君が往く路(みち) (藤宮ぽぽ)
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君が往く路(みち)

  

 空一面に、どこまでも広がる雲の群れ。

 その間隙から漏れるように、陽光が降り注いで。見上げる人々の視線を、まぶしいくらいに灼く。

 今というこの時期が、とりたてて旅行客にとってのシーズンというわけではない。しかし、それでも旅客ターミナルの内部に満ちる雑多な騒音は、多くの人々の喧騒と、彼らに引かれるトランクやカートの音色に、そのほとんどを征服されてしまっているかのように見えた。

  

 国外から(おとな)う人々を待つ、空港の発着ロビー。

 その外壁の一角は、とても視界に収めきれないほどの巨大なガラスで覆われていて。

 わずか一枚の境界線を隔てたむこうに、次々と飛来する旅客機の姿を映し出している。

  

 ――ロビー内にいくつも備えつけられた、長椅子のひとつ。そこに腰を落ち着けている、ふたつの影。

 一方の少年が、隣の少女に無理なく聞こえる程度の音量で声をかけた。

  

「……そろそろだな」

「んー、そですねー。幸いなことに、トラブルも何事もあれへんかったようですし」

  

 相づちを返すと、少女は新緑を思わせるような髪をこころもち揺らして、自分よりもずっと背の高い相手を見上げる。

  

「いや、まー、それにしても。うちとしましても、めっちゃ久しぶりに会うんで……なんや、ちょう緊張してきましたー」

「俺もずっと昔に会っただけだしな。……正直なところ、あまり記憶に残っていないというか」

「ありゃ、そうなんですかー? でも、先方はお師匠のこと、しっかり覚えてると思いますよー」

  

『高町恭也』と呼ばれる、少年。彼にしてみれば、こちらがその人物と最後に会ったのは……まだずっと、ほんの子供のころであって。

 それでも今日という日が来るまで、記憶のピースを取り出しては組み立てようと何度も試みたものの。残念ながら、それが一枚のジグソーパズルの絵として完成することは、ついになく。

 ほんのかすかに、おぼろげな姿が、頼りなく思い浮かんでくるだけだった。

  

――そのとき。あらたな到着便を知らせるアナウンスが、ふたりの耳に届いてきた。

  

「レン。たしか、この便ではなかったか?」

  

 恭也の言葉に、インフォメーションボードに目をやる少女――レン。

  

「……あー、そうですそうです! ほんなら、お迎えといきますかー」

  

 数年、いや、十数年ぶりの。それはごく普通に「再会」と呼ぶにふさわしいものなのだろうか。

 その自問に解答を見出せないまま、長椅子から立ち上がって先を歩き始めたレンのあとを、恭也は追った。

  

  

 鳳蓮飛。通称・レン。

 現在は高町家に寄寓して久しい彼女である、が。

 そんな彼女にも、同姓の――戸籍上においても、紛れもなく正真正銘の家族がいる。

 父・鳳俊瑛、母・鳳小梅。

 それに……。

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇

  

  

「どうもどうも、お久しぶりですー。遠いところから、わざわざ……」

「いやいや、桃子さん。こちらこそ日頃から孫娘がご迷惑をかけている上に、勝手に押しかけてまでしまって申し訳ない。なにぶん、どうぞよしなに」

  

 腰をきちんと折って、丁寧に挨拶を交わしあうふたり。

 そのうちのひとりは老境にありながらも、全身からにじみ出る雰囲気は壮年のそれに近いようで。

 老いてもしっかりとした物腰は、若いころから鍛錬を積んできたという武術の成果だろうか。

  

「……あー、桃子ちゃん、うちがじーさまをみんなに紹介したってもいい?」

「うん、いいわよー。それじゃフィアッセを先頭に、ほら、みんな、こっちに集まって」

  

『鳳龍道(ふぉう・ろんたお)』。

 レンの父方の祖父にあたる人物が、その名を有している。

  

 ――故国を遠く離れ、異邦・アメリカの地で商売を続ける娘夫婦に会うために。

 わざわざ日本に寄り道をして孫娘に会うのは、その一環だという。久しぶりに家族の元気な姿をその目で見るのが、今回の旅の目的なのだそうだ。

 恭也にしたところで、幼いころに数回ほど会ったきりとなっていた人物。それゆえに、高町家の現住人からしてみると、初対面となる者もかなりいるのは無理もないことだった。

 レンの母親・小梅とは親友という間柄から、桃子だけがこの老人としっかりした面識がある程度、といえる。

  

「……日本語、お上手なんですね」

  

 軽い自己紹介のさなか。皮肉と受け取られないよう気をつけながら、フィアッセが感嘆まじりのコメントを述べた。

  

「いや、お恥ずかしい。日本へは過去にも何度か来たことがありましてな。……それよりも、お嬢さんこそ、(わし)よりも実に上手く操っておられる」

  

 屈託のない笑い。

  

「じーさまじーさま。ほんでな、こちらがなのちゃんや。えっらくいい子なんやでー♪」

  

『中国に持って帰ったりしたら、絶対にアカンからなー』などと一言釘をさすレンの表情も、どことなく普段以上に明るい。

 そそくさとなのはの背後へと回ると、その背中を軽く押し出すようにして、龍道翁の前に引き合わせる。

 日頃はまわりの人間に遠慮して、どこか気を遣っている……いくぶん大人びた言動の目立つ彼女も、今ばかりは年相応の女の子に立ち返っているようだった。

  

「お、こちらがなのはちゃんかー。いや、以前に小梅たちから写真を送ってもらったことがあったんじゃが……すっかり大きくなったのう」

「えへへー。たかまちなのは、です♪」

「おお、偉いぞ。……うむ、それに面貌も桃子さんによう似ておる。こりゃ、将来は男どもが放ってはおかんて」

「……や、やぁだ~! 何をおっしゃるんですか、龍道さんっ!」

  

 どことなく稚気を含んだ、優しげな微笑。

「好々爺」というのは、まさにこの老人のような人物のことを指すのだろう。

  

 ともあれ。

 恭也とレンが空港まで出迎えに赴いているあいだに、桃子をはじめとした残りの高町家の住人は歓待の準備を整えていて――

 レンの親類ならば、なおさらのこと。たとえわずかばかりの滞在期間であったとしても、高町家の住人として暖かく迎えたい。

 誰が言うでもない、別に何をてらうでもない……それが、全員の共通認識だった。

  

  

  

  

「――みなさん。そろそろ晩ごはんでも、どうですか?」

   

 ……ごくささやかな旅の荷物を降ろし。ひとしきりの歓談ののち。

 誰からともなく、そんな声があがった。

  

「今日は俺も頑張りましたから。ぜひ食べてってくださいね!」

「……ほー。なんや、いやに愛想がええやないか、晶」

「う、うるせえ。別になんでもねえよ」

  

 ふたりとも――言葉の応酬とはうらはらに、その声音にはなんの(とげ)も底意も含まれてはいない。

 だから、恭也は晶の頭の上に手を乗せると、軽く撫でてやった。

  

「え、えへへ……」

  

 普段は、傍目から見るとケンカばかりしているように見えるふたりでも。

 仮にレンに対して何か含むところがあったにしても、晶はそれを彼女の家族にまで持ち込まない。むしろそういった行為を、晶は何より嫌っている。

  

(……おーきにな、晶……)

  

 口に出さずとも伝わるその思いには、レンも内心で深く感謝している。

  

「それにしても、賑やかなことだのう。まるで孫が一挙に増えたようじゃ」

  

 相好を崩して、龍道翁が感想を述べた。まさに心底からこの場を楽しんでいるような、そんな表情とともに。  

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇

  

  

 ――深更。

 レンは不意に、目を覚ました。

  

「……?」

  

 寝ぼけて焦点の定まらない瞳を、しばし宙に彷徨(さまよ)わせる。

 目の前にあるものですらおぼろげな姿しか浮かばぬ、漆黒の闇に覆われた世界。

 が。数瞬もせずに、常にも増す速度で意識が明瞭さを取り戻していく。

  

「なん、や……?」

  

 つぶやくと、視線を横に向けた。

 そこには、自分のベッドの横に敷かれた、一人ぶんの布団があるはずだった。今日だけ特別に設けられた、即席の寝床である。

  

「いっしょに寝よう」と甘えたのは、レンの方からだった。

 普段は身近にいることのない、肉親と過ごすささやかな時間。いつもならレンの私物やら小さなクッション、あるいは座布団などが置かれているスペースに積み重ねられた幾枚かの布団は、少しでも長く過ごしたいという彼女の気持ちを、高町家の住人たちが快く汲み取った結果であった。

 とはいえ最初は自分のベッドを譲り渡して、レン自身が代わりに敷き布団に寝るつもりだった……のだが。

  

「ほっほ、甘えてるんだか遠慮してるんだか、よく分からんの」

「遠慮とかそんなんやないで、じーさま。ベッドの方が気持ちえーと思うから、ウチはごく自然にお勧めしとるんやよ」

「まあ、この年寄りには、ベッドよりも布団の方が落ち着くものなんじゃ。気にするな、蓮飛」

  

 鷹揚にそう笑うと、龍道翁は自らさっさと布団の中に潜りこんでしまったのだ。

 ……それでいて。

 それなのに――

  

 視線をそちらに向けなくても、わかっていた。意識がはっきりした瞬間に、すでに感じ取っている。

 布団の中で寝息を立てているであろう人物の姿は、そこにはない。

 あるのは、ただ黒々と渦巻く闇。裏側にめくられた掛け布団と、口の開いた旅行用の荷物袋。

 そして……感じられる、闘気。

  

「……おししょ!」

  

 短く叫ぶのとベッドから降り立ったのは、ほとんど同時だった。

 女の子らしい、かわいらしさを前面に押し出したデザインのパジャマ姿のまま。なにひとつその上に羽織ることもなく、部屋の外に飛び出す。

 ひんやりとした夜の冷気が彼女の小さな身体を震わせたものの、構ってなどいられなかった。

  

「な、なんで……。これじゃまるで……真剣勝負そのものやないですか」

  

 小走りに、廊下を突き進む。

 肌を刺すように伝わってくる闘気は、これまで彼女が感じてきたものよりずっと(はげ)しいものだった。そして、それが何に対して向けられているのかも、レンにはわかりきっている。

  

(そんなにも強烈な闘気を放ってるゆーんは、それだけ手加減ができひん相手ということですか……!)

  

 心は激しく急き立てられながらも他の住人たちを起こさぬよう、細心の注意を払いながらその場を目指す。これだけの距離をおいてなお威圧されるような気迫に、なかば気圧されながら。

  

(じーさまもじーさまや。わざわざ日本へ、本当はこんなことをするために来たっていうんか……!)

  

 向かう先に必ずいるであろう人物に、レンはそう心中でなじった。わざわざこんな夜更けを選択した理由を考えると、ますます不穏な想像しか浮かんでこないからだ。

 階段を降り、さらに廊下を進む。縁側に出ると、もどかしげにサンダルを履いて。

 そのまま道場を目前にしたところまできて――唐突に、足を止めた。

  

 予想外、とは言えなかった。

 これまでレンが失念していた別の影をそこに認めたのと、むこうがこちらに気づいたのは、ほぼ同時だったろうか。

  

「……美由希、ちゃん……」

「レン……」

  

 つぶやいた影が、かすかに揺らいだ。美由希がゆっくりと、頭を縦に振ったようだった。

 それは、肯定の証。いま道場のなかで起こっていることが、まぎれもない事実だということの証明。

  

「……お師匠と。それにじーさまとが……闘ってるんですね……?」  

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇

  

  

「……ほう。なかなかの剣気じゃな」

  

 暗がりの内部から、そんな声が投じられる。

  

「剣に覇気がある。このような寧日のなかに身を浸しておっても、珍しいほどに強き闘志を放っておる。そして……何より、迷いがない」

  

 こちらを論評してくる言葉にも変化の欠片さえ見せずに、恭也は完璧なまでの同じ動作で、また一回木刀を振り下ろした。

  

「っと、すまんの。鍛錬の邪魔をしてしまったかの」

「……いえ、そんなことは」

  

 ようやく恭也は、その人物のほうへと身体を向けた。

 午前零時をとうに回り、高町家の住人の大半は眠りの精にその身をゆだねているはずだ。美由希を伴った毎日の鍛錬も、今日はせっかくレンの親類が来ているのだからと、わりあい早めに切り上げて。

 それゆえか、どことなく物足りなさを感じていた恭也は、容易に寝つけぬままに庭先で木刀の素振りなどを軽く行っていたのだった。

  

 ……静かに下ろした両腕のあいだを通り抜ける夜気が、わずかばかり火照った肌に心地よい。

  

「御神流といったかの、たしか?」

「……ええ」

  

 闇に包みこまれた世界をものともせずに進み、いまや明確に眼前に姿を現した客人が、落ちついたトーンで確認するかのように訊いてくる。

 穏やかな笑みを、その顔に貼りつけたまま。

  

「……士郎殿も心根の真っ直ぐな、そして迷いのない剣を振るっておった。小梅のところへ行ったおりにの、偶然彼と居合わせてな。その冴えぶりを見せてもろうたことがある」

「…………」

「惜しいことをした。彼とは我が生涯において、幾度も杯を重ねて語り合いたいと思った、数少ない人物のひとりだったというに」

「…………」

「……ときに、恭也くん。この儂も、いささかながら武術をたしなんでいることは承知しておるであろう?」

  

 あいかわらず、柔和に微笑んでいる。しかし、それでいながら表面に装ったものとは正反対の、少しずつ放たれはじめる威圧感を、はっきりと恭也は感じ取っていた。

 昼間と変わらぬ、龍道翁の風体(ふうてい)。全身を何の制約も受けることなく自在に動かしきれるよう、いたって軽装な身なり。

 それゆえにか――その片手に握られた棍の存在も、そこにあるのがごく当然であるかのような思いすら抱かせる。

  

 だが。異常であることは、言うに及ばない。

  

「……ええ、知っています。レンの動きを見ても……それが単なる遊び半分の代物ではないということも」

  

 老人の物腰を見ても、相当の修練を積んだ人物だということが確信できる。とても生半可な、中途半端な練習程度では、こうはなれまい。

 口で語るにはたやすいが、苛酷な要求を自身の身体に課しつづけ、ひとつひとつ着実に体得していった、そうした日々の蓄積の産物。

  

「それならば、話は早い。……せっかくだ、ひとつお手合わせを願えるかの?」

  

 来た、とすかさず恭也は思った。

 偶然とは思えない、この闇夜の邂逅のはじめから感じていた、確信めいた予感。

 笑顔は変わらない。が、放たれる気は時間とともにその主張を強め――言ってみれば「挑発」しているのは、先ほどからわかっていた。

 ただ、何を目的としてそうするのか、龍道翁の望みの底にあるものについては……皆目見当がつかない。

  

「練習試合程度なら、構いませんが。仮に本気で戦われるのだとしたら、その理由が俺にはわかりません……」

「理由か……そうじゃな」

  

 恭也から視線を落とし、いくぶん芝居がかった所作で考えるふうを装う、老翁。

 戦う理由は……本当はすでに決まっているのだろう。ずっと以前から、この場に現れる前から。

  

「【(ロン)】と言ったら……?」

「…………」

  

 しまった。

 内心で、軽く舌打ちした。

  

 この老人ならば……ほんの一瞬たりとはいえ生じたわずかの心の乱れを、間違いなく見抜かれてしまっただろう。

 軽く息を吸いこむ。それだけで、心はすでに先刻の一瞬ばかりの動揺から、いつもの落ち着きを取り戻している。

  

「……返答をいただこうかの、恭也くん」

  

 声音だけは穏やかに、龍道翁の言葉が風に乗る。

 しかし、その眼光は――すでに鋭利な刃の、それと同じだった。

 周囲にまとわりつく深夜の空気が、ひときわ冷たいものに変化したような気がする。

  

『龍』というのは、明らかにこちらを意識しての言葉に違いなかった。実際はそれと何の関わりがなくとも、卑怯な言い方だと承知しつつも、効果があるのは――あったのは、疑うべくもない。

 その心底に潜む想いの核は、おそらくはもっと、まったく別の目的を宿しているのだろう。それぐらいは、恭也にもわかる。

  

 望むもの。

 この老人が何を成そうとしているのか、やはり見えてこない。が、それでも、『龍』という言葉を持ち出してまで、この老人は欲してきたのだ。

 この日本に来て、そのなにかを求めているのだ。

  

 だから、それならば。

 ……それを受けとめたいと、わずかでも思ってしまったのなら。

 せめて、最大限の敬意を払いつつ――

  

 吹き抜ける風を受けて、木々が両名に喝采を送るように枝を揺する。

 舞い落ちてくる一枚の薄い葉は、さながら決闘の瞬間を告げるコイン。

  

 覚悟を、決めた。

 

「……わかりました」

  

 短く簡潔に、たった一言だけを口にする。その一言だけで、充分すぎるほどだった。  

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇

  

  

「な……なんで! お師匠とじーさまが、それもこんな時間に。戦ってなくちゃいけないんですかっ!?」

  

 意味がないことを頭では承知しつつも、レンは美由希にそう詰め寄った。

 確認するまでもなく、答えはない。返ってくるはずがない。激しい戸惑いと困惑を覚えているのは、美由希もレンと同様に違いなかったからだ。

  

「……レン……」

「あ……。ごめん、なさい……」

  

 つぶやいて、掴みかからんばかりだった身体をわずかに離す。

 そんなレンに、美由希は努めて穏やかに声をかけた。

  

「私もね。レンならわかると思うけど……たった今、来たばかりなんだよ。レンと同じ、着いたばっかり」

「……はい」

  

 レンに語りかける彼女の着衣は、普段はあまり見かけることのない姿だった。

 夜更かし癖のあるレンではあるが、さすがに美由希と恭也が深夜の鍛錬を終えて帰ってくる時間まで起きていることは多くない。

  

「私だって、恭ちゃんに聞きたい。……なんでこんなことをしているのか、って」

  

 美由希が身にまとっている就寝時の服装が、彼女の言葉の真実さをなによりも証明していた。

  

「……やれやれ。どうやら、あのふたりにも感づかれてしまったようじゃの」

「美由希……それに、レン。……中に入っても、構わない」

  

 不意に、道場から庭へ漏れるさして強くはない光とともに、その内部から、ふたつの声が投げかけられた。

  

「レン……?」

「じーさまと、お師匠がそう言ってるのなら。……入りましょう、美由希ちゃん」

  

 足元でサンダルに弾かれた小石が、音もなくころころと転がってゆく。

 レンははっきりとうなずくと、先に一歩を踏み出した。

  

  

  

  

 ――夜闇の世界から飛びこんできても目を細めるのはほんの短い時間で済む、抑えられた道場内の照明。

 その中でレンがみつけたのは……やはり、棍と木刀をそれぞれ手にして互いに相対する、祖父・龍道と恭也の姿だった。

  

「……じーさま……」

  

 得物をしっかりとその右手に持つ一方で、大仰に構えるでもなく、まさに無行の型のごとく立ちつくしたままの老翁。

 近づこうとしたが、近づかなかった。近寄ろうとしても制されることに、気づいたから。

  

「なんで……こないなこと、やっとるんや……?」

  

 だから。

 近づくかわりに、言葉を投げつける。

 浴びせられた言葉は、やがて形を変え……返事となって、龍道翁から発せられた。

  

「心配するな。そう、心配するな」

「でも……」

「ただ願わくば……蓮飛。儂の大事な孫娘にも、しかと見届けてもらいたい」

「……恭ちゃん……」

「右に同じく……だと思う。心配することは、たぶん何もない」

  

 龍道翁と恭也。

 それぞれが、それぞれの相手に言葉を送る。

  

「……さて。では、はじめようかの。恭也くん、どこからでも打ちかかってきてくれて構わんぞ」

「……いえ。声をかけられたのは、そちらの方ですから」

「道理じゃな。……ならば、見せてもらうぞ!」

  

 刹那。

  

 床板を強く蹴りつけるでもない。ごくあっさりとした踏み込みだと思っていたのに――

 龍道は思いのほかの(はや)さで、恭也の懐まぢかにまで突進していた。

 繰り出される拳。棍を持たない左腕から伸びるように突き出されたそれを、恭也は身体を開いて空を切らせる。

 カウンター。そのまますれ違いながら一方の脚だけを場に残し、相手の脚にからませて転倒を狙う。

 ……が、とても老人とは思えないスピードで龍道はその場で()びあがり、空中で半回転し足先を道場の最上部に突き出すと。天地反対の姿勢となりながら、天井から撃ち出された弾丸のように、ふたたびこちらに向けて棍の一撃を放つ。

  

 ガインっ!

  

 恭也の木刀と龍道の棍。木片同士がぶつかりあい奏でる甲高い音を残して、龍道はそのまま前転をつづけて見事に着地した。

  

「……はあああっ!」

  

 老人が、半身をこちらに向けきる前。そこを、恭也の左のローキックが襲った。

 が、龍道はバックステップでその一撃を外し、宙を旋回する攻撃者の左脚を棍で打ち砕こうと狙いを定める。

 ……間に合わない。

 棍を振り下ろす前に恭也の左腕から流れるように浴びせられる連撃に、身体を大きく右側に傾けてやりすごす。

 そこにさらに三撃目が右腕より放たれると――龍道は先ほどの動きすらも凌駕する俊敏さで、それらのすべてを意味のない空振りに終わらせていった。

  

「……二刀流か、恭也くん。しかしながら、鳳家の拳は風浪の拳。何人(なんぴと)たりとも……吹き抜ける風には、触れること、切り裂くことかなわず!」

「……たとえ、相手が風であっても……」

  

 鋼糸。放たれたその先端は視認できる間もないほど瞬時にして宙に踊り、棍にからみつかんとする。

  

「守ってみせます……御神の剣で、どんなものからも……」

  

 鋼のワイヤーが目標物をからめ取ろうと、まるで意思を有した一匹の生物であるかのように舌先を伸ばしてくる。

 しかし龍道は素早く棍の位置を上下させて、その軌道をたくみに外した。

  

「たいせつな人たちの、そのすべてを守り通してみせます!!」

  

 息をつく暇はない。恭也が突進してくる。

 左右両側から雷光のように襲いかかる、二連の太刀筋。

 龍道は先ほどと同じようにバックステップで片側の一撃目をかわしきると、さらに踏み込みながら振り下ろされる相手の両腕が交差する瞬間を見極めるべく、精神を凝らした。反撃はそこを基点とすればいい。

 が、恭也の斬撃が、軽い後退の……まさに着地した瞬間を狙い済ましたかのように。八の字を描きつつ、さらに連撃に連撃を重ねた攻めを疾風のごとく浴びせてくる。

 

(オウ)っ!!」

  

 叫んで――これ以上は後退して避けきれないと判断した龍道はふたたび前方に向けて跳躍すると、空中で若き剣士と交錯する刹那、片手でその首を拘束しようとし。とっさに極められる危険を察した恭也に、ギリギリのところで外される。

 そしてそのまま着地し体勢を立て直した龍道と、渾身の一撃を放つべく最大の気迫を内側にこめた恭也が……互いに向けて動き出したのは、ほとんど同時だった。

  

「……見ておれ、蓮飛!」

「……見ていろ、美由希!」

  

 守りたいものがあるから、磨きつづけた。想いを昇華させるように鍛錬を重ねに重ねた、(おの)が武術。

 迷うことなく、互いにそれぞれの得物を振り下ろした。

  

「……っつああああァッ!!」

  

 吠える。咆哮が、道場を揺るがすようにさえ思えた。

 それは、力と力の衝突だった。同時に、技同士の交錯だった。

  

 ガギィィィン!!!

  

「…………」

  

 ひときわ高く響き渡った衝撃音のあとは、これまでの全てが嘘であったかのような沈黙。

  

  

  

  

「――士郎殿は、よい継承者を持ったな。存命であれば、さぞかし満足じゃろうて……」

  

 レンと美由希が、それぞれに軽く息をのむ。

 

 ……中程あたりで二つに折れた木刀が、恭也の足元に転がった。

 先の部分が粉々に砕けた棍の破片が、龍道の足元に広がった。

  

「……いえ。俺も、まだまだ父に遠く及ばないこと、あらためて身をもって感じました」

「お師匠……じーさま……」

  

 まるで、何事もなかったかのように。

 不安げな眼差しのまま声をかけるレンに微笑む龍道翁の姿を、恭也はその場から動こうともせずにただ眺めやった。

  

「……心配をかけたな、蓮飛。もう終わりじゃ。……終わったのじゃよ」

  

 先ほどまでとは別人のような雰囲気をまとった相手の声を、うつろに聞きながら。

 木刀を握った手を、かすかに開閉させてみる。痺れる以外の感覚を、全く失っていた。

 慣性と重力。あるいは様々な物理法則を、たくみに計算しつくした末の打撃。このような重い一撃を放つ相手は、恭也の知るかぎりでもほんの一握りしか存在していない。

  

「……ありがとうございました」

  

 期せずして。

 恭也はそんな一言を洩らしていた。

  

「……なんの。儂とて恭也くんの見事さに、ただ驚嘆するばかりじゃ」

  

 ひたすら穏やかな足取りで、レンに近づき。そしてその頭を、龍道翁はてのひらで包みこむ。

  

「これならば、蓮飛のことも安心して任せられるというもの。とても安堵させてもろうた。

 ……今後ともよろしくな、恭也くんに、美由希ちゃん」

  

  

  ◇  ◇  ◇  ◇

  

  

「本当に、ここまででいいんですか……?」

「ああ、結構ですじゃ。……それにしてもみなさん、わざわざこんな場所まで送っていただいて……いやはや、恐懼(きょうく)の至りですわい」

  

  

  

  

 それから、ほどなくして。

 ふたたび旅中の人となった龍道翁は、フィアッセの運転する車に送られて。とある霊園の入口に降りたった。

 ゆるやかに傾斜した台地に設けられた、海鳴市の全景が望める場所。そこには高町家の住人にとってのみならず、龍道翁にとってもかけがえのない人物が穏やかな眠りについている。

  

 かなたからそよいでくる、海風。

 梢が奏でるは、安眠を願う子守唄。

  

「はは……案ずるな、蓮飛。ここから駅、それに空港へなぞ、この老人ひとりでも問題なく行ける。ここまでで、充分じゃよ」

「じーさま……」

「あ、でも……交通費だってかかるでしょうし、ご遠慮なさらなくても……」

  

 フィアッセの申し出に、龍道翁は笑みをたたえたまま穏やかに頭を振った。

  

「いや、ご好意はかたじけない。が、ここからは、ひとりで行きたくてな。なによりこの健脚、まだまだこの程度の距離を苦にはせなんだ」

  

 そう言いながら、整備の行き届いた霊園の奥へと目をやる。

  

「……またな、蓮飛。今度はお前が、中国なりアメリカなりへと来るがいい。お前の元気な……そして幸せでいる姿は、儂の口からしかと小梅たちに伝えておこう」

  

 優しく、いとおしそうに……レンの頬や髪を撫でつける、偉大な先達の手のひら。

  

「世話になったな、恭也くん。桃子さんにも蓮飛をくれぐれと頼むと、あらためて伝えておいてはくれんかの?」

「……はい。伝えておきます」

「それと……試すようなことをしてしまって、済まなかったの」

  

 まっすぐに――恭也の前に差し出された手。

  

「……だが、これで儂も心置きなく士郎殿の墓前で語れるわ。『安心せい。御神流は、見事な後継者とともにしっかりと歩んでおる』とな」

  

 握り合う。

 たしかな確信とともに、力強く。

  

「……また来てください。亡き父と一緒に、俺たちの剣をずっとお元気なまま見守ってください……」

  

  

  

  

「――心地よき風が吹いておるよ、御神の剣にも……」

  

 その姿が、霊園の奥へと遠く消えたあと。 

 龍道翁のつぶやきが、風に乗り――

 車のサイドドアを開けて乗り込もうとした背中をかすめたように、ふと恭也は感じた。

  

  

  

  

  



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