毒使いビッチと童貞勇者 (えびまよクラン)
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毒使いビッチと童貞勇者

 勇者のセックスはつまらない。

 

 こっちのことなんておかまいなしで、自分が気持ちよくなるために腰を振る豚野郎ばかり。「気持ちいいだろ?」じゃねーんだよ。「大洪水だぜ?」だって? 言うほど濡れてねえっつうの。それに、めちゃくちゃに掻き回したら多少は濡れるモンだって。身体反応(しんたいはんのう)として。それはあくまでも反応であって、感情なんかじゃ断じてない。こっちの気持ちを全然無視して身体ばっかりいじられたって、そんなもの、気持ち悪いわボケ。感情と身体が一緒に導かれて初めて気持ちいいんだっつうの。アタシの言う『気持ちいい……♡』が『さっぱり気持ちよくねえんだよカス』だってことに気付いてほしいけれど、豚野郎どもはやっぱり気付かない。

 昨晩の奴らもそうだった。

 

 毎度のことながら、そんなことを考えながらベランダで煙草を吹かすアタシも、なかなかにどうしようもない女なのかもしれない。なんて、ちょっとナーバスになりつつ、沼地を行く銀の鎧たちを見送るアタシ。柵に身体を預けて、痛めつけられた腰をさする。

 

 デブの勇者には二種類いる。寝転がってご奉仕待ちのポンコツか、のしかかるのが大好きなマザコンか。

 昨晩の勇者は後者だった。

 ファック。

 お仲間の魔法使いと戦士も同じ性癖のデブで、そりゃもう最悪だった。

 ファックファック。

 

 昨日の雨でぬかるんだ道を、ずんぐりした銀色がえっちらおっちら進む。紫のローブ姿の魔法使いと双剣を装備した軽装の戦士も、みんな揃ってどんくさい足運びだ。転べ、なんて思うけど、そんな間抜けな真似は仕出かさないあたり、本当に勇者どもは生意気。足取りはぐずぐずなのに、鎧と同じく煌めく銀のランスは真っ直ぐに天を指し、日差しを反射して眩しい。

 

 勇者の行く先――町の方角から風が吹いてきて、ほんのりと湿った腐臭が鼻を撫でる。沼地の空気も、夜の(にお)いよりは何倍もマシだ。自然は偉大。

 装飾もなにもない素焼きの灰皿に三本目の煙草を押し付ける頃、マザコン三色団子は見えなくなった。

 

 室内に戻り、机の引き出しから唐草模様の小箱を取り出す。

 

「……あと二個じゃん」

 

 小箱の中にはピンクの錠剤がふたつ、心許なく転がっている。

 ファック。そういえば残り少ないから仕入れなきゃ、と何日も前からぼんやり考えてたっけ。延ばし延ばしにしてしまう理由もちゃんと分かってる。

 

 深呼吸をひとつして、錠剤をひとつ口に放り込む。続いて机の上の火酒を(あお)ってからベッドにダイブ。仰向けになって、いつもの通り手を組み合わせる。

 

 陽光の下の小川のせせらぎ。

 魚が跳ねる。

 着水と同時に、アタシは魚の目で水中を見ている。

 水草のうねり。

 川底の石は滑らかさ。

 見上げると、さざ波立つ水面が絶えず日光を歪ませている。

 仲間の魚が、誘うように視界にちらつく。

 

 今のアタシとは無関係の空想を頭に浮かべ、没入しようとする。薬による悪夢のような痛みから逃れる方法のうち、アタシに出来るのはなんとか目をそらすことくらい。それでもイメージは、現実の痛みとともに歪んでいく。

 

 自然は偉大で、だから自然に逆行する行為には代償が伴う――なんて小賢(こざか)しいこともアタシは考える。これでも昔は秀才だったんだ。今では落ちぶれたモンだけど。

 ああ、それにしても痛い。お腹の中心から四肢のほうへと、ぎざぎざの錆びた剃刀がゆっくりゆっくり泳いでいくみたいな感じ。

 

 痛い。

 痛い痛い痛い。

 痛い痛い痛い痛い痛い痛っ、ふぐぅ、痛い、痛い痛い痛い。

 魚の目。

 水中。

 痛い。

 エメラルドブルーの日差し。

 痛っ。

 真っ赤な鱗。

 剃刀。

 血。

 

 

 町に出たのは夕方になってからだった。

 今朝の痛みは、いつにも増してひどかった。たぶん、デブ勇者にプレスされたせい。ホント、最低。

 

 そんなわけで、アタシは石畳を歩いている。

 画一的な三角屋根の家々、鉄製の吊り看板、酒場の呼び子の声。

 

「いらっしゃい! 火酒置いてるよ! いらっしゃいいらっしゃい!」

 

 頭に響く大声。骨に染みて、腰にも響く。だからアタシは反射的に足を速めて通り過ぎたけれど、火酒は買っておきたい。残り少なくなっていた気がするから。

 でも今は後回し。さっさと薬を手に入れる必要がある。

 目指すは町の中心に建つ大袈裟な教会――否、娼館だ。

 

 

「ごきげんよう、マリアさん。少し痩せましたか? しっかり食べて健康に生活しなければいけませんよ。貴女は昔から身体が弱かったんですから、よくよく自分を大事にすることです。それにしても、マリアさんの顔を見ると嬉しくなりますね。(しげ)(かよ)ってくれませんから、ほんの少しだけ寂しい気がします。貴女と同級の聖徒にも顔を合わせていってはいかが? 皆さん、きっと喜びますよ」

 

 教会の扉をくぐるや否や、早口で捲し立てるシスターを前に、アタシはいつものように閉口している。うんざりしている。帰りたい、と思っている。

 アタシが笑顔を信用できなくなったのはこの初老のオバサンのせいだけど、もはや憎む気もなくて、とっとと薬を頂戴、って顔でため息をひとつ。

 

「言わなくても分かってますわ。お薬が切れそうなのね」

 

 察しの良さは必ずしも美徳ではないけど、今の場合はとってもナイスだ。といっても、いつものことだけど。

 

 薬を取りに礼拝堂を出ていくシスターから目をそらして、聖像を眺める。ひだの多いローブをまとった女が、鎧姿の男に抱かれて『いやいや』と顔をそらしながらも満更でもなさそうな顔を浮かべているゴミみたいな像だ。いつ見ても壊したくなる。

 礼拝堂の隣には、三角屋根の石造りの建物がある。聖徒の私室や、教室、食堂、お仕置き部屋、そして『聖堂』が備えられたご立派な施設だ。アタシが十二歳まで過ごした場所で、よく覚えてる。

 かつてのアタシは『聖堂』のことを、神聖なお祈りの場所だと思っていた。礼拝堂よりもグレードの高い特別な部屋だと。事実は違う。

 勇者のプレイルーム。

 性堂。

 ホント、しょうもない。

 

「随分お待たせしちゃいましたね」

 

 あ、シスターが戻ってきた。手には黒っぽい瓶。中には白の錠剤がたっぷり。

 アタシが木箱を渡すと、シスターはわざわざひとつひとつ丁寧に錠剤を掴んでは、ゆっくりと箱に並べ始めた。これもいつもの通りの仕草。

 

「今日は聖徒のひとりが誕生日なんですよ。朝からはしゃいで、とっても可愛らしい……。あの年代は世界全部が自分を祝福しているように感じるものです。だから私のような年寄りは、期待通りに振舞わなければなりません」

 

 あの年代ってどの年代よ――と思ったけど口には出さない。

 ところでアタシは誕生日が嫌いだ。アタシの誕生日のことを、シスターは覚えていないのだろう。

 

 十二歳の朝、アタシは勇者のパーティに迎えられた。聖徒――ヒーラーは魔族の討伐に欠かせない存在らしい。もちろん、別の意味でも欠かせない。

 

 別の意味?

 性奴隷ってこと。

 

 世界は役割でできている。そして役割とやらは覆せないこともある。望むと望まざるとにかかわらず、特定の役割に押し込められてしまう人間がいるわけ。

 アタシみたいに。

 

 靴屋が靴を作るように、戦士は戦士としての役割が、魔法使いには魔法使いとしての役割がある。まあ、勇者と一緒に旅をして魔族にぐちゃぐちゃにされる程度の役割だけど。

 

 魔族は勇者にしか倒せない。

 理屈はずっと昔にシスターから教わった気がするけど、とっくに忘れてしまった。どうでもいいし。

 なんにせよ、勇者にしか魔族とかいう化け物は殺せない。

 そんな特別な存在には特別な権利が備わっている。

 お店に入ればどんな品物はタダ。お酒も甘味も、武器も防具も下着も髪飾りも、全部タダ。商売人は特別なサインを貰って、それを王都に送れば代金が戻ってくる。そんな仕組み。

 今朝のデブの鎧がピカピカだったのは、どこかの誰かに磨かせたってわけ。

 

 ヒーラーはその名の通り、勇者を癒やす。回復魔法の専門家。で、勇者の夜のペットでもある。最低なことに。

 まあ、当然ヤられるだけじゃない。勇者ほどではないけれど、ヒーラーもそれなりの補填が王都からされている。

 勇者と一発ヤれば、身体のどこかに紋章が浮かぶ。一日だけ。それを教会に見せれば、いくばくかのお金が貰える。そういう意味では娼婦的で、教会が娼館であることは疑いようのない事実に思えるけど、やっぱりヒーラーは奴隷だと思う。拒否権がないんだもの。

 

 そうそう、十二歳のことだ。アタシはひと晩たっぷり娼館で過ごした勇者に、朝一番で呼び出された。厳密には『この教会で一番優秀なヒーラーを出せ』と言われたシスターがアタシを呼んだだけだけど。

 

 勇者の冒険はイージーなものじゃない。

 セックスパートナーとしてピカイチでも、治癒能力や補助魔法に優れていなければ魔族との戦いで生き残れないってこと。

 それに、町に行けばどこにも教会はあるわけで、夜のお供は都度都度求めればいいって考え方もある。アタシをパーティに入れた勇者もそういう奴――と、シスターは思ってたらしい。

 

 事実は全然違う。

 

 旅に出たその日の晩、勇者はアタシをレイプした。

 残念ながら十二歳の子供に聖徒の実態を教えるほどシスターは進歩的な人間ではなくて、十六歳になってはじめて性教育を色々と仕込むのが彼女のやり方だった。

 つまりアタシはなぁんにも知らない無垢な処女だったし、わけも分からず泣いて、喚いて、辛くて辛くて、死にたいほど悔しくて、それが勇者にとって新鮮だったのか、随分と手酷くやられた。毎晩。

 こうして振り返ってみると、人生はまるで悪いジョークみたいだ。

 

「人生は、そう悪いものではありません」

 

 アタシの手を握るように木箱を返すシスターに、ハッとして記憶の旅から還る。

 

「いつか薬を飲まなくともいいと思えるときが――」

 

 そんな時は永遠に来ない。アタシは勇者の子供なんて死んでも産みたくはないのだ。十二歳のときからずっと、その考えは変わらない。たとえ薬が激痛を伴うとしてもだ。

 さて、薬は手に入ったし、もう教会に用はない。

 

 さよなら、シスター。またいつか。アンタが生きてれば。

 

 

 去り際にシスターがくれた銀貨数枚は、すでに半分ほど火酒と煙草に消えてしまった。酒も煙草もまとめて購入できるのだから、この町の酒場は優秀。

 マスターも鬱陶しい干渉はしてこないし。酔っ払いに絡まれたらちゃんと助け舟を出してくれるあたり、ちゃんとしてる。

 

「災難だったな、マリアさん」

「いいよ、別に。いつものことだし」

 

 小太りのマスターと苦笑を交わして、アタシは火酒を呷る。お酒は良い。嫌なことがマイルドになる。

 

 さっきまでアタシをからかっていた男は、今頃悪態をつきながら町をぶらついていることだろう。多くの男にとっちゃ、ヒーラーはツッコミどころ満載の玩具だ。色んな意味で。

『一発ヤらせろ』なんてのは挨拶代わりだし、どこにいてもなにをしてても『ヒューゥ』なんて浮ついた口笛が聴こえてくる。

 でも実際に手を出そうとする奴はいない。

 特にアタシに対しては。

 

「聖徒は普段外出しないからね……君は気の毒だ。いつも矢面(やおもて)に立たされる」

 

 マスターは本当に気の毒そうに眉を八の字にする。見慣れた顔だ。酒場に出入りし始めて日が浅い頃は、彼のそんな態度も下心の裏返しじゃないかと(いぶか)ったものだけれど、そうじゃなかった。アンタになら別に抱かれたってかまわないよ、なんて本心から言ってみたら、見事に振られたし。それも、アタシがヒーラーで、すなわち勇者のお古だからってわけじゃなくて、自分には奥さんがいるから、らしい。

 

「アタシみたいに、一回勇者のパーティに入って無事に生き延びてるビッチなんて少ないからねー」

 

 グラスを傾けると、琥珀色の液体が滑らかに波打った。

 

「それだけマリアさんが(たくま)しいということさ」

「なに言ってんのさ。アタシは貧弱だよ。今朝だってデブの勇者に夜通しファックされて、もう、腰がガタガタ」

「はは……あんまり大きな声では言わないように」

 

 開けっ広げな猥談は酒場とはいえよろしくないことは知ってる。でも、そんなことは些末だ。本質はそこじゃない。

 

 勇者は多くの場合、犯罪が許されている。盗みはもちろん、殺しだってケース次第で無罪放免。村や町は王都の技術や物資の提供で成り立っているわけで、王都は徹底的に勇者の味方だ。

 勇者についての愚痴がうっかり本人の耳に入ろうものなら、どんな目に遭わされるか分かったもんじゃない。

 まあ、アタシはせいぜい道端でファックされるくらいだろうけど。それなら経験済みだし、セックスした証も肌に浮き出るから、教会でお金も貰える。

 

 それにしても、マスターの困り顔を見るのは楽しい。日々の娯楽と言ってもいいくらい、アタシは彼の八の字眉にハマってる。今日も素敵じゃん。

 

「そういえば、『銀槍の勇者』以外にも勇者が町に来てるらしい」

 彼は声をひそめて言う。

 

「へー。またデブだったら嫌だな。あと、尖った性癖の奴も勘弁」

「はは……マリアさんにお声がかかるとは限らないじゃないか」

「教会のババアはアタシを紹介するよ。平気で。セックスはアタシの役割で、聖徒らは純粋にヒーラーとして提供する魂胆だろうから。銀色のデブだって、今朝はアタシを置いて教会に行っちゃったしね。今頃優秀な癒やし手と一緒に魔族討伐でしょ」

 

 勇者のなかには魔族を避けるチキンもいる。甘い汁だけ吸いたい卑怯者。まあ、魔族にとって勇者はご馳走だから、逃げ回っててもいつか見つかるわけだけど。

 なんにせよ銀色デブは、珍しくチキンじゃなかった。昨日の夜、随分と意気込んでたっけ。

 

『俺は俺の役目をまっとうする。生きて帰れないかもしれないが……もし命があったら、また君に会いに行くよ』

 

 会いに行く、って。抱きに来るだけでしょうに。まったく。

 

「シスターのことを、あまり悪く言っちゃいけないよ。君の親代わりだろう?」と、マスターはため息混じりに言う。

「親に唾を吐く子もいるってこと」

「罰当たりだな」

「罰なんて当たらないよ。神様は目の潰れたインポ野郎だから」

 

 マスターは『やれやれ』とでも言いたげに首を横に振る。と思ったら、実際に口に出す。

「やれやれ」

 

「お行儀の悪い口で、ごめんね」

「いいさ。……ところで、もうひとりの勇者――『不浄の勇者』のことなんだが」

「股間をギンギンにして町を彷徨ってるって?」

「……オホン。どうやら、人探しをしてるらしいよ」

「セックスパートナーの間違いじゃなくて?」

「さあ、それは分からない。なんでも、毒の魔法使いを求めてるらしい」

「……なんでまた毒の魔法使い? こっそり殺したい相手でもいるってわけ?」

 

 軽口を叩きながらも、アタシは早速うんざりしていた。

 結局、勇者はどいつもこいつもアタシのところに来る運命みたいに思えてくる。

 

 

 アタシにとって毒の魔法は、神様の皮肉なプレゼントだ。

 

 勇者のパーティ――否、性奴隷として旅をしていたアタシは、割と大きめの街に寄った際に、薬屋から毒瓶をせしめて路地裏で一気に飲み干した。

 サヨナラ世界、ってな感じで。

 あの頃のアタシは酷く傷付いていたし、今とは比べ物にならないくらいセンチメンタルだったのだ。

 

 毒瓶を飲み干したアタシは、死ぬ代わりに毒の魔法を体得した。まるで神様が『おお、死んでしまうとはもったいない。これをあげよう。もう少し頑張んなさい』なんて訳知り顔でほざいてるみたいだった。

 

 生き残ったアタシは、代わりに勇者を殺そうと思った。毎晩毎晩えげつない抱き方をされるのは嫌だったし、なにより、それに慣れつつある自分を想うと気分は地獄の底まで堕ちていってしまう。

 で、アタシは勇者の食い物に毒をたっぷり仕込んだけど、奴はケロリと平らげた。その晩、犯されながら何度も毒の魔法をかけたのだけど、奴は死ななかった。

 

 真面目に勉強してれば踏まえていて当然の前提をアタシは知らなかったのだ。

 勇者はいかなる毒も受け付けない。そういうものなんだそうだ。無知なアタシにそんな常識を教えてくれたのは、当の勇者だった。

 

 で、アタシは次の町でお払い箱にされたわけ。そりゃ当然だって思う。自分を殺そうとするような相手と一緒にいるなんて、普通に考えてありえない。

 勇者は代わりのセックスパートナーを見繕って、アタシにサヨナラファックをキメて、路上に放り出しやがった。裸で。

 

 故郷の町までなんとか帰らざるを得なかったのは、勇者の広めた醜聞(しゅうぶん)のせいだ。まあ、毒殺しようとしたのは事実なのだけれど、それにしても、十二歳の少女をあらゆる土地の教会が締め出すように取り計らったその手腕は実に見事だと思う。どうかその能力をマトモなことに活かして貰いたかった。

 ズタボロのアタシに対して、この町のシスターは最大限よくしてくれた、のだろう。聖徒として再び受け入れることはできなかったようだけれど、生活の保証は約束してくれた。避妊薬の提供も。

 

 今日まで、その約束はキッチリ守られている。でも一応教会のヒーラー扱いにはなっているから、勇者のお供はやらされる。

 持ちつ持たれつってことだ。はっきりと口には出さないけど、シスターにはそんな打算があったのだろう。

 

 そんなこんなで二十歳になる今の今まで、アタシは故郷で暮らしている。ちっとも使わないからか、それとも教会から締め出しを食らったからなのか、神の奇跡たる治癒魔法は随分と弱まってしまった。

 反面、毒魔法はなぜか強力になっていくんだから笑える。

 

 

「勇者が二人も来るなんてねぇ」

「こわいこわい」

「魔族に町が壊されたらたまったもんじゃないよ」

「たっぷり物を買って、さっさとどっかに消えてればねぇ」

 

 こそこそと陰口を叩く主婦の横を通り抜けると、三秒もしないうちに「おい! 今なんの話をしてやがった!!」とオッサンの怒号が飛んだ。

 素晴らしき自浄作用。万歳。どうかそのドロドロのシステムの泥土に沈んでくたばれ、と昔のアタシなら思ったことだろう。舌打ちのひとつでもしたかも。今はそんなのナシ。当たり前の光景にいちいち反応してたら精神が擦り切れるだけだもの。

 

 万が一にも勇者が陰口を耳にしようものなら、町に二重の損害が出る。

 ひとつは、ヤケになった勇者の暴走。腹が立ったからという理由で殺戮劇を繰り広げられたら困るってわけ。

 でも、重要なのはもうひとつのほう。

 

 魔族になった(・・・・・・)勇者が、復讐しに来るかもしれない。

 

 どうも勇者の血と魔族の血は相性がいいらしい。それも、かなり、とかいうレベルじゃなく。

 魔族は死に際に気化する。それを吸い込んだ勇者は、ほとんどの場合、魔族になってしまう。一部の忍耐強い、精神力のある奴だけが勇者のままでいられる。

 で、魔族になっても記憶も感情も残っているわけで、人間時代にされた腹立たしい物事はキッチリ小さなオツムに詰まってる。そういえば町のババアがうぜえこと言ってやがったな、よし、景気よく首をはねてやろう。スカッとしたいから、ついでに町もぶっ壊しちゃおう。てへっ、ついつい羽目を外して焼け野原にしちゃったぜ。――なんて、大袈裟でブラックなコメディが展開されるのは勘弁してほしいってこと。

 

 とはいえ、さっきの主婦もそうだけれど、基本的に町の人は平和ボケしてる感じがある。そりゃ、勇者に無理矢理パーティに加入させられることもなければ、当然魔族と戦うこともない。

 魔族の側でも、基本的に一般人は襲わない。というかたまに町に来たりする。んで、普通に買い物したりする。代金は払わないけど。でも長居されたら困るから、積極的に勇者の居場所をリークすることだってザラだ。魔族にとって勇者はご馳走で、胃袋に収めれば大概満足して帰っていく。

 勇者の居所を吐いても大したデメリットはないし、むしろ、頑なに隠して暴れられても困るのだ。

 

 ――とまあ、そんなあれこれをぼんやり考えていると、ドン、とぶつかられた。

 

「痛っ」

 

 ……と反射的に言ったのはアタシじゃない。アタシは直立不動。

 相手は無様に尻もちをついて、後生大事に抱えていたのだろう、紙袋の中身を路上にぶちまけた。

 ころころころ、と林檎が灰色の路上を鮮やかに彩る。わぁ綺麗、なんて少し思っちゃった。

 

 アタシにぶつかった相手は、男……というか少年だった。目が少し隠れるくらいの、しっとりした黒髪。乞食でももっとマシなモン着てるんじゃないかと思っちゃうくらいボロボロのシャツとズボン。

 見たことのない顔。旅人か、あるいは――。

 

 アタシは林檎を拾いながら、それとなく彼を観察した。

 

「ごめんね、大丈夫?」

「おかまいなく」

 

 生意気な子だ。けど勇者より百倍マシ。で、コイツは間違いなく勇者じゃない。勇者ってのは、いつだって小綺麗にしてるモンだ。腹立たしいくらいに。

 それと、コイツはなんの武器も持ってない。

 オッケー。それなら少しくらい優しくしてあげよう。

 

「ほら、手を貸してあげる」

 

 立たせてあげようと手首を掴むと――。

 

「触るな!!」

 

 えぇ……それ、あんまりじゃない?

 あまりにもあんまりじゃない?

 お姉さんはビッチだし、そりゃあ世間一般の道理から考えれば穢れのひとつやふたつどころじゃなくて百個くらい抱えているけれど、でもそれは道理が間違っているわけで、というかそもそもアタシの生活や内面をこのガキが知ってるわけもなければ察してもいないだろうに、なんでこんな仕打ちを受けなきゃいけないんだとは思うけど、それら全部を口に出すほどアタシは子供ではない。

 だから、マスターを参考に困り顔を作ってしゃがみ込み、小首を傾げ気味に「ごめんね、ボク。お姉さん悪いことしちゃった?」と優しく優しく声をかけてやった。

 

 効果があったのかどうかは知らないけど、ガキはおろおろと目を泳がせ、サササっと林檎を紙袋に詰めた。

 そしてひと言。

「ごめんなさい」

 プラス、ぺこり。

 

 アタシは呆気に取られて、少年がこっちの手から林檎を奪い去るのさえ、あまり意識していなかった。

 少年の態度が急変したからぼうっとしちゃったわけじゃない。彼の手指、ボロボロの服の隙間から見える肌という肌――顔以外の部分が、ほんと、薄気味悪いくらいにかさぶただらけだったのだ。

 

 少年はいつの間にやら駆け足で去ってしまって、取り残されたアタシは今さらのように身震いした。その痛々しい肌になった経緯を逆算して同情するよりも、嫌なものを見てしまった、という感覚が先に居座ってしまったのだ。

 

 忘れよう、そうしよう。

 

 神様が作ったシステムのなかで、比較的気の利いたものが『時間』だ。時間は嫌な記憶を、実感の届かない彼方に吹き飛ばしてくれる。さよならバイバイ最低の記憶の数々。

 かさぶたと一緒に、少年のことも忘れよう。どうせひと晩寝れば、この瞬間の記憶は些細なものに変わってくれる。少なくとも、リアルな寒気を感じることはなくなるだろう。

 

 

 世界が皮肉なのはいつものことで、嫌な予感は大抵当たるし、世に言うフラグは多くの場合、回収される。

『今日は平和な一日でありますように!』と珍しく朝一番でお祈りなんてした日には、最低の一日が約束されるようなものだ。

 

 要するに、夕食時にわざわざノックしてきた相手が例のガキであることは、はじめから決まっていたようなコトってわけ。

 そして、その最低の来訪者が昼間のお詫びにやってきたわけじゃないってコトも、やっぱりあらかじめ決まっていたような気がする。

 

 さすがに開口一番『僕に毒の魔法を教えてください』とほざいたのは驚いたけど。

 

 

「――で、なんで毒の魔法を使いたいの」

 

 今日の夕飯はシチューだ。昨日の残り物だけれど、たっぷり作ったので明日までシチュー三昧。すなわち、突然来訪したガキに恵んでやるくらいの量はあるわけだ。

 なのに、ガキはテーブルにちょこんと座って、なんのアピールか知らないけど膝でキチンと拳を握って、背筋を伸ばしたままシチューには手も伸ばさない。湯気が虚しく、シャープで幼稚な顎のあたりを漂っている。

 

 ガキはシチューに目もくれない。

 食べるよう手で促したけれども、彼はほんの一瞬目を落としただけで、すぐにアタシを見る。呆れてしまうくらい真っ直ぐに。

 

 ま、いいや。

 アタシはアタシの腹ごしらえをするだけ。

 シチューをひと掬い、口へと運ぶ。

 

「自分に毒をかけたいんです」

 

 ……なに言ってんの、この子。口を開けたまま手が止まっちゃったじゃん。

 とりあえず、中途半端に宙で止まった匙を口まで持っていく。

 昨日も思ったけど、少し濃過ぎるかも。温める前に水を足せばよかった。ほんのり後悔。

 

「……自分に毒をかけたいんです」

「聴こえてるよ」

 

 もうひと口。

 またひと口。

 

「毒の魔法使いがいると聞いて、ここまで来たんです。……貴女がそうなんですよね?」

 

『貴女』だなんて、一丁前な呼び方するじゃないの。大人ぶりたい年頃なのかもしれないけど、ただただ生意気。アタシがもうちょっと素直な性格だったら『あら可愛い』だなんて思うのかもしれないけど、残念ながら町でも指折りのひねくれ者だ。それに、見かけがどうであろうと、目の前の存在を可愛いだなんて思えない。絶対に。

 

「アンタが、町に来てたもうひとりの勇者なのね?」

 

 確か、マスターは『不浄の勇者』とか呼んでいたっけ。勇者なんて例外なく不浄でしょ。間違いなく。

 

「そう。『不浄の勇者』って呼ばれてます」

「ふぅん」

「名前はイブです」

「聞いてない」

 

 顔立ち通り、中性的な名前。名は体を表さないというのがアタシの信条だけれど、こいつの場合は当てはまらないみたいだ。

 それにしても。

 

「アンタは勇者で、しかも自分に毒を注ぎたいって?」

「はい」

 

 呆れた無知だ。

 勇者に毒は効かない。そういう訓練を受けているのだから。つまりアタシの前にいるガキは、|騙り(・・)ってわけ。

 

「たまにいるのよね、アンタみたいに勇者を名乗る偽物が」

「偽物じゃありません」

「証拠は? 勇者なら身体のどこかに刻印があるでしょ?」

「……」

 

 イブと名乗ったガキは袖をまくって見せた。……かさぶただらけで、刻印なんて見えやしない。というか、食事中にそんな肌を見せるのはどうかと思う。促したアタシも悪いかもしれないけど。

 

「いつもそうやって町の人を騙してるってわけ?」

「今日はたまたま刻印が隠れてるだけです」

「なら、かさぶたを剥がせばいいじゃない」

「それは駄目です。痛いのはちょっと……」

 

 しょんぼりと俯いたって容赦なんてしてあげない。そもそも彼の要求自体、下心が見え透いてる。魔法の修行にかこつけて勇者特権だのなんだの言ってアタシに筆下ろしでもさせたいのだろう。まったく、近頃のガキは節操がない。というか、こんな子供の嘘を真に受けるマスターたちにうんざり。

 

「シチュー。冷めないうちに食べれば?」

「食べたら毒の魔法を教えてくれますか?」

「……馬鹿にしてんの?」

 

 シチューはアタシの善意だってのに、この子は……。いったいどんな生き方をしたらそんなふうに強引になれるのやら。そしてとびきり無知なのだから救えない。

 

「知らないみたいだから教えてあげる。いい? まず、勇者に毒は効かない。で、シチューはアタシの好意。いらないなら下げるけど」

「僕は特別に、毒が効くんです」

「ふぅん。なら今すぐ試してあげよっか?」

「今は駄目です」

 

 ほら。なんだかんだ証明なんてなにひとつできないのだ。

 どんどん逃げ道を塞いでやろう。動かぬ真実で。

 

「毒の魔法を会得するには、毒を飲んで生き延びる必要があるのよ。それだけじゃなくて、補助魔法の素質がなきゃ駄目。知ってるだろうけど、アタシは元々ヒーラーなのよ。今じゃそっち方面はさっぱりだけど、一応、補助魔法を使うだけの素質があったわけ。仮にアンタが勇者なら、魔法の素質はないでしょ」

 

 戦士は体力と筋力、魔法使いは魔力、ヒーラーは治癒力。それぞれに領分がある。勇者の場合は、スキルとかいう特別な力が備わってるだけ。補助魔法の素質はない……たぶん。

 

 イブは悄然と目を落とした――かと思えば、匙を持ち上げてシチューをふぅふぅと冷ましている。

 そうそう、さっさと食べてさっさと帰ればいい。今日の晩御飯くらいは恵んであげるけど、それ以上は絶対にナシだ。お金があれば考えてあげるけど、でも、やっぱり勇者を騙るような奴はナシ。これに懲りて二度と勇者を名乗るなんて暴挙やめたほうがいい。

 それらしく諭そうと頭で言葉を()ねくり回しているうちに、イブの吐息がやんだ。シチューを皿に戻し、顔を上げる。

 

「なら、貴女が僕のパーティに入ってください」

「は?」

「僕に毒の魔法が使えないなら、貴女が僕を毒にすれば――」

「はいはい、もうこの話はおしまい。早いとこシチュー食べてママのところに戻りな」

 

 あ、ちょっと嫌なこと言っちゃったかも。

 

「ママには会ったことないです。パパは死にました」

「……あっそ。じゃあそのかさぶたは? 虐待じゃないの?」

 

 てっきり、虐待とばかり思っていた。だから『ママ』って言葉を出したときに内心、しまった、と反省したのだ。

 

「これは魔族と戦ってできた傷です」

「へー。ほらシチュー食べな。冷めるよ」

 

 これ以上『不浄の勇者』の設定に付き合うのも馬鹿馬鹿しい。そもそも『不浄の勇者』って自分でつけた二つ名なのかな。だとしたら失笑モノのおめでたい青春病だ。将来ベッドのなかで昔の自分を思い出して悶絶することだろう。

 というか、かさぶただって、本当は泥を巧妙に貼り付けただけかもしれない。とにかくこいつが病的な凝り性なのは分かった。

 

 イブはほんのり口を尖らせた無表情で、またぞろシチューをふぅふぅしはじめる。相当な猫舌らしく、ちっとも口に運ぼうとしない。

 それどころか、またも匙を皿にどぼん。で、アタシをじっと見つめる。

 

「どうすれば信じてくれますか?」

「信じる信じる。協力しないだけで」

「どうすれば協力してくれるんですか?」

 

 ああ、もう、面倒くさい。子供ってこんなにウザいものだっけ。

 アタシ自身がそれなりに酷い子供時代を送ったものだから、なるべく優しく接してはいるんだけど、いい加減うんざりもしてくる。

 

「アンタが魔族に狙われたら信じて――」

 

 本日二度目のノックが部屋に響いた。

 

 

 戸口に立つ男を見るや否や、アタシは高濃度のびっくりとうんざりを味わった。

 

「約束通り、戻ったぞ」

 

 昨晩夜通しアタシをファック――というよりプレス――したデブ勇者が、そこにいた。

 まあ、厳密にはもう勇者じゃなかったんだけど。

 

 銀の鎧は名残すらなくて、上半身は素っ裸。下半身は鎧付きのズボン――グリーヴって言うんだっけ?――だけが残っている。兜もなし。ただ、ご自慢の槍はちゃんと持っていた。

 けど、それはどうでもいい。

 すっかり紫色に染まった肌と、真っ赤な瞳、そして額に突き出た一本角。

 ああ、これは……困っちゃったな。魔族を倒したんだ、本当に。で、気化した敵を吸い込んで魔族になっちゃったってことね……。

 

 元勇者のデブは、ぼたぼたと涎を垂らして仁王立ちしている。

 

 約束ってなんだっけ。あ、そうか。戻ったらアタシを抱くとかっていう――いやいや、さすがに魔族とヤったことはないし、アタシ、死んじゃうんじゃ……?

 

「マリアぁ。約束ぅ」

 

 瞳孔開いてるし。こわ。てかキモイ。人間のときもイケメンではなかったし、むしろブサイクなほうだったけど、人として最低限の清潔感はあった。でも今はそういうのが全部取り払われて、欲望剥き出しの化け物って感じ。

 

 肩をデブに掴まれ、アタシは情けないくらい、びくん、と震えてしまった。身体が動かない。動いてくれない。

 だから思いきり身体が後ろに引かれたとき、勢いそのままに尻もちを突いてしまった。

 

 痛みだとか衝撃だとか、そんなものはどうでもいい。例のガキがデブに突進して、二人とも戸外へ転がり出る映像が目の前に展開されていて、それに意識を奪われてしまった。

 

「テメェ!! 俺の邪魔をすんじゃねえよ!!」

「お前の相手は僕だ」

 

 すっかり濃くなった闇の先から、声が届く。

 ハッとして起き上がり、アタシも戸外へと飛び出た。

 

 なにやってんの、あの子。馬鹿じゃないの。勇者ごっこなんてしていられる状況じゃないでしょ。室内のどこかに隠れて、こっそり機をみて逃げ出すべきでしょ。それか、テーブルの下でぷるぷる震えてるとか、あるいは初めて見た魔族にビビッて硬直してるとか、それが普通でしょ。

 それなのにイブは、ぼやっとした闇のなかで、デブと距離を置いて対峙していた。

 

「勇敢なガキだな。いいぜ。テメェから嬲りものにしてやる」

「や――」

 アタシが、やめて、と叫ぼうとした瞬間には、もう手遅れだった。

 

 瞬時に距離を詰めたデブの拳がイブに直撃し、華奢な身体が冗談のように吹き飛んでいく。絶対死んだ、ってくらい容赦ない攻撃だった。闇の先で、小さな身体が地面を転がる音がして、それから、しん、と静寂が下りた。

 

「やり過ぎたな。まだ身体が慣れてねえ」なんてデブは呟いて、こちらを向いた。「邪魔者は消えた。さあ、約束を果たしてもらおうか」

 

 さよなら、イブ。可哀想な子供。アンタは盾突いちゃいけない相手にまで、妄想の延長線上で突っ込んでいってしまった。世の中には逆らっちゃいけない相手がいるし、抱いていい妄想の範囲も決まってる。

 役割をこなすのが生き残るコツなんだ。アタシはそれを(わきま)えてなかったから、色々と苦しんだ挙句、死にぞこなった。

 イブ。アンタはきっちり死ねたんだから、案外幸運だったのかもしれない。

 

「マリア」

 

 アタシを見下ろす元勇者。現、魔族。その目には欲望しかない。欲望のはけ口にされるのは慣れてるし、それがアタシの役割だ。

 

「いいよ。相手したげる」

 

 犯されてる途中でアタシは殺されるかもしれない。運良く生き残るかもしれない。

 なんにせよ、アタシは求められるとおりにするだけ。これまでも、これからも。

 

「目を閉じろ」

 

 瞼が降りて、なにも見えなくなる。

 

「……外でするの?」

「ああ、そうだ。景気よくやろう」

 

 景気よくやろう、か。昨晩4Pしたときも同じこと言ってたっけ。そういえば、彼と一緒に旅立った戦士と魔法使いは死んだのかな。まあ、生きてるわけないか。もしかすると、魔族になった元勇者に殺されたのかも。

 なんだっていいけど、早く済ましてほしい。アタシの生死は関係なく、こういうのはさっさと始めてさっさと終わらせるべきなのだ。

 

 でも、デブはいつまで経ってもアタシに触れもしなかった。身じろぎした気配があるだけ。

 

「なんだ、テメェ。なんで生きてんだ」

 

 ぱちり、とほとんど無意識に瞼を開く。

 アタシに背を向けたデブの視線の先に、頭から血を流したイブがいた。ふらふらと、殴られたダメージを引きずっている様子で歩いてくる。

 

「お前の相手は、僕だ」

 

 なに言ってんの、この子。というか、奇跡的に助かったんなら早く逃げなって。アンタの妄想がコイツに通用しないことくらい分かったでしょ。

 

「ねえ、あんな子供無視しましょ」

 

 デブの腕に触れる。ほとんど祈るような気持ちで、でも、それを気取られないように必死に演技をする。

 

「マリア、テメェ……なんで教えなかった」

 

 デブは少年を凝視したまま、忌々しげに言った。

 

「教えなかったって?」

「あのクソガキが勇者だって、なんで俺に言わなかった。……どうりで涎が止まらねえわけだ。この家に近付いたときから、ずっと旨そうな臭いがしてたからなぁ」

 

 え?

 ぽかんとするアタシを無視して、デブがゆっくりとイブへ歩む。

 イブはというと――。

 

「なにしてんの、あの子」

 

 イブは大口を開け、そこに自分の手を突っ込んだ。ずるずると、腕のなかばまで口の中に呑み込まれていく。

 デブは警戒したのか、足を止めた。

 

 やがてイブは一気に腕を引き抜いた。ぬらぬらと汁の滴る手には、せいぜい刃渡り十センチ程度の小さな銀のナイフが握られていた。

 曲芸にしては手が込み過ぎてるし、このタイミングでそんなことをするのも異常だ。つまりイブは、たった今魔族が口にした通り、本当に勇者なんじゃないか。

 

 どくどくと、心臓の鼓動が激しくなっていく。

 不意にイブが魔族へと飛びかかり――。

 

「くっ……」

 

 デブは手にした銀の槍を、咄嗟に薙ぎ払った。ナイフを振りかぶったイブの腹部に直撃し、あえなく吹き飛んでいく。

 

 地面に落下した彼は大きく肩で息をしながら、再びナイフをかまえて今度は突進した。

 

「串刺しになりやがれ!」

 

 一瞬にして放たれた刺突は空振りに終わった。デブが「あ?」と言ったときにはすでに、少年は懐まで潜り込んでいて――。

 

 いけ。そのままナイフで刺しちゃえ、と思ったけど、そうはならなかった。

 デブは少年の腹に膝蹴りを入れると、そのまま顔を殴りつけ、地面に叩きつける。

 

 そこからは一方的だった。

 殴る。

 蹴る。

 叩きつける。

 魔族は槍を捨て、愉しくて愉しくてたまらないのか、耳障りな笑いを上げながら少年を痛めつけた。

 

「ハハハハハ!! なんだテメェ! めちゃくちゃ弱えな!!」

 

 もしかしたら、イブは魔族を討伐してくれるかもしれない。彼が本物の勇者だと察した瞬間、アタシはそんな期待を抱いてしまった。

 だけど、残念だ。

 イブは弱い。アタシの目から見ても、どうしようもないくらい弱い。

 

 血まみれになり、肩で息をし、喘ぎながら、イブはナイフを振り回す。が、それが魔族に命中することはなかった。

 耐久力はそこそこあるようだけど、このままじゃ駄目だろう。殺されるだけだ。

 

「死ね!」

 少年の鼻から、血が噴き出す。

 

「死ね!!」

 腹を蹴りつけられ、吐血する。

 

「死ね!!!」

 地面に叩きつけられ、無様に転がり――デブの胸に十字の切り傷が生まれ、血が迸った。

 

「え?」

「あ?」

 アタシと魔族の声が、やや遅れて重なった。

 

 ボコボコにされていたイブが、いつの間にやら反撃をしていたのだ。とんでもない速度でナイフが振るわれるのが一瞬だけ見えた。

 魔族は激情したのか、殴打の速度を上げていく。

 何発かに一回は回避するものの、基本的にイブはサンドバックにされている。

 さっきの反撃は偶然……?

 と思った瞬間、またデブの身体に傷が走り、血が噴き出した。

 

 どうやら偶然じゃなさそうだ。

 それにしても、なんだか酷い戦い。ボロボロになりながら、なんとか反撃するだけ。血まみれで、泥だらけで、優雅さの欠片もない。

 こんな戦い方をする勇者の話なんて聞いたことがない。だいだい、パーティも組まず単独で魔族に向かっていく勇者なんて前代未聞……。

 

 そういえば、イブはスキルを使ってるの?

 勇者には必ず特別なスキルがあるわけで、それを駆使して優雅に戦うのが基本だけど。

 

 段々と、敵の攻撃を回避する頻度と、反撃を食らわせる量が多くなっているように見えた。それでも半々程度で、結局イブはボコボコにされつつ戦っている。まるで子供の喧嘩みたいだけど、徐々に動きがよくなってるような……。

 

 戦闘の行方には少なからず興味があったけど、なんだか少し眩暈がした。それは飛び散る血とかの問題じゃなくて、アタシの精神的なものが影響している。

 イブに勝ってほしい気持ちはある。でもそれと同じくらい強く、勝てないだろうなと諦めてる自分もいた。

 イブも、そろそろ諦めればいいのに。必死になって、血と泥だらけになって、それでも立つなんて、見ているこっちとしても辛い。どうせ駄目なら、やっぱり諦めるのが一番賢い選択なんじゃないの?

 

 アタシはちゃんと分かってる。抗ったって惨めに潰されるだけなんだ。だから最初から全部受け入れてしまえば最悪にはならない。イブだってわざわざ魔族に突っ込んでいかなければ、しんどい思いなんてしなかったのに。勝ちの目があるのならそれでも頑張る価値はあるかもだけど。

 アタシだって勇者を殺そうと思わなければ――あるいは自殺なんて思い立たなければ――今こんな人生なんて送っていなかった。

 

「マリア! コイツを魔法で攻撃しろ!!」

 

 意識を現実に戻すと、傷だらけになった魔族がアタシを睨んでいた。表情に余裕はない。イブもボロボロだけど、いつの間にか魔族も同じような状態になっていた。

 頑張ったんだな、イブ。すごいな。

 でも、結局のところ報われないかもしれない。勝ったって、魔族になっちゃうかもしれないんだ。だから魔族からひたすら逃げ続ける勇者もいるし、むしろそっちのほうが多いかもしれないくらい。

 

 アンタの前にいる『銀槍の勇者』は魔族に頑張って立ち向かって、勝って、でも自分も魔族になっちゃったんだ。

 それで、元の通りの性欲を満たすためだろうけど、約束した通りにアタシのもとまでやってきた。なんだか少しだけ、いじらしくもある。

 でも虚しいじゃないの。アタシとセックスする前にアンタに邪魔されて……なんて報われないんだろう。

 

「マリアぁ!!」

 

 魔族が叫ぶ。使えるものは全部使って、目の前の敵に勝ちたいんだろう。あるいは、勝利した上でアタシを抱きたいのかも。彼の目的がどこにあるのか分からない。

 

「アンタに協力したら、優しくしてくれる?」

「馬鹿なこと言ってんじゃねえアバズレ!! さっさとクソ勇者を攻撃しろ!! でなきゃテメェから殺すぞ!」

 

 そうだよね。それでいいと思う。勇者は傲慢で、それは魔族になっても変わらない。

 

 今では、イブのほうが若干優勢に見えた。彼の動きはどんどん良くなっている。けれども、傷もその分増えていた。結局のところどちらが勝つかは分からない状況。

 

 指先に意識を集中する。毒々しい、穢れた魔力が集っていく感覚があった。

 アタシに使えるマトモな魔法は毒くらいだ。

 

「攻撃してください、僕に」

 

 それで貴女が標的にされないのなら――なんて、イブは思っていないだろう。そんな殊勝な子じゃない。

 

「デッドリー・ポイズン」

 

 アタシの指先から放たれた紫の液体がイブに直撃した。すると、みるみる彼の顔が紫色に変わっていく。

 勇者に毒は効かないのが常識なわけで、つまり、イブは例外中の例外というわけだ。彼自身がそう言ったように。

 

「よくやったマリアぁ!! これで――」

 

 これで魔族は負けるだろう。きっと。

 イブはずっと、自分に毒をかける方法を求めていた。そこにどんな意味があるのか、もう大体の想像はついている。

 

 イブは、傷が増えるごとに、地を転げて泥まみれになるごとに、あるいは血を流すごとに、動きが洗練されていっている。

 痛み苦しみで強くなる。それが彼のスキルなんだろう。

 

 やがてアタシの想像通りの決着が訪れた。

 魔族の身体に無数の傷が刻まれ、しまいには首が吹き飛んだ。

 

 さよなら、元『銀槍の勇者』。アタシはちょっぴり、アンタに同情してもいい。

 アンタが今朝、アタシの髪を撫でて、ほんの少し哀れっぽい目をしたのを覚えてる。

 

 ……とまあ、そんなことを考えていられたのもほんの一瞬だけだ。

 

「イブ! さっさとそこから離れて!」

 

 アタシの声が聴こえているのかいないのか、イブはぼんやりと空を見上げていた。

 魔族は絶命と同時に気化する。それを吸い込んだ勇者は――。

 

 イブの身体が紫の靄に包まれていく。

 

 

 やがて靄が晴れ、アタシは脱力した。

 

 紫の肌をしたイブがそこにへたり込んで、荒い息をしていたから。

 魔族の肌は紫色だけれど、それ以外にも特徴がある。必ず頭に角があるのだ。

 今のイブに、そのシンボルは存在しない。肌の紫はアタシの毒が原因だ。

 

「イブ……!」

 

 彼の前まで駆け寄る。

 イブは弱々しくアタシを見上げた。魔族に勝って、しかも人間であり続けているというのに、満足そうな表情ひとつない。

 たぶん、極端に感情表現が乏しいとか、そういうタイプなんだろう。

 

 おめでとうとか、よくやったねとか、そんな台詞を吐く気にはならない。あんまり情をかけて調子に乗られても困る。こいつは勇者で、つまり、ヒーラーを性処理の道具としてしか見てないのだ。おかしな奴だとは思うけど、結局勇者だったのだから、色んな女の子を泣かせてきたに違いない。

 

「動かないで」

 

 だから、勘違いだけはさせないように。これは毒使いとして、必要不可欠な治療だ。

 

 アタシはイブの目を片手で塞いで、唇を重ねた。そして素早く舌を入れ、血の味のする彼の舌に絡ませる。

 意識を集中させ、舌先に魔力を込めた。

 解毒魔法がディープキスとか、まったくふざけた話だけれど、ほかに方法がないのだから仕方ない。

 

 よし、このくらいで大丈夫。

 彼の視界を塞いでいた手をどかし、同時に唇を離す。

 唾液が糸を引いているのが見えた。

 

「これは解毒魔法で、必要なことなの。だから――」

 

 彼の肌はすっかり元の白さを取り戻していて、けれど、頬は随分と赤い。そしてどうしてかイブは顔をそらした。

 

「なに赤くなってんのよ。勇者なんだから、こんなこと――」

「初めてで……」

「……は?」

「だ、だからっ、こういうのは――ちゅう、とか、初めてで……」

 

 え。え?

 ちゅう、って。なにそれ。

 

「童貞なの?」

 

 イブは答えもせず、ただただ赤面して視線を泳がせている。

 なにそれ。なにそれなにそれ。

 

「あはっ」

「! 笑わないでください!」

「あはは。いや、これは笑うでしょ。あはははは!」

 

 こんな清々しい気分になったのはいつぶりだろう。分かんないや。

 

 

「――で、せっかくだから筆下ろししてあげてもいいかなって思ったんだけど、町の宿屋に泊まるって言って逃げられちゃったわけ。顔真っ赤にして」

 

 マスターはアタシの話を聞いてる間、ずっと苦笑していた。朝から猥談を聞かされる可哀想なマスター。今日も困り眉が素敵。

 

「あまり勇者を困らせたらいけないよ」

「童貞勇者なんて笑い話にしかならないでしょ」

「だとしても」

 

 マスターは火酒をカウンターに置いた。ふた瓶も。しかも未開封。

 

「なにこれ。プレゼント? やだなー、物で釣るなんて。マスターならタダで抱かせてあげるって」

 アタシの冗談に、彼は首を振る。「違うよ。餞別さ」

「ふーん。じゃあ、もうバレてるんだ」

 

 マスターは肩を竦めて、手元のグラスを拭く。

 

「君がいなくなると寂しくなるね」

「嬉しいこと言ってくれるじゃん」

 

「シスターに挨拶はしたのかい?」

「してないよ。今頃教会で『不浄の童貞勇者』がパーティ加入の申請してるだろうし、いいかなって」

 

「お別れと感謝は、直接言ったほうがいい」

「そうね。相手によるけど」

「……やれやれ」

 

 それ以上、マスターはなにも言わない。

 ほどほどのお説教をしてくれる彼のことが、アタシは大好きだ。マスターと過ごす、この酒場のひとときを愛している。

 

 カランコロンと、ドアベルが涼しげな音を運んだ。

 

「さよなら、マスター」

「さようなら、マリアさん。お元気で」

「マスターもね」

 

 酒場の入り口に陽光が射していて、少年ひとり分の影が年季の入った床に落ちていた。

 



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