――浜辺に倒れていた記憶喪失の女は、近所の漁師に助けられ、病院のベッドに居た。所持品は波に流されたのか、それとも元々持っていなかったのか、女の身元を証す物は何もなかった。
結局、警察はテレビや新聞で顔写真を公開し、視聴者からの情報を募ることにした。
「――この女性は記憶をなくしています。ご存じのかたは、こちらまでご連絡ください」
画面に映し出された女の顔を視た途端、
……死んでなかった。傑は心中で呟いた。
「……あなた、どうしたの?」
箸を持つ手が止まった傑の様子を見て、テーブルを挟んで夕食を摂っていた新妻の
「え?あ、いや、別に」
……女の記憶が戻る前に何とかしないと。傑は気を焦らせると、俄に不味くなった飯を喉に流し込んだ。
朋江に飽きた頃、合コンで知り合った成美と交際を始めた。朋江と正反対の成美は、
成美と結婚した傑は、朋江に別れ話を持ち出した。途端、朋江は本性を
「女ができたのね。許さないから。あなたを幸せになんかさせないから」
その、憎しみのこもった目を、傑は今でも忘れることができなかった。
この女は根に持つタイプだ。蛇のように
甘い言葉で江の島に誘うと、隙を狙って、断崖から朋江を突き落とした。――
傑は、だて眼鏡に黒いキャップで変装すると、朋江が入院している病院に赴いた。
朋江の知り合いがやって来る前に、殺らなければ……。傑は焦っていた。
その病院は、海が見える小高い丘にあった。病院の裏にある広場のベンチに座ると、新緑の木々の隙間から覗く紺碧の海を眺めた。
さて、どうやって近付こうか……。傑は策を講じた。その時だった。ふと、辺りを見回すと、ベンチで読書をしている女が居た。
あっ!朋江だと気付いた傑は、傍にあるポプラの木陰に慌てて隠れた。
すると、不意に朋江が顔を上げ、キョロキョロと辺りを見回した。ギクッとした傑は、反射的に顔を引っ込めた。
文庫本に
先刻、鍵を開けておいた非常階段から廊下に出ると、朋江が入った個室のドアノブを静かに回した。
カーテンの隙間から差す薄明かりが、ベッドに横たわる朋江の長い髪を照らしていた。傑は何の
「うッ」
朋江は暫く足をばたつかせていたが、やがて動きを止めた。
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2
必死で逃げ帰った。恐ろしくて死に顔は見てないが、確かに朋江は動かなかった。必ず死んでいるはずだ。小心者の傑は、そう自分に言い聞かせた。
だが、翌朝のニュースで傑は
「――△病院で死亡していた女性は、山野忠子さん――」
えっ! 山野? 傑は
ち、違う! 朋江じゃない。傑は
「――山野さんの死因は窒息死と見られ、病院の関係者から事情を聴くとともに、事件と事故の両面から捜査が行われています――」
……別人を殺してしまった。傑は、血の気が引くのを感じていた。
「……あなた?」
箸を持ったままで呆然としている傑に、成美が眉をひそめた。
「……え?」
「どうしたの? 最近、なんか変よ」
「なんでもない。今日も麻雀で遅くなるから」
傑は茶漬けを流し込むと、慌ただしく腰を上げた。
違う女を殺してしまった。……どうする。早くしないと、朋江の親類や知り合いが先に漕ぎ着けるかもしれない。……どうすればいいんだ。傑は焦燥感に駈られ、手っ取り早い手段に走った。――
「もしもし、お電話代わりました」
間違いなく朋江の声だ。
「……あなたを知ってるという人から
公衆電話の受話器にハンカチを当てると、傑は
「えっ! ほんとですか?」
俺だとは気付いていない。傑はしめたと思った。
「今夜の八時に、病院にある広場のベンチに来てほしいとのことです」
「はい、分かりました。そのかたのお名前は」
「……鈴木ひろし」
あらかじめ考えておいた名前を言った。
「鈴木さんですね? はい、分かりました。八時に行きます」
「それと、……彼は僕の友人なんですが、妻子があるんですよ。あなたと付き合っていたことは内緒にしたいわけです。だからあなたも、彼と会うことは誰にも言わないで来てください。そうしないと、万が一にもマスコミに名前がバレたら彼の家庭が崩壊しますので。勿論、あなたが会いたくなければ、そう伝えますが――」
「いいえ、行きます」
記憶にない男に会う恐怖感より、自分の正体を知りたいほうが先決なのか、朋江に
早めにそこに行くと、木陰に隠れて朋江が来るのを待った。――間もなく、白っぽいワンピースの朋江が現れた。後方を
海が見たいのか、断崖の尖端に立った朋江は長い髪を潮風に
足音を波の音に打ち消させながら、傑の両手は、朋江の背中を目掛けていた。ゆっくりと手を伸ばした瞬間、
「また、殺す気?」
突然、朋江が声を発した。
「ヒッ」
ギクッとして、傑は足を止めた。
「ツチダスグルさん」
そう言って、振り向いた朋江の眼球が月明かりに光った。
「お久しぶりね」
朋江は含み笑いを浮かべた。傑はゆっくりと後退りしていた。
「どうしたの? そんなびっくりした顔して」
朋江は徐々に近づいてきた。
「き、記憶喪失じゃなかったのか?」
「あ、ええ、だったわ。でも、治ったのよ。あなたが私と間違えて人を殺すのを見て」
「み、見ただと?」
「えー。あなたが殺したのは、私の病室の隣の山野さん。トイレから戻ったら、ドアが少し開いてたから変だと思って覗いたら、山野さんに覆い被さるあなたの背中が見えた。びっくりしたわ。あなたのその後ろ姿で記憶が戻ったの」
「後ろ姿だと?」
「そう。デートの時、あなたは手も繋いでくれなくなった。私は二、三歩後ろを歩き、あなたの背中ばかり見ていた。だから、あなたの後ろ姿を見て、記憶が甦ったのよ」
「ッ……」
「ふふふ。残念ね。あ、それから、そろそろ警察が来るわ」
「なんだと!」
「どうする? また、私を突き落とす? それとも手錠にする?」
傑は焦った。朋江の言うことは本当なのか? 警察が本当にやって来るのか? ……傑が選択したのは、――
「キャーッ!」
だが、悲鳴を上げた朋江が身を翻した拍子に、朋江の長い髪が傑の首に巻き付いた。
「グエッ」
朋江の髪に巻き付かれた傑の体は、断崖から落下する朋江の重みに引っ張られ、海に落ちた。
二人は海面に浮かび上がると、月明かりに照らされた。
「今度はあなたが死ぬ番よ、スグルさん」
朋江は不気味な笑みを浮かべると、海面から顔を消した。
「た、助けてくれーっ!」
傑はもがきながら、首に巻き付いた朋江の髪に引っ張られて、海底へと沈んでいった。
翌朝、波打ち際に男の水死体が打ち上げられた。男の首には、まるで髪の毛が巻き付いているかのように大量の海藻が絡みついていた。
完
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