祝福の物語 (高城 あきら)
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プロローグ
お願いがあるの


「ごめんね⋯⋯私はもう、駄目みたい」

 

 少女の声がした。息も絶え絶えに放ったその言葉自体は半ばあきらめに近く、絶望に満ちたものだったが、それでもにっこりと微笑む。それはいま、少女の頭を膝の上に乗せ、悲痛な表情を浮かべている彼にまで絶望を伝播させないためだった。

 

「そうか」

 

 少年の声がした。ともすれば冷徹ともとれるほど短い言葉だが、声は震えていた。ただ無力感に打ちひしがれながら、膝の上の少女を撫でる。

 

 夕日が二人を照らす。夜の帳はもうすぐそこだ。

 

 なぜ守ってやれなかった。少年は悲痛な面持ちで拳を握り締めた。わかっていたはずだ、()()()()()()()()()()()()()()()()。だが結果はこれだ。少年の目の前に横たわるのは絶望だ。

 

 そんな少年の様子を見て、少女は思わず笑ってしまった。私はこれで終わる。それなのに私よりもよっぽどあなたの方が絶望しているじゃない。普通は逆でしょう? だがそんな彼女の態度が気に食わなかったのか少年は睨みつけるようにして少女を見降ろす。

 

「どうして⋯⋯お前は⋯⋯!」

「二人して絶望なんてする必要なんてないの。だって、魔法少女は夢と希望を叶えるんだから」

 

 それは少女がどこかで聞いた言葉だった。あの神様のようにすべてを救うことはできなくても、目の前の少年だけは救ってあげたかった。ゆっくりと手を伸ばし、少年の頬に触れる。涙が手を伝った。暖かい。少女はそう思った。

 

 星空が見えた。人々を照らす大いなる光が徐々に勢力を失い、代わりに闇が世界を支配し始める。

 

 少女は腕を下ろし、かわりに緑色に輝く宝石を掲げた。それは魂の輝きだった。それなのに今は黒ずみ、澱んだ光を発している。瞬間、苦痛が少女の身体をほとばしった。思わず苦悶に声をあげ、体をのけぞらせる。

 少年が慌てて少女の身体を押さえる。泣きそうな顔だった。まるで不安に駆られ、縋るものを探して回る子供のように見えた。

 

 だから少女は無理矢理笑った。彼の縋るものとなるために。しかし上手く笑えていないのが彼女自身にもよくわかる。

 

 苦しみに支配されてはならない。彼女にはどうしても伝えなければならないことがあった。

 

「お願い、が⋯⋯あるの」

 

 宝石を握り締めた。強く強く。

 

「これから先、たぶん五年、くらい、後に⋯⋯見滝原って街、に暁美ほむらっていう、魔法少女が、現れるはずなの。その子を⋯⋯救ってあげてほしい」

 

 少年は怪訝な顔をした。それもそうだ。あまりにも突拍子もない話なのだから。

 

「なぜ?」

 

 その言葉にはたくさんの意味が含まれていた。なぜ俺がそんなことをしなければならない? なぜお前にそんなことが分かる? お前の能力は未来予知の類ではなかったはずなのに。

 少女は思わず苦笑した。言葉足らずにもほどがある。こんな調子で本当に暁美ほむらを救えるのだろうか? 

 

あの永劫ともいえる繰り返しの中で絶望に潰されそうになる少女のことを。

 

そういえばあの子もコミュニケーション能力に難があったな。そんなことを考えながらそれでも彼の疑問には答えなければならない。

 

「私にはね、わかるの。少しの、限られた時間の未来、だけ。そしてその子は、長い、本当に永い苦しみとらわれる。だからね、その未来を救ってあげてほしいの。()()()()()()()()()()()()()()

「俺は⋯⋯お前を救いたいのに! それだけでいいのに⋯⋯関係のない魔法少女を救えというのか⁉」

「ああ、あとそれ」

 

 少女はじっとりと少年を睨みながら指をさす。

 

「その子、年下の、女の子なん、だから⋯⋯俺とかいう一人称とお前って二人称、どうにかした方が、いいよ。ただでさえ、身体が大きいのに、威圧的に見えちゃう」

「何を言って──」

「いーい?」

 

 少年は乱暴に目元をぬぐった。そして少女のまっすぐな瞳を見下ろす。

 命の芽吹きを思わせる新緑の瞳は日の光が落ちつつある薄暗がりの中でも光り輝いており、少年をまっすぐに見抜いた。

 こうなってしまった少女はもう()()でも動くことはない。少年は深くため息を吐いた。

 

 美しい輝きを放つその緑の瞳。何物にも代えがたい光。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 少年はそっと少女の手を取った「約束する。その暁美ほむらという魔法少女のことは、俺が救って見せる」

「よろしい」

 

 少女はにっこりと笑った。嬉しそうな、泣きそうな笑顔だった。

 

 太陽は高層マンションの群れに隠れてしまい、二人から見えなくなる。しかし夜というにはまだ空に橙色の光が残っていた。

 

 少年も笑った。今にも泣きだしそうな自分を誤魔化すために。

 彼はそっと少女の頭を撫でた。少し癖のあるその髪の毛はふわふわと心地よいものだ。少女はくすぐったそうに笑った。そこには絶望など無かった。ただ穏やかな時間と、ひんやりとした風が二人を包んだ。

 

 夜が近い。

 

 少女の握る宝石が、少しずつ黒に支配されてゆく。

 ふと、少年の頭にあることが浮かんだ。これは妙案だと、彼は少女に伝えることにした。

 

「いま、俺の頭に浮かんだ案だが」

「全く、一人称のこと忘れないでね。──で、何? どんな案なの?」

「ああ、それは───────」

 

 少年の案を聞いた少女はぽかんと口を開けると、包み隠さず感想を述べた。

 

「ちょっとキモい」

 

 それは少年自身も思っていたことだ。言葉にされることで少々ダメージを負ったが、悪くはないと思っている。それは少女も同様だったようで、

 

「でも悪くないかも」

 

 にやりと笑った。

 そして宝石を見た。もうほとんど真っ黒に染まっている。時間だ。少女はゆっくりと目を閉じ、少年の身体に体重を預ける。

 

 少年の身体から熱を感じた。それは命の熱であり、生命の脈動だった。

 少女の瞳から雫が零れ落ちた。

 

「ねぇ」

 

 空気が震える。

 

「どうした?」

 

 優しい声が聴こえる 

 

「ありがとう」

 

 太陽が沈んだ。

 

 

 

 

 

 意識の外側からアラームが聞こえた。普段なら忌々しい音だが、今日に限ってはまるで心地の良い音楽のように感じられた。悪夢から醒ましてくれるのなら何でもいい。それこそ窓を破って侵入してくる強盗殺人犯でも構わない。いや、さすがにそれはないか。せめて外を走る暴走族くらいの関わりのなさがいい。それくらいなら悪態をついて起きればいい話なのだから。尤も、朝っぱらから暴走する馬鹿どもなど、この治安の良い見滝原の街にはいないのだが。

 

 男は目を開けると、携帯のアラームを消した。

 

 夢の内容は、はっきりとおぼえている。それは忌々しい過去のことだからだ。夢でなくても忘れたことは一度としてなかった。

 

「五年か」

 

 男は確認するようにそう呟いた。

 

 それは彼女が救済を願った魔法少女が現れる年だ。彼女は確かに“現れる”と言った。ならば今はまだ未契約であり、近いうちに魔法少女となるのだろう。

 途方もない話だ、と男は思う。この見滝原だけでもいったい何人の少女がいるのだろうか。

 

 いや、正確には違う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだが、今はやろうと思っていない。故にやらない。とてつもない苦痛が伴うからだ。それなら地道に探したほうがいいに決まっていると、男は自己完結した。

 

 外では桜が舞い、青い空からは暖かな陽光が街を照らしている。

 今までは収穫なし。暁美ほむらの『あ』の字すら見つからなかった。だがこれからだ。だって言うだろう? 春は出会いの季節だと。そう、私とその暁美ほむらとやらが出会うのも春のはずだ。あの真っ白な陰獣も新学期で浮かれた学生どもを狙うに違いない。

 違いない違いないと、誰に言い訳をするでもなく歌いながら朝の準備をしていると、男はふと思い至った。

 

 ──久しぶりにあの夢を見たというのは、早くしろという彼女からの催促ではないのか?

 男の背を嫌な汗が伝った。

 よし心機一転、新学期も始まったことだしこれから頑張ろう。男はぐっとこぶしを握り締め、窓の外を見つめた。

 

 しかしどうしようか。この歳で一人の少女を探すとなると、なかなか大変なものがある。男にも生活があるのだ。彼女との約束は最上の優先事項ではあるが、そのために人生を棒に振るわけにはいかない。それらしい年齢の少女に、片端から声をかけて未成年淫行なぞと疑われてみろ、最悪の汚物として扱われること請け合いだし、そもそもそんな状態で暁美ほむらに出会おうものなら、救う以前に信用を得ること自体が無理だ。

 

 となると手っ取り早い方法は一つ。

 

「魔女の結界を探すしかないな」

 

 朝の支度を終えた男は玄関のドアを開け、外に出た。とりあえず先のことよりも目の前のことに集中すべきだ。

 今日の講義は何があったかな。そんな他愛もないふつうの大学生のようなことを考えながら、男は空を見上げた。

 

 鳩が一羽、彼の頭上を越え、遠くの空へ飛んで行った。

 



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本編
救うんだ、苦しみから


どちらかというと主人公はほむらちゃんかもしれない


 しくじった。

 

 お菓子の魔女の結界の中、先に進んでいった魔法少女の放つ黄色いリボンに拘束された暁美ほむらの脳裏に浮かんだのは、その五文字だった。

 

 こんなところで巴マミを失うわけにはいかない。彼女は優秀な戦力なのだから。巴マミは、通常ならここにいる魔女ごときに後れを取るはずはない。しかし今の彼女には“仲間”がいる。

 

 ()()()()()()()()()()、それは非常にまずい。マミがさやかやまどかと共にいるとき、彼女の心には余裕が生まれるのだ。そしてそれはマミの支えとなり、生きるための希望となる。ただしその代償は、彼女自身の死だ。

 

 そこまで考えて、ほむらは半ば諦めたように息を吐いた。この拘束を解くすべは彼女には存在しない。

 ほむらの持つ能力のうち、最たるものは時間停止の力である。それは止まった時間の中で自由に動き回ることができるという、ある種反則じみた能力であったが、彼女はそれ以外、魔法少女としては最弱ともいえる基礎能力しかない。いま彼女にまとわりついているリボンを引きちぎる力も、切り裂く武器もないのだ。

 

 しかし希望がないわけではない。

 

 確率は低いが、巴マミがお菓子の魔女を討伐する可能性もないことはないのだ。

 まあ、それでだめなら仕方がない。ほむらは本日X回目となるため息を吐いた。そのときに胸の奥にうずいた、ちくりとした感覚には気づかないふりをして。そうだ、二兎を追う者は一兎をも得ずと言うじゃないか。多くを求めては、本当に手に入れたいものまで両手から滑り落ちてしまう。だから彼女は捨ててきたのだ。捨てて、捨てて、捨てる──その先に未来があると信じて。

 

 ほむらは深い思考の渦にとらわれていた。

 

 だから背後から近づいてくる足音にも気が付かなかった。

 

「変わった現代アートだな」

 

 唐突に声がした。それは低い男の声で、ほむらの背後から聞こえた。

 

 ほむらの全身が粟立つ。熟考し過ぎていた。ほむらは背後にいるであろう存在に警戒度を上げ、脳を全力で回転させた。

 害意や殺意は感じられないが、油断はできない。その気になれば彼女の、無限の質量を保存しておける盾から爆弾を落とすことで攻撃することは可能だが、相手がどのような存在であるかわからない以上、下手な手は打てない。

 

 足音は徐々に近づいてくる。ほむらは大きく息を吸い、同時に盾から手製のスイッチ式爆弾を落とした。この位置では爆発に巻き込まれるが仕方がない、肉体が傷ついたなら修復すればいいだけのことなのだから。

 襲い来る衝撃と熱を覚悟して、ほむらはぎゅっと目を閉じた。しかしその二つはいつまでたっても来なかった。

 

 からん、と金属が落ちる音がした。

 

「物騒な子だね」

 

 ほむらは驚愕に目を見開いた。ほむらの前まで回り込んできた声の主は、両断された金属の筒一方を──ほむらが落とした爆弾のスイッチのついた方を──片手で弄んでいた。

 

 そこでほむらは初めて声の主を見た。

 やはりというべきか、声の通り男だった。背の高い男だ。百八十センチは優に超えているだろう。男はカラスの羽を思わせる艶やかな黒髪を無造作に掻きながら、

 

「魔法少女というのはどうしてこうあるかな」

 

 誰に聞くでもなく独り言のようにそうこぼした。実際に独り言だったらしく、まあ、普通はこんな野郎が魔女の結界内にいるのに警戒しないわけがないか。などとぶつぶつこぼしている。

 

 男は金属の筒を放り投げるとほむらを見上げたが、ほむらは目を合わせることができなかった。

 

 正確には合わせるべき目が見当たらなかった。

 男がなぜか黒い布を目隠しのように巻き付けていたからだ。

 しかし男はほむらの方を正確に見ていた。まるで見えているかのような態度である上に、全くしょうがない奴めとでも言いたげに肩をすくめられた。

 

 ほむらは眼下の男を睨みつけた。すると男は降参だというように肩まで両手をあげ、三歩ほど後ずさる。そこには冗談めかした余裕こそあるものの、反撃に出ようとかそういう行動には見えなかった。

 

 なんだこいつは。

 

 想定外のことが起こりすぎて混乱したほむらの頭の中に浮かんだ数々の疑問は、その一言に集約された。

 こんなことは今まで一度もなかった。

 今までもイレギュラーはそれなりに起きていたものの、そのすべては予想しえたものだ。つまりはほかの魔法少女による干渉。キュゥべえにとって『極めつけのイレギュラー』であるほむらの牽制のために、ほかの魔法少女を作り出すことでイレギュラーを消そうとする行為だ。

 

 キュゥべえが魔法少女や魔女以外に干渉することはない。それはもう確定された事実と言ってもよかった。

 

 ということはあの白いくそったれの差し金ではないのだろうか?

 

 そこまで考えたところで男に動きがあった。ほむらの拘束されているリボンに指を触れたのだ。

 ほむらが体を強張らせるのをよそに、男はただ、ああ、と小さな声を漏らした。

 

「なるほど、巴マミの魔法か。大方、彼女と縄張り争いの末に敗れ、待ちぼうけを食っているといったところかな」

「⋯⋯!」

 

 この男は一体どこまで知っているのだろうか。

 

 魔法少女のことだけでなく、巴マミのことまで知っているという事実は、ほむらをさらなる混乱に叩き込む。

 

 その時だった。突然ほむらの身体を縛っていたリボンが細切れに吹き飛んだ。

 ほむらは驚きながらもふわりと着地すると、男を見上げた。

 口は笑みを浮かべているが、目元が隠されているせいで表情がいまいちつかめない。だがそこにはやはり、敵意や殺気といった類のものは一切感じられなかった。

 

 ほむらが全力で警戒し、鋭い目線を投げつけているのをよそに、男は飄々と立っていた。

 たっぷり十数秒はにらみ合っていただろうか、やがて男は口を開いた。

 

「君が警戒するのもわかるが、私は別に君の敵ではないよ。むしろ味方と言ってもいい」

 

 男は言いながら人差し指を目線の高さまで持ち上げた。

 

「それよりも一つ、君に尋ねたいことがあるんだけど」

「──答える義理はないわ」

 

 男はがっくりと項垂れ、額を押さえながら首を左右に振る。

 いちいち動作が大げさな男だと、ほむらはそう思った。何というか、小ばかにしているとまでは言わないが、なんとなく下にみられている気がする。そうだ、まるで聞き分けのない子供に対し『こいつはいつまで経っても仕方がないな』と呆れる親のような態度だ。

 

 それを理解した瞬間、ほむらは怒りを覚えた。と言っても表面上は冷静にいつもと変わらず、ただ激情は保ったまま心の奥にしまい込んだ。

 

「勘弁してくれ。たった今、君を助けてあげたばかりじゃないか」

「頼んでいないわ。だから質問には答えないわよ」

「そう言わないでおくれよ。なに、難しい質問じゃない。答えはイエスかノー、どちらか一言だけでいいんだ」

 

 男はそう言うと一拍、間を置いた。

 

「君は暁美ほむらという魔法少女を知っているかな?」

「⋯⋯なんですって?」

 

 その問いは、ほむらの全く予想しないものだった。

 ──この男は一体何と言った? 暁美ほむらを探しているとはいったいどういう意味だろうか。

 

 男は小首をかしげたままほむらを見つめている。顔の大半が隠されてはいるものの、顔の輪郭や鼻筋が整っているためか妙に絵になる。

 頭が混乱して思考がうまくまとまらない。この場合は何と答えるべきだろうか、怪しすぎると隠し通すべきなのか、それとも素直に答えるか。

 

 そうこうしているうちに男はさらに爆弾を投下してきた。

 

「同じ質問を巴マミと佐倉杏子にもしてみたんだがね、二人ともそんな魔法少女は知らないそうだ。で、魔女の結界を探索していれば魔法少女に会えるだろうと思ってきてみるとだ、新顔の君を見つけた。それで一応訊いてみたというわけだ」

 

 つまりこの男は、見滝原に居た魔法少女とすでにコンタクトをとっていたということだ。ほむらは軽い頭痛を覚えた。

 巴マミはともかく、佐倉杏子と接触して無事でいられたのなら、少なくとも魔法少女に危害を加えるような人間ではないのだろうか。杏子の人を見る目はそれなりに信用できる。

 

 ほむらは考え、そして一つの疑問を男にぶつけることにした。

 

「その暁美ほむらを見つけて、あなたはどうするつもりなの?」

「──救うんだ。苦しみから」

 

 男は優しい笑みを浮かべたが、ほむらは対照的に驚愕に満ちた表情をしていた。

 そんなほむらに気が付いているのかいないのか、男は続きを話し始めた。

 

「その子を救ってあげてほしいと、昔ある魔法少女に頼まれてね。だがその子に関する情報があまりにも少なすぎる。私が知っているのは暁美ほむらという名前と、見滝原に現れるということ、そしてその魔法少女が永劫ともいえる苦しみにとらわれ続けることになるってことかな」

 

 どうして私を? どうしてそのことを知っているの? その魔法少女はいったい何者なの? 

 ほむらの脳裏に次々と湧いてくる疑問を、

 

「と言うより」

 

 その男は。

 

「君は暁美ほむらを知っているね」

 

 その一言で破壊した。

 

 

 

 

 

 ほむらは何も答えなかった。と言うよりも答えられなかったと言った方が正しいかもしれない。

 

 混乱の最中、ほむらは表情を取り繕うので精いっぱいだった。目隠しをしているが、男は何らかの方法でほむらの様子を見ていたのかもしれない。そしてわずかな態度の変化から、彼女が暁美ほむらについて何か情報を持っていると予想したのだろう。幸いなことに、彼女が暁美ほむら本人であるということには気づいていないようだが。

 

 私はもう、だれにも頼らない──

 

 それはいつか胸に刻んだ決意だった。ほむらがほむらであるための道しるべだった。

 そうだ、私は一人でもやれる。()()()()()()()()()()()()()。そうでなければ今まで捨ててきたものがすべて無駄になる。

 

 ほむらは男を見上げ、きっぱりと告げた。

 

「いいえ、私はそんな魔法少女なんか知らないわ」

 

 嘘をついた。

 

 そもそも信用に値する要素が何一つとしてないのだ。そんな存在に与える情報など無い。

 イレギュラーが起こることは今までも何度かあったが、その時間軸はすべて悪い方向へと変遷していった。今回もそうに違いないとほむらは結論付け、ならば関わらない方が懸命だと判断したまでだ。

 

 期待などしてはいけない。ほむらは理解していた。大きな希望が反転したとき、そこにあるのは最悪の絶望なのだということを。

 

 男はぽかんと口を開けていた。何とも間の抜けた表情だとほむらは思った。ここは魔女の結界内、常人がまともにこの景色を見たのなら気狂いになることは間違いないし、使い魔や魔女に襲われでもしたら命の保証など無い危険なところだ。

 

 それなのになんだこの警戒心のなさは。ほむらは半ば呆れていた。

 男は盛大なため息をついた。そうしたいのはこちらだとほむらは言ってやりたかったが、その言葉はこらえた。それですら男に情報を与えてしまいそうだったからだ。

 

「そうか、人を見る目には自信があったんだけどな」

 

 男は残念そうに言うと、後頭部を掻きながらほむらから背を向け、そのまま歩き始めた。その方向は魔女が鎮座する結界の最奥だ。

 

「あなた、何をするつもり?」

 

 男は振り返った。一瞬だけ笑みをたたえていたが、それはすぐに消えた。その顔に浮かんだのは驚愕だ。

 

 それはほむらも同様だった。

 いつの間に目隠しを取ったのだろうか、ほむらは男の目を見てしまった。

 

 瞳の色は一見すると白だが、それは違った。未だ驚きで小刻みに震える男の瞳は、光を反射して色を変化させているのだ。

 

 美しい男だ。

 

 手足はすらりと長く、しかし程よく筋肉をつけており、痩せてはいるが弱々しい印象は与えない。七色の虹彩は黒く長い睫毛に守られており、輪郭にも一切の歪みがない、まるで精巧に作られた人形のようだった。

 月から訪れた使者であると言われた方が、魔法少女の味方だと嘯かれるよりもまだ信じられる気がした。

 

 男は()()とほむらに顔を寄せた。一瞬だけ、ほむらは男を凝視してしまう。おろされた男の黒髪が長い睫毛にかかる。彼女は思わず息をのんだ。

 男はほむらから離れると、にやりと笑った。

 

「意外と面食い?」

 

 この男は自分の優れた容姿を理解し、そのうえで完全に調子に乗っている。それを察した瞬間、ほむらは盛大に舌打ちをした。勘違いも甚だしい。動きを止めてしまったのは、男の見た目がどうこうではなく、単純に急に動きを見せられて驚いただけだ。何故か言い訳をするように、ほむらはそう結論付けた。

 

 周りの人間はすぐにそうやって恋愛と結びつけたがる。男は見た目からしてほむらよりも年上だろうが、男という生物は年をとってもこうなのか。彼女は完全にあきれ返っていた。

 

「だが嘘をつくのはいただけないな、暁美ほむらは君じゃないか」

 

 ほむらの時間が完全に静止した。

 

 男は構わずに話を続ける。

 

「しかし、なかなか変わった魔法を持っているな。時間停止に時間遡行か。でも、まだ中学生の子が、こんな業を背負わなければならないとはね。成程、これで彼女の頼みにも合点がいく」

「いったい何を──」

()()()()()()()()()()

 

 言っているの? そう問いかけようとしたほむらの言葉を男は強制的に叩き切ると、また彼女から背を向け、結界の奥へ進み始める。

 

「待ちなさい!」

 

 男が今度は歩みを止めることはなく、肩口からほむらを見やった。

 ほむらはその背を走って追いかけ、隣に並ぶ。

 

「私の質問に答えていないわ。あなたは一体何をするつもりなの?」

 

 男はちらりとほむらを見下ろすと、また正面を向き、そして睨むようにして目を細めた。

 

「私がここに来た理由は、暁美ほむらを──君を見つけることだったんだが、少々事情が変わった」

 

 と、いうよりも君は分かっているんじゃないのか? 男は歩みを止めることなくほむらにそう言うと、彼女にとって信じられない言葉をつづけた。

 

「このままだと巴マミが魔女に殺される。だからその前に、私が加勢に行く」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巴マミにとってそれは、奇跡にも近い出来事だった。彼女に魔法少女の仲間ができるというのだ。

 

 ずっと孤独だった。ともに戦った魔法少女と袂を分かってからも、彼女はずっと一人で戦い続けていた。まるで先の見えない暗闇を進んでいるような感覚だった。

 要するに心細かったのだ。誰か、分かち合える友達が欲しかったのだ。

 

 だから美樹さやかと鹿目まどか、二人の少女と出会えたことは、本当は飛び上がってしまいたいくらいうれしかった。先輩としてそんなことはできなかったけれど。

 

 そして約束した。

 まどかが魔法少女になると言ってくれたのだ。

 体が浮く感覚がした。体が軽かった。初めて感じる気持ちだった。

 

 ──もう何も怖くなかった。どんな魔女が襲い掛かってきても、きっと乗り越えられるはずだった。

 

 だから、

 大口を開けた魔女が、目の前に迫ってきていても動くことができなかった。

 

 さやかが何かを叫んでいるが、マミの脳が理解することはない。

 まどかの悲鳴が聞こえるが、そちらに目を向けることができない。

 

「え?」

 

 マミの口から出るのは間の抜けたその言葉だけだった。

 

 その時だった。

 マミの視界から魔女の口が消えた。

 蛇のように長い魔女の横腹に何かが突撃し、吹き飛ばしたのだ。

 遅れてマミに襲い掛かるのはすさまじい衝撃だった。

 

 あまりの突風に目を開けていられず、ぎゅっと目を閉じたマミに飛び込んできたのは、低く落ち着いた男の声。

 

「ヒーローみたいな登場だったな」

 

 目を開けたマミは、へたりこみながらその男を見る。

 

 男の右手にはレイピアが握られていた。しかもただのレイピアではなく、金の装飾が施された白銀の持ち手に、エメラルドグリーンに輝く刃を持つそれからは、魔法少女のものである魔力が感じられた。

 

 マミはその男を一度見たことがあった。しかしその時は目隠しをしており、いま彼女を微笑みながら見下ろす男は以前とは違った印象を受けた。

 だからとっさに、

 

「あなたは⋯⋯」

 

 としか言うことができなかった。

 

 よく見ると、男の後ろから駆けてくる小さい影があった。それは黒い魔法少女。マミの友達を傷つけた忌まわしい存在だ。

 男はそちらに目を向けると、微かに笑みを深くしてまたマミを見た。

虹色に輝く不思議な瞳に、マミは思わず見入っていた。 

ほむらが彼らに追いつく。

 

「おいおい、私のことを忘れたのかい? 自分で言うのもなんだが、かなり印象には残りやすい方だと思っていたんだがね。まあいい、改めて自己紹介しよう、巴マミ。──そして暁美ほむら、君は初めましてだったね。私の名は加野神也(かのしんや)。以後よろしく」

 

男は場違いなほど爽やかに、にっこりと笑った。

 

 



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私も、誰かに頼っていいの?

「立てるかい?」

「あ⋯⋯ありがとうございます」

 

 マミが神也の手を取って立ち上がるのを見ながら、ほむらはただ立ち尽くしていた。

 今の瞬発力は人間のものではなく、まさに魔法少女のものだ。

 

 ──そんなはずはない。

 

 魔法少女とは、文字通り少女が成るものだ。人間は感情の起伏というものが成長するにつれて小さくなってゆく。それに加えて、男性よりも女性の方が感情のエネルギーが大きい。

 あの効率主義者であるキュゥべえが、おそらく成人の、それも男と契約するとは思えなかったし、実際ほむらもそのような存在を見たことがなかった。

 

 ほむらは首を振った。考えていても仕方がない、今やるべきことは他にある。

 

「まだ終わっていないわ!」

 

 ほむらが声を張り上げるのと、土煙の中から魔女が姿を現すのはほぼ同時だった。

 怒りに満ちた表情を浮かべた魔女が、口を開けて突進してくる。

 

 お菓子の魔女。彼女はほむらが記憶している中でも、かなり強力な魔女だ。

 動きがかなり素早いうえに、ダメージを与えてもすぐさま回復してしまう再生能力。そして魔法少女を丸呑みにしてしまう大きな口。

 速攻をかけるのがベストだ。ほむらが盾の砂時計をせき止めようとしたとき、彼女は信じられないものを見た。

 

 神也がほむらの前に背を向けて立っていた。

 

「私は君達の信頼を得られていない」

 

 神也が持っていたレイピアを突き出すと衝撃波が発生し、魔女は大きく上体をのけぞらせた。

 

「だからまずは、私の情報を与えようと思う。全力をもってあの魔女を倒して見せよう」

 

 神也がそう言って、指をパチンと鳴らした瞬間だった。

 マミとほむらの身体に、未知の感覚が走った。

 魔女の動きが、戦いを見ているまどかとさやかの震えが、神也の脱力した体が、感覚として二人に駆け巡ったのだ。

 

「これ、は⋯⋯?」

 

 マミが震えながら声をあげた。

 

「空間掌握、そして感覚共有。私の、と言うべきかは微妙だけど、まあとにかく固有魔法だ。空間の様子を感覚として認識できる能力と、それを一定範囲の人間に共有する能力だね」

 

 マミの心臓が大きくはねた。すさまじい感覚だった。

 使い魔の動きが、魔女の動きが手に取るようにわかる。どこから使い魔たちが襲ってくるのか、あの魔女がどうやって移動し、どこから攻撃を仕掛けてくるか、そしてどこにどう銃弾を放てば二人に当てることなく敵に攻撃を与えられるか。そのすべてが瞬時に理解できた。

 

「⋯⋯凄い」

 

 マミがつぶやくのとほぼ同時に神也は素早く魔女の身体に取りつくと、レイピアで滅多切りにして行く。その隙間を穿つようにしてマミの弾幕が炸裂した。

 

 そしてそれはほむらも同様だった。

 次々と襲い掛かってくる使い魔のすべてに銃弾を叩き込む。今なら目を瞑っていても当てられる自信があった。

 

 組みついてくる使い魔を上半身をのけ反らせてかわし、下から穴を穿つ。その勢いを殺さずに回転しながら引き金を引く。無秩序に見えるその攻撃は、一発も外すことなく使い魔たちに命中させていた。

 バックステップで一度体制を整えると、背中に柔らかい感触があった。振り返らずともわかる。それは巴マミの背中だ。今、ほむらはマミと背中合わせの状態で立っている。

 

 それは遥か遠い記憶の中にある、懐かしい感覚だった。

 感傷に浸ろうとする心を押さえつけるように、ほむらは地面を見つめた。

 

「どうして、あなたがそんなに泣きそうな顔をしているの?」

 

 背中越しに声をかけられた。それは久しく聞くことのなかった、優しい先輩の声。

 

「泣きそうな顔なんて、していないわ」

「あら、今の私たちにはそんな嘘、通用しないわよ? あなたがどんな顔をしているかくらい、手に取るように分かるもの」

「っ⋯⋯」

 

 ほむらは強く唇を噛み締めた。

 

「──何も、話すことなんてないわ」

「あらそう」

 

 ほむらの背後でマミが大きなため息を吐く様子も、ほむらはしっかりと感覚していた。 

 あきれたような顔だ。それは感覚しなくともわかる。

 

 隙あり、とでも言いたげに使い魔たちが襲い掛かってきたが、最初から感覚していた二人にとってそれは奇襲にならない。

 ほむらは引き金を引いた。マミは銃弾を放った。それは空中で交差し、それぞれ別の使い魔に突き刺さった。

 

 二人はまるで踊るように戦い続ける。ばらまかれる鉛の弾と魔法の弾は、しかし魔女と戦い続ける神也にも、結界の片隅で肩を寄せ合うまどかとさやかにも流れ弾をよこすことなく、正確無比に使い魔を消していった。

 背後から飛びついてきた使い魔にほむらが蹴りをいれて吹き飛ばすと、飛んでいった先にマミの銃撃が放たれ、使い魔を穴あきチーズにする。マミがリボンで使い魔を何匹か拘束すると、間髪入れずにほむらは機関銃で鉛弾を叩き込んだ。

 

 二人の動きが止まった時、周囲に使い魔は一匹として残っていなかった。

 それとほぼ同時に、大きな地響きとともに魔女の身体が崩れ落ちた。

 

「お疲れさん」

 

 神也は再度指を鳴らした。するとほむらとマミの中から空間を掌握していた感覚が消え去る。

 

 ほむらは拳を眺めた。消えてみると分かる。あの感覚は混乱をもたらしてもおかしくなかったはずなのに、ほむらもマミもすんなりと受け入れることができていた。

 二人が混乱しないように調整していたとすると、この魔法は相当使い慣れたものであると予想ができる。

 

 いったいなぜ? ほむらが抱いたその疑問の答えは、予想外のところから帰ってきた。

 

「詳細は省くが、この魔法はとある魔法少女から受け継いだものだ。使い勝手はよくわかっているから、君たちにもよく馴染んだだろう?」

 

 神也がほむらに目配せしながら、まるで質問に答えるかのように言った。いや、実際にほむらの疑問に答えているようだった。

 

 ほむらは今日何度目かわからない衝撃を受けていた。

 魔法少女の能力を受け継ぐ? そんなことは聞いたこともない。

 それに先刻からほむらの心の中をのぞいているような神也の言動も腑に落ちない。

 ほむらがそこまで思考したところに突然、暴風が叩きつけられた。

 魔女が鎌首をもたげ、歯をむき出しながら憤怒の形相で三人を睨みつける。

 

「な⋯⋯!」

「⋯⋯」

 

 目を見開くマミとは対照的に、ほむらはどこまでも冷静だった。

 相変わらず厄介な魔女だ。中途半端な攻撃ではどこまでも再生される生命力を持つ上に、素早く、攻撃力も高い。

 彼女を倒すには大火力の一撃が必要だ。

 

 しかし神也は吹きすさぶ風の中、何事もないようにたたずんでいた。

 

「そしてこれは」

 

 神也がレイピアを逆手にもち、すっと頭上に掲げる。

 

()()()()()()

 

 レイピアを足元に突き刺した。

 猛スピードでお菓子の魔女が突っ込んでくる。その目はまっすぐに神也を見ていた。自らの身体を切り刻み、攻撃しようにもちょこまかと動き回って鬱陶しい限りだったその人間が見せた隙を、彼女が見逃すことはなかった。

 

 ここまで近づけたのならもう逃げられない。このまま食い殺してやる!

 

 勝利を確信して口を大きく開けた魔女が見たものは、眩いばかりの光だった。

 

 

 

 

 

 レイピアを起点として真っ白な光が当たりを包み、“それ”は姿を現す。

 “それ”は透明な水晶に見える物質だったが、よく見るとそれも神也の瞳と同じ虹色に輝いており、まるで植物の蔦のようにするすると音もなく伸びていった。それがやがて魔女のところに到達すると、空中に身を躍らせてその蛇のような体にも蔦を這わせ始める。

 

 魔女は必死に身をくねらせ拘束から逃れようと藻掻いたが、水晶は撓むことも、ましてや割れることもなく魔女の身体を締め付けてゆく。そうして魔女の結界に虹の大樹が作り出された。

 

 さやかとまどか、そしてマミとほむらも全員がその光景にぽかんと口を開け、どこか薄暗い魔女の結界の中で根を張り、燦然たる耀きを放つ水晶の大樹に言葉を失っていた。

 

 魔女は辛うじて幹から顔を出すことだけは許されていたが、それ以外はすべて水晶に飲み込まれていた。

 じたばたと懸命に顔をくねらせ、時には自慢の鋭い歯を立てて大樹を割ろうと試みている。だが、まるで割れる気配がなかった。それどころか魔女には噛みついた感触すらも感じられなかった。

 

「虚構物質」

 

 静寂に支配された結界の中に、神也の声はよく響く。

 

「虚無が形作った存在。虚無であるがゆえにあらゆる事象に干渉し、一方であらゆる事象からの干渉も受けない。普通は虚無など見えはしないが、私の目にはそれが見える。これはその虚無を『こちら側』に引きずり出したものだ」

 

 神也はコツコツと魔女を閉じ込めた大樹の結晶に近づくと、そっと手を這わせて目を閉じた。ほむらはその後ろ姿にどこか悲哀のようなものを感じた。

 

()()()()()()()()()()()()()()。物質を形成する原子から、今なお膨張を続ける宇宙の果てまで。今日何処で誰が命を落とし、今日何処で誰が命をもらい受けたか。そして今、君たちが考えていることも、背負った過去も──ありとあらゆるすべてを、私は見通すことができる」

 

 途方もない話だ。にわかには信じられなかった。しかしほむらには確信があった。おそらく神也が目隠しを取ってほむらを見たとき、彼女の背負う全てを彼は見たのだろう。必ず救って見せると誓った約束も、その約束を果たすためにほむらが切り捨ててきた友情も、過去も、未来も──

 

 そして今抱いている、彼女自身すら名状することができない感情も、あるいは彼に見えているのかもしれない。

 

「未来は⋯⋯あなたの眼に未来は見えるの?」

「見えないわけではないが、簡単に確定もされない。最初はモザイクのかかった映像で、そこから次第に解像度が上がっていき、そして色が付き始める。ここに来る前に私が『色づき始めた』って言ったのは、巴マミが魔女に殺されるという未来がかなり確定に近くなっていたからだね」

 

 ほむらの隣でマミの身体が強張る。避けられた未来とはいえ、彼女は実際に死にかけたのだ。神也たちが間に合わなければ、今頃マミは魔女のおやつにされていただろう。

 

 マミが二の腕を握り締めるのを横目に、ほむらは神也の後ろ姿を見た。

 彼は未だにもがき続ける魔女を見上げながら、ただそこに立っていた。彼は哀れな魔女の過去を見ていた。魔女になり果てる前の少女の人生を。その少女がどのようにして生まれ、どのようにして人生を歩み、どのような願いをかなえて、どのようにして散っていったか。そのすべてを。

 

「未来とは可能性だ。たとえ暗闇の中で迷ったとしても、その可能性を捨ててはならない。未来を信じる、ただそれだけなんだ。それこそが希望なんだ」

 

 神也は動かないまま、呟くようにその言葉を発した。それは独り言のようにも聞こえたし、実際にそうなのかもしれない。だがほむらには、ここにいる全員に向けた言葉に聞こえた。

 

 誰も未来を信じようとはしなかった。ほむらの記憶を覗き込んだならそれは分かっているはずなのに、それでもあの男は未来を、可能性を信じるというのだろうか。

 

 この時間軸では今までにないことが起きている。その事実がほむらに与えたのは希望と、未来への可能性。ほむらは胸の高鳴りを感じた。心臓が激しく跳ねまわり、痛いくらいに脈打つ。初めての感覚にほむらは戸惑うが、不思議と不快ではなかった。むしろ暖かかった。これが希望なのだと遅れて理解して、無意識に笑みがこぼれた。

 

 ああ、なんて心地いいんだろう。

 ほむらは胸の前でこぶしを作った。

 

「私も!」

 

 気づけばほむらは叫んでいた。

 

「私も、誰かに頼っていいの?」

 

 隣のマミはぎょっとしてほむらに目を向け、さやかは目を丸くし、まどかはびっくりしたように口を開けている。

 

 短い言葉だったにも関わらず慣れないことをしたせいで、ほむらの喉はすでにイガイガしていたものの、そんなことは構わなかった。ただ頬を上気させ、肩で息をすることで精いっぱいだった。

 こんな私でも、取り返しがつかないほど数々のものを捨ててきた私でも、まだ誰かに頼る資格はあるのだろうか。

 

「当然だね。それが人間なんだから。君たちには私が全能者のように見えるかもしれないが、それは全く違う。私も一人では何もできない、ただ人よりも少し目がいいだけの人間に過ぎないのさ。暁美ほむら、君は君の起源(オリジン)を思い出せ。君が捨ててきたものを、今度は拾い上げるんだ」

 

 神也は水晶の大樹に手を置いたまま、ほむらに笑いかけた。ほむらは涙の滲んだ瞳を湛えながらうなずく。

 

「よかった。これで約束が果たせるな⋯⋯さて」 

 

 神也はもう一度魔女を見上げた。ずっと見せていた抵抗の意思も今はないようで、ぐったりとしなだれており、半開きの口からはだらりと青い舌を垂らしている。

 

「今から私の奥の手を使うんだが、いかんせん制御が効きづらくてね。たぶん君達にも何らかの影響があると思うんだけど、安心してくれ。悪いようにはならないはずだ」

 

 水晶が輝きを増し始めた。

 

「感覚共有魔法の応用だ。今から私の眼の機能を全開放させて、この魔女に私が視ているすべての光景を流し込む。膨大な情報量は生物・無生物問わず、すべての存在を崩壊させる。基本的に触れたものにしか情報を流さないようにするつもりだけど、大体洩れちゃうんだよな、これが」

 

 光が増し始めた。

 ほむらは目を見開いていたが、やがて視界のすべてが白に飲まれてゆく。その直前、

 

「せめて、安らかに──」

 

 そんな声を聴いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女は夢を見ていた。自らが化け物となり、人々を食らっていくという、狂気じみた悪夢を。

悲鳴を上げた。私はお菓子を食べたかっただけなのに、チーズが欲しかっただけなのに。口にこびりついたのは甘いジャムではなくて、真っ赤な血だった。バリバリと食べたのはクッキーじゃなくて誰かの骨だった。ふわふわのケーキは人の肉だった。こんなものは食べたくない。それなのに、いくら探しても一番の大好物は、チーズは見つけることはできない。やがて少女は声をあげて泣き始めた。辛い。苦しい。こんなことしたくない。それなのに少女は食べ続けた。バリバリ、じゅるじゅる、もりもり。美味しい、美味しいと言いながら、少女の心は泣き続けていた。

 

 唐突に光が訪れた。それは真っ白で暖かく、少女の身体をそっと包んでゆく。あまりの心地よさに身をゆだねた。

 

 少女は見た。

 

 それは赤ん坊だった。お父さんとお母さんに抱かれ、赤ん坊はせいいっぱいに泣いていた。私はここだと、そう訴えかけるように赤ん坊はその燃えんばかりの命を費やして、泣き続けていた。

 

 それは小さい子供だった。お父さん、あれやって。お母さん、あれが欲しい。駄目よ、いいじゃないか。あなたはそうやっていつも甘やかすんだから──。子供は無邪気に笑っていた。家族みんなが幸せな光景に、笑い続けていた、。

 

 それは白い部屋だった。少女はそこが好きではなかった。あれはダメ、これもダメ。何もできない、つまんない。お母さんは日に日に痩せていく。やがて何も、かつて少女の前で美味しいと言って笑っていたものさえ、何も食べられなくなった。

 お父さんもどんどん元気がなくなってゆく。

 

 だからお願いした。いつか家族みんなで食べた、とても美味しいチーズケーキ。また家族みんなで笑いたかったから。

 でも、その代わり戦わなくちゃいけない。大丈夫、きっとみんな元気になるから。あのチーズケーキを、みんなで食べたら──

 

 ──そんなものは食べられない。

 

 お父さんもお母さんも、どんどん元気がなくなっていって──

 

 黒いものが少女を包み込んだ。また夢の続きが始まる。

 

 嫌だ、助けて、誰か!

 

 少女は必死に黒いものから逃げた。怖かった。あんなに怖い夢は、もう見たくなかった。

 走った。夢中になって走り続けた。そして少女は見た。自分に向かって差し出される、白い手のひらを。

 それをつかんだ時、黒いものは消え失せ、かわりにぬくもりを感じた。懐かしい柔らかさだった。何処かで嗅いだことのある匂いだった。その手が誰のものか見たとき、少女は恐怖とは別の涙を流しながらその手をさらに強く握り続けた。

 

 ごめんね、怖かったね。

 

 ──お母さん!

 

 もう怖くない、お母さんが一緒に居てあげるもの。

 

 ──はい、なのです

 

 だからおやすみなさい、なぎさ。

 

 少女は目を閉じた。きっともう悪夢を見ることはない。

 白い世界はゆっくりと形を失い、やがてどこかへ消えていった。

 

 

 

 



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ありがとう、私を助けてくれて

 真っ白な空間。今まで見ていた毒々しい魔女の結界は消え去り、恐ろしいほどの白がほむらの視界を埋め尽くしていた。しかし不思議なことに眩しくはなく、視界は明瞭で、加えてまどかも、マミも、さやかもそこに居た。そして神也と魔女も。

 

 魔女は虚空を向いていた。神也はそれをただじっと見ている。

 

 静寂があった。一切の音はなく、時間の感覚も薄弱となり、まるで時が止まっているかのようだった。誰も動かない。動けない。次第に自分の存在すら曖昧になってゆく。意識がはっきりとしているのに、足元が地面から離れていくような錯覚があった。

 

「あ⋯⋯」

 

 果たしてそれは誰の声だっただろうか。白い空間の中でその声だけが、全員の耳に届いた。

 

 魔女の身体が、音もたてずにはらはらと崩れだした。空間が影響を受けるほどの情報を叩き込まれながら、しかし魔女は苦痛に顔をゆがめることなく、むしろ安らかな顔で塵になっていく。それと同時に、色が戻り始める空間。魔女が消えたときにはもう、辺りが橙色の世界に包まれた病院の前で、ほむらたちは立っていた。

 

 神也は魔女が落としたグリーフシードを拾い上げほいとマミに投げ渡し、そしてこめかみを指でたたくと、虚空からするすると音もなく黒いものが出現して神也の眼を覆う。

 それはほむらが彼を初めて見たときと同じ目隠しだった。神也は確認するようにその目隠しを撫でると、「ふー」と息を吐きながら首をこきこきと鳴らして心底疲れたように口をゆがめる。

 

「いやはや、ここまで眼を長時間使ったのは久しぶりだ。⋯⋯さて、暁美。私の実力は理解してもらえたと思う。そのうえで訊きたいが、どうだ? 私に協力する価値はあるかい?」

「ええ、期待以上だったわ」

「⋯⋯そいつはどうも、お褒めにあずかり光栄だな」

 

 ほむらが放った遠慮のない言葉に、神也は苦笑いで答える。改めてつかみどころのない男だというのが、ほむらの抱いた印象だった。総てを見通すことができる目を持っているにも拘わらず、ともすれば軽薄だととられかねないくらいに、彼は飄々としていた。

 

 目隠しをしていてもやはり目は見えているのだろう、顔はしっかりとほむらを見下ろしていた。そして神也もほむらの目線に気がついたのか、「ああこれ」と言いながらまたこめかみのあたりを指で叩くと、今度は目隠しがふっと消え失せ、代わりに虹色の瞳が姿を見せた。

 

「これはある魔法少女が私のために叶えてくれた願いの形だ。私に『ちゃんとした世界を見せてあげてほしい』んだと。私の眼を、人並み程度の出力に抑える魔法の目隠しさ」

 

 どうやら相当に消耗が激しいらしく、彼はそう言うと直ぐに目隠しをする。

 冷たい風が彼らの間を通り抜け、ほむらの長い髪を巻き上げる。彼女はそれを手櫛で梳かすと、いまだに心ここにあらずと言った様子で立ち尽くすまどかを見つめた。

 

 その一方で、マミは不安に支配されていた。死ぬような思いをしたことは何度もあったし、その度に恐怖を感じていた。しかし今日のことはわけが違う。あのとき神也が乱入してこなければ──。

 マミな身震いして。忘れようと努めたが、いつまでも脳裏に浮かぶのは大口を開けた魔女の鋭い歯だった。とりあえず貰ったグリーフシードでソウルジェムを浄化したとき、ふとまだ神也に礼を言っていないことに気が付いた。これは失礼なことしたと神也の方を向くがそこに神也はおらず、ほむらがじっと見つめる先、さやかとまどかのところに居た。

 

「いやー、助かりました! お兄さん強いですね、惚れ惚れしちゃいます!」

「加野神也だ。それよりも美樹、君には恭介君がいるのに、簡単にそんなことを言って大丈夫かい?」

「あ、あはは⋯⋯」

 

 ぐえ、と大げさにのけ反るさやかと笑顔で爆弾を投げつける神也、そして戸惑いがちに笑うまどか。なぜかもう順応している彼らの姿に、さすがのほむらも目を瞬かせた。

 

 美樹さやかには、他人との距離を詰めるのが得意だという特技がある。それはほむらもよく知っていた。まだ彼女が弱く、一人では何もできなかったころ、彼女と初めて友達になってくれたのがまどかとさやかだった。

 彼女は実直、悪く言えば向こう見ずなところがあり、ほむらにとってはまどかが契約するきっかけとなる、邪魔者の印象が強い。そのため今までは切り捨てる対象である存在だった。

 

 そんなさやかが楽しそうに笑う姿は、ほむらの心にわずかな痛みを与える。彼女らが見せる、輝かしいほどの光景を直視できず、ほむらは目を伏せた。

 

「マミさん、ほむらちゃーん!」

 

 まどかの呼ぶ声が聞こえる。見ると彼女はほむらたちに手を振っていた。

 傍には何故か苦々しい顔をした神也と、してやったりといった表情で彼を見上げるさやかの姿があった。いやな予感がする。まどかの呼びかけを無下にするのは本当に──本当に心苦しいが、触らぬ神に祟りなし。本能が警鐘を鳴らす時はそれに従った方がいいと結論付け、踵を返そうとすると、

 

「行きましょうか、暁美さん」

 

 マミに手を引かれた。彼女は眉尻を下げて、仕方がないといった風に笑っている。彼女も彼女でなにか思うところがあるだろうが、それでもほむらの手を引いていた。それはまどかがほむらの名前を呼んだからだったのか、マミの優しさだったのか彼女にはわからない。だが、その手を振り払う気にはどうしてもなれなかった。ほむらはマミに半ば引きずられるようにして、まどかたちの方へ向かった。

 

 その口角が上がっていることには気付かずに。

 

「みんなで晩御飯に行こう! もちろん一番お金持ってる人の驕りで!」

 

 さやかの高らかな宣言に、神也は天を仰いだ。

 

「⋯⋯お手柔らかに頼むよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お金をおろしてきました。変に遠慮はする必要ないが、まあ、常識の範囲内で頼むよ」

「はいはい! ドリンクバーはつけてもいいですか?」

「許可する」

「ぃよっしゃあ! 神也さん太っ腹!」

 

 ⋯⋯なんだこれは。

 

十数分後、彼らはファミリーレストランの一角、少し他の席から離れた隅の席にいた。そしてほむらはその光景に表情を繕うことを忘れ、ぽかんと口を開けるしかない。

 

 いくらなんでも順応が早すぎる。今日初対面だったはずの神也とさやかは、なぜか昔からの知り合いのように打ち解けていた。早速と、料理を選ぶさやかにはいっそ清々しいほど遠慮というものがなく、まどかに窘められている。それをやれやれといったように見ているマミと、ほむらは目が合った。

 

 マミは躊躇するように何度か口を開閉し、一口、ドリンクバーの茶葉から抽出した紅茶を含むと、意を決したようにほむらを見あげた。

 

「暁美さん。あなたが悪人でないことはさっきの戦いでわかったわ。私を助けてくれたもの。それは本当に感謝しているわ。でも、だからこそ解せないの。あなたはどうしてキュゥべえを襲ったりなんかしたの?」

 

 ほむらは言葉を詰まらせた。何と答えるべきか、たとえ本当のことを教えたとしてもマミは信じないだろう。むしろまた疑いをかけられ、関係が修復不可能になるまで壊れるかもしれない。それだけは何としても避けなけらばならなかった。彼女と対立することにデメリットはあっても、メリットなど一つもないのだから。

 

 ここは適当にかわしたほうがいいだろう。

 

「あなたには──」

「ああ、あれは私のせいなんだ」

 

 関係のないことよ。と続けようとしたほむらの言葉は、神也に遮られた。ほむらはきっ、と鋭い目線を彼に向かって飛ばすが、当の本人はどこ吹く風だ。

 

「私はね、能力の実験も兼ねて魔女を洗脳してみようと思っていたんだが、失敗してしまったんだ。それで暴走した力の影響を受けて暁美があんなことになってしまった。いや本当に、あの時はすまなかった。ああいや、何も言わなくていいよ。君は覚えていないんだから。そういえばキュゥべえを見ていないな。彼にも謝っておきたいんだが」

「そういえば、魔女と戦っている最中にどこかに行っちゃって。……神也さんも分かりませんか?」

「ああ、私が到着した時にはいなかったはずだ。どこに行ったかまでは、すまない。そちらに意識を向けていなかったせいで見てはいないな」

 

 ほむらはまどかと神也の会話を聞きながら、ほとんど放心していた。

この男は何を言っているのだろうか? 洗脳? 私がそれに巻き込まれた? でまかせもいいところだ。よくもまあそんなにすらすらと嘘がつけるものだと、半ば感心しながらほむらは抗議しようとしたものの、口が開かないことに気が付いた。唇に違和感は全くないが、この男が何かしたに違いない。よく見ると、細い虹色の糸が神也の腕から伸びている。なるほど、虚構物質でほむらの口を塞いでいるようだ。いよいよ我慢ならず、ほむらが食って掛かろうとしたその時、虹色の蔦がほむらの目の前で踊り、文字を形作った。

 

《話を合わせてくれ》

 

 虚構物質で作った文字だ。他人には見えていないようで、誰もその存在を指摘しない。それはいいのだが口が開かないのは気持ちが悪いため、ほむらはさらに眼光を強めた。それで察しがついたのか、神也は口笛を吹いて、ほむらの口をふさいでいた虚構物質を解除した。

 

 彼はコーヒーを口に含んで口内を潤すと、話をつづけ始める。

 

「そんなことができるのか、とでも言いたげだな。暁美」

 

 全くそのようなことを言いたいと思ってはいなかったが、ほむらは「ええ」とだけ言っておいた。慣れない演技をしたせいで声はわずかに上ずっていたが、それは毒々しい色のカクテルを持ってきたさやかに皆の意識が集中していたため、気に留められることはなかった。ほむらは誰にも気が付かれないように、ほっと息を吐いた。

 

 しかしさやかの持ってきた、この世のものとは思えない色の液体は何なのだろうか。何を混ぜたらそうなるのだろうか。そもそもそれは人が口を付けていいものなのだろうか。

 

 だがそんな得体の知れないものを、さやかはなぜか得意げな顔でぐいと飲んだ。

 マミが息を飲み、まどかは小さく悲鳴を上げ、ほむらも大きく目を開いた。神也だけはおー、と感心したように声をあげて拍手までしていた。そのうち、さやかはコップの中身を空にして勢いよく机にたたきつけた。

 

「どうよ!」

 

 どうもこうもない。

 

「あなたは馬鹿なの?」

 

 ほむらは正直な感想を言った。おそらくここにいる、さやか以外の人間全てのが抱いた感想に違いない。人の心を読む能力が壊滅的なほむらでも、それだけは分かった。

 というか何のためにそのようなことをしたのか分からない。度胸試しのつもりだろうか。もしそうならこんなにしょうもないことではなく、彼女にとっての一番の度胸試しがある。簡単なことだ、上条恭介に告白すればいいのだから。

 

 しかしそうなったら今のお調子者はなりを潜め、花も恥じらう可憐な、恋する乙女のさやかちゃんが降臨されるのだ。なんだそれは。とっとと突撃して爆発すればいい。

 

「ぐへぇ、厳しいなあ転校生ちゃんは」

「⋯⋯美樹さん、食べ物で遊ぶのはやめなさいね?」

 

 腹の底が冷えるようなマミの声がした。さやかは肩をびくりと跳ねさせ、マミに対して平身低頭で謝り倒していた。そしてマミさんが怖いようとか言いながらまどかに抱き着く。まどかは困った顔をしながらさやかの頭を撫でていた。

 

 あまりにも自然なスキンシップ。ほむらはそれがうらやましかった。私だってまどかに撫でられたい。そんなことを思っていると、不意に体を引かれた。同時に後頭部に加わる柔らかい感触。ほむらにとって腹立たしいほど豊満なそれは、柔らかくほむらを包み込む。巴マミが、ほむらをぎゅっと抱きしめていた。ほむらは困惑してマミの顔を見上げると、優しげに細められた彼女の瞳があった。

 

「なんだか寂しそうな顔だったから」

「そんな顔──」

「していたわ」

 

 そう言うと、マミはさらに強い力でほむらを抱きしめた。いよいよ訳が分からず、ほむらは無理やり引きはがすためにマミの腕を掴もうとして、止まった。

 彼女の身体が小刻みに震えていたからだ。

 

「ありがとう、私を助けてくれて」

 

 泣きそうな声だった。それはいつか遠い時の彼方で見た、マミの本心だった。外見は平静を保ち、強い魔法少女であるという、頼れる先輩であるというベールを纏っているものの、巴マミが芯に抱えているものは一人のか弱い、寂しんぼうの少女なのだ。

 

 ほむらはそっと震えるマミの腕に触れた。暖かいと、そう思った。

 

「取り込み中悪いが、そろそろ本題に入ってもいいかな? あまり遅い時間になると、条例に違反することになる」

 

 神也がおずおずといった様子で手を挙げた。ほむらはそれでようやく我に返ると、マミの抱擁から抜け出して神也の方を向いた。誰もが空気の変化を感じていた。彼らの纏っていた柔らかな雰囲気が消え去り、残ったのは魔法少女という非現実的で、かつ避けられない現実の存在だった。

 さやかも空気を察してしっかりと座り、まどかはどこかおどおどした何時もの様子をなるべく消して、神也を見つめていた。

 

 神也は四人の少女を見渡し、よろしい。とうなずいた。

 

「まずは改めて自己紹介と行こうか。私は君たちのことを『視た』が、君たちは私のことをあまり知らないからな。私は加野神也(かのしんや)。見滝原市内の大学に通う、今年で二十一歳の、大学三年生だ。

 そして私の能力についてだが、私の眼の力は君たちもよく見ていたと思う。これは生まれつきだ。特に幼いころは力の制御が効かず、かなりきつかったよ。そんなとき、私のためにこの目隠しをキュゥべえに願った魔法少女がいた。それが私の使った、空間掌握と感覚共有の魔法を持つ魔法少女だね」

 

 そこまで一気に話すと、神也はカップを傾けてコーヒーを啜る。

 

「あの、その魔法少女って⋯⋯?」

 

 まどかが遠慮がちに尋ねた。そう、それはほむらが抱いた彼に関しての不可解なことのうち、最も大きなものだ。ほむらの過去すら知っていた、その魔法少女は一体何者なのかということが。

 

 神也はにっこりと笑った。口だけしか見えないが、その表情にはどこか皮肉めいたものがあった。神也はもう一口コーヒーを飲むと、空になったカップをテーブルにそっと置いて、自らの胸のあたりを撫でる。

 そしてゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「恋人だよ。⋯⋯ただ、その魔法少女はもういない」

 

 まどかの動きが止まった。そして聞いてはならないことだったのだろうかと、え、とか、あの、とか要領の得ない言葉を発し続ける。

 神也はカップを手にして、そして空であったことを思い出すとテーブルにそっと置き、また笑った。今度は自然な、暖かい笑顔だった。

 

「もう乗り越えたさ。君が気に病む必要はないよ。だがね、特に美樹と鹿目に言っておきたいんだが、」

 

 すっと周辺の気温が下がった気がした。

 

「魔法少女になるというのは、そういうことだ」

 

 誰も、言葉を発することはなかった。どれくらいの時間が過ぎただろうか、まどかのコップに入っていた氷がからん、と甲高い音を立てた。

 

 しばらくの後、ウエイターが追加の料理を持ってきたとき、彼らの時間はようやく動き出した。

 

「だから、安易に魔法少女になろうとするな。この世には奇跡などに頼らなくてもいいことなんて、いくらでもあるんだから」

 

 まどかとさやかはただ黙って彼の言葉を聞いていた。吐き気がするほど残酷な現実だった。

 

「それともう一つ、こっちは巴と暁美に聞いてほしいことだが」

 

 そう言うと神也は、届けられたマルゲリータのピースを口に運び、両手をテーブルに置いて体重を前に預けると、声のトーンをいくつか下げてその言葉を放つ。

 

 次に彼が何を言うか、ほむらは何となく予見していた。

 

 それはいつの時間軸においても越えなければならない壁だった。そしてそれは、ほむらが加野神也という強力なカードを得たことで、ようやく突破口が見えてくるほどに頑強で、ようやく頂上が見えるほどに万丈な壁だ。

 

「これはほぼ確定した未来だ。およそ三週間後、この見滝原にワルプルギスの夜が来る」

 



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だって私たちは、友達なんだから

「ワル⋯⋯なんて?」

「ワルプルギスの夜、よ。美樹さん。魔法少女の間で噂になっている、超弩級の魔女なの。なんでも自然災害と見まがうほどに強力な魔女だそうだけれど、加野さん、本当にワルプルギスの夜が見滝原に来るんですか?」

 

 さやかとまどかはぴんと来ない顔をしていたが、マミは流石に魔法少女としてのキャリアが長いこともあって、ワルプルギスの夜のことをうわさ程度には知っていた。尤もその実力まではよく理解していないようだが。

 

 ワルプルギスの夜。それはほむらにとって忌々しいほどの理不尽だった。

 笑い声を響かせながら、見滝原の街をまるでウエハースのセットのように吹き飛ばすさまは、いっそ清々しいほどだ。

 

「未来は割と簡単に変わる。巴、君の死ぬ未来が避けられたように。だが、大きな流れを変えることはできないんだ。例えば台風なんかいい例だろう? 来ることが分かっていても、台風そのものをどうこうすることはできない。あれはその類の存在だ。見滝原に来ることは確定といってもいいだろう」

 

 マミが息を飲み、そしてそれでも決意を滾らせているのがほむらにも感じられた。成程、この町を守る正義の魔法少女でありたいという、マミの信念をうまく利用している。ほむらは神也に対し、今度は本気で感心していた。これでマミとの共同戦線は確定されたようなものだろう。後はワルプルギスの夜が来るまで、彼女が余計な真実を知らなければいいだけだ。

 

 逆にマミが真実を知ってしまった場合、錯乱した彼女は何をしでかすかわからない。それも暴走した正義を纏って。

 ほむらの中で苦々しい記憶がよみがえる。事故的とはいえ、魔女の正体を知ってしまったマミは彼女の持つ使命感を暴走させ、その場にいる魔法少女を消そうとしたのだ。将来、魔女になり果てる存在のことを。今思い出しても寒気がする。マミの戦闘センスは本物であり、あの時彼女は、錯乱しながらも冷静に対処していた。恐らくまともにやりあって勝てる相手ではない。しかし、問題はまだ山積みである。

 

「それでもワルプルギスの夜とやりあうには戦力不足よ。加野神也、巴マミ。あなたたちがいても勝てるかは分からない⋯⋯いいえ、恐らく相当に分が悪いわ」

「ああ、それは否めないな。そこで、私が提示できるカードはあと一枚ある──私は、この共同戦線に、佐倉杏子を招きたいと思っているんだ」

「なんですって!?」

 

 露骨にマミの顔が歪む。佐倉杏子と巴マミは確執のある相手だ。ほむらも詳しいことはよく知らないが、恐らく考え方の齟齬が生まれたのだろう。自らを滅し、他人のために魔法を使い続けるマミと、己のためだけに魔法を使い続ける杏子。

 

 以前はほむらもマミ側だった。困っている人のために魔法を使い、犠牲者を出さないために魔女と戦い続けた。それが自らに与えられた使命だと信じ切っていたのだ。純粋に正義の味方として。その愚かしさすら知らずに。

 

 今は違う。彼女はまどかために戦っている。まどかの守りたいものを、大切なものを犠牲にしてもまどかを救う。それだけだった。暁美ほむらに残された道しるべは唯一、その一つだけなのだ。

 

「巴、君が佐倉杏子に対して複雑な感情を持っているのは理解している。価値観の相違というやつさ。君の正義と彼女の欲望は決して相容れないものだ。でもね、それがこの町を滅ぼす結果になるかもしれないなら、話は違うだろう? ⋯⋯まあ正直な話、私も彼女に斬りかかられたことがあってね、ちょっと苦手なんだ。一方で、」

 

 神也は肩をすくめると、マミを見る。そして片目だけ目隠しを外した。虹の瞳が彼女をとらえ、絶対に目を逸らさせない。

 

「彼女の本心はそこにはない」

 

 神也は再びその七色の光を覆い隠すと、背もたれに寄りかかる。

 そしてびしっとマミへ人差し指を向けた。

 

「君は、一度彼女と言葉を交わしたほうがいい。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「そういう未来を見たんですか?」

「言ったろう? 未来は簡単に変わる。結構当たる占いくらいに思っていたほうがいいさ」

 

 さて、そろそろ解散の時間かな。そう言いながら伝票をもって立ち上がった神也を、ほむらは凝視していた。ほむらには、ここにきてからずっと胸中に抱く疑問があるのだ。

 

「ねえ、加野神也。あなたにずっと訊きたかったのだけど、私たちのプライバシーはどの程度見られているのかしら」

 

 場の空気が凍り付いた。おそらく誰もそのことについて考えなかったのだろうが、それにしても短絡的に過ぎるのではないか? それとも魔女の結界内での出来事が、加野神也という人間を信用できる存在だとして彼女らに印象付けられたのかもしれない。

 

 ほむらは何というか、みなが容易くキュゥべえに騙される理由を垣間見た気がした。

 

 たっぷり一分は経過しただろうか。ぎぎぎ、と軋んだ音が鳴りそうなくらいゆっくりと振り返った神也の顔は青ざめており、顔中に滝のような冷や汗が浮かんでいた。

 

「⋯⋯割と全部」

 

 ファミリーレストランの片隅で、少女たちの悲鳴と怒号が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、会計を済ませた彼女らは神也の提案で連絡先の交換をし、そして土下座せんばかりの勢いで謝り倒す神也に対して制裁を加えた後、解散という流れになった。

 

 しかし、鬼のような形相で彼に掴みかかるまどかには流石のほむらも唖然としており、さやかも猫だましを食らった出目金のような顔をしていた。食事中に見せたマミの怒りよりも、よほど生存本能に警笛を鳴らすそれは成程、まどかが惑星規模の被害をもたらす魔女に成れる素質を持った少女であるというのにも納得がいった。

 しかしあの温厚な少女の典型例といったまどかをあんな顔にさせるとは、一体神也は何を見たのだろうか。今度こっそり訊いてみよう。とほむらは胸に決め、家路に着こうとしたが足が縫い付けられたように動かない。怪訝な顔で振り返ると、太陽が沈んでいるにもかかわらず、彼女は虹を見つけた。

 

 この男、まだ私に蹴られ足りないのか。ほむらは半ば殺意を抱きながら彼を睨みつけると、神也は慌てたように再び目隠しをした。それと同時に霧散する虹の蔦。

 

「君に話がある。少しでいい。時間をくれ」

 

 ほむらの眼光に怯んではいたものの、その声は静かにゆっくりと放たれた。

 

 まだ話していないことがある。そう、キュゥべえの──孵卵器(インキュベーター)のことだ。

 ほむらもゆっくりとうなずいた。

 

「ありがとう、時間はとらせない。まず目下の目標だが、鹿目を契約させないことと、ワルプルギスの夜を倒すこと。後者はともかく、前者はあまり問題がないだろう。私が近くにいる限り、インキュベーターは鹿目に近づくことができないからね」

 

 ほむらは今、聞き捨てならない言葉を聞いていた。

 

 青天の霹靂が彼女に叩きつけられ、眩暈を起こした。都合がよすぎる話だ。目の前の男はキュゥべえとは違い、嘘を吐くことができる。ほむらを安心させるために、聞き触りの良い言葉を与えているだけかもしれない。

 そんなほむらの感情が顔に出ていたのだろうか。神也は心配しなくてもいいと言うように頷き、腕を組んで続きを話し始めた。

 

「キュゥべえは私のことをひどく警戒している。いや、正確には彼らを殺すことができる私の能力を、かな。この眼と感覚共有の力があれば、インキュベーターを宇宙の塵にすることはできるだろう。実際私はここ数年、彼の姿を見ていない」

 

 キュゥべえを脅かす存在がいる。にわかには信じがたい話だった。いくら手を尽くしても蛆のように湧いてきて、まどかに契約を迫る奴らが跡形もなく消え去るのというは、ほむらにとって、希望の光と同義だ。

 

 しかしだ、それならばほむらの中に浮かび上がる疑問がある。

 

「それが本当なら、キュゥべえを見つけ出して始末すれば楽な話じゃないかしら? あなたの眼ならそれができるでしょう?」

「そうしたいのはやまやまだが、彼らを消したところで状況は変わらない。むしろグリーフシードの回収ができなくなり、魔法少女も次々と減っていくせいで、世界中に魔女があふれかえる大惨事となってしまう。幸運なのはインキュベーターがこの事実を知らないことだな。彼らには死の意識というものがないから、滅亡した後のことは全く考えていないようだね」

 

 そこまで都合のいい話はないようだ。しかしキュゥべえがまどかに近づくリスクが抑えられるのなら、それは大きな進展ともいえる。

 

 それならば。ほむらは瞑目し、自らの決意を改めて見つめた。

 

 何度も繰り返した時間の螺旋の中、加野神也という存在はようやく見つけた大きな光芒だ。だが考えもなしに食いつくにはまだ早い。ほむらにはまだ、彼に対しての大きな疑念がある。

 

「インキュベーターについてはよくわかったわ。でもまだ私の疑問は払拭できていない。食事の時はなあなあになっていたけれど、あなたの魔法のことを、もっと詳しく教えてくれないかしら?」

 

 ほむらの言葉に、神也は押し黙ってしまう。何か不都合でもあるのだろうか。

 

 彼が本当のことを言うまでほむらも動くつもりはない。彼女は、余程知られたくないことでもあるのか、もごもごと口を動かす神也をしばらく見つめていたが、やがて「わかった、すべてを話そう」と彼が皮肉気に両手を挙げたのを確認して思わず嘆息した。

 

 この男は協力関係を築こうというのに秘密が多すぎはしないだろうか。ほむらはそう感じていた。思い切り自らのことは棚に上げて。

 

 すると突然、神也は目隠しを両目とも外し、爪のような形状に虚無の結晶を展開させると、躊躇なく上から下へ胸を切り裂き、裂け目を両の手で広げた。そして彼女は見た。どくどくと脈を打つ彼の真っ赤な心臓に、黒い()()が縫い付けられているのを。

 

 グリーフシード。

 魔女の卵。いずれ孵化して絶望を振りまく黒い宝玉。

 

 ほむらは言葉を失っていた。まさか、まさかこの男は──

 

「君の想像通り、このグリーフシードは私の恋人のソウルジェムが変異したものだ」

 

 神也が手を離すと、虹色に輝く結晶が植物の蔦のように傷口を覆い、裂かれた服を縫い合わせた。今ほむらの目の前に立っているのは、胸を心臓が見えるほどに深く切り裂いたとは思えないほどに、平然と立っている背の高い男だった。

 

 ほむらは絶句して、思わず口を押えた。何を考えているのだ、この男は。可能性があったところで、そのようなことができるのだろうか。

 しかしこれで彼の謎が分かった。信用しても悪いようにはならないだろう。その内容自体は正気の沙汰ではないが、神也が魔法を使える理由そのものは判明したのだから。

 

 そのうえでほむらが抱いた感想は、

 

「気色が悪いわ」

「恋人にも言われたよ、それ」

 

 もう少し言葉は優しかったけど。そう言いながら目隠しを被り、歯を見せて笑う神也。しかしほむらは別のことを考えていた。この男は今、傷を縫うことで体を修復した。それならば他にある大きな不安要素を取り除けるかもしれない。

 

 美樹さやかのこと、そしてその契約のきっかけとなる彼のことだ。

 

 さやかが契約する理由のうち、そのほとんどが彼女の幼馴染であり、秘めた想いの先である上条恭介のことだ。交通事故に会い、腕を動かすことができなくなった若き天才ヴァイオリニスト。そんな彼の腕を再び動かせるようにするために、さやかは魔法少女となるのだ。

 そして意外にも傷つきやすく繊細な彼女は、高確率で魔女と化す。まどかがそんなさやかを救うために、魔法少女となったのは一度や二度ではない。美樹さやかの魔法少女化は、まどかが契約する原因となり得る要因のうちで最も大きいものだった。

 

 ならばその理由の方を消してしまえばいい。いま神也が見せた力で、上条恭介を治療してしまえばいいのだ。

 ほむらはそのことを神也に伝えた。彼は成程、と頷いて、

 

「それはいいな。だが問題もある。病室に入り込むのは美樹に協力を仰げば何とかなるだろう。私は自分の身体からしか虚構物質を展開できないが、いざとなれば拘束してでも上条君に触れられればいい」

「結論だけを簡潔に言いなさい。そこまで問題がないなら、あなたの言う『問題』とは何なの?」

「手厳しいね、もう少し会話を楽しんでくれてもいいじゃないか。⋯⋯睨むなよ。冗談だ、すまん。私は今日、眼の力を使いすぎた。全機能の解放までしたんだ。今はまだ来ていないが、反動として丸二日ほど寝込むことになるだろうね」

 

 それでも問題はないか? 首をかしげてそう尋ねる神也に、ほむらは頷いた。

 そう、問題はない。さやかが恭介の事実を知るにはまだそれなりに猶予がある。それに魔法少女の厳しさについて、図らずも神也が警告していたことでさやかに恐怖心が植え付けられたはずだ。そして、

 

「あなたなら上条恭介を治療できること、美樹さやかに伝えておくわ」

「オーケイだ。当面の目途は立ったな。──そろそろ反動が来る。引き留めて悪かったね。道中気を付けて」

「私は平気よ。それよりもあなたの方が重症に見えるわ」

 

 平気平気、と言いながらもふらふらと歩いてゆく背中を眺めた後に、ほむらも部屋に帰ることにした。

 

 振り返った時、すっかり太陽が落ちて冷たくなった夜の風が彼女の長い髪を煽り、大きく巻き上げる。彼女は暴れる髪を右手で抑え、夜空を見上げた。

 

 雲は一つもない。本当ならそこに満天の星空があるのだろうが、今は新興都市である見滝原の街灯たちの光が邪魔をするせいで、星々の輝きが隠されている。

 

 しかし、ほむらにとってはそのわずかな光こそが希望だった。ずっと変わることのなかった暗闇に照らされた、弱弱しくも確かな光だった。とりあえず、怒涛のように過ぎていった今日一日の情報を整理しなければならない。そう考えながらほむらは家路についた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、昼のチャイムが鳴り、生徒たちが各々の昼食をもって友人たちと憩いの時間を過ごす、昼休みが始まった。と言っても生憎、暁美ほむらにはともに昼食を食べる友人など居はしないが。

 

 適当に購買で買ったパンをもそもそと食べ、あとの時間はまどかを契約させないためにどうするか計画を立てる。それが彼女の昼休みの過ごし方だった。

 昨日までは。

 

「ちょっとほむら~、あたしたち花も恥じらう女子中学生なんだよ? そんな味気ないパンだけなんてもったいないよ。ほむらはかわいいんだからさ⋯⋯ていうかどっちかって言うと綺麗系? まあとにかく、そんな味気ない食事じゃそのまま味気ない体になって⋯⋯あ、ごめん、怒らないで。そんな怖い顔でこっち見ないで」

「さやかさん、今のは少しひどいですわ。暁美さんは今のままでも十分魅力的ですもの。無理に変える必要なんてありませんのよ?」

「でもほむらちゃん、確かにパンだけじゃ寂しいよ。よかったら私のお弁当分けてあげる! パパが作ってくれたんだ。とっても美味しいよ」

 

 ほむらはなぜか今、屋上でまどかたち三人とともに昼食を摂っている。というのも彼女自身は何もしていないのだが、昼休みが始まった直後にさやかから「ほーむらっ、ごはん、一緒に食べよ?」と言われたからだ。そのまま無視してもよかったのだが、まどかからも懇願されては断るにも断り切れない。結局勢いに押される形で、ほむらは仲良し三人衆と昼食を共にしていた。

 あれはいつのことだっただろうか、まどかの父お手製の弁当は分けてもらったことがある。ほむらに分けられた小さなハンバーグは、その時と変わらない美味しさだ。

 

 まどかたちと普通に学園生活を営む。それはいつ振りだっただろうか、もう思い出すのも億劫だ。

 

 周回を重ねるごとにキュゥべえの、まどかに対する執拗さは増してゆく。ほむらにも理由は分からないが、繰り返してゆくうちにまどかの魔法少女としての素質が増しているのだ。特に最近は彼女らと言葉も交わせないくらい、キュゥべえがしつこかった。

 

 暖かい陽の光の下、さやかが笑っている。仁美が笑っている。そして、まどかが笑っている。

 

 久しぶりだ。本当に久しぶりだった。まどかの笑っている姿を、こんなにも近くで見られるのは。

 

 それを自覚した途端、ほむらの頬を伝うものがあった。

 

 さやかがぎょっとして、ほむらを見る。言い過ぎただろうかと心配になり、急におろおろしだした。仁美も驚いたように口を押えている。

 

 ほら、急に泣き出すなんて、変な子に見られてしまうじゃないか。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ほむらはそう言いながら勝手に溢れるそれを止めようと、目を乱暴にこすったが、次から次に溢れ出しては視界を滲ませてゆく。やがて堪えきれなくなり、ぽろぽろと零れ落ちてゆくそれを、ほむらはついに止めることができなかった。嗚咽がほとばしり、しゃくりあげ、言葉を発するのも困難になっていく。

 

「大丈夫だよ」

 

 不意に暖かさに包まれた。規則的な心地いい音が、とくんとくんと、ほむらの耳に届く。

 優しい声だった。忘れることのない、ほむらの起源(オリジン)に残り続ける声だ。彼女を最初に助けてくれた、暗闇から導いてくれたひだまりのような声。

 

「ごめんなさい⋯⋯こんな、急に⋯⋯」

「ううん、私にはほむらちゃんに何もしてあげられないから、これくらいしかできないけど。辛かったらいつでも言っていいんだよ。だって私たちは、友達なんだから」

 

 ほむらはただまどかの胸に縋りつき、静かに泣いていた。

 時間とはいくつもの歯車でできた大きな機械のようなものだと、ほむらは思っている。それも繊細な機械だ。少し歯車の噛み合いがずれてしまうと、動きを鈍らせてしまう。

 今までの時間は互いに空回りを繰り返していて、ほむらの意志を回すことはできなかった。しかしそこにもう一つの歯車がはめ込まれた時、再びそれは回りだしたのだ。

 

 ほむらはまどかの腕の中、その大きな機械が回る音を確かに聞いていた。

 

 

 



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君が魔法少女になるしかない

 そこからは驚くほど順調だった。ほむらはマミとともに魔女退治に同行するようになり、さやかにも恭介の怪我が治せる旨を伝えることができた。そしてほむらにとって一番大きいのは、

 

「もう、まどかたちを連れまわすのはやめたの?」

「ええ、鹿目さんも美樹さんも十分わかってくれたと思うから。魔法少女の強さも、カッコよさも、──現実も」

 

 そう、まどかを魔法少女から遠ざけること。キュゥべえが神也のことを警戒して姿を見せない今、それが可能になっていた。そもそも奴がいないのだから契約のしようがないようにも思えるが、そこには念を重ねる方がいいだろう。

 

 現実。

 

その言葉を口にするとともに目を伏せるマミを、ほむらは黙って見ていた。死にかけたという経験自体は、彼女自身何度もしてきただろう。そして今まではそれを回避してきたはずだ。しかし今回は前提から違う。神也の乱入がなければ確実に食い殺されていたタイミング。それはどこか浮かれていたであろうマミにも、現実を教えるいい機会になったはずだ。

 

 そうこうしているうちに空間の歪を発見した。ソウルジェムが激しく反応する。魔女の結界だ。

 ほむらとマミは互いに頷きあい、魔女の結界の中へと足を踏み入れる。

 

 魔女の結界としては珍しく、さわやかな景色がほむらたちの周りに展開されていた。長い紐が物干し竿のようにセーラー服を吊るす青空。そしてその紐が収束する地点に()()は居た。

 彼女もまたセーラー服を着た学生のような出で立ちだった。ただ異常なのは、その体が人間よりもはるかに巨大であることと腕が何本もあること、そして通常足があるはずの場所から腕が生えていることだった。

 

 委員長の魔女。

 

 ほむらにとっては見慣れた相手だ。厄介なのは足元が不安定なことくらいで、たいして厄介な攻撃をしてくるわけでもない。時を止めて無反動砲を数発、機関銃を全弾発射し、とどめに破片手榴弾を投げつけてやった。今回は近接型の魔法少女もいないため、好きなだけぶちかましてやれる。ほむらは様々なことがうまくいっている記念にと、必要以上に攻撃を食らわせ、時を動かした。

 

 派手な花火が上がり、魔女の身体が爆発四散する。弾薬の数は半分くらいでも十分だったが、ほむらとしては景気よくやりたい気分だった。魔女の結界が崩壊して、現実の景色が戻ってくる。ほむらはそこに落ちていたグリーフシードを拾い上げると、盾の中にしまった。いまだに魔法少女姿のまま固まっているマミには悪いとさすがのほむらも思ってはいるものの、今回は仕方がない。魔力を消費したのはほむらだけで、マミは何もしていないのだから。

 

 呆然と立ち尽くすマミの肩に、ほむらは手を置いた。

 

「終わったわ、早く帰りましょう」

 

 マミは引きつった笑顔のままほむらを見た。

 

 マミとしても久しぶりにできた魔法少女の仲間だ。派手に、それでいて油断なく魔女を倒してやろうと思った矢先に、隅田川の柳花火よろしく魔女が派手に爆発した。恐らくは共に居たほむらの仕業だろうが、なんとなく納得がいかない。けっきょく派手に変身を決めただけで、魔力を消費することなく戦いを終わらせた彼女は、報酬であるグリーフシードを派手にほむらに譲った。もう何もかもが派手だった。いや、そもそもマミの目的はそれではない。グリーフシードというものは副産物であり、本命は魔女によって被害を受ける人々を助けることなのだ。ほむらもそれを理解していてグリーフシードを受け取っていた。

 

 乾いた風が吹いた。

 

 暖かくなってきた今日この頃とはいえ、夕方の冷たい風は少々堪える。魔法少女ならその程度の寒気は遮断できるのだが、ほむらはそこまでして体温の調節をする気にはなれなかった。それをしてしまうと本当に人間としての在り方を見失ってしまいそうで。

 

「⋯⋯思ったよりも早く終わったわね、ねぇ暁美さん、せっかく仲間に成れたんだし、どうせなら私の家でお茶でもしていかない?」

 

 ほむらはマミの柔らかい微笑みを見た。この少女は基本的に人がいい。今もきっと寒さに凍えたほむらを見かねての言葉だったのだろう。神也の嘘で疑いが晴れたほむらに対し、ついこの間まで険悪だった中とは思えないほど、マミはフレンドリーにほむらと接していた。

 

 いや、それだけじゃない。

 

 ほむらは思量した。恐らくこの魔法少女はうれしいのだ。純粋に、共に戦う仲間ができたことに喜びを感じているのだ。独りぼっちを寂しがっていたのだ。表面上は強く、気高く見繕っていても結局はマミも年相応の少女に過ぎないのだ。

 

 私もかつてはそうだったなと、ほむらは思考し、マミの言葉に首肯した。ぱあ、と明るい笑顔を浮かべる先輩魔法少女。

 

 この時間軸での問題点は、マミと杏子の確執をいかにして取り払うか、ただそれだけだ。そして今回は加野神也という今までにない強力な切り札がある。マミと杏子、そして神也とほむら。これだけの戦力が揃えばワルプルギスの夜を倒すのには十分のはずだ。

 マミから手を引かれながら、ほむらは思案する。きっと今回はうまくいく。この好条件を絶対に逃がしたりはしない。

 

 歯車は力強い音を立てながらぐるぐると回転していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「最近キュゥべえも顔を出さないし、心配ね」

「心配しなくても、あいつならそのうち顔を出すわ」

 

 マミの部屋は相変わらず綺麗に整えられていて、まるでモデルハウスのために家具を置きましたと言わんばかりに、ある意味生活感が感じられなかった。それでもほむらにとっては懐かしい景色だ。

 

 カップに注がれた紅茶を一口飲む。暖かい液体がほむらの口内を満たし、芳醇な香りを与え、食道を通過し、胃袋に到達するまで熱を与える。ほむらは紅茶の知識を持っていない。香りがいいとか、色が綺麗だとかいう俗な感想は浮かぶのだが、しかしそれだけだ。やれこの品種は香り高いとか、やれ今出された品は淹れ方を凝っているだとか、そんなことは一切彼女には分からない。そもそも紅茶の名前は横文字が多すぎて何が何だか分からない。

 

 だがほむらは思った、懐かしい味だと。

 

 マミお手製の甘いケーキと、少し柑橘系の香りがするナニガシとかいう紅茶。食事というものにあまり頓着しない性格のほむらでも、それが美味しいものだということは分かる。幸福だということも。

 いつかまどかたちとこの部屋で笑いあった記憶がよみがえる。ああ、だめだ。上手くいくことが多すぎて、緊張の糸が緩んでしまう。そんなことをしていてもまどかを救うことにはならないのに。

 

 ほむらがじっとしているのを見かねたのか、マミは彼女の顔を覗き込んだ。

 

「そんなに緊張しなくてもいいのよ? ここには私しかいないし、リラックスしてくれれば」

「違うの、ただ優しくされたのが久し振りだっただけ──」

 

 ほむらははっとして、マミを見た。私はいったい今何と口走った?

 マミの顔が慈しみの表情でほむらを見つめている。昼休みの時、まどかが見せた表情と同じものだ。やめてくれと叫びだしたかった。そんなに優しくされては、本当に戦えなくなってしまう。まどかを救えなくなってしまう。

 

「私も同じよ」

 

 マミはそれだけを言うと、また紅茶を飲み、ほむらを見た。

 

 その顔はほむらの見たことがない顔だった。まるで今にも泣きだしそうな少女の顔だ。今までの繰り返しの中、マミがそんな表情を見せたことは一度もなかった。

 彼女の内面はほむらも理解していた。でも、ここまで分かりやすくそれを表に出すことがあっただろうか?

 

 答えは否だ。

 

 マミは基本的に、その優雅さを失うことはない。彼女が取り乱すのはいつだって魔法少女の真実が告げられた時だけだ。ファミリーレストランでの食事の時だって、震えてはいたものの、それを分かりやすく表に出すことはしなかった。故にその時に気付いたのは彼女と密着していたほむらだけだ。

 

 それなのに今ほむらの目の前にいるのは、恥も外聞もなく表情を取り繕うこともしないマミだった。

 

「ごめんなさい、こんなに情けない姿を見せちゃって。私もね、辛かったの。独りぼっちは嫌で、それでもみんなを守るためには戦うしかなくて。魔法少女の素質があるからといって、鹿目さんや美樹さんを危険な目にあわせて。⋯⋯あなたにもひどいことをしたわ。まるで話も聞かずに一方的に悪と決めつけるなんて」

「あなたが誤ることではないわ。きお──くを失ていたとはいえ、私から何も説明しなかったもの」

 

 ここにきて神也の嘘が効いているようだ。でまかせもいいところだが、確かにあそこには魔女がいたし、神也の能力は彼自身にしかわからない。そのせいで演技を続けなければならないのはいささか面倒だが、関係を円滑に進めるには悪くはない。

 ほむらは少しぬるくなった紅茶を飲み干した。冷めていても香り高く、ほむらの心を満たす。

 

「でも、美樹さんが言っていたことは本当だったのね」

「何かしら、それ」

 

 マミがにっこりと笑うのを見ながら、ほむらは嫌な予感が全身に駆け巡るのを感じていた。あの口が羽毛のように軽い魚頭の女はまさか──

 

「美樹さんからメールが届いたの。『ほむらってば今日急に泣き出しちゃって、まどかに抱き着いてたんですよ。いやー可愛かったなぁ、マミさんにも見せてあげたかった』って」

「⋯⋯教えてくれたことに感謝するわ。美樹さやかには制裁が必要ね」

 

 言いふらされた。あの女はよりにもよって、早くもほむらの黒歴史となりつつある昼食の出来事を。それもマミに。

 

 まどかに抱きしめられたのはいいが、さやかに見られたのはまずかった。ほむらが見せた、こんなにわかりやすい弱点を彼女がみすみす見逃すはずもない。『何でもないの、でもあなたの言葉に傷ついたわけではないわ』あの時さやかにフォローをいれたのがまずかった。どうせならさやかの言葉のせいで傷つけられたことにしてしまえばよかったと、ほむらは後悔していた。

 

 明日は奴の弁当からメインを奪い取ってやる。それが制裁だ。

 ほむらはそう心に決めながら、マミのケーキを平らげた。もちろん味わいながら、ゆっくりと。

 

 甘いものを食べて少し落ち着いた彼女は、時計を見るとそれなりに時間が経っていたことを知り、おもむろに立ち上がった。

 

「そろそろ帰るわ。ごちそうさま」

「ねえ、暁美さん」

「なにかしら?」

「私たちはもう仲間なんだから、またいつでもここに来ていいのよ? 美味しいケーキと紅茶を用意して、待ってるわ」

「⋯⋯覚えておくわ」

 

 そこで素直にありがとうといえないほむらは、自分自身に若干の嫌気がさした。対人関係というものはこれだから疲れる。

 もう擦り切れてしまった心は、愛想笑いの浮かべ方すら忘れてしまったのだろう。本当は愛想ではなく心から笑いかけたかったのだが、そんなことはできない。結局ほむらはいつもの無表情のまま踵を返して、玄関の扉を開けた。

 

 日は落ちかけていた。橙の光はほとんど藍色に支配され、命乞いをするように西の空でわずかに存在するだけだ。

 マミとの共闘も順調だ。後は神也の回復を待ち、杏子を仲間にすればいい。

 

 ほむらは髪をかき上げた。今日は月がきれいな夜になりそうだと思いながら、彼女はほとんど夜になった見滝原の街を歩いて行った。

 しばらく歩いているうちに、ソウルジェムが反応を始める。

 

 ──魔女の反応だ。

 

 ほむらは走り出した。魔女が多い見滝原でも、一日に二体というのは珍しい。さっさと見つけてさっさと倒してしまおう。グリーフシードが得られたなら、マミに渡すのも手かもしれない。ほむらは柄にもなくそのようなことを考えながら、魔女の反応を追っていた。

 

 歯車はまだ回っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マミがまどかからその報を聞いたのはつい先ほどのことだ。なんでも家に帰る途中に、魔女の口づけを受けた友達が町はずれの工場まで行ってしまったらしい。

 

魔女が一日に二体。珍しいことではあるが例がないわけではない。それよりも早くしないとまどかが危険にさらされてしまう。

 せっかく魔法少女の道から外れ、普通の女の子として生きられるようになったというのに、また巻き込まれてしまってはまどかが不憫だし、何より魔女の口づけを受けたまどかの友達に何かあってからでは遅い。

 

 マミは屋根を伝い、リボンを駆使しながらほとんど直線距離で工場へと急いだ。

 

 しばらく移動していると見つけた。月光を背に、しかしそれ以外の光を一切ともしていない、さびれた工場を。マミは魔女の反応を確認しながら、窓を蹴り破って中に入った。そこには何人もの人が、まるで生気を失った亡者のようになぜか閉じられたドアを力づくで開けようとしている。

 

 床に転がる塩素系漂白剤と酸性洗剤の容器。成程、魔女はここで集団自殺をさせようとしたらしい。そしてそれを止めた者がいる。マミはそれが誰かわかっていた。マミはとりあえず操られた人々をリボンで拘束し、ドアを開けた。すると案の定、恐怖でおびえているまどかを見つけた。

 

「ま、マミさん⋯⋯」

「もう大丈夫よ、鹿目さん。後は私がやるわ」

 

 マミは優しくまどかに笑いかけ、そして遅れて彼女の肩に乗る白い生き物を認識した。

 

「キュゥべえ! 今までどこに行っていたの?」

「ちょっとね、僕にもやることがあったのさ」

 

 はぐらかされたことに若干の苛立ちをマミは感じたが、今はそれどころではない。視界が水中のように歪み、水色の景色があたりを包み込む。魔女の結界が展開されていた。

 速攻で片を付ける。マミは大量のマスケット銃を作り出し、注意深く意識を集中させた。

 

 その時、マミは光景を見た。

 

 忘れることのない光景だ。

 

 クラクションが鳴った。熱と爆風が吹き荒れた。体中が痛い、苦しい。でも、それでも少女は生きたかった。だから必死に手を伸ばした。白い、希望を与える使者に。

 

──どうしてみんなを助けなかったの? 

 

 声がした。それは紛れもない自分の声で、マミに届けられる。

 

 違う、あの時は気が動転していた。余裕がなかった。だから「私を助けて」としか言うことができなかった。

 

──違わない。あなたは結局自分のことしか考えていない。だから自分だけ助かった。

 

 違う!

 

 マミは必死で首を振った。そんなことあるわけがない。私はいつだってこの力を人のために使っているのだから。

 

──卑怯者

──卑怯者

 

 今度は違う声だった。マミはゆっくりと顔をあげ、その声の主を見てしまった。

 それはかつて、マミに愛情を注いでくれた両親だった。いつも優しく接してくれた父と母。そんな二人が、今は憎悪に満ち溢れた顔でマミを見下ろしている。

 

 ぷつん、とマミの中で何かが切れた。

 

 

 

 

「マミさん? ⋯⋯マミさん! どうしちゃったの!?」

「大変だよ、まどか。あの魔女は結界の中に入った者の記憶を覗くみたいだ。マミは今、トラウマに苛まれている。このままだと、やられてしまうだろうね」

「そんな⋯⋯」

 

 何もない空間を見つめて固まってしまったマミにまどかは戸惑うが、キュゥべえは至って冷静に状況を把握していた。

 まどかはおろおろと周りを見た。しかしあるのは現実離れした青い光景ばかりで、助けてくれる者はいない。

 

 取れる手段がなかった。先程のいざこざで携帯は落としてしまったし、なにより神也は無理がたたって今は寝込んでいる。ほむらからの返事はまだない。

 キュゥべえがまどかの肩に乗った。そしてビーズのような赤い双眸で、まどかをじっと見つめる。

 

「この状況をどうにかするためには、君が魔法少女になるしかない。それならば君はマミも、友達も救えるよ?」

「そ、そんなこと⋯⋯」

 

 まどかは未だにうずくまるマミを見た。助けは来ない。マミを、仁美を助けられるのはこの場所にまどかしかいない。

 まどかはキュゥべえを見つめた。無表情のその顔は何を考えているかわからない。しかし、彼女自身にもそれしか方法は思いつかなかった。もう自分が魔法少女になるしか。

 

 大きく息を吸って、吐く。 

 

 やれることをやるしかない。まどかは決意を固めた。何もない私には、それしかできないのだから。

 

 その時だった。青い閃光がまどかの目の前を切り裂き、魔女の身体に激突した。そしてその閃光は使い魔たちを次々となぎ倒すと、魔女に向かって一陣の光を放つ。

 

 魔女の身体が貫かれ、結界が崩落した。

 その姿はまどかの見たことがない姿だった。でもその顔は、まどかが何度も見た顔だ。

 

 彼女は青い顔で浅い呼吸を繰り返すマミを抱き上げると、まどかに向かってはにかみ、ピ-スサインを送った。

 

「魔法少女さやかちゃん見参! てか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうして⋯⋯?」

 

 遅れて工場に着いたほむらは、その光景をただ見ているしかなかった。

 

 魔法少女になったさやかが、マミをそっと座らせている光景だ。

 

 うまくいっていたはずだった。恭介の怪我は神也が治せると、確かに伝えていてはずだったのに、なぜ彼女はキュゥべえと契約しているのだろうか。

 にへら、と気が抜けるような顔で笑いかけるさやかに、ほむらはただ呆然とするしかなかった。

 

 歯車が外れる音を、ほむらは聴いた。

 



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どうすればいいのよ⋯⋯

 夕日が差し込む病室で、さやかは想い人の横顔を眺めていた。彼は──上条恭介は、イヤホンで音楽を聴きながら目を瞑っている。そのうち、すっと涙が静かに流れ、彼の頬に一筋の線を残すのを、さやかは黙って見ていた。美しい光景だと、彼女は場違いながらも感じる。

 

 ここが病室でなくて、どこか別の部屋とかだったらもっと別の感想が浮かんだのだろうか? 彼女は現実逃避するようにそんなことを考えていた。

 

 しかし現実は非常だ。

 

 仕方がなかったと言えばそれだけかもしれない。よくあることだ。そう、この国では毎日どれだけ起きていると思っている。そんなありふれた不幸にすぎないのだ。

 

 交通事故なんて。

 

 テレビで見たら、なんだまた事故か。なんて思っていただろうし、感情が突き動かされるとしても、気の毒に、くらいの関わりのなさだろう。

 さやかにとっても、実際にはその程度の関係性しかないはずだったのに。

 いざ目の前にしてみると何もできなくなる。ただ寄り添ってあげるしかない。立ち直れるかどうかは本人次第だし、治療し、動くかようになるかどうかもさやかにはわからない。

 そのはずだった。

 

 あの昼休みの後、予鈴とともに屋上を後にしようとした時だった。

 

「美樹さん、少し話があるわ」

 

 さっきまで泣きじゃくっていたとは思えないほど冷え冷えとした声で、ほむらに呼び止められたのは。

 鉄仮面で、何を考えているかわからない完璧超人。かと思いきやコスプレで通り魔のわけわからん電波さん。そしてキュゥべえを傷つけ、尊敬する先輩のマミと敵対関係にあるいけ好かない奴。

 と思ったらさらにさらに反転して、ピンチのマミを助けてしまい、そして神也に対して急に叫びだす少し変わった友人。

 

 さやかにとってほむらは、そんな複雑な関係の少女である。心の内で何を考えているのかさっぱりだ。

 

 それでも純粋に嫌な奴じゃないんだろうな、きっと人には言えない事情というやつがあるのだろう。気遣いのできる女、さやかちゃんにはそれがわかるのだ。

 首をかしげて続きを促すと、彼女は話し出した。

 

「上条恭介のことだけれど、もう腕は治らないわ。現代の医療ではどうしようもできない。でも安心しなさい、加野神也なら彼の腕を治すことができるわ。完璧に。だからあなたが何かをする必要はない。今、彼は力の使い過ぎで寝込んでいるけれど、しばらく待てばすべて丸く収まるわ」

 

 とんでもない情報の濁流がほむらの口から発せられ、さやかを飲み込む。

 

 混乱する頭で何とか情報を整理すると、恭介の腕が治らないと思ったら、神也が治してくれるらしい。

 

 なぜそんなことが分かるのか、とは聞かなかった。神也の眼ならあり得ない話ではないのだろう。それをほむらに伝えたうえで、彼女に伝言を託したのだ。

 

 さやかも、うすうす気づいてはいたが、やはり恭介の回復は絶望的だったのだろう。

 それを治すことができるというのなら、喜ぶべきなのだろうが、少し納得がいかない。

 

「なんか突然ね。まぁ、あいつを治してくれるならありがたい話だけどさ、何で神也さんはそこまでしてくれるの?」

「あなたが気にする必要はないわ。ただ待っているだけでいいの」

「そこは『知らないわ』じゃないのね」

 

 ぐ、とほむらが言葉に詰まり、さやかを睨みつけるような眼光を飛ばしたが、さやかは苦笑を返すだけだ。彼女は何となくだがほむらのことについてわかってきた。

 

 こいつ、もしかしてコミュニケーションが苦手な奴じゃないのかと。

 

 なるほど、そう考えれば合点がいく。さやかは一人でうなずいた。

 初対面の時、妙に高圧的だったのはきっと、あまり人との接し方が分からない上に、言いたいことをズバズバいうタイプだからだろう。もしかしたらさやかたちを魔法少女という危険な道から遠ざけてくれていたのかもしれない。やり方は少々――いやかなり強引だったが。そもそもあそこまで邪険にしなくてもいいじゃないか。危うく敵と認定しそうになったではないか。しかしそう考えると、目の前でさやかを睨みつける少女のことが何となく可愛らしい存在に思えてきた。

 

 一人でによによ笑っているさやかに、「何を笑っているの?」と撃ち殺さんばかりの殺気でほむらが尋ねるが、さやかは「べっつにー?」と誤魔化してほむらから背を向け、教室へと向かった。

 

 そうだ。もうすぐ希望は訪れる。さやかは胸のあたりに温かいものを感じた。

恭介が涙をぬぐい、にっこりと笑ってさやかに音楽プレイヤーを返すのを見て、

綺麗な顔をしている。さやかはそう思った。

 

 たしかに神也も顔が整っている。それはもう、この世のものとは思えないほどに。でもそれはそれ、これはこれだ。さやかにとって神也は、どちらかというとテレビのタレントのような存在であり、かっこいいとは思うが恋愛対象ではない。一方で恭介は、彼女の惚れてしまっている人だ。何をしても目で追ってしまうだろう。今、彼から笑顔を向けられているこの状況さえ、役得だと思っている自分がいる。

 我ながら現金な奴。さやかはそう思ったが、実際しょうがないだろう。

 

「ねえ、恭介」

 

 さやかが高鳴る胸を必死に抑えながら、意を決して恭介に話しかける。向けられた笑顔はいつもと変わらないものだ。最近見せるようになった、思いつめた表情の上からベールのようにかぶせられた笑顔。本心を隠した仮面。

 

 さやかはそれが嫌いだった。無理をしているなら無理と、つらいならつらいと、言葉に出してほしかった。それを支えることができるのは私だけだから。

 

 その関係ももうすぐ終わってしまう。そう考えると、さやかの中に少し、寂しさが沸き立った。それでも前に進まなければならない。本当に恭介の幸せを願うなら。

 

「奇跡とか魔法とかって⋯⋯信じてる?」

「突然だね、⋯⋯僕はあまり信じていない、かな」

 

 戸惑いがちに答える恭介に、さやかは笑いかけ、ゆっくりと彼の手を取った。

 

 男子の中でも華奢な体系の恭介の手は、それでも骨ばっていて、やはり目の前の人は男の子なんだなあと、さやかは実感していた。恐らく耳まで真っ赤なのだろう、それは窓から差し込む夕日のせいだけではない。 

 慣れないことをしたせいですっかり照れてしまったさやかだが、それでも恭介に伝えなければならないことがあった。

 

「あたしはね、信じてるよ。奇跡も、魔法もあるんだって」

 

 恭介は頭上に疑問視を浮かべていたが、さやかには問題ではなかった。全てはじきわかるだろう。その怪我が治りさえすれば、恭介もさやかの言葉の意味が分かるはずだ。

 

 さやかは歌でも歌いたい気分だった。見滝原の街に沈んでゆく太陽を眺めながら、病院の人がいない廊下を渡っていると、彼女は前方にたたずむその存在を見つけた。

 

 暗くなってゆく空間の中で、それは不気味なほど白く輝いている。

 

「なんか久しぶりね、キュゥべえ。マミさんがやばかったていうのに、一体どこに行っていたのさ?」

 

 キュゥべえは無表情にさやかを見上げ、まるで猫のように後ろ足で頭を掻くとため息を吐くように声を出した。

 

「君は、君たちは加野神也のことをずいぶんと信頼しているようだね」

 

 その言葉にさやかは首をかしげる。当たり前のことだ。命を張って自分を助けてくれた人に信頼の念を置かない理由など、あるはずがない。

 

 当然だと肯定するために、さやかは頷く。するとキュゥべえは目を瞑って首を横に振った。

 

「加野神也のことは僕たちもよく解っていないんだ。ある意味神のような力を持っている。彼は普通の人間であるはずなのに、どうしてそんな力を持っていると思う?」

 

 いよいよ訳が分からなくなり、さやかは唸った。そもそも神也自身にもよくわかっていないのではないだろうか。さやかも、自身がなぜ他人よりも少しばかり背が高いのかとか、まどかがどうしてあんなに優しい人間なのかとかは説明できないのだから。

 

「たまたま生まれつきってだけじゃないの? たしかに普通とは違うけど、いい人なのは間違いないと思う」

「そうか、君はあの力のことを疑問には思っていないんだね。それともう一つ。彼はね、本来魔法が使える人間じゃないはずなんだ」

「知ってるわよ。神也さんは恋人の魔法少女から魔法を授かったって──」

「彼はそんなことを言っていたのかい? 魔法の譲渡なんてできるはずがない。彼が魔法を使える理由はもっと違うよ」

 

 さやかは一歩後ずさった。キュゥべえが何を言っているのか理解するのに数秒かかり、再起し始めた脳が抱いたものは疑問だ。

 

 あの人が嘘をついていた? 何のために?

 

 さやかは唾液を飲み込んだ。乾いた食道に引っかかり、うまく嚥下できない。

 

「じ、じゃあどうやって神也さんは魔法を使っているの?」

「簡単なことだ。加野神也は奪ったんだよ、魔法の力を。僕も予想できなかったけど、確かにあの方法なら魔法が使えるかもね」

 

 さやかは言葉を失った。今キュゥべえが放った言葉を飲み込むことができない。

 

 魔法を奪った? あの人は魔法の力を受け継いだと言った。恋人である魔法少女から。

 もしそれが嘘なら、神也に恭介の腕を治させてはいけない。何をされるか分かったものではない。

 

 さやかは、どうすればいいのか分からなくなった。恐らく恭介の腕が治らないのは事実だろう。でもそれ治療できる存在は彼しかいない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ──いや、別の方法ならあるではないか。()()()()()()()()()()()()()()

 

「ねえ、キュゥべえ」

「なんだい?」

「あたしがお願いしたら、恭介の腕は治せる?」

「できるよ。君が願えば、魔法少女として戦う代わりに、その願いはかなう」

 

 迷いはあった。命を懸けた戦いに、あのマミすら死にかけた戦いに身を置かなければならなくなるというのは、なんとも恐ろしいものだ。さやか自身の安全を考えるのなら、神也に任せる方がいいだろう。

 

 それでも、得体の知れない存在に任せて、恭介に何かあって、そして後悔するくらいなら。

 

「いいよ、私の願い、叶えて!」

「いいだろう、君の願いはエントロピ-を凌駕した」

 

 途端、さやかを襲う少しの苦しみ。

 そして視界を埋め尽くす光。

 

「受け取るといい。それが君のソウルジェムだ」

 

 さやかはその光に手を伸ばして、掴む。

 その手に握られていたのは、青く煌めく宝石だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それはほむらにとって苦々しい思い出だった。

 

 まどかとさやかは親友同士だ。それはもう周知の事実である。そして彼女は魔法少女の真実に耐えうる精神を持ち合わせていない。いや、精神的には強い部類ではあるのだろうが、さやかの抱える複雑な想いが悪い方向へと導くのだ。

 

 想い。すなわち上条恭介への恋心である。

 

 美樹さやかは年相応の少女らしく、可愛らしいその想いを胸に秘めている。だがそれは魔法少女の宿命とは相反するもの。故に彼女は絶望する。それこそがほむらがさやかに悩まされる原因のひとつである。

 

 だから今回は先手を打っておいた。さやかが魔法少女になる前に上条恭介の怪我を治し、彼女の願いを先に潰す。そうすることでさやかは魔法少女にならずに済み、絶望することもなく、そして彼女を助けるためにまどかが契約する危険を減らす。その計画は滞りなく進行しているはずだった。

 

 それなのに、

 それなのにどうして。

 

 ほむらは奥歯を砕けんばかりに噛み締めると、力任せに、マミのソウルジェムを浄化している最中であるさやかの肩を掴んだ。

 

 ほむらのすさまじい剣幕にさやかはたじろいだが、ほむらにはそんなことを気にする余裕などない。今にも手を出しそうになるのをぐっと堪えながら、さやかを睨みつけた。

 

「どうして⋯⋯魔法少女なんかになったの? あなたが成る必要なんてなかった。上条恭介の治療は加野神也ができると、確かに伝えたはずなのに⋯⋯!」

 

 さやかは目を伏せた。そのせいでほむらからは表情を伺うことはできない、

 再び顔を上げたさやかを見て、ほむらは彼女が何を考えているのか分からなくなってしまった。なぜそんなに複雑な顔をしているのだろうか。まるで憎悪と後悔をまぜこぜにしたような顔を。

 

「ねえ、ほむらは神也さんのこと、信用できる?」

「それなりにはしているわ。どういうこと?」

「あたしね、キュゥべえから聞いたんだ。神也さんが魔法を使える理由」

 

 嫌な予感が体中をムカデのように駆け回った。

インキュベーターの入れ知恵。

 

 素質のあるものを魔法少女にしようとたくらむ、超効率主義者。それがさやかに何かを吹き込んだということは、つまり彼女を言葉巧みに誘導し、契約させようとしたということだ。そしてその目論見は見事に成功した。

 

「神也さんが⋯⋯魔法少女を殺して、その魔法を奪ったって」

 

 一歩先を越されたという事実に、ほむらは歯噛みした。

 

 キュゥべえは嘘を吐かない。彼らはそれに意味を見出していないからだ。そしてさやかが伝えられたことも嘘とは言えない。その途中のプロセスが省略されているとはいえ、神也が魔法少女を殺し、魔法を奪ったというのは事実であるのだから。

 

 ぎりぎりとほむらの奥歯が音を立てる。思わずうつむくと、荒い息を吐きながらほむらを見つめるマミと目が合った。きっと今の話は聞かれたのだろう。

 

 なぜなのだろうと、ほむらは考える。

 なぜいつも、願う方向と逆の方に事が進むのだろうか。

 

「あたしはそれを聞いてさ、神也さんを本当に信用していいのか分かんなくなっちゃった。──そんなに怒んないでよ。危険なのは十分にわかってるからさ。危なかったらほむらもマミさんも助けてくれるでしょ?」

 

 そうじゃない。ほむらはそう叫びたかった。

 

 あなたが魔法少女になることで、まどかが契約するリスクが跳ね上がる。

 

 その言葉をたたきつけたかった。

いっそ魔法少女の秘密をすべて話してしまってしまおうか。

そんな風に多少自棄になったほむらの思考を遮って、

 

「本人がいないところでまぁ、いろいろとひどい言われようだね」

 

 彼の声はその場にいる全員に届けられた。

 

 

 

 神也は目隠しを取った状態で、虹色の瞳をその場にいる全員に向けると、皮肉気に口をゆがめた。

 

 壁によりかかるようにして体重を預け、端正な顔には冷や汗が浮かび、血色はひどく悪い。ともすればマミよりも具合が悪いように見える彼は、肩で息をしながらもしっかりと眼を、そこにいる少女たち全員に向けていた。

 

 そして神也が視線をまどかの肩に乗るキュゥべえに向けると、さやかがそれをかばうように前に出る。

 神也は大きなため息を吐いて、目隠しを着けた。

 

「私が寝ている間に、随分と信用を失ったもんだな」

「そりゃあね、キュゥべえから衝撃の事実を聞かされたから。ねえ、神也さんはたぶん今、()()でしょ? だったら言いたいことは分かるよね?」

 

 彼のあごから冷や汗が一筋垂れる。それは雫となって固い地面に落ちると、床に一つの模様を作った。

 

「キュゥべえの言ったことが真実かどうか、と訊きたいのなら、真実だと答えるしか無いだろう」

「やっぱり⋯⋯!」

「まあ、待て待て。君は容疑者の弁解も聞かずに刑を言い渡すつもりか? 疑わしきは罰せずというのがこの国の基本だ。まずは私の弁解を聞いてほしい。そのうえで君たちは、私を信用するかどうか決めてくれ。だが、今日は、ちょっと、無理だ⋯⋯」

 

 神也はそれだけ言うと、ずるりと体が傾き、地面に手をついてしまう。

 

 そんな神也の様子を心配するようにさやかが息を飲む。やはりまだ完全には疑い切れていないのだろう。

 見るからに辛そうだ。ほむらは彼に近づこうとしたが、その足をマミのリボンでからめとられ、動きを止められた。

 ほむらがマミを見下ろすと、マミもまた迷いを捨てきれないでいる顔をしていた。

 

 膠着状態にある彼女らの横をキュゥべえは悠々と通り過ぎて行き、体中から脂汗を浮かべる神也の目の前に座った。

 

「君は、まだ僕を殺すつもりかい? 以前までのように」

「君は本当に、タイミングが悪い。勘弁してくれ。このタイミングで私にその質問をするのは、彼女らの信頼を失うことになる。それともそれを狙っているのか?」

「どうだろうね」

 

 神也が奥歯を噛む、ぎり、という音が夜の工場内に響いた。

 

 それで満足したのか、キュゥべえは工場のダクトから何処かへ行ってしまう。

 

 残ったのは心地の悪い静寂だった。誰も何も言えなかった。キュゥべえの言葉は、事実を知らない少女たちに深い疑惑の念を与えているようで、しかしまだ信用したいという心もあるのか、みな複雑な表情をしていた。

 

「──いまキュゥべえが言ったことは、すべて真実だ」

 

 ほむらは睨むようにして、そんなことをのたまう彼を見た。奴が言ったことを認めてしまえば、関係を再構築することが困難になってしまう。

 

 神也は膝に手をついてゆっくりと立ち上がった。心なしか少しやつれて見える。

 

 ふらふらと上半身が揺れており、いつ崩れ落ちても不思議ではない。

 

「全く、本当に勘弁してくれ。反動から立ち直れたと思ったら、君らと連絡がつかないし。ああ、本当に苦労したよ。町中を視たからね。半端じゃない情報が私の脳に叩き込まれたさ。おかげでこのありさまだ」

 

 は、は、は。彼は乾いた笑い声をあげ、そして口を引き結ぶと、いまだにまどかを守るように立ちふさがるさやかを見た。

 

「私はキュゥべえの言ったことが真実だと言った。だがそれは全てではない。私が君たちにすべてを話さなかったのは──君たちを傷つけないためだ。また、集合をかける。その時にすべてを話させてくれ」

 

 足を引きずるようにして工場の出口へ向かう神也を、少女たちはただ見ているしかできなかった。

 

「どうすればいいのよ⋯⋯」

 

 ほむらを含む全員の心情を代弁したさやかの言葉は、虚しく消えていった。

 



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それはあなたの本心なの?

「調子はどう?」

「⋯⋯死ぬほど悪い」

「だろうね」

 

 ひどく生活感のない空間だった。

 

 妙に広い部屋の中央にぽつんと置いてあるベッド、そして部屋の端の方に様々な機器に繋がれている、そこだけは上等なデスクトップ。目に見える範囲にはそれしかない。フローリングはカーペットを敷くわけでもなくそのままであり、一応システムキッチンにはなっているのだが、肝心の電化は冷蔵庫くらいで、電子レンジも炊飯器もない。

 

 そんな殺風景な部屋の中で、神也は青い顔をしてベッドで横になり、喘ぐようにしてその声を発した。

 神也の目の前で椅子に座り、苦笑している青年はキウイを一口大に切りながら大きくため息を吐く。

 

「しかし、いきなり『HELP』はやめてくれない? 大事したのかと思ったじゃないか」

「ぶっ倒れるほど自分の身体を酷使して、大事じゃないわけがないだろう? こういう時に頼れるのはお前しかいないんだよ、(しょう)

「神也君ならそれくらいどうにかなるでしょ? それといつも言ってるけど、もう少し生活を見直しなよ、君。姉さんがいなくなってからずっとこうじゃない。もう五年だよ? そろそろどうにかして」

「俺に対する扱いが辛辣すぎないか? さすがに泣くぞ」

 

 翔、と呼ばれた青年は皿に盛られたキウイを神也に差し出すと、神也はうめき声を上げながらゆっくりと起き上がった。顔の半分を隠してしまっているが、それでも疲れというものは見て取れる。

 

 翔は再び大きなため息を吐いた。ため息を吐くと幸せが逃げていくというからあまりしたくはなかったが、彼の目の前で剥かれたキウイをつつく男は、何でも見通せる眼を持っている割にはずぼらなところが多い。ため息の一つくらい吐きたくもなる。

 

 ひょいひょいとキウイを口に運ぶ神也は、あっという間に平らげてしまった。食欲はあるようで、健康状態に問題はなかった。ただ猛烈な疲れが彼を襲っていただけだったのだ。

 

 神也は基本的にその眼を使うことはない。魔女と戦う時には使用しなければ、彼もただの人間となってしまうのだが、それ以外の私生活ではほとんど普通の学生だった。と言ってもモラル的にまずいからとかそういう理由ではなく、単に油断していると神也の眼は膨大な情報を拾ってしまい、彼の身体を破壊しようとするから使っていないだけなのだが。

 テストがやばい時には開放するし、今も無駄にスペックの高いデスクトップで株価の動きを予知して金稼ぎをしている。あとパチンコとか。

 

 特にここ数年は魔法少女とのかかわりがなかったこともあり、倒れるほど眼を酷使することもなくなっていた。そんな彼がまた倒れたということは、翔に考えられる原因は一つしかない。

 

「姉さんの願いのことで、何かあったの? そういえば最近大学でも見てなかった気がするけど、ただのさぼりじゃなかったんだね」

「正解だよ、翔。俺は暁美ほむらを見つけることができた」

 

 おお、と翔は声を上げる。

 

 翔の双子の姉との約束は、神也にとって人生の指標と言ってもいいものだった。生きるための意味、と言ってしまってもいい。ただの凪だった神也の心に波を立ててくれた恋人に報いるためにも、神也は暁美ほむらを救うことだけを考えていた。

 

 翔は珍しく嬉しそうな神也に目を丸くしていたが、やがてふっと笑った。いつも他人には壁を造って本性をさらさない神也も、気心の知れた翔に対してはその壁をいくばくか薄くしてくれる。それでも本当の彼を見せてくれるのは、翔の姉に対してだけだった。神也が心から愛した彼女だけ。彼は本当に彼女のことしか見ていない。そのせいで涙をのんだ女性がいったい何人いるだろうか、翔には数える気力すらなかった。

 

 しかしそんなグッドニュースを持ってきて当の神也は、なぜか重苦しい空気を纏っている。どうかしたのか、と翔が首をかしげると、神也はぽつぽつと事のあらましを話し始めた。

 

「暁美ほむらを見つけたのはいいが、問題はそのあとだ。彼女の背負ったものは、たしかにあいつが救ってあげてほしいと願うくらい凄惨なものだった。あんなものを十四にもなっていない子供が背負うなんて、考えられないくらいな。そして、そのなかで彼女の友人の一人が魔法少女にさせられた。曰く俺への不信感を募らせたせいだと」

 

 全く、してやられたと、神也は腕を組む。

 

 魔法少女のことについては、翔も詳しく知っていた。あのおせっかいな姉が事細かに説明してくれたのだ。

 

 その話を聞いた時、翔は荒れに荒れた。恐らく史上最大の姉弟げんかだったように思う。結果はいつものように惨敗だったが。そもそも魔法少女になる前から一度も勝ったことがなかったのに、それが魔法少女になって力を得たのだから勝ち目など初めからなかった。それでも立ち向かわないわけにはいかなかった。人の身を捨ててまで叶えたい願いというものが、よりにもよって神也のことだ。一時期は彼を恨んだりもしていた。今は見ての通り、いい友人関係を築けているのだが。

 

 しかし、翔には気になることが一つだけあった。それは暁美ほむらのことでも、魔法少女になったその友人のことでもなく、いまベッドの上で唸っている彼のことだ。

 

「神也君はどうしたいの?」

 

 神也の眉がわずかにひそめられた。言いたいことが理解できないらしい。翔は少しだけ笑うと、言葉をつづける。

 

「神也君が暁美ほむらさんを助けたいのは、姉さんが願ったからだけなの? 君自身はなぜ暁美さんを助けようとしているの?」

 

 神也の動きが止まった。自身で結論が出ていないらしく、口を開けたり閉じたりしている。

 やがて結論を出したのか、その口が三日月を作った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「それが神也君の意志?」

 

 神也が深くうなずくのを見て、翔はにっこりと笑った。逆に神也は意外だったらしく、首をかしげている。翔の真意を測りかねているようだ。

 

 以前の神也は平坦だった。それこそ全知に近い存在なのだ。膨大な情報というものに晒され続ければ、感動というものはなくなる。それを救ったのは神也の恋人であり、翔の双子の姉だった。

 

 皐月優羽花(さつきゆうか)。それが彼女の名だった。

 

 神也に意志を抱かせたのは間違いなく彼女だ。そして彼女と出会って以来、神也は人間としての生活を確立していった。

 

 それでも。翔は改めて生活感のない空間を見渡した。

 

 それでも彼の根底は変わっていないのだろう、やはり加野神也という人間はどこか人間とは違う生き方をしていて、優羽花はそれに方向性を与えただけなのではないか。翔はそう考えていた。

 

 そして暁美ほむらを救うという意志すらも、神也にとっては彼女に頼まれたからであって、そこに神也自身の感情は介入していないと、翔は思っていたのだ。

 

 しかしどうだろうか、暁美ほむらを救いたいというのは、神也にとって能動的に動くに足る想いだったのだ。

 

しかし基本的に無感動な彼を、そこまで突き動かす暁美ほむらの背負ったものとはいったい何だろうか。翔は少し気になった。だが踏み込んではいけない。人には触れられたくないものがあるのだ。特に年頃の少年少女には。翔はそれをよく理解している。

 

「しかし、あの年頃の少女というのは難しい」

 

 神也は天井を仰いだ。理詰めでうまくいくはずだったのだが、さやかが魔法少女になってしまうというのは痛恨のミスだ。ほむらの記憶を覗いた結果、彼女の魔法少女化には碌な結果が付いてこないし、そもそも恋愛経験が優羽花とのそれしかない神也に、アドバイスなどできるはずもなかった。

 うんうん唸る神也に、翔は苦笑する。

 

「まあ、その年頃の子たちは子供から大人になろうとしているんだ。不安定な時期さ。身体的にも精神的にも。彼ら彼女らは、誰かに動かされる存在じゃなくて、自己を確立させたいんだよ。だからに反発するの。特に理論的な大人というやつには」

「さすが塾講師。よく理解していらっしゃる」

「まあね」

 

 すべてが見えていてもそこはよく分からないらしい。翔は肩をすくめた。

 

 神也は大きく息を吐いて立ち上がり、食器を片付けにキッチンへと向かう。その背中に哀愁が漂っているのを感じた翔もまた、立ち上がって声をかけた。

 

「あまり気落ちしないでよ。まだ挽回可能なんでしょ?」

「⋯⋯かなり難しいな。今まで俺と接触がなかったインキュベーターが、ついに俺の前に姿を現した。今回もしてやられた。何かたくらんでいるのは確かだが、騙くらかし合いではあちらの方がよほど上手だ」

「キュゥべえの考えてることを見るのは?」

 

 神也の頬から冷や汗が流れ落ちた。口は気丈に笑っているのだが、それが無理をしている表情なのは付き合いの長い翔には良くわかる。

 

「ノーだ。それをやると星ひとつが単一個体である、インキュベーターの情報が俺に流れ込む。街ひとつですらこの有様なのに、そんなことをすると俺は死んでしまう」

「八方塞がりってわけ?」

「いや、手は打ってある」

 

 何かをあきらめたような声色だった。

 それに加えて相当に顔色が悪いものの、その言葉自体は希望を持ったものだ。

 

「かなり強引な手段だがね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後、マミとさやか、そしてほむらは魔女の捜索をしていた。ほむらとしては勝手に契約したさやかと同行するのは反対だったが、今回は全てを救うと決めたのだ。彼女らに任せては、いつ崩壊が訪れるか分からない。勝手な勘違いで魔法少女になったさやかなど知るものかと感情的になりたい衝動を押さえて、ほむらは彼女らと同行していた。

 

 神也とは昨夜から連絡が取れない。別れた時の様子からもかなり限界が近いようだったため、もしかしたらまたしばらくは打ち合わせができかもしれないなと、ほむらは考えていた。

 

 太陽が傾き、光の屈折の影響で青い光が地上に届かなくなり、橙色が街を染める。

 

 逢魔時。それは魔や妖怪と言った類に遭遇しやすいという時間帯のことだ。尤も、彼女らはその魔や妖怪と言った類に、自ら遭遇しようとしているのだが。

 

 反応があった。

 三人は目を合わせると、反応が示す方向へと向かう。

 

「最近、先輩としての威厳を保てていない気がするから、ここで頑張らないといけないわ!」

 

 ふんす、と音が鳴りそうなくらい鼻息を荒くしたマミに、さやかは苦笑を返すがほむらは無表情だった。それよりも少しだけ焦っている。またマミが調子に乗っているのは少しまずい。再び油断でもされたらたまったものではないのだ。

 

 そして反応が強くなった場所は、町はずれの裏路地だった。そこに着いたとたんに、薄い結界が彼女らを包み込む。

 

「これは使い魔の結界ね」

 

 幸運だ。ほむらは安堵した。ここで魔女に出てこられては、さやかはおろかマミすらも守らなければならない可能性があったが、使い魔なら安心してもいい。棒立ちでもしない限り誰も殺されることはないだろう。

 

 趣味の悪い落書きのような空間から飛び出してきたのは、使い魔。魔女の片割れであり、それ自体は非常に弱いが、人間を喰うことでいずれ魔女に成長する。ほむらとしても、いつもならまどかに危害を与えない限り見逃す対象だが、今回は違う。さやかとマミは使い魔を見逃すことに是を唱えない。

 

 マミ、さやかと協力関係にあるいま、ほむらに見逃すという選択肢はなかった。

 

「美樹さん。使い魔ならあなたでも大丈夫よ、いい経験になると思うわ」

「が、頑張ります!」

 

 甲高い笑い声のようなものを上げながら、使い魔はせわしなく動き回る。さやかはそれに対して剣を投擲しているが、一向に当たる気配はない。

 

 しかし使い魔も使い魔で攻撃してくることはなかった。

 

 もどかしい、とほむらは思ったが、そこは動かないでおいた。余計なことはするべきではない。

 

「よし!」

 

 投擲した剣が使い魔の逃げ道を塞ぎ、いよいよ後がなくなったという時に、さやかは勝利を確信した声を上げる。強力な魔女ならそれすらも命とりだが、今回は脆弱な使い魔だ。そのような油断が死に直結することはない。

 

 剣が当たる。誰もがそう確信したとき、どこからか伸びてきた槍がさやかの投げた剣を弾き飛ばし、使い魔を逃がす。

 

 ほむらは目を見開いた。マミも息を飲んでいた。その槍が、非常に見覚えのあるものだったからだ。

 

「何してんだよ。使い魔なんか狩っちゃってさ。あれはグリーフシードを落とさないよ?」

 

 怪訝な顔をするさやかとは違い、ほむらとマミにとっては聞き覚えのある声。見覚えのある姿。

 なぜ彼女がここにいるのだろうか。ほむらは前方で槍を構えるその魔法少女を見ていた。

 

 マミがいなくなってテリトリーが明け渡されたわけでもないのに、彼女は、佐倉杏子はそこにいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よお、随分久しぶりじゃん、マミ。なんだ? まだ仲良しごっこみたいなことしてたのかよ」

「ええ本当に、久しぶりね。佐倉さん。ここにはもう来ないって、あなた言っていなかったかしら?」

「ふん、事情が変わったんだよ」

 

 不機嫌そうに鼻を鳴らす杏子に、敵対心を隠そうとしないマミ。何が起きたのか理解できないさやかは、その二人とほむらを交互に見ていた。

 

 ほむらにとっても訳が分からなかった。なぜこのタイミングで杏子が出てくるのか、彼女は基本的に見滝原には来ようとしない。それは見滝原という街が巴マミの縄張りであると同時に、杏子とマミの考え方の相違というものがあるからだ。

 

「どうしてかは知らねえけど、隣の風見野に魔女が全然居やがらねえんだよ。そもそもの数が少ないってのにさ。しょうがねえから、ここにきたんだ」

「そう、だったらちょうどいいわね。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ほう、とでもいうように杏子がマミを見た。

 以前ならマミは杏子との衝突を避けるために、気弱な返事しかしないだろうが、いま杏子を睨みつけるようにして立つマミには、背筋が凍えるような殺気があった。

 

 恐らく神也の言葉に影響されているのだろう。彼の言葉、すなわち杏子の本心を知るためには本気のぶつかり合いが必要だという言葉だ。

 

「佐倉って⋯⋯」

 

 ほむらの横に移動してきたさやかが、ほむらに耳打ちする。本来ならさやかと杏子は遭遇させるべきではないが、本来の予定ならここにさやかも杏子もいないはずなのだ。あまりにも想定外のことが多すぎて、ほむらは苛立った。

 

「ええ、そうよ。加野神也が言っていた、もう一つのカード」

 

 少々ぶっきらぼうにそう返事を返すと。さやかは怪訝な顔でマミと相対する杏子を見た。使い魔を逃がした理由を探っているのだろう。

 見られていることに気づいたのか、杏子はさやかたちを見て犬歯を見せながらにやりと笑った。

 

「あいつらが噂のイレギュラーに新顔か。全く、こんなに魔法少女がいちゃ、グリーフシードが足りなくなるんだから、なおさら使い魔を狩るわけにはいかねえじゃん。あいつらに何人か食わせりゃ、いずれ魔女に成るんだからさ」

「な⋯⋯何言ってんのよ、あんた!」

 

 杏子の言葉に噛みつくさやか。

 

 いつもこれだ。ほむらはため息を何とか飲み込んだ。互いの主張の食い違いが激しすぎて、さやかと杏子はいつも衝突を起こす。そのせいでうまくいかなかった時間軸がいくつあるだろうか。ほむらも詳しくは数えていなかったが、それでも相当な数に上るのは確かだ。

 

「佐倉さん、それはあなたの本心なの?」

「はぁ? あったりまえじゃん」

 

 マミの問いにも、眉を吊り上げてさも当然かのように平然と返す杏子。

 

 そしてほむらの真横で歯ぎしりをするさやか。

 

 そろそろ介入しないとまずいかもしれない。そう思ってほむらが一歩前に出ようとすると、マミに手で制された。

 マミはほむらに笑顔を向ける。いつもの余裕のある笑顔だ。

 

「暁美さん、美樹さんをお願いね」

 

 そう言うと、魔法を展開させ、マスケット銃を取り出す。

 そしてその銃口を杏子に向けた。

 

「佐倉さん。あなたとは一度、本気でぶつからなきゃって思っていたの」

「へ、やっぱそうこなくっちゃなあ!」

 

 その言葉を言うが早いか、杏子が槍を持って突撃した。勢いに任せた全力の突き。普通ならかわすこともできないだろう。

 

 だがマミは普通ではなかった。冷静に銃弾を放ち、杏子の軌道を牽制すると、バックステップで距離を離し、リボンを編み込むように裏路地の空間に展開させる。

 

 杏子が動きを止め、そのリボンを切り裂くと、その間を縫うようにマミの銃弾が迫った。

 杏子は咄嗟に槍を蛇腹剣のようにして銃弾をはじき、その勢いのままマミに槍をふるう。

 

 狭い裏路地で戦っているにもかかわらず、正確そのものでマミに射出された槍先は銃弾に阻害され、彼女に届く前に矛先をずらして壁に激突。その動きを止めた。

 

「くっそ⋯⋯!」

 

 杏子は歯噛みした。まるで近づけない。そして距離を離された状態では、飛び道具を持つマミの方が圧倒的に有利だ。

 次々と発射される銃弾を弾きながら、杏子は打てる手を考えていた。

 

「⋯⋯」

 

 そしてマミもまた、その形の良い眉を歪ませていた。

 本気で当てようとしているのに、すべて弾かれる。やはり杏子の戦闘センスは抜群だった。そして大技を使うことができないマミもまた、次の一手を考えなければならない。

 

 その瞬間、マミの目の前には銃弾があった。弾き返されたのか! 慌てて回避すると、背後でさやかの悲鳴が聞こえた。なるほど、杏子は初心者であるさやかも巻き添えにすることでマミに隙を作ろうとしているようだ。

 

 だが、

 

「ご、ごめんほむら。ありがとう⋯⋯」

「礼には及ばないわ」

 

 ほむらなら冷静に対処できる。故にマミは杏子との戦いに集中できる。

 拳銃で流れ弾を弾いたほむらに、さやかはあっけにとられていた。そして少し悔しさを覚えた。

 

 彼女らの戦いに、全くついていけないことに。

 

「っくそ! まじか!」

 

 マミの射撃速度が上がった。すでに杏子は防戦一方であり、攻撃に転じることはできない。そのうえマミは少しずつ距離を詰めてくるため、回転数も馬鹿にならなかった。

 

 このままではじり貧だ。

 非常にまずい状況の中、しかし杏子が感じたのは高揚感だった。

 

 思えばマミと本気でぶつかったことなど無かった。杏子が本音をぶつけたところで、マミは少し悲しそうな顔をして、少し窘めるだけだ。

 それがどうだろう。一度決別したとはいえ、今は本気のぶつかり合いができている。

 本心を隠すのが得意なマミの、その心の一端を杏子は垣間見ていた。

 

 そして彼女は察する。

 マミは、本気で理想を追い求めているんだと。本当に本心から人のために魔法を使っているのだと。

 

 認められない。

 

 杏子は歯を食いしばった。

 そんなこと認めていいはずがない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 一瞬、杏子の中で決別した過去が姿を現した。みなのために、家族のために魔法を使っていた自分。それが崩壊したときの虚しさ、そして壊れていった正しさ。

 

 杏子はそんな思い出ごと踏みつけるようにして、地面に足をたたきつけた。

 

 路地裏に粉塵が舞う。

 マミはそれでも構わずに銃弾を放った。弾かれた音はしなかったが、当たった気配もない。

 すると杏子はどこにいるのか。

 

 頭で判断する前に、体が動いていた。咄嗟に身をひねると、上空から急襲してきた杏子がマミの真横に槍を突き刺し、衝撃で瓦礫が飛び散った。

 マミの身体を石の礫が襲う。しかし彼女は目を閉じるようなことはせず、マスケット銃を召喚すると、銃口を杏子に突き付けた。

 対する杏子も、落下の衝撃をものともせずにマミに向けて槍を振りぬいた。

 杏子の槍先がマミに届く。マミが引き金を引く。

 

 そのはずだった。

 

 突然彼女らの間に何かが、大量の土煙と盛大な轟音とともに落下してきた。

 吹き飛ばされる二人。そして何が落ちてきたのか顔を上げると、

 

「そこまでだ」

 

 ゆらりと立ち上がったのは、虹色の瞳を持つ男。

 そしてその右手にはレイピアが握られている。

 

「てめぇは⋯⋯」

 

 杏子は今にも噛みつきそうな眼光で、落下してきた()を睨む。

 

 優しげに細められた虹の眼は、杏子をとらえていた。その眼も、杏子がその男のことが気に食わない理由の一つだ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 加野神也が、そこにいた。

 



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自分の心に嘘をついてる

 神也は微笑を浮かべ、手には逃げていった使い魔を掴んでいた。

 おおよそ言語には聞こえない悲鳴を上げながら使い魔は彼の手から逃れようとしていたが、神也は容赦なくその頭を握りつぶし、得体の知れない液体をまき散らす。

 

「このままでは誰かが犠牲になるかもしれないからな、危ないところだった」

 

 そんなことをのたまいながら、神也は隙のない姿勢で杏子と対峙していた。虹の瞳は土煙にまみれた路地裏でも光り輝いており、その幻想的な光芒を見るものに与える。

 

 杏子はその瞳が嫌いだった。以前魔女の結界の中で神也と出会ったとき、杏子の心をすべて見通してしまったのだ。そして同時に与えられた、彼女を憐れむのような目。確かに説明を聞く限り彼の眼は杏子の過去を見たのだろうが、それでも憐れに思われるのは無性に腹が立つし、何よりもその後の彼の言葉も気に食わなかった。

 

「あたしと初めて会ったとき、お前めちゃくちゃうざいこと言ってくれたよなあ? なんだっけ? 忘れちまったよ」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。⋯⋯まあいい。私は言ったよ、強者が力を奮うのは、いつだって弱者のためではならないと」

「だから使い魔を殺したってのか? あたしらの糧になるグリーフシードを産む前の鶏締めるなんて、随分勝手なことしてくれるじゃん」

「それこそ、私の理念に反するからね」

 

 杏子は苛立って槍を地面に叩きつけた。冗談じゃない。誰かのために力を使うことなど愚の骨頂だ。

 

確かに以前は杏子もそれを夢見ていた。だがその行く末は自業自得の破滅の道。奇跡を願った代償に、杏子は願いの起源を失ったのだ。

 

 故に彼女は知った。人のための願いなど己を苦しめる結果にしかならないのだと。

 

 気に食わない。杏子は槍を握り締め、糞のような戯言を垂れ流す男を睨みつけた。

 彼女には理解できなかった。神也はこの世のすべてを知っていると言っても過言ではないはずだ。それなのにそんな理想を追い求めるのは、どうかしているのではないか。彼ならば知っているはずなのに。世の中がそんなに甘くないことくらい。

 

 杏子はその神也の背後に佇んでいる青い魔法少女に顔を向けた。杏子に見られたことに気づいて、その魔法少女は体を強張らせる。成程、確かに新人のようだ。敵対する存在に見られているにもかかわらず、重心は不安定ですぐに動き出せる体制ではない。強襲されたら一歩も動くことができずに串刺しにされるだろう。

 

「なあ、おいあんた!」

 

 杏子はその新人に向かって声を張り上げた。びくりと肩を震わせるその魔法少女に杏子は鼻で笑ったが、気丈に杏子を睨みつけるその姿には感心するものがあった。

 

 なんだ、闘志はあるじゃないか。少なくとも戦う覚悟くらいはしているのだろう。

 完全に腑抜けというわけではないらしい。杏子はひそかに、にやりと笑った。

 

「あんたは一体何を願ったんだ?」

 

 それは純粋な疑問だった。使い魔ごときに苦戦を強いられるほどの初心者ではあるが、しかし戦うことの意味は知っているその少女が、只人の生き方を捨ててまで願ったこととはいったい何なのか、杏子は知りたかった。

 

「あんたに教えるわけがない!」

「あっそ」

 

 返されたのは拒絶の言葉だったが。

 

 少し毒気が削がれた杏子は、力を抜いてあきれたように首を振った。別にどうしても教えてほしいものではなかったが、初見からかなり嫌われているようだし、マミに付き従っているところを見るとどうやらあちら側なのは間違いない。杏子は舌打ちを一つ、彼女等にもはっきりと聞こえるようにした。

 

 悲しそうに伏せられるマミの目線には苛立ちしか感じないし、新人はそんな風に取り合う暇もない。キュゥべえから聞かされたイレギュラーの魔法少女と思われる黒髪の女は静観を決め込んでいて、何を考えているのか分からない上に、得体の知れない雰囲気だ。

 

 神也もやれやれというように肩をすぼめた。

 

「ああ彼女は、──美樹さやかは大切な人の怪我を治すことを祈りとして、魔法少女になったんだ。まあ、その子の怪我を治すことくらい私にもできたんだが、どうも信用されていなくてね。行動は愚かしいが、その強い思いそのものは大いに賛同できる」

「な⋯⋯何で全部言った!」

「私も、割と君の勝手な行動には怒りを感じているのさ。多くを話さなかった私も悪いが、君はいささか行動が短絡的すぎる」

 

 美樹さやか。そう呼ばれた新人が歯ぎしりする。

 

 そして杏子もそうしたい気分だった。さやかが願ったことは徹頭徹尾他人のための願いだ。

 

 ──いや、合点がいくところは一つだけある。その怪我をした何者か。命を懸けた戦いに身投げしてまで叶えたかった祈りの向かう先というのはつまり、

 

「なるほど、男か」

 

 さやかの表情が明らかに変化する。杏子は対照的に彼女へと笑いかけ、槍先を向けた。

 成程、それならわかりやすい。徹頭徹尾他人のための願いではなく、自分の欲望も多分に入っているらしい。

 

「だったら都合いいじゃん。魔法を手に入れたんだし、その男を好き勝手出来るチャンスだよ?」

「そんなことしていいわけないじゃない! あたしはあいつのために願ったんだ! 自分の都合を押し付けていいわけがない!」

「ああ、なるほど合点がいったよ。そんなうっざい考え方してるから、マミなんかに付いてってるんだな」

「あんた、マミさんのことまで──」

「君は、」

 

 挑発的な言葉で煽る杏子に、さやかも食って掛かろうとした矢先、神也の声が彼女の言葉を断ち切る。

 そして神也は悲しそうな目を杏子に向けていた。憐れみと悲しみをブレンドした、途轍もなく不快な視線。杏子が大嫌いな目だ。

 

「君は自らの願いを忘れていないはずだ。それなのに悲しいことを言うな。君の願いこそ、人を慈しむ綺麗な願いだというのに」

 

 その言葉を聞いた瞬間、杏子の心臓が激しく跳ねた。

 

 この男は全て視えていると言った。それには杏子の過去も当然含まれているのだろう。それを視たうえで、彼は悲しむような、憐れむような目を杏子に向けているのだ。

 

 憤怒が沸き立った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

「私には理解できるよ。君の背負う悲しみも、怒りも、諦めも」

 

 杏子は吼えた。神也の言葉に怒りが頂点に達した。全てを悟ったような口を利く嘗めた男に、上からものを言うだけでその本質を理解した気になる愚か者に、制裁を与えてやる。杏子はその決意とともに、神也へと飛び掛かった。

 

 怒りに満ち溢れてはいたものの、杏子は冷静だった。考えなしに突っ込んだところで返り討ちに会うだけだ。それは杏子もよく理解している。未来すらも見通す彼の眼は驚異的ではあるが、しかし対策の打ちようがないわけではない。未来を視て行動するというのなら、それが無意味なほどに素早く、かつ広範囲な攻撃を仕掛ければいい。

 

 杏子は槍を展開させ、渦を巻くように路地裏の狭い通路いっぱいに槍を突き出した。

 超速で突き進む槍は周囲の壁を削りながら、神也を突き刺そうとその心臓を狙う。いくら魔法が使え、魔法少女と同じような身体能力を持っていたとしても、杏子の槍は受けられるものではない。避けるとしたら上方のみ。そしてその手段を取った時が杏子の勝利の確定する瞬間だ。

 

 しかし神也が動くことはなかった。棒立ちのまま杏子の槍をじっと見つめている。

 

 このままだと直撃する。杏子がそう確信した瞬間、槍が嘘のように止まった。

 何かに当たった感触もない。しかし槍は何かに阻まれたように少しも押し出すことができなかった。虹色の結晶が槍に巻き付いており、びくともしない。それは初めて彼と邂逅したときに見た、虚構の結晶だ。

 

 杏子は槍を手放し、一度距離を置こうとして、自らの身体が動かないことに気が付いた。いつの間にか彼女の身体にも虚構物質が這いまわり、がっちりと固定している。

 

「な⋯⋯」

 

 身じろぎすらできない状況に杏子は焦るが、取れる手立てはない。そもそも触れることすらできない結晶に拘束されているのだ。杏子はただ近づいてくる男を見上げるしかなかった。

 

 振り上げられる右腕。杏子はせめてもの抵抗をするためにそれを凝視する。視界の端で、動揺するさやかとマミが見えた。どうして敵である存在を心配するなど、甘ちゃんにもほどがある。

 

 右腕が振り下ろされる。

 

「やめて!」

 

 マミの絶叫が響いたが、神也がその腕を止めることはない。そしてその腕は振りぬかれた。

 

「なん⋯⋯」

 

 杏子から出てきた言葉はただそれだけだった。神也が腕を振りぬいた時、杏子を縛る結晶は霧散し、彼女は自由となる。

 神也はふ、と笑うと、ずっとポケットの中に入れていた左腕を出した。そこには虹の管が無数に伸びており、その先は地面に潜り込んでいる。

 

「君たちがドンパチやっている間、この裏路地じゅうに仕込んでおいた。これを展開している途中では私も動くことはできない上に、速度も遅い。だが一度展開してしまえば話は違う。それでもやるというなら続けようか?」

 

 杏子は大きなため息を吐いた。そこまで準備されては自らに勝ち目はないことを察し、そしてこれ以上彼が追ってくることもないと分かった。

 ならばとる手段は一つ。

 

「ここは引かせてもらうよ。これ以上やっても割に合わない」

「賢明な判断だ」

 

 その余裕ぶった態度に杏子はち、と舌打ちをすると、彼の後ろにいる三人の少女へ目を向けた。正義を信じ切っている者たちの顔。杏子が最も嫌う愚か者どもの顔だ。

 

 杏子は不機嫌を隠そうともせずふん、と鼻を鳴らすと建物の壁を伝ってその場を離れた。

 マミとのぶつかり合いで心の奥に感じた、何か分からない物には気づかないふりをして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて」

 

 杏子がみなの視界から消えたときに、神也はため息のようにその言葉を発した。

 

 そしてくい、と左手首を返すと、砕け、裂かれた路地裏の景色が光り輝き、ビデオの早戻しのように修復されてゆく。

 それを見届けると、神也は目隠しをしてマミたちの方へと振り返った。

 心なしか上機嫌で笑っている。

 

「ようやっと計画通りに事が運んだ。佐倉と出会うのはもう少し後がよかったが、しょうがない」

 

 やれやれという風に左右に首を振る神也。眼を使って多少疲れはあるようだが、大したことは無いようだ。

 

「巴、君は佐倉とぶつかり合えた。普段ならば君は争いを避けただろうが、()()()()()()()()()()()()()。どうだい? 彼女について何か分かったか?」

 

 そして彼はマミへ向けて指をさす。マミは少し思考した。杏子とのぶつかり合いの中で知れたこと、そして神也の、杏子の行動の中に本心がないという言葉。

 

 あの時、最後に槍を振りぬくときにマミの中にあった感覚。恐らく神也が感覚共有の力で、マミだけに送り込んだ空間掌握。それははっきりとマミに感じられた。杏子の身体の強張りを。迷いを持った彼女の動きを。

 

 ああ、そうだ。おそらく彼女は、

 

「あの子は、自分の心に嘘をついてる」

素晴らしい(ワンダフル)! いいね、念のため魔法を使ったが、この分だと必要なかったかな!」

 

 気味が悪いほど調子づき、拍手まで送る神也にマミたちは若干距離を置くが、彼はそれを気にする様子もなく、くつくつと笑い続けている。

 だが納得できないものもいた。ほむらの横をすり抜け、マミの前に立ち、神也と対峙するさやかだ。

 

 神也は笑いを止め、眼下のさやかを見下ろす。だがその口は未だに吊り上がっており、それがさやかの神経を逆なでする。この男は魔法少女の犠牲の上で力を使っているのに、どうしてそんなに愉快そうなのか。

 

 言いようのない怒りがさやかの中に蟠る。

 

「どうしてよ」

 

 さやかの声が震える。そこに何の感情が宿っているのか、彼女自身もよく分からない。

 彼女が発したのはどうして、の一言だけだった。それでもその中にたくさんの意味が込められている。

 

 どうして魔法少女を殺したあなたが私たちを助けたのか。そんな人のはずなのに、どうしてそんなに正義の味方のような行動をとれるのか。

 分からない。さやかは思わずうつむいた。

 

「後悔しているのか? 自らの行いを」

 

 不意にかけられた問いは、さやかですら答えの出し切れていないものだった。いや、恭介を助けたことには一片の後悔もない。問題はその動機だ。私は恭介を助けたかったのだろうか。それとも恭介と付き合ったりしたいのだろうか。

 そして、行動を起こしたきっかけは。得体の知れない存在とはいえ、しかし間違っていることをしているわけでもない神也を疑っての行動なのだ。

 

 それは果たして自分の信念を貫いたと言えるのだろうか?

 

「君の願いは美しいものだ。他人のために願い、そして正義を為そうとしている。ああそうだ。それが君の起源(オリジン)だ。それを忘れてはいけない」

 

 彼が何を言っているのか理解できず、さやかは何も言えなかったが、それでもわかることはあった。彼は忘れるなと言った。さやかの願いの根源を。

 

 当然だ。それを忘れるはずはない。さやかは力強くうなずいた。

 

 そして神也はまた笑った。いかにも見たかった行動だと言わんばかりだ。

 

「よし、そこそこ関係は修復できたかな? 君が私を疑っていた理由も視たからよくわかったし、今なら大丈夫だろう」

 

 そして神也が胸を引き裂き、中のグリーフシードを見せるのを、ほむらは遠いところから見ていた。

 

──あれは相当刺激が強いが大丈夫だろうか?

 

 ほむらがそれを心配するのと同時に裏路地で悲鳴が上がり、二人はおぞましいものを見たかのように助けを求めて、ほむらへと駆け寄ってくる。マミなど恥も外聞もなく涙目になっているではないか。ここ数日の行いで一気に先輩力を失いつつある彼女ではあるが、大丈夫なのだろうか。

 そんなほむらの胸の内など知らず、衝撃的すぎる真実を見せられたマミとさやかはわめき続ける。よほど二人にとっては拒絶反応がすごいようだ。

 

 ほむらはあきれたように空を見上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「でも、なんでキュゥべえはあたしが誤解するようなことを言ったんですかね? 『加野神也は、魔法の力を奪ったんだ』なんて。そりゃ魔女も魔法を使いますけど、ぱっと思いつくのは魔法少女じゃないですか」

「彼は君たちと私を決別させたかったんじゃないかな? 彼に以前言ったことがあるんだ。私の能力があればキュゥべえを殺すことができると。そして私のことを危険だと感じたキュゥべえは、君たちから私を遠ざけようとしたのかもね」

 

 さやかはあきれたように項垂れた。なんだそれは、誤解を与えるに決まっているじゃないか。実際誤解してしまって魔法少女になった人間が目の前にいるのだから、もうすこし彼には反省してほしいところだ。そのこと自体に今更後悔はないが、なんとなくさやかは釈然としない。

 

 神也も十分それを理解しているようで、頭をがりがりと掻いている。

 

 せっかくきれいな黒髪なのにもったいないな、とさやかは思ったがそれを口にすることはできなかった。恥ずかしいとかそういった感情ではなく、単に彼がマミと話し始めたからだ。

 

 しょうがないから後方へと目を向けると、そこには相変わらずの鉄仮面がいた。

 いや違う。ほむらは確かに無表情だが、なんとなく嬉そうだ。さやかにはようやくほむらのことが理解でき始めていた。それでもわかることは少ないが、どうやら彼女はなぜか人と距離を詰めることを躊躇しているようだ。

 

 だから無理やり肩を組んでやった。ほむらはさやかが心配になるほど骨ばっており、力を入れすぎると折れそうなほど華奢だ。いったいどこからあんなに強い力が出せるのか、さやかは甚だ疑問だった。

 不機嫌そうな紫色と目が合う。対照的に、さやかは笑いかけてやった。なぜそう思うのかさやかですら説明はできないが、どことなく不安定なその少女を、どうにかして支えてあげたかったのだ。

 

「はいはい注目!」

 

 神也が突然声を張った。にこにこと笑う彼とは違い、マミは青い顔をしている。どうしたのだろうかとさやかが首をかしげていると、神也は大仰にお辞儀をし、マミへ手を向けた。

 

「佐倉杏子の説得は、巴に任せることにしたよ」

 

 全員の視線が集まり、マミの両肩がびくりと跳ねる。

 真っ赤な顔をしてうつむく彼女は、同じ女子であるさやかですら嗜虐心を擽られる魅力的なものだ。羨ましいくらいに。

 そんなマミはスカートの端をぎゅっと握ると、

 

「が、頑張ります⋯⋯」

 

 蚊の鳴くような声で、決意を口にした。

 



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自分を見失わないでくれ

 空気がよどみ、音の洪水が溢れる空間の中、彼女はダンスゲームにいそしんでいた。

 次々と画面上に何かしらのエフェクトが光るのだが、生憎知識のないマミには何が起こっているのか分からない。ただそれなりに動きに切れがあるのを見ると、上手な部類に入るのではあるのだろうと予測できる。

 

 巴マミはそんな佐倉杏子の後ろ姿を眺めていた。

 

「何か用?」

 

 ゲーム中にもかかわらず杏子から声をかけられ、マミは驚きを隠せなかったが、そもそも魔法少女なのだ。背後の気配を探知することなど朝飯前だろう。

 落ち着け。マミは胸に手を当てて深呼吸を一つした。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 杏子はかたくなだ。一度決めたことにはとことん突き進むし、精神的にも年不相応なほど強い。それは彼女が大きな絶望を知っているからだろう。そんな彼女を懐柔するのは至難の業だが、それでもやらなければいけない。ワルプルギスの夜から見滝原を守るには、彼女の協力は不可欠なのだから。

 そしてそれだけではない。固く閉ざされた杏子の心の扉を開けてあげること、恐らく神也もそれを狙ってマミに交渉へと赴かせたのだろう。ならばその期待に応えなければならない。

 

「貴女にお願いしたいことがあるの」

「そんなの、あたしに聞く義理があると思う?」

 

 杏子から帰ってきたのは拒絶の言葉だ。しかしそれは予想できた。マミもさすがに杏子が何の見返りもなしに協力するとは思えない。

 こちらから提示できるカードは限られている。上手く交渉できるかどうかは五分五分だが、部の悪い賭けではないはずだ。

 

「聞いてくれれば、貴女に見滝原市の一部の譲渡、グリーフシードの共有を約束するわ」

「聞き捨てならねえな。それはあんたの信条には反するんじゃないの? あたしはグリーフシードを産まない使い魔なんか狩らない」

「わかっているわ。使い魔は私が退治する。その分のグリーフシードをあなたに渡すという条件よ」

 

 曲が終わり、杏子の動きが止まった。終盤にいくつか失敗したらしく、パーフェクトではないようだ。そのことに杏子は小さく舌打ちすると、体をマミの方へと向けた。

 とてつもなく怪訝な顔をしている。あまりの好条件に、かえって警戒しているようだ。

 

「そこまでして頼みたいことって、一体なんだよ?」

「二週間後、見滝原市にワルプルギスの夜が来るわ」

 

 杏子の眉が顰められ、疑うようにマミへ懐疑的な目線が注がれる。

 

「なぜわかる──いや、あの野郎の予言か」

「そう、加野さんは未来を視たの。でも私と美樹さん、暁美さん。そして加野さん⋯⋯これだけの戦力を集めてもワルプルギスの夜に勝てるかは怪しいらしいわ。だからお願い、私たちに手を貸して、佐倉さん」

 

 杏子はじっと動かない。何かを見定めるように鋭い目線をマミへと送る。

 どれくらいの時間が経っただろうか、マミの頬を汗が伝ったとき、杏子はにっとわらった。

 

「食うかい?」

 

 差し出されたのはチョコレート菓子。よくお菓子売り場で見かけるものだ。

 マミはそれを受け取る。その顔には安堵と、そして歓喜の笑顔が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『成功しました!』

 

 可愛らしい絵文字付きで送られてきたマミからのメッセージに、神也は目を通す。マミが杏子との交渉を成功させた。まずまずの結果だった。美樹さやかが魔法少女となったのはかなり想定外だったものの、おおむねいい方向に進んでいる。

 条件も互いが納得できるぎりぎりのラインだったが、いい方に転がったようだ。

 

 だがこのタイミングでの佐倉杏子との邂逅は、彼にも想定外だった。本当はこちらから風見野にアプローチをかける予定だったのだが、予定が狂ってしまった。

 

 それもこれも、今彼の前方にいる生き物が原因なのだが。

 

「やはりお前だったか。風見野から魔女を駆逐したのは」

「人聞きが悪いね。魔女は人の呪いが集まるところを目指す。それなら、より人口の多い見滝原に魔女が集まるのは道理と言えるじゃないか。僕はただその道しるべとなっただけだ。多少穢れが多い魔法少女の誘導はしたけどね。魔女を直接移動したりなんかは、僕にはできないよ」

 

 直接の原因ではなくとも、彼らが杏子を見滝原に誘導したのは事実のようだ。

 

 神也は顔色を変えることなく、決して神也の手が届くことがないほど遠く離れた場所にたたずむそれと会話していた。

 

 あの時、路地裏に使い魔を仕込んだのは神也だった。

 佐倉杏子が見滝原に拠点を移した以上、下手にマミたちと鉢合わせするのを避けるよりも、いっそ彼の監視下で出会う方が好都合だったのだ。

 

 杏子とマミたちとの主張は真正面から対立するものであるから、彼女らがぶつかり合うことは未来を視ずともわかる。

 結果は神也の想定以上にいい方向へと進んだようだ。マミからのメッセージからは杏子との連合戦線を組めたことが分かる。

 

 あとは本人たち次第だ。

 だが神也には確証があった。マミは歩み寄ろうとするだろうし、杏子も拒絶はするだろうが、マミと決別したのは彼女としても不本意なのだ。心の奥底では、またよりを戻したいと思っているのだから、マミならば大丈夫だろう。

 

 問題は前方の白い生物だ。

 

 孵卵器(インキュベーター)。少女たちへ安物の奇跡を売り歩く使者。

 そしてその代償として、少女たちに過酷な運命を強制する存在。神也の恋人を、優羽花を奪った元凶。

 数年ぶりに彼の前へと姿を現したインキュベーターが何かをたくらんでいるのは事実だが、それが何かは分からない。だが、なぜ動きを見せ始めたのかはわかる。

 

 鹿目まどか。彼女の存在がキュゥべえたちの動きを活発にさせたのだ。彼女の持つ素質は前例がないほどに強大である。それこそ神也の前に姿を見せるというリスクを冒してまで、彼女を魔法少女にさせたいほどに。

 暁美ほむらの背負った運命はすさまじく過酷なものだ。回数を重ねる毎にその目的は遠く離れていくのだから。

 

「しかし困るよ、加野神也。君がまどかと共にいる限り、僕たちから手出しはできない。宇宙の未来を考えるなら、まどかを魔法少女にすべきではないのかい?」

「⋯⋯違うな。お前も知っているだろう? 彼女を魔法少女にすることは、相転化したときの魔女がどれほど強力なものになるのか。そしてもう一つ。俺は彼女の人生を捨てさせる気はない」

「君はなぜ、鹿目まどかという一個体に執着するんだい? 正直、僕たちと敵対するのはやめてほしいよ。もう五年も経っているじゃないか。皐月優羽華のことは忘れて、君も宇宙生物の一員としての自覚を持った方がいいんじゃないのかい?」

 

 神也の額に青筋が浮かんだ。殺気が吹き荒れ、空気が張り詰める。

 

 それでもキュゥべえは無表情だった。そもそも感情のない者たちであるから、その程度で恐怖を感じることはないのだろう。

 しかし怒りを抱いていることそのものは感じたようで、キュゥべえは神也から更に距離をとる。

 神也は深くベッドに腰かけた。感情的になったところで得るものは何もない。今はできる限り、キュゥべえから情報を抜き取ることが重要だった。

 感情をコントロールするのは神也の得意分野だった。元々平坦な心を持っている彼は、ちょっとやそっとでは揺らがない。

 

 ただ一つの点を除いて。

 

 しかしキュゥべえはその点を知っていた。

 

 彼のただ一つと言ってもいい弱点を。

 

「君は僕を恨んでいるようだけど、それは間違いじゃないのかい? 実際、優羽花の願いで君は助かっているんだ。恨まれるのは心外というものだよ」

「──心がない者がそれを言うのか?」

「心はあるよ。感情がないだけだ」

 

 ぎり、と神也はベッドのシーツを握り締めた。

 彼も理性では理解できていた。キュゥべえはわざと神也の地雷を踏みぬいている。彼の精神を揺さぶり、そしてより優位に立つために。

 

 神也のただ一つと言ってもいい地雷。それはかつて神也を人間にしてくれた、ただ一人の恋人のことだ。

 そして神也はキュゥべえに対し、恨みにも似た感情を持っていた。だが殺したいとまでは思わない。彼らが宇宙のために動いているのは事実である上、人類も少なからず彼らの恩恵を受けている。神也もそれは理解していた。キュゥべえを殺せるというのも、牽制に使っているだけで、本当にそうしたいと思っているだけではない。

 

 そう、無いはずだった。

 

「そもそも皐月優羽花を殺したのは君じゃないか」

 

 その言葉を口にされるまでは。

 

 神也がその言葉を頭で処理する先に、体が動いていた。

 レイピアを召喚し、目隠しを外してキュゥべえに投げつける。それはキュゥべえの真横に突き刺さり、ざわざわと虚構物質を展開させ、キュゥべえの体を固定した。

 神也は虹の瞳を細めてキュゥべえの目の前に立ち、ゆっくりと手を伸ばしてその白い体を掴む。すると途端にキュゥべえは力を失い、ぬいぐるみのようにだらりと垂れ下がった。

 

「⋯⋯接続を切ったか」

「わけがわからないよ。なぜ人間は真実を羅列しただけでそこまでの怒りを抱けるんだい?」

 

 窓際からもたらされたその声に、神也は睨みつけるようにして振り返った。

 逆光でその顔はよく見えないが、どちらにせよ表情と呼べるものはないのだろう。

 神也は虚構物質を、動かなくなったキュゥべえに叩き付けて細切れにする。原子レベルで分解されたその体は霧散し、消滅していった。

 そして彼が目隠しをすると、刺さったレイピアと展開された水晶が消える。

 

 神也は大きく息を吐いた。水が凪ぐイメージを連想する。そのうち、平坦な心が彼を支配した。

 

「消えろ」

「やれやれ、もう少し冷静な話し合いを期待していたんだけどね」

「──お前の企みを、決して遂げさせはしない。覚えておくといい。人の心は、その力は、神にさえも隠されるほどのものだということを」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さやかの耳にヴァイオリンの音が流れ込んでくる。

 最初は恭介と話を合わせるために聴き始めたクラシックも、いつの間にか彼女にも美醜が分かるほどになっていた。

 では今聴こえてくる音はどうなのだろうか?

 

 愚問である。

 

 この世で一番きれいな音だ。

 もちろんこの評にはさやか自身の贔屓が多量に組み込まれていたが、それを抜きにしても、相当に実力のあるものが奏でる音に間違いはなかった。さやかは目を瞑ってその美しい音に身を委ねる。そして、やはり自らが抱いた願いは間違いではなかったと、この音を聞くために私は魔法少女になったのだとさやかは再確認した。

 

「あたしは集中したいんだ。話があるならさっさとしてよ」

 

 さやかはしびれを切らして、ガードレールに寄り掛かる杏子へ、振り向かないまま声をかけた。 

 さやかの背後からぱき、と菓子をかみ砕く音が聞こえた。

 杏子が近づいてくるのを、さやかは肌で感じる。そして彼女は唐突にさやかと肩を組んだ。さやかは咄嗟に払いのけようとするが、がっちりと押さえられて身動きが取れない。

 

 杏子はにやけ顔を浮かべている。その妙に殺気立った表情に、さやかは思わず身震いした。

 

「さっさと話しかければいいじゃん。『貴女を救ったのは私です』って。そしたらこの男も、お前に惚れるんじゃないの?」

「⋯⋯そんなことできるわけないでしょ」

「正義の行いに反するからか? そんなの関係ないじゃん。坊やを救ったのは、あんた自身があいつとそういう関係になりたいと願ったからだろ?」

「あんたなんかに何が分かるの?」

「ああ、分かるね。他人のための願いなんざ、碌な結果になりゃしないんだよ。その分、あんたは賢い。ちゃんと自分の欲望のために願いを叶えてるんだからな」

 

 さやかの全身に力が入る。ワルプルギスの夜討伐のために杏子と戦線を組むことになったと、マミから連絡はあった。杏子がかなり強力な魔法少女なのだということは、先日の路地裏での攻防で十分に理解できていたし、それ故に協力関係を結んだこともわかってはいた。

 

 しかし。

 この、自らの欲望のためだけに魔法を使う杏子という存在のことを、さやかはとても受け入れることができない。魔法を使うということは他者を助けるということだ。平和を守り、弱者を助け、その希望を守り抜くということだ。

 たとえ杏子が魔法少女として強力な力を持っていたとしても、それだけは譲れない。

 この少女は今、さやかの希望を嘲笑したのだ。

 ただ、それだけだった。だが、それだけで十分だった。

 

「なんなら、あの坊やをあんたのものにするいい方法を教えてやるよ。いいか、まず手足を潰す。そしてあとはあんたが献身的に支えてやればいい。そしたらほら、坊やはあんたなしでは生きられなくなるよ?」

「もういい!」

 

 さやかの中で何かが爆発した。

 激情の本流が彼女の身体を走り、その熱が心を沸騰させ、そして爆ぜた。

 怒りという名の熱湯は、さやかの感情を容易くそれひとつにしてしまう。さやかはいま、激怒していた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 杏子は満足げに笑っていた。まるで魔法少女とはかくあるべきとでも言いたげだった。

 争い、憎み、戦うことこそがその本質であると、そういった表情でさやかに笑いかけているのだ。

 

 許せない。

 さやかの頭はその言葉で埋め尽くされていた。神也が美しいと称賛した願いを、恭介の笑顔を取り戻すことができた願いを穢されたのだ。

 指輪から青い輝きを取り出す。

 たとえ連合を組んでいたとしても、それだけは絶対に許せない。

 

「絶対に⋯⋯許せない! 誰かが許しても、それがたとえマミさんでも、あたしは絶対にお前を許さない!」

 

 杏子はさやかの叩きつけた怒りに少しも怯むことなく、むしろ好戦的に歯をむいて笑った。

 獣の牙を思わせる鋭い八重歯が、きらりと光った。

 

「ここじゃ目立つ。場所を変えようか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最悪だ。

 ほむらは走りながらそう思った。

 

『大変なの! さやかちゃんとあの赤い子が、歩道橋のところで戦おうとしてる!』

 

 まどかからその報せを受けたのはつい先ほどのことで、その内容自体は「ああ、またか」とあきれるだけでよかったのだが、問題はまどかがその情報を誰から仕入れたのかということだ。

 それを問うと、素直なまどかからすぐに返信が来た。

 

『キュゥべえから教えてもらったの』

 

 またキュゥべえが動きを見せ始めた。その事実がほむらを一層焦らせる。前回は美樹さやかのことでしてやられたが、今回はそういうわけにもいかない。

 

 まどかの契約がかかっている。

 

 工場の時は間一髪だったものの、その時は裏で神也が、気づかれないようにさやかを誘導したらしく、ぎりぎりで間に合うことができた。そうでなければ今頃まどかは魔法少女になっていたことだろう。

 

 今回も間に合わせなければならない。

 もし杏子とさやかの争いを止めるためにまどかが魔法少女になろうものなら⋯⋯。

 

 ほむらは身震いした。

 この時間軸を捨てて、次もまた神也が現れるとは限らないのだ。故に今までになく上手くいっているこの時間軸を捨てることはあってはならない。

 人の何倍もある体力は尽きることなく、ものの数分で歩道橋にたどり着いた。

 

「やめてよ二人とも! こんなのおかしいよ!」

「は、うざい奴らってのはどうしてこう群れるのが好きかねえ」

 

 歩道橋の上でにらみ合う杏子とさやか。そしてそんな二人の間でおろおろするまどか。

 何もできないと分かっていながらも手出ししようとするまどかの優しさに、ほむらはある種の苛立ちを覚えた。

 

 優しいのは数あるまどかの美徳の内で最たるものだ。それこそ身を亡ぼすこともいとわないくらいに、彼女は優しい少女だった。

 それでも行き過ぎた優しさが大きな絶望を産むことを、まどかは知らない。

 ほむらはその優しさにいったいどれほど救われただろうか。そしてどれほど失敗させられてきただろうか。

 

──どれほど絶望させられてきたのだろうか。

 

 だが絶望に身を落とすわけにはいかない。だってまだ、まどかを救っていないのだから。

 時を止める。

 世界が色を失い、そして動きも失った。

 今この世界で息づくのは、ほむらただ一人だ。

 杏子の背後に立つ。まどかを罵倒したのは重罪だが、いま手を出すのは得策ではない。感情で動いた果てには、取り返しのつかない失敗が待っているのだから。

 美樹さやかのように。

 時を動かす。色が世界にもたらされ、突然現れたほむらにまどかとさやかはぎょっとした。

 

「だとしたら、群れることのできないあなたはどうなのかしら」

 

 唐突に声をかけられ、杏子が驚いて振り向く。ほむらはその瞬間もう一度時を止め、今度は杏子の横へと移動し、時を再開させる。

 杏子の目にはまるでほむらが瞬間移動しているように見えるが、魔法少女の能力としてそれが正しいのか分からず、舌打ちをした。

 

「何のつもりよ、ほむら」

 

 さやかはほむらの唐突な行動に厳しい眼を向けるが、ほむらは平然と髪を梳いた。

 

「言ったはずよ。ワルプルギスの夜討伐のため、佐倉杏子と手を組むと」

「納得できない! そんな奴と手を組むなんて!」

「あたしもごめんだね。巴マミとあんた、あとあの糞野郎はともかく、足手まといのお世話なんかやってられねえっての」

 

 さやかはその言葉に歯ぎしりするが、ほむらは黙ってまどかの方へと向かった。

 これ以上彼女を巻き込むわけにはいかない。その肩に乗るキュゥべえをの睨みつけると、まどかが小さく悲鳴を上げる。ほむらの心に罪悪感が湧いた。まどかを怖がらせるつもりはなかったのに。だがそれでも、多少まどかを怖がらせることになっても、彼女を魔法少女に近づけるわけにはいかなかった。

 

 まどかに背を向けて、彼女を守るようにほむらは立つ。

 

「ほむらちゃん⋯⋯」

「まどか。あなたはこれ以上、魔法少女のことに関わるべきではないわ」

 

 まどかの悲しげな声に、ほむらは振り向くことなくきっぱりとその言葉を告げた。

 振り返ることはできなかった。まどかは恐らく相当に悲しい顔をしているのだろう。それを見ることはできない。決意が揺らいでしまう。

 

 杏子が鼻で笑った。

 

「何? あんたも結局仲良しごっこかよ。しかも魔法少女ですらないやつって、正気か?」

「ええ、少なくとも自分の願いに蓋をして、本心を見失うよりもずっと」

 

 杏子の顔から表情が抜け落ちた。

 そして何を言われたのか理解した瞬間、その顔が般若のように歪んだ。

 

「⋯⋯なんでてめぇがそのことを知ってやがる?」

「さあ、どうしてかしら」

「あの⋯⋯糞野郎!」

 

 どうやら杏子は盛大な勘違いをしているようだが、ほむらにとってそれは好都合だった。

 この様子なら、ほむらの能力が発覚することはないだろう。

 

 時を操る能力は切り札であるゆえに、まだマミたちにも見せていない。彼女たちには高速移動という体で誤魔化してある。

 そして杏子には、一度自らの本心を顧みてほしいというのがほむらのひそかに抱いた願いだった。そしてそのカギになるのは恐らくマミと神也だ。

 

 ──捨ててきたものを、今度は拾い上げる。

 

 ほむらが新しく抱いたのは、その願い。

 拾い上げるものの中には、当然杏子のことも含まれている。ほむらは黙って杏子を見ていた。

 

 その時、突然歩道橋の上に光が溢れた。何処かで見たことのあるような虹の蔓がゆっくりと伸び、人ひとり分の大きさに集まる。

 植物の根が集まったようなそれが、音もたてずに霧散した。そしてその場所にいたのは目隠しをした神也と、彼に襟の後ろ側を掴まれているマミだった。

 

「あの、私たちどうやってここに⋯⋯」

「虚構物質っていうのはなんにでも干渉できるって言ったろ? それで空間を跳んだの。便利だろう?」

「⋯⋯」

 

 困惑したように苦笑するマミと、さわやかに笑う神也。

 そして彼は杏子へ顔を向けた。

 

「糞野郎とは、随分なことを言ってくれるね、佐倉」

「人の秘密をべらべらしゃべりやがって⋯⋯てめえは一回ぶっ殺してやる!」

 

 杏子は魔法少女に変身すると、槍の切っ先を神也へ向けた。

 神也もにっこりと笑って指を鳴らそうとしたとき、その体が大きく吹き飛ばされた。

 

 先手必勝。

 神也の能力は回避力に長けている。それならば下手に長引かせるよりも早急に蹴りを付けたほうがいい。

 杏子はそう判断して、神也が準備するよりも先に槍を振りぬいていた。

 神也も咄嗟にレイピアの持ち手でガードしていたが、威力は殺しきれず歩道橋の上を転がり、手すりに激突する。

 

 杏子はその隙を見逃さなかった。素早く蛇腹状に槍を展開させると、崩れ落ちた神也の身体を縛り上げて宙づりにし、固い歩道橋に叩きつけた。

 くぐもった音が神也の口から洩れる。

 杏子は歯ぎしりした。ここまでやっても泣き言を言わない。ただ笑ったまま、虚構物質も展開させずに拘束されるがままになっている。

 

「そうだ」

 

 唐突に挙げられた声に杏子の動きが一瞬止まる。そしてその瞬間、蛇腹状に展開されていた槍がはじけた。

 

 マミが魔法少女に変身していた。いや、マミ以外にもさやかとほむらも変身している。

 

 神也の拘束を解いたのはマミだ。彼女はその天才的な射撃能力で、神也に当てることなく杏子の槍だけを狙い打ったのだ。

 

 唐突に神也の身体が消えた。

 杏子がその姿を探そうと見渡すと、彼はいつの間にかほむらの傍にいた。そしてその体が光に包まれる。それはさやかの魔法だった。癒しの願いをかなえた彼女は、特出した癒しの力を手に入れていたのだ。

 みるみるうちに神也の身体が修復され、けがも痣も何一つなくなる。

 

「私は一人では何もできない。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 あっけにとられる杏子に、神也は歩み寄る。彼は変わらず笑顔を向けていた。

 

「だから頼む。君も自分を見失わないでくれ。人はだれ一人として、孤独では生きていけないんだ」

 

 杏子は自分が何を言われているのか理解できない。

 

 人が? 孤独では生きていけない? 

 

 杏子にもそんなことは分かり切っている。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そんな話をするために杏子と戦って、痛めつけられたのだろうか。もしそうなら、目の前の男は救いようのない馬鹿だ。あのさやかとかいう正義に満ち溢れた魔法少女と同じくらい、愚かしい行為だ。

 

 杏子はあきれてため息を吐いた。あきれすぎて抱いていた怒りも何処かへ飛んで行ってしまった。

 

 袋からチョコレート菓子を取り出して咥える。

 チョコレートが口内の温度に溶かされ、甘さが杏子を満たした。いつの間にか飛んで行っていた冷静さが返ってくる。

 

 なぜ冷静さを失っていたのか? 決まっている。あの美樹さやかとかいう魔法少女が気に食わなかったのだ。

 昔の自分を思い出してしまうから。

 

 杏子は空を仰いだ。月は細くなっており、光が届かないせいで星がよく見えた。

 ぱき、とチョコレートが溶けて露出したクッキーをかみ砕く。

 

「⋯⋯そういえば共同戦線を組んだ仲だったな。全く、こんな馬鹿どもとは思っていなかったが、条件は悪くねえ。ああ、勘違いすんなよ? 別にあたしはあんたらと仲良しこよしする気はねえぞ。特にてめえとその新入りは、めちゃくちゃ気に食わねえからな。ワルプルギスまでの仲だ」

「それで構わない。君が自らの起源(オリジン)を思い出すのは、まだ先のことだからね」

 

 相変わらず何を言っているのかよく分からない。杏子はそんなことを思いながら棒状のスナック菓子を神也に向けた。

 過去を視たことを許すわけではないが、とりあえず場を落ち着かせるにはそれが一番だった。

 

「ほら、食えよ」

 

 かなり雑に渡されたそれに、神也は苦笑いを浮かべて手を伸ばす。

 その手が突然止まった。

 

 誰も、動くことができなかった。

 

「──あ?」

 

 突然神也の左胸に空いた大穴から、杏子は向こう側の景色を見た。そこから流れ出た鮮血が、まるで何かを伝うように虚空でとどまり、ぽたぽたとこぼれている。

 神也の口からごぼりと大量の血が零れ落ちて、血だまりを作る。

 

 レイピアが神也の手から離れ、血溜まりの上で湿った音を立てた。

 



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ここで見捨てるわけにはいかない

 神也の体が持ち上がり、容赦なく叩き付けられた。

 防御すらできなかった彼は肉片を飛び散らせ、歩道橋の上で血の跡を付けながら滑る。

 吹き飛ばされた右腕がべしゃりとまどかの傍に落ちてきた。

 

「ひっ⋯⋯」

 

 ほむらは短い悲鳴を上げたまどかの傍に走りよる。あたりに鮮血がまき散らされ、彼女らの身体を汚すが、それに構っている暇はなかった。

 神也を攻撃した何者かがいる。しかしその姿を視認することができない。

 非常にまずい状況だ。ほむらは頬に伝う冷や汗をぬぐった。

 

 下手人は返り血で輪郭の一部が浮き上がっているが、それがどれほどの大きさか分からない上に、正体もつかめない。そして神也の安否もわからない。

 魔法少女なら辛うじてどうにかなるかもしれないが、彼はあくまで人間なのだ。しかし生きていてもらわなければ困る。

 

 ほむらは足元に転がる、顔が半分削られた神也を見下ろした。夥しい血液が広がり、ほむらの足元を濡らす。

 そのうち彼の身体が、がくがくと痙攣を起こしだした。

 

 失血性ショックの症状だ。

 ほむらは眉をゆがめたが、それだけだった。

 必要以上に動揺はしないし、冷静さを失うこともない。ほむらはただ目の前にいるであろう攻撃してきた存在に目を向けていた。

 

 (さそり)のような姿をしているのだろうか、神也の血が付いた部分がしっぽのようにゆらゆら揺れ、縦方向にはあまり大きくはなく、平たい構造をしているようだ。

 

 それだけの情報を手に入れると、ほむらは時間を止めた。

 そして銃弾を放つ。本当はロケット砲などの火力が高い兵器を使用したかったのだが、今いる歩道橋を破壊しかねない以上、それらの爆発物は使えない。

 だがどれだけ堅牢な殻を持っているもわからない。ほむらはひたすらに銃を連発した。

 

 時を再開させる。

 金属の弾幕が透明な何かを襲い、轟音を響かせた。そして陽炎のように空間が歪んだ。どうやらなにがしかの液体をまき散らしたようで、それすらも透明なようだ。

 

 耳をつんざくような甲高い悲鳴が上がった。それと同時に周りの景色が歪む。

 ほむらはそれでようやく理解した。目の前にいるのはやはり魔女だ。そして当然のごとくそれは結界を張っている。

 だがその結界が問題だった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 相当隠密行動に長けた能力を持っているが、その分基礎的な能力は低いようだ。

 蠍のような見た目に反して装甲は薄い。

 

 ほむらに一瞬おくれて再起したマミと杏子が魔女に攻撃した。

 しかし魔女の方もぎちぎちと不快な音を立てながら、漏れ出た体液を体中に塗りたくると返り血が透明になり再び完全に姿を隠す。

 

 それを見たマミの反応は早かった。

 素早くリボンでまどかの身体を抱き寄せると、直線状に魔弾で弾幕を張る。しかし手ごたえがないと知るや、リボンでドーム状に全員を包み簡易的な障壁を作り出した。

 そしてすぐに外側でガン! と音がした。魔女の攻撃を防御することには成功したようだ。

 

「⋯⋯この状況、どうしましょう?」

「敵の出方が分からない以上、むやみに飛び出すわけにもいかねえ。かといってここに引きこもってちゃ、じり貧だ」

「加野神也にはまだ息があったわ。ここで見捨てるわけにはいかない」

 

 マミと杏子、そしてほむらが思案した瞬間。

 ガン! と外からまた音がして、空気が震える。魔女が執拗に攻撃してきているのだ。

 マミはとっさの判断で神也は防御壁の中に入れなかった。それは一目見ただけで助かりそうにもない神也よりも、恐怖に戦慄くまどかの救出を優先してのことだ。

 マミの判断は間違っているとは言えない。だがある意味神也を見捨てるような判断をしたせいで、彼女は罪悪感を抱いている。マミの表情からほむらにはそれが分かるが、今はそれをケアする時間がない。

 

 一瞬降りてきた沈黙の中、さやかは勢い良く手を挙げた。

 

「神也さんの治療ならあたしが何とかできそう。あとは、誰かが魔女の足止めしてくれない?」

「あの魔女の姿は見えないけれど、音や空気の揺らぎはあるわ。それだけの情報があれば、そこの二人が何とかするでしょう。私はまどかを守るわ」

 

 ほむらはマミと杏子に目を向ける。

 二人は互いに目を見合わせると、頷きあった。

 

「次に攻撃されたら」

「その音にめがけて攻撃、だな」

 

 杏子はにっと笑い、マミも微笑んだ。かつて師弟関係であったこともあり、二人とも有事の際にはこうやって連携を組める。

 

 ほむらはその様子を見て心配はいらないと判断すると、震えるまどかの手を取った。

 衝撃的な映像を見たからだろうか、顔色は悪く、眼に生気が宿っていない。

 今度は私が助けてあげる番だ。ほむらは優しく、それでいて固くまどかの手を両手で握り締めた。

 

「大丈夫よ、まどか。怖がる必要はないわ」

「ほむらちゃん、ごめん。私⋯⋯」

 

 まどかが恐怖に染められた目でほむらを見上げる。だがその眼には、恐怖以外の感情も渦巻いていた。それはほむらもよく知る色だ。

 

 自己嫌悪の色。

 

 またまどかは自分の無力さに打ちひしがれている。また自分には何もできないと考えている。そんな自分を変えたいと思っている。

 どうしてそうなのかと、まどかを問い詰めたかった。

 まどかにとっての幸福は、今の生活であるはずなのに。家族に囲まれ、友人に恵まれ、そして大人になってゆく。それが幸せであるはずなのに。

 なぜそれを変えたいなどと願ってしまうのだろうか?

 

「どうしてっ⋯⋯」

「ほむらちゃん?」

 

 気づけばほむらはそれを声に出していた。まどかも疑問に思ったようで、困惑した表情を浮かべている。

 心配はいらない、と言うようにほむらはまどかの手をぎゅっと握った。もしくは何かに縋りつくように。

 

 再び防御壁を叩く音がした。

 

「今よ!」

 

 マミがリボンを解き、それと同時に杏子が槍を横薙ぎに振るう。

 肉を切り裂くような音と共に、魔女の悲鳴が響いた。

 どすんと吹き飛ばされた魔女の身体が歩道橋の上に落ちる音の方へ、マミは射撃を開始。

 つぎつぎに飛翔する弾丸はそのほとんどが魔女に命中し、透明なしぶきを上げた。

 

 その戦闘音を背後に、さやかはそっと神也の身体に触れる。

 そして思わず唇を噛んだ。

 

 体が冷たくなり、血管が脈を打っておらず、呼吸もしていない。

 さやかがそっと目隠しを上にずらすと、焦点の合わない虹色の瞳があったが、普段よりも輝きがなく瞳孔が開き切っている。

 すなわち、さやかの目の前にいるのは生命を失った神也だということになる。

 

 さやかは項垂れ、瞼を固く閉じた。死んでしまったものを生き返らせるすべはない。試したことはなかったが、彼女には直感でそれが分かった。

 かっと開かれたままの目は閉じさせよう、そしてせめてもの手向けとしてあの魔女は倒さなければならない。さやかはそう思って神也の身体に触れようとしたその時だった。

 

「ぐ⋯⋯」

 

 神也の唇がかすかに動き、言葉を発した。

 さやかは考えるよりも先に、倒れたままの彼の身体を掴み、揺らす。

 

「い、生きてるの神也さん! まってて、いま治癒魔法かけるから!」

 

 さやかが慌てて神也に魔法をかけようとしたとき、突然その腕が掴まれた。

 神也が残った左手でさやかの腕を掴んでいるのだが、その力が問題だ。まるで万力のような力で、さやかの腕を軋ませる。

 

 さやかは痛みに顔を歪めた。魔法少女の身体にダメージを与えるなど、人間の力を超えている。そうしている間にも神也の手はぎりぎりとさやかの腕を締め上げ、爪が食い込んで血をしたたらせた。

 

 ぎょろりと神也の目玉が動き、さやかをとらえる。

 その瞳はいつもと変わらない虹色をしていた。それでもさやかには言いようのない不気味さを与える。まるで人形と目が合ったような、体の底がうずくような不気味さを。

 その瞳は怒りを持った目つきで、さやかのことを睨んでいる。

 

 突然ゆらり、と神也の身体がまるで操り人形のように起き上がり、戦い続ける魔法少女たちの方へ歩き始めた。ふらふらとした足取りはあまりにも不規則で、人間というよりも幽鬼のような軌跡を描く。

 さやかはつかまれたままの腕を引き、神也を進ませまいと抗うが、まるで意味をなさない。像にでも引きずられているみたいだ。

 

「しん⋯⋯や⋯⋯」

 

 うわごとのように神也は呟く。

 どろりと赤黒い塊が神也の左胸に空いた大穴から零れ落ち、歩道橋の上にべしゃりと音を立てて広がった。

 そしてそこから漏れ出す気配に、さやかは息を飲んだ。

 

 魔女の気配。

 

 さやかの本能が警鐘を鳴らすと同時、大穴から真っ黒なものが噴出した。

 とてつもない暴風がさやかに叩きつけられ、その体が木っ端のように吹き飛ばされる。

 地面に引きずられ、体制を整えようとしても吹き荒れる嵐に体を取られるせいでまともに受け身すら取れない。

 

 ようやくさやかの身体が止まった時、彼女はマミに抱き留められていた。

 

「大丈夫? 美樹さん」

「な、なんとか⋯⋯」

 

 そうしてさやかが立ち上がろうとしたとき、体を支えていた左手のバランスを崩し、また地面に突っ伏してしまう。

 地面が生暖かい。

 空は真っ暗で、星が瞬く代わりに無数の目玉が蠢き、その場にいる全員をとらえている。地面は脈打って真っ赤に染まっており、血管のようなものが無数に走っていた。

 

 魔女の結界だ。そして視界の先に()()はいた。

 

 体中から伸びる深紅の管。巨大な右腕の先に手は付いておらず、剣のように尖っているものの、対照的に人のように滑らかな左腕。顔は本来目がある位置に真っ白な二つの掌が覆っており、妙につややかな唇は固く閉じられている。

 この結界を支配する魔女だ。透明な魔女の結界を上書きして、その巨大な体躯を持つ魔女がみなの視線の先で鎮座していた。

 

 その魔女の足元に神也が倒れている。しかし誰も動くことができない。魔女が放つ異様な空気に誰もが縛り付けられ、魔女の動きを見ていることしかできない。

 次の瞬間、魔女が大きく口を開けたかと思うと、再び突風がその場にいる全員を襲う。

 そして同時に響いてくるすさまじい轟音。

 

 それは魔女の慟哭だった。悲鳴にも似たそれは、魔法少女たちに警鐘を鳴らさせる。

 ()()()()()()()()()()()

 

 魔女は身をかがめて跳躍し、その質量で何かを踏みつける。すると絶叫が虚空から上がり、ぶよぶよした地面を波打たせるものの、魔女はそんなものを気にすることもなく鋭利な右腕を振り上げると、その何かに突き刺した。

 

 ひときわ甲高い悲鳴が上がった。すると魔女が突き刺した右腕の先に、もう一つの黒々としたものが浮き上がる。

 それは神也の身体に大穴をあけた、蠍のような魔女だった。節足動物が動き回る不快な音があたりに満たされるが、刺したほうの魔女は当然気にすることもなくその右腕を脈打つ地面に叩きつけた。

 

 そして蠍の魔女へ向かって振りぬかれる凶刃。

 悲鳴はぱたりと止み、泣き別れになった上半身が遠いところで崩れ落ちる音だけが彼女たちに届けられた。

 

 残った魔女は空へ向かって咆哮する。それは勝利の雄たけびというよりも、むしろ泣き叫ぶような声だ。

 唐突にその顔がさやかたちへ向けられた。敵意を隠そうともせず歯をむき出している。

 

「冗談じゃねえぞ⋯⋯」

 

 杏子のつぶやきを、さやかは聞き逃さなかった。あれだけの強さを持つ彼女が悪態をつくほどの実力を持っているのか。さやかはそこになって初めて体の震えに気が付いた。

 残念ながら武者震いのような戦意溢れる生きの良いものではなく、恐怖に由来する震えなのだが。

 

 マミの手がさやかに乗せられる。そこから伝わってくる震えは、果たしてさやかと同種のものなのか、マミの余裕ある笑みからは判断がつかない。

 

 魔女が再び叫んだ。今度はさやかたちに向かって。

 

「やるしかないようね」

 

 マミがマスケット銃を召喚するのと、同時に魔女が突進してくる。

 マミはそれを避けることなく魔女の足元に銃弾を炸裂させると、地面が大きく脈動してその動きを鈍らせた。

 その一瞬を逃さず飛来する紅い流星。

 杏子が容赦なく魔女の顔面に向かって槍を突き刺していた。しかし、

 

「ちっ⋯⋯」

 

 右腕の刃に阻まれる。杏子は小さく舌打ちをした。

 彼女とて歴戦の魔法少女だ。得体の知れない魔女と戦ってきたことなど何度もあるし、その程度で今更怖気づいたりなどしないが、一切の手加減なく放たれた一撃がまるで先を読んでいたかのように右腕の刃で弾かれたのだ。

 マミの射撃の精度とタイミングは完璧だった。そうして生み出された隙が潰されたとあっては、実力の差を見せられたようで杏子としては気に食わない。

 

 マミの方も若干の焦りがあった。魔女本体ではなく地面を狙い打ったのは、単なる射撃ではあの魔女の装甲を貫けないと判断したからだ。

 魔力を込めることでダメージは与えられるかもしれないが、先ほど蠍の魔女に見せた俊敏さは警戒せねばならない。そうするとティロ・フィナーレを撃つほどの時間が果たしてとれるのか、マミには見当もつかなかった。

 

《佐倉さん、今のは最高速度よね?》

《⋯⋯だったら文句あんのかよ》

《いいえ、そうじゃないわ。あなたのスピ-ドについていけるあの魔女にちょっと驚いただけ。でもまるで、どこから攻撃が来るのか分かっていたみたいなかわし方だったわ》

 

 攻撃の手を緩めないためにも、マミと杏子の二人はテレパシーで会話をする。

 杏子は次々と襲い来る刃を回避しながら決定打には欠けるものの、確実に攻撃を食らわせ、マミは回転数こそ落ちるが杏子に当てないように、かつ魔女の攻撃を妨害しながら的確に銃撃していた。

 

 その戦いから目は離さずに、さやかはゆっくりと神也へ近づいた。いまだに倒れている彼の身体はやはり生気を宿していない。しかし可能性を捨てるわけにはいかなかった。さやかはゆっくりと神也の身体に触れようとした。

 

 その時だった。ほむらが突然さやかへ走り寄ってきた。そしてじっとさやかの眼を覗き込む。

 

「な、なに?」

「私は巴マミたちの援護へ向かうわ。その間、まどかのことをお願い」

 

 そう言われてさやかが目を上げると、まどかの瞳をとらえた。

 いまだに不安で揺らいでいる。そんな彼女を、マミと杏子ですら苦戦する魔女から守り切れるのか。さやかとしても少々不安だったが、ほむらがここに残るよりもいいだろう。さやかはできるだけ力強く頷いた。

 それをみてほむらが纏う空気を戦闘用のそれに変えた次の瞬間、彼女の姿が掻き消えた。と思うとすでに魔女の元へとたどり着いている。

 

 相変わらず不可解な魔法を使うなとさやかが思っていると、まどかの小さな手がさやかのそれを握った。

 

「ご、ごめんね、さやかちゃん」

「あー、なに。謝る必要ないって。まどか一人も守れないようじゃ、見滝原を守るなんて到底出来っこないしね」

 

 まどかを落ち着かせなければならない。さやかができるだけにっこりと笑うと、まどかも少しだけ微笑む。

 さやかは少しだけ安心してもう一度神也の方へ向くと、その体が光に包まれ、虹の結晶が彼の身体から無数に伸びていた。

 

「んな⋯⋯」

 

 その光景に、さやかが驚きに顔を歪めたそのときだった。

 風が彼女の背後を通り抜けた。何事かと振り向くと、そこにはなぜか長い髪を生暖かい地面に散らばせ、仰向けに転がっているほむらの身体がある。

 一瞬やられたのかと思ったが、ほむらは素早く立ち上がった。そしてさやかがほっと息を吐いた瞬間。

 

「にげて、美樹さやか!」

 

 しかしほむらの叫び声はさやかには届かなかった。

 何が起きたのか理解する前に、直観に突き動かされるままさやかはまどかの身体を突き飛ばす。

 何が起きたのか、さやか自身にもよくわからなかった。だが取らなければならない行動は、脳で処理するよりも早くさやかの身体に命令が届く。

 

“攻撃をよけろ!”

 

 さやかは咄嗟に身をひねる。すると魔女の凶刃がさやかの臍付近、ちょうどソウルジェムをかすめた。

 もう少しでまどかともども真っ二つにされるところだった。

さやかがほっと息を吐こうとした瞬間、

 

 その体が崩れ落ちた。

 

 一瞬、さやかには何が起きたのか理解できなかった。しかしそれは実感として訪れる。

 痛い。それは最初に訪れた。何が? ちがう。どこが? そうじゃない。

 ()()()()()()()。逃げないと。できない。()()()()()()

 

 さやかが絞り出すように悲鳴を上げ、痛みにうずくまってのたうち回るのを、魔女は無慈悲に見下ろしていた。そして魔女が右腕を振り下ろそうとしたその時、すさまじい衝撃が魔女に叩きつけられ、その巨躯が吹き飛ばされてマミたちの頭上を越え、遠くで地面に墜落する。

 

 神也がさやかをかばうように立っていた。だが息は荒く、眼は虚ろになっている。

 

 次の瞬間、結界が揺らぎ、現実の世界が戻ってきた。すなわち魔女が逃走したのだ。

 

 しかし彼らはそれで安堵することができない

 

「さやかちゃん? しっかりして、さやかちゃん!」

 

 さやかはソウルジェムに攻撃をかすめただけだ。それなのに今までに誰が受けたどのダメージよりも痛みに悲鳴を上げている。

 

「今のは危なかったね、さやか。もっと本体は大事にしないと」

 

 ほむらと神也を除く全員が事態を飲み込めていない中、キュゥべえの無機質な声が、歩道橋の上で不気味なほどみなの耳に届けられた。

 



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教えてくれた人はもういない

「どういうことだおい! 本体ってなんなんだよ!」

「そのままの意味さ。ソウルジェムこそ君たちの本体だ。僕たちも、人間の身体のまま魔女と戦えなんて残酷なことは言えない。その分、痛みも抑制できて致命傷でも回復できるその体は便利なはずだよ」

 

 淡々と告げられる真実。しかし誰もそれを受け入れることはできない。

 体はもう人間のそれではなく、魂のありかは肉体を離れ小さな石ころにされたといわれたところで、それを理解しようとも納得などできるわけがない。

 

「なんだよそれ⋯⋯そんなの、あたしらゾンビにされたようなもんじゃねえか!」

 

 杏子が感情のままにキュゥべえを掴み上げる。誰もそれを止めようとはしない。ずっと友として彼と付き添ってきたマミも、何かを傷つけることに拒絶を示す優しいまどかも。

 

 からん。マミがマスケット銃を落とす音が虚しく響く。

 いやいやするようにマミは何度も首を横に振っている。呆然と目を見張り、ただ縋るように杏子に締め上げられているキュゥべえを見つめていた。

 マミはふらふらと、それこそゾンビのような足取りでキュゥべえに近づいた。

 

「嘘よ⋯⋯ねえ、キュゥべえ。嘘よね?」

「嘘じゃないさ。そんなことをしたところで意味がないからね。君たちは魔法少女となる契約を結んだ。僕たちはその体から魂を抜き取り、それをソウルジェムとしてコンパクトに収めたのさ。君たちの身体はもはや外付けのハードウェアでしかない」

 

ただ単調に、何でもないことの如く。しかしこれ以上ないほど残酷に、その事実は告げられる。

 マミはその場にへたり込んだ。かつてない衝撃に、ただ地面を見つめることしかできない。

 杏子はまだキュゥべえを締め付けている。彼女もマミと同様に動揺はしていたものの、それを分かりやすく出しはしない。ただその事実に対する悲観を怒りに変え、その元凶にぶつけているだけだった。

 

 まどかは、浅い呼吸を繰り返し時折痛みに呻くさやかの手を握ることしかできない。

 魂を抜かれた身体だとしても、さやかの手からは確かな暖かさを感じる。まどかにはどうしてもそれが抜け殻には思えなかった。

 

「でも本当に危なかったね。いくら体を再生できるとはいえ、ソウルジェムが破壊されたら死んでしまう。さやかは運がよかったよ」

 

 杏子の手を離れたキュゥべえがさやかの顔を見ながら、まるで顕微鏡を覗く研究者が分析するように呟いた。まどかは涙にぬれた顔でキュゥべえを見ることしかできない。

 さやかと繋いだまどかの手は汗でじっとりと濡れていた。それが痛みに苦しみ続けるさやかのものなのか、それとも自らのものなのか彼女には判断できなかった。

 

 不意にキュゥべえの身体が放り投げられた。

 神也が立っていた。胸に大穴をあけられ、左半身を失ったとは思えないほど完全な肉体で、彼は虹色の両眼を細めている。

 神也はゆっくりとしゃがみ、さやかの手を取った。

 

 七色に輝く蔦が神也の腕から伸び、さやかの腕を伝って臍のソウルジェムへと到達すると、その青い宝石に走ったヒビを縫い付けるように覆った。

 さやかの表情がいくばくか穏やかになる。まどかはほっと息を吐いた。

 

 神也はぎゅっとさやかの手を握り締めている。やがてうっすらと彼女の目が開けられると、神也はその青い双眸を覗き込んだ。

 

「私のことが分かるか? 美樹」

「神也、さん⋯⋯?」

 

 夢うつつ、と言った様子でうわごとのようにさやかは言葉を発したが、次の瞬間目を大きく見開いて飛び起き、辺りを見渡した。

 尋常ではない雰囲気。いったい何があったのか理解が追い付かず、さやかの眉が顰められた。

 

「なに⋯⋯? なんなの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まさか、あの状態から生きているなんて」

「私も驚いている。なんせ、死ぬのは初めてなんでね」

 

 そう言って神也は左胸をさすった。そこにかつてあったものを確かめるように。しかしもうそこには脈動する心臓しかない。

 目隠しをしているせいでほむらからは神也の表情を伺い知ることはできない。ただ皮肉気にゆがめられた唇からは、怒りや悲しみといった負の感情をまぜこぜにしたようなものが感じられた。

 だがなぜだろうか、ほむらはその表情に大きな違和感を覚えた。しかしその正体が掴めない。

 

 そこは真っ白な空間だった。

 生活感はかけらもなく、腰を落ち着かせるための円を描くような台と、その中心にある背の高い丸机。天井には巨大な振子がぶら下がっており、ぎいぎいと揺れている。そしてホログラムで映された壁にはほむらの記憶の写真があり、特に目立つ場所にあるそれを、神也はまじまじと見つめていた。

 

 ワルプルギスの夜。

 

 噂でしか語り継がれていない災厄とも呼べる存在。

 乗り越えなければならない呪い。

 

 大きく変わってしまった状況に対する作戦会議。ほむらはそのために神也を部屋に呼んでいた。

 

「私は一体、どういう存在なんだろうな」

 

 神也は誰に問うでもなくそう呟いた。ゆっくりとほむらの方を振り向く彼の表情は完全に消えており、本当に動く人形の様だ。

 彼の問いはほむらに答えられるものではなかった。そもそも彼女自身が魔法少女という人間とはかけ離れた存在なのだから。

 

 人間の形をしたナニカ。見た目だけは人間であるものの、その本質は今ほむらの右手につけられた石ころに過ぎない。

 ほむらはその宝石を照明にかざした。

 深い紫色の輝きだった。僅かにくすみが目立つが、まだ問題ではないだろう。

 

 魔法少女というものは何だろうか。

 それは未だにほむらの中でも答えが出ていない。人間ではない事は確かだが、それを定義する言葉は分からないのだ。

 

「そんなに悲しそうな顔をするなよ。少し気になっただけだ」

 

 神也は肩をすぼめると、ほむらの対面に腰を落ち着かせる。膝を大きく開いて肘をつき、頬杖をして唇を吊り上げた。とても人間味にあふれた行動だ。しかしほむらにはまるで人間のふりをする得体の知れない存在に思えた。

 

 ずっと彼を覆っていた壁が先ほどまでの一件で削られ、薄くなったそれから神也の本質が透けて見える。

 人間ではないナニカが。

 

 鳥肌が立つ。

 自らが対面している存在が何か分からず、無意識に両手を握り締める。いったい彼は何だろうか。あまりにも人間から離れすぎている眼の力もそうだが、ほむらには神也の精神構造がかけらも理解できなかった。

 

「君がどういう存在なのか、僕も気になるところではあるね」

 

 不意にかけられた言葉にほむらは腰を上げた。

 その声の主は感情のこもらない真っ赤な目で二人を見ていた。招かれざる客。今回の騒動の元凶がそこにいた。

 

「私にわかるわけがないだろう⋯⋯」

 

 あきれたように神也はため息を吐く。しかしほむらにはひどく平坦な声色に思えた。そして先刻からほむらが抱いていた違和感の正体を掴んだ気がした。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ほむらは正面で見つめあうその二つの存在を見比べた。

 ()()()()()()()

 どちらにも感情と呼べるものが見当たらない。

 

 だがほむらには神也に感情がないとは思えなかった。今まで見てきた彼の振る舞いは感情のない者のそれではなかったし、恋人の話をする時の彼は慈しみに満ちたものだったはずだ。

 やはりあの魔女と離れてしまったことが原因なのだろうか。

 

 ほむらは静かに目を伏せた。愛するものを失うその心はよくわかる。ほむらも愛する友人を失ってきたのだから。

 何度も何度も。

 まだほむらの精神が人間のそれであるのは、まどかという道しるべのおかげだった。彼女がいるからこそ、ほむらは心まで人間を捨てることはない。

 

「ようやく合点がいった」

 

 神也は足を組み、人差し指でキュゥべえを指した。

 

「君はほとんど素質のない少女と契約したな? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「その通りだよ、加野神也。尤も生き返るとは思っていなかったけど。それでも君はもう魔法を使えないだろう?」

「ご明察だ」

 

 そう言いながら神也はキュゥべえの身体を掴み上げた。通常なら全力で避けるだろう彼も、今回はおとなしく神也にされるがままだ。

 神也はキュゥべえの首筋を掴んだままその体に顔を近づけた。

 

「言ったろう? 私はお前の企みを遂げさせる気はないと」

 

 大きく振りかぶり、キュゥべえの小さな体を投げ飛ばす。壁にぶつかって妙な音を出すキュゥべえを助ける人間はこの場にはいない。

 神也はゆらりと立ち上がった。

 

「確認はとれた。もういい、消えろ」

「やれやれ、結局君は僕と敵対するのか。せっかく過去と決別できるいい機会だというのに」

 

 キュゥべえは首を数回左右に振ると、踵を返して消えていった。残ったのは静寂と気まずさ。ほむらは彼にかけるべき言葉を見失っていた。

 神也はそのままもう一度座ると天井を見上げる。しばらくそうした後にほむらの方を向き、にっこりと笑った。だがそれすらもほむらには何の感情も込められていない、薄っぺらなものに感じる。

 神也は肩をすくめた。

 

「そんなに怖がらないでくれ。私もどうしたらいいか分からないんだ」

「あなたにも分からないことなんてあるの?」

「案外たくさんね」

 

 すべてが観測できる規格外の眼のことなどほむらには分からない。神也が嘘をついている可能性もゼロではないのだ。

 それでもほむらは彼に頼ることにした。未来を信じることこそが可能性だと、希望だと彼は言った。ほむらにとっての希望はまどかが幸福に生涯を送ることだ。その未来を彼女は信じ続けている。それこそ何度運命を繰り返すことになろうとも、その可能性だけは絶対に捨てはしなかった。

 

 いや、今回に限ってはそれも違う。捨ててきたものを、かつて膨大な繰り返しの中で捨ててきたかけがえのないものを拾い上げる。それももはやほむらにとっての希望だ。

 

 ほむらは逡巡する。目の前に座る男が豹変した理由を。彼がそうなってしまった理由は何なのかを。

 突然、気づきが訪れた。それは雷鳴のようにほむらの脳に響き、目の前にいる得体の知れない存在に輪郭を作り上げた。

 

 そうだ。きっとそうに違いない。

 

 ほむらは魔法少女に変身し、神也が行動を起こす前に時を止めた。

 モノクロになる世界。その中で唯一色を持ったほむらは神也に近づくとその目隠しを下にずらし、隠されていた虹色を露にさせた。

 

 彼と目が合う。止まった時の中で動く瞳と。

 ほむらはそれに驚きはしなかった。心のどこかでなんとなく予想していたことだ。

 そしてもう一つ予想通りのことがあった。

 

 気づきは確信に変わった。ほむらは時間を動かした。それでも神也は動かずにじっとほむらを見つめている。彼が再び目隠しをしようと動かしたその腕を、ほむらは押さえた。

 神也は批難に満ちた顔でほむらを睨んだが、ほむらがそれに怯むことはない。

 

 見覚えのある表情だった。いつもほむらが鏡ごしに見る顔だった。

 不安や恐怖、そして絶望を必死に隠そうとする顔。まるで迷子になってしまった子供のような。ほむらがいつも目を逸らしてきたそれを、彼女は神也を通して見ていた。

 こういう顔をする人間に何を言えばいいのか、ほむらは経験として知っている。

 

()()()()()()()()()()()()

「──まさかとは思うが、私は女子中学生に諭されているのか?」

「ええ、不満かしら」

 

 迷子の子供にかけるにはいささか突き放すような言葉。しかしそれでも構わないとほむらは思っていた。そもそも目の前にいるのは成人を超えたいい大人であり、子供ですらないのだが。

 

 神也は未だに彼の腕を掴んで離さないほむらの手をそっと離すと、

 

「いいや、不満はないさ。正直なところ私一人でどうにかなると思っていた。驕っていたんだ。情けないことにね。ああ、そうだ。私も誰かに頼らなければいけないんだったな」

 

 神也は目を閉じた。

 徐々にその顔から表情が抜け落ちてゆく。今までの顔が霞のように掻き消え、色のない凪が彼の顔を支配した。

 そして表情と呼べるものが一切なくなったその顔で神也は再びほむらを見上げた。

 ほむらは息を飲み、一歩後ずさる。

 

「あなたは感情がないの? それとも感情が無い振りをしているの?」

「どうだろう、君はどう思う?」

 

 顔がなくなったのかと思うほど何もかもが抜け落ちた顔で、その唇だけが三日月を作る。ひどくいびつなその表情にほむらは何も言えない。

 突然彼がふ、と笑った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 恐ろしいほど平坦な声でそれだけを言うと神也は目隠しをした。

 顔の半分が隠され、その表情を読み取ることができなくなる。ほむらが何かを言う前に神也は立ち上がった。百八十を超える長身でほむらのことを見下ろす彼の顔は陰になっていて、彼女からは見えない。

 彼は少し笑って踵を返した。

 

「大丈夫、私は大丈夫だ」

 

 まるで自分に言い聞かせるような声色だった。そしてそういうことをのたまう人間は大抵大丈夫であるはずがない。人心に疎いほむらもそれくらいは理解できる。

 だが動くことはできなかった。

 まるで縫い付けられたように足が動かない。

 

 神也が玄関の扉を開け、出ていく音をほむらはただ聞くことしかできなかった。

 いきなり体が呪縛から解放された。いつの間にか呼吸を止めていたようで、大量の空気がほむらの肺に入り込んでくる。思わず咳き込んだ。

 心臓が早鐘を打っていた。手がじっとりと汗ばみ、遅れて全身から脂汗が噴き出した。

 ほむらはその時になって初めて神也が殺気を纏っていたことに気付いた。

 

 ワルプルギスの夜が訪れるまでもう時間がない。それなのにここにきてほむらには神也のことが分からなくなった。

 どう考えても彼が平常であるとは考えられない。それでもほむらには何をしていいのか分からなかった。

 

 ソウルジェムの真実に潰れそうになるマミとさやか。杏子は諦めの境地に至っているが、その精神性ゆえにマミとさやか、その二人と心中した過去すらある。そして神也の飼っていた魔女のこともある。

 下手を打てば、はずみでまどかが契約しかねないことばかりだ。

 

 やはりすべてを救うことなど不可能なのかもしれない。

 ほむらは天井を見上げた。おおきな振子が左右に振れている。

 じょじょに冷たいものが彼女の頭を支配した。

 

──やはり私はまどかだけを救う。

 

 しょうがない。

 しょうがないことだ。

 ほむらはそう断じた。

 

 ほむらの心にじくじくとした痛みが疼く。それを無理矢理押さえつけ、ほむらは前を向く。

 ひどく悲しみに歪んだ顔に気づかないふりをして、彼女は決意した。

 

 



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すこしお話しさせてもらっていいかな?

「どうして私たちを騙したの?」

 

 沈んだ声が広い部屋の中で虚しく響く。

 マミはそっとソウルジェムをガラス机の上に置いた。そのくすんだ黄色の輝きは見とれるほどに綺麗だ。

 それが魂の輝きであるという事実を除けば。

 キュゥべえがその宝玉の真横に立つ。

 

「だましてなんかないよ。それに君には説明する時間なんてなかったはずだ」

 

 ひどく無機質な声。マミはキュゥべえのそんな態度に腹を立てるよりも無気力感に襲われていた。

 悪びれる様子もなく、声色に一切のぶれがない。

 

 マミはその時初めて目の前にいる生物が理解の及ばない存在であると感じた。

 人間の理解が及ばない、価値観が全く通用しない存在。

 独りぼっちだったマミに寄り添ってくれた友達だったはずなのに、今は怪物のようにも見えた。

 

 黒い感情がじくじくとマミの内側を蝕んだ。

 あの時自分のことを願わなければマミの命は失われていただろう。契約したことについては後悔など無い。

 周りの人を救えなかったという罪悪感はあるものの、だからこそ得られた力で罪なき命を救う。それがマミの使命だったはずなのに、今はそれが正しいのかすら分からない。

 

 だが今気がかりなのはさやかのことだ。

 

「美樹さんには、ちゃんと説明したのよね⋯⋯?」

「していないよ」

 

 マミはがばりと立ち上がりキュゥべえに掴みかかる。

 目を大きく見開き絶望に満ちた表情で彼を睨みつけるが、本人は全く動じた風ではない。

 その態度にマミの感情が逆撫でされた。

 

「どうして⋯⋯?」

「訊かれなかったからね。知らないことによる不都合なんて、何もないだろう? 現に君も真実を知ることなく、今まで戦ってこられた」

「そんな⋯⋯そんなことって⋯⋯」

 

 マミの腕から力が抜け落ちた。信じていたものが根底から崩れ落ち、目の前が真っ暗になる。

 黄色の瞳から涙が零れ落ちた。

 

 太陽が覆い隠されて光が遮られた。

 大きな窓から差し込んでいた陽光が消える。照明のついていない室内は薄暗く、まるで今のマミの心象のようだった。

 

 今日は学校に行っていない。どうしてもその気になれなかった。

 怒りすらも抱けなかった。ただ無力感だけが彼女を支配していた。

 

 沈黙が空間を支配する。

 マミは灰色の空気の中で、キュゥべえとソウルジェムだけが色を放っているように感じた。忌々しい存在だけが色を持ち、希望に満ちた世界が灰色に塗り潰される。

 

 マミがガラス机に突っ伏すとひんやりとした感覚が頬から伝わった。

 もう何かを考える気力すらない。マミが目を閉じた時だった。

 チャイムの音が鳴った。

 

 マミには立ち上がる気力すらなかったが、しばらくするとまたチャイムが鳴らされる。

 さすがに怪訝に思いマミが立ち上がった時だった。

 

《おい、マミ。いるんだろ?》

《佐倉さん?》

《ちょっと話があるんだ。開けてくれ》

 

 マミはのそのそと立ち上がり玄関へ向かう。

 足が重い。体を引きずるようにして部屋を出ようとすると、

 

「気を付けた方がいいよ。ソウルジェムが肉体を操作できるのは、せいぜい百メートル程度だから」

「⋯⋯そう」

 

 背後からキュゥべえに忠告された。

 もう感情を動かす気にもなれなかった。机の上から玄関先までなら範囲内に収まる。引き返してソウルジェムを回収することまでもない。

 しかしマミは立ち止まり、光の灯っていない目で振り返った。

 

「もう出て行って」

 

 静かに告げた。キュゥべえは無言で机から降り、開いていた窓から飛び降りる。

 それを見届けるとマミはソウルジェムを回収し、玄関の扉を開けた。そこにはいつもと変わらない様子の杏子が袋いっぱいのリンゴを抱えて佇んでいる。

 

 彼女はマミが出てきたことを認めると、無言でリンゴをマミへと投げつけた。

 マミはその赤い果実を受け取る。瑞々しい赤は、その果実がとても美味であることを表している。

 とてもいい香りだった。

 

 だがその感覚も、いまや魂の抜けた抜け殻が感じる錯覚に過ぎない。

 その実感が再びマミを悲しみへと叩き落す。だがそれを表に出すことはない。

 

「それで、話って?」

「ああ、あんたと⋯⋯さやかって言ったっけ? あの新入り。あいつのことなんだけど」

「心配なの?」

「馬鹿言うなよ。あいつもあんたも同盟の一員だろ? これ以上足手まといになられちゃ困るってだけさ」

 

 肩をすくめて笑う杏子。やはりいつもとほとんど変わらないその様子に、マミは眉をひそめた。

 なぜそんなに余裕があるのだろうか。マミは半ば睨むようにして杏子を見ていた。

 それに気づいた彼女は笑みを深め、リンゴを齧る。

 

「後悔したって仕方ないだろ? あたしはそれくらい大きな希望を叶えたんだ。でもあんたもあいつも、叶えた希望に対して払った代償が大きすぎる。その不条理が納得いかないってだけさ」

 

 代償。

 

 思い出すのは自らがキュゥべえに願った奇跡のことだ。

 事故に遭って消えるはずだったマミの命を“繋ぐ”こと。それが彼女の願いだった。

 その時は夢中だったために願ったのはマミの命だけだった。ずっと後悔していた。周りの人たちも救えたのではないかと。

 

“未来とは可能性だ”

 

 閃光のようにその言葉がマミの脳裏に走った。

 それはかつて魔女の結界の中で神也に言われた言葉だった。

そうだ。たとえ暗闇の中で迷ったとしても、未来という可能性を捨ててはならない。絶望に身を落としてはいけない。

 

 マミは今こうして命を繋いでいる。

 それで十分だった。巴マミという人間として存在できるのなら、戦いの運命に身を投げることなど容易いことだった。

 代償は確かに大きい。しかし戦いをやめるほど大きなものではなかった。

 

「私は、キュゥべえと契約しなければ死んでしまうはずだったの。でも今もこうして生きてる。それに、この力を得たことでたくさんの人を救えるの。そう考えたらこの代償も、高すぎるなんて思わないわ」

「あんたは⋯⋯こんな状況でも人にために戦うってのか? そんなんじゃいずれ壊れちまうぞ!」

 

 杏子がマミに詰め寄る。

 怒っているのだろうか。こんな状態になってもまだ人のために魔法を使うという信念を曲げないマミに対して。

 

 違う。マミはそう感じた。

 心配しているのだ。大きな希望を抱いても結局それに見合うほどに大きな絶望が訪れることを知っている杏子は、マミが抱く希望を恐れているのだ。

 そのあとに訪れる絶望を。

 

 マミは気丈に笑って見せた。

 襲い来る絶望を吹き飛ばすように、未来への不安を消し去るように。

 

「大丈夫よ」

 

 杏子の身体をそっと抱き寄せる。その体の強張りを感じながら、杏子を安心させるように強く抱きしめる。

 

 鉛色の雲が切れ、暖かな日差しが地に満ちる。

 その光はマミたちも照らす。

 あらゆるものを照らし出す輝きは、魔法少女という人間を逸脱した存在にも平等にその温度を与えた。

 

「私は未来を信じている。だから、絶対に絶望なんかしない。破滅なんて恐れない」

「ちがう! 希望と絶望は差し引きゼロだ! 未来なんか信じたところで、何も変わりゃしないんだよ!」

 

 杏子がマミの身体を突き飛ばした。二人の間に数歩の距離が開く。

 杏子は荒い息でマミを睨んでいた。その表情には怒りもあったが、最も大きなものはほかにある。マミにはそう感じられた。

 

「あたしらは取り返しのつかないところまで来ちまった。だったらもう、自分のために生きるしかないだろ?」

 

 それは自分に言い聞かせるような声色で、信じられないほど弱々しく杏子の口から滑り出た。

 マミは大きく首を横に振った。

 

「そうじゃないわ。これは私が私であるための信念よ。神也さん風に言うなら、起源(オリジン)ってところかしら」

「あの、野郎の⋯⋯?」

「そう、貴女が嫌うあの人の。あなたにだってあるはずよ。まだ無くしていない、願いの起源が」

 

 杏子は目を伏せる。きっと心の奥底に隠したものがあるはずだ。

 ならばそれを引っ張り上げなければならない。たとえそれが深い闇の底にあったとしても、希望があるということを彼女には教えなければならない。

 

 マミは杏子の手を取った。暗闇から救い出さなければならないのは彼女だけではないのだ。

 

「行きましょう。本当はあなたも心配なんでしょう? 美樹さんのこと」

 

 マミと目を合わせた杏子は複雑な顔をしていた。

 恐らく彼女自身にも整理がついていないのだろう。

 ならば導かなければならない。希望の示す方へ、暗闇の出口へと。それが巻き込んでしまったものの宿命なのだから。

 

 マミは杏子の手を引きながらさやかの家へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マミの住まいからさやかの家まではそう離れていない。着いた時にはまだ太陽は高く昇っていた。

 学校に行かなかったのはマミの勘だ。しかしそれは確信に近かった。

 恐らくさやかはマミ以上に精神的負荷を負っているだろう。ならば学校に行く余裕などないはずだ。

 

《美樹さん、いる?》

 

 半ば願うようにして声を届ける。

 

《マミ、さん⋯⋯?》

《よかった、いたのね。ねえ、美樹さん──》

《いつまでもしょぼくれてんじゃねえぞ、ボンクラ》

 

 杏子のあまりにも乱雑な言い方にマミは呆れて額を押さえる。これではさやかが警戒して出てこないかもしれない。

 マミは少し心配したが、やがてそっと玄関の扉が開けられ生気のない顔をしたさやかが出てきた。

 

 今にも泣きそうな顔だった。それこそ暗闇の中に閉じ込められた者のように。

 杏子はそれを見るや遠慮なしに門を開け、さやかの右肩を掴んだ。

 さやかは拒絶することなく杏子を見る。払いのける気力すらないようだ。そんな様子のさやかに杏子は大きな舌打ちをした。

 

「ちょっと面貸しな。話がある」

 

 そう言って杏子は強引にさやかを連れ出すと、マミの目の前で立ち止まった。

 

「どうする気なの?」マミが問う。

「行きたいところがあるんだ。自分の起源(オリジン)を見つめなおす作業ってやつ?」

 

 杏子は自嘲気味に笑うと、右手に抱えた袋からリンゴを一つ取り出してさやかへ差し出して()()()笑った。

 

「食うかい?」

 

 さやかは気力のない瞳でその果実を見つめる。

 

「これ、どうやって手に入れたの?」

「それはあれだよ。魔法で少し、な」

 

 さやかは顔をしかめた。杏子の手の上にあるリンゴを掴むと、袋に戻す。

 

「だったらあたしはそんなもの受け取れない。あたしは何があっても魔法を自分のためになんか使わない」

「⋯⋯そうかよ」

 

 互いにかたくなだった。

 だが歩み寄らなければ何も進まない。マミは二人の間に立った。

 恐らく杏子なりに距離を詰めようとした結果なのだろう。わかりやすく表に出すことはしないが、それなりに付き合いのあるマミには落ち込んでいるのが分かる。

 

 それを素直に出せればもう少し楽なのに──マミはそう考えて、それ以上深追いするのをやめた。外側を取り繕っているのは彼女とて同じなのだから。

 

 人間は一人では何もできない──それを示したのも神也だった。

 だから誰かに頼って生きて行くのだ。

 マミはそっとさやかの肩に手を置いた。負の感情に塗りつぶされた顔のさやかが、そのマミの手を縋るように握った。

 

 マミは笑いかける。さやかが少しでも希望を見出してくれることを祈って。

 

「行きましょう、美樹さん」

「マミさん、でもあたしは⋯⋯」

 

 躊躇するさやか。自らのことについて、まだ整理がついていないのだろう。

 多少強引な手段になっても構わない。マミにとってもうかけがえのない友となってしまったさやかが、絶望に落ちてしまう姿など見たくはなかった。

 

「美樹さん。後悔、しているの? 私はしていないわ。魔法の力を罪のない人たちに使うんだったら、後悔している暇なんてないもの」

 

 マミがにっこりと笑うと、さやかは弾かれたように顔を上げた。

 マミより少しだけ高い背丈の彼女は、マミを見下ろすようにして驚きに目を見開く。

 その隣で杏子がリンゴを齧った。しゃり、という音がした。

 

「あたしは別にいいじゃんって思ってるよ。魔法少女ってのはなんだかんだ便利だし」

「あんたのは自業自得でしょ」

 

 杏子は綺麗に芯だけを残してリンゴを食べつくすとそこらに投げ捨てようとして、マミの鋭い眼光に気づくとおとなしく袋の中に突っ込む。

 杏子はにんまりと笑った。

 

「そう、自業自得にしちまえばいいんだ。そしたら全部自分のせいになるだろ? そうすれば後悔なんてなくなるし、大抵のことは自分で背負えるもんさ」

 

 杏子は袋から二つ目のリンゴを取り出すと、また齧った。

 透明な果汁が唇を潤す。杏子はそれを親指で拭うと、

 

「まあ、四の五の言わずに付き合えよ。話したいことは山ほどあるんだ」

 

 さやかに向かって笑いかける彼女の声は、ほんの少しだけ陰を帯びていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 学校の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室から次々と生徒たちが出ていく。

 ほむらもさっさと荷物をカバンに詰めて立ち上がると、目の前に愛らしい小動物を思わせる少女がいた。

 

 その少女は本当に花の咲くような可愛らしい笑顔をほむらに送ってくれるはずだった。

 しかし今日に限ってはどこか沈んだような、暗いものを隠してしまったようなぎこちない笑顔をほむらへと送る。

 

 ほむらはその傷ついた花に心が痛んだ。

 やはり彼女が傷つくのは見ていたくなどなかった。

 

「ほむらちゃん⋯⋯その、今日も一緒に帰ろ?」

「ええ、もちろんよ。まどか」

 

 笑いかけることはできなかった。

 自分でもわかるくらい冷え冷えとした声が、ほむらの口から発せられた。

 

「あら、お二人ともお帰りですの?」

「うん。仁美ちゃんもいっしょ帰る?」

「今日は塾がありまして、学校から直接行かなければなりませんの。ですのでご一緒できるのは校門までですわ」

 

 上品に仁美は笑う。

 世界の表層しか知らないのんきな笑顔だ。だがそれが何物にも代えがたいものであることは、ほむらは実感として知っていた。恐らくまどかも、ようやく知ったことだろう。

 

 ほむらは通学かばんを肩にかける。

 無視をして帰ってもよかったが、必要以上にまどかを刺激して契約させるようなことは避けなければならない。傍にいた方が都合がいいのだ。

 

 頼みの綱だった神也が使えない以上、ほむらは頭を冷やしきって計画を立て直していた。

 この時点で誰も死亡しておらず、魔女にもなっていないのは好都合だった。もうこれ以上彼女たちが余計なことを知らないようにすればいい。

 

「さやかさん、大丈夫でしょうか⋯⋯?」

「え、あ、うん⋯⋯心配、だね」

 

 仁美の心配そうな言葉に曖昧な返事を返すまどか。それを見ながらほむらは黙って二人の少し後方を歩いていた。

 すると仁美はほむらの方へと振り返り、眉尻を下げた。

 

「暁美さんは、何かご存じありませんか?」

「いいえ。何も聞いていないわ」

「そう、ですか⋯⋯」

 

 沈んだ声の仁美。だがどうすることもできないため、ほむらは黙るしかない。

 ぽつぽつと短い会話を交わしながら校門へと向かう。

 今日は魔女狩りをしながら、ついでにまどかに寄り付くインキュベーターを始末しようと方針を固めたところで、校門を出たすぐのところに人影があるのをほむらたちは見た。

 

 なにやら言い合っているようで、生徒たちはその人影を避けるように歩いている。

 

「──皐月先生?」

 

 最初に声を上げたのは仁美だった。

 驚いた声すらも上品に上げた彼女の先に居たのは、緑色の少しウェーブ掛かった髪をした皐月先生と呼ばれた人物と、

 

「神也さん?」

 

 なぜかその『皐月先生』に首を腕で固められている神也だった。

 その『皐月先生』は彼女らに気が付くと、にっこりと笑った。

 背が低く、童顔であるため女性のように見えるが、よく見ると男のようだ。ほむらは警戒し少し距離を取ったが、仁美は無警戒でそんな彼らに近寄って行く。

 

 ほむらがそれを止めようとしたときには、彼女はすでに男たちの前にいた。

 

「こんなところで何をしていらっしゃいますの?」

「いやあ、実は暁美ほむらさんにこいつが迷惑をかけたみたいで、謝らせに来たんだ。そういえば友達だって志筑さんも言ってたね」

 

 『皐月先生』が笑う。どこか神也を思わせる笑い方だった。

 

「お話し中だったでしょ? ごめんね、すこしお話しさせてもらっていいかな?」

 

 『皐月先生』がほむらに向かって話しかけた。

 腕の中で神也が藻掻いているが、がっちりと極められて身動きが取れていない。

 

 警戒して動けないまどかとほむらに今度は仁美が走り寄ってきた。

 耳まで赤くなっている。

 志筑仁美という少女のことはほむらも詳しくは知らないが、あまりそういった表情をするような人物ではなかったはずだ。

 

「大丈夫です、怪しい方ではありませんわ。あの方は皐月翔(さつきしょう)さん。わたくしの塾で講師をされている方ですわ」

 

 ほむらはその男を見上げた。と言ってもほむらとの身長差は頭一つ分もないのだが。

 皐月翔はにっこりと笑った。本当に女性みたいな見た目をしている。

 

「本当にごめんね、親友が迷惑をかけたみたいで。連れてきたんだ」

 

 ようやく解放された神也が咳き込みながら翔を見下ろす。

 目隠しのせいでほむらからは詳しい表情が分からないものの、どうやら怒っているようだ。

 

 ほむらはその時初めて、嘘偽りのない彼の“人間性”を見た気がした。

 



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