北上さんはからかいたい。 (gonzares)
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一話 北上さんはねばねばがお好き
大村湾での演習を終え帰途についた北上たちの前には、夕焼けが照り返すせいでいつにも増して朱い、赤瓦の街並みがあった。
見慣れた光景とはいえ、日本離れした美しい景観に思わず息を飲む。
ハーバータウンの埠頭には何人もの観光客が軒を連ねていた。
北上たちに気付いた者が声を上げると彼らはざわめき、少しでもいいポジションを取ろうと動き回った。
何人かが手を振っていたので手を振り返してやると、一段と大きな歓声が上がった。
彼らは艦娘が来るのを今か今かと待ちわびていたのだ。
北上たちは埠頭の五〇メートル付近まで近づいてからゆっくり回頭した。微速で手を振りながら航行する。
北上たちが航行する速さに合わせて全力で走っている若者がいたため白露が「危ないので走らないでくださいね―」と注意すると笑いが起こった。
もう一往復して観客を十分に満足させると、佐世保鎮守府を目指して舵を切った。
「ふう、今日も仕事したぜ」
「手振っただけじゃないですかぁ」
北上が呟くと、無線から白露型駆逐艦一番艦白露の返事が聞こえた。北上は二〇メートルほど後ろを航行する白露の方に振り返り、左腕に括り付けた魚雷発射管を振ってみせた。
「手を振るのだって疲れるんだよ。見てみ、この重装備。ほんと重いわ―」
左後方では、艦娘に手を振ってもらったと勘違いした観光客が喜んでいた。
「全然重そうに見えませんけど。まあ営業が面倒だっていうのはわかりますけどね」
白露が言った。
「ほんと面倒です。なんでこんなことしなきゃいけないんですかね?」
白露に同調して初春型駆逐艦六番艦夕暮が愚痴をこぼした。効率主義の節がある夕暮にとって、演習帰りにわざわざ観光客のご機嫌取りに伺うのは我慢ならないことらしい。
「必要らしいよ? よくわかんないけど」
「みんなにとって、僕らの存在が心の支えになっているんだよ。以前に比べたら大分マシになったけど、生活は不安定なままだ。唯一頼れる存在が艦娘なわけだけど、普段僕らが何をやってるかってみんなからしたらわからないだろう? だからこうして時折顔を見せて、元気を与えるのさ」
北上の代わりに答えたのは時雨だ。白露と同じ白露型で、その二番艦である。五人の中で最もキャリアが長く、豊富な知識と経験を持っている。
「なるほどぉ。さすが時雨は物知りだね」
「北上はもうちょっと勉強したほうがいいんじゃないかな。軽巡ってそれなりに責任のある役職だし」
「あたしゃ雷巡さ」
「軽巡の一種じゃないか」
「違うんだよ~。雷巡てのはさあ、もっとこう、インパクトのある生き物なんだよ。それでいて繊細、みたいな。軽巡は器用でなんでも卒なくこなすってイメージだけど、雷巡はそうじゃないんだよ。大胆かつ繊細! そう、それだよ。大胆かつ繊細なんだ。わかる? だって、どんだけ魚雷積んでんだ! って話だよ。しかもさ……」
「はあ、また始まったよ北上さんの雷巡語り」
「変なスイッチ入れないでよね、時雨」
「僕が悪いの?」
一行はハウステンボスを南下して、西海橋から佐世保湾へ向かった。
大小様々な島とたくさんの入り江によって作られた長崎の海は、迷路のように入り組んでいた。今でこそ間違えることはないものの、着任したばかりの頃はよく袋小路に迷い込んだものだ。
暗がりの中では陸地と海との境界がわかりづらく、なおさら迷いやすくなっている。行きは木の根元までくっきり見えたのだが、黄昏時になるととても視界が悪い。
喫水下の体積が小さい艦娘が座礁することはまずないが、それでも危険なことに変わりない。できり限り陸地から離れたところを通るのがセオリーだ。
彼女たちはそんなセオリーなどお構いなしだった。
特に北上は島の景観を間近で見るのが好きだった。そのためにギリギリまで陸地に近づく。
「あ、狐」
「どこですか?」
「うっそ~」
「なんですか、もう」
特に意味がない北上の嘘に白露が呆れて返事した。
陸と海の際を走りながら、あることないこと喋るのが北上の楽しみだった。
北上は生まれも育ちも佐世保だが、艦娘になるまではこんな風に海からじっくりと陸地を眺める経験は殆どなかった。自分の育った土地を違う角度から見てみると、毎日のように新しい発見がある。
潮の満ち引きで変わる島の地肌を間近で見た人は一体どれくらいいるのだろうか?
「もっと速くしません?」
弁天島を過ぎた辺りで初春型駆逐艦五番艦の有明が提言した。
「そろそろ漁が始まる時間ですよ。急がなきゃ漁船にぶつかっちゃう」
もっともらしい理由をつけているが、有明がそう言ったのは早く帰りたいから、という単純な理由だ。
原則として地元漁師が出港・帰港する時間帯と、艦娘の演習時間帯は重ならないように設定されている。もし艦娘がいつもと違う時間に鎮守府を出るなら、必ず地元漁師に連絡が届き、その間船を動かさないように指示が出る。だから漁船にぶつかるということはまずない。
もっとも、仮にぶつかったとして壊れるのは漁船の方だが。
今の速力は第一戦速、約一八ノットだ。
鎮守府の規定では演習中と出撃中以外は原速(約一二ノット)で移動するものとされている。
すでに規定の一.五倍で航行しているのを、更に加速しようというのだ。
「あんま速力上げすぎると『燃料節約しろ』ってうるさく言われるんだよなあ」
「もう規定破ってるじゃないですか。今更一二ノットくらい上げても一緒ですよ」
「第五戦速かよ、やんちゃだねえ」
そう言いながら北上は隊列の最前に出た。それまで陣形を崩して島を眺めていた旗艦がわざわざ先頭に立つということは、何かしら号令を出すということだ。
「全艦、第五戦速」
「第五戦速了解!」
北上の号令に合わせて二七駆逐隊の面々が元気よく返事した。
元機の唸り声が高まるにつれてどんどん風が強くなっていった。台風よりも強い風が髪を激しく巻き上げた。島と島の間に艦娘たちが残した航跡が揺らめいている。
佐世保鎮守府まで、あと二〇分。
少しずつ速度を落として桟橋に近づき「よっ」と飛び乗った。
北上に続いて白露、時雨、夕暮、有明も着地した。
四人が整列すると、その前に立った北上が口を開いた。
「みんなおつかれさん。艤装の調子はどう?」
「ぜんっぜん、バッチリです!」
「問題ないよ」
「大丈夫です。というか全然ばっちりって何?」
「おっけーでーす」
本日は航行訓練を行っただけであるから艤装に問題が出ることなどまずないのだが、演習終了時に艤装の状態を確認することは艦娘の義務となっている。
未知のテクノロジーの塊である艤装は、一般の整備員では手の施しようがない。艦娘が異変を察知し、妖精さんたちに修理してもらうほかない。
「じゃいこっか。今日のご飯なんだっけ」
北上が聞いた。
「確かとろろごはんです」
「またか」
「なんか多いですよね、とろろ」
「確かに。とろろは自給率高いのかな」
「そう言うと、とろろが山から生えてるみたい」
「違うの?」
「えっ……」
「北上さん……」
駆逐艦娘たちに悲哀の目を向けられるも、北上は気にする素振りを見せなかった。
「私はパンが恋しいよ。何ヶ月食べてないんだろうな。日本人にはパンが必要なんだよ」
「日本人ならお米じゃないんですか?」
「米はもう飽きたよ。毎日三食出てくるじゃん」
「もう、そんなこと言ったら昔の人に怒られますよ」
「昔の人には会わないからいいもーん」
「子供ですか」
「子供だもーん」
やれやれ、と駆逐艦娘たちは苦笑いした。
北上はいつもこんな調子だ。
二言目には「面倒くさい」。ああ言えばこう言う。
どの駆逐艦娘よりも子供っぽい性格をしていた。にも関わらず不思議と駆逐艦娘たちには好かれていた。
人を惹き付ける何かがあるのだろう。
ぐぅ、と北上の腹がなる。
随分長いこと鳴っていたので白露たちはしばらく笑いが収まらなかった。
腹が減って死んではたまらんと、一同は寮の食堂へ急いだ。
食堂は既に半分ほど埋まっていた。座る位置は決められているわけではないが、なんとなくそれぞれに指定席のようなものがある。
北上は一五ある六人がけテーブルのうち、真ん中のテーブルを目指した。そこが球磨型軽巡洋艦の指定席になっており、すでに球磨、多摩、大井、木曽が着席していた。
近づくと大井が隣に座るよう催促してきた。
「北上さん、演習はどうでした?」
「んー、まあまあ」
大井の質問に北上が投げやりな返事をした。
「いつも思うんだが、その質問に意味はあるのか?」
木曽が聞いた。
「特に無いクマ」
大井が答えるより先に球磨が答えた。
「あります! 大事な大事なスキンシップよ! こういう小さなスキンシップの積み重ねが円満の秘訣なの!」
「なんだよ円満て。夫婦じゃあるまいし」
「木曽、これ以上はやぶ蛇ニャ」
「そうだな」
「なによ人を猛獣みたいに」
「猛獣ならネコがいいニャ」
「ネコですって? 私はどちらかといえば――」
大井が続きを言おうとしたところで秘書艦の足柄が皆の前に立った。
「大体揃ったわね。誰かいない人はいる?」
「二二駆は遠征です」
「オッケー。あとはいないわよね。それじゃあご飯にしましょうか」
足柄の合図で皆が席を立った。
食堂の奥が厨房と繋がっており、その間に受け渡し口と返却口がある。受け渡し口にはすでにいくつかのごはん茶碗と汁碗、小鉢が並んでいた。
向かって右側から列を作り、まずトレーと箸を手に取る。それからごはんや味噌汁をトレーに載せて自席に運んでくる。
学校の給食とほぼ同じ配膳方法だ。違うことといったら、料理をよそうのが食堂のスタッフであることだ。
全員が自席に戻ったら、改めて足柄が食前の号令を行う。
「いただきます」
「「いただきまーす」」
今日の夕食はとろろご飯になめこ汁、オクラとめかぶの和え物というネバネバ尽くしだ。任意で納豆を追加することもできる。唯一ネバネバしていない卵焼きは緩衝材だ。
白露たちが早速ごはんを食べようとすると、後ろにいた北上が夕立と白露の間に割り込んで、二人の肩に腕を乗せた。
「あのさあ、私ちょっと前までなめこって苦手だったんだよね。なんでかわかる?」
「んー、ヌメヌメしてるから?」
夕立が答えた。
「そうそう。この触感がどうしても嫌だったわけよ。だってさ……なんか鼻水みたいじゃん?」
「うげ」
「ちょっと北上さーん。お食事中ですよー?」
村雨が指摘すると、北上はサッと身を引いて自分の席に戻った。
「わざわざあれを言いに来たのかしら」
「唐突によくわかんないこと言うことあるよね」
「北上さんの行動原理は未だに解明されていない」
そんな中、時雨は鼻水のようなきのこと評されたなめこの味噌汁を平然と啜っていた。
「時雨はよく平然としていられるよね」
「もう慣れたよ」
時雨は、北上が佐世保に配属された当初から知っている。だから北上の不可思議な言動は何度と無く聞いてきたのだろう。
続けて時雨はとろろご飯を口に運んだ。
「あのさ」
再び北上が現れて、先程と同じように夕立と白露を肘置きにした。
「また来た」
「なんですか?」
夕立が横目で尋ねた。
「さっき気付いたんだけど、とろろってなんかに似てるなあ、と思って」
「また鼻水ですか」
「何かって?」
夕立が律儀に質問した。
「とろろって唾みたいだなって。コップ一杯分の唾液をかき混ぜたらこんな感じになると思わない?」
ごふっ、と何かを吐き出す音がした。
時雨が左手にとろろご飯の器を持ったままむせ返っていた。時雨はちょうどとろろご飯を口に含んだところだった。
「ちょ……また変なこと言って! 時雨がむせちゃったじゃないですか!」
「よくそんな気持ち悪いこと思いつきますね!」
「きゃはは! 北上さんおもしろーい」
時雨、村雨、白露がとろろご飯第二の姿を知り不快感を示す中、夕立だけはけたけた笑っていた。北上と感覚が近いのかもしれない。
「うーん、なんでこの子は笑っていられるのか……」
「どっか麻痺してるのかな」
北上はまた自席に戻り、とろろご飯の器を持った。白米の上に乗ったとろろをじっと見つめている。
「もしかして、自分で言って食べられなくなったんじゃ」
「自滅じゃん」
ちょっとした逡巡の後、決心したようにごはんを掬った。箸を持ち上げると粘り気のある白い液体がさらさらと流れ落ちる。
それを口に入れた瞬間、白露が北上にむかって言った。
「どうですか北上さん。よだれかけご飯のお味は」
北上の反応はない。
その代わり、隣にいた大井が身体をビクッと震わせた。
「あなたたちねえ……そんな汚いこと言って」
「いやいや、最初に北上さんが『とろろって唾みたい』って言ったんですよ」
「そうなの?」
大井は目を細めたまま北上の方に向き直った。
北上は振り返って言った。
「うまいよ。うまいよ、よだれかけご飯。特に自分の唾液だと思って食べると最高だよ」
「うっ」
「なんで普通に食べられるの……」
「もしかしてこれはあれかな。自分が出した屁は臭くないってやつかな」
「それっぽい!」
「違うでしょ」
「おうお前ら、早く食べないと風呂の時間始まっちゃうぞ」
「私たちは遅いんで大丈夫です」
ふと辺りを見渡すと、時雨が消えていた。どうやら北上の口撃に耐えかねて逃げ出したようだ。
「はぁー、おいしいなあ! 私のよだれおいしい! 北上さんどうです? 私の食べます?」
白露は変なスイッチが入ってしまったようで、なんとかして北上に逆襲しようとしていた。
しかしこの程度の攻撃で怯む北上ではなかった。
「ん、じゃあ頂こうかな」
そういって白露が差し出した茶碗からひょいとご飯を掬って口に入れた。
「うん、うまいうまい。白露のよだれも捨てたもんじゃないね」
白露はすっかり青ざめてしまった。
北上の『自分の唾液だと思って食べると最高だよ』発言に乗っかって、さらに自分の唾液を差し出すという高等テクニックで相手を狼狽えさせ、続く攻撃の糸口を探ろうとした。そうなればこちらのペースだ。制海権を手に入れたといってもいい。
しかし佐世保のエースの名は伊達ではなかった。白露と同じように敵の攻撃を逆手に取ったカウンターを仕掛けたわけだが、その威力は白露が放ったものより大きく勝っていた。
なぜなら、相手の意図を正確に汲んでいたからだ。相手が何を狙っているのかわかれば、躱すのは難しいことではない。さらに相手にとって痛手となる戦力も見えてくる。
白露の狙いは完全に読まれていたのだ。
「あたしのも食うか?」
北上はさらに追撃した。
白露は腕をぷるぷる震わせながら箸を伸ばした。このままやられっぱなしではいられない。大丈夫、同じように食べてやれば北上さんだって驚くはず……。
「白露だめ! これ以上は危険よ!」
村雨の警告にはっと顔を上げると、北上はにんまりと笑っていた。
罠だ。
同じように食べてみせればよいと思わせておいて、別の狙いがあるのだ。先程から大井が北上の器を凝視しているのも、何かに気付いたからだろう。
白露は北上の狙いがわからなかった。このままでは確実に絡め取られる。よだれに。
「いえ……遠慮しておきます」
「そうか。白露は賢い子だね」
北上は微笑んだ。背を向けて何事もなかったように食事を再開した。
いつもそうだ。
強者はいかなる勝負においても平然と笑っているのだ……。
「ふいー」
北上は湯に浸かって息を漏らした。
風呂は艦娘にとって生命の源泉だ。身体の汚れを落とすだけでなく、体の疲れをいやし、心をも癒やす効果もある。
日々強いストレスに晒されている艦娘には欠かせないものだ。
「いやーいい勝負だった。負けると思ったよ」
北上もまた戦士の傷を癒やしているところだった。
「どこがだクマ。あんな汚い勝負そうそう見ないクマ」
球磨が無粋にも北上の発言を否定した。直接敵と退治していない球磨には戦士の張り詰めた緊張感がわからないのだ。
「終始北上のペースだったじゃないか。どこに負ける要素があったんだ?」
木曽が言った。
「最後のやつさあ、白露が本当に食べたらどうしようって思ってたんだよね。村雨嬢が白露をビビらせてくれて助かったよ」
「なんだ、無策だったのか」
「そうそう。ブラフでいかにも裏がありそうな顔はしてたけどね。白露は完全に意地になってたから、村雨嬢が何も言わなかったら食べてただろうねえ」
「結局お前の作戦勝ちだったわけだな」
「そうとも言える」
「あと五分だぞー」
那智が湯船の対面で言った。
「早いニャ。あと二〇分くらいは欲しいニャ」
多摩がボヤくのも無理はない。艦娘たちが風呂を利用できるのはたったの三〇分なのだ。
寮には今北上たちが入っている大浴場があるのだが、同時に入れるのは二〇人が限度だ。そこでいくつかのグループに分けて入ることになる。戦艦・空母が最初に使い、次いで巡洋艦、駆逐艦、その他、と続く。駆逐艦は人数が多いからさらに二グループに分かれる。
後半のグループほど汚れたぬるいお湯を使うことになる。足し湯は許容されているものの、元のお湯がぬるければ結局ぬるくなってしまう。
利用時間を定めておかないと、後に入る艦娘が嫌な思いをするのだ。時間を決めていても最後のグループが不利であることに変わりはないので、最後のグループだけは特権として一五分延長が認められている。
「ねえ、もし他人のよだれがかかったご飯を食べろって言われたら、どうする?」
大井が問いかけた。
「嫌に決まってるだろ」
「無理クマ」
「無理だニャ」
全員の答えが一致した。当然だろう。普通は好んで他人のよだれを口に入れようなどとは思わないだろうし、食べ物と混ざっているなど一層嫌悪感が強いものだ。
「まあ、そうよねえ。じゃあ、誰かのよだれがかかったご飯を食べないといけないとしたら、誰のにする?」
「誰のだって嫌だよ」
「選ばなきゃダメなの」
「えー……なら母さんかなあ。赤ん坊のときなんか、しょっちゅう母親の唾液食わされてたようなもんだ ろ。だったら我慢できるかもしれない」
「球磨は親でもきついクマ。大井は誰だったらいけるクマ?」
「そうねえ。私も親でも嫌かしら。こんなこと言ったらいけないかもしれないけど、年齢が年齢だし」
「同感ニャ。年寄りの唾液なんて絶対嫌」
「じゃあ誰なんだよ?」
「ここまでの話からしたら、親しみがあって、若くて、清潔感のある人かしら。そう、北上さんみたいに」
「え、あたし?」
これまで沈黙を守っていた北上も反応した。
「あえて一人選ぶなら、の話です」
そう言うものの、すでに大井は皆から嫌疑の目を向けられていた。
「もしかして最初からそれが言いたかったニャ?」
「そういえば北上のご飯をじっと見てたやつがいたっけな」
「なんのことかしら。あ、もう時間ね。急がないと駆逐の子たちに怒られちゃう」
そういって大井はそそくさと湯船を出た。
「北上。これからは自分の食べ物から目を離さないほうが良いぞ」
「うん。気をつける」
北上の顔は湯に浸かって火照っていたのが嘘だったみたいに青ざめていた。
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二話 おセンチな北上さん
「ねえ桜井。あたし、次の演習いやだよ」
「どうして?」
「やりたくないことやらされるんだもの」
「やりたくないことって?」
「わかってる癖に。あたしは軽巡じゃなくて雷巡なの。軽巡に向いてるかどうかなんて今更確かめるつもりはないの」
北上は珍しく苛立っていた。顔にはあまり現れないが、言葉遣いや声の調子がいつもより荒々しい。
その理由は二週間後に佐世保で行われる演習にあった。
佐世保は毎月呉と合同演習を実施している。近場にあるため演習相手として都合がよかった。
場所は毎月入れ替わる。前回の開催地は呉だったため次は佐世保だ。
呉から演習に参加する艦娘が佐世保に来て、普段なかなかできないことをする。
今回の目的は大きく分けて二つある。一つは空母機動部隊同士の衝突を想定した演習を行うこと。
空母は横須賀、呉、佐世保に同程度配備されているが、絶対数が少ないため単独の鎮守府では機動部隊同士の演習は困難だ。
戦闘の要である空母の強化は不可欠であるから、毎回必ずといっていいほど機動部隊同士の演習がある。
もう一つは重雷装巡洋艦(雷巡)の軽巡洋艦(軽巡)としての能力を図ること。
機動部隊の戦いは毎度実施しているので、目的としてはこちらの方がメインとなる。
この目的に大して北上は異議を申し立てているのである。
「北上さんは雷巡であることに誇りを持ってるんだよね。艦隊の決定力としてのあり方に」
「そういうこと。だから桜井から提督に言っといてよ。私は軽巡に向いてないってさ」
「それは難しいかな」
「なんでさ」
北上は眉をひそめた。裏切られた、と思ったのだろう。桜井は艦娘たちの調整役としてしばしば相談を受ける立場だ。北上の意思や希望も何度か聞いていて、いずれも肯定的に受け止めていた。
にもかかわらず今回は否定しているのだから裏切りと捉えられても仕方がない。
しかし彼女にそのつもりがなかろうと、大本営の決定を覆す理由にはならない。
軽巡の需給が逼迫している今、雷巡を雷巡としてだけ運用するのは限界があるのだ。
確かに雷巡は艦隊決戦の打撃力を期待され改装された。持ち前の魚雷火力を活かして深海棲艦の主力部隊に致命傷を与えること、それが雷巡最大の役割だ。
一方で魚雷に特化しているため、他の軽巡と比較して砲火力や偵察能力、対空兵装、装甲が弱い。
軽巡の多くは、水雷戦隊旗艦として索敵したり敵巡洋艦・駆逐艦から味方を守る役割を持っているから、その意味で性能的には「軽巡に向いてない」と考えることもできる。
しかし雷巡に頼らざるをえない事情があるのだ。
「北上さんが軽巡に向いてないとは思えないし、私の一存で鎮守府の意向を変えることはできないよ」
「なにそれ。そこをどうにするのが桜井の役割なんじゃないの? ていうかさ、その『私』っていうのなんなん? かしこまっちゃってさ。俺でいいじゃん、俺で」
桜井は元々の論点と全く関係ない点を槍玉に上げられて思わず苦笑いしてしまう。普段は「俺」と自称しているが、仕事中はやはり「私」のほうが好ましいと思う。
「どちらかというと私……俺の役割は上の決定をみんなに納得してもらうことだよ。あとは手順を説明したり他部門とやり取りしたり……あっ、蒼龍さんなにか御用ですか?」
いつの間にか空母艦娘・蒼龍が北上の後ろに立っていた。
にこにこしながら我々の話が終わるのを待っていたようだ。手元に書類を持っており、何かしら用事があると思われた。
「では詳細は後で連絡しますので」
「よろしくおねがいします」
事務的な、定型業務に関する話だったので手早く済んだ。
去り際に蒼龍が言った。
「ところで、北上のことなんだけど、話の続きをしてあげたほうがいいと思いますよ。遮った私が言うのもなんですけどね」
そう言われて辺りを見渡すと北上の姿が消えていた。
北上は明らかに不完全燃焼だった。放置すると後々面倒なことになりそうだ。
桜井は蒼龍に礼を言って北上を探した。
果たして北上は庁舎の玄関口から外に出ようとしているところだった。
思ったより近くにいたので安心した。
「北上さん」
「んー?」
「さっきは話中断しちゃってごめん、ちゃんと話そう」
「いいって。桜井も暇じゃないでしょ」
「北上さんが納得してないでしょ。みんなの意見を聞くのも俺の仕事だよ」
「……ふーん、なら仕方ないか」
「ありがとう」
小さな会議室には白い長机が真ん中にあり、黄緑色の安っぽい椅子が囲んでいた。他にあるものといったらホワイトボードとプロジェクターくらいで殺風景なものだ。
古臭さこそあるものの、歴史や風情は感じられない。佐世保の鎮守府庁舎は大戦中に一度焼け落ち、建て直された建物だ。その後も時代の要請に合わせ改築を続けてきたから、機能が重視され情緒に訴えかけるようなものはなにもない。
二人は向かい合って椅子に座った。本来は予約が必要だが、今は大体が出払っているからいいだろう。
「なんで蒼龍には敬語なの? 伊勢とか日向にもそうだよね。あんたのほうが年上じゃん」
北上は席につくなり頬杖をついて、またしても本題と無関係の話題を振ってきた。
人はイライラしているとどんな些末なものも気になってしまうらしい。
「階級は蒼龍さんや伊勢さんのほうが上だからね。厳しいんだよそういうの」
「みんな気にしないと思うよ?」
「当人が気にしなくても周りの人が気にするの」
「面倒くさいな、そういうの。大人の事情ってヤツ? どうせ今回のもそうなんでしょ」
今回の、とは次の合同演習のことだろう。大人の事情と一括りにしてしまえば確かにその通り。しかし大人の事情にも道理があるのだ。
「言ってしまえばそうだよ。だけど、決して北上さんに嘘をついたり無下にしたりするつもりはない。艦娘の意思は最大限尊重したいと思っている」
「信用できないなあ、そういうの」
そう、こんな形式張った、取ってつけたような文句では人は納得しない。もっと個人の価値観や感情に踏み込まなければ人は動かない。
「そうだな、まずは北上さんがどうしたいのか聞いてみよう」
だから実際に彼女たちの考えを聞いてみる。なにをしたいのか。なにをしたくないのか。今の気分はどうか。悩みはあるか。自分たちにやってほしいことはあるか。
コミュニケーションの出発点は自分の意思を伝えること。桜井のとしての希望はもう伝えた。だから次にすべきことは相手の意思を知ることだ。
「演習に出たくない」
「どうして?」
「さっき言った」
「わかった。じゃあ他にしたいことは?」
「別に」
「些細なことでもいいから。何かないの?」
「小腹がすいた」
「わかった。おやつ持ってくるよ」
桜井は会議室を出た。北上はその様子をじっと目で追っていた。
「はい、これ」
「ん」
一袋二九八円の煎餅とペットボトルのお茶を二本、机の上に置いた。北上はすぐさま煎餅の袋をあけ、一番大きな煎餅を取り出してぼりぼりと食べ始めた。
「おいしい?」
「まあまあ。これどこのやつ?」
「ヨーズミー」
ヨーズミーは西日本を中心に展開する全国チェーンのスーパーだ。オリジナルブランドの食品も多く提供している。
「ああ」
「他の煎餅よりちょっと高いけどおいしいんだよね」
「でかい」
「ふふ。そうだね」
桜井が笑うと北上は目を細めて口をとがらせた。なぜ笑った? とでも言いたげだ。
北上が煎餅を飲み込んだのを見計らって言った。
「じゃ本題に入ろうか」
「待って。もう一枚」
桜井は北上が三枚の煎餅を食べて満足するまで待った。
「北上さんは呉との合同演習に参加して、軽巡としての適性を見定める。軽巡が足りていないから、その解決法として雷巡に軽巡の任務も一部担ってもらう。個人的なことを言わせてもらうと、北上さんも大井さんも戦術眼に長けているから、水雷戦隊旗艦として全うできると思っている。ただ本当に雷巡を軽巡として運用すべきかどうかは試してみないことにはわからない。だから演習に参加してもらわないとにっちもさっちもいかないんだ。ここは変えられない」
桜井は改めて演習の趣旨を説明した。加えて現状は代替案を用意できないことを強調した。
どの鎮守府も軽巡の需要が高いし、絶対数はすぐには増やせない。
うーん、と北上は唸る。きっと本心では演習に参加すべきだと感じているのだろう。しかし感情面で納得しておらず、踏ん切りがつかないのだ。
「だから演習を行うという前提で最大限北上さんの要望に応えたい。北上さんはどうしたい?」
「どうもしたくないってのは無し?」
「無しで」
「んー、そうさねえ」
北上は窓の方を眺めた。桜井もつられてそちらを見ると、同じような真っ白い制服を来たおさげの少女と短髪の青年がこちらを見ていた。
北上は窓の向こうにある青い空を見つめながら右手を机の上に伸ばした。ぱたぱたと右手がさまよっていたので、桜井は煎餅の袋の口をあてがってやる。北上は最初に触った煎餅を取り出して咥えた。
「私はどうしたいんだろう」
平坦な声色だった。桜井は何も言わなかった。
時折風が吹いて銀色の窓枠をかたかたと鳴らした。
雲が通り過ぎて、一時的に部屋が暗くなる。五秒足らずで日光は姿を現し再び部屋の中を照らした。北上は口を開いた。
「そもそも私はなんでここに来たんだっけ。私は本当に艦娘になりたかったんだろうか」
北上は、桜井が想像していたよりずっと深い悩みを持っているようだった。
重雷装巡洋艦が、軽巡洋艦としての適性を図られる。
ただそれだけのことだと思っていたが、北上にとっては非常に重要な意味を持つらしかった。あるいはもっと別の原因があって、今回の演習はそのきっかけにすぎないのかもしれない。
一つ確かなのは、北上がアイデンティティに疑問を抱いているということ。自分は何者か、何をしたいのか、見失いかけている。
自分は何者か、という問いかけは年頃の少年少女なら一度は抱くこと。だからといって放置してよいわけではない。
「北上さんはなんで艦娘になろうと思ったの?」
さらに北上の心に踏み込んだ。
あまり艦娘のプライベートに緩衝すべきではないが、今の北上には必要なことだと思った。
北上は「そうねえ」と考え始めた。
北上は相変わらずのんびりとした声だった。しかしそれが心の平穏を現しているとは限らない。
「桜井はなんでここにいんの?」
艦娘になったわけをうまく説明できなかったらしい北上は桜井に逆質問してきた。
なぜここにいるのか。抽象的で非常に答えるのが難しい問いだ。
桜井は真剣に答えなければならないと思った。他人の考え方を知ることで自分が見えてくることもあるものだ。
「難しいね……ひとつ言えるとしたら人の役に立ちたいから、かな」
「もっと具体的に」
「え、えーと……俺は防衛大学を卒業してここに来た。防衛大学に入ろうと思ったのは高校三年の始め。深海棲艦が現れて間もない頃だ。ニュースで自分と同じくらいの女の子が怪物と戦っているらしいと聞いて、自分は何をやっているんだろう、と思ったんだ」
「そのくらいの年齢のやつはみんな同じようなこと考えるのかね?」
「ははは。そうかもね。それで自分も何かしなきゃ、と今までの志望校から防衛大学に変えた。自衛隊として国を守るのが使命だと思った」
「『使命』って、すげーな。あたしゃ今まで生きてきて使命だなんて考えたことないよ」
「俺だってそのとき始めて使命なんてものが浮かんできたよ。なぜ浮かんできたかはわからないけど、とにかくやらなきゃと思った」
「それで決めちゃうんだ、すごいな」
「今艦娘やってる北上さんのほうがすごいと思うよ。艦娘になろうと決意したのは俺より若いときだ。それに直接化け物と対峙するのは北上さんたちの方。俺はサポート役の道を選んだだけさ。まあ、艦娘になろうと思ってもなれないけどね」
「取ったらいけるかもよ」
北上は下の方を見た。
「怖いこと言うね。でもそれで通ったって例は聞いたこと無いな」
「え、試したやつがいんの?」
「いるらしい。噂だけど」
「私も昔話していい?」
「どうぞ」
「私髪長いじゃん? 昔は短かったんだよ」
「へえ。なんて伸ばそうと思ったの?」
「ムカつくことがあったんだ」
そうして北上は話し始めた。
北上は小学校五年生の頃まで短髪だった。そのほうが楽だったからだ。
それがある日突然、男子たちに囃し立てられるようになった。やれ男女だの、こけしだの。
悪口を言われること自体は慣れっこだったが、男子たちの態度が急変したことに苛ついた。
北上は活発な性格で、外で遊ぶのが好きだった。スポーツやゲームも好きだった。男子に混じって毎日のように野山で遊んだ。
それがなぜだか急にからかわれるようになったのだ。
はじめはただ業腹だったが、後になって男子たちが性別の違いを認識するようになったからだとわかった。
だから見返してやろうと髪を伸ばすことにした。
髪を伸ばし始めてからしばらくは「なに伸ばしてんだよ」とからかいのネタになるだけだった。
そのうち男子と一緒に遊ぶことも少なくなったし、スカートも履き始めた。野で遊ぶときはズボンのほうが都合がよかったから普段からズボンだったのだが、その必要もなくなったのだ。
一年ほどすると男子の態度があからさまに変わり始めた。
まず、からかわれることが減った。
それから男子が北上に話しかけたとき、目を見てすぐ逸らすようになった。
北上が男子を相手にしなくなったというのもあるが、やはり女子として意識され始めたのだろう。
からかわれること自体は減っていたのだが、別種の文句をつけられるようになった。「似合ってね―よ」とか「なに急に大人ぶってんだよ」といった類いのものだ。
北上はこれらの言葉の意味を正確に理解した。彼らはただ、構ってほしいのだ。
今まで一緒に遊んでいた友達がどこか遠いところに行こうとしている。寂しいけどそれを認めるのは嫌だ。だから遠くにいくこと自体が間違っていることにする。
そんな男子たちを北上は構ってやることにした。
ある日クラスで二番目に生意気な男子支倉が「そのスカート全然似合ってないな」とふっかけてきた。いつもなら無視するところだが、その日は違った。
「そんな似合ってない……?」
今にも泣き出しそうな顔をしてうつむき、蚊の鳴くような声で言った。普段気丈に振る舞っていても心は深く傷ついていて、堪えきれずに弱音を吐いてしまった。そんな風に見せかけるために。
案の定、居丈高だった少年はたじろいだ。彼としても相手を傷つけるつもりはなかったに違いない。
「一生懸命選んだのに」
スカートの裾をぎゅっと握りしめ、口の端を固く結んだ。もちろんこれも演技だ。彼が反応を見せるまでそのまま動かない。
クラス中がそのやり取りを見ている。彼は衆人環視の中悪者に仕立て上げられたわけだ。実際ひどいことを言っているのだから当然の報いだ。
「あっ……うぐっ……」
支倉は情けない声を出してその場を去った。
「北上さんて意外と悪女なんだね」
「うっさい」
桜井の中にある無邪気でかわいらしい女の子という北上像は単なる思い込みだったようだ。
北上は続けた。
次の日の朝、二番目に生意気な彼と下駄箱で出会った。上履きを取り出してすのこにバタンと放ったところだった。
北上が靴を脱いですのこに上がろうとしたとき目があった。彼は驚きと緊張をないまぜにしたものを隠そうとしてか、なんともいえない複雑な表情をしていた。北上が無表情で見ていると、彼は目を逸らし大急ぎで上履きを履いて歩き出した。
「ねえ」
支倉は驚いた猫のようにビクッと身体を震わせ、すのこを思い切り踏み鳴らした。
「今度スラシスやろうよ」
スラシスはその頃流行っていた対戦ゲームだ。
しばらくの間返事はなかった。その分びっくりするほど目が泳いでいたので、何を考えているのか手に取るようにわかった。
「あー、ま、まあ? 別にいいけど?」
「いつもみたいに有馬んち行けばいい?」
「おう」
話が終わったと見て足早に立ち去ろうとする支倉を再度呼び止めた。
「あのさあ」
「なに?」
支倉は上ずった声で返事した。
吹き出しそうになるのを堪えながら北上は言った。
「このスカート、どう思う?」
北上は自分のスカートを軽くつまんだ。デニム生地の青いスカートで、膝丈より十センチほど高い。セーター、靴下、ローファーを黒で揃えており、全体として大人っぽい印象を与える。
彼は足を廊下の方に向けたまま不自然に振り向いて北上を凝視した。ただ服を見るだけなら不必要なくらい目を見開いていた。
「い、いんじゃね!」
それだけ言い残して走り去った。
北上はゆっくり靴を履き替えて教室に向かった。
「そのあとどうしたの?」
「べつになにも。そいつも他の男子もちょっかい出してこなくなったからね」
「大人だね」
「どのへんが?」
「その子たちのこと許したんでしょ。俺なら怒って大騒ぎすると思う」
「元々大して怒ってなかったし。桜井、大騒ぎするようなタイプだったんだ」
「昔はね。大学に入ってからはおとなしくなったよ」
「昔はワルだったってか?」
「いやいや、ワルってほどじゃないよ。ただ自分の感情をコントロールできないガキだっただけ。何年も生きていれば、それじゃうまくやっていけないって気づくさ」
「ふうん、そういうもんか」
「そういうもんだよ」
北上は「よくできてんな」としみじみ呟いた。何がよくできているのかわからないが、彼女なりに納得したようだ。
北上は頬杖をやめて机に突っ伏した。自分の右手をゆっくり閉じたり開いたりしているのを眺めている。
「私やってみるよ」
腕に覆われてくぐもっていたが穏やかな声だった。
桜井は何も言わず続きを待った。
「私は多分、楽しいことをしたかっただけなんだと思う。中二の夏から艦娘学校に行き始めたけど、それは多分艦娘ってやつが一番おもしろいと思ったからだ」
「北上さんは強いね」
「強い? なんで?」
北上は桜井の方を見た。
「多くの人にとって艦娘になるって怖いことだと思うんだ。よくわからない兵器を身にまとって、海の上に立って、不気味な連中と戦わないといけない。死ぬことだってある。親も反対するだろう。だけど北上さんは自分の気持ちを何よりも大事に考えて艦娘になることを選んだ。とても強い自己があるんだと思う」
「私強いのか」
「多分」
「なんで弱くなってんのさ」
「単に深海棲艦をよく知らなかったとか、ただ強がってるだけとか、そういう可能性もあると思って」
「いや強いね。私は強い」
北上は顔を上げた。その表情は自信に満ちていた。
「へえ?」
「私が何匹深海棲艦ぶっ飛ばしてると思ってんのさ。佐世保じゃエースって呼ばれてんだよ?」
「よく知ってます」
「心の弱いやつには化物対峙なんてできんさ。化物を倒すのは勇者と相場が決まってる。つまりあたしは勇者」
「うん、そうだね」
「何笑ってんの。よし、私は自分を貫き通すぞ。合同演習でも遠征でも水雷でも、なんでもやってやんよ」
「おお、その意気だ」
「差し当たっては次の演習を面白くしてやる」
「ほう。何するつもり?」
「まあ見てなって。おえらいさんは私らが負ける前提で演習組んでるんだろうけど、そう簡単にはやられない。一泡吹かせてやる」
北上は意気揚々と会議室を出ていった。最初に声を掛けられたときの辛気臭い表情が嘘のようだ。
多分完全に心が晴れたわけではない。納得していない部分も多くあると思う。
しかし何をすれば道が拓けるのか、何を見れば自分のことがわかってくるのか、その手段ははっきりしたことだろう。
なんにせよやる気を出してくれたようで桜井としては一安心だ。
艦娘たちが最大のパフォーマンスを発揮できるようサポートするのが自衛艦隊特務隊――通称「鎮守府」に所属する隊員の役割だ。北上が本気で演習に取り組んでくれるならそれに越したことはない。
「一泡吹かせる」の内容は聞き出せなかったためその点に関していえば一抹の不安は残るが、わざと負けるとか場外乱闘に持ち込むとか精神攻撃とかいった方向性ではないようだった。
しばらく様子を見ることにしよう。
桜井は出しっぱなしになっている椅子を机に戻し、会議室を後にした。
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三話 決戦は金曜日①
寮の厨房は甘い匂いでいっぱいだった。
十畳ほどしかない空間に十人以上の艦娘がひしめき、オリジナルのチョコレートを作っている。
二月十三日、バレンタインデー前日のことである。
「ふみ、そろそろチョコ溶けた?」
「うん、大丈夫そう」
「じゃあドバーッと入れちゃって!」
文月がお湯の中でぐらぐら揺れているボウルをミトンで掴み、中央の作業台に持っていった。中には溶けたチョコレートが入っている。
そして皐月の前に置いてあるもう一つのボウルに注いだ。皐月はそれをゴムベラで思い切りかき混ぜた。
「ああ、そんな乱暴にやったらこぼれちゃうよ」
「大丈夫だい……わっ」
ボウルの中身の一部が予め敷いてあったキッチンペーパーの上に落ちた。皐月はそれをさっと拾ってボウルの中に戻した。
「戻しちゃダメだよ~」
「三秒経ってないから問題なし! それにキッチンペーパーの上だから汚くないよ」
「もう、人に食べてもらうのに」
「何作ってるの?」
二二駆逐隊の二人組がわちゃわちゃとチョコレートを作っているところに、すぐ隣にやってきた蒼龍が話しかけた。
「えっと、チョコクランチです」
「チョコクランチか、いいね」
「蒼龍さんたちは何作るんですか?」
「ガトーショコラだよ」
「えっ、すごい。作れるんですね」
「意外と簡単だよ。ね、飛龍」
「そりゃ蒼龍にとっては簡単だろうね。ほとんど何もしないまま出来上がっちゃうんだもん」
蒼龍の横で手際よく調理道具や材料を並べている飛龍が答えた。
「しっ! 余計なことは言わなくていいの!」
「どうせすぐバレるんだから。暇そうな蒼龍見ればさ」
「そういえば去年も蒼龍はぶらぶらしてたっけ」
蒼龍たちの向かいでチョコの飾り付けをしていた足柄が言った。
「蒼龍さんは食べるのを頑張ってましたよね」
足柄と一緒にいた羽黒が言った。蒼龍を庇うような口調だったが、発言内容は正反対である。
「言うわね、羽黒」
「蒼龍言われてるよー?」
「あ、あれ? 私変なこと言いました? ただ蒼龍さんも意味のあることをしていたっていう意味で……」
「くっ……」
羽黒はさらに追撃した。後ろから撃たれた格好の蒼龍はただ沈黙するしかなかった。
さらに周囲の艦娘も便乗した。
「あっはっは! いやその通りだよ羽黒! 蒼龍のやることには全て意味がある!」
「みんなのために毒味していたということですね。蒼龍さん流石です」
「ありがたいなぁ!」
「わかったから! ちゃんと作るから! もう許して!」
蒼龍はたまらず許しを請う。
流石にかわいそうだと思ったのか、足柄が呟いた。
「まあ、チョコ食べるだけのやつは何人かいるんだけどね」
「ですね」
「ひどいやつはまるでごまかそうとすらしないもの。その点蒼龍はまだマシね」
「えへへ」
「褒めてないから」
ちょうどそのとき、厨房の入り口に人影が現れた。
「おっ、やってるやってる」
北上である。
後ろにはエプロン姿の大井もいる。
「出たわね」
「噂をすればなんとやら」
足柄と飛龍が半ば呆れ気味に言った。
「ん? なんの話?」
「チョコを食べるためだけに厨房に来るやつがいるって話よ」
「ろくでもないのがいたもんだな」
「そうね。で、北上はここに何しにきたわけ?」
「チョコをたらふく食べに来た」
北上は堂々と言い放った。
仁王立ちする北上の後ろでは、大井が女神のような優しい笑みを浮かべていた。
はあー、と足柄は盛大にため息をついた。
「あのねぇ。ちょっとは遠慮しなさいよ。蒼龍だって誤魔化しくらいしてるわよ」
蒼龍は唐突に「さあ気合入れてチョコ作るぞ―!」と言って板チョコを刻み始めた。
「半端に遠慮なんてするからやましさが生まれるのさ。私くらい堂々としてればチョコのほうからやってくる」
「ほんとにあんたってやつは。せめて明日まで待ちなさいよ」
「いやいや、今日食べるからこそ価値があるんだよ。作りたてと一晩経ったチョコじゃ全然違うでしょ?」
「そうかもしれないけど、そこはやっぱり、ねえ」
「これは前夜祭さ。本祭よりむしろ前夜祭のほうが気合入ってるなんてザラよ」
「バレンタインの前夜祭なんて聞いたことないわよ」
北上は足柄の話もそこそこに、入り口から一番近いところでチョコを作っていた村雨・春雨ペアのところに近づいた。
「あっこら、聞きなさいって。もう」
チョコレートに引き寄せられている北上にはもう足柄の声は届いていないようだった。
「それなに?」
「生チョコですよ。出来たてです」
長方形のトレーの上に真四角のチョコがいくつも転がっていた。板チョコに似ているが、それよりも厚みがあって、光沢が少ない。表面のざらつきがなんともいえない上品さを醸し出していた。
「一個ちょうだい」
北上がねだると、春雨はつまようじでチョコを一切れ刺して、丁寧なことに手で皿を作りながら北上の口元に運んだ。
「おー、チョコの味だ」
「ふふふ。それはそうですよ」
「柔らかいなあ、これ。クセになりそう。でも、ちょいちょい塊が混じってるな。生チョコってこういうもんなの?」
「ん~? チョコがちゃんと溶けてなかったのかしら」
そう言って村雨は自分たちが作ったチョコを一つつまんで食べた。
「あー、確かにダマがあるわね。まだ材料あるし、もう一回やってみましょうか」
「はい。もうちょっとチョコを刻んだほうがよさそうですね」
村雨と春雨は再度生チョコを作り始めた。
北上はついでにもう一切れつまむと、春雨たちの対面にいるザラの方に行った。
ザラの前にはコップのような容器がいくつか並べてあった。中は光沢のある褐色の物体がな並々と注がれていた。
「これ、プリン?」
「そうよ。ブディーノ・アル・チョッコラート。食べてみる?」
「うん」
ザラは小皿を一枚置いた。そしてプリンの容器をひとつ手に取り、ナイフを容器の縁に差し込んだ。そのまま縁に沿ってぐるりと一周させると、小皿にひっくり返した。
ゆっくり容器を持ち上げると、つやつやした甘い匂いのする山が現れた。
「おお~」
北上はザラからスプーンを受け取って、プリンをつついてみる。少し窪みができるが、弾力があるため穴は開かない。スプーンを離すと小刻みに揺れた。
「これもチョコの味だ」
「あんたそれしか言わないわね」
「おいしいよ」
「ありがとう。イタリアだと女性がチョコを贈るっていう習慣は無いんだけどね」
「へえ。じゃあ男が贈るの?」
「どちらかといえば男の方が多いわね。ただ、そもそもイタリアではそんなバレンタインが盛んじゃないの」
「なんで?」
「カーニバルシーズンだからみんなそっちに夢中なの。それに愛は日頃から伝えているから特別祝う必要はないって考えの人も多いわ」
「そうなんだ。じゃあなんでザラはチョコ作ってるの?」
「どうしてもチョコ食べたいってやつがいてね……」
「あ! できてるー!」
これまた絶妙なタイミングで厨房に現れたのはポーラだ。
彼女もまた北上と同じように「食べる専」である。
「わぁぷるぷるだ! それじゃいただきま~す」
「どうぞ」
言うが早いかプリンの容器を取ってスプーンいっぱいにプリンを乗せた。プリンの見栄えは気にも留めていないようだ。
「ん~おいし~い。流石ザラ姉さま、天才!」
ポーラは幸せそうな笑みを浮かべた。
「はいはい、ありがとう。それで満足したらすぐ部屋に戻るのよ? また去年みたいにチョコ食べて回るなんてみっともないことしないでね」
「もちろんですザラ姉さま。ポーラは淑女ですからそんなことしませーん」
「本当だからね?」
「お任せあれ! あっこれ美味しそう。一個ちょーだい」
プリン片手に、村雨たちの作った生チョコを一切れ、さっと口に入れた。
「あっこら! 言った側から! もう、怒るからね!」
ポーラにとっては姉の言葉よりチョコのほうが重いようだ。性懲りもなくさらに一切れつまんだ。
「ほらザラ姉さまもどうぞ。おいしいですよ?」
「あらほんとう。……はっ、な、なにするの! 食べちゃったじゃない! ごめんね、せっかく作ったのに。プリンまだあるからどうぞ」
ザラが詫びると、村雨と春雨は「ありがとうございます」と軽く受け流した。
「あそこまで聞く耳を持たないといっそ清々しいわね」
「それと比べて駆逐隊の大人な対応といったら。どっちが子供かわかったもんじゃないね」
足柄と飛龍が口を揃えて言った。
「そんでこっちはどうかな、っと」
そうこうしているうちに北上はプリンを平らげ、次のターゲットを探し始めた。
作り始めたばかりの飛龍・蒼龍の後ろを通って、皐月・文月のところに来た。
「これ何?」
「チョコクランチだよ。でも、さっき冷まし始めたばっかりだからダメ。明日ちゃんとあげるから待っててね」
皐月が諭すように言った。
「うん、わかった」
明日もらえるということで、大人しく駆逐艦の言うことを聞くことにした。そしていよいよ足柄たちの番だ。
北上が近づくと、足柄は自分たちのチョコを守るように身体でブロックした。
「取らないから安心して」
「絶対取るでしょ」
「大丈夫大丈夫。北上さん嘘つかない」
「これは間違いなく取るわ……」
「足柄姉さん、一個くらいいいんじゃないですか?」
「うーん、でもね……」
「元々何個か多めに作る予定だったし、せっかくですから味見してもらいましょう」
「まあ、羽黒が言うなら」
足柄はしぶしぶ身体をどかした。
そこにはスライスアーモンドの乗った手のひらサイズのパイがあった。こんがり焼けていて香ばしい匂いが漂ってくる。
「ん? アップルパイ?」
「違うわ。きっと勝つパイよ」
「なにそれ」
「まあ食べてみなさいな。そしたらわかるから」
言われた通りパイを手にとって、かぶりついた。最初は予想に違わずサクサクとした食感だったが、真ん中辺りにもまたサクサクがあった。外側よりも固い生地で、噛み切るのに若干力がいった。
「ああ、そういうことね」
「ね、『きっと勝つ』でしょ」
中央部分に入っていたのはパイ生地ではなく二つ組のウエハースだ。その周りはチョコレートでコーティングされていた。二つ組のウエハースチョコといったら、あれしかない。
「こうやって食べるのも斬新だなあ」
「でしょ。二重のサクサクで新食感」
「うん、これはなかなかいけるな。大井っちにも一個……」
北上が別のきっと勝つパイに手を伸ばすと、足柄は「めっ」とはたいた。
「いてて。大井っちの分だってば」
「どうせあんたが食べるつもりでしょ」
「ほんとにあげるんだって。ねー、大井っちも欲しいよね」
北上が声をかけると、大井は振り返らずにいった。
「私は大丈夫です~」
大井の腕は凄まじい速さで稼働していた。湯煎でチョコレートを溶かす傍ら、ハンドミキサーでボウルの中身をかき混ぜている。炊飯釜で何かを炊いて一段落と思いきや、素早く調理用具を洗い今度はメレンゲを作り始めた。フットワークも駆使した一切無駄のない動きだ。
大井の側には薄力粉、牛乳、卵といった定番の材料から、ジャム、ブランデーといった見慣れないものまであった。
「炊飯釜……?」
「この動きは一体……」
「明らかに一種類じゃないわね」
「これが愛か」
今までチョコを作っていた面々は思わず手を止め大井の職人技を凝視していた。あるものはゴクリと唾を飲み、あるものはメモを取り、あるものは息をすることすら忘れているようだった。それほどまでに鬼気迫る調理だった。
いや、これは最早調理ではない。
大井の背中が「お前らのチョコ作りなど児戯に等しい」と語っていた。
その愛を一心に受ける北上はといえば、
「気合入ってんなあ。あたし食べ切れるかな」
と実に呑気なものだった。
本番は明日、金曜日である。
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四話 決戦は金曜日②
鎮守府は朝から騒々しかった。
起床ラッパが鳴りベッドから起きると、すぐ廊下に並び点呼を取る。部屋の代表者はその結果を当直に報告する。
点呼が終わると洗面や着替えの時間があり、その後清掃を行う。
点呼の後、北上が顔を洗っていると皐月がやってきた。
「はい、昨日言ってたチョコクランチだよ」
「ん。ありがと」
今日はバレンタインデーだ。女性比率が非常に高い鎮守府では、一年の中でも特に盛り上がるイベントである。
北上は妙に駆逐艦や海防艦から人気があるため、毎年たくさんのチョコを貰っている。渡す機会を逃すまいと、こんな隙間時間にやってくる者もいた。
清掃後は朝食の時間だ。
夕食と同様、艦娘全員が食堂に集まり一斉に食事を取る。
朝食後、食堂を出たところで後ろから呼び止められた。
振り向くと満面の笑みを浮かべた夕立が、両手で何か小さなものを持っていた。
「北上さん、これあげる!」
菓子の個袋だった。黒、赤、黃の原色が使われた派手なパッケージには『サンダーファイヤー』と書いてある。
コンビニのレジ脇でよく売られている定番のチョコだ。
「サンダーファイヤーじゃねーか」
「大事に食べてね」
「おいぽい子、これいくらか知ってる?」
「三十円」
「その通り!」
北上は「ふんっ」と豪快に包装を破り捨てた。そして中身を一口で平らげた。
「おいしい?」
「うん」
「よかった」
夕立は北上が捨てた袋を拾うと、ご機嫌に駆けていった。
八時になると鎮守府庁舎の前で朝礼を行う。
そこでは提督や秘書艦がその日の予定や連絡事項を話す。
鎮守府としても、今日が艦娘たちにとって特別な日ということは把握しているようで「チョコを渡すのは構わないが業務に支障がでないように。また、食べるのは休憩時間か業後にすること」と釘を刺された。
朝礼が終わるとそのまま午前の課業だ。
今日は十時頃まで基礎体力作りとして空手を習い、それから十二時までは机上演習を行った。
空手と机上演習の間にもチョコをもらった。予め用意しておいたトートバッグに入れ、とりあえずロッカーにしまっておく。
昼休みになると、駆逐艦娘が大挙して押し寄せてきた。
二四駆逐隊(涼風、江風、海風、山風)、二五駆逐隊(夕立、村雨、春雨、五月雨)、二七駆逐隊(白露、時雨、有明、夕暮)の面々だ。
村雨・春雨からは昨日よりグレードアップした生チョコを貰った。その他、大小様々、色とりどりのチョコを貰った。
一つ一つ受け取るのも面倒なのでまとめてトートバッグに入れてくれと言うと、不平の声が上がった。
気持ちを込めて手渡しするのが習わしだという。
そのくせコンビニでいつでも買えるようなチョコが混じっているのはどうかと思う。
さて、こんなにもチョコを貰っておいて自分からは何も無しというのも民草の不平の種になると思われたので、せめて世話になっている人にはやろうと考えた。
今から気合の入ったものを用意するのは難しいだろうから、敷地内のコンビニで済ますことにした。
お誂え向きにレジ横にチョコがあったのでそれを一掴み買った。
片手で適当に掴んだサンダーファイヤーは四つ。これをどう分配するか。
とりあえず、最初の一個はすぐ側にいた大井に渡した。
「ハァッッ! ありがとうございますっ!」
大井は変な声を出して両手で受け取った。
恍惚が多分に含まれた、なんとも奇妙な笑顔をしていた。本当に嬉しそうだ。
こんなものでこれだけ喜んでもらえるのか、と思わずにはいられなかった。
バレンタインは特別な日らしい、という実感が少しだけ湧いてきた。
残るサンダーファイヤーは三つ。
続いて向かったのは庁舎だ。
彼女らは昼食後は大抵そこにいるから、きっと渡せるはずだ。
庁舎の正面口から入って右側にはブリーフィングルームや通信指令室、左側には各部署の部屋が並んでいる。
北上は左側の廊下に進み、目当ての部屋に向かった。
途中で事務のおばちゃんに出会い、ウイスキーボンボンをもらった。何箱も持っていたから、配って回るのだろう。
少し歩いて北上は立ち止まった。目の前の扉には『統合管理』と書かれた札が貼ってあった。
「あ、北上さん!」
統合管理の扉を開けると、部屋の奥にあるデスクで読書していた女性職員がにこやかに言った。後ろの席でスマートフォンをいじっていた男性職員も振り向いた。
男性職員の方は桜井だ。爽やかな雰囲気の青年である。
もうひとりは
「はい、これ」
北上は二人に近づいてサンダーファイヤーを差し出した。
「わあ! くれるの? ありがとう!」
「なんだ、サンダーファイヤーか」
「じゃあ桜井にはやらん」
「あ、待って待って! 欲しいから! いやー、北上さんからチョコをもらえるなんて嬉しいなあ!」
「最初から素直にそう言えばいいのに」
大井ほどではなかったが、二人とも喜んでくれた。
鎮守府にいるスタッフでは一番関わりの深い二人だから、媚を売っておいて間違いないだろうと踏んだのだ。
自身の政治的判断に狂いはなかった。
最後の一人を籠絡してミッションコンプリートだ。
「そういえば、大井さんのチョコおいしかったよね」
サンダーファイヤーをかじっていた菖蒲が言った。
「うん。よくマカロンなんて作れるよね」
大井が作っていたのはマカロンらしい。
思わぬところで内容を知ってしまった。
「私もマカロン作ったことあるんだけど、難しいんだよ。特に生地作り。メレンゲと、砂糖とかココアパウダーを混ぜるんだけど、混ぜすぎると膨らまないし、混ぜたり無いと割れちゃうの。北上さんはもう食べた? 大井さんのマカロン」
「いんや、まだ」
「そっか。マカロンはね、冷蔵庫から出して三十分経ったくらいが一番美味しいよ」
「そうなんだ」
「中のクリームがちょっと溶けて生地に染み込んだ状態になるの。冷蔵庫から出したばかりだと……」
菖蒲のマカロン講義はなかなか終わらなかった。彼女は一度喋りだすとなかなか止まらないのだ。隣の桜井も苦笑いしている。
北上は用事があるからと話を切り上げて部屋を出た。
きっと桜井が身代わりになってくれるだろう。
執務室に向かいながら思考を巡らせた。
昼休み、大井に会ったのにチョコをくれなかったのはなぜだろう?確か去年は、朝一番でチョコをくれた。
マカロンは冷蔵庫から出して三十分くらいがおいしい、という話だから昼休みだと都合が悪いのだろうか。
しかし寮は往復十分足らずのところにあるから、昼食前に取りに行けばちょうどよかったはずだ。
まさか今年は北上の分は用意していないということか?だとしたらあの気合の入れようはなんだったのか。
一抹の不安を覚えながら提督執務室の前に辿り着いた。
ノックするとすぐに返事があった。
提督は北上を見ると少し驚いた顔をした。微妙に左の口角があがっているのは、単に珍しい客が来たこと以外の理由も含まれているように思えた。
「ん」
北上が右手のサンダーファイヤーをぶっきらぼうに差し出した。
提督は手中のチョコバーを凝視した。それを取ろうと右手を少しずつ動かすも、何を渡されているのか理解が追いついていないようだった。
やっとのことで――といっても二、三秒だが――サンダーファイヤーを手に取ると、北上の目を見て「ありがとう」と言った。
「そんなに意外?」
「えっ? ああ、ちょっとびっくりした。今までくれたことないし」
「欲しかったの?」
「どちらかといえば」
「ふーん。じゃ来年もあげるよ」
「ああ、期待してるよ」
提督は笑いながら言った。
またサンダーファイヤーだろうな、とでも考えていたのだろう。
残念、来年はテロルチョコだ。
終業までの間に、北上はさらにいくつかのチョコを貰った。
あらかじめ用意してあったトートバッグには既に十個を超えるチョコが入っており、持ち上げるたびに包装フィルムの擦れる音がした。
夕食の前に一度部屋に戻ってトートバッグを置いてこようと思ったが、おそらく夕食後もチョコを貰う機会がある。
そのまま食堂に向かうことにした。
夕飯を食べ始めてしばらくすると、秘書艦の妙高がおもむろに立ち上がり、いつのまにか食堂の隅に置いてあったダンボールを皆の正面に運んだ。
ダンボールを開けて中身を一つ取り出して言った。
「私からみなさんにプレゼントがあります。ドイツチョコです! 私からのプレゼントと言いましたが、ビスマルクさんに協力してもらいドイツからチョコを送ってもらったのです。ビスマルクさん、ありがとうございます」
妙高が拍手すると、それに倣って皆も拍手した。
ビスマルクは軽く右手を上げて応えた。
再び妙高が話し始めた。
「実は、ドイツのチョコレート生産量は世界一なんだそうです。深海棲艦が現れてから生産量がガクッと落ち込んでしまったそうですが、今では大分戻ってきたとのこと。というわけで、みなさんに一人一つ、本場の高級チョコを用意しました! 私も食べてみましたけど、とっても美味しいですよ!」
配られたのは正方形のカラフルなパッケージのチョコだった。一人ひとり異なるパッケージだった。
「どれも違う味なので、周りの人と交換していろんな味を楽しんでみるといいかもしれませんね。あ、チョコを食べ終わったら、こちらのゴミ箱に片付けてくださいね」
夕食を食べ終わると、自然とチョコを交換する流れになった。先程配られたドイツチョコだけでなく、各自が持ち寄ったチョコもその対象になった。
どのテーブルでも様々なチョコが並べられ、小さなチョコ市場が形成されていた。
蒼龍と飛龍はガトーショコラを全員に一切れずつ配っていた。約六十人分のガトーショコラを作るのはさぞや大変だったろう。しかしそんな様子はおくびにも出さず「いつもありがとう」と、笑顔で一人ひとりに手渡ししていた。
軽巡のテーブルには子洒落た箱に入ったチョコが置かれていた。
「はいどうぞ。喧嘩しないように仲良く分けるクマ」
「ありがとう。一人三個分くらいか?」
一口サイズのチョコがセパレートによって小分けされている。球磨が妹たちのために買った高級チョコだ。
「球磨の分はいいクマ。みんなでわけるといいクマ」
「球磨も一緒に食べたほうがきっとおいしいニャ。それに……」
「既に大量のチョコがあるから食べ切れないよねえ」
全員分に配られたもの以外にも、チーム別に配られたもの、個別にもらったものなどたくさんのチョコがある。
「そうね。こんなたくさん食べたら太っちゃう」
大井の言葉に皆うんうん、と頷いた。
チョコを貰えるのは嬉しいが、つい食べすぎてしまうのだ。リスクはできる限り分散したほうがよい。
「そういえば大井は昨日なんか作ってたみたいだけど、なんかあるのか?」
木曽が言った。
「あるけどちょっと待って。食べ頃があるのよ」
「チョコにも旬があるのか」
「そうじゃなくて、冷蔵庫から出してしばらく待ったほうがおいしいの。まあ、今のうちに出してくるわ」
そういって大井は席を立った。
冷蔵庫から出してしばらく待ったほうがいいチョコといえば、マカロンのことだろう。
ふと思い出した。昨日大井は別のチョコも作っていたはずだ。
今日一度もその話題を聞いていないが、一体なんなのだろう?
即席チョコ市場では、日持ちしないガトーショコラと球磨が持ってきたチョコだけ食べて、あとは後日食べることにした。
自室に戻った北上はチョコの詰まったトートバッグをひっくり返し、その中身をベッドの上に並べた。
あれからチョコはさらに増え、全部で二十個近くになっていた。
皐月と文月のチョコクランチ、白露のピーナッツチョコ、夕暮のボッキー、平戸のテロルチョコ、事務のおばちゃんのウイスキーボンボンなどなど。
色とりどりの包装が狭いベッドを埋め尽くした。
この中から早く食べないといけないものを選ぶ。たくさんある分、気をつけないと捨てるハメになる。
市販のチョコで未開封のものは当面大丈夫だろう。問題は手作りチョコや一度開封してから配られたチョコだ。
特に「生っぽい」ものは注意しないといけない。村雨と春雨から改めてもらった生チョコはまさしくそれで、早めに消費する必要があるだろう。
あとはケーキ類もそうだ。牛乳や生クリームが入っているからだ。該当するのは蒼龍・飛龍のガトーショコラを除くと、海風からもらったパウンドケーキだけ。
最優先で処理しなければならないのは生チョコとパウンドケーキの二つということになる。このくらいなら今日、明日で無理なく食べられるだろう。
いつの間にか部屋から消えていた大井が紙袋を提げて戻ってきた。
大井は北上のベッドを一瞥し、何も言わず自席に向かった。
紙袋から取り出したのはチョコレートマカロンの乗った皿だった。皿の大きさに対してマカロンの数が少ないから、既にほぼ配り終わったあとなのだろう。
「北上さん、どうぞ。遅くなっちゃったけどバレンタインチョコです」
「うん、ありがとう」
店で出されるものと見分けがつかないくらい綺麗なマカロンだった。
二枚のマカロン生地にはガナッシュクリームが挟まれている。小さなハンバーガーのようで可愛らしかった。
一個をつまんで半分口に入れる。生地に閉じ込められていたチョコの香りがふわりと広がった。マカロン生地にガナッシュクリームが程よく溶け込んで、心地よい食感だった。
「おいしい」
「よかった」
「大井っちも食べなよ」
マカロンは一個だけ残っていた。
「いえ、私は」
「一緒に食べたほうがおいしいって」
「……じゃあ、いただきます」
大井は咀嚼している間、視線を下の方に向けていた。マカロンよりも、別の何かに意識を向けているように見えた。
「おいしい?」
「はい」
北上がニッと笑うと、大井は僅かに口元を緩めた。
「このお皿はどうするの?」
「食堂のものです。流しに置くか、返却口に置いておけばまとめて洗ってくれるそうです」
「そっか。じゃあ」
「北上さん」
大井は立ち上がった。
「もう一個あるんです」
そう言って机上の紙袋に手を入れた。
中から皿をもう一枚取り出した。
テーブルの上に置かれたことでその全容を見ることができた。
皿の上に乗っていたのはドーム状のチョコレートケーキだった。サイズは両手の指で作った円よりも一回り大きいくらい。真ん中には白いハートが埋め込まれている。その周りはチョコホイップとハーブであしらってある。
「おお……すごいねこりゃ」
昨日炊飯釜を使っていたのはこれのためだろう。見るからに作るのが難しそうで、気合の入りようが伝わってくる。
まじまじ眺めていると、大井が口を開いた。
「実は、渡そうか迷っていたんです」
「ん? なんで?」
「作ったはいいけど、大きすぎるなって。迷惑かもしれないって思ったんです」
「大丈夫だって。さすがに今日全部食べるのはきついけど、明日くらいなら持つっしょ? それに大井っちも手伝ってくれれば余裕だって」
「そう……ですね」
大井はまだ何か言い淀んでいるようだった。何が大井をそうさせているのかわからないが、なんとなく教えてもらえないような気がした。
ならせめて自分の考えていることだけでも伝えておこうと思った。
「大井っち」
「はい」
「ありがとう。すごく嬉しいよ」
「北上さん……」
その日は二人で協力して半分だけ食べた。
最初にスプーンで中央のハートを突き刺したとき、大井は頓狂な声を上げた。
「気持ちはもう伝わったから、口に入れてしまえば一緒だ」と言うと、大井はじっと割れたハートを見つめた。やがて北上と同じようにハートを突き刺して、口に入れたケーキをゆっくり噛み締めた。
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