流星は丘を越えて (さんかく日記)
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夏の日の少年【1】(フレデリカ・グリーンヒル・ヤン)
照りつける太陽の光が、敷き詰められた石畳を硝子片を散らしたようにきらめかせている。
まばゆい日差しにヘイゼルの瞳を細め、開いたばかりの窓から吹き込んだ空気を彼女は胸いっぱいに吸い込んだ。
一晩の間に籠もった熱を逃がすため、壁沿いに歩きながら次々と窓を開け放っていく。
風に揺れる金褐色の髪。
女好きで知られたかつての同僚が見れば、きっと惜しみない賛辞を彼女に贈るだろう。
夏の太陽を背負って駆ける少年の姿を見つけたのは、ちょうど最後の窓の鍵に手をかけた時だった。
彼女が運営する「図書館」の開館時刻までは、まだ10分ほど時間がある。
そんなことはお構いなしという様子の早足の少年は、さも待ちきれないという顔をして石詰めの道をまっすぐにやって来た。
「おはよう、早いのね。」
「おはようございます、フレデリカさん。」
艶やかな黒髪が、朝の光を受けて輝いている。
少し息を弾ませて窓の奥を覗こうと爪先立ちになる仕草は、いかにも「早く中に入れて」と言っているようだった。
この辺りの学校に通う子どもたちにとって今日が夏休みの始まりの日だということは、ごく当たり前のように街の誰もが知っている、そんな暮らしがある土地なのだ。
石造りの塀に石畳を敷き詰めた道、街を流れる小川には同じく石で出来た橋が掛かっている。
バーラト自治領、惑星ハイネセン。
かつて慣れ親しんだ首都からは遠く離れた小さな街に、フレデリカの図書館はあった。
イゼルローンを銀河帝国軍に返上した後すぐに、移り住んだ街だった。
ほんの仮住まいのつもりだったのだが、気がつけば十年以上の月日を過している。
自治政府の仕事に就かないかとか亡き夫の功績を書籍にまとめてはどうかとか、そんな誘いもいつしか途絶え、ただ静かな暮らしだけがそこにある。
夫の所有物だった書籍を保管するために借りた一軒を地域の人々に開放し、図書館としたのも、もう随分と前のことだった。
「まだ開館には早いけど、特別よ。」
玄関は開いているからと微笑めば、「ありがとう」と礼儀正しく頭を下げた後で少年は入り口の扉を目指して駆け出した。
この小さな客人が熱心に図書館に通うようになったのは、ちょうど一年前のことだった。
離婚した両親の父親のほうに連れられて、祖父母の暮らす隣町に越して来たのだと聞いた。
「大変だったわね」と言おうとして、「家を追い出されるような甲斐性なしだったわけだから、まあ仕方ないんじゃないかな」と訳知り顔で言う少年に面食らってしまったことを今でもよく覚えている。
彼曰く「甲斐性なし」の父親は、今は近隣の高校で教鞭を執っているという。
教師という職業の堅実さと「甲斐性なし」という少年の言い分にはいくらか差を感じなくはないが、ともかくも彼が両親の離婚をさほど深刻に捉えていないことは確かなようだった。
「奥の机を使ってもいいですか。」
「ええ、構わないわよ。あなたが一番乗りだもの。」
古い一軒屋の壁を外して、書棚を並べている。
いくつもある書棚の先の一番奥、壁沿いに並べた一人用の机が彼のお気に入りなのだ。
背の高い椅子は少年が座ると足が浮いてしまうのだが、彼が気にする様子はない。
一人きりで机に向かう時間が至福と言うように、フレデリカが声を掛けなければ、休みの日は一日中そこに座っていることもあるほどだ。
遊びたい盛りの年頃なのに、まるで本の虫。
喋る言葉までどこか大人びていて、図書館に通う他の子どもたちとはどこか違っている。
実際、彼が好む本も子ども向けではなかった。
鮮やかな絵がふんだんに描かれた図鑑にも、空想小説の冒険譚もあまり興味がないらしい。
なんでも一通りは目を通しているらしいのだが、特に熱心なのは大人向けの歴史書のようだった。
その種の本は、この図書館には多くある。
文字ばかりの文献の何が少年を惹きつけるのかと不思議に思いながら、尋ねられれば言葉の意味を調べてやった。
「読みたい本、見つかった?」
「うん。地球の歴史……ずっと昔、まだ宇宙船がない時代のことが書いてあるんだって。」
「地球……。」
まぶしげに少年を見つめていたヘイゼルが曇る。
仄暗い痛みが胸の内によみがえり、フレデリカは顔を青ざめさせた。
「大丈夫?」
見上げる少年の瞳は純粋さそのもので、そのことにまた傷ついた気持ちになった。
「え、ええ……大丈夫よ。」
笑顔を作ることで、動揺を悟られまいとした。
黒髪で歴史好きの少年に亡き人の面影を重ねていた、自分自身の心を突きつけられる。
──あなたによく似た子に会ったのよ。
真面目そうに見えてそうじゃなくって、優しいけれど皮肉屋で、とても可愛らしい子なの。
ささやかな秘密を暴かれたような、それを否定されたような、複雑な気分だった。
そして、それをこの少年に知られたくないと思った。
「フレデリカさん。」
「なにかしら。」
「ねえ、本当に大丈夫?」
「大丈夫よ」と繰り返して答えながら、冷えていく指先を感じていた。
寂しく、果てしない孤独、黒く口を開けた絶望の淵、それはもう遠い記憶の中にしかないと思っていたものだった。
けれど、思い知らされている。
逆境も困難も、先の見えない戦火の中でも──「大丈夫」と笑えたのは、支えたいと思う人がいたから。
その人は、もうここには居ないのだと。
行かないでと抱きしめたいような、逃げ出してしまいたいような複雑に揺れる心を鎮めることができたのは、「おはようございます」と元気な声が玄関から響いたおかげだった。
目の前の少年と同様、子どもたちは皆が今日から夏休みだ。
この日のために揃えた新しい児童書や暑い一日を部屋の中で過したがるであろう子どもたちのために用意したお菓子や飲み物について思い出したことが、この時は幸いした。
「賑やかになりそうね。」
「うん、夏休みだから。」
自然な笑みを形作ったフレデリカの口唇を見て、少年ははにかむように笑った。
少し照れくさそうな笑顔は、亡き夫よりも義理の息子に似ている。
今はもう大人の男の顔をしている息子の少年時代を思い出していると、足下に忍び寄っていた影はやがて消えていった。
「冷たいレモネードを用意してあるから、後で声をかけるわね。」
「お菓子も買ってあるのよ」ととっておきを披露するように言うと、子どもらしい笑みが返ってきた。
「フレデリカさんは紅茶でしょう。」
少年の記憶力の良さというよりも、これは図書館に通う誰しもがよく知っていることだった。
茶葉の量に温度、ポットで蒸らす時間まで、義理の息子からたっぷりと仕込まれているのだ。
若い頃はコーヒーも紅茶もどちらも好んでいたのだが、“本物”の味を覚えてしまってからは専ら紅茶党なのである。
「そうよ。」
蜂蜜を入れたりジャムを入れたり、時には大切な人に倣ってブランデーを入れて飲む。
茶葉の種類も飲み方も、街の誰よりも詳しい。
持ち前の記憶力が紅茶通の矜持にも存分に通用していることは、街中の皆がおおいに認めるところだった。
「ぼくも紅茶がいいな。」
「おばあさまはいいって言ったの?」
「うーん。」
ませた顔をして言う少年だが、肝心の紅茶の味を彼は知らない。
カフェインは早いと祖母から言いつかっていることをフレデリカに白状させられて以来、粘っては諦めるというやりとりが続いている。
抜け目のなさを身につけるには、どうやらまだ早いらしい。
「それじゃあ、まだ駄目よ。」
「でも、フレデリカさんがいつも美味しそうに飲んでるから。」
「それはまだ、いつかのお楽しみね。」
間延びした「はあい」という声を背中に聞きながら、フレデリカは来客の対応に向かった。
夏休みを迎えた子どもたちの賑やかな声に、大人の声が混じっている。
「おはよう、フレデリカさん。」
「おはようございます、皆さん。今日は暑くなりそうですわね。」
開け放っていた窓を閉じて、冷房のスイッチを入れた。
涼やかな風が古い紙の匂いを舞い上がらせて、どこか懐かしい気分にさせる。
さざめきのような人々の声が、静かだった本の谷間を満たしていく。
重ねた月日の分だけ増えた蔵書と見知った顔、些か偏りのあった本の種類も今は満遍なく揃えられている。
日常があり、暮らしがあり、人々の輪がある。
懐かしい思い出も胸に隠した古い傷も、やがて日々の中に融けていくのだと、思えるようになった。
──だけど、もしかしたら、そう思おうとしていただけなのかしら。
心を支えていたはずの何かがぐらついて、自分で自分の内心を制御できなくなる。
孤独という冷たい暗闇が、足下から迫り上がってくるように感じていた。
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夏の日の少年【2】
フレデリカの図書館には二階がある。
小さなキッチンに冷蔵庫、大きな楠木のテーブル。
ティーカップやポットにケトル、色や形の様々なグラスは、街の人々からの寄贈品だ。
「談話室」と名付けた部屋の利用者は大人から子どもまで色々だった。
隣町の大きな図書館よりもずっと居心地がいいと評判の一軒には、この「談話室」目当ての人も訪れる。
大騒ぎさえしなければ、本を借りずにお茶を飲むだけでも咎められはしない。
その気楽さが評判になっている。
軋む木の階段を上って、彼女はまだひと気のない二階へとやってきた。
書架のある一階と同じように、二階の窓を開け放つ。
熱の籠もる室内は、じっとりと汗が滲むほどだった。
光の注ぐ窓辺に立って、そっと息を吐いた。
「あなたは今、どこにいるの……。」
人は死んだら星になるとか、いつも傍で見守っているとか、あるいは輪廻を超えて魂は巡るとか──そのどれもを「あり得ないことだ」と否定するであろう人を胸に思う。
夢見る少女に幸福と強さを与えて、その人はやがて去っていった。
残されたものは孤独だけだと、そうは思いたくない。
けれど、ふと立ち止まる時、あたたかな思い出を蝕むようにして忍び寄る悲しみを否定できなかった。
カタリと背後で音がして、彼女は振り返った。
照りつける太陽に焼かれた頬が赤い。
「あら、どうしたの。」
厚い本を胸に抱えて、少年が立っている。
ひょろりとした子どもの腕で抱えると、その本はとても大きく見えた。
「……勉強するから机を貸してって、追い出されちゃったんだ。」
四角く切り取られた陽光に背を向ける年上の女性を、少年は見上げた。
バツが悪そうな顔をして眉を下げ、ピントの定まらないカメラのようにうろうろと視線をさまよわせている。
「まあ、困ったわね。」
一番乗りの少年が座っていた机は一階の書棚の奥にあり、人の声が届きにくく落ち着いている。
朝早くやってくる老人がその席を占めていることが多いのだが、夏休みとなると熱心な学生が一日中座っていることもある。
困り顔の少年を助けてやらねばと、フレデリカは窓辺を離れて歩き出した。
「少し待っていて、私から話してあげる。」
早い者勝ちのルールがあるわけではないが、先にいた子どもを追い出すなど大人げないことだ。
しかし、話をつけてやろうと階段へ向かう手前、「待って」と強く手を引かれた。
「待って、フレデリカさん……!」
子どもらしい柔らかい手のひらが彼女の手をぎゅうと握って、力一杯引っ張った。
「僕、ここでいいよ。」
黒目の大きな少年の瞳が、必死そうな表情を浮かべてフレデリカを見つめている。
「冷房を入れてよ。それからレモネードも!作ってくれるって言ったでしょう。」
早口でまくしたてる様子に、今度はフレデリカが眉を下げる番だった。
「あら」と言ったきり沈黙し、行き先を探している。
「この本、わからない言葉がたくさん出てくるんだ。」
大人びていると感じていた少年だが、こうして改めて見るとやはり幼い。
汗の滲む手でフレデリカの手を掴んだまま、それを離すまいと懸命に足を踏ん張っている。
「だから、ええと……辞書の引き方を教えて。あっ、でもやっぱりそれは後でいいよ。僕が図書館から取ってくるから、フレデリカさんはここで待ってて。」
夢中で取り繕う言い訳には、嘘をつくことへの後ろめたさがわかりやすく滲んでいて、いかにも子どもらしい言い方だ。
けれど、可愛らしいと言い切ってしまうには、その嘘はフレデリカにとって優しすぎるものだった。
「ッ、」
誰かに傍にいて欲しくて、けれどその「誰か」はきっとこの世にはいない人で。
だからこそ、声に出せずにいた。
助けてと呼ぶことができずにいた。
「ありがとう。」
ようやく発した声は、震えていた。
「ありがとう、優しいのね。本当は少し寂しかったの。昔のことを思い出して、寂しかったけど……言えなかったのよ。」
「意気地なしよね」といびつな笑顔をつくる年上の女性を見つめ、少年は少し不思議そうに瞬きをした。
「フレデリカさん、寂しかったの?」
「ふふ、そうよ。」
一生懸命に引っ張っていた手を離し、「僕が怒らせちゃったのかと思った」と頭を掻いた少年を見て、フレデリカは笑った。
「ちょっと早いけど、レモネードを作ってあげる。だから、もうちょっと傍にいてくれる?」
背を屈めて少年の頭を撫でると「いいよ」と、今度こそ大人びた視線が返ってくる。
夏の太陽の光を閉じ込めた、きらきらと光る眼差し。
孤独の影が、薄らいでいく。
きらめく少年の瞳に照らされて、未来と希望とが戻って来たようだった。
窓を閉め、冷房をつけて、広いテーブルに二人並んだ。
氷を浮かべたレモネードにストローをさして手渡すと、熱心に本を眺めていた少年の顔がもちあがる。
「地球にはね5000年も前から人間が住んでいて、その頃は太陽や惑星を神様だって信じていたんだって。」
分厚い本のページを捲って、小さな学者が目を輝かせている。
「だけど、その前は人間じゃない動物たちの世界だったんだ。」
少年が読んでいるのは、とうに廃れた惑星でどうやって生命が誕生し、ヒトが生まれ、進化してきたのかが記されている書籍らしい。
「人間の進化についてはよくわかっているけど、滅んだ動物たちのことは今もわかってないんだって。ほら、恐竜。フレデリカさんも知ってるでしょう。」
熱心に眺めていた本を横に押しやってから、薄く色づく液体に少年が手を伸ばす。
カラリと氷のぶつかる音をさせて、彼はストローを吸った。
「恐竜のことは知ってるわ。気候変動の影響で滅んだって言われているのよね。」
好んで飲んでいるシロン産の紅茶ではなく少年と同じレモネードを自分の分も用意して、フレデリカは頬杖をついた。
少年が見つめているのは、古い惑星への憧憬をねじ曲げた古くさい宗教ではなく、長い長い生命の旅路のようだった。
「そうだね。だって、恐竜は戦争はしないから。」
「……そうね。」
「ごめんなさい。」
少年の利発さが導いた答えに曇りかけたヘイゼルだったが、今度は自らの力でその明るさを取り戻して言った。
「いいのよ、本当のことだわ。あなたの言う通り、恐竜は戦争をしないわね。」
争いの果て、自らを育んだ惑星を捨てて宇宙へと旅立った人類は、その後も変わらずに権利やら主義やらを振りかざして戦いを続けている。
フレデリカ自身もよく知る通り、ほんの十年前にも一つの大戦が終わったばかりだ。
「あなたは、どんな大人になるのかしらね。」
「えっ。」
「生物学者かしら、それとも歴史学者?エンジニアになって、何かびっくりするものを作るのかしら。それともお父様と同じ先生かもしれないわね……とても楽しみだわ。」
愛する人と仲間たちが守ろうとした共和制の灯火。
たった一つの主義のために多くの人命を損ねたという点では、自分たちも同じだとフレデリカは考えている。
それでも、諦められない戦いだったと思うし、無益だったと悔いるつもりもない。
多くの犠牲を払ってなお自由の旗のために戦い続けた彼女が、イゼルローン共和政府の解散と同時に、すべての職を退き、政治や行政の中心から距離を置いた理由。
最初のきっかけは、ただ疲弊した心と身体を休めたい思いだった。
けれど今は、新しい目標を見つけている。
「うーん、どうかなあ。」
首を捻って考え込む少年の聡明な瞳を覗き込んで、美しい口唇が微笑んだ。
「ふふ、わからなくていいのよ。だって、未来はわからないほうが楽しみも多いでしょう。」
この小さな図書館から、いつか巣立っていく若々しい精神。
大人たちに安らぎを、そして子どもたちに未来への希望を与える場所を作りたい。
それが、彼女が抱きしめる願いだ。
歴史書ばかりの書棚に、児童書を加え、図鑑を加え、たくさんの小説も買い揃えた。
冒険譚、ファンタジー、それにラブストーリー、埋もれるほどの本に囲まれると、気分はいつも懐かしかった。
百戦錬磨の恋の達人、遊び人のパイロット、生きた航路図と呼ばれた老獪な軍人、冷めたパンを美味しく食べる方法を知っている人もいたし、美味しい紅茶の淹れ方やクレープの上手な焼き方を教えてくれる人もいた。
そして、まるで歴史学者のように理屈っぽい、誰よりも戦場が似合わない歴戦の英雄も。
小さな街の小さな図書館は、まるであの頃の艦隊のようだと彼女は思う。
「あ、レモネードだ!いいなあ。」
ピアノの高音のような、女の子の声がした。
テーブルに並んだ二つのグラスを見つけ、目を丸くして駆け寄ってくる。
「あらあら、見つかっちゃったわね。」
微笑みは、夏の朝の輝きを取り戻していた。
「もう寂しくない?」
そわそわと椅子の上で背中を揺する上目遣いの少年に、フレデリカはつい吹き出しそうになった。
彼女を気遣って隣に並んでいてくれたらしい少年の目がチラチラと本の表紙を見ており、まるで「早く本の世界に戻りたい」と言っているように見えたのだ。
「そうね。そろそろ賑やかになる頃だものね。」
彼女は笑った。
心からの笑みだった。
胸の奥には今なお埋めきれぬ空洞があり、吹き抜ける風の冷たさに背を丸めることもある。
けれど、その孤独は、寂しさは、きっと幸福の証なのだと思えた。
心の内側いっぱいに充ち満ちていた、理想、勇気、そして愛しさ。
数が欠けて穴があいてしまったそこに、新しい希望と夢とを詰め込んで、また満たしていけばいい。
「さあ。グラスをもってきて、お手伝いしてちょうだい。」
待ちきれないと肩を弾ませる少女に手招きして、フレデリカは椅子から立ち上がった。
すぐ横の少年を見れば、もう本に齧り付いており、こちらの様子を気にする気配もない。
俯いた黒髪を見つめていたヘイゼルがやがて逸らされ、それから小さく微笑んだ。
[了]
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雨が通り過ぎたあとに【1】(ハンス・エドアルド・ベルゲングリューン)
人の足音、地上車の騒音、ざわめく木々のように重なり合う話し声。
オフィス街の喧噪を懐かしく思い出しながら、アン・ラッフェルは店前のシャッターを上げた。
目の前には視界のすべてを覆ってしまうような高層ビルが建っていて、周囲を見渡してもどこもかしこも背の高い建物ばかりだ。
そんなハイネセンのビル群の中に、まるで埋め込まれたように一軒のパン屋が店を構えている。
パン屋といっても焼きたてのパンを並べて売るベーカリーではない。
扱っているパンは小麦粉か全粒粉、ライ麦のティンブレッド三種類だけで、薄く切って焼いたそれに客が選んだ具を挟んで売る。
具の種類は様々で、卵やツナ、レタスにピクルス、ハム、サラミ、チーズ、オリジナルのソースで和えたアボカド、あるいはその時々で限定の味も並ぶ。
具材を選んで組み合わせるサンドウィッチと飲み物を売るのが、パン屋「コゼット」のスタイルだ。
ハイネセンの中心街にあるこの店は、ほんの少し前までは近隣のオフィスで働くビジネスマンたちで賑わっていた。
朝食を買いに来る人々に合わせて店を開け、夕方の早い時間には店じまいをする、それが長く続く習慣だった。
様子が変わったのは、周囲のオフィスビルが銀河帝国軍によって接収されたことに起因する。
近隣に事務所を構えていた企業の大半は場所を移してしまい、代わりに見慣れない軍服の男たちが闊歩するようになった。
一つ角を行った先にあるホテル・ユーフォニアが銀河帝国の総督府として使われるようになってからは、民間人の姿は一層減ってしまっていた。
一方で、商売というのは不思議なもので、商いの相手が変わったというだけで店の売上にさほど影響はない。
店の所有者である男とアンとで交替に店番に立っているのだが、オーナー曰く「君が表にいる時の売上げはむしろ順調」という。
黒地に銀の装飾をつけた軍服を着た男たちはハイネセンのビジネスマンよりもずっと控えめで、連絡先を書いたメモ用紙を押しつけられるようなことは滅多にないのだが、一応は看板娘の職責は果たせているらしかった。
気ぜわしい朝が過ぎてひと息をついた後、一番賑やかな時間がやってくる。
早めの昼食を買い求める者たちがやってくるのが十一時半過ぎ、それが正午をまわる頃になると目の回るような忙しさになる。
「すみません、ハムとチーズのサンドウィッチを一つとアイスコーヒー」
「パンの種類はいかがしますか」
「うーん、どうしようかな……じゃあ、ブラウンブレッド」
「かしこまりました」
焼いて、挟んで、包んで、売る。
それにコーヒーを添える。
店のカウンターを行ったり来たりして、次々とやってくる注文を捌いていく。
食事のためのスペースはなく、客は商品を受け取るとすぐに店を出る。
注文を告げる言葉は、帝国訛りであったり帝国公用語そのものであったり様々だが、サンドウィッチのやりとりに困るものではない。
「いつもありがとうございます。また来てくださいね」
「飲み物はいつもの通り紅茶にしますか」
熱心な視線を送ってくる若い兵士を商売用の笑顔であしらいながら、アンは目の前の注文をこなしていった。
夏の盛りの店内で着ているノースリーブのシャツが軍人たちの視線を戸惑わせているとオーナーに言われたことがあるのだが、改めるつもりはアンにはない。
主権を返せと声高に叫ぶような気概はないが、せめて身の回りの小さな自由ばかりは守りたいと思っているのだ。
昼の時間を過ぎると人通りはまばらになり、ほっと息をつく時間がやってくる。
客のいなくなった店内を見渡してから、散らばっていた手元を片付けた。
昼のピークを過ぎたら休憩をとって良いと店の主からは言われているのだが、この頃はカウンター前で過すことが増えている。
「ッ、いらっしゃいませ!」
溶けた水銀のように輝く店前の路地。
夏の日差しを受けて光る地面に濃い影が現れて、そして入り口の硝子戸が開いた。
昼時をとうに過ぎて、若い兵士たちは職場に戻っているであろう時間に「彼」はやってくる。
「ご注文はお決まりですか」
アンチョビで香り付けしたツナのサンドウィッチ、アボカドのタルタル、あるいは気に入りらしいパストラミビーフだろうか。
健康に気を遣っているつもりなのか、何度かに一度はレタスとトマトのサンドウィッチを頼むことも知っている。
「……パストラミビーフのサンドウィッチを一つ、ブラウンブレッドで頼みたい」
「かしこまりました。レタスとマヨネーズはいかがしますか」
「両方つけてくれ。あとは、コーヒーを大きいサイズで一緒に……よろしく頼む」
少し悩んだ様子の後で告げられた注文が自分の予想通りだったことで、なんとなく満足した気分になる。
「少々お待ちください」と相手の目を見て言った後で、くるりとカウンターに背を向けた。
パストラミビーフは人気のサンドウィッチで、昼の早い時間に売り切れてしまうこともままある。
それを少し取り置いているのは、いつだったか「品切れ」を告げた時の相手の顔があまりに悲しそうだったからだ。
いかにも厳めしい軍人という顔をした男がサンドウィッチ一つで落胆する様子がおかしくて、以来こっそりと彼のために取り置きをしている。
もっとも、ショックを隠しきれていないことについて本人は自覚がないらしく、売り切れを告げられた後でも相変わらず堂々とした軍人ぶりで店に通っていた。
全粒粉のパンを決まった時間だけ焼いて、そこにバターを塗る。
レタスを少し多めに入れて、マヨネーズは定量、そこに取っておいたパストラミビーフを並べた。
ただそれだけで、浮足立ったような愉快な気持ちになるから不思議だった。
「ホットとアイス、コーヒーはどちらになさいますか」
「ああ。そうだな、冷たいほうで……ええと、お願いします」
紙のカップにコーヒーを注ぎながら、カウンターの向こうを覗き見る。
ふと目が合って、すぐに逸らされた。
口許だけで、つい笑った。
黒い布地の上からでもわかる、鍛え上げられた逞しい二の腕。
鋭角的に引き締まった頬を覆う髭は、それだけで軍人という職業を体現しているようにも思える。
店によく来る兵士たちよりも上の身分なのだろうということが、華やかな軍服から見てとれた。
たくさんの戦果を上げて、その地位を得たのだろうか。
たくさんの勝利を、たくさんの兵士の死の上に積み上げて。
不慣れな異国の言葉で「お願いします」と丁寧に告げる名前も知らない男を微笑ましく見ながら、同時にそんなことを考えている。
自分のことだというのに自分でもよくわからないとアンは思った。
「あっ」
冷たいコーヒーをカウンターに置いて、待つ彼に声をかけようとした時だった。
突然、大粒の雨が降ってきた。
地面は一瞬にして黒く染まり、雨粒が硝子を叩く。
小さな店の中が、雨の匂いでいっぱいになった。
立ち往生を強いられた男が眉を動かして、アンのいるカウンターに視線をやった。
不意の出来事に顰めっ面をしているようなのだが、その瞳に困惑が見える。
男の瞳が緑色をしていることを、この時に知った。
勇壮な戦士のような髭面には不釣り合いな、優しい色をしていた。
「きっと通り雨です。すぐに止みますよ」
「そうだろうか」
汗をかいてしまったカップをカウンター越しに手渡しながら、アンは言った。
サンドウィッチの売り切れに落ち込んで夏の通り雨に戸惑う厳めしい軍人を、どうしてか励ましてやりたくなったのだ。
「ええ、空が晴れていますから」
二人して、窓の外の空を見上げた。
青い空から流れ落ちる雨は、すぐに通り過ぎてしまうだろう。
けれど、もう少しこうしていたいと思った。
コーヒーに入れた氷が溶けてしまったら、また淹れ直せばいい。
「I'm singing in the rain……」
「なんだって?」
零れ落ちた音が、二つの視線を再び向き合わせた。
「歌を歌う仕事をしていたんです、私。今はそれどころじゃなくて、劇場も閉じてしまったけど」
男の瞳が揺らめいて、「そうか」と呟くように言った。
「それは……何と言ったらいいか……いや、申し訳ないと言うべきなのだろうな」
判で押したようにいつも気難しげな顔をしているくせに、視線の奥は雄弁なようだった。
その壮麗な軍服が彼の誇りなのだろうということは、理解している。
しかし、その誇りの裏側にあるものは、信条の違う国に生まれた者であってもそう自分と遠くないのではないかと思い始めていた。
「お店の仕事も楽しいですよ」
「………」
異国の人間と政治論を戦わせ合えるほど、アンは時勢に明るくない。
それでも、目の前にいる軍服の男は侵略者で、自分は侵略された国の人間なのだということは痛いほどわかっている。
それでも、彼という人を知りたいと思った。
固く引き結んだ口唇やいかにも融通か利かなそうな堅物めいた髭面、それが彼という人間の外側を形作っている。
けれど、無骨な軍人という見た目とは違う部分もこの人にはあるのかもしれない。
「パストラミサンド、気に入ってもらえて良かったです」
俯き加減の視線を弾かれたように持ち上げた男の率直さにアンは微笑んで、言葉を重ねた。
「いつか劇場が再開したら、私の歌を聴きに来てもらえますか」
「おれが?!君の歌を……?」
「はい。サンドウィッチだけじゃなくて、歌やお芝居も気に入ってもらえたら嬉しいな」
きっと行こうとは、彼は言わなかった。
代わりに、「また店に来てもいいだろうか」と生真面目な顔で尋ねた。
「もちろんです。連絡をくだされば、お好みの具材を取っておきますよ」
やがて雨は上がり、夏の日差しが空に戻ってきた。
突然やってきた雨は、去る時もまた同じようにあっという間にどこかへ行ってしまう。
硝子窓についた雫が、雨上がりの光を受けて宝石のように光っていた。
当たり前の日々が消えた街にも、朝と夜は等しくやってくる。
コーヒーを作り直しましょうという申し出を丁重に辞退して店を出ていった人の背中を見送った。
ハイネセンという街が今日一日を穏やかに過ごせるようにとアンは願い、気難しげな軍人の男にとっても同様であれと思った。
すぐ届く場所で、交わらない距離を思って、それでも良き日であれと祈る。
きっとお互いにそうだと、信じたかった。
表通りを見れば、雨は気配さえも幻のように消えてしまっていて、黄熟した夏の日差しがじりじりと地面を焼いている。
ようやく休憩を取ることにして、待ち人の去ったカウンターにアンは背を向けた。
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雨が通り過ぎたあとに【2】(フォルカー・アクセル・フォン・ビューロー)
フォルカー・アクセル・フォン・ビューローは、遅い昼食をとるためにハイネセンの裏通りを歩いていた。
銀河の統一を成し遂げた偉大な皇帝の死去からちょうど一年という、夏の日のことだった。
過ぎた時間を振り返れば、この一年は息もつけぬというような忙しさであったと思う。
先帝の遺児であるアレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラムが二代目皇帝として即位し、幼帝を支える摂政皇太后としてヒルデガルドが新たな地位に昇った。
王朝の誕生を支えた軍人たちは皆それぞれ高い地位に就いたが、中でも国務尚書という臣下の最高位をもって処遇されたのが、ビューローの上官のミッターマイヤーである。
ビューローが、新領土ハイネセンで軍事査閲監という責務に就いているのは、ミッターマイヤーから直々に請われたからというのが大きい。
銀河帝国の領土の一部となったとはいえ、長く「自由惑星同盟」と称して対立関係にあった土地である。
信頼できる自身の元幕僚であり、調整力に長けた部下に軍事方面の責任者を任せたいと言われては、まさか断るという選択肢はない。
重責であり、難しい任務だということは十分に理解している。
受諾というよりは殆ど覚悟のような思いで、ビューローはその任を受けた。
情勢は、未だ落ち着いたとは言い難い。
銀河帝国ゴールデンバウム王朝の崩壊と前後して帝国軍との本格交戦に至った結果、旧自由惑星同盟の首都星であるハイネセンは相次ぐ災難に見舞われた。
軍事的中枢である統合作戦本部の爆撃、主権の剥奪、相次ぐテロと暴動。
ロイエンタールの叛乱による帝国軍同士の争いに巻き込まれることは辛うじて避けられたものの、その後もルビンスキーによる大規模テロ事件や政治弾圧など、数年に渡って暴力と抑圧の渦中にあった。
そのような土地に、戦争はもう終わったのだからただ静かに日常を送れとは、期待するほうに無理がある。
デモや集会は日常茶飯事で、各所から上がってくるテロに関する情報は、真偽の怪しいものまで含めれば、無数といっていいほどあるのだ。
情報を整理して見極め、必要な人員を送って対処する、それを繰り返して毎日が慌ただしく過ぎていき、気が付けば赴任して半年になるというのに、普段の街の様子はまるで知らないという有様だった。
ビューローの勤務先である総督府は、ハイネセンの中心部にあるホテル・ユーフォニアに置かれている。
より相応しい場所に移転するという話は何度も出ているのだが、未だに計画がまとまる気配はない。
幸いなことに、元がホテルということで寝る場所と食べる場所には不自由がない。
食事に関しては、ホテルのレストランを改装した士官用の食堂で済ませることが多かった。
総督府の外で昼食をとろうなどと思ったのは、いつぶりかわからない。
あまりに街の様子を知らないのは如何なものかという思いもあり、いつの間にやら新領土に詳しくなったらしい部下に勧められた店にとりあえず向かうことにした。
レストラン等は昼の営業を終えている時間なのだが、部下が推奨するその店は、持ち帰り用のサンドウィッチを商っている。
味に加えて種類の豊富さで大層人気を得ており、昼時には行列ができていると聞いた。
もっとも、兵士連中の目当てはサンドウィッチだけでなく店員の女性らしい。
フェザーンやハイネセンのような都会でもなかなかいない美人が接客してくれるのだと熱心に語る部下の様子から察するに、どうも当の本人も店員目当てで通っているようだった。
「コゼット」という店の看板は、通りを一角行ったところで容易に見つけることができた。
見れば、背の高いビルとビルの間に肩身を狭くして入り込んでいるようなほんの小さな一軒である。
昼には遅すぎる時間とあって、店の外に並ぶ者はいない。
入り口の硝子戸を押して中に入ると、どうやら客は自分だけのようだった。
「いらっしゃいませ!」
明るく呼びかける声の主が、どうやら噂の女店員らしい。
なるほど、兵士たちが夢中になるのも頷けると率直に思った。
袖の短いシャツにエプロンをかけた様子は、カウンター越しにも溌剌としたスタイルの良さが窺い知れる。
本土にはいない開明的な雰囲気の女性にのめり込む帝国兵はこのところ多いと聞くが、その見本のようだと思う。
もっと華やかな職業についていてもおかしくないと思える美女だが、その仕草や表情はいかにも自然だ。
異国の兵士相手に物怖じもしなければ、もったいつけるような態度でもない。
「ご注文はお決まりですか」
「どうしようか。実は初めてでね……部下に勧められて来てみたんだが、どうやって注文したら良いのかな」
ああ、と合点したように頷いて、彼女はメニュー表を手に取った。
「具を挟むパンは、三種類の中からお選びください。一番人気はブラウンブレッド、全粒粉のパンでカリカリに焼くと美味しいですよ。具はお好みですが……肉に野菜にフライ、お好きなものはありますか」
手際よく寄越される説明が、耳に心地良い。
つい、お勧めは何か、組み合わせるならどれとどれが良いかとあれこれ聞きたくなる。
遅い昼食の幸運とでも言うべきかもしれない。
焼いたベーコンとアボカドのタルタルに、レタスを添えてもらうことにした。
店で人気のメニューで、タルタルがまだ残っているのは「ラッキーですよ」と彼女が言う。
そんな言い回しが気に入って、年若い女の顔をついまじまじと見た。
視線がぶつかった先で、明るい色をした女の瞳がぱっと見開かれた。
「あの、」
「いや、失礼。若い連中が君に夢中になるのも頷けると思ってね。君はとても親切だし、何より料理の説明が上手だよ」
砕けた口調を作って言うと、それが可笑しかったのか視線の中の女が笑った。
「ありがとうございます。お客様の前に立つのは好きだから、そう言っていただけて嬉しいです」
人好きのする笑顔で言いながら、包み紙の上に並べたパンに器用に具材を載せていく。
「飲み物はどうしますか」
「コーヒーをもらうよ」
「アイスコーヒーでよろしいですか」
「ああ、それでよろしく。故郷では冷たいコーヒーを飲む習慣はないんだが、この頃は毎日だよ」
焼けたパンの匂いが鼻孔をくすぐって、途端に腹が空いてくる。
良い店を知ることができたし、街の様子も眺められた。
この後も悪くない一日になりそうだと華やいだ気分になった、その時だった。
「あの、もしよろしければ……一つお伺いしても?」
美女からの質問を歓迎しない理由はない。
妻子持ちの身だからといって、会話を楽しむ権利まで返上する必要はないだろう。
「私にわかることであれば」と微笑んで答えた視線の先で、美しい睫毛を伏せて女が押し黙った。
気まずいことを聞かれるのか、もしも職務に係ることであればもっと良くない。
いくらか身構えたビューローであったが、彼女が寄越した問いかけは彼の想像とはまったく違う種類のものだった。
「以前によくいらしていた方で、お客様と似た制服の方がいたんです。年齢もきっと……同じくらいだと思います」
指先で心臓を摘ままれたような、鋭い痛みが胸に走る。
まさかと思った。
けれど、頭に浮かんだ一人の顔を否定できずにいる。
「ちょうどこのくらいの時間に……二年前の夏は、本当によくいらしていて」
心の内側が小さく波打ち、揺らめくようにして広がっていく。
「私と似た軍服。ならば、総督府勤めの軍人かもしれないな」
努めて平静を装うのだが、今や荒れ狂う波となった心の騒めきを鎮めることは難しい。
「そうだと思います。お客様が着ているものとよく似た制服で、お顔には髭を生やしてらっしゃいました」
想像は、殆ど確信に近いものに変わっている。
あの男もこの店に来たのだと、稲妻に打たれる衝撃のごとく突きつけられていた。
「君は、その男と親しかったのかな」
「いいえ。名前も聞けずじまいで……」
胸の内側で、感情という嵐が荒れ狂っている。
名づけようもないそれらは当てもなく彷徨い、風雨のように吹き付け、そして神経をざわめかせて暴れる。
この店に来たのだ、わが友が。
偏屈で、不器用で、その癖して情に厚い愚か者が、この場所に。
「だけど、その……でも、私……」
突き動かされるままに慟哭し、男の名を叫びたかった。
今すぐ戻って来いと、声に出して呼びたかった。
「ああ。もしかしたら、私の古い僚友かもしれないな。その男はいかにも堅物の髭面ではなかったかい」
心の叫びを押し殺して確かめれば、確かに二年前にこの場所に来たのだと、友の足跡を知ることができた。
パストラミビーフのサンドウィッチが気に入りで、夏の間決まって冷たいコーヒーを頼んだと、長い睫毛を伏せた美女が教えてくれた。
「その方が今どうしているのか、ご友人ならご存じですか」
「……そうだな」
どう答えるべきか迷い、彼女の瞳の中にある感情に相応しいと思う一つを選び出した。
「彼は軍を辞めたんだ。もう随分前になる。それから故郷に帰ってね、銀河のずっと先で暮らしていると聞いているよ」
「えっ……」
美しい口唇から零れ落ちた旋律は、悲しみを奏でていた。
「そう、なのですね……私、全然知らなくて……」
面白味らしい部分は少しもない男だが、慕われていたというのだろうか。
気難しげな顔をして余計な荷物をいくつも背負い込んで、それを下す方法など考えもしない、そういう男だった。
「それじゃあ、今はご家族と……?」
結婚しているのかと、言外に聞いているのだとわかった。
わかっていたからこそ、「そうだ」とビューローは答えた。
もう戻ることのない相手を、この清らかな女性が待つことをせずに済むようにと。
氷の解けてしまったコーヒーは、大丈夫というのに彼女が作り直してくれた。
アボカド以外にもお勧めがあるからと熱心に話す口唇は瑞々しさが消えて、青ざめてすら見えた。
「またいらしてくださいね」
見送る声に頷いてから店を出て、空を見上げる。
青磁の空に白い雲がたなびいて、今はもう見慣れたはずのハイネセンの夏空を曖昧に輝かせていた。
しばらく経った後でもう一度店を訪れた時、彼女はもう店先に立ってはいなかった。
カウンターにいるのは店のオーナーだという壮年の男で、「看板娘は目下募集中です」と入り口に貼られた紙を指差して言った。
「街でポスターを見ませんでしたか。彼女、元は劇場の役者でね。先週から始まった演目じゃあ、主役を演じていますよ」
聞けば、彼女はミュージカルなる歌劇を演じる劇団の役者で、戦線の拡大で職場の劇場が閉鎖されたことでこの店でアルバイトを始めたのだという。
「劇場は半年前から元に戻ったんですがね、もう少し働きたいって言うもんで、ありがたく居てもらったんですよ。コゼットなんて店の名前で男が接客じゃあ、お客さんも残念がるでしょう」
彼女が辞めて客が減ったとぼやくように言いながら、そのくせ男の顔は嬉しそうに笑っている。
ハイネセンの街に日常が戻りつつあることを、喜んでいるのかもしれなかった。
「お客さんも、アンが目当てですかい」
「いや、私の目当てはこれだよ。パストラミビーフにレタスとマヨネーズ、パンはブラウンブレッドで頼む」
「ああ、美味しいですよね。それにアンの一推しのサンドウィッチだ」
美女が目当ての客だと混ぜ返されているのだとわかったが、腹を立てる気にはなれなかった。
生憎と、自分の目当ては看板娘の笑顔ではなく髭の友の思い出なのだが、堅物の僚友の代わりにからかわれてやるのも悪くはないだろう。
「アイスコーヒーも頼むよ」
「まだ暑いですからね。お任せください、最高の一杯を淹れますよ」
店を出た先で、ふと土のような匂いが鼻をくすぐった。
土など探すほうが難しいというような大都会なのだが、そんな気がしたのだ。
雨が降るのかもしれないと感じている。
秋をすぐそこに控えた空はいかにも移り気で、思いがけない時に雨に降られるようなことがままあるのだ。
総督府に帰り着くまではもってくれよと願いながら、白くカーテンを引いた空を見る。
「惚れ込む相手を間違えたんじゃあないか。なあ……ベルゲングリューン」
ずっと胸の奥に押し込めていた名前を呼んだ。
自分にとって、無二の友と呼べる相手だった。
「あんな美人を口説き損ねるなんて、惜しいことをしたじゃあないか」と酒でも飲んで、友と笑い合いたい。
今は叶わぬ願いではあるが、いつかきっとそうしようと思うのだ。
人気の演目だという話だが、新領土の暮らしが長い民政長官に頼めば一枚くらいはチケットも手に入るだろう。
彼女の歌う声がどんなに素晴らしいか、友の代わりに聴いてやらねばと思うのだ。
そうすれば、思い出話の肴にもなるだろう。
悔しい素振りを見せぬようにと意地を張るであろう僚友の顔を思い浮かべて、ビューローはそっと口唇を緩めた。
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