愛は鏡の中 (鈴近)
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連作本編
序章 彼と鏡


ちょっと思いついたのでハーメルンにも投げます。全五話、連日投稿予定。


「“Who am I?(あなたの望む私になろう。)”」

「“I'm you.(世界が求める私になろう。)”」

 

 実家から持ち込んだ、数少ない礼装の前で彼はスペルを紡いだ。

 第一特異点を修復し、第二特異点を探す今、マスターである少年にできることは少ない。新しくサーヴァントを召喚するには手が足りている。なにより一気に召喚しすぎても、彼らを使いこなすことはできないだろう。

 サーヴァントたちも、今はマスターの育成に力を入れていた。ウェアウルフやゴブリンを倒せる程度の自衛する力を、と勧められた武術の鍛錬に、神代の魔術師という破格の教師を相手に魔術の修行。戦場を走り抜けた騎士たちからは如何に戦いを有利に運ぶか、撤退を決めるタイミングは、自分たちの使いこなし方は──と、戦術絡みのことを延々詰め込まれている。

 ロマニを筆頭とするカルデアのスタッフたちと同じように、一秒一分を惜しみながら少年は自身の成長に心血を注いでいた。できる/やらなければならないことは腐るほどある。学習しては実践、分析しては改善。効率を追い求め、自身の最適化を目指し、アップデートを重ねる傍ら、新しく契約したサーヴァントたちと交流を深める。疲れたな、と思うものの、そんなことを言っている場合ではない。身体からあふれる本音は残らず封殺し、ぐるぐると自分の中で攪拌してごまかした。

 そのうえで、これが一番いいと判断した行動を、彼は取り続ける。必要なのだ。世界を救うために。義務を果たすために。生き残るために。「また明日」と、無邪気に、未来を信じるために。

 

『目を 開けて』

 

 優しい声が脳に響く。ぱちりと少年は青い目を覗かせ、続きの節を唱えた。

 

「“Mirror, mirror, mirror.(鏡よ鏡よ鏡さん。)”」

 

 丸い鏡の中の彼女は、にっこりと笑って、少年に手を伸ばした。少女は青ざめた肌をしている。髪は墨のように黒く、燃える唇は炎の赤。生きているものとは思えぬ美しさだった。薔薇色の頬は恋をしているように色づき、鏡越しに二人の手は触れ合う。少年も愛しいものにそっと手を伸ばすように、鏡面を撫でた。それはひと時の逢瀬のようだった。とろけた銀の瞳は熱を秘めていて、視線が絡み合い、確かに二人を繋ぐ。透き通ったその細い手が少年に届くことはない。けれど、鏡の中の彼はそっと彼女の目隠しを受ける。真っ赤な唇が声なき声を紡ぐ。

 

『それはもちろん あなた』

 

 耳を澄ませる少年は一度頷いた。そして、彼女と瓜二つの笑みを浮かべて、笑う。それはトレースしたような動きだった。視線の動かし方、筋肉を引き絞る感覚、すべてを寄せている。彼女の笑みがそのまま彼の顔で再現されているのだ。少女の顔が、そっくりそのまま少年の顔になったような。少年の中に入っているのが少女であるような。第三者がこれを目撃したら、きっと彼/彼女は得体の知れなさに震えただろう。双子だってこんなにも、同じ表情を浮かべまい。本当は同一人物だと言われても信じられるほどである。

 二人を隔てているのはたった一枚の鏡だけ。顔立ち、骨格、違うものはたくさんある。けれど彼らの表情は同一だった。同調していた。それが彼にとって必要なことで、彼女が彼の望みを叶えただけにしても、小さなほころびはいつだって現れる。避けようのないことだった。

 彼女の口が静かに動く。整った眉はきゅっと寄せられ、眉間には皺ができている。それでも彼女の美しさは少しも損なわれていなかったが。彼女が憂いを抱いているのはわかる。わかるけれども、少年にはどうしようもないことだった。もう決めてしまったことだから。彼女の赤い唇が動く。空気は震えない。振動は鼓膜を揺らさない。念話が頭に響いた。

 

『このままだと なくなっちゃうわよ マスター』

「うん……わかってる。もう少し。もう少し、ここに余裕ができたら。みんな精いっぱいだから、まだ、よりかかったりはできない。でも大丈夫。きっとすぐだよ、マリー。ドクターたちも解析、すごく頑張ってくれてるし、特異点の解決も進んでるんだから……。俺は大丈夫。信じて」

 

 鏡の中の少女、魔術礼装マリー・ミラは呆れたようにため息をつく。彼の大丈夫はちっとも信用ならない。そう思っているのがわかっているくせに、彼女の心配とは裏腹に、少年は少し困りがちに(けれどにこやかに)笑うだけだった。その笑顔の下に、いくばくかの疲労が潜んでいる。気付かぬマリー・ミラではない。なにせ、彼女は鏡の礼装だ。鏡に閉じ込められた少女の噂話を元に作られた道具。鏡はいつだって覗く者の姿を映す。そして、真実を突きつけるのだ。白雪姫の魔法の鏡のように。こちらを覗く術者の状態がわからぬほど、彼女はなまくらではなかった。

 拗ねたようにつんと唇を尖らせると、彼が困ったようにまなじりを下げる。しかし、「またね」と小さく呟いて、彼は鏡面から消えた。机の上に立てかけてあるマリーに布をかけたのだ。夜の帳が落ちるように、マリーの窓も真っ暗に閉じる。これで世界とマリーを繋ぐものはなくなった。あるのは暗闇だけだ。

 衣擦れの気配をかすかに感じながら、マリー・ミラは嘆息する。ああ、誰か、この自己犠牲こそが必要だと思っているマスターの頬を張り倒してはくれないだろうか。そうでないと彼の自我はがりがりと削られて、他人との境界がなくなるぎりぎりまで薄くなっていくばかり。やめてくれと何度も叫びたくなった。けれど、これはマスターがすでに決めたことだ。ただの礼装に過ぎないマリー・ミラに口出しをする隙はない。サーヴァントたち、スタッフたちならあるいは……と思う。なのに、彼らをおもんぱかっての行動がこれなのだ。気付くことができる面々がどれだけいるのか、マリー・ミラにはわからない。

 

(ばかなひと)

 

 心の中で言葉が荒れ狂う。何度も喉をついて出てこようとする。救世主である前に、あなたは人でしょう。死んでも死んでも増え続け、滅びへの道を立ち止まらない、けれど他のものから与えられる滅びを抗う、試練を乗り越えるものたちの一人でしょう。彼は選ばれたものではない。なにかになれたはずなのに、何者にもなれぬまま最後の一人になってしまったひと。かつて彼と同じように人だったマリーは思う。人ならざるものとなった彼女は考える。

「外」の人たちはまだ彼との距離を測りあぐねているらしい。会って間もないのだから仕方ないことだ。彼らはあまりにも互いを知らない。実際、マリー・ミラも彼女のマスターもそう思っている。マスターは知るための努力を惜しんではいないが、それだけでは足りないのも本当だった。全然だめ、向こうからの歩み寄りが足りないのよとマリー・ミラは爪を噛む。だから彼が、気遣いのつもりで馬鹿な真似を始めてしまうのだ。

 マリー・ミラ。鏡の中にいる彼女は今日も憂鬱だ。青ざめた喉は細い吐息を漏らし、悩ましげに目を閉じる。思い浮かべるのは赤ん坊の頃から知っているあの子のこと。大事な大事なマスターが、人のふりをするロボットになってしまわないか。彼女はここに来てからずっと気が気でない。そっとマリーは白い手を組み、空(だと認識しているもの)を見上げる。星のない闇では、なににも祈れない。そもそも、ゴーストとなった自分が神に祈るというのはどうにも滑稽だった。

 



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清姫

 彼をとても愛しいと思う。愛している。愛している。愛している。愛している。愛している────。あふれる想いはいつも燃えていた。純度を増していく愛はすべて熱を持ち、エネルギーとなり、清姫の魔力でできたカラダをぐるぐると渦巻いては、ときどきこぼれていく。火の粉がぽろぽろと彼に降りかかるたび、彼はいとおしげに瞳をとろりと溶かして清姫を抱きしめてくれる。小さな火傷がいくつできたって、それは今の今まで変わらなかった。

 けれど、けれども。初めてあったときよりもたくましくなった胸に頭をこすりつけ、清姫は目を伏せる。盾の守護があっても彼は所詮人間。清姫の焦げ付くような激情は遅かれ早かれ彼を焼くだろうと、彼女もどこかで思っていた。そうしたらまたひとりぼっちだ。こんなに愛しているのに。

 ──愛しているからこそ。愛すれば愛するほど、炎はとぐろを巻いて彼をキリキリと締めつける。彼が灰になる未来を幻視してしまう。嫌だ嫌だと首を振っても、その不安はほんのときどき清姫の胸にやって来るのだ。

 想いが深くなるたびに、彼が小さな傷を負うのはとても悲しい。人の身に清姫の炎は熱いだろう、痛いだろう、苦しいだろう。彼の痛みを思っただけで清姫の胸は張り裂けそうになる。いくら謝っても足りないし、手ずから手当もして、炎の制御も繊細なものへと変えた。傷つけたいのではない。寄り添っていたい、寄り添わせてほしい、大事にしたい、大事にしてほしい。

 それなのに、時折漏れる愛はちりりと彼の肌を焼く。きっと清姫は恐れているのだ。安珍のように、彼が清姫の前から逃げ出して、交わしたはずの愛がすべて嘘となって崩れていくことを。そうなる前に食べてしまえたら──ああ、でも食べたらなくなってしまう──食べたい、食べたい、食べたい、食べたい、食べたい、でも、嗚呼────。測定不可能の狂気はぐるぐると彼女の中を巡り続ける。

 愛している。愛しているのだ。愛しているから、ひとつになりたい。

 

「ああ、旦那様……」

 

 ほう、と熱っぽい吐息がこぼれる。ついでにちょっと火の粉が落ちた。あらわたくしったらはしたない。両手で口許を隠し、落ちた火の粉がなにかに燃え移る前にぱたぱたと消した。

 もう起きておられるだろうか。清姫があまりに積極的に夜這いをするから(本人は添い寝くらいしか考えていないものの)、マスターの貞操の危機を感じた大人たちや彼の後輩によって、マスターが寝ている間、清姫は彼の部屋へ出入りを禁止されている。まあ、たった今ドアの前で待ち伏せているわけだが。中に入らなければいいのだ、中に入らなければ。禁止されているのはあくまで室内に入ることなのだし。

 はあ、と憂うように清姫は扇の下でため息をこぼした。我慢はできる、我慢は。ちろりと腹の中が熱くなって、そのまま火を噴いてしまいそうになることが多々あっても、我慢している。他ならぬマスターのためならば、清姫はいくらでも耐える。いくら清姫がマスター以外の人間、生物、森羅万象のすべてに興味がなくとも、彼はそうではない。マスターは多くのサーヴァントを従えなければならない。世界を、人類を救うために。

 それは仕方のないことだ。だからバーサーカーでありながら、清姫は必死に我慢している。けれども出入り禁止を突きつけられたときのショックはひどかった。そのまま竜に変わってしまいそうなくらい、目の前が真っ暗になった。あとから恥ずかしくなるくらい取り乱して、偶然清姫のことを呼びに現れた彼に抱き着いたほどである。彼に嫌われてしまったのだろうか、あの優しさは嘘だったのかと彼の元へ飛び込んでしまったのだ。平素ならありえないことである。貞淑であれと育てられた姫君だ、殿方に抱き着くなどあり得ない。

 彼は胸に縋りついた清姫に、目を大きく見開いていた。しかし泣きじゃくりながら切々と「わたくしのこと、お嫌いですか」と訴えてきた清姫を優しく抱きしめてくれる。あまつさえ、「君のことを嫌うなんてありえない。大好きだよ、俺の清姫」と穏やかに囁いて、ぽろぽろと落ちる涙をぬぐってくれたのだ。天にも昇る気持ちだった。今度は嬉しくて、嬉しくて嬉しくて……涙が止まらなくなってしまったけれど。

 彼は清姫が泣き止むまでずっと寄り添ってくれていた。優しく背中を撫で、たった一つしかない心臓の音を聞かせてくれた。それがなおいっそう嬉しくて、清姫は、ああ、この人こそ安珍の生まれ変わりだと安堵したのだ。こんなに愛しているのだから安珍でないはずがない。

 かつりかつりと几帳面な靴の音がする。扉越しでも聞こえる。あの人の足音だ。ぱちっと彼女は目を開ける。清姫が間違えるわけがない。ぱっと念入りに梳かした髪をさらに手櫛で整えた。衣服に乱れがないか確認し、最高の笑顔を浮かべる。この扉からすぐにあの人が出てくるだろう。どきどきと胸が高鳴る。その緊張に酔っていたい。恋とはこんなに幸せなのか。思考がふわふわと飛び立ってしまいそうだ。プシュッと音を立てて、自動扉が開く。目の前には愛しのだんなさまが立っている。

 

「おはよう、清姫」

 

 ほら。清姫は頬を染め、とろけるように微笑んだ。彼女の笑みは女神と比べても遜色がないくらい、美しかった。

 

「おはようございます、旦那様」

 

 声は花の蜜のように甘く、唇から落ちる吐息は炎のように、あるいは花弁のように。とてとてと腕を広げて彼女は近寄る。西洋のサーヴァントたちがやっているあいさつ、「ハグ」を真似てみたのだ。少しはしたないかしらと頬を染めつつ、清姫はマスターの顔を見上げた。

 数回瞬いたあと、彼はくすりと、かわいいものを見つけたように笑う。そのまま、少年は海のような目を優しく細めて、清姫の抱擁を受け入れた。発達途中の細い腕が清姫の背中に回る。どくり、どくりと仮初めの心臓が脈打つ。全身の血液が炎になったのかと錯覚するほど身体が熱い。

 幸せでどうにかなりそうだった。愛する人と抱き合っている。それがほんの短い間だろうと、清姫の心はたっぷり満たされていくのだ。夢が叶ったと、あふれる愛で胸が打ち震える。また泣いてしまいそうなくらい、幸せだ。

 するりと彼女の手を取って、マスターは長い廊下を歩きはじめる。さりげない気遣いにきゅんとした。

 一緒に寝ることができなくても、朝起こしに行くことができなくても、彼は清姫を愛してくれている。清姫の器からあふれてしまいそうなくらい、清姫が望んだ愛を、彼は注いでくれる。彼が自分を愛してくれていることを知っているから。それだけで清姫の心は満ち足りる。幸せとは彼のことを言うのだ。

 

「今日はわたくしが朝ごはんを用意したんですよ。早く召し上がってくださいまし」

「ああ、今日は水曜日だったね。ありがとう。エミヤの料理ももちろん好きだけど、清姫の作る料理も大好きだから、いつも待ち遠しくなってしまうんだ」

「まあ! まあまあ! この清姫、もっともっと精進いたします! 旦那様の血肉になるものですもの、とびっきりおいしくて、栄養バランスの整ったものを、いっそう腕によりをかけてお出ししますわ!」

「本当? 嬉しいな。でも、無理はしなくていいんだからね」

「旦那様に関することなら、たとえ溶岩の中、深い海の底、なんだって無茶ではありませんのよ。わたくし、あなたさまのためならば、なんだってできます」

 

 えへんと胸を張った。「さすが俺の清姫、ありがとう」そう微笑む彼がいるに違いないと──絶対、喜んでくれるに違いない。清姫はそう思っていた。だって今、自分はサーヴァントとしてこれ以上なく正しいことを言っている。主の命令を忠実にこなすのがしもべの役割だと、主従関係に疎い清姫は信じていたのだ。清姫は一介の姫君に過ぎず、彼を導くことはできないだろう。ならば、自分がマスターのためにできるのは、身を捧げ、命令に従うことくらいだ、と。

 けれど、彼は少しだけ悲しそうに、憂うように目を伏せた。

 

「……気軽に、なんでもできるなんて言っちゃダメだ。もし、本当にもしもだけれど、なにかの間違いで、俺が君に『死ね』と命令したって、それを叶えてはいけないよ」

 

 きょとんと清姫はマスターの顔を見る。なにを言われているのかわからない。

 

「なぜですか? わたくし、それが嘘でなければ喜んで死にます。旦那様のためならば、わたくしの命、存分に使ってくださって構わないのに」

「君が死んでしまうのが、悲しいから」

 

 少しだけためらって、困ったように彼は笑った。眉を下げて、細められる目の奥にあるのは、清姫を案じるこころだ。かあっと頬が熱くなる。この人は本気で言っている。嘘をついたら清姫は彼から令呪を一画奪うというのに、本気で、清姫を大切に思い、心配しているのだ! 

 清姫は今にも膝をついてむせび泣きたい心地だった。

 なんて慈悲深い! 一時しか存在しない、すでに死んでいる──英霊の末端に過ぎぬサーヴァント、清姫を尊重してくれる! 使い潰されるような、彼女のあってない命というものを惜しんでくれる! 清姫は内心で快哉を叫ぶ。ああ、サーヴァントとして現界するわたくしは今までもこれからも増え続けるだろうが、こんなにも愛される「わたくし」は絶対現れないだろう! 

 感極まって、清姫はそのままマスターの手を強く握った。このまま撫でてもらえたら融けてしまいそうなくらい幸せだろう……。夢想をしながら、あくまで貞淑に、彼女は囁く。

 

「わたくし、あなた様に愛されて、これ以上ないくらい幸せです」

「それはよかった」

 

 彼の愛は彼の瞳のようだった。青い目はきらきらと穏やかに輝き、凪いだ海面のように清姫の心をどこまでもどこまでも優しく包んでくれる。受け入れてくれる。生前、身を沈め天へと昇る清姫を受け入れた、母なる海のように。受け入れられたことで、清姫の燃える恋心も少しずつ形を変えていく。本人も知らないところで、彼女を狂わせた激情の恋は、やわらかな愛へと、ゆっくり、時間をかけて変わっていくのだ。それはバーサーカーの彼女には不要だろう。けれども。愛し愛されることは、「彼女」の全部が求めていたことだった。

 ふと、視線をさまよわせた彼が、きゅうと清姫の滑らかな手を握り返す。

 

「誰か、君以外のたったひとりを愛したら、君は俺を殺すだろうね」

 

 忘れたなにかを思い出すような口ぶりだった。しかし、東から昇った日が西に沈むように、それは真理を表している。ふわっと清姫は笑った。彼はとても清姫を理解している。

 

「はい。わたくし、嘘つきは嫌いですから。あなた様と契約が繋がっている間に、万が一にもそんなことがあったら────また鐘に閉じ込めて焼いて差し上げますわ。たくさんの下僕に囲まれて、愛を振りまいていても構いませんけれど、それは、駄目です」

「うん。だってそれは、あまりに不誠実だ。死んでも仕方ないね。君を愛すると言ったのだし」

 

 誠意を以て君を愛そう。君が俺のサーヴァントでいてくれる限りは。それが、少年の返せるたった一つの報酬だから。少年はそう信じている。いっそ頑ななまでに。確かにそれは正しいことだ。まだ、この場にその危うさを指摘するほど、彼に近しいサーヴァントがいないのは、少なからず不幸なことであったが。

 

「君たちが望むなら、俺にあげられるものはなんでもあげたいって思うよ。心臓だってね」

 

 ウィンクをひとつ。少年は茶目っ気すらにじませている。清姫は、情熱的な言葉にぽっと頬を染めた。



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マシュ・キリエライト

 彼のことを頼もしく思う。優しい人だと思う。そして、自分はきっと、彼が好きなのだと、思う。笑顔を思い浮かべるだけでふわりと胸が温かくなるのだから、これは好きという気持ちのはずだ。

 出会ったのはついこの間だというのに、彼と出会ってからは、世界が色を変えていく。写真や液晶で見るよりもずっと色鮮やかに、鮮烈にマシュの網膜にその姿を見せてくる。もっともっとと手を伸ばすマシュは初めて這った赤ん坊のように無防備で、なにも知らないのだろう。蝶を追いかけるようにマシュは草原をかける。風をつかもうと手を伸ばす。青空を見たのだから、今度はソラを反射しているという海を見てみたい。海水は塩辛いって本当ですか、と尋ねるとあの人は目を細めて笑った。

 

「一緒に海を見たいね」

「はい! 次の特異点が海だったらチャンスはあります! 大航海時代は外せませんから」

「もう次の話? マシュは気が早いなあ」

「そ、そうでしょうか……」

「あはは。下手に気負うよりはいいと思うよ、気にしないで。未来の約束があるほどやる気も出るだろう。……そうだ、指切りでもしようか。海遊びをするっていう」

「指切りと言いますと、遊女が客に愛を伝える証拠に小指を切り落として贈る行為でしょうか。なかなかに物理的に痛く物騒な愛だと思います。まさか先輩も指を切られるので……?」

「いやいや、そんなまさか。小指と小指を絡めて約束したことを確認するだけだよ」

「なるほど! 儀式ですね!」

「あー、うん、それでいいや」

 

 するりと手袋越しに、彼と自分の指が絡む。ゆーびきーりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます。ゆびきった。熱が小指から離れていく。彼はあどけなく、ふふと笑った。とくりとなにかが胸で息づいた。

 炎の中でマシュのことを握ってくれた手は、今もときどき繋がれ、彼がマシュのことを引っ張っていってくれる。「ご覧、マシュ、空が青いよ」と微笑む彼の目は穏やかだ。子を見守る親、妹に笑いかける兄、睦言を囁く恋人。万華鏡のようにくるくる、きらきらと彼はマシュの中で姿を変える。決まってマシュは「はい、先輩」と返すけれど、それにどんな色がついているのかは、自分でもよくわからない。

 ただ、この人がきっかけとなって、自分のすべてが変わっていくのだろうという、かすかな確信があった。それは優しくマシュの手を引き、温かいものをくれる。「カルガモの親子のようだ」と眼鏡の毒舌作家には言われているが、先輩のあとをついていけるならカルガモでもいいかもしれないなど、彼女はちょっぴり思っている。

 彼のような人間らしい人間に出会ったのが初めてだったから、ここまで彼が気になるのかもしれない。少なくともカルデアにはこういう人材がいなかったのだ。二年以上滞在していたカルデアのことは嫌いではない。スタッフたちはぶっ飛んだ天才とも、稀代の奇人とも言えるが、彼らのことを悪く思ったことはなかった。

 ただ、標高6000メートルの山脈に作られた地下工房という性質上、自然物をろくに見ることができないのだけ、不満ではあった。外に出たいと思ったことがどれだけあったことか。少年と初めて会ったときだって、マシュは地上の窓ガラス越しに空を見ていたのだ。吹雪に覆われた白い世界は、好きでもなければ嫌いでもなかった。しかし今は違う。「外」をマシュは歩き、駆け、「外」で呼吸をしている。これがどれだけ素晴らしいことか。奇跡のようだ、とマシュは思う。特に、自分は普通の人間とは違って寿命が設定されている。このグランドオーダーに立ち会わなければ、触れることすら叶わなかったものの中に、マシュはいるのだ。

 草の香り、肌を撫でるそよ風、大地を踏みしめる感触、燦々と降り注ぐ陽光の温かさ。なにもかもが新鮮で、五感をフルに活用するということを自分は今まで知らなかったのではないかと思うほど。世界はとても美しく、力強いのだと、旅を経て初めて知った。

 

 一つ目の特異点修正を終え、第二の特異点が見つかるまでの間できるのは、かすかに残っているフランスの地に存在するバグの修正くらいである。終息へ向かうフランスには、まだワイバーンやドラゴン、ウェアウルフなどの残党がはびこっている。より早く人理定礎を定着させるためにはエネミーを排除するのが一番手っ取り早い。修行も兼ねて、カルデアのチームは頻繁にフランスへレイシフトしている。変化が劇的なのはマシュだった。彼女は戦闘経験を積めば積むほど、イメージ通りに身体を動かせるようになっていく。勘を取り戻すような、身体を馴染ませるような……。特異点Fでもわかっていたことだが、自分に足りないのはなにより経験なのだと痛感した。そして、味方のサーヴァントも、オルレアンに挑戦したときより霊格を取り戻し、ずっと強くなっている。──慢心していたのかもしれなかった。

 

『ショーンくん!!』

「マスター!!」

 

 クー・フーリンとドクターの声にはっとして、振り向いた瞬間にはもう遅かった。ぎらりと輝いた斧が彼へ向かって振り下ろされ、肉が切り裂かれる。サーヴァントの視力は明確に事象を捉え、数秒先の未来を容易に予想させた。カバーリングに入る──だめ、間に合わない。強制的にエネミーのヘイトをこちらに向ける──[[rb: まだ >…… ]]自分にはできない。スタートダッシュが一歩速かったキャスターには追い付くことができず、マシュは顔色を絶望に染めた。先輩、と叫ぶことすらできない。

 あ、斧が、彼の細腕に食い込んで──腕が、あ……ああ──!? 

 ガチンと金属が跳ね返る音がした。次の瞬間には、エネミーの頭が炎で吹き飛んでいた。

 ……? いま、なにが起きた? 

 マシュは呆然とする。

 

「おい! 坊主! ──マスター! 無事か!?」

 

 しかし、慌てたキャスターの叫びですぐに意識は現実に引き戻された。今度こそ駆け出して、マスターの元に向かう。

 

「先輩! 先輩ッ!」

 

 鎧の振動すらうるさい、鬱陶しい。彼への距離が遠い。盾が邪魔だ。捨てたい。──いや、これを捨てたら、また彼が襲われたとき、身体くらいしか壁になれるものがない。それはダメだ。あの人が悲しむ。呼吸が上手くできない。こんな短距離を全力で走ったくらいで乱れるような身体では、もう、ないのに。

 クー・フーリンが彼を抱き起こしている。手の中の杖は赤く発光し、周囲をかすかに歪ませていた。彼の気配も武器と同じくらい剣呑だ。腕に抱かれた少年の、腕が、しとどに赤く、濡れて。マシュは恐怖を感じた。カルデアの中だけが彼女の世界だったとき、感じたことのないような、激情が身体中を走る。彼の状態を認めるほどに心が荒れ狂い、慟哭が喉を焼きそうだ。しかし、少年がやや青ざめた顔でぽつりと呟いた。それを聞いて、マシュは一気に冷静になった。さくりと草を踏む。後ろには陥没した地面があった。

 

『生きてる!? 生きてるね!? うわっ重傷じゃないか! 早く帰ってきて、治療の準備はしておくからっ! レイシフトの準備!!』

「死ぬかと思った。あとドクター落ち着いてくださいよ」

「……オレも腕の一本はイッたかと思ったわ。いてえだろ、ちょっと待ってろ」

 

 すいすいとクー・フーリンの指が少年の胸をなぞる。淡く光る軌跡はすうっと彼の中に染み込み、光が消える頃、ほうと少年は息をついた。

 

「ありがと。麻酔?」

「そんな感じだ。いや、しかし派手にやられたなこりゃ……あと半分入ってたら切れてたぞ。嬢ちゃんはこっち来んな。骨が見えてる」

「でも……」

 

 側にいられない方がよほど不安だ。マシュはためらった。クー・フーリンがマシュのためを思って言っているのはわかるが、どくどく脈打つ心臓が彼の近くにいたがる。一歩踏み出すとまた草が鳴った。ゆっくり、静かに、彼の目が、こちらを向く。唇が動いた。吐息が少しだけ漏れる。

 

「マシュ。見ないで」

「……はい」

「あ、でも帰り運んでくれると助かるなあ」

「! わかりました! 先輩の身体に負担にならないよう、丁重にお運びいたします!」

「うん、頼もしい。クーはなんか布と添木ちょうだい。片手でも応急手当くらいは自分でできるようになったから」

「へいへい。しかしあの攻撃をどうやって弾いた? 硬化でもしたか?」

「あ、やっぱりわかる? 目いいね」

「耳だよ耳。身体斬るつもりであんな金属音はしねえよ」

「あー」

「ほれ布に木」

「わーおセクシー。今めっちゃダイナミックに裂いたね? お願いだから帰るまで霊体化しないでね? 止血できないよ」

「わァってるわァってる」

 

 クー・フーリンはひらひらと手を振った。軽口をたたきながら、少年は器用に自分の片腕に処置を施している。よかった、心理的ダメージは少ないようだ。マシュはほっと息を吐いた。「もういいよ」と言われるのを待ってから近づき、膝裏に手を差し込んで彼を抱き上げた。クー・フーリンが二人を見てくつくつ笑っていたが、マシュにはなにが面白いのかわからなかった。

 

「素材の回収したー?」

「おー、ばっちり」

『こっちも準備できてるよ。ショーンくんの治療はサンソンくんに任せる、本当はボクができればよかったんだけど』

「気にしないでください」

『うん……ごめんね。じゃ、レイシフト開始!』

 

 腕の中にいる彼は、びっくりするくらい軽い。その命の儚さを思い知らされるようで、マシュは彼を抱え上げる腕に力を込めた。……もっと、強くならなければ。彼が害されることがないように。この人は希望なのだ。マシュが今まで知らなかったこと、無意味だと思っていたことに、意味を与えてくれるような──。人類救済より、彼を失うことの方が怖いのかもしれない。マシュは深く呼吸をした。彼からは日光の匂いがした。

 



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シャルル=アンリ・サンソン

 彼を哀れだと思う。悲しいと思う。可哀想で――可愛いと、思う。倒錯した感情に辟易することもあるが、それが正直な感想だった。

 

「まったく、貴方はまたこんな怪我をして。物資のことを心配するならもっと自分を大切にと……」

「はい……ごめんなさい……」

 

 人類最後のマスターだなんて仰々しい肩書を得てしまった、十五過ぎの子供はうなだれた。腕を出せと言ったサンソンの言葉に粛々と従い、添木と布で覆われたそれを晒した。サンソンがてきぱきと彼から固定用の布などを外せば、ぐっしょり濡れた細い腕が眼前に差し出される。本来まっすぐ伸びているはずのそれは不自然にねじ曲がり、白い骨が露出していた。噛みしめた奥歯がぎしりと鳴る。それはみすみす自らのマスターに傷を負わせたシールダーやキャスターへの怒りでもあったし、痛みを感じていないような彼の態度に対する苦々しさでもあった。というか、こんな大怪我をしたらショック死してもおかしくない。腕がちぎれかかっているのだから。

 

「よくここまで歩いてこられましたね」

「え? だって足は無事だし」

「そういう問題ではありません。……応急処置は大変上手にできています。よくできました。今は感覚、ありますか?」

「んー……押されているのはわかる。触覚は働いているみたいだね。クーのルーンもよくわからないなあ……もっと講義増やしてもらおうかな。原初のルーンまではいかないけどないよりまし程度に仕上げたいんだよね」

「自分の心配をしない口はこの口ですか」

「ごめんなさいごめんなさい」

 

 ぎゅっと頬をつねると、痛くないと言った口で彼は「痛い」と目を潤ませる。そんなこと思ってもいないくせに。サンソンは眉を寄せ、嘆息した。

 痛くないはずがないだろうに、魔術によって痛覚を遮断したと言う彼はけろりとしている。いや、いくらかの申し訳なさをその顔にたたえているのだが、それは自分がけがをしたことへの悲しみ、痛みの忌避ではなく、サンソンに手間をかけさせ、カルデア内で限られた医療品を消費すること。どれだけ最短ルートを取ろうが腕が治るまでに時間がかかり、その間自分が役目を果たせないこと。マシュやクー・フーリンに罪悪感を持たせてしまったこと。それらに対する申し訳なさ、だ。サンソンは再び嘆息した。

 本人は腕一本で済んでるんだから全然問題ないとでも言いたげである。目は口よりも雄弁。

サンソンはぐにぐにとこめかみを揉んだ。血圧が上がるようで不愉快だった。人体の構造をしているとはいえ、自分は今魔力で構成されていて、心臓が血液ポンプをしているという仕組みは形骸化している。それなのに怒れば頭に血が上るような錯覚があるし、逆に恐れを感じたら指先などの末端がひやりと冷える。これでは生きているようだ。自分は確かに死んだというのに。それもこれも、目の前にいるマスターがサンソンの感情をガンガン揺り動かすからいけないのだ。がむしゃらに自分にできることを探して、道を突っ走っていく彼は見ていて危なっかしく、痛々しい。

 苛立たしげにサンソンは事前にダ・ヴィンチから手渡された小瓶を取り出した。通常ならマスターの骨折は折れた骨を繋ぎ直すためにボルトを埋めるとか、肉をくっつけるために縫うなどの処置が必要であるし、治療期間とリハビリが必要である。しかし戦時下の現在そんな余裕などない。そこで取り出したのがこの霊薬である。さすがは魔術協会、アトラス院、国連のバックアップがあるだけあって、カルデアでの医療には科学と魔術が導入されていた。治癒魔術のスクロールを使うという意見もあったが、あれは緊急時のレイシフト先でこそ使うべきである。

 瓶を傾けてみると、ぬらりと中身が光った。淡く発光する紫の液体はわずかにとろみがあり、これを人体に突っ込んで大丈夫なのかと疑う気持ちもある。そもそもサンソンは魔術を信頼しきれていないのだ。自分がそういう存在になっていて、生前聞いたら鼻で笑うような戦闘をこなし、どっしゅどっしゅとワイバーンの首を落とし続けても。きゅぽんと蓋を外し、注射器の中に詰めていく。中身が満たされるのを待って、彼の折れた骨を元の位置に直した。違和感がするのか少年がうなる。

 

「筋肉に直接打ちます。力を抜いて」

「はい。……あー、すごく刺さってる。めちゃくちゃ刺さってる」

 

 あー……と虚無に過ぎる彼のうめき声を聞き流す。疲れているんだろうなと向精神薬の処方を検討した。特に新しく召喚したサーヴァントが増えるたび、彼は怒涛の人生レコードを夢に投射されて寝不足に陥っているようだし、夢も見ずに活動時間を迎えられるような睡眠導入剤は出すべきだろう。ロマニへの打診を考えつつ、注射器を押した。全部注入し終わったのを見届けてから、肉と骨が外気に触れないよう包帯を巻きつける。双方無言。包帯のこすれるしゅるしゅるという音だけが部屋に響く。

 サンソンはたいして遠くもない過去に思いを馳せた。初めて彼と出会った日を覚えている。忘れることなどできない。あの日からすでに、彼の核にはひびが入っていて、今も現在進行形でぱきぱきと崩れ続けている。サンソンにできるのは延命だけで、根本的な治療ではない。歯がゆい。また奥歯が軋む。

 聞こえたのか、彼がサンソンの目をじっと覗き込んだ。静かに、サンソンはそれを見つめ返す。誰かがマスターの目は海のようだと言っていた。なるほどとサンソンも頷いたものだ。彼の目は、深海に潜む孤独と似ている。表層に出てきたら生きていけないような、儚いもの。彼には間違いなくそういう性質がある。だから、こんな浅いところに来るべきではなかったのだ。サーヴァントなど、関わり合いにならない方がずっと幸せだろう。魔術はまったくもってまともではない。発展した現代医学にわずかだが触れ、この知識や道具があれば、生前救えなかった患者もあるいはと歯ぎしりしたサンソンである。過去の方が優れているという考えそのものは、到底受け入れることができない。

 出会いを否定するわけではないけれど、こんな世界なら出会わない方がよほど幸せに人生を送れただろうに。憐憫の情は泉のように涸れることを知らぬ。

 シャルル=アンリ・サンソンは初めてこのマスターを見たとき、呆然としたのだ。手に握った斬首剣が床に跳ねなかったのは、ひとえに武器を手放すことを理性が咎めただけに過ぎない。

 

「助けてください助けてくださいお願いします助けて助けてくださいお願いです俺にできることはなんでもします助けてください助けてください助けてください助けてください……どうか……お願いですお願いですお願いですお願いですお願いします……助けてください……」

 

 彼は、召喚サークルの前で、額を床にこすりつけ、延々と懇願していた。異様な光景だ。ぞっとした。とんでもないところに呼ばれてしまったのでは、と思ったのはマスターらしき人物を観察してからである。

 見れば幼い子供。未発達な手は二次性徴もまだのような小ささ、肩幅は頼りない。英霊へ求めているだろう助けは声変わりを迎えているかも怪しい。幼いを通り越して、弱いという印象を受ける。ただ、吐き出される言葉と思いはぐらぐらとサンソンを揺さぶった。

 サンソンが名乗りを上げてようやく、子供は顔を上げた。

 

「ああ――――来てくれて、ありがとう」

 

 くしゃりと。今にも泣きそうな顔をして、絞り出すように、彼は言った。その言葉に嘘の一つもないことが、余計サンソンの顔を固くする。

 あまりにも悲痛。あまりにも悲愴。

 なんて、哀れな。……主はなぜ斯様な子供に試練を与えるのだ?

 

「サンソン?」

 

 真綿のような声にはっとした。治療は完璧に済んでいる。サンソンは、なぜか彼の手を握って祈るように額に当てていた。マスターが困惑しているのがわかる。詰めていた息をそっと吐き、「失礼しました」と手を離した。

 

「……痛いなら痛いと言いなさい」

「えっ」

「いいから聞く。それは人間として当たり前のことだ。誰も貴方を責めはしない。いや、責めるものがいるなら僕が刑を執行します。これぞ円満解決。霊核そのものは厳重に保管されているのですし、一回や二回死んだところでまったく問題ないでしょう」

「えっ、えっ? ……あるよ!? 問題あるよ!? そっちの方がリソースを消費するのでは!?」

「どこがです? 多少の無駄には目をつぶっていただきましょう。僕の患者を追いつめるものなど万死に値します。ついさっき言いましたよね、もっと自分を大切にしろと。貴方は自分がどれだけ替えの利かない存在か自覚すべきだ。カルデアで召喚された今回だけとはいえ、我々に根本的な消滅はないに等しい」

「まあ本体っていうか霊核はばっちり厳重保管してあるしね」

「ええ。ですが貴方は違う。死ねば終わりです。医者として、貴方のサーヴァントとして、精神肉体共に健康を保ち、貴方の首/命を守ることは当然の義務。おわかりいただけますか?」

 

 嘆息し、左手で口を覆う。軽く顔をそむけると、ますます少年は困ったように眉を下げていた。どう返事をしたものか言いあぐねている顔だ。それを流し目で見やる。そのまま、ぽつりと、飾り気のない声が落ちてきた。

 

「ああ、こう言った方がいいか。『心配だからやめてください』」

「……心にもないことを……」

 

 すっと、その青い目が凍り付くのを見た。ちっと舌打ちをしたくなる。冷めた目で嗤う子供に、今度こそサンソンの顔に青筋が浮いた。このクソガキ。ぐらりと腹は煮え、頭は熱したヤカンのようにシュウシュウ湯気を立てている。思考の中をあらん限りの罵詈雑言が駆け巡る。唸るように、サンソンの口の中でとどまった半端な言葉たちが生まれぬままに死んでいく。この瞬間、目の前の彼はマスターではなく、サンソンの言葉をまっすぐ受け止めてくれない困った患者でしかなかった。ガンッと椅子を蹴倒して立ち上がる。喉がひりひりと焼けるように痛い。どくどくと頭の血管が脈打つのを感じる。

 怒っているのだ。僕は今、怒っているのだ。怒れば怒るほど、悲しみは増幅し、目の前の子供が冷たく凍っていくようだった。

 

「なぜ心にもないと決めつけるのですか……! 僕の気持ちも知らないで!」

「ごめんて」

「最近態度が雑じゃあありませんか。……ですがこう言わなければ貴方は止まってくれないでしょう。困った患者(マスター)だ」

「それに関してはとても申し訳なく思っております。ごめんなさい」

 

 ぺこっと居住まいを正した彼がきっかり45度頭を下げる。サンソンはがりがりとあらわなうなじをひっかいた。全然わかっていない。わかっていても改める気がないなら意味がない。自分の言葉は虚空に溶けるばかりでなにひとつ彼には届いていないのか? 悲しくなる。

 

「僕は、そんな言葉を聞きたいんじゃなくて」

 

 なにを聞きたいというのだろう。わからない。ただ、これじゃない。ぐっと唇を噛んで俯いた。音もなく立ち上がった彼の手が伸びてくる。頭一つ分小さい彼の、最近になってタコや傷ができ始めた――それでもまだきれいな手のひらが、うつむく自分の顔をすくいあげるように、頬を包み込んだ。じわりと体温と一緒に魔力が移ってくる。

 

「足りています。いりません」

「あげたかったから。だめ?」

「………………。貴方という人は、どうしてそうひどく、ずるくあれるのですか」

 

 眩暈を感じた。じくりじくりと胸が、かきむしりたいくらい痛む。「ひどいひとだ」かすれた声が出る。老人のようにしおれた声だった。それにすら疲れを覚え、そのまま目を閉じる。繊細な動きで染みわたる魔力はぬるま湯のようだった。

 本当の意味で彼が内側まで領域を許している存在はこの施設の中にいるのだろうか。大真面目に疑わしく思う。……自分は、彼の一生のうちほんの少ししか側にいられない。普通の聖杯戦争に比べれば長いこと彼の成長を見守れるだろうが、現在進行形で壊れていく子供になにをしてやれるだろう。彼になにを残せるだろう。

 ああ、せめて、哀れな救世主の最期を看取れたら。――――神がこの子を救わないのなら、自分は希望を見せてやりたい。



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ハンス・クリスチャン・アンデルセン

 ぱちりと閉じていたまぶたが開く。青い目は猫のように闇に浮かび上がっていたが、彼はそれを自覚していない。見えないのだから当然である。鏡があれば話は別だが、もう夜も深い。マリー・ミラは省エネモードになって寝ているだろう。ちらりと鏡がある場所を見やって、少年はうーんと伸びをした。ふわあとあくびが出る。腕を伸ばすと少しだけ皮膚が引きつるようだったが、特に問題は感じない。二日前にちぎれそうになった腕はもうしっかりくっついていた。

 マシュとクー・フーリンには悪いことしちゃったなあと、少年はおとといを思い出しながらまばたきをした。デジタル時計を見たところ、今は二時らしい。早寝したせいか変な時間に起きてしまったようだ。足元を非常灯がぼおっと照らしている。少し考えてから、少年はベッドを降りて、寝巻のまま普段履いている靴ではなく、サンダルをつっかけた。疲れは取れているし、寝直す気分ではない。ならば散歩でもして時間を潰すのがいいだろう。そういう考えだった。

 オレンジの非常灯が低いところを照らすのを見ながら、ふらふらと彼はカルデアの中をさまよった。誰も起きていない。当然か、と少年は思い直す。体内時計を正常に保つためにも、夜勤ローテを組んでいる職員以外は寝ているはずだ。ロマニも寝ていたらいいなあと思う。現状所長代理を務める彼が誰よりもカルデア内のことをすることができて、彼自身もやらなければならないと思っているようだが、人間は休まないとパフォーマンスが落ちる。英霊のダ・ヴィンチちゃんのように八面六臂の大活躍をガンガンできる方がおかしいのだ。比較対象にしてはいけない。

 管制室に行けば誰かいるだろうが、仕事の邪魔をするのは本意ではないし、なにより人に会いたいわけでもなかった。ふらふらと、かどわかされるように、特に目的もなく少年は歩く。窓には全部ブラインドがかかっていて、外の景色は見えない。まだ外は燃えているだろうか。燃えているのだろうな。立ち止まって、彼は窓の外を想像した。一面の赤、煙の黒、青さが失われた空。明確にカルデアの外を見たことはないのだが、あるとしても冬木と同じ光景か、一面の暗闇だろう。暗闇の方がいい、と再び歩き出しながら少年は思った。炎の光が強すぎて星の一つも見えないのは嫌だ。滅ぼされたのは人類だけなのだし、宇宙と惑星はしっかり現存していると思うのだが、実際どうなのだろう。星図は彼が願えば少しだけ先の、不安定な未来や、これまであった過去を教えてくれる。星はいつも歌っているのだ。人間がいなくなったところで、それは変わりようがない。地球が死んだって他の星まで滅びるわけではないのだから。

 

(根源とか英霊の座って、宇宙の外にあるんだっけ。スケールでかい。やっぱり魔術師は頭がやばい)

 

 魔術師としてのプライドがあるなら口が裂けても言わないだろうことを考えながら、歩く、歩く。ふと、彼は顔を上げた。どこまで来たかと思ったが、書庫の前らしい。蛍光灯の白い光が漏れている。誰かいるのだろうか? ぱちぱちと瞬きをして、彼は中に入った。

 

「先生? まだ原稿してるのかい?」

「……なんだお前か。ちょうどいい、茶かコーヒーを淹れてくれ」

「はいはい」

 

 本棚の林をくぐり抜けて開けたスペースまで行くと、本をたけのこのように積み上げた子供がいた。白衣を纏った青い髪の彼は、ヘッドホンを外しながら面倒そうに少年を見る。少年は肩を竦め、ポットとカップに手を伸ばした。「子供は寝る時間のはずだが?」と、嫌味たっぷりに、外見に見合わぬバリトンボイスで毒を飛ばしてくる。くつくつと少年は笑った。

 

「草木も眠る丑三つ時に活字に浸かってる人に言われたくないなあ」

「仕事がなければ俺とて眠る。仕事がなければ。俺の夜更かしを嘆くなら、俺に仕事を要求するお前が悪い」

「それもそうだね。はいコーヒー。ミルクと砂糖はいらないんだろ?」

「餓鬼扱いするな」

 

 差し出したコーヒーカップはすぐにひったくられ、小さなアンデルセンがブラックコーヒーをぐいっと煽る。いい飲みっぷりだ。酒でも飲んでいるようだが。なんだか面白くなってまた笑った。すると、青くて丸い目がこちらをじっとり見つめてくるではないか。視線はどこか刺々しい。敵意などはないのだが、なんというか……見透かされるような? 少年は首をかしげた。チッと小さな口からガラの悪い舌打ちが飛ぶ。

 

「……おい、いつまでその振る舞いを続ける気だ」

「その振る舞いって?」

「下手な嘘はいい。化粧が取れているぞ、道化め」

「えっ……道化はひどくない……?」

 

 ガタガタと椅子を引っ張ってきて、「人類最後のマスター」はアンデルセンの向かいに座る。普通に座るのではなく、背もたれを前にして足を広げ、両肘をついているのはたいそう行儀が悪かったが、ここにマスターを咎めるような世話好きのサーヴァントはいない。二人きりである。アンデルセンは面倒そうにタブレットから顔を上げた。ブルーライトカット加工が施された眼鏡が光を反射し、蛍光灯が一瞬青く光る。彼の青すぎる目は心底不思議そうにアンデルセンを見ていた。ついでに言うとあざとく小首をかしげている。

 

「円滑な関係を作ろうと思ってやってたけど……そんなにダメ? 鏡使って強めに自己暗示かけただけだよ?」

 

 アンデルセンは大きく嘆息した。肺が空になるほど息を吐いた。馬鹿にしているのは伝わっているらしい。不満げに、「えー」と唇を尖らせている。この子供は、アンデルセンやサンソンといった、少なからず内側に踏み込ませているサーヴァントを前にすると、ことさら幼くなる。年相応かそれ以下で振る舞えるのが自分たちの前くらいしかないのだろう。哀れな。アンデルセンはレンズの奥の目を細める。そして、彼の行いをこき下ろすための言葉を舌に乗せた。

 

「やりすぎだ。そもそもそんなものを! 強めに! かけるな! お前本来の面白さが薄れる!」

「ちょっとどういう意味」

「……。他人の理想を体現し続けるとどうなると思う?」

「わかりやすく逸らしたね」

「いや聞いたところで無駄だったな、答えなくていい。わざわざ緩慢な自殺をしていたマゾヒストだった。よーく耳をかっぽじって聞くがいい。お前がお前でなくなるのさ。誰でもない誰か。顔のないピクトグラム。アイデンティティの崩壊。無辜の怪物に成り下がる気か。俺のマスターは人間のはずなんだがな? おっと頭に救いようのない馬鹿がつくときた。しかしどれだけ馬鹿だろうと、間違っても人形ではないし、血と肉が詰まった袋でもないだろう。我欲、自我をどこにやった? 今すぐにでも探しに行け。それはそれでネタになる」

 

 心外だ、と言うように、ぱちくりと瞬いたあと彼は目を細めた。

 

「自我ならあるよ。自己主張控えめにしているだけさ。嘘だってついていない」

「そうか」

「そうだよ」

「……ヴァカめ!! それで納得すると思うなよ! おかしなことかだと? おかしい! はっきり言ってやる! もっと主張しろ。自他との境界を削り続けるお前は見るに耐えん。元から少ない人間性がなくなるぞ。アンドロイドにでもなる気か? なにより原稿が進まん! 早急に治せ!」

「マリーとおんなじこと言う」

「百合の王妃はここにはいないだろう。……あの処刑人兼医者に付き合って幻覚を見るようになったか? 哀れな……」

「サンソンがそっちのマリーに心酔してるのは『らしい』ってことしか知らないから面白いリアクションはできないよ。そっちじゃなくて、俺が持ち込んだ礼装。鏡だよ。今度会わせようか」

「なに? ……ああ、『使っていた』やつか。待て、会わせるだと? 自律行動可能なブツか?」

「おおざっぱに言うと白雪姫の鏡」

「なるほど把握した。それはネタになりそうだ、早く見せろ」

「朝になったらね。ところで原稿ってなんの? 人魚姫の続きとは関係なくない……?」

「お前の物語以外になにがある? 珍しく察しが悪いな。ボケたか? ……チッ忌々しい。凡俗汎用型主人公の冒険譚にしようと思っていたがなしだ。全部書き直し。お前のそれは愚者の行進/聖者の葬列だ。まったく、此度のマスターは取り繕うのが達者で困る。もっと我を出せ、我を。言葉とお前に真摯でなければお前のための物語など書けん」

 

 そもそもだ、とアンデルセンは腕を組んでふんぞり返った。浮かぶのはニヒルな笑み。

 

「貴様のような大馬鹿者を書き留めずにどうしろというのだ? いいからネタを出せ。Hurry, hurry, hurry!」

「ドクターの漫画読んだ?」

「なかなか面白かった」

「そりゃいい」

 

 けらりと子供は子供らしく笑った。

 

 

◆◇◆

 

 

 剥き出しのあいつを見破れる英霊はどれだけいるだろう。思い浮かぶのは、虚飾を見抜く目を持つ施しの英雄。自分のような人間観察、あるいは観測する力に特化した作家英霊。

 人間見たいものしか見ない。世界最後のマスターとなった彼は、これからもたくさんの影を重ねられるだろう。分霊の記録を思い起こすほど染みついたかつてのマスターや、彼らが愛したモノ、憧れたモノなどが、好意と共に彼を襲うだろう。そして、彼はそれを受け入れる。馬鹿なことにそれが「いいこと」だと思っているのだから。そうでもなければ他人の理想を体現しようなどとは思うまい。

 

「俺が魔性菩薩をあの異常で凡庸な理性的狂人に重ねたら世も末だな。今が末だが」

 

 作家は深いため息をつき、眼鏡を外して目頭を揉んだ。




これにておしまい。他の首塚菖蒲シリーズを投げるかは未定です。感想や評価を頂けると励みになります。


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エクストラ小話
呼称による存在の固定化:ロビンフッド


掘りだしたらモノがあったので初投稿です。時系列は一部二章前くらい?


「おかえりショーヴくん! やった、今日は噛まずに言えたぞぅ!」

「ただいま帰りました。ねえドクター、そんなに発音しづらいならショーンでいいって言いませんでした?」

「あはは、意地みたいなものだよ。今日こそは言うぞーって、ね? 日本語の名前はときどきびっくりするくらい発音しづらいから、次もうまく言えるとは限らないけど……」

「だからショーンでいいって言ってるのに。日本出身のサーヴァントくらいしかうまく言えませんよ、俺の名前なんて」

「ええーでもなあーせっかく言えたのになー」

 

 別に自分にはこだわりがあるわけでもないのに。菖蒲は小さく嘆息した。名前なんて、誰のことを指しているのかわかればそれで充分である。少なくとも菖蒲はそう思っている。ただの記号に過ぎない。

 まだ知り合って日の浅いサーヴァントたちはきっと、菖蒲の個人名などどうでもいいと思っているだろう。彼らにとっては菖蒲が「契約者の人間」だとわかっていればなにも問題ないからだ。マシュはすっかり先輩呼びが板に着いてきた。現在、このカルデアで菖蒲のことを名前で呼ぶのはロマニか、ダ・ヴィンチちゃん、あるいはスタッフたちくらいである。

 しかしこの人には変える気がないんだろうなと、唸るロマニをやや呆れた目で見た。そのまま肩を竦める。彼のちょっとした心遣いで、肩に入った力が抜けるのも事実だった。

 

「でも舌を噛んでも困るから、わざわざそんなチャレンジしなくていいです。俺のせいだと思うといたたまれない。呪文(スペル)だって馴染みのある言語を使うでしょう? それと同じです。最適化ですよ」

「でもさあ」

「ドクター?」

「……わかったよ、ショーンくん」

 

 彼は眉を下げ、頬をぽりぽり掻きながら頷いた。納得しているとはとても言えない表情だった。

 バイタルチェックを受け、なんの異常もないと診断されてから、マイルームへ足を向ける。途中すれ違うサーヴァントたちは、みんな、自分のことをマスターと呼びながらお疲れと手を振ったり、今日の夕飯はなにかとか、他愛のない会話を交わしていった。

 カルデアではサーヴァントにも食事や睡眠を勧めている。魔力不足は起こり得ないし、スタッフの大半も魔術師でサーヴァントにそれらが必要ないこともわかっている。わかっているのだが、人間の形をしている彼らが三大欲求を満たしていないのはどうにも居心地が悪い。食べることも寝ることも娯楽にはなる、いいから食って寝ろと言い始めたのは菖蒲だった。

 魔術師の端くれの端くれ、回路があって初歩魔術を習ったことがあるだけで、他は至って普通に育ってきた菖蒲には、自分がほとんど一般人であるという自覚がある。一人で食べる食事は味気ないし、マスターの自分は休息をとらなければ効率が落ちる……というのは、うまく働けない申し訳なさに繋がりやすい。あと同じ釜の飯を食うといくらか距離が近づく。会話だって同じ体験をしながらした方が盛り上がるってものである。戦闘を切り抜けることで心の距離が縮まるのもそういう理由なのではないか? つまりは心の問題なのだ。外部との連絡はできない、協力も取り付けられないが、カルデア内では自給自足が滞りなく行われている。天才さまさまであった。ダ・ヴィンチちゃんを拝むしかない。

 てくてく真っ暗な外を見ながら歩き──なにせここは地下だ──部屋のドアの前に立つと、横からぽんと肩を叩かれる。ああ、と菖蒲は彼を見上げた。

 

「ようショーン、おかえり。今日は種火の周回でしたっけ?」

「ただいま、ロビンフッド。うん、今日は弓の日だったからあとで思いきり吸収して/食べてもらうよ」

「うへえ~ほどほどにしてくださいよ~」

「はいはい」

 

 緑のフードを取っ払った彼は、本気で嫌そうに顔をしかめた。あまり霊基の強化が好きではないらしい。前にどうしてと尋ねたら、魂を改竄されているようでくすぐったいのだと彼は言った。

 くすくす菖蒲は笑う。サーヴァントの中で、一番友達のように菖蒲を呼ぶのが、このアーチャーだった。第一特異点で彼をさんざん引っ張り回したからか、それともあまりに余裕のないカルデアや、人類最後のマスターという大きな肩書きを背負わされた菖蒲に同情してか。最初はツンケンしていたくせに、彼は早い段階から、キャスターたちと同じように菖蒲と信頼関係を築いていた。

 ひねくれた物言いをするものの、根っこは善人で、回りくどくマスターの心配だってする。癖のある英霊たちの中で、彼は特に親しみやすい存在だった。元の精神構造が生まれながらの英雄とは違っていたのかもしれない。彼は自分が英雄とされることにも少しだけ、戸惑いを見せるだとか、オレはそんなんじゃないと顔を背けるようなところがある。まあなんというか、普通の青年のようだった。だからか菖蒲がガードを緩めるのだって比較的早かったわけだ。今では近所の兄ちゃんくらいの距離感である。

 

「ショーン?」

「いや、なんでも」

「ならいいですけど」

 

 わしわしと頭を撫でられ、菖蒲は目を細めた。夕食までの間、少し話そうと誘われて断る理由はない。こっくりうなずき、菖蒲はロビンフッドを部屋に招き入れた。

 

 カルデアに帰ってきて、開口一番に自分の名前を呼ばれる。それだけのプロセスで自分が人類最後のマスターから、ただのエセ魔術師・首塚菖蒲に戻れるような、そんな気がするのだ。いいことではない、と思う。求められているのは救世主であって一個人ではないのだから。そうやってまた、求められている在り方を夢想しては目を閉じる。今日もサーヴァントたちの過去を夢に見るだろうか。痛くないのがいい、と思いながら、菖蒲はレム睡眠に身を委ねた。

 

 

 夢の中で意識を得ると同時にワイバーンの群れが襲ってきた。思わず頭を抱える。自分の前には頼れるアサシンサーヴァントと緑衣のアーチャー、側には後輩。無惨にあの爪で身体を引き裂かれることはないらしい。少しだけ、肉体に入った余分な力が抜ける。

 

「先輩、指示を!」

「……ああ」

 

 まさかこんなにはっきりとした明晰夢で、サーヴァント一人一人に関係ない情景を見るとは思わなかった。これは菖蒲の過去だ。菖蒲の記憶だ。他の誰のものでもない。それだけあのワイバーン地獄や、相性の重要さが身に染みていたのだろうか。夢だし倒しても素材は手に入らないだろうなあと少しがっかりしつつ、菖蒲は指揮を振るい始める。

 冬木でもわかっていたことだが、この聖杯戦争──聖杯戦争と言うのが正しいかはこの際考えないことにする──で必要なのは、大量のサーヴァントと契約すること、エネミーの戦力を分析すること、彼らの力が発揮できる編成を組むことである。本来の形式では三騎士四騎の三竦みはないらしいが、今はある。つまりエネミーのクラスが限定されている状況ならば有利になるサーヴァントたちをまとめて編成することが最適なのだ。嫌でもそれがわかったのが、オルレアンでの旅路である。

 なにせ冬木の土壇場で引き当てたのがメフィストフェレス、次に契約したのはキャスターのクー・フーリン。悪魔と導くものに挟まれて行ったオルレアンは地獄だった。召喚サークルを設置するまでの間に襲ってくるワイバーンの群れはマシュに頼りきり。あれを思い出すといまだに頭痛がする。フランスにいる間に召喚した佐々木小次郎とサンソンに血路を開いてもらったようなものだ。

 燕を斬るためにキシュア・ゼルレッチ現象を起こす佐々木には本気で馬鹿じゃねーのと思った。武術で魔法に到達しないでほしい。学者やって魔法を目指してる魔術師が泣きそう。菖蒲が架空の時計塔にいる魔術師のために心を痛めるほどだった。現実逃避だった。

 一方で、サンソンはバーサーク・アサシンと遭遇した直後、あまり使い物にならなかったが。「あれは僕の側面ですがあなたと契約している僕ではないのですわかりますかマスター!!」とがくがく首を揺すられて吐きそうになった。一太刀で首を落としてきた処刑人がサーヴァントとなれば、人間だったときに増して筋力があって当然である。何回か意識が飛んだのは記憶に新しい。

 あまりのテンパり具合に、旅先で出会うこととなったアマデウスがゲラゲラ爆笑していた。助けてくれたのはマシュだった。お前本当に覚えておけよとねめつけたところで彼は面白そうに口を三日月にするばかり。

 

「創作者というものは基本的にクズなんだよ」

「へえ、奇遇だな。魔術師もそうだよ」

「だろうね。ブフフ」

「聞いていますかマスター!!」

「聞いてる聞いてる、自分の一面を受け入れるか決別したいなら倒すのが一番だと思うぞ」

「……オタク適当言ってません?」

 

 こういうやり取りをやや遠巻きに見ていたのが、召喚したばかりのロビンフッドだった。緑のマントで顔を隠していても呆れているのは声でわかる。それを菖蒲は一笑に付した。この頃は今みたいにマスターと呼ばれることもあまりなかったし、ましてや名前で呼ばれるようになるなんて考えたこともなかった。おいとか、アンタとか、そういう距離のある呼称だったように思う。

 

「どうして? 言ってないよ。サンソンがやる気になるなら充分だろ」

 

 実際彼は得物を握る手に力を加えたし、目もぎらりと輝いていた。王妃や音楽家と道行きを同じくしているだけで卒倒ものの衝撃だっただろうに、王妃を上手に殺そうとする自分が向こう/敵にいるのだ。狂気に染まった自分など見ていても楽しくない。むしろ自分の嫌悪している部分が前面に表れているようなものだ。多少パニックを起こしても仕方がないだろう。

 絞まった襟元を整え、菖蒲は頭を切り替える。コツコツとかかとを鳴らせば、軽口を叩いていた自分はどこかに行ってしまう。代わりに、どうやっても、なにをしても生き残ってやるという、獰猛な感情が表層に出てくるのだ。

 菖蒲があの旅を思い出すたびにシーンが切り替わる。今度はドラゴン娘たちが出てくるところだ。あれは遠くから見ている分には面白いかもしれないが、近くでやられると逃げ場がない。カルデアに来た清姫のアタックを思うと少しだけ背筋が冷たくなる。決して彼女のことが嫌いなわけではないのだが……うまく付き合わなければデッドオアダイというのが……。嘘をつかず、自分に正直に生きて、彼女を頼っている間は大丈夫だと思いたい。

 つい自分を守るように身体を抱きしめていたが、ふと菖蒲は顔を上げた。

 そういえば、ロビンフッドはエリザベートと清姫のキャット/ドラゴンファイトを目にしたとたん、するりと《顔のない王》を発動して引っ込んでいったが、なにか因縁でもあるのだろうか。起きたら聞いてみよう。ここではないところ、自分ではないマスターに召喚されたときの話はいくらでも聞いてみたい。彼らがどんなマスターを好み、どんなマスターを嫌うのかが一番わかるからだ。頭の端に書き留めて、ファブニールを遠目に見ていた。

 

「ショーン」

「ショーン」

 

 彼の声がする。いろんな人の声が混ざる。目を開けたところで、部屋には誰もいなかった。空調の音がする。朝特有の肌寒さがここにはない。それがなんだか、かりかりと、郷愁やさみしさを刺激するようだ。

 癖っ毛を軽くかき混ぜて、あとでロビンフッドを部屋に呼ぼうと思った。

 

「オレとあの竜娘の関係ぃ? そんなの聞いてどーするんです」

「気になったから」

「……昔のことはあんまり思い出したくありませんねえ。過去にすがるのは女だけで充分ですって」

「あ、やっぱりどこかの聖杯戦争で会ったことあるんだ。ふーん」

「ゲッ」

「まあ話したくないなら聞かないし。エリザベートが来たら聞けばいいし」

「勘弁してくれ! あのリサイタルはもう御免だ! ……はあ、いつからショーンくんはこんなに性格が悪くなったんですかね。お兄さん悲しい」

「それだ」

「は?」

「いや、昨日オルレアンの夢を見たんだけど、距離が縮まってからロビンフッドに名前で呼ばれること増えたなーと思って。なんで?」

「なんでって、ショーンって呼べって言ったのアンタでしょ」

「それはそうだけど、一回しか言ってないし、言葉通りに俺のことそう呼ぶのはロビンフッドだけだよ。古株のキャスター、クー・フーリンだって俺を坊主って言うしね。なんで?」

「うっ……あー……勘弁してくれませんか……」

「嫌だ。恥ずかしいの? そんなに照れるようなことしてるの? でも逃げるのはなしだからね」

 

 ちらちら右手の令呪を振ってみせると、ぐうと蛙が潰れたような声が出る。左手はがっつり彼のマントをつかんでいる。逃げ場はない。両手で顔を覆い、ううーっと唇をこれでもかと噛んで、目を固く閉じていたロビンフッドが根負けする方が早かった。

 

「……オレがロビンフッドの一人ってことは知ってますよね」

「もちろん。君が話してくれたんだ、忘れるわけがないよ」

 

 ロビンフッドは個人ではない。何人かの伝承が合わさってできたおとぎ話。リチャード一世の物語にもロビンフッドは出てくるが、菖蒲と契約したロビンフッドとは別人である。彼らはシャーウッドの森を拠点とするアウトロー集団、あるいは義賊とされている。それは彼の宝具、《顔のない王》からも察せられることだ。つまり彼は、概念や偶像に覆い尽くされた個人なのだ。山の翁たちの在り方が近いかもしれない。もっとも、ロビンフッドは自ら名乗るものではなくて、現地の人々が誰かの行いをロビンフッドのものであるとすることで生まれてくるものなのだが。

 

「顔隠して、名前も隠して、罠張りまくって奇襲かけて。英雄なんて柄じゃないっていうのは、オレが伝承のふりをして誰かを殺してたからなんですよ。オレは領主に反抗してただけ、英雄様のように偉大なことをやったわけじゃねーって」

 

 菖蒲はじっと彼の言葉を待った。ここで「それでも救われた人はいる」と言ってしまうのは、あまりにも薄っぺらで綺麗事が過ぎると思った。自分がそういうものを嫌うだけで、綺麗事を正しいとも間違っているとも思わない。けれど、そも、彼は慰めを求めているだろうか? 求めていたとして──それは菖蒲から与えられなければならないものか? ペラペラと、菖蒲から視線を逸らして壁を見つめたままロビンフッドはしゃべり続ける。本心じゃないと、本当のことではないと、必死で言い訳をしているようだった。

 彼はロビンフッドとして座に登録されたそのときから、親に名付けられた個人としての名を失っている。数多あるロビンフッドの一人として、彼はこのカルデアにいるわけだ。英雄としての行動・功績に、彼個人の情報はひとつも必要ない、と判断されたとも言える。

 

「で、このままアンタが世界救ったら、アンタもそういう顔のない英雄になっちゃうのかなーってあるとき思ったんですよ。アンタの顔も名前も削ぎ落とされて、功績だけが残って……って思うと、あんまりにもさみしいじゃないですか。ショーヴっていう年端もいかないガキがそんな概念になっちまうのなんざ、オレは御免だね。だって、アンタはその辺でぽやぽや笑ってそうなただの人間なのにさ」

「ははは」

「まあおまじないですよ、おまじない! あー女々しくて嫌になるぜ。オレはねぇ、マスター。アンタに人間でいてほしーんですよ。おわかり?」

「エゴだなあ」

「身も蓋もねえ!」

「うん、まあ、いいよ。俺のことを呼んでくれる誰かがいる限り、俺はたったひとり、人間以外のなにものでもないんだから。ありがたく受け取っておきます。それだけ想ってくれてるってことだろ。救われてしまうね」

 

 見ている人がいるほど首塚菖蒲はその存在を確かにするだろうから。そういう言葉は胸のうちにとどめる。菖蒲はロビンフッドを見上げて目を細めた。ロビンフッドは黙って彼の頭を撫でた。




だが手遅れである


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同一人物の別人:ベディヴィエール

マテリアルによるとカルデアにいるベディヴィエールは六章のベディヴィエールらしいのですが、プレゼントボックスに入っていたベディヴィエールが六章と同一人物ではないのではないか?という仮定に萌えて書き、かつマテリアル発売前だったのでそのままです。
じわじわ執着?感情?がでかいですが、BLになる予定はミリもないです。


 夢を見た。幻を見た。夢であれと願った。

 ふわりと、かすかに大気が揺れる。金の砂が散らばるようだ。召喚サークルの上には鎧を纏った男が一人。彼は恭しく頭を垂れる。

 

「セイバー、ベディヴィエール。此よりは貴方のサーヴァントとなりましょう。……あの?」

 

 反射的に俺は目を覆い、深く呼吸をした。目の前のサーヴァントから目を逸らした。カルデアの召喚術式に合わせてグレードダウンしているであろう銀の腕は、鈍く黒ずんでしまっている。あんなに輝いていた銀の流星が。胸になにかが込み上げるようだった。慟哭のようにそれは暴れまわる。早く磨いてやらなければ。あれはあんな色をしていていいものではない。なによりも輝き、星の息吹をまとうもの。

 貯蔵している種火の数、彼の再臨に必要だろう素材を脳内で計算する理性だけは冷静だ。それがなんだか馬鹿馬鹿しいくらいだった。

 ちらりと、顔を覆う手はそのままに彼へ視線を戻す。彼の顔はやや緊張で固かった。そして、黙り込んでしまったマスターを前に困惑している。初めて会ったときのようだ。砂漠の匂いが鮮明に浮かび上がる。

 わかる、わかるとも。それこそ手に取るように。短くとも、あの旅は濃密だった。言葉を交わすことの多かったマシュなら、俺よりももっと彼の感情の移ろいを敏感に察知したかもしれない。

 

「……いや、少しめまいがしただけだ。気にしなくていい。よろしく、ベディヴィエール」

 

「彼」が来てくれたのならベディと呼ぼうと思っていた。あのときのように。気恥ずかしそうにはにかんだ彼は、そう呼ばれることを許してくれていたから。

 しかし、そんな都合のいい奇跡はこの身には降りかからなかったのだ。落胆することも、悲嘆することもできなかった。記録、記憶が残らなくても彼との縁は繋がっていて、彼が俺の助けを呼ぶ声に応えてくれたのは確かなのだから。嘆くのは裏切りになると思った。不誠実だと思った。

 利き手を差し出す。彼も俺の意図を正確に理解したようだった。ほっとしたように、銀の腕を伸ばしてくれる。回路が通っているからか、人肌のように熱を持つ右腕と握手を交わしながら、俺はにっこりと笑った。

 英霊として座に登録されること。召し上げられること。それは彼が死んでしまったことを突きつけてくる。それを悼むことくらいは、許されたい。聖剣を返すために長いときをさ迷い、かつての同胞たちと戦うこととなった彼。短いひととき、夢のようにあやふやな特異点で──余分な、ドレスの染みの上で出会った、肉をまとった彼が死んだことを、俺はどうしても────

 

 

 ◆◇◆

 

 

 一瞬の激情が冷却されるのは早かった。特異点での戦いはなかったことになる、記録は残らない、サーヴァントに残るのは記録であって記憶ではない。残ったとしてもそれは本の一ページ。重要性の欠片もないわけだ。

 知らず口元は笑っていた。己の小ささを知るようだ。……理屈はすぐに頭を満たす。自分の冷静さに感謝し、同時に人間らしさの欠落を感じた。もともと少なかったものが少しずつ削れていっているのかもしれない。これだけストレスが溜まる状況に追い込まれては当然か。毎日が死に物狂いなのだから。ベッドの上でぐうっと伸びをした。制服を素早く身に纏う。五分もしないうちに彼は部屋を出て、食堂に向かった。

 敵対したことで縁が繋がるサーヴァントたちはたくさんいる。彼らはその記録を持ってなお少年をマスターと呼ぶし、負い目を感じているような素振りを見せることはなかった。知識として、サーヴァントとはそういうものだと知っている自分自身も、弁えた行動をとる。過去剣を交えたことがあろうが、その霊基が座に登録され、フェイトを通して菖蒲の呼び声に応えてくれるのなら、それは敵ではないのだ。おかしなことはひとつもない。

 ではどうして彼のときだけああも落ち込んだかというと、それはやはり──とまで考えて、菖蒲は思考に蓋をする。

 頬杖をつきながら燃え尽きる世界を思った。目を閉じるだけで赤と黒で埋め尽くされる街は容易く思い出せる。あれを元に戻すのに、この気持ちが必要とは思えなかった。

 考えたってどうしようもないことだ。言ったところで困らせるだけだ。ならば、この気持ちが消えるまで放っておくしかあるまい。箱に蓋をして暗がりへやってしまうように心を分割した。

 

 きょろりと周囲を見回し、目当ての人物を発見。そのまま菖蒲は彼のもとへ近づいた。彼はマスターを視認してぱっと微笑む。合理主義の塊が犬のように笑うのは、菖蒲自身もかすかに笑むほどだった。特異点で出会った彼とはまったくの別物、菖蒲のランスロットはこういう男であった。「おはよう」と言えば彼は優しげに目を細める。そのまま、ごく自然に立ち上がり椅子を引いてくれた。すとんと腰を下ろす。

 

「朝食はもう取った?」

「はい。今日はマダム・ブーディカのガレットを頂戴しました」

「それはよかった。ブーディカならブリテン所縁の英霊みんな可愛がってくれるしな。……あとでダ・ヴィンチちゃんのところで強化してもらうから覚えておいて」

「わかりました。今日はどちらを?」

「レベルとスキル。最終再臨までは終わったから、あとはギリギリまでやる。円卓最強は頼り甲斐があって助かるよ」

「はは、光栄の至り。マスターに頼っていただけるならサーヴァント冥利に尽きましょう」

 

 また調子のいいことを言う。菖蒲は複雑そうに、いくらか眉を下げながら肩を竦めた。

 このカルデアには、セプテムに行く少し前からバーサーカー・ランスロットが召喚されていた。もちろん彼とも菖蒲は親しくしている。バーサーカーゆえ、相互の言語による意思疎通は難しいが、彼は狂っていても非常にクレバーだ。エネミーの武器を奪っては宝具とすることもできるし、回避行動も俊敏。いささかコントロールしづらいところがあろうとも、戦闘に出なければ大人しいものだ。そしてひとたび戦場に立てば彼はこれ以上ないダメージディーラーとなった。霊格を取り戻すために種火をくべ続けたのも今となっては懐かしい。半年もたっていないはずだが、濃密な時間は記憶を遠く感じさせた。

 彼がいたからなのか、それとも、第六特異点で出会う未来が確定していたのか──セイバーのクラスで、ランスロットが召喚に応じたのは、特異点エルサレム……いや、キャメロットを発見したときのことだ。名乗りを聞いてぎょっとしたものである。確かに、円卓の騎士というビッグネームを考えれば、セイバーのクラスで現れること自体はなんらおかしくないのだが……。思わず戸惑うくらいに、バーサーカーのランスロットがこのカルデアに慣れ親しんでいたわけだ。

 彼は狂気に身を浸した自分を見てこれでもかというくらい顔をひそめた。その反応はもっともである。罪を罪として背負うことなく狂気に逃げた、という見方もできるからだ。とはいえ、バーサーカー・ランスロットは闘争本能に火をつけなければ大人しい類であり、常に憂鬱な空気を纏っている。気に入らないにしても消そうとはしてくれるなと念押しし、二人が極力顔を合わせずに済むよう気を回し続けた。その上でマシュに会わせたり(花の魔術師だの、盾を見たアーサー王の反応を見ればあらかた真名に見当はつく)、ガンガン連れまわし続けた結果がこれだ。すっかり第二の父のような存在である。口に出せばマシュが怒りやら羞恥やらで赤くなったり青くなったり一大事なので言ったことはないけれども。

 この調子でキャメロットまで行った。できれば当時のことは、主に太陽の騎士絡みで恐ろしいことがありすぎて思い出したくない。忘れることは決してない。忘却などあり得ない。ただ思い出したくないのだ。獣となった騎士たちは恐ろしく、まぶしく、獅子王の綺羅星たちは菖蒲を焼き尽くさんと迫ってきた。それを羨ましいとも、恐ろしいとも思う。お前は覚悟を決めているかと問われたようだった。彼らを倒したからいまだ菖蒲は生きている。

 きっと、踏みにじらざるを得なかったものたちを思い出して、自ら傷口をえぐってでも己を奮い立たせねばならないとき。菖蒲はあの記憶の封を解くだろう。ルシュドとその母のこと、アーラシュのこと、まばゆいファラオたちのこと、菖蒲たちがあの砂漠へ降り立ったときすでに欠けていた円卓のことを思いながら。

 鉛色の息を吐きながら、菖蒲は持ってきたストレートの紅茶を口に含んだ。次の瞬間、ぱちり、と瞬きをする。続いて変な顔になった。妙に甘い。今日は砂糖もガムシロップも入れていないはずなのだが。首をひねった菖蒲の様子が面白かったのだろう、ランスロットはくすくすと小さな笑みをほころばせている。視線で問うと、彼は柔らかな雰囲気をまとったまま囁いた。

 

「難しい顔をなさっておいででしたので」

「……それはどうも」

「なにか、お悩みですか?」

「そのうち解決するよ」

 

 柔らかな拒絶。ランスロットは憂うように眉を下げる。わかっていて菖蒲は無視した。

 ぐいっとカップの中身を煽る。甘さの溶けたそれは身体の隅々まで染み込むようで、頭が少し軽くなった。助かったという言葉と共にランスロットの肩を叩き、席を立つ。素材の在庫を確認しにいかなければ。

 そう思いつつ食堂を出る。ちょうどベディヴィエールが入ってくるのと入れ替わりだった。「や」とだけ短く発音し、片手を挙げる。彼は微笑みながら会釈した。そのまますれ違った。なにもおかしなところはない。ない、はずだ。わずかに向けられた視線の残滓に、なにも意味がなければだが。

 とはいえベディヴィエールはよき従者である。態度、考えを改めるべきは菖蒲だ。早いところなにもかもを預けてしまえたらいいのに、なかなか踏み切ることのできない自分が嫌になる。今ここにいるベディヴィエールにはなんの非もないのだ。彼は違う。菖蒲は自嘲の笑みを隠さない。

 違うのに、浅ましく別の彼を求める自分が、滑稽で仕方がなかった。

 

 

「マスター」

 

 自分の呼びかけに、彼はなんてことのないような顔をして返事をする。それに少しの違和感を覚えるのは、まだ心の距離が遠いからなのだろうか。

 

「ん、なに、ベディヴィエール。なにかあったの」

「いえ、そういうわけでは……。お隣よろしいですか」

「どうぞ」

 

 タブレットに触れながらミルクティーを飲んでいた彼はふわりと笑った。

 ブルーライトで光る板の上ではサーヴァントたちのステータスや逸話なんかが展開されている。宝具の特性やスキルについても複数書かれており、編成のことを考えているのだということはすぐにわかった。集中の邪魔をしないようにと静かに椅子を引き、腰かける。

 座ると身長差が際立った。こんなに幼い子供が戦いに出なければならないのだと思うと胸が痛む。不思議なのはその憂いに反論する自分もいることだ。それがまだよくわからない。正直、ベディヴィエールは矛盾する思いを持て余していた。

 ベディヴィエールを喚んだマスターは小さく、細く、頼りないともとれるのに、どうしてか、しゃんと伸びた背中が折れることはないのだろうと……不思議とそう思わされる。契約に応じて間もない相手に思うことではない。マスターを見定めるには期間が短すぎる。それなのにこの人を信じたいと思うのはなぜ? 戦いを切り抜けた人類最後のマスターだから? 自身が使えた王とは異なる、騎士王の可能性たちや、ランスロット卿が剣を捧げているから? どれも違う気がする。いよいよ困って、ベディヴィエールは小さく首をかしげた。

 ちらりと彼はベディヴィエールを見た。また難しそうな顔をしているなあと思っていることがよくわかった。そっと彼の前にあった皿が移動してきて、ベディヴィエールの正面にやって来る。食べる? と差し出された赤い弓兵特製のスコーン。気遣いのかわいらしさにふっと笑みがこぼれ落ちた。ありがたくいただき、さくりとそれを頬張る。バターの香りが鼻を抜ける。ほろほろと崩れていく生地と、チョコレートチップは甘く口の中を溶かした。

 一秒にも満たない時間だ。彼はじっと、ベディヴィエールの表情の変化を見ていた。そのまま青い目はベディヴィエールから逸らされる。ベディヴィエールがなにも言わない間に。

 ぼうっとしているようにも見えた。すいすいとタブレットの上を滑っていく指は間違いなく思考をしているのに、ベディヴィエールには彼の心がここにないような気がした。誰か他の人を思い出しているのだろうか。だとしてもそれは誰だろう。ベディヴィエールを見ていて想起する人物は存在するのか? 考えても考えてもわからない。彼を知らないから、で片づけるには短慮な気がした。飽きもせずにベディヴィエールは少年を見つめ続ける。

 ふと、緩慢な動作で彼が顔を上げた。すんすんと小さな鼻が動いている。

 

「……花のにおいがする」

「花、ですか」

 

 すんとベディヴィエールも主に倣ってにおいをかいでみたが、間違っても花の香りなどしなかった。無味乾燥な調整された空気、蛍光灯のにおい、身近なところでスコーンから漂うバターと砂糖のにおい。そして隣のマスターから漂う魔力の香り。それくらいしかこの部屋には香りの発生源はない。少年の声からは、力がとろりと抜けていくようだった。夢うつつというのが正しい。寝ぼけているのかもしれない、とベディヴィエールは感じた。

 

「なんだか甘ったるいな……頭が重くなる」

「今日は早めにお休みになられますか?」

 

 目頭を揉んで額を抑える彼の背に、そっと手を添えた。ぴくり。一瞬彼の動きが鈍くなる。ベディヴィエールが触れたからなのか、それとも彼の言う花の香りのせいなのか。ベディヴィエールの心がかすかに波打った。しかし肝心のマスターはテーブルに体重を預け、片手で頭を抑えながら唸っている。

 

「マスター?」

 

 呼び掛けても返事がない。唸り声が途切れ、かくりとその首から力が抜けた。気絶か? だとしてもどうして? なにか善くないものの予兆を感じた。ぐっと彼の柳眉が寄せられる。勢いよく立ち上がり、彼の後ろに回る。失礼、と前置いてから、もう一度「マスター」と呼びながら体を揺すった。

 

「……あれ? 俺、今寝てた?」

 

 これもまた、唐突であった。力なくうつぶせていたのが嘘のようだ。電気が流れたかのように彼は跳ね起きる。きょろきょろと周囲を見回す様子はいつも通り。ほっと吐息を漏らしつつ、ベディヴィエールは苦笑した。

 

「やはりお疲れのようです。マイルームまでお連れしましょう」

「……ああ、うん、頼む。さっきみたいなことがまたあったら廊下で行き倒れかねない」

「そのときは私がお部屋まで運びますよ」

「ふふ、ありがとう」

 

 照れたように、彼は眉を下げながら笑った。ベディヴィエールも微笑みを返す。花の香りは気づけば消えていた。

 

 ──そういうわけでキミに目覚めてもらった。事情はもう分かっているね? 

 

 勝手に首が頷く。為すべきことはこの手の中に。世界がどうなっていようと関係ない。これは自分がやらなければいけないことだ。

 

 ──肉体、魂、精神……三位一体の要素。そのいずれもが苔生した放浪のキミよ。罪人の約束を叶えよう。これが本当、正真正銘、最後の機会だ。

 

 声は歌うように、笑うように、遠くから呼びかけるように──耳元で囁くように──。一応確認するなんて心配しているような口ぶりをしているくせに、なぜだか声の発生源がにんまりと楽しそうな笑みを浮かべているのが想像できた。無感情かつ、期待……面白そう、愉快な未来が見えるなどの、そういった相反する感情が透ける。本当はそこになにもこもっていなくて、自分が勘違いをしているだけなのかもしれないが。

 

 ──それでもまだ、旅の終わりを目指すのかい? 

 

 もちろん。即答できる。肉体は動かない、魂も残り少ない。それでもこの精神は生きている。このこころは王のためにある。それだけは確かなのだ。どれだけこの身が罪深くとも。なにと戦い、なにを見捨てることになっても。今度こそ、この手で、私が。

 

「そうか、これが……私に与えられた、最後の旅か」

(………………)

(…………?)

(……!)

(あれ)

(待ってくれ)

 

 ──王を殺すのだ。

(違う)

(これは)

(俺じゃない)

 

 ──おや、もう起きるのかい? それじゃあ続きはまた今夜。

 

 その日は夢も見ずに眠った。……いや、起きる寸前に誰かの声を聞いたかもしれない。目を開けた瞬間、一秒にも満たない間だけ、また甘ったるい花のにおいがした。袖口を嗅いだところで洗剤の匂いしかしない。ついでにカルデアで使っている洗剤はフローラルな香りではない。じゃああれはどこから香ったのだろう。ここには花の一つもないのに。うん? と首をかしげる。足元にはどうしてかフォウくんがくっついていた。とりあえずおはようと言った。

 

「おはようございます、マスター! ……ん? あれ?」

「寝坊か? いい身分だな。……む?」

「おはよう二人とも。なに? 寝癖?」

 

 これが約三日続いた。夢を見ているらしいということについては日に日に自覚的になっているが、内容を覚えるほどのレム睡眠ではない。つまり起きたときにはなにもないわけだ。わかるのは寝起きの一瞬に香る甘い香りと、起きたときにはいつの間にかベッドにもぐりこんでいるフォウくんくらいである。眠っているときに害意(もしくはそれに準ずるもの)はまったくと言っていいほど感じていないので、のんきにほったらかしにしているわけだが、そろそろ誰かに相談した方がいいのだろうか……? 

 

「マーリンですね!」

「マーリンだな」

「マーリンですか……ええ……」

 

 くんくんとアルトリア・リリィが鼻を近づけてきたかと思ったらこれだった。オルタの方はやや眉間にしわを寄せてぶっきらぼうに同じ言葉を口に出す。マーリンといえば、アーサー王などの多くの王を導いた魔術師、キングメーカーである。別名花の魔術師。ちらほら名前を聞くことはあっても接点などないはずだ。なんで? と疑問を口にすると、オルタはふんと鼻を鳴らした。

 

「会ったことはあるだろう。しかしあの引きこもりは塔に幽閉されているはずだが」

「妖精郷にいるんだっけ? 夢魔だから夢に出てくるのはまだわかるけど、なんだってわざわざ」

「うーん、マスターの悩みに関係がある……みたいです」

「悩み?」

「くだらん」

「ええと、なんて言えばいいのでしょう。シュッチョーオヤナミ、ソウダンシツ? そうです、お悩み相談室です! マスターは男性ですから滅多なことはないと思います!」

「そういえば彼、女好きだったね」

「悪い人ではないですよ? 嫌な予感はしませんし、せっかくですから聞いてもらってはいかがですか?」

「経験は豊富だからな。早く迷いなど断ち切るがいい。時間の無駄だ」

「もう、黒い私はまたそんなこと言って」

「いや、心配してくれてありがとう。ああ、じゃああの花の香りはマーリンだからか……」

 

 

「うわ、本当に花の魔術師だ」

「うわっ!? なんでキミ起きてるんだい! 今夜も続きを見せるつもりだったのに!」

「明晰夢の見方くらい知ってます~。レム睡眠でもないとつかまらないだろ、君」

「生殺与奪を握られるのはちょっと」

「わかる」

「やめてよ……」

「いや俺もお節介で英霊ベディヴィエールの英霊に至るロードを見せられると思ってなかったんですがね」

「え、見たかったんじゃないのかい?」

 

 大げさに菖蒲は肩を竦めた。ええ~~という声がマーリンから漏れる。一面のピンクの花、きらきら輝く空気、そびえ立つ細い塔。白いローブをまとった彼はさくさくと花を掻き分け、ぽすんと座った。

 

「塔の中から出ていいの」

「夢の中では私は自由だよ」

「へえ」

「興味なさそうだねえ。それで? 私に会いに来たのはどうして?」

「お悩み相談してくれるんだろ」

「おや」

 

 ふてぶてしく口の端を持ち上げる。ぱちぱちと瞬きをしたあと、彼は柔らかく笑った。

 

「キミの悩みは知っているよ。英霊ベディヴィエールのことだろう」

「うん」

「その顔だともう気持ちの言語化はできているのかな? 聞かせておくれよ、キミのこころ」

「言い方がなんかぞわってくる」

「ええ~~せっかく魔術師っぽいこと言ってみたのに~~」

「……彼の最後の聖剣返還の旅に俺がいないのがさみしいんだ」

「おっといきなりぶっこんできたね」

「彼は人間で、俺はマスターではなくて、出会わなくてもどうにでもなっただろう。現に彼は俺たちの干渉なしに聖剣を返したのだから。君が俺に見せた夢のように」

「うん。特異点がなくても、英霊になった彼は王に聖剣を返した。最果ての槍によって不死身となった王を、今度こそ殺した。だから彼は座に登録されるわけだけれど、キミはそれが悲しいんだね」

「彼が英霊になったからまた会えたってわかっている。人間のまま死んでいたらこの奇跡は起きなかった。でも、一緒に旅をして……たくさん戦って……。それが記録されなかったことがかなしい。サーヴァントだったら仕方ないと思える、実際今までそう思ってきた。また会えたことに喜ぶことだけだ。でも彼は人間だった。生きていた……。君が見せたとおり、人の形をした岩のようになって、身体と魂がほつれ崩れる寸前でも」

 

 ぼすりと花畑に横たわる。むせかえるような甘い香りが鼻腔を満たした。少しだけ頭が痛い。匂いがきついのだ。

 ロンドンで出会ったヘンリー・ジキルも人間であった。それなのに今のようなことを今まで思わなかったのは、彼が特異点で英霊である彼と混ざりつつあったこと、ロンドンでの記録が彼の霊基に刻まれていたことがあったからだろう。カルデアで再会した彼はあの戦いを知っていたから。人間でありながら彼は英霊であった。ローマで出会った薔薇の皇帝のように。彼らはすでに座に登録されたものだ。記録は本のように溜まり続ける。憶えていなくても識っているのだ。──英霊ならば。

 ベディヴィエールが、王が槍を取る前に聖剣を返せていたなら──彼はただの人間として、神秘の去ったブリテン島で死んでいただろう。隻腕のまま、輝けるアガートラムを手に入れることなく。……襤褸のように1500年の時をさ迷うこともなく。

 

「彼の最後の旅、その一瞬を近くで見ていたのに、それは正しいものではない。修正された。だから識らない。存在を許されない。それは仕方のないことだ。たださみしいんだ」

 

 光を避けるように、額に手の甲を当てる。あれは太陽だろうか? 世界の果てにも光は差すらしい。妙なところに感心した。

 

「そういう旅なのはわかっているけれど、まだ納得できない。俺は俺の通ってきた旅路を大事にしていたい、でも、きっとこの世のすべては俺の宝物を無価値と判断すると思う。最初からこれはマイナスをゼロにする行いだから」

「そうだね。やめたくなった?」

「その気もないのに無責任なこと言わないでくれよ」

「残念。夢魔らしく誘惑してみようかと思ったのに」

「する気もないくせに……やめない。まだ死にたくない。俺は俺が生きるために人理焼却を終わらせなければならない。世界を救う? 結果が残ればいいんだ。もっと言えば俺じゃなくてもよかった。俺には力がない。素質がない。地位がない。輝く星たちと紡いだ縁がいくらあっても、魔術師社会においてそれは無価値だ。寝てるやつらが起きればお払い箱。場合によっては死ぬ。知ってるだろう?」

「まあね。でもそういうifは好きじゃないなあ。キミ以外のマスターが、キミと同じように紋様を描いたとは思えないよ。僕が好きなのは君という作者/書き手なんだからさ、ちょっとくらいファンの僕のこと、慮ってくれてもいいんじゃないかい?」

「個人のことはどうでもいいって言ってなかった?」

「さあ、君の前で言ったかな。……少し贔屓したって罰は当たらないさ」

「っていうかファンってなに……こんなファンやだ……」

「ひどい!! ねえ、キミなんだか私に対して当たりきつくない!? いつもはわりとしおらしいの知ってるんだぞぅ!」

「そういえば現在すべてを見通す眼をお持ちでしたね」

「やめてよ敬語とか……距離を感じる……」

「どっちかにしてよ」

「馴れ馴れしい方がいい! 友達みたいだろ?」

「友達ぃ? 友達ねえ……ふーん……。君相手に取り繕ったって無駄だろ。あと今は命の危機を感じないので。君以外に何者も存在しないので……気を張るのも一苦労……」

「思った以上に疲れていた」

「凡人がこの環境で疲れない理由があるなら教えて」

「うーん、先天的に狂っている」

「バーサーカーじゃないです」

「だよねー」

 

 けらけらと彼は笑った。つられて菖蒲も小さく笑った。

 

「ほら起きないと。そろそろ夢が終わる時間だ。──世界が終わるまで君の旅路を覚えているよ」

「俺がいつ死んでも覚えていてくれるの」

「もちろん」

「ありがとう」

 

 それはいい。目覚めるままに俺はそう謳った。

 

 

 花の香りがする。洗剤の残り香よりもよほど甘やかなそれが、どういう意図でつけられたかは考えるだけ無駄だと思う。彼の思考回路は人間とは異なる、理解できると傲ることはできない。目印か縁か、そんなところだろう。想像できる限界だった。

 ベディヴィエールは、その甘ったるい香りを知覚した瞬間、思わず眉をひそめていた。

 




実は続きがあるんだ!!また明日


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首塚菖蒲という人間の根幹

マーリンに対してパーソナルスペースが馬鹿みたいに狭い。
作者は友情でBLではないと認識していますが、読む方によってはBLだと感じる可能性があります。それらが苦手な方は避けておいた方が無難です。


 強がり続ける傍らで、誰か、この弱くて愚かな顔を見つけてはくれまいかと願っている。みんなには見せられない。失望されてしまう。でも、俺のために、俺を見つけてほしい。進むたびにすり減っていく人間性を、確かにそこにあったのだと、第三者に確認してほしいのだ。

 そういった面ではマーリンは最高の相手だった。俺のものにも、敵にもならない、次元を隔てた先にいる観測者。ときどき夢に現れて野次を飛ばしてくるところは、時に煩わしく思うこともあるけれど、それよりも会うのが楽しいくらいだから。

 彼と話すのは、気を遣わなくて済む。夢の中には俺と彼しかいないし、彼は自らを俺のファンなどと称するが決して俺の味方だと宣言しているわけでもない。その距離感がちょうどいいのだ。ぐずぐずに甘やかされたいわけでも、ぐちゃぐちゃに痛めつけられたいわけでもない。ぼんやりと毒にも薬にもならない話をして、心にもない「それは大変だ」を受けて。それが本当になんでもない、そう、まるで通りすがりの人に人生相談をしてしまうような気軽さ。旅の恥は掻き捨て。そういう言葉がしっくりくるかもしれない。

 彼には俺を肯定する必要も、否定する必要もない。だから、息をするのが楽だ。それは好きとか好ましいとかいうより、便利だ、というのがふさわしいのだろう。そう、とにかく楽なのだ。だからこの関係に生産性はない。それでいい。マーリンはどうだか知らないが、俺はそう思っている。そもそも、マーリンが表す好意というものも、俺の尺度で測れるものなのかはなはだ疑問だ。わかりあえなくていい。わかろうともしていない。十分だ。少し休ませてくれれば、それで。

 カルデアで俺のそういう顔に気づいている面々は、面倒くさそうに、熱心に俺の傷を治療してくれるけれども、それにもやはり痛みは伴う。がたがたになった精神を正すことにまで疲弊するわけだ。それに短期間でじわじわ衰弱していった精神が必要な部位を取り戻していくのには、攻撃を受けた場合とは反してとにかく時間がかかる。ただでさえ心というものは扱いづらい。

 そのため、マーリンが作る夢の空間はひとときの休憩所のような扱いになっていた。「寝ているときくらい弱音を吐いたって私は怒らないよ。ほんとほんと。嘘つかない」などとのたまって膝を叩いてくる彼はうさんくさくてしょうがないが、たいした問題ではない。それよりも太ももが固いことや枕の背が高くて首が痛くなることの方が重要だ。週に一回はそういうやりとりをしているけれど(彼の時間での頻度は知らない)、花の魔術師というものは暇なのか? ……暇なんだろうな……狭い塔に幽閉されてネットしか遊び道具がないとかなんとか言っていたような気がする。

 

 

 人類のためだというのは決して嘘ではない。だが、本当でもない。

 俺はそんな大きくて重いものを背負ったつもりで戦っているのではなくて、ただ、立ち止まったら瞬間に死ぬのがわかっているからだ。俺が走っている道は一本しかない。ぼろぼろで、踏むだけで折れてしまいそうな、古ぼけた橋のようにもろい。

 事実、現在に至る過去はぐずぐずに溶けて、混沌のマーブルを生み出している。浮かび上がった紋様は、今の俺たちを全部否定しにかかってくるわけだ。気付いたら、引き返すための過ぎたカコは残っていなかった。それどころかここにあるはずにイマでさえ俺の喉笛を噛み千切ろうと牙を剥いてくる。逃げるためには、前に残っている道をとにかく走るしかない。前に進めば進むほど、後ろにあった帰り道は跡形もなく塵になっていく。引き返すことはおろか、立ち止まることさえ許されないのだから、俺はがむしゃらに走るしかなかった。

 その道中で、ぐちゃぐちゃマーブルの皮をかぶった過去を直していく。基点さえ直せばなんとかなるというのは、歴史というものがターニングポイントという関節を複数持っているからだろう。重要な基点ほど壊せば効果的というわけだ。今さらだが魔術王は大変に賢い人物だと思う。さすがは魔術の祖。人間全体をなかったことにするために過去をかき混ぜるというのはとても効率的で無駄がない。無駄があるとすれば、レフのようになんらかの感情を得てしまう生物だったということだろうか。

 ローマでまみえた彼は、人外にしては感情豊かだった。人間のようだと思うくらいには。滅ぶはず、滅んだはずのローマを継続させる、それだけで人理定礎は乱れる。だというのに彼は、こちらを破壊するために「ローマを破壊する」サーヴァントを呼んでしまったのだから、味方にいる天才よりも非常に人間的だ。彼は間違いなく焦っていた。焦ったから明らかなミスを犯した。こちらを蟲だと侮っておきながら、だ。

 まあ、今となってはそれも些事である。魔神である彼らと人間の死が同じ形をしているとは思えないが、再び現れようとしたところで、第二特異点で失敗と醜態をさらしたのは事実だ。魔術王もそうそうレフ・ライノールを出してはこないだろう。まず彼らと戦う資格すら今のカルデアは得ていない。第七特異点を越えてようやく参戦権が手に入るのだから、気が遠くなる話である。肝心の特異点座標すらまだ見つかっていないのだ、第六特異点修正を終えた俺たちにできるのは、戦力の増強や精神を病まないための健全な活動くらい……──

 

「マスター」

 

 菖蒲はふと顔を上げた。動かした肩、首の付け根がみしりと軋む。眼前には麗しの騎士。美しい緑の瞳に映る自分の顔は、どうにもぱっとしない印象だった。さらりと銀の髪が揺れている。ベディヴィエールだ。銀の腕を持つ騎士が、心配そうに菖蒲の顔を、わざわざひざまずいて下から覗き込んでいた。

 ぱちり、とあおいひとみが瞬く。どこかに飛んでいた意識が確かに彼に宿ったことを確認して、内心、ベディヴィエールはほっと安堵の吐息を漏らした。「なあに」と眼差しを和らげる彼に合わせて、ベディヴィエールも微笑む。

 

(まただ)

 

 少しの不安が彼の胸に巣食う。それは壁を削る頼りない爪のように、ベディヴィエールの心をどこか落ち着かなくさせた。

 ときどき。本当にときどき、この人はこういう目をする。たとえば設定された休息日の夕方。たとえば誰かと語らっただろうあとの一瞬。たとえば、ベディヴィエールが呼びかけようとしたほんの数秒。手放された風船のように、ふわふわと、どこかへ飛んでいってしまうのだ。ベディヴィエールがここに来た直後にもしばしばその様子は見受けられたけれども、最近はあまり惚けることもなくなった、と思っていたが、やはりそうではないらしい。ベディヴィエールは笑みとは裏腹の憂いと共に彼を見る。

 古株のアンデルセンに尋ねてみても「あいつは居眠りの達人だ」と、馬鹿馬鹿しそうに鼻を鳴らすばかりで、ならばとサンソンに矛先を向けると「こればかりは自力でどうにかするしか」と煮え切らない。その態度で察せられるというものだ。彼らはなにが原因なのかわかっている。わかっていてベディヴィエール相手にはぐらかす。彼の不可思議な様子に気づいて、長くカルデアにとどまっているかつ彼と親しいサーヴァントたちに尋ね、にべもない言葉を返された当初は自分が新参者だからかと誤解していたが、今でははっきり、その懸念が間違っているとわかるのだ。古くからいるとか、新しく来たとか、そういうことはきっと関係ない。長くここにいても彼のそれを知らないものはいるだろう。

 首塚菖蒲という名の人類最後のマスター、少年は、とかくそれを覆い隠すのが上手い。本心すら平気で隠している。ベディヴィエールが当たりをつけられたのは、きっと、このベディヴィエールが彼にとって「にばんめ」だからだ。つい先日までレイシフトしていた先で、彼らは英霊になる前のベディヴィエールに出会ったのだと言う。マシュがぽろりと漏らしたそれを聞いたときには仰天したものだ。だって、ベディヴィエールの生前の記憶には彼らの影すらない。腕を手に入れた世界でも、隻腕のまま聖剣を返した世界でも、それは同じだった。

 少しずつ推理していけば見当もつく。いつも穏やかなマスターがひた隠しにしているそれ。新しく名をつけなくてもいい。それは誰でも持つ、弱さなのだから。

 

 

 思い返すほど、彼は最後の最後までとんと俺たちに興味がない。見えるのは走り続けた果てにある背中だけで、銀腕の光は目を焼く。……だからこそ、俺はその姿を美しいだなんて形容してしまうのだが。

 彼は最後まで彼の王のためだけにあった。それは今でも変わらないだろう。自分たちと出会わなかった彼もまた、同じようにあの腕をぶら下げて旅をし、王へと返したことで英霊となったのだから。そうでなければ英霊ベディヴィエールがアガートラムを持っているはずがないのだ。特異点で起こったことがすべて、つつがなく帳尻合わせをされていくと彼が証明している。

 それに寂しさを覚えたこともあった。召喚した当初などがまさにそれだ。自分のしたことがなににもならないのだと落ち込んで、第五特異点でうっすらすれ違っただけのマーリンにまで面倒を見られる羽目になって。でも、時間を置くほどこれはさみしさとは少し違う気がしてくる。彼を彼と知っている。事実。言葉を交わした。事実。彼が俺を見ていないことが、悔しかった。これも事実。でも、それなのに、安心している。

 考えてみればわかりきったことだった。首塚菖蒲は手に入らないものほど欲しがるたちである。幼い頃、月を欲しがって祖父母を困らせたことは懐かしい笑い話である。それだけで済むなら、子供の頃のかわいい話なのだが、あいにくと今でも続いているわけだ。中学のときにはいいな、と思った相手と親しくなるうちに、かつてほどの興味関心を抱かなくなった。仲良くなりたいと思っているときが一番相手のことを考えているくらいだ。それは思っていたのと違ったから、ではなくて、自分と関わって相手が変質していくことをつまらなく感じるのだ……と思う。おそらく、首塚菖蒲は自分の影響を受けないものほど好ましく思うのだ。たとえば幼少期に少し触れ合っただけですぐに届かぬ人となった姉のように。自分とはかけ離れた遠いものが好き、という点ではマーリンと似通う部分があるかもしれない。

 問題は、欲しがったものほど手に入れると落胆することである。きらきら輝いて見えた星がただの土くれだったと知ったときのように。憧れが目を曇らせているのかもしれない。でも、それならば、近づくほどに信仰は増すはずだった。

 つまり、自分を振り向かない人が好きなのだ。勝手に好きだと思っていたいのだ。振り返られたくない、というのがより正確だろう。自身とは触れ合わない遠いものだと設定して、それを勝手に消費していたいというわけだ。創作物相手ならともかく、実在する人間相手には傲慢で傲岸な振る舞いである。歴戦の英雄たちも、本来はそうやって消費し、通り過ぎていくものだった。こんなことになるまでは。

 近づきたくないのは自分の矮小さを知られたくないからだ。英霊たちはまぶしすぎる。並ぶとどうにも見劣りする。当然だ。己は並ぶものではなく、彼らを遠くから賞賛する民衆の一人にすぎなかったのだから。間違っても、自身は英雄の器ではない。それは自分が一番わかっていることだ。それでも旅路は刻々と菖蒲を最新の救うモノへと作り替えていくので、菖蒲もそれに合わせた振る舞いをしなければと思い詰めるのである。今時世界を救ったくらいではどうにもならないとわかってはいる。いるが、それは人類の数が飽和しているからだ。今の菖蒲の行いはバタフライエフェクトで済むものだろうか? すべてが終わったあと、自分はどうなってしまうだろう? 考えるだけで足はすくむ。

 だから、首塚菖蒲は虚勢と虚飾で自分を覆わないと彼らに近づけない。精一杯強がらないと、自分よりはるかに優秀なスタッフたちを相手に「任せてくれ」だなんてうそぶけない。そうやって自分の顔をメッキでがちがちに固めて、息苦しさに喘いでいる。誰かを助けようとする姿勢の中、誰か助けてくれと泣いているのだ。

 その八方ふさがりに気づいたアンデルセンやサンソン、カルナは、間違いなく菖蒲にとってとくべつだった。付き合いと性質を考えれば当然である。言葉、物事に誠実でなければ物語は紡げないと鼻を鳴らす作家。菖蒲が追い詰められていることを出会い頭で理解した善悪の秤。貧しい人々と多く接することで、寄り添う視点を獲得し、その上で虚実を見極める目を持つ半神半人。隠そうとすることが無駄なのだとわかるだけで、酸素は菖蒲の気道を通り抜けていく。

 彼らを尊いと思わないのではない。けれど、ショーケース越しに見つめる美術品でもない。菖蒲を過信しているわけでもなく、見定めようという姿勢を貫いているのでもなく、こうあれと望むのでもなく──寄り添おうという姿勢、だろうか。どうしようもなく甘えてしまいそうだ。まあ、彼らもなんのために菖蒲が彼らを呼んだかはよくわかっているので、過度な甘えは尻を蹴飛ばされるに違いないのだが。でも、そういうサーヴァントたちは一握りだ。みんな見たいものを見る。重ねたい人を重ねる。なにもおかしなことではない。対象が菖蒲ひとりだから、パンクしてしまいそうになるだけだ。

 星は星のままだから美しい。鳥は自由に羽ばたき、さえずるから美しい。手の届く範囲まで近づくと、自分が特別なのかもしれないと期待してしまう。それは違うから、期待したくない。勝手に期待して、失望するのは失礼だし、疲れる。だから何度でも思い知らされたい。覚えてしまいたい。首塚菖蒲はなにも特別ではなく、取るに足らないものであると。その上で大切に扱ってもらえるなら、甘んじて享受するだけだ。きっとそれが一番うれしい。

 菖蒲が得た宝石は石ころに過ぎず、菖蒲の功績は誰にでもできたはずのもので、菖蒲の旅路は無価値であると。外部にそう断じられ、なにもかも菖蒲だけのたからものだとわかるようになれば、きっと、ようやく安心できる。周囲の人々と自分を比較して惨めな気持ちになるなどという、おこがましいことをしなくてよくなる。ナイチンゲールがこれを知っていたら、間違いなく即座に治療を始められるだろう。わかっている。これは病だ。病だからこそサンソンが気付いた。ほころびがあったからアンデルセンとカルナが気付いた。それで十分だった。

 いつかこの病は治るだろう。今ではないいつかに、きっと。今は時折甘い香りに身をゆだねながら、逃げるように走り続ければいい。全自動願望成就機のなりそこないとしては上々だ。世界さえ救われれば、すべての帳尻は合うだろう。

 

「あなたから甘い花の香りがするたびに胸が苦しくなる」

 

 だから菖蒲は絶句するほかない。この騎士は、わざわざ二人きりのマイルームで、ベッドに腰かけた菖蒲とは正反対に、床にひざまずきながら、なにを言っているのだろう。困惑ばかりが菖蒲の海色の瞳にさざ波を作る。

 

「あなたがなにを見て、なにを感じているのかを知りたいと思い、私を知ってほしいと願うのは、愚かなことでしょうか」

 

 真摯に菖蒲の目を窺い見る彼の視線は、菖蒲という人間を解き明かそうと必死だった。瞳の奥を覗こうと躍起になっている。菖蒲は一瞬、それから逃れたくて目を閉じた。自分の手を包み込む、大きな彼の手のひらが熱い。

 

(ああ、全然違う)

 

 俺が好ましく思ったベディヴィエールはこんな顔で俺を見ない。見ないから好きだった。

 



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