普通ではないふじのんと普通ではないお友達 (望夢)
しおりを挟む

藤乃のお友達篇
浅上藤乃とお友達


なんか久し振りにどうしようもなくふじのんを描きたくなって衝動的に書き殴りました。

鮮花よりも先に、コクトーよりも先に、普通ではないふじのんの異性のお友達になる話。


 

 転生――。転じて生まれるという意味のまま、それは生まれ変わりという意味を持つ。

 

 魂の輪廻という概念がある。

 

 魂は生と死を繰り返しているという概念だ。一度死んだ魂は新しく生まれ変わる。その生と死が延々と繰り返されるというもの。

 

 しかし魂は生と死を繰り返していても、記憶というものはその一度の人生に限った物でしかない。

 

 一度の人生を終え、新しく生まれ変わったところで、それを認識出来なければ転生とは言えず、それは新しく生まれる新生と呼ぶべきだ。

 

 故に、転生というものは死ぬ前の記憶を保持したまま、新しい人生に生まれ変わる意味を持つ。

 

 ならばこそ、前世の記憶を持ったまま生まれてしまった自分は、周囲が新生している中で転生という異質な生まれをしているところからズレている異物だ。

 

 そんな異物が普通の人生を歩めるのかと訊かれたら、歪ながらも肯定する。

 

「おはようございます。織姫(しき)さん」

 

「ああ…。おはよう」

 

 隣の席の女子に声を掛けられた。儚くて、穏やかで、嫋やかで、消えてしまいそうに気薄い彼女。

 

 浅上(あさがみ) 藤乃(ふじの)

 

 中学生になってから出逢った彼女は、望んでもいなかった二度目の人生に色を添えてくれた人物だった。

 

 前世を持っているというものは日々を退屈にさせる。なにしろ何をしても新鮮味を味わえないのだ。世の中に転生という物はなく、新生のみがある理由は、そうした前世の記憶によって物事に対する新鮮味を味わえなくなった魂の腐蝕を予防する為なのかもしれない。

 

 少なくとも、子供の時分では試せる選択肢というものは少なかった。親が望むのならばそれでも良かったが、特に習い事等もしたいとは言い出さなかった。何故なら勉強くらいは自分の学習能力でどうとでもなる程度だし、態々お金を払って貰って新しい選択肢を試そうとする我が儘に両親を付き合わせるのは別問題だろう。

 

 言ってしまえば、お金の掛かる習い事をはじめたいという我が儘を遠慮した。これが普通の小学生の子供ならばそんなお金の事など気にせずにあれこれやってみたい、習ってみたいと言い出すのだろうが、少なくとも自分はそんな金銭感覚がわからない子供ではないのだから極力お金の掛からない過ごし方を選択していた。

 

 オモチャもテレビゲームもねだることなく、唯一買って貰っていたのは本だったか。

 

 そんな選択肢の幅の狭い日常を過ごす中で苦痛だったのは、日常の大部分を締める学校だった。

 

 価値観が文字通り合わない。同世代の子供たちの自分勝手な言動や行動に苛立ちを募らせる事もあった。

 

 そうしたものに関わらない様に、静かに本を読んでいようとするのに人を指差して「ガリ勉野郎」などと揶揄させるならまだ良いが、本を取り上げて返さずに投げ合い、こちらが困ることを楽しむ所謂イジメと出会した。本も安くはないし、文庫本はそんな投げものに使うほど頑丈ではないので止めて欲しかった。

 

 あれは困った反応で右往左往するのが楽しいと思うからエスカレートするから、飽きるまで好きにさせておくしかない。

 

 しかし人を指差してからかうなと親に教わらなかったのだろうか。2000年代に生まれた若い世代ならともかく、80年代の今ならば親の躾も確りしているイメージだった。

 

 今さら子供のイジメに参る様なメンタルはしてなかったから相手にしないことでスルーを決め込み、気づけば小学6年間友達は居なかった。この頃の自分は他人を無視するのが普通になっていた。

 

 それでも自分がイジメられていたのは親には筒抜けだったらしく、本来とは別の学区の中学校に通うことになった。如何に中学生になって一気に同級生が増えても、元々イジメられていたという事実が知れれば新たなイジメの標的にされるだろうという両親の気づかいだった。

 

 他人を無視する事が普通になっていたから特に新しい出会いなんて期待せずにいたところに、中学生くらいからはクラス替えとかで起こる第一のイベントである隣の席の相手との自己紹介というもので、彼女の存在を知った。

 

 その名を聞いて、理解し、そして彼女の幼くも、記憶にある特徴、藤の名の如く藤色にも見える黒い髪に琥珀色の瞳。儚く清楚な印象を抱く少女の姿に、自分の錆び付いていた世界の歯車が動き出した様な感覚を抱いた。

 

 何故彼女が自分の退屈な世界に色を添えてくれた人物なのかと言えば、下衆な話になるが、自分は彼女がとある創作物のキャラクターであることを知っていたからだ。

 

 そして同時に自身が創作物の世界に転生を果たした事を知るが、知ったところでどうなるか。自分にはなにも出来ない。魔術師である訳でもない自分には精々彼女の持病が早期発見される様にそれとなく様子を伺う程度だ。

 

 相手が創作物の登場人物だからと、今までとは打って変わって他人に興味を示す自分のなんと現金な事か。それでも中学生になれば少しは価値観の共有もし易かった。

 

 だが今さら自分から積極的に他人と会話をするには、6年間続けた他人への無関心は思った以上に難敵だった。故に話し掛けられれば2、3言葉を交わすくらいしかしないし出来なかった。他人に興味を懐くというのが難しかった。

 

 だから失礼だろうが、普通でない特別な、物語の登場人物の一人である彼女には興味を抱けたのかもしれない。

 

 彼女は普通とは少し異なる人生を歩んでいる人間で、後天的に痛覚を封じている人間だった。

 

 だから痛みを感じないから、彼女の持病の発症にも気づき難い。そうでなくとも彼女は自分が普通とは違うことを知っているから他人とは一定の距離を取る人物なのだが、どういうわけか彼女は自分に対して世話を焼いてくる。

 

 それは互いに他人に一定の距離を置くからこそ、似た者同士の馴れ合いなのだろうか。

 

 それとも普通とは違う者同士だから引き合う何かがあるのか。

 

 いずれにせよ、そんな彼女と過ごす日々は悪くはないと思っている。

 

 取り繕わない言い方をするなら、「ふじのんマジサイコー」である。

 

「今日も、ご機嫌斜めですか?」

 

「別に。いつも通り」

 

 そんな淡泊に聞こえてしまうようなぶっきらぼうなやり取り。しかしこれが少なくとも自分と彼女のいつも通りの会話だった。

 

 彼女がそう言うのは、自分がそんな表情をしているからだろう。それには理由があるが、今は別に関係ないだろう。

 

「浅上も、相変わらずか?」

 

「はい。藤乃もいつも通りです」

 

 長続きしない会話もいつも通りだ。彼女も自分も、自分から積極的に会話をする気質でないからだろう。

 

「ほんとか? ソレ」

 

「はい。熱も脈拍もいつも通りです」

 

「ふーん。ならいつも通りか」

 

 彼女の事情からして定期的な診断はしているだろうが、それが健康診断かどうかはわからない。顔が赤いクセに本人はケロっとした様子で居たから保健室まで引っ張って行って熱を計らせたら普通に風邪を引いてるくらいの熱を出していたのがそもそもの始まりだったか。

 

 無痛である上に他の感覚も少し鈍いらしい彼女の事を放って置けなくなってしまったのはこの頃からだったか。

 

 転生してからはじめて友人と呼べる相手が浅上藤乃だった。

 

 彼女が自分をどう思っているかはわからないが、少なくとも嫌われてはいないだろうとは思う。

 

「ちっ……」

 

 クラスでは浮いている自分が、見掛けからして少なくともクラスで一番。おそらく学校一番。たぶん地域一番の美少女の彼女と話しているのが気に食わない男子と、下衆の勘繰りをする女子の嫉妬と好奇の視線を向けられるのに舌打ちをする。別に友達と話すくらい不思議なことでもないだろう。

 

 そんなある意味鬱陶しい視線を向けられているのが自分だけだからか、あるいはその辺も鈍いのか。藤乃は特に気にした様子もなく、視線を向けていた自分に気づくと軟らかく微笑んだ。花が咲いた様な笑みとはこんな物だろうという言葉が思い浮かぶくらいに優しくて心地の良い笑みだった。

 

「どうかしましたか?」

 

「…なんでもない」

 

 そんな彼女の笑みを見ると、毒気を抜かれて、感じていた不快感も気にならなくなり少しはマシになる。

 

 ただ、こんな彼女に待ち受ける未来を思うと、どうにか出来ないものかと考えが廻ってしまう。彼女と関われば関わるほどにその思考は廻り回って自分を悩ませる。

 

 高校生となれば彼女との縁は続くのだろうかという懸念もあるし。自分のような人間にも接してくれる彼女が不良に無体な目に合わされるのも、出来ることならどうにか避けたい。彼女を待ち受ける運命にただの人間である自分が介在できる余地があるとは思えないものの、友人に不幸が待ち受けると知っている手前、それを見てみぬフリなど出来ないし、したくもなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 藤乃にはただ一人、不思議なお友達が居ます。

 

 普通とは違う、いつも何処か遠いところを見ているような瞳を持つ男の子。名前は(さかい)織姫(しき)

 

 名前に姫の文字が入っている、読み方が異なれば織姫(おりひめ)の言葉が似合うほど可愛らしい顔つきは、上縁の眼鏡も相まって軟らかい印象があるものの、つり上がった瞳が少し近寄りがたい印象に変えてしまう。本当の織姫さんはそんなこともなくとても愛らしい瞳なのですけど。あまり男の子である織姫さんを可愛らしいというのは失礼ですかね。

 

 とはいえ、可愛らしいというのは織姫さんには褒め言葉になるようで、その言葉をいうと顔を赤らめるところがまた可愛らしいんです。

 

 わたしと織姫さんがお友達になった切っ掛けは、わたしが熱を出していて、そんなわたしを織姫さんが保健室まで連れて行ってくれたことが始まりでした。   

  

 何処か普通ではないらしいわたしは、その時はとても怖かった。熱を計った体温計を見た保健室の先生も慌てた様子でわたしをベッドに横になるように告げて、織姫さんにわたしを任せると保健室を出ていってしまいました。

 

 40度の熱はいつもより身体が動かし難い、重いとしか感じない私からすると大事の様で、その大事になりそうな予感に、お門違いにも織姫さんを少し恨みました。

 

 なのにどうしてわたしは織姫さんとお友達になったのか。

 

 織姫さんを恨んだわたしは、新しく変わった生活環境と、普通に在ろうとする重圧感、普通である浅上藤乃を築いて行こうとする自分を邪魔されたみたいで、つい織姫さんに言ってしまったのです。

 

 自分は普通にしていなければならないのに、余計なことをしてくれたと。

 

 怒りに任せて言ったのでもう少し酷い言葉を浴びせていたかもしれないですし、もっと訳のわからない事を言っていたかもしれない。要約するとそんな内容の言葉。

 

 それを聞いた織姫さんはこう言ってくれたんです。

 

「無理に『普通』になる必要なんて、ないと思う」

 

 それこそこれからの、今までの、わたしの努力を踏みにじる様な言葉に声を荒げようとして、織姫さんの瞳がいつもとは違うのを見て、その気がなくなってしまった。

 

 眼鏡を外した織姫さんは、いつも何処か遠いところを見ていてまるで空虚だった瞳には光が灯っていて。何処か悲し気にそれでいて穏やかな瞳をしていた。

 

「僕も普通じゃないんだ」

 

 そう言った織姫さんは自分の普通じゃないところ。二重人格の様なものである事を打ち明けてくれた。

 

 普通とは違うのに、それでも普通に過ごせている織姫さんを、わたしは羨ましく思い、そして妬みもした。

 

「あなたに、わたしの何がわかるんですか」

 

「わからないよ。誰にも。悩みなんて、抱えている本人にしかわからない。でも、自分だけで悩むより、誰かと悩めば、少なくとも独りじゃないって事だけはわかる、かな」

 

 独りじゃない。普通でないから、普通になろうとしている私に、織姫さんはそんな残酷な言葉を投げてきた。

 

 どうしてそんな言葉をわたしに言ったのか。熱が下がるまでの数日間、考えても答えは出るわけもなく。数日ぶりの学校の放課後に、わたしは織姫さんを呼び出した。

 

「なんだよ。話って」

 

「…この間の事です」

 

「…ああ。なんだそれか。それはオレには関係ないな」

 

 そういつもの何処か空虚な瞳を浮かべる織姫さんが眼鏡を取ると、文字通り人が変わった織姫さんが顔を出す。

 

「こんにちは。浅上さん…」

 

 穏やかな瞳の織姫さん。それが本来の織姫さん。普段の織姫さんは『代わり身』として本来の織姫さんを守る人格なのだそうだ。

 

「この間の、境さんの言葉を、わたしなりに考えてみました」

 

 普通である必要なんてない。

 

 その言葉をどうしてわたしに言ったのか。

 

 この時のわたしは、ハッキリ言って織姫さんの事が少し嫌いでした。

 

 わたしの何を知っていてそんな無責任な事を言ったのか。そんな憤りに近い感情が胸で渦巻いていて。

 

「でもわかりません。普通でないと嫌われてしまうかもしれない。なのにどうして、あんな事を言うんですか」

 

「普通になろうとして、そんな作り物の浅上さんを見て仲良くしようなんて、それは浅上さんであって、浅上さんを見ている事にはならないから」

 

「自分を偽っている様なあなたが言うんですか?」

 

 わたしの言葉を受けた織姫さんは、それはとても苦しそうな顔を一瞬だけ浮かべたあと、一息吐いて言葉を紡いだ。

 

「……そうかも、しれない。だから僕は浅上さんの事を言える立場でもなんでもない。だから、僕は、普通じゃない浅上さんと、友達になりたいんだ」

 

 その時のわたしは、織姫さんのその言葉の理解が追いつかなくて暫く呆けてしまった。

 

 こんな険悪な空気に近い雰囲気の相手に、普通でないわたしと友達になりたいと宣った織姫さんに、藤乃はおかしくて、そして嬉しくて、普通であろうとするわたしではなく、普通ではない藤乃を望んでくれる人が居ることに、とてつもない安心感と心地好さを抱いてしまった。

 

 普通なら、普通ではないと言われた自分とお友達になりたいと言われれば不快感を抱いたりするようなものですが、普通ではない藤乃には、そんな普通ではない織姫さんの言葉がどうしようもなく突き刺さってしまったようで。

 

 それが藤乃が織姫さんとお友達になったとある春の出来事でした。

 

 

 

 

to be continued…

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

浅上藤乃とお友達Ⅱ

ふじのんかわいよふじのん。

物語を考えて寝ると、その内容を夢に見るらしく、ふじのんの夢を見れたからモチベーションは高いものの、ふじのんに首を絞められるというなんともアレな夢で、起きたら毛布で首が絞まっていたというちょっと危ない状況だったものの、絞められた首を解いて血流が戻る時のジーンとする感じはなんか気持ちいいんですよね。まぁ、良い子の皆は真似しちゃダメだぞ?


 

 人生というものは魂の試練だという考え方がある。

 

 どんな人生でも、その魂が乗り越える為の試練であり道筋であるというものだ。

 

 だからその試練を途中放棄してしまった自分は、さらにキツい人生を歩むことになったのは必然であったのかもしれない。試練に耐えられずに逃げ出した自分に、神様が天罰を与えたのだろう。

 

 転生によって望まぬ第二の人生を送ることになった自分の心は、ハッキリ言って死んでいるのも同然だった。

 

 自殺を選んだ自分が生まれ変わった所で、その記憶を保持しているのなら、生活環境が一変してただ身体が若返った程度の違いでしかない。

 

 僕は他人が恐い。だって他人は僕を傷つけるから。精一杯頑張ってもその頑張りは評価されない。結果が他人より劣っているから。他人と同じ結果を出すのに他人より少し時間が掛かってしまうから。何をどうしても自分は他人に劣る人間だった。その度に他人とは上手くいかない結果を味わうことになる。他人というものは、僕を否定する(殺す)存在でしかなかった。

 

 自分なりに手を尽くしてもどうにもならないという結果にいくつも辿り着く。何度も何度も、自分なりに立ち向かってみた。それでもすべて無駄だった。だから他人と関わらない様にする為に、自分を終わらせた。終わらせた筈なのに。

 

 それでも再び他人と関わらなければならない自分を少しでも守るために『代わり身』のオレが存在する。或いはオレはこの世界で生まれ育つ筈だった境織姫という存在だったのかもしれない。それは考えた所で誰にもわからない。ただ言えることは、オレは自分自身を守るために生まれた存在であるというくらいだ。

 

 他人に劣る様なこともなく、せめて普通の人らしく過ごせる様な、自分には出来なかった完璧な自分を想像し、投影して生まれた人格。

 

 普段の生活においては基本的にオレが立ち回っている。人格を交代させるのは家の中の、自分の部屋という絶対的に安全な場所でだけだ。なにしろ二重人格なんて爆弾を両親に抱えさせるわけにもいかない。

 

 両親さえオレの事は知っているが、僕の事は知らない。つまり浅上藤乃に対してオレとしてではなく、僕として友達になって欲しいと言ったのは、それこそ作り物のではないありのままの彼女と友達になりたいと思うのなら、自分もありのままで申し入れる事が筋だと思ったからだ。

 

 どうして彼女と友達になりたいと思ったのか。他人が恐い筈の自分が何故、彼女を恐いと思わないのか。

 

 それはきっと、自分が彼女を一方的にだが知っている存在だからだろう。何も知らない他人は、何を考えているのかわからない。それは当たり前の事で、その当たり前の事が自分には耐えられない。だからその当たり前ではなく、何処の誰かではなく、創作物の登場人物という特別な彼女だからこそ、きっと自分は彼女に、他人に対して感じる恐怖を感じないのだろう。僕は酷い人間だ。

 

「境さんはどうして、わたしとお友達になろうと思ったんですか?」

 

「ん…?」

 

 給食の時間。小学生の様に周りと机を合わせてグループを作る様な事はなく、自分の席の近くの相手と机を並べるかする程度。思春期に差し掛かって、男女差の意識が芽生え始めるそんな時期。

 

 それでも、男女であっても友人となった自分と浅上藤乃は机を隣り合わせに付けて昼食を食べていた。

 

 友人となって、彼女に対してわかった事は、温和で基本的には受け身姿勢の人間である事。話し掛けられれば会話をするが、自らから言葉を語り出す事はあまりない。少なくとも自分に対して以外の人間にはそんな感じだ。

 

 ただ、それが境織姫という自分が相手だと、彼女の方から多くの事を語り出してくれる。

 

 それは他人に無関心で、浅上藤乃以上に受け身姿勢の自分が相手だから余計に彼女が言葉を語る様に見えるのかもしれない。

 

「……浅上さんを放って置けない。って、思ったからじゃ変かな…?」

 

 眼鏡を少しだけ取り、仮面の隙間から素顔を覗かせる様にして、僕自身の言葉を伝える。

 

 もう1つの人格との境界線。切り換えるスイッチとしているのが眼鏡だった。

 

 眼鏡を使わなくても人格の切り替えは出来る。ただ、その時は眼鏡という区切りが無いために主人格の方にも心理的な感触が直接伝わる。眼鏡という仕切りがあるからこそ、記憶を共有していても、『代わり身』が受け止めた嫌な事を他人事として処理できる。

 

 故に自分は眼鏡を境界線としている。

 

 彼女への質問への答えは、そのまま口にした通りだ。

 

 自分が浅上藤乃について何も知る事がなければ、彼女に対して友達になりたいと言うことさえなかったのだろうか。それこそただの隣の席の女の子という程度の存在で終わってしまったのだろうか。彼女がただの他人であったのなら、やはり他人として恐怖を感じる相手の一人でしかなかったのか。

 

 考えた所で答えは出ない。なら今の自分の思う通りの事を伝えるしか出来ない。ありのままの彼女と、ありのままの自分で友達になりたいと言いながら、自分には彼女に対して秘密にしている事が多すぎる。

 

 ならすべてを打ち明けられる相手が友達なのか。それも少し違うとは思う。そう言った秘密さえ告げられるのは親友とか、或いは恋人、或いは夫婦や家族等と言ったさらに一歩進んだ関係の相手であるだろうし、語るにしても自分の秘密は簡単には語れないものだ。すべてを打ち明けた所できっと気味悪がられる。或いは変人か狂人扱いか。

 

「わたし。自分の面倒くらいは自分で見れます…」

 

「……40度の熱出して顔も赤いのに、自分はなんともないって顔してた鈍い浅上にか?」

 

 眼鏡を戻してオレは言葉を語る。それでも人格は別でも思考は共有しているから自分の思った事はオレ達の総意だ。

 

「あれは……ちょっとだけいつもより身体が動かし難いとか、なんとなく重たいってくらいは感じてました」

 

「そういうところだぞ?」

 

 唇を尖らせてまるで拗ねた子供の様に自分は鈍い訳じゃないと言う彼女に、自分は意地悪く揚げ足を取るような言い方をする。気になる娘の注意を引きたくて意地悪をする子供でもあるまいに。

 

 自分が二重人格である事を告げたからか、彼女は自身の普通ではないところ。浅上藤乃の秘密を語ってくれた。『痛み』がわからない。痛みを感じる事が出来ないと。

 

 痛覚がないということは、何も感じる事が出来ない。目で見て事実を認める事が出来ても、感触として認識する事が出来ない。よって、彼女は生に関する実感がとても希薄なものになる。或いは生きている実感すらないのかもしれない。

 

 彼女の痛覚が無いことは後天的な事で、彼女の魔眼を封じる為の処置でもあった。

 

 素人考えではあるが、彼女に無痛症をもたらしている薬の服用を止めれば無痛症は治まるかもしれない。しかしそれをすると彼女の魔眼の力が表に出てきてしまうだろう。魔眼との付き合い方など、魔術師でもない自分にはどうすることも出来ない。

 

 どうにかできそうな存在を識ってはいるが、何処に居るのかは知らない。或いはそうした魔眼の存在を知った『魔法使い』が会いに来てはくれないだろうか。

 

 今の自分に出来ることなどなにもない。ただ普通になろうとした浅上藤乃を、普通ではない浅上藤乃に留めるような事を言ってしまった自分の責任として、彼女の異常性が露見しないように気を配る事なら出来る。例えば彼女が学校で怪我をしないようにだとか。

 

 なんて最低な友達も居たものだ。彼女と友達になるために、彼女が築くはずだった縁を、未来を、無茶苦茶にするような身勝手な人間だ。

 

 わかっていても、はじめて恐怖を抱く事のない、特別な相手(彼女)に振り向いて欲しいと思う事は、醜い事なのだろうか。いけない事なのだろうか。

 

「……そういえば。折角お友達になったのですから、『浅上さん』、なんて他人行儀な呼び方ではなく、『藤乃』、と、呼んでくれませんか?」

 

「…………良いねソレ。アイツは喜ぶよ。ならアイツの事も『境さん』じゃなくて、『織姫』って呼んでやれば良い」

 

 彼女の申し出に面食らって頭が真っ白になってる純情な主人格さまに変わって、オレがそう言ってやる。

 

 確かに思考は共有しているものの、オレは境織姫が耐えられないものを耐えるために生まれた存在だから、本人が頭が真っ白になろうが真っ暗になろうが、オレはなんともない。

 

「…境さん、……織姫さんも、織姫さんでは?」

 

 オレの言葉に首を傾げる浅上藤乃。確かにオレも境織姫であって、境織姫以外の何者でもない。『代わり身』だと言っても、境織姫であるからこそだ。境織姫から外れてしまっては自分を守ることなど出来なくなってしまう。それでもオレは『代わり身』でしかないから、境織姫に向けられる好意はオレが受け取るべきものじゃない。

 

「ま、好きに呼べよ」

 

 ただそれを他人に理解して貰える様にする言葉選びが出来るほどオレは賢いわけじゃない。これは感覚的なもので明確な線引きはない。近いものを挙げるならば、卵の殻だろうか。中身の弱い物を守るために存在する外殻。境織姫に向けられる好意は境織姫が受け取るべきもので、外殻であるオレが受け取ってしまえば、オレは境織姫でいられなくなってしまう。卵に話し掛ける奴は居ても、卵の殻に話し掛ける馬鹿は居ない。

 

 だから浅上藤乃の言葉はオレにとっては劇薬に等しい。

 

 なにしろ誰もがオレを指して境織姫という存在を定義しているが、唯一浅上藤乃だけは、境織姫を二人の人間として個々に定義してくる。

 

 それによってオレは一人の境織姫という別の存在となってしまう。それはダメだ。それは、それではオレは、境織姫の『代わり身』という存在の根本を揺るがされる。

 

 オレが浅上藤乃にぶっきらぼうに接するのは多分そんな理由。必要以上に話すことで存在の根幹を揺さぶられたくないからだ。

 

 それが、オレには耐えられないものだった。

 

 それが極僅かではあっても、オレが境織姫という存在からズレを生じさせる。

 

 境織姫は彼女を好ましく思っている。主人格であり、存在の根幹が彼女の事をそう思っているのに、オレは浅上藤乃が苦手だった。

 

 

 

◇◇◇◇◇◇

 

 

 

 1つの身体に二つの存在を持つ少し変わった、普通ではないお友達。境織姫さん。

 

 眼鏡の掛け外しという動作で全くの別人を使い分ける織姫さんのそれは、普通の人から見ればただの一芸に見えてしまうのかもしれない。

 

 ただ、織姫さんとお友達になった藤乃には、それが羨ましかった。

 

 普通ではない自分を守るための存在を欲したわたしは、そんな織姫さんを真似て、わたしと藤乃という一人称を使い分ける様になっていた。

 

 わたしという存在は、普通で在ろうとする浅上藤乃の自己投影。眼鏡を掛けている時の織姫さんに該当する、他人(普通)に合わせたもの。

 

 そして、藤乃という存在は、彼にだけ見せる本当の浅上藤乃。

 

 他人の事を恐いと言う織姫さん。では藤乃の事は恐くはないのだろうか?

 

 少なくとも、藤乃のお友達である織姫さんは藤乃を恐がってはいない事はわかる。普段の眼鏡を掛けている織姫さんからは想像できない穏やかな表情で、織姫さんは藤乃と接している。

 

 ただ、それは藤乃の前でだけで、他人の前には決して織姫さんは出てこない。出て来たがらない。そんな臆病な人。そうなってしまうだけの理由は、眼鏡を掛けている織姫さんから聞き出す事が出来た。

 

 曰く、小学生の頃にイジメを受けてしまった事が原因であると。

 

 眼鏡を掛けている織姫さんが他人に無関心なのも、それが理由であること。他人と関わることがなければイジメにも飽きるだろうという彼らの防護策。それを6年間続けていたから、今さら変えるのも面倒なのだとか。そして普通ではない自分を普通ではないと気づかせないには、必然的に関わる人間を極力減らす事が利口である。下手に普通に振る舞って大多数と関わってボロを出すよりも、その方が疲れないし、自分を偽り押し殺す事もないから。

 

 なんて寂しくて、可哀想な人達なのだろうか。

 

 普通ではないから、普通になろうとせず、他人への期待など抱かずにいれば関わる事さえしなければ、自分達の平穏を保てる。

 

 それでも織姫さんは他人と関わらずにはいられない。それは藤乃がそうであるように。

 

 他人が恐いと言いながら、手を差し伸ばしてしまう優しい人。

 

 羨ましくもあり、嫉妬を抱き、恨みもして、それでも藤乃が織姫さんとお友達であるのは、そんな優しい人の優しさが嬉しかったから。

 

 普通で在ろうとする浅上藤乃ではなく、藤乃(自分)を見つけて、拾い上げてくれたから。

 

 普通で在ろうと、押し殺さなければならなかった藤乃を救ってくれた人だから。

 

 ありのままの藤乃(自分)を生かしてくれた人だから。

 

 そんな臆病で、寂しくて、可哀想な、優しい人が、藤乃は好ましいと思ってしまったから。

 

 浅上藤乃は、境織姫とお友達となった。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

浅上藤乃とお友達Ⅲ

なんか一気にアクセス数爆上がりしたと思ったらランキングに載っかってたのね。やっぱみんならっきょ好きねぇ。そして型月ファンに怒られないように頑張るけれど、なんか間違っていたりおかしいぞと思った時はそれとなく優しく指摘してくれ。なにしろ心はガラスなのだ。




 

 この世界は普通に暮らしている分には、普通の在り来たりな世界であると人々は思うだろう。

 

 しかし、この世界には魔術師という存在が居る。

 

 時計塔、魔術協会、アトラス院――。

 

 魔術や錬金術といった、常識にはない超常の技術。

 

 そうしたものに手を伸ばしたくとも、伸ばせない程度には、境織姫は普通すぎた。家系も普通で、身内に魔術師が居るわけでもない。前世の記憶を持っていて、二重人格である以外は本当に普通だった。魔術師の家系ではないのだから、自身に魔術回路が存在し得ないという可能性すらあるが、魔術師の家系ではなくとも魔術を扱える術はある。しかしそれにしてもやはり魔術の師となる人物の存在が不可欠だ。

 

 それに、境織姫は魔術師になりたいわけではない。あくまでも友人である浅上藤乃に待ち受けるだろう不幸を回避する為の術として魔術を身につけようとする魔術使いを目指すのなら、境織姫に魔術を授ける好き者は居ないだろう。或いは自らの魂を対価にすれば、そうした好き者も居る可能性もあるが、前世を持っていることと、魂の特殊性は、境織姫の妄想でしかない。前世の記憶を持っているという特殊性だけで、魂はなんの特殊性もないものならば意味はない。やはり魔術師に一度接触する必要がある。

 

 だが彼ら魔術師はそう易々と会える様な人種ではない。なにしろ彼らは一般人に関心がなく、そして神秘の秘匿を重んじる魔術協会の方針によって魔術が世間に知れ渡る事を極端に戒めているからだ。故にその秘匿を怠る様なことをした魔術師は粛清される。

 

 そうした観点から見ると、一般人である自分が接触した所で、魔術師であることなど明かされるはずもなく、或いは魔術の秘匿を侵す危険人物として消される可能性すらある。

 

 自分の目的のために協力を要請出来そうな魔術師となると、そんな都合の良い相手となると思い浮かぶのは人形師か、自分の魂を検分してもらう必要があるが、優雅たれのうっかり一族か。間桐は論外だし、アインツベルンに関しては会いに行ける距離ではない。こちらが目に見えて魔術師に対するメリットを持つ物さえ用意できればエルメロイⅡ世という選択肢もある。

 

 超常に対する超常の存在として吸血鬼の姫も考えたが、多分自分は有象無象として相手にされないだろうと考えて、その線は止めた。仮に超常の存在として吸血鬼になったところで埋葬機関に始末されるのは御免だ。

 

 とはいえ、魂の検分という意味では、吸血鬼の姫に会うのも考慮の内に入るだろうか。勝手なイメージだが、吸血鬼なら人の魂の質等も見極められるのではないかというものだった。しかし吸血鬼の姫が日本にやって来る時期は、残念ながら浅上藤乃の不幸を回避したい境織姫からすればすべてが終わったあとなので、その選択肢は取ることが出来ない。

 

 自分自身そこまで型月世界に詳しいわけでもない為、物語の流れは知っていても、細かな設定まで網羅しているわけでもない。

 

 冬木市でガス爆発が起こった等との報道がされている様子はないことからまだ第四次聖杯戦争は起こっていないのだろう。起こるにしても魔術師の戦争に関われるような力など持っていない。そのまま勝手に過ぎ去るのを待つしかないだろう。

 

 ともすると、優雅なうっかり一族を訪ねようにも、戦争直前のピリピリとした時期に訪ねても門前払いが関の山か。エルメロイⅡ世にしても、戦争の真っ只中に首を突っ込むという冒険をしなければならない。

 

 やはり頼れそうなのは人形師しか居ないのだろう。

 

 というよりこれはもう消去法だ。一般人が関われそうで、尚且つ明確な害意が無さそうな魔術師が人形師の彼女かエルメロイⅡ世、或いはうっかり一族の宝石大好き娘くらいしか思い浮かばない辺り、魔術師というものが一癖も二癖もある人種なのがわかるだろう。

 

 その人形師の彼女にした所で、何処に居るのか探すのはとても困難だ。それこそただの中学生である自分が彼女を探すとなれば、それはやはり様々な美術展を調べ回るしかないか。建築士の知り合いが居るわけでもない。建築士をしている方の彼女と接触するよりは、美術展に出展している彼女を探す他ない。

 

 そうした美術展に関する情報を暇な時に探して歩くものの、目ぼしい成果は得られていない。結界で隠れている魔術師を探すことの困難さを身をもって味わうことになるとは思いもしなかった。

 

 前世の記憶を持っているのなら、一度死を経験したという自覚を抱く魂ならば、少しくらい未来に希望を持てる夢を見せて欲しいものだ。

 

「最近の織姫さんは、難しい顔をしてばかりですね」

 

「そう、かな……?」

 

 突然降り出した雨。天気予報で雨が降るなんてやっていなかったから、傘なんて持ってきてはいない。いつものように放課後に藤乃と話していても止む気配のない雨。教室を閉める時間になったから仕方なく昇降口で雨宿りをしていた。

 

 藤乃からそんなことを言われて、惚ける様に言葉を紡ぐ。

 

「なにか、悩みごとでも?」

 

「……少し、ね」

 

 目の前に居る浅上藤乃という友人の事で悩んでいるといっても、打ち明けられる悩みというわけでもなかった。

 

 ただ心配そうに此方を窺う彼女を見るのは、心苦しい。

 

 そんな表情をさせたいわけではない。自分がこうも悩むのは、彼女に暗い影を落とさせたくはないからなのに。

 

「…ありがとう、藤乃。心配してくれて」

 

 僕という存在を傷つける事もなく、隣に居てくれる彼女には感謝しかない。僕は普通になろうとした彼女を傷つけるような事を言ってしまったのに、それでも友達で居てくれる彼女の為なら、彼女を守るためならば、僕は自分の命をいくらでも懸ける。懸ける事が出来る。

 

「いえ…。藤乃も、感謝してします」

 

 彼女の手が、僕の手に触れる。

 

「織姫さんのお陰で、藤乃は、藤乃で居られるんです」

 

 両手で僕の手を包み込む藤乃。その白くて綺麗な手を見る度に、こんな手を血で汚させてなるものかと強く思う。殺し合いなんてさせて堪るか、と。

 

 グッと、手を握る力が強くなった。感覚のない彼女は、力加減というものも手探りに近い。物に対してなら多少力が強くとも平気だろうが、それが人間相手なら力加減を誤ると痛みを感じるのは当然の事。

 

 だから藤乃は他人と余り接したがらない。表面上の受け答えはしても、自分にする様に誰かの手を握るようなことはしない。少なくとも、自分が知っている限りでは。

 

 だから込められた力の強さに、思考の海から掬い上げられる。つまり痛いと思う程度に、藤乃は力を込めていた。

 

「藤乃…?」

 

「あっ、いえ。……ごめんなさい。つい…」

 

 声を掛けると、藤乃は手を離して、自身の手を引っ込めようとするのを、僕はその手を握った。そうしないと、彼女が何処かに行ってしまいそうだと思ったから。

 

「織姫さん…?」

 

「や、…ごめん。つい…」

 

 今度は逆の立場で同じようなことを言ってしまった。続く言葉を見つけられなくて、ただ彼女と見つめ合う時間が生まれる。何か話題を探していると、藤乃が口を開いた。

 

「……織姫さんは、ずっと、藤乃と居てくれますよね…?」

 

 握った手に、指を絡めながら、藤乃は僕にそう言った。

 

 それはきっと、この先の未来を決める一言だったのかもしれない。

 

 その言葉を紡いだ彼女の瞳は不安に揺れていた。

 

 僕は彼女の手を、両手で包み込む。答えなんてはじめから決まっている。

 

「僕も、ずっと、藤乃と一緒が良いな…」

 

 それは男女の告白と言うよりも、互いに互いを必要とする相手を見つけられたから交わされた言葉だった。

 

 いつまで一緒に居られるかはわからない。ただ、彼女が望んでくれる限りは一緒に居続けたいと、僕はそう思っている。だって僕は、彼女の事が好きなのだから…。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 この頃の織姫さんは難しい顔を浮かべるばかり。誰にでも他人に打ち明けられない悩みの一つや二つはあるもので、それは藤乃にとっても同じこと。

 

 ただ、近頃は眼鏡を掛けていない時でも何処か遠くを見ている虚ろな眼をしている織姫さんをこのまま放ってはおけなくて。そうしてしまったら、織姫さんは何処か遠くへと行ってしまうような気がして、藤乃は織姫さんの手を強く握ってしまった。

 

 不覚。身体の感覚のない藤乃(わたし)が最も注意しなければならないのが人との接触。力加減を間違えれば相手に痛みを与えてしまう。痛みというものがわからない私でも、普通の人は痛みというものを忌避するものだと知っている。それは二重人格である以外は普通の人と変わりのない織姫さんも同じこと。だから慌てて織姫さんの手を離したとき、織姫さんは藤乃(わたし)の手を掴んでくれた。

 

 見つめ合っている織姫さんの瞳にはいつも通りの穏やかさが戻っていた。藤乃を見てくれる優しげな目が、心地好くて、安心できて。

 

 どうして織姫さんが遠くを見るような眼をするのか、藤乃にはわからない。

 

 でも、織姫さんが遠くへ行ってしまうなんて。

 

 そんなこと、考えたくもない。

 

 織姫さんが居なければ、藤乃は、藤乃で居られなくなってしまう。

 

 自分の都合で、他人を縛り付ける事はいけないことだと知っている。

 

 でも、そんないけないことをしてでも、藤乃には織姫さんが必要だから。

 

「……織姫さんは、ずっと、藤乃と居てくれますよね…?」

 

 だから、藤乃は織姫さんに問い掛けた。織姫さんの返事を知っていて、それでも藤乃はその言葉を直接、織姫さんから聞きたかった。出逢って一年でも、織姫さんがどんな人なのか、藤乃は知っているから。

 

「僕も、ずっと、藤乃と一緒が良いな…」

 

 藤乃の言葉を聞いたとき、キョトンと面食らった様に呆けてしまった様子の織姫さんの顔は、中々見ることの出来ない顔で、そんな顔はある意味で織姫さんの自然な顔はとても愛らしいと思いました。

 

 そして、思っていた通りの返事をくれた織姫さんは頬を染めながら、自信がない上目遣いで、俯きながらこちらの顔色を窺うようにして、言葉を紡いだ。

 

 そして段々と顔から耳まで赤くなって、身体もフラフラとしはじめて……。

 

「織姫さん……?」

 

 ぽふっと、音を立てて、織姫さんの身体が藤乃へと寄り掛かる。

 

「…………あのバカ…!」

 

 眼鏡を掛けてもいないのに、眼鏡を掛けた織姫さんが出てきた。

 

 そして学生服の中から眼鏡ケースを取り出して、眼鏡を掛けたあと一息吐く。当然触れあっていた手、寄り掛かっていた身体も離れてしまって、惜しい、と、思いました。

 

「お前もお前だ浅上! 見てるこっちがこっ恥ずかしいことするなよ!」

 

 床の上に乱暴に座り込んで、立っている藤乃を睨み付ける織姫さんの顔はまだ赤いままだった。

 

「あの、体調が優れないようなら、保健室に」

 

「別に。放っておけば収まる…」

 

 そっぽを向きながら吐き捨てる様に織姫さんは返してきた。織姫さんと違って、眼鏡を掛けた織姫さんには、どうやら藤乃は嫌われている様です。

 

「織姫さんは、大丈夫ですか…?」

 

「慣れないことした所為で頭がパンクしただけだ」

 

 わたしも隣に座って、織姫さんの様子を問い掛ける。どうして織姫さんがああなってしまったのか、藤乃にはわからなくても、わたしとして考えれば見えてくる事もある。

 

 まるで愛の告白の様なやり取りは、ともすればそれを意識してしまった織姫さんは気恥ずかしさからあんな風になってしまったのかもしれない。

 

「可愛らしいですね」

 

 そう、なんて可愛らしい人。出来ることならもう一度、あの恥じらう織姫さんを見てみたい。そしてもっと恥じらう姿を見てみたい。辱しめてみたい。

 

「危ない女だな、お前…」

 

「そうでしょうか…?」

 

 そう言った織姫さんの瞳は、この時だけはいつもの何処か遠くを見ている物ではなく、呆れた様子で。

 

 わたしはそんな織姫さんの視線を受け止めながら、心に芽生えた疼きを反復する。この衝動をぶつけたとき、織姫さんはどんな表情をしてくれるのか。

 

 わたしの中ではもう、織姫さんが藤乃(わたし)の事を拒む等とは微塵も思い浮かんではいなかった。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

冠位人形師

かなり強引な進め方ですまないさん並にすまないと言うしかない。


 

 伽藍の堂――。

 

 冠位人形師、蒼崎橙子の営む建築デザイン事務所兼人形工房。

 

 人避けの結界によって関係のない人間は訪れる事が出来ない場所。

 

 アーネンエルベ、ブロードブリッジ、巫浄ビル、小川マンション、礼園女学院――。

 

 場所を特定するのに随分と骨を折らされた。実動して2年が経ち、僕は中学三年生になっていた。

 

 大学生で色々なツテや縁を持ち、物探しが神憑り的なあのコクトーに比べればなんと情けない事か。

 

 それでもようやく探し出せた。

 

 探し方は劇中に出てくる建物郡から歩いて行ける範囲。歩きに限定したのはそうした場所に両儀式や黒桐鮮花が歩きで通える範囲内に注力した方が確率としては大だからだ。とはいえ小川マンションにはバイクで向かっていた描写からして候補地から外しても良かっただろうが念のためだ。

 

 そこから下水道の水を調べた。何故なら結界を張っていても誤魔化しているのは人の認識で、異界に隔離している訳じゃない。だから雨水などの下水には結界の魔力に触れた痕跡が残る。

 

 小川マンションの方はまだ建設中だが完成間近。ともすればそのマンションのフロアの設計に関わった彼女もこの街に居ることになる。

 

 ようやく掴めた彼女の影。しかし魔術で居場所を調べてしまった以上、警戒されるかもしれない。

 

 そう、魔術だ。

 

 やはり魔術師を探すには魔術に携わるしかない。自分はコクトーの様に物探しが神憑っている訳ではない。普通に探した所で辿り着けなかったかもしれないし、更に時間が掛かっていたかもしれない。

 

 探すのに2年掛かったのだから掛かりすぎだ。死に物狂いで探せばもう少し早くなっただろうか。

 

 ともかく探し出せた迄は良い。あとは入るだけだ。

 

 入るだけなのに……。

 

「入れない……」

 

 住所は合っている。そして魔術的にも調べたのだから間違いないはずだ。バブルが弾けて建設途中で放棄された廃ビルなんて探せば幾らでも出てくるのだ。範囲候補を絞ったとはいえ、それをしらみ潰しに探すのも容易な作業ではなかった。

 

 そんな苦労を重ねて来たのに、最後の最後で門前払いなのか。

 

 或いはやはり魔術を使ったことで警戒されてしまったのか。

 

 意識の間を擦り抜ける様に、住所の廃ビルの前をすっ飛ばされるのだ。

 

 帰国する迄のほんの短い期間だけ、覚えられた魔術は決して多くはない。魔術というよりも錬金術に近いものだろうが。

 

 結局のところ、一度魔術と言うものを目に触れさせたくて、自分は冬木市を訪れた。

 

 第四次聖杯戦争――。

 

 万能の願望器と言われている聖杯を手に入れる為に行われる魔術師同士の戦争。

 

 その戦争に、魔術とはどういう物かを知るために自分は首を突っ込んだ。

 

 結果からして当初の目的は果たせた。そして自分も極めて初歩的な物だが、魔術を行使できる様になった。

 

 残念な事に、自分には魔術回路が存在しなかった。

 

 それでも触媒を用いれば、あとは周囲の魔力を使うなりすれば良い。魔石に貯めた魔力を使っても良い。

 

 魔術師からすれば鼻で笑われる様な物でも、今まで普通の人間でしかなかった自分からすれば、魔術という異能に手を伸ばす事の出来た大きな一歩だった。

 

 共にイギリスに来ないかとも誘われたが、今の自分にはやるべき事がある。そして、彼女を置いて、日本を離れる事なんて出来ない。約束したからには男に二言はない。

 

 時計塔に赴けば、それこそ様々な魔術に触れられる機会はあっただろう。確実に魔術というものに触れられる機会は魅力的で、しかしそれで自由に身動きが出来なくなってしまったら、彼女の運命に間に合うことが出来なかったら。

 

 それでは本末転倒だ。先ず自分の大前提として、僕は彼女を守るために、普通ではない力を求めているのだから。

 

 人避けの結界を前にして立ち往生。ただこのまま引き下がっては、或いは明日には彼女はこの場から居なくなってしまうやもしれない。

 

 此処は彼女の工房なのだから、魔術的に突破すれば侵入者として扱われて、使い魔に食い殺されるか。

 

 それ以前に、魔術的に突破出来る程の力が自分にはないのだが。

 

 魔術的にどうもならないのなら、物理的にどうにかするしかない。この人避けの結界は対象を選別して働きかける。伽藍の堂に関係のない人間の認識を阻害して、認識出来ないようにしている。

 

 素人考えならば、その阻害される認識を強く維持するかしかない。

 

 場所は間違いない。必ず此処に在ると強く思う。

 

 それこそ果てのない地平であろうとも踏破するという強い想いに倣う様に。

 

 必ず此処に在るのだと魂の奥底から想う。

 

 風向きが変わったように、肌に感じる気配が変わった。

 

 結界というものは外界と内界を隔てる物。内側に入ってしまえば幾らか気を抜けた。

 

 先ずは第一関門突破、という事だろう。

 

 あとはどうやって彼女と話すかだ。限り無く一般人であるとはいえ、自分は既に魔術の世界に足を踏み入れてしまっている。魔法使いの家系に生まれた彼女には、自分が魔術に関わっている人間だということは直ぐに見抜かれてしまうだろう。 

 

 今はイギリスに帰った友人を相手にするのとは次元が文字通り違う。

 

 自分が彼女に提示できるメリットは、残念ながら存在しない。

 

 一階は廃墟。二階と三階は確か彼女の仕事場だったはず。足を踏み入れたら帰って来れなさそうなので迷わず四階まで上がる。

 

 階段を登り切り、四階のフロアに入る。目の前の床には鞄が置かれていた。

 

 ぞわりと、背中から嫌な汗が吹き出し、最早本能や反射と言った領域、思考する前に足が地面を蹴って、埃だらけのフロアの中へと飛び込む。受け身を取りながら背後を振り向く。そこには()()()()()()()

 

「っ――――、はぁ……」

 

 意識が張り詰め過ぎている。少しの異常にも過剰反応してしまう。まるで戦場の真っ只中に居るみたいだ。

 

 いや、ある意味で戦場か。自分が運命に抗えるかどうかの戦いをするのだから。

 

 受け身を取った時に落としてしまった眼鏡を取るために立ち上がる。落ちている眼鏡を拾うために屈んで、再び前を向いた時。目の前に人の顔があった。

 

「あっ…」

 

 眼鏡を掛けた、人の優しそうな、赤髪の女性。にっこりと笑った彼女と思いっきり眼を合わせてしまった。

 

 その眼鏡は魔眼殺しだとわかっているが、それよりも先に反射的に眼を閉じて距離を取ろうとして、足に何かがぶつかって、そのまま後頭部から地面にダイブした。

 

「っぅぅぅぅ~~~~っっっっ」

 

「えーっと、大丈夫…?」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 この事務所に無関係の人間が入り込むとは思ってもみなかった。

 

 ただの一般人ではないのは確かだ。着ている服には拙いながらも防護魔術が施されている。周囲の魔力を取り込んで防御力に転化する。原理はわかるが効果は微々たる物だ。魔術師同士の闘争ではまるで役に立ちはしないだろう。時計塔に上がりたての魔術師でも、もう少しマシな物を作れる。

 

 ならばこれを作った魔術師がその程度の低能なのか、或いはそれを着ている本人がその程度の魔術師なのか。

 

 いずれにせよ、この場所を魔術師に知られたのならば放って置くわけにはいかない。

 

「あなた、何しにここまで来たの? ここは私の自宅兼事務所なのだけれど」

 

「えぅ!? あぅ、…えっと……ぅぅ…」

 

 身のこなしも全くの素人、というわけでもないらしい。間抜けを装った魔術教会の追っ手…という線にしては間抜けすぎる。そして魔力も普通の人間と大差無い。至って普通なのだが。

 

 歳はまだ10代中頃。骨格からして男。まだ少年と表して良い子どもは、私の質問に対しておろおろとして、おもむろに眼鏡を掛けた。

 

「………アンタが、冠位人形師、蒼崎橙子か」

 

 眼鏡を掛けるとまるで人格が入れ換わった様に間抜けさが抜けた。

 

 まさか自分以外にも眼鏡をトリガーに性格を切り替える人間に会うとは。

 

「そうよ。その名を知っているということは、あなたはこちら側の人間ね?」

 

 私に対して冠位という名を使ったのなら、先ず間違いなく魔術側の人間で、時計塔に関係している可能性が高い。

 

 ただ私の質問に彼は何と答えようかという顔をして、言葉を紡いだ。

 

「そうとも言えるし、そうとも言えない。魔術を学んだのは、たったの1週間ちょっとだ」

 

 そんな魔術の魔の字も知らないような人間が、この事務所に辿り着ける訳がないのだが。結界は完璧だ。それに1週間程度魔術をかじっただけならば普通の人間とほぼ変わりはないはず。だとすれば別口の探知系の異能を持っているのか。

 

「でもオレは識っているから見つけられた。それでも探すのに結構苦労したけどな」

 

 含みのある言い方をする。知っているから見つけられた? なら探す必要もないはずだ。それに、此処に越してきたのはつい最近だ。誰にもこの場所の事は教えていないのだから、知る術もない。

 

 間抜けに見えて、どうやら普通じゃないと見るべきか。

 

「…なにが目的だ」

 

 眼鏡を外して、妙な真似をすれば殺せるように構える。

 

「……運命に、抗うために、あなたの力を貸して欲しいんです」

 

 此方に倣う様に眼鏡を外して見えた顔は、覚悟を決めた、真っ直ぐな人間の顔だった。

 

「運命に抗う、だと…?」

 

 からかっているのか。それとも大真面目なのか。運命とはなんの運命なのか。

 

「僕の大切な人の運命を変えたい。僕はその人に訪れる運命を識っている。けれど、僕は識っているだけで、なんの力も持っていない。だから、その力を身につけたくて、あなたの事を訪ねました」

 

 運命を知っている。その言葉を信じるのなら、千里眼に類似する異能を持っているのか。だとするのならば、この場所に辿り着けた事にも一応の納得はいく。

 

「なら無駄足だったな。私が君に関わる理由がない」

 

「……僕が、根源へと到達出来るかもしれない魂の持ち主だとしてもですか?」

 

 根源へと至る事の出来る魂か。また随分と大きく出たものだ。

 

 しかしそれが本当だとして、私には興味のない話だ。

 

「……この場所にやってこれた頑張りに免じて忠告してやる。魔術師相手にその事を軽々しく口にするな。それこそ細胞のひとつにまでバラバラにされて隅々まで調べ尽くされるぞ」

 

「魔術協会でホルマリン漬けは勘弁ですね」

 

 こいつに魔術を教えた奴は余程のアホか。それともそれを聞いたこいつがアホなのか。人の忠告を軽口で返してきやがった。

 

「…だからあなたくらいしか居なかった。根源へと至る事を諦めて、その気のないあなたしか」

 

「随分と買ってくれているみたいだな。その千里眼か未来予知で、私が君を弟子入りさせる未来でも見たのか?」

 

「千里眼とか予知じゃないですよ。知識として識っているだけですから」

 

 まるで見聞きした様な口振りで話すその様子が馬鹿馬鹿しいと思えてくる。知識として知っている。千里眼でも未来予知でもない。ともすれば運命を見ることが出来ると言うのか。

 

「世界は無限の可能性に溢れています。例えば第三次聖杯戦争で1つの分岐が起こる。例えば先の第四次聖杯戦争の直前に1つの分岐が起こる。中には早期に地球上からマナが枯渇する世界も存在しますね」

 

「面白い話だが、それを裏付ける証拠はないな」

 

「確かに。ならどんな事なら信じられますか? 妹に魔眼殺しを盗まれた腹いせに魔術協会から妹の名義でお金を引き下ろしていたり、或いはあなたが何人目の人形なのか、それとも…」

 

「わかったわかった。もう良い、ちょっと黙れ…」

 

 人畜無害そうな顔をしてなんてやつだ。人の秘密を勝手にベラベラと話されたら敵わない。調べても調べられない事まで恐らくこいつは知っている。

 

「ただ解せないな。そうまでして何故私に拘る。運命を知っているのなら、自分の運命を見て最良の選択をし、時計塔にでも入って、現役のロード辺りに取り入れば良いだろう」

 

「この世界にとって部外者の僕には、この世界での運命(ものがたり)なんて用意されていないので無理ですね。そして魔術師本人が最強である必要はない。最強の物を作れば良いというあなたの持論でなければ、ただの人間でしかない僕は、戦うことすら出来ないと思ったからです」

 

「この世界の部外者と来たか…。魂が根源に通じていると宣うのはそれが根拠か?」

 

「この世界を観測できる世界からやって来た魂が、この世界の理に馴染むためには、この世界の理を司っている場所を通ってこなければならない。でなければ理の違う魂は拒絶されて然るべきではないですか?」

 

「確かに一理あるな。私は魂は専門外だが、そう考えられるのも無理はない」

 

 だが例えそうだとしても、既に根源へと至る事を止めてしまっている私には、ただ知られたくもない秘密を知っている厄介な人間でしかない。

 

 世界は観測者が居るから存在していると言われることもあるが、そんな観測者が目の前に居るとなると、率直に言って気持ちが悪い。

 

 他人に知られたくはない事さえ一方的に知られているとはそういう感覚だ。

 

 自分は相手を知らないのに、相手は此方を知っている。趣味や趣向。或いは生まれから終わりまで。何を成してきたのか、そしてこれから何を成すのか。

 

 運命を知られているなどぞっとする。

 

「ただやはり私にはメリットのない話だ。悪いが他を当たってくれ」

 

「いやです」

 

「『帰れ』、と言った」

 

「いやです」

 

 まるで梃子でも動かんと言わんばかりに私を見つめてくる。だから暗示を掛けてやったのだが、まるで効いちゃいない。どうなってるんだこいつは。

 

「もう一度言うぞ。『帰れ』」

 

「いやです」

 

 軽く頭を抱えそうになった。魔眼も使って暗示に誘導を掛けているのに全く効いている気がしない。

 

 これは頑固者とかいう次元じゃない。

 

 使い魔をけしかければ排除は容易だし、私自身の火力でもおそらく殺せる。本人の言う通りたったの1週間程度で学んだ魔術で防げるほど腕は落ちちゃいない。

 

 ただそれは負けた気がするのは、まだ彼が一般人側の空気を持つ人間だからだろう。運命を知っていると言ったが、おそらくは本当にそれだけなのだろう。でなければ余程擬態の上手い人間なのか。……有り得ないな。これは勘だが、こいつは極めつけのアホの匂いがする。

 

「運命を変えると言ったな。それが変えられる運命ならば良いが、変えることの出来ない運命――この場合は宿命とも言えるな。そうした宿命だった場合はどうするつもりだ」

 

「……彼女の運命が宿命だというのなら、その宿命も背負ってみせます」

 

 恋する乙女は無敵だというが。それは男でも適応される事なのか。極めつけのアホの他に底無しのバカと来たか。

 

 ――こういう底無しのバカは嫌いじゃない。

 

「お前の敵はなんだ?」

 

 運命を知っているのは良い。だが戦うために魔術を必要としているのなら、並大抵の案件ではないのだろう。

 

 それこそ魔術師同士の闘争に巻き込まれるのか、魔術であれば回避できるというのならば私が代わりに解決しても良い。その時は私に関する記憶だけは消し去るが。

 

「荒耶宗蓮」

 

「……なるほど。難敵だな」

 

 まさかその名が出てくるとは思わなかった。

 

「だが、奴が敵となるのなら、ハッキリ言って私の手には余る可能性すらあるぞ」

 

 魔術師としては欠陥も多かったが、結界に関しては魔法の域に到達していると言っても過言ではない。そして近代随一の武術の達人ときている。

 

 生半可な魔術師では返り討ちに遭うのが関の山。この私でさえだ。それこそ手段を選ばなければ勝てるだろうが、そうなれば魔術協会に察知される危険性もある。

 

 聞けば聞くほど、私にはなんのメリットもない話だ。

 

「それでも僕は、あなたに頼るしかない」

 

 何処までも真っ直ぐで、目的のためには挫けない強靭な精神力。それはその口から放たれた名を彷彿させる。

 

 このまま手放しで帰すというのも不安が残る。暗示が効かないとなると、殺すか隔離するかだ。

 

 そうした心配は要らなさそうな感じだが。

 

「……良いだろう。だが、私はただ教えるだけだ。運命に抗うのはお前だけで成し遂げろ」

 

「もとよりそのつもりです」

 

 暗示が効かないのなら目の届く範囲に置いておく方が気が楽だ。殺すのは負けた気がするし、隔離したとすると、何故だか猛烈に厭な予感がする。

 

「さしあたっては……。ここの掃除からだな」

 

「わかりました」

 

 さて、この選択が吉と出るか凶と出るか。

 

 真っ白な人間を魔術師と戦える様にするというのも、これは作るという行為に当て填まる。

 

 完成には期待しないが、暇潰し程度にはなるだろう。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夏の終わりと始まり

なんだろう、ふじのんエミュレートが上手く機能しない。気を抜くと直ぐに暴走してあらぬ方向に文字を綴ってしまうので大変です。

日刊3位にまで来ちゃったから、フワッとした内容よりもしっかり書いた方が良いのかとてつもなく迷う。




 

 結果的に僕は冠位人形師蒼崎橙子の弟子にしてもらえた。

 

 自分でもかなり強引な売り込みの仕方だったと思っている。けれども、コクトーと違って特技もないし、蒼崎橙子に示せるメリットもないのならば、多少強引にでも行かないとならないと思っていた。そうでもしなければ、自分など簡単に丸め込まれていただろう。

 

 それでもかなり強い暗示を施されたのは、眼鏡を掛けている時の自分が未だこの伽藍の堂の中で出てこれない程だとなれば判る。

 

 自分に暗示の類が効かないのは既に体験していた事だった。

 

 第四次聖杯戦争。

 

 その時に接触した魔術師は、その聖杯戦争にて生き残った魔術師。ウェイバー・ベルベット――後のエルメロイⅡ世だ。

 

 此方も消去法だ。第四次聖杯戦争に参加する魔術師の中で自分の話を聞いてくれそうな人物となれば、ウェイバーか。或いはかなり確率は低くなるが、遠坂だろう。愉悦部の戸を叩く勇気はなかった。話は真面目に聞いてくれそうな人物だが、代わりに痛いしっぺ返しが来そうで怖かったのだ。

 

 より危険度の低い選択肢を考えるとウェイバー位しか居ない。

 

 それでも最初は暗示を掛けられて追い返されそうだった。その時に、自分には暗示が効かない事が判明した。

 

 自分も魔術師かと警戒されたが、魔術回路はないし、魔術師でもないことが判ると、ウェイバーは頭を抱えていた。

 

 ただこの時も、僕は大丈夫でも、オレはウェイバーの前には出てこれなくなった。

 

 つまり暗示はちゃんと効いている。

 

 ただ、オレに効力があるのに、主人格に効力がない理由。

 

 蒼崎橙子が言うには、オレ達の関係性に()るものではないかということだ。

 

 オレは主人格に降り掛かる負担を受け止める存在だ。だから暗示の類も、オレが一手に引き受けるから主人格には効力がないのではないか。

 

 しかしこの手の精神的な負荷をオレが耐えられなくなった時は、どうなるか分からない。

 

 本気ではなかったとはいえ、魔眼まで使われていたらしい。余程強力な暗示なのは、蒼崎橙子のもとに引っ越してから一月が経つ今でも、伽藍の堂の中で人格が切り替えられないことから判る。

 

 無理に切り替われば、その足でオレは自宅に一直線に『帰る』事になるだろう。

 

 ともあれともかく、どうにかこうにか自分は蒼崎橙子から魔術と人形製作の指導を受けている。

 

 私生活の大部分を魔術に置き換える為に伽藍の堂に引っ越しもした。その方が家から伽藍の堂に通うよりも効率的に魔術を学べるからだ。

 

 ただ藤乃との約束もあるため、学校は変えていない。自転車で二時間もあれば通えるのだから変える必要性を感じない。体力作りにも丁度良い。

 

 両親への説得は、思ったよりもすんなりと行った。今まで我が儘という我が儘を言ったことがないからだろう。

 

 両親には蒼崎橙子のもとで人形造りを学ぶためだと伝えている。いくつもの展覧会に出品している程の凄腕人形師だと紹介しているし、一応未成年である自分の身柄を預かるので、蒼崎橙子にも両親に説明をしてもらった。蒼崎橙子を紹介した時は、両親が少し騒がしかった。他人を家に連れてきた事なんて一度もなかったからだろう。父親には何処であんな美人を引っ掛けて来たのかと問われて、正直少し……ウザかった。

 

 嘘を言っている訳でもないためボロは出ない。時計塔で冠位認定を受け、封印指定にまでされている人形師。現代最高随の人形師であるのは疑い様のない事実だ。

 

 昼間は学校。夜は魔術師としての修行の日々を送っている。

 

 中学三年生。時は1995年。余暇はあと――二年。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 境織姫――。

 

 押し掛け同然に転がり込んできたその少年は、中々面白い人間だった。

 

 それは人間性の話ではなく、存在としての在り方。そしてその異常性だ。

 

 本人は二重人格だというが、記憶を共有する二重人格は、二重人格とは言い難い。二重人格とは、主人格が精神的に耐えられないものを切り離して新たに生まれるものだからだ。

 

 他人を恐怖した境織姫の産み出した人格。もう一人の境織姫。人並みに完璧であれと願われた理想の自分の投影。自身を守護する盾にして殻。

 

 疑似人格の形成としてはお手本の様なものだ。さらに眼鏡という小道具を使い、自身と別であると定義しているのだから完璧だ。

 

 理想の自分という、他者でありながら自身でもあるという想像によって生まれた境織姫の疑似人格。

 

 境織姫にとっては自身であるが他者でもある。そして、精神的な負荷を受け持つ境織姫が存在しているのだから、精神に作用する暗示も、疑似人格の境織姫には通用するが、主人格の境織姫には通用しない。

 

 そんな複雑な精神構造をしている境織姫に暗示を効かせるのならば、疑似人格を破壊する勢いで強力な暗示を掛けるくらいが、今のところ考えつく方法か。

 

 境織姫と関わりのない魔術師では気付き難い特性だ。

 

 しかし、その負担を受け持つ疑似人格が、その負担に耐えられなくなった時はどうなるのかは予想がつかない。

 

 耐えきれない分の暗示が本人に掛かるのか、空気を入れ続けた風船が割れる様に、疑似人格が破壊されるだけで済むのか。

 

 試してみるのも一興だろうが、それで使い物にならなくなっては惜しくもある。

 

 本人は覚えが悪いというが、はじめから教えたことを完璧に出来る人間など居ない。いくつもの失敗を重ねて、人間は成長するものだ。

 

 しかし魔術となると、それは異なってくる。才能や、或いは属性。得手不得手によって習得できるものには限界がある。

 

 だが、境織姫にはそれがない。

 

 魔術回路を持っていない為、消費する魔力の量によっては魔術を行使する為の魔力を別枠で用意する必要があるが。教えた限りの魔術を覚えていく。そして、覚えは良いが、習得には時間が掛かる。

 

 その二つの欠点が目立つが、教えた魔術を、時間さえ掛けてしまえば習得出来るというのは、異常としか言い様がないだろう。

 

 得手不得手もない。属性も関係なく魔術を習得していく様は、魔術回路さえあれば時計塔でも名を売れる程度の魔術師になれただろう。或いはその異常性を危惧されて封印指定でもされたか。いずれにせよ、誰かに習うことが出来る魔術であれば、どんな秘術すらも習得してしまうだろう化け物だ。

 

 私にとっては時間などある意味で無限にあるようなものだ。この手間隙掛かる弟子の成長というものは、人形造りに近いものがある。まぁ、ゆっくりやっていこうじゃないか。一つ一つの部品を丁寧に仕上げていくように、一つ一つの知恵と技術を教えていく。

 

 ただ私でも教えることの出来ないものがある。

 

 戦闘技能に関しては完全に専門外だ。戦闘を使い魔に任せる私では、その辺りの事は教えられない。

 

 今は適当に組んだ人形を相手してもらうことで茶を濁している。それでも仮想敵(イメージ)があるのか、色々と注文をつけてくる。サーヴァント並みの反応速度をつけて欲しいとは無茶を言う。

 

 運命を変えると宣った織姫は、何かに急かされる様に忙しなく、机にかじりつく勢いで魔術と技術の習得に日々を費やしていた。

 

 学生にとっては毎日が休みになる夏休みだろうとも、毎日朝から晩まで魔術と向き合っていた。その向き合い方は魔術師そのものだ。

 

 それでも、3日に1度は外出していた。友達と夏休みの宿題を片付けているのだと言っていたが、あれは間違いなくデートだ。一人前にちゃんと青春しているらしいのは良いことだ。人間性を失わない様にするには、そうした人らしい生活は重要な事だ。

 

 だが、それも夏が終わりを迎える頃に様子が変わった。

 

 市内の商店街で殺人事件が起きた。そのニュースを見てから織姫の空気が張り詰め始めた。

 

 まだ覚えたてのルーン魔術で完全武装している姿を見て、何かが始まったのだと察した。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 夏休みが明けて、新学期に会った織姫さんは難しい顔を浮かべていた。

 

 そんな顔は以前にもあった。

 

 何かに悩んでいるのだろうか。ただ織姫さんは、藤乃にその事を話してはくれないのだろう。以前もそうだった様に。

 

 織姫さんは藤乃のことをたくさん知っているのに、藤乃は織姫さんの事をあまり知らない。それは藤乃の事を知っていてくれる織姫さんに甘えてばかりいるから、それで満たされてしまっているから。

 

 夏休みになる前に、織姫さんは自転車で藤乃を迎えに来てくれる様になった。今までは歩きだった通学が変わったのは、織姫さんがお引っ越しをしたから。

 

 やりたいことがあって家を離れたからだと織姫さんに言われて。その頃からだろう。織姫さんの心が遠くにあるように感じるようになってしまった。

 

 近くに居るのに、立っている場所が違う。見ている景色が違う。そんな感覚が積み重なっていく。

 

 住む場所が遠くなってしまったのに。それでも織姫さんは藤乃の傍に居てくれる。流石に夏休みにまで毎日一緒には居られないのは藤乃にもわかっています。それでも3日に1度は顔を会わせて、お出掛けをしたり、宿題をしたり、それなりには一緒に過ごしていました。

 

 それでも心に積もる不安は拭う事が出来なくて。

 

「殺人事件」

 

「え…?」

 

 午前中で終わってしまう学校からの帰り道。落ち着いて織姫さんと話せる時間なのに藤乃の選んだ話題は、そんな物騒なもの。

 

「怖いですよね。場所も、織姫さんが住んでいる近くですよね?」

 

「うん。と言っても、少し離れてるから大丈夫」

 

 織姫さんがお引っ越しをしたのは、学校から自転車で二時間も掛かるいくつかの市を跨いだ観布子市という街。

 

 少しでも心に積もる不安を拭うために、同じ視線で、同じ場所に立ちたいからと、織姫さんの身近に起きている話題として殺人事件を挙げるのは、少し普通ではないのかもしれない。それでも織姫さんは藤乃の選んだ話題に乗ってくれる。

 

 織姫さんは、藤乃を否定しないから。だからいつも、甘えてしまう。

 

 甘えてばかりいるから、藤乃には、織姫さんの見ている景色が見えないのだろう。同じ場所に立てないのだろう。

 

 近くに居るのに遠い人。一緒に歩いているはずなのに、目指す場所のある織姫さんと、そんな場所のない藤乃では、歩む早さが違う。

 

 普通の世界で生きられる織姫さんと、普通の世界では生きられない藤乃では、やっぱり一緒に居ることなど出来ないのだろう。だからこんなにも、織姫さんの事が遠いと思ってしまうのだろう。

 

「藤乃…?」

 

 気づけば、家の前に辿り着いてしまっていた。いつも思う。もっと家までの道程が遠ければ良いのに。

 

 もっと、傍に居て欲しい。ずっと、どんなときでも離れなければ、きっと藤乃も、織姫さんの見ている景色が見えるはず。織姫さんと同じ場所に立てるはず。

 

 なのに住んでいる場所が、帰る場所が違うのだから、離れなければならない。それが、いつも嫌だった。

 

「…少し、上がって、行きませんか…?」

 

「…いい、けど……」

 

 今まで家まで送り迎えをして貰っていても、そんな事を口にした事はなく。家の前で別れられたのに、今日はそれが出来ない。

 

 掴んだ手を離すことが出来なくて、織姫さんを家に招き入れた。

 

 男の子を連れて帰ってきた事に母はとても驚いてしまって。そういえば今まで家に他人を連れてきたことなどなかったと思い出す。

 

 学校ではない。家の中の自分の部屋という場所は、もっとも気を抜ける場所で。

 

 そんな場所で、織姫さんと一緒に居られる時間が、藤乃はとても好きです。

 

 肩を寄せ合ったり、膝枕をしながら頭を撫でてくれたり、畳の上で寝転びながら向き合ったりして過ごすのは、とてもお友達らしい過ごし方、なのかもしれない。

 

 お友達……。

 

 こうしてとても身近に居てくれる織姫さんは、果たしてただのお友達と呼んでしまって良いものか。

 

 最近、否応にも耳にする男女の恋愛話。

 

 普通ではない藤乃には縁遠い話だと思っていました。

 

 でも、藤乃のすべてを受け入れてくれる織姫さんならきっと――。

 

「藤乃…?」

 

 畳の上をゴロゴロとはしたなく転がって、織姫さんの身体にしがみつく。

 

「どうか、したの…?」

 

 大切にしてくれるとわかっているから。もう少し、今のままでいたいのは藤乃の我が儘です。この関係を変えるときは、変わるときはもっと織姫さんと近くに居られるようになった時。でも、置いて行かれるのは嫌です。

 

「いいえ。ただ…。今日は、帰って欲しくないって、思って…」

 

 家に招き入れた時もそうだった。今日は織姫さんと離れたくない。離れてしまえばまた置いて行かれてしまう。

 

 そう思ってしまうから、織姫さんの都合も考えずに我が儘を言ってしまう。

 

「それは……えっと…。その、ね。……いい、のか、な……」

 

 照れ隠しに俯きながら、小さく言葉を返してくれる織姫さん。

 

 そんな、愛らしい織姫さんを見ると、少しだけ心に積もるものが晴れていく。優しい織姫さんも良いですけれど、藤乃は愛らしい織姫さんの事も、好ましく思っています。

 

 いつも頼ってばかりで甘えてしまう織姫さんとは違う。少し頼り気がなくて、子供みたいで、甘やかして、イジメてしまいたくなる。

 

 こんな愛らしい顔を、どんな風に歪めてしまうのか。

 

 そんなことを想像してしまう藤乃は、やっぱり普通ではないですね。でも、もし藤乃が普通の子だったら、織姫さんとお友達になることが出来なかったのなら、藤乃は普通ではなくて良かったのかもしれない。

 

「ふ、藤乃……?」

 

「ふふ。なんですか、織姫さん」

 

 最近はクラスの男の人にジロジロと見られる様になってしまった胸に、織姫さんの顔を招き入れると、まるで借りてきた猫の様に固まってしまう織姫さん。

 

 普段はまったくそんな素振りを見せない織姫さんも、やっぱり男の方で安心しました。それとも、藤乃の部屋の中だから、意識してしまうのでしょうか。

 

 織姫さん、とても初ですからね。こうしたことは藤乃がしっかりと手を引いてあげないと。

 

 

 

 

to be continued…

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

殺人考察 (前)

深夜テンションで書いてるといつの間にか暴走する我が家のふじのんの扱いはとても難しい。


 

 昨日の夜は、とても心の満たされる夜だった。

 

 自分の部屋のいつもの匂いの中に混じる別の香り。

 

 同じ布団の中には、眠っている織姫さんがいる。鎖骨の辺りには虫刺されの様な痕がいくつもある。真っ白な雪原の様な素肌に咲く赤い花は、純潔を散らした様にも映る所有物の証。

 

 それを見てしまうと、胸の奥が疼く。

 

 汗で額に張り付いている乱れた黒髪が蠱惑的に映る。

 

 声を我慢する織姫さんを悶えさせるのも、包み込んでくれる笑みを浮かべる顔を艶かしく蕩けさせるのも、辱しめて、犯して、普段の織姫さんを徹底的に壊して蹂躙することが愉しくて。

 

 そう。楽しいではなく、愉しい。

 

 愉悦という感情を知ってしまった。

 

 それはとてもいけないことだとわかっているのに、自らに生じたこの感情を殺すことなど出来ない。生まれるということは、生きているという事なのだから。

 

「んっ……。…ふじ、の……?」

 

「おはようございます。織姫さん」

 

 やっぱり藤乃は、織姫さんと一緒でなくてはダメだ。

 

 この人が。この人だけが、藤乃に生きている実感をくれる。

 

 布団の中から藤乃を見上げる織姫さん。途端に目を逸らしてしまう。

 

「どうかしました?」

 

「…服……着ようよ……」

 

 そういえば服は脱いだまま寝てしまった。織姫さんも、藤乃が脱がせてしまったから、布団の中に隠れている身体は布一枚身に付けてはいない。

 

「そうですね。でも、もう少し…」

 

「…ふじっ!? ダメ、もう朝だから…っ」

 

 布団の中に潜り直して、織姫さんを胸に抱きながら、織姫さんの身体に指を這わせる。細くて、力を込めたら折れてしまいそうな華奢な身体の味わいは、昨夜隅々まで堪能し尽くしたので、何処が弱点なのかも把握している。

 

 布団の中でだけは、織姫さんも藤乃を否定する事がある。でも、それは藤乃をムキにさせてより強く、激しく、織姫さんを壊す為の燃料にしかならないことを、織姫さんはわかっているのだろうか。

 

「だから、もう、ダメ…っ」

 

「ダメ、じゃあないですよね?」

 

 昨日散々イジメてしまったからだろうか。今日の織姫さんはとても弱々しい。身体にも力が入っていない様子。

 

 本当はもっと織姫さんをイジメていたい。けれどさすがにこれ以上は両親にも言い訳が立たなくなりそうなので、ぐっと我慢する。

 

 あぁ、でも、やっぱり最後に一回くらい。

 

「藤乃…っ。んん……!」

 

「ふふっ。声を我慢しないと、誰かに聞かれてしまいますよ?」

 

「っ、藤乃が、やめれゃっっ、んんっっ…!」

 

 口答えする悪い口は、藤乃の口で塞いでしまいましょう。

 

 キスとか、口づけとか、接吻とか。そんな生やさしいものではない。貪り尽くす様に、犯して、辱しめて、蹂躙する様に。

 

 ぐっと閉じた瞳から零れ落ちる滴。震える身体を抱き締める。痕を残すように強く臀部を握り潰して、逃げられないように後頭部を押さえつける。

 

 そうすればもう、織姫さんは抵抗出来なくなる。

 

 顔を離せば、恍惚に蕩けて期待に揺れて蜜のある瞳を浮かべる織姫さんの顔が映る。

 

 本当に、織姫さんはイジメ甲斐のある人。

 

 どうして織姫さんはこうも、藤乃の心に突き刺さる人なのだろうか。

 

 お友達になりたいと言った時も、普段の優しさも、時折見せる子供っぽさも、昨夜見せてくれた扇情的な蕩けるような艶かしさも。

 

 織姫さんの存在が、藤乃にはもう必要不可欠になってしまった。 

 

「さぁ。シャワーだけでも浴びましょうか。お互いに汗っぽいですし」

 

「藤乃の所為でしょ…」

 

「違います。織姫さんが隙だらけなのがいけないんです」

 

 他人を寄せ付けない普段の眼鏡を掛けている織姫さんのお陰で、織姫さんの魅力を知っているのは藤乃だけ。

 

 でもそのストイックなところに夢を見てしまう女の子も少なくはない。それに織姫さんの本質は優しい方なので、眼鏡を掛けている方の織姫さんも織姫さんですから面倒見は良くて。

 

 そんな優しいところを知ってしまった女の子はコロッと行き易い事を織姫さんにはもう少し自覚して欲しい。

 

 それでも、織姫さんが甘えん坊なところは藤乃しか知らないことでしょうね。

 

「一緒にシャワー浴びちゃいましょうか」

 

「それ、見つかったら言い逃れ出来なくなるやつだからね?」

 

「でも別々に入る時間もないですよ?」

 

 時計を見れば、両親も起きてくる時間。そんな時間に別々にシャワーを浴びている時間はない。織姫さんに関してはシャワーを浴びないという選択肢はないでしょうし。

 

「だからダメって言ったのに…」

 

 恨みがましく藤乃を睨む織姫さん。あんな蕩けかかった顔で言っても説得力はないです。

 

「でも、本当にダメなら藤乃を突き放せば良いのでは?」

 

「……そんなこと、出来るわけない」

 

 知っています。だから、やっぱり藤乃は織姫さんに甘えてしまっている。どうしようもなく優しい織姫さんだから、藤乃も安心して甘えてしまう。

 

 本質的に、どうあっても、藤乃は織姫さんに甘えてしまう。織姫さんを壊したいという思いですら、織姫さんが受け入れてくれなければ成立しない。一方的になってしまってはいけない。それはただ、織姫さんに苦痛を与えてしまうだけ。藤乃は別に、織姫さんに苦痛を与えたいわけではないのだから。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「朝帰りの気分はどうだ?」

 

「どうって……、言われても」

 

 藤乃の家に泊まって、翌日の午後。学校から伽藍の堂に帰ってきた僕を迎えた橙子さんの第一声がそれだった。

 

 その意味がわからない僕じゃないし。思い当たる節はありすぎた。

 

 鎖骨にある赤い痕が、何があったのかを言葉にせずとも語ってくれる。

 

 ただこれを悪くないと思っている自分が居る。藤乃に必要とされていると思うと、心が満たされる。自分のやろうとしている事が独り善がりではないのだと、そう思えてくる。

 

 だって、藤乃には幸せでいて欲しいのだから。

 

「儘ならないなって…」

 

「ほう…」

 

 幸せでいて欲しいのに、僕自身の行動が少なからず彼女に影を落としてしまっている。

 

 魔術に関して秘密にしているのは、魔術を知ったことでどんな経緯であろうとも、藤乃の存在が万が一にも魔術協会に知れてしまう可能性を避けるためだ。

 

 そうした可能性を極力排除する為には、関わらせないのが一番だと思ってしまっているから。少なくとも、そうした外部からの干渉が無いのは、二年間の保証がある。自分が藤乃と関わっていても、魔術に関わらせなければ良いのだと思っている。

 

 最低限でも不良から藤乃を守ること。最善ならば両儀式との対決は避ける。理想的なのはそのまま藤乃の病気を治して、身体の異常を治して、魔眼と向き合う事だろう。

 

 最低限の目的は、このまま藤乃との付き合いが続けば成し遂げられるだろう。最善は最低限をクリア出来れば、発端が無いのだから藤乃と両儀式が戦うこともない筈だ。理想は、このまま自分が橙子さんの弟子として関係を続けられれば、魔眼と向き合うことも出来る。自分が魔眼殺しを作れるようになれば良い。病気は手術して貰うか、それが難しいのなら、橙子さんに相談も出来る。身体の事も右に同じ。或いはそちらも自分が出来る様になれば良い。

 

「彼女の事を思うなら秘密にしないとならないですし。でもそれで彼女を不安にさせてしまってますし」

 

「わかっているとは思うが。魔術の秘匿は守って貰うぞ」

 

「ええ。わかっています」

 

 魔術はその秘匿性――如何に他人に知られないかが重要になる。その秘匿は神秘を守るために必要とされている。神秘が薄れることは即ち魔術の効力が落ちる。或いは対策されてしまうということだからだ。

 

 藤乃に魔術を教えるときは、自分が魔術師として独り立ち出来る様になった時か、早くても魔眼が開眼してしまった時だろう。彼女の目の事を知れば、橙子さんも少しは魔術に関して話すことを許してくれるだろう。

 

 話せないもどかしさはある。ただ魔術に始まった事ではない。自分には藤乃に話せない事柄がいくつもある。話してしまうことで嫌われてしまうことを、軽蔑されてしまうなどと恐れている。

 

 藤乃に恐れを抱く。それは自分が浅上藤乃を他人として認識している事に他ならない。

 

 前提として、確かに興味を持つ要素として、物語の登場人物である浅上藤乃が居た。

 

 けれど、そんな藤乃と友達になったことで、生きている一個人の浅上藤乃を知ることで、自分にとって浅上藤乃は物語の登場人物から他人になったのだ。

 

 だから、藤乃に降りかかる不幸をどうにかしたい。どうかこのまま平穏に過ごして欲しい。彼女が幸せになれるのなら自分は何でもする。

 

 好きな女の子の為ならなんでも頑張るなんて。そんな当たり前で、自分には分不相応な願いを抱いてしまった。

 

 その願いを叶える為に、僕の選んだ道は、オレという存在を生み出した時と同じだ。

 

 自分には出来ないのだから、出来る様になった自己を投影した様に。

 

 この身に投影する。お誂え向きな魔術はあり、その手本となる物も同時に自分は識っていた。

 

投影開始(トレース・オン)――」

 

 投影魔術というものは魔力によってオリジナルの鏡像を物質化する魔術だ。

 

 投影した物はオリジナルと比べると劣化が激しく、世界の修正によって数分間しか保てない。非常に効率の悪い魔術とされている。

 

 ただ自分の扱う投影魔術は、オリジナルの鏡像というものに視点を当てている。

 

 鏡像を自らに投影する事で、自らをオリジナルに近づける。鏡像のイメージが強いほど、その投影はより強固になる。

 

 自分には出来ないのだから、出来る自分になってしまえば良い。

 

 そんな発想からたどり着いた概念の結晶化。発想は憑依経験を基にしている。

 

 投影した鏡像を自己に憑依させる。言ってしまえばなりきりを魔術を使ってやっている様なものだ。

 

 ただ効果はある。刃物なんて包丁程度しか握った事のない自分が、飛び上がって逆さまになりながら身体を回転させた遠心力でナイフを振るえる様になるくらいには。

 

「二人目……か…」

 

 まだ残暑を感じながら、夜は秋の到来を感じさせる肌寒さが忍び寄る9月の半ば。

 

 頭から縦に真っ二つになった死体を見下ろしていた。余程鋭利な刃物なのか、頭蓋骨から綺麗に寸断されている。

 

 赤い水溜まりが足元に広がっている。血の匂いが鼻腔を突く。ただその光景を立ち尽くして眺めている。

 

 投影魔術の影響か、夜な夜な外を歩き回る様になった。その理由はわからない。ただ、投影基の鏡像が、夜の徘徊癖があるからだろうか。

 

 この投影魔術の欠点は、投影基の鏡像に自己の共感と同調を必要とすることだ。

 

 その為か、投影基の技術を再現出来る代わりに嗜好等の影響を受けてしまう。

 

 今の自分の場合。その技術をイメージし易かった両儀式を自己投影している。映画にゲーム。両儀式の戦う姿は思い浮かべるのに苦労はしない。

 

 だからなんとなく、夜の外を出歩いてしまう。

 

 そして今の観布子市の夜を出歩く事がどういう意味を持つのか。わからない自分でもない。

 

 頭ではわかっていても、今の自分は境織姫ではなく両儀式なのだ。だから物事の優先順位、思考も嗜好も、両儀式を投影したものになる。

 

 だからこの光景を見て、背筋にぞくりと何かが迸る。

 

 この惨状に恍惚を感じてしまっている。死に触れる事で生を実感してしまう両儀式の性質が己に投影されてしまっているから。

 

「……っ、……ふぅ…っ」

 

 意図的に思考を反らして両儀式を己から切り離すことで、投影魔術を解除する。

 

 噎せ返る様な血の匂いに顔をしかめる。

 

 大丈夫。自分はもう境織姫だ。

 

 そうして自己を再定義する事で混濁しそうになる思考を整理する。

 

 魔術まで使った強力すぎる自己暗示の類。

 

 この魔術を見た橙子さんの感想がそれだ。

 

 加減を間違えれば投影した自己に己を塗り潰される危険性があると。しかしそうでもしないと、今の調子のままで研鑽を続けても間に合うかどうか。

 

 自分が想定する最悪の事態は、荒耶との戦闘だ。

 

 そうなった場合に備えて、身の丈に合わない下駄履きさえ必要になるだろう。

 

 弱い自身では到底立ち向かえない化け物と戦うのなら、それを殺せる存在にならなければならない。

 

「はぁ……」

 

 一息吐いて、この場を去る。警察に連絡しても、こんな夜更けに中学生が出歩いているとなると補導ものだ。そうなると色々と面倒になる。

 

 せめてもの情けに、仏様に手を合わせて行く。

 

「どうかしてるよな。ホント…」

 

 小さく呟いた言葉は、死臭が漂う異界の中に解けていく。

 

 そう、異界だ。

 

 人間の常識から外れてしまっている世界。身体を縦に真っ二つなんて、普通の人間の死に方ではないのだから。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

殺人考察 (前)Ⅱ

ふじのんエミュよりコクトーエミュが欲しい今日この頃…。普通を描くのって難しい。


 

 自身に両儀式を投影する事で、人形程度なら相手にする事が出来る。荒事などしたこともない自身には、破格の戦闘能力だ。

 

 ただ、肉体は境織姫の物だ。それを両儀式として動かせば、身体が付いていかない。筋肉痛なんて日常だ。両儀式を投影したところで、両儀式として育った身体ではないのだから当然だ。

 

 自転車に車のエンジンを載せて爆走している様なものだ。そんなことをして自転車が保つはずがないのは当たり前だと橙子は言う。

 

 筋肉痛で済んでいるのは橙子のお陰だ。それでも最初は加減もわからずに動いて肉離れとか筋を痛めたのは記憶に新しい。

 

 そこから基礎を固める為にこの身体を鍛える事が朝の時間は費やされる様になった。最低限、動きの負荷に耐えられないと、いざというときに使い物にならないんじゃ話にならない。人体のスペシャリストの助言もあって、身体の効率の良い動かし方も学べばどうなるのか。

 

 それは総合体育祭で短距離走を手始めにして幾つかの走る競技に出てくれと頼まれる程になった。

 

 俊敏に動く為に瞬発力は重点的に鍛えていたからだ。

 

 それが体育祭の練習中に露見してしまった。

 

「良い事だと思いますけど」

 

「バカ言うな。それに、目立つのは好きじゃない」

 

 他人なんてどうでも良い。両儀式を投影するようになってからは、他人なんて嫌いだと思うようになり始めた。自分の都合を押し付けるやつは特に嫌いだ。

 

 ただ少しだけ、普通とは違うところを見せてしまっただけで、こう騒がれると鬱陶しくて敵わない。

 

 それを言った浅上の返しはそんな言葉だった。

 

 こんな煩わしい事の何が良いんだか……。

 

「だって。そんな織姫さんの事をずっとわたしだけが知っていたと考えると、とても優越感を抱くから。ただの一部分しか知らない他の人たちなんかより、わたしの方がもっとたくさん、織姫さんの事を知っているんだって。羨ましいでしょう? って」

 

 そう言った浅上の口許には、嘲笑うかの様に弧を描いていた。

 

「ホント、危ない女だよ。お前」

 

「ふふ。危ない、ですか。それじゃあ、そんな危ないわたしと一緒に居る織姫さんは、もっと危ない人かもしれませんね」

 

 普通じゃないどころか、何時からコイツは愉悦部に入部したのか。

 

 おそらくアレだ。新学期早々にコイツの家に連れ込まれて、その晩にちょっと人前では言えないことをしてからだ。

 

 それから頭のネジが弛んだのかの様にコイツは少しバカになった。

 

 具体的に言うと、人前でも手を繋ぐとか。休み時間には椅子をくっつけてまで肩を寄せて来たり。わざとらしく教科書を忘れたなんて言って授業中にも引っ付こうとしてきたり。

 

 でも、誰も居ないからって、放課後の教室はさすがにマズイだろう。

 

 浅上が普通じゃないのはわかっているが、少し度が過ぎる。まるで箍が外れたみたいだ。

 

「でも、そんなに煩わしいのなら、わたしから言っておきましょうか?」

 

 学校では浅上しか付き合いのない自分と違って、浅上はオレよりかは社交的だ。多数の意見で本人の意思なんて無視する選抜に対してオレが一人で吠えるよりも効果的な道を浅上は持っているだろうが。

 

「やめとく。今のオマエ、何するかわかったもんじゃない」

 

「そうですか? ただお話をするだけですよ?」

 

 小首を傾げる浅上。ならその口許のニヤケをどうにかしてから言え。クラスの奴らを説得した褒美に何をしようかと考えて愉悦に歪んでるのが丸わかりだ。

 

 両儀式を投影していなくとも、今のオレなら浅上を殺してやりたいと思う自信がある。

 

 ホント、こんな危ない女の何処が良いんだか。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 総合体育祭。近隣の学校が集まって行われるお祭り騒ぎの様な体育祭。 

 

 その体育祭の種目に出る生徒は実力派揃い。他の学校の人たちに見られるのだから、少しでも自分達の学校の凄いところを見せつけたい。そんな見栄の張り合いの様な場所だと織姫さんは溢していた。

 

 そんな織姫さんは然り気無く、まるで誰かを探すように周りの様子を伺っていた。他の人にはわからないかもしれないけれど、わたしにはわかる。

 

「誰かお探しですか?」

 

「まぁな。ま、こんだけ人が居ちゃ、探しても見つけるのは難しいだろうな」

 

 あの他人に無関心な織姫さんが関心を向ける人物。どんな人なのか、わたしも興味が湧いてくる。

 

「ホラ、次の種目、浅上の出番だろ?」

 

「そうですね。行ってきます」

 

「……まぁ、ケガしない程度に頑張ってこい」

 

 織姫さんに見送られて、わたしは次の女子対抗リレーに出場する為に、織姫さんのもとを離れる。

 

 織姫さんが頼まれた様に、わたしも走るのが速い方だったのでリレーの選手として走ることになった。

 

 身体の感覚のないわたしは、疲れるという感覚もわからないから、他の人よりも全力で走り続ける事が出来る。

 

 それに、織姫さんが観ているとなると、ちょっとだけ頑張ってしまって。ゴール直前で足を挫いてしまった。

 

 きっと織姫さんにはこうなることがわかっていたのだろう。わたしが織姫さんの事を良く知っている様に、織姫さんもわたしの事を、或いはわたし以上に、藤乃以上に、浅上藤乃を知っている。

 

 走り終わったわたしを出迎えた織姫さんは――。

 

「オマエ。バカに加えてドジだったのすっかり忘れてた」

 

 眼鏡を掛けている織姫さんは、藤乃を嫌っている。浅上藤乃を嫌っているのだから、わたしのことも嫌っている。

 

 それでも織姫さんは織姫さんだから、織姫さんは藤乃の事を好いてくれている。愛してくれているから。

 

 嫌いなのに放っておけないという矛盾を抱えている。

 

 口ではわたしを悪く言っても、態度はわたしを気遣って肩を貸してくれる。

 

 そんな矛盾が、わたしは――藤乃は、愛されているのだと実感できる。

 

「しっかし。いつもと会場が違うから、医務室の場所がわかりゃしない」

 

 今年の総合体育祭は、観布子市の連続殺人事件もあって、観布子市からは少し離れた運動場を借りて行われている。だからいつもとは施設の勝手が変わっているから、さすがの織姫さんでも迷っている様子。

 

「君たち、大丈夫かい?」

 

 そんなわたし達に、声を掛けてくれた人が居た。

 

 人の良さそうな人とは、こんな人を指すのだろうと思えるほど温和そうな男の人だった。胸の名札には「黒桐 幹也」と書かれている、高校生の先輩だった。

 

 その先輩の視線はわたしたちを見てから、驚いた様に僅かに目を見開いて、隣の織姫さんを見ていた。

 

「……式?」

 

「え…?」

 

 織姫さんの知り合いなのだろうか。織姫さんの名を呟いた先輩は苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

 

「ごめん。同級生にあまりにも似ていたものだからつい。それより困っていたように見えたけど、どうしたの?」

 

「連れがケガしちまってな。いつもと会場が違うから、医務室の場所がわからないんだ」

 

 あの織姫さんが躊躇いもなく他人と話しているのをはじめて見た。いつもなら面倒そうに一息吐いてから話すのに。

 

「なるほど。医務室なら案内するよ」

 

 先輩は笑みを浮かべて織姫さんからわたしに視線を移して、そしてわたしの足に視線を落とした。わたしの左足のくるぶし辺りが赤く晴れ上がっているだろう。

 

「そいつは重畳。ついでにコイツを担いでくれ。オレは競技の召集が掛かっちまったからな」

 

「え? ええっ!?」

 

 いきなりそんなことを言い出した織姫さんに驚いてしまう。いや、今から医務室に向かって帰ってきても競技が始まってしまうかもしれないなら、仕方のないことなのかもしれない。

 

 でも、はじめて会った人と二人きりなんて。

 

「うん。わかった。彼女は、僕が責任を持って医務室に連れていくよ」

 

 なんかもう、わたしの意思の関係ないところで話が纏まってしまった。

 

「じゃ、あとは任せたぜ。コクトー、先輩」

 

 そう言って、織姫さんは行ってしまった。

 

 織姫さんを見送ったわたし達はしばらくそのまま佇んでいた。

 

「浅上…藤乃ちゃん、か。とりあえず負ぶって行くけど、良いかい?」

 

「は、はい…」

 

 話が纏まってしまった手前、断るのも失礼だと思って、わたしは先輩のお世話になることにした。

 

 はじめて会った男の人に身を預けるのは、普通は不安に思うものかもしれない。けれど、何故か先輩にはその不安を抱くことはなかった。

 

「あの…」

 

「ん? なにかな?」

 

「織姫さんが、お知り合いに似ていたと言ってましたけど」

 

 あの織姫さんが事もなく話をしたこの先輩の事が気になって、少し話をしてみたかった。

 

織姫(しき)か。彼もシキって言うんだ。僕の同級生にも(しき)って娘が居るんだ。女の子なんだけどね。名前も同じで、見た目も似通っていたから驚いてね。同級生の式は、眼鏡を掛けていないのに」

 

 織姫さんと似ていると言った先輩は、苦笑いを浮かべて話してくれた。

 

 わたしから言えば、先輩は織姫さんと似ている気がした。眼鏡を外した、本当の織姫さんと。

 

 その温和で、優しそうな顔に抱いた印象は、はじめて織姫さんと話したときに感じたものと同じだったから。

 

 だからなのか。わたしが先輩に対して不安を抱かないのは。

 

「どんな人なんですか? その人は」

 

 共通の名前と、先輩も観違った程に見掛けも似通っているというそのシキさんの事が気になって訊ねてみてしまった。

 

「そうだね。余り他人を寄せ付けなくて、中には恐いなんて言う人もいるけれど。本当の式は、そんなことないんだ。…って、なに言ってるのかな僕は」

 

「……本当に、似ていますね」

 

「え?」

 

 観間違えたのも仕方のないことかもしれない。もっと違う部分もあると思う。けれど、先輩から聞いたそのシキさんは、わたしの知る織姫さんとそっくりだった。

 

「織姫さんも、他人に無関心で、他人を寄せ付けない人ですから。でも、本当はとても優しい人なんです」

 

「そうだね。見掛けだけを見ても、その人の本質なんてわからない。本当のその人を知ることが出来た僕たちは幸せなのかもしれない」

 

 先輩はそんな恥ずかしい事を恥ずかしげもなく言った。きっと先輩も、そのシキさんの事が好きなのだろう。

 

 同じ様な人を好きになった相手だから、そんな共通意識が、先輩に対する不安を抱かない理由だったのかもしれない。

 

 医務室に運ばれて、先輩はわたしを置いて行ってしまった。

 

 それでも、またいつか会えるような気がした。

 

 唯の勘ではなく、直感めいた確信。

 

 きっとその時は、互いに自慢話でも出来れば良いと、そんなことを、わたしは思った。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 浅上藤乃と黒桐幹也の出逢いは、それこそ偶然ではなく必然で、世界の運命が定めたものなのだろうか。

 

 藤乃が何らかの理由でケガをすることを自分は識っていた。ケガをした事を隠している藤乃を黒桐幹也が見つけるはずだった。

 

 でも、ケガをした藤乃を僕が放って置けるはずもない。

 

 だから藤乃を優先した。それでも藤乃は黒桐幹也と出逢った。

 

 それが定められた運命なのか。それから道を外れようとしても、世界の修正力が働くと言うのだろうか。

 

 そんな憤りを藤乃には見られたくなくて、彼女を黒桐幹也に任せてしまった。どう転んでも間違いなんて起きないと確信できる相手だから、藤乃を任せられた。そうでなかったら競技なんてすっぽかして、藤乃を医務室に連れていったことだろう。

 

「どうした? 今日はやけにピリピリしているじゃないか」

 

「……別に。ただ、定められた運命は変えられないのかって、考えてるだけです」

 

 伽藍の堂。事務所でコーヒーを飲みながら今日の事を考えていた僕に橙子さんは言った。

 

 黒桐幹也との出逢いが悪いのではない。彼との出逢いが藤乃の人生に必要ならばそれでも構わない。

 

 ただ結果として僕は藤乃が黒桐幹也と出逢う理由を潰してしまったのに、藤乃は黒桐幹也と出逢った。

 

「橙子さん。運命を変えるって、どうすれば良いんですか?」

 

 自分などよりも、実感として世界の真理に近いだろう魔術師の師に問い掛ける。

 

 橙子さんはタバコを一息吸って、紫煙を吐き出してから言葉を紡いだ。

 

「そうだな。ざっくばらんだが、土地を変えてしまえば良い。土地を変えても降り掛かるものが変わらないのならば、それは運命ではなく宿命だ。運命は外から来るものだが、宿命は魂の運命。内から生じるものは環境を変えたところで必ずその本人に降り掛かるものだ。宿命を変えることは出来ない。もしお前の変えたい運命が宿命に類するものならば、抗うだけ無駄だ。抗うよりもどう向き合うのか考える方が建設的だな」

 

 運命と宿命の違いは理解できる。

 

 ならば境織姫という外的要因でも変わることはなかった藤乃と黒桐幹也の出逢いは宿命に類するものだったのか。

 

 なにが運命で、なにが宿命なのか。それを見分けることは出来ない。そんな特別な「眼」は、自分にはない。

 

「もし変えたい運命が宿命だとして、その当事者を殺した場合でもですか?」

 

「その時はオマエ。この世のすべての人間を殺し尽くすことになるな。それは極論だがね。いっそやってみれば良いさ。そうすれば運命なのか宿命なのか見分けはつく」

 

 宿命は変えられないのなら、その当事者を殺したところで、その宿命の為に別の相手が藤乃に手を伸ばすかもしれない。橙子さんの言いたいことはそういう事なのだろう。

 

「人を殺すことになっても怒らないんですか?」

 

「魔術師には愚問な問いだな」

 

 魔術の探求。「  」へ至る為ならば道徳など通用しないのが魔術師だ。

 

 藤乃を助ける為に世界中の人間を殺し尽くす。出来る出来ないはともかく、もし本当に藤乃に魔の手が迫るのなら、僕はその魔の手を殺してしまいたいと思っているのは確かな事だった。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

殺人考察 (前)Ⅲ

殺人考察してないけど、殺人考察の時期だから許してちょんまげ。




 

 部活も引退している3年生の帰りは早い。でもそれだけじゃない。

 

 連続殺人事件の犠牲者が四人目を数えたところで、学校側が放課後の部活動を禁止して生徒を早帰りさせるため、放課後となれば校舎から追い出される様に全校生徒は帰路に就く。

 

「いつになったら終わるんでしょうか…」

 

 足をケガして程ない為、自転車の荷台に乗る藤乃がそう溢した。

 

 放課後に教室に残れないからか、この頃の藤乃は不満気だ。そんな頻繁に藤乃の家に上がり込むわけにも行かない。だからなのか、殺人事件に対して恨めしく藤乃は言う。

 

 犯人の正体は未だ掴めず、その動機も明らかになっていない。被害者の共通点もない。

 

 殺人をしている感覚すらあるか疑問だ。容疑者からすれば殺人ではなく、自分の異常性――特別であることを誇示する行為が殺人になっているからだ。

 

「こうも織姫さんと過ごす時間が減ってしまうと、藤乃は寂しいです」

 

 学校では四六時中殆ど一緒に居るけれど、今までは互いに部活に入ることなく放課後の教室で下校時間までのんびりと過ごしていたのだから、その時間がまるっきり無くなってしまった事に藤乃は不満を抱いているらしい。最近は期末試験だったから学校が終わるのも早かった所為もあるのだろう。学校が終わるのが早ければ、必然的に藤乃と一緒に居る時間も短くなる。

 

 1月辺りまで殺人事件が続く事を識っている身としては、黙して過ぎるのを待つしかない。下手に関わろうとしても、関われる事柄じゃない。

 

「明日、病院だったよね?」

 

「はい。いつもの時間で良いですよね?」

 

「うん。駅で待ってるから」

 

 足のケガの治療と経過観察で、藤乃は隔週で病院に通っている。近隣では設備が一番整っている観布子市の病院へ。

 

 車で直接向かうのが一番良いものの、藤乃は態々電車を使って観布子駅まで来て、そこから僕が付き添ってバスで病院に向かうというルートを使う。使いたがる。

 

 ただひとりで電車に乗せるのも心配だから、僕が電車で藤乃が乗ってくる駅まで迎えに行って、そのあと藤乃と一緒に電車で観布子駅に戻ってきて、そこからバスに乗るという手間の掛かる手順を踏む。

 

 過保護が過ぎるかもしれないけれど、藤乃に対しては過保護で丁度良い。少なくとも運命の日を過ぎるまでは。

 

 贔屓目に見ずとも藤乃は美少女だし、同年代の女子と見比べても一足先に女性らしい体つきをしている。

 

 魔眼を持つ藤乃なら不貞な輩をヒョイっと出来るとしても、今の藤乃は無痛症以外は普通の女の子でしかない。痴漢なんてされた日にはどうしようも出来ない。不良に絡まれてしまっても逃げることが出来ない。

 

 だから少しくらいの手間が掛かっても、藤乃を守るためならば僕はその手間を惜しまない。

 

 診察を終えるまで少し時間がある。

 

 その間、診察室の前で待っていれば良いものの、僕は一度病院を出る。

 

 病院の前にある小さな森林公園。家族連れや入院患者が屯しているその中で、車椅子に座っている女性を見つける。彼女を見つけるのはそこまで難しくはない。雑多な人波の中に居て浮いている彼女。

 

 流れるように綺麗で長い黒髪。白い服から浮き上がる華奢な体つきは、確かに百合を連想する。

 

「…こんにちは」

 

「こんにちは」

 

 眼鏡を外して声を掛けると、彼女は振り向いて挨拶を返してくれた。儚げな笑みを浮かべて。

 

 彼女と出逢ったのは偶然だった。

 

 藤乃の付き添いでこの病院を訪れた時の帰り。なんとなく病院を見上げていたら、窓から下界を見下ろす彼女と目があったのだ。

 

 次の診察の時。待ち時間の間に彼女を探してみようと外に出ると、彼女と対面した。

 

 彼女――巫条霧絵と、僕は出逢った。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 その日は、なんとなく窓の近くから外を見ていた。それでも、見慣れてしまった光景は何も変わることはなかった。

 

 そう思っていた。

 

 背中越しに振り向いて病院を見上げている綺麗な人が居た。見返り美人。そんな言葉が思い浮かぶくらい綺麗な人。真っ直ぐな瞳が、私を射抜いていた。

 

 手を振ってみると、振り返してくれた。

 

 ただそれだけなのに。私は次の日から窓際で外を見る日常を送った。毎日毎日、外を見続けて。でもあの人は現れない。

 

 一週間が過ぎて、二週間が過ぎて、その頃になると、あの人は私が見た幻なんじゃないかと思い始めた頃。

 

 またあの人を見つけた。また、視線を合わせた。

 

 慌てて私は車椅子を動かして下に降りた。見失いたくない。目を離した間に何処かへ行ってしまうかもしれない。

 

 この世界で私を見つけてくれたあの人と、一度で良いから話をしてみたい。

 

 そんな心の内側から溢れ出る衝動に身を任せて、私は急いだ。まるで魔法が解けてしまう前に急いで帰ろうとするお姫様の様に。

 

 病院の外に出るなんていつ振りだろうか。

 

 あまりに急いでいたから、車椅子を必死で動かして加減なんてしなかった私の腕はもう疲れて震え始めていた。明日は筋肉痛になるんだろうなと余計な思考が頭を過ぎる。

 

 そんなこと、今はどうでも良かった。あの人に会えるのなら、明日の自分なんてどうなっても。

 

 病院の前の小さな公園。家族連れや入院患者で溢れているその中で、あの人は直ぐに見つけられた。上下黒の服装だから人垣の中でも見つけやすい服装。

 

 近くで見れたその人の顔は、まだあどけない幼さがありながら、人形の様に整った綺麗な顔だった。

 

 上縁の眼鏡の奥にある瞳は、真っ直ぐ私に向けられていた。

 

 私に視線を合わせながら、その人は私に歩み寄ってくる。

 

 私の前までやって来ると、腰を降ろして、眼鏡を外した。眼鏡を掛けている時は、まるで鋭利な刃物の様だった目付きが正反対の軟らかくて温かそうな目付きに変わっていた。

 

「…こんにちは」

 

「こ、こんにちは…。っ、あの、私、私は…っ、ごほっごほっ」

 

「や、少し落ち着いて」

 

 何かを話そうとして噎せてしまう。激しい運動をした後の様に息は荒くて、頭も少しぼーっとしていた。

 

 彼はそんな私の背中を撫でてくれた。落ち着くまで何度でも。

 

 患者の一人として向けられた同情心のある優しさではなく、心に響く真っ直ぐな優しさに、私は嬉しさを感じていた。頑張って無理をして、会いに来た甲斐があった。

 

 彼はお友達の付き添いでこの病院に来ているのだと言う。

 

 そのお友達はきっと、あの日に彼の隣で杖を突いていた女の子だろう。

 

 私には関係のない話だ。明日をも知れない私には。

 

 診察が終わる頃だと言って、彼は私の車椅子を押して病院に戻った。放って置いて良いと言っても、彼は聞かずに車椅子を私の病室まで押してくれた。

 

 また窓際で外を見下ろしていると、彼の背中が見えた。

 

 また振り向いた彼と視線が合って、彼が手を振ってくれた。

 

 私はそれに手を振り返した。

 

 翌日、案の定腕の筋肉痛で酷い数日を過ごすことになった。

 

 明日なんてどうでも良いと思っていたのに。

 

 気づけば私は、また彼が病院にやって来る日を楽しみにしていた。

 

 二週間に1度だけ会える私の織姫(おりひめ)さま。

 

 彼――境織姫と、私は出逢った。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 織姫さんに新しいお友達が出来た、かもしれない。

 

 どうしてそんな曖昧な言い方になるのか。

 

 それは織姫さんに直接訊ねたわけではないから。

 

 病院の帰りに、決まって織姫さんは病院を振り向いて手を振る。窓際で織姫さんを見下ろしている女性が居た。同じ様に手を振り返していた。

 

 織姫さんの交友関係に口を出す権利は、わたしには無い。どんな人なのか訊ねる勇気もない。

 

 だって、遠目で見ても、その人は綺麗な人だと思ってしまったから。

 

 別に恋人としてお付き合いしているわけでもないのだから、織姫さんにわたし以外の女性と付き合いがあっても、わたしには何かを言う権利などない。

 

 あぁ、でも。織姫さんの事を一番知っているのは藤乃だから、なにも焦る必要なんてない。

 

 織姫さんも、そんな簡単に、誰にでも身も心も許す様な人ではないのを藤乃は知っている。

 

 だからこれは嫉妬とか、そんな感情ではないと思う。

 

 ただ、最近の織姫さんはわたしの足のケガを心配して。それに連続殺人事件で帰りが遅くなってしまうのをわたしの両親も気にするだろうからと、わたしの家に上がることを遠慮していた。

 

 でも今日は土曜日で休みでもある。帰ろうとする織姫さんを引っ張って、車に乗せて、家に連れ込んで、日が暮れるまでのんびりと過ごして。夕食を一緒に食べたあとは、藤乃の部屋で織姫さんを押し倒した。

 

 やっぱり足を心配する織姫さんを無視して、ひたすら織姫さんを貪った。

 

 声を出さない様に必死に口を固く結ぶ織姫さん。それを見た藤乃は織姫さんに声を出させようとあの手この手を駆使する。

 

 織姫さんの弱点など知り尽くしている。

 

 声を出さないで空気の掠れた音だけを出すという器用な事をする織姫さん。でも、声は出なくても口を開けさせたという事実に愉悦と達成感を感じる。

 

 蕩ける様に小さく声を出し始めたのならそれはもう藤乃の勝ち。

 

 あとは織姫さんの意識が飛んでしまうまでひたすらイジメて、壊して、蹂躙して、貪り尽くす。

 

 あの織姫さんを汚して、壊しているのだと思うと、心に渦巻く愉悦は藤乃をさらに突き動かす。

 

 藤乃が満足する頃にはもう夜が明けようとしていた。

 

 両親が起きる前にシャワーを浴びて。少しだけ浴室で織姫さんをイジメてしまう。声が反響するから、部屋でよりもさらに必死に声を殺す織姫さん。なのに織姫さんは決して藤乃を拒絶しない。だから藤乃は余計に織姫さんをイジメてしまう。

 

 日曜日の朝から織姫さんに膝枕をされて過ごすのはとても贅沢な日だと思う。

 

 でも、このまま1日過ごしてしまうのは少し勿体無くて、織姫さんに我が儘を言って、藤乃は織姫さんとお出掛けする事に。

 

 足をケガしているのにアグレッシブ過ぎると苦笑いを浮かべながらも、織姫さんは藤乃に付き合ってくれる。

 

 電車に乗って観布子市へ。

 

 特に買い物をするわけでもなく、お店の中を巡り歩いて。

 

「織姫さん、あれ」

 

「ん? …あぁ、なるほど」

 

 数ヵ月前に出逢った先輩を偶然見つけた。指し示した先を見て織姫さんも納得したのなら間違いない。

 

「向こうもデートみたいだしな。馬に蹴られる前に退散しようぜ」

 

 確かに、お邪魔をするのは憚られる。少しだけ見えた織姫さんにそっくりな人。眼鏡を掛けているとか服装的な特徴を抜きにしてみれば。なにより眼鏡を外している素顔もわたしには見慣れたもの。

 

 織姫さんと瓜二つの顔を持つ人に連れられている先輩は楽しそうに振り回されていた。

 

「そうですね」

 

 あんな風に楽しそうにしているのなら、今度会ったときに話せる話題も多いかもしれない。

 

「そろそろ一回休もうぜ。歩き疲れた。てかお前、ケガ人だってわかってるのか?」

 

「そうですね。つい楽しくて。何処かお店に入りましょうか?」

 

 疲れたなんて嘘。織姫さんならまだまだ動けるはず。そんな風に言ってわたしを休ませてくれる。

 

 素直じゃない、とはまた別。織姫さんはわたしを嫌っていても嫌いになりきれない。だからぶっきらぼうな言い方や接し方になる。

 

 そんなところがまた良いのだとわたしは思ってしまう。藤乃からすれば優しさの塊みたいな織姫さんの事が好きで、ぶっきらぼうな織姫さんは少し苦手としている。それは藤乃が少し子供であるから。わたしという殻を纏って、普通の浅上藤乃の内に居る存在だから。どうしても人当たりに弱い。

 

 織姫さんはどちらのわたしも好いてくれている。わたしはどちらの織姫さんも好いている。眼鏡を掛けている織姫さんはわたしを嫌っていて。藤乃は眼鏡を掛けている織姫さんを少し苦手としている。

 

 複雑に絡み合ったわたしたちの関係。互いの中身と殻が入れ替わればバランスが取れるのかもしれないし、そんな互いに凸凹しているからわたしたちは互いにパズルのピースを嵌め合う様にバランスが取れているのかもしれない。

 

 だから離れてしまうと不安になってしまう。織姫さんが傍に居ないだけで、わたしたちは欠けてしまうから。

 

 浅上藤乃という存在を象る為には、織姫さんの存在が必要不可欠になってしまっているから。

 

「織姫さんは、本当に高校へは行かないんですか…?」

 

「……うん。今どうしてもやりたいことがあるから。高校は最悪通信制もあるし。本当は藤乃と一緒に高校行きたかった。でも、今じゃないとダメなんだ」

 

 織姫さんがお奨めだという喫茶店に入って、わたしは織姫さんに訊ねた。

 

 それは以前から織姫さんに言われたこと。一緒の高校に行きたいと誘った藤乃に突きつけられたはじめての否定。

 

 それは将来かならず起きるもの。それでもこんなに早く訪れるわけはないと思っていたもの。

 

 夏休みの時に言われたその言葉が、今の浅上藤乃を作った切っ掛けかもしれない。そうでなければ、もう少し穏便に織姫さんと過ごしていたかもしれない。

 

 そんな真っ直ぐな織姫さんの意思を変えることは出来なくて。だから離れてしまうまでせめて少しでも織姫さんとの繋がりを強くしたくて。加減なんて考えずに織姫さんを求めてしまうのだろう。

 

「それでも、僕は藤乃の友達だから」

 

 告白なんてしていないから、藤乃と織姫さんの関係はお友達のまま。

 

 告白するのは、それは浅上藤乃の人生に織姫さんを巻き込んでしまう事だから。

 

 普通ではない浅上藤乃よりも、もっと普通で、素敵な人が必ず居るから。

 

 だから藤乃は、お友達という関係から一歩を踏み出せない。織姫さんの人生を巻き込んで、背負える強さがないから。だから今のままで、今の居心地の良い関係でいたい。自分の都合しか考えられない弱い藤乃には、今のままでも充分なのだから。

 

「藤乃も、僕の友達でいてくれると、嬉しいかな…」

 

 不安げに上目遣いをする織姫さん。それは自分の言葉に自信がない時にする織姫さんのクセ。

 

 織姫さんはわかっていない。そんなことをされると、たとえわたしでなくとも織姫さんを物陰に連れ込んでしまいたいと思ってしまう程度の破壊力があることを。

 

 藤乃以上に気弱な所が織姫さんにはある。けれど、芯が通っている時はやっぱり藤乃よりも強い人だと思わせる程真っ直ぐなところもある。

 

 あぁ、ここが人前でなければ抱き締めてしまうところだった。

 

 でも、少しだけなら良いのではないだろうか。

 

「藤乃…?」

 

「あ、いえ。なんでもありませんよ。…わたしも、藤乃も、織姫さんとお友達でいたいです」

 

 互いに違う道を歩く事になっても、それでお別れにはならない。なることはない。なるはずもない。なろうとも思わない。

 

「良かった……」

 

 わたしの返事を聞いた織姫さんはほっとした様に肩を撫で下ろした。

 

 すると織姫さんはポケットから小さな紙袋を取り出して、中身を見せてくれた。

 

「はじめてだから凝ったものを作れなかったんだけど。良かったら、貰ってくれる…?」

 

 織姫さんの手の中にあるのは革紐に通された指環だった。

 

「これを、わたしに…?」

 

「女の子に指環なんて、おかしいかもしれないけど」

 

 織姫さんが藤乃の事を好いてくれている事は疑う余地もない。織姫さんの贈り物を受け取らないという選択肢は、浅上藤乃には存在しない。

 

 織姫さんから指環を受け取って、革紐で首から下げる。それを手に取ると、口許が弛んでしまう。

 

「……次は、指に嵌められるものが欲しいです…」

 

 指に嵌められる指環。それは弱い藤乃が遠回しの精一杯で伝えられる言葉だった。

 

「…あ、ぅ、……うん…。その…、……頑張って、みる……」

 

 その意味が伝わったのか。顔を俯かせて、言葉を詰まらせながら耳まで赤くした織姫さんは、途切れ途切れながら返事を返してくれた。

 

 こんなに幸せなのに、まだ幸せな事が待っていてくれるのだろうかと思うと、この幸せが消えてしまわないように、席を移して織姫さんの隣に座って、織姫さんの事を抱き締めてしまっていた。

 

 こんな普通ではない浅上藤乃が幸せになってしまって良いのだろうかと。

 

 この幸せが取り上げられてしまわないように、強く、強く、居なくならない様に、強く、実感出来るように。

 

 こんな温かな幸せを取り上げるというのなら、藤乃は神様を恨みます。呪います。殺してしまいたいと思います。

 

 そう強く、想う事は、普通ではない藤乃にだって出来ることなのですから。

 

「藤乃!」

 

「え…?」

 

 織姫さんに呼ばれて気づいたとき、わたしたちの座る席の横にあった窓ガラスが割れて、その破片が降り注ぐ――前に、織姫さんが藤乃の身体に覆い被さった。

 

 いったい、なにが起こったのか。起きてしまったのか――()()()()()()()()()()

 

 思い出す、とても昔のこと。10年近くも前のこと。

 

 わたしは、藤乃は、この異常(ちから)の所為で、嫌われていた。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

殺人考察 (前)Ⅳ

区切りの良いところでアップするけど、話がちっとも進まなくてすまない。


 

「お前がウチに女を連れ込むとは思わなかったぞ、織姫」

 

 嫌味に聞こえる様に橙子さんはあのあと気を失った藤乃を伽藍の堂に連れ込んだ僕に言った。

 

 緊急事態でそんな事を言われてもどうしようもなく、藤乃を橙子さんに預けるしかなかった。

 

 あの時、突然硝子が割れる時――僕は「視た」。

 

 緑と赤の線が、彼女が見上げた窓に向かったところを。そしてその線が窓に触れた瞬間、窓ガラスが割れた。

 

 だがおかしい。藤乃の能力は無痛症によって封じ込められているはずだ。

 

 背中を強打したわけでもない。痛覚が戻るような事象は、僕が知る限りでは藤乃には起こっていないはずだ。

 

 なのに彼女の魔眼の能力(ちから)が発現した。

 

「どうでした、彼女は…?」

 

「どうってことはない。魔術的な処置が施された形跡はない。ま、身体の中が少し病んでいるみたいだがね」

 

 藤乃の様子を看終わった橙子さんに結果を訊く。魔術的な処置がないのなら、荒耶宗蓮と接触があったわけじゃない。

 

 それを聞いて一先ずほっとした。ただ、別の問題も出てきてしまったが。

 

 一先ず彼女の無痛症が治ったわけではないらしい。なら、彼女の魔眼が表に出てきたのはどうしてなのか。

 

「それで? 彼女がお前の懸想してる相手か」

 

 なにやらニヤニヤとしている橙子さん。そんな面白いものでもないだろうに。

 

 だって、僕が藤乃の事を好きなのは事実なのだから。

 

「そうですよ。僕は彼女の運命を変えたい……なのにこんなことになるなんて」

 

「その口振りからすると、今回の事は「運命」にはないことだったわけか」

 

 僕は肯定の意を込めて頷く。僕が知る程度では、原作では藤乃が不良を殺すまで魔眼が覚醒したなんていう描写は一切ない。

 

 そして、藤乃が伽藍の堂に訪れることも。

 

「彼女の能力が覚醒するのは、もっと先の事のはずなんです…」

 

「……彼女の能力についての発動条件を満たしたとかはないのか?」

 

 橙子さんの言葉に首を振る。無痛症が治ってないのなら、魔眼が発現する理由がない。

 

「彼女は能力を封じる為に、身体の感覚を閉じる事でそれに対処していました。能力を封じる為に彼女は無痛症なんて異常になるしかなかった」

 

「……お前が関わったことで、彼女の何かが変わった。そこら辺の心当たりは?」

 

「……藤乃は普通ではない自分を隠すために、周囲には無痛症であることを隠していました。隠して、隠し通して。それが本人と、彼女に処置をした父親以外に知られるのは2年後の事です。本来なら」

 

 僕は話せる範囲で藤乃の事について話すことにした。魔術や異能に関して自分よりも詳しく知識もある橙子さんの知恵を借りるのなら、多くの判断材料が必要だと思ったからだ。

 

「彼女と出逢ったのは3年前。最初はただ一方的に識っているだけでした。でも藤乃の事を放っておけなくなって。友達になるとき僕は彼女に言ったんです。作り物じゃない藤乃と友達になりたいって。……どうしたんですか?」

 

 橙子さんの質問に答えていると、急に橙子さんは笑い始めた。なにかおかしな事を言っただろうか?

 

「ククク…。織姫、お前気付いてないのか?」

 

「なにをですか?」

 

「お前は運命を変えたいと言ったが、とっくの昔にもう変えているんだよ。本来ならば異常である己を否定して生きる筈だった彼女を、お前は肯定してしまった。異常である彼女を肯定すれば、異常である能力が顔を出すのは当然だろう」

 

「僕が藤乃の友達になったから、彼女の能力が表に出てきてしまったという事ですか?」

 

「正確には、異常である彼女を認知してその異常である彼女を受け入れてしまったという事実が、だろうな。もしお前が彼女の異常を知らずに、普通に友好を結んでいたとしたら、或いは今回の事は起きなかった、かもしれない。可能性の話だがな」

 

 僕が彼女と友達になったから。本当の藤乃と友達で居続けてしまったから。本当なら蓋をされる筈だった物が中途半端になってしまった。橙子さんは項垂れる僕にそう続けた。

 

「遅かれ早かれの話さ。むしろすべてを知っているお前が立会人で良かったんじゃないか? 自己の肯定を他者に依存している人間は、その肯定者を失ったとき破滅してしまう。それが普通の人間なら良いが、そうでないなら、文字通り破滅を振り撒くぞ」

 

「そんな…。藤乃はそんな娘じゃ……」

 

 ない。とも言い切れない自分がいる。それは運命の中で殺人ではなく殺戮者になってしまい欠けた彼女の事を識っているからなのか。

 

「しかし、成る程な。彼女の能力は魔眼の類か。お前が魔眼殺しの作り方について傾倒していたのもその為か」

 

 僕は橙子さんに魔術を習う傍らで、橙子さんの持つ技術も習っていた。その中でも早急に必要だったのが「魔眼殺し」だった。橙子さんが僕の行動から藤乃の能力が魔眼であることに辿り着くのは簡単な事だ。

 

「歪曲の魔眼……。彼女の能力はその視力と引き換えに千里眼も獲得する強い物です」

 

 それこそ型月関連の異能の中でも最高峰と言われる程度には、藤乃の魔眼は極めて強いものだったはずだ。

 

「能力を封じ込めてしまったことで、却って怪物を育ててしまったわけか。なら、今回の事は不幸中の幸いというわけだ。そこまで強くなる能力ならば、そうなる前に向き合い方程度は教えてやれる」

 

「ありがとうございます。橙子さん」

 

 煙草に火を点けた橙子さんに、僕は感謝を込めて頭を下げた。でも橙子さんはそんな僕に追い払う様に手を振った。

 

「こっちも色々と打算があっての事だ。師として助言程度はしてやれるが、どうするのかはお前が決めることだ」

 

 魔眼について橙子さんの助けが得られるのは心強い。今はどうしても専門的な知識は橙子さん頼りだ。

 

 どうするもこうするも、僕は藤乃に対して責任を取ることは既に覚悟している。藤乃が許してくれるのなら、藤乃の運命を背負っていくつもりだから。

 

 藤乃と友達になって、藤乃と一緒に過ごして、藤乃の為に運命を変えたいと思って行動しはじめてからずっと……。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「…ここは……」

 

 剥き出しのコンクリートの天井。薄暗闇を照らすのはランプの炎。そのランプの置かれている机に肘を着いて眠っている織姫さんが居た。

 

「っ…!?」

 

 思い出すのは織姫さんの叫び声と、ガラスが飛び散る音。そして、嫌われていた過去。

 

 普通ではない浅上藤乃の、忘却していた忌まわしい過去。

 

 普通ではなくても普通に過ごそうとしても、普通には過ごせない異常。

 

 手を触れずに、物を曲げてしまう事が出来た。

 

 幸せを壊すのは、神様でもなく、浅上藤乃本人だった。

 

 早くここから出ていかないと。また、なにかを壊してしまう前に。

 

 横になっていたのはソファーだった。部屋の出口を見つけて歩き出す。ドアノブに手を掛けた。回しても、開かない。

 

「そんな、どうして……?」

 

 早く、早くここから出なければならないのに。鍵が掛かっている? 部屋の外側から鍵が掛かっているのか。内側のドアノブには鍵がついていない。

 

「出られないよ」

 

「っ…!?」

 

 それは、いつも耳にしている声。でも今は、出来るのなら聞きたくはなかった声。

 

「ここは僕の工房だから。僕の許可なくドアは開かないんだ」

 

「なら、開けてください。わたし、もう帰らないと……」

 

 帰ったところで。こんな異常を抱えてしまっているわたしには、もう、帰る場所なんてないかもしれない。

 

 でも、そう言うしかない。織姫さんのもとから離れるには。

 

「今日はもう泊まらせて行くって連絡はしておいたから大丈夫だよ。それに、もう電車だって動いてないし」

 

 窓がない。時計もないから時間がわからない。でも織姫さんの言葉を信じるのなら、もう時間は深夜を回っている事になる。

 

 なんて迂闊。ショックで気を失ってしまう暇なんてなかった。そんな暇があるのなら、あの時脇目も振らずに走り去ってしまうべきだった。

 

「でも、明日はもう学校ですし。明日の準備をしないと」

 

「学校なんかより大切なお話があるよ、藤乃」

 

 名を呼ばれて、わたしは、織姫さんに振り向いた。何かを決めた時の、真っ直ぐな眼が、わたしを貫いている。

 

 織姫さんが座っていた椅子から立ち上がって、わたしに歩み寄ってくる。

 

 開かないドアを背にして、わたしは後ずさって、それでも直ぐに部屋の隅に追い詰められてしまう。

 

「いや、……いや、…来ないで……。来ないで、ください……っ」

 

 壁にヒビが入って砕ける。織姫さんが座っていた椅子が、肘を着いていた机が、部屋を灯していたランプが、勝手に砕け散る。

 

「イヤだ。たとえ藤乃に捻切られても、僕は藤乃から離れない」

 

 捻切られる。そう、わたしは、手を触れずに物を捻れさせてしまう。それに耐えられないものが砕けて、壊れてしまう。

 

「どうして……わたしは、藤乃は……、このままじゃ、織姫さんを…壊してしまう……!」

 

 物を壊すだけに止まっていても、織姫さんを壊してしまわない保証なんてない。こんなわたしと一緒に居たら、いつか絶対、織姫さんを壊してしまう。だって藤乃は、織姫さんを壊すことを愉しいと知ってしまっているから。本当に壊してしまったとき、きっとそれは、なにものにも変えることの出来ない感情を味わう事が出来るとわかっているから。

 

 そんなのはいやだ。そんなことはしたくない。わたしは、藤乃は、織姫さんの思い出があれば生きていける。

 

 だからもう、織姫さんとの幸せな思い出さえ壊してしまう前に、織姫さんの前からいなくなりたかった。

 

「藤乃はバカだ。そうしてしまったのは僕の所為なのに、僕に恨み節のひとつも言わないんだから……」

 

 そう言う織姫さんを見て、思い出したのは織姫さんに連れられて保健室に行った日のこと。

 

 あの時の、織姫さんの言葉を思い出した。

 

 普通になる必要なんてない。そんな残酷な言葉。

 

 普通の浅上藤乃になろうとした自分を否定する言葉。

 

 そして、普通ではない藤乃を肯定してくれる言葉。

 

 もし、あの時織姫さんがそんなことを言わなければ、今のわたしは居なかった。

 

「……ひどい人ですね。織姫さんは」

 

 きっと、普通の浅上藤乃としての日々を過ごしていたはずの自分は、あの日、織姫さんに殺されてしまったのだ。

 

 そして、織姫さんは藤乃とお友達になる事で、普通の浅上藤乃が歩む筈だった人生を壊した代わりに、藤乃の人生を背負ってくれていたのだ。

 

「うん。だから僕は藤乃にもっとひどい事をする」

 

 そう言って、織姫さんはわたしに眼鏡を掛けてくれた。度は入っていない様子。

 

「藤乃のその能力(ちから)はね、歪曲の魔眼って言うんだ。視たものを曲げてしまう能力。確かに普通じゃない特別な力だけれど、その魔眼殺しを掛けていれば力は暴発しない」

 

「力が、暴発しない……」

 

 なら、わたしは何も壊さなくて良いのだろうか。

 

「そして藤乃のその能力を封じる為に、藤乃は身体の感覚がなかった。でも魔眼殺しがあるのならその必要はなくなる。普通じゃないけど、普通に生きることは、藤乃にだって出来るんだ」

 

 眼鏡を掛けてくれたあと、わたしの腰と背中に腕をまわして、母が子に言い聞かせる様に織姫さんは優しく言葉を紡ぐ。

 

 わたしの身体が治る……。それは、わたしが、藤乃が、生きても良いのだと言うことだ……。

 

 あぁ、本当に織姫さんはとてもひどい人だ。

 

 とてもとても、ひどすぎて、残酷すぎる事を言うから、泣いてしまいそうだ。

 

 本当に、織姫さんは、藤乃にとってなくてはならない人だ。

 

 浅上藤乃という存在と向き合って、愛してくれる人なのだから。

 

「…わたしは、藤乃は、織姫さんと一緒に、居たいです……」

 

「うん。僕も、藤乃が一緒に居て良いのなら、ずっと一緒に居たい」

 

 いつだってそう。織姫さんは藤乃が欲しいものをくれる人だった。

 

「こんな、普通じゃない藤乃でも、一緒に居ても、良いですか…?」

 

「うん。藤乃に居て欲しいから。ずっと、一緒に」

 

 ぐっと、織姫さんの背中にまわした腕に力を込める。強く、強く、抱き締めて、離さないように。

 

 こんなにも強く想っているのに、何も壊れない。壊さない。壊さなくて良い。

 

 あぁ、本当に泣いてしまいそうだ。

 

「……泣いてしまっても、良いですか…?」

 

「うん。だって、泣けるって、生きているから出来ることだから」

 

 そう言って、織姫さんは、藤乃のすべてを包み込むように優しく微笑んでくれた。

 

 いつも通りで、いつもと変わらない。ならそれは織姫さんと藤乃にとっては普通の事で。

 

 だから今回のことも、少し経てばわたしたちにとっては普通になる。普通に、することが出来る。

 

 織姫さんはそうやって、藤乃を普通の側に手を引いてくれる。

 

 だから、やっぱり浅上藤乃には織姫さんが必要不可欠なのだ。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

殺人考察 (前)Ⅴ

相変わらずちーとも話は進まないけど、切りが良いので投稿するぞー!

しかしなんだ、またふじのんに押し倒されて貪り尽くされる夢を見てしまった。これはつまりなんだ? 書けと仰るのか? いやダメだ。書くにしては内容があまりにも倒錯的過ぎた内容だったぞ……。


 

 冬休みはあっという間に過ぎ去った。

 

 中学生最後の冬休みは、藤乃の両親との対話に費やされた。

 

 先ずは謝罪だった。自分が藤乃に関わったことで、魔眼が発現してしまったこと。これは藤乃の今の父親と本当の父親に。おそらくではあるが、藤乃の母は藤乃の異常については知らないのではないかと思っての事だった。

 

 こちらについてはあまりお咎めは受けなかった。藤乃が生きていくなかで何時か起こっていたのではないかという事だった。ただ危うく藤乃と接触禁止にさせられそうだったが。

 

 次に魔眼殺しでの藤乃の能力の抑止とコントロール。

 

 こちらについては半信半疑といったところだった。魔術の存在は知っていたものの、魔術協会との付き合いはない。だから魔眼を抑える品の存在には辿り着けなかった。

 

 こちらは橙子さんにも説得を協力してもらった。専門化である橙子さんに説明してもらう方が説得力があるからだ。

 

 最後に、藤乃の無痛症の回復だ。

 

 これについては拒否を示された。当たり前だ。今までそうして能力を封じてきたのだから。

 

 しかしそれで能力に蓋をしてしまってはいずれ蓋を破って手をつけられない力になって噴き出すと、具体的な規模はブロードブリッジや、大分盛ったが東京ドーム一個分の面積の森林程度軽く捻られると。それは千里眼を開眼した藤乃がするものだが、このまま蓋をし続けてもそうなってしまう可能性は否定できない。

 

 封じて無視すれば大惨事になり兼ねないのなら、自分の意思でコントロール出来た方が建設的だ。

 

 それに無痛症のままでも能力が表に出てきてしまったのなら、無痛症にしておく意味もない。

 

 その原因を作ってしまったのは僕なのだが。そして話は最初に戻る。僕が藤乃と離れれば藤乃の能力は表に出てくることはなくなるということだ。

 

 これについては橙子さんから否定が入った。藤乃の精神が不安定になれば余計に能力の暴走を招いてしまうだろうと。

 

 藤乃との接触を禁止しようとする話題が出ると、藤乃は僕の身体を横から抱き締めて父親たちを睨んでいた。生きた心地がしなかった。

 

 だから僕は藤乃に対して責任を取ると言った。

 

 彼女の能力が暴走してしまうようなら、彼女を殺すと。

 

 それは運命に対する明確な宣戦布告だった。もし、運命の通りに藤乃が人を殺すようなことがあれば。

 

 その時は、藤乃と一緒に僕も死ぬ。

 

 口ではなんとでも言えるから、腕の1本でも切り落として見せようとしたら藤乃にナイフを『(まが)れ』られてしまった。

 

 「視えて」いたけれども、そこは視れば曲げてしまえる藤乃には敵わない。それで藤乃を殺せるのかと言われたら、銃でも使えば簡単だろう。視て(まげ)るといっても、視るのは藤乃だ。

 

 その反射神経は藤乃に依存する。能力以外普通の女の子の藤乃に銃弾を見切るのは無理だ。予め藤乃に呪いを掛けておいて、遠隔で発動して殺すことだって可能だ。

 

 橙子さんならその手の呪殺に関しての知識だって豊富だろうし、僕にしても魔術での火力なら藤乃を殺しきれる。直死の魔眼でどうしても接近戦になる両儀式だから、藤乃の能力と相性が悪かったのだ。

 

 藤乃の能力を知っているから、殺し方なんてスラスラと思いつく。本当に藤乃は魔眼以外普通の女の子なのだから。

 

 藤乃を殺す手段の豊富さから、彼女を任されたとは思いたくはないが、藤乃は暫く伽藍の堂で預かることになった。

 

 それで良いのか。良かったのか。それは今考えたところで仕方のない事だった。

 

 ただ言えることは、僕は藤乃の運命を少しだけ変えることが出来たという事だった。

 

 もしこの先、運命ではなく、藤乃に宿命として降りかかるものがあるのなら、僕はそれに備えて今を積み重ねるしかない。

 

 取り敢えず、今言えることは――眼鏡ふじのん最高です。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「藤乃の力は、緑と赤の螺旋なんだ。右目は右巻き、左目は左巻きの回転を生んで、対象を螺旋状に取り巻いた力が捻る。でもこれは藤乃が直接対象を視る必要があるから、障害物かなにかで藤乃の視界を遮ってしまえばやり過ごす事は出来る。煙幕とか有効だね」

 

「おいおい。そんなことを教えてどうする。いざという時殺し難くなるだろう」

 

「藤乃が特別なのはその眼だけですからね。他は普通の女の子ですから、いざとなったら藤乃の周囲一帯を吹き飛ばせば良い」

 

「ふっ。恐いやつだ」

 

 織姫さんと、織姫さんのお師匠さんの橙子さんとの会話。

 

 わたしはこの能力(ちから)と向き合う道を選んだ。だって、織姫さんが向き合ってくれたわたしなのだから、わたしが向き合わなければならないことだ。

 

 織姫さんは橙子さんの自宅兼事務所に住み込みで習い事をしていた。

 

 それは人形作りであり、魔術という魔法の様なもの。

 

 織姫さんの作る人形は、2頭身程度のデフォルメされた可愛らしい物だった。

 

 今はこれで精一杯で、橙子さんに比べれば自分なんて足元にも及ばないと。

 

 でも橙子さんの、精巧な、今にも動き出してしまいそうな人の人形よりも、織姫さんの作る可愛らしい人形の方が、わたしは好きです。

 

 人形は使い魔として使役して、普段の生活のサポートをする存在として使われている。洗濯物とか洗い物とか勝手にしてくれるのでとても便利ですね。

 

 そういった少しの時間でも、生き急ぐみたいに織姫さんは魔術に没頭している。わたしは魔術を習いに来ているわけではない為、織姫さんがどんなことをしているのかを知らない。魔術は極力他人に知られてはいけないことらしい。だから無理にも訊かない。訊く必要がないとも思う。

 

「しかし難儀だな。感情の昂りで暴発する程に強い力を制御するのは並大抵じゃないぞ」

 

「だから一番は能力についての理解を深めることですよね? 知っていればこそ、加減の仕方だってわかるものでしょ?」

 

 橙子さんにそう言って、織姫さんはわたしの手を握ってくれる。思ったよりも細くて、小さな手。

 

 今のわたしには、世界を感じ取る事が出来る。

 

 生きているのだと、実感できる。

 

 心ではなく、手触りの感触として、織姫さんの温かさを感じることが出来る。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 浅上藤乃――。

 

 織姫が連れてきた少女は確かに普通じゃない。物理的な破壊力なら最高の魔眼を持っていた。これに透視能力が加わるらしいとくれば、放っておくには惜しすぎる眼だ。そして、放っておけばかなり厄介な眼だ。

 

 織姫が浅上藤乃の異常性を肯定し続けてしまった事で洩れ出した能力は、それこそ浅上藤乃の記憶から境織姫という存在を消さなければ封じることなど出来ないだろう。

 

 そして、織姫も言っていた様に、本来ならば能力が洩れ出すこともなかった。

 

 その切っ掛けは、まさかの告白紛いの贈り物のやり取りだとは。

 

 告白というものは、己の内に隠していた心の中を打ち明ける物だ。

 

 それが男女間の関係ともなれば、相手に自分を受け入れて欲しいという欲求に根差すもの。

 

 織姫のやっていたことは、本来ならば肉体的な無痛症によっての封印と、無痛症である自身を異常なものとして否定し隠す事で精神的に封印されるはずだったものを、精神的な封印を取り払ってしまっていた。

 

 完全に取り払うのは難しくとも、この場合は、殻にヒビを入れるようなものだ。そして積み重なった肯定の意思は、女にとっては特大の自己肯定によって遂に殻をブチ破ってしまった。殻が割れれば中身が溢れ出るのは当然だろう。

 

 そういう意味では本当に早いか遅いかの違いだった。浅上藤乃が他人と関わり続ける限り、人として生きていく中で必ず立ち塞がる壁だった。

 

 自己を肯定することの出来ない浅上藤乃は、必ず他者に自己を肯定してもらおうとするはずだ。

 

 無痛症であることを隠すために他人に一定の距離を置こうとも、何時かは他人を求めてその秘密を打ち明ける相手が居たはずだ。

 

 だから彼女の不幸中の幸いは、そういった面倒な事を全部知っていて、はじめから浅上藤乃を肯定した境織姫という存在に巡り会えたことだろう。

 

 でなければ、それこそ織姫が変えたいと言っていた運命の通りになって面倒な事になっていた。

 

 内容は詳しく聞いてはいないが、予想される魔眼の力と、織姫が語った破壊力の規模からして、まぁ、タダ事じゃ済まなかったはずだ。

 

 ともあれ、浅上グループと縁が出来たのは儲けものだ。

 

 損得勘定で言えば、圧倒的な得だ。

 

 ならその還元を功労者である弟子に支払うのは当然のことだろう。

 

「ただなんかね。ああしてイチャイチャオーラ出されてると、独り身には毒だな」

 

 甘酸っぱすぎてコーヒーの味が変わりそうだ。

 

 身体の感覚を手に入れた浅上藤乃は、その全身で織姫を感じようとするからベタベタベタベタ四六時中手を握ったり抱きついていたり身体を寄せたりしている。今まで味わえなかったものをひたすら求めることは致し方のないものだ。それを咎めるのは織姫には無理だ。あれは浅上藤乃に対しては絶対的な肯定者で居続けるからだ。間違った道を浅上藤乃が歩まない限りは。

 

「あんな良い娘が居るのに他にもオンナが居るとは。アイツ何時か刺されるんじゃないか?」

 

 浅上藤乃がケガを負って通院していた病院で知り合った女の見舞いに行く。

 

 織姫がそうして積極的に動くのは、その女も、織姫の言う「運命」とやらに関わりがあるのか。

 

 私もその「運命」とやらに巻き込まれているのか。

 

 もしそうでなかったとしても、既に浅上藤乃という運命の環に、私も組み込まれてしまった時点で、その運命を持ってきた織姫と関わった時点で、なにかしらの「運命」に巻き込まれるのだろう。

 

 だが、中々面白味がありそうだ。だから何が起こるのかを楽しみにしているとも言える。

 

「しかし、便利だな。この子らは」

 

 我が弟子の作品。デフォルメされた2頭身の人形の使い魔。織姫から魔力供給出来ないため、この土地の霊脈から魔力を汲み上げて動いている。伽藍の堂の結界維持にも霊脈の魔力を使っているが、これくらいの小さな人形を常時動かしておくくらいのリソースを割く程度は問題ない。

 

 とにかく現時点の織姫が作れる最高の人形は、戦闘には耐えられないものの、人間の私生活の手助け程度は出来る。

 

 サイズが小さい分維持費が安い。なのに掃除や洗い物は勝手にやってくれる。四階の事務所と織姫の自室がある二階は、絶えず綺麗だ。

 

 人形は3体。黒髪と、赤髪と、紫の髪――。何処と無く特徴があるのは、それが身近な被写体だったからだろうな。

 

 

 

◇◇◇◇◇

  

 

 

 年が明けて、彼がやって来た。いつも隣に居た女の子を連れて。

 

 その女の子も眼鏡を掛ける様になったらしい。お揃いの格好をしているのが、少し羨ましかった。

 

 冬休みの間はバタバタしていて顔を出せなかった事を彼は謝ってきた。私の事を忘れないでいてくれた事が嬉しかった。

 

 お見舞い品と言って、彼は私に人形をくれた。誰かからの贈り物なんて、何年振りだろうか。

 

 何処と無く私に似ている人形。彼の手作りなのだとか。

 

 彼は自分以外の友達として、彼女を紹介してくれた。

 

 そして、彼女も私の様に彼に救われた娘なのだと見ただけでわかった。

 

 お手洗いに行くと言って、彼が居なくなると気まずくなる。きっと彼女は、私が彼とお友達で居ることをあまり良くは思ってないのかもしれない。

 

「ひどい人ですよね」

 

「え…?」

 

「織姫さんは、ひどい人です。わたしみたいな人を見ると放っておけないんでしょう」

 

「私は……。私も、そう思うわ」

 

 彼女は、今は居ない彼に向けて仕方がないと言わんばかりの苦笑いを浮かべていた。

 

 彼女と彼に何があったのか、私は知らない。でも、何となくだが、想像は出来てしまう。

 

 きっと、誰にも見つけて貰えない自分を見つけてくれたのだと。

 

 そして、温かい笑顔を浮かべながら手を引いてくれる。大丈夫だよと言って。

 

 それは確かに、とてもひどい人だと言えるのかもしれない。 

 

 どうしてもっと早く見つけてくれなかったのだろう。

 

 彼が彼女を連れてきてくれたのは善意なのだろう。でも、私には彼女の存在は毒だった。

 

 有り得たかもしれない私を見せつけられている様で。

 

「…織姫さんのこと、好きなんですね」

 

「……わからないわ。彼は、私にとって突然過ぎたもの」

 

 そう。このまま、この病室の中で朽ちていくと思っていた私にとって、彼は突然過ぎた光だった。

 

 まるで暗闇の中で突然ライトを点けられた様に。

 

 突然スポットライトを当てられて戸惑う私を、彼は手を取って、掬い上げてくれた。

 

「でも、良いの。私は、長くないから……」

 

 きっとこれは、私の人生の終末に見ている最後の夢なのだと思う。

 

 明日も知れない私が、最後に見たいと願った、幸せな夢。

 

「良いんですか? それで」

 

「だって、彼には私は必要ないもの。最後に私は独りじゃないって思える思い出をくれただけで、私は満足だもの」

 

 彼女は私に悲しげな瞳を向ける。それは同情なのではない。先行きの短い私を想ってくれる瞳だった。

 

「……また来週。いえ、明後日、お邪魔します」

 

 ただ、それが一転して力強く、何かを決めた真っ直ぐな瞳に変わった。

 

「どうして? 学校だってあるし、彼と居られる時間が減ってしまうわ」

 

「わたしは良いんです。織姫さんとはいつも一緒ですから。それに、せっかくお友達になれたのですから、もっと色々とお話をしたいです。だからまた明後日、わたしとお話をしてください」

 

 彼女は彼がひどい人だと言った。でも彼女もまた、ひどい人だった。

 

 二人揃って、ひどい人たちだった。

 

 彼と一緒に居られる彼女が羨ましい。

 

 でも、こんな私の生を望んでくれる人が出来た。

 

 だからもう少し、生きてみたいと願った。

 

 彼と並んで彼女と一緒に歩く姿を夢見てしまうほど、私の心には死ではなく、生の鼓動を感じるようになりはじめた。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

殺人考察 (前)Ⅵ

ようやく一段落というか、話を進められるというか。話盛りすぎて怒られないか戦々恐々といった具合です。








 

 夜が深くなれば、闇もまた濃くなっていく。

 

 眠らない街になるにはまだまだ先の事。誰も居ない街は今、殺人鬼の影に怯えていた。

 

 殺人鬼は既に5人の人間を殺している。頃合いからして、そろそろ6人目が出るはずだ。

 

 オレの夜の徘徊癖はより強まっている。

 

 眼に細工を施してからはより顕著になっていた。

 

 境織姫は前世の記憶がある以外はまったく普通の人間だ。

 

 その為、幽霊くらいは見ることが出来るように蒼崎橙子による処置を受けたのだ。霊的なものが「視える」だけというものだが。これも歴とした魔眼だ。ただそれで浅上藤乃の能力を視れるとは思わなかったが。

 

 魔眼を持ち、両儀式に近くなる事で、その習性や習慣がより強く出てくるのは当たり前だ。

 

 もともと二つの人格を持っていた所に三つ目の人格を形成して行く作業。

 

 陰と陽の存在を作り、そこに両儀となる存在を当て嵌める試みは一先ず順調だと言えた。ただすべての人格が互いを認識しているという違いが生まれてしまっているが、それについては仕方がない。所詮自分は後付けの存在なのだから。

 

 そうまでするのは浅上藤乃の運命と――或いは宿命と対峙する時。想定される相手は両儀式であり、そして荒耶宗蓮である。

 

 両儀式は、今の浅上藤乃であれば殺す対象にはならないだろう。

 

 しかし荒耶宗蓮はどう浅上藤乃に関わってくるかわからない。

 

 もし戦うという事になった時。少しでも荒耶宗蓮を殺せる存在になることを求めた。

 

 ならばそれは『両儀式』が荒耶宗蓮の死因だろう。

 

 それを目指すのだから、大言壮語も良いところだ。それこそ根源への到達という魔術師らしい目標になってしまう。

 

 それでもやらないよりはマシだろう。

 

 だから両儀式を投影している今の自分は両儀式として、両儀式がしていた様に夜の街を歩くのだ。

 

 着物に編み上げのブーツ。冬で寒いから革ジャンまで揃えて、普段の自分ならコスプレかなんかかと思うかもしれない。ただ今の自分は両儀式なのだから着物を着ることに疑問は持たない。

 

 ふと、鼻孔を突く錆び鉄の様な、生肉のソレに近い匂いを感じ取る。

 

 どうやら現れたらしい。

 

 その匂いのもとに向けて足を進める。不思議と迷いはない。両儀式が匂いを追うのが得意だからだろうか。

 

 自分は犬じゃないと、自分で自分の思考に苛立つ。

 

 深夜2時にもなれば、街は死んだ様に静かだった。郊外に離れてしまえば闇が支配する世界になる。

 

 薄暗い街灯の下。一面に広がる赤い水溜まり。

 

 まるでそれは自らの行いを誇示するかの様に飾られた死の芸術品だった。

 

 人間の死体。今さら死体程度で揺らぐような神経はしていない。見慣れてしまったからだろうか。

 

 その死体を見下ろしている影があった。着物の帯に潜ませているナイフに手を掛ける。

 

 その僅かな音に気づいたのか。その影は此方を向く。

 

 その口許は赤い紅を引いたように血で彩られ、綻んでいた。

 

 その影は此方に向かって走り出した。街灯に照らされて煌めくモノがある。それを認識する前に知識としてナイフであるのだろうと答えを出し、反射的にナイフを抜いて構えていた。

 

 ナイフを片手に地面スレスレを這うように疾走する。

 

 まるで獲物に一直線に向かう獣の様だ。

 

 間合いに入るのは向こうの方が早かった。自分にとってはまだ間合いの外に居るのに、あちらにとっては此方の倍程度に間合いが広いらしい。

 

 まるで猛獣が飛び掛かる様に、地面を蹴って更に加速しながら頭上から(ナイフ)を突き立ててくる。

 

 飛び散る火花。ナイフとナイフが互いに衝突した。

 

 闇の中で僅かに散る火花の灯りに照された相手の瞳と交差する。

 

 血走った様に赤い瞳は歓喜の色を灯している。

 

 ただ、それも次の瞬間には困惑に変わり、獣は大きく跳ねた。

 

 四肢を使った着地は正しく獣だ。跳ねた距離は5m程度か。

 

「おかしいなぁ……ようやくと思ったのに。お前じゃない……」

 

「へぇ。人を殺してハイになってるってのに、会話が出来る頭が残ってたのか」

 

「お前はなんだ……。お前は両儀式じゃない…。なのにどうして、両儀式と同じ匂いがするんだ……」

 

 会話が出来ると思ったが、前言撤回。どうやら独り言を言っているだけのようだ。

 

「ようやく両儀が此方に来てくれたと思ったのに。お前はなんだ。両儀の匂いをさせてるお前は…!」

 

 匂いとくるか。判断の仕方が丸っきり獣だ。

 

 下から掬い上げる一閃。先程の本能任せの攻撃よりも見易い一撃を回避して、ナイフを突き出す。

 

 ただ獣染みた反射神経は此方の攻撃を予感していた様に回避して行く。

 

 ナイフ捌きは僅かに此方が上の様だ。技術で振るう此方と、向こうは爪や牙の延長。そこに技術的なものはないと見た。ただそれがやり難い。本能で振るわれる牙ほど、予測のし辛いものはない。

 

「あぁ、でもそうか。両儀じゃないなら、食べても構わないのか……」

 

 来る。そう思った一瞬で既に懐に入られていた。闇の中でも煌めく赤い瞳が目の前に映る。

 

 意識が感じ取る警戒網を、危険だと察知する前に素早く擦り抜けて来た。

 

 迫るナイフの切っ先は真っ直ぐに心臓に向かっていた。

 

 その一撃を避けられたのは生存本能が思考よりも先に身体を動かしたからだろう。

 

「っ――――!!」

 

 飛び散る鮮血。二の腕から下の感覚がない左腕。

 

 ナイフは避けた。ただ、相手が人間ではなく獣だということを、なまじ人の形をしていたから失念してしまった。

 

 大きく開かれた口に噛みつかれ、信じられない力で潰され、引き千切られた。

 

 ナイフで斬られるよりも痛みとしては特上だ。これがいつもの自分だったら、地面をのたうち回るか、あまりのショックで気を失っていたか。

 

 膝を着かなかっただけでも頑張った方だ。だが、境織姫が知覚した事のない痛みは、境織姫の身体を硬直させるのには充分すぎた。

 

 此方の身体が動かない合間、殺す機会なんていくらでもあっただろう。

 

 しかし獣はそうしなかった。

 

 引き千切った腕を、味わうように食べていく。特上のご馳走を平らげる様に。骨を噛み砕く音と、肉を咀嚼する音。どちらも人が発する音としては普通にあるだろう。だが、それが人が人の骨と肉を平らげる音だと認知すると、倫理観の摩擦で吐き気を催す。

 

「このっ、異常者……!」

 

「ははっ。そうだよ。俺は異常者だ。でも異常者だから異常な事をするのは当たり前だろう?」

 

 倫理観の破綻。いや、そもそもケモノになってしまっている目の前の獣には、人間の倫理観なんて通用しないのだろう。

 

「両儀の匂いがするからかな? お前の肉はとても美味しかったぜ」

 

「抜かせ…っ」

 

 傷口から流れ落ちる血液と一緒に、身体の活力までも流れ落ちている気分だ。血を流しすぎて頭が白み出す。それを気力で繋げているが、手足の末端の感覚がどんどん抜けていく。

 

 それは死の感覚だ。

 

 死が、刻一刻と、自分に歩み寄っている。

 

 この身体は知らないが、魂はその感覚を知っている。知っているから理解してしまう。

 

 死というものを、一度経験しているから、死を知覚してしまう。

 

「あぁ、()()が、「死」か……」

 

 わかってしまう。感じてしまう。自らに牙を突き立てる死の息吹。命を刈り取る死の鼓動。

 

 自分はこんなところでは死ねない。死ぬつもりもないし、死んでやる必要もない。

 

「次は、もう片腕をいただこうか…!」

 

 獣がまた走り出した。蛇の様な蛇行に、猛獣の様な素早さで。

 

 煌めくナイフで、オレを殺そうとする。

 

「な――っ」

 

「死が、オレの前に立つんじゃない……っ」

 

 死を知覚出来るなら、死を「視る」事の出来る(オレ)に視えないはずはない。

 

 死が迫ってくるのなら、その死さえ殺してしまえば良い。

 

 迫るナイフをナイフで切って殺す。

 

 先程は衝突して火花まで散らしたのに、あっさりと、熱したナイフでバターを裂く様にナイフを斬り殺す。

 

 ナイフを振るう為に振り上げた手の中で、ナイフを逆手に持ち変えてそのまま突き下ろす。

 

 だが獣は寸前で身体を翻して跳び跳ねた。猫かアイツは。

 

「クックククク、ハッ、ハハハハハハ!!!! そうか、そういう事だったのか。クハハ――」

 

 狂った様に背を仰け反らせて笑う獣。ただその笑い声も、オレの耳には遠くなり始めた。

 

「お前も俺の同類だよ。だから両儀と同じ匂いがしたんだ。でもどうしようか、お前の美味しさを俺は知ってしまった。せっかく見つけた仲間なのに残念だよ。俺はお前を食べたくて食べたくて仕方ないんだ…」

 

「悪食……」

 

 ニヤリと、極上のご馳走を前にした獣は歓喜に打ち震える様に笑っている。

 

 息も上がりはじめて、汗も止まらない。ナイフを持っている手も感覚がない。

 

 藤乃も、こんな感覚だったのだろうか。

 

 霞み出す意識の中で、そんな思考が流れる。

 

 らしくない。いや、らしいのだろう。

 

 両儀式を投影していても、自分の存在の根幹は境織姫なのだから。

 

 なら、浅上藤乃の顔を思い浮かべるのは、オレにとっても普通か。

 

 獣にはまだ爪や牙が残っている。ナイフを失っても相手を殺すのに便利な道具を失っただけに過ぎないのだろう。

 

 死を知覚出来る今のオレになら、オレに死を向けるのなら、殺すことが出来る。

 

 感覚のない身体を動かすのは、それこそ自分の目で見てようやく動いているのだと実感できるものだった。

 

 確かにこれじゃあ、生きている心地はしないな。死んでいるのも同然だ。

 

 だから僕は、そんな藤乃を殺したかったんだ。

 

 死を目前にして、こんなにも安らかな心境でいるのは、とっくの昔に自分はその目的を果たしてしまったからだろうか。

 

「いや、まだだ――」

 

 まだ果たしきれていない。だからさ、まだ死ぬわけにはいかないんだ。

 

「直死――」

 

 だからオレを殺そうとする死を殺して、早く帰ろう。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 1998年 6月――。

 

 全寮制の女学院に進学したわたしは、週に一度、お友達のお見舞いに行く。全寮制で厳しい学校なのにそんな頻度で外出が許されるのは、普段の生活の賜物。学院一の優等生で、成績も全校トップを維持して、そしてちょっとだけズルをしているから。

 

 病院に行く前にわたしには寄るところがあった。今日は土曜日。隔週でわたしは橙子さんの事務所を訪れる。

 

 それはわたしの能力をコントロールするため。といっても、感情的な昂りがなければ、魔眼殺しのお陰で普段の生活に支障はでない。だから軽く近状を報告するくらい。

 

 感情が昂るなんて、もう2年も起こってはいない。

 

 事務所のドアを開けると、橙子さんと、一月程前にこの事務所に転がり込んできた先輩の姿があった。

 

「あ、いらっしゃい、藤乃ちゃん」

 

「こんにちは、先輩」

 

 わたしに気づいた先輩が声を掛けてくれる。いつ見ても人の優しい笑みを浮かべる人だ。

 

「もうそんな時間ね。幹也クン、今日は上がってもいいわよ」

 

「ええ。もう少ししたら上がります」

 

 書類を整理している先輩の横を通って、橙子さんと向き合う。

 

「こんにちは、橙子さん」

 

「ええ。特に変わりはなさそうね」

 

「はい。特に変わりはないですけど、やっぱり少しピントが合わない感じがします」

 

 わたしのその言葉を聞いて、橙子さんは考える仕草をして、眼鏡を外した。

 

「最近多いな。また力を使っているのか?」

 

 それは確認と、批難する様な色が含まれていた。

 

「いえ。ただちょっとだけ、ヒョイってする事が多いだけです」

 

 それに対してわたしは何事もなく答えた。すると橙子さんは呆れた様子で溜め息を吐いた。

 

「前にも言ったがな。その力は使いすぎると失明するぞ。半年前に調整したばかりなのを覚えているか?」

 

「はい。でも、仕方ないじゃないですか」

 

「何が仕方がない、だ。私用で能力を使うなと言っているだろう。まぁ、アイツが居るからまだマシなんだろうが」

 

 そう呟いた橙子さんは、机の上の黒い髪の人形を見つめた。赤と紫色の髪の人形たちは今日も掃除とか洗濯物をして動き回っているのだろう。でも、黒い髪の人形は、2年前から動かなくなってしまった。

 

「お待たせ、藤乃ちゃん。では所長、少し行ってきます」

 

「ああ。土産を期待しているよ」

 

 お仕事を終えた先輩と一緒に、わたしは病院へと向かう。途中の花屋さんで花束を買って。

 

 先輩と向かう先は殆ど同じ。長期入院患者の居る病棟の同じ階層の部屋が隣同士だから。

 

「こんにちは、織姫さん」

 

 病室のベッドの上に横になっている織姫さん。声を掛けても返事は帰ってこない。

 

 2年前、織姫さんは連続通り魔事件の被害に遭った。通り魔事件被害者唯一の生存者。

 

 あの日の夜の事は今でも思い出す。

 

 ふと目が覚めた時に織姫さんの姿はなく、お手洗いか何かかと思っていたら、上の階が騒がしくなって。

 

 階段を駆け降りる橙子さんから織姫さんが病院に運び込まれたと聞いて、寝間着に上着を羽織るなんて格好で橙子さんの車に飛び乗った。

 

 病院に着いて、治療室の前で待たされて、織姫さんに輸血する血が足りないと言われて、わたしの血で織姫さんが助かるのなら迷いなんてなかった。

 

 輸血する間、隣で処置を受けている織姫さんを見たけれど、とても痛々しかった。

 

 手術を終えて、一先ず織姫さんは助かった。致死量の出血をしているとみられていたから助かったのは奇跡だとお医者さまは言っていた。

 

 助かったと言われてほっとした。

 

 けれど織姫さんは眠り続けている。あれから一度も目を覚ますこともなく。2年の月日が流れてしまった。

 

「今日も1日、気持ち良く寝ていたわ。いつもと一緒。何も変わらない」

 

「そうですか」

 

 病室に居た先客の言葉に、わたしは特になにを思うことはなく返すだけだった。

 

 わたしが学校で週に一度しか織姫さんのもとを訪れる事が出来ない変わりに、霧絵さんが、織姫さんの傍に居てくれる。

 

 だからわたしは、普段通りの生活を送っていられる。でなければ織姫さんのことが心配すぎて普通の生活なんて送れなかっただろう。

 

 せっかく織姫さんがくれた普通に生きる事の出来る人生を不意にはしたくなかった。

 

 それでも織姫さんをこんな姿にした相手を憎んで、立ち直るには少し時間が掛かったけれど、そんなわたしに霧絵さんが言ってくれた。

 

 わたしが普通に生きることが織姫さんが望む事で、霧絵さんの夢だと。

 

 眠ったままの織姫さん。病気で普通の生活を送れない霧絵さん。

 

 だからわたしには、お二人のお友達として、普通に生きる義務がある。

 

 立ち直って一念発起したわたしは普通の生活を送っている。時々橙子さんのお仕事を手伝ったりして世の不条理を捻るなんてしてますが。

 

 いつ、織姫さんが目覚めるのかは橙子さんもわからないと言っていた。

 

 それでも、わたしは織姫さんが目覚めてくれると信じている。

 

 信じる事が出来る。だって、織姫さんは藤乃を否定した事など一度もないのだから。

 

 まだ、指に嵌める指輪を作って貰っていない。

 

 だからその指輪を作って貰うためになんとしても起きてくれないと困る。でないとわたし、このまま歳を取っておばあちゃんになっちゃっても、織姫さん以外の人と一緒に居るつもりはないんですから。

 

 

 

 

to be continued…




コクトーが伽藍の堂にやって来た時期を修正。

1998年6月の半年前じゃなくて一月前だった。なんで半年なんて数字が出てきたんだ?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

伽藍の洞

もうふじのんがすーぱーふじのんになってるからどうなるかわかんないけど、少なくとも伽藍の洞はそこまでなにかが起こるわけでもないと思う。

でもなんだろうな。誰かこのふじのん止めてやってくんないかな?


 

 其処は暗く、底は(くら)かった。

 

 果てのない(くら)い闇の果て。

 

 そこには音も光もない。ただ静寂があるだけ。

 

 いや、なにも「ない」から、静寂だとか、闇だとか思ってしまうだけで、形容する事さえ意味がない。

 

 根源の渦――或いは「  」と表現すれば良いのか。

 

 死を知覚して、死を視ようとしたから、死に近づいたのか。

 

 「  」ではすべてが意味をなさない。

 

 なら、意味を持ってしまっている自分は異物でしかない。個という存在で抗うには「  」は余りにも強大すぎる。

 

 当たり前だ。世界の始まり、そして終わり。理そのものに抗う事など、一個人の人間に出来るはずもないのだから。

 

 だから自分も、「  」では無意味なものとして意味をなくしていく。

 

 それは死と同義だ。存在の消失。無意味なものとしての定義。

 

 死が、すべてを包み込んでいく。

 

 とても穏やかで、満ち足りていく。

 

 すべてに身を任せて、融けてしまいそうだ。

 

 何処までが自分で、何処からが自分なのかわからない。自己の境界が曖昧になっていく。

 

 心地良さが全身を包み込んでいく。此処は死の終焉であり、生の始発点。心地良さを感じるのは当たり前なのかもしれない。

 

 でも、本当に、それで良いのか……?

 

 「  」に融けようとしていた自己が急激に個としての形を取り戻す。

 

 そうだ、自分にはやるべき事が、果たすべき事がまだ残っている。

 

 ()への微睡みに墜ちるのはまだ早い。

 

 だから、帰らないと。きっと、待っているから。

 

 死から生への反転。死へと向かっていた自らを生へと転向させる。

 

 生へと向けられた意識は、魂に紐づけされている肉体へと還っていく。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 織姫さんが病院で眠り続けていても、わたしは橙子さんの事務所で生活をしていた。

 

 学校へはとても行ける状態でもなかった。落ち着いてしまうと、今度は何故という疑問が湧いてくる。

 

 何故織姫さんが傷つけられなければならないのかと。

 

 ただ夜道を歩いていたから? どうして織姫さんは夜に出歩いていたのだろうか。

 

 考えてもわからない。考えてしまうと、とてもイラついた。それが怒りだとわたしは知っている。でもそれだけじゃない。織姫さんを傷つけた相手に対する怒りは、憎しみというものだった。

 

 この感情をぶつけてしまえるのなら良かった。でもそれは、きっとわたしは、その時加減なんて出来なくて、織姫さんを傷つけた相手を殺してしまうだろう。

 

 その時は、織姫さんも死ななければならない。それが約束であるから。わたしがこの能力を制御出来ずに人を殺してしまったとき、織姫さんは責任を取って、わたしを殺して自分も死ぬと。

 

 本当に織姫さんはひどい人です。これでは、わたしは織姫さんの為に復讐することも出来ない。

 

 まるでこうなることがわかっていたかのような手際の良さ。

 

 わたしには、織姫さんを殺せない。だから、わたしは我慢するしかない。

 

 毎日毎日、織姫さんのお見舞いに行った。でも、織姫さんは眠ったままで。

 

 毎日、朝から夕方まで、わたしは織姫さんの病室で、織姫さんの目覚めを待っていた。

 

「本当に、それで良いの…?」

 

「霧絵さん……」

 

 織姫さんの目覚めを待っているのは、わたしだけではなかった。

 

「今のあなた、私よりも死人の顔になってるわ」

 

 死人……。そうだろう。だって、浅上藤乃は境織姫に殺され、生かされている人間なのだから。

 

 織姫さんが死んだように眠り続けてしまっているのなら、浅上藤乃にとって今の生活は死んでいるのも同然なのだから。

 

「起きた時にそれを知ったら、彼は悲しむでしょうね」

 

「あなたに、何がわかるんですか……」

 

 浅上藤乃にとって境織姫という人間は他人ではない。自らを構成する1つなのだ。それが欠けてしまっているのなら、正常ではいられない。

 

 こうして毎日朝から夕方まで、織姫さんがそこに居るのだと見ていなければ、自分さえ保てない。

 

「わからないわ。私はあなたではないもの。でも、このままじゃダメよ。あなたまで死に魅入られたら、彼が帰って来れなくなってしまうから」

 

「死に、魅入られる……」

 

 死んだように眠っている織姫さん。いつ目覚めるかもわからなくて、或いはこのまま目覚めることもないのかもしれない。日に日に増すその不安が、わたしを死に誘う。

 

 織姫さんと居られない世界なんて生きている意味なんてない。わたしを殺して自分も死ぬと言ってくれた織姫さんなら、わたしと一緒に死んでくれるだろう。

 

 方法は簡単だ。眼鏡を外して、織姫さんを壊して、わたしも壊れれば良い。

 

 そんな誘惑を、霧絵さんは見抜いているというのか。

 

「私も、どうして生きているのかって、毎日思ってた。今日、眠ってしまえば、明日目覚められるのか毎日不安だった。最も死に近かったから解るの。今のあなたは死に魅入られている。でも、生きていれば、いつか幸せはやって来るかもしれない。生きていても辛いことばかりで、終わらせる事の方が簡単だけれど、それでも生きていたいと思った。だって、生きていたから、彼やあなたと逢えたんだもの」

 

「霧絵さん……」

 

 どれ程辛いことがあったのか、わたしにはわからない。

 

 高校生の頃に入院して、病気に身体をボロボロにされて、家族まで失って、辛くて堪らないはずなのに。

 

 強い人だと、わたしは思った。

 

「もしあなたが、彼を連れていくというのなら、私が立ち塞がる。だって私は、まだ生きていたいから。私を生への執着に駆り立てた彼に責任を取って貰うつもりだから。こんな寂しい場所じゃない。温かくて、お日様の当たる、青い空と、緑色が一面に広がる何処かで、彼に私を看取って貰うの」

 

 霧絵さんの語るそれは、自らの終わりの夢。いつ終わるともわからない自分の命を見据えているからこそ、その終わりを夢として語れるのだ。

 

「わたしだって、生きていたいです。織姫さんと一緒に。わたしの命は、織姫さんがくれたものだから」

 

 織姫さんが藤乃を見つけてくれたから、愛してくれたから、藤乃は普通に生きられる命を貰うことが出来たから。

 

「なら、死ぬのはダメよ。あなたは生きていかないとならない。彼もそれを望んでいるだろうし、私も、お友達を亡くしたくはないわ。あなたは、私の夢みたいなものだから」

 

「わたしが、霧絵さんの?」

 

 そう言った霧絵さんは、先程とはまた違う顔を浮かべていた。どこか羨ましそうに、悔しそうに、それでいてそこには悲しさは何処にもない晴れやかさすらあった。

 

「普通に学校に通って、普通に友達を作って、普通に恋をして、そんな普通に生きていく私の夢。……もう、私にはそれは叶えられない夢。でも、あなたはまだ叶えられる夢」

 

「わたしは……」

 

 わたしだって、普通じゃない。普通に生きている様に見せていただけだ。

 

 でも今は、普通に生きられる。生きることの出来る生を貰ったから。

 

「だから生きて欲しいの。彼だって、きっとそう言うわ。私も、そう思っているから」

 

 眠ったままの織姫さん。病院から出れない霧絵さん。

 

 それはズルい。卑怯だ。ひどい人たちだ。

 

 普通に過ごせない自分達に代わって、普通に過ごして欲しい。そう言ってくるのだから。

 

 でも、それも、悪くはない様に思える。

 

 生きてさえいれば、いつかは織姫さんも目覚めてくれるかもしれない。明日か、明後日か、それとも来年か、もっと先か。

 

 わからないけれど、目覚めた織姫さんを悲しませない様に、わたしは生きる義務があったのだ。織姫さんから普通に生きられる人生を貰った藤乃には。

 

 織姫さんの眠っている時間を、わたしが代わりに生きて行く。こんな簡単な事を考えられない程、わたしは参ってしまっていたのだろう。霧絵の言う通り、死に魅入られてしまっていたのだろう。

 

 でも、もう大丈夫。

 

 そうだ。どうしてもっと早く気づかなかったのだろうか。

 

 わたしの、藤乃の命は、織姫さんの中にも息づいている。藤乃の血を分けた織姫さん。なら、藤乃は織姫さんになったのと同じこと、藤乃が生きていれば織姫さんも生きている事になる。だから、藤乃が生きることにも意味はある。

 

 命を分けた藤乃と、生をくれた織姫さん。

 

 やっぱりわたしは、わたしたちは、互いになくてはならない存在だった。

 

 塞ぎ込んでいる暇などなかった。織姫さんが普通に生きられない分、わたしが、藤乃が、変わりに生きて行かなければ、本当に織姫さんは死んでしまう。

 

 織姫さんは藤乃の人生に責任を持つと言った。なら、藤乃も織姫さんの人生に責任を持とう。

 

「……ありがとうございます、霧絵さん。わたし、間違っていました」

 

 今までの遅れを取り戻す為に暫くは顔を出せないだろう。でも不安はない、藤乃は独りではないのだから。

 

「ちょっと頑張ってきます。だから、織姫さんをお願いします」

 

「良いの…? 私が彼を連れて行ってしまうわよ?」

 

「良いんです。だって、霧絵さんも、わたしのお友達ですから」

 

 もし霧絵さんがその終末を望むのなら、わたしもその中に加えてもらおう。お友達の最後を看取ることが出来ないのも、とても悲しい事だから。

 

「あなたは強い娘ね。私なんか足元にも及ばない」

 

「そうでもないです。もしそう見えるのなら、それは織姫さんがくれたものだと思います」

 

 そう。もし織姫さんと出逢えていなければ、今のわたしは、藤乃は此処には居ない。此処に居る藤乃を強いと霧絵さんが言うのなら、それは織姫さんがくれた強さだ。

 

「そうね。だからやっぱり、彼には責任を取って貰わないとダメね」

 

 霧絵さんは微笑んでいた。わたしも、きっと同じ。

 

 わたしたちは似ているのだ。自分で生きている実感が感じられないから、誰かに自分を見つけて欲しかったのだ。

 

 それを見つけてくれたのが、織姫さんだった。

 

 気を持ち直したわたしは休んでいた分の勉強を頑張った。高校は橙子さんのツテのある礼園女学院へ通うことにした。塞ぎ込んでいる最中に受験が終わってしまっていたからだ。

 

 頑張って、頑張って、頑張りすぎて、体調を崩してしまったときに新しいお友達が出来た。

 

 まさかそのお友達のお兄さんが、先輩だとは思わなかった。

 

 織姫さんと霧絵さんのお見舞いに、そしてわたし自身も能力の扱いを覚える為に、全寮制の礼園では例外的に週一で外出している。

 

 先輩と出会ったのも、ちょうどわたしが橙子さんの事務所に行く時だった。

 

「先輩……?」

 

「あ、藤乃ちゃん。こんにちは、奇遇だね」

 

「こんにちは」

 

 先輩とは、実は病院で再会していた。織姫さんの病室の隣に、先輩のお友達だったシキさんも入院していた。

 

 織姫さんと同じく、ずっと眠ったままで。

 

 そんな奇妙な共通点からか、わたしたちがお友達になるのはそんなに難しいことではなかった。

 

「どうかしたんですか?」

 

「うん。ちょっと行きたいところがあって。この辺りのはずなんだけどね」

 

 そういう先輩が手にする地図には間違いなく橙子さんの事務所の場所が書かれている。

 

「……橙子さんに、ご用が?」

 

「藤乃ちゃん、ここの人の事を知ってるの?」

 

「はい。お世話になっている人ですから」

 

 でも橙子さんの事務所は人避けの結界というもので、用事のない人は入れない様になっていると教えられた。

 

 遠目から見ていたけれど、先輩は橙子さんの事務所の前を行ったり来たりしては首を傾げていた。

 

 場所はわかっているのに入れない。それは先輩が橙子さんに用事のない人であると見なされているからなのだろうか。

 

 しかし声を掛けてしまった手前、放っておくことも出来ない。何より先輩には助けて貰った借りがある。

 

 橙子さんに怒られるかもしれないけれど、それを承知で、わたしは先輩を橙子さんの事務所に案内した。

 

 そして先輩は橙子さんに働かせてくれと頼み込んで、橙子さんの事務所で働くことになった。

 

 その為に進学した大学も辞めるのに親と大喧嘩したと、先輩の妹さんにしてわたしの新しいお友達の鮮花から聞いた。

 

 人が良くて優しい人。それでいて真っ直ぐな事にはとことん真っ直ぐなところまで、先輩は織姫さんに似ていた。

 

 先輩を放っておけなかったのも、そんなところに織姫さんを重ねてしまったからだろう。

 

 ちなみに橙子さんからのお咎めはなかった。

 

 織姫さんのお見舞いの行きが先輩と一緒なら、帰りも一緒だった。

 

 橙子さんの事務所に帰ったところで、橙子さんが先輩に話を振った。

 

 話を聞くところ、二年前に交通事故に遭った先輩のお友達のシキさんはその後昏睡状態に陥り、生きてこそいるものの目覚める見込みはとても低い、と言われたらしい。

 

 それでも一年、二年とお見舞いを続けている内に様子がおかしい事に気づき始めた。

 

 彼女の成長が止まっている様に変わることがない。

 

 生きているのに成長が止まっている。

 

 全く同じことを、わたしは知っている。それは織姫さんに起きている出来事とまるで同じだった。

 

「成る程。成長しない生物は死んでいるものなんだがね。いや、時間というものは死人にさえ影響を及ぼす。死者も腐敗という時間の影響を受けて土に還る様にな。動くクセに成長しないなんていうのは、それこそ人形か何かだ。いや、人形にしても経年劣化という時間の軛から逃れることは出来ないか」

 

「でも、本当なんです。彼女はあれから歳を取っている様に見えない。式の様な原因不明の昏睡状態って、他に例はないんですか?」

 

「あるぞ。お前の隣に居る藤乃の知り合いにな」

 

「え!?」

 

 橙子さんの言葉に、先輩は驚きながらわたしを見た。

 

「もしかして、織姫くんも、そうなのかい…?」

 

「はい。ごめんなさい。こんなこと、普通じゃないですから。黙っていて」

 

 あまりにも普通で、普通を体現する先輩には織姫さんのその異常は話せなかった。話す必要はなかったし、話す切っ掛けもなかったともいう。互いにそんな普通でない事を軽々しく口に出来る様な常識知らずでもなかったのもあるのかもしれない。

 

「なんだ、織姫とも知り合いだったのか」

 

「はい。二年前に体育祭で。知り合ったと言うより一言二言会話しただけですが」

 

 二年前。体育祭のあの日を思い出す。確かに少しだけ先輩と織姫さんは会話を交わした。でもそれくらいで、あとは遠目に見た限りだ。

 

「……この場合、偶然、と言ってしまえるのなら楽なんだがな」

 

「え?」

 

「いや、こっちの話だ。取り敢えず話してみろ。どんな人間だったのか知らないと、返答のしようもないだろう?」

 

 きっと橙子さんは、少なくとも織姫さんについては何かを知っている様な素振りだった。

 

 もどかしい。やっぱりわたしは、織姫さんについて知らないことがまだまだ多かった。

 

 先輩が語り始めたシキさんの事。それは二年前にも聞いた事のある話のより深い内容だった。

 

 両儀式という友人の性格と、その特異な人格の在り方。

 

 高校時代のクラスメイト。

 

 入学する前から縁があったその彼女と同じクラスとなって友人となった。あまり友人を作りたがらない彼女と親しくしていたのは先輩だけだった。

 

 そして二年前に起きた通り魔事件以後、彼女に訪れる変化。

 

 二重人格である事を打ち明け、自分を人殺しだと言うようになったこと。

 

 それがどんな意味だったのか先輩にはわかることもなく、彼女は先輩の前で事故に遭った。

 

 すべてを話しきっている感じでもなく、それでも人となりを憶測するには充分だった。

 

 そして先輩のお友達のシキさんは、やっぱり織姫さんと、驚くほどに似通っていた。

 

「以上が僕と式の顛末です。もう、二年も前の話ですけど」

 

「――成る程。全く、出来すぎにも程があるな。ところで黒桐、その子の名前はどう書くんだ? 漢字で一文字だろう?」

 

「数式の「式」ですけど、それが何か?」

 

「「式」ね。名字は両儀か。織姫のやつ、だとしたらアイツも危ない橋を渡ったな。なんだコレは…」

 

 煙草を灰皿に押しつけると、橙子さんは立ち上がった。どこか怒っている様子で。

 

「病院は郊外だったな。興味が湧いたから、少しだけ様子を見てくる」

 

「あ、橙子さん…!」

 

 先輩の声も聞かずに橙子さんは事務所を出ていってしまった。

 

「どうかしたのかな。なんだか怒っていた様に見えたけど」

 

「わたしにも、なにがなんだか」

 

 でも橙子さんは何かに気づいた様子だった。きっとそれはわたしには無くて、橙子さんと織姫さんに共通している魔術に関係しているのかもしれない。

 

 そして数日後、織姫さんは目を覚ました……。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

伽藍の洞 Ⅱ

何も起きないとは言ったが、かなりぶっ飛んでる内容なので読み手を選ぶ話になってしまった。すまない。


 

 はじめに見えたものは天井。

 

 此処が病院であるのを理解するのは難しい事じゃなかった。

 

「二年…か…」

 

 随分と長い間、眠っていた。

 

 いや、「(わたし)」に言わせれば眠っていたのとは違う。ただ横になっていただけ。

 

 精神的には眠っていた。でも肉体は生きていたのだから、私は起きていたとも言える。二年間、外界を認識していた。

 

 でも、身体を動かすのは魂だから。私には肉体の使用権がない。普通の人は身体が勝手に自分の意思から外れて動くなんて事はしない。だから私も、身体を動かす権利が基本的にはない。

 

 でも、今は私の意思で身体を動かせる。

 

「起きたか、織姫……」

 

 時間は夜。とっくの昔に面会受付時間は過ぎている。でも彼女はさも当然の様にそこに居た。

 

「おはよう、橙子…」

 

「師をいきなり呼び捨てとはな。いや良い。私の憶測が正しければ今のお前は別の「何か」になっていると思うが。どうだ?」

 

「ええ。でも残念よ。私も境織姫だもの。両儀式を投影していたからとはいえ、別の何かにはなれない」

 

「そうか。それで、別の境織姫になったのなら、私の弟子はどうなった」

 

「わからないわ。私はただ肉体に宿された人格だもの。魂が何を考えていたのかはわからない。ただ私が私として表に出るはずのないものが出てしまっているのなら、魂の目論みは達成されているのかもしれない」

 

「そうか。近い内にまた来ることになる。余計な気は起こすなよ?」

 

 そう言って彼女は去っていった。余計な気。確かに余計な気かもしれない。

 

 私は肉体に宿った人格。魂のない私は理性なんてものがない。あるのは肉体の本能。人らしく見えて、人の皮を被っている化け物。

 

 私という存在を傷つけた相手に殺意を抱くのは普通のこと。

 

 人間は身体を傷つけられても、心が傷つけられなければ我慢が出来る。心が傷つけられても身体が傷つけられなければ我慢が出来る。

 

 ただ身体しかない私には我慢する為の心がないのだから我慢が出来ない。今は身体が満足に動かせないから我慢するしかないだけ。身体が動くのならば、きっと我慢することなんてしなかった。ただそれだけ。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 織姫は私の予想通りになっていた。

 

 あの日の晩。織姫は一度死んでいた。現代医学ではどうあっても手遅れだった。

 

 それでも私という人体に精通していて、それなりの腕を持っている魔術師が居たことは僥倖なのか、それともそれを見越していたのか。すべて織り込み済みだとしたら、恐ろしいやつだ。

 

 織姫には藤乃の血だけではなく、藤乃の命も分け与えた。もちろん藤乃には影響がない程度であるし、私も師として少しだけ分け与えた。あれで藤乃だけに分けさせたら今度は藤乃の命が危なかっただろう。

 

 それで一命を取り留めた。肉体の死は免れた。しかし精神の死は別だった。

 

 私の処置によって織姫は自身だけでは為し遂げられなかった陰陽の属性を補完したのだろう。男の命に女の命を取り込むという荒業だ。

 

 それで陰陽を満たし、両儀となった織姫は、死という道標に従って魂を遡る。一度行った場所だ。ここまでお膳立てしていれば辿り着けたはずだ。

 

 ただそこからへの帰りはどうするのか。

 

 「  」はすべての終わりにして始まりと言われている。

 

 終わりに向かったのなら、始まりに戻る事も可能だろうが……。

 

 私と会話した織姫はそうして生まれたものだろう。会話すら成立するかわからなかったが、境織姫として生まれたものならば肉体の経験として言葉を話せたのは頷ける。ただ産まれたばかりの存在だから判断基準もなにもないだろう。余計なことはしないようにと釘を刺したのもその為だ。

 

 でなければ今の織姫は何を仕出かすかわからない。

 

 根源接続者――自分達の存在と引き換えにしてそれを産み出したとするのなら、それは悲惨なことだ。

 

 そうでもしなければ抗えない「運命」という敵。境織姫では抗えない相手に抗う事の出来る存在を創る。織姫には創るものとしての才能が有ったわけだ。

 

 おそらく今の織姫に話したところでその手の会話は成立しないだろう。「  」へと接続しているから多少は賢いだろうが、今の織姫は赤ん坊も良いところだし、何よりも魂が違うのだから記憶の参照も出来ないだろう。

 

 根源への到達を諦めた私の手元に、根源にたどり着いた者が居るのも皮肉な話だな。

 

 知らないから両儀式は中途半端になってしまった。

 

 知っているから境織姫は完璧になってしまった。

 

 知っているのも困り果てたものだ。

 

「気分はどうだ、織姫」

 

「どうもしないわ。今日も、何も変わらない。私の身体はどこも悪くはないのに。検査の毎日でウンザリよ」

 

 両儀式のカウンセリングをする一方で、知人であるということで私は織姫のカウンセリングも受け持っている。

 

 なにしろ織姫は記憶喪失として扱われている。

 

 両親の名前も顔もわからない。そうした記憶は産まれたばかりの織姫にはないからだ。

 

 今の織姫が参照出来る記憶は、投影魔術を使うようになってから連続通り魔事件に巻き込まれるまで。

 

 投影した人格が体験していた記憶だけだそうだ。

 

 それは今まで境織姫を構成していた魂ではないのだから、織姫が築いてきた記憶を読み取れないのも仕方がないのだろう。

 

「しかし私はお前とも会っているから疑問にも思うんだ。どうして今のお前は女なんだ?」

 

「私は「両儀式」の投影よ? 境織姫であっても「両儀式」でもあるのだから、女であっても変ではないでしょう? まぁ、身体が男なのは少し不便ね」

 

 男の身体に女の存在を投影する。両儀へと至るためにしていた強力な自己暗示にまでなっていた投影魔術。

 

 本当に筋金入りのバカだった。

 

 ただそうすると、織姫が投影していた両儀式が何故男言葉を使っていたのかの疑問が埋められない。今の言い方からすれば、私が会っていた時にも女言葉でなければ辻褄が合わない。

 

「それもそうよ。両儀式であっても「両儀式」じゃなかったもの。「両儀式」になる為には両儀式になるしかなかった。たとえそれで自分が消えてしまうとしても」

 

 バカな子達でしょ? そう織姫は笑った。まるで愛しく慈しむ様に。

 

「だがそれならお前は両儀式になるはずじゃないのか?」

 

「それもちょっと違うわ。私は確かに「両儀式」の投影だけれど、私は境織姫だから、「境織姫」という形に落ち着いたとも言えるわ。実際、私は境織姫としての自意識を持っているもの」

 

 言葉遊びの様な言い方は要領を得ない。いずれにせよ、今の織姫は扱い方を間違えれば世界が破滅する爆弾なのは確かだ。

 

 「  」へと接続しているのなら、この世の終わりを創るのも、始まりを創るのも織姫の意のままだからだ。

 

「それよりも橙子。出来ることなら私か隣の娘の部屋を変えるのをオススメするわ。私は良いとしても、今のあの娘は私に引っ張られるのは良くないもの」

 

「どういうことだ?」

 

「あの娘は欠けてしまっているから。その欠けた部分に入り込もうとする輩が出てくるわ」

 

 織姫の隣の病室は両儀式の病室だ。そして壁越しに両者は頭を向かい合わせている。それは病室の構造上の偶然なのだろうが、そこまで出来すぎならいっそ作為的な物すら感じてしまう。

 

「なにか知っているのか?」

 

「いいえ。でもわかるのよ」

 

 そう言った織姫の眼の色が変わっていた。何を視ているのかはわからないが、何かを視たのだろう。

 

「わかった。だが部屋を直ぐに移すのは難しいな。となれば守護のルーンでも用意するか。……お前の方も必要か?」

 

「そうね。この身体はまだ満足には動けないから貰っておくわ」

 

 意外、と思いながらも、織姫の身体は普通の人間だった事を思い出す。根源に接続しているとはいえ、そう簡単には変わらないのだろう。あるいは変えることを本人が嫌っているか。あくまでも織姫の目的は藤乃の運命を変える事だった。なら、考えている程心配することはないのか。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 織姫さんが眼を覚ました。それを聞いて心の底から安堵し。そして記憶喪失だと聞かされて、暫く呆ける事しか出来なかった。

 

 織姫さんの様子を見て来た橙子さんから伝えられた織姫さんの現状。

 

 織姫さんが目覚めた事はとても嬉しいことなのに。

 

 嬉しさではなく、悲しさから、泣いてしまいそうだった。

 

 会う気なら覚悟しておけと橙子さんに言われながらも、霧絵さんにも会いに行くわたしは病院へは行かないという選択肢はなかった。

 

 病院へ行って先に霧絵さんに会おうと思ったものの、今日は調子があまりよろしくはないようで眠っているということだった。

 

 ここまで来てしまった手前、わたしはひとりで織姫さんと会うことを決めた。

 

 記憶喪失ということは、織姫さんはわたしの事も忘れてしまっているのだろうかという不安が胸を締め付ける。

 

 実際、織姫さんは両親の事を覚えてなかったという。

 

 人にとって一番身近な家族の事を忘れてしまった織姫さんが、わたしの事を覚えているという可能性は極めて低い。それこそ織姫さんにとってわたしはただの他人になってしまっているかもしれない。

 

 怖い。怖いけれど、このまま会わずにいる事をしたくはない。

 

 勇気を出して、わたしは織姫さんの病室のドアを叩いた。

 

「……どうぞ」

 

 二年振りに聞いた織姫さんの声は変わらず穏やかなものだった。

 

「そろそろ来る頃だと思っていたわ」

 

 ベッドで身を起こしていた織姫さんは、二年間で伸び続けた髪の毛のお陰で女性にしか見えない姿になっていた。そしてその穏やかな顔も声も、女性らしいと感じる。

 

 まるで織姫さんの中身が入れ替わってしまったように。確かに織姫さんであるのに織姫さんではない。そう感じるのだ。

 

「織姫さん、ですよね」

 

 病室を間違えてはいない。なら目の前に居るのは織姫さんなのに、どうして女性言葉を話すのだろう。

 

「ええ。まぁ、驚くのも無理はないでしょうね。でも私が境織姫なのは確かよ。といっても、私にある記憶は橙子の他にはあなたと霧絵だけ。私の生まれた後に関わった人間はたったそれだけだもの」

 

「わたしのこと、覚えているんですか…?」

 

「覚えている、か。記憶喪失にされてしまってはそうなってしまうけれど、別に記憶喪失というわけでもないわ。ただ、私にはそれだけしか記憶がないだけ」

 

 取り敢えず座りなさいと、織姫さんに薦められて椅子に座る。まじまじと織姫さんはわたしを頭から爪先まで見つめる。見た目は織姫さんなので、そんなに見つめられると恥ずかしくなってしまう。

 

「綺麗になったわね。こんな良い娘に好かれて、あの子達は幸せ者ね」

 

 まるで他人事の様に言う織姫さんは、慈しみを込めた笑みを浮かべていた。場違いにも綺麗だと思ってしまう。

 

「ごめんなさい。折角会いに来てくれても、あなたの知っている境織姫は此処には居ないの」

 

「……いえ。…覚悟は、してました……」

 

 嘘だ。目の前の織姫さんは、わたしを知っている様に言うけれど、わたしの知っている織姫さんではないと嫌でもわかってしまう。

 

「酷いでしょう? 私はあなたを知っている。でもそれはあなたにはなんの慰めにもならない」

 

「……織姫さんは、どこに…」

 

「わからないわ。私が居るからなのか、あの子達が居ないから私が居るのかも」

 

 俯くわたしに、織姫さんが手を伸ばして、わたしの手を包み込んでくれる。二年前に片腕をなくしてしまったから、片手の感触しかないけれど。その仕草も、手触りも、わたしの知っている織姫さんだった。でも、わたしの知っている織姫さんは此処には居ない。

 

「…もうここには来ない方が良いわ。思い出しても、辛くなるだけよ」

 

 織姫さんはそう言って、わたしから手を離そうとして。わたしはその手を握り返した。

 

「それでも、あなたが織姫さんなら、わたしのお友達であることに変わりはないですから…」

 

「私の話を聞いていたの?」

 

 手を取った織姫さんは、優しくわたしを否定した。

 

 でも、ここで織姫さんの手を離してしまったら、きっともう会えないと思ってしまったから。来週、織姫さんのお見舞いに来ても、織姫さんは退院してしまっていて、誰にも何も告げずに居なくなってしまって。きっとまた、血塗れで、何処かで見つかるのだろうと思ってしまったから。

 

「今の織姫さんだって、わたしの事を知っているのなら、わたしのお友達なんです」

 

「……ホント、暴走ダンプカーみたい」

 

「え…?」

 

「人の話を聞かないバカな娘ね、って言ったの」

 

 呆れた様子で溜め息を吐くのは、やっぱりわたしの知る織姫さんだった。

 

「そもそもどうしてあなたは私を受け入れるの? あなたからすれば、二年振りに会話した相手がいきなり女言葉で話してくるのよ? 普通、気味が悪いとか気持ち悪いとか関わりたくはないって思うものでしょう」

 

 批難がましくわたしを睨む織姫さん。

 

 わたしは織姫さんの言うようにバカなのかもしれない。

 

 というより、織姫さんはやっぱり織姫さんなのだ。織姫さんが言ったように、口調が変わっていても、織姫さんは織姫さんだった。

 

「だって。わたしは、藤乃は普通じゃないですから。ちょっとした普通じゃないことなんて、わたしには普通のことですから」

 

「………ホント、バカな娘」

 

 心底呆れたと言わんばかりに言葉を紡ぐ織姫さん。たとえどんなことを言われても、浅上藤乃が織姫さんを拒む事は有り得ないのだから。それを織姫さんだって知っているはずだ。もしそれを忘れてしまっているのなら、今この瞬間にまた覚えて貰えば良いだけだ。

 

「ふふ。はい。藤乃はバカな子です。でも、そんなバカな子にお友達になろうと言ったのは織姫さんなんですよ? なら、織姫さんはわたし以上にバカな人ってことですね」

 

「それは私が言った事じゃないから知らないわ。……でも、そうね。やっぱりダメね」

 

「織姫さん…?」

 

 織姫さんに手を引かれると、わたしはそのまま織姫さんの胸元に抱き寄せられていた。

 

「境織姫はあなたを愛していたのだもの。だからあなたを嫌いになることも、避けることも、離すことも出来ないの」

 

 織姫さんではなくても、織姫さんは織姫さんなのだから、やっぱり織姫さんだった。

 

「私にある記憶はほんの少ししかないけれど、それでも私にある境織姫の記憶には、あなたを愛している記憶しかない。それがどれだけあなたを傷つけるとわかっていても、私はあなたに対して負の感情を抱けない」

 

 織姫さんは独白を紡ぎながらわたしを抱く力を強くしていく。とても強くて、強くて、苦しくて。

 

 それでも、言葉と身体から織姫さんの想いが伝わってくる。

 

「執着はしない主義なのだけれど、やっぱり私も境織姫と自分を認識してしまった時点で、あなたに対しては境織姫の価値観に引っ張られてしまうようね。でもそれも仕方がないわ。私はあなたの為にあの子達が産み出した存在だもの」

 

「織姫さん…?」

 

「…ごめんなさい。いきなり色々と言われてもわからないでしょうね。でもそれで良いの。心配だったけれど、会ってしまえば何て事もなかった」

 

 身体を離した織姫さんは不安げに、それでもどうにか伝えようと、自身のない上目遣いはやっぱり織姫さんだった。

 

「もし良かったら、私とも、お友達になって欲しいの。ダメ、かしら……?」

 

 ガバッと、もう色々と我慢できなかった。それは卑怯すぎる。

 

「藤乃……?」

 

「もう。織姫さんは、どんな織姫さんも、織姫さんは酷い人です…」

 

 織姫さんに頼まれたら、わたしは、藤乃は、断れないのを知っていて、そんな事を言うのだから。

 

 押し倒した織姫さんを見下ろす。織姫さんは女の子の様にも見える人だった。気弱で臆病な人だった。

 

 でも、それでも男の子なんだと感じる芯の強さを持っていた。

 

 それを感じない今の織姫さんは、見た目通り女の子の様に儚くて。

 

 あぁ、こんな織姫さんをイジメたらどんな顔をしてくれるのだろうか。

 

「……忘れていたわ。あなた、見掛けは文学系に擬態する肉食動物だった」

 

「覚えているんですか…?」

 

「ええ。その手で、指で、舌で。散々この身体を犯して、汚して、壊して、貪って。仕方がないわね。猛獣の目の前に新鮮な肉を吊るして置くような事をしたのは私だもの」

 

 織姫さんを押し倒したわたしに腕を伸ばして、その腕は首にまわされた。

 

「でもここは病院よ? 誰かに聞かれてしまうかも」

 

「大丈夫ですよ。織姫さん、声を殺すのは得意でした」

 

「知っているわ。そう、私も境織姫。殺すことは得意よ?」

 

 そう、織姫さんは殺すことが得意なのだ。織姫さんはいつだって浅上藤乃を殺すのだ。

 

 見つめ合って、不敵に笑って見せる織姫さん。

 

「わたし、止まれないかもしれません…」

 

「そうね。私を壊したくて堪らないって顔になっているわ」

 

 織姫さんの手が、わたしの頬に触れて、細い親指が口許をなぞる。

 

 身体が段々と熱くなってくる。鼻ではなく、口で息をする様に荒くなっていく。

 

 それでもやっぱりここが病院であることが、最後の一線を踏み留まらせる。

 

「意外と我慢強いのね。それとも、私が女だから気になるのかしら」

 

「そうじゃ、ありませんよ…」

 

 織姫さんは織姫さんではない。でもやっぱり織姫さんだった。それをわかってしまったわたしは、たとえ目の前の織姫さんが女の人でも構わない。織姫さんを壊したいと思っているのがその証拠なのだから。

 

「ふふ。こんなことをするから、私は藤乃が言ったように、藤乃以上にバカなのかもしれないわね」

 

 そう言った織姫さんは、虚空に向かって、何かを裂く様に手を振った。

 

「何をしたんですか?」

 

 わたしは魔術に詳しくはないけれど、織姫さんが何かをしたのはわかった。だって、織姫さんの眼が蒼い光を放っているのだ。その眼を、同じ様な眼を、わたしも持っているから。

 

「私は殺す事が得意なの。特に私に降り掛かる「死」を視る事に長けているの。だから私に降り掛かる「死」を観測して殺したの。バレてしまったら、私も藤乃も、社会的に「死んで」しまうでしょう?」

 

 なんてデタラメな人なんだろう。昔から何処か遠くへ行ってしまいそうな眼をしていた織姫さんだけれど、文字通り遠いところに行ってしまった。

 

「置いて行かれた気分です……」

 

「解釈の差よ。あなたの眼も、あなたの解釈次第で出来ることは山程あるの」

 

 そう言って、織姫さんはわたしから眼鏡を取ってしまった。

 

「さっきのこと。織姫さんは未来を殺した様にも聞こえるんですけど」

 

「それが私の「死」に関わるものだからよ」

 

「とんでもない屁理屈を聞いた気分です」

 

「別に止めても良いのよ?」

 

「いいえ。止めません」

 

 お友達になったばかりでこんなことをするなんて。それはとてもいけないことだとわかっている。

 

 でも相手は織姫さんなのだから仕方がない。織姫さんでなくとも織姫さんなのだから。

 

 浅上藤乃は、織姫さんのすべてを愛しいと想っているのだから。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

伽藍の洞 Ⅲ

そろそろタグに原作知識必須と入れた方が良い感じがしてきた。今更だって?

まぁ、こんなニッチな需要しかない小説読んでる読者の方々なら原作知識持ってると思いますが、やっぱりはじめて空の境界に触れる人とかいるのかしら?


 睡眠を必要としない私は病室を眺めていた。人は眠っていても起きているもの。身体さえ眠ってしまうものは即ち死である。だから私は眠りたくても眠ることが出来ない。

 

 夜の病院は、まるで死の静寂の様に寒いと感じてしまう。死というものに最も近いからそう思うのかもしれない。

 

 それとも、死の気配を持つものが近くを彷徨いているからだろうか。

 

 床に白い(もや)の様なものが立ち込めていた。

 

 その靄は人の形をしていた。半透明の白い姿はまるでクラゲの様だと思ってしまう。

 

 欠けた両儀式の方だけではなく、空っぽの私の方にまでやって来た。

 

 そう。私は空っぽ。本来在るべき魂のない私は、肉体という器だけの存在。

 

 だから私の方にも来るのは当たり前だった。

 

 幽霊が視える様になっている私の眼だからハッキリと写る白い霊。己の形もなく、ただの霊魂として存在するもの。

 

「でも残念ね。この(カラダ)は、誰にも譲る気はないの」

 

 手を伸ばそうとする幽霊の目の前でルーンを切る。

 

 害はあるだろう。けれど、「死」が視えないのなら直接的に私に「死」をもたらす存在ではないということだ。その気になれば殺せるけれど、「死」を「視る」というのは少し疲れる。勝手に視えてしまうものと、意図的に視るのとでは負担の掛かり方が違う。

 

 守護のルーンによって弾かれた幽霊は幻の様に消えていった。

 

 「死」が視えないのなら、追い払うだけで充分だ。

 

 朝がやって来れば靄も消えた。

 

 病室から見える夜明けに眼を向けながら、また検査続きの憂鬱な1日が始まるのだと溜め息を吐いた。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 目覚めてから記憶喪失……診断的には記憶障害という事になるか。

 

 断片的に記憶を持っているから記憶障害と診断されているが、私から言わせればやはり記憶喪失だ。

 

 投影魔術を使い始めるより以前の記憶が丸々思い出せないと言うのだから、それは思い出せない障害ではなく、喪失していると言う方が正しい。

 

 両親には酷な話だろう。

 

 織姫が伽藍の堂に転がり込んでから通り魔事件に巻き込まれるまで、私は織姫を預かっている手前、報告義務があったから月に何度か織姫の両親と連絡は取り合っていた。ただ魔術に傾倒していた織姫は半年間の間両親と顔合わせする事もしなかった。

 

 非情、というよりも、余裕がなかった、と言うべきか。

 

 あの頃の織姫は、気を張り詰めていたし、少しでも手札を増やそうとより魔術の習得に躍起になっていた。

 

 だから半年間の記憶の中に両親との思い出はない。今の織姫にとっては両親は本当に赤の他人だった。

 

 見舞いに来た両親と入れ違いで、私は織姫の病室に入る。

 

「ご苦労さん」

 

「疲れたわ…。両親と言っても、口調ひとつで自分の子供を受け入れられなくなるものなのかしら」

 

 織姫の両親が織姫に会いに来たのは2度目だった。一度目は目覚めたばかりでそれほど時間は長くなかった。それに織姫が両親を覚えてないと言うことで記憶喪失が発覚したのもこの時だった。

 

「人間は一度認識したものを変えるというのも難しい。徐々に変化するのならともかく、十数年息子として受け入れて育ててきた子供が、いきなり女言葉で喋り始めたら認識と事実の摩擦が起きてしまう事は仕方のないことだ。それが普通の常識の中で生きる人間の限界とも言える」

 

「なら、橙子はともかく、藤乃はやっぱり普通じゃないわね。もしくは難しく考えないおバカさんなのか」

 

 たとえどうあっても、境織姫は浅上藤乃の肯定者であることに変わりはなかった。

 

 藤乃のことを呆れたように、しかし愛し気に口にしていた。

 

「どちらでもあるが。まぁ、あの娘の場合は後者の比率が高いだろうな。というより、私ならともかくとはなんだ? これでも充分驚いた方だと思うぞ」

 

「それでも橙子は私を受け入れているでしょう」

 

「偶々そうした知識に富んでいただけさ。そうでなければ早々受け入れられなかったと思うが」

 

 これでも魔法使いの家系に生まれ、魔法使いとなる為の教育を受けていた身だ。

 

 根源を目指すのは何処の家の魔術師もそうだが、私の場合は人の形を用いてそこへ至ろうとした。

 

 だから人の在り方というものに明るかっただけだ。

 

「だからよ。私は橙子に拒絶される方が、記憶に無い親に拒絶されるよりも堪えてしまうわ」

 

 薄情者、とは言えない。それは織姫の実情を知らない人間の見解だ。

 

 薄情とは正反対の厚情を織姫は持っている。

 

 織姫にとって他人などどうでも良いのだ。しかし懐に入れている相手にはとことん甘い。

 

 そんなところまで魔術師然としているとは。何処かで生まれを間違えてしまったのではないかと思える程だ。

 

「ところで、ハサミは持ってきてくれたのかしら?」

 

「お前は大人しくしていたからな。許可が下りた。だが何に使う気だ。生け花でもするつもりか?」

 

「まさか。髪の毛を切りたいのよ」

 

 まったく、こんなところまで似ていなくとも良いだろうとは思うが。今の織姫は両儀式でもあるのだから思考が似るのも当たり前の事か。

 

 先程両儀式と交わした会話の焼き直しの様に、しかし違うのは目覚めてすぐに自分の眼を潰した等という奇行に走った両儀式と違って、記憶喪失であっても終始大人しかった織姫の差か。織姫のもとへはハサミを持ち込めた。

 

「それなら美容師でも呼べば良いだろう」

 

「嫌よ。他人には触れられたくないもの」

 

「だから自分でやるつもりだったのか?」

 

「そうしたいけど、片手じゃ満足に出来ないわ」

 

 二年前に片腕を失った織姫。身体の欠損は境織姫という存在の欠損だ。私にとってはそこを埋めるのも簡単だが、しかしどれだけ眠っているかわからなかったから義肢を取り付けはしなかった。

 

「……私に切れと言う気か?」

 

「得意でしょ? そういうの」

 

 そう不敵に、挑発する様に織姫は言った。

 

 確かに人形を手掛ける傍らでそうした技術も持っている。でなければ人形の髪型さえ整えられない。

 

「期待してるわ、人形師さん」

 

「良いだろう。だが文句は受け付けんぞ」

 

 それを聞いた織姫は満足気に笑って、ベッドから椅子に座り直した。

 

 根源への到達を諦めていた私が、その器の完成に手を出している。どうして中々、この世は残酷だ。いや、諦めた私だから委ねられているのか。

 

 髪を切っている間の織姫は、それこそ人形の様だった。中身の無い殻。人として生きているわけではなく、あくまでも今の織姫は浅上藤乃の運命を変えるために産み出された道具だということか。

 

 そこまでする程の覚悟があった。だが織姫、お前が私に言った浅上藤乃の宿命をも背負うと宣った言葉は嘘だったのか。

 

 境織姫が浅上藤乃の宿命を背負うという意味でこれを成したのなら、お前はとんだ大バカ者だ。

 

「出来たぞ…」

 

「ええ。良い感じ。ありがとう、橙子」

 

 思考はなく、感性に任せたカットは、大半は肩口で切り揃えた。だが一部は切らずにそのままにしておいた。

 

 以前の男としての織姫と、今の女としての織姫の両者の同居。テーマとしても自然にそうさせる程、今の織姫は陰陽を彷彿とさせるのか。

 

 全体的には短くしたが、一部だけはそのままというアンバランスさはしかし、それで正解なのだと思わせる。

 

「あとは腕ね。どうにかなる?」

 

「……退院祝いだ。それくらいは都合しよう」

 

 そうして織姫は完成するのだろう。その存在意義を果たすために行動を始めるのだろう。

 

 今ならばまだ止められるのだろうが、そうしたところで、不完全であっても織姫は動く。宿命からは逃れられない。今の織姫の宿命は、浅上藤乃の運命ないし宿命の回避。それが織姫の悲願でもあった。

 

 これは境織姫の戦いであるから私はただの端役だ。だが、その戦いを見届けるのが、弟子に対するせめてもの手向けか。

 

「入り口の近くにルーンを刻んだ石を置いておく。雑魂程度ならば追い払える」

 

「ようやく、静かな夜を過ごせそうね」

 

 胸を撫で下ろす、とまではいかないが、煩わしいものから解放された様に織姫は言った。

 

 今の両儀式が極上の器である様に、織姫も極上の器だ。中身の無い殻なのだから。

 

 しかし両者の違いは、両儀式に生としての実感がないのなら、織姫にはそれがある。少なくとも浅上藤乃の為に生きるという意思が織姫にはあるはずだ。そう望まれて生まれたのだから、そうしたように生きるしかないのだとしてもだ。

 

 同じ様でいて、しかし正反対か。

 

「橙子…」

 

「ん?」

 

「動きがあるとすれば今夜か明日の夜よ」

 

「なにか「視た」のか?」

 

 呼び止められ、織姫を振り向いた。

 

 私が織姫に施した霊視の魔眼。その名の通り、精々幽霊が見える程度の物だ。しかし「  」へと接続している今の織姫であれば、その魔眼を下地にどんなものでも「視る」事が出来るだろう。

 

「いいえ。でもそれは、あなたにもわかることでしょう?」

 

 そんな思わせ振りな台詞を言う織姫。だがその通りだ。

 

 雑念は普通なら何かに干渉出来る強い存在ではない。そこまでの干渉を持つ存在ともなれば、それは雑念ではなく別の存在だ。

 

 簡単な例を挙げるのなら悪霊がそうだ。

 

 他者に干渉出来るほどの、未練と言う強い念を抱いた存在だ。

 

 そうした存在の痕跡は今のところこの病院には存在しない。

 

 だがこうも雑念が多ければ、それが寄り集まる事もするだろう。

 

 死んだあとも残ってしまった魂の欠片。欠片なのだから自らを補おうとひとつになって行き、そうした果てに幽霊となる。意思は既に死んでいるが、本能だけは残っている。以前の自分に戻りたい。人間の体が欲しいと。

 

 織姫は自己という殻を持っているから憑りつかれる事はないが、自己が曖昧になっている両儀式はそうも言ってはいられない。

 

「わかった。だがどうしてそれを私に伝える必要がある」

 

「私には必要無いけれど、あの娘には必要な事だから」

 

 自分には必要ないと織姫は言った。この場合のあの娘とは先ず両儀式の事だろう。投影しているからそうなのか、或いはもっと別の所で繋がりがあるのか。それともこの二人が陰陽の存在だからなのか。

 

「私を便利屋かなにかと思っていないか? そこまでする義理は、私にはないな」

 

 そう言い捨てて、私は織姫の病室を出る。

 

 確かに義理はない。だが両儀式に何かあれば、折角雇った所員は悲しむだろう。そうした意味では義理が生じるのか。

 

 癪だが、放っては置けないか。

 

 織姫がそうである様に、両儀式も「  」へと至っている可能性が極めて高い。

 

 織姫を放って置けないのと同じで、両儀式も放って置けないのは同じだった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 橙子が置いていった御守りのお陰で静かな夜を過ごせた。

 

 朝の診察を経て、ようやく退院できる事を知らされた。

 

 丁度土曜日だから、また藤乃がお見舞いにやって来た。

 

「そうですか。退院出来るんですね」

 

 藤乃は私の退院を聞いてほっとしていた。

 

「退院したら、しばらくは橙子のもとに居るから、何かあったら電話しなさい。決して自分ひとりで来るなんてしちゃダメよ?」

 

「心配性ですね。わたし、そんな子供じゃないですよ?」

 

 藤乃はわかっていない。私は藤乃の事を子供扱いしているわけじゃない。ただひとりにさせるのが恐いだけだ。

 

「あなたはもう少し、自分を自覚しなさい」

 

 私が目覚めて藤乃がお見舞いに来てくれた日。私は「視て」しまったのだ。

 

 泣いている藤乃の事を。

 

 だから私は藤乃に忠告する。

 

 ひとりでなければ、きっと藤乃は大丈夫だから。

 

 退院する前に霧絵のもとを訪ねたものの、霧絵は眠ったまま起きて来ない。

 

 それも当たり前。今の霧絵の意識は、此処にはないのだから。

 

「霧絵さん、どうしてしまったんでしょう。折角織姫さんが目を覚ましたのに」

 

 藤乃の顔は暗い。私が目を覚ましたのと入れ代わる様に霧絵はこの1週間眠ったまま目を覚まさないのだ。

 

 

「大丈夫よ。今の彼女はただ飛んでいるだけだから…」

 

「織姫さん……」

 

 今の私に言えるのはそこまでだ。あとは退院したら迎えに行こう。

 

 視えてしまった「死」を殺すには、先ずは霧絵に帰ってきて貰わないとならない。

 

 退院は明日にして、藤乃はそのまま私と一緒にベッドの中で横になっている。

 

 私の知らない間に、藤乃はちょっとした魔術を行使する様になっていた。

 

 暗示をかけて自分が病室に居ることを誤魔化した。

 

「こうでもしないと、毎週織姫さんのお見舞いに来られませんでしたから」

 

「ホント、危ない娘ね…」

 

 何処の世界に、お見舞いに来るのに暗示の魔術を覚える人間が居るのか。…目の前に居た。

 

 昨日はやけに静かだったから、何かが起こるとしたら今夜だろう。だから藤乃には帰って欲しかったけれど、一緒に居たいと言われたら断ることなんて私には出来ない。

 

 深夜。藤乃を起こしてその時を待つ。

 

「いったい何が起こるんですか?」

 

「わからないわ。でもホラー映画とかに良くあることかもしれないけれど」

 

 病室のドアが開いて誰かが入ってきた。看護婦でもこんな深夜に患者の病室に入ってくる事は普通はしない。

 

 なら、普通ではない何かが入ってきたのだろう。

 

「これは…」

 

「ほら、ホラー映画に良くあるでしょう? 幽霊が死体に憑りついて死体を動かすとか」

 

「っ、(まが)れ!」

 

 飛び掛かろうとした死体に、藤乃は迷う事なく魔眼を使った。あらかじめ魔眼殺しは外していたから、藤乃は「視る」だけで良かった。

 

 藤乃の魔眼で脚を捻られた死体は床に膝を着くけれど、それだけでは止まらない。

 

「きゃっ」

 

 藤乃の肩を抱きながらベッドから抜け出す。死体はまるで獣のような四つん這いで空のベッドの上に飛び掛かった。

 

「どうして…。脚を壊したのに」

 

「生きていないから脚を壊した程度じゃ止まらないでしょうね。首を捻切っても無駄。あれは言ってしまえば人形なの。魂の無い器をただ動かしているだけ」

 

「なら、動かせないほど壊してしまえば良いんですね」

 

「ご明察」

 

 藤乃はバカな娘だけれど、馬鹿じゃない。ちゃんと頭が良くて察しが良い。でもバカなのだけれど。

 

「凶れっ」

 

 ベッドの上から飛び掛かってきた死体に向けて藤乃は、その死体の隅々まで捻れさせた。骨を砕き、肉が千切れる音が響く。

 

 まるで水を絞った雑巾の様だ。

 

「やりました…」

 

「お見事」

 

 人の形をしたものを壊したというのに、藤乃に動じた様子はない。

 

 ぼろ雑巾の様になった死体から白い靄のようなものが湧き出てくる。まるで幽体離脱の様に。……まるでと言うより文字通りの幽体離脱だった。使い物にならなくなった死体を捨てたのだから。

 

「あれが死体を動かしていた幽霊ですか」

 

「視えるの?」

 

「ええ。見えています」

 

 藤乃はその眼以外は普通の女の子だったはず。それでも見える程に幽霊の密度が高いのか。それとも魔眼を使っているから視えているのか。

 

「凶れ…!」

 

 幽霊に向けて魔眼を使う藤乃。緑と赤の螺旋が幽霊を捉える。しかしその螺旋は幽霊を素通りしてしまう。

 

「どうして…」

 

 藤乃の魔眼は藤乃が壊せないと思ったものは壊せない。壊したくても、普通、幽霊の壊しかたなんて知らないだろう。

 

 だから藤乃の魔眼は物質的な破壊力に優れていても、霊質的な破壊力に乏しい。

 

 わざわざ殺す必要もないけれど、それでまた新しい死体を手に入れて襲われても面倒だ。

 

「直死――」

 

 だから私が殺してあげよう。

 

 私の平穏を殺すというのなら、それは殺す対象となる。

 

 既に死んでいる幽霊に対して「死」は視え難い。それでも眼を凝らせば視える。存在の終焉を「死」として捉える。

 

 死の線――ではなく、死の点を、爪で突き刺す。魂の欠片を殺した所でまた欠片になってしまうのだから、幽霊となった概念そのものを殺す。

 

 すると幽霊は存在を殺されて霧散して逝った。

 

「はぁ……。やっぱり疲れるわ」

 

「終わった、んですか?」

 

「一先ずは、ね」

 

 しかし部屋が酷いことになってしまった。死体から溢れ出す血で床やベッドが汚れてしまって、とても横になれるような状態じゃない。

 

 窓際に立って外を見てみれば、誰かを担ぐ橙子の姿があった。

 

「もうじき隣の部屋に橙子が来るから、片付けを頼みましょうか」

 

「……ごめんなさい、織姫さん」

 

「謝る必要なんてないわ。藤乃は藤乃に出来ることをしてくれたでしょう」

 

「でも……」

 

 幽霊を壊せなかったのがそんなに落ち込む程だったか。と言うのは野暮。私もどうして藤乃がそんなに落ち込んでいるのかわからない程、鈍感でも唐変木でもない。

 

「見えていたのなら大丈夫よ。次は出来るわ」

 

「……はい」

 

 幽霊が死ぬのを見た藤乃になら、次は幽霊だろうと壊せるだろう。

 

 藤乃に橙子を呼んで貰って。部屋の惨状を見た橙子は口許をヒクつかせて、盛大な溜め息を吐いた。

 

「お前というやつは。もう少しスマートに出来ないのか?」

 

「「死」を視るのは疲れることなのよ橙子。それとも、病室まるごと吹き飛ばしても良かったのなら、次はそっちのやり方で対応するけれど?」

 

「やめろ。考えただけで気が滅入る」

 

 もう一度溜め息を吐いて、橙子は片付けを始めた。藤乃には私の杖代わりになって貰っている。

 

 諸々の片付けが終わった頃には朝になっていた。

 

 人を連れてくると一度戻っていった橙子。

 

 私は藤乃と一緒にベッドに座って肩を寄せ合って、朝日を見ていた。

 

「晴れそうですね。良い退院日よりです」

 

 柔らかい陽射しに照らされる藤乃の顔は、まるでそんな陽射しに融けてしまいそうな温かさを携えていた。

 

 そんなことはないというのに、藤乃の輪郭を確かめる様に私は藤乃の頬を撫でた。

 

「織姫さん…?」

 

 そんな私に小首を傾げる藤乃。

 

「なんでもないわ」

 

 時間というものは否応なく人を変えてしまう物だ。それは仕方のないことでもある。それでも変わらないものもある。

 

 それを確かめる様に、或いはそれが私にも向けられているものであると確める様に、私は藤乃に触れ続けた。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

境織姫

ふじのんがスーパーふじのんになっちゃったので痛覚残留が事実上消滅。

ちなみにいうと織姫の姿は「両儀式」の第三段階の姿(ちょっぴり髪の長さが足りていない)だから常にフルドライブ状態でヤバいのだ。でも生まれたばかりだから賢く見えてちょっとアーパーだったりする。アーパーじゃなかったら? それこそ姫アルクみたいにもっとヤバいんじゃないかなぁ。




 

 織姫を引き取り、早速私は織姫に義肢を取りつけた。

 

 魔術回路を仕込もうかと思ったが、余計な添え物は却って織姫を壊してしまうだろう。故に織姫の身体と遜色ない義肢を造った。

 

 人形作りというよりホムンクルスの領分だったが、それも仕方がないのだろう。

 

 今の織姫では人形の腕を取り付ける事すら受け付けないだろう。そういった意味では融通が利かないから面白味に欠けてしまうのが惜しい。

 

「どうだ。動かせるか?」

 

「ええ。少し痛いけれど」

 

 人造精製した(ホムンクルスの)腕は上手く受け付けてくれたようだ。そうでなければどうしようもなかったとも言う。まさか二年前の織姫の腕を回収出来るわけでもない。失った腕は探しても見つからなかったのだから。

 

「今は違和感を感じるかもしれんが、意識はなくとも二年間お前は片腕だった。その現実と認識の差が埋れば違和感も消える。痛みは繋いだ神経が馴染むまで我慢しろ」

 

 腕の稼働域を確かめる様に、少しでも違和感を埋め合わせる様に織姫は腕を動かしていた。

 

「良い感じね。礼を言うわ、橙子」

 

 自分が完成した事が嬉しいのか、織姫の表情は生き生きとしていた。

 

 そういう子供っぽい所は以前の面影がある。いくら変わろうとも織姫は境織姫なのだから、ふとした瞬間に以前の面影が見える。それは両親にとっては辛いことだろう。

 

 それを受け入れられるかはその人間の器量次第だ。

 

 或いは藤乃の様にバカ正直に真っ直ぐな人間くらいか。そもそも私は藤乃の方が今の織姫を拒絶すると思っていたが、盲目というよりも、そんな些細なことはどうでも良いと言わんばかりに織姫に構い倒していた。

 

 織姫を引き取ったと言うことは、当然として避けられないものがある。

 

「おはようございます、橙子さん」

 

「おはよう、黒桐」

 

 この伽藍の堂の職員、黒桐幹也との鉢合わせだ。

 

「おはよう、コクトー」

 

「うん。おはよう、織姫」

 

 ただ思ったよりもあっさりと二人は馴染んでしまった。

 

 馴染まないのは黒桐に付いて顔を出した式の方だろう。

 

 織姫は式を気にかけているが、式は織姫を疎んでいる。いや、黒桐と話していると今にも殺さんという勢いで睨んでいる。

 

 ちなみに黒桐が織姫を呼び捨てなのは本人の希望だ。そうでないとしっくり来ないのだとか。

 

 読みが同じだからややこしいが、不思議と織姫と式はそれを聞き間違える事をしない。自分が呼ばれているのかどうかという意識で判断していると織姫は言っていた。

 

 式からすれば織姫は完璧な「両儀式」であるから視界に収めたくもないだろう。だが、黒桐が取られまいかと心配で黒桐に付いてきてしまう。

 

 織姫は確かに両儀式の投影だが、根底の価値観は境織姫のものだし、本人は藤乃にぞっこんであるから、黒桐に向ける情は親愛の域を出ない。もしくは友情かそれくらいだ。黒桐にしても織姫は織姫と認識しているから心配は要らない。

 

 黒桐に言わせれば昔はそっくりだったらしいが、今なら見分けがつくから見間違いはしないと言っていた。

 

 それが見掛けか、或いは本質かまでは私の知るところではないが。

 

「でも凄いですね。これが義肢だなんて思えない。ちゃんと温かいし、手触りも人間のそれだし。橙子さん、医者としてもやって行けるんじゃないですか?」

 

 織姫の左手を取って触りながら言う黒桐。

 

 式が物凄い顔になっている。

 

 織姫は相変わらずニコニコしている。

 

 人間関係の複雑骨折でも見ている気分だ。

 

「橙子はその道では最も優れた技術を持つ人形師だもの。読んで字の如く、人の形を追い求めた果ての技術だから、こうも人そのものを造れるのよ」

 

「お前に言われてもあまり嬉しくはないがね」

 

 その気になれば腕の一本や二本自分で生やせるのだろうが、やはりどうにも織姫はそうした人間の範疇からの逸脱を拒んでいる節がある。かといって、物の死を視ることが人間の範疇に収まるかと言われたら疑問を持たざるを得ないが。

 

「幹也、喉乾いた」

 

「あ、うん。コーヒーで良いかい? 織姫も飲む?」

 

「ええ、いただくわ」

 

 コーヒーを準備するのに事務所の奥の部屋に黒桐が入ると、空気が剣呑とした物になる。

 

 一触即発。織姫が式に向けて少しでも敵意でも向けていればこの場で殺しあいでも始まっていただろう。

 

「なんなんだ、お前は」

 

「別になんでもないわ。私は私よ?」

 

「どうだか…」

 

 これに関しては織姫が完全に上手だった。というより、欠けてしまっている式が織姫に敵うはずがない。式のひとり相撲なのだから、織姫からすれば微笑ましいで済んでしまうのだろう。

 

 式は物事の奥を見つめられるはずだが、或いは今の織姫が雑じり気無しの「両儀式」だからこそここまで嫌っているのか。

 

 それとも、自分が手に入れられないものを持っているからか。

 

 いずれにせよ、今の式では逆立ちしても織姫には敵わない。取っ組み合いでもすれば式が勝つだろう。式の身体能力は織姫には無いものだ。

 

 だがそうした意味での優劣に意味はない。それを理解しているから式は織姫を見るとこうも攻撃的になるのだ。

 

 ただ黒桐に付いてきた式と違って、伽藍の堂で仕事のある黒桐と、昏睡するまでの約半年間とはいえ伽藍の堂を実質管理していた織姫は、同じ管理職として話す機会が多い。

 

 本人たちは仕事の話をしているだけなのに、和気藹々としているから式の不機嫌が加速する一方だ。

 

 中々愉しい光景を見れるから、コーヒーが旨い。

 

「私を見るな、式」

 

「ふん。トウコがあんなのを引き取るからだ。なんなんだ、あれ」

 

「引き取らざるを得ないさ。でなければ織姫には行き場がない。そもそも織姫は元々此処に住んでいたのだから、此処が織姫の居場所なのは当たり前だろう」

 

 そう。今の織姫にとっての居場所。家と呼べるのはこの伽藍の堂だ。血筋など関係なく、実感として魂の拠る辺となる原風景は此処なのだ。

 

「心配する事ないわ。あの子はもう拠り所としてる娘がちゃんと居るもの。あれはただ単に友達付き合いしてるだけよ」

 

 フォローを入れるという柄にもない事をするのに眼鏡を掛ける。なんだかんだ言って見ているのは面白いが、気が張り続けるのも落ち着けない。

 

「ならどうしてあいつは女なんだ。あいつ男だろ?」

 

 今の織姫が女であるとはいえ、式にまで女として認識されているというのなら、それはやはり両儀式の投影としては完璧だと言うことだ。

 

「それが今のあの子だもの。変えようがないわ」

 

 もしそれが変わるのだとしたら、それは織姫が役目を終えたという事だろう。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 境織姫――。

 

 二年前に1度だけ会った式にそっくりな後輩は、二年前とは別人になっていた。

 

 二年間の昏睡で織が居なくなってしまった式。

 

 藤乃ちゃんから聞いたけれど、織姫も二重人格だったらしい。そんなところまで似通っていた二人。

 

 式から織が居なくなってしまったように、織姫もなにかをなくしてしまったのだろうか。

 

 以前は普通の男の子だったのに、今はまるで女の子だ。

 

 どう接したら良いのか悩んで、結局女の子扱いに落ち着いた。でも距離感はどっちかというと男友達のそれに近い。まるで織を相手にしているかの様だった。

 

 女の子なのに男友達の距離感というのは中々難易度が高い。それでもそれは、織姫はそうした距離感なのだとわかれば難しい事じゃなかった。

 

 ただ織姫をいつも恐い顔で睨んでいる式が気掛かりだ。織姫は悪い子じゃないのに。

 

「最近はご機嫌斜めだね、式」

 

「うるさい」

 

 退院してから式は急に独り暮らしを始めた。だから、僕は仕事終わりに式を送り届ける。そんな道すがらの会話が出来ることが嬉しかった。式がちゃんと此処に居るのだと実感できるから。

 

「織姫の事、なんだか嫌ってるみたいだし。良い子だよ、あの子。きっと式とも仲良くなれると思うんだけど」

 

「鏡を相手にどう仲良くしろってんだ」

 

「鏡? 確かに二人とも見た目はそっくりだと思うけど、式と織姫はまるっきり別人じゃないか」

 

 確かに二年前の時、僕は織姫の事を式と間違えてしまったけれど、話してみてわかる。

 

 式は式で、織姫は織姫だ。そっくりでも、同じじゃない。

 

「お前にはわからないよ。アイツはオレだ。いや、オレよりもオレらしいんだ。だからオレは、アイツと仲良くなんてなれないし、したくない」

 

 それは二年振りに見た、他人嫌いの式の他人に対する拒絶だった。

 

 でも二年間眠り続けた式には、他人嫌いの事はつい昨日の事。つまり式にとってはいつも通りの事なんだ。

 

 どうしたもんかと悩んでしまう。

 

 僕の職場は織姫の家でもあるのだし、家の中で仕事中は部屋に籠っていてなんて言えるわけがない。仕事の邪魔をしている訳でもない。それでは織姫が可哀想だし、なによりそう言う権利は僕たちにはないわけだ。

 

 じゃあ式に家に居てと言うのかというと、それもやっぱり違う。

 

 何か切っ掛けがあれば。そう思っても良い案が思いつかなくて、一先ず二人の関係改善は保留にするしかなかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 境織姫――。

 

 はじめて目にした時の印象は衝撃。次いで嫌悪だった。

 

 自分の前に鏡でも置かれたかのようだった。いや、まさしく鏡だった。

 

 あれは両儀式(わたし)だ。

 

 でも、私には無いものを持っている。手に入れられないものを持っている。

 

 完璧な、欠けていない両儀式なのだ。

 

 でもおかしい。向こうは空っぽなのにどうして欠けていないのかがわからない。

 

 空なのに満ちているという矛盾。

 

 それがわからない。

 

 わからないし、わかりたくもない。わかってしまった時、きっと私はあれを殺したくなる。

 

 だから無視すれば良い。けれど、あれがアイツの隣に居るのが気に食わない。

 

 殺してやろうかとも思った。けれどダメだ。その時は私が殺される。欠けている私では敵わないのだと解ってしまう。

 

 だから遠目に睨みを利かせる事しか出来ないのが余計に腹立たしい。そんな負の循環をしているこちらと違って、まるでそれが子供の癇癪の様に感じている余裕のある笑みがまた苛立ちを助長させる。

 

 関わらなければ良いのに、そうすると負けたような気がして癪だから、また今日も幹也に付いていく。そして振り出しに戻る。

 

 馬鹿馬鹿しい。

 

 だからあれは嫌いだし、幹也に言ったように仲良くするつもりなんてない。頼まれてもお断りだ。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 完全なる(からだ)を手に入れた私は上機嫌だった。欠けていたものが戻って、完全な私になったのだから喜ばずにはいられない。

 

「驚きました。まさか織姫さんが訪ねてくるなんて」

 

 後先考えずに取り敢えず藤乃の学校に突撃する程度には喜んだ。

 

「ごめんなさい。でもあなたにいち早く伝えたかったの。とても次の土曜日なんて待てないわ」

 

 そのまま手を引っ張って学校から連れ出してしまう程度には喜んだ。

 

「ふーん。聞いた限りじゃ別の意味で想像出来なかったけど、本当に見た目は両儀式にそっくりなのね」

 

 そのままアーネンエルベに連れ込んでお茶する程度には喜んだ。何故かコクトーの妹の鮮花まで一緒に。

 

「でも藤乃の友達の織姫って男の人だったんじゃないの?」

 

「えーっと、それは、なんと言えば良いのか…」

 

 鮮花の疑問に藤乃はどう説明したものかと言葉を探している。藤乃はそんなことを気にする事もしないで私を受け入れてしまったから、やっぱりバカな娘だ。

 

「身体は男だけど、今は女というだけよ。前はちゃんと男だったけれど」

 

「つまり、オカマ…?」

 

「ふふっ。鮮花のそういう所はコクトーにそっくりね。そう真っ直ぐなところ、私は好きよ」

 

「いや、好きって言われても……」

 

 あの普通を体現しているコクトーの妹だからか、普通の一般論で返してくる。そういう普通な所は好ましかった。

 

「魔術を学んでまだ日が浅いから大丈夫でしょうけど、その常識を忘れないで。魔術はその常識から外れるものだから。どんなにそれが魅力的でも、自分の為に魔術を使ってしまってはダメ。兄弟子からの忠告よ」

 

「はぁ…。ん? どうして私が橙子さんの弟子だって知ってるの」

 

「私も橙子の弟子だから。言ったでしょ、兄弟子って。まぁ、コクトーを振り向かせたいからって理由で魔術に手を出すちょっとおバカさんなところが藤乃に似てるから、私も鮮花が好きなのかもね」

 

「橙子師ーーーっ!!」

 

 鮮花にとっては自分が魔術を学ぶ理由を師に暴露されていることが余程恥ずかしかったらしい。橙子の名前を叫んで頭を抱えて、テーブルに突っ伏した。

 

 好きな人の為に魔術を学ぶ。

 

 藤乃と鮮花が友達なのも納得が行く。似た者同士だから何処か波長が合うのかもしれない。

 

 私も人の事は言えないけれど。

 

 愉しいお茶の時間を過ごして、適当にショッピングを楽しんで、藤乃と鮮花を送り届けた帰り道。

 

 真っ直ぐ伽藍の堂に帰れば良いのに、私は夜の街を歩いていた。

 

 7月になってもう世間的には梅雨明けして夏が始まる夜。

 

 湿気を纏う空気はじめっとして重い。単衣の着物でも、少し暑い。

 

 礼園から歩いて帰ってきたからそれなりに良い時間になってしまっている。或いはそんな良い時間になるように歩きを選択したのか。

 

 どうしてこんなことをしているのか、私にはわからない。ただ、身体(わたし)がそうしたいと思ったからそうしただけだ。

 

 道路と道路が交わる十字路。

 

 その入り口には人影が立っている。

 

 私の後ろにも。四つ路だから、私は四人の人影に囲まれていた。

 

 街灯の陰になっているから顔はわからないけれど、目付きに理性はない。

 

 理性がない私だから、そうした理性のない輩を惹き込んでしまったのだろうか。

 

 人影たちは覚束無い足取り……ではなく、まるで獲物を狩る獣の群体の様に向かってくる。

 

「良いわ。今日の私は気分が良いの……」

 

 投影魔術で投影するものは剣だ。

 

 「両儀式」という剣を投影し、当然の様に手の中には一振りの刀が顕れた。

 

「剣式――」

 

 刀を構え、最初に躍り出た人影に向かって、私は煌めく刃を振り抜いた。

 

 刃が駆け抜けた軌跡を追うように鮮血が舞う。

 

 そこに感傷はない。あるのは、身体を動かすことの出来る躍動感だけだ。

 

 私は笑った。悦んだ。こんなにも生きているのだと実感できるのだから。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

境織姫 Ⅱ

ふじのんは大好きなのは当たり前だとして、鮮花も好きだし、霧絵も好き、橙子さんだって好き、幹也も好きで、式も好き、なら一人ずつお友達になれば問題ないよね!


 

 朝のニュースで殺人事件が報道された。

 

 こう言っては犠牲者に失礼だろう。でも、殺人事件の報道はそこまで珍しいものじゃない。月に1度、或いは週に1度は日本の何処かしらで殺人事件があったのだと報道される。

 

 ただそれが、この観布子市で起きた事だと知ると、僕の脳裏に過ぎるのは二年前の出来事だった。

 

 遺体は鋭い刃物の様なもので切断されてバラバラになっていたそうだ。

 

 いくつかの局では二年前の連続通り魔事件の再来なんじゃないかと煽り立てるところもあった。この二年間、観布子市を騒がせる殺人事件なんて起きていなかったからだろう。

 

 身仕度をして部屋を出ると、式が待っていて、なんだかほっとしてしまった。

 

「遅い…」

 

 そんな式はいつも通り不機嫌だった。

 

「おはよう、式。ごめん、ちょっとニュース観てて」

 

「ニュース…?」

 

 珍しく式が関心を寄せてきた。いや、僕も少し時間を忘れてそのニュースに関心を寄せていたからだろう。だからいつもより10分遅刻だ。

 

「殺人事件。駅の方の路地裏であったらしいよ。殺されたのは四人。犯人は今のところ不明。鋭い刃物で身体がバラバラにされていたらしいよ」

 

「ふーん…」

 

「いや、ふーんって。食いついた割に無関心じゃない?」

 

「別に。誰が誰を何人殺したって、オレには関係無いからさ」  

 

 確かに式の言うことは尤もだ。殺人事件だからといって、それは式には関係無いことだ。

 

「それよりさ。そんなどうでも良い理由でオレは待ちぼうけさせられたんだぜ? どうしようかな。今此処で殺人事件でも起こそうか?」

 

「あはは。ごめんなさい」

 

 こう言うときは素直に謝るに限る。ちょっと物騒だけれど、それは式なりの表現の仕方なんだろう。 

 

 そうだ。式には関係の無いことだ。

 

「殺人事件の事、そんなに気になるの?」

 

 事務所に出勤して、コーヒーを飲みながら書類整理をしている傍らで、織姫が僕にそう言ってきた。

 

「あはは。僕そんな分かりやすいかな?」

 

「事件のニュースが映っているテレビに、しきりに目を向けていれば誰にでもわかるわ」

 

 いくつものテレビが積み重なって置かれている階段下の目の前のテーブルで仕事をしていた僕の前に居る織姫だからわかってしまうのか。

 

 仕事をしている傍らで、僕は脇目に新しい情報がないかと気にしていた。

 

 確かにそれじゃあ、僕は事件の事が気になっていますと言っているようなものだった。

 

「そんなに気になるなら調べてくれば?」

 

「おい、トウコ…!」

 

 橙子さんの提案に、奥の部屋に行く階段の手摺に背中を預けていた式は、橙子さんを睨んだ。

 

「放っておいても勝手に調べに行ってしまうでしょう。心配なら付いていけば良いのに」

 

「うるさい……」

 

 今度は織姫に対しても、まるで唸り声が聞こえて来そうな顔を向けていた。どうして式はこうも織姫を嫌っているのか僕には見当が付かなかった。

 

「所員のプライベートにまで口を挟むつもりはないけれど。調べるのなら式か、都合が悪いのなら織姫を連れて行きなさい。別々の場所でならともかく、1度に四人も殺せる相手なら、幹也クンは出逢った瞬間に殺されてしまうわ」

 

 確かに。人を殺した相手なら1対1でも僕は殺されてしまうだろうけど、抵抗は出来るかもしれない。

 

 ただ、単純にその場で自分の四倍もの相手を殺せてしまうのなら、僕なんかは抵抗する暇なんてないだろう。

 

「私は大抵暇だから、声を掛けてくれれば付き合うわ」

 

「うん。ありがとう」

 

 式は学校への復学もあるし、もし式の都合がつかない時は織姫にお願いしようと思う。

 

 僕の方が歳上なんだけど、織姫も荒事は得意なのだとか。そりゃ、目の前でいくつもの人形を操って、その人形から火を出したり電気を出したりした光景を見せられたら、僕なんかよりも荒事は得意だと思ってしまう。

 

「ふん…」

 

 ただ今日は式に頼もうかな。そうじゃないと、この事務所で殺人事件が起きそうだ。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「しかし、殺人事件とはね。今時珍しいものでもなかろうに」

 

 タバコに火を点けながら呟く。

 

 確かに1度に四人は人目を引き易いだろうが。

 

「仕方がないわ。人は常識の中で生きるものだから非常識には惹かれてしまうもの。そんな非常識を軽く流せてしまうのは、それがその人間の常識である時か、その人も異常であるから。そうした意味では、コクトーは普通の反応ね」

 

「その割にはお前も気にしている様子だが?」

 

 常識が服を着て歩いている様な黒桐が殺人事件を気にするのも仕方がない。黒桐にはそうなるだけの背景を持っている。これがただの殺人事件なら、そんなことがあった程度で流せてしまうのだろうが、犯人も不明で複数人、しかもこの街で起こってしまった事だから黒桐も気にするのは仕方のないことだった。

 

 だが非常識が服を着ている様な織姫が殺人事件を気にするのは変だろう。先程の言い分なら、織姫は殺人事件を軽く流せてしまうはずだ。それとも、織姫にもそう気にするだけの理由があるのかだ。

 

「非ずものでも常識はあるわ。それすら無いものは、本能で生きている獣と同じよ」

 

 つまらないことを言わせるなと言わんばかりに、今の織姫にはトゲがあった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 仕事が終わったその足で、僕は殺人事件の現場に立ち寄った。と言っても、遠くから見る位だった。現場にはまだ警官が居たから仕方がない。

 

 現在わかっていることは、その殺された四人は市内の高校に通う学生。現場付近で夜遊びをしていた一団らしい。薬の売り買いにも手を染めていたとかで、ニュースキャスターにマイクを向けられた関係者が被害者の生前をそう語っていた。

 

 前日の夜。つまり殺された日の夜にも彼らは現場から少し離れた駅の近くで遊んでいるところを目撃されている。その時刻は八時。つまりそれ以降に殺された事になる。

 

 現場は人通りが少なくなる路地裏とはいえ、全くないわけでもない。それでも今のところ目撃者が居ないとなると、人通りが途絶える深夜に殺された可能性がある。

 

 遺体を見た人に話を聞けたところによると、頭と手足が切断されていたらしい。

 

 殺しただけでなく、そんな事までするのなら、確かにマスコミの言う二年前の連続通り魔事件の再来だと思ってしまう。

 

 ただ、刃物で人の首や手足を切るだなんて相当力が要る作業だろう。そんなことを四人分の労力を使ってやる理由がわからない。それこそ、自分はそんな事を出来るんだと示しているみたいだ。

 

 仕事上がりだからそこまで時間は掛けなかった。式を連れまわして夜遅くまで街を歩くのもどうかとも思ったからだ。

 

「幹也、今日は泊まっていけ」

 

「え? どうしたの、急に」

 

「いいから…」

 

 式をアパートまで送り届けると、有無を言わさずに部屋の中に引き込まれてしまった。

 

 式の様子は見てもわからないけれど、これは式なりに僕を心配してくれているのだろうか。

 

「うん。じゃあ、今日は泊まるよ」

 

 断っても明日が恐そうだから泊まることにする。

 

 ただ式の部屋は本当に寝泊まりするだけの部屋という感じで、ベッドと電話と冷蔵庫以外に部屋に持ち込まれた物はないという有り様だった。

 

 全く娯楽のない寂しい部屋に、これなら自分のアパートに式を連れていった方が良かったかと少し後悔した。

 

 式の部屋で一泊して翌日。

 

 昼過ぎに出社した事務所は少し大所帯だった。

 

 橙子さんと織姫が居るのは、この事務所兼自宅の住民だから当たり前として。

 

 そこに藤乃ちゃんが居るのは今日が土曜日だから自然な光景だった。

 

 そして、上京してきた我が妹の鮮花まで居る。

 

 鮮花は僕の知らないところで橙子さんと繋がりがあったらしい。

 

 そして藤乃ちゃんとも交友があった。鮮花が藤乃ちゃんも通っている礼園女学院に転入したのだから面識があっても不思議ではないが。世間は意外にも狭いと、まさか自分がそんな立場を経験するとは思わなかった。

 

「あ、おはよう兄さん! っと、なんで兄さんと一緒にいるのよ…」

 

「別に良いだろ。昨日泊まらせたから一緒に出てきただけだ」

 

「とまっ!? 兄さんどういうことですか!」

 

 僕が式の部屋に泊まったと式から聞かされると、鮮花は凄い形相で僕を見た。

 

「いやまぁ、昨日は帰りが遅かったから泊めて貰ったんだよ」

 

 取り敢えず嘘は言ってはいないと思う。式の部屋に着いたのも7時くらいだったし。

 

「おはよう、コクトー」

 

「おはようございます、先輩」

 

「うん。おはよう、織姫、藤乃ちゃん」

 

 テーブルの周りにあるイスに座っている織姫と藤乃ちゃんに挨拶をする。何やら織姫は何かしている様子で、その隣でその様子を藤乃ちゃんは見ているらしい。

 

 二人が並んでいる姿はこの事務所で目にするのも何度目かになるけれど、初めて見たときは昔と変わっていないことにほっとした。

 

「出来た…。鮮花!」

 

「なに? うわっ!?」

 

 事務所の入り口で式と何故か対峙している鮮花。昔からなんでか鮮花は式を苦手としている。

 

 そんな鮮花を織姫が呼ぶと、振り向いた鮮花の顔に何かが張りついた。

 

「プレゼントよ。持って行きなさい」

 

「これ、私の人形…? え、動くの!?」

 

「私は冠位人形師蒼崎橙子の弟子よ? 動く人形なんて珍しくもないでしょう」

 

 鮮花の顔に張りついたのは二頭身にデフォルメされた鮮花の人形だった。子供向けの可愛い人形なのに鮮花だとわかるのは、髪型とか着ている服が鮮花の物だからだろう。

 

 鮮花の手の内から抜け出して、他の動いている人形に加わっていった。この事務所の日常的な不思議な光景は、童話みたいに人形がひとりでに動いている所だ。

 

 それを作っているのは織姫で。他には橙子さんと藤乃ちゃんの人形もある。動いているところは見たことがないけれど、橙子さんの机には織姫の人形もあったりする。

 

「まぁ、動くのはこの伽藍の堂の中だけだ。外では魔力を込めない限り無闇矢鱈に動かんさ。……動かないよな?」

 

 と、そんな少し不安な事を言うのは橙子さんだった。確かにこの事務所でならこの光景は普通だけれど、外で人形が勝手に動いてしまったら、ファンタジーかホラーになってしまう。

 

 魔力とかファンタジーな言葉が飛び出してくるから、織姫の作る人形は橙子さんの人形と同じで普通じゃないらしい。

 

「それだと意味がないから、鮮花に渡した人形には魔力を貯蔵しておけるようにしておいたわ。動かしたい時は強く念じなさい。最近はなにかと物騒だもの。鮮花は可愛いのだから、万が一がないとも限らないでしょう。そんな人形でもお守りくらいにはなるわ」

 

「か、かわ、って、いや、まぁ、ありがとう…。貰っておくわ…」

 

 可愛いと言われたのが照れ臭いのか。ちょっとそっぽを向いたけれど、ちゃんとお礼は言えたみたいだ。

 

 式の事が苦手らしい鮮花だから少し心配だったけれど、織姫とは仲良くやっていけそうで安心した。

 

「えーっと、それって。その鮮花の人形も火を出したり電気を出したりするの?」

 

「ええ。でなければお守りの意味がないもの」

 

 織姫が指を振ると、鮮花の人形が僕のところにやって来て、右手から火を出した。火だから熱いとわかるのに人形は燃えないのが不思議だ。

 

 でもそんな勝手に動いて火を出す人形をお守りと言ってしまっても良いのか頭を悩ませた。お守りと言うよりホラー映画の呪いの人形じゃないよね?

 

「それよりどうだった。何かわかったか?」

 

「なにか調べごとですか?」

 

「殺人事件の事が気になるんですって」

 

「兄さん?」

 

「うっ」

 

 橙子さんの言葉に鮮花が訊ね、用件を織姫が話してしまうと、鮮花が僕を睨んできた。

 

「殺人事件を調べるなんて。兄さん、警察でもなければ探偵でもないでしょ。お願いですから、余り危ないことには首を突っ込まないでください!」

 

「ま、まぁ、うん。わかってるよ。でも式が居るから大丈夫だよ」

 

「なんでそこで式が出てくるんですか!」

 

 式の名前を出したことで鮮花の剣幕が増す。いや、僕にしても橙子さんに連れていけって言われただけだし。その理由はわからないけれど、橙子さんが言ったのだから意味はあるんだろう。

 

「きゃあああ!?!? な、なにするのよ織姫!!」

 

「ほら、私の腕から逃げられないくらいじゃ、コクトーは守れないわよ?」

 

 何故か織姫が鮮花を横抱き、いわゆるお姫様抱っこなるものを敢行した。いや、なんでさ。

 

「も、もう! そう言うことは藤乃にやってあげなさいよ! あと恥ずかしいから降ろしてっ」

 

「あら。藤乃にはもっと凄いことしてあげてるから良いのよ。ね? 藤乃」

 

「わ、わたしに訊かないで、ください……。…お姫様抱っこ……わたし、してもらったことないのに……」

 

「ほら見なさい! 藤乃落ち込んじゃったじゃないの!」

 

「あらあら。ちょっと陰のある藤乃も良いわね」

 

「こン、バカぁぁぁ!!」

 

 じたばたと暴れる鮮花を抱えたまま、織姫は藤乃ちゃんのもとに行くと、なにかを話して、そして藤乃ちゃんも立ち上がって事務所の出口に向かっていく。

 

「ちょっとお茶してくるわ」

 

「だから、もう、降ろして……。わかったから、参りましたから……」

 

「次は、その、わたしも良いですか……?」

 

「ふふっ。ええ、良いわよ」

 

「お土産よろしくねー」

 

 橙子さんにお土産を催促されながら、鮮花と藤乃ちゃんを連れて事務所を出ていく織姫は、最後に振り向いて僕に向かってウィンクして行った。

 

「ようやく静かになった」

 

 そう言って式は奥の部屋に行く階段の手摺に背中を預けた。まぁ、織姫のお陰で助かったのは事実かな。

 

「コーヒーがてら話を聞きましょうか。淹れてちょうだい」

 

「あ、はい。わかりました」

 

 鮮花にはまたあとでフォローを入れておくとして。僕はコーヒーを淹れたあと、橙子さんに昨日の時点でわかったことを伝える。

 

「なるほど。確かに態々死体をバラバラにするのは、それ自体が世間に対するメッセージになってしまう。二年前の連続通り魔事件と同じ様にな」

 

「でも。そうしてまでする意味はなんなんでしょうか。もし犯人が二年前の事件の犯人だとしたら、また自分が人殺しを始めたって態々警察に知らせる様なものですし」

 

「或いはそう思わせる意図があるかもしれんぞ? 二年前も今回も、犯人像なんてものは何一つない。確かに1度に四人は普通じゃないと思われるから、この土地の普通じゃない人殺しに結びつけてしまうのは仕方のない事だがね」

 

 橙子さんの言う通りだ。僕自身、そうして二年前の連続通り魔事件に結びつけようとしてしまっている。昨日は調べる時間も少なかったし、情報は全然出揃っていない。今回の事件と、二年前の事件を結びつけるなんてそれこそ根拠のない妄想の類いでしかない。

 

「式。今日も付き合って貰っても良いかな?」

 

「…まぁ、暇だしな。付き合ってやるよ」

 

 取り敢えず、また仕事終わりに調査だ。それで式が泊まっていけって言いそうなら、今度は僕のアパートに連れていこう。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「もう。せっかく幹也に会えたのに! どうして邪魔するのっ」

 

 アーネンエルベに着いた私たちは、というより鮮花が手当たり次第に注文し始めた。怒りを沈めるためにやけ食いするらしい。

 

「だからお詫びにこうして奢ってあげているじゃない」

 

「こんなことで私は騙されませんからね!」

 

 そう言いながらも鮮花はガツガツとケーキを平らげていく。鮮花を連れ出したのはなんとなくだった。強いて言うなら、彼女の為?

 

「もう織姫は私の敵よ! 両儀式だって。なんで『シキ』って名前は私の敵しか居ないの!」

 

「でも鮮花。式が強いのは本当の事よ? 今の鮮花が100人居ようが1000人居ようが勝てないわ」

 

「そんなこと…」

 

「あなたはまだまだ普通の女の子だもの。私に勝てない様なら、あの娘にも勝てないわ」

 

「そうは言っても。織姫は身体は男じゃない。力じゃ勝てないわよ。そんなの反則」

 

「確かに身体は男でも、あの娘の方が強いわ。普段なら」

 

「なんか含みのある言い方ね…」

 

 まだ魔術を習い始めたばかりの鮮花に、さてどう説明しようかとも悩むものの、実際に見せてしまう方が早い。

 

「そうね。鮮花はこのナイフをこの場で壊せる?」

 

 そう言って私は備え付けの食事用ナイフを鮮花に手渡した。

 

「それは……無理よ」

 

「まぁ、そうでしょうね。ちなみに私とあの娘と、藤乃はこの場でも壊せるわ。橙子も出来るでしょうね」

 

「うぅ…」

 

 ちょっと意地悪だったかもしれない。でもそれくらい分かりやすい方が実力が違うのだとわかって貰えるだろう。

 

「私とあの娘の能力は同じ。私達は物の「死」を視れるの」

 

 また別に取り出した食事用ナイフを手に取って、鮮花の手に持つ食事用ナイフと打ち合わせる。鉄同士が鳴らす音を聞いてもらったところで、鮮花の持つ食事用ナイフを殺す。

 

「うそ……。だって今…」

 

「鉄だけじゃないわ。この眼はありとあらゆる物を殺す事の出来る眼なの。ただの人間じゃ、まず太刀打ちは出来ない」

 

 殺した食事用ナイフを拾って、投影魔術で同じものを創り出す。この世で最も力の無駄遣いした気分だけれど、これなら鮮花も納得はするでしょう。この娘の常識はまだ一般人だから。

 

「だったら、織姫を倒せる様になれば、両儀式だって倒せるってわけね?」

 

「まぁ、そういう理屈になるでしょうけど。普通そこは諦めたりするものでしょう」

 

「お生憎さま。その程度で折れるほど、私が兄さんに向ける想いは安くはなくってよ。それに、織姫を通して両儀式の弱点だって知れるんだもの。私の邪魔をした敵を纏めて倒せる様になるんだから一石二鳥よ!」

 

 納得させるどころか焚き付けてしまった様子。藤乃とはまた別方向でこの娘もおバカさんなのだろうか。

 

「覚悟してなさい織姫! 先ずはあんたから倒してやるんだからっ」

 

 背中で炎でも燃えてそうな鮮花に指差し指名されてしまう。

 

「あの、鮮花…」

 

「なによ?」

 

「周りの皆さんが、驚いています…」

 

「ふえっ!?」

 

 途中からヒートアップし過ぎて今の鮮花は注目の的になっている。それに気づいた鮮花は顔を赤くさせるけれど後の祭り。

 

「も、もう! 織姫の所為で赤っ恥じゃないっ」

 

「ふふっ。鮮花は面白いわね」

 

「面白くない!」

 

「あぁ、だから鮮花、少し落ち着いて。織姫さんも煽らないで…」

 

「だって可愛いのだもの」

 

「あとで覚えてなさいよぉ…っ」

 

 喚く鮮花と、それを落ち着かせようとおろおろする藤乃。それを見て笑う私。

 

 中々騒がしくも楽しいお茶会はあっという間に過ぎて行く。

 

 鮮花を連れて1度事務所に戻って、鮮花には橙子へのお土産を持たせて私達は病院へ向かう。

 

 週に1度、霧絵のお見舞いに行くけれど、霧絵はまだ眠ったまま。飛んでいる霧絵を迎えに行かなければ戻って来ないのだろう。

 

 ただ、飛んでいる霧絵が何処に居るのかがわからない。でもこのままだと霧絵は死ぬ。

 

 冷たい地面に紅い華を咲かせて横たわる霧絵の姿が視えてしまったのだ。

 

 この眼で視えてしまった霧絵の終焉はそう遠くない内に実現してしまう。なにしろ終焉を視てしまう眼なのだから。

 

 だから私は霧絵を探して夜の街を歩く。

 

 霧絵が視た俯瞰の風景を探して。

 

 でも、それを邪魔する者が居るから。私はまた、剣を握った。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

境織姫 Ⅲ

待たせてました。


 

 また殺人事件が報道された。

 

 その手口から犯行は路地裏での殺人犯と同一とされている。

 

 いよいよもって、どの放送局も二年前の連続通り魔事件との関連性を騒ぎ始めた。

 

 ただ、僕はひとつ安心出来た事がある。今回の事件に、式は全く無関係だった事だ。

 

 昨日の夜は、式も僕の部屋に居たのだから。

 

 それが証明されただけでも、自分の中で無意識に張っていた肩が解れた。

 

 もしこれで式が事件に関わっていた、なんて言われた日には僕は自信を持って否定する事が出来る。

 

 だって式が僕の部屋に居るのに事件に関わるなんて、式がもう一人居ないと不可能なことだから。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「おはようございまーす。って、藤乃どうしたの?」

 

 事務所のドアが開いたことでわたしは椅子から腰を上げるけれど、相手が鮮花だとわかって中途半端な中腰で止まってしまう。

 

「おはよう鮮花。いやなに、お姫様が帰って来ないから落ち着かないだけさ」

 

「お姫様…ですか?」

 

 橙子さんのその言葉に鮮花はピンと来ない様子で首を傾げる。

 

 織姫さんがお姫様。

 

 そう通じるのは二年間織姫さんが眠り続けたのを待っていたわたしか、式さんを待っていた先輩だろう。

 

「もしかして、織姫が戻ってないってこと?」

 

 それでもわたしが落ち着かない所を見て、鮮花は思い至ったらしい。

 

「ええ。昨日、寝るまでは一緒だったのに。朝になったら居なくて……」

 

「ね、寝る前まで、一緒…?」

 

「なにかおかしかった?」

 

「いや。え? いやでも、えぇ…?」

 

 わたしが織姫さんと一緒に眠るのは特におかしな事ではないと思うのに、鮮花はそこが引っ掛かっている様子だった。

 

「まぁ、織姫の夜歩きは以前からの趣味の様なものだ。それに今の織姫を殺せる存在はこの世界にそうは居ない。だから安心しろ、と言うのも野暮か」

 

 橙子さんの言いたいことはわかる。織姫さんがわたしよりも強いなんてことも。

 

 それでも、心配になってしまうのは今のこの街は二年前の様に殺人事件が起こっているからだろう。

 

 きっと大丈夫だと自分を落ち着けようにも、あの日見た血塗れの織姫さんの姿を鮮烈に思い出して心配になってしまう。

 

「ちょっと藤乃。まさか…ちょっと」

 

 隣を過ぎるわたしを鮮花が呼び止める。でもわたしは止まらずに事務所のドアへと向かう。

 

 待っている方が賢明だとわかっている。でも、もう待っていられない。

 

「アイツに会ったら伝えておいてくれ。夜遊びも程々にしろ、とな」

 

「はい。わかりました」

 

「と、橙子さん、そこは止めて下さいよ!」

 

「止めたって無駄だろう。正面からなら私よりも藤乃の方が早い。私だって出来れば死にたくはないんだ」

 

 わたしの歪曲の魔眼は本当に「視る」だけで良い為、橙子さんが何かするよりもわたしの方が確実に早い。

 

 それは織姫さんも言っていた。わたしの魔眼の「視る」事で先んじる強さと、生じる弱点も。

 

 それでも最近は集中が要るけれど、集中すれば視えていないはずの場所も「視る」事が出来る。

 

 橙子さんには千里眼という物だと教えられ、多用すると視力を失うとも忠告されている。そもそも集中が要るから気軽には使えないけれど、透視能力と歪曲の魔眼の合わせ技は絶対に避ける事の出来ない破壊を約束してくれる。

 

 そう。相手が幽霊でもなければわたしに壊せないものは存在しない。だからわたしはひとりでも心配は要らない。

 

 それでもわたしの数少ないお友達の鮮花は、折角橙子さんから魔術を教わる予定であったのに、わたしに付いてきた。

 

「私の用事はいつでも済ませられるけど、それで藤乃になにかあったんじゃ、友達の名折れよ。だから早く織姫を見つけて、今日の分の遅れを取り戻す為に実験台になって貰うのよ!」

 

 勇み足でわたしの前を歩く鮮花の背中は逞しくて心強い。

 

 そして同時に、そんな気の優しく面倒見の良いところが先輩と兄妹なのだと思わされる。

 

 きっと先輩が事務所に居れば、鮮花の様に自分を手伝ってくれただろう。

 

 ただ女子二人で人探しというのは不安がないわけではない。

 

 魔術を習っているとはいえ、鮮花はまだまだ普通の女の子。

 

 いざとなったら鮮花はわたしが守らなければと気合いを入れる。

 

「それでだけど、藤乃は織姫が行きそうな場所に心当たりってあるの?」

 

「そう、ね……」

 

 織姫さんが行きそうな場所と考えてみて。思いついたのはアーネンエルベか病院、あとは住んでいる家でもある橙子さんの事務所、とても低い可能性として織姫さんの実家だった。今の織姫さんは以前の記憶がないのだから、織姫さんの実家は除外しても良いだろう。

 

 他に行きそうな場所となると、数少ない織姫さんの趣味の読書から書店だろうか。

 

 わたしが織姫さんを知らなさ過ぎるのか、それともそれだけ織姫さんの普段の行動範囲が狭すぎるのか。きっと後者だと思いたい。

 

 行きそうな場所の心当たりが少ないのは、織姫さんを探す上で探すべき候補地が絞り込めると前向きに捉えるべきか。

 

 そうでないと、藤乃は情けなさに泣いてしまいそうです。

 

「じゃあ取り敢えずアーネンエルベに行ってみましょ。あの子、身体は男だけど甘いもの大好きみたいだし。ひょっこり会えるかもしれないわよ?」

 

「ごめんなさい…」

 

 織姫さんと過ごした時間が一番長いわたしがあまりにも使えない情けなさに、鮮花に頭を下げることしか出来なかった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 お昼も兼ねて式を連れた僕はアーネンエルベに立ち寄っていた。

 

 事件に関しての調査を続けている内に観布子駅の方まで来てしまったからだ。

 

 殺人事件のおおよその犯行時刻は夜中の3時前後。詳しく調べてみて、最初の日に殺された彼等は現場近くで1時頃に目撃されている。そのあとは目撃されておらず、そして事件発覚となる。

 

 犯人像はまだ浮かび上がってこない。けれど、事件現場の周囲で、犯行時刻前後に着物姿の髪の長い女性が目撃されている。最初の現場の周囲でも12時頃に目撃されていた。昨日の事件現場の近くでも、2時頃に目撃されている。

 

 事件現場は離れているのに、2度に渡って同じ様な特徴の人物が目撃されている。

 

 僕にとっては着物を着た女性なんて言うのは見慣れたものだけれども、普通なら余り見慣れたものでもない。

 

 そして髪が長いという特徴。

 

 その時の僕の脳裏を掠めたのは、織姫の事だった。

 

 確かに織姫も式と同じく着物を普段着としている。少なくとも僕が知る限りの普段着は着物姿だ。そして後ろ髪は一房が腰辺りまでの長さがある。顔つきだって式とそっくりだから女の子に間違われるだろう。

 

 だからといって、事件現場周辺で目撃された着物姿の女性が織姫であるかなんて思うのは早計過ぎる。

 

 それでも嫌な予感がしたのは、アーネンエルベにやって来た鮮花と藤乃ちゃんから織姫が夜に出歩いていて、そして今日はまだ一度も姿を見せていないと知ってしまったからだろうか。

 

「取り敢えず織姫は僕らで探しておくから、藤乃ちゃんは鮮花と一緒に礼園に帰ること。今はこの街も物騒だからね」

 

「わかってはいます。でも…」

 

 居ても立ってもいられない。藤乃ちゃんの思いは僕にも理解できる事だった。でもそれで藤乃ちゃんに何かあっては織姫は悲しむし、僕も後悔するだろう。毎週1度は顔を合わせる生活を二年も続けていた女の子だ。それくらいの情は僕も持ち合わせている。

 

「頼んだよ、鮮花」

 

「はい。任せてください兄さん」

 

 あとは鮮花に任せる方が良いと判断して、僕は織姫を探すために腰を上げた。

 

 連続殺人に織姫が関係しているなんて思いたくはないけれど、事件現場周辺で目撃された女性の特徴は織姫のそれに当て嵌まってしまう。

 

 式とそっくりだからとは別にしても、髪の長い織姫はその顔立ちも相まって一目じゃ男だなんて見分けられないし、今は織姫は女の子で、仕草のそれも普通に女の子らしいから先ず男だなんて見られない。だから女性と勘違いされても仕方がない。勘違いとは違うか。今の織姫は女の子だから、そう認知されるのが当たり前だ。

 

「式は、織姫なら何処に行くと思う?」

 

「なんでオレに訊くんだ」

 

「いや、なんとなく」

 

 なんとなくというよりは、式なら知っていそうな気がしたからだ。

 

 此処に来るまでだって殺人事件の犯人を探すよりも、目撃されている着物姿の女性の足取りを追う方を重視していた。だけれど、その足取りは追え切れていない。どうしても途中で見失ってしまうのだ。

 

 その女性が織姫だとは限らないけれど、今は織姫を探す事に重点を置く。けれども僕は残念ながら織姫の事、織姫の私生活を良く知らない。

 

 だから式に訊いてみた。式からすればふざけているんじゃないかって思われるだろうけど、織姫の行動は本当に式と、織に良く似ているから。

 

「式が行きたいところに織姫も居るんじゃないかって思って」

 

「オレとアイツは別人だって、お前の中じゃそうなってたんじゃないのか?」

 

「うん。そうだけど、織姫の事をあまり知らない僕が宛もなく探し回るよりかは、考え方が似てる式の方が見つけられる確率が高いんじゃないかって思ったから」

 

 目撃情報で辿れるところまでは辿れても、一度途切れてしまうと中々足取りを掴むのは難しい。ホテル街を探してみたものの目撃情報はない。となると、織姫は昨晩何処にも泊まらずに夜を過ごしたということになる。最後の目撃情報は、昨夜の殺人事件が起こった近くの繁華街だった。夜の繁華街で、夜中ともなれば人通りなんてまばらで、闇に紛れてしまえば忽然と姿を消すことなんて難しい事でもない。同じ様な深夜で聞き込みをしても良いけれど、それまでの間、なにもしないでいると言うのも落ち着かない。

 

 藤乃ちゃんに代わって織姫を探すと約束したからだけじゃない。僕自身も、織姫に何かがあったのではないかと心配だから。見つけ出してなんともないという所を見て安心して、そしてそのあとは少しお説教だ。

 

「ま、良いぜ? こうなったらとことん連れ回してやるから覚悟しろよ」

 

「あはは。お手柔らかに」

 

 そう言ってニヒルに笑う式のあとに付いて歩き、結果、観布子市のあちこちを文字通り連れ回された。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 街も静まりかえる夜中。降り始めた雨。

 

 雨の夜──街灯の下。

 

 まるで一筋の月明かりに照らされる様にその場だけが闇の中で色彩を放っていた。暗闇を切り取ったその世界は常識を侵す異世界が広がっていた。

 

 着物を着る長髪の影。光に照されたその姿は、白く、蛇を思わせる細い輪郭。ともすれば女性だとしか思えない程に細々しい。だらりと下げられた右手に光るのは一振のナイフ。肩口まで伸びている髪はデタラメに切り揃えられているが、一房だけはそのまま腰辺りまで伸ばされていた。街灯の光を受けて煌めく色は金色で、着物を血で汚し、口許は紅を塗った様に紅く染まっていた。その光景を切り取ればまるで画の様な妖しい美しさがあった。しかしそんな美しさを全て台無しにするものがあった。

 

 その足元には人間の死体。四肢はなく傍に転がっていた。夏の湿った空気に乗って、噎せ返る様な生々しい血の匂いが運ばれていく。歩道に広がる血の海。そんな光景を見れば警察を呼ぶのが普通だろう。

 

 しかし、その光景を見た存在は、その普通の行動を取る人間では無かった。

 

「よぉ、待ってたぜ……」

 

 長髪の影が闇に向かって声を投げ掛けた。

 

 惨状が繰り広げられた街灯の隣の街灯の下に別の影が現れた。

 

「なんだよ。2年ぶりに会ったってのに、随分と寂しい反応じゃないか」

 

「私は貴方と世間話をする様な間柄になった覚えはないわ」

 

 新たに現れた影──織姫は街灯の下に照された血の池に佇む影の声にそう返した。自身を欠く事になった相手だからだろう。義肢の接合部が疼く。あの時の痛みがフラッシュバックして眉間に皺を寄せる。

 

「なんだかつまらないヤツになったな。俺はあの夜からお前の事を食べたくて食べたくて仕方がなかった。それでも我慢してお前が目覚めるのを待っていたのにっっ。なのになんだよそのザマは…。ふざけてんのか? あの夜、あの時のオマエはこんなつまらないヤツじゃなかった! 日常に足を置きながら非常識に外れた人間だったハズだ! 今のオマエはただの脱け殻みたいじゃないか!!」

 

 まるで大切な物を奪われたかのような慟哭にも似た怒声を響かせる血塗れた影。だが、織姫はそんな影を冷めた目で見ていた。そして、血塗れた影の言う様に、自分は脱け殻だと言うのも的を射ている。

 

 境織姫という人間が、己の存在と引き換えにして産み出した決戦存在。非常識を殺すために非日常でしか生きる事の出来ない非常識の徒。それが『境織姫』だ。

 

「剣式──」

 

 非常識を殺す為に産まれた織姫は、目の前の非常識を殺す為に刀を投影した。いや、その存在定義よりも先行する感情があった。肉体の人格である境織姫にとって個人の感情として、目の前の存在を赦してはおけなかった。自身を傷つけ、欠損させ、奪った本人を前にして、冷静でいられる自制心を、今の織姫は持ち合わせていない。自身の存在を引き千切って奪った目の前の獣を許すわけにはいかない。

 

 目の前の獣が自身を食べたくて堪らないというのなら、自分は目の前の獣を殺したくて堪らないのだ。その視線は獣を捉えながらもしかし、その手に光るナイフに向けられていた。そのナイフは2年前に自分が握っていた物だった。

 

 刀を構える織姫に対して、血塗れた影は──獣は、しかし獣らしからぬ落ち着いた様子で、今にも飛び出しかねない織姫を冷めた目で見ていた。

 

 耳に地面を水が打つ音が聞こえ始める。

 

 その音は次第に増え、数を増し、服や肌を濡らしていく。

 

 風が吹き、雷鳴が彼方で轟く。

 

 両者を照らすように迸る閃光を合図に、織姫は駆け出した。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

境織姫 Ⅳ

久し振り過ぎてお待たせいたしました。


 

 目を覚ました彼は、私の知っている彼ではなくなっていた。

 

 あの人の言っていた通りだった。

 

 父の友人であり、私の担当医でもあったあの人は、彼の担当医でもあった。だからあの人から彼の容態を聞くようになった。

 

 本当は毎日彼の容態を確認して傍に寄り添っていたかった。でも私の身体はそれを許してくれるほど丈夫でもない。自身を蝕むこの病が怨めしい。

 

 生に縋り付くようになってから再び感じるようになった己の病への怨嗟は募るばかりだった。

 

 そんなある時、私は視力を失った代わりにもうひとつの視界を得た。でも結局はこの病院の周りが見えるだけだった。

 

 そんな私に自由に動ける身体をあの人が与えてくれた。それからは毎日彼の病室で、彼の目覚めを待つことも苦にならなくなった。

 

 起きているよりも眠っている時間の方が長くなる。もうひとつの身体を動かすには意識をそっちへと集中するからだ。

 

 そんな生活が続いたある日、あの人から彼が目を覚ましても以前の彼ではなくなっているだろうと教えられた。

 

 彼が遠いところに行ってしまっているから、空の果てへと行ってしまったからだとあの人は言った。

 

 象徴的な言い回しは、その言葉の真意を読み取る事は私には適わなかった。

 

 どうすれば彼が戻ってくるのか訊いてみた。連れ戻せるかはわからない。ただ、彼が居る場所は空の果て、この世の終わりであり始まりの場所。そこへは簡単にはたどり着けないと言われた。

 

 それでも彼を連れ戻せるのならと、私はあの人と契約した。

 

 果てのない空を目指して、私は飛び(墜ち)続ける。

 

 そう。私の還る場所は彼のもと。彼の居ない場所に、意味なんてない。彼が居なければ、私は自分の生に執着なんて持てない。

 

 彼のお陰で、私は明日を生きたいと思える様になった。明日の目覚めを願う様になった。残り少ない自らの時間。その時間の中に彼に居て欲しかった。私が生きて居たという記憶を刻んで欲しかった。でも、その彼が居ないのなら……。

 

 この空の果てを、何処までも墜ち(飛び)続けよう。

 

 彼を見つけるために。

 

 撫でつける死すら私の行く手は阻めない。

 

 死は、私にとって最も身近なものだったから。

 

 だから死に囚われない。飛んでいる私を、死は捕まえる事は出来ない。だって私は浮いているから。

 

 死から浮かれ、そして生からも浮かぶ私は空虚の中でも死にもしなければ生きてもいない。

 

 生きながら死んでいる。死にながら生きている。

 

 半死半生という言葉には当て嵌まらない、生と死の両方から私は浮いているから。

 

 虚無──だから私はこの死が渦巻く空虚な場所でも存在出来ている。はじめからなにもないのだから失いもしない。それでも私は私として存在しているのは、今の私が虚無だから。

 

 自分をからっぽにするなんて簡単な事だ。彼に出逢うまで、私は中身のないからっぽだったのだから。からっぽに、なってしまったのだから。

 

 それを思えば、自分を(から)にすることなんて簡単な事だ。

 

 果てのない(そら)を、私は墜ちていく──。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「幹也、今日はもう帰れ」

 

「え?」

 

 式が突然、そんなことを言い出した。

 

「どうしたんだよ急に」

 

「別に。もう遅いだろ」

 

 確かにもうそれなりに良い時間にはなってきている。けれども、それを言うなら式だって帰らないと道理が通らない。式の言葉には明らかに自分の事は含まれていなかった。

 

 それに。目撃情報からも、織姫が出没するとしたら、今これからの夜が更ける時間帯に他ならない。

 

 藤乃ちゃんと織姫を見つけると約束した手前、帰れと言われて素直に帰るつもりはなかった。

 

「まだもう少し探してみるよ」

 

「お前なぁ。一応親切で言ってやってるんだぜ?」

 

 式の目が僕を睨み付けてくる。聞き分けの無い子供を叱りつけるかの様に。

 

「それに。帰るなら、式も一緒だ。でないと帰ってやらない」

 

 そう言ったのは、やっぱり僕自身あの時の事をまだ引き摺っているんだろう。

 

 3年前の連続殺人。

 

 式は誰も殺してなんかいない。今でもそう信じている。だから、今だって信じてる。でも、だからこそ、信じられる確信を持ちたいが為に式を縛ろうとする僕は、やっぱり心の何処かでは式の事を疑う最低なヤツなのかもしれない。

 

「お前は…。はぁ、どうなっても知らないからな」

 

 呆れたと言わんばかりに溜め息を吐いて、式はまた歩き出した。

 

 滅多に見られない式の気づかいをふいにしたから機嫌を悪くさせてしまっただろうか。

 

「ふっ…はは」

 

「なんだよ。急に笑い出して」

 

「いや、なんでもないよ」

 

「それ。なにかありますってヤツの返しだからな」

 

 どうして急に笑いが込み上げてきたのか。それは考えるまでもなかった。式が居てくれるという事にどうしようもない幸福感が込み上げてきたからだった。

 

 だからやっぱり、織姫もちゃんと探し出して連れて帰らないといけないなと強く思う。

 

 だって自分だけこう幸せな時間を過ごすのは、後輩であり似た者の想い人を持つ彼女に悪い気がするからだ。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 街灯が僅かに闇を照らす住宅街の路上。その明かりが時折過ぎ去る金髪を照らし出し、暗闇の中で光を反射する赤い瞳を映し出す。

 

 突き出されたナイフを弾く度に火花を散らす。その一瞬の火花が照らす表情は狂喜。

 

「どうしたんだよ境織姫ぃ~? そんなんじゃ俺は殺れないぜ?」

 

 あからさまな挑発に苛立つ己を噛み殺す。感情に任せた所で向こうの思う壺だ。

 

 理性など有していない己からすれば良く良く自制している方だと織姫は自賛する。

 

 本当ならば今すぐにでもこの煩い駄犬の喉笛を掻っ切り、二度とその口を利けなくしてやりたい衝動が腸を煮え繰りかえらせている。

 

 だが、その情動に身を任せた所で無意味である事を察していた。

 

 境織姫という存在の本能を司る「  」にとって、目の前の獣は相性が最悪に等しい存在だった。

 

 もはや野性と言ってしまって良いほどに人の枠組みから外れてしまっている目の前の獣。

 

 対して織姫は己を人の枠組みに収まらせておかなければならない。己が際限無く人の枠組みから溢れ出てしまった時、人理さえ破壊してしまうケモノに成りかねないからだ。

 

 荒耶宗蓮を殺すために生まれた織姫は、その荒耶宗蓮を殺す時だけ存分に力を振るうことが許される。故に今の織姫は枷を嵌められた状態とも言える。

 

 『両儀式』を投影しているからこそ、手に入れた強さと枷。

 

 両儀式であれば問題なく殺すことが容易かろうと、織姫にとっては意識で捉える事は叶っても身体がついていかない。両儀式を投影していても、境織姫はただの人間だったのだから。 

 

「あの日の夜みたいに、俺の腕を切り落とした時みたいに、お前自身の殺意ってヤツを見せてみろよォ!」

 

「くっ」

 

 刀とナイフ、間合いの差は此方に分があっても、速さという面では彼方にある。肉を切らせて骨を断つなどという戦法を取った瞬間、喉笛を掻っ切られるのは此方だ。

 

 そこらの幽霊や不良崩れが相手ならば軽くあしらえても、本物が相手となるとスペックの差が露呈する。さらに目の前の獣は己のフィジカルを最大限、或いはそれを超越した領域で発揮し、さらにはそれをなんら苦もなく使いこなしている。人の領分から外れ、己の起源を最も反映させやすい形で身体を駆使するその様は、歪ながらも見事という他ない。

 

 ナイフの一閃は牙の一撃。ナイフの軌道を見切ろうとも、目の前の獣はその手に伸びる人の爪で此方の肌を服の上から裂くという離れ業を披露してくれる。

 

 皮膚を裂いて爪と指に付着した血を味わう様に舐め取る所作に生物的な嫌悪感を抱く。

 

 それもそうだろう。人が人の血を悦んで舐めるなど異常の極みだ。

 

 これが吸血鬼ならばまだ話が通じるだろう。なにしろ彼ら吸血鬼は血を吸う化け物というのが人間の抱く常識だ。

 

 ならば目の前の獣は吸血鬼の類いなのか?

 

 そんな扱いをした日には世の中の吸血鬼に失礼だろう。目の前の獣は間違いなく人間だ。人間であるからこそよりバケモノなのだ。血を好む獣の様な人間などバケモノと呼ぶ他に何と呼ぶか。

 

 だからこそ悍ましいものとして目の前の獣の行動が人としての常識に対する摩擦から嫌悪感を生み出すのだ。

 

「なんだよその眼はよぉ…。前のお前はそんな自分は普通の側の人間です、貴方は人から外れた異常者ですって涼しい顔をするつれないヤツじゃなかっただろぉ?」

 

「煩い…」

 

 互いに刃を交差させた向こうにある瞳を射貫く。本能が剥き出しのギラついた赤い瞳が織姫を映し出し、その映し出された織姫の瞳にも獣の姿が写し出されていた。

 

「窮屈なんだろぉ? 息苦しいんだろぉ? なんで我慢する必要があるんだ? 殺したくて殺したくて仕方がないって顔に書いてあるクセに、何をいったい我慢してるんだよ。昨日だってそうだ。人を斬るのが愉しいくせにどうして殺さないんだよ!!」

 

「私は…っ、違う!!」

 

 ナイフを弾いて、返す刀で獣を切り伏せようとする。

 

 だが獣は弾かれたナイフには目もくれずに間合いの内側に入って刀の一閃を躱す。

 

「うっ」

 

 全身の筋肉を無理やり動かして上体を反らせば、そこへ向けて抜き手を放つ獣の爪が胸元の服を切り裂いていく。

 

 それを見送る間も無く、身体を足蹴にされて地面を転がる。

 

「あーぁ、あーあーあ゛あ゛あ゛、ったく。お前ってヤツはさぁ。折角楽しめる仲間を見つけたと思ったのにコレだ。それともアレか? お前も両儀と同じで、お前を縛りつける元凶を殺らないとダメってことか?」

 

 いま、コイツはなんて言った?

 

 私を縛りつける元凶?

 

 私が人でいる理由?

 

 それはケモノへと堕ちない為?

 

 違う──。

 

 私が人でいる理由?

 

 それは私が私でいる理由。

 

 荒耶宗蓮を殺すため?

 

 違う──。

 

 境織姫が境織姫として存在する理由などひとつでしかない。

 

「誰が……」

 

「なっ!?」

 

「誰を殺すって…?」

 

 それは一瞬の出来事だった。

 

 目にも止まらぬ一閃。それを成したのは織姫の握る刀──ではなく、獣から弾き落としたナイフだった。

 

「があ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」

 

 左腕を斬り飛ばされた獣が苦痛に喘ぐ。

 

 ナイフを手に、切り上げの動作から返す刃で首を落とそうとしたのを本能的に感じてか、獣は跳び跳ねて織姫から距離を置いた。

 

「はっ、ハハ、ハハハハハハハ、くくく、コイツはなんなんだ? あの時食い損ねたオマエが出てくるのかよ!」

 

「藤乃は殺させない。彼女は僕のすべてなんだ。日常で、日だまりで、愛する人で。命を懸けてでも守りたい人なんだ。そんな彼女を殺すだって?」

 

 ナイフを構え、織姫は獣と対峙する。

 

「あの時と同じだなぁ。あの時はあの人に止められたからケチがついちまったっけなぁ。俺を殺せなかったオマエに、今さら俺が殺せるのかよ!」

 

「殺してやるとも。藤乃を殺そうだなんて宣うお前は殺す。必ず殺す。絶対に殺す!!」

 

 向かってくる獣に対して、織姫は静かにナイフを構えながら呟いた。

 

投影開始(トレース・オン)──唯識・直死!!」

 

 イメージするのは両儀式──。

 

 準えるのは獣の死因。

 

 生の終焉の因果を直接刻みつける。

 

「……ちっ」

 

「は、ハハっ、それでこそだぜ、境ぃ!」

 

 交差した両者に決着は訪れなかった。紙一重で獣は織姫のナイフの軌道を読んで回避に成功していた。強烈な死のイメージを刻みつけようとした意図を野性の勘で読まれたのか。

 

「……お楽しみはまた今度だな。次に会った時に、またつまんねぇヤツに戻ってたりしないでくれよ?」

 

 そう言い残して獣は退散して行った。瞬く間に気配を読み取れる外に一目散に出て行くその速さはやはり人のものではなかった。

 

「もう獲物は逃げていったよ」

 

 代わりに現れた気配の持ち主に向かって織姫は声を投げ掛ける。

 

「オマエ、何と殺ってたんだ?」

 

「織姫……」

 

 現れたのは両儀式と黒桐幹也だった。

 

「別に。異常ストーカーのバケモノと少し殺りあっただけさ」

 

 投影魔術で鞘を造り出し、ナイフを鞘に収めて後ろ腰の帯に差す。

 

「それじゃあ、あとは頼むよ、コクトー先輩。久し振りの外で、ちょっと疲れた……」

 

「あ、ちょっと…!」

 

 そう言い残して織姫は幹也の胸に倒れ込む。

 

「織姫…?」

 

 幹也が声を掛けても織姫は小さく寝息を立てるだけだった。

 

「呑気に気持ち良く寝やがって。あちこち探し回った身にもなれよなまったく」

 

 心地好く眠っている織姫を見て悪態を吐く式。その視線には呆れと、隠しきれない怒気が含まれていた。

 

「式。悪いけど織姫を頼めるかな。僕はこの現場を警察に通報しなきゃならないから」

 

「おい。そんな面倒なことする必要ないだろ。というか、これはどう見ても普通の人間の領分じゃないぜ?」

 

「うん。でも犠牲になった人をあのままには出来ないし、織姫もずぶ濡れのままに出来ないだろ? なら手分けした方が良いじゃないか」

 

「このお人好しめ…!」

 

 言っても聞かないのは分かっているので、式は悪態を吐きながら織姫を受け取って後悔する。ずぶ濡れの着物から滲み出した水分が自分の服さえも濡らし出したからだ。しかも式1人で運ぶにはずぶ濡れの織姫は重かった。

 

 結局通報するにも織姫を運ぶにも公衆電話を探してからということに落ち着いて、式は織姫を幹也に押し付けた。

 

 

 

 

to be continued…

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

境織姫 Ⅴ

霧絵に対してやり過ぎ感が否めなかったので修正してみました。


 

 八月。茹だる様な暑さの中で境織姫は友人である巫条霧絵の病室を訪れていた。

 

 原因不明の昏睡のまま目覚めない彼女。

 

 家族の居ない彼女の病室を訪れるのは看護婦くらいで、他は自分か藤乃くらいだ。

 

 彼女の意識が戻っていないことの確認は済んだ。彼女が今何処に居るのかも察しが付く。ただ、彼女を連れ戻す切っ掛けを見つけられないでいた。

 

「このままじゃ、死ぬことになるわよ。霧絵」

 

 それは彼女の望むことであって、しかしそうではない。

 

 誰かの思い出の中で生きる事で生を実感しようとしている彼女。その相手はつい先日一時の目覚めのあとは再び眠ってしまった。

 

 自分では彼女が追い求める存在にはなれない。藤乃だって、欠けた心を少しでも慰めたくて一緒に居るようなものだ。

 

 自らの内に呼び掛けても返事はない。

 

 それもそうだ。肉体の人格である「境織姫」を活動させるために境織姫は眠っているのだ。

 

 そもそも「境織姫」はある目的のために生まれた存在であって、決して境織姫の穴を埋める為の存在ではない。

 

「藤乃も霧絵も、貴方に導く責任があるのよ。織姫」

 

 藤乃との日々が楽しいのは自らもまた境織姫であるからだ。しかし本当の意味で彼女達を救えるのは境織姫に他ならない。

 

 「境織姫」は荒耶宗蓮を殺すための概念武装であり、決戦存在でしかないのだから。

 

「彼女達を想うのなら、寝ていては駄目よ。織姫」

 

 まるで幼子に言い聞かせる様に、「  」は己の胸の中へと言葉を送った。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 深い眠りから覚めるように、徐々に意識が浮上する。

 

 寝惚けた眼は景色を脳裡に映し出す事はなく、目尻を拭ってピントを合わせる。

 

「此処は……」

 

 真っ白なシーツが目に入って、続いて黒い髪の毛が映る。その先にはまるで死人の様な顔の知り合いの姿。

 

「霧絵…?」

 

 僅かに、ほんの僅かに上下する胸元を見なければ生きているとは思えない程色の無い彼女。

 

「いったい、どうなってるの……」

 

 自分の最後の記憶は、雨の中で獣と戦ったところで途切れている。

 

 それがどうして霧絵の病室に居るのだろうか。

 

 記憶が繋がらない。

 

 獣と戦った後や、それ以前の記憶の連続性など、知るべき事、確認すべき事、山程ある筈の問題よりも霧絵の事だけが頭を駆け巡っている。

 

 霧絵を探せ。霧絵は何処に。霧絵は此処には居ない。

 

 そんな、この総身から急かされる様に辿り着いたのは巫条ビル。

 

 普通の目には何も見えない。でも霊視能力を持つ自分の魔眼を通してなら。

 

「居た……!」

 

 巫条ビルの上で浮いている霧絵を見つけた。

 

 老朽化しているビルの階段を駆け上がる先は屋上だ。

 

「霧絵!!」

 

 屋上の縁にまで行って声を掛けても反応が無い。

 

「無駄だ。彼女は今、虚無の中に居る」

 

 重い、(おも)い声だった。

 

 言霊という概念があるが、まるで一字一句がその様に重く意志を持っていた。

 

 振り向けば闇の中から滲み出る様に1人の男が姿を現した。黒いコート姿に彫りの深い目元の男。

 

「荒耶宗蓮…!!」

 

「いかにも」

 

 その重圧を感じる気配を全身全霊に記憶する。

 

「彼女に…、霧絵に何をした」

 

「なにもしてなどいない。あれは自らの願いで虚無へと旅立った。お前を迎える為に」

 

「なんだって…!?」

 

 荒耶の言葉が本当ならば、霧絵は自分の所為で「  」を目指していることになる。

 

 そんなことをしていてはいけない。彼処は死者が行き着く場所だ。生者のまま辿り着いて良い場所でもない。死に取り憑かれていた霧絵では、至る前に死んでしまってもおかしくはない。

 

「根源へ至った霧絵が目的か!」

 

「故あればなんとする?」

 

「殺す!!」

 

 判断は早かった。元々は藤乃の為だった。でも今はそれだけでは無くなった。

 

 霧絵にもその毒牙を伸ばすと言うのなら──。

 

投影開始(トレース・オン)──殺式!!」

 

 己の内側が切り替わる。ただの境織姫から、両儀を押し嵌める。

 

 さらに四肢の指の爪に刻み込んだルーンを起動する。

 

 強化と加速を起動すれば身体能力は瞬間的にサーヴァントにも匹敵し得る自負がある。負担は後日降り掛かるが、現状で切れる札はすべて切るべきだ。

 

 荒耶宗蓮と相対して出し惜しみなどしていられる余裕など此方には無いのだから。

 

「唯識──直死!!」

 

 人の死が覆ることの無い寿命だと言うのなら──。死の運命、その因果を直接刻み付ける。

 

 が、やはり目の前の男の死が()()()()

 

「直死の魔眼。よくぞと褒めよう。だがその眼では私は殺せん。私の起源は『静止』である。既に止まっている者を、お前はどう殺すというのだ」

 

「殺すとも。この眼は生きているのなら神様だって殺してみせる…!」

 

 身体の内から届く声のままに、織姫はその支配権を譲り渡した。

 

投影開始(トレースオン)──無垢識」

 

 両儀式の顕現の中でも最も「  」に近しき存在の投影。

 

 それは境織姫を最も「  」へと近づけ、両儀へと至らしめるもの。

 

 対荒耶宗蓮の為の概念武装にして決戦存在。

 

 境界を超え、自身に「  」を当て嵌める。

 

 今この時だけはありとあらゆるものを殺すことを許された殺人鬼となる。

 

 投影した刀を手にする織姫は正眼の構えで相対する。

 

 ぞくりと、荒耶の背筋に冷たいものが迸る。

 

 それが畏怖によるものだと一瞬では気づけなかった。

 

「莫迦な、この私が恐れるというのか」

 

 目の前のただの少年に、荒耶は狼狽えた。

 

 この存在は自らを殺し得るという確信を抱かせる程の濃密な死の気配。

 

「そうか。お前も(から)へと至りし器だったな。境織姫」

 

「そう。そして、貴方を殺す者よ」

 

「否! 根源へと至る器は、この荒耶宗蓮が貰い受ける!」

 

 結界を展開する荒耶に対して、織姫はその刃の切っ先を地面に滑らせる。その斬撃はいとも容易く荒耶の三重結界の内の最も外側の一つを殺す。

 

「──粛!」

 

 織姫に向かって腕を向ける荒耶は、何かを握り潰す動作をする。空間を圧壊させる荒耶の魔術だ。

 

 だが、生じるというのならば、殺せない道理などありはしない。

 

 荒耶の魔術が織姫を捉える前に、一閃にて織姫は荒耶の魔術を殺してみせた。

 

 その光景に荒耶は眼を見開いた。

 

 また同じく空間を握り潰そうとしても、その魔術は既に織姫には看破され通用しない。

 

 身を屈めて、地面を舐める様に織姫は疾駆する。ついでと言わんばかりに、荒耶の結界をまた一つ斬り裂いていく。

 

 返す刃で荒耶の右腕を肩から斬り裂き、捥ぎ取って行く。最後の結界がなければ荒耶の身体は胴体ごと真っ二つだっただろう。

 

 次の一手は荒耶が先んじた。しかし魔術や結界の類ではなく、織姫を蹴りつけるという反撃だった。

 

 魔術も結界も通じないというのならば徒手空拳ではどう出るという観察の為だ。

 

 その槍のような中段蹴りを、織姫は掻い潜って、刀の切っ先を荒耶の胸に突き立てた。

 

 しかもそれはただの突きではない。

 

 この荒耶宗蓮の死の点を突き抜いたのだ。

 

「二兎を追う者は一兎をも得ず、か…」

 

 膝を崩しながら荒耶は呟いた。死の点を突かれた事で、肉体の生命力が加速度的に失われていく。つまり死という終焉へと向かっているのだ。

 

「だが、我が秘策は潰えず。相克する螺旋こそが私の本命だ」

 

 そう言い残して、荒耶宗蓮は黒い塵となって消えていった。

 

「……なんとか、なった、か…」

 

 その場にへたり込んで全身を襲う激痛を対価にあの荒耶宗蓮を退けられたのなら安いものだ。ただ、あの荒耶宗蓮を完全に殺しきれていない様子から、本当の決戦は矛盾螺旋となるのだろう。式の戦闘難易度を知らぬ内に上げてしまったかもだが、それは今気にしても仕方がない。

 

「霧絵…」

 

 身体強化の反動に苛まれながら霧絵に最も近い屋上の縁に立つ。周りには霧絵だけで、他の浮遊霊は存在していない。霧絵が虚無へと挑んでいるからだろうか。

 

「戻ってきて霧絵。そこは貴女が居るべき場所じゃない」

 

 霧絵に対象を絞って念話を飛ばす。それくらいしか霧絵の注意を引く方法が思いつかなかったからだ。

 

 念話が届いたのか、霧絵の身体がピクリと震えた。

 

 目の前に浮遊する霧絵の目が開き、微笑みを浮かべた。浮いている霧絵が降りてきて、顔の輪郭を確かめる様に手で触れてくる。

 

「さぁ、帰ろう。霧絵」

 

 その言葉に何かを満足するかの様に霧絵は頷き姿を消した。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 彼が帰ってきた。それを確認して私は元の自分の身体に戻った。

 

「ごめん。遅くなった」

 

「ううん。良いの。あなたが来てくれるのなら、私は何時だって待っていられるから」

 

 彼が病室にやって来たのは夜になってからだった。

 

 そんな数時間を待つくらい、2年を待っていた私には僅かな時間でしかない。

 

「こんなこと言うのもなんだけど、身体の具合はどう?」

 

「……平気。いつもどおり」

 

 嘘だ。

 

 彼を心配させたくなくて吐いた言葉。

 

 もう一つの身体で飛んでいた間に言葉を紡ぐのすら億劫になるほどになってしまっていた。死が目前に迫っている。そう感じられる程に今の私の身体は弱りきっていた。

 

「……霧絵。もし身体が治るとすれば、霧絵はどうする?」

 

「…そうね。もしそんな夢のような事が出来るのなら、治してみたいわ」

 

 緩やかに死に向かっている私からすれば、本当にそれは夢のような事だ。彼の記憶の中に自分が生きているのなら死ぬ事も怖くなかった私が、もう一度生きても良いのなら、そんな希望を抱いても良いのなら。

 

「──わかったわ。その願い、叶えてあげる」

 

 だからおやすみと言った彼は、彼ではなかった。

 

 でももう起きているのも少し億劫だった私はその声に誘われる様に眠りへと墜ちて行った。

 

 意識が途切れる直前に願ったのは、また明日目覚めたいという事だった。

 

 だって2年も待ったのだから、彼の記憶にもっと私を刻み付ける為にたくさんお話をしたかったから。

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 巫条霧絵──。

 

 我が弟子の友人にして、身体を病魔に冒されている女。

 

 巫条霧絵にはあの荒耶が関わっていたというのだから余計な手出しはしたくはなかったのだが、最早死に体で生きているのが不思議な状態の彼女の治療を引き受ける事となった。

 

 しっかし、根源接続者というのはなんでもありなのか。彼女の病巣はすべて織姫が殺したのだという。だが長い闘病生活によって彼女の病を殺そうとも身体が衰弱しきってしまっていて自力での回復は困難だから私の腕が必要だったのだが。

 

 結局内臓の大半は私が施術する事となって伽藍の堂に彼女の身を移すことになった。

 

 まったく。駆け込み寺ではないんだがな此処は。

 

「しかし、あの荒耶を退けるとはな。時計塔でも五指に入る結界術のエキスパートだった男だぞ。これもお前の目論見通りか?」

 

「まさか。今回は突発的な遭遇ですよ。それに倒したのは本人であって本人じゃない。工房に待ち構える荒耶宗蓮本人を斃すまでは安心できません」

 

「それがお前の運命の終着点か」

 

 それを見届けるのが師としてのせめてもの情けか。

 

 巫条霧絵もそのまた1人だと言うのだから笑えない冗談だ。

 

 だが彼女を使って荒耶が「  」を目指すような運命を織姫は知らないと言った。それだけでもう運命という結末を変えていることになる。

 

「その終着点がお前の始発点になることを祈るよ」

 

「始発点、ですか」

 

 浅上藤乃や巫条霧絵にどのような運命が待ち受けていたのかはわからないが、その2人に織姫が関わったことで運命が変わったのは確かだろう。荒耶とどういう繋がりが2人にあったのかは不明だが、浅上藤乃の為に「  」に挑み、根源接続者となった織姫が望む荒耶の抹殺は本気だった。

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

 伽藍の堂に新しい仲間が加わりました。

 

 原因不明な昏睡から目覚めた霧絵さん。ちょっと織姫さんとの距離が以前よりも近くなっている気がします。

 

 それと、病魔に冒されていた霧絵さんの病気は回復したそうで、出歩ける様になると事あるごとに織姫さんを連れて行ってしまう。わたしもそれに付き添っていますが、なんというか、霧絵さんがアグレッシブになるのもわたしには解る気がします。今の霧絵さんは生を謳歌している。わたしも身体が治った時は同じことをしましたから。

 

 自分はこんなにも生きているんだと、新しい自分は此処に居るのだと知って欲しくて。

 

 バイタリティに溢れる霧絵さんはちょっと元気過ぎて、自分もああだったのかと少し恥ずかしくなり。次は何処へ行こうかと織姫さんの手を引く霧絵さんに置いていかれないようにわたしも織姫さんの手を取る。

 

 すると織姫さんはちゃんとわたしの手を握ってくれる。もう何処へにも行かないでと我が儘な藤乃の想いを汲んでくれるかのように。

 

 やはり織姫さんは織姫さんでも、今の待ち焦がれた織姫さんは藤乃の想いをちゃんと受け止めてくれる藤乃の王子さまです。

 

 だから、大切なお友達の霧絵さん相手でも容赦はしない。織姫さんに最初に見つけて貰ったのは藤乃なのだから。

 

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

爆弾魔

めっちゃ短いですがどうぞ。


 

 七月。

 

 夏真っ盛りの末日。

 

 橙子が設計に関わったというホテルの落成式に出席していた。橙子の他にはコクトー先輩に式、そして藤乃に私が居る。

 

「どこへ行くの?」

 

「どこだっていいだろ」

 

 幹也が私たちに飲み物を持ってくると席を外したところで、式は会場から出て行こうとする。事務所の人間だから幹也が出席するというので付いてきた式。ただ立食パーティーには興味のない式には面白いことはなにもないのも仕方がない。

 

「藤乃。悪いけどコクトー先輩に少し外の空気を吸ってくるって伝言頼めるかしら?」

 

「あ、はい。わかりました」

 

 式が興味がないのなら私もそうだ。式を追って会場を出る。

 

「おい。なんでついてくる」

 

「貴女と同じよ。夜風を浴びに行くの」

 

「ハン。別にオレは夜風を浴びに行くんじゃない。ただ暇だから外に行くだけだ」

 

「ならあまり変わりないじゃない」

 

 そうカリカリするものでもないと思いながら向かう足は同じ方向を歩いていた。

 

 ホテルのガーデンに差し掛かって、式が歩みを止めた。

 

「おい。そっちは危ないぜ」

 

 そう言葉を放った式の先には人影があった。子供だった。年頃は14、5の男の子だ。

 

 男の子が去って直ぐに頭上で爆発が起こる。

 

 男の子が去った場所を見ている式を横目に、私もその場所に眼を向けた。直感が告げる。今の男の子にはなにかがあると。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 8月2日。

 

 爆弾魔に付き纏われていると橙子さんに話す式。

 

 閃光弾に地雷、時限爆弾、都合3回式は襲われたが、そのいずれも式は無傷であった。

 

 式が爆弾魔に狙われているなんて話は初耳だ。もちろん初耳というのは前世での意味だ。

 

 式は襲ってきている爆弾魔はホテルの件の犯人だと言い放つ。ここ数年、ホテルの件と同じ様な犯行が行われているらしい。犯行声明を出していながら捕まらない犯人は未来視、予知能力を持っているかもしれないと橙子さんは言った。

 

 予知能力持ちの犯人とどう戦うのか。

 

「鬱陶しいったらないぜまったく。どうせ狙うならお前の方にしておけばいいってのに」

 

「僕に!? なんでさ」

 

 いきなり話を振られて狼狽えてしまう。口に含んだコーヒーを噴かなかっただけ褒めて欲しい。

 

「いや…。なんでもない」

 

 未来視というのがどういうものか知るために、観布子の母に会いに行ってみろと橙子さんに勧められた。

 

 観布子の母。それも前世では聞き覚えのないものだ。

 

 辻占い師で悲劇を回避する方法を教えてくれる占い師らしい。

 

 爆弾魔とは無関係だろうと思われるが、会うだけ会っておけと橙子さんは言った。それで未来視という人種がどういうものか、直接みれば感触が掴めるらしい。

 

 8月3日。

 

 幹也先輩とは別行動で式と自分は観布子の母を探すために観布子を歩く事になった。

 

「どこ行くんだ。こっちだ」

 

 式は迷いなくビルとビルの隙間、路地裏に入っていく。

 

 路地の奥。およそ万人が占い師だと思える格好をした女性だった。黒いヴェールで覆った顔に、水晶玉。恰幅の良い身体で、年の頃は五十代そこそこ。

 

 式は2分ほど話して占い師に背を向けた。それだけで未来視を持つ人間の考え方の参考になったと言っている。

 

「そこに居るお兄さん、チョイと占って行かないかい?」

 

「恋愛運とか将来の夢ですよね。なら将来の夢を占ってください」

 

「成る程。お兄さん、夢は叶うよ。でもねぇ、チョイと気をつけないとだね。死相が見えてるよ」

 

「夢は叶うのに死相ですか…」

 

 今叶えたい事は荒耶宗蓮との決着だ。それが叶うというのなら、命懸けなのは仕方のない事だろう。

 

 命を落とす危険も承知だ。もちろん藤乃を悲しませたくないから全力で抗う気ではいるけれども。

 

 死相を回避する方法に関しては聞かないことにした。荒耶宗蓮を退けられる未来が判っただけで充分だったし、もし死相を退ける方法まで知ってしまったら、その時に正しい解答を導き出せないと思ったからだ。

 

「死相じゃないんだが、今日は橋と駐車場に気をつけな。鬼門だからね」

 

「わかりました」

 

 観布子の母と別れて式のあとを追う。

 

 そして観布子の母の言う橋が鬼門だと言った意味を直ぐに知ることになる。

 

 爆弾魔から電話が掛かって来た。話の端々から爆弾魔の未来視は測定の未来視だというのが読み取れる。

 

 予測と測定の違い。起きる可能性を視るのが予測。起きる可能性を限定するのが測定。

 

 未来を測定するということは、未来を決めてしまうということだという。

 

 携帯電話で話し続ける式について歩く傍らで、橋に差し掛かった。そこには1台トラックが停めてある。

 

 観布子の母は橋が鬼門だと教えてくれた。チリチリと首筋が疼く。

 

「ねぇ、式──」

 

 続く言葉を紡ぐ前に、トラックが爆発して、爆風に煽られて地面から飛ぶ。炎に包まれず無事でいられたのは爆発した瞬間咄嗟に飛び退いていたからだった。それでも瞬間的に肌を爆発の熱が撫でる。

 

 爆風を横からもろに食らった式は吹き飛ばされながらも空中で身を捻って橋の下の川へ落ちた。

 

 視線を感じて顔を向けると、ビルの屋上から此方を覗く誰かがいた。視線が合うと驚いた様子で姿を消す人影。

 

 走っていく式を追い掛ける。たどり着いた先は立体駐車場を備えるデパートだった。

 

 観布子の母の忠告が脳裏を過ぎる。

 

「此処に居るの?」

 

「ああ」

 

 立体駐車場へ入っていく式を止めようかとも思ったけれども、式を止める言葉を思い付かない。鬼門だと言われた駐車場とはこの立体駐車場の事なのかはわからないが、式をよろしくと幹也先輩には言われているから一緒に付いていくしかない。

 

 立体駐車場3階にして、追いついたと言って携帯電話を握る手を離した式。

 

「定められた結果の末路か」

 

 カタチがあるのならば未来まで殺せる。なんて無茶苦茶な眼だ。

 

 式は決定された未来像を殺したのだ。爆弾魔からしたら理不尽だろう。そんなズルめいた決着は。

 

 そう。決着である。

 

 爆弾魔の正体はまだ子供と言える10代中頃の男の子だった。設置した爆弾は起爆する未来まで殺されたのか一先ず爆発はしなかった。

 

 それでも雄叫びに近い叫び声と共に爆弾魔の少年が起爆装置のスイッチを押しまくると、今度こそ爆発した。車の陰に飛び込んで避けたから良いものの、対人地雷もどきの爆弾は殺意が高すぎないですかね。

 

 同じ様に隠れていた式は気怠げそうに車の陰から出てくると、爆弾の起爆装置を手に持っていた。

 

「良いの? ソレ」

 

「未来視は殺した。だから爆弾魔も廃業するだろ。それ以上は知らない」

 

 まさかの爆弾魔が子供だったなんて警察でも調べられないはずだ。面倒になる前に退散の構えらしい式。そういえば幹也先輩と待ち合わせしてるんだっけか。

 

 式が良いのならこれ以上口を挟むのも野暮だ。

 

 記録上、家族を庇って軽傷を負った父親1人と、右目に重傷を負った子供が救急車で搬送されたが、ばら蒔かれた鋼玉は駐車してある車やコンクリートの壁に柱を無惨に引きちぎったが奇跡的に死傷者は居なかった。

 

 そして着物の少女や、その少女に似た出で立ちの少年が居たとは記録に残される事無く事件は解決した。

 

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巫条霧絵

 

 荒耶宗蓮を撃退し、霧絵を引き取って数日。

 

 爆弾魔事件以外には大したことも起こらず平和そのものに過ごせている。

 

 荒耶が霧絵を取り戻しに来るのではないかと思ったが、今のところその気配はない。

 

 ならば此方から打って出る事で荒耶宗蓮という宿敵を退けるべきなのかと思われるが、それは得策ではない。

 

 巫条ビルでの攻防こそ制するが、荒耶宗蓮の本体は小川マンションにある。

 

 魔術工房として完璧な、荒耶の体内とも言えるその場所で勝利出来るのかと思案して自信が持てない。

 

 ならばやはり事態が動くまで強行は避けるべきであると結論に至る。

 

 怖じ気づいたというわけではない。

 

 霧絵が荒耶宗蓮と接触し、もうひとつの器を与えた事は確かだ。

 

 本来ならば藤乃にも荒耶は接触するはずだった。

 

 しかしそうした人物に覚えはないという藤乃の言葉に胸を撫で下ろすと同時にならば霧絵本来の役目ではなかった「  」への試みという違う役割の転換に霧絵への関心が寄るのは無理もなかった。

 

 つまるところ、霧絵も藤乃もどうなってしまうのかわからなくて、現状維持で目を光らせるのが精一杯でベターであると言えた。

 

「いいのかよ。オレに刀を握らせるって、そういうことだぜ?」

 

「構わない。むしろそうでないと意味がないから」

 

 伽藍の堂の5階。作りかけで放棄され剥き出しのフロアは屋上となっている。

 

 そこで僕は式と向かい合っていた。

 

 式に頭を下げて願ったのは特訓の相手だった。

 

 今までは式をイメージしてやっていた。しかしイメージは想像でしかない。より現実的な──リアリティを追及するには本物の両儀式を知る必要があった。

 

 断られるかと思ったけれど、意外と式は乗り気で二つ返事で了承してくれた。お陰で映像やイメージでは補完しきれない彼女の所作──呼吸を知れた。

 

 しかしナイフによる戦闘能力は式の本気ではない。

 

 だから投影した刀を彼女に渡して、本気の彼女をこの身で体験する事にした。

 

「んじゃ、始めるぜ。間違って斬っても恨むなよ」

 

「いつでも良いよ。投影開始(トレース・オン)──!!」

 

 自分も刀を手にして式の構えに倣う。

 

 一瞬で間合いを詰めてきた式の一撃を、鏡合わせの様に刀を振るってやり過ごす。

 

「ハッ」

 

「フッ」

 

 煌めく刃に合わせて、此方も同じ様に刃を煌めかせて一閃を打ち払う。

 

 一合毎に対応は出来るが、此方は見てから動いているために紙一重での防御で精一杯だった。

 

 しかも式は本気であるけれど全力ではなく余裕を持っている。

 

 当たり前だ。式と比べて自分の下地はてんでなっちゃいないのだから。

 

 迫り来る式の斬撃の一つ一つを脳裡に焼き付ける。

 

 そこから付け焼き刃ながらも式の斬撃に相対する。

 

 一歩間違えれば大怪我間違いなしの真剣による特訓は否応なしに神経を磨り減らす。

 

 それを体力の限界が訪れるまでひたすら繰り返した。

 

「おかしなやつだな、お前」

 

「そうかな?」

 

 特訓を終えて負った切り傷に癒しのルーンを描いた宝石を用いた治癒魔術を施していると、式に声を掛けられた。特訓の結果は防戦一方で身体のあちらこちらに切り傷を負った自分と、服のほつれすら見当たらない式の様子から察してあまりある。

 

「わざわざオレの本気を見たいって刀寄越して。それで斬り結んでオレの真似をするなんてさ。もう1人のお前ならその必要なんてないだろ」

 

 刀を持った式は荒耶宗蓮の死因になる。その因果をぶつけてやれば荒耶を殺せると思ったから式に特訓の相手を頼んだのだった。

 

 自分の戦闘スタイルは両儀式の模倣だから。本当の式を知らなければ偶像で固められただけの強さに中身という強靭さが伴わない。

 

 中身が伴えば本当の意味で両儀式の模倣を達成出来れば、「両儀式」の因果を引き出せるなんて思ったからだ。

 

「そうかもしれない。でも僕自身も完成してないと意味が無いって思ったからなんだ」

 

「ふーん。そんなもんか? 付け焼き刃で勝てるやつだっていうのなら、代わりにオレが殺してやってもいいぜ?」

 

「式が因果に導かれてその時になったらお願いするかもね。それでも出来ることならその相手は僕が殺したい」

 

 荒耶宗蓮に対する抑止力。

 

 自分はそうなりたくて式を真似た。最後の死の因果を叩きつける為だけに、「両儀式」の様になる為に。

 

 それでも想像、偶像それだけでは物足りなかった本物の動き、呼吸を体感した事で投影の精度は上がったことだろう。

 

 あとはこれを身体に馴染ませて時を待つだけだ。

 

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

「おはようございます、織姫さん」

 

「おはよう、霧絵」

 

 何気ない朝の挨拶。それひとつでも、今の自分は死に脅かされること無く生きているのだと実感できる。

 

 死ぬまで病院から出られないと諦めていた。だからせめて、私を見つけてくれた彼の思い出になれたら良いなと思って、友達になって、眠る彼を待ち続ける事が私の生きる理由になって。

 

 今は彼と共に過ごせることが何よりも私に生きている実感を抱かせてくれる。

 

 歳下だけれど、どこか歳上の様に感じる彼。

 

 時間が止まってしまっていた私は、歳下の彼を歳上の様に敬う。それは私よりも彼の方が外の世界を知っているから。

 

 動ける身体になって我が儘を許してくれる彼につい甘えてしまう。誰かに甘えるなんて何時ぶりなのか。

 

 2年も待ったのだから少し位の我が儘は許して欲しい。

 

 本当に自由に動ける身体になったのだから友達とやってみたかった事が山ほどあるのは赦して欲しい。

 

「今日はどうする霧絵。また外に行く? それとものんびりする?」

 

「今日は…、えっと、どうしよう」

 

 彼は私が何を選んでも嫌な顔をひとつしないのを知っている。本当にダメな時はダメだって言ってくれるから、今日は大丈夫な日。でもここ連日彼を連れまわしていたから疲れとか気にしてしまう。そんなこと気にしなくて良いと彼は言うけれど。

 

「今日は、此処に居たい」

 

「うん。じゃ、今日は休みにしよっか」

 

 外を出歩くのも良いけれど、のんびりと過ごすのも少しは好きになれたと思う。もう手の届かない風景を憎む事も無いのだから。今の私には有り余る時間を脅かされずに過ごせるのだから。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 身寄りのない巫条霧絵を引き取って施術を施してと、古い血を手元に置いておけるメリットよりも手間暇が上回っていた。

 

 織姫を連れ戻す為に「  」へと挑んだらしい彼女は古い血と荒耶に授けられた霊体も相まって霊的素材価値は充分にある。

 

 また荒耶に利用されないとも限らない彼女を保護という名目で招いたのは織姫の願いあってのものだが、彼女自身何も持ち合わせがないから余分の請求は言い出しっぺの織姫にするのが道理だろう。

 

 本人もそれで構わないというのなら存分に扱き使ってやろうじゃないか。

 

「出来ました。お願いします」

 

「ん。まぁ、ギリギリ及第点ってところか」

 

 人形のパーツを隅々まで鑑定して評価を下す。

 

 織姫には本格的に人形作りに励んで貰うことにした。魔術ではなく人形作りを伝授させることを選んだのは、完璧な人形作りを他人に伝授したらどうなるのかという興味が出たからだ。

 

 1度手本を見せて、丁寧に説明し、適所で助言をするという手間暇掛かる時間だったが、着実に技術をものにする光景は見ていて面白くなる。

 

 根源接続者が造った人形は如何様になるのかという期待もあった。或いは始まりの人間を造れてしまうのではないかという淡い期待。私が諦めた道の先を織姫ならば歩めるのではないかという勝手な期待だ。

 

 ただその期待に応えようと、一番弟子は良く励んでいる。

 

 模倣という意味では織姫程の担い手はそう居ないだろう。時計塔でも頭角を現すには充分な素質を持っている。魔術回路という残念な弱点があるが、根源接続者という自らを利用してその場で根源から魔力を捻り出すという荒業で足りない魔力をクリアする反則技も持っている。

 

 まぁ、根源接続者だとバレれば一発で封印指定されてしまうだろうから、協会には自分から近づく事はないだろうがな。

 

 此処での生活も何時まで続けられるかわからない。だから知識だけは詰め込むだけ詰め込んで貰うことにした。

 

 そうして出来上がった人形は中々悪くはないものだった。

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

矛盾螺旋

どう料理しようか悩む矛盾螺旋が始まりました。


 

 8月の夏は過ぎ、健康な身体となった霧絵に振り回されながらも何事もなく9月もあっという間に過ぎ去った。

 

 8月が過ぎるまで霧絵に対して張っていた気も抜くことが出来た。一先ず巫条ビルでの転落死が1件も起きなかったのだから、霧絵の運命も変わり、好転していくことを祈るばかりだ。

 

 その間も式との特訓は続けていて、今ではナイフを持った式の動きまでもものにしようと必死だった。

 

 式からすればナイフ捌きは自己流の即興も良いことらしいが、それでも構わなかった。両儀式を模倣する贋作者の自分には必要な事だった。

 

 そのお陰か、集中的に鍛えられた身体の筋肉は本物を真似て入られる程にはなった。

 

「最近の織姫さんは、難しい顔をすることが多くなりましたね」

 

「そう、かな…」

 

 いつか似たような事を言った藤乃。指摘されてそんなわかりやすい顔を浮かべていただろうかと思ってしまう。

 

「織姫さんの事ですから、ちょっとの違いくらいわかるんですよ?」

 

 そう真っ直ぐ言われるとくすぐったさを感じる。想いを向けている相手に理解されるということはとても心地が良いものだからだ。

 

「織姫さんの悩み、藤乃では解決できませんか?」

 

「それは…」

 

 藤乃に言われて思い浮かぶ悩みと言うのは勿論荒耶宗蓮の事だ。

 

 魔眼があるとはいえ、それ以外は普通の女の子の藤乃を荒耶と対峙させるだなんてとんでもない事だった。

 

 自らの工房に入り込む闖入者を生かして帰すわけがないだろう。

 

 そもそも藤乃を守りたいのであるからこそ、荒事には巻き込むことだけはしたくなかった。

 

「…心配してくれてありがとう。でも大丈夫だから」

 

 良心の痛みを感じながらも藤乃には悩みを口にする事は出来なかった。

 

 すると藤乃に手を握られた。指を絡め合う恋人繋ぎで。

 

「織姫さんは藤乃の命を背負うと言ってくれました。藤乃では織姫さんの命を背負う事は出来ませんか?」

 

 そう、意思の強さを感じられる語気を含んだ言葉を紡ぐ藤乃。それこそ一言悩みを打ち明ければ彼女は解決の為に何処までも共に歩んでくれるだろうと確信出来る。

 

 しかしそれでは本末転倒なのだ。

 

 大切で、守りたいから、遠ざける。それが正しいと判断しながら申し訳なさで心が荒みそうになる。

 

 それは自分がまだ弱い事を自覚させられる。

 

 自信があれば藤乃を関わらせても守り通せば良いだけなのだから。

 

「そう言われると僕の負けだ。でも今回の事は命懸けだ。だから藤乃には自分の身を最低限守れる様になって貰わないとならない」

 

「はい。望むところです」

 

 こうなったらやれることをやって荒耶に挑む事としよう。それに歪曲の魔眼を持つ藤乃にも最低限自衛の手段を持っていても無駄にはならない筈だ。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

「氷枕出来たから先に橙子さんのところに持っていくわね」

 

「うん。お願い霧絵」

 

 買ってきた水枕と氷で作った氷枕を持ってパタパタと出ていく霧絵を見送りながら焦げ目を作らないようにグツグツと音を立てる土鍋を監視する。

 

 橙子さんが風邪をひいた。

 

 10月も末ある日のこと。

 

 いつもならば起きてくる時間になっても事務所に顔を出さない橙子さんを不思議に思って部屋を訪ねてみると、顔を真っ赤にしてベッドで魘されている橙子さんを見つけたのだった。

 

 本人は当初呪いか黒魔術の類いを疑ったらしいが、症状を聞いてみても風邪としか思い浮かばなかった。

 

 魔術師でも風邪をひくのかとかそんな事を思い浮かべながら医者へ掛かることを薦めたのだが、封印指定されている自分がおいそれと医者に診て貰って弱っていることが万が一にも執行者に知られたら面倒だという事で、自力で治す事となった。

 

 とはいえ風邪をひいたことも無いらしい橙子さんは魘されるだけしか出来ない役立たず病人なので、治療に必要なものを自分が一通り揃えた次第だった。前世は季節の変わり目の度に風邪をひいていた経験が生きた。それに比べたら今世は風邪をひかない健康な身体に産んでくれた両親に感謝である。

 

 小皿にお玉でお粥を掬って味をみる。うむ、適度な塩梅の塩加減だ。

 

 作ったのはなんの変哲もない普通の塩粥だ。

 

 それを大きめのお椀によそって、木製のスプーンを添えて橙子さんの部屋へと向かう。鉄のスプーンはお粥の温度で直ぐ熱くなって食べ辛くなるためのちょっとした気遣いだ。

 

「橙子さーん、ご飯持ってきましたよー」

 

「……あぁ…、ごはん……?」

 

 いちいち反応するのすら億劫そうな重症具合だ。

 

 霧絵の介助を受けて身体を起こす橙子さんにはいつもの気の強さは皆無だった。おでこや首筋に冷えピタを貼っている姿はどうにも似合わない。

 

「どうです? 自分で食べられます?」

 

「…でなきゃ…、どう食べろと、言うんだ……」

 

 身体を起こしているだけでも辛そうである。こんなヘロヘロで自分で食べられるのか心配になった。

 

「霧絵、橙子さんにご飯食べさせてあげてくれる?」

 

「私が?」

 

「いやほら、男の僕じゃさすがにね」

 

 羞恥心がないというのなら自分が食べさせても問題はなかったけれども、デリカシーのない男でもない。ここは同性で歳も近い霧絵が適任だろう。

 

「じゃあ、あとお願いね」

 

「ええ、任せて」

 

 あとは霧絵に任せて橙子さんの部屋を出て事務所に戻ると、式が来ていた。

 

「おはよう、式」

 

「ああ。…なんだ、トウコの具合でも悪いのか?」

 

「まぁね。風邪ひいたみたい。今は霧絵がご飯食べさせてるよ」

 

「あのトウコでも風邪ひくんだな」

 

「僕も同じこと思ったよ。コーヒー飲む?」

 

「ああ」

 

 コーヒーメーカーをセットして無音の空気が流れる。

 

 式は自分から積極的に話題を振るタイプじゃないし、それは自分にも言えることだ。無口が揃えば無が流れるのは自然な事だ。

 

「そういえば幹也先輩から電話があってさ。式に変わったところはないかだって」

 

 そう話題を切り出すのは今は車の運転免許を合宿で取りに行ってる幹也先輩からの伝言を伝える事だった。

 

「別に。なにも変わっちゃいないさ。ただ部屋にちょっとした同居人が増えたってくらいだ」

 

「同居人? 友だちでも上がり込んできたの?」

 

「友だちじゃない。ただ部屋を貸してやってるだけだ。そいつ人殺しで、母親の腹を滅多刺しにしたんだとさ」

 

「それって犯罪者じゃない?」

 

「いや。あいつは──臙条は、犯罪者とは違うな」

 

 式の口から出てきた人殺し、母親を滅多刺しにした、臙条という名前に合点が行く。

 

 つまり矛盾螺旋──運命に抗う最後の障害が動き出したのだ。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 橙子さんの風邪はタチの悪い事に1週間も猛威を振るった。市販の薬も買ってはいたが、何故か薬に頼らず自力で治すという橙子さんの意思を曲げること叶わず。結局幹也先輩が合宿から帰ってくるまでがっつり寝込んでいた。

 

 ただ1週間も寝込んで諦めがついたのか、自分の作った薬を飲んで回復したらしい。

 

 翌日には1週間寝込んでいたとは思えない軽い足取りで出掛けていった。

 

 来月に控えた美術展の準備で伽藍の堂──幹也先輩と自分、そして事務仕事を手伝ってくれる霧絵は少し忙しかった。他にも式も居るし、今日は鮮花と藤乃も居る。学校が創立記念日でお休みらしい。

 

 鮮花は橙子さんに魔術を学びに、藤乃は藤乃で対荒耶戦を見据えた特訓の為に先程反応速度をサーヴァント並みに調整された人形と軽く一戦してきたところだ。

 

 鮮花が発火の魔術を見せながら魔法使いと魔術師の違いを幹也先輩に説く。が、帰ってきた橙子さんに勝手に私物のペーパーナイフを使ったことを咎められた。

 

 そこから魔術の秘匿性と時計塔の事、さらには魔術師の目指す根源についてまで話は飛んでいく。どういうものかは型月知識で知っているから話半分で聞いていた。

 

「この1ヶ月費やした結果だけども」

 

「はい…」

 

「藤乃は能力が凄い代わりにフィジカルはやっぱりおいそれと普通の女の子から逸脱するものじゃなかった」

 

 臙条巴が式の部屋に入り浸っているという情報を掴んでタイムリミットとした藤乃の特訓の成果は、普通の女の子より運動神経はあるものの、やはり正面切って戦うのは向いていないという事だった。

 

 前衛が居ることを前提とした砲台という意味では千里眼も相まって破格の能力持ちだが、やはり擬似サーヴァントと化した藤乃ならともかく、今の藤乃では手厳しいのも無理はなかった。そもそも1ヶ月特訓しただけでどうにかなる程現実は甘くはない。物語の主人公じゃあるまいし。そう都合良く劇的に短期間で強くなれる筈がない。

 

 その点式は両儀家で剣術を修めているのだから強さに説得力がちゃんとある。遠野志貴も七夜家での鍛練という下地がある。衛宮士郎はちょっと特殊だから勘定から外そう。

 

 そもそもきっと藤乃は後方タイプで前衛には向かないってだけだろう。

 

 終始藤乃の傍を離れず、攻撃を藤乃任せにするか。

 

 いや、小川マンションでそれは無理だ。空間を圧縮する荒耶の魔術の前では人の壁は無意味だろう。

 

「ごめんなさい。折角時間を割いてくれたのに役に立てなくて」

 

「そんなことないよ。藤乃の想いだけでも心強いもん」

 

 ただ結果これで良かったとも安堵している自分が居るのは確かだった。

 

 荒耶と直接的な因縁を持っているわけでもないのに余計な首を突っ込もうとしている自分に藤乃を付き合わせるのは気が引けていたのだから。

 

 そう思っていると藤乃が手を優しく包み込んで胸に掻き抱く。

 

「必ず、戻ってきてください。また2年も待たせるなんて、藤乃はもう許せませんから」

 

「わかった。約束するよ」

 

 身を寄せあって額を互いに宛がって目を瞑る。互いの胸に当たる手から心音が響いていく。

 

「あー、ねぇ、お二人さん? そうおおっぴらにイチャつくの控えてくれませんかね」

 

 鮮花のその声でトリップしていた意識を引き戻される。藤乃の雰囲気に流されて事務所であるのをすっかり忘れてしまっていた。

 

「どうして? 何か悪いことでもしていたかしら?」

 

「いや悪くはないけれどもう少し節度を持って欲しいというか」

 

「織姫さんとちょっと約束をしていただけよ?」

 

「いやもっと普通に指切りとかで良いじゃない」

 

「そう? 鮮花もやってみれば良いのよ。そうすればとても良いって解るわ」

 

「藤乃軽く喧嘩売ってる?ソレ」

 

 まぁ、鮮花の言うことも解る。周りを気にしなかった此方に非があるのは確かだった。あと勢いのある藤乃は無敵だから諦めた方が良い。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 一悶着起きそうな雰囲気だった藤乃と鮮花も落ち着いた頃、唐突に鮮花が放った言葉で事務所の空気が張り詰めた。

 

「ねぇ。式って男なんでしょう?」

 

 言葉を向けられた式は不愉快そうな顔を浮かべて口を付けていたコーヒーカップから唇を離した。ただその質問に単純な意味での不愉快さだけではなく何か思い悩んでいるように見えた。

 

「否定しないっていう事はそうなのね。あなたは間違いなく男なんだわ、式」

 

「鮮花ッ!」

 

 続く鮮花の言葉に幹也先輩が声を荒げながら椅子から立ち上がるものの、続く言葉を持っていなかったようで椅子に座り直した。居心地は悪そうだ。

 

「つまらない事にこだわるな、おまえ」

 

 式は物凄い仏頂面を浮かべて鮮花に返した。呆れか怒りを抑える為か、片手は額を押さえていた。

 

「そう? すごく重要な話よ、コレ」

 

「重要な話、か。オレが男だろうが女だろうが大差ないだろ。鮮花には何の関わりもない。それとも何か、おまえオレにケンカ売ってんのか?」

 

「そんなの、初めて会った時から決まっているでしょう」

 

 2人は外見上あくまでもクールだが、一触即発の剣呑な雰囲気になっているのは間違いなかった。

 

 なんでいきなり修羅場になったのか見当もつかない。

 

 まぁ、鮮花からすれば問題なのかもしれない。実の兄に家族愛ではなく異性愛を向けてしまっている鮮花からすれば式は女であれば邪魔でしかない。男であるのならどうだというのかといわれても、それはもう式の中に織は居ないのだから誰にもわからない。

 

 精神面でどちらなのか明確にしたかったらしい鮮花。

 

 不機嫌になった式は事務所から出ていってしまった。

 

 たとえ式が織だったとしても好きだという自分の気持ちには変わりがなかったと思うと口にする幹也先輩の言葉はもう試合前から結果がわかりきっている出来レースだ。

 

 それを同性でも好きだと言葉通りに受け取ってしまった鮮花は分厚い本を幹也先輩に投げ付けて事務所から出ていってしまった。ちなみに橙子さんはずっと笑いっぱなしだった。

 

「藤乃はさ。僕のことどう思う?」

 

 男なのか女なのかという問答は自分にも軽く掠める話題でもあった。

 

 両儀式の投影に成功してしまった自分は時として女の人格が表に出ることもある。

 

 身体は男で普段も男で居られる。余程の事がなければ女の人格は出てこないとはいえ他人事で済ませる話題にするには少し引っ掛かった。

 

「変わりませんよ。どちらの織姫さんも織姫さんですから。男性の織姫さんには愛情で、女性の織姫さんには友情で応えるまでですから。先輩もきっとそう言いたかったのかもしれないですね」

 

 鮮花の投げた本の直撃で僅かばかり意識の飛んでいる幹也先輩を見据えて藤乃が言う。まぁ、織が居たのだとしたら友情という絆が結ばれていただろう事は想像に難しくはない。

 

 それから二時間が経過して幹也先輩の退社前の最後のコーヒーを飲んでいた時だった。橙子さんが切り出した。

 

「ああ、そうだ黒桐。悪いが残業を頼めるか?」

 

「残業って、別件で仕事でも引き受けたんですか?」

 

「いや、そっちの仕事じゃない。金にはならないものだ。今朝はそれで出掛けていたんだがね、懇意にしている刑事から面白い話が聞けたんだ。黒桐、茅見浜(かやみはま)の小川マンションを知っているか?」

 

「茅見浜って、あの埋め立て区に出来たマンション地帯ですよね近未来モデル地区とかいう」

 

「ああ。ここから電車で三十分ほどかな。都心では考えられないほど贅沢に土地を使っている街だ。そこにね、昔建築で関わったマンションがあるんだが、妙な事件が起きたそうなんだ」

 

 昨夜午後十時頃、二十代前半の会社員の女性が通り魔に襲われて刺されてしまった。通り魔はそれで逃げてしまったが、被害者はそうはいかなかった。

 

 腹部を刺された被害者は携帯電話を持っていなかった。

 

 現場は件のマンション地帯。周囲に店などなく、夜の十時なら人通りももうない。

 

 被害者は血を撒き散らしながら最寄りのマンションに入って助けを呼ぼうとした。

 

 だが住人は誰一人気がつかず、午後十一時に被害者は死亡した。

 

「問題なのはこの先でね。その被害者の助けを呼ぶ声は、隣のマンションに聞こえていたというんだ。悲鳴ではなく、助けを呼ぶ声だぞ。隣のマンションの人間はそれだけの大声だからすぐにそのマンションの人間が駆けつけると思い、無視したんだそうだ」

 

「そんな──そのマンションの住人は気がつかなかったんですか?」

 

「ああ、そう証言している。誰一人の例外なくいつも通りの夜だった、と。まぁ、これだけならそうおかしな話ではないんだが、このマンションには以前にもう一つ、おかしな出来事があったらしいんだ。詳しくは聞き出せなかったんだが、とにかく異常事態が二つ続くのは何かおかしい、と、刑事さんに相談されたわけさ」

 

「ようするに、僕にそこを調べろって言ってるんですね、所長は」

 

「いや、現地には二人で行こう。黒桐は不動産屋をあたって早いうちに住人達のリストアップと、過去どこに住んでいたかを出来得る限り調べてくれればいい。金にならない仕事だからゆっくりでいいぞ。締め切りは十二月だ」

 

「わかりました」

 

 いよいよ小川マンションを調べるのにあたって身に緊張感が走る。ここで自分も同行すると切り出せば橙子さんは察するだろうか。

 

 果たして自分が荒耶の工房での戦闘でどれ程通用するかは未知数だ。次の器があるとはいえ、今の橙子さんに死んで欲しくはないのも本心だ。とすればやはり橙子さんが荒耶と事を構えるときに同行するのが定石か。

 

「ところで黒桐、おまえ本当に式が男でもかまわないのか?」

 

 さっきの話を橙子さんが蒸し返した。残りのコーヒーを飲んでいた幹也先輩は吹き出しかけていた。

 

「そんなわけないでしょう。そりゃあ式は好きですけど、欲を言うなら女の子は女の子の方が、いいです」

 

「なんだ、つまらん。それなら問題はないじゃないか」

 

 がっかりだ、と橙子さんは肩をすくめてコーヒーカップに口をつけた。

 

 問題ないと言った橙子さんに幹也先輩は詰め寄った。

 

 式は精神面は間違いなく女性で、陽性である織が居ないのだから男である筈がないこと。

 

 陰陽太極図、相克する螺旋、両儀の家、織の為の式の代償行為。

 

 式に関する様々な事を述べていく。

 

 それを聞き終えた幹也先輩は何か決意を固めたような表情を浮かべていた。外側からわかることは式を放っておけないという雰囲気だけだった。

 

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

矛盾螺旋Ⅱ

こんなあっさりで良いのかと思いながら、私にはこれが精一杯だったので許してください。


 

 小川マンションの調査を橙子さんが幹也先輩に頼んだ翌日。珍しく先輩は遅刻してやって来た。

 

「すいません、遅れました」

 

 持ってきた剣道の竹刀袋みたいな包みを壁に立て掛けて大きく一息吐いていた。

 

「幹也。それ、誰の仕業だ」

 

 式が指差す先には幹也先輩が持ってきた荷物がある。

 

 どうやら聞く限り式の世話係の秋隆という人からの預かりものだという。

 

 銘がないとか兼定らしいが真偽がハッキリしない云々と、幹也先輩の説明を聞いてもちんぷんかんぷんだが、式はそうではないようで子供が新しいオモチャを前にしたようなレアすぎる顔を輝かせた式は早速と言わんばかりに荷物を手に取って括ってある紐を解いた。

 

 ぞわりと、空気が変わったのが判った。

 

「し、式。それヤバいやつじゃないかな?」

 

「お前にもコイツの良さが解るか?」

 

「式、それなに?」

 

「見るか? ちょっとお目にかかれない業物だぜ、こいつは」

 

 式が竹刀袋の中のものを出そうとすると、橙子さんの待ったが掛かった。

 

「式、それは古刀だな? 五百年も前の刀なんてここで取り出すな。結界がまるごと切れたらどうしてくれる。おまけに九字まで入っている。兵闘ニ臨ム者ハ皆陣列前ニ在リ、か。あいにくと私程度の結界では五百年クラスの名刀には太刀打ち出来ない。それをここでさらして見ろ、下の階のモノが溢れ出すぞ」

 

 いつになく危機感を出す橙子さんの言葉に式も慌てて竹刀袋を戻し始めた。

 

「そうだな、剥き出しの日本刀を幹也に見せてもつまらない。柄を用意してないなんて秋隆もボケたかな」

 

 式は名残惜しそうに竹刀袋をソファーに寝かせた。まるでお楽しみを先延ばしにされた子供のようだ。

 

 橙子さんは続けて式に歴史を積み重ねたものはそれだけで魔術に対する神秘になると説明した。つまりは概念武装の説明のソレだ。

 

「それで黒桐。今朝の遅刻の理由はなんだ?」

 

 話題を変えて橙子さんが幹也先輩の遅刻の理由を問う。

 

 予想はしていたから驚かなかったが、やはり小川マンションの事を調べて徹夜したのが遅刻の理由だった。

 

 住人のリストからマンションの設計図、建設に関わった作業員と作業スケジュール、住人の家族構成とその勤め先、前の住所までありとあらゆる個人情報が網羅された紙束をどさどさと橙子さんの机に積み上げていった。

 

 たったの一晩でこれである。しかもこれで半分程度の住人しか追えていないのだとか。半分でも充分凄すぎる。

 

 そしてこれで幹也先輩は神秘の欠片もない一般人である。一般人ってなんだろう。いやもう充分逸般人だと思う。

 

「トウコ、今のリストちょっと」

 

 橙子さんの手元の住人名簿を覗き込む式。

 

「……だよな。こんな珍しい名前、二つとない」

 

 気になって自分も覗いてみれば、リストの最後に臙条という名字を見つけた。

 

「先に帰る。トウコ、足になるような物あるか?」

 

「ガレージの端に200のバイクが余っているが」

 

「おまえな、着物でバイクに跨がれっていうのか」

 

 式の言う通り着物でバイクには跨がれないだろう。

 

「僕が送るよ。橙子さん、ハーレー借りますよ」

 

「は? いや待て、何のつもりだ織姫」

 

 式を送るだなんて普段ならしないことをしようとしていることにその意図を橙子さんに問われた。

 

「確かめたいことがあるんですよ。もちろん、式が良いのならだけど」

 

「別に構わないぜ。ほら行くぞ」

 

「着替えてから行くから先行ってて」

 

 自分も式に倣って着物だから普通の格好に着替える必要があった。

 

「式!」

 

 革ジャンを羽織って竹刀袋を肩に下げた式を幹也先輩が呼び止めた。その声色には不安が滲んでいた。

 

「なんだよ幹也。オレ、なにか悪いモノでも憑いてる?」

 

「いや……なんでもない。夜に行くから、話はまたその時にしよう」

 

「なんだ、ヘンな奴だな。でもまぁ、いいか。夜だろ、その時間なら部屋にいるぜ」

 

 式に続いて事務所を出て自分の部屋に向かうと手早くジーパンと長袖にコートまで羽織って地下ガレージに向かった。

 

「お前、運転できるのか?」

 

「昔取った杵柄ってやつでね」

 

 それは前世での経験ではあるがバイクは転がした事があるので問題はないだろう。

 

「しっかしどういうつもりなんだお前」

 

「別に。ただ小川マンションに行く気の式に便乗しただけだよ。やるなら早い方が良いかなってね」

 

「なるほど。なら好きにしろよ」

 

「そうさせて貰うよ」

 

 ハーレーに跨がってエンジンをかける。サイドカー付きは初めてだがすぐ慣れるだろう。

 

 思えば式の部屋に行くのは初めての事だった。それも当たり前か。行く必要性が今まで無かったのだから。

 

 臙条巴に会うのは式の準備のあくまでもついでだと思う。自分が臙条巴と出会ってもそれで何かが変わるわけでもないだろう。

 

 鍵を出して部屋を開ける式に続いて部屋に上がれば赤髪で華奢な身体。細い顔つきの男──臙条巴が居た。

 

「なにやってんだ臙条。電気をつけないで待ち伏せするの、好きなのか?」

 

「なっ、え? 両儀が…ふたり? おまえ双子だったのか!?」

 

 此方を見て驚いている臙条巴。いくら式を投影しているからとはいえそんなに似ているだろうか。

 

「違う。こいつとは、まぁ、どうでもいい。それにしてもタイミングがよすぎるな。出来すぎてる」

 

 式はそう言って説明を放棄してベッドに竹刀袋を置いた。

 

「ちょっと待ってろ、組み上げちまうからさ」

 

 そう言って式は隣の部屋から竹刀袋と同じくらいの細長い木箱を持って戻ってきた。

 

「式、出来たら1回刀見てもいい?」

 

「ん? まぁ、いいぜ。でもオレのだからな」

 

「別に盗ったりなんかしないよ」

 

「お前ら本当に双子とか姉妹とかじゃないのか?」

 

「「ちがう」」

 

 臙条巴の追求に揃って否定を口にする。

 

「式とは同僚みたいなものだよ。僕は境織姫、よろしく」

 

「え、臙条巴…だ」

 

 式がはばきが小さすぎたとか刀と格闘している合間に適当に自己紹介を済ませた。

 

「いいぜ。話があるんだろ?」

 

 刀が組み上がった式が臙条巴に言葉を投げ掛ける。言葉とは裏腹に式の顔にはあまり関心というものはなかった。

 

 すると臙条巴の視線が此方を向く。

 

「ああ、こいつはこっち側の奴だから気にしなくていいぜ」

 

 そうは言われてもあって間もない人間には聞かれたくなさそうな雰囲気を滲ませていたが、わざわざ退出する意味もなさそうなので部屋に留まる。邪魔なら邪魔と式なら言うだろう。

 

 最初は話し難そうに、ただ段々まくし立てる様に彼が口にした言葉はこうだ。

 

 曰く殺した筈の母親が街を歩いていたとのこと。

 

 最初は他人の空似を疑ったものの、両親を間違えるわけがないと。

 

 そしてあとをつけたら小川マンションへと帰って行ったというのだ。

 

「ようするに両親が生きていたんだろ? ニュースにもなっていないんだから、そう考えるのが普通なんだ」

 

「そんなワケあるか! 俺は確かにお袋を殺した。親父だって死んでた。それは絶対なんだ。間違ってるのは生きているほうだっ」

 

「へぇ、間違ってるんだ。じゃあ確かめにいこう」

 

「な、に?」

 

「だからさ、そのマンションに行って確かめればいいじゃないか。本当に臙条の両親が生きているのか死んでいるのか。その方がはっきりするだろ。──もういいか」

 

「うん。ありがとう」

 

 式が臙条巴と話している間、刀の構造の把握に努めていた。これで刀も贋作ながら質を上げられたと思いたい。

 

 式の部屋には20分も居なかっただろう。まぁ、簡素で何も物も置いていない殺風景な部屋に思うところはなにもない。

 

 式はサイドカー、ハーレーに2ケツして運転は自分で後ろには臙条巴が乗る。一応小川マンションの住所は調べてあるが、万が一の道案内役に後ろについて貰った。

 

 ハーレーを転がして小川マンションに着いたのはそれでももう夜の7時過ぎだった。

 

 遂に小川マンションへと立ち入るのかと思うと動悸が早鐘を打つ。緊張しているのは今さらだった。手に厭な汗が滲む。

 

 小川マンションを一目見て、「なんだ、これ」と呟く式の声さえ半分聞き逃していた。そう思えるくらいの空気の重みを感じるのだ。

 

 臙条巴はそんなマンションの敷地内を勝手知ったると言わんばかりにずんずんと進んでいく。

 

 いよいよマンションの中に入って気分が悪くなる。

 

 ロビーに入ってマンションの中心にある大きな柱に到着する。どうもエレベーターらしい。少し煩くエレベーターの音が響く。

 

 エレベーターが到着して、臙条巴、式、自分の順番でエレベーターに乗る。

 

「………………捻れてる」

 

 式が呟く。確かに注意して感じてみれば上に昇りながらエレベーターは捻れていた。

 

 四階に着いて臙条巴のあとについていく。もうどこもかしこも気が抜けなくて、気負いすぎて変になりそうだった。

 

 エレベーターを降りて正面に続く通路を歩いていく。

 

 そのままマンションの外側に出ると、道は直角に左に曲がる。外周をまわる廊下になっているらしい。左側にはマンションの部屋が並び、右側は外に面している。下に落ちないよう転落防止用の柵が胸元辺りで設けられている。

 

「この突き当たりが俺の家だ」

 

 そうしてたどり着いた突き当たりの部屋。405号室の前で臙条巴は立ち止まった。

 

 彼の指がチャイムに向かうのを式が止めた。

 

「チャイムはいい。中に入ろう、臙条」

 

「なに言ってるんだ。勝手に入るつもりかよ」

 

「勝手もなにも、もとからここはおまえの部屋(うち)だろ。それにスイッチを入れないほうがいい。からくりがわからなくなる。カギ持ってるだろ。貸せよ」

 

 式が臙条巴から家の鍵を受け取ると、鍵を開けて扉を開いた。

 

 中には臙条巴の両親が居たが、リビングに入っても此方に気付いた様子はなく壊れた女性の相づちと騒ぎ立てる男性の怒鳴り声が響いていた。

 

「臙条が帰ってくるのはいつも何時なんだ?」

 

「九時頃だ…」

 

「あと1時間か。それまで待っていよう」

 

「なんだよコレ。いったいどうなってるんだ、両儀ッ!」

 

「チャイムもノックもしなかったから、お客さんに対応しないだけだろ。決められたパターン以外の行動に対応する為のスイッチをオレ達は押さなかった。だから客は来ていないってコトで、臙条の両親はいつも通りの生活をしているだけ」

 

 面倒くさそうに解説して式は構わず居間を横断して隣の部屋に移動した。あと1時間壊れた夫婦の会話を聞かされるなんて気が滅入りそうだ。いや、だから却って少しだけ落ち着きを払う余裕が少しだけ持てた。

 

 式は壁に凭れ掛かってぼんやりと、臙条巴はただ立ち尽くして、自分は式に倣ってこれまた壁に背を預けて待ち続けた。

 

 そして待ち続けて、誰かが帰ってきた。

 

 その誰かは両親と話すこともなく部屋に入ってきて、深い溜め息を吐いた。

 

 そこにはもう一人、臙条巴が居たのだった。

 

 その臙条巴は他に部屋には3人の人間が居るというのにまったく気付く様子もなく布団を敷いて横になった。

 

 暫くして居間から口論の声が聞こえた。ヒステリックに叫ぶ臙条巴の母の声が。

 

 そして、ごん、という鈍い音が静まりかえる臙条巴の部屋まで響く。

 

「……やめろ」

 

 襖が開いた。横になっている臙条巴が目を覚ます。立ち尽くす母の手には包丁が握られていた。

 

「巴……。死んで」

 

 悲しそうに泣きながら母は子を滅多刺しにして最後は自ら首元を斬って自殺する。

 

「──ひどい、ユメだ」

 

 まぁ、見ていて気分の良いモノじゃないのは確かだ。

 

 吐き気を堪える為だろう。口許を抑える臙条巴の顔色は蒼白と言って良かった。

 

 式が立ち上がるのに倣って自分も立ち上がる。

 

「気が済んだなら、出よう。ここにもう用はない」

 

「……用がないって、どうして! 人が──俺が、死んでるのに」

 

「なに言ってるんだおまえ。よく見ろ、血が一滴もこぼれてないだろ。朝になれば目を覚ますよ。朝に生まれて夜に死ぬ『輪』なんだ。そこで倒れているのは臙条じゃないぜ。だって、いま生きているのはおまえじゃないか」

 

 式の言葉で周りを見れる余裕が出来たのか、惨劇の現場の筈の状況を振り返る臙条巴。確かに血は一滴もこぼれてない。

 

「な、んで──」

 

「知らないよ。こんなコトをする意味がまるで分からない。とにかくここはもういいんだ。さ、早く次に行こうぜ」

 

「次って、他にどこへ行くっていうんだ、両儀!」

 

「決まってるだろ。おまえの本当の住処だよ、臙条」

 

 405号室から出て中央のロビーに戻ると式はエレベーターには乗らずにその裏側に回った。

 

 エレベーターの後ろには渡り廊下が続いていた。今まで居たのが西棟で、これから向かうのは東棟だった。

 

 東棟は西棟とまったく同じ造りだった。

 

 無人の廊下を式が先導で歩いていく。

 

 そして行き止まりの部屋の前で足を止めた。

 

「オレがおかしいと思ったのはさ、些細なコトなんだ」

 

 式は扉を睨みながら喋り始めた。

 

「おまえは405号室だと言ったじゃないか。なのに幹也の調べた資料には臙条、おまえの名前が一番後ろにあった。となると臙条って家族は四階の最後の部屋、ようするに410号室にいないとヘンなんだよ」

 

「なんだって?」

 

「あのエレベーター、暫く動かなかったんだろ? 入居者が揃ってみんなこのマンションに住み慣れた頃にやっと動き出した。それが始まりの合図だったんだ。全部、北と南を逆に入れ替える為のカラクリなんだよ。エレベーターが円形だったり音がでかかったり、凄いはったりだ。二階が使われていないのもその為だけ。乗っている人間に気づかせない様に半回転させるには、最低限一階分の距離は必要だったんだろう」

 

「じゃあ──こっちが俺の家だって言うのか」

 

「うん。正確には入居して1ヶ月間だけ居た家。エレベーターが稼働するようになってからはさっきの家だ。ナンバープレートを入れ替えて、きっと階段もエレベーターの稼働に合わせてずらしたんだろうな。階段の出口も逆にしないと話にならない。ここの階段って螺旋状になってないか?」

 

「だけどウソだぜ。普通気付くだろ、こんなの!」

 

「ここは普通じゃない。異界だ。周囲にはおんなじような四角いマンションばかりで、風景に大差はない。マンションの中は壁でしきられている。所々には怪しげな模様が混ざっていて、無意識のうちに網膜に負担を掛ける。トウコじゃないけど。ほんと、手の込んだ結界だ。細かい異常が何一つないから、大きな異常に気付かない」

 

 式がドアノブに手を伸ばす。

 

「開けるぞ。半年ぶりの我が家だぜ、臙条」

 

 式は何が面白いのか嬉々として言いながらドアを開いた。

 

 十号室はねっとりとした暗闇が纏わりつくような厭な闇が広がっていた。

 

「電気は──これか」

 

 ぱちりと音が鳴る。式が明かりを点けたのだ。

 

「──────」

 

 臙条巴の息を呑む音が厭に響く。

 

「死後半年ってところだな」

 

 落ち着いた式の声が通る。

 

 居間には人間の死体が2つあった。肉は腐敗して白骨化が進むその死体は臙条巴の両親に違いないだろう。

 

 茫然とする臙条巴に掛けてやる言葉は残念ながら持ち合わせていない。

 

「式──!」

 

「へぇ、やる気なんだ」

 

 玄関を誰かが開けた。ゆっくりと何者かが居間に入って来る。

 

 声も上げず、足音も立てずに現れた人影はどこにでも居そうな中年の男。顔に表情はなく、虚ろな視線が逆にはっきりとしていて危険なものを感じさせる。

 

投影開始(トレース・オン)──殺式ッ!」

 

 男が襲い掛かるのと同時に投影を開始する。

 

 投影したナイフを振るって男を殺す。

 

「ここじゃ狭い、廊下に出る!」

 

「ああ」

 

 一人、二人、三人、四人、玄関から殺到するマンションの住人達を撫で斬りにする。

 

 廊下に出てもマンションの住人が途切れる事はない。

 

 廊下に出れたことで些か道幅に余裕が出来た。式も参戦してナイフを振るう。

 

「どいつもこいつも死にたがっていて、吐き気がする」

 

 憎々しいと言わんばかりに吐き捨てて式は駆けていく。それに合わせるように此方もナイフを振るう。それを可能とするのは式の呼吸を理解したからだった。

 

 互いに即興でナイフを振るいながらもどこか演舞のように舞う。

 

 住人達が向かってくる先。廊下の突き当たりにその姿を見つけた。闇よりも暗く影のような男の姿を。

 

「──知ってるぞ、おまえ」

 

「荒耶宗蓮!」

 

「よもやお前まで足を踏み入れるとはな。これも抑止力と見なすか。或いは太極に引き寄せられたか。いずれにせよ両儀を覚醒させる為の手駒に過ぎなかったお前は最早用済みだ」

 

「そちらは用済みでも、此方にはまだ用向きがある」

 

「言葉は不要か。ならば語るべくもなし。お前と両儀式の器をもって根源へと至らん」

 

 荒耶の狙いが式の身体なら言葉を並べ立てたとて意味はない。殺るか殺られるか。今この瞬間はそれだけが絶対の法則となった。

 

「──粛!」

 

「止まらないで、動いてっ」

 

「チッ」

 

 荒耶の圧縮魔術が此方を襲う。思うよりも早く身体が動いていた。

 

投影開始(トレース・オン)──無垢識」

 

 迷わず対荒耶戦に於ける切り札を切る。

 

 刀を投影し、それを握ると服装も白無垢に変わる。

 

 今の自分は『両儀式』を投影した存在だ。

 

 荒耶宗蓮の死因の因果をすべて叩きつけて殺すのみ。

 

 魔力放出による瞬動術で一気に荒耶との間合いを詰める。

 

不倶(ふぐ)金剛(こんごう)蛇蝎(だかつ)、」

 

 荒耶を中心に三層の結界が展開する。

 

「ハッ」

 

 だがそれは1度見ている。外側の結界を難なくと切り裂く。しかし荒耶に近づくということは必然的にその間合いに入ることと同じことだ。

 

 銃弾すら避ける並外れた身体能力と格闘術の間合いにわざわざ入らなければならないのは死の線に触れなければならない直死の魔眼の弱点だろう。

 

王顕(おうけん)ッ」

 

「ぐっ」

 

 空間ごと動きを止められた。空間作用型の結界か!

 

「捕らえたぞ、境織姫!」

 

「それはこっちのセリフだ…!」

 

 自分の背後から式が躍り出る。

 

「たわけっ」

 

 式の振るうナイフを仏舎利を埋め込んだ左腕でガードする荒耶。だがその一閃が荒耶の手首を捉えて切断した。

 

「、戴天(たいてん)

 

 確実にナイフの刃が通り過ぎた荒耶の手首は、腕から落ちなかった。荒耶の手は傷一つない。

 

「、頂経(ちょうぎょう)

 

 荒耶の右手が動く。死なない左手から逃れた式の動きを予測して放たれた右手は、確実に彼女を捕らえていた。

 

 式が荒耶と戦っている合間に、意識を集中して自身を捕らえている結界を、その空間ごと断ち切る。

 

「がっッ」

 

「マンションそのものと1つになっていることが仇となったわね」

 

 小川マンションは荒耶宗蓮の体内だ。電灯の配線は神経であり、水道の配管は血脈に等しい。

 

 そのマンションの空間を斬ったのだから本体に傷が行くのも当然の事だった。

 

 その内臓を斬られたにも等しい痛みに僅かばかり力が弱まった荒耶の右腕を断ち切って式は大きく飛び退き、自分と並び立った。

 

「──粛!」

 

「なるほど、そういう攻撃だな」

 

 式がナイフを振るうと、荒耶の圧縮魔術を殺してみせた。織姫が出来るのだから式に出来ぬ道理はなかった。

 

「我が術をこうも悉く」

 

「言ったでしょう。貴方を殺す者だと」

 

 そう、荒耶宗蓮を殺すためなら「境織姫」は何事も躊躇なくその術を振るえるのだ。

 

 それこそ死の点すら突く事が可能だ。そして直死の魔眼の効果を最大に発揮すれば人形の合間を移動する魂さえも殺すことが可能だ。

 

「そう。私は貴方を殺すために境織姫によって生み出された抑止力なのだから」

 

「境織姫ぃッ!」

 

 斬ッ、斬撃を放つ。

 

 それは結界の二層目を断ち切り荒耶の身体を掠めるに留まったが、確実に結界以外のなにかを斬った感覚があった。

 

 それは荒耶の起源である『静止』の概念を、斬ったのだった。

 

 つまりそれは止まっていた荒耶に流れが生じるという事であり、生じるのならば直死の魔眼で殺せない道理はなかった。

 

()()()

 

「王顕ッ」

 

 空間結界も式は殺してみせた。

 

 その間隙を突いて、荒耶の左腕を斬り飛ばす。

 

「両儀ぃッ」

 

 まるで呪いの様な怨嗟を募らせた声で叫ぶ荒耶。

 

 それに怯むことなく返す刃で荒耶の胸──死の点を突いた。

 

「……そうか──お前が、我が寿命か。境織姫」

 

 人間には定められた死というものがある。

 

 火事で死ぬ者は火事で死に、家族に殺される者はどう足掻こうと家族に殺される。

 

 その定められた死に方をとある者達は寿命と呼んだ。

 

 巫条ビルで相対し、1度敗れて死んだ荒耶はどう足掻こうとも境織姫によって死ぬ定めだったのだ。

 

 『静止』という概念を断ち切られ、死の点をも突かれた荒耶は自らの生が急速に死に向かっているのを感じていた。

 

「なにが貴様をそうさせた。境織姫」

 

「ただ救いたい人が居た。その運命を変えるために貴方が最後の障害だった。だから境織姫は荒耶宗蓮を殺すための器を造り上げた。その存在を許せない1人の人間の執念に負けたのよ」

 

「なんと、手前勝手な話だ」

 

「どのみち貴方が根源に至れば人理は破滅する。それを識っていた境織姫に目をつけられたところから抑止力は働いていたのよ。だから私は生まれることが出来た」

 

「お前は──何だ。境織姫」

 

「観測者であり、ただこの世界が好きな人間の1人だ」

 

「人間か…。度し難い。誰も世界の危機など知らぬくせに、無意識下で生き残りたいと願うそれが貴様を造り上げたか」

 

 荒耶は目の前の存在が憐れだと思った。

 

「後悔するぞ、境織姫。お前の果ては人理の操り人形だ」

 

「たとえそうだとしても、願いを叶えた対価なら支払おうとも」

 

「問うべくもなくか。では先に冥土でお前を待っているぞ、境織姫──」

 

 黒い塵となって消えていく荒耶宗蓮。

 

 刀を鞘に納めて投影が解かれる。

 

「殺ったのか」

 

「うん」

 

 式の言葉に答えて肩から力が抜ける。まだやることはいくつか残っているが、一先ず一段落は付いたはずだ。

 

「お、終わった……のか」

 

 式と互いに息を抜いていると臙条巴が声を掛けてきた。そうだ、彼の処遇も考えなければならない。

 

 それに小川マンションには赤ザコことコルネリウス・アルバも関わっているが、荒耶との戦闘中まったく姿を見せてこなかった。あくまでも狙いは橙子さんだけということなのか。ならあとは橙子さんに丸投げしても良いだろう。

 

 それでも警戒は解かずに小川マンションをあとにした。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

臙条巴

創作意欲がガス欠を起こしまして、それでもリハビリ的にチマチマ書いた結果コレですので、短いながらよろしくしてやってください。


 

「まさかあの荒耶を倒すとはな」

 

「式が居たからどうにかって感じでしたけどね」

 

 式との連携があったから結界に捕まっても対処が出来た。式が居なければ今頃自分は荒耶に捕まっていただろう。

 

「あのマンションは太極を象り極致に至る為の装置です。あの男が根源に至れば人理は破滅を迎えていたかもしれない。その為の抑止力として僕はともかく式は、あのマンションに導かれたのかもしれません」

 

「あの少年を助けるのは、その切っ掛けだったからと?」

 

「わかりません。ただ、見捨てるのも違うのかなって思っただけで」

 

 連れ帰った臙条巴の身体はかなりガタがきていた。

 

 出会って数時間の相手に特別抱く感情なんてなかったけれども、ただ見捨てるというのも後味が悪かった。

 

 夜も寝静まる頃に臙条巴を連れてきたことで機嫌が悪い橙子さんの指示を受けながら臙条巴の人形を造り、魂を移し替えて作業が終わったのはつい先ほど。

 

 徹夜明けのコーヒーを飲みながら事の顛末を語った。

 

「しかしあのマンションがヤツの仕込みだったとはね。ということは、お前は運命に打ち勝ったということか。一先ずおめでとうと言っておこうか」

 

「ありがとうございます。ただ小川マンションには他に関わる魔術師がいますので。まだ気は抜けません」

 

「なんだ、その魔術師もお前達で片付けてしまえば良かったじゃないか」

 

 橙子さんはそう言うが、昨夜は荒耶相手でお腹いっぱいだ。だから姿を現さないアルバをわざわざ探す様な気力はなかった。

 

「コルネリウス・アルバ。この魔術師が荒耶宗蓮の協力者の1人です」

 

「“運命”の啓示とやらか。ずいぶん懐かしい名前を聞いたな。それで? 私に何をさせたいんだ」

 

「特には何も。あちらが仕掛けてくるのならば迎え撃つだけです」

 

 橙子さんの旧友だとしても、こちらを脅かすのならば容赦はしない。

 

 そして一夜が明ける。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 出勤してきた幹也先輩のコーヒーを楽しんでいた時だ。

 

「──侵入者だ」

 

 橙子さんが呟く。

 

「黒桐、この指輪を持って壁際に立て。指には嵌めるな。すぐに客が来るが、声も上げず徹底的に無視しろ。いいな。そうすれば客はお前に気付かないからな」

 

 幹也先輩に草を結んだ指輪を渡す橙子さん。認識阻害の魔術道具だろう。

 

 一体なんだかまだ事態を把握できてない幹也先輩はそれでも言われた通りに壁際に立つ。

 

 一緒にコーヒーを飲んでいた霧絵の分は無いのかと目で訴えれば、橙子さんは首を横に振る。仕方がないので霧絵を守れる位置に陣取る。

 

 すると事務所のドアが開かれた。

 

「やあアオザキ! 久し振りだね、ご機嫌はいかがかな?」

 

 入ってきたのは全身赤ずくめの紳士然とした格好の男だった。

 

「コルネリウス・アルバ。シュポンハイム修道院の次期院長が、こんな僻地に何の用だ」

 

「はは。そんなの決まってるだろう! 全てはキミに会うためさ。しかし、面白い事もあるものだ。荒耶を討った者たちが君の関係者だったとはね」

 

「世間話をする為に来たのならお帰り願おう。人の工房に無断で足を踏み入れたんだ。殺されても文句は言えんぞ」

 

 面倒そうに橙子さんはコルネリウスに言い放つ。

 

「キミたちの方が先に無断で私の世界に入ったじゃないか。本来ならキミたちこそ不作法と罵られるべきだがね」

 

 コルネリウスの視線が僕と式に向けられる。ただそれもほんの僅かだけで、すぐに視線は橙子さんへと向き直った。

 

「荒耶が斃れた今、この国に留まる理由もない筈だが?」

 

「いいやあるのだよ。しかしキミの本拠地ではさすがに落ち着けない。楽しい話はくつろげる場所でするものだ。違うかい?」

 

「さてね。お前にとっては楽しいことでも、私にとっては退屈であるかもしれない」

 

 バタンっと、事務所のドアが勝手に閉じる。

 

「な、何を!?」

 

 ガチャガチャとドアノブをコルネリウスは回すが、ドアは開く気配はない。

 

「言ったろう、アルバ。人の工房に無断で足を踏み入れたんだ。その対価を支払わずに出ていけると思うな」

 

 そう言いつつ、事務所のロッカーからカバンを取り出す橙子さんは一言「出ろ」と告げると、カバンの仲から黒いネコの様なシルエットを持つ影が現れた。

 

「話が違うぞ、お前の使い魔は妹に破れたというのは偽りか…!」

 

「どうも最近物騒だったんでね。造り直した甲斐はあったらしいな」

 

 タバコに火を点けて咥える橙子さんの目は冷めていた。

 

Go away the shadow.(影は消えよ)──」

 

 落ち着いた、しかし限界近い早さで紡がれる呪文。だが目と鼻の先に敵が控えているのにも関わらず呪文を紡ぐのは悪手である。だがそれも解らぬ程度でもないコルネリウスは、威力は落ちるが、呪文を徹底的に短くして即魔術を放った。

 

 炎の魔術は橙子の使い魔を確かに焼いたが、焼かれたのにも関わらずけろりとしている。

 

「バカなっ」

 

「行け…!」

 

 橙子さんが命じるとネコは真っ直ぐコルネリウスに向かって飛び掛かった。ばくんと言う擬音が聞こえて来そうな程の躍動感を伴なって開かれた口は容赦なくコルネリウスを呑み込んだ。

 

「た、食べちゃったんですか…?」

 

 人間が食べられるという些かショッキングな光景に霧絵が言葉を漏らす。

 

「そうだが? 魔術師同士の闘争に余計な感情は不用だ。殺るか殺られるか。それしかない」

 

 なんてことはないと、橙子さんは言う。

 

「あとは小川マンションの解体ですね。匿名で始末を魔術協会に頼めないですか?」

 

 タバコを吸う橙子さんに問い掛ける。すると橙子さんの表情が面倒くさそうに変わった。

 

「面倒な置き土産をしてくれたものだ。制御を外れた結界が広がるか、逆に縮むにしろ魔術の秘匿に引っ掛かる。やるしかないか」

 

 小川マンションの後始末を心底面倒くさそうに煙と共に吐き出す橙子さん。

 

「お手伝いしましょうか?」

 

「ネコの手でも借りたいくらいだ。頼むぞ織姫」

 

 小川マンションの後片付けは非常に気が滅入る作業だった。

 

 幹也先輩が調べ上げた30世帯分の遺体の片付けは特にだ。死が渦巻いていてよろしくない雰囲気が充満していた。

 

「しかし良かったんですか? コルネリウスの件は」

 

「他人の工房で先に攻撃したのは向こうだ。私のは正当防衛でしかない。それにヤツの目的は私だったのだろう? ならばそれ相応の対応はするさ」

 

 コルネリウスが荒耶宗蓮と繋がっているとは言ったのは自分だ。しかしそれで昔の旧友をあっさりと手に掛けてしまえる橙子さんのドライさが少しだけ恐かった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 片付けを終えて一段落したものの、両手を上げて喜べるにはまだ早かった。

 

 荒耶宗蓮が残した厄介者。起源覚醒者──白純里緒が残っている。

 

 そちらは今は放置する。下手に手を出して幹也先輩が白純里緒を追う邪魔をする事もない。

 

 その結果として幾人かの犠牲者が出てしまうのも知っているが、今くらいつかの間の平和になった日常を噛み締めても良いのではないだろうか。

 

「何故、俺を助けた?」

 

 そう問い掛けてくるのは臙条巴だった。

 

「あのまま見捨てるのも後味が悪そうだったからさ。それとも見捨てて欲しかった?」

 

「わかンねぇよ、そんなの」

 

「余計な世話だって思うなら、その身体で生き残った分長生きすれば僕は充分さ」

 

「長生きって、今さらどう生きろってンだよ」

 

「差し当たってやることがないならウチで雑用係りなんてのはどう?」

 

 人形の展覧会なんかでは男手があるのに越したことはない。

 

「先ずは雑用を通して社会復帰すれば良いさ」

 

「ハッ、そう簡単に事が運べば誰も苦労なんてしないぜ」

 

 両親を亡くして自棄に浸る臙条巴の気分も解らなくはない。同じ様に社会復帰に何度も失敗して自棄になった経験がある。

 

「だから焦る必要がない伽藍の堂(ウチ)で一先ずやっていけばって言ってるのさ。所長の許可も貰ってるよ」

 

「お膳立てはされてるってことか。……わかった。暫く世話になる」

 

 こうして臙条巴も伽藍の堂のメンバーとなった。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 巴は苦悩している事があった。

 

 事のあらましを聞かされても理解できた事は少ない。

 

 魔術がなんだ、魔術師がどうしたなんて言うのは全くさっぱり解らない話を聞かされた。

 

 ちょっとそこまで買い物に行って、運悪く事故にあった程度だとなんとなしに織姫に言われても納得は出来なかった。

 

 両親は死んで、本物の自分も死んでいるのに、何故自分は生きているのだろうかと。

 

「せっかく生き残ったんだから、第二の人生を歩むみたいに楽しめば良いと思うけど」

 

「そんな楽観的にすぐ成れるワケないだろ」

 

「悲観的すぎるのも心に良くないとは思うけどね。まぁそれも、今の臙条巴が抱いている悩みならそれは君が臙条巴として存在している事に違いはないでしょ」

 

「俺が俺として…」

 

 解らない言葉ではなかった。胸にすとんと落ちるにはまだ歪だったが、それでも今こうして悩んでいる自分は自分だけの物だと言えた。

 

「本物も偽物も関係無い。今この瞬間僕と話している臙条巴は君だけだ。一先ずそれで納得してみない?」

 

「わかったよ。良し、取り敢えずくよくよすんのは止めにする。境の言う通り前向いてやってやるよ」

 

「それは良かった。僕も顔の暗い新入社員を紹介せずに済みそうだ」

 

「言ってろ。すぐに真人間になって驚かせてやる」

 

 まだ空元気も良いところだが。そうでもしないと前に向けなさそうだった巴は前を向くことにした。

 

「はいお三方、しばし注目! 伽藍の堂の新入社員を紹介します」

 

 そう言って織姫は橙子以外の3人、幹也と式、霧絵の注目を集める。

 

「臙条巴です、よろしくお願いします!」

 

 矛盾螺旋を抜けた臙条巴というひとりの人間の再スタートが始まったのである。

 

 

 

 

to be continued…

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

忘却録音

 

 年末が近付いていた。

 

 それはすなわちクリスマスという一大イベントがあるのだが。

 

「織姫さんとのイブは譲れない……!」

 

「私だって、彼と一緒に思い出に残るようなイブにしたいの……っ」

 

 今僕は2人の女性から腕を引っ張られていた。

 

 片方は藤乃、片方は霧絵。

 

 クリスマスイヴを誰と過ごすのかというところで藤乃と霧絵が揉める事になるなんて思いもしなかった。

 

「2人とも一旦落ち着こう。服の袖が取れちゃう」

 

「いっそのこと、織姫さんが決めてください。それなら納得します」

 

「そうね。あなたが決めたことなら従うわ」

 

 どうも難しい選択を迫られてしまった。

 

 藤乃の事は生涯を懸ける程に好きだが、それで霧絵を仲間外れにしてしまう事も違うだろう。

 

 そもそも藤乃とは恋人関係で良かったのだろうか。

 

 それに霧絵から向けられる好意もただの友だちとは違うのは伝わってくる。

 

 これは回答を間違えるワケにはいかない。

 

 ちなみに周りに助けてくれる仲間は居ない。橙子さんは何が楽しいのかニマニマとこちらを見ているだけだし、式は興味も無さげにぼーっとしているし、幹也先輩と巴は人形展の片付けで今ここには居ないから相談しようもない。たとえ居たとしても式に真っ直ぐな幹也先輩の意見が通用するかといわれたら無理かもしれない。

 

 良し、腹は決まった。いざ──。

 

「3人で過ごすんじゃダメ?」

 

「「ダメです!」」

 

 独占欲が強くなっているらしい2人の様子にどうしたものかと頭を悩ませる。ただこうして美人な2人に言い寄られているというのはどうも幸せでつい口許が弧を描く。前世は非モテだったからなぁ。

 

「でも公平性を出すならいつも一緒に居る霧絵には少し我慢してねって言うことになっちゃうよ?」

 

「なっ、うっ、そんな…、悲しいことを言わないで」

 

 霧絵は胸を押さえて俯いてしまった。そんなにショックを受けなくても。毎日一緒に居るじゃないか。

 

「好きな人が目の前にいるのに我慢するのは辛いことですよ織姫さん」

 

「だから折衝案として3人でクリスマス過ごそうって提案したんだけど」

 

「そういうのはわかりますけど、やっぱり2人きりの夜を過ごしてみたいのは諦められません」

 

「それは解るけど」

 

「良いの。私がわがままを言っただけだから」

 

 そう言った霧絵の手を藤乃が取る。

 

「やっぱり3人で過ごしましょう。霧絵さんを仲間外れにしても楽しめるわけではないですから」

 

「藤乃ちゃん…」

 

「霧絵さんもわたしの大切なお友達ですから」

 

「うん……。ありがとう、藤乃ちゃん」

 

 こりゃ間に入るのは野暮だ。と思えば2人してこっちの手を握り締めて来る。

 

「絶対、良い思い出になるクリスマスにしましょう。藤乃ちゃん、織姫さん」

 

「ええ。そうですね」

 

「そうだね。初詣も含めて2人と過ごせるのはきっと楽しいと思う」

 

 そう、楽しい思い出になる筈だ。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 クリスマスイブと聞くと幼い頃の──前世での話だが、サンタクロースがプレゼントをくれるのをワクワクしていた記憶を思い出す。毎年毎年、12月25日は朝から新しく届いたオモチャやゲームを遊び倒したものだ。

 

 

 まぁ、何が言いたいのかと言えば、そのワクワクを思い出す程に、自分は藤乃と霧絵とのデートを楽しみにしていた。

 

 午前中は買ってきたクリスマスツリーの飾りつけを楽しんだ。子供みたいにはしゃぐ霧絵は感性が少女そのものだ。微笑ましくなる。

 

 夜は観布子駅前の繁華街をイルミネーションを楽しみながら見て回った。

 

 そして最後に訪れたのは繁華街から少し離れたホテル街である。

 

 もう何も言うことはない。少なくとも前を手を引きながら歩く藤乃の歩みに迷いはなかった。つまりはそういうことなのだ。

 

「もう2年も待ちましたからね。今日は寝かせませんよ、織姫さん」

 

「や、藤乃がその気なら良いけど。霧絵はどうするのさ」

 

「えうっ!? あ、や、その、あうぅ……」

 

 どういうことだか理解が及んだ霧絵は耳まで真っ赤にして俯いてしまう。

 

「どうします? 別に寝てても構いませんが」

 

「…わ、私は……」

 

「一先ず一緒にシャワーを浴びる所から始めますか?」

 

「そ、そうね。一緒にシャワーくらいなら。タオルで身体を隠せば多分平気、よね…」

 

 暴走ダンプカーふじのんは止まらない。

 

 無敵のふじのんは霧絵を言いくるめてしまった。

 

 後は男の自分が腹を括るだけである。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 ある意味で記憶に残る夜を過ごして数日にはもう新年の始まりだ。

 

 初詣も3人で済ませて伽藍の堂に帰ってくると、鮮花が来ていた。それぞれ新年の挨拶を済ませると橙子さんが切り出した。

 

「鮮花にはもう訊いたんだが。藤乃、礼園の一年四組の事件についてなにか知っているか?」

 

「一年四組ですか? 2人の生徒が口論の末に互いにカッターで切りつけあったという事件なら」

 

「他にはなかったか?」

 

「他にですか? 関係あるかどうかは分かりませんが、妖精が現れたとかの噂なら聞いた事はあります」

 

「なるほど。藤乃も大して変わらんか。藤乃も礼園の生徒だし、ついでに話してしまおう。織姫、霧絵を連れて少し席を外してくれ」

 

「わかりました。行こう霧絵」

 

「え? あ、はい」

 

 霧絵を連れて事務所を出る。

 

 礼園女学院、妖精と聞いて思い出すのは忘却録音だ。

 

 礼園女学院で起こっている妖精騒ぎの真相を究明する事だったはず。

 

 さて。場所が場所だ。全寮制の女子高だから男の自分はお呼びでない。そう思っていたはずなんだが。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 

「それではシスター、失礼しました」

 

 鮮花がそう言って職員室の扉を閉める。

 

 鮮花と藤乃、この組み合わせは解る。互いに友だちで同じ礼園の生徒だからだ。

 

 そこに式も居る。これは解る。妖精の対処に妖精を視る事の出来る目として式が抜擢されたのも、原作ではそうだったから理解出来る。

 

 そして何故か礼園の制服を着ている自分。理解出来ない。なんでさ。

 

「とても似合っていると思いますよ、織姫さん」

 

「女の子の格好して似合っているってのはダメージが来ると思うんだよ、藤乃」

 

「コイツが居るならオレは必要ないと思うんだが。トウコって実は頭悪いんじゃないか?」

 

 気怠く息を吐く式に便乗する。いやまさか自分までも巻き込まれるとは普通思わない。何故なら自分はれっきとした男なのだから。

 

 エロゲじゃあるまいし、女装して女子高に通うなんてのは創作だから出来ることだ。

 

「僕も魔眼持ちだからって、こんな格好するなんて思ってもみなかった」

 

 なにしろ今日の朝起きたら橙子さんに礼園女学院で起きている妖精騒ぎの真相究明をやる事になった鮮花と藤乃を手伝ってやれと制服を渡されて式と共に礼園へと向かわされたのだから寝耳に水である。

 

「私は四組の担任の玄霧先生に話を聞きに行ってくるから、藤乃は四組の子たちに話を訊きに行って貰える?」

 

「ええ、分かったわ。行きましょうか織姫さん」

 

「え、あ、ちょ、藤乃!?」

 

 藤乃に強く手を引かれてその場から離れていく。式と鮮花をペアにして良かったのだろうかと不安が残る。

 

 少し行くと藤乃は歩みを緩めた。

 

「ごめんなさい織姫さん。ちょっと浮かれちゃって。お揃いの制服を着て学校に通うのって、なんだか素敵じゃないですか」

 

「それは、そうなのかな?」

 

「ええ。とても良いことです!」

 

 今の藤乃の勢いは暴走ダンプカーモードに近い。

 

 無敵の藤乃相手には為す術を悲しいかな持っていないのだ。

 

 自分の我が儘で同じ高校に通えなかったのを気にしているのだろうか。

 

 荒耶宗蓮という運命に打ち勝つ為だったとはいえ、少しばかりの罪悪感が沸き上がる。

 

「でもやっぱり無理があるんじゃないかな」

 

「そうでしょうか? そうは見えませんけど。それに普段の着物姿とあまり変わらないと思いますが」

 

「あれは意味があるから着てるだけだよ。まぁ、今は意味があるから渋々だけど着るけどね」

 

 しかし薄いワケじゃないのに礼園の制服は少し身体のラインが浮き易く見えてしまう。

 

 だからなんだというワケじゃないが、骨格云々で自分が男だとバレやしないか一抹の不安はある。

 

 さてはて、玄霧皐月は鮮花と式が向かったのだから、こちらはこちらの仕事をするだけだ。

 

 一年四組の生徒から話を訊くに当たり、普通では答えてくれないから少し暗示を掛けて調べさせて貰った。

 

 とはいえ手に入る情報は今彼女達を苦しめている手紙のことばかりだ。本人さえ忘れている秘密が手紙として送られてくるということ。差出人は分からない。

 

 後は妖精の出没話も何回か聞くことが出来た。

 

 そして一年四組の生徒たちが隠したがっている秘密も。

 

 一年四組の生徒は高校生から礼園にやって来た生徒が大半だという。

 

 今までなんら縛りのなかった彼女達に礼園の校則は重い呪縛だっただろう。

 

 ハメを外したくて仕方のない生徒もいただろう。

 

 前任だった葉山英雄が自分の担当していたクラスの生徒を脅して外に連れ出し、援助交際をさせていたと言うことだ。中には自分から望んで連れていかれた子も居たそうだ。

 

 他にも証言を得られたのは橘佳織という女生徒の話だ。11月、礼園で起きた火事の唯一の犠牲者。

 

 彼女もまた葉山英雄の犠牲者だ。

 

 望まない妊娠をさせられてしまい、自殺に追い込まれた悲しい女の子だ。

 

 玄霧皐月のもとへ話を訊きに行った鮮花と式だが、目ぼしい収穫はなかったそうだ。

 

「援助交際なんて。そんなのが礼園(ウチ)で起こってたなんて。葉山はクズね」

 

「声を落として鮮花。誰かに聞かれたらコトだ」

 

 そう僕が言うと、口を押さえる鮮花。

 

「それよりも問題なのは鮮花の記憶が抜かれた事だ。僕が男だとバレてしまったかもしれない」

 

「妖精を操る魔術師が告げ口したらマズイわね。私が迂闊だったわ…」

 

 鮮花と式と合流したら、1時間程鮮花は記憶が無いという。

 

 どんな記憶を奪われたのかは判らないが、敵に1本取られてしまったのは確かだ。

 

「まぁ、告げ口されたらされたでそいつは僕の敵になったも同然だ。その時は僕も動かせて貰うよ」

 

「織姫、物騒なことを言わないでちょうだい。私が通う学校で殺人事件なんて起こされたくないのだけど」

 

「それはあちらの出方次第さ」

 

 今の自分はあくまでも鮮花と藤乃のお手伝いさんだから出しゃばるつもりはないが、こちらに害意を向けるのならばそのか限りじゃない。

 

「とりあえず寮に戻ります。方針、改めなくちゃいけないみたいだから」

 

 ここで僕が妖精を操っている人間が誰なのか告げれば話は早いだろうが、それはそれで頑張っている鮮花には悪いので言葉を伏せる。そもそも証拠の無い原作知識として知っているだけだから卑怯だろう、そういう埒外からの真相は。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

忘却録音Ⅱ

 

 礼園女学院の寮は午後六時以降、寮内の行き来さえ禁止されるのだという。

 

 トイレは別として、唯一例外は一階にある学習室を利用する時のみ部屋から出ることを許されるのだそうだ。

 

 高校から入学した生徒はその不自由さに慣れず、度々友人の部屋に遊びに行っては見回りのシスターに発見されるらしい。

 

 小等部から過ごしている生徒は慣れたもので、無闇に外出はせず、するにしてもシスターの見回りルートを知り尽くしているので見つかることはないらしい。

 

 そんな話を丁寧に藤乃は聞かせてくれた。

 

 鮮花の部屋には式が、藤乃の部屋には僕が失礼する事になった。鮮花の同室は今実家に帰っていて居ないのだとか。藤乃はひとりで一部屋を使っているのでお邪魔する事になった。

 

「ということですので、本日はもう寮内での行動は出来ません。起床は五時ですが、冬休み中は朝の礼拝はないので六時あたりまで眠っていても良いですよ」

 

「つまり12時間も暇なワケか。っ、藤乃!? なにするの? あ、眼鏡取らないで…っ」

 

 半日も暇な時間をどうしようか考えていたら藤乃にベッドに押し倒された。ふわりと女の子の甘い香りが鼻孔を撫でて行く。自分を強い自分にしている眼鏡を奪われると、弱い自分が表に出てきてしまう。

 

「久しぶりに2人っきりなんですから、良いじゃありませんか」

 

「……それを言われたらどうしようもないじゃないか」

 

「はい、わかって言っていますから」

 

 クリスマスも元旦も、霧絵も交えて3人で過ごしたのは別として、やっぱり2人っきりという特別が欲しい藤乃の反撃だった。

 

「いつもとは違って、礼園の制服姿だと、いけないことをしている様に感じますね」

 

「藤乃はそっちの趣味でもあるの?」

 

「いいえ。相手が織姫さんだからですよ」

 

 そう言いながら指を恋人繋ぎにして身を落とす藤乃の唇が、僕の唇を奪っていく。

 

 そして僕を見下ろす藤乃はとても愉しそうに笑うのだ。

 

 それも仕方の無い事だ。

 

 これから織姫を貪る事に藤乃は愉悦を覚えるのだから。

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 藤乃に貪り尽くされてまともに寝れなかった僕は朝の五時に身体を起こした。

 

「あれ? 織姫、もう起きてたの?」

 

「おはよう鮮花」

 

 部屋のドアに仕掛けたルーンを再度掛け直していると鮮花と出会した。人避けのルーンと守護のルーンだ。人避けのルーンはともかく、守護のルーンには何かが接触した痕跡が見受けられた。

 

「今のルーン魔術よね? 何かしたの?」

 

「人避けと守護のルーンを施したんだ。守護のルーンには干渉された痕があったけれど」

 

「それって誰かが部屋に入ろうとしたってこと?」

 

「誰かというより、()()だね。まぁ、案外妖精を操っている魔術師は未熟かもしれないね」

 

 原初のルーンまで再現した橙子さんのルーン魔術が凄いのだろう。そんな橙子さんから魔術を習っているのだから生半可な魔術師に遅れを取るつもりはない。

 

「それじゃあ織姫、藤乃を連れて食堂に向かいましょ」

 

「あー、藤乃は明け方まで起きててやっと寝付いたから寝かせておいた方が良いかもね」

 

「明け方までって、なにしてたのよ」

 

 鮮花がジト目を浮かべて言う。しかし何があったのかを赤裸々に話す必要はないだろう。

 

「別に。ちょっと話し込んじゃっただけだよ」

 

「……まぁ、それで騙されてあげるけど、部屋以外では慎みのある淑女として振る舞ってくださいね」

 

「わ、わかりました」

 

 しかし聞く程でもないと言わんばかりに、鮮花の中では答えが出来上がっていたらしい。藤乃と自分の関係を知っている鮮花なら推理するまでもなかったのだろう。

 

「じゃあ朝は私と織姫だけね。織姫も妖精って見えるのよね」

 

「式に視えるのなら僕にも視えるね」

 

「じゃあ問題ないか。一先ず朝食にしましょ」

 

「わかった」

 

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 朝食を終えて、鮮花は昨日調べあげた互いの収穫をまた1度反復していた。

 

「とにかく今判っていることは、一年四組をターゲットに本人も忘れていた秘密を書かれた手紙が来ていること。口論の末に切りあった2人のどちらかが手紙の送り主ではないかと思って、刃物を持ち出したにも関わらず玄霧先生が止めに入るまで誰も止めようとはしなかった。そして玄霧先生はその場に居て口論を止めたはずなのにその記憶が曖昧だという。つまり記憶を奪われた。記憶を奪う妖精と、その妖精使いの魔術師の目的はなんなのか」

 

「隠したいことがあるから記憶を奪っているんじゃないかな?」

 

「隠したいことねぇ。葉山に連れられて援助交際をしていたという特大の爆弾以外に隠していることがあるっていうの?」

 

「それは分からないけれど、手紙も奪われた記憶も四組で起こっている、つまり四組の特殊性を辿れば良いんじゃないかな?」

 

「四組の特殊性……。橘佳織と葉山英雄、か」

 

 地頭が良い鮮花にちょっとしたヒントを出すだけで答えに辿り着いて行くのは話が早くて助かる。

 

「とりあえず橘佳織と葉山英雄に関してもう1度四組の生徒に聞いてみましょ」

 

「それは構わないけど、普通に話しても話してくれないよ?」

 

「昨日は生徒に暗示を掛けて訊いたんでしょ? なら同じ方法でお願いするわ」

 

「わかったよ」

 

 と言うわけで暗示を掛けて話を訊きやすくなった四組の生徒から再び事情聴取を行った結果、橘佳織についてある憶測が立った。

 

「妊娠疑惑とそれに伴うクラスでの孤立、か」

 

「九月あたりから体育の授業を見学し始めて、十月からは欠席が多くなって、火事が起きる1週間前からは1度も登校していないと」

 

「もし本当に妊娠していたのなら、相当なストレスだったのは間違いないわね」

 

 念のために保健室のシスターにも尋ねてみれば、生理がやってこないと橘佳織に相談を受けたという事だ。

 

 自身の妊娠を苦にした自殺。

 

 橘佳織という亡くなった女生徒に対する事実は概ねそのあたりだろう。

 

「私、少し寄りたいところがあるんだけど、良い?」

 

「オッケー、構わないよ」

 

 鮮花に付いて行って辿り着いたのは職員室だ。誰も姿もなく暖房も点いていない寒気が支配する静かな部屋だった。

 

 神よ、感謝しますと言って、鮮花は事務の資料棚をあさりはじめた。

 

「見つけた…」

 

「なにを見つけたの?」

 

「葉山英雄についての資料よ」

 

 職員室のドアの前で見張りをしていれば、鮮花は葉山英雄についての書類を見つけたらしい。

 

「葉山英雄、九七年二月就任、九ハ年十二月退職……? おかしいわ。葉山は十一月のはじめに寮に放火して、そのまま学園から姿を消した。なのに十二月まで職員として登録されている。しかも退職になった理由が住所不定の為って、ようするに行方不明ってこと?」

 

「行方不明ね。とりあえず片付けよう。いつまでも誰も来ないなんて限らないし」

 

「そ、そうね。そうしましょ」

 

 本当はどうなっているのかを知っているこちらとしては鮮花の様に混乱する事はない。なんか鮮花を騙しているみたいで少しだけ罪悪感が沸いてくる。

 

 資料を片付けて廊下に出ると、まるで待っていたかの様にとある人物と相対した。

 

「おや、職員室に何の用ですか、黒桐君」

 

「…おはようございます、玄霧先生」

 

 実際に見る玄霧皐月という人物は無害そうなどこにでもいる普通の男に見える。

 

 そんな男が黒幕の1人だなんて誰が判るというのだろう。

 

 少々長話をした鮮花と玄霧皐月。

 

 僕は全力で気配を消していたから話題には上がらなかった。鮮花と共にその場を無言で辞する。

 

 まぁ、玄霧皐月には戦う術など無いというのだから用心のし過ぎかもしれないが。

 

「どうしたの織姫? シンとしちゃって」

 

「別に。なんでもないよ。それよりももう昼だけど、どうする?」

 

「そうね。じゃあ一先ず昼食にしましょ」

 

 

◇◇◇◇◇

 

 

 

 昼食は起こした藤乃と一緒に取ることになった。

 

「それで、何か判ったのですか?」

 

 藤乃が問い掛けてくる。

 

「まぁね。聞いても良い気はしない話だけど」

 

 四組の生徒から聞き出した情報を共有すると、藤乃は眉をひそめた。

 

 橘佳織の望まない妊娠と死、葉山英雄の失踪、毎日送られてくる手紙、援助交際、妖精による記憶の搾取。

 

 点と点は集まりつつあるが、それを線で結ぶにはまだ足りない。

 

「橘佳織の死と葉山英雄の行方不明が謎なのよね。本当に火事から逃げ遅れたのか。妊娠を苦にした自殺か。葉山英雄による口封じか。本人に訊こうにも、1人は死人で、もう1人は行方不明なんじゃ訊きようがないわ」

 

 手詰まりねと鮮花は言う。確かに今ある手懸かりでは妖精使いの魔術師にはたどり着けてはいなかった。

 

 鮮花が妖精使いの魔術師と相対するのは向こうから名乗り出た様なものだ。普通に調べても妖精使いの魔術師にはたどり着けなかっただろう。

 

 鮮花が1度十一月に燃えてしまった東の学生寮を見に行くというので藤乃と僕を合わせた3人で向かうことになった。

 

 鮮花1人じゃないから妖精使いの魔術師から接触があるかどうか不安だったが、杞憂だったようだ。

 

 燃え落ちた東の学生寮を見てまわっても特に何があるわけでもなかった為に早々に引き上げる事になった僕たちに、学生寮の玄関から1人の女生徒が現れた。

 

 黄路美沙夜。

 

 彼女が妖精を操る魔術師だ。

 

「調子はどう? あれから何か進展して、黒桐さん?」

 

 なんてことなく、柔らかに黄路美沙夜は告げるが、鮮花の纏う空気が変わった。

 

「どう? 藤乃、視える?」

 

 鮮花の背に隠れて藤乃に耳打ちする。

 

「はい。視えます、織姫さん」

 

 千里眼を持つ藤乃にも妖精は視える様だ。

 

 ざっと数えて50は黄路美沙夜の周りに妖精が舞っている。藤乃の歪曲の魔眼なら黄路美沙夜ごと妖精たちを捻り潰せるだろう。だが殺人はノーだという鮮花に則って、今回は殺しはナシだ。

 

「そちらは浅上藤乃さんと、どちら様かしら?」

 

「境織姫です」

 

「…あぁ、黒桐さんの兄弟子の。女装をしてまでこの学園へやってくるなんてご苦労な事です」

 

 軽蔑の眼差しを浮かべながら黄路美沙夜は、自分たちしか知らないはずの秘密を口にした。やはり鮮花から奪った記憶から情報が漏れてしまっている様だ。

 

「──そこ!」

 

 鮮花が胸もとで何かを掴んだ。きいきいと、その見えない何かが鳴いている。妖精を手掴みしたのだ。

 

「あら。黒桐さん、妖精は見えないと教えてくれたのに、もう見えるようになったの?」

 

 鮮花が妖精を手掴みしても、黄路美沙夜は余裕の態度を崩さない。それどころか、感心といったものまで見せる。なるほど、学園の鉄の女は伊達ではないと言うことか。

 

「……そっか。昨日の一時間、私は先輩とつまらない話をしていたみたいですね」

 

 鮮花は黄路美沙夜を敵と認識したのだろう。一触即発の臨戦態勢の構えを取っていた。

 

「ええ。お陰で、黒桐さん、貴女の事で解らない事は一つもなくなったわ。一時間もあったんですもの。貴女がどんな人間なのかなんて、この仔たちに掛かれば簡単に手に入ります」

 

 黄路美沙夜は片手で自分の肩に居る妖精を撫でる。

 

「冷静ね、黒桐さん。驚かないなんて、つまらないわ。私は貴女の話を聞いて驚いたのに。そうでしょう? まさかこの学園で、私以外に魔術を習っている人が居るなんて思っていなかったから」

 

「驚きませんよ。初めから妖精使いが居るって判っていましたから。けど、驚いた先輩は慌てて邪魔者(私たち)を消すために待っていたんですね。その行動自体は正しいと思いますけど……。自分から正体を明かすなんて程度が低いですよ、黄路先輩」

 

 まるで煽る様に言う鮮花だが、黄路美沙夜は余裕のある態度を崩さない。

 

「黒桐さん。私、貴女を消そうだなんて思っていないわ。だって貴女は数少ない同類ですもの。いがみ合うよりは理解しあいたいと思わない? そこの異物は別ですけれども」

 

 黄路美沙夜の塵を見るような視線がこちらを向く。

 

 こちらにも事情があっての事だが、彼女には知ったこっちゃないだろう。

 

「いきなり妖精をけしかけておいて、理解しあうもないと思いますけど」

 

「違うわ。その仔は効率のいい話し合いの席を設ける為に使ったの。本当は一対一で話しあいたかったのだけれど」

 

 邪魔者を見る目で黄路美沙夜の視線が自分と藤乃へと向く。

 

「話し合いって、私と先輩で、ですか」

 

「そう。黒桐さん、貴女はここに来てくれた。それだけで私は貴女に好感を持ったわ。だってここは──」

 

「橘佳織が亡くなった場所だから、ですか」

 

 ええ、と満足げに黄路美沙夜は頷いた。

 

「十一月の火事で逃げ遅れた一年四組の生徒ですね。その子と知り合いだったんですか、先輩は」

 

 鮮花の質問に黄路美沙夜はええ、と優雅に頷いて答えた。

 

「佳織は私の後輩だった。初等部からの、可愛い妹みたいなものだった。要領が悪くて損な役回りを演じてばかりの子だったけれど、誰よりも信仰に篤くて優しい子だった。けど、ここで死んでしまった。死ななければならない程の罪なんてない、キレイな子だったのに。信心深い彼女は、そうであるが故にもっとも辛い選択をしてしまった」

 

 橘佳織を想うが故だろう。

 

 辛そうに、本当に悲しむ様に黄路美沙夜は語る。

 

 けれど、そこから先には慈悲らしき心は一切存在しなかった。

 

「なのに、彼女達は悔い改めもしない。佳織が命まで投げ出したというのに、以前と何も変わらないのです。そんなもの、既にヒトではありません。一年四組の生徒達は皆罪人です。あのようなモノ達は私の学園には要りません。ゴミは焼き捨てるべきでしょう」

 

「一年四組の生徒が、橘佳織を殺したとでも言うんですか」

 

「それなら、いえ、その方がなんて救いがあったでしょうね、黒桐さん。佳織は自殺したのです。この意味は、貴女には解りません」

 

 軽蔑するような眼差しで、黄路美沙夜は鮮花を見た。

 

「解らなくて良いですけど。結局、橘佳織の復讐なんですか、この騒ぎの原因は」

 

「ええ。彼女達には地獄の底が相応しい。この学園で安穏に過ごさせる事は出来ません」

 

「本当に、殺す気ですか」

 

「まさか。殺してしまっては地獄には堕ちない。()()()()()()()()()()()のです。ですがそれを責めはしません。……手をお引きなさいな、黒桐さん。私、貴女とは争いたくありません」

 

 そう言うと、黄路美沙夜はもう一度肩に乗っている妖精を軽く撫でた。

 

「見えないでしょうが、この仔は黒桐さん、貴女の記憶を(はら)んでいます。キレイでしょう? 貴女の思い出は冷たくて、滑らかなの。大理石のように美しい。なのにその芯には強い炎が燃えている。私にはその中身は見れないけれど、手触りだけでとても純真なものと判ります。貴女──とても良くてよ」

 

 黄路美沙夜はそう告げてくすりと笑った。

 

 そこから長いこと鮮花と黄路美沙夜は無言で睨み合った。

 

 その沈黙に、鮮花と黄路美沙夜の間に入る事は憚られる。これは鮮花の試練でもあるからだ。

 

 自分たちは舞台の端役だ。

 

 もっとも、黄路美沙夜が仕掛けて来るのならばその限りでもないのだが。

 

 互いの沈黙は黄路美沙夜が小さく溜め息を吐いた事で終わりを迎える。

 

「仕方ありませんね。貴女とは気が合うと楽しみにしていたのに。そんな気がしない、黒桐さん?」

 

「ええ、全くしません」

 

 鮮花は即答する。

 

 黄路美沙夜はふふ、と笑った。

 

「そうかしら? 私、貴女と似ているのよ。例えば、そう──実の兄に、恋をしているところとか」

 

「…………え?」

 

 黄路美沙夜の言葉に鮮花は言葉を詰まらせた。

 

「な、な、な」

 

 なにを言うんですか、と言いたい鮮花だが、言葉にならない。

 

 黄路美沙夜は嬉しそうに目を閉じる。

 

「貴女の事は昨日、貴女自身の口から聞かせて貰ったと言ったでしょう? 貴女のお兄さんの事も、貴女の魔術師の事も知っています。そんなところまで私達は似通っている。黒桐さんは半年前からだというけれど、私はもう少し後からかしらね、魔術というものを身に付けたのは。佳織が死んで、私はその報復の為に妖精を操り、人から記憶を奪う術を身に付けた。真理を学ぶ為に魔術を習得したのではなく、個人の目的の為に魔術を身に付けたの。佳織の為に──彼女に関わった者の記憶を採集するのが私の目的。彼女の恥辱の痕跡をすべて消したいの。それ以外はどうでもいい問題よ。私がしたいのはそれだけ。形あるものを壊すわけでもなく、人を殺すわけでもない。どう、黒桐さん。これって悪いことかしら?」

 

「そんなのは、私の知った事じゃありません。けど四組の生徒達を脅しているのが貴女だという事は判りました。その原因が橘佳織にあるという事も。ですが、玄霧先生はどうでしょう?」

 

 ぴくり、と黄路美沙夜の眉が動揺に歪む。

 

 彼女が理屈を並べて自らを正当化しようと、それだけは悪と言い切れる出来事だ。

 

 玄霧皐月が担任となったのは橘佳織が死んで、葉山英雄が失踪した後だ。玄霧皐月は事件に何の関係もない。にもかかわらず、妖精によって記憶を奪われているのだから。

 

「玄霧先生の記憶を奪ったのは、余分な事です」

 

「違います。余分ではありません。あの人は、あんな事件になんて関わるべき人ではないのです。知ってしまった事実は、全て私が奪わなければいけない」

 

 鮮花の言葉は鋭く響いたが、それよりも鋭く黄路美沙夜は鮮花の言葉を切り捨てた。

 

「──どうして?」

 

「決まっているでしょう。あの人が、血をわけた私の兄だからです」

 

「……実の兄? 先生が?」

 

 信じられないと鮮花は口にする。それもそうだ。黄路の子供は皆養子だ。黄路美沙夜の旧名が玄霧美沙夜という話も嘘だとは言い切れない。

 

 本当のところはまったく違うのだが、今はそれを口にする時ではない。続く黄路美沙夜の言葉に耳を傾ける。

 

「ええ、私も初めは気付きもしなかった。佳織の死を知った後、貴女同様に一年四組に疑惑を持った私は葉山英雄を問い詰めたわ。……その後。佳織がなぜあんなことになってしまったかを知った私は、四組の担任になった玄霧皐月に相談するしか手段がなかった。……もう、私ひとりではどうする事も出来ない状況だったから。玄霧先生はどこまでも優しかった。そんな人から記憶を奪うのは心苦しかったけれど、私は彼を識る為に記憶を奪うしかなかった。でも、今はその行為こそ幸福だったと思います。先生の記憶は、たしかに私の兄である事を証明していたんですから。皐月(あに)は佳織の死の真相を全て知っていました。告発するのは容易く、しなければ自責に苦しめられるというのに、兄は彼女達の為に黙っていようと決心していたのです。……私が詰め寄ると、死者より生者を尊重すべきだと兄は言いました。ですが、私は認めません。人を一人自殺にまで追い込んでおいて平然と暮らしている彼女達は許せない。なにより──こんな汚ならしい事に胸を痛めている兄の姿を見る事が、私には耐えられなかった。だから皐月(あに)から記憶を奪ったのです。私が妹だという記憶も、あの事件に関する記憶も、すべて。皐月(あに)は何も悩む事なく平穏に生きて、ただ私を愛してくれさえすればいい。見返りなんて──何もいらないから」

 

「……でも貴女は利用してるじゃない。何も知らない担任として、一年四組の秘密を先生に守らせている。それを貴女は見て見ぬふりで、好きだなんて口走ってる」

 

「それも、もうじき終わります。言ったでしょう、黒桐さん。私達は似ているのです。だから貴女の葛藤も理解できる。私なら──貴女の望みを叶えてあげられる」

 

 だから仲間になれ、と黄路美沙夜は鮮花に手を差し出してきた。

 

「──条件つきなら、見逃してあげてもいいわ」

 

「ちょっと鮮花! っ!? 織姫さん…?」

 

 鮮花を止めようとする藤乃を止める。

 

 今はまだ待つ時だ。この問答が鮮花には必要だから待つのだ。

 

「黄路先輩、貴女が私の失くした記憶を取り出せるのなら」

 

「失くした、記憶?」

 

「そう。私には幹也(あに)を好きになった決定的な瞬間の記憶がない。気がついたら好きだった。だから、貴女がその記憶を取り出せるというのなら──」

 

「それは無理ね。本人が知らない過去は記憶ではなく記録です。妖精が掠奪できるのは貴女の記憶だけ」

 

「なら──交渉は決裂ね」

 

「鮮花…」

 

「ごめん藤乃。でもこれはちゃんとハッキリさせときたかったから」

 

 詫びを入れる鮮花に、藤乃も胸を撫で下ろす。

 

 黄路美沙夜に向き直る鮮花には闘志が巡っていた。

 

 ここで黄路美沙夜を倒すつもりらしい。なら遠慮は要らないだろう。

 

「ねえ黒桐さん。使い魔を作るには前身になるものが必要だと知っているでしょう? なら──貴女がさっきから握り締めているソレは、何から作ったものなんでしょうね?」

 

 黄路美沙夜は笑う。

 

 鮮花は握ったソレに視線を落とした。

 

 ソレは葉山英雄の顔をした小人だった。

 

 驚いた鮮花は反射的に手を離す。

 

 黄路美沙夜が動くよりも早く、こちらは動いた。

 

「やれ、藤乃!」

 

 こちらを背後から狙っていた使い魔の妖精を投影したナイフで切り刻みながら藤乃にゴーサインを出す。

 

「凶れっ!!」

 

 藤乃の魔眼がピンポイントで炸裂して、妖精の軍勢の悉くを捻り潰した。

 

「私の妖精達が…っ、何者です、あなた達は!」

 

 黄路美沙夜の鋭い視線が自分と藤乃を貫く。

 

「ただの魔術師だ」

 

「右に同じく」

 

 黄路美沙夜に対して余裕を持って答える。あれだけの数がいた妖精達を捻り潰した藤乃の魔眼の規格外っぷりにはこちらも驚かされたが、顔は崩さない。余裕を持って優雅たれだ。

 

「これでおしまい? それともまだ使い魔は残っているのか?」

 

「穢らわしい男が、私を侮らないことですっ」

 

 黄路美沙夜の背後に何かが実体化した。ソレは巨大な花の怪物だった。まるで繰糸の様な物が黄路美沙夜の腕に括り付いている。まるで黄路美沙夜の方が操り人形の様に見える。そして彼女の顔が驚嘆に崩れる。

 

「先輩!」

 

 鮮花が叫ぶ。まだ残っていた使い魔の妖精が集まってきてこちらに襲い掛かってくる。

 

投影開始(トレース・オン)──殺式!!」

 

 式を投影した自分が前に出て襲い来る使い魔の妖精を切り刻む。

 

「やれ鮮花!!」

 

「AzoLto──!」

 

 僅か三歩で黄路美沙夜との距離を詰めた鮮花は、掬い上げる様なボディーブローを花の怪物へと突き刺した。

 

 拳の着弾を確かめてから、鮮花は己の魔術を発動させる呪文を発した。

 

 大気が一瞬にして燃え上がる。

 

 黄路美沙夜の背後にいた花の怪物は苦悶の声らしきものを上げながら燃えていく。そして炎は怪物を燃やし尽くして怪物と共に消えていった。

 

「熱っ!! つい勢いでやっちゃったけど、なんだったのよあれ」

 

 右手に焼け爛れた痕を残しながら言う鮮花に近寄って癒しのルーンを刻んで瞬く間に傷を癒した。

 

「操っているようで、本当は操られていたのさ。半年学んだ鮮花でこうなるんだ。たったひと月やふた月でああして魔術を使う事なんて出来ない。黒幕は黄路美沙夜に妖精を取り憑かせる事でその問題を解決したんだ」

 

「黒幕って。そうか、黄路先輩に魔術を教えた誰かが居るんだ」

 

「そういうこと」

 

 玄霧皐月については自分はどうこうしようなんて考えてはいない。放っといても自分たちには害意はないと考えているからだ。

 

 一先ずはこれで妖精騒ぎは幕を閉じるだろう。妖精を操る本体を失っては黄路美沙夜という未熟者に出来ることはないのだから。

 

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

忘却録音Ⅲ

事後処理回なのでかなり短いですがどうぞ。


 

 黄路美沙夜については一先ずは片が着いた。もう彼女に妖精を操る術はない。

 

 しかしすべてが片付いた訳ではない。

 

 黄路美沙夜に魔術を授けた黒幕が残っているからだ。

 

 その黒幕は荒耶宗蓮に請われてやって来た玄霧皐月という魔術師だ。

 

「結局、オレはいらなかったじゃないか」

 

 黄路美沙夜を保健室に放り込んで寮に戻ると、遅れて合流した式は少し機嫌が悪そうに見える。

 

「あの玄霧って教師と戦ったけどさ、なんなんだアイツは」

 

「玄霧先生と!? なんで…!?」

 

 式の言葉に信じられないと鮮花が溢す。

 

「知らないよ。黄路ってヤツを助けるとかなんとか言って立ち塞がったんだ。ならやるしかないだろ?」

 

「だからってもう少し穏便なやり方とかあるでしょ!」

 

「玄霧皐月が今回の妖精騒ぎの黒幕だからね。いずれはやりあったかもしれない」

 

「そんな。あの玄霧先生が…なんで……」

 

 式が玄霧皐月と戦ったのならば黙っている必要も無くなった為に真実を口にする。それに鮮花はショックを受ける。

 

「黄路美沙夜に請われたからさ。一年四組の生徒を地獄に叩き落とす術をさ。それが妖精を操る魔術だったんだ。玄霧皐月は偽神の書(ゴドーワード)統一言語師(マスター・オブ・バベル)と呼ばれる封印指定の魔術師でもある。こちらから手を出さない限りほぼ害意は無い魔術師だけれどもね」

 

「ソイツが今回の黒幕なんだろ? だったらやることやって、早くこの学園からおさらばしたいもんだぜ。ここは窮屈過ぎる」

 

「そうは言っても式でもあしらわれたんじゃ僕達が行ったところで同じ末路を辿るだけだよ」

 

 こと戦闘能力という意味では式が一番だろう。

 

 その式を退けたのなら、玄霧皐月に明確な一手を期待するのなら藤乃の歪曲の魔眼くらいか。

 

「幹也から伝言がある。橘佳織の成績を調べろとさ。特に体育の出席率とかが重要らしいぜ」

 

「それならもう調べてあるけれど。それよりなに、幹也から伝言って」

 

「なんだ。もう調べてたのか。ならオレの頼み事も無駄足だったか」

 

「頼み事って、兄さんに何を頼んだのよ式!」

 

 式に食って掛かる鮮花。その鮮花を少し鬱陶しがりながら式は答えた。

 

「葉山と玄霧の礼園(ここ)に来る前の経歴とかだ。ま、お前が居るなら要らない情報だったかもな」

 

 式がこちらを見ながら言う。確かに自分には要らない情報だ。それを口にするのは簡単だが、折角調べてくれるのだから幹也先輩から鮮花に直接伝えて貰おうか。かといって何がどうなるかは変わらないと思うが。

 

 とりあえず妖精騒ぎはこれで幕引きだ。

 

「なんだかあっという間でしたね」

 

「そうだね。ちょっと名残惜しいかも」

 

「今からでも遅くはないのではないですか?」

 

「経歴に女子高出身なんて書けるわけ無いでしょ」

 

 藤乃に突っ込みを入れて肩に身を寄せてくる彼女を受け入れる。そのまま手を絡めあう。

 

「わたしはこのまま、織姫さんと高校生活を過ごしてみたいです」

 

「女装して女子高に通うなんて漫画みたいなこと出来るわけないでしょ」

 

「そうでしょうか? 誰も気付きませんよ」

 

「今回が特別なの。明日からは普段の境織姫に戻ります」

 

「普段の織姫さんも女装しているじゃないですか」

 

「それは、そうなんだけど」

 

 痛いところを突かれてしまった。意味があって女装というか式の格好を真似ているのだが、今日の藤乃は押しが強い。いや、理由はわかっている。つまるところ未練と我が儘だった。藤乃的には同じ高校に通う未練を未だ捨てきれて無かったのだろう。そういう意味では申し訳無くもある。だが決して藤乃を蔑ろにしているわけでもないのは伝わって欲しい。

 

「うわっ、藤乃、ちょっと!」

 

「今日で終わりなら、今の織姫さんをバッチリ記憶に刻み付けます」

 

「だからっていきなり、絶対藤乃そっちのケがあるよ!」

 

「そんなことありません。相手が織姫さんだからです」

 

 ベッドに押し倒されて腕を掴まれて、脚の間に身を入れてくる藤乃。さながら今から女を犯す男の図の様だ。勿論犯すのは藤乃の方で。自分は犯される立場にある構図だ。とはいえ流石にムードとかは自分も気にするが、こうなった藤乃は止められないので自分に出来ることは天井を見上げる事だけだ。

 

 翌日。英語教諭の準備室で玄霧皐月の自殺遺体が見つかった。

 

 部屋のあらゆる鍵は閉まっていたので自殺と判断されたそれが実は他殺なのを知るのは自分と、玄霧皐月を刺した犯人のみだ。

 

 ただそんなゴタゴタがあったので礼園からの退去は1日伸ばさざるを得なかったが、これで完全に礼園での事件は幕引きと言って良いだろう。橙子さんにも満足のいく報告も出来るだろう。

 

 残された駒は後1つ。ただその因縁は式と幹也先輩の方が強い。自分は降り掛かる火の粉なら払うというスタンスで良いだろうか。積極的に解決に動くには──その必要がある。

 

 なにしろ私の腕を奪った男なのだから必ず殺してみせる。

 

 

 

 

to be continued…



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。