ダブル、桜、眠る君 (かりほのいおり)
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ダブル、桜、眠る君

『俺にしか見えない絵、誰にも見えない彼女』の前日譚です。そちらを読んでなくても一応読むことはできますが、これを読んだ後に読んでみると面白いかもしれません。

すん様(Twitter:@sun_1200)から素晴らしい絵を頂きました!

【挿絵表示】



 ●

 

 物語特有のありきたりで、けれども一般的にはあり得ない関係性に、俺は憧れを抱いている。

 

 例えば、隣の家に住んでいて、何かにつけ世話を妬いてくれる幼馴染みとか、子供の頃に結婚の約束をして、それっきり遠くへと引っ越していき、高校生になり美少女へと成長した女の子だとか、ブラコンで何かにつけ兄にたいして当たるけれど、裏では兄のことを誇りに思ってくれる妹とか、学校内では理想的な先輩キャラとして振る舞いつつも、俺にだけ素顔を見せてくれる姉だとか、二次元の中にしか存在しないと思ってしまう様な存在達。

 

 まあ現実はあくまで現実であり、そんな夢物語はそうそうありえない以上、当然のように俺の周りにそんな物は存在しなかった。

 

 実際、そういうご都合主義的な人生を送っている人はいるのだろうけれども、まあ天文学的な確率を引き当ててるようなことには違いない。

 俺にできることはといえば、そんな羨ましい彼らに呪いの言葉を投げかけることだけだ。

 

 そもそも俺は一人っ子だから妹や姉も存在しないし、女の子と条件付けをしなくても幼馴染みなんて存在しないし、子供の頃の記憶もそんなに覚えていない、おそらく結婚の約束をした女友達は存在しないだろう。

 代わりに覚えてるのはカブトムシの幼虫へ、土の代わりにさらさらの砂を与えて飢え死にさせた悲しい記憶である。

 

 まあ世の中そういうものだと分かってるし、凹むことはない。呪いを周りに振りまきはするけれども。代わりと言ってはなんだが、友人はそれなりに居る。

 その中でも親しい友人、つまりは『親友』と呼べるほどの間柄である相手は香坂 悠、ただ1人なのだが。

 

 今日はその親友である香坂悠、彼女との出会いに至るまでの話をしよう。

 春は出会いと別れの季節であり、それはこの話に置いても例に漏れることはない。

 

 これがゲームなら。

 自分が上手くやればハッピーエンドに繋がる道があったのだろうけれども、再三述べている様に、これは現実だった。

 

 だから、この話に救いはない。

 軒下 寛人が全て最善の選択をしても、やはり結末は変わらなかったのだろう。

 

 それでも、もしもを追い求めるのは人間の性だから、もう少し上手く彼女と付き合えた、そんな後悔はいまだに胸の中で燻っている。

 

 対して面白くもないプロローグはこれで終わり、そろそろ本題に入ろう。

 今もまだ眠っている彼女、この話は彼女との出会いから始まる。

 

 ●

 

 春、といえば桜の季節である。

 年に一度咲き誇る桜は今年もまたいつもの様に河川敷に連なり、人々を賑わせている。

 

 県の中でも有数の桜の見所、その河川敷が家のすぐ近くにあったのは、俺にとっては運の良いことだった。

 見に行こうと思えば直ぐに見に行くことができた。俺が思うに、桜の素晴らしい特徴は、なんといっても何度見ても飽きることはない事だろう。

 

 その日の夜もほんの少しの気晴らしに、財布だけをポケットへと突っ込んで俺はぶらりと散歩に出掛けたのだ。

 受験に成功したお祝いでお小遣いを貰っていたから、それなりに懐は温かった。

 

 河川敷には花見の時期に合わせて屋台が並んでいる。もちろん割高な値段ではあるけれど、温かいものがすぐに食べれるのはありがたい。

 

 その頃の俺は中学校を卒業したばかり、家の近くにある高校への受験も成功して、あとは新生活への期待が一番大きい時期。

 その時の俺は今ならなんでもできるという、そんな理由のない謎の自信があった。

 

 その日は月がきれいな夜だった、そんなことを今でも良く覚えている。

 月明かりで出来た自分の影を追いかけて、桜が立ち並ぶ河川敷の道を一人歩いて行く。

 

 時たま通りすぎる人はいたけれど、人影は疎らだった。

 というのも俺が進んでいる方向には屋台がなく、明かりも少ない花見に適さない場所だったということもある。

 

 桜を見る、と言うという目的ならば別に間違ってはないだろうけれども、基本的にお花見という物は食べ物があってこそと言うこともあるから、屋台が並ぶ方向へ向かうほうが至極当然と言える。

 

 じゃあ俺が何をしてるのかといえば、この一人で歩く時間、自分だけが観れる風景を独占したかったのだ。それを気が済むまで堪能したら来た道を引き返し、屋台によって、もつ煮でも食べて、そのまま家に帰るという完璧なプラン。

 

 春とはいえ夜になると冷たい風が吹く中、そんなこと知ったことかとゆるゆる歩いて行く。

 

 桜、桜、桜。何処までも続くかと思えるほど長く続く道。

 雲に一瞬覆い隠された月が再び現れた時、道の先の途中で誰かが一人、ど真ん中で突っ立ってるのが見えた。

 

 何をしてるんだろう、真っ先に浮かんだのはそんな疑問。

 はっきりいってしまえば、細い道の中央に立たれるのは死ぬほど邪魔である。

 

 さらに近づいて、その通せんぼしてる奴の顔がようやく見えた。

 

 中性的な顔をした、ショートカットの女の子。胸も無ければ格好もどっち付かずであるから、一瞬男にみえたけれど。

 

 目の前まで行って立ち止まる。1メートルほどの距離なのに、マネキンかと思うほど、彼女は一切動く素振りを見せなかった。

 しょうがなく遠回りしようとした瞬間。

 

「こんばんは」

 

 と、突然彼女は口を開いた。

 

「……こんばんは」

 

 挨拶を返されて彼女はにこりと笑ったけれども、やはり動く素振りは見せない。

 はっきりいってしまえば死ぬほど怪しい、関わらない方が良い気がする。

 機先を制されたせいで、俺はまだ遠回りせずにその場に立ち続けている。

 

 まあ少なくとも挨拶は成立するのだから、退いてくれと頼めば良いだろう。

 そんな結論。

 

「すいません、そこを退いてもらって良いですか?」

「え、やだけど」

 

 前言撤回、こんなところでぼっ立ちしてる奴がまともなはずがなかった。

 こちらの反応をみてケラケラと笑うあたり、途轍もなく性格が悪い。

 

 何もかも面倒臭くなり、俺は道を引き返すことにした。

 

 俺の足音、虫の鳴き声、誰かの足音。

 後ろから聞こえるもう一つの足音を聞こえないフリをして先に進む。

 知らない、俺の後ろには誰も居ない。

 

「ねえ」

 

 これは幻聴だ。振り返ることをせずに、ほんの少し足を早める。

 

「ねえってば」

 

 次第に声が大きくなる幻聴を無視していると、ポンポンと肩を叩かれた。

 コマンド、無視。後ろの誰かがさっきより強い力で肩を叩いている。

 

 しょうがなく足を止めて、振り返ると頰に彼女の指が突き刺さった。

 必死にブチ切れそうになる心を押さえ付ける。冷静になれ、俺。例えばどんなことをされても女に手をあげる男は最低だぞ、俺。

 たとえ彼女が爆笑していたとしても、だ。

 

「……それで、俺に何の用だよ」

 

 笑いすぎて目を潤ませている彼女に、努めて冷静に話しかける。

 パタパタと顔を手で仰ぎながら、彼女は此方へと向き直った。

 

「ああ、そうだった。君にちょっとお願いがあるんだけど」

「……何?」

「ちょっとお金を貸してほしいんだよね」

 

 初対面の相手である俺に、彼女は真顔でそう言った。

 

 ●

 

 屋台が立ち並ぶ河川敷の一角に、飲食スペースとしてテーブルと椅子が設置された場所があった。

 

 上には桜。

 風が吹くたびに桜の花びらがひらひらと舞うその場所で、俺と彼女は向き合って座っていた。

 

「いやーごめんね、本当に」

 

 その言葉と裏腹に全く悪びれる様子を見せずに、豪快に焼き鳥へとかぶり付いている。

 

 結局、俺は彼女へと千円だけ貸すことにした。借りたからにはちゃんと返す、彼女はそう言ったけれど果たして信用出来るのかどうか。

 モツ煮を口へと運びつつ、俺は尋ねた。

 

「で、お前の名前は?」

「お前って言う人に名前を答えたくないな。あと名前を尋ねる時は自分から言うべきじゃない?」

 

 深呼吸。

 

「……軒下 寛人」

「へー、変わった名前だね。私の名前は香坂 悠、よろしくね」

 

 あんまりよろしくしたくないが、もうお金を貸した以上縁はできてしまってるのだろう。聞き覚えのない名前だなと思いつつ、再度モツ煮を口に運び。

 

「香坂はここら辺に住んでるのか?」

「まあね、少し離れてるけど近所といえば近所かな。いろいろ都合が合って遠くにある私立の小中学に通ってたから、きっと君とは会ったこと無いだろうけど」

 

 食べる?と差し出された食べ刺しの焼き鳥を、首を振って遠慮する。

 私立中学か、なら今まで会ったことは無いはずだ。時たますれ違うことはあったかもしれないけれど、それでは記憶に引っかからない。

 

「それにしても人のお金で食べるご飯は美味しいね、軒下君」

 

 そんな思考を進めているうちに、彼女は焼き鳥を食べ切って、焼きそばへと食を進めていた。

 焼き鳥、焼きそば、ベビーカステラと主食からデザートまで様々に買い揃えていた。

 多分、借りた千円全てを綺麗に使い切ったんじゃ無いだろうか。

 

「なあ、なんで香坂は金を持って来てなかったんだ?」

「……あー、うん」

 

 焼きそばを食べる手を止めて、彼女は恥ずかしそうに頰を掻いた。

 

「実はここでご飯を食べる予定じゃなくてさ、お金はちゃんとあるんだけど財布を持たずに出て来ちゃったから」

「一旦家に帰ればよかったのに」

「……」

 

 何も返事をせず、再び焼きそばをズルズルと食み始めた。本当に反省してるのだろうか、コイツは。

 

 初めて会う美少女と桜の下で仲良く食事をする。このシチュエーションを文字起こしすると夢がある様に思えるのに、現実はなんとなく残念感がある。

 

 なんとなく頭上を見上げると、空を覆う様に満開の桜が伸びているのが見えた。

 暫く晴れが続く予報。桜を散らす雨さえ降らなければ、長い間この風景を楽しめるから、それはきっといいことなのだろう。

 

 視線を戻すと香坂が焼きそばを食べ終えて、ベビーカステラを食べ始める所だった。

 ちょうど視線がぶつかって、彼女は無言でそれを一つ差し出した。

 

「……いらないぞ」

「ちぇっ、食べたらこれ一つ千円って言うつもりだったのに」

「どんな理屈だよ、借りた金を返す気あるのか?」

「あると言えばある、無いと言えば無い」

「その心は?」

「返せなかったら、ごめん」

 

 呻く俺を見て、彼女はクスクスと笑った。綺麗に弄ばれていると分かっていた、その割には不思議と嫌な気持ちは湧かなかった。

 

「まあお金を借りたからにはちゃんと返すよ、それぐらいの常識は私にも備わってる」

「初対面の人間にお金を借りてもいいなんて常識、俺は初めて聞いたよ」

「え、軒下君は埼玉の常識を知らないのかい?」

「知るかよ。そんな常識、生まれて初めて聞いたわ」

 

 埼玉県へのとてつもない偏見な気がする。それから彼女は無言でベビーカステラを食べ始め、話すことも特に思いつかない俺も無言で食べ進める作業が続いた。

 

 先に全部食べ切ったのは香坂だった。

 焼き鳥、焼きそば、ベビーカステラを全部食べ切った彼女は、すっくと立ち上がった。

 

「お金を返すために、明日もこの場所に集合でいいかい?」

「もう帰るのか?」

 

 こっちが食べ終わるのを待ってくれないのかと一瞬考えたが、冷静に考えると食べるものも全部食べ終わったら、帰る以外にやる事はないと決まっている。

 

「怒られちゃうんだよ、夜更かしし過ぎるなって」

 

 彼女は苦笑しつつ、そう言った。

 ほら、もともとここでご飯を食べる予定もなかったから、実は元々の予定した時間を過ぎてるんだ。

 まあ今だけならこれぐらいの我儘も許されるだろうけど。

 

 彼女の言葉を聞いて、携帯を見る。

 まだ9時にもならない時間、かなり早い門限の様に思えた。

 

「ってか連絡先交換しとけば良くないか?」

「あー、ごめん。私はスマホ持ってないんだ」

 

 珍しい、とは思った。

 けれども今まで聞いた情報を整理すると、私立中学、早過ぎる門限、携帯を持っていないと、一貫する状況ではある。きっと、決まりに厳しい親なのだろう。そんな予想。

 

 モツ煮を口に運び、再び顔を上げると彼女は一歩も動いていなかった。

 

 視線をあげると、無言でこちらをじっと見下ろしている。

 立ち上がったまま去ろうとしない彼女を見て俺は首を傾げて、それを見て彼女はやれやれと首を振った。

 

「こんな常識も知らないのかい?夜道を女の子を1人で歩かせてはいけないって。エスコートするのは男の役目だろう?」

 

 慌てて立ち上がろうとするのを笑いながら止めて、俺の食べかけのモツ煮を指指した。

 

「冗談だよ、そもそも君は食べてる途中じゃないか」

「本当に送らなくていいのか?」

「いいよ、お金を貸してくれただけで私としては十分だったから」

 

 それじゃ、と彼女は言うなり、くるりと背を向けて彼女は歩き始めた。

 

 少考、食べかけのモツ煮と、彼女の背を交互に見返して、結局俺は動かないことに決めたのだ。

 

 かわりに、香坂に向けて一つだけ言葉を投げかけた。

 

「また、明日!」

 

 はたして、俺の言葉はちゃんと彼女の元へ届いたのだろう。

 振り返ることはしなかったけれども、ひらひらと手だけを振り返しつつ、そのまま去っていった。

 

 

 

 彼女の姿が見えなくなってから、ようやく残ったモツ煮の汁を啜り始めた。

 買ったばかりの時の温もりは冷たい風にさらわれて、冷え切ったそれからはもう七味の味しか感じられない。

 

 それを胃へと流し込みつつ、桜を眺める。ぼんやりと先ほど去って行った彼女の事を思い返していた。

 

 台風を擬人化した様な、慌ただしい奴だった。一緒に居て飽きることはないだろうけれども、死ぬほど疲れることは確かである。

 椅子に腰掛けていると言うのに、疲労感は先ほどより増していた。

 

 悪い気はしない、どちらかといえば心地よい疲労感だった。

 

 彼女は本当に明日も来るのだろうか、ちゃんとお金を返す気はあるのだろうか?

 

 分からない。

 今分かっている事は俺が彼女とまた会える日を、明日が早く来る事を待ち望んでいることだけだった。

 

 もしかしたら、ただお金を返して欲しいという気持ちの一面だったのかもしれないけれども、本当の気持ちは今となってはわからない。

 

 ●

 

 同じ場所とは言ったけれども、約束の時間を決めていない事に気づいたのは次の日のことだった。

 

 まあなんとかなるだろう。

 とりあえず昨日と同じ時間に行くことにしようと決めて。そうしてやってきてみると、彼女は当然のように先に席についていた。

 悪戯っぽい笑みを顔に浮かべて、

 

「遅かったね、待ちくたびれたよ」

 

 と、そんなことを言われたのだ。

 実際問題。後から来たのは俺であるし――念のため早く来るべきだった――、時間確認を怠った責任は香坂だけでなく俺にもあるからそれを理由に出来るはずもなく。彼女がどれだけ前から来てるかわからない以上、素直に頭を下げるしかない。

 

 それを観て彼女は満足そうに頷いて、こちらについと千円札を一枚差し出した。

 

「これで貸し借り無しだね」

「ああ、今日はちゃんと手荷物とか持ってるんだな」

 

 昨日は手荷物なし、財布なしの一文無しだったが、今日は机の上に鞄が置かれていた。

 昨日との明確な違いは服装を除けばそれぐらいだろう。

 

「まあね、ところで軒下君はこれから用事とかあるかい?」

「無い、あとは適当に散歩して家に帰るだけだ」

 

 時間は有り余っている。

 とは言ってもやりたい事もなければ、やらなきゃいけない事もない。

 

 特に宿題があるわけでもなく、春休みすべてをゲームに打ち込む気のも勿体無い気がして、どっちつかずの一番無駄な春休みの過ごし方をしている、そんな気がしていた。

 

「そっか、それじゃあ一緒に散歩しようか」

 

 故に、彼女が出した提案にあっさりと乗るのも、まあ当然のことだった。

 

 ●

 

 彼女に連れられるまま、てくてくと歩いていく。

 

 昨日と同じ様に桜が立ち並ぶ河川敷を散歩するのかと思ったけれども、あっさりとその道を逸れて住宅街へと入っていった。

 

 どこへ行くのか尋ねても彼女は秘密と言うばかりで、時々出される指示に従って道を曲がるラジコンに成り下がっていた。

 

 あとは真っ直ぐ行くだけだよ。そう言った後、彼女はポツポツと話し始めた。

 

「桜が咲く時期は一年のうちに二週間ぐらいだけどさ、なんで一年中咲かないんだと思う?」

「一年中見れたら有り難みが薄れるから、そんな配慮をしてくれてるんだろうよ」

「そうかなぁ、私が桜の木だったら人間の事を考えたりしないと思うよ」

 

 俺の冗談に彼女は真面目にそう返す。

 ならそっちの考えを聞かせてもらおうじゃないかと尋ねると、彼女はピッと人差し指を立てた。

 

「桜が咲くのにも体力を使うんだよ、一年中咲き続けたら呆気なく死んじゃうんだと思うよ」

 

 桜が咲いてる時間は全て準備の時間なのだと彼女は言う。それまでの期間を全て費やして、この時期だけ咲き誇ることが出来るのだと。

 

「私はそう考えたんだけど、この考えだと説明が付かない事があってね」

「なんだ?」

「疲れるのなら咲かなければ良いのにと思ってしまうんだよ、その力をもっと他に使えば良いのにってね」

 

 軒下君はどう思う?、彼女はそう問いかけてきた。

 理屈で言えば、桜という種を繋ぐために、それが一番効率がいいからやっているのだろうけれども、彼女が求めてる言葉はそういう言葉ではないのだろう。

 ほんの少し考えて、俺は口を開いた。

 

「……他にやることもできるだろうけど、咲く理由が有るってことだろ。つまり」

「つまり?」

「俺に観てもらうために、だよ」

 

 俺の答えを聞いて彼女はぽかんと口を開けた。求めてた答えじゃなかったかなと一瞬思ったが、肩を震わせて笑いを噛み殺してるのを見て、再び視線を前に戻した。

 

「大分ナルシストだね、君は。いや、悪口じゃないんだ。良い意見だと思うし、でもやっぱり……ふふっ」

「……」

 

 何を言っても空回りしそうなので黙りこくっていると、しばらくして彼女は言った。

 

「君が80歳まで生きると仮定したら、あと六十何回、この時期がやってくるんだ。そういう風に数を出してみるとこの時期を大事にしようとする気にならないかい?」

「……あんまり」

 

 もう少し時間が経てばその尊さに気づくのかもしれないけれども、まだ折り返し地点にもきていないのだから。

 年に一回だけ咲くのならばその数字でいいけれど、頭の中で暗算をする。

 

 二週間×六十で840日。

 

 ……予想以上に少ないのかもしれない。

 

「酷いなあ軒下君は、君のために桜が必死に頑張って咲いてるっていうのにさ」

 

「桜が頑張って咲いてるのに、君は当然の様にそれを受け取るだけで、特に気を払うことはないんだろうね。あくまで記憶の1ページでしか無いんだ」

 

「……私がいた今年だけはずっと覚えてほしいけど」

 

 なにか、小さな声が風に紛れて聞こえた気がした。

 隣をみると彼女がこちらを見つめてるしかしすぐさまふいっと視線を逸らすと、何事もなかった様に歩いていた。

 

 気のせいだろうか?

 念のため尋ねようとすると、こちらの動きを察知したかの様に彼女は走り始めた。

 

 彼女が言った方向から風に乗って、桜の花びらが舞ってくる。辿り着いたのは人気のない公園。

 彼女はテーブルの近くで俺がやってくるのを待っていた。

 

 ●

 

 その公園にも桜が数本咲いていた。河川敷と比べれば流石に数が少ないけれども、そちらと比較するのは流石に間違っているだろう。

 

「でも場所を移動する必要はあったか?」

「まあまあ」

 

 そう言いながら彼女は鞄の中から弁当箱を取り出した。それを観て成る程と頷く、そう言うことか。

 

 要するにあそこに有る屋台から離れたかったのだろう。

 ここまでくる間に会話の時間も稼げるが、あそこに居たのならば途中で食事を取りに行ったかも知れない。

 先に言ってくれればいいのに。用意されてると聞いたのならば、他の物を食べるのはしなかっただろう。

 

「昨日のお礼、手料理をちょっとね」

 

 正直、距離感が掴めない。

 確かに手料理は有り難いけれども、出会ってまだ2日の相手にそんなことをするのだろうか。

 そもそも昨日の出会い方も恐ろしく歪で、何か良からぬことに巻き込まれてるんじゃ無いか、そんな疑念が浮かぶ。

 

 そんな猜疑心は心配そうに揺れる瞳を見た瞬間、吹き飛ばされてしまったのだけれども。

 悪いことを考えるにしてはあまりに不安げに揺れていた、断られるんじゃないかと弱気に揺れていた。

 

 そういえば据え膳食わぬは男の恥とかいう言葉があった気がする、それをこれに当てはめるべきかはわからないけれども。

 

「……食べるよ」

「ん、あらかじめ言っとくけど味は保証しないからごめん」

「いいよ、食ったら千円とか言わないよな」

「言わないよ、手料理を食べてくれる人が欲しかったから」

 

 不格好なおにぎりと正反対に綺麗に整った弁当箱の中身、両方とも同じ奴が作ったようには見えなかった。

 

「両方とも作ったのか?」

「……いや、お弁当の方は手伝ってもらった」

 

 料理は苦手だからさ。そう言って、はにかんでら自分は食べる事をせずにぼんやりと俺が食べるのを眺めている。

 

 おにぎりは確かに不格好だったけれども、味は普通の物と遜色は無く、弁当の中身自体は見栄え通りの美味しさだった。

 

 結局全て食べ切って手を合わせる。

 

「美味しかった、ありがとう」

 

 そういうと彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 

 ●

 

 初対面で「お金を貸して」と言われた人間はこの世の中どれだけ居るのだろうか。

 我ながら珍しい経験だとは思うし、そこから生じた関係も長続きする筈がないんじゃないかと思うのが普通だろう。

 

 そんな予想と反して俺と彼女の関係は意外と続くことになる。

 期間にして一週間が、初めて会ってから最後に別れを告げるまでの時間だった。

 

 手料理を振る舞ってくれたその次の日も、彼女と俺は花見をしていた。

 

「また明日」

 

 毎度の如く、その日の最後に言われる言葉に俺は断りを入れることをしなかった。

 きっと予定があるからと断ったのならば、その日を限りに関係は切れてしまったのだろうと思う。

 

 そうして、河川敷で花見をする日が続くことになる。

 結局、手料理は一度だけだった。

 作らないのか聞いてみると、「割と面倒くさい」と一蹴されたから仕方がない。

 

 ふと考える時がある、俺は彼女に恋心を抱いていたのだろうか?、と。

 

 正直、本当のことはわからない。正確にいえば、知らなくていいことだと結論づけてしまう。

 

 今言えることは、彼女と過ごす時間は確かに楽しかったと言うことだ。

 何となく桜を眺めながら、たわいもない会話を繰り広げるあの時間が好きだった。

 

 日が経つにつれて次第に彼女の口数が少なくなり、何か物思いに耽るようになっていた。

 しかし、それでも彼女は最後に決まってこう言うのだ。

 

「また明日」

 

 と。

 

 間違いなく幸せだったと断言できるし、きっと彼女も同じ気持ちだったと信じている。

 そうでもなければ暇な春休みとはいえ、一週間も根気よく桜を眺めに行くことはなかったのだろう。

 

 ずっと、この時間が続けばよかったのに。しかし、桜が咲く期間が限られてるように、この時期にも終わりが来る。

 

 それは、彼女と初めて会ってから六日目のことだった。

 

 ●

 

「明日は雨が降るらしいね」

 

 ぼんやりと桜を見上げてる時、彼女はそんなことを言った。

 手早くスマホを取り出して天気予報を確認してみると、確かに傘マークが付いている。

 

 でも、まあ仕方ない。

 ほんの少し残念ではあるが、すぐに気を取り直す。今まで晴れが続いていたのも運が良かった。

 

 桜が咲き始めてからしばらくの間雨が降ることはなく、だからこそ長い間桜を堪能することができた。

 

 雨が降れば桜が散ってしまうだろう。まあ、振らなくてもいずれは散ってしまうのだろうけど。

 

「もう少しで入学式だな」

「ん、まだ高校生じゃなかったのかい?」

「いや今年からだよ」

 

 そう言えば彼女と年齢の話をしたことが無いことに気づいた、思い返せば私立中学に通ってることは知っていたけれど、それぐらいしか無い。

 

「年上かと思ったんだけどな……じゃあ、君はあの高校に行くのかい?」

 

 彼女が出した学校に首を縦に振ると、ふーんと興味なさそうに呟いた。

 

「自分と同じ高校に行くんだね」

「もっと嬉しそうにしろよ。同級生だぞ、同級生」

 

 その言葉に曖昧な笑みを浮かべて、彼女はよく分からないことを言った。

 

「運がいいと思うべきか、無駄だと思うべきか……もし神様とやらがいるのなら、それはとびっきりと人でなしだろうね」

 

 きっと神様は人では無いから、人でなしではあるんだろうが。

 そんなことを言うと彼女は愉快そうに笑ったが、またすぐに静かになる。

 

「軒下君はさ、死んだらどうなると思う?」

「……唐突に重い話だな。死んだこともないし、死にたいとも思ったこともないから考えたこともないけど」

 

 平凡な人生だからこそ、そこまで思い悩むことが一度もなかったのは、きっと幸せなことなのだろう。

 テレビ越しに見る悲劇もどこと無く作り物のように感じて、身内の不幸を一度も経験したことが無い。

 

 ふと頭の片隅を過ぎったカブトムシの幼虫の死骸は見て見ぬふりをした。

 そういえば、カブトムシには天国とか有るのだろうか?

 

「私はね、きっと眠ることと一緒だと思うんだ。起きることもなく、覚めない夢を見続ける、きっとそんな感じな気がする」

「天国とか、生まれ変わりとか信じないのか?」

「信じないね、死んだらきっと後に残るものなんてないさ」

 

 沈む雰囲気。

 

「食いたいものがあったら買いに行くけど、なんかいるか?」

「……いらない」

「奢るぞ?」

 

 いらないってば、そう言って彼女は苦笑した。

 

「そこにいてくれさえすれば、私にとって十分だよ」

 

 会話も途絶えて、暫くして彼女がポツリと口を開いた

 

「もし、さ。私が男だって言ったら君は信じるかい?」

 

 鼻で笑う、まさか。

 

 そこで頷けば思い切りしばかれることは確かだったし、実際そんなこと一度も思いもしなかった。中性的な顔をしているけど、出会った時からそれは一貫している。

 

 俺の返事に何も返さずに、彼女は鞄から財布を出し、そこから1枚のカードを取り出した。

 

 俺の目の前に突き出されたそれは、私立中学の学生証だった。

 香坂悠としっかりと彼女の名前が刻まれている。どこかいつもと違う雰囲気の違う写真。

 

 なんとなく違和感が引っ掛かる。写真の雰囲気が今の彼女と違うのは確かだが、それ以外に何か明確におかしなところがあるような気がする。

 

 しばらく写真を眺めて、ようやく気付く。彼女の写真の中で姿がおかしいのだ。

 学ラン姿、つまり男装している。

 

 そこまで分かっても、何故学ラン姿なのだろうと思ってる時点でどこまでも俺は鈍かった。

 用がすんだとばかりに彼女は学生証を手元に戻しても、俺は首を傾げるばかり。

 

「これでわかったろ?」

「……なにが?」

「……鈍いなぁ、君は」

 

 呆れたようにため息をついて、彼女はやってられないとばかりに立ち上がった。

 

「……帰る」

「ああ」

 

 いつものように席から立ち上がることなく見送る。何度か家まで送ろうかと尋ねてはみたものの、その度に断られていたから、今日聞くことはなかった。

 

 しかし彼女は立ち上がったものの、一番最初にあった時のようにそこから動こうとしなかった。何かが気に食わないのか、ひどく不機嫌そうな様子。

 

「本当にわからないの?」

「あの写真だと学ラン着てたってことだろ、なんで着てるのかは知らないけど」

「そこまで分かってるのにどうして気付かないのかな、学ラン着てる理由なんて一つしかないじゃないか」

 

 そうして、彼女は言ったのだ。

 

「私は、男だよ」

 

 前振りが有りながらも頭の中が真っ白になったのは仕方がないことだった、それだけの衝撃を受けていたのだから。

 

 確かにそれならば学ラン姿にも説明が付く、と言うか学ランを着てる理由なんてそれしかない。

 

 けれども、香坂は自分を女だと言っていた。

 

 しかし、最終的に男と言ってるからやっぱり男なのか?

 

 もう一度確かめようとしてようやく我に帰るが、とっくのとうに彼女は去った後である。

 追いかけようにも彼女がどこへ行ったのかもわからない。

 

 なんなのだろう、これは。

 狐に化かされたか、夢でもみてたのか。

 

 しかし目の前に置かれている彼女が片付けなかった白いトレーが、先ほどまでの出来事を夢じゃないと声高に証明していた。

 

 途方に暮れて空を見上げる。桜は相変わらず咲いているが、何も答えてはくれないし、空は曇って月は見えない。

 

 そういえば、彼女が今日に限って「また明日」と言わなかった。

 今更そんなことに気づいた。

 

 ●

 

 その日は天気予報どおりの雨だった。

 土砂降りとまではいかないけれど、桜を散らすには十分すぎるほどに強い雨。

 

 約束はしていない。

 けれども俺は、傘を差していつも通りの時間に家を出た。

 

 彼女の最後の言葉の意味を確かめに、果たして彼女が来るのかどうか分からないけれども。

 

 騙されていたと怒ってはいなかった。そもそもの話、男だと言う言葉も半信半疑なのだから。

 実際に男だとしても、彼女は初めから一貫して女として振る舞っていたのには理由があったに違いない。

 

 もし大した理由もなく悪戯としてやっただけなのならば、きっと彼女が今日やって来ることはないだろう。

 タネをばらした後の手品ほどつまらない物はないものだ。

 

 だからこそ、もし彼女が今日来ていたのなら。

 彼女から俺に話したいことがあるということで、俺が行く必要がある。

 

 

 河川敷へと歩みを進める中、自分の中でそう理屈を付けてみたけれど。

 一番最初に、本当に自分の背中を押したものは、『雨が降っていようとも、彼女はいつもの場所で待っている気がする』。

 そんな理由で説明出来ないものだった。

 

 

 雨。日頃の屋台の賑わいは陰りを見せて、閑散とした道を進む。

 泥濘んだ道に散った桜の花弁を踏みつけつつ、ようやくいつもの席へと辿り着く。

 

 雨晒しとなった机を使う人は誰一人として居らず。たった一人だけ、傘を差したまま佇んでいる奴がいた。

 

 特に声をかけることなく近づいて行く。足音に気がついたのか、彼女はこちらへと振り返って、呆れたように溜息をついた。

 

「……それでも君は来てしまうのか」

「すまん、待たせたか?」

「いや、そもそも約束してなかったのだから待たせるも、なにも無いじゃないか」

 

 淡々と、いつもより突き放すような口調でそんなことを言う。こちらから興味を失ったように再び桜を見上げて、

 

「花見には最悪の天気だね」

「こんな日に桜を見に出歩くなんてよっぽどの物好きだけだよ」

「……自己紹介をありがとう」

 

 本題に入りたいのだけれども、彼女の雰囲気がそれを拒絶しているようで躊躇っていた。

 雨が傘を叩く音がひびく。それからしばらくして、彼女はこちらにギリギリ届くぐらいの声で呟いた。

 

「こんな天気だからさ、今日はお開きにしようか」

 

 そういうなり彼女は歩き始めて、慌てて俺は彼女の背中を追った。

 隣を歩こうとする自分に気づいて、彼女は再び足を止める。

 

「……私に何か用かい?」

「今日ぐらいはエスコートするさ」

 

 とっさに口から出た言葉は、果たして正解だったのだろう。

 今日初めて、俺のその言葉を聞いて、彼女はふわりと笑ったのだから。

 

 ●

 

「軒下君はさ、多重人格って知ってるかい?」

「知ってるけど、詳しい事は知らない」

 

 一人の体に全く違う性格の人格が宿る、創作に置いて度々テーマとなる言葉。

 よくあるパターンはミステリー小説で温厚な人物の別の人格がシリアルキラーだ、とか。

 

「私もそれなんだよ」

「冗談とか厨二病じゃなくて?」

「本当にそうだったのなら良かったんだけどね」

 

 まあ現実問題はそうなのだから仕方ないだろう、そう言って彼女は仕切り直す。

 

「で、今この体には彼と私の二人の心が宿ってるんだ。私が眠ってる時は彼が動いてるし、彼が眠っている時は私が動いている。ただ片方ずつ眠ってるから不眠不休で動けるわけでもなく、動ける時間を分け合っている」

「彼?」

「私と反対の、男の方の人格の彼さ。名前は一緒だから彼としか言えないけれどね」

 

 学生証の写真は彼が写ったものだと言う。なんとなくあの写真の雰囲気が違うと思った理由に気づいた。

 性格とは顔に良く出るものだから、確かに彼女の容姿だろうと写ってるものがどこか違う様に思えたのだろう。

 

 写真の違和感の理由が別人格だったのなら、あの写真こそ彼女の言葉を証明する事になる。

 

「ここで問題を出そうか。二重人格は精神の病気だ、では治ってしまった時にもう一人の人格はどこに行く?主人格になれなかったもう一人はどうなってしまう?」

「……」

「正解はその人格の消失さ」

 

 俺が分かっていながらも言えなかった答えを彼女はやすやすと口にする。

 

「そして軒下君。私はね、主人格になれなかった人格なんだよ」

 

 変わらない口調で続け様に放たれた言葉。それがどういう意味かなのか分からないはずが無い。

 

「正直初めからわかっていた、私の方が異物なんだって。体はちゃんとした男なのに、自分は女性だと思い込んでる方がおかしいんだ」

 

 街灯が照らす住宅街の道を進んで行く。二人の足音と、雨が傘と地面を叩く音だけが響いていた。

 

「それでもね、彼と二人で仲良くやって来たんだよ。彼は私にも譲歩してくれて、自由な時間を私の方に優先してくれたしね」

 

「だからこそ、私は消えなきゃいけなかったんだ」

 

 彼女は語る。

 今まで散々甘えてきたのだから、それまでの彼が体験するはずだった経験を私が経験したのだから、だからこそ私は消えなくちゃいけなかった、と。

 

「高校生に上がるのに合わせて消える、それが一番区切りが良いんじゃないかと思った」

 

 私が消える、そう心に決めると次第に私が眠ってる時間は増えていった。

 

「それでも全部消えることがなかったのは未練があったからなんだ。最後に満開の桜が見たいって、あと一回だけ、ほんの少しでも良いから桜を観たいって」

 

 そして、あの日に繋がるんだ。

 失敗しちゃったなぁ、彼女はばつの悪そうに呟いた。

 

「結果として、桜を観に行き、そこで君と会ってしまったのだから」

 

 車が隣を通り過ぎ、跳ね飛ばされた水がズボンを濡らす。不快ではあるけれど、とっくのとうに靴の中に水は染み込んでいて大差は無い。

 

「何で、私達は出会ってしまったんだろうね」

「……すまん」

「謝ることじゃない、むしろ感謝してるんだ。楽しい時間を過ごすことが出来たからさ」

 

 隣に歩く彼女を見やる。

 彼女はこちらを観ずに、足元へと視線を下ろしていた。

 

「でも、会わなかったらと、そう思ってしまうんだ。会いさえしなければ、きっとこんな苦しい気持ちにならなくて済んだのにと思ってしまうんだよ」

 

 知らなければ良かった。彼と君が同じ高校に行く事も、もしかしたら私が君と一緒に高校生活を送る未来があったかもしれないって事も。

 

「未練ができちゃったんだ。桜を観るという目標は達成したけど、本末転倒な事に」

 

 そこまで行って彼女はようやく顔を上げて、こちらを向いた。

 

「だからといって始めの決意は変わらない、私が居なくなる事は変わらない。でも一週間だけ、たった一週間だけ、私は君に会うことにしたんだ」

 

 一週間、つまり今日が期限。

 そこまでいうなら消えなければ良いのに、でも俺が勝手な言葉を言えるはずがなかった。

 

 それが彼女の考え抜いて出した結論で、俺がほんの少しだけ考えたものより正しいのだろう。

 

 俺には彼女がもうどうしようもなかったと、君は悪くないと言おうとしてる様にしか見えなかった。

 

 だからこそ、もっとその事を早く言ってくれれば良かったのにと思ってしまう。

 俺との一週間だけと分かっていたのならば。

 

「もっと早く言ってくれればよかったのに、そしたら」

「どうにもならないよ、無理に決まってる。いったところで君は信じたの?信じてくれたところで何かが変わったの?」

 

 俺は答えられなかった、今と違う未来を示す事はできなかった。

 俺が口籠る姿を見て彼女は悲しそうに微笑んだ。

 

「何で、私は男だって言ってしまったんだろうね、何で君は来てしまったんだろう。言わなければ、来さえしなければ、全部秘密のまま、或る日の夢として綺麗な形で終われたのに」

「……ごめん」

「だから謝らなくていいって言いんだよ、感謝してるんだよ。きっと君なら話しても大丈夫だと思った、今日も来てくれると思ってたんだ」

 

 そこまで言ったところで、彼女は足を止めた。よくある一軒家の前、表札には香坂と書かれている。

 

 ああ、ここが終点なのだ。

 

 きっと彼女は明日から桜を観に来る事は無いだろう、そしてそれは彼女ともう二度と会わない事を意味している。

 

「……一週間、私に付き合ってくれてありがとう」

「別に、俺は大したことしてない」

 

 彼女はフルフルと首を横に振って、それ以上、何もいうことなく門の中へと入っていった。

 数歩進んだところで何かを思い出したかの様に、慌ててこちら側を振り返る。

 

「最後に君に頼みがあるんだけど、いい?」

「……俺の出来る範囲ならな」

「私じゃなくて彼と高校であったらさ、友達になってあげてよ。私立中学に行ってたから、ここら辺に知り合いがいないんだ」

 

 それぐらいならお安い御用だった。俺が頷いたのを確認して、再び彼女は歩き始めた。

 

 玄関の前まで辿り着いて、傘を畳んで、それでも家の中に入ることなく彼女はぼんやりと立っていた。

 

 彼女の口元が動いて、何かを呟いているのは分かるけれども、雨音に紛れてうまく聞き取れない。

 

 こちらが首を傾げてすぐの事だった。

 畳んだ傘を広げず、雨に濡れるのも構わずに近づいて来る。

 

 慌てて近づいてこちらの傘へ入れると、彼女は無言で俺へと抱き付いた。ただただ抱きしめられる。自分より背の低い彼女の顔は服に埋もれて見えない。

 

「……さよならって言おうとしたんだ、なのに言葉が出なくて」

「なら無理に言う必要はないだろ」

 

 それまでの余裕は掻き消えて、彼女の声はか細く震えていた。俺に出来るのはそんな彼女の頭を撫でることだけだった。

 

「消えたくない、消えたくないんだよ。私はどうすれば良かったんだろう、どうすれば幸せになれたんだろう」

 

 俺には、その答えが分からない。

 雨に紛れて誰かの泣き声が聞こえた気がしたのは、きっと気のせいだと目を逸らす事しかできなかった。

 

 ●

 

 夜中も降り続いた雨は、しかしながら、次の日も降り続く事はなかった。

 

 いつものように持ち物は財布だけという身軽な服装で、いつも通りの時間に俺は家を出た。

 泥濘んだ地面、桜は昨日の雨で大分散ってしまっていた。

 

 いつもの席に辿り着くも、いつも先に着いていた彼女は居なかった。

 溜息を吐いて、その場を後にする。

 

 俺がその次に向かったのは、彼女の手料理を食べた公園だった。彼女に連れられたうろ覚えの道順を辿る。

 

 やはり、彼女はそこに居ない。

 

 落胆する気持ちはない。ただ『ああ、もう彼女は居ないんだな』、そんな気持ちが胸にストンと落ちた。

 

 彼女と出会うのはもう二度と無いのだろう。一人夜道を歩きながら、俺が取った行動は正しかったのかと自問自答する。

 

 河川敷の道、桜の道を辿る。

 俺にやれたのは花見に付き合った事だけで、他にも何かできることがあったんじゃないかと思ってしまう。

 

 でも、彼女の選択が間違ってるなんて、部外者の俺に言えるはずがない。

 

 出会った時点でもう話は終わっていた。最善の選択をしたところで、きっと都合のいいハッピーエンドなんてなかったのだろうと思ってしまう。

 

「軒下君はさ、考えすぎるんだよ」

 

 ふとそんな声が聞こえた気がして、足を止める。

 振り返るも誰もいない。幻聴か、そしてまた歩き始めようとして、再び足を止めた。

 

「……ここが、俺と彼女が初めて出会った場所だったな」

 

 一つ風が強く吹いて、桜の木が返事をする様に騒めいた。

 

 再び歩き始める。

 もう、その場を振り返る事ない。

 

 ●

 

 学ランを身に纏い、鏡の前でおかしなところがないかを確認する。

 寝癖もなければ寝不足による隈もなく、いつもの顔と変わりはない。

 

 新しくなったとは言え、中学校の時と何も違わない学ランであるから、特に何の新鮮味もないのが残念ではあるけれど、まあ世の中そんなものなのだろう。

 そんなことを考えながら、俺はさっさと家を出た。

 

 入学式にふさわしい、素晴らしく晴れ渡った天気。これから毎日の様に通う道を踏みしめつつ、高校へと向かう。

 

 たどり着いたのは20分ほど後のこと、自転車の使用許可は降りるのだろうか。そう思いつつ校門を潜る。

 

 校門から校舎へと続く道に咲いている桜はもう殆ど散ってしまっていた。

 満開の時期はとっくに過ぎていたから当然のことだろう。

 

 俺と同じ様に桜を素通りして校舎へと向かう生徒がほとんどの中、一人だけその散った桜を見上げてぼんやりとしている奴が居た。

 

 見覚えのある後ろ姿。

 俺は一度足を止めて。けれどもすぐにそいつに向かって、再び歩き始めた。

 

「何やってんだ?」

「……桜が満開じゃないのが残念だなと思って」

 

 いきなり俺が声を掛けられたのだから、その反応も当然の物なのだろう。

 ほんの少し飛び上がって、ぎこちない様子で彼は振り返った。

 

 向き直って向けられる訝しげな視線、誰だこいつと言わんばかりに。

 それをどこ吹く風と受け流しつつ、やっぱりと思う。彼の中に俺の記憶はかけらも残っていないらしい。

 

 そうだとしても、彼女と約束してしまったのだ。落胆する気持ちを心の奥底に覆い隠して、俺は尋ねた。

 

「桜が好きなのか?」

「いや、僕はそんなに。でも僕の知り合いで桜が大好きな人がいたんですよ」

 

 そう言って、彼は寂しそうに笑った。

 その過去形の意味を痛いほどよく分かっていた。俺も彼も、まだ彼女の事を忘れる事は出来ない。

 

「良ければ一緒に行くか?誰か人を待ってるなら先に行くけど」

「……一緒に行きます。遠くの私立中学に行ってたから、この学校に知り合いが居ないんで」

 

 知ってるよ、だからあいつに頼まれたんだ。それを言葉にする事はない、言ったところで意味はない。

 彼女が俺に事実を隠していた様に、俺もまた彼に起こった事を言う事はないだろう。

 

「自己紹介をしとくか、俺の名前は軒下 寛人」

「香坂 悠です、よろしく」

 

 差し出された手を握って、彼は不意に涙を零した。ほろりほろりと、慌てて顔を隠すも涙が止まる様子は無かった。

 

「……ごめ、ん。おかしいな、泣く様な場面じゃないのに」

 

 彼女はまだ消えてはいないのだ。

 きっと、今もまだ彼の中で眠っているに違いない。

 

 彼女の夢見た死後の通りに、きっと今もまだ彼の中夢を見ているのだろう。

 もう二度と覚めない夢を、それでも。

 

 だからこそ、俺は祈らずには居られない。

 願わくば彼女が幸せな夢を見続けれるように、と。



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