成り代わり騎士 (トクサン)
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少年が女騎士に代わる時

 私は貴族である、貴き者である。

 そんな矜持を胸に生きていたのは、成人に差し掛かる前――十五歳か、十六歳までの事であった。

 少年の血統、その家柄は良くもなく悪くもなく。貴族と言えば聞こえは良いが精々中堅どまり、国の中枢に食い込む程重鎮ではなく、しかし風に吹かれて消え去る程に弱い家柄ではなく。遠い御先祖様のひとりが爵位を買ったのが始まりで、その後細々とした商売と貿易、土地と政略結婚で食い繋いできたのが少年の家であった。

 代々当主を引き継ぐ人間は必ずしも優れた人間であった訳でもなく、評価を落とす事もあれば引き上げる事もある、そんな世代を紡ぎ引き継がれてきた家は少年が十六歳の時に取り潰された。

 派閥争いによる敗北が原因であった――少なくとも表向きは、そういう事になっている。

 

 彼は年相応に学問を学び、日々を謳歌していただけの少年であった。都内の学園に通い、中堅貴族として驕らず、卑屈にならず、慢心せずに研磨を怠らなかった。次代を担う当主として、最善を尽くしてきたと胸を張って言えるだろう。故にそれは、少年の手から離れた予想外の出来事であったのだ。

 自身の全く与り知らぬところで父が投獄された。学園から家に戻った時、事は既に終わっていた。母は何処かに姿を消し、消息不明。残された妹と自身は『養子』という形で他の家へと引き取られる事と相成った。家名や財産の相続は認められなかった、取り潰されるという事はそういう事だった。

 寝耳に水どころではない、まさに『一体何が起きたのだ』という混乱だけがあった。右往左往する自分たちに下された命は冷徹にして冷酷、トランクケースひとつ分の荷物だけを持って、引き取り手の使いであると口にする御者に引き摺られながら家を後にした。

 妹は泣いていた様に思う。しかし当時、少年も十六歳、未だ子どもである。冷静に物事を図ることも、何が最善であるかを考える余裕もなかった。連盟の言葉に逆らうことは出来ず、ただ為されるがままに身を委ねる事しか出来なかった。

 

「あらエストさん、ふふっ、奇遇ですね――私の家に来る養子が貴方だったなんて」

 

 自分を引き取った家の屋敷に到着し、歓待される訳でもなく、さりとて無下に扱われる事もなく。いっそ無機質ともいえる態度で迎えられた少年の前に立った少女を見た時、彼は悟った。

 父は嵌められたのだ。

 目の前で薄ら笑いを浮かべ、引き攣った口元を晒す少女は少年の一つ上の先輩――学園の生徒会、貴族院、そのトップを務めていた少女であった。

 家柄は自身と比較し余りに格式高し、この国を支える柱の一柱であり、表四家と呼称される四大財閥のひとつ。家柄としても実力としても仰ぎ見るべき存在である。そんな彼女と少年の接点は単なる先輩と後輩、ではない。

 エストと呼ばれた少年は、目の前の少女――ミルイア・ギャラッハ・ヴェンデッタに愛の告白を受けていた。

 

 ミルイアという少女は元来聡明で、御淑やかで、理知的な人間である事をエストは知っている。関係は良好だった、エストは彼女を――これは家柄を比較した時、余りに尊大だと言われそうで恐ろしいが、あくまで学園内に限り――『友人』として慕っていたし、彼女も後輩として自分を『信用』していると確信していた。

 貴族院の代表を務める彼女の仕事を手伝った事もあるし、ちょっとした学問の手ほどきを受けたこともある。そんな彼女から告白を受けたのは、彼女が学園を卒業する当日の事であった。

 

「家も、財閥も関係なく、ただひとりの女として、貴方の人生に関わる事をお許し下さい」

 

 学園の中庭で、エストはそんな言葉を投げかけられた。木々の生い茂る憩いの庭でそんな言葉を掛けられるとは思っても居なかったエストは一瞬、思考を停止した。

 

 エストという少年は美しかった、その顔立ちは中性的で、身長も平均より小さい。体つきも細く、男性というより女性的ですらあった。そしてミルイアという少女も美しく、まさに閑雅を体現した女性という表現が正しいと断言できる程。お似合いではあった、少なくとも学園で妬みを買わない程度には二人の能力と容姿は十二分に釣り合っていたのである。

 そして何より――ミルイアという少女はエストを心底愛していた。

 頬を赤く染め、財閥も家も関係ないと言い切り、小さく頭を下げたミルイア。そんな少女を前にしたエストは困惑し、狼狽した。

 言ってしまえば彼は目の前のミルイアという少女を一度として『女』と意識した事は無かったのだ。正確に言えば、『家柄が遠過ぎた為に、そういう候補に入らなかった』と言うべきか。四大財閥の跡取りと、良くて中堅どころの貴族である自分。釣り合いなんぞてんで取れていない、例え当人が優秀であったとしても家柄というのは貴族にとって重要な事であったが故に。

 しかし、しかしである――ミルイアは財閥も、家柄も関係ないと口にした。故にエストはその考えを自身の頭から追い出し、ただ純粋に、『エストという個人がミルイアという少女を愛しているか』を考えた。

 

「すみません先輩、少し、考える時間を下さい」

 

 そしてエストは消極的否定を口にした。

 それはエストからすれば、もっと落ち着いた状況でミルイアとの関係を見つめ直す時間が欲しいという要請であった。

 けれどミルイアはそうは取らなかった。

 単純に、否定されたと感じたのだ。

 彼女は既にこの、偽りの関係が許せなくなっていた。ミルイアと言う少女は聡明で、御淑やかで、女性としても人間としても良く出来た人物である。能力もあり、家柄も良く――いや、だからこそ【快諾される】と信じて疑わなかった。

 それにミルイアとエストは少なくない時間を共にした。嫌いな人間の頼みを受け入れ傍に置く人間は居ないだろうし、その逆も然り。つまりエストは自身の好意に気付いていて、受け入れてくれたのだと信じていた。だからこれは茶番、単なる事後確認に過ぎない。恥ずかしいが――自分から思いを告げ、彼がそれを受け入れる。

 それで自分達はもうひとつ先のステップへ。

 断られる――或いは引き延ばされるなんて、微塵も考えていなかった。

 

「え……ぁ、ぇ?」

 

 結果、ミルイアの思考に空白が出来た。満面の笑みで、或いは泣き笑いで受け入れられるとばかり思っていた告白が――まさかの『考えさせて下さい』だ。

 どういう反応をするか、どんな言葉が返って来るか。そのパターンは予想してある。しかしそのどれもが「受け入れる」前提だった為に、ミルイアは困惑した。

 

「え、エストさん、ちょっと……あの、申し訳ありません、私、良く聞いていなかったみたいで、もう一度、もう一度言って頂けますか?」

「えっと、少しばかりお時間を頂ければ……と」

 

 ミルイアは閉口した。そして愕然とした表情でエストを見た。その視線は左右に忙しなく動き、動揺しているのは誰の目から見ても明らかだった。

 

「あの、私……私、てっきり、あの」

「……? 先輩、どうしましたか」

 

 口元をまごつかせ、左右に揺れる瞳がエストを捉え、離れるを繰り返す。そして事態を徐々に飲み込んだのか、彼女らしくもないどもった口調、蒼褪めた顔色で言った。

 

「え、エストさん、わ、私のお誘いを良くお受けして、だから、えっと、私も何度か貴方の課題を、て、手伝ったり、異性からのお誘いに、その、こ、ここまで快く受けてくれるって事は――な、何とも思ってない筈がないんです、だから、エストさん、私の事、嫌いじゃない、です、よね?」

「えぇ、それは勿論」

 

 要領を得ない、ちぐはぐな言葉の繋ぎ方だった。エストは彼女が嫌いな訳ではない、だからこそ素直に頷いて見せる。瞬間、ミルイアの表情がぱあっと明るく花咲いた。

 

「で、でしたら何も難しく考える必要はないではありません、嫌いでないのでしたら軽い気持ちで受けて頂いて構わないのです、ね、そうしましょう? 後悔はさせませんわ、きっと」

 

 先ほどと打って変わって、自信ありげにそう告げるミルイア。自分を嫌っておらず――自分で言うのもなんだが、若く、美しく、才気に満ち溢れており、家柄に優れた女性。

 これだけ揃っていて断る筈がない、そんな思いが再燃し、彼女に虚勢を張らせた。

 

「いえ、流石に軽く考えることは出来ません、決してこれ以上先延ばしにしたり、有耶無耶にはしません、数日、時間を頂きたいのです」

 

 しかしエストの答えは変わらなかった。表情ひとつ変えず、淡々とした口調で以って答える。

 正直に言えば受け入れても良いという感情が少年の中にもあった。いや、その言い方は傲慢が過ぎるか。

 少なくとも自身が結ばれる対象とすればこれ以上ない女性だ。彼女に恋愛の情は――今のところないが、親愛ならば存在する。しかし幾ら彼女が家と財閥は関係ないと言っても、貴族同士の交際である以上家柄の問題はどこまでも付きまとう。

 だからこそ、この案件は一度持ち帰り現当主である父に報告なり相談なりしなければならないと考えていた。エストは深く頭を下げ、踵を返した。

 

「ま、待って、待って下さい! 行かないで、お願い!」

 

 しかし、そんな彼の袖を掴み引き留めるミルイア。その表情は今にも泣きだしそうで、目尻には涙が滲んでいた。

 彼女の思いは一年物だ、ミルイアという少女が貴族院の代表に立った時から、エストと言う少年は良く自分に尽くしてくれた。だからこそ一年間、そう、彼女は一年この感情を持て余し続けたのだ。

 更に言えば、自分はもう学園を卒業する。反して彼は後一年、学園生活が残っている。自分はその場にいない、つまり彼がどんな生活を送り――どんな女性に言い寄られるのかも分からない、把握できない、自分で阻止も出来ない。

 もう限界だった。

 

「わ、私、てっきり私、貴方も同じ気持ちで、ずっと、分かりあっていたんだって、思って」

 

 震える唇を指先で擦り、蒼褪めた表情で乱れた髪を撫でる。忙しなく動く指先と視線は彼女の感情の表れ。

 

「わ、私、わたくし、一年も待ったのですわ、それで、漸く結ばれると思って……なのに、更に数日も引き延ばされるなんて、それも、受け入れて貰えるか分からない、そんな時間を過ごすのは、無理です――この場で、この場で返事を下さい、お願いします」

 

 腕を掴まれ、蒼褪めた表情で紡がれる懇願。エストは一瞬頷いてしまいそうな衝動に駆られながら、しかしここで安易に頷いてしまえばどうなるのかを考え、断固たる思いで首を横に振った。

 

「ほんの一日、二日程度です、それに先輩は家柄も財閥も関係なくと仰いましたが――流石に、表四家のご令嬢との交際となると、当主である父にお伺いを立てねば」

「私は、私は、貴方の感情を知りたいのです、それ以外は、どうでも……!」

 

 えずく様な口調でそう叫ぶミルイア。エストは僅かに眉を困らせ、彼女の真摯な感情に答えようと――彼なりに真剣な、心からの言葉を口にした。

 

「先輩には恩を感じています、友愛、親愛の情も、ただ男女の愛を持ち合わせているかと問われれば――どうにも、自分には分からないのです」

「―――」

 

 するりと、ミルイアの指先がエストの袖から零れ落ちた。少年は申し訳なさそうに視線を下げ、小さく頭を下げた後その場を後にする。残されたミルイアはその場に立ち尽くし、ただがらんどうの様な瞳でエストの背中を見つめ続けた。

 

「―って」

 声が出た、零れた声はエストの背中を打ったが振り向かなった。

 

「待って……待って、エストさん」

 

 立て続けに放たれる言葉、エストの足が僅かに緩む。

 

「待ちなさいッ!」

 

 叫んだ、エストの足が止まった。十メートル程の距離で彼は振り向き、困ったような表情でミルイアを見る。ミルイアは俯き、長い髪が簾の様に表情を隠していた。

 

「エストさん、エストさん、貴方は……貴方は、何が、何が気に入らないのですか、私のどこが、駄目なのでしょうか」

 

 声は震えていた、表情は見えなくとも彼女らしからぬ、暗鬱とした表情をしているのが声から分かった。エストは首を緩く振り、「とんでもありません」と否定した。

 

「先輩は素晴らしい御人です、気に入らないなんて事はありません、駄目なところも、私から見れば先輩は、完璧な人間に見えて仕方ありませんから」

「なら、ならどうして、どうして私を好いてはくれないのです!?」

「……人を好きになるというのは、多分、そういう事なのではないと思うのです」

 

 エストは苦心して、そう答えた。どうして駄目のか? 何が気に入らないのか? 何故恋愛対象にならいのか――そんなもの、エスト自身にも分からない。誰かに恋した事すらないのだ、故にエストは恋愛に未だ夢を見ている。だから抽象的に、『そういうもの』だという言い方しか出来なかった。

 それを聞いたミルイアは自身を抱きしめる様に腕を掴み、緩く首を振った。

 

「分からない、分からないわ……わ、私は、私達は、だって、今まで上手くいっていて」

「先輩」

 

 エストの声は届かない。ただ血の気の引いた表情で何度も首を横に振って、現実を否定する様に言った。

 

「駄目、駄目です、嫌、貴方が手の届かない場所に行ってしまうなんて、そうよ、そんなの、おかしいわ」

 

 ふっとミルイアの表情に笑みが浮かび上がる。けれどそれはいつも彼女が見せる、爽やかで上品なものとは対極な、自虐的で卑屈な笑みだった。

 

「エストさん、貴方には将来的に、財閥のトップが約束されるのよ? それに、貴方の家だって家族も、相応のポストに……お金も、権力だって、貴方の好きな様に――!」

 

 彼女らしからぬ言葉だ、利で以って人の心を買おうとする。その行動はエストも、彼女自身をも貶める。だからこそエストは痛ましそうな表情でミルイアを見た。そしてこれ以上自分がここに居ても彼女に失態を晒させるだけだと判断し、踵を返した。

 

「失礼します」

「ま、待って! 待ちなさい! エスト!」

 

 彼女の声はエストの耳に確かに届いた。けれど二度目はない、エストは足を止めなかった。

 

「そ、その気になれば、財閥の力で貴方程度の家柄ならばどうにでも出来るのです! ですから、ですから私と――!」

 

 それは貴族としても、人間としても――最低で、言ってはいけない言葉だった。

 エストはその言葉に一瞬振り向きかけるも、しかし既に彼女に対する言葉は尽くしたと言わんばかりに足を止める事は無かった。

 今はきっと、少し関係を急いただけなのだ。一日おけばいつも通り冷静な先輩に戻ってくれる――何せ彼女は優秀で、聡明だ。エストはそう信じていた。

 

「非礼をお許し下さい、後日、場を改めてお詫びさせて頂きます」

 

 背を向けたままエストはそう口にした。顔を向けてしまえば再び言い合いになると思った。非礼だとは理解していたが、エストはそのまま中庭を後にする。

 零れた言葉は虚空に消え、遠くから誰かの笑い声が聞こえる。卒業式当日の、暖かで厳か、未来を感じさせる雰囲気がこの場には無い。やがてエストの姿は完全に中庭より消え、ミルイア一人が取り残された。

 

「………やだ」

 

 ぽつりと言葉が零れた。まるで子供の駄々の如き言葉。

 ミルイアの俯いた顔からぽろぽろと涙が零れ堕ちる。相思相愛であると信じていた、疑っていなかった、自分を見て微笑んでくれるエスト。その度に暖かな感情を抱き、あぁ、私は彼に愛されているのだと実感していた。

 それが単なる自分の妄想で、彼に欠片も愛など存在しなかったなど――その現実を受け入れるだけの強度が、ミルイアの心にはない。

 エストは自分という『女性』を愛していない。

 

「断られる、離れちゃう、エストが……駄目、駄目よ、そんなの」

 

 きっとエストは交際を断る、そうなったら彼の傍に友人としての立つ事すらなくなる。

 俯いた瞳から涙が零れる度、ミルイアはぐしぐしと腕で乱雑に目元を拭った。ふらふらと覚束ない足取りで中庭を歩き、隅っこの樹に寄りかかる。丁度葉が傘の様に広がり人目を避けるには丁度良い影があった。

 こんなところ、誰かに見られるわけにはいかない。こんな時でも四大貴族の令嬢としての『体裁』を気にしている自分に気づき、ミルイアは一層涙を零した。

 

「何が四大貴族よ……! 権力も、お金も、才能も……そんなものがあったって、本当に欲しい物が手に入らないんじゃ、意味ないじゃない――!」

 

 目を充血させ、震えた声で呟く。寄り添った樹に、白く柔い拳を叩きつけた。こんな振る舞い、貴族としても、令嬢としても許されまい。ミルイアは暫くその場で項垂れていた、現実に打ちのめされ、悲観し、自害する事すら考えた。

 けれどミルイアは諦めきれず、手放したくなくて。

 涙で濡れ、乱れた髪の下にある表情が、卑しく、歪に弧を描いた。

 

「どうせ、どうせ愛されないのなら」

 

 くつくつと、腹からせり上がる笑いが零れる。樹に寄り添いながら腕で顔を覆ったミルイアは、肩を揺らしながら独り零した。

 

「ふふっ、ははッ……ええっ、そうよ、どうせ、愛されないんだもの、なら力づくで手に入れたって同じじゃない」

 

「絶対に――離してなんてあげないんだから」

 

 ☆

 

 エストは漠然とした思考で、ミルイアが自身を手に入れる為、四大財閥としての力を行使したのだと理解した。このクラスの国内に限り出来ない事など無いに等しい。中堅貴族の家をひとつ潰す程度の事、片手間にやってのけるだろう。

 そして彼女の望み通り、【養子】としてヴェンデッタ家に迎えられた。傍から見ればパッとしない中堅貴族から四大財閥の一家、その血族に迎え入れられたエストは羨望の対象と言える。学業優秀、才気溢れる若人、放逐するには惜しい人材――雑用とは言え貴族院の運営に関わっていたという実績もある。そんな理由でエストは四大財閥の一柱に取り込まれた。

 しかしあくまでそれは表向きであって、実態は奴隷――いや、ペットと言った方が正しいかもしれない。

 虐待はされない、粗末な衣服や食事でもない、欲しいものは申告すれば与えられる。個室だって与えられた。浴槽も、トイレも、必要な物は揃っている。

 ただエストは家族を奪われ、家名を奪われ――そして外界を奪われた。

 エストは部屋から一歩たりとも外に出ることを禁じられたのだ。

 

 貴族が平民を奴隷として購入する事は――あまり大きな声では言えない事だが、少なくない。奴隷の用途は様々だ、過酷な開拓地にて労働を強いられたり、人様に言えない趣味を満たすため弄られたり、薬師や医師に買われれば人体実験に使われ、安い家政婦代わりに使われる事もある、或いはまとめ買いされ戦場の捨て駒にされるか、地下闘技場で見世物小屋の住人と化すか――はたまた愛玩動物の様に愛でられるか。

 エストが奴隷ではなくペットと表現した理由がそれだ。

 与えられた衣服や食事は十分、寧ろ上等なもの。個室だって四大財閥に恥じない内装と広さを誇り、元は客間の一室であったと聞く。この待遇、扱いならば『養子』という二字にも納得がいくだろう。

 しかし、家政婦は元より庭師、調理師、果ては引き取り手であったヴェンデッタ家の当主、即ちミルイアの両親、家族でさえエストとは顔を合わせようとはしなかった。

 何かにつけて世話を焼き、接触するのはミルイアばかりである。

 この事から家人がエストの引き取りに積極的ではなく、彼女が私情で以ってエストの家を取り潰し、自分を引き取ったと推測するのは当然であった。

 

「エストさん、おはようございます、今朝は良く眠れましたか?」

 

 ニコニコと笑みさえ浮かべながら、他の誰も入って来ないエストの私室へと足を踏み入れるミルイア。しかし以前とは打って変わって、その口元は笑みを湛えながらも顔色は死人の様に白く、閑雅な振る舞いに反し瞳はどろどろとした黒に染まっていた。

 

「……いつも通りですよ、ヴェンデッタ様」

「――そうですか、それは何よりです」

 

 豪華な私室、そのベッドに腰かけながら淡々とした口調で答えるエスト。ぴくりとミルイアの目元が引き攣った。家名呼びが余程不快だと見える、しかしエストはこの呼び方を変えるつもりは毛頭なかった。

 

「ヴェンデッタ様こそ、あまり体調が良い様に見えません、顔色が悪い、良く眠れていないのでは?」

「いいえ、いいえ、そんな事はありません、私の体調は頗る良好です、寧ろいつもより良い位ですよ、何せ貴方が直ぐ傍に居てくれるんですもの、それに、私と同じ家名で――ふふっ」

 

 ミルイアは締まりのないへらへらとした笑顔を浮かべエストの前に立った。エストは決して彼女の目を真っすぐ見ることはせず、その首元辺りに視線を注いだ。目上の人間と直接視線を交わすのは不敬に当たる、故に養子となったエストは直系の子であるミルイアを敬う立場にあると口にし、視線を交わすことを避けていた。

 無論そんな事は、建前に過ぎないのだが。

 

「冬が明けたら、自分は学園に通う許可も頂けるのでしょうか」

「いいえ、既に学園の籍は残っていません、財閥の名で再び通うことは可能でしょうが――必要ないと私が判断しました」

 

 外の世界へと舞い戻れる唯一の細い糸、それも彼女の一言で無情にも断たれる。

 

「代わりに家庭教師を付けます、私も幼い頃お世話になった方です、矍鑠とした老練の教師なので馬も合うでしょう」

 

 彼女は僅かも目を逸らさず、愛憎と執着を隠さない眼差しでエストを捉え続けた。そうまでして自身を屋敷の外に出したくないのかと、時が経っても彼女の執着心は陰りを見せない。半ば予想出来た事だった、だからこそ落胆はない。

 

「必要な物は、何でも揃えて下さると仰いましたよね」

「えぇ、勿論」

「ならば妹に一目、逢わせて頂く事は出来ませんか」

「――なりません」

 

 女性への接触もまた同じ。エストが僅かに目線を上げ訴えるも、彼女は僅かな逡巡すら見せずに即答した。彼女はエストが他の女性と接触する事に酷く不安を抱いている様だった。そしてその対象は自身の家族にまで及ぶ。

 

「妹が心配なのです」

「貴方の妹は然るべき家に引き取られました、その心配は無用です」

 

 たとえ懇願を口にしても、彼女の意志は揺らがない。寧ろエストが自分ではない女性を気に掛ければ気に掛ける程、彼女の機嫌は降下し、瞳は濁り、気配は寒々しくなる。そう分かっていても口にしてしまうのは、エストがこの事態を引き起こした張本人であると強い責任を感じているからだった。

 

「……前の家の人間など、もうどうでも良いではありませんか、もう貴方は私の家族、家族を心配するのなら、私を想って下さい」

 

 ミルイアはそう言って、エストを見下ろした。その表情は能面のようで、そんな瞳で見つめられたエストは背中に氷柱を突き刺されたような悍ましさを感じた。しかしそんな視線と表情は長く続かず、ふっとミルイアは表情を崩す。

 

「――なんて、えぇ、傲慢が過ぎますね、分かっています、今の貴方にとって私は酷い女に見えるのでしょう、今更貴方に好かれようだなんて、ふふっ……思っていません、えぇ、思ってもいませんとも」

 

 自虐的な笑みだった。彼女らしからぬ卑屈で、自嘲的な。けれどその瞳の奥には隠しきれぬ情が灯っていた。自分の腕を強く握りしめ、腹の前で組んだ彼女はエストから視線を逸らした。

 

「好かれるどころか嫌われているでしょうね……ふふ、ははっ! えぇ、えぇ、私は恨まれて当然です、それでも構いません、構わないのです、最終的に、どんな形であれ貴方が傍にいるのならば、それで」

 

 そう言って視線を泳がせた彼女はしかし、不満を押し殺すように唇を噛み締め、悲壮と憎悪の籠った視線をエストに寄越した。

 

「貴方が、貴方が悪いんですよ」

 

 引き攣った、醜悪な笑顔。綺麗に笑おうとして失敗したような、或いは卑しさと鬱屈した感情の発露。自身が間違っている事を理解しながらも、しかし制御できない感情に突き動かされた人間の表情がソレであった。

 

「私は、私は、必要な物全てを揃えました、容姿だって、家柄だって、能力だって、皆が皆、羨ましがるような――えぇ、私は頑張ったんです、努力したんですよ、沢山、沢山」

 

 自分に言い聞かせるような口調。噛み締めた唇から血が滴り、ミルイアの瞳が尖った。

 

「何が不満なのです、私のどこが駄目だっていうんですか、私を不安にさせてそんなに楽しいのですか? 二つ返事で、頷いてくれたって良いではありませんか……そうすれば私は、貴方を守って、ご家族だって」

 

 エストは何も言わない、答えない。ただ視線を下げたまま無表情にミルイアを見る。いや、彼女を視界に捉えながら、その実ミルイアを見てはいない。それが我慢ならないのか、ミルイアはエストの肩を強く掴んだ。

 

「私を見て下さい、エストさん……他人行儀に呼ばれて、目まで逸らされてしまったら寂しくて仕方ないではありませんか、ねぇ」

 

 女性にしては強い力で肩を揺すられ、握り締められる。けれどエストは視線を下げたままミルイアの顔を見ようとしない。段々と掴む力が強くなり、彼女の瞳が血走った。

 

「見なさい――見ろと言っているのです!」

 

 叫び、ミルイアの手がエストの顔を掴んだ。無理やり上を向かされ、ゆっくりと逸らされていた瞳がミルイアを捉える。その表情に変化はない、反対にミルイアは満足気な表情を浮かべ、微笑んだ。

 

「ふふっ、えぇ、そうです、それで良いのです、私の言う事を素直に聞いてくれるエストさんは大好きです、可愛らしくて、いじらしくて」

 

 唇から血を垂らし、それを舌で嘗めとったミルイアはエストの肩から手を離した。

 あの、優し気で、御淑やで、閑雅であった彼女がこうも――エストな何かやりきれない、虚しさを胸に抱いた。

 

「先輩、貴方は僕に何を望んでいるんですか」

 

 思わずそう問いかけていた。自分が仮に告白を断るにしたって、余りにやりすぎな気がしてならなかった。先輩、と呼ばれたのが余程嬉しかったのか、ミルイアは格好を崩し、幾分か弾んだ声で答える。

 

「私の傍に居て下さい、一緒に食事をして、お話をして、偶に同じベッドで眠って、あとは……そうですね、将来的には世継ぎを作りましょう」

「……ご当主様が納得するとは思えません」

「関係ありませんわ」

 

 ☆

 

 今のこの、生き地獄の様な環境を脱する機会はエストが屋敷に囚われてから凡そ一年と半年後にやって来た。

 一年半、それは人が変わるには十分な時間だ。当初こそ貴族としての矜持、そしてヴェンデッタ家という強大な存在にも屈しはしまいと気丈に振舞っていたエストであったが、その気勢は半年として続く事無く、一年も過ぎる頃には完全に精神は挫かれ、エストの少年期に持ち得ていた誇りや矜持、信条といったものは跡形もなく消え去っていた。

 ミルイアは何かと理由をつけてエストを嫐った。無論それは暴力的なものではなく精神的な物であたったが――一部分、肉体的な事柄であった事は認める――それでも長期間続けばエストも心折れ、抵抗する気も失せていった。

 せめて一秒でも早く、苦しい事が済みますように。そうやって日々をやり過ごす。

 

 あと少しで十八――即ちこの国でいう【成人】として扱われる直前頃、エストの住むヴェンデッタ家の屋敷周辺にて騒ぎが起こった。

 それがどういったものかは分からなかったが、エストにとっては二度とない機会であった。

 騒動は誰かの叫び声と共に始まった。屋敷の奉公人が右往左往し、何事かを叫びながら慌ただしく廊下を行き来していた。その日も何をする訳でもなく、ぼうっと天井を見上げ感情を殺していたエストは騒ぎを聞きただ事ではない何かが起こっている事を察した。足音を殺して部屋の扉に手を掛けると――いつも部屋の隣に座っていた、ボディガードと言う名の監視が消えていた。きっとこの騒ぎで席を外さなければならない理由が出来たのだろう。

 どくん、と鼓動が高鳴った。

 正に天が下さったチャンスとしか表現出来ない。エストは高鳴る胸を押さえ、もしかしたらと考えた。

 ここから逃げ出せるかもしれない。

 それは今の今まで考えもしなかった事。そもそも此処から逃げ出してどうするのだとか、逃げる宛はあるのだろうかとか、自分が逃げ出したら家族はどうなってしまうのだとか、考える事が多すぎた。そしてエストという人間はそれらすべてを投げ出して逃げ出してしまえる程、責任感を覚えない性格ではなかった。

 しかし、この一年と半年の生活で――すっかり彼の中にある貴族の矜持だとか、信条だとか、責任だとか、そういう『心を守る殻』の役割を果たしていた要素は消え去ってしまった。加えて、唐突に、突然に――降って湧いたと表現するしかない機会。それにエストの理性と建前はドロドロに溶かされてしまっていたのだ。

 

「今なら――」

 

 エストは呟き、唾を呑んだ。

 そして勢いよく身を翻すと身の回りにあるもので金目のものになりそうな物品をポケットに詰め入れ、殆ど着の身着のまま廊下へと勢いよく飛び出した。扉はけたたましい音を鳴り響かせ、エストは脇目も降らず駆け出す。

 屋敷の中は騒然としていて、自分の脱走に気付く者はいなかった。エストの私室が離れにあったのも幸いした。少なくとも気付かれた時には遥か遠く――なんて事が出来る。

 鍵の開いていた廊下の窓から外へと飛び出し、中庭を突っ切って警備の目を盗み柵の外へと飛び出す。街は騒然としていて、衛兵やガードが忙しなく街道を駆けて行く。どこかの家に強盗でも入ったのだろうか、エストは頭の片隅でそんな事を考えた。

 

 今だけはヴェンデッタ家の配慮に感謝しよう。普段着として使用していた私服は貴族の着込むものとしても上等で、大通りを普通に歩いていても他と同じ貴族の一員としてしか見られなかった。

 衝動的な脱走だ、兎に角早さが必要だと思った。故にエストは屋敷を逃げ出した後、少しでも街から離れようと駆けに駆けた。目的地はない、ただ自分を閉じ込め、凌辱するあの館から少しでも離れられれば良かった。道中繋がれた馬を発見し、盗みを働いた。馬に乗ったエストはそのまま方角も確かめずに走り続け、馬が潰れるまで駆けた。生まれて初めての盗みに心は痛まなかった――そんなもの、この一年半で擦り切れて久しい。

 人間なんて、一皮むけば剥き出しの欲望、その塊だ。あの、清く正しいヴェンデッタ家の令嬢がそうであったように。

 

 そしてエストは長い間駆け続け――当然の如く弱り果て、道半ばで力尽きた。

 

 この一年半で弱り切った体に衰弱した精神、無計画な逃走が原因だった。街の外れ――郊外よりも少し進んだ先。あまり人の通らない山道に続く道の途中で、エストは樹に凭れかかる様な形で荒い息を繰り返す。馬が潰れた後、どれだけ走っただろう? 夕方、薄暗くなっていた時間帯に走り始め、夜通し駆け抜けた。馬で駆けた時間を考えれば相当な距離を稼いだだろう。

 エストは樹に手を掛けながら、ゆっくりと立ち上がる。まだ倒れる訳にはいかない、もっと、もっと遠くに逃げなければ。水分を奪われ、空気の張り付いた喉を咳で誤魔化す。

 そんな強迫観念に突き動かされ、尚も動こうとし――森の向こう側から、ガサガサと音がなった。それはブッシュを掻き分け、何者かが進んでくる音。

 エストは最初、それが獣か何かと思い肩を揺らして息を呑んだ。

 しかし、一拍置いてガシャン! と明らかな金属音が鳴り響き、それ以降音は何も聞こえなくなる。恐る恐るエストが樹の影から顔を出すと――そこには鎧を纏った誰かが倒れ伏していた。

 倒れた衝撃でフルフェイスヘルムが地面を転がり、エストの手元で止まる。見る限り騎士の様だ、フルプレートの鎧に身を包んだ騎士。そんな人物がなぜこんな場所に? エストは疑問を覚えながらも、そっと倒れ伏した騎士の傍に這い寄った。

 騎士の鎧は所々深い傷が刻まれ、特に背中には三本の矢が突き刺さっていた。一本は中ほどで折れ曲がり、もう二本は背中に突き刺さったまま。もう生きてはいまい、馬がいない事から歩いて此処までやって来たのが分かった。プレートに刻まれた一角獣の紋章――エストの祖国、その騎士だ。

 

「警邏……警備隊じゃない、何でこんな場所に、もしかして此処、国境線の近くなのか」

 

 呟きながらエストは騎士の背中に刺さっていた矢を抜いてやった。矢は僅かな血と共に地面へと投げ捨て、うつ伏せに倒れた騎士の体を仰向けに転がした。せめて顔を見た後、冥福を祈り、所持品を拝借しようとしたのだ。屍を漁る事に抵抗がないと言えば嘘になる、しかし生きる為に必要な事だと言い聞かせ、エストは眠る騎士の顔を覗き込んだ。

 そして思わず息を呑んだ。

 さらりと揺れた髪、美しい顔立ちの騎士。滲み出る透明感――その雰囲気。

 

「似ている――」

 

 呟き、その頬に手を添える。

 倒れ伏した騎士、その顔立ちが自身に酷似していた。

 無論、瓜二つ、僅かなパーツまで同じとは言わない。しかしぱっと見、或いは並べて見比べなければ分からない程度には騎士とエストは良く似ていた。瞼を下ろさず、悔し気な表情のまま事切れた騎士。その瞳の色は綺麗な勿忘草色――自身と同じ、淡い青であった。

 髪の色は薄い茶色、自身は薄めの金だが誤魔化せない程ではない。陽の当たる場所でじっくりと見られない限り、「僅かに褪せた」とでも言えば何とでもなる。暗がりであれば殆ど違いなど分からないだろう。

 ――これは、もしかしたら。

 エストは自身の頭の中に浮かんだ案を、しかし咄嗟に否定した。酷く似た顔立ち、死んだ相手、身に纏う騎士の鎧、そして逃亡中の自分。

 

 この騎士の装備を奪い、【成り代わって】しまえば――エストはそう考えたのだ。

 

 出来るのか、そんな事が? 

 自分の目の前で屍となった騎士と自分は名前も違えば出身も違う、誕生日も、人間関係も、家柄も、全て。そんな人物に成り代わり、然も本人であるかのように振舞う? 

 出来る気がしなかった、端的に言って、不可能だと思った。

 しかし今こうして横たわっている存在が、自身が喪った『あらゆる物的、精神的なモノ』を取り戻すチャンスである事は理解出来た。恐らくこんな、奇跡のようなチャンスは二度と訪れないだろう。今、この瞬間を逃せば自分は、家も名も、全てを失ったまま逃げ出した脱走者だ。

 けれど、この鎧と身分があれば――。

 否定はした、したが――それは余りに魅力的な選択肢であった。

 エストは暫くの間騎士の顔を凝視し続け、それから素早く周囲を見渡した。唇を渇いた舌で嘗め、覚悟を決める。

 そして誰の目もないことを確認すると、騎士の体を苦心しながら引き摺ってブッシュの奥に隠す。そして数度深呼吸を繰り返し静かに鎧を脱がせ始めた。

 

 エストは恐怖や恥、罪悪感を退け己が意志で進むことを決めたのだ。

 

 鎧は幼い頃、好奇心から何度か触った経験があった。貴族の男児として詳しいとは言わないまでも着脱の仕方程度は知っていた。もっと重厚なプレートアーマーであったならば一人での着脱は難しかったかもしれないが、比較的この騎士が着用していた鎧は薄手のもので、複雑でない事が幸いし、エストひとりでも着脱は可能であった。

 そしてエストは胸部、ブレストプレートを取り外し――再び驚愕する。

 鎧の膨らんだ形状で分からなかったが、騎士は女性だった。

 目の前に揺れる二つの膨らみ、それを見たエストは顔を顰める。

 

「女性だったのか――」

 

 流石に、性別を偽る事は難しいか? そんな疑念が頭を過ったが、しかし目の前のコレが唯一の活路と知っていたエストは止まらず突き進む事を選んだ。

 中に着込んでいた衣服――鎧下着をも脱がせ、全裸になった騎士を地面に放った。そして自分の着込んでいた衣服に矢傷用の穴を空けると彼女に着せ、自身は彼女の着込んでいた衣服を纏う。下着まで交換する徹底ぶりだ。僅かに汗の香りが滲んだ衣服が不快であったが、それは自分の衣服とて同じだった為我慢した。

 彼女の体には大小の傷跡があり、戦闘があったのは明らかだ。騎士であるため体は引き締まり、筋肉も、自分よりついている。

 鎧下着のポケットには身分証明となる手帳とロザリオを象ったペンダントが入っていた。エストは手帳の内容を流し読みし、死んだ騎士の名を呟く。

 

「エト・シュトゥノイア・ミルティアデス」

 

 エト、それが彼女の名前。エストと一字違い。そして驚くことに彼女は貴族で――それも相当高い位の人間であった。

 良く見ればプレートはかなり高価なものであると分かるし、鎧下着に縫い込まれ、プレートメイルに刻印された階級章――この手帳に記載されている事が本当ならば、このエトと呼ばれた女性は【少佐】相当の権力を持っている。

 そんな人物が何故――いや、それを考えるのは後でも良い。

 エストは彼女のベルトポーチに入っていた水筒の水を煽り、それから糒を口に頬張った。僅かだが腹が膨れる、そして気力が湧いてくる。自分の衣服を纏い、『エスト』の代わりとなった騎士の亡骸をエストは近場の比較的大きな樹、その根元へと埋めた。道に放り出し、自分を死んだことにするという案も考えたが――流石にそれは最後に残った良心が咎めた。故にエストは彼女の持っていた腰の剣で穴を掘り、エトを埋めた。せめてもの罪滅ぼしだった。

 

「さようなら、エト」

 

 呟き、彼女の上に土を被せる。そして残ったのは、エトの鎧を纏ったエスト――その外見は、たとえ彼女を知る人間であっても容易に見破る事は出来まい。着慣れない鎧は重く、直ぐにも息切れしそうな程だったが動けない程ではなかった。

 エスト――改め、『エト』は埋めた僅かに盛り上がった地面の前で手を組み祈る。そして踵を返し、どこか身の隠せる場所を探そうと決めた。

 我武者羅に馬を走らせた為、此処が何処かも分からない。けれど彼の表情に陰りはなかった、この鎧が齎す偽りの身分と権力が逃亡者という現実から僅かな時間でも目を逸らさせてくれていたのだ。

 

「きっと、大丈夫さ」

 

 そう呟き、鎧下着の胸ポケットに入れたロザリオを鎧の上から撫でつけ、歩き始めた。

 



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肩書と素顔

 

 エトの足取りは重い。鎧という重りに帯剣した状態、更に幾らか立て直したとはいえ衰弱した精神に体力。長時間の歩行に耐えられないのは明白であった。こんな事ならば馬を使い捨てるような真似をせず、大事に連れてくれば良かったと後悔したが後の祭り。それに逃亡者としてのエストに、そんな事を考える余裕などなかった。

 重い足取りで森を抜け、凹凸のある平原と森の境目を歩く事一時間ほど、早くも体力的に限界が訪れ、どこかで休憩しようと考えたエト。

 そんな彼の耳に――金属の摺れる音、そして少なくない人数の足音が届いた。

 

「ッ!」

 

 思わず身を竦ませ、腰に差した剣の柄を握りしめる。誰だ、賊か? それとも国境警備隊――もしそうなら、自分の演技次第で結末が変わる。慌ててフルフェイスヘルムを被り、金具を締め付ける。

 エトは剣の柄に手を掛けながら森の中から聞こえてくる金属音に備えた。そしてブッシュを掻き分け、姿を現したのは――エトと同じ、鎧を纏った騎士達であった。

 数は十名程、バイザーを下げ、何の警戒もなしやってきた彼らは目の前のエトに面食らい、慌てて腰の剣に手を伸ばすも――刻印された紋章が自国のものである事に気付き、また階級章が自身の持つソレよりも遥かに高い事を知り、剣に伸ばした手を引っ込めた。

 

「お前たちは――」

 

 エトは森から現れた騎士達、その鎧に刻印された紋章が自国のものである事を確かめ、意識して威圧的な声を出した。軍の階級になど大して詳しくはないが、こんな場所に少佐以上の階級持ちが居ないと高を括っての行動だった。

 実際その行動は功を奏し、十名ほどの騎士達はエトで姿勢を正した。三名ほど、負傷しているのか動きがぎこちなく、また腕に添え木をしている者も見える。

 

「は、はッ、自分は四○三騎兵隊所属、臨時小隊長のダルツ少尉です! 前線にて敵主力と交戦中、本隊と逸れ、方角を見失い彷徨っておりました!」

「前線――」

 

 一歩前に出た騎士が胸に手を当て、やや強張った声色でそう叫ぶ。前線、本隊と逸れた。エトはそう口の中で言葉を転がし、自身の知る国勢と現在が全く異なったものであると理解した。

 

「どこかの国と戦争でもしているのか? 私の、囚われていた一年半の間に……」

 

 ぼそぼそと呟くエト。それは騎士たちの耳には届かない。もしそうであるのならば、この鎧の持ち主がああして独り彷徨っていたのも納得だ。恐らく敗走したのだろう。だとしたら、ここからそう遠くない場所に戦場が?

 冗談じゃない――エトは眉間に皺を寄せた。

 

「私は――エト、エト・シュトゥノイア・ミルティアデス少佐だ」

 

 偽りの身分を告げ、一瞬言葉に詰まった。目の前の騎士と同じように所属を口にしようとしたが、彼はエトという女性の所属を知らなかった。

 

「……少佐、質問を、宜しいでしょうか」

「良い、許す」

 

 しかし、その間を潰す形で目の前のダルツと名乗った騎士が問いかけた。その間エトは後ろの騎士達に目を向け、「負傷者も居る、気張らず、休め」と口にする。騎士たちは明らかに安堵し、添え木をしている騎士は地面に座り込んだ。余程疲労していたのだろう。ダルツただ一人が姿勢を正し、心なしか疑わしそうな口調で言った。

 

「少佐は何故この様な場所に居らっしゃったのでしょうか」

「……前線に向かう途中、敵部隊の待ち伏せにあった、後ろから矢で射抜かれてな、間抜けな話だが暫くの間意識を失っていた、気付けば落馬し、屍の仲間入り――という訳だ、運が良いのか悪いのか、生きてはいたがね」

 

 エトは脳を回転させ、嘘偽りのカバーストーリーを語って見せた。その際背中を見せ、矢で射抜かれた穴を見せつける。それを見たダルツは「お怪我を?」と問いかけるが、エトは「いや、チェーンメイルを着ていたのが幸いした」と笑った。無論、そんなモノは着込んでいない。全てホラだ。

 

「徒歩で味方と合流するなら邪魔になると脱ぎ捨てたが、備えあれば憂いなしというのは本当の様だ、背中は少し痛むがな」

「そうでしたか――失礼しました、少佐、我々も同行させて下さい」

 

 ダルツが正していた姿勢を更に伸ばし、そう言った。背後の騎士達もどこか縋るような視線で此方を見ていた。この鎧と階級を疑る素振りはない。

 

「……分かった、貴殿らを臨時小隊として私の指揮下に置く」

「はっ、ありがとうございます!」

 

 ダルツは声を張り上げ笑みを見せた。反対にエトは彼らに見えない様、内心で渋顔を作った。偽りの身分でどこか別の場所、平穏な環境の中隠れるつもりだったが。もしこれで彼らの言う本隊、或いは本国に帰還など果たしてしまったら――必ず嘘が露呈する。

 

「兎も角移動しよう、方角を見失ったと言っていたが、私は凡その方角を記憶している、馬を失った騎兵とは何とも間抜けな絵面だが――それも母国へ戻るまでだ」

 

 エトは思考とは反対に、それらしい言葉を告げる事で頼れる指揮官を演出した。これはエトが良く本を読み、意図して物語の主役級の登場人物を演じた結果だった。ダルツを含めた十名の騎士を引き連れ、エトは南下する。

 無論、方角を記憶しているなんて嘘だった。しかし騎士達が来た方角に戦場があるのならば、そちらに進むのは論外。そして一瞬自分の来た道を戻り、あの街に向かうという選択肢も考えたが――自分の脱走が露呈していて、彼女が捜索の手を伸ばしていたらと考えると、とてもではないが選べなかった。

 彼女はやるだろう、自分を手元に置いておくためならば家の力を躊躇いなく行使する。彼女の執着心を良く知るエトはそう断じた。

 結局、エトは然も道を知っているかのように振舞いながら騎士達が来た方向とは逆、南の方角へと足を進めた。

 

 ☆

 

 部隊は小休憩を何度もとりながら遅々とした足取りで目的地を目指した。無論、目的地など存在しなかったが、然もそれを目指して歩いているかのようにエトは振舞った。三十分程歩いては休憩し、小まめにエトは足を止めた。

 

「負傷兵を見捨てるような真似はしない」

 

 小休憩は負傷兵を労わり、部隊全員で帰還できるようにする配慮だと彼は言った。しかし本当は違う、単純にエトの体力が限界なだけだ。けれどそんな素振りを見せれば疑われてしまうとトは小休憩の理由を負傷兵に求めた。

 

「少佐はお優しい方ですな」

 

 三度目の休憩中、ダルツ少尉がそう言った。疲労が残った顔、しかし男性らしい厳つい、無精ひげの残る野性味あふれるそれはそれ以上に生気に溢れていた。「そうかね」とエトは肩を竦める、額に流れた汗を詰めたい鋼鉄の指で拭った。

 

「顔色が良くない、少佐も疲労が溜まっているのでは」

「なに、背中に受けた矢が存外響いていてな、動くと少し痛むのだ」

「診ましょうか、多少なら心得があります」

「いや、それには及ばない、この程度で根を上げていては騎士の名折れよ」

 

 ダルツはエトの疲労を見抜いている様だった。流石に本物の騎士を騙す事は難しい。エトは疲労の理由を矢傷にあると説明した。勿論、そんなものはないし、疲労は単純に体力不足だ。近場の石に腰かけながらエトは部隊員を見る。

 誰も彼もが汚れ、傷ついている。戦場帰りと言えば納得だ。その中でも負傷兵は三名、それぞれ腕、肩、足を負傷している。足を怪我した騎士は落馬した際に強く打った様だった。最悪骨が折れているかもしれない。鎧を脱がせ、補助に二人の騎士をつけ、半ば担がれるような形で歩かせていた。曲がりなりにもエトが彼らの行軍についていけているのは、この負傷兵が居るからだった。そうでなければこんな、クソ重い鉄の塊を纏いながらの行軍など、早々に脱落していただろう。

 そこからエトは更に半日程歩き続けた。持っていた水を飲み尽くし、糒も食べつくした頃。疲労した兵を見て、これは拙いかと内心で焦りを見せたエト。自分も余裕はないし、今にも倒れてしまいそうだが、戦場帰りの彼らの疲労は更に酷い。最悪水源の確保だけでもと考え陽の沈みかけた空を見上げ――立ち上る僅かな煙を見つけた。

 破れたカーテンの如く緋色を地面に映し出す木漏れ日。その向こう側に立ち上るソレは飯炊きの煙に相違ない。疎らに見えるそれを目視した時、エトは内心で歓喜の声を上げた。

 

「少尉、漸く到着したぞ」

「少佐?」

「目的地の集落だ」

 

 そう言ってエトは空に立ち上る煙を指差した。グルツも流石に疲労が気力に勝っていたのが、顔色悪く俯き加減だったが、エトの指差す煙を目視した途端、幾分か顔色が良くなったように見えた。

 全く持って偶然の産物だ――脱走の機会然り、このエト少佐との邂逅然り、ほとほとこの数日は神に愛されているとしか思えない。

 

「少佐はこの集落を目指していたのですか」

「そうだ、食料も水も心許ない、なら補給できる場所に一時身を寄せるしかあるいまい」

 

 腹が減っては戦は出来ぬ――素晴らしい言葉だ、実にその通りである。腹が減り、喉も乾き、体全体を疲労に打ちのめされたエトはその言葉を実感した。

 部隊の騎士達に飯炊きの煙を指差し、目的地が直ぐ其処にあると告げると、負傷兵を含め皆が皆瞳に生気を取り戻した。もう少し、あと少しで休める、ゴール手前に辿り着いた小隊は疲れた体に鞭打って集落の手前まで足を進めた。

 薄手の森の中にひっそりと存在する集落は家も疎らで、畑や田、井戸も必要最低限しか見受けられない。道も舗装されていない、軽く土を均して作ったようなもので、遠くには納屋、そして馬小屋も見えた。恐らく街に行商に出掛ける為のものだろう。

 典型的な限界集落――しかし十人程度の騎士ならば匿えそうな規模ではある。幸い出歩いている者はいない、夕刻なのが良かった。エトはダルツの傍に身を寄せた。

 

「よし、余り大勢で向かっても警戒される、まずは少数で向かって交渉を――」

「は? いえ、少佐、まずは村が敵の手に落ちている可能性を考え、周辺を偵察するべきかと……」

 

 目の前にゴールがある、その気持ちが僅かに思考を鈍らせた。横合いから僅かに動揺したような声が届く。ダルツだ、彼は目を見開いて此方を見ていた。

 

「――っと、そうだな、すまない、気が逸った」

 

 エトはダルツの言葉に肩を揺らした。そうだ、自分は『そういう観点』が存在しない。

 然も今思い出したとばかりに苦笑し、額を押さえながら軽く首を振った。隣のダルツが何かを訝しむように眉を寄せ、口を開く。

 

「いえ……人選は如何しましょう? 偵察と、それと村に向かう者も」

 

 エトは額に手を当てたまま考え込む。少佐という階級をぶら下げている以上、自分が交渉に向かうのが一番効果的だと思った。しかしエトは『口上』が分からない。こういう戦争時、街や村に入って物資を強請るのならば高圧的に接するべきなのか? それとも下手に出て、あとから国に請求でもしてくれと所属を明かして振舞うべきか? そのテンプレートがエトには分からないのだ。結局エトは数秒黙り込み、「よし」とひとつ頷き、決断した。

 

「少尉、それと……お前と、お前」

 

 エトは後ろを振り向き、自分の直ぐ後ろに座っていた二人を指差した。指差された二人は突然の事に驚きを露にするも、「はっ」と即座に返答する。

 

「交渉役は少尉が、二人は少尉に同行しろ、余り驚かせたくはないが万が一がある――残りの四名は周囲を探れ、偵察だ、もし集落が敵の手に落ちている様なら即座に撤退する、私は此処に残り負傷兵の護衛と撤退時の指揮を執る、良いな? さぁ動け」

「は、はっ!」

 

 反論させない様に捲し立てた。先ほどのダルツの言葉で生まれた疑念を、強い権力と意志を背景に有耶無耶にしようという思惑があった。

 騎士達は礼をひとつ残し、疲労の残る足取りで集落の周囲に散って行った。ダルツと残された二名、そして負傷兵は息を殺し報を待つ。

 

「……少佐、失礼ですが自ら交渉はなさらないので?」

 

 隣のダルツが僅かに声のトーンを落として問いかけた。エトは自身を横目で見るダルツの方を視界に捉えぬよう、強張った表情で溜息を吐いた。

 

「先のやり取りで分かったのだが、自分が思った以上に頭が働いていない様でな――下手な口上で顰蹙を買っても困る、ここは安全策だ少尉、少尉は私より頑丈そうだからな、平気だろう?」

「誉め言葉として受け取っておきます」

 

 淡々とした口調だった。エトは自分の背中にびっしりと冷や汗が流れているのを自覚した。

 暫くすると偵察に出した四名が戻り、周辺に敵兵なしの報を出す。念の為、集落が既に制圧され、中に入り込んでいる可能性も考えてエトはその四名を少尉達交渉役の後ろに潜ませた。

 少尉達を見送り、エトは集落の手前で負傷兵の傍に寄り添う。少尉が村の広場に踏み込んだのを見届け、その背中から視線を逸らした。

 

「すみません、少佐、御手間を……」

 

 樹に凭れかかり、青白い顔をした騎士が呟いた。彼は足を負傷し、現在動けない。半ば担がれて移動していた彼にとって、自分が部隊の足を引っ張っているという事実は精神的にも彼を追い詰めていた。

 エトは努めて明るい声を意識し、顔に笑みを張り付けた。

 

「なに、そんな顔をするな、村に入って飯でも食べて、ひと眠りすればすぐ良くなるさ、気に病む必要などない、お前の負傷は『名誉の負傷』という奴だ」

「しかし、本来ならば自分が少佐をお守りせねばならないというのに……」

 

 足を酷く腫れさせながら、騎士は自身の腰に差した剣を握っていた。まだ戦うつもりなのか、エトは内心で戦慄した。自分が足を折られたら戦意など喪失する事請け合い。だと言うのにこの騎士は。

 

「……今は休め、何か思うことがあるのならば、その怪我を治した後に存分に果たせば良い、だが今は黙って守られてくれ」

「――ありがとうございます、少佐」

 

 騎士の手が剣から離れた。その事に安堵したエトは、しかし自分は剣など振るえない事を理解している。多少の心得はあるが――所詮は『ごっこ』だ、貴族剣術など試合形式の『当てたもの勝ち』でしかない。レイピアなどがその最もたる例だろう、鎧を纏わない素肌が相手ならば話も変わって来るだろうが。

 

「さて、頼むから来ないで欲しいね」

 

 騎士に聞こえないよう、小声で呟いた。ホラを吹いてはいるが、エトという人間はどこまでも無力なのだ。

 

 ☆

 

 交渉はほんの十分足らずで終了した。何だ何だと外に出てきた集落の人間に対し、少尉は啖呵を切った。どんな言葉を口にしていたかは分からないが、集落の人間は快く――とは決して言えないが、村で宿代わりになる場所を明け渡し、少ないが薬品も手に入った。

 

「食料を徴収しました、医者や薬師は居ませんでしたが、代わりに備蓄されていた薬品を」

「良くやった少尉、なら負傷した連中を見てやってくれ、出来る限りで構わん」

「了解しました」

 

 提供された場所は集落の集会所とも言える場所で、十人程度が集まってもまだ余裕があった。テーブルと、倉庫代わりにしていたのか積みあがった木箱。それに幾つかの木椅子。剥き出しの床に毛布を敷き、その上に負傷者を寝かせる。他の騎士達は交代で見張り番を行い、エトは集会所の奥で椅子に腰かけ、安堵の息を吐いた。

 漸く休む場所を見つけられた、まさか騎士達と合流する羽目になるとは思わなかったが――まだ致命的ではない。

 

「さて、これからどうするか」

 

 呟き、エトは天井を見上げる。本隊と合流――騎士として動くのならば本国へ戻る事が先決だろう。しかしエトはそんなのは死んでも御免だ、本国などに戻れば偽物である事が露呈する。となると此処の連中を見捨てて何処かに逃げるか? 元々、偽りの身分を手に入れて、どこか遠い所で穏やかに過ごすのが目的だった。

 しかしエトは首を緩く振って自分の考えを否定した。情が沸いた訳ではない、けれど彼らを手放すのは単純に惜しかった。

 自覚はあった、それは――強い権力を手に入れ、それを行使する事へ対する悦び。

 屈強な騎士が、明らかに自分より強い人間が、その自分に逆らわず、何の疑いもなしに従う事への充足感。昏い感情だ、それを良く理解していた。

 それに単純な利点もある。自分一人では野盗などに襲われてしまったらひとたまりもないが、騎士の連中と一緒に動いてればその限りではない。単純な護衛、戦力として考えると大きな利点であった。

 本隊と合流させず、自分の目的も達成させる方法。

 エトは暫くの間、背凭れに体を預け考え込んでいた。

 

「少佐」

 

 そんなエトの前に影が落ちる。見上げると騎士のひとりが自分に何かを差し出している。布に包まれたパンと水筒だ。

 

「少佐もお疲れでしょう、食事を摂って、少しお休みになられては? それと、宜しければ怪我の治療も……」

 

 フルフェイスヘルムを取り払った騎士の素顔は、何というか想像以上に年若かった。二十半ば程だろうか、少尉と比べると入隊したてと言う感じだ。短く切り添えられた髪と、剃られた髭、それが如何にも好青年という印象を与える。

 

「いや、怪我は良い、他の連中を見てやれ」

 

 エトはそう言って水と食料を受け取り――そして思い出したかのようにヘルムの留め具を弾いた。今の今まで被っていたのを忘れていた。相応に疲れてはいるのだが、この狭い視野と如何にも【守られている感】のある閉鎖が心地よかった。

 ヘルムを脱ぐと籠っていた熱気が霧散し、爽やかな空気が肺を満たす。

 

「――ふぅ」

 

 張り付いた髪を払い一息吐く。すると、目の前の騎士が自分をじっと見つめている事に気付いた。まさか【本物】の知り合いかと焦り、幾分か低い声で問いかける。

 

「……なんだ?」

「あっ、いえ――ただ、その、少佐は、男性……ですよね?」

 

 僅かに頬を赤らめ、恐る恐る問いかける。一瞬何を言っているんだ、当たり前だと言いかけて、しかし本物の性別を思い出し咄嗟に口を噤んだ。数舜、間を開けて答える。

 

「……私は、一応女性だ」

「えっ!? こ、これはとんだ失礼を――」

「お前から見て私は女に見えんか」

 

 意識して若干拗ねたような声を出せば、騎士は「と、とんでもありません!」と首を横にブンブンと振った。俯いた騎士は言いにくそうに口をまごつかせ、それから呟く様にして答えた。

 

「男性にしては、その、御綺麗でしたので、お、思わず」

「……そうか」

 

 なら良い。エストとしては不満だが、男性にしか見えないと言うのならソレはソレで今後が問題だらけになる。胸を撫でおろし、エトは騎士に向かって手を払った。

 

「もう行け、私も少し休ませて貰う」

「は、はっ!」

 

 先程とは異なり、肩肘を張った騎士が目の前から去って行く。エトは溜息を吐き出し、抱えていたヘルムを横に置いた。そしてどうせなら重い鎧も脱いでしまおうと金具に手を掛ける。そして一つ一つパーツを外し、胸と腰、手の鎧を丁寧に取り外した後、具足も脱いでしまおうと足を伸ばした。

 そして金具を弾き具足からそっと足を抜き出していると、自分に視線が集中している事に気付いた。部屋の中にいる騎士達が全員自分を凝視している。その事に若干驚きつつ、「な、なんだお前達」と震えた声を上げた。

 声を掛けると、全員がさっと視線を逸らした。

 まさか自分は何かやらかしてしまったのかと内心で恐々とする。鎧を脱ぐのに作法もクソもないと思ってはいるが、騎士にしか分からない決め事などがあったのだろうか。エトは若干泣きそうになりながら具足を脱ぎ、そのまま椅子に凭れかかった。そして手渡されたパンを齧りながら思う。

 何だか鎧を着ていた時より見られている気がする、と。

 齧っていたパンは味がしなかった。

 

 ☆

 

 こいつ、本当に騎士か?

 ダルツは目の前で鎧を脱ぎ、鎧下着の姿となったエトを見てそう思った。日に焼けていない白い肌、鎧を着こみ、剣を奮うには余りにも細い手足。整った――否、整い過ぎた顔立ち。名前から貴族である事は分かっていた、故にその『少佐』という階級に不満は覚えない。実家の力が働いているのだろう、だから疑問はない。ないが――目の前の人物を『騎士』として見ることはどうしても出来なかった。

 相応に使い込まれた鎧、反して中身は余りにも『お嬢様』。

 どこか森奥の屋敷で本でも読みながら微笑んでいる、そんな生活が彼女には似合っている。間違っても骨肉の争い、血で血を洗うような戦場に居るべき存在ではない。それは他の面々も同じなのだろう、余りにも戦場に相応しくない雰囲気と外見を持つ彼女の姿に見惚れながらも、どこか困惑した様子が隠せない。

 鎧を着ていて分からなかったが――どうにも、中身を知ってしまうと疑ってしまう。

 そんな視線を感じているのか、どこか居心地悪そうにしながらパンを齧る少佐。

 やがてパンを食べ終えると暫くの間思案顔になり、そして五分もしない内にうとうとと船を漕ぎ始めた。ダルツは負傷兵の包帯を新しいものに巻き替えながら、その様子を見ていた。

 十分もすれば少佐は完全に意識を飛ばし、足を投げ出したまま両手を股の間に挟んで、半ば椅子からずり落ちながら眠りに落ちた。くぅくぅと寝息を立てながら熟睡する我らが上官。その様子に騎士達の視線を釘付けだ。

 

 あれが……少佐階級の騎士?

 

 余りにも緊張感がなく、上官としての威厳も、意識も、持ち合わせていなかった。ダルツは唸りながら頭を抱えた。どこからどう見ても、【アレ】は少佐という階級に相応しくもなければ、騎士でもない。お飾りの将校――いや、それ以下だ。

 

「しょ、少尉」

「……分かっている」

 

 傍に立つ騎士が何か言いたげに此方を見た。ダルツは渋い顔で頷きながら、巻き終えた包帯の端を留める。負傷兵三人の容体は悪くない、本国に戻るか――或いは駐屯地、砦に戻り療養すれば良くなるだろう。衛生兵ではないので断言は出来ないが悪化する兆しはない。足をやられた騎士は、「少尉、ありがとうございます」と小さく頭を下げた。

 ダルツは軽く手を振って答え部屋の中を見渡す。外に出した兵士は二名、負傷兵の内二人は食事も摂らず、此処に到着した直後から寝入ってしまった。現在この部屋に居て起床しているのはダルツを含めて六名――内、三名程がじっと少佐を見つめながら唇を噛み締めていた。

 その瞳に宿るのは――情欲だ。

 ダルツは目を閉じ、重い溜息を吐いた。男だと思っていた上官が女性、それも飛び切り美人な。そんな人間が無防備な姿を晒し寝入っている、疲労を考えると暫くは起きそうにない。ダルツはその後の展開が容易に想像できた。

 

「……気持ちは理解できるが、相手は貴族だ、手を出したら最後、たとえ生きて本国に戻れても二度と太陽の下は歩けないぞ」

「ッ……す、すみません、少尉」

 

 ダルツの声が部屋の中に響き、少佐を邪な目で見ていた三名の騎士が肩を震わせ、バツが悪そうに眼を逸らす。しかし気持ちが理解できるというのは嘘ではない、こうしてみると人形染みた美しさだ。更に戦帰りで気分も昂っている、ダルツとて何も感じない筈がなかった。

 

「少尉、あまり大きな声では言えませんが、その、少佐は、余りにも――」

「あぁ、論外だ、正直何故前線に出てきたのかも分からない程に、様々なものが不足している様に見える」

 

 ダルツとひとりの騎士は小声で言葉を交わす。ダルツと言葉を交わす騎士は長年、ダルツと共に戦ってきた戦友でもあった。彼から見ても少佐は階級に相応しいどころか騎士と呼べるかどうかも怪しかった。

 

「少佐の年齢は幾つに見える?」

「……外見だけならば十代後半から、二十と少し程度でしょうか」

「仮にそれよりも歳が上だとして、少佐など……あり得るか?」

「貴族階級を加味しても従士(騎士見習い)が精々に思えます、或いは余程実家が力のある家柄なのか――しかし、貴族階級に詳しくないとは言え、ミルティアデスという家名には聞き覚えがありません」

「ならば余程才能に愛され、それを軍部の上に認めさせたか」

 

 二人が少佐の寝顔を見つめる。年相応の可愛らしい寝顔だ。揃ってため息が漏れる。

 

「少尉、申し訳ありませんが、とてもそうには……」

「俺もだよ」

 

 声は重々しく部屋に響いた。

 

 



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