかけている黄金の揺らめきを、淡く輝く光の膜を突き抜け、一目散に。

 その、あまりに見事な逃走などどうでもよかった。呪詛のような怨念が籠められた宣言に心底価値はない。

 何がどうして、どうなった。どうしてフェイが泣いている。

 どうして、どうしてジザがシランと共に空の高みへ駆け昇って行ってしまったのだ。

 

 止めなければならないと思った。理屈も理性も蹴とばして、レトの本能がそう叫んでいた。

 今すぐに追いかけて引き留めなければ、あの子が、絶対に失わないと誓った少女が、二度と手の届かない所へ行ってしまうとわかった。

 なのに、レトには翼がない。

 シランがいなければ、地を這うばかりで空を駆けることすらできない。

 

「エラワーン、そいつを運んでください!」

 

 応えるかのような咆哮が、空から聞こえた。

 先程の人型の魔族に斬り落とされた腕を押さえ、止血をしながらのシャクラがエラワーンを呼んだのだ。

 

「何を呆けているこの馬鹿者!この場で今、お前以外に誰が行ける!」

 

 張り飛ばされるような声に、レトは既に走り出していた。船べりを蹴って異常な高さを踏み越え、エラワーンの背の鞍に飛びつく。

 通常なら、契約下にないドラゴンの背には乗れたものではないのだが、エラワーンはこちらの意を汲んだかのように一声吠えるや否や、白銀の翼を大きく広げた。

 空へ上る直前、黒龍の哭き唄が耳を劈いた。

 やめろ、と叫びたくなった。

 そんな声で泣くな。お前の乗り手は死んだわけじゃないのに、何故末路をとうに知っているかのような、哀し気な声を出す。

 夢の中で聞いていた唄と同じ声を背に、レトはエラワーンと共に空を昇る。

 空気がどんどん薄くなり、手綱を握る手が凍りつく。

 敵の見慣れぬ形の武器に斬られた傷からこぼれる血が、赤い線を引いて後ろへと凄まじい勢いで吹き散らされて行く。

 ふと、輝く何かがくるくると回りながら空から落ちて来るのが見えた。咄嗟に身を乗り出して腕を伸ばし、何も考えていないままレトは掴み取った。

 掴んだそれは、剣、だった。

 使い込まれて柄に巻かれた革が手ずれしている、見慣れた形の剣である。

 真っ直ぐな刀身だけが、薄い赤色に染まっていた。

 

「ジザ!」

 

 鋼の色から淡紅色に変じた剣を握ったまま、レトはその名を叫んだ。

 どこにいる。この広く虚しい空の、一体どこに消えてしまった。

 エラワーンが首を巡らせ、翼を広げた。そちらを見れば群青の鱗をきらめかせた龍が一頭、落ちていた。

 翼を畳み、まるで石ころのように墜ちていく。それはどう見ても、見間違えようのないレトの相棒だった。

 

「シラン!」

 

 心と声の両方で叫べども、シランからの応えがない。全身が冷たくなった。

 エラワーンが近寄って、翼と翼が触れ合うほどの距離になったとき、レトはシランの脇にそれを見つけた。

 

 始めそれは、歪な形の透明な赤い水晶に見えた。

 だけど次の瞬間、それが何なのか、誰なのかが、わかってしまった。

 人と結晶が混ざり合い、溶け合って固まった姿。

 壊れかけた人形と、砕けた宝石の塊を組み合わせたかのようなカタチのそれは、ジザだった。

 手を伸ばして、レトは墜ちるジザの体を受け止める。

 声も上げられなかった。息もできない。目の前で起きている現象を受け入れることを、脳が拒絶していた。

 ジザの腰から下は、結晶となって砕け散ってしまったのか既にない。

 傷口すらも結晶と化し、風に食まれて見る見るうちに崩れていく。赤い髪は細い氷柱のような塊へ変わり、砕け散って零れる。

 空へ飛ばされて行く赤い結晶が、まるで血のようだった。

 腕もない。足もない。貌も、左半分が欠けている。

 

 重度の魔力汚染。それに伴う、生体の急速結晶化。

 そんな言葉が浮かんだ。そして結晶化した生き物を元に戻す術は、ない。

 それでも、下へ、地上へ帰ろうとしたときだ。

 

 哀しいほどに小さく軽い、澄み切ったひと塊の結晶になってしまった体の、僅かに残った血の通う部分が動いた。

 綺麗な一つの目。宝石のように残った赤い瞳の片方は、まだ生きていた。

 口元が、微かに動く。

 そこから漏れている言葉を聞きとろうとして、顔を寄せたその刹那、レトの前で白い光が弾けた。

 

 レトの意識が、束の間揺らぐ。

 

 水に沈んだときのような、前後左右を見失う浮遊感に絡め取られたのだ。

 それが晴れたその後に、レトは見知らぬ景色に立っていた。

 

「……は?」

 

 場所は海岸。足元には寄せては返す波が打ち寄せ、目の前には果てがない青い海。

 頭の上には、あり得ない青く澄んだ空。

 それだけでここが、幻なのだとわかってしまった。

 空と海がどこまでも青いなど、あり得ない。空とは半分が黒く、海は暗い青と黒に彩られているものなのだ。

 

 こんな、おとぎ話の中の天の国にしかないような蒼穹と蒼海は、この世には存在しない。

 それならここは、あの世なのだろうか。

 もう一度、辺りを見回したときだ。

 

「存在していないのは当たり前です、先輩」

 

 すぐ間近、背中で聞こえた声に、レトは鞭のような俊敏さで振り向く。

 褐色の頬を縁取る赤い髪と欠けのない四肢が揃った少女が、アジィザがそこにいた。

 その姿に向けて、レトは一歩ふらりと踏み出した。

 

「帰ろう」

 

 ここはどこだとか、何が起きているんだとか、もっと言うべき言葉はあったはずなのに、レトの口から出たのは、その一言だった。

 帰ろう、地上へ帰ろう。ここはおかしいから、だから早く戻らなければならないんだと、手を伸ばした。

 なのに、ジザは首を振った。小さく、しかしきっぱりと拒絶したのだ。

 

「帰れません。ここはおれのセカイで、おれにはもう、時間がないんです」

 

 レトにももう、わかっていた。

 この世界は、思念能力を持つドラゴン乗りや【魔力持ち】が頭の中に生み出すものだ。

 帰れない故郷を、心に描いた思い出を、相手に伝えるために生み出された、ただ巧みに作り込まれたまほろば。

 目すら見えなくなった仲間へ、最期に優しい風景を届けるためだけに習得することになっている、終焉を安らかに迎える鎮魂の技だった。

 欠けたところのないジザの姿は幻でしかないのだ。

 

 このセカイを創ったのはジザで、レトは招かれた。彼女の言葉を、聞くために。

 時間を一秒も無駄にできないと、ジザの燃えるような赤い瞳が言っていた。

 知らない知らない聞きたくないそれを聞いたら世界が終わってしまうと、そうと分かっていて、レトはそんな自分を抑えつけた。

 

「先輩は、見ましたか?さっきおれが南の大陸の()()に送ったもの」

「……ああ。あれが敵、なんだな」

 

 説明するまでもない禍々しさ。魔族に通じる、しかし彼らよりも濃い何かの気配。

 見ているだけでこちらの正気を削って来そうな、目を背けたくなる悍ましさを放っていたあの黒い泥のような塊の姿は、船の上にいた全員の脳裏と、魔族にまで伝わっていた。

 それから続けて放たれた、ジザの言葉も。

 

「あれが元凶で、魔族を生む元だということは伝わった。俺たちにも、あの魔族のドラゴン乗りにもだ」

「なら、よかった。おれ、間違わずにやれたんですね」

「よくない。……お前は、一体お前自身に何をしたんだ?」

 

 途端、ジザの表情が毀れた。

 

「……おれは、結界を張る石が壊されたときの、保険だったんです。そういう命令が下ってました。だけど、あなたたちに言えなかった」

「それは……その役目は、絶対にお前でなければならなかったのか?俺では、代われなかったのか」

「無理でした。先輩にも他の誰にも、適性がないから」

 

 単純に、才能の有無の問題だったと、ジザが言った。

 他の誰にもできないから自分がやったという、あの透徹した感情が、そこに透けて見えていた。

 

「本当ならコクヨウを連れてくはずでした。だって、あいつがおれの契約龍だから。だけど、コクヨウは幼すぎて魔力が足りなかった。こんな高くまで飛べないから、シランに頼んだんです。……おれと一緒に、死んでくれって」

 

 ごめんなさい、とジザが頭を下げた。

 あなたの相棒を道連れにしたのだと、謝っていた。

 言うべきことなどいくらでもあるはずなのに、頭の中は空回りするばかりで何一つ言葉が出てこなかった。

 昔から、自分はいつもこうなのだ。

 言うべき言葉が上手く選べなくて、人を怒らせてしまう。人を怒らせたいわけじゃないから黙ってしまって、今度は何を考えているかわからないとまた怒られる。

 それで何度も間違えて来て─────きっと今、自分は悔やんでも悔やみきれないほどの間違いを犯したのだとレトは悟ってしまった。

 

「あの夢は、予知夢ではなかったんだな。……あれは、本当はお前が見ていた夢だったんだろう」

 

 唐突に、天から落ちてきたようにその考えが浮かんだ。フェイに叱り飛ばされたときの言葉が蘇る。

 予知夢はあり得ないが、魔力を操ることができる者は精神感応力を持つ。

 それこそ、無意識に自分が見ている夢を、他人へ伝えてしまうようなことだって起こり得る。

 

「あれはお前の夢を、俺が見ていたんだな。あそこに流れていた、哀しみの感情は」

()()()()()()()。先輩、夢の中でおれの姿が見えなかったって言ったでしょう。あれも当然です。だってあの夢は、おれの眼で見ていたものだから」

 

 夢の中に、夢を見ている本人の姿は、映りようがない。

 あれは真実ただの夢で、だからこそあの夢が孕んでいた感情も本物だったのだ。

 先回りするように、ジザが口を開いた。

 

「長に斬りかかったりしたら、駄目ですよ。あの人もつらいんです。おれたちの誰より強いばっかりに、仲間が沢山死ぬのを見ないといけないんだから。選択肢、なかったわけでもなかったし」

 

 そもそも臆病風に吹かれるような輩には任せられないって話でしたけど、と赤毛の少女は、言う。

 その姿の向こうに、蒼い空と海が広がっているのが見えた。砂粒が崩れていくように、時間がなくなっているのだ。

 

「俺に、何ができる?」

 

 お前に対して、俺に何ができるのかと、青年は問いかけた。それは間違いなく、あまりに遅すぎた。

 青年に、少女の人間としての崩壊を止めることはできない。

 嫌だとかやめろとか、そんな言葉がもう届かないことが理解できてしまった。

 何かができると思うことさえ、欺瞞なのだ。

 聞こえるはずの声を聞きとり損ねて、見当違いの気遣いをして、一体何をした。何をしてやれた。

 

 それなのに、そんな取り返しがつかない間違いを犯した青年に、少女はただ、淡く微笑んだ。

 ありがとう、とでも言うように。

 

「それなら、先輩。お願いします。今からおれが言うことを、全部信じてくれませんか?あり得ないとか、そんなこと不可能だ、とかそういうあなたの中の当たり前を一切合切捨てきって、おれの話を聞いてくれますか?」

「わかった」

「あのぉ、オレが言うのもあれですが、もう少し躊躇いとかあってもいいんですよ」

「必要ない」

 

 きっぱりと言い切ると、ジザはあー、と額に手を当てた。

 そういう仕草は、いつも通りだった。龍舎でくだらない話をして、呆れたときのジザの癖だった。

 強く唇を噛んで、レトは叫びたくなるような衝動に耐えた。

 

「じゃあ結論を言います。……あれ、あの黒い塊は、百年後でなければ何があっても滅ぼせません。あれは地脈にへばりついているから、いくら攻撃しようが無駄です。星一つ、壊せるだけの威力の攻撃を叩きこめば話は別ですが、無理でしょう」

 

 あれは星喰らい。

 目についた生き物すべてを飲み込み喰らう貪食者だと、ジザは続けた。

 

「魔族は、あれに喰われてから吐き出された、北大陸の生き物たちです。今日おれたちが戦った人間の魔族、あれも元は、おれたちと同じ人でした」

「人?……もとに、戻るのか?」

「不可能です。彼らはもう死んでいる。胃袋の中の溶けた肉を取り出して泥人形みたいにこねて形を作ったって、そこに生命なんて宿りようがないでしょう。吐き出す言葉も自我も全部が全部、ただ昔をなぞって吐き出されているだけです」

 

 その光景をありありと想像してしまった。確かにそれは不可能だ。

 あの魔族が、仲間のドラゴン乗りを騎龍諸共一撃で幾人も屠った敵が、元は同じなど、聞く者が違えばば何を馬鹿なと激昂していただろう。

 だが、レトにそんな考えは微塵もなかった。信じると、言ったからだ。

 

「百年後、北大陸に地震が起きます。同時に山が火を噴きます。その衝撃で【混沌】の核がごく短い時間だけ地脈から剥がれます。その瞬間だけが、あれを滅ぼせる隙です」

「【混沌】?」

 

 あ、とジザが口元を押さえた。

 

「あれの名前です。だけどもう一つ要素がなければ、【混沌】は殺せません」

 

 桁違いの精神感応能力を持つ人間がいる、とジザは言った。

 

「【混沌】の中にある『魂』。今まであれに喰らわれた人々の意識の残滓に自分の声を届け、その声を聞きとれるだけの誰かが必要なんです。外からの攻撃と、内側からの攻撃。その二つがないと、【混沌】は決して滅ぼせないから」

 

 魂、とジザは口にした。

 

「魂ってものがこの世にどういう形であるのかは、おれにもわかりません。生まれ変わりは本当にあるけど。だけど、【混沌】の中には喰らわれた人々の意志……思念が、その僅かな体と共に残留しています。彼らが内側から【混沌】に抗うことが必要です。胃袋の中からつつかれたら、喰ったやつは苦しむでしょう?」

 

 百年という時間の先に訪れる僅かな好機と、精神感応能力。その二つが()()()()()()()()()()()()

 何度も見て覚えた、決められた芝居の筋書きを告げるように、ジザは言い切った。

 

「その精神感応能力は、フェイよりも上なのか?」

「もっと上です。あの子でもまったく足りません」

 

 やはりそれは、決められた上限を、確かに知っている口調だった。

 言い切って、ジザは頭を押さえてよろめいた。同時に、ザザ、と耳障りな音が走り、空間がぶれる。

 レトは、足元の砂を蹴飛ばして少女に駆け寄っていた。幻の海辺にあるのは思念体同士だから、互いに触れようと思えば触れられる。

 だから、レトは腕の中に少女の体を抱き留めることができた。

 乾いた体には、何の重さもない。

 

「おれの話は、終わりです。……先輩、信じますか?」

「信じる」

「……先輩、あの、やっぱりその結論しか言わない口下手、もう少しどうにかしましょうよ。一体どこでそんな話を聞いたのかとか、聞かなきゃならないことあるでしょ」

「必要ない。この状況下のお前が、つまらないことなど言う訳ないのはわかっている。……それだけでいいのか?」

 

 ジザは、深く息を吐いた。

 

「よくはないですよ。なぁんにも、良いことなんかない。フェイは泣かせたし、シャクラさんはひどい怪我してたし、先輩にはひどい顔させるし」

 

 ああおれ、本当に何やってるんだろう、とジザは蒼い空を見上げて呟いた。

 

「あなたたちに、死んでほしくなかったし……悲しませたくもなかった。だけどどっちか一つしか選べなくなって……。そういう顔をさせるんだってわかってたのに、傷ついてほしくなかったのに……おれが傷になってちゃ世話ないですよ」

 

 ねぇ、とジザの手が頬に触れた。

 悪戯っ子のような顔ではない、静かな、もう自分の終わりを見ている者の、やさしくてかなしい、透き通った微笑みだった。

 

「先輩、おれのこと、もしも思い出すのがつらくなったら、忘れていいです。だけど」

 

 おれの話だけは、真実だけは、忘れないで、とレトの頬をなぞりながら、ジザは呟いた。

 

「おれの顔も声も、どんなやつだったかも、好きなものも嫌いなものも、そんなこと皆、忘れていいです。前に歩けなくなるほどつらいものは、置いて行っても構わないです。生きてる人がつらくなる思い出なら、なくったっていい」

 

 だけど、倒してください、とジザの赤い瞳が強く輝いた。

 

「あれを、滅ぼしてください。おれが出会った人たちがみんな、あんなやつに喰われるために、生きてきたんじゃないって、信じてるから。何にも生み出せない泥に呑み込まれるために生きるなんて、そんな終わり方、おれは、絶対に認めないから」

 

 わかった、という自分の声を、レトはどこか遠いところから聞いた。

 

「おれが言うのもあれですけど……一人じゃあ、絶対に無理ですからね。ドラゴンと、人と、助け合って、ください」

 

 あとは、と続けようとしてジザの輪郭が、またぶれた。

 きっとこれは脳まで結晶化が進んだからなのだ。幻を生み出しこの風景を創り出しているのは、ジザの頭なのだから。

 

「ジザ、ここはどこなんだ?」

 

 何か少しでもこの子が楽になれるような、そんな話がしたかった。

 蒼い空にとけていきそうな吐息を吐きながら、ジザは頬を緩めた。

 

「ここは、えっと、まぁおれの故郷です。……おれね、本当は人生が二回目なんです。こことは全然違う世界に生きてて、さっき話したことも全部、そこで知ったことでした」

 

 そこじゃおれ、女じゃなかったんです、と何でもないことのように告げた。

 実際そんなこと、レトにとってもどうでもよかった。

 人生が二回目だとか、男だったとか、どうでもよい。ジザがジザであるならば、何だって。

 そんな告白は口下手な自分の真似をしたわけでもあるまいに、どうしてこの妹弟子が闊達な少年そのものな振る舞いができていたのか、という些細な謎が解けた程度でしか、なかった。

 

「そうか。……うつくしい空と海だな」

 

 泣いてはならなかった。どんな涙も、この少女の前で見せることは、許されなかった。

 笑って見送ることができないならば、せめて涙は堪える。

 レトが涙を流せば必ず、ジザはその涙を拭おうとする。

 喩えそれで、自分の腕が砕け落ちてしまったとしても。

 

「でしょ?……どこも黒くない蒼い空って、それだけで綺麗なんですよ。みんなと、こういう空、飛んでみたかったです」

 

 でも生まれ変わってこの方、一度もそんな空を見ることができなかった。

 世界の空の半分にはいつも、魔族の瘴気が蟠っていたから。

 きっと【混沌】が来る前の世界なら、違っていたのだろうけれど。

 だけど人間の誰も、その時代を知らないのだ。

 ジザの肩を抱いた腕に、レトは力を込めた。

 

「だったら、俺が空を取り戻す」

「……え?」

「見たかったんだろう。青い空が」

「見たかったです、けど……」

「なら、俺が取り戻す。絶対に。約束だ。皆にも、フェイにもシャクラにもそれを見せる、から」

 

 ─────安心しろ、と言った。

 

 取り戻したとしても、その空の下に、この少女はいない。

 それでも、ジザは安心したようにそっと瞼を閉じて、最期の息を吐きつくした。

 蒼い世界に、ひびが入る。幻が崩れ去る。

 

 元に戻った世界の中、レトの手に残っていたのは、一欠けらの結晶と冷たい鋼の剣。

 それだけだった。

 透明な欠片は、硝子より儚い音を立てて、砕け散る。

 風に乗り、海を分かち空を割き、南の大陸を覆う黄金色の膜へと取り込まれて行った。

 

 く、と喉が鳴る。

 悲鳴のような浅い息を何度も、何度も吸った。それでも、押し殺せなかった。

 白銀の龍の鞍の上、赤く染まった剣を胸の前に抱きしめて、レトは吼えるように泣いた。

 

 泣く資格がないのは、わかっていた。

 だけど今だけ、泣くことを許してほしいと、腕の中で砕け散った少女の面影に呼びかけた。

 これを最後にするから、もう二度と、涙など流さないから。

 約束を果たすまで、虚しくも果てのない青空を取り戻すまで、決して泣かないから、だから、今だけは、どうか。

 

 茫漠たる雲の海の上に響く人の哭き唄を、白銀の龍だけが静かに聞いていた。

 

 

 

 

 




前回、次話で終わりと言いましたが、終わりませんでした。
終わる終わる詐欺を働いてしまい、誠に申し訳ございません。

性転換タグは、嘘ではありません。


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その十一

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

また、感想欄の一部にて予想考察が展開されておりますので、閲覧にはご注意下さい。

では。


 

 

 

 どうやって自分が地上に戻ったのか、レトは覚えていない。

 自動人形のようにエラワーンの背に跨り、降りた先は船の上だったのだ。

 魔鋼でできた刀身が淡い赤に染まった剣だけを携えて戻ったレトを見た途端に、フェイはその場で泣き崩れた。

 金色の髪に金色の瞳の、このどこか浮世離れした妖精のような少女が声を上げて泣いたことなど、レトは見たことがなかった。

 剣を両腕で抱き締め、膝をついて泣く少女の傍らで、青褪めた顔をしているシャクラが口を開いた。

 肘から先が斬り落とされた腕にはきつく布が巻かれ、既に血は止まっているようだった。ドラゴン乗りはそれ程度の怪我で死にはしないが、腕は生えてこない。まともな治療を受けなければならない怪我だった。

 今更のように目眩がして、レトはふらつく。忘れていたが、胴を浅く袈裟斬りにされていたのだ。

 致命傷だけは避けたが、あの片刃の剣が食い込んだ肩は乾いて固まった、黒ずんだ血に染まっていた。

 

「レト、ジザとシランは?」

「……シランは死んだ。ジザは……もう、戻って来ない」

 

 手のひらに、最後に残っていた指の爪先ほどの魔力結晶を見せた。

 シャクラが呻いて、片手で顔を覆った。

 魔力限界を越えた魔力を生身で浴びればどうなるか、ドラゴン乗りの中でわからない者はいない。

 あれだけの魔力を放った結界の起点にいれば、人間一人がどうなるかなど、火を見るより明らかだった。

 南の大陸と、今レトたちがいる海域、それに雲の上の空までが、金色の魔力の膜によって覆われていた。

 一度鈍色の龍によって消し飛ばされ、数が薄くなっていた魔族たちがその膜に何度も体当たりを繰り返しているが、激突しては通り越せずに跳ね返されることを無為に繰り返していた。

 空っぽの眼窩でこちらを見ながら、錆びた鉈を振り下ろしている有翼骸骨が目に止まる。

 

 元々、すべての魔族は北大陸にいる普通の生き物だった、というジザの言葉が耳の奥に木霊する。

 あの人間の言葉を喋る魔族も、彼を乗せていたドラゴンも、自分たちと変わらない人間であり龍だったことになる。

 こちらを傲慢だと言ったあの魔族の言葉に、レトは自分たちから奪っておきながら、お前たちがどの面下げてそれを言うのかと激昂したが、あれも中身は何もない木霊だったなら、虚しい怒りだったことになる。

 ならば、目の前の()()もかつては人で、肉体を喰い尽くされた成れの果てだということなのだろう。

 戦いの後、いつもコクヨウの翼の下で手を合わせて祈っていた姿を思い出す。

 あれも、魔族が何なのかを、知っていたからの行動だったのだ。

 魔族が操られた意志のない屍に過ぎず、喰われたものの末路の姿なのだと知っていたから、祈っていたのだ。

 いつか、良いところに生まれ変われるように、と。

 泣いているフェイの細く白い項が、奇妙に浮き上がって見えた。折れそうな細い花の茎に見えた。

 ジザは、フェイより一つ、歳が下だった。

 どれだけのことをジザは知っていて、そして自分たちに隠していたのだろう。言わずに、いってしまったのだろう。

 知るべきだったのだ。

 隠していたことでも、踏み込んで、追いかけて、そうしたら、もっと─────。

 

 もっと、何になったというのだろう。

 誰も自分の代わりになれなかった。適性がないのだから、とジザは言ったのに。

 

 ぐるる、と喉声が聞こえ、振り向けば黒い龍の赤い瞳がレトたちを見下ろしていた。

 

「コクヨウ、お前は知っていたのか?」

 

 皿のような大きな眼が、瞬かれる。

 黒龍は、わかっていたのだ。

 魔力が足りないから、幼いから、コクヨウを連れていけなかったとジザは言った。その話を、コクヨウはいつ聞かされたのだろう。

 レトは、シランとジザの約束に、気がつかなかったというのに。

 わかるのは、この黒龍が乗り手の意思を汲み、戦っていたことだけだ。

 

「ねぇ、アンタたち。船、戻すわよ」

 

 メイファと名乗った船長の少女は、そうぶっきらぼうに告げた。

 彼女も、あの【混沌】の姿とジザの言葉を見聞きしたのだろう。顔が青白かった。

 

「いつまでも海の上にいるわけにはいかないでしょ。……魔族は、これでしばらくこっちへ来られないんだから」

 

 その言葉に頷く以外、残された者たちにできることは、なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四つの翼は、二つが欠けたという。

 残りの翼の一人は、被害を調べに行き、リュイロンはレグルスの補助に回っていた。

 ドラゴン乗りの長は、宿舎の椅子に腰かけていた。最強であるレグルスですら片脚を奪われていたのだ。

 手当てはしっかりと施されていたが、最強の戦士であっても憔悴が隠しきれていない。

 鼻につくのは、嗅ぎなれた血のにおいだった。

 

「……おう、お前ら、戻ったのか」

 

 そう告げたのは、【四翼将】の一人、リュイロンである。彼も怪我は負っているようだったが、四肢は揃っている。

 フェイが放そうとしない赤い剣を見て、巌のような巨漢は体が萎むのではないかと思うほど深く息を吐いた。

 

「【黒】は任を果たしたようだが……最後のあの光景、あれはお前らも知っていたことだったのか?」

「知りません。我々は、ジザがあのような任を負っていたことすら、知りませんでした」

 

 医療班のところへ行けと言ったのに、まったく聞き入れなかったシャクラが言えば、口を閉ざしていたレグルスの眉がぴくりと動いた。

 

「自分から伝える、とあれは言っていたが、聞いていなかったのだな」

「聞いていません。……知りませんでした」

 

 白い手に血管が浮くほどの力で剣の柄を握りしめたフェイが何かを言う前に、レトは彼女より前に出た。

 小柄な体の中で、爆発しそうなほどの感情が吹き荒れているのが、感じ取れた。

 フェイはあの海域にいたドラゴン乗り全員に念話回路を繋ぎ、指揮をしていたのだ。無論、鈍色の龍の光線に焼かれて消えた、仲間たちの末期の声も聞いている。

 今フェイが立っていられるのは、気力でもたせているのに過ぎなかった。

 

「何が起きたか、説明の必要はあるまいと思っていたがその分では、貴様らは何も知らなかったのだな」

 

 説明する、とレグルスは続けた。リュイロンが止めようとしたのか動いたが、レグルスは彼を視線を一つくれただけで下がらせた。

 

「私が話す。命令を下したのは私だ。【黒】はそれを確実に実行し、成功させたのだ」

 

 あれはドラゴンの心臓一つ分の魔力を起爆剤に、ドラゴン乗り一人を生体回路にして起動した結界だ、とドラゴン乗りたちの長は告げた。

 

「術の発動まで耐えられる魔力限界値を持っていたのが、【黒】のアジィザだけだった。女性であり、魔力容量が誰よりも多かったためだ。器の大きさだけならば、私や、四翼将すら超えていた」

 

 本来なら、とレグルスは続けた。

 

「本来の、結界石を用いた作戦が成功していたならば、彼女が結界を直接張る必要はなかった。だが、あの鈍色の龍とその乗り手が現れた」

 

 魔族ごとこちらを薙ぎ払ったあの光線は、海に点在していた戦場の各所で放たれていたそうだ。

 鈍色の龍は戦場の空を恐ろしい速さで飛空し、目ぼしい船に光線を打ち込んでは飛び去ることを繰り返していた。

 メイファの船は七番目の標的になり、そこで初めてあのドラゴン乗りは龍から降りて直接に斬りかかってきたのだという。

 不意討ちで船諸共蒸発した魔力結晶もあれば、直撃は免れたが破損して使い物にならなくなったものもあった。

 だから、本来ならば使わないはずの第二案を発動させることになったのだ。

 

「あれはなぁ、素体の才能に結界のデキが左右される術だ。術者は成功させようがさせまいが、龍の心臓の魔力を間近で浴びにゃならん」

 

 遅いか早いかの違いはあれど、そこには人間という種族の限界を超えた力に焼かれて、結晶になる未来しかない。

 過剰な魔力を浴びた細胞は変質し、結晶と化す。肉体の崩壊はどう足掻いても免れない。

 

「己の肉体が結晶化していく最中に合っても尚、人間が結界を張れるかはわからんかった。素体値からして、脳が結晶化するより前に張り終わる計算だったが、余裕もない。それを……あの【黒】の嬢ちゃんはやり切った。……我らがやり切らせたのだ」

 

 目の前にいる顎髭を生やしたドラゴン乗りと妹弟子の数日前の会話を思い出した。

 ()()()()()()()、と問うたこの男に、妹弟子はこう答えていた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 あのとき、レトは何もおかしいと思わなかった。

 五十秒魔力を石に注ぐ役目のことを話していると思ったからだ。

 だが、違っていたのだ。

 必ず死ぬ作戦をやり切るつもりなのかと問われ、やりきって見せると返していたのだ。

 

 選択肢がなかったわけではない、というジザの声が聞こえた気がした。

 

 選ばされたわけではなく、自分で選んだのだから最期までやるのだと、あの少女はそう決めていたのだ。

 昔と、同じだった。

 あったかもしれない他の生き方へ歩き出さず、ドラゴン乗りになると選んだのは自分なのだと、ジザは言っていた。

 それが、たとえ限られた選択しかできない中で突きつけられた、答えとも呼べないような答えだったとしても。

 

「だが……最後のあれはなんだったのだ。貴様らはあの光景が何だったのか、【黒】から聞いていたか?」

「聞いていません。……逆に問います、龍乗りの長。あなたは、あれが何なのか知っていたのですか?」

 

 フェイの問いに、ドラゴン乗りたちの長は首を振った。

 

「あれは【混沌】です」

 

 だから、レトが口を開いた瞬間その場にいた全員が弾かれたようにレトの方を向いた。

 

「北大陸の地脈に取りつき、魔力を吸い上げ続けている生命体です。こちらと対等に意思の疎通が図れるような思考形態はなく、ただ目に付くものを捕食することを目的としている星喰らいです」

 

 伝えられるとするならば、今しかないとレトは思った。

 最後の時間を使ってまでジザが伝えたかった知識。どこで手に入れたのか、何故知っていたのか定かでなくとも、あの場で伝えられたことに意味がないはずはなかった。

 人と話すのが苦手がどうとか、言っていられるものではない。

 

「俺たちが魔族と呼んでいる敵はすべて、かつて北大陸に生息していた動植物であり、人間であり、龍です。彼らは混沌によって喰われた後、他の生命体を喰らうための傀儡とされています」

「レト、待って。一体何を……」

「地脈に取りついている【混沌】を消滅させるには、条件が揃わなければなりません。百年後に北大陸を襲うはずの大地震と火山の噴火という天災の際に、【混沌】は地脈から僅かに剥がれるはずです。だからそのときに、【混沌】に喰われた生きものたちの意志に呼びかけられるだけの思念能力を持つ人間が必要です」

「おい、少し待て。【蒼】の。お前は一体何を言っておるのだ」

「事実を言っているだけです。ジザが【魂朧(たまおぼろ)】を使ってまで、俺に伝えてくれたことです。突拍子も無い話であるのは重々承知していますが、あいつはつまらない嘘をつくようなやつではありません。まして……自分が死ぬ、そのときに」

 

 フェイとリュイロンの制止を振り切って話すレトを、レグルスは静かに見やった。

 黄金色の瞳に見据えられれば、レトは焦りで早口になる。

 

「俺の気が狂ったのではありません。俺は正常です」

 

 いっそ狂ったほうが楽であったろうが、そんな暇はない。だってもう、百年しかないのだから。

 自分は二度と泣かないし折れないと、レトは決めたのだ。

 

「……私が言っても、友人を庇う身内贔屓と取られるかもしれませんが、彼は至極まともです。錯乱してもいません」

 

 思念感応能力を持つ我々ならばその程度はわかることでしょう、とシャクラが言うと、場は沈黙に包まれた。

 

「あの結界には、そこに残留していた魔力反応を持つモノを弾くよう、術式が込められていた。魔族の死体を研究して得た結果だ」

 

 沈黙を終わらせたのは、長の一言だった。

 

「正体は不明だが、魔族にはすべて同じ波形を持つ魔力が確認されていた。彼らはその魔力に汚染された、屍に近い存在であるということも、解明されていたのだ。それが、アジィザとレトの言う【混沌】であったとするならば……確かに北大陸には何か、我々の想像を超えたものが巣食っているのだろう」

 

 レグルス、とリュイロンが声を上げる。

 それは恐らく、隠されていた話だったのだ。突き詰めれば、魔族がかつては自分たちと同じ人間で、利用されているだけだったということになるから。

 人の形を真似た醜悪な怪物、という認識で戦う者の中には混乱する者もいるだろう。

 広く知られてはまずい話であるのは、明白だった。

 

「故に、【蒼】のレトの話は、頭ごなしに否定されるべきものでは無いと判断できる。……【蒼】よ、【黒】から聞いたという話を余さず報告しろ。それとも傷の手当てを受けてからにするか?」

「いえ!……いいえ、今この場でお話します」

 

 自分の怪我が軽いものでないことは、レトにもわかっていた。血が足りないのか、足元が覚束ない。

 だが、今日話せることは、今日話しておかなければならないと思えてならなかった。

 今目の前にいる人間が、明日も生きてこの場にいる保証など、どこにもないのだ。

 その人がどれだけ強かろうと、どれだけ自分の大切な人であろうと。

 

 それから、レトがジザから聞いた話を伝え終わるまで話が遮られることは一度もなかったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ」

 

 話を終えて、医務室の寝台に放り込まれたレトにフェイが赤い剣を差し出してきたのは、二日目の夜更けことだった。というより、レトは話し終えたあとの二晩、昏睡したように眠り続けたのだ。

 目の周りを腫らした少女は、しかし存外静かな声と気配で近づいて来て、そっと寝台の端に腰掛けた。

 ぎ、と微かに寝台が軋む。

 

「これ、あなたに返すわ。わたしが持っていても、使わないもの」

 

 間近で尋常でない魔力を浴びたためか、魔力をよく通す性質を持つ魔鋼の刀身は、赤く染まっていた。

 ジザやコクヨウの瞳と、同じ色である。

 

「いいのか?」

「その武器は、使う人のところにあるべきよ」

 

 にべもないふうに言って、フェイはす、と窓の外を見た。開いた窓からは、あの黄金の結界が見えている。

 ジザは肉体すべてが砕け、結界へと組み込まれた。ならば、あれはあの赤毛の少女、そのものと言ってもいい。

 二度と語りかけて来ず、笑いかけても来ない存在であったとしても。

 金色を見上げながら、フェイは呟くように言った。

 

「シャクラはね、とりあえず中央部に行って、腕に義手を付けるそうよ。魔族が来なくなれば、そういう研究とか治療をする余裕だって生まれるから、多分数年も経ったら、今のものよりもっといい義手ができるはずだもの」

「……そうか。お前は、どうするんだ?」

「人にすぐ尋ねる前に、自分のことを話すべきじゃないかしら。あなた、ただでさえ何を考えているかわかりずらいって言われているんだから」

「悪かった。だけど……すまない。今は何も思いつかないんだ」

 

 やらなければならないことは、はっきりしている。

 青空を取り戻して、皆でそれを見る。それだけだ。

 その後のことは何一つ思い浮かばないとしても、レトは約束を果たさなければならなかった。

 だが、【混沌】を滅ぼす力はまだ何処にもない。

 戦いで犠牲になったドラゴン乗りは、何もジザだけではない。

 集められた仲間のうち半数は死に、ドラゴンすら大きく数を減らした。

 穿たれた穴は大きく、取り戻すには時間がかかるのは明白だった。

 やらなければならないことが、いくらもあることはわかる。何もかも足りていないのだから、穴を一刻も早く埋めなければならないこともわかっている。

 だけど、レグルスとリュイロンに情報をすべて伝え、ジザが死んでしまったという事実が心に沈み込んで来ると、手足に重りが括り付けられたような気がした。

 もう、ジザはどこにもいない。声も聞こえないし、姿も見えない。亡骸すら、残らなかった。

 シランも死んでしまった。

 常に側にいて、厳しくもずっと視線を注いでいてくれたあの龍が消えてしまったのだ。

 

 今のレトは、ドラゴン乗りとすら名乗れない。

 空も飛べないし、魔力も前のように扱うことはできない。

 

 大切な存在を失ってつらいのが自分だけでない、という真理になどとうの昔に至っている。

 それでも、気力がさらさらと砂のように崩れていくのが、止められなかった。

 

「レト」

 

 窓から目を逸したフェイが、レトを真っ直ぐに見ていた。

 

「あなた、ジザの顔、最後に見たのよね。あの子、どんな顔をしていた?」

 

 言われ、すぐに思い出す。

 泣きそうな、けれども決して泣きはしないと決めたような、そんな透明な表情だった。そして、約束するとレトが言ったとき、ジザは確かに微笑んだのだ。

 あの微笑みの理由も、レトにはわからない。

 

「……微笑んでいた。俺が、約束すると言ったら安心したように見え、た」

「青空、そんなに綺麗だったの?」

「ああ。……多分、一生忘れないと思う。俺たちはたくさんの空を飛んだが、あれが一等綺麗だった」

 

 そう、とフェイが呟く。

 金色の髪をかきあげ、少女は首を横に倒した。

 

「あの子がわたしたちに何も言わなかった理由、ずっと考えていたの」

「……止められると思ったから、だろう?」

「ええ、そうでしょうね。その予測は外れていない。わたしはどんな手を使っても、止めていたわ。だって、どうしてわたしの友達が、死ななければならないの?どうして、ジザでなければならなかったの?」

 

 適性があったから、と言ってしまえばそれまでだった。だけどそれで、納得できるかと言われたらできるものではない。

 代われるならば、代わりたかった。

 ジザはレトが知っている中で、誰よりも優しい人間だった。

 幸せになってほしかった。報われてほしかった。この世の誰よりも。

 眦を決して、歯を食いしばって世界なんて救うことなんかなかった。

 コクヨウの背に乗って足をぶらぶらさせて、こっちをからかうように見て笑っていて、ほしかったのだ。きっと、いつまでも。

 だけど。

 

「それは、ジザも同じだっただろう。……だから、あんなことまでできてしまったんだ」

「あなたたち、そういうところが似ているものね。わたしはね……絶対ムリよ」

 

 唄うように、少女は続けた。

 

「だって、この世界はわたしが死ねばもう、終わってしまうものだから。わたしは、わたしが死んでしまったあとの世界のことなんて、心のどこかではどうだっていいと思うの。ただ今を、あなたたちと生きていたいだけなのだもの」

 

 ね、とフェイは視線を床の上に落とした。

 

「わたしって、冷たい?わたしがこんなふうだから、ジザ、何も言ってくれなかったのかしら」

「違う。……お前は冷たいやつじゃない。お前がお前のことをそう思っていても、俺は絶対に頷かない。ジザが言わなかったのは、ただ……」

 

 止めてほしくなかったから、だろう。

 止められたら、決意が揺らいだだろうから。自分たちの哀しみと、絶望の未来と、二つを天秤にかけるしかなかったから。

 そう言い募っても、フェイはそっと、微笑んだだけだった。寝台から降り、何故かレトへ片手を差し出す。

 

「安心したわ、あなたが折れていなくて。だけどね、折れかけている子がいるから、来てくれないかしら。……ううん、来なさい」

「別に凄まれなくても行くぞ」

「それは良いわ」

 

 転ばないようにと渡された杖を持って、そっと病室の外へ出れば、そこにはシャクラがいた。空っぽの白衣の片袖が、夜風に揺られている。

 

「寝てなさいって、言ったのに」

 

 呆れた、と言いたげにフェイが額に手をやった。シャクラはむきになったように仁王立ちになる。

 

「この状況で高鼾ができますか。龍舎へゆくのでしょう。貧血でも起こしてレトが倒れれば、フェイには支えづらいでしょうから」

「いや、俺よりお前が重傷だろう。腕、一本無くなったんだぞ」

「その分、あなたがあの魔族の腕を切り落したでしょう。それで良いのです」

 

 まったく何も良くないし、俺が敵の腕を斬ったところでお前の腕は生えてこない、というレトの抗議も何のその、シャクラはずかずかと歩き出した。

 刈られた草が茂る大地に足を叩きつけるような歩き方をする青年の後を、レトとフェイは追った。

 

「……私は、正直なところジザがしたことを正しいと思っています」

 

 そうやって歩きながら、シャクラは振り返らずに言葉を継いだ。

 

「私の家は、代々ドラゴン乗りとして戦ってきました。だからでしょう。身内が戦で倒れることは名誉でこそあれ、悲しみは薄く、すぐに乗り越えるべきものと教わってきました。……そうあらねば、白銀龍に認められなかったからとも言えますが」

「回りくどいわよ御曹司。つまり、あなたはジザが死んだことも悲しくないと言いたいのかしら?」

 

 不自然な勢いのある風がフェイを中心に吹き抜け、レトの髪を揺らす。

 シャクラは立ち止まり、振り返った。

 噛み締めて歯が肉を食い破ったのか、唇の端に血が滲んでいるのが白い月光と金色の結界の光に照らされて、見えた。

 

「ええ、そう思うだろうと考えていました。ジザに限らず、私自身含めた誰がいなくなってもそう思うだろう、と。私は、父が死んだときすらも、声を上げて泣かなかった男ですから」

 

 白銀色の瞳が、濡れたように光っていた。

 

「ですが……いなくなってみて初めて思いました。私はもっと……もっと四人でいたかった。誰一人欠けることなく在りたかった、と。そして何故、もっと前にそうと気づけなかったのか、と」

 

 それが悔やまれてなりません、とシャクラは言い、また前を向いて歩き出した。

 野営地の外れにある医務室から龍舎まではやや遠く、すれ違う人は多い。

 何せ、史上初めて魔族の侵入を完全に断つことができたのだから。

 忙しく立ち働く彼らは、レトたちを見ても彼らは何も言わなかった。

 ただ無言で、道を譲ってくれた。

 その視線の中に、哀しみや労いの光でない、暗いものが混ざっているのにレトは気づいた。

 

 南大陸の意志ある者すべての脳裏に、【混沌】の姿を映像として送り込んだ、とジザは言った。

 ドラゴン乗りも【魔力持ち】も並みの人間もドラゴンも関係なく、すべてである。

 忘れることなど許さないと告げた、あの純粋すぎる怒りの中に、生きてほしい、戦い続けてでも生き延びてほしい、という祈りが込められていたことに、どれほどの人間が気づくだろうと、レトは忙しく騒がしく行き交う人を見て、思う。

 

 必ず、ジザを恨む者はいる。レグルスは話を信じてくれたが、それとこれとは話が異なるのだ。

 真実など知りたくなかった、何事もなく死ぬことすら許さないのかと、泣き喚く者もいるだろう。

 百年という時間は、長い。

 今を生きる人間のうちドラゴン乗りと【魔力持ち】以外は、魔族に怯えることなく生を全うできるのだ。

 世界は広く、人は多い。

 戦わなければならない状況にあると知っていても、皆が皆戦い続けられるわけではない。

 何もしなければ死ぬとわかっていても、破滅の瞬間まで前へと進めない者だっている。目を逸らし続けることに、全力を尽くす者もきっと、いる。

 それは何も、人に限った話ではない。

 

 その龍舎が見えてきたときには、レトはその気配に気がついていた。

 背丈を超える扉を、シャクラが開ける。

 松明に照らされる龍舎の中、身を丸めて暗がりに蹲っているのは、コクヨウだった。

 首周りの鱗が毟られ、血が滲んでいる。牙が赤く染まっているのが見て取れて、レトは顔を顰めた。

 

「身食いをしたのか、コクヨウ」

 

 杖を手放し、赤い剣を腰に佩く。

 動こうとしたフェイを、シャクラが止めるのが視界の隅に入った。

 小さいとはいえ、小山のような大きさの黒龍と、レトは一人で向き合った。

 ジザと同じ赤い瞳には、まったく異なる光が宿っていた。

 この龍は、自分で自分の鱗を食いちぎり、引き剥がしたのだ。

 精神的に追い詰められた馬が、毛を自分で噛みちぎって毟る、身食いと呼ばれる行動を取るのは知っていたが、龍で身食いをしたのを、レトは見たことがなかった。

 

「やるせないんだろう、お前」

 

 契約してもいない、乗り手を失ったばかりのドラゴンに語りかけるには、凡そありえないぞんざいさで、レトはコクヨウに呼び掛けた。

 ぐる、とコクヨウが低く唸った。ジザに鼻面を擦り付けるときに出すような甘えた声ではない。

 隠し切れない、獰猛さがあった。

 

「置いていかれた自分が許せなくて、あいつがいないのに戦わなければならない理由がわからなくて、だから、牙をその身に突き立てなければ、耐えられないんだろう?」

 

 赤い目が、闇の中で光る。

 構うものかと、レトはその瞳を睨み返した。

 この龍が、自分を嫌っていることなど知っている。

 大好きな姉を取られた妹のように睨んできていたのを、レトはずっと前から気づいていた。

 

「軟弱者。最強を謳う龍でありながら、お前は何をやっている。その牙も爪も、ただの飾りなのか」

 

 直後響いた咆哮が、建物の壁をびりびりと震わせた。

 隣の房で静かに身を横たえているエラワーンが、鼻を一度だけ蠢かせる。白銀の古龍に、口を挟む気は欠片も無いようだった。

 好都合だと、レトは唇を舐めた。

 

「吠えたければ吠えろ。俺に腹が立つならば、食い殺すがいい。だが、そのようなことをしても何一つ変わらない」

 

 ジザは還ってこない。

 戦いが終わったわけではない。

 百年は、龍にとって寿命を迎えるような長いものではないのだ。

 身食いでコクヨウが食らった鱗の位置は、心臓に近かった。

 

「置いていかれた身がやるせないならば、殺してやろうか?」

 

 腰の剣を、レトは抜いた。

 揺れる松明の灯りの中で、赤い刀身がめらめらと燃える炎のように光を照り返して輝く。

 その光に、コクヨウが怯んだように見えた。

 この剣を染めたのは、ジザの魔力。

 黒龍に、それが感じ取れない道理はない。

  

「これはシランの生命も奪った剣だ。お前が龍であろうと、殺せる」

 

 剣の鋒を、レトは揺らした。

 龍一頭殺したところで、おとぎ話の魔剣が生まれたわけではない。すべてを切り裂く、魔法の武器など存在しないのだ。

 だが、目の前のドラゴンはジザの魔力とシランの血を吸い、色が転じた剣へ一心に視線を注いでいた。

 

「心と心で繋がっていたお前ならば、わかるだろう。ジザが最期に何を望んだのか。なら、お前がすべきことははっきりしているはずだ」

 

 言いながら、レトは心で自分を嘲笑った。

 偉そうに言えたものではないのだ。己も、さっきまで蹲りかけていたのだから。

 自分の生命より大切な人がいなくなってしまっても、生きていくことができてしまう己にやるせなくなって、虚しさに膝を折りたくなった。

 ああ、その心は痛いほどわかるのだ。

 わかるから、レトはここにいる。

 

 この黒く幼いドラゴンの中には、レトがいる。きっと今自分は、この龍と同じ眼をしていることだろう。

 だからこそ、鏡を覗き込んだときのように見えたものがあった。

 

「俺と契約しろ、コクヨウ。すべての魔族を滅ぼし、【混沌】をこの世から消す。ジザはそれを、望んでいた」

 

 剣を鞘に戻し、片手を差し出す。

 ややあってコクヨウの鼻先が、そっと指先に触れた。

 瞬間、左手の甲と両眼に熱が集まる。

 視界が刹那の間白く弾け、また元に戻る。

 レトにとっては、二度目の感覚だった。

 

「レト、その眼は……」

 

 駆け寄って来たシャクラが、レトの眼を覗き込んで息を呑む。

 問題なく広がる視界のまま、レトは首を傾げた。

 

「俺の眼、何かおかしくなったのか?」

「瞳が紫色になっているわ。赤と青が混ざったみたい。ちゃんと見えてるの?」

「問題はない」

 

 ふらついた体を直し、改めて前を向けばコクヨウと視線が交わった。

 赤い瞳の奥には、拭えぬ反感とそれに勝る闘志が渦を巻いていた。

 どうにかなった、とほっと息を吐く。左の手の甲には、龍の鱗に似た痣が浮き出ていた。

 今はまだろくにコクヨウの意志も感じ取れないが、契約が成されたという手応えがあった。心の一部が自分の意識の外へと繋がれているように感じる、あの独特の感覚が戻って来ていたのだ。

 また来る、と言ってレトたちは龍舎を出る。コクヨウは鼻を鳴らして、エラワーンは鼻から煙を一筋吐き出して、それを見送った。

 出た瞬間、レトの後頭部にシャクラの平手が入った。

 

「馬鹿をやるのは何度目ですか!契約もしていないドラゴンを真っ向から挑発など、いよいよ以て頭がどうにかなったのか!!」

 

 ひどい言われようである。

 ああ言う以外にどうできたと言うのかと、レトはじとりとシャクラを睨んだ。

 

「嫌われている自覚があるならば、相応に頭を使いなさい。確かにコクヨウを立ち上がらせてほしかったのは本当だけれど、肝が冷えたわ」

 

 フェイにまで揃って言われれば、さすがにレトは黙るしかなかった。

 誰からと言うでもなく、三人は龍舎の近くに座る。

 月と星の光以外に、結界が放つ淡い金色の光が、夜を彩っていた。

 ふわふわと座ったまま宙に浮いているフェイが、首を傾げた。

 

「レト、あなたはこれから、どうするの?」

「……北大陸を、調べようと思う」

 

 言葉にすれば、案外すんなりとその考えは落ちてきた。

 コクヨウの瞳を覗き込むと、その答えはまるで自然なもののように見つけられたのだ。

 

「ジザは【混沌】が、空から来たと言っていた。空から来て、北大陸に落ちたと。……だが、俺たちはその座標すら知らない」

 

 魔族との戦いは、生まれる前からずっと続いて来た。戦いとは、終わらせられるものなのだとすら、思ったことがなかった。

 魔族が南大陸を襲い続ける原因も理由もわからず、ただしのぎ続けるしかない歴史の中で、何人もが犠牲になった。犠牲になった彼らを、振り返る時間すらなかった。

 だが今ならば、足を止めて振り返る余裕がある。それができるだけの時間を、ジザが与えてくれた。

 

「北大陸を襲う天災というのも、いつ起こるのか、もっとはっきりとした情報が必要だろうし、レグルスは、北大陸に調査隊を送るつもりだと聞いた。そこに入る」

 

 契約し直したばかりの、傷もまともに癒えていないドラゴン乗りに、身食いをするような幼さが抜けきれないドラゴンの一人と一頭などは受け入れられないかもしれないと、そんな弱気が胸を掠める。

 だが、やるしかなかった。断られたなら、あのメイファという船長に頼る方法もある。

 あの、ドラゴン乗りを名乗った魔族の剣技も、シャクラとレトの二人がかりで倒せないほどだった。

 シャクラは腕を斬り落とされたし、レトもジザの念話の割り込みがなければ、危ういところだった。

 まだ、どうしようもなく自分は弱いのだ。

 

「フェイは、どうするんだ?」

「わたしは……わたしも中央部に行くわ。あそこ、魔術の研究が一番盛んだから。二人とも、前にわたしが未来について言ったこと、覚えている?」

「未来の観測など有り得ない、というあれですか?……ああ、なるほど。それなのにジザは確かに未来を告げていましたね」

「ええ。変えられる未来として、ね」

 

 どうして知っていたのか、どこまでを知っていたのか、告げることなくジザは逝ってしまった。

 

「【混沌】も宇宙から来たと言っていたけれど、それにしても規模が桁違いすぎるわ。それこそ、神様とでも呼べてしまいそうなくらい」

「神は、存在していないのではなかったのか。お前は無神論者だろう」

「だけど、いないと証明されたわけでもないのよ。祈ることでわたしたちを助けてくれるようなものではないのだろうけれど、神様としか呼べないような生命体は()()()()()()()()()()。ジザがもし、それと出会っていて、だから未来を知っていた、なんて考えてしまうわ」

 

 地脈に取りついた宇宙から来た化物であり、天災で地脈から剥がれたときにしか、倒すことができない不死身の存在。

 それもまた、人知を超えた存在だ。

 その人知を超えた存在を倒す方法をジザは言い残したが、本当にそれ以外の方法は、ないのだろうか。

 

「【混沌】の中にあるという魂もね、調べなければならないわ。魂は、観測されたことがない。確かに、遺された魔力に術者の残留思念が宿る場合もあるけれど、何年にも渡って残るほど強いものではない。じゃあ、ジザが言う『魂』とはなんなのかしら」

 

 【混沌】の中に囚われている『魂』がある。それと対話し、僅かでもかつてを思い出させることで【混沌】を内側から攻撃できるようになる。

 そう言っていた。だが、それだけの思念を伝えることのできる人間も、探さなければならない。

 

「だが、そう都合のいい人間が、百年後に現れるとは限りませんね」

「ええ。限らない。限らないならば、誰もがやれるようになる方法を考えなければならないでしょう?わたしはそれをするわ」

 

 なるほど、とレトは頷いた。

 フェイほどの器を持つ【魔力持ち】ならば、百年で寿命が来るようなことはない。余裕で生きていられる。

 正直、魔術のことに疎いレトには何をすればいいのやらわからないのだが、フェイには何か、道筋が見えているようだった。

 ふと、いつかにジザと交わした言葉が蘇る。

 百年先はどうなっているんでしょうね、とジザは問うてきて、何事も無ければお互い生きているだろう、とレトは返した。

 あのときジザは、何と答えたのだろう。

 明るく笑っていた顔しか、もう思い出せなかった。あのときから、まだ数日しか経っていないのに。

 

 ずっと続くと思っていた戦いが、唐突に一度止められた。

 もっと長く一緒にいられると思っていた仲間と、離れていくことになった。

 今でも、気を緩めば足が折れそうになる。つらくてつらくて、堪らない。蹲って身を振り絞って、泣きたくなる。

 もう二度とあの笑顔が見られないのかと思うと、何故何もできなかった自分が生きていてジザがいなくなってしまったのかと、叫びたくなる。

 

 それでも、生きているから。

 生かされて、いるのだから。

 

 約束を果たす。もう一度、あの空を見るために。

 そのためだけに、生きる。

 

 ─────つ、と誰かの指が、頬に触れた気がした。

 

「……」

 

 ふと視線を落とせば、抜いた覚えもないのに剣の刀身が鞘から僅かに覗いていた。

 赤く染まった鋼の刃紋が、波のように揺れたかに見えた。

 

「レト?」

「……なんでもない」

 

 剣を鞘に戻し、空を見た。

 月と星と金色の膜の向こうに見えるのは、瘴気に閉ざされた半分の空だった。

 

「フェイ、シャクラ」

 

 空から地上へ目を移し、名前を呼ぶと、二人は揃ってこちらを向いた。

 

「また、会おう」

 

 失くしたものは取り戻せない。レテも、シランも、そしてジザも。

 いくら強く望もうとも、時は逆さまには流れない。やり直しなど、あるはずがない。

 そう思っているのは自分だけではなくて、悔しさも哀しさもやるせなさも、自分だけの感情ではない。

 分かち合って助け合って、駆け抜けなければ、あの闇の塊を滅ぼせる未来も、遥かな蒼穹にも辿り着けない。

 それでもジザは、自分たちがそこに辿り着けると、信じてくれた。信じていたから、きっと最期に微笑んでいたのだ。

 

 ええ、と金色の少女が微笑み、無論です、と白銀の瞳の青年は深く頷いた。

 

 金色の光に護られた世界の夜の片隅で、そうして、確かな誓いが結ばれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




この物語は、決して救われない時代の話。

次へと続けるために、少しでも生き延びるために、泥の中をもがき続けていた時代。

星喰らいの魔の討滅、蒼空への探求。
彼らがそこに辿り着くことができるのか、それは、先の時代の物語。














はい、というわけで以下、あとがきです。
キャラクターの裏設定などもありますので、閲覧にはご注意ください。

全11話の物語にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
物語的(メタ的)に言えば、これは『主人公が現れる前の物語』です。過去編と言ってもいいです。
が、読者からすれば過去編でも当事者には現代編の何ものでもないという、そんな世界の物語でした。

あからさまに続きそうなところで終わった本作ですが、続編は何も考えていない訳ではありません。
タイトルを付けるなら、『セカイの呪いを解くために』かと。
ですが、予定は未定ということでひとまず彼らの物語は終了です。

作者の不徳で読者の方々に不快な思いをさせたこともあり、反省しきりです。
ここまで物語を続けられたのも、感想、評価をくださった皆様あってこそです。
個人的には、伏線を色々と張ることができ、よかったです。ドラ.マツルギーや、雫を聞いて書いていました。

本当に、ありがとうございました。

では、以下オマケというかこぼれ話、名前の由来を含むキャラクター紹介となります。
不要であるならば、スキップでどうぞ。

改めまして、約一ヶ月の間ありがとうございました。

それでは!!









アジィザ/ジザ
・女/18歳/163cm/53kg
・本作の語り手兼主人公。
・赤毛に赤い瞳、つり目で犬歯が鋭い。

・理由はわからないが転生し、自分がかつて男だったという認識で生きていた。つまりはTSヒロイン。
・兄弟子を口下手と言っているが、こちらはわかっていて言葉を敢えて略すタイプ。話す言葉の大半色々略しているし、自分で自分を誤魔化し騙すこともやる。
(例:「(皆の)命かかってない状況じゃないってんなら、(今オレが生きてる世界を愛せるような恋を)してみたかったかもしれません」等)
・口が悪いし言葉も荒いが、大体は自分を奮い立たせるために言っている。好き好んで剣を振るいたくはないが、やるからにはやる。
・相棒をクソ雑魚メンタル火吹きトカゲなどと呼んでいるが、これは発破をかけている。コクヨウを妹のように思っており、大切にしている。鱗と目と色が違っていておかしいと唸る黒龍をあやしたり、毎晩一緒に寝ていたり、離れたくない彼女がぐずるせいで普通の人間の街に訪れることができなくとも構わなかったり、コクヨウには甘い。が、コクヨウのにおいが体につき過ぎて、犬猫のようなもふもふした生き物に触れなくなったことには地味に凹んでいた。癒しが足りない。
・先輩=レトとは十一年の付き合いで、最愛の家族。言葉にせずとも大体考えていることはわかるが、自分以外とも交流関係を広げてほしかった。そこまで長く深く共にいても過去のことなどは尋ねていないため、彼に双子の姉がいたことも、その名前がレテであったことも実は知らない。未来を見据えた約束を最後に結んでくれたことに安心した。彼に泣かれるのが何より嫌だった。
・フェイは初の友達。修行と戦いと、兄弟子と黒ドラゴンとのコミュニケーションくらいしかしていなかったため、友達がいなかった。なんとなくお嬢様っぽいなぁと思っていたが、本物のお嬢様であったことにはビックリ。多分この世界で一番かわいい女の子だと真剣に考えている。シャクラとお似合いだと思っている。思っているから猶更、彼女の子どもが背負わなければならない未来を少しでも軽いものにしたかった。
・シャクラは先輩。……なのだが、箱入り息子っぽいからか、妙に天然なところがあるな、とによによ見ていた。初対面ではややキツく当たられていたが、ある日を境に軟化したときは嬉しかった。フェイに一目惚れしたと見抜いているが、フェイの天真爛漫残酷ぶりも知っているので、無言で肩を叩いて応援していた。
・自己評価が低いが、弱いわけではない。最前線で戦えている者に弱い戦士はいないのだが、周りが強すぎた。先輩は自分より強いと当たり前に信じている。
・天性の勘の良さで回避し、身軽さを生かして敵を翻弄するのが主な戦い方。勘の良さはツチグモ龍ビームを察知して、咄嗟に障壁を展開できるくらい。
・特に性別を隠しているつもりはないが、敢えて性別を明らかにはしない。魔族殺せるならどっちでもいいでしょうが、というのが基本スタンス。
・最期に世界を呪った。このまま何事も無ければ、人々の多くが安寧に沈んでしまう未来を知っていたから。

・名前の由来はアラビア語のعَزِيز。「強い」「愛しい」「友」など意味は様々。
尚、同語源から来ている名前にはアジズがあり、こちらは男性の名前。



レト
・男/22歳/178cm/73kg
・後半二話の主人公。
・茶色がかった黒髪と群青の瞳の青年。妹弟子曰く美少女顔だが、まったく生かせない無表情。最終話で瞳の色は紫へ変化。

・年齢一桁のころに家族を失い、シランに選ばれたことでドラゴン乗りとなった。
・それまでは、人見知りで少し引っ込み思案のごく普通の少年だったが、鍛錬で自らを叩いて叩いて叩きまくって、今の強さを手に入れた。妹弟子より絶対に強くあらねばならないという決意でそうした。結果、口下手と無表情がありえないほど悪化した。
・シランのことは信頼している。かつて卵を失った彼女が泣いている自分と、失くした子を重ねて契約したことは知っているが、それでも構わないと受け入れて信頼関係を築いていた。
・ジザに失くした家族を重ねている節はあるが、代わりにしたわけではなく、大切に思っていた。しっかりしている妹弟子だが、たまに変なところが無頓着で割り切り屋なため、割と目が離せないと思っていた。それはそれとして、訓練では絶対に手を抜かなかった。毎度本気で叩きのめす勢いだったが、生き延びてほしいという気持ちの裏返しである。少女には、この世の誰よりも幸せになってほしいと望んでいた。
・フェイのことは最初ちょっとおっかなかった。いつもにこにこしていて何を考えているかわからないため。しかしジザの貴重な同性の友人だし、と見守る体勢を取っていたら、いつの間にやら自分がいじられるようにもなっていた。解せぬ。
・シャクラとは友人。当初、妙にジザに突っかかって来る彼に、うちの妹弟子に何か用なのかと結構頑張って直接問い詰めたら、まず少女であったことに驚かれた。なんだかよくわらないが、以後彼がジザともまともに接するようになったので、そのまま友人になった。
・残された赤い剣を携えて、今後戦いを続ける。たった一つの約束を、本当にするために。剣自体は、色が変わっただけで性能などは変わりがない……はずなのだが、時々刃紋をじっと見て考え事をする癖がついた。
・何気に、人間四人の中では一番歳上。

・名前の由来は、ギリシャ神話の忘却の川の精レテ……の名前を男のようにした形。



フェイ
・女/19歳/151cm/45kg
・淡い金色の髪と、同色の瞳の美少女。

・【魔力持ち】の少女。能力は高く、戦闘では主に念話で位置把握や連携、指揮系統を担当していた。が、戦えない訳ではなく風を操った斬撃が得意。フィジカルは弱めなので、エラワーンによく相乗りしていた。
・実家は良いところで、礼儀作法完璧に叩き込まれた正真正銘のお嬢様。ただし、絶望的に両親含む生家と折り合いが悪かった上、【魔力持ち】として立派な跡継ぎを産めと言われ、ついに堪忍袋の緒が切れて飛び出した。使わない魔力に何の意味がある。魔族を倒してこの世を守るためじゃないの、という怒りが原動力。
・ジザは初めての友達。初見で女の子と見抜いて、あれこれちょっかいをかけているうちに仲良くなった。あからさまに天然が入った兄弟子とのやり取りが、見ていて心温まるものだったので絆された。
・レトはジザ繋がりで存在を認識した。妹弟子を大事にしているのはわかるが、日常生活のやり取りでちょっと頼り過ぎてるんじゃないのとは思っている。
・シャクラは最初つまらなさそうな人としか思っていなかった。が、よく見ると天然だったり友達が少ないことを気にしていたりと、見た目より面白そうな人へと印象が変わった。強いと知っているので、戦闘面では信頼している。
・よくふよふよ浮いているが、これは周りの三人より小さい身長が悔しいから。目線を合わせたくてやっていた。

・名前の由来は、妖精を意味する英語、fay。


シャクラ
・男/21歳/177cm/74kg
・黒い髪に白銀の瞳の長身の青年。

・一家打ち揃ってのドラゴン乗りという名家出身。兄と弟がおり、二人とも健在。エラワーンは、戦死した父の龍だった。
・正論を言いすぎて嫌われがち。血筋の威光も相まって友人がいない。気にしていないふうを装っていたが、割と気にしていた。
・実は最初、ジザを少女と見抜けていなかった。そのため、一目ぼれしたフェイと距離が近いジザにややきつく接したが、レトにうちの妹弟子に何の用なのかと無表情で問い詰めれられて驚愕。勘違いした申し訳なさも相まって、ジザの訓練を見るなどしているうちに四人で絆が深まっていった。
・フェイには一目ぼれしているのだが、性格がド真面目過ぎて口説くという方向に思考が向かない。そもそも戦いの最中であるから、そっち方面を向く余裕がない。想いを知っているジザには微妙な顔をされていた。レトは気づいていなかった。
・レトとは友人。友人だが、同時にライバルでもあると思っているので張り合ってもいたが、相手が天然入っているので振り回されがち。才能だけで言うならばレトよりある。
・ツチグモと戦い片腕を失ったが魔力で動く義手を使い、ドラゴン乗りとしての戦いを続ける。失って初めて、四人で過ごしていた時間の大切さが身に染みた。

・名前の由来は、ヒンズー教の神インドラの別名から。英雄の父にもなった神。


コクヨウ
・赤い目と黒い鱗の雌ドラゴン。
・契約者:ジザ→レト
・卵のころに人間に盗まれた、史上初のドラゴン。名付けたのはジザ。
・契約を結び戦うための戦士ではなく、自分を守ってくれる母や姉のような存在を無意識に求めた結果、ジザを乗り手に選んだ。11歳とまだ幼く、成長途中。ジザによく甘えていた。
・ジザが消えた後、レトと契約を結ぶ。自分の姉を取ってしまいそうなレトのことが元々好きではなかったが、言葉に張り飛ばされて戦意を取り戻した。
 
・名前の由来は、黒曜石。オブシディアンは、自分の光と影を見つめるという。


シラン
・群青の瞳と鱗の雌ドラゴン。推定二百歳以上。
・契約者:レト
・かつて卵を失ったことがあり、家族を失って呆然としているレトと亡くした子が重なり、契約した。
・ドラゴンにあるまじき人間に頼りがちなコクヨウのことも見守っていたし、彼女と向き合うジザのことも認めていた。
・ジザに頼まれ、結界の起爆剤となるために死んでくれという願いを受け入れた。
 
・名前の由来は、紫蘭の花。花言葉は「あなたを忘れない」


エラワーン
・白銀の瞳と鱗の雄ドラゴン。推定三百から四百歳。
・契約者:シャクラ
・シャクラの家と代々契約しているドラゴン。魔族との戦争初期から戦っている猛者で、それゆえに厳しい面がある。
・コクヨウのことは仕方のない小娘と思っており、乗り手を失っても立ち上がれるかは本人次第なのだと静観していた。
・片腕を失っても、さらさら戦意が衰えたりしないシャクラとの契約は続ける。
 
・名前の由来は、インドラ神の乗り物である白い象。


レグルス
・男/102歳/188cm/80kg
・灰色の髪と濃い金色の瞳の男。眼光鋭い。
 
・ドラゴン乗りたちの長。
・大規模結界作戦の実行の責任者。立案者は別なのだが、確実に成功させるための作戦を立てたのは彼である。
・黄金の龍にして始まりの龍、ナーガバラタの三代目の契約者。前任者二人はどちらも戦死しているが、最も長く戦い続けている文字通りの最強。
・魔力容量等の適性が最も高いジザを第二案作戦の要に選んだ。作戦を直接言い渡すそのときに、初めて彼女と出会った。
・懸念は相方のドラゴンが幼過ぎて魔力が足りないことだったが、シランと共にやるとジザに言われ、通常乗り手以外の人間を認めないドラゴンの背に乗ることを許されたジザに、かなり驚愕はしていた。
・最後の最後でジザによって世界にとんでもない思念映像が流され、レトから【混沌】の話を聞かされる。知識の出どころなど不明な点はあれど、魔族の特性に関する仮説が成り立つ話だったため、頭ごなしに否定はしなかった。だが裏付けは必要と考え、精鋭による初の北大陸調査団を結成することになる。
 
・名前の由来は、古代ローマの将軍レグルス。一説によると、敵によって瞼を切り取られ、命続く限り瞳を閉じられなくなった英雄。

リュイロン
・男/95歳/190cm/88kg
・黒い髪と緑の瞳の大男。豪放磊落といった外見。

・ドラゴン乗りたちの長の直属【四翼将】の一人。契約龍は本編未登場だが、緑の鱗を持つドラゴンである。
・豪放磊落な見た目だが冷徹な面もあり、ジザに最初直接作戦を言い伝えたのは彼。まだ若いというより幼さが残る少女にすべてを預けるような作戦に思うところがないではなかったが、他に適性を満たす者がいないのも事実だと割り切っていた。
・レグルスとは長い付き合いであり、親友のような間柄。
 
・名前の由来は、緑の龍……の中国語。


メイファ
・女/17歳/160cm/50kg
・黒い癖っ毛と黒い瞳の少女。
 
・【魔力持ち】であり、船長を任されている【海のいとし子】。得意なのは水流を操ることで、船の操縦にも使っている。
・空から自分たちを見下ろし、船を操るだけしか能がないと見下すドラゴン乗りがいけ好かなかったが、初見で自分のことを【いとし子】だと見破ったジザを正しい知識がある人間だと認めた。
・ジザが少女であることには、初め気づいていなかった。結晶から跳び下りる直前にこちらを見て微笑んだ顔を見て少女ではないかと思い、その勘が当たっていたことを船を降りる際に兄弟子から聞かされた。
・同じ【魔力持ち】のフェイや、ドラゴン乗りのジザと、もし出会う形が違っていたら友人になれただろうかと思いながら、船を操り生きていく。
 
・名前の由来は、梅の花……の中国語。花言葉に「約束を守る」がある。


食堂のおっさん
・龍舎に毎晩泊まり込んでいる若いドラゴン乗り二人に、時々おまけで大盛りにしてくれていた人。
・ジザは彼から【海のいとし子】のことを聞いていた。
・もう二度と赤毛のチビが帰らないことを、兄弟子の青年に知らされ、腕によりをかけた夕飯を青年に無言で振る舞って帰らせたあと、一人で泣いた。


ツチグモ
・男/??歳/192cm/90kg
・黒い髪、目全体が黒く染まり、瞳があるはずの部分には橙の光がある異形の貌。

・史上初めて現れた、言葉を話す魔族。刀と呼ぶ武器を使う、近接戦闘の怪物。
・鈍色の龍を駆り、ドラゴン乗りの多くを屠り去った。
・ジザ、レト、シャクラの三人と交戦し、シャクラの片腕を斬り落としてレトにも深手を負わせたが、思念映像に混乱した隙を突かれてレトに片腕を落とされた。
・群青の瞳の剣士に再戦を誓ったが、当のレトからは相手にされていない。瞳の色が変わったことも無論知らない。
・かつては人間だった。今はただ、それしかわからない。

・名前の由来は、まつろわぬ民の土蜘蛛。


以上となります。
質問などありましたら、ハーメルン様のメッセかTwitterのDM、マシュマロなどでどうぞ。

では、またどこかでお会いしましょう。


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番外話『はじめましてのあの日のこと(上)』

完結はしましたが、番外編です。

最終話のあとがきで触れた、彼らの出会いの日のことです。


 

 彼らは川底の泥と、くすんだ炎の色をしていた。

 

 それが多分、すべての始まりだったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「へぇ、おっさんって海辺に住んでたんですねぇ」

「おう、良いとこだぞ。飯はうめぇし、美人も多いしな」

「ほー、じゃおっさんがたまに話してる娘さんってのも、美人なんでしょうねぇ」

「おうともさ!」

 

 珍しい、と思った。

 魔族との最前線にある野営地の食堂で、料理人の男と談笑し、けたけたと声を上げているのは、とあるドラゴン乗りだったのだ。

 鮮やかな赤色の短い髪と瞳をしているが、その契約龍が赤龍でない黒龍であることを少女は知っていた。瞳の色と鱗の色が異なるドラゴンは、あまり見られないから、ある意味では目立つ乗り手である。

 それにしても、こうも屈託なく話すとは珍しい、と少女、フェイは目の前の光景に首を傾げた。

 あの赤毛のドラゴン乗りは幾度か戦場で見かけたことがあるが、随分張りつめた、こわい顔をしていたように思うのだ。

 確か、隣にいたのは群青の瞳をしたドラゴン乗りだったはずだが、その姿は見えなかった。

 だけれど別に気にするようなことでもなく、フェイは赤毛のドラゴン乗りに近づいた。

 腕に白い包帯を巻き、木の匙を持ったままの赤毛の少年、否、少女は、フェイの気配に気づいたのか顔を上げる。

 

「初めまして、わたしはフェイ。あなたと、あなたの先輩と次の任務に行くように言われた【魔力持ち】よ」

 

 よろしくね、とにっこりと笑みを貼りつけたフェイに、少女はぽかんと口を小さく開けて固まったのだった。

 今でもわからないことがある。

 何故あの子は、出会ったそのときに、あれほど驚いた顔をしたのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

「お前がフェイか」

 

 龍舎の中、群青のドラゴンが眠る房の前で開口一番そう宣ったのは、抜身の剣のような鋭い雰囲気の青年だった。

 茶色なんだか黒色なんだかあまりはっきりしない髪を後ろで一つに束ねているが、如何にも適当にやりましたというふうにはねている。

 瞳は濃い青色で美しいが、光がないというか全体暗い。

 顔のつくりがなまじ綺麗なだけに大層近寄りがたい青年だった。

 といって、それでフェイが態度を変えることもない。

 こんにちは、と微笑みを貼り付けて答えようとしたとき、青年の頭にぽすんと巻物がぶつけられた。

 

「せ、ん、ぱ、い!いきなり怖いです!なんですかその威圧感は!はじめましてとかなんとか、愛想の一つも言いようがあるでしょ!」

「……ジザ」

 

 龍舎までフェイを案内して、少し物を取ってくると言って席を外した赤毛のドラゴン乗りは、いつの間にか青年の背後に回り、呆れかえったと言わんばかりの顔でそこに立っていた。

 手には、地図らしい巻物を持っている。それで、先輩と呼んだ青年の後頭部を引っ叩いたらしい。

 

「えっと……二度目ですよね。フェイさん。こんばんは、オレはジザ。こっちが先輩のレトです。先輩、前の任務で気が立っちゃってて、ちょっと刺々しいのは勘弁したげて下さい」

 

 ジザが笑えば、にこ、と尖った白い犬歯が見えた。手のひらから二の腕にかけて包帯が巻かれているのに、弾けるような溌剌さである。

 なので尚更、隣の青年の静けさと鋭さが際立ってしまっていた。

 青年が断固とした雰囲気をまとって、口を開いた。

 

「俺は刺々しくなってない」

「ンなワケないでしょうが。いつもなら自分の名前くらいは名乗ってるのに。女の子怖がらせてどうするんです」

「……」

 

 すると何か、この青年の挨拶はあれで終わりで、いつもは申し訳程度に自分の名前がつくだけ、なのだろうか。

 なんだろう、それ。

 青年は先輩なんて呼ばれてるのに、てんで先輩らしくないし、少女は後輩のはずなのに全然後輩らしくなかった。

 それでも、付き合いは長いのか二人の間の空気は自然で、肩肘張っているような何かは、なかった。

 それが、漠然と羨ましい。

 だがともかく、怖がっていると思われるのは我慢ができず、フェイは二人を見上げた。

 改めて見ると、二人ともこちらより少し、いや結構背が高いことに気がついた。剣を振るう戦士だからか、彼らは揃って姿勢が良く、さらに背が伸びて見える。

 ふわり、とフェイは魔力で浮き上がった。

 

「改めて初めまして。あなたたちと組むことになったから、よろしくね。わたしはフェイ。【魔力持ち】よ。アジィザさん、女の子同士、仲良くしてね」

 

 ん、とジザがフェイの方を見て首を少し倒した。

 

「うん、よろしく。あ、だけど先輩とも仲良くするの、よろしくお願いします。悪い人じゃないんですけど、ちょっと……」

「ちょっと、なんなのかしら」

「無愛想で」

 

 ぴし、と青年の額に青筋が立つ音が聞こえた気がした。

 当然、フェイはそちらを見なかった。だって、そのほうがおもしろそうだったから。

 

「敬語、いらないわよ。わたし多分、あなたと同じ歳くらいだし、わたしたちに上とか下とか、あまり関係ないでしょう?ね、ジザにレト」

「そっか。……うん、わかった。よろしくな、フェイ」

「……よろしく頼む。レトだ」

 

 それが、【魔術師】フェイが、【蒼】のレトと【黒】のジザと出会った最初の日のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フェイが実の親から与えられた、本来名乗るべき名は、フェイスフルネア・フェイリータという。

 だけど、ここに来てから一度たりともその名を名乗ったことはない。

 名字にも名前にもフェイと入っているのだから、フェイと名乗るだけで十分なはずだと、略称しか名乗ったことはない。

 名字を持てるのは、故郷では上流階級の証だった。

 魔族が現れ、ドラゴン乗りが登場してからこちら、威厳も特権も瓦解しかけの古い名家がフェイの生家である。

 かつては貴族であったらしいが、貴族の存在自体、魔族が攻め寄せてきたときに、何ら有効な手が打てなかったために廃れ、今はただ残骸のように残るだけだ。

 国の盾となるために特権を与えられた貴族のはずが、魔族が来た際にまったく太刀打ちできず、平民や他国民の混成であるドラゴン乗りたちに助けられ、守られたのである。

 権威は形無しになり、宗教も諸共大きく後退した。

 それが大体数百年前のことである。

 王侯貴族が魔族にまったく敵わないという姿を晒して以来、彼ら貴顕の者たちに対して平民が抱いていた畏敬の念や、宗教に対して捧げていた祈りは、ほぼすべてドラゴンへと向けられている。

 ドラゴン乗りは、巫者であり戦士であり、人間の中での例外種扱いなのだ。

 

 だから、この世界のかつての貴族のほとんどは仰々しい家名のみ残った存在となった。

 力ある名家といえば、今や代々ドラゴン乗りを排出しているような、ごく一握りの規格外な一族程度なものだ。

 

 そんな崩れかけの名門に生まれ、先祖からの価値観を継いだとはいえ、父も母も何も名と富に拘泥するような悪人ではない。

 むしろ、その逆。

 我が子に幸せな結婚をして、穏やかに暮らしてほしいと切に願う人たちである。

 名家であったという誇りこそあれ、家を立て直すための道具として我が子を使おうとは思わない小市民なあたたかみをきちんと兼ね備えた両親だ。

 切に願い過ぎて、類まれな魔力を持って生まれた娘に一刻も早い婚姻を、と焦ってしまう程度には普通の人々である。

 魔族との戦いなどはドラゴン乗りたちに任せておけば良い、お前はただ幸せに暮らしておくれ、と言う普通の人たちなのだ。

 その良い両親の心づくしで持って来られた縁談相手のすべてに、フェイはではわたしより強い者となってください、と言った。

 結果、ものの見事に尻をまくって逃げ帰るか、或いはフェイが操った風によって物理的に館から叩き出されて終わった。

 どの殿方も骨が無さ過ぎです、と朗らかに言ってのけた長女に、心底途方に暮れた顔を晒した二親の顔は、今でもありありと思い出せる。

 

 彼らは、悪人ではない。

 自分の子どもだからと、それだけの理由で惜しみなく愛してくれている。理解し難い価値観を持ってしまった、色彩の異なる娘であっても。

 だが同時に、自分たちの生活のすべてを他人に預けて、何事もないように口元を拭って営んでいく生活に、何の疑いも持たない人たちなのだ。

 持てない、人たちなのだ。

 家族では、母親のみが【魔力持ち】だった。

 両親のうち、どちらか一方だけでも【魔力持ち】だったならば、生まれた子が【魔力持ち】になる可能性はある。だけど、あまり高い確率でもないのだ。

 他所から嫁いで来た、平均以下のような脆弱な魔力しか持たない人の腹から産まれたのに、何故かフェイは、妹共々尋常でない量の魔力を持っていた。

 

 何もしないのは、嫌だった。

 持って生まれた強い魔力と、それを自在に操るだけの才能。何よりも、自分には魔力でもって生き物を傷つけることに、躊躇いというものを覚えることがなかった。

 一通りの道徳倫理をしっかりと礼儀作法と共に叩き込まれていたから、おかしいのは世界でなく、自分の感性だということに気づけた。

 魔力を行使することに、人の身を超えた力を使うことに、もっと戸惑ったりすべきなのだ。きっと、自分のような『普通の女の子』になることを望まれていた自分は。

 ドラゴンから、戦士になれると選ばれ、彼らと心で繋がったドラゴン乗りではないのだから。

 

 だけど、フェイは結局、家族が望むような姿にはなれなかった。

 あなたたちは卑怯だと、わたしはそんなふうになりたくないのだと親に言い放って、飛び出してしまったのだ。

 望まれた未来になれなかったから、自分にできることを探してこんなところにまで辿り着き、辿り着いた先で出会ったのが、あの二人組だった。

 【蒼】のレトと、【黒】のジザ。

 若いながら優秀な戦士と言われ、彼らの補助をするようにと命令されて出会ったのだけれど、彼らはなんとも、でこぼこな二人組に見えた。

 よく喋る少女と寡黙な青年で、聞けばレトはジザの師匠だという。

 兄弟子で師匠なのだと名乗る割に、レトは口下手なところをしょっちゅうジザに補ってもらっていて、しかもそれを嬉しそうに受け入れているのだから、おかしくって堪らなかった。

 もちろん、レトは嬉しいとは言っていない。ただ、ジザに対しての感情だけは、割とわかりやすいのだ。

 逆に、戦うとなると。

 

「ジザ、旋回!」

「はいっ!」

 

 他の龍と比べれば、華奢にすら見える黒い龍の背にしがみついたジザが指示に従い、旋回して屍竜の背後に回る。

 口を開けたジザのドラゴン、コクヨウが屍竜の首根っこを噛み千切る。

 汚く吠えた屍竜の翼を、フェイは風を操って斬り落とした。

 

「フェイ、魔力大丈夫か?」

「ええ。疲れていないわ。ジザは?」

「オレも平気」

 

 三人と二頭が回される場所は、主に東の沿岸部。

 定期的にそこを飛び、魔族を見つければ撃退するだけの任務だ。

 だけ、とは言っても、何が来るかはわからない。屍竜五十体が来たかと思えば、毒霧クジラがいきなり水面を割って飛び出して来ることもある。

 有翼骸骨の鉈を躱せたかと思えば、巨大カラスの嘴に襲われるのだ。

 今日も何とか、屍竜をすべて殺して、上陸を阻むことができたが、レトもジザもフェイも、疲労は拭えなかった。

 やや速度を落として飛ぶコクヨウの背に乗り、ジザの腰に手を回して二人乗りをしながら、フェイは口を開いた。 

 

「毎日毎日化物ばかりね、ここは」

「この世界はそんなもんだろ。まー、オレはよく知らないことが多いから、エラそうなこと語れないけどさ」

「知らないの?」

「まぁなぁ。こいつがさ、オレが人間の街に行こうとしたらぐずるんだ。離れてほしくないんだって」

 

 しょうがない甘えん坊だよなぁ、と自身のドラゴンを指してケラケラ笑う赤い髪の少女は、まるっきり少年だった。

 少女ということを隠しているのでも、肩ひじ張っているのでもなんでもなく、ごく自然なのだ。

 生まれたときからそうだったように、ジザには在り方を繕っている雰囲気がまるでなかった。

 

「んー、でもさ、フェイ。コクヨウに乗ってて大丈夫か?こいつ体が軽いからさ、すごい揺れるだろ。オレは体頑丈だけどさ、フェイは平気か?先輩のシランのほうがいいんじゃないか?」

「えぇ?無理よ。わたし、あなたみたいな翻訳機能ついてないから」

「誰が翻訳機能だ」

 

 群青の龍に乗った青年が、不機嫌そうに漏らす。しっかり聞こえていたらしい。

  

「だが、ジザの言うことも正解だと思う」

「……すみません」

「お前のせいではない」

 

 色々と省かれているこのドラゴン乗りたちの会話を読み解くに、彼らはどうやら、ジザの騎乗しているドラゴンの体が小さく、その分激しく動き、飛び回らなければならないことについて語っていたらしい。わかりにくい。

 確かにそうかもしれないが、何もジザのせいではないだろう。ジザが契約した黒龍は、卵から産まれてまだ二十年も経っていないのだ。

 一応、ドラゴンは三年も経てば戦いに耐えられるだけの大きさには成長できるが、彼らは長く生きた個体ほど体が大きくなるのだ。

 逆に言えば、若い個体は体が小さく、どうしたって非力になる。

 レトの契約龍のシランは、雌だ。雄の龍より体が小さい。

 それ故に、どうしたものだろうかと、ドラゴン乗りの二人は頭を捻っていたのだ。

 

「そうねぇ。まぁ、ドラゴン乗りは貴重な人材だから、そうそう補充なんてないだろうけれど」

「だよなァ。じゃあフェイ、酔い止めの魔術でもかけるか」

 

 そんな都合のいいのはないわよ、と適当なことを言うジザの頬を、フェイは指でつんつんと突いて窘めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 と、その会話が何かの予兆だったのだろうか。

 

「よろしくお願いします。私はシャクラと申します。あちらがドラゴン、エラワーンです」

 

 堅苦しいというか、生真面目が服を着て歩いているような青年、シャクラがやって来たのは、それから数日後のことだった。

 シャクラが挨拶をしたそのときは丁度、三人が食事をしていたところだった。

 より正確に言えば、香辛料が効いた野菜と肉の煮込みをジザとレトが頬張り、フェイがジザの口元についた肉汁を拭いたところだったのだ。

 毎回そんな世話を焼いているのでは無論なく、たまたまそうなっていただけなのだが、それを見たシャクラは盛大に固まっていた。

 言葉遣いといい、立ち居振る舞いといい、明らかに格式がある『良い家』の出であるから、こういうふうに気さくな感じになれていないのだろうと、フェイは特に何とも受け止めなかった。

 というか、シャクラはなんとなく、家に訪れた『求婚者』に似たところがあって、仲間として戦うのは構わなくても、それ以上踏み込む気になれなかったのだ。

 なのだが。

 

「フェイはさ、シャクラさんのこと苦手か?」

「苦手じゃないわよ」

 

 四人と三頭になったあとの戦場。

 山積みにされ、燃やされる魔族の焚火の隣で、ジザが尋ねてきたのはそんなことだった。

 

「苦手じゃないけれど、どうしてそんなことを聞くの?」

「んー、いや、なんか、オレたちのときみたいに接してないんじゃないかって思ったからさ」

 

 それはつまり、ジザの頬を指で突いたり、浮き上がって背中に抱き着いたりといったあれのことだろうか、とフェイは首を傾げた。

 だってそれは、ジザが同じ女の子だからだ。レトにはしていない。

 だからつい、妹にしていたのと同じように触れてしまうのだし、触れるならやわらかい頬のほうがいいのは当たり前だろう。

 時々こう、ジザは何かを踏み違えたようなことを言う。

 レトもそれには気づいているらしく、だから妹弟子を何かと気にかけている。

 この前などいきなり礼を言われて、貴重な甘い菓子を渡された。

 多分、妹弟子と友人になってくれてありがとう、と伝えたかったのだ。全部を言葉にしなさいという話だ。

 小さいころからドラゴンと心が繋がり、修行と戦いに明け暮れていたために、この兄妹弟子たちはどこか不思議な頼りなさを持ってしまったのだろう。

 だけれど、彼らにそういうことは言いたくなかった。

 

「別に、苦手じゃないわよ。だけどあの人、なんというか、つまらないっていうか、真面目過ぎてからかっても面白くなさそうなのだもの」

「ふーん。……って、ちょっと待て。ならオレたちって、フェイにしたらからかうと面白い枠なのか?」

「そうよ。特にレトが面白いわね。あなたはそうね、微妙」

「び、微妙……」

 

 むむ、と頭を抱えるジザの頭を、フェイが浮いたままよしよしと撫でたときだ。

 

「何をしているのですか、ジザ。早くフェイを乗せて陣に戻らなければならないでしょう」

「あ、はーい。すんません!」

 

 腕組みをして、眉をひそめているシャクラの声に、ジザは即答えて、コクヨウの方へ走って行った。

 黒いドラゴンは戦闘で目に攻撃を受け、少し休んでいたのだ。

 その様子を見るシャクラの横顔を、フェイはじっと見つめた。

 

「なんでしょうか」

「いいえ、何でもないわ」

 

 それからもう一つ、フェイがシャクラに必要以上に近寄らない理由がこれだ。

 少し、そう、ほんの少しだけだが、シャクラはジザに対してだけ、棘があるのだ。

 特に理由なんてないはずなのに、こういうのを虫が好かないとでも言うのだろうか。

 ともかく、そういう青年にはよそ行きの微笑みしか向けるものがなかった。

 にっこり微笑んでから、ふと視線を感じてそちらに目を向ければ、焚火の向こうでレトがじっとこちらを見ている。

 ふむ、とでも言いたげに一つ頷いて、虚無に繋がっていそうな群青の瞳の青年は、そのまますたすたとシランの方へと歩いて行ってしまう。

 相変わらず、わかりにくい兄弟子だった。

 

 ……と、そう思った日から、二日後の夕方のことだ。

 フェイはそのとき、龍舎を訪れていた。

 普段なら近寄ったりしないのだが、昼に起きた戦いでジザが負傷し、病舎のほうへ泊まることになった。

 コクヨウがぐずるとジザは病室に泊まりたがらなかった。が、額がぱっくり割れて顔が真っ赤になるほどの怪我だったのだから、大事を取るのは当然だと、レトが襟首掴んで病室に放り込んだのだ。

 怪我をした理由は、フェイを庇ったから。庇ったために、化物烏の嘴が額を掠めたのだ。

 だからフェイは、コクヨウがいる龍舎へと赴いていた。

 敷居に立って、暗がりを覗き込んだときだ。

 ひそめられた声が二人分、建物の陰から聞こえる。気配を殺し、耳を澄ませてみればそれは、レトとシャクラの声だった。

 

「今、なんと仰いました?」

「だから、俺の妹弟子に何か文句があるのかと尋ねただけだ」

「妹……弟子」

「妹弟子は妹弟子だ。他に誰がいる」

 

 そろそろと、頭だけを出して覗き、視力を強化する。

 龍舎の陰で睨み合っているのはレトとシャクラであり、レトが珍しく長く喋っているようだった。

 それにどういうことだろう。シャクラがやけに慌てている。思いもかけないことを言われたように。

 

 だけどそれは、フェイには関心がないことだった。

 ジザが気にしていたのは、コクヨウの調子だ。

 多分一晩くらいは大丈夫だろうけれど、様子だけでいいから見て教えてくれないかと頼まれたのだ。

 ごそごそと話している青年二人をさっさと置いて、フェイはコクヨウの様子だけを見て、帰った。

 向かった先は、もちろん病室だった。

 

「コクヨウ、平気そうにしてたか?」

「ええ。中には入れなかったけれど、気配は落ちついていたわ。あなたが毎日泊まる必要、ないんじゃないかしら」

「いやぁ、今日もな、一日だけだからって言い聞かせてようやくだから多分ムリ」

 

 寝台に半身を起こしているジザの額には、包帯が幾重にも巻かれていた。褐色の肌に、白い包帯は殊更に目立った。

 頭に派手な怪我をこしらえたため、明日のジザは飛ぶのを禁止されているのだ。

 きゅ、とフェイは膝の上で手を握りしめる。

 

「謝るのはもういいからな、フェイ。次あったら、今度はオレを助けてくれよ。それでチャラだから」

「……先回りはやめてちょうだい」

「そんなつもりはねぇよ。ってそうだ、先輩とシャクラさんが話してたって言ってたじゃんか。あの人たち、何話してたんだ?」

「さぁ。あまり聞いていないからわからないわ。盗み聞きは、礼儀に反しているでしょう」

「うぇえ、正論」

 

 お嬢様みたいだと肩をすくめるジザに、フェイがころころ笑ったときだ。

 寝台の周りを囲っている薄布が、細く開かれる。ひっそりと立っているのは、シャクラとレトだった。

 

「あれ、どうしたんですか二人とも。っていうか先輩、何してるんですか。医者の人が呼んでましたよ」

「……後で行く。ジザ、シャクラがお前に話があるそうだ」

 

 はぁ、とジザはやる気なさげな返事を返し、シャクラの方を見る。

 視線が交わった瞬間、シャクラはいきなり頭をがばりと下げた。

 突然の奇行に、フェイは固まる。ジザも固まった。

 

「えっと……シャクラさん?あの、オレが何か?」

「いえ!貴女は何も!私の過ちを思い知り、謝罪しに来ました!」

 

 ちょっとこれどういうことかしら、とフェイはこっそりと浮き上がり、レトの服の袖を引いた。

 申し訳ありませんでした!と潔く叫ぶシャクラと、目を白黒させているジザを見て、訳知り顔で頷いているレトには単純に少々腹が立った。一人で納得するなと。

 そもそもここは、女子病室だろうに。

 今日はたまたま、病床はジザが使っているもの以外、空っぽだが。

 

「レト、一体あなた、シャクラに何をしたの?」

「人聞きが悪い。俺はただ、妹弟子に何か文句があるのかと尋ねただけだ。あいつ、ジザを睨んでいただろう」

 

 あなたそういう些細な視線に気づけたの、と割と失礼なことが、フェイの胸を掠める。

 レトはそのまま続けた。

 

「シャクラは驚いていて、ジザに謝りたいというから連れて来たんだ」

「謝りたいというのは良いと思うけれど、ここ、女子病室よ。しかも夜に」

「……」

「……忘れていたのね」

 

 さっ、と視線を逸らすレトの足を踏んでやろうかとフェイは思った。

 そんなことをしている間に、シャクラの謝罪は終わったらしい。

 ジザは何事か納得したような顔で、ぽんぽんとシャクラの肩を叩いていた。

 

「わかりました。シャクラさんの気持ちはわかりましたから、何て言うかその……頑張ってください」

「……はい」

 

 やけにしょぼくれたように見えるシャクラを見て、つい、フェイは小さく吹き出してしまった。

 そっちの顔のほうが、いつもの礼儀正しそうな顔よりずっと良く見えたのだ。

 

「どうしたの、シャクラ。あなた、ジザのこと嫌いだったのかと思っていたわ」

「き、嫌いなのではありません!」

「あら、そうなの?なら、どういうこと?どうして謝ったの?」

「それはあれだよ。オレのこと男だって間違えてて、申し訳なくなったんだってさ」

 

 手をぱたぱたと振って、ジザはそう言った。

 ふうん、とフェイは首をちょっと横に傾げる。何か、隠し事をしているようだった。

 

「だ、だからさ、もう謝ってくれなくていいから、フェイは明日はシャクラさんのエラワーンに乗ったらどうかって言ったんだ」

「それ、引き換えになっているの?」

「なってんの!はい、この話もうお終い!だからフェイはシャクラさんと明日のこと話して来いよ!オレはもう寝る!」

 

 完全に何かを誤魔化しながら、ジザは頭から毛布を被って丸まってしまう。

 ぺしぺしと叩いてみても、もうジザに出てくるつもりはないらしかった。

 

「毛布虫になったジザは、出て来ない。お前たち、ジザの言う通りにしたらどうだ?」

「虫じゃないですよ失礼な!」

「……いちいち騒ぐな、傷に響く」

 

 ぺっしん、と喚いた毛布の塊を手で叩き、レトは寝台の隣の椅子に座る。自分はしばらくここにいる、と言わんばかりに、手をひらひら振られた。

 ならば確かに、フェイがここにいてもできることはもうないだろう。

 エラワーンのことをシャクラから聞かねばならないというのも、道理だった。

 病室を出るときに振り返れば、レトが毛布から、そろそろと顔だけ出したジザの額を、静かに撫でていた。くすぐったそうにジザが首を縮め、凍りついたようだったレトの表情が緩むのが見えた。

 彼らの間に流れている何かが、そのときフェイの足を止めさせた。

 

 今、自分の目に見えている光景なのに、言い表せる名前がつけられない。

 彼ら一対は、近いのに遠いところにいるようだった。

 

「フェイ?」

「なんでもないわ。行きましょう、シャクラ」

 

 それだけを返して、フェイは病室を出た。

 その日から確かにシャクラは、ジザに対して妙に強張った感じで接することは、なくなったのだ。

 からかうと面白くなって、しかも友達が少ないことを気にしている、なんて一面までわかった。

 コクヨウでなくエラワーンに乗るようになり、確かにより広く、落ち着いて戦場を眺めることもできるようになった。

 何せ、エラワーンはコクヨウより揺れが少ない巨体だったから。

 

 だけれど、どうしてあの一日で変わったのか、あのときシャクラと何を話したのかと聞いてみても、ジザが教えてくれることはなかった。

 いつもあれこれと話を逸らして、困ったように笑うだけだったのだ。

 そんな顔をされてしまえば、フェイにはもう尋ねることはできなかった。

 

 今は無理だけどいつか教えるから、というジザの言葉を信じていたのに。

 もう永遠に、わからないままになってしまったのだ。

 旅立つ日に、そんな少しだけ昔のことを思い出した。

 最後まで何を考えているのかよくわからなかったあの子の兄弟子は、一足先に旅立っていった。

 薄情というより、彼らしいと思う。色々と心配なのは事実だけれど、また会おうという約束があるならば、きっと大丈夫だと思う。

 

「フェイ、どうかしましたか?」

「いいえ、何でもないわ……なんでもないの」

 

 最前線の東部野営地から、大陸中央へと向かう白銀龍の背の上。

 髪を弄ぶ風を感じながら、フェイは金色の膜を仰ぎ見て、それから、目の前にある広い背中に額を預けた。

 

「ふ、フェイ!?どうしたのですか!?やはりまだ、あそこにいたほうが……」

「いいえ、大丈夫。……ごめんなさい。少しだけ、こうさせて」

 

 もしも、と思うのだ。

 もしも、また会うことができたなら、そのとき教えてくれるだろうか。

 わたしの友達は、答えを教えてくれるだろうかと夢を見る。

 そうだといいと願いながら、そっと、フェイは金色の瞳を閉じて小さく吐息を漏らしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 




もしも、みんなで歳を重ねることができたなら、そんなときもあったなって、きみに笑いながら教えてあげたかった日。





というわけで、番外編(上)でした。(下)は追々。

尚、現在連載中の本作の続編『セカイの呪いを解くために。』はこちらの話も下敷きにしています。



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番外話『はじめましてのあの日のこと(下)』

感想、評価、誤字報告下さった方々、ありがとうございました。

では。


 思い出せば、今でも顔から火が出るように思う。

 見誤りにもほどがあるというか、ひたすらに格好がつかなかったと言おうか。

 それでも言い訳をさせてもらえるならば、自分も若かったのだ。

 誰も彼もが、若かった。

 そういう時代の、話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 父が死んだとき、自分は涙を流さなかった。

 悲しくはあった。痛みもあった。

 それでもそれは、身を振り絞るほどに泣くものではなかった。

 兄は既にドラゴンと契約して戦っており、自分は父の龍を受け継いで戦うことが決められていた。

 先祖代々そうして生きて来た。

 強い力を持つもの、ドラゴンに認められたのならば、その責務を果たさなければならない。

 人々の盾となって、護らなければならない。

 血脈ではなく、その気概を受け継いできたからこそ、この家は白銀龍と代々契約して来たのだから。

 

 母は背を押して見送ってくれた。

 だけど、弟は。

 十歳下の弟は、違っていた。

 兄さん、と泣きそうな顔で───いや、本当は泣いていたのだ───問うて来たのだ。

 大丈夫なのですか、と。

 無論だ、と自分は返し、家を出た。左の肩に刻まれた、龍の痣がやけに熱を持って疼く、そんな夏の朝だったことを覚えている。

 何が不思議というならば、見た目も性格も欠片も似ていないはずの男を見て、あのときの弟を思い出したことだ。

 

「どうした?」

「……なんでもありません」

 

 【蒼】と呼ばれるドラゴン乗り、レト。

 常に無表情で無口で、川底の泥のようなくすんだ色の髪を紐で束ね、優しげな女のような、涼しい目元をした若い男である。

 二十歳半ばにすら届かず、代々のドラゴン乗りの家系でもないというのに、前線で生き残り続けている戦士の一人であり、シャクラの現在の仲間。

 恐らくは、家族以外で最も親しい者たちのうちの、一人だ。

 このレトという男、口下手のせいで何度かもめ事を起こしているのだが、常に大事にはなっていない。

 それが何故かと問われれば、ひとえに彼の弟子で、後輩と名乗っている一人の少女の存在があってこそだった。

 ドラゴン乗りの長い歴史の中で、女が選ばれたことは一度もない。

 だが、今の時代には一人だけ、女がドラゴン乗りとなっていた。

 こちらもまだ若く、二十歳にも届いていない。出自は定かではないが、確かにドラゴンと契約を結び、戦士となっている例外だった。

 そんな出自不明経歴不明な少女・ジザの兄弟子で、師匠でもあるのがレトなのだ。

 だが、シャクラは一つ言いたい。

 彼らは一体全体、どちらが師匠でどちらが弟子なのだ、と。

 

「嬉しそうですが、何か良いことでもありましたか?レト」

「わかるのか?」

「ええ。少しは。あなたの弟子ほどではありませんが」

 

 二人揃って軽い負傷を負い、手当を受けて、龍舎と食堂へと向かう道すがらシャクラは尋ねた。

 膏薬付きの布が貼られた片頬を押さえ、包帯が巻かれた手を開いたり閉じたりしながら、レトが答える。

 

「ジザが、料理を作ってくれているそうだ」

「ほう」

「俺の故郷の料理だ。少し話しただけなんだが、まさか再現してくれるとは思っていなかった」

「それは……良いことですね」

 

 この無口をして『少し』というならば、本当に断片的だったに違いない。

 足りない言葉を汲み取り、或いは補って正しい答えを出してくるのがあの妹弟子なのだ。

 

「怪我をしたのだから、休んでいてしかるべきなのでは?」

「じっとしているのはあいつの性に合っていない。気が腐る。多少の運動なら問題ないと言われたから、あちこちに聞いてくれたそうだ。俺の同郷人も、ここには探せばいるからな」

 

 つまり、現在そこそこな怪我をして戦場に出るのは禁止されたジザは、この兄弟子から断片的に聞いた料理を補うために陣地を歩き回り、再現してみせた。

 それを食べられるから、現在レトはシャクラにもわかるほど満ち足りた顔をしているということか。

 何故この男を見ていると弟を思い出すのか、わかった気がした。

 纏う空気というか、言動の端々にでる種々が末のあの子に似ているのだ。

 さすがに能天気なお花こそ飛んでいないが、早春の日差しくらいのやわらかさは放っている。

 からくりのような正確さで剣を操り魔族を屠り、時には身を投げ出してでも人々を守るドラゴン乗りだが、話してみれば中身は素朴極まりない。

 龍の鞍から降り、剣を収めたレトは、人より少し不器用なだけの、誠実で純朴な男だ。

 

「……甘えられるようにと、考えているのでしょうかね」

「どういう意味だ?」

「知らなくて良い話ですよ、あなたはね」

 

 きょとんと首を傾げている姿を見ていると、疑問が湧いてくる。

 何故ドラゴンは、この男を乗り手に選んだのだろうと。

 いや、この男だけではないのだ。

 

「あ、先輩。シャクラさん、おかえりなさい」

 

 ひょい、と建物の陰から赤い髪が現れた。

 ドラゴン乗りの戦闘服を着、頭に包帯を巻いた少女、ジザである。

 褐色の頬には、うっすらと古い傷跡が残っており、そこだけ皮膚の色が違う。

 レトが言うには修行時代に負った怪我で、傷跡が格好良いとジザは屈託なく笑うそうだ。

 ジザは、口調や仕草は活発な少年のそのものである。繕っているというのではなく、ジザの自然な在り方だった。

 一度そのせいで、シャクラは思い出せば穴に入りたくなるような失敗をした。ジザは悪くはないのだが。

 帯剣したまま、ジザは草地を踏んで歩いて来た。

 先日に仲間の一人を庇って頭を打ったため、大事を取って休養を与えられていたのだ。

 

「怪我ですか?手と、顔?」

「ああ。だが平気だ」

「みたいですねぇ。だけど先輩、綺麗な顔に怪我こさえたら勿体ないスよ」

「ジザ……何度も言っているだろう。俺は、男だ」

 

 知ってますよ、とけたけた笑って、ジザはこっちですとシャクラの方も向いて手招きをした。

 そのまま一人だけ、早足で先へ行ってしまう。

 ぽん、とシャクラは残されたレトの肩に手を置いた。

 特に理由はない。ないが、強いて言うならば元気づけるためだった。

 

「……なんだ?」

「いえ、なんとなく」

 

 そうしたくなったからしたのだと言いながら、二人してジザの後を追いかけることになった。

 ひらひらと移ろう目立つ赤毛を追いかけて、辿り着いた先は食堂だった。

 野営地にいくつか設けられている食堂の中でも、特に気難しやと言われる料理人がいる場である。ただ、味は抜群に良い。

 ジザはそこの厨房へ、躊躇いなく入って行った。出て来たときには鍋を持っており、その横には金色の髪の少女が浮かんでいた。

 草を爪先で擦りながら、花の茎のような細い首を傾げている少女、フェイを見ると、心臓の鼓動が一瞬速くなる。

 ふ、と視線を感じればジザが赤い瞳を片方だけ、ぱちりと瞬かせた。

 その上空いている片手の指で、ちょいちょいと小さくフェイの方をジザは指さす。

 

「シャクラ、どうした?」

「何でもありませんっ!」

 

 赤くなりかけた頬を押さえるのと同時に、思わず大声が出てしまい、四人纏めてやかましいと料理人の男に怒鳴られたのは、完全にシャクラの失敗だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰にでも思い出したらこう、変な声を上げてその場に蹲りたくなるようなできごとはある。

 そのはずだと言うと、後輩は首を傾げた。

 

「ああ、はい、うん……そういうのは、黒歴史って言えばいいんじゃないでしょうか」

「黒、歴史」

「そこまで深刻じゃなくて、単に思い出したら恥ずかしいってだけなんですよね?そういう失敗は、記憶を黒扱いして塗りつぶしときゃいいんですよ」

「……【黒】の」

「オレの名とは関係ないですよ、シャクラさん。真顔でボケをかまさないでください」

 

 どこで仕入れた知識なのやらわからないことを宣う後輩が作った料理は、確かに美味しかった。

 鍋三つ分あった、牛の乳と鳥の肉、野菜を使った煮込み料理は、四人がかりで食べればすぐに消えた。

 最後の一つは、材料を分けてくれた食堂の親父殿の分で、フェイとレトはそれを届けに一時離れていた。

 ジザとシャクラとで汚れた食器や鍋を水桶で洗いながら、何かのはずみでそんな会話になったのだ。

 ちなみにこの割り振り方は、クジで決めた。

 話しながら、黒歴史という言葉を初めて聞いたのだが、言われてみればしっくり来るような気がした。

 目下の黒歴史はといえば、数日前のことになるだろう。

 シャクラは、今隣で皿を洗っている少女、ジザのことを少年と間違えていた。

 間違えて、おまけに嫉妬までしていたのだから、思い出すと頭を抱えて忘れたくなる。

 嫉妬の理由は簡単だ。

 先程まで近くにいた金色の髪の少女、フェイに惚れたから。惚れたから、フェイとやけに親しく見えたジザが羨ましくなったのだ。

 蓋を開けてみればジザは少女で、この場では数少ない同性の友人だからフェイが何かと絡んでいただけだったのだ。

 しかも、レトに指摘されるまでシャクラはまったく気がつかなかった。

 

「一目惚れしたってのはわかりますよ。フェイ、かわいいですもんね。オレが会った女の子たちの中だと、一等かわいいと思います。ほんともう、凄い美少女ですもんね。妖精の王女様みたいで」

「あなたはあなたで、そういうあけすけなところが兄弟子の心配の種になっていると思うのですが」

 

 うぇ、とジザは首を縮め、そのまま切り返して来た。

 

「オレからしたら、心配なのはシャクラさんのほうなんですけど。フェイに一目惚れってのは大正解だと思うんですけど……そっから後のこと、何か考えてるんです?」

 

 手の中の皿を取り落とさなかったのは、普段の鍛錬の成果だった。

 

「魔族の首を捩じ切る女はおっかないって尻込みしてるやつらもいますけど、返り血を浴びてこそ美しいとかいうトンチキなこと言ってる輩もいますしねぇ」

「どこのどいつですかその馬鹿者は。性根を叩き直してやります」

「だから真顔で暴走しないで下さいって。オレがもう言っときましたから、大丈夫ですって」

 

 立ち上がりかけたシャクラの腕を、皿を洗うための海綿を持ったジザが抑えた。

 

「口説かないんですか?」

「く、くどっ……!?」

「だって、惚れたんでしょ?で、オレたち明日生きてるかもわからないじゃないですか。言えるうちに言っといたほうがいいって、オレは思いますけど」

 

 赤い瞳には、純粋に気遣いの色が浮かんでいた。

 まだ二十年も生きていないはずなのに、ジザは時折、人生をもっと長く生き、何もかもを突き放して見ている人間のようになる。

 だとしても、シャクラにはそれを受け入れる気はなかった。

 

「そのつもりはありませんよ。私は今のままでいたいのです」

 

 想いを伝えること、好きだということ、素晴らしいこととは思うが、同時に自分には縁が薄いとも思うのだ。

 あの家で育った自分にとって、想いを告げるというのは好いた者と結ばれるというだけに留まらない。

 必ず、子を儲けて家を継がせる行為が常につき纏う。

 子をつくり、次の世代を守り育てるために、彼らを守るために、龍と戦う戦士がいるのだ。

 戦士の役目は戦いにあり、戦えぬ者を守るためにある。それは、戦う才能を持って生まれた者の、責務だった。

 む、とジザが唇を尖らせる。

 

「そんなにお堅く考えなくても、好きだから好きって言うの、そんなに重いことなんですか?とばっちりで睨まれてたオレが、なんか報われてなくありません?」

「……過去の誤りについては、大変に申し訳なかったと思っていますが、こればかりは譲れません」

 

 正面から言えば、ジザはひょいと肩をすくめ真摯にシャクラの眼を見た。

 

「すみませんでした。ちょっとナマを言って煽りました」

 

 洗い物を片付けてしまいましょうか、とジザは手に持った海綿を掲げて振った。

 図ったように、その背後から青年がぬっと現れた。その隣にはフェイがいた。

 

「ジザ、シャクラ、終わったか?」

「まだですよ。先輩、おっさんは何て言ってました?」

「修行が足りん、だそうよ。でもほら、完食してくれたわ」

「それはよかった。だけどオレ、料理人の修行を積む予定はないんだよね」

 

 それにしたって嬉しいや、とジザは笑う。

 水桶の中に入っていた濡れた食器を、フェイが起こした風が持ち上げ、独楽のように回転させた。

 

「ほら、こうすれば早く乾くわよ」

「すっげぇな!オレ、それができないんだよな。前やろうとして割りかけたからなぁ」

「ジザ、あなた、魔力が多いんだから細かい制御をちゃんとしないとだめよ。壊すこと以外にも使える力なんだから」

「はいはーい。ありがとさん」

 

 ぱちぱちぱち、と子どものように手を叩いて喜ぶジザを見ながら、フェイがやわらかく微笑む。

 その笑顔を見ていると、思わず目を細めてしまうのだ。まるで、眩しい太陽を見たように。

 横から視線を感じれば、レトが無言で佇んでいた。相変わらず、何を考えているやらわからない顔である。

 フェイを見てあたたかくなった胸の底が、こう、一気にぬるくなった気がした。

 あっさりシャクラの想いを見抜いたジザと違って、レトは何も気づいていないらしいのだ。

 シャクラを捕まえ、何故ジザを邪険にするのだ、うちの妹弟子はお前に何もしていないだろうが、と正面から問い詰めて来る潔さはあるが、レトはそういう方面には疎い。

 疎くてよかったと、心底思う。

 顔に出ていないが、どことなく浮かれているふうな友人を見てそう思った。

 

「美味だったのですか、レト」

「もちろんだ。今度は俺が何か作ろうと思う。菓子などどうだろうか?」

「できるのですか?」

「簡単なものならな。子どものころに作っていたから、まだ何とかなるだろう」

「それならわたしも作ろうかしら」

 

 フェイがふわりと浮いて、こちらに近づく。

 子どもの時分といえば、シャクラはもう木の剣を手にして訓練に励んでいた。

 今でも作れる料理は焼いた肉くらいで、野外を生き抜く知恵はあっても食卓を彩る術は持たない。

 

「どうしたの?」

「いえ、なんでも。ただ、楽しいなと思いまして」

 

 料理のひとつもまともに作れない自分が恥ずかしくなった、とは言えなかった。

 咄嗟についた嘘だったが、フェイは楽しそうにそれを聞いて微笑んだのだ。

 

「そう。一昨日のあなたよりも、今日のあなたのほうが、わたし、好きよ」

「……からかわないで頂きたい」

「あら失礼ね。からかってなんかないわよ。正直に言っただけ」

 

 そのやり取りの後、自分はなんと答えたのだろう。

 シャクラにはもう、思い出せない。

 眩しい笑顔を浮かべるフェイの背後では、あの兄妹弟子たちが、どちらが鍋を洗う洗わないで何事か言い合っていたと思う。

 年齢に合わない無邪気さだったから、その光景は覚えている。

 だが結局、その後菓子を作るどころではなくなった。魔族が押し寄せる量が増え、そのような場合ではなくなったのだ。

 攻めてくる魔族の量には予測不能な波があり、あのときは偶々、それが落ち着いていた時分だった。

 

 あれから、失くしたものは多い。

 肉親の喪失にも涙を流さなかったはずの己なのに、二度と戻らなくなったあの日々を思って涙した。

 守れたものと失ったもの、その二つの量を測ったことはない。虚しい天秤の軽重を見て生きるのは、できようがないからだ。

 が、失ったものを忘れたこともまた、ない。

 

 そして今日、失ったものを決して忘れられないまま、それでも生きていかねばならない友を、シャクラは訪ねていた。

 魔族の侵入を阻む壁が編まれてから、既に二十年以上の時が流れた。

 だというのに、『あの日』から容貌になんら変化がない友人の病室の戸を、シャクラは一人で開け放った。

 気配に、元から気がついていたのだろう。

 部屋にひとつきりの寝台の上で、レトが身を起こした。

 怪我をした顔の半分には包帯が巻かれているが、そこにあるのはあの戦いの日以来、時が止まったような貌だ。

 確かにドラゴン乗りは寿命が並みの人間より遥かに長くなり、老いも遅くなる。

 だが、だからと言って何も変わりがない訳ではないのだ。

 今のシャクラとレトが並べば、確実にシャクラのほうが五つ、六つは歳上に見られる。

 恐らく、龍との契約が何らかの変化を齎したのだろうが、レトにそれをどうこうするつもりはないようだった。

   

「どうした?」

「どうしたもこうしたもありません。あなたが重傷を負ったというから、来たんですよ。何にやられたのですか」

 

 ジザがいのちと引き換えに結界を張った日に、自分たちはそれぞれ別の場所へと歩き出した。

 もう何年もそうして戦いながら、少しでも敵の情報を得ようとしている友が、いきなり重傷を負って入院したと聞かされたのだ。

 文字通りに飛んでくるのは、当然だった。

 

「お前の腕を斬り落とした魔族を、覚えているか?」

 

 怪我の惨さに、戸口で一瞬立ち尽くしたシャクラを気にしたふうもなく、レトは寝台の上で背を伸ばした。

 

「忘れるわけがありません。ではその傷は、そいつに?」

「そうだ。やけに俺ばかり狙うから、部隊から引き離して俺だけで迎え撃ったらこのザマだ」

 

 自ら囮を引き受けたのか、と暗澹たる気持ちになる。

 見舞客用の椅子に座れば、レトの怪我の様子がさらによく見えた。

 顔の半分と左耳は包帯に覆われ、それから左腕の怪我が特に重い。

 

「あの魔族……いや、魔将か。魔将は自分の腕を斬り落とした俺を、よくよく覚えていたらしい」

 

 北大陸へと向かう最中、魔族の大群に襲われた。

 その中に、あのドラゴン乗りを名乗る魔族が紛れていたのだ。

 

「幸いだったのは、俺を一対一で討ち取ろうとしていたことだな。あれの元になった人間は、騎士か何かだったのかもしれない。そういう礼に則った勝負に、やけに拘りを見せていたから」

 

 魔族とは、【混沌】に喰われたものの亡骸。

 だが魔将には、亡骸本来の意志が反映されているらしかった。

 傷の具合は脇に置き、レトはひたすらに交戦して得た魔将のことだけを語っていた。

 

「魔族に己の意志はほぼないはず。……ですが、あれは例外だと?」

「だと思う。思うに、生前の技量をより上手く使うためには、ある程度本来の自我や、記憶がなければならないんじゃないか。心技体と言うだろう?」

「技を体に出させるためには、ある程度心がなければならなかった、と」

 

 死後に亡骸を利用されるのみならず、自我まで再現されて傀儡にされるのだ。

 想像するだに悍ましい話だ。が、それゆえに今回は助かった。

 魔将はレトをその手で打ち倒すことに執着しており、己のドラゴンにあの破壊の光を使わせなかったというのだ。

 

「俺だけでは無理だったが、隊を立て直したリュイロンとレグルスが来てくれたからな。こちらも死なずに済んだ。あれを一人で屠るのは難しい。俺たちが培って来た戦いの技と、根本からして異なる」

 

 シャクラも、あの魔族の技量は知っている。何せ、片腕を斬り落とされたからだ。

 あれは、人を殺すに特化した技を持っていた。本分が、化物殺しではないのだ。

 シャクラは、義手によって見た目は並みの人間と変わらなくなったし、剣も握れる。

 それでも、昔のように剣を振るうことはできなくなってしまった。

 だから今では、ドラゴン乗りを育てる側に回ったのだ。

 

 ──────もし腕が、なくならなければ。

 

 そう思うと、狂いそうになることが度々、ある。

 膝の上に置いた手を握るシャクラの前で、白い包帯が目立つ顔のまま、レトは尋ねる。

 

「そういえば、フェイはどうしたんだ?」

「あちらも来ますよ。エラワーンで飛べる分、私のほうが早かっただけですから。……何故私にそれを聞くのですか?」

「いや、昔はお前たちは常に相棒で、共にいたからな。場所を尋ねるのがくせになっていた」

 

 魔術の研究が盛んな中央にフェイはいる。

 シャクラは、ドラゴンの住処が多くある山地に。レトは、魔族の調査隊が詰めている東部に。

 皆、ばらばらなのだ。今では。

 

「というかお前、まだフェイを口説いていないのか?」

「は?……はぁ!?」

 

 顔色ひとつ変えないままレトが言い放った言葉に、シャクラは完全に声がひっくり返った。

 既視感がある、このやり取り。

 

「なんだ。まだなのか。片想いを続けて早何年だ?お前もややこしいな」

「少し黙りなさい!」

 

 反射的に掌底をくらわすのをぎりぎりで理性が止めた。落ち着け相手は怪我人なのだ、と。

 レトは相も変わらず表情を変えないまま、淡々としていた。

 

「いい加減、一緒になってもいいと思うんだが。俺たちのように、魔力を扱える人間は老いるのが遅いし寿命も長いが、かといっていつまでも朽ちないわけではない。……何故それほど躊躇うんだ?」

 

 それをお前が言うのか、と言いそうになった。

 妹弟子を失くしてからずっと、拭いきれない虚ろさを瞳の奥に飼うようになったというのに。

 シャクラはかぶりを振った。

 

「今、それとこれとは関係がないでしょう」

「ないが、友人と久しぶりに話しているんだ。お前を問い詰める機会など、そうそうなくなってしまったしな。あと、単純に暇だ。皆、俺に安静にしろとしか言わない。そんなにヤワではないのに」

 

 片目のまま、レトがふ、と微かに頬を緩めた。

 

「俺はジザのように察しがよくないから、きっと色々見えていない。それでも、友人が幸せになった顔は見たい」

 

 いつまで片想いをこじらせてヘタレているのだ、と言いたくなるしな、とレトは肩をすくめた。

 しばし、沈黙の帳が下りる。

 破ったのは、シャクラのほうだった。

  

「あなたが、それほどまでに喋れるとは思いませんでした」

「お前、俺をなんだと思っているんだ」

「口下手、不器用、無表情の三拍子を見事に揃えた得難い友人と思っていますが、なにか?」

 

 軽口を叩き返して、シャクラも肩をすくめた。

 

「私をヘタレと言いますか」

「尻込みしているのは間違いないだろうが。何十年単位で」

 

 違いない、とシャクラは額を手で押さえる。

 寝台の傍らに置かれた剣が目に入った。赤い刀身が、わずかに見えていた。

 

「……ん?フェイが来たらしいぞ。コクヨウがそう言っている」

 

 契約龍から何らかの言葉を受けたらしいレトが、窓の外を指さす。

 昼下がりの光が、窓の外を満たしていた。

 

「迎えに行って来ますよ。この話はここまでで」

「またヘタレるのか」

「少し黙って休みなさい。次余計なことを言えば、水差しに眠り薬を仕込みますよ」

「おい、横暴だぞ」

「知りません」

 

 ぴしゃりと言い捨て、だが、何かが自分の心の中で動いた気はした。

 それを感じ取ったのか、レトが片頬を吊り上げる。だが傷が引き攣れたのか、即、口元を押さえた。

 どうにもこうにも、しまらぬ男だ。

 

「うん、大丈夫そうだな。まぁ、頑張れ。大丈夫だとは思うが、駄目だったら慰めてやる」

「二度も大丈夫という必要があったのですか」

 

 病室の窓の外に目をやれば、あの金色の結界が変わらず、そこにある。

 あそこに溶けた、かけがえのない友人。今もここにいたならば、彼女は何と言っただろうか。

 亡くした者に縋ろうと、応えは返らない。

 だけれど同時に、亡くした者を理由に、今を諦めることを彼女は嫌うだろう。

 己にとって都合の良い考えかもしれないが、そう思えてならなかった。

 扉に手をかけて外に出る直前に振り返れば、レトはひらひらと手を振っていた。

 

 生きていくために必要な、『時間』というものをジザは皆に遺していったのだ。

 雷にでも撃たれたように、その想いが胸を掠める。

 だのに、彼女の兄弟子は、たった一人だけあの日に置き去りにされたかのような風貌のまま、そら頑張れ、と宣うのだ。

 

 失いたくなかったし、失われてはならなかった。

 それでももう、あの日々はかえって来ない。その未来を、誰も掴めなかった。

 何も掴めかった手を握りしめ、前へと、歩いて行くしかない。

 

 病室を出る。

 出れば、廊下には午後の日差しが降り注いで、床の上に不確かに姿を変えていく波を描いていた。

 光の波紋を踏み、長い廊下をシャクラは歩いて行った。

 

 

 

 

 




【黒】と【蒼】が並んでいた時代の話でした。
ちなみに、レトはシャクラより歳上です。

番外編はひとまず幕となります。

ではまた、連載中の続編『セカイの呪いを解くために。』でお会いしましょう。


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