近すぎるキミ、遠い始まり (沖縄の苦い野菜)
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プロローグ 夢のあと

 

 

 祭囃子を背景に、人々が行き交う雑踏の中での出来事だった。

 自分たちより一際背の高い人々の往来に、流されるがまま石畳の上を歩いていると、繋いだ手はいつの間にか虚空を掴んでいた。

 

 一瞬の出来事だった。気づいて捜したときには、人間樹林とも呼べる光景に視界をふさがれていた。すぐ目の前までしか視界は及ばず、まるで水の中のように身動きの苦しい状況に、彼は思わず身を縮こませた。

 

 自分がどこにいるのか、相手がどこにいるのか、何もわからない。わからなくて、不気味で、まるで空中に放り出されたかのような孤独感が、喉からヒュ、と鋭い息を吐き出させた。鼻の奥と、目頭が急に熱を持ち始めてきたから、彼は必死にしかめっ面を作って虚勢を張った。顔に力を入れていれば、涙だけは我慢することができたから。

 

 そんな中でふと、はぐれた相手のことを思い出す。

 一際目立つ少女のことだ。純粋な日本人ではなく、ブラジル人とのハーフ。光にきらめくエメラルドの長髪が綺麗な少女。太陽の現身のような明るい性格が持ち味の彼女のことを。

 

 彼女は、まだ日本に来て間もないこともあって、日本語を聞き取ることも、喋ることもできなかった。誰かに頼ることもできない、正真正銘のひとりぼっち。自分がどこにいるかも、わかっていないに違いない。

 そんな状況を想像して、心臓が竦み上がるようにキュッと締まる感覚。背中に怖気が走り、夏の夕暮れ時だというのに鳥肌が立った。顔からサッと涙も血の気も引いていく。

 

 彼女がどんな状況に向き合っているのか想像した途端に。

 自分の恐怖なんて吹き飛んでいた。そんなことが気にならないほどの衝撃を受けて、身体が突き動かされていた。

 

「エレナ――ッ!」

 

 祭囃子にも、雑踏の音にも負けない声を張り上げて地を蹴った。

 注目が途端に集まった。無数の視線が、声を出すたびに向けられた。驚きに見開かれた無数の瞳。疑問に首を傾げる不気味な瞳。物珍しさに寄せられた好奇の瞳。そんな不躾で遠慮のない視線が向けられる度に、肩が跳ね上がった。心臓が重苦しく鼓動を打った。それでも、彼は「こんなもの」と子どもならではの無鉄砲な勢いに任せて、周囲を見回しながら走り、力の限り声を上げた。

 

 近くにいるなら、きっと反応してくれる。何か声を出してくれるはずだ――なんてことは考えていなかった。ただ、自分がここにいる。それが少女エレナに伝わってくれればそれでいいと、がむしゃらに行動した。心に這いよる蛇のように細長い恐怖を振りほどきたくて、振りほどいてあげたくて、彼はひたすらに声を上げた。

 

 しばらく、雑踏の中をかき分けて声を上げるも、彼の知っている気配はどこにも感じられなかった。声すら聞こえない。急いではいるものの、人混みのせいで所々立ち止まり、前にはなかなか進まない。森の中を歩くとは、きっとこういうことを言うのだろう。

 

 先が見えない。周りを見渡せない。並ぶものは人影ばかり。

 声を張り上げ、人間樹林をかき分ける。

 どこかに居てくれと、願うことしかできない彼はとにかく叫ぶ。

 

「エレ――げほっ、けほっ」

 

 喉が枯れてきた。思わずむせ込んで足を止めると、人間樹林は波を打ち、たやすく彼の小さな体を前に前にと押し出した。その力にたまらず、彼は脇道にそれるように、屋台と屋台の隙間に滑り込み、人間樹林を抜け出した。

 

 そこでようやく、一息ゆっくり吸って吐く。

 人間樹林は、未だ影絵のように黒く塗られて蠢いている。見るたび姿形を変えていき、自分がどれだけ進んだのかさえ示してくれない。

 

 そこでようやく、彼は頭を冷やして考え始める。エレナなら、どこに行くだろうか、と。

 はぐれたと知れば、がむしゃらに動き回るだけではないはずだ。これだけ濃い人間樹林の中に、たまたまエレナが居るとは思えない。むしろ彼女は、もっと何かに釣られるように、どこかを目指して歩きそうだ。

 

 幼い時分に、そんな論理的な思考を行っていたかと言われれば違うけれど。

 子どもならではの根拠のない、確信めいた予想と直感が、彼の中で囁いた。エレナはここに居ない、と。

 

 ――自分なら、どこに行く?

 そう考えたとき、真っ先に浮かぶのは、道端によけて泣き叫ぶ自分の姿だ。ちょうど、今いるような位置で、自分の存在をアピールするように泣きじゃくるだろう。

 

 迷子になったら、相手に気づいてほしい。

 だから、迷子を自覚したら精一杯に何かをするはずだ。気づいてほしさに、自分にできることをすると思う。

 

 日本語を聞き取れない、喋れないエレナがする行動。アピールとは。

 泣き叫ぶ、というのが真っ先に思い浮かぶけれど、あれだけ前に進んで泣き声一つ聞こえない。だから、エレナは泣き叫ぶ以外の行動に出ている。

 

 実際に当時の自分は、「エレナはもっと別の場所にいる」くらいにしか考えていなかったけれど。

 直感に従って、彼は思い切って行動に出ることにした。

 

「おじさん! エレナみなかった!? ミドリのカミの、小さい女の子!」

 

 彼は、近くの屋台の店主に、大きな声で前置きなしに質問を投げかけた。最初は、人間樹林の影さえ反応した発言に、坊主頭の店主もチラリと彼の方を見ただけだった。しかし、改めて視線を感じて何だと目を向ければ、まっすぐ店主を見上げる彼の姿がある。店主は彼が自分に話しかけていることをようやく悟った。

 

「……あ? おいおい、坊主。ガールフレンドかぁ何かか? てか、お前さんも親とはぐれているようにしか見えねぇ――」

「みた!? みてない!?」

 

 切羽詰まった、焦ったような様子。言葉を遮られて、鬼気迫る様子に「タダ事じゃない」と感じ取った店主は坊主頭を人差し指で掻くと、膝をついて彼に視線を合わせてから口を開いた。

 

「坊主。そんな闇雲に探しちゃダメだ。おっちゃんが一緒に、祭り会場全体に放送してやるからよ。会場本部まで行こうや」

 

 諭すように、強面な見た目からは想像もつかない柔らかい声音で彼に言った。大人として、店主は冷静に状況を見て、それがベストだと思っていた。

 

「ほうそう……? いや、ダメ! 日本語じゃわからない!」

「日本語じゃ……って、外国人のお嬢ちゃんってことかい!?」

「みた!? ミドリの長いカミの女の子!」

 

 そこに来て、店主はいよいよ状況が甚だ不味いことに気が付き、血相変えて「ちょっと待ってくれ」と頭を捻った。必死に、特徴的な女の子のことを思い出そうとしている様子だ。数秒、「うーん」とうなり声を上げるが、答えは一向に出てきそうにない。

 

「俺は見てねぇ」

「っ、わかった!」

 

 声を掛けてダメだった。だからもっと前に進もう、と人間樹林に飛び込もうとした瞬間、店主は「ちょっと待ちな!」と彼に言葉を掛けた。彼の足が、店主の声によって地面に張り付けられた。

 

「俺は見てねぇが、見てる仲間がいるかもしれねぇ。ついてきな」

 

 店主は彼の手を引いて、前にある屋台の店主。筋骨隆々とした巨人のような男のもとに駆け寄った。

 

「おう、ちょっといいか?」

「あん? ……どうした?」

「いやよ、実はこの坊主がガールフレンド捜してるっぽくてよ。それも、国際カップルだぜ! 日本語通じないらしくて、緑の長髪の女の子だってよ。見てねえか?」

 

 軽快な口調で話し出したかと思えば、本題にさっくりと切り込んだ。二人の店主は長年の付き合いなのか、それだけの説明にも関わらず巨人は真剣な顔して頭を捻り始めた。

 

「――あぁ、いたな。小さくて人混みの中に埋もれそうになっていたが」

「っ、どこいったの!?」

 

 思わず小さい彼が食いついた。目の色を変えて、睨みつけるような眼力をもって巨人の店主を見上げてみせる。

 あまりに堂々とした様子に、巨人の店主はまなじりを緩めてひとつ頷くと、顎でさらに先の方を示して見せた。

 

「目輝かせて、先に行ったぜ。この先には、確か神社の本殿と……あと、盆踊りの会場が見どころだな」

「ぼんおどり、かいじょう?」

「あぁ。さっきから、太鼓とかの音が聞こえるだろう? これに合わせて思い思いに踊るんだ。階段をのぼった先でやってる」

「――! おじさん、ふたりとも、ありがとう!」

「おっ、目途がついたかい。俺たちも見かけたら……本部につれてっとくよ。言葉通じねえのが厄介だが」

「その時は、その時だ。少なくとも、迷子でいられるよりはずっといい」

「もしまたみたら、おねがいします!」

 

 それじゃあ、と今度こそ彼は人間樹林の中に飛び込むと、その姿は一瞬にして見えなくなった。

 店主二人はその姿を眩しそうに見届けながら、思い思いに口を開き、店番に戻っていった。

 

 

 

 そうして、彼が真っ先に向かったのは盆踊りの会場だった。

 太陽のように明るくて、サッカーとダンスが大好きな少女。それが、島原エレナだ。

 

 石段を誰よりも早く駆け上がり、べったり染みつく汗をかき。パンパンに張った足でもう一段、もう一段と勢いの限り上っていき。

 ようやく頂上に到達したとき、目の前に広がっていたのは、きらびやかな舞台であった。

 

 赤い漆塗りの巨大な鳥居を潜れば、美しく静謐にたたずむ本殿が目についた。ある一角では祭囃子を演奏する奏者たちが、力強く雄々しく太鼓を叩き、すっと生え立つ竹のように美しい姿勢をもって笛を吹く。太鼓を叩く木造の櫓を中心に、思い思いに人々が踊っている。

 

 息も絶え絶えの様子で、俯きながらそんな様子を上目で見つめていた時のことだ。

 

 

 

 すっ、と残光のように視界に緑色が焼き付いた。

 ハッと顔を上げて、視線でその色を追ってみれば――

 

 

 

 

 ――緑の長い髪が、宝石のように煌めいて宙を舞う。

 ――白魚のような指先はピンと伸び切り一本の線となり、宙に軌跡を描き出す。

 ――小さな体が回転すれば、無垢にきらめく笑顔があらわになって。

 ――元気に跳ねれば、宙にエメラルドの波が打つ。

 ――元気いっぱいに、力の限り踊り倒す小さな少女は、その舞台でまさしく主役のようで。

 

 

 

 ――夕暮れも終わったというのに、太陽はまだまだ健在だった。

 

 

 

 息を切らした彼は、疲れた足を引きずって、輝く少女の肩を叩く。

 踊りながら振り向いた彼女は、彼の存在を認めた途端にピタリと止まると――途端に涙をあふれさせ、そのくせ思わず元気をもらえるような輝く笑顔を見せて、彼に勢いのままに抱き着いた。

 

 あぁ、怖かったんだな、と彼は「もうだいじょうぶ」と声を掛けながら、背中を優しく叩いていると。

 

「――Te amo.――」

 

 聞きなれない音が、熱い息と共に耳元で囁かれた。

 なんて言ったのか、意味もわからないにも関わらず。耳の奥で熱く木霊して離れない。

 

 抱き着いているせいか、ずいぶんと体が熱かった。心臓の音が聞こえてくるほど近くて、その小さな体は爆発しそうなほど熱を持っていて。

 

 彼女は、茫然としていた彼の手を取ると、引っ張って一緒に踊り始めようと動き出す。

 

 珠の雫が宙に舞い、はじけるように笑顔が咲いた。ほんのり赤く染まった頬と目元は幸せ色に輝いて。誰よりもきらめく小さなPassistaは、いっぱいの感情を乗せて踊り出す。

 

 そんな、太陽のような笑顔が大好きで。

 彼もつられて笑顔になって、調子に乗って踊り出すのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うっすらと、間延びした意識の中で、頭がゆらゆらと揺れている。肩に力が加わって、身体全体が揺れていた。遠のいて聞こえる誰かの声。まだ言葉として認識はできないが、それもわずかな間だった。

 

「――ご……良悟!」

「あ……? ん、あぁ……なん、だぁ?」

 

 モザイク画像のような視界が、ようやく正常に目の前を映し始めたとき。最初に見えたのはサッカー部の仲間の顔だった。間抜けな声で何事かと聞くと、仲間はあきれたような様子でひとつため息を吐いた。

 

「はぁ……バス、もう停まってるぞ! 降りろ降りろ! 今からファミレスでお疲れ様会だよ!」

「……あー、うん。わり、ちょっと眠くてぼーっとしてる」

 

 もうちょっと起き上がるのに時間がかかりそうだ。と、そういうニュアンスの言葉を告げれば、仲間は困ったように顔を引きつらせながら、彼……新田良悟の頭をポンポンと眠気覚ましに叩き始めた。

 

「おーい? 寝るな寝るな。でないと、寝言で『エレナ―!』とか言ってたのばらす――」

「はぁ!?」

 

 イタズラ心の働いた仲間の言葉は、良悟の眠気を一息に吹き飛ばした。素っ頓狂な声を張り上げると、目を白黒とさせて仲間の肩に掴みかかった。

 

「……マジで?」

「大マジ。ちなみにお前の近くの席のやつは全員知ってるぞー」

「……やっちまったぁ」

 

 周囲を見渡せば、良悟と仲間の彼以外に誰も人は残っていなかった。最後列の窓際の席にいたせいだろう。それほど拡散されてはいないと思いたいが、悪ふざけが好きな部員たちのことだ。どこまで広まっているのかわかったものじゃない。

 

「いやぁ、いいネタ収穫収穫。ちょっと俺から暴露しようかなぁ」

「……ちなみに、誰に?」

「そりゃあ、もちろん――」

 

 いやらしく弧を描いた仲間の顔を見て、良悟はうんざりとした様子で「もういい」と言葉を止めさせた。言葉を止めさせたものの、仲間は依然と意地の悪い笑みを浮かべたまま彼の顔を覗き込んでくる。

 

「彼女、今日のお疲れ様会に遅れて来るんでしょ? やっぱ俺的には暴露して面白くしたいかなぁって」

「やったらお前の彼女に、去年の文化祭のときのお前の女装写真渡すからな」

「――待て。どうして俺の彼女を知っている良悟よ。というか連絡先なんで持ってる」

「エレナ経由」

「ふぁあああああ?!」

 

 奇声を上げたかと思えば、そのあとはキリッと締まった表情で良悟の方に向くと、半ば無理やり彼は握手を交わしてきた。

 

「よし、俺たちは不可侵同盟だ。いいな?」

「俺の寝言、暴露されてたら道連れだよ、地獄に落ちろ」

「くそったれぇぇぇ!」

 

 パチン、と仲間はとんだ掌返し……というより、握手していた手を叩いて放すと、すぐに振り返ってさっさと一人バスから降りようとした。

 そんな振り返ったところで、仲間はこれまたいやらしい笑みを浮かべて、良悟の方を改めてみた。

 

「……なんだよ」

「いやぁ、お前の彼女がバスの前で待ってるぜぇ?」

「――」

 

 言葉が詰まる。まさかそんな、と窓から外を見てみれば――

 ――頭の上からぴょこんと飛び出た一房の髪と、長髪のシルエットが見えた。

 

「……なんで、いんの?」

「知らんがな。でも、いじらしいねぇ?」

「うっせ」

 

 バスの出口で、彼女は待っていた。つまり、他のサッカー部の面子ともすれ違っているわけであり――

 

 ――その寝言やらを伝言されている可能性はあまりに高い。

 

「よし、やっぱりお前も一緒に地獄に落ちような。旅は道連れ世は情けっていうだろ?」

「ふざけんな! 煽っただけで別に俺関係ないだろうが!」

「同罪、同罪。というわけでこれからも仲良くしよう、な?」

「良悟の鬼! 悪魔!」

「何とでも言いな。俺はもう何も怖くない」

 

 そう言いながら、良悟は荷物を持って立ち上がり、さっさと仲間の横を通り過ぎる。

 そんな良悟を、仲間は後ろから掴んで何度も説得の言葉を投げかけるが、彼はまったく聞く耳を持たず、バスから降り立った。

 

 

 

「――待たせて悪い。なんか、元気出たよ」

 

 良悟は、彼女に向けて屈託のない笑みを浮かべて話しかける。

 そんな様子の良悟を見て、仲間は肩をすくめてそそくさとその場を立ち去って。

 

「――」

 

 彼女も良悟に笑みを返しながら、言葉を紡ぐ。

 

 

 

 ここまでたどり着くのに長かった、と。

 良悟は彼女の手を取って、横に並んで、笑顔を向け合いながら歩き始めるのであった。

 

 

 




まず最初に
「余滴は星彩に溶けて」をリメイク作品として投稿してしまった件について、まことに申し訳ありませんでした
前作の方ですが、更新は停止させていただいて、「近すぎるキミ、遠い始まり」を更新させていただくことになります。

理由ですが、物語を書いていくうちに「本来書きたかったテーマ」を書き出せなくなったためです。
このような不甲斐ない結果になってしまったことは、二次創作者の私の力量不足によるところです。



今度こそ、作品の「テーマ」を伝えきるためにも、このリメイクを書き切っていきたいと思っております。クオリティの上昇を、約束いたします。

そんな一度やり直してしまった拙作ですが、それでも良いとおっしゃってくださる方々には、どうかこれからも、ご愛読の方をよろしくお願い申し上げます。

それでは、また次話にてお会いできれば幸いです。

※更新は最低週一回ペースを予定しております。




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第一部 ~擦れ違い熱こもる~
第一話 噛み締めた日常


まずはひとつ。
リメイクに至りました今作、再びお気に入り登録の方をありがとうございます

明確な数字というものは筆者のモチベーションに直結するところがあり、増えていくと非常に嬉しいものです。

そのことに感謝をしながら。
どうぞ、本編を


 カーテンの隙間から差す朝日が瞼の裏を焼いた。白と黒に点滅する視界に、光を遮るように手をかざしてみれば、今度は布団の隙間から部屋の冷気が差し込んだ。人肌の快適な布団の中に肌寒さが走り抜け、カチッとスイッチが入ったように曖昧な意識が覚醒する。

 

 しかし、それでも未練が残る。ダラダラ怠けたい。居心地のいい布団の中で眠っていたい。そんな誘惑に意識が沈み込みそうになった時、彼は布団を一息に蹴り飛ばして唐突に起き上がってみせた。

 

「あー……さむっ」

 

 肌を撫でるような冷気が、首筋に、頬に、手首にまとわりつき、ジャージの隙間から入り込む。温かさから一転、身が引き締まる感覚に、眠気はついに頭の中から吹き飛んでいた。瞼の裏の点滅も収まって、ようやく目を開けてみれば、霞んだ視界の先に布団の白い裏面が映り込む。焦点が定まってくると、彼は鎌首をもたげながら、視線をすぐ横の机に向けた。机の上には時計が置いてあり、デジタル数字で「06:42」と記されている。

 

「朝飯……」

 

 ふらふらと、風に揺れる柳のように頼りない動きで立ち上がり、歩き出す。自室を抜けて、階段を下りてすぐ左の扉を抜けると大きなリビングに出る。電灯の明かりに視界を白く焼かれるが、それも数秒でいつも通りの景色を取り戻す。

 

 白いレースのカーテンから光が差し込んでいる。木漏れ日のように、リビングの床から食卓にかけてそっと照らす様子を見て、彼はようやく朝が来たのだと実感を持った。

 

「あっ、リョーゴおはよっ! もうご飯できてるヨ?」

 

 そんな時、リビングの奥、併設されているキッチンから明るい声が飛んできた。

 そこから出てきたのは、頭の上からぴょこんと飛び出た一房の髪に、浅緑の長髪をなびかせ、太陽のように明るい笑顔を浮かべた少女であった。

 片手にトースト、片手にベーコンエッグとサラダの乗った皿を持って、白い制服の上からヒマワリのアップリケをあしらったエプロンを身に着けた姿。彼女はさっさと食卓の上に朝食を置くと、後ろ髪をかきあげて、白いうなじをみせつけながらエプロンを外す。

 

 そんな少女の様子に、彼こと新田良悟は当たり前のように「おはよ」と短く挨拶を返して食卓についた。

 

「父さん、もう出てんの?」

「うん。寝坊したーっ、って言ってたヨ。ご飯も食べずに飛び出しちゃったネ」

「あー、もう。何が起こさなくても大丈夫だ、ってんだ。俺も早く起きねえと」

「でも、リョーゴもこれからサッカー部の朝練が始まるよネ? いつも通りだと思うナー」

「……それもそっか。いただきます」

「はーい」

 

 皿の上には厚切りのバタートーストに、ベーコンエッグとサラダが乗せられている。トーストの表面には横と縦それぞれ二本の切れ込みが入り、ブロック状に浮き出たカリッとした表面は黄金色の光沢を放っている。

 そんなバタートーストをいざ口にしてみれば、香ばしい食感が音を立てた。小麦とバターの風味は口いっぱいに、そして鼻の奥まで突き抜けた。

 

「リョーゴ、はい」

「んっ、ありがとう」

 

 トーストを飲み込んでから、良悟は差し出されたフォークとドレッシングを受け取ってお礼を口にする。ドレッシングの容器をよく振って、沈殿した中身を混ぜようとしたが、ふと底を見てみれば既に混ざっているようだった。彼はさっさとサラダにそれを掛けたところで、いつの間にか対面に座っていた少女の視線に気が付いた。

 

 蓋を閉めながら顔を上げてみれば、ニコニコと嬉しそうに笑顔が浮かんでいる。何がそんなに楽しいのか、彼には理解が及ばない。

 

「なんか良い事でもあったか?」

「こんなにゆっくりできるモーニングは久しぶりだナー、って思ったノ」

「あぁ、まぁ確かに。いろいろと慌ただしくてごめんな」

「ううん。一番大変だったのはリョーゴでショ? それに、ワタシは『ありがとう』の方が嬉しいヨ?」

 

 ほんの少し頬を膨らませながら言う彼女に、良悟は思わず口元を綻ばせる。そしてそのまま、彼は優しく少年らしい笑顔を浮かべて口にした

 

「あぁ。……エレナ、ありがとう」

「うん! どういたしましてだヨ」

 

 少女、島原エレナの太陽の笑顔に見守られながら。

 少年、新田良悟はまたバタートーストにかぶりつくのであった。

 

 

 

 食事が終われば、そこから先は早かった。顔を洗い、歯を磨き、髪を梳いて制服に着替える。あとは軽い学校指定カバンを片手に、彼はリビングへと再び足を踏み入れる。食器は既に片付いており、キッチンのシンク横に取り付けられた洗い物を置く銀色の台の上に置いてある。エレナの姿はリビングにはない。

 

 リビングの右手側、奥に併設された和室を覗いてみる。

 仏壇の前に正座して、手を合わせている彼女の姿があった。

 

 入口にカバンを置いて、彼もエレナの横に正座して手を合わせる。目を瞑り、黙祷を捧げる。大変だったけど大丈夫だ、とか。ゆっくり見守っててほしい、などと気持ちを乗せて。

 

 黙祷を終え、顔を上げれば仏壇の写真が目に映る。笑顔が眩しい人で、太陽の光に負けないその表情で輝かしく写っている。それを見る度に、胸の中に穴が開いたような寂しさが吹きすさぶ。彼はそんな気持ちを、ポケットに入れた形見のハンカチに触れて誤魔化した。

 

「……行ってきます、母さん」

「行ってきます」

 

 仏壇に背を向けて、光の差し込むリビングに踏み出した。カバンを片手でヒョイと持ち上げる。

 玄関から出るまで、二人が声を上げることはなかった。和室から出るとき、エレナが控えめに良悟の方を見たものの、何か声を掛けることはなく、いつものようにその隣に居座っていた。良悟はポケットに手を入れてはいるものの、背筋を伸ばし前だけを見続けた。

 

 

 

「うちに来たのっていつ頃?」

 

 玄関に出てカギをかけ、門を出たところでようやく、良悟の方から口を開いた。

 良悟とエレナの家は隣同士だ。学校とは逆向きに7歩進めば、エレナの家の前に到達する。島原家が日本に来た当初から今まで、家同士の付き合いは続いている。年数にすれば実に11年にも及ぶ。

 

 エレナにとって、そんな新田家は我が家も同然の居場所だ。お互いの家でホームパーティーを開くことも幾度もあり、サッカー観戦も片方の家に集まってやっていた。

 家に上がることは、お邪魔することじゃない。エレナにとって良悟の家に上がることは、帰宅することと同じ意味を持っていた。

 

「6時ごろだヨ。リョーゴ、ちゃんとモーニングを用意してるかナーって心配だったノ」

「お見事。でも、大丈夫か?」

「何のコト?」

 

 隣に歩くエレナは、小首をかしげて不思議そうに丸めた目を向けてきた。

 

「アイドルになったんだろ? レッスンとか大変だろうに」

「レッスン? 大変なんかじゃないヨ」

「いや、でも疲れるだろ? 毎日ってわけじゃないにしても。もうちょっと、自分の時間を大切にしないとな。倒れられても困る」

「大丈夫。ワタシはレッスン、とっても楽しんでるヨ。朝になると、太陽だーっ! ってすぐに目が覚めちゃうノ」

 

 花が咲いたような笑顔で、手を大空いっぱいに広げてエレナは言った。声を弾ませ、鼻歌を口ずさみ、ふとした瞬間にステップを踏んで。億劫な様子なんて微塵も感じさせない彼女に、思わず見ている良悟の顔がほころんでいく。

 

「そっか。まぁ、疲れた時はちゃんと休めよ?」

「うん。……リョーゴも、もう少し人に甘えていいと思うナ」

「俺が? それより父さんの方が心配だよ。休まる暇なんてないだろうし」

「リョーゴのパパンは、リョーゴの笑顔が一番見たいんじゃないかナ」

「そうかもしれないけど、笑顔なんて頑張って出すもんでもないし」

「うん。そういうコトだヨ」

「……? まぁ、お互いに無理しないようにやっていこうな」

 

 良悟のそんな一声に、エレナの笑顔がまた咲いた。釣られるように良悟も口元がほころび、それを隠すように空を見上げる。清々しいまでの快晴で、春の陽気が心地いい。

 

 今日も、一日の始まりだ。

 

 

 

 

 

 

「あっ、リョーゴ! 一緒のクラスだヨ!」

「おっ、やったな」

 

 パチン、とハイタッチが子気味の良い音を鳴らして周囲からの注目を集める。二人はそんなことを気にした様子もなく、一階の掲示板に貼られたクラス分け表に記された通りの教室に向かう。

 

「サッカー部っていつから練習始まるノ?」

「ん? あぁ、明日から。新入部員の引き入れとかのために、練習風景見せなきゃいけないんだよ」

「それなら、今日は一緒に帰れるネ!」

「まぁそうだけど。……そういえば、冷蔵庫どうだった?」

「んー、パンとか玉子とか買わないとだネ」

「帰りはスーパー寄るか。夕飯は……父さん、何時に帰るって言ってた?」

「ちょっと遅くなる、って言ってたヨ?」

「となると九時ごろか。カレーでも作るか?」

「うん!」

 

 会話をしているうちに、気が付けば教室の前についていた。扉をスライドさせて中に入ると、黒板には席順の記された紙がデカデカと貼られている。

 教室の中は思いの外閑散としており、まだ空席が半分以上存在している。

 

「出席番号順だな」

「おっ良悟! お前の席はこっちこっち!」

 

 教室の沈黙を切り裂いて、無遠慮な男の声が聞こえてきた。良悟がそちらを見てみれば、彼にとってはやはりというべきか。サッカー仲間が元気に手を振っている。その姿にため息を一つ、良悟とエレナは導かれるまま教室の奥寄り、その後ろ側の席に近づいた。

 

「シューイチ! おはよーっ!」

 

 しかし、席まで待てないのか近づきながら声を上げて挨拶をするのがエレナだった。シューイチ、こと中田秀一は、そんなエレナの姿を見て楽しそうに「おはよー!」とこれまたエレナに負けない声を張り上げて挨拶を返す。

 

「いやー、島原さんは今日も良悟と仲良しさんと。俺、そういうの見てるだけでおなか一杯だわ。ごちそうさま」

「……? シューイチはワタシたちを見てるとおなかがふくれるノ?」

「おうとも。幸せを求めるおなかが膨れるよ」

「あっ、それってシューイチが幸せだーってコトだよネ? うん、おそまつさまでした!」

「……コントか?」

「違うっての。それに、朝っぱらから夫婦漫才やってる良悟に言われたかねぇわ」

「夫婦って……昔からこんなんだよ」

「うんうん。リョーゴとワタシは同じファミリーみたいなものだからネ!」

「わお、大胆。……良悟。お前、島原さん泣かせたら覚悟しとけよ」

 

 馬鹿で和やかな空気から一転。視線はあきれたように、声音は友を激励するように。そんな曖昧なようで、良悟自身にはよく伝わる言葉。

 

 良悟はそれに、肩をすくめて頷いて見せた。

 

「……それならよし。島原さん、そいつの手綱離しちゃダメだぞー?」

「うーん、ワタシからリョーゴが離れたコトなんてないから、大丈夫だヨ」

「そう? まぁ、カワイイ妹分が心配でしょうがないんでしょ。妬けるねぇ」

「エヘヘ……」

「……良悟も、あんまり島原さん放っとくなよ。いや、お前に限ってそりゃないだろうけど」

「じゃあ何で言った。まぁ、わかってる。過去に痛感してる」

「そいつは重畳。あっ、ところでこの前の試合だけど――」

 

 学校での会話は、いつもこんな感じ。共通したサッカーの話題に、お互いの近況を話し合ったり。部活の話をしてみたり。

 そんな穏やかで、代わり映えのない学校生活。高校二年目ということもあり手慣れたもので、少年少女は自分の居場所を、日常の中に溶け込ませているのであった。

 

 

 




今回のリメイク版の方では、プロローグを除いて三章構成にしようと考えております。そのため、章分けの機能を用いております

割とガッツリ、大真面目に恋愛小説として書いていく形になると思いますので、もしよろしければじっくりお読みいただければ幸いです。ご愛読いただくだけでも、筆者としてはモチベーションに繋がります。

それ以上を望むとするなら。


皆様の感想、コメント、ご指摘、評価、お気に入り登録などを、お寄せいただければ幸いです。誹謗中傷でない限り、真摯に受け止めさせていただく次第でございます
※本作におきまして、感想は非ログインユーザーの方も投稿が可能です。


それでは、また次話にてお会いいたしましょう


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第二話 形見の意味

お気に入り登録の方、皆様どうもありがとうございます。
リメイク前よりお読みいただき、この作品にお付き合いいただいている方々には、頭が上がらぬ思いです。

だからこそ、クオリティは最上級に。今できる全力を
読んでいて、わくわくするストーリーを

心を湧かせる意味を秘めて

このお話をお送りさせていただきます。


 時刻は夕暮れより少し前。

 まだ青さを残す空に西日が差し込む頃のこと。

 

「それじゃあ、新入生を歓迎して。かんぱーいっ!」

 

 かんぱーい! と声高らかにファミレスの奥一帯を陣取るのは、良悟の所属するサッカー部の面々であった。新入部員、同級生、先輩の31名が一堂に会する様は騒々しく、近寄りがたいほど力にあふれている。幸いなことは、この騒々しさもファミレス全体の喧騒の中に溶け込んでいることだろう。学校帰りの女子高生、同じような男子学生が他にも居たおかげだ。

 

 新入生歓迎会と銘打った食事会。もとから部長が予約をした店に、2年3年の部員から会費を回収し、頼んでおいた商品を持ってきてもらう。チキン、ハンバーグ、ドリア、ポテト、パスタ……様々な料理がテーブルを彩る様は華やかの一言に尽きる。

 

 会話の内容はあまりに単純だ。各々自己紹介をしてから、サッカー談義に花を咲かせる。時々身の上話の浅瀬に踏み入るが、それ以上は進まない。サッカーを通じてお互いに話しやすい環境を作り出す。暗黙の了解のように、彼らは主題を逸らさない。

 

「っと、飲み物とってくる」

「あっ、それじゃ俺も。ちょっと待っとくれよ」

 

 そんな中、良悟と秀一が同時にコップ片手に席を離れる。部員が居座る区画から少し離れたところで、良悟はついでとばかりについてきた秀一に視線を向ける。

 

「いやいや、そう睨みなさんなって。俺一人で新入生相手ってきついんだって」

「……とか言って、席離れる口実を探してただけだろ」

「ま、そうだけど。俺、どっちかって言うと一緒にプレイして交流深めるタイプだから」

 

 悪びれもせず言いのける秀一に、良悟は「処置なし」とため息をひとつ吐いた。

 そんな良悟にお構いなく、秀一はさっさと一人進んで……手前のサーバーは人が居たため、さらに奥のドリンクサーバーにコップをセットした。

 

「そういえば、もう家の方は大丈夫なのか?」

「……まぁ、何とか落ち着いてるよ」

 

 ぶどうの炭酸を押しながら、秀一は「そうか」と重々しくうなずいてみせる。

 良悟はそんな秀一の隣のサーバーで、透明な炭酸の方を押した。半透明のコップの中に、泡のはじける音と共に炭酸がせり上がる。

 

「あんま抱え込むなよ? いざとなったら島原さんに頼っとけ。絶対、手貸してくれるから」

「だから、頼みたくないんだけどな」

「いや、だからってなにさ」

 

 ジュースを注ぎ終わったコップを手に取ると、二人は席に戻ろうと歩き出す。

 歩きながら、良悟は秀一の方を見て口にする。

 

「わかってて甘えるって、なんか卑怯だろ」

「いや、お前それは違うっての」

「いいや、そんな甘えは――っ!?」

 

 良悟の体に急な衝撃が走り、思わず彼はたたらを踏んだ。ほぼ同時に、彼の目の前から「きゃっ」と短い悲鳴が上がり、パシャと液体がこぼれる音と、立て続けにカランと軽いものが落ちて転がる音が響く。

 

「イタタ……って、うわっ、やっちゃったー……」

「恵美!? あっ、何か拭くものを――」

 

 良悟の目の前で、その少女はしりもちをついて、お尻をさすりながら自分の服を見て眉を下げていた。長い茶髪に頭の上から一房ぴょこんと飛び出した髪の毛が特徴的な、学生の少女だった。白いシャツに緩めたネクタイ、ミニスカートを履いて、絶妙な着崩し方をしている。ギャル、という言葉がふと良悟の頭の中によぎる。

 

 そんな彼女の足元には、空になったコップと、濁った色のジュースが飛散している。そこまで見てようやく、良悟は自分の過ちに気が付いた。

 

「――っ、ごめんなさい。ケガはありませんか?」

 

 それを見て、呆然と立ち尽くすほど良悟ものんきではない。すぐさま少女に駆け寄って、目線を合わせるために膝をついて敬語を口にした。

 

「あっ、いやいや。へーきへーき! こっちも話し込んじゃってたからさ。……あー、でも何か拭くものある? 服にかかっちゃってさ」

 

 何でもない風に、少女は軽い調子で明るく言ってのける。服はもう手遅れだ。ジュースの色が、白いシャツにしみ込んでいる。盛大にこぼしたようで、胸からスカートにかけて中身をかぶってしまっている。

 

「っ!」

 

 少女の様子を見てハッとなり、途端に背後の席から視線が向いている気配を感じた。良悟は慌てて彼女に向けられる視線の間に割り込んだ。

 

「――、ごめん、これ使ってくれ」

 

 そうして次の行動は一瞬の空白の後に起こる。

 良悟はポケットから上質なシルクのハンカチを取り出した。隅に「Ryogo」と名前が刺繍されている、処女雪のように真っ白で膨らみを持っているそれを、彼は少女の方に向けて手渡した。

 

「っ、おい良悟。それ」

「秀一、それより俺のカバンからジャージとってきてくれ」

「いや、でもお前――」

「頼む」

 

 待ったをかけてきた秀一に、良悟は視線と要件、短い言葉だけですべてを伝える。鋭利に磨かれた視線と気迫に、秀一は思わず息を呑み――渋々と、頷いて見せた。

 

「わかった。ちょっと待ってろ」

 

 秀一は早足でその場を立ち去っていく。その後姿を一瞬だけ見送ると、すぐさま少女の方に視線を戻した。

 

「えっと……、いや、アタシはおしぼりとかで十分だからさ! そんなに高そうなの使うの何か怖いし!」

「いや、そんなに高いものじゃない。それよりも、風邪ひかれる方が困る。あと、服の弁償もしたい」

「へっ? いやそれこそ別にいいから! アタシの方も不注意だったんだから、弁償されるってすごい申し訳ないんだけど!?」

「……ありがとうございます。受け取ります」

「って、琴葉!?」

 

 そんな会話の横合いから、今までずっと少女の隣にいた女性が代わりに彼の手からハンカチを受け取った。少女が目を白黒させて驚くのをよそに、琴葉と呼ばれた彼女はとりあえず服の上からハンカチにしみ込ませるように、こぼれたジュースを拭いていく。

 

「本人もこう言っているので、弁償は控えさせてください。されてしまうと、気負ってしまう子なので」

 

 良悟の目を見て、物怖じせずしっかりと言葉を尽くす琴葉に、良悟は視線を落としながらも「わかりました」と頷いて見せる。

 本人が遠慮して、こちらの謝罪はひとつ受け取った上で、付添人からも弁償を拒否される。そんな状態で弁償を押し通そうとするほど、良悟も傲慢にはなれなかった。

 

「良悟、ほいこれ。……こりゃ、ちょっとおしぼり貰ってくるわ」

「悪い、任せた」

 

 いいってことよ、と秀一はすぐ近くに居た店員に向かっていく。

 良悟はそんな秀一に今度は視線もくれず、琴葉と視線を交えると、すぐに少女の方に視線を切り替えて、折りたたまれたジャージを彼女の前で見せびらかす様に広げてみせる。背中には「〇〇高校サッカー部」と大きな刺繍がされている。

 

「それじゃ風邪ひくから、とりあえずこれ使ってくれ。部活のやつでダサくて悪いけど、今これと学ランしかないんだ。……学ランの方がいいならそっちにするが」

「いやいやいや! 席の方にセーターあるから気にしなくっても――」

「お気遣いありがとうございます。……こちら、お借りしますね」

「って、琴葉も勝手に決めちゃって――」

 

 少女ひとりが目まぐるしく変わる状況に置いてけぼりの中、さらに秀一が両手におしぼりを持って戻ってきたことで事態が動く。

 

「おしぼり貰ってきたぞ。……とりあえず、後始末は俺たちでやっておくんで、お二人は自分の席で、そっちの対処をしてくれると助かります」

「度々、お気遣いありがとうございます。――行こう、恵美」

「えっ、ちょっと。えっ、どゆこと!?」

「いいから。お言葉に甘えさせていただいて、まずは席に戻りましょう」

「わっ、琴葉ちょっと――」

 

 琴葉は彼女に手早く渡されたジャージを制服の上から着せると、半ば引きずるように自分の席に戻っていった。擦れ違いざまに、秀一は琴葉におしぼりを三本、さりげなく手渡した。事態の中心にいたはずの少女、恵美の方は終始わけがわからない、といった様子だった。

 

 そんな姿を見送って、良悟と秀一はお互いに息を吐いた。

 

「無自覚って怖えわ。ナイスフォロー」

「いや、付き添いの方の察しがめちゃくちゃ良くて、ほんと助かった」

「ありゃ、委員長気質だな。間違いない」

「馬鹿言ってないで後始末するぞ」

「はいよ」

 

 秀一の手からおしぼりを受け取ると、さっさとこぼしたジュースを拭きとって、コップを片付けた。そうして手間を終わらせると、ふと二人は先ほどの二人のいる方に視線を向ける。どうやら、帰り支度を始めている様子だ。良悟たちの視線に気が付いたのか、琴葉は一度こちらに会釈をしただけで、あとは見向きもしなかった。

 

「一件落着だな」

「ほんと、助かった。巻き込んでごめん」

 

 良悟の謝罪に、秀一は「いいってことよ」と気さくな笑顔を浮かべてその言葉を受け入れる。そして席に戻ろうとお互いに歩き出してから、秀一は彼に声を掛ける。

 

「でも、あれ良かったのか? 最悪、返ってこないこと、わかってるか?」

 

 秀一の真剣な面持ちが、良悟の方に向けられる。その双眸は、彼のことを射抜くように鋭くしぼられていた。責めているような、それでいてどこか心配しているような様子だ。

 

「いいんだよ。……あそこで渡さなきゃ、母さんに怒られる」

 

 しかし、秀一の視線すらはねのけて。一瞥もくれず良悟はまっすぐ言ってのける。母に恥じない行動を。それが、良悟を突き動かした引き金なのだ。例え渡したものが二度と返ってこないとしても。それを理解した上で、後悔の生じない選択をとったのだと胸を張る。

 

「……まぁ、あの母ちゃんならそう言うか。良悟がそれでいいなら、俺はもう何も言わねぇ」

「文句言われたとしても、直す気はない」

「わかってら」

 

 秀一は良悟の右肩を軽く小突く。それに反応するように、良悟は薄く口元を緩めて頷いた。

 

 

 

 白いシルクのハンカチは、良悟の名前が刺繍された、母からの贈り物。

 良悟にとってそれは、苦い記憶とも、思い出ともとれる形見の品だ。

 

 ハンカチを渡すときの意味を知っているだろうか?

 

 ――「別れ」――

 

 ――「手切れ」――

 

 ――「贈り物」――

 

 ――「親密になりたい」――

 

 

 

 良悟の母が、良悟にこのハンカチをプレゼントした理由。

 

 ――その本当の意味を。母親の多大なる愛情を。

 彼はまだ知らないのであった。

 

 




母の愛情。母が本当に、良悟に伝えたかった想いとは何か。
その本当の意味に、良悟が気づくのはいつか。



良悟の母親が残したかったものが何か。
このハンカチが、どういう場面で贈られたのか。
物語が進むにつれて、少しずつ明らかになっていきます。

皆様も、もしよろしければ妄想を膨らませていただければ幸いです。このハンカチが、物語にどんな影響を及ぼすのか。



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そのお声を真摯に受け止め、モチベーションにつなげさせていただきます。

それでは、また次話にてお会いいたしましょう


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第三話 一息のサンバ

 キュッ、キュッ、とシューズが鋭く床を擦る。音の強さ、踏みしめる音、タイミングはバラバラで、一体感とはかけ離れていた。まだレッスンを始めて間もない少女たちは、その面持ちを引き締め、あるいは楽しそうに笑顔でステップを刻む。

 

 その中でも、一際輝いている少女が居た。太陽のような笑顔で、額の汗を雨雫のように飛ばしている。まるで、彼女の一帯だけ天気雨が降り注いでいるかのように煌めいている。指先までピンと伸ばして、美しい線のような姿勢、おおらかな動き。

 

 彼女たち全体の様子を見ているトレーナーさえ、ふとした瞬間、その太陽に視線を吸い寄せられる。異彩を放つとは、まさにこのことだ。やはり、別の課題を与えることも視野に入れようと、トレーナーの彼女は頭の片隅に留めて、他のメンバーに視線を移した。

 

 額に汗をにじませ、肩で息をして、足を震えさせて。これが普通なのだと、トレーナーはひとり小さく頷いた。様子を見る限り、彼女は「頃合いか」と手を打ち鳴らす。

 

「はい、いったん休憩! 水分補給しっかりして。5分後に再開!」

「ハーイ!」

 

 トレーナーの声に答えたのは、やはりというべきか太陽のような少女であった。笑顔で手を挙げて返事をする様子は非常に幼く見えるが、彼女は高校生だ。

 少女を尻目に、トレーナーは背を向けて今後のレッスン方針の思案に暮れるのであった。

 

 

 

「え、エレナ……ほんと、よくそんなに、元気残ってる、ね……」

 

 仰向けに倒れて、そんな体勢のままスポドリを飲みつつ、息も絶え絶えな少女の一人である所恵美が、唯一元気そうなエレナに声を掛ける。

 周りも恵美と似たような状況で、うつ伏せのまま床に頬をくっつけて「冷たい……」と休んでいる者もいれば、肩で息を繰り返しながら体育座りでスポドリ片手にぼーっとしている者もいる。

 

 そんな控えめに言って死屍累々といった状況でも、太陽が曇ることはなかった。ステージの上のアイドルのように輝いた笑顔を浮かべて、鼻歌交じりにスポドリを飲んでいるのが島原エレナという少女であった。

 

「んー、楽しいからだネ。メグミは楽しくないノ?」

「た、楽しいとか、それより……つ、疲れたよ……」

 

 楽しんでいる余裕がない。エレナと他の少女たちとの違いは、そんな基礎的な体力の差にあった。もしも高坂海美、北上麗花、舞浜歩などの面々が居ればいい勝負をしただろうが、この三人のレッスンは別日で今日は来ていない。

 

「大事なのは、パッションだヨ。体を動かすときのワクワクをエネルギーにするノ! スポーツとかといっしょだネ」

「ワクワクをエネルギーに、かぁ……うん、次やってみようかな」

「うん。楽しむのが一番だヨ!」

 

 ふんふふーん、と鼻歌混じりにエレナの笑顔が咲く。

 

 そんなエレナの笑顔を見ていると、恵美の体の奥から力が湧いてくる。負けていられない、とか。追いつきたい、といった反骨精神もあっただろう。

 しかし、何より恵美はエレナの「楽しそう」な表情を見て、気持ちが高揚していた。その笑顔を見るだけで、引っ張られるようにやる気がみなぎってくる。「楽しい」が伝播して、それに感化される。まるで手を引かれてエスコートされるように、恵美の感情もエレナの笑顔に引き寄せられるのだ。

 

 ――仲間に勇気を与え、みんなに元気を配り、誰よりも輝いて照らしてくれる。

 そんな魅力が、エレナの笑顔にはある。

 

 

 

(……高坂とも、舞浜とも、北上とも違うタイプ。高坂は繊細な動きと柔軟性、舞浜はダイナミックで大味の効いたアメリカンスタイル、北上は自由奔放なようでキレのあるギャップ。そして島原は――感情で踊る)

 

 積み重ねてきた経験、培ってきた技術、天性の才能。

 アイドルのダンススタイル、特に長所と呼ばれる部分はあまりにも多岐にわたる。高坂海美がバレエで積みかねてきた経験を活かしているように。舞浜歩が本場アメリカで培ってきた技術を駆使するように。北上麗花が天性の才能で奔放に踊るように。

 バレエ、ヒップホップ、ブレイク、タップ、サルサ、社交ダンス……例を挙げればキリがない。それだけの種類があるダンスの枠組みに、彼女たちアイドルは囚われない。

 

 生粋のダンサーとは、バレエならバレエだけを。タップならタップだけを極めていくことが多い。その系統の世界に肩までどっぷりと浸かり込んで、競技の世界で勝った負けたを繰り返す。

 

 しかし、アイドルはダンサーではない。必要であれば、タップも踊る。サルサも踊る。本職からみて付け焼刃だろうが、会場と観客を沸かせるために練習を繰り返し、ひとつのパフォーマンスとして披露する。会場を支配する要素はダンスだけにとどまらず、歌に、笑顔に、アドリブなんかもあるだろう。

 

 そうした総合力をもって会場を制するのがアイドルだ。ダンスは一つの武器に過ぎない。重要なのは、アイドルの長所として活かされるかどうか。それだけだ。

 

 

 

 エレナのダンスは、間違いなくアイドルとしての長所だ。仲間を引っ張り、見る者の視線を釘付けにして、笑顔を咲かせる。

 

 超絶技巧で会場を圧倒するわけではない。

 本人の「楽しい」という感情を、周りに伝えて会場と一体になるダンス。

 

 惜しむらくは、エースであってリーダーではないという点か。周りのメンバーと手を取り合うには、あまりに飛びぬけている。本人も、よく言えば前向きで……悪く言えば、向こう見ずなところがありそうだ。

 

(島原は……もう少し、様子見でいいだろう)

 

 島原エレナのダンスと笑顔がステージでどう影響するか。ユニットでどう作用するか。それはトレーナーの知るところではない。一緒にレッスンを受けるライバルに対してどう影響を与えるか、それも未知数。

 

「よし、休憩は終わりだ!」

 

 トレーナーが声を張り上げると、真っ先に視線を惹かれたのが、やはりエレナであった。待ってました、と言わんばかりの満面の笑みでこちらを見つめて、すぐさま立ち上がる様は「らしい」といえるほどよく見た光景だ。

 

 他のアイドルが疲れたように、あるいは緊張に顔を引き締めるようにしている中で。彼女だけは笑っている。

 隣にいて、エレナと話していた恵美の表情も柔らかくはなっているが、笑顔とはまだほど遠い。どちらかと言えば、リラックスしているというべき顔つきだ。

 

「じゃあ、さっきと同じように並べ!」

 

 太陽は、彼女たちにどんな影響を与えるか。

 トレーナーはその視線を鋭くしながら、少女たちに指示を出すのであった。

 

 

 

 

 

 

「あー、ほんとつかれたーっ!」

 

 生まれたての小鹿のように足を震えさせながら、恵美は愚痴をひとつ、更衣室の中で制服に着替え終わって椅子に座っている。エレナの着替えが終わるのを待ちながら、彼女は自分の足をもみほぐしていく。

 

「でも、いい汗かいたでショ?」

「そりゃそうだけどさー。帰るのも一苦労だよー!」

 

 エレナの無邪気な声に、恵美はついついこの後のことを考えて気分を落ち込ませた。いい汗をかいたといえば確かにそうだ。練習中の疲れは二の次に、とにかくダンスに燃えていた。だからといって、疲れを感じなくなるわけではなかった。足が棒になる、という表現がこれほど間近に迫ったことは初めてだ。

 

 ふと、恵美はエレナの方を見て「はえー」と感心したような声が飛び出した。

 

 肩甲骨からヒップのラインが、なめらかな曲線になっている。女性的な肉感のあるお尻が山となり、そこから波打つようにくびれた腰が、透き通るような白い背筋は肩甲骨のくぼみと相まって立体的な質感を遠目からも出している。

 

 ――と、そこまで見たところで彼女の白い制服が背中を隠し、さらにその上をエメラルドに波打つ髪が覆ってみせる。

 

「エレナってさ、姿勢すっごくイイよね。何か特訓でもしてるの?」

「姿勢? うーん、意識したことないかナ」

「えー? でも弓なりっていうのかな。すっごいキレイなのに」

「エヘヘ……あっ、もしかしたらサンバのおかげかもネ」

「サンバ? ダンスだから姿勢が大事ってコト?」

「うん! どんなダンスでも、猫背になったらキレイに見えないからネっ」

 

 そう言いながら、エレナは恵美の方に向くと途端にステップを踏み始めた。

 

 ――膝関節を曲げて、そこからピンと膝を伸ばすまでの間に。

 ――彼女は腰を左右に振って、くびれたスタイルと氷のように透き通る白い肌に注目を集めて目に焼き付けさせる。

 ――視線が乗ったところで、腰の近くに小さな手の動きを添えて躍動感を作り出す。まるで、魚がヒレをパタパタと動かす様に。可愛らしく、元気に。それに同調するように白い制服の裾が尾ヒレのようにひらひら宙を舞う。ヒレは徐々に翼のように広がり、大きく宙を掻いて全身のプロポーションをまっすぐ焼き付ける。腰を振り、脇を細かに動かし、背筋はどこまでもまっすぐに。その肢体を惜しげもなく、艶やかに輝かせて魅せる。

 

 たった、それだけの踊り。膝関節を曲げて、伸ばすまでの短い、それだけの。

 大きく動いたわけでもない。足場にしてみれば、最初の位置から数センチも動いていない。

 

 服装だってそうだ。制服の白いシャツに、下着だけ。着替えの途中というだけなのに、恵美にはまるで、それが今の踊りのために作られた衣装のように思えた。

 美しい魚がエメラルドの海を飛んだかのような光景が、瞼の裏に張り付いて離れない。

 

「こんなカンジだヨ。手の動きと、腰の動きのバランスが大事だネ!」

「はぇー……」

 

 放心状態だった。今魅せつけられた光景に囚われたまま、恵美は熱っぽく浮いたようにエレナのことを見ていた。

 しかし、そんな恵美のことなどお構いなしに、エレナはこれでおしまいだと彼女に背を向けて着替えを再開する。そんなエレナの様子を、恵美はまだ夢でも見ているかのように見つめている。

 

 シャツのボタンをかけて、スカートを履いて。学校指定の上着を羽織って、少しの身だしなみチェックを終えて早着替え。見つめている時間は、あっという間だった。

 

「おまたせっ! メグミいこっ?」

 

 振り返って、いつもの明るい笑顔を見せるエレナにようやく、恵美は現実に引き戻される。「あ、うん」と気のない声が、非現実のなごりとして口から出るものの、彼女は椅子から立ち上がる。

 

 そうして改めてエレナをみたところでふと。左袖の肩あたりに記された校章が目に入る。「あれ?」と恵美は思わず声を上げた。

 

「どうしたノ?」

 

 エレナの不思議そうな表情に、恵美は「あー、えっとね」と、どう切り出したものか考える。しかし、やましいことも何もないのだから、と彼女は単刀直入に聞いた。

 

「エレナって、〇〇高校だっけ?」

「うん。あっ、もしかして遊びに来るノ?」

「あ、そうじゃなくって。えっと、実はそこのサッカー部の男子からジャージとハンカチ借りちゃっててさ。できればでいいんだけど、橋渡しとか、お願いできない?」

「それくらいなら、お安いご用だヨ!」

「ほんと!? エレナありがとーっ!」

「わっ、ハグだネ! ギューっ!」

 

 笑顔があふれる更衣室。お互いに、笑い合いながら優しく抱きしめて。

 それが終われば、隣を歩いて一緒に帰る。学校のこと、レッスンのこと、家のこと。明日の天気まで。他愛のない話を繰り返しながら。

 

 夕暮れ時に、そんな少女たちの影が伸びる。

 オレンジ色に染まった街の中に溶け込む、そんな帰り道。

 

 

 少女たちの一日は、こうしてまたひとつ、過ぎ去って。

 

 ――明日もまた、陽は昇る。

 

 

 




エレナがサンバを踊るなら、きっとこんな感じじゃないかな、とか思いながら描写をさせていただきました。臨場感が伝われば幸いです。




お気に入り登録の方、順調に数を伸ばしているようで、ありがとうございます。
それを糧に、まずは第一部の方を完結させていただきます

更新ペース、できる限り落とさないように頑張りますので
これからもご愛読の方いただければ幸いです

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それでは、また次話にて。


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第四話 太陽のエール

 桜の絨毯が、学校の前の通学路を彩った。

 既に木々は緑葉に衣替えを終えようとしている中の春の名残だ。踏みつけられ、時間が経ち、茶色く変色した花びらは一抹の寂しさを胸に呼び起こす。

 

 もうすぐ初夏に入ろうとする朝の空気は、水で顔を洗うかのような冷たさで肌を撫でる。日差しはまだ弱く、人通りは閑散と。遠く先まで見通せる青空とつながった通学路。

 

「桜、散っちゃったネ」

 

 そんな中、エレナは隣を歩く良悟の手を取って握りしめた。肩と肩が触れ合う距離で、彼女は緑と桜を交互に見つめては、切なげに目を伏せる。

 

 良悟は「あぁ」と相槌を打つだけで、前だけを向いていた。桜が散ってしまった、という事実に共感をしたくなかった。

 

「リョーゴは、桜が大好きだったよネ?」

「そうだっけか」

「ワタシも大好きなノ。散っちゃったあとも、新しい季節がやってくるでショ? 桜は、咲いても散っても、季節の始まりを教えてくれるノ」

 

 握り返すように良悟の手に力が入る。マネキンの手のようにただそこにあって、エレナが繋いでいるといった状態から、お互いにつなぎ合う形になった。そのことに思わず笑顔が咲いた。

 

 朝からずっとこうだった。彼は魂が抜けてしまったかのように色をなくした顔で、まるで日常を再生するように生気なく動くのだ。仏壇の前での黙祷も長く、エレナが声を掛けなければ永遠と沈黙していそうな危うさがあった。

 

「リョーゴっ」

 

 両手をギュっと握りしめると、小さな震えが伝わってきた。その手はひんやりと冷たくて、少し大きくて、指の腹はちょっと硬い。握っていると、少しずつ汗ばんでいく彼の手は虚勢を張らない。等身大がそこにある。

 

「ひとりじゃないヨ」

 

 手の震えは寂しさの表れだ。その感覚はよく知っている。

 ブラジルから日本に来た当初、見知らぬ土地、聞き覚えのない言葉、周りに誰もいない孤独。来たばかりで迷子になって、だれにも頼れない、自分を中心に空白があるような疎外感。

 

 

 

 

 

 

 きっと、良悟は置いてけぼりになっている。

 春休みに母を病気で亡くして、父は仕事や諸々の手続きに手一杯。祖父母はどちらも他界していて、彼の父の多忙っぷりに手伝いを申し出る時間さえ見つからない。

 

 良悟の母は、亡くなる数日前に彼にプレゼントを渡していた。それが、彼の名前の刺繍が入った真っ白なハンカチだ。

 

 そんなプレゼントに、良悟が激怒したことを彼女は知っている。

 なぜなら、エレナも隣にいたからだ。

 

 病室の中で、彼は見ている方が竦み上がるような怒髪天を衝く形相で叫んでいた。

 

『ふざけるなっ! なにが、なにがっ、プレゼント!? こんな、別れの挨拶なんて欲しくないんだよッ!』

 

 そう言って、彼は母親にハンカチを叩き返して病室を出ていった。

 

 

 

 ――それが、母との最後の会話になるとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

 だから、エレナも距離を測りかねていた。良悟にどんな風に接すればいいのかわからなくて、それでも会話だけはいつも通りで。寂しい時に誰かと触れ合えないことが、どれだけ辛いことかわかっていたのに、踏み込む勇気が出せなかった。

 

 勇気の一歩は、手を繋ぐところから。

 相手のことがわかる一番軽いスキンシップ。

 

 良悟は繋がれた手に視線を落として、微笑みを浮かべるその表情を見て……バツが悪そうに、また前を向いた。

 

「なんか、調子狂うな」

 

 良悟はそう呟くと、しばらく沈黙を貫いた。

 沈黙の間、エレナは良悟の手を両手で握り続けた。まるで子どもを安心させるように、壊れ物を扱うように柔らかく。紺碧の瞳は見守るように。

 

「……ハンカチ、かしたんだよ」

「えっ?」

 

 ぽつり、とこぼれた言葉にエレナの目が大きく見開かれる。その反応に、彼は思わず苦笑を漏らして続きを話した。

 

「見ず知らずの相手で、俺がヘマやらかしてさ。相手のこと全然知らないし。返ってくる保証もない」

 

 手の震えが、少しずつ大きくなっていた。

 

「でもさ。俺の不注意でやらかしたことを、他の誰かに尻拭いなんてさせられないだろ? 自分の物可愛さになんて。そんなのやったら、母さんに怒られる」

 

 ジトっと汗のにじむ感触。心なしか熱がこもり、握り返す力も強くなった。

 

「――形見、なくしたんだ」

 

 歌うように、声は春風に乗って飛んでいく。

 自分の言葉の行き先はどこなのか。良悟の視線は風を追って遠くに向けられる。

 

 初めて足が止まる。

 学校はすぐ目の前だというのに、彼の視線はどこか彼方に向けられたまま動かない。その瞳が映しているのは後悔か、それとも思い出か。

 

 すぐ隣にいるはずなのに、瞬きした次には消えそうな立ち姿だった。

 風に巻かれて目を閉じた後、目の前には花びらが舞い散るだけだった――そんな映画のワンシーンのような光景が――良悟の母が、激怒して帰った彼のことを病室の窓から寂しそうに見守る光景が。

 

 エレナの脳裏に焼き付くように流れ込んできた。

 

「――リョーゴっ!」

 

 だから、彼女は大きな声で呼び止める。手を強く引いて連れ戻す。風にさらわれてしまわないように、どこかに連れ去られてしまわないように。彼の手を引いて学校まで走り出す。

 

「ちょっ――あぶなっ!」

「難しく考えすぎだと思うナ」

 

 良悟の声をものともせず、エレナは良悟と一緒に校門を通り抜ける。

 

「リョーゴはいいコトのために、ママンのプレゼントを使ったノ!」

「そりゃ、そうだけど――」

 

 グラウンドの横を通り抜けて、校舎の入り口が見えてきた。

 

「ママンは、そんなリョーゴのコト、ぜったいに褒めてくれるヨ!」

「っ、そうかもしれないけど――」

 

 だったら! とエレナが声を上げると同時に、二人は入り口の扉を通り抜け――

 

 ――そこでようやく立ち止まり、彼女は良悟の顔を見て言った。

 

「ハンカチ、返ってくるヨ! お日様はいつも、ワタシたちを見守ってくれてるからネ!」

 

 底抜けに明るい、それこそ太陽のような笑顔が輝いた。

 見ているだけで、思わず胸の内が温かくなるような笑顔。疑いのない、まっすぐな言葉。

 

(――あぁ、昔からこんなヤツだったっけ)

 

 あまりにまっすぐで、純粋で。疑いを知らない彼女の言葉を聞いていると、ついついその言葉と行動に引っ張られてしまう。彼女の笑顔が咲けば楽しくて、「できるヨ!」と応援されれば自分が無敵にでもなったかのような錯覚をして。「明日はきっと晴れるヨ!」と試合前に言われれば、聞いた本人の気分も晴れた。天気も晴れた。

 

 だから、根拠なんてないというのに。

 彼女に「ハンカチが返ってくる」と、こうまで自信満々に言われると――本当に返ってくるような、そんな気になってくる。

 

「ぷっ――」

 

 思わず、口から笑いがこぼれ出る。言葉と笑顔だけでその気になってしまって、途端に笑いが込み上げてきた。今まで悩んでいたのは何だったんだと、心のモヤは瞬く間に晴れ渡る。

 

 

 

「――あぁ、確かに。そうだな」

 

 

 

 挑戦的で小僧っぽい、少年の笑顔がここに咲く。

 

 

 

 そんな笑顔に負けじと、太陽も輝いた。張り合うように笑顔を深めていった二人は――ある時を境に、あははは、と声を出して笑い合う。

 

「元気出たかナ?」

「あぁ、出た。ほんと、元気もらってばかりだよ。ありがとう」

「どういたしまして!」

 

 そんな遣り取りの後、彼らは微笑みを交わして、それぞれの下駄箱に向いて歩き出す。

 背中と背中が向き合った二人の表情は、やはり笑顔で。

 

 

 

 太陽は、今日も輝いている。

 

 

 




これはまだ、ほんの一部。
良悟が先に帰ったということは、エレナだけが知っている事実もあるということだ。




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章タイトル、サブタイトル、タグなどは進めながら少しずつ工事していきますのでご容赦を。



それでは、また次話にてお会いいたしましょう


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第五話 仲直り

お気に入り登録、感想、ご評価の方を、本当にありがとうございます。
その評価、感想、お気に入り登録していただいた方々の期待を裏切らないように、今後も精進させていただきます。

それでは、本編をどうぞ。




 

 茜色が照らすグラウンドに影法師が駆け巡る。ボールを追って健脚を振るう影は、飲料水のCMにでも出てきそうな壮大な動きを見せている。写真を撮って切り抜けば、いかにもロゴマークにピッタリな走りっぷりだ。

 

 そんな影法師も、別の影法師が近づけばひとつの影となって人型を失ってしまう。そういう時はボールを追って選手自身の動きを見た。相手に背を向けてボールを取らせまいとしている選手と、そのボールをどうにか奪おうと重心を動かしてフェイントを入れる選手。読み合いに負けた方が手痛いカウンターを受ける場面。

 そんな時に、ボールをキープしていた側の味方がボールと同じ横のラインまで攻め上がってきた。上がってきた味方はフリーで、正面にはDFが1人、他はFWのマークについている。手を挙げて「パスをよこせ」とアピールしていた。

 

 まずい、と焦ったのはボールをとろうとしたDFだ。パスが通れば一対一、FWがDFのマークを逃れてきたならそこにパスの選択肢が作られる。咄嗟に、攻め上がってきた相手へのパスをカットするように踏み込み――

 

 ――踏み込んだ瞬間、ボールをキープしていた選手が先読みしていたかのように反転してDFを見事に突破してみせた。

 

「ワオッ!」

 

 茜色の差す教室で観戦していた彼女は、その光景に思わず声を漏らした。普通なら通るはずのパスを一足先に潰そうと動いたDFもさることながら、それを先読みして突破した彼の肝っ玉も見事だった。

 手に汗握る攻防を制した彼がフリーとなって攻め上がり、最後のDFと対面した時、攻め上がってきた味方もいることで1対2の数的有利を作り出している。

 

 さぁ、ここからどうする――といったとき。

 

 ――鈍いバイブレーション音が孤独な教室の中で木霊する。

 

「あっ」

 

 机の上に置いていた携帯に表示されたメッセージを見て、彼女はグラウンドから校門の方に視線を移すと……こちらへ元気に手を振っている、ベストフレンドの姿があった。

 

「あとでリョーゴに聞けばいいよネ」

 

 結果は後のお楽しみに。校門に向けて大きく手を振り返すと、彼女はエメラルドの波を立てて教室から飛び出した。上靴の乾いた音が、沈黙に包まれた校舎の中でよく響き渡る。それが楽しくなって、ついついタップを刻むように緩急をつけた。ただの走る音から、踊る音に。楽しそうな足音は下駄箱まで続き、到着すればローファーに履き替えて走り出す。

 

 

 

「メグミー!」

「あっ、エレナ―!」

 

 夕暮れ時の校門は人もまばらだった。部活帰りには早く、帰宅部が通るには遅すぎる。そんな中で、勢いのままに抱き着いてきたエレナの力を受け流すために、恵美はその場で一回転。なめらかなターンは、彼女たちがレッスンで培ってきた技量が惜しみなく発揮され、綺麗な円を描いてみせた。これでも挨拶ついでのハグなのだ。

 

「もー、そんな走ってきたら危ないって! 他の子にやるとバランス崩して倒れちゃうよ?」

「メグミだから大丈夫かナーって思ったノ。学校の子達にはやらないヨ」

「それならいいけどさー。……じゃ、サッカー部に案内してくれる?」

「うん、コッチだヨ!」

 

 小言もほどほどに、本題に入るとすぐにエレナが恵美の手を引いて学校の敷地を跨いだ。他の学校の生徒を許可なく学校に入れる。あまり褒められた行為ではないが、エレナも恵美も気にした様子がない。気にしていないというよりは、頭の中から抜け落ちていた。

 

 ここがエレナの学校かー、と物珍しそうにキョロキョロと校内を見回す恵美だが、そんな時間も1分と経たないうちに終わってしまう。

 

「あっ、リョーゴー! 来てきてー!」

 

 サッカー部は紅白試合がちょうど終わったところで、グラウンドの人工芝の上で思い思いに座り込んで水分補給をしていた。そんな中に、エレナのどこまでも明るい声が響き渡り、良悟は何事かと顔を上げてエレナの方を見た。隣にいた秀一や先輩後輩は、彼を茶化す様に肩を叩き、背中を押して、半ば追い出す様にエレナの方に差し向けた。

 

 そんな仲間たちをひと睨みすると、良悟は日差しが眩しいのか手を日差し除け代わりに掲げながら、エレナたちの方に歩み寄る。

 

「エレナどうし……って、他校の子? 本当にどうした?」

「あのね、メグミがサッカー部に用があるんだって。ハンカチとジャージかりちゃったらしいノ」

「……は?」

「……あ――っ!?」

「っ、はい!?」

 

 恵美が唐突に声を上げ、良悟はそれに驚き恵美の顔を確認して素っ頓狂な声を漏らす。良悟のことを指差して大口を開けて驚く恵美に、瞠目して固まる良悟。エレナはそんな二人の様子に首を傾げるしかなかった。

 

「えっ、すっごい偶然じゃん!? この前はほんとゴメンね? アタシも友達と話し込んじゃっててさ」

 

 先に驚きから脱したのは恵美だった。一息に良悟との距離を詰めて目の前に立つと、いつもの調子で言葉が飛び出した。

 

「あっ、そうそう。この前かりちゃったハンカチとジャージ返しに来たんだよね。……ちょっと待ってね」

 

 未だに驚き固まっている良悟をよそに、恵美は自分のカバンの中から綺麗に畳まれたジャージと、薄っすらとくすんでしまった白いハンカチを取り出した。

 

「はい、この前はありがとね! ……ハンカチの方、完全に色落ちなくてさ。ゴメン、綺麗な状態で返せなくて」

 

 ニカッと、エレナとはまた違ったタイプの笑顔。少年のように茶目っ気のある溌溂とした笑顔が咲いて……そうかと思えば、次の瞬間には眉と肩を落として目を伏せる。お礼には笑顔を、謝罪には真剣な様子を。そんな恵美の様子に、良悟はようやく忘れていた瞬きをすると、差し出されたジャージとハンカチを受け取って口を開いた。

 

「いや、俺の方こそごめん。ハンカチの方は、全然いいよ。綺麗に使うもんでもないし。どうせ汚れてくから、気にしなくていい。それより、俺の方こそ服汚してごめん。あれ、色落ちたか?」

 

 恵美は「あー」と言葉に詰まって視線をふと逸らして沈黙を作る。答えでも見つけるように視線を泳がせると、彼女は軽い調子で言葉を紡ぐ。

 

「まぁ大丈夫。制服だから何着も持ってるし。それよりハンカチの方が重大だって! どう見たって既製品とかじゃないじゃん!」

「いや、だからハンカチはどうせ汚れるんだからいいんだって。色ついても使えるんだし。それより色ついたらダメなシャツの方が――」

「いやいやいや、そのハンカチの方が――」

 

 お互いに、自分の方が責任は重いんだと譲らない。そんな変な言い合いが何度も繰り広げる姿は、まるで気のしれた親友同士のじゃれ合いのようだった。性格か波長か。かみ合い過ぎていた二人は、永遠とそんな押し問答を繰り広げている。

 

「もー、メグミもリョーゴも、それだと話が進まないヨ?」

 

 そんな中に割って入ったのがエレナだった。弟や妹を宥めるような視線を二人に向けると、良悟も恵美も「うっ」と声を上げてバツが悪そうに口を閉じた。

 

 そうして二人が冷静さを取り戻していくと、今度は押し問答を繰り広げてしまった羞恥心が押し寄せる。謝っているはずなのに、お礼を言いたいはずなのに。相手は悪者じゃないはずなのに。そんな主張はいまだに譲らないまま、羞恥心が反省を促した。

 

「それよりも、ほらっ! 仲直りするんでショ? なら、仲直りの握手っ!」

「うわっ」

「ちょっ――」

 

 そんな二人の手を間からとると、エレナは引っ張るように手を差し出させて、強引に握手を結び付けた。

 エレナに急に引っ張られたことで恵美は体勢を崩すも、日ごろのレッスンが功を奏して良悟にぶつかる寸でのところで立ち止まった。

 良悟の方は体勢こそ崩しそうになったものの、前のめりになるだけで踏ん張りをみせてその場から動くことはなかった。

 

「もーっ、エレナ。急に引っ張ったら危ない――へっ?」

 

 エレナに愚痴をこぼしながら顔を上げると――眼前に、鼻と鼻がくっついてしまいそうなほど近くに、良悟の顔があった。思わず間の抜けた声が喉の奥から飛び出した。

 

「――っ」

 

 急に恵美が顔を上げて視線がぶつかって、良悟は思わず息を呑む。

 深い水底を見ているかのようだった。海に潜って、果ての見えない深海を見ているような、濃い青色。覗き込んでいくうちに、水の中に自分の体が溶けていくような浮遊感に襲われる。深みのある綺麗な瞳を覗き込み、覗き込まれて、深海に呑まれたのか呼吸さえ忘れた時――

 

「リョーゴっ、ボーっとしすぎだヨ」

 

 つん、と彼の頬にエレナの人差し指が当たる。

 我に返って彼女の方を見てみれば、モチモチの頬をほんの少し膨らませて、不満を訴えるようにジっと強い視線が向けられている。

 

(……ほんと、ボケっとし過ぎた)

 

 良悟は長めの瞬きを一回、自身を戒める意味を込めて行った。エレナの親友相手に、不躾が過ぎたと反省を胸に、改めて彼は恵美に向き直った。

 

「……何か、ファミレスでも服でもいいから奢らせてくれ。それで今回は仲直りってことで、頼む」

 

 呆然としていたのは恵美も同じだった。間の抜けた表情と、開いた口。それが引き締まって、閉じたのは、彼がそう切り出して数秒経ってからだ。意味を噛み砕いて、ようやく話の流れを理解した少女は「うん」としっかりと頷いて見せると。

 

「……というか、二人ってどういう関係? すっごく仲良しに見えるけど」

 

 そんな頭によぎった疑問を、単刀直入に二人にぶつけた。

 この素朴な疑問を口にされたのは、一体いつ以来だろうか。

 

 良悟とエレナはお互いに顔を見合わせて、微笑みをこぼし合う。エレナは花が咲いたように、良悟は悪戯小僧のように。

 

「幼馴染だな」

「ファミリーみたいなカンジだヨ」

 

 良悟は簡潔に、エレナは率直に。

 息がピッタリなようで、どこか個性の違いで食い違っている二人の様子に気づいた風もなく、恵美は「へー!」と大げさに驚きながらパチンと指を鳴らした。まるで、名案を思い付きました、とでも言いたそうな得意な表情で。

 

「じゃあ、ファミレスの奢りでさ、エレナも一緒に行こっか! エレナの昔話って興味あるなー」

「三人で小さなパーティだネ! 予定とかどうしようカナ?」

「予定は追々で、とりあえずそうしようか。エレナの昔話は……まぁ、本人が許してくれる範囲でな?」

「うん。じゃあ、決まりだねっ! ちゃんと、話題用意しておいてね? えっと……」

 

 快活で好調な様子だった口元が、ふと勢いを失った。気まずそうに眉を下げて目を泳がせる様子に、良悟もエレナも首を傾げた。

 

「……あのさ。――名前、なんていうの?」

 

 一世一代の告白でもするように、勿体つけて出てきた言葉がそれだった。恥ずかしいような、気まずいような表情をしている恵美。

 

「――ぷっ」

 

 そんな様子を見て、思わず笑いが漏れたのは良悟だった。彼は一度大きな息が漏れたのを皮切りに、口元を手で覆って喉をくつくつと鳴らして声を必死で抑えようとしている。

 

 良悟の様子に、恵美は言いようのない羞恥心をあおられていく。首元から頬まで朱が差して、「笑わないでってばー!」と抗議したものの。良悟は片手をひらひらと振って軽い謝罪のジェスチャーをするだけで、笑いが収まることはなかった。

 

「もーっ、ちょっと笑い過ぎだってば! えっ、そんなにおかしかった!?」

「うーん、ラブシーンが過ぎて告白かと思ったら、名前を聞いたってカンジだネ」

 

 エレナの悪戯を仕掛ける子どものような笑みを受けながら、恵美は考える。

 ラブシーン。甘酸っぱくて、あるいは甘々な恋をしている中で……ようやく告白を迎える! といった手に汗握るシーン。話によってはクライマックスだ。そんなクライマックスで告白――ではなく、相手の名前を聞く。

 

 ――シュールギャグじゃん。

 

「……あぁぁぁ」

 

 やっちゃったー!? と、恵美は心の中で盛大に悲鳴を上げる。現実に出るのは羞恥心を殺すためのうめき声。あまりの恥ずかしさに目を合わせていられず、彼女は下を向いて悶えに悶えることとなる。

 

 その様子を見て、良悟はとうとう腰を曲げて下を向き、必死に笑いを噛み殺そうとする。喉と腹が痙攣して、プルプルと体まで震え始める。

 

 仲直りの握手はいまだに続いている。良悟の手の震えと、喉から漏れる彼の声が、どれだけ笑っているかを如実に伝えてきて、それが伝わるたびに恵美は顔に熱を帯びて目じりに涙が溜まっていく。羞恥心はもう溢れそうだ。

 

「くっぷっ……けほっ。あー……うん」

 

 繋いだ手は汗ばんでいくのをお互いが自覚していた。強く握れば滑って握手が解けそうなほどで、ともすればマラソンの後のような発汗量。そんな状態が追い打ちのように恵美の羞恥心を刺激する中、ようやく良悟の震えが止まった。

 

「……新田良悟だ」

「――へっ?」

 

 あっさりとした物言いだった。今日の天気でも答えるように、さらりと口からこぼれ落ちる名前。恵美は不覚にも、彼の名前を聞き逃してしまった。人の名前も、誕生日だって覚えるのを得意としているのに。

 

「自己紹介だろ? 俺は、新田良悟。エレナの幼馴染だ」

 

 今度は前置きを置いて、誰もが聞き取れるようにしっかりと、その口から名前が紡がれた。幼馴染だと言い切った時、彼は男の子のように純粋で小憎たらしい微笑みを浮かべた。

 

 愛らしさを覚えるその表情に、心臓が小さく跳ねた。幼い微笑みは、どうしてか包み込みたくなるような。胸の奥をくすぐる感覚に、視線と意識を奪われて――

 

恵美はハッと我に返ると、彼の名前を頭の中で慌てて反芻する。聞き取れなかった分、忘れないように。今度こそ聞き逃さないように。

 

「うん。リョーゴくん、よろしくね! アタシは所恵美。エレナの親友だよ!」

 

 恵美は張り合うように、その顔いっぱいに挑戦的でお転婆な少女の笑顔を咲かせた。

 

 良悟の微笑みが、ポカンと呆然に塗り替えられる。見たことない種類の笑顔に目を奪われた。少女ではあるが、女の子の笑顔とは少し違う。大人というには幼く、元気いっぱいというより挑発的。ギャルのように挑戦的で悪戯っ気があるくせして、花の咲いたような満面の笑顔。垢抜けきれない彼女のような笑顔を、良悟は見たことがなかった。

 

 彼の視線を釘づけにして、恵美は「してやったり」と口元に弧を描く。

 それを見た良悟は「やられた」と肩をすくめてため息を吐き。

 エレナはそんな二人の様子に、見守るように微笑みを浮かべる。

 

「よろしくな」

「うん。よろしくね!」

 

 二人が初めて、お互いの意思で握手を交わした。繋ぎなおしたわけではなく、もともと繋いでいた手に力を入れただけだが、それだけでもお互いの思いが伝わるようであった。

 

「仲直りだネ!」

 

 エレナの締めの言葉に、二人は各々の笑顔で頷いた。そんな二人に釣られるように、エレナも太陽のように表情を輝かせて。

 

 

 

 夕暮れ時に、太陽は光届かぬ場所に濃い影を作り、茜色の光で世界を照らす。

 明日の天気は、まだ誰にもわからない。

 

 

 

 




お互いを庇い合うように責任を背負おうとする二人は、まるで兄妹のように似た者同士。
仲が良さそうに見えても、思いの外。
人間関係とは、うまくいかないものである




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第六話 兄妹のような幼馴染

 

 

 薄暗い部屋の中に、窓から光が差し込んだ。

 雲の分け目から顔をのぞかせた太陽が、窓辺とベッドに光をおろす。まだ部屋の奥まで照らせるほどではないが、そこには確かに温かい光が、希望の彩りを作っている。

 

 そんな中、まだ光の当たらない勉強机の椅子に腰かけていた彼は、机の上に置いたハンカチを横目に見ていた。暗いとあまり目立たないが、光に照らすとくすんだ白が露わになる。まるで不注意を戒めるように主張してくる。

 過去にケチをつけられているようで好きになれない汚れだが、嫌いになり切ることもできない。それを嫌いになれば、過去を反省できない愚か者になってしまう気がした。

 

 文句を言える相手がいない。代わりにため息を吐くと、彼はハンカチをポケットに、部屋を出ていった。階段を下りて、靴を履いて、家の外に出てみれば――

 

「……微妙な天気」

 

 太陽はもう隠れていて、灰色の雲が空を漂っている。遠くを見れば、色鉛筆を粗末に走らせたような薄い雲――鈎状巻雲――が空にへばりついている。

 

 鍵を閉めて、門を出たところで風が吹き抜けた。まるで運び屋のように、冷たい空気が彼の体に行き届き、思わず体を震わせた。

 

「さっむ……」

 

 ぼやきながらも、彼は足を動かして前へ前へと進んでいく。

 その途中、ふと彼は自宅の方に振り返る。

 

「………」

 

 電気の消えた家。誰もいない門の前をしばらく見つめると。

 彼はまた前を向いて歩き出した。

 

 

 

 待ち合わせのファミレスに入ってからすぐ、ウェイターが席に案内しようと出てきたのを「待ち合せているんで」と手で制して、良悟は店の中を一度見まわした。昼時少し前ということもあり人は比較的少なく、こちらを見つけたエレナが席から手を振ってくるものだから待ち人はすぐに見つかった。

 

「待たせて悪い――」

 

 エレナと恵美の待つ席まで来てみれば、テーブルの上にはまだお冷とドリンクしか置かれていなかった。それを見た瞬間、良悟は決まり文句を引っ込めて、ニヒルを気取って肩をすくめた。

 

「――ってこともなさそうだな。お待たせ」

「えー、ちょー待ったよ?」

「そうそう。すっごく待ってたんだヨ?」

 

 ここぞとばかりに、恵美とエレナがニヤリと隠す気のないイタズラ心を含ませた笑みを浮かべて言葉を合わせる。一体どういう冗談なのか、と良悟は眉をひそめて二人の様子をうかがいながら、エレナの隣の席に腰を落とした。

 

 念のため、チラリとテーブルに置かれたフォーク、スプーン、ナイフの入った籠の中を確認するが、いじった様子も数が減っていることもなさそうだ。

 

「どういう冗談か知らんけど……とりあえず、注文するぞ」

「あり? メニュー見なくていいの?」

「ここに来たらドリアしか頼まない」

「えー、せっかくいろんなメニューあるのにもったいないなー」

「外食なんて、気に入ったモノ食えればそれでいいから」

「ふーん……あっ、じゃあさ! アタシはパスタ頼んだから、シェアしようよ!」

「……まぁいいけど。やっぱそんなに待ってないだろ」

「ありゃ、バレちゃった」

 

 にゃはは、と軽いノリで笑いかけてくる彼女を見て、良悟は小さくため息を吐いた。

 

「で、エレナの昔話だっけ?」

「うんうん。いつ頃からの付き合いなの?」

 

 場は温まった、と恵美は滑らかに良悟に質問を投げかける。話の導入としては、まずまずの結果だった。

 

「エレナが日本に来てからすぐ。だから……11年か」

 

 えぇ!? と恵美は思わず声を上げた。幼馴染だのファミリーだのと聞いていたが、まさか十年を超える付き合いだとは思っていなかった。

 

「すっごい長い付き合いじゃん! 生粋のってカンジ。じゃあさ、エレナの子どもの頃ってさ、やっぱり明るかった? こう、引っ張ってくれるようなところあった?」

「……明るかったっちゃ明るかったけど、引っ張るって感じじゃないな」

「昔はリョーゴがワタシを引っ張ってくれたかナ」

「えっ、そうなの? じゃあ今よりもリョーゴくんがやんちゃだったとか?」

 

 エレナの補足に恵美は目を丸くして、ジッと確かめるように良悟のことを見つめた。彼は「ないない」と手を横に振って否定する。

 

「そもそも、親同士が話してる時に、子ども同士で遊んでなさいって言われて、サッカーを一緒にやって。それで一緒にサッカーやるようになったってだけだから」

「そのあとも、リョーゴはよくサッカーに誘ってくれたんだヨ。日本語で喋れなくて、一人のワタシを心配してネ」

「いや、そりゃあんな捨てられた子犬みたいな様子されたら気に掛けるっての」

 

 良悟とエレナの会話には「気安さ」があった。お互いがお互いのことを理解しているからこそ、素の自分を出して言葉を口にする。初めから打ち解け合っている二人の会話は、陽だまりの老夫婦のような和やかな雰囲気だ。

 

 エレナは嬉しそうにニコニコと。

 良悟は遠慮なしに呆れたような視線を向けながら、どこか楽しそうに口元を緩めて。

 

 そんな二人の様子を、恵美はどこか「うらやましい」と思った。

 

「へぇ……あっ、そっか。エレナってブラジルから引っ越してきたんだったね。――あれ? 日本語喋れなかったって……え、エレナ大丈夫だったの!?」

 

 日本語が喋れなくて一人だった、というエレナの過去を理解した途端、恵美は目を白黒させ、髪が風に靡く勢いでエレナの方を見た。

 エレナがこれまでずっと寂しい思いをしてきたんじゃないのか、一人の時に何か辛いことがあったんじゃないか。そんな想像が膨れ上がり、反射的にとった行動だった。

 

「うん。リョーゴがいつも一緒だったからネ!」

「いつもか? ……あぁ、まぁいつもか。というか、いつもってのはエレナの方からチョロチョロついてきたからだろ? 気に掛けたのはサッカーに誘った時くらいだっての」

「そうだっけ? ……うーん、リョーゴといつも一緒にいた気がするから、よく覚えてないかも」

「そりゃあ、家同士で上がり込んでホームパーティーくらいしたけど。学校じゃ大休憩と昼休憩に遊ぼうって誘ったくらいだぞ」

「あれ……? うーん、ワタシはリョーゴといっぱい話した気がするけどナー」

「子どもの時にポルトガル語が分かるわけないだろ。あれ会話か? ほとんどボディランゲージだったけど」

「でも話したいコトは伝わってたでショ?」

「……いや、半分以上わからなかったぞ」

「そうなノ? でも、ワタシは伝わってたと思うヨ。だから、会話できてたってコトだヨ」

「暴論すぎるだろそれ」

 

 遠慮のない会話に、恵美の入り込む余地はなかった。ただ、聞いているだけでエレナたちがどんな学校生活を送っていたのか、頭の中に映像が浮かび上がるようだった。

 

 教室の中。理解できない言語が飛び交う中でひとりぼっち。言葉が通じない。話しかけられてもうまく答えられない。話しかけても、わかってもらえない。そうして自分の机でポツンと落ち込んでいる。

 そんな様子が浮かぶだけで、胸が痛くなる。寂しかっただろうな、と漠然とした思いと共に、想像するほど心に空虚な隙間が生まれてくる。想像していた過去は灰色に染まっていき、背筋に寒気が走る。そんな孤独、耐えられない。そばにいるなら、すぐにでも駆け付けてあげたい。

 

 でも、灰色に染まっても色はすぐに戻ってきた。

 サッカーボールを持って近づいてきた少年が話しかけてきて、世界が一気に色づいた。

 

 話しかけられたことに花咲くように明るい表情が浮かび、話しかけられた内容に首を傾げて、サッカーボールを指差されれば嬉しそうに頷いた。

 そうして、子どもたちが言語の壁を越えてボールを蹴り始める。得点、失点、パスをつないで、ドリブルで切り込んで。

 

 グラウンドに、輝く笑顔が咲いた。

 

 そんな一連の想像だけで、胸がいっぱいになる。本当に良かった、と安心からつい肩の力が抜けて、ソファーの背に体を預けた。

 

「大体、最初にサッカー誘った後は、何だかんだでうまくやってただろ。気に掛けたことなんて、ほんとに両手の指で足りるぞ」

「でも、サッカーやるときにはいつも誘ってくれてたヨ? 両手と足の指を足しても足りないヨ」

「他の奴らにも声かけてたから。あれ、気に掛けるうちに入るのか?」

「ワタシは誘ってもらって嬉しかったナ」

 

 遠慮のない会話の節々に、二人の性格がにじみ出ていた。きっかけさえあればエレナは誰とでも仲良くなれて、良悟はそんなエレナを陰ながら見守っている。

 それは恵美の妄想かもしれない。本当はもっとずっと、子どもらしい気まぐれだったのかもしれない。それでも、気の置けない二人の今を見ていると、心温まる子ども時代がドラマのように頭の中に流れ込んでくる。

 

 ――ブラジルから日本にやってきたエレナは、独りじゃなかった。

 

 そのことが分かっただけで、胸がいっぱいになる。鼻の奥からツンと熱くなって、それが目頭にまで伝播する。目の前が霜の張った窓ガラス越しのようにぼんやりと映る。

 

「……大丈夫か?」

 

 気遣うような柔らかい声を掛けられた。目の前が霞んで見えなかったが、それが良悟の声だということは理解できた。

 

「――メグミ? どうして泣いてるノ?」

 

 少し遅れて、エレナからも聞かれた。二人に心配をかけている。そのことに慌てて涙を拭いながら、「何でもない! 何でもないよ!」と震えた声を元気と一緒に飛ばした。

 

「いや、でもな……目にゴミでも入ったのか?」

「んにゃ、違うって。……ほら、エレナが独りぼっちじゃなかったんだって、そのことが嬉しくて、さ。胸がいっぱいになって、感動しちゃって」

 

 涙を拭いながら話す恵美に、良悟はエレナの方を一度見て、恵美を見て、もう一度エレナを見て顔を見合わせた。

 

 エレナは誇るように得意な表情だ。

 そんなエレナを見て、良悟の口元も自然とほころんだ。

 

「良い友達だな」

 

 うん! と、力いっぱいに頷いたのはエレナだった。

 満開の笑顔が咲き誇る対面で、恵美は赤くなった目元を指で拭うようにして隠しながら、はにかんだのは恵美だ。幸せそうな泣き笑いをみせている。

 

「もー、エレナはまたそーやってアタシを泣かそうとしてっ」

「あれ? ワタシ、何かメグミにおかしなコト言ったかナ?」

「ううん、おかしくないけど。たださ、すっごい嬉しくってさ。こんなにステキな友達がいるんだなぁ、って」

 

 その言葉に、その表情に。

 良悟はついつい笑顔になった。

 

「そりゃあ、なんたってエレナだからな」

 

 まるで自慢の家族でも誇るように、鼻高々と断定した言い口だった。

 

「ほんとさ。リョーゴくんって――」

 

 ――エレナのお兄さんみたい。

 あまりにも堂々とした言い方に、今回聞いた話を総括して。恵美は心の底から「兄妹」のようだと思った。だから、それを口にしてやろうと良悟の顔を見つめたときに、飛び込んできた。

 

 

 

 ――それは年上の笑顔だった。

 おおらかで、包み込むように柔らかい父性の顔。

 

 ――されども、彼は小僧のように幼い口元だった。

 白い歯をみせつけるように笑う姿は、実年齢よりも幼く彼を映した。

 

 

 

 ――新田良悟の笑顔は、小憎たらしくも大人びた、透き通る青春のようにキレイだった。

 

 

 

「―――」

 

 言葉に詰まる。不意打ちのように飛び込んだ目の前の笑顔に、二の句を継げなくなった。鼻の奥や目頭だけじゃなくて、顔全体に熱が広がった。

 

 友達のキラキラとした楽しそうな笑顔じゃない。

 親しい仲でみせる悪戯っぽい笑い方でもない。

 大人のように疲れた愛想笑いでもない。

 

 その笑顔はきっと、誰かのために浮かんだものだから美しい。

 そんなキレイな笑顔、恵美は知らない。父親に近いけど、それよりも幼くて。母親のように身近にはなくて。手を伸ばせば届きそうなのに、決して届かない距離を感じる、触れられない笑顔。

 

 胸に、灯火のように小さな熱が点いた。

 中心は温かいのに、体の外側は冷えたまま。そんな微熱に心を揺さぶられる。どうしてかはわからない。だけれど、揺れ動く。やり場のない感情が、うねるようにつま先から頭のてっぺんまでのぼってくる。恵美はそれがプラスの感情だとは思えなかった。それでも、嵐のように体の中を渦巻いている。

 

 名前の付けられない感情の奔流に呑まれて、恵美は固まってしまった。

 

「メグミ? ハトみたいにボーっとしてるヨ?」

「……お前、友達の顔を鳩って」

「でも、ちょっと気の抜けたカンジがカワイイでショ?」

「おーい。そりゃ親しみは持てるけど。それ可愛いって、ペット感覚……」

 

 良悟の言葉は尻すぼみになっていき、ついには言い切る前にうなだれた。彼女特有の感性に、ツッコミを入れるだけ無駄だということは、今までの経験からよくわかっていた。

 

 顔を上げてみてみれば、恵美はまだ心ここにあらずといった様子だ。

 仕方なし、といった具合に良悟は緩慢な動きで恵美の方に手を伸ばし――

 

「おーい? 大丈夫か?」

 

 ――彼女の目の前で、手をゆらゆらと振ってみせた。

 

「……ふぇ?」

 

 きょとん、と寝ぼけているような透き通った瞳が、虚空を見つめる。出てきた声は、何とも気の抜けたものだった。猫の気まぐれな鳴き声どころか、あくびよりも緊張感に欠いていた。

 

「――っ!」

 

 消え入りそうなほど小さな声だったが、それを聞いた良悟は笑いをこらえきれず咄嗟に俯いて口元を手で押さえる。肩を時折震わせながら、彼は何とか声だけは押し殺していた。

 

「――あれ? えっ、リョーゴくんどしたの?」

「うーん、メグミがボーっとしてたのがおかしかったのかナ?」

「えぇ!? 何それひっどーい!」

 

 違う、と言葉にしようとすれば笑いが吹き出しそうだった。何を言われても、笑いを堪えるために口を閉ざすしかない。

 反論すら許されず俯いて悶えている良悟に、恵美はジトっと責めるように視線を向ける。

 

「ふーん? まだ笑うんだ。……ねぇねぇエレナ。リョーゴくんの恥ずかしい話って何かない?」

「リョーゴの恥ずかしい話? うーん……あっ、それならリョーゴって実はすっごい怖がるものがあるんだヨ」

「おま、エレナにそれ聞くのは反則――!」

 

 そんなこと暴露されちゃたまらない、と良悟は笑いを引っ込めて顔を上げた。

 

「にゃはは! どう、焦ったっしょ?」

 

 恵美はしてやったり、と口元に弧を描いていた。茶目っ気と幼さに満たされたその表情は、小憎らしさと茶目っ気にあふれている。

 

 はめられた、と良悟は天を仰いだ。薄いオレンジ色の照明が目を焼かれて、思わず目をつむり余韻に浸る。こんな馬鹿らしい遣り取りが、縁側で日向ぼっこをするように心地よかった。

 エレナと楽しいを共有するわけでもなく、秀一と馬鹿話で気安く頭を空っぽにして盛り上がるとも違う。

 

 久しく忘れていたその感覚を、長く感じていたかった。手放すのがもったいない、と思ってしまった。

 

「リョーゴは、お化けが怖いんだヨ」

 

 ピキリ、と浸っていた世界にひびが入った。壊れかけたブリキの人形のようにぎこちなくエレナの方を見てみれば……満面の笑顔だ。人の弱みを暴露しておいて何でそんなに笑顔なんだ、と良悟はうなだれて肩を落とした。

 

「えっ、そうなの? へぇ、ぜんぜん見えないなぁ」

「暗い道と、誰もいない広い場所に……あと、夜に一人でトイレに行くのも苦手――」

「やめろ! マジでやめろ! 大体、俺がホラー苦手なのって八割ぐらいエレナのせいだからな!?」

「エー、何のコトかわからないナー?」

「おまっ……このやろ、自分のこと棚に上げて……!」

「あ、その反応ってことは、ホントなんだ? へぇー」

 

 ニヤニヤと、面白そうに笑みを浮かべながら良悟を見る。

 そんな恵美の視線に耐えられず、良悟は視線を天井に逃がして「呆れた」といった様子を気取ってみせる。だが、視線が止むことは一向にない。

 

「別に霊的なものは怖くないからな? ピエロとかチェーンソーとかナイフ持ったストーカーとかが怖いだけだ」

「チェーンソーとストーカーは誰でも怖いっしょ。ピエロは人によるだろうけど」

「だろ? だから俺は普通だ。そんな変な視線向けられるいわれはない」

「えぇー? でも、夜にお手洗いに行けないのは普通じゃないかなー?」

「いや、戸締りしても家の中に知らない誰かがいるかもしれないって思ったら怖いだろ。それが刃物持ってたらなおさら怖いだろ」

「そりゃ現実にあったら怖いけどさ……フィクションじゃん」

「フィクションだろうと、怖いものは怖い。だから俺は普通だ」

 

 良悟は天井を向いて意地でも視線を合わせない。視線を合わせてにやけ顔を認識した途端、途方もない敗北感を覚えることが想像に難くなかった。

 

「ヘソ曲げちゃったかナ?」

「いや、そもそもエレナが原因――」

 

 ――お待たせしました

 

 恨みがましい視線をエレナに送ろうとする手前で、店員が料理を運んできた。パスタのお客様、と呼ばれると恵美が「アタシでーす」と元気よく手を挙げて返事を。ピザのお客様、と呼ばれればエレナが「ワタシだネ!」と店員と視線を合わせながら言った。

 

「……あー、注文いいですか?」

「はい。少々お待ちくださいませ――どうぞ、ご注文をお伺いいたします」

「ドリアとドリンクバーでお願いします」

「かしこまりました。ドリアとドリンクバーですね? それでは、少々お待ちくださいませ。ドリンクバーはセルフサービスとなっておりますので、予めご了承くださいませ」

 

 失礼いたします、とメモを取っていた店員はお盆を小脇にさっそうと去っていった。良悟は「飲み物とってくる」と言葉を残すと、店員を追うように席を立った。

 

 コップを手に取り、どれにするかとドリンクの種類に目を走らせていたところに、「おっさき」と横合いから声を掛けられる。自分のコップを手に、手慣れた様子で恵美が良悟の前を通り過ぎた。

 

「……マジか。混ぜるって」

 

 思わず目を見開いて、恵美の行動に瞠目する。三種類のジュースを混ぜて生まれた小汚い茶色の液体を見て顔が引きつった。

 

「ん? アタシは友達といつもやってるよ。意外とおいしいよ、これ。飲んでみる?」

 

 そんな微妙な表情の良悟を気にした風でもなく、恵美はカラッと混じりけのない笑みを浮かべてコップを揺らして見せた。

 恵美の様子に、良悟は「いやいい」と首を横に振ると、先ほど恵美が混ぜたジュースを確認して――ただのオレンジジュースをコップに注ぐだけに終わった。

 

「試し飲みくらいしない? いけると思うんだよね」

「それ以前に飲食店で立ちながら飲むとかないわ」

「あー、それもそっか。リョーゴくんって、実は結構育ちがよかったりする?」

「育ちってなんだよ」

「だってさ。あのハンカチだってすっごい高そうだったじゃん。あれオーダーメイドっしょ? なんか、アタシたちと住む世界違うかもなーって」

「ないない。住む世界が違うならこんなファミレス来てもオロオロしてるっての」

「あー、それなんか説得力あるね」

「自分で言っといてなんだけど、あるのか? ……戻るか」

 

 他愛のない話でドリンクサーバーの前に立ち尽くしていたところ、良悟は自分の席の方を見て切り出した。

 席の方では、ひとりほったらかしにされているエレナがほっぺを膨らませて羨ましそうに、恨みがましそうにこちらを見ていた。

 

 良悟の視線を追って事態を把握すると、さんせー、と軽い調子で恵美はさっさと席に戻っていった。そんな彼女の後を追うように、良悟もまた自分の席に戻る。

 

「ごめんねエレナ。ひとりで待たせちゃって」

「うん。でも、次からは気を付けてネ? あ、それとリョーゴと何話してたノ?」

「世間話? このスペシャルジュースのコトとか。育ち良さそうだなー、とか」

「ふーん。リョーゴのコトなら、ワタシに聞けば、何でも教えちゃうヨ」

「おいこら。何でもってのはやめろ」

「えー? でもリョーゴって自分のコトは話さないから、代わりにワタシが話さないとでショ? お話ししないと、わかってもらえないヨ」

「そんな急に距離詰める必要ないだろ。縁があれば自然とお互いのこと話すし、敢えて言うことでもないっての」

「リョーゴだってワタシのコトしか話してないヨ?」

「そりゃ今日の主題はエレナの過去だから当然だろ」

「でも、メグミはリョーゴのコトほとんど知らないから、ワタシのコト話すならリョーゴのコトも話さないと、伝わりにくいかナーって」

「だからって俺のことばかり話さなくても――」

 

 あーだ、こーだ、と恵美をそっちのけで他愛のない言い合いが始まった。お互いに、お互いのことを話すと主張して譲らない。それが鏡映しのようで、姿形は違えども、双子のようだった。

 

 そんな様子がとにかく、エレナと良悟の人柄を表しているように思えて。

 

 所恵美は、微笑みを浮かべながらその様子を見守るのであった。

 

 

 

 今日の太陽は、雲に隠れることもあったけど。

 概ね、「晴れ」といっていいだろう。

 

 

 





まずは一つ。
更新が遅くなってしまい、大変申し訳ありません。

文章の書き方、特に地の分をどのような雰囲気で書くか、試行錯誤をしていくうちについつい、遅くなってしまいました。あと、百花月下イベントと古戦場で割と筆が遅くなってしまいました。

これからも、週一以上の更新は目指していきますが、クオリティ維持のため、何卒ご理解いただければ幸いです



それでは、また次話か感想欄でお会いいたしましょう
感想、評価、ご指摘、コメント、お気に入り登録などなど、心よりお待ちしております


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第七話 親友の友達、友達の親友

お気に入り登録、しおり機能のご活用、まことにありがとうございます。
目に見える形で数字に表れると、やはりモチベーションに直結していくので、本当に嬉しい限りでございます。


また、誤字脱字報告をされてくださった方に、お礼を。
本当に、細部までお読みいただき、ご報告までいただき、ありがとうございます。

その熱に負けないように、この作品のクオリティを上げて、積み上げて、完結にもっていきたいと思います。


それでは、前書きはこの辺にて。

本編をどうぞ






 

 

 人混みのできる街の中を、流れに身を任せて前に進む。祭りほどひどい混み具合ではないものの、早足で進めば人とぶつかることもありそうだ。小さい時分のように、人間樹林と呼ぶには高さも密度も物足りない。

 

 人の波に流されて、時には抜けて。そんなことをしているうちに、円形の広場に出た。中央にはギリシャにでもありそうな全身像の彫刻が、円形噴水の皿のような部分を下から支えるように囲って佇んでいる。

 あまりに洒落たデザインに、妙な疎外感を受ける。さっさと通り抜けるため、人混みもマシになった広場で早足を決めようとしたところで――

 

「――あれ、リョーゴくん?」

「……偶然だな」

 

 奇妙な縁とでも言うべきか。

 新田良悟と所恵美は、お互いに連絡先を知らないくせして再会を果たした。

 

 

 

 

 

 

「へぇ、スパイクかー。いかにも運動部ってカンジだね」

「……そんなもんか?」

「そだね。スパイクって聞くと、サッカーと陸上がまっさきに浮かぶなぁ」

 

 広場を通り抜けて、歩きながら談笑を交える。十年来の幼馴染のような少女の気安さに、良悟の口は不思議と軽くなっていた。

 

「でも、買い物だよね? 何でリュック背負ってるわけ?」

「スパイク入れてるんだよ。壊れたやつ修理してもらうやつ」

「え、買うだけじゃないの?」

「このタイプのやつのスペアがないからな。芝とか雨の時に履くやつがないと困るんだよ」

「そんなに変わるの? スパイクだけで」

「だいぶ変わる。グラウンドのコンディションが悪い時にこれがないと、プレーにも結構響いてくる。例えば、パスがあらぬ方向にいったりとか」

 

 雨の日に固定式を履いていたばっかりに、踏ん張りが足りずにパスの飛距離が伸びない、あるいは踏ん張りを補うために咄嗟に強く蹴って遠くに飛び過ぎた、というのはよくある話だった。

 

「うわっ、それヤバいじゃん。そんなに変わるんだ……」

「それに慣れてるヤツじゃないと、ケガのリスクも増える。雨で滑って捻挫なんてしたら馬鹿みたいだしな」

「たしかに。そういうところは、アイドルのステージ衣装とかと一緒かもね」

「……いや、それ違うだろ。衣装って機能性も確かに重視するだろうけど、それ以上にデザインだろ、あれ」

「ま、見た目たしかに派手かもしんないけど。想像してるよりずっと着やすいよ?」

「へぇ。そっちのことはまるでわからんけど」

「スカートの裾とかさ、あれちょっと長く見えても動きのジャマにならないカンジになってたり。装飾とかも見た目以上に軽いんだよねー。あと、靴なんかめっちゃ履きやすいんだよね。ローファーよりずっと動きやすいかなっ」

「ダンスするからか? 機能的でデザインもいいなら、ほんとにすごいな」

「でしょでしょ? アタシも最初みて、履いたときはすっごい感動しちゃってさ。うわっ、こんなに動きやすいんだ! って」

 

 目を見開いて、口を動かして、身振り手振りを加えて。感情を表に出しながら言葉にする彼女の姿をみると、聞いているこちらも楽しくなってくる。透明な水の中に一滴の絵の具を垂らして色が広がっていくように、「楽しい」が心に浸透していく。

 

 だから、口が軽くなってしまう。楽しい時間の中に浸っていたいと思い、ついつい口から言葉が滑り出す。

 

 

 

「――あれ? 良悟じゃん。どしたのこんなところで」

 

 目的の店まであと少し。そんなところで背後から声を掛けられる。声を聞いて「まさか」と思って振り向いてみれば――ロング丈の桜色のアウターとスキニーをオシャレに着込んだ秀一の姿があった。

 

「秀一。お前こそ、そんなオシャレしてどうしたんだ?」

「いやー、最新のファッションとか気になっちってね。ウィンドウショッピング中。で、良悟はまさかデートか?」

 

 スッと鞘から刃を抜くように秀一の視線が鋭くなる。良悟はそんな彼の反応におどけるように肩をすくめて首を横に振る。

 

「偶然そこで会っただけだ。この前の、ファミレスの時の」

「……あっ、もしかしてファミレスでおしぼり貰ってきてくれた人?」

 

 良悟の弁明に一番に反応したのは、秀一ではなく恵美だった。良悟が振り向いてから彼女も倣うように秀一の姿を認めたが、見たことがあるようで思い出せない。喉元まで出かかった答えに悶々としていた彼女は、良悟の言葉を得てようやく答えがわかって、ついつい嬉しそうに反応していた。

 

「ファミレス? ……あー、あの時の。へえ、なるほど」

「あっ、アタシは所恵美。リョーゴくんとは友達ってカンジかな!」

「おっと、こりゃご丁寧にどうも。俺は良悟の親友の中田秀一です。所さん、よろしく」

 

 先ほどのおどけた様子とは打って変わって、秀一は真剣な面持ちと硬い声音で自己紹介をした。

 そんな秀一の様子に、恵美が意外そうに目を見開いたが、彼女は何事もなかったかのように「にゃはは!」とごまかす様に笑った。

 

「うん、よろしくね! それと、アタシのことは恵美って呼んでいいよ? なんか、苗字だとこそばゆくってさー」

「んー、申し訳ないけどそれはパスで。女子の名前、気軽に呼ぶのはなんだかなあ、って。個人的なアレで悪いけど、そういうことで」

「……こいつ、見た目や言動と裏腹にめちゃくちゃ硬いヤツだから」

「そうそう。俺ってば奥手なわけ。ということで、改めてよろしく」

 

 悪戯っ気のあるいかにも男子という表情で敬礼する様子に、自己紹介のときの面影は残っていなかった。サイコロを転がす様に変わる雰囲気に、恵美は彼に合わせるように手を側頭部に持っていき、笑いながら敬礼を返した。

 

「ところで、お二人さん偶然会ったって言ってたけど、そんなに親しかったっけ?」

「あー、まぁいろいろあってな。エレナの親友で、ハンカチ返してもらって、その繋がりで仲良くなった」

「……島原さん繋がりか。良悟、よかったな。ほんとに」

 

 しみじみと、重く頷く秀一の姿に良悟は頷くだけで返して見せた。まさか、ここでハンカチが片親の形見であった、などと暴露するわけにはいかない。相手にどれだけの負担がかかるか、それを考えないほど二人は幼くなかった。

 

「よかったって、何の話?」

「いや、こいつ友達が死ぬほど少ないのよ。それこそ俺と島原さんくらい?」

「えっ、ホントに?」

「いや、お前――」

「ほんとほんと! ちょっとここ最近へこんでたし、高校デビューあんまりうまくいってないし。中学まではイケイケだったんだけど、今はほら、縁側の爺ちゃんみたいな様子だからさ。近寄りがたいわけよ」

 

 良悟の言葉にかぶせるように、秀一は強く主張した。良悟は秀一の方を睨みつけるも、彼は瞳だけは真剣な様子で良悟の視線をどっしりと受け止めた。

 

「だからさ、親友として友達増えるってのは嬉しいわけよ。こいつ、シャイで口下手でとっつきにくいけど、根っこはめっちゃいいやつだからさ。仲良くしてやってほしいんだ」

「――にゃはは! イイ友達じゃん。言われなくたって、アタシは最初からそのつもりだよ?」

「そいつは助かる。友達として、よろしくしてやってほしい。あっ、でも悪いんだけどさ。ちょっとこいつに用事あるから、これから借りてっていい? 俺もこいつと同じサッカー部なんだけど、ちょっと重要な用事あるんだわ。所さんを話から外しちゃうのは、なんか気が引けるしさ。今日は、譲ってくれない?」

「あ、うん。全然いいよ。アタシも偶然会っただけで、特に用事なかったし」

「なんか、除け者みたいにしちゃってごめんね? お詫びに、今度もし会うことがあったら、島原さんのマル秘エピソード教えるから、それで勘弁ってことで!」

「あ、それ楽しみかも! じゃ、また会った時にね? またねー!」

「はいよー、また今度―!」

「……」

 

 秀一は恵美の前を横切ると、良悟の手首を引っ張って、恵美に手を振りながらさっさと前に進んでいく。良悟は言葉を返す暇もなく、ただ小さく手を振るだけで別れることとなる。

 

「秀一。お前、もうちょっと言い方ってもんが――」

「事実なんだから、否定しなさんなって。ああいうときは、軽い口調で煙に巻くのが一番なの。さすがに、形見貸したって重すぎでしょ」

「そりゃ、そうだけど」

 

 それよりも、と秀一は真面目な様子で話を転がした。

 

「なーに油売ってるわけ。彼女いない俺への当てつけかぁ?」

「いやそんなわけ――」

「いーや、あるね! 大体、お前さんには島原さんがいるんだから。他の女の子見る暇あったら、島原さんのこともうちょっと気に掛けようぜ?」

「気に掛けるって。もう高校生で、日本語もちゃんと喋れるんだぞ? 気に掛けることなんて、もうないだろ」

「ある! 大ありだ! 島原さんが、どんだけお前のこと気にかけてたか、知らないんだろ? お前が落ち込んでるとき、どんだけ相談されたことか」

「……相談? エレナが、お前に?」

「おうよ。本人は絶対に言わないだろうけど。だからさ、もうちょっと島原さんのこと、見てくれよ。今まで散々、世話になったろ?」

 

 忙しい朝に食事を用意してくれて。休みの日には昼食も作ってくれて。夕食も「エレナデリバリーだヨ!」などと持ってきてくれた。そんな時期が、確かにあった。良悟の母が亡くなってからの多忙な時期のことだ。

 

 そこに、良悟は今まで疑問も何も持つことはなかった。精神的に追い詰められていた時期であったことも確かに原因だが。それ以上に、彼女が「日常」を送ろうと、必死に努力していたのではないだろうか。

 

 秀一は、そんなエレナの努力を知っている。

 だが、良悟は何も知らない。気づくこともできていなかった。

 

「……エレナに、負担かけてたな」

「――は?」

 

 思い返してみると、確かに世話になりっぱなしだと、良悟はその事実を認めた。認めたからこそ、今度何か埋め合わせをしないとな、といつものように考えた。

 

「埋め合わせ、してみるわ。秀一、ありがとな。エレナには、苦労かけっぱなしだった」

「……そうだぞ。もっともっと、島原さんのこと敬っとけ。大切にしろ」

「大切にしろって。お前、エレナの父さんかよ」

「いや、あの父ちゃんと比べられるのはちょっとなぁ」

「そうか? 結構、秀一と似てると思うけど」

「えぇ……? すまん、さすがにわかんねえわ」

 

 気が付けば、いつもの馬鹿話が始まっていた。頭の中を空っぽにして、お互いに悪ふざけを言い合って。取るに足らない話題で盛り上がり。ファッションがどうだの、テレビがどうだの。今はこのスパイクが流行だのと。話題はコロコロ転がった。

 

「……ところで。秀一、重要な用事って言ってなかったか?」

「――ん? 用事?」

「俺を借りる理由だよ」

 

 ふとした折りに、思い出した良悟が口にする。

 秀一は目を点にして一息の空白を生んだ後、うーん、とうなり声を上げて悩み始めた。

 

「――なんだっけ?」

「おい」

「いやだってさ。話題変わり過ぎて、もう忘れたって。いや、もしかしたらもう言ってたのかも? ま、気にしなさんな」

「なんだそれ。というか、サッカー部からの連絡とかじゃないよな?」

「ないない。それだったら今思い出してるって。ほんと、用事ってなんだったっけな」

「お前な」

 

 だはは、と快活に笑う秀一に、良悟はあきれたように肩を落として息を吐く。それでも、不思議と悪い気がしないのは、二人の距離感が絶妙だから。

 

 良悟はそれ以上、「重要な用事」とやらを聞くことはなかった。代わりに馬鹿話に花を咲かせて、一緒に道中を歩いていく。

 

 男友達。二人そろえば小僧の集まり。

 幼い笑顔を浮かべて、時に悪そうな顔になって。笑い合い。

 

 それでいて、中身のない会話が緩急つけて続いていき。

 お互いに遠慮のない会話。その距離感もまた、良悟は好きなのだった。

 

 

 




距離感の違い、視点の違い、意見の食い違い。
そんなものはあるし、友達だって隠し事のひとつやふたつはするものでして。
意外と、頭を使っている人が居るわけです。



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第八話 東風より太陽へ

 

 

『差出人:エレナ

 宛先:Ryogo

 

 

 リョーゴ!! ヤッホー♪

 

 今ネ、劇場に着いたんだケド

 レッスンウェアを忘れちゃったみたいなノ

 このままだとワタシ

 レッスン受けられなくてピンチだヨー!!

 

 ママンならわかると思うから

 劇場までリョーゴデリバリー!!

 お願いしてもイイ?

 

 劇場の前で待ってるネ!!

                     』

 

 

 

 

 

 

 レッスンが始まる前に外の空気を吸おうと、そんな気楽な思いで劇場の建物をぐるっと一周しようとした恵美は、裏口の前にいたエレナと彼とを見て、咄嗟に身体を引っ込めて建物の影に身を隠した。

 

 隠れた理由は恵美にもわからない。ただ、そこに居合わせちゃいけないような、不思議な危うさ……雰囲気に呑まれてしまった。隠れた後は好奇心が鎌首をもたげて、蛇に睨まれたようにその場に縛られてしまう。

 

「ほんと、レッスンウェア忘れるとかこれっきりにしてくれよ?」

 

 良悟の声だった。遠くて聞き取るのもやっとの声だったが、ここ最近では妙に馴染みのある男子の声。聞き間違えるはずもない。後姿、それも一瞬見ただけだったから、恵美はそこで初めて良悟の存在に気が付く。やましい事なんて何もないのに、建物の角からそっと顔を出して、スニーキングをしているスパイのように様子を見る。

 

「うん、次から気をつけるヨ。ありがと!」

 

 建物の影に覆われている二人は、日差しの当たる恵美から見えにくかった。それが余計に、怪しい密会のような雰囲気を醸し出している。

 

「まぁ、いいけど。最近、世話になりっぱなしだったし」

「うん。でも今は、またお世話になっちゃったネ」

「また?」

「だって、昔はずっと心配してくれてたもん」

 

 その声だけで、エレナが唇を尖らせる様が目に浮かんでくるようだった。それはお気に入りのおもちゃを取り上げられた子どものようで、恵美は思わず耳を澄ませ、目を凝らして様子をうかがった。

 

「昔ってな。今のエレナ、心配するところあるのか?」

「あるヨ。女の子は、すっごくセンサイなノ。ワタシは桜の木で、リョーゴは太陽なんだから。見ててくれないと、元気がなくなって枯れちゃうノ」

 

 良悟の陰に隠れて、恵美からエレナの表情はうかがい知れない。思い浮かべることも難しい。

 

 

 

 エレナは、その紺碧の瞳に深海の奥深さを携えて、良悟のことを見つめていた。幼い言動とは裏腹に、彼女の瞳は静かな情熱を宿している。

 

 これを恵美が見れば、目を見開いてしばらくの間、呆然と立ち尽くすだろう。琴葉が見れば、迫力に呑まれて金縛りに遭うだろう。秀一が見れば、心の中で口笛を吹いて見守るだろう。

 

 良悟は、そのどれにも当てはまらない。おどけたように肩をすくめて、首を横に振った。

 

「俺はもう、太陽なんてガラじゃない。紫陽花あたりじゃないか? 梅雨でじめっとしてる感じ」

「ワタシはリョーゴに元気をもらってるから、太陽だヨ。曇り空だっただけなノ」

「一年も曇ってたら何でも枯れそうだけどな」

「ワタシは枯れないヨ? そばにいるってわかってたもん」

「えぇ……? さっきの枯れるって話どこいったんだ?」

「ワタシは待てる子だからネ。太陽が出てくるまで、ずーっと……頑張ってるノ」

 

 消え入りそうなほど、最後の言葉は弱々しいものだった。

 良悟は、そんなエレナの言葉にバツの悪そうな顔をしながら、右のつま先を地面に立てて口を開く。

 

「……心配かけた。俺は――もう、大丈夫だ」

「ホントに?」

「あぁ。もう、カラッと晴れたからな」

 

 彼は不器用に笑ってみせる。強気で、勝気に笑ってみせようとしたが、表情筋がうまく動かないことを自覚してすぐに笑顔を引っ込めた。

 

「……悪い。やっぱり、まだへこんでる」

「うん……リョーゴ、今日はありがと」

「あぁ、どういたしまして。レッスン、応援してるぞ」

「うん!」

 

 それじゃ、と良悟は踵を返して片手を振りながら、駅の方に向かっていった。エレナは彼の後姿に元気いっぱいに手を振り続ける。そして、彼が手を振り終えたときになってようやく、その手を花が萎れるようにゆっくりとおろした。

 

「……」

 

 ぼうっと良悟の後姿を見送った後、エレナはその髪を風になびかせて裏口から劇場に入っていくのであった。

 

 

 

「あのさエレナ。幼馴染って、どんなカンジなの?」

 

 レッスンが終わり、いつものように更衣室で着替えている時のことだ。恵美は脈絡もなく、ふと思いついたようにそう口にした。

 

「……オサナナジミ。あっ、リョーゴのコトだネ?」

 

 質問に一瞬、虚を突かれたようにポカンと彼女の方を見たエレナだが、すぐに意味を理解すると、今度は間髪入れずに花の咲く笑顔で答えた。

 

「ファミリーだネ! 昔からずーっと一緒だったノ。ホントのファミリーみたいに」

 

 だからリョーゴはファミリーだヨ! と、エレナは声を弾ませた。話しているだけだというのに、彼女の周りだけが華やいで見えるのは、エレナのあふれる元気のせいだろう。

 

「うーん、そうじゃなくってさ。ほら、普段からどんなふうに接するのかなって。アタシと、リョーゴくんじゃ、たぶん付き合い方違うっしょ?」

「リョーゴとメグミで違い? ウーン……ホームパーティーをやってるとか?」

「それ、家がお隣さんだからじゃない?」

「ウーン……考えてるコトがわかる、とか?」

「え、そーなの? リョーゴくんがウソついてるとわかったりとか?」

「アハハハ! メグミ、それはワタシじゃなくてもわかるヨ? リョーゴはウソがへったぴなんだヨ」

「あ、なんかそれわかるかも。ウソつかなさそうだもんねー」

「ウンウン、リョーゴはウソつくと、すぐにダンマリさんになっちゃうノ」

 

 思い出す様に視線を上げて、得意そうに人差し指を立てて、エレナは良悟のことを語っている。気分は教師、といったところか。

 

「じゃあ、考えてるコトって、他にどんなコト?」

「ウーン……」

 

 思い出すように、エレナは顎に手を当てて宙を見つめて考え込む。どんぐりのようなクリっと愛らしい目が、不意に揺れ動いてそのまなじりを下げた。

 しかし、恵美が瞬きした後には、今一瞬の光景がまるで幻だったかのように、エレナは微笑みを浮かべていた。

 

「ドキドキとか、ワクワクとか、ワタシにも伝わってくるノ。ずーっと一緒にいたからぜーんぶっ、わかっちゃうんだヨ」

 

 微笑んでいるのに、その表情にはどこか陰りが見えた。

 恵美は咄嗟に口を動かして……喉奥でバラバラになった言葉を空気にして口先から漏らした。しかし、汗ばんだ手を握りしめて、彼女はもう一度、口を動かした。

 

「リョーゴくんと、何かあったの?」

 

 今度はちゃんと、言葉が紡がれた。様子を盗み見していた後ろめたさよりも、大切なモノが彼女の背中を押したのだ。

 

 エレナは恵美の言葉にギョッと肩を跳ねさせ、恐る恐るといった様子で恵美と視線を合わせた。真剣に、しかしどこか悲しそうに下げられたまなじりに、エレナの心がキュッと締め付けられる。

 

「……リョーゴ、最近元気がないんだヨ」

 

 言っていいのかどうか。家族に関するデリケートな話を、エレナは理由をぼかして簡潔に口にした。いくら親友といっても、良悟と友達だとしても、家族の死を関係のない誰かに話すなんてできなかった。

 

「元気がない? ううん……? アタシが見たカンジだと全然見えなかったよ」

「リョーゴは、苦労も努力も誰にも見せないノ。悲しくても、辛くても、ぜんぶひとりで抱え込んじゃう」

 

 理由は言えない。だけど、良悟に元気がないことは伝える。まっすぐ言葉で説明できないもどかしさが、エレナの心を大きく揺らしていく。

 

「そっか。……じゃあさ、アタシも元気づけてみよっかな!」

 

 なんたってもう友達だし! と、エレナの分まで恵美が笑顔を咲かせて元気いっぱいに言ってのける。混じりっ気のない溌溂とした笑顔が眩しくて、気落ちしていたエレナはポカンとしばし呆然と彼女の顔を見つめた。

 

「一人でダメなら二人で。二人でダメなら三人でってね! そりゃ、アタシなんかリョーゴくんと付き合い浅いけどさ。そんなに真剣に相談されちゃったら、黙ってらんないじゃん」

 

 だから任せて、と恵美はウィンクまでしてみせて言い切った。

 

 ――付き合い浅いけどさ。

 その言葉は、恵美自身が自分の力の及ばなさを実感しているからこそ出た言葉だった。エレナなら気づけた変化に、恵美はまだ気づけない。その事実が、叱咤激励となって恵美の行動するための熱量に変わっていく。

 

 ――1人でダメなら2人で。

 その言葉は、恵美なりの励ましだった。エレナは一人じゃないから。アタシも一緒に頑張るから、と。道端でうずくまって泣きじゃくる子どもに、しゃがみ込んで目線を合わせ、真摯に向き合い優しく手を引いていく。そんな柔らかい思いやりが詰まっている。

 

 友達がへこんでいるなら、誰よりも前を歩いて手を引こう。

 それが、所恵美という少女なのだ。

 

「メグミ……うん! ワタシたちのパワーがあれば、リョーゴにも届くよネ!」

 

 恵美の力強い姿に、エレナのしぼんだ元気が再び膨らんだ。朝の陽光のような温かさが、胸の奥から再びあふれ出す。そうして光を浴びて、朝だと気づいた花が元気に咲いた。

 

「そうそう! じゃあ、今度ファミレス……じゃなくて、カラオケ行こっか! アタシたちで盛り上げて、歌で吹き飛ばしちゃえば解決ッ、ってね!」

 

 なんたって、と恵美は付け加えるように。

 プラスに変わった雰囲気を壊さず、加速させるように。明るい声音に茶目っ気を込めて口にする。

 

「アタシたちは、歌って踊るアイドルだし! 笑顔を届けるのは、専売特許ってヤツじゃん!」

 

 勢い任せに出た強がりも、雰囲気に任せて真実に変える。

 事実、エレナの笑顔には力がみなぎっている。恵美の言葉を受けて、自信を取り戻していっている。その立ち直りの早さが、恵美には少し眩しくて、親友の力になれたことが嬉しくて。

 

 汗ばんだ手を後ろで組みながら、彼女はもう一度、エレナにウィンクを送った。

 

「――うん!」

 

 

 

 太陽は、曇り空から顔を出した。

 厚い雲を吹き飛ばす東風によるものだ。

 だからこそ、次は。

 

 天気予報は明日の天気を教えてくれる。

 今日の天気は、曇りのち晴れ、といったところだろう。

 

 答え合わせは、もう少し先のこと。

 だから今日も、一歩を踏みしめよう。

 

 






さて、ことココに至って、実はストーリーの構成自体に試行錯誤加えるかどうか、いろいろと試しながら書いています。最初にこの発想に至らなかったのは、やはり書き続けていくうちに身に着けていったものということでして……。

もうリメイクはしませんが、まだまだ粗削りな私の非才には、どうかご容赦を。



感想、コメント、ご指摘、評価、お気に入り登録、などなどお待ちしております。とりあえず感想とか投げていただければ作者、とても元気になってゴリラになります(乞食)
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それでは、次話にてお会いいたしましょう。




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