美しい毒虫 (XP-79)
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前編

 それがただ一つの手段よ。あいつがグレゴールだなんていう考えから離れようとしさえすればいいんだわ。

 そんなことをこんなに長い間信じていたことが、私達の本当の不幸だったんだわ。でも、あいつがグレゴールだなんていうことがどうしてありうるでしょう。

 もしあいつがグレゴールだったら、人間たちがこんな動物といっしょに暮らすことは不可能だって、とっくに見抜いていたでしょうし、自分から進んで出て行ってしまった事でしょう

                            

                     —————フランツ・カフカ「変身」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ————なんだよ、説明はしただろう。確かにそれは僕が描いた絵だ。でもクーパー・ユニオンに通う前の子供の落書きみたいなもので………納得の行く説明をしろって?これじゃあ不満だって言うのか。

 友達だからっていうだけじゃあ信じられないなんて、君はこれまでまともな友達が……いや、何でも無い。

 ああ、僕は君の友達だよ。まともかどうかは分からないけど、君がまだそう思ってくれているのなら。

 そうじゃない?でも君はなんでそんな顔を……ああ分かった。分かったから。

 君が凄く苦労してその絵を探し出した事はよく分かった。でも画家としては無名の僕の絵なんて安いものだっただろう。500ドル?ふぅん、結構高かったんだね。

 あの酒場にまだ飾ってあったのかい?………そうか、店主は消えてしまったのか……

 でも代々あの場所に立つ店に受け継がれていたなんて驚きだよ。とっくに捨てられていたと思った。

 ………別に話は逸らしていないよ。本当にさっき言った事が全てなんだ。………ああもう、分かったから、うん。まあ、そうだね。僕の言葉が足りなかった。

 一から話すよ。あんまり楽しい話じゃないかもしれないけど。

 長くなるかもしれない。君は僕たちの中でも一番忙しいだろうから、途中で飽きたら……だから、そんなつもりじゃないって。バッキーの事は、あれは僕が悪かったんだ。君の事も、バッキーの事も、僕はもっと信じるべきだった。

 ———君は責任感が強すぎる。前々から言おうと思っていたんだけれど………説教じゃない。褒めてるんだ。君は僕が知る人間の中でも3本の指に入る天才で、尊敬するべき器量を持っている。茶化すな。別に熱は無いよ。

 でもトニー、いいかい、……だから茶化すな。説教じゃない。いくら君が天才でも限界はあるんだ。これは事実だ。

 ハワードにも、アースキン博士にだって限界があった。結局ハワードは車を空に浮かべる未来を作ることは出来なかったし、アースキン博士だってレッドスカルを生み出してしまった。

 でもだからと言って彼らが尊敬するべき素晴らしい人である事に何ら変わりは無い。君だってそうだ。親を殺した奴に寛容であれというのは無茶な話だ……あれは僕のせいだったんだ。僕が……

 済まない、蒸し返すつもりは無いんだ。ただ君にこれ以上の負担は………しつこいなぁ。分かったよ。話すから。

 でも大した話じゃない。僕とバッキーの昔話っていうだけで。その絵を描いた経緯も君にとってみれば至極つまらない理由さ。

 お金が無かったんだよ。お金が欲しかったんだ。本当にそれだけさ。

 ………そう笑うなよ。

 君はそうやって笑うけど、でも当時の僕たちにとっては死活問題だったんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■ 

 

 

 

 

 

 夕方から降り出した小雨は小さな雹を含んでいた。

 スティーブは舗装の剥がれた路上に座って靴磨きの仕事をしていた。本日12人目の客の靴を磨き上げ、放り投げられたチップを顔面でキャッチした。コインは顔に貼りつくほど冷たかった。

 靴クリームで汚れた手で顔を拭うと雹が手に纏わりつく。途端に寒さを感じてコートを身体に引き寄せた。

 このまま仕事を続けると間違いなく風邪をひく。情けない程に虚弱な身体に溜息を吐き、仕事道具を纏めて歩き出した。

 ゴミ箱から拾ったコートはスティーブの身体には随分と大きい。幼児のお漏らしのような汚れをひっつけたコートの中に身体を埋めると、腐った野菜のような臭いがした。今の自分はゴミ箱に頭から突っ込んだ哀れなホームレスに見えるに違いない。

 そう思い、スティーブは背筋を鉄筋のように真っすぐに正した。腐った臭いはどうしようもないが、せめてみっともなくは見えないようにしたかった。

 

 歩みを進める度に、点滅する街灯の下を歩く人の影は段々と少なくなる。

 大通りから一本細い道に入り、さらに細い道に入る。街灯が少なくなると同時に埃臭さが立ち込める。降り始めていた雹は嫌がらせのように勢いを増していた。

 目的とする店は世間から隠れるように小さく、仄かな明かりを裏口に灯していた。

 

 この店に来るのは初めてではなかった。バッキーの母親がこの店でウェイトレスをしており、こっそり残飯を貰う事があったのだ。

 だがアメリカ全土に蔓延する不況がさらに悪化した頃から、バーンズ家の食事を賄うだけで手いっぱいの彼女から声がかかることは無かった。

 

 木製のドアを3度ノックする。

 勢いよくドアが開いた。あまりの勢いの良さに思わず後ずさる。

 明るい店内の光に照らされて、エレナ・バーンズが立っていた。バッキーの母親だ。

 ウェイトレスの制服は赤いスカートに白いシャツというありきたりなものだったが、豊満な体形のエレナが着ると妙にセクシーに見えた。まさか10を超える子供が居るとは思えない若々しい美貌に意地悪そうな笑みを浮かべて、エレナはドアの前に立っているスティーブを見下ろした。

「悪い子ねスティーブ。子供がこんな時間にこんな所に来るなんて」

 ぱちりとウィンクをしたエレナに、やっぱりバッキーは母親似なんだなあと思う。チャーミングな唇の形がそっくりだ。言っている内容とは裏腹に、エレナの口調にはスティーブを咎める鋭さはまるで無かった。

 

 スティーブとバッキーは家族ぐるみで仲が良い。未成年のスティーブが酒場に夜遊びに来るような子供ではない事をエレナはよく知っていた。そんな暇があれば少しでも長く靴磨きの仕事をするか、勉強をするか、絵を描いているような真面目な子供だ。

 そんなスティーブがこうして酒場に来るなんて仲の良い友達に強引に誘われた以外の理由は無い。そしてスティーブと仲の良い友達といえば、頻繁に酒場に夜遊びに来るエレナの自慢の長男に違いなかった。

 スティーブに悪い遊びを教えるのはいつもバッキーの役目だった。

 

「ジムなら今日は居ないわよ。あの子ったら毎日どこかへふらふら出かけちゃってて」

「そうなんですか。なら少し待たせて貰ってもいいですか?」

「いいわよ。どうせうちのバカ息子がまた無理を言ったんでしょう。今度はこの店に飾る絵でも描くのかしら?」

 呆れたといった顔でミセス・バーンズは首を振った。苦笑いをする。図星だった。

 

 

 

 空前絶後の大不況がアメリカを襲っていた。仕事は減り、それに伴って治安は急激に悪化し、街全体が薄暗く変色したようだった。

 ロジャース家も世間同様に明日のパンすら危うい状況に陥っており、スティーブも家計の足しにするべく靴磨きのバイトをしていた。

 しかし病気のせいで長時間働くことのできないスティーブが稼げる金など高が知れていた。丸一日働いてもパンが2つ買えるかどうかといった金額しか稼げない。

 無理をして働いても結局は身体が悲鳴を上げて余分な薬代が増えるだけだと、長年の経験から分かっている。それに体育以外の成績は極めて優秀なスティーブが、学校をサボって長い時間靴を磨く事をサラは断固として許さなかった。

 そんなスティーブが唯一纏まった現金収入を得る手段はイラストだった。

 

 体が動かない時は勉強をしているか絵を描いていたスティーブに、行きつけのパン屋からビラを描く仕事をバッキーが持って来たのが始まりだった。

 受け取ったのは子供の駄賃のような金額であり、店としても大して期待していなかったのだろうが、初めてのイラストの仕事ということでスティーブは非常に力の入れたイラストを描いた。

 ビラというより映画のポスターめいたデザインのビラをパン屋の店主はいたく気に入り、とにかく町中に貼りまくった。それ見た近所の店が、うちの広告も書いてくれとスティーブに頼みに来るまでそう時間はかからなかった。

 そうしていつの間にか、ぽつぽつとだがスティーブはイラストの仕事をするようになった。

 

 今日もスティーブは「新しい仕事を見つけたから靴磨きのバイトが終わったら母さんの店に来いよ」とはしゃぐバッキーに半ば強制的に約束させられて、こうして夜に酒場の裏口扉を叩く羽目になっていたのだった。

 スティーブの表情から粗方の事情を察したエレナは、取り合えず入れば?と言って従業員用の待機スペースにスティーブを連行した。

「す、すみませんエレナさん。急に、」

「別にいいのよ。そもそも最近何かと物騒じゃない。近くでまた強盗殺人があったらしいわよ。なのにスティーブみたいな虚弱な美少年が一人で突っ立っているなんて危なすぎよ。もうちょっと危機感持ちなさい」

「………僕は男ですよ」

「知っているわ。スティーブは飛び切り綺麗な男の子よ。ブリュネットも嫌じゃないけど、たまにはスティーブやサラみたいな綺麗な金髪に憧れるのよね。ああ羨ましい。でもやっぱりブロンドは線の細い美人じゃなきゃ似合わないかしらね。あたしはブロンドに染めるにはちょっと体形がゴージャス過ぎるから」

 胸を揺らして歩くエレナの口は全く止まらない。この年代の女性の会話を止める事などまず不可能だと悟ったスティーブは、ああ、いえいえ、そうですね、の3つの返事を順番に使いながらスタッフルームの椅子に腰かけた。

 

 エレナとバッキーの話には奇妙な共通点があった。過度な自慢はなく、不用意に他人を貶すことはなく、長々しく続くわりに同じ話はしない。そして身振り手振りが派手であり、どんなに些細な事でもそれが世界で一番の大発見であるかのように話す。

 そして今日のエレナは何時にもまして声の抑揚が激しかった。テレビのタレントでもここまで勢いよく話続ける事は難しいだろう。

 そう会話が得手ではないスティーブもエレナの話に耳を傾け、適当に相槌を打っているだけで気分が軽くなった。これは一種の才能ではないかと思う。

 つい先日強盗に襲われた近所の家に警察が調査に入ったところ、ベッドの下からその向かい隣りの家の奥さんの下着が発見され、自宅で浮気をしたのかと怒り狂ったその家の妻が夫を刺し殺しかけるという別の事件が発生したという話題を聞きながら、スティーブは何度目か分からない相槌を打った。

 何故エレナは昼も夜も仕事をしていながらこんなにご近所の事を良く知っているのか。スーパーマン並の高性能な耳を持っているか、もしくはシャーロック・ホームズのようにストリートチルドレンのチームを率いていないと不可能な技だ。

 素晴らしい速度で次の話題に映ったエレナは一瞬会話を止め、天井を見上げて大きく息を吐いた。青灰色の瞳が大きく虚ろに見えた。

 

 陽気に会話をしているエレナが、その実は酷く疲れているのだとその一瞬の表情で分かった。スティーブに向かって陽気に話しているのは自分の気分を明るくするための虚勢だったのだ。一種の躁状態のようなものだ。

 横顔をよく見ると目の下にくっきりと濃い隈がある。化粧で誤魔化しているが顔色は青かった。

「エレナさん」

「なあに?」

「その、大丈夫ですか?お疲れでは」

「あら、心配してくれてるの?紳士になっちゃって」

 懐に手を伸ばし、エレナは煙草を取り出した。懐から靴磨きの仕事中に客の煙草に火をつけるためのマッチを取り出して、エレナが咥えた煙草に火を点ける。

 ありがと、と言ったエレナは深く息を吐きだした。

「まあそりゃあ昼は兵器工場で夜はウェイトレスってなるとちょっとキツいけど、大丈夫よ。ああ見えて意外にジムはしっかりしてるの。パンを貰ったり、野菜を貰ったりね。あの子は愛想がいいから」

 そう言ったエレナにスティーブは視線を彷徨わせた。

 

 バッキーがどうやってそういったものを手に入れているのか、スティーブは薄らと理解していた。しかしそれを彼の母親の前で口にする気は無かった。

 バッキーは健康で、人より足が速く、家族の口を養うためには少々の悪事を厭わない男だった。それが悪い事だとスティーブは知っていたが、彼を警察に突き出そうと思った事は一度も無かった。

 盗みは悪い事だが、家族のためにパンの欠片を盗む友人を警察に突き出すことが正しい事だとはとても思えなかった。

 

「それで今日は店のデッサンでもしにきたの?あんまり遅くなったらサラが心配するわよ」

 心配そうな口調のエレナにいえ、と返す。隠し事をしている後ろめたさを胸奥に押し込んでスティーブはただ愛想よく笑みを返した。

「今日はこのお店がどんな雰囲気なのかだけ知りたくて来たんです。どんな絵を描くかのイメージだけでも掴みたいと思って。お店に飾る絵を描くのは初めてですから」

「あらそう。でもここの店長はおおらかというか、適当な人だからあんまり気負わなくていわよ」

「そうなんですか。その、店長とはバッキーが直接話して仕事を持って来てくれたので僕はまだお顔も知らないんです」

「店長はいい人というか……変わった人よ。若々しいのか年寄り臭いのかよく分かんない人でね。ただ密造酒を造るのがめっぽう上手いの。あんまり怒らないし、冗談も上手いし。悪い人じゃあないわ。ほら、話をすれば……スタン!」

 スタン、と声を掛けられた男性はちょうど部屋に入ろうとしたところだった。白髪で顔に深い皺を刻んでいる老人だが、ぱっと笑った顔は少年のように明るい。深い色のサングラスがよく似合っている。スタンはやあ、と気安く手を上げた。

「エレナ。休憩かい?」

「ええ。スタン、こちらスティーブ。スティーブ・ロジャース。あなたがイラストの仕事を頼んだ若きイラストレーターよ」

「スティーブ・ロジャース君だね。バッキーに聞いたよ。君の描いたビラを何枚か見た。繊細だけど骨がある、ガッツのある良い絵だ」

「ありがとうございます、ミスター……」

「スタンで構わんよ。スタン・リーだ」

 快活に笑ったスタン・リーが差し出した手を握り返す。温かく、皮の厚い手だった。

 酒場の店長とは思えない分厚い掌の皮と太い指はまるで長年コミックでも描いているように使い込まれた手をしていた。

「好きなように描いておくれ。イカした絵を頼むよ」

「はい、頑張ります!」

 ぱんぱんと肩を叩いたスタンに、何となくスティーブはこの人が凄まじく良い人であるような気がした。

 バッキーからは「生き馬の目を抜くようなこの時代にあるまじきお人好し」とよく評されるスティーブだが、人を見る眼にはそれなりに自信があった。じっと人の目を見ればその人の性格や本性は大体分かるものだ。

 

 休憩室でスタンとは暫くイラストについて話をした。スタンはやはりコミックスを描くのが趣味のようで、どちらかと言うと今は酒場の経営よりもそちらの方に注力しているらしい。

 他にも役者をしていたり従軍経験があったりとスタンの話は面白く、尽きなかった。スティーブはエレナから渡されたビールで唇を濡らしながらスタンの話にこくこくと頷いた。

 子供のように顔を輝かせて話をするスタンと会話に合いの手を入れるのも滅法うまいエレナのおかげで、スティーブはコメディアンの掛け合いでも見ているような気分に陥った。相槌をうつ暇も無い。会話が上手い2人の間に放り込まれた口下手は嵐の中に身一つで投げられた幼児のように無力だ。

 従軍中に描いた強烈な時事漫画に同僚達が揃って笑い悶えたり、最初に手掛けたコミックスの主人公の脚本を考えるのに苦心したりというスタンの話に、エレナがどんな話を描いたのか丁度良いタイミングで問いかける。その話の内容にスティーブが笑い、素直な反応に気を良くしたスタンがさらにその次に発表した作品が全く売れなかった話をする。

 

 何時迄も続くように思えたコメディめいた会話は、しかしスタンが他に仕事があるからと言ってその場を去った事で終わった。

 名残惜しそうに手を振りながら「Excelsior!」と言って部屋を去ったスタンと入れ替わるように、今度はバッキーが豪勢な足音を鳴らしながら部屋に入った。

 古着らしく所々糸の解れたニッカーボッカーを履いた格好は、ギリギリ酒場に居てもそうおかしくはない年齢に見える。どう見ても未成年にしか見えないだろう自分との違いに少し拗ねてスティーブは唇を尖らせた。

「遅いぞバッキー」

「悪い悪い。ちょっと野暮用でさ」

 全く悪びれずに言うとバッキーはスティーブの腕を引いた。そのまま扉の向こうの、酔っぱらいの声が漏れ出て来る店内へと連れて行こうとする。

「ジム、あんまり遅くならない内に帰るのよ」

「分かってるよ母さん」

 ひらひらと手を振ったバッキーの返事は全く信用ならないものだとスティーブは知っていた。バッキーの「分かってる」は、「分かっているけれどその通りにするとは言っていない」という言葉の短縮形だ。

 

 

 

 店内に入るなり眩しい照明と、騒めかしい声と、ありとあらゆる食物がごったになった臭いがスティーブに襲い掛かった。特にアルコールの臭いが圧倒的に強い。酒瓶から揮発したアルコールの成分が空気中に溶けだしているようで、呼吸をするだけで酔いそうだ。

 さらに酔っぱらいの罵声やら笑い声やらが店内に響き渡り意識をかき回してくる。視界がぐるぐると回りそうだ。

 それでもしっかりと店内を見回すと、1階部分だけでもかなり広い店は2階まで続いており、中央部分は吹き抜けになっていた。円形の机と椅子が所狭しと並んでいる。

 

 痴話喧嘩で騒ぐ男女の横を通り過ぎながら、スティーブは酔いかけている自分を隠すためできるだけ澄ました表情を作り、手を引くバッキーに話しかけた。周囲の喧騒のせいでスティーブの声など囁き声程度にしか聞こえなかっただろうが、バッキーはスティーブが何を言いたいのか言われずともすぐに分かった。

「バッキー、まだ僕はこの店に飾る絵を描くとしか聞いていないんだけど、」

「ああ。ほら、あそこに飾る絵が欲しいんだってさ。この前まで店長が自分で描いた絵を飾ってたらしいんだけど、酔っぱらいに酒をぶっかけられて全部ダメになっちゃったらしい。それでまあ、どうせならデカい絵を飾ろうと思ったんだと」

「それなら僕じゃなくてプロに……」

「お前の絵を気に入ったんだってさ」

 たかだかビラやチラシに載せた小さなイラストだけを見てスタンは自分の何を評価したのだろうと、スティーブは心底疑問に思った。

 

 バッキーが指さしたのは壁沿いに1階へと上がる階段の途中の壁で、店で一番目立つ場所だった。

 一面の板張りの壁には年季の入った艶こそあれど聊か殺風景だ。確かにここに大きな絵を1枚か2枚飾れば店内の良いアクセントになるだろう。

 しかしそれにしたって、アートスクールも出ていないスティーブに任せるにはあまりに目立ちすぎる場所だった。ここに自分の描いた絵を飾るのかと思うと嬉しさ以上に緊張が強い。

「30号……いや40号は無いと小さすぎる……油彩でしかありえない。水彩じゃあ淡すぎる」

「スタン爺さんは適当で良いって言ってたぜ」

「良い訳が無い!店のど真ん中じゃないか!」

「大丈夫だって。あの爺さんここになんか、あの、何だっけ……なんかのコミックスのキャラクター描いてたぐらいだからさ。なんかあのタイツ着たヒーローの、ファンタスティックなんちゃらとかいう……」

「だとしてもだ。僕は仕事を任されたんだから、クライアントの要望にはちゃんと応えないと」

 生来の生真面目さを発揮してうんうんとデザインを考え始めたスティーブは、小さい身体をゆらゆらと左右に揺れながら店の中をうろちょろと動き回り始めた。

 

 スティーブは店の隅に移動したり、階段を昇ったりしながら絵の構成を考えているようだった。店の隅に置いてあるピアノを見たり、天井から吊るされている小さなシャンデリアを見たり、飾られている空のワインボトルを見たりして、ああでもないこうでもないと唸っている。

 いかにも華奢で病弱な子供が酒場をうろついていれば目立つに違いないのだが、生気に乏しいスティーブは驚くほどに気配が薄い。普段は高潔な精神を体現するように爛々と輝いている瞳が、店全体の雰囲気を掴むように捉え所なく揺れていればさらに気配が薄くなる。

 

 30分はそうしていただろうか。ようやくスティーブは椅子に腰を落ち着けた。その隣でバッキーは浮気をしただのしていないのだのと言い争う男女と、前の客が食べ残しまま置いて行ったチーズを肴に店の隅でビールをちびちびと飲んでいた。

 女のアソコの具合がガバガバ過ぎて自分のマグナムとマッチしないから浮気をしてもしょうがなかったのだと怒鳴る男の声がすぐ隣で破裂しているというのに、壁を睨むスティーブの表情は愚かな人間の罪を計量する天使のように真剣だった。

 こんな顔をしている時のスティーブに何を話しかけても、後で「え?お前なんか話してた?」としか言われない事は長い付き合いで知っていたために、バッキーは黙っていればそこらの俳優より端正な親友の横顔を眺めるに努めた。

 

 隣から聞こえてくる男女の沙汰も佳境に入っていた。

 とうとう4股している事を認めて居直るように胸を反らせた男に、キレた女が「手前のが小っせえんだよこのカス野郎!」と拳で男の鳩尾を殴ってダウンさせていた。女は机の上で獲物をしとめた狩猟民族のように雄たけびを上げて両手を上げた。

 店内は拍手喝采だった。大爆笑したスタンが笑い過ぎて床にひっくり返っていた。女の雄姿を讃えてジョッキを鳴らす音が原住民の太鼓のようにあちこちで響いていた。バッキーも口笛を吹いて女を讃えた。

 

「………うん、よし」

 右隣1mの所でひっくり返った男のズボンを下ろし実際のサイズを確かめている酔っぱらい達など見えていないのか、スティーブの表情は非常に凛々しい。虚弱な体躯のせいで気付かれにくいが、スティーブの容姿は宗教画の大天使のように神秘的なまでに整っている。ここが厳粛な雰囲気に満ちた教会なら非常に絵になる顔だろう。しかしここは今現在ブルックリンで最も下品で騒がしい場所に違いなかった。

 小さくも大きくも無いミドル級だと湧く店内の中で、スティーブだけが非人間めいて整った顔で何度も頷いてよし、と呟いていた。

 この友人が女性にモテないのは虚弱だからとか真面目過ぎるからだとかいう前に、このゴーイングマイウェイ過ぎる天然成分に最大の原因があるとバッキーは確信した。いくら正義感の強い高潔な性格であろうとも、絵画のように素晴らしい容姿を持とうとも、この天然マイウェイ成分が全てを台無しにしている。

 

「決まったか?」

「うん、大体のデザインは決まった」

「今更だけどミドル級のペニスを持つ獲物を仕留めたアマゾン族の女戦士の絵なんてどうだ。今日という日の良い記念になるぜ」

「どこからそんな奇妙なイメージが湧いて出て来たんだよ」

「スティーブ、もっと世界に目を向けて見ろ。その気になれば色んな光景が辺りには満ち溢れているんだ。お前はちょっと視野が狭すぎる」

「視野が広くてもアマゾン族の女戦士が獲物を仕留める光景なんてそうそう転がって無いと思うよ」

「いや、意外に転がってるぞ。具体的にはお前の横1m」

「何を言っているんだ……ピアノを弾く男性を描こうと思う」

「そりゃあ何で」

「何となく」

 30分以上も考えておいて何となくか、とは思ったものの、芸術的なセンスは乏しいと自覚のあるバッキーは「そうか」とだけ返答した。

 それに何となく、あの広い壁に黙ってピアノを弾く壮年の男性の絵があるとカッコ良いような気がしたのだ。騒がしい店に似合いのイメージだと思った。

 少しは落ち着け、という良いメッセージになるかもしれない。

 女にドナドナされて行く男の姿に十字架を切ったバッキーは、それじゃあ、と続いたスティーブの言葉に反応するのが少し遅れた。

「バッキー、お前の家のピアノを見せてくれ」

「……はあ?」

 思いがけない言葉に首を捻ると、スティーブは当然といった顔で肩を竦めた。

「だって営業中の店の中で絵を描く訳にはいかないだろ。邪魔過ぎる」

「じゃあ店を閉めてからでも……いや、早朝になるな。昼間は学校だし」

「だろ?」

 酒場が閉まっている時間帯はスティーブは学校に通っている。そしてバーンズ家にはピアノがあった。

 アップライトの古びたピアノは以前の住人が置いて行ったもので調律もしていないが、絵に描く分には何も問題ない。

 となると、残る問題は誰がピアノを弾くモデルになるかだった。バッキーはスティーブの絵のモデルになった事は幾度となくあるため、今回もそうかと軽く肩を竦めた。

「俺がモデルか?ピアノなんて習ったこともねえけど」

「いや、今回は駄目だ。酒場に飾るんだぞ。お前じゃ若すぎる。渋さが無い」

 当然と言った口調のスティーブに若干むっとしながらも、しかしバッキーは納得せざるを得なかった。もっと年を取った男の方が、この酒場を見下ろす位置に飾る絵には相応しいと自分でも思えた。

 しかし自分が渋さの無い子供だと素直に認めるにはバッキーはまだ若すぎた。意図せずして不満と揶揄いを含んだ声が出る。

「何だよ。じゃあ父さんにでも頼むか?昔はピアノを弾けたみたいだしな。動くなって言ったら一日中あの男は動かないだろうし」

 あの顔面が半分潰れた父親を絵になどすればホラーにしかならないだろうとバッキーは鼻を鳴らした。

 しかし意外にもスティーブはバッキーの言葉にふむ、と頷いた。その仕草にバッキーの方が驚いて眉を跳ね上げた。

「そうだな……もしよろしければ、頼んでもいいかな」

「はぁ!?正気か?あんなキチガイを。絵とはいえあいつの顔を酒飲みながら見なきゃいけないなんて軽い拷問だろ!」

「潰れてるのは顔の半分だろ。正気さ、勿論」

 そう言ったスティーブは酷く真面目な顔をしていた。視線は絵を飾る壁の一点の上に注がれていた。

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 バーンズ一家はルーマニアから親類を頼ってアメリカに移住してきた一家だった。

 ブカレストの戦いを経て、ようやく独立を勝ち取ったルーマニアからわざわざバーンズ一家がアメリカに移住してきた理由は、いつも俯き、虚空に向かってぶつぶつと独り言を呟き、時折火の付いたように泣き喚くバッキーの父親であるステファン・バーンズを見れば明らかだった。

 

 以前の彼は虫も殺せないような温厚な性格の持ち主で、親から受け継いだ小さなカフェを営んでいたらしい。お喋りは得意でなかった分ピアノを弾いて客を楽しませる人で、料理を作るのもコーヒーを淹れるのも上手かったとか。

 そして彼は万人が認める美男だったという。高い身長に彫りが深い顔立ちは、柔らかな雰囲気も相まって彼をこの上なく魅力的に見せていた。ピアノを弾くステファンの物憂げで繊細な横顔に釘付けになった女性のおかげでカフェは大繁盛だったとスティーブはエレナから聞いた。

 

 だが戦争に行ってから、ステファンは別人のように変わってしまった。

 

 彼は重症を負って戦争から帰ってきた。

 エレナとバッキー、そしてまだ物心も付かない長女のレベッカは彼の帰宅を心から喜んだ。

 しかしその喜びという感情を理解するだけの人間的な余裕を彼は失っていた。

 

 彼は全ての表情を忘れ去り、日中をまるで彫像のように身じろぎ一つしないままに過ごした。

 物音を耳にすると恐怖のあまり悲鳴を上げてすすり泣き、車のクラクションでも耳にしてしまったらパニックを起こして壁に頭を打ち付けた。そのためにまともに外を出歩く事さえ出来なかった。

 さらに彼は精神だけではなく、肉体にも酷い怪我を負っていた。美しかった顔の左半分は原型も残さず焼け爛れていた。

 どす黒い肉を露わにした顔の半分は無惨な瘢痕に覆われ、顎の開閉を困難にしていた。いつも涎を垂らしながらくぐもった声しか上げない彼は実年齢よりもずっと老けて見えた。まともな食事を摂取することもできず、乳幼児が食べるような離乳食を日に3回、誰かが口に流し込んでやらなければならなかった。

 彼の狂人のような有様はもしかすると脳にも怪我の範疇が及んでいるせいなのかもしれなかったが、いずれにせよ彼は元通りの温厚な青年に戻る様子は全く無かった。叫び声か呻き声以外を口にすることも無い彼は、存在するだけでバーンズ一家に陰鬱な影を落としていた。

 

 

 

 

 ステファンは呆けたような顔をして、スティーブに言われた通りアップライトピアノの前に座っていた。時折気まぐれに鍵盤の上に指を置く以外は丸一日中身動きしない彼をスケッチするのは比較的楽だった。

 ただ時折立ち上がって壁に頭を叩きつけたり、獣のように大声で叫んだりする事があった。道路から聞こえたクラクションや、隣部屋で響く怒鳴り声など誘因が明らかな場合もあったが、前触れ無く突如として自傷行為を始める場合もあり、全く予想ができなかった。

 いきなり暴れたステファンに、スティーブは彼の身体に触れないように毛布を被せた。視界が暗くなれば少しは落ち着くのか、彼は毛布の中で段々と落ち着きを取り戻し、再び口を閉じて彫像のように動かなくなるのだった。

 

 焼け爛れた左側の顔が見えないようにスティーブは右側の顔だけをキャンパスの上に描いた。怪我の無い側の顔だけを見れば、痩せこけた頬にも面影として残る端正な容姿も相まって、ステファンは宇宙の神秘を見定めようとしている修道士のように見えた。

 年齢に不釣り合いなほどの白髪を混じらせて、病的に白い肌に細かい皺を刻み、少し唇を開けた呆けた顔に淀んだ瞳を嵌め込んだ彼は現実を超越しているかのように周囲から浮いて見えた。ただ美しいだけの映画俳優より宙に視線を注ぐ彼の方がよっぽど絵になる存在であり、非現実めいた神聖ささえ纏っているようだった。

 

 

 彼を題材に絵を描くと決めた日からスティーブは学校から帰るとすぐにバーンズ家に向かい、只管に絵を描いていた。

 ステファンは一度もスティーブに話しかける事はなかったものの、過度にスティーブを恐れる様子も無かった。

 一見して虚弱体質で栄養失調気味の少年だと分かるスティーブの粗末な体格が幸いしたのだろう。扉の開閉の音にさえ怯えるステファンが、鉛筆を滑らせる音以外には物音を立てない、声を出さなければそこに居る事すら忘れられる生気に乏しいスティーブには恐れを抱く様子さえ見せなかった。

 モデル代の代わりとしてスティーブはステファンの食事を作り、食べるのを手伝い、体を拭き、トイレに行かせた。トイレに失敗すれば糞尿を拭って下着を取り換えた。口角からぽたぽたと零れている涎を拭い、瘢痕になっている顔に軟膏を塗ったりもした。

 パニックを起こせばすぐに宥め、毛布の中から出ようとしないステファンに何時間も寄り添った。

 最初は見慣れない少年のスティーブに体を触られる度に体を震わせていたステファンも、サラ譲りの整った顔に微笑を浮かべて黙々と世話を焼くスティーブに直ぐに慣れた。

 

 むしろステファンはバッキーの方を恐れているようだった。バッキーが視界に入る度にステファンは体を固くして顔を背けた。

 バッキーの方もステファンを見る度に眉間に皺を寄せて、普段の気の良い青年とは思えない目つきでステファンを睨むのだった。

 

 

 

 

 下書きも佳境に入った頃、仕事の忙しいエレナがスティーブにバーンズ家の食事を作る様に頼んだ。サラも夜勤で家に居なかったため、スティーブは自分とバッキーとレベッカの分のシチューとサンドイッチを作る事に決めた。

 食料は貴重だ。エレナに託されたチーズの欠片と薄っぺらいハムを盗もうと左右から伸びて来る手を叩き落としながら、どう分量を嵩増しようかとスティーブは悩んだ。

 バッキーはもちろんの事、成長期のレベッカさえスティーブの1.3倍は食べる。比較的小食なサラと非常に小食な自分だけであれば目の前にあるチーズとハムに掌よりも小さいパンだけで問題無いのだが、彼らの胃袋はこれだけでは満足しない事は明らかだった。

 最終的におすそ分けで貰ったポテトをマッシュし、くず野菜で量を誤魔化したチキンスープも机の上に乗せた。机の上に作った料理を全て並べても侘しさは誤魔化しきれなかったが、誰も文句は言わなかった。

 

 しかしやはり2人には物足りない量だったらしく、スープの1滴まで舐め尽くしてなお2人は空腹そうな顔をしている。エレナは普段どうやって彼らを満足させているのかスティーブには全く想像もできなかった。

「スティーブ、それだけでいいのかよ」

「うん。これ以上は無理だ」

「私より食べて無いよスティーブ」

 心配そうにこちらを見る小さなレベッカに苦笑して頭を撫でた。小さい顔は可愛らしいが、少し痩せている。

「僕はそんなに食べなくても大丈夫なんだ。エコな体質なんだよ」

「でもご飯を食べないと死んじゃうのよ?」

「全く食べていない訳じゃないから。少ない食事でも死なない体質なんだよ。あんまりお腹も空かないんだ」

「いいなぁ。あたしいつもお腹が空いてるもの。ちょっとだけで満足できるならその方がいいのに」

 むう、とレベッカは口を尖らせた。

 健康な身体になりたいと無理して食べて吐いてしまい、さらに誤嚥したせいで肺炎に罹って死にかけたスティーブの過去を知っているバッキーは、何か言おうとぱくぱくと口を開閉し、結局は閉じた。

 

 

 ステファンの分のスープは野菜を潰して飲み込みやすくした。それとサンドイッチに使ったパンを使ってパン粥を作った。殆ど丸一日中動かないもののバッキーより高身長であり、パニックを起こせば疲れ果てるまで暴れる事もあるステファンの食事量はスティーブの2倍以上を必要とした。

 3人の食事が終わり、テーブルの上もバッキーとレベッカが片付け終わった頃にスティーブは部屋の隅に蹲るステファンにテーブルに座る様に言った。

 その言葉を聞くなりレベッカは自分の部屋に駆けて行った。レベッカは実父の半径3m以内に入るのを非常に嫌がった。

 

 一時期、仕事で忙しいエレナの代わりにバッキーとレベッカがステファンの世話を担当していた事もあったらしい。

 しかし突如として叫び、暴れ、糞尿を垂れ流す事もあるステファンの世話をするにはまだ少女と言って良い彼女にはあまりに酷だった。

 涎と尿と糞を垂れ流しながら動物のように甲高い叫び声を上げるステファンに「もう嫌!もう嫌!」と叫びながら濡れたタオルを叩きつけるレベッカを見つけたバッキーは、レベッカがステファンの介護をしなくて済むよう母親と話し合ったと言う。

 

 リビングの扉が勢いよく閉まると同時に、ステファンは非常にゆっくりとした動作でテーブルについた。

 抉れた頬から食事が垂れないように少し上を向いて貰って、口にゆっくりと食事を流す。誤嚥しないようスプーン1杯ずつ口に運ぶと、ステファンは咀嚼する事を忘れているようにそのまま喉に食事を流した。

 

 最後の一口を口に運ぶと、量が多すぎたのか、ステファンは飲み込めずに口の中にパン粥をぐちゅぐちゅと音を鳴らしながら咀嚼し続けた。しかしとうとう机の上に吐き出してしまった。

 ぼうっとした瞳でテーブルの上に吐き出されたパン粥を見るステファンの肩を撫でて、吐き出したパン粥を台ふきで拭う。そして汚れたステファンの服を見る。

 垂れたスープと粥にぽたぽたと口角から落ちる唾液が加わってシャツは酷く濡れていた。このままでは風邪をひくかもしれない。滅多に陽の光の下に出ないステファンはスティーブに負けず劣らずの虚弱体質だった。

 スティーブはチェストから新しいシャツを取り、ステファンに服を脱ぐように言った。

 ステファンは不器用な手つきで服を引き剥がすように脱いだ。新しいシャツを手渡して着替えるように言うと不器用な手つきでシャツを引っ張る。

 幼子がするような拙い動きに苦笑してステファンを手伝うスティーブにバッキーは思い切り顔を顰めた。

「スティーブ、そんな事までしなくていい」

「でもこのままだったら寒いだろう」

「そいつはいい歳した男なんだから勝手に着替えるさ。赤ん坊じゃないんだ」

 シャツをスティーブから奪ったバッキーはそのままステファンに叩きつけた。ステファンは顔面に被さったシャツをそのままに、その場に座り込んでいた。

 身じろぎ一つしないステファンに舌打ちをしてシャツを奪い、バッキーは呆けたステファンの顔に歯を剥き出しにして怒鳴った。

「いい加減にしろよ糞野郎!他人に迷惑ばっかりかけやがって!」

 唾が顔に飛ぶ程の近さで怒鳴り声を叩きつけられたステファンは肩を震わせて頭を抱えた。がくがくと身体全体が痙攣するように震えていた。

 パニックだ、と気づいたスティーブは咄嗟にステファンにシャツを被せた。

「アー!ア゛ァぇえあ゛ぁ、アゥアァー!」

 傷ついた獣が唸るような叫び声を上げるステファンの耳をシャツで塞ぐ。焦点の合っていない目は細かく震えながら頭上に向いていた。天井を突き破って星が降って来ることを恐れているようだ、と思った。

 自分が傷つくのも構わず彼は無茶苦茶に手足を振り回した。床に手足が叩きつけられる音は近隣にも響く程に大きく響いた。きっとレベッカは自室で震えているだろう。

 ステファンの動きは死に直面した恐怖に追い立てられたものに違いなかった。枯れ木のような見た目に反する力でシャツの下で暴れまわる。

 

 どんな悲惨な目に遭えば元は温厚だった普通の男がこのような理性の無い狂人になってしまうのか、想像するのも恐ろしかった。

 スティーブが知っている悲惨さというものは、せいぜいが多数の人間に木の棒で殴られたり、女のように細い手足だと揶揄われたり、パンを横からかすめ取られたりするものだった。それらは勿論辛いものだが、正気を削ぎ落すような凄惨さは無い。

 そんな想像すら困難な程の恐怖を乗り越えて生きて還って来たステファンがスティーブは哀れでならなかった。

 

 ステファンは祖国のために戦争に向かい、戦い、勝って帰って来た。成すべき事を果たした英雄だ。

 だというのに今こうして祖国から遠く離れた異国で、全てを拒絶するように蹲って生きている。こんな現実はあまりに道理に合わない。

 しかし父親を責めるバッキーの苛立ちもまた理解できた。

 もしスティーブの父親がステファンのような姿と精神で戦地から帰って来たとして、スティーブは愚痴を一つも零さずに毎日微笑んで父親の面倒を見続けられるだろうか。

 そうしたいとは思う。そうするべきだとも思う。しかしそれが現実的には非常に困難だということは分かっている。

 最初は祖国のために戦った父を誇りに思い熱心に世話を焼いたとしても、何十年とそれを嫌な顔一つせずに続けられるとスティーブには断言ができなかった。

 

 だからこそ、スティーブはただステファンが哀れだった。彼が何も悪く無い事だけは明らかだったからだ。

「大丈夫です、ステファン。気にしないで」

 震えるステファンに声を掛けながらスティーブは視線でバッキーを責めた。鋭く貫くようなスティーブの視線にバッキーは歯を食いしばらせながら部屋を出て行った。

 

 

 バッキーが視界から居なくなると途端にステファンの身体の震えは治まりを見せた。肩を撫でると一瞬びくりとしたが、拒否するような仕草は見られなかったためにスティーブはそのままステファンの肩を抱き寄せた。

「大丈夫です、ステファン。大丈夫ですよ」

 あーあーという唸り声は治まらないものの、身体の震えは治まり、頭を護るように抱えていた両腕もゆるゆると外された。

 シャツを着せて、唇から垂れている唾液を拭う。抱きしめたステファンはスティーブよりよほど身長が高いというのに針金のように細い体躯で、食べたものは全て暴れるためのエネルギーになっているのではないかと思われた。サラが病気で寝込んだ自分にそうするように、スティーブは耳を驚かせないように低く優しい声を出した。

「御免なさい、一気に沢山食べさせようとしてしまって。次は失敗しないようにしますね」

 にこりと笑いかけるとステファンは強張っていた表情をゆっくりと解いた。

 再び呆けたような表情になり、スティーブから離れて体を引きずる様に部屋の隅に移動する。そこで傷ついた獣のように蹲り、ステファンは目を閉じた。

 寒くないようにと毛布を掛けると、拒絶するように突き返された。

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 

「悪かった、スティーブ」

「謝るのは僕じゃないんじゃないか」

「……あいつに謝る事なんてない」

 下書きの済んだキャンバスを片手に夜道を歩く。小さな街頭がぽつぽつと瞬きながら深い夜を照らしている。空気は暗く、肌を焼くように冷たい。

 ぶっすりと唇を尖らせたバッキーはバツの悪そうに小石を蹴った。自分が悪いと分かっていて、しかしそれを認められないバッキーの仕草だった。

 

 バッキーは聡明な少年だ。ステファンは何も悪くない事を彼は理解している。

 しかしだからと言って感情がその理解に追いついているかというのは話が別だった。

 既に彼が理解している事をわざわざ口にするのは良い事なのか、一瞬スティーブは悩んだものの、しかしバッキーの沈黙は未だ言い足りないことを含んでいるようだった。彼の口を開く切っ掛けとするために、スティーブは思った通りの事を口にした。

 正論を口にする事は会話において常に最良の方法ではないが、自らの考え方を整理するために誰かに正論を言って貰う事は悪い手段ではないと知っていた。

「バッキー、彼は傷ついているだけだ。戦争が彼を傷つけたんだ。彼が望んでああなってしまった訳じゃない」

「………俺だって、俺だって頭じゃ分かっちゃいるよ」

 ざりざりと靴が石畳を蹴る。お互い靴は使い古しで、あちこちに穴が空いていた。舌打ちをしたバッキーは小石を蹴り飛ばいた。

「あいつは単なる被害者だってな。分かっちゃいるんだ………顔が見るも無残になっちまったのもあいつが望んで銃口に向かって突進したからっていう訳じゃない。単に銃弾も避けられない間抜け野郎だったっていうだけだ」

「銃弾を目視で確認してから避けられるような人間はいないよ」

「そりゃそうだけど……でも、でもさ、少なくとも正気のまま家に帰って来てくれる事ぐらいはできたはずだ。じゃないとおかしいだろ。他の帰還兵はわりかし正常だったのに。疲れた顔で戦争から帰って来て、出迎えた家族を見て「君たちが無事で良かった!戦争に行った甲斐があったよ!」って笑顔になるのが普通だろ」

「彼は普通の状態では帰れなかったんだ。他の兵士よりも酷い目に遭ったんだから。生きて還ってくるだけで精一杯だったんだ。彼の責任じゃない」

「そうだ———だから俺はあいつが嫌いなんだ」

「どうして」

「まだ生きてるからだ。せめて死んでりゃ良かったんだ」

 歯噛みをしながらバッキーは深い声色で唸った。鼻を鳴らして分厚いコートを手繰り寄せて首を覆う。バッキーのコートもスティーブと同じ位に汚れていた。耐えがたい寒さが街一体を覆っていた。

「少しでも理性が残っているのなら、あいつは今からでも自ら死を選ぶべきだ」

「………バッキー、それは良くない考えだ」

「母さんが可哀想だ。レベッカも。あいつのせいで余計な負担がある。あいつの顔の治療のために金がかかっているし、パンだってシャツだってタダじゃないんだ。愛情だけで何とかなる問題じゃない」

 

 絞り出すようなバッキーの言葉にスティーブは黙らざるを得なかった。

 何故ならば、バッキーの言葉はスティーブにも当てはまるものだった。サラの事を思うのならば、スティーブは今すぐ目の前に生えている街路樹にロープをかけて自分の首を吊ってしまった方が良いなんて、言われなくても分かっていた。

 

 自分の母親、サラ・ロジャースは美しい金髪と澄んだ碧眼を持つ美女だ。性格も心優しく気が利いて、少し会話するだけで誰もが彼女を好きにならざるを得ない。さらに他人の機嫌を取るばかりの女性ではなく、しっかりとした強い意思を持つ芯のある女性だ。年齢はまだ30代半ばであり、容姿はさらに10は若く見える。

 息子としての多少の贔屓目を除いても、まるで天使のような人だと常々思う。

 病気がちの自分さえ居なければ、きっと母はすぐに良い人を見つけて再婚できるだろう。看護士なんていうハードな仕事はさっさと辞めて家で夫を支え、子供を産み育てる生活の方がずっと穏やかで負担が少ないに違いない。

 これまでそう考えた事が無い訳では無かった。むしろ体を壊してベッドに入り込む度に自分が生まれて来た意味についてスティーブは何度も頭の中で考え、そうして結局は何も無いという結論に達してしまうのだった。

 そうしてその度に自分の細い首に埋まっている頸動脈を薄い皮の上から指でなぞり、キッチンにある包丁でそれを切断する事が可能かどうかを検討していた。

 

 だがその検討は、自分がサラのために死んでしまうとして、それはサラの幸福に繋がるのだろうかという疑問にいつだって直結していた。

 スティーブはサラに心から愛されているという実感があった。

 もし父親がステファンのような負傷兵として帰還したとして、献身的に介護できると断言できない自分に対し、サラは本当に愚痴の一つも零さずに病弱で何の役にも立たない自分の面倒を見てくれている。

 毎日太陽のような笑顔をスティーブのためだけに浮かばせて、「あなたがいるおかげで頑張れるの」と言いながら毎日スティーブの額にキスをするのだ。サラは本当に、時々ふと茫然としてしまうくらいに自分を愛している。

 サラにとって目に見える生きる意味があるとすれば、それは自分自身だろう。その確信が未だスティーブをこの世に留めていた。

 

 そしてエレナはきっとまだステファンを愛している。ならばステファンには生きる意味があるのではないか。

 たとえ一人で食事をする事すらできなくとも、そこにいるだけで愛を感じさせてくれるような存在に価値が無いとは誰にも言えない。

 

 だがスティーブはステファンの存在による負担を直接実感する立場にあるバーンズ家の人間ではなかった。だから自分には彼らの問題に口を出す権利は無い。

 それにバッキーの苦悩は愛だの生きる意味だのという目に見えない価値では解決できないものだ。アメリカを襲う前代未聞の大不況に翻弄されている状況で、パンやシャツに交換できない彼の存在価値について説いても何の解決策にもならない。

 

 黙ったスティーブに何を思ったのか、バッキーは「悪かった」と言って口を閉じた。

 

 古びたアパートメントにあるロジャース家の前までたどり着いた時、バッキーは一つの包みを突き出した。

「やるよ。俺にはサイズが小さいから」

 包みは簡素な紙袋だった。受け取り、中身を見ると一対の手袋が入っていた。手の甲にしつこくない程度に細かな刺繍が施されていて、手首には温かそうなファーと小さなビジューがついている。高価な物である事は一目で分かった。靴磨きの仕事で手に入る金を何か月分合わせれば買えるのか見当もつかない。

「こんなの貰えないよ」

「いいから。母さんが客から貰ったらしいけどおんなじようなの持ってるから使わねえって言うし。そんな大人っぽいのレベッカにはまだ早いだろ。サラにあげたらいい」

 そう言われると、確かに母にこのデザインの手袋はとても似合うように思えた。それに毎日の仕事で母の手が擦り切れて赤くなっている事をスティーブはよく知っていた。彼女は一度も辛そうな顔をスティーブに見せたことはないが、たまに肌が裂けて血が出ては汚れたタオルで拭っている彼女の姿を見る事があった。

 袋をぎゅうと握り締めてスティーブは今にも崩れそうな笑みを浮かべた。

「ありがとう、バッキー」

「別に。家に転がってただけだから気にすんなよ」

 じゃあな、と手を振って帰っていくバッキーに、スティーブはごめん、と言葉をかけた。振り返ったバッキーはバツが悪そうに唇を尖らせていた。

「僕が口に出すべき問題じゃなかった事は分かってる。余計な事を言った」

「気にすんなって。俺だって……お前が正しい事は分かってる」

「うん」

「言っておくけどお前は滅茶苦茶いい奴だし、お前みたいなのがこれからのアメリカには滅茶苦茶必要だからな。そこんとこ忘れんなよ」

「うん」

「……マジで分かってんのかよ」

「分かってるよ」

 少なくとも、バッキーが本心からそう思っている事は分かっていた。事実はどうあれ。

 透明な表情で微笑むスティーブにバッキーは少し眉間に皺を寄せて、「最近強盗が多いから、気を付けろよ」と言って帰って行った。

 

 その背中を見送った後に自宅の玄関を開けながら、それにしてもこんなに高価そうな手袋をウェイトレスにぽんと渡すような客がいるのだろうかとスティーブは不思議に思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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後編

 

 

 バーンズ家の床を油彩絵具で汚すのは忍びなかったため、スティーブは下書きの後の作製は自室で進めた。

 油彩絵具独特の鼻にべっとりと糊を貼り付けるような臭いが部屋に充満していたが、絵具の臭いに慣れているスティーブは気にすることなく、バッキーだけがベッドの上で「服に臭いが付く」と文句を言っていた。そのバッキーにしても、文句を言うだけで部屋を出ていこうとする様子もない。

 なにしろ部屋の外は寒い。暖房なんていう気の利いたものはロジャース家にもバーンズ家にもなく、スティーブの私室に籠って温めたミルクを啜るのが一番快適なのだ。それにスティーブの部屋は画材やら本やらが大量に収納されているものの、部屋主の几帳面な性格のおかげでれほど狭くは感じなかった。

 それにバッキーは壁という壁にスティーブの絵が張られているこの部屋が好きだった。画鋲で適当に突き刺されて磔にされている絵は美術館に綺麗に飾られているような絵よりも圧倒的に近くにあり、スティーブという人間のリアルさを感じさせた。

 清廉で鮮やかな絵はスティーブの内面そのものだ。絵画について詳しくはないが、スティーブの絵を見ていると心がすっきりとする感じがする。純粋で、真っすぐな絵が多い。

 

 穏やかな心持でベッドに寝転がるバッキーの横で、しかしスティーブは眉間に深々と皺を刻んで舌打ちを繰り返していた。

 慣れた環境では筆が乗るかと思いきや、目の前に彼が居ない状況でステファンの姿を明確に描くとなると途端に困難さが増す。彼の魅力は目に見えない所にあった。彼の空気を表すためには単なる下書きと記憶だけでは足りなかった。

 

 下書きの絵から少しずつ進めながら、しかし途中でスティーブは筆を放り出した。

 俯いて唸り声を上げるとベッドの上で雑誌を読んでいたバッキーが呆れながら大丈夫かと声をかける。大丈夫じゃない、とスティーブは唸った。

「駄目だ……僕は駄目だ……彼の空気が表せない……」

「空気は透明だから絵に描けねえだろ」

「彼の視線が描けない………」

「呆けたおっさんの眼なんて丸書いてちょんでいいだろ」

「ピアノの上の彼の指のラインが描けない……」

「棒切れもってきて定規にしたらそれっぽくなるんじゃねえの?」

 あはは、と笑ったバッキーの頭に手刀を落とす。

 痛ってえ!と大して痛くも無い様子でバッキーは頭を庇った。

「そんなに適当に描ける訳無いだろ!」

「別に適当でいいじゃねえか!モデルが帰還兵の狂人で、飾るのはついこの前まで密造酒を売ってた元スピークイージーの安酒場だぞ!絵の具がもったいないくらいだ!」

「お前が学校から盗んだ絵の具だけどな!」

「黙って受け取ったお前が言うな!」

「大量にストックしてある癖に全く使う気配も無いんだからちょっと位別にいいだろ!」

「お前って潔癖なのか寛容なのか全く分かんねえよな!この前だって『自分は不正なんて絶対にやりません』みたいな澄ましたツラしてカードゲームでえげつないイカサマ連発して上級生から金を巻き上げてただろ!」

「あれは下級生から財布をカツアゲしたあいつらが悪い!」

「そりゃあ同感だ。でも巻き上げた金はカツアゲされた金額より多かったような気がするんだけどな!」

「あれは『カードゲームのような賭博は気軽にやってはいけませんよ』という勉強料だ!」

「そういう所マジで大好きだよもやし野郎!何時か詐欺罪で訴えられろ!」

「それよりお前がドジャースの試合を見るために観客席に金も払わず忍び込んでるところを捕まる方が早い!さも『親と一緒に来たんだけど間違えて外に出ちゃった』みたいなツラして堂々と入りやがって!」

「お前だって一緒に観に行ったじゃねえか!」

「お前に無理やり引きずられてな!」

「『バッキー、人間がタダで観戦するのは違法だ。でもこれだけ沢山の人が観客席に居れば子供が一人や二人増えても「あれ?妖精さんかな?」って思って貰えると思うんだ』って真顔で言ってたのを忘れたか!」

「それは忘れた。でも親切なおじさんがコーラとホットドックを奢ってくれたのは覚えてる」

「あれは美味かった。一見病弱で儚い美少年ってマジでお得な。いやマジでそうではあるんだけど、でもお前ホントマジ、精神が全然儚くねえ!」

「ありがとう」

「褒めてねえよ!」

 

 悪態をつきながらスティーブはむっすりと頬を膨らませて椅子に体を投げ出した。別にバッキーの言い草に怒っている訳では無い。こんな掛け合いは日常茶飯事だ。

 苛立っているのは自身の才能の無さに対してだった。

 

 仕上げ途中の絵を見上げる。絵画の中のステファンは神秘的だった。

 暗い背景の中に埋め込まれたアップライトピアノの前に座り、鍵盤に指を置いている。薄いシャツを羽織っているだけの丸い背中が絵の中に浮かんでいた。唇を引き結んでいる痩せた顔は宙を見上げている。ただそれだけだ。

 ただそれだけだというのに彼は非現実的な存在に見えた。少なくとも彼が見ているのは現実の向こうである事は確かだった。今にも消え入りそうな癖に、仄暗さが全身にべっとりと纏わりついている。

 

 ここまでは上手く描けた。問題はここからだ。しかしどうやって描けばよいのだろうか。

 イメージが湧かない。スティーブは頭を抱えた。これまでに無かった経験だった。

 バッキーは上手いと言ってくれるものの、実の所スティーブは自分の絵があまり好きではない。技量が未熟であるという以上に、全てが清潔で、単純な絵が多いのだ。すっきりとした印象の絵は、いくら見栄えが良くともすぐに忘れられてしまう程度に底が浅い。人間が持っている複雑さがまるで無いのだ。

 だからこそステファンの姿を描く事は自分のブレイクスルーに繋がると信じていた。

 

 このまま描き進めてもそれなりの作品にはなるだろうが、それなり程度で済ませるにはあまりにステファンの姿は美しかった。

 彼を題材に決めた自分自身でも予想していなかったが、普段は只の呆けた中年にしか見えないステファンは絵画の題材として見ると非常に優秀な素材だったのだ。このまま普段と同じように、ただ清潔なだけの風景として描いてしまうのはあまりに勿体ない。

 

 眉間に鉛筆でも挟めそうな溝を作って絵を睨むスティーブに、バッキーは「あーもー!」と叫んだ。そのまま勢いづけて立ち上がる。

「気分転換しよう!」

「………はぁ?」

 高らかな宣言に即座に返答ができなかった。しかしバッキーはめげずに声を張り上げる。

 この勢いのバッキーは止められない事をスティーブは知っていたために口を閉じた。

 バッキーはよく自分を「猪突猛進の正義感もやし野郎」と呼ぶが、バッキーも比較的猪突猛進だ。他人の話を聞きやしない。

「室内でぐだぐだ悩んでるから駄目なんだ!遊びに行って、気分を晴らして、それから描きゃあいい!人生に必要なのは遊びだ、パッションだ!断じて油彩絵具で痴呆老人を描く事じゃねえ!!」

 そうと決まれば!とバッキーはスティーブの手を取ってキャンバスの前から引き剥がすように立ち上がらせた。

 抵抗する間もなく立ち上げられたせいで手からパレット落ちて真っ逆さまにズボンにダイブした。ベージュ色のズボンがアメリカ国旗のようなカラーになってしまった。思わず見た人が眼を顰めるようなカラフルな原色ズボンだ。しかも絵の具の水分をすってズボンはタイツのように足に纏わりついており、非常に気持ち悪い。米神の血管が浮き上がる。

 正気でこんな国旗カラーのタイツを着て歩き回るような奴なんて居るわけが無い。居るとすればそれこそ精神病患者に違いない。

「とりあえず女の子に声をかけてデートに行こう!そんで何か食って、バーに行って、ベッドインして諸々全部吐き出しちまえ!」

「それよりズボン弁償しろこのクソ野郎!」

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 

 

 結果として言うと、ナンパは失敗した。

 

 しかし気分転換には成功したようで、笑顔を浮かべるスティーブにバッキーはにんまりと笑った。ナンパが失敗した事はどうでもいい。本当の目的はスティーブの気を晴らす事にあったのだから。

 彼自身自覚はしていなかったようだが、ここ数日スティーブはステファンを描くためにかなり神経をすり減らしていた。身体的にはともかく精神的には常軌を逸する程のタフさを誇るスティーブが憔悴して項垂れる程なのだから相当だ。

 絵が上手く描けないからだと彼は言っているが、モデル代の代わりと言ってここ最近ステファンの介護を一手に担っている事も原因なのではないかとバッキーはいぶかしんでいた。

 

 彼は自分が正しいと思ったことをやり遂げるし、哀れな人を見捨てておけない。それはスティーブの美徳だろうが、病弱な彼にとって必ずしも良い結果になるとは限らない。

 彼がステファンの介護をしているのは、モデル代というのは単なる口実で、単に放って置けないからというのが理由だろう。

 そしてバーンズ家は彼が父の介護をしてくれているおかげで非常に助かっていた。ステファンの介護をするスティーブは思いやりに満ちていて、自力では排泄もままならないステファンの尊厳を十分に尊重する丁寧なものだった。

 しかしいくら助かっていても、バーンズ家の厄介者である父親が、母親やレベッカだけではなくスティーブの手も煩わせているという事実はバッキーの神経を苛立たせて止まない。

 

 毎日彼の体を拭き、軟膏を塗って、排泄物を処理し、飲み込みやすい食事を作るのは大変な手間だ。さらに突発的に走り出したり、叫び出したりする彼を宥める事は神経をすり減らす。

 これまでは母と自分、時折レベッカが父親の世話をしていたが、非常に面倒で、嫌な作業だった。

 彼の姿を見る度に神経がぞわぞわした。排泄した汚物に塗れた爛れた皮膚を拭く時などは背筋に鳥肌が立つ。あの潰れている顔に軟膏を塗る時などは指先に虫が這うような気色の悪さがあった。年頃の少女であるレベッカなどは自分よりもさらに嫌悪感があるだろう。

 しかしスティーブは自身が病弱で母親や看護師、医者に体を見せる事も、触られる事にも慣れていた。そのためかスティーブはステファンの世話をする事に全く抵抗がないようだった。嫌な顔を一つせずに彼の世話をするスティーブの姿は眩しいくらいに真摯だった。

 だからこそバッキーは、スティーブが彼の世話をする事は非常にありがたいながらも、嫌だった。

 こんなに正義感の強い優しい男が、あんな父親のために時間を取られるなんてあってはならない事ではないかと思っていた。

 

 

 

「なあバッキー、今日ってエレナさんは家にいるよな。ウェイトレスは休みの日だろう?」

「居るけど、どうした?」

「この前手袋貰っただろう?そのお礼がしたくて」

 ああ、とバッキーは思い出した。

 数日前にエレナが客から貰ったと言って部屋の隅に投げていた手袋を、彼女は使う様子も無かったのでスティーブに渡したのだ。

「別に気にしなくていいのに」

「気にするさ。母さんが凄い使いやすいって喜んでいたから。お金のかかるお礼は無理だけど、母さんがパイを焼いたんだ。良かったら今日持って行くよ」

「そりゃあ喜ぶ。サラのパイは美味いから」

 お世辞でも無く、サラの料理はどれも美味い。特にパイは絶品だ。思い出すだけで涎が出る。

 2人は1度ロジャース家に帰り、サラの手作りアップルパイを持ってバーンズ家に向かうこととした。

 

 サラから出来たてのパイを受け取り、「帰るのが遅くなるようだったらエレナに頼んで泊まらせて貰いなさいね」という言葉も貰ってバッキーはスティーブと連れ立って意気揚々と家への道を急いだ。

 夜通しスティーブと遊ぶ計画が頭の中に浮かんでいた。拾ったコミックスを回し読みしたり、学校の嫌いな教師の悪口を言ったり、クラスで一番可愛い子が誰に気があるのか予想したり、スティックボールの練習をしたりするのだ。

 コミックスはゴミ屑のように汚れているし、スティーブは教師の悪口を言うバッキーに「それは公平性を欠いている批評だ。教師は教師の立場があるのだから」と真面目腐った意見を言うだろうし、他人の恋愛模様に首を突っ込むのは紳士的でないと真っ当な意見しか寄越さないだろうが、それでもきっと楽しいだろう。

 何せ驚くほどスティーブとバッキーは気が合うので、ほとんど毎日顔を合わせているというのに話す事は尽きず、何を話しても面白かった。

 あの男が居る家で、というのは少し嫌だったが、夜になれば顔を見ることも無い。

 

 パイを手に帰る途中にスタンの店の近くを通った。時間は夕方近くだったが店内には既に客の姿が見える。大通りから外れているというのにそれなりに盛況なところを見るとスタンは商売上手なようだ。

 忙しく立ち回る店員の中にエレナの姿は無い。今頃ようやく兵器工場の仕事が終わって家に帰っている途中だろう。

 疲労がたたってか、最近のエレナは体調が悪いようだった。いつも何かに思い悩んでいるように目を伏せて、唇を強く引き結んでいた。陽気な彼女はそれでもバッキーやレベッカの前では明るく振る舞っているようだが、スティーブが居る時には時折沈んだ様子を見せた。

「エレナさん、もう帰ってるかな」

「兵器工場も忙しいらしいから分かんねえな」

「病院と兵器工場がここらじゃ一番忙しい仕事場だろうからね。最近はナチスが段々力をつけてきているし、近い内に戦争が起こりそうだ」

「冗談にしたって物騒だぜスティーブ。縁起でもねえ」

「冗談じゃないよ。アメリカはそうそう簡単には参戦しないだろうけど、でも………」

「大丈夫だって。それよりサラのパイって冷めても美味いかな。帰ったらフライパンでもう一回温めなおすか?」

「だったらアイスクリームも欲しいな。でも帰る前に溶けるか」

「寒いし大丈夫だろ」

 

 アイスクリームの路上販売に近寄る。こじんまりとしたトラックに据え付けられているカウンターには値段表が張られていた。それを見てスティーブは唸った。

 手持ちの金では少々足りない。隣のバッキーを見るとやはり唸っていた。悔しそうに爪を噛んでいる。罅割れた爪が痛々しい。

「………やっぱり止めておこうか。溶けたら大惨事だ」

「………そうだな」

 金がない、と認める事はお互いにそれなりの苦痛を伴う作業に違いなかった。その事をお互いよく知っていたので、何も言わずにその場を離れる。

 バッキーは惨めな思いに顔を俯かせていたが、スティーブはもう慣れたものだった。片親の貧困家庭という肩身が狭い環境でもスティーブは貧しさ自体を恥じる事は無かった。ただサラに申し訳ないだけだ。しかしバッキーはスティーブより余程貧しいという事実に苛立っているようだった。

 貧しさの原因が自身にあるスティーブとは違い、父親の存在がバーンズ家に暗い影をさしているからだろう。同年代の中でも際立って整っている顔を歪めてバッキーは悔しさを口にしないよう歯を噛み締めていた。

 

 そんなバッキーを一人の男がじっと見ている事に気が付いた。肩をつつくと、遅れてバッキーもその男の姿に気付いた。

 目を丸くしてこちらを見ている男性は、いかにも育ちが良さそうな、のほほんとした顔をしていた。動物図鑑で見た、呑気な顔で川に浮かんでいるビーバーにどことなく似ている。

 その隣には兵器工場での仕事の帰りらしく、汚れたコートと染みの付いたスカートを着た美しい女性が立っていた。薄汚れた格好も気にならないくらいの美人だ。それはエレナだった。素朴な格好をしていると更に若く見える。

 エレナはこちらに気が付いていないようで、眉尻を下げて俯いている。男性はエレナとバッキーを交互に見やってどうしようかと困っている様子だった。

 見かねたバッキーが近寄り、エレナの前に立った。普段は体中から陽気を発散しているようなエレナであるため気が付かなかったが、こうしてバッキーが並ぶと幾分かバッキーの方が身長が高い。顔を翳らせたエレナが実際よりも余計に小さく見えるせいかもしれない。

「母さん」

「……ジム?」

「仕事終わったのか……ここで何してるんだよ」

 スティーブは空気に走った電流に頬を引き攣らせて、バッキーの手を握り締めた。バッキーの視線はエレナの隣に立つ男に向かっていた。

 男は警戒心を湧き立たせているバッキーの視線を受けて柔和な笑みを浮かべた。エレナよりも少し年上だろうか。仕立ての良いスーツを着ていた。顔立ちは平凡ながら、温厚そうな丸い瞳が男の印象を柔らかくしていた。

 身体の脇に揃えた腕が緊張のあまりカチンコチンに固まっている。必死に浮かべているだろう笑みも緊張のあまり少し震えていた。

「このお坊ちゃんは誰だよ」

「スタンの店のお客さんよ。最近物騒だから家まで送ってくれるって」

「……じゃあもういいだろ。俺が母さんと一緒に帰る」

「ジム」

 窘めるようなエレナの口調にバッキーが苦し気に顔を歪めた。スティーブはバッキーの腕を強く握りしめた。そうしなければ、バッキーは今すぐに男に掴みかかりそうな気がした。

 しかし男は歯を剥き出しにして睨むバッキーに申し訳なさそうな顔をして、「いいんです、バーンズさん。失礼をしたのはこちらですから」と丁寧な口調で話した。

「いえ、貴方は何も、」

「このご時世ですから、初対面の人間に警戒するのは正しい。ジェームズ君、すまない。僕は本当にただ店の客というだけなんだ。君は不安に思っただろうけど、本当にそれだけだ」

「……そうかよ」

「そうだ。最近僕の近所が強盗に入られて、住人が2人殺されたんだ。それで今日は仕事の帰りにバーンズさんと偶然会って、家の方向が同じだから送って帰らせて欲しいと頼んだだけなんだ」

 バッキーがエレナを見ると、エレナは何の含みも無い真白い顔で頷いた。

「でも君を不安にさせたのは事実だから、良かったらアイスクリームを奢らせて貰えないだろうか。勿論、レベッカさんと、君の友人の分も」

 子供相手にでも逐一丁寧な口調で話すのはエレナにおもねっているのではなく、男の素のようにスティーブには見えた。彼の視線はエレナではなく、真っすぐバッキーに向いていた。

 その視線を受けてバッキーは喉を詰まらせたように一度黙った。エレナも男もせかさずにバッキーの言葉を待っている。

 拷問でも受けているようにバッキーは苦し気に喉を鳴らした。2人ともバッキーを見る眼が優しく、申し訳なさに満ちている事が逆に彼を深く苦しめている事に気付いているのだろうかとスティーブは思い、しかしこれは自分が口出しをしてよい問題ではないと分かっていたために言葉にはしなかった。

 バッキーはしばらくの沈黙の後に、ゆっくりと応えた。

「俺のは要らねえ。でも……」

 でも、とバッキーは瞳を揺らしながらスティーブを見た。

 その視線だけでバッキーが何を言いたいのか理解できた。

 

 レベッカは甘いものが好きだ。そしていつもお腹を空かせている。アイスクリームを持って帰ってやりたい。アップルパイに添えたらきっと美味しいだろう。

 でもそうしたら、この男が買ってくれたことも話さないといけないのだろうか。黙っていることも出来るけれど、自分がアイスクリームを買ったのだと嘘をつくのは嫌だ。

 母さんがアイスクリームを買ったと嘘をついてくれるだろうか。嘘をついたとして、この男の事をレベッカに黙っているのは良い事なのだろうか。

 母さんに親しい男が居る事をレベッカはどう思うだろうか。

 どうしたらいいんだ。母さんとレベッカのために、俺はどうしたらいい?

 こんなにバッキーが悩み、苦しんでいるのを見るのは久しぶりだった。自然とスティーブは2人の優しい視線からバッキーを守るために足を踏み出した。いつもバッキーが近所のガキ大将から自分を守ってくれるように、何でも無い仕草で。

 

「じゃあレベッカの分だけ買ってくれますか?僕たちが持って帰りますから」

 真っすぐに男を見上げる。男は近所の悪ガキ連中よりも弱っちく見えた。身長もまだ子供のバッキーとそう変わらない。体格だけでなく、おっとりとした雰囲気はきっと喧嘩なんて一度もした事がないと容易に察せられるものであり、男の裕福さが見て取れた。

「君は、」

「バッキーとレベッカの友人です。今日はバッキーの家に遊びに行くんです」

「この子はバッキーの親友で家族同然なのよ。夫とも仲が良いの」

 夫とも、とエレナは言葉を強調した。

 瞬きを数回繰り返した男は柔和な笑みをスティーブに向けた。

「そうなんだね。それじゃあレベッカさんの分を持って帰ってくれるかな」

 男はバッキーとスティーブにアイスクリームを進める事無く、1つだけを買ってスティーブに手渡した。

 2人の、特にバッキーの複雑な心情に配慮した紳士的な態度に見えた。

 しかしバッキーはスティーブがアイスクリームを受け取ったのを見て、弾けるように駆け出した。

 

 スティーブが後を必死についてきているらしい足音が聞こえたが、バッキーは珍しく、恐らく初めて、スティーブが後からついて来れないように全力で走った。あっという間にスティーブの足音は聞こえなくなった。

 疾走するバッキーを道行く人は怪訝な目で見たが、そんなものは気にしていられなかった。

 脳内がパニックになっていた。許容量を遙かに超えていた。溢れる混乱が口をついて漏れ出ていた。

「マジか、マジか、マジか」

 瞳の奥で先程見た光景を思い出す。エレナだった。自分の母親だ。

 

 エレナと男はただ隣り合って立っていただけだ。きっと男の言った通り、仕事帰りに一緒に歩いて帰っていただけなのだろう。何か後ろ暗い所があるような顔をエレナはしていなかった。

 ただ彼女は幸福そうに眼を細めていただけだ。いつもの、子供達を安心させるために浮かべている苦し気な笑みとは全く違う表情だった。

 あの笑みを見る度に、バッキーは死に際の鳥が痙攣する様を思い出した。高く飛んでいた鳥が寒さに負けて墜落し、最後のあがきのように痙攣して、死んでしまうのだ。

 死体を食い荒らす虫が湧く頃にはもう高く空を飛んでいた頃の面影など無くなってしまう。

 金に、夫に、子供に、彼女はいつだって苦しんで、足掻いている。その事をバッキーはよく知っていた。

 だからこそ、あんなに自然な笑みを浮かばせる相手がただの客などではないと嫌でも分かる。

 

「マジか、いや、マジかよ」

 あんな顔は見た事が無い。だが似たような表情は見た事があった。以前付き合っていた女の子に好きだよと言った時に、あんな顔をしていた。

 あまり美人とは言えない、真っ赤な頬にソバカスを散らせて「嬉しい」と返事をした彼女は、しかし目尻には「どうせ嘘でしょう?」という疑惑や諦観をこびり付かせていた。エレナの表情は彼女と少し似ていた。しかしエレナの表情は彼女よりもっと湿ったものだった。

 

 気が付いたら家に帰っていた。寂れた小さなマンションの前でバッキーはずるずると座り込んだ。全力で走ったせいで息が切れていた。

 ショックだった。母親に思い合う男が居るかもしれないという事にではない。

 母親が幸福を諦めようとしている事が何よりショックだった。男の隣に立ちながら、エレナは幸福そうな、しかし何も信じられないというような寂しい笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

「あら、ありがとうスティーブ。ごはん作ってくれたのね」

「ええ。簡単なものですけれど」

「とんでもない、ご馳走よ。スティーブの料理上手な所はサラに似たのねえ」

「おかわり!」

 勢いよくかきこんだレベッカは空の皿をスティーブに渡した。笑ってその皿にもう一杯チキンスープを注ぐ。

「口が汚れてるよレベッカ。ほら」

 盛大に汚れている口元を拭う。レベッカの「ありがとう」という言葉に思わず頬を緩ませた。エレナとステファンの容姿の良い所ばかりを集めたレベッカはとても愛らしい顔をしている。バッキーも「世界で一番可愛いレベッカ」と言いながら毎日頬にキスをする程の兄馬鹿だ。

 しかし今のバッキーはレベッカの存在すら視野に入っていなかった。表情は硬く、料理を口に運ぶ仕草も機械的で冷たい。理由は明らかだ。

 だがどう言葉をかけて良いのかスティーブには全く分からなかった。バッキーの悩みはスティーブにも計り知れないものだった。

 もしサラが誰か男性と隣り合って笑っているのを見てしまったら、自分は少しの寂しさを感じながらも心から祝福するだろう。父が死んで久しい。母が心から愛する新しいパートナーを得るのは喜ばしい事だ。

 しかしステファンはまだ生きているのだ。そしてきっと、エレナはまだステファンを愛している。その愛情が焚火の後に残った小さな残火のようなものだとしても、エレナはステファンを見捨てるような事はできないだろう。

 

 エレナは帰ってからずっと仏頂面のバッキーに「どうしたのよ珍しい」と言って笑ったが、バッキーは返事もしなかった。

 何かに酷く悩んでいる事はエレナにも分かっていただろうが、その悩みの内容までは分かっておらず、彼女は無表情のまま一言も発しないバッキーを気にせずチキンスープをステファンに飲ませていた。

 ステファンは口に含んだスープの半分以上を零しながらゆっくりと食事をした。スティーブがたどたどしい手つきで介助した時よりもずっとスムーズに食事は終わり、エレナは慣れた様子で涎を拭いた。

 

「あの、エレナさん、これを」

「あら。サラのパイね」

「お土産です」

 スティーブが差し出したパイにエレナは満面の笑みを浮かべた。

「美味しいのよねえ、サラの作ったものは何でも。特にパイは。同じように作ってもどうしても彼女と同じ味にはならないのよ」

「母さんはパイが得意ですから」

「ありがとうって伝えておいてくれる?」

「ええ、勿論」

 あの手袋のお礼に、とはスティーブは言わなかった。今ならなんとなく、あのいかにも高そうな手袋の出所が分かるような気がしたからだ。

 エレナと抱き合っていた男性は汚れの一つも無い流行りのトレンチコートを着ていた。くっきりとした顔立ちのエレナと並ぶと平凡な顔だったが、髪をきっちりとセットしていて肌は白く、肉体労働などの仕事はしていない事は明らかだった。エレナより少し年上のようだったが、苦労を知らない瑞々しい雰囲気のせいか少し若く見えた。

 

 胃が捻じれるような感じがする。目の前の穏やかな家庭の薄暗さを垣間見たような恐れがあった。どうしたらいいのか分からない。

 いや、いくら親友の親とはいってもエレナもステファンも他人なのだから首を突っ込むなんて無粋だとは分かっているが。

 しかしそうと割り切るにはエレナとステファンにスティーブは親しみを覚え過ぎていた。完全にあの光景を見なかった事にしてもよいのか。兄弟も同然のバッキーは今こうして悩んでいるというのに、自分はあっさりと忘れ去ってしまってよいのか。

 でも首を突っ込んだところで何になる。「浮気は駄目ですよエレナさん」とでも言うのか。何の権利があって。彼女の苦労も悩みも知らない癖に。

 

 

「スティーブ、眉間の皺が凄いよ」

「……そう?」

「うん。鉛筆が挟めそう」

「そっかあ」

「悩みがあったらあたしに言って?」

 おしゃまな口ぶりで喋りながらレベッカがこてんと首を傾げる。可愛らしい仕草に思わず頬が緩んだ。彼女を見ていると先天的な愛らしさはバーンズ家の一つの特徴ではないかと強く思う。

「別に大した事じゃないよ」

「分かった。絵の事でしょ。まだ書き終わって無いのね」

「うん………そうなんだ。中々進まなくて」

「でも下書きは終わったんでしょう?」

「下書きから完成させるまでの方が難しいし時間がかかるんだよ」

「それはスティーブが悩んでるから?」

「……そうかもしれない」

 聡い顔をして目を光らせたレベッカは、そうよ、と得意げに口角を上げた。

「悩んでる顔してるもの。絵の事だけじゃないでしょ」

「悩む事ばっかりだ」

「思春期ってやつね!」

「そうかな」

「先生が言っていたわ。情緒的な成長によるものだって。いっぱい成長してる最中だから苦しむのよ」

「それは、ちょっと違うかなぁ」

「違うの?」

「成長している感じがしないからね。成長すれば悩みに答えが出るとも思えない。僕は出来るだけ……よい判断をしたいと思っているけれど、身の程を弁えたいとも思っているから」

「身の程を弁えるなんてスティーブらしくないわ。押しつけがましいくらいに優しいのがスティーブなのに」

「僕の事をどう思ってるんだいレベッカ」

「身の程知らずのお人好し!」

 えいっとレベッカはスティーブの頬をつつき、ぱっと立ち上がった。頬をつつき返そうとしたスティーブの指は宙を切った。

「パイ美味しかったわ!アイスクリームも最高!サラおばさんにはお礼を言わなきゃね。今度遊びに行ってもいい?」

「勿論。母さんも喜ぶよ」

「じゃあ今度行くわ。パイの作り方を教えてもらわなきゃ。母さんの料理は大雑把だから、あんまり参考にならないのよね。スティーブの料理の方が美味しい位」

「僕はお菓子は作れないけどね」

「でもフレンチトーストは母さんよりスティーブの方が美味しいよ?」

「ありがとう」

「今日は泊っていくんでしょ?」

「………さあ」

 そのつもりだったが、バッキーの混乱具合を考えると今日は大人しく家に帰った方が良いような気がした。

 一人でゆっくり悩みたいかもしれない。バッキーとは兄弟同然とは言え、この家に暮らす者でない以上スティーブには踏み込めない領域がある。バッキーは陽気で豪胆な性質に見えるが、一度悩み始めると長く、鬱々とした思考回路に陥ってしまいやすい。

 初めての彼女と破局した時や、移民である事を原因にレベッカが虐められている事を知った時などは、バッキーは一人で悩む時間を欲した。学校にも行かずに外をぶらぶらとふらつき、家族ともクラスメートとも、スティーブでさえ避けて過ごした。

 そうして2、3日をかけて頭の中に固めた鬱々とした思考をスティーブに垂れ流すのが常だった。

 スティーブの役目は、出来る限りの客観性と正義感を持ってバッキーの地の底を這いずり回るように悲観的な思考回路を粉々に打ち砕く事だった。

 

「まだ決めていないんだ。いきなりでお邪魔かもしれないしね」

「あらそ。泊るんだったら早めに言ってね」

「泊れよ」

 さらりと言ったのはバッキーだった。食器を洗い終わったばかりなのか両手が酷く濡れている。

「その予定だったじゃねえか。それにもうこんな時間だし、家に帰るのも危ないだろ」

「女の子じゃあるまいし」

「強盗相手じゃ男も女も一緒だろ。コミックス読もうぜ。前貸したのの続きが出たんだ。グレイゴーストの続きが載ってる」

 先ほどまでの難しい顔を洗い流したようにバッキーは笑みを浮かべていた。しかしじっとその顔を見るとやけくそに開き直っているようにも見えた。

「……ご迷惑じゃなかったら」

「いつもの事だろ。シーツ取りに行って来る」

「頼む。僕はステファンさんを寝かせて来るから」

「あら、それじゃあついでに体を拭いてあげましょ。タオル取って来るわ」

 地面に座り込んでいるステファンを引っ張って起こし、スティーブはステファンの体重によろけながらも寝室へと連れて行った。エレナもホットタオルを作って寝室へと向かう。

 スティーブ用のシーツを取りに行くと、レベッカが「あたしも手伝う!」と言いながらついて来た。スティーブ用の枕を手にはしゃぐレベッカはにこにこと弾けるような笑顔を浮かべている。

 

 この妹はいたくスティーブになついていた。それこそ実の兄である自分よりもスティーブの方に纏わりついているくらいだ。

 嫉妬する気持ちが無くは無いが、それ以上に2人の姿を見ていると、もしかしたらスティーブが本当に家族になる可能性が頭の中で跳ねまわってしょうがなかった。それはくすぐったくも嬉しい可能性だった。

「スティーブって良い人よね。頭は頑固だけど、あんなに優しい人クラスにはいやしないわ」

「レベッカは見る眼があるな」

「誰にだって分かるわよ」

「それが不思議な事に分からない女の方が多いんだよ。あんなに良い奴なのに」

「良い人っていう事はみんな分かってると思うよ。でもそれとこれとは別。あたしだってスティーブと付き合うのは嫌だもん」

「え、どうして」

「良い人だから。だからずーっと傍にいるのは疲れるもん」

 おしゃまなレベッカの言葉で頭の中で跳ねまわっていた可能性がぱあんと無惨に弾けた。可能性を殺す的確な一撃だった。

 しかしそれでも、とバッキーは諦め悪くぼそぼそと呟く。スティーブが弟になったらきっと楽しいだろうし、妹も幸せになる。あの生真面目で勤勉で優しい男は、浮気なんてすることも無く妻をこの上なく大事にするに決まっているからだ。

「いや、でもさぁ……あいつマジで面白い奴だし」

「そういうのは友達で十分。付き合うってなったら、スティーブはあたしには手に負えない。ステフにはもっと強くて自立してる女性の方がいいのよ」

 でも、とレベッカは唇を尖らせた。

「でもあたし、スティーブみたいなお父さんが欲しかったなぁ」

 その言葉にバッキーは息を詰めた。

 諦観がレベッカの声に染みついていた。まだレベッカは10代の半ばにも到達していない。だというのにレベッカは実の父が二度と元に戻る事はないと理解していて、その状況に甘んじるという諦めに浸っていた。

 なんていうことだ。バッキーは涙の膜が瞳を覆うのを感じた。レベッカは俯いてこちらを見もしない。

「お父さんがスティーブなら……」

「レベッカ」

 声は静かに震えていた。ぽんぽんと小さな肩を撫でる。小さい身体は簡単に潰れてしまいそうな程に薄かった。

 

 

 

 

 

 ■  ■  ■

 

 

 散々にはしゃいで疲れたレベッカをベッドに寝かしつけ、スティーブは薄暗い部屋で横になった。バーンズ家に泊まる時スティーブはバッキーとベッドを共有して寝る。圧死しそうに狭いが、今日のように寒い夜には近い位置に人の熱があるのは少し有難かった。

 何があったのか、一緒に遊んでいたレベッカははしゃいでいたもののどことなく寂しそうな顔をしていた。バッキーも少し影のある顔つきだった。

 まさかバッキーがレベッカにあの男の事を話したとは思えない。バーンズ家は貧しく、ギリギリの淵の上にある。レベッカが沈んでいるのもしょうがない事だろう。

「スティーブ」

「何?」

「今日はありがとな」

「何だよ急に」

 時間は既に深夜だ。カーテンを閉めた灯りの付いていない部屋は暗い。しかしシーツの擦れる音でバッキーが体を起こしたのが分かった。

「あのな、俺、何が正しいのかまだよく分かんねえ」

「バッキー……」

「でも母さんと話し合う必要があると思う……母さんとレベッカには幸せになってほしいから」

 バッキーの声はくぐもって震えていた。顔を両手で覆っているのだろう。

 ずっと夕方から悩んでいたに違いない。そうして出した答えにスティーブは頷いた。

「そうした方が良い。でも、ステファンさんは」

「離婚して、施設に放り込むなりなんなりすればいい。あいつに囚われ続ける必要は母さんにもレベッカにも無い」

「施設は難しい。戦争の後遺症で苦しんでいる人が優先的に入所できるようになってるから……その、」

「分かってる。俺達は移民で、あの男はアメリカのための戦争で傷を負った訳じゃない。場合によってはルーマニアに返す事になるかもしれない」

 それも難しいぞ、とは言えなかった。一度アメリカの国籍を得た人間がまた祖国に戻って国籍を手に入れ直し、さらに障碍者施設に親族を入れるのが可能であるのかは分からない。長期間バーンズ家は祖国から離れていたのだ。

 それが不可能であるのなら、ステファンはどうすればよいのか。しかしそれを今バッキーに問いかけるのは酷だ。まだバッキーは子供で、エレナが父親以外の男を愛する可能性を許容するだけでも称賛に値するのだ。

「バッキー、僕に出来る事があれば何でも言ってくれ」

「……ああ。頼むよ親友」

「任せろ。まだ絵も完成していない事だしな」

 にやっとバッキーが笑ったような気がした。その時、ガシャアァンという音が鳴り響いた。

 

 バッキーはばっと立ち上がって部屋の明かりをつけた。狭い部屋が照らされる。この部屋は何も変わりがない。

 ただ近い場所から悲鳴が響いた。エレナの悲鳴だ。

「母さん!?」

 弾けるように駆け出したバッキーの後に続いてスティーブも走り出す。廊下の途中でシャツを羽織ったのレベッカが蒼白な顔をして部屋から顔を出していた。恐怖で丸くなった目を震わせている。

「レベッカ、大丈夫か!?」  

「うん、あたしは大丈夫。ステフ、今、」

「部屋から出ちゃ駄目だ!内側から鍵をかけて、」

「でも今、お母さんの、」

 ぎゃあっ、という呻き声が上がる。スティーブはすぐさま走り出した。躊躇いながらもレベッカが後ろから付いて来る気配を感じたが、無理やりに部屋に押し込めるのは自分の力では難しいだろう。

 

 悲鳴の源は居間だった。

 ナイフを持った男が窓ガラスを踏みつけながら立っていた。ステファンと同じ位の長身で、横幅はその4倍はある大男だ。持っているナイフには血が付いている。その前には、ステファンを背中に護るエレナが立ち塞がっていた。

 エレナは脇腹から血を流しながらも歯を噛み締めて男を睨んでいた。男はエレナの視線など気にしてないように低く轟く声を発した。割れた窓から入る風のうねりと混じり、男の声は部屋に冷たく響いた。

「金を出せ。今すぐにだ」

「強盗するにしたってもうちょっとセンスのある事を言ったらどうなの!?」

「挑発するな母さん、おい、金は渡すから大人しくしてくれよ」

 バッキーが自分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返しながら男と母親を交互に見る。男はああ、と暴れる様子も無く返事をした。ただし手の中で閃くナイフは真っすぐにエレナに向かっているままだった。

「大人しく金を持ってくりゃあ出て行くさ。余計な事をしなけりゃな」

「ああ分かってる。分かってるさ。金を持って来るから待ってろよ」

 寝室に向かったバッキーの背中を睨み、男はナイフの切っ先を脅すように上下に揺らした。

「動くなよ、お前も、そこのガキもだ」

「……貴方が僕たちを攻撃しなければ、僕たちも動きません。貴方も、早く逃げないと困るでしょう。今の物音で人が集まるかもしれない」

「その通りだ。そのまま動かず、金を渡してくれりゃあ俺だって無駄に人殺しなんてしなくて済む」

「黙れこの糞野郎!」

「……そこのお嬢さんは分かってねえようだけどな」

 歯を剥き出しにして肩を怒らせるエレナが、いきなりナイフを持っている男にとびかかったりしないだろうかと気を揉みながらスティーブはバッキーが金を持って来るのを待った。

 しかしエレナも、近くにレベッカがいる状況で無茶をするつもりは無いらしく、口汚く強盗犯を罵りはしても掴みかかる様子は無かった。非常に運の良い事に強盗犯はエレナの罵りを気にするような気の短い男ではないようで、至って冷静にナイフをこちらに向けたまま微動だにしない。

 

 ここ最近連続している強盗の犯人はこの男だろうか。そうだとすると、この男は殺人を犯す事に微塵も躊躇はしないだろう。何しろ既に強盗殺人を数件行っている。

 しかし誰も殺さずに金銭だけを盗んでいる事もあったことから、金を差し出せば大人しく逃げ帰る可能性も高いように思われた。

 金は貴重だが、命に代わるほどのものではない。

 

「おい、金だ。これを持ってさっさと帰れよ」

 戻って来たバッキーが男の足元に小さな袋を投げた。ナイフを持ったまま男は袋を拾い上げ、中を見て「少なすぎる」と徐に呟いた。

「他に金目のものは」

「ねえよ。うちは貧乏なんだ」

 肩を竦めたバッキーに男は目を細めた。バッキーの服は古着で、薄汚れている。嘘でない事は明らかだ。

 しかしエレナに視線を向けた強盗犯は眉間に皺を寄せた。

「その指輪は」

 ナイフでエレナを指さす。エレナの左手の薬指には飾り気のない指輪が嵌っていた。

「これは結婚指輪なのよ!」

「だからどうした」

「渡せないわ!渡せる訳がないじゃない!」

「指を切り落として奪ってもいいんだぞ、こっちは。大人しく渡せ。そっちのお嬢さんがどうなってもいいのか?」

「………エレナさん」

 この場に居るのがバッキーとスティーブだけならば、もしかすると無茶ができたかもしれない。現に強盗犯に好き勝手にされている状況にスティーブは腹が煮えくり返りそうだった。圧倒的に不利な状況であっても自らの正義のためならば躊躇なく戦い、絶対に負けを認めないのがスティーブの在り方だった。

 しかしここにはエレナとステファンと、何よりレベッカが居た。レベッカは薄いシャツだけを纏ってその場でがくがくと震えていた。この大柄な男ならば5歩でレベッカの元までたどり着くだろうという位置だ。

 スティーブの言葉にエレナは悔しそうに唇を噛んだが、しかしゆっくりと薬指から指輪を抜き取った。

 年代物の指輪は、しかし丁寧に手入れされているおかげでぴかぴかと輝いて見えた。薄暗い室内でも分かる程に輝く指輪に、エレナがどれだけ気を配って毎日手入れをしていたのかがよく分かる。

「ステファンのおばあ様から貰ったのよ。おばあ様から託されて……」

「早く渡せ」

 ぎりり、とエレナが歯を食いしばる音が聞こえた。唇からは血が滲んでいた。

 ゆっくりと男に向かって指輪を握り締めている手を向ける。男が指輪を受け取ろうと手を伸ばした。

 

 そこでステファンが叫んだ。パニック発作だ。

 

 窓ガラスが割れる音。いきなり家に入って来た見知らぬ大男。叫び声と血の匂い。ピリピリとした空気。

 そしてエレナから流れる血。全てが合わさってとうとうステファンの許容量を超えたのだ。

 ぎゃああああああ!と大声で叫ぶステファンの声は近隣にまで轟いただろう。人間というより獣の断末魔のような叫び声だった。ステファンの叫び声に慣れたスティーブでさえ、一瞬身体が強張る程の声だった。

「黙れ!」

 近所にまで響く大声を喚き散らすステファンに男は怒鳴ったが、その声にさらにパニックを深めたステファンはさらに大きな声で叫ぶ。生命力を磨り潰して吐き出すような声に、レベッカは顔を蒼白にしてその場に崩れ落ちた。

 バッキーがステファンを抑えようとするも、リミッターが完全に外れた勢いで床に手足を叩きつけるステファンの動きは人間とは思えない程に滅茶苦茶だった。聞き分けの無い幼児よりも遙かに凶悪で、狂乱するケダモノのようだった。

 ぱかりと空いた口から舌を零れさせて唾液をまき散らす様は強盗犯にも恐怖を与えたらしく、震えながら男はナイフを振り上げた。

「黙れ、黙れこのキチガイ!」

「止めて!」

 エレナはステファンの前に立ち、刃の先が彼に届かないように両腕を広げた。強盗犯が振り下したナイフはエレナの肩に深々と突き刺さった。

 

 強盗犯は舌打ちしてナイフを抜いた。ナイフは肩の関節に突き刺さったらしく、抜いた瞬間に骨が削れるような音がした。血の付いたナイフを強盗犯はさらに振り上げる。

 その瞬間にバッキーは椅子を強盗犯に向かって投げつけた。顔面にぶち当たり、その場に倒れる。鼻血を噴出しながら「このガキ!」と叫ぶ男の腕に今度はスティーブが掴みかかった。

 ナイフを振り回す悪ガキならブルックリンの路地に幾らでもたむろしている。そういう連中は、ナイフを持っていることで他の子供よりも強くなったような錯覚をしている。その錯覚を目覚めさせるための対処法をスティーブは身体で覚えていた。だるだるによれていた服の袖を引っ張って掌まで覆い、ナイフの刃をひっつかんで思い切り引っ張ったのだ。

 鼻骨が折れてしまっただろう男はナイフを握る力が若干緩んでいた。それに生気と気配が極端に薄いスティーブの存在に、彼が自分の腕に掴みかかるまで気づかなかったこともあるだろう。スティーブは男からナイフを奪って部屋の隅まで放り投げた。

 男は舌打ちしてナイフの方向に駆けだそうとしたが、バッキーがもう一つ椅子を男に向かって投げつけた事で足を止めざるを得なかった。今度は顔面には当たらなかったものの、男の腕を強かに打ち付けた。

「出ていけ!出て行けよ!」

 椅子の次にフライパンを持ったバッキー、息を荒くしながら手近にあった料理酒の瓶を掴むスティーブ、足元にある僅かな金の入っている袋、部屋の隅まで投げ飛ばされたナイフ、エレナが握り締める大して価値もなさそうに見える古びた指輪。そして近所まで轟く大声を上げ続けるステファン。

 それらを順に見回した男は、悪態をついて足元の袋を掴み窓から出て行った。

 

 

 

 

 男が居なくなった後、沈黙が家を覆っていた。

 誰も言葉を発する気力が無かった。バッキーは口を閉じて、目を冷ややかに光らせながらその場に立っている。レベッカはぽろぽろと涙を流しながら蹲まって、叫び続けるステファンから少しでも距離を取ろうと体を蠢かせていた。緊張で感じていなかった痛みが唐突に襲い掛かってきたのだろう、エレナは呻きながらその場に倒れた。

 スティーブは慌ててエレナに駆け寄った。一目見るだけでも傷が深い事が分かる。単なる威嚇だったのだろう脇腹の傷は浅いが、肩の傷口からはピンク色の肉が見えていた。

「エレナさん、すぐに病院に」

「お金が無いから無理よ……包帯を取ってきてちょうだい。押さえておけば」

「無茶ですよ!こんなに血が……」

「あの男に頼ればいいんだ」

 バッキーの口調は淡々としており、その分異様さが際立っていた。感情の一切を押し殺し、無理やりに飲み込んでいるようだった。

 バッキーは部屋の隅に投げ飛ばされていたナイフを拾ってステファンに近寄った。あまりに冷やかな顔だった。これまでスティーブが見た事の無い表情をしていた。

 同時にその顔は決意に満ちていた。決意とは、善悪ではない強烈な意志だ。スティーブはバッキーが何をしようとしているか悟った。

 

 暴れ続けているステファンは両手足から血を流していた。痛々しいまでに赤く腫れあがっている手足を見てバッキーは眉間に深々と皺を寄せた。

「……あんただって、苦しいかもしんないけどな」

 バッキーはナイフをステファンに向けた。エレナは咄嗟にステファンを庇おうとしたが、暴れるステファンはエレナを部屋の端まで突き飛ばした。壁にナイフで貫かれた肩を打ち付けたエレナは呻いてその場に倒れた。

 ナイフを持つ手が震えている。この部屋で今、最も苦しんでいるのはバッキーだ。

 スティーブはバッキーのために、バッキーの前に立ち塞がった。哀れなステファンのためではない。これ以上バッキーが苦しむのを見ていたくなかった。

 バッキーは心優しく、聡明な親友なのだ。彼が苦しむ必要なんてあるわけが無かった。もっと他に方法がある筈だ。もっと他に、誰もが幸福になれる方法が。 

 自分の言葉ながらその言葉はスティーブの頭の中で空々しく響いた。

「止めるんだバッキー」

「お前さえ居なかったら、皆幸福なんだ。お前さえ……何にもできない、お前さえ居なくなってくれれば」

 スティーブの肩越しに、バッキーの視線は暴れ続けるステファンに注がれていた。

 血を吐くような声にステファンはびくりと怯えたようにして動きを止めた。普段と同じように呆けた顔つきで、ナイフとバッキーを交互に見る。

「お前が居なくなってくれさえすればいいんだ、お前さえ、お前さえ!!」

 叫んだバッキーにステファンは肩を震わせるも、パニックを起こすことはなかった。

 

 むしろステファンは叫ぶことを止め、暴れる事も止めてゆったりと立ち上がった。

 誰かに手を引いて貰わず、自分の意思でステファンが立ち上がるのを見たのは初めてだった。

 ステファンはおずおずとバッキーに近寄った。ナイフを持つバッキーの手を指先でなぞる。まるで正気に戻ったような仕草に驚いたバッキーはナイフを取り落とした。

 

 地面に落ちたナイフを拾って、ステファンはふらふらと歩く。

 ふと視線に映ったピアノの前にステファンは座り、折れそうな程に細い指を鍵盤の上に置いた。それはスティーブが絵に描いているポーズそのものだった。

 彼の瞳はこれまでと同じように宙を見据えていた。何も変わらず、彼の空気は神聖で神秘的なままだった。ドファ、ミファラドファファ、ミレドファ……

 

 手慰みのように鍵盤を弄ったステファンは立ち上がり、ぽかんとしているバッキーと、地面に倒れて呻くエレナと、怯えて蹲っているレベッカを見回した。彼はまるで修行僧のように全てのしがらみから解き放たれた顔をしていた。

 一度深く頷き、透明な視線を瞬かせる。

 そのままナイフを持って、ステファンは割れた窓から外に出て行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スティーブが絵を仕上げたのは、ステファンの遺体が発見されてから2週間後の事だった。

 絵を完成させるにあたり、スティーブはステファンの潰れた方の顔も絵に描き加えた。まるで化け物のような醜い顔は穏やかな表情をして現実の向こうを見上げていた。しかしそれでも完成した絵は下書きの時点での神秘的な美しさを欠いていた。

 完成した絵を見るとスタンは何も言葉を発さずに深く頷き、酒場の一番目立つところに飾った。

 

 エレナはそれから2年後に、あの優し気な顔をしていた男性と結婚した。男は真面目な銀行員で、夫婦仲は生涯良好だったらしい。

 エレナは男との間に2人の子供を産んだものの、1人は兵士になりベトナム戦争で死んだ。もう一人は新聞記者になり3人の子供を作って7年前に胃癌で死んだ。子供達は今も生きている。

 

 結婚を機にウェイトレスの仕事を辞めるまで、スタンの店に飾っていたスティーブの絵をエレナは何度も見つめていた。

 

 

 

 ステファンの死因は失血死だった。左腕と両足、胴体には何十という切り傷が刻まれており、ステファンの遺体は人目から隠れるように路地裏に捨てられていた。

 強盗犯はバーンズ家を襲ってから3日後に逮捕され、強盗容疑については全面的に認めたものの、ステファンの殺害は否定した。

 証拠はなく、またステファンは金目の物を一切持っていなかったことからステファン殺害に関しての男への容疑は取り消された。

 ステファンは通りすがりの愉快犯に殺害されたのではと警察は疑っていたが、その犯人は結局見つからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 

「————まだこの絵があったんだな」

 長々しい会議がようやく終わり、一息つこうと廊下を歩いていたバッキーは飾られていた絵を前に足を止めた。

 それは80年前にスティーブが描いた絵だった。まさか、と思ったが、しっかりと端にはスティーブのサインが描かれている。芸術家としては無名のスティーブの絵の複製が作られている訳も無く、これは確かにあの大恐慌の最中にスティーブが僅かな金のために描いた絵に違いなかった。

 あの頃はスティーブの絵は上手いと思っていたが、こうして今しっかりと見ると技量の拙さが分かる。

 あれからクーパー・ユニオンに通い、貧困のために中退するまで絵を学び続けた後のスティーブの作品と比べるといかにも幼稚で、構図も雑だ。さらに長年煙草とアルコールに晒されたせいでべっとりと黄色いヤニが染みついており、元に何が描かれていたのかも判別できない程に擦り切れている。

 しかしピアノを弾く男の瞳だけは未だに煌々と輝いていた。その絵を見てサムは感嘆するように息を吐きだした。

「良い絵だよな。知ってんのか?」

「もう何が描いてるかも分かんないだろ。スティーブがガキの頃に描いた絵だよ。まだ現存してるとは思わなかった」

「これってキャップが描いた絵だったのかよ。マジか、子供の頃から絵が上手かったんだな。かなり掠れてるけど分かるぜ。ピアノとイケメンだろ?俺にちょっと似てる」

「んな訳あるか」

 軽口を叩くサムを小突くと陽気に笑って、「訓練はあと1時間後だぞ」と言われた。

「知ってる。何だよ、サボるとでも思ってるのか?」

「割と思ってる。この前だってエージェントの一人をナンパしてて遅れただろうが!」

「あれは俺がナンパされたんだ。不可抗力だろ」

「お前がこんな奴だって知ってたらワカンダに永遠に冷凍するようスティーブに頼んでたかもしれねえよ」

「ひっでえな、相棒だろ」

 そう笑って返事をしながら、冷凍される前に見たサムの顔を思い出す。自分が冷凍でもされるような悲痛な顔をしていた。あの頃の自分はすっぱりと処分された方がきっとアベンジャーズにとって良かっただろうに、だ。

 キャプテン・アメリカの名前を得る男というのは、揃ってこうも心優しく、寛容でなくてはならないのか。

 存在しない方が良いと分かっているような人間を、ここまで神秘的に、美しく描けるような清廉な心を持っていないと成れないのか。

 スティーブが自分に盾を渡さなかったのは全く英断だったと深く思う。自分にそんな心理的余裕が無かったとか、世論が許さなかったとかいう以上に、自分にキャプテン・アメリカの素養は欠片も無かったのだ。

 ヒドラに洗脳される前から父親を貧困のために殺そうとした自分には、全くもって無理な話だ。

「この絵はいつから飾られていたんだ。前まで無かったような気がするんだけどな」

「確かシビルウォーでごたごたしてた頃にスタークが買い求めたとか何とか……キャップが描いた絵だったから買ったんだろうな。キャップへの遺産の一部だったんだけど、昨日ここに寄付されたんだ」

「あいつが?」

「ああ………どうせ自分も長くはないからって」

 そう言ったサムの顔は、何でも無いというような顔を取り繕っているのが明らか過ぎて、逆に滑稽に見えた。そして自分も同じような顔をしているに違いなかった。

 

 

 

 

 

 バッキーはスティーブと一緒に暮らしていた。

 北極海で眠っていた時間を含めればもう200を超える年月を掻い潜ったスティーブの肉体は、血清のおかげでまだ動いてはいる。しかし昔の隆々とした筋肉は失われ、まさか昔はキャプテン・アメリカと呼ばれる人物だったとは思えない痩せた一人の老人になっていた。むしろ骨と皮のみの棒切れのような姿は、大昔の虚弱な子供だったスティーブの方を思い出させた。

 施設に入れた方がずっと楽だということは分かっている。自分にとって……そしてもしかしたらスティーブにとっても。しかしスティーブと離れる事などバッキーには考えられなかった。

 もう長くはないという事が明らかである以上、その最後の瞬間に立ち会えない可能性はほんの少しも許せなかったのだ。

 

 家政婦や訪問介護を金に飽かせて雇い、さらにスティーブの寿命を一瞬でも伸ばすために医療器具も買いあさった。一般家庭であれば家計が木っ端微塵に粉砕する程の出費だったが、バッキーは微塵も躊躇する事無くスティーブの安全と延命のために金を湯水のようにつぎ込んだ。

 なにしろあの時とは違い、バッキーには十分な収入があった。さらに何故かトニーの遺産の一部がスティーブに流れており、全て合わせるとそこらのセレブなど太刀打ちできない程の金額にまでなった。

 トニーが何を思ってスティーブに財産分与をしたのか分からないが、きっとあの男はスティーブが金に困る様を死んでも見たくなかったに違いない。正義のためなら泥水を啜ってでもヴィジランテとして活動するスティーブの本質を彼は理解していたのだろう。

 その為に遺産を赤の他人であるスティーブに明け渡すのはやり過ぎではと思ったが、トニーとスティーブの両方と付き合いの長い他のアベンジャーズのメンバーは全く驚いた顔をしていなかった。自分とは違う方向で、あの男のスティーブへの入れ込みようは凄かったらしい。

 確かにシビルウォーの騒ぎの後に、スティーブが描いたからという理由だけであの絵をアメリカ中捜し回って買い求めたというのだから相当だ。もしあの戦争の後もトニーが生きていたらバッキーは彼をストーカーとして訴えていたかもしれない。

 

 家に帰るとバッキーはまずスティーブの自室へ向かった。

 スティーブはベッドの上で上体だけを起こしてスケッチをしていた。バイタルを計測するコードがスティーブの腕に纏わりついているが、彼は気にする様子も無く澄んだ青い瞳を一心に紙の上に注いでいる。

「ただいま」

「……ああ、お帰りバッキー」

 紙の上から視線を動かさずにスティーブはおざなりに返事を返した。どうやら絵を描く事に集中していたいらしい。シーツの上に大量の鉛筆や消しゴムを放り投げて、次々と持ち替えながら絵を描き進めている。

 生真面目で掃除好きのスティーブだが、絵を描いている時だけは例外だ。平気でパレットをそこらへんに投げたり、消しゴムの消しカスを散らしたりする。今もシーツの上には消しカスが散らばっていた。

 ここまで集中するのは久しぶりだなと苦笑して、バッキーはどれどれと絵を覗き込んだ。

 

 碌にベッドから起き上がれない身体になってしまった……いや、身体に戻ってしまったスティーブは、しかし昔のように熱い正義感をむやみやたらに振り回す以前とは全く違う、穏やかな男になっていた。思い通りに動かない苛立つことも無く、ただ年経ても美しい顔で穏やかに微笑む。

 まるで悟り切った僧のように神々しい顔だとバッキーは思い、その微笑みを見る度にじりじりと焼けるような焦燥を感じた。それはこのまま消えて行ってしまいそうな美しさだった。

 だからこそバッキーはスティーブが何かに熱中する事を喜んだ。それがアベンジャーズの相談役でも、絵を描く事でも、慈善事業でも、何でも良かった。彼が現実世界に留まって何かをする熱意を忘れないでいてくれれば何でも良かったのだ。

 

 段々と眠る時間が長くなれば、バッキーはベッドの上でも絵が描けるようにベッドヘッドに絵を描くための用具を入れる棚を備え付けた。

 絵具でシーツが汚れても良いし、寝室に絵具の臭いが染みついても一向に構わないから欲しいものが有るなら何でも言って欲しいと何度もスティーブに言った。懇願めいた口調だと自分でも思っているが、それが功を奏したのかスティーブは一日の殆どをベッドの上で過ごすようになっても、まだ絵を描く習慣を続けている。

 

 

 覗き込んだ見た絵は先程アベンジャーズの本拠地で見た絵とあまりによく似ていた。

 しかし構図はあの絵よりももっと精密で、線の一本一本に迷いが無い。まだ下書きの段階だというのに既に圧倒的な存在感があった。その絵にバッキーはダリの最高傑作と呼ばれるパン籠に似た感触を覚えた。

 居るのは男と、ピアノだけだ。しかしぞっとした。その絵はこちらに向かって何かを叫んでいたのだ。男は口を閉じて上を見上げているだけだというのに、その瞳はあまりに多くの事を語っていた。

 その男の顔はまだ詳細に描かれていなかった。顔の半分が潰れているかどうかも分からない。

 

 しかしもしかしたらその顔は、ステファンではなく———

 

 そうまで想像してバッキーは叫びたくなった。違うと言いたかった。

 あれは自分が間違っていたんだ。ステファンを殺すべきでは……いや、どうなのだろう。

 あれは正しい行いだったのだろうか。自ら死を選んだステファンは、息子にナイフを向けられるような事は全くしていなかった。

 彼はただ哀れだっただけだ。ただ誰かの手を借りなければ生きていけない男だった。そして彼が居たせいで自分達の生活が苦しかったこともまた事実だ。

 だが彼があの時死んでいなければ、自分はもしかしたら兵士にならなかったかもしれない。あの男を養っていたエレナを置いて一人戦場に行くという選択は難しかっただろう。普通の会社員にでもなって、誰も殺さずに生きていたかもしれない。そうすればウィンター・ソルジャーが生まれることはなかった。

 だがエレナが産んだ自分の異父兄弟の子孫は今もまだ生きている。彼らは元気に、明日を向いている。

 ————正しいとは、何なのだろうか。

 あれからもう何十年も経ったと言うのに、未だにバッキーはその答えを見つけられていない。

 

 絵に目が釘付けになり、再び冷凍したかのように動きを止めたバッキーを視界の端に認めて、スティーブは小さく呟いた。

「バッキー、お前は間違ってはいなかったよ。それは間違いない」

 

 スティーブの声が酷く遠くから聞こえるようだった。短く、早く息をするバッキーに気付いてとうとう紙から視線を上げたスティーブは、優しく微笑んでバッキーの頭を撫でた。優しい手つきだった。

 黒い髪を梳く乾いた指は細かった。まるであの時、鍵盤を不器用に叩いたステファンのような指だった。誰かの助けが無ければ生きていけないだろう弱弱しい指をしていた。

 

「ただ、今ならもっと、上手く描けるような気がするんだ。だからもう一度描こうと思った。それだけだよ」 

 

 スティーブ、スティーブ。

 そう呻きながらバッキーは細いスティーブに抱き着いた。涙を流す。自分の半分の厚さもない胸に頬を擦り寄せた。心臓の音がよく聞こえた。

 ああ、まだ生きている。だから大丈夫だ。しかし永遠には続かない。

 

 スティーブ、俺達はお前に生きていて欲しいんだ。それだけでお前には価値があるんだ。それだけは絶対に正しいと言えるんだ。

 

 そう伝えようとしたが、嗚咽が次々と零れるので難しかった。

 息が整うのを待ちながら、絵の中の男の顔がスティーブと同じ顔でないことをバッキーは一心に祈った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ———なるほど身体全体に痛みがあったが、それもだんだん弱くなっていき、最後にはすっかり消えるだろう、と思われた。柔らかいほこりにすっかり被われている背中の腐ったりんごと炎症を起こしている部分とは、ほとんど感じられなかった。

 感動と愛情とをこめて家族のことを考えた。

 自分が消えてしまわなければならないのだという彼の考えは、おそらく妹の意見よりももっと決定的なものだった。

 こんなふうに空虚なみちたりたもの思いの状態を続けていたが、ついに棟の時計が朝の三時を打った。

 窓の外ではあたりが明るくなり始めたのを彼はまだ感じた。

 それから、頭が意に反してすっかりがくりと沈んだ。

 彼の鼻孔からは最後の息がもれて出ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 劇終

 



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