必ずしも、皆にチョコを貰えるのはまちがっているわけではない。 (サンダーソード)
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一色いろはの場合
バレンタイン。大昔の聖人のおっさんが撲殺された事を記念すると称して製菓業界が陰謀した血塗られた日。リア充共がウェイウェイ言いながらチョコレートをパイ投げのごとくぶつけ合い、鬼は外福は内と……なんか違うのが混じったな。ともかくそんなクソろくでもない平日なわけだが、戸部の野郎は三分に一回腐り姫の方見てるし三浦は葉山をもはやウォッチメンしてるレベルだし、他の奴らもここまで酷くないにしても似たり寄ったり。煮干しの日だろ伴天連は追放しろとばかりの敵対視やガチの無関係を貫いてる親近感抱く感じの猛者もちらほら居るが多勢に無勢。この教室の浮ついた空気は全くもって辟易だ。土使いもそして必殺のボンバータックル決めちゃうレベル。
何が辟易って小町チョコレートくれなかったんだよなあ……。全くもって人生クソだわ。脳内で延々愚痴ってたらやっとの事で四時間目が終わる。途端に膨れ上がる浮薄な空気。こんなもん吸ってたら胸焼けするわ。他人の色事情とかマジで一片の興味も湧かん。早々にベストプレイスに退避させてもらおう。この真冬じゃ身体は冷えるが心が凍てつくよっか万倍マシだ。身体のカロリーと心の栄養、あったか~いマッ缶を手にいざ行かん。
× × ×
結果がこれだよ。俺のベストプレイスはあからさまに人待ち顔の見知らぬ女子に浸蝕されていた。この後どうせ呼び出しの理由を薄々察しながらもすっとぼけてるにやけ面の男子がやってくるんだろ? 余所でやれよ。くそっ、間近で堂々とバターロールぱくついててやろうか。多分砂食ってるみたいなんだろうな……。
溜息が出てくる。ベストプレイスの人気のなさが災いした。盛ってんじゃねえぞサル。無念を残しつつも開発に森を追われた野生動物のごとく居場所を求めて徘徊する。してみると立場としてはむしろ俺が猿ではないのだろうか。人里に迷い込む感じの。
「あ……先輩」
それが俺を指していることに二秒くらいかけて気付いて、のろのろとそっちに視線を向ける。小さな弁当と巾着袋を片手に携えた一色いろはがそこにいた。
「……おお」
「ちょま、なんでそのまま行こうとするんですか!」
返事だけして素通りしようとしたら、一色の空いた手にがっしと掴まれる。
「飯食わなきゃいけないし……」
「わたしだってそうですよ! 見えないんですかこのお弁当! かわいい後輩が物憂げな空気出してたら少しは事情聞こうとは思わないんですか!?」
思わないから素通りしようとしたんだしぼっちやってるんですよ? どうしようめんどくせえ……。飯食える場所早く見つけなきゃならんのに。
「どうしようめんどくせえ……。飯食える場所早く見つけなきゃならんのに」
「口に出てますよ!? どういうことですか先輩!」
「出してんだよ。病気じゃねえんだから思ったことがそのまま口に出るわけないだろ」
「最悪だこの人……」
一色は大きな溜息を吐く。奇遇ですね僕もそんな気分です。
「んで、何だよ」
「わたしも居場所がないんですよ……。ほら、今日、あれじゃないですか」
助詞の使い方に俺の居場所がないことがこいつの中で前提になってる気もするが間違ってないから何も言えねえ。
「名前を言ってはいけない日みたいになってんぞ……。煮干しの日な」
「バレンタインですよバレンタイン! 教室ではわたしからのチョコ求める男子の目とわたしを牽制する女子の目で注目の的ですし、逃げ込んだ生徒会室では副会長と書記ちゃんがラブコメやってるし……。せめてまともにご飯食べられるところはないかって思ってたら先輩を見つけたんです」
こいつもこいつで大変だな……。後半の流れがほぼ俺と同じだし。
「と言うわけで先輩、食堂行きますよ、食堂。一人じゃ難易度高すぎますけど、二人ならまだなんとかなります。仕事の会話でもしてるふりしながらちゃっちゃと食べちゃいましょう。ほら、行きますよ」
ぐいっと引っ張られる。抵抗したところで行き場があるわけもなく、逆らったところで最終的には従わされる気がしたのでそのまま着いていく。
つーか、その、一色さん? ちゃんと着いていくんで、その、手ぇ離してくれません?
× × ×
「ごちそうさまでした」
「おう」
購買パンだけで男子の俺と小さいながらもお弁当で女子の一色では当然俺の方が早く食い終わるわけだが。ごちそうさまっつってそのまま席を立とうとしたら思いっきり足踏んづけられた。だのにこいつ上半身殆ど動いてなかったからな。猫被りレベル高すぎない?
「先輩、さすがにさっきのは有り得ないです。デートに行って別々の映画を見るより有り得ないです。少しは自分の生き方に疑問持ちませんか? 持ってください」
「お前ね……。未だに足痛えんだけど? ひび入ってたらどうすんだよ」
「か弱い女の子がちょっと足踏んだくらいでそんななるわけないじゃないですかぁ」
「あれはか弱いって形容できる攻撃力じゃなかったぞ……。筋力か体重か知らんが」
「女子に体重の話持ち出すなって親御さんから教わらなかったんですか? わざとやってるんですよねそれ」
まあ多少は。だってめっちゃ痛かったんだもん。
「先輩、もう結衣先輩や雪ノ下先輩には貰ったんですか?」
「あ? 何をだ?」
「ガチで言ってるんですかそれ。チョコに決まってるでしょう」
お、おお。忘れてたが今日はバレンタインだったな。足の痛みでその辺のことがすっ飛んでた。
「いや、貰ってねえけど……。つーかもうって何だよ」
「あ、まだでしたか。じゃあわたしが最初ですかね?」
「だからまだって何だよ。人と話すときは相手の話をちゃんと聞きましょうって学校で習わなかったの」
「先輩が言いますかそれ……。まあいいです。先輩、これどうぞ。わたしの気持ちです」
そう言って、一色はお弁当の横に置いていた巾着袋に手を突っ込み、グーにして何かを取り出す。そしてその手を机越しに俺の目の前まで持ってきた。
「先輩、手を出してください」
「え? お、おう」
その握り拳の下に両手を受け皿にして差し出す。一色は拳骨をそっと開いて、俺の掌に何かを落とした。
「……チロルチョコ」
「良かったですねー先輩、可愛い可愛い後輩からチョコレートが貰えて。三倍返しは期待してますよ-。味わって食べてくださいね?」
そう言って一色は席を立ち、手早くまとめた弁当箱と空になったらしい巾着袋を持って歩き去る。
最後に一つ、捨て台詞を残して。
「それ、手作りですから」
思わず手元を確認する。まさかあいつ……。チロルチョコに手をかけようとしたところで、マッ缶の甘さがまだ口に残っている事に気付いた。念のため事前に水で濯いでおき、口の中を無糖状態に持って行く。
セロファンを慎重に開く。包み紙を見ると点になったボンドの跡。中身のチョコには細かいデコレーションが施されていた。
一口囓る。市販のそれとは明らかに違う濃厚な甘さが口に広がり、チョコとは違う甘みも感じる。断面を見ると、色彩が三層に重なっていた。
残りを口の中に放り込む。純粋に旨い。料理漫画みたいに事細かでわざとらしい感想は言えないけど、マジで旨い。あいつ、こんな特技あったのか。
後味を堪能していると、包み紙の裏に二文字『義理』とだけ食紅か何かで書かれている事に気付く。
「…………悪戯心、先走りすぎだろ」
技術の粋を凝らして作る義理チョコをわざわざチロルチョコの形に整えて包み直して渡すってお前。俺を呆れさせるためだけにどんだけ手間かけてんだ。これがわたしの気持ちですってちょっと一色さん気持ちねじ曲がりすぎじゃないんです? つーか。
「…………これの三倍返しって、どうすりゃいいんだ」
ひくっ、と。頬が引きつったのを自覚した。
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川崎沙希の場合
昼休みを終えて教室に帰る。掃除の時間だ。ちりとりを持って、クラスの誰かが操る箒の受け皿となる。このとき箒を持つのが馬鹿だとフルスイングとか言ってゴミをまき散らしてくる事もあるため気をつけなければならない。
箒を持つ人間を確認すると、クラスの誰かの川なんとかさんだったのでひとまず安心してちりとり体勢に入る。誰だっけ。川なんとかさん。
流石日常的に家事をしているだけあって、仏頂面に似合わずその手つきは丁寧だった。寄せられたゴミは全く散らばることなくちりとりにはたき込まれる。そのままゴミ箱にたたき込み、後はぞうきん掛けして机を運ぶだけだ。
「ねえ……」
「んおっ」
と、いうところで後ろから声をかけられてきょどる。いや誰だって全く予想外のタイミングで声かけられたらビビるだろ。ビビるよね?
「な、んだよ」
言いながら振り向くとそこには箒を両手で抱いた川なんとかさんの姿が。目線は明後日の方を向き、なんだか少し顔も赤い気がする。あれ、こっち見てないって事は声かけたの俺じゃなかったパターン? おい返事しちまったぞどうすんだこれ。
「ちょっと、五時間目の休み時間、屋上来てくんない」
来てくんない? と言いつつ俺の意志は聞いてないと言わんばかりのイントネーションなんだがこれは俺のコミュ力が足りないせいですかね。川なんとかさんはそれだけ言うと、振り向いて掃除に戻る。問題はあれが本当に俺に対しての発言だったかどうかがわからないことだ。俺の背後にはゴミ箱だけだから流石に無機物に対して言ったって事はなかろうが、確認し損ねた目線の先の誰かに話しかけてたとか普通にありそう。
これ俺行くべきなの? 見た目ヤンキーだけど中身あれだから呼び出されていったらボコられるってことはなかろうが、俺が行ったら何であんたがここにいんのとか言われない? うっトラウマが……。
聞こえなかったことにしてスルーした方が平和なのでは……駄目だ俺さっき返事しちゃってたわ。俺に言ってた場合あれで聞こえませんでしたは通じねえや。
とりあえず俺も掃除に戻って終わらせる。これが不自由な二択ってやつか……。
× × ×
そう思っていた時代が俺にもありました。でもこれ多分俺だわ。だって五時間目の間始終がっつり睨まれてたもん。え、俺なんかした? さすがに訳分かんなくて怖えんだけど。恨まれるような覚えはねえぞ? もう少し正確に言うなら恨まれるほどの接点がねえぞ? 脂汗流しながらの五時間目が終わって、川なんとかさんが席を立つ。五時間目の授業何聞いたのか全く覚えてねえ……。あ、でもノート取ってる。ラブリーゴーストライターが発現したのか?
川なんとかさんは教室を出る間際にまたこちらをちらっと見た。これで呼び出したのが俺じゃなかったら手が込みすぎだよなあ……。休み時間は短い。行くか。怖いけど。席を立って教室を出る間際、背中に視線を感じたのは果たして自意識過剰の気のせいだったのだろうか。
廊下を歩き、階段を上り、壊れた鍵を外して、屋上に出る。果たしてそこには彼女が立っていた。険しい顔で、射貫くように俺を見詰めている。吹く風に晒されて、その頬は紅く染まっていた。今日は給水塔まで登ってるとかはなかった様子。俺の背後で軋む音を立てて扉が閉まる。
「来たね……」
どうやら俺で間違いなかったらしい。川なんとかさんは近付く俺を半身の体勢で待っている。隠した後ろ手に何かを持っているようだが、よく見えない。警棒とかじゃなかろうな。
「なんだ?」
ある程度の距離を開けて立ち止まる。一足飛びに殴りかかってこられてもギリギリ回避できるかなって距離。一応ね。一応。
川なんとかさんは俺の問い返しに黙り込んでそっぽを向く。え、何これ。バッドコミュニケーション引いたの? でも他にどう聞けと。俺なんでここにいるのかすらもわかってないのに。
「えっと……」
川なんとかさんがおっかなびっくり口を開く。
「あの……」
だが特に意味のある文を紡ぐことはなく、もにゃもにゃと口籠もるばかり。
「その……」
授業と授業の間の休み時間は短い。時計持ってきてるわけじゃねえけど、そろそろ六時間目始まるんじゃねえのか?
「なあ、川……」
何だっけこの先。あ、崎か。川崎だ川崎。
「……崎。六時間目始まるし戻っていいか?」
「それは駄目!」
「うおっ!?」
突如大声で吠えられる。急にこっちに振り向いたせいで半身が解けて、右手に持っていたものが露わになる。茶色い大きめの簡素な紙袋が一つ。俺の視線の向きから川崎自身もそれに気付いたようで、失敗したとばかりに空いた左手で口元を悲鳴ごと押さえる。
長い一瞬の後、もうどうにもならないと思ったのか、紅くなった顔を隠すように俯いてその袋を突き出してきた。
「こっ、これっ!」
「お、おう?」
いや指示語だけで分かれって方が無茶だろこれ。これがなんだ。あるいはこれをどうしろとおっしゃるんだ。
眼前に突き出された袋を黙って見詰める。その向こうに見える川崎の顔は時間経過と共に赤くなっていく。切羽詰まった無言の時間が過ぎる。身を削るような時間に耐えていると、川崎がぷるぷる震えだした。大丈夫? 息してる?
「これ……」
「おう……」
ぽす、と袋を弱々しく胸元に押しつけられて、つい手に取ってしまう。川崎はようやく安堵したように力を抜いてパトるもとい大きく息を吐く。思わず受け取っちゃったけど、これくれるってことでいいんすかね? 俺も大概人のこと言えねえけど、ちょっとこの子のコミュ障レベルは他人事ながら心配になるレベルだわ。未だに意図を計りかねてる。
「……で、これ、何?」
一応受け取ったけど、これ受け取っていいんだよね? 間違いないよね? って意味の確認も込めて聞いてみる。大仕事終えたような安らかな顔してた川崎ははっとしたように改めて俺を見た。何? マジであれで説明終わらせてたつもりだったの?
「あ……けーちゃんが……えと、塾のお礼とか……バレンタインだし……」
なんかもうしどろもどろになってて、何が言いたいのかよく分からん。単語だけを拾ってくと、バレンタインにけーちゃんが俺にくれたって事か?
「おい川崎、伝わらん。落ち着け。まずこれ、くれるって事でいいのか?」
「あ、うん……」
俺からクローズドな質問したらようやっとメダパニも解けたようで、ほうっと息を吐いて頷いた。
「その、塾のスカラシップのこと教えてくれたお礼……。あれがなかったらあたし……。あと、作ってたらけーちゃんが何してんのって……。お礼のチョコ作ってるって言ったら、けーちゃんもはーちゃんに作ってあげたいって……。だから、あたしと一緒に作って……バレンタインだったからお礼にはちょうどいいし……」
言いながら視線を彷徨わせたり、ポニテを弄くり回したり、落ち着かない。が、ようやく話の筋は掴めた。なんか動機と行動の時系列が錯綜してて本音が見えにくいが、まあお礼っつーんならお礼なんだろ。
「……別に、仕事だしな。礼も何も必要ねえよ」
「あたしが! ……助かったと思ったからお礼したんだよ」
一瞬大声で返されて無様にびびる。だから迫力あるんだよお前。
「……それに、仕事したのは俺だけじゃねえだろ。雪ノ下と由比ヶ浜だって……」
「……けーちゃんが作ったのはあんたに対してだよ」
……だったらけーちゃんの分だけ分けておきゃ良かったんじゃねえのかね。素朴な疑問が頭に浮かぶがもう見た目にいっぱいいっぱいの川崎に聞くのは憚られた。
「それに……愛してるって……」
「あいし?」
なんぞ独り言か分からんレベルの呟きを拾い聞いて問い返す。何つった今こいつ。相知って?
「ッ!!? 何でもない! とにかく渡したから!」
「えあ、ちょ」
川崎は一瞬でまた真っ赤になって校舎にダッシュで飛び込んでいく。と、同時に六時間目の授業開始を告げるチャイムが鳴った。
「あ……」
六時間目は……よりによって現国じゃねえか。真っ赤になって教室に飛び込む遅刻した川崎と、更に遅れて入っていく俺。手にはお礼なれどチョコレート。そして今日はバレンタイン。駄目だ、抹殺のラストブリットまで見える。
憂鬱に押されて大きな溜息が一つ出る。袋を開き中を見ると、二種類のトリュフチョコの詰め合わせ。綺麗に整えられた、あるいは泥団子のように丸められたそれ。きっと台所で並んで作っただろうその微笑ましさに笑みがこぼれる。一つ口の中に放り込むと、じんわりと体温で溶けて甘さが広がる。どっちを食ったかは……ま、言わぬが花ってやつか。
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相模南の場合
A.ただじゃあ素直に渡してくれないし受け取ってくれないんですこいつら。
六時間目を受けるのは諦めて、保健室に逃げ込む。以前一度仮病を使ったときはバレなかったが、今回は果たしてどうだろうか。……あの時はバレなかった分だけ後で酷い目に遭ったからな。
畜生働きならぬ社畜働きした文化祭のことを思い出しながら保健室の扉を開ける。回転椅子に腰掛けた養護教諭がくるりと回ってこちらを向く。
「あら……どうしたの?」
「ああいえ……ちょっと調子が悪くて……」
「ふーん……? ちょっと見せてみなさい」
黙って近付く。前回はこの目のせいでじゃないおかげでチェックをくぐり抜けたが、今回はどうだろうか。
「駄目そうね。ここに記名して、そこのベッドで休むといいわ。今もう一人、隣のベッドで休んでる子がいるから静かにね」
ザルだった。大丈夫なんですかこの養護教諭? とりあえず記名だけはさらさらっとしておく。ベッドの方に目をやると、カーテン越しに薄い影が動いているのが見えた。
「ところで、その袋は?」
左手に提げた紙袋を見咎めて問うてくる。いえ、ゲーム持ち込んで保健室で遊ぼうなんて考えてないですから。本当は授業に出るつもりだったんです嘘じゃないんです。サボりは本当だけど。
「……解熱剤と水筒が。ちょっと朝から調子良くなかったんで、一応……」
「あら、そうなの。必要になったら保健室で処方するから、次からは持ってこなくても大丈夫よ?」
信じちゃったよ。さすが俺、内心の生真面目さとか誠実さとかそういうのが滲み出ちゃってるんですかね? あ、今脳内雪ノ下が一秒間十六連射で悪口雑言を投げてきた。
「ゆっくり休んでなさい。先生この後ちょっと職員室に行かなきゃいけないから、誰か来たときにもし起きてたら軽い対応だけお願いしていい?」
「はあ……」
だが断る。と言いたいところだったが、騙して潜り込んでる引け目もあって曖昧に頷いておく。この比企谷八幡が最も好きなことの一つは俺以外が働いているときに一人だけ休んでいることだっ……!
「ありがと、じゃあお願いね」
そう言って養護教諭は出て行った。それを背に軽い音を立ててベッドを遮るカーテンを引くと。
「…………」
「は……?」
何故か奥の方のベッドのカーテンの隙間からじっとこちらを窺っている、相模南と目が合った。
× × ×
あれから、十分が経過した。
「…………」
「…………」
き・ま・ず・い! ねえ何でこいつここにいんの授業どうしたのサボってんなよちゃんと受けろよ!
お互いに何でこいつここにいんの的な空気を発しながらも何も喋らず相手の出方を窺うような沈黙だけが流れていく。双方無目的なだけにさっきの川崎の時の数倍はきっついぞこれ。
普段ならお互い寸毫ほども気にせず素通りする関係なのに、この距離でベッドで寝てるって事が大分あれなのとなんか知らんが今日は相模がカーテンの隙間を閉めずにこっちじーっと見てんだよ。ホラーかな? 閉めようにも俺が相模との境界を遮ってるカーテンに手をかけたらその時点で悲鳴上げられてアウトだろこれ。
体調悪いですって事でここ来たんだから、養護教諭帰ってきたときにいなかったらサボりだってバレるだろうし八方塞がり。
こいつの蛇みたいな眼、苦手なんだよなあ……。
「ぐぅ……」
「…………」
いびきじゃねえよ? なんか腹の底から絞り出されるような苦鳴が出てきたんだが。これこのまま一時間もいたら胃に穴空くんじゃねえか……?
つーか相模いつから保健室に居たんだ? 全く興味ないから気付かな
「ねえ」
「うおっ!?」
考え事の途中で全く予想外の、ってこれ川崎の時もやったな。だからびびるっつってんだろやめろよ。
「……何キョドってんの」
「……声かけられるとは思ってなかったんだよ」
だがなんだかんだで針を仕込んだ真綿で首を絞められるようなストレス性の時間は終わった。何考えてるかも分からず監視され続けてるよりは多分ずっと気は楽だ。
「……ねえ、あんた。それ、何?」
「あ?」
相模の目線は川崎から貰った紙袋を向いていた。さっきの話聞いてなかったのか、信じてなかったのか。
「……解熱剤と水筒だって言ったの、聞いてたんじゃなかったのか?」
「嘘でしょそれ。飲んでないじゃん」
そりゃそうだ。わざわざ朝から調子悪いとか言って保健室まで持ち込んだんなら普通に寝る前に飲むわ。
「……まあ、貰いもんだ」
「……バレンタイン? 結衣ちゃんから?」
「……なんで由比ヶ浜の名前が出るんだよ」
「……じゃあ雪ノ下さん?」
「だから……」
溜息が出る。頭をがりがりと掻きむしる。何だって俺こいつとこんな会話してるんだろう。
「……どっちでもないのに、バレンタインなの?」
こいつの中で俺とあいつら一体どんな関係に見えてんだよ。
「そもそもバレンタインなんて……」
「バレンタインでしょ? あんたさっき結衣ちゃんの方にだけ引っかかってバレンタインはスルーした」
「…………」
喉奥から唸り声が漏れる。なんだろう、イメージ的に蛇にするすると巻き付かれてるみたいな感じが。
「別に誰からだっていいだろ……」
「……………………まあ、そうだけど」
などと口では言いつつ、ものすっげえ不承不承が伝わってくるんだが。何? 何がそんなに気になってんの?
「……以前の礼だっつって貰ったんだよ。奉仕部絡みで」
「ふーん……?」
やっぱり口では適当に流しつつも、かなり表情が和らいで見えるんだが。マジでどうしたんだこいつ。
「それがどうかしたのか」
「ん……別に……」
そう言って黙り込む相模だが、やっぱり視線は俺から外れない。さっきの針の筵ベッドで寝てる状態よりは会話した分だけマシになってるが、それでも据わりが悪いことに変わりはない。
「…………」
「…………」
とはいえ十分耐えられる程度にはなっているので、もう気にせず寝ることにする。眠れはしなかろうが、目を閉じてれば寝てますアピールは出来るし相模の視線が気になることも
「ねえ」
「っ! ……なんだ」
ないと思ったのに何で話しかけて来てんのこいつ。ぼっちのATフィールドこじ開けてくるとか、もう少し配慮ってもんを持とうぜ?
「……だから何でキョドんの? つーか何で人と話してる最中に寝ようとしてんの?」
「…………」
え、話ってまだ続いてたの? 別にで終わったもんだと思ってたよ。リア充の会話って分かんねえな。
「……あのさ」
「……なんだ」
相模がようやっと俺から目線を外し、かけられてた重圧が解除される。こいつ魔眼使いか何かなの? 相模はカーテンの切れ間から引っ込んで、見えるのはモノトーンの薄い影がごそごそやっている姿だけとなった。
お前保健室のベッドで何やってんだ……? と思ったら、またカーテンの切れ間から顔を出して、じっとこっちを見詰めてくる。
「……その」
「……おう」
何だろう、相模の顔が引っ込む前に比べて、少し赤くなっている気がする。緊張しているのだろうか? 相模は深呼吸をして、またこっちをじいっと見る。
「…………その、ね」
「……ああ」
「…………………………………………これ」
「……ああ?」
またも会話が終わったのかと思うほどの長い沈黙を経て、帳の向こうから身を乗り出した相模は躊躇いながらも何かを差し出してくる。突き付けられたそれを見ると、またも紙袋。小さめでカラフルなストライプに彩られ、半透明な赤色のリボンで結ばれたそれは、川崎の紙袋とは明らかに毛色の違うものだった。
「…………これ、が、どうした?」
「……………………見た目の感想を聞いてるとでも思うの?」
思わねえけど、お前が俺にプレゼントってのも同じくらい思いがたいと思わねえの?
「……………………プレゼント、よ」
「…………お、おう」
プレゼントだった。いやそもそもこの状況自体が今朝の俺に言っても鼻で笑って歯牙にもかけないレベルに有り得ないんだけども。
突き出された紙袋におそるおそる手を伸ばすと、その手に紙袋を押しつけられた。かすかに触れた手は柔らかで温かく、そういえばこいつも女子だったんだって事に今更ながらに気付かされた。
「え……なんで……?」
「……………………あんたのそれ、お礼、って言ってたよね」
カーテンの奥に戻った相模は俺たちの間に横たわる隙間をベッドの間隔分まで広げ、眼だけで川崎の紙袋を示す。
「あ? ああ……」
「……じゃあうちのはお詫び、だわ」
「詫び……?」
相模に似つかわしくないその単語に、思考が一瞬停滞する。相模が? 俺に? 何で?
「……………………あんたどうせうちがやったこと、知ってんでしょ」
相模と俺の接点となると文化祭か体育祭か。そこまで考えたところで、保健室に来る前に思い返してた文化祭の記憶と繋がる。この言い方だと本来俺が知らないだろうことを知ってるってことだよな。
やったことっつーか仕事しなかったことは目の当たりにしてたし、嫉妬から雪ノ下の足引っ張ったときもそこで見てたし、逃げ出したときのも俺が追い返したから当然知ってるし、体育祭でやらかしてハブられてたことも逆切れしたことも同じ場所に居たんだからお互い分かっている。
「……何のことだ?」
「っ……! あんたはまたそうやって……! うちがあんたの悪い噂広めてたの、知ってるんでしょ!?」
「…………あー、あー」
思い出した。くっそ、珍しくちゃんと忘れられてたのに何で思い出させるんだよ無駄に掘り起こしやがって。そっとしておいてくれよ布団で泣いたことまで思い出しちまったじゃねえか。
「……で、これが、詫び?」
受け取ったまま固まっていた右手を揺らし、その手に持った紙袋を示す。
「…………別に、そんなので許して貰えるなんて思ってないわよ」
拗ねたように、あるいは諦めたようにそっぽを向く相模。……もう割とどうでもいいんだがなあ。確かに当時は辛いと思ったが。……何より、分かってくれた人はいたのだ。悪いだけの記憶では、ない。
「……………………あんたが葉山くんを焚き付けてくれなかったら、うやむやにあんたに押しつけることすら出来なかったのにね」
その面貌に浮かぶのは、後悔……なのだろうか?
「いや、それは……」
「あんたうちのこと馬鹿だと思ってない?」
閉口する。まあ、多少はね?
「……実際、気付くのにも大分時間が掛かったから、胸張って違うとも言えないけど……。……違うわね。気付きたくなかった、のよね」
へらっと軽佻に笑う。口の端から糸切り歯が覗くが、その鋭さが普段こいつに対して抱いてる蛇のような印象にはどうしてか繋がらなかった。
「ねえ、何であんなことしたの?」
「……お前が戻らねえからだろ」
「にしたって力尽くで連れ帰ったっていいし、それこそ投票記録だけ持って帰ったって……そもそもうちが槍玉に挙げられたってあんた困んないでしょ?」
そりゃあ、そうだが。ぶっちゃけ相模がどうなろうが俺の知ったことじゃない。
「何で……ううん、あんた、誰のためにあんなことしたの?」
「……………………」
「こっち、見てよ」
「ふー……。仕事、だったからだよ」
「…………うそつき」
その言葉がちくりと刺さる。ああ、確かにあの依頼は俺が受けたものじゃなかった。倒れてまで自分を貫いた彼女の生き様を完遂させるため。あるいは、こいつの心底くだらない子供じみた我が儘でそれが邪魔されるのが我慢ならなかった俺のエゴ、と言い換えていいかもしれない。
相模は小さな嘆息をしてからまたも浮薄にへらりと笑い、右手に乗った紙袋をゴミでも見るような目で眺める。
「食べてくれるのが一番だけど……。捨てたり、踏み砕いたりされても文句言うつもりはないわ。それすら面倒ならこの場で突っ返してくれてもいいしね」
卑屈な笑みで自嘲する。その笑い方は俺の中のこいつらしいものだったが、平行する捨て鉢さは……いや、これも体育祭準備終盤の時のものに近似している、のか?
「……まあ、出来ることなら捨てるならうちの見てないところでやってくれたら、とは思うけど。なんなら丁度ベッドの上だし、消えない傷痕でも刻んでみる? 今なら抵抗しないかもしれないわよ?」
増える口数は不安の表れ、なのだろうか。気のせいなのかも分からない。だが、今の俺にはこいつが脆く見えて仕方ないのだ。軽く押せば砕けるほどに。
「ああ、それともあんたには必要ないかしらね? こんなどうしようもない女なんかわざわざ使わなくても、もっと可愛くて性格もいい……」
軽い擦過音を立てて半透明な赤色のリボンを解き、綺麗に折り畳まれた口をがさごそ言わせながら丁寧に広げ、中に納められたチョコレートを覗き込む。そこには小さめのガナッシュが詰められていた。
そのうちの一つを指先でつまみ、掌に載せる。相模は食い入るように俺の掌を見詰めている。のべつ幕なし続いていた長広舌もいつの間にか止まっていた。
そして改めてガナッシュをつまみ上げ、食べたことがはっきり見えるように囓る。ほろほろと口中でほぐれ、速やかに甘みが広がる。張り詰めた相模の表情も、囓った残りを口に放り込む頃にはほぐれていた。
「……旨いな」
「っ! …………そう」
そこに広がるのは、安堵なのだろうか。
俺をじっと見ることも、縦に瞳孔が裂けたような眼も、相模南を構成するパーツは何一つ変わってなどいないのに。その蛇のような眼は、もう気にならなくなっていた。
「なあ」
「っ、なに」
「……何できょどってんの」
言ってやった言ってやった。ほらなやっぱきょどるんだよ声かけられたら。
「……悪かったわよ。声かけられるとは思ってなかったのよ」
少しばかり疑問に思ったことを聞いてみることにした。
「お前、何でここにいんの?」
「っ! …………そうね、ごめんなさい。すぐ、消えるわ」
「ばっ、違えよそういう意味じゃねえよ! お前、あんま調子悪そうにゃ見えねえから……」
「えっ、あっ……仮病じゃないわよ。…………あんたに、それ渡すこと考えたら、なんか、おなか痛くなって……」
それストレス性の胃痛じゃねえのか。どんだけ気に病んでたんだこいつ。
「……じゃあ、何で保健室までこれ持ち込んだんだ? 俺が来るって分かってたわけじゃねえだろ?」
カラフルな紙袋を揺らして示す。俺がここに来たのは完全な偶然だ。この一連の流れを読んでたとか言ったらそれはもう完全にエスパーの領域。
「そりゃね……。でももしかしたらどこかで渡せるかもしれないって思ったから、一応持ってようって……」
「……お前、俺がここに来なかったらどうするつもりだったんだ?」
「…………家帰ってゴミ箱にチョコレートプレゼントして寝て起きて、明日からいつも通り過ごしてたかもね」
「…………」
自嘲と自棄を色濃く含んだ笑みが形作るのが、今の相模なのだろうか。
その笑みを引っ込め、代わりに痛ましげな笑みを浮かべて俺を見る。
「…………ひどいこと、したわよね」
痛むような、あるいは悼むような口調で相模は後悔を吐き出す。いっそ懺悔と言っていいのかもしれない。
「……あんたみたいな最底辺相手なら何してもいい、って思ってたのよね。……そんなわけ、ないのに」
「お前、変わったな……」
今の相模を見て、その言葉は自然と口からこぼれ落ちた。その短い言の葉に相模は一瞬泣きそうに顔をゆがめ、すぐさま伏せて表情を隠す。
「ちょ……やめてよ……。そんな……そんなの……」
人は簡単には変わらない。殆どは痛みを伴う経験を経ての拒絶反応がそう見せているだけ。それはきっと事実だ。少なくとも俺はそう思っている。だが、それでもこいつは変わったと、そう思う。
「…………変わんないわよ。うちは、うち。あんたと違って、最底辺の住人よ」
「…………そーかい」
啜り上げるような息遣いと震える声。それに平然と突っ込めるほど俺の心強かねえよ。
相模は時間をかけて息を整え、俯いたまま帳の向こうから声をかける。
「…………うち、放課後まで休んでるから。一緒に戻って変な勘繰りされたくないでしょ。あんた、六時間目終わったら先戻りなさいよ」
そう言って、相模はカーテンに手をかける。二人を一時的に繋いでいた隙間が閉じていく。
「……おう」
「…………ありがと、比企谷」
最後の刹那、相模のあの眼が俺をじっと見詰めたままにそう言った。
正しく呼ばれた自分の名前に不意を打たれ、反応が遅れる。いや、それで不意打たれるのもどうなのって感じだけど。……あいつ、俺の名前知ってたのな。
もう一度、小さな紙袋を開いて小さなガナッシュを口に放り込む。
溶け広がる甘みが心地よく、いつしかこの部屋に降りる沈黙もそう悪いものではないと思えるようになっていた。
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海老名姫菜の場合
あの後帰ってきた養護教諭を狸寝入りでやり過ごし、チャイムの音で起き出して教室に帰る。ホームルーム前の喧噪に紛れ、ごく自然に戻れたと思う。相模袋は川崎袋と自分の身体の間に隠して誰にも見えないように持ち運んだ。なんとなく、なんとなくね。
ベッドを降りる間際、相模は『……雪ノ下さんに、ごめんって。……お願い』と、消え入るような声を帳越しに投げかけてきた。養護教諭が居たために返事は返せなかったが、まあ、何? 奉仕部への依頼。つまり仕事だしな。仕方ないだろ。
鞄の中に二つの紙袋を仕舞い込み、鞄のお口にチャックしたところで調子っぱずれな声をかけられた。
「やあやあヒキタニくん、重役出勤ご苦労様だねえ」
「……」
ゆらゆらと歩いてくるのは海老名さん。五時間目までいたよね俺? あ、覚えてないですかそうですか。まあ陰薄いもんねしょうがないね。ところで誰かなヒキタニくんって。
「ヒキタニくん、サキサキのチョコは美味しかった?」
「…………」
ブラフだ。これぜってえブラフだ。努めて反応を消してうんざりした眼で見返すも、壁際の川崎が大音鳴らして椅子から滑り落ちそうになってたので俺の努力に意味はなかったかもしれない。
「いやー、罪な男の子だねーヒキタニくんは! そんなヒキタニくんには罪状追加のプレゼント-!」
「…………はっ?」
そう言って、海老名さんは小さく半透明なビニール袋をシュバッと突き出す。対する俺は豆鉄砲食らった鳩ぽっぽ。
「…………は?」
「ぶふっ……ヒキタニくん、そこまで面白い反応してくれるとは思わなかったよ。それだけでも作ってきた甲斐はあるかも」
「え……いや、はっ?」
思わず葉山グループを眼で探してしまう。戸部は両手でこれと同じものを大事そうに持ちながらも、呆気にとられた顔でこっちを見てる。大和と大岡も同じものを手にして、戸部と海老名さんを見比べている。なんと葉山もそれを手に、苦笑いを浮かべて俺を見ていた。
「ぐふふふふっ……。ヒキタニくんにチョコをあげる女の子を見て嫉妬の炎に身を焦がす隼人くんにとべっち……。そんな二人を更に後追う大和くんと大岡くんの視線……。キキキキキマシタワーッ!」
三浦はこっちを気にするどころじゃないらしく、真っ赤な顔して荒い呼吸で左手には半透明のビニール袋、右手では自分の鞄を強く握りしめている。そして、由比ヶ浜は……。
「と言うわけで、ヒキタニくんにもぎりぎりの義理チョコをプレゼント! 味わって食べてね?」
…………予想外に、と言うべきか。凪いだ瞳で俺たちのやりとりを眺めていた。俺と視線が合ったのに気付くとはっとした表情で一瞬目を逸らして、すぐに取り繕ってぎこちなく笑いかけてくる。その笑顔から反射的に俺の方が眼を逸らしてしまう。逃がした先、やはり由比ヶ浜の手には同じ袋があるのが見えた。
「……いやあ、ヒキタニくん。さすがに義理とはいえバレンタインチョコくれる女の子が目の前に居るのに余所見はないんじゃないかなあ」
半分聞き流してたが、バレンタインチョコって言葉に意識が引き戻される。今日ちょっといろんな事ありすぎてその単語に対してかなり敏感になってるな。
「……えっと、何で?」
「やーだなー、ただの義理チョコだよ? そんな深く考えることないよね! と言うわけで、ヒキタニくんにもぎりぎりの義理チョコをプレゼント! 味わって食べてね?」
『も』、ね。その助詞を聞かせたい相手はきっと何人も居るのだろうが。それ以前にその答え、チョコを配る理由になってねえよ。深く考えるなって言ってくるのは大体深く考えなきゃいけない相手だからね?
「なあ、何で?」
「ただの友チョコだってばー。とべっちや隼人くん、優美子にだってあげたしさ。こんなの、普通でしょ-? なんならヒキタニくんも隼人くんにあげていいんだよ? ホモチョコ。チョコがないなら私が用意するし」
……ああ、それか。ただの友チョコなら、と。三浦の援護射撃に使ったのか。グループ内でそういうことをするのは自然だ、なんて。葉山に受け取る理由をくれてやって三浦の背中を押すために。
それでも、やはり分からない。海老名さんはそもそもこういう行為そのものを遠ざけたがっていたのではなかったのか。何でだろ。戸部への牽制? あとついでにグループ外の俺に渡す必要ないよな? 更に言えば俺たち友達じゃないよね? 友チョコて。
怪訝な顔と半眼を向けていると、海老名さんは笑顔の質をそっと硬質に切り替えて。
「もう、クラス替えも近いからねー。進級したらまた色々変わっちゃうだろうし、その前に、思い出作りとか?」
……なるほど。今度こそ合点がいった。つまり、リスクリターンの天秤をそこにぶら下げたのか。進級で葉山グループが全員同じになる可能性は極めて低い。……低いよな? 確率とかいう数学見た目にわかりづれえんだよ。ともかく、低いはずだ。そして、ばらけた後もなお同じメンバーで居られるほどの結びつきもまたないはずだ。そんなものがあれば三浦は奉仕部には来なかった。だからこそある程度は壊れることを前提に、リスクの低くなった賭けに出た。元より修学旅行の時点で蟻の一穴は空いていたしな。となると、俺に渡そうとしているこれは迷彩と状況をコントロールするための布石、ってところか?
いやー、ほんっと性格悪いこと考えるよなあ。腐敗っぷりは健在か。彼女も、俺も。千葉村で平塚先生に言われたっけか。そんなことを考えつく時点で最低だよ、って。
俺の表情から得心を感じ取ったのか、改めて海老名さんはビニール袋を突き出す。中には何かを芯にチョコをかけて固めたようなお菓子が幾許か。
「と言うわけで、はい! ヒキタニくんにもプレゼント! 私特性の義理チョコ四ピース! お返しとかは特に要らないから、味わって食べてね?」
「そう言って本当に渡さなかったら村八分にするんでしょう? ……アリガトウゴザイマス」
「よくそこまで平坦に言えるねえ……練習した? ま、いいや」
そう言って海老名さんは背を向け。
「平塚先生から伝言、『誰か比企谷に伝えておいてくれ。いい度胸だな比企谷。放課後、奉仕部の前にまずこちらに寄りなさい、と』だってさ」
最後に爆弾置いて歩いて行った。……ところで誰かな比企谷くんって。海老名さんが話してたのはヒキタニくんじゃなかったの?
世の無常に嘆いていると、入れ替わりに戸部が真剣な顔っぽいもの浮かべて歩いてきたが興味はない。机に突っ伏してげんなりしていると、遠慮がちに肩を揺すられる。
「な、な、ヒキタニくん。ちょっといい?」
戸部にそんな気遣いが出来たことが意外でつい起きてしまう。他意はない。うんざりを視線に載せて起き上がると、片手に海老名袋を持った戸部が立っていた。知ってた。
「…………何?」
もう告白のサポート依頼終わったよね? 出来ればお前らの色恋沙汰にこれ以上巻き込まないでくれるかな? って意志を溢れんばかりに載せてるつもりだけど全く通じている気がしない。お前ら普段あんだけ非言語コミュニケーション自由に使ってんのにどうしてこういうときだけは通じないの? 俺とはプロトコルが違うわけ?
「あー……、そのな? またか、とか、今更、とか、言われっかもしんねーけどさ」
いつも花丸脳天気な戸部がなんか珍しく言い淀んでる。忙しない挙動で襟足をばさばさやったりきょろきょろしたり、鬱陶しいなこいつ。視線を落として突っ伏すと、戸部の持つ海老名袋が目に入る。ぜってえこれ海老名さん絡みの話なんだろうなあ……。
それでもちょっとするとぴたりと落ち着いて、軽く呼吸を整える戸部。
両の手を俺の机について、ニッと笑って俺の目を覗き込んできて。
「負けねーから」
それだけ言って、自分の席に戻っていく。……あの馬鹿、ここが教室って事忘れてんじゃねえのか。見なくても分かる。海老名さん絶対見てたろこれ。
溜息が出る。何で他人の色事に巻き込まれてるんだよ。ああ、修学旅行の自業自得か。もういい、折角だ。一個くらい意趣返ししたってバチは当たらんだろ。
「戸部」
「うえっ!?」
呼び止められるとは思ってなかったのか、頓狂な声を上げて戸部が振り向く。ほら見ろやっぱりトップカーストだって急に声かけられたらきょどんだよ。
「え、な、何よヒキタニくん?」
黙って海老名さんから貰ったビニール袋を掲げ、指差した。戸部が右手に貰った袋を視線で追いながら。さすがにボディランゲージは通じたのか、疑問顔の戸部が自分の海老名袋を目の高さまで持ち上げる。
「お前、数は数えられるか?」
「は? いや……え?」
まあ数学学年最下位の俺でも算数くらい出来るんだから問題ないよな。戸部は暫く俺の顔と二つの海老名袋の間を忙しなく見比べる。そのうち何か気付いたように考え込み、自分の貰った袋をばっと見て。
「おおおおおおおおっ!!」
うるさい。戸部うるさい。雪ノ下も言ってたぞうるさいって。
「サンキューヒキタニくん! 愛してるぜッ!」
「ぶふっ!」
おい馬鹿やめろ。教室の一角で流血沙汰が起きてんだろ。まして今はおかんが機能不全起こしてんだから。
そんで、願わくばもうこれ以上俺を巻き込んでくれるな。お前らは勝手によろしくやっててくれ。
そんなことを思いながら机に突っ伏す。四の次の数字が数えられることを証明した戸部は、ホームルームに来た担任にやかましいと厳重注意されていた。ザマミロってやつだ。だからにやついてんじゃねえよ、全く。
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平塚静の場合
ホームルームが終わり、気が進まないものの行かなきゃもっと酷いことになるのが目に見えてるので平塚先生の元に赴く。溜息を吐いて職員室の扉を開く。
「……失礼しまーす」
全身に倦怠感を漲らせ、平塚先生のデスクまで十三階段を上る心持ち。ニコニコ顔で待ち受けている平塚先生が命を刈り取る形に見えるのは気のせいですかね。
「来たか、比企谷」
「あの、体罰なら早めに済ませていただけると……」
注射とか歯医者とかって待つ時間が一番嫌だよね? きっとこれは俺だけじゃないはず。
「ん? ああ、そうか……。いや、他の生徒の手前ああは言ったが、今日はただ君と少しばかり話したかっただけだよ」
「へ?」
なんか思わぬ方向に話が転がった。平塚先生は鞄を片手に立ち上がる。
「奥に行こうか」
そうして通されるのは幾度目かの応接室。目で促されるままにソファに座る。クリスタルガラスの灰皿には、煙草の残骸が少々入っていた。
鞄から煙草の箱とライターを取り出し、トトンと叩いて迫り出した煙草を直接咥えて火を点ける。流れるような一連の動作。
「……かっこつけてますね」
「ああ、その通りだよ」
いつかの橋の上でのやりとりを思い出して少し言葉を換えて茶化すも、ニッと笑う平塚先生が本当にかっこよくて反応に困る。だからこの人生まれる性別間違えてないの? 男だったら入れ食い状態でモテてそう。
煙を吐き出しケースとライターを懐に仕舞った平塚先生は、煙草を手挟み口を開く。
「川崎がな、六時間目の授業に遅刻してきたよ」
「はあ、そうですか」
努めて平静に言うものの、まるまるお見通しなんだろうなあという諦観はなくもない。ちょっと川崎さん正直者すぎません?
「軽い注意だけして授業は受けさせたが、全く頭に入っていないようでな。悪戯心にあれを指したらどうなるのかとは思ったが……まあ、自重したよ」
くくっと笑って煙草を咥える。先端を赤熱させながら大きく息を吸い込み、細く長く煙を吐く。
「青春しているじゃあないか」
「……なんの、ことでしょう」
何でこの人はそんなことを嬉しそうに言うかねえ……。
「もう、由比ヶ浜からは貰ったのか?」
「……何をですか?」
「皆まで言わせたいのかね? バレンタインのチョコレートだよ。雪ノ下は早くて放課後だろうしな」
「……どうして誰も彼もがその二人の名前を出すんでしょうね」
「皆まで言わせたいのかね? つまり君たちを見ている者であれば、誰も彼もがそう思うということだ」
「…………」
「さて、君にそんなことを言うような相手と状況を考えれば、川崎の他にも貰っているというわけか。君のことだ。貰ったチョコの数を競い合う、などと言う真似はしなかろう?」
そりゃそんな悪趣味なんてしませんけどね? こうも簡単に見透かされるのは年の功かねえ……。
「何、身構えるな。聞かれたくないならそこまで詮索する気はないよ」
そう言ってまた嬉しそうに煙を吐き出す。吐かれた煙に巻かれてる気分だ。
「……それで、その。結局何の用だったんでしょうか……」
「だから言っただろう。君と話をしたかっただけだと。まあ、些細な用ならもう一つあるが……」
そこで言葉を止めて、煙草をクリスタルに押しつけ。
「比企谷。私は、嬉しいんだ」
平塚先生は、とても優しい目で、俺を見た。
「君が今日貰ったそれは、君が歩いた軌跡の結果だ。君の行動は確かに周囲に影響を与えているんだよ。君は認めようとはしないかもしれんがね」
……認めようとはしない、か。何もなければそうだったかもしれない。だが、俺の鞄の中には確かな物証がある。今まで生きてきた十七年、母ちゃんと小町以外に貰った事なんて一度たりとなかったのに。
「君は変わった。私が太鼓判を押すよ。雪ノ下や由比ヶ浜も同様だ。君たち三人は、奉仕部の本懐を果たしたのだ」
「…………」
「なあ? 嬉しくもなろうというものさ」
そう言って平塚先生はウィンクを飛ばす。
いつかに言われた。奉仕部は自己変革を促すための場だと。
それだけの環境を整えるのに、この人はどれほどまでに尽力してくれたのだろう。
生徒だけでは取り切れない責任の所在。よくもまあこんな問題児たちのためにそんなものを背負う気になれたものだ。
「……ニートの子供が更正した母親みたいな言い回しっすね」
「全方位に喧嘩を売るな君は……。そんなに一発欲しいなら入れておくか?」
「いえ、遠慮しておきます。……こんな問題児に、そんな手間かけても見合わんでしょうに」
「以前言わなかったか? 私は依怙贔屓するんだ、と」
平塚先生はくつくつと笑う。腹の中まで見透かされてる気がして、どうにも目が合わせられない。
「まあ……聞いた覚えはありますね」
「だから、諦めて依怙贔屓されていなさい。何、きっと悪いようにはしないさ」
そんなことはもう十分理解している。分からされ続けてきた。俺は一体どれだけのものをこの人から貰ったのか。
「じゃあ、そう、しますよ。諦めるのは慣れていますからね」
「慣れと惰性で諦められないものを手にするのは、いいものだろう?」
「…………さて、恐ろしいと思っていたんですがね」
取り返しの効かないものなんて。でも、一度手にしてしまったらもう手遅れなのだ。手放せないのだから。
……手遅れなのだ。本当に素晴らしいものだと、思い知ってしまったのだから。
「……お話は終わりですか? なら俺そろそろ……」
「ああ、引き留めてしまってすまないね。だが、まあ。私は満足したよ」
そう言って立ち上がる平塚先生の笑顔が、またどうにも直視しがたいものがあって。
「さて、些細な用も済ませてしまおうか。…………比企谷」
「なんすか」
「受け取れ。義理チョコだ」
「はっ?」
そう言って平塚先生は鞄から取り出した重量感のあるビニール袋を俺に突き出す。
「え、いや……え?」
「三人前入っている。受け取りたまえ」
応接室のローテーブルを回り込んでトンと胸元に置かれる拳から、ビニール袋を両手で受け取る。
「うむ。雪ノ下と由比ヶ浜にも渡しておいてくれ」
「……自分で渡せばいいじゃないですか」
「いや、今日の奉仕部に立ち寄るつもりはないよ。今日は君たちの時間であるべきだろう。安心したまえ、万一依頼が来ても明日に回すから」
俺に義理チョコを渡し終えた平塚先生は、鞄を持って応接室を出て行こうとする。
「あの……」
なんとなく、それを呼び止めてしまっていた。特に何か言いたいことがあったわけでもなかったのに。
「なんだ?」
振り向いて、問いかけてくる。その疑問顔と手の中の重みが、質問を頭の中で組み上げていた。
「…………いいんすか。教師がこんな事して」
「良くはないさ。だから、諦めて依怙贔屓されていなさい」
「…………うす」
今度こそ平塚先生は出て行った。……俺も行くとしよう。
既にチョコや教科書で普段より膨らんでいた鞄の中に、化粧箱三つは入りそうになかった。
平塚先生の依怙贔屓は、ビニール袋のまま二人の元へ運んで行くこと決めた。
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奉仕部の場合
それにしてもただいちゃつかせるだけのつもりだったのにどうしてこうなったんだろう。
慣れ親しんだ扉をノックもせずに開く。二人分の視線に出迎えられた。
「うす」
「やっはろー、ヒッキー。……遅かったね」
「……こんにちは」
どうしてだろう。由比ヶ浜の元気が普段より割引されているように思える。雪ノ下の反応も心なしか鈍い。お団子を弄ったり、忙しなく視線を彷徨わせたりする由比ヶ浜を入口に突っ立ったまま見てると、由比ヶ浜は焦れたように口を開いた。
「……ね、ねえヒッキー。そのビニール袋ってさ……」
「あ、ああ……。これ、平塚先生が俺らにって」
「え、平塚先生……?」
言われて、長机まで歩いて行く。ビニール袋から化粧箱を二つ取りだし、二人に差し出す。
「些細な依怙贔屓、だそうだ」
「そう……。いいのかしらね。教師が特定の生徒にこんなこと」
「良くはないから、諦めて甘受しろとさ」
「あはは……。うん、平塚先生にもお返ししなきゃだね」
「……まあ、そうだな」
お返し、か……。小町と母ちゃん以外に縁がなかったバレンタインだが。今年はちゃんと考えないといけないのだろう。そうだな。忘れないうちにもう一つの用事も済ませておこう。
「雪ノ下」
「……なに、かしら」
「伝言がある。……相模から、ごめん、だとさ」
「相模さんから……? どうして、あなたが?」
「……たまたま会ってな。その時に頼まれた」
「……そう」
雪ノ下がそっと目を逸らす。代わりに由比ヶ浜が探るように問いかける。
「ヒッキー……。いつ、さがみんと会ったの?」
「六時間目、保健室で偶然な」
「……ヒッキー、やっぱり五時間目の休み時間ってさ」
「……まあ、川崎に呼び出されてた」
「……もらったの?」
「スカラシップのお礼、だとさ。だから、お前らにも食べる権利はあると思うんだが……」
「……ううん。あたしはいいよ。ヒッキーがもらったものだもん」
「……私もいいわ。……それに、あの依頼を解決したのは、紛れもなくあなたよ」
雪ノ下はゆるゆると首を振って疲れたように吐き出す。
由比ヶ浜はそれを見て、殊更声を明るくして喋った。
「そ、それにしてもヒッキー今年すごいじゃん! 三つももらったんでしょ? 小町ちゃんも入れるなら四つ?」
「あ、いや……」
怒濤の一日を思い出して、つい口が否定してしまう。そんな煮え切らない態度見せられて由比ヶ浜が察せないわけないんだよな。
「……もっともらってるの?」
「……まあ、小町にはもらってないんだけどな」
「えっと……………………聞いても、だいじょぶ?」
「……………………まあ」
なんだろう、この探り合う空気がどうにも痒い。まあなんだ、別に変なことしてるわけじゃないし? やましいこともないですし?
「…………誰に、もらったの?」
「…………一色、川崎、相模、海老名さん、平塚先生」
「嘘っ、五人も!?」
「いや……嘘みたいってのは分かるけど……。義理と礼と詫びと援護兼ねた迷彩と依怙贔屓だよ。つーか海老名さんのは由比ヶ浜も分かるだろ」
「姫菜のは分かるけど……。えっと……じゃあ、いろはちゃんが義理?」
「ああ、なんか手の込んだ手作りのチロルチョコの包み紙にでかでか『義理』と書かれてた」
「チロルチョコ……あれ作れるんだ」
たははと由比ヶ浜は迷ったように笑う。手作りのチロルチョコってほんと意味分かんねえよな。
「そういえばいろはちゃん、隼人くんに部活中なんとかしてホットチョコを渡すから今日は来れないんだって」
「……そうか」
あいつも頑張るねえ……。ホットチョコもまた何か手が込んだものなんだろうか。
「……で、さ」
「ん……?」
由比ヶ浜が居住まいを正して、こっちを向く。
「今日、バレンタインデー、なんだよね」
「お、おう」
由比ヶ浜に問われ、心にかけた枷が内圧でひび割れ弾け飛びそうになる。ずっと考えないようにしてきたのに。期待しなければ失望することもないから。
「あの……あのね」
「あ、ああ……」
なくて当然あって気遣い、それ以上を期待するなどおこがましいにも程がある。
だと言うのに、今日の最中、誰も彼もがこの二人の名前を出してきたことに縋ってしまいそうになる。度し難い。本当に度し難い。
由比ヶ浜が胸に手を当て、緊張を解すように深呼吸をする。もう片方の手は鞄に伸びている。
「えっと……義理とお礼とおわびと援護とひいき……だったよね?」
「……そんな感じだ」
「……あたしからも、バレンタインの贈り物、あるの」
「っ……。そうか」
あって気遣いと自分に言い聞かせているのに心が浮ついてしまうのが抑えがたい。俺は今、どんな顔をしているんだろうか。
「……あたしのは、本命」
「……………………えっ」
「ヒッキー。…………比企谷、八幡くん。……好きです。受け取って、ください」
そう言って、真っ赤な顔で差し出される袋。手作りらしきクッキーの入った、部分部分が透明な袋。丁寧にラッピングされたそれを、ぼうとしたまま受け取った。由比ヶ浜の言った言葉の理解が、未だに心の部分で追いついていない。
ずっと、ずっと考えないようにしていたこと。俺なんかがこんな素敵な女の子に、なんて。そんなあるわけもない未来を空想して、現実に立ち返ったときに苦しまないように気を払っていたのに。
心の枷は、吹き飛んでいた。
「ゆい、がはま」
「……うん。本気」
そう言う由比ヶ浜は真剣な顔で、されど俺ではなく後ろを見ていた。その横顔の向く先に、この部屋にもう一人の人間がいたことを思い出させられた。
「……あたしは、本気だよ。ゆきのんは、どうするの?」
「わた……しは……」
呆然と、雪ノ下は呟く。そうだ、由比ヶ浜は何故わざわざ雪ノ下の目の前でこんなことをしたのか。クラスも同じだ。いくらでも機会はあっただろうに。
「……由比ヶ浜、どうして……」
その問いかけに、由比ヶ浜は悲しそうにこちらを向いてゆるゆると首を振る。
「……ゆきのんが知らないところで告白するの、ずるい気がしたから」
ずるい。由比ヶ浜は何を持ってずるいと言うのだろう。その答えを欲してか、俺の視線もひとりでに雪ノ下に吸い寄せられる。雪ノ下は、うろたえていた。幼子のように。
「わた……しは……」
雪ノ下の視線が、椅子の隣に置いた自分の鞄に俯く。そして泣きそうな顔で、俺の手元のそれを見る。
「ゆきのん」
「っ……」
「お願い。聞かせて」
「っ! 私だって! …………私、だって」
一瞬激昂した雪ノ下の気勢は、しかしすぐに萎んでしまう。そうしてのろのろと鞄を膝上に引き上げ、その中から整った袋を取り出した。雪ノ下はふらりと立ち上がって、こちらに歩いてくる。まさか、本当に。
「……比企谷くん。……受け取って、貰えるかしら」
「雪ノ下……これ……」
「…………本命よ。…………だけど」
雪ノ下は顔を伏せ、泣きそうな声で後を続ける。
「私は……由比ヶ浜さんには勝てない」
「え……?」
その疑問符は、俺の口から出るより先に隣に居た女の子からまろびでた。
「何で……? ヒッキーが好きなの、ゆきのんなのに……」
「どうして……? 比企谷くんが好きなのは、あなたでしょう……?」
当人を置き去りにして、二人の間で奇妙なやりとりがなされる。その状況自体に俺の思考がまるでついていけていない。
二人から本命と言うチョコをもらって、なのに二人とも嬉しそうじゃなくて、二人の本気だけは痛いほどに伝わってくるのに二人とも自分が俺に好かれていないと思っている。改めて整理してもまるでわけが分からない。
「……由比ヶ浜、雪ノ下」
「っ、うん。何?」
「何、かしら……」
そもそもどうしてこんなに素敵な二人が、俺なんかに好かれていないと思い込んでいるのか。
思わぬよう思わぬようにしていただけで、本当はとっくに手遅れだったのに。
「ありがとう。すげえ嬉しい。多分、今までの人生で一番」
もらった袋を抱きしめる。気を抜いたら顔がだらしなく緩んでしまいそうになる。二人はそんな俺を見て、一抹の寂しさを交えながらも嬉しそうに微笑んでくれた。
「あー……あはは、なんか変な空気になっちゃったね」
「あ、ああ……。いや、プレゼントは物凄く嬉しいんだが……これ俺どうすりゃいいんだ?」
「……あなた、それを私たちに尋ねるの……?」
雪ノ下が頭痛を堪えるように表情引きつらせて眉間に指を添える。由比ヶ浜は毒気抜かれたようにきょとんとしていた。
いや分かるよ? でも圧倒的に経験値が足りねえんだよ、俺の。誰より素敵なこの二人に同時に告白されて上手く捌けとか無茶言うな。
「えっと……ヒッキーは、どう、したいの?」
「どう、って……。こんなの考えもしなかったからな……。俺自身動揺してるし多分混乱してるし、ぶっちゃけ頭真っ白だ」
「んと、じゃあヒッキーは、あたしたちと、どう、なりたい?」
「…………」
きっと、考えもしなかったってのは正確じゃない。考えないようにしていたんだから。由比ヶ浜や雪ノ下とそういう関係になる、なんて。満たされない期待は反動で自らを傷つけるから。
そうだ。期待、なのだ。そうあれたら、と言う願望なのだ。堂々巡りしていた思考回路が、ようやくのことで答えを得た。でも……。
「俺も……お前らと、そう、なりたい……」
俯きながら言ったその答えに、二人の気配がほころぶ。
「……つってもこんな突然、しかも二人同時に告白されてさあ選べとか、お前ら要求水準高すぎるだろ……。こんなのどうしろって」
「言ってないよ?」
「えっ」
「選べなんて言ってないよ? そりゃ選んでくれたらすっごく嬉しいけど……。あたしが……あたしたちが、ヒッキーを本気で好きだって伝えたかったの」
なんなのこいつの超斜め上の解答。俺の理解を三周くらい超越してんだけど。
「ゆ、由比ヶ浜さん……?」
「あ、あれ……? ゆきのんは違った?」
「い、いえ……私は……」
そう言って雪ノ下は顔を真っ赤にして俺の方をちらりと窺う。その恥じらいに、本気で彼女に告白されたんだと、遅まきながらリアルな実感が湧いてきた。
「その……告……するだけで……いっぱいいっぱいで、それに、由比ヶ浜さんが……だから……そんな、そういうことまで……」
「……ゆきのん、可愛いなあ……」
「ゆ、由比ヶ浜さん」
由比ヶ浜が雪ノ下をぎゅううううっと抱きしめる。雪ノ下も言葉の上では弱々しく抵抗してるが、もう完全に形だけだろこれ。なすがままじゃねえか。
「……えっと、じゃあ俺は」
「ん……じゃ、今日一緒に帰んない? 三人でさ」
「……そうね。それも、いいわね」
「……そう、だな。たまには、な。……言い忘れてたんだが、平塚先生今日は依頼持ってこねえんだと」
「え!? じゃあもう帰ろうよ! で、どっか寄ってこう!」
「……そう、ね。依頼がないのなら、部室に留まっていても仕方ないかしら」
「やったー! 三人でデートだ!」
「デートてお前……」
やめろよ意識しちゃうだろ、つっても既に告白された身で何言ってんだって話だが。そうして俺たちは由比ヶ浜に先導されて、放課後の街に繰り出した。
…………ああ、放課後のデート? まあ、そりゃ、な。楽しかったさ。この上なく。
× × ×
二人を送って一人帰ったその日の夜。
「おにーいちゃん!」
「お、おう……ただいまどうした小町」
「貰った!?」
「お前仮にも受験生だろ……。もう少し国文法を」
「うっさいよそれでどうなの!? 貰ったの!?」
「何をだよ……目的語を」
「お兄ちゃんこそ文脈読みなよ! 今日聞いてんだから一個しかないでしょ!」
「小町に文脈読めって言われるとは……屈辱だ……」
「って言うかもうこれ見よがしにぶら下げてるそのビニール袋の化粧箱って明らかにチョコでしょ!? 誰? 誰から!?」
「……あー、小町? ここ玄関口でな?」
「ああもうぐちぐちうっさいね! じゃあさっさと入んなよ! で、どうだったの!?」
「はぁ……」
目を爛々と輝かせた小町に根掘り葉掘り聞かれて、代わりにコマチョコ一つ貰いました。だから嬉しそうに囃し立ててくんのやめろな。
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