きっかけはささいなことだった。
季節は寒い冬の最中、シャワーノズルに手を伸ばしたとき、気づいてしまったのである。そういえば、着替えの用意してなかったと。
「失敗したぁ……」
膝を曲げて屈み、意味もなく、両手の平で顔を覆う。
もちろん、本気で落ち込んでいるわけではない。珍しくもない話だ。三年前くらいだったり、五年前くらいだったりにも僕はやった覚えがある。全身の汚れをくまなく洗い落とし、浴槽に肩まで浸かって温まっていると、脳裏に閃くように気づくのが普通なので、失敗には違いなくともあきらかに成長はしているのだ。
今なら、脱ぎ捨てた服を着直して、何食わぬ顔で着替えを取りに戻れば問題ない。
曇り硝子がはめ込まれた真ん中で折り畳まれる構造の戸を、浴室の側にいるために引いてあけて脱衣所に戻った。と、なぜかそこに姉ちゃんがいて、きょとんとした視線が重なり合った。
昔から、姉ちゃんにはすこし間が抜けているところがある。モデルの仕事でも務まりそうな美人さんだし、外ではしっかり者で通っているが、夜中に寝ぼけて僕の布団にもぐりこんできたり、僕の食べかけのプリンを自分のものと勘違いして食べてしまったり、といったことがしょっちゅうあった。
今回もそれだと思った。僕が先に入っているのに気づかず、風呂に入ろうとしているのだと。しかし、説明のつかない、おかしな点があった。僕が洗濯籠にまるめてぽいっとやった下着を掴んで、口元に引き寄せようとしている風なのだ。
「えっと……姉ちゃん?」
軽く首を傾げて説明を求めると、姉ちゃんは弾かれたように動いて、僕の下着を背中に隠し持った。
「ち、ちが、ちがうんだ。これは、これは……」
呼吸困難に陥った金魚のように、色をうしなった唇をぱくぱくさせる。まだ状況がはっきりとは掴めないが、姉ちゃんが後ろめたいおこないに手を染めていたのは確かであるらしい。
でも、僕はそんな泣きそうになっている姉ちゃんを見ていたくなかった。
「魔が、差したんだろ。夜中に甘いものを食べちゃったりとか、僕にもあるし。誰だって、そういうのはあるよ。だから……」
言葉が、出ない。そもそも姉ちゃんがどういった悪事を働いてしまったのか、半分も理解できていないのだ。なおも頭を働かせて打開策を探っていると、冷え切った体がくしゃみをして、さっさと風呂に入れと僕を急かしてきた。
「着替え、取りにきたんだった」
このままだと、風邪をひいてしまう。なんの話にせよ、服を着てからにするべきだが、そのためには姉ちゃんとの距離を詰めなければならない。その程度の刺激ですら、姉ちゃんの涙を誘うかもしれない危険性を思うと、なかなか足が前には進まなかった。
「着替え……? あっ……!」
本来、姉ちゃんは頭の回転が速い。僕の側の事情に思い至ると、すぐさま脱衣所を飛び出していった。どたどたと階段を二階に駆け上がる音が響いて聞こえる。僕の自室まで、着替えを取りにいってくれたのだろう。
ならば、と僕は浴室に足を踏み入れ、シャワーノズルを掴み蛇口を捻った。ボイラーが重低音を鳴らして稼働を始めるが、湯に変わるまでには幾らかの猶予がある。シャワーを手の平に浴びせて水温の上昇を待ち望んでいると、脱衣所に姉ちゃんの気配があった。曇り硝子越しに長身の人影が写り込んでいる。
「ありがとう、姉ちゃん」
扉越しにでも届くよう、大き目の声で呼びかける。すると、姉ちゃんは扉の前でうろうろしていたが、やがて無言のまま立ち去っていった。
「パンツの臭いを嗅ごうとしてたのかな……」
40度ぐらいに設定したシャワーのお湯をうなじから全身に浴びる。
まさかとは思いながらも、考えに考えた末の結論がそれだった。そういった変質者の噂を耳にした記憶が過去にあったのだ。僕にとっては、興味を惹かれる内容の噂ではなかったが、我が身に降りかかってはそうもいかない。まして、相手は姉ちゃんである。
「いい臭いでもしたのかなぁ」
寒い季節とはいえ、今日は体育の授業があったため、汗が染みこんでいたはずである。想像を巡らせると、とっても恥ずかしいことをされたように感じて、頬が熱くなった。
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2話
石鹸の香りがしている。
自分では分からないが、僕の全身からは風呂上りの香りが漂っているはずだった。姉ちゃんが用意してくれた寝間着も、洗い立てではなくとも清潔なものだ。
「臭いを嗅ぐなら、こういうときにしてくれたらいいのになぁ」
バスタオルで全身の水気を拭き取る。寝間着に袖を通してから、背もたれのない椅子に座り、ドライヤーの熱で濡れた髪の毛を乾かした。
脱衣所に用意された鏡の中には、ちんちくりんな子供の姿が映っていた。愛想のない弱り切った仏頂面で、どことなく元気がない。服の上からでも、年齢の割に貧相な体付きが見て取れた。
「どうしたら、いいんだよ」
ドライヤーのスイッチを切り、鏡越しに自分を睨んでみても、何もかもが解決する名案が浮かんでくるわけもない。
見て見ぬふりはできない重大事だ、というのは理解していた。その対処にあたっては、姉の気持ちを確かめた方がいい、ような気がする。誤解している可能性は捨てきれないし、より詳細に知ることで出来ることの幅も広がるからだ。
「そうしよ」
悩んでいても、どうにもならない。
猫の顔と耳があしらわれたスリッパを履き、廊下を抜けて二階への階段を上った。僕の部屋のとなりにある姉ちゃんの部屋の前に立つ。
「い、いくぞ」
何度か躊躇った後、意を決して部屋の戸を叩いた。
僕はノックすることに慣れていない。普段、姉ちゃんの部屋にお邪魔する際には、入るならノックをするように、と度々お叱りを受けていた。
「あれ?」
数秒が経っても、姉ちゃんの返事がない。やや強めにノックを繰り返しても、それは同じだった。
「入るね……入る」
この展開は拍子抜けだった。
いないのか、だとしたらどこにいるのだろう、外に出かけたのだろうか。一応、不在の確認のために戸をひらくと、ベッドの隅で膝を抱えて蹲っている姿を見つけてびっくりした。
「い、いたんだ、姉ちゃん。いないのかと思って、僕……」
動揺から、あらかじめ心の中で組んでいた予定がぐちゃぐちゃになっている。まずは姉ちゃんの近くに座らせてもらうことだ。なんとか、そこだけ実行に移した。
「あ、となり、大丈夫だった?」
遅れて断りを入れると、姉ちゃんは頷きを返してくれた。小さくとも反応を引き出せてほっとする。
なにげなくベッドの上に置いた指先に違和感を感じて、そこに自分の下着を発見した。姉ちゃんが持ち去っていたらしい。放置もしておけないが、どうしたら……立ち上がり、とりあえず部屋を見まわして、テレビ台の上に置いた。離れた場所に移動させたに過ぎないが、奇妙なやりきった感がある。
姉ちゃんのとなりの位置に戻って、額の汗をぬぐう。室温は暖房でほどほどに調節されているが、冷や汗のようなものは抑えられない。
「えっ?」
不意に手首を掴まれ、強い力で引き寄せられた。
「姉ちゃん?」
天井の木目が見えた。ぐるん、と景色が流れたと思ったら、ベッドに押し倒されている。
恐ろしくはなかった。なんといっても、姉ちゃんだ。暴れても逃れられはしないだろうが、家族に対する無条件の信頼がそれをさせなかった。それに、姉ちゃんの顔が涙に塗れていた、というのもある。
姉ちゃんの泣き顔を見るのは初めてで、胸が痛くなった。
「怒ってないよ、だって僕は姉ちゃんの……」
声音が柔らかくなっている。僕の唇が語ろうとした続きは、自分でも分からない。なぜなら、この場では無粋とばかりに、押し付けられた姉ちゃんの唇に塞がれてしまったからだ。
ぬるりとした舌が口内をまさぐる。経験はないが、おそらく性的な行為だった。姉ちゃんはとにかく興奮していて、鼻息が荒くなっている。口を塞がれているなら鼻で呼吸すればいいのか、と悟って僕もそうした。
「姉ちゃん……怖い、よ」
服の隙間から侵入を果たした姉ちゃんの手が微妙な膨らみの胸をまさぐり、首筋を舌がなめくじのように這いまわっている。たまらず、僕が恐怖心を訴えると、手首を拘束する力がするりと抜けた。
身を起こすと、脱いだ覚えのないスリッパが床に転がっていた。姉ちゃんは僕に背を向けて、膝を抱えて丸くなっている。
意外でもなんでもないが、家族を恐ろしく感じていることに、僕は大変なショックを受けていた。というか、このひとはほんとうに、僕が知っている姉ちゃんなのか。
「姉ちゃん、僕……部屋から出て行ったほうがいい?」
判断がつかなくて訊ねると、こくん、と姉ちゃんは頷いた。
素足をカーペットにおろす。部屋を後にする間際、振り返って姉ちゃんの様子を見た。壁に向き合ったまま、まったく身じろぎもしていない。
「姉ちゃん、好き、だよ。家族として」
僕は酷い言葉を口にしたのだろうか。
姉ちゃんは一瞬、肩を震わせたきり、なにも言わなかった。
自室に戻ると、僕はベッドに潜ってすぐに明かりを暗くした。
その夜は、眠れなかった。
一人称で主人公の性別が男性っぽく書かれてたんだけど、最後に女性だったと明かされる、みたいな感じで書かれてた小説が面白かった覚えがあるので、自分も真似してみたかったんだけど難しいんで諦めました。
作者の設定上は、主人公は女性になってます。
つまり、おねロリは最高ということですね。
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