国土交通技官・雪ノ下雪乃 (Asarijp)
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前編

本作は2020年2月末に公開したもののため、新型コロナウイルスで東京オリンピックが中止されることを想定していませんでした。今から修正すると無理が出るので、新型コロナウイルスパンデミックでも東京オリンピックが延期されなかった世界という前提でお読みください。


『ごめんなさい、奉仕部の同窓会には行けません。今、庁舎にいます(午前3時)。リニア新幹線建設の答弁書を作っています。本当はあの頃が恋しいけれど、でも今はもう少しだけ、知らないふりをします。私が答弁を書いたリニア新幹線も、きっといつか誰かの青春を乗せるから』

 

「雪ノ下、やっぱり忙しいってよ。ほれ」

 

 俺は夜のうちに来ていた雪ノ下からのメッセージを由比ヶ浜に見せた。

 

「うーやっぱり今回もかぁ……ぶふっ、ゆきのん……」

 

 2020年。

 

 俺たちは高校も大学も卒業し、社会人になっていた。

 三人で水族園に行った高2のあの日、俺と雪ノ下は由比ヶ浜の提案を受け入れた。俺たちは三人の関係を変えないまま、結論を出さないまま、この8年間を過ごしてきた。

 

 東京オリンピックまであと1か月ちょっととなった6月の休日に、俺は秋葉原駅近くのカフェチェーン店で由比ヶ浜と茶をしばいていた。東武伊勢崎線沿線住民の由比ヶ浜と総武線沿線住民の俺が落ち合うのにちょうどいいのが秋葉原だ。

 

 由比ヶ浜は就職して後ろ髪全部を団子にまとめるようになった。明るかった茶髪も、就活時の黒髪を経て今では暗めの茶髪になっている。以前由比ヶ浜のママさんに会ったことがあるが、ママさんにだんだん似てきている気がする。

 

 雪ノ下からのメールを(俺たち三人はこの2020年にまだメールだ)見て笑う由比ヶ浜からスマホを取り返し、俺は雪ノ下に返信を書いた。

 

『お前、けっこう余裕あるだろ』

『4年目の若手なのに国会会期中に余裕などあるはずないでしょう』

 

 意外にも即座に返信が来た。今はちょうど13時。少し遅い昼休み中なのだろう。今日は日曜日だが。

 

『さいですか。次いつ頃なら空いてる?』

『来週には国会が終わるから、再来週の週末なら』

 

「雪ノ下、来週国会が終わるから再来週の週末には暇作れるってよ」

「そっかー大変だねゆきのん。じゃあそこでまた集まろっか」

 

『じゃあ再来週の週末だと。時間と場所はいつもどおりでいいか?』

『ええ』

『了解』

 

「ゆきのん、国会やってるといっつも忙しいね。興味ないのに最近は調べるようになっちゃった」

「天下のキャリア官僚さまだからな」

 

 雪ノ下は日本で一番偏差値の高い東京の大学に受かり、大学在学中にいろいろあったが国家公務員総合職に合格。国土交通省に技術職として入省した。

 

「由比ヶ浜は仕事どうだ?」

「う、うーん……競争厳しいからねー……。楽ではないかな」

 

 由比ヶ浜は駅伝でよく見るCのマークが特徴的な私立大学を出た後、ビールメーカーに就職した。本人は経理や人事などバックオフィス志望だったようだし、在学中にもそういう資格を取っていたものの、いざ就職してみると配属されたのは営業だったらしい。

 

「あ! でもね、この前大口のお客さんが『由比ヶ浜さんが営業に来てくれるなら』ってウチに扱い替えてくれたんだよ! それで課長に褒められちゃった!」

 

 由比ヶ浜がえっへん、と大きな胸を張る。

 まぁビールなんてどこも同じくらい美味いし、店としては値段が一緒なら巨乳でかわいい営業が来てくれるほうがいいよな。

 

「ヒッキーはどうなの? 前会ったときは『もう辞めたい……』って言ってたけど」

「俺は……まぁ辞めたいけど、辞めちまうと生きていけないからな。それと天秤にかけたらまだ耐えられる」

 

 俺は都の西北の大学を出た後、赤いメガバンクに就職したが、金融の生き馬の目を抜く勤務に「将来の夢は専業主夫」と言っていた奴が耐えられるはずもなく、1年で退職。地方公務員上級職試験を受けて千葉市役所に再就職した。今年で2年目のヒラ職員だ。

 安定感は抜群だが、キャリア官僚の雪ノ下や大企業勤めの由比ヶ浜と比べると年収は低い。大手携帯キャリアに就職した小町にも負けている。でも「男ってのは年収で決まるんじゃない! ハートで決まるんだ!」ってブルース・ウィリスも言ってるからね(言ってない)。

 

「あーそういえばこのまえ市役所で平塚先生と会ったぞ。今年度から学校の先生じゃなくて市役所勤務なんだと」

「へー、高校の先生も役所勤めすることがあるんだ」

「飲んだときに『まぁエースだからな。私も出世してるのだよ』って言ってたわ。結婚はしてないみたいだけど」

「先生……」

 

 平塚先生、飲んだ後ラーメン屋で「もうアラフォーだし、婚活にも疲れてな……そういえば最近大型犬を引き取ったんだ。毛がもふもふのかわいいやつでなぁ……買ったマンションがペットOKでよかった」って言ってたんだよな……。

 

 俺と由比ヶ浜はしばらくお互いに近況報告し、その後いつものように由比ヶ浜がこう切り出した。

 

「ねえヒッキー、この後時間あるよね? デートしようよ!」

「え、いやアレがアレだから……」

「ちょっと流行遅れだけどタピオカ飲みに行こタピオカ!」

「由比ヶ浜さん? 話聞いて?」

 

 

 

 

 

     ***

 

 

 

 

 

 比企谷くんには茶化したメッセージを送ったものの、私は連日の国会対応で睡眠もろくに取れない日々を過ごしている。リニア新幹線建設はさまざまな利権が絡む大きなプロジェクトなので、与野党問わず追求が厳しい。

 

 国会会期中は24時間いつでも議員からの質問に回答する答弁を準備しなければならないため、霞が関は文字どおりの不夜城となる。私のいるオフィスも昼夜問わず慌ただしい。

 今年25歳の私の肌には吹き出物が目立ち、入省と同時に手入れする暇がなくなって短くした黒髪はギシギシになり、化粧を直す暇もなく働いている。入省1年目のときはお手洗いに行ったときに鏡の中の自分にぞっとしたものだが、4年目の今ではすっかり慣れてしまっていた。

 

「雪ノ下! 答弁書できたか!?」

「もうできます!」

 

 今書いている答弁書は事前に準備していなかった内容のため、過去のデータや議論の洗い直しからやっているものだ。新型コロナウイルス関連の対応を先日やったばかりだが、立て続けに、しかも今回は作業量的に重い質問が当たってしまった。しんどい。

 しかし書いている私もしんどいが、実際に国会で答弁するまでに関与するすべての職員も同様かそれ以上にしんどいのだ。ここでへこたれるわけにはいかない。

 

 千葉の実家は建設会社をやっているが、そこを継ぐ予定の姉がうらやましくなることが最近ある。姉は29歳にして取締役になり、毎日黒塗りの高級車で送迎され、私の年収の数倍の役員報酬を得ているのだ。

 一方の私はと言えば、神奈川県にある築数十年の公務員宿舎から毎日寿司詰めの列車に揺られ、昼は庁舎内の牛丼チェーン店で牛丼をかき込み、野菜ジュースを飲みながら残業をこなし、帰宅すると日付が変わっていることも少なくない。

 

「雪ノ下!」

「できました!」

 

 返事をしながら答弁書を課長補佐に回す。この課長補佐は軍人のような風貌で押しが効く。部下としてはその点でありがたい存在だが、それがこちらに向くとなかなかつらい。

 私が書いたこの答弁書は関係各所と調整の上、課長補佐から課長、局長まで回され、さらに大臣官房を経て、明日の国会開始前の朝に秘書官から大臣に内容がレクチャーされ、国会で大臣が答弁することになる。

 どこで差し戻されるかわからないので、書き終わったら終わりではない。国会対応で止まった普段の仕事もこなさなければならない。今日もおそらく朝帰りだが、明日は答弁作成者として国会で控えていることになっている。

 

 しかしこれを乗り切れば比企谷くんと由比ヶ浜さんに会える。会ったらまた愚痴をたくさん聞いてもらおう。そう思うと、仕事をこなす馬力が湧いてくる。

 

「雪ノ下! 修正!」

「はい!」

 

 

 

 

 

     ***

 

 

 

 

 

「ゆきのん、お仕事お疲れさま!」

「ありがとう。由比ヶ浜さんもお疲れさま。比企谷くんも」

「おう。お疲れさん」

 

 土曜日、俺たち元奉仕部の三人は行きつけの居酒屋で顔を合わせた。時刻は19時。「奉仕部の同窓会」はいつもこの時間にこの店でと決まっている。

 

「ゆきのん、大丈夫? 目がヒッキーみたいになってるよ……?」

「さすがに午前様が何日も続くとね……徹夜もしたし」

「どういう意味だよ……」

 

 いつもの冗談だが、確かに雪ノ下の目には輝きがなく、厚く塗ったファンデーションでも誤魔化しきれない疲れが顔から見て取れる。今回は特にひどかったらしい。

 

「今回はさすがに倒れるかと思ったわ。だから来月1週間夏休みをとってあるの。骨休めに旅行にでも行こうと思って」

「旅行いいね! どこ行くの?」

「まだ決めていないのだけれど、どこがいいかしらね。新型コロナウイルスの件もあるし、海外より国内かしら」

「旅行、あたしも行きたいな……」

「休みを合わせてくれるなら一緒に行く?」

「うー……行きたいけど、もうすぐオリンピックだからねー……忙しくて休めないかな」

 

 そんな二人を眺めていると、お通しの茹でピーナッツと酒が出てきた。俺はハイボール、由比ヶ浜はカルーアミルク、雪ノ下は冷えた日本酒と、いつも頼む酒はバラバラだ。

 由比ヶ浜はビールメーカー勤務だが、ビールは絶対に頼まない。「仕事で嫌ってほど飲むから」らしい。

 

「じゃあ奉仕部メンバーの再会を祝って、かんぱーい!」

 

 由比ヶ浜がいつものように音頭を取って乾杯する。俺はジョッキの半分くらいまで一気に飲んで喉の渇きを癒した。やっぱりちょっと高いお店だとハイボールがウィスキー濃いめで美味い。

 

「そういえばゆきのん聞いた? ヒッキー、今は平塚先生と同じとこで働いてるんだって」

「平塚先生が今年度から市役所勤務になったんだと」

「あら、そうなの。元気だった?」

「ああ。飲みにも行ったしラーメンも食ったぞ」

「ラーメン……懐かしいわね。ほら、修学旅行のとき」

 

 俺と雪ノ下が話している横で、由比ヶ浜が料理を受け取っていた。

 ここは焼鳥が美味い。特につくねだ。あと鶏レバーペースト。トーストしたバゲットと一緒に出てくるが、バゲット自体も美味いのにさらにレバーペーストが絶品で、いつも由比ヶ浜と取り合いになる。

 

「そういえばあんときも平塚先生に連れてかれたな」

 

 そうだ。帰りに雪ノ下に「一緒に帰って友達に噂されると恥ずかしいし……」みたいなことを言われたんだった。

 

「……っておい、誰だトマトサラダを頼んだのは」

「あら、なにか問題でも?」

「お前か」

「ほら比企谷くん、取り分けてあげるわ」

「いらんわ」

「好き嫌い言ってると大きくなれないわよ」

「小学生か俺は」

 

 一息ついて、雪ノ下もいつもの調子が戻ってきたようだ。雪ノ下とこういうやり取りをすると、実家のような安心感がある。今住んでるのは実家だから毎日感じてるはずなんだが……?

 

「そういえばさ、この前いろはちゃんに会ったんだ」

「あいつ今なにやってんだっけ?」

「化粧品メーカー勤務と言っていなかったかしら」

「そうそう! すっごい綺麗になっててさー! それであたし、いろはちゃんに化粧品選んでもらっちゃった。今日もそれ使ってるんだけど、どおヒッキー?」

「いやどうって言われても……ベースがいいからな。化粧品が変わってもあんまよくわからん」

「そ、そか……」

 

 由比ヶ浜は頭のお団子をくしくしとかいた。

 

 一色は「あすなろ白書」の舞台として有名な青山の大学に入った。ウチの大学まで電車で数駅だから一色によく絡まれてたんだよなぁ。俺と同じ大学だった戸塚とのデートをよく邪魔されたもんだ。

 一色が就職して以来あまり顔を合わせることはなくなったが、元気でやってるようでなにより。

 

「なんかさ、こういう話すると、みんなそれぞれの道に進んでる、って感じするね」

「そうね。高校卒業からもう7年以上だから、当たり前と言えばそうだけれど」

「なんか優美子とか姫菜にも会いたくなってきちゃったなぁ……」

「俺も戸塚に会いたくなってきちゃったなぁ……」

「ヒッキーほんとさいちゃん好きだよね」

 

 戸塚は俺と同じ大学に進学したため、俺の大学生活はバラ色だった。なんなら戸塚と一緒に留年したいくらいだったが、二人とも無事に4年で卒業してしまい、戸塚はスポーツ用品メーカーに就職した。

 去年までは毎月飲みに行ったり遊びに行ったりしていたが、今年から新潟に転勤してしまったので全然会えていない。寂しい。

 

「比企谷くん、あなた、仕事はどうなの? 前に『もう辞めたい』って言っていたでしょう」

「ああ……この前由比ヶ浜にも聞かれたが、まぁ辞めたいけどそれで食えなくなるなら我慢できるってとこだな」

「そう。じゃあまだ()()()()のね」

「辞めた後も食えるならな」

 

 雪ノ下はなにやら意味深な、こちらをバカにしたような挑戦的な笑みを浮かべている。なに。なんなの……。

 

「由比ヶ浜さん、この後はいつものように宅飲み二次会でいいかしら」

「うん!」

「じゃあこれを食べたら河岸を変えましょう。ほら、比企谷くん」

「やめろ。俺にトマトを勧めるな」

 

 

 

 

 

     ***

 

 

 

 

 

「法案準備室、ですか」

「うん、ウチの課からも人を出せって言われててな。雪ノ下、今年4年目だろ? 次の異動で係長だし、そろそろ経験しとくといいよ。大変だけどいい経験になる」

「はい」

 

 奉仕部の同窓会を翌日に控えた金曜日、私は課長補佐に法案準備室への配置転換を告げられた。

 

 法案準備室は文字どおり法案を作成する5,6人程度のプロジェクトチームで、ほとんど泊まり込みのような状態で寝食を共にしつつ作業を進めていくことから「タコ部屋」と呼ばれる。私のような若手がやるのは雑用だろうし、数か月は省内に泊まり込むことになるかもしれない。

 正直に言えば、体力的に持つかかなり不安だ。大学時代に倒れそうになりながらもフルマラソンを完走できるくらいの体力はつけたが、それでも耐えきれるかというとかなり分が悪いだろう。

 

 その旨を伝えると、課長補佐は苦笑いした。

 

「まずは抱え込みすぎないことだな。ヤバいと思ったら周りを頼れ。できないことをできないと認めて人に頼るのも仕事のうちだ。本当にヤバいと思ったら倒れたり飛び降りたりする前に担当の課長補佐に言え。言いにくかったら俺でもいい。それにほれ、よく飲みに行ってたあいつも一緒に出すらしいぞ。あのーなんつったっけ……お前の同期の。あいつとうまくやってくれ」

 

 課長補佐から出てきたのは同期の男性事務官の名前だった。同じ大学出身で、よく食事や飲みに誘われる。実際、二人で何度か昼食を共にしたこともある。

 彼と一緒に仕事をしたことはないが、話した感じや周囲の評判からすると、相当仕事ができるらしい。

 

(やりにくい……)

 

 しかし今の私にとっては感情面であまりありがたくない相手だった。

 

 彼が私に好意を持っているのはわかっている。好意もないのに部署の違う同期を何度も食事に誘う男はいないだろう。

 そして私も、彼のことが嫌いではない。基本的には善人で話も合う。人間関係に少し不器用なところがあるが、それも許せる範囲。顔だってアイドルや俳優とまでは行かないけれど、まあ悪くない。

 

 数か月も過酷な勤務を共に乗り越えれば、おそらく彼に惹かれるだろう。しかしそう考えるといつも、奥にひねくれた優しさを隠したあの死んだ魚のような目が頭をよぎり、いつだって私たちを正しく導いてくれたあのお団子頭が思い出され、胸がつまる。

 だが同時に、自分が同期からの好意を知りながら返事を留保していることに、とんでもなく不誠実な人間であるとも感じられてしまう。今まで異性から好意を向けられたことなど山ほどあるが、気持ちを知りながら明確な意思表明をしないでいることに心苦しさを感じるくらいには、同期の彼のことを好ましく思っている。

 

 私はどちらかを選ばなければならない。選ばないままでいられる時間は、もうすぐ終わる。

 

「雪ノ下、それでいいか?」

「はい。不安はありますが、最善を尽くします」

 

 きっと、自分の青春の名残に決着をつけなければならないときが来たのだ。



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中編

 俺たち三人は途中でスーパーに寄り、酒と食い物を調達して由比ヶ浜のマンションにやってきた。

 

 奉仕部の同窓会二次会は、場所を由比ヶ浜が提供し、酒とつまみの材料を買うのに雪ノ下が金を出し、そして料理や給仕を俺がやるというのが通例だった。まあね、三人の中で一番給料安いからね。居酒屋の割り勘も二人から多めに札を渡されて俺が端数込みで払うからちょっと払う額少ないし。

 

「お邪魔します。由比ヶ浜さんの家に来るの、3か月ぶりくらいかしらね」

「そうだね。ゆきのん最近忙しいみたいだったし。あたし着替えてくるからエアコンつけといてくれる?」

 

 雪ノ下は勝手知ったる我が家という風にエアコンのリモコンを操作し、冷房を入れる。6月ももう下旬だから東京はだいぶ暑い。

 俺も勝手に冷蔵庫を開ける。由比ヶ浜は高校の頃から変わらず料理がてんで駄目で、冷凍室を開けると前回俺が使い残した食材がまだ冷凍されていた。

 気になるのは、今買ってきた酒とは別に、ストロング系の缶チューハイが何本も冷蔵庫に転がっていることだ。由比ヶ浜はひとり酒はしないと思っていたが、どういう心境の変化なのか。

 

「由比ヶ浜、冷蔵庫のもん好きに使うぞ」

「いいよー」

 

 料理の用意しつつキッチンのゴミ箱に目をやると、さっきの缶チューハイの空き缶が積み上がっている。

 

 着替えてラフな格好になり、雪ノ下と談笑する由比ヶ浜を見やる。

 いつもと様子は変わらないし、雪ノ下も不審に思っているような素振りはない。気のせいか。

 

 由比ヶ浜と雪ノ下はさっそく先ほど買った梅酒を開けていた。この梅酒も、二次会になるといつも飲んでいる。

 俺は買ってきたオイルサーディン缶を開け、醤油をちょっと垂らして加熱。いい感じになったらネギを散らして完成だ。簡単でいいつまみになる。俺一人で食うときはにんにくチューブも入れるが、今日はなしだ。

 

「ヒッキー! 乾杯するよ! 氷ちょうだい氷!」

「はいはい……」

 

 冷凍庫から氷をグラスに入れてオイルサーディンと一緒に持っていく。アイスペール(氷を入れる小さいバケツみたいなの)なんてオシャレなもんはない。

 

「じゃあ同窓会二次会に、かんぱーい!」

 

 一次会と同じく由比ヶ浜が音頭を取る。冷たい梅酒の甘酸っぱさが五臓六腑に染み渡るぜ。

 

「うまっ! オイルサーディンうまっ!」

 

 由比ヶ浜がパクパクとオイルサーディンを食っていく。その間に俺はもう何品か簡単なツマミを作る。

 

 雪ノ下と由比ヶ浜は酒が強い。二人に付き合って飲むとあっという間にグロッキーになるので、俺はこうしてツマミ作りに逃げ、飲むときは酒とチェイサーを交互に飲むようにしている。酒を割るときもかなり薄めだ。

 

 こうやって酒が飲めるのもいつまでなんだろうな。まさか一生このままってわけじゃないだろう。

 

 ふとそう考えてしまい、足元がグラつくような感覚に襲われた。もう高校生のときのようにぼっちを気取ることはできなくなっている。

 俺たちが30になる頃には、もう二人とも結婚してやらなくなっているだろう。あと5年か。だいたい年に4回か5回くらいやっているから、長くてあと25回。それでこの楽しい時間は終わる。

 

 用意したパスタやら肉やらを持ってこたつテーブルに戻ると、オイルサーディンはなくなり、買ってきたスナック菓子がいくつも開いていた。はえーよ。っていうか俺オイルサーディン食ってないんですけど?

 

「比企谷くん。死んだ目が腐っているわよどうしたの?」

「あん? ……ちょっと考えごとしてただけだよ」

「へえ。どんな?」

 

 いやにつっかかってくるな。酔ってんのか。

 

「そりゃアレだよ……小町のこととか」

「出た! ヒッキーのシスコン!」

「もうそろそろ妹離れしたほうがいいんじゃないかしら」

 

 「出た!」とか言うな。正月に会って以来だから寂しいんだよ。小町の作ったみそ汁が飲みたい。

 

「雪ノ下んとこはどうなんだよ」

 

 話題の矛先を変えようとして言ってしまってから、まずい話題を振ったことに気づいた。由比ヶ浜の顔が一瞬強張る。

 

「姉さん? 最近また絡んでくるようになったわね。今は母に早く結婚しろってせっつかれているらしいわ」

 

 しかし当の雪ノ下は気にしていないらしい。

 

「ゆきのん、陽乃さんと最近会ったの?」

「ええ。こっちが忙しくてもお構いなし」

 

 雪ノ下は大学受験のとき、陽乃さんに喧嘩を売った。

 

 水族園での一件の後、雪ノ下には思うところがあったらしい。文系志望から急に理系志望に路線変更し、いつものように陽乃さんが俺たちにちょっかいを出しに来たときに、理転することと日本で一番偏差値の高い大学を志望することを告げた。

 雪ノ下は当時「奉仕部でなにもできないでいた自分を変えたかった」と言っていたが、おそらく同じ理系で不本意な進学をした陽乃さんへの当てつけも含まれていたのだろうと思う。

 

『姉さん。私の保護者面するのは金輪際やめて』

 

 雪ノ下が最後にそう啖呵を切った後、陽乃さんはまたいつものように依存だなんだとあれこれ言っていたが、雪ノ下は黙ってそれを聞いていた。陽乃さんは別れ際に雪ノ下のことを寂しそうに、そして同時にうれしそうに見ていたのを覚えている。

 

 雪ノ下はそれ以来まったく陽乃さんの話をしなかったし、陽乃さんも俺たちの前に現れることはなくなった。雪ノ下も俺たちと同じように陽乃さんとはほとんど関わりがなくなったものだと思っていたが、いつの間にか姉妹の関係はヨリが戻りつつあるらしい。

 

「それにしても比企谷くん。私が姉さんと一度決別したのを知っているのに、よくも話題に出してくれたものね」

「……いやそれはすまん。言ってからやべって思ったわ」

 

 雪ノ下は挑発的な笑みを浮かべた。

 

「罰としてあなたがもっとも嫌う話題であるところの仕事の話をしなさい」

「あーあたしもヒッキーの仕事の話ちょっと聞きたいかも。ヒッキー全然仕事の話しないし」

「知ってるだろ。今は教育委員会の事務方。経理みたいなことやってる。書類作って上司のスタンプラリーして会議があったらその準備して……そんなもんだ。まだヒラだしな」

「そっか、ヒッキー市役所入ってまだ2年目だもんね」

「比企谷くん。もっと職場の嫌なこととか腹の立つ慣行とか、そういう話をしなさい」

 

 なんて女だ……。そんなことを話したら本当に仕事のことを思い出して嫌な気分になるだろうが。

 

「あー……課長が部下には態度デカくてよそにはいい顔するタイプだから、週に3回くらいぶん殴りたくなる」

「うわー……そういう上司あたしの会社にもいるよ……」

 

 あのクソ課長、よそにはヘコヘコして仕事押し付けられて帰ってくるけど、全部部下に投げてテメェは怒鳴り散らして部下にストレスかけてるだけだから本当に許せねぇ……。俺がどれだけ苦労させられていることか。

 いや、思い出すな比企谷八幡。あのストレスを晴らすのがこの飲み会だぞ。

 

「合わない上司は耐えるしかないわね。何年かすればどちらかが配置転換されるから、それまでの辛抱よ」

 

 課長、俺と同じタイミングで今の部署に来てるから、たぶん来年度もお付き合いしないといけないんだよなぁ。事故に遭って何か月か入院してくんねぇかな……。

 

「ところで比企谷くん。あなたまだ専業主夫の夢は捨てていないのかしら?」

「あ? ……まぁなれるならなりたいけどな」

 

 俺には銀行勤め(1年だけだが)で培った金融知識と、実家だけど事実上のほぼ一人暮らしで培った家事スキルがある。今の俺はカレー以外に肉じゃがも作れるし、掃除洗濯も完全に理解した。だから専業主夫としてやっていく自信は正直ある。相手がいないだけだ。

 ……という話を前回会ったときにしたら、二人から心底バカにされたのでもうしない。

 

 実際はハチマン家事も資産運用もチョットデキル。スパイス調合するところからカレー作れるし、財形貯蓄なんかしない。デキる男はiDeCoとNISAと外国株投資だ。実家暮らしだから小遣い以外給料全部突っ込んでる。

 3月の新型コロナショックでNYダウと日経平均が暴落したときに資産が数百万溶けて何日か有休をとったのは秘密だ。

 

「でもヒッキーはちゃんと働いてるんだね。えらい!」

 

 由比ヶ浜が俺の頭を引き寄せてわしわしと撫でる。いいにおいがする。由比ヶ浜にこういうことされるのは今までに何十回もあったが、今でも意識してしまう。やめろ。もう大人だから黒歴史じゃ済まなくなる。

 

「由比ヶ浜さん、その、私も」

「うん! ゆきのんもえらい! えらいよぉ!」

 

 片手で俺、もう片手で雪ノ下の頭をわしわしやりながら、「二人ともえらいえらい」と由比ヶ浜は何度もつぶやいた。

 

「二人とも、ちゃんと働けてるんだよね。すごいよ……」

 

 由比ヶ浜がグラスの梅酒を一気にあおり、グラスを力なくこたつテーブルに置いた。

 

「あたし、もう仕事辞めちゃいたいよ……。予算に追われて毎日お客さんのところ走り回って……せっかく受注取ったら工場のミスで在庫揃わなくて迷惑かけて。やっと予算達成したと思っても次の月にはまたやり直し。ヒッキー、こういうのなんて言うんだっけ。賽の河原の……」

「石積み、か」

 

 ストロング系缶チューハイの原因はこれか。

 

「それそれ。もうなにがなんだかわかんなくなってきちゃった……。最近はね、自分が数字積み上げるだけのロボットみたいな気がしてきてさ。予算達成できてない月はとにかく数字あげなきゃって土日も出勤して、セクハラみたいなことしてくるお客さんをいなして、夜は上司とか先輩の飲み会に付き合って……あたしなにやってるんだろって……」

 

 由比ヶ浜は涙を浮かべ、笑いながら小さくつぶやいた。

 

「あたし、もう、限界かも……」

 

 雪ノ下が由比ヶ浜を抱きしめると、由比ヶ浜は声を上げて泣き始めた。雪ノ下は由比ヶ浜の背中をあやすように優しく叩き、泣き止むのを待った。

 

「……茶淹れるわ」

「ええ。お願い」

 

 キッチンの電気ポットで湯を沸かし、インスタント緑茶を淹れる。三人分淹れてこたつテーブルに戻ってくる頃には、由比ヶ浜はもう泣き止んでいた。

 

「ごめんゆきのん……」

「いいのよ由比ヶ浜さん。私だって泣きたいことはあるわ」

「うん……ヒッキーもごめんね」

「おう、気にすんな。……大変だよな、仕事」

 

 鼻をかみ、ぐしぐしと顔を拭うと、由比ヶ浜はいつもの由比ヶ浜に戻った。

 

「なんか湿っぽくなっちゃったし飲み直そっか! ヒッキーがせっかくお茶淹れてくれたから、あたし焼酎のお茶割りにしよっかな」

「私はロックで」

 

 お前らの肝臓なにでできてんの? 鋼鉄製なの?

 

 

 

 

 

     ***

 

 

 

 

 

 由比ヶ浜さんが泣き止んだ後、私はお手洗いに立った。

 便座に座って大きく深呼吸する。

 

 私は今日、これから、この奉仕部の同窓会を終わらせる。いつまでもいたくなるこの心地よい時間を、今日で最後にするのだ。

 

 こんなに緊張したことがかつてあっただろうか。大学受験や官庁訪問のときの比ではない。手が震え、歯の根が合わない。

 しかしやらなければならない。ここで踏み出せなければ、私は一生後悔に囚われる。

 

 頬を叩き、覚悟を決めてお手洗いを出る。

 

「ひゃっ!」「うおっ」

 

 扉を開けるとすぐ目の前に比企谷くんが立っていた。

 

「あんまり出てこないから中で寝てんのかと思ったぞ」

「そ、そう。ごめんなさい」

「……お前、大丈夫か? 顔青いぞ」

「ええ、大丈夫……大丈夫」

 

 リビングに戻ると私はロックの焼酎を一気に飲み干した。酒の力でもなんでも使いたい気分だった。

 

「ゆ、ゆきのん、どうしたの?」

「由比ヶ浜さん。比企谷くん。話があるの」

 

 私は努めて声を落ち着けて、法案準備室に配置転換されることと、そこに一緒に配属される同期の男性事務官について話した。

 

「雪ノ下にもついに男ができたか。俺はお前がほとんど仕事の話しかしねーから、てっきり平塚先生と同じ仕事と結婚するタイプかと思ってたけどな」

「ヒッキー……」

 

 由比ヶ浜さんは複雑そうな顔で比企谷くんを見つめ、その比企谷くんは半笑いの表情のまま、いつもの死んだ目で私を見つめた。

 比企谷くんは少しも動じていないようだった。彼の中での私は、もうとっくに整理のついたことなのかもしれない。そうだとしたら……。

 

 大きく深呼吸し、息を整えようとする。しかしまったく呼吸は整わず、手の震えは全身に広がっていた。

 

 二人を失うのが怖い。しかし、私は踏み出さなければならない。

 

「彼とそうなってもいいかもしれないと思うことはあったわ。でもそう思うといつも、比企谷くん、由比ヶ浜さん、あなたたちのことを思い浮かべてしまう」

 

 震える手を伸ばし、二人の手に重ねる。

 

「結局、私はあなたたちが好き。大切なのよ。あなたたちが『高校時代の友人』になって、だんだん私の人生から遠ざかっていくなんて、耐えられない。だから」

 

 涙があふれてくる。しかし言わなければならない。これを言うために、今日ここにやってきたのだ。

 

「……だから、『奉仕部の同窓会』はもう今日で終わりにしたいの」

「ゆきのん……」「雪ノ下……」

 

「そして、私と、家族になってほしい。比企谷くんと、由比ヶ浜さんと、私と、三人で、家族になりたい」

 

 二人の顔を見ることができず、ギュッと目をつぶる。涙が頬を伝っていった。

 

 言ってしまってから、二人に既に相手がいる可能性に気がついた。あるいは二人が交際している可能性に。会話に出さないだけで、私はとうの昔に二人の「高校時代の友人」になっているかもしれない。

 

 拒絶される。

 

 もしそうなったら、私はどうなるのだろう。なにをよすがに生きていけばいいのだろうか。

 もう昔のように孤高を気取ることはできない。この二人に出会ってそういう生き方はできなくなってしまった。二人に出会う前に頼みとしていた自分の優秀さへのプライドは、大学で粉々に叩き潰されている。

 仕事? 確かに今の仕事は好きだ。やりがいもある。だが、誰のバックアップもなしに、誰のためでもなく働き続けられるほど、自分の心が強いとは思えない。しかし仕事以外に私はなにも持っていない。

 

 そう、私にはなにもない。この二人以外には。

 

 賽を投げてしまってから、いまさらのように猛烈な不安が湧き上がってきた。

 

「ゆきのん、あたしたちのこと、そんなふうに思ってくれてたんだね……」

 

 由比ヶ浜さんの手が私の手から引かれていった。目を開けると、由比ヶ浜さんはうつむいてつらそうに眉を寄せていた。

 

「あたしさ、さっきも泣いちゃったみたいに仕事がつらくて……なんのために生きてるんだろう、なんのために働いてるんだろうってずっと思ってた。そのたびに、ゆきのんとヒッキーのこと考えて頑張ってたの」

 

 由比ヶ浜さんは再び私の手を握った。

 

「ねえゆきのん。あたし、高校の頃からずっとヒッキーが好きだった。気づいてた?」

「……ええ」

「でもヒッキーはゆきのんが好きだった。そうでしょ?」

「いや俺は……」

 

 比企谷くんは言い淀み、しばらく黙ってから大きく息を吐き、また口を開いた。

 

「……そうだ。俺は雪ノ下が好きだった」

 

 比企谷くんは過去形で言った。

 

「そうだよね。そしてゆきのんもヒッキーが好きだった」

「……」

「ゆきのん。あたし、今でもヒッキーが好き。だからゆきのんからヒッキーを盗ろうって、ゆきのんがいないときもヒッキーとデートして、ヒッキーといろんなところに行って……いろんな思い出作ったの。ヒッキー、きっとあたしのことをちゃんと好きになってくれたと思う」

「……ああ」

 

 由比ヶ浜さんはぽろぽろと涙をこぼし、私の手を握る力を強めた。

 

「でも、ヒッキーは今でもゆきのんを見てる。あたし、ヒッキーを独占したかった。ゆきのんとはただの友達になって、あたしだけを好きになってほしかった。でも、できなかったよ……。どんなに頑張っても、ヒッキーはゆきのんのことが好きなままだった。それに」

 

 由比ヶ浜さんはまた泣き笑いの顔になって私を見た。

 

「あたしだって、ゆきのんのこと、好きだもん。好きな人の好きな人を奪うなんて、できなかったよ……あたし、そんなにズルくなれなかった」

 

 由比ヶ浜さんは比企谷くんの手を握る私の手にもう片方の手を重ねた。

 

「ゆきのん。ヒッキー。こんなあたしだけど、それでもいい? あたしも、ゆきのんと、ヒッキーと、家族になりたい。仕事して疲れて帰ってきたら、電気がついててさ。ゆきのんがいて、ヒッキーがいて、二人に『おかえり』って、言ってほしいよ……」

 

 由比ヶ浜さんはそう言うと、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして嗚咽を漏らした。

 

 由比ヶ浜さんが同じ気持ちを持っていてくれたことが心からうれしくて、ほっとした。

 

 しかし話はまだ終わりではない。私の目標は「三人で一緒になること」。比企谷くんもいなければ成功ではない。

 

 私は比企谷くんに目を向けた。比企谷くんも私を見据えている。

 

「俺は……俺は、社会人としては出来損ないだ。雪ノ下みたいに仕事が好きだったり、由比ヶ浜みたいに高給取りでもない。最初に入った銀行は辞めてるし、今の職場だっていつも辞めたいって思ってる。収入だって知れてる。……雪ノ下。俺はその同期みたいに、頭がいいわけでも仕事ができるわけでもない。ただ食うためにいやいや働いて、目標もなく毎日を過ごしてるだけの、そんな人間なんだ」

 

 比企谷くんが由比ヶ浜さんを見る。

 

「由比ヶ浜。俺は高校のときからお前の気持ちに気づいてた。そしてお前の言うとおり、雪ノ下のことが好きだった。でも選んでしまったら、この三人の関係は確実に壊れる。それに、雪ノ下が俺のことをどう思っているのか、俺には自信が持てなかった。俺には選べなかった。だからあのとき、お前の提案に乗った。……怖かったんだ。俺が選ぶことでまた一人に戻るのが」

 

 比企谷くんの目にも涙が浮かび、嗚咽を漏らし始める。

 

「そんな俺でも、雪ノ下、由比ヶ浜、お前らは受け入れてくれるのか? お前らになにもしてやれない俺と、自分勝手な理由であのとき選べなかった俺と、家族になりたいって思ってくれるのか?」

 

 彼は期待を裏切られることを、そしてそれ以上に自分が相手の期待を裏切るかもしれないことを恐れている。自信が持てないでいる。

 だが、今の私は彼にかけるべき言葉を知っている。

 

 由比ヶ浜さんの気持ちを聞いたことで、私の震えはいつの間にか止まっていた。

 

「比企谷くん、あなたは思い違いをしているわ。まず1点目。由比ヶ浜さんもそうだと思うけれど、私はあなたには立派な社会人であることも、稼ぎがいいことも、仕事ができることも、頭がいいことも期待していない。ただあなたにそばにいてほしい。家に帰ったときに出迎えてほしい。同じ食卓を囲んでほしい。困難に突き当たったときに一緒に悩んでほしい。あなたと肩を並べて生きていきたい。そういうことを求めているの」

 

 まだ泣いている由比ヶ浜さんに目を向ける。由比ヶ浜さんも泣きながら何度もうなずいた。

 

「その上で2点目。あなたがこれまで私に、私たちにどれだけ多くのことをしてくれたか、肝心のあなた自身がまったく理解できていない。高校のとき、奉仕部の依頼を実質的にこなしていたのはあなただった。私はただ手をこまねいていただけ」

 

 比企谷くんも由比ヶ浜さんも、涙をこぼしながらじっと私の話に耳を傾けている。

 

「それだけじゃない。比企谷くん、覚えているかしら。私が大学に入った後、どれだけ努力したところで自分はその他大勢の一人にしかなれないと知って落ち込んでいたとき、手を差し伸べて胸を貸してくれたのは比企谷くん、あなただった。あのときあなたに支えられて、私がどんなに助けられたか。今の私があるのはすべてあなたのおかげなの」

 

 もう一度比企谷くんを見据える。最後の一押しだ。

 

「最後に3点目。()()()()あなたを受け入れてあげるのではないわ。()()()()私たちを受け入れてくれるかどうかなのよ。私は()()()()私たちの隣を歩いてほしいと思っている。……比企谷くん、あなたは私たちのことをどう思っているのか、聞かせてくれるかしら」

 

 比企谷くんの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。きっと私も同じだろう。

 比企谷くんは空いた手で顔を拭い、潤んだ目で一瞬だけ私と由比ヶ浜さんを見やり、テーブルに視線を落とした。

 

「……俺も、お前ら二人とこうやって会って、飯食って酒飲んで、あのときみたいにバカな言い合いするのを楽しみにして、今までやってこれた。いつまでもこの関係が続いてほしいと思ってた。でもいつかは終わるって思うと、おかしくなりそうで」

 

 比企谷くんが目線を上げ、私たち二人を見つめる。

 

「俺で、いいのか? 俺なんかで」

「ヒッキーがいいの。ね、ゆきのん」

「ええ。あなたがいい。あなたでなければだめなの」

 

 私たちが重ねた手に、比企谷くんはさらにもう片方の手を重ねた。

 

「俺も……お前らと家族になりたい。ずっと、一緒にいてほしい」



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後編

 翌朝。

 

 由比ヶ浜の家のダブルのベッド(引っ越しのときに手伝わされて俺が組み立てた)で目を覚ますと、俺の両サイドには雪ノ下と由比ヶ浜が寝ていた。

 

「うおっ!」

 

 パニックになって飛び起きた後、昨夜なにがあったのかを思い出した。

 

 恥ずかしくて死にそうだ……もうすぐ26になるってのに……。

 

 高校のときの「本物がほしい」発言以来だ。

 俺すごく恥ずかしいことを言った気がする。いや確実に言った。あああああ二人とも墓まで持ってってくれっかなぁ……。恥ずかしすぎて小町にも言えねぇ。

 

「うぅん……」

 

 俺がそうして煩悶していると、雪ノ下が艶めかしいうめき声を上げた。

 

 雪ノ下のまぶたがゆっくり開き、目が合う。

 

「……気持ち悪い」

 

 えぇ……。俺の顔見て言う第一声それ? 昨夜の熱烈なプロポーズはなんだったの?

 

 とショックを受けていると、雪ノ下は突然起き上がり、走って寝室を出ていった。

 慌ててトイレのドアを開けるデカい音に続いて、今度は苦しそうなうめき声とおろろろろ……というリバース音。

 

 由比ヶ浜にタオルケットをかけ直して雪ノ下の後を追う。

 雪ノ下はトイレで便器を抱えて座り込んでいた。

 

「大丈夫か」

 

 雪ノ下の背中をさすってやる。さらにもう二度吐くと落ち着いたらしく、大きなため息をついた。

 コップで焼酎ロック一気飲みしてたらいくら強くてもそりゃ吐くわ。

 

「ほれ、立てるか? 洗面所行くぞ」

「ええ、ありがとう……」

 

 雪ノ下が洗面所で口をゆすいでいる間に、昨日酒の割りものとして買ってきた牛乳を電子レンジで温める。さらに、二日酔いには糖分がいいのでコーヒー用のスティックシュガーを牛乳に溶いておく。俺は2本。

 準備ができたところで、ちょうど雪ノ下が顔も洗って出てきた。

 

「砂糖入りホットミルク、飲むか?」

「ええ。いただくわ」

 

 こたつテーブルで雪ノ下と向き合い、砂糖入りホットミルクをすする。時計のカチカチという音がいやに大きく聞こえる。時刻は11時過ぎ。もう昼だ。

 

「あの、比企谷くん。昨日のことなのだけれど」

「お、おう」

「あなた、ちゃんと覚えているかしら? 酔っていて覚えてないなんてこと、ないわよね?」

「当たり前だろ……。あんな強烈なこと、忘れたくても忘れられるか」

 

 それに忘れたくもない。一生覚えているだろう。

 

 雪ノ下は両手で持ったホットミルクのコップで顔を隠すようにはにかんだ。

 

「そう。よかった……。『酔っていて覚えてない』なんて言われたら、もう一度あの恥ずかしいプロポーズをやらないといけないところだったから」

 

 もう一回あんなプロポーズしてくれんのかよ。かっこいいなお前。

 

「ほんとかっこいいよなお前は……」

「なにが?」

「……なんでもねぇ」

「私のどこがかっこいいのか、愛する人の口からぜひ聞きたいわね。ほら言いなさい」

「言わせんな恥ずかしい」

 

 自分で言って顔を赤くすんなよ……。

 

 そんな話をしていると、寝室のほうからモゾモゾと物音がした。由比ヶ浜が起きたようだ。

 しばらくすると、青い顔でのそっと由比ヶ浜が寝室から出てきた。

 

「……おはようヒッキー、ゆきのん」

「おはよう。由比ヶ浜さんも二日酔い?」

「うん……」

「ホットミルク飲むか? 砂糖入りだけど」

「うん……ヒッキーのちょうだい」

 

 由比ヶ浜は立ったまま俺のホットミルクをすすり、

 

「甘っ!」

 

 と言ってすぐに俺に突っ返してきた。

 

 あまりの甘さで目が覚めたのか、由比ヶ浜は白いヒゲをつけたまま緊張した面持ちで口を開いた。

 

「ねぇヒッキー、ゆきのん。昨日のこと、夢じゃないんだよね?」

「ええ、夢じゃないわ。現実よ」

「俺もちゃんと覚えてる。安心しろ」

「そっか。よかった……よかったよぉ……」

 

 

 

 

 

     ***

 

 

 

 

 

「今後のことなのだけれど」

 

 私がそう切り出したのは、比企谷くんお手製のブランチを終え、食後の一服をしているときのことだった。

 

「私たちの関係を対外的にどう説明するか、考えておきたいの。つまり、今の日本では三人で結婚することはできないから、職場に対してどういう方便を使うかということよ」

「まぁ確かに妻が二人できましたなんて職場に説明できないな」

「職場に説明できないということは、社会保険や待遇などで経済的に不利益を被ることになるわ。妊娠したら産休育休もどうなるか」

「に、妊娠ってゆきのん……」

「あら、私は比企谷くんの子供を産みたいけれど、由比ヶ浜さんは違うの?」

 

 ぶっ、と比企谷くんがコーヒーを噴き出した。

 

「突然なんてこと言うんだお前……」

「あたしもちょっとびっくりしちゃった……。でも、ゆきのんの言うとおりだよね。あ、あたしもヒッキーの子供欲しいし!」

 

 由比ヶ浜さんも比企谷くんも、顔を真っ赤にしている。おそらく私もだ。三人とももう25歳なのだが。

 

「子供を作るかどうかは置いておくとしても、どう説明するかは考える必要があるわ。例えば私か由比ヶ浜さんのどちらかが比企谷くんと結婚して、一方とは内縁関係になる方法。これなら法律婚をしたほうは結婚による法的保護や経済的利益を受けられる」

「それはだめ」

「由比ヶ浜……?」

 

 由比ヶ浜さんの断固とした拒絶に、比企谷くんと私は驚いた。

 

「あたし、ゆきのんとは対等でいたいもん。だから、それはだめ……」

 

 由比ヶ浜さんがそう言ってくれたことがなんだかうれしくて、私は思わず笑みを浮かべた。

 

「そうね。私もあまりやりたくない方法だわ。そこで2つ目。私と由比ヶ浜さんがパートナーシップ宣誓をして、比企谷くんとはそれぞれ内縁関係になる方法」

「それならいいかも! あーでもそれだとヒッキーが……」

 

 由比ヶ浜さんが困った顔で比企谷くんを見やる。しかし比企谷くんは特に気にしていないというふうに頬杖をついた。

 

「俺は別にいいぞ。さっきのよりバランスもいいし、いいんじゃねーの」

「この方法のデメリットは、法的保護がなく、経済的に不利益を被ること。パートナーシップでは税や社会保険制度上の効果がないから。ただし、大企業では同性パートナーを法律上の配偶者と同じく扱うところが出てきているし、由比ヶ浜さんの会社や官庁でもそういう動きがあるかもしれないから、職場の待遇面では無意味ではないと思うわ」

「うー……でもヒッキーがいいなら、あたしはそれがいいかな。お金はほら、あたしがいっぱい稼ぐし!」

「私もこれが落としどころだと思う。最終決定はもちろん専門家に相談してからの話になるけれど、基本的な方向性としては二人とも異存はないかしら?」

 

 二人は揃ってうなずいた。差し当たって考えておくべきことはこんなものだろう。

 住む場所やお金の話は後日改めてすることにし、今後はできるだけ毎週末顔を合わせるようにしようと申し合わせて、堅苦しい話は終わりにした。

 

 これからの人生はこの二人と歩んでいけるのだ。今になって急にそんな実感が湧いてきた。

 

 一世一代の大仕事を終えた気分だった。昨日の二人へのプロポーズは準備もなにもない行きあたりばったりのひどいものだったし、今振り返れば私の都合で二人に重大な決断をさせてしまった形になったが、それでも二人は私を受け入れてくれた。

 今までの人生でこんなにうれしいことがあっただろうか。

 

「比企谷くん、由比ヶ浜さん。昨日のこと、突然切り出されて驚いたでしょうけれど、受け入れてくれて本当に……本当に、ありがとう。なんと言えばいいのかわからなくてもどかしいのだけれど、私、いま心の底から幸せよ」

 

 私が思わず破顔するのを見て、由比ヶ浜さんと比企谷くんも微笑んだ。

 

「こちらこそだよ。ゆきのん、ありがとね。あたしたちの居場所、いつも作ってくれてたのはゆきのんだったから。……奉仕部のときも、今も」

 

 それはそんなに感謝してもらうようなことではない。

 奉仕部は平塚先生に言われてできた部活だし、そこに彼らがやってきたのもすべては平塚先生の指導の結果だ。

 今回の家族になろうというのも、元はと言えば私の事情から切り出した話だった。

 

 そういう話をすると、由比ヶ浜さんは首を振った。

 

「それでも、奉仕部の部室をいつも開けててくれてたのはゆきのんだったし、昨日家族になろうって言ってくれたのもゆきのんだよ。だから、ありがと! あたしもね、すっごい幸せだよ!」

 

 由比ヶ浜さんの言葉に、涙があふれてきた。

 

 奉仕部にいた頃の私はあれでよかったのだと優しく肯定された気がした。大学受験から今まで、私はずっとあのときの無力感を晴らそうと努力してきた。その無力感が今、由比ヶ浜さんの言葉で一気に晴れ渡り、今までの努力がすべて報われたような、そんな気がしたのだ。

 

「俺も、お前が奉仕部という場を作ってくれてたから、依頼を受けてそれを解決できてたんだ。そんで、これからも世話んなる。……雪ノ下、これからもよろしくな」

 

 比企谷くんの言葉で、私の心にはひとつの目標が浮かび上がってきた。

 

「ええ……ありがとう、二人とも。これからもよろしく」

「うん!」

 

 この二人をいつまでも支えていこう。私たちの関係はきっと世間からの風当たりが強いだろう。人の無理解に傷つけられることだって少なからずあるだろう。でも、私はそうした理不尽に対する盾になろう。

 

 そうすることが、二人に出会うまでの、理不尽に晒され続けた私への手向けだと思うから。

 

 

 

 

 

 2028年。

 予定から1年遅れての開業となったリニア中央新幹線の開業式典に、私はスタッフとして参加していた。

 

「リニア新幹線の最初の構想が始まったのは今から66年前、1962年のことでありました……」

 

 国土交通大臣の挨拶が始まった。

 

 私は33歳になり、昨年から本省でリニア新幹線を所掌する課長補佐になっていた。

 この8年で産休と育休を2回取ったが、一時期は国際機関に派遣されたこともあり、毎年目が回るほどの忙しさだった。だが、子供が生まれてから比企谷くんが専業主夫になってくれたこともあり、なんとか無事にやってこれている。

 

 私たち三人の家庭は、やはり順風満帆というわけには行かなかった。さまざまな世間の無理解にぶつかり、涙を飲んだことも少なくない。

 一方で、私たちの親にはいろいろとお世話になっている。由比ヶ浜さんのお母さまに子供たちを預かってもらうことなんて日常茶飯事だし、私の母も理由をつけては孫を預かろうとする。比企谷くんのご両親は相変わらず忙しく仕事をされているが、暇ができるとうれしそうに孫の顔を見に来てくれる。

 

 私たち三人はいつもどおり、誰が大病することもなく平常運転。私は遅くまで残業し、由比ヶ浜さんは外回りでヘトヘトになっているのを、いつも比企谷くんが家で出迎えてくれる。最近は子供たちが出迎えてくれることも多い。一日の疲れが吹き飛ぶ瞬間だ。

 

 大臣、運行会社社長、地元自治体首長の挨拶に続いてテープカットも終わり、いよいよリニア新幹線が動き出す。

 

 ふと、車内で高校生くらいの男女3人が楽しそうに話をしているのが目に入った。

 

 ――奉仕部にいた頃の私たちも、あんなふうに見えていたのだろうか。

 

 そう考えて、私はなにか胸の奥からこみ上げてくるものを感じた。

 

 

 

 リニア新幹線最初の列車は、静かに速度を上げ、ホームを滑り出ていった。



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履歴書(設定資料)

書くにあたって設定した三人の履歴書です。

 

年齢・生年は、目次ページにあるように原作第1巻が刊行された2011年に奉仕部の三人が高校2年生であると仮定して設定。

大学や就職先は筆者の独断と偏見に基づくものです。

 

 

 

雪ノ下雪乃(1995年1月3日生まれ)

2013年3月(18歳) 千葉市立総武高等学校国際教養科 卒業

2015年3月(20歳) T大学教養学部理科一類 修了

2017年3月(22歳) T大学工学部社会基盤学科 卒業

2017年4月(22歳) 国土交通省 入省

2019年4月(24歳) 鉄道局 係員

2020年4月(25歳) 現職

 

比企谷八幡(1994年8月8日生まれ)

2013年3月(18歳) 千葉市立総武高等学校普通科 卒業

2017年3月(22歳) W大学政治経済学部政治学科 卒業

2017年4月(22歳) 某メガバンク 入行

2018年3月(23歳) 某メガバンク 退行

2019年4月(24歳) 千葉市役所 入庁 教育委員会事務局 係員

2020年4月(25歳) 現職

 

由比ヶ浜結衣(1994年6月18日生まれ)

2013年3月(18歳) 千葉市立総武高等学校普通科 卒業

2017年3月(22歳) C大学商学部会計学科 卒業

2017年4月(22歳) 大手ビールメーカー 入社 首都圏統括本部 社員

2020年4月(25歳) 現職

 

一色いろは(1995年4月16日生まれ)

2014年3月(18歳) 千葉市立総武高等学校普通科 卒業

2018年3月(22歳) AG大学教育人間科学部心理学科 卒業

2018年4月(22歳) 大手化粧品メーカー 入社

2020年4月(24歳) 現職

 

比企谷小町(1997年3月3日生まれ)

2015年3月(18歳) 千葉市立総武高等学校普通科 卒業

2019年3月(22歳) AG大学教育人間科学部心理学科 卒業

2019年4月(22歳) 大手携帯キャリア 入社

2020年4月(23歳) 現職

 

戸塚彩加(1994年5月9日生まれ)

2013年3月(18歳) 千葉市立総武高等学校普通科 卒業

2017年3月(22歳) W大学政治経済学部政治学科 卒業

2017年4月(22歳) 大手スポーツ用品メーカー 入社

2020年4月(25歳) 現職

 

平塚静(1977-83年生まれ)※作中「アラサー」としか年齢がわからないので、2011年4月時点で27-33歳とした場合

2000-2006年4月(22歳) 千葉市教育委員会 高校教員採用

20XX年4月(2X歳) 千葉市立総武高等学校 着任

2020年4月(36-42歳) 千葉市教育委員会事務局




冒頭の大成建設CMネタ、官僚になった雪ノ下雪乃、激務で疲れた雪ノ下雪乃に対して由比ヶ浜が言う「ゆきのん目がヒッキーみたいになってるよ……?」というセリフ、ゲロを吐く雪ノ下雪乃、がやりたかった4要素だったのですが、これをお話に仕立てるのが大変でした。

また、アニメ2期から分岐した内容なので、3期が始まる少し前に投稿しようと思って調査が甘くなり、投稿後に総武高校が県立ではなく市立であることがわかって慌てて修正したりしています。他にも間違いがあったらご指摘ください。直せる範囲で直します。

あと、これも投稿してから気づきましたが、由比ヶ浜結衣は6月生まれなのに、誕生日について本作でまったく触れられていないというのは手落ちですね。今からだと無理矢理ねじ込むことになってしまうので、今後の課題とします。

最後までお読みいただきましてありがとうございました(このページを先に読んでおられる方がいらっしゃいましたら、ぜひ本文も読んでいただければと思います)。少しでも楽しんでいただけたようでしたら望外の喜びです。


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代表取締役社長・雪ノ下陽乃(おまけ)

 アニメ3期公開ちょっと前に本編を投稿したつもりが新型コロナで放送延期になってしまったので、今度こそ3期放送ちょっと前の投稿です。


 残暑も終わっていよいよ秋という気候になってきた10月のある日、俺のスマホに着信があった。あまり出たくない相手だったが、妻の親族という関係上出ないわけにもいかない。緊急の連絡という可能性もある。

 

『ひゃっはろー比企谷くん。お義姉ちゃんでーす』

 

 幸か不幸か、どうやら緊急事態というわけではないようだった。

 陽乃さんとは俺たち3人で家族になってから数年間で何度か顔を合わせたが、電話がかかってくるのは初めてだ。

 

『突然なんだけど、明日時間あるかな? あるよね?』

「いやアレがアレなんで……」

『あれれー? 雪乃ちゃん情報だとプリキュアの映画見に行くから有休取ってるって話だったけど』

 

 雪ノ下のやつ、俺の行動を勝手にしゃべりやがって……。陽乃さんの用なんてどうせロクなことじゃないし、お断りしたい。

 

「プリキュアの映画を見なきゃならないんで……」

 

 昼はちびっこが多いから行くのは一番最後の夜の上映だが、ウソは言っていない。それに昼間は映画に備えてブルーレイを見直すなどいろいろと準備がある。

 

『えー? 比企谷くんは子供がいっぱいいる昼間の上映時間に見に行くとは思えないんだけどなぁ?』

 

 読まれてた。

 

「いや昼間もいろいろと用事があるんで……」

『ほんとにー? 雪乃ちゃんは「あの男のことだから、どうせブルーレイを見直す大切な用事があるとかそんな言い訳をすると思うけれど」って言ってたよー?』

 

 雪ノ下さんなんでそういうことしゃべっちゃうの……? 配偶者を姉に売るなんて家族の危機だよ? っていうか「あの男」呼ばわりはひどくない? あと陽乃さん、雪ノ下の真似がすげーうまい。

 

『別に取って食うわけじゃないから安心して。あ、でも比企谷くんに取って食われるのはやぶさかじゃないよ~?』

「食いませんから……それで、なんなんです?」

『ちょっとお出かけ。めったに入れないところに連れてってあげるからさ。どうかな?』

 

 まぁ、妻の親族と友好関係を築いておくのは必要だろう。

 

 

 

 

 

 翌日、俺は陽乃さんの会社の人たちとともに東京証券取引所のロビーにいた。

 

「今日はうちの会社が上場する日なんでしたー! すごいでしょ!」

「ええ、まぁすごいですけど……俺みたいな部外者がいていいんですかね」

「部外者じゃないよ、今日だけ比企谷くんはわたしの秘書ってことにしてあるから」

 

 周囲にはスーツ姿の年配男性が5人(中には雪ノ下の父、つまり俺の義父もいた)、同じくスーツ姿のそれより少し若い中年くらいの男女が10人ほどたむろしている。俺もスーツで来いと言われたし、陽乃さんもスーツだ。

 陽乃さんの紹介によると、年配男性陣は会社の役員、それ以外は陽乃さんの本物の秘書や幹部社員だという。場違い感がハンパねぇ……。

 

 役員の年配男性陣は雪ノ下のこともよく知ってるらしく、「ついこないだ生まれた子がもう結婚かぁ……年取るわけだわ」とか「ちょっと目はアレだけど、雪乃ちゃんいい男捕まえたな!」とか「千葉市役所勤めなんだって? うちの会社をよろしく!」とかいろいろと言われた。

 年配男性陣に揉まれつつ義父の雪ノ下さんとの世間話をしていると、役員陣が東証の人に呼ばれた。応接室で東証の役員と名刺交換会があるという。雪ノ下との関係をうまく取り繕いながら世間話をするのはけっこうなプレッシャーだったので命拾いした……と思ったが。

 

「ほら、比企谷くんも。今日は秘書なんだからね」

 

 特別応接室はテレビで外国の要人を迎えるときに見るような、豪華な絨毯張りの部屋だった。俺は陽乃さんの本物の秘書の人と並んで部屋の隅っこに立ち、陽乃さんたちが名刺交換と同時にしばらく歓談するのを眺めていた。

 東証の役員も全員が中年以上の男性なので、陽乃さんは今日の主役というのもあるが、紅一点として非常に目立っている。

 

 こういう場で社交をやっている陽乃さんは、心の底から有能で温和で友好的な若き女社長に見えた。「今でこそ多くの部分を年配の役員に頼っているが、いずれは確固たるリーダーシップのもとに会社を引っ張っていく将来有望な若社長」という人物像を演じているようにはとても思えなかった。

 

 名刺交換会は15分ほどで終わり、幹部社員の人たちも合流して東証アローズに移動する。

 東証アローズはテレビでよく見るアレだ。上のほうで銘柄と株価がグルグルしてるやつ。俺も株をやってるから実物を見てちょっと感動してしまった。

 ここで上場通知書と記念品贈呈の式典が行われ、記念写真を撮り、その後はいよいよ打鐘に移る。

 

 陽乃さんが打鐘用の木槌を持ち、鐘の由緒や叩き方を東証の人にレクチャーされる。

 陽乃さんは振り返って自分の父親も含めて会社の人たちを一瞥した。

 

「いきますよー!」

 

 カーン、という大きな打鐘音が東証に響く。続いて義父の雪ノ下さんが力強く鐘を叩く。その後は役員や幹部社員の人たちが数人まとまって代わるがわる打鐘し、セレモニーは終わった。

 陽乃さんは涙を浮かべていた。

 

 

 

 

 

 ここで役員・幹部社員の人たちは解散したが、俺と本物の秘書さんは陽乃さんのインターネット放送出演の様子を東証内のスタジオで見ることになった。

 

 カメラの前に立った陽乃さんはキャスターの年配男性と話す内容を最終確認し、スタッフのカウントダウンが始まると少し緊張した面持ちでカメラを見つめた。

 

「この時間は、本日東証ジャスダック市場に新規上場となりました、証券コード19XX、株式会社雪ノ下ビルド工業代表取締役社長、雪ノ下陽乃さんにお越しいただきました。雪ノ下社長、本日はおめでとうございます」

「ありがとうございます」

「今どんなお気持ちですか?」

「はい。ステークホルダーのみなさまのご指導ご鞭撻をいただきまして、本日上場を果たすことができ、身が引き締まる思いです。ここをスタートラインとして、今後はより一層の緊張感を持ち、社員一丸となって企業価値向上に努めてまいりたいと思っております」

「それではまず御社、雪ノ下ビルド工業についてご紹介いただけますか」

「はい。弊社雪ノ下ビルド工業は……」

 

 陽乃さんは原稿もなしにスラスラと会社の説明を進めていく。

 事前に練習したんだろうかと思ったが、陽乃さんなら本番一発でこれくらいできそうな気もした。俺が職場で業務改善案の発表したときは、事前に何度も練習したのにあんなにうまくはしゃべれなかった。

 

「……では最後に、雪ノ下社長からテレビをご覧の投資家のみなさんにメッセージをいただけますか。こちらのカメラから」

「ステークホルダーのみなさまのご指導ご鞭撻をいただきまして、本日上場を果たすことができました。厚く御礼申し上げますとともに、今後も弊社全員が一丸となって『確かな技術・確かな信頼』の理念のもと、よりよい社会への貢献と、それによる企業価値向上を目指してまいりますので、弊社雪ノ下ビルド工業をどうぞよろしくお願いいたします」

「……はい。この時間は、本日東証ジャスダック市場に新規上場となりました、証券コード19XX、株式会社雪ノ下ビルド工業代表取締役社長、雪ノ下陽乃さんにお越しいただきました。雪ノ下社長、ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 

 

 

 

 

 最後に東証にある記者クラブ「兜倶楽部」で記者会見を行って、今日の陽乃さんの新規上場企業社長としての仕事は終わった。

 秘書さんは上場祝賀会に遅れないようにと陽乃さんに釘を刺して、社用車で帰っていった。

 

「比企谷くんお疲れー!」

「お、お疲れさまです」

 

 上場したのがうれしいらしく、いつも以上にテンションが高い。

 

「どうだった? 来てよかったでしょ?」

「ええ、まぁ。確かに『めったに入れないところ』でしたし、ちょっと感動しました」

「そっかそっか。よかった! お義姉さんに感謝してくれてもいいんだぞー?」

 

 言いながらバンバンと背中を叩かれる。マジでテンション高いなこの人。

 

「雪ノ下さん、ちゃんと『社長』やってるんですね。ちょっとびっくりしました」

「えー? どうしたの急に。……社長になったのは去年だし、まだお飾りの神輿って感じだけどね」

 

 陽乃さんはめずらしく自嘲的な笑みを浮かべた。

 

「やっぱり若い女だとナメられるし、まだまだだよ。インタビューでも言ったけど、ここがスタートラインだね」

 

 そう言うと、陽乃さんはいたずらっぽい顔をして俺の腕を抱えるようにして擦り寄ってきた。

 近い。いいにおいがする。柔らかい。ちょっと、既婚者に対してそういうことするのやめてもらえます?

 

「ねえ比企谷くん。ほんとにわたしの秘書にならない?」

「……え、遠慮しときましゅ」

「ぶふっ、噛んでるし……そっか。それならしょうがないなー」

 

 陽乃さんは俺の腕を放して数歩と歩き、突然立ち止まってこちらを振り返った。トレンディドラマのヒロインかよ。しかもそういうのがめちゃくちゃ様になるんだよなこの人。

 

「プリキュア、見に行こっか」

「はい?」

「プリキュアの映画、見に行くんでしょ?」

「俺は行きますけど、雪ノ下さんプリキュアわかるんですか?」

「ううん、全然知らない。だから解説して? チケット代出してあげるからさ」

「えぇ……」

 

 

 

 

 

 最寄りの上映館がある丸の内までは歩いていくことになり、道中は俺が陽乃さんにプリキュアについて解説することになった。日本橋とか銀座の人通りの多いところでプリキュアについて語らされるのってこれなんて罰ゲーム?

 

 あと少しで到着というところで、陽乃さんのスマホが鳴った。

 

「隼人だ。ちょっとごめん」

 

 葉山隼人。懐かしい名前だ。高校以来まったく話に聞かなかったし、思い出そうとも思わなかったが、どうやらまだ雪ノ下家との関係は続いているらしい。まぁ親の仕事関係らしいし、金でつながった縁はそうそう切れるもんでもないだろう。

 

「ごめんごめん。早く戻って来いって怒られちゃった」

「……今日はもう帰りましょうか」

「いいよ気にしなくて。ちょっと比企谷くんとデートしたい気分なの」

「いやデートって言われても」

「いいからいいから!」

 

 陽乃さんは図々しい笑顔の下になにかを隠しているようだった。

 

 陽乃さんにチケットを買ってもらい、その間に俺は陽乃さん注文のポップコーンとコーラ2つのセットを買って、客席に向かった。

 

 客席に着くと、陽乃さんはジャケットを脱ぎ、「うーん」と声を上げて伸びをした。俺は目をそらしてポップコーンを食うことに集中する。いや胸がね? 視界に入ってきちゃうっていうか……。

 

「映画なんて見るの何年ぶりかなぁ……すっごい久しぶり」

「忙しそうですもんね」

「そう。そうなのよ。誘ってくれる人も今はいないし」

 

 えっ、映画館は一人で来るところでは? なんてことは言わない。そういうのは高校で卒業した。大学時代は戸塚や一色と来てたし、就職してからは由比ヶ浜に事あるごとに連れてこられた。たまに一人で来ることもあったが、あくまでたまにだ。

 

「雪乃ちゃんとはうまくいってる?」

「ぼちぼちです」

「そう言うと思った。……まさか雪乃ちゃんに先越されるとは思ってなかったなー」

「雪ノ下さんだってその気になったらすぐでしょう」

「その気になる相手がいないのよね。筆頭候補は比企谷くんだったんだけど、雪乃ちゃんとくっついちゃうしさー」

「はぁ」

「あー信じてないでしょ。……でもわたしももう30過ぎたし、会社も上場して一区切りついたし、結婚することになったんだ」

「相手はどういう人なんです?」

「気になる?」

「まぁ、義理の兄になるわけですからね」

「素直じゃないんだからー。……隼人だよ。今日の祝賀会で正式発表予定なんだ」

 

 陽乃さんの視線はスクリーンで流れている映画のCMに向いていたが、目にはなにも映っていない。

 

「だから、最後に比企谷くんとデートしとこうと思って。それで今日呼んだの」

 

 なんだか変な空気になってきた。

 しかし現時点では陽乃さんはあくまで冗談として「デートしとこうと思って」と言ったに過ぎないし、時間もまだ16時前。日も暮れていない。まだあわあわ慌てる時間じゃない。ところで俺、誰に言い訳してるの?

 

「この映画くらいなら付き合いますよ」

「ほんと? うれしい!」

 

 陽乃さんが俺と腕を組み、肩に頭を預けてきた。これ、完全にアウトのやつじゃないかな……。「新規上場美人社長と公務員の密会現場!」みたいな記事出ないよね……? あと胸が当たってるし、いいにおいもするし、ドキドキしちゃうのでやめてほしい。

 

「あの雪ノ下さん、一応俺、既婚者なのでそういうのは……」

 

 やめてもらえると、という話をしようとしていると、上映時間が近づいたのか、劇場内が暗くなる。

 

「ねぇ比企谷くん」

 

 陽乃さんが耳元でささやく。心臓の拍動が一気に大きくなった。

 「耳弱いんで」という会話を初めて陽乃さんと会ったときにやった記憶が、ふと蘇ってきた。

 

「雪乃ちゃんがいなかったら、もしかしてわたしにもチャンスあったかな?」

「……雪ノ下がいなかったら、そもそも陽乃さんと知り合ってないですよ」

「ふふっ、そっか」

 

 陽乃さんは俺の拘束を解いて離れた。

 このまま取って食われちゃうんじゃないかといろんな意味でビクビクしていたので、全身から力が抜けた。

 

「そうだよね……いやーもっとわたしのほうからグイグイ行けばよかったなぁ。まんざらでもないみたいだし?」

「家庭があるのにそんなわけないでしょ……」

「家庭がなかったらコロッといってたでしょー? なんならこの後ホテルに行ってもいいよ? お義姉さんとワンナイトラブ、どお?」

「そんなことしたら雪ノ下と由比ヶ浜と小町にコンクリ詰めにされて印旛沼に沈められちゃいますから」

 

 俺がそう答えると、陽乃さんは「そっかぁ……」と大きくため息をついた。

 

「比企谷くんにフラれちゃった」

「葉山と幸せになってください」

「隼人はねぇ……ハイスペックだけど面白みがないのよね」

「じゃあなんで」

「結婚するかって? まぁ……会社経営上の事情かな。隼人、弁護士になって今は外資系コンサルの会社にいるんだけど、ほら、ウチは地方の土建屋だからそういうハイスペック人間なんてまず採用できないし、わたしと結婚して会社に関わってもらえるとだいぶありがたいのよね。あ、さっき比企谷くんを誘ったのも本気だから。その気になったらいつでも連絡ちょうだいね?」

「いやそれは結構です」

 

 陽乃さんは「そっちでもフラれちゃったか……」と笑った。

 

「……わたしね、今はウチの会社、けっこう気に入ってるんだ。会社入る前は『ほんとはもっと上の大学行きたかったのに』とか、『会社の付き合いに顔出さなきゃいけないなんて』って思ってたのを、わたしがやれば雪乃ちゃんは自由にやれると思って我慢してた。でも会社に入って仕事してみるとさ、どんどん楽しくなってきちゃって。もちろんつらいことも大変なこともあるけど、チームをうまくまとめて計画どおりにプロジェクトを完了させられるとね、ほんっとにビールがおいしいんだよ!」

 

 そうやって会社のことを語る陽乃さんの顔は薄暗い中でも輝いて見えた。

 

「なんていうのかな、仕事してると『わたしたちがいい暮らしできたのは社員のみんなのおかげだったんだなー』とか、そういういろんなことが一気に実感を持ってわかってきて、世界が広がってるーって感じがするの。経営者一族だからいろんなことやらせてもらえてるってのが大きいんだろうけど、ちょうど比企谷くんたちが一緒になったあたりからかな、『あ、わたしこの会社に人生捧げたいな』って思うようになったんだ」

 

 劇場がさらにもう一段暗くなり、予告編や映画泥棒のCMが始まった。陽乃さんの子供のように目を輝かせている顔が、スクリーンからのわずかな光で浮かび上がる。

 

「いいじゃないすか。打ち込めるものがあるって、ちょっとうらやましいです」

「お? じゃあ比企谷くんもウチの会社に人生捧げてみない? お給料弾んじゃうよー?」

「いや、俺はもう人生捧げる先が決まってるんで」

「連れないんだからー。……隼人は面白みはないけど悪い男じゃないっていうのは知ってるからね。それに隼人も今は仕事が楽しいらしいのよ。だから、『じゃあ仕事人間同士、世間体もあるし結婚しちゃおっか』ってことになったの」

 

 陽乃さんと葉山なら人もうらやむ美男美女ダブルインカムパワーカップルだ。しかも片方は上場会社社長、もう一方は外資系コンサル勤務ときた。うわ、金持ち向けの雑誌に載ってそう。

 そんなことを考えていると、葉山が俺の義理の兄になるということに気づいてしまった。普通に嫌だな。雪ノ下家の集まりに出たら絶対比べられる。

 

「あ、わたしが結婚しても雪乃ちゃんとか由比ヶ浜ちゃんに飽きたらいつでもお義姉ちゃんのところに来てくれていいんだぞ? 比企谷くんならいつでもウェルカム!」

「だから行きませんって」

 

 そんなことを言い合っているうちに完全に劇場内の照明が落ち、鑑賞マナーやらプリキュアのこれまでのあらすじやらが始まった。

 

 

 

 

 

 映画を見終えて映画館を出たところで、俺のスマホが鳴った。雪ノ下だ。

 

『姉さんとのデートはどうだったかしら、浮気谷くん?』

「俺は無実だ。……上場セレモニーに混ぜてもらってその後映画見ただけだよ。今隣にいるけどかわ「ひゃっはろー雪乃ちゃん! 比企谷くん貸してくれてありがとねー!」

 

 「かわるか?」と確認を取る前に陽乃さんが勝手にしゃべりだし、仕方なくスピーカーモードに切り替える。

 

『姉さん』

「比企谷くんとあつ~い一日を過ごさせてもらったよ! ねー比企谷くん!」

『比企谷くん。なにがあったか、帰ったらじっくり聞かせてもらうわよ』

「だからなんにもないって」

『そういうわけだから姉さん、そろそろうちの夫を解放してもらえるかしら』

「はいはーい。わたしもこの後用事があるから、残念だけどお食事はまた今度だね」

「え、ええ。そういうのはやっぱり家族が揃わないといけませんしね」

 

 陽乃さんこういうの効かなそうだなと思いつつ予防線を張っておく。予防線を平気で踏み越えてくるタイプだけどなこの人……。

 

『姉さん』

「なぁに雪乃ちゃん?」

『上場おめでとう。今日だったでしょう』

「覚えててくれたんだ。……ありがとね」

『私の実家の会社でもあるのだし、潰さないでくれるとありがたいわ』

「なんですってぇ~? あっという間に東証一部日経225銘柄まで駆け上がってやるから見てなさい! あ、あとわたし隼人と結婚することになったから」

『はい?』

「もうこんな時間! この後上場祝賀会なんだ。じゃ、またね! 比企谷くんも!」

 

 そう言うと、陽乃さんはさっさとタクシーを止めて乗り込もうとした。

 

「雪ノ下さん!」

 

 陽乃さんの動きが止まり、こちらを向く。

 

「今日はありがとうございました。あと、おめでとうございます」

 

 陽乃さんはにっこり笑って手を振り、「ありがとねー!」と言って走り去っていった。

 

 陽乃さんを見送り、俺は有楽町駅に足を向ける。

 

『まったく、相変わらずね』

「お前もなにも聞いてなかったのか?」

『初耳よ』

 

 二人で同時にため息をつき、それがなんだかおかしくて二人で小さく笑い合った。

 

「雪ノ下さんに会社入らないかって誘われたわ。秘書にならないかってよ」

『収入は上がりそうね。馬車馬のように働かされそうだけれど』

「それなんだよなぁ……」

 

 とはいえ、子供が成長して手がかからなくなった後の就職口としてはアリだ。

 雪ノ下のお腹には今、6か月になる子供がいる。この子が生まれ次第、俺は市役所を辞めて晴れて専業主夫になる予定だが、やはり教育費の負担は小さくない。全部私立なら大学卒業までに子供一人当たり2000万と言われるが、雪ノ下と由比ヶ浜が2人ずつ生むとすると計4人で8000万。いくら雪ノ下と由比ヶ浜が高給取りとはいえ、ちょっとしんどい額だ。もちろん最大でこれくらいという話ではあるが、家計の余裕は心の余裕でもあるし、俺も働きに出なくてはなるまい。

 陽乃さんにそういう話しとけばよかったな。今度会ったらお願いしておこう。

 

『ところで、姉さんとの「あつ~い一日」について聞かせてもらいましょうか』

「俺は無実だ。せいぜい映画館で陽乃さんに抱き着かれたくらいで……」

『ふぅん……? 妊娠中の妻が働いているのをよそに、妻の姉に抱き着かれて鼻の下を伸ばしていたと?』

「ちょっと? 鼻の下なんて伸ばしてないからね? ……俺が鼻の下を伸ばすのはお前と由比ヶ浜にだけだ」

 

 素直に本心を言葉にするのが一番だということを、俺は雪ノ下にプロポーズされたときに学んだのだ。だからこれは俺の本心。そして家族の信頼関係でつながった雪ノ下はわかってくれるに違いない!

 

『信用ならないわね。家族会議を招集します』

 

 あ、あれ? 家族の信頼関係……。あと家族会議が軍法会議みたいに聞こえるんですけど?

 

『……だから、早く帰ってきなさい。由比ヶ浜さんももう帰るって連絡があったわ』

 

 雪ノ下は柔らかな声でそう告げた。

 

「……おう、すぐ帰るわ。じゃ、切るぞ」

『ええ』

 

 電話を切り、俺は大きく深呼吸をして、家族の待つ家に帰るべく歩き始めた。




 本当は陽乃の社長インタビューを書きたかったのですが、「俺ガイル二次創作を読む人はそこまで株式投資に興味がない」と思い直し、大幅カットして書き直しました。



 社長インタビューはインターネットテレビ「ストックボイス」で平日昼間に放送されている番組「東京マーケットワイド」内の社長インタビュー(さらに言うと岩本秀雄キャスターが担当のとき)をモデルにしています。
 その他の上場セレモニーについては株式会社ピアラ企業ウェブサイト内のニュース記事「東証マザーズ上場セレモニーの流れをまとめました。」を参考にしました。


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