ココアから、コーヒーまで (海月 水母)
しおりを挟む

ココアから、コーヒーまで

外を見れば、校内に植わった樹木はどれも青々とした葉を下げている。

 

サクラの樹。

春の初め、人々の生活が移り変わる頃には門出を祝うように花を咲かせ、一月もすれば、我々に落ち着きを求めるように澄んだ緑の葉を繁らせる。

花もいいが、この葉に囲まれた景色も私は好きだ。

 

横目にそれを眺めるのを止め、長い廊下に視線を戻す。

上質な木製の床に鳴るのは、私一人の足音だけ。

生徒も、授業を受け持つ教員の多くも、今は教室で己のすべきことをしている。そうでないのは、先ほど午前の授業を終えた私くらいだ。

 

 

「ふあぁ~~ぁう……。んぅ…ねむ…。」

 

 

念のため、人がいないことを確認してから、だらけきった顔と欠伸で眠気を逃がす。女性として、というより教育者という立場として如何なものか、とでも言われそうな、腑抜けた欠伸だ。

 

 

「教育者という立場として如何なものか」

 

 

先週、私の欠伸を目撃した教頭先生に賜ったありがたいお言葉が頭を過る。立場も職種も、眠いときの眠気の前では等しく無意味だろうに。

 

思いながらまた、大きな欠伸を一つ。

 

 

 

 

埃っぽい部屋の埃っぽい扉を開くと、案の定埃が宙を舞った。白衣の袖で口元を覆いながら中に入る。そそくさと持ち出した教材を元に戻し、急いで外に出た。

理科準備室。様々な理科の教科書と実験教材、模型等が揃った部屋だ。ついでに建付けの悪い扉と大量の埃も揃っている。私が来る前からひどい有り様だったのだから、これはもう筋金入りの汚部屋なのだろう。

 

いい加減掃除しなくてはと、春に赴任してから毎日思ってはいる。だが、思っているだけだからいつまで経っても片付かない。ぶつぶつと文句を垂れながら、きっと明日の私も片付けないのだろう。

 

 

再び上質な木製の床を鳴らし、理科室へ戻ってきた。

床から一段高くなった広めの教卓、そこから見下ろせば、六人ほどで使える大きめの机が九つ、3×3で整って並んでいる。必然的に、他より広くなるのが理科室だ。

とはいえ、必要な教材の多くが理科準備室に収納されているため、この教室自体に理科室らしさはあまりない。強いて言えば、私が着ている、シワの目立つ白衣くらいのものだ。

 

 

さて、と私は窓際に移動し、窓の蝶番を外す。新鮮な空気を取り込むためだ。埃にまみれた準備室から帰ってきたせいか、なおさら体が澄んだ空気を欲していた。

 

 

窓を開け放つと、期待通りの旨い空気が運ばれてきた。小春日和の暖かな日差しと風が溶け込んだ酸素を目一杯吸い、そして息を吐く。体の内側を風が吹き抜けて、埃やらなにやらを運び出していく、そう感じさせる爽快感だ。

 

 

近くの椅子を引き寄せ、それに腰かける。そよそよと吹く風に誘われるように頭を机に伏せば、暖かな日差しは毛布の様に私を覆い、早くも意識が遥か果てへ遠のいていく……。

 

 

 

 

 

 

 

広大な敷地と木造の立派な学舎が物語る通り、私がいるのはここらでも有数の名門校、通うのも超がつく金持ちの子ばかりだという。生徒は初等部、中等部、高等部と幼少期からのほとんどをこの学舎で学び、卒業後は多くが親の仕事を継いでいく。

存在こそ知っていたが、私には一生縁のない場所、としか考えていなかった。…ほんの数ヶ月前までは。

 

数ヶ月前に病を患い、長期入院を余儀なくされた姉のたっての頼みで、私は姉の代わりにこの教壇に立つことになった。

 

 

飄々とした性格に似合わず勉学に長けた姉だとは思っていたが、これほどの名門校で教鞭をとっていたとは知らず、驚いたことを覚えている。だが直後の「教師をやってみないか?」というあっけらかんとした申し出には、先の驚きなど霧散させるだけの威力があった。

 

 

 

「確かに、教員免許はあるけど…。」

 

 

 

科学の道に進んでいたとはいえ、私はどちらかといえば一人で黙々と研究するのが好きなタイプだ。

そんな私が教育など…。私はその場で、姉に正直な気持ちを打ち明けた。のだが、

 

 

 

 

「お前は本当に楽しそうに研究をする。あれと同じだよ。楽しさをそのまま、子どもたちに伝えればいいんだ。」

 

 

 

どうやら姉が私を選んだ理由は、むしろその研究への姿勢によるものだった。ますます意味が分からない。

とはいえ、私はこの仕事を引き受けることにした。

姉の受け持ちは初等部の理科の授業だった。相手にする子どもの年代を考えれば、そう気負うこともない。

ついでに高給に釣られたのもある。しばらく代わりを務めて、終わればその報酬を新たな研究費に充てよう。そう考えれば悪い話ではないと、少し前の私は甘い皮算用をしていた。

 

 

 

始まってみれば、大変なことしかなかった。

まず私の話や知識に、まともに着いてこれる生徒がいなかった。言われてみれば当たり前だが、彼らは基礎の基礎すら知らない状態から始まるのだ。

 

さらに、この学校の雰囲気自体も、私には息の詰まるものだった。生徒も教師も、多くが大層な家の出だ。

とりたてて悪い人がいる訳ではないのだが、彼らとは話の話題も距離感も合わない。社交性に富んだ姉ならいざ知らず、ただでさえ人付き合いの苦手な私では関われば関わるだけ疲れるという有り様だった。

 

 

そんな訳で私は、授業以外の時間はほとんど理科室に閉じ籠る毎日になっていった。なるべく誰とも関わらず、姉が帰ってくるまでその代わりを務めればいい。そう思うようになっていった。

 

 

 

 

 

 

しばらく経った頃。私がようやく、生徒に分かる言葉で授業を進められるようになった頃だ。それでも相変わらず、

 

いつものように無人の理科室。その日の授業を終え、私は教卓に突っ伏して窓から覗く景色を眺めていた。机の傍らには、マシュマロとホットチョコレートが準備されている。毎日の疲労は、甘味への欲求へと昇華されていくようになった。

 

 

 

「こうでもしなきゃ、やってられん…。」

 

 

ぼやきながら、マシュマロを一つ、また一つと投入していく。無心で入れていたせいで溢れそうになって、ようやく私は手を止めた。ため息をつき、カップを持って窓辺へ移動する。

 

 

 

「やっぱり、私には向いてないよ……。」

 

 

眩しすぎる日差しに目を細めながら、届かぬ弱音を姉に向けて吐いた。

安請け合いした自分も自分だが、なぜ姉は私なんかを代わりに選んだのだろう。考えても分からない、弱気な気持ちが、心に渦巻き始めていた。

 

 

ふと、妙な肌寒さを感じた。どこかから吹く、隙間風のようだ。

窓を開けた覚えは無い。では、どこから…。

顔を上げ、辺りを見回す。と、入り口の扉が半開きになっているのに気づいた。

 

 

閉めようとして近づき、そこで初めて、扉から覗く人影に気づいた。

少女が一人、扉の影に隠れるようにして立っている。

置き忘れたノートを取りにきて…、と小さな声で呟いていた少女だったが、そこで何かに気づき、こちらを見上げてきた。

 

 

「あまいにおい、する……」

 

 

少女の視線は、私の持つマシュマロ入りホットチョコレートに注がれていた。

 

 

「あ…」

 

 

不思議そうにこちらを見つめる少女。

一方の私は冷や汗が止まらない。ひきつった笑顔を浮かべるのが精一杯だ。

 

 

「見なかったことに、してくれるか…?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「せんせ?…せんせ、おきてー!」

 

 

 

微睡みを覚ましたのは、耳に響く少女の高い声だった。

 

 

 

「………んぁ」

 

「もー、よだれでてるよ?」

 

 

 

大きく伸びをし、ぼさぼさの長髪をかき上げて眼鏡をかけ直す。未だ光に慣れぬ目をしばたたかせれば、見知った少女が私を見上げていた。

 

ふわりと揺れるブロンドの髪、澄みきった青の瞳は雲の無い空を思わせる。黒を基調とした初等部の制服に白のタイツ、ワンポイントに金のベルト。その出で立ちはさながらアンティーク人形、洋服も髪も彼女自身も、周りからよほど大切に扱われているのだろう。

 

私より遥かに年下でありながら私より整った身なりは、さすがお嬢様といったところか。

 

 

 

「お前か……ふあぁ…。」

 

「えへへ。おはよー、せんせ?」

 

「…ああ、おはよう。…もう午後だけどな。」

 

 

 

懐から時計を取り出して見れば、ざっと二時間は寝ていた計算になる。彼女がいるということは、今は昼休みの時間か。

 

 

寝起きの気だるさのまま立ち上がると、弛緩した脚に力が入らず体がふらつく。慌てて机に手をついて体を支えた。まだ寝呆けているようだ。

 

ふと、視線を感じて下を見ると、少女が心配そうな目で私を見上げていた。

 

 

 

「せんせ…ぐあいわるいの…?」

 

「いや、ただ眠いだけだ。最近寝不足だからな…。」

 

 

 

なんともないよ、とアピールするため笑顔を浮かべてみせるが、少女の不安げな表情に変わりは無い。

 

 

 

「そんな顔するな…別に病気な訳じゃない。」

 

 

少女の頭に手を置き、ブロンドの毛並みをとかすように撫でてやる。少女の表情は徐々に緩んでいき、やがて歯を見せて笑顔を浮かべるようになった。

彼女の機嫌を取るのも、もはや慣れたものだ。

 

のそのそと教卓へ移動し、机に備え付けられた引き出しを開く。小さな実験器具がいくつかと、およそ学業とは関係のない菓子類が無造作に放り込まれたその引き出しは、もちろん私によるものだ。私以外ほとんど利用しないこの理科室は絶好の隠し場所である。

その中からビーカーを一つと、小さな網、錆びた三脚、マッチ箱、そして液体の入った瓶を取り出した。それを見て、少女は澄んだ瞳をいっそう輝かせる。

 

 

「あっ、それ!"アルコールランプ"、だよね!」

 

 

…そういえば、今日の授業ではこいつの使い方を教えたんだっけ。覚えたての知識を披露できて、少女はとても嬉しそうだった。

 

 

 

(…まあ、これは正しい使い方ではないけど。)

 

 

そう思いながらも、少女の目を気にすることなくランプに火を点し、三脚と網を重ね、水を入れたビーカーを加熱する。平行してマグカップを取り出し、隠しておいたインスタントコーヒーをカップにあける。

 

 

 

「なにかつくってるの…?」

 

「コーヒーだよ。飲んでみるか?」

 

 

沸かしたお湯をカップに注ぐと、湯気と香りが立ち上る。

昼時とはいえ、寝起きの私に食欲はほとんどなかった。普段から食への興味が薄い私にとっては、コーヒー一杯が昼食代わりでも特に困らない。

 

 

「コーヒー…おとうさんがよくのんでるよ。わたしは、まだのんだことないけど。」

 

「まあ、お前の家で出てるのには遠く及ばないだろうが…。どうだ、一口?」

 

 

 

 

…今や彼女の前では、ここでのティータイムを隠すこともしなくなった。

マグカップの取っ手を少女の方に向けてやると、少女はカップを小さな両手で持ち、しばらくふーふーと冷ましてから、恐る恐る一口すすった。

 

 

「……うぇ、にがぁ……。」

 

 

期待以上のリアクション。渋い顔を浮かべる彼女の表情を見て、私は思わず吹き出した。

 

 

「……よくわかんない。せんせは、これがおいしいの?」

 

「まあ、お前にはまだ分からん美味さだろうな。」

 

「むう~、いまこどもあつかいしたでしょ!」

 

「ははは、悪かった。ほら、お前はこっちのが好きだろう。」

 

新しく沸かしていたお湯をカップに注ぎ、コーヒーとは別の袋の中身をあける。優しく甘い香りが漂ってきた。

 

「…!ココアだぁ…せんせ、ありがと!」

 

 

幸せそうにココアを啜る姿はまさしく子ども、他に形容しようのない。

真面目な顔をしているときと比べ、頬の緩みきった今の彼女にお嬢様らしさは皆無だ。

だがそのあどけない愛らしさが、ここでの私の癒しになっているのも確かだった。

 

 

 

 

 

 

私の"息抜き"を目撃して以降、彼女は毎日のようにここを訪ねるようになった。

一人の時間は減ったが、何故だか彼女といる時間は嫌いではなかった。私はコーヒー、彼女にはココアを用意し、少し菓子を広げ、のんびりと過ごす昼下がりの静かな時間。横に屈託のない笑顔の彼女がいるだけで、私の心に足りなかった何かが満たされるようだった。

 

 

 

私の横に椅子を置き、座るよう促す。

はじめは向かい合いように椅子を置いていたが、その度彼女は私の横まで椅子を移動させて座り直すのだ。仕方なく、広い理科室の教卓で、肩を寄せ合うように並んで座る。

端から見れば可笑しな画だが、彼女は特に気にするでもなく、むしろ私が近くにいることがよほど嬉しいらしく、時折訳もなくこちらを見ては、頬を緩めて笑顔を見せてくる。

 

 

「…それにしても、お前も飽きずによく毎日ここに来るなあ。」

 

 

コーヒーの代わりに淹れてやったホットココアをすすり、幸せそうにほぅ、と息をついた少女に私はそう呟く。すぐさま、曇りのない笑顔がこちらを向く。

 

 

「あきないよ、せんせといるとたのしいもん!」

 

「そう言って、本当は菓子が目当てじゃないのか?」

 

「むぅ…ちがうよー!」

 

 

これだけ毎日のように私の元を訪れるのだから、それなりに懐かれているのだろうという自覚はあった。

しかしその理由となると、我ながら見当もつかない。授業でも話に熱がこもりすぎて、生徒から引かれていることは自覚していたし、それ以外の時間の私など、ほとんど脱け殻に近い状態だ。

 

 

「私なんかのどこがいいのやら…。」

 

 

その言葉に自嘲の意味が含まれているとも知らず、少女はえっとねー、と理由を述べてくる。

 

 

「せんせはね、すっごくキラキラしてるの!」

 

「私が…キラキラ…?」

 

全く予想していなかった答えだ。

 

「うん! じゅぎょうのときとか、じっけんのときとか、せんせはいつもキラキラしててね、たのしそうなの!」

 

 

 

楽しそう、か…。

姉も言っていた。私の感じる楽しさを、そのまま子どもたちに伝えればいい、と。

正直、今はそれが上手く出来ているとも思えない。

だが私の姿勢そのものから、それを感じとってくれる子もいた。

 

 

報われた。そんな風に思えた。

 

 

「たのしそうなときのせんせ、とってもかわいくて、だいすきだなぁ…。」

 

「かっ、可愛い……!?」

 

 

さらに予想していなかった返しに、思わず声が裏返り、コーヒーを吹き出しそうになる。

恋人はおろか、友達と呼べるものとさえ無縁に生きてきた人間なのだ。素直な好意の言葉に耐性のない私の頬が、みるみる赤く染まっていくのが分かる。

 

 

 

「たまに、しゃべってることよくわかんないけど…。」

 

「…それは、私も治したいところだよ。」

 

 

 

机の上で組んだ腕に顎を乗せ、いじけた声を出すと、頭に柔らかい感触が乗っかった。何かと思えば、少女の手のひらだ。よしよし、と慰められるその様は、まるで私のほうが年下になったみたいで、くすぐったい気持ちになる。

 

 

 

「そしたら、みんなもっとせんせがすきになるね!」

 

 

 

俯いていた気持ちに、彼女の言葉が沁みるように伝わってくる。

彼女の言葉はどこまでも素直で、裏表がなくて、ひねくれた私の心にもすっと入ってくる。

彼女との時間が好きなのは、きっとそれが理由なのだろう。

 

 

 

「…でも、せんせのこといちばんすきなのは、わたしじゃなきゃやだな…。」

 

 

 

自分で言った状況を想像して、少女は少しむくれた。

生徒たちに囲まれる私の姿でも見えたのだろうか。…自分で想像しても、我ながら似合わなすぎて笑えてくるのだが。

 

 

 

「そうなったとしても、こうして一緒にサボるのはお前とだけだろうな。」

 

「!! …そっか、わたしとだけかあ……えへへぇ……。」

 

「そんなに嬉しいことかね…。ほんと、変わり者だな、お前は。」

 

 

 

ふっ、と笑みがこぼれる。

ここまで自然に笑えたのも、久しぶりな気がする。

 

 

 

「だが…ありがとう。お陰で、なんだか頑張れる気がするよ。」

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

「先生?…先生、起きてー!」

 

 

微睡みを覚ましたのは、耳に響く少女の高い声だった。

 

 

「………んぁ」

 

「もう、涎出てるよ?」

 

 

 

大きく伸びをし、ぼさぼさの長髪をかき上げて眼鏡をかけ直す。未だ光に慣れぬ目をしばたたかせれば、見知った少女が私に微笑んでいた。

 

さらりと流れるブロンドの髪、澄みきった青の瞳は雲の無い空を思わせる。グレーを基調とした高等部の制服と白のタイツが、彼女の清楚な雰囲気をいっそう引き立てている。

 

 

 

「お前か……ふあぁ。」

 

「えへへ、先生、おはよう。」

 

「ああ、おはよう。…どうしたんだ、ニヤニヤして。」

 

「ううん。先生の寝顔が可愛かったなー、って。」

 

 

いたずらっぽく浮かべる笑みからは、初等部の頃の彼女にはなかった妖艶さを感じさせる。

 

 

 

「朝からブレない奴だな、お前も…。」

 

「ブレようがないよ、だってわたしはもう、先生の恋人だもん!」

 

 

 

威張ることでもないだろうに、えっへん、と胸を張る。見た目や雰囲気が大人びても、やっぱり彼女は彼女だ。

 

 

 

 

 

 

 

夢を見ていた。私と彼女が出会って間もない頃の、とある一日の夢を。

たぶん彼女は覚えていないだろう。それほどにいつもと変わらない、ただの一日だった。

ただ、その日彼女のくれた僅かな言葉に、私は救われた。

 

姉が病床から復帰した後も、私は学舎に残る決意をした。まだまだ未熟だが、少しずつ人付き合いも克服してきている。

 

私が今も教師を続けられているのは、ちょうど夢に見ていたあの日、彼女に言われた言葉のお陰だと思う。

 

 

私の働き口が変わらない一方で、小さくない変化もあった。…さっき彼女が口走った通りに。

 

 

 

 

 

 

「嬉しかったなあ…先生から告白してくれたあの時は……えへへ…」

 

「またその話か…いい加減勘弁してくれ、恥ずかしいんだ…。」

 

 

紅潮した頬を気づかれまいとクッションに埋める。だが止めろと言われて止める彼女でもない。

 

 

「だってだって、ほんとにびっくりしたんだよ!先生の方から『好きだー!』って言ってくれてさ!」

 

「んん…いや、まあ…こういうのは年上がきっちりしとかないと、って思ったから…。…あとそんなに叫んだ覚えはない。」

 

 

 

彼女の素直な好意の言葉にあてられ続けた影響か、私の中で彼女の存在がかけがえのないものになるまで、そう時間はかからなかった。

だからこそ私の方から思いを伝えたのだが…正直、あの時の自分を思い出すだけで顔から火を吹きうになる。その上彼女はその時のことをいたく気に入り、あまつさえ私本人に何度も話してくるのだから、恥ずかしいことこの上ない。

 

…まあ、彼女が喜んでいるのを見る度、私も心のどこかでは嬉しく思っているのだが。

 

そんなこんなで私と彼女の距離はより近くなった。だからといって同棲まで許可した覚えはないが、それにつっこむのも半ば諦めている。

 

 

なんのことはない。私も結局、今の時間が好きなのだ。

 

 

 

 

 

 

ブロンドの髪を後ろで束ね、エプロンを付けた彼女がキッチンに立つ。パジャマ姿の私はリビングで、ぼーっと脳が覚醒するのを待つ。今では当たり前となった、我が家の朝の光景だ。

「わたしがちゃんと作ってあげないと、先生すぐ適当にご飯済ませちゃうでしょ?」

彼女の言葉にしては珍しく、私には反論しようのない正論を返されたのも記憶に新しい。

 

 

 

 

「はい、先生もコーヒーどうぞ。」

 

「…ありがとう。」

 

 

キッチンから戻った彼女からカップを受け取る。奥から聞こえるトースターのチリチリという音をBGMに、二人並んで席につく。

コーヒー、か。

ちらり、と彼女の方を見ると、彼女もまたコーヒーの入ったカップを両手で持ち、ちびちびとすすっている。

 

 

「苦くないか?」

 

「からかわないでよ。そんなに子供舌じゃないもんねー。」

 

「そうか…ふふっ。」

 

 

いつか、初めてコーヒーを飲んだときの、彼女の渋い顔を思い出し、笑いがこみ上げていることなど、彼女は気づいていないだろう。

 

 

と、不意に見やった掛け時計の示す時間に、あ、と声を出した。

 

 

 

「そろそろ出発した方がいいんじゃないか?」

 

「…あー、そうだね。」

 

 

初等部と高等部の学舎の間には、少し距離がある。彼女と私の出発時間は、いつも少しズレがあるのだ。

 

 

 

 

「…気をつけてな。」

 

 

 

 

一瞬、寂しさが胸を過った。

高等部に進んだ彼女とは、昼休みに学舎で会うのも難しい。夜までの一時と分かっているはずなのに、この瞬間はいつも、心に空風が吹くように寂しさが過る。

 

 

 

突然、彼女が身を乗り出した。私の後ろに置いてある何かに手を伸ばしているのかと思ったが、ブロンドの髪と彼女の香りが鼻をくすぐる距離になっても彼女に止まる気配はない。

 

声を上げる間もなかった。

突然のことに動けない私を尻目に、彼女は容易く私の唇を奪う。

 

 

「んんっ!?」

 

 

 

互いの体温が、鼓動が、全て手に取るように分かる距離。思わず瞑ってしまった目を開くと、引き込まれそうなほど深く青い、彼女の瞳があった。

 

 

 

 

「お前っ…また勝手に…!」

 

「もー、いいでしょ、行ってきますのキスくらい。」

 

 

鼓動の高鳴りを誤魔化すような私が声を上げても、悪びれるでもなく、むしろ素っ気ないくらいにあっさりと顔を離し、エプロンをほどきながら彼女は言う。

 

 

 

「せっかく、先生が寂しそうにしてたからしてあげたのに。もうちょっと喜んでほしいなぁ…。」

 

「っ…別に嫌だった訳じゃ…」

 

「じゃあ、あんまり嬉しそうじゃないのはなんで?不意討ちだったから?」

 

 

しゅん、とした彼女の横顔が見えて、思わず私も声を上げてしまったことを申し訳なく思う。

 

 

 

「それはっ、その……今キスだけされたら、夜まで我慢できなくなりそう…だった…から…。」

 

 

本心を告白させられてから、しまった、と気づく。私に素直な気持ちを言わせようという、彼女の魂胆に今さら気づいたのだ。

向こうからしてきておいて、これじゃあ私の方が、彼女を求めて仕方がないみたいじゃないか…。

 

 

 

 

案の定、私が本音を話したことで彼女は満足げに笑いかけてきた。

 

「先生がもっと、って言うなら、わたしは少しくらい遅れても気にしないよ?」

 

一度は立ち上がった彼女は、私の横にもう一度腰を下ろす。その笑顔には、いじわるさも少し混じっている。

 

 

…一応教師なのだから、目の前で堂々と遅刻を宣言した彼女は見過ごしてはならない。理性では早くも正解を導き出したが、熱を帯びた胸は昂り、彼女を求める情欲は大きくなる一方だ。心が、身体が、彼女を欲している。理性などでは釣り合わないほどに、秤は本能へ傾く一方だった。

 

 

「ほら…先生はどうしたいの?」

 

 

私を抱き止めるように両の手を開き、選択を促す。彼女はいつだってそう。聞くまでもない答えだが、私に答えさせたいのだ。こうでもしないと、先生はすぐに本音を隠してしまうから、と。

 

 

 

 

私は無言で、彼女の胸に埋まるように抱擁した。

 

 

「ふふっ、よくできました、先生。」

 

 

いつかのように、柔らかな手のひらが私の髪を撫でる。

あの時より、ずっと大きくなった手のひらで。

 

 

 

 

 

 

 

 

「…なあ、さっきから気になってたんだが…」

 

 

 

きょとんとした彼女に、私は言葉を投げかける。

起きたときからの違和感。彼女の『呼び方』だ。

 

 

 

 

「なんで今日は『先生』って呼んでるんだ?私はもう、お前の先生じゃないだろ…。」

 

 

それを聞いた彼女は、むぅ、と頬を膨らませた。

漫画のように分かりやすいこの仕草で、彼女は不満を表すのだ。

 

 

「だって、先生の方がわたしの名前、呼んでくれないんだもん。」

 

「それは……」

 

 

…なるほど、それに痺れを切らしたということか。

確かに彼女を名前で呼ぶことは、平時はあまりしない。

昔の癖が抜けないのもあるが、結局のところは、

 

 

「…仕方ないだろ、まだ少し恥ずかしいんだ…。」

 

 

彼女と肌を重ねる間は、自分がいつもより素直になる自覚がある。それでも気恥ずかしさに変わりはないのだが。

彼女の前で、私は何度頬を赤らめただろう。

 

 

 

 

「大丈夫だよ、今はわたし達しかいないから……」

 

 

 

だから、先生の声で、聞きたいな。

 

囁くその言葉は魔法のように、私を彼女へ引き寄せる。

だが期待されるほど、どうやって言えばいいのか、頭が混乱してしまい、上手く声が絞り出せない。

 

 

やっとの思いで、私は口を開いた。

ぎこちない動きで彼女の耳元に顔を寄せ、か細い声でその名を呼ぶ。

 

好きだ。

 

言うつもりのなかった言葉まで、勢いに圧され口走ってしまう。

 

 

自分の言葉にはっ、と驚き、思わず顔を離してしまう。

だが彼女は満足そうに微笑み、わたしもだよ、と私の名前を口にする。

 

 

 

たったそれだけで、私はどうしようもなく満たされてしまう。

年下の彼女に主導権を握られているようで少し悔しいけど、そんな彼女に心から甘える時間は、たまらなく幸せでもある。

 

もはや時間のことなど頭には無かった。

彼女を抱きしめ続けたい。彼女の香りにずっと包まれていたい。そんな気持ちに歯止めがかからない。そんな私の全てを受け入れるように、また、彼女の瞳が近づいてきた。

目を閉じる。今度は、私も彼女を受け入れるようにして。

 

 

 

 

いたずらな笑みも増えた。

素直になれない私にいじわるな時も増えた。

けれど彼女の笑顔は、あの頃と変わらず私を何よりも幸せにしてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。