向日葵 (鈴近)
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向日葵

オリ主カルデアのカルナさん×オリ主
オリ主の名前は出ないよ!ちゅーまではするよ!つまり?夢小説だよ!作者はこれを夢小説のつもりで書いています。でもオリジナル夢主だからオリ主もの二次でもあるってわけ。ややこしいね!個人サイトからの転載。

向日葵はウシャスになりたかったけれど、地上から離れることはできなかった。太陽に憧れている間に足は根に変わっていた。
初恋と信仰が合体事故を起こしてすったもんだ!


 召喚サークルから出てきて名乗った彼を見たときは仰天した。すらりと、を通り越してひょろりとした身体、燦然と輝く刺々しい黄金の鎧、身の丈に迫るほどの槍。そしてなにより、彼は美しかった。

 白皙の美貌は冷徹、冷酷にすら映る。釣り上がった切れ長の薄青い瞳は氷のようで、目を合わせているだけで睨まれているのではと冷や汗が流れることも多々あった。

 加えて彼の言葉は容赦がない。言われたくないこと、わかっているけれど納得しがたい正論をずばずば突きつけてくる。口からナイフが飛び出てくるようなものだ。何度そのナイフでずたずたに切り裂かれたことか。最初の頃は割と本気で嫌われていると思っていたほどである。私が至らないマスターであるから、彼は呆れているのだとか、自分にふさわしくないと感じられているのだとばかり、思い込んでいた。今も好かれている、とは言い切りがたいが、根気強く語り合うことで性質への理解はかつてより深くなったはずだ。なにせ彼は驚愕するほかないほどの善人であったので。

 言葉足らずなことも相まって、彼の雰囲気は近寄りがたい、独特なものであった。それが一層彼を人間離れさせるのだ。陶器のような白い肌の皮を剥げば、下におびただしい血肉があるとは思えず、薄い腹の中に臓物が詰まっているとも思えない。戦いの最中負傷した彼から流れる赤い血潮を見て、ああ、この男は本当に肉を纏うヒトであったのかとようやく理解したほどだ。

 カルナと名乗った声で男性であるともわかっているのに、雄臭さというものがまったくなく、打ち解けた今となっても男性器がついていると信じられないくらいである。いっそ美しき神造兵器のように無性だと言われた方が納得する。

 神々しさすら感じる美しさは性別や人種など超越していて、データベースにより彼の父が太陽神スーリヤだと知ったときは深く納得した。種々のサーヴァントたちと出会うたび、英雄というものは外見までも恵まれているものなのかと嘆息したことすら懐かしい。半神半人であるならば、人間の美しさを越えていてもなんらおかしくない。なにせ神の子だ。それに、カルナは死後父親のスーリヤと一体化すると聞く。神性Aが私の畏怖を誘発するならば、その畏れや敬いは間違いなく彼の美しさへ向いているのだろう。かおかたち、心根、姿勢、戦う姿、それらすべてに。

 

(好きだ、好きだよ。好きなんだ。馬鹿馬鹿しいくらいに。私だけのものになってほしいって、想像するほどどうしようもない。私はこんなに欲深だったのか? 知ったら、君は私を嫌うだろうか。ああ、カルナ、君がほしい。どの君でもなく、私の声に応えてくれた君だけが)

 

 彼を知るほど彼を好きになった。なんて素晴らしい人なのかと、今までぼんやりと存在するのだろうと思っていた神相手に心酔するかのように溺れていった。彼にふさわしいマスターでありたいと思っているうちに、なにもかもの努力が苦でなくなった。動機は不純であるが、なによりも純粋でもある。私の想いが一番うつくしく、透明だったのはあの頃に違いない。

 時が経つうち、それらの好意は形を変えた。ある種無垢で純粋だった憧れから、肉欲を伴う独占欲へ変貌した。人によっては堕ちたと表現するだろう。

 好きになってしまった。どうしようもなく。

 あの薄い唇に自分の唇を合わせ、唇を割り、舌を吸ってみたい。彼の唾液はどんな味がするだろう。彼はどんな表情で、私の口づけを受け入れるだろう。ああ、あのほっそりとした繊手で抱き寄せられ、赤い宝珠が埋め込まれた胸に額を擦り寄せてみたい。心臓の音は聞こえるだろうか? 実体化しているサーヴァントは一時的に受肉をしている、臓器も詰まっているし、心臓だって血潮を送り出しているはずだ。もし彼の心臓が高鳴っていたりしたら、私の思考はどろどろに溶けて跡形もなくなってしまうに違いない。

 魔術的な体液交換や粘膜接触は驚くほどの快感を与えてくる、と緊急時における魔力供給について改めて講義を受けたときに聞いた。私は磨けば水晶になる程度の凡庸な魔術師であるが、粘膜接触という非効率的な行為で魔力を供給しなければならないほど劣っているわけではない。

 なによりカルデアとサーヴァントたちを繋ぐパスは強固だ。ひょっとしたら私と彼らを繋ぐライン以上に。万一私とのパスが切れたところで、魔力タンクと繋がっているならば彼らの現界及び宝具開帳もつつがなく行われるだろう。私という存在がしているのは、彼らをこの世に繋ぎとめることくらいだ。

 だから、もしも性的接触をすることになるとしたら、それは私が求め、彼が応えてくれたときなのだろう。そのときを思い浮かべるだけで胸がきゅうと締まり、耳元でざあざあと血が流れていく。自分の浅ましさを嘲笑いつつも、想像する彼はいつも優しく私に触れる。夢見るほど虚しいばかりなのに、手を伸ばさずにはいられないのだ。

 いつまで隠せるだろう。いつまで、正しく彼のマスターであれるだろう。優しい彼の幻を夢に見ながら、燃えるような恋心を腹にかくまい続けている。

 

「カルナのそういうところ、本当に好きだよ」

 

 なんてことのない会話だった。私が不意に言葉にしたそれが、率直に好意を伝えるには、甘さを含みすぎていたこと以外は。

 口にした言葉はぽん、ぽんと軽やかに飛び立っていった。鳥籠を開けた隙に逃げていったカナリアのように、あっけなくそれは自由になってしまった。彼の「そうか」という静かな声が鼓膜を揺らす。

 そこでようやく、自分がなにを言ったか頭が追いついた。汗がぶわりと吹き出て、自分の周りだけ猛暑日になったかと錯覚するような心地だった。心臓はどくどく早鐘を打つし、顔は真っ赤で目は潤む。

 取り返しのつかないことをした。いや、この反応が一番いけない。カルナは鈍いわけではない、どころかとんでもなく鋭い。私がどうして湯気が出るほど赤面し、なぜ突然貝のように黙り込んだかわからないはずがないのだ。

 やや天然な思考回路が、私が突如発熱したと思ってくれたら感激の涙を流すほど安心するのだが。私は祈った。私がたった今発した言葉を、彼が私の都合のいいように受け取ってくれることを、祈り縋れるものすべてに手当たり次第拝んで頭を下げた。

 

「今の言葉はオレに情を抱いていると解釈して構わないか」

 

 神は死んだ。少なくとも私に都合のいい神様はたった今、この瞬間木っ端みじんになった。久しぶりに彼の言ってほしくないことを言う、見られたくない部分を指摘する、という語り口を憎らしく思う。

 

「どうした。違ったか?」

「……いいえ、まったく、その通りです」

 

 私は処刑を待つ死刑囚のごとくうなだれ、一歩後ずさった。恥ずかしかった気持ちが突き抜け、反転したのか、今すぐこの場から消えたくて仕方がない。しかし、彼の追及は無慈悲な刃のように私の首を刎ね飛ばすだろう。怯えて、彼から距離を取りながらも、その沙汰から逃げられるとは毛ほども思わなかった。

 おまえは勘違いをしている。サーヴァントは道具、兵器に過ぎない。どれだけ心を通わせようとその本質は決して変わらない。不毛だとは思わないのか──

 わかっていて、目を逸らしてきたことを、暴かれる。私は顔面蒼白なまま唇を噛んだ。正論だ。なにも間違っていない。彼はいつも正しい。おかしいのは私だ。

 しかし、眉を寄せる彼が放つ言葉は、私が空想したものとは明らかに種類が違った。

 

「解せんな。なぜ距離をとる。マスターはオレのことを好ましく思っているのだろう。なんら恥じることではない。おまえとは以前よりも親しくなったと思っていたが、それはオレの勘違いだったのか」

「話飛び過ぎでは!? 嘘じゃないってわかってるよね!?」

 

 思わず顔を上げた。一対の目に射抜かれて、逃げそうになる。その感情が伝わったのだろう。カルナは淡々と言葉を続けた。

 

「ならば逃げるな」

 

 ぐっと息を飲んだ。なにも言えなくなってしまったからだ。これではまるで詰問だ。いいや、まるでではなく、事実詰問だった。緊張で喉がカラカラになり、指先が怯えで震える。怖い。怖くて仕方がない。

 彼のしなやかな手が伸びてきて、きゅうと手首を握りこまれる。明らかに手加減している、そう、小動物を握りつぶさないように細心の注意を払いながら持ち上げるときのような手つきだ。本当だったら軽々私の腕なんて折ってしまえるくせに。それだけで私はもう動けなくなる。彼の最小限の動きだけで、足に枷でもはめられたかのようになってしまう。

 

「それで」

「はい」

「おまえはオレになにを望む」

 

 瞳孔がきゅうっと絞られるのを感じた。ひりつく喉はひゅうひゅう風を切っている。くしゃりと顔が歪むのがわかった。彼は相変わらず、静かに私を見つめ、たたずんでいる。

 

(なにを望むかだなんて、そんな、ひどい。どうして私の口から言わせようとするんだ)

 

 目が熱い。涙が出る前兆だ。呼気は肺が燃えているかのようにごうごう叫びをあげている。

 言え、言え、言え!! 言うのだ!! 今、この瞬間に!! 

 この機会を逃してはならない、と、内の貪欲な獣が囁き、暴れ狂い、吼える。彼は望まれれば応える、求められたなら与える。そういう英雄だ。施しの英雄は、そういう風にできている。それに、今の私は彼の主だ。主が望めば、彼は、なんてことのない顔で願いを叶えてくるだろう。なんだって。なにもかも。すべて。

 彼の言葉、姿勢は知恵の実のように私を誘惑する。それは赤く、丸く、光沢は美しく、私は喉から手が出るほどそれを欲した。ぐるると飢えた獣の声が脳に響く。止められない。欲しくてしょうがない。

 恐れおののきながらも、唇が勝手に動く。手が伸びる。今なら手に入るのだ。静謐な夜明けの瞳が私を手招き、誘っている。

 砂漠で一滴の水を求めるように。水中で酸素を求めて喘ぐように。燃えさかるたき火に引き寄せられる蛾のように。私はふらふらと足を進め、私の手首を握る彼の手に手を重ねた。はあ、とこぼれる吐息が気道を灼く。震える声で、私は。

 

「きみが、ほしい」

 

 禁断の果実に牙を突き立てた。もう楽園にはいられない。青かった想いが欲に熟れ、この恋が醜く腐り果てるまで。

 

 

 

 

 あのやりとりからゆうに一月は経つ。夢のようだった。マイルームに帰れば、彼が行儀よくベッドに座って待っている。カルナが部屋で待機してくれるようになってから、椅子を増やそうだとか、休める場所を作ろうだとか、いろいろ彼になにか必要なものはないかと尋ねたが、彼は「必要ない」と首を振るばかりだ。とても困る。

 彼に必要なくても私には必要なのだ。燃え上がるたびに消して、そのくせ何度も燃えた、ずっとくすぶらせたままだった思い。それが実ったばかりの思春期を舐めてはいけない。まだまだ私の心はみずみずしさを保っていて、少しも今の状況に馴染んでいないのだ。近くにいるだけで心臓が爆発しそうだというのに、彼はちっともわかっていない! あのカルナが、私が彼を好きだと思う気持ちを知っている、それだけで頭がどうにかなってしまいそうだった。

 それなのにカルナは追い打ちをかけてくる。私が、その黒い手に触れるか触れまいか迷っていると「触れないのか」と至極当然のように聞いてくるし、私が顔を真っ赤にして泣きそうになりながら、えいっと手をつかみ、指を絡めたら「マスターの手は小さいな」と目を細める。微笑みにも似たそれが私の呼吸を奪うのは当たり前のことだった。

 二人でベッドに腰かけ、手のひらと手のひらを合わせて、指をこすり合わせている。鎧で覆われていない彼の黒い手の触り心地は紛れもなく皮膚だった。彼の胸から下すべてが黒で覆われているのは、おそらく、生母クンティーがカルナを捨てたことを理由に、彼が真っ黒い人の形をしている生物に見えたという逸話からくるものだろう。

 するすると手の甲を撫で、固い爪を指先で軽く叩き、しなやかでありながら武人の手であると主張してくる手のひらを何度も両手の指の腹でなぞった。服のようでもあるのに、まるで素肌そのもののような感触だ。

 ……これ、脱げるのだろうか……。いや、しかしこれが素肌だとすると彼は鎧以外なにも着ていないことになってしまう。視線が腹やその下に向いた。もし、本当に、私の想像通りだったとしたら、防御面が心配すぎる。

 

「……カルナ、これって肌なの?」

 

 思い切って尋ねてみる。見上げた先にある凍りついた月は、ぱちりと瞬きをした。その動作だけで銀の星が降ってきても、私はきっと驚かない。

 座ってしまえば身長差は縮み、彼の尊顔も至近距離でよく見える。いつになっても慣れない。見つめるたびに目が潰れそうだ。思わず太陽を直視してはならない理由を思い出すくらいには、彼はまぶしい。

 薄い唇が開く。舌は赤い。思わずどきりとした。口の中を唾液が満たす。気取られないよう、努めて静かに、私はあふれた唾液を飲み下した。

 

「なぜそのようなことを聞く」

「顔や胸元と比べて明らかに覆われているのに、触り心地が肌そのものだから。それとも服なの?」

「素肌というわけではない。だが、これはほとんど皮膚のようなものだ。……多少は素肌そのものより頑丈だな」

「あ、安心した」

「鎧と同じように、生まれたときからこうだった。着脱は可能だ。鎧を剥いだときに剥がれた記憶がある」

「……じゃあ、着ているけど着ていないような着心地の服みたいな、ほぼ皮膚って感じか。そっか」

「下が気になるのか。おまえが望むならば脱ぐが」

「やめて!? やめてください!? まだ早いと思う!」

「? 脱ぐことに早いも遅いもないだろう」

「その言い方だと今すぐ裸体になるように聞こえる!!」

 

 ぴたりとカルナの動きが止まった。そのまま、猫背気味の背中がさらに丸くなる。

 

「……そうか……また、オレは言葉が足りなかったのだな……すまない。気を悪くしただろう」

「ちょっと慌てただけだから大丈夫だよ。ああ、びっくりした」

 

 しょげたように小さくなる姿は猫のようだった。知らず、小さく笑ってしまう。吐息がくすくすと揺れた。そのまま、下を向いている顔を掬い上げるように両手を差し込む。

 目と目が合う、それだけで、微弱な電流が脊髄を通り過ぎていく。どくり、どくり、心臓の音が耳に伝わってくる。私はもう一度、唾を飲み込んだ。

 

「カルナ、キスしていい?」

「ああ、構わない」

「ありがとう」

 

 鼻がぶつかりそうなくらい近づいて、唇と唇を近づけて。彼の顔が視界いっぱいを埋めていくほど、あまりにまぶしくて目を閉じる。そのまま、羽が触れるように、かすめるだけのキスをした。唇が離れる頃、ようやく目を開ける。

 カルナの静けさは変わらない。おそらく彼は目を閉じないのだろう。意を決した、緊張に満ちた表情で近づいていく私の顔をつぶさに見られていると思うと恥ずかしさで火を噴きそうだが、彼が必要性を感じないのなら仕方がない。

 私がたわむれに彼の唇をなぞると、カルナはわずかに目を細めた。私は空気が抜けるように笑った。

 

 あまりに現実味のない幸せだった。いつまで一緒にいられるかわからない、そんな相手に恋をした自分は愚かに過ぎると思っていたが、まさかのまさかでそれが叶ってしまったのだ。そんなの馬鹿になってしまう。浮かれていろんなことをするには、やりすぎたら嫌われるかなとストッパーがかかるけれど、でももう手を繋ぐこともキスも済ませてしまった。今が十分すぎるほど幸せで、遠い先のことを考えることなんてできもしない。いざ恋が叶ってしまったら、あんなにすすりたかった彼の唾液も、抱いてほしかった腕も、気づけば後回しになっていた。

 指と指を絡めるだけで、唇と唇をこすり合わせるだけでどうしようもなく幸せになる。私を焼き尽くしかねなかった恋心は、穏やかに、お日様のようにあったかいものへと変わるのだ。彼そっくりな、あたたかくてやさしいものに。地に足がつかなくなって、そのうえでふかふかの布団にくるまれるみたいだ。私はそのぬくもりの中で、溶けるようにまどろむ。彼に抱きしめられたら、きっとこんな気持ちになるのだろう。そうやって、幻の彼の次は未来の彼を夢見ている。

 優しい時間は非現実的だ。彼は誰にでも優しい。その形は日の光をしているのだから、当然だ。太陽はなにもかも、いつ何時も平等なのだ。万物に降り注ぐからこそ、すべてを慈しむ。彼は優しい。もし、私だけに優しいカルナがいたとしたら、私はそれをカルナだと認められないだろう。……いや、今でも十分私だけに優しいのだが、それは私がマスターで彼がサーヴァントだからだ。それ以上もそれ以下もない。

 だから、それがなくなったら。そこまで考えが至ったとき、ずるりと私の醜い部分を私が指摘する。

 

(今以上の優しさを向けられたいと思っているくせに。馬鹿が)

 

 私は耳をふさいだ。わかっている。わかっていて目を逸らす。だって彼の、人類すべてを肯定して、花のように愛でる姿が好きだったのだ。好きになってしまったから、どうか私がマスターであるうちだけは、と願ってしまうけれど。でも。私が望むカルナは、果たして私が愛しさでおかしくなるほど思う彼なのだろうか。

 私に優しくしてほしい。私に優しくしないでほしい。私だけを好きになってほしい。私以外を好きでいてほしい。矛盾しているとわかっているのに、ほしくてほしくてしょうがなくて、手に入れて。だけど、それで? それでなにになるのだ。

 自分の唇を指でなぞり、目を伏せる。

 私が乞わずに、彼が私に口づけたことがあっただろうか。彼に抱きしめられたことがあっただろうか。彼は、私を好きだと、一言でも言っただろう、か。そんなのあるはずがない。わかっていた。わかっていたのに、つらいと嘆くのは、全部私のわがままだ。

 夢だ。なにもかもが夢だ。あまりに都合がいい。都合がいいのに、どうして私は今以上を求めているのだろう。

 

「マスター」

 

 カルナが微笑んでいる。このかおが、このこえが、実際にあった事実なのか、私が作り上げた幻なのか、区別がつかない。わからないまま私は彼に抱き着き、唇を吸い、溺れたまま沈んでいく。

 まだ覚めたくない。まだ、耐えられる。これは夢だ。私が望んだから止まないだけの、なににもならない、やさしくてあまくて毒のような──

 求められたいと思っている自分に反吐が出た。マスターである以上に、私を求めてほしいだなんて、きっとカルナを欲した誰もかもが願って、誰も叶わなかっただろうことを、私は望んでいる。そうだ、私はカルナに求められたい。私が思う以上に、彼が私を思ってくれないかと、際限のない欲で潰れそうになっている。でも、それを願って、叶ったら、私は今度こそ虚しさで塵になってしまうだろう。全然釣り合わない。全部が、まったく釣り合わない。

 鳥の羽をもぐように彼を堕として、自分勝手な欲望で彼を汚し続けて、そのくせ美しいままの彼を心底欲している。彼が輝くほど私は影に飲まれ、無様をさらしていく。彼はあんなにもきれいなのに、それを求める私が汚すぎるのだ。今だって白日の下に照らされることに怯え、厭ってすらいる。耐えられない。耐えられない。取り繕うほど理想から遠のく。彼を思っているはずなのに、いつの間にか、かわいがる対象が自分にすり替わって、いく。

 

「もうだめだ」

「マスター?」

「もうだめなんだ……」

 

 三か月大事に守っていたしゃぼん玉が割れた。私はすでに目を開いてしまっていた。夢は覚めるものだ。どれだけ抵抗して、延命させたところで、事象というものはいつか終わる。

 両手を固く握りしめ、私は頭を下げた。

 

「ごめん、カルナ、付き合わせて、本当にごめん。もういい、いいんだよ」

「マスター、なにを言っている」

 

 伸びてきた腕を、首を振ることで拒絶した。わずかに彼の目が開く。驚くのも当然だろう、私は彼からもたらされるものをなに一つ拒んだことがない。たった今、それはなされてしまったけれど。

 

「触れても、キスしても、いいや、だから余計に君が私の望みを叶えようとしてくれていることがわかる。私じゃだめだ。なにをしたって、我が身可愛さで君を貶めてしまう。そのことに耐えられない!」

「…………」

「全部終わりにしよう。今までありがとう。……本当に、自分勝手でごめんなさい。私に愛想が尽きたなら、カルデアから去ってくれたって構わない。そりゃ、戦力面ではカルナが欠けるのはみんな渋るだろうけど、もう2017年は来ているんだ。いつまでも君をここに縛りつける理由なんてない。レイシフト先で、君以外の君を呼び出すことだってできる」

「……おまえは、この関係をやめたいのか?」

 

 震える肩をそのままに、私は深くうなずいた。不思議と涙は出てこない。そのことにひどく安心した。だって、こんなときに泣いたら、勝手すぎる。ただでさえ自分のために別れたいと言っているのに、そのうえ自分のために泣くのはあまりにも自分勝手で、彼に失礼だ。

 唇を強く強く噛みしめる。彼をとどめてもつらい、彼を手放すのも嫌だ、それらがわがままやエゴでなければなんなのだ? 私のエゴで美しい彼を損なうのが嫌だ、という気持ちが上回ったから、私はこれを切り出した。

 カルナは視線を下げ、こくりとひとつ頷く。

 

「そうか、……そうか」

 

 彼は「わかった」とだけ告げて、部屋を出ていった。声は凪いだ湖面のように穏やかだった。足音が遠ざかるのを数えながら、握りしめていた手をほどく。手のひらには爪の痕がくっきりと残っていた。そのざまに苦く笑う。

 気持ちを落ち着けようと息を吸った。それがいけなかったらしい。吐き出す頃には、すっかり目が濡れていた。

 ああやっぱりと私は枕を抱きしめて嗚咽を漏らす。私が欲したから、彼は応えてくれた。本当にそれだけだった。……それだけだったのだ。

 試そうと思ったわけではない。でも、もし、彼が私の願いを断ってくれたらなどと。またそういう、自分に都合のいいことばっかりを期待して。恥ずかしくなる。やはり私と彼は釣り合わない。それを言い聞かせ続け、また涙をこぼす。

 どうやったって自分を許せない。カルナを愛しているのはとても幸せで、同時にとてもつらかった。全部私の独り相撲だからだ。わかっていた。彼が、特別な感情関心を私に向けていないことくらい。カルナの優しさに付け込み続けることもできないのだから、私はあまりにも半端だった。

 

 

 なにがいけなかったのだろう。あてがわれた部屋で立ちすくみながら、カルナは、努めて感情を表さないように話していたマスターのことを思い浮かべる。悲しげに伏せられた目には胸が痛んだ。だが、彼女が望んだのならば、それを叶えるのがサーヴァントである自分の役目だ。マスターの要望を叶えるうえで自身の感情などなんの役にも立たない。

 言いたいことがまったくないわけではなかったが、うまく伝えられる気がしなかった。また失敗をして、彼女を傷つけてしまったらと思うと、いつの間にか足がすくんで止まっている。英雄が聞いてあきれる体たらくだ。嘆息して、カルナは部屋を見回した。

 マスターの部屋も殺風景だが、ここも大概だ。いや、それ以上になにもないかもしれない。ここ四か月はほぼこの部屋には寄りつかなかったため、こんなにものがなかったかと驚くくらいだ。

 カルナに必要なものはすべて足りている。戦場を駆けるための足。戦車や弓、槍を扱うための腕。父の威光を知らしめるという、果たすべき使命。カルナが支配するカルナの五体以外で必要なものがあるとすれば、それはカルナに助けを求める人々くらいだろう。そのうえサーヴァントとなった以上、カルナが第一に守るのはマスターだけだ。だから、救いを求める人々はまるっとマスターへすり替わる。つまりは、マスターに求められてさえいて、マスターのために振るう力があればなにもかも足りているのだ。

 だから、マスターに、カルナがほしいと願われたときにはかなり驚いたし、同時にとても嬉しかった。このようなつまらない男を欲してくれることに喜んでいた。マスターは好ましい人間だ。善良で、一癖も二癖もあるサーヴァントたちをまとめ上げる姿勢は素晴らしいという言葉に尽きる。

 自分とてかなりやっかいなサーヴァントであろう。忠実であろうとはしているが、いつも主には嫌われてしまう。それを嫌だと思うわけではない、至らない自分が悪いのだから。そんなカルナを邪険に扱わなかった主と言えば、生前のドゥリーヨダナか、月で出会った女性くらいだろう。

 実際月での彼女はカルナをかなり疎ましがっていたが、その嫌い方が、猫がじゃれるようなかわいいものであったためカルナはまったく気にしていない。それ以上に、彼女の「一言多いのではなく一言足りないのだ」という指摘に感謝し続けているくらいだ。有益すぎるアドバイスのため、なぜもっと早く言ってくれなかったのかとは今でも思うが。

 話を今のマスターへ戻す。現在のマスターは健全な精神と健康な肉体を持ち、思慮深く、人を思いやることを知っている、たった十代の少女だ。人類最後のマスターなどという大役をあの細い肩が負わされていると思うと哀れだと感じた。それが侮りになると気づいてからは、彼女を守ればいいと気を引き締め直したものだ。初めて出会ったときのことは今でも簡単に思い出せる。彼女はすっと伸びた目を、こぼれんばかりに見開いて、愕然としていた。

 年端もいかぬ少女からすると、幽鬼のような自身の姿はそれは恐ろしく映っただろう。けれども彼女はつまらない男の悪癖にもめげることなく付き合ってくれたし、召喚当初、システム上弱体化していたカルナの霊格を取り戻すためにずいぶんと尽くしてくれた。本当に自分は、マスターというものに恵まれている。それゆえ、たった一人のマスターのため、ひいては人類のために槍を振るえるということは大変喜ばしいことであった。

 カルナの基準を犯さない限り──いや、犯しても難色を示す程度なのだが──カルナはマスターの願いを叶える。それが重圧に耐える彼女の救いになるならば、願ってもみないことだ。アルジュナと競うためだけにドラウパディーの婿取りに参戦した自分が女性の機微に聡いとはとても思えなかったが、彼女が男としての自分を求めるならばそれもよし。以前よりはうまくやれるようになっているはずであるし、そういう風に、サーヴァントとして本霊から独立した個体である自分を求められるのも悪くない。

 

(だが、嫌われてしまった。……嫌われて、しまった……)

 

 ずんっと頭が重くなる。一度も使ったことのないベッドに寝ころんで、天井の染みを意味もなく数えてしまいそうだ。部屋の中心で立ち尽くしているのも手持無沙汰になって、カルナはベッドに腰かけて壁を見つめた。彼女を待っているときはいつもこうだった。

 なにがいけなかったのだろう。再度自分に問いかける。我が身可愛さでオレを貶めるとはどういうことか。カルナは彼女の愛情を喜ばしく思っても、疎ましく感じたことは一瞬たりともないというのに。むしろ彼女が己に触れるほど、口づけるほど愛しさは増すばかりだったのだ。それなのにどうして、四か月前には初々しくも頬を染めていた彼女が、あんな悲愴に覚悟を決めた顔をするのだろう。

 やはり、自身が至らないからだ。あまりにつまらない男だったからこそ、彼女の愛想が尽きてしまったに違いない。……いや、それならばなぜ彼女は「私に愛想が尽きたならカルデアを去ってくれてもいい」などと、とんでもないことを言うのだ? ここまで力を得たサーヴァントを手放すというのはどう考えても愚策だ。カルナは自分の強さに自負を持っている。紛れもなく己は彼女の最高の槍だ。事実、カルデアには自分を上回る強さのランサーはいない。

 カルナは眉を寄せる。

 ふつう逆ではないだろうか。マスターがカルナを嫌うことこそあれ、カルナがマスターを嫌うことなど、天地がひっくり返ってもありえないのに。

 

(アルジュナならばもっとうまくやっただろうか)

 

 ここにはいない宿敵のことを考えて、ため息を吐く。

 これから出会うことを逆手にとって無防備だった精神を嵐の夜に招き、アルジュナを導いてほしいと言づけた。それが英霊カルナ、ひいては英霊アルジュナと彼女たちの最初の出会いだ。オレを導く必要はないと言った自分がなぜかカルデアにいるというのに、どうしてあれはここにいないのだろう。

 間違いなくアルジュナは最高の弓だ。召喚さえ叶えばなによりも忠実にマスターに尽くし、守るだろう。カルナとは成り立ちが異なるけれども、彼もまたまっとうな英雄だ。人類を救うためなら、務めを果たすべくいの一番に飛び出していくはずなのに。

 

(そして、マスターもアルジュナを選ぶはずだ)

 

 カルナは一人うなずいた。

 当然のことだ。なにしろアルジュナはカルナと覇を競うほどの武勇を持ち、生まれながらの高貴さをまとった聖人である。カルナとアルジュナを人間性で比べたなら、間違いなくアルジュナが勝る。それになにより、あれは心に闇を抱えているのだ。彼にも救いは必要だ。斯様に善良なマスターならば、アルジュナの奥に潜む黒にも気づき、受け入れるだろう。確信があった。それほどまでにカルナはマスターを信頼していたし、好ましく思っていた。

 ふとカルナは平らな腹をさすった。なぜだろう。腹の底が焦げつくようにじわじわと熱を帯びている。首をかしげても原因はわからない。気に留めなければいいのだろうが、突然腹部が発熱するというのはどうにもおかしい。霊基が異常をきたしていたとしたら今後の働きに支障が出る。解決しないに越したことはない。今自分はなにについて考えていただろうか? それとなにか関わりがあるかもしれない。カルナは思考の海に沈み続ける。

 今、自分はアルジュナと己を比較した場合、マスターはアルジュナを選ぶだろうと考えていた。性能、戦力面ではアルジュナに劣る気はまったくないし、時間神殿での狩りでもカルナが勝った。誰がなんと言おうと勝った。間違いない。機会があるならばまた全力で戦って性能を競いたいとも思っている。だから、それに関して思うことはない。はずだ。なにせ死後となった今、自分たちは無限に競い続けることができる。喜ばしいことだ。

 ……なら、このひりつくような熱さは、いったいなんなのだろう。考えていてもまったく見当がつかない。お手上げだ。カルナは立ち上がり、そういったことに詳しいだろう相手の元へ向かうことにした。

 

 目当ての彼女は和風に改築した部屋の中、のんびりと仮想の月を見上げながら甘味と茶を、上品に貪り食っていた。ぴこんと両耳が揺れる。そして、ちょっとだけジト目で訪ねてきたカルナを見た。

 

「あらカルナさん、いつもはマスターのお部屋にいるのに珍しいですねぇ。喧嘩? 喧嘩ですか? まあ~~リア充大爆発大変ざまあって感じゲフンゲフン、いいえ? ワタクシなァ~んにも言っていませんよ?」

 

 それでも席を勧めてくるあたり良識がある。カルナはすとんと座布団に腰を下ろし、日本式に合わせて正座をした。そしてそのまま口を開く。

 

「喧嘩。喧嘩よりもひどいだろうな」

「んん? あっなんだか嫌なヨ・カ・ン……」

「別れを切り出された」

「ほうほう別れ、別れを……。…………。あんですって──!?」

 

 玉藻の前は全身の毛を逆立てて絶叫した。手に持っていた湯呑が滑り落ち、パリンと割れる。中身の高級緑茶が見るも無残な姿になった。しかし常ならばそれをもったいないと嘆くはずの彼女が目をぐるぐるにして狐耳をぴこぴこ動かしている。よく動くものだとカルナは感心した。ついでに台拭きをとって片づけもした。

 

「マスターが!? あれだけ熱視線浴びせてたカルナさんを振った──!? なにやったんですか貴方! 場合によっては金的ですよ金的! いつかみたいに水着でぼこぼこにしてやろうかおら──!」

「あれは本当に屈辱的だった、二度は御免こうむりたい」

「のんきに片づけしてる場合ですかッ!」

「おまえが割ったからだが。記憶は確かか?」

「ああ、それはどうも……畳に染みができちゃうところでした。じゃなくて! それはそれ! これはこれ! さっさと話しやがれってんですよ!」

 

 ばしばしと畳を叩く玉藻の前は完全に興奮している。いつもはふかふか揺れているはずの二尾がぶわっと膨らんでいるくらいだ、あからさまに怒っていると想定して間違いないだろう。胸ぐらつかんでガクガク揺さぶられても文句は言えまい。

 カルナは一度席を立ち、破片をごみ箱に捨てて台拭きを洗ってから、再び玉藻の前の正面で正座をした。冷たい目で見られた。なぜだろうか。

 かくかくしかじかと今朝別れを告げられたときの話、そのときのマスターの様子、それ以前のことでは自分には思い当たることがないけれども彼女ならばわかるかもしれない、とつらつら一週間のことは話した。気づけば視線の冷たさが氷点下を通り越して絶対零度まで落ちていた。吹雪にさらされているような心地である。たぶん、カルデアの外より寒い。

 玉藻の前は頭痛を感じるのか、額を片手で押さえながらカルナに問いかける。

 

「えーと、これは確認なんですけど。カルナさんは今まで自分からマスターにキッスとかしました?」

「いや」

「抱擁は?」

「したことがない」

「まさかまさかとは思いますけど、好きだくらいは言いましたよねぇ? さすがに? ね?」

 

 言ってねえとは言わせねえぞ、と威圧感もりもりで玉藻の前は迫った。それはそれはずずいっと。閻魔様のごとき気迫である。怒れるカーリー神のようだと思いつつ、カルナは少し考え込み──考え込む時点でタマモジャッジはナイワーを出している──はっとしたように顔を上げた。

 

「必要性を感じたことがなかった」

「アウト──────!! つまり言ってないんですね!?」

「オレがマスターを好ましいと思うのは当然のことだ。言葉にするまでもない」

「そぉ──いう態度のせいでジナコさんとのあれやそれやどれやこれやがこじれてこじれまくったってなぁんでわかんないんですかっ! 貴方月の裏さえ覚えているでしょう!? いえなんかミドチャさんも本当になんでかサクラファイブのこと覚えてますけど、ああ話が逸れる! ただでさえ今の貴方はジナコさんとのことを反映させているらしいスーパーカルナさんだっていうのにぜんっぜん変わってないんですね!? タマモちゃんびっくり! びっくりしすぎて耳がとれそうですッ!」

「その耳は着脱可能だったのか……」

「言葉の綾ですよア・ヤ! 真に受けちゃイヤ! はあ……もう……マスターが自分を追いつめて泣いてないか良妻はすっごくすっごく心配ですよ……」

「なぜマスターが泣く。前後関係が理解できない。わかるように話せ」

「あ~この際だから言っちゃいますけどぉ~カルナさん、貴方たぶんお情けでマスターと付き合ってたって思われてますよ。ええ間違いなく」

「!?」

 

 ぴしゃん。局地的、実に限定的な雷が落ちた。

 

「そういうつもりがないのは第三者の私にはわかりますよ? でもマスターにはカルナさんのことを尊敬するあまり神聖視しているところが多々見受けられますし、自分より貴方を尊いものだと思っているところが? 散見すると言いますか? 貴方のことを信じすぎて、貴方と異なる行動をとったら自分が間違っていると判断しそうですよね。そういうところがあるんですから、接吻も抱擁も全部自分からだけ、だと不安にもなりますって。しかも愛の告白すらしてないなんてドン引きですよ、ドン引き。どうせマスターからの告白を『そうか』とかで端的に片づけちゃったんでしょう。うわっありありと見えすぎてコワッ」

 

 ドスドスドスッ。次々と舌から放たれる矢がカルナに刺さる。うわーうわーと言いながら玉藻の前は腕をさすった。鳥肌が立っている。それでも回り続ける舌は止まらない。

 

「貴方の言葉足らずを先読みしてくれるからってサボっちゃったんですか? 義務感でお付き合いされてる~と思っていたら真っ先に自分のことを責めますよ、あの人。『我が身可愛さで貴方を貶める』っていうのはおそらくその辺りを指しているんでしょう。これは文脈がわかってないとわかりづらいところがありますね~。まあマスターが抱え込みすぎるところにもよくない面はありますケド……」

「マスターに落ち度は」

「ありますぅ。今回のは両方悪いです、両成敗です。確かにタマモちゃんはマスターが大好きですから肩を持ちますが、今の状況は相互不理解から来るものです! 第三者ばっかり状況を把握してるっていうのも相当おかしいですよっ。まったくもう、二人して言葉足らずで不器用なんてタイヘンタイヘン」

 

 玉藻の前がオーバーに肩をすくめて首を横に振る。カルナは本格的に参ってしまって、眉根を寄せながら声をひねり出した。吐息交じりの声はかすれてひどいことになっていた。

 

「オレはまた間違えたのか……」

「いえいえ、まだまだ修正効きますよ! 自信持って!」

「だが、またマスターを傷つけたらと思うと」

「もぉ~コミュニケーションっていうのは簡単に行えるものじゃないんですよ。時には心のままに相手に伝えることも必要なんですから。結局はカルナさんがどうしたいかに行きつきます。まだマスターのこと好きですか?」

「当然だ」

「ならそれを伝えればいいんです! ほらしゃんとして! 貴方いっつも猫背だから気になるんですよね! カルデアに来てからは改善されてるみたいですけど」

「……わかった。礼を言うぞ、キャスター」

「おや懐かしい呼び方だこと。はー、はいはい。さっさと出ていってください、あんまり長居してもいいことありませんし」

「なぜだ」

「未練ありまくりで振ったばかりの男がすぐさま他の女の部屋に向かっていたと知ったら、私は両方呪いますね! みこーん!」

「そうか……男女の関係というものは、実に度し難い」

「あ~わかります~うまくいったら、今度来るときにでもお茶菓子の一つくらい持ってきてくださいねっ! 約束ですよ!」

「承知した」

 

 颯爽とカルナは部屋を出ていった。おそらくマスターの部屋に直行だろう。

 やれやれ、まさか恋愛相談に乗ることになるとは! 昔を考えると遠くに来たとしみじみ思ってしまう。

 

「うーん、でもなんだか、もうひと悶着ありそうな……優秀すぎる私の第六感が囁いている……ッ! まあなんとかなるでしょう。なんだかんだあの人たち誠実ですからね、似た者同士っていいですねえ」

 

 玉藻の前はいそいそと新しい湯呑に茶を淹れ、一息ついた。

 ああ、私もご主人様に会いたい。

 

 

 一方マスターはというと。

 

「う~ううう……ぐす……」

「その、マスター、この体勢はいささか」

「抱き枕はしゃべんないもん……」

「とぅわ……」

 

 非常に間の悪いことに、偶然部屋を訪ねてきたランスロット(セイバー)に泣いているところを見られて、あれよあれよという間にたくましい胸板にコアラのごとくしがみついて泣いていた。ベッドの上で。想像力が働く人物にこの現場を押さえられたら、あらぬ噂が立つこと間違いなし。

 私はいつの時代も間男になるしかないのだろうか……。ランスロットはひやりとするものを感じながらも、しかし泣いている女性を放っておくということができずに今に至る。なにより女性である前にマスターだ。いつも理知的な雰囲気を崩さない彼女が年相応、もしくはそれよりも幼く鼻をぐすぐす鳴らしているのは珍しいものを見たと思うし、心も痛む。間違っても強くは出られまい。その結果、ベッドの上で抱き枕になっていたとしても。

 

「それにしても、なにがあったというのです? カルナ殿と喧嘩でもなさいましたか」

「仮に喧嘩していたとしてもそれって喧嘩として成り立っていると思う? どうせカルナが折れてくれるのに対して私が一人で腹を立てている構図だよ? それ独り相撲じゃない?」

「んん、つまり喧嘩ではないと」

 

 否定も肯定もできず、ランスロットは言葉を濁す。はあ、と湿って熱い呼気がランスロットのインナーを纏っただけの胸をくすぐった。

 

「そうだよ……いや、喧嘩してなくても独り相撲には変わりなかったか」

 

 自嘲に満ちた声がする。思わずランスロットは主のつむじを二度見した。

 独り相撲、とは。まさかと思うがカルナとの関係が、だろうか。あれだけ互いを慈しむ関係を築いていたというのに? 初々しいながらも穏やかな恋を育んでいたと記憶しているが、彼女にとってはそうではないとでも言うのか? ぐっと眉根が寄るのを感じた。たしなめるようにマスターの背中をとんとんと叩きつつ、ランスロットは言葉を探す。

 

「私には、あなた方が非常に仲睦まじく見えていましたが」

「へえ。そう。仲睦まじいってなに? 私一回もカルナからキスしてもらったことないし、好きだって言われたこともないよ」

 

 ちらりと覗いた瞳はあからさまに不機嫌だった。声、言い方にも棘がある。完全にへそを曲げているな、とランスロットは眉尻を下げて苦笑した。

 非常に子供っぽくて愛らしい。まるで親に甘えているようだ。それほどまでに心を許されていると思うと悪い気はしない。しかし、自分たちにはどうにも認識のずれがあるようだ。まずはそれを修正しなければ、カルナも浮かばれないだろう。

 ランスロットは軽く、赤くなった鼻をつまんだ。そのまま引っ張る。「んえ」と間抜けな声が鼻から抜けた。

 

「カルナ殿は口下手なのだと我々におっしゃっていたのは、他ならぬあなたでは?」

「う。でもさ、あんまり受け身すぎると私のこと好きじゃないのかなって思うよ」

「その素直なお気持ちを伝えればよろしい」

「そこで肯定されたら私もう立ち直れないよ! 怖いよ! 無理!!」

 

 ぶわわと両目から大きな滴が落ちてくる。ランスロットはくすくす笑わずにはいられなかった。なぜって、カルナがマスターである彼女を優しい眼差しで見ているのは常のことであったからだ。特に四か月前からは。あんな顔をされていては二人がお付き合いをしているのだとすぐにわかってしまう。しかし、あれほど深くて暖かい視線を一身に受けていながら、彼女には彼の気持ちがとんと伝わっていないらしい。カルナ殿も不憫なことだ、とランスロットは肩を揺らす。

 しかしながらマスターは胡乱げ、かつひどく不愉快そうに目を細めるばかりである。彼女の中では、カルナが自分を好きでないことになっている。よしんばカルナが自分に親愛を抱いていたとしても、それは信頼を超えないものだ。

 そもそも性欲があるとも知れぬ男に恋心なんぞ最初っから期待していなかったのだ、あれは完全にこの機を逃したら二度とカルナが手に入らないのではと焦った結果である。まず、「この機を逃したら」という考えが浅はかだった。あの男は手に入らない、永遠に。そもそもどんな相手でも愛してほしくないので別れたのは正解だったのでは? という旨をランスロットに伝えると「あなたは難儀すぎる」と渋面を作られた。自分でもものすごくこじらせていて引く。

 

「まったく、素直になればそこまで追い詰められないでしょうに」

「簡単に言っちゃって、もう! 素直になれたら苦労しないよ! 信仰と性欲の矛盾でのたうち回ってるんだよ!! ちくしょう!!」

「レディがそのような言葉遣いをするのはいただけませんよ、マスター」

「わあ────父親面しないで────わあ────ゲッホゲホゲホ」

「ああ、大丈夫ですか? ほら落ち着いて、深呼吸です、はい吸って吐いて」

 

 顎を掬い上げて呼吸を促す。彼女は肩を怒らせてぜえはあと荒い呼吸を繰り返していた。困った方だ、きっとカルナ殿の前ではこんな無様をさらしてはいまい。いっそ泣いてすがることができる性格であったならばこうも思いつめなかっただろうが。

 ま、役得である。恋人と親(っぽいもの)では甘えのベクトルが異なって当然だ。ランスロットの前でマスターは肩肘張らない。そうそう嫌われないとわかっているからかもしれないし、そんなもん知るかとやけっぱちになっているのかもしれない。どちらにせよ、頑是ない子供のようにランスロットを頼っているのは確かだ。それがどうにも愛しくて、ランスロットは彼女をあやしながらいまだに濡れそぼっている目尻に口づけた。当然親愛のキスである。が。

 シュンッ。

 シュンッ? 二人の目が揃ってドアへ向く。そこに立っていた人影を認めて、ランスロットの顔が一瞬で蒼白になった。

 

「……邪魔をしたか」

 

 立っていたのがカルナだったからだ。相も変わらず抑揚のない機械のような声が、一瞬で冷却された部屋に響く。間が悪い。どう考えたって間が悪い。だらだらとランスロットの顔を汗が流れ落ちていく。この四か月ずっと部屋に入り浸っていたのだ、ロックの番号くらいカルナが知っていても当然である。さらに間が悪いのは、マスターがぴゃっと怯えたうさぎのごとくランスロットに抱き着いてきてしまったことだった。

 マスター! 今最もやってはいけない行動ですマスター! ランスロットの声なき声が悲鳴に変わる。

 

「カルナ殿、今のはまったく、これっぽっちもそういう意味ではなくて」

「わかっている。おまえはカルデアにおいてマスターの父のようなものだ」

 

 詰めていた息を吐く。その間にも、いやいやとぐずる子供のようにマスターが胸に額をこすり合わせている。とうとう困り果てて、ランスロットは二人の顔を見比べた。

 

「だが」

 

 カルナの顔を見て後悔した。

 

「わかっていても、気持ちのいいものではない。今は特に」

 

 視線だけでランスロットを焼き殺せそうな目だった。実際彼ならできる。ランサークラスでの現界において、奥義ブラフマーストラ・クンダーラは彼の眼力が衝撃波となったものとして扱われる。ついでにその威力は兵器で例えるなら核ミサイルだ。さすがインド、インフレに定評がある。現実逃避を避けられない。

 ランスロットの腕の中にマスターがいるから撃ってこないのだろうが、たった今刃物のような眼差しで見つめられているのもマスターが腕の中にいるからだった。声音が平常通り淡々としているから余計にその怒りが陽炎のように揺らめいているのをひしひしと感じる。

 

「マスター、ほら、カルナ殿がお呼びですよ」

「抱き枕しゃべんないもん……」

「なぜ今それをおっしゃる!?」

 

 しかも抱き着く力が増している。状況が刻々と自分の悪い方向にばかり進んでいく。ランスロットはちょっと泣きたい気持ちになった。

 完全にランスロットがとばっちりを食らっていることにカルナも気づいたのだろう、細く嘆息したかと思えば、つかつかベッドまで近づいてくる。そして流れるようにマスターの腹に腕を回した。そのままべりっと、抱っこちゃんになっていたマスターをランスロットから引きはがす。気づけばマスターの足は宙に浮き、さらに一回転したかと思ったらカルナに抱えあげられていた。

 

「借りるぞ」

「どうぞ」

「なんで?」

 

 なんで。その言葉に尽きる。「がんばってください!」と両の拳を握りこんでいるランスロットを裏切り者~と若干恨みつつ、マスターは運ばれていった。

 どこに連れていかれるんだ。あまりの驚きで涙も引っ込む始末である。

 すたすたと進んでいく足取りには迷いがなく、マスターが呆けている間に目的地に到着したらしい。カルナがすいっと部屋の中に入ったかと思うと、マスターを放り投げるようにベッドに起き、ぱちぱちコンソールをいじってロックをかけている。相変わらず彼女の頭には? が乱舞していた。ぎしりとスプリングが軋む。自分の部屋のベッドよりも少し硬い気がした。

 

(ん? ベッド?)

 

 はっとして起き上がろうとする。可能ならば逃げたい。そう思っているのがばれたのか、いつの間にやらベッドサイドにいた彼にあっという間に手首を頭の上でまとめられたうえ、カルナが上に乗ってきた。二人分の重さに応えるようにベッドが軋む。ますます困惑する。

 なにがどうしてこうなった? しかも今のがカルナからの初スキンシップなのでは? 本当にどうした? この短時間でなにがあった? 寝起きにぼろぼろ気持ちを吐露して、夕方の今である。展開が早すぎて頭が追いつかない。

 

「え、なに? 本当になに? どうした?」

 

 カルナは応えない。どころか、その美しいかんばせがどんどん近づいてくる。混乱しきった頭では彼がなにを意図して、どういう行動に出ようとしているのか小指の先ほどもわからない。暴れることもできないまま、吸い込まれそうな瞳を見ていた。

 ふに。柔らかい感触がくちびるに与えられた。覚えがある感触である。なにせ一か月目は毎日のように味わっていたものだ、わからいでか。

 一度離れて、はあ、と吐息が唇にかかる。間を置かずにまた重なった。今度は先ほどより長く、ぴったりと隙間の一つもないくらいにくっついている。目が白黒するのを止められない。なにをされているかはわかる。キスだ。キス以外のなにものでもない。だがしかし、カルナが? 都合のいい夢を見ているわけでなく? あり得なさここに極まれり。マーリンが幻覚を見せていると言われた方がまだ素直に信じられただろう。夢魔が生気を搾り取りにくるには格好のネタだ。

 しまいには舌で固く閉じていた唇をつつかれ、思わず「ひえ」と声が出た。それがいけなかった。

 

「……!? !? ン!?」

 

 するりと隙間風のように舌が滑り込み、彼女の口腔内に到達した。驚きでなにがなんだかわからず、すっかり萎縮して縮こまっている舌を探り当て、付け根をぐりぐり刺激する。開いた唇をぱくりと食むように覆われ、逃げることができない。身じろぎをして顔を背けようとしたところでカルナは着いてくる。いくらまばたきをしても眼前にいる男は変わらずそこにいる。つまり、幻ではない。ぞろりと舌が粘膜をなぞって、鳥肌が立った。

 

「ふ、ンン、うーっ」

 

 付け根が刺激されたことでじゅわりと唾液が分泌される。その間にも、カルナの舌は彼女の口の中で好き放題に暴れ回った。どこを舐められても首筋や背中がぞわぞわする。味蕾がこすれ合うとそのたびに唾液が攪拌されるし、重力に従って彼女の口の中はカルナのだか自分のだかわからない唾液でいっぱいに満たされてしまう。

 

「ンぁ、……ひっ、ん、んぅ……あっ」

 

 息はなんとか、鼻を使ってふうふう呼吸することでできているが、息苦しいやら驚くやらで全然追いついていない。しきりにまばたきをするせいでころりと涙が玉を作り、こめかみに流れ落ちていく。その間にも舌先がじゅ、じゅっと吸いあげられ、びりびりと脳髄がしびれた。口の中は唾液でいっぱいだ。飲み込まなければあふれてしまうだろう。

 じっ、と彼の目が自身を射抜く。それだけでぞくぞくした。まばたきひとつしない、焼けつくような視線にさらされていると、たくさん注がれたそれを飲み込まなければいけないような気持ちになってくるわけで。ごくり。知らずの間に喉が動く。初めてすすった彼の唾液はひりつくような痛みを与えながら、食道を滑り落ちていった。

 

(というかこれ、粘膜接触による魔力供給じゃないか? うわ片っ端から循環させないとキャパオーバーで死ぬ……私の身体が破裂する……)

 

 焼けるような痛みはきっと、飲み込んだ唾液に彼の魔力が込められているせいだろう。さすがは太陽神の息子。さすがは魔力放出(炎):A。さすがは音に聞く英雄王と並ぶAランクサーヴァント! 内燃魔力がケタ違いだ。胃の腑が燃えるように熱い。いや、熱いを通り越して痛い。このまま焼け死んだらどうしてくれよう。快感を刺激されつつも、冷静な頭はサーキットをオンにして魔力を循環させる。

 ところがどっこい、それがますますあぶるような快感を煽った。びくんと背筋が跳ね、白目を剥くかと思った。胸が彼の胸板で押しつぶされる。はっとしたようにカルナの目が見開かれた。流れ込んでくる魔力に気づいたのだろう。

 ちゅぽんと彼の舌が口の中から抜け、唾液が糸を作って口許を濡らす。カルナが自身の唇を舐めたことでそれはぷつりと切れた。彼女はぐったりと力が抜けた身体で、全力疾走したあとのような肺の痛みを感じながら酸素を取り込んでいる。

 カルナは改めて彼女の姿を俯瞰し、ぎょっと目を剥いた。目はうるんで充血し、窮屈そうなベルトの下で胸は激しく上下している。自分よりも健康的な色をしている肌はこれでもかと紅潮して、全身が熱そうだ。こめかみは涙に、口許は混ざり合った唾液に濡れ、たらりとシーツに染みを作る。それらがどうにも卑猥だった。

 

「んぁ……ど、して……?」

 

 心底不思議そうな、かすれた声すらも扇情的に耳へとしみこんでいく。とどめにもう一筋、涙が落ちていった。なにかのスイッチが入った気がする。そのなにかがなんなのかは、あいにくカルナにはわからなかった。

 おろ……とつかんでいた手首から手を離し、身を起こす。ここまで脱力しているなら逃げ出すこともないだろう。

 こんなつもりではなかった。なかったのだが、親しげに他の男が彼女の涙を吸っているのを見てしまった以上、歯止めが効かなくなっていたようだ。カルナは眉を下げる。愛の告白どころか、無体を働いてしまった。

 ちゃんと愛しいと思っていることを伝えようとして足早に彼女の部屋を訪れ、焦るあまりに入室の許可も得ずに開けたドアの先で見たものは、間違いなく己の間の悪さが招いたものだ。この閉鎖空間の中でひしめく英雄たちに、マスターである彼女に好意を抱いていないものの方が極端に少ないのはカルナとて知っている。誰も彼もがこの幼げな少女を、様々な過程を経て、それぞれの表現でかわいがっているのだ。……とは言いつつも、彼女の快楽でとろけた顔を見るのはきっと後にも先にもカルナだけだろう。そう思うとなにかが脊髄を駆け抜ける。それは、歓喜と近しいものだった。知らず知らず吐息がこぼれおちる。

 

「オレは、相も変わらず言葉が足りないようだ」

「……?」

「おまえが当然のように言葉を補ってくれるからか、また昔に逆戻りしていたらしい。おまえにこの気持ちが伝わっていると思っていた。まさしく慢心に他ならない。恥ずべきことだ」

「はい?」

 

 彼女の目が丸くなる。それがどうにもかわいらしくて、カルナはくっと喉奥で笑った。もう一度彼女に覆いかぶさって、彼女の顔に、自身の顔を近づけ、唇が触れるか触れないかの距離で止める。額がこつりとぶつかった。マスターはまだなにがなんだかわからないという顔をしている。もしかしたら平素の彼女は鈍いのかもしれない。カルナはすうと息を吸った。

 

「マスター」

「はい」

「オレはお前を愛しいと思う」

「…………。……? …………!?」

「おまえにオレがほしいと求められて、喜びを感じた」

「は? え? つまり?」

「カルデアから去ってもいいなどと言うな。オレはおまえから離れたくないと思っている」

 

 ぼんとマスターの顔が熟れたトマトのように真っ赤になった。くすりと笑みがこぼれ、もう一度、今度は触れるだけのキスを贈る。今は言葉よりこの行為が雄弁だろう。これで三度、自ら彼女に口づけた。伝わっただろうか、とまん丸になっている目を覗き込む。彼女の瞳に映る自分は、どうにも情けない顔をしているように見えた。懇願するかのように、彼女の指にやわく指を絡める。

 

「おまえはどうだ、マスター」

 

 からかうような声は、その実なによりも優しかった。ぼろ、と大粒の涙が落ちる。

「素直な気持ちを伝えればよろしい」と、茶目っ気を含んだランスロットの声が頭に響いた。言ってもいいのだろうか。いや、言わなければ。言うべきだ。彼は言葉を尽くしてくれている、ならば応えなくては。

 おののく唇をどうにか開いて、舌を動かす。鼻がぐす、と鳴った。

 

「やだ、本当は離れたくない、いなくなったりしないでほしい。時間が許す限り、側にいたい。だって好きなんだから」

「そうか、……そうか。オレは今、とても嬉しい。おまえに口づけたくて仕方がない。これでは獣だな」

「いいよ獣でも……。どんなことされたって、嫌いになれるわけがないんだもの。私が嫌うのはいつも私だ、カルナを嫌いになったりしないよ」

 

 本心だ。事実だ。けれど、カルナは少し困ったように眉を下げ、ゆるりと唇に弧を描く。

 

「……おまえがおまえ自身をどれだけ嫌っていたとしても、オレはおまえのすべてを好ましく思うよ、マスター」

 

 やわく、やさしい声が降ってきた。渇きを満たすように、それは彼女へとしみこんでいく。絶対的な肯定。いつもよりやわらかな声には、息ができなくなるくらいの愛情が詰まっていた。

 照れるどころかびっくりしすぎて二の句が継げない。おまけになめらかな手のひらで頬を優しく包まれている。たわむれに頬を押したり撫でたりする手は驚くほどいたずらだ。また泣いてしまいそうだと思いながらも、愛が大きすぎておろおろしてしまう。カルナが好きって言ってくれるなら私は私のままでもいいのかなあとボケたことを考えるくらいには、混乱していた。

 ただ、とめどなく、胸の中心からあったかいものが湧き上がって止まらない。

 

「ねえ」

「なんだ?」

 

 するりと細い腕が甘えるように首に絡みつく。自然、ますます距離が近づいた。呼吸の一つさえも、二つから一つに混ざり合うかのようだ。

 

「もう一回キスして。それ以上のこともいつかして。全部私に刻みつけて」

「ああ、おまえが望むならそうしよう。それにしても、ずいぶん素直になったな。ずっと隠していたのか?」

「カルナががんばってくれたから、おんなじくらいがんばってるだけ! 今までちょっと猫かぶってたのは否めないけど!? だって下手打って嫌われたくなかったんだもの! あー恥ずかしい! 無理! こっち見ないで!」

「それは困る、オレはおまえを見ていたい」

「……そういうところ、本当にずるいね」

 

 すっと眇められた目が、そのまま伏せられる。導かれるままにカルナは再び口づけを落とした。




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未だ青い果実

前回のあらすじ 初恋拗らせたあと両想いになった

その後です。アルジュナへの言及とか、マスターと恋愛関係になるってつまり現地妻的なやつだよねって話。


 魔術を扱う人間がそう簡単に「魔法のようだ」と言うものではない。

 が、その手のひらで優しく触れられるだけで、どんなに強張っていた身体でも、引き裂かれるような痛みがあったとしても、どうしてかそれが緩むのだ。神秘とはまったく関係のないそれは、あくまでただの行為でしかないのに、どうしてか少女の絡まり合ったなにもかもをほぐして整える。

 本当に不思議なことに、この腕の中が世界でいちばん安全な場所だと、無邪気に信じられてしまいそうなくらいで。頬を撫でられるたび、髪を梳かれるたび、やわらかな拘束を受けるたび、爪を剥がれ牙を抜かれ、愛玩されるだけの小さな生物に成り下がってしまうわけだ。

 眠りに落ちるまでのほんの数分。たったそれだけの間、少女は勇ましいマスターでも冷酷で誇りのない魔術使いでもなく、ひとつのか弱い庇護されるいのちに変貌する。

 

 人理修復を終え、今をどうにか未来に繋ぎ直した以上、いつカルデアを出ていくことになるかもわからない現状。どうしてか少女は未だ、マスター業を続けていた。年が明けたと同時に魔術協会から第一次調査団が来ると聞いて、苦楽を共にした善き人々は少女を政争から逃がそうと手を尽くしてくれている。それに関しては少女にどうこうできることではないため、だいたいが投げっぱなしだ。いずれ来る直接の質疑応答のために、できあがった提出用資料を頭に叩き込んでいくくらいのことはしているけれども。

 しかし、季節はいつの間にか十月だ。今年もあと三か月を切っている。時計塔も一枚岩ではない……どころか三大派閥に分かれて争っている現状なのだから、当主が倒れたアニムスフィアとその所有物フィニス・カルデアを、パイを切り分けるように解体する算段を今も立てているのだろう。その間にも向こうでなにも起きていないとは思えないし、お役所仕事よろしく遅延していくのはそうおかしなことでもあるまい。と、思っている間に彼らの到来は来年以降に延期されていた。

 その間にも、泡のように浮き上がってくるなりそこないの特異点、亜種特異点を正したり、まれに発生する揺らぎを解消したりしていく。カルデアに残った英霊たちもそう多いわけではない。往時ほどのにぎやかさとはすっかり離れてしまったが、それも自然なことだ。少女は頭を切り替える。

 クライマックスを迎えた物語が終わりへ収束していくのは当たり前のことである。別れが穏やかであればいいが、と考えながら、彼女は別れそのものを忌避しているのでもない。始まったものは終わる。別れは当然だ。答えは実に単純明快、シンプルである。

 

(冷たいって言われたらうなずくけど)

 

 少女はねりきりを切り分けて口に運んだ。花の形と色で飾られたそれは、優しい甘さと共に舌の上でほどける。やっぱり日本式の食事は彼女が一番うまいかもしれない。そう思いつつ、甘味の前に少女は目を細めてほうと息を吐いた。

 物事は常に変化する。変化によってそれらは循環し、螺旋のごとく上へ上へと進化していくわけだ。永遠に続くものはひとつとしてない。

 少女は遠からず十代を終えるし、そのあとも彼女の人生は続いていく。一方で彼らはすでに完成され、死を迎え、止まったものだ。本来なら人生の中ですれ違うことすらなかっただろう。だからこそこれらの出会いは奇跡だったのだ。星に手を伸ばしたことも、それをほんの少しだけとどめ置いたことも、いずれ手放し遠くにあるそれを見つめるだけになることも含めて。

 停滞は死と同じだ。今この瞬間が永遠に継続するよう願うというのは、その停滞を引き起こす最たるものだろう。例えば、思いが赴くままに数日間を切り取り、ループさせたところで、変化のない日常の中にただ存在しているのは生きていると言えるだろうか? 少女はそうと思えない。だからゲーティアの願いと正面から戦って倒したのだ。きっと天草の「人類救済」という悲願も、必要があるなら──そのときに立ち向かうのが少女ならば、迷わず切り捨てに行くに違いなかった。勝てるかどうかはさっぱりわからないけれども。心構えの話である。

 穏便に家に帰れるならそれで十分だ。そのためにいくつの別れを経験することになったって、少女がここで過ごした日々を忘れ去ってしまうとは思えない。とてもじゃないが空想の話であったってできないことだろう。できないけれど、できないのに。だが、抱えた恋を秘密のように守ったまま、結婚して子供を産むことはきっとできてしまう。結局割り切れてしまうのだ。

 少しだけ気分が沈んだ。自分が人でなしのように思えた。いや、魔術の世界に肩まで浸かっていたら人でなしでないはずがないのだが。ふう、と青ざめた呼吸が気管を通り過ぎていく。それに目ざとく気づいたらしく、目の前の彼女は明るい声で話題を振ってきた。

 

「そういえばマスター、最近はカルナさんと穏やかに過ごせてますか~?」

「うん。その節は迷惑かけたね、ごめん、ありがとう」

 

 小さく頭を下げると、玉藻の前は自慢の狐耳をぴこぴこ動かしながら、袖で口許を隠して目を細める。あたたかい、いや、生ぬるいとも形容できる眼差しである。含み笑いがあるというか、にやにやしているというか。なにはともあれ、彼女が面白がっているのは確かだろう。少女は目を閉じて肩をすくめた。

 畳みの香りが気持ちを落ち着ける。実家のような安心感、とはまさにこれのことだ。可能ならば寝ころんで胸いっぱいにこの香りを吸い込んで目を閉じたいくらいである。陣地作成で改造された部屋というものはどこも居心地がいい。カルデアの作りはどうやってもシステマチックかつ無機質で、寝るために部屋に帰ることはあってもあまり長居したいとも思えないのだ。二年をここで過ごそうが、これにだけはどうも慣れることができないままだった。

 

「主人のお悩み解決も良妻のたしなみですからねっ! やー、こわい、自分の有能さがこわい! 高難易度クエストにもひっぱりだこですよこれは!」

 

 茶化すように言っているくせに、その目が優しいからずるい。少しの気恥ずかしさで頬を染めつつ、少女はもう一度ありがとうと笑った。それに気を良くしたのか、彼女は口を猫のようにしてずずいっと肩を寄せる。そのまま、内緒話をするようにマスターの耳へ唇を近づけた。

 

「で、で、具体的にどうなんですか? 報酬にとは言いませんけど、どんないちゃいちゃ逸話があるか興味があるんですよねぇ……?」

「玉藻にならいくらでも話すよ」

「いやーんタマモ照れちゃーう!」

 

 朗らかに微笑まれて、思わず玉藻の前は両手で頬を押さえる。マスターはこんなに自分を信じてしまって大丈夫なのか!? とちょっとだけ思った。やっぱり「ご主人様」ほどではないとはいえよい人間である。イケ魂である。わりと好きだ。

 だがしかし、それを馬鹿正直に表すかというと、別の話。

 じいっと双眸を見つめて続きをねだった。彼女は少年のように笑った。

 

「あはは。そうだなあ、カルナから触れてくれることが前より増えたかな……たまにキスもしてくれるし」

「ほうほう! それでそれで!?」

「うーん……最近は寝つくまで添い寝してくれる。カルナ、体温低そうなのにすごく手があったかいんだ。それが理由かはわからないけど、最近は深く眠れるようになったよ。忙しかった頃より夢を見る頻度が減ったかなあ」

「なるほど……共寝まではいったんですね」

「うん。あ、あと、手を繋ぐことが増えたかも。たまに握りしめる力が入るのがなんだか嬉しいんだ。ちゃんとここにいるって確かめてくれるみたいで」

「あ、甘酸っぱい……まぶしい……。おや? その口ぶりだと、もしや男女のあれそれはまだやってないんですか?」

「うん。必要性を感じていないのもあるし」

「詳しく」

「彼、息子が三人はいたみたいだから女を抱いたこともあるだろうし、性欲もあったはずだろうなあって思うんだけど、全然そういう話にならないんだよね。飢えみたいな焦りがすっかり収まって、私がそれどころじゃないからかもしれないけど。本当の本当に離れるまでの間にできたらいいなって思うくらい」

「ん、んん~……」

「っていうかサーヴァントって生殖にまつわる本能あるの? 生の営みは食事と同じで趣味レベルなのか……カルナにも最初サーヴァントに食事など備蓄の無駄だって何回も言われたし、じゃあやっぱり性欲も必要ないわけだから存在しないんじゃ……? 死んでたら残す種もあったもんじゃないでしょ。あれ、玉藻どうしたの。チベスナ?」

「いや、穏やかすぎて枯れてんじゃないだろうなって思いまして。本当に健全な十代ですか? あとタマモちゃんは日本産ですから」

「ごもっともー。だけど交配が目的じゃないなら、あんまり焦る必要もないと思うんだよ。不毛で無駄でなんて贅沢なんだろう。明日死ぬかもしれないって状況はもう抜けてしまったから余計にね」

 

 手の甲を顎に当てた彼女がクスクスと肩を揺らすたび、しなやかな黒髪が連動するように揺れた。

 

 

 少女の暴走した思い込みとカルナの口下手で悪化したあれそれから約二週間。びっくりするくらい二人の関係は清いし、なにより穏やかだ。最初の一月に感じていた、怖いくらいの幸福とはまったく違う。少女の心は満ち足りていたし、安定していた。規模は縮小したものの、カルデア内では毎日なにかが起きる。それらすべてを噛みしめるように過ごしながら、焦燥に駆り立てられることなく立ち続けることができるくらい、今の彼女は落ち着いているのだ。安心しているという表現がもっともふさわしいだろう。

 信頼から崇拝へ、敬愛から恋慕へ。弱く灯っていた火にガソリンをぶっかけたがごとく、自覚やらなにやらで急速に燃え上がった恋心は非常に不安定だったようだ。恋の重さに耐えかねて、とでも言えばいいのか? 初恋のわりに大きく重く膨らんで、ぐらぐら煮えていた思いは自身の視野を狭め、たやすく思考を後ろ向きにさせた。思い込みとは恐ろしいものだと思う。

 

(いや、初恋だったから余計に、か)

 

 少し前の憔悴した自分を思い返すとため息が止まらない。自分のことを子供だとか、幼いとか散々思っていたがその認識すら甘かったらしい。恥ずかしい限りである。

 初めての感情は劇薬そのものだったらしい。ただでさえ恋心というものは脳のバグだとか脳内麻薬分泌物だとか好き勝手言われるもの。意中の女に振られて頭がアッパラパーになってしまう英雄だっている。それから数百年、千年経っても失恋を元に死んでしまう人間が変わらず存在する。ひとりでぐるぐる考えて、あれそれ思い悩んでいればどつぼにはまるのは知れたことだったわけだ。

 あんなに視野が狭くなって情緒不安定になったのは初めての経験だった。人間簡単におかしくなってしまうものである。顔を覆ってベッドに転がりながら、何度目かわからないため息を吐いた。

 

 律儀なインターホンが鳴る。誰が来たかはだいたいわかっていた。少女はベッドを降りて、ためらうことなくドアを開ける。当然のように、立っていたのはカルナだ。新しく契約したサーヴァントと語らうとき以外、部屋に常駐しているのはこの男である。いつも通り部屋に通すと、彼も慣れた様子で定位置に座った。もはや部屋の空気感と完全に一体化している。本当に側にいるのが当たり前になったなあ、と少女は内心呟かずにはいられなかった。

 鍵を締め直し、隣に座る。少し彼の目が柔らかさを帯びた気がした。それがなんだか嬉しくて、手を繋いだときのように身体がぽっとあったかくなる。

 部屋にはアナログ時計がない。だから、黙り込んだところで秒針の音すら聞こえない。心地よい沈黙は体感時間を緩やかにする。急ぎの用事はないし、明日の準備も終わっている。完全にフリーというわけだ。こちらをじいと見下ろす視線がくすぐったくて、少女はわずかに身をよじる。すると、それを許さないとでも言うように肩に腕が回った。

 

「積極的だ」

「そうだろうか」

「そうだよ」

 

 死に物狂いで走り続けていたときは、こんな時間が過ごせるようになるなんて考えたこともなかった。本当は横顔を見つめているだけで何時間だって過ごせるだろう。とはいえ、それは絵画や彫刻を鑑賞する時間だ。せっかく目の前で彼が息づいているのだから、触れないのはもったいないだろう。おそるおそる、おっかなびっくり手を伸ばす。いつもこのときはどきどきして仕方がない。

 カルナはロープで囲われた美術品とは違い、触れてはいけないものではない。禁じられているわけでもないのに、それでも彼に手を伸ばすことに罪悪感や背徳感を味わってしまうのは、きっとそういう形で愛してしまったからだ。身体の向きを少し変えて、頬をくすぐると彼は目を閉じた。そのまま、顔に触れたままの少女の手を上から包んで、自分の顔に押しつけるように当てている。ちゃんとあたたかくて、血が通っている。ゆっくりと彼の口が動いた。

 

「……いつまでこうしているのだろうな」

「えーと、それはやめたいという」

「違う。……やはり言葉というものは難しい。相互理解はそれ以上に難しい。人間は本当に分かり合うことが可能なのか?」

「そこは妥協しかないんじゃないかなあ。で、どうしたの? 珍しくネガティブ?」

「ネガティブ。ああ、そうだろうな。情けないことに、少なからず弱気になってしまっている」

「おお……ええ……? そっか……」

 

 まさか当たっていたとは、と言わんばかりの反応。カルナはちょっとだけむっとしたように唇を引き締めた。

 

「オレとてなにかを不安に思うことくらいある」

「へえ。それでなにを不安に思ったのかな」

 

 半信半疑どころか七割八割は疑っているだろう視線に、カルナは嘆息する。彼女は一体己のことをなんだと思っているのだろう。

 

「別れが遠からず来ることを。……考えるだに馬鹿馬鹿しい、すでに失われて久しいオレたちが生物と共にあること自体が間違っているというのに、……どうしたマスター。意識はあるか」

 

 見開かれたまま止まってしまった瞳の前で、カルナはひらひらと手を振った。

 

「あります」

「そうか。突然失神したかのような意識の飛び具合だった、死んだふりだと言われたら納得していただろう。役に立つかはオレにはわからんが見事だ」

「まさか私ではなく君がそういうことを言いだすとは思わなかった」

「待て、どの話だ? 仮死状態か? いや、それはさすがに会話が成り立っていないと判断するが」

「ああ、ごめんごめん、別れ云々の話だよ」

「そうか。よかった。しかしオレが斯様なことを言うのは、それほど意外だっただろうか」

「そりゃそうさ。普段から自分はサーヴァントだから~とか、戦う道具だから~って言ってた人が別れを寂しがるようなことを言ったら多少は面食らう」

「多少だったか?」

「じゃあすっごく」

「そういうことにしておくとしよう」

 

 続きをどうぞ。彼女の視線がそう促してくる。カルナは肺を酸素で満たしてから、舌を踊らせる。

 

「此度の現界は通常の聖杯戦争より長きにわたっているうえ、通常の聖杯戦争でもマスターと過ごせばなんらかの感情は湧く。長く接するほど愛着は出るものだ。さらにおまえがオレを選びオレもそれに応えているのだから、契約が切れるときを想定していささか寂莫を感じるのも自然なことだろう。そう認識しているのだが、マスターは異なると」

「だってどうしようもないじゃない」

 

 あっけらかんと彼女は言った。人が太陽を見てまぶしいねと言うように、機械が数字を読み上げるように、当然のことを彼女は言った。カルナは少し視線を下げ、数秒見つめ合う。アジア人らしい色彩は落ち着いている。強がっているわけではない、しっかりばっちり本心だ。それを認めてから、カルナも静かにうなずいた。

 

「……そうだ、本当にどうしようもない」

「そりゃあ私だってカルナと同じように寂しくは思うよ。うん、同じ気持ちだ。だからなおさらどうしようもない。これからも私は生きていくし、それでいつか死ぬ。その過程で君とも別れる。たったそれだけ」

 

 またひとつ、カルナはうなずく。手慰みに彼女の首筋を撫でると、小さく肩が跳ねた。一瞬目を細めたあと、じろりと睨みが飛んでくる。そよ風のように取るに足らない、かわいらしい威嚇だ。カルナはもう一度手を動かす。

 

「カルナがそれだけのことをわかってないはずがない、と思ってたから余計びっくりしたんだよ」

「理解していても夢想することはあるだろう」

「うん。だから、いつか私が駄々こねて諭されるだろうなーとも思っていた」

「こんなどうにもならないことで駄々をこねるのか。それは諭すほかあるまい」

「ほら、そういう反応をするから今後一切できなくなるんだ。……寂しいと思うこと自体はそう悪いことじゃないだろうけど」

「ああ。なんら特別でない、普通のことだ。それが悪であったとしたら、とても困ることだろう」

「ねー」

 

 仕返しなのか、彼女も猫の喉をくすぐるようにカルナの顎の下をこちょこちょ撫でている。少し変な気持ちになった。

 

「だからさ、どうせなら、さよならのあと君を思い出すたびに恋しさでちょっと泣いちゃうくらいの思い出を遺していってよ」

 

 その痛みは必要な痛みで、同時にとても甘美だろう。

 彼女の目尻を引っ張るように撫でて、カルナはキスをした。泣き顔と笑顔だったら笑顔の方がいいと思うのに、彼女がすでにない自分を思って泣く姿を想像すると、得も言われぬ感情で胸がいっぱいになる。罪深いことだ。カルナは心中で呟いた。

 

 

「カルナの生前は、語られた部分を読んだら不幸だなーとかかわいそうだなーとか、同情を感じずにはいられないけど、本人が恵まれていたって話すならもうなにも言えないよ。神話っていうのは政治や制度をより好意的に受け入れやすくするように作られる。マハーバーラタでもカースト制は重んじられているだろ。それに抗ったり、軽んじたりするものは自動的に悪側に配置されるに決まってる。なにせ教えに反しているんだから。……実際にあったものだと考えるほど、物語構造イコール神々の意志ってことになっていくわけだけど」

「フン、神話の英雄なんてそんなものだ。“そうあるように”設定される。神を尊び、人間を被創造物だと認識するほど、駒だの操り人形だのの側面は強まるばかり。神代の人間はそれはそれは神に振り回されていただろうよ! おお恐ろしい! 読者の自分勝手な呪いの何倍もひどいな!」

「振り回されっぷりはウルクで見た。あれ本当にやばいよね」

「まったくだ」

「ステンノたちにもたまにもてあそばれるしなあ。本物の魅了を受けたときは元に戻らなくなるのを覚悟したよ。怖いね」

「本題は?」

「アルジュナがいつまでたっても来ない。原典知識と先入観ばっかり増える」

「ハッ、苦しめ苦しめ。正月を待って希望していろ」

「保証もなにもないのに? ま、当分はそれが一番期待できるかあ。あーあ、来年もまたなにかありそうだ」

「しかし、そんなに興味があるのか? 愛しい男の宿敵に? 趣味が悪いとは思っていたがそれほどとは」

「頼まれたのもあるし、興味だってあるし、会ってみたいじゃん。ぜーんぶ好奇心だよ、センセ」

 

 少女はにーっと笑った。

 




ありがとうございました。まだ書きたいネタはあるんですが出力が追いつきません。

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