ペンと淑女とグリューワイン (瑞穂国)
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ペンと淑女とグリューワイン

久々にウォービス書きたくなってきました


 寝静まった庁舎の一室に、珍しい人影を見つけた。

 四分の一の明かりが消された、レクリエーションルーム兼食堂。人っ子一人いないと思われたそこに、ポツリと艦娘が座っている。物憂げな横顔の淑女は、穏やかな手つきでページをめくり、本を読む。大部分を夜に侵食された空間で、彼女の周囲だけが、暗海の街明かりのように見える。自然と目に留まる光景だ。

 

 金髪の淑女は、ウォースパイトという。鎮守府所属のイギリス艦娘たちを取り仕切る、戦艦娘だ。ドイツ艦隊旗艦である私と立場が近いこともあり、会議などではよく顔を合わせる間柄だ。

 艦娘たちの模範たるべく振舞うウォースパイトは、六時半起床、十時半就寝という規則通りの生活を続けている。そんな彼女が、十一時半に差し掛かろうとするこの時間まで起きているのは、珍しい。

 

 ……はあ。目に留まって、立ち止まった時点で私の負けね。声を掛けないという選択肢は消えてしまった。

 風呂上がりの身を翻し、私は食堂に足を踏み入れた。

 

「こんな時間まで起きてるなんて、珍しいわね」

「……ビスマルク」

 

 本から顔を上げて、ウォースパイトが私の名前を呼ぶ。彼女はうっすら笑みを浮かべて、ちらりと机に目を落とした。そこには二枚の書類。書きかけなのだろう、拙い日本語の文字が、そこには並んでいた。

 

「なぁに?報告書?」

「ええ、そうよ。今日中に書いてしまいたくて」

 

 それにしても、だ。報告書なんて、日本語で書く必要があるだろうか。いやそもそも、手書きする必要があるだろうか。

 多くの母国語が飛び交うこの鎮守府では、報告書を日本語で書く義務はない。なんだったら、書式が決まった文書ファイルをダウンロードして、パソコンで書くことも認められている。直筆の必要があるのは、書類の末尾に記す作成責任者と提督、秘書艦のサインくらいなものだ。

 だというのに、ウォースパイトは手書きで、日本語の報告書を書いている。その非合理性は、いまいち理解できなかった。

 

 改めて、ウォースパイトの字を見る。拙さは残るが、綺麗な字だ。アルファベットとは全く体系の違う、平仮名・片仮名・漢字を、よく整えられた字体で、彼女は書き連ねていた。三日でペンを投げ出した私とは、大違いだ。

 

「日本語って、難しいわ。文章どころか、字でも、上手く書けないの」

「……そうかしら」

 

 この鎮守府にいる時間は、ウォースパイトより私の方が長い。彼女よりもたくさんの字を見て来たが、そのどれにも、彼女の字は劣っていない。難しい、と語る彼女の感覚には、いまいちピンとこなかった。

 

 そんな私の思考を読んだのか、ウォースパイトはおもむろに、傍らの本を開く。よく見れば、書類の横に一冊、先程彼女の読んでいたものと合わせて二冊の本が、机の上にはあった。置きっぱなしの方は辞書だろうか。

 開かれたページには、眩暈がするほどの、字、字、字。この複雑な形、漢字で間違いないわね。

 よく見ると、それらの字は全て、筆や鉛筆で書かれていた。

 

「こんな字をね、書けるようになりたいの」

「……ああ」

 

 なるほどと、ようやく納得がいった。本に書かれている字は、ウォースパイトのものより、綺麗に整っている。そのレベルと比べれば、彼女の字は拙く、均整が取れていない。

 大事そうに本を机へ戻し、ウォースパイトは再び、書類に向き直った。すでに半分ほどが彼女の字で埋まっている報告書。その残された空間へ、彼女はとても慎重に、ペンを置いていた。まだしばらく、かかりそうだ。

 

 ……さて、と。このまま、立ち去ってもいいのだけど。というか、彼女の邪魔にならないように、ここを離れた方がいいのだけれど。今夜の私は、どうもそんな気分にはなれず、結局、ウォースパイトの側を離れることができなかった。

 凄まじい集中力で、紙とペンに向き合うウォースパイト。整った睫毛の横顔を見つめるのは何だか悪い気がして、それとなく視線を外す。ついでに、彼女の横から動かなかった足を、厨房の方へと向けた。

 

 給糧艦の管轄でない、共用の冷蔵庫を開く。ドイツ国旗をでかでかと張り付けたその中には、オイゲンたちが買い溜めたヴルストやらザワークラウトやらが保管されている。それらを掻き分け、目当てのものを回収。見つけたのは、シナモンを筆頭に数種類の香辛料と、柑橘類の切り落とし。

 それから、イタリア艦隊のワイナリーを開く。一部分を間借りして、私が溜め込んだ、ドイツワイン。そのうち、すでに開封済みの一本を取り出して、材料集めは終了だ。

 

 コルクを抜いて、赤ワインの香りを確かめる。酸化はしていなさそうだ。まったりとした高貴な香りが、鼻の奥をくすぐる。このまま飲みたい衝動をぐっと堪え、コンロにかけた鍋へ投入、ゆっくりと火を入れる。香辛料に柑橘類の皮、砂糖も、適当に鍋へ入れていく。詳しい分量は最高機密だ。

 

 ウォースパイトの作業を眺めること二十分ほど。日付を跨ごうかという頃合いで完成だ。ドイツの冬には欠かせない、夜のお供である。一口できを確かめて、マグカップへよそい、スライスしたレモンを浮かべる。

 スイートでスパイシーな香り、漂う湯気。満足のいく仕上がりになった。これなら、ウォースパイトにも遠慮なく出せる。

 

 最後の数行に取り掛かっていたウォースパイトの傍らへ、ことりと、無言でマグカップを差し出す。書類から顔を上げた彼女は、マグカップ、次いで私を見て、首を傾げた。

 

「グリューワイン。寒いから、温まるわよ」

 

 それだけ言って、私は自分のマグカップへ口づける。先程の味見に、レモンの酸味が加わって、全体を引き締める。香りも申し分ない。何より、ほろ苦いワインの後味と、わずかに残ったアルコール分が、体を芯から温めてくれる。ドイツ程ではないとはいえ、冷え込む日本の夜には、ぴったりのホットドリンクだ。

 

「ありがとう。いただくわ」

 

 ペンを置いたウォースパイトが、マグカップへ手を伸ばす。両の手で包み込むように暖を取り、彼女はゆっくりとカップを傾ける。私は無言で、その様子を見守っていた。残された蛍光灯の下で、白く滑らかな彼女の喉が、こくりと、グリューワインを嚥下する。

 マグカップから離れたウォースパイトの唇が、ほうっと湯気交じりの溜め息を吐く。その口の端が、笑っていた。

 

「……おいしい」

 

 その一言を呟いて、ウォースパイトはもう一口、グリューワインに口づける。内心のガッツポーズを押し殺して、私も彼女に倣った。二口目は、少し、甘さが勝っている気がした。

 

 ウォースパイトが報告書を書き上げるのに、そこから十分とかからなかった。ようやくペンを置いたウォースパイトが、書き上げた文章の査読を私へ依頼する。ややぬるくなったグリューワインを共に、査読すること五分。これといって、指摘するところはなかった。空になった二人分のマグカップが、就寝の時間を告げている。

 

「おやすみなさい、ビスマルク。グリューワイン、とてもおいしかったわ」

 

 部屋の前で手を振るウォースパイトの笑顔が、ベッドで閉じた瞼の裏に、幾度となく蘇った。

 

 

 

「ビスマルク、聞いてくださる?」

 

 翌日。暇を持て余し、本を片手にコーヒーを傾けていた私へ、ウォースパイトが話しかけて来た。普段よりも幾ばくか溌溂として、明るい雰囲気をまとうウォースパイト。見るからに上機嫌な彼女の表情を窺い、私は本を置いた。

 

「なに、どうしたの?」

「昨日の報告書、提督がとても褒めてくれたの。綺麗な字だね、って」

 

 世辞からは二億光年くらいかけ離れた堅物だ。その評価が嘘でないことは容易にわかる。

 へえ、と曖昧に相槌を打って、私はウォースパイトに続きを促す。たったそれだけを言うために、彼女が声をかけて来たわけがない。

 けれど、待てど暮らせど、ウォースパイトからそれ以上の話題は出てこなかった。練習してよかった、もっと綺麗に書きたい、いつか手紙も書いてみたい。上気した頬の彼女は、提督から褒められたことを、殊更嬉しそうに語る。珍しく早口の彼女に、私が言葉を挟む余地はなかった。

 

「ビスマルクのおかげね」

 

 急な言葉に疑問しか浮かばなかった。首を傾げる私へ、ウォースパイトが微笑む。まだ早い桜に染まる頬のせいか、金糸を揺らすその笑顔が、一層艶やかに映った。

 

「……何の話よ」

「貴女が査読してくれたのだもの。それに、あのグリューワイン。とても落ち着いて、文章が書けたわ」

 

 ……なんと返したものだろうか。上手い返答が思いつかず、私はまた、曖昧な生返事を口にする。それでも、ウォースパイトに気を悪くした様子はなく、その輝く眼差しを私へ向けてくる。昨夜、私の目の前でペンを走らせていた手が、すっと伸びてきて私の手を取った。白くて細くて柔らかい彼女の手は、私の手を覆うのに少し足りない。

 昨夜より明らかに近い彼女からは、得も言われぬ甘い香りが漂ってきた。

 

「ねえ、貴女のグリューワイン、また飲ませていただけるかしら」

 

 吸い込まれそうな瞳が、真っ直ぐに私を捉えていた。また報告書を書く時だけでいい、私のグリューワインがあれば、きっと綺麗な字が書ける、と。ウォースパイトは、とても真面目な様子で、そう言うのだ。

 やけに押しの強いウォースパイトは、少し意外だった。凛として、粛然として、模範たる淑女の彼女を、何がそこまでにさせるのか。私にはわからない。

 

 心の内を溜め息でごまかして、ウォースパイトの手を解く。そのまま軽く――いや、やや強めに、ウォースパイトの頬を摘まんでやった。痕が残らないよう細心の注意を払いながら、ショウガツに食べたモチみたいな彼女の頬を引っ張る。淑女にあるまじき可笑しな顔になったウォースパイトは、キョトンと首を傾げるばかりだ。

 

「なぁに?」

「……いいえ、なんでも」

 

 彼女の頬を解放してやる。

 まあ、あのグリューワインを気に入ってくれたのなら、悪い気はしないわね。

 今は、そういうことに、しておこう。

 

「グリューワインくらい、いつでも作ってあげるわよ」

 

 読みかけの本を持って立ち上がる。ありがとう、と微笑むウォースパイトに、かっこつけて手なんか振って。行く当てもなく、私はその場を後にする。

 次は少し、香辛料を変えてみようか。レモンをオレンジにしてもいい。白ワインベースもいいものだ。そんなことを考える私は、ふと、昨夜の二口目を思い出していた。




最近何か食べたり飲んだりするお話が多いですね。飢えてるのかな…


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チョコと淑女とバレンタイン

バレンタインのウォービスです


 ブロンドの淑女が、今宵も何やら難しい顔で、キッチンに立っていた。

 キッチンだけに残された食堂の明かり。その只中に立つウォースパイトの格好はといえば、明らかに似合っていない割烹着と三角巾。抱えたボウルと睨めっこする彼女の手つきは、間違っても手馴れてはいない。今にも取り落とすのではないかと、この一瞬で三度は心臓が鳴った。

 どうやら今夜も、一波乱ありそうだ。

 

「何をしているの?」

 

 食堂へ足を踏み入れ、キッチンに顔を覗かせる。ボウルから顔を上げたウォースパイトが、パッと花を咲かせて口を開いた。

 

「こんばんは、ビスマルク。チョコレートを作っているの」

「チョコレート?」

 

 律儀な挨拶をして答えたウォースパイトが、ボウルの中身を見せてくれた。中には艶やかな見た目をした、焦げ茶色の物体。彼女がヘラでかき混ぜると、滑らかに広がるそれは、見間違えることのないチョコレートだった。

 市販の板チョコを細かくして、湯煎したのだろう。シンクには、ウォースパイトが剥がしたらしいチョコレートの銀紙と、砕けた板チョコの欠片が転がっていた。

 それにしてもなぜ、急にチョコレートなど作り出したのだろうか。お菓子作りに目覚めた、などという話は聞いていない。

 チョコレートへ視線を戻したウォースパイトが、微苦笑とともにその理由を教えてくれた。

 

「もうすぐ、バレンタインデーでしょう」

「……ああ」

 

 そんな日もあったなと、今更ながらに思い出した。ドイツにはバレンタインデーを祝う慣習がないから、どうもその辺りピンと来ないのだ。今年も私は、特にこれといって用意をしていないし。

 

 その点、日本というのは不思議な国で、別段宗教に熱心ではないのに、バレンタインデーをとても重要な日と位置付けている。この日のためにチョコレートが売られ、あるいは乙女たちが手作りをする。艦娘も例外ではなく、去年は数人の艦娘がチョコレートを作って、鎮守府の皆に配って回っていた。

 

 ウォースパイトの祖国では、どうだっただろうか。

 

「日本では、チョコレートを手作りするのが一般的だって聞いたの」

 

 何やら情報が偏っている気がするが、今は一先ず指摘しないでおく。それに、とても大事そうにチョコレートをかき混ぜるウォースパイトの横顔に、茶々を入れる気にはなれなかった。

 

「私はやったことがなかったから、少し練習を、ね」

「……そう。それで、誰に渡すの」

「提督よ」

 

 微笑むウォースパイトに、ドキリと、一段高い鼓動がした。

 一人で作るから、手が足りなくて、鎮守府全員分は作れない。だから、普段お世話になっている提督一人に渡すのだ。そう早口に説明するウォースパイトの言葉を、いつかと同じ曖昧な相槌で、私は聞いていた。

 

「折角作るのだから、美味しいもので、喜んでほしいわ」

 

 とろりといい具合になってきたチョコレートを見つめ、ウォースパイトはそう呟く。丁寧な手つきでチョコレートを型へ嵌め、冷蔵庫へ。味見をするのは明日の朝だそうだ。

 

「貴女も味見をしてね、ビスマルク」

 

 就寝前に残された一言で、翌日の早起きが決定した。

 

 

 

 バレンタインデーまでのおよそ一週間。結局私は、ウォースパイトのチョコレート作りに付き合い続けていた。

彼女は、どうも要領というのがいい方ではないらしく、覚束ない手つきは三日経っても変わらなかった。私にしたって、彼女にできるようなアドバイスも持ち合わせておらず、付け焼刃で読んだ料理の本など参考に、彼女と四苦八苦。時折現れる他の艦娘の助言の方が、数倍役に立っただろう。

 それでも。ウォースパイトとチョコレートを作るのは、楽しかった。たった数粒のチョコレートに一喜一憂する彼女の横顔が、眩しかった。

 

 バレンタインデーの前夜。いよいよウォースパイトは、本番のチョコレートを作っていた。ナッツにドライフルーツ、キャラメル。この数日間試した中で、彼女の納得がいった組み合わせを揃え、今真剣な表情で、チョコレートを砕いている。

 

 一方の私はといえば、やはり彼女と同じく、チョコレートを手にしていた。それから、昨日試作で使ったココアパウダーに、お砂糖と牛乳。

 

「ビスマルクも、誰かにチョコレートを渡すの?」

 

 刻んだチョコレートを滑らかに溶かしながら、ウォースパイトが首を傾げる。私はそれに首を振って「いいえ(Nein)」と答える。

 

「ドイツにチョコレートを渡す慣習は無いの。これは私と、あなたの分よ」

「そうなの?」

 

 ウォースパイトがそれ以上問いかけることはなく、自分の作業に戻っていった。それを見て、私も自分自身の作業を始める。髪が邪魔にならないよう高い位置で纏めて、私はまず、中鍋とココアパウダーを手にした。

 

 鍋に入れたココアパウダーと砂糖を混ぜて、少量の水で溶く。それから牛乳を入れて、コンロの火をつけた。沸騰するまでに、カカオの多いビターチョコを砕く。やることはそんなに多くない。ただ、ゆっくり火を入れていくから、それなりに時間はかかる。

 煮立ったココア入りの牛乳へチョコレートを投入する頃には、ぱたりと冷蔵庫の閉じる音がした。ウォースパイトがチョコレートを入れたのだ。

 

「メッセージカードを書いているわ」

「ええ。こっちもすぐできるから、待ってなさい」

「ありがとう。楽しみね」

 

 キッチンの正面に席を取り、ペンを走らせ始めたウォースパイトも、私の作っている物には察しがついたらしい。

 

 チョコレートを全て溶かし、弱火で熱を入れていく。真剣そのものの表情でペンを走らせるウォースパイトを見遣りつつ、鍋の中身をかき混ぜる。完成したものをお揃いのマグカップへ移して、私はキッチンを出た。

 数行のメッセージを書いているウォースパイトの隣に、今夜のお供を差し出す。顔を上げてこちらを覗くエメラルドの瞳が、私に問いかけていた。

 

「……ホットチョコよ」

「ありがとう」

 

 ウォースパイトからのお礼に目線だけで答えて、マグカップを勧める。

 グリューワインもいいけれど。たまにはこういう趣向もありだろう。それに、あと三十分ほどで日付を跨げば、バレンタインデーだ。

 グリューワインの時と同じように、両の手でマグカップを包むウォースパイト。薄い唇が湯気へ控えめに息を吹きかけ、やがてカップの縁に口づける。

 

「おいしいわ。こういうのも、あるのね」

 

 なんでもない風を装って、その言葉に頷く。ウォースパイトの口に合ったのなら、この上ない喜びだ。やや頬が熱い気がして、私は自分のホットチョコへ口づけた。濃厚な甘さに、就寝前の体がほっと息を吐く。

 

 ホットチョコを間に挟みながら、メッセージカードを書き上げるウォースパイト。その査読を頼まれるのも、いつもの流れだ。彼女の字は、いつかに比べて随分綺麗になった。もう見本の字にも負けないだろう。努力の滲む文章に、心臓の辺りが痛む気がした。

 

 二人分のホットチョコが無くなったのは、結局、零時を回ってからだった。

 

 

 

「見て、ビスマルク」

 

 翌朝も早起きした私に、ウォースパイトは冷蔵庫から取り出したばかりのチョコレートを差し出した。丸や四角の型に嵌ったチョコレート。綺麗に固まったそれらが、艶やかな表面に光を反射させている。磨かれたように美しい出来のそれらは、市販のものにも負けないはずだ。

 

「とてもうまくできたわ。ありがとう、ビスマルク」

 

 百花の如く笑うウォースパイトに、私は軽い相槌だけを返す。結局のところ、私は大したことをしていない。彼女の隣で板チョコを砕いたり、湯煎を手伝っただけだ。お礼をされる謂れはなかった。

 

 このチョコレートは、彼女だけのものだ。

 

「後は包装ね。そういうの、あなたの方が得意そうだから、私の出番はここまでね」

 

 立ち去ろうとした私へ、ウォースパイトがキョトンとした顔を見せる。首を傾げて私の袖を引いた彼女は、でも、と前置いてこちらを見上げてくる。

 

「まだ、何もお礼をしてないわ」

「お礼なんていいわよ。別に、大したことはしてないじゃない」

「いいえ、何を言っているの。ビスマルクのおかげで、ここまでできたのよ」

 

 買い被りもいいところだ。けれど、純粋な眼差しでこちらを見つめるウォースパイトを、絶対に離すまいと手を握る彼女を、振りほどくはできない。珍しく額に皺を作り、可愛らしく頬など膨らませる彼女からは、決して譲らないという頑なさが感じられた。

 小さく息を吐くことしか、私には選択肢がなかった。

 

「それじゃあ……チョコレートを一粒、頂戴」

「……もちろん、いいけれど。それだけでいいの?」

「いいの。チョコレートを作るのに協力したんだから、お礼もチョコレートをもらうべきでしょ」

 

 半ば強引に納得させて、たった今冷蔵庫から取り出したばかりのチョコレートへ目線を移す。

 それぞれのチョコレートの味を、彼女が説明してくれた。どのチョコレートも二つずつ。ビターは丸、ナッツは四角、ドライフルーツは星形、そしてキャラメルは――

 

「それじゃあ、キャラメルを頂戴」

「キャラメルね。待ってて、今包むから――」

「いいわよ、そのままで」

 

 型から取り出したキャラメル入りのチョコレート。ウォースパイトが摘まんだそれを――ハート形のチョコレートを、私は咥える。繊細なその手を、掴めば折れてしまいそうな腕を、可能な限り優しく、私の口元へと引き寄せて。

 

「あっ」

 

 驚いた様子のウォースパイトには構わず、そのままチョコレートを咀嚼する。固いチョコレートの殻の中に、蕩けるようなキャラメルが忍んでいた。チョコとは別種の濃厚な甘さが一瞬で鼻腔を駆け抜ける。しかし、チョコレートの風味を消し去ることはなく、両者は私の口の中で、ゆっくりと混じり合っていった。

 

「本当にいい出来ね。ごちそうさま」

 

 日本流に謝意を伝える。余程衝撃的だったのか、ウォースパイトはその整った顔を真っ赤に染めて、私を見ていた。サラサラの前髪をかすかに揺らして、彼女は頷く。

 

「提督も喜ぶわよ」

 

 それだけを言い置いて、私は食堂を後にした。慌てた様子で「ありがとう」と見送ってくれたウォースパイトに、手を振って答える。

 口に残るチョコレートの味は、昨夜のホットチョコより、ずっと甘かった。




ビスマルクは元祖無自覚イケメン(恋心も無自覚)

海外艦を見ると基本百合か片想いになる病気にかかっているので悪しからず


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星見る淑女のホットミルク

お久しぶりのウォービスです。

まだまだ冷える夜に、星を眺めるお話になってます。


 星が綺麗な夜だった。

 髪を乾かす私は、露天風呂から見えた星明かりを、何度もぼんやりと思い出した。やや青みがかった深い漆黒。天球に瞬く無数の星々。雨が降ったからだろうか。月明りがないからだろうか。ともかく、妙な瞬きの、印象深い夜空だった。

 十分乾いた髪を緩くまとめて、脱衣所を後にした私の足は、自然と、食堂の方へ向いていた。とは言っても、いつも消灯時間ギリギリに風呂へ入る私が通りがかる頃には、食堂に明かりはない。

 人っ子一人いない食堂を、何気ない風を装って、覗いていく。もしも、そこへ明かりがついているのなら、それは彼女がいる証拠だった。

 生憎と、今日は明かりがついていない。全ての蛍光灯が落とされた食堂には、全く人の気配がしなかった。さっき見つめた星明かりとは反対に、ただ空っぽの暗黒が、そこにはあるだけだ。

 規律正しい彼女は、もうすでに、ベッドの中だろうか。

 ……ああ、ダメだ。以前よりひどくなった思考に、自分で自分に溜息が出る。明日も早い。金髪の淑女に倣って、私も早く寝るとしよう。そう思って、食堂を立ち去ろうとした時だった。

 新月の夜に、ふと、月光を見た気がしたのだ。何もなかったはずの暗闇に、見えるはずのない優しい光を、見た気がした。

 暗闇に目を凝らす。食堂の奥、テラスへと続くガラスの引き戸に、淡い光が見えた。何もなかった漆黒に、月明りが揺れている。

 お化けでもないのに、どきりと、心臓が一際高く鳴った。あれほど美しい髪の持ち主は、この世に二人といるはずがなく、見間違えようもなかった。

 気づけば、足が彼女の方へ向いていた。引き戸の前に立ち、ガラスをノックする。テラスにてぼんやり椅子に腰かける彼女は、ゆっくり私を振り向いて、いつものように微笑んだ。細い手が、カラカラとガラス戸を引く。隙間からは、まだまだ冷たい、六月の夜が吹き込んできた。

 

「こんばんは、ビスマルク。お風呂上り?」

「こんばんは。ええ、そうよ。貴女は、何をしてるの」

「お星様をね、見ていたの」

 

 彼女はそう言って、頭上を指差した。そちらへ顔を動かすと、露天風呂から見えたのと同じ、満天の星が瞬いている。

 

「お月様もなくて、雨が降った後で、絶好の星見日和よ」

「……そう」

 

 私のそっけない返事を気にする風もなく、ウォースパイトはその瞳を輝かせる。エメラルドに似た彼女の瞳は、今は星明かりを映す、小さなプラネタリウムになっていた。

 

「貴女も一緒に、どうかしら?」

「……まあ、いいけれど」

 

 特に断る理由もなくて、私はウォースパイトに招かれるまま、テラスへ出る。彼女は、すぐ隣へ用意していた椅子を勧めてくれた。準備よく、薄手の毛布まで用意されている。風呂上がりの身にはありがたい。

 

「お昼は暖かくても、夜はまだ冷えるわね」

 

 折り目に沿って綺麗に畳んだ毛布を膝にかけ、ウォースパイトはそう言った。それもそのはずだ。テラスは海に面しているし、夜でも風が吹く。明かりのない、波すら見えない海を見つめる状況は、それだけで薄ら寒い。

 それならなぜ、ウォースパイトは星なんて眺めようというのか。

 

「ねえ、ビスマルク。ホットミルクはいかが?」

 

 柏手を打ったウォースパイトが、そんなことを言った。彼女の傍らに置かれた小さなテーブルには、魔法瓶やらマグカップやらが乗っている。魔法瓶の中身が、ホットミルクだろうか。

 やや甘みのある、まったりとしたホットドリンクを、すぐに想像する。冷えた夜には、ぴったりのお供ね。

 

「遠慮なく、いただくわ」

「ええ。少し待ってて」

 

 嬉しそうに微笑んで、ウォースパイトが魔法瓶のロックを解除する。香りを確認する仕種をした後、彼女はゆっくりと、マグカップへホットドリンクを注ぎ入れた。漂う湯気が、微かに景色を歪めている。

 それから、ウォースパイトは、傍らの小瓶を開けて、中身をスプーンで掬い出した。暗くてよく見えなかったけれど、正体は何かの粉末だった。お砂糖でも入れてくれるのかしら。

 

「はい、どうぞ」

「ありがとう。いただくわ」

 

 受け取ったマグカップが、ほんのりと暖かさを伝える。冷え始めた手のひらには、とにかくその温もりが嬉しい。

 ウォースパイトの真似をして、両の手でマグカップを包み、一しきり温もりを感じてから、口元へと運ぶ。そこでふと、違和感に気づいた。私の知るホットミルクとは、全く別種の香りがしたからだ。

 微睡みへ誘う、穏やかなミルクの香り。それにもまして、鼻腔をくすぐる、ややツーンとした甘い香り。

 シナモン、だろうか。こんな飲み方もあるのかと、心のメモ帳に書き留めておく。

 隣のウォースパイトが、興味津々というように、私の方を見ていた。その視線を意識的に頭の隅へ追いやって、カップへ口づけ、ホットミルクをすする。

 優しい香りがする。穏やかな甘みがある。驚きと感心で開いた目が、次の瞬間には閉じていく。シナモンだけじゃない。ジンジャーと、それから蜂蜜も入ってる。微睡みへと誘う、心地の良い甘さだった。

 体が芯から温まって来るのを感じる。湯船で思いっきり体を伸ばす、あの感覚を思い出す。ゆったりと、血流が巡るのに合わせて、仄かな暖かさが全身を巡っていた。

 

「……おいしい」

 

 一口を堪能した後、ぽつりと呟いていた。隣のウォースパイトが安堵したように頬を緩める。星を宿す瞳が、喜びに染まって細くなった。

 

「口に合ったみたいで、よかった」

 

 そう言ったウォースパイトの手にも、マグカップが握られている。私が今持ってるのと、同じデザイン。彼女の私物だろうか。お揃いなのが妙に嬉しくて、私はもう一口、ホットミルクをすする。隣で、ウォースパイトも同じようにしていた。

 

「日本へ来る前にね、アークロイヤルが教えてくれたの」

 

 知ってる?と尋ねるウォースパイトに、短く曖昧な返事を返す。件の空母艦娘とは顔見知りでもあり、腐れ縁ともいえる。あの騎士様が、ホットミルクなんて作るとは、思いもよらなかったけど。

 

「星見に丁度いいお供でしょう?」

「そうね。これくらいの方が、落ち着いて星を見れるわね」

 

 頷くと、ウォースパイトは「そうでしょう、そうでしょう」と、何度も首肯して笑った。リップをした形の良い唇が、またマグカップの縁へ口づける。

 それを横目で窺って、私は尋ねる。

 

「またどうして、急に星なんて、見ようと思ったのよ」

 

 確かに、今日の星空は、一見の価値のあるものだ。こうして椅子に腰かけて、温かいものを飲みながら、空の瞬きを眺め、ゆるるかに過ごすのもいい。

 ウォースパイトは、何を思って、星を眺めるのだろうか。

 月光を宿す淑女は、どこか寂しそうに、残念そうに目を伏せて、口を開く。あたかもマグカップへ語りかけるように、彼女は私を見てはくれなかった。

 

「……特にね、理由はないの。ただ、お風呂から見えたお星様が、とっても綺麗だったから。……誰かと一緒に、見たくなったの」

 

 センチメンタルが過ぎるかしらと、ウォースパイトは笑う。その横顔に、胸の辺りがずきりと痛む。

 ……一つ、思い出したことがある。寝静まったこの鎮守府で、いまだ明かりの灯る部屋が、一つ。

 私と入れ替わりで風呂を出た秘書艦は、急遽仕事が入ったとかで、随分ご立腹だった。提督と一緒に、これから執務室へ逆戻りだとも。

 二人分が用意されていた、椅子と毛布、マグカップ。彼女を感傷的にした張本人は、ここにはいない。空いた場所へ、幸か不幸か、私が座っている。

 

「……まあ、そういう時もあるわよ」

 

 全く励ましにもなっていない言葉で答える。だというのに、彼女はありがとうと、そう呟いて微笑んでいた。

 お互いに、しばらく言葉はなかった。二人で示し合わせたように、同じタイミングでホットミルクへ口づけながら、夜空を見つめていた。辺りに明かりもないからか、ミルキー・ウェイがよく見えていた。

 

「ねえ、ビスマルク」

 

 三分の一ほどになったホットミルクが、(ぬる)くなり始めた頃だ。潮騒に身を預けるウォースパイトが、私のことを呼ぶ。穏やかなその声を、随分と久しぶりに聞いたような気がした。

 

「東洋にはね、ミルキー・ウェイにまつわる、昔話があるのよ」

 

 また随分、唐突な話題だった。あるいは、もしかしたら、ウォースパイトも私と同じで、天球に星を流す大河を、見ていたのかもしれない。

 

「へえ。どんなお話なの」

「こと座のベガと、わし座のアルタイルという星があるでしょう。二つの星はね、それは仲睦まじい、夫婦の星だそうよ」

 

 どちらも、夏に見える星座と星だ。ミルキー・ウェイのすぐ側にあって、光も強いから、すぐに見つけられる。はくちょう座のデネブと合わせて、トライアングルって言ったりもするわね。

 ウォースパイトはなおも話を続ける。

 

「でも、二つの星の間には、ミルキー・ウェイがあるでしょう。東洋では、ミルキー・ウェイを、天の川と言うそうなの。それで、この川には一年に一度しか橋がかからないから、二人の夫婦は一年に一度しか会えないそうよ」

「それは……なんだか可哀そうね。でも、どうしてそんなことになってるの?」

「二人の仲が良すぎて、仕事を全くしないから、空の偉い人に怒られて、引き離されたそうよ」

「……そう」

 

 まあ、昔話の解釈というのは、自由だけれど。仕事をしなかったから引き離されたというのは、私には自業自得にしか思えない。

 でも。ウォースパイトは少し、違うみたいだ。

 

「……私だったら、きっと耐えられないわ」

 

 珍しく自嘲気味な笑い方に、ハッとした。窺った隣の彼女は、相も変わらず、星空を見上げている。天球を二つに分かつ、あの大河を、とても静かに、穏やかに、その翡翠の瞳へと写し取っていた。それが、堪らなく、美しかった。

 

「愛しい人と、一年も会えないなんて、きっと、耐えられないわ」

 

 繰り返す呟きに、言葉を失った。ウォースパイトはそれ以上を語らず、潮騒の反響する夜空を見つめている。潤んだ唇を微かに震わせ、感傷的に目元を細めて、ただ星の世界を眺めている。

 心臓がまた、ずきりと鈍く痛んだ。

 ウォースパイトは再び口を閉ざす。薄い唇はホットミルクをすするばかりで、それ以上、彼女の想いを語ることはなかった。

 寂寥と諦観。一体全体、何が彼女に、そんな表情をさせるのか。

 ……皆目見当もつかなければ、眉間にできる皺も、少しは浅くなるんだろうか。

 

「……ばかね」

 

 星空を見つめ続けることはできなくて、手にしたマグカップを指先で弄ぶ。ウォースパイトの入れてくれたホットミルクは、もう後一口で、無くなってしまうだろう。

 

「あのねえ、大体、貴女船でしょう。川が何よ、そんなの渡っちゃいなさい」

 

 そこまで言って、ああそういえば、星屑の流れる川だったと思い出した。全くもって、どこまでも詰めの甘い、私だ。

 隣から、小さな衣擦れの音がする。ぼんやりと星を眺めるだけだった月読の淑女は、虚を突かれたというように私の方を見て、両の目をぱちくりと瞬く。まあ、彼女の意表を突けたのなら、それでよしとしようか。

 

「そう……ね。そう、よね。――ビスマルクは、素敵なことを、言うのね」

 

 視界の端で星の光を浴びるウォースパイトは、ほんの少し、泣いていたかもしれない。

 

「……ごめんなさい、ビスマルク。少し、席を外してもいいかしら」

「どうぞ。私はもう少し、星を見てるわ」

 

 今、彼女と一緒に、立ち去るなんてできなかった。

 

「ありがとう、ビスマルク。貴女のおかげで、とても素敵な夜になったわ」

 

 淑女らしく、丁寧なあいさつを残して、ウォースパイトは席を立つ。手にしたバスケットには、ホットミルクの入った魔法瓶と、シナモンの詰まった小瓶。

 カラカラと丁寧に閉じられたガラス戸の向こうで、いつもよりテンポの速い足音が、次第に遠ざかっていった。

 招かれたテラスには、私だけが残される。ウォースパイトが立ち去ったからか、夜のテラスは急速に肌寒さを増していった。うるさいほどに潮騒がこだまする。

 身震いを一つ。微かに残った熱を求めるように、マグカップを口元へと運んだ。

 覗き込んだ液面は、夜空に負けないくらいの暗闇に飲み込まれて、見ることはできなかった。

 

「……私のバカ」

 

 手元に残ったマグカップへ、どうしようもなく、呟きを零す。随分と冷めてしまったホットミルクを飲み干した私は、しばらく迷って、結局、十分後にウォースパイトが戻ってくるまで、一人天の川を見上げていた。




暖かい飲み物がまだまだ恋しい季節です。


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ビールと淑女と秋祭り

お久しぶりです。相変わらず片想いのウォービスです。


 喧騒というものを、私はあまり好まない。

 親しい者たちと、楽しく騒ぐのはいい。お酒の席も大いに結構。けれど……どうもこういう、祭りというのは苦手だ。人がごった返している、とでも言えばいいのだろう。行き交う人々は小さな集団で、ただそこですれ違うばかり。会話もばらばら。しかもそこへ、並んだ店からの、威勢のいい声まで混じる。カオスと言うには十分すぎていて、そこへ混じるたびに、頭がくらくらした。

 ただ、まあ――そんな喧騒を、少し離れたところから眺めて飲むビールには、また格別なものがあるのも事実だった。ドイツ艦隊旗艦の私が言うのだから、間違いはない。

 鎮守府近く――とは言っても、市営のバスか路面電車で十分という距離にある神社では、毎年恒例の秋祭りが開催されていた。二日間の日程の内の、二日目。花火も打ち上がる今日は、特に人が多い。それと、行き交う人々の中には、圧倒的にカップルの数が多い。花火を一番の目当てに、恋人たちは喧騒を歩いていた。

 ビールを煽る。これで五杯目だ。そもそも、一杯が少ない。全く酔いは回っておらず、かといってここから動く気もなく、買ったヴルストをかじりながら、私はただぼんやりと喧騒を眺めていた。

 ……花火が始まれば、もう少し、人も少なくなるかしら。そんな、考えるだけ無駄なことを、考えていた。

 

「……彼女、何してるかしら」

 

 無駄なことと言えば、これも無駄な思考だ。考えたって仕方がない。

 彼女は――ウォースパイトは、今日、この秋祭り会場にいるはずだ。……提督と、デートをするために。

 

――「提督とね、秋祭りにお出掛けする約束をしたの」

 

 そんなことを彼女が教えてくれたのは、最早恒例になりつつある、深夜の報告書作成の時間だった。とはいっても、彼女はもう、随分と日本語にも手書きにも慣れていて、以前のように日付が変わるまで付き合うことはなくなった。私の作ったグリューワインが無くなるよりも、彼女が報告書を書き終える方がずっと早い。二人きりの時間は明らかに減っていて、でも報告書が終われば彼女はワインが無くなるまでおしゃべりに付き合ってくれる。寂しいような、嬉しいような、複雑な気分になる時間だった。

 グリューワインを両手で包みながら、彼女は嬉しそうに今日の予定を語っていた。今頃は、張り切って選んでいた浴衣を着て、提督と喧騒の中を歩いているんだろう。

 五杯目のビールが、やや重いのどごしを残して、空になった。爽快感を吐き出すには程遠く、酒気を帯びた溜め息だけが、軽く漏れる。

 六杯目のビールを買ってこようか。そんなことを考えながら手元を見ると、丁度、ヴルストもなくなったところだった。陽もまだ暮れていないのに、自分で思っていたよりも、お酒が進んでいたみたいだ。

 空になったプラコップと、すぐ目の前のビールの屋台。二つを交互に見遣って、悩む。別段、待ち合わせなんかがあるわけでは、ない。花火が近くなればオイゲンたちも戻ってくるだろうけど、それにしたって時間がありすぎる。雑踏に混じる気分でもなく、やはりやることと言えば、暮れていく会場を眺めてビールを嗜むくらいしかなかった。

 意を決して立ち上がる。簡易椅子が雑な音を立てた。ヴルストの乗っていたトレーを畳み、潰したプラコップとともにゴミ箱へ放った。ビールの屋台を振り返る。

 ふわりと、まだ顔を出さない月の気配が、漂った。

 雑然とした祭りの中に、彼女は立っている。ビロードのように美しい金の髪は、今日は編み込みがされて頭の高い位置にまとまっていた。浴衣との隙間に覗く、白いうなじ。すらっとした鼻筋と、形よく盛り上がる唇が、横顔だとよくわかった。嵌め込まれた翠の瞳は灯り始めた提灯の光を宿して揺れる。悩ましげな細い眉に、胸の辺りが締め付けられた。

 視線をあちこちへと移す彼女。覚束ない様子の手には、先日支給されたばかりのスマートフォン。困っているのは明白だった。

 反射的に足が動いた。雑踏を気にすることなく、私は彼女へ歩み寄る。

 

「ウォースパイト」

 

 奏でた彼女の名前は、自分でもわかるくらいに、喜色が滲んでいた。

 浴衣姿のウォースパイトが、私の方を振り返る。困り顔は、私を視界に捉えるとパッと花を開いて、安堵とも喜びとも取れる息とともに微笑む。月の女神もかくやという笑顔が、私の心を鷲掴んだ。

 

「ああ、ビスマルク……!よかった、貴女に会えて」

 

 彼女の細い手が、私の手を握る。そんな笑顔で、そんな風に触れられたら、思わずドキリとしてしまう。彼女という花に、恋をしてしまう。

 

「なに、してるの。こんなところで」

 

 雑踏から抜け出しつつ、尋ねる。彼女は気恥ずかしげに頬を掻いて、答えた。

 

「提督と、待ち合わせをしていたの。でも、予定より早く着いてしまって、それで少し見て回ろうと思ったのだけれど……」

「見事に迷ったと」

 

 これだけの雑踏だ。それも致し方ない。道を見失わなくたって、押し寄せる人の波に流されてしまう。普段は海を越える私たちも、相手が人では無力だ。

 

「でも、貴女が見つけてくれたわ、ビスマルク」

 

 改まって感謝の言葉を述べるウォースパイト。エメラルドの瞳に見つめられるのは、どうにも弱い。何だか無性に照れ臭く、私は頬を掻いた。

 人混みから何とか抜け出し、沿道の芝生で改めて彼女と向き合った。その美しさに、思わず息が漏れる。

 艶やかな赤の浴衣には、大きな薔薇の柄。その鮮やかさを引き締める黒い帯にも、大輪の花が咲く。揺れる袖、はためく裾。月の光を写し取った金砂の髪が、それらの輝きをなお一層高めていた。

 まるで、御伽話のお姫様みたいだ。浴衣っていう格好からすると、日本の昔話の――そう、かぐや姫のように。その姿はあまりにも現実離れしていて、目がくらみそうになる。

 

「綺麗……」

 

 何かを考える前に、言葉が口から出ていた。本音が零れてから、慌てて口を噤んでももう遅い。気づかないうちに、酔いでも回っていたんだろうか。そんな風に思うほど、頬が熱くなっていた。

 彼女が、驚いて目を見開いている。翡翠の瞳は真ん丸で、日中の残光を全てかき集め、キラキラと輝いた。陶器のように艶やかな頬を林檎色にして、彼女は俯き、細い指で髪を弄る。

 

「そう、かしら」

「……え、ええ。似合ってるじゃない。とても綺麗よ」

 

 柄にもないことを言っている自覚は、ある。普段なら絶対に口にしないセリフを、しかしもうすでに囁いてしまったあとではごまかすこともできず、私は彼女に告げていた。頬は燃えるように熱くて、きっと彼女の浴衣と同じくらい赤くなっているはずだ。

 ブロンドヘアの淑女に、向ける顔がない。これまで感じたことのない熱に、私の方が戸惑ってしまう。

 

「ありがとう。――提督も、喜んでくれるかしら」

 

 言葉が、ざくりと、心の深くに突き刺さった。頬の熱が引いていく。彼女から逸らした目元が、我ながら醜く歪んでいるのがわかった。舞い上がっていた分、その落差は大きくて、心臓を握りつぶされるような心地がする。彼女が俯いていて、本当に良かった。

 酔いが醒めていく。それに伴って、祭りの喧騒が、私の耳をうるさく叩いた。

 微かに下駄を鳴らして身をよじる彼女に、私は尋ねる。

 

「それで、提督とは、どこで待ち合わせているの」

「神社の鳥居のところよ。もうそろそろ、来ていると思うの」

「……じゃあ、ほら。早く行くわよ。案内するから」

 

 歩き出した私の後ろを、彼女はついてきた。下駄に慣れていないんだろう。どこか不器用で覚束ない足取りは普段より遅い。ヒールがない分、私よりやや背の低い彼女が、より小さく見えた。振り返るたび、上目遣いの瞳が、私を追いかけてくる。

 

「ねえ、ビスマルク。待って」

 

 ヴィオラのような美しい響きで、彼女は私を呼ぶ。人の少ないところを選んでいるつもりだけれど、それでも大きなうねりが至る所に生じている。人の波は、彼女の背より高い。艦娘ではなく、ただの女性でしかない今の彼女には、それは恐怖だろう。

 伸びてきた手が、私の服の裾を掴む。一度、雑踏の空気を吸い込んで心を落ち着かせ、私はややペースを落として、歩き続けた。

 そんな私に、彼女はおもむろに口を開く。

 

「……ビールの屋台がね、見えたの」

「……なあに、藪から棒に」

「人の波に飲まれた時にね。もう、どうしたらいいか、わからなくて……。でも、ビールの屋台を見つけた時に、その……」

 

 服の裾を掴む指に、きゅっと力が入る。ほんの少し引っ張られる感覚がして、私は立ち止まり、彼女を振り返った。薔薇色に微笑む淑女が、そこにはいる。

 

「もしかしたら、貴女がいるんじゃないかって、思ったの。――そして本当に、貴女はいて、私を見つけてくれたわ」

 

 嬉しかった。小さな囁きは祭りの喧騒に紛れていて、それだというのに、妙にはっきりと聞こえた。耳朶を打つ彼女の声は、妖精の歌のようで。頭に響く声は、甘く脳を蕩かす。

 どうして、と余計なことを尋ねそうになった。どうして、そこで私を求めたの、と。私を頼ったの、と。

 ……余計な思考、だ。今頼られているのは私で、それ以外の事実は必要なかった。

 

「ちょっと。まるで私が、ビールばっかり飲んでるみたいじゃない」

「でも、ビール好きでしょう、ビスマルク。いつもおいしそうに飲んでいるわ」

「……それも、そうね。――どこにいたって、見つけるわよ。貴女が探してほしいなら」

 

 そんな、ちょっと格好つけたことを、目を逸らした格好のつかない態度で、口にしてみる。視界の端で、彼女はくすりと、いつものような控えめな笑い方を見せていた。

 また、人の海へと、歩み出す。けれどその前に、服の裾を摘まむ彼女の手を、自分の手で握り締めた。細く滑らかな手は驚いた様子でピクリと震え、しかしすぐに布地を手放し、私の手に委ねた。私の手は、ギリギリ彼女の手を覆うだけの、大きさがある。

 まあ、服の裾に皺ができても、困る。それから、彼女とはぐれるのは、もっと困る。

 

「掴まってなさい。はぐれたら困るでしょ」

「……ええ」

 

 淑女の手を引き、歩き出す。雑踏の中をゆっくりと。言葉はない。会話をするには周りの音が大きくて、きっといつもの夜みたいにはいかない。それはとても、もったいないことのように思える。だから、今は繋いだ手だけを、大切にしていたい。

 しかし、困ったことに力加減がわからない。誰かと手を繋ぐなんて初めてだ。本当に、あどけないお姫様のように、ただ添えるだけで私の手に預けている手を、どう取っていいのか。しっかりと握り締めてしまえば、簡単に崩してしまいそうで。けれど託された信頼は、力を緩めればどこかへすり抜けてしまいそうで。なんとも微妙な力加減で、彼女を引いていく。

 ただ、手を繋いだからか、彼女の歩調に合わせるのは、ずっと簡単になった。

 石畳を打つ、ヒールと下駄の音。ぴったり揃ったリズムが、むず痒い。

 目印の鳥居は、すぐに見えてきた。私たちは、賑やかな屋台を一つも冷やかすことなく、人混みを掻き分け続ける。そういう楽しいことは、これから彼女と逢引きする、提督の役目だろう。

 

「……あ」

 

 鳥居まであと十メートルというところで、彼女の声がした。とても大切なものを見つけたような短く漏れた吐息は、例えでも何でもなく薔薇の色で。彼女が誰を見つけたのかは、私でもすぐにわかった。

 鳥居のところに立つのは、私が所属する鎮守府の提督。けれど、私の見慣れた日本海軍の軍装ではなく、濃紺の浴衣を着ている。

 私の役目はここまでだ。彼女の手を離す。

 

「それじゃあね。デート、楽しんで」

 

 小さく手を振って彼女を送り出し、踵を返した。しかしすぐに、袖を引っ張られて引き留められる。彼女の瞳に、射竦められた。

 

「ありがとう、ビスマルク。なんてお礼を言ったらいいかしら。必ず、このお礼はするわ」

 

 ……いいのよ、別に。そんな返事をしようとした。いつも通りの返事だ。本当に、大したことはしていない。お礼を言われるような筋合いはない。

 けれど、袖を引っ張る彼女は、それを許していない。

 どうしたものだろうと、考え込む時間はないわね。彼女は提督と待ち合わせをしていて、すぐに行かなければならない。私がその予定を狂わせるわけにはいかなかった。

 考えがまとまる前に口が動いたのは、やっぱり思った以上に酔いが回っていたからなんだろう。

 

「……それなら、デートして頂戴」

「……え?」

「……いいでしょう。女友達と一日過ごすってのも、たまには」

 

 ぱちくりと瞬きをするウォースパイト。しかし、彼女はすぐに頬を緩めて、頷いた。

 提督の方へと、小走りで駆け寄る彼女。覚束ない下駄の音がなんだか危なっかしくて、結局最後まで見送ってしまった。笑顔で提督に話しかける彼女と、それに微笑んで答える提督の姿が、雑踏越しに垣間見える。

 またやることのなくなった私は、気づくとビールの屋台の前に戻っていた。若い店員の、威勢のいい声が響いている。その隣からは、ヴルストの焼ける香ばしい匂い。

 六杯目のビールと、トレーいっぱいのヴルスト。二つを手にして、空いてる席に腰掛けた。

 秋の夜はまだ蒸す。日本の湿気がまとわりつく。綺麗に泡立ったビールが私を誘っていた。きめ細やかな白と、その下の琥珀色に引き寄せられるまま、カップに口をつけ、傾ける。喉を駆ける爽快感が、今はとても心地よかった。




ほろ苦い、片想い。


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