燐光<シーズン2> (舞茸亭金瑠璃)
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4章
1幕


雪の舞い始めた空は白の濃淡に彩られていた。雲の切れ間から差し込む光を浴びて、同じ色の陰影を浮かび上がらせた真冬の森は明るく、時に眩しささえ感じさせる。寒さには慣れているつもりだが、今年は特に寒い。今朝も金剛雪(ダイヤモンドダスト)が見えたぐらいだ。

木々の切れ間にチラつく茶色の影が一つ。白の世界に佇むそれは異物のように思えたが、彼は元はこの山の住人であり、異物であるのは自分達の方である。その異物の気配を未だ感じ取ってはいないのか、それは木の皮を引き剥がしては食んでいた。

ごめんなさいね、これも生きる為なのよ。

胸の中でそう呟いて、セラフィーヌは馬上から、弓を持った左腕を構え、見えざる弦を引き絞り、雷撃の矢を放った。電気石の角、電気石製の義腕、そして弓が触媒となり、魔導書がなくともほぼ同じことが出来た。やや下降気味の直線を描き着弾した雷撃矢が、土と小石の混じった雪の塊を撒き散らす前に、鹿は走り出していた。

これが本命ではない。走り出した鹿の跡を追って馬を駆った。冷たい風が結い上げた髪を靡かせている。暫く鹿の背を追って森の中を走っていたが、やがて視界が大きく開けた。ここ数日前の雪崩で、一帯が薙ぎ払われて雪原になってしまった所だ。

「――ローズ!」

照り返しに思わず目を細めながら、セラフィーヌは空に向かって名前を呼んだ。返事はなく、代わりに一条の流星のような軌道を描いた矢が飛来し、雄鹿の眉間を射抜いた。雄鹿は一度痙攣すると、膝を折ってその身体を雪の中に埋もれさせた。

上空から翼を広げ滑空しながら、グリフォンが高度を落としてこちらに近付いてくる。その背に跨る、口元に黒子のある青年に、セラフィーヌは手を振ると「流石ね」と声をかけた。

「私一人じゃきっと上手くいかなかった、貴方を連れて来て良かったわ。ありがとう、アンブローズ」

こちらの視線の高さで滑空し、やがて地に鷲の前脚と獅子の後脚をつけて並走したグリフォンの上で「いえ……」と青年――アンブローズが応える。やがて二人は歩みを止めて、今し方仕留めたばかりの獲物と向き合った。

「後は私がやるから。貴方は戻ってアザゼル様と……」

「訓練ももう終わった頃合いでしょう。手伝います、奥方様」

愛鳥から飛び降りた彼はそう言った。騎乗中は務めて感情を抑えるようにしているという彼は、それが抜けきっていないのか、親しい者が愛称で呼ぶ由縁の薔薇色の瞳に、まだ無機質な光を宿らせている。こちらも続いて下馬し、小走りで駆け寄りながらセラフィーヌは言った。

「助かるわ。じゃあ早くやっちゃいましょう。内臓はリップヴァーンにあげていいかしら?」

「構いません。きっと喜ぶでしょう」

名前を呼ばれたことに気付いたのか、彼の愛鳥のリップヴァーンが頭を押し付けてきた。その柔らかな羽毛に覆われた頭を、腕で抱え込んで撫でながら横目でアンブローズを伺うと、相棒が嬉しいと自分も嬉しくなるのか、彼は先程よりも和らいだ顔をしていた。

「なあに、貴方もやってほしいの?」

と、腕を引き寄せて屈ませると、瞳の色をよく引き立てる深緑色の髪を撫でた。どんな顔をしたらいいか分からない、とでも言いたげに視線が彷徨う。元よりグリフォンの上でなくとも感情の起伏が少なく、冷たい印象を抱きがちだが、彼はただ感情の出力が少し苦手なだけだ。それをセラフィーヌは昔から知っていた。

 

「……ねえ、ローズ。貴方には大変な役割を背負わせることになるわ。私、何て言って送り出したらいいか……」

 

故に、思うところが幾つかある。表情でも言葉でもあまり語ってはくれぬこの青年が、内心でどう思っているか。頭を撫でた手を頸に滑らせて、白いリボンで結ばれた髪を指先で梳く。首を冷やさぬようにと、この辺りに住む者は男でも後ろ髪を伸ばしている者が多い。彼の後ろ髪がまだ短かかった頃からの、決して細くはない縁の中でも、未だに測りきれないものがあった。

「俺が待っているのは、いつもの貴女の言葉です。他に何が必要でしょう?」

彼は膝を折るとこちらを見上げた。「……大きくなったわね、貴方。本当に……」と独り言のように呟いて、セラフィーヌは彼が待っているであろう言葉を口にした。騎士とはそういう生き物だ。それを自分はよく分かっている。それが少し、悲しい時がある。諦めにも似た感情。

 

「アザゼル様を頼んだわ」

 

冬が明けるのはまだ先だ。

 

 

 

 

 

白の濃淡に彩られた四方の山。さながら天然の城壁に囲まれた監獄のようであった。事実、ここは流刑地だ。先帝オルヒの治世では、政治犯や思想犯、あるいは反乱などという言葉もすっかり耳馴染みのないものになっていたが、彼が死去した後に吹き荒れた粛清の嵐が、再びこの地に呪いを刻むことになった。邪魔者を排除した議会の連中が、国の復興よりも侵攻と略奪を選ぶまでそう時間がかからなかった。クーデターを企てたとして裁かれた者達の中で、果たして本当に事を起こそうとしていた者はどれくらいいただろう?

雪と氷と岩肌に覆われた牢獄は、再び数多の呪詛と無念を内包し、それに応えるかのように今年もまた極寒の季節がやってきた。

父はそれらを恐れていた。元々神経質の気があった故か、負の感情と氷雪が渦巻く坩堝の中で淀みに呑まれた故か。年々卑屈さと狡猾さばかりが増していった父は、最期には実の息子にさえ猜疑の眼差しを向けて逝った。民の手本であれと振舞っていた高潔な父の姿は、もう永遠に戻って来ないと、とうの昔に分かっていた筈なのに落胆している自分が虚しかった。

私は――どうだろうか。その淀みの中に呑まれずにいるだろうか。もう若くはない歳だが、自らを客観的に観測する術はなく。たが、これより成し遂げようとしていることを考えれば、我が身の清濁はそのうち歴史家が判断してくれるのだろうな、と――どこか他人事のように思いながら、アザゼルは厳しくもなおそれでも美しいと思っている、金剛を散りばめたような雪が煌めく山間の風景から、駆け寄ってきた女に目を向けた。

暫し、自分の世界に浸ってしまっていたようだ。周りの音が今更のように戻ってくる。兵糧部隊と城の女衆が設営した天幕に、訓練を終えたばかりの兵士達が寒い寒いと言いながら並んでいる。人の声と天馬の嘶き、騎竜の吼える声の入り混じる空間は雑然としていた。元より山岳地帯の多いルベウスだが、エレイソンは特に険しい山々に囲まれ、冬は豪雪で陸路が閉ざされることも多い。兵達は、その多くが天馬騎士や竜騎士だ。地に足を付けて戦う者の方が少ない。それらの入り混じった喧騒を、不愉快だとは思わなかった。鼻腔をくすぐる、香辛料の効いたいい香りがした。

「やあダリア。私が留守の間に何か変わったことは?」

女――ダリアは短い返事を返すと、巻かれた羊皮紙を手渡した。雲間から仄かに差し込む陽光に、黒みを帯びた深い紫色の髪が照っていた。羊皮紙を広げて目を通しながら、彼女の凛とした声に耳を傾ける。

「西の村で熊の被害が出たと今朝方、アザゼル将軍と入れ違いに報告が。中軽傷者が五名出ています」

「そうか……。人の味を覚える前に討伐隊を送ろう。それと、負傷者が出た家に獣害補助金の手配を」

「人選はどうなされますか」

「そうだな、ヒースクリフとエリカと……」

今年の冬に入ってから、獣害は被害の大小合わせて十件をゆうに越えている。例年より早く、厳しい冬は山の住人達にも牙を剥いているようだ。他に誰が適任かと兵達の顔を思い浮かべていると、突如背後から鈍い衝撃を受けて思考が中断した。

「アザゼル様、お帰りなさい!」

「セラフ、今大事な話をしているんだ。まったく……」

腰から愛妻を引き剥がしてアザゼルは言うと、改めて腕の中に彼女を納めた。二つに結い上げた淡い金髪と、南国の果実のように鮮やかな色の角、薄荷色の瞳。歳上の幼妻とよくからかわれるセラフィーヌは、出会った時から変わらぬ少女の面差しでこちらを見上げると、「冷たいわ、とても冷えてらっしゃる」と、アザゼルの胸の高さ辺りまでしかない小さな身体で背伸びして、手袋に覆われた左手で頬を撫でた。妻の魅力はいくら挙げてもキリがないが、少女の相貌に大人の女性の佇まいは、特に愛おしいものの一つだ。冷え切った身体に、一つの明かりが灯ったような温もりを感じる。

「君だってそうじゃないか。いきなりローズを連れ出して何をしていたんだ? 弓部隊が困っていたぞ」

「弓部隊にはローズを借りたことを後で謝っておくわ。鹿狩りをしてたの。大物が獲れたわ、アザゼル様も召し上がってくださいな」

「肉なら貯蔵庫に沢山あっただろう? 春まで余裕があったと思っていたが」

「食糧の備蓄はいくらあったって足りないと思うべきだわ、出来るだけ手を付けたくなかったの」

ダリアの咳払いが聞こえた。「あら、ごめんなさい。報告の途中だったわね、続けて?」とセラフィーヌがアザゼルの腕の中で言う。

「えー……、討伐隊の人員ですが」

「さっき名前を挙げた二人と、他に四名ほど。弓部隊を中心にだ。人選は任せる」

「了解しました」

ダリアにも食事を貰っておいで、と促せば彼女はぎこちない歩みで列へと向かっていった。兎の毛皮に縁取られた外套の背が、兵士達の中に紛れていく。妻と二人きりになったアザゼルは、妻の冷えた額に口づけを一つ落として、「ローズと内緒話をしていたんだろう?」と囁いた。口を尖らせて彼女は呟いた。

「内緒話じゃないわ。妬いてるんです?」

「妬いてなんかないさ」

「アザゼル様を頼むって、ただそれだけよ」

心細さの現れか、彼女は華奢な身体を少し竦ませていた。それをなだめるように、より強く抱き締める。

「命を賭ける覚悟はいつだって出来ている。けれども今死んでしまえば、後悔することは沢山あるからね。領土のことや――君のこと。大丈夫、必ず戻るよ。心配はいらない、ただの『軍事演習』さ」

「……ええ、そうね。貴方が約束を違えたことはないもの。待ってるわ、私」

セラフィーヌはアザゼルの腕から離れると、いつものように花が咲いたような微笑みを向けた。自分が最も恐れているのは、今この手にあるものを失うことだ。大切な妻、少しずつ信頼を積み重ねていった領民達。時代の流れや、その中で生まれた無慈悲な奔流に呑まれ、呪詛と無念の最中に投げ込まれながら、それでもなお、その中で淀み、濁りたくないと足掻いて、自らの手を取ってくれた者達。守り切れるだろうか――という、領主であり一軍の将であるという立場上、決して表に出すことは許されない小さな弱音は、押し込めて無かったことにした。

「私達も食事に行こうか」

「ええ。今日のもとても美味しいわ、きっと気に入ってくださる」

二人は自然と手を繋ぎ合いながら、天幕へと向かっていった。

 

 

 

 

 

兵糧部隊の天幕から鹿肉のスープを貰って戻ると、リップヴァーンは数名に取り囲まれていた。暖を取られている。中には毛並みに顔を埋めて深呼吸している者の姿もある。グリフォンの毛並みは暖かく、毛皮の採集の為に乱獲された歴史がそれを如実に物語る。個体数の著しい減少から、捕獲が禁止されたのは自分が十歳の時だったと記憶している。そう――あの時はまだ父がいて、父はリップヴァーンの親に当たる個体と共にいた。現在も個体数の増加は観測できず、エレイソン兵の中でグリフォンに騎乗するのはアンブローズただ一人だ。

「堪能している所悪いが、そこは俺の席だ。場所を開けてくれないか」

「ケチ」だの「独り占めはズルいと思います」だの、ささやかな不満の声が上がる。何とでも言え。そう返しながら、まだ離れない一人に一瞥をくれる。

「スゥーーーッ……」

「リップ」

名前を呼べば、リップヴァーンは自らの毛並みを堪能している最後の一人の頭を嘴で軽く小突いた。柔らかな羽毛から顔を上げたのは、褐色を帯びた肌に、黄玉の角と橙色の髪がよく目を引くネメシアだ。

「あとひと吸い……」

「お前は蚊か何かか?」

口を尖らせてぶつぶつ言いながらネメシアは離れた。

「後でこっそり吸いにいくし。またねリップちゃん」

「……リップは雄だ」

懲りない様子の彼女に兵達が笑う。星を見上げるあまりに焼かれた、という言い伝えが残る彼女の肌の色は、今はもう内乱で散り散りとなった民族の特徴らしい。エレイソンの領民は様々な事情を抱えた者が多いが、彼女もまた訳有りの一人だ。決して軽くはないものをその身に抱えている筈だ。それなのに彼女は翳ることがない。そういった境地に至るまでどれだけの葛藤があったのかは計り知れないが――そんな器用な生き方が出来る彼女を、少し羨ましいと思っている。

適当な木箱を引っ張ってきて座り、リップヴァーンの身体に背を預けて腰を落ち着けた頃。皆と同じようにスープを手に、城で留守を任されていたダリアがやってきた。たまたま目が合った彼女は、少し視線を彷徨わせ微笑む。ダリアを狙っていると専らの噂の者が、そそくさと椅子がわりの木箱を持って来ると、彼女は礼を言ってそれに両脚を斜めに揃えて上品に腰掛けた。

「美味しいわね、スープ」

ダリアはアンブローズに向けて言った。ダリアの背後で、ネメシアは他の者たちを連れてさり気なく離れるところだった。ダリア狙いの例の彼は些か不満そうであったが。気を使ってくれたようだ。

「ネメシアったら」

それにダリアも勘付いたらしい。今度は困ったような笑みを向けられれば、不意に視線のやり場に困って、アンブローズは手の中の陶製の器に目を落とした。スープは残り三分の一ほど。鹿肉と骨で出汁を取り、野菜が蕩けるまで煮込まれたスープは、香辛料が効いていて冷えた身体が温まる。リップヴァーンは捌いた内臓を食べて満腹なのか、少し視線をよこしただけで大人しく寛いでいるようだった。

義姉(ねえ)さん」

俯いたままそう呟けば小さく息を呑む音がして、つられて顔を上げる。

「……そう呼んで欲しかったのかと思って」

やはり目のやり場のないまま、誤魔化しに向けた目が、天幕に足を運ぶ領主夫妻の姿を捉えた。茶と金もつかぬ色の髪を伸ばして、三つ編みにした姿がよく目を引く。伏し目がちの、線を一本引いたように細い瞳は穏やかだった。一番先に貰っても良い立場でありそうなものだが、彼等は頑にそうしない。

「別にそんな訳じゃ……いえ、そうかもしれないわね。帝都へ着いたら忙しくなるし、話す機会もなさそうだから……」

普段は凛とした彼女の声は、徐々に小さく、か細く、自分に言い聞かせるような声色へと変わっていく。残りのスープを一息に飲み干したアンブローズは、器を木箱の隅に置いて、血の繋がらない姉の次の言葉を待った。

「縁起でもないこと考えたくないけれども。もし、もう二度と、その言葉を聞けないのだったら後悔するわ」

「やり遂げる、必ず。全員の生還を以て成功と見なす、とアザゼル将軍も仰った」

「……そうね」

彼女の吐息が白く立ち昇る。雪が少しずつ強くなってきた。今日もまた冷える夜になりそうだ。

「帝都には妹さんがいるのでしょう」

父の、議会へのクーデター関与の疑いからの投獄、そして獄死騒ぎの中で、まともに別れの言葉も交わせぬまま別離した妹の顔を思い浮かべようとした。“反逆者”の息子と娘をどう扱うか、上では相当揉めたらしい。妹は帝都での養子縁組が決まったと告げられ、お前はエレイソンへ出向せよと言い渡された。そして「お前にも関与の疑いがあるが温情をかけてやったのだ」とも。

あれからもう、十年にもなる。

幸せだった記憶は確かにあった筈だ。それなのに、最後にこちらを振り返った妹の瞳の赤さと、苦い感情ばかりを思い出す。

「十九になる筈だ、息災でいればな」

「私も会ってみたいわ。貴方の妹に」

「会えるだろうか」

 

ダリアもいつの間にかスープを飲み干していた。翳りの晴れた蜂蜜色の瞳は自分をまっすぐに映している。事情は聞いた、でも私は貴方を特別視することなんてないから。貴方は血は繋がらないけど弟、ただそれだけよ。出会って間もない頃、そう言った時のままで。

 

「――きっと会える」

 

希望。

酷く不安定で不確実な言葉だが、縋らずにはいれないもの。

それを彼女の瞳の中に見出して、アンブローズは立ち上がった。ダリアもその後に続いた。

 

 

 



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