『架空の財閥を歴史に落とし込んでみる』外伝:あるコミューター航空会社 (あさかぜ)
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前史:調布飛行場

 東京23区から程近い調布飛行場、大阪市から程近い八尾空港、共に大都市から近いものの滑走路の短さ(調布:800m、八尾:1490m・1200m)からジェット機の離発着が不可能(※1)であり、プロペラ機とヘリコプターのみ運用されている。

 だが、調布も八尾も共に当初は民間用として、太平洋戦争前夜に軍用飛行場に転換され、防空の為に拡張された。八尾はほぼ現在の形に拡張され、調布も1000mと675mの2本の滑走路が整備された。当時の航空機の性能からこのぐらいの長さでも充分だっただろうが、同時期に存在した木更津や立川、柏は1000m以上の滑走路を有しており、特に柏は1500mと当時としては破格の長さを有していた。柏と調布は共に帝都防空の為の基地なので、もう少し長さがあっても不思議ではないのだが、松戸や羽田などの存在から大規模な拡張をする必要は無いと考えたのだろうか。そこの所は不明なので想像するしか無いが、何かの気まぐれで八尾並みに拡張されても不思議では無い筈である。

 

 これは、そうなった場合の世界の話である。

 

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 1942年4月18日、米海軍の空母「ホーネット」から飛び立ったB-25爆撃機16機による日本本土空襲が行われた。所謂「ドーリットル爆撃」であるが、これによって日本陸海軍は大混乱となった。詳しくは本編の『番外編:この世界の太平洋戦争②』に譲るが、この空襲で本格的な本土防空に着手する事となった。

 それに伴い、六大都市(※2)の防空の為、都市周辺に高射砲陣地や軍用飛行場の整備が急ピッチで行われた。調布飛行場の拡張と機能強化もこの一環で行われ、1500m滑走路と750m滑走路の整備が行われた。周辺の土地の収容も非常時という事でスムーズに行われ、1944年には完成した。

 滑走路の拡張が完了した頃に、米軍による本土爆撃が行われる様になった。空襲の起点が中国奥地の成都か狭いパラオの為、大規模な空襲が行われる事は稀であった。だが、それは防空用の設備が活用されなかった事を意味するものでは無く、何度か行われた武蔵野や立川などの軍事施設への空襲、帝都空襲を防ぐ為の出撃は行われた。

 米軍も、迎撃による被害を抑える為に、飛行場や高射砲陣地の攻撃を実施しており、調布も1度空襲を受けている。幸い、大きな被害を受ける事は無かったが、流れ弾が市街地に落ちて数十人の死者を出した。

 

 1945年6月5日に終戦を迎え、米軍を中心とした連合国軍が日本本土に駐留した。当初はGHQを通して占領統治を行い、軍備の全廃や財閥の徹底的な解体、工業設備の接収などを行う予定だったが、戦時中の米軍の損害の大きさとソ連との対立がその流れを変えた。当初の予定を予定通り行った場合、米軍が治安維持及び地域の防衛を行う必要があるが、肝心の米軍が先の大戦で大損害を受けてとてもでは無いが行えない状況の為、その代わりとなる戦力となると日本軍しか無かった。感情面では納得出来ない部分もあるが、日本軍の強さは先の大戦で実証済みであり、「親米」という枷を嵌め、充分な補給を与えれば、「太平洋の防波堤」としての役目を十二分に果たすと見られた。

 「ソ連との対立」によって、日本軍は存続する事となった。尤も、軍縮は連合国からの「要求」(という名の強制)によって行われ、予算不足から数年間は訓練にすら事欠く状態だった。

 また、米軍のコントロール下に置かれる事となり、日本各地に「占領下の防衛」を名目上の理由(実際は「日本軍の監視」)として米軍が駐留する事となった。関東では座間(元・陸軍士官学校)や朝霞(元・陸軍予科士官学校)、代々木(元・代々木練兵場)などが摂取され、調布も例外では無かった。

 

 当初の調布は、立川及び横田の予備基地として活用されたが、他の基地と比較すると活用されたとは言い難かった。滑走路は最長でも1500mであり、これは立川の2000m(実際は1500~1800m級)と比較して小さかった。横田よりは長かったが(1950年代まで1300m)、調布は宅地化が進みつつあったことから拡張が難しく、将来的には立川か拡張した横田に移転すると見られた。接収から10数年間は米軍用の水耕農園として活用され、軍用飛行場としての活用は殆どされなかった。

 軍用としては殆ど活用されなかったが、運用に余裕がある事から民間に解放された。当時、羽田は国際線が殆どであり、国内線が参入する余裕が無かった。その為、中小航空会社は調布に乗り入れる事となった。1950年代中頃から1960年代初頭は航空会社が勃興した時期であるが、どの会社も規模が小さく当時の日本にとって飛行機による移動は高嶺の花であり、採算が取れる事業では無かった。長崎航空(現・オリエンタルエアブリッジ)や中日本航空など独立を保った会社もあったが、後に日本航空(JAL)や全日本空輸(ANA)などに吸収された会社も多かった。

 その様な中で、調布を拠点に佐渡や八丈島など離島への路線を運航していたある航空会社が存在した。この会社はJALやANA、東亜国内航空(TDA)や日邦東西航空(NTA)に統合される事無く、コミューター航空会社として存続する事となる(NTAについては本編の『40話 昭和戦後④:中外グループ(3)』参照)。

 

 接収から10数年間は水耕農園及び事実上の民間飛行場として活用されたが、それが変化するのは1961年だった。1964年に東京オリンピックが開催される事となり、選手村及び会場の一部として代々木の在日米軍の住宅地「ワシントンハイツ」の用地が活用される事となった。その為、ワシントンハイツの返還が決定されたが、その代替地として調布が選ばれた。

 また、史実では実現しなかったキャンプ・ドレイク(朝霞)の返還も行われた(史実では1971年から段階的に返還)。駐留米軍は横田や百里に移転し、跡地は射撃や馬術などの競技場となり、この敷地は後に国防軍体育学校の施設(体育館、射撃場、野球場など)に活用された。

 余談だが、国防軍体育学校の野球部は社会人野球に所属しており、国防軍に所属している軍人・軍属で野球を行いたい人によって構成されている。本業は軍人の為、野球の練習はそこそこだが、軍人として鍛えられており、地区大会の上位に入る事はあるが優勝経験は無い。




※1:1500mの札幌飛行場(丘珠空港)でフジドリームエアラインズの定期便(使用機体は小型ジェット機のエンブラエル170)の実績がある為、八尾空港に限れば不可能ではない。しかし、伊丹空港や神戸空港との兼ね合いや騒音問題がある事から現実的ではない。
※2:当時の日本本土で人口が多かった東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸の各市の事。札幌や福岡などの地方の中枢都市の台頭は1980年以降であり、それまでは都市人口順位の上位6位を独占していた。


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前史:調布飛行場②

 米軍住宅が代々木のワシントンハイツから調布飛行場西の「関東村」に移転したが、飛行場区画については早い段階から返還交渉が行われていた。「補助飛行場」として接収したが殆ど活用されなかった事、日本の航空会社の利用が殆どの事などから、返還しても問題無いとされた。

 交渉は関東村の移転後の1966年から行われ、翌年には「1969年に飛行場区画の日本への返還」が決定した。関東村については横田や百里との兼ね合いがある事から「1969年の返還は時期尚早」とされたが、後の交渉で「1974年に全面返還」が決定した。

 

 さて、米軍住宅が移転し将来的な日本への返還が決まった調布飛行場だが、中小航空会社が離発着している現状は変わらなかった。東京オリンピックの開催とそれに伴う海外旅行の自由化、機材の大型化によって、羽田空港の混雑は悪化した。国際線用の新空港の建設が検討されたのは1962年だが、場所が成田・三里塚に決定したのは1966年であり、移転時点では何処に建設するかが決定していなかった。

 新空港開港までは海外の玄関口は羽田となるが、そのしわ寄せが国内線の準幹線やローカル線の発着枠に来た。国際線や国内幹線の枠を開ける為に準幹線・ローカル線の枠が減らされ、プロペラ機が入る余裕が無くなった。

 その代替地として、調布が選ばれた。調布は東京都心から程近く、京王の飛田給と西調布、西武の多磨墓地前(現・多磨)など近隣の駅からバスが出ている事、YS-11クラスのプロペラ機の離発着が可能な滑走路を有している事から、一部の便が調布に移転してきた。

 これにより、東阪航空(THA)、日邦航空(NAW)、東亜航空(TAW)、日本国内航空(JDA)の4社の一部の便が調布発着となった。主に仙台経由札幌(丘珠)、八尾経由福岡などの経由便の発着が多かった。当初は深夜便も移転したが、市街地に近い事から反対が大きく、1年で羽田発着に戻った。

 

 1969年に羽田での小型機の離発着が禁止された事もあり、10数年は調布が東京における国内線第二の玄関口として活用される事となった。関東村の返還後は一部が新ターミナル用の敷地する事が検討されたが、1978年3月の成田開港によって大きく変化した。

 成田開港によって国際便の殆どが移転した。これにより、今まで国際線用の発着枠が国内線用に回された。

 また、1971年にTAWとJDAが合併して「東亜国内航空(TDA)」が、THAとNAWが合併して「日邦東西航空(NTA)」がそれぞれ成立し、路線の整理が進められた。合わせて、機材の大型化やジェット化なども進められたが、調布の滑走路の長さではジェット機に対応しておらず、これ以上の大型プロペラ機の導入も難しかった。

 成田開港に伴う羽田の発着枠に余裕が生じた事と機材の大型化によって、TDAとNTAの調布発着便の多くが羽田に戻った。成田開港後も少数の便が残っていたが、乗り継ぎの利便性の向上や人員の集約を理由に1980年までに撤退した。

 

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 大手航空会社2社が撤退した調布では、廃港の動きがあった。高度経済成長期以降、周辺地域の宅地化は急速に進み、飛行場周辺にも多くの住宅が立ち並んだ。その為、別の場所に移転する事が望まれた。

 移転先の候補地として、同じ東京都の横田基地、埼玉県の桶川飛行場、茨城県の百里基地の3か所だった。東京都及び周辺自治体は移転を希望したが、成田の建設で労力を使った政府に調布の代替地を建設する気は無かった。横田と百里は滑走路に余裕があるが、横田は在日米軍、百里は国防軍が使用しており、軍の使用が最優先される事から「余裕が無い」という回答を貰った。そもそも、横田も百里も東京都心から遠い為、移転した所で利用者が来る処か減少すると見られた。

 桶川も東京都心から近いと言える場所では無い上、本田技研工業(ホンダ)の私有地である事から、拡張するにはホンダとも交渉する必要があった。後に埼玉空港として拡張される事となるが(埼玉空港については、本編の『番外編:この世界の日本の航空関係』参照)、この時のホンダは本格的な空港に拡張する気が無かった為、桶川移転案も破棄された。

 

 移転予定地全てから拒否された為、調布はそのままとなった。東京都及び周辺自治体は廃港を求めたが、政府は代替地の用意が出来ないとして、両者の議論は並行線となった。議論は10年以上に及び、後に航空機の技術革新による騒音の減少、東京からの近さ故の利便性の高さなどから、地方便の参入希望は多かった。これらの要因から、廃港より存続の方が利益は大きいと判断され、1992年に正式に存続が決定した。

 存続に合わせて、調布の管理・運営が国から東京都に移管された。これに伴い、調布飛行場は「東京都営調布空港(通称・調布空港)」と改称され、「調布空港」の名称は通称から正式名称になった。

 

 尚、調布の移転候補地のその後だが、桶川は前述の通りである。

 横田は、周辺の宅地化が進んだ事による騒音問題とその解決の為に百里に集約する事となり、2004年に廃止された。跡地には、公園や防災センター、ショッピングモール、総合運動場などが整備される事となった。

 百里は、国防軍と在日米軍の双方が置かれている。周辺の宅地化が進んでいない事から大規模な拡張が行われ、2800m滑走路3本を有する関東最大の空軍基地となった。

 

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 存続が決定した調布では、ターミナルビルの建て替えが行われた。建て替え前のターミナルビルは1966年に完成したものであり、築25年以上が経過していた。あちこちで老朽化が進んでおり、機材の故障も頻発していた。また、返還された関東村跡地の再開発もあった為、それらと連動させて新ターミナルビルの建設が行われた。

 1993年、新ターミナルビルの設計が完了した。設計案は1年前に募集されたが、条件として「簡素」・「建設費用が安価」・「将来的な拡張が容易」・「バリアフリー対応」などがあった。1995年から建設が始まり、合わせてターミナル前に小規模なバスターミナルの併設工事が行われた。小規模な事から工事は早く進み、翌年には新ターミナルビルの使用が開始された。

 

 新ターミナルの利用開始当初、機材の初期トラブルに見舞われたものの、今までの問題だった老朽化は解消された。トイレの汚さや売店の小ささなどから敬遠されていたが、それら改善された事で利用者が微増した。

 また、当初の意図する所では無かったが、カフェと屋上展望台を設置した事で、地域住民の集会場や観光スポットとしての利用も見られた。

 

 2020年現在、調布からは伊豆諸島の5つの空港(大島、三宅島、八丈島、神津島、新島)、佐渡、庄内、能登、但馬、八尾、南紀白浜の11路線を運航している。住宅地に近い事から1日の発着回数が64回(32往復分)に限定されている為、殆どの路線が2~3往復となっている。かつては40回しか認められなかったが、利用者の増加や就航先からの増便の希望が多かった為、段階を経て増やされた。

 東京からの直行便が出来た事で、但馬の利用者は増加した。ジェット機で無い事から時間は掛かるが(但馬の滑走路は1200m)、東京への直行便には変わらなかった。但馬としては羽田に就航出来ない以上、調布との繋がりを重要視した。

 他の就航空港も同様で、ジェット機の就航は出来なくても東京と直接繋がるメリットは大きく、路線の維持に注力している。また、観光利用の増加の為、PRが行われたり、調布空港で就航先の物産展が開かれるなどしている。

 

 羽田の発着枠増加、埼玉へのアクセスの向上などがあるが、調布は都心との近さやプロペラ機しか離発着出来ない空港に就航出来るという利点がある。それがある為、今後も存続する事となる。



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前史:八尾空港

 大阪市の南東にある八尾空港だが、同じく大阪市から程近い場所にある大阪国際空港(伊丹)と比較すると、1490mと1200mの2本と小規模となっている(伊丹は3000mと1828m)。滑走路の短さからジェット機の離発着に対応しておらず、定期路線の運航も行われていない(かつては行われていた)。

 現在では、公的機関や民間のヘリコプターや事業用の飛行機の運用が殆どとなっている。

 

 もし、八尾空港で旅客便の運航が続けられていたら。

 

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 八尾に関する歴史は史実と変わらない。戦前に建設され、戦時中に拡張、戦後はGHQに接収され、1952年に民間による利用が認められた。

 この世界で異なる部分は、伊丹の発着枠を増やす為に八尾に短距離ローカル線の多くが移された。これにより、1960年代から70年代にかけて中国・四国・北陸便の多くは八尾に移された。それに伴い、1968年にターミナルビルの増築が行われ、路線を運航していた航空会社の専用カウンターが整備された。

 

 空港周辺の宅地化が進んできた事もあり、増便は住民と協議する必要があったが、増便の交渉は中々進まなかった。1965年の交渉時には1日の離発着は40回(20往復分)が認められたのみで、10年間で増えた離発着回数は10であった。本数が少ない事からこの時点では大きな問題とならなかったが、この調子では将来的な航空需要の高まりによる増便は難しいと見られた。

 幸いだったのは、プロペラ機であれば更新が認められた事である。「更新前の機体以上の騒音を出さない事」という条件が付いたものの、技術革新によってこの条件はクリアできるものと考えられた。

 

 1983年2月8日に千日前線が八尾南から八尾空港に延伸する前に、地域住民と増便の交渉が行われた。大阪市の中心部と繋がる事、それに伴う空港利用者の増加によって現状の36回では対処出来ないとして、20回の増加を訴えた。

 当時、後にターボプロップ機の主力となるATR42やDHC-8、サーブ340はまだ試作段階で、MC-1(史実のYS-11)やF27が主力だった。だが、これらの機体は25年以上前に設計されたものであり、新型エンジンの搭載や新素材の使用をしたシリーズが出ているものの、騒音や燃費などで現状に対応しているとは言えなかった。

 その為、この時の増便は「騒音が酷くなるだけ」とされて、交渉は早期に打ち切られた。だが、新型機が出るであろう1985年以降に交渉を再開する事が決められた。

 その後、千日前線が八尾空港に延伸した事で、八尾は難波と一本で繋がった。近距離便しか無い事から利用者は限定されていたが、今までバスしか無かった事、難波と繋がった事、乗り換えを伴うが阪神沿線からも利用可能になった事などから、利用者は増加した。

 

 利用者の増加によって、現状の本数では数年で対応出来なくなると見込まれ、1985年の年明けには早くも増便交渉が行われた。この頃には前述の新型機の生産が始まった事から、1便当たりの乗客を増やせると同時に、騒音問題も解決出来るとされた。新型機は日本国内における型式証明(※)が済んでいないものの、増便が決定すれば数年以内に新型機の型式証明を完了させるとした。

 この頃には住民も空港の存在価値を認めており、かつての様な反対は小さかった。それでも、急激な増便は騒音の増加であり、新型機の導入は数年先の為、いきなり20回の増加は認めなかった。先ず3年以内に10回増やし、10年以内に残る10回を増やす事となった。

 航空会社側も、10年掛かるとは言え10往復分の増加が認められた事は嬉しかったし、原案を声高に主張して増便自体が流れるのは避けたかった為、この案を受け入れた。1987年に1回目の増加が、1994年に2回目の増加が行われた。

 

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 2020年現在、八尾の離発着回数は70回(35往復)となっている。2004年4月に16回分の増加が認められた為である。

 就航地は、東日本(関東・東北)だと調布と庄内、甲信越だと新潟・佐渡・長野・松本、北陸だと富山と能登、関西だと但馬、中国だと鳥取・出雲・隠岐・石見、四国だと松山と高知、九州は五島福江と天草の17空港となっている。調布だけは3往復で、残りは2往復となっている。多くは伊丹や関空から移転してきた便であり、ANAやJAS、JIAとのコードシェアだったり、コミューター航空会社に移管された便となっている。2006年2月に神戸空港も開港したものの、依然として伊丹に変わるプロペラ機用の空港として機能している。

 

 大型機の離発着が無い事から乗り継ぎは今一つなものの、大阪への便を設定するだけなれば八尾の存在は大きかった。乗り換え無しで難波に行ける事から利用者からは好評であり、伊丹の発着枠を割く必要無い事から航空会社としても重宝している。住民としても、騒音問題はかつてよりマシであり、空港が存在する事による経済効果も大きく、かつての様な廃港運動はもはや存在しないと言っても良い。

 今後も、関西における主要な空港として機能する事となる。




※:その飛行機の安全性・環境適合性の基準を満たしていると証明するもの。1機種毎に検査する為、合格すれば国内でその機種の飛行が可能となる。


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1話:朝日航空誕生

 2020年現在、日本でコミューター航空会社として見られている会社は、JAL系のジェイエア(JLJ)、日本エアコミューター(JAC)、北海道エアシステム(HAC)、琉球エアコミューター(RAC)、ANA系のANAウイングス(AKX)、独立系のアイベックスエアラインズ(IBEX)、フジドリームエアラインズ(FDA)、オリエンタルエアブリッジ(ORC)、天草エアライン(AHX)、新中央航空(CUK)、東邦航空(THK)が存在する。

 この内、独立系のIBEXとORCはANAと、FDAとAHXはJALとそれぞれコードシェア(※1)が行われている。また、THKは日本で唯一のヘリコプターによるコミューター輸送を行っている。

 かつては上記以外にも、旭伸航空やエアードルフィンなどが存在したが、利用者の少なさや競合交通機関の存在、会社規模の小ささによる人員・機材・資金の不足などから撤退する会社も多かった。現状存続している企業も厳しいのは変わらず、大手系のコミューター会社と連携して存続する道を探っている所である。

 

 さて、この世界では、調布と八尾を発着するコミューター便はある程度存在する。その為、両空港は東京と大阪におけるコミューター便のハブ空港(※2)として機能している。その中には、史実では撤退したり倒産した航空会社もあれば、史実では存在しなかった航空会社も存在するだろう。

 これは、そんな一航空会社の話である。

 

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 1960年2月8日、西武グループが中心となって「朝日航空(AAL)」を設立した。「朝日航空」の社名は、設立の前年に資本参加した「朝日ヘリコプター」の設立時の社名であった。

 西武はこれを機に航空業への進出を狙った。当時、鉄道会社が航空会社に出資する例は多く、名鉄がANAと中日本航空(NNK)に、東急が富士航空(FAL)に、近鉄が日東航空(NAL)にそれぞれ出資している。西武の朝日航空への出資も、これと同様の目的であった。

 尚、コミューター航空が充実するとヘリコプターや測量などとの分離が図られ、1982年に「朝日航洋」として分離した。また、八尾空港を本拠地とする史実の朝日航空は「大阪朝日航洋」と名乗った。

 

 運輸省としては、これ以上の民間航空事業への進出は過当競争を招くとして反対の立場にあり、統廃合による整理を望んでいた。特に、資本的に貧弱な北日本航空(NJA)か、路線網が重複する東阪航空(THA)との統合を目論んでいた。

 西武は統合に猛反対し、単独での存続を主張した。西武の主張は「AALは唯一調布を拠点としている」、「統合してしまえば全ての便は羽田へ移転となるが、国際便の増便で枠の限界が近付いている羽田へ移転しても増便処か減便となる」、「減便となれば利用者の利益にならない為、調布に留まった方が良い」、「その為には統合より単独での存続が望ましい」と述べた。

 運輸省は、西武グループが8割以上の株式を保有するAALの体力は他の中小航空会社以上を有する事は把握しており、西武の主張も通っている事から、AALと他社との統合する事を諦めた。

 その代わり、AALが離発着出来る空港を制限した。東京では調布を、大阪では八尾を拠点とする事として、羽田と伊丹への離発着を禁止した。また、中小航空会社を統合した東亜航空(TAW)、日本国内航空(JDA)、日邦航空(NAW)、THAの4社に対し、一部の便を調布・八尾発着とする様に提言した。

 

 西武は最大の目的である羽田・伊丹への参入は閉ざされたものの、航空事業への参入は認められた。1963年から実際に就航を開始し、近江鉄道の関西急行鉄道(関急)への転換とそれに伴う関西地域への進出によって、1970年に八尾を第二の拠点とした。

 途中、西武グループの分裂があったが、AALは西武鉄道グループと西武流通グループ(後のセゾングループ)で折半する事となった。以降、西武グループによる一大コミューター航空会社が形成される事となる。




※1;1つの便に複数の航空会社の便名が付与されて運行される便の事。単独運航よりもコストが低い事、中小航空会社側からは大手のチケット販売ルートを利用出来るなどのメリットがある。
※2:車輪の中央部に由来。多くの空港から乗り入れ、航空会社が拠点としている、乗り継ぎダイヤが組まれているなどが目安とされている。


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2話:東西2か所体制

 朝日航空(AAL)成立後、西武は路線の整備を進めた。最も収益が望める東京大阪便に加え、地方都市への路線を就航させた。仙台や新潟、富山など、地方の中核都市への路線を就航させたかったが、他社との調整から中々増便されなかった。

 それでも、収益性が高い東京大阪便を設定出来た上、4往復も運行出来ただけでも良しとした。他の航空会社は本数こそあったものの地方都市への路線であり、収益性の面ではAALの方が勝っていた。

 

 その後、1969年に羽田発着の小型機が調布に移転した事でAALの便数が1往復減らされ、1971年に東亜国内航空(TDA)と日邦東西航空(NTA)の成立による路線の整理によって発着枠に余裕が生じた事で4往復に戻されるなどの変化があった程度だった。調布の廃港の考えが残っていた時期の為、発着枠の増加は議論されなかった。

 変化が起きたのは1978年3月の成田空港開港だった。これに伴い、国際線の殆どが成田に移転し、その空いた発着枠に国内線が入った。これにより、調布発着便のTDA及びNTAが羽田に移転し、調布の発着枠に余裕が生じた。

 AALとしてはこれを機に増便を図りたかったが、当時は調布廃港の意見も強く、増便は存続を認める事となる為、住民としては反対だった。

 だが、AALは運輸省との取り決めで羽田就航は不可能だった。たとえ羽田就航が認められたとしても、先のTDA及びNTAの羽田移転で再び枠が限界に近付いた事で、既存航空会社からの反発も予想された。

 両者の意見の対立によって、2年程はTDA及びNTAの羽田への完全移転は行えなかった。1980年に漸く両者の妥協が成立し、調布の一時的な存続と現在TDA及びNTAが運行している調布離発着便の羽田移転又はAALへの移管が認められた。

 

 これ以降、AALは路線を増やしていく事となるが、拠点が調布である事がネックとなり、ジェット機の導入が不可能な事、近距離便以外では時間的に不利な事から、以降はリージョナル航空会社として活動を行う事を余儀無くされた。

 

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 1963年、AALは調布と八尾の便を就航した。これにより、東京と大阪を結ぶ便を設定する事となり、1965年から4往復中3往復を八尾から先への航路を設定した。延伸先は高松経由松山・広島経由福岡・岡山経由出雲として、地方の中核都市へのアクセス及び西日本での影響力獲得を狙った。

 就航したものの、運賃が高額な事、1日1往復である事、時間が中途半端な事(東京大阪を丁度良い時間にした為、地方の離発着時間が早朝や深夜となった)、直行便で無い事から、利用者が定着しなかった。また、JALやANAなど競合他社の便も就航していた為、苦戦は免れなかった。

 それでも、地方都市に就航した事実は大きく、調布で本数を増やせない以上、八尾からの路線を重視する様になる。

 

 1968年から、AALは八尾を第二の拠点とするべく交渉を始めた。八尾も調布と同様、周辺住民からの反対と伊丹の代替という立ち位置から、増便は難しかった。

 幸いにして、1969年に2往復分の増便が認められた為、その分をAALに与える事が認められた。1970年に正式にAALに4回分の発着枠が付与され、八尾を第二の拠点とするべくターミナルに進出した。

 この翌年、TDAとNTAの成立によって、重複している便の整理と一部枠のAALへの譲渡が行われた。これにより更に2往復分の増便が可能となり、調布便を除くと4往復分を新設出来た。その枠を活かして今までの直通便を八尾で分割しただけでなく、一部の便を延伸させた。広島経由福岡便を2往復に増便させ、それぞれ長崎と熊本に延伸、高松経由松山便を大分に延伸させた。これにより、九州を中心に勢力を広げた。

 

 以前よりも時間的に乗りやすい事から多少収益性は向上したが、地方に都合の良い出発・到着時間にした事で却って乗り継ぎによる東京への移動が不便になった。また、依然として1日1往復な事、直行便で無い事から、大手との競争には劣勢だった。

 また、1960年代から70年代に掛けて、航空機の技術革新による大型化・ジェット化が進み、それに合わせて地方空港の拡大も進められた。その為、地方路線であってもジェット機が導入された事で、乗客数や時間の面で叶わなくなった。

 この為、AALはコミューター航空会社以外の存続の道が無くなった。西武グループの意図は何処にあるかは分からなかったが、これ以降のAALは調布と八尾を中心にコミューター路線の拡張を行う事となる。



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3話:コミューター航空の広がり・朝日航空の苦悩

 成田開港による余波によって、調布の発着枠に余裕が生じた。1980年から、AALは調布から東北・信越・北陸・近畿への便の整備を計画する様になる。これらは、TDA及びNTAからの譲渡であったり、交渉によって増加した発着枠を活用した事によって成立した。

 漸く、自由に航空路線を開設出来ると見られた矢先、2つの出来事から路線新設に慎重になった。それは、東北・上越新幹線の開業と新興コミューター航空会社の設立である。

 

 当時、東北・上越新幹線の開業間近であり(1982年6月23日に東北新幹線の大宮~盛岡が、同年11月15日に上越新幹線の大宮~新潟がそれぞれ開業)、開業した暁には新潟、仙台、花巻の各便は廃止に追い込まれると見られた。新潟は東側諸国の玄関口としての機能がある事からある程度は残ると思われるが、それでも増便はされないと見られた。

 

 1970年代後半から80年代に掛けて、日本各地でコミューター航空会社が整備された。1974年に国内の航空各社が出資して日本近距離航空(後のエアーニッポン。2012年にANAに合併)が設立されて近距離便の運航を開始し、1980年には長崎航空(現・オリエンタルエアブリッジ)が長崎壱岐便を開設して定期旅客輸送を再開した。1983年にはTDAと鹿児島県奄美地方の自治体と共同出資して日本エアコミューター(JAC)を設立するなど、各地で会社が設立され路線の整備が行われた。

 調布では、1978年に設立された新中央航空(NCA)が伊豆諸島への路線を開設した。1980年には佐渡への路線も開設し、AALと競合関係になった。

 

 この2つから、AALが取ったのは西への勢力拡大と買収だった。東及び北は新幹線の存在から増便しても勝ち目は無いのは明白であり、調布・八尾の発着枠は少ない事から買収して枠を確保したかった。そして、買収の為の資金は西武・セゾン両グループから出ており、この時の両グループは絶頂期にあり、資金面での問題は無かった。

 結果、1984年までに調布・八尾の両方に拠点を置くコミューター航空会社を買収して合併するか傘下に収めた。この頃にはTDA・NTAの調布・八尾発着便は消滅しており、この買収によって両空港の発着枠はAAL系列によって独占された。

 NCAは合併せず、調布と伊豆諸島を結ぶ路線に集中する事となった。その為、佐渡便は手放す事となったが、一方で保有機材の集中と増加によって本数を増やす事となった。

 NCAが手放した佐渡便は、1984年に同じく傘下に収めた旭伸航空(KOK)に譲渡された。傘下に収めた際、AALから調布便・八尾便を譲渡されたり、仙台便を開設するなど路線拡大に積極的となり、保有機材もMC-1、後にATR42などの大型ターボプロップ機を導入する様になる。

 AALが福岡・長崎に就航している事もあり、1982年に長崎航空(NAW)も傘下に入った。長崎から壱岐・対馬・五島列島への便の拡充が行われ、AALだけでなく他社との接続の強化が図られた。

 

 一方で、就航地にAAL系のコミューター航空会社の設立も行われた。複数の本拠地を持つ事による本体の負担の軽減と、地域に本社を置く事で利益を出しやすくする為である。これによって設立されたのが、隠岐・出雲を拠点とする山陰航空(SIA)と、福岡を拠点に壱岐・対馬・五島列島への路線を開設した筑紫航空(TKA)である。

 

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 西武がAALを通じて国内のコミューター航空会社を傘下に収めたが、西武としてはやはりジェット機による路線運航を行いたかった。コミューター航空ではどうしても拡張に限界があり、収益性は大手より低かった。

 しかし、運輸省によって羽田と伊丹の就航が禁止されており、未だに45/47体制(※)下である事から、幹線への自由な参入は不可能だった。成田と当時計画中の関西新空港(後の関西国際空港と神戸空港)を拠点としての参入は運輸省も認めた事から不可能では無かったが、都市部から遠い事から国内幹線は兎も角、コミューター路線には不適格だった。

 そもそも、45/47体制がある以上、自由な参入など出来る筈も無かった。運輸省の言葉は矛盾していたが、後にこの内容を利用する事となる。

 

 反対者が運輸省だけならコミューター路線から脱却する事も出来ただろうが、大手航空会社4社も反対した。手を付けられない又は付けたくない離島路線や赤字路線の引き受け先としてAALとその子会社の存在は大きく、AALがコミューター路線から脱却する事を認められなかった。

 仮にAALがコミューター路線から脱却する場合、AAL系列のコミューター航空会社各社を大手の傘下に鞍替えさせるか、現在運航中の全便を譲渡させるぐらいの事が必要になるが、羽田と伊丹に集約したい事と調布・八尾への進出のコストから、大手としては引き受けに消極的だった。後に45/47体制が終了すると、大手各社は国内線・国際線の充実に着手した為、尚更コミューター路線の引き受けをしたがらなくなった。

 

 その一方で、大手各社が子会社としてコミューター航空会社を設立する事が多くなり、AALとの連携が行われた。カウンターの共用や同一路線の場合は共同運航が行わるなど、グループの枠を超えての連携が多く見られた。「事実上の独占」という批判もあったが、無理な競争が行われなかった事、低コストでの本数の増加という航空会社のメリットが大きく続けられた。

 共同運航によって利用者の増加が見られたが、この動きは離島便やローカル線に限られ、幹線・準幹線では依然として独立した運行が行われた。AAL系列にとってはプラスだがAAL本体に限ればプラスとは言い難く、寧ろKOKやNAWなどの子会社に大手の影響力が入った事で、グループの統制が難しくなった。




※:国内航空会社の運行の割り当ての事。1970年(昭和45年)に閣議決定され、1972年(昭和47年)に運輸大臣によって通達された事から、この名称となった。規制の強制力の強さから「航空憲法」とも呼ばれる。この世界でも存在し、
・日本航空:国際線と国内幹線、国際貨物線
・全日本空輸:近距離国際線と国内幹線、国内準幹線
・東亜国内航空・日邦東西航空:国内幹線と国内準幹線、国内ローカル線
となった。1985年に廃止。


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4話 バブル期の変革

 1985年、45/47体制は終了し、日系大手航空会社は自由な航路設定を行う事が可能になった。これに伴い、1986年3月にANAが長距離国際線であるロサンゼルス便・ワシントンDC便を開設し(※1)、同年にはTDAとNTAが近距離国際チャーター線の運航を開始した。その後、国際定期線にも参入する様になったが、社名が国際線に参入するには合わなかった為、1988年4月にTDAは「日本エアシステム(JAS)」に、翌年4月にはNTAが「日本インターナショナル航空(JIA)」にそれぞれ改名した。

 路線の設定は自由になったが、新規参入については未だに壁が高かった。多くの航空会社が希望してた羽田の発着枠が限界であり、拡張が完了するまで(1997年3月に3本目の滑走路の供用開始)は新規参入は事実上不可能だった。実際、新規参入したスカイマークエアラインズ(現・スカイマーク)と北海道国際航空(現・AIRDO)は1996年に設立し、就航開始は1998年だった。成田発着の国内線の運航が本格化するのはLCCが多数発足する2012年以降であり、この時は東京都心から遠い事から敬遠されていた。

 

 AALも、これを分かっていたからジェット化が難しい事を認識していた。将来的には成田と関西新空港(関西国際空港。1994年9月開港)を拠点にして就航する事も考えており、その為の構想も1988年から練られた。

 だが、当分はコミューター路線の運航で我慢する事となり、この構想は将来実現させる予定だった。この構想は実現する事は無かったが、それはまだ先の話であり当時の人には誰にも分らなかった。

 

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 1980年代から日本各地の地方空港の大型化が進み、地方路線のジェット化が進んだ。また、1980年代後半から1990年代は大手系のコミューター航空会社の設立が進み、AALの地盤の縮小とライバルの参入が問題となった。

 AALもこの問題に手を拱いていた訳では無く、MC-1の新型やDHC-8、ATR42などの新型機の導入や大手との接続改良などを行い、多少なりとも利用者の増加を図った。

 しかし、1回当たりの輸送量や所要時間では大手に敵わなかった。今までの主力路線である対馬や壱岐、佐渡などの日本海側の離島路線は国防目的から空港の整備とジェット機対応が早くから進められた(※2)。羽田は発着枠と小型機の乗り入れ禁止から増便は進んでいなかったものの、伊丹はプロペラ機枠を利用しての増便や大型プロペラ機の導入が行われるなどして競争が激化した。

 一番の稼ぎ頭である調布八尾線も、大手4社の運用機材の大型化(ボーイング747、ダグラスDC-10など)と高頻度化、東海道新幹線の高速化と増発によって、時間面や運賃面で競争相手として話にならなくなった。

 

 その為、1990年代には早くもAAL系のコミューター航空会社の内、離島路線を中心にサービスの向上と可能な限りの増便を行った。特に、調布からは佐渡、伊豆諸島便が、八尾からは佐渡、隠岐便が増便された。

 新路線の開設も行われ、1994年5月に開港した但馬飛行場に調布と八尾両方からの便を開設したり、高知便の開設も行われた。

 一方で、競争にならなくなった福岡、長崎などの九州便は廃止となり、経由便も全て直行便になった。調布八尾便も最盛期には8往復あったが、この改正で4往復と半減となった。

 また、九州への便が無くなった為、福岡を拠点とする筑紫航空(TKA)と長崎を拠点とする長崎航空(NAW)への影響力を維持する意味は薄れ、両社の株は地元の有力企業に売却して独立させた。就航先が同じ事、過当競争を防ぐ意味から2001年3月に両社は合併し、「オリエンタルエアブリッジ(ORC)」と改称する事となる。

 

 多少の体制の変化はあったものの、AALは引き続きコミューター航空会社としての道を歩み続ける事となった。地方路線におけるジェット化が進みつつあったものの、羽田・伊丹の発着枠の関係から大手系の増便は容易では無かった事が、AALの競争力が維持された理由だった。

 だが、バブル景気の終息による地方路線の需要減少によってAALの売り上げは減少しており、本体である西武・セゾン両グループの売り上げ減少や不動産価格の下落によって、両グループがAALの経営及び新興航空会社の設立に構う余裕が少なくなった。両グループの再建問題も浮上しており、AALの身売りや清算も検討される程の状態になっていた。




※1:史実では成田グアム線が最初だったが、この世界のANAは45/47体制下で近距離国際線が認められていた。それにより、体制下では台湾や韓国、サイパンやグアムへの国際線を運航していた。
※2:朝鮮戦争中に韓国軍が対馬に逃げ込んだ事、ソ連が南樺太と千島列島に核攻撃した事が理由。それらの地域における有事の際の拠点整備、中央と離島の連携強化から空港整備が進められ、ジェット機による就航や東京便・大阪便の整備でも特別枠が存在した。


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5話 朝日航空縮小

 バブル景気の終息後、日本の航空需要は不安定だった。バブル景気の終息によってスキーやレジャーなどの需要が減少した事で、地方航空路線の需要は落ち着きを見せた。

 一方で、阪神・淡路大震災によって新幹線に押され気味だった東京大阪便は回復傾向にあった。また、新興航空会社の設立で東京札幌便、東京福岡便は事実上の増便になり、価格の下落が見られた事で利用者の増加が見られた。

 国際線も、バブル景気中の湾岸戦争で一時は大幅に減少したものの、円高と日系航空会社の国際線の増便によって海外旅行者は増加した。1990年代中頃までは海外旅行者が増加傾向にあった。

 

 しかし、1997年のアジア通貨危機とそれを発端とした極東危機によって、国際線は大幅な利用者減となった。極東危機の影響は2000年まで続き、この頃の国内大手の経営は非常に苦しかった。バブル不況に伴う消費の冷え込みが続いており、金融不安も囁かれた状況であった為、大手4社全てが経営破綻するのではとすら予測された。

 幸い、各社は破綻する事は無く存続したものの、JASは東急グループ再編の一環でグループから離れた事で経営不安が再燃した。その中で、国内線を充実させたいJALと上位2社に規模で追い付きたいJIAとで綱引きが行われ、最終的にJASはJIAと経営統合する事となり、一部地方路線はJALに移管された。

 

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 西武グループのAALもこの影響を受けた。西武・セゾン両グループはバブル期に急速に拡大したが、バブル終息後は今までの拡大戦略が裏目となった。セゾングループは中核企業である西武百貨店や西洋環境開発などの負債が増大し、現状では存続が不可能な程なまでに悪化した。実際、バブル終息後から子会社の売却や整理などが行われ、後に中核企業の清算や同業他社との経営統合も行われ、2001年にグループは解体となった。

 セゾングループは、1995年にはAALから身を引いた。セゾンが保有していた株式は、西武グループとJALで分割された。当初は全て西武グループで引き受けたかったのだが、西武グループも余裕が無かった為、大手で比較的余裕のあったJALに引き取ってもらった。JALとしても、国内線の地盤を少しでも固めたいと考えており、AALとそのグループが持つ路線網は決して悪くないと考えていた。

 他の3者にも声を掛けたが、ANAとJASは国際線の負担が大きい事から、JIAは国内ローカル線を多数抱える事が負担になって来た事から、それぞれ辞退した。

 

 AALの株主構成は変わったが、経営体制に大きな変化は無かった。だが、JALとの関係が強くなった事で運航面での変化が生じた。JALの関連会社となったが子会社では無い為、JAL系のコミューター航空会社であるジェイエアとの経営統合は行われなかったものの、一部の便の移管とほぼ全ての便でジェイエアとのコードシェアが行われた。当時、ジェイエアは羽田に就航しておらず、羽田のJALの発着枠を潰す事無く東京・大阪便の増便が行えるとして重宝された。

 また、これを機に調布と八尾にジェイエアの事務所が置かれた。JALグループとしては両空港に拠点を置くのは初めてだった。

 JALグループに事実上組み込まれた事で、路線網の広がりは大きくなった。そして、増便のネックだった羽田・伊丹の発着枠を気にする必要が無くなった。

 一方、ジェイエア側から見れば、調布・八尾便は乗り継ぎが難しくなった。東京又は大阪への直行便が無い空港の便を優先する様に再編しているが、それでも羽田・伊丹便と比較すると搭乗率はやや落ちる事となった。

 

 AALはJALとの関係を強めた一方、伊豆諸島便を有する新中央航空(CUK)はANAとの連携を強化した。大島と八丈島、三宅島はANA系のエアーニッポン(ANK:伊豆諸島便は後に子会社のエアーニッポンネットワーク(AKX)が引き継ぐ)が就航しており、競合となる事を防ぐ事と、伊豆諸島便で使用している羽田の発着枠を他に回したい事から、ANAが全株式を買収して子会社化した(形式上はANKの完全子会社)。

 これにより、調布にはANKの事務所が設置され、後に伊豆諸島便に限り全て調布に移転となった。伊豆諸島便はANAにとって旨味が無い路線であり、いずれは手放したいと考えていた。それが実現出来たので言う事は無かった。



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最終話 朝日航空の終焉とその後

これで終わりとなります。尻切れトンボみたいになってしまいましたが、読んでいただきありがとうございました。


 21世紀に入り極東危機の影響は弱まった事で、国内線については復調となった。スカイマークやスカイネットアジア航空(SNA:現・ソラシドエア)など新興航空会社が一定の認知を受け、それに危機感を持った大手が値下げ攻勢などを行った事で、今までより安く乗れる様になった事も、利用者が増加した一因だった。

 尤も、大手の値下げ攻勢によって体力の無い新興航空会社は軒並み大手の軍門に下った。SNAや北海道国際国際航空(ADO:現・AIRDO)、スターフライヤー(SFJ)はANAに、オホーツク航空(OKA)とレキオス航空(LQS)はJIAにそれぞれ支援を求めて再建を果たしたが、コードシェア便の運航が行われるなどして独立色は弱くなった。現状、独立して残っているのはスカイマークとジャパン・ウイングス(JWI)の2社である。

 

 国内線は回復に向かった一方、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロが発生し、国際線は回復しかけの所で再び低迷した。その後にSARSの世界的大流行で、21世紀最初の数年間は国際線の需要は低下した。

 その為、大手は政府系金融機関からの借入とリストラの実施によってなんとか経営を建て直した。JIAとJASの経営統合も、リストラの促進という一面もあった。

 

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 AALだが、コミューター機としては需要がある路線を運航している為、世界的大事件があっても影響は小さかった。寧ろ、JALが国内に収益源を求めて注力してくれ、調布と八尾の発着枠の増加を要請していた(実現は2004年以降)。これにより、AALは就航都市数の増加と増便が、JALは羽田の発着枠を空ける事が出来、ローカル線と幹線双方の厚みが増した。

 AALの経営は改善されつつあったが、本体である西武グループの経営が思わしくなかった。2004年に相次いだ不祥事によって西武鉄道と伊豆箱根鉄道が上場廃止となり、翌年から行われたグループの再編によってコクドは消滅し、新たに「西武ホールディングス(西武HD)」が設立され西武グループの新たな持株会社となった。

 西武グループ再編の中で、事業の選択と集中も進められた。2004年に立案された再建計画の中で「AALとその子会社を3年以内に売却する」とされ、実際に2006年に全株式がJALグループに売却された。JALグループも経営合理化の中だったが、国内線の強化と他社に株を売却される事を嫌い、多少無理をする形で買収に応じた。

 その後、完全にJALグループの一員となったAALと山陰航空(SIA)だが、経営合理化によって路線が重複するジェイエアとの統合が2009年に行われた。存続会社はジェイエアの為、半世紀以上の歴史を持つ朝日航空は幕を閉じた。

 

 会社としては消滅したが、路線網は維持された。大型機との乗り継ぎが出来ないという欠点こそあるものの、羽田・伊丹の発着枠を使用する事無く東京・大阪への乗り入れが出来るという大きな利点がある為、寧ろ重宝された。

 ジェット化が不可能な但馬、羽田の発着枠を利用したくない南紀白浜、増便を望んでいた庄内、東京・大阪への直行便を望んだ佐渡・能登など、調布・八尾を拠点とする事で実現した。以前から行われていた事だが、JALグループが運航する事となり信用性が増した。それにより利用者の増加が見られる様になり、自治体も利用者の引き留めと新規の需要の開拓の為、JALや他の企業と連携して新たな観光開発に着手した。

 2010年のJALの経営破綻で鈍化したものの、ジェイエアの路線についてはそのままだった。その為、依然として路線網は維持され、再建が完了した2013年以降から再び連携が強化された。

 

 2020年現在、旧・AALの路線は依然として残っている。JALグループとしてはANA、JIAと比較して地方路線は貧弱な為、ジェイエアと2012年から就航開始したジェットスター・ジャパンがその穴を埋めるべく努力している。

 

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 かつてAALグループだったオリエンタルエアブリッジ(ORC)と新中央航空(CUK)だが、前者はJIAの、後者はANAの影響下にある。

 ORCは資本的には独立しているものの、単独での運行は難しい事と集客の向上から、2007年からJIAとコードシェアを実施している。その後、天草エアライン(AMX)やリンク(※)とのコードシェアを実施し、九州におけるコミューター網を形成した。

 

 CUKが伊豆諸島との路線を持っている為、ANAは大島便や八丈島便を廃止した。これによって羽田便は消滅したものの、本数については増加した為、寧ろ利便性は向上した。

 だが、2010年にANAグループの再編が行われ、CUKはエアーニッポンネットワーク、エアーネクスト、エアーセントラルと合併し「ANAウイングス」となった(存続会社はエアーニッポンネットワーク)。会社としては消滅したが、路線網は維持された。伊豆諸島便の調布発着も依然として残っており、ANAの看板を背負った事で信頼性が増した。

 

 2020年現在、地方における人口減少が俄かに問題となっていた。それに伴い利用者の減少も見られる様になり、コミューター路線の限界が見えつつあった。この問題に対処する為、大手3社とその提携先との連携が模索された。実現すればかつてのAAL以上の規模となり、一大コミューター航空網が形成される事になる。

 AALは消滅したが、かつて構想していた「日本における一大コミューター航空の実現」が曲がりなりにも実現する可能性が出てきた。AALの構想は早過ぎたのかもしれないが、間違いでは無かったのである。




※:2012年に設立された航空会社。福岡と北九州を拠点とするコミューターLCCを予定していたが、資金集めに難航し、翌年末に破綻した。予定では2013年10月に就航開始、ATR72を使用し(就航していれば日本初のATR機だった)宮崎・松山へ就航、2年目に上場となっていた。


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