Venerdi Santo (まみゅう)
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01.始まりはすべて日曜日

 

 かつて、リゾットは人殺しに対して復讐を誓った。

 

 まだ年若く未来に希望のあふれた彼の従兄弟の命を、突然、理不尽に、呆気なく奪い去った犯人が、たった数年でその罪を許されることなどあってはならないと思ったのだ。それも決して仕方がなかったと思えるような、不運な事故だったわけではない。従兄弟を轢き殺した男は、日曜なのをいいことに朝っぱらからしこたま酒を飲んでいた。男さえ酒を飲んでいなければ、そんな状態で車に乗っていなければ、リゾットの従兄弟は死なずに済んだのである。

 だが、イタリアで死刑が行われたのは1947年が最後であり、そもそも飲酒運転による死亡事故では最長でも懲役10数年。初犯ではなかったとはいえ被害者は一人。免許を携帯しており、警察に届け出た男が最長の刑に服すはずもなく、おまけにイタリアの司法制度は賄賂によって腐りきっていた。

 

 ――どうして、うちの子が死ななければならなかったの……

 ――たった4年だ。たった4年で、あの男の罪は許されてしまうのか……

 

 叔父と叔母は息子の死を嘆き悲しみ、犯人の男を憎んだ。どんなに慈愛に満ちた宗教を信仰していたって、それは当然の反応だろう。リゾット自身、従兄弟の死と甘すぎる判決を理不尽だと感じていた。もしかしたら最長の懲役刑が下されたとしても、納得がいかなかったかもしれない。死は死でもって償うべきじゃあないだろうか。

 だからリゾットは悲嘆にくれる叔父と叔母に向かって言ったのだ。

 オレが犯人を殺すよ、と。

 

 それを聞いた叔父と叔母は目を見開いて、そうだねぇ、そうできたら……と息も絶え絶えに呟いた。かと思うと不意にくしゃりと顔を歪めて、泣き笑いの表情でありがとう、と口にした。哀れな夫妻はリゾットの言葉を不器用な慰めだと思ったのだ。同じ痛みや憤りを共有していることを、14の少年なりの短絡さで表してくれたのだと思った。

 

 しかし当のリゾットはどこまでも本気だった。その場しのぎの慰めや、やけっぱちでもなく、ただ犯人を許せないと思ったから殺そうと思った。従兄弟のためや叔父叔母のためというのもあったが、大部分は自分の為だ。男を殺したところで従兄弟は生き返らないけれども、自分が許せないと思った人間をこのままのさばらせておくのは我慢ならない。

 常日頃、無口で温和な少年だと思われていたリゾットは、その静かな表情の裏側にシチリア人らしい情の厚さと強情さを秘めていたのだった。彼の決意は4年後、男が出所を迎えても風化することはなく、18になった彼は叔父叔母に向かって発した言葉を何の迷いもなく実行した。

 奇しくもそれは、日曜日の事だった。

 

 

 国民の99パーセントがカトリックを信仰するイタリアでは、日曜は誰しもがゆっくりと休息をとる。昼間はミサ帰りの客を当て込んで花屋やケーキ屋、飲食店が営業しているものの、夜は家族で過ごすことが一般的なため、平日に比べてどこも店じまいが早い。

 仇の男はどこかの組織に属するほどではないものの、やはりろくでもない人間のようだった。閉店ギリギリまで似たような仲間とバールでつるんだあと、一人暮らしのアパルトメントに帰宅するのだ。先週も、先々週もさらにその前の週も、判で押したように男が同じ週末を過ごしていたことをリゾットは知っている。だから酔っ払いの隙をついて、無理やり家に押し入ることなど造作もなかった。

 

 ――ひっ、なんだッ!?

 

 リゾットの体格は堅気のころから十二分に恵まれていたので、暴れる男の抵抗は虚しいものだった。何か一言、例えばこれが復讐であるとか、お前が殺した少年を覚えているかとか、お定まりの口上を述べたほうがよかったのかもしれないが、リゾットは相手を押さえつけるなり、どこにでもあるナイフで男の胸を一突き。背後の扉が閉まったばかりの、玄関口でのことだった。

 その時、彼の頭の中に“時間をかければかけるほど成功率が低くなる”という殺しの常識があったかどうかは定かではない。ただ、リゾットは初めから男を殺すつもりだったので、甚振ったりしてのんびりする理由がなかった。男が従兄弟の死を覚えていようが、それを罪と認めて懺悔しようが関係ない。復讐と言っても従兄弟のためではなく、これはリゾットが許さないと決めただけのことだからだ。

 

 ――オイオイ、仇討ちっつうからよォ~、()()()()流れかと思ったが、実際マジにヤバイのはおめーみてぇな野郎だぜ、リゾット

 

 ずっと昔、それこそ暗殺チームがまだチームというには心もとない規模だった頃、酒の席でこぼした話を聞いたホルマジオにそんなふうに言われたことがある。

 こんなところに行き着くくらいだ。各々探られて楽しい過去などあるはずもなかったし、普段は誰も好き好んで身の上話などしない。けれどもリゾットは別にありふれた話だと思っていたので、聞かれたのなら隠すほどでもないだろうと話した。お涙ちょうだいの復讐劇というにはあまりに無味乾燥だったし、所詮は終わったことである。それよりも今は上からチームのリーダーに選ばれて、突然引き合わされたホルマジオとプロシュートという一癖も二癖もある男達をどうまとめ上げるかのほうが問題だった。リゾットがリーダーになったのは単に成功率や場数だけの話で、この二人だって元々個々で殺しをやっていたそうだし、初めて見た時から他人の下に大人しくつくような人間には見えなかった。割り振った仕事もちゃんとこなすし、こうした飲みの席にも顔を出しはするが、当時の彼らが本当にリゾットを認めていたかというと答えはNoだっただろう。

 

 だから自分が社交的な性質でないことを知っていたリゾットは、少しでも仲間に対する誠実さを示せたらいいと考えて昔の話をしてみただけなのだ。別に尊敬されたいわけでも偉ぶりたいわけでもなかったが、リーダーを任された以上は彼らの命に対して責任がある。危険な仕事だからこそ、互いの信用というものは大事になってくる。

 リゾットという男は情の厚さと強情さ以外にも、特筆すべき生真面目さを持っていたのだった。

 

 ――そうなんだろうか。別に仇だからと言って、酷く嬲ったり惨殺したりしたわけではないのだが……

 ――それが逆に怖ぇんだよ。おめーの中で一旦決まっちまったら、何があっても覆らない。絶対敵にゃあ回したくねーな

 ――ハン、裏切ったら地獄の果てまで追ってくるってか? 

 

 皮肉気に片頬をあげたプロシュートは、グラスの酒を煽ってからん、と小気味よい氷の音を響かせた。どうもリゾットの思惑から外れて、今の話は悪い印象を与えてしまったらしい。だが、真面目なリゾットはそういう()()()()()()についても真剣に答えざるを得なかった。

 

 ――無いことを願いたいが、チームとして裏切り者を見過ごすわけにはいかない。追うだろうな

 ――ほら見ろ、オレは男に一生追われ続けるなんてごめんだぜ

 ――だったら裏切らなければいい

 ――ま、そいつはアンタ次第だな

 

 プロシュートの挑戦的な言葉に、ホルマジオは肩を竦めた。しかし特に仲裁もせずにアンチョビの乗ったブルスケッタにかぶりつくあたり、彼もまた同様に思っているということだろう。ホルマジオは気さくで口数の多い男だったが、その飄々とした態度がかえって他人に深入りさせない壁の役割を果たしている、そういう男だった。

 

 ――あぁ、努力はする……

 

 リゾットは本心から頷いてみせたが、二人は黙ったままである。プロシュートは明らかに剣呑な視線をこちらに向けているし、ここまで物事が裏目に出てしまうとは予想外だ。この殺伐とした空気を取りなすにも、上手い言葉が見つからない。相変わらず不愛想に思ったことをそのまま口にする以外のことが、リゾットにはできなかった。

 

 ――リーダーとして何が求められているのかはまだ掴めないが……仲間は大事にすると誓おう。もしお前らが殺られた時は、オレは殺った奴を決して許さない。腕や足の一、二本失っても、何年かかっても、それこそ地獄の果てまで追おう。いや……これだと味方でも()()()()()()奴だろうか……

 

 自分で言ってからそういう執念深いところが()()()と言われたことを思い出し、あぁまた間違ったなと反省する。現にホルマジオもプロシュートも目を見開いて、まるで奇妙なものにでも出くわしたかのように、まじまじとこちらを見つめていた。

 

 ――いやぁ、ヤバイって言うかよォ……オレらって上の命令でたまたま組まされることになっただけで……なぁ?

 

 呆れたように眉を下げたホルマジオは同意を求めるように、プロシュートのほうへ顔を向ける。一方、プロシュートはというと思い出したかのように眉間に皺を寄せ、チッと大きな音を立てて舌打ちした。

 

 ――勝手にオレがテメーより先に死ぬみたいに言ってんじゃあねェ。こっちこそ仇は討ってやるから安心して死んどけ

 ――わかった、もしもの時は託そう

 ――はぁ~~おめーら二人ともしょうがねーなぁあ~~

 

 乾杯しなおそうぜ。

 そんな風に言われて、まだ中身の入ったグラスに全然違う種類の酒をつぎ足されて。

 あの時言った言葉は、その後メンバーが増えても違えるつもりはなかった。1年前のソルベとジェラートの屈辱を、そのままにしておくつもりはなかった。けれどもチームを抱える身となった今では、短絡的な行動で身を亡ぼすのは自分一人の話で済まされない。義理堅く、仲間意識の強いリゾットに付けられた首輪は、そのまま今いる仲間の命だったのだ。

 それでも、メンバーにこれ以上ボスのことを探るのは禁止だと告げても、リゾットの心はいつか必ずボスの正体にたどり着き、屈辱を晴らすのだと()()()()()。何年掛かろうが、どんな扱いを受けようが、来たるべき時が来れば必ず動く。他の仲間が勝手な行動を慎んだのも、単にボスの仕打ちを恐れただけでなく、そういうリゾットの性格を知っていたからだろう。ソルベとジェラートの死から1年経つが、所詮()()1年なのだ。従兄弟の時は4年も待ったことに比べると、どうということでもない。

 

 そしてその1年経った今になって、冷遇されていた暗殺チームに急な人員補充が行われた。一度は裏切りの手前までいったチームに、パッショーネが安定し始めて暗殺の仕事も少なくなってきた頃に、新しい戦力を追加するなんて普通考えられない話だ。

 だが、組織から直々にもたらされた通達が冗談であるはずもなく、リゾットは今日初めてその新入りに顔を合わせることになっていた。念のため、アジトから離れた場所で落ち合うことにして、もしも何かあれば始末する気でさえいる。彼女が――送られてきた僅かばかりの情報では新入りは女性ということだった――ボスからの刺客でないとは限らない。

 しかし、指定された待ち合わせ場所についたリゾットはそこに立っていた女を見て、困惑せずにはいられなかった。

 

修道女(ソレッラ)……?」

 

 ゆったりした袖のついたくるぶし丈のローブは、清貧さを表すように紐によって腰のあたりで結ばれている。頭には白地のウィンプルと、ローブと同じ黒地のベールが重ねられており、胸元に輝くロザリオも含めてどこからどうみても女の格好は修道女(ソレッラ)のそれだ。

 一瞬、たまたま待ち合わせ場所に無関係の人間が立っていただけかと考えるが、生憎この近くに教会はないし、日曜のこの時間、正規の修道女(ソレッラ)ならば晩課もとうに終えて眠りについている頃だろう。

 10メートルほど開けた状態でリゾットが迷彩を解除すると、女はわかりやすく目を丸くした。

 

「ボナセーラ。驚いた、あんたがチームリーダー?」

「……あぁ。ではお前がペコリーノか?」

「ええ」

 

 ペコリーノは頷くと、こちらに一歩踏み出そうとした。それを片手をあげることで制止したリゾットは改めて彼女を観察する。といっても、彼女の格好はチームのメンバーに比べると露出が少なく、ベールの隙間から覗く髪がブロンドであるとか、瞳の色が澄んだセレストブルーであるとか、それくらいの視覚的情報しかない。あのゆったりとした服ではどこにでも武器を仕込めるだろうし、この距離で獲物が推察できるほど手指に特徴的な厚みやタコがあるかどうかは判別がつかなかった。

 今現在こちらが握っているのは名前と、20歳という年齢と、これまで組織管轄内の地区を短い期間に点々としていること。最終的に暗殺チームにやってくるくらいなのだからスタンド能力者であることは間違いないが、その能力についてまでは記載がなかった。迂闊に近づかせるわけにはいかない。

 

「チームに迎え入れるにあたって、お前の能力を見せてもらいたいのだが構わないな?」

「その前に、あんたの名前が聞きたいんだけど」

「……それは能力に関係があることか?」

「いいや、全然! ただ、死神みたいな人だなって思って気になっただけ」

「……」

 

 それは彼女と似たり寄ったりの黒づくめの格好を指してか、はたまた登場の仕方のせいなのか。とにかくいきなり不躾な感想を告げられて、リゾットは反応に困る。仕事の内容的にも、あながち間違いではないから特に。

 

「……リゾットだ。リゾット・ネエロ」

「ベネ。よろしく、リーダー。で、あたしの能力はこれよ」

 

 名前を聞いておきながらあっさりと肩書で呼んだ彼女は、どこからともなく分厚い本を出現させた。赤茶色をした皮装丁のそれは、彼女の格好からして聖書なのだろう。スタンドを見ただけでは能力がわからず、リゾットは視線で説明を促す。

 

「あのね、キリスト教において重要な出来事、“イエス・キリストの復活”、“復活したキリストが弟子たちに現れた日”、“聖霊降臨(ペンテコステ)が起こった日”ってのはね、すべて週の初めの日――つまりは日曜日に起こったんだって」

 

 そう言いながらペコリーノが聖書を前に突き出すようにすると、それはみるみるうちに巨大化し、大きな壁となって二人の間に立ちはだかる。

 

「だからあたしたちはキリストの復活を記念して、復活の日である日曜日を“主日”や“聖日”と呼び、礼拝を行うようになったの。大事な日だから、神に祈りを捧げて休息をとるのが普通なのよ。……ところで、あんたは教会に行く?」

 

 聖書の後ろからひょっこり顔を出した彼女は、なんてことのない世間話のように聞いてくる。これがもしギアッチョだったなら、何ごちゃごちゃワケのわかんねーこと言ってんだッ! いいから早く能力について話しやがれッ!とキレていたことだろう。

 リゾットは静かに首を横に振った。

 

「昔はこれでも真面目に礼拝に行ったほうだったが……この仕事に就いてからはさっぱり縁がないな」

「でしょうねぇ。でも、あたしはギャングだろうが人殺しだろうが、神さまを信じる権利くらいあると思うわけ。そりゃあ、救ってくれるかどうかはアッチ次第だけれど、信じる分にはあたしの自由じゃない?」

「そうだな」

「わかってくれるの!? 嬉しいッ!」

 

 彼女が歓声を上げたかと思うと、今度は巨大だった聖書がみるみる元の大きさに縮んでいく。そして見た目にはもう普通にしか見えないそれは、彼女が拾わずとも持ち主の手の中に飛んで戻った。今のところ分かったのはあの聖書が自由に大きさを変えられるということくらいだろうか。ホルマジオの能力では大きくすることはできない代わりに対象に制限がないが、彼女の能力は……とリゾットが考えを巡らした時、

 

「なのにッ! なのによッ!」

 

 笑顔から一転。

 突然、大声をあげた彼女は、掴んだ聖書で激しく地面を殴り始めた。「どうしてギャングには日曜がないのッ!? 今日だって初出勤が日曜日ッ! 別に明日でもいいじゃあないッ!」打たれた石畳はヒビどころか砕け散り、えぐれ、大きな亀裂が四方八方へと伸びる。それだけではない。彼女が地面を穿つたびに、地震のように付近の建物が揺れるのだ。

 

「お金はそんなに要らないし仕事も選ばないから、あたしは閑職希望だって言ったのにッ! 人事権を持ってんのが幹部かボスかは知らねーが、ぶん殴ってやるッ!」

「おい、やめろ。落ち着け」

 

 内心、キレやすい部下に耐性があってよかった、と思う一方、どうしてうちに来るのはこの手の人間ばかりなのかとリゾットは真剣に頭を抱えたくなってくる。確かにあの聖書の破壊力は異常だが、特に捻りのある能力でもなさそうだし、臆面もなくボスへの暴言を口にするあたり刺客の類ではなさそうだ。が、それとこれとは別にして、ひとまず暴れるのをやめさせないとこの近辺が大惨事になってしまう。説得で駄目なら、メタリカもやむなしだ。

 

「たまたま顔合わせが日曜になったのは悪かったが、別にすぐに仕事をしろというつもりはない。そもそも特殊な仕事だから、すぐにはお前一人に仕事を回すこともない」

「……それ、本当?」

「あぁ。お前がよければ、このあとアジトで何人か仲間に会ってもらうつもりではあったが……」

「……」

 

 それを聞いたペコリーノはぴたりと動きを止め、聖書を掴んだまま何かを考えているようだった。「歓迎会……悪くないわ。日曜日は“始まりの日”だもの……仕事を始めるのはお断りだけれど、新しい職場の人たちとホームパーティーをするにはうってつけ……」それから彼女は何事もなかったように居住まいを正すと、スタンド能力を消した。

 

「ええと、それじゃあ早速そのアジトへ向かいましょ、リーダー」

「……ひとつ先に言っておくが、アジトの破壊は禁止だ」

「え? なに、そんなボロいとこなの? ベネベネ! そいつはマジに期待できる閑職じゃない!」

「……」

 

 すっかり機嫌を直して一人で嬉しそうにするペコリーノはリゾットの能力も尋ねないまま、無防備に射程内に入ってくる。自分の配属先が暗殺チームということは理解しているようだが、どうも彼女はチームとボスとの間にあったいざこざや待遇までは全く理解していないようだ。

 何の疑いもなく、新しい職場の上司だからと後をついてくる姿を見て、おそらく敵ではないのだろうが……とリゾットは小さくため息をつく。

 

 なんにせよ、厄介そうな人間がまた一人増えたことには変わりがない。



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02.日曜夜は大暴れ

 

 暗殺という仕事にはキリがない。そもそも人間を殺したところで解決できることなど、たかが知れているのだと兄貴は言う。例えば政治家、例えば対抗組織のギャング、はたまた組織の裏切り者……。殺せばとりあえず()()()は消えるが、いつの間にかまた似たような存在が性懲りもなく後から後から湧いてくるのだ。だからって気に入らない奴を片っ端から殺してしまっては、結局のところ組織も社会も成り立たない。”雑草は枯れない”、なんて諺にあるように、人に憎まれている奴に限って権力を持っているからだ。

 

 ――だったらよォ、ペッシ、オレ達の仕事に求められていることは何かわかるか?

 

 ターゲットを素早く確実に殺す、なんて答えはきっと当たり前すぎて叱られる。では、証拠を残さない? いや、仕事の内容によっては、これが<パッショーネ>の仕業だとあえて知らしめることもあった。咄嗟には答えが思いつかず頭の中が真っ白になるが、黙ったままだと余計に叱られる。兄貴はそんなに気が長いほうではない。

 

 ――ええと、そのォ……な、舐められねェ、こととか……?

 ――ペッシ、ペッシ、ペッシ、ペッシよォ~~

 

 ぐい、と額を寄せられ、ペッシは反射的に視線を伏せる。これはまた説教のパターンだろうか。兄貴は叱るときも励ますときも基本的に目を覗き込むようにするので、いくら俯こうが結局のところ上を向かされてしまう。

 しかし、そうやって正面から向き合った兄貴の眉間には、珍しく皺が寄っていなかった。

 

 ――オメーにしちゃあいい答えじゃあねぇか。そうだ、ただ殺すだけなら誰だってできる。二度と舐めた真似をされねェよう、見せつけてやるんだよ。いいか? スタンドを使った不可解な死は、同じ死体でも与える衝撃が違ぇ。銃弾やナイフの怪我とは違って、仲間がありえない死に方をしたら誰だって怖気づいちまう。オレ達に求められてるのはそういうことだ

 ――で、でも、オレのスタンドじゃあ……

 

 確かに兄貴の“ザ・グレイトフル・デッド”やギアッチョの“ホワイト・アルバム”は日常ではありえない死を演出するのには向いているだろう。他の皆だってそれぞれ、派手で印象的な死に方を用意しようと思えばいくらでもできる。死体そのものが派手でなくとも、イルーゾォのように精神的に追い詰めることも十分効果的な演出だからだ。

 だが、ペッシの“ビーチ・ボーイ”はせいぜい獲物を釣り上げて護衛から分断するくらいで、殺し方も心臓に針を食い込ませるとどうしても地味な絵面になる。自分はこの仕事に向いてないのでは、と不安にならざるを得なかった。

 

 ――オイオイ、オレはいつも“自信を持て”って言ってんじゃあねぇか。オメーの能力は確かに一見すると地味だがよォ、相手がスタンド使いなら話は別だ。遠近両方、刺す場所に依っちゃあ即効、遅効と応用が利くし、糸への攻撃が本人に返るならお前自身の殺し方が別に派手でなくとも問題ねェ。それに一人一人仲間がどっかへ引っ張られてくってのも、なかなか精神にクるもんだぜ? ええ?

 ――そ、そうかなぁ……

 ――そうさ。オメーはまず殺し云々の前に、オメーがオメー自身を舐めちまってる。それが一番よくねェってことだ

 

 ぱんっ、と気合を入れるように両肩を叩かれて、ペッシは数度まばたきをしてからようやく頷いた。暗殺チームに配属されてまだ日が浅い時分の話だ。まさかそれから数か月して、チームの先輩だったソルベとジェラートが“裏切り者”と見なされ、二度と()()()()()()()()()殺し方をされるとは思いもよらなかったのだけれど――。

 

 

 

「ねぇ兄貴、その……新入りってのは、一体どんな奴なんでしょうかねぇ……」

 

 最近は仕事の報告だけ済ませると、兄貴は結構さっさと自宅に帰るようになっていた。中には帰るのが面倒だからとほぼ住み着いているような連中もいるが、仕事の数がめっきり減った今ではアジトに常駐する意味もない。それなのに今日、こうして酒を飲むわけでもなくアジトに居座り続けているのは、これからリゾットが連れてくるという新人を出迎えるためだった。

 

「さぁな。送られてきた情報では女らしいが。スタンド使いだ、油断はするなよ。それからリゾットとも間違えるんじゃあねェ」

「へ、へい!」

 

 返事をしたペッシの手には既に“ビーチ・ボーイ”が構えられている。そしてその糸の先端はアジト玄関の壁に掲げられた鏡に仕掛けられていた。「イルーゾォもわかってんだろうな?」兄貴は首だけのけ反るようにしてソファーの後ろを振り返ると、鏡の中のソファーに腰かけたイルーゾォに向かってそう言った。

 

「いいけどよ……どうせやるなら、ペッシを鏡の中に入れて不意打ちで釣ったほうが確実なんじゃあないか?」

「あぁ? 何言ってやがる。ペッシの能力はテメーの力なしでも十分なんだ! テメーは大人しく偵察してりゃあいいンだよ」

「その割に人使いが荒いんだからよ……リゾットにキレられても、オレは知らねーからな」

 

 ため息をついたイルーゾォは立ち上がって鏡の奥へと消えてしまう。おそらく、そろそろリゾット達がアジトに到着する頃だから――それはリゾットが新人を殺していなければの話だが――玄関のほうを見に行ったのだろう。

 

 兄貴が考えた“洗礼”は単純で、アジトにのこのこやってきた新人をペッシの“ビーチ・ボーイ”で無様に引きずり倒してやるというものだった。その際、イルーゾォがわざと鏡の中から光を当てて女の気を引き、疑問に思った女が鏡に触れたところで仕掛け針が発動という仕組み。本職の暗殺家業にしては随分チャチなやり方だが、さすがに見極めもせずにいきなり新人を殺しにかかるわけにもいかなかった。あくまで、歓迎の際の()()()()()()冗談という体だから、兄貴の直触りやギアッチョの凍結は相手が刺客でなかったときに言い訳が立たない。女を母体にしてしまうメローネなんてもってのほかだ。比較的殺傷性の低い能力のホルマジオは今日に限って仕事でいないし、イルーゾォの能力では鏡の外から何が起こっているのかわかりにくい。

 

 そんな中、ペッシの“ビーチ・ボーイ”なら、殺傷の度合いも加減が利き、他人の前で地面に引きずられるという屈辱も与えられ、おまけに糸を切ろうとスタンドで反撃されても本人に返るため能力もすぐにわかる。

 ペッシとしてはもし新人が刺客ではなかった場合、初めての後輩になるのであまり悪い印象を与えたくないと思っていたのだが、とにかく兄貴はどのみち最初が肝心だから、とこの“洗礼”をやめるつもりはないようだった。

 

 

「ッ! かかったッ、兄貴ッ!」

 

 そうこうしているうちに、だらりと垂れていた吊り糸がピンと張り詰め、同時にぐっと竿がしなる。

 

「いいぞ! よくやったペッシ! そのまま引けッ!」

 

 流石にあの体格のリゾットと間違えるわけが無いので、かかっているのは確実に新入りの女だ。玄関の方で激しく物が倒れる音がして、ついでにリゾットのおい! という声も響く。ああして止めようとするあたり、普通の新入りだったのだろうが、今更後には退けなかった。いつの間にか戻ってきていたイルーゾォが「なんか修道女(ソレッラ)みたいな格好した女だったぞ。大丈夫か?」と肩を竦めていたけれど、案の定兄貴は「ハン、神が怖くてこんな仕事やってられっかよ」と鼻で笑っただけ。そうなるとペッシはただ、リールを巻いて哀れな新人をリビングまで引きずることしかできない。抵抗が尋常じゃなかったけれど。

 

「おい、ペッシ! うちの廊下はいつのまにそんな長くなったんだ? 早く引け!」

「ひ、引いてはいるんだよ! 引いてはいるんだけどよォ!」

 

 "ビーチ・ボーイ"のパワーは本体であるペッシの腕力だ。相手が男でも一人くらいなら引っ張りあげるくらいの力はあるはずなのに、何かつっかえているのか竿がしなるばかりで全然手繰り寄せることができない。

 

「あぁ? どういうこったよ!?  イルーゾォ、オメー新入り見たんだろ? ゴリラかなんかだったのか?」

「だから修道女(ソレッラ)だって。 体格ゴリラはどっちかっていうとリゾット!」

「ぐ、ぐぬぬぬう……ッ!」

 

 本当の魚釣りのときに、海底にある岩や障害物に釣り針が引っ掛かると"地球を釣った"なんて冗談を言うが、感覚的にはまさしくそんな感じだ。しかし、何事にも終わりはあるもので、突然メリメリメリィッ! と何かが避ける音がしたかと思うと、ものすごい勢いで“赤茶色の壁”がリビングの入口をバンッ! と塞いだ。

 

「ふあ! な、なんだこいつは!?」

「壁を作り出す能力……? これが引っかかってたっつうのか?」

 

 思わず三人揃ってまじまじと観察するが、ただの壁というには素材は革製であるようだし、ご丁寧に金糸で円環文様の中に聖母子像が刺繍されている。「あ、あれって、もしかして、」強烈な既視感が答えを喉元までせりあげた瞬間、“壁”の向こうから女の怒声が聞こえてきた。

 

「誰だか知らないけど、そこに人がいるのねッ!? このあたしを引っ張ってるヤローが、今そこにいるのねッ!?」

 

 思わずびくりと肩が跳ねた振動が、糸を通して伝わったのか。不意にあれほど激しかった抵抗が消え、力んでいたペッシは大きく仰け反る。「ペッシッ!!」大丈夫だよ、兄貴、ちょっとバランスを崩しただけ――そう言おうとした矢先、あの“赤茶色の壁”がすぐ目の前にまで迫っていた。

 

 ドゴォッ!

 

「ペェェェッシッッ!!」

 

 一瞬のことで、何が起こったのかわからなかった。全身を激しく強打し――背面は本当にアジトの壁だ――吹っ飛ばされたのだということはかろうじてわかるが、依然として“赤茶色の壁”に圧迫されていて状況が呑み込めない。「テメェ、なんてことしやがるッ!」いきり立つ兄貴の声が聞こえたかと思うと、それに負けない勢いで「引っ張ったのはそっちでしょ!」と言い返すのが聞こえた。そこで揉めてないで、とりあえず早くこっちを何とかしてほしい。振り絞るようにして兄貴ィ……と呼びかければ、ようやく意識を向けてもらえたようだった。

 

「チッ、さっさと退けねーか!」

「そ、それが、重たくってビクともしやがらねぇんだ……」

「オメーに言ってんじゃあねぇ、ペッシ! オレはそこのゴリラに言ってんだ」

「俺か?」

「リゾット、オメーは黙ってろ!!」

「……うわ、オレが言ったこと聞いてたのかよ」

 

 そんな茶番があったあと、やっと圧迫感から解放される。開けた視界の先に立っていた女は、確かにイルーゾォの言う通り修道女(ソレッラ)の格好をしていた。そんな彼女の右手には赤茶の革表紙の聖書が握られており、ぎろりと睨みつけられたペッシは自分が”ビーチ・ボーイ”を解除してしまっていることに気が付いた。

 

「チャオ。情けない釣り人さん、逃がした魚は大きかった?」

「ア、アンタのスタンドって、その聖書なのかい? それでサイズを変えて……」

 

 見たところリビングの入り口は壊れていないので、彼女は聖書のサイズを少し小さくし、引っ張られる勢いを利用してペッシを押しつぶしたのだろう。「ご名答!」それでも引っ張られていた間は糸の弾性で体力を消耗していただろうに、彼女は疲れを知らない足取りでつかつかと歩み寄ると、思い切りペッシの胸倉を掴んだ。

 

「で、よ。こんなふざけた歓迎をする野郎共でも、神は愛せと言うらしいの。参っちゃうよねぇ。あたしの名前はペコリーノ。いい? 覚えた? アンタの失礼で粗暴な行いも水に流してあげる、超絶寛大な女神の名前はペコリーノよ」

「あ……ううっ……」

「ちょっと、今がアンタの名乗るチャンスでしょ? わかってんのかこの野菜頭ッ!」

「ペッシ! ペッシだよッ!」

 

 想像していた後輩像とは、全然違う。

 もちろん先に仕掛けたこちらが悪いのだが、それにしてもペコリーノの態度、言動、威圧感はどれをとっても新入りの物とは思えなかった。「ペッシ、ペッシね……いいわ。アンタなかなか素直じゃあないの。あんなブランド固めの傲慢口だけ男はやめて、あたしの下につきなさい。それがいいわ、ね?」彼女の肩越しに物凄い顔をしている兄貴が見えるので、ペッシは必死で首を横に振った。

 

「おいおいおい、さっきから黙って聞いてりゃあよォ、随分と好き放題言ってくれんじゃあねぇか、修道女(ソレッラ)・ペコリーノ。誰が口だけだって?」

「……なにそれアンタのスタンド? 気色わるう」

「わわっ、プロシュートてめぇ! ここでスタンド使うのは許可しないィィィ!」

 

 見れば兄貴の足元で”ザ・グレイトフル・デッド”が微かな煙を立ち上らせている。イルーゾォはさっさと鏡の世界に逃げ込んだからいいとして、ペッシやリゾットもいるのにどういうつもりなのか。そもそも相手は女で”老化”が効きにくいし、直で触るにも修道服は極めて露出が少ない。あの聖書の耐久度とパワーからして近距離型の可能性が高いし、彼女の間合いに入るのはいくら兄貴でも危険だ。

 

「ペッシ、リゾット! オメーらは表に出てろ!」

「お前が出ろ、プロシュート。またアジトを壊す気か? お前とギアッチョはすぐに物を壊すから……」

「うるせーな! オメーの能力だって毎度迷惑してんだよ、すぐ機械がいかれちまう!」

「とにかく室内でスタンドを乱用するのは禁止だ。イルーゾォ、鏡の中を貸してやれ。それなら物は壊れない」

「い、いやそれより普通に止めたほうが……あーまぁ、これは止まりそうにねぇか。よし! オメーら気が済むまで殴り合え、そんで冷静になれ」

 

 ――マン・イン・ザ・ミラー!

 

 壁掛け鏡の中からぬぼっと現れたイルーゾォのスタンドが、プロシュートとペコリーノの腕を掴む。「な、なに!?」流石にこれにはペコリーノも度肝を抜かれたようだが、もう遅かった。

 

「バイブル・ベルト!」

「スタンドは許可しなァァいッ!」

 

 後に残されたのは”バイブル・ベルト”という名のペコリーノの聖書型スタンドと、兄貴の”ザ・グレイトフル・デッド”だけ。本体と分断されたスタンド自体は鏡の中からでも動かせるが、人型ではない彼女のものは精密な動きはできないし、あがいても無駄だとわかればすぐに諦めるだろう。それより今の彼女の目の前には同じくスタンドなしの兄貴がいるはずだから、そこでの戦闘だけで手いっぱいなはずだ。

 

「あ、兄貴……頑張れッ!」

「外から声かけたって聞こえねーって。ま、決着がついたら出してやるよ。それにしてもさぁ、なんでウチに来る奴ってああいう乱暴な奴ばっかりなんだよ?」

「それはオレが聞きたい」

 

 リビングはかろうじて無事だったが、確か玄関の方では大きな破壊音がしていたはずだ。ため息をつくリゾットにペッシは申し訳ない気持ちになるが、どうやらあの口ぶりではイルーゾォもペコリーノを刺客だとは思わなかったらしい。もちろん、人となりもよくわからないのでまだ完全に信用するわけにはいかないけれど、彼女はそういう小細工には向いていないように思えた。直情型で、気分屋で、自分のペースで行動して……。イルーゾォの言ったようにうちのチームによくいるタイプの人間だ。

 そう考えると、結構仲良くできるかもしれない。

 

 ただ一つの問題は、これ以上舐められないように気を付けないといけないということだ。

 



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03.みんなの嫌いな月曜日①

 

 よその国の人間が持つイタリアのイメージと言えば、陽気な国民性と明るく温暖な気候、旨い料理に旨いワイン、カンツォーネ……そんな楽園めいたものかもしれない。お洒落が好きな奴ならグッチやブルガリ、プラダやアルマーニを思い浮かべるかもしれないし、車乗りはアルファロメオやランボルギーニ、フェラーリを夢想するだろう。

 しかしもう少し現実的な奴なら、大都市でのスリやひったくりなどの軽犯罪が絶えないことや、街中にあふれるゴミ問題――あれはゴミ処理をめぐる利権に食い込んでいた犯罪組織とイタリア市の軋轢が生んだ産物なのだ――にも目を向ける。違法行為や犯罪行為などによる経済活動のことを地下経済と言うが、イタリアの地下経済の割合は、国内総生産の実に30パーセントにも上ると推測されているのだ。

 

 つまり外側から見たイメージは所詮見たいところを切り取っているだけに過ぎないので、ギアッチョは陽気な人間なんてどこにいるんだよ、とチームのメンバーを見回して常日頃から思っている。確かに飯や酒は上手いし、身近にはグッチのスーツを愛用してる奴がいて、自分だって愛車のオープンカーを乗り回してはいるけれど、陽気な国民性と言われると首を傾げてしまうのだ。

 それから故郷の方を思い出すと、明るくて温暖な気候というのにも。

 

 そもそもが長靴の形をしたイタリアは南北に長く、地域による気候の差が大きい。北のアオスタではアルプスおろしの冷たいミストラルが吹くし、南のシチリアではアフリカから渡ってくるシロッコという熱風が吹く。水の都と名高いヴェネチアもイタリアの北東部に位置するので、温暖な気候のイタリアのイメージに反し、真冬にもなれば最低気温は氷点下近くなる。気温に比べれば水温は若干高くなるが、それでも決して人間が長時間無事に浸かっていられる温度ではない。

 

 ――神様はお赦しにはならないかもしれないけれど、母さんのこと、許してね

 

 1月の冬、深夜。たぶん、月曜日のことだったと思う。馬車馬のように働くのが普通になっているジャッポーネの連中は、新たに始まる一週間への絶望で月曜日に命を絶つことが多いらしいが、一週間の始まりというのは仕事の有無に関係なく、心の弱い者にとって苦痛でしかないのだろう。カトリックでは自殺は罪だとされているが、それでも自殺者がいないわけではない。

 だから生活に困窮し、心と体を病んで、未来を悲観したギアッチョの母は、凍り付きそうなほど冷たい運河の中へ祈るように身を投げた。

 当時まだ幼かったギアッチョを、その腕の中に抱いたまま。

 

 ――ごめんね、ごめんね。でも、お前一人を残してはいけないのよ

 

 入水自殺のくせに、10メートル近くの高さの橋から飛んだのは、もしかすると気を失えるかもしれないなんて甘いことを考えたせいなのだろうか。だが、人間がその程度の高さで気絶するはずもないし、ヴェネチアを流れる運河の水深が深くても5メートル程度なのを考えると、中途半端な高さから身を投げるのは無駄に苦しみを増加させるだけでしかなかった。死ぬつもりの人間が飛び込みの選手のようにきれいな着水姿勢を取るはずもなく、彼女の身体は高さによってコンクリート並みの硬度を持った水面に激しく打ち付けられた。そして最も愚かなことに、彼女は道連れにするつもりの息子をしっかりと抱きかかえ、着水の衝撃から庇ってしまったのだ。

 

 

 あのときの身を切るような運河の冷たさは、いつまでたってもギアッチョの感覚に染み付いている。全身を包み込む水の層は、それが氷でできているのではないかと錯覚するほど冷たかった。なぜ母がいきなり飛び込んだのかもわからない。なぜギアッチョに赦しを乞うたのかもわからない。しかし恐慌の最中、幼いギアッチョが求めたのはその疑問の答えではなく、ただ生きるために必要な酸素と熱だった。

 

 ――おいッ! 女が飛び込んだぞッ! 早く引っ張り上げろッ!

 

 幸か不幸か救いの手は、飛び込みの瞬間を偶然目撃していた人間によって比較的早く差し伸べられた。溺死するほどでも、凍死するほどでもない時間。それでも強く頭を打ったギアッチョの母親は、彼女の望み通りにこのどうしようもない陰気な世界から旅立ってしまった。あれだけお前を一人で残してはいけないと言っていたくせに、ギアッチョを置き去りにして自分だけあの世に行ってしまった。

 

 ――殺そうとするくらいなら、初めから産むんじゃねーよッ! バカかクソ女ッ!

 

 ――人が何もわからねーのを良いことに、勝手に飛び込んでんじゃあねぇ! 許すも許さねーもねぇだろうが! 舐めてんのか!?

 

 ――そんで最後の最後で庇ってんじゃあねーよッ、クソッ! それが母性だとでも言うつもりか? まったくふざけやがって……ムカつくぜ!

 

 その後、母の行動と己の孤独を理解した時には、悲しさよりも行き場のない怒りがギアッチョの中に生まれた。母だけが憎かったわけじゃない。自分を助けた、深夜に呑気に散歩なんかしていたお人好しを恨んだわけでもない。ただこの社会や世界の何もかもにムカついていた。

 そしてふつふつと腹の底で煮え立つ怒りの感情は熱く、あの日の身も凍るような寒さを少しだけ誤魔化すことができるような気がした。

 

 

 

 ――あんたのあのスーツって、寒くないのかい?

 ――あぁ? おめーみてぇな半裸のヤローにゃ言われたくねーよ!

 

 社会に腹を立てている奴が、反社会勢力に与するのは当然の帰結と言えるだろう。

 浮浪児、街のチンピラと順序よく経て<パッショーネ>に行き着いたギアッチョは、矢に刺されてスタンド能力”ホワイト・アルバム”を発現させた。配属先は初めにあちこちを転々とした結果、能力も本人の性格も手に負えないということで暗殺チーム。すぐにカッとなって熱くなる性格のお前がなぜ氷なのか、と嫌味のように言われたこともあったが、ギアッチョだけはこの超低温の死の世界が何に由来するのかを知っている。もちろん、聞かれたところで誰にも話すつもりはないし、たかだか仕事が一緒というくらいで馴れ馴れしく話しかけてくるメローネにも苛立っていた。

 

 ――いや、だってさ。それ氷のスーツを着てるんだろ? ギアッチョは寒くないのかと思ってね

 ――本体のオレが寒いわけねーだろうが、バカかテメーは!? イヌイットが作る氷の家があんだろ、あれだって中はあったけぇんだ!

 ――なるほど、そう言われるとそうだな。じゃあ寒さの被害を受けてるのはオレだけか

 ――だからテメーはまともな服着ろってんだボケッ!!

 

 メローネはチームの中では比較的、陽気と言える男なのかもしれない。何をもってして陽気と評するのかは難しいが、ギアッチョがどんな態度を取ろうが怒りもしないし、次から次へと興味の赴くままに会話をやめない。手のかかる()()()()()()()()()のでさんざん経験済みなのか、物事が思い通りにいかなくても他人に当たったり、失敗して落ち込んだ姿を見せたりすることもなかった。仕事も――彼のやり方は到底理解できないが――楽しそうにこなしている。

 

 今ではもう、流石にメンバーもギアッチョの性格に慣れてしまったようだったが、ギアッチョが暗殺チームに入ったころは常にアジトの中が一即触発という雰囲気だった。ギアッチョ自身も若さゆえに誰彼構わず噛みついていたし、相手だってギャングの、人殺しを生業にするような奴ばかりだ。殺し合いとまではいかずとも、喧嘩を売られてただ黙っているわけがない。

 そんな中、メローネだけはギアッチョの怒りを全く意に介さなかった。あの無表情なリゾットですらたまには眉をしかめることがあったのに――実際それは主に修理費を考えてのことだったが――メローネだけは、まるで人にキレられることが当然のように、なんてことない態度で全て受け流すのだ。ギアッチョからするとそれはとても気味が悪く、また余計にイラつく原因でもあったのだが、必然メローネなら大丈夫だろうと二人で組まされることがよくあった。別に、能力自体の相性がいいわけでもなんでもなかったのに。

 

 ――まぁそう言うなよ、お洒落ってのは寒さも我慢するものだろ?

 ――おっ、お洒落ェ~~ッ!? テメェのそれはお洒落の範疇超えてんだろーが!

 ――ギアッチョももう少し露出すると、ディ・モールト良くなると思うんだがなぁ

 ――誰がするかッ誰が! オレはこれで適温だし、テメェの思うお洒落なんてどうでもいいんだよッ!

 ――そうか。あんたがそれで良好なら問題は無いな

 ――だから最初っからそう言ってんだろがッ!

 ――あぁ、寒くないなら良しだッ!

 ――さ、寒……?

 

 何言ってんだこいつ。

 思いがけない言葉が返ってきて、ギアッチョはぽかん、と口を開けてしまう。それでもやっぱり、メローネはギアッチョがどんな反応をしようとまったく気にしていないのだ。彼の興味はすぐさままた別のところへ移って、そう言えばさ、なんて全く違う話を始めようとしている。

 

 ――おい、メローネよォ……

 ――ん? なんだい?

 ――オレが寒かろうが寒くなかろうがよォ……テメーには関係ねーだろうが。あぁ? そうだろうがよォ……?

 

 仮に能力の反動で手足が壊死したって、任務を失敗しない限りはコイツには関係ないはずだ。ましてや、寒さくらいで気遣われるいわれは無い。

 ギアッチョはまたどうしようもない怒りが腹の底からふつふつと込み上げてくるのを感じていた。ただそれは普段の、対象が明確な怒りとは違って、あの日の母親の行動の意味を理解したときのような、行き場のない感情にとてもよく似ていた。

 

 ――あぁそうだな。別にあんたはベイビィの母体になるわけじゃあないし、健康でなくとも問題は無い

 ――だったらッ!

 ――だが、チームのメンバーが不健康でいるよりは、健康なほうがいい。そうだろ? 

 ――……ッ!

 

 その答えを聞いた時、自分がどんな反応を返したのか、ギアッチョ自身記憶が曖昧だ。ただそれ以来、ほんのちょっと、ほんのちょっとだけギアッチョはアジトで大人しくなった。イライラしたときの八つ当たりは人じゃなくて物にすることにしたし、話しかけられれば悪態をつきながらも一応は返事をするようになった。もちろんそんな目に見えた変化に、プロシュートなんかはおいおいどういう風の吹き回しだよ? 腹でも壊してんのか? なんてウザったく絡んできたりもしたけれど、ギアッチョは以前みたいに暴れなかった。

 

 ――……うるせー、テメェらちょっとチームが一緒だからって、揃いも揃って母親面してんじゃあねーぞ

 ――はぁ? 誰がマンマだ。おめーみてぇな手のかかるガキなんてこっちこそお断りなんだよ。でもまあ……最近ちっとは成長したみてぇじゃねーか

 

 ハン、と鼻で笑われて普通ならムカつくところだが、その時は不思議と腹が立たなかった。もしかするとプロシュートの笑いに、言葉ほど嘲るような響きがなかったからかもしれない。それどころかむしろ、こいつってこんな風に笑う奴なんだな、と初めて知った。

 

 ――こんだけ毎日のように仕事で顔合わせてりゃ、いい加減テメェらにキレんのも疲れんだよ! クソッ! 労働基準って言葉を知らねーのかうちのボスは! 一体どうなってやがる!

 ――今度はボスに八つ当たりか? と、言いたいところだが、まぁな……。だが、文句言っても仕事は山のようにあるんだから、せいぜいくたばらねーように気ィつけろ。おめーが死んだらオレの仕事が増える

 ――テメェこそ、ギックリ腰になってオレに余計な仕事回したりしたらぶっ飛ばすからなクソジジイ

 

 さっきのプロシュートみたいに上手く笑えたかどうかは、久しぶりだったのでよくわからない。けれども、今のやり取りが険悪な雰囲気の中での口論でないことは確かだ。ギアッチョは、"チーム"というものへの認識を改めることにした。今までどこへ行っても厄介者扱いしかされなかったが、厄介者ばかりが集まるとかえってそれはそれで上手くいくのかもしれない。

 

 

 

 

「そういや確かリゾットの奴、新人が入るとか言ってたな。もう来てんのか? そいつ」

「アジトに着いたらいるんじゃあないか? 昨晩電話をかけた時には、今お前らが来るとややこしいから報告は明日でいいって言われたが」

「チッ、やっぱりよォ、今更新しい人間が来るなんてどう考えても怪しいぜ……」

 

 昨日はホルマジオも仕事でいなかったらしいが、それでもアジトにはリゾット、プロシュート、ペッシ、イルーゾォの四人が残っていたはずだ。仮に新人が刺客でもその人数相手に勝てるはずがないから特に心配はしていないのだが、"ややこしいから来るな"とは一体どういうことなのだろう。新入りは女と聞いていたのでメローネが敬遠されるのはまだ理解できるが、もしかして自分までひとまとめにされたのだろうか。それはかなり心外でしかない。

 しかしそんなギアッチョの疑問と不安は、アジトにたどり着くとすぐ解消されることになった。 

 

「これは……穏やかじゃあなさそうだな」

 

 何かを無理やり引きずったかのように、激しく亀裂の入った廊下の壁。それを見たメローネの声音は、言葉とは裏腹にどこかわくわくと弾んでいる。真横にがりがりと伸びる亀裂はそのままリビングまで続いていて、ソファーにはズタボロのプロシュートがしかめっ面で足を組んで座っていた。

 視界の端でメローネが、すうっ、と笑いの予備動作に入る。

 

「ははは、こりゃすごい! あんたともあろう人が随分と手酷くやられたもんだな!」

 

 こういうときのメローネの空気の読めなさは、いっそ尊敬に値するほどである。怖いものしらず、とでもいうのだろうか。別にギアッチョは普段からプロシュートのことを恐れているわけではないが、これほどわかりやすく不機嫌を前面に押し出されれば誰だって関わり合いになるのを避けるだろう。しかもメローネの口ぶりは心配というよりもからかいの意味合いが強く、視線をあげたプロシュートは盛大な音を立てて舌打ちした。

 

「……うるせぇな。別にこんくらい大したこたァねえよ」

「そうかい。でもオレは新入りが女だって聞いてたんだが、これは何かの手違いでゴリラでも送られてきたと考えるべきかな」

「メローネ、それ当たってるぜ」

 

 いつの間にか、ひょいと鏡から上半身を乗り出していたイルーゾォが、肩を竦めて会話を拾っていく。別に今更驚きやしないが、突然壁の鏡から男の半身が出てくるというのは決して見ていて楽しい光景ではない。「ちなみに1回戦が終わった後は、こいつもそのゴリラとなんだかんだ意気投合してたんだよ」そのまま全身こちらの世界に戻ってきた彼は、プロシュートを避けるようにして一番遠い席のソファーに腰を下ろした。どうやらギアッチョ達が帰ってきたので、もうそろそろ安全だと判断したらしい。

 

「1回戦だぁ? そんな何度も()ったつーのかよォ」

「2回目はもはやガキの喧嘩だったがな。ほら、もうすぐ3回戦も始まるぞ」

「あぁ?」

 

 がちゃ、とリビング奥の小部屋――そこはアジトにおけるリゾットの執務室になっている――のドアが開いたかと思うと、ぶすくれた表情の一人の女が気だるそうに姿を現す。こちらも服はズタボロ、髪はぐしゃぐしゃ、ガーゼと包帯だらけの酷い有様で、彼女の後ろから救急箱を持ったペッシがおろおろとついてくる。もちろん、部屋の主であるリゾットも一緒だ。どうやらプロシュートと引き離して簡易的な手当てを行ったらしい。

 

「やぁ、あんたが新入りかい? 見たところ良好ではなさそうだが、生年月日と血液型を教えてもらってもいいかな」

「……はぁ? 誰よアンタ。1980年1月3日、B型」

「答えんのかよッ!」

「ふむ、二十歳か……悪くないな。煙草や酒はやるかい? 麻薬(ドラッグ)は?」

「煙草と麻薬(ドラッグ)はやんない。酒はザル」

「好きなキスのやり方は?」

「やり方? やり方って言われても……浅いか深いかってこと?」

「よし、一覧を見せたほうが早いな。インドの“カーマスートラ”ほどじゃあないが、オレの“ベイビィ・フェイス”にだってそれなりに――」

「バ、バカかテメェら!」

 

 いきなり新入り相手になにスタンド使おうとしてんだとか、もしかすると敵かもしれねえのにあっさり自分のスタンドをバラしてんじゃねーとか。

 いや、敵かもしれないからこそなのか? とにかくメローネの行動に動揺したギアッチョは、大声を上げて二人の間に割り込む。女も女だ。どうして馬鹿正直にこんな脈絡も何もないプライベートな質問に答えるのだ。

 

「メローネ、こいつを母体にするのは禁止だ」

「いやだな~リゾット。こんなのほんの挨拶代わりじゃあないか」

「ならばまず最初に名前を聞け」

「あぁ、ウン。名前か、ついでに聞いておくのも悪くはないな」

「ペコリーノ」

 

 そう名乗った彼女は、別にメローネに対して気味の悪さを感じているわけでも、腹を立てているわけでもなさそうだった。プロシュートとやりあったというからてっきり好戦的な女なのかと思っていたが、不躾な質問や態度くらいでは特に動じることもないらしい。ゴリラという前情報についても、見た目はごくごく標準的な体格のイタリア人女性にしか見えないので謎だ。

 

「おい、ペッシ! いつまでその女のところにいるつもりだ?」

「ご、ごめんよ兄貴、もう手当ては終わったからッ!」

「はー、心のせっまい男とかサイアクよねー。これは勝者の正当な権利なんだけど?」

「ハン、スタンド無しじゃあ防戦一方だったくせによく言うぜ。てめえの勝ちは反則だろうが」

「知らないわよ、そんなルール。そもそも一番最初にスタンド持ち出したのはあんたでしょ」

 

 二人はバチバチと火花が見えそうなほど険悪な雰囲気を醸し出し、3回戦の勃発を恐れたペッシが目を泳がせる。「オイオイ、これは一体どういうことなんだよ?」ペッシを巡って、という話がさっぱりと理解できず、ギアッチョはイライラしながらリゾットを仰いだ。

 

「……先に仕掛けたのはプロシュートとペッシだ。彼女がアジトにやってきたところを“ビーチ・ボーイ”で釣り上げた。敵かどうか試すつもりだったのだろう」

「あぁそれはわかる。スゲーよくわかる。今さら新入りなんて怪しさ満点だからな。だが疑って攻撃すんのはわかるんだがよォ~、それがなんでペッシを巡った争いになってんだァ? 訳がわかんねえ」

「攻撃を受けたペコリーノがペッシを気に入って、弟分にすると言い出したんだ」

「ワオ、そいつは大変だ。三角関係じゃあないか」

 

 いや、言いたいことはわかるがそれは三角関係とは言わないだろう。しかしそうすると彼らは兄貴?姉貴?の座を巡って、こんな大人げない争いを続けているということだろうか。くっだらねぇ!吐き捨てたギアッチョに、プロシュートとペコリーノの冷ややかな視線が突き刺さる。

 

「で、1回戦はさ、スタンド使われちゃあ迷惑だからオレの鏡の中を貸してやったんだよ。まぁペコリーノも健闘したが、そりゃ純粋な力勝負になれば男のプロシュートが勝つわな」

「つーか、女相手に本気出すとかダセェだろ……」

「いや、ペコは拳こそ軽いが動きは速え。よく鍛えてるし、場慣れもしてると感じたぜ」

「プロシュートも、ただの伊達男かと舐めてたらマジに強かったよ。兄貴風吹かせるだけあったわ」

「テメェら仲良いのか悪いのかはっきりしろよッ! クソが!」

「だからここまでは良かったんだ」

 

 周囲が言うには、二人は一度拳を交えたことでかなり打ち解けたらしい。そもそもリゾットがアジトまで連れてきた時点で”刺客”の線は極めて薄いし、ペコリーノの能力は大きくした聖書で相手をぶん殴るというシンプルなスタンドで、聞いている限りではさほど脅威とも思えなかった。正直、暗殺チームでなくともカスレベルの能力だろう。

 

「問題は怪我の手当てをする際だ。ペッシがプロシュートを、オレがペコリーノを診てやろうとした。そうしたらペッシがいいとゴネられた」

「で、今度はどっちがペッシに診てもらうかで2回戦ってわけ。口論からヒートアップしたペコリーノがいきなりスタンド出して殴りかかったせいで、プロシュートもムキになっちまったらしくてよ」

「ムキになってねえ。その証拠にオレは老化を使ってないし、最終的には情けをかけてペッシを譲ってやった」

「いやいやそういう問題じゃあねえだろ」

 

 イルーゾォのツッコミも虚しく、プロシュートは尊大に鼻を鳴らしただけだった。人にマンモーニだのなんだの言うくせに、ときどきどうしようもないくらい大人げなくなるのがこの男である。

 ペコリーノの方も猫のようにしゃあっと威嚇をすると、ソファーにおいてあった布のようなものを引っ掴み、頭から被った。色と言い、形と言い、それはどこからどうみても修道女(ソレッラ)のものであった。そう言えば、彼女のスタンドは聖書なんだったか。

 

「……なんだよその格好。テメェ、ここが暗殺チームだってわかってんのか?」

 

 九割がた、こんなアホが”刺客”ではないはずだと頭では分かっている。だが、まるで”神”の振る舞いであるかのようにソルベとジェラートに付けられた”罰”の文字が蘇り、今度は信仰心でも養えと修道女(ソレッラ)を寄こしたのか? なんてモヤモヤした思いが湧き上がってきた。そもそもギアッチョはこのカトリックだらけのイタリアで、”神”なんてクソくらえだと思っている。もっと言うと、()()()()()()()()()()脆弱な人間が愚かで腹立たしいと思っていた。

 母さんを許してね――いくら信仰してたって、結局は罪を犯すくせに。

 

「本当だ。変わった格好しているな。あんた修道女(ソレッラ)だったのか? それともイメージプレイってやつかい?」

「……4分の1裸の奴には言われたくないわよ。あたしは真剣に修道女(ソレッラ)に憧れて、修道女(ソレッラ)になりたくてこの服を着てるの!」

「はぁ!? ギャングのくせに何言ってんだよッ。こんなところまできて、人は殺せませんだとか笑わせんじゃあねェぞ?」

「ギャングになる前に二人殺ってるわよ」

「へぇ、面白いじゃあないか。その話ぜひ聞かせてくれよ」

 

 なんなんだコイツは、矛盾の塊か。

 誰だって多少はそうだろうが、ギアッチョは人より遥かに“曲がったことが大嫌い”だ。筋の通ってないものは慣用的な言葉の表現にだってイライラするし、自分の納得できないルールで世界が回っているのは理不尽だとすら思う。

 いつの間にか救急箱を置いたペッシが、リゾットと一緒に人数分のカッフェを運んできてテーブルに置いた。それを見てギアッチョ以外の全員が、ごくごく自然に、適度な距離を開けて腰を下ろす。

 

「ギアッチョも良かったらどうぞ」

「……」

 

 気に入らねェ。誰が、とか何が、とかそういう具体的な話ではない。

 ただギアッチョがまだ受け入れられてない物を他の皆が当たり前のように受け入れている、そういう空気がどうにも気に食わない。

 だが、せっかく差し出された好意を無下にするのは流石に気が引けるし、ここで自分だけが要らねぇと出て行くのも間違っている気がした。出ていくならばそれはギアッチョではなく、新人のペコリーノのほうだ。よそ者のくせにすっかりアジトのソファーに馴染んでいるのが面白くない。

 

「オイ、詰めろよ。広々場所使ってんじゃあねェ」

「まったく、ギアッチョは寂しがりだなあ」

「あぁ!? ぶっ飛ばされてぇのか!?」

「はいはい、これでいいだろ?」

「チッ……余計なこと言わねーで初めからそうしろよ、クソが」

 

 メローネがペコリーノの方へ詰めるようにして空いた席に、ギアッチョはどっかりと腰を下ろした。



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04.みんなの嫌いな月曜日②

 

 サイコパスと呼ばれる人たちは、“良心”を持たないのだそうだ。

 冷酷で無慈悲で自己中心的で、自分の快楽の為ならば他人を欺き、陥れてもちっとも心が痛まない。そういう人間のことを指すらしく、個人主義の進んだ欧米では4パーセントの割合で存在するとも言われている。もちろん、そうした人々の全員がニュースで報道されるような猟奇犯罪を行うわけではないが、割合的に学校のクラスで一人は”良心”を持たないのだと考えると、まさに日常に潜む恐怖と言えるだろう。

 

 だが、“良心”という言葉が表す正義や道徳観は、時代や社会や文化的な価値観によってまちまちなものだ。実際、良識的なことや慈悲深さを尊ぶ敬虔な信者ほど、異教徒への迫害意識は強い。異なる神を信じる者や神を持たない者の人権は、少しの“良心”の呵責もなく無視をされ、酷い時には死か改宗の二択を迫る勢いだったらしい。

 では比較的リベラル派とされるカトリック教会でさえ、二十世紀半ばの第二ヴァチカン公会議までは“教会の外に救いなし”という命題を掲げてきたことを考えると、“道徳”だとか“良心”というのは限られたコミュニティの中にのみ適用される代物でしかないというのがよくわかる。

 

 だから“良心”をもたないという定義については、不確かな“道徳”とか“正義”を持ちだすのではなく、もっと感覚的な理解が必要だろう。

 とある研究において、サイコパスと診断された人間の大脳皮質は面白い反応を示したらしい。心と脳を別物だと考える主義主張はこの際置いておくとして、この研究では彼らにいくつかの単語を聞かせ、脳波を見たのだ。

 結果、彼らの脳は“愛してる”という感情的な言葉にも、無味乾燥な言葉――例えば“ペン”や“机”、“椅子”といった言葉にも、全く同じような反応を示したというのだ。つまり、”良心”を持たないと言うことは異なる“正義の元に行動している”結果ではなく、きっと最初から最後まで徹底的に、人間的な価値観から見放されているということなのだろう。

 

 ペコリーノはそれがとても可哀想だと思う。ある程度は環境的要因もあるそうだが、生まれつき愛情を感じることができないというのはどんな罰よりも酷いと思う。ただ単に冷酷で残虐な面を持つだけならば、時と場合によっては強みとなるだろう。戦いの中で目覚ましい戦果をあげることができるのはこういう類の人間だろうし、ギャングなんて裏家業をやるうえでも、一般的な“良心”を捨てることは必要だ。実際、ペコリーノは自分の中に”良心”が常にあるとは思っていない。ごく普通の人間のように何かを愛し慈しむこともできるが、それらの感情を自分の意思で捨て去ることもできる。そういうときのペコリーノを見た人間は彼女のことをサイコパスだと勘違いするかもしれないが、残念ながら彼女は精神医学や脳科学からすると至って正常な人間なのである。

 

 “良心”を()()()()()()()()ことと()()()()()()()()()というのは、似ているようで全く異なることなのだ。

 

 ペコリーノが生まれて初めて殺した人間は、自分を育ててくれた教会の神父だった。彼女は新生児のときに教会の前庭に捨てられていて、そのままの流れで教会の孤児院へと収容された。宗教的に中絶や堕胎が禁止されていると捨て子は特別珍しい話でもなく、パドバのオニサンティ教会では15世紀から赤子を置き去りにするための回転台が設けられていたくらいだ。この時点ではまだ、ペコリーノの人生はありふれたものだったと言えるだろう。

 

 

 

「うわああん、神父さまぁ~! ジェンがぼくのことぶったぁ!」

 

 教会が静謐な場所でいられるのは、祈りの時間か、孤児院の子どもたちが寝静まった夕方以降の話だ。さんさんと太陽の日差しが降り注ぐ中庭で、ジェン――パリの守護聖女ジュヌヴィエーヴの名を持つ少女は、告げ口して神父にすがりつく少年の背を、実に忌々しそうに眺めていた。 

 

「ちょっと小突いただけじゃん! 大げさ!」

「ジェンのちょっとはちょっとじゃないんだよう!」

「うるさいわねぇ、イエス様は殴られたら反対の頬を差し出すくらいなの! あんたもそれくらい見習いなさいよ!」

 

 自分がそうしろと言われたら絶対断るくせに――というかジェンの性格上、叩かれた瞬間に問答無用で殴り返しているだろうに――少女は腕を組んで唇を尖らせた。しかしやはり、育ての親である神父の前では手出しができず、それがわかっているから少年の方もつい気が大きくなって、いつもは言わないような売り言葉を言う。

 

「ジェンこそ、ちょっとはジュヌヴィエーヴ様の名前に相応しい行動しろよ! この暴力女!」

「フン、あたしだってちゃんと修道女(ソレッラ)になるもの」

「なれるもんか! ジェンは修道女(ソレッラ)どころか羊飼いにだってなれやしないよ! 子供の頃のジュヌヴィエーヴ様にだってかすりもしないんだ!」

「……ッ」

「こらこら、マヌエルも言いすぎだ」

「だって……」

 

 少年――マヌエルはまだ日頃の鬱憤を晴らしきれていないとばかりに抗議しようとしたが、そこでやっとジェンが今にも泣き出しそうな顔をしていることに気がついたらしかった。「……もういいッ!」一体何がもういいのかわからないし、普段から拳でぽかりとやられっぱなしのマヌエルにしてみればこんなことくらいで泣き出されるのは理不尽でしかない。が、ジェンはくるりと踵を返すと、ものすごい勢いで宿舎のほうへと駆け出して行ってしまった。

 

「……神父様、ぼく、ジェンを傷つけたみたいだ」

「ジェンを傷つけて、マヌエルの心も痛むかい?」

「うん……ジェンが本気で修道女(ソレッラ)になりたくて、目指してるの知ってるから。乱暴者で怒りっぽいけど、結構根はイイ奴なんだ。ぼくが街の子にいじめられたときは庇ってくれたし」

「じゃあ、謝らなくてはいけないね。でも、ジェンだって君のことをぶったのだから、お互いに謝らなくてはいけない。ここはひとまず、私が彼女の様子を見に行こう」

 

 マヌエルはほっとして、それと同時に目の前の神父への尊敬を更に強めた。思慮深く、慈愛に満ちていて穏やかな彼は、教会の子どもたちだけでなく街の人々からも慕われている。孤児であるマヌエルはあまり両親に感謝することはなかったけれども、ただ一つ、捨ててくれた先がこの神父の元であったことには感謝せざるを得ない。

 

「ありがとうございます、神父様。ぼくも後でちゃんとジェンに謝ります」

 

 神父は小さく頷くと、少女が駆け出していった宿舎の方へ足を進める。

 ジェンはどこに行ったのだろう。

 

 しかしながら神父は、そう苦労することなく目当ての少女を発見することができた。いったいどうやって登ったのか、宿舎の裏にあるカサマツの幹の分かれ目にジェンは腰掛け、足をぶらぶらとさせている。  

 彼女は神父の姿に気がつくと、わかりやすくばつの悪そうな顔になったが、神父はあえて自分からは彼女に話しかけなかった。

 

「……神父様、あたしじゃあ、やっぱり修道女(ソレッラ)にはなれないと思う?」

「なれない人など、いないよ」

 

 心細げにそんな質問をした少女の瞳は、神が存在するとされる至上の空色だった。セレストブルーと呼ばれる僅かに紫がかった青色は、彼女のブロンドの髪と相まって、本当に天界から降りてきたようですらある。子供というのは宝物だが、その中でもジェンは特に()()()()()子供だった。

 

「でも、あたしったらすぐ頭に来ちゃうのよ。本当は神父様みたいに、いつも穏やかでいたいのに」

「ジェンは“怒りの感情”なんてないほうがいいと思うかい?」

「もちろんよ。……どうしてそんなことを聞くの?」

「もしも君に”怒りの感情”がなかったら、君は他の人の”怒り”を理解できるだろうか?」

「それは……」

 

 痛みを知らない人間は、他者の痛みを想像することができない。神父は懺悔室で顔も知らない誰かの告解を聞くたび、いつも不思議な気持ちになる。彼は、彼女は何を悔いているのだろう。何に苦しんでいるのだろう。欠片も理解できないが、学習することはできた。レバーを引けば、餌が出てくると学ぶネズミのように、この言葉をかければ人々は神父に感謝する――それは単なる経験と学習の積み重ねしかなかったが、幸か不幸か神父はこの社会的文脈を読み取るのが得意だった。

 

「じゃあ……あたしが怒ってもばかりのどうしようもない子でも、神様はあたしを見放さないかしら?」

「あぁ、そうだとも」

 

 ジェンは確かに短気だったが、愛着形成がうまくいかなかった子供にはよくありえる程度の問題だ。行動をモニターし、コントロールする前頭前皮質はもともと完全な形では生まれてこず、それは周囲の人間との適切な関係の中で発達していく。前頭前皮質が恐怖や痛みを罰、他者に必要とされる、愛されるといったことを快として受け取る扁桃体と結びつくことで、人間は初めて他者と共存できる社会的な生き物になる。

 この脳内のコネクションは、時間はかかるが大人になってからでも取り戻すことができるのだ。

 

「ジェン、本当に神様に見放されている人間というのはね、私のような人間のことなんだよ」

 

 不意に神父は、この何も知らない少女に真実を伝えてやりたい衝動に駆られた。懺悔室に来る彼らのように、聞いてもらって救われたいという意図は微塵もない。むしろどちらかといえば自慢したい気持ちに似ていた。自分がどんな人間なのか知らしめたくなったのだ。が、一方で、知られてしまっても消してしまえばいいと冷静に考えていたのも事実だ。

 

「……神父、様?」

「今日の晩課が終わったら、私の部屋に来なさい。人間の感情について、面白い話を聞かせてあげよう」

 

 前頭前皮質と扁桃体の結びつきは、後からでも強化することができる。しかしながら、この世には初めから、恐怖も愛も感じることのできない扁桃体を持つ、神に見放された人間が確かに存在してしまうのだ。

 

 

 

 

 

「ジェン、どこ行くんだよ。自分の部屋に戻らなきゃいけないだろ」

 

 面倒な奴に見つかった、というのが正直な感想だった。晩課が終わり、他の子どもたちがみな就寝の準備に入った頃、ジェンは神父との約束を守るべく、一人こっそりと抜け出していたのだ。「うるさいなぁ……マヌエルってばあたしの監視員か何かなわけ? 月曜から熱心な見回りご苦労さま」不意にかけられた聞き馴染みのある声に振り返ったジェンは、不満げに唇を尖らせる。出た、優等生。マヌエルはなぜか、ジェンのことばかり目の敵にして、あれやこれやと口出しばかりしてくるから嫌いだ。

 

「べ、別に監視してたわけじゃない! ただ、ジェンはいつも皆と違うことばっかりするから目立つだけだよ!」

「逆に聞くけど、なんで皆と同じことしなくちゃいけないのよ」

「全部同じじゃなくてもいいけど、ルールは守らなきゃだめだろ。晩課が終わったのに、勝手に出歩いちゃいけないんだぞ」

「だったら、ルール違反はマヌエルのほうね。今日のあたしは神父様に呼ばれた例外なんだもの」

 

 ふふん、と勝ち誇って笑ってやれば、マヌエルはわかりやすく動揺をあらわにした。

 

「僕はただ、ジェンを追って……」

「だからそういうのやめてって言ってんの。なんで、マヌエルって私の粗探しばっか、」

「違う、謝りたかったんだよ! 昼間のこと!」

 

 少年はぱっと頬を紅潮させると、言うだけ言って唇を引き結ぶ。虚を突かれたジェンは一瞬黙り込み、それからしばらく立っても何も言わないマヌエルに向かって首を傾げた。

 

「で……謝るんじゃなかったの?」

「っ、だからその……」

「謝りたかったってのは聞いた。でも、まだ謝ってはもらってない」

「ジェンだって僕のことぶっただろ! ほんとお前、いい性格してるよな!」

「あたしだって、怒りすぎたのは良くなかったとは思ったわよ。でも、神父様は、怒るのは別に悪いことじゃないって」

「そんなの嘘だ」

「本当よ。だって、あたし、これからその話を聞きに行くんだもの」

 

 マヌエルに”神父様”という単語が効果てきめんなのは、ジェンだけでなく孤児院の子どもたち皆が知っている。彼は優等生らしく神父のことをとても尊敬しており、彼にとってのルールや善悪は全部神父に依存していた。「僕も……その話聞きに行ってもいいと思う?」そんな彼が、神父様の話に興味を惹かれないわけがない。

 

「あたしに聞くの? あんたのルールに照らし合わせれば、許可なく夜に出歩くのは駄目じゃなかった?」

「……」

 

 ジェンがそう言うと、マヌエルは叱られた子犬のようにしゅんと肩を落とす。いつもは大人ぶって口うるさいやつだが、こういう一面は可愛気がないこともない。

 

「馬鹿ね、逆に考えるのよ。もうあんたは既にルールを破ってる。これ以上は破りようがないさって」

 

 

 ▲▽

 

 

「あたしが初めて殺したのは、同じ孤児院で育った男の子だった。一人くらいはいるでしょ、優等生ぶって他の子供に説教したり、大人に告げ口するような子。あたしは結構そいつに目をつけられてて、すっごく鬱陶しかった」

「だからカッとなって殺したのかい?」

 

 質問をしたメローネは話の流れから意を汲んだつもりだったが、ペコリーノはそんなわけないでしょ、と一蹴する。殺人の動機としてはチープなものの別にありえない話ではないとは思ったが、彼女にとってここは譲れないポイントだったらしい。やや語気を強めたペコリーノは「あたしは、未だかつて、怒りのために誰かを殺したことはない」と嘘みたいなことを言った。

 

「可哀想だったから、殺したの。生きたまま腹を開かれて、いくつも臓器を抜かれて、もう彼は助からなかった。だから一思いに殺してやった」

 

 淡々と語られたその内容は、あまりに唐突だった。が、誰もそこを掘り下げようとはしない。顔も知らない子供の身に訪れた不幸に、リゾットがほんの少し、目を伏せただけだった。

 

「二人目は男の子をそんな目に遭わせた神父。あたしたちを育ててくれていた神父は、裏で子供を売っていたってワケ。臓器だったり、奴隷だったり……まぁ、これもギャングになったあとじゃそう斬新じゃない話ね」

「じゃあ報復で殺したのか?」

「だからァ~~、あたしは怒りで人を殺したことはないって言ったでしょ!」

「ンだよそれ、訳わかんねーな。正当防衛とでも言うのかよッ」

「違う。可哀想だったから。神父は生まれつき、神様に見放された人間だったの。恐怖や愛情を感じたことがないから、他人の気持ちも理解できなかった。そういう脳で生まれついてしまった、可哀想な人だったの」

「はぁ……? 何言ってんだ、オメー」

 

 道理の通らないことを言えば、いつもキレるギアッチョも、今回ばかりは素で首を傾げている。「……狂ってやがるな」プロシュートが気だるそうにそう呟いたのも無理のない話であったが、メローネはなんとなく彼女の言いたいことがわかった気がした。

 一つ目の殺人も、二つ目の殺人も、彼女は()()()()()()()と思ったから殺したのだ。死のみが唯一彼らを“救う”方法だと思ったのだろう。そういう意味では、彼女が人殺しでありながら、同時に修道女(ソレッラ)になりたいのだと言い張る理由もわかる。

 

「そんなイカレた神父のどこが可哀想なんだよ? つーか、可哀想って言いながら殺してんじゃあねぇか!」

「だってあたしは神様のしもべであって、神様じゃないし」

「意味わかんねーんだよッ!」

「神様は人間がどんなに可哀想でも一思いに殺してくれない。だから辛くなった人間は罪と言われようが自殺する」

 

 自殺、という単語で、部屋の温度がぐっと冷え込んだ。詳しい話は聞いたことがないけれど、ギアッチョが自殺する人間を殊更に非難するのは昔からだ。彼自身、特に信心深いわけでもないから、きっと過去に何かあったのだろう。メローネからしてみれば、自殺もただの個人の選択で、それこそ外野がどうこう口を挟むものではないと思っているが。

 

「良心を持たない人間に至っては、その辛さすらも自覚することができない。ある意味、究極的に可哀想な存在なの。でも、神様は可哀想な人間を殺してはくれないし、可哀想な人間が自殺するとそれは罪だとされる。つまりそういう人たちを救うには、誰かが()()()()()やらなくちゃあいけないのよ。他殺で、被害者にしてあげないと、彼らは天国に行けないの」

「……だったら、テメーはどうなんだよ? そうやって他の奴を殺して、天国にでも行けると思ってんのか? これは人助けの善行だから、神様は赦してくださるなんて言うワケか?」

 

 虫が良すぎるぜ、とギアッチョは吐き捨てた。

 ペコリーノは首を振る。ゆっくりと、それでいて力強く横に。

 

「言ったでしょ、誰かが()()()()()やらなくちゃあいけないのよ」



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05.火曜日は目を覚ましていて①

 

 暗殺者とは、夜闇(やあん)のように静黙でなければならない。

 いついかなるときも激することなく、物音一つ立てず、ときにはターゲットがその死を知覚することもないままに命を奪う。

 酷く密やかな仕事なのだ。死神がどたどたと足音を立てて怒鳴り込んでくるようでは、ちっとも格好がつかないだろう。

 しかしながらうちのチームでそれを体現できているのは、実のところ一人しかいなかった。

 

 

「殺した、という結果がありゃあ文句ねェだろ」

 

 報告書の束をばさっととローテーブルの上に置いたプロシュートは、そのままソファに深く背中を預け、彼自身の足をも横柄に乗せた。

 

「おい――」灰皿ががたん、と跳ねて、細かな灰が舞う。足癖の悪い男だ。

 

 先にくつろいでいたイルーゾォは反射的に非難の声を上げたが、プロシュートとばっちり目が合ってその先の言葉は飲みこんだ。どうやら相当に機嫌が悪いらしい。そんな相手に、テーブルは足置きじゃありません、なんて常識を説いてやったって馬鹿を見るだけだ。

 イルーゾォはいかにも気分を害した、という風に立ち上がり、リビングにかけられた鏡から自分の世界に戻っていく。ここは静謐だった。表の世界でプロシュートに対面しているリゾットもまた、どこまでも静謐だった。

 

「もちろん、お前がちゃんと仕事をこなしたことはわかっている。問題は、それが精確ではないことだ」

「ハン、そいつはありがてぇな、リーダー直々にご指導くださるってわけか」

 

 プロシュートは皮肉っぽく口角をあげたが、その眼はちっとも笑っていなかった。冷たいブルーの瞳の奥に、ちらちらと炎が垣間見える。

 直情的で、好戦的。イルーゾォはプロシュートのそういうところが苦手だった。気に入らないことがあれば声や態度を荒げて、他人を思い通りにしようとする。

 まるで父親だった。自分の平凡さを棚に上げ、息子をただ厳しくしごけば優秀な国家憲兵(カラビニエリ)になるのだと夢見ていた父親みたいだった。だからイルーゾォがこのチームにやってきてからもう3カ月は経つが、苦手意識はちっとも払しょくされる気配がない。必然、イルーゾォはプロシュートと極力関わらないように避けたが、幸いなことにプロシュートもまたイルーゾォに興味を示すことはなかった。それはそれでほんの少し、腹立たしかった。

 

「プロシュート、お前は少しばかり殺りすぎる」

 

 対して、リゾットはどうだ。イルーゾォは彼のことを尊敬に足る男だと認めていた。リゾットは仲間に対してめったに声を荒げないし、仕事の腕もリーダーとして申し分ない。彼の能力は恐ろしく、自分が対象でなくてもぞっとするものだったが、人に恐怖を与えるというよりは不思議な落ち着きを与える男だった。人を苛んで悦ぶ悪魔と違って、ただ死神は淡々としている。イルーゾォのこの能力を、卑怯者の手口だと嘲笑したりはしない。

 

「そういうことはオレのスタンドに言うか、もしくはあんたがオレに向いてる仕事を割り振るんだな」

「プロシュート、」

「オレはあんたをいいリーダーだとは思うが――」プロシュートはリゾットが何かを言うより先に、足を床へおろして身を乗り出した。

「――仕事のやり方にいちいち指図してくるのを許した覚えはねぇ」

 

 それから、話は終わりだとばかりに立ち上がって、部屋を出ていく。

 

「こそこそ隠れるのや、ちまちま殺るのはイルーゾォにでもやらせとけ」

「――ッ!」

 

 イルーゾォがそうと望まない限り、表の世界から中が見えるはずもない。それなのに鏡の向こうのプロシュートがこっちを見た気がして、イルーゾォは思わず息を呑んだ。それから次の瞬間、下唇をきつく噛んでいた。

 ここは静かだ。暗殺者たるもの、この世界のように冷たく、静かで、心を波立たせてはいけない。

 わかっているのにイルーゾォは、リゾットのようにはなれそうになかった。

 

 

 

 

「あんたが強いのは認めるわよ、だけど、それとあたしのやり方に口を出すのは別問題でしょ」

 

 ペコリーノがチームに配属されて2週間とちょっと。

 彼女がやってきて特別何かが変わったということもなく、イルーゾォが見張っている限りでは、彼女自身にもこれと言って不審な動きはなかった。

 彼女の我が強いのはやってきたときからのことで、もっと言うならそれはきっと生まれついてのものだろう。口論のうちにも入らないものを、今日も懲りずにリゾット相手に繰り広げている。全員がものの見事に断ったため、彼女の指導係はリゾットが務めることになったのだ。

 

「いいから見せてみろ」

「見せるようなことは何も――」

「撃たれただろう。隠しても無駄だ」

 

 とうとう聞き分けのない猫の子を捕らえるように、逃げようと踵を返したペコリーノの襟首をリゾットが掴む。

「ぐえっ」聞こえてきた声は猫どころか可愛さの欠片もない声だったが、どうやらこれは彼女を大人しくさせるのに存外効果があったらしい。

 右手にペコリーノ、左手に救急箱を引っ掴んだリゾットが奥の部屋に消えていくのを見送ったホルマジオは、にやりと笑ってイルーゾォを見た。

 

「リゾットのやつ、手を焼いてるみてーだなァ」

「そう思うなら、ホルマジオが面倒見てやれよ。動物の扱いは慣れてんだろ」

「生憎猛獣は専門外でな。オメーこそ、見守るくらいなら手を貸してやりゃあいいじゃねぇか」

「オレは見守ってるんじゃあない、見張ってんだ! 当然だろうッ!」

 

 ソルベとジェラートの一件以来、以前にも増して仕事はぐんと減っていた。そうなれば必然、縄張りを持たないうちの収入も減る。干されているのだ。じりじりと真綿で首を絞めるように、飼い殺しにされている。

 そしてたまに仕事が来たと思えば、情報が不確定で危険なものばかりだった。ペコリーノが怪我をしたらしいのも、何も彼女の未熟さだけの責任ではない。ボスは暗殺チームを切ろうとしている――今では誰もがそう確信していた。

 

「っつてもよォ、疑いは晴れたんだろ? この前、ペッシとペコリーノが二人で買い出しに行ってんの見たぜ? ありゃプロシュートのお許しが出たっつうこったろ」

「……そもそもあいつはペッシを甘やかしすぎなんだよ」

 

 初日から乱闘を繰り広げたプロシュートはあの後、実にあっさりとペコリーノの存在を受け入れた。どちらも喧嘩っ早いため、仲良しこよしというわけにはいかなかったが、ひどく犬猿の仲というわけでもない。ペッシを介せば、三人で飯にだって行っていたくらいだ。きっとプロシュートはもう、ペコリーノのことを疑っていないのだろう。イルーゾォだって本音を言えば、彼女がボスから送られてきた刺客だとはもう思っていない。ただ、プロシュートのように直接ぶつかって彼女と向き合ったわけではないから、彼女を受け入れるだけの理由もなかった。

 

「……お前はどう思うんだよ、ホルマジオ」

 

 イルーゾォがこのチームにやってきたとき、チームにはリーダーのリゾット、プロシュート、ホルマジオ、それから今は亡きソルベとジェラートがいた。今では皆、癖が強いだけで嫌な奴らではないと知っているが、今も昔もくだらない話ができるのはホルマジオだけだ。リゾットは遠すぎたし、プロシュートは苦手だった。ソルベとジェラートは二人の世界を持っていたし、それより後で入ってきた奴らについては、イルーゾォが話を聞く側だ。

 ホルマジオはイルーゾォの声音に真剣なものを感じ取ったのか、にやにや笑いをすっと引っ込め、まじめな顔つきになった。

 

「オレがボスならよォ~~、送り出してから2週間も経つのに、チームの一人も殺せねぇ部下なんてとっくにお払い箱にしてるぜ」

「……はっ、違いねぇ」

 

 イルーゾォが馬鹿らしくなって息を吐いたと同時に、奥の部屋から「痛い!」と注射を嫌がる子供みたいな叫び声が聞こえた。それに驚いたのかホルマジオの猫がたたたっ、とリビングに逃げてきて、するりとそのまま飼い主の膝に収まる。

 しかしながら、逃げてきた獣は一匹ではなかったようだ。

 

「もういい! こんなの放っておけば治るのよ!」

「放っておいても傷口は塞がるが、体内に弾は入ったままだ。少しくらい我慢しろ」

「いやだ」

「メタリカ」

 

 リゾットの口から出た言葉に、イルーゾォも、ホルマジオでさえもぎょっとした。が、予想と違ってペコリーノが口からカミソリの刃を吐くようなことはなく、代わりに彼女はわき腹を抑えてその場に蹲る。

 

「このまま無理やり引っこ抜かれるか、あくまで()()()()摘出するか選べ」

「この卑怯者ォ……修道女(ソレッラ)が人前で肌なんか晒せるか」

「お前は悪い修道女(ソレッラ)だから問題ない」

 

 そいつは随分と背徳的な響きだなァ~~、とホルマジオが大あくびを噛み殺しながら茶化すように言った。膝上の猫もつられたのか、にゃーおと大口を開ける。

 するとなんとなくのどかな空気が流れて、イルーゾォはペコリーノを見張っていたこと、それについてホルマジオに意見を求めたことなど、一切が馬鹿馬鹿しくなってしまった。この女も結局のところ、暗殺者には向かない()()()というわけだ。

 

「なぁ、帰ってきたら廊下に点々と血が伝ってるんだが、これはオレが自由に使っていいってことかい?」

 

 そうこうしているうちにメローネが帰ってきたことで、さらにアジトは混迷を極める。彼は言いながらずかずかと室内に入ってきて、蹲っているペコリーノを視界に入れるなり、残念そうに肩を落とした。

 

「なんだ、生理か」

「……辞めたい、この仕事マジに辞めたい」

「まぁ、なんだ……その、頑張れよ」

 

 ホルマジオの励ましに、リゾットが嘆息を漏らす。昔は一切の隙が無いように見えたリゾットも――仕事中に関しては今もそうだが――こうやって人並みな反応を見せるのだとイルーゾォは知っている。表の世界は鏡の中より面倒で、混沌としていて、煩いが、ここには確かに血の通った温かさがある。

 

「おい……さっさとリゾットに弾取ってもらえよ。それで、飯行こうぜ」

「よかったな、ペコリーノ。イルーゾォが奢ってくれるってよ。これは普段行けねーような高い店選ばねぇとな!」

「なッ、調子に乗るのは許可しないィィーッ」

「リゾット、早く取って! 今すぐ!」

「お前な……」

「それはもちろんオレも行っていいんだろう?」

 

 メローネがいたら、目立ってしまってしょうがない。それでいうとリゾットも大概な恰好なのだが、うちのチームには人目を忍ぶという発想が欠けている。

 

「いいけど、オレは奢らねーからなッ!」

 

 イルーゾォが流されてたまるかと声を張り上げると、この日一番のブーイングが起こったのは言うまでもないことだった。

 



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06.火曜日は目を覚ましていて②

 

 自分は父親に似ていない。

 まずもって髪の色、瞳の色といった容姿からして母親似だし、イルーゾォの性格は父親のように剛毅でも苛烈でもなかった。外に出て友達と鬼ごっこや格闘ごっこをするよりは、家でテレビを見たり、本を読んだりするほうが好きだったし、3つ上の姉のままごとに付き合うのも別段苦にならないたちだった。

 しかし、そんなイルーゾォの性質を、警察官(ポリツィア)だった父は認めなかった。彼は息子の軟弱な態度を嫌い、大人しい性向を疎み、男らしく振舞わせようと過度に厳しく接した。いや、それどころか彼は、息子を自分以上の男にしようと躍起になっていた。

 父親は本当は警察官(ポリツィア)ではなく、 軍人であり、国家警察から選ばれた精鋭――国家憲兵(カラビニエリ)になりたかったのだ。

 父親にとって、イルーゾォはイルーゾォという個ではなかったと思う。自分との境目がない存在で、だからこそ、思い通りに育たない息子に腹を立てた。彼は決して息子を愛していなかったわけでなかったが、その愛し方は自己愛の延長線上にあった。

 イルーゾォを使って、彼は人生をやり直そうとしていたのだ。

 

――オレは、あの男じゃあ、ない

 

 鏡に映る自分はいつだって母親似で、イルーゾォはそれを見るたびにほっとしていた。幼い頃こそ、期待に応えられない自分を責めもしたが、次第にそれは父親への憎しみと軽蔑に変わった。

 

国家憲兵(カラビニエリ)の入隊条件のひとつに、身長が190センチ以上、というものがある。そんな本人にはどうしようもないことでまで、あの父親はイルーゾォを殴打した。身長を伸ばす――そのためだけに、聞きかじりの生半可な知識で骨を折られるようなこともあった。

 

 あの男みたいに絶対になるものか。それはイルーゾォの密やかな決意として、事あるごとに胸の内で復唱される。

 あんな残酷な男に、イルーゾォはなりたくなかった。それなのに――

 

 

「この、卑怯者ッ! 男の風上にも置けない、とんだ玉無し野郎だわッ!」

 

 プロシュートとリゾットが仕事のやり方について口論していたその日の夜、イルーゾォはとある任務に出かけていた。

 内容はもちろん殺し。ターゲットは若い女だったが、わざわざギャングの暗殺チームに依頼が来るくらいだ。全く罪のない一般人ではないだろうし、そもそもイルーゾォは今更人を殺すことに抵抗はない。 警察官(ポリツィア)だった父と正反対の道を模索すれば、否が応でも(ここ)にたどり着いたのだ。もはやそれは、ある種の意趣返しでさえあったのかもしれない。

 だが、それでも、イルーゾォが目指していたのは悪魔ではなく死神だった。感情のままに誰かを痛めつけるのではなく、力のある自分が正しいのだと驕ることなく、単なる仕事としてひっそりと終えるつもりだった。

 

「こそこそ正体を隠して、自分は安全なところにすっこんで、みっともないったらありゃしないッ!」

 

 追い詰めたターゲットの女は、鏡の中に見え隠れするイルーゾォの姿に恐怖し、その感情を覆い隠さんばかりの勢いで憤っていた。挑発のために口汚く罵る一方で、攻撃の手がどこから来るのかと、視線はせわしなく周囲をさまよっている。

 

「どうしたの? さっさと殺しなさいよ! それともあんたは玉無しのくせに、人を甚振るのが好きな下種野郎ってわけ?」

 

 イルーゾォがわざと彼女の精神を追い詰めるように姿を見せたのは、なにも彼女を甚振るためではなかった。

 今回の仕事は彼女を殺すことだけではない。彼女をわざと泳がせて、それで彼女が逃げ込んだ先、連絡を取った先まで釣り上げること。

 だから何を言われても、イルーゾォは鏡面のように平然としていればよかった。石を投げ込まれた湖面のように、波立つ必要なんてなかったのだ。

 

「私があんたの父親だったなら、情けなくって人生全部やり直したくなるわ!」

「ッ! うるさい、黙れェッ! オレは――」

 

――オレは、あの男じゃあない。あの男じゃあない!

 

 気がつくと、イルーゾォは女を鏡の世界に引き込んで、力の限りに殴りつけていた。わざと泳がしていたこともすっかり頭から抜け落ちて、女にとって逃げ場も助けもない閉じ込められた世界で、ただがむしゃらに暴力を振るった。ぜいぜいと息が切れ、女の歯に当たって拳が裂けても、それでも構わず滅多打ちにした。もしもその苛烈さを彼の父が目の当たりにしていたら、初めて息子を褒めたたえたかもしれない。

 それくらい、その時のイルーゾォは度を失っていた。完全に目が据わってしまっていた。

 

「いいかッ、二度と、ニ度とだ! オレを否定することは許可しないィィッ!」

 

 父の許しがなければ、イルーゾォの好む類のことはできなかった。そしてもちろん、父が理想とする行い以外、許可されることなど決してなかった。

 動かなくなってから既に随分と時間が経っている女に向かって、イルーゾォは再度拳を振り上げる。その時、襤褸切れのような女の胸元で何かがきらりと光って、イルーゾォははたと手を止めた。

 それは、アンティーク調の――言ってしまえは古臭いロケットペンダントだった。

 興奮で震える手で女の首からもぎ取ると、既に蝶番のところがイカレれていたペンダントは、イルーゾォの手の中でぱっくりと開く。中に入っていたのは、女によく似た少女の写真だった。とはいえ、親子ほどの年齢差があるようには見えないから、きっと彼女の妹なのだろう。

 

 イルーゾォはそれを見たとき、無意識に自分の姉のことを思い出した。父は姉にはきつく当たることもなかったので、二人の間に深い精神的繋がりがあるわけではなかったが、それでも不思議と我に返った。

 そうして目が覚めた瞬間、ペンダントの破片のもう片側にあった鏡面に、あれほど嫌っていた父親の顔が映るのを見た。容姿こそは母親譲りだったが、そこに映っていた男はあの残酷な父親そのものだったのだ。

 

――お、お前は地獄の底の、魔物以下の……最低最悪のゲス野郎だッ!

 

 スタンドを解除して鏡の世界から戻ったとき、ちょうどおあつらえ向きに女の仲間が現場を訪れていた。きっと、女と連絡が取れなくなったことを不審に思い、様子を見に来たのだろう。

 馬鹿な仲間の男は、すぐ近くに打ち捨てられていたおぞましい死体を見て、イルーゾォのことをそう罵った。しかしそれは単なる挑発ではなく、心の底から恐れ、軽蔑し、憎んだゆえの言葉だった。

 

「……」

 

 イルーゾォは黙って男も殺した。誰かを力でねじ伏せるのは、思っていたより悪い気分ではなかった。

 

 

 

 

 ほとんど明け方に近い深夜、 乱暴にアジトのドアを開ける物音に、イルーゾォは目を覚ました。ベッドの中でもぞもぞと寝返りをうち、特に理由もないままベッドサイドの置き時計に目を走らせる。

 7月11日。昨日は非番で、なぜかペコリーノも含めてその場にいたチームメンバーの飯を奢らされたが、日付は変わってもう火曜日。夜遅くまでほっつき歩いていた誰かが、今頃帰宅したのだろう。

 

  チームのメンバーは全員が全員、アジトに住んでいるわけではなかった。一応それぞれの部屋はあったが、自分で他にアパルトメントを借りている者もいる。しかし結局のところ、チームにいるのは帰りを待つ誰かがいるわけでもないはみ出し者ばかりだ。プライベートな――つまりは女を連れ込むようなとき以外は、結構みんなアジトで寝泊まりすることが多く、イルーゾォもまたそのうちの一人だった。

 

「チクショウ、変な時間に起こされた……」

 

 イルーゾォは再び目を閉じようとしたが、そうするとまた1階のほうで、パリン、とグラスの割れる派手な音がした。殺気がまったく感じられないので敵ではないのは確かだが、イルーゾォは神経質なたちだ。がさごそと物音を立てられると、気になって眠気の波はどんどん遠ざかっていく。

 リゾットなんかそういう点で、驚くほど図太かった。ちゃんと殺気や敵意には反応するけれど、逆にそれさえなければどんなに煩くしたところで起きない。

 

 結局、イルーゾォはため息をついて、ベッドから身を起こす羽目になった。そうして自室を出て階段を下りる前に、まず鏡の世界に入ることにした。誰だか知らないがこの物音の主を、ちょっと脅かしてやりたくなったのだ。こっちは気持ちのいい眠りを妨げられたのだから、ビビらせるくらいの権利はあるだろう。

 

 鏡の中はやはり、生き物のいない死の世界だった。とても穏やかで、静かで、少しだけ寂しい。足元に気を付けながら階段を降りていくと、真っ暗なダイニングの奥でキッチンだけがぼんやりと灯っているのが見えた。残念ながら、あそこに鏡は置かれていない。リビングの鏡の中からちらりと見えた騒音の主は、シンクにもたれかかる格好で煙草をふかしているようだった。床にはさっきの割れたばかりらしいグラスの破片が、片づけられることなく放置されている。

 

 イルーゾォはそっと鏡からマン・イン・ザ・ミラーを出すと、それからスタンドの渾身のパワーを込めて、パンッ、と手を思い切り打ち鳴らした。本物を知る人間からすれば、ままごとにも等しい銃声だ。それでも、不意を打たれれば誰だって少しは驚く。

 

「イルーゾォ……てめぇ、くだらねェことすんじゃあねーよ」

 

 煙草を口から離したプロシュートは、こちらの姿を視認する前にそう言った。

 

「夜中にうるさくしてた野郎に言われたかねーんだよな。ていうか、なんでオレだってわかったんだよ」

「まず第一に、多少の物音じゃリゾットは起きねェ。ホルマジオとメローネは起きても面倒くさがって下にまで降りてこないし、ギアッチョやペコリーノだったらもっとキレ散らかして降りてくるはずだ。あとはペッシとお前だが、ペッシは様子を見に来たとしても人を脅かしてやろうなんて意地の悪いことは考えねェからな」

「ケッ、意地が悪くて悪かったな」

 

 それだけの会話を済ませてしまうと、後はもう特に話すことはなかった。プロシュートが気だるそうなのはどうも酒を飲んで帰ってきたせいのようだし、そうなるとグラスを落としたのも、単に水を飲もうとして手を滑らせただけだろう。

 失敗でやる気を削がれて、とりあえずの一服。喫煙者にはよくあることだ。以前、コーヒーで台無しになった報告書の束を前にして、プロシュートが煙をくゆらせていたのを見たことがある。

 イルーゾォは我ながら馬鹿げたことに時間を使ったな、と思い、踵を返そうとした。

 

「……それにしても、暗殺にゃおあつらえ向きの能力だな」 

「は?」

「オメーのスタンドの話だよ」

 

 いきなり何を言いだすのだ。

 イルーゾォは呆気に取られてまじまじとプロシュートの顔を見つめたが、そこに酔いはあってもからかいの色はなかった。相変わらずシンクにもたれかかったまま、煙草を口の端に咥えている。プロシュートが喋るたびに、それがひょこひょこと上下した。

 

「ペッシが、オメーの能力を羨ましがってる」

「……なんだ、そういうことか。どうせならリゾットかお前、もしくはギアッチョを羨ましがればいいだろうに」

 

 スタンドは精神力だ。だから強力で影響力の大きいスタンドを持つ彼らは、きっと精神も強靭で逞しいのだろう。一方、イルーゾォの能力は脅威ではあるものの、どちらかといえば内向きの、認めたくはないが()湿()()代物だ。便利なのは自分でも認めるが、まさか羨ましがられるものだとは考えたこともなかった。

 

「ペッシはな、周りはなるべく巻き込みたくねェんだとよ」

「……言っとくが、オレはそんなにお優しいわけじゃあないぜ。プロシュート、お前マジで甘やかしすぎなんじゃねーのか?」

「ごちゃごちゃうるせェな――」

  

 青く透き通っているくせに、焼けつくような熱を感じさせる瞳と目が合う。

 

「――誇れよ、イルーゾォ」

「……」

「それか、オメーで誇れるくらいに成長しやがれってんだ」

 

 ――酔っぱらって説教なんて、いよいよジジイになっちまったな。

 

 いつもならするりと出たであろうからかいの台詞が、どうしてか今回に限って出てこない。イルーゾォは吸った空気の吐き方を、一瞬だが確実に忘れてしまっていた。

 

「オメーはオメーの世界に籠って、見たくねェもん見ねェように目を塞いでるんだろ。そいつは確かに安全で()()やり方だが……目を閉じたまんまで掴めるほど、栄光は簡単なもんじゃあねェ」

 

 プロシュートはキッチンの天板に、押し付けるようにして煙草の火をもみ消した。それから水切りカゴに置かれっぱなしだった別のグラスを取り出し、蛇口から水を汲む。

 

「姿を映せるのは、何も鏡だけじゃあねェだろ」

 

 グラスの中の水面は、ゆらゆらと波打っていた。鏡面のように硬質で揺らぎのないものではなく、どこまでも流動的な存在だった。

 ようやく当初の試み通りに喉を潤したプロシュートは、手の甲で口元をぞんざいに拭う。

 

「オレはオメーを買ってるんだぜ、イルーゾォ。 ま、結局本人にその気がなきゃ無理な話だがな」

「……この年になって、今更変われるかよ」

「だろうな。オレたちはスポンジみてぇに何でも吸収するガキとは違う。あがいてあがいて変わりきる前に、おっちぬ可能性のほうが高ェだろうな」

「しかも、最期はろくな死に方をしないときた」

 

 イルーゾォの混ぜっ返しに、プロシュートは小さく肩をすくめた。意外だった。もっと馬鹿にされるか、そんな考え方だからダメなのだと押し付けがましく説教されるかと思っていたのに。

 今日のプロシュートは、見た目以上に酷く酔っているのかもしれない。

 イルーゾォがそう思ったとき、洗面所のほうで、かたん、と小さな物音がした。

 

「……誰だ、ペッシか?」

「かもな」

 

 意地が悪いと言われたのは癪だが、最初のプロシュートの推理については異論がない。 

 プロシュートは足音を忍ばせてリビングの鏡の前に立つと、振り返って「行くぞ」と唇を動かした。どうやら鏡の中を通らせろ、ということらしい。

 

「一体何杯飲んできたんだよ、プロシュート」

「あぁ? そんなのいちいち数えながら飲まねェだろフツー」

「明日には全部忘れることをオススメするぜ。柄にもねぇことばっか、言いやがって……」

 

 あのクソみたいな父親とプロシュートが同種の人間でないことは、本当はよくわかっていた。本当にクソ野郎で下種野郎なのは自分のほうだ。他人を蹂躙する楽しみを見出してしまったあの日から、自分の中にあの男の血が流れているのを強く感じる。そしてそんな己を自覚する度、イルーゾォは開き直りにも似た感情を味わっていた。諦観の沼を揺蕩っている間は、罪悪感にも、自己嫌悪にも苛まれることはない。

 

 二人はどこか冷え冷えとする鏡の中のリビングをぬけて、洗面所にたどり着いた。そして薄暗がりの中、ひっそりと鏡の前に佇んでいた人物に息を呑む。

  イルーゾォも、プロシュートも、初めそれが誰なのか理解できなかった。彼女がいつもの、修道女(ソレッラ)の格好をしていないことも十分な理由だろう。しかしそれを抜きにしても二人がペコリーノをうまく認識できなかったのは、目を閉じ、何かを祈っている彼女の姿が、とても神聖な雰囲気を放っていたからだった。宗教画のような厳かさと美しさが、確かに彼女から感じられたからだった。

 

「……こんな時間に、誰の為に祈ってんだよ」 

 

 脅かしてやろう、という悪戯心はすっかり消え失せて、二人はただ鏡一枚隔てた世界でペコリーノが祈るのを眺めていた。時折小さく動く唇が、どんな言葉を紡いでいるのかはわからない。見慣れぬコットン地のパジャマから覗く肌は、昨日の怪我のために包帯やガーゼで覆われていた。

 そうだ。こんなにも穏やかに見えるのに、彼女は人を殺してきたのだ。

 

「どうせこいつの言う、()()()()奴らの為だろう」

「……そうか、ろくな死に方をしなかっただろうからな」

 

 イルーゾォには、クズのために祈ってやる彼女の考えがこれっぽちも理解できなかった。その一方で、もしも自分の為に祈る者がいるとすれば、それは彼女をおいて他にはいないだろうと思えた。

 

「ったく、大きなお世話って感じだよな」

 

 押し付けがましいのは嫌いだ。しかし言葉にしたほど、不思議と不快な気分は湧いてこない。

 結局、彼女が祈りを終えて自室に戻っていくまで、二人は聞こえぬ声に耳を傾けていた。時間の感覚なんてとうにない。初めて、ペコリーノが本当に修道女(ソレッラ)だったのだな、と思った。

 

 

 

「……なんかよ、あがいてそれでダメだったとしても、それはそれで悪くねー気がしてきた」

「だろ」

 

 小窓から柔らかな陽の光が差し込み、夜の終わりが訪れた。

 ぽつり、とイルーゾォがそうこぼすと、プロシュートは得意げに鼻を鳴らす。それから意地悪そうに青いの瞳を輝かせたかと思うと、気持ちいいくらいにきゅっと口角を上げた。

 

「オレが酔っててよかったな、イルーゾォ。明日には忘れといてやる」

 



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07.降灰の水曜日①

※1万リラ=500円換算


「土産はモンラッシェでいいぞ~」

「うっさい、ボジョレー・ヌーヴォーでも飲んでろハゲ」

「GUCCIの財布だな」

「先に財布の中身を寄越してから言いなスケコマシ」

「メゾン・ラデュレのマカロンが食いてェ」

「メルヘンなのは能力だけで間に合ってるよ! だいたい土産に日持ちのしないモンを頼むなキャベツ頭」

「お、おいら、ボンヌ・ママンのマドレーヌがいい」

「このマンモー二ッ! キャトルキャールもおまけしといてやるわッ!」

「おいおい、ペッシだけ特別扱いかァ~~?」

 

 Boo~という、大人げない男たちのブーイングに見舞われて、ペコリーノはローテーブルをガンッと思い切り蹴飛ばした。おかげで跳ねた灰皿はカーペットに遠慮なく灰をまき散らしたが、特に誰も慌てるようなことはない。日常茶飯事だ。

 

「あんたらのは値段と行列が可愛くないのッ! だいたいあたしたちは観光に行くんじゃあないんだけど!」

 

 ふん、と鼻を鳴らしてペコリーノは腕を組むが、その隣に置かれたスーツケースのサイズにはまったく説得力がない。格好もいつもの修道服ではないし、口さえ開かなければ普通の女だ。どー見ても観光気分だろ、と周りから口々に突っ込まれて、ペコリーノは近くのソファを思い切り蹴った。悪いのは口だけではなく足癖もだった。

 

「うるさいわね、観光だってんなら飛行機で行かせなさいよッ! 9時間以上も列車移動とかホントありえない!」

「フランスっつってもニースだろォ~~? ンなもん、ほとんどイタリアだ、行ける行ける」

「列車の方が便利だぞ、切符を買わずに済むときがあるからな」

「ねぇよ」

「すまない、交通費はなるべく節約したいんだ」

「……」

「オレは列車の方が好きだな。飛行機だと、いい母体を見つけても移動がしづらい」

 

 だろ?とペコリーノに同意を求めたメローネは、今回の暗殺旅行の参加メンバーだった。と言っても、ペコリーノと二人だけ。今まで組んだこともないし、能力の相性がいいわけでも、個人的に仲が良いというわけでもない。「……あたしがわがまま言ったみたいにしないでよ」メローネが他の仲間達――たとえばギアッチョとか、プロシュートみたいに――わかりやすく突っかかったりからかったりすることもないので、ペコリーノもメローネに対しては実に()()()だった。人によってはそれを、仲が悪いと捉えるのかもしれない。

 

 とにかく、今回のニースでの依頼は、ペコリーノとメローネの二人が向かうことになっている。リゾットからそう告げられた時、二人とも特に文句は言わなかった。一番文句を言ったのは、いつもの騒がしさもどこへやら、先ほどから不気味なほどに黙りこくっているギアッチョだ。

 メローネはするり、と猫のような身のこなしで彼に近づくと「いない間にオレのバイク、壊すなよ」と囁いた。途端、赤い縁の眼鏡ごしに、ぎろりと睨みつけられる。

 

「……チッ、納得いかねーぜ」

「ギアッチョが納得することのほうが少なくないか?」

「……潜入先がパーティー会場でよォ~~、女手があったほうがいいってのはわかる……スゲーよくわかる。女連れの方が怪しまれにくいに決まっとるからな。だがよォ、メローネ。オメーの能力で一緒にほいほい会場まで出てってどーすんだァァ~~? すぐに使えるスタンドでもねェのに、前線に出るのはおかしいだろうがよ~~ッ!!!」

 

 ギアッチョの指摘は実にごもっとも。が、いつもいつもスタンドが必要な殺しばかりというわけでもないし、そういう荒事だけで解決するものは、それこそリゾットやギアッチョがやればいい。いろんなタイプと組んでみろ、というリゾットの発言からペコリーノの教育を手伝わされている感は否めないが、それでも仕事は仕事。メローネに不満はない。

 

「しょうがないだろ、フランス語がいちばん上手いのはオレなんだし」

「理由がくだらなすぎンだよッ! だいたいフランス語なら他の奴だって多少は、」

「なんだギアッチョ、心配してくれてるのか?」

 

 この件に関してギアッチョを納得させるのは不可能だ。なぜかはわからないがギアッチョはペコリーノのことを未だにお気に召さないようだし、彼女に経験を積ませる目的もあるなんて言ったら、それこそ火に油を注ぐ結果になるだろう。

 メローネがからかうように笑ってやれば、ギアッチョは文句を言いかけた口の形のまま、ぎょっと目を剥いた。それから、構造上ぽっかりあいた胸倉の代わりに、肩口近くの服をぐいと掴まれる。

 

「~~ッ! 誰がテメーの心配なんざするかッ! オレはテメーに貸してる6万リラの心配をしてんだよッ!!」

「借りたのは5万リラじゃあないか」

「おいおい……ガキみてーな額の貸し借りしてんじゃあねーよ、おめーら」

「土産を買ってくるから、それで手を打たないか?」

 

 と言っても、先に皆が挙げたようなものは、高価すぎるしパリにまで行かなきゃ手に入らない物もある。「ソッカチップス」ギアッチョは乱暴に手を離すと、それだけ言って口をへの字に曲げた。それなら、ペッシと変わらないくらいのご注文だ。

 

「ベネ、5万リラ分のソッカチップスだな!」

「そんな要らねーよッ! それは別で返せよクソッ!」

「ねえ、話長くなりそうならあたし先に出るよ。これ以上お土産を要求されたくないし」

 

 ギアッチョとメローネの間を割って通ったペコリーノは、言いながらがらがらとスーツケースを転がして床の灰をさらに広げ散らす。それからふと、思い出したように足を止めてこちらを振り返った。

 

「ところで、メローネ、あんたまさかその格好で列車に乗ろうってわけじゃあないでしょうね?」

 

 

▼△

 

 ナポリ中央駅から高速列車ユーロスター・イタリアで5時間。最初の乗り換え地点であるミラノに辿り着くだけでも結構時間がかかるが、この先さらにユーロスター・シティに4時間半ほど揺られてイタリア国境、終点のヴェンティミリアに向かう。そこから最後にフランス国鉄に乗り換えれば、目的のニースには45分ほどで到着できる予定である。

 だが、それは全てつつがなく列車が運行していた場合の話で、高速鉄道はともかく、在来線は遅延などさして珍しくない。前触れなくストライキで運行自体がなくなることもあるし、つまるところ、この旅に必要なのは寛容な精神と暇潰しの道具なのである。

 

 さて、自分はその寛容な精神を持ち合わせているが、同乗者の方はどうだろうか。メローネは隣に座るペコリーノにちらりと視線をやり、彼女で暇を潰せそうか考える。平日ということもあって、自由席でも座席はひどく空いていた。

 するとメローネの視線に気が付いたらしく、窓の外を眺めていたペコリーノが振り向き、目が合う。

 

「……それにしても、マジにその格好で乗るとはね」

 

 ペコリーノはだらしなく頬杖をつくと、そう言って面白がるように口角を上げた。もしもうるさく嫌がられるようなら離れて座っても良かったのだが、結局彼女もそこまで人目を気にするたちではないらしい。「まさかとは思うけど、パーティもそれ?」人が答える前から想像して笑いを堪えている彼女に、失礼な奴だな、とメローネは呆れる。

 

「当然そっちは正装するさ。けど、道中についてはリゾットも何も言わなかっただろう?」

「正直リゾット自体の服もアレだから、どの口が言うんだって話になるけどね。ま、メローネのおかげで周囲の席は空くし、あたしとしては助かってるよ」

「そいつはどうも」

 

 わざとらしく肩を竦めてやれば、彼女はますます笑みを深くした。こういうところは、やっぱりプロシュートに似ていると思う。酔ってる時の、という注釈はつくが、絡み方のうっとおしさはよく似ている。一番最初に大揉めしたくせに、その後あっさり打ち解けているのが良い証拠だ。

 

「ところで、あたしは前に昔話をしたけれど、あんたのは聞いてなかったなあと思ってね」

「なるほど、暇潰しに詮索ってわけかい? いい趣味してるな、あんた」

「別に嘘でもいいわ。作り話でも、面白けりゃそれでいいの」

 

 メローネがペコリーノで暇潰しを目論んだように、彼女もまた暇を持て余しているらしい。

 列車がナポリ中央駅を出てからまだ1時間も経っていなかった。目ぼしい母体も乗ってくる気配がないし、とメローネは口を開く。

 

「オレにはフランスの血が流れてるんだ。今回行くニースじゃないが、住んでいたこともある。両親揃ったごく普通の家庭だったよ。父親は教師をしていて、母親は主婦。オレは一人っ子だったけど、代わりに大きな犬を一匹飼っていた。犬種はル・シアン・デ・ピレネーで、名前はカリーヌ。本来は忠実で賢くて穏やかな性格のはずなんだが、うちのはわがままであまり言うことを聞かなかったな。たぶん、躾がよくなかったんだろう」

 

 まるで遠い過去でも思い出すかのように列車の前方に視線をやってみたが、実際自分にフランスの血が流れていることを知ったのは、スタンドが発現してからの話だった。メローネのベイビィ・フェイスはDNAを分析できる。本来はターゲットに使うべきそれを、メローネは過去に自分へと使ってみたことがあった。

 

「へぇ、想像以上に素敵な家庭じゃない。それがどうしてこっちの道に?」

「どうしてと言われると困るな、反抗期を拗らせたのかも。結構難しいんだぜ、反抗期をどう乗り切るかって。子供ってやつは、反抗と甘えを行ったり来たりしながら、ジグザグに階段を上って成長するんだ。甘やかしてばかりいると一人じゃ何にもできないマンモーニで止まっちまうし、厳しくしすぎても今度は自立心が暴走して階段から飛び降りちまう。厄介だよ」

「ウーン、さすが、“息子”に手を焼いてる人の台詞は重みが違うね」

 

 ベイビィ・フェイスを直接ペコリーノに見せたことはまだなかったが、どういう能力かという大まかなところは、他のメンバーからの注意もあって耳に届いているらしい。

 メローネのスタンドはイルーゾォのように日常生活で使用できるものではないし、能力の特性上、()()()()()()ときは、人を殺す時だ。今回のように仕事で一緒になるか、メローネが仕事を持ち帰りでもしない限り、お披露目する機会はほとんどないだろう。

 

「ペコリーノも子供を作ればいい、親の大変さってやつがよくわかるぜ。一方で、クソみたいな遺伝子でも、教育次第でいい子に育つってところが最高に良いんだ」

「残念だけど、あたしは神様と結婚してるの」

「“処女懐胎”がしたくなったらいつでも声をかけてくれ」

「だったらその時の()()はあんたね」

 

 びしり、と至近距離で指を突き付けられたのと、思いがけない発言だったのとで、メローネは瞬きをした。マスクと擦れた睫毛の先が、かさかさと小さな音を立てる。

 

「変な意味じゃあないわよ。あたしを殺して終わり、じゃ済まさないってことよ」

 

 ペコリーノは勝気な色をその瞳に浮かべ、まるで宣戦布告でもするように付け加える。気持ち悪がられたり、罵倒されたりするのでもなく、こんな風に()()()()()と告げられるのは初めてのことで、メローネはなんだか可笑しくなってしまった。

 

「ハハハ、確かに! ペコリーノで作った“息子”は相当しつこく命を狙いに来そうだ!」

「そりゃそうよ。だって、あたしを殺して終わりだったら、メローネがあたしの罪を被ることになるじゃない。終点はあたしじゃなきゃあだめよ」

「あぁ、もっともっと性根の腐った奴だったら、ペコリーノは最高に、ディ・モールト良いんだがなぁ!」

 

 どうやらメローネに負けず劣らず、ペコリーノも寛容な精神の持ち主らしい。めいめい好き勝手なことを喋って会話がちっとも成立していなくても、旅の時間はゆるりと穏やかに流れていく。

 

「ねぇ、出発してからどれくらい経った?」

「まだ2時間も経っていないな」

「……」

「……」

「……Morra(じゃんけん)しよう」

 

 あとはどうやって暇を潰すか。

 合計数の予想を言いながら突き出された手の形に、メローネの身体は咄嗟に応える。こんなくだらない手遊びをした記憶は遠い遠い過去の物だったが、それこそ案外、列車の前方にでも転がっているのかもしれなかった。

 



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08.降灰の水曜日②

 

 一年を通して温暖な気候と豊かな大地に恵まれ、美しい田園風景が広がる南フランスは、大きくプロヴァンスとコートダジュールの2つに区分される。プロヴァンスと言えば、ブドウ畑やドーデーの戯曲“アルルの女”の舞台となったような内陸のイメージがあるが、一方のコートダジュールは“紺碧海岸”というその名の意味に相応しい、様々な青を塗り重ねたような海の臨める素晴らしい保養地だ。

 メローネとペコリーノの目的地であるニースは、このコートダジュールの中心的な都市だった。到着した頃にはすっかり夕方で、突き抜けるような青空ではなかったものの、西の空に微かなスカーレットの残映が漂っているのも悪くない。独特のオレンジ色の瓦屋根たちも、夕日を受けてきらめく蒼い地中海にとてもよく調和していた。未だ取り込まれていない洗濯物が風になびくその様ですらどこか風情を感じられるのだから、マティスやシャガールなどの芸術家がこぞってこの街に移り住んだのも実に頷ける。いつの時間、どこをどう切り取っても、絵になってしまう素晴らしい眺めなのだ。

 

「はぁ、ホント、どうして観光じゃあないのかしら……」

 

 最初から仕事だとわかっていても、期待する部分があったのだろう。重そうなスーツケースを石畳の上で転がしながら、ペコリーノが心底残念そうにぼやく。極端に荷物の少ないメローネでも、その意見は流石に同感だった。

 ニースは19世紀半ばまでイタリア王国の前身であるサヴォニア公国やサルディーニャ王国に属していたという歴史があるため、街並みの雰囲気は南イタリアとよく似ている。特に旧市街はマスタード色やくすんだピンクの壁など、見慣れた色彩の家々が並んでいたが、それでも非日常を感じてしまうのは長旅だったせいなのだろうか。

 

「パーティーは明日の夜だから、まずはホステルだな」

「最初の案じゃ、到着したその日に暗殺、そのまま弾丸直帰コースだったのよね。いや、やっぱどう考えても鬼畜すぎるわ……スッゴクお尻が痛い」

「まぁ、仕事の後は長居するものじゃあないからな」

 

 今回の暗殺対象は、フランスの政治家を親に持つ、いわゆる放蕩息子だった。別に、親の金と権力で道楽しているだけなら命を狙われることなどなかっただろうに、彼は酷い趣味の持ち主らしく、その悪辣な遊びに<パッショーネ>の者を巻き込んだことがボスの怒りを買ってしまったらしい。

 

「人質、っていうのかな? 被害にあった下っ端共は助けなくていいの?」

「ハハ、ペコリーノは甘いな。今回ボスが怒ったのは、()()()傷つけられたからじゃあないぜ。()()()傷つけられたからさ。恥さらしの方も、しっかり始末するように言われてる」

 

 リゾットの話を聞いていなかったのか?

 少し呆れてメローネが問えば、もちろん聞いてたわよ、と返ってくる。ペコリーノは先ほどからしきりに自分の尻を撫でさすっているので、相当に痛いらしい。

 

「依頼の確認をしたんじゃないわ。ほんとにいいのか、って話」

「良い悪いはオレたちの決めることじゃあない。これは忠告だが――」

 

 メローネの脳裏に浮かんだのは、罰と書かれた紙と、36個もの小包。そこから先のことは思い出したくない。残虐なことには慣れているはずのメンバーたちでさえ絶句させたそれは、いつまでも生々しく記憶に残っていた。

 

「ボスに逆らおうなんて、思わない方がいいぜ」

 

 当然、待遇には依然として不満があるし、それはどんどん悪くなる一方だ。ギャングが仲良しクラブではないとしても、ソルベやジェラートの一件は許せることではない。可能なら仇を討ってやりたいとも思う。だが、現状として、何一つボスに辿り着くための手掛かりはなかった。リーダーであるリゾットも――あれは非常に情の厚い男ではあるが――欠片も勝算が無いなか、チーム全員の命を賭けさせるような馬鹿ではない。

 メローネは半ば自分に言い聞かせるような気分で、ペコリーノの目をじっと見た。

 

「大人しくしていたほうがいい」

「……あんたたちとボスの間に何かあったってのは聞いた。だから皆、あたしを疑うだろうが許してやってくれって」

「そうさ、こっちはそれなりに身構えてたんだぜ。なのに、蓋を開けてみたらイカれた修道女(ソレッラ)だったんだ。拍子抜けした」

「一体……何があったの? リゾットは詳しくは教えてくれなかった」

「……」

 

 もう終わったことだし、あんたがホントに刺客じゃないなら関係のない話だ――そう突っぱねるのは簡単なことだったし、実際、旅の前だったらメローネはそう言っていたことだろう。

 日が落ちてくると、迷路のように複雑に入り組んだ通りにはあまり光が差さなかった。何も言わないメローネに、彼女がぴたりと足を止める。仕方なく、メローネも立ち止まって、彼女を振り返った。

 

「……オレたちの中に、ボスの過去を調べようとした奴らがいたんだ。一人は自宅のソファで、窒息死した状態で見つかった。もう一人は、生きたまま足のつま先から頭のてっぺんまで輪切りにされた挙句、ホルマリン漬けにされてオレ達のところへ届けられた」

「……」

「チームの間でも、二人はとびきり仲がよかったのさ。窒息死の原因はさるぐつわだった。目の前で親友が切り刻まれるのを見る気分は……一体どれくらい最悪なんだろうな」

 

 ペコリーノは酷い、なんて月並みな感想は漏らさなかったが、何かを堪えるような、苦い、苦い表情を浮かべて立ち尽くしていた。ソルベもジェラートも紛れもない人殺しで、十分に悪人だ。彼女の理論で言えば、他人に殺されてようやく()()()()ということになるはずだろう。それなのにそんな悲痛な表情をするのが、彼女の真に甘いところだった。だからメローネはもう一度言う。

 

「わかっただろう? ボスに逆らおうなんて思わない方がいい。少なくとも、ペコリーノにはそうする理由がない」

「あたしは、」

「早いとこホステルに向かわなくてはな。今日はしっかり寝て、明日は夜の仕事までは自由時間だ。そのつもりで大荷物なんだろう?」

 

 メローネはペコリーノの言葉を遮ると、前を向いて足を進めた。今度こそ立ち止まるつもりはない。彼女もそうと察したのか、それから程なくして、がらがらとスーツケースが石畳を転がる音が聞こえてきた。

 

 

 ▼△

 

 

 カリーナはわがままで、あまり他人の忠告を聞く女ではなかった。きっと、親の躾が良くなかったのだろう。十代前半で男と駆け落ちしてフランスに渡ってからは、カリーナではなく、フランス名の“カリーヌ”と名乗っていた。駆け落ちした男とあっさり別れて娼婦をやるようになってからも、その名前を気に入って使っていた。息子であるメローネですら、長い間母親の本名を知らなかったくらいだ。

 

 彼女は職業のことを差し引いても十分に恋多き女で、街のチンピラから政治家まで、常にいろんな男と関係を持っていた。普通ならば娼婦にもランクがあって、裕福な男たちは小汚い女など相手にもしないし、女だってその逆、自分より下の男には寄り付かないものだが、不思議なことにカリーヌは男によく()()()女だった。惨めったらしいチンピラ崩れと付き合っていた時は、彼女自身もそうした低俗な女に見えたし、反対に金持ちの情婦をやっているときは、それなりに品と教養のある女に見える。きっと、自分というものがないのだろう。だから自分の好みというものがなくて、付き合う男のタイプも様々なのだ。大事なのはSEXができるかどうかで、それさえできれば文句なし。色狂いの、どうしようもない女。しかし、それでもまぁ、メローネは産んでくれたことには感謝している。生まれてくることすらできなかった、可哀想な兄弟たちのことを知っているからだ。

 

「あんたの父さんはね、付き合った男たちのなかで、いっちばん素敵だった。だから、あんただけは産むことにしたのよ」

 

 母は幾度となくメローネにそう言った。言葉の上だけでなら、素敵なロマンスだ。頭と股の緩い女でも、過去に真剣に愛した人がいる。そしてその男の子供だけは産んだ。その話が彼女の中絶の度に繰り返されなければ、メローネだって少しは嬉しかっただろう。

 フランスでカトリックを信仰しているのは6割程度だ。毎週日曜日にミサへ参加するような敬虔さを基準にすれば、5%にも満たない。決して世間的に褒められたことではなかったが、イタリアよりはずっと中絶もしやすかった。

 

「なのに、どうしてあんたはあの人の血を受け継いでいながら、そんなふうなのッ! あの人に似ているのは髪の色くらいじゃないッ!」

 

 ばしん、と平手でぶたれるたびに、ぶった方も痛いというのは本当だろうか、と常々思っていた。父親に似ていない、と責められても、メローネは肝心のその父親を知らない。母は顔写真の一つも持っていなくて、メローネをぶつことはあっても、父親がどんな男なのかは少しも語らなかった。職業も、年も、髪色以外の容姿も、性格も、何も教えてくれないのに、似ていないからというただその理由だけで理不尽にぶたれた。しかし、メローネは別にそれでも構わなかった。子供をぶてるだけ元気があるなら、母さんはまだ良好だ、と。娼婦は性病に罹って衰弱することも多いし、あれだけ中絶を繰り返しているわりには元気で結構じゃないか。

 メローネは別に母親のことは嫌いではなかった。それどころかむしろ、女手ひとつで自分をここまで育て上げた、女性の強さというものを尊敬していた。問題は育て上げるための教育の質、ただそれだけなのだ。

 

 それでも、メローネは一応、小学校(エコール)まではまともに学校に通っていた。駄目にしてしまったのはその後の中学校(コレージュ)で、ここは1年ちょっとで退学になった。たまたま仲良くなった中に、ちょっとばかしタチの悪い奴がいて、母親似のメローネはよく()()()()しまったのだ。学校を辞めさせられたことはしばらく母親には言わなかったのだが、いつまでも隠し通せるものではない。やがて事が露見して、また母親に言われる。

 

「どうしてあんたはあの人の血を受け継いでいながら、そんなふうなのッ!」

 

 小学校(エコール)のときは受け流せた言葉が、そのときは酷く癇に障った。「あんたの育て方が悪かったんだよッ!」そう言って家を飛び出したメローネは、確かに反抗期だったのだろう。そのまま悪い仲間とつるんで、転がり落ちるようにどんどん悪事に手を染めた。悪に落ちるのに、必ずしも劇的な展開や理由など必要ないのだ。メローネの場合は特にそうで、数年後に麻薬(ドラッグ)の販売に手を出すようになってもなお、自分ではちょっとした“不良”のつもりだった。メローネは反抗期を拗らせてしまっただけで、彼にはまだ甘えがあったのだ。あの母さんが唯一産んだ子供なんだ、という甘えが。

 

 しかし、カリーヌにとってメローネが特別な息子だったとしても、他の者からすればメローネは少しも特別ではない。麻薬(ドラッグ)はたかだか反抗期の子供が手を出していい物ではなかった。当然その地域を縄張りにしていたギャングに捕まって、語るのも憚られるような酷い目に遭って、もう死んだと思った。命が助かったのは、たまたまそのギャング達のファミリーが、クソガキ一人に構っていられるような状況ではなかったからだ。そういう意味では、メローネは<パッショーネ>に救われたことになる。一度死にかけたメローネがわざわざ母親の故郷に一人引き返して、<パッショーネ>の門戸を叩いたのもそういう理由だ。そして彼はそこで、自分の内なる精神エネルギーである、スタンドという存在に出会う。

 

「お、落ち着けッ……! “ベイビィ・フェイス”! やめろ、早まるんじゃないッ!」

 

 メローネが発現したスタンドは、初めはただのコンピューターだった。説明書も何もない。だが、誰に教わらなくてもメローネにはその使い方がわかった。()()()()()と言ったほうがいいのかもしれない。誰に命令されるわけでもなく、メローネは適当な女を母体にして“息子”を作った。母親が子供を()()()のではなく、子供が母親を()()のだ。そうして“息子”は顔も知らない父親を捜しに行く。最高の教育さえ施してやれば、できないはずがない。メローネは自分でベイビィ・フェイスを育ててみるまで、自分はきっと良い教育ができるだろう、と思いきっていた。子供が親に何を求めているのか、子供だったメローネにはわかるはずだった。

 

 ――うるせーぞ、メローネッ、命令ばっかりしやがってッ! 上手く行かねーのはテメーの教え方が悪ィんだろうが! もうテメーの言うことは聞かねーぜッ! 

 

 画面に表示された文字列に、メローネは一体何度唇を噛んだことだろう。上手くいかない。確かに教え方が悪いのかもしれない。じっくり時間をかけて絵本を読んでやったり、褒めたり、励ましたり、思いつく限りのことは何でもやった。失敗しても強く責めず、一度だって“息子”をぶったりしなかった。メローネは何度も何度も失敗して、ようやくベイビィ・フェイスが使い物になった頃には、最初に配属されたチームで完全に浮いてしまっていた。それもそうだろう。いくらギャングと言えども、仕事でもないのに女を殺して回るメローネは狂人にしか見えない。だから暗殺チームに転属することになる、と聞いた時、メローネは少しほっとした。これでようやく“息子”が認められる。

 

 実際、いざ入ってみると暗殺チームはとても居心地が良かった。メローネのベイビィ・フェイスは相変わらず暴走することもあったけれども、ここには“息子”が産まれてくる理由が確かにある。父親がいっちばん素敵な奴でなくても、“息子”は“息子”自体の能力を望まれて産まれてくることができる。じゃれるとプロシュートは仲良しクラブではないと言うし、構えばギアッチョも母親面するなと喚くが、“子供”が望まれて産まれる環境というのは、立派な“家庭”と言ってもいいのではないだろうか。

 少なくともメローネはそう思う。だから、今のチームが置かれている状況が歯がゆいし、ソルベとジェラートの件は絶対に忘れない。いつかリゾットがボスを倒そうと言い出すのを待っているし、リゾットならば言うだろうとも信じている。そしてその時がくれば命を賭けたって構わないと思っている。

 

 人とは違う、自分の世界を持っているように見えて、案外メローネは()()()()()()性質なのだ。



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09.降灰の水曜日③

誤字報告ありがとうございました!




 

 

 男は生まれながらの貴族であったが、生涯のうち約30年もの期間を刑務所と精神病院で過ごすことになった。それはひとえに男の悪徳のせいであったが、男が生を受けたその瞬間から貴族であったように、醜悪な嗜好もまた、生まれついての性質だったのだろう。

 男は獄中にて鬱屈した衝動を執筆活動にぶつけ、神をも恐れぬおぞましい思想を次々と形にした。たとえば倒錯的なエロティシズム、たとえば徹底的な無神論。根底には道徳観や権威を否定するリベラル思想があったのだろうが、当然その内容は教会から背徳の罪に問われ、時の為政者ナポレオンの逆鱗にさえ触れたという。

 

 

「……まったく、フランスにはサド野郎が多いのかしらね」

 

 忌々しそうに漏らされたペコリーノの呟きに、それは風評被害だ、とメローネは思った。フランス人は確かに“自由”を愛してはいるが、“平等”や“友愛”もそれに並ぶものとして掲げている。全員が全員、マルキ・ド・サドのような悪徳の栄えを望んでいるわけではない。

 しかしながら、かの有名なサド侯爵ほどでないにしても、ここにいる人間が悪徳を好んでいるのは間違いなかった。この会はいわゆる趣味人たちの親睦パーティで、その趣味の内容は人体のパーツを芸術品として収集すること。メローネ達の仕事は、この会の主催者である男を殺すことであり、また男の秘密のプレイルームを突き止めて、そこにいる<パッショーネ>の恥さらしを抹殺することであった。

 

「個人的には全員殺してもいいと思うの」

「お断りだな。金にもならないし、疲れるだけじゃあないか」

 

 ペコリーノの能力も、メローネの能力も大人数を葬るのには向かない。ちまちま一人ずつ殺ってもいいが、プロシュートのように被害者が全く気づかないうちに、というわけにもいかないので取りこぼしも出るだろう。

 それに、厳密に言うとサド野郎は主催だけだった。男は自分の趣味の過程で出た廃棄物を、芸術という響きに酔っている収集家(コレクター)に横流ししている。そしてその中に嗜虐趣味の気がある者がいれば勧誘して、自らの狂宴に招待するのだ。

 

「いいか? この会場で用があるのは放蕩息子のリュシアン=ペサールだけだ。しかもただ殺して終わりじゃあない。オレ達は奴に近づく必要がある」

「わかってるって。リゾットにも今回は殴って解決するの禁止って言われてるから。ほんと、修道女(ソレッラ)に色を使わせるなんてバチ当たりよねぇ」

「え? 使えるのか? ペコリーノに?」

 

 確かに会場にはドレスコードがあって、彼女はいつもよりずっと露出の高い黒のマーメイドドレスを着ている。普段は私服も含めてゆったりとした服装ばかりだから分からなかったが、こうして見るとしっかり出るとこは出て、引っ込むところは引っ込んだ身体付きだ。ペコリーノはもともと目鼻立ちのはっきりした顔をしているし、化粧をすればより一層もっともらしく見える。今更ながら、艶々とした桃色の唇は目を引いた。

 

「そうか。あんた、顔面だけはまともだったな!」

「一番言われたくないやつに言われた~ッ! あたしだって、やるときはやるんだからね!」

「ヤる? 処女だろ?」

「そっちじゃあないわよ、このセクハラ男」

 

 ペコリーノは周りに聞こえない程度の音量で舌打ちすると、人が多く集まっている会場の前方――つまりはターゲットのいる方向へ視線をやった。

 流石にこの会場で堂々と人体の取引は行っていないものの、みんなリュシアンと繋がりを持とうとアピールに忙しいのだ。政治家の息子であるリュシアンには、金も権力もある。中には自身にそっちの趣味が無くても、彼に気に入られるために話を合わせている奴も当然いるだろう。

 メローネは改めてペコリーノを上から下まで見下ろして、考えた。ハニートラップは黙ってそこに立っていればいい仕事ではない。口の上手い下手という次元を超えて、彼女の場合は口を開けば致命的だ。

 

「競争率は高そうだが……ペコリーノ程度で相手にされるか?」

「まぁ見てなさいって」

 

 そう言って彼女は両目をぎゅっと瞑り、それから例のあの、聖書の形をしたスタンドを発現させた。「おい、」ちょっと待て、殴って解決は禁止されているんじゃあなかったのか。続けようとした言葉は、そこからさらに彼女が聖書のページを一枚破りとったことで呑み込まれてしまう。

 

 他の誰かがやったら激怒しそうなその行為を、まさか彼女本人がやるとは!

 しかし、何のために――?

 

 思いがけないペコリーノの行動に戸惑っているうちに、彼女はさっさとターゲットの方へ歩き出していってしまう。後に残されたメローネは茫然としながらその姿を見送り、ややあって深いため息をついた。

 

「……ウインクの一つもできないとは絶望的だな」

 

 

▼△

 

 

 イタリア人というのは、地縁を殊更に重んじる性質を持っている。別々の小国の集まりが一つの国になったという成り立ちのせいか、イタリア人という一括りではなく、シチリア人、ヴェネチア人、サルデーニャ人、といった地元に強く結びついた意識が強いし、食だってジェノヴァ料理、トスカーナ料理と、地域ごとのものとして捉えている。地域愛で言えば、ギャングも地域の互助関係から生まれた、自衛組織が始まりだと言われているくらいだ。

 

 そして地縁を重んじるならば、当然それ以上に血縁をも重んじる。皆、地元の料理が一番美味いと思っているし、もっと言うならそれはママンの作る手料理だ。代々続く、自らの姓に誇りを持っているし、結婚しても親子の関係性はずっと密なまま。子供が成人しても、毎日電話をしたり、毎日夕食を共にしたりというのは特に珍しいことではない。

 イタリアは家族が大好きなお国柄なのだ。だから、不幸にもそういう関係に恵まれなかった者は、家族(ファミーリア)なんて呼称で結束するのかもしれない。

 

 

「嘘だろ……まさかな。ハハ……」

 

 メローネが<パッショーネ>の家族(ファミーリア)になって、まだ暗殺チームに転属する前のこと。

 当時のメローネはベイビィ・フェイスをものにするために、多くの男と女を必要としていた。その際、意外にも集めるのが難しいのは男の方で、こちらはまず殺さずに血液を頂く必要がある。その時はまだ、どういう遺伝子の組み合わせがいいのかもわからなかったから、街のチンピラから政治家まで――それこそ色狂いの母親がそうしていたように、できるだけ様々なサンプルを集めるようにしていた。

 そしてそのあちこちから集めたサンプルたちの中で、メローネはひとつ、自分のDNAと非常によく似た男を見つけてしまったのだ。

 

 運命のいたずらか。そう言ってしまうのは簡単だが、実際、メローネはこの結果を期待していた。その証拠にメローネはサンプルを選別する際、自分と親子ほど年の離れたフランス人の男ばかりを狙っていたのだ。しかしながら別に、父親が憎くて殺したかったわけではない。ただ、知りたかった。あの母親が()()()()()()()と認め、メローネが目指すべきであった男のことを知りたかった。

 

 自分の父親を知りたい、と思うのは、家族(ファミーリア)を愛するイタリア人でなくても普通の感覚だろう。特に、メローネは父親に虐待を受けたような悪い思い出があるわけでもない。母もいろんな男と付き合っていたし、正式に結婚していたわけではないのだから、自分は父親に捨てられたのだという劣等感も恨みもなかった。

 

「でも、これは一体どいつの血液なんだ……? バーで飲んだくれていた男か? それともホテルのロビーに座っていた裕福そうな男か?」

 

 メローネはベイビィ・フェイスからサンプルの入った小瓶を取り出すと、目の高さまで持ち上げてしげしげと眺めた。残念ながら、現状手元にあるのは血液だけで、この持ち主がどんな男かはわからない。メローネがベイビィ・フェイスを使用していた目的は能力を使いこなせるようになることで、父親捜しは運が良ければ、くらいのものだ。いちいち事細かに素性を確認して、採取をしていたわけではない。

 

 けれどもメローネはまだ、父親にたどり着く術を持っていた。簡単なことだ、ベイビィ・フェイスに追跡させればいい。未だ満足に教育できた試しはなかったが、もしかすると()()()()()()()()男の子供なら、親を殺したりなんてしないかもしれない。

 メローネはそこまで考えて、今度は母親を誰にするべきか頭を悩ませた。ベイビィ・フェイスにおいて、真に重要なのは母親だ。()()()()()()()()男の相手ならば、女も同様に()()()()()()()でなくてはいけない。

 では、イタリア人にとって、()()()()()()()()女性とは一体誰なのだろうか……。

 

 

 

 

 

 □『美味しそう』とは、一体なんですか?

 

 ピッ、という電子音と共に、画面上に表示された文字。覗き込んだペコリーノはそれを読んで、わけがわからないと言わんばかりにメローネの顔を見た。

 

「……いいだろう。今回の“息子”は随分とのんびり屋だったから心配したが……学習するかい?」

 

 煌びやかな会場とはうって変わって、照明の乏しいホステルの一室。安く済ませるために共用のドミトリーではなく、個室を選んで正解だった。ペコリーノもメローネも既に会場を辞していつもの格好に着替えており、あとは“息子”が追跡を開始してくれるのを待っている状態だ。

 メローネは数少ない荷物の中から一冊の絵本を取り出すと、ベイビィ・フェイスの親機に向かって広げて見せる。

 

「これがライオンさん……動物の王様だ。鼻の長いゾウさんに、首の長いキリンさん。草を食べているのがシマウマさん。シマウマさんは腹が減ると草を食べる。なぜならシマウマさんにとって草が ()()()()()だからだ。ゾウさんもキリンさんも、草を食べる。じゃあライオンさんは何を()()()()()だと思うのかな?」

 

 ぺらり、と一枚ページをめくると、そこにはライオンが草食の動物を食い殺している絵が描かれていた。ゾウやキリンですらその大きな体を地に横たわらせ、喉笛を食い破られた無残な姿を晒している。シマウマの生首をくわえたライオンは、酷く満足そうに獲物を味わっていた。

 

「これが()()()()()ってことだ。わかったか? お前だって腹が減るだろう。そのとき何か見て湧いた感情が()()()()()で、皆、腹を満たすために他の生き物を()()んだ。それは皆やってることで、ちっとも悪いことじゃあない」

 

 □はい、メローネ。

 ぼくもお腹が空きました……。お母さんも、空いてるみたい。

 

「……お前のお母さんは何を見て、()()()()()って言ったんだ?」

 

 □目の前にいる、生き物です。

 お母さんと同じかたち……同じかたちの生き物を食べるのも悪いことではないですか?

 

「もちろんだとも! ライオンさんがライオンさんを食べちゃあいけないってことはない!」

 

 メローネの返事に、後ろでペコリーノがうげっ、と声を漏らした。仕方がないだろう。あのパーティに来ているような女が、まともな女であるはずがない。サディストからいい人体パーツが流れてくるとなれば、人肉嗜食家(カニバリスト)の一人や二人、いてもおかしくはなかった。

 

 □ぼくも、お母さんを食べてもいいですか?

 ()()()()()……とても、()()()()()

 

「うーむ、まだ少し早い気もするが、良いぞッ! 今回は追跡が目的だからなッ!」

 

 メローネが許可すると、そこで一旦通信は途切れた。“息子”はあっちでお楽しみの最中だろう。「どいつもこいつも、ちょっとやそっとじゃ救えない奴ばっかりね」言いながら、ペコリーノがぽん、と何かを投げてよこす。

 それは彼女がリュシアンから()()()()()被害者の指で、サンプル分の血液を採集してもなお、まだ生々しく血の通ったものだった。

 

「まだ捨ててなかったのか?」

「どうせこれからこの持ち主のとこに行くんだから、返却してやろうと思って」

「おそらく、ベイビィ・フェイスはこの男も殺すぞ。今まで、父親を殺さなかった試しがない」

「……あんたのスタンド、ほんとどうなってんのよ」

「教育については今見せた限りだ。今回も立派に育ったようだな」

「……」

 

 ペコリーノは呆れた顔をしたが、スタンドについて聞きたいことがあるのはこちらも同じだ。彼女はリュシアンに近づいて、まんまと彼のコレクションを頂いてきた。それも盗んだわけではなく、じきじきにプレゼントという形で。

 彼女のコミュニケーション能力と信条からして、まさかサディズムに共感してみせたわけではないだろうし、何かしらのスタンド能力を使ったのは間違いないのだ。聖書を大きくする、以外の使い方で。

 

「さぁ、オレも見せたんだから、ペコリーノの能力について教えてくれてもいいだろう? なんだったか、えっと――」

「バイブル・ベルト」

「それだ。リゾットは知っていたのか? 他に使い方があるって」

「チームに入ってすぐに教えたわけじゃないわ。能力は簡単に人に明かすもんじゃあない、そうでしょ?」

「じゃあ知ってるのはリゾットだけか?」

「と、ホルマジオとイルーゾォとプロシュートとペッシ」

「おいおい、オレとギアッチョ以外、みんな知ってるじゃあないか!」

 

 なんてことだ。

 メローネが大げさに驚いてみせると、ペコリーノは微妙に気まずそうな顔になる。

 

「別に、わざとハブったわけじゃない……飲みの席での話だったの。よくわからないけどギアッチョはあたしのこと嫌いみたいだし、あたしが飲みに参加してると外へ行くでしょ。メローネはそれに付き合って、一緒に出掛けてた」

 

 確かに言われてみれば、そういう機会は結構あった。ギアッチョは未だにペコリーノの存在を受け入れていない。逆に他の皆がペコリーノを受け入れることで、疎外感すら感じ始めている。メローネはペコリーノに対して好悪のどちらの感情も抱いていなかったが、付き合いの長いギアッチョのほうを優先しただけだ。面と向かって言えばまたキレられるだろうが、チームの仲間を――“家族”をひとりぼっちにするのは良くない、と思っただけだ。

 

「あたしのスタンド――バイブル・ベルトはその大きさを自由自在に変えられる。攻撃には殴るくらいしか使えないけど、強度は抜群だから防御にはうってつけ。……そしてもうひとつ、聖書にちなんだ能力がある」

 

 ペコリーノはスタンドを出すと、無造作に開いたページをまた、一枚びりっと破いた。そしてそれをメローネに渡す。紙にはこう書かれていた。

 

 

 求めよ、さらば与えられん

 尋ねよ、さらば見出さん

 門を叩け、さらば開かれん

 すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり――

 

 

「マタイによる福音書の7章よ、知ってるでしょ? それを相手の身体にペタッと貼る。すると、向こうはあたしが必要としているものを与えてくれる。具体的に何をくれるかは指定できないけれど、今回だったらメローネが男の秘密の部屋を特定できるように、被害者の指が渡された」

「……聖書にある文言の行為を強制させる能力なのか?」

「だいたいあってる。だけど、死人を復活させるようなことや、世界や生命を創造するようなことは無理。それは、それだけは神様の領分だから」

 

 なるほど、それはその通りだろう。「へぇ……面白いな」メローネは本心から呟いたが、ペコリーノは少しも得意そうではなく、むしろどこか沈んだ声を出した。

 

「そう? あたし、こっちの能力はあんまり好きじゃあないのよ」

「殴って解決する方が、性にあってるって?」

「違う! 信仰ってのは押し付けられるんじゃあなくて、内側から勝手に湧いてくるべきだからよ」

「ははぁ、理想主義者だな」

「お互いね」

 

 ピッ、という音がして、メローネはベイビィ・フェイスに視線を戻す。教育さえよければ立派に育つ、というのもまた、ただの理想でしかないのだろうか。自分がなれなかった親の期待に沿う“素晴らしい息子”を、ベイビィに押し付けているのだろうか。

 

 □お父さんのDNAは現在動いていない……。

 東の方向のある場所で、静止している。

 

 ベイビィからの連絡に、メローネは口角を上げた。いちいち指示をしなくても、もう父親のことを探しているなんて良い息子だ。それか、子供が親を探し求めるのは本能なのか。

 

「ディ・モールト良し! 追跡開始だ!」 

 




※[ 出典 ]
『新約聖書』-「マタイによる福音書(マタイ伝)」7章7節



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10.降灰の水曜日④

「Tシャツ1枚だ」

 

 大きなドラム缶が立ち並ぶガレージは、すえた油と独特な溶剤のにおいに満ちていた。頼りになるのはナトリウムランプのぼんやりとした橙色だけで、全体的に肌寒く、薄暗い。

 ガレージの奥のほうに視線を移せば、大きな作業台とミシンが置かれているのが見えた。ちょっとした工房のようになっているのかもしれない。よく見ればご丁寧に、手作りの看板まで掲げられていた。

 

 ──E.ゲインのこだわり皮工房

  世界にひとつしかない製品をあなた()

 

 ニコロが<パッショーネ>のフランス支部からここに拉致されてきたばかりの頃だったなら、それを単なる誤植だと思っただろう。工房の主らしいE.ゲインという男は、名前からしてフランス人ではなかったし、くだらない文法上のミスだと思ったに違いない。

 しかしながら今は、それがミスでも趣味の悪い冗談でもなんでもないことを知っている。

 ニコロは天井から逆さまに吊り下げられ、罠にかかった野兎のようにぶるぶると震えるしかなかった。そこにはロープもフックも何も存在しないのに、ニコロは確かに見えないものによって宙づりにされていた。

 

「……Tシャツ1枚だぞ、クソ。まったくもって信じられねぇ」

 

 E.ゲインは先ほどから、工房とガレージを行ったり来たりして、ぶつぶつと悪態をついていた。せわしなく歩き回る彼の手には、刀身が薄く、やけに反り返ったナイフが握られている。その先端は丸かった。獲物の皮を引っ掛けて傷つけてしまわないよう、削ぐことに特化した形状だ。

 

「Tシャツ1枚で450ドル……お前、それ聞いてどう思う?」

 

 不意に、ぴたりと靴音がやむ。立ち止まったE.ゲインは、まるでたった今その存在を思い出したばかりのようにニコロに向かって話しかけた。ぎらついているのに、どこか虚ろな目だ。

 見つめられると喉の奥がぐっと詰まったような感覚になって、ニコロは小さく喘鳴することしかできない。

 

「ン~? ドルじゃあピンとこねぇか? なら、100万リラって言やぁわかるか?」

 

 E.ゲインはナイフの腹をぺしぺしと自分の手のひらに叩きつけながら、ゆっくりと近づいてきた。何か、何か答えなくては。そう思うのに、身体は金縛りにでもあったかのようにピクリとも動かない。宙づりにされてから、ずっとそうだった。ニコロの身体は瞬きや排せつといった、生理現象まで止めてしまっている。たとえ恐怖心に打ち勝ったとしても、返事などできるはずもなかった。

 

「なァ~~どう思うって聞いてんだよ。高ぇよな? お前もTシャツ1枚で100万リラは高けぇって、そう思うよなッ!?」

 

 瞬間、目の前が真っ暗になって、暗闇の中に大きな火花が散った。顔面が燃えるように熱い。だらりと何かが鼻から垂れて、眉間を流れていく。じんじんとした痛みが遅れてやってきた頃になって、ニコロはようやく蹴られたのだと理解した。流れきれなかった鼻血が逆流し、せき込むこともできずに溺れそうになる。「おいおい、手間かけさせんなよなぁ」それを見たE.ゲインはまるで赤子の鼻をかんでやるかのように、親指と人差し指でニコロの折れた鼻をつまんだ。

 

「ま、お前の言いたいことはわかるぜ。GUCCIかなんだか知らねーけどよ、要するにTシャツなんてただの布だろォ? コットンだ。別に特別貴重な素材を使ってるわけでもねェ。あんなモン買うやつはどうかしてるぜ……オレはどうしても納得がいかねぇ」

 

 顔の真ん中で、ぐちゅり、と嫌な水音がした。けれどもおかげでニコロは溺れずに済んだ。

 E.ゲインは血で濡れた自分の指先を見ると、ポケットからハンカチを取り出して拭う。それは一目でわかるほど滑らかな質感をしていて、ハンカチというよりも眼鏡などを拭くクロスのように見えた。

 

「そこで、だ。オレは値段と釣り合うだけの価値がある、本当に一級品の服を拵えようって考えたワケだ。今着ているやつもお気に入りだし、もちろんこれだってオレが作ったんだぜ? すげえだろ」

 

 くるり、とその場で一回転したE.ゲインは、光沢のあるジャケットとパンツを得意そうに見せびらかした。牛革とも、合皮とも違う、独特の深みのある色合い。「薄い皮だからな、何層にも重ねて縫うんだ」ニコロは叫びだしたかった。たとえ無駄だとしても、助けてくれ、と命乞いしたかった。目の前の狂人を──自分の運命を、神を呪う言葉を吐き出したかった。

 E.ゲインが血を拭ったお気に入りのハンカチを、あっさりと床に投げ捨ててしまうまでに。

 

「でもまぁ、何事にも欠点はある。オレの作品の場合、洗濯機で洗えねぇってこった。いちいち手洗いしなくちゃならねーもんで手間だからよ、その分、洗い替えは多く持っておきたい。わかるだろ?」

 

 熱を持った顔面にあてがわれた刃物は、身も凍るほど冷たかった。

 

 

 

 

 ベイビィ・フェイスの父親──切断された指の持ち主は、メローネたちの止まるホステルからそう遠くないところで発見された。

 今はもう使われていない小さな工場は、かつては皮なめしが行われていたのだろう。ニースから西へ30キロも行けば香水の聖地とよばれるグラースがあるが、そこだって元は皮産業で栄えた街だ。革手袋の独特の匂いが肌に残るのを、高貴なご婦人たちは香水で打ち消したのだという。

 生憎、ここの工場は生まれ変わることはできなかったようだが、併設された住み込みの工員のための宿舎も丸ごとそのまま、サディストたちのプレイルームと化しているらしかった。

 

□1階に侵入できました。1階は物置として使われているようです。家具や衣服がたくさん置いてあるので、紛れています

 

「いいぞ、お前の父親はどこにいる? まだ生きてるんだろう?」

 

□はい。ガレージに一番近い角部屋。そこに父さんはいます

 

 今回の目的はリュシアンを殺すことだけでなく、捕らわれた<パッショーネ>の恥さらしを始末することも含まれる。ベイビィの父親がまだ生きているのなら、そこは監禁部屋と考えるのが妥当だろう。一緒に恥さらしがいる可能性も高い。

 侵入を命じると予想通り、ベイビィからはたくさん人間がいます、と返ってきた。「よし、全員殺すんだ」いちいちどれがパッショーネの構成員か確認している暇はない。そもそもメローネたちは、ファミリーの誰が連れ去られたのかも知らされていない。フランス支部の間抜けが、とだけ。間抜けがどこのどいつだろうと知ったことではない。

 しかし、次に来たベイビィからの通信は、これまでの順調さを裏切る報告だった。

 

□メローネ、父さんを分解できません。父さんだけでなく、他の人間たちも

 

「なんだって? そいつはどういうことだ……? 状況を説明しろ、ベイビィ・フェイス」

 

□父さんは今、天井から逆さまに釣られています。生きてはいますが、裸で、全身真っ赤です。肌色の部分がない。この部屋にいる人間は全員そうです

 

「肌色の部分がないって、なに? どういうこと?」

 

 背後から画面をのぞき込んでいたペコリーノが、不思議そうに首を捻る。短絡的にすぐ手の出るタイプの彼女は、じわじわ甚振るような拷問方面になかなか思考がたどり着かないらしい。「皮を剥がれているのかもな」メローネが興味なさそうに答えると、彼女は眉をしかめ、げぇ、と吐く真似をした。

 

「だが、それでどうして分解できないんだ? 他に何か気づいたことは?」

 

 メローネは落ち着いてベイビィに様子を尋ねる。不測の事態が起こったときこそ、大人は子供の分も冷静でいなければならない。

 幸いにも、今回のベイビィはとてものんびりとした性格だったようだ。自分の攻撃が通じなくても、特に癇癪を起こした様子はない。

 

□分解はできませんが、試しにかじってみると抉れました。でも、死にません。喉笛を噛み切ってもまだ生きています

 

「……それで?」

 

□父さんはとても美味しいです

 

「そいつはよかったな!」

「あ~~マジでまともな奴がいない」

 

 後ろでペコリーノが煩いが、子供を認めてやるのはすごく大事なことだ。小さいときに親から認められなかった子供は、どうしても不安定になりやすい。何をやっても自分は駄目なのだと、すっかり自信を無くしてヤケになったり、反対に自分では何もしようとしなくなる。メローネはベイビィをそんな風にはしたくなかった。せっかくの自動操縦型のスタンドなのに、自分で何も考えられない息子にするなんて間違っていると思う。

 

□メローネ、どうやら隣のガレージに父さんを吊るした男がいるみたいです。様子を見ますか?

 

「あぁ、そうだな。そうしてくれ」

 

 その点で言うと、今度のベイビィは教育に成功したらしかった。思わず笑顔になってしまうが、どうやら楽しんでいるのはメローネだけらしい。ふと、さっきまで背後にあった気配が離れたのを感じ、メローネは振り返る。

 ちょうどペコリーノはその手にスタンドを発現させ、部屋から出ていこうとしていた。

 

「おいおい、どこに行くんだ」

「もういいでしょ? 場所もわかったことだし、あたしが行ったほうが早いわ」

「今、いい感じじゃあないか。ベイビィの邪魔をするなよ」

「いい感じって、チャットだけじゃ全然様子がわかんないのよ。それカメラ機能とかついてないわけ?」

「ベイビィの自主性を尊重してるんだ。常に親の監視の目があるなんて最悪だろ」

「それじゃ参観日もたまにはあるべきね。行ってくる」

 

 彼女はあっけらかんとそう言うと、聖書のページを躊躇いなく一枚破り取った。

 

 ──わたしは裁きのためにこの世に来ました。

  それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。

       【ヨハネの福音書 9章39節】

 

 彼女がそれを彼女自身の背中に張った途端、その姿はメローネの視界からかき消える。

 

「あっ、おい」

()()()()()()()()わよ」

 

 妙なことを言う。

 しかしペコリーノの言ったことは本当で、目を閉じれば本来そこには瞼の裏側しかないはずなのに、彼女の姿だけが暗闇に浮かんで見える。驚いて目を開ければ、そこには誰も見えないというのに。

 

「じゃあね、お先に」

 

 聞こえてきた声とともに、ひとりでに開いたドアがぴたりと閉じられる。止める間もなかった。

 メローネは肩を竦めると、画面に視線を戻す。「まったく、ベイビィより聞き分けが悪いんだからな……」一緒に組むことにはなったものの、なにもリゾットからつかず離れずで彼女の面倒を見ろと言われたわけではない。単独行動の結果、仮に彼女が死んだとしてもそのときはそのときだ。残ったメローネが仇をとればそれで終わり。第一、(おや)の言うことを聞かなかった(こども)がひどい目にあったとしても、それは当然の帰結だろう。

 メローネはチームのことを気に入っていたし、一般人の抱く家族(ファミーリア)に近い感情すら抱いていたが、一方でとても冷めていた。家族は別に永遠でもなんでもない。それくらいのことは十分に理解している。

 

□メローネ、

 

「ん? どうした? 何かあったのか?」

 

□ガレージです。男が、男を吊っている。どちらも写真にあったリュシアンとは違います

 

 ベイビィからの報告に、メローネは少し考える。

 

「……なるほど、サドのお仲間ってわけか」

 

 確かにいくらリュシアンが金持ちの息子だろうと、これだけのプレイを実行するには金だけではなんともならないだろう。同じ趣味の協力者がいたとしても、なんら不思議ではない。

 

□ナイフを持った男が、吊られている男の表面を削ぎ始めました。あぁ、美味しそう……見てるとお腹が減ってきました……食べてもいいですか?

 

「待て待て。まずはどうしてさっき分解できなかったのかを調べるんだ。他のものは分解できそうなのか?」

 

□メローネ、お腹すいた……

 

「わかったわかった、食べるならさっきの部屋のやつにするんだ。そのナイフの男は怪しい、得体の知れないうちに攻撃するのはよせ」

 

□わかりました。一度戻ります

 

 このベイビィはかなり珍しいことに、とても聞き分けがよかった。母体となった女はたまたま嗜好が最悪だっただけで、性格までは悪くなかったのかもしれない。食人俗(カニバリズム)には様々な理由があるが、愛や好意ゆえに相手を自分の体に取り込みたいタイプもいるからだ。

 けれども、ベイビィが言うことを聞いてくれてほっとしたのも束の間、突然画面に切羽詰まった文字列が表示される。

 

□痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!

 

「ど、どうした、ベイビィ・フェイス!?」

 

□ぐぎぎ……足元からフックが突然……! 吊るされています! 指の一本たりとも動かせないッ!

 

「そんな、スタンド使いだったのか!?」

 

□メローネ! あいつが、あいつが近づいてくるッ! どうして!? ぼくは──ぼくはちゃんと、戻ろうとしたのにッ! メローネがそうしろって言ったのにッ、ギ、ギャアァアアア!! 

 

「……」

 

 メローネは無言のまま、ベイビィ・フェイスの親機を抱えて立ち上がった。ペコリーノに投げ渡された指の断面は乾き始めていたが、まだ使える血は残っているだろう。

 

 特別悲しむ必要はない、”息子”はその気になれば何回だって作れるのだ。家族は別に永遠でもなんでもない。

 ちょうど、メローネの母親がそうしていたように──。



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11.降灰の水曜日⑤

 フランス人のサッカー好きは、第一次世界大戦の頃から続いているらしい。発祥がイギリスであることから国技と言えるかまでは意見がわかれるが、国内リーグの充実ぶりを見ても、国民的スポーツであることは間違いないだろう。

 

「すいませーん!」

 

 芝生が美しい運動公園の、麗らかな休日の昼下がりのことだった。持ち主から逸れてころころと転がってきた白黒のボールを、メローネは片足で止める。 

 今日の格好はいたって普通のシャツにパンツだったので、少年は気軽に声をかけることができたのだろう。大きく手を振ってアピールした少年に向かって、メローネはボールを蹴り返す。強すぎず、弱すぎず、ちょうどいい加減でボールは少年のもとへ帰り、ありがとうございます! と気持ちのいいお礼が返ってきた。その奥で少年の親らしい男性が、ぺこりと頭を下げる。

 メローネはそれに片手をあげて応えると、近くのベンチに腰を下ろして親子が仲睦まじそうにサッカーの練習をするのを眺めていた。

 

 

「先ほどはありがとうございました」

 

 それからニ十分ほど経った頃だろうか。さすがに子供の体力に付き合うのはつらいと見えて、父親のほうが休憩がてらメローネの座るベンチにやってくる。ペットボトルに口をつけ、汗を拭った彼は、確かに小学生の子供を持つ父親にしては少し老けて見えた。

 

「可愛い息子さんだな」

 

 メローネは緊張を悟られないように、努めて明るくそう返した。平静を装った自分の声が、やけに高く耳に残る。それでも何食わぬ顔をして、男が腰を下ろせるようにベンチの端のほうへと身体をずらした。

 

「ありがとうございます。妻によく似た子でして」

 

 男の言う通り、少年は艶のあるきれいな黒髪をしていた。隣に並んでみると、男のブロンドとメローネのほうがよく似ている。

 

「男の子は母親に似ると言うからな。オレ自身も、ちょっと思い当たるところがあるし」

「そうなんですか」

「ああ、遺伝って不思議だよ」

 

 他にも似ているところがないか。

 確かめたいような、確かめたくないような、複雑な気持ちで結局どこでもない遠くを見つめるしかなかった。一人になった少年は、リフティングの練習に切り替えたらしい。ぽんぽん、と危なっかしく跳ねるボールを見ながら、メローネはまた世間話を装って口を開く。

 

「そういや、兄弟はいるのかい?」

「それが恵まれなくて。実は二度目の結婚なんです。相性ってあるんでしょうね。二度目でようやく授かった子なんです」

「……そうか。それじゃあ本当に可愛いだろうね」

「ええ、目に入れても痛くないとはこういうことを言うのかと」

 

 そう言って照れくさそうにはにかんだ男は、確かに素敵な男だった。調べた限りごく普通の会社員で、これといっていいところも悪いところもない平凡な男だ。メローネ自身、自分がいつこの男からサンプルを採取したのか、はっきりと思い出せないくらいどこにでもいそうな男。だが、”父親”の顔をした男の笑顔を見て、平凡さこそが()()()()()()()なのだと痛感した。むしろどうして母さんみたいな女と関係していたのかのほうが不思議なくらいだ。もしも母さんがあんな色狂いでなければ、ごく普通に妊娠のことを伝えて、二人はそのまま結婚して、穏やかな家庭を築けていたのかもしれない。メローネが彼の最初の息子で、いっちばん可愛い子供だったかもしれない。

 

「やっぱりオレは……アンタみたいな人になれそうにないよ」

 

 喘ぐように思わず漏れた呟きに、男は少し怪訝そうな表情になった。それもそうだろう。メローネは苦笑して首を振る。「えっと、彼女のおなかの中に子供がいるんだ。それでちょっと不安になってるんだ、オレが産むわけでもないんだけど」すらすらと口をついて出た嘘に、内心でますます気持ちが沈むのを感じた。目の前の善良そうな男は、きっとこんなにも嘘がうまくないだろうから。

 

「あぁ、なるほど。確かに親になるというのは、男にとっても大きな出来事ですからね」

「うん」

「でも、生まれてきた子供は可愛いものですよ」

「……親の言うことを聞かずに反抗ばかりして、どうしようもない悪ガキに育ったとしても?」

「ええ」

 

 男は迷いなく頷いた。その瞬間、とっくに終わったはずの“反抗期のメローネ”が心の中で“綺麗事だな! ”と冷ややかに笑った。じゃあ今ここで、自己紹介してみるかい? 信じるかどうかはわからないけれど、少なくともカリーヌという名の女を欠片も覚えていないなんてことはないだろう! ちょうど最近、その女は死んだぜ、アンタに三人目の可愛い子供を残してな。よかったじゃあないか! 

 まるで暴走したベィビィだ。メローネは一度口をぎゅっと引き結んで、癇癪の嵐の中から比較的マシそうな言葉を必死で探した。子供が癇癪を起こすのは、甘えがあるからだ。期待があるからだ。真に望んでいるのは、善良な父親をあざ笑うことではない。

 

「……へぇ、たとえば人殺しをするようなクズでもかい?」

 

 結局、選びに選んだくせに、そんないかにも子供じみた極端な問いしか出てこなかった。仮にそんな子はおぞましい、と言われれば、自分のやってきたことは棚に上げて一人前に傷つくのだろう。反対に、どんな子供でも愛するなんて言われれば、それはそれでやっぱり自分は父親似ではないのだ、と突き付けられる気がした。まったくもって不毛な質問だ。

 

「それは……それは流石に赦されることではないけれど、だからって嫌いになんかなれませんよ」

 

 メローネの言葉に、男は弱ったように眉尻を下げた。どうやらこんな馬鹿げた質問でも、真剣に答えてくれるようだった。

 

「たとえ子供が間違ってしまったとしても、それは子供のせいじゃあありません。教えてあげられなかった、親の責任です」

「それって、つまり……親の教育が大事ってこと?」

「はい。……ああっ、これじゃあ逆に責任重く感じてしまいますね、すみません!」

「……」

 

 慌てた声を出す男に、メローネは肩を震わせた。ぐにゃりと不自然に歪んだ口元は片手で覆って隠したとして、目元は隠せない。「……っ、くくっ、あはは、アンタ、マジに最高だな!」やっぱり、今日もマスクを持ってくればよかった。腹を抱えて笑いすぎたふりをして、目元をさっと指で拭う。

 

「……フフ、ありがとう。アンタのおかげで、ちょっと気が楽になったよ」

「そ、そうですか。それならいいんですが……」

「あぁ、アンタは今まで会ったなかで、()()()()()()()な父親だと思うぜ」

 

 だから、もういい。もう十分だ。そうだろう? メローネは自分に問いかけた。何もかもぶちまける必要はない。もとより、オレは父さんを恨んじゃいない。あそこで何も知らずにサッカーをしている少年だって、なんにも悪くない。

 “反抗期のメローネ“は何も言わなかった。何も言わないことこそが答えだった。

 

 

「パパー、休憩長いよォ」

 

 そのとき、いつまでも休憩から帰ってこない父親に業を煮やしたらしく、少年が不満の声をあげる。「あぁ、ごめんごめん、今行くよ!」これっぽっちも羨ましいと思わないと言えば嘘になるが、少なくともメローネは満足していた。

 

「それではすみません、あなたもあまり思いつめないで。偉そうに語りましたが、なんだかんだ子供というのは勝手に育つものでもありますから」

「あぁ、うん。そうだな」

 

 親子が再び、サッカーに興じるのをメローネはしばらく見つめていた。そして、ややあって決心したようにスタンドを発現させた。PCの本体のほうだ。成長し、父親を見つけたベィビィはここには連れてきていない。正直なところ、今回はどこまで制御しきれるかわからなかった。

 

「……“兄弟”。聞いてるか」

 

 正真正銘、あの人の遺伝子と母さんの体から生まれたスタンド。こちらの“息子”も母親似なのか、気まぐれで掴みどころのないやつだった。

 

 □……父さんを殺す気になったんですか?

 

「まさか。あんないい父親を殺す理由がないだろ」

 

 □そう……

 

「だから、すまない」

 

 □……構いません。あんたも結局、母さんと同じことをする

 

 そのメッセージを最後に、ぶつん、と画面が暗くなった。メローネがベィビィを終わらせたのだ。

 

「そんなことは知ってるさ。でも、髪色以外に父さんに似ているところもあったんだぜ」

 

 

 

 

 こいつは面白いものがかかった、とE.ゲインは舌なめずりをした。フックに引っ掛かった生き物が人間でないのは一目ですぐわかる。しかし目の前のこいつは人の言葉を話すし、ちょっぴり削いでみた感じ、どうやら痛みも感じているようだ。皮膚らしい皮膚がなく、削ぐとぱらぱらと崩壊してしまうのが残念極まりないが、E.ゲインは興奮していた。 

 おそらく、こいつは自分の能力──スリフト・ショップと似たようなものだ。自分のがフックという無機物だったので想像もしていなかったが、こういう人型のものもいるらしい。

 

「さぁて、どっから紛れ込んだんだ、お前?」

 

 ここは屋敷から廃工場に至るまですべてリュシアンの持ち物で、当然、行われているイカレたお楽しみも、E.ゲインの崇高な作品の販売も極秘事項だ。獲物は屋敷のほうで見世物になって甚振られているか、隣の倉庫で逆さまのまま出番待ちをしているはずなので、招待客の中にネズミでも紛れ込んでいたのだろうか。

 

「なぁ、お前らみたいなのにも、怖いって感情はあるのか? ()()()()したんだろ? それとも、お前の本体が逃げろって言ったのか?」

 

 吊られた生き物は何も言わないが、別に本体を庇っているわけではないだろう。スリフト・ショップに吊られたものは、一切何もできないのだ。瞬きも、呼吸も、排泄も、致命傷を負ってさえ、死ぬこともできない。苦痛は感じるだろうが、悲鳴をあげることもなく、顔を歪めることもないので、その点サディストのリュシアンとE.ゲインは協力関係にありながらも趣味は違っていた。E.ゲインはサディストではなくアーティストなのだ。血が固まって硬くなると皮が剥ぎにくい。だから、獲物は常に新鮮であればそれでよい。今だってこの謎の生き物に作業を中断された形だが、E.ゲインが剥いでいた男はまだ死んで()いないのだ。少なくとも、スリフト・ショップに吊られているうちは。

 

「……まぁ安心しろよ、オレはリュシアンと違って、痛めつけるのは好きじゃあねェ。ただ、せっかくの工房が世の中にバレちまうのはまずいんだよなァ。そりゃあ、オレだってもっと、自分の作品を世に広めたいとは思っちゃあいるがよ……一見さんはお断りしてんだ。一流の職人とか芸術家ってモンは、客にもこだわるモンだからな」

 

 E.ゲインはそう言って、工房の看板を顎でしゃくって示した。リュシアンの知り合いは皆金持ちだ。金持ちは金が有り余っているから、珍しいものに目がない。オーダーメイドや、この世にひとつしかないという響きも、彼らにはよく刺さるのだろう。

 

「なぁ、お前の本体はどこなんだ? お前を殺せば、本体も死ぬのか?」

 

 とりあえず、とE.ゲインは人型の生き物の首筋を切ってみた。抉るようにナイフを動かして、その身の一部をスリフト・ショップから解放してやる。しかし、生身の肉片ではなく細かな立方体が欠片となって落ちるだけでどうにもこの生き物の扱い方がわからない。

 

「はぁ? なんだァこれ……。まぁどのみち、吊ったままじゃあお前は死なねぇのか。めんどくせぇな、どうしたもんか──ッ!」

 

 その時、突然何の前触れもなく、どすんと身体の真ん中に衝撃が走った。咄嗟のことに、理解が追い付かない。息が吸えない。血の気が引いていくのが自分でもわかる。反対に胃の中のものがせり上がってきた。とてもじゃないが立っていられない。

 腹を抱え込むようにして、E.ゲインはその場に膝をついた。口の中が酸っぱく、少し吐いたのかもしれない。何が起こったのか、わからなかった。もう胃の中のものは出したはずのなのに、ずっと吐き続けているかのように息ができない。吸えない。

 

「ベィビィ、無事? 首取れかけてるように見えるんだけど、もう死んでる?」

 

 横倒れになったまま視線だけ動かせば、いつの間にか知らない女がそこに存在していた。その姿が突然現れたことと、黒いローブのようなものを纏っていたせいで、E.ゲインは死神でもやってきたのかと錯覚する。どのみち、こんな状況だ。死神であってもなくてもそう大差はない。焦る内心とは裏腹に、身体は冷や汗を垂らすばかりで起き上がれなかった。プロのボクサーでもきれいに鳩尾に入れば動けなくなるという。戦闘に慣れていない人間が不意打ちでくらってしまったのなら尚更だ。

 

『助かりました。これくらいなら問題ないです』

 

 どうやら、スリフト・ショップは今のダメージで解除されてしまったらしい。ただ、自由になった人型の生き物は、十分致命傷に見えるのにまだ死んでいない。

 

『ペコ、気を付けてください。後ろに下がってはいけません』

「え? どういうこと?」

『ぼくは、このガレージに入った後、メローネの指示に従って一旦引こうとしました。後ずさりした瞬間、突然足元からフックが飛び出てきた』

 

 なんだこいつ。頭いいじゃねぇか。生き物っつても、機械みたいだからそりゃそうか。

 ごくごく浅い呼吸を繰り返し、E.ゲインはそんなことを思った。呑気なわけでも、余裕なわけでもない。ただ、脳に酸素が行かないことには、危機的状況だろうが頭が働かない。人が地獄の苦しみにのたうち回っているすぐそばで、女と生き物は顔色ひとつ変えずに普通に会話をしている。

 

『どうしますか、ペコ。あんたはぼくを助けてくれた。あんたには譲ってもいい』

「そうねぇ……あたしとベィビィのどっちがこいつの罪を被ろうか? ベィビィはどうやってこいつを殺す?」

『食べたいです』

「なるほど、それなら任せる。誰も罪を被らなくていいなら、それに越したことはないからね」

 

 わかりました、と生き物が答えた。動けないE.ゲインに向かって、近づいてくる。逃げ出したいのに起き上がれない。恐ろしくてたまらないのに悲鳴も出ない。スリフト・ショップに吊られた奴らも、こんな気分だったのだろうか。でも、奴らはちゃんと作品にはなれた。E.ゲインは消化される。何もなくなる。消える。この世から。いやだ。死にたくない! 

 もしも声が出ていたら、屠殺場の豚のようにみっともなく命乞いしていただろう。けれども叫んだところで誰も食料の嘆願になんか耳を傾けない。

 最後に聞こえたのは、悪魔のように憐憫の欠片もない女の声だった。

 

「悪食は確かにあるよ。自分が人を食えるかって言われると正直無理。でもね、それは好き嫌いの話で、食べるために殺すのは罪には数えないことにしてるの。だって、こればっかりはしょうがないし、そんなことを言い出したら誰も生きられないじゃない?」

 

 

 

 

 今回の任務の目的は、<パッショーネ>の体面を傷つけたサディストのリュシアンを殺すことだった。まだ<パッショーネ>の影響力が小さいフランスで、他の誰も二度と手出しをする気が起きなくなるように、徹底的にわからせることが目的だった。

 人質の奪還も、違法な趣味の奴らの摘発もメローネには関係ない。ボスに至っては任務さえ成功すれば、送り込んだ暗殺者の生死だってどうでもいいだろう。部下に対してすらそうなのだから、その部下の使うスタンドの生死なんかもっとどうでもいいに決まっている。どうせ任務が成功したって、最後にベィビィは消さなきゃならない。一度に作れるベィビィは一体限りだ。その一体をとことん教育して常用するという手もないわけではないが、それではDNAの追跡能力が生かされなくなる。

 

 ベィビィからの通信が途絶えたあと、メローネはすぐに新しい息子を作ろうとした。連絡がとれるなら、まだ情報収集したりこちらから助言もできたりするが、それが一切できないのなら貴重な一体を人質として無駄に置いておく道理はない。

 だから迷わず今のベィビィを削除しようとした。が、それは叶わなかった。再起動しようとしても、画面はちっとも進まない。ベィビィは確実に死んでいないが、こちらが統制できる状態になかった。これまでは自動操縦といっても最終的な“存在”の権限はメローネにあったのに、何をどうしたものか完全に切り離されている。

 

「おいおい、嘘だろ。ここにきて真の自立なんて、笑えない冗談にも程があるぞ」

 

 実際には敵の能力なのだろうが、困ったことには変わりない。ペコリーノが先に現場に向かっているとはいえ、任せきりにはできなかった。お前が前線に出るのはおかしい、とギアッチョに言われたことを思い出したが、この際それは捨て置く。メローネだって、全くの無力というわけではないのだ。スタンドを使わなくても、人を殺すための道具は一通り使える。わざわざスタンドを出さずに、人殺しをしたことも十分ある。

 

「……一人じゃ何もできないなんて、甘く見るなよ。オレは昔から自分のことは自分でやってたさ」

 

 借り物のバイクに跨って、目的地を目指す。その昔、初めて盗みを働いたときのような緊張感が身を包んだ。精神的な意味で、本当に一人になったのは随分と久しぶりなような気がする。あちこちチームを転々として、どんなに他人と分かり合えない時でもメローネにはベィビィがいた。ちっとも言うことを聞かず、反抗ばかりだったとしても、確かな繋がりのあるベィビィが。

 だから、もしもメローネがこの任務を一人でやり遂げたのなら、そいつはかなりすごいことだ。手放しで賞賛されるべきことだ。

 

 

 

「ペコリーノ、先に向かったアンタのほうが遅いなんて変じゃあないか」

 

 屋敷にたどり着いたメローネがリュシアンを首尾よく銃で撃ち殺したとき、メローネはベィビィがうまく仕事をやり遂げたときと同じくらい嬉しかった。ターゲットの退路を絞るため放った火が、めらめらと音を立てながら屋敷を呑み込んでいく。それが巨大な炎となって全てを燃やし尽くすのは時間の問題だった。建物から逃れても、既にその周囲にちらほらと火の粉と灰が舞い始めている。

 メローネは一応、ペコリーノが出てくるのを待っていたのだ。そして彼女が無事なのを確認して、声をかけた。

 

「リュシアンはオレが殺ったよ。だから仕事は終わりだ」

「……」

「どうしたんだ? アンタがいるのがわかってて、火をつけたから怒ってるのか?」

 

 来た方向からして、ペコリーノは屋敷本体ではなく、ベィビィのいたガレージのほうにいたはずだ。そちらはまだ火の手が及んでいないし、現にペコリーノが火傷を負っていたり、服や髪を焦がしている様子はない。

 それなのに、彼女は明らかに怒っている様子だった。炎が周囲の景色を揺らめかせるように、彼女の周囲も怒りによって揺らめいて見えた。一人でしっかり仕事を終えて清々しい気分だったメローネにしてみれば、彼女の反応はまるでわけがわからない。

 

「何が問題なんだ?」

「……ベィビィは死んだわ。突然ばらばらになって消えた」

「あぁ、ペコリーノが出たあと、敵に捕まった報告は届いてたよ。だから──」

「違う。あたし、助けたもの。敵に殺されたんじゃあない。敵を仕留めようとして、その最中に突然消えた」

「そうか……じゃあ、ペコリーノが助けた後、オレの削除命令が遅れて実行されたんだな」

「……」

 

 ペコリーノは黙りこんだ。ただ、それはショックを受けているというよりも、無言でこちらを責めているようだった。メローネは顎に手をやると、少し考えてから口を開く。

 

「そうだな、今後の為に言っておくが……ベィビィを助ける必要はないんだ。そういうスタンドなんだ。助けたって、任務に成功したって、どのみち最後は消す」

「どうしても?」

「あぁ、そういうものなんだ。“息子”の代わりはいくらでもいるから」

「そう……」吐き出された呟きとともに、ペコリーノを包んでいた怒りがだんだんと勢いを失っていく。代わりに、屋敷の周囲に降り注ぐ灰は勢いを増していた。

 

「悲しいスタンドなのね」

 

 そんなふうに言われたのは初めてだった。メローネのスタンドはいつだって気持ち悪いものだと見られてきた。

 メローネ自身、育てたベィビィに愛着はあっても、消すときには可哀想だとか、悲しいだなんて思ったことがなかった。

 

「かも……しれない」

 

 それでも、なぜかペコリーノの感想はすとんと胸に落ちた。これまで顧みられなかったベィビィを、彼女は任務を放ってまで助けようとしてくれたからかもしれない。メローネの行動を冷血だと罵るわけでもなく、それはそれとして受け入れて、純粋に悲しんでくれたからかもしれない。

 メローネは心がざわつくのを感じた。スタンドなしでリュシアンを殺ったのだという高揚感はすっかり消え、今までずっと見ないふりをしていた感情が胸の内に広がっていくのを味わっていた。

 

「……祈ってやってくれないか、ベィビィの為に」

 

 ペコリーノは静かに頷いた。

 そういえば昔、まだまともに小学校(エコール)に通っていたころ、神父がやってきて、皆で馬鹿正直に祈った記憶がある。復活祭から換算して、その四十六日前の水曜日に行われる塗布式。聖書において“死”と“悔い改め”を表す灰を用いて、額に十字架の模様を描くのだ。

 メローネは子供心にその儀式が、バツをつけられるみたいで嫌いだった。自分は唯一母さんに選ばれた子供なのに。それなのに、バツをつけるなんて。

 

「前に一人っ子だって言ったけどさ……オレにも兄弟がいたはずなんだ」

 

 メローネは確かに母親似かもしれない。けれど、父親に似ているところだってあるし、母親と違うことだってできる。

 はず、という部分で伝わったのか、ペコリーノは「そう」と小さく相槌を打った。

 

「じゃあ、その兄弟たちの分も」

「うん……助かる」

 

 実際、祈りの時間はそう長くはなかった。何しろ二人は人殺しで、いつまでも現場にだらだら居座るわけにもいかない。放火なんて目立つことをやっているのだから尚更だ。イタリアに戻っても、他の仲間にはこんな馬鹿なことをしていたなんて、到底話せやしないだろう。

 

 

 

「二人だけの秘密ができてしまったな、ペコ!」

 

 帰りは二人乗りだった。バイクのエンジン音に負けないよういつもより声を張れば、ペコリーノも同様に大きな声で返す。

 

「はぁ? なに? 聞こえない! キモいんだけど!」

「聞こえてるじゃあないか!」

「え? マジで聞こえないって! ただなんか、笑ってるのがキモい!」

 

 そうか。聞こえないのか。確かに前にいるメローネに向かって話す声と、前を向いたまま後ろの彼女に話しかける声では届き方が違うのかもしれない。それならそれで、都合がいい。恥ずかしがらずに言うことができる。

 メローネはわざと普通の声の大きさで言った。

 

「ペコ、アンタは今まで会ったなかで、()()()()()()()修道女(ソレッラ)だぜ。たぶん」

 

 



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12.足を洗わぬ木曜日①

――仕事がねぇときにまで、ここに来る意味はねぇだろ。

 

 いつだったかもう忘れたが、以前にプロシュートに言われた言葉だ。だが、前と言っても遠い昔の――チーム結成当初の話ではなく、ここ一年以内のいつかの話。

 

 その時のホルマジオは、イルーゾォやギアッチョ、メローネと一緒になって、空の酒瓶と共にリビングで朝を迎えたばかりだった。まだアルコールの抜け切れていない身体を自覚しながら、一足先に顔でも洗おうと洗面所に向かったその途中。ホルマジオは本当に何の気なしに、久しぶりだな、と挨拶しただけだった。事実、プロシュートをアジトで見かけたのは、実に一ヵ月以上ぶりのことだったからだ。

 

「チッ、朝から酒くせェな……」

 

 早朝だと言うのに、プロシュートは洒落たスーツをきちんと着込んでいた。相変わらず胸元は大きくはだけられていたが、寝起きのホルマジオと比べると随分とまともな恰好をしている。頭の後ろで結わえられた髪も、少しもほつれることなく整えられていて、どうやら彼はたった今アジトにやってきたばかりのようだった。

 

「酒の匂いが嫌なら、リビングには近づかないほうがいいぜ。あっちはもっとすごい。ギアッチョのヤローが吐きやがってよォ~、ありゃ目が覚めたら地獄に違いねぇ」

「どうせ、テメーらが煽ったんだろうが」

 

 図星なので、ホルマジオはにやりと笑っただけだった。男だったらこれくらい飲めて当たり前だよなァ~~? と焚きつければ、負けず嫌いなギアッチョはムキになってグラスを空ける。負けず嫌いで言えばプロシュートもそうなので、ホルマジオは同様の手口でプロシュートをよく煽ったものだった。もっとも、最近はどうもプロシュートの付き合いが悪いので、なかなかその機会には恵まれなかったのだが。

 

「で、今日はどうしたんだ? 久しぶりに会えたところで悪ィが、二日連続酒盛りはできそうにないぜ。そんなことすりゃ二日酔いが()()()()になっちまう」

 

 ホルマジオがそんな軽口を叩けば、プロシュートはわかりやすく呆れた顔をする。けれども、ホルマジオ相手に説教するのも馬鹿らしいと思ったのか、質問にだけ答えた。

 

「リゾットに用だ。あいつはいるか?」

「部屋にいるはずだぜ。あいつ、昨日の飲みも中頃で抜けやがったからなァ」

「ハン、リーダーが賢明なのがせめてもの救いだな」

「そうだぜ、おかげでオレらは()()()()鹿()()()()()()いられるってワケだ。なァ、プロシュート」

 

 ぴたり。

 既にリゾットの部屋に向かいかけていたプロシュートは足を止め、こちらを振り向いた。呆れ顔から一転、眉間に険しい皺がよっていて、青い瞳には剣呑な色すら含まれている。それを見て、おいおい、とホルマジオは思った。ただ鎌をかけてみただけだったのだが、どうもドンピシャ当たりだったらしい。「……どういう意味だ、そいつは」一段と低い声で凄まれて、今度はホルマジオが呆れる番だった。

 

「どうもこうもねぇなァ~~。おめー、リゾットが何て言ったか忘れたのか? それとも“()()()()()()()()()()忘れちまったのか?」

 

わざと明るい調子で、何のことかははっきり言及しない。それでも十分通じる話だ。反対にプロシュートは一度唇を引き結ぶと、絞り出すように声を出した。

 

「……テメーはそれで、綺麗さっぱり水に流して忘れたって言うのかよ? ああ?」

「馬鹿言うな。忘れちゃいねぇよ、あっちで床に伏してるヤロー共の誰一人としてな」

「だったら――」

「逆だ。だからこそ、一人で暴走しちまう奴がいねぇよう、オレ達は見張ってなきゃあいけねェ。おめーは大丈夫だと思ってたんだが……ったく、しょうがぁねぇなぁぁ〜〜ここにも堪え性のねぇでかいガキがいるとはよォ〜〜」

「……」

 

 ソルベとジェラートの一件以来、プロシュートの足が遠のいたのとは逆に、ホルマジオはアジトによく顔を出すようになった。そしてホルマジオがいると、自然と他のメンバーも集まる。組織の暗部であり、なおかつ冷遇されている暗殺チームに他に行き場なんてなかったし、皮肉にも、あの一件は連帯感や結束感を強める結果になったのだ。そして、そうやってよく顔を合わせていれば、誰かが動く時は必ずホルマジオの耳に入る。先走ったソルベとジェラートのように、二人だけの世界では周りが見えなくなってダメなのだ。少なくともリゾットが何も言わない今は、雌伏の時と考えるしかない。

 

「ったく、おめー、自分の影響考えろよなぁ。おめーがやると言ったら、ふらふら熱に浮かされるアホ共がわくだろ」

「……ペッシには何も言ってねェ」

「ペッシだけの話じゃあねぇ」

 

 二人は一瞬、無言で睨み合った。が、今回先に目をそらしたのはプロシュートだった。それは非常に珍しいことではあるが、ホルマジオはからかったりしない。代わりにプロシュートの肩を叩いて、静かな声で言った。

 

「まあ、あいつのことだ。マジに何年かかっても、地獄の果てまで追うだろうぜ。オレたちはお声がかかるまで、バカやってるくれーでちょうどいいのさ。だから……おめーもたまには昔みたいに付き合えよ」

 

 な? と片目を瞑ってやれば、鬱陶しそうに手を振り払われる。しかし、それが心からの拒絶でないことは、プロシュートの目を見れば明らかだった。

 

「吐くまで飲むような馬鹿にゃ、付き合えねェな」

「おいおい、オレ一人にガキどもの面倒全部押し付ける気か?」

「……今回()ガキどもを煽ったテメー自身を恨むんだな。オレは出直す」

「あ、おい!」

 

 そう言って、くるりと踵を返したプロシュートの背中に、ホルマジオはわざと聞こえるように舌打ちをした。ついでにリビングの片づけを手伝わせようと思ったのだが、こちらは上手くいかなかったらしい。

 ホルマジオがしょうがねぇなァ~、といつも言葉を口にしたちょうどその時、リビングの方で「うわッ! 最悪だッ!」と悲鳴まじりの非難が聞こえた。

 

 

△▼

 

 

「うっわ! 最悪! あんたたち、昨日何時まで飲んでたの!?」

 

 酒の残った頭には、女の高い声はキンキンとよく響く。ソファのひじ掛けにもたれかかるようにして撃沈していたホルマジオは、声から逃れるように手近にあったクッションを耳に押し当てた。

 

「飲むのは構わないけど、もっとまともに飲めないわけ? どうやったらこんなカーペットをぐっちゃぐちゃにできるのよ。ほら、邪魔、さっさと起きろ馬鹿ども!」

「け、蹴るのはよくないよ……!」

「大丈夫よ、ペッシ。蹴ったくらいじゃ死にはしないからこいつら」

「朝からうるせぇ……」

「ぐっ……」

「うぇ……」

 

 ほとんどまともな返事が聞こえないが、全員状況はホルマジオと似たり寄ったりだろう。明らかな二日酔い。頭が割れるように痛いし、全身泥水に浸かったみたいに身体が重い。

 

 ホルマジオは薄目を開けて、部屋の様子を確認した。L字のソファーを好き放題使ってるのはプロシュート。その足元で、死人みたいに顔を青くしてるのがイルーゾォ。メローネは目元のマスクが首元までずり落ちた状態で、ローテーブルの上に突っ伏していた。おかげで、つまみの残りや酒や灰皿が全部、カーペットの上に投げ出されている。流石に今回のギアッチョは吐いていないようだったが、床に転がったまま微動だにしないのでアレもたぶん駄目だろう。

 

 まさに、惨憺たる光景。その原因となった“悪魔の酒”は、他ならぬペコリーノとメローネがフランス土産として買ってきたものだった。「ペコ、てめー、何か盛っただろ……」ベースに使用されているニガヨモギが幻覚作用を持つからと言って、百年近くも禁止されていた曰く付きの酒。今はとっくに合法だが、思わず疑いたくなる気持ちもわかる。

 

「はぁ?」

「おかしいだろうが……なんでそんな、元気なんだよ……」

「だって、あたしはそんなに飲んでないもの。昨日だって途中で切り上げたし。ねぇ、ペッシ」

「いや、飲んでたと思うけど……」

 

 確かに彼女は日付が変わった頃、思い出したかのように「晩課がある」と言って中座した。時間帯はめちゃくちゃだが、彼女が毎晩“例のクズのための祈り”をやっているのは、メンバーももう知っていることだ。まだその時は皆それほど酔ってもいなかったし、特に絡んで彼女を引き留めるようなこともなかった。ペッシも同じタイミングで抜けたので――そもそもペッシはほとんど酒を飲んでいなかったが――被害なし。

 が、抜け出す前の時点でペコは一人で瓶をニ本は空けていたうえ、部屋へ戻るときにちゃっかりもう一本持って帰っていくのをホルマジオは目撃している。到底、「そんなに飲んでいない」と言い張れる量と度数ではなかった。どうやら彼女は対アルコールにおいて、規格外の能力持ちらしい。自分で“ザル”だと言っていただけのことはある。

 

「兄貴ィ、大丈夫ですかい?」

「あぁ、大丈夫だ……だがな、ペッシ。そこの女から貰ったものを口にするときは気をつけろ」

「人聞き悪いこと言わないでくれる? もう二度と土産なんて買ってやるもんか」

 

 ペコリーノは口調の上ではかっかしながらも、部屋全体を見渡して、胃の底から吐き出すように特大のため息をついた。受け答えができるプロシュートはまだ軽症として、他の奴らが怠惰のために転がっているわけではないとようやく理解したらしい。

 彼女は能力を使うと、扉ほどはある大きな聖書を出現させた。ペッシと協力しながら倒れている男たちを引きずって、その上に乗せて運ぶつもりらしい。

 

「ホルマジオも、いつまでも寝たふりしてないで手伝ってよ」

「ン~? 任せた」

 

 バレたか、と心の中で舌を出しつつ、ホルマジオは唸った。まぁ、この中でぎりぎり動けるのはプロシュートとホルマジオくらいだろうが、もっと元気な若手がいるなら丸投げしたいところ。というか皆、丸投げできるのが分かっていて、ここまで好き放題に羽目を外している。以前はホルマジオの役目だった後片付け役が、ペコリーノになっただけだ。

 

「うぇ……押すな、吐きそうだ」

「イルーゾォは今すぐ鏡にぶち込むのが良さそうね」

「ペコ、ギアッチョがちっとも動かないんだけど大丈夫かな……」

「大丈夫、そのほうが静かでいいわ」

 

 にべもないペコリーノの言葉に、プロシュートが寝転がったまま静かに肩を揺らしている。さんざん毛色の変わった猫扱いされているが、なんだかんだ皆ペコに気を許しているのだろう。フランスの任務で何があったのかはわからないが、メローネもペコに対する接し方が変わった。彼の場合、別に元々邪険にしていたわけではなかったが、なんとなく目に見えない壁が取り払われたような、そんな感じだ。

 

 後の問題はギアッチョだけだな、とホルマジオはぼんやり思う。お互い口は悪いし、顔を合わせればすぐに喧嘩になるが、今だってペコリーノは一応ギアッチョの面倒を見ようとしている。彼女の何がそんなに気に入らないのか、ギアッチョ本人に尋ねたことはなかったが、メローネの変化も相まって、いずれ時間が解決してくれるだろう。

 

「何回言わせるの、ホルマジオの能力なら運ぶのも簡単でしょ!」

「残念ながら、オレの能力は荷物持ちじゃあないんでね」

「あのさ、このあたしが担架扱いに甘んじてるの、わかる?」

「……はいはい、わかったわかった。ったく、しょうがねぇなァ」

 

 冷ややかな視線に押し負けて、よっこいせ、と身体を起こす。無理な姿勢で寝たせいか、身体を動かすたび、首から背中にかけてぎしぎしと軋んだ。運ぶのは完全にペコ達に任せるとして、ホルマジオはリトル・フィートでちょいちょい、っと男たちを小突く。これでそのうち、運びやすいサイズになるだろう。彼女ご自慢の()()で何往復もしなくても、一度にまとめて乗せていってしまえるというわけだ。

 

「でもこれ、小さくなるのに時間がかかるのは難点ね……」

「おいおい、人の能力にケチつけんなよなァ」

「なんでそんな能力なの?」

 

 なんの躊躇いもなく、当たり前のように投げかけられた質問。

 ホルマジオは少し戸惑い、それを誤魔化すように笑みを浮かべた。

 

「……いやいや、自分で好きに決めるもんじゃあねェだろ、お前だってでっかい聖書が欲しいですって思ったのか?」

 

 言いながら、ペコリーノならそれもありそうだ、と思ってしまうが、そうだとしても思い通りにスタンド能力を作れるわけではないはずだ。

 ざわつくホルマジオの胸中も知らないで、ペコリーノは至って真面目な顔で続ける。

 

「いや、私だって授かった能力だよ。だけど、ちゃんと意味があるような気がしてる。何か意味があって私にはバイブル・ベルトで、ホルマジオにはリトル・フィートなんだよ」

「……神様の思し召しってわけか?」

「信じるならね」

「さぁてどうだろうな、これはオレの意思かもしれねェ……」

 

 だんだんと縮み始めたメンバーを見ながら、ホルマジオはほとんど無意識のうちに呟いていた。「へぇ?」途端、ペコリーノの面白がるような声が聞こえてきて、しまった、と思う。

 

「面白半分で詮索するなよ」

「残り半分は真面目ってことじゃない。ねぇ、ペッシも気になるよね」

「え、あ、うん……オレも皆の能力のこと、やっぱり気になるし……」

「そんなの、オレじゃなくてもいいだろうに。うちにはもっと訳のわからねェ能力のやつがいるだろ?」

 

 例えば、メローネ。どういう教育を受ければ、あんな倫理観に育つのか。例えば、プロシュート。何があって他人を老化させようという発想になるのか。イルーゾォだって、ちっとも似合わないメルヘンチックな能力だ。リゾットやギアッチョは強い力を望んだと言われれば、まだなんとなく理解はできるが……。

 わかりやすいのは、釣りが趣味だった、と言っていたペッシくらいのものだろう。

 

好奇心の対象にするなら、自分よりももっといい相手がいるはずだ。ホルマジオがそう言って質問をかわそうとしたとき、ペコリーノは少しだけ寂しそうに笑った。

 

「ん、なんていうか、ホルマジオが一番、壁作ってるように見えたからさ」



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13.足を洗わぬ木曜日②

 

 

 小さいほうが便利なときというのは、一体どんな場合だろうか。

 例えば先ほどのように、べろんべろんに酔っぱらったり、怪我をしたりして誰かに運んでもらうとき。

 イタリアの平均的な成人男性の体重はだいたい七十キロくらいだが、相手が脱力していると男同士でも運ぶのはかなり大変だ。依頼の中には死体の処理に指定があったりして、やむなく運ばなければならないときもあったりするのだが、そういう場合はだいたいホルマジオかペッシに白羽の矢が立つことになる。

 そのほか人間以外でも、移動手段としての車や大量の武器を運んだりする際に、ホルマジオのリトル・フィートは重宝された。日常生活の中では、過去に何度かメンバーの引っ越しを手伝わされたこともある。もちろん、タダ働きをする義理はないので酒や飯など頂くもんは頂いているが、小さくするなんてくだらない能力だと煽られるわりには、なんだかんだと頼まれることが多い。

 いや、よくよく考えれば、能力に関係のない頼まれごとも結構あるか。

 

 

「壁ねぇ……」

 

 縮めたメローネとギアッチョをひとまとめに掴みあげて、ホルマジオはそれぞれの部屋のベッドに順にぶち込んでいく。小さくされるのを拒否したプロシュートはペッシが肩を貸し、吐きそうだったイルーゾォはペコリーノがトイレに引っ張っていく形で手分けしたが、おかげでなんとか収拾がつきそうだ。

 

「どうだ、オレにそんなもん感じるか?」

 

 ホルマジオが能力を解除すると、ベッドの上のギアッチョはみるみるうちに元のサイズになった。眉間に深い皺を刻んだまま低い声で呻き、寝返りを打つ。リビングにいたときは微動だにしなかったが、流石に完全に気絶していたわけではないらしい。むしろ、動くのも後片付けも億劫で、わざとじっとしていた線まで疑いたくなるくらいだ。

 

「……あぁ? ンだよ、頭が痛ェ……」

「だから壁だ、壁。おめーはオレに感じるかって聞いてんだ」

 

 ペコリーノが、ギアッチョを指して言うならまだわかる。こいつはいつも不機嫌そうで、見た目通りに世界のあらゆる物に腹を立てているからだ。そしてこれはメンバーのほとんどに言えることだが、とりわけギアッチョには他人と仲良くしようって気がさらさらない。仲良くする気がないから関わらないというスタンスならまだしも、ギアッチョから絡んで勝手に爆発することもある。壁は壁でも敵意満々。タチの悪いトゲつきの壁だ。

 

「……言ってる意味がわからねェ……感じるってなんだ、壁は()()()()もんだろうが……」

「ハァ、だめだなこりゃ」

 

 アルコールで頭が回っていないのか、ギアッチョの認識がぶっ壊れているかはさておいて。

 ホルマジオはまともな回答を期待するのは諦めて、リビングを復旧するためにギアッチョの部屋を後にする。こいつの場合は放っておいても、勝手に頭を冷やしたり氷を舐めたりして二日酔いをうまくやり過ごすだろう。こいつもこいつで、酒の席では氷の補充要員になったり、スーツ型のスタンドで暖をとったり、だいぶくだらない能力の使い方をすることもある。

 結局、能力の“くだる”“くだらない”なんて、使い手と状況次第というわけだ。

 

 ホルマジオが階段を下りて一階に向かうと、ちょうど黒い背中がリビングへの入り口を塞いでいるところだった。

 

「あー、悪ィな、リゾット。今はまだ入らねー方がいいぜ」

 

 後ろから声をかければ、リゾットはゆっくりと振り返る。すると、彼の体で隠れて見えなかっただけで、すぐ目の前に丸めたカーペットを抱きかかえたペコリーノがいた。どうやらイルーゾォのことは一旦トイレに放置して、先にこちらを片付けることにしたらしい。

 

「随分と盛り上がったようだな」

「まぁな。あぁ、リゾットの分はちゃんと残しておいてあるぜ」

 

 リゾットは昨夜、何か用事があったらしく不参加だったが、準備されていた酒の量からして、どんなことになるかくらいは予想していただろう。仕事となると厳しいリーダーではあるが、基本的にリゾットは寛容な男だ。相変わらず表情をほとんど動かさないし、淡々と話すせいで一瞬問い詰められているような気分になるが、怒っていないのは雰囲気でわかった。

 

「そうか、そいつはありがたいな」

「ねぇ、立ち話は中でやってくれる? あたし、これ洗いに行きたいんだけど」

「すまない、今退ける」

「すまないついでに、あのバカどもが食べられそうなもの作っといてよ」

 

 一旦、廊下に下がって道を開けたリゾットに、ペコリーノは臆面もなくそんなことを言ってのけた。仮にも上司だ。しかも、昨日の騒ぎには参加すらしていない。言われた当人も全く予期していなかったようで、一拍の間を置いてぼそりと呟いた。

 

「オレか」

「ほら、()()()()()()()?」

 

 彼女的には上手いことを言ったつもりなのだろうか。突然、両目をぎゅっとつぶったので何事かと思いきや、どうやらウインクのできそこないらしい。下手くそにもほどがある。

 

「あとホルマジオは床のモップ掛けとゴミ出しとグラスの片づけよろしく!」

「オイオイオイ、分担がおかしくねェか? オレも頭痛くて寝てーんだが」

「無関係のあたしとリゾットが頑張ってんだから当然でしょ。サボったら今晩全裸で外に磔にするから」

「……ぐ、わかった、わかった。やりゃあいいんだろ」

 

 ペコはやると言ったらやる女だ。こんな男所帯でも平気な顔して生活できるくらい恥じらいの欠片もない奴だし、つまらない脅し文句だと切り捨てるのはリスクが高い。

 しかし、それにしたって壁を感じてる相手に言う台詞かよ、とどうしても呆れてしまう。

 

「壁?」

「あ?」

 

 カーペットを抱えたペコが洗面所へ去って行って、あとに取り残された男二人。明らかに疑問符をつけて発せられた言葉に、ホルマジオは思わず動きを止めた。「なんでそれを……」まさか心を読んだのか、なんて馬鹿げたことすら考えてしまう。実際、リゾットは並外れた洞察力を持っていて、他人の表情を読むことには長けているのだ。

 

「……? 今、お前が言ったんじゃあないか」

「……声に出てたか?」

「あぁ」

「そうか、そいつはスマン」

「別に謝ってもらうことじゃない。ただ、そうだな……オレは“ウソ”や“演技”に敏感なだけで、何を考えてるのかまで心を読めるわけじゃあないぞ」

「ハハ、今ので余計に心配になったぜ」

 

 ストックされているビニール袋を引っ張り出してきて、ホルマジオは床に転がった空き瓶を次々放り込んでいく。ついでに食いかけの生ごみも、何かの包みだったプラスチックも。この際だからと、キッチンに溜まっていたゴミまで全部まとめて入れる。一応、分別の制度はあるにはあるが、処理場では結局一緒くたに燃やされていると聞くし、そもそもゴミの回収車自体がまともに来ないやらで、この街で馬鹿正直にルールを守るやつなんてほとんどいない。

 ホルマジオが片付けを始めると、リゾットも自分の役割を遂行する気になったのか、冷蔵庫を開けて中を確認し始めた。

 お互い、無言で作業を始めたので、てっきりこの話は終わりだとばかり思っていたのだが――。

 

 

「何か隠していることがあるのか?」

 

 鼻腔をくすぐるコンソメのいい香り。その中にふわりと香る爽やかさはレモンか。どうやら昨日の飲み会で余ったレモンを、リゾットは有効活用したらしい。ペコリーノはくだらない洒落で()()()()を作れなんて抜かしたが、ちゃんと二日酔いでも食えるようさっぱりしたものを作るあたり、なかなかどうしてデキる男である。

 

「ン~? そう見えるらしいぜ、ペコから見たオレは」

 

 とはいえ、ついでに洗え、と横から足される調理器具はあまりうれしくない。山積みのグラスをスポンジで擦りながら、ホルマジオはいつものようにすっとぼけた。「壁を作ってるように見えるんだとさ」彼女がチームに入ってから、特に邪険にした記憶はない。ペッシに対するプロシュートのように一から十まで世話を焼くような過保護さはなかったが、飯に行くとなれば当たり前のように声をかけるし、くだらない雑談で盛り上がることもしばしば。

 完全に言いがかりだよなァ、と同意を求めて笑えば、リゾットはゆるく鍋をかき混ぜながら口を開いた。

 

「オレも初め、そう思ったな。お前が一番、何を考えているのかわかりにくい」

「……はぁ? おめーが言うか? それ」

「オレは生まれつき顔に出にくいんだ。だが、お前はわざとやっているんだろう」

 

 ザアザアとシンクに跳ね返る水音がうるさいのに、不思議とリゾットの声はよく耳に届いた。ホルマジオはとっくに泡のひとつもついていないグラスを、さっきから延々とすすぎ続けている。

 

「おめーまで変な言いがかりはよせよなァ」

「首輪を壊せそうな情報でも、掴んだか?」

「ハ、まさか」

「ウソだな」

 

 幸い、責めるような響きはなかったが、それにしてもあっさりと言い切られたものだ。ようやくグラスを水切りカゴに移したホルマジオは、ぱっぱっと手の水気を払う。

 

「だったら、力ずくで口を割らせてみるか?」

「いや、無理に聞き出すつもりはない。本当にお前に隠し事があったとしても、心配はしていない」

「心配ない、ねぇ……そいつはどうだか。下手すりゃ、おめーらのほうを裏切るかもしれないぜ?」

 

 わざとにやついた笑顔を浮かべてみせたが、実際のところ、ホルマジオにそんな予定は一ミリもない。ただ、信用されすぎるのも決まりが悪かったのと、リゾットがどんな反応をするか興味があったのだ。

 読めないのはお互い様。もしかすると、少しくらいは動揺するところが見られるかもしれないなんて、ちょっとした悪戯心が疼いただけだ。きっと、ホルマジオが本気で裏切ったとしたら、リゾットは怒りよりも先にショックを受けるだろう。その後、地の果てまで制裁に来るかどうかは置いといて、まずはリーダーとしての自分を責めるはずだ。

 ホルマジオは我らがリーダーの、そういう生真面目なところを好ましく思ってる。他にいくらでも適当に生きている人間を知っているだけに、損な性格だな、とも思うが。

 

「裏切る? お前がか?」

 

 料理の片手間にするには、決して穏やかじゃない話だった。それでもリゾットは横顔のまま、火を止めた鍋に削ったチーズを加え、塩コショウで味をつけていく。

 

「舐めないほうがいいぜ、リゾット。現にオレはおめーにまだ言ってないことがある」

「言われてないことのほうが多いと思っていたが。お前は隠し事が多いだろう」

 

 そんなことはない、はずだ。一応、チームの不利益になるようなことを隠していたことはないし、自分の話をしたがらないのは何もホルマジオに限ったことではない。ホルマジオはチームの古株に当たるけれど、まともに昔の話を聞いたことがあるのはリゾットと、ほとんどカタギと変わらない生活だったために話すことに躊躇のないペッシ。それから、最近チームに入って散々疑われていたペコリーノくらいのものだった。あとの奴らも同じく話していないはずなのに、“壁を感じる”だの“隠し事が多い”だの一人だけ随分な言われようだ。

 

 そりゃあ確かに、人より本心を隠すのは上手いほうだが、それで他人を出し抜いて得意な気分になるわけでもなかった。そんな性格だったら、寂しげなペコの表情にいちいち引っかかったりしない。それなりに長い付き合いのリゾットからの評価に、もやもやすることもない。 

 隠し事が多い奴は、秘密を作るのが好きだとでも思っているのだろうか。後ろめたさを味わうことがないとでも思っているのだろうか。そもそも隠さなきゃならないような事なんて、無いほうが良いに決まっている。

 ホルマジオが珍しくむきになって反論しようとしたとき、それよりも早くリゾットは「ただ――」と言葉を続けた。

 

「お前が隠すということは、黙っていた方がオレたちのためになると判断したんだろう。お前はそういう隠し事の仕方をする奴だ。だから、特に心配していない」

「……」

 

――オイオイ、そいつはちっとばかし、高く買いすぎってモンじゃあねぇか……?

 

 ホルマジオはいつものように軽口を叩こうとしたが、なぜか何も言葉が出てこなかった。そうやってこちらが固まっている間にも、リゾットは戸棚の中をがちゃがちゃと漁ってふぞろいな皿を持ってくる。

 

「できたぞ」

 

 皿によそわれた()()()()は、店で出てくるような小洒落た雰囲気はなかった。もともと、飾りつけをしなければお世辞にも見た目のいい料理ではないが、それにしたって盛り付けのセンスがないと思う。せっかくレモンをすりおろして入れたのだから、輪切りにして上にでも乗っければいい感じになるだろうに。

 しかし、ホルマジオは思いついた助言をそのまま胸にしまっておくことにした。この飾らない感じがなんともリゾットらしい。

 

「……美味そうだな」

「なんだ、その間は」

「いや、なんでもねェよ」

 

 今のもウソだとバレただろうな、とは思ったが、ホルマジオは気にならなかった。余計な手を加えるよりも、きっとこのままのほうがニ階でへばっているあいつらも喜ぶはずだ。

 

「そうか、ならいい」

 

 隠さなきゃならないような事なんて、無いほうが良い。だが、隠し事を許されるっていうのも、決して悪い気分ではなかった。



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14.足を洗わぬ木曜日③

 

 

 あの頃――ホルマジオがまだ少年だった頃、女性の権利というのは、その女性個人に属するものではなく、女性の家族である父親やその夫のものであった。

 

「ビビ姉大丈夫?」

「昼ごはんも、食べられそうにない?」

 

 姉の寝室を出るなり、心配そうに駆け寄ってくる幼い弟妹たち。彼らには一番上の姉――ビビアーナが、疲れから体調を崩してしまったのだとだけ伝えてある。何も知らない弟たちを安心させるように、ホルマジオは身をかがめて彼らと視線を合わせると無理に笑顔を繕った。本当は(はらわた)が煮えくり返って、いっそ吐き気を催しそうなほどだった。

 

「なぁに、心配ねェ。昨日の雨に濡れたせいで、熱が出ちまっただけだ」

「お医者さんは?」

「呼ぶほどでもないって。まぁでも、お前らは移るといけないから入るなよ」

「えぇ、でもご飯作ったのに」

「それはオレが後で持っていくよ。な? いい子だから、今はビビ姉を寝かしてやれ」

 

 いつもは聞き分けのいい弟たちが不満そうなのは、それだけビビアーナに懐いているからだろう。両親は数年前に事故で死んで、それ以来一番上の彼女がほとんど親代わりになって育ててくれている。ホルマジオにとってもビビアーナは姉であり、母親代わりであった。だからこそ、彼女がおぞましい目にあったことは耐えがたかったし、こんなことになるまで姉の苦労に気づかずのうのうと生きてきた自分も許せなかった。

 

(フツーに考えて、遺産なんて、そんなたくさんあるわけがなかったんだ)

 

 ホルマジオの生家は、ごく普通の一般家庭だ。たとえ両親が天寿をまっとうしたとしても、有り余るほどの遺産が残せるような、そんな裕福な家だったわけでもない。それなのに、ビビアーナはいつも笑ってお金なら遺産がたくさんあるのよ、というものだから、ホルマジオはすっかりそれを信じ込んでいた。実際、贅沢はできずとも衣食には困らなかったせいで、特に心配をした覚えもない。幼い弟妹たちを育てるのがどれだけ大変なのか、金額としてはこれっぽちも理解していなかったのである。

 

 ホルマジオがリビングに戻ると、テーブルの上には律儀に帰宅時間を書いたメモが残されていた。締め出されてしまった弟たちはそれでもビビアーナのために何かせずにはいられなかったのだろう。下手くそな字で、外へ花をつみに行ってきます、と書かれていて、それを見たホルマジオはどうしようもなく悲しくなった。花で姉の心が癒せるなら、どんなにいいだろう。薬で、包帯で、姉が元気になってくれたらどんなによかっただろう。

 それでも、今のホルマジオがしてやれるのは、そういう物理的なことだけだった。姉に頼まれたように、桶に水を張り、タオルを持って部屋へと引き返す。「ビビ姉、入るぜ」いつもはお構いなしにずかずかと部屋に入るくせに、ホルマジオは小さな声で断りを入れた。どんな些細なことだとしても、これ以上姉を傷つけたくなかった。

 

「……」

 

 頭から足の先まで、白いシーツにくるまった姉の姿。彼女がそうやって顔を隠しているのは、今の彼女が強がりでも()()()()くらい、ぼろぼろに傷ついているからだろう。ホルマジオはなんと声をかけていいかわからず、部屋の入り口でしばし立ち尽くしていた。

 

 一人にしてやったほうがいいのだろうか。でも、姉はずっと一人で耐えてきたのだから、もう十分だろう。

 水の入った桶をベッドの足元へ下ろして、ホルマジオは姉の名前を呼ぶ。彼女は「ごめんね……」と泣き声で言った。シーツの隙間から伸ばされた腕には、いくつもの赤紫のあざがあった。酷い力で掴まれたのか、あざはくっきりとした手の形をしていた。

 

「……謝るのはオレたちのほうだ。もう、もう二度と、こんなことやらなくていい」

「……」

「金なんて要らねェ。オレだって学校なんか行かなくたっていいし、その分働くさ! だから……」

 

 元気になってほしい。いつもの、笑顔が素敵なビビアーナに戻ってほしい。

 危うく、幼い、残酷な願望を口にしかけて、ホルマジオは黙り込んだ。「だから……心配しないで、休んでくれよ」すべてが元通りになるとは思わない。だが、ホルマジオが彼女の代わりに働けば、姉は不本意にその身体を売らなくて済むだろう。ゆっくり休めば、いつか時間が解決してくれる。完全に癒えることがなくても、痛みは少しずつ和らいでいくものだ。

 

「……ごめんね」

 

 ビビアーナはもう一度そう呟くと、ゆっくりと身を起こしてホルマジオの頭を撫でる。その顔はやはり殴られて痛々しかったし、目の周りも真っ赤に泣き腫らしたあとがあったが、ホルマジオと同じマラカイトグリーンの瞳にはわずかに光が宿っていた。それを見たときホルマジオは、なんて強い(ひと)なんだろうと思ったし、同時に心の底から安堵した。

 

「謝らないでくれよ。オレは……ビビ姉にも幸せになってほしいだけなんだ」

 

 このとき、ホルマジオは知らなかったのだ。

 本当に姉の心を壊すのは、彼女が身に受けた手ひどい暴行そのものではなかったことを。

 

 

 

△▼

 

 

「洗っても、洗っても、取れないの」

 

 責めるような、絶望するような、どちらともつかない口調で言われて、ホルマジオは思わずどきりとした。

 なかなか戻ってこないと様子を見に来てみれば、大きめの桶に水を張って、浴室で躍起になって何かを擦っていたペコリーノ。なんてことはない。昨日盛大にこぼした緑の酒が、そのままくすんだ黄緑色になってカーペットに大きなシミを作っていた。

 

「洗濯機にぶち込む前になんとかしたかったんだけど、このザマよ」

 

 以前、『修道女(ソレッラ)が人前で肌なんか晒せるか』と言っていたのはどうしたと突っ込みたくなるほど、ペコリーノは清々しいくらいに長い裾をまくり上げて白い足を晒していた。おそらく濡れるのを厭ったのだろうが、それにしても恥じらいの欠片もない。むしろホルマジオのほうが目のやり場に困って、身体を半回転させ、開け放たれた浴室のドアにもたれかかった。

 

「重曹は使ったか?」

「この前、イルーゾォが鏡を磨くときに全部ぶちまけたせいで無かったの」

「はぁ~しょうがねェなァ。じゃあ塩だ。ちょっと待ってろ」

「塩?」

 

 疑問符を浮かべて振り返ったペコリーノをそのままに、ホルマジオは一旦キッチンへと戻る。ガラスのポットに入った分では到底足りそうにないので、戸棚の下から箱に入った一キロ入りのものを取り出した。

 

「塩なんかでほんとに落とせるの?」

「さぁな。少なくとも赤ワインは落とせたぜ。こいつはどうだか知らねぇけどよ」

 

 ぎゅっとできるだけ水気を絞ったカーペットのシミの上に、かけるというよりはほとんど盛るように塩を被せていく。そのあまりに大胆な方法を見て、ペコリーノは呆気に取られたように瞬きをした。

 

「へぇ、おばあちゃんの知恵袋(アリメイディ デッラ ノンナ)ってわけ?」 

「まぁ正確には姉貴に教えてもらったんだが」

 

 さらりと答えれば、よほど驚いたらしく、ペコリーノはますます間抜けな顔になる。別に大した情報ではなかったが、ホルマジオが仲間の前で家族の存在を口にしたのは、たぶんこれが初めてだった。

 

「……姉がいたんだ? てっきり、いるなら弟か妹だと思ってた」

「弟と妹もいたぜ」

「ふーん」

 

 うまくいけば塩がシミの成分を吸ってくれるので、一時間後ぐらいに掃除機で吸ってしまうだけでいい。そう告げれば、一時間も待つのか、と嫌な顔をされたが、もう塩はたっぷり使ったあとだ。やるだけやってみるしかないと、ペコリーノも腹をくくったらしい。

 その代わりに、時間ができたことだし、と彼女は猫のような瞳を好奇心できらりと輝かせた。

 

「でも、急にホルマジオが自分のこと話すなんてどうしたの? まさか、壁を感じるって言ったの、気にしたわけ? 案外可愛いところもあるのねぇ」

「ハハ、おめーみてーなのには適当に餌をやっとかねぇと、余計なことまで詮索するだろうと思っただけだよ」

「あらあら、探られて困ることでもあるの?」

「こっちは誰かさんと違って明け透けってわけにはいかねーのさ。処女らしいぞって、メローネが触れ回ってたからシメといてやったぜ。感謝しろ」

 

 相手が普通の女だったら、気まずい話題だ。が、ホルマジオの予想通り、彼女は普通ではない。それの何が恥ずかしいのか、と言わんばかりに鼻を鳴らした。

 

「はぁ? 修道女(ソレッラ)なんだから、当たり前でしょ」

「お前のその、意思の強さだけはマジに恐れ入るぜ……」

 

 ここまでくると意思というよりは、思い込み、と言った方がいいのかもしれない。呆れるくらいに真っすぐで、ドン引きするくらいに強情だ。

 だが、ホルマジオは彼女の強い輝きを放つ瞳が嫌いではなかった。だからこそ、これから先起こることに彼女を巻き込みたくないと思ってしまった。

 

「なぁ、このまま足を洗う気はねぇのか?」

「え、足なんて汚れてないけど?」

 

 ペコリーノは白い足を、くるりと内側に向けて確認する。暴力沙汰になることが多いわりには、あざの一つもない綺麗な足だ。姉のことを思い出していたホルマジオはそれを見て、今ならまだ間に合うのではないか、と思ってしまった。

 

「そうじゃねぇよ。ギャングなんか辞めちまって、ほんとに修道女(ソレッラ)になりゃいいじゃねーか」

 

 組織を抜けるのだ。長くこの業界に身を置いているホルマジオは、それが口で言うほど簡単ではないことくらいわかっている。

 だが、彼女くらいたくましくて強い女なら、その気になればどこでだってやっていける気がしたのだ。

 

「イタリアに拘らなきゃ、やっていけるだろうよ。おめーは無茶苦茶な奴だが、その信心深さだけはオレたちが保証してやるぜ」

「何よ突然……」

「別にただの思い付きで言ってるんじゃあねぇ。他の奴らのほだされようを見てりゃ、わりと才能あるんじゃねーかと思ったんだ」

 

 まだ未確定の段階だから、リゾットには言っていない。が、ホルマジオは秘密裏に、忌々しい首輪を引きちぎるための情報を掴みかけていた。

 この後、もしも本気で事を起こすとなれば、彼女もチームの一員として同じ未来を辿ることになるだろう。行く末はわからないが、分のいい賭けではないことは確か。降りるなら今のうちだった。ホルマジオはそれを裏切りとは思わないし、他のチームのメンバーだってそうだろう。

 けれども、

 

「あのねぇ、表の世界じゃあたしはただの人殺し。人殺しの集団に混じって初めて、ようやく修道女(ソレッラ)になれるんだよ」

 

 彼女は今までの強気が嘘だったみたいに、皮肉気で、諦観の混じった微笑を口の端に浮かべたのだった。



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15.足を洗わぬ木曜日④

 

 郵便受けの中に入れられていたのは、紛れもない悪意だった。

 宛名も差出人も書かれていない無地の茶封筒に、安物のトイカメラで撮ったようなぼやけた写りの写真が数枚。それでも写っているのが誰なのか、何をされたのかは十分にわかる代物だった。

 ホルマジオはそれを見た瞬間、黙ってぐちゃぐちゃに握りつぶした。びりびりに引き裂いてなかったことにしてしまいたかったが、写真の欠片の一部でも姉や弟たちの目に触れさせたくない。強く握りこみすぎて自らの爪が手のひらに刺さっても、ホルマジオはまだその写真を握りつぶさずにはいられなかった。

 確かにビビアーナは、家族のためにその身を捧げた殊勝な乙女だったこともあったのだろう。が、こうして無言で写真を送り付けられたことで、今回はひとかけらの合意もない恐ろしい事件だったのだと、ホルマジオは理解してしまったのだ。

 

 誰かが明確な悪意を持って、姉を辱めている。そしてそいつの嫌がらせは暴行で終わりではなく、これから始まるのだと。

 

「どうしたの?」

 

 きっと一目でわかるほど、ホルマジオは呆然としていたのだろう。リビングに戻って写真以外の郵便物を渡すと、ビビアーナは心配そうにこちらをのぞき込んだ。事件からまだ三日も経っていない。彼女はホルマジオがついた嘘通りにすっかり風邪が良くなったように振舞っているが、本当ならば心配されるべきは姉のほうなのだ。素直な弟たちは、姉の顔のあざだって、熱でふらついて転んだためにできたものだ、というのを信じている。幼い彼らは残酷な想像を働かせられるほど、社会のことをよく知らなかった。「……いや、なんでもねぇよ」ホルマジオだって、まさかこれほどまでに人間が残酷だなんて考えもしなかった。

 

「そう? ならいいけど……」

 

 ホルマジオが首を振ると、気がかりそうに語尾を濁してビビアーナは黙り込んだ。彼女は彼女で、弟に知らなくていい現実を見せてしまったという罪悪感があるのだろう。とはいえ、どこで他の弟妹たち聞かれてしまうかわからない。何より、どう切り出してよいのかもわからない話題だから、ホルマジオもビビアーナもお互い改まってこの件に触れるようなことはなかった。気丈に振舞う姉を見るのはホルマジオとしてもつらいことではあったが、彼女の努力を感じているからこそ、ホルマジオも何事もなかったみたいに振舞うしかなかった。

 

「そうだ。俺、今日からダントーニさんのとこで手伝わせてもらえることになったから」

「……無理しないでね」

「大丈夫だって。ただ野菜の入った袋を車に積んだり倉庫に運んだりするだけだしな」

 

 それが良いか悪いかは別として、イタリアでは児童労働なんて別段珍しくとも何ともなかった。義務教育はあと一年ばかり残っていたけれど、もう一年粘ったところで上等な働き口にありつけるわけでもない。何か夢があって勉強していたわけでもなかったし、姉が気に病むほどホルマジオは学校に対する未練など持ち合わせていなかった。

 大事なのは家族だ。どうせホルマジオ一人の稼ぎでは姉や弟たちみんなを養うことなんてできないだろうが、せめて姉が昼の仕事だけで済むようになればいい。どんなに貧しい生活だとしても、家族がいればささやかな幸せを見つけることくらいできるだろう。

 ホルマジオは無意識のうちにポケットの中に手を突っ込んだ。丸められた硬い紙の感触が指先にこつんと触れる。それは、ホルマジオの家族を守りたいという決意をより確かなものにした。

 

「ビビ姉はなにも心配しなくていいから」

 

 この写真は絶対に存在していてはいけないのだ。

 

 

 

 

 イタリアでのカメラ製造が最盛期を示したのは、第二次世界大戦の直後。それまで行われていた軍需産業からの転換であり、一眼レフといえばドイツのエキザクタかイタリアのレクタフレックスかと名の挙がるほど、それはそれは素晴らしい製品を作り上げていた。 

 しかし、その栄華は長くは続かず、一九五〇年代後半には緻密な日本製の一眼レフが市場を席巻する。そこからさらに三十年も経てば、イタリアのカメラ産業がどうなったのかなど言うまでもないだろう。日本がより高性能、高級化の路線に舵を切ったのに対し、わずかに生き残ったイタリアメーカーがとった道は、より単純化された構造の安価な簡易カメラ、あるいはトイカメラを作って販売することであった。

 

 

――カシャリ。

 

 ホルマジオがダントーニの食品市場で働き始めて、一か月は過ぎた頃だろうか。

 突然、無遠慮にたかれたフラッシュに、ホルマジオは作業の手を止めて振り返る。「ふふふ、ごめんね。つい、撮りたくなっちゃって」そう言って、倉庫の敷地ぎりぎりのところに立っていた女は、てんとう虫のように赤いカメラを掲げて見せた。デザインからして、生真面目な日本人は作らないだろうなと思える代物だった。

 

「……」

 

 ホルマジオは写真を撮られたことに対して何かを言うこともなく、ただ黙って女を見つめ返す。歳の頃はちょうど、ビビアーナと同じくらいか少し上だろう。カメラの安っぽさとは反対に、このあたりでは珍しいくらい上等な服を着ていた。だがそれでも同じイタリア人だ。旅行客ならともかくも、現地人がイタリアの日常風景――しかも倉庫にトウモロコシの袋を運んでいるだけだ――を撮って、一体何になるのだろうか。普通であれば変な奴だと思って無視するところだが、ホルマジオは女の瞳に悪意が揺らめくのを感じ取っていた。

 根拠はないが直感が告げている。この女は絶対にビビアーナの件に関わっている。

 

「お姉さんのそれ、可愛いカメラだね」

「ありがとう。って言っても、彼のお古なんだけどね」

「へぇ、恋人がいるのか……」

 

 ただの無邪気な少年のふりをして、ホルマジオは会話を続ける。「うちの姉ちゃんにもいるのかな、そういうの」思ったとおり、姉という単語を出すと、女はわかりやすく笑顔を浮かべた。その笑顔はビビアーナの浮かべる優しい笑顔とは違って、酷く歪んだ笑みだった。

 

「そうね。()()()娘さんだったら、恋人くらいいるんじゃないかしら」

「じゃあ、()()()()()美人で優しい姉ちゃんだから、きっとすげーいい男が恋人なんだろうな」

「……釣り合ってるといいわね」

 

 貼り付けたような笑みを浮かべたまま、女はもう行かなくちゃ、と言った。彼女が去ってしまうのを見届けた後、ホルマジオも元の作業に戻る。

 その日の仕事は、なかなか終わらなかった。特別大量に荷物があったわけでもないはずなのに、運んでも運んでもトウモロコシの袋が減らないのだ。頭の中はさっきの女のことでいっぱいだった。趣味と断じるには安っぽいカメラ。ビビアーナに対する隠し切れない悪意。実はあれから写真は何度も家に届けられていて、毎朝誰よりも早く郵便受けを確認するのがホルマジオの日課になっていた。

 

(でも、あの女が首謀者だとしても、それとは別にビビ姉に乱暴した男がいるはずなんだ)

 

 それが、女の言う“恋人”なのだろうか。

 夕日の沈んだ帰り道。考え事をしながら歩いていたホルマジオは、不意に後ろから肩を掴まれ、路地の奥へと引きずり込まれた。

 

「やぁ、僕ちゃん(バンビーノ)。偉いねぇ、こんな時間までお仕事かい?」

 

 背中に固い壁の感触がしたと思えば、三人の男に取り囲まれている。いずれも真っ当な人間には見えなかった。ギャングの中でもうだつの上がらない下っ端か、それ以下のどうしようもないチンピラか。こんな子供相手に金目当てということもないだろうから、相手は誰でもよかったのではなく、ホルマジオに用があるのだろう。

 

「カメラの女の仲間か?」

 

 人数差も年齢差もある。暴力を振るわれれば、どう頑張ったってホルマジオに勝ち目はないだろう。それでも向こうから手掛かりがきてくれたのだ。

 怯む様子を見せないホルマジオを見て、男たちは大袈裟に感心してみせた。

 

「おいおい、こりゃあ意外と頭のキレる坊主じゃあないか。あんな倉庫で働いてるのがもったいねぇくれぇだな」

「ほんとだぜ、学校を辞めちまわないで、そのまま普通科高校(リチェオ)に行ってりゃ、ボローニャ大学にでも進んでたんじゃあねぇか?」

「親もおっちんじまってることだしよ、奨学金だって簡単に出たかもしれないぜ? なぁ?」

 

 家のことが詳しく調べられていることといい、やはりすべては仕組まれたものだったのだろう。男たちは同情するかのようにホルマジオの肩に手を乗せた。こちらが小さいのをいいことに、舐め腐っているのだ。「……お前らが、ビビ姉を襲ったのか?」発した声は震えていたが、それは恐怖のためではなかった。

 

「おめーらがやったのかって、聞いてんだよッ!」

 

 一番近くにいた男に、ホルマジオは掴みかかった。胸倉を掴んだつもりだが、体格差もあってほとんどしがみついているに等しい。

 

「うるせぇな。元はと言えば、てめーの姉貴が悪ィんだろうが」

 

 米神に一発。手を放してしまったホルマジオは、そのままたたらを踏んだ。体勢を立て直そうとしたところに腹を蹴られて、とうとう地面にみっともなく転がされる。それから間髪入れずに男たちの蹴りが何度も振るわれたが、ホルマジオの怒りは萎えることはなかった。姉の受けた仕打ちに比べれば、骨の一本や二本、どうでもいいことに思えた。

 

()()はな、お怒りなんだよ。てめーの姉貴が()()の男に粉かけやがったから。ま、実際、そっちは商売で、勝手に本気になっちまった男が悪ィんだが……とにかく、()()はてめーの姉貴が不幸になるのを望んでる。売女に取られたとあっちゃ、プライドだって許さねーんだろう」

「……っ、もう、十分不幸だ、お前らのせいでッ」

「それがなぁ、まだ足りないらしいぜ。ちったあ懲りてるかと思いきや、相変わらずにこにこ笑顔を振りまいてて頭に来たんだそうだ」

「それは……! 」

 

 ビビアーナは苦しくても無理に笑っているのだ。傷ついていないわけがない。あんなことをされて平気なわけがない。どうしてそれがわからないのか、ホルマジオは悔しくて悔しくて仕方がなかった。鼻からなのか口からなのかわからない血を吐き出し、男たちを睨みつける。しかし、続けて彼らが告げた事実に、今度こそ言葉を失った。

 

「どうやら家に送った写真はお前がこっそり始末してたみてーだがよ、あれ、実は近所中にばらまかれてんだぜ。知ってたか?」

「……!」

「まぁ、それでもへらへら笑ってられるんだからよ、マジにてめーの姉貴はイカれてんのかもな」

 

 男たちは言った。恨むならてめーの姉貴を恨めよ、と。本人で駄目なら家族を痛めつけるのが常套手段だから、とホルマジオを殴打した。

 

「不幸な時は、大人しく飛び切り不幸な顔してりゃあいいんだ」

 

 煽りともとれる内容とは裏腹に、男たちの声には本気の同情が混じっていて、ホルマジオは余計に赦せなかった。たとえ、ただ命令されたのだとしても、こいつらが姉を傷つけたことには変わりないのに。「強姦魔め……」加害者のくせに憐れむな。自分達は強いられただけだからと罪から逃れようとするな。朦朧とする意識の中でホルマジオが吐き捨てると、男たちはより一層の憐れみを滲ませて言った。

 

「残念だが、今のイタリアの法律じゃあ、売春婦に強姦罪は適用されないんだぜ」

 

 

 

 次にホルマジオが目を覚ました時には、辺りはすっかり真っ暗になっていた。正確な時間はわからないけれど、これだけ静かだとバールですら開いているのか怪しい。もはやどこが痛むのかわからないほど全身が悲鳴を上げていたが、壁に縋り付いてでも立ち上がれたことからして足は折れていないのだろう。

 途中、何度も何度も倒れこみながら、やっとのことで家に辿り着いたホルマジオは、玄関口でまたもや意識を手放した。その際、物音を聞きつけてこちらにやってきた誰かの、押し殺したような絶望の声が耳に届いた気がした。

 

 

 

「……よかった、目が覚めたのね」

 

 幼い頃は怖かった天井の木目が、この時ばかりは心配しているような表情を浮かべていた。ベッドの上のホルマジオは首だけを動かして、安堵に震えた声の主を探す。

 目が合ったビビアーナは、あの事件の日よりもよっぽど不幸な顔をしていた。両の瞳からはらはらと涙を流して、悔しいけれど、あのカメラ女の思惑通りになったということだろう。

 

「ごめんね、私のせいで、本当にごめんね……」

 

 泣きながらうわ言のように繰り返し謝る彼女は、ホルマジオがなぜこんな目にあったのかわかってるようだった。勝手に守れたつもりでいた写真の件だって、ビビアーナは知っていたのだから当然だろう。「……ビビ姉のせいじゃ、ねえ」月並みなことしか言えない自分が腹立たしかった。あの時のように、部屋に水桶を運んできていた彼女は、懺悔するみたいにホルマジオのあざの一つ一つを石鹸をつけたタオルで拭った。

 

「あなたにまでこんなことされるなんて、思わなかった……あぁ、この傷が消えなかったらどうしよう」

 

 正直言えば、今は触れられるだけでとても痛い。ましてや、あざなんか拭ったって仕方がないものだろう。それでもホルマジオはうめき声を漏らさぬように、姉のしたいようにさせていた。それでほんの少しでも姉の心が軽くなるのなら十分意味があると思った。

 

「あぁ、どうしましょう! やっぱり消えないわ!」

「ビビ姉、何言って……?」

 

 けれどもなんだかビビアーナの様子がおかしい。固形石鹸を削らんばかりの勢いでタオルに擦りつけ、無理に泡を立てようとする。そして同じくらいの力で今度はあざを拭おうとしたものだから、ホルマジオは思い切り痛みに眉をしかめた。

 

「っ! やめろよ、ビビ姉、どうしちまったんだよ?」

「だって、消えないのよ! 洗っても洗っても消えないの!」

 

 いつも穏やかな姉からは想像できないほど、鬼気迫った声だった。固まってしまったホルマジオの目の前で、姉は自分の袖をまくり上げる。暴行事件は一か月くらい前の事で、殴られたとはいえ、痛めつけるのが主目的ではない彼女のあざはとうに消えているはずだった。実際、そこには以前ホルマジオが見たような紫の手の跡はどこにもなく、代わりに白かった彼女の腕は酷い()()()で赤黒く抉れていた。

 

「ほら見て! いつまで経っても、掴まれた跡が消えないの!」

「な、にを……」

 

 呆然とするホルマジオの前で、ビビアーナは擦過傷をさらに強くごしごしと擦る。彼女にしか見えない跡を必死になって消そうとして、かえって自分を傷つけている。

 

「やめてくれ! あざなんてねぇよ!」

 

 何がへらへら笑っている、だ。何が不幸が足りない、だ。

 全身が燃えるように熱い。

 ホルマジオは転がり落ちる様にベッドから出ると、ビビアーナの手から強引にタオルを奪った。男たちの同情めいた言葉が蘇る。

 

――マジにてめーの姉貴はイカれてんのかもな

 

「頼む、頼むよ、ビビ姉……しっかりしてくれ……」

 

 真正面から見つめあったビビアーナの瞳には、きれいな強い光はもう宿っていなかった。小さくなってしまった石鹸握りしめ、彼女はすっかり絶望に染まった声で言う。

 

「……消えたい、私も、小さくなって消えてしまいたい。私さえいなくなれば、これ以上皆が傷つくこともないのに……」

「……」

 

 もしもこのとき、ビビアーナが復讐を一番に望んだのなら、後々、ホルマジオの精神は何か別の力を形づくっていたのだろうか。

 いずれにせよ、どこまでも家族を想う姉の言葉を聞いて、ホルマジオの中で怒りよりも悲しみが勝ってしまった。犯人たちを痛めつけたい気持ちよりも、このつらい世界から姉を隠してやりたい気持ちのほうが強かったのだ。

 もちろん、当時のホルマジオでは、ただひたすらに姉を抱きしめてやることしかできなかったのだけれど。



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16.足を洗わぬ木曜日⑤

 

「あのねぇ、表の世界じゃあたしはただの人殺し。人殺しの集団に混じって初めて、ようやく修道女(ソレッラ)になれるんだよ」

 

 ともすれば開き直りにも聞こえかねないことを口にしたペコリーノは、ホルマジオに向かって肩を竦めてみせた。「それは、そうだけどよ……」普段、こちらがどれだけ彼女の無謀をいじっても、真剣に目指しているのだと言うくせに、どうして急にそんな()()()()ことを言い出したのか。

 咄嗟に返す言葉が見つからず、ホルマジオの視線は宙をさまよう。

 

「にゃあん」

「お……」

 

 すると主人の劣勢にでも駆け付けたつもりなのか、不意に現れたホルマジオの猫が二人の間に割って入る。ペコリーノは猫を見るなり、うわあ、と声を上げた。

 

「びっくりするくらい泥だらけ。元の色がなんだったか忘れるくらいよ」

灰色(グリージョ)だ。昨晩、外は酷い雨だったんだな。酔っててちっとも気づかなかったぜ」

「雨なら逆にきれいになったでしょうに。おいで。お前のほうが足を洗う必要がありそうね」

 

 おいで、と言いつつ、身を乗り出したのはペコリーノのほうで、捕まえられた猫はふぎゃっと情けない声を出した。そして自分に迫る水桶を認識すると、今度はこの世の終わりのような叫び声をあげ、激しい抵抗を見せた。「ほらほら暴れない」しかしながら引っかかれようが蹴られようが、ペコリーノはあまり気にしていない。それは彼女が優しいからというよりは、“猫を洗う”という目的の前では多少の障害などどうでもよいからに違いなかった。

 

「おめー、無駄な抵抗はやめたほうがいいぜ? そこの女は人殺しだ。猫なんてその気になりゃああっという間だぜ」

「人殺しに飼われてる猫なんだから、そんな脅しは効かないわよ」

 

 なおも暴れ続ける猫を見ながら、人殺しねぇ、とホルマジオは改めて呟いた。もちろん、自覚はある。罪の意識はとうにないけれど、()ったか、()ってないかでいうと、確実に()っている。

 

「だが、神はどんな罪でも赦してくれるんだろう? だったらお前だって赦されるはずじゃねぇのか?」

 

 不信心な自分は無理でも、彼女ならば。

 そうでなければ、救われない。

 ホルマジオの子供じみた言い分に、ペコリーノは猫を洗う手を止めた。もちろん逃げ出さないようにしっかり掴んではいるが、顔をあげてこちらをまっすぐに見つめた。

 

「そうね、主を信じ、自らの罪を言い表すなら、いかなる罪も赦してくださるそうよ。要理教育(カテキズム)で大罪だとされる殺人も、中絶も、怒りにかられた暴力も、復讐も、強姦だって赦されるってわけ」

「……」

 

 何も初めてキリスト教に触れるわけでもないのだ。教えのうえで、赦されることになっている、というのはもちろんホルマジオだって知っている。だから本当は、それならペコリーノも本物の修道女(ソレッラ)としてやり直したって赦されるだろう、と続けるつもりだった。

 これはもともとそういう話だった、はずなのに――。

 

「随分と都合のいい話だな。罪人側の俺が言うのもなんだが、そいつはちと甘すぎるぜ」

 

 たっぷりの私情を挟んで、ホルマジオはつい、結論を曲げてしまった。ペコリーノが彼女の神に赦されて欲しいと思う一方で、ホルマジオは大罪を犯した奴らが無罪放免となるのは認められなかった。

 

「おまけに被害者側には、赦せと言うんだろう」

 

 赦せるわけがない。姉のことも、ソルベとジェラートのことも。もちろん、自分が踏みにじってきた奴らにだって、ホルマジオは赦しを求めたりしない。自分のような人間は、恨まれて憎まれて、殺されたとしても文句は言えないと思っている。けれども、自分はそれでいいとしても、家族や仲間が苦しめられたのなら黙ってはいられない。「それなんだけどさ、」頭、身体、足、しっぽ。上から順に撫でるように洗いながら、ペコリーノは小さくため息をついた。

 

「あたしはね、何もすぐに赦さなくたっていいんじゃないかと思ってる。誰かを赦せないのだとしたら、今はまだその時じゃないだけよ」

「……」

「ただ誰かを赦せない間って、やり場のない怒りを持て余して、無力感や焦りに苛まれて、ひどく苦しいでしょ? だからね、赦しなさいっていうのは命令じゃあなくて、『あなたが誰かを赦して早く苦しみから解放されますように』って、背中を押してくれてる言葉だと思ってる」

 

 隣人だけでなく敵すらも愛せ、と神は言う。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せとも。

 イタリアで生まれ、信仰が身近であったホルマジオでも、さすがにそれは綺麗事だとしか思えなかった。幼い子供に倫理を説くのに使う分にはまだしも、実生活にまで持ち込むのはナンセンス。もしも律義に守っていれば、それこそ傷つけられ、搾取され放題の人生だろう。

 だが、逆に言えば、()()事だと鼻で笑うくらいには、慈悲や赦しが善いものであるとも認めてしまっているのだ。

 

「……やっぱり、向いてるんじゃねーの。修道女(ソレッラ)

 

 善いとされることが自分にはどう頑張ってもできそうにないというのは、信仰に関わらず気分の良いものではなかった。まるで赦せない狭量なこちらが悪いみたいではないか、と思ったことすらある。

 けれども、ペコリーノの解釈ならば、ほんの少しだけ真面目に耳を傾けてみてもいいかもしれないと思った。

 

「ふふん、昔から教えをすり抜けるための言い訳だけは上手いのよ、あたし」

「なんつーか、そう言われると向いてない気がしてくるから不思議だな」

「孤児院にいた頃、短気すぎてすぐ手が出るから憤怒(イーラ)って呼ばれたこともあったわね」

「むしろ大罪側じゃねーか」

「今じゃこのあだ名はギアッチョに与えられるべき!」

 

 泥だらけだった猫は、泥が乾ききるまえだったのが幸いしたのか、水で洗ってやるだけでちゃんと綺麗になった。ほい、とそのままびちゃびちゃの猫を渡されそうになったので、ホルマジオは慌ててタオルを広げる。せっかく主人が水気を拭ってやろうとしているのに、まだ抵抗してくる猫のふてぶてしさには一周回って感心するほどだ。

 そうして、ペコリーノは濁った桶の水をひっくり返して流してしまうと、今更のように首を傾げた。

 

「ていうか、あたし達ってなんでこんな話してるんだっけ? なんで猫洗ってるんだっけ?」

「そりゃあ、時間潰しだろ。カーペットのシミ抜きの間の」

「あ、そうだった! さぁて、首尾はどうかな……」

「おいおい、流石にまだ早えだろ」

 

 一時間は待てと言ったのに、いくらなんでも堪え性がなさすぎる。猫を洗う間、脇にどけてあったカーペットの塩を払おうとするペコリーノを止めようとして、ホルマジオが一瞬気をそらした瞬間。「あっ」猫は器用に身をよじってホルマジオの腕の中から逃げ出すと、とんっとジャンプして洗面台に登った。そして換気の為に少しだけ開けていた小窓の隙間から、するりと外へ逃げ出していった。

 

「あーー! せっかく洗ったのにッ! なにやってんのよ、馬鹿マジオ!」

「悪ィ。まぁでも、元々猫なんて外でうろうろするもんだからよォ……」

「賠償を要求する!」

「はぁ? これくらい赦せよ」

「いいや、赦さないね。服も濡れたし猫に引っかかれたし、これは確実に賠償!」

「お前なぁ……」

 

 つい先ほどまでは、ベテラン神父顔負けの人格者っぷりだったのに。

 今時、小学生でもやらないようなゴネ方をされたものだから、ホルマジオは肩透かしを食らった気分だった。リゾットはときどき彼女を指して悪い修道女(ソレッラ)だと言うけれど、()()()修道女(ソレッラ)に呼称を改めたほうが良いかもしれない。

 

「わかったよ、じゃあおめーにだけ、とっておきの内緒話をしてやる」

 

 ホルマジオは結構真面目に言ったつもりなのに、彼女は言ってみろ、というふうに顎をしゃくった。これではなんだか深刻な顔をしているこちらの方が馬鹿みたいだと思ったが、それでも自然と声は潜められる。

 

「……リゾットにもまだ詳しくは言ってねぇが、俺たちはおそらく、これからボスを裏切ることになる」

「……」

 

 ずっとずっと覚悟してきたし望んだことだったけれど、どちらかといえばホルマジオはこれまで周りを諫める役だった。だから、こうして改まって口に出すのは感慨深い。まだ何一つ事態は進んでいないのに、胸のつかえが取れたような気がした。

 

「だから、その前におめーだけでも、なんとかならねぇかって思ったんだよ。今ならまだ、おめーくらい、ポケットに隠して国外に逃がしてやれる。どうだ? 」

「どうだ、って?」

「いや、だから降りるなら今だぞって」

「内緒話って、もしかしてそれ?」

 

 ペコリーノは裏切りの話を聞いて、驚くわけでも恐れるわけでもなく、真顔のままだった。いや、この真顔はむしろ、怒りすぎている結果かもしれない。セレストブルーの瞳に強い光をたたえて、あんたたちはそればっかり、と言い捨てた。

 

「メローネも、ボスには逆らうなって。自分たちは裏切る気満々のくせに」

「あいつまで、そんなことを言ったのか……」

 

 どうも染まりやすい奴だから――それこそ、仲間の誰かが言い出したら乗る奴だと思っていたから気をつけていたけれど、知らない間に他人に忠告できるほどには成長していたらしい。

 まあそれはさておき、メローネが止めた気持ちはよくわかる。フランスから帰って以来、誰の目からしても二人は打ち解けて見えたが、こちらが思っていたよりも随分腹を割っていたらしかった。

 

「ねぇ、ホルマジオ、さっきの猫どうなったと思う?」

「……は?」

「せっかくあたしが洗ったあの猫よ。まだきれいでいると思う?」

「いや……」

 

 不意に話題が変わって、ホルマジオは面食らった。が、不意打ちだからこそ、つい真面目に考えてしまう。

 実際に、外がどの程度ぬかるんでいるかは知らなかった。だが、来た時の猫の様子からして、また元通りの泥まみれになってしまっている可能性は高いだろう。

 ホルマジオが言葉に詰まると、ペコリーノはどこか勝ち誇ったようにすっきりとした笑みを浮かべた。

 

「ほら! 足なんて洗ったってね、すぐに汚れるのよ。だから無駄」

「……そのくせ、おめーは詫び寄こせって要求したじゃねーか」

「そりゃあ、ここぞとばかりに貰えるもんは貰うわよ。まぁ、期待外れだったけどね」

「じゃあ、何が知りたかったんだよ?」

 

 余計な詮索は好まない。人生良いことばかりなら話すのも楽しいかもしれないが、現実には隠したいことのほうが多すぎる。

 そう思っていたのに、ホルマジオは彼女を促してしまった。この()()()修道女(ソレッラ)に気遣いや遠慮なんて期待しても意味ないだろうに。

 

「そうね、たとえばさっき出てきたホルマジオのお姉さんのこととか」

「……美人で優しくて、家族思いの自慢の姉だよ」

「それからそれから?」

「おめーが大人しく逃げることを選んでたら、会えたろうにな」

「え!?」

 

 ホルマジオの家族は、イタリアには誰もいない。

 近所中に醜聞が回って、元の場所に住み続けることが難しかったし、世間から離れて少しでも心穏やかに暮らせるように、とっくの昔に姉は国外の修道院に逃がした。その後、ホルマジオがこっちの道に来た時点で、弟や妹たちにもイタリアを離れるように言い、みな縁を切っている。家族を脅しや見せしめに使うのは、ギャング(こちら)では常套手段らしいから。だから、普段は家族がいるなんて話もしない。

 

「なによそれ。だったら、あんたこそ逃げれば?」

「駄目だ、お前らだって一応、家族(ファミーリア)みてえなモンじゃねーか」

「うええ、きも」

 

 ペコリーノはわざとらしく眉をしかめて舌を出したが、どう見たって嬉しそうなのが透けている。そうか、こいつは孤児院出身だったな、とホルマジオは心の中で思った。

 

「ホルマジオがそんなこと言うなんて。プロシュートが聞いたらなんて言うか」

「そりゃあ、おめー、あれだろ」

 

「「仲良しクラブじゃねーぞ」」

 

 声が揃って、思わず二人とも吹き出す。

 そうやってくだらないことで腹をかかえて笑っていると、幸せなんて探せばどこにでもあるものなのかもしれないと思えた。



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17.金曜日の受難は乗り越える①

 

 暗殺チームは、仲良しクラブではない。らしい。

 確かに、まだまだ歴史の浅い新興組織とはいえ、今や<パッショーネ>はイタリア全土にその名を知られる一大ギャングだ。ボスを頂点に、その下には複数の幹部がおり、その幹部はさらにシノギごとに分けたチームをいくつか統括している。その辺の道端にたむろしているチンピラたちとは違ってしっかりと上下があるし、比べ物にならないくらいやっていることだって非合法。ましてや、暗殺を請け負う部門とくれば、チームメンバーだって仲良くどころか殺伐としているに決まっている。

 

「『すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである。』*1」

 

 スプーンでローマ風豚モツ煮込み(コラテッラ)を山盛りすくい上げたペコリーノは、まるで演説でもするかのように聖書の一文をそらんじると、上機嫌のままそれを口に運んだ。その食いっぷりはお世辞にも上品とは言い難いところだが、食前にはきちんとお祈りはするし、美味そうに食べることにかけて彼女の右に出る者はいない。

 

「はぁ、美味しい~~。まったくもって素晴らしいわね、私たちの主は! 豚がダメだの、タコがダメだの、そんな心の狭い神を信仰している奴らの気が知れないわぁ。いや~可哀想」

 

 ペコリーノは煽りなのか同情なのかわからないことを言いながら、お次はタコのサラダに舌鼓を打っている。そんな彼女に対して、酒だって飲んだっていいしな、とワイングラスを傾けながら返したのはホルマジオだった。

 

「もちろん禁止されようが守るつもりはねーけどよォ、話がわかる神で何よりだとは思うぜ」

「だけど、酔っぱらいは駄目なんだろ?」

 

 そう横から口を挟んだイルーゾォのグラスには、透明なミネラルウォーターが注がれている。先日、飲みすぎて酷い目にあったので、ちょっとした冷却期間みたいなものだろう。だいたい向こう見ずなメンバーが多い中で、イルーゾォはきっちり反省をするタイプだった。もっとも酒に関しては、ほとぼりが冷めればまた飲みだすには違いないが。

 ペコリーノはイルーゾォの指摘を聞くと、ますます顔を輝かせた。

 

「そうそう、『酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。*2 』ってね。イルーゾォ、感心したわ! あたしが貸してあげた聖書、読んでくれたの?」

「ち、ちげーよッ! んなの、一般教養のうちだろ! だいたい貸したんじゃあなくて、おめーが全員に一冊ずつ押し付けたんだろうが!」

「いやいや、俺見たぜ~? こいつがお前に影響されて聖書読んでんの。プロシュートが枕にしてんのも見たけどな」

「そういやリゾットは書類の重しにしてたぞ……」

「まぁ、あたしなんて武器にしてるし?」

「それもそうだな」

 

 あはは、と笑い声があがる食卓は、()()()()()()賑やかさだ。

 ペッシはそんなやり取りを尻目に、  ローマ風豚モツ煮込み(コラテッラ)  を避けてサラダの野菜をちびちびと口に入れる。

 仲良きことは美しきかな。プロシュートの言葉は正論だとしても、ペッシ自身は和気あいあいとしたチームのほうが好きである。特に食事というのは一人で寂しくとるよりも、皆で食べる方が楽しいに決まっている。

 

「……ペッシ、どうしたの? なんだか変よ。顔色も悪いし」

 

 が、今日はどうしても食が進まなかった。食べ物の好き嫌いがあるわけではない。ペッシは豚肉もタコも美味しいと思うし、普段であればむしろ喜んで食べる。

 だからこそいつまでも減らない皿の中身に、ペコリーノがとうとう疑問を持ったようだった。そもそも、ペッシがこの場にいるのに、プロシュートがいない時点で最初からおかしかったのだ。

 

「ははーん、さてはプロシュートのヤローにこってり絞られたな?」

「は? そんなのいつもの事だろ」

「……そ、それはそうだけどよォ、」

 

 プロシュートの指導には、だいたい鉄拳がつきものだ。のんびりマニュアルを読んで、という職種ではないから仕方がないけれど、常に実践的だし要求される能力も高い。だが、厳しい指導のあとにはちゃんとフォローもあった。尊敬する兄貴に期待をしているんだぜ、と言われると、恐れ多いのと同時に面映ゆい気持ちになる。

 それなのに、今日は。

 

「あぁ、やっぱり俺、今回ばかりは見限られちまったかも!」

 

 突然、スプーンを置いて頭を抱えだしたペッシに、その場にいた全員がはぁ? と怪訝な声をあげた。

 だが、そんな周りの反応もお構いなしに、情けなくべそをかく。

 

「だって、今日は一緒に飯食わねぇって、勝手にしろって二階に上がっちゃって……」

「いや、別で食う時くらいあるだろ……なぁイルーゾォ」

「こいつら()デキてんのかぁ?」

「まぁまぁ、何があったのか話してごらんよペッシ」

 

 呆れられるか馬鹿にされて終わりだと思っていたけれど、意外にも優しい言葉がかけられてペッシは顔をあげる。わざわざ皿ごと隣まで席を移動してきてくれたペコリーノの優しさは嬉しかったが、「……うっ、ごめん」近づけば近づくほど、彼女の口にぱくぱくと運ばれていくものが改めて”内臓”であると意識されて、ペッシはますます青ざめる。

 それで十分、ホルマジオはピンときたようだった。

 

「あーわかったぜ。おめー、今日の仕事……」

「おいおい、こっちはまだ食ってんだぞ。汚ねぇ話は許可しないッ」

「汚いってグロ系? スカ系?」 

「ど、どっちもだよ……」

「だからやめろって言ってるだろうが」

 

 流石に青ざめたりはしていないけれど、イルーゾォはこの手の話を避ける気持ちにまだ理解がありそうだ。反対に、ペコリーノは興味を示しているくらいで、食事の手を止めるようなこともない。ギャングとして経歴では彼女のほうが長いとはいえ、ペッシのほうがチームでは先輩なのだから、こんなに恰好がつかないことがあるだろうか。

 

「ペコは平気なんだね……」

「まぁ、あたしの教育係はとっっっても猟奇的なスタンドだし。初めて見たときは引いたけど」

「へぇ、お前でも引くとかあるんだな」

「なんならメローネのやつより引いたわよ」

「意味が違うだろうが……。それはリゾットに言うなよ。地味に気にするぞ」

 

 スタンド能力というのは、いわば精神の形だ。うっかりすると、下手な人格否定よりも攻撃力が高いかもしれない。

 いつも散々、ホルマジオの能力をくだらないとからかうくせに、イルーゾォは複雑な顔をした。普段のあれは、別に本心から言っているわけではないということだろうか。

 何やらもの言いたげな顔のホルマジオを置いて、ペコリーノは肩を竦める。

 

「いやいや、だっていきなりあたしに近づかないって宣言して何事かと思ったら、剃刀なのよ? まずもって説明が足りてない。うちのリーダーは口数が少なすぎるわよ」

「おおかた、お前が聞いてねーだけだろうが……」

「と、とにかく、あんな恐ろしい能力に巻き込まれかけたらそりゃドン引きでしょ」

「組む必要がねぇからな、メタリカは。むしろ邪魔なお前が悪いぜ」

「はいはい、お陰で教育係とは名ばかりよ。しっかり面倒見てもらえるペッシが羨まし……くはないわね。絶対嫌だわ、口うるさいし面倒くさすぎる」

「同感だな」

「あ、兄貴のことを悪く言わないでくれよう」

 

 一度逸れかけた話題がプロシュートのところに戻ってきて、ペッシはほとんど反射的に彼を庇った。途端、皆がまた可哀想なものを見るような、生暖かい視線を向けてくる。

 

「はぁ、今日だって殴られてんだろ? 殊勝なこった」

「プロシュートもはた迷惑な能力だしさ、ペッシはイルーゾォと組めばいいのに。最初にあたしを襲ったときも近いようなことしてたじゃない」

 

 ペコリーノが言っているのは、彼女がこのチームに来た初日の“洗礼”のことだろう。あの時はプロシュートの意向もあってペッシが鏡の世界に入ることはなかったが、実際暗殺にはもってこいの組み合わせであると思う。「まぁ能力の相性がいいのは認めるけどよ、俺は誰かと組むなんてゴメンだぜ」イルーゾォのほうにその気がないのなら仕方がないけれど。

 

「じゃああたしと組むのはどう? あたしの弟分になったら?」

「えっ」

「おいおい、プロシュートがいないからって口説きだしたぞコイツ」

「だから妙に優しかったのか」 

 

 冗談かどうか判別がつかないほどの満面の笑みで提案されて、ペッシはなんと言えばいいのかわからなかった。「あたし、弟が欲しかったの」任務の都合で彼女と組むのは別にいい。この前、メローネと彼女がフランスに行ったように、内容によってリゾットが決めることもある。だが、

 

「悪いけど、俺の兄貴はプロシュートの兄貴だけだよ」

 

 それは譲ることができない。

 いつもの優柔不断な物言いと違い、はっきりと言い切ったペッシに、ペコリーノはちょっと面食らったような顔をしていた。

 

「はは、振られてやんの」

「……うるさいなぁ。一人で鏡に引きこもるような奴に、あたしの心は永遠にわかるまい」

「ご、ごめんよ。ペコのことが嫌ってわけじゃなくて――」

 

 バン、とテーブルに手が叩きつけられて、思わず肩をはねさせる。彼女はそのまま、ペッシの皿を自分のほうに引き寄せると、驚いているペッシの額を軽く中指で弾いた。

 

「いいわ、そこまで言うなら聞かせてもらおうじゃないの。あんたがそこまでプロシュートを慕うわけってやつをね! 代わりに、残してる料理はあたしが手伝ってあげるわ」

「いや、それお前は得しかしてないだろ」  

 

 ホルマジオのツッコミもどこ吹く風。

 さほど気を悪くしたわけではなさそうな彼女に、ペッシはほっとしながら、プロシュートとの出会いを思い出していた。思えば、あの頃から自分は大して成長していないかもしれない。

 

「えっと、そんなには、昔の話ではないんだけど――」

 

 

▼△

 

 暗殺チームは、使い捨てられようとしている。らしい。

 ソルベとジェラートの一件がそれを加速させたのは間違いないだろうが、与えられる任務の危険度と報酬が如実にそれを物語っている。そもそも二人が動いたのも、あまりの待遇の悪さに耐えかねたからであって、ボスはきっと初めからキリのいいところで暗殺チームを潰してしまうつもりだったのだろう。

 実際、誰を殺したいか、というのは、かなり依頼主のことを知れる情報だ。何が邪魔で、何を恐れているのか。そういった情報が蓄積されてしまうチームを、あの小心者のボスは放っておけないのだろう。

 

 リゾットは集めたばかりの情報を前に、自室で一人、思案していた。ホルマジオの奴も既に同じ噂に辿り着いていたようだったが、リゾットが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に顔を出さずにやっていたことも一緒だ。

 

 カラブリアという町の病院で死亡した女。死期を悟った女が、探し始めた昔の男。そして女には、父親のわからない“娘”がいた――。

 

 ようやくだ。ようやく、悪魔の寝床を探って、何もかもをひっくり返せるときが来たのかもしれない。けれども焦りは禁物だった。同じ轍を二度踏むわけにはいかない。はやりがちなメンバーを抑えるのが、リーダーであるリゾットの役目でもあった。

 

 リゾットはデスクを離れると、リビングボードの奥の金庫に、まとめたばかりの資料を仕舞う。正式な鍵はとうに処分してしまったけれど、磁気ロック式の金庫というのはメタリカと相性がいい。残念ながらその他の電子機器とはすこぶる相性が悪いので、リゾットが気兼ねなくそれらを使うにはパーマロイ加工された特注品を用意する必要があったが。

 

「お取込み中か?」

 

 しっかりロックをかけたのを確認し、リゾットはゆっくりと声のほうを振り返る。「いや」部屋の戸口のところには、プロシュートがもたれかかるようにして立っていた。

 

「そいつはよかった。もしもあんたがプライベートを守りたいってんなら、ドアにも鍵をかけることをおすすめするぜ」

「先週ギアッチョが壊したままなんだ」

「弁償させりゃあいい」

「キリがないだろう。だいたい、俺たちには普通のドアの鍵なんてあってないようなもんだ」

「まぁ、本当に見られたくねぇモンは別に仕舞っているだろうしな」

 

 リゾットはそれに小さく肩を竦めて返しただけだった。今はまだ、話す気はない。プロシュートの性格であれば、すぐにでも動き出してしまうだろう。

 

「で、何の用だ? お前は帰ってきたばかりだろう。仕事の報告か?」

 

 悠長な振る舞いからして深刻な内容ではないだろうが、ターゲットを()()()()()という報告は既に電話で受けている。それ以上の詳細をわざわざ改まって話に来るなんて、プロシュートにしては珍しいと思った。

 

「いや、それはもう言っただろ。飯に行くぞ」

「飯? あぁ、さっきホルマジオ達にも声をかけられたな。キリのいい所で終わらせて向かうつもりだったが……」

「そうじゃねぇよ。外に食いに行くぞって言ってんだよ」

「用意されているのにか?」

 

 確か、今日のメニューはローマ風豚モツ煮込み(コラテッラ)だと聞いている。

 リゾットが思わず聞き返すと、プロシュートはなぜか不機嫌そうにああ、と頷いた。

 

「違うもんが食いてぇ。付き合えよ」

 

――ペッシを誘ってやればいいだろう。

 

 つい、言いそうになったのを、リゾットはすんでのところでやめた。普段のプロシュートなら間違いなくそうしていたはずなので、しないというからには何か理由があるのだろう。

 思えば、プロシュートと二人だけで食べにいくというのも滅多にない話だ。アジトにいるとたいていその場にいた複数人と連れ立って飯に行くことになるし、仕事帰りに寄るというにも、お互い射程が広く無差別な能力なのでまず組むことが少ない。

 

「……わかった」

 

 こうして、プロシュートのわがままに付き合うことにしたリゾットだったが、近くのトラットリアに着いたプロシュートがよりにもよってフィレンツェ風 牛の胃煮込み(トリッパ)を注文したものだから閉口した。

 

「待て、それは違うものか?」

「あ?」

「……いや、いい。好きにしろ」

 

 言われなくてもする、という顔をしたプロシュートになんだか納得がいかないものの、食前酒とお通し(ストウッツィキーノ)のオリーブから、二人の食事は始まった。

 

「まさかとは思うが、ペッシと揉めたのか?」

「はあ?」

 

 おそらくリゾットは巻き込まれたのだ。これくらいのことは聞いてもバチは当たるまい。「どうやって、あのマンモーニが俺と揉めるってんだ」プロシュートは眉を吊り上げて反論したが、ペッシ関連であることは間違いないようだ。

 

「まあ、揉めたというか、お前が一方的にボコボコにして説教したんだろうとは思っている」

 

 返ってきたのは、まるでお手本のような舌打ち。「もう二年にもなるってんのに、いつまでも甘ったれた野郎だから、ちょっと活を入れただけだ」プロシュートが椅子にふんぞり返ったのを見て、これは長くなりそうだな、とリゾットは心の中で思った。

 

「今頃向こうで、飯が喉を通らずに青ざめてるだろうぜ。なんにもなくても吐きそうだったからな」

「ほう。俺の能力ならともかくも、そんなにぐちゃぐちゃにしたのか?」

「向こうが勝手に自爆したんだよ。臓物どころか肉片ぶちまけて」

 

 普通なら食事の席でする話ではないが、プロシュートは気にした様子もない。むしろ、自分で臓物の煮込みを注文しているくらいだ。

 

「なるほど。それで外に食いに行くって言ったのか」

「それで、の意味がわからねぇな。俺は今日は豚じゃなくて牛の気分だっただけだぜ」

 

 重要なのは食事の内容じゃない。プロシュートがその場にいるか、いないかだ。

 グロテスクな死体にブルってしまったペッシを、プロシュートはいつものように叱りつけた。だが、こういうものは叱られてすぐに直せるようなものでもない。ペッシが飯を食えない状態なのを見越して、プロシュートはあえて席を外したのだ。怖い兄貴分がその場にいれば、叱られたばかりのペッシは無理にでも飯を食おうとするだろうから。

 

「まったく、お前がガキを拾ってきたときも驚いたが、こんなに甘やかすとは思ってもみなかったぞ」

 

 もともと世話焼きなほうだとは思っていたが、メローネやギアッチョにはここまでな印象はなかった。まぁ、あの二人はペッシと違って完全な悪ガキだったから無理もないのかもしれないが、なんだか見ていて微笑ましくなるほどだ。

 

「別に、甘やかしてるわけじゃあねぇ。あいつの場合、自信のなさが問題なんだ。いっぺんにあれもやれ、これもやれっつったら、余計に出来ないと決めつけて萎縮しちまう」

「能力自体は、拾ってきたときからそれなりの物だったしな」

「そうだろう。あいつのビーチ・ボーイはまだまだ化けるぜ」

 

 初めの不機嫌さもどこへやら、自分の事のように自慢げなプロシュートが面白い。とはいえ、それを口にするとキレられるので、リゾットは代わりに別の事を言った。

 

「俺もお前を見習わなくてはな」

「見習う?」

「それか、お前がペコリーノの面倒を見てくれるか?」

 

 ペコリーノの名前を出すと、プロシュートはあからさまに、そういえば、という顔をした。

 

「断る。だいたいあいつはペッシと違って殺しの経験だってあるだろ。おめーが面倒を見てやる必要もねぇよ」

「まあな。元は教育と言うより、監視のつもりだった」

「……フン、杞憂でなによりじゃねーか」

 

 プロシュートはもっと早くに、あいつは刺客なんかじゃねぇ、と言い切っていた。プロシュートの勘が良く当たるのは知っているが、リーダーとして勘だけに頼るわけにもいかない。結果、彼女とはある程度の距離を保っていた。

 

「お前を見ていると、俺はあまりいい上司ではなかったと思う」

 

 ペコリーノはチームを害するどころか、一緒にボスを裏切ってもいいと思っているらしい。ホルマジオからそれを聞いたとき、嬉しいような、申し訳ないような、複雑な気持ちを抱いた。期間の短さももちろんあるが、リゾットはペコリーノの命を預かるだけのことを、彼女にしてやれたとは到底思えなかった。

 

「そう思うなら、今から面倒みてやりゃあいいじゃねぇか。果たして、おめーにあのじゃじゃ馬を飼いならせるかどうかはわからねぇけどな」

「別に飼いならそうとまでは思わない。というか、無理だろう、あれは」

「腹割って話せばいい。馬鹿みてぇに生真面目なのがおめーの取り柄だ」

「……」

 

 随分な言われようだが、いかにもプロシュートらしい激励である。

 リゾットはそうだな、と息を吐いた。それから、お前もだぞ、と言い返す。

 

「お前だって恰好をつけすぎだ。お前があまりにも遠いから、ペッシが自信を無くすんじゃあないか?」

「なんだと」

「お前だって、ガキの頃から筋金入りのギャングだったわけじゃあないだろう」

 

 プロシュートの精神はとても強い。だが、それは様々なものを乗り越えてきたからでもある。

 

「それは、そうだが……」

「そういう話をもっとペッシにしてやればいい」

 

 いきなりゴールだけ見せられても、初めての者は戸惑うだけだ。

 そういうと、プロシュートは珍しく、“不快さ”以外の感情で眉をしかめた。

 

「……昔のダセー話なんか、できるかよ」

「そうか? 昔話はジジイの特権だと思っていたが。ジジイは武勇伝しかしねぇのか?」

「……」

 

 沈黙を埋めるように、前菜(アンティパスト)が運ばれてくる。食事はまだまだ始まったばかりだった。




*1 マルコによる福音書 7:15-19から抜粋
*2 エペソ人への手紙第5章18節


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18.金曜日の受難は乗り越える②

――彼らは理由なしにわたしを憎んだ。

      【ヨハネの福音書15章25節より抜粋】

 

 

 残念ながら、この世にはいじめられ()()()人間というものが存在する。だから、そうした人々の共通点を探し、足りないところをあげつらって、彼ら自身の責任にしてしまうのは容易いことだろう。

 しかしながら人間は二人いれば争いが起き、三人集まれば派閥ができると言われるほどだ。ただ少数派になってしまったということが、はたして本当に彼ら自身の落ち度だと言えるのだろうか。

 

 

「エド兄ちゃん! も、もうやめようよ!」 

 

 人気(ひとけ)のない高架下。震えてうずくまる同級生と、それを見下ろしている兄の背中。ペッシは震える足を叱咤して、今更のように兄に向って制止の言葉を投げかける。一番上の兄――エドモンドの手には廃材とおぼしき糸杉の木が握られており、可哀想な被害者は、既に散々打ち据えられた後だった。

 

「あんまりだよ……」

 

 本当はもっと早く止めるべきだったが、怖くてなかなか言い出せなかった。昔からこの兄は残虐な性質を覗かせることがあったし、末弟のペッシはよく泣かされたものだったが、まさかここまでやるなんて。

 中学校(スクオーラ・メディア)に進んで、子供だけで登下校ができるようになると、エドモンドは大人の目を盗んで年々酷い振る舞いを加速させていた。

 

「ガヴィ兄ちゃんからも言ってくれよ、こんなの……こんなの酷いよ」

 

 ペッシは隣で同じように突っ立っているだけの、二番目の兄――ガヴィーノに向かって助けを求めた。この兄には、一番上の兄のような暴力性はない。勉強だってよくできるし、教師や大人たちからの覚えもめでたかった。その代わり、「一体、何を言えって言うんだい?」彼は自分の不利益にならない限り、他人に対して冷酷なまでの無関心さを示す少年でもあった。

 

「僕がエド兄さんに何かを言ったところで、あまり意味があるとは思えないな」

「だ、だからって……」

「だいたい、他人に自分の思うように変わってもらおうなんて図々しいのさ。変えられるのは自分だけだし、こうしたいっていう望みがある奴がその努力をすればいい。例えば、お前がエド兄さんを従わせられるくらい、強くなるとかね」

 

 ガヴィーノはそう言って、冷ややかな視線をペッシに寄こした。もちろん、彼はペッシにそんな腕っぷしも気概もないことがわかって言っている。

 振り返ったエドモンドはガヴィーノとペッシを見比べると、ふっ、と馬鹿にするように片方の口角をあげた。

 

「へぇ、兄弟の中でもみそっかすのお前が俺とやろうっての?」

「あ……いや……」

「わからせてほしいってんならいいぜ。大人にチクるのも自由だ。ただ、()()()母親はもう死んだから、そうなるとママっ子(マンモーニ)はどこへ泣きつくんだろうなぁ?」

 

 ぺしり、ぺしり、と威圧するように自分の手のひらに廃材を叩きつけながら、彼はこちらに向かって近づいてくる。エドモンドとガヴィーノとは母親違いの兄弟だったため、ほとんど歳の開きがあるわけではなかったが、ペッシはどう頑張っても目の前の兄に勝てる気がしなかった。

 

「勘違いするなよ、俺がお前を泣かすのはお前が妾腹だからじゃあないぞ。お前がドジで、のろまで、弱いからだ。そんなやつ誰だっていじめる、俺だってそうする」

「ヒッ……!」

 

 ぶん、とすぐ目の間で棒を振りかぶられて、ペッシはそれだけで尻餅をついてしまった。腰が抜けてしまって、立ち上がれない。エドモンドは無様なペッシを見てげらげらと声をあげて笑い、ガヴィーノといえば虫を見るかのような眼差しでこちらを見ていただけだった。

 

「だけど、ガヴィーノは良いことを言ったよな。何か望みがあるなら、自分自身が変わるべきなんだ。……お前が今すぐ変わるのは無理だろうけど、可哀想なあいつを助けるために()()()ことくらいはできるだろ?」

 

 ペッシが尻餅をついたことで、ちょうど殴られていた同級生と視線の高さが同じになる。ばちりと合った彼の目にはすがるような懇願の色と、隠し切れない憎しみが滲んでいた。それは直接的な加害者の兄にではなく、紛れもなくペッシに向けられたもの――。

 

(そっか……あの子にとっては、これまで見ていただけの俺も同罪なんだね)

 

 気づいてしまった瞬間、がつん、と頭に衝撃が走った。比喩ではなく、あの廃材で殴りつけられたのだと思う。だが、ペッシが精神的に衝撃を受けたのも事実だ。

 

「ほんとに馬鹿だね……。言っておくけど、父さんに泣きついても無駄だよ。あの人はお前になんかこれぽっちも期待しちゃいない」

「そうだ、むしろギャングの息子がこんな情けない奴でがっかりしてるさ。俺が鍛えてやんなきゃな」

 

 エドモンドの声は新しい玩具を見つけた、と言わんばかりに弾んでいた。これまではペッシが従順すぎたせいで面白くなかったが、これからはもっと楽しめるという意味だろう。

 そのあとおまけを何発かくらって、目の前がちかちかした。ただ、ぶれる視界の先で、被害者のあの子が逃げていくのだけははっきりと見えた。

 

(これでいいんだ……)

 

 ペッシは変われない分、()()()ことにした。殴られるのも馬鹿にされるのも、怖くてつらいことだったが、エドモンドと一緒になって誰かをむやみに傷つけるのは嫌だった。かといってガヴィーノのように、人の痛みに無関心でいることにも耐えられなかった。

 ペッシにとって二人の兄は憧れる相手ではなく、むしろこうはなりたくないと思う相手だったのだ。

 

 

△▼

 

 

「今のメルセデス、200は出てたな」

 

 アドリア海に沿って進む、トリエステとヴェネツィアを結ぶ高速道路(アウトストラーダ)

 異常な速さでこちらを抜き去っていく車を見送りながら、プロシュートは感心したように呟いた。呟き終わる頃にはもう、夜の闇に溶けた車両はただの光の点と化している。シートに思い切り背中を預けるのをやめて、プロシュートは心持ち身を乗り出した。

 

「おい、ギアッチョ。こっちももっと出せるだろ。トラックじゃあねぇんだから気張って見せろ」

「あぁ?」

 

 メルセデスは確かにいい車だ。それは認める。だがイタリア人としては、ドイツ車をただただ褒めて終わる気にはなれない。「うっせぇなァ、こっちだって150は超えてんだよ、クソッ」アクセルペダルをべた踏みしながら、運転席のギアッチョは不機嫌そうに吐き捨てた。

 

「だいたい制限は130だろーが、あぁ? ここはドイツじゃねぇんだぞ、ふざけんなッ」

「制限? ハン、最低速度の間違いだろ」

 

 鼻で笑ったプロシュートだったが、実際、周囲を見回しても同じくらいの速度で走っている車がほとんどだ。制限速度を真面目に守る奴なんて、ギャングでなくとも珍しい。特に、深夜の高速道路(アウトストラーダ)は快適の一言だった。

 

「ったく、マジにブッ飛ばしてぇならよォ、大衆車(フィアット)じゃなくて、フェラーリかランボルギーニを寄こせよなァ」

「その場合、修理費だけで破産するぜ。聞いたか? 今日の仕事の報酬」

「聞いてねーよ、いくらだ?」

 

 興味を引かれたのか、横顔のままギアッチョの視線だけがこちらを向く。当たった仕事の金額すら把握していないことには呆れたが、暗殺者チームは所詮<パッショーネ>の一チームに過ぎない。仕事をえり好みできる立場にはなく、直属の幹部が受けてきた任務を命じられるままに粛々とこなすだけ。

 プロシュートが黙って指を4本立てると、ギアッチョは少し考えるように瞬きをした。

 

「……4億リラか?」

「バーカ、4000万リラだ」

「ハァ!? やっすいな! 舐めてんのか!? だんだん下がってんじゃあねぇかッ!」

「リゾットも上に掛け合ったらしいがな。殺しなんてのは生産性のねぇ誰にでもできる仕事だと、けんもほろろに突っ返されたそうだ」

 

 新興組織の<パッショーネ>は徹底した実力主義だ。そしてその実力の物差しは力の強さではなく、“金”がモノを言う。幹部になるのだって、結局は上納金の多寡で決まるのだ。賭博や密輸、麻薬といった利益を生み出す部門こそが花形で、暗殺なんてのは組織の中でも旨味の少ないはずれくじ。ポルポを使えばスタンド能力者は補充できるのだから、強いだけの能力者はただの兵士となんら変わりないのだ。

 

 プロシュートは顔も名前も知らないボスの考えを、意外なほど冷静に理解していた。もちろん、待遇に不満がないわけではなかったが、ある程度は納得したうえで暗殺者チームに身を置いていた。プロシュートが理想とする“栄光”は、大勢の部下を従えて、自分は安全なところで胡坐をかくというものではない。なんの憂いもなく、ただ金が入ってくるのを雛鳥のように待ち、そのまま穏やかに天寿を全うすることでもない。

 

 目標に向かって走り続けること、立ちはだかる壁を乗り越えること、常に成長し続けること。何もしなかった者にも、何かを成し遂げた者にも、時は等しく流れ、老いは確実にやってくるのだから、安穏に身を置いて精神までもを腐らせるのはごめんだ。そういう意味では、薄給なこと自体はプロシュートにとってはそこまで大きな問題ではなく、常に前線とも言えるチームに身を置くのも悪くはなかった。

 もっとも、それが一般的な価値観とは異なることも知っているので、鬱憤を溜めている他のメンバーの心中は大いに察するが。

 

「……チッ、納得いかねーなァ」

 

 ギアッチョは元々切れやすいタチだが、今の扱いに腹を据えかねているメンバーの筆頭でもある。そこへ、誰にでもできる仕事だなんて馬鹿にされれば、簡単に沸騰するだろう。折れるのではないかと思うほど強くハンドルを握りしめ、それから突然、ギアッチョはガッと頭をホーンパッドに叩きつけた。とたん、ビーッ、と遠慮のないクラクションが耳をつんざく。

 

「……けんもほろろに突っ返されたの……“けんもほろろ”ってよォ~……“けん”ってのはまだなんとなく尖ってる感じはわかる。つっけんどんとか言うからな、態度がとげとげしいんだろうってのはぎりぎり想像できる……。だが、“ほろろ”って部分はどういうことだあああ~~ッ!? 一切何を指してんのか、これっぽっちも伝わってこねェ~~ッ!」 

「あ? そっちかよ」

 

 流石に走行中のため、ハンドルを離しはしないようだが、その分、逃げ場のないホーンパッドは何度も何度も頭突きを食らわされる。ビーッ、ビーッと断続的に鳴り響く音は、車の上げる悲鳴のようだった。

 

「チクショウ、舐めやがって……この言葉ァ、超イラつくぜェ~~“ほろろ”って音だけ聞いてりゃ、むしろ柔らけぇ音じゃあねェかッ! どういうことだ! どういうことだよ、クソッ! 尖ってんのか、そうじゃねぇのかはっきりしろや! 舐めやがって、クソッ! クソッ!」

「おい、壊すなよ。マジに修理代に消えちまう」

 

 口では諫めてはいるものの、プロシュートは慣れたものである。揺れる車体に身をゆだねるように、深くシートに座りなおした。

 

「だいたい今日の仕事もおかしいだろうがッ! なんで護衛なんかしなくちゃいけねーんだァ? オレらは暗殺者チームなのによォ~~」

 

 これから向かう先は、敵対組織の幹部をしている男の隠れ家だった。このイタリアに古くから根を張る大きな組織のひとつだが、<パッショーネ>の台頭により、今やその勢力はどんどん縮小している。実際、暗殺者チームにこの組織がらみの仕事が来るのは初めてではなかった。侵略者である<パッショーネ>を古参の組織が温かく迎え入れてくれるはずもないので、いつだって殺ることは同じだ。

 

「おいおいおい、ギアッチョ、ギアッチョ、ギアッチョよォ~~、おめーそれ、マジで言ってんじゃあねぇだろうなァ~~?」

「あぁ? だってそうだろうが、あっちの幹部……グリマルディとか言ったか? そいつが裏切ってこっちにつく……オレらは奴に向けられる追っ手を殺す……十分、護衛みてぇなモンだわなァ」

「チッ、ガキが。甘ぇんだよ」

 

 道理で、自分が引っ張り出されるわけだ、と納得がいった。やっぱり、ガキどもにはしっかり教えてやる人間が必要なのではないだろうか。どいつもこいつも他人の言うことを聞くようなタマではなかったため放っていたが、チームとして動くならある程度は指導すべきかもしれない。「リゾットがおめーに一人で行かせなかった理由がよくわかったぜ」プロシュートがため息をつくと、ギアッチョはわかりやすく眉を吊り上げた。

 

「ハァ? ガキ扱いすんじゃねェ! オレ一人で十分だった! むしろてめーの能力が融通きかねぇから、組む相手がオレにまわってきたんだろうがッ!」

 

 確かにホワイトアルバムは単体で強力な能力だし、ザ・グレイトフル・デッドが敵味方見境ない能力であるというのは事実だ。が、正直なところ組んで得なのは、老化に巻き込まれる心配がないギアッチョのほうだけだ。ギアッチョが能力を使えば周囲の温度も下がるので、プロシュート的には正直やりづらい。もとより、味方への影響など気にしたことがなく、嫌ならついてこなければいいと思っているくらいだ。

 

「いいか、よーく思い出せ。リゾットはこの仕事を長期任務だって言わなかったか? あぁ?」

「それはグリマルディがまだ完全に信用できるわけじゃあねぇからだろ。だからすぐには<パッショーネ>の縄張りには入れないで、あくまで奴の隠れ家で泳がせるんだ。ンなこと、わかってんだよッ」

「違ぇな。グリマルディは餌だ。いわば、ネズミ捕りに置かれたチーズってわけだ」

 

 裏切り者を許さないのはどこの組織でも同じこと。グリマルディは裏切る代わりに<パッショーネ>での地位と庇護を得たつもりでいるようだが、自分の組織を裏切るような人間をボスが信用するわけがない。

 プロシュートたちの仕事は、グリマルディを守ることではなく、奴を餌に向こうの組織の人間を殺すことだ。曲がりなりにも幹部という地位にあった男なのだから、当然差し向けられる追っ手もそれなりの地位か腕の者ばかり。ここで一気に潰すことができれば、さらに勢力を削ぐことができるだろう。

 

「俺たちは暗殺者チームだ。うちに仕事が回ってきたってことは、最終的にはグリマルディも殺るっつうことだよ。実際、死なせるなとは一言も言われてねェだろう」

「……グリマルディが死んでも、向こうの組織の自浄作用ってことか」

「フン、そういうこった、わかってんじゃあねぇか」

「……」

 

 ギアッチョは声を荒げることこそやめたものの、ムスッとした表情のまま唇を引き結んでいる。考えが甘かったことに対して反省を述べるわけでもないし、せっかく褒めてやったのにも関わらず可愛げのない奴だ。

 

「どのくらい敵が来るかわからねぇ、気を抜くなよ」

「うるせぇ、てめーはてめーの心配してろクソジジ――痛ッ!」

 

 殴りたいと思ったときには、既に殴った後だった。

 見事、無防備な横顔に一発拳を入れられたギアッチョは、大袈裟にわめきたてる。

 

「てめーふざけんなッ! 誰が運転してると思って――」

「いいから前見て運転しろ」

「クソッ! クソッ! だからこいつと組むの嫌なんだよッ!」

 

 そうは言いつつ、ギアッチョがガンガンと怒りをぶつけるのはダッシュボードで、こちらに向かって殴り返してくるわけではない。チームに入った当時の、誰彼構わず当たり散らしていた頃を想えば、こいつもまた成長したのかもしれないとプロシュートは思った。

 

「壊すなよ」

 

 修理代のことを考えると、リゾットは喜ぶに喜べないだろうが。



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19.金曜日の受難は乗り越える③

 

 ペッシの背が伸びれば、兄たちの背も伸びる。

 ペッシの体格がしっかりすれば、兄たちもまた大人の身体つきに変わっていく。

 時というものは、誰にでも平等に流れるのだ。だから差は永遠に縮まらないし、ペッシが兄たちを上回ることなどない。

 もちろん、兄弟でも成長に個人差はあるし、人間の身体は無限に成長するわけでもない。体格は無理でも力であれば、ある程度努力で補うこともできただろう。

 が、ペッシが()()()ことを決意したあの日から数年は経っていたけれども、ペッシと兄たちの関係性は変わっていなかった。

 

 いじめというにはあまりに悪辣すぎるそれは、学校でも家でも、エドモンドの気分次第でいとも容易く行われる。そのせいでペッシの身体ではなく心が、自分は兄には決して勝てないのだと思い込んでいたのだのだろう。

 エドモンドは学校でも幅を利かせていたし、血の繋がった兄が率先していじめるのだから、ペッシを守ってくれる存在などいなかった。友達の一人すら満足にできない。下手にペッシと仲良くしようものなら、今度はその者が標的になる。

 

 だが、ペッシは自分で()()()と決めたことだから、級友たちに対して恨みの気持ちを持つことはなかった。庇ってくれなくていい。助けてくれなくていい。その思いにひとかけらの諦観も混じっていなかったことがペッシの凄さであったが、周囲から見たペッシはドジで、のろまで、弱いママっ子(マンモーニ)でしかなかった。

 だからこれから先もずっと、自分の人生はこのままだと思っていた。ペッシはこのまま誰かに立ち向かうことなんて考えるはずもない、代わり映えのしない、人生を歩むはずだった――。

 

 

「……しばらくトリエステの別宅に身を隠すことになった。悪いが、お前たちにもついてきてもらうぞ」

 

 ある日のこと。神妙な顔をした父親が、夕食も終わろうかという頃合に突然そんなことを言いだした。

 

「えっ、でも……」

 

 思わず学校は、と言いかけて、ペッシは慌てて口を噤んだ。身を隠すと言っているのだから旅行に行くのとは訳が違うのだ。いくら期待されず放っておかれているペッシでも、自分の父親がギャングの、それなりに偉い人間だということくらいは知っている。何か良くないことが起きているのだと嫌でもわかった。ペッシの他には誰も驚いた顔をしなかったので、義母も兄たちもとっくに状況を知っているようだった。

 

「すぐに出発する?」

「今夜、遅くにな。大事な物だけ持って出ろ。後は向こうで揃えればいい」

「わかった」

 

 ガヴィーノはそれだけ尋ねると、後は黙々と皿の上の料理を片付け始める。元々、会話の多い家庭ではなかった。皆が食事を続けているのを見て、ペッシもようやく手を動かし始めた。不安のせいで味などろくにわからなかったが、残せば義母は機嫌を悪くするだろう。

 やがて、ひとり、ふたりと食べ終わった者から席を立ち、ペッシも慌てて後に続いた。いつもは綺麗好きの義母が皿を流しにすら持っていかなかったので、本当にこのままこの家を立ち去るのだという実感が湧く。

 

 夜逃げだ。夜逃げをしなければならないようなことが、我が家に起きているのだ。

 ペッシはとりあえず二階の自室に戻って、部屋の中をぐるりと見回した。ぼろぼろの教科書が積まれた勉強机。しわくちゃのシーツが敷かれたベッド。年季の入ったクローゼットには、お下がりの衣類がたくさん詰め込まれている。

 どれを見ても、わざわざ持っていくだけの価値があるものとは思えなかった。大事なものはここにはない。

 

 ペッシは一通り室内のものを眺め、それから一階に降りて階段下の物置部屋に向かった。幅は狭いが奥行は結構あるため、使わなくなった様々な物が放り込まれている場所だ。ペッシ自身も、よくここに閉じ込められた。わざと母親のような口調でからかい、マンモーニを折檻するというのはエドモンドのお気に入りの遊びで、ペッシにとっても痛みを伴わないぶん、まだマシな部類のいじめられ方だった。

 

「おい、こんなとこでなにやってんだよ」

 

 つい、扉を開け放したままにしていたからだろう。振り返ると廊下にエドモンドが立っていて、物置部屋にいるペッシを見下した目で見ていた。

 

「いや、その、えっと……」

「親父の話、聞いてたのか? てか、状況わかってんのかよ」

 

 ゆっくりと近づいてきたエドモンドに、ペッシは思わず後ずさる。癖のようになっているのだ。またいつものようにぶたれるのかと身構えたけれども、対面した兄は意外にも呆れ返った表情になっただけだった。

 

「……お前さ、まさかそれ持って行こうってのか?」

 

 ペッシの手に握られていたもの。それは、持ち手の部分がとうに色あせてしまっている、古いぼろぼろの釣竿だった。祖父の遺品だというそれは、以前にペッシが物置部屋に閉じ込められた際に掘り出した品で、友達のいないペッシにとっては唯一の娯楽といえるもの。

 

「馬鹿じゃねぇのか?  こんなときに」

「え、えっと、これは」

「ふざけやがって! 遊びに行くんじゃあねぇんだぞ!?」

 

 ペッシがぼろぼろの竿で釣りを楽しんでいるというのは、もちろんエドモンドも、他の家族も知っていることであった。当然、過去にはひとり遊びすら気に入らないと、壊されそうになったことだってある。

 しかしそのときは祖父の遺品ということもあって、珍しく父親がエドモンドを諌めたのだ。釣竿の見た目があまりにみすぼらしかったのも、兄の怒りを収めるのに一役買ったのかもしれない。惨めったらしい弟がぼろぼろの釣竿を持って、一人寂しく糸を垂らしているさまはそれなりに面白い眺めだったのだろう。

 だから、釣竿はペッシの宝物であった。兄からすればふざけているようにしか見えなくても、ペッシは大真面目にこの釣竿を持ち出したいと思ったのだった。

 

「貸せよッ!」

「ゆ、許してくれよう!」

 

 物置部屋に閉じ込められて、いつ出して貰えるかもわからず心細い時、この釣竿を握っていると不思議と落ち着くことができた。これだけは奪われない、壊されないのだという安心は、糸を垂らしている間の緩やかな時間の流れを思い出させた。

 ペッシは釣竿を取り上げられないよう背中に隠す。そのささやかな抵抗が、余計にエドモンドの怒りに火をつけた。

 

「ふざけんな! やっぱこんなもん、へし折ってやる!」

 

 ぎらり、とエドモンドが凶暴な光をその目にたたえたとき、

 

「エドモンド、何を騒いでいる」

 

 いつの間にかやって来ていたらしい父親が、静かな声で割って入った。

 

「……別に。こいつがあんまりにも呑気にしてやがるから、活を入れてやろうと思っただけだよ」

 

 答えたエドモンドの声音には、一切の後ろめたさがなかった。自分が弟を虐げるのは、さも当然ということなのだろう。いや、この兄ならば虐げているという自覚すらないかもしれない。

 

「こいつ、今日の出発に釣竿なんて持っていく気だったんだぜ」

 

 ただ実際、今回ばかりはペッシのほうが後ろめたさを覚える立場だった。普段の兄は確かに横暴だけれど、客観的には夜逃げに釣竿を持ち出そうとするほうがどうかしている。本職の漁師だって、もっとマシな物を持っていくに違いなかった。

 

「あ、あの……父さん……」

 

 ペッシは流石に叱られると思って身をすくめた。そうなれば今度こそ、兄は嬉々としてこの釣竿を壊すだろう。

 

「……構わん。お前にそれが必要なら、好きにしろ」

 

 が、返ってきた意外な返事に、ぱちぱちと瞬きをすることになった。

 

「え……あ、はい!」

「親父!」

「今はくだらん喧嘩をしている場合ではない」

 

 期待されていなかったのが功を奏したのかもしれない。父にしてみればペッシが火急の際に何を持ち出そうがどうでもいいのだろう。兄たちとは違って、ペッシは父親の仕事の手伝いなどもしたことがない。何があって、誰に狙われているのかも知らない。「チッ、親父はいつもお前に甘いんだ……」エドモンドは納得いかなさそうに呟いたけれど、それ以上ペッシに突っかかるようなことは無かった。

 

 そしてその夜。ペッシ達一家は感傷に浸る間もなく、長年住み慣れた家を去った。

 

 

▼△

 

 

――……なんで、俺をあのとき殺さなかった?

 

 命の灯火が尽きかけている。

 自分が今まさにそういう状態にあるとわかっていながら、プロシュートはひどく落ち着いていた。誰がどう聞いても十四年というのは短い人生だろうが、なんとなくこうなるような気もしていた。

 寒気のやまない身体。じめじめとしてかび臭いベッド。室内が薄暗いのは自分の目がおかしいのか、そういう場所なのかも判別がつかなかった。

 まともに認識できるのは、すぐそばにある親の仇の顔くらい。だがそれを目の前にしても、もはや起き上がるだけの力が湧いてこなかった。

 

――殺そうと思わなかったからだな

 

 初老の男が、ベッドの脇に立ってこちらを見下ろしていた。男の回答はひどく簡潔だったが、今現在プロシュートが死にかけているのもこの男の仕業なので馬鹿馬鹿しいというほかない。一応手当などはされているものの、ひどい失血のせいであまり意味はないだろう。身体を動かせず治療は拒めなかったが、水も食事も全部拒んでいた。

 

――だから、なんでだよ……

 

 瀕死の自分をこの男が抱え上げたとき、プロシュートは拷問されることを覚悟した。ギャングだった父親が死んだ今、プロシュートに交渉材料としての価値はなかったが、それでも楽しみのために人間を甚振るクズは存在する。これまで女みたいな面だと散々馬鹿にされてきたこともあって、思わず最悪の想像すらしてしまったほどだ。

 しかし、蓋を開けてみれば、男はプロシュートを手当てし、介抱しようとしている。ほとんど徒労に終わるに違いないのに、何がしたいのかわからなかった。

 

――お前、まだ十五にもなっていないだろう。俺はガキは殺さねぇ

――……はっ、今時そういうのは、流行らねーんだぜ、ジジイ……

――俺にも、お前くらいのガキがいたんだ

 

 男の言葉を、プロシュートは鼻で笑った。あまりに月並みすぎる理由だし、男の風貌からして何十年も前の話に決まっている。だいたい、それならまずここまで撃つなよという話だ。正確に数える余裕はなかったが、頭以外の箇所にはもれなく鉛玉をぶち込まれている。

 

――……くだらねぇ、聞いて損した

――仕方ないだろう、目が似てたんだ。どんな犠牲を払おうが、絶対に目的を達成するっていうその目がよ

 

 プロシュートはとんだ皮肉だな、と思いながらゆっくりと目を閉じた。今の自分にはそこまでの気概はなく、忍び寄る死を受け入れ始めている。見込み違いだ。

 男のほうもプロシュートの考えていることがわかったのか、焦ったように水の入ったペットボトルの口を近づけた。

 

――なぁ、それがお前の抵抗か? 食わなきゃ治るもんも治らねぇぞ

――別に……腹を空かした方が、飯は美味いだろ……

――そうやって、死ぬつもりか? せっかく助けたんだ、ふざけるな!

 

 ふざけているのはそっちだろう。プロシュートは助けてくれだなんて一言も言っていない。どこまで自分勝手な奴なんだと思わず呆れてしまった。

 だいたい、男が我が子の面影をプロシュートに重ねているのなら、ここで死んでやるのも十分意趣返しになる。こいつの心に絶望を残してくたばれるのなら、プロシュートは喜んで死ねる。

 一瞬、本気でそう思った。が、

 

――クソが、父親の仇をとるんじゃあなかったのか、この根性なし! 腹いせに死んでやるだなんて、ゲス野郎のやり方だぞ! 見損なったッ、てめーなんか死んじまえッ! 

 

 男の無茶苦茶な言い草に、素直に腹が立った。

 その仇はオメーじゃねぇかよ。好き勝手言いやがって……。

 殺してやる。そのためには、プロシュートはこんなところでは死ねない。

 

――目を開けろよ、起きろ、起きろってッ!

 

 

 

「いい加減にィ、起きろっつてんだろッ!」

「なッ……!」

 

 耳元で大声を出されて、思わずのけぞったプロシュートは助手席の窓に強かに頭を打ち付けた。どうやら知らぬ間に眠ってしまい、随分と懐かしい夢を見ていたようだ。

 

「……なんだ、オメーかよ」

 

 今にも噛みついてきそうな勢いでこちらに身を乗り出しているギアッチョを手で押しのけ、プロシュートは首を回す。変な体勢で寝たせいか、上半身が強張っていた。

 

「オレ以外に誰がいるってんだよ、クソ! 違う奴に起こされてるような状況じゃ、テメーはとっくにあの世行きだろうが!」

「わかったわかった、寝起きにギャンギャン吠えんじゃあねぇ」

 

 プロシュートは指で耳を塞ぎながら、辺りの様子を伺った。外はまだ暗かったが、奥に見える戸建て住宅(ヴィラ)がグリマルディの別荘ということなのだろう。市街地から離れた海の近くだと聞いている。いくら落ち目の組織と言えど、流石に幹部ともなれば羽振りがいいわけだ。

 

「ったくよォ~~、人に運転させておいて、自分は呑気に寝こけるなんてどうかしてんじゃあねーのかァ?」

「うるせぇ。ンな心の狭いこと言ってっと女にモテねーぞ」

「女には言わねーよッ! オメーはジジイだろうが!」

 

 座りっぱなしは腰に来る。

 車外に出たプロシュートは伸びをして、とりあえず待機だな、と呟いた。

 

「奴のほうはまだ到着してねぇようだ」

「じゃ、追っ手が先回りしてねーか調べとくかァ?」

「飯を食った後でな。それより腹が減った」

「自由だなァ、オイ!」

 

 こうなることを見越して、高速に乗る前に食料品店(アリメンターリ)に寄ってパニーニを買ってきている。その際、ペットボトルのミネラルウォーターも一緒に買っておけば、ギアッチョが保冷剤に変えてくれるので腐る心配もない。

 後部座席から包みを取り出したプロシュートは、ギアッチョの分を押し付けた後、そのまま助手席には戻らずに車のボンネットに腰を下ろした。南イタリアより気温はぐっと冷えるものの、この程度ならば肌に心地いい夜風だ。

 

 結局、不機嫌そうな顔をしていたギアッチョも、外で食べることにしたらしい。大口を開けて豪快にパニーニにかぶりつくさまは、やはりまだどことなくガキ臭かった。

 

「オイオイオイ、ギアッチョよォ~~こりゃ冷やしすぎだろ。こういうパンってのはカリッとしてなきゃあいけねぇ」

「だぁーーっ、文句が多いんだよ、テメーはァ! 生もの挟んだテメーのせいだろうが! だいたい腹減ってりゃなんでも美味ぇだろ!」

「さては空腹が最高の調味料だって思ってるクチか?」

 

 腹が減っているときの食事は、確かに体中に栄養が行きわたる感じがする。なのでまぁ一理はあるけれど、プロシュートはそれを“最高”とは位置づけない。

 

「まぁ、いい。食ったら寝ろ。今度は俺が起きててやる」

「ん」

 

 ギアッチョはもぐもぐと咀嚼するのに忙しいらしい。珍しく何の反論も返ってこなかったので、プロシュートは今度からこいつを黙らせるには飯だな、と覚えた。




プロシュート → ギアッチョ 子守りさせられてると思っている

ギアッチョ → プロシュート 介護させられてると思っている


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20.金曜日の受難は乗り越える④

 夜逃げ、と聞いて、普通真っ先に思い浮かべるのは、借金や倒産などの金銭トラブルだろう。お金が払えないというのはその額の多寡に関わらず、当人にとってはどん詰まり。初めから踏み倒すつもりで借りる人間もいないわけではないが、結果的に逃げ出すほかどうしようもなくなった場合が大半だろう。だからこそ、追いかけられて捕まったとしても、無い袖は振れない。怖いところから借りてしまった場合は、死をもって――ただの死には意味がないので臓器などでもって――借りを返すことになる。

 

 ペッシの家は、その“怖いところ”側だった。家業に関わってこなかったため詳しくは知らないし、幹部だったらしい父が取り立てなんて下っ端の仕事はしていなかったに違いないが、追う側として恐れられていたことに変わりはない。けれども、それが今ではこうして夜逃げをする立場になってしまった。しかも万が一追っ手に見つかった場合、ペッシ達は金を払っても見逃してはもらえないだろう。

 

(それなのに……俺、なにやってるんだろ)

 

 海岸の岩場に腰を下ろして、釣竿を握りしめて、ペッシはぼうっと日が昇りゆくのを眺めていた。深夜の移動を終えて、そのままベッドに入ったまでは良かったが、どうしても眠れずこっそり別荘を抜け出して現在に至る。早朝のアドリア海はため息が出るほど美しかった。けれどもペッシのため息は、景色に対して向けられたものではなかった。

 

(危機感がないって、自分でも思う……)

 

 観光に来たのではないことくらいわかっている。ペッシだって本気で釣りがしたくて、ずうっと座っているわけでもない。その証拠に糸は垂らしていても、餌のひとつもつけていなかったし、バケツも何も用意していなかった。ただ、一人になって落ち着く時間がほしかった。命を狙われている状況だと考えると、ずいぶん悠長で甘ったれた考えだとは思う。ほとんど現実逃避と言ってもいい。

 ごつごつとした岩から受ける尻の痛みを誤魔化すように、ペッシはもぞもぞと座りなおした。夜が明けたのだ。そのうち、家族の誰かがペッシがいないことに気が付くだろう。わかっていても、なかなか立ち上がる気になれなかった。帰っても、ペッシの役割がないということもある。邪魔になるからいないほうがいいと思われるかもしれない。もっと悪ければ皆のほうに余裕がなくて、いないことにも気づかれないかもしれない。

 そんなとりとめのないことを考えながら、波間を見つめていたとき、不意にざりり、と岩と砂利の擦れる音が鳴った。

 

「何をしてる」

 

 驚いて振りかえれば、そこにはスーツ姿の男が立っていた。さっきの音は、艶々と磨き上げられた革靴が立てたものらしい。どう考えても岩場に来るには危なっかしい恰好に、ペッシはぽかんと口を開けて男を見つめた。

 

「おいガキ、聞いてんのか?」

 

 答えられずにいると、男がややイラついた口調で言う。その凄み方がえらく堂に入っていて、堅気でないのは明らかだった。咄嗟に、追っ手かもしれない、と思ったが今更だ。立ち上がることすらできずに、とにかく頷く。相手が欲しいのは聞いているかどうかの答えではなく、何をしているかの答えだろうに。

 

「えっと、あの……その、つ、釣りを……」

「ンなもん見りゃわかる。状況わかってんのかって意味で聞いてんだよ」

 

 確かにそれもそうだ。また間違った。こういう抜けた返しをするとエドモンドはいつも腹を立てる。こちらにそんな意図はないのだが、舐めてるのか? と火に油を注ぐ結果になるのだ。ペッシはいつもの癖で、反射的にごめんなさい、と謝った。男は怒りはしなかったが、呆れたような表情になる。そうやって剣呑な雰囲気が消えると、男の整った顔立ちも相まって普通に洒落者の男性に見えた。とはいえ、相手の口ぶりからしてペッシの状況を知る者なのだから、この危機はまだ終わっていない。

 ペッシはぎゅっと釣り竿を抱きしめるようにして、恐る恐る口を開いた。

 

「お、俺たちを追ってきたんですか」

「用があるのはてめーの親父だけだがな」

 

 ペッシを見つけたということは、別荘の方もとうにバレているのだろう。夜逃げの終わりはなんとまぁ、ひどく呆気ない。思わず黙り込むペッシに、男はまた少しイラついたような表情に戻る。「諦めるのか?」何を言われているのか全くわからなかった。自分が鈍いことを差し引いても、敵――と思われる相手――から発破をかけられるのは流石におかしいだろう。

 

「お前が釣竿持って家を抜け出すところを見てたんだよ。肝の据わったガキなのか、単に楽観的な馬鹿なのか確かめてやろうと思ったが……まさか既に()()()()奴だったとはな」

 

 馬鹿にされ慣れているペッシにしてみれば、男の表現はまだ優しい部類だった。

 死んでいる、か。わりと当たっていると思う。少なくともペッシが今こうして呑気に釣り糸を垂らしているのは、危機的状況への覚悟というよりは諦めに近い。言い返す言葉もなくて、いつものように項垂れた。その瞬間、下げた頭をかすめるようにして小石が海へぽちゃりと落ちる。驚いて顔を上げれば、男はこちらを見ていなかった。彼が投げたのではないのだ。戸惑いながらも男の視線を追って、ペッシは少し離れた堤防の上に見知った顔を見つける。完全に目が合ってなお、そこにいたエドモンドはもう一度腕を振りかぶった。

 

「う、うわっ!」

 

 投げられた石はきれいな放物線を描いて、今度はペッシの肩に当たった。痛い。痛いが、悶絶するほどではない。ただ、ペッシは急にどうしようもなく恥ずかしくなった。非常事態に釣りをしている自分も自分なら、こんなときにまでいつもの嫌がらせをする兄も兄だ。他人の、それも自分たちを殺しに来た相手の前で虐められるなんて情けなすぎた。もう一度飛んできた石は、今度こそ立ち上がって避ける。遠くてはっきりとは見えないが、兄の苛立たしそうな表情は簡単に思い浮かべることができた。

 

「戻れ。親父が呼んでる」

 

 ペッシは咄嗟に男のほうを見た。戻っていいのだろうか。というか、戻れるのだろうか。一連の流れを見守っていた男は何も言わない。ただペッシがどうするのかを試すような目でじっと見ている。何も知らないエドモンドは伝言を伝えると、ペッシなんかに構うのは時間の無駄だと言わんばかりに早々に踵を返した。

 後にはまた、二人だけが取り残された。

 

「なんでやり返さなかった?」

「それは、その……勝手に抜け出した俺が悪いし……」

 

 だから、これは虐めではないのだ。

 ペッシは咄嗟にそんな正当化をした。被害者のくせに、失くしたとばかり思っていたプライドが急に蘇ってきて、そんな苦しい言い訳をした。男の瞳が美しい青をしているせいで、大好きな海に責められているような錯覚に陥る。

 

「今回はそうかもな。だが、あの感じじゃいつもの事なんだろ。違うか?」

「……」

「ハン、くだらねぇ、そっちも諦めてんのかよ。ちっとは変わりたいって思わねーのか?」

「か、()()()()()から、このままでいいんだ」

 

 夜逃げから現実逃避をしているのは確かに諦めだ。兄に勝てるはずがないと思うのも、もしかしたらただの諦めなのかもしれない。だが、少なくとも、ペッシのこの状況の始まりである“つらい立場の人と代わりたい”という気持ちは、諦めと一緒にしてほしくなかった。それは兄たちと同じになんかならないという決意でもあったからだ。

 

「はぁ? 何言ってやがる?」

 

 ただし、そんな抗弁は目の前の男に伝わるはずもない。けれども、初めてペッシが言い返したことで、男はちょっと満足したように見えた。聞き返しておきながらペッシの答えも待たずに、にやりと笑った。

 

「よし、じゃあてめーに時間をやる。今から帰って、あいつぶっ飛ばしてボコボコにしてこい。どうせ後で皆仲良くおっ()ぬんだ。そう考えりゃ怖くねぇだろ、ええ?」

「え……」

「オラ、早くしろ!」

「ええっ?」

 

 訳の分からないまま、一方的にそう急き立てられて、ペッシはとにかく動き出した。本当にこのままここを去っていいんだろうか。男は本当に後でペッシ達を殺しにくるのだろうか。あまりの混乱に走りながら振り返ると、また早くしろと言わんばかりに顎をしゃくる男の姿が目に飛び込んでくる。

 結局、ほうほうのていで、ペッシは別荘に逃げ帰った。

 

 

 それから10分もしないうちだった。

 

「こちらが妻と息子たちだ。どうぞ、よろしく頼む」

 

 逃げ帰ったペッシは当然、エドモンドをボコボコにすることなどできなかった。それ以前に、父親が呼んでいるのだ。来客があるから全員集まるようにとお達しがあって、服を着替えてくるようにとも言われた。そして流されるままに客間に向かえば、まさにさっきペッシを脅した男が座っている。男はプロシュートと名乗って、話を聞くに父とは異なる組織のギャングらしかった。一緒に来たギアッチョという青年ともども、うちに差し向けられた追っ手を始末するのが今回の仕事だそうだ。

 

「しばらくは彼らにもここに一緒に住んでもらう。みな、失礼のないようにな」

 

 父がなぜ他の組織のギャングと組むことになったのか、内情を知らないペッシにはわからない。ただ、ここにきてやっと、男がペッシ達を殺す側ではなく、守る側だったのだとわかって内心ほっと胸を撫でおろした。であれば、先ほどの磯でのやり取りは悪い冗談だったのだろうか。ばちりと合ったプロシュートの目が「なんでやってねぇんだ」とでも言うように、無傷のエドモンドを見、ペッシを睨みつけた。ひぃぃ、と思わず、身をすくませる。

 

「つまり、護衛ってわけですか」

 

 そんな蛇に睨まれた蛙状態のペッシを救ったのは、意外なことに次兄のガヴィーノだった。もっとも、兄にペッシを助けようという意図なんてなかっただろうが、結果的に彼の発言でプロシュートの視線は移った。

 

「……基本的にあんたらはふつーに暮らしてくれりゃあいいが、ガキのお守りまでする気はねぇ。ウロチョロして誘拐されねーように言いつけんのは親の仕事だ」

「ガキって、俺とそこのお兄さんとじゃあ、そう変わらないように思うけどね」

「あぁ?」

 

 エドモンドが挑発的に突っかかったのは、プロシュートに対してではない。その視線はプロシュートの隣のギアッチョという眼鏡をかけた青年に注がれていて、ギアッチョのほうもすぐさま不快さを一切隠さない声をあげた。確かにエドモンドの言う通り、見た目だけでいうと彼は兄と一つ二つほどしか離れていないだろう。けれども彼がすごむとなんだか部屋の空気がぐっと冷えたような気がして、ペッシは一人でハラハラした。結局、年齢なんてただの年の積み重ねでしかないのだ。たった一言発しただけで、彼がペッシのようにぬるま湯で育った一般人ではないのがわかる。ただ、ギアッチョが言い返すよりも先に、プロシュートが話の続きを引き取った。

 先ほどペッシに向けられた視線は、ただの叱責でしかなかったんだなと思えるほどの苛烈な鋭さをもって。

 

「勘違いするなよ、ガキかどうかってのは年齢の話じゃあねぇ。歳をくうだけなら誰にだって出来んだよ」

 

 目だけで人を制するというのは、こういうことを言うのだろう。プロシュートの気迫に呑まれたように、すうっと軽薄な笑みを消し、唇を引き結ぶエドモンド。兄がこうして誰かに力負けするのは初めて見る光景だった。ペッシの小さな心臓はばくばくと音を立てて、自分でも気づかないうちにごくりと唾をのみこむ。

 

「……うちの息子が失礼した。その辺にしてやってくれないだろうか」

 

 場をとりなしたのは、当然ながら父だった。エドモンドを直接咎めるようなことこそなかったものの、それでも幹部である父が下手に出たのだ。それだけこの男たちの実力を認めているということだろう。夜逃げするほどの刺客が向けられるのに護衛がたった二人という時点で、兄は察するべきだった。

 

「ま、血気盛んなこと自体は悪いことじゃあねぇ。大事なのは噛みつく相手を間違わないこったな」

 

 プロシュートはそう言って、鼻を鳴らした。言葉の上では矛を収めていたが、口調は刺すようなものだった。ペッシはこっそりと兄の横顔を伺う。兄を心配したわけでも、ざまあみろと思ったわけでもなかった。ただあのエドモンドがやりこめられてそのままにするわけがないだろう、と思ったのだ。

 

 実際ペッシの予想通り、兄の瞳はむき出しの怒りを浮かべていた。けれどもそれはプロシュートのような強烈な光というよりは、どこか意地の悪い仄暗さを帯びていた。あれは人を甚振り陥れるときの目だ。正攻法ではプロシュートは確かに強い人間なのかもしれない。だが、エドモンドの怖さを一番よく知るペッシとしては、嫌な予感を振り払えなかった。兄はきっと、大人しくはしていないだろう。

 こうして、命以外の不安も残るなか、ペッシの逃亡生活は幕を開けた。



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21.金曜日の受難は乗り越える⑤

 

 人間を本気で危険から守ろうとする場合、一体どれだけの人数が必要になるのだろうか。要人などを護送する場合、身辺警護の最小単位は二人一組だ。人の視野は最大でも二百度程度のものだけれど、二人になれば左右前後を分担して網羅することができ、単純に死角を減らすことができる。だが、警護の場合は戦うことが目的ではなく、いち早く危険を察知し回避することが目的だ。多少、毛色は異なるものの、より戦闘を意識したアメリカの特殊部隊などは、五人で一組が最小のユニットとしているところもある。

 

 それが今回、一家丸ごとの護衛で、期限や目的地などのゴールもないという無茶苦茶な任務なのだ。普通に考えればたった二人で守れるはずもない。日勤と夜勤で分けるとしたって、いくらなんでも雑すぎる。

 必然、当初は寄こされた護衛がたった二人なことに対してグリマルディも大変に難色を示した。

 

――これが<パッショーネ>の誠意なのかね。

――若造がたった二人で、一体何ができるというのだ。

 

 彼の場合、不安よりも軽んじられたことに対する怒りが大半である。けれども、そんなプライドの高い老人を一瞬で黙らせられるくらいの超常的な恐ろしさを見せつけるのは、ギアッチョとプロシュートにとって食事を摂るのと同じくらい簡単なことであった。

 

「う、うう……」

 

 ひんやりとした冷気が肌を撫で、倒れ伏した男が低いうめき声をあげる。プロシュートはほとんど無意識のうちに腕を組んだ。石造りの壁に囲まれたガレージは冷えるとはいえ、どうにもこれは普通の寒さではない。吸い寄せられるように入り口のほうへ視線を向ければ、ちょうどギアッチョが大きな氷の塊を引きずって、中に入ってくるところだった。

 

「大したチーズじゃあねェんじゃねーか? あの男」

 

 ごと、ごろん、と重そうな音を立てて転がされた氷の中には、人間の男が一人、標本みたいに閉じ込められていた。癪だから寒いとは口にしないものの、ザ・グレイトフル・デッドの能力も妨げられるため迷惑でしかない。現に、プロシュートの足元に転がっていた枯れ木のようなものは、徐々に人としての意識を取り戻し始めていた。

 

「う、うう、どう、どうなって……」

「なんだァ? そっちにも敵が来てたのかよ」

「まぁな。だが、普通の人間だ。スタンド使いじゃあねェ。そっちもか?」

「じわじわ凍らせても何も出さねぇってことは、出せねぇんだろうなァ~~」

 

 プロシュートはしゃがみ込むと、自分のほうの獲物の胸倉を掴み上げた。髪もほとんど抜け落ちて今では見る影もないが、元はまだ若い十代の男だった。ろくに焦点の定まらない瞳をあっちこっちさせて、口を馬鹿みたいに半開きにしている。

 プロシュートは無言のまま、空いているほうの手で男の腕に触れた。急速に乾き、老いさらばえていくそれは、やがて形を失って砂のような残骸のみになった。

 

「オイオイ、情報吐かさなくっていいのかァ?」

「一人いりゃあ十分だ。だいたい、ボケちまってろくな答えが期待できねェ」

「そいつはオメーのせいだろうが!」

「いいからさっさと解除しろよ」

 

 粉っぽくなった手を払い、プロシュートは不遜な態度で氷塊に向かって顎をしゃくる。盛大な舌打ちを返したギアッチョは、不承不承ながらもホワイト・アルバムを解除した。

 

「っ、かはっ」

「さて、気分はどうだ? 残念ながら、おめーが目覚めたここは何千年先の未来じゃあねェが、おかげで見知った顔に出会えて嬉しいだろう? ええ?」

 

 氷が溶けてびしょ濡れになった男は、浅い水たまりの中で手足をばたつかせる。こちらも先ほどの男と同じくまだ若い。ギアッチョの姿を見るなり情けない悲鳴を上げたが、立ち上がれないところを見るにどうやら腰が抜けてしまっているようだった。同業者にしては、いささか気合が足りなさすぎる。

 

「ひっ、なんなんだ、なにがッ」

「質問するのは俺だ。おめーは聞かれたことに正直に答えろ、いいな?」

 

 ギアッチョが黙って再び水たまりを凍らせてみせると、男はブンブンともげそうなほど首を振る。そのあまりの覚悟のなさには苛立ちを覚えるよりもむしろ、白けた思いがするほどであった。

 

「……おめー、<サルヴァトーレ>の奴か?」

「ち、違う! 俺はそんな、ギャングなんて!」

「だがよォ、こいつ、拳銃は持ってたぜ。ンなモン、このオレに効くわけがねーがよォ~」

 

 ぽい、とぞんざいに投げられた銃は、さして珍しくもないベレッタ92。何のカスタムもされていないし、特に使い込まれた様子もない。持つものが持てばきちんとした武器ではあるが、この男では玩具を持つのとさして変わりがないだろうと思えた。

 

「つ、使えって渡されたんだ! 俺ァ、あんたたちが本職(マジモン)だなんてこれっぽっちも知らなかったんだよ! う、嘘じゃあねェッ!」

「頼まれた? 誰にだ」

 

 静かな口調だった。プロシュートは銃を拾い上げ、滑らかな動作で銃口を真っすぐ男に向ける。

 

「よ、よ、よくは知らねぇよッ! 俺とそう年の変わらないガキだったッ!」

「ほう? 今時のガキは銃くれぇ持ってて当たり前なのか」

「本当なんだって! 俺はそいつから金を貰って、し、信じてくれ――」

「わかったわかった、信じるぜ」

 

 パンッ――という短い破裂音のあと、カラン、カランと薬莢が転がる。

 のけぞって倒れた男の眉間には、黒々とした空洞がぽっかりと空いていた。

 

「だが、おめーは仕事を引き受けた。なら責任があるってモンだろ」

 

 言って、プロシュートは銃を投げ捨てる。死体も、()()()()のためこのままにするつもりだ。

 

「……もしかしてよォ、あの生意気なガキの仕業じゃあねーだろうなァ?」

 

 珍しく、黙って事を見守っていたギアッチョが、ゆっくりと口を開いた。どうやら同じことを考えたらしい。

 

「確かエドモンドとか言ったかァ? あの、オレらに突っかかってきたガキだ」

「かもな」

「ハァ~~!? ざけんな、何考えてやがるッ! オレらは一応、あいつらを守るってことになってんだろーがッ!! なんでオレらの邪魔すんだよ、そんなに死にてェのか!」

「あの親にして、子供ありってとこだろ」

 

 エドモンドは護衛として紹介された男が二人で、しかも自分と歳のそう変わらなそうなギアッチョがいたことにより完全に舐めたのだろう。そして同時に、これだけの護衛しか寄こされなかったという事実に、一人前に腹を立てたに違いない。

 

「ふざけんな、クソッ! クソッ! こっちはただでさえ気ィ張ってなきゃなんねーってのに、余計な手間増やしやがってよォ~~!」

 

 怒りのままに、ギアッチョがガレージにあったセダンを蹴りつける。執拗な暴力を受けてフロントバンパーはボコボコに凹んだが、プロシュートは別に止めなかった。破壊音とは別の物音が、車の後部――ちょうどトランクのほうから聞こえてくるまでは。

 

「おい、ギアッチョ。ちょっと待て」

「あぁ? こいつん家の車だ、壊したって問題ねェだろうが!」

「そうじゃあねェ、静かにしろ! 何か聞こえた」

「……」

 

 そう言うと、蹴りを繰り出す姿勢のまま、ぜんまいが切れたみたいにギアッチョが止まる。静かになれば、今度こそはっきりと聞こえた。くぐもった、嗚咽のような声だ。ギアッチョが車を蹴り付けたことで車体が揺れ、パニックになっているのかもしれない。

 二人はすぐさま視線を合わせ、それからゆっくりとセダンの後方へ近づいた。おそらく、中に人間がいる。が、罠かもしれない。プロシュートが頷けば、ギアッチョはホワイト・アルバムの装甲をまとった。そして、鍵を物理的に破壊すると、一息にトランクを開けた。

 

「ん~!!!」

「こいつは……」

 

 中には猿轡をかまされて、縛られたガキが一人。一応は護衛対象であるグリマルディの息子で、早朝に一人、呑気に磯釣りに興じていた奴だ。武器を持っている様子はない。拘束されているが、怪我をしている様子もない。ただ、そいつは目で必死に訴えていた。ガキのすぐ近くに転がる、携帯電話とガムテープでぐるぐる巻きにされた短い鉄パイプ。先端からは緑と赤のコードが伸びていた。

 

――爆弾だ。

 

「ホワイト・アルバム!」

 

 絶対零度の世界では、すべてのものが静止する。氷漬けにされたそれが、爆発することはもう無い。ただ、流石のプロシュートでさえ、この状況には少し困惑していた。なぜグリマルディの末っ子がこんなところで爆弾とともに閉じ込められているのか、すぐには意味がわからなかった。

 

「オイ! 大丈夫か!?」

 

 ギアッチョに助け起こされた末っ子は、猿轡を外してもらい咽こんでいる。表情には疲労が色濃く表れていた。それなりに長い間、ここに閉じ込められっぱなしだったようで、声もかすれている。

 

「……っ、あ、ありがとうございます」

「ったく、一体、いつの間に捕まってたんだァ?! おめーら狙われてんだから、ウロチョロすんなって言っただろうが! どいつもこいつも自覚ねぇのかよ、チクショ~~ッ!」

「いや、えっと、その……」

「兄貴だろ」

 

 再びヒートアップし始めたギアッチョに、すっかり委縮してしまったらしい。モゴモゴと口を閉じたり開いたりするガキの代わりに、プロシュートがずばり答えを言い当ててやった。

 瞬間、ものすごい勢いでギアッチョがこちらを振り返る。

 

「ハァ!?」

「おめーをここに閉じ込めたのは、おめーの兄貴だろ。違うか?」

「う、うん……」

「ハァ!?」

 

 今度はガキのほうに向き直る。ギアッチョは信じられないと言ったように、眉間に深い皺を寄せていた。

 

「悪戯っつうにはよォ~~、ちったあ度が過ぎるってモンじゃあねぇかァ?」

 

 氷漬けにされた爆弾は、アマチュアが作るような簡易の鉄パイプ爆弾だ。詰められる火薬の量こそ知れているが、それでもトランクという狭い空間で爆発すれば、死んだっておかしくない。

 

「名目上、一家の誰かが死ねば俺たちの任務は失敗だからな」

「オレらの面子を潰すためなら弟を生贄にするってかァ!? イカレてんな、オイ!」

「……」

 

 その点に関しては、プロシュートも同感だ。黙って、所在なさげにトランクに腰かけているガキを見つめる。自分の兄貴に殺されかけて、こいつが何を思っているのか。隣に怒り狂っているギアッチョがいるせいか、ガキは不思議なほど落ち着いて見えた。

 

「あの、助けてくれて……本当にありがとうございます」

「お、おう……って、そうじゃあねェよ! オメーの兄貴どうなってんだァ、一体! おかしいだろうが!」

「それは……えっと、その、へへ……」

「ヘラヘラしてんじゃあねェ!」

 

 今度車体を蹴ったのは、ギアッチョではなくプロシュートだった。十八番をとられて面食らっているギアッチョを押し退け、プロシュートはガキの胸倉を思い切り掴み上げる。

 

「わ、わわっ」

「俺は今朝、おめーにやり返せっつったよなぁ!? このままでいいだと? いいわけねェだろッ! 変われッ! 成長しろッ! このマンモーニがッ!」

 

 そして勢いのまま殴りつければ、ガキは吹っ飛んでガレージの床に尻餅をついた。逃げ癖がついているのかみっともなく後ずさろうとして何かにぶつかり、そしてその何かを視界にとらえた瞬間さっと青ざめる。

 

「ひ、ひいっ!」

 

 ただの死体だった。さっき、プロシュートが眉間を撃ち抜いて始末したばかりの男。どうやら死体を見るのは初めてだったらしく、頬を殴られた痛みは吹っ飛んでしまったらしい。

 

「こ、こ、こいつ、死んで……!」

 

 あわあわと死体を指差すガキに向かって、プロシュートは平然と答えた。

 

「ああそうだ。仕掛けてきたのはそいつのほうだ。だからきっちり返した。それがフツーだろうが。俺はおめーのやられっ放しでも構わねェ、どうせ勝てねーと決めつけてる、『心の弱さ』に腹が立ってしょうがねェ!」

「こ、心の弱さ……」

「ああ、そうだ、おめーは最初から諦めちまってるんだ」

 

 もちろん、元から温厚な人間というのは存在する。だが、怒るべきときに怒らず、悔しがるべきときに悔しがらず、憎むべきときに憎まないのは他人にも自分にも期待していないからだ。あるがままを受け入れて、現状を変えることを諦めているからヘラヘラと笑っていられるのだ。

 ここまで言われてもまだ軟弱な態度を変えないようなら、もう一発お見舞いしてやってもいい。プロシュートが値踏みするようにガキを見据えたとき、「……違う」腹の底から絞り出したような声が鼓膜を震わせた。

 

「ち、違うんだッ! 俺は、俺はエドモンドとおんなじになりたくないんだよォッ! 俺はもう既に、ただ見てるだけの自分から変わったんだよォッ!」

 

 向こうが言い終わるのとほぼ同時に、プロシュートは大股で一気に距離を詰めた。ガキはまた殴られるとでも思ったのか、反射的に手で頭を覆い、ぎゅっと目を瞑る。が、プロシュートは彼を殴らなかった。掴み上げて立たせて、ごつんと音がしそうなほど額を突き合わせただけだった。

 

「聞け! おめーがあの兄貴みてーになりたくないつう気持ちはよくわかる。オレだって弟を危険に晒すようなクズ野郎と同じところまで落ちろなんて言わねえ。だがな、一度変わっただけで満足してるんじゃあねェよ。人間ってのは成長し続けるんだ! 変わり続けるモンなんだ! 自分で十分だと思っちまったら、それ以上どこにも行けねェ。 勿体ねェって言ってんだよッ!」

 

 先ほどから俯いてばかりだったから、これでようやくきちんと目が合った。両のまなこを限界までかっぴらいたガキは、プロシュートが手を離すとがくりと膝から崩れ落ちる。

 

「オイ、プロシュート……」

 

 いつになく戸惑うギアッチョの声を聞いて、プロシュートは自分が思った以上に白熱してしまったことに今更気づいた。だが、どうしても黙ってはいられなかったのだ。自ら成長を止めようとしていたガキが、いつかの死を受け入れようとしていた自分と重なったのかもしれない。ビビりながらも一人前に言い返してきたことで、ほれみろやれるんじゃあねぇかと火がついたのだ。

 

「……チッ、いつまでもここにいたってしょうがねぇ。外に見回りに行くぞ」

 

 まだ残るムカムカと若干の決まり悪さを振り払うように、プロシュートは首のスカーフをぐいと引っ張って緩めた。足早にガレージの出口に向かう。最初の寒さはどこへやら、今は茹だったように熱かった。

 

「あ、あのっ!」

「んだよ!? まだやんのかよ!? 勘弁しろよなァ~~!」

 

 身体全体で向き直って頭を抱えたギアッチョとは対照的に、プロシュートは振り返らなかった。けれども足は止まっていたし、耳もしっかりとガキの言葉を拾っていた。

 

「俺なんかのために、怒ってくれてありがとう……」

「……」

「……兄貴だけじゃなくて、あいつも頭イカれてんじゃあねェのか?」

「かもな」

 

 プロシュートは素っ気なく同意した。一瞬、緩く弧を描いた口元をきりりと引き結び、ギアッチョにも届くかどうかわからないくらいの大きさで呟く。

 

「だがまあ、化けるぜ。ああいうヤローはよ……」



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22.金曜日の受難は乗り越える⑥

 

 よほどのマゾヒストでもない限り、怒られるのが好きな人間なんて滅多にいるものではないだろう。ましてやその内容が理不尽で暴力的なものならば、誰だってそんな厄災みたいなもの避けたいに決まっている。怒鳴られて育った子供の例にもれず、ペッシは他人の顔色を窺い、なかなか本音が言えず、自分なんてどうしようもない駄目な奴なんだと思い込んでいた。自分自身ですらそう思っているのだから、誰かに期待されるだなんてことは考えてもみなかった。

 

――人間ってのは成長し続けるんだ! 変わり続けるモンなんだ! 自分で十分だと思っちまったら、それ以上どこにも行けねェ。 勿体ねェって言ってんだよッ!

 

 今でも頭の中でぐわんぐわんと声が響いているような感覚がある。まだ、会ったばかりの人だ。家庭内のいざこざで、むしろ迷惑をかけてしまった人だ。ペッシが死んだら仕事の都合で困るのかもしれないけれど、ペッシがいじめられっ子のマンモーニでも何も関係ない。ペッシが奮起して成長したとしても、あの人には何の得もないのだ。

 

 それなのに、思わず仲間の人が驚くくらい、彼は本気になってペッシのことを()()()くれた。あのとき咄嗟に怒ってくれてありがとうと言ったけれども、よく考えればあれは怒りではなかったのだ。暴力の正当化に使われる“お前のためだ”という薄っぺらな言葉とは違い、生まれて初めて本気でペッシのために()()()くれたのはプロシュートだった。ぶん殴られて逆に勇気が湧いてくるなんて、初めての経験だった。

 そして同時にもしも、もしもこんな自分でも期待してくれる人がいるのだとしたら、ペッシはそれに応えたいと思ったのだ。

 

 

 

 爆弾にて命を落としかけた翌朝のこと、ペッシはいつもよりずっとすっきりした気分で目が覚めた。未だ追っ手がかかっているという状況自体は変わっていない。ただあの人たちが護ってくれるのだと思うと恐ろしくなかったし、あの人たちが戦っているのなら、ペッシも自分の戦いをしなければと思っていた。

 自分の部屋を出て洗面所で顔を洗った後、食堂(サローネ)に向かう。朝食の席には既に他の家族がついていたが、ペッシが入って行っても誰もこちらをちらりとも見なかった。いつもならペッシも、そのまま黙って目立たないように席に着くだけだった。

 

「おはよう」

 

 一瞬、場に沈黙が落ちる。まるで、机や椅子が突如として話しかけてきたかのように、食堂(サローネ)は異様な雰囲気に包まれた。

 

「……あぁ、おはよう」

 

 一拍置いて、父親が返事をした。

 

「おはよう」

 

 追従するように、義母も返した。ガヴィーノは何も言わなかったが、何事もなかったかのように食事を再開した。エドモンドだけが挨拶を返すわけでもなく、無視をするわけでもなく、怒りを浮かべてペッシを睨みつけていた。それを見て思わず震えそうになったペッシだが、ぐっと下腹に力を入れて耐え、そのまま自然に席に座る。流石にまだエドモンドと正面切ってにらみ合うだけの勇気はなかったけれども、無視するように父親に向かって話しかけた。

 

「あの人たちは?」

「既に警備にあたってもらっている」

「そっか……」

 

 確かに昨日の晩のことを考えれば、家族団らんに混じって友好的に、というわけにはいかないだろう。ペッシは義母が持ってきた朝食をもくもくと口に運ぶ。その間もエドモンドの視線は感じていたが、意識してそちらは見ないようにした。少なくとも父親の手前、兄がすぐには動かないのはわかっていたからだ。

 

「既に死人が出たようだね」

 

 再び訪れた沈黙を破ったのは、意外なことにガヴィーノだった。次兄はナプキンで口を拭うと、まるで近所の野良猫の様子でも話すみたいに、ごくごく自然な調子で話を続けた。

 

「今朝、ガレージに行ったんだ。そうしたら、銃殺された死体がそのまんまになっていたよ」

「ガヴィ、朝食の席よ」

 

 すかさず義母がたしなめるが、次兄は気にしない。食卓で異様なことを口にしているのは確かに兄のほうであるはずなのに、ペッシですら義母の指摘のほうが相応しくないものだと思った。

 

「そうだね、今は朝食だ。でも敵が晩餐まで待ってくれるかどうかはわからない。だから僕たちは知る必要があるんだよ。どんな敵が僕らを狙っていて、あの人たちがどれくらい役に立つかをね」

「ふん、少なくとも昨日はきっちり働いてくれたってワケか」

「そう。おかげでみんな、元気にぴんぴんしてる。()()()()()()()()()()ね。」

 

 エドモンドの言葉に頷いたガヴィーノが、ちらり、と意味ありげにこちらを見る。その瞬間、ペッシの肌はぞわりと粟立った。

 

 まさか。

 

 昨日ペッシを無理やりトランクに閉じ込めたのはエドモンドだった。殴られて、脅されて、訳のわからないまま押し込まれて。その場にガヴィーノはいなかった。ただ今の態度からしてペッシが何をされたかは知ってはいたのだろう。彼はいつだって傍観者だった。ペッシを殴ったりぶったりしたことはただの一度もないけれど、彼はペッシがどんな目にあっても決して助けてはくれないのだ。それがたとえ命に関わることだったとしても――というのは、今回始めて知ったことだったけれども。

 

 ペッシはとうとう気分が悪くなって、食事をする手を止めた。自分を直接痛めつけたエドモンドより、何もしなかったガヴィーノに嫌悪を抱くなんて筋違いなのかもしれない。が、直情的な長兄よりも次兄のほうが何を考えているのかわからなくて怖かった。怒鳴ったり殴られたりするのは嫌だけれど、怒りにはまだ“人間味”がある。ペッシはときどき、ガヴィーノは機械でできているんじゃあないかと思うことさえあった。だからこれまでエドモンドに何をされても、相談したり助けを乞う気にはなれなかったのだ。

 

 せめてもの形だけ、グラスに入ったミルクを飲み干して、ペッシは椅子を引いて立ち上がろうとした。「魚野郎(ペッシ)」鋭い声に身が竦む。これほど剣呑な声で呼び止めるのは、エドモンドしかいなかった。彼は目が合うと、顎だけで居間のソファを指す。

 

「向こうで待ってろ」

「……」

 

 嫌な汗が背筋を伝う。ソファを見て、兄を見て、ペッシは逡巡した。いつもなら逆らうなんて考えられない。エドモンドの命令は()()だった。だが、今のペッシの心にはあの人がいる。流石にあの人に言われた通り、エドモンドをボコボコにしてやり返すほどの気概はないけれど、意思表示はその第一歩だ。ペッシはごくりと唾を呑み込んだ。口の中にはまだミルクの味が、膜を張ったように残っていた。

 

「……嫌だ」

 

 ペッシは言うだけ言って、エドモンドの顔も見ずに、飛ぶように食堂(サローネ)を後にした。怖かったのもある。と、同時に高揚感もあった。

 やってやった! やった! 初めて、エドモンドの奴に逆らってやったぞ!

 

 

 

 

 

「調子乗ってんじゃあねぇぞッ!」

 

 痛みよりも先に感じたのは、まず強烈な圧迫感だった。みぞおちの辺りを中心に空気が全部押し出されたような感覚があって、腰が曲がり、膝が曲がり、ペッシはそのまま地面に崩れ落ちる。今の一撃で肺がつぶれてしまったのかと思うほど、息が吸えなかった。痛いより苦しい。腹を抱えて浅く喘ぐペッシを、エドモンドは道端の空き缶でも蹴るみたいにつま先で転がした。それから再び狙いを定めると、なんの躊躇いもなく足を振るう。

 兄はあの後、ペッシの部屋までやってきたのだ。すぐに追いかけてきたわけではない。きっちり食事を終えて、それからしっかりペッシに教え込みにやってきたのだ。

 

「なんでだ、なんで俺の言うことに逆らった!? こうなることが予想できなかったのか? ああッ?」

 

 何度も。何度も。

 蹴られるのは殴られるのとはまた違う痛みがある。殴られるのが全身に広がる突き上げるような痛みだとすると、蹴るのは局所的に刺すような痛みだ。穴が開いたのではないかと思うほど鋭く深い痛みに、内臓が揺れ骨が悲鳴を上げる。エドモンドはいつもの比ではないほどキレていた。普段はもう少し甚振るようなやり方をするのだが、今日の彼はそんな余裕もないらしく、ただひたすら嵐のような暴力を振るった。

 

「お前ごときが、よくもッ、よくもッ! 舐めやがって! ちょっと他人の目があるからって、調子乗ってんじゃあねぇぞッ!」

 

 次の一発は、良いところに入った。転がって逃げようとしているうちに、いつの間にか壁際に追いやられていたようで、壁を背にしてしまった分、衝撃を逃がせない。言葉にならないうめき声をあげても、エドモンドはやめてくれなかった。たぶん、ペッシ以外への鬱憤もまとめて、ペッシにぶつけているに違いなかった。

 

「ったく、なにが<パッショーネ>だよ、新興の、田舎のチンピラ崩れが偉そうに……! 親父も親父だ、裏切りだなんて……幹部が聞いて呆れるぜ!」

 

 ペッシは家の事には全くと言っていいほど関わってこなかった。だが、長男としてファミリーの仕事にも噛んでいた兄は、今回の件に関して思うところがあるのだろう。エドモンドは最後に一回、ペッシの顔面横すれすれの壁を蹴って、それでようやく少し落ち着いたらしかった。

 

「お前は良いよな、お気楽でさ。たった一言、俺に口答えするだけで、勝った気持ちになれるんだから」

 

 勝手にペッシのベッドに腰を下ろし、兄は乱れた髪をかき上げる。それから、脇に立てかけてあった釣竿を見て、また苦々し気な顔になった。

 

「……甘ぇよ、親父は」

 

 ペッシは全身が痛くて、呼吸をするのもやっとという状態だったので、立ち上がって兄を止めるどころか制止の声すら上げられなかった。エドモンドは釣竿に手を伸ばすと、ロッド部分に力を入れて曲げる。そう簡単には折れないとわかると、今度は小枝を折るみたいに片方を手で持って足で踏んづけた。

 

 やめて。やめてくれ。そんなことをしたら。

 

 ぱきり、と亀裂の入った音がして、ペッシの意識はそこで途切れた。

 

 

 

 次にペッシが目を覚ました時、ペッシは自分のベッドの中にいた。柔らかなベッドでも、全身どこが当たっても痛い。口の中も酸っぱかった。

 

「気が付いたのか」

「……」

「あんまりエドモンドを怒らせるなよ、魚野郎(ペッシ)

 

 そう言って、こちらをのぞき込んでいたのは次兄のガヴィーノだった。一瞬、反射的に身をこわばらせるが、こちらの兄は手出しはしてこないだろう。それでもペッシはこわごわガヴィーノの顔を見つめた。

 

「……何しに来たの」

「そう警戒するなよ。僕がお前に今まで何かしたことあるか?」

「……」

「僕はお前に話を聞きたかったのさ。あの護衛二人についてね。それから、可哀想な弟の手当てをしてやろうとも思っているよ」

 

 確かに状況から考えて、ペッシをベッドに運んでくれたのはガヴィーノなのだろう。エドモンドがそんなことをするとは思えない。でも手当てをすると言った割には、ペッシはただ寝かされていただけだし、ガヴィーノは手ぶらだ。こちらの言いたいことが伝わったのか、兄は肩を竦める。

 

「ああ、手当てはここではしない。居間に来いよ、ここじゃまずいんだ」

「どうして?」

「またじきに戻ってくるぞ、エドモンドの怒りは完全に収まったわけじゃない」

 

 そんな、とペッシが言葉を失っていると、ガヴィーノは声を潜めて続ける。「あいつはイカレてる。知ってるだろ?」まさかそうはっきりとエドモンドの悪口を言うとは思わなくて、ペッシはびっくりしてしまった。そういえば、この二人の兄がお互いのことをどう思っているかは知らなかった。

 

「起き上がれるか?」

 

 背中をそっと支えられて、断り切れずに大人しく従う。身を起こすと眩暈がした。腹をしこたま殴られたせいか、吐き気も酷い。ふらつくペッシをなんとか起こしたガヴィーノはそのまま肩を貸してくれ、二人して階下へと向かった。

 

「昨日、お前を助けたのはあの護衛達か?」

「え、うん……」

「プロシュートとギアッチョと言ったな、お前の魚野郎(ペッシ)みたいな妙な名前だ。本名じゃないのかもしれないが」

 

 そう言われてみると、今まで馬鹿にされているだけと思っていた呼ばれ方も悪い気はしない。エドモンドを怒らせてしまい手酷く蹴られたが、ペッシは少しやり遂げた気持ちにもなっていた。唯一、大事な釣竿を折られてしまったことだけは、酷くショックで心にぽっかりと穴が開いた気分だったけれども。

 

 居間に着くと誰もおらず、ペッシは勧められるままソファに座らされる。ガヴィーノは本当に手当する気のようで、氷嚢やら救急箱を準備していた。「折れてはいなさそうだな」腕や脛など青紫に腫れ始めた部分に、意外にも器用な手つきで包帯が巻かれる。ペッシは黙ってされるがままになっていた。

 

「で、あいつらはどうやってお前を助けたんだ? まさか爆弾処理の知識でもあったのか?」

 

 一通りの手当てが終わると、本題はこちらだとばかりに兄は切り出した。ペッシは氷で痣の部分を冷やしながら、どう返事をしたものか迷う。ガヴィーノのことが本当によくわからなかった。

 

「……ガヴィ兄は、やっぱり知ってたの? 爆弾のこと」

魚野郎(ペッシ)、質問をしているのは僕だ」

「……」

「お前は昨日見たんだろ、答えられるはずだ」

 

 そう言われても、ペッシだって暗く狭いところに閉じ込められていただけだ。助けられたことには間違いないが、何が起こったのかはうまく説明できない。それとも、ペッシには魔法のように思えることでも、頭のいいガヴィーノのならばタネを知っているのだろうか。ペッシは冷たくなりすぎた腕を撫でて、氷嚢の位置を少しずらした。

 

「氷だ……凍ったんだ、急に。爆弾が」

「……」

「う、嘘じゃないよ」

「あぁ、わかってる。お前はそんなくだらない嘘をつくやつじゃないさ。凍らせたのはどっちだ?」

 

 言っていいものか。ペッシに原理はわからなかったが、あの不思議な力が隠し玉であることは間違いないと思っていた。助けてくれた人たちの不利になるようなことは避けたい。そんなこちらの気持ちを見透かしたように、ペッシの肩にガヴィーノの手が置かれた。

 

魚野郎(ペッシ)、違うよ。僕はエドモンドみたいにイカレちゃいない。自分の身を守ってくれる護衛を殺そうだなんてしない。ただ、寄こされた護衛を何の疑いもなく頼る気にはならないだけさ。奴らが裏切る可能性だって、十分にある」

「そんな、あの人たちは違うよ、俺のことだって助けてくれたし……」

「馬鹿だね、一度助けられただけで信じるのかい? それなら僕のことももっと信じないとだめだ。さぁ教えてくれ。どっちだ? どっちが凍らせた?」

「その前に、俺の質問にも答えてくれよ。……ガヴィ兄は爆弾のことを知っていたんだね?」

 

 はあ。

 それはそれは、大きなため息だった。聞き分けのない子供に苛立った親が、苛立ちを誤魔化すように呆れた振りをするみたいだった。それでもガヴィーノはペッシの意思が固いのを見てとると、話を進めるために答える気になったらしい。兄の首は至極あっさりと縦に振られた。

 

「エドモンドに、作り方が載っているサイトを教えたのは僕だからね」

「お、俺を殺す気だったのかい!?」

 

 思わず、全身が軋むのも忘れて、勢いよく立ち上がる。

 

「エドモンドが、ね。人聞きの悪いことを言うなよ、僕は何もしちゃいない」

 

 ガヴィーノはペッシが憤っても怯んだ様子はなく、ちょっぴり目を細めただけだった。

 

「実際、爆弾の作り方を公表したところで、犯罪ほう助となるかは微妙な線なんだ。なのに、兄弟の会話の、それも僕自身が公開したわけでもないもので、一体何の罪に問われるっていうんだい」

「……ガヴィ兄はいつも卑怯だ」

「だからそれだよ、魚野郎(ペッシ)。そういうのをやめろって言ってるんだ、エドモンドを怒らせるような態度をとるんじゃあない」

 

 ガヴィーノは今まで、ペッシに暴力を振るったことはなかった。それなのにペッシが逃げようと距離をとっても、どんどんと近づいてくる。居間と続きになっている食堂(サローネ)に逃げ込んでも、兄は後を追ってきた。

 

魚野郎(ペッシ)、そうだよ、お前はそれでいいんだ」

「それでって、じゃあ、黙って死んでればよかったって言うのかよッ!」

 

 後ずさりすれば背中に造り付けのカップボードが当たって、中の食器がガチャガチャと音を立てる。ペッシが言い返すと、ガヴィーノはちょっとだけ不思議そうな顔をした。

 

「いいや、僕だって何もお前に死んでほしいわけじゃない。今朝みたいな態度のことだよ。死にかけたせいで変に腹をくくってしまったのか? お前はただびくびくしてりゃあよかったのさ、それでエドモンドの溜飲もしばらくは下がったんだ。それなのに、あんな、くだらない反抗をするから……」

 

 言いながらガヴィーノは、食堂(サローネ)の入り口すぐそばにあるスイッチパネルのカバーを外した。このタイミングで室内の電灯を調節するのもおかしいが、そもそも切り替えるだけならカバーを外さずとも押すだけで良い。

 

「なにを―――」

 

 流石に疑問に思って、声を上げようとした瞬間だった。ガコン、と頭の後ろで妙な音が聞こえたかと思うと、背中を支えていたものがぱっと消え、ペッシは思い切り後ろにひっくり返る。尻餅をついたそこは部屋になっていた。柔らかなアイボリーの壁紙が貼られた食堂(サローネ)とは違い、無機質で倉庫みたいな簡素な部屋。ペッシは今更になって、自分の家がギャングだったことを実感した。高跳び用の別荘があるのなら、そこにセーフルームが備え付けられていたって、別におかしくはない。

 

「いいか、お前は何もするな。最初っから、あの同級生を庇ったりなんかせず、何もしなきゃよかったのさ。お前は変われない。エドモンドには勝てない。ギャングにだって向いてない。だから何もしないことが、一番お前のためになることなんだ」

 

 呆然と座り込んでいるペッシにガヴィーノは言う。投げ込まれた氷嚢が床に当たって固い音を立てた。距離としてはほんの数歩くらいなのに、二人の間には酷い隔たりがあるように感じる。

 

「いいかい、これは兄として忠告してやってるんだよ」

 

 重そうなカップボードは、見た目に反して軽やかに扉としての機能を果たした。

 

「ま、待ってくれよう……!」

 

 閉じ込められる。最後に少しだけ見えたガヴィーノの顔は、どことなく悲し気に見えた。



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23.金曜日の受難は乗り越える⑦

 

 日中と朝晩の寒暖差はあるものの、六月のトリエステの気候は比較的過ごしやすいものだった。朝の一番冷える頃でも気温は十八度。日中には二十六度にもなるのだから、カエルやトカゲといった変温動物も活動し始めている。昆虫である蝶であれば、もっと低い十五度あたりから活動し始める。そういうわけで今、トリエステのリメンブランツァ公園で蝶が数匹舞っている光景はそうおかしなものではなかった。

 蝶の種類はイカルスヒメシジミ。ヨーロッパ全土や北アメリカ、温帯のアジアにも広く分布する小型の蝶で、明るい青紫色の羽をしているのはオスの個体だ。こちらもとりたてて珍しいものではない。ただひとつだけ奇妙なのは、蝶が羽を休めているその位置だった。付近に花が咲いていないから仕方なく、というにはあまりにも不自然――。イカルスヒメシジミは、公園のベンチに腰掛ける男に止まっていた。それも男の閉じた右瞼の上と左耳に一匹ずつ、しばらくここから動く気はないというように羽を閉じて止まっている。

 

 男の名はジッロと言った。今、彼の視界には、ここから少し離れたとある別荘の光景が映っている。ときどき送られてくる映像がぶれるのは、偵察に行った蝶がまだ飛行中だからだろう。蝶の複眼から送られてくる視界は人間の目には捉えられないような素早い動きでも、ストップモーションのように詳細に視ることができる。代わりに色彩はめちゃくちゃだった。紫外線や赤外線も見える蝶の目は、人間とはかなり色の見え方が異なる。新進気鋭の、ちょっと頭のイカれた芸術家が色をつけたような世界で、ジッロはターゲットの屋敷を探索していた。と言っても、ジッロの索敵が作戦の主な部分を担っているのではなく、実際は先に向かった仲間の連絡を待つ間の暇つぶし目的だった。

 

「嵐の前の静けさってやつだな」

 

 向こうだって、追っ手が差し向けられていることくらいわかっているはずなのだ。それなのに屋敷の周辺に警戒した黒服が詰めている様子もなく、表向きはただの金持ちがバカンスに来たようにも見える。一応、玄関にはセンサー付きカメラがあり、窓にも格子状のシャッターがつけられているが、それだって滅多に来ない別荘の防犯対策としては特別やりすぎというほどでもない。天気も良く、辺りは静かで、蝶が飛びたくなるのもわかるような長閑さだった。住人たちも意外とのんびり、最期の時を過ごしているのかもしれない。蝶はひらひらと舞い、二階の窓べりに止まった。どうやら中に人間がいる。二人だ。換気のためかほんの数センチ、観音開きの窓の中央が開いていた。

 

『あいつはどこだ』

『さぁ、また海にでも行ったんじゃないのか?』

 

 蝶はセミやコオロギのように音でコミュニケーションをとる虫ではないが、それでも聴力は有している。前翅(ぜんし)と呼ばれる胸部の第一節から生える羽を利用して音を聞き取っており、種類にもよるが、数メートル先にいる鳥の僅かな羽音さえも察知すると言う。ジッロの耳に伝えられたのは、蝶が聞いた人間の声だ。もちろん、本物の蝶には人間の言葉などわかるはずもないだろうし、蝶の形をしたこのスタンド――ギミー・シェルターが聞き取った音を理解するほど高度な知能を持っているかは、本体のジッロですら定かではなかったけれど。

 

『海か……どうだろうな、釣竿は折ってやったから』

 

 室内にいるのは、ターゲットの息子たちのようだった。父親の後をしっかり継いで、ファミリーの仕事にも噛んでいたから顔と名前は知っている。蝶の視界は相変わらず騒々しかったが、二人の兄弟を見分けるのは難しくなかった。いかにもキレやすそうな今時の若者を体現したのがエドモンド、それから機械みたいに表情のないのがガヴィーノ。兄弟二人揃ってはいるものの、どうにも和やかな雰囲気とは程遠かった。

 

『じゃあ、それこそショックで海に身投げしてしまったかもね』

『あいつに死ぬ度胸があるもんか』

『もちろん冗談だよ。でも、今は魚野郎(ペッシ)のことなんかより、考えるべきことがあるはずだ』

 

 冗談だよ、と言った割には、ガヴィーノの表情はちっとも動いていなかった。真剣、というのもなんとなく違う。その顔はどこか他人事のような雰囲気を漂わせていて、ガキの割には気味が悪いほど冷静な奴だと思った。大の大人であっても、命が狙われているとなれば普通は怯えたり気が立ったりするものだ。

 

『護衛の二人はやっぱり不思議な力が使える。魚野郎(ペッシ)が言っていたんだ、何もないのに爆弾が急に凍ったと』

『……だから、なんなんだよ』

『うちにだってそういう奴らがいたろ? ボスの側近の――』

 

 やはり、<パッショーネ>からスタンド使いを護衛に呼んだのか。

 ジッロがそう思ったのとほぼ同時に、視界がぶれてドンッと物のぶつかる音がする。なんだ? 蝶が再び窓に止まりなおした時、エドモンドはガヴィーノの胸倉を掴んで壁に押し付けていた。

 なんなんだ、今、キレる要素なんてあったか?

 

『だから、なんなんだってテメェはよ!? 相手は能力持ちだから、大人しくしてろって俺に指図するつもりか? ああ?』

 

 冷静すぎるのも気味が悪いが、些細なことでキレるのもいただけない。この業界にいると温厚な奴のほうが少ないが、ジッロはすぐに怒りをあらわにするような人間を軽蔑していた。舐められないために怒ったフリをするのならまだいい。だが、今のエドモンドはどこからどう見ても余裕がなさそうだった。対して、ガヴィーノのほうはすぐにでも殴られそうな状況なのに、変わらず涼しい顔をしていた。

 

『まさか。僕が兄さんに指図するわけないだろう?』

『……』

『昔から兄さんがやることを、僕は一度だって止めたりしていない。だろ?』

 

 それは殴られないためのご機嫌伺いというより、どこか突き放すような言葉だった。至近距離で睨みあったのち、ややあってエドモンドの手がゆっくりと離される。

 

『……チッ、お前ってやつはマジに気色悪いぜ。何考えてるか、ちっとも読めやしない。そうやって従順にはしているが、本当は俺のことを欠片も怖いと思っちゃいないんだ』

『酷い言われようだな、僕はこんなにも皆と上手くやろうとしているっていうのに』

『いざとなったら<サルヴァトーレ>も親父もアッサリ切るだろう、お前みたいなやつは。かといって、<パッショーネ>に与するわけでもない。タチが悪ィんだよ』

 

 ガヴィーノは乱れた胸元を軽く整えると、兄の上着をすっと指さした。

 

『だったら今のうちにここで僕を殺しておくかい? 銃は持ってるんだろう?』

 

 エドモンドから見て、左の内ポケット。確かにエドモンドが動いても、上着の左裾はたるまず、振り子のような動きを見せる。

 

『弟は撃てないとでも?』

 

 ガヴィーノの言い出したことに虚を突かれた表情になっていたエドモンドも、負けじと銃口を真っすぐ弟に向けた。

 おいおい、兄弟ってのは仲良くするもんだぞ。

 そんな誰よりも平和な感想を抱きつつ、ジッロは少しこの展開にワクワクしていた。本当はこんなクソくだらない兄弟喧嘩を見守っているより‟スタンド使いらしい護衛の二人”を探しに行くべきなのだが、そっちの仕上げは今、じわじわと進行中ってところだろう。そもそもジッロの当初の目的は暇つぶしなので、これくらいの余興で十分だ。

 

『いいや、爆殺しようとするくらいだ。できるだろうね。二年も前に教えたサイトのことを、兄さんが覚えていたなんてびっくりしたよ』

『やけにその件に突っかかるな。そんなに魚野郎(ペッシ)を巻き添えにしようとしたことが気に入らなかったのか?』

『あぁ』

 

 あっさりと頷かれて、引き金にかけられたエドモンドの指に力がこもる。

 

『……今更、可哀想になったって? ずっと助けてやらなかったお前が?』

『違う。気に入らないのは僕の平穏を脅かしたからだよ』

『……どういう意味だ?』

 

 エドモンドはあからさまに怪訝な顔になった。もちろん、ジッロにも彼らの話していることはわからなかった。文脈からペッシ、と呼ばれる人物がもう一人いて、エドモンドがペッシを殺そうとした件でガヴィーノが腹を立てている、というのはわかる。

 ペッシ、ペッシね……。はて、そんな奴いただろうか?

 ジッロはこれでもボスの側近だ。三次受け、四次受けのような使い走りのチンピラまでは流石に覚えてはいないが、ファミリーの人間ならばだいたいは知っている。それもあの酷薄そうなガヴィーノが、傷つけられて腹を立てるほどの存在だ。女の名前でもない。というか、人につける名前でもない。ペットか何か飼っていたのだろうか。いや、話では護衛が氷を使うのを見たのはそいつらしい。犬や猫や呼び名通りの魚が、主人に向かって告げ口するはずもないのだから、人であることは間違いないのだろう。

 

『僕が何もしないで見ていられるのは、兄さんが僕の代わりにやってみたいことをやってくれるからで、おまけに魚野郎(ペッシ)が大人しく耐えているからだ。だから僕は二人にいなくなって欲しくないし、僕抜きで勝手なこともしないで欲しい』

『は……?』

『僕は傍観者でいたいんだよ。これでも二人には感謝してるんだ。他人に変わってほしいと思うのが傲慢なら、変わらないでいてくれと思うのも同じか? とにかく、僕には兄さんっていう異常性の隠れ蓑と、魚野郎(ペッシ)っていうお手本としての平凡さが必要なんだ。二人がいるから他人とのちょうどいいバランスを学ぶことができる」

『お前……マジにイカレてんだな』

 

 銃を持ったエドモンドが後ずさりして、丸腰のガヴィーノが距離を詰めていく光景はなかなか異様なものだった。途中から思考を巡らせるのをやめて、ジッロは固唾を呑んで見守る。

 

『それ以上寄るな、本当に撃つ』

『イカレ野郎は全員殺すって? たまたま生まれつき何かが欠けているだけで、ほとんどの奴は兄さんよりもずっと真っ当に暮らしているんだよ』

『ごちゃごちゃうるせえ、マジで撃つ。俺は撃つ。弟だって撃つ』

 

 背中が壁にあたり、それ以上退がれなくなったエドモンドはとうとう覚悟を決めたみたいだった。安定した構え方からして、銃を使うのが初めてというわけでもないのだろう。

 いいぞ。撃てよ、撃てったら。

 ジッロがそう願った通り、次の瞬間、乾いた一発の銃声が室内に響いた。間髪入れずに薬莢の金属音も聞こえたが、ガヴィーノが倒れる音だけは続かなかった。

 

「おいおい、その距離で外すかフツー?! どんだけ下手くそなんだよッ!」

 

 公園にいたジッロは思わず、声に出して文句を言った。ここ一番のシュートを外したサッカー選手を詰るときのように、やり場のないイライラを自分の太ももを殴りつけることで発散する。これではエドモンドもさぞや赤っ恥だろう。動いたせいで少し位置のずれた蝶を瞼の上に戻し、せめて奴の面でも拝んでやろうと視界をリンクさせて、ジッロはようやく向こう二人の様子がおかしいことに気が付いた。特にエドモンドは盛大に外したのに、腹を立てる素振りでもない。恥ずかしがる様子でもない。ただただ困惑の色をその表情に浮かべていた。

 

『なんでだ……? 確かに俺は今、撃ったよな……?』

 

 そうだよ、おめーは確かに撃ったさ。だけど、撃てば当たるってもんじゃない。特におめーみたいなド下手くそは、目の前にいる相手だって綺麗に外しちまうらしいな。

 

『俺は確かに撃った。硝煙の匂いもする、壁にだって穴が開いてるのが見える。でも、銃声は聞こえなかった……なぁ、ガヴィ、お前は聞こえたか?』

『兄さん? 口を動かして……もしかして何か喋っているの?』

『さっき、お前を撃とうとした瞬間、廊下のほうにちらっと見えたんだ』

『何?』

 

 エドモンドが指をさしたので、ガヴィーノはその方向を視線で追ったようだったが、会話が通じているわけではないらしい。その証拠にガヴィーノはどこを見ていいのかわからず、すぐに兄の方へ向き直る。

 

『なに? 何が言いたいの兄さん?』

『俺は見たんだ、ボロをまとったピエロみてぇなのが……そいつが廊下を歩いていた。それで俺はぎょっとして……おい、退けよ」

 

 エドモンドは警戒した様子で銃を構え直し、そろりそろりと部屋の入り口付近に歩を進める。

 あー、ボロをまとったピエロか。そいつはウーゴのスタンドだ。まったくいいところで邪魔しやがって。もうスタンド使い以外にも見えるようになっているのか。

 ジッロは仲間が首尾よく事を進めているにも関わらず、意味が分かるとがっかりした。何も知らぬは向こうばかり。エドモンドは廊下を確認して誰もいないのを確かめると、今度は天井に向かって思い切りぶっ放した。

 

『やっぱりだ、音が聞こえねぇ! どうなってやがる!?』

 

 銃を撃っても、どれだけ喚いても、今更誰も気づきやしないだろう。

 エドモンドたちは突然自分の身に起こった異変に動揺し、一匹の蝶がそのまま室内にひらひらと飛んで入ったことにまで気が回らなかった。小型の青い蝶はそのまま、美味しい蜜に群がるかのようにエドモンドが撃った壁の弾痕を一直線に目指す。

 

「小さな蝶が羽ばたくと、地球の裏側で竜巻が起こるらしい」

 

 ジッロは軽く頭を振って自分に止まっていた蝶を追い払うと、立ち上がってインサイドホルスターから愛用の拳銃を取り出した。そして長閑な公園で人目を憚ることもなく、近くにあった適当な木に狙いを定める。本当は先に忍び込んだウーゴがターゲットやその他の敵の聴覚を奪い、屋敷のあちこちに弾痕を残してくれる予定だったが、ここまで準備が整ったのならもう動き出して良いだろう。

 

「バタフライ効果ってやつだ。何かちょっとした事象や些細な違いが、後になって大きな結果や差を生むんだとか。でも、そんなの遠回り過ぎてわかるわけねーよな。それに比べて銃ってのは、単純な結果しか起こさない」

 

 ジッロは躊躇いなく公園の木を撃った。着弾した部分を中心に同心円状に木の幹が抉れ、深いひびが広がる。銃で傷つけられた穴が開くと、ふよふよと辺りを舞っていたイカルスヒメシジミはすぐにまだ熱いであろうそこへ群がった。これで繋がる。屋敷は地球の裏側ほどは遠くない。

 

「待ってろよガキども」

 

 穏やかだった公園には、いつしか強い風が吹き荒れていた。ただ風は横から吹き付けるのでも、上から吹きおろすのでもなく、木の幹に開いた穴を中心に強く吸い込む力を持っている。ジッロは導かれるようにその中心に向かって足を進めた。

 

「きっかけはほんの一発で十分なんだ。銃の一発で戦争ってのは起きる」

 

 もしこの場に他の者がいたら、魔法のように目の前で人が消えてしまったと証言したことだろう。ジッロのスタンドは索敵が主な能力ではない。そいつは条件を整えるためのおまけみたいなものだ。その証拠に彼の身体は直径一センチにも満たない風穴に吸い込まれて、影も形も残さなかった。



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24.金曜日の受難は乗り越える⑧

 

 

 人が死ぬときに、一番最後まで残る五感は聴覚だと言われている。プロの仕業や酷い事故で一瞬のうちに即死するようなことでもなければ、人の身体は徐々に、あるいは急速に、四肢の末端から脳に向かって機能を止めていくのだ。そのため脳に近い位置に神経があり、受動的で意識して働かせる必要のない聴覚が最後まで残るのは、ごくごく自然な道理と言えるだろう。終末医療の現場で患者に向かって愛や感謝を囁くことには、残される者たちが心の整理をつけること以上の価値が実はあるのかもしれない。

 しかしながら人体というのは不思議なもので、記憶を失う――すなわち何かを忘れていくときの順番は聴覚が真っ先なのだという。実際、昔の知人の顔や名前を憶えていてもその声までもをはっきりと思い出せるかと言われれば、その人物がよほど特徴的な声の持ち主でない限り難しいことが多いだろう。脳は音からの情報を軽んじている。いや、最期まで聴覚が残るからこそ、わざわざ音の記憶は保持しなくていいということなのかもしれない。

 

 

 

『……チッ、静かすぎるっつうのも気持ち悪ぃぜ』

 

 半ばぼやきのような調子だったものの、ギアッチョは確かに悪態をついた。だが、注意して意識を向けてみても声帯の震えを感じるだけで、自分の声はちっとも聞こえてこない。ヘッドフォンのしすぎで耳をぶっ壊したわけでも、爆風で鼓膜が一時的におかしくなっているわけでもなかった。一体いつから、と言われると正確に遡ることは難しいけれど、ギアッチョは自身がスタンド攻撃を受けていることは十分に理解していた。それなのにこうして手をこまねいているのは、本体どころかスタンドの姿すら見つけられないでいるからだった。

 

『グリマルディ本人にしか用はねぇって感じか……? まぁ、流石にプロシュートの奴も敵には気づいてんだろ』

 

 ギアッチョとプロシュートの能力ははっきり言って相性が悪い。いや、ザ・グレイトフル・デッドが見境のないはた迷惑な能力ということを考えれば、その影響を受けないホワイト・アルバムは最適な組み合わせといえるのかもしれないが、とにかく能力を使うときは別行動が基本だ。ギアッチョは動きやすい屋敷の外、プロシュートはガスの充満しやすい室内、という振り分けは特に揉めることなく決まったし、護衛任務も形式だけで死なせても構わないとなると、今からプロシュートと合流して意味があるだろうか。

 

『いや、ねェな……。本体がこれから屋敷に来るってんならオレが外で迎え撃つし、既に屋敷のなかにいるっつうなら燻されて出てくるか、気づかずボケちまうかがオチだわなァ』

 

 聴覚を奪うというのは暗殺に向いた能力かもしれないが、あくまでそれは一般人を狙う場合だ。一応スタンド能力者を引っ張り出せてはいるようだが、果たして<サルヴァトーレ>はどの程度の手札を切ってきたのだろうか。ギアッチョは外からガレージのシャッターを下ろすと、それをぴったりと背にして周囲の様子をうかがった。相手がどこにいるのかわからない以上、闇雲に探したところでこちらの隙が増えるだけだ。音が聞こえない分、死角となる部分は極力減らす。

 

『アレだな、静かすぎると気が狂いそ――』

 

 不意に、顔の真横で一陣の風が巻き起こり、ギアッチョは言いかけた口のまま固まった。頬に風が吹きつけたのではない。それは紛れもなくすぐ真横で巻き起こって、もしも聴覚がきちんと機能していたらひどくうるさく感じただろう。驚いて、勢いよく振り向こうとしたギアッチョは言葉を失った。

 

『んなっ……』

 

 突然()()()からにゅっと腕が突き出て、そのまま首を固定するように締めあげられる。米神に突き付けられた冷たい銃口の感触。けれども背中には依然として固いシャッターの感覚しかなかった。振り向けないせいで確認することは叶わなかったけれど、シャッターから腕が生えたとしか言いようがない状況だ。

 

『こンのッ…!!』

 

 困惑するギアッチョを見物するかのように、視界の端でひらひらと青紫色の蝶が舞っている。そして次の瞬間、()()()()銃声がした。

 

 

 

 

 

 

 

 命あるものは、死から逃れることはできない。それが万物不変の真理とするならば、“老い”もまた、逃れることのできない定めのひとつだろう。

 プロシュートは足元に転がるグリマルディを見下ろして、ここでとどめを刺すかどうか思案していた。既に襲撃を受けたらしい彼の左脚の太ももには大きな風穴が開いていて、もしプロシュートが脚を()()()()いなければ、出血多量でじきに死んでいたことだろう。とはいえ、ザ・グレイトフル・デッドが発動している今、すぐに死ぬか、もう少し後で死ぬかの違いしかなさそうだったけれども。

 

『ま、囮の生死は不問だからな。来た刺客を漏れなく全部ぶっ殺して、死んだってことがバレなきゃそれでいい』

 

 プロシュートはあっさりと結論を出すと、うめき声をあげているだろうグリマルディの首根っこを掴んで、ぞんざいにウォークインクローゼットに放り込む。しばらく前から自分の聴覚に異常が起きていることは理解していたが、別段焦りはなかった。既に敵方のスタンド使いが差し向けられているのならば、今回の仕事の首尾は上々と言えるだろう。他の組織は<パッショーネ>ほど、スタンド使いを使い捨てられる余裕があるはずもないのだから、案外長期任務にならなくて済むかもしれない。

 

『しかし、どこからだ……?』

 

 プロシュートはグリマルディの私室をぐるりと見まわして、眉間に皺を寄せる。命を狙われていた彼はしっかりと引きこもっていたし、いくら本気で護衛する気がなかったとはいえ、外にはギアッチョが、部屋の前にはプロシュートがいた。グリマルディが撃たれた銃声は聞こえなかったけれど、大の男が床に崩れた振動でプロシュートはすぐにドアを開けたのだ。けれども部屋に不審な人影はなかったし、こんな絶好の機会に敵が一発でグリマルディを仕留めなかったのも妙でしかなかった。

 

『いや、一発どころじゃねェ、初めて銃を持ったガキだってもう少しうまく当てるぞ……』

 

 弾痕は複数。それも壁だけではなく天井やソファーの座面など、グリマルディを狙って外したというというよりやたらめったらにぶっ放したみたいだ。プロシュートは弾痕に指を這わせ、そこがまだ熱を持っていることを確かめる。発砲はやはりついさっき起きたようだったが、奇妙なことに銃弾が見つからなかった。穴の中に残っているわけでも、貫通して床に落ちているわけでもない。穴自体もなんだか妙な感じがして、プロシュートはすぐさま距離をとった。何がどう妙だと説明するのは難しかったが、強いて言えば勘というやつだろう。まるで、この穴の中がここではないどこかに通じているような――。

 しかし残念ながらそれほどメルヘンな思考に耽る趣味も暇もない。プロシュートを現実に引き戻したのは、すぐ背後で起きた振動だった。

 

『ハン……何かと思えば、クソガキか』

 

 耳が聞こえていたとしたら、さぞかし派手な音がしていたことだろう。振り返ったプロシュートの視界に飛び込んできたのは、今の転倒でいくつか骨を駄目にしていそうなしなびた老人。頭に血が上って動き回ったせいか、はたまたもとから老けやすい体質だったのか、自らの父親すらもはるかに通り越してしまったと見える、エドモンドの変わり果てた姿だった。彼は床に転がったまま、いくつか歯の抜けた口をもごもごと動かす。感心なことにそんな姿になってもなお、エドモンドの瞳はぎらぎらと光ってプロシュートを睨みつけていた。

 

『……ぶっ殺す、ぶっ殺してやる』

 

 口の動きはわかりにくかったけれど、目は口ほどに物を言う。それに実際、エドモンドは見かけほど脳までボケ始めていないようだった。注意深く観察していると、罵詈雑言の合間に『ピエロ』という不思議な単語が読みとれる。発したのがそれだけならば妄言として聞き流したが、『敵』『護衛のくせに』という恨み言の合間に挟まれたそれは役に立ちそうな情報だった。

 

『うちにもトンチキな恰好をした野郎はいくらでもいるが……ピエロは本体なのか、見えるタイプのスタンドなのか微妙なところだな』

 

 エドモンドには今この場にいるザ・グレイトフル・デッドが見えていないようなので、前者のほうが可能性としては高そうなのだが、ピエロなんていう()()()()()()ことが前提のものをモチーフとしたスタンドなら一般人に視認できたとしても不思議はない。いや、むしろ姿を見せることがさらなる能力の発動に結びついている可能性だってある。

 プロシュートはしばし思案したが、結局ピエロが罠であろうとなんであろうと見つけないことには始まりそうになかった。ひとまずエドモンドについては父親と同じくクローゼットに放り込むこととする。この分ではおそらく助からないだろうし、微塵も助けてやる気が起きないが、うろちょろ這いずり回られても迷惑でしかないからだ。プロシュートはしがみついてくるエドモンドを引きはがして押し込めて、ようやくグリマルディの私室を後にする。そのとき、どこまでも静謐だった世界にかすかなさざ波が起きた。

 

――なぁ、ミスター・タンブリンマン、1曲聴かせてくれよ

 

 それは囁き程度の小さな呼びかけに聞こえたが、声の調子にははっきりとした音程がある。男の声――いや、歌は階下からしていた。階段から見える範囲の廊下にはいないので、奥の居間や食堂(サローネ)のほうだろう。

 プロシュートは慌てずに、ゆっくりと階段を降りた。相変わらず自分の足音、階段の軋む音、ザ・グレイトフル・デッドが這う音、どれひとつ聞こえはしないけれど、男の歌に対してだけは耳も真面目に仕事をしている。

 居間に足を踏み入れると、床には萎びた老婆が転がっていた。プロシュートは室内を一瞥するとグリマルディ夫人には目もくれず、奥の食堂(サローネ)へと進む。

 

――お前のタンバリンに合わせて跳ねまわるリズムの

 かすかな足跡が聴こえたら

 それはボロをまとったピエロの仕業さ

 

 敵――おそらく本体の男は、まったく逃げる素振りも見せずに食堂(サローネ)の椅子に片膝を立てて座っていた。見た目は五十代後半の中年を思わせたが、服装は若いのでザ・グレイトフル・デッドの影響を受けているのだろう。プロシュートと対峙してもなお、男は気にする素振りもなく歌い続けていた。それは不敵な態度というより無邪気な感じが強く、認知症の初期症状のように見えた。

 

『悪いな、この家を先に支配下に置いたのは俺らしい』

 

 スタンドのピエロは見当たらなかったが、本体さえ殺ってしまえば関係ない。プロシュートは直ざわりで早々に決着をつけようと、ザ・グレイトフル・デッドの腕を伸ばした。だが、死の手が男に触れるよりも早く、シャンシャンという鈴の音がプロシュートのすぐ頭の真後ろから響いた。

 

――気にすることはない

  それはただの影、お前はヤツが追ってくるのを見ているだけさ

 

 間一髪で身をよじり、プロシュートは背後から迫ってきた敵の攻撃をかわした。けれどもかわした後に咄嗟に振り返ったことで、その敵の姿をばっちりと視界に収めてしまう。

 

 艶々とした赤い鼻と、対照的に真っ青な唇。目の位置にはぽっかりと空洞が広がっているせいで、仮面の笑みは一層無機質な冷たさを帯びている。優に二メートルを超すであろうその化け物の姿は誰がどう見てもピエロだったが、残念ながらプロシュートはそれ以上敵のスタンドを観察することは叶わなかった。まるでテレビの電源を落としたみたいに、ブツンと視界が暗転したのだ。

 

(聴覚の次は、視覚だってのか……)

 

――なぁ、ミスター・タンブリンマン、1曲聴かせてくれよ

 まだ眠くないし、行く場所もないんだ

 

 男の歌はまだ続いている。そこにまるで跳ねるような調子で、ピエロの靴底が上機嫌に床を叩く音が加わった。

 

 

―――――――――――――――――――――――――

スタンド能力【ミスター・タンブリンマン】

破壊力:E スピード:A 射程距離:B 持続力:-A 精密動作性:E 成長性:E

 

 外観はピエロのようなスタンド。ピエロの持つタンバリンの鈴の音を聞かせることで時間経過とともに効果範囲内にいる生物の五感(聴覚→視覚→触覚→味覚→嗅覚の順)を奪うが、正確には感覚そのものを奪っているのではなく、認識した各五感の『記憶』を奪っている。効果範囲内にいても鈴の音自体を遮断することでスタンド効果を回避できるが、真っ先に失われるのが聴覚であるため、なかなか自身が攻撃下にあることに気づくのは難しい。また、聴覚を奪われた後はスタンド使い以外もピエロを視認することができるようになり、ピエロを真正面から見てしまった場合、時間経過に関わらず視覚も奪われることとなる。



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