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前後
序幕


 ——氷川洸夜は、3つ子の長男であり2人の妹がいる。

 片一方は努力でポテンシャルを高め、片一方は生まれながらの才能が高い。そんな中、彼はどちらにも属さない所謂『平凡』と言うものであった。才能があるわけでもなく、特段努力をすると言ったこともない。

 

 故に彼は、2人とは違い秀でたものの無い、全ての面に於いて平均的な者であった。

 そんな彼は、対照的であるが故に多々衝突する事のある姉妹の仲裁役を買って出ることが多い。

 

「貴方はまた!」

「だって〜」

「はいはい……一旦落ち着こうな」

 

 現に今も、この様に仲裁に入っている。そんな紗夜と日菜だが、とある1つの事に於いては一致している。

 それは、兄である洸夜への異常なまでの執着である。洸夜がクラスメイトの女子と話していたという事を聞いただけで、2人して洸夜の部屋に押しかけ事実確認を取るといった行動が多々見られた。

 

 その際の2人は、目から光が消えており殺意の様なものまで感じられたとか。だが、現在は久しく鳴りを潜めており洸夜にとっては平和な日常が保たれていた。そんなある日、洸夜が学校にいる時であった。

 

「あの氷川君……」

「……どうかしたか、小鳥遊?」

 

 洸夜に話しかけてきたのは、彼と共に学級委員を務める少女、小鳥遊鏡花。

 

「その……これを……」

 

 そう言って鏡花は、1通の便箋を手渡すと走り去っていった。

 

「……手紙?」

 

 訳がわからない、といった様子で洸夜は首を傾げる。すると突然、洸夜の肩を何者かに叩かれる。驚いた洸夜は、即座に振り向く。

 

「なんだ、祐治か……」

 

 振り向いた先にいたのは、洸夜の親友である鹿島祐治。

 

「良かったな洸夜」

「なんで?」

「多分それ、恋文ってヤツだ」

「……ラブレターってことか」

 

 それを聞き、複雑な表情をとる洸夜に祐治が問いかける。

 

「ん、どうかしたのか?」

「いや、なんでもないさ」

 

 そう答える洸夜であったが、やはり浮かない表情であった。

 

「ま、なんかあったら言ってくれよ」

「うん。ありがとう」

「じゃあ、俺は部活があるんで」

「ああ。またな」

 

 そう言い残して走り去る祐治を見送った洸夜は、荷物をまとめ下校する。帰り道、洸夜は普段は跨ってる自転車を手で押しながら歩いていた。先ほど貰った手紙について考えていた故に。

 

「恋文……ねぇ」

 

 中身はどう言ったものなのか。それ以前に2人の妹に気付かれたらどうなるか。絶え間なく思考を続けつつ橋を渡った瞬間、洸夜は聞き馴染みのある声で呼び止められる。

 

「——お兄ちゃん」

「日菜……」

 

 今、最も会いたくない人物の1人、日菜であった。

 

「……どうしたんだ、こんなところで」

「うーん、なんかお兄ちゃんと帰りたいなーと思って迎えに来ちゃった」

「家で待ってりゃいずれ帰ってくるのにか?」

 

 苦笑しつつ日菜の言葉に返答する洸夜。

 

「うん。早くお兄ちゃんに会いたかったから」

 

 満面の笑みでそう答える日菜。そんな無邪気な妹の姿に、洸夜の頬も緩むのであった。

 

「取り敢えず帰るか」

「うん」

 

 2人は、たわいも無い会話をしながら自宅へと向かう。そして家が近づいて来た頃、不意に日菜がこんなことを尋ねる。

 

「ねえ、お兄ちゃん」

「なんだ?」

「何か、隠してる事ない?」

「……なんでだ?」

 

 突然の問いかけに、洸夜は立ち止まり首を傾げる。それに合わせて、日菜も足を止める。

 

「お兄ちゃん、どこかよそよそしいもん」

「え、よそよそしい?」

「うん。それに——知らない子の匂いがする」

 

 日菜の言葉を聞いた途端、危険を告げるかのように洸夜の背中を悪寒が走る。

 

「私、分かるんだよ? 人の匂いとお兄ちゃんの匂いの違い」

「……俺から、その違う匂いがするってことか?」

 

 冷や汗を垂らす洸夜の傍らで、日菜はゆっくりと頷く。

 

「それで、お兄ちゃんが何かを隠そうとしている。これは、何かあるよね? 寧ろないっていう方が無理があるよね?」

 

 問い詰めてくる日菜。その瞳は、先程まであった無邪気さを失い、暗く冷徹なものへと成り果てていた。

 

「……あった」

「何が?」

「今日、一緒に日番やってた女子と黒板消すときぶつかった」

 

 答えた洸夜を日菜は見つめる。そして何かを納得したらしく1人で頷く。

 

「ふーん。お兄ちゃんがそういうならそんなんだろうね」

「……ああ。俺の不注意だ」

「今回はそれで信じるよ。もし嘘だったら——分かってるよね?」

 

 見下す様な視線で問いかける日菜。その表情に洸夜の体は竦む。蛇に睨まれたカエルの様に。

 

「もちろん……」

 

 頷いた洸夜は、ハンドルに掛けた手を強く握る。その傍ら、日菜が少し前に出たかと思うと、軽やかに身体を回しからの方へと振り返る。

 

「じゃあ、帰ろっか」

 

 先程までの殺気を帯びた表情とは一転し、無邪気さを漂わせる表情で。

 

「ああ……」

 

 洸夜は沈んだ気持ちのままそう答え、日菜と共に歩き出すのだった——

 

 

 

 

 

 帰宅した洸夜は、夕食をとり自室へと篭っていた。椅子に座り周囲を一瞥した後、漸く小鳥遊から受け取った便箋を露わにする。

 

「……開けてみるか」

 

 呟きながら封を切る洸夜。そして中身を取り出した瞬間、その手紙が横から伸ばされた手によってひったくられる。

 

「……何かしら、これ?」

「紗夜……?!」

 

 洸夜が振り向いた先にいたのは、上の妹である紗夜であった。

 

「お前、いつから……」

「今さっきからよ。で、これは何?」

 

 そう言って広げた紙を洸夜に向ける。

 

「……分からないから開けたんだが」

「嘘ね」

 

 洸夜の言葉を即座に否定した紗夜は、懐から黒い機械を取り出しその電源を入れる。

 

『良かったな洸夜』

『何が?』

『多分それ、恋文ってヤツだ』

『……ラブレターってことか』

「……?!」

 

 そこから流れてきたのは、今日あった学校での祐治との会話。

 

「貴方はこの時点でわかっていたはずよ?」

 

 洸夜へと告げる紗夜の瞳は、光を失い鋭い刃物のようであった。そんな紗夜の視線に晒され硬直している洸夜だったが、ふと我に返ると壁に掛けてあった制服の襟元に手を伸ばす。

 

「……盗聴器か?!」

 

 襟の裏側に仕込まれていた機械を引き抜きながら、洸夜は戦慄する。いつからこんなものが仕掛けられていたのかと。

 

「いつから……」

「——お兄ちゃん」

「……日菜?!」

 

 洸夜に追い討ちを掛けるかの如く、クローゼットの中から日菜が姿を表す。

 

「……嘘ついたらどうなるか……わかってるんだよね?」

「……ッ」

 

 日菜に圧倒された洸夜は、一歩引き下がる。それに合わせてジリジリと詰め寄ってくる日菜。一歩、また一歩と下がるうちに、洸夜はとうとう窓際まで追い込まれてしまった。

 

「……ヤベ」

 

 窓に手をつけた洸夜は小声で呟く。逃げ場がない状況に危機を覚えながら。

 

「で、結局貴方は分かっていたのでしょ。手紙の中身を」

「こう言うことがないように周辺は固めてたけど、まさか同じ学校の同級生もその対象だったなんてねぇ」

「俺の周りを……固めてた?」

「そうだよ。お兄ちゃんに()()()が寄り付かないようにね」

 

 その一言を聞いた洸夜は、既に妹達が危ないを通り越していることを察する。それと同時に、これ以上は不味いと感じた。

 

「腹括るしか……!」

 

 この場から離れるために意を決した彼は、後ろ手で窓の鍵を開くと目にも留まらぬ速さでバルコニーへと飛び出す。そしてそのままの勢いで、柵を超え身を投げ出そうとした。

 

「ッ……?!」

 

 直後、彼の首元に強い刺激が走り全身から力が抜けていく。それによりバランスを崩し倒れそうになる洸夜だったが、なんとか柵を掴みダウンを回避する。

 

「な……なんだ……」

 

 薄れ始めた意識の中、振り向いた彼の視線に映ったのは日菜の手に握られたスタンガン。

 そのスタンガンに注意を取られていると、彼に再び強い衝撃が走る。ここで洸夜の意識は途切れてしまうのだった——

 

 

 

 

 

 数日後、CiRCLEに併設されたカフェスペースにて、長い茶髪をポニーテールに結った少女と共に卓に着いた紗夜の姿があった。

 

「ごめんね、練習終わりに呼び止めちゃって」

「いえ、構いません。それで、聞きたいことというのは?」

「その、最近洸夜の事見かけないけど……どうしたのかなと思ってね」

 

 紗夜に洸夜の事を問うた少女の名前は今井リサ。紗夜の所属するバンド『Roselia』のベーシストで、洸夜とも面識があった。

 

「そのことでしたか……」

「うん。何かあったの?」

「実は、体調を崩して寝込んでるんです」

「え、そうだったの?!」

 

 紗夜の口から飛び出した答えに心底驚いた様子のリサは、続けて紗夜に問いかける。

 

「お見舞い行った方がいいかな……?」

「本人が『移したりしたら大変だ』、と言ってたので……」

「そっか……じゃあ明日、日菜にお見舞いの品持たせるよ」

「ありがとうございます。では、そろそろ時間なので」

「うん。気をつけてね」

 

 リサの言葉を背中に、紗夜は帰路に着く。帰宅すると、真っ直ぐに部屋を目指す。自室ではなく、()()の部屋に。

 

「あ、お姉ちゃん」

 

 部屋に入ると、ベッドに腰をかける日菜が出迎えた。その傍らには、手と足に手錠をかけられ、口はガムテープで塞がれた洸夜が横たわっていた。横たわる彼の目は暗く濁っており、既に生気を感じられるものではなかった。

 

「ただいま日菜、兄さん」

 

 軽く微笑みながら、リボンを緩める紗夜。

 

「また今日も楽しみましょう」

「うん。お兄ちゃんも楽しいよね? 楽しくなくてもやって貰うけど」

「だって貴方は——逃げられないのだから」

 

 今日もまた、監禁された洸夜は2人の妹に挟まれる。2人が愛してやまない、唯一無二の()()として——



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破綻

 とある朝、今井リサは首を捻りながら登校していた。ここ最近見かけることがない洸夜のことを考えていたが故に。

 

「紗夜と日菜は体調崩してるだけで、家で安静にしてる……って言ってたけど、本当にそれだけなのかな?」

 

 呟いたリサは、不意に足を止めると自宅へと引き返す。

 

「……確かめなきゃ」

 

 決意を胸に、リサは駆け出すのだった——

 

 

 

 

 

 暗い部屋の中、彼は意識を取り戻す。ここしばらくの記憶が殆どないことに疑問を持ちながら。

 そして、上体を起こした彼は、枕元にあった自身の携帯の画面に目を向ける。

 

(俺の記憶がある日から5日も経ってる……?)

 

 その間に何があったのかを探る洸夜であったが、やはり無い物ねだり。これと言っていいほど何も分からなかった。

 

(なんもわかんねぇ……けど、俺の記憶が飛んでるってことは確かだ)

 

 今一度記憶が曖昧になっていることを確信した洸夜は、自身の現状を確かめる。

 両腕は二重に手錠で留められ、ほんのわずかな自由しか効かない。加えて両足も同様に二重に手錠で留められているため歩くこともままならない状態であった。

 

(取り敢えず……なんとかしなきゃ……)

 

 意を決した洸夜は、拘束を解こうと試みる。だが、きっちりと止められた手錠は外れる様子がない。

 

(固すぎる……。どうなってんだよ……)

 

 眉を潜めながらカチャカチャと手錠を動かす洸夜。すると、こちらへと向かってくる足音が聞こえて来る。

 

(……足音?)

 

 聞こえて来た足音は、まっすぐとこの部屋を目指して進んでくる。それを即座に理解した洸夜は、フッと全身の力を抜きベッドの上に体を倒す。

 

(意識のない間……なにされてるのかなんて……分からずにいた方が……何倍もマシだ……)

 

 そう強く念じ続ける洸夜の意識は、扉が開いたタイミングで途切れるのであった——

 

 

 

 

 

 羽丘女子学園2-Aでは、現在朝のSHRを行っていた。そんな中、とある空席を見つめる日菜。

 その状態が続いたままであった日菜だが、SHRが終わるなり教室を飛び出す。彼女が向かったのはお隣の教室2-B。

 

「友希那ちゃん」

「あら、日菜。どうしたの?」

 

 日菜に呼ばれ扉の方へと向かってきたのは鮮やかな銀髪を背中まで伸ばした少女。彼女はリサが所属するガールズバンド『Roselia』のリーダー兼ボーカルである湊友希那。首を傾げながら歩み寄って来る友希那に対して日菜は尋ねた。

 

「リサちーって、今日は休み?」

 

 日菜に問い掛けられた友希那はそっと頷いた後に言葉を紡いだ。

 

「ええ。今朝体調が悪いから休むと言っていたわ」

「ふーん。そっか……」

 

 友希那の返答に短く頷いた日菜は何かを考え込んだ後、笑みを浮かべ友希那に謝意を述べる。

 

「分かった。友希那ちゃんありがとう」

 

 短く告げた日菜は友希那に手を振ると、踵を返すと早足でA組へと戻り始めた。

 

「リサちー、仮病だよね」

 

 本日居ない彼女が仮病である、と確信を持った言葉を溢しながら——

 

 

 

 

 

 学校を欠席したリサは、氷川家の前へとやって来ていた。

 

「洸夜……大丈夫かな?」

 

 そう言って、とても不安げな表情を浮かべるリサ。それもそのはず。

 洸夜とリサは、周りには伏せているものの現在進行形で付き合っている。だからこそリサは、こうして学校を休んでまで洸夜の容態を確かめに来た。

 

「取り敢えず……誰か居るかな?」

 

 氷川家の呼び鈴を鳴らすリサ。しかし、反応が一向にない。

 

「留守……なんて事は無いよね?」

 

 そう呟いたリサは、玄関の扉へと手をかける。扉は鍵が掛けていられなかった様で、すんなりと開いた。

 

「……開いてる?」

 

 不審に思いながらも、リサは家の中を覗く。人気の無い家の中は暗さ故か、静けさと共に不気味さも醸し出していた。

 

「お邪魔します……」

 

 家の中の雰囲気に恐怖を感じながらも、リサは靴を脱ぎ上がり込むと迷う事なく洸夜の部屋へと向かっていき、扉の前に立つとその扉をノックする。

 

「洸夜、居る?」

 

 そう問い掛けるが、中から返事は返って来ない。

 

「洸夜、開けるよ?」

 

 意を決したリサは、その扉を開く。直後リサは、自身の視界に映った光景に言葉を失う。

 

「洸……夜……?」

 

 そこに()()()のは、手足に手錠を掛けられた上口元に布を巻かれた状態で、ベッドに横たわる洸夜の姿。

 そんな洸夜(好きな人)の変わり果てた姿に戦慄するリサであったが、我に返ると、即座に洸夜の元へと駆け寄る。

 

「洸夜、何があったの?!」

 

 体を揺すりながら必死に呼び掛けるリサ。だがしかし、洸夜は焦点の合わない曇った瞳のまま反応する気配がない。

 

「お願い……返事をして!」

 

 そう言って激しく洸夜を揺さぶるリサ。直後、洸夜の体がビクッと反応し、洸夜の瞳に光が戻る。

 

「洸夜……良かった……」

 

 涙を流すリサは、洸夜を強く抱き締める。もう二度と離すまい、その感情と共に。そして彼女は、洸夜の口元を覆っていた布を解く。

 

「リサ……何でここに……」

「洸夜が心配だったから様子を見に来たの」

「そう……だったのか」

 

 リサの言葉を聞いた洸夜は、申し訳なさそうに俯いたかと思うと、突然顔を上げリサにこう告げる。

 

「リサ、急いでここを出ろ」

「え……どうして?」

 

 突然の洸夜の言葉に理解が追いつかないリサ。そんなリサの問い掛けに、洸夜はこう返す。

 

「2人が……もう時期ここに来る」

「紗夜と、日菜が……?」

 

 信じられ無いと言った表情のリサに頷く洸夜。

 

「だから、早くここを出ろ」

「でも、洸夜を置いて行くなんてできないよ……」

 

 その言葉に対して首を横に振る洸夜。

 

「俺は……一緒には行けない」

 

 洸夜がそう言い切った瞬間、リサは自身の唇を洸夜の唇に重ねる。ほんの僅かでも、彼を感じていたかったが故に。そして唇を離したリサは、自身の荷物を掴むと立ち上がる。

 

「じゃあね……洸夜」

 

 瞳に涙を浮かべながら洸夜に別れを告げ扉を開く。その直後、リサは後ずさった。

 扉の先には既に()()が居たからである。

 

「さ、紗夜……どうして……」

「それはこちらのセリフです今井さん」

 

 そう返した紗夜は、洸夜の方を見る。

 

「意識が戻ったのね」

「……」

 

 紗夜の言葉に目を背け返答しない洸夜。紗夜の方もそれは予想できていたらしく、そこから先目立った言及はして来ない。

 

「それで、今井さんはここでなにしてたの?」

「それは……洸夜のお見舞い」

「——お見舞いなのにあんなことするの?」

 

 背後からかけられた言葉に振り向くリサ。そこには、先程までは無かった日菜の姿があった。

 

「日菜……?!」

「ねぇ、どうなの?」

 

 光の宿っていない冷たい視線のまま問い掛ける日菜。

 そんな日菜に怯み、リサは言葉を返すことができなかった。

 

「そ、それは……」

「まあさっきのでリサちーとお兄ちゃんがどういう関係なのかは大体分かったけどね」

 

 そう言って紗夜同様に洸夜の方を見る日菜。

 

「……悪いか?」

 

 日菜のこと睨みながら返答する洸夜。

 

「当たり前じゃん。だってお兄ちゃんは——()()()()()なんだよ?」

「……え?!」

 

 日菜の言葉に驚愕するリサ。そんなことなどお構いなしで日菜は続ける。

 

「と言う訳だよリサちー。私達のモノを横取りするなら……容赦しないよ?」

「……止めろ」

 

 瞳から光の消え失せた日菜がリサに釘を刺した途端、黙り込んでいた洸夜が彼女をを制す。

 

「リサには何もしないでくれ」

「え、どうして? お兄ちゃんに纏わり付く悪い虫なんだよ?」

「俺からの頼みだ。聞いてくれるなら、ちゃんと2人の言う通りにする」

「それって……」

 

 洸夜の言葉の意図に気付いたリサは、恐る恐る彼の方を向きに問い掛ける。

 

「多分リサの思ってる通り」

「……ッ! そんなことしたら……!」

「分かってる。でも、リサのためなんだ……」

「……いいよ」

 

 日菜は洸夜の提案を呑み頷く。

 

「今回は見逃してあげる。でも——次は、ないよ?」

 

 無言で頷いたリサは、振り返ることなく部屋を後にする。そして、紗夜の横を通り過ぎた瞬間の事だった。

 

「——もう、普通の日常を送れると思わないでくださいね

 

 紗夜の口から冷たく放たれたその一言が、リサの心に突き刺さるのだった——

 

 

 

 

 

 数日後、CiRCLEとあるスタジオ内にてRoseliaのメンバーは練習に励んでいた。その最中、友希那は幼馴染であるリサに対して違和感を覚えた。

 

「リサ、どうかしたの?」

「……え、なんで?」

 

 友希那の言葉に対して首を傾げるリサ。その際の表情は、どこか疲れを感じさせるものだった。

 

「あまり顔色が優れてないわよ?」

「う、うん……ちょっと体調が、ね」

「そう。無理はしないで頂戴。一度休憩を挟んでから、もう一度行くわよ」

 

 そう言って、一度練習を切り上げるRoseliaの面々。大きく深呼吸したリサの元に紗夜が歩み寄り、そっと耳打ちする。

 

「今井さん、誰にも公言していませんよね?」

「うん……」

 

 力なく頷くリサ。リサはあの日以来、学校にいてもバンドの練習をしていても見張られているという状況に、心身共に消耗していた。それは、洸夜もまた同様であった。

 

「お兄ちゃん、意識ある?」

「……ウッ……アアッ」

「あは。まだあるんだね。じゃあ、そのまま無くさないように頑張ってね。なくなったらどうなるか……わかってるよね?」

 

 そう言ってまた、日菜は洸夜を求める。意識が何度も飛びそうになりながらも、洸夜はそれに耐え続ける。意識が飛んで仕舞えば、リサの身に何が起こるかわからないが故に。

 

「そう言えば、もう直ぐお姉ちゃんが帰ってくるね」

 

 紗夜の帰宅。それはつまり、この地獄がまだまだ続くという宣告でもあった。日菜が先に述べたように紗夜が帰ってくると、2人で洸夜への蹂躙を始めていく。

 今日もまた、彼女達の()()に近付けられて行くかの様に——



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急転

 彼の生活が狂い始めてから早3週間。この期間内、洸夜は1度も学校に行っていなかった。

 その事に違和感を感じていたのは、彼の親友である鹿島祐治。

 

「3週間も学校休むなんて……なにがあったんだ、洸夜……」

 

 昼休み特有の教室内の喧騒の中、自身の1つ前の空席を見つめながら呟く祐治。

 普段ならいるべきはずの人間がいないという現状。今では、いないことが当たり前になり始めている事に、祐治は驚きを隠せないでいた。

 

「取り敢えず担任になんて連絡してるのかを確認とってからあいつの家に行ってみるか……」

 

 そう決めた祐治は、机の上に広げてあった弁当箱をしまうと、教室を出て職員室へと向かうのであった——

 

 

 

 

 

 見慣れた暗闇の中で、意識を取り戻した彼は上体を起こす。幾度同じこと繰り返したのか。考える洸夜であったが、直ぐにどうでも良くなり再び横たわる。

 こんな生活を続けて早3週間。ひたすら暗い部屋の中で過ごし続けている彼には、体内時計と呼べるものは既に消え去っていた。

 

(後……どのくらい……こんな事は続くのだろうか……)

 

 この終わりが見えない()()()()()()()()()について考える洸夜。再度霞出した視界で、枕の傍らに置かれたスマホのロック画面に目を向ける。

 

(そろそろ……倉中(ウチ)の授業が終わる頃……だとしたら……)

 

 そう思った矢先、玄関の扉が開く音共に2人分の足音が聞こえてくる。

 

(また……始まるのか……)

 

 そう悲観する彼であったが、既に日常として捉えるほどに慣れておりそれ以上の追求はしなかった。

 そして、彼の部屋の扉が開かれる。

 

「ただいまお兄ちゃん。待った?」

「日菜、帰って来たら先に手を洗いなさいって言ったでしょ? 別に兄さんは逃げたりしない……いえ、逃げられないのだから」

 

 日菜の後ろから現れた紗夜が、日菜にそう告げる。

 

「それもそうだね。じゃあお兄ちゃん、ちょっと待っててね」

 

 それだけ言い残し、部屋を後にする日菜と紗夜。2人を見送った洸夜は虚な瞳をそっと閉じる。直後、洗面所より戻ってきた日菜が勢いよく洸夜の元に駆け寄る。

 

「お兄ちゃん、今日も楽しもうね?」

 

 不敵な笑みで意識のない洸夜に言葉をかける日菜。その傍らでは既にリボンを外し終えた紗夜がスカートを下ろしていた。

 

「あ、お姉ちゃん早い!」

「貴方が遅いだけでしょ?」

 

 そんな言葉を交わしながらも、2人は身に纏っている布という布を脱ぎ捨てていく。

 そして、脱ぎ終わった2人はそのまま、彼の横たわるベッドに上がっていくのであった——

 

 

 

 

 

 帰りのSHR(ショートホームルーム)を終えた祐治は、急いで荷物を纏める。

 

「おい祐治、今日の練習どうするんだ?」

 

 そんな彼に声をかけたのは、彼と同じバンドで且つ彼と同じ部活に所属する青年、一条雅人。雅人に声をかけられた祐治は、手を止めることなく雅人に言葉を返す。

 

「後で連絡送るけど今日は自主練。以上」

「え、どういうことだよ」

「急いでるから後でな」

 

 そういって教室を出ると早足で学校を去り駅へと向かって行く祐治。

 

「あいつの家ってどこだっけ……」

 

 駅に向かいながら考える彼の顔には、不安の表情が滲んでいた。休んでいると言ってはいるが、既に亡き者になっているのではないかなどと言った事柄が祐治の頭を過ったが故に。

 駅に着き改札を潜った祐治は、既にホームに止まっていた列車に滑り込む。

 

「……っと、メンバーに連絡して無かった」

 

 スマホを取り出し、メッセージアプリを開いた祐治は、メンバーに本日の練習を自主練とする旨を伝えスマホを閉じる。

 

「無事で……いてくれよ」

 

 親友の無事を祈りながら、祐治は列車に揺られるのであった——

 

 

 

 

 

「ん……んっ……?」

 

 息苦しさ故に目を覚ます洸夜。それとほぼ同時に感じるのしかかるような重さ。その正体を確かめるために、重いまぶたをそっと開く。

 

「……あ、お兄ちゃん起きた?」

 

 彼の瞳が捉えたのは、自身に覆いかぶさるようにしている日菜。その事から、先ほどの息苦しさは日菜がやったものだということが容易に想像できた。

 

「お兄ちゃん起きたならもう一回しちゃお」

 

 不敵に微笑んだ日菜は、彼の口を塞ぎにかかってくる。無論、彼女の口で。

 以前ならそのことに対して激しく抵抗していた洸夜だが、今となっては抵抗することも無駄だということを理解しており、無抵抗のまま逆にそれらを受け入れていた。

 

「……ぷはっ。お兄ちゃん、最近やっと素直になってきたよね?」

 

 小悪魔的な笑みを浮かべる日菜。そんな彼女に紗夜が声を掛ける。

 

「日菜、もう良いでしょう?」

 

 日菜に対して短く問うた紗夜は、 2人の間に割って入る。

 

「ちぇー。お姉ちゃんまた変わってよ?」

「わかってるわよ。だって洸夜は、()()のモノだもの」

 

 そう告げた紗夜は、日菜同様に洸夜に口づけをし口内を蹂躙していく。当初は激しい嫌悪と罪悪感に押しつぶされそうになっていた行為であったが、今の洸夜にとってはそんなことなどどうでも良く、寧ろ快楽に近いものになりつつあった。

 そんな彼の意識は、徐々に徐々に微睡んでいく。

 

「兄さん、もう離さないわよ」

 

 その言葉を最後に、彼は快楽に意識を預けるのだった——

 

 

 

 

 

 かつて親友に教えられたことを頼りに、祐治は洸夜の家を探して歩き回っていた。

 

「確かあの時……ここの角を曲がってとか言ってたよな」

 

 記憶にある事柄を全て捻り出して道を選んでいく祐治。だが、その記憶も数年も前のことなので殆ど色褪せており、行き詰まってしまう。

 

「参ったな……」

「あら、貴方は……」

 

 千日手(詰み)になった祐治が頭を抱えていると、突如声をかけられる。

 

「確か、鹿島君だったかしら……」

「湊さん……」

 

 祐治が出会ったのは、バンド『Roselia』のボーカルでありリーダーの湊友希那であった。2人はCiRCLEを利用する際に面識があった。

 

「こんなところで何をしているのかしら?」

「いや実は……友人の家を探しててな」

「友人の家?」

 

 祐治の答えが意外だったようで、驚いた様子で首を傾げる友希那。その手前で、祐治は話を進める。

 

「ああ。氷川洸夜ってやつなんだが」

「洸夜……?」

「知ってるのか?」

「ええ。紗夜を通じてね」

 

 友希那の返しに納得する祐治。そんな祐治に、今度は友希那が問いかける。

 

「ところで、洸夜に用があるって……彼になにがあったのかしら?」

「ああ……ここ3週間ずっと学校に来てなくて……」

「なるほど。それで紗夜の家を探してるってわけね」

 

 祐治の返答を聞いた友希那は、納得したように頷く。そして、暫し間を置いた後に口を開く。

 

「それなら、私がそこまで案内するわ」

「本当か?」

「ええ。ついてきて頂戴」

 

 頷いた祐治は友希那の後に続き歩いていく。そうして特に会話と言った会話もないまま歩くこと数十分、2人はとあるマンションの前に辿り着く。

 

「ここが、洸夜達の家……?」

「ええ」

「そっか。その、ここまでありがとな」

 

 短く礼を述べた祐治は、親友の宅へと歩みを進める。その途端、友希那が彼へ制止をかける。

 

「待って」

「どうかしたか?」

「私も少し気になるから行くわ」

 

 唐突な友希那の言葉に、驚いた様子で固まる祐治だったが数瞬の後に首を縦に振る。

 

「ああ……分かった」

 

 言葉を交わした2人は氷川家の前に向かい、呼び鈴を鳴らす。その数秒の後、玄関の扉が開かれる。

 

「はいどちら様……」

「紗夜」

「湊さん?! それと……」

「鹿島祐治だ」

 

 紗夜に対して短く名乗った祐治は、間髪入れずに紗夜へと本題を切り出す。

 

「で、だ。単刀直入に聞くが洸夜はどうしてる?」

「洸夜……ですか? 今は眠っていますが……」

「その……無理を承知で頼むが、会わせてくれないか?」

「私からもお願いするわ」

「湊さんまで……わかりました。起こしてくるので少しお待ちください」

 

 そう言って家の中に消えていく紗夜。残された2人は、ただただ無言のままでいた。

 

「お待たせしました。彼は自室にいます」

「分かったわ」

 

 招き入れられた2人は真っ直ぐに洸夜の部屋へと向かう。そこには机に向かって座っている洸夜の姿があった。

 

「洸……夜……?」

「祐治……と、湊か」

「大丈夫……なのか?」

「……ああ」

 

 開いていたPCを閉じた彼は、立ち上がり2人の側まで歩み寄る。

 

「鹿島君から聞いたけれど、この3週間何をしていたのかしら?」

「ああ、そのことなんだが……」

 

 掛けていたメガネを外し、上着の裾付近でレンズを拭いた彼は2人から視線を逸らしたまま答える。

 

「精神的にきちゃってな……」

「病んでた……ってことか?」

「ああ……情けない話だよな」

 

 苦笑しながら言葉を返す洸夜に対して、今度は友希那から問い掛けが行われる。

 

「大きな怪我をした、とかではないのね?」

「ああ。その……心配かけた」

「とりあえず元気そうでよかった。明日から学校来るのか?」

「ああ。そのつもり」

「そっか。それがわかれば良いや。その、いきなり悪かったな」

「いや、俺の方こそ悪かった」

 

 互いに謝罪をし笑い合う祐治と洸夜。その様子を友希那はそっと見守っていた。

 

「じゃあ、また明日」

「ああ。湊も、ありがとう」

「いいわ。それじゃあ」

 

 部屋を後にしていく2人を見送った洸夜は、力なくベッドの上に倒れ込む。あの2人のお陰で、今の生活からは解放された。

 だが、元の日常に戻れるのだろうか? そんな不安を抱えたまま、彼は意識を手放した——

 

 

 

 

 

 翌朝、何事も無かったかのように教室に入って来た洸夜は、祐治に挨拶を飛ばす。

 

「おはよう」

「おはよう、洸夜」

「こ、洸夜か……?」

 

 驚いた様に洸夜へと声を掛けたのは雅人。対する洸夜は、不思議そうに首を傾げながら返答する。

 

「そうだけど?」

「え、大丈夫なのか?」

「無事じゃなきゃここにいないね」

 

 冗談まじりに答えた洸夜は、苦笑しつつ自身の座席に着く。

 

「相変わらずなところを見ると、本当みたいだな」

「そういうこと。まあ、心配はかけた」

 

 そう返したところで始業を知らせるチャイムが鳴ったため3人は授業に臨む姿勢へと移る。こうして、彼の日常は本筋へと戻ってきた。

 しかしながら、彼はもう戻れないところまで落ちてしまっていたことに気付いていなかった——



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終焉

 彼の日常が本筋に戻りある程度経った頃。教室の自身の席で、洸夜は突っ伏していた。そんな彼に祐治が声をかける。

 

「どうしたんだ?」

「ん……祐治か」

 

 気怠げに顔を上げる洸夜を見た祐治は、心配そうに尋ねる。

 

「お前、顔色悪いけど大丈夫か?」

「なんとかね……。でも、頭が痛いかな……」

 

 笑いながら答える洸夜だが、祐治は今の洸夜がとても無理をしていると言うことを瞬時に見抜く。

 

「……今、すごい無理してるだろ?」

「流石祐治……そこまでバレちゃうか……」

「伊達に親友はやってないつもりだ」

 

 断言した祐治は、額を抑え項垂れる洸夜へと続けて問い掛ける。

 

「で、保健室行くか?」

 

 問われた洸夜は、首を横に振った後にそっと口を開く。

 

「まだ……行かない」

「なんでだ?」

「皆んなに比べて、授業の進行度が遅れてるからだよ……」

 

 黒板の方へと向き直りながら、理由を述べる洸夜。その瞳は真っ直ぐとしたもので、この状態の洸夜は何を言っても聞かないことを祐治は知っていた。故に祐治はこう告げる。

 

「そうか……だが、本当に無理だけはするなよ」

「うん……」

 

 洸夜が頷いた直後、始業を告げるチャイムが教室内に鳴り響く。

 

「おっと、授業開始か」

「だね……」

 

 短い言葉を交わし、2人は授業に臨む。そんな具合で午前の日程が終わった後の昼休み。

 

「洸夜、この後購買行かないか?」

「いいよ。で、その後学食?」

「そういうこと」

「了解」

 

 頷いた洸夜は、祐治と共に購買へと足を運ぶ。

 

「相変わらず混んでるな……」

「だね。まあ、いつものことだろ」

 

 苦笑しながら言葉を交わす2人はやりとりの後、長蛇の列に並んだ祐治は目当てのものを買い、洸夜の元へと戻ってくる。

 

「買えた?」

「ああ、この通り」

 

 袋から取り出したメロンパンを掲げながら頷く祐治。

 

「んじゃあ、学食行くか」

「だな」

 

 そう言って歩き出す2人だったが直後、洸夜の視界が激しく揺らぐ。

 

「……?」

 

 何が起こったのか理解できないまま、彼は意識を手放してしまうのだった——

 

 

 

 

 

 激しい頭痛と、慣れない感触に襲われながら洸夜は意識を取り戻した。

 

「……ッ……ここは……?」

 

 重たい体を起こしながら、辺りを見渡す。自身が寝ていたベッドと、体重計や身長計といった器具。そして、棚に並べられた薬品と鼻をつく消毒の臭い。

 

「保健室か……」

 

 自身が居るであろう場所を予測した彼は、大きな溜息を吐く。その直後、この部屋の扉が開かれる。

 

「気が付いたか……?」

「祐治……うん」

 

部屋に入ってきた祐治を一瞥した洸夜は、項垂れつつ力無く祐治の問いかけに応じる。

 

「俺、倒れたのか」

「ああ……今日はもう、帰ったほうがいいかもしれない」

「そうするよ……」

 

 祐治の提案に頷いた洸夜は、ベッドから出て立ち上がる。未だ気怠い体を持ち上げて。

 

「これ……お前の荷物纏めておいたから」

「ありがとう……とりあえず職員室で担任に伝えてくる」

「ああ。気を付けろよ」

「うん」

 

 頷いた彼は荷物を持ち扉を開き廊下へ出ると、職員室へと赴き担任にこれまでの経緯と早退する旨を伝える。

 

「そうか。1人で帰れるか?」

「はい。そこまで遠くもありませんし」

「気をつけて帰れよ」

「はい。それでは失礼します」

 

 担任との会話を終えた洸夜は職員室を後にする。

 

「……早いとこ帰るか」

「あ、氷川君……」

 

 呟いた彼は昇降口へと移動を始めようとした途端、背後から見知った声に呼び止められる。

 

「はい……って、小鳥遊」

 

 彼を呼び止めたのは、先日彼に手紙を渡した『小鳥遊鏡花』。彼女はどこか心配そうに洸夜を見つめていた。

 

「もう……帰るの?」

「ああ……さっきまで意識失ってたからな」

 

 苦笑しながらそう告げる洸夜は、何かを思い出し再び口を開く。

 

「俺がいない間、学級委員の仕事任せっぱなしになってたの悪かった」

「そんなことないよ。鹿島君も手伝ってくれたし」

「祐治も……?」

「うん。氷川君の代理でって」

 

 鏡花から告げられた事に驚く洸夜。自身の知らないところで、親友が己の代わりを務めていてくれたという事実に。

 

「そっか……祐治にもお礼言っとかないと……。それで、俺を呼び止めた理由は?」

「うん……この前のことの返事なんだけど……」

 

 羞恥故か視線を逸らしながらそう尋ねる鏡花に対して洸夜は、やや申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。

 

「そのことか……その、小鳥遊の気持ちはすごく嬉しい。だけど、俺は他に好きな人がいるんだ……」

「え……」

 

 驚きながら、洸夜の方を向く鏡花と対照的に視線を逸らす。

 

「だから……小鳥遊の返事に対して首を縦には振れない」

「そっか……」

「ごめん……」

「謝らないで。氷川君が悪いわけじゃないから」

 

 瞳を潤ませながらそう返す鏡花。そんな彼女の心中を汲み取った洸夜は、静かにその場を後にする。

 

「ごめんよ……小鳥遊」

 

 消え入るような声で呟いた洸夜はそのまま学校を後にした後、倉中駅から自宅の最寄り駅まで列車を使い、自宅へと向かっていく。

 

「疲れた……」

 

 家に到着した洸夜は、荷物を適当なところに放ると一目散にベッドに倒れ込みここ最近の自身の体調について振り返る。

 

「そういえば……再び日常に戻った日から……徐々に体調がおかしくなっていった気が……」

 

 彼の言葉にもあるように、洸夜は2人の妹の束縛から逃れた日から徐々に体調が悪化していた。

 初めの頃は軽い倦怠感程度だったのだが、日を重ねるごとに頭痛や目眩が起こるようになり、最近は酷いと幻覚や幻聴に悩まされたり、悪夢に魘されろくに眠ることもできないと言った具合であった。

 

「どうして……2人から解き放たれた途端に……?」

 

 そう思った途端、激しい睡魔に襲われ意識を手放すのだった——

 

 

 

 

 

 自身のうなじ辺りを何かが這う感覚で、洸夜の意識は徐々に覚醒していく。

 

「なん……だ……?」

 

 恐る恐る目を開き確認すると、自身の首筋に舌を這わせる紗夜の姿があった。

 

「紗夜……何を」

「気が付いたのね。見ての通りよ」

 

 慣れ故か、紗夜の言葉に動じることなく直ぐに飲み込む洸夜。

 

「……そうかい。で、やっぱり手足は縛られてるわけ?」

「別に外してもいいのよ? でも、今の貴方なら間違いなく逃げるでしょ?」

「……どうだか」

 

 視線を逸らしながらそう返す洸夜。その時の彼の表情は無関心、と言った具合であった。

 

「どうやら、体は正直なのね」

「……どう言うことだよ」

「言った通りよ。あなた自身が覚えていなくても、体がはっきりと覚えてるってことよ」

 

 その言葉に眉を潜める洸夜であったが、理解には至らなかった。そんな彼は、紗夜へと問いかける。

 

「そういえば、紗夜1人?」

「あたしもいるけど?」

 

 紗夜に問い掛けた直後、洸夜の視界に日菜の顔が現れる。

 

「はぁ……相変わらずどっから出てくるかわからないな……」

 

 溜息混じりにそう返す洸夜。以前であれば驚いてところだろうが、幾度となく同じ状況を経験したため驚くことは少なくなってきた。

 

「それほどでも?」

「褒めてない褒めてない」

 

 罰が悪そうに返した洸夜は、また1つ溜息を吐く。

 

「……2人に単刀直入に聞くけど、俺に何した?」

「憶えてないの?」

「憶えてたら聞かないね」

「確かにそうね」

 

洸夜の返答に何処か納得した様に頷いた紗夜は、先の問い掛けに応じる。

 

「貴方の意識がない時は、基本的に貴方の過敏な部分ばかりを虐めてたわ」

「なるほど?」

「後は、お兄ちゃんとキスしたりとかかなぁ」

 

 紗夜の言葉に補足する日菜。それを聞いた洸夜の表情には、影が落ちるのであった。

 

「そうか……というか、それでも2人は満足しないわけ?」

「うん。だって、私達が満足するためにやってる訳じゃないもん」

「満足するため……じゃない?」

「貴方がそれを1番よくわかっているはずよ」

 

 紗夜にそう告げられた暫しの後、洸夜はその言葉の意味を理解する。

 

「なるほど……ね」

 

 そう返した洸夜は、自身に対して激しい嫌悪を覚える。まさか実の妹に刷り込まれて、それを覚えてしまったということに。

 

「だから俺は激しい頭痛に襲われたってことか」

 

 今まで起こっていた不調が禁断症状のようなものであったことを即座に理解した洸夜は、2人から目を離す。

 

「こんな体にして……どうしよってんだよ」

「まだわかってないの?」

 

 洸夜の言葉に驚愕の反応を示す日菜。そんな日菜を見ていた洸夜は、日菜から視線を逸らす。

 

「わかってたら聞かないって……」

 

 不貞腐れた様子でそう返す洸夜に、日菜はこれまでの核心とも言える返答をする。

 

「決まってるじゃん、お兄ちゃんを私達の“モノ”にするためだよ」

 

 光の灯らない瞳のままそう告げるてくる日菜。対する洸夜は、その言葉により背筋に悪寒が走る。

 

「そのためだけにここまでするのか……」

「こうでもしなければ、貴方はわからないでしょ?」

 

 日菜と同じく、光の灯っていない瞳で尋ねる紗夜。そんな2人に対して洸夜は、一抹の恐怖感じつつも反論する。

 

「……そんなこと」

「そんなことあるよ。お兄ちゃんは、何回言ってもすぐに他の女の子が近づいてくるよね?」

「それは……」

 

そこまで言って彼は言葉に詰まる。今までの自身の周りの人間関係を顧みた際に、日菜の言っていることが正しかったがために。

 

「だから、前みたいに注意したりお兄ちゃんを見張ったりして近づけないようにしてた。それでなんとかなってた。けど今は、リサちーと付き合ってたんだよね? 私達の知らないところで? だから、こうするしかなくなっちゃったんだよ?」

 

 日菜の言葉を黙り込んだまま聞き続ける洸夜。そんな彼に対して、とどめを刺すかのように日菜がとある一言を突きつける。

 

「言い換えると——お兄ちゃんが悪いんだよ? こうなっちゃったのは全部、私とお姉ちゃんの気持ちを裏切ったお兄ちゃんのせいなんだよ?」

「俺の……せい……?」

 

 日菜から告げられた一言が、洸夜の胸に突き刺さる。ここまでに至る事柄は全て自身の行いによるものなのか? 

 その言葉が引き金となり、洸夜の中にあった自身に対する嫌悪が爆発してしまい、ショックのあまり気を失ってしまうのであった——

 

 

 

 

 

 翌日の朝、祐治が教室へと入ると窓の外を呆然と眺める洸夜の姿があった。

 

「洸夜、お前もう大丈夫なのか?」

「ああ。色々心配かけたね」

 

 軽く微笑んだ洸夜は、机に広げたノートにペンを走らせていく。

 

「自主勉か?」

「そ。昨日もできなかったからね」

 

 そう答えた彼を見て、祐治は少し安心する。以前の——いつも通りの彼が戻っていたことに。

 

「ま、元気になったなら良かったよ」

「ありがとうな」

 

 そう言って、2人はまた日常へと戻る。そんなこんなで1日を過ごした後、帰宅した洸夜は暗い自室へと入る。

 

「……ただいま」

「遅かったわね」

「これでも普段のお兄ちゃんよりかは早いと思うよ」

 

 部屋の中にはすでに紗夜と日菜の姿があった。

 

「それじゃあ、始めましょう——兄さん?」

「今日も楽しもうね?」

 

 紗夜と日菜になされるがままの洸夜。彼はすでに、2人の妹という名の(カルマ)からは逃れる事ができなくなってると同時に、2人の妹がいないとダメになってしまう体にされていた。

 彼は、今日もまた着実に2人の妹が愛してやまない“モノ”として作り替えられていくのであった——




以上で『前後』の方は終了となります。
お付き合いの方、ありがとうございました。


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余白 表

致命的なミスがあった為に再投稿させて戴きました。内容は5月6日に投稿したものと同じ内容です。大変申し訳ございませんでした。


「……朝か」

 

 自身がいつ床に入りいつ眠りについたのか。それさえわからないまま、彼は朝ということを認識し床を出る。

 そして自室を出てリビングへ向かうと、2人の妹が彼を迎える。

 

「おはよう」

「おはようお兄ちゃん」

「おはよう兄さん」

 

 挨拶を交わした洸夜は、ダイニングテーブルの2人の対面側に座り朝食を摂る。

 

「ねえお兄ちゃん」

「……どうした?」

「今日学校の後、空いてる?」

「空いて……る、はず」

「……誰と何があるの?」

 

 歯切れの悪い洸夜の言葉に、殺気を強めながら問いかける日菜。

 日菜による威圧を前に、言葉を詰まらせる洸夜であったが、なんとか口を動かし言葉を紡ぐ。

 

「……祐治と委員会の仕事」

「それが終わった後は?」

「……空いてる」

「じゃあ、私と遊びに行こ」

「分かった」

 

 日菜の言葉に軽く頷く洸夜。

 

「了解。放課後連絡してくれ。ごちそうさま」

 

 そう告げると、席を立ち自室に戻る洸夜。そして、身支度を整えた洸夜は学校へと向かっていくのであった——

 

 

 

 

 

 その日の放課後、祐治と共に委員会の仕事をこなす洸夜。

 

「最近どう?」

「体調?」

「ああ。また、前みたいに突然倒れられても困るからな」

「そういうことね……大丈夫、今はなんともないよ」

 

 微笑しながら応答する洸夜の姿に軽い安堵を覚える祐治。

 

「そうか。それなら良かったよ。でも、あんまり無理はするなよ?」

「うん。ありがと……っと、電話だ」

 

 その場から少し離れ、洸夜は応答する。

 

「もしもし?」

「お兄ちゃん今どこ?」

 

 電話の相手は日菜。そのことに、少しばかり戸惑った表情をする洸夜。だが、すぐに彼女の問いかけに応じる。

 

「今は、まだ校内で祐治と一緒に仕事中だが?」

「どれくらいで終わる?」

「もう時期終わるとは思うが……」

「じゃあ、校門の前で待ってるね」

 

 そう言葉を残され、日菜との通話は終了する。携帯を懐にしまった洸夜は足早に祐治の元へ戻る。

 

「なんだった?」

「この後の約束の催促。早いとこ仕事終わらせよ」

「了解」

 

 頷いた祐治は、彼と共に書類の仕分け作業を行なっていく。そして再開から数分後、作業が終了する。

 

「良し、と。じゃあ祐治、後は任せても大丈夫?」

「OKだ。気を付けろよ」

「うん。マジごめんね」

「良いってことよ」

 

 言葉を交わした後、教室を出て校門へと向かっていく洸夜。そして、見知った姿に言葉をかける。

 

「日菜」

「あ、お兄ちゃん!」

 

 校門の傍に居た日菜は、洸夜に声を掛けられるなり彼に飛び付く。

 

「……危ないだろ、俺でなきゃ転んでたぞ」

「ごめんごめん。じゃあ、行こっか」

「いいけど……何処にだ?」

「ショッピングモール」

 

 首を傾げる洸夜に対し即座に返答する日菜。何気ない顔で行き先を告げてくる日菜に、洸夜はどこか違和感を覚える。

 今まで人目につかない着かない『自宅』という空間に監禁していたにも関わらず、何故いきなり大衆が集う場所であろうショッピングモールへ行くのか。彼にはそこの点が気にかかって仕方がなかった。

 疑念を抱きながらも洸夜は日菜に付き従いショッピングモールへと足を運ぶ。

 

「んで、今日は何するんだ?」

「んーとね……」

「あ、日菜ちゃーん!」

「あ、彩ちゃん! それに千聖ちゃんも」

 

 2人が出会ったのは、日菜が所属するアイドルグループ『Pastel*Palettes』のボーカルである丸山彩と、ベース担当の白鷺千聖であった。

 

「珍しいね、日菜ちゃんがショッピングモールにいるなんて」

「うん、ちょっとねー。そう言う彩ちゃん達は?」

「私達は買い物にね」

「ええ。それで、日菜ちゃんの隣に居る方は?」

 

 洸夜の方に視線を向けながら日菜に問いかける千聖。傍らの彩も日菜との関係性について気になっている様子であった。

 

「私のお兄ちゃんだよ」

「え、日菜ちゃんってお兄さんいたの?!」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「……初耳よ」

 

 日菜の言葉に対し唖然とした様子で返答する千聖だったが、直ぐに切り替え自己紹介を始める。

 

「白鷺千聖です。宜しくお願いします」

「丸山彩です。宜しく!」

「ほら、お兄ちゃんも」

 

 日菜の言葉に頷いた洸夜は、一呼吸置き名乗る。

 

「氷川洸夜です。宜しくどうぞ」

 

 洸夜が名乗った直後、千聖が不思議そうな顔をする。そんな彼女の表情に気付いた洸夜は問いかける。

 

「どうかしました?」

「……もしかして、貴方コウ君?」

「え?」

 

 突如として千聖の口から出た言葉に戸惑う洸夜。そんな彼に対して、千聖は続けて口を開く。

 

「小さい頃、良く公園で遊んだじゃない」

「もしかして……ちーちゃん?」

「そうよ。久しぶりね」

 

 洸夜の言葉に頷いた千聖は彼に対して微笑む。対する洸夜もまた、驚きの表情の後に微笑み返す。

 すると、そんな2人の様子を見ていた彩が2人へと問いかける。

 

「え、えーっと……2人はどう言う関係なの?」

「幼馴染……かな?」

「そうなるわね」

 

 千聖の言葉を聞いた彩と日菜は驚愕する。

 

「え、私その話聞いたことないけど?」

「いや、その……俺も今の今まで忘れてた……」

 

 食い気味の日菜に、歯切れ悪く返答する洸夜。

 

「それに……日菜からPastel*Palettesのメンバーの話とかも聞いたことなかったから」

「ふーん。そうだとしても色々聞きたいことが出来たなぁ」

「私もちょっと興味ある……かな」

 

 日菜の言葉に同調したのは以外にも彩であった。それを聞いた千聖は少し考え込んだ後に口を開く。

 

「そうね、話しましょうか。コウ君も構わないわね?」

「……ああ。じゃなきゃ、日菜も納得してくれない……よな」

 

 視線を日菜から外しつつ、千聖の問い掛けに肯く洸夜。

 

「とにかく、ここで話しているのも目立つし場所を変えましょう」

「どこに移動する?」

「そうね……フードコートにしましょう」

 

 千聖の提案により一同はフードコートへと移動する。そして千聖と洸夜、日菜と彩が隣り合う形で座る。

 

「それで、お兄ちゃんと千聖ちゃんはいつから知り合いなの?」

 

 一同が席に着くなり千聖と洸夜に問いかけ始める日菜。その姿にはどこか必死さが滲み出ていた。

 

「えーっと、アレはいつだったかしら」

「小学校に入る前ぐらいだったと思うが……?」

「え、そんな前からなの?」

 

 洸夜の口から告げられた事実に日菜は戦慄する。自身の身近な人間がまさかここまで兄と密接であったという事実に。

 

「小学校上がってからは遊んだ記憶無いしな……」

「そうね。私も小学校に上がってからは会った記憶が無いわ」

「でもまさか、こうして再会するとはね」

「ほんと、驚いたわ」

 

 互いに微笑みながら言葉を交わす2人。すると、日菜の隣で話を聞いていた彩が洸夜に問いかける。

 

「ねぇねぇ洸夜君、小さい時の千聖ちゃんってどんな感じだった?」

「そうだなぁ……多少無茶振りを言ってくるタイプだったかな」

「コウ君?」

 

 穏やかな笑顔のまま洸夜の方を見据える千聖。対する洸夜は、額から冷や汗を垂らしつつも千聖から視線を外す。そんな彼の手前で、日菜は何かを考え込んでいる様子であった。

 

「彩ちゃんも、あまり人の過去を探ったりするのは感心しないわ」

「ご、ごめんね……」

「今度から気をつけてちょうだいね」

「う、うん」

 

 千聖の言葉に頷く彩。すると、何かを考え込んでいた日菜が顔を上げ口を開く。

 

「ねぇ千聖ちゃん、小さい頃のお兄ちゃんってどんな感じだった?」

「コウ君の? そうね……怖がりだけど、いつでも先を進んでくれていた子、だったわね」

 

 傍の洸夜にどこか懐かしげな眼差しを向けながら微笑する千聖。対する洸夜は、やや驚いた表情でいた。

 

「へぇー……そうだったんだ」

 

 不満気な表情で頬杖をついた日菜は、そのままそっぽを向く。

 

「日菜ちゃんは、随分と貴方のことが好きなのね」

「そう……だな」

 

 千聖の問い掛けに歯切れ悪く肯いた洸夜。その表情はどこか影を帯びていた。

 そんな彼の顔を暫く眺めていた千聖が、不意に洸夜の頭に手を伸ばす。

 

「な、なに……?」

「頭にゴミがついてたわ」

「あ、ありがとう……」

 

 突然のことに戸惑いながらも感謝を述べる洸夜。その直後、2人の様子を眺めていた彩が再度口を開く。

 

「ねぇ、折角だしこの後みんなでショッピングしない?」

「……4人でってこと?」

「うん!」

「私は構わないけど……日菜ちゃんとコウ君は?」

 

 彩の問いかけに応じた後、日菜と洸夜へと問い掛ける千聖。

 

「私は別に良いよ」

「俺も、日菜が構わないのなら……」

「決まりね。それじゃあ、行きましょうか」

 

 頷いた一同は席を立ち、その場から移動する。そしてやってきたのは、彩と千聖の要望によりブティック。

 

「あー、見て見て! この服可愛い!」

「彩ちゃんにはこっちの方が似合いそうだけどなぁー」

「そうかな……? 日菜ちゃんのほうが似合うと思うけど。千聖ちゃんはどう思う?」

「2人共着てみたら良いんじゃないかしら?」

 

 ウィンドウショッピングを楽しむ3人の傍、店内に備え付けられた姿見越しに自身を見つめる洸夜。

 

「なんで……ここにいるんだ、俺」

「お兄ちゃん、ちょっと来て」

 

 呟いた直後、試着室の中に入っている日菜に呼ばれる。

 

「何だ?」

 

 洸夜は、首を傾げつつ試着室の前へと進んでいき辿り着いた途端、日菜に試着室の中へと引き摺り込まれる。

 

「何する……ッ?!」

 

 日菜に問いかけようとした刹那、彼の口は(日菜)の唇によって塞がれ蹂躙されていく。そして洸夜は、日菜が離れると同時にその場に力なくへたり込む。

 

「良いねお兄ちゃん……お兄ちゃんのそう言う顔、ゾクゾク来ちゃう」

 

 瞳の端に涙を浮かべ自身を見つめる兄を眺めながら、怪しげな笑みを浮かべる日菜。先程までの千聖と洸夜のやり取りが、彼女の中にある執念を点火させのだ。

 対する洸夜はというと、これまでにされてきた事柄がフラッシュバックしてしまいその場から動けない状況に陥ってしまった。

 

「誰がなんと言おうと、お兄ちゃんは私とお姉ちゃんの()()だからね……?」

 

 そう言って、日菜は目の前にいる兄を貪っていくのであった。その様子が、姉ではない第三者に聞かれているとも知らずに——



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余白 裏

 とある休日、まだ人もまばらな早朝の時間帯の駅前には紗夜の姿があった。

 

「遅いわね……」

 

 しきりに時間を確認していると、彼女の前に洸夜がやって来た。

 

「ごめん……待たせた」

「遅かったわね。何をしていたの?」

 

 額から滴る汗を拭いつつ荒い息を整える洸夜へ問いかける紗夜。

 

「アラームの時間より遅く起きたことと、出る直前まで日菜の相手をしていたことが原因です。はい……」

 

 息を整え終えた洸夜は、未だに寝起きで回らない頭をなんとか使い紗夜の質問に答えるのであった。

 

「全くあの子は……貴方も貴方よ」

「ごめん……」

「もういいわ。それよりも早いところ行きましょう」

「……了解」

 

 頷いた後、紗夜と共に改札内へと入っていくのだった——

 

 

 

 

 

 列車を乗り継ぎ2人が訪れたのは海辺だった。海の側にある駅から出た2人を潮風が撫ぜる。

 

「潮の香りだ……」

「普段は嗅ぐことがないから新鮮ね」

「そうだな」

 

 眩い陽射しにより煌めく大海原を見据えながら、何故か安らぎを覚えた洸夜は微笑む。

 

「何かいいことでもあったの?」

「まあ、ね」

 

 紗夜の問い掛けに頷いた洸夜は歩みを進める。

 

「折角だし波打ち際でも行ってみるか」

「そうね」

 

 2人は海の方へと歩いて行き砂浜を踏む。寄せては返すさざ波を漠然と見つめる洸夜は無意識の内に紗夜に問いかける。

 

「最後に来たのはいつだったかな」

「小学校の頃、じゃなかったかしら?」

「そんなに経つのか」

 

 紗夜の言葉に悲壮感を覚える洸夜。そんな彼の手を取った紗夜は、彼を引き連れて歩き始める。

 

「ほら、人を待たせているのだから、行くわよ」

「あ、ああ……」

 

 力無く頷いた彼の表情は、暗く沈んでいた。これから先のことを懸念していると言わんばかりに。

 そんな調子で紗夜に連れられて歩くこと数分。2人は待ち合わせ場所に到着する。

 

「すみません、遅くなりました。今井さん、湊さん」

 

 2人が待ち合わせていたのは、友希那とリサであった。

 

「問題ないわ。私とリサもここへはさっき着いたばかりだから」

「そうでしたか……ところで、白金さんと宇田川さんは?」

 

 あたりを見回しながら、先に来ていた2人へと問いかける紗夜。

 

「あー、なんか2人とも急用が入っちゃって来れなくなったって……」

「そうだったのですか……」

 

 紗夜の言葉に頷くリサ。その表情は先程の洸夜同様に影を帯びていた。それを見ていた洸夜が口を開く。

 

「とりあえず……着替えて来る……?」

「そうね。こうしてる間にも時間は過ぎているものね」

 

 彼の言葉に頷いた一同は更衣室へと移動していくのだった——

 

 

 

 

 

 着替え終えた洸夜は、1人波打ち際に佇んでいた。水面に映る自身を見つめながら、何故自分はこうしてこの場にいるのか。なんのためにここにいるのか。際限なく考えていた。

 

「なんで……なんでだよ……」

 

 無力で歪な自身を理解している故、彼は自分を責め傷つけていた。同時に、自身が原因で全てを破綻させてしまったという先入観がそれを強めていた。

 

「——洸夜」

 

 自己嫌悪に浸っていた彼は、呼び掛けられたことにより現実へと引き戻される。

 

「リサ……」

 

 彼の振り返った先には、先程よりも僅かばかり明るい表情で水着を纏ったリサの姿があった。

 

「どうしたの、浮かない顔して?」

「その台詞、そっくりそのまま返すよ」

 

 軽く微笑んだ洸夜は再び視線を海原へと移す。そんな彼の隣にリサは並んで立つ。

 

「アタシもそんな顔してた?」

「うん。なんか、悲しそうな感じの表情(カオ)してた」

「洸夜もそんな顔してたよ」

「そっか……」

 

 短く返した洸夜は、そっと瞳を閉じ拳を強く握る。

 

「実際……悲しいから、そうなのかもしれない……」

「洸夜……」

 

 全身を僅かに震えさせ静かに涙を流し始める洸夜。そんな彼に寄り添ったリサは、彼の右手を自身の左手で取りそっと握る。途端、彼は激しく泣き始める。

 

「アアッ……ウアッ……ハッ……ごめんッ……ごめんね……ッ」

 

 嗚咽と共に謝罪を述べる洸夜。堰き止められていた内心が、抑えきれずに外へと溢れ出したのだ。

 自責の念に駆られる洸夜に対して、瞳に涙を浮かべたリサはそっと言葉を返す。

 

「洸夜は……何も悪くないよ……」

「でも……俺は……リサを巻き込んで……リサを傷つけて……リサを裏切って——」

「そんなこと言わないでよ……」

 

 彼は言葉を遮ったリサは、彼に抱き付き顔を胸に埋める。

 

「アタシはそんなこと思ってないよ。誰も……悪くないんだから……」

「リサ……」

 

 先ほどよりも一層涙を溢れさせた洸夜は、リサを強く抱きしめる。対照的にリサは彼の胸の中で静かに涙を流すのだった。

 

「アタシは……洸夜のためならなんでもするよ。だから、1人で抱え込んだり、自分を責めて傷つけないで」

「ごめん……ありがとう……こんな、不甲斐ない奴に……寄り添ってくれて……ッ」

 

 互いの思いを打ち明けてから暫くした後、浜辺に座り膝を抱え込み隣り合った2人の姿があった。

 

「海、綺麗だね」

「そう、だね……」

「もう、いつまでも沈んでないの」

「ごめん……」

「ほら、折角海来たんだからもっと楽しもうよ」

 

 立ち上がったリサは、洸夜に手を差し伸べ微笑む。対する洸夜もまた微笑みながら彼女の手を取り立ち上がる。

 

「それで、なにしよっか?」

「なにしようか」

「リサ」

「あ、友希那」

 

 相談している2人の元へ姿を現したのは友希那であった。

 

「どうかしたの?」

「用事があって呼びにきたの」

「そっか。ごめん洸夜、行ってくるね」

「了解。俺はここに居るよ」

 

 手を振りリサを見送った洸夜は、再び膝を抱え腰を下ろすとまた海を眺め始めた。だが、その様子は来たときとは違い明る表情であった。そんな調子で延々と海を眺めてる内に日が頂点へと達していた。

 

「暑い……」

 

 頬を滴る汗を羽織っていたパーカーの袖で拭った直後、彼の元に近づいてくる足音が彼の耳に届く。

 

「誰……って、湊?」

 

 問いかけと共に振り向いた彼の視線の先にいたのは先程リサを呼びに来た友希那であった。

 

「さっき私がリサを呼びに来た後からずっとここに居たの?」

「まあ、ね」

 

 短く返した洸夜は視線を友希那から外す。すると、彼の傍に友希那が腰を下ろす。

 

「さっきはごめんなさい。リサとの時間に水を刺してしまったわね」

「何か用があってリサの事を呼びに来たんだろ。それなら仕方ないさ」

「リサの言っていた通りの人ね」

「へ?」

 

 友希那の思いがけない言葉に目を見開き驚く洸夜。その様を見た友希那は笑みを溢す。

 

「良く貴方の話をしてくれたのよ」

「リサが……?」

 

 洸夜の言葉にそっと頷いた友希那は、語り始める。

 

「例えばそうね、初めて貴方と会った時の話とか」

「あー、短期バイトでCiRCLEにいた時のか……」

 

 照れ臭そうに後頭部を掻く洸夜は、海から視線を外す。

 

「あの日、初めて会ったにも関わらず優しく接してくれた。だから、貴方に惹かれたって」

「そっか……」

「それにこうして話してみて、私自身も貴方はとても優しい人とだと感じているわ」

 

 そう言った友希那は、洸夜に微笑みかける。

 

「リサが好きになったのも良く分かるぐらいにね」

「優しいなんて……そんな事ないよ……」

「少なくとも、どんな状況であれ他者を思いやるだけの気持ちがある人は優しい人だと思うわ。さっきみたいに」

 

 会話の後2人の間には静寂が訪れ、ただただ波の打ち返す音のみが辺りに響いていた。すると、それを突き破るように洸夜が口を開く。

 

「なんで……そんなに買い被ったように言うの……?」

「……そうね、貴方にリサの事をしっかりとお願いしたいから、かしら」

「リサの事を……?」

「ええ」

 

 頷いた友希那は、真っ直ぐな視線で洸夜の瞳を見つめ続ける。

 

「私が言うのもおかしな事かもしれない。でも、私はRoseliaのリーダーとして、何よりリサの幼馴染として貴方にお願いしたいの」

「……良いのか、俺で?」

「ええ。貴方といる時のリサはとても幸せそうだった。だから、これからもリサの事を傍で支えてほしいの」

「分かった」

 

 友希那の願いに深く頷く洸夜。対する友希那はそれを見て満足げな笑みを浮かべる。

 

「何かあった時は私も相談に乗るから、言ってちょうだい」

「その、ありがとう」

 

 ぎこちなく笑った洸夜は謝意を伝える。それとほぼ同時に新たな足音が2人の耳に届く。

 

「ここにいたんですね、湊さん。それに洸夜も」

「紗夜、それにリサ……」

 

 2人の視線の先に立って居たのは紗夜とリサだった。

 

「用事はもう済んだの?」

「ええ。お待たせしてしまいすいません」

「大丈夫よ。それで、この後はどうするの?」

「とりあえず、お昼過ぎたし何か食べに行かないって紗夜と話してたところ」

「もうそんな時間だったのね。それなら、何か食べに行きましょう」

「少し先の海の家でいいかな?」

 

 リサの提案に頷いた一同は移動を始める。そこから暫く歩いた時のことだった。

 

「すいません、もう1つ用事があるのを忘れていました。先に湊さんと今井さんで海の家に向かってもらっててもよろしいですか?」

「私は構わないわ」

「アタシも、一応構わないけど……」

「すいません。洸夜、私の用事に付き合ってちょうだい」

「……ん」

 

 短く返答した洸夜は、紗夜に続き2人と別れ歩いていく。その際、彼は激しい胸騒ぎを感じた。

 そして数分程歩いた後、紗夜は歩みを止め洸夜もまた同様に歩みを止める。

 

「それで、用事ってのは……?」

 

 人気の無い浜辺を見渡しながら問い掛ける洸夜。すると突如、目の前の紗夜が彼に飛び掛かり洸夜は抵抗する暇もなく砂浜に倒れ伏す。

 

「何のまね……ッ?!」

 

 言葉を遮るようにして、紗夜は洸夜に口づけをする。そして、彼の口内に自身の舌を滑り込ませ激しく蹂躙する。

 

「……随分と楽しそうだったわね」

 

 呼吸を荒げ瞳の端に涙を浮かべる洸夜を、馬乗りになった紗夜は冷たい視線で見下す。彼女の中には先程までの洸夜の行動により、点火してしまった嫉妬の炎が激しく渦巻いていた。

 故にここまでの大胆な行動へと発展してしまったのだ。

 

「楽しそうって……ハァ……俺はただ……」

「——貴方は私と日菜の()()だと何度言えばわかるのかしら?」

 

 冷たい言葉を突きつけた紗夜は、洸夜の羽織るパーカーのジッパーを下ろす。それにより、彼の素肌が陽の光に晒される。

 

「本当はあの2人の前でこれを晒してもよかったのよ? でも、あなたがそれを嫌がっていたからそうはしなかった」

 

 彼の顕になった上半身には、無数の『跡』があった。彼が妹達の所有物だと示される『証』が。

 

「それがどう言う事なのか、もう一度よく考えてちょうだい」

 

 その言葉を皮切りに、紗夜は()()()()()()()を蹂躙していく。眩い日差しの元で、まるで誰かにその様子を見せつけるかの如く——



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左右
起因


 とある日の朝、身支度を終えた洸夜は玄関にて靴紐を結んでいた。ここまではいつも通りであったのだが、その日は少し違っていた。

 

「あ、お兄ちゃん。途中まで一緒に行こー」

「私も一緒に行くわ」

「はいよ……」

 

 2人の言葉に頷いた洸夜は立ち上がり荷物を背負い直す。

 

「行くか」

 

 3人は家を出て学校へと歩き始める。2人の間に挟まれるように並びながら。

 

「そういえばお兄ちゃん、なんで今日は電車なの?」

「自転車パンクしたんだよ」

「それはついてないわね」

「全くだよ……っと、俺はこの辺で失礼するよ」

「うん。気をつけてね」

 

 2人に見送られながら洸夜は単身、学校の最寄り路線の駅の方へと歩みを進めていく。そして駅に着いた彼は人混みを掻き分け改札内へと入る。

 

「はぁ……なんでこんな疲れるんだか……ッ!」

 

 呟いた直後、激しい目眩が彼を襲いその余波で大きくバランスを崩しかけるが、なんとか踏みとどまる。

 

「自転車じゃなくて正解だな……」

 

 重い体を引き摺りながらなんとか登校した洸夜は教室に入る。するとそこには先客がいた。

 

「おはよう……祐治」

「おはよう洸夜」

 

 力無く挨拶した洸夜に対し、先客である祐治はそれと対照的に明るく挨拶を返す。

 

「どした?」

「睡眠不足……」

 

 痛む頭を抑えつつ自身の座席に腰を下ろした洸夜は、そのまま机に突っ伏せる。

 

「また悩みでもあるのか……」

「昼夜逆転してるだけだから」

 

 顔を上げた洸夜は苦笑を祐治に向け、再び机に突っ伏せゆっくりと意識を手放していく。そんな偽りの日常を過ごす彼は知る由も無かった。この時既にゆっくりと新たな歯車が動き出していると言うことに——

 

 

 

 

 

 ところ変わって花咲川女子学園、2-Aの教室にて。白鷺千聖はイヤホンで両耳を塞ぎ険しい表情をしていた。

 

……ほんとなのかしら……だとしたら

 

 すると、何やら1人呟く千聖の元に近づく人影が1つ。

 

「——千聖ちゃん?」

 

 彼女の元にやってきたのは、水色のふわっとした髪を所謂ハーフアップサイドテールに整えた少女。

 

……でもどうして……そうなのかしら

「千聖ちゃん?」

 

 現れた少女に体を揺すられ、千聖は思考の中から現実へと引き戻される。

 

「あら、花音。何かしら?」

 

 少女の名前は松原花音。千聖の級友にして彼女が唯一心を許してると言っても過言ではない親友である。

 

「その、呼びかけても反応が無かったから……ごめんね、いきなり」

「いいえ、こちらこそごめんなさい。柄にもなく没頭してしまっていたわ」

 

 イヤホンを外しながら、花音に謝罪を返す千聖。

 

「大丈夫だよ。それで、千聖ちゃんは何を聞いてたの?」

「これ? 今度やる新しい曲のサンプルよ」

「そうだったんだね。その、がんばってね千聖ちゃん」

「ええ、ありがとう」

 

 微笑んだ千聖は再度イヤホンを両耳にはめこみ、プレイヤーの再生ボタン押し眉間に皺を寄せる。

 

で……さっきの通りなら……でも意思がない……

 

 呟いた直後、彼女はゆっくりと顔を上げ軽く口角を吊り上げる。

 

「そう……そういうことなのね」

 

 どこか満足気な表情の千聖はプレイヤーを自身のカバンの中へと押し込む。それと同時に予鈴が彼女の耳に届く。

 

「……楽しみね」

 

 プレイヤーと入れ替わるように教科書を取り出した千聖は、窓の外を眺めながら怪しく微笑むのだった——

 

 

 

 

 

 帰りのSHRを終え、放課後を迎えた倉中第一高校2-1の教室内は部活へ行く生徒や帰宅する生徒などの声に包まれていた。

 

「今日も1日終わったー」

「お疲れさん」

 

 喧騒を背に伸びをする祐治と着々と荷物を纏めていく洸夜。

 

「よし、俺は帰るだけ。祐治は今日部活?」

「今日は珍しくOFF。だからどっか行こうと思うんだけど一緒にどう?」

「いいね」

「んじゃあ決まりだな」

「うん」

 

 祐治の言葉に頷いた洸夜はふと窓の外へ視線を向け慄く。そこには人でごった返す正門があった。

 

「なんだアレ……?」

 

 同様の光景を目にした祐治も洸夜同様に驚いていた。

 

「なんかあったのかな……?」

 

 首傾げつつも人混みを見渡していると、見覚えのある人影が洸夜の目に留まる。

 

「——あっ」

 

 その人影をを目にした彼は思わず声をあげていた。すると、隣で見ていた祐治は不思議そうに洸夜へ問い掛ける。

 

「どうかしたのか?」

「うん……ごめん、俺先帰るわ」

「あ、ああ」

 

 唖然とする祐治を背に駆け出した洸夜は校門前へと赴く。そこにあったのは間違いなく彼の幼馴染の姿であった。

 

「……千聖」

「あら、漸く来たのね」

 

 微笑みながら洸夜の元へ歩み寄った千聖は、そっと洸夜に耳打ちをする。

 

「少し、合わせてもらえないかしら?」

 

 その一言に首を傾げる洸夜であったが、瞬時に訳を理解し頷く。

 

「——悪い、待たせちゃって」

「大丈夫よ。それじゃあ行きましょうか」

 

 並んだ2人は人混みを抜け出しその場を後にする。そして最寄駅に辿り着いた辺りで2人は足を止める。

 

「ありがとう。助かったわ」

「それは構わないんだが……」

 

 ため息を吐いた洸夜、再度千聖の方へと向き直り問い掛ける。

 

「倉中まで何しに来たんだ?」

「貴方に話があってね」

「俺に……?」

「ええ。とても大事な話が」

 

 真剣な表情で自身を見据える千聖の言葉に嘘偽りが無いことを確信した洸夜は、彼女の方へと向き直る。

 

「それって……どんな話なんだ?」

「……それに関しては、少し場所を変えて話しましょう」

「……了解」

「それじゃあ、行きましょうか」

「待って、その前にもう1つ」

 

 洸夜に背を向け歩み始めた千聖に対し、彼は問いかける。

 

「——なんで、俺の通ってる学校を知ってる?」

 

 問われた千聖は、歩みを止め沈黙する。それと共に張り詰めた空気が2人の間に漂う。時が止まったように微動だにしない両者であったが、それを破るかのように千聖が洸夜の方へと振り返る。

 

「日菜ちゃんに聞いたのよ」

「日菜に……?」

「ええ。といっても、渋々教えてくれた、って感じだったけれどもね」

 

 頷いた千聖は何かを思い出すようにして微笑んだ後、申し訳なさそうな表情になり続ける。

 

「でも……そうね、何も言わずに貴方の個人情報を聞いてしまったのは謝るわ。ごめんなさい」

「怒っては……いないよ」

「ありがとう。それじゃあ、行きましょうか」

 

 千聖に促された洸夜は、千聖と共に改札の中へと入っていくのだった——

 

 

 

 

 

 電車を乗り継ぎ移動した後、洸夜は千聖に連れられカラオケ店へと足を運んでいた。

 

「カラオケ……ね」

 

 通されたカラオケボックスで荷物を下ろしながらボヤく洸夜。

 

「防音性が高くて且つ個室。話し合いの場には1番向いてると思うけど?」

「一理あるとは思う。ただ、スタジオとかでも良かったんじゃないか。特に千聖とかは」

「確かに、スタジオの方が怪しまれたりはしにくいわね。でも、あそこでは広すぎるのよ」

「なるほど……」

 

 納得した様に頷いた洸夜は、椅子に腰を下ろす。

 

「飲み物を取ってくるけど何か飲みたいものとかある?」

「紅茶をお願いしようかな」

「わかったわ。少し待っててちょうだい」

 

 そう言い残し、千聖は部屋を後にする。1人部屋に残された洸夜は漠然と映像が流れるモニターを見つめていた。すると、不意に扉が開かれる。

 

「お待たせ。はい、これ」

「ありがとう」

 

 礼を言い受け取ったアイスティーを呷る。そして一息で中身を飲み干し空になったグラスを卓に置いた洸夜は、顔のみを千聖の方へと向ける。

 

「それで、話って?」

「そのことなのだけれど……」

 

 千聖は周囲を一瞥した後、洸夜の耳元にそっと顔を近づけ囁く。

 

少しじっとしててね……

「え?」

 

 困惑する洸夜の傍らで、千聖は彼の制服の襟元に手を伸ばし何かを襟の下から引っ張り出した。

 

「やっぱり……」

 

 洸夜の目が捉えたのは千聖の掌に乗せられた黒い小さな機械。それに洸夜は見覚えがあった。

 

「これは……盗聴器?」

「貴方、見張られてるのね……」

「らしい……な」

 

 額から冷汗を垂らす洸夜の隣で、千聖は盗聴器の電源を落とす。そして、洸夜の方へ鋭い視線を向ける。

 

「——誰に?」

「それは……」

 

 そこで洸夜は言葉に詰まる。この事実を第三者に告げても良いものかと。そもそも、幼馴染にそんな話をして良いのか、と。

 

「……2人の妹に、かしら?」

「……ッ!?」

「図星の様ね」

 

 激しく動揺する洸夜の手前で、千聖は自身が持ってきたアイスティーを口に含む。

 

「あの2人に、何をされているの?」

「何も……」

「これでも?」

 

 そう言って千聖は、制服のポケットから取り出した小型の機械を掲げる。すると、先日のショッピングモールに於ける日菜と洸夜のやり取りが聴こえてきた。

 

「なんで……それを……」

 

 恐怖故に彼は一歩、また一歩と千聖との距離を開く。しかし、それに合わせるようにして千聖も一歩、また一歩と詰め寄る。

 

「少し、あなたを監視させてもらったわ」

「監……視……?」

 

 千聖の言葉を聞いて、彼の頭をとある予想が過ぎる。できればそうであって欲しくない、という予想が。洸夜はそれを、恐る恐る千聖への問い掛けへと変えた。

 

「まさか……今日、俺の学校を知っていたのって……」

「そういうことよ」

「何が……目的だ……?」

 

 頬を伝った冷汗を拭いながら問う洸夜。それと同時に、彼の背が壁に触れる。

 

「——貴方を助けたいの」

「俺を……助けたい?」

 

 千聖は洸夜の言葉に頷き言葉を紡ぐ。震えたか細い声で。

 

「毎日……望まずに2人の監視下に置かれ何かをされている。それを見ているのが……辛いのよ」

「千聖……」

「だから、私は貴方を助けたい」

 

 そう言って洸夜の眼前に至った千聖は、優しく彼の右手を自身の両手で取る。そんな彼女に、洸夜は震える声で尋ねる。

 

「本当に……助けてくれるの……?」

「ええ、約束するわ。でも——条件がある」

「条件……それってなんなんだ……?」

 

 洸夜の問い掛けの後、千聖は両手でそっと洸夜の顔を掴み自身の方を向かせると答える。

 

「貴方が欲しい」

 

 予想だにしない言葉に唖然とする洸夜であったが、なんとか口を開き疑問をぶつける。

 

「なんで……?」

「貴方のことが好きだからよ。ずっと前から」

「そう、なのか……でも、ごめん。それは、出来ない」

 

 視線を外し呟くように返答した洸夜。直後、彼の視界が反転する。

 

「え……」

 

 困惑した彼が押し倒されたと認識したのは、視点が定まってから十数秒程してからだった。

 

「それなら仕方ないわ。無理矢理にでも私の()()になってもらうしかないみたいね」

 

 洸夜の上に馬乗りになった千聖は、怪しげな笑みを浮かべる。洸夜その姿に、自身の(日菜)の姿を重ねた。

 

「待って、何するつもりだ……ッ?!」

 

 千聖に制止をかけたところで、彼はとある違和感に気が付く。

 

「身体が……ッ」

「漸く効いてきたみたいね」

「まさか……?」

「ええ、少し飲み物に細工をさせて貰ったわ」

 

 予想通りの千聖の言葉に、洸夜はこの場を脱することが不可能だと悟る。

 

「さて……始めましょうか」

 

 満面の笑みを溢した千聖は、洸夜の右耳を甘噛みする。それを皮切りに彼にとっての新たな地獄が幕を開いた。

 この地獄は、フロントからのコールが来るまで続くのであった——



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承服

 とある日の夜、自室において今井リサは考えていた。先日、海へ行った時に見た光景について。

 

「洸夜……」

 

 あの日彼女は、幼馴染に促され洸夜と紗夜の後を追った。その先で見たのは、自身の愛する者が肉親に蹂躙されている、まさにその場面であった。

 

「なんで……」

 

 彼が、そして自身が何をしたというのか。何故彼がここまでの仕打ちを受けなければならないのか。そう思うたびに、彼女の瞳からは涙が溢れる。

 

「どうして……こんなに酷いことに……」

 

 何もできずにただ見ているだけだったあの瞬間の自分。その事を自覚する度に彼女は激しい嫌悪を自身に向け、彼同様に自身を傷つけていた。

 無論、そんなことをしても何が変わるわけでもない。それもまた理解している彼女は、洸夜以上にボロボロだった。

 

「洸夜は……私の彼氏なのに……」

 

 無意識に溢れたその一言。それと同時に、あの日突きつけられた日菜の言葉が彼女の脳裏を過ぎる。

 

『当たり前じゃん。だってお兄ちゃんは——()()()()()なんだよ?』

 

 鮮明に焼き付けられた日菜の顔と、突きつけられた言葉。それらをが彼女の中を駆け抜けた後、とある思考が彼女の中で湧き上がる。本来ならば至らないであろう考えが。

 

「洸夜は……本当にモノ……なの?」

 

 そう認識した途端、彼女の中で黒い何かが渦巻いて行く。洸夜が欲しい——否、洸夜を返せと。

 自身の中で決意が固まった彼女は、徐に立ち上がると衣服の袖で頬を伝っていた涙を拭う。

 

「もしそうだって言うなら……アタシは洸夜を——()()()()()

 

 頬を伝う涙を袖で拭ったリサは、写真立てに飾られた満面の笑みを見せる自身と彼の映ったツーショット写真を見据えるのだった——

 

 

 

 

 

 同時刻、洸夜は明かりと呼べるものが一切存在していない自室にいた。()()()()と共に。

 

「ねぇお兄ちゃん、いい加減に答えてよ。今日千聖ちゃんと何してたの?」

「だから……何もしてないって……」

「じゃあなんで、お兄ちゃんから千聖ちゃんの使ってる香水の匂いがするの? それはどう説明するの?」

 

 洸夜の喉元に添えられていた日菜の両手が、彼の喉を徐々に徐々に締め上げていく。それに伴い彼は、苦痛に身を捩らせ日菜の手を振り解こうと必死になる。

 しかし彼の両腕は手錠により背面側で固定されており、振り解く事は愚か足掻く事で精一杯であった。

 

「日菜、その辺にしておきなさい。そのままじゃ兄さんが死んでしまうわ」

「はーい」

「ゴホッゴホッ……」

 

 紗夜に咎められた日菜は、洸夜の喉元を抑えていた両手を外す。それと同時に、突然気道が開いた反動で洸夜は激しく咳き込む。

 

「それで、白鷺さんとは何をしていたのかしら?」

「何も……ゲホッ……してないって……」

「嘘を吐いてもいい事ないわよ?」

 

 床に横たわる洸夜を見下し、疑問と共に冷たい視線を向ける紗夜。

 

「嘘って……」

「電源が落ちる前までの音声は残っているのよ?」

「そこまでで、お兄ちゃんが千聖ちゃんと一緒にいた事は確か。それに、お兄ちゃんの言葉でカラオケに行ったこともわかってるんだよ?」

「……」

 

 追い討ちを掛けるかの様に、追求してくる日菜。対する洸夜は無言のまま視線を背けていた。すると突然、紗夜が彼の上に跨る。

 

「私達には聞く権利が、貴方には話す義務があるはずよ」

「義務……ね」

 

 視線を逸らしたまま吐き捨てるように言葉を溢す洸夜。その直後、紗夜が洸夜喉へ手を掛け勢いよく力を込める。これにより洸夜は、再度抵抗することができないまま首を絞められる。

 

「別にいいのよ。私達は貴方が動いていなくても」

「……グッ……アッ」

 

 喉仏の真下に添えられた紗夜の親指がめり込む。それに伴い激しい痛みと圧迫感が彼を襲う。

 急激な締め上げを前に彼の意識は遠のいていく。そしてまさに意識が消える瞬間、突如紗夜は彼の喉を締め上げるのをやめる。

 

「……ハァッ……ウッ……ゲボッ……!」

 

 突然入り込んできた外気に彼の体は驚き、空気が入る事を拒絶するかの様に咳き込み、何かが込み上げてくる感覚に襲われる。故に洸夜は身を捩らせ激しく悶える。

 喉元を激しく駆け昇ってソレが遂に限度を超え、床に蹲る形になった洸夜は激しく嘔吐する。

 

「オエッ……ゴボッ……オエッ……」

 

 床に吐瀉物を撒き散らした彼は、力無く床に倒れ伏す。そんな彼の様子を暫く眺めていた日菜がそっと彼の耳元に顔を近づける。

 

「まだまだ終わらないよ……お兄ちゃんがやった事に対しての釣り合いが取れてないからね」

 

 狂気を宿した笑みと共に投げられた日菜の言葉が、彼の全身を駆け巡った後に忌まわしき記憶の数々を呼び覚ます。監禁され、虐げられていたあの日々の出来事を。

 

「ウッ……オエエエッ……」

 

 今度はストレスとトラウマ故に込み上げてきたものを、再び床へと撒き散らす洸夜。そして一通り吐き戻した所で、彼は吐瀉物の上に力無く倒れ込む。

 

「まさかもう終わり、なんて思ってないよね?」

「ウッ……エッ……?」

 

 生気を帯びていない眼差しで日菜を見上げる洸夜。対する日菜はそんな事などお構いなしに続ける。

 

「こんなのまだまだ序の口だよ?」

「ア……アアッ……」

 

 日菜の放った言葉が洸夜の中の恐怖を煽り駆り立て、悪寒として彼の全身を駆け抜けていく。同時に、彼の表情は目に見えて青ざめていった。

 

「良いよお兄ちゃん……そういう表情大好き」

 

 そう言って上唇を舐めずる日菜。その姿は正しく捕食者と言うにふさわしいものであった。

 

「日菜、先に片付けるわよ。時間は沢山あるし——何より兄さんは、逃げたりしないでしょうから」

「はーい」

 

 部屋を後にしていく2人の背を見送った洸夜は、絶望に打ち拉がれる。彼に訪れる苦痛の数々が、止む気配を見せなかったが故に——

 

 

 

 

 

 翌日の昼下がり、花咲川女子学園の校舎内にて千聖は花音と共に歩いていた。

 

「ごめんね千聖ちゃん。本探すのに付き合ってもらっちゃって」

「いいのよ。花音の頼みだもの」

 

 軽い会話を交えながら、教室へと歩みを進める2人。そして教室を目前とした時、不意に千聖へと声がかけられる。

 

「——白鷺さん」

 

 呼び止められた千聖が振り向くと、両腕を胸前で組みこちらを見据える見知った少女の姿があった。

 

「あら、紗夜ちゃん。どうかしたのかしら?」

「ええ、少し白鷺さんとお話ししたいことがありまして」

「私と……?」

 

 暫しの間首を傾げた千聖であったが、何かを納得したように肯き花音の方へと視線を向ける。

 

「ごめんなさい花音。私は紗夜ちゃんと少しお話してくるから、先に戻ってて貰っても良いかしら?」

「うん、分かった。また、後でね」

「ええ」

 

 教室内へと消えて行く花音を見送った千聖は、紗夜の方へと向き直る。

 

「場所を変えましょうか。聞かれると、少し面倒な話なのでしょう?」

「そうですね」

 

 千聖の言葉に頷いた紗夜は、千聖と共にその場を後にする。そして2人は、人気の無い校舎裏へと場所を移した。

 

「ここなら基本的に誰も来ないはずね。それで、話って何かしら?」

「単刀直入に聞きます。先日洸夜に、何をしたのですか?」

 

 紗夜の問い掛けの後、2人の間には沈黙が訪れる。同時に互いの間で見えない何かが弾け合っていた。暫しの後、静寂を突き破るかの様に千聖が口を開く。

 

「彼に何をしたか、ね。それは、カラオケでの話でいいのかしら?」

「ええ」

 

 千聖の返しに、険しい表情のまま頷く紗夜。対する千聖は、そっと口角を吊り上げると紗夜に問われたことへの返答を行う。

 

「貴女達2人がしていることと、同じことよ」

「……ッ」

 

 屈託の無い笑みと共に飛ばされた返答は、紗夜の表情を驚愕へと染めていった。

 

「何故……」

「彼が欲しい以外の何者でもないわ」

「白鷺さん……ッ!」

 

 悪びれる様子も無く答えた千聖を前に、紗夜の中で何かがキレてしまい、反射的に手を上げていた。

 対する千聖は、顔色1つ変える事無く自身目掛け振りかぶられた紗夜の手を受け止める。

 

「感情任せの行動はあまり感心できないわね」

 

 短く且つ冷淡に返した千聖は、紗夜の手を離すと再度口を開く。

 

「貴女も日菜ちゃんも彼の事を自分の()()だと感じているのよね?」

「それが分かっているのならどうして彼に手を出したのですかッ」

「さっきも言った様に、彼が欲しいから。それに彼は——貴女達のモノでは無いでしょ?」

「それは……」

 

 千聖の問い掛けを前に紗夜は思わず言葉に詰まる。彼女の中に、千聖の言葉を否定できるだけの材料がこの場に無かったため。そんな紗夜に追い討ちをかけるかの様に、千聖は再度言葉を投げつける。

 

「少なくとも、彼自身の口からは聞いていないのは確かよ」

 

 告げ終えた千聖は、未だ黙り込んだままの紗夜を横目に彼女へと背を向ける。

 

「それじゃあ花音を待たせているから、私はこれで失礼させてもらうわ」

 

 1人その場に残された紗夜は、込み上げてくる感情を必死噛み殺しながら強く両手を握り締めた——

 

 

 

 

 

 放課後、倉中第一高校の人気の無い図書室にて1人卓につきつっ伏せる洸夜の姿があった。そんな彼は不意に訪れた揺さぶられる感覚により、微睡より意識が覚醒する。

 

「……ん……はい?」

 

 顔を上げた先に居たのは眼鏡を掛けた男性の姿。この図書室の司書を務める人物である。

 

「ごめんね、もう閉館なんだ」

 

 告げられた洸夜が壁に掛けられた時計を見やると、時刻はそろそろ5時を回ろうとしていた。

 

「あ、もうそんな時間ですか……」

 

 彼は終業後から今の今までこの図書室に入り浸っていたのだ。なるべく遅く、帰宅する為に。

 

「すいません……こんな時間まで」

「いいえ。帰り道気を付けてくださいね」

「はい」

 

 手元にあった文庫本を返した洸夜は、一礼すると図書室を後にした。そして人影の無い校舎を抜け校外へと出た。

 

「どうするかな……」

 

 僅かな茜を残す暗がりを見上げながら、溜息混じりに溢した洸夜は重い足取りで王子駅を目指して歩み始める。

 

「人多いな……」

 

 帰宅ラッシュの時間帯を迎えた王子駅前は、行き交う人々で溢れていた。洸夜はその人波を掻き分けて都電の乗り場へと向かっていく。

 

「ここだったよな……って、え?」

 

 停留場に着いた洸夜は、驚愕のあまり目を見開いた。本来ならこの場では出会わないであろう人物の姿がそこにあったため。

 

「リサ……?」

「……洸夜!」

 

 洸夜の姿を見るなり、リサは勢い良く彼へと抱きつき顔を胸に埋める。対する洸夜はと言うと、突然のことに再び驚愕していた。

 

「リ、リサ……?」

「洸夜……洸夜……ごめん……ごめんね……」

 

 涙と共に、震える声で謝罪を述べるリサ。それを聞いた洸夜は、俯いた後にそっと彼女を抱き締める。

 

「俺の方こそ……ごめんね」

 

 規則正しいリズムで、リサの背を優しく叩く。幼い子供を寝かし付ける親の様に。暫しの間そうしていると、リサの嗚咽(おえつ)は鳴りを潜めた。

 

「大丈夫?」

「うん……洸夜に会えたのが嬉しくて」

 

 涙を拭いながら答えたリサは、洸夜に笑みを向ける。対する洸夜は押し寄せた罪悪感故に俯いてしまう。

 そんな洸夜の姿にリサが首を傾げていると、電車が停留場内へと進入してくる。

 

「行こう」

「え……?」

 

 困惑する洸夜の手前、洸夜の手を握ったリサはそのまま車内へと入っていく。結局洸夜も、状況を飲み込めないままリサと共に電車に乗り込む。

 そして2人は、人もまばらな都電に揺られていく。その間両者の間に会話は無く、只々流れ行く車窓を眺めていた。互いの手を固く繋いだまま。

 

「降りよ」

 

 町屋駅前停留所に電車が着いた時、突然リサは洸夜を引き連れ降車する。まだ、目的地と思しき停留所についていないにも関わらず。

 

「どこに向かってるんだ?」

 

 手を引かれながら歩く洸夜がリサへと問うも、彼女から返答は無く連れられるがまま進んで行き、いつしか人気の無い路地へと入って行った。すると突然、その路地の中程でリサは足を止め、繋いでいた手を離すと洸夜の方へと向き直る。

 

「ねぇ洸夜——その首どうしたの?」

「え……?」

 

 唐突に投げられた問い掛けに洸夜は慄く。というのも、彼の首元は昨日の1件で大きな跡が残ってしまっており、それをメイクなどにより偽装していた。

 だが、今のリサにはその偽装が見抜かれていると言う事実を前にした洸夜は思わず首元を抑えた。

 

「やっぱり、何かあったんだね」

「まさか……ブラフか?」

 

 洸夜の言葉に首を縦に振るリサ。そこで彼は、自身が嵌められたという事実に気付く。

 

「信じたくは無かったけど、気になってた。2人に何かされたんじゃないかって。だから聞いた。それで分かった。何かされてるんだって」

 

 淡々と告げられていく言葉とは反対に、リサの表情は目に見えて沈んでいった。

 

「アタシもう辛いよ……洸夜が紗夜と日菜に何かされてるのを見てるの……」

「リサ……」

 

 瞳から涙を溢れさせ、悲痛な思いを述べるリサをそっと抱き寄せる洸夜。直後、2人の元へと近付いて来る1つの足音が洸夜の耳に届く。

 

「……?」

 

 不審に思った洸夜は顔だけを其方へと向ける。すると街頭の作り出した灯りの先にある暗がりから人影が現れる。彼の良く知る人物が。

 

「——あんまり遅いから迎えに来たよ、おにーちゃん」

「日菜……」

 

 突如として姿を現した日菜を前に洸夜はその場に立ち竦む。対して日菜はと言うと、微笑みながら1歩また1歩と2人の方は歩み寄って行く。

 

「なんで……俺がここに居ると思った?」

「なんとなく、かな。それで、お兄ちゃんはリサちーと何してるの?」

「それは……」

 

 鋭く冷たい日菜の問い掛けにより言葉を詰まらせる洸夜。すると突然、リサが日菜を遮る様に洸夜の前に立つ。

 

「洸夜を奪い返しにきたんだよ」

「へぇー……そうなんだ。私達から奪い返そうとしたんだ」

「そうだよ。それに洸夜が紗夜と日菜の()()だって言う証拠はあるの?」

「あるよ? ね、お兄ちゃん?」

 

 小悪魔の様な笑みを浮かべた日菜は洸夜へと視線を向け、それに吊られてリサもまた洸夜の方へと視線を移す。

 

「俺は一言も……そんなことは言っていないが?」

「そうだね。確かに言ってないね」

「じゃあ、なんで——」

 

 疑念と共にリサが日菜へと視線を移した途端、すぐ隣から大きな物音が聞こえ慌てて視線を戻す。するとそこには、荒い呼吸で路面に膝を着いた洸夜の姿があった。

 

「洸夜!」

 

 目線を洸夜に合わせ屈んだリサは、彼の左肩に両手を添え顔色を伺う。そんな2人を暫く眺めていた日菜が口を開く。

 

「それが、証拠だよ」

「え?」

「私達が居ないと生きていけない。それが今のお兄ちゃん」

 

 そこで言葉を切った日菜は、洸夜の傍らにしゃがみ込むと彼を右側から支えるようにして立ち上がる。

 

「そういう訳だから、じゃあねリサちー」

 

 それだけ残してその場を去っていく2人を見送ったリサは強く拳を握る。

 

「そんなのじゃ、納得できるわけないよ。あれが証拠だなんて、認められないよ」

 

 壊れ始めた洸夜の片鱗を目の当たりにしたリサは、己の無力さと込み上げてくる悔しさに挟まれ感情の整理が追いつかなかった。

 

「アタシは……ッ!」

 

 感情の波を抑え切れなくなったリサは遂にその場で蹲り泣き始めた。1人静かに。それと同時に再度誓った。必ず2()()()()洸夜を奪い返すと——



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転遷

 謎の発作を起こした後、争う間も無く日菜に連れ帰られた洸夜は、自室のベッドにその身を投げていた。

 

「なんなんだよ畜生……」

 

 言葉に変えたやり場のない怒りは、虚空へと消え去る。突如として彼の身に降り掛かった動悸と目眩。2人からある程度解放された際も、似た様な症状に襲われた。その原因は、2人曰く禁断症状に近しいものと伝えられていたが、未だにそれを正確な理由として納得できないままでいた。

 

「なんで……あのタイミングなんだ……」

 

 恋人の前で発作を起こし、妹に成す術もなく連れ帰られる。惨めとしか言いようの無い、あの瞬間の己に激しい憎悪を向けながら1人涙を流す洸夜。その憎悪はやがて悲壮へと変わっていき、己自身の無力さを痛感した。こうして涙を流してる今この瞬間の自分自身を含めて。

 

「俺は……どうしたらいいんだ」

 

 悲しみに染まった問い掛けは、暗い部屋を駆け巡った後に静寂の中へと溶けていった。それと入れ違うように部屋の外から彼の部屋へと近づいて来る足音が聞こえてくる。

 

「……もう嫌だよ」

 

 これから自身の身に襲いくる事象を理解していた彼は、布団を頭まで被りうつ伏せになると枕に顔を埋める。迫りくる恐怖から、少しでも己自身を遠ざけようと。

 

「助けて……」

 

 か細い彼の叫びは、部屋の扉が開く音に掻き消される。それと同時に、彼の地獄(日課)の幕が開くのであった——

 

 

 

 

 

 その日、鹿島祐治は人の行き交う駅前で1人佇んでいた。漠然と人の波を眺めていると、彼の傍らに1人の少女が現れた。

 

「お待たせ……しました」

「白金さん」

 

 祐治の元へ姿を現したのは長く艶やかな黒髪をもった少女。名は白金燐子と言い、バンド『Roselia』にてキーボードを担当している。

 

「いえ、俺も今来たところです」

「そう……でしたか」

「とりあえず、ここじゃなんですし場所を変えましょうか」

「はい」

 

 祐治と燐子は短い会話を交わした後に、人の流れに沿い駅の中へと入っていった。そして列車に揺られ2人が足を運んだのは秋葉原。休日ということもあり、街は人で溢れていた。

 

「相変わらずだな、ここは。燐子さん、大丈夫ですか?」

「はい……なんとか」

 

 互いに離れぬように手を繋いだまま人混みを掻き分けていく2人。駅から暫く歩いた2人は、とある建物内にあるファミレスの前に赴いた。

 

「とりあえずここに入るで大丈夫ですかね?」

「大丈夫……です」

 

 店員に案内され賑わいを見せる店内の奥の方、窓際へと通された2人は、向かい合って座席に腰を下ろす。

 

「それで……今日の話、というのは……?」

 

 ランチメニューを手に取った燐子が、向かいに座る祐治へと問う。問われた当人は、グランドメニューを一瞥した後、燐子の方へと向き直り口を開く。

 

「先日お願いしていた件についてです」

「やはり……ですか」

 

 祐治の言葉を聞いた燐子は、浮かない顔をしながらメニュー表へと視線を落とす。対する祐治もまた、自身が手にしていたメニュー表に目を通していく。暫しの後、店員を呼んだ2人は注文を行い再度対面する。

 

「それで……その、何か得られたりはしましたか?」

「はい……ここに」

 

 頷いた燐子は、傍らのハンドポーチから小さな灰色の機械を取り出し、祐治へと手渡した。受け取った祐治は、それを軽く眺めた後に、自身の上着の懐へとしまう。

 

「この後、確認したいのでまた場所を変えようかと思いますが、大丈夫ですか……ね?」

 

 周囲を警戒しながら燐子へと問う祐治。その問い掛けに燐子は無言のまま頷く。その後、2人の間には沈黙が訪れる。ただ、昼時の店内特有の喧騒が2人の間の卓を駆ける。

 

「——お待たせしました」

 

 すると、その沈黙を破るかのように店員が現れ、注文していた品々を運んできた。店員に対して軽く会釈を送った2人は各々料理に手をつける。これと言った会話もなく、ただ黙々と。そんな中、不意に燐子が口を開き祐治へと問い掛ける。

 

「鹿島君が食べてるのは……?」

「これですか? これは日替わりランチですね。グランドメニュー見てもそそられるのがなかったので」

 

 苦笑しながら答えた祐治は、手にしていたナイフとフォークを置きお冷の入ったグラスを手に取ると、窓の外へと視線を移す。浮かない表情で。

 その様子を不思議そうに燐子が眺めていると、今度は祐治が彼女へと問い掛けた。

 

「……白金さんは何故、自分の頼み事に対して、了承をしてくれたのですか?」

 

 突如として投げられた疑問を前に、燐子は僅かな硬直を見せる。予想していなかった質問であったがために。

 

「理由……ですか」

「はい。ずっと、気になっていたんです。こんな、なんの得にもならないような……いや、むしろマイナスでしか無いような頼みをしたのに、了承してくれたことについて」

 

 未だ視線を窓の外へと留めたままの祐治は、問い掛けた理由を話すとグラスに入った水を呷った。対する燐子は俯きながら口を開くと、短節に言葉を紡ぎ始める。

 

「私が……了承した理由は、今井さんのため……そして、事実を……この目で確かめたかったから……」

「そう、でしたか……」

 

 消えいるような声で呟いた祐治は、外景から卓上へと視線を戻し、手にしていたグラスを卓の上に置いた。

 

「白金さんは……とても強い人ですね」

「そ、そんな……鹿島君の方が……私の何倍も、強いと思います」

 

 そう言い切った燐子は、俯いていた顔を上げ真っ直ぐとした視線で祐治を見据える。

 

「私は……鹿島君に頼まれるまで……真実へ踏み込む勇気が無かった……。だから、私が強い人だとおっしゃるなら……それは、鹿島君の強さが合ってこそ……です」

「なるほど」

 

 燐子の言葉に対して一つ頷いた祐治は、笑みを浮かべると言葉を紡ぎ始めた。

 

「白金さんは強いだけじゃなくて、とても優しい方だ」

「そんなことは……」

 

 頬を赤く染め顔を背けた燐子は食い下がる。それを見ていた祐治は小さく笑みを溢す。

 

「そんなことありますよ。そこに関しては、俺が保証します」

「そう……ですか」

 

 暫しの間顔を背けていた燐子であったが、祐治の方へと向き直ると彼女もまた笑みを溢す。

 

「その、ありがとう……ございます」

「いいえ——っと、そろそろ場所を変えましょうか」

「はい」

 

 左腕に巻いた時計に視線を落としつつ発せられた祐治の言葉に燐子が頷く。そうして互いに席を立つと、支払いを済ませ2人揃ってファミレスを後にした。

 

「それで……この後はどちらに?」

 

 再び人波の中へと踏み出した辺りで、燐子が祐治へと問い掛けた。それを前にした祐治は、暫し考え込む仕草をした後に返答する。

 

「少し周りから隔離されてる場所、ですかね」

「隔離されてる……場所?」

 

 祐治の返しに首を傾げた燐子。その様子を汲んだらしい祐治が、新たに言葉を紡ぐ。

 

「はい。手軽に防音室が借りれる場所なんですが……もしかしたら白金さんが嫌がる場所かもしれないので、先に謝罪しておきます」

 

 申し訳なさそうに告げた祐治。それっきり、2人の間の会話は途切れてしまう。そうして黙々と歩いて行った2人が訪れたのはカラオケ店であった。

 

「カラオケ……ですか」

「さっきも述べた様に、手軽に借りられる防音室、ということで……」

「なるほど……」

 

 短い会話を行った2人は、受付を済ませると店内の奥の方の部屋へと通される。

 

「カラオケなんて……久しぶりに来ました」

「実は自分もなんですよね」

 

 荷物を下ろしながら短い会話を交わした2人は、モニターの画面を消すとボックス席に並んで腰を下ろした。

 

「モニターを消すと、ボックス内って……とても静かになるんですね」

「外からの音も入ってきませんからね」

 

 短く返した祐治は、懐から先程燐子から受け取った灰色の機械を取り出すと、自身のスマホとその機械とを繋いだ。

 

「……白金さんは、この中身を覗いたりはしましたか?」

「いいえ……何も」

「そうですか。それなら白金さんも初聴、ってことですね」

「はい」

 

 頷いた燐子を横目に、祐治はスマホの画面に表示された再生ボタンを押す。それと同時に、多少割れた音声でとある少女の声が部屋の中を駆け巡った。

 

『ねぇ洸夜——その首どうしたの?』

『え……?』

『やっぱり、何かあったんだね」

『まさか……ブラフか?』

 

 祐治のスマホから流れてきたのは先日、王子駅前で行われたリサと洸夜のやり取りであった。

 

「首元……?」

「なにか、心当たりがあるんですか?」

「いや……全く」

 

 燐子の問いに対して首を横に振った祐治は左手で口元を抑え思考を張り巡らせた。しかしその動作も、次に聞こえてきた音声により遮られる。

 

『アタシもう辛いよ……洸夜が紗夜と日菜に何かされてるのを見てるの……』

「「……ッ?!」」

 

 スマホから流れてきたリサの言葉は、2人に激しい衝撃を与えた。

 

「この方が言ってる2人って……」

「どちらも洸夜君の……妹、です……」

 

 燐子の返答を聞いた祐治は戦慄した。まさかあの日、己自身を出迎えた人間が、何より親友の肉親である者達が、今回の件の中核にいるということに。

 

『——あんまり遅いから迎えに来たよ、おにーちゃん』

『日菜……』

 

 洸夜の呟きを最後に音声の再生は終了してしまった。暫しの間沈黙し硬直していた2人であったが、それを破るかの様に祐治が震える手を再び上着の懐に入れる。そして、燐子から手渡されたものとは別の灰色の機械を取り出した。

 

「それは……?」

「自分が……洸夜の鞄に仕込んでた盗聴器です」

 

 申し訳なさそうな表情で答えた祐治は、新たに取り出した盗聴器を先まで繋いでいたそれと交換し再生ボタンを押す。

 

『——ねぇお兄ちゃん……加減に答えてよ。今日千聖ちゃんと……の?』

「……ッ?」

 

 先程よりも割れた音で再生された少女の声を聞いた燐子が、驚愕した様子を見せる。

 

「どうかされました?」

「白鷺さん……も?」

「白鷺って……Pastel*Palettesの?」

「はい……」

 

 深刻そうな面持ちで頷く燐子。そんな燐子を心配そうに見つめる祐治であったが、スマホから発せられた音声により激しい嫌悪を覚えた。

 

『別にいいのよ。私達は貴方が動いていなくても』

『……ハァッ……ウッ……ゲボッ……!』

 

 割れた音声であっても、はっきりとわかるほど冷徹な声と、生々しい呻き声、そして洸夜が嘔吐する音がカラオケボックス内に響き渡る。

 

『オエッ……ゴボッ……オエッ……』

 

 何が飛び散る音を最後に、音声データの再生は終了した。その直後、両手で口を塞いだ祐治が前のめりに蹲る。

 

「鹿島君……!」

 

 突然蹲った祐治の背中を摩りながら、呼び掛ける燐子。それに応じるかの様に顔を上げた祐治は、青ざめた顔のまま口を開く。

 

「すいません燐子さん……自分は……貴方を……とんでもないことに巻き込んでしまったのかもしれません……」

「祐治……君……」

 

 力無く謝罪した祐治。対する燐子は、彼の左手を両手で握ると祐治もまた無言のままで彼女の手を握り返した。今互いが持っているであろう恐怖を紛らわすかの様に——

 

 

 

 

 

 祐治と燐子が秋葉原を訪れていたのと同日、白鷺千聖は『羽沢珈琲店』にてとある少女と卓を共にしていた。

 

「ごめんね千聖ちゃん、せっかくのお休みだったのに呼び出しちゃって」

「大丈夫よ。それで私に話、って言うのは何なのかしら——彩ちゃん?」

 

 千聖に問い掛けられた少女こと丸山彩は、困った様子で視線をあちらこちらへと泳がせていた。

 

「え、えーっと……その……」

「わざわざお休みの日に呼び出してまでのお話だから、お仕事の話じゃなくてプライベートなお話なのよね。それも、彩ちゃんに取っては重要なことについて。違うかしら?」

 

 彩に対して軽く首を傾げた後、自身の前にあったコーヒーカップを手にした千聖は中身を軽く呷る。対する彩は、畏まった後に俯くと言葉を紡ぎ始める。

 

「うん……千聖ちゃんの言う通り、プライベートなお話だよ」

「そう。それで、どんなお話なのかしら?」

「千聖ちゃんは——アイドルが恋するのってどう思う?」

 

 予想だにしない彩の言葉に、千聖は硬直するが即座に切り替えると返答を口にする。

 

「アイドルが恋をする事について、ね。世間一般的に見たらそれは禁忌(タブー)なのかもしれないわね」

「そ、そうだよね……」

「けど、私自身はそうだとは思わない」

 

 千聖の言葉を聞いた彩は、驚きながら伏せていた顔を上げ問い返す。

 

「本当に?」

「ええ。だって、私も彩ちゃんもアイドルや芸能人である前に、1人の人間でしょう?」

 

 コーヒーカップを卓上に置き直した千聖は彩へと投げ掛ける。対する彩は首を縦に振る。

 

「そうだね。私も千聖ちゃんも、芸能人って言う型枠にはまるより前に1人の人間、だもんね」

「そういうことよ。だから私は止めたりはしないし、1人の友人として彩ちゃんのことを応援するわ」

 

 そう告げて彩に対して微笑む千聖。その言葉を聞いた彩はというと、驚きの表情から喜びの色を見せた。

 

「ありがとう! 千聖ちゃん!」

「フフッ……叶う様に応援してるわね」

 

 笑みを溢した千聖は、再度コーヒーカップを手に取り自身の口元へとカップを近づける。その最中、千聖は徐に彩への問いを口にした。

 

「そう言えば、彩ちゃんの好きな人って誰なの?」

「私の好きな人?」

「ええ。応援する身としては、知りたいところだけれども?」

「えーっとね……」

 

 カップを傾けた千聖の手前、彩は羞恥故か落ち着かない様子を見せつつも意中の人物の名を口にした。

 

「この前ショッピングモールで会った……洸夜君」

 

 彩の口から飛び出した名前を聞いた千聖は、予想していなかった人物の名前が登場したことにより固まってしまう。そして暫しそのままでいたが、なんとか口を動かし彩へと問い掛けた。

 

「彼と……以前に何かあったの?」

「うん。名前聞いたりちゃんとお話ししたのはこの前が初めてだったけどね」

 

 はにかみながら答えた彩。その言葉は、一切の嘘偽りを感じさせなかった。そんな彩に対して千聖は追求を続ける。

 

「その、以前にあった事を詳しく聞いてもいいかしら?」

 

 千聖の言葉に頷いた彩は、自身の前に置かれたティーカップに両手を添えると、過去の出来事を千聖へ語り始めた。

 

「私がアルバイトしてた時にね、怖いお客さんの対応したことがあったんだ」

「怖い?」

「うん。なんだろう……何かにつけて、いちゃもんを付けてくるお客さんだったんだ」

 

 淡い赤茶の水面に映った自分を見据えた彩は、次の言葉を発する。悲壮感を漂わせながら。

 

「それでね、そのお客さんの対応した時にね……私、お客さんの気に触ることしちゃったみたいで……色々言われたんだ。他のお客さんが見てる手前で」

 

 そう答えた彩の手は小刻みに震えており、手にしていたティーカップの中身が小さく波立っていた。

 

「それでね……その時は社員さんが休憩行っちゃってて他に対応できる人がいなくて……ずっと相手してたんだ」

「そうだったのね……」

「うん……そこでね、洸夜君に助けて貰ったんだ。最も、向こうは覚えてなかったみたいだけど」

 

 懐かしむ様に笑みを見せた彩は、ティーカップを自身の方へと寄せその中身を一口含んだ。

 

「その出来事がきっかけで、彩ちゃんは彼のことを好きになった、と?」

「大まかに言うとそうなる、のかな?」

 

 先程までの悲壮感を払拭したらしい彩は、明るい表情と共に千聖へと返答した。そんな彩を見た千聖は、僅かに笑みを溢す。

 

「そうなのね。それを聞いて彩ちゃんが彼を好きになった理由は納得したわ」

 

 そう告げてカップの中身を飲み干した千聖は、数瞬前とは打って変わりシリアスな笑みを浮かべた。

 

「けど、彼の周りはライバルが多いわよ? 私も含めて、ね」

「千聖ちゃん……うん! 私、負けないよ!」

 

 千聖の言葉に布告、という形で返答した彩。暫しの間熱の篭った視線を交わしていた両者であったが、ふと千聖が自身の左手に巻いていた腕時計へと視線を落とす。

 

「あら、もうこんな時間……ごめんなさい彩ちゃん。私はそろそろお暇させてもらうわ」

「うん、気を付けてね」

 

 彩に見送られながら席を立った千聖は勘定を済ませると、そのまま退店していくのであった。そして、羽沢珈琲店から少し離れた辺りで、彼女の顔から先程までの柔らかな表情は鳴りを潜めていた。

 

「できることなら、彩ちゃんの相手はしたくないのだけれど……」

 

 両の掌を固く握りしめた千聖は鋭い眼差しと共に己の内心を吐き出した。そうして湧き上がる激情を噛み殺しながら歩いていると、不意に傍らから歩いてきた人間とぶつかってしまう。

 

「ごめんなさい……考え事をしていて」

「いえ、こちらこそ不注意でした。申し訳ない……って、千聖?」

 

 咄嗟に謝罪した千聖は、突如名前を呼ばれたことにより思わず顔を上げる。そこには、先程まで渦中に居た人物の姿があった。

 

「あら、コウ君。こんな所で奇遇ね?」

「そう……だな。っと、俺は用事があるのでこの辺で」

 

 気まずそうに視線を逸らした洸夜は、そそくさとその場から立ち去ろとする。すると突然、千聖が洸夜の手を掴みそれを制した。

 

「何……?」

「少し、私と来てくれるかしら」

「いや、用事が……」

 

 未だ視線を合わせることなく、拒否を示した洸夜。対する千聖は、彼の耳元に自身の顔を寄せると囁いた。

 

「断ってもいいけれど、貴方の置かれている状況を近しい人間に教えることになるわよ?」

「……ッ」

 

 千聖の言葉を聞いた途端、洸夜の顔からは血の気が引き青白くなっていく。同時に、彼の額からは脂汗が吹き出し始めた。

 

「決まりね」

 

 そう言って洸夜の手を引いた千聖は、一切の抵抗を見せない彼と共に人気の無い路地裏へと消えていった。

 

「洸……夜……?」

 

 偶然通り掛かったリサは、正にその瞬間を見てしまっていた。海へ行った時同様、己の愛する者が他者になされるがままという状況を——



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