怪物達の地球 (彼岸花ノ丘)
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Species1
動き出す巨躯


「いやぁー、壮観ねぇ」

 

 前髪を片手で掻き分けながら、一人の若い女性が暢気な声で独りごちた。

 女性は黒く長い髪を後ろで束ね、ポニーテールにしている。凜とした顔には満面の笑みを浮かべ、とても楽しそうに身体がそわそわと動いていた。日本人的な顔立ちであるが、大きな胸とハッキリとした腰の括れは、成熟した西洋人にも負けていない。彼女ほど女性としての魅力に溢れている人は、早々お目に掛かれないだろう。

 尤も今の彼女の服装に色香などない。厚手の長袖長ズボンという、肌の露出が殆どない、山登りに最適な格好なのだから。

 実際、彼女は山の頂上に立っていた。標高の高さ故に年中気温が低いこの地は木が殆ど生えておらず、広大な草原となっている。周りに人工物はなく、見える光は天然のものだけ。夜中の十二時を回った今では月と星だけしか明かりはないが、そうした淡い輝きが眩く思えるぐらい、此処には自然だけが存在していた。

 無論彼女が山の頂より見ている、彼方まで広がる景色も自然だけで作られている。生い茂る木々は過酷な環境を耐え抜き、殆どがぐねぐねと曲がりくねったもの。ひっきりなしに上がる獣の鳴き声は、研究者が聞けば跳び上がるほど稀少なものばかり。純然たる大自然が、大いなる生命だけが、此処を支配している。

 此処は人の手が入っていない、そのままの自然が残っているのだ。

 ……正確には、人が不躾に手を突っ込めるような地ではないというのが正しいのだが。

 彼女の目の前に居る――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「運動能力があるかもってのは論文で読んでいたけど、まさか本当に動くとは。しかも意外と速いというね」

 

 心から楽しそうに笑いながら彼女・大桐(おおぎり)玲奈(れいな)はその『生命体』をじっと観察する。

 高さ一千五百メートル。横幅六千三百メートル。

 文字通り山のようなサイズのそれが、ゆっくりと……あくまで見た目上に過ぎないが。実際には時速三百キロは出ている……前進していた。朦々と土煙を上げ、『身体』の八割以上を覆う森林と共に移動する姿は、それだけで人智を超える存在だと玲奈達人類に知らしめる。もしも普通の人がこの光景を前にしたら、まるでかの存在が人間に己が力を誇示しているように感じたかも知れない。

 しかしあの生命体にそんな意思はないと玲奈は考える。あの超巨大生命体からすれば、人間など文字通り虫けらでしかないのだ。自分が偉くて強いと足下のアリに自慢する人間がいないのと同じように、この山のような生命体だってそんな事はしない。

 つまりこの大移動には別の、生物学的に合理的な意味がある筈。

 はて、一体どんな意味があるのか。単なる知的好奇心だけでなく、この山のような生命体の進む先に()()()()()()()()()()()()があるのだから、なんとかしてその原因を突き止めねばなるまい。そもそもこれはイレギュラーな出来事なのか、或いは定期的なイベントに過ぎないのか。異常か正常かというのは、『生態』を考える上で重大な観点だ。この観点を見失ったまま事に対処しようとすると、より大変な事が起きかねない。玲奈はそれを知っている。

 しかしながら困った事に、それを知らない人間というのは、得てして短絡的な方法を取るものだ。強大な権力を有しているならば尚更である。

 例えば、()()()()()()()()()()()()()、とか考えたり。

 

「玲奈さん! 本部より連絡が来ました! あと三十分で滅却作戦……核攻撃が実施されます! すぐに避難しましょう!」

 

 玲奈の後ろから、眼鏡を掛けた若い男が必死な声で呼び掛けてきた。

 予想していた中で『最悪』の報告に、今まで笑顔だった玲奈の顔は顰め面に変わる。振り返ってみれば彼が心底焦った表情を浮かべており、その報告が悪質なジョークではないと玲奈は確信。

 逃げ出そうとする動きを玲奈は一切取らず、覇気に欠けた調子で若い男に尋ねた。

 

「……その作戦、この国の大統領の命令でしょ?」

 

「え? えぇ、まぁ……よく分かりましたね?」

 

「まぁね。うちの組織は各国から資金援助を受けている都合、各国政府にあの山みたいな超生命体……『怪物』達の生態について定期的に報告しているのは知ってる?」

 

「そりゃまぁ。僕、新人とはいえ広報ですし。今日は人手が足りないって理由で駆り出されましたけど」

 

「あら、そうなの? 何時も面倒なお仕事押し付けてごめんなさいね……話を戻すけど、お付き合いが長かったり、データをちゃんと吟味してくれる政府なら問題ないの。でも政権交代したばかりで付き合いが浅かったり、データを読んでくれない連中はよくこう言うのよ。そんな危険な怪物、軍事力で退治してしまえって」

 

 玲奈の話に、若い男は納得したように「あー……」と声を漏らす。心当たりがあるようだ。広報というのも、中々大変な仕事らしい。

 

「ほんと、困っちゃうわよねぇ」

 

「ええ。どれだけ説明しても、怪物の重要性は中々分かってもらえません。今回の核兵器使用、そしてあの山のような怪物を絶滅させる事で、この地域の生態系にどれほどの影響を与えるか……」

 

「ああ、そっちは心配しなくて良いわよ。少なくとも今回はね」

 

「? えっと、それはどういう……?」

 

「簡単な話。生半可な水爆の十発二十発で消し飛ばせるほど、アイツは柔じゃないって事よ」

 

 玲奈があっけらかんと告げた答えに、若い男はしばし呆けたように固まる。

 彼が狼狽えだしたのは、たっぷり十秒以上経ってからだ。

 

「は、は? え、核兵器で死なないって……?」

 

「まぁ、そのぐらいの種なんて怪物では珍しいもんじゃないけどね。それに死なないだけで、理論上四メガトンほどの水爆を食らわせれば表層ぐらいは削れるわ……だからこそ後が厄介なんだけどねぇ」

 

 小声でぽそりとぼやいた後、玲奈は頭の中で核兵器使用時の事態をシミュレートしてみる。

 あの山のような『怪物』については研究がかなり進んでおり、体表面強度がどの程度かは正確に把握されている。今し方男に話したように、数メガトン級の核兵器をぶつければ表面ぐらいは間違いなく削れるだろう。

 削れるが、それは決して致命傷とはならない。

 何故ならあの山は、()()()()()()の集まりなのだから。菌糸が何重にも組まれ、機械のように複雑かつ整然と並び、大きな運動性を持った群体……それがあの山のような怪物の正体。表面を満遍なく焼き払われた場合、動物なら大抵死ぬだろうが、菌糸の集まりであるあの怪物にとってはちょっとした怪我で終わりだ。

 しかしそれだけなら怪物の駆除に失敗しただけ。大した問題ではない。

 一番の問題はあのキノコの中には大量の、そして別種の怪物が生息している事。体長数メートルのネズミなら可愛いもので、五十メートル超えのムカデや、百メートル近い甲虫も確認されている。発見されているだけで七十二種。探索の困難さから未確認種がまだまだいてもおかしくない。

 山の表面が削れて外界への『出口』が出来たなら、核兵器の衝撃に驚いたそいつらが外に飛び出す事は十分考えられる。

 外に出た怪物の一部は、この星に何十億と生息する動物――――人間を食べて繁殖するかも知れない。その場合問題になるのは百メートル級の巨大種ではなく、数メートル程度の小型種の方だ。恐ろしい天敵が存在する分、奴等の繁殖力はかなり優れている。それでいて身体能力は怪物を名乗るに値するもの。山のような怪物と比べれば遥かに小さいが、動物やキノコの繊維質を食べる彼等の身体能力は、ただデカいだけのキノコとは比べようもなく高い。核兵器に耐えるキノコよりも頑丈な奴等は、果たして核以外の兵器で根絶出来るのか? 言うまでもなく不可能だ。奴等は際限なく増殖し、世界中に拡散し、あらゆる文明を破壊していくだろう。

 あの山の中には大量の、世界を滅ぼす怪物が無数にひしめいている。アレはただの山ではない。恐ろしい怪物達を封じ込めている、最後の砦なのだ。

 故に玲奈が属す組織は、あの怪物をこう呼ぶ。

 『封印の怪物』と。

 

「(で、この国のアホ大統領は封印を盛大に爆破しようとしてる、と……一回やらなきゃ怪物がどれだけ恐ろしいか理解しないんだろうけど、アイツに関しては一回やらせたら人類が終わるのよねぇ)」

 

 肩を竦めながら、どうやっても大統領には理解してもらえない事に気付いてしまう玲奈。

 自分の仕事がどれだけ社会に貢献しているのか、この文明を維持する上でどれだけ大切なのか、周りに理解されないのは辛い事である。

 辛い事であるが、生憎玲奈はその点について全く気にしていなかった。何故なら彼女は誰かに認めてほしくてこの仕事をしているのではない。それどころか人類を守るためでも、怪物を守るためでもない。

 この仕事が大好きだから、やっているのだ。

 

「要するに、兎にも角にもあの怪物をなんとしても止めないといけない訳だ。だから新人君、手伝いなさい」

 

「は? いやいやいや!? あと三十分で核兵器が飛んでくるんですよ!? 逃げないと駄目ですって!」

 

「逃げても駄目なんだから前に進みなさい! 男なんだから根性見せろ!」

 

「なんでこの博士根性論振りかざすの!?」

 

 全否定して手伝いを拒む新人だが、玲奈は叶わずその手を掴み、容赦なく引っ張る。女であっても玲奈はフィールドワークでがんがん鍛えた身。デスクワークばかりの軟弱男を引きずるなど造作もない。

 

「なぁに人類をちょっと救うだけよ! 子供の頃一度は夢見たでしょ!」

 

「今は大人です! というか人類を救うなんてめっちゃくちゃ大事じゃないですか!? 無理ですよ僕達だけじゃ!」

 

「いけるいける! 問題があるとしたら、私が妊娠三ヶ月ってところぐらいよ! 突然つわりで吐いても、背中擦ってくれればなんとかなるわよ多分!」

 

「大問題ぃぃぃぃぃ!?」

 

 新人の正論もなんのその。玲奈は底抜けに明るい笑顔で返すばかり。

 そう、彼女にとって人類を救うなど大したものではない。

 

「これでも昔、一回は人類を救ってんのよ。ついでにもう一回救うだけなんだから大した事ないっての!」

 

 一度はやり遂げた事なのだから。

 猛進する『封印の怪物』目指し玲奈は進む。躊躇いなく、迷いなく、恐れもなく。

 彼女は何も変わっていない。

 十二年前、全ての始まりの時から、何も変わっていないのだ――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Species1 伝説の怪物

 

 

 



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やんちゃ娘

 

 

 ――――『封印の怪物』が動き出す、十二年前。

 

 

 空で煌々と輝いている月が、地上を照らしている。神秘的な光に満ち、森が鮮やかに色付く。五月を迎え、まだまだ若々しい葉が月明かりによりキラキラと光り輝いていた。草花が駆け抜ける風で揺れる姿は、まるで踊っているかのように可憐である。

 動物達も森を彩る一員だ。虫達の穏やかな鳴き声が森の中を満たし、幻想的な雰囲気を一層盛り上げる。フクロウが飛び、ネズミが地面を走り回るなど、夜でも元気な住人の姿も見えた。野鳥や獣の寝息も、森の合唱を飾る大切な音色だ。

 何処か現実味がない、お伽噺のような情景。誰もがこの美しさに見惚れ、言葉を失い、そして感動するだろう。

 遭難さえしていなければ。

 

「……迷った」

 

 齢十歳の少女であるレイナ・エインズワーズは、そんな森の中で己の置かれている状況をぽつりと呟いた。

 

「いやいやいや、待って。おかしい。え、なんで私こんな事になってんの?」

 

 腰まで伸びている黒髪に覆われた頭を両手で抱えながら、レイナはその場にしゃがみ込む。百四十五センチという十歳(同年代)の女子からすればやや大きな身体を丸め、芸能人でも早々お目に掛かれないほど愛らしい顔を苦悶で歪めながら、自分がこんな目に遭った原因を探るべく過去を振り返る。

 五月某日。レイナ・エインズワーズは父の故郷を訪れていた。

 レイナはイギリス人である父と、日本人の母の間に産まれたハーフである。普段は父の仕事上日本で暮らしているが、ゴールデンウィークなどの長期休暇には、父方の祖父母が暮らすイギリスに遊びに来るのが一家の決まりとなっていた。

 祖父母は海外暮らしをしているレイナにとても優しくて、遙々海の向こうからやってきた孫娘に色んなものを与えてくれる。今のレイナが着ている、不思議の国のアリスを思わせる青いエプロンドレスも祖父母からのプレゼント。とても可愛らしくて、すぐお気に入りになった。

 そうして新しい服を通行人に見せびらかすように、昼間庭で遊んでいたところ、ふと祖父母の自宅から見える裏山が目に留まった。立派な木々に覆われた、今やイギリス国土の僅か十数パーセントしかない『森』がある山だ。

 別段、気になるものがあった訳ではない。強いて言うなら「カブトムシとかいるのかなぁ」ぐらいである。レイナは十歳の女の子だったが、クラスメートの男子よりも虫に詳しく、虫が大好きな、割と変わった子だった。なお、よく男子と一緒に虫取りをして、男子を美少女特有の色香で惑わし、女子の一部を嫉妬に狂わせているが、当人に自覚はない。

 ともあれそんな些末な理由から森を見ていた時、祖父がこの地に伝わるというお伽噺をしてくれた。

 曰く、森の中には二匹の悪魔が潜んでいる。

 悪魔はとても恐ろしい姿をした虫で、常に争いを繰り広げている。大昔に悪魔達が人里に降りた時は、幾つもの国が滅茶苦茶にされてしまった。そこで人々が神様に祈りを捧げたところ、神様は悪魔達を戒め、ケンカが終わるまで森から出ないよう言い付けた。以来悪魔達は、お前の所為で森から出られなくなったと相手を責め、今でも狭い森の中で醜く争い続けている。仲直りすれば、すぐに森から出られるというのに。

 つまりあの森は危険な場所だから入ってはいけない、それとケンカをすると本当に簡単な解決方法も見落としがちで云々かんぬん……そう結ばれた話だったが、レイナは後半を殆ど聞いていなかった。それどころか森に興味を持ち、夜中に忍び込もうと決心する有り様。何故なら悪魔なんて信じていなかったし、本当にいるとすればそれは珍しい姿の虫に違いないと思ったからだ。ついでに立ち入りを禁止されて、好奇心が余計に刺激されたというのもある。

 レイナはクラスメートの男子よりも虫が好きなだけでなく、クラスメートの男子よりもかなりやんちゃな性格だったのだ。年に数度しか合わない祖父は、レイナがどれほどお転婆なのかを見誤っていた。

 かくしてレイナは両親と祖父母が寝た深夜、祖父母からプレゼントされた服へと着替え、実家から持ってきていた虫取り道具を装備。こっそりと寝室及び祖父母宅から脱走し、意気揚々と真夜中の山へ一人で直行し――――

 今に至る。

 

「あ、これ全部自分の所為じゃん」

 

 過去を辿った結果、何もかも自業自得だと気付くレイナ。彼女は性根が腐ってる訳ではないのだ。後先考えないというだけで。

 持参した網を持ち直し、首から掛けたプラスチック製の虫かごをからんと鳴らしながら立ち上がる。遭難した理由には気付けたので、次はこれからどうするべきかを真面目に考える。

 少し考えれば、案はすぐに浮かんだ。

 何処か見晴らしの良い場所を探そう。町が見えれば、そっちに向かって歩けばいずれ町には着く。そこが祖父母の暮らす町とは限らないが、人にさえ会えれば後はどうとでもなるだろう。幸い父の影響で英語ぐらいは話せるので、通行人に道を尋ねる事は出来るのだから。

 

「良し! じゃあ、とりあえずあっちに行ってみよう」

 

 思い立ったが吉日とばかりに、レイナは早速動き出す。本当にこれで家に帰れるのか、不安は勿論あるが……男子をドギマギさせても気付かない鈍感さと、嫉妬した女子の嫌がらせを気にも留めない鋼のメンタルは、遭難というシチュエーションでも有効だ。レイナは力強く足を踏み出し、神秘に満ちた森の中を突き進む。ざくざくと落ち葉を踏み締める音色が、命溢れる森の音楽に混ざった。

 一度決心すれば、レイナはもう迷わない。真っ直ぐ前を向き、何一つ恐怖のない歩みで進んでいく。その姿はとても十歳の少女とは思えないほどの逞しさがあった。

 強いて問題を挙げるなら、本当に前しか見ていない事ぐらい。

 なので足下にあった根っこに気付かず蹴躓いてしまう。

 

「んお? おっとっと」

 

 つんのめったレイナはどうにか立ち止まるべく、力いっぱい足を前に出す。ところがその前足は、残念ながら大地を捉えてはくれない。

 木陰という名の漆黒に隠れて見えなかったが――――その先は崖だったので。

 

「あっ、ひゃあああああああんっ!?」

 

 虚空で踏ん張ろうとしたレイナの身体はあえなくすってんころりん。崖下へと転がり落ちてしまった。

 日頃から虫取りのため山登りをするレイナだったが、流石に崖から転がり落ちる経験は初めて。どうしたら良いのか、考える事も出来ぬままどんどん転がってしまう。

 幸いだったのは、レイナがまだ幼い子供だったという点だ。身体は柔らかく、それでいて骨は頑丈で、尚且つ体重は軽い。加わる衝撃は弱く、受け止める身体は強かった。加えて着ている服はエプロンドレスという、露出が少なめな上に生地は丈夫なもの。高速で通り過ぎるナイフのような草木の枝葉を、人工繊維の布が防いでくれた。

 とはいえ痛くないなんて事はない。むしろ滅茶苦茶痛い。痛くて思考を巡らせる余裕なんてなくて、自分がどれだけ転がったかも分からない。

 

「ぐえっ!?」

 

 何分も転がり続けたような感覚の最後は、落ちるようにして地面に仰向けで着地。坂道で付いた加速は、レイナの身体にずっしりとした打撃を与えた。手にしていた網を手放し、衝撃で浮かび上がった虫かごが激しく胸を打つ。

 

「いっててて……うぅ、まさか崖があったなんて」

 

 幸運にも大きな怪我はなく、レイナは痛みを覚えながら身体を起こす。転がり落ちてしまったけど、此処は一体どんな場所なのだろう? もっと森の奥まで来たとすれば、帰るのがもっと大変に……

 最初は不安な気持ちでいっぱいだったレイナの頭だが、そんなものは辺りを見回した瞬間に吹き飛んだ。

 そう、今のレイナにとっては家に帰れるかどうか、家族と再会出来るかどうかさえも『些末』な事である。

 目の前に広がった、お伽噺のような、非常識な景色に比べれば――――



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幻想森林

 辺りは、優しい光で満ちていた。

 具体的に言うなら金属的光沢がある緑色、何かに例えるならタマムシの翅に似た輝きだ。それらの光は、付近に生えている草花が放っているもの。草花はどれも背丈が一メートルほどで、草原のように地面を覆い尽くしている。お陰で一面がキラキラキラキラ……まるで宝石で出来た海のように煌めいていた。

 そして草むらの奥数メートル先に茂る森は、更に美しい。

 同種もしくは同系統の種で埋め尽くされているのか、見える範囲の木々は全てが玉虫色に光り輝いている。それも草花のような優しい輝きではなく、まるで陽の光を浴びた金属のように眩しい。だが今の時刻は真夜中。降り注ぐ月明かりだけではこうも強くは輝けまい。どうやら木々は草花と違い、自ら発光しているようだ。

 おまけにデカい。幹の太さだけで、直径十数メートルもあるように見える。高さだって途方もない。何十メートル、いや、百数十メートルはあるだろうか。発光する巨木は数メートル間隔に並んで森を形成し、奥深くまで明るく照らしていた。あたかも、こっちにおいでよと誘っているかの如く。

 現実感のない風景。もしかしたら木の陰から妖精が顔を出し、手招きするのではないか。草むらからドワーフ達が現れ、興味津々に人間を包囲するのではないか……あまりにも幻想的な空間故に、お伽噺のような想像が大人であっても脳裏を過ぎるだろう。

 レイナが落ちたのは、そんな場所だった。

 

「(……ひょっとして、崖から落ちた拍子に死んで、そのまま天国に来ちゃった、とか?)」

 

 あまりの美しさに、ちょっと不穏な考えがレイナの脳裏を過ぎる。あちこちで虫達が奏でている優しい音色も、此処が極楽の類だと訴えているかのようだ。

 レイナはとりあえず、自分の頬を力強く抓る。本当に強く抓ったので、頬がヒリヒリするぐらい痛かった。どうやらあの世ではないらしい……死んだかどうかの確かめ方がこれで合ってるかは分からないが、肉体を持たない幽霊ならば痛覚もないだろうと、理系少女らしく考えるレイナはこれで良しとした。

 それに現実感のある痛みのお陰で、美しさに見惚れていた頭に冷静さが戻ってくる。

 よくよく考えるとこれは奇妙な景色だ。木が光るなんてあり得ない……という事ではない。発光する生物など珍しくもない事をレイナは知っていた。例えばヤコウタケというキノコは、数を集めれば本が読めるほど強い光を放つという。キノコが光るぐらいなのだから、木が光っても驚く必要はあるまい。

 奇妙なのは、この景色を自分が()()()()という事だ。

 百メートルを超える樹木なんて普通の木の何倍も大きく、おまけに自ら玉虫色に光り輝けばとても目立つ筈。森の中にこんな木が一本でも生えていたなら、祖父母の家からでも丸見えでなければおかしい。なのに年に数度と訪れていながら、レイナはこの木々のようなものを見た覚えがなかった。

 どうして今まで気付けなかったのだろうか?

 辺りを見渡してみれば、答えは簡単に分かった。レイナの背後には、今し方自分が転がり落ちた坂道がある。坂道の終わりは遙か彼方、百メートルも二百メートルも先にあるように感じられた。

 恐らくこの辺りは、かなり深い窪地となっているのだ。大昔に落ちた隕石が作り出したクレーターとか、火山噴火によるカルデラの類なのだろう。如何に百メートルを超える巨木でも、それより深い窪地の中に生えたなら簡単に隠れてしまう。加えてその周りを普通の木々が覆えば、外からは完璧に見えなくなる訳だ。

 ……上空をヘリで飛べば、やはり簡単に見付かりそうではあるが。しかしこんな煌めく植物の話など聞いた事もない。遠いイギリスの植物だから日本まで伝わっていないのだろうか? だとしてもこれだけ不思議な存在なのだから、テレビや本でも見た事がないのは違和感が残る。

 もしも此処が誰にも発見されていないのなら、此処らにあるのは間違いなく全て新種の植物だろう。そしてこれらが新種の植物なら――――

 

「し、新種の虫も、見付かるかも……!」

 

 レイナは目を煌めかせ、過ぎった願望が声として漏れ出た。

 毎日色んな野菜を食べている人間には実感し辛いが、植物というのは基本的に『有毒』だ。例えば甘くて美味しいキャベツすら、カラシ油配糖体と呼ばれる殺虫成分を有している。この物質を取り込んだ大半の昆虫はその体組織を破壊され、最終的に死に至る。人間やモンシロチョウなどはこの毒物の分解能力を持つが故に、キャベツを食べられるのだ。

 そして毒物の分解には、多くのエネルギーや専用の仕組みが必要である。故になんでもかんでも食べるという事は出来ないし、幅広く食べるよりも一つのものだけを食べる方が『効率的』で競争にも強い。色んな食べ物を食べられるのもそれはそれで有利だからこそ、人間のような雑食動物もいる訳だが……昆虫の場合殆どの種で食べられる植物は数種類程度。一種だけというのも珍しくない。

 この如何にも珍妙な植物達が持つ毒は、きっと普通の植物とは一味違うものだろう。その一味違う毒を分解するため、特殊化した昆虫……此処でしか見られない種がいてもおかしくない。それも一種二種ではなく、何十何百と。

 新種発見は生き物好きなら誰しもが抱くロマン。レイナもまたそのロマンに憧れる、一人の女の子だった。

 

「むふ、むふふふ……新種を見付けたら、レイナムシって名付けよっ!」

 

 欲望に押し退けられ、己の置かれた状況はすっかり頭の片隅へ。捕らぬタヌキの皮算用をしながら、レイナは早速近くの草むらを掻き分けてみる。レイナが動けば小さな虫が続々と飛び出した。これら小さな虫も新種の可能性が高いが、しかし小さいからこそ一目で見分けるのは中々難しい。良い感じの大物はいないものかと、レイナは小さな昆虫は無視して探し続けた。

 そんな捜索をする事数十秒。ヨモギのような大きさと見た目をした、光沢のある植物の一本に違和感を覚える。茎の一部に『膨らみ』があるのだ。昆虫採集歴五年の経験が、その膨らみに怪しさを感じ、近付こうという気持ちを抱かせる。衝動のまま歩み寄れば、膨らみの正体が茎に停まる体長五センチほどのイモムシだと分かった。

 そしてイモムシは大きな感動をレイナに与えてくれた。

 そのイモムシの身体は金属的な光沢を放っていた。自らが止まっている植物と同じ色彩だ。保護色として発達したのだろう。腹脚(胴体部分にある足のような『肉突起』の事)の本数とお尻にある尻尾状の突起からして、スズメガの幼虫と思われる。玉虫色の語源であるタマムシの煌めきは構造色……色素ではなく、分子レベルの構造による光の反射で色が出る仕組み……によるもので、恐らくこのイモムシも同様の仕組みで光っているのだろう。構造色を持つスズメガの幼虫など聞いた事もない。

 きっと新種だ。仮に違っても、極めて珍しい突然変異とかの筈。

 

「凄い……凄い凄い凄いっ!」

 

 レイナは喜んだ。いや、狂喜乱舞したといっても過言ではない。虫屋としての本能から、そのイモムシを捕まえ、もっと詳しく観察してみたいと思った。

 元々虫取りのためこの山を訪れた身。採取に必要な道具は持ってきている。網はここでは使い道がないものの、虫かごはイモムシをしまうのに最適だ。幼虫なら空を飛んでいく事もないので、枝ごと取れば簡単に確保出来る。その枝の太さがヨモギ並なので、力強く折った際の衝撃でイモムシが何処かに吹っ飛ばないよう注意はすべきだが。

 レイナは早速植物の茎を掴み、ぐっと力を込めた。

 ……出来るだけ力を込めた。歯を食い縛るほど込めてもみた。「んぬくにゅうううううっ!」という唸りと共に、顔が赤くなるほど力を込めた。

 なのに、枝は折れない。

 ある程度なら曲がりはする。しかしそれ以上曲げようとすると、まるでいきなり金属にでも置き換わったかのような頑強さになるのだ。ハサミが必要だったかも知れない。

 なら葉っぱだけでも取ろうと考える。イモムシの餌がこの植物だとして、食べているのはきっと葉だ。実際真新しい食べ跡が見られるので間違いない。スズメガの幼虫は大食漢である。成虫のサイズが分からないので今が成長のどの段階かは不明だが、五センチもあれば毎日かなりの量の食草が必要な筈。箱の中で飢えては可哀想だし、下手をすれば死んでしまうかも知れない。それなりの量は確保しておくべきだ。

 

「ん、んんんんんんんんっ……!?」

 

 が、これも取れない。

 引っ張っても取れないどころか、千切る事すら叶わない。なんでこんなに硬いのか。ここまで丈夫な植物なんて、これまた聞いた事もない。

 葉を千切るのも早々に諦める。良いのだ、本命はイモムシの方なのだから。捕まえて、さっさと大学とかの研究所に運び込めば良い。飢えるのは可哀想だが仕方ない。どうせ最期はホロタイプ標本という、生物学発展のための礎となってもらう運命は変わらないのだから。

 イモムシを捕まえるため、レイナは落ちていた枝を拾う。幼虫を捕まえる際、如何に動きが鈍いからと素手で摘まむのはあまり良くない。幼虫の身体にダメージが加わるかも知れないし、昆虫の中には外敵に対し胃の中身を吐いて『攻撃』してくる種も存在する。もしもこの植物の汁に毒があった場合、吐瀉物を浴びた箇所が酷くかぶれるという可能性もゼロではないのだ。

 突っついたら防御反応で落ちてくれないかな? レイナは虫かごを下で構え、枝先でイモムシをつんつんと突いてみる。

 突かれたイモムシは、最初は身を激しく左右に振った。キラキラ光る身体というのもあって、まるでライブ会場で使われるペンライトのよう。鳥相手になら威嚇の効果があるかも知れないが、生憎レイナは人間だ。この程度の事にビビりはしない。

 怯まず執拗に枝で攻めると、ついにイモムシは口から緑色の汁を吐いた。あーコイツ吐くタイプなんだぁ、と興味津々に思いながら、レイナは吐き出された汁の行方を無意識に目で追う。雨粒のように小さな汁が一滴虫かごに落ち、

 じゅうっ、と音を立てた。

 ついでに虫かごの底から湯気も立ち昇った。更に言うと汁はプラスチックを貫通し、地面にまで落ちた。

 

「……………」

 

 レイナは、とりあえず棒を投げ捨てた。それから三歩後退り。

 何あれヤバい。

 確かに危険な汁かも知れないとは考えたが、こんな劇物は想定していない。捕まえるのは無理だ。何かの拍子に虫かごの中で汁を撒き散らし始めたら、染み出してきた汁に肌が触れて大火傷を負いかねない。ましてや傷口から体内に入り込もうものなら冗談抜きに命の危機だ。

 惜しいがコイツの捕獲は諦めよう……そう考えた時、ふとレイナは気付く。

 あのイモムシの吐き出した汁は、恐らく食草由来のもの。つまり自分の周りにある植物達は、全てあの危険な汁を含んでいる可能性がある。

 簡単には折れないようだが、踏み潰すなどして汁が飛んできたら……

 

「は、早く、此処から逃げよう……」

 

 自分が思っていた以上にピンチだと理解し、レイナは自分が転がり落ちた坂の方を見遣る。坂はかなりの急勾配だ。けれども登れないほどではない。巨木の森が発光しているお陰もあり、地面の凹凸や横切る根なども肉眼で確認出来た。

 ゆっくり、慌てずにいけば登れそうだ。ゴミを出すのは良くないと思うが、邪魔になる網と虫かごは捨て置く。それから何時の間にか乱れていた息を整えようと、レイナは深く息を吸い

 吐き出す直前に背後からガサガサという物音が聞こえ、息が詰まった。

 

「……えっと……」

 

 恐る恐る、レイナは振り返る。

 ガサガサ、ガサガサ。

 草を掻き分ける音は、確実にレイナの方へと近付いていた。草丈の高さは約一メートル。そこに隠れられるのだから、背丈は一メートル未満だろう。しかし例えばイノシシなどは、体重八十キロの成体でも体高六十センチ程度しかない。言うまでもないが、一般的な女子小学生であるレイナにイノシシと戦う力なんてないのだ。イノシシ級の獣と鉢合わせたなら十分死ねる。

 何が現れるのか、どんなのが現れるのか。ごくりと息を飲み、身体を強張らせて警戒し――――

 ぴょこっと現れた頭を見て、毒気を抜かれた。

 草むらから出てきたのは、変な頭の鳥。まるで笠のような突起物を被っているのだ。またやたらと首が長く、身体は未だ草むらの中にあって見えない。首の長さは二メートルほどで、ダチョウのような姿を連想させた。嘴は丸みを帯び、オウムのよう。目もくりっとしていて愛嬌がある。

 これまた確実に新種の生き物だ。正直割と可愛いとレイナは思う。

 

「……こ……こんにちは……」

 

 通じるとは思わないが、なんとなく挨拶。鳥は、こてんと首を傾げた。その仕草が可愛くて、レイナの顔に笑みが戻る。

 尤もその笑みは、嘴の隙間からちろちろと伸ばした舌と、近くでのたうつ鱗に覆われた長い尾を見付けた瞬間に引き攣ったが。

 この子、鳥じゃない。体長五メートル以上ある大蛇じゃん。

 

「シャアアアアアアアッ!」

 

「みぎゃああああああっ!?」

 

 正解、と言わんばかりに笠を被った『ヘビ』が口を開き、口の中にある鋭い二本の牙を見たレイナは思わず悲鳴を上げた。

 あたかもそれをきっかけとするかの如く、光る森の中が一気に騒ぎ出す。

 虫の鳴き声は優しさが消え、まるで悲鳴染みた叫びへと変わる。木々の上を何かが高速で通り過ぎ、森の奥からはメキメキと草木を踏み潰す音が聞こえた。じゅうじゅうと鳴るのは、踏み潰された草の汁が大地を溶かしているのか。しかし足音は絶えない。プラスチック(人類の英知)をも腐食する液さえも、雨水と大差ないと言わんばかりに。

 此処は天国なんかじゃない。モンスターだらけの地獄だ!

 

「ひいいいいいいっ!?」

 

 目の前に現れた笠蛇 ― 即座に命名した ― から離れるべく、レイナは走り出す! 逃げる先は坂道ではなく草むら、その草むらの奥にある森の方。踏み潰した草から汁が飛ぶ? 知った事ではない。汁が飛んでも火傷で済むかも知れないが、あんな大蛇に噛まれたらどう足掻いてもお陀仏だ。森には何が潜んでいるか分からない? そんな冷静な事、考えてる暇もない!

 がむしゃらに逃げたお陰か、はたまた森の中が()()()からか、笠蛇を振りきる事は出来た。しかし森は終わらない。騒ぎも収まる気配がない。何処に逃げれば良いのか、何処まで逃げれば良いのか、見当すら付かない有り様。

 

「(やだ! やだやだ! こんなところで死にたくない! 食べられたくないっ!)」

 

 ぼろぼろと涙が零れ始め、前があまり見えなくなる。いや、走り出した時から見えていない。坂を上れば脱出出来るかもなんて考えはもう頭に残っておらず、今や森の中を突き進むように走るばかり。

 そうして何分、何十分? ……分からないぐらい走っていたら、ふと開けた場所に辿り着いた。今までと異なる雰囲気を察知し、足を止めたレイナは潤んだ目を擦る。

 レイナが辿り着いたのは木々が生えていない、広間のような場所だった。ざっと半径二十メートルはあるだろうか。昼間ならきっとお日様が燦々と降り注ぐだろうが、何故か地面には草花が見当たらない……いや、よく観察すれば踏み潰された枯れ草が絨毯のように地面を覆っていると分かった。枯れ草は腐りかけで、一見して土のようになっている。

 何かが踏みならしたのだ。それもかなり長い期間、今も継続して。でもなんのために? 動物が環境に手を加えるとしたら、大概は……寝床などを維持するためだろう。

 つまりこの場所は、半径二十メートルもの生活空間を必要とする巨大生物の巣なのだとレイナは考えた。巣と呼ぶには些か開けているが、そんな疑問は些末なものだ。兎に角、この近くに大きな生き物がいるサインには違いない。

 だけど、逃げようという気持ちは湧いてこない。

 それどころかこの場所に居ると、不思議と心が落ち着いてくる。どのみち全力疾走を続けた事で、体力はもう殆ど残っていない。一度止めてしまった足は、回復しきるまで動きそうになかった。

 レイナはその場に倒れ込み、荒れる息を整える。枯れ草に跳び込む形になったが、肺が焼かれたり、目が激しく痛む事もない。むしろ微かな香りが心地良い。

 気分を良くしたレイナは、星でも見たくなった。冷静さを通り越して達観の域に入り、自棄になったのかも知れない。少しだけ回復した体力を無駄遣いし、うつ伏せから仰向けに体勢を変える。

 結果、レイナはハッキリと目にした。

 何十メートルもあろうかという、光り輝く巨大昆虫が、自分の頭上を飛んでいる光景を……



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悪魔達のケンカ

 最初レイナは、迫り来る巨大昆虫をチョウやガの仲間だと思った。

 何故なら広げている翅が、薄く、膜のようだったからである。例えるならば天女の羽衣。奇怪にして幻想的な翅はどうやら自力で発光しているらしく、周囲の木々の光さえも打ち消し、辺りを鮮やかな虹色で染め上げる。極めて強い光だが、太陽を肉眼で見た時のような鋭さはない。優しさも兼ね備えた、不思議な光だ。

 そうした光を纏っていたため、昆虫の全体像はよく見えた。だからこそ、レイナはしばし観察する事で巨大昆虫が鱗翅目(チョウの仲間)でないと理解する。その昆虫の頭部に付いているのはストローのような口ではなく、牙のように発達した大顎なのだから。身体もチョウ類のような柔らかそうなものではなく、胸も腹も鎧のような分厚い殻で覆われていた。足も太く、翅以外の身体付きは甲虫……特にカミキリムシのよう。輝きを纏う姿は神々しく、恐ろしさよりも尊敬の念をレイナに抱かせる。

 

「(……綺麗)」

 

 ぼんやりとレイナが見つめる中、巨大昆虫はゆっくりと舞い降り、広間に着地。幸いにしてレイナが踏み潰される事はなく、疲れも忘れて立ち上がったレイナはその巨大昆虫を観察する。

 大きさは、優に三十メートルはあるだろうか。史上最大の動物と称されるシロナガスクジラでも、三十メートルを超える事は稀と聞く。ましてや浮力がない陸上に立つどころか、舞うように空を飛ぶなど明らかにおかしい。人類の常識が尽く無視されている。

 本来なら、恐れ、忌むべき存在なのだろう。

 しかしレイナは怯えなかった。見惚れていたと言う方が正しいかも知れない。半ば無意識に、ゆっくりと歩み寄ってしまう。尤も巨大昆虫はレイナなど見向きもせず、その場に寝そべるだけ。手を伸ばせば触れられる位置に来ても、巨大昆虫は触角一つ向けてこない。

 どうやら人間に興味がないようだ。

 『彼』の ― 雄である確証などないが ― 心境を想像し、レイナはごくりと息を飲む。興味がないという事は、気紛れに足を伸ばし、無意識にこちらを踏み潰してくるかも知れないという事。踏み潰されたら、あっさりあの世行きだ。

 だけどレイナは離れようとしない。

 それどころか好奇心が抑えきれず、レイナはゆっくりと巨大昆虫に手を伸ばし――――

 今まで寝そべっていた巨大昆虫が突然起き上がったので、びくりと飛び跳ねてしまう。

 もしかして怒らせてしまったのか? 今になって自分がどれだけお馬鹿だったか自覚し、レイナは慌てて巨大昆虫から距離を置く。ところが巨大昆虫は、レイナの方など見向きもしない。最初から最後まで、レイナの事など気付いてもいない様子である。

 なら、一体何に対して反応している? 彼が身構えるような存在とはなんだ?

 レイナは息を飲み、巨大昆虫が見ている方角に視線を向ける。耳を澄ますと、ケダモノの叫び声に混ざり、パキパキと枝を折る音が聞こえた。

 その音はゆっくりとだが、こちらに近付いている。

 ごくりと息を飲むレイナ。少しずつ、後退りして広間の縁まで移動する。音は変わらず接近を続け、いよいよ間近まで迫り……

 百メートル超えの巨木を軽々と薙ぎ倒し、『それ』は現れた。

 一言で語るなら、()()()()()だった。あくまでも一言で語るなら、だが。確かに『それ』は軟体らしき身体を持ち、大きな貝殻を背負っている陸貝だ。しかし体長が三十メートルを超える体躯なんて、甲殻すら持たない生物が維持出来るものではない。二本の角なんてなく、タコのような眼球が左右に六つずつ、頭部らしき場所に嵌まっている。背負う殻は渦など巻いていない、サザエのような、大岩に似た塊だ。

 

「ブルルルルルルルゲルルルルルルッ!」

 

 そして頭のような部分に付いている口は、開けばヤスリのようにびっしりと内に敷き詰められた歯を剥き出しにし、おぞましい声で鳴く。

 巨大昆虫が神々しさの化身なら、こちらは悪魔の化身だろうか。幸いながらこの悪魔的軟体動物もまた、レイナになんの興味も示さない。或いはレイナなんて気にしている場合ではないのだろう。

 自分を睨み付けている巨大昆虫が、激しく闘志を燃やしているのだから。

 

「キュルルルルル……」

 

 巨大昆虫は清水のように透き通った声で鳴き、ゆっくりと歩き出す。巨大カタツムリも進み、両者は少しずつ距離を詰める。

 気付けば、森の中は静寂が見たされていた。虫の声も、獣の雄叫びも聞こえてこない。まるで、この森にはあの巨大生物二匹しかいないかのように。

 やがて二体の巨大生物の距離が五メートルを切った、瞬間、新たな動きが起きた。

 

「キュルアアアアアッ!」

 

 巨大昆虫が、巨大カタツムリに跳び掛かったのだ。

 何百トン、いや、何千トンもありそうなカタツムリの体躯は、巨大昆虫がお見舞いした体当たりでふわりと浮かぶ。同時に、衝撃波が辺りに吹き荒れた。

 

「きゃあっ!? ――――ぐぇ!?」

 

 十歳の身であるレイナの身体は簡単に吹き飛ばされ、ころんころんと大地を転がる。幸運にも背後に大きな木がなければ、十メートルは飛ばされたかも知れない。

 人間の子供が背中を打った痛みで苦悶の表情を浮かべる中、巨大昆虫は気にも留めずカタツムリを襲う。足先にあるナイフのように鋭い爪を、カタツムリの軟体部分に突き立てた。人間の身体程度なら一瞬で真っ二つに出来そうなほど鋭く立派な爪は、しかしカタツムリの表面をぐにゃりとなぞるだけ。柔らかなカタツムリの肉質は、どういう訳か防刃性にも優れているらしい。

 カタツムリもやられてばかりではない。一般的にカタツムリはとてものろまな生き物だが、この巨大カタツムリは違った。なんと跳躍し、巨大昆虫に背負う殻をぶつけたのである。皮膚すら巨大昆虫の爪が通じぬ強度があるのだ。殻の頑強さがそれを上回るのは当然の事。身体に走る衝撃に、巨大昆虫の複眼が驚きの色に染まったように見えた。

 しかし巨大昆虫の闘志は失われていない。巨大昆虫は足で大地を踏み締めると、ぐるりと身体を横回転。回し蹴りをカタツムリにお見舞いする。蹴られたカタツムリの巨体はずるりと大地を抉りながら後退。だがこちらも怯まず、再度跳び掛かる。

 二者の対決は激しさを増していく。ぶつかる度に暴風が吹き荒れ、大地が砕け、大気が加熱していく。なんという肉弾戦か。この熱い戦いに比べれば、日本の国技である相撲さえも子供同士のじゃれつきにしか見えないだろう。

 

「ブルゲアゲゲゲッ!」

 

 繰り広げられる激戦の中、カタツムリが咆哮を上げる。それと同時に殻の奥から筒のような触手を出す。

 すると触手から太さ十センチはあろうかという、濃緑の()()()()が撃たれたではないか。

 いや、レーザーではない。巨大昆虫の胸部に命中したそれは、びちゃびちゃと飛び散ったからだ。恐らく液体を高圧高速で発射したもの……そんな冷静な考えを抱くも、レイナは不意にぞわっとした悪寒に見舞われる。

 飛び散った液体の一部が、こちらに飛んできたのだ。

 それがどんな液体かなんて、レイナに分かる筈もない。だが液体を浴びた巨大昆虫が、巨体同士の体当たりを平然と耐えた彼が、液体を浴びて怯んだように身を仰け反らせている。

 一滴でも浴びたら、人間だったら死んでしまうのではないか。

 

「ぴ、ぴゃああっ!?」

 

 レイナは悲鳴を上げながら、慌ててその場から逃げた。

 またしても幸運な事にレイナの側には、吹っ飛ばされた自分を受け止めてくれた巨木が生えていた。素早くレイナは巨木の陰へと入り、顔を覗かせたい衝動を抑えて身を隠す。

 やがてすぐ傍に、飛んできた雫らしきものがぴちゃりと落ちてきた。

 するとどうだ。地面がじゅうじゅうと音を立て、溶け始めたではないか。飛んできた雫は小さかったのに、地面がマグマのようにぶくぶくと沸騰した水溜まりになっている。

 強酸だ。それもこの地のイモムシが吐いていた、恐らく植物由来であろうものよりも遙かに強力な。

 一滴でも浴びたら命が危ない。本能的に感じた予感は正しかったのだと分かり、レイナは震え上がる。こんな出鱈目に強力な酸なんて、聞いた事もない。同時に、これほどの強酸を体内に有していながら平然としているカタツムリに畏怖の念を抱く。

 姿形は違えども、あのカタツムリもまた人智を超えた存在なのだ。

 なら、その人智を超える生物と激突する巨大昆虫は?

 

「……っ」

 

 飛び散る酸の音が聞こえなくなるや、レイナは木陰から顔を覗かせる。

 巨大昆虫は、生きていた。大量の強酸を受けた胸部の一部が焼け爛れていたが、それだけ。たった一滴で人間を死に至らしめるであろう酸の濁流も、この神々しい昆虫には火傷を負わせるのが精々だった。

 しかし痛みはあったに違いない。でなければ巨大昆虫が、怒気を放つ筈がないのだから。

 巨大昆虫は前足を地面に突き立てると、その足をぐっと伸ばして自身の身体を持ち上げる。必然カタツムリと向き合っている身体は、(昆虫の部位ではなく、普段は地面の方に向けている側という意味での)腹を見せる格好だ。

 どうしてわざわざ腹を敵に見せるのか。普通、動物にとって腹は脆弱な部分であり可能な限り隠そうとするもの。それを敵の前で晒すのだから、相応の理由がなければおかしい……レイナは疑問から巨大昆虫の腹を凝視する。翅が放つ輝きにより、その細部まで簡単に観察出来た。

 故に気付く。巨大昆虫の腹に何か、イボのような突起がある事に。

 

「キュルルルルッ!」

 

 巨大昆虫が猛々しく鳴くや、突起から吹き出したのは霧のような煙。

 もしやアレも酸なのか? 不思議な事ではない。この森の植物にはどれも強酸が含まれているのなら、この森の植物を食べているであろう彼等がその成分を蓄積しているというのは頷ける生態だ。

 そう、そこまでは人間の常識に当て嵌まる。もう何度も常識なんて吹っ飛ばされているのに、レイナはこの期に及んでまだ常識的に考えてしまった。

 巨大昆虫が出したものは、酸ではなかった。

 空気と混ざり合うや、霧は赤色に色付き――――瞬時に燃焼。

 爆炎が、カタツムリを飲み込んだ!

 

「え、きゃああああああっ!?」

 

 突然の爆発、そして襲い掛かる爆風に驚き、レイナには踏ん張ろうとする暇すらなかった。小石のようにレイナの身体は飛ばされてしまう。

 巨大昆虫が吐き出した霧は、可燃性の物質だったのだ。爆炎は百メートルはあろうかという巨大なものとなり、キノコ雲を立ち上らせる。最早人間ならどうこうなんて威力ではない。戦車や核シェルターなども容赦なく吹き飛ばすだろう。

 これにはさしものカタツムリも参ったに違いない。

 

「ブルルルルゲアアアアアッ! アブゲルルルルブルルルル!」

 

 そんな考えが通用するほど、奴も甘くもなかった。

 爆炎の中から現れたカタツムリは、確かダメージを受けている様子だった。しかし致命傷には程遠い。むしろまだ上があったのかと思うほど、怒りのボルテージを増している。軟体に負った火傷を庇う事すらせず、巨大昆虫に突撃。巨大昆虫もこれに呼応し、再び両者は肉弾戦を繰り広げる。

 すぐ傍に居る人間など、目もくれずに。

 どちらも自分を見ていないと改めて理解したレイナは、ゆっくりと立ち上がり――――争う二体の怪物に歩み寄った。

 レイナは生き物が好きだ。

 だから環境保護や生物保全が大切だという考えに、よく賛同したものだ。人間の力はあまりにも大きい、だからこそ地球の生き物を守らなければならない……そんな考えを土台にして。それは珍しい考えではないだろう。誰だって臆面もなく言える事柄だ。

 なんという世間知らずなのか。

 人間の力が大きい? たった二匹の無脊椎動物の争いに、ひーひー言いながら逃げていただけなのに。

 地球の生き物を守る? 一体この逞しい生命を何から守れと言うのか。

 もしも彼等が人里に現れれば、それだけで人の世は何もかも破壊される――――理屈ではなく、本能でレイナは察した。自分達の安寧はただの思い込みでしかなく、なんの根拠もない。まるで何もかも理解したかのように人類が暮らすこの星には、まだまだたくさんの不思議があるのだ。

 それを知ったレイナの胸に湧き出すのは、『興味』。

 知りたい。もっと知りたい。彼等が何者なのか、彼等がどんな存在なのか。人間との関わりは。世界にどんな形で拘わっているのか。そして人類が見下したこの世界()が、どれだけワクワクする事に満ちているのか。

 レイナは彼方で戦う生命を求めるように、そっと片手を伸ばして――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい!? 何をしているんだ!」

 

 唐突に、背後から人間の言葉で呼び止められたのだった。



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ミネルヴァのフクロウ

 呼び掛けられたレイナは、殆ど反射的に声がした方へと振り向いていた。

 レイナの背後には、一人の男が立っていた。口髭を携えた中年の男性で、四十代ぐらいのヨーロッパ人に見える。彼は白衣を纏い如何にも学者風の風貌だったが、しかしその身体は筋肉隆々で、クマにも勝てそうなぐらい逞しい。厳つい風貌の顔に掛けている眼鏡が、なんだかシュールな小道具に見えた。

 レイナの知り合いに、このような男性はいない。怪しい人だったらどうしよう……と思い僅かに後退り。

 

「こっちに来るんだ! 巻き込まれるぞ!」

 

 すると男はとても必死な様子でレイナの傍まで駆け寄り、レイナの手を掴むや引っ張った。見た目通りの強い力に、小学生であるレイナには抗う事も儘ならない。されるがまま引っ張られていく。

 引っ張られると、当然近くで戦っていた巨大生物達とも離れてしまう。

 

「あっ……」

 

 レイナは反射的に手を伸ばすが、その手は何十メートルも伸びてはくれない。

 巨大生物から逃げるように走り出す男と共に、レイナは何処かへと引きずられていく。

 どちらのものとも分からぬ誇らしげな雄叫びが響いたのは、それから間もなくの事であった。

 ……………

 ………

 …

 

「此処まで来れば安全……ではないけど、比較的休める場所だよ。そこの倒木に座って少し休むと良い」

 

「う、うん……」

 

 白衣姿の男に言われ、レイナは近くにあった倒木に腰掛ける。次いでおどおどと、周囲を見渡した。

 男に連れられてきたのは、森の外にある崖の側だった。ただし自分が落ちてきたのとは恐らく違う崖だとレイナは思う。何故なら周りには草があまり生えておらず、剥き出しの地面が見える場所だったから。大きなテントや金属コンテナも置かれていて、それなりの期間滞在するための『準備』が整えられている。よもや自分が逃げ惑っていた時間の間に、草刈りとこれらの運搬を済ませた訳ではないだろう。

 この場には白衣姿の男の他にも、二人ほどの迷彩服姿の男性が居た。屈強な身体付きをしている彼等はレイナを見向きもせず、森の方をじっと見ている。そしてその手に握られているのは、大きな銃。ゲームや映画に出てくる、所謂アサルトライフルだろうか。

 アサルトライフルは戦争でも使われる銃だ。撃たれたら人なんて簡単に死んでしまうし、笠蛇ぐらいなら倒せそうだが……あの巨大生物達には、気付いてもらえるかすら怪しいだろう。

 

「ココアと水、どちらを飲むかい?」

 

 一通り辺りを見渡すと、何時の間に用意したのか、白衣姿の男はコップを二つ持ってレイナに近付いてきた。湯気が立ち昇っている方がココア入りだろうか。

 なんとなく温かいものが飲みたかったので、レイナはココア入りの方を受け取る。口に含むとほろ苦さと甘さが広がり、心が安らいだ……安らぐという事は少なからず緊張していた訳で、レイナはここで初めて自分が緊張していたのだと気付く。

 

「落ち着いたかい?」

 

「……うん」

 

「良し、じゃあ少し話を聞かせてくれないかな?」

 

 白衣姿の男のお願いに、レイナはこくりと頷く。男はにっこりと優しい笑みを浮かべた。

 

「まずは自己紹介。僕はヘンリー・ブラウン。君は?」

 

「……レイナ、エインズワーズ」

 

「レイナちゃんか。可愛い名前だ。君は、どうしてこの森にやってきたんだい?」

 

「えっと、虫を捕まえようと思って、森の中を歩いていたら迷って……それで足を滑らせて、崖から落ちたら此処に着いた」

 

「おーぅ、中々お転婆なようだね。僕も若い頃は、よく夜中に家を抜け出たものだよ」

 

 白衣の男ことヘンリーは、厳つい顔に浮かべた爽やかな笑みと共に感想を述べる。嫌味に聞こえないのは本心からか、それとも取り繕うのが上手いのか。レイナには分からない。

 分からないといえば、あの巨大生物……いや、この森に暮らす生物についてもだ。

 

「あの、私からも、一つ訊いて良い?」

 

「答えられる事ならなんでも」

 

「じゃあ……この森の生き物は、なんなの? 此処の生き物は、私の知ってる生き物と全然違う。勿論地球の生き物全部を知ってる訳じゃないけど、でも……」

 

「落ち着いて。ちゃんと教えてあげるから」

 

 途中から早口になってしまったレイナを、ヘンリーは優しく宥める。レイナは口をぐっと閉じ、まだまだ飛び出そうとする言葉を飲み込んだ。

 ヘンリーはレイナが落ち着いたのを見てから、柔らかに微笑み、ゆっくりとした口振りで話し始める。

 

「地球は、人間のものじゃない」

 

 ただし出てきた単語は、決して穏やかなものではなかったが。

 

「レイナちゃんは、この国の生まれかな?」

 

「ううん、日本だよ。暮らしてるのも日本」

 

「そうか。まぁ、日本でもイギリスでも大した違いはないかな。良し、では一つ質問をしよう。日本では、いきなり猛獣に襲われて食べられちゃう事件はよく起きてるかい?」

 

「……そんなにはないよ。クマに襲われたとかは聞くけど、年に何回かだけ」

 

「そうだろうね。日本はとても安全な国だ。道を歩いていて、いきなり猛獣に襲われる心配はない。仮に大きなクマが現れても、銃を使えば簡単に退治出来る」

 

 ばーんっ、と口ずさみながら、ヘンリーは指を鉄砲の形にして撃つ真似をする。

 

「それじゃあ次の質問だ。もしも人を食べてしまう、それでいて銃どころか戦車も敵わない怪物が町に現れたら、どう思う?」

 

「……そんな凄い生き物なんて始めて見るから、ワクワクする?」

 

「おう、そう来たか。少年の心を持ってるねぇ」

 

「あくまで私はそう思うだけ。普通なら、怖いって思うんじゃないかしら」

 

「うん、わざわざありがとう。そう、普通の人にとってはとても怖い。そして今の人間は、生き物を怖がる事を忘れてしまった」

 

 レイナの『客観的』な方の答えに同意するヘンリー。言葉は優しく、けれどもその顔は何時の間にか真剣なものになっていた。

 ここから先の話は、きっと今まで以上に真面目なものになるのだろう。それを察したレイナは佇まいを直す。ヘンリーは、ぽつりと話し始めた。

 

「この星には、人間がどう足掻いても敵わない生き物なんて幾らでも存在する。なのに人間は彼等がいない場所で、ひたすら下を見つめながら自分達が支配者だと言い続け、ついにそれを信じてしまった。今更自分達がちっぽけな虫けらだなんて認められない。もしも現実を突き付けられたら、酷く混乱し、長年掛けて築き上げた秩序が滅茶苦茶になるかも知れない」

 

「……なんとなく読めた。つまり社会の混乱を起こさないため、あなた達の『組織』は此処の生き物達の事を秘密にしているのね」

 

「ご名答。察しが良いね」

 

「漫画とかアニメで見たもん、そういうやつ。でも人間って、そこまでアホじゃないと思うけど」

 

「そうかもね。だけどそうじゃないかも知れない。失敗したら取り返しが付かない事を、試しでやる訳にはいかないだろう?」

 

 ヘンリーの意見に、確かに、とレイナは納得する。成功してもメリットはあまりなく、失敗したら取り返しの付かないデメリットがあるのなら、隠しておく方が良さそうだ。

 ……レイナが何年も前から自室の奥深くに隠している、うっかり割ってしまったガラス製のコップのように。

 

「それに人間ってのは恐怖を隣人に出来ないからね。自分達の手に負えない生物なんて認められず、必ず退治しようとするだろう。安全とか安心のためにね」

 

「町に降りてきたクマを殺すように?」

 

「正解。まぁ、ついさっきあの二匹の戦いを見た君なら、まず人間は勝てないと分かるだろうけど……彼等もあくまで野生動物の一つ。環境破壊などを活用すれば、絶滅に追い込めるかも知れない。万が一にも彼等を根絶やしにしまったら、それはそれで問題だ。何故だか分かるかな?」

 

「そんなの簡単な話よ。あの虫達が野生動物なら、絶滅させたら生態系のバランスが崩れるじゃない」

 

 馬鹿にしないで。そんな気持ちを込めて答えると、ヘンリーは驚くように目を見開く。それも大袈裟な()()ではなく、心底といった様子で。

 レイナとしては実に不愉快である。

 これでも生物好きなのだ。生態系が大切なものである事は分かっている。この森で出会った巨大昆虫や巨大カタツムリにも、何かしらの役目がある筈だ。例えばもしも彼等を絶滅させたなら、あの二匹が餌としている種が大発生するかも知れない。オオカミの絶滅が、シカなどの大量発生を招くように。

 安易な駆除が人間をより困らせるのは、先人達の失敗(歴史)が教えてくれるのだ。

 

「何よ、子供だから分からないと思ったの?」

 

「あ、いや、すまないね。人間というのは調子の良い生き物で、自分達を危険に晒すすものは倒しても問題ないと考えてしまうものなのさ。みんなが君のように自然界の秩序をちゃんと理解してるなら、僕達も苦労はないんだけどね」

 

「ふーん……」

 

 心底嘆くような語り口。ヘンリーがどんな経験をしてきたかなどレイナには知りようもないが、相当の苦労を重ねてきた事は窺い知れた。

 『一般人』というものがどれだけ恐ろしい生き物を拒むのか、生き物大好きなレイナにはよく分からない。しかし人間というのは、例え人間同士であっても不信や価値観の違いで殺し合う生き物だ。理解出来ない、理解の及ばない存在に対し優しくするとは、確かに思えない。政治家や軍人でも、恐らく考えはそう変わるまい。

 なんのブレーキもなければ、感情のまま人々は恐怖の根絶に挑むだろう。それが自分達の立つ薄氷を金槌で滅多打ちにする行為だと気付かぬまま。

 ヘンリー達が、そのブレーキの役目を担ってきたのだ。生態系の破壊による、人間社会への悲劇を起こさないために。

 

「ところでもしもの話なんだけど、私が見たあの大きな昆虫とカタツムリがいなくなったら、何が起きるの?」

 

「うーん。あくまで推測だけど、多分イギリス人が全員死ぬんじゃないかな? あと海洋汚染により、ヨーロッパからアフリカ沿岸部の漁獲量が激減するかもね。不漁を起因にする死者の予測は、確かざっと二千万人だったかなぁ」

 

「……はい?」

 

 さらりと語られた『予測』に、今度はレイナが目を丸くした。

 確かに生態系の異変が人間に被害をもたらす事はあるが……けれどもそんな、約六千万人(イギリス人全員)が死ぬなんて、考えもしていなかったのだから。それどころか被害がグレートブリテン島を超え、アフリカにまで達するなど意味が分からない。

 困惑するレイナに、ヘンリーは淡々と、しかし眼差しを鋭くしながら教えてくれる。

 

「この地はね、イギリス全土にある地下水の約八割が通っているんだ。あくまで通過点で、地下水はイギリス全土を循環している。そしてこの地下水には、大量の有害物質が含まれている」

 

「有害物質……強酸、とか?」

 

「惜しい。それは有害物質が変化した結果だね。正解はイギリス中の植物が作り出した、殺虫機能や発ガン性を持つ物質だよ」

 

「殺虫、発ガン性物質……」

 

「それらの物質は枯死した植物体が分解される過程で地面に染み込み、地下水に溶け込んでいく。先程話したように、この地にはイギリスに流れる地下水の八割が来ている状態だ。常に大量の有害物質に満ち、土壌は汚染され……その中で進化した植物達は、ある特殊な力を手に入れた」

 

「特殊?」

 

「毒物を栄養に変える力さ」

 

 ヘンリーは一旦言葉を区切り、レイナが理解するのを待つ。レイナが息を飲むと、彼は再び話し始める。

 

「此処らの植物は地下水に溶け込んだそれら有害物質を、特殊な有機化合物に合成して貯蔵する性質があるんだ。この有機化合物は極めて不安定な状態で、他の物質に触れるとすぐに化学反応を起こして浸食。あたかも強酸のように振る舞う。反面、体内で上手く反応させれば莫大なエネルギー……具体的には炭水化物の十倍もの熱量を生成する事が可能だ。この大量のエネルギーにより、ここの生物は通常では考えられない巨体を手に出来たと考えられている」

 

「……………栄養なんだ、アレ」

 

「人間用のサプリメントにするには、問題が多過ぎるんだけどね……話を本題に戻そう。此処の植物は汁であらゆるものを溶解させる危険種であるのと同時に、イギリス国土の汚染をせっせと分解してくれている立役者という訳だ。君が出会った昆虫とカタツムリは、この森の木々を食べて、植物達の個体数を調整している。カタツムリと昆虫の個体数は、彼等が互いに殺し合う事で適度な水準となっている。この森は、そうしたバランスで成り立っているのさ」

 

 もしもカタツムリと巨大昆虫が共に滅びたなら、植物達は増えに増え、森の外にも出て行くかも知れない。なんでも溶かしてしまう汁を持つ植物が、イギリス中を覆う事になるだろう。

 逆にカタツムリか巨大昆虫のどちらかが滅びれば、今度は生き残った種が際限なく繁殖する事になる。そうなれば餌である植物は数を大きく減らし、地下水の浄化能力が低下。イギリス全土の土壌に汚染が蓄積していき、やがて人が住めなくなるだろう。

 彼等が命を賭けて戦うからこそ、人智を超えた力を持つからこそ、このイギリスの地は人が住めるものとなっている。彼等を滅ぼす事は、イギリス人を滅ぼす事に他ならない。

 そんな事、レイナは知らなかった。

 この地だけが特別なのだろうか?

 いいや違う。ヘンリーは「この星は人間のものじゃない」と語っていた。あの虫達と植物が支配しているのは、精々イギリスの大地。地球の支配者と呼ぶのは流石に過言である。

 彼の言葉通りなら、この世界にはまだまだ、もっともっと、たくさんの『すごい生き物』が居る筈だ。混乱を招くという理由で秘密にされた、想像も付かない命が存在している。

 ――――知りたい。知らないままではいられない。

 そのためには……

 

「さてと。そろそろ体力は回復したかな? 歩けるようになったなら、君を町まで送り届けてあげようと思うんだけど」

 

 考え込むレイナの背中を、ヘンリーは支えるようにそっと触る。レイナは我に返ると、ちょっと意地の悪い笑みを浮かべた。

 

「あら、口封じとかしないの? 此処に住む生物の事は、世間には秘密なんでしょ?」

 

「悲しい事に、今の人類は人智を超えた生物の存在なんて信じないんだ。君がどれだけ喚いても、世の人々は決して耳を傾けてはくれない。むしろ君を行方不明にして、この森に興味を持たれる方が危険というものさ」

 

「じゃあ、私のおじいちゃんが政府の偉い人だとしても、同じ答えを返せる?」

 

「……ふむ」

 

 レイナの言葉に、ヘンリーが僅かに口ごもる。

 確かに、ただの子供であるレイナの言葉なら殆どの人は信じないだろう。けれども身内ならばどうだ? その身内が政府関係者ならば、ちょっと森の中を調べるぐらいはしてくれるかも知れない。レイナでもうっかり辿り着けたのだ。大人達が少し本気になれば、きっとこの場所を見付けられる。見付けてしまえば、表沙汰になるのは時間の問題だ。

 ちなみにレイナの祖父はただの自営業者である。つまりこれはハッタリ。調べれば簡単にバレてしまうだろう。

 そもそもレイナは、ヘンリー達を脅そうなんて気はない。ヘンリーも、レイナの表情を見て気付いたのだろう……楽しそうにも困り果てたようにも見える表情を浮かべた。

 

「それは困った。何が狙いかな?」

 

「別に、何かが欲しいって訳じゃないわ。一つだけ教えてくれれば良いの」

 

 レイナはそう言うと、ヘンリーの耳元に顔を寄せる。ヘンリーもレイナの方に身体を傾けてきた。

 今にも触れそうなぐらい近付いてきたヘンリーの耳に向けて、レイナはひそひそと、けれども楽しげな口調でこう告げた。

 

「あなた達の仲間になるには、どうしたら良いのかしら?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――十年後。

 

 世界の何処かにある、コンクリートの壁に囲まれた一室。

 

「……若干二十歳にして、過酷な環境に生息する新種の昆虫を二十六種発見・命名。絶滅したと思われた種を三種再発見し、また食性すら不明だった九種の昆虫の生態系での役割の一端を解明した。文句の付けようがない優秀さだ。いっそ呆れるほどに」

 

 つらつらと、『彼女』が築き上げた功績が読み上げられる。

 語るのは眼鏡を掛けた筋肉隆々の ― しかし十年前に比べて少し痩せた ― 西洋人。小さなデスクに着いている彼は片手で眼鏡の位置を整えながら、ちらりと『彼女』の方を見遣る。

 彼女は、十年前と比べてとても背が伸びていた。黒い髪はポニーテールの形で纏められ、喜ぶ犬の尾のようにふりふりと揺れ動く。胸も女性らしく大きくなり、大人の魅力を振りまいている。それでいて煌めく瞳は子供の時となんら変わらず、口許に浮かぶ笑みは今にもはしゃぎ出しそうなぐらい明るい。

 彼女――――レイナ・エインズワーズは、二十歳になった。

 十年前の彼女を知る男・ヘンリーは、大きくなったレイナを見て笑みを浮かべる。喜ぶようにも、呆れるようにも見える笑みだ。

 

「世界一有名な学者になれたら、組織が君をスカウトするだろう……まさか本当にやるとは思わなかったよ」

 

「んふふふふ、どーよ私の実力は。でも世界一はまだまぁ遠いと思ってたんだけど、意外と簡単だったわね」

 

「あれは君に諦めてもらうための方便だったんだけどなぁー……まぁ、いいや」

 

 ヘンリーはぼそぼそ呟き、やがて諦めたように肩を竦める。

 それから彼は席を立ち、レイナの下へとやってきた。

 

「さて。最後に、一つ訊こう。君は何故、我々の組織への参加を望んだ?」

 

 ヘンリーは問う。レイナは一瞬キョトンとした後、笑みを浮かべた。

 その笑みは勝ち気で、自信に満ち溢れ、挫折を知らず、後悔もしていない……そして何より輝いている。

 レイナは最高の笑顔と共に答えた。

 

「そんなの、楽しそうだからに決まってるじゃない! 私の知らない、ううん、誰も知らない凄い生き物達の事を調べられるなんて……わくわくして堪らないわ!」

 

 なんの躊躇もなく、堂々と告げられる言葉。

 人智を超える生物の解明をしようというのに、何処までも能天気な動機。臆面もなくそんな己の想いを語り、あまつさえ胸まで張る始末。

 されどレイナの答えを聞いて、ヘンリーは笑った。嬉しそうに、或いは褒めるように。ズレた眼鏡を直した彼は、レイナに自らの手を差し出す。

 レイナが彼の手を握り締めるのに、迷いなどなかった。ガッチリと握り、離そうとしない『少女』の手を、ヘンリーは笑いを堪えながら見つめる。

 

「君は我が組織に相応しい人材だ。ようこそ、レイナ・エインズワーズ。我々『ミネルヴァのフクロウ』は君を歓迎するよ」

 

 この言葉と共に、レイナの秘密組織『ミネルヴァのフクロウ』への加入が決定したのであった。



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Species2
初仕事


 母なる星・地球には、人智を超越した生命体……通称『怪物』が存在する。

 現在までに知られている『怪物』の種数は五千以上。危険過ぎるなどの理由から未探査の領域も多く、正確な種数は今なお不明。怪物達はこの星の至る所に棲み、自然界の一員として生態系のバランスを保っている。

 万一彼等が人間社会に現れれば、その圧倒的な力により文明は終焉へと転がり落ちるだろう。されど彼等を奇跡的にでも討ち滅ぼそうものなら、強大な力により保たれていた摂理が崩壊する事になり、環境の激変によりやはり文明は終末へと向かう。

 必要なのは知識。彼等が何をしていて、どんな役割を担っているのか、どうすれば彼等をコントロール出来るのか……或いは何をしなければ()()()()もらえるのか。

 『ミネルヴァのフクロウ』はそれを探求し、人類文明の存続のため尽力する組織だ。

 

「レイナ・エインズワーズ。あなたに最初の任務を与えましょう」

 

 そんな組織の一員に昨日ついになったレイナは、一人の老女からそう言い渡された。

 老女は眼鏡を掛けた、強面の人物だった。髪はすっかり白くなっていて、しわくちゃな顔が積み重ねた年月を物語る。歳はざっと七~八十歳ぐらいだろうか。しかし背筋はピンと伸びていて、体格も歳の割には……いや、女性としてはかなり良い。鋭い目付きとギラギラと輝く瞳は生命力の強さを感じさせ、開いた口からは肉食獣をも彷彿とする立派な白い歯が生えている。あと三十年は平気で生きそうだなと、レイナはぼんやり思った。

 同時に、こんなにも厳つい『所長』と三十年も一緒に働くのは中々大変そうだ、とも。

 『ミネルヴァのフクロウ』所長――――マリア・クロイツェンは、厳つい顔を更に堅苦しいものへと変えた。

 

「話を聞いていますか?」

 

「え、あ、はい。勿論。任務ですね」

 

「聞いているのなら返事をしなさい。良いですね?」

 

「はい、申し訳ありません」

 

 レイナが謝罪すると、所長は小さな鼻息を鳴らしつつ、それ以上追求や嫌味を言ってはこなかった。性格はキツいが、ねちねちしたタイプではないらしい。そういう人物なら、レイナとしては嫌いじゃない。好感度を上方修正しておく。

 

「では任務について説明します。マダガスカル島のとある原生林に生息する怪物の生態調査です。この怪物は例年この時期に繁殖期を迎えます。あなたにはその状況を調べてきてもらいたい」

 

「繁殖状況の調査……かなり生態が解明された種なのですか?」

 

「ええ。発見されてから六十年は経ってますし、生息地が比較的安全なため調査をスムーズに行えましたからね。生活環や食性、個体数もほぼ把握済みです」

 

「成程……」

 

 所長の話を聞きながら、レイナは自分がする事になる調査に思考を巡らせる。

 生活環が判明しているという事は、つまり産まれてから死ぬまでの流れが既に解明されているという事だ。そして繁殖時期や個体数についても分かってる。これだけ分かっているのなら、天敵の有無や年齢別死亡率なども解明されているだろう。

 ここまで調べ尽くした生物の繁殖を、改めて調べる必要などあるのか?

 答えは勿論Yesだ。生物を取り巻く環境は年々変化している。人為的な原因もあるし、自然現象が原因な時もあるだろう。そのためとある種の繁殖行動が、毎年同じ規模とは限らない。

 もしかすると今年は条件が良くて例年の数倍以上の子供を産むかも知れない。或いは悪条件の積み重ねで、百分の一以下しか誕生しないという事もあり得る。例年と異なる繁殖状況が将来どのような影響をもたらすのか、何が異常の原因なのか、そもそも『例年通り』というのは正常な値だったのか……解明したと思っているような事でも、調べれば調べるほど疑問が山のように出てくるのが生物学だ。例え例年通りの繁殖数だったとしても、保護の観点ではそれもまた大切な情報だ。「これまで通りの保護活動で良い」という、確かな証なのだから。

 それでも、なんやかんや『解明済み』の事柄ではある。何をどうすれば調査出来るのか、数十年分のノウハウが蓄積されている訳だ。繁殖地や時期が分からない = 調査が出来ないという事は勿論ない。どんな危険があるのかについても、十分把握している筈。

 新人教育に打ってつけの対象という訳だ。そしてレイナにとっては、『十年前』に出会った巨大昆虫やカタツムリ以来の怪物調査。物足りなさなんて感じない。

 

「了解しました。全力で任務に当たります」

 

「よい返事です。勿論初任務をいきなり一人で行えとは言いません。あなたの先輩に当たる人物とチームを組んでもらいます」

 

「先輩……」

 

 レイナの脳裏を過ぎるのは、ヘンリーの姿。彼も『ミネルヴァのフクロウ』の一員であり、レイナよりもずっと前から所属している研究者だ。彼も先輩といえば先輩だろう。彼とは気心が知れた……というほどではないが、それなりに顔見知りの間柄。ヘンリーと一緒の研究なら、初仕事も安心というのだ。

 とはいえヘンリーが選ばれる可能性は低いとも考えた。所属が決まった後に説明された事だが、『ミネルヴァのフクロウ』に所属する研究者は五百人を超えるらしい。その全員がレイナにとって先輩である。ヘンリーはこの五百人の中の一人。単純計算で、ヘンリーが選ばれる確率は〇・二パーセントだ。勿論いくら研究職でも上層部が新人の教育をするとは思えないが、上層部の人数などたかが知れている。確率に大きな差はあるまい。

 ほぼ確実に、初対面の人と仕事をする事になる。人見知りという訳ではないが、それでもやはり緊張はした。もしかしたらやたら嫌味で、新人いびりの酷い輩かも知れない。

 ……そんな奴だったら、反撃として『いたずら』を仕掛けるかも知れないが。

 

「あなた、何か企んでませんか?」

 

「まさか。初仕事で緊張してるだけですよ」

 

 所長はレイナのそんな考えをズバリ見抜いてきたが、レイナはいけしゃあしゃあと誤魔化す。所長の眉間に皺が寄っていたが、特段追求してくる事もない。

 

「まぁ、良いでしょう。出発は明日、必要な装備は現地にて支給します。チームについても、現地にて自己紹介を受けてください」

 

「え? 此処ではやらないのですか? 私、その人の顔すら知らないと思うのですが……」

 

「彼はあなたの顔を知っているので問題ありませんよ、あなたが待ち合わせ場所と時間を間違えない限り。それに我が組織の研究者は多忙です。年の七割は施設外、もっと言えば野外研究が主となります。怪物達の生態とはそれほどまでに謎に満ちていて、研究すればするだけ新たな謎が出てくるものですから」

 

「なんともわくわくする話ですね。燃えてきます」

 

「誰もが最初にそう答えます」

 

 レイナの意気込みを、所長は一蹴する。確かに新人の意気込みなんて現実を知らない以上妄想と変わりないが、そうハッキリ言わなくても良いじゃないかとレイナは眉を顰めそうになる。なるだけで、大人なのでそこは我慢したが。

 尤も、レイナより遙かに歳を重ねた大人である所長にはお見通しかも知れない。

 そしてお見通しなら、その方が余程おっかないとレイナは思う。

 

「ではレイナ・エインズワーズ、あなたかの好奇心が尽きぬ事を心から望んでいます」

 

 見抜いた上でこう言うという事は、()()()()()()()()()()()()()という事なのだから。

 

「……はい。期待に応えられるよう、頑張ります。あ、そうです。一つ質問してもよろしいですか?」

 

「ええ、構いませんよ。なんでしょう?」

 

「今回の怪物の名前って、なんというのですか?」

 

 既に生態が解明されている種であれば、当然名前は付けられているだろう。そう思い尋ねたレイナに、所長はにっこりと笑みを返した。

 まるでそれは、夫との素敵な日々を思い出す未亡人のように。

 或いはイタズラを企む憎たらしい小僧のように。

 なんの共通点もない二つの印象を同居させた微笑みにレイナが戸惑う中、所長はとてもハッキリとした言葉で告げるのだ。

 

「『星屑の怪物』。我々は彼等の事をそう呼んでいます」

 

 夢に溢れた、素敵な名前を――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Species2 星屑の怪物

 

 

 



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いざ秘境へ

 マダガスカル島。

 世界で四番目に大きな島であり、島内で見付かる動植物の凡そ九割が固有種という稀少な自然を有する土地だ。しかしながら人間の開拓により島内の森林は激減し、現代も違法な伐採が後を絶たない。既に生態系はかなり破壊され、科学者の多くはマダガスカル島の自然が、稀少な動植物が永劫に失われる事を危惧している。

 『ミネルヴァのフクロウ』も一般的な科学者達と同様に、マダガスカル島の自然破壊を警戒していた。ただしその理由は稀少な動植物の消失ではなく……原生林に潜む『怪物』達が森から出てくる事で、人類文明の命運そのものが左右されかねないからなのだが。

 レイナに与えられた任務は、そんな恐ろしくも神秘的な『怪物』の一種の生態調査だ。

 レイナは知っている。『怪物』と呼ばれる生物がどれほどの存在であるかを。十歳の時目の当たりにした野生の闘争は、今でも彼女の心に深く刻み込まれていた。大地を溶解させる酸が飛び、近代兵器染みた爆炎が巻き起こり、それらを凌駕する肉弾戦が繰り広げられる戦場……あのような生物が人間の町に出たなら、何万という人が瞬く間に死んでもおかしくない。或いは彼等が滅びて自然のバランスが崩れれば、やはり大きな ― イギリス国民が全滅するような ― 災厄が起きる。

 マダガスカル島の『怪物』の生態に変化が起きていないか、起きているとすればそれが何を意味するのか……レイナ達『ミネルヴァのフクロウ』の研究結果は、文字通り世界の未来を占う重要なもの。『怪物』の調査を命じられたレイナも、自分達の役目の重要性はちゃんと理解している。

 ――――が、ぶっちゃけその辺りの事情は、レイナ的にはあまり興味がない。人命が脅かされないに越した事はないが、生憎見ず知らずの人間よりも、見ず知らずの不思議生物の方が好きなのだ。兎にも角にも不思議とワクワクを知りたい。

 つまるところレイナは純粋に此度の任務を楽しみにしており、

 

「ついに到着したぞマダガスカルぅーっ!」

 

 マダガスカル島の空港の到着ロビーにて、レイナは年甲斐もなくはしゃいでしまった。お洒落と無縁な厚手の長袖長ズボンは元気よく跳ねるレイナの動きを妨げず、その喜びを大いに表現させてくれる。背負うリュックサックはかなりの大きさだが、レイナの高々とした跳躍は重さなど感じてないと言わんばかりだ。

 まだまだ若いとはいえ、二十歳となれば十分に大人である。仲間内でわいわい盛り上がるならまだしも、一人で子供染みた仕草をするレイナに、周りの大人達から冷めた視線が向けられた。されどレイナは気にも留めない。むしろ大人になろうとも抑えきれないワクワクとドキドキを感じている事が誇らしく、恥じる事なく胸を張った。

 とはいえ何時までもはしゃいでいる訳にはいかない。ドキドキワクワクな任務であるが、同時にこれは仕事でもある。ちゃんとやらなければ『クビ』になるかも知れない。

 勿論調査は全力かつ真面目に行う。が、社会人というのは、職務を全うするだけで褒められる立場ではないのだ。身嗜みも大事だし、敬語やマナーも最低限使えねばなるまい。

 そして時間を守る事も大切である。

 レイナは腕時計から今の時刻を確かめた。現地時間で午前十時ちょっと前。飛行機内で時計は合わせたので、時刻は恐らく間違えていない。

 此度の任務はレイナにとっては初仕事。そのため先輩と共に調査を行う手筈となっており、その人物と午前十時に到着ロビー付近にある待合室で待ち合わせとなっている。時間的にはピッタリだが、逆に言えばあまり余裕がない。早く待合室を見付けなければ、初仕事の初っ端から大失態だ。

 幸いにして、待合室はすぐに見付かった。背負ったリュックサックを揺らしながらレイナは待合室へと向かい……

 

「あっ」

 

「ん?」

 

 丁度反対側からやってきた男性と、部屋の入口で鉢合わせてしまった。

 男性は、眼鏡を掛けた細面の人物だった。顔立ちは日系人のようで、レイナより少し年上に見える。背は長身のレイナと大差ないものの、よく鍛えられているようで身体付きはガッチリとしていた。彼が背負う鞄は人の背丈ほどもあり、バイオリンケースかと思うほど。服装は観光客のようなラフなものだが、それでいて生地がしっかりとしたものを着込んでいる。

 等々細かに観察してしまったが、一言でいうなら見知らぬ人だった。

 

「あ、すみません。どうぞ」

 

 待合室は見付けたので、今は急いでいない。日系人のようなので日本語で道を譲った……のだが、男性は待合所に入ろうとせず、レイナの顔をまじまじと見つめていた。

 確かに自分の容姿が男性受けするのはレイナも自覚するところで、じろじろと見られる事自体は割と慣れていた。そして慣れているが故に、この男性の視線が下心を含んだものではなく、観察するようなものであると気付く。

 自分をこのように見てくる人物の心当たりは、レイナには一つしかない。

 

「すみません、あなたはレイナ・エインズワーズさんでよろしいですか?」

 

 そしてこの質問により、心当たりは確信へと変わる。

 彼こそが待合室で合う予定だった『ミネルヴァのフクロウ』の先輩研究者だ。

 

「あ、はい。そうです」

 

「ああ、良かった。えっと自分は」

 

「Hey, until what time are you talking long?」

 

 自己紹介を始めようとする先輩研究者だったが、レイナの後ろに立つ白人の苛立った声に妨げられる。曰く「何時まで長話してるんだコノヤロー」……つまり早くそこを退けという事だ。

 確かに待合室の扉の前で立ち話など、邪魔者でしかない。レイナと先輩研究者は頭を下げつつ、そそくさとその場を後にする。白人は舌打ちしながら待合室へと入っていった。

 

「あはは、怒られちゃったね」

 

「ですね……」

 

「此処に居るとまた邪魔になりそうだし、移動しながら話をしようか」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 待合室から離れるように歩きながら、レイナは先輩研究者と言葉を交わす。向かうは空港の外にあるタクシー乗り場。

 そこに停められた()()()()()()()が、レイナ達を恐ろしい怪物の下へと運んでくれるのだから――――

 

 

 

 

 

 流石に、車一台で行ける場所ではないとレイナも思っていた。

 とはいえ車でしばらく進んだ後いきなりヘリに乗り換え、何処かの山奥に着陸後どう見ても原住民らしき人々が操る軽トラックへと乗り継ぐ事になるとは思わなかったが。レイナ達は今開けた土地 ― 開発された結果ではなく、火山噴火か何かで荒廃した土地のようだ。黒くてゴツゴツした石が広がっている ― に下ろされ、同じく車から下りている運転手と向き合っている。

 

「バ、ルバペルバ、ナーカバベムンバ?」

 

「ベベラーパー」

 

 此処までレイナ達を運んでくれた運転手が、謎言語で不安そうに話し掛けてくる。先輩研究者が謎言語で返答すると、運転手は顰め面を浮かべつつ、自分が運転していた軽トラックへと戻った。それからトラックはかなりのスピードで走り出し、あっという間にレイナ達の視界から消える。

 ぽつんと残されたのは、レイナと先輩の二人だけ。

 二人とも、空港の時のような軽装ではない。頭にはヘルメットを被り、靴は厚手で頑丈なもの。背負うリュックサックや鞄こそ空港に持ち込んだものと同じだが、こちらは元々旅行向きではなく登山用の代物だ。

 服は両手首両足首までしっかりと覆われた長袖で、作業着のようなデザインをしている。見た目からして十分に丈夫そうだが、これは『ミネルヴァのフクロウ』から支給された探検用の衣服だ。支給された時の説明曰く、拳銃の弾丸程度なら受け止める驚異的な耐久性があるらしい。それほどの防御力を持ちながら、シャツ一枚で動いているような気がするほど軽量である。

 詳しい素材については聞かされていないが、恐らく『怪物』由来の成分や技術から作られた産物だろうとレイナは考える。例えば幼少期の頃に出会ったカタツムリのような怪物は、爆炎や強酸さえも防ぐ殻を背負っていた。あの殻の機能を再現した鎧が出来れば怪物の攻撃だって怖くないだろう……再現出来れば、であるが。人間の技術力を過小評価するつもりはないが、あんな出鱈目性能はそう簡単に真似出来るものではあるまい。

 しかしながら、ある程度は出来ていないと困る。

 何しろこれからレイナ達は目の前に広がる大森林――――『星屑の怪物』が潜む世界に足を踏み入れるのだから。

 

「……凄く、その、鬱蒼とした森ですね」

 

 レイナは無意識に、同意を求めるように先輩に向けて自分の感想を呟く。

 そこは、とても密度の高い森林だった。高さ五十メートルはあろうかという木々が隙間なく生え、広げた葉が分厚い雨雲のように空を覆っていた。森の中は夜を彷彿とさせるほど暗く、五メートル先すら見通せない。にも拘わらず地上には無数の草が生い茂り、地面が見えなくなっている。

 通常、森というのは木々の葉が光を遮ってしまうため、地上ではあまり植物が育たないもの。なのにこの森では下草が、まるで草原のように元気だ。この不思議は人類が何百年と築き上げた生物学を、根本から否定している。あたかもこの先はもう、人間の常識が通じる世界ではないと物語るかのように。

 しかしレイナは臆さない。むしろ常識が通じない世界なんて、見るもの全てにワクワク出来そうだと胸を躍らせ、自然と笑みが浮かんだ。

 

「そうだねー、此処は何時来ても緑が濃い。植物学者としては、ここはとても良い場所だよ」

 

 喜びを露わにしているレイナに、先輩は同意しながら歩み寄ってくる。レイナは目をぱちぱちさせながら、先輩の方を見た。

 

「あれ? 先輩って植物学が専門なんですか?」

 

「一応ね。最初は被子植物研究のエキスパートとして呼ばれたんだ。ま、今じゃ虫も獣も微生物もやってるけど」

 

「おー……多才なんですね」

 

「いやいや、うちの組織に入ったら嫌でも色んな分野に詳しくなるよ。というか詳しくならないと死ぬし」

 

「成程、死ぬなら確かに誰でも詳しく……死ぬ?」

 

「うん、死ぬよ」

 

 話の中で不意に出てきた物騒な単語を繰り返すと、先輩はにこにこ微笑んだまま肯定する。確かに怪物の強大さを思えば命が幾らあっても足りないだろうが、しかしさらりと『死ぬ』と言われると、レイナとしても少し怯む。

 

「あ、一応護身道具も渡しとくね。人に向けちゃ駄目だよ? 頭に当たったらスイカみたいにばーんって弾けるから」

 

 更に先輩は背中の巨大鞄からおもむろに大きな銃器 ― 自動小銃と呼ばれる類のものだ ― を取り出すや、なんの躊躇もなくレイナに渡そうとしてきた。

 ハーフではあるが生まれも育ちも文化的背景も日本であるレイナからすれば、えらく物騒な代物である。

 

「ぎ、ぎょわーっ!? 銃とかいきなり渡さないでくださいよ!? というか空港に持ち込んでいたんですか!?」

 

「え? あ、そっか。日本じゃ銃なんて滅多に使わないよね。いやー、失念してたよ。ちなみに持ち込みは事前に申請しておくと『ミネルヴァのフクロウ』がごにょごにょっとしてくれるから大丈夫だよー」

 

「何も大丈夫じゃないっ! というか先輩も日本人でしょ!? なんで銃の扱いこんなに雑なんですか!?」

 

「日本人だけど、海外生活が長くてね。最近は銃を持ってない時の方が少ないなぁ」

 

 まるで大した事ではないかのように、けらけらと笑う先輩。この人最早狂気に染まっているとレイナは思い、無意識に後退る。

 だが、確かに銃は必要かも知れない。

 此処は安全な日本の都市部ではない。何時物陰から恐ろしい生物が現れ、喉元に鋭い牙を突き立ててくるかも分からない『野生の王国』なのだ。

 武器も持たずに入るなど自然を嘗めている。人間もまた一つの生物として、全力で挑まねば無事では済むまい。そして人間の本気とは、先祖代々積み重ねた技術から生み出された文明の利器を用いる事。銃はその最たるものの一つだ。

 レイナは恐る恐る先輩の手から銃を受け取る。金属製の武器は相応に重く、危うく落としそうになってしまった。落とした拍子に暴発……あり得ない事ではないだけに、レイナは顔を青くしながら両手でしっかりと銃を握り締める。

 実のところレイナはマダガスカル島に来るまでの間に、『ミネルヴァのフクロウ』から銃の扱い方マニュアルを研修資料として読まされていた。まさかこんなすぐに使う機会があるとは思わなかったが、真面目に読んでいたのでなんとか資料の内容を思い出せる。例えば映画やドラマでは常に引き金に指を掛けているイメージがあるが、それは間違った持ち方だという事。引き金に指を掛けてると、ちょっとした刺激で暴発しかねない。今撃っても構わないという状況以外、指は引き金に触れないよう真っ直ぐ伸ばしておく。銃口も、基本的には下を向けておくものだ。間違っても人に向けてはならない。

 こんな持ち方で大丈夫だろうか? 心配になり先輩の方をちらりと見れば、とても自然体な事以外、先輩もレイナと大差ない持ち方をしていた。ならば大丈夫だろうと、安堵の息を吐く。

 

「うん、準備は出来たみたいだね。それじゃあ出発しようか」

 

「は、はいっ! よろしくお願いします」

 

「ははっ、あまり緊張し過ぎないでも大丈夫だよ。この森の生物は比較的大人しくて危険はないからね」

 

 ぺこりと頭を下げながら改めてお願いすれば、先輩は楽しげに笑いながら答える。大人しくて危険はない、という言葉を何処まで信じて良いかは分からないが……少しだけ、気が楽になった。

 そう、これから挑むは怪物達のひしめく世界。

 恐ろしさはあるが、それを凌駕するワクワクがレイナの胸を満たした。

 

「そもそもどいつもこいつも銃なんて効かないから、駄目な時は何やっても駄目だし」

 

 尤も、続け様に言われたこの言葉で、ワクワクの気持ちは氷のように固まってしまったが。

 

「……え? あの、どいつもこいつも? 怪物だけじゃなくて?」

 

「質問は受け付けないよー。説明したって、この目で見るまで納得なんて出来ないんだからさ」

 

「え、あ、ちょ、えっ!?」

 

 困惑するレイナを無視して、先輩は森の方へと歩き出す。レイナの足は竦み、思わずその場に立ち尽くしてしまう。

 けれども、周りの森から聞こえてくる不気味な叫び声の主達と仲良くなれる予感はしない。

 このまま独りぼっちでいたらどうなる事か。

 

「……ま、待ってくださーいっ!」

 

 バタバタと慌ただしく、レイナは先輩の後を追う。

 いよいよ初めての『任務』。

 未だ胸の中はワクワクでいっぱいなのだが、その隙間を縫うように不安と恐怖心がレイナの心を浸食するのだった。



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緑色の野獣

 レイナ達が踏み入れた森の中は、外で見た時よりも更に濃密な環境だった。

 下草は足で掻き分けるのが困難なほど密度が高く、安全を重視すると一歩前に進むのに数秒と掛かってしまう。道を塞ぐように蔓が張り巡らされ、低木が空間を埋め尽くすかの如く伸びている。葉から出ている水蒸気が満ちているのか、熱帯特有の粘っこい暑さが身体に纏わり付き、更に人間達の体力を奪う。

 あまりにも進行の妨げが多いものだから、まるで森が侵入者を拒んでいるような錯覚を覚えるが……人の通り道ではない、空も枝葉が満ちていた。お陰で森の中は昼間にも拘わらず真っ暗闇である。

 ヘルメットに備え付けられたライトで前を照らしながらでないと、前に進めない有り様だ。

 

「……いや、おかしいですよねコレ」

 

 あまりの暗さに、レイナも戸惑いと疑問を言葉にした。

 

「何処がおかしいと思う?」

 

 レイナの言葉に、レイナの前を歩く先輩が訊き返す。先輩の足取りは軽やかで、慣れないレイナのためにゆっくり歩いているのだと分かる。ペースを合わせてもらって申し訳ないなと思いつつ、レイナは一度呼吸を整えるためごくりと息を飲み、それから頭の中にある文章を声に出した。

 

「普通、これだけ大きな森の中では下草が殆ど生えません。木々の葉が光を遮るため、光合成が出来ないからです。昼間でもライトが必要な暗さとなれば、いくら日陰に生えるような植物でも十分な成長は出来ないと思われます」

 

「ふむふむ。他には?」

 

「……此処は、熱帯性の気候をしています。高温多湿環境の場合、バクテリアや小動物が活発なため落ち葉などの有機物は即座に分解されて無機物となり、植物にすぐ吸収されてしまう。そのため土壌養分が極めて少ない、非常に痩せた土地が形成されるものです。土ではなく樹木に栄養がプールされていると言うべきでしょうか。そういう点から見ても、歩くのが困難なほど草が育つとは考えられません」

 

「素晴らしい。植物学の基礎はあるようだね」

 

 レイナがぶつけた疑問に、先輩は賞賛の言葉を送る。褒められて悪い気はしないが、子供扱いされてるように感じてレイナは頬を膨らませた。

 勿論前を歩く先輩がレイナの表情に気付く筈もなく、変わらぬペースで歩きながら話し始める。それは、レイナの疑問に対する答えだった。

 

「この地域は大昔から痩せていてね。光以外の『栄養』が殆どなかったんだ。そのためこの地に暮らす植物達は特異な葉緑体を獲得する進化を遂げ、夜のような暗闇でも生存するのに最低限の光合成は行えるようになったのさ。代わりに気温がかなり高くないと生きていけないけどね」

 

「成程……」

 

「それと土地が痩せている事から、ある生物も大繁栄を遂げていてね。時にエインズワーズさん。この辺りの虫について解説願えるかな?」

 

「? えっと、私に分かる種であれば」

 

 先輩の頼みを、意図が分からないままレイナは受ける。説明するためには何か虫を見付けないといけないので、辺りをきょろきょろと見回した。しかし中々虫の姿は見付からない。

 というより、全く見当たらない。

 最初は、こんな事もある程度にしか思わなかった。しかし草を掻き分けながら数メートルと歩いたところで、ぞわりとした悪寒がレイナの背筋を走る。これだけ探したのに、本当に虫一匹見付からないのだ。

 昆虫に限らず、小さな生物達は極めて数が多い。生物重量で考えても圧倒的多数派だ。中々見付からないと思うのは、彼等がとても小さく、保護色で景色に紛れ、葉の裏などに隠れているから。或いは簡単に見付かるような間抜けな捕食者に喰われて生き残っていない、と言うべきかも知れない。

 それでも『探し方』というものはある。植物に刻まれた食べ跡、糞、糸、抜け殻……生きている以上どうしても生じてしまう、数々の痕跡。そうしたサインを見付ければ、近くに何かしらの個体がいるものだ。難なら草むらを蹴飛ばせば、驚いた羽虫の一匹二匹は飛び出すものである。

 だが、この森にはそうしたサインや慌て者が何処にも見当たらない。

 なら、この森には虫がいない?

 

「……!? なん……で……」

 

「虫の姿、全く見当たらないだろう? まぁ、厳密に言えばゼロじゃないけど、極めて生息密度が低いのは確かだ。僕達の半径数メートルに、肉眼で識別出来るような昆虫はいないかもね」

 

「そ、そんなの、あり得ません!」

 

 先輩の説明に、レイナは思わず反発する。

 昆虫は植物との結び付きが強く、大半の種が植物を餌として利用している。そしてこの森は嫌になるほど植物が豊富だ。これだけ植物があるのなら、相当数の昆虫を養える筈である。

 仮に、この植物が猛毒を有していたとしても、それは見方を変えれば『競争相手のいない資源』だ。少数ではあっても適応した種が現れる筈。それすらも見られないというのは、不自然を通り越して不気味でしかない。

 未知が大好きなレイナだが、ここまで逸脱した環境は流石に『昆虫学者』として受け入れ難い。先輩は困惑するレイナに説明しようとしているのか振り向き、ライトの光を顔で浴びながら口を開いた

 直後、その顔から笑みが消える。

 更に先輩は銃を構えた。レイナもわたわたしながら銃を構えたが、何処に向ければ良いのか、そもそも何故急に銃を構えたのかが分からない。暴発するのも嫌なので、引き金に指が伸ばせない有り様だ。

 

「どうしたの、ですか……?」

 

「……生物が捕食・被食の関係を通じて、相手の個体数に影響を与える効果をなんという?」

 

「え? えーっと、ボトムアップ効果と、トップダウン効果の事ですか?」

 

 突然の問い掛けに、戸惑いながらレイナは答える。

 生物学にあまり詳しくない人々は、生態系を極めて単純に考えるものだ。「頂点捕食者がいなければ、喰われる側は際限なく増えて餌を食い尽くす」というのは典型的なものだろう。

 しかしそれは『トップダウン効果』……生態系機能の一側面でしかない。もう一つ、ボトムアップ効果というものが生態系にはある。餌となる生物は、自らの個体数によって上位捕食者の数を制限しているというものだ。先程レイナが考えた「これだけ植物があるのだから虫もたくさんいる筈だ」というのは、ボトムアップ効果を元にした考えである。

 そこでレイナに閃きが走った。

 虫達の個体数が極端に少ない。気候変動や大気汚染などの『イベント』がないのであれば、生物学的に考えられる理由は一つだけ。

 それは捕食者による淘汰圧。

 昆虫を食べ尽くすほどに強大な生物種の存在だ。だが、これにしても普通ならばここまで昆虫を一掃出来ない。通常の捕食者はトップダウン効果を被食者に与えるが、自らも被食者からボトムアップ効果を受けるからだ。餌が少なくなれば捕食者も減る。捕食者が減れば被食者が増える……これではただの食物連鎖にしかならない。

 異常な捕食者でなければならない。つまり餌となる昆虫に対し一方的なトップダウン効果を与え、昆虫からのボトムアップ効果を殆ど受けないもの。昆虫を補食するが、昆虫を栄養源の基礎としていない逸脱者。

 ――――例えば、食虫植物。

 

「……来るぞ!」

 

 レイナが考えに至った時、先輩が声を荒らげる。

 そして先輩が銃口を向けた先から、『何か』が飛び出した!

 その何かは、口を持っていなかった。身体の大半はうねる何十本もの触手が占め、触手の中心に球根のような小さな塊が一つだけある。大きさは触手を伸ばした長さで測っても、ざっと四十センチほど。球根部分だけなら十センチ程度。大きさだけで見れば人間にとって左程驚異ではない。

 しかし触手の先端にある鋭い爪を見れば、そうは言えまい。

 直感的な判断だが、人間の皮膚ぐらい簡単に切り裂けるだろう。爪は長いものではないが、首の動脈ぐらいは掻き切れそうだし、目に当たれば失明の恐れがある。傷口から危険な細菌や毒が入れば、それはそれで死に至るかも知れない。

 そしてそんな危険な爪が、先輩目掛け振り回され――――

 パンッ! と乾いた破裂音と共に、触手の付いた球根は吹き飛んだ。

 先輩が発砲したのだ。吹き飛んだ触手付き球根は ― 口などの器官が見当たらないので当然といえば当然だが ― 悲鳴も上げなかったが、ダメージは受けているのか地面の上で藻掻いている。先輩は触手付き球根に近付くと銃口を球根部分に向け、更にもう一発射撃。球根部分が割れるように粉砕し、触手付き球根は動かなくなった。

 身動き一つ出来なかったレイナだが、難を逃れた事は理解した。同時に、もしも一人だったら今頃この奇妙な生命体に為す術もなく襲われ、命を落としていたと予想が付く。全身が震え、足腰に力が入らなくなり、ぺたんとへたり込んでしまう。

 それでも、座り込んだ後にへらっと笑ってしまったり。

 何しろこんな不思議植物、今まで見た事も聞いた事もないのだ。高鳴る心臓の鼓動は、恐怖かワクワクか。

 きっと、両方だ。

 

「な、なん、ですか、これ……」

 

「この森に暮らす食虫植物の一種。まぁ、コイツはその中でも元気な方だけどね」

 

 引き攣ったとも興奮しているとも取れる声を出していたレイナに、先輩は淡々とした口調で答えた。

 尤もこの答えで納得出来るほど、レイナも単純な頭はしていない。獲物に反応して動く食虫植物など珍しくもないが、コイツはいくらなんでもアグレッシブ過ぎだ。

 

「食虫植物って、こんな、動物みたいに動くものじゃないと思うのですが……」

 

「この辺りの土壌は大昔から痩せていたと言っただろう? つまり食虫植物が発生するのに適した環境で、大昔から数多くの食虫植物がいた筈だ。そこに怪物の『原種』が発生し、豊富な餌を供給した事で、より食虫に特化した種が進化した。そう考えられている」

 

「つまり、この食虫植物は、怪物により誕生という事ですか……?」

 

「勿論仮説だけどね。でもこの地にだけ獰猛な食虫植物が生息しているのは、この土地特有のものに原因があると考えるのは自然な事だろう?」

 

 先輩からの説明に、レイナはこくりと頷く。けれども正直、納得とは程遠い心理だ。

 存在するだけで、特異な生物すらも生み出す種。

 それ自体は、決しておかしな事ではない。進化とは環境に適応する事であるが、環境とは気温や湿度だけのものではない。天敵や獲物、生活空間や餌が競合するライバル、病原体などの『生物的要因』も非常に大きい。ある生物への適応の結果として特異な生態を持つ種というのは、決して珍しくないものだ。

 しかし自走する食虫植物なんて、いくらなんでも特異過ぎる。まるで異星にでも迷い込んだかのような気分だ。そして異星の生態系に、既存の生物学の常識なんて通用しない。

 果たしてこんな場所から生き残れるのか……?

 

「あ、ちなみにそいつまだ生きてるから、触らない方が良いよ。今は活性が低下してるだけで、二酸化炭素を発するものが接近すると動き出すんだ」

 

「ひゅっ!? え、い、生き……!?」

 

「植物だからね。バラバラにしても何日かすると再生して、活性を取り戻すよ。完全に殺すなら燃やすのが一番だけど、燃えた時の二酸化炭素に反応してわらわらと集まってくるから、此処でやっても状況が悪化するだけなんだよねぇ」

 

 そうして自分が生死の恐怖を感じているというのに、相手は銃で吹っ飛ばされても無事ときた。

 ズルい。こっちは死ぬかも知れないのに、向こうはちょっと痛いだけなんて。

 その不公平さにレイナは――――闘志を燃やす。

 自然は大好きだ。昆虫が一番好きなのは変わらないが、植物だって好きである。けれども一方的にやられるのを良しとするかは別問題。いや、むしろ生き物が好きだからこそ……人間という『生物種』もそれなりには好きなのだ。

 嘗められたままなんて癪だ。何がなんでも絶対に生き延びてやる。

 そしてこの森を生み出した創造主(怪物)を、この目で見てやるのだ!

 

「……すみません、取り乱しました」

 

「お、そうかい? 手は貸さなくて平気?」

 

「はい、大丈夫です」

 

 自分で断りを入れ、抜けていた腰に力を入れる。レイナはすっと立ち上がり、ちゃんと自分の足で立ってみせた。

 先輩はレイナの立ち姿を見て、満足げに頷いた。もしかして精神力を試されていたのだろうか? そう思うと立ち上がるために抱いたこの意地も見透かされているような気がして、なんだか気恥ずかしくなってくる。

 

「いやー、何時までも座り込んでいたらどうしようかと思ったよ。そろそろ逃げないと危ないところだったからさぁ」

 

 そんな気恥ずかしさは、あたかも大した事ではないと言わんげな先輩の言葉で吹っ飛んでしまったが。

 逃げる? 何から? そろそろ危ない? なんで?

 

「あの……どういう……?」

 

「さっき倒した植物、破損時の汁に誘引物質が含まれていてね。倒すと仲間を呼ぶんだよ」

 

「……え?」

 

「だからさっさと逃げないと包囲され……あ、手遅れっぽい」

 

 極めてあっさりとした説明。そしてその説明の詳細を訊く暇はない。

 茂みの中から、無数の触手付き球根が跳び出してきたのだから――――



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熱烈大歓迎

「ぎゃーっ!? ふぎゃーっ!? おぎゃあぁぁぁーっ!?」

 

 色取り取りな悲鳴を上げながら、レイナは全力で駆けた。

 行く先には草葉や蔓が生い茂っていたが、これを躱さず真っ直ぐ突入。薄く平べったいが故にナイフが如く鋭い葉を衣服で受ける。万一柔肌がこれらの葉を掠めれば間違いなく乙女の柔肌に切り傷が刻まれるだろうが、今のレイナはそんな事などお構いなし。一心不乱に走った。

 レイナの隣には先輩が居て、時折彼は背後に向けて銃を撃っている。彼もまたレイナと同じ速さで走っていて、迫り来る植物に意識すら向けていない。

 そして彼女達の背後に迫るのは、数えきれないほどの大群を成す触手付き球根達だった。

 

「いやはや、思ったより大群だなぁ」

 

「な、な、何を暢気な事言ってるんですかぁ!? 食べられちゃいますよこのままじゃ!」

 

「そうは言ってもねぇ。走る速さは互角、むしろ森に慣れてる分あっちの方が有利だから引き離すのは不可能。だからといって銃を撃っても群れは止まらない。こんな状況じゃ振りきるなんて無理な話だよ」

 

 悲鳴混じりにレイナが訴えても、先輩は変わらず暢気な様子。それでいて語る言葉は諦めムード。頼りないのか頼れるのか、さっぱり分からない。

 かれこれもう数百メートルは逃げていると思うのだが、触手付き球根 ― 正式名称は『ハシリネアシラン』というラン科植物。流石は被子植物界最多の種数を誇る分類群、走る奴がいても不思議ではない……とレイナは無理矢理思うことにした ― 達は諦める気配がない。彼等は長く伸びた触手で枝を掴み、あたかも類人猿が如く枝から枝へと跳び移る。目など付いていないのにどうやってか障害物をきっちりと避け、個体ごとに様々なコースを取りながら的確にレイナ達を追ってきていた。

 先輩はハシリネアシランを正確に撃ち抜いていくものの、数が多過ぎて焼け石に水状態。おまけに動物と違い、触手が千切れても怯まないどころか、球根をど真ん中から撃ち抜いてバラバラにしても死なない存在だ。彼等は仲間の死も厭わず……そもそも仲間や生死を認識する知性があるかも怪しいが……追跡を続ける。

 既に戦いは持久戦の様相を呈してきた。こうなると人間側に起きるのは、物資の不足である。

 

「あー、エインズワーズさん。ちょっとは後ろの奴等を攻撃してくれないかな? 僕の銃、もう弾切れ寸前なんだけど」

 

「こ、ここ、こっちは、走るのだけで、精いっぱいなんです! 銃が欲しいなら、あ、あげるから!」

 

「いやー、このぐらいの奴等で練習しておいた方が後々役立つと思うよ? バラバラにしても死なないから、攻撃制限のない種だからね。中には希少だから例え自分が死んでも撃つなって言われてる種もいるし、こういうので実戦経験積まないといざといえ時に()()よ」

 

「うちの組織、人命第一って概念ないのぉ!?」

 

「ある訳ないでしょ。ヒトのレッドリスト評価は軽度懸念なんだからさ」

 

 上手いジョークを言ったとばかりに、先輩は「はっはっはっ」と快活に笑う。全く以て面白くない。むしろムカついた、が、それを言葉には出来ない。声を発すると息が乱れ、酸欠の苦しみを味わわされる。これ以上の会話は足を止めかねない。

 必死に、全力で、レイナは森の中を駆ける。

 

「あ、エインズワーズさん。次は右に曲がって」

 

 その逃走劇の中で、先輩はこうしてちょくちょく指示を出してきた。

 どうやら先輩の頭にはこの森の地図がインプットされていて、『何処か』を目指しているらしい。何処を、何故目指すかはレイナには分からない。それを問い詰める余裕などなかったからだ。だが、今は先輩の考えを信じて進むしかない。

 

「よっと……弾切れになっちゃったなぁ」

 

 発砲音と共に、絶望的な言葉を平然と告げてくるこの先輩を。

 

「せせせせせ先輩! 銃! 銃あげます! だから早く!」

 

「はいはい、ありがたくいただきますよっと……でももう大丈夫かな。そろそろエリアに入った筈だし。あ、居た居た」

 

 慌てふためきながらレイナから銃を受け取り、同時にぽつりと先輩は独りごちる。その口調は今まで通り飄々としていたが、何処か安堵しているようにも感じられた。

 もしかして安全地帯に到着したのだろうか? 一瞬希望を抱くも、ハシリネアシランを引き連れた状態で入っては安全も何もない。大体この大群をどうにかする術があるとは到底思えな

 

「はい、伏せてね」

 

「ばぶっ!?」

 

 等と考えていた最中に、先輩はレイナの頭を力強く手で押してきた。いきなりの事に対応出来ず、レイナは地面に顔面からダイブ。湿度の高い泥っぽい土に顔を埋める羽目になる。

 無論身を低くした程度でハシリネアシラン達をやり過ごせるなら苦労はない。レイナは反射的に顔を上げ、後ろを振り返る。言うまでもなくそこには無数のハシリネアシランが居て、地面に伏したレイナと先輩目掛け降下していた。

 あ、こりゃ駄目だ――――本能的に避けられぬ危機を察知したレイナの頭は、一瞬にして達観。恐怖も絶望もなく、ぼんやりと迫り来る『猛獣』達を眺め、

 彼等の一部が、忽然と姿を消した。

 本当に、一瞬の出来事だった。間近まで来ていた筈のハシリネアシランの何体かが、瞬きする間もなく消えたのだ。

 あまりの事にレイナは呆けてしまうが……それ以上に、残ったハシリネアシラン達が動揺していた。彼等は慌ただしく止まり、すぐにその身を反転。触手を激しくうねらせながら、来た道を帰ろうとする。

 されどそんな彼等の一部がまた消失し、再び群れに動揺らしきものが走った。元々群れを作る種ではないのか、はたまた混乱から統率が乱れたのか。ハシリネアシランの群れは四方八方へと散っていく。

 何が起きたのか、レイナには分からない。けれども自分が助かった事だけは、ハッキリと理解出来た。

 そしてこの場に自分を誘導してきた先輩なら、何があったのか知っているという確信もある。

 

「い、今のは、何が……」

 

「しっ。静かに。気付かれる。この森の食虫植物達は音に敏感なんだ。光を当てるのは問題ないから、見たければ見ても良いけどね」

 

 詳細を尋ねようとしたが、先輩は身を伏せたままレイナに口を閉じるよう小声で促す。訳が分からないが、有無を言わさぬ強い言葉に気圧され、思わずレイナは口を閉じてしまった。

 すると森の奥から、ずしん、ずしんと、足音が聞こえてくる。

 足音からして、かなり巨大な生物が接近していると分かった。少なくとも一般的なクマやトラ程度のサイズではない。大体ゾウぐらいだろうか? 昆虫すら殆ど見られない森に大型動物がいるというのが不思議に感じ、レイナは足音が聞こえてきた方を凝視。ヘルメットに付いたライトも、その方角を照らす。

 やがて森の木々を掻き分けて姿を現したのは、身の丈五メートルはある巨人だった。

 レイナは声を上げなかった。驚かなかったのではない。驚くほど感動し、言葉を失ったのだ。

 最初は巨人だと思った。だが、それは勘違いだったとすぐに理解する。巨人の表皮は薄い緑色をしており、剥き出しの筋肉のように見える肉体は、何本もの蔓の集まりだったからだ。丸太のように立派な二本の足と二本の腕を持ち、引き締まった腹と、腹の何倍も太い胸部というスタイルは鍛え抜かれたボディービルダーのよう。身体と比べてかなり小ぶりではあるが顔のない頭のようなパーツもあり、一言でいえば間違いなく人型なのだが、断じて人間ではない。いや、そもそも動物ですらないだろう。

 コイツは自ら歩く力を持つ、巨大蔓植物だ。

 頭上をライトで照らすと、コイツ……仮に植物巨人と呼ぼう……の胸元にはハシリネアシランが大量に抱えられていた。消えたハシリネアシランは、この植物巨人が捕らえていたらしい。植物巨人の頭部 ― 正確にはてっぺんと言うべきか? ― から伸びた細長い蔓がハシリネアシランに突き刺さり、じゅるじゅると汁のようなものを吸っている。干からびたハシリネアシランは適当に捨てられ、次から次へと植物巨人は獲物を食べていく。

 レイナは理解した。この森の摂理(ルール)を。

 この森の生態系は、植物だけで完結しているのだ。栄養の生産者が植物であり、その栄養の捕食者もまた植物。植物が植物を食べる事で、成長と繁殖のためのエネルギーを得ているのだ。

 ここから、この森に昆虫類が見られない理由も考えられる。昆虫だけでなく植物も食べられる植物……『雑食植物』にとって、昆虫は数ある獲物の一つでしかない。昆虫の減少によるボトムアップ効果を、雑食植物は食虫植物以上に受け難い筈だ。対して昆虫側は、捕食によるトップダウン効果はしっかりと受けるだろう。フェアな関係ではなく、昆虫の数は減少する一方となる。

 そして昆虫の総数が減れば、純粋な食虫植物に対する淘汰圧となる。昆虫だけを栄養にするのは難しくなり、植物も食べる雑食性が適応的になるだろう。結果、捕食者である雑食植物は更に増え、昆虫類はますます減っていく。こうして雑食植物が繁栄すれば、今度はより植物食に特化した『草食植物』が現れるだろう。昆虫にとっては餌が競合するライバルであり、更に苛烈な淘汰圧に晒される事となる。

 かくして森から昆虫の姿は消え、蠢く植物達に支配されたという訳だ。

 レイナがこの森の成り立ちを考察しているうちに、植物巨人は何処かに立ち去った。ヘルメットのライトを思いっきり当てていたが、こちらには気付いてすらいない様子だ。如何に捕食者でも植物には違いない。光はエネルギー源ではあっても、獲物を示すシグナルではないのだろう。脳も持っていない筈なので、単細胞生物的な、刺激に対し一定の行動を返すパターンの生物だと思われる。

 ともあれこれで難は逃れた筈。レイナは大きな息を吐き、先輩の方を見る。先輩は「もう話して平気だよ」と普通の声で伝えると、自ら率先して立ち上がった。安全を確信し、レイナも立ち上がる。

 

「いやー、危ないところだったね。ティタラシルの縄張りに入らなかったら、喰われるところだったよ」

 

「ティタラシル? ああ、さっきの巨人の事ですか……凄いです。植物を食べる植物なんて、初めて見ました。本当に、此処は……普通の人は知らない世界なんだなって感じです」

 

「はは、そうだろう? でもまだまだ驚きは終わらないよ。この先に、もっと凄いものがあるんだからね」

 

 レイナが正直な感想を伝えると、先輩は森の奥を指差し、歩き出す。レイナも急いで彼の後を追う。

 ハシリネアシランから逃げるのに必死で失念していたが、自分達の目的は『星屑の怪物』の調査だ。長時間逃げ回っていた(走り続けていた)ため、今では森のかなり深いところまでレイナ達は来ており、この辺りが人智の及ばない領域なのは間違いない。何時、『星屑の怪物』が現れてもおかしくないだろう。

 ハシリネアシランにティタラシル。どれも興味深いのと同時に、とても恐ろしい生命体だった。『星屑の怪物』がどんな存在かは分からないが、これまでに出会ったあの二種よりも遙かに凄まじい生命体に違いない。いや、自分は『怪物』がどれほどの存在であるか、よく知っているではないか。

 あの時の怪物達には感動を覚えた。その戦いに見惚れもした。けれどもその存在は、ただ一歩踏み出すだけで人の命を奪える破滅的なもの。無邪気な子供ではなく大人となった今、その危険への理解が恐怖の源泉となる。

 前に進むほどに、警戒心を強める。何が出てきても良いように、気持ちを強く持つ。先輩から付かず離れずの距離を保ち、更に森の奥へと分け入り……

 ふと、進行方向の先にある木々の隙間から、光が漏れ出ている事に気付いた。

 この森を満たす夜のような暗さは、鬱蒼と茂る木々達が作り上げたもの。ならばあの先には木々がない? 森の出口という事か? 否、自分達は森の奥へと進んでいた筈……様々な疑問が一気に頭を過ぎるが、前を進む先輩の歩みは速い。後を追っていたら、考えが纏まる前に光の側まで来ていた。

 先輩は草むらを掻き分け、木々の間を通って光の中へと入る。レイナも同じく草むらを越え、木と木の間を通って光の中へと突入。

 そこでレイナは目の当たりにした。

 下草に覆われた大地。頭上には空が広がり、燦々と輝く陽光が地上にまで降り注ぐ。まるで住宅地にぽつんとある空き地のような、ちょっと寂しげで、のどかな風景が広がっている。

 そしてその中心に、『それ』は鎮座していた。

 あたかも自らがこの森の王であると主張するかのような、緑色の巨躯の持ち主が……



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集結

 少々失礼な例え方ではあるが、一見して『それ』はカビ塗れのゴミ山のようであった。

 高さは、ざっと二十メートルはあるだろうか。山のようになだらかな円錐形をしており、表面は凸凹している。降り注ぐ陽光を浴びるその身は上から下まで黄緑一色に染まっているものの、不均一な濃淡の所為で汚らしい印象を受けるだろう。おまけに全体に満遍なく、何百と存在する直径五センチほどの穴がやけに生物的で生々しく、遠くから眺めるとピパピパ ― 背中で子育てをするカエルの一種。所謂『検索してはいけない』系の生物だ ― の背中みたいでかなり気持ち悪い。

 そして時折その穴から、ふしゅーと音を立てて空気を吐いたり、しゅおーと音を鳴らして吸い込んだりしている。

 空気の出し入れ……呼吸をしているのだと気付いて、レイナはようやくその緑色の『ゴミ山』が生物であると理解した。堂々とした風体には王の貫禄があるのだが、如何せん最初に抱いた印象がよろしくない。人間の十倍以上大きいのに、威厳というか、威圧感というか、そういったものも特に感じられない。

 

「ようやく会えたね。コイツが『星屑の怪物』だよ」

 

 ましてやこんなのが自分達の探し求めていた種だと教えられたなら?

 具体的なイメージがあった訳ではない。が、あまりにも『微妙』な姿を前にして、レイナは一瞬呆けてしまった。

 

「……え。これが、ですか?」

 

「うん、そうだよ」

 

「……………あの、その、勿論彼等の姿がこうなったのには理由があると分かっていますし、人間的感性が絶対なんてこれっぽっちも思いませんけど、でも、あの」

 

「うん、大丈夫。みんな最初は色々戸惑うから。ちなみにコイツのあだ名は『ゴミ山』ね」

 

 あ、みんなそれ思うんですね――――自分の第一印象とぴったり当て嵌まるあだ名に、レイナは苦笑いを浮かべる。

 とはいえ生物というのは、伊達や酔狂で独特な色や形をしているのではない。全てに意味があるとは限らないが ― 何しろ進化はランダムな変異だ。致命的な不利益がないなら、無意味な形質が次代に引き継がれる事は大いにあり得る ― 、基本的には生きるための役に立っていると考えるべきである。

 どんな生態をしているのだろう? 好奇心からレイナは、思わず『星屑の怪物』に歩み寄ってしまう。

 もしかしたら危険な生物かも知れないと思い出して慌てて下がると、先輩はけらけらと楽しそうに笑った。笑われたレイナはジト目で先輩を睨む。先輩の顔に緊張感はなく、危ない事を窘める様子はない。

 

「そんなに警戒しなくても平気だよ。この怪物は完全な『草食性』だからね。人間のようなタンパク質の塊には興味がないんだ」

 

 実際危険はないらしく、先輩はそのように語った。

 草食性という事は、『星屑の怪物』はこの森の植物達を餌にしている『食植植物』という意味だ。巨大さを考えれば、植物で回っているこの地の生態系の頂点に立つ種なのだろう。

 そして完全な草食性という事は……

 

「……あ、あの、触っても、大丈夫ですか……?」

 レイナは殆ど無意識に、そんな衝動を抱いていた。

 先輩は一瞬目を丸くし、次いで心底楽しそうに笑う。

 

「はははっ! 君みたいな新人は珍しい! 大抵の新人は、ハシリネアシランの大群に襲われた後は何を見ても恐慌状態に陥って必要以上に警戒するものだよ」

 

「うぐ……そ、そりゃ、確かにアレは怖かったですけど、でもコイツはアイツらとは違う種じゃないですか。というか警戒しなくても良いと言ったのは先輩ですし」

 

「あははは、その通りだね。いや、馬鹿にしてる訳じゃないんだ。素晴らしい好奇心だよ。そうでなきゃうちの科学者はやってられない」

 

 目許を拭いながら先輩は弁明する。悪気があった訳ではないのは理解したが、泣くほど笑う事だろうか……レイナは唇を尖らせた。自分でもさっきまで怯えていたのに随分早い気の変わり方だとは思うので、不平は漏らさないでおいたが。

 

「コイツに関しては、触っても問題ないよ。基本的に人間が触れても反応すらしない。自発的に歩きはするから、踏み潰されないようにはしないとだけど」

 

「歩くんですかコイツ……分かりました、そこは気を付けます」

 

 先輩からのアドバイスをしかと胸に刻み、ゆっくりのレイナは『星屑の怪物』に歩み寄る。

 『星屑の怪物』は、レイナが至近距離まで来ても動きを見せない。大丈夫だと聞かされてはいるが、念のため慎重に、恐る恐るレイナは手を伸ばし……その表面に素手で触れた。

 ……特段、奇妙なところはない。存分に育ったコケを触るような、ふかふかした感触だ。嫌いな感覚ではない、むしろ好きな感覚ではある。が、『怪物』を触っているという実感は得られない。

 あまりにも実感がなかったのでレイナはもっと強く触ってみる……と、触っていた塊がもぞっと動いたので、驚きから飛び跳ねてしまう。

 『星屑の怪物』が動き出したのだ。調子に乗り過ぎたか? 自分の行動が何かを起こしたのではないか、という考えがレイナの脳裏を過ぎる。

 しかしすぐにそれはあり得ないと思った。

 レイナは知っている。怪物という存在は、人間なんかではとても手に負えないような存在である事を。『星屑の怪物』がどれほどの存在かは分からないが、人間如きが触った程度で怒りを覚えるとは考え難い。そもそも人間に気付いているかもあやしいだろう。

 気にしているのは、別の存在だ。

 レイナは『星屑の怪物』からゆっくり、落ち着いて距離を取る。『星屑の怪物』はもぞもぞと全身を波立たせるように揺れながら移動を始め……広間の縁辺りで止まった。

 次いで巨大な身体の至る所にある穴から、濃い緑色をした触手のようなものが伸びる。

 触手は穴と同じく、ざっと太さ五センチはあろうかという大物だった。数も数百本はあるだろうか。その全てが森を形作る木々の一本、高さ五十メートルの巨木へと向かう。枝葉には興味がないのか、触手は直径四メートルはありそうな巨木の幹目指して伸びていき、ぐるぐると巻き付いた。

 そしてあたかも小枝でも折るかのように、軽々と巻き付いた幹をへし折ってしまう。

 自ら折った巨木を触手達は協力して易々と持ち上げ、自分の本体の下まで戻った。本体である『星屑の怪物』は上機嫌なのか、ゆったりとした動きで身体を左右に動かす。

 次いでバックリと裂けるように、『星屑の怪物』の円錐型の身体が左右に分かれた。

 分かれた身体の内側に、触手達は巨木を差し込むように入れる。すると『星屑の怪物』はあたかも ― そして恐らくその認識通り ― 咀嚼するかのように裂けた身体を閉じ、バリバリと巨木を砕き始めた。砕かれた破片は余さず『星屑の怪物』の中へと収まり、巨木はどんどん小さくなる。

 ものの数分もすれば、巨木は完全に『星屑の怪物』の内側に収まってしまった。ゲップなのだろうか、『星屑の怪物』の穴からぶしゅーっと一際強い排気が起こる。

 

「(成程、こりゃ確かに草食だわ)」

 

 目の前で起きた事象を冷静に、そして的確に分析するレイナ。恐らくこの陽当たりの良い広間を作ったのも、目の前の怪物なのだろうとの考えに至る。どれだけの時間を掛けたのかは分からないが、先程のような調子で木々をばりばりと食べ尽くしたのだろう。

 同時に、この植物が何故『怪物』と呼ばれているのか疑問に思った。

 確かに体長二十メートルの巨体というのは珍しい。あっという間に木を食べてしまう様は圧巻だ。けれども此処に来るまでに出会ったハシリネアシランやティタラシル……アレらの方が余程モンスター的な様相を呈していた。何故ならあの生物達は、『理解が及ばない』存在だからだ。

 例え人食いだろうと、一般的なライオンや大蛇を『怪物』と呼ぶ人はまずいない。銃弾が効かないとか、身体から炎を出すだとか、植物なのに獣染みた動きをするだとか……人の常識を逸脱した何かを持って、初めて『怪物』という称号は与えられるものである。

 『星屑の怪物』は確かに途方もない生物だと思うが、どうにも常識外という印象が持てない。例えそれが生態系の頂点であったとしても。

 この怪物にはまだ何か秘密があるのではないか? 怪物、即ち人智を超えた存在だと認められる、何かを秘めているのでは?

 例えばこの森の生態系を支えているという、『養分』の与え方とか――――

 

「さて、目当ての怪物を見付けたから、野営するテントを張らないとね。コイツらの繁殖活動は夜行われるから、それまで休める場所を用意しなきゃ」

 

 考え込むレイナだったが、先輩の声で現実に引き戻された。続いて、自分が此処に来た目的も思い出す。

 自分達は『星屑の怪物』の繁殖状況調査に来たのだ。触って楽しんでさようなら、という訳にはいかないのである。

 

「夜まで待つのですか……見張りとか立てますか? 休んでる間に襲われたら大変ですし」

 

「いや、その必要はないよ。この森の植物達は、基本的に『星屑の怪物』を恐れている。コイツらの近くに居れば安全さ。まぁ、油断は大敵だけどね」

 

 先輩は持ってきた大きな鞄を下ろし、中身を取り出しながらレイナの疑問に答える。やがて彼は鞄の中から、小さく折り畳まれた小道具を取り出した。

 先輩がカチャカチャと弄れば、小道具は独りでに展開。モーター音も何もせず、あたかも自ら意思を持つかのように組み上がり……人一人が眠れそうな大きさのテントへと変形した。先輩は鞄から同じ小道具を取り出し、もう一つのテントもさくっと作る。

 

「凄いだろう? うちの組織が開発した自立構築型テントさ」

 

「こんな簡単にテントが出来るなんて……これも何か、特別な技術が使われているのですか?」

 

「うん。昆虫の怪物から得られた知見を元にしているよ」

 

 先輩の返答に、成程、とレイナは呟く。昆虫の翅の畳み方は極めて効率的なもので、人工衛星の太陽光パネルの畳み方 ― つまり持ち運びやすく、尚且つ簡単に展開出来る作り ― と同様のものがあるほど。昆虫の怪物なら、更に発展した仕組みを持っていてもおかしくない。それを真似した発明品という事だ。

 お陰でレイナ達は、ひーひー言いながらテントの設営に苦労する事はなかった。テントの床は下敷きとなった草や石でごつごつしているが、清潔な『床』があるというのは気分的に良い。

 これならぐっすり眠れそうだ。繁殖活動は夜行われるようなので、昼間である今から仮眠を取れば丁度良いだろう。

 

「念のために言うけど、昼寝なんてしちゃ駄目だからね?」

 

 ……どうやらぐっすり寝てはならないようだが。

 

「え。あの、休む場所って……」

 

「休むとは言ったけど、寝るとは言ってないよ?」

 

「えっ、あ。そうですね、そうなんですね。でも、仮眠ぐらいなら」

 

「駄目。確かに『星屑の怪物』の傍は比較的安全だけど、居眠り出来るような環境じゃないよ。五十人ぐらいのメンバーでしっかり陣地を形成したならまだしも、二人だけじゃ流石に危ない」

 

「……あの、ならなんでテントを……?」

 

「だって立ちっぱなしで怪物を眺めるのも疲れるだろう? 道具の整備もしないといけないし、熱帯気候だから突然の大雨もあり得る。屋根と床は必要じゃないかな」

 

 それは確かにその通り。先輩の説明に、レイナは何も言い返せなかった。

 別段、徹夜自体は苦じゃない。夢中で調べ物や研究をしていたら夜が明けていた、なんて事はレイナにとって一度や二度の経験ではないのだ。

 しかし今日は散々走り回った。精神的にも疲弊している。やる気満々体力全開でデスクに向かうのとは訳が違う。

 

「……起きてられるかなぁ」

 

「それも新人が経験する試練の一つさ。頑張れ」

 

 ぽつりと漏らしたレイナの不安を、先輩はとても慣れた口調で突き放すのだった。

 ……………

 ………

 …

 空の上を、満月が横切ろうとしている。

 月の周りには無数の星が煌めき、空を眩く照らしていた。人工の輝きが何もかも塗り潰してしまう都市部では決して見られない、原初の夜空。それはこの森が、人の支配域から外れている事を物語る。

 森の奥からは、ケダモノの唸り声のようなものが時折聞こえた。発達した声帯を持たない『肉食植物』には出せない声。間違いなく動物のものだ。

 食虫植物に支配されたこの森では、昆虫のような小動物は暮らせない。しかし捕食圧に強くなる『巨大生物』……具体的にはシカほどの大きさの獣ならば棲めると、先輩は教えてくれた。尤も数は極めて少数らしいが。植物達の楽園に、動物が居座るのは中々難しいようだ。

 果たしてその動物達はどんな生態をしているのだろうか。獰猛な植物にも負けない強さがあるのか、特別な方法で身を守っているのか――――と、平時であればレイナはこの森の生態系について考察を巡らせただろう。しかし今日のレイナは考えない。

 というより何も考えていない。

 

「エインズワーズさん。夜だぞー」

 

 そもそも先輩に肩を揺すられ、呼び掛けられるまで、今が夜である事さえも気付いてすらいなかった。

 

「ふにゃうっ!? えぁ、ね、寝てません。寝てません……」

 

「うん、君は頑張った方だよ。半分ぐらいの新人は揺すっても中々起きないから」

 

 はっはっはっ、と快活に笑う先輩に、目を開けたレイナは頬を赤く染め上げる。まだ寝てはいないのだ、ただほんの数時間ほど意識が飛んでいただけで。

 とはいえそんな抗議をしている場合ではない。先輩が声を掛けてきたという事は、いよいよ『その時』が来たという事なのだから。

 

「僕はテントを片付ける。君は荷物を纏めたら外に出て、『星屑の怪物』の動向を注視してくれ」

 

「は、はい。分かりました」

 

 先輩に指示され、レイナはすぐ行動に移す。荷物は意識を喪失する前に纏めておいたので、リュックサックを抱きかかえれば準備万端。言われて間もなくテントから出る。

 テントから出れば、そこには『星屑の怪物』が居た。

 相変わらず堂々とした風格だが、昼間見た時よりも明らかに肥大化している。最初見た時は二十メートルぐらいの大きさだったが、今や明らかに三十メートルを超えていた。ただし成長したというより、風船のように膨らんでいるようだ。

 加えて、やたらと動いている。うろうろ、そわそわ……そんなオノマトペが聞こえてきそうな動きだ。人間以外にも挙動不審というのはあるらしい。

 何か、昼間とは様子が違う。

 『星屑の怪物』に対する知識など殆どないレイナにも、今の『星屑の怪物』がちょっとおかしいのは気付けた。なのでしっかりと、先輩の指示通り『星屑の怪物』を観察する。

 『星屑の怪物』が森の奥を目指して動き出したのは、それからほんの十数秒後の出来事だった。

 

「せ、先輩! 『星屑の怪物』が動き出しました!」

 

「おっと、もう時間か。先に行っててくれ、すぐに追い付く」

 

 テントなどの荷物を片付けていく ― ワンボタンでそれが可能だからお手軽だ ― 先輩に言われ、レイナは早速『星屑の怪物』の後ろを付いていく。

 人間など気にも留めていないであろう『星屑の怪物』は、淡々と森の中を進んでいく。邪魔な草木や倒木は何十本と束ねた触手で薙ぎ払い、道を空けていた。自分の後ろに居る人間達が歩きやすいように、なんて考えはないだろう。恐らく目的地に最短距離で進むためだとレイナは考える。

 『星屑の怪物』の歩みが遅い事もあり、追跡自体は容易だった。本調子でない身体には有り難い。勿論目的地到着まで何日も掛かる、という事だと困ってしまうが……三十分ほどで、その心配は無用だったと知れた。

 『星屑の怪物』が辿り着いたのは、木々が一本も生えていない開けた土地だった。

 『星屑の怪物』により切り開かれたのだろうか? 少し考えて、それは違うという結論にレイナは至る。何故ならざっと半径二百メートルほどの範囲があるこの広間には、切り株などのかつて大木が存在した痕跡が一つも見当たらないからである。

 根っこまで食べ尽くされたとか、切り株が朽ちるほどの時間が経ったとも考えられるが、だとしたら若木の一本二本は生えていそうなもの。けれどもそうした若木すらこの場では見付からない。森の支配者である植物達の代わりにあるのは、ごろごろと転がる無機質な岩ばかり。眩いほどに降り注ぐ満月の明かりがなければ、なんとも殺風景な場所に思えただろう。

 恐らく、元々この場所にはとても大きな岩があったのだろう。しかし長年の風雨で風化し、今や残るのは台座だけといったところか。あと何百年もすれば、森に飲まれて消えてしまうかも知れない。

 『星屑の怪物』は、この滅びゆく岩場で立ち止まった。レイナはこっそりと『星屑の怪物』に歩み寄ってみたが、全身の穴を通る空気のリズムは、昼間と比べて特段早くも遅くもなっていないように思う。疲れて立ち止まった訳ではなさそうだ。

 だとすれば、きっと此処が彼の目的地……繁殖場所なのだろう。

 

「ふぅー、やっと追い付いた……」

 

 考察していたところ、背後から人の声がする。レイナが振り返れば、少し息を切らした様子の先輩が立っていた。

 テントやら何やらを片付け終えて、走って此処まで来たのだろう。

 

「あ、先輩。大丈夫でしたか? 何かに襲われたりとかしてません?」

 

「心配してくれてありがとう。でも、今その心配は必要ないよ。今はね」

 

「……はぁ。そうですか」

 

 『星屑の怪物』の傍に居るから安全という事なのだろうか? 昼間は油断するなと言っていたのに……発言に矛盾を覚えつつも、レイナは先輩を追求する事はしなかった。正確には、する暇などないと言うべきだろうが。

 レイナ達が居るこの岩場に、暗闇に閉ざされた森の中から、新たな『星屑の怪物』がやってきたからである。

 まさかの二体目! と驚くレイナだったが、考えてみれば彼等も野生生物。複数個体生息している事は、ごく自然な話であるといえよう。それに彼等は大人しい怪物だ。怖いものではない。

 しかし流石に、続々と姿を現せば話は別だが。

 先が見えないほど暗い森の中から、三体目の『星屑の怪物』が、そう思ったら今度は背後から四体目、右手側から五体目、六体、七体、八体……

 続々と集結する『星屑の怪物』達。これには流石のレイナも胆が冷えた。襲われるとは思わないが、気付かずに踏み潰されたり、体当たりをお見舞いされるかも知れない。

 いや、そもそも数がおかしい。

 もうこの場には、何十体もの『星屑の怪物』が集結していた。半径二百メートルの広間でも、大きさ三十メートルの怪物が何十体と現れれば過密状態だ。だというのに、森の中からはまだまだたくさんの『星屑の怪物』がやってくる。

 いくらなんでも多過ぎる。

 

「な、な、なんですかこれで!? コイツら何体いるんですか!?」

 

「んー、幼体まで含めた生息数はちょっと数えきれないけど、成体は六百体ぐらいかな。繁殖ポイントは三つあって、此処は一番小さいから精々百体ぐらいしか集まらないよ。お陰で観察がしやすい」

 

「ひゃ……!? え、ろっぴゃく……!?」

 

 幼体抜きで、こんな怪物が六百体もこの森には棲んでいる。

 あまりの事実に愕然とするレイナだったが、彼女の驚く姿を見た先輩は楽しげに笑いながら肩を竦めた。

 

「一応言うと、怪物としてはむしろこの個体数は少ないぐらいだよ? 怪物の平均成体生息数は、ざっと一千~二千と言われている。『星屑の怪物』を遙かに上回る戦闘能力を持ちながら、個体数一万前後の種もいるぐらいさ」

 

「……そういえば、今更ですけど『星屑の怪物』ってどれぐらい強いのですか?」

 

「怪物の中ではかなり弱い方だよ。調査に参加する前に渡された資料に『カテゴリーD』って書かれてなかった?」

 

「書いていましたけど、具体的にどの程度かまでは……」

 

 先輩からの問いに、レイナは申し訳なさそうに答える。

 怪物達は万一人間社会へ侵出しようとした際、それを食い止める『難易度』からA~Eの五つの区分(カテゴリー)に分けられている。Aが最も難しく、Eが一番簡単という意味だ。尤もあくまで侵出阻止の難しさを考慮したものであり、人間を積極的に襲う怪物がカテゴリーEで、殆ど動かない怪物がカテゴリーAというのはよくある事。またカテゴリーBに属す種が一番多い。基本的には単純な戦闘力が考慮されるものの、誘導や接近の困難さも要素として含まれるため、あくまで『難易度』と考えるべきらしい。

 カテゴリーDは低難易度。身体能力も怪物の中ではかなり低いと書かれていた。しかし具体的な数値がない。難易度なのだから仕方ないが、参考までに知りたいのだ。

 

「うーん、具体的にか……十五キロトン程度の戦術核程度なら撃破可能、だったかな?」

 

 よもや、そんな答えが返ってくるとは思わなかったが。

 それってつまり核兵器じゃなきゃ倒せないって事じゃないですか? 十五キロトンって広島型原爆級ですし、現在最大の通常兵器がその広島型原爆の千五百分の一の威力しかないのですけど……言いたい事は山ほどあったが、レイナは口を閉じておいた。喋っても、現実が変わる訳じゃない。何よりどれだけ強いか知りたかっただけで、彼等を倒そうなんてこれっぽっちも思っていないのだから。

 人間達が他愛ない話をしている間にも、『星屑の怪物』達はどんどん集まってくる。最早数えきれないけどほどで、いよいよ百匹近い数になろうとしているのが窺い知れた。そして先輩曰く、この場には百匹ほどの『星屑の怪物』が繁殖のために集まるという話である。

 つまり、いよいよ繁殖が始まるという事。

 

「良し、ちょっと離れよう。近過ぎても観察し辛いし、踏み潰されたら大変だからね」

 

 先輩の言葉からも、繁殖の始まりが近いのだと窺い知れる。レイナはこくりと頷いて同意し、広間の縁へと向かう先輩の後を追った。

 外側から見れば、怪物達は広間の中心に寄り添うように集まっている。互いが触れ合う事など気にしていない、むしろぎゅうぎゅう詰めになるのを望むかのように、『星屑の怪物』達は押し合っていた。

 先輩は荷物の中から計測機器 ― 曰く『星屑の怪物』の繁殖活動の活発さを測るための機器らしい ― を構える。レイナも、ノートを開いてどのような記録の取り方をするのか書き残すための準備をした。

 そして『星屑の怪物』達は、人間達の支度が終えたのを見計らったかのように……動き出す。

 ついに毎年恒例の大繁殖が、始まった。



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生命の星空

 レイナは衝撃を受けた。

 本来なら、先輩がどのような計測を行っているのか、しっかりメモするべきだ。新人であるレイナは、怪物については勿論、組織が開発した機器の操作方法さえも何一つ知らないのだから。

 けれども、そんなものは最早どうでも良くなった。

 目の前に広がる光景に、全ての意識を持ち去られてしまったのだから。

 

「――――ふわぁぁぁ……!」

 

 思わず、レイナの口から感動の声が漏れ出る。じっと正面を見つめる目には、星の煌めきが映り込む。

 いや、それは本物の星ではない。

 レイナの瞳に映り込んだのは、『星屑の怪物』が放出する輝きだったのだから。

 広間に集結した『星屑の怪物』達は、一斉にその身から大量の光を吐き出した。噴水のように出てきた光は小さな粒のようなもので、淡い黄緑色の煌めきを放ちながらふわふわと漂う。中々地上に降りてくる事はなく、何時までも浮いたまま。『星屑の怪物』達は光の放出を止めないので、空気中を満たす光の密度はどんどん増していく。月明かりさえも塗り潰し、周囲は昼間のように眩く染まる。

 ついに光は『星屑の怪物』達の周りでは留まりきれず、どっと、レイナ達の方にも流れ込んできた。もう、目の前だけではない。右も左も、上も下も、全てが光に満たされる。まるで天の川の中に跳び込んだかのような、そんな感覚を覚えた。

 光の濁流は見惚れていたレイナ達を飲み込み、ぱちぱちとした軽い刺激を顔や手などの肌に与える。何か、小さなものが当たっている? 光に『質量』があると気付いたレイナは、思いきってやってきた光の一つを捕まえてみる事にした。そっと両手で包み込むようにしてみれば、光は逃げもせず、あっさりと捕獲成功。柔らかな感触の何かが、掌の中でうねうねと動いた。

 開いた両手の中には、黄緑色の光がある。光をじっと凝視してみれば……その光の中に、三センチほどの大きさの『何か』のシルエットが見えた。

 中心部にある胴体らしきものは、ラグビーボールのような形をしていた。その周りには四本の触手が手足のように生えていて、活発に動いている。虫のようにも思えるが、光の所為で輪郭がよく見えない。

 もっとまじまじと、顔を近付けてみる。

 するとその『何か』が虫とは程遠い、アーモンドのような物体だと分かった。そして胴体の一ヶ所には口らしき開閉部分がある。何かを食べる能力はあるようだが、あまりにも小さくて弱々しい。少なくとも人間に危害を加えられるような、獰猛な捕食者の姿ではない。そして全身が産毛のようなもので覆われている。

 レイナは察した。『星屑の怪物』達が吐き出しているのはただの光ではなく……光り輝く小さな生き物達なのだと。そして恐らくこの生き物は、幼体。

 今正に、『星屑の怪物』達は子孫を産み出しているのだ。

 

「おーい、ちょっとは調査を手伝って……って、聞こえてないか。ま、予想通りだから良いけどね」

 

 先輩がレイナに呼び掛けてきたが、彼が一人で納得したように、レイナの耳に先輩の言葉は全く届いていなかった。正確には届いていたが、脳がその情報を素通りさせ、廃棄している。

 今はただ、全ての脳のリソースを『星屑の怪物』を理解するために使いたかった。

 だから怪物に関係するものであれば、レイナは自分から話を振るし、返ってきた言葉に耳を貸す。

 

「……凄い数の、子供ですね」

 

「うん、そうだね。彼等は典型的な多産多死型の繁殖戦略を取っている。大量の子供……正確には半発芽状態の種子だけど、これを一斉に放出するんだ。幼体は力がないから簡単に食べられてしまうけど、数が多いからどれかは生き残る」

 

「集まって一斉に繁殖するのは、生存率を少しでも上げるため、ですか?」

 

「そう考えられている。ちなみに幼体が発光するのは、個々の輪郭を曖昧にして天敵から逃れるためというのが定説かな。この発光は周囲から仲間がいなくなると消えて、二度と起こさないからね」

 

 レイナの推測に先輩は返事をしつつ、発光についての説明もする。

 普段単独生活をしている種が、繁殖期になると集まって一斉に子を産むというのは珍しい生態ではない。どんなに恐ろしい捕食者といえども、無限に食べ続けられる訳ではないのだ。食べきれない数の子を産めば、どれかは確実に生き残る。

 輪郭を誤魔化すための発光というのも、理に適っている。実際レイナは光の濁流に目を眩まされ、この手で捕まえるまで幼体の実体が全く見えなかった。天敵達も、襲ってみたものの実体が見えなかった所為で空振り、という事は少なくないであろう。逆に一匹だけで光っても目立つだけなので、普段は光らない方が適応的だろう。

 二つの生存戦略を組み合わせ、少しでも犠牲になる子供の数を減らそうとしている……『星屑の怪物』も、捕食者だらけの森で次世代を残すのに必死なのだ。

 

「この幼体達は、森の中の生き物達にとっては大切な栄養源だ。何しろ数が多いし、栄養価も非常に優れているからね。森の生物の年間摂取カロリーの一割を占める、なんて説もあるぐらいさ」

 

「一割……そんなにたくさん……」

 

「そう、たくさんだ。そして大量の子を産むには、多くの栄養が必要になる。そのため成体となった彼等はこの森の植物、特に巨大な食植植物や成熟した樹木を大量に食べるんだ」

 

「……そして産まれた幼体は捕食者を通じて森に広がり、やがて捕食者の死骸や排泄物が樹木の栄養となる。つまり彼等の幼体を介して、森の栄養が循環しているのですか?」

 

「その通り。加えて彼等が十分に成長した樹木を食べる事で、森に大きな更新作用が働くんだけど……」

 

 これがどういう意味か分かるかい?

 先輩からの問い掛けに、レイナは何も答えない。けれどもそれは無視した訳でもなければ、分からなかった訳でもない。分かったがために感嘆し、心を奪われたのだ。

 成熟しきった森は単調だ。大木が立ち並ぶ風景は一見して豊かな自然を思わせるが、実態は成木が光を遮り、若木の成長どころか生存すらも脅かす環境である。若木は成木が倒れ、強い光が差し込む環境下でしか育たない。資源量が少ないので若木を餌として好む生物は棲めず、環境も単一なため多様性が乏しい。そして多様性がないと環境が変化した時に対応出来る生物がおらず、生態系が崩れてしまう……大木が並ぶ森林というのは、とても脆弱で不安定な環境なのである。

 しかし『星屑の怪物』が入れば、この問題は解決する。

 『星屑の怪物』は成木を食べ、森を切り開いていた。開けた場所には陽の光が入るので若木がたくさん生えるし、森の中と比べて乾燥した土地でもあるだろう。直射日光が降り注ぐので昼は気温が高く、夜は放射冷却により冷える筈。つまり成熟した森と比べ、多種多様な環境が存在する事になるのだ。

 そして多様化した環境には、多様な生物が棲み着き、それぞれが関係し合って複雑な生態系を作るだろう。複雑な生態系は安定的だ。人をも喰らう触手球根は大発生前になんらかの捕食者が食べ、恐ろしい植物巨人は豊富な餌により飢える事を知らない。気候変動などで森の生態系が多少崩れても、なんらかの種がその穴を補ってくれる。

 『星屑の怪物』によりこの森は保たれ、守られ、維持されている。それは最早怪物ではなく……守り神と呼ぶべきだろう。

 レイナはじっと、光と、光を吐き出す『星屑の怪物』達を見続けた。森の全てを照らすかのような光は、時間と共に落ち着きを取り戻し、段々と色合いを薄れさせ……何時の間にか消えていた。

 レイナは、その場にへたり込むように座ってしまう。立とうとしても、上手く立ち上がれない。美しさに見惚れて腰が抜けてしまうなど、生まれて初めての経験だった。

 そんなレイナの傍にやってきた先輩も、レイナの隣に座った。レイナは先輩の方をちらりと見て、彼の笑顔を見る。

 

「凄かったろう?」

 

「はい……」

 

「新人にはね、初任務でこれを見せるのがうちの組織の伝統なんだ。この星に生きる生き物がどんな存在なのかを教えるために」

 

「……この星の、生き物……」

 

 先輩の言葉を噛み締め、飲み込む。

 そう、『星屑の怪物』は特別な存在じゃない。

 この星にはまだまだ色んな怪物が潜んでいる。人の知らない世界で、ただただ己の命と役目を果たし続けている。

 彼等は途方もなく強大で恐ろしい存在だ。脆弱な部類だという『星屑の怪物』すら、核の力に頼らねば倒せないぐらい。彼等を知り、理解する事で人が生き延びる術を探ろうという『ミネルヴァのフクロウ』の理念は正しいだろう。

 だけど、レイナにはそんな理念などどうでも良い。

 知りたい。彼等がどんな存在であるのかを。

 理解したい。地球という星がどれほど生命の魅力に溢れているのかを。

 そして自分は、そんな神秘と不思議に出会える立場にある。

 なんて、素晴らしいのだろう!

 

「その様子なら、訊くまでもないみたいだ」

 

 ときめきで胸を躍らせていると、先輩がくすりと笑いながら独りごちた。レイナは先輩の顔を見ながら、首を傾げる。

 

「訊く? 何か、訊きたい事があったのですか?」

 

「簡単な話だよ。君は此処に来るまでの間に、生命の危機を経験した。怪物の調査は何時だって危険と隣り合わせ。何時、その命を失うか分からない。死に方だって、ベッドの上で眠るように安らかなものとは程遠い。頭から生きたまま喰われる、丸呑みされてじわじわ消化される、寄生されて何日も生かされたまま(はらわた)を食い散らかされる……どれも、実際にうちの組織で起きた死亡事故だ」

 

「それはまぁ、恐ろしい事で」

 

「ああ、とても恐ろしい。だけど」

 

「死への恐怖を塗り潰すほど、魅力的な生命がいる」

 

 レイナが先輩の言葉の続きを語れば、彼は「合格だ」と言いながらレイナの手を掴む。先輩は立ち上がり、引っ張られる形でレイナも立ち上がった。抜けていた腰は治ったようで、ちょっとよろけつつも、レイナは自分の足で大地を踏み締める。

 

「おめでとう、これで君は本当に『ミネルヴァのフクロウ』の一員だ。これからどんどん過酷な任務が言い渡されるから、覚悟するように」

 

「そりゃ怖いですね……でも、どれもそれ以上に楽しそうです」

 

「ああ、それは約束するよ。そうだね、出来る事なら……」

 

 話していると、不意に先輩は言葉を途切れさせる。何かを溜め込むような沈黙に、レイナは先輩の言葉への集中が無意識に高まる。

 

「来年も、君と一緒にこの景色を見たいね。出来れば仕事とは無関係に」

 

 故にこの言葉をレイナはしかと聞き届けた。

 

「あー、そうですね。死亡率高そうだから、来年まで頑張って生き延びないと。先輩も死なないでくださいよ」

 

 聞き届けたが、レイナはさらっと流した。

 わざとではない。レイナは確かに自分が平均よりモテる事を知っているが、自分が思っている以上にモテる事は知らないのだ。

 要するに、色恋沙汰には鈍感なのである。

 

「え、あ、うん。そだね。はい」

 

 あまりにも素っ気なく返され、先輩はやや戸惑い気味。レイナには何故彼が戸惑っているのか分からないが……咳払いをした後の先輩からは戸惑いが消えていたので、大した事ではないのだろうと思った。

 

「ま、まぁ、いいや。うん。ようこそ、我が組織へ。そして……」

 

 気を取り直した先輩は、大きく両腕を広げる。

 あたかもこの世界を誇るように。

 或いはこの星を讃えるように。

 もしくは此処に立つ事を喜ぶように。

 

「ようこそ、怪物達の地球へ」

 

 そして、真実を突き付けるかのように。

 それは聞く人によっては、恐ろしい言葉かも知れない。この星は、世界には、人間の思い通りになるものなんて何もないのだと言ってるかのようだから。人が知る世界が如何にちっぽけで、霞のように消えてしまう儚いものだと告げるかのようだから。

 けれども、レイナは恐れない。

 この星にはまだまだ知らない、考えも付かない生命がたくさんいると教えられたのに、怖がっているなんて勿体ない!

 自分はあの時の気持ちをまた感じたくて、此処に来たのだから!

 

「ふふ……ワクワクしてきた!」

 

 思い出した己の気持ちを言葉にし、レイナは『星屑の怪物』達を見つめる。

 生命が如何に面白いか、改めて教えてくれた彼等に感謝しながら――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「良し、観察も終えたしさっさと帰ろう」

 

 尤も、感傷に浸る暇を先輩は与えてくれなかったが。

 

「えぇー……もうちょっと余韻に浸らせてくださいよ。女の子の気持ちが分からないとモテませんよ?」

 

「君がそれを言うのか……それは置いといて。確かに余韻に浸りたい気持ちは分かるけど、そうもいかないんだよ。急いで此処を出ないと」

 

「……?」

 

 何やら焦っている様子の先輩に、レイナは首を傾げる。どうしてそんなに早く立ち去りたいのだろうか、飛行機の時間がヤバかったりしたっけ……?

 考え込んでいると、答えを教えてくれた。

 ――――ざわめきだした、森が。

 

「……『星屑の怪物』の幼体が、この森の生物の命を支えているという話はしたよね?」

 

「……しましたね」

 

「『星屑の怪物』の繁殖は年に一度、この時期の満月の日に行われる。つまり幼体は一年間森を支える栄養として利用されるほど、大量に放出される訳だけど……基本的には繁殖直後の時期が一番たくさん食べられる」

 

「まぁ、そりゃそうですよね。今なら躍り食い状態ですし」

 

「だからこの時期、森の植物達は凄く興奮する。それこそ一年間食いっぱぐれても大丈夫なぐらいの食欲を滾らせて」

 

「はぁ、成程。合理的な生態ですね」

 

 先輩の解説に相槌を打ち、納得するレイナ。納得するほどに、どんどん顔を青くしていく。

 回りを見れば、世界はとても賑やかになっていた。

 茂る木々の葉からハシリネアシランが顔を出す。

 巨木の間からティタラシルがこちらを覗き見る。

 茂みには猫のようにしなやかな体躯の蔦の塊が潜み、地中からはミミズのようにうねる根が這い出した。木を倒して現れたのは、樹木で編まれた象のような存在。空には月明かりを浴びて光り輝く、葉で出来た鳥が飛んでいる。

 いっぱい、いっぱい出てきた。だけど森のざわめきはこんなものではない。もっとたくさん、もっと不思議な何かが、もっともっとたくさん潜んでいる

 みんな興奮していた。年に一度の晩餐会を楽しみにして。

 その晩餐会の席に現れた人間を、彼等は客人と認めるだろうか? レイナは、そうは思わない。というかデザートの一つぐらいにしか認識してくれないだろう。

 

「あ、えと、い、今のうちにこっそりと逃げ」

 

「残念、もう遅い」

 

 レイナの希望は、先輩の言葉により打ち砕かれて。

 余韻に浸る間もなく、レイナは『怪物達の地球』という言葉の重みを思い知る事になるのだった。



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Species3
真の三角海域


「レイナ、あなた海洋生物に興味はあるかしら?」

 

 『ミネルヴァのフクロウ』本部のとある研究室にて、レイナはそのような話を振られた。

 レイナに話し掛けてきたのは、二十代の女性研究者。金色の髪を携え、すらりと伸びた四肢と身体はモデルとしても通用しそうなほど美しい。目立ちがハッキリとした顔付きをしており、浮かべている笑みは少年のように眩かった。

 シャロン・マグダヴェル。

 『ミネルヴァのフクロウ』で主に海洋生物の研究を担当している科学者だ。これまで特に交流はなく初対面なのだが、『星屑の怪物』調査に同行してくれた先輩から、彼女についての話をレイナは聞いた事がある。見た目通り歳はレイナに近いものの、レイナよりも三年長く勤めているとも。

 自己紹介もなくいきなり問われて少なからず困惑するレイナだったが、職場の先輩からの問い掛けだ。無視は出来ない。

 

「えっと、興味自体はありますけど」

 

「なら決まりね。明日とある怪物の調査があるんだけど、欠員が出たから補充が必要なの。あなた、手伝いに来てくれない?」

 

 生物全般が好きなので質問にそう答えると、シャロンはどんどん話を進めてしまう。あまりにも素早く進めてしまうので、ますますレイナは戸惑った。

 勿論、怪物の調査が嫌だという訳ではない。むしろ何もなければ、二つ返事でその調査に同行しただろう。『星屑の怪物』との出会いもあって、レイナの怪物への好奇心は日に日に大きくなっているのだ。今度はどんな怪物と会えるのか、ワクワクして堪らない。

 が、その『星屑の怪物』との出会いが、シャロンの誘いを阻む。

 現在レイナは、デスクトップパソコンを用いて仕事中だ。先日……というか()()撮影した『星屑の怪物』の映像を解析し、彼等の繁殖行動が例年と比べどうであるのかを調べている。やっている事は映像から必要なデータを選択し、不要なノイズを省いていくだけ。地味なデスクワークであり、レイナ好みの仕事ではないが、集めたデータは解析しなければ数字の羅列に過ぎない。研究というのはこうした地道な事務作業を経て、始めて意味を持つ。

 そしてレイナは『ミネルヴァのフクロウ』の職員としては新人の身である。怪物研究の手法を学ぶ機会であり、これをこなさねば怪物の研究者として一人前にはなれない。そもそもいくら研究者とはいえ、レイナの組織内での立ち位置は下っ端A(新入社員)である。面倒だからと他人に仕事を任せるような身分ではない。

 この仕事が終わるまで、他の事をする余裕なんてない。好奇心の強いレイナではあるが、無責任な人間でもないのだ。惜しい事だがまたチャンスがあると信じ、この誘いは断るしかない。

 

「えっと、すみません。私、今別の研究の解析をしていまして」

 

「知ってる。『星屑の怪物』でしょ? この時期の恒例行事よね。それはあと五時間で終わらせて」

 

「は?」

 

 ところがどっこい要望は却下され、容赦なく命令が告げられる。あまりの事に思わず無礼な声が漏れ出たが、謝ろうという考えすら浮かばない。むしろ、何言ってんのこの人? とまで思い始める。

 慣れない仕事で要領が悪い、というのはあるだろう。故にこの仕事を与えてきた先輩は「とりあえず明後日の朝一までに纏めて」と今日の朝言ってきた。解析を進める中で、確かに明後日の朝一までには纏められそうだと思えるぐらいの仕事量だった。

 それをシャロンはあと五時間でやれと言ってきたのだ。ちなみに今の時刻は十三時。実質、二日掛かる仕事を一日で終わらせろと言う無茶ぶりだった。

 

「いやいやいや!? 無理ですって! どう頑張っても明日いっぱい掛かりますから! 先輩からもそこまでにやれって言われてますし!」

 

「先輩? ああ、眼鏡君ね。彼がそう言うって事は、確かにそのぐらい掛かるのかも」

 

 レイナが状況を説明すると、シャロンは一応納得した様子。まさか状況を知らずに言ってきたの? ツッコミを入れたくなる衝動を、レイナはぐっと堪える。

 

「じゃ、仕事の続きは飛行機と船の上でやりましょ」

 

 堪えたのに、新たなツッコミどころが増えたので、ぶふっと口から変なものが吹き出した。

 

「げほっ! げほっ、ごほ……な、え? ひ、飛行機と船……え?」

 

「大丈夫大丈夫。並行して幾つも調査を受け持つなんて、ここの職場じゃ日常茶飯事よ。何しろ万年人手不足な上に、ベテラン職員ほど危険な任務に行かされてバタバタ死ぬからノウハウなんてみんな吹っ飛んじゃうんだもの」

 

「なんかさらっと恐ろしい事言ってませんかそれぇ!?」

 

「命すら惜しくないほど魅力的な仕事って事よ。ちなみに所長から指示書は出してもらったから、ご了承くださいな」

 

 そういってシャロンは懐から、くしゃっと丸まった紙を出してくる。なんでポケットに丸めて入れたの? 所長室からこの部屋まで移動に三分も掛からないじゃん……喉まで昇ってきた言葉を飲み込み、紙を広げた。

 ……皺だらけで大変読み難かったが、所長の押印と『明日から調査に行け』的な意味合いの文章が書かれていた。言うまでもなくレイナ宛に。

 てっぺんからの命令となれば、行かない訳にもいくまい。レイナは大きなため息を吐く。不幸中の幸いなのは、今回のような『滅茶苦茶』はこの組織では有り触れているようなので、先輩への報告が揉める事なく済ませられそうなところだろうか。

 それに、『怪物』そのものへの興味はやはりある訳で。

 

「……分かりました。上からの指示が出てるなら、従います」

 

 気持ちを切り替えたレイナは、興奮を抑えきれない笑みを浮かべていた。

 

「ありがとう! 助かるわー。これで断られたらどうしようかと思ってたのよー」

 

「指示書までもらっといて何言ってるんですか。ところでどんな怪物を調べるのです?」

 

「うん。うちの組織で三十五年前に確認した怪物よ。生息地域はフロリダ半島のちょっと先ぐらい」

 

「フロリダ半島のちょっと先……」

 

 レベッカは頭の中で地図を開き、自分が向かう場所をイメージする。

 その中でふと気付いた。

 フロリダ半島のちょっと先……そこには超常現象でお馴染みの『バミューダトライアングル』があるではないか、と。

 バミューダトライアングルでは船の難破や、航空機の遭難が相次いでいる――――オカルト好きなら一度は聞いた事があるだろう。実際のところ難破云々は誇張や曲解、完全な虚偽に基づくものであり、全くのインチキなのだが。しかしそうした曰くのある場所に棲み着く怪物というのは、ちょっとしたロマンがある。胸の中のワクワクが、一層強まるのをレイナは感じた。

 

「実は最近怪物の活動が活発化していて、船舶の沈没が相次いでるのよねぇ。まぁ、毎年恒例なんだけど」

 

 尤も、事故が現実となれば、わくわくは一気に萎んでしまうのだが。

 

「……はい?」

 

「あら、知らない? フロリダ半島の先ってバミューダトライアングルって言われてて、昔から船舶が忽然と姿を消すって語られているのよ」

 

「え、いえ、それは知って……でも、それはオカルト話……」

 

「本当です、なんて言える訳ないでしょ。人の手に負えない怪物が潜んでる事が世間にバレちゃうから」

 

 困惑するレイナに、シャロンはあっけらかんとした様子で答える。

 つまり、バミューダトライアングルが嘘だというのが嘘。あの海域では、本当に船舶の事故が相次いでいるらしい。

 そして自分達は、その海域に『船』で調査に向かおうとしている訳で。

 

「……危険、ですよね?」

 

「危険ね。ちなみに私の前任者と前々任者は、そいつに船を沈められて海の藻屑となりました。いずれも今回のように活動が活性化している時期の調査での事。私はなんとか今まで生きてきたけど、今度こそ年貢の納め時かもね」

 

「……あの、欠員が出たって言いましたけど、その理由って……」

 

「怖くて逃げたのよ。何しろ今の時期に調査に行くと九割方死ぬから。だからこの生物の研究については、指示書を貰っても懲罰なしで断れるのよー」

 

 ほら、紙の端っこに書いてるでしょー。

 そんな事を言いながらくしゃくしゃの紙の端を指差し、けらけら笑うシャロン。笑ってはいるのだが、その目は大変真面目なもの。むしろ「逃げたいならどうぞ」と言わんばかり。

 どうやらこれまでの話、全て本当(マジ)らしい。疑っていた訳ではないが、命じられた次の任務が『星屑の怪物』とは比較にならないほど危険だと理解する。

 真面目な顔をしているシャロンは、しかしそこに恐怖は見られない。死ぬつもりがないという訳でも、死ぬ事を受け入れている訳でもなく、生死などどうでも良いと感じている顔だ。自らの命に頓着しないというのは、自殺衝動などとは違い、狂人の精神状態だろう。

 つまり、それだけ此度の怪物が魅力的という事であり。

 断ろうという気持ちがまるで湧いてこないあたり、自分も似たようなものだなとレイナは思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Species3 魔境の怪物

 

 

 



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蹂躙

 バミューダ海域。

 オカルト事象を抜きにして考えた場合、此処の特徴はとても温かな地域である事だろう。例えばマイアミ沖では最も冷たい時期でも水温が二十数度ある。沖縄本島の海よりちょっと暖かめな場所、と言えば日本人には分かり易いかも知れない。

 温かな海は生物にとって暮らしやすいのだろう。降り注ぐ昼の太陽光によりキラキラと光る海面には、魚の群れが幾つも見えた。その魚を狙って海へと飛び込む鳥の姿もある。もしかするとクジラやイルカ、或いは大型魚も見られるかも知れない。

 実に面白みのある海だ。ワクワクする。

 ワクワクするのに。

 

「ううう……まさか船の上でも、植物と睨めっこなんて……」

 

 レイナは海面ではなく、船内の一室でノートパソコンと向き合っていた。パソコンに映るのは植物……『星屑の怪物』の繁殖時の動画。

 要するに、出立前にしていた仕事の残りである。先輩には事情を話したが、「ネットって便利だよねー。何処からでもデータ送れるもん」の一言で引き継ぎは却下。下っ端研究員であるレイナは、船上でも事務仕事を強いられていた。

 

「ほらー、早くしないと件の海域に到着するわよー」

 

 必死に仕事を片付けるレイナに、船室内に居るシャロンが暢気に励ます。自分なりに頑張っている中でこの励ましは、レイナでもちょっとカチンときた。

 ……普段ならこの程度流せるのに。根を詰め過ぎて、精神的余裕がなくなっているのかも知れない。深く息を吐き、レイナは眉間を指で揉む。身体の緊張が解れるのと共に、心の方も少し柔らかくなった気がした。

 

「データ解析は、あと二時間ぐらいで終わると思います。現場到着は何時頃ですか?」

 

「四時間後の予定よ。仕事を始める前に紅茶はご馳走出来そうね」

 

「楽しみにしておきます」

 

 二時間後にはやってくるであろう紅茶の味を想像し、レイナはにこりと微笑む。

 

「……それにしても、物々しいですね。今回の調査は」

 

 そんな会話をしている最中に船室の窓からふと見えた光景に対し、レイナは疑問を漏らした。

 室内の窓から見えるのは大海原……そしてそこを走る、複数の艦船。

 窓からだけだと全ては見えないが、任務の基礎情報としてレイナは知っている。自分が乗る船以外に、今回は十五隻という大船団が参加していると。

 その内の十三隻は、多数の武器を搭載していた。

 レイナ達が乗る船にも武装はある。が、精々小型船を相手する程度の……機関銃とか、対人ロケットランチャーぐらいの……代物だ。対して十三隻の船が搭載している武装は、大口径艦砲、対艦ミサイル、対空ミサイル、機銃等々……軍艦と呼ぶに相応しい重武装をしている。加えて全長百五十メートルという巨体は、五十二ノットという現代兵器が目を回す速さで海を駆けていた。

 これらの艦船は、なんでも()()()世界最高峰と呼ばれている軍艦を大きく上回る戦闘能力があるらしい。「今回ぐらいの規模があれば米海軍ともやり合えるわ」とはシャロンの弁……割とトンデモ兵器のようである。

 そんなものが十三隻も一緒なのだから、これから起きる事の物騒さを想像するなと言われても無理というものだ。

 

「相手が相手だもの、これぐらいは用意しないとね。とはいえうちの組織にこんな巨大兵器はないから、外部組織の力を借りてるんだけど」

 

「あ、資料見ました。人類社会の平穏のため、日夜命を賭して生物的脅威と戦ってる方々なんですよね。確か『人類摂理』とかいう名前でしたっけ? 正義の味方って感じで心強いです」

 

「……そうね。悪気はないし、そのやり方しかない時もあるから、正義は正義なのよ。ほんと、もう少し頭が柔らかければ……」

 

「? シャロンさん?」

 

「なんでもないわ。ほら、無駄話してると仕事が終わらないわよ」

 

 何かを言おうとしていたようなシャロンだったが、レイナが思わず問うと、独り言を止めてにっこりと微笑む。明らかに誤魔化されたのだが、何を誤魔化されたか分からなければ、問い詰める事も儘ならない。

 それにお喋りをしていても仕事が進まないのは、確かにその通りである。残り僅かな仕事をささっと終わらせるべく、レイナは再びパソコンと向き合った

 刹那、艦内にけたたましい警報が鳴り響いた。

 とても大きな警報で、レイナは思わず両手で耳を塞いでしまう。しかしそれでも音は聞こえ、頭をぐわんぐわんと揺さぶってくる。

 お陰でその音が()()()()()()を知らせる警報であると、嫌でも理解出来た。

 警報が鳴り響く中、シャロンがレイナの肩を叩く。警報音はあまりに大きい。声を出したところで、何を言ってるのか全く聞き取れない。

 しかしシャロンが指した指と口の動きから、レイナはこう解釈した。

 「今すぐ甲板に向かうわよ」、と。

 つまり巨大生物とやらを目視で確認しようという指示。

 

「はいっ!」

 

 レイナがこの指示に、躊躇いを覚える筈がなかった。

 シャロンは駆け出し、部屋の外へと出る。レイナもノートパソコンをバタンッ! と閉じ、シャロンの後を追った。警報音は消え、こちらを振り向いたシャロンの声がよく聞こえるようになる。

 

「ちょ、なんであなた一緒に来てるのよ!?」

 

 ……聞こえるようになってすぐの一声がこれだった。

 

「え? 一緒に甲板まで来いって言ってませんでした?」

 

「違うわよ!? 私は甲板に行くけどあなたは留守番って言ったの! なんで都合良く解釈してる訳!? 今からでも戻りなさい!」

 

「お断りします!」

 

 どうやら自分が勘違いしていたのだと分かったが、ここで大人しく退くつもりなどレイナにはない。

 警報を鳴らさねばならないような生物が接近していると聞かされて、どうして部屋で大人しく出来よう。そいつはきっと、ワクワクする存在に違いない。

 それにこの任務は致死率が高いと聞く。なら、何も見ずに死ぬなんて……勿体ないではないか!

 

「~~~っ……ああもう! 来るからにはちゃんと手伝いなさいよ!」

 

 レイナの気迫に負けたのか、この気迫を放つ輩を部屋に閉じ込める時間が惜しいと思ったのか。シャロンは忌々しげに了承し、レイナは喜びのあまり走りながら跳ねた。

 『許可』をもらえたレイナはシャロンの後を追って船内の廊下を駆け、シャロンが開けた扉を走って通り抜ける。出た場所は甲板。今日はよく晴れた日であり、空から燦々と陽が降り注ぐ。

 そして大海原では、()()()()()()()()()()()

 比喩ではない。本当にヒトデが空を飛んでいたのだ。それも巨大な、体長二百メートルはあろうかという大ヒトデが!

 

「……え、えぇうええええええっ!? ななな、なん、なん……!?」

 

「狼狽えてるぐらいなら船内に戻りなさい! 記録するわよ!」

 

 驚きのあまりまともな声が出せなくなるレイナを、シャロンが叱咤する。お陰で我を取り戻したレイナは、次いで自分が目の当たりにしたものの正体を理解した。

 コイツが、今回の『ターゲット』。

 バミューダトライアングルに生息し、これまで数多の船を沈めてきた……正真正銘の怪物。

 『魔境の怪物』であると!

 全てを理解したレイナが最初にしたのは、現れた『魔境の怪物』を観察する事だった。『魔境の怪物』は第一印象の通り、どう見ても姿はヒトデそのもの。藍色の体表はつるつるとしており、突起物らしきものは確認出来ない。極めて平坦で、二百メートルはあろうかという体躯の割に貧弱な身体付きをしていた。

 そしてその身を高速で回転させている。

 スピードは回っていると目視で確認出来る程度、具体的には一秒で三~四回転ぐらいだが、だからといって遅いなんて事はない。『魔境の怪物』の体長を二百メートルと仮定すれば、回転時に身体の末端が描く円周はざっと六百二十八メートル。この距離を一秒でざっくり三回転するには、秒速千八百八十メートル……音速の五倍以上の速さが必要だ。

 とんでもない勢いで回転している『魔境の怪物』は、まるで鳥か戦闘機のような速さで海上を駆ける。人間でも目で追うのがやっとだ。いや、近ければそれすら叶わない。

 つまり『魔境の怪物』が急接近しようとも、人間が操っている船に何かが出来る筈もなく。

 『魔境の怪物』は、『ミネルヴァのフクロウ』が保有する調査船の一つと衝突――――まるで熟練の侍が刀で巻藁を斬るように、あっさりと船を真横に切断してしまった。古代の帆船ならば兎も角、二十一世紀の最新鋭艦には無数の配線が走っている筈。それを問答無用でぶった切れば、船体中で火花が飛び散る事になるだろう。そして船の中にはたくさんの燃料が積まれている。

 切断された船は、次の瞬間には爆発四散した。文字通り跡形もなく吹き飛び、残ったのは岩礁染みた金属の残骸だけ。乗組員も、きっと全員原形を留めていないだろう。

 レイナが唖然としながら船だったものを眺めていると、ドンドンッ! と鼓膜を揺さぶる激しい音が聞こえた。『魔境の怪物』がまた何かしているのか、とも思ったが、それは誤解だった。

 音を出したのは人類側だ。同行していた外部組織(人類摂理)の戦闘艦十三隻が、一斉に攻撃を始めたのである。シャロン曰く米海軍に匹敵する戦闘力を誇る船団の攻撃だ。対人類ならば、これほど心強いものもあるまい。

 しかし此度の相手は怪物。

 大きな対艦ミサイルは一度に何十発と撃たれたが、どれも『魔境の怪物』の移動速度に追い付けていない。戦闘機染みた機動力の物体を追うのは、対艦ミサイルの想定する状況ではなかった。されど『魔境の怪物』はミサイルを避けている訳でもない。運良く対艦ミサイルが当たる事もあった……が、『魔境の怪物』は怯むどころかよろめきすらしなかった。

 頑丈な戦闘艦を沈める攻撃さえも通じていないのだ。動きの速さに対応するためか、やがて戦闘艦達は大量の小型ミサイル ― 恐らく対空ミサイルだろう ― を撃ち出して怪物を攻撃するも、対艦ミサイルですらビクともしなかった皮膚にこんな豆鉄砲が効く筈もない。

 『魔境の怪物』は止まるどころか怯みもせず、次々と船に突撃し、切り裂き、沈めていく。

 レイナは直感的に理解した。あの怪物を人間の武力で止める事は叶わないと。世界中の艦船を掻き集め、全力で叩き潰そうとしても……怪物は優雅に空を飛ぶだけで、人類の本気をあっさり海の藻屑に換えてしまう。

 これが怪物の実力。

 これが――――この世界に潜む生命の、本当の力なのだ。

 

「ぐっ……まさかこんな場所まで進出してるなんて……今年の活性は想像以上ね!」

 

 シャロンも別の部分に驚きを感じているようで、それを言葉として漏らしている。

 そしてシャロンは笑っていた。船が何隻沈もうと、何百何千の人が死のうと……自分の船が何時狙われてもおかしくないとしても。

 正しく狂気。研究のためならば、自分含めた全ての人命に全く頓着しない。人としてあるまじきその感性を、おかしいと窘めるべきか?

 否である。

 レイナもまた、ワクワクしていたのだから。人類が足下にも及ばない、超越的生命体の存在に。

 勿論死にたくはない。まだまだレイナは不思議な怪物を見たいのだから。見ず知らずとはいえ、人が殺されていくのも勘弁願いたい。彼等の命だって尊いものなのだから。

 けれども命を惜しみ、今目の前に居る不思議な怪物を見逃すのは、もっと嫌だ!

 レイナはポケットから小型の端末を取り出す。『ミネルヴァのフクロウ』が開発した撮影機器で、非常に高性能かつ片手で持てるほどコンパクト。高速で飛行する『魔境の怪物』の姿がピンボケにならず、ハッキリと記録出来た。

 もっと見たい。

 もっと知りたい。

 好奇心に突き動かされるがまま、レイナは船をも切り裂く怪物の撮影を続け――――

 

【本船はこれより緊急退避を始める。乗組員はただちに柱などに掴まれ。以上】

 

 冷徹な男の声が、ワクワクする時間の終わりを伝えた。

 船内放送だ。恐らくは船長が退却を決めたのだろう。

 

「え、あっ、ちょ……ぎゃぶっ!?」

 

 操舵室に居るであろう船長に向けて、甲板に居るレイナが届かぬ抗議を伝えようとする。が、船は容赦なく旋回を開始。掴まるものがなかったレイナはすってんころりと転がってしまう。

 船はレイナが転んだ事などお構いなしに疾走。『魔境の怪物』から全速力で逃げていく。人類摂理側の戦闘艦は何隻か残って交戦を続行するが、怪物はその船全てを沈めて……逃げたレイナ達の船を無視してUターンしていった。

 そしてその巨体からは想像も付かぬほど静かに、海の中へと突入。

 すぐに再び姿を現したが、『魔境の怪物』は何故かこちらを追わず。近場に着水してはまた現れる、というのを繰り返す。もう攻撃などしてこない。

 まるでこちらの事など、最初から見てもいなかったかのように。

 

「……あ、あれ?」

 

「なんとか逃げきれたわね。ふむ、座標からして……前年より八十キロほどズレてるか。移動したのか、それとも広がったのか……」

 

 呆気に取られるレイナの横で、急旋回の中倒れなかったシャロンがぶつぶつと呟いている。何か学術的な考察をしているようだが、『魔境の怪物』にそこまで詳しくないレイナにその意図を読み取る事は出来なかった。

 しかし慌てる事はない。何故なら自分達の任務は、あの怪物の調査なのだ。その謎に迫れる事に、自然と胸が高鳴る。

 ……仮に胸が高鳴らずとも、知らなければならないとはレイナも思うが。

 何しろ先の怪物の襲撃により、大勢の人々が海に散ったのだから。そしてこの怪物が野放しである限り、此処を通る船は沈み続けるだろう。加えてレイナが感じた印象通りならば、怪物を駆除したり追い払ったりする事は、今の人類では総力を結集しても叶わない。

 何故『魔境の怪物』は船を襲うのか。この謎を解明する事は、今後この海上を通る全ての人の命を守る事につながるのだ。

 そのためにも、まず、やらねばならない事がある。

 

「……ほっぽり出した仕事を、早く片付けないとなぁ」

 

 決まらない台詞を吐きながら、レイナはがっくりと肩を落とすのであった。



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謎だらけ

 被害数九隻。

 『魔境の怪物』により破壊された船の数だ。失われた人員数は三百人を超え、被害の甚大さを物語る。しかもこの被害は、『魔境の怪物』が出現してからのほんの数分で生じたもの。そして人類が繰り出した全力の反撃は、怪物に掠り傷一つ付ける事さえ出来ていない。桁違いの戦闘力は比喩でなく人類文明を滅ぼすに足る力であり、文明の『強さ』を信じきっている一般人達がこの生物の存在を知れば、世界中で大きな混乱が起きるだろう。

 何より恐ろしいのは――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という点。被害を避けようにも、理由が分からなければどうにもならない。

 そしてこの謎を調べるのが『ミネルヴァのフクロウ』の役目である。

 

「という訳で、今回の調査目的は何故『魔境の怪物』は船や航空機を襲うのか、よ。まぁ、もう三十年以上同じ事調べているんだけどね」

 

 かくしてシャロンが告げた任務の詳細に、レイナは目をパチクリさせた。

 『魔境の怪物』から逃げたレイナ達を乗せた船は今、襲われた地点から二十キロほど離れた大海原を漂っている。シャロン曰くこの辺りは安全圏であり、『魔境の怪物』に襲われる心配は、ほぼ、ないらしい。生息圏が拡大している可能性があるので、保証は出来ないそうだが。

 ともあれ一応此処ではゆっくり出来ると、レイナとシャロンは船内の食堂 ― 五人も入れば窮屈になるような個室だ。室内の真ん中には大きなテーブルがあり、それを囲うようにクッションが置かれている ― にて食事をしていた。食事といってもちゃんとした料理ではなく、色取り取りな缶詰である。

 魚の缶詰を箸で突っつきながら、レイナは先のシャロンの言葉を聞いている。口の中にあった魚の身をごくりと飲み込んでから、レイナはシャロンに訊き返した。

 

「……そんなレベルで未知なのですか、あの怪物」

 

「怪物なんてどいつもこいつも未知ばかりよ。大抵の奴は何食べてるのかすら分かってないし。『魔境の怪物』も自然環境下での食物は不明だから、ついでにこれも調査対象よ。まぁ、何食べてるのか分かんない生物なんて、珍しくもないけど」

 

「そうですけどねぇ……」

 

 シャロンの言葉に、同意しながらレイナは苦笑い。

 シャロンが言うように、自然環境下での食物が判明していない生物というのは存外多い。一般人からは飼育すれば分かるだろと言われそうだが、飼育下と自然環境下の生物は別物である。飼育下では普段口にしないものをバリバリ食べたり、或いは普段の餌を全く口にしなかったりなんてのはざら。飼育で分かるのは「多分こんな感じのものを食べている」程度のものに過ぎない。中には与えた餌を全く食べないようなのもおり、傾向すら掴めない種もいるほどだ。

 勿論、じゃあ飼育は無意味かといえばそんな事はなく、生きた姿を間近で観察出来るため非常に優れた研究手法だ。これだけに頼るのが良くないという話である……が、そもそも『魔境の怪物(あんな化け物)』をどうやって飼えと言うのか。

 食性を調べるなら、飼育以外の方法を使うしかない。例えば解剖して胃の中を調べるのも、よく行われる手法だ。これなら自然界で食べたものを確認出来る。しかしなんらかの物体が見付かったとして、それが積極的に食べるものか、空腹に耐えかねてがむしゃらに食べたものかは憶測の域を出ない。長期間絶食するような生物だと、どれだけ腹を掻っ捌いても空っぽなんて事もあり得る話だ。解剖も完璧ではない。そしてこの方法に関しても、捕まえる以前にそもそも人類に『魔境の怪物』を倒せるのか怪しい訳で。

 残す手立ては、追跡調査か野外観察で確認する事だけだろう。それにこの方法こそが、自然環境下での食性を知る上で理想的な調査ある。食べているものを直接確認出来るし、前後の行動を見れば、その食事が積極的か偶発的か判断しやすい。正しく理想的だ……難易度に目を瞑れば。

 野外観察が難しい生物というのも、これまた多い。例えば昆虫や土壌生物などの小さい上に見失いがちな生物、或いは砂漠や洞窟など人の長期滞在が困難な地に生息している種などが挙げられる。『魔境の怪物』の生息域は海。大変難しい立地条件だ。

 食性という観点一つ取っても、『魔境の怪物』はあらゆら困難の寄せ集めだ。戦闘力が高いので解剖や飼育は困難、追跡調査をしようにも稀少な上に海暮らしの彼等の生活を追い続けるのは難しいだろう――――

 等とレイナは考えていた。

 

「アイツらを研究する上で唯一の救いは、数が多い事なのよねぇ。お陰で観察例はそこそこあるし、生体サンプルもかなり取れるから飼育や解剖のデータもたくさんあるし」

 

 ところがその考えは、シャロンによってばっさりと否定されてしまう。ついでに言うとその言葉は、大変恐ろしい現状を語るものでもあった。

 

「……え。数、多いんですか?」

 

「ドン引きするぐらい多いわよ。遭遇頻度などから算出された成体の推定個体数が約五千。成長途中の幼体を含めれば三~八万。ぶっちゃけフェルミ推定みたいなもんで、正確性はかなーり微妙だけど」

 

「いやいやいやいや!? そうだとしても、いくらなんでも多過ぎませんかそれ!?」

 

 さらりとシャロンは語ったが、レイナの頭はすっかり混乱状態。声を荒らげてしまうほど動揺していた。

 世界最強の軍隊である米海軍に匹敵する船団を、ものの数分で壊滅に追い込む生物が数千以上ひしめく……勿論その事が恐ろしくないといえば嘘になる。しかしながら彼等は恐らく何万年も前から存在している種であり、人間が大海原に進出していなければ出会わなかった存在の筈。自分から首を突っ込んでいながら「恐ろしい恐ろしい」というのは、酷く滑稽だとレイナは思う。よって戦闘力云々はどうでも良い。

 レイナが動揺した理由は、あくまで学術的見知からだ。

 『魔境の怪物』は体長二百メートルにもなる超巨大種である。しかも空を飛ぶほどの身体能力があるという事は、その体内には強力な筋肉がある筈だ。筋肉というのは身体を動かすために欠かせないが、極めて燃費の悪い組織でもある。どれぐらい悪いかといえば、ナマケモノのようにろくに動けないほど退化させる事が生存戦略として役立つほど。驚異的な身体能力を誇る『魔境の怪物』は、相当基礎代謝が高くなければおかしい。

 基礎代謝が高いとは、即ち多くのカロリーを必要とするという事……たくさん食べるという事だ。ヒトデが基礎代謝の低い『変温動物』である事を考慮しても、一日数十~数百トン程度の動物質は必要になるのではなかろうか。

 ましてやそんなものが五千以上ひしめくには、どれだけの食べ物が必要なのか。ちなみに現在 ― 西暦二〇〇X年 ― の世界全体の年間漁獲量は約九千万トン。一九九〇年代から頭打ちとなり、以降横ばいが続いている状態だ。これだけの漁獲量でも乱獲による海産資源の減少が問題視されている訳だが……仮に五千体の『魔境の怪物』が毎日五百トンの水産物を食べた場合、一年で九億トン近く消費する計算である。どう考えても地球の海で賄いきれる量じゃない。

 『星屑の怪物』の時のように、『魔境の怪物』の影響でバミューダ海域に独自の生態系が築かれている可能性はある。つまりこの地の生態系が、『魔境の怪物』の存在により生産性の高い性質へと進化した可能性はあるが……だとしても地球から見ればちっぽけな海域で、全世界の漁獲量を十倍も上回る水産物が生まれているなんて流石に考えられない。仮にそれほどの生産力があるなら、おこぼれだけでこのバミューダ海域近隣はとんでもなく豊かになる。恐らく、今後数百年人類は海産資源の枯渇など考えなくても済むぐらいに。

 少なくともこの怪物の餌は、普通の海産物ではないようだ。

 

「本当に、何を食べてるんでしょうか……」

 

「さぁてねぇ。観測可能なぐらい接近した状態を維持したら、すぐ攻撃されて海の藻屑。定点観測装置や衛星を使おうにも、普段は深海に暮らしてるから無理。深海調査のための無人探査船を送っても、大体深度五千メートル地点で他の生物に破壊されちゃうし……」

 

「あ、普段は海底暮らしなんですか。じゃあ、わざわざ船を沈めるために浮上してきた、という事ですか?」

 

「いいえ。あの子達が船に反応するのは、自らの半径十五キロ圏内に入った時だけよ。この辺りの海域は最大で水深二万メートル、つまり二十キロほどだから、普段の生息域である海底からなら見付からないわ。まぁ、この普段のってのも推定だけどね。さっきも言ったように、五千メートルから先には探査船送り込んでも沈められちゃうし。形態からして海底生活者なのは間違いないと思うけど」

 

「……あの。地球で一番深い場所って、確かマリアナ海溝の水深一万メートルちょっとだったと思うのですが」

 

「怪物の秘匿方法は二つ。生息域を立ち入り禁止にするか、生息地そのものを秘匿するか。今回は後者ね」

 

 つまりこの地球には、『表向き』存在しない事になっている不思議な土地がまだまだたくさんあるらしい。

 先日先輩が言っていた「怪物達の地球」という言葉の意味をひしひしと感じる。同時に、この星は全く調査が進んでいない未知の世界なのだという事を感じ、ワクワクがレイナの胸を満たす。

 もっと知りたい。

 もっと調べたい。

 そして今、レイナはそのために此処に来ている。

 

「だとすると、彼等はなんらかの目的で海底から浮上している、という事ですか?」

 

「その通り。そしてその理由は判明しているわ……産卵のためよ。次世代を産み落とすために、彼等は深さ二万メートルの世界から、水深数百メートルの領域までやってくるの。産卵活動は極めて散発的で、三~四ヶ月ほど継続されるわ。そしてそのついでに船を撃沈している。さっきのようにね」

 

 レイナの疑問に、シャロンは答えを教えてくれた。

 産卵のために普段の生息地から移動する、というのは珍しい事ではない。例えば日本人の大好物であるウナギは、普段は川で生活し、産卵の時期になるとグアムやマリアナ諸島の海まで移動する。『魔境の怪物』がそのような繁殖行動を取っていたとしても、特段不思議な話ではない。勿論その生態的意義や生態系への影響は謎だらけだろうが。

 食性不明。正確な個体数不明。実際の生息地不明。浮上理由不明。そして船を襲う理由も不明。

 何もかもが謎だらけ。『謎の怪物』と改名した方が良いのではないかと思うぐらい、分からない事だらけだ。

 

「……成程。少しでも生態の秘密を解明しないと、保護や隠蔽も難しくなりますし、船の安全な航行も出来ませんね」

 

「その通り。ちなみに大型の海生生物、具体的にはイルカやクジラを、『魔境の怪物』は襲わない事が確認されているわ。というか、生物への攻撃性が全く見られないのよね。産卵の前後なんて普段と性質が色々異なるものだから、普段暮らしている深海でどうかは分からないけど」

 

「うーん、生物は襲わないのですか……」

 

「少し話が長くなってきたし、判明している点を纏めましょう」

 

 シャロンは指を四本立て、先程語った内容を一つ一つおさらいする。

 一つ、『魔境の怪物』はどうしてか船や航空機を襲う。

 二つ、普段は水深二万メートルの場所に暮らし、繁殖期になると数百メートル程度の深さまで浮上してくる(推定)

 三つ、餌は不明。

 四つ、少なくとも産卵期の間、生物は襲わない。

 シャロンは四本の指を折り終えると、レイナの目をじっと見てくる。「あなたの意見を聞かせてほしい」というサインだと受け取ったレイナは、食べる手が止まっていた缶詰の中身を一口含み、よく噛みながら考え込む。

 シャロンの話は、きっと多くの犠牲を出しながら獲得したデータに基づくもの。決して軽んじてはならない。

 が、どれだけ人命を費やしたところで、あくまで現在までに『観察』された範囲での話だ。産卵期という特殊な条件下で起きた事かも知れないし、観測者側の勘違いや願望により事実が捻じ曲げられている可能性もある。

 故人を想うあまり盲信的になっては、却って真実は遠ざかるもの。情熱を抱きつつも根っこの方はクールに。科学者に求められるのは、相反する心の両立だ。勿論簡単に出来る事ではないが、意識するだけで幾分マシになる。

 科学者としての心構えを胸に、レイナは『魔境の怪物』が船や航空機を襲う理由について推察してみる。

 

「(例えば威嚇行動とかどうかなぁ)」

 

 真っ先に考え付いたのは天敵を追い払うため、というものだった。成体は敵なしだろうが、産まれたばかりの卵や幼体はそれなりに弱々しく、天敵も存在するだろう。そうした天敵に対し成体が積極的に回転切り裂きアタック(命名:レイナ)を仕掛けるのは、力のない幼体が生存する上で有利に働く筈だ。

 しかし生物を襲わないという観測がこれを否定する。船を切り刻むより、天敵を直に粉砕する方がずっと効率的だろう。『魔境の怪物』にはそれを可能とする力がある筈なのだから。

 

「(じゃあ、異性へのアピールとか)」

 

 例えばコオロギやセミなどの昆虫は、鳴いて雌を集める事が一般にもよく知られている。そうした行動は天敵に見付かりやすくなるため生存上不利であるが、雌と出会って交尾するという意味では有利だ。進化とは自分が生き延びる方へと進むのではなく、より多くの子孫を残せる方へと進むもの。個体としては天敵に食べられて短命に終わっても、多くの異性と交尾してたくさんの子孫を残せているのなら『適応的』なのだ。

 コオロギ以外にも、雌の気を惹くためダンスを踊る鳥や、雄同士でケンカをするシカなど、異性を獲得するため生存上不利になる行動を取る種は幾らでも挙げられる。『魔境の怪物』も配偶者を得るため、海上を飛び回り、飛行機や船を切り落とすのかも知れない。

 しかしこれも考え難い可能性だ。もしもあの海上飛行が異性へのアピールなら、もっと頻繁に見られてもおかしくない。何しろ成体だけで推定五千体もいるのだから。

 大体海上のものを切り落とすのがアピールだとすれば、人間が飛行機や船を飛ばす前まで、大海原に暮らす彼等は何を切っていたというのか。鳥だろうか? 生物は襲わないとシャロンが明言している以上、鳥ではない。そうなるともう、海の上には何もないではないか。

 或いはこの『求愛行動』が飛行機や船の誕生以降、急速に発達したという可能性もある。しかし『魔境の怪物』はその大きさから考えるに、世代交代にはかなり時間が掛かるだろう。果たして数百年程度で、こうも行動が進化するのか? 生命の進化は人類の常識を易々と跳び越えるので、あり得ないとは言えないが……もっと自然な考えの方が良さそうだ。

 色々と考えてみるが、中々良い案が浮かばない。されど何かないかとシャロンに期待された以上、何も答えない訳にもいかない。レイナはうんうん唸りながら、何かないかと考えて。

 

「……海底には金属生命体が生息していて、普段彼等はそいつらと戦っている、とか」

 

 我ながら随分とSF的思想をしているなと思う案しか出せなかった。

 ところがシャロンはそれを笑うどころか、真面目な顔で聞き入れる。本気でその可能性を考えている事が、透き通った眼差しから窺い知れた。

 

「……成程。金属生命体と彼等は敵対しているから、海上に存在する船や飛行機を敵だと思う訳ね」

 

「あ、はい。えと……なんというか……すみません。思い付きです」

 

「あら、何故謝るの? 中々斬新で、面白い意見だと思うわ。それに可能性はゼロじゃない。ウロコフネタマガイという一般にも知られている深海生物がいるけど、彼等は全身を鉄で覆うような進化を遂げたわ。生命は必要であれば金属を取り込み、身体の一部とする力があるという実例よ。もしかすると『魔境の怪物』の住処には、そうした性質を保つ別種の怪物が潜んでいるかも知れない」

 

 何しろ未探査なんだもの。最後にそう結び、シャロンはレイナの意見を肯定した。まさか肯定されるとは思わず、レイナは少し呆けてしまう。

 しかしすぐに、自分の意見があながち突拍子のないものではないと理解した。自分が思っていた以上に生命というのは多様であり、人間の想像力など平気で無視する存在なのだ。空想に浸るだけでは、真実には決して辿り着けない。

 ならば、知る方法は二つしかない。

 彼等の暮らすところを観察するか、生体を捕獲して観察する事だ。

 

「うーん……やっぱり生息地での観察がしたいですよね。でも送り込んだ探査艇はみんな壊されちゃうみたいだし……」

 

「色々やってはみたんだけどねー。無人機のコンピュータが悪いのかと思って、アナログな有人機を送り込んだ事もあるのよ。ある国の死刑囚を五人ぐらい乗せて、繋いだロープで深度を調整する超原始的なやつ。ふつーに切られたけどね。『魔境の怪物』じゃなくて、他の危険生物の仕業だと思うけど」

 

「……今なんかさらっと恐ろしい事言いませんでした?」

 

「人材は限りある大切な資源。意味もなく潰した挙句に燃やしてしまうより、きっちり有効活用すべきだと思わない?」

 

「うへぇ……」

 

 死刑廃止論者が聞けば激怒を通り越して憤死しそうな話を、顔を顰めるだけでやり過ごすレイナ。何事もなかったかのように、缶詰の中に残ったスープを飲み干す。魚の脂がたっぷりと浮いた、濃厚な旨味に満ちたスープだ。腹と舌を満たしたレイナは満足げな息を吐き、自分の属する組織の『黒さ』を綺麗さっぱり忘れる。

 ――――さて、無人機や有人機による調査も駄目ときた。ならば残す手立てはただ一つ。

 幸いにして『それ』の確保が容易である事は、シャロンの口から語られていた。新人である自分に分けてもらえるほどかは分からないが、訊いてみる分にはタダである。

 

「なら、後は生体観察ぐらいですかね……確か生体サンプルは豊富なんですよね? 私が見ても大丈夫ですか?」

 

「ええ、構わないわよ。難なら今から新鮮なやつを確保する?」

 

「え? 今から?」

 

 レイナが尋ねるとシャロンは許可と共に提案し、レイナはキョトンとしてしまう。確かにサンプルはたくさんあると言っていたが、今から採りに行けるとはどういう事か?

 疑問から目をパチクリさせていると、シャロンは少し自慢げに微笑む。何も知らないレイナに発表出来る事が、とても嬉しいと語るように。

 そしてシャロンは告げるのだ。

 

「今は産卵期なのよ? このタイミングならたくさんいるのよ。生まれたての彼等が、ね」

 

 呆気に取られていたレイナの心を、一瞬でワクワクさせる一言を……



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小さな魔物

 レイナ達がやってきた甲板では、青空の下で船員達が大きな『筒』を抱えていた。

 筒は長さ三メートル、太さ二十センチほどの金属で出来た代物。所定の場所まで運ばれた筒は、その端をロープ付きの金属製フックを掛けられ、外れない事を何度か確かめられる。フックから伸びるロープは太く、シャロン曰く『カーボンナノチューブ』で出来ているらしい。カーボンナノチューブとは炭素を筒状に組んで作り出した繊維で、同じ太さの鋼鉄よりも遥かに頑強な代物だ。

 そんなロープで繋がれた筒は、全部で三つ。筒はクレーンのような大型機械で吊り上げ、大海原に投じられた。

 それから五分ほど待ってから、再び機械が動き出し、海に沈めた筒を引き揚げる。

 乗組員達は引き揚げられた筒に集まり、フックを外し、ごろごろと転がすように運ぶ。筒の行く先は、ここまでただぼうっと立っているだけのレイナとシャロンの下。シャロンは運ばれてきた筒の傍に寄り、何処かを弄ると、カシャンという音を鳴らした。

 見れば、筒の一部がスライドしており、ガラス張りの面を剥き出しにしている。筒の中を覗き見るための『窓』だ。

 シャロンはレイナの方を見るや手招きし、レイナは誘われるがまま筒に歩み寄る。それからシャロンが一歩横にずれ、レイナは筒の『窓』から中を覗き見た。

 筒に用意された『窓』は一部だけ。そのため見通せる範囲は狭く、あまり明るく見えるものでもない。

 しかしそれでもハッキリと分かるぐらい、筒の中にはたくさんの海水と、その中を泳ぐ生き物の姿が確認出来た。

 先程海に投じた筒は、海生生物の捕獲装置なのだ。装置といっても周りの海水を入れるだけで、やたらと頑丈である以外は本当にただの筒なのだが。しかし原始的な方法というのは、言い換えれば安価で取り扱いが簡単という事。これはこれで十分に『機能的』なのである。

 そんな捕獲装置の中にいるのはエビや小魚等々、種類も形も千差万別な生命。動きの速いものや遅いもの、骨のある生き物ない生き物、実に多様である……が、圧倒的多数派がいた。

 それは、一言でいえばクラゲのような軟体動物。

 しかしクラゲではないだろう。クラゲの特徴である細長い触手がない、丸くて半透明な物体なのだから。よく観察してみれば、捕獲装置内を泳ぐエビや魚が次々とこの軟体動物を食べている。抵抗する素振りすらないところは正に圧倒的弱者。数で対抗しなければ瞬く間に喰い尽くされそうだ。

 なんとも弱々しい。弱々しいが、しかし大人まで弱々しいとは限らない。『星屑の怪物』という実例があるように。

 

「これが、『魔境の怪物』の幼生よ」

 

 何も指差さずに語るシャロンの言葉が、それを証明していた。

 

 

 

 

 

 シャロンが言っていたように、『魔境の怪物』はとても簡単に捕獲出来た。捕獲した幼体は現在、船内に用意された研究室、そこに置かれた水槽に移されている。数はざっと数百。エビや小魚などの『天敵』は取り除かれ、水槽内には幼生だけが漂っている状態だ。

 幼生達を改めて観察し、レイナは思った――――なんとまぁ貧弱そうな、と。

 水槽内を漂う幼生はどれも体長一センチあるかないか。ヒトデの幼生として考えれば中々の大きさかも知れないが、体長二百メートルの巨大生物の赤子としては芥子粒以下の存在だ。

 丸くて半透明な身体には触手すらなく、動きも殆ど見せない。いや、正確には動いているのだが……軟体質の全身をうねうねと波立たせる程度。こんな微妙な動きで生じる推力などたかが知れており、浮かび上がる事も出来ずにどんどん沈んでいく。水槽内にはエアポンプ ― コポコポと泡を出して水中に酸素を供給する機械だ ― があるため水流が生じ、それに乗って浮かび上がる事が出ているが……隅っこの方に、何十匹か『ダマ』になっていた。隅に固まっている個体の中には、弱っているのかうねる動きすらしないものもちらほら見られる。

 なんというか、弱い。怪物どころか、一般的な小動物として見ても情けないほどに。先日目にした『星屑の怪物』の幼生も貧弱だったが、『魔境の怪物』はその更に何倍も弱そうだ。

 

「可愛いなぁ……」

 

 そしてそんなへなちょこ動物も、それはそれで好きなレイナはうっとりしながら水槽を眺めていた。

 無論イモムシを捕まえた小学生よろしく、ぼうっと見ている訳ではない。少しでも生態を解明すべく、真面目に観察している。あくまで、そうしている間に見せてくれた姿に魅了されているだけだ。

 等と強弁したところで、傍から見れば虫かごを眺める小学生となんら変わらない訳で。

 

「はーい。楽しそうなところ申し訳ないけど、ちゃんと仕事をしてもらうわよー」

 

 シャロンが容赦なく窘めてきたので、レイナは唇を尖らせた。尤も不機嫌顔は一秒と続かない。

 シャロンの手にある小さなお皿、そのお皿に乗せられた緑色の粉を見て、どうして『虫かごを見ている小学生』が何時までもふて腐れていられるのか。

 

「! 給餌ですか!」

 

「ええ。とりあえず乾燥させた藍藻を与えてみましょう。過去の記録で、僅かだけど食べた事があるらしいから」

 

 シャロンにお皿及び乾燥藍藻を渡され、レイナは嬉々として受け取った。

 勿論餌やりが楽しみというのはあるが、学術的な見地からもこれは大切な『仕事』である。『魔境の怪物』は餌すら分からない謎生物。もしも食性が判明すれば、そこから様々な生態を予測出来る筈だ。成体が船を襲う理由のヒントにもなるだろう。

 早速レイナは水槽の前まで行き、さてどう与えようかと考え……お皿にスプーンなどの道具が付いていない事に気付く。

 飼育の際、餌の与え方は大事だ。特に水生生物の場合、食べ残しの腐敗=水質の悪化であり、最悪飼育対象が死に至る原因と化す。珪藻のような粉状のものだと回収が難しく、水の交換を頻繁に行う必要が出てくるため、尚更与える量は気に掛けるべきなのだが……

 

「量は指で一摘まみぐらいで良いわ」

 

「え。そんな大雑把で平気なんですか? 水質の汚染とか……」

 

「それは大丈夫。身体はへなちょこでも、雑菌や汚染には滅茶苦茶強いから。タンカー沈めまくって海が油塗れになっても、全然個体数減らないぐらいだし」

 

「うわぁ。戦闘力どころか環境耐性まで高いとか……」

 

「まぁ、ぶっちゃけ海に撒かれた油そのものはすぐに消えちゃう筈だけどね。この辺りの海域には石油分解菌が豊富だから。長年船を沈めまくった影響で、生態系が変わってるのかも」

 

「笑い話じゃないですよね、それ……」

 

 何かとんでもない事が起きているような予感を抱きつつ、レイナは言われるがまま指で摘まんだ餌を水槽に落とす。緑色の粉はエアポンプの泡によって拡散し、瞬く間に水槽中を満たした。

 レイナは水槽に顔を近付け、幼生達の動きを観察する。

 ……特段何かを食べているような動きは、残念ながら観察出来なかった。

 

「……食べていないように見えます」

 

「まぁ、三十年以上毎年飼育実験やって、数回しか確認されてないし」

 

「完全に異常行動じゃないですかそれ……」

 

 がっくりと項垂れるレイナを見て、シャロンはけらけらと笑う。そう簡単に謎が解けると思うなよ、と言わんばかり。

 

「その水槽の個体はあげるわ、サンプルならいくらでも取れるしね。煮るなり焼くなり食べるなり、好きに実験すると良いわよ」

 

「食べたんですか、これ」

 

「ええ。とても不味かったわ。凄く臭いし、お腹壊すし……私は艦長と話があるから、ちょっと出ているわね」

 

 シャロンはそう言うと、そそくさと部屋から出てしまう。随分と歩みが早いように思えたが、単に時間が惜しいのか、それとも時間ギリギリまでこちらの世話を焼いてくれたのか……なんとなくだが、前者のような気がしたレイナは苦笑い。

 ともあれ一人部屋に残されたレイナは、再び水槽内の幼生を眺めた。

 幼生達には相変わらず大した動きを見せていない。中には付着した藍藻により、全身が緑色に染まってしまったものまでいた。これでも食べる素振りすらないのだから、やはり本来の餌ではないのだろう。

 しかし食べた記録があると、シャロンは話していた。

 三十数年間で数度の食事。ただの異常行動じゃないかと言ったレイナだが、されどもしかすると、異常なりの理由があるかも知れない。そもそも多くの生物は極めて化学的な反応により食事を行うものだ。例えば昆虫の場合、大きく分けて三種の物質が食事に関わる。

 一つは誘引因子。二つ目は噛み付き因子。そして三つ目は飲み込み因子。

 それぞれの効果は名前通り。誘引因子により引き寄せられ、噛み付き因子により噛み付き、飲み込み因子により飲み込む。誘引因子だけでは噛み付かず、噛み付き因子だけでは飲み込まず、飲み込み因子だけでは寄り付きも噛み付きもしない。

 人間的には面倒な仕組みに思えるかも知れないが、これは極めて安全かつ効率的な仕組みだ。『味』や『見た目』のようないい加減なものに騙されず、正確に食べ物を見極められる。しかも生理的な仕組みであるため、生まれてすぐ、誰に教わらずとも正しい食べ物が分かるのだ。

 どれだけ人智を超えた存在であっても、発達した脳を持たないヒトデである『魔境の怪物』も似たような摂食プロセスを辿る筈。つまり『魔境の怪物』の幼生が藍藻を食べたのは、勿論その個体が物質を正しく認識出来ない『障害持ち』だった可能性もあるが、藍藻に含まれるなんらかの物質により餌だと誤認した可能性もあるのだ。

 

「(藍藻の持つ物質……葉緑体に含まれるクロロフィル? 或いは光合成で生産される炭水化物、いや、藍藻には炭化水素を合成するものがいるって話を聞いた事があるわね。このどちらか? 窒素固定をする種もいるという話だけど……)」

 

 思考を巡らせ、様々な可能性を考えていくレイナ。

 ……そうして観察している間も、『魔境の怪物』の幼生は大人しいもので。やっぱり単なる異常行動かも、という考えも強くなってきた。

 そもそも最優先の調査内容は「『大人』が何故船舶を襲うのか」だ。子供と大人で生態が異なるというのは、生物の世界では珍しくない。幼生から得られる情報も勿論貴重なものだが、それで成体の謎が解明出来るというのは見通しが甘過ぎる。サンプルは確かに多いが、微妙に的外れという事だ。

 人間が悩んでいる間も、幼生達は相変わらずろくに泳がず、エアポンプの海流に乗って漂うだけ。運悪く海流に乗れなかったもの達はあっという間に沈んでいく。

 ……本当にあっという間だ。自然の海では常に海流が発生しているため遊泳力がなくとも意外と沈まないものなのだが、この幼生達ならどんどん沈んでいくだろう。成体の住処が深海なのだから、少しずつ深海に向かっていくのは正しい『進路』である。

 しかしこんな速さで沈めば、道中で食事をする余裕などないのではないか? 大体こんなとろくさい動きに捕まる奴などいるのだろうか。

 

「……先人の知恵に大人しく頼ってみますかね」

 

 レイナは立ち上がり、部屋の隅にある戸棚へと向かった。

 戸棚の中にあるのは何百という数の冊子。おもむろに一つ手に取り表紙を見れば、『産卵行動パターン』と書かれている。

 この棚に置かれているのは、『魔境の怪物』の生態についての論文だ。論文といっても一般公開されていないが、『ミネルヴァのフクロウ』内での追試や反証は行われている。身内内での精査とはいえ、『ミネルヴァのフクロウ』はレイナ含め割と狂的な科学者集団。身内だろうが容赦なく検証されたものであり、そんじょそこらの論文より余程正確だ。

 冊子を手に取り、読み、棚に戻し……そうしてレイナは幾つも論文を読みながら、目当ての情報を探していく。読み流していく情報の中には、過去に確認された摂食行動に関する考察もあった。結論としては「異常行動だろう」というものが大半。しかしその中に少数ながら、異なる主張を見付ける。

 「成熟段階の違いによるものではないか」、という主張だ。

 

「……そりゃまぁ、先に誰かが考え付いてるか。三十五年も調査してるんだし」

 

 そんな()()()()()()()の意見を目にしたレイナは、肩を落として脱力。それでも先駆者の論文を読む。

 『魔境の怪物』が海面付近で産卵するのは、幼体の天敵を避けるためだと考えられる。あくまで天敵を避けるためであり……餌が豊富だからではない。

 産み落とされた卵は即座に孵化し、深海へと沈みながら発育していく。つまり海面付近を漂う幼生は、実態としては『未熟児』という可能性がある。発育途中だから餌を食べない。かつて観察された摂食行動を起こした個体は、なんらかの理由により長期間海面付近を漂っていただけではないか。

 だとすれば十分に発育した幼生の餌は、深海独特のものであると考えるのが自然。そして十分に成長した幼生が食べるものは、生理的に同じであろう成体と変わらない可能性が高い。

 ……他にも幾つかの資料を見てみたが、レイナが抱いたこの意見、そして先駆者の論文を完全否定するものはなかった。検証が難しいという事もあるが、現状否定材料もないのだろう。

 レイナが閃くまでもなく、先人達が既にその可能性を論文にしていた。自分が一番手でない事はちょっとだけ悔しいが、しかし先人が様々な検証をしてくれているのは助かる。お陰で少しだけ考えが前進出来た。例えば先程幼体が餌と誤認した可能性のある物質として挙げた、葉緑素(クロロフィル)は候補から外して良いだろう。光の届かない深海に、光から栄養素を作るための物質がある筈ないのだから。

 さて、他に餌のヒントとなるものはあるのか。レイナは腕を組み、戸棚の前で考え込み……

 その最中に、ぐらりと部屋が揺れた。

 揺れ自体は珍しいものではない。この部屋は船の中に作られた一室であり、海というのは大きさを別にすれば常に波立っているものだ。最新鋭の技術で建設されたこの船でも、大きな波があれば少なからず揺れる。

 しかし此度の揺れはこれまで経験したのとは、明らかに異なるもの。

 まるで底から突き上げられたかのような、そしてレイナの華奢な身体が跳ね上がるほどの強さなのだから。

 

「――――ん? ぇ、あぎゃっ!? ぐぇっ!」

 

 考え事に夢中なあまり、自分の身体が浮いた事にすら中々気付かなかったレイナ。我に返った時には何もかも遅く、戸棚に頭を打ち付け、その後背中を床に打ってしまう。

 

「ふぉ、おがああぁぁぁぁ……!?」

 

 二連続で受けた痛みに、レイナは頭と背中のどちらを擦れば良いか分からず床の上で悶えるばかり。痛みの所為で考えは霧散し、イモムシのようにもぞもぞ動くばかり。しばらくは立ち上がる事も出来そうになかった。

 何もなければ、であるが。

 しかし何もない筈がない。ちょっとやそっとの波ではそこまで激しく揺れない船が、油断していたとはいえ大人の身体が浮かぶほどの強さで揺れたのだ。何か想定外の、大きな事故があったというのは簡単に想像が付く。

 されど痛みで思考停止している今のレイナには、そんな簡単な事すら思い付かず。

 

【緊急警報。船内にて爆発事故発生】

 

 室内に流れてきた放送の意味を理解するのに、レイナは少なくない時間を必要とするのであった。



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ヒント

「……爆発?」

 

 先程聞こえてきた単語を、ぽつりと呟くレイナ。未だ頭も背中も痛いままだが、最早悶える事もなく、ぼんやり天井を見つめてしまう。

 

【繰り返す。船内にて爆発事故発生。指示があるまでその場で待機せよ】

 

 それだけ茫然としていても、もう一度放送を耳にすれば嫌でも理解する。尤も、納得したかどうかは別問題。

 確かに殺される危険があっても嬉々として研究に参加する程度にはアレな頭だが、決して死にたがりではないのだ。食い殺されるのはOKでも、爆発事故なんかで海の藻屑と化すなど断じてお断りである。

 ……お断りしたいが、したいというだけで助かるなら海難事故の犠牲者はゼロになる訳で。

 

「ば、爆発!? どど、どどどどうしたららららら!?」

 

 一介の生物学者に過ぎないレイナには、床に寝転んだまま狼狽える事しか出来ない。とはいえ一応は人類の中でも、割とトップクラスに優秀な脳細胞の持ち主。時間が経てば少しずつ落ち着きを取り戻す。

 まずは深呼吸。頭を冷やして、冷静に考えよう。

 放送では「指示があるまでその場で待機」と言っていた。避難ではない。恐らく状況が把握出来ておらず、下手に動き回ると危険な状態なのだろう。思い返せば何処で爆発事故が起きたかも分からないのだから、どのルートで逃げるのが正解なのかも分からない。今は行動を起こすタイミングではなく、情報を集めて解析する時だ。

 案ずる事はない。この船は『ミネルヴァのフクロウ』が誇る先進技術の結晶体である。ダメージコントロール能力や装甲技術は、一般的な軍艦よりも遥かに優れているであろう。ましてや怪物という圧倒的戦闘力の存在と対峙する事を想定しているのだから、装甲についてはかなり頑強に違いない。人間の機械が起こした爆発事故程度、平然と耐え抜く筈だ。

 ……どうせ怪物相手にどんな装甲で固めても無駄だからと、色々ケチってる可能性も否めないが。

 

「だ、だだ、だだ、だ、い、だい、だ、だ、だだ」

 

 悪い予感に、やっぱり怖くなってきた。

 そうして情けないぐらい震えていると、五分ほどでまたしても放送が入る。いよいよ避難の勧告かと、レイナは耳を傾け

 

【修復完了。通常体制に戻れ】

 

 あっさりと船は直り、拍子抜けしたレイナは床の上でぐったり脱力してしまうのだった。

 

「ただいまー、レイナ。ガタガタ震えてたりするー? ……居眠りするならベッドの上にした方が良いわよ?」

 

「……居眠りじゃありませんので」

 

 なんともタイミング良く部屋に入ってきたシャロンに見られながら、レイナはのそのそと起き上がる。

 それからシャロンの事を、ジトッとした眼差しで見つめた。

 

「それより、なんで今この部屋に来たんですか? ついさっき爆発事故があって、待機命令が出ていたのに」

 

「ん? そりゃ待機してないから」

 

「待機してないって……」

 

「爆発事故ぐらい気にしなくて良いわよ。どーせダンガンダツが突っ込んできただけなんだから」

 

「ダンガンダツ、ですか? 聞いた事のない生き物ですが……」

 

「この辺りの海に棲むダツの一種よ。体長五メートルの魚で、普段は深海に棲んでる種なんだけど……この時期は『魔境の怪物』の幼生を狙う小魚を食べるため、浮上してくるのよね。で、何故か時折猛烈な勢いで船に突っ込んできて、装甲をぶち破るのよ」

 

「……念のため聞きますけど、この船の装甲ってダツに負けるぐらい弱いのですか?」

 

「そんな訳ないでしょ。対艦ミサイルぐらいなら弾き返すぐらい強いわよ。ただダンガンダツの貫通力が対艦ミサイルを超えるってだけ。一応ダンガンダツは怪物とは認定されていないけど、人間が突撃を受けたら例えプロテクターを装備してもバラバラに吹き飛ぶから、要注意生物ではあるわね」

 

 それは普通にモンスター(怪物)ではなかろうか? レイナは訝しんで眉を顰める。確かに戦闘艦を一瞬で何隻も沈めた『魔境の怪物』と比べれば、普通の生き物と言えなくもないが……

 自分が言えた事ではないと思うが、どうにも『ミネルヴァのフクロウ』の科学者は危険な生き物を相手にし過ぎて、色々麻痺してるらしい。

 

「なんでそんなトンデモ生物が棲んでるんですか此処……というか、そのダツはなんで船を襲うんですか? 餌は小魚なんですよね?」

 

「さぁ? 『魔境の怪物』に限った話じゃないけど、この辺りの深海に棲む生物はやたら船を襲う連中ばかりなのよねぇ。普段は海深くに棲んでる種だから深海にある何かと誤認したのだと思うけど、大型種に襲われた船は大抵沈むからデータが集まらなくて」

 

「深海ですか……」

 

 船と深海。そこに何か、共通点があるのだろうか?

 考えてみるが、さっぱり分からない。そもそも船は道具であり、深海は環境だ。比較出来るようなものではない。しかし『魔境の怪物』達を興奮させる何かがあるのは、間違いないだろう。

 情報の少なさを嘆くぐらいなら、頭を働かせる方が建設的だ。考えて、考えて、考え込んで……何かヒントがないかと思って、レイナは『魔境の怪物』がいる水槽をちらりと見遣る。

 次いでレイナは、その目を大きく見開いた。

 『魔境の怪物』の幼生達が、()()()()()()()()()()。元が貧弱なのでエアポンプによる水流には負けているものの、流れの弱い隅ではゆっくりと浮上していた。もう、隅っこでダマになっている個体はいない。

 これまで幼生達はろくに動かず、自重により沈み続けるだけだったというのに。まるで、海面を目指すかのようではないか。

 

「……っ!? しゃ、シャロンさん!? 怪物の幼生が……」

 

「ん? あー、よくある事よ。船で事故が起きると時々一斉に動き出すの。でも毎回じゃないし、事故から少し時間が経ってから起こす行動だから、これも何が原因なのか分からないのよねぇ。事故がなくても行動を起こす時があるし、陸上でも見られる時があるしで……」

 

 シャロンは、本当に見飽きているのだろう。肩を竦めるだけで大して反応しない。それは彼女が鈍感なのではなく、たくさん『魔境の怪物』を研究し、慣れてしまったからだろう。

 しかしレイナは慣れていない。だからふと思うのだ。

 本当に、原因は不明なのか?

 事故があっても、必ず行動を起こすとは限らない。海どころか陸でも見られる時がある。なんとも適当な反応だ。科学というのは再現性を求めるものであるため、こうした『ランダム』な現象は扱いが難しい。調べれば調べるほど、訳が分からなくなるだろう。

 しかし発想を逆転させれば、どうだろうか?

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「しゃ、シャロンさん! 今回の事故は何処で起きたのですか!?」

 

「え? さぁ、よく知らないけど……機関室じゃない? ダンガンダツによる事故は、何故か大半が機関室狙いだから」

 

「分かりました!」

 

「え? あの、レイナ?」

 

 自分の中の衝動に従い、レイナは駆け出す。シャロンはキョトンとしていたが、レイナを止める事もなく、部屋から出ていく背中を見送るだけ。

 部屋から出たレイナの鼻を、独特な臭いが刺激する。視界も、ほんの少しだけ霞が掛かったように見えた。

 爆発事故による煙が、この辺りまで漂っていたのだろう。研究室の中は特に臭いなんて感じなかったが、扉の隙間などから多少なりと事故起因の『成分』が入り込んだ筈だ。それが水槽の水に溶け、幼生が反応したのだとすれば、事故からタイムラグがあるのは当然であろう。

 しかしこれだけでは情報がまだ足りない。

 レイナはほんの少し煙たい廊下を駆け足で進む。目指す場所は、事故現場の可能性が高い機関室。それはレイナが研究室から、()()()()()()()()の位置にあった。

 『関係者(技術者)以外立ち入り禁止』と書かれている扉が、レイナの行く手を遮る。とはいえ扉は半開きで、朦々と濃い煙が漏れ出ていた。相当大きな事故だったに違いない。修復は完了したと艦内放送で流れていたが、あくまでも応急処置であり、まだまだ作業中という可能性もある。

 しかし部外者(研究者)であるレイナは躊躇なく扉を開け、中へと突入した。

 機関室内では、轟音を鳴らしながら回る巨大な機械が室内の大部分を満たしていた。船の構造にはさして詳しくないレイナだが、一目でその巨大機械が船の動力部であると理解する。一つ当たりの大きさは十数メートルはあり、それが四つも並んでいた。あまりの大きさに、意思など持たない無機物相手にちょっと怯んでしまう。

 

「おい、嬢ちゃんどうした?」

 

 そんなエンジンを見つめていたところ、レイナは横から声を掛けられる。振り向けば、強面の禿げた男性と目が合った。五十代ぐらいの顔立ちだが、身体はとても屈強。目付きは鋭いが、浮かべている笑みはどことなく無邪気……ハリウッドスター顔負けの程良いワイルドさは、とても男性らしくてカッコいい。女性だけでなく、男性からもモテそうな人だった。

 とはいえ見惚れてばかりもいられない。彼は作業着姿で、手にはスパナが握られている。間違いなく技術者だ。事故の詳細を知っているかも知れない。

 

「あ、えと、すみません……爆発事故があったと聞きまして。もう、修理は終わったのですか?」

 

「おう、あのぐらいの爆発なら、この海じゃしょっちゅうだからな。俺達からすりゃあ、朝飯前の仕事さ……まぁ、俺の忠告を無視して船内の壁にもたれ掛かっていた怠け野郎が、ダツの穴開けに巻き込まれて病室送りだが」

 

「あ、あはは……それは、なんとまぁ……」

 

 冗談なのか、悪態なのか。ニヒルな笑みを浮かべる顔からは判断出来ない。

 しかしながら、ダンガンダツによる事故現場が此処だと確定したのは収穫だ。もっと詳しい話を聞きたい。

 

「えと、事故について訊きたいのですが……」

 

「嬢ちゃん、研究者か?」

 

「え。あ、はい。その、新人ですけど」

 

「そうか。じゃあ、こっちに来てくれ」

 

 技術者はそう言うと、機関室の奥へと歩き出す。何が何だか分からないまま、レイナはその後を追った。

 広い機関室だが、その場所に辿り着くまで一分と掛からない。

 案内された場所には、体長五メートルほどの巨大な魚が横たわっていた。

 魚はとても細長い体躯をしており、口先が槍のように尖っていた。胸ビレや背ビレは身体に比べると小さく、非常にスマートな輪郭をしている。体表面は焼き焦げていたり傷付いていたりしていたが、雰囲気から元は濃い青色だったのだと窺い知れた。目は白く濁り、ぴくりとも動かないところから、死んでいるらしい。

 大きさこそ規格外だが、間違いなく『ダツ』の姿をしている。ならばこれが、機関室に突撃してきたダンガンダツなる生物なのだろう。

 

「凄い……倒したのは、あなた達ですか?」

 

「ああ、そうだ。頭を一発殴ってな……とはいえ爆発に巻き込まれた死にかけに、止めを刺しただけだが」

 

「……犠牲者が出なくて良かったです」

 

 技術者の身が無事だと分かり、安堵するレイナ。しかし心の中では、犠牲者ゼロだとは思っていない。

 このダンガンダツも、犠牲者だ。

 確かにこの生物により事故は起きた。されどダンガンダツは人間を殺して自分も死のうなどという、人間味のある事は考えていなかっただろう。餌と思ったのか、異性と思ったのか、外敵と思ったのか……兎に角何か『勘違い』をして、突っ込んできてしまったに違いない。

 レイナは生き物が好きだ。殺し殺されの生存競争を否定しないが、こんな誰も幸せにならない事故はなくなった方が良いに決まっている。

 全ての原因を解き明かし、()()()()()()()

 我ながら傲慢だとはレイナも思うが、それが自分のやりたい事なら躊躇いはしない。レイナはそういう性格だった。

 

「……すみません。事故が起きる前には、どのような作業をしていましたか?」

 

 技術者の男に、レイナは早速質問をぶつける。

 ダンガンダツがどの程度珍しい生物かは分からないが、大きさからして『魔境の怪物』の成体より個体数が少ないという事はあるまい。ならば遭遇頻度はとても多い筈だ。

 しかし爆発事故は、少なくともレイナがこの海に来てからは、ようやく一回起きただけ。ならばその一回に、偶々何かがあったと考えるのが自然だ。

 

「いや、特に普段と変わりないぞ」

 

 尤も、技術者からの答えはこんなもので。

 されどレイナはまだ諦めない。『普段』や『普通』という言葉を使ったとしても、他人と認識が一致している保障などないのだから。正確に、具体的に聞かねばならない。

 

「具体的には?」

 

「……動力部の点検が主だ。燃料の供給に異常がないかも確認している」

 

「その際に事故とかは起きてないですよね?」

 

「当たり前だ。起きていたらしっかり報告している……精々お前さんと同じ新人が、廃棄する予定だった燃料を服に浴びた程度だ。ありゃあ三日は臭いが落ちねぇな」

 

 詳しく尋ねると、技術者はちょっぴり意地悪な笑みを浮かべながらそう答えた。

 それは、技術チームの隠蔽や腕前を僅かでも疑った事への意趣返しなのかも知れない。或いは単純に、おっちょこちょいな下っ端が居たと話したかっただけか。

 いずれにせよ大した意味などないのだろう。実際事故かといえば、そこまでのものではあるまい。状況にもよるがヒヤリハット(事故未遂)事案ですらないのなら、正規の報告には上がらないだろう。もしもシャロンのような立場ある者が尋ねたなら……恐らく答えない事。下っ端のレイナだから話した内容だ。

 それがレイナの脳裏に、一つの閃きをもたらす。

 あくまで閃きだ。確信も根拠もない、ふっと湧いてきただけの思い付きであり、軽い質問にすら答えられないほど薄っぺらなもの。

 だけど間違いなく、一歩踏み出せた瞬間だった。

 

「あ、ありがとうございます!」

 

「ん? ああ、うん?」

 

 突然のレイナの礼に、技術者は目を丸くして呆けてしまう。されどレイナは説明もせず、この場を駆け足で後にした。

 その足で向かうは、先程まで自分が居た研究室。

 

「おかえり。大発見はあったかしら?」

 

 未だ部屋に居たシャロンは、微笑ましいものを見るような表情でレイナを出迎える。レイナはその『大発見』を言おうと口を開けた。

 だが、声を出すのは躊躇う。

 確かに『答え』だと思うものは見付けた。しかし今はまだ確証がない。あくまでこれは自分の想像であり、語ったところで妄想となんら変わりないのだ。科学の世界で説を唱えるならば、まずは証明しなければならない。

 証明のために必要な事は? 勿論実験である。されどこの実験を幼体相手にしても不十分な結果しか得られまい。水面に向かった事から『誘引物質』ではあるだろうが、単に深海への目印として使っているだけかも知れないからだ。根拠としてはちょっと弱い。

 確かめるべき相手は成体。

 例え殺されるかも知れなくても、それで答えが得られるのなら――――科学者は恐れない。

 

「実験させてください。幼体ではなく、成体相手に。多分、それで彼等が船を襲う理由が分かります」

 

 故に臆さず、シャロンにそう頼み込むのであった。



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命懸けの実験

「本当に、あなた一人でやるつもり?」

 

「勿論。言い出しっぺがやるべきでしょう?」

 

 明朝。朝日が地平線近くで輝き、眩い光に満ちている甲板上にて。

 レイナが問われた事に答えると、尋ねた側であるシャロンは肩を竦めた。そういう事を訊いてるんじゃない、と言いたげな仕草に、レナはくすりと笑う。

 

()()の時、生き残るのが私よりもマグダウェル博士の方が良いじゃないですか。博士には私の身に起きた事を持ち帰ってもらわないと困ります」

 

「そりゃそうだけどー。あー、ほんと立場があるって嫌だわ……私が直に確かめたいのにぃ」

 

 合理的な科学者だからこそレイナの意見を否定出来ず、熱心な科学者だからこそ納得も出来ない。揺れる『乙女心』がなんとも可愛らしい。

 ……或いは狂的と言うべきか。

 怪物が潜む大海原に生身で乗り込もうとしているレイナを、心から羨んでいるのだから。こちらに向けてくる眼差しが嫉妬塗れで、レイナとしては居心地が悪い。少なからず気持ちが分かるのだから尚更だ。

 

「……えーっと。それにしても、このスーツちょっとぴちぴち過ぎませんか?」

 

 シャロンの視線に耐えかねたレイナは、話を変えてみる。

 これより大海原に旅立つレイナは、競泳水着のようなスーツを纏っていた。曰く怪物由来技術で作られた代物で、どんなカナヅチでも水に浮き、水流を利用する事で『加速』まで得られるらしい。水の抵抗を殆ど受けないので体力の低下も抑えられるし、保温機能も高いため水に浸かる事で起きる低体温症も防げる。便利な道具というのはレイナも分かるし、これまで見てきた組織の技術力からしてカタログスペックに嘘もないだろう。

 そう、性能的には問題ないのだが……身体に張り付くような布の所為で、身体のラインが裸と大差ないほど露わになっていた。西洋の血により発現した、レイナのワガママボディも丸見えだ。別段他人からの視線など左程気にしないが、それでも羞恥心がない訳ではない。

 しかしこちらの乙女心は、シャロンには通じてくれなかったようで。

 

「あら、似合ってるわよ?」

 

「どういう意味ですかそれ……」

 

「性的な意味で。色々意見はあるかもだけど、それが一番合理的なデザインだし、我慢しなさい」

 

 ハッキリと、臆面もなく告げるシャロン。じゃあ仕方ないなと、レイナは諦めた。羞恥心はあるが、合理性の方が上なのである。

 それでも、一つ致命的な問題を挙げるとするなら。

 

「ま、それを着てても何かあった時にはどーせ死ぬけどねぇ」

 

 けらけらと笑いながらシャロンが語るように、殆ど役に立たない事だろう。

 確かに水には浮ける。泳ぐ速さだって上がるし、体力や体温の消耗も抑えられる。

 しかし此処は脅威の生命がひしめく海。ダンガンダツのようなモンスターは、一匹二匹ではないのだ。こんな水着一枚着ていたところで、海に落ちたらあっという間に餌食だろう。

 バミューダトライアングルに棲まう怪物が秘匿出来ていたのは、『ミネルヴァのフクロウ』が隠蔽していたからというだけではない。生存者を一人も許さないほど、過酷な生態系こそが()()()()()()()()()()()()なのだ。

 

「それを言ったら普段着で良いって話じゃないですか」

 

「そうだけど、もしかすると助かるかもだし。確率が上がるならやるべき事はやった方が良いでしょ……そろそろ準備出来たみたいね」

 

 シャロンが視線を、レイナから逸らす。

 彼女が見た先にあるのは、大きなポリタンクを一つ積んだゴムボート。本来なら船が沈没した際に用いる脱出用の代物で、最大四人乗りを想定している。搭載しているのは一般的なエンジンではなく、水流転換式推進装置という、水流の流れを取り込んで推力にするというスクリュー。最高速度四十ノット……時速七十キロ以上を出せるという化け物推進機関だ。これもまた怪物由来の技術である。

 高度な先進技術があるとはいえ、海へと旅立つにはあまりに心許ない代物。しかしレイナにとってはこれが良い。

 これでなければ、恐らく『魔境の怪物』には近付けないのだから。

 

「みたいですね。じゃあ、行ってきます」

 

「はい、いってらっしゃい」

 

 今生の別れかも知れないのに、二人の会話は淡白なもの。されどこれ以上話す事などない。

 互いに、自分達の好奇心が説得された程度で止まるものではないと知っているのだから。

 レイナはゴムボートに歩み寄り、傍で作業をしていた乗組員達に話し掛ける。彼等からも乗船許可を貰い、ゴムボートに乗り込んだ。四人乗り用だけに、レイナが一人で乗る分にはかなりスペースがあった。レイナが乗ったゴムボートはクレーンで持ち上げられ、ゆっくりと海の方へと運ばれる。

 そのままゴムボートは海面まで下ろされ、最後は水面ギリギリの高さで落とされた。軽い衝撃と共に身体が揺れたレイナは、ポリタンクをがっちりと掴んで耐える。揺れはすぐに収まった。

 ゴムボートには小さなタッチパネル式の機械があり、レイナはそこに目的地の座標を入力。それだけで船は自動的に走り出し、目的地を目指してくれる。姿勢制御機能もあるので、今日のように静かな波なら航行に支障はない。

 例え行く先が怪物の棲まう領域でも、無機質な機械は躊躇わないで直進してくれる。

 

「(さぁて、ちゃんと辿り着けるかなぁ)」

 

 出来れば、可能な限りシャロン達の乗る船から離れて『実験』をしたい。そうしなければ、実験により現れるであろう生物達に船が襲われる可能性があるからだ。

 しかしあまり遠くまで進むのも、それはそれで難しい。此処は人間が立ち入りを禁じられた、魔の三角海域なのだから。襲い掛かってきた生物により、実験開始前にゴムボートが沈没させられたら目も当てられない。

 この実験をするにあたり、レイナはシャロンからアドバイスをもらっている。船が静止しているポイントから、二十キロほど先に進んだ地点……そこが安全性と実験の客観性を『両立』出来る、良い位置だと。

 両立といっても、安全性はかなり蔑ろにされている。何時殺されたとしてもおかしくない。されどそれを分かった上で、レイナは笑ってしまう。ドキドキと脈動する心臓が、恐怖ではなく興奮で激しくなっていると自覚していた。

 そんなレイナを、自然も祝福しているのか。襲い来る野生生物の姿はなく、最新鋭故に高速で走るゴムボートは無事目的地に辿り着いた。無論、人間の目には周りとなんら変わらぬ大海原な訳だが……ひしひしと全身で感じるプレッシャーは、錯覚か、事実か。

 

「……良し」

 

 感じる圧力の中で、レイナは早速『実験』を始める。

 実験と言ってもやる事はシンプル。ポリタンクの中身を海にぶちまける事。

 レイナは重たいポリタンクを、ずるずると引きずりながらゴムボートの縁へと運ぶ。本来なら持ち上げて逆さにしたいが、重くてそうもいかない。仕方ないのでポリタンクを傾けるようにして、その中身を出す。

 出てきたのは、黒くてどろりとした液体。

 水ほど素直ではないが、以外と粘つきの少ないそれは次々に海へと落ちていく。すると黒いそれは海面に浮かび、ぷかぷかと漂いながら広がっていった。厚みがないからか、かなりの広範囲に散っていく。

 レイナの推測が正しければ、この液体に『魔境の怪物』は引き寄せられる筈。

 怪物の大きさと比べればあまりに量が乏しいものの、この液体に含まれるであろう『誘引物質』を検知し、近付こうとする筈だ。こうした誘引物質がどれほど生き物を惹き付けるかといえば、例えば昆虫の場合は分子数個分でも効果があるという。『魔境の怪物』がどの程度反応するかは不明だが、昆虫と同レベルの反応性があるならこれで十分だ。

 容器を空っぽにしたレイナは、小さくため息を吐く。そして、その顔を苦悶で歪めた。

 怪物の生態を探るため……名目はあるし、恐らくこの実験による環境的問題は起きないという自信もある。シャロンもそう思ったから、この実験を許可した筈。けれども一生物学者として、自分の行いでレイナは胸を痛めた。この黒い液体は、本来決して海に投じてはならないものなのだから。

 

「……帰ろう」

 

 一通り全てを終え、力を失った声でレイナはぽつりと呟く。タッチパネルに今度は船の座標を打ち込み、ゴムボートはくるりと軌道を変えて進み始めた。

 直後、ざぶんっ、という音が聞こえる。

 

「え?」

 

 思わず音がした方へと振り返る。

 見れば、大海原に一本の『棒』が立っていた。

 なんだあの棒は。そう思って凝視すれば、棒だと思っていたものが平たい板を正面から見ていただけと気付けた。板は海面を切り裂くように、猛然と直進している。

 具体的には、レイナのゴムボート目掛けて。

 ゴムボートは走り出し、レイナがぶちまけた液体から離れていた。ところが板は液体ではなく、明らかにレイナのゴムボートを追跡している。何故? あの生物は『液体』に惹かれないタイプなのか? ゴムボートに液体は垂らしていない筈。ただの生物だとしたら、なんとかなるかも知れないけど……ぐるぐると考えたレイナは、ふと思い出す。

 空っぽになったポリタンク。

 そう、確かに空だ。空だが、粘付いた液体というのは、素直に全部出てくれるものだろうか? レイナはポリタンクの中を覗き込む。

 そこには、思いの外たっぷりと黒い液体が残っていた。容器の壁面に張り付くという形で。

 

「……へぇー。臭い物質を感知してる訳じゃないんだ。そりゃそうだよねーだって臭いだったら船の中にあるものを感知する訳ないしー」

 

 思うがまま閃いた事を呟いてみても、現実が何か変わる筈もなく。

 海面から飛び出した『板』の持ち主――――全長三十メートルはあろうかという、巨大サメがレイナ目指し突撃している状況に変化など生じる筈もなかった。

 サメと称したが、それは全体的な印象の話。そのサメには普通の種とは決定的に異なる特徴がある。口がまるでヤツメウナギやドジョウのような、筒状になっていたのだ。口先が少し下向きな事から推察するに、海底のものを食べるのに特化した種か。ずんぐりとした体躯からも、あまり機敏な生物ではないと窺い知れる。

 恐らくあのサメも『魔境の怪物』の幼生を食べるため、海底からわざわざ浮上してきたのだろう。外観的に狩りは不得手であり、左程獰猛な種ではない筈だ。レイナはホッと、安堵の息を吐く。

 ……安堵している場合ではない。三十メートル超えの身体で体当たりされたら、四人乗り用ゴムボートなど簡単に沈没するではないか。海の下には、どんな獰猛な生き物がいるか分かったものじゃないというのに。

 

「ちょ、これスピードアップとかしないの!?」

 

 どうにか設定を弄ってなんとか出来ないかと考えるも、タッチパネルを操作しても速度は上がらない。どうやら既に最高速度らしい。

 ずんぐりとしているサメは、それでもやはり海生生物らしく、僅かながらゴムボートよりも速い。段々と、レイナとの距離を詰めてくる。近付いてくる姿は、よくよく見れば金属的な光沢があった。背ビレもこのスピードで不自然なほど揺れず、固定されているように動かない。

 「あ。なんかアレ体表面が金属っぽい」……自分が当てずっぽうで言った言葉が当たったような気がして、されどそれを調べる余裕などなし。このままでは激突確定だ。船の傍で転覆されたならまだ救助してもらえるだろうが、この調子だと船から八キロほど離れた地点でひっくり返さるだろう。

 ああ、これは駄目だな。

 元より安全性は軽視していた事もあり、レイナは呆気なく諦めの気持ちを抱く。ひとまず撒くものは撒いたので、犬死にではないが、せめて実験結果は見たかった。

 そう考えた直後の事である。

 耳が痛くなるほどの、そして身体が痺れるほどの――――大爆音が轟いたのは。

 

「……いっ!?」

 

 全身に走った痺れが痛みと気付いた時、レイナはゴムボートの中でひっくり返る。ゴムボート自体も波により激しく上下し、大きく傾いて危うく転覆するところだった。サメも音と衝撃に驚いたのか、わたわたとこの場を逃げ出す。

 難を逃れたレイナであるが、それを喜ぶ事はしない。むしろそんな危機は今、頭の中から完全に消え失せていた。

 そう、人間の命なんて些末なもの。

 目の前に現れた、途方もなく大きな命に比べれば。

 

「……壁?」

 

 巨大な壁が現れた。一瞬そう思ったレイナであるが、すぐに認識を改める。『壁』は遥か彼方まで、垂直に跳び上がったのだから。

 そして大空で、ぐるぐると回転していた。

 しばらくしてざあざあと、雨が降ってくる――――否、雨ではない。口に入ったそれは塩っ辛い、海原の雫なのだから。ぐるぐると空で回るものが、己の身に纏った莫大な海水を振りまいている。

 やがて『それ』は、真っ直ぐ落ちてきた。

 

「……あ。ひぇええええっ!?」

 

 このままでは着水時の余波に巻き込まれる! 慌ててゴムボートをもっと加速させようとするが、元々出来ていない事が今更出来るようになる筈もなし。

 『それ』が拍子抜けするほど静かに着水しなければ、今度こそゴムボートはひっくり返されていただろう。

 静かな着水にまたしても呆けてしまう。が、安堵する暇もなく再び『それ』は現れた。入る時は静かな癖に、出る時はやたらと五月蝿い『それ』の行動で生じた波によりまたしてもゴムボートが上下するも、なんとか冷静さを取り戻せていたレイナは今度こそ『それ』の姿を凝視する。

 高速回転していて識別し辛い。が、放射状に伸びた五本の足が確かにある。全体的に扁平で凹凸が少なく、薄い身は刃のよう。人間が作り出した船舶よりも巨大な身体は、目的地に辿り着けなかった事を疑問に思っているかのように浮いていた。

 間違いない――――『魔境の怪物』だ。

 

「……やった」

 

 ぽつりと、声が漏れ出る。

 心の中を満たす喜びは、こんなものではない。だけど言葉に出てこない。満面の笑みで顔が強張り、身体が硬直して動かないのだから。それほどの喜びに浸っている。

 現れた『魔境の怪物』は同じ場所を出たり突入したり。どう見ても不自然な行動を繰り返していた。執拗に、何度も同じ場所に落ちていく。

 その場所は、レイナが黒い液体を撒いたところと一致している。

 つまり()()()()()()()()()()()()()()()()()という事。

 実験は、大成功だ!

 

「う、うう! やっ……」

 

 今度こそ喜びが抑えきれず、レイナは大声ではしゃごうとする。が、その声は大爆音により妨げられた。『魔境の怪物』がまたしても海から飛び出したがために。

 ただし今度は、二匹だが。

 二匹も出てきた事で、レイナの喜びは一瞬で驚きに塗り変わる。まさか二匹目も来るなんて。自分の撒いた液体の効力に驚き、確信がますます強まっていく。

 そんな人間の事など、気付いてもいないのだろう。二匹の『魔境の怪物』は、空中でごつんとぶつかり合う。接触事故か、と思った時にはまたぶつかり合い、そのまま空高く昇っていく。ある程度の高度に達した二匹は、同時に距離を取り、睨み合うように相手との間合いを保つ。

 ケンカだ。同種間の争いなど生物では珍しいものではないが、そこは怪物と怪物の闘争。そんじょそこらのケンカで済む筈もない。回転しながら飛び交う二匹は、どんどん回転速度を上げていく。するとその回転により大気が引き寄せられているのか、『魔境の怪物』が飛んだ後には白い靄……ソニックブームが渦を巻いていた。もしもあの靄に触れたなら、人間の船など跡形もなく吹き飛ぶだろう。飛行速度自体も一気に上がり、最早目の前を飛ぶ小バエのような俊敏さだ。

 それほどの速さとパワーで繰り出す攻撃は、『体当たり』。

 人間の船相手に繰り出した攻撃と変わらない? 否である。船相手に繰り出していたのはただの『移動』だ。対する此度のぶつかり合いは、明確な攻撃の意思を持ったもの。より鋭く、より集結した力の威力は、移動の比などではない。

 ぶつかり合った二匹は、衝撃波を撒き散らす。今や彼等と十キロ以上彼方まで離れていたレイナは、しかしそれでも危うくゴムボートから突き飛ばされそうなほどの衝撃波に全身が殴られた。こんなものは、本当にただの『余波』だというのに。

 最早核弾頭染みた破壊力の一撃は、されど怪物にとっては準備運動に過ぎなかったらしい。ぶつかり合った衝撃で離れた二匹の『魔境の怪物』は、一層加しながら再激突。どんどん力を増していく。

 変化するのは怪物だけではない。海上のあちこちで巨大な竜巻が起こり、暗雲が立ち込める。雷撃が飛び交い、気温が急激に上昇していく。恐らく『魔境の怪物』の回転が大気を掻き回し、その影響で気候が激変しているのだ。世界の終わりすら想起させるが、怪物二匹はようやくウォーミングアップを終えたらしい。またしてもぶつかり合い、一層強くなった衝撃波を放つ。

 被害を受けるのはレイナだけではない。竜巻により海洋生物が次々と飛び出してきた。ダンガンダツや金属サメ、虹色の巨大エビや白いワニのような生き物まで宙を舞う。水から出された生き物達は、それでも逞しさを忘れず空を泳ぐ。『魔境の怪物』が支配する世界において、この程度の騒動など日常茶飯事なのか。

 何もかもが滅茶苦茶だ。恐らく世の人々の大半は、この光景に世界の終わりを予感し、恐怖と絶望に打ちひしがれるだろう。こんな恐ろしい世界などいたくないとばかりに、自死を選ぶかも知れない。

 だが、レイナは違う。

 もっと見ていたい。もっと知りたい。もっと彼等に近寄りたい。恐怖は完全に吹っ切れて、レイナの心を満たすのはワクワクだけだ。

 されど無機質なゴムボートはレイナの気持ちなど汲まず、何時の間にやら船の傍に来ていた。レイナとゴムボートはクレーンにより引き揚げられ、甲板へと上げられる。

 

「レイナ!」

 

 そんなレイナに真っ先に駆け付けたのは、シャロン。

 レイナはここでようやく自分が船上に戻っていたと気付く。シャロンと目が合ったレイナは、真摯な眼差しを向ける彼女の想いを察した。ゴムボートから下り、引き揚げてくれた船員達への礼もそこそこ、シャロンの前に立つ。

 

「「艦長に直談判して、船を止めさせないと!」」

 

 そして二人同時に、同じ暴言を言い放った。

 そう、レイナ達が乗っている船は動いている。理由は勿論、戦い始めた『魔境の怪物』から逃げるため。あんなものの傍に居たら、どんな大型船でも余波だけで転覆しかねない。

 だが、それがどうした。

 未知の怪物の闘争、捕まえるのも一苦労な多数の生物の乱舞……それが目の前で起きていて、どうして逃げねばならない。

 あそこには、命を賭してもお釣りがくるほど『面白い』事が起きている!

 

「さぁ、行くわよレイナ!」

 

「はいっ!」

 

 呆れる眼差しを向けている船員を無視して、レイナとシャロンは駆ける。船内廊下を走る最中、シャロンが振り返り、満面の笑みを浮かべた。

 

「ああ! それにしても悔しいわね! あなたに先を越されるなんて!」

 

「えへへ。ビギナーズラックです!」

 

「それを言えば何をしても許されると思ってない? 数合わせの新人が、『魔境の怪物』の餌を、そして彼等が何故船や航空機を襲うのかも解き明かすなんて……ああ、悔しい!」

 

 心底悔しそうに、心底楽しそうに、シャロンは愚痴をこぼす。

 何もかも正直な言葉にレイナも笑みが零れ、自慢するように胸を張る。もしもシャロンの立場だったなら、自分も同じ感情を抱いたとレイナも思う。何しろこの実験で二つの謎が解けたのだから。

 自分が海に撒いた、船の燃料である『重油』によって――――



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文明論

「素晴らしい成果です。此度の結果については、今後の評価にしかと含めさせていただきます」

 

 強面を一切崩さず、しかしながら明らかに優しい言葉遣いで褒めてくる老婆こと所長。

 『ミネルヴァのフクロウ』本部にて、一番のお偉いさんに褒められたレイナはキョトンとしながら立ち尽くした。デスクに付いている所長は構わず書類仕事を続けていたが、ふとレイナが呆けている事に気付いたのだろう。再び語り掛けてくる。

 

「どうしましたか。私に褒められて、嬉しくないのですか?」

 

「ふぇあ!? い、いえ、嬉しいです! とても! た、ただ、その、色々な方のお世話になった結果だけに、私ばかり褒められるのもなんかくすぐったいと言いますか、実感が湧かないと言いますか」

 

「別にあなただけ評価するとは言っていません。シャロン含め、全員の活躍を評価しています。ただ、どうにもあなたは面と向かって言わないと、評価される事への『責任』を感じないタイプに見えましたので」

 

「(結局お説教かい!)」

 

 所長の嫌味な物言いに、レイナは心の中でツッコミを入れた。口を開かなかったのは、勿論相手が上司だからというのもあるが……小言の内容が割と的を射ていたというのもある。

 確かに、レイナは出世や評価というものをあまり気にしていない。もらって嬉しいとは思うが、責任だのなんだのは言われなければ頭の片隅に追いやられていただろう。此度の自分の成果についても同じだ。

 三十五年間誰にも解けなかった謎を解明したレイナの胸を埋め尽くすのは、自らの頭脳への自信などではなく、知的好奇心を満たした事への喜びなのだから。

 ――――『魔境の怪物』の餌は海底で噴出している石油である。

 生物学の常識からすれば、あまりに突拍子のない発想だ。しかし常識を捨て、データだけから導き出せば、そうとしか思えない。

 『魔境の怪物』は非常に大きく、そして圧倒的に強い。この強さを維持するには莫大な量のエネルギー、つまり餌が必要である。されど水産資源で彼等の個体群を養おうとすれば推定で年間九億トンという、人間の年間漁獲量の十倍近い量が必要だ。生物で身体を維持するのは、かなり厳しいだろう。仮にその生産力があれば周辺海域にも影響は見られる筈だが、そのようなデータは得られていない。

 しかし石油由来ならばどうか?

 石油は莫大なエネルギーを生み出す。人類は水力や原子力など様々な発電方法を編み出したが、未だに石油は重要なエネルギー源の一つだ。この力を利用すれば、強大な肉体も維持出来るだろう。また石油ならば文字通り湧き出すもののため、生態系の生産力は考慮しなくて良い。

 無論、これだけなら机上の空論だ。バミューダ海域の深海で噴き出す油田を見付けたならまだしも、誰一人立ち入れてすらいないのだから。しかし此度の実験……重油に惹き付けられたという結果があれば話は変わる。

 船舶や航空機には大量の石油由来の燃料が積まれている。産卵を終えた『魔境の怪物』はこの燃料を餌だと誤認し、摂食のため突撃している可能性が高い。『魔境の怪物』と同じく深海に暮らしているダンガンダツが船舶を襲うのも、同様の理由だろう。ダンガンダツは小魚を食べるが、石油も補助食品として利用、或いは小魚が群れる場所と認識しているのだ。またバミューダ海域に石油分解菌が豊富に暮らしている事も、海底から石油が溢れている証拠と言える。過去に『魔境の怪物』の幼生が藍藻を食べたという報告もあるが、恐らく藍藻に含まれる炭化水素……石油の主成分に誤反応した結果だろう。

 また、『魔境の怪物』の繁殖形態が多産多死型である事も、海底油田説を裏付ける。石油の噴出は局所的であり、その上大半のポイントは成体や大きく育った若齢個体に占拠されている筈。生まれたばかりで貧弱な幼生にはライバルを押し退ける力なんてなく、よって幼生達が利用出来るのはごく最近形成された真新しい油田のみ……見付けられるかどうか、辿り着けるかどうか、そもそも近くにあるのかどうか。生き残るのは適者ではなく、『幸運』なものだ。ハリガネムシのように宿主への寄生を偶然に頼る寄生虫が莫大な数の卵を生むのと同じく、『魔境の怪物』もたくさんの子供を産み落とす事で幸運な子孫が生じる可能性を高めていると考えられる。実験時に海上で見られた同種間闘争も、貴重な油田の奪い合いから生じたものと思えば納得だ。

 これらのデータから、レイナは『魔境の怪物』についての論文を纏め上げたのだ。

 ……尤も、論文の纏め上げは研究の入口に過ぎないのだが。

 

「あなたが書いた論文は、これから『ミネルヴァのフクロウ』にて追証が行われます。三十五年間の謎を解いただけに、ベテラン職員が全力で反論と質問をしてくるでしょう。特にシャロンは凄まじいでしょうね。あの子、そのうち『魔境の怪物』に嫁入りするんじゃないかと思うぐらい入れ込んでいましたから……覚悟しておく事です」

 

「全力って、新人への手心とかないんですか此処の人達……」

 

「手心を加えて真理に辿り着けるのなら、いくらでもそうしますが? それを裏付ける研究データを持ってくるなら検討しますよ」

 

「うへぇ……」

 

 所長から告げられる未来に、レイナは眉を顰める。

 研究というのは論文を書いて終わりではない。一般的には論文発表後、他の研究者が論文と同じ手順で実験を行い、結果が再現出来るか検証するものだ。これにより論文内に書かれていない条件 ― 或いは『悪意』 ― がない事を確かめる。万一ここで結果が再現出来ないと、「この実験なんか間違ってない? つーか捏造?」という話になり、撤回を余儀なくされる事も少なくない。

 どうにか検証をクリアしても、まだまだ学者には認めてもらえない。今度は反証が行われる。簡単に言えば、論文の正しさへの疑問を提示されるのだ。サンプル数が少ない、前提が間違っていないか、疑似相関じゃないか、相関関係があるとしても方向が逆じゃないか……出された反論にはデータを以てキッチリ答えねば、その研究は「反論を認めた」事になる。反論が正しければデータを修正し、結論を変えねばならない時もあるだろう。

 これをひたすら繰り返し、数年掛けて論文というのは完成度を高めていくものなのだ。どんな天才でも思い込みや見落としはなくならないのだから、この過程を無視する事は出来ない。

 果たして自分の論文は正しい結論に辿り着いているのか、認められるのに何年掛かるのか。

 ――――なんやかんやこれを楽しめるレイナは、根っからの『科学者』なのだ。

 

「最後に、一つ確認したいのですが」

 

 にやっと口元が弛んでいるレイナに、所長が尋ねてくる。最後に、という言葉を内心嬉しく思いながら、レイナは所長と向き合った。

 

「あなたの論文が正しかったと認められた場合、これは、人類文明の在り方すら変えかねないものです。それを理解していますか?」

 

 そして所長は念を押すように、レイナに尋ねてきた。

 ――――そう。これは、三十五年間不明だった怪物の餌が分かったというだけの話ではない。

 怪物の餌が予想通り石油だとしよう。石油は確かに大きなエネルギーを生み出すが、カロリー計算をすると実はあまり大きな値ではない。加工品であるガソリンや重油などを平均すれば、一グラム当たり精々九キロカロリー前後……脂質と大差ないのだ。なんらかの効率的な仕組みでより大きなエネルギーを引き出したとしても、この値から左程乖離はしていないだろう。

 ここから推察するに、『魔境の怪物』が一日に消費する原油量は恐らく百トンを超える。成体全体で年間一億八千万トン、全個体なら三億トンは下るまい。他にも原油消費生物がいる筈だから、バミューダ海域全体では一体何億トンの原油が噴出しているのか。

 現在、人類全体の産油量は四十億トン程度と言われている。仮に四億トンの噴出があれば、人類の生産量の一割にもなるのだ。漁獲量ほどではないにしても、やはり莫大な資源量である。加えて『魔境の怪物』は、何百万年も掛けて進化してきた生物種。原油がその間ずっと垂れ流しだとすれば、総量二千兆トンは溢れただろう。

 現在石油の起源として主流なのは『生物由来説』……古代生物の亡骸が変化したものであるという考えだ。石油を化石燃料と呼ぶのは、この説に則っての事。枯渇が心配されるのも、かつての生物が作り出したものであり、今は殆ど生成されていないという理屈だから。

 しかしながら『魔境の怪物』の存在が、この説を揺らがせる。何しろこの怪物が進化するには、推定二千兆トンもの石油を垂れ流しにする必要があるのだ。ちなみに現在の地球の植物量は、一説によると凡そ六千億トン。いくらなんでも、今の植物の三千倍以上もの量の有機物が地下に沈み込んだというのは少々考え難い。

 だとすれば生物由来説は正しくなくて、他の説が正しいのではないか。

 例えば『無機由来説』、地球の活動により石油は無尽蔵に生産されるというもの。或いは『合成菌由来説』、地球深部に潜む細菌により合成されているというもの……どちらの説にも共通するのは、石油が()()()()()()()()という点だ。次から次へと生み出されるのだから、年間生産量には限度があっても、埋蔵量は無尽蔵である。

 石油が無尽蔵だとすれば? 人類文明の在り方が大きく変わりかねない。例えば産油国は、石油が限りある資源だからこそ国際的に強い立場にある。なのに石油が無限の資源となれば、それらの国の発言権はかなり弱まるだろう。原油価格の暴落による社会基盤の崩壊、紛争やテロリストの台頭すらあり得る。資源が無秩序に溢れる事で、社会が不安定化する恐れがあるのだ。

 そして『魔境の怪物』の保護はより重要な課題となる。彼等が溢れ出す原油を消費しなければ、年間数億トンの石油が海を穢す。北アメリカ大陸近海を中心に汚染はどんどん広がり、海洋資源に致命的な打撃を与えるだろう。海が穢れたなら年間九千万トンの漁獲だけでなく、今やそれを上回ろうとしている養殖業も壊滅だ。人類はカロリー源の一角を失い、食糧の争奪から多数の餓死者を、そして内紛を生み出すだろう。

 石油が無限にあるというのは、決して夢を与える話ではない。扱いを誤れば人類文明すら滅ぼしかねない、禁断の知識なのだ。

 それを解き明かしてしまったレイナは、

 

「勿論、自分の発言には責任を持ちます。その結果人の社会が滅茶苦茶になったとしたら、私の所為だと受け入れます……それでも私は、この生き物の事を知りたかったのですから、後悔なんてありません」

 

 キッパリと、自分の考えを言葉にした。

 

「……そうですか」

 

「そうです。というか私がどんな考えでも、その論文を世間にどう発表するかは上層部の判断じゃないですか。私が決める事じゃないです」

 

 レイナが言うように、秘密結社『ミネルヴァのフクロウ』の研究者が書いた論文は、簡単には表社会に出てこない。怪物の存在を世間から秘匿し続ける事が可能で、尚且つ社会に対して有益な影響を与えると考えられるものだけが、特殊なルートで発表されるのだ。一所属研究員に過ぎないレイナには、そもそも自分の書いた論文をどうこうする権利がない。

 

「ええ、その通り。愚問でしたね」

 

 組織の規約に、所長はこくりと頷いた。

 

「話したい事は以上です。戻って構いませんよ」

 

「はい。では、失礼します」

 

「……ああ、そうそう。一つ言い忘れていましたが、検証と反証は私も行いますのでそのつもりで」

 

「……ちゃんと答えられるよう頑張ります」

 

 最後の最後で胸が締め付けられる情報に、レイナはとぼとぼと歩きながら部屋を出る。

 一人残された所長は、深く息を吐いた。

 次いで、強張っていた顔に笑みを浮かべる。デスクの棚を開き、そこからレポート用紙の束を取り出す。

 『魔境の怪物の食性について』。レポートの表紙に書かれているタイトルを見て、所長は目も嬉しそうに細めた。

 

「ふふ。どんな真実にも怯まず挑む……良い科学者の卵です。もっと優秀な科学者になってもらうためにも、しっかり論文を精査しないといけませんね」

 

 そしてぽつりと、楽しそうに独りごちるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あの怪物の生息域には莫大な石油がある、という事ですか」

 

「はい。潜入させた隊員より、そう報告がありました。如何しますか?」

 

「無論人類の発展のため、その石油は手に入れます。怪物を絶滅させてでも……と、言いたいですが、流石に相手が悪過ぎますね」

 

「よりにもよって『カテゴリーA』ですからね。我々の組織が総力を結集しても、たった一匹を移動させる事すら叶いません。石油で誘導しようにも、海上で見られた戦闘が繰り広げられた場合、災害により文明全体が大きな被害を受けると思われます」

 

「忌々しいですが、知恵あるものとして現実は受け入れねばなりません。今はまだどうしようもない……少なくとも『笛吹き男』が完成するまでは」

 

「目処は立っております。今週中にはAタイプとBタイプを同時試験し、結果の優れていた方を今月中にも運用開始します」

 

「期待していますよ」

 

「お任せください」

 

 

 

 

 

 

「「全ては、人類のより良い繁栄のために」」

 

 

 



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Species4
暴風を掻き分けて


 びゅうびゅうと、風が全身に吹き付けてくる。

 風の強さは凄まじく、油断すれば大人であろうとも吹き飛ばされそうだ。雨粒などはないが、風により舞い上がったであろう落ち葉などのゴミの数々が飛び交い、弾丸のように横切っていく。砂埃なども激しく巻き上げられ、真っ昼間にも拘わらず視界だって殆どない。周囲を知る手掛かりは、分厚い登山靴越しに感じるゴツゴツとした石の感触だけだ。

 レイナが居るのは、そんな荒れ狂う土地だった。

 今のレイナは分厚いゴーグルを掛け、身体は足首近くまで丈があるダウンジャケットを纏っている。頭にはヘルメットのように分厚い毛皮の帽子を被り、手袋も革製と、兎に角分厚く頑強な装備を身に纏っていた。いずれも荒れ狂うこの地で活動するのに適した服飾であり、極めて実用的である。

 装備のお陰で、時折飛んでくる大きめの石が当たった時以外は左程痛みは感じない。顔だって、鼻や頬がピリピリと痛いだけで、ゴーグルに守られている目はパチリと開けられた。頑丈な靴はしっかりと大地を踏み締め、前に進もうとするレイナの意思を手助けしてくれる。これらの装備がなければ、命すら危うかったに違いない。

 ……自分の真横を巨大な樹木がすっ飛んであったので、今も命は危ういが。

 

「ひぇえっ!? な、なんか木が飛んできたんですけどぉ!?」

 

「はっはっはっ! お前さんは運が良い! 一月前の『第一部隊』のメンバーの半分は、今のような物に当たって脱落してるからな! まぁ、一ヶ月前はまだまだ色んなものが残っていて、今の何倍もの数のブツが飛んでいた訳だが!」

 

 九死に一生を得て悲鳴を上げるレイナに、レイナの二~三メートル先から快活な男の声が話し掛けてきた。レイナは反射的に怯えた眼差しを男に向けようとして、しかし舞い上がる粉塵により彼の姿はぼんやりとしか見えない。

 無論、こんな暴風域に入る前にレイナと彼は顔合わせをしている。レイナの三倍はあろうかという幅広な体躯を持つ、筋肉隆々な大男だ。年齢は四十代と中年盛りだが、リンカーンのように立派な顎髭を生やし、鋭い眼差しと端正な顔立ちは野性味溢れる美形。俳優としてデビューしても、恐らく世界で通用するだろう。

 彼の名はジョセフ・ホランド。レイナと同じく『ミネルヴァのフクロウ』に所属する研究者だ。尤も本部には殆ど居らず、専ら外での研究に勤しんでいる身。今日までレイナとの面識はない。

 今日のレイナは、そんな彼の『お手伝い』として派遣されたのだ。

 

「いやぁ、助かったよ! 一週間前に作業員の殆どが『刀神(とうじん)の怪物』に食べられてしまってね! 人手が足りなかったんだ!」

 

 ……或いは『捨て駒』かも知れないが。

 

「さらっととんでもない事言ってませんかそれぇ……というか『刀神の怪物』って、事前に聞いていない怪物なのですけど」

 

「『刀神の怪物』については気にしなくて良い! アレはこの地の神みたいなものだからな! そもそも今回の仕事相手じゃないし、一週間前の出来事は不幸な事故だ! いやぁ、最初の作業員達は若くて優秀で剛胆だったが、如何せん恐れ知らずでね! 俺がちょっと目を離した隙に怒らせてしまったようだ! なんとか逃げられたが、危うく犠牲者にカウントされるところだったよ!」

 

「それ、神は神でもアラミタマって奴じゃあ……」

 

「お、それは日本の宗教観だな! 申し訳ないが俺にはちぃとばかり難しくてよく分からん!」

 

 ジョセフは楽しそうに笑いながら、暴風をどんどん掻き分けていく。なんとも恐れ知らずな人だと思うレイナだったが、自分も似たようなものだと気付いて口には出さない。

 そうした会話を続けながら進んでいると、変化は唐突に訪れた。

 歩いていたレイナは、ぼふん、という音と共に何かから抜け出たような感覚を覚える。暴風により出来ていた粉塵から抜け出たようだ。ゴーグル越しの視界も晴れ、今までろくに見えなかった周りの景色、そしてジョセフの後ろ姿が見えた。

 辺りは荒れ果てた荒野だった。背丈の短い草はあるが、樹木は見られない……いや、根元から倒れた木や、断面が汚い切り株があったので、この荒野は風により薙ぎ払われた跡地なのだと分かる。とはいえ地面よりも岩が多く、僅かな地面もさらさらに乾いているこの地では、元々木なんて疎らだったに違いないが。

 そして木々が生えていなければ、空を遮るものもない。粉塵の外はさぞ明るい……かといえば、逆にかなり暗かった。雨雲が頭上にあると言われたなら、それで納得してしまうほどに。

 レイナ達が着ている服は防水性があり、例え台風のような豪雨の中でも染み込んで身体が濡れる心配はない。それでも人間にとって雨に濡れるのは好ましくなく、レイナは無意識に空を見上げた。

 故に、彼女は目の当たりにする。

 ――――大空に、大きな鳥の影があった。

 影はとても高く、高度数百メートルの位置にあるだろうか。しかしそれでもハッキリと見えるほど大きい。恐らく翼長は()()()()()()()を超えている。

 フォルムは丸みを帯びた、スズメより少しずんぐりとしたもの。頭も大きく、なんとも可愛らしい。ただし尾羽はとても長く、身体の倍はあろうかという長さまで伸びている。薄暗さ故色合いはハッキリしないが、艶やかな空色の羽根で全身が覆われていた。

 そんな可愛らしさとは裏腹に、その身体の周辺からは稲妻のような電撃を時折迸らせている。殆ど羽ばたいていないが降下してくる様子はなく、悠々と大空を旋回していた。背中側である空に渦巻く黒雲を背負う姿は、スズメのような見た目に反して、神話的な威厳を見る者に与えるだろう。

 レイナは呆けたように、空を見上げたまま立ち尽くす。そんな彼女の傍にジョセフがやってくると、ぽんっとレイナの肩を叩いた。

 我に返ったレイナは反射的にジョセフの顔を見遣る。するとジョセフはにやりと楽しそうに、だけどその目は少し辛そうに、笑いながらこう告げるのだった。

 

「紹介しよう。『彼』が此度のターゲット……あの怪物を元の住処に戻す事が、俺達の今回の仕事さ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Species4 天空の怪物

 

 

 



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ワクワク説明会

 『天空の怪物』。

 『ミネルヴァのフクロウ』が四十二年前に発見した怪物の一種。体長五十~七十三メートル、翼長は百二十五~百七十七メートルに達する超巨大鳥類だ。

 成体個体数は推定三百五十~三百八十。生息域は陸地から遠く離れた海の上空五千メートル地点。縄張りの概念がなく、そのため決まった活動圏を持たず気ままに世界中を飛び回る。赤道付近の海域を好むようだが、南極海や北極海にも現れる事も少なくない。

 気性は極めて温厚。知能もかなり高く、中には人間(他種族)の個体識別が可能なものもいるほど。人間を気に入った個体の場合、人間の姿を見るや大急ぎで擦り寄ってくるなど非常に可愛らしい性格だ……大きさが大きさなので、擦り寄られるとジェット機でも簡単に大破・墜落してしまうが。しかしこうした性質から研究は容易で、怪物の中ではかなり生態が解明出来ている。

 例えば、彼等の食性も解明済みだ。

 『天空の怪物』の食糧は大気。文字通り空気だけを食べ、その身体となる肉を形成しているのだ。大きな口を持つが、その口で食べるのは空気のみ。『食事量』は凄まじく、一日三万トン分の空気を取り込み、同じだけの排泄を行っている。莫大な大気を出し入れしているため強力な気流が発生し、これにより彼等は常に半径八キロにもなる巨大な暴風域を纏っているのが特徴だ。

 霞を食べる仙人が如く空気を餌に出来る理屈は、腸内に特殊な共生細菌が生息しているため。共生細菌は熱合成という、光合成の熱バージョンのような生理機能を持っている。この機能により大気中の二酸化炭素・水分・窒素を化合し、アミノ酸などの栄養素を合成して繁殖。『天空の怪物』は増えた細菌を餌とする事で、間接的に大気を摂取していると考えられている。

 ちなみにこの細菌が最も活性化する温度は七十五度であり、これは生物体の体温としてはあまりに高い。

 

「即ち彼等の消化器官は、大気食に特化したものである可能性が極めて高い。とはいえ大海原の上空で暮らす彼等は死ぬとそのまま海底に沈んでしまうため、保存状態の良い死骸はこれまで回収出来ていないがね。あくまでも推測という訳だ!」

 

 そうした『天空の怪物』に関する情報を、ジョセフは目を輝かせながら語っていた。

 四方をコンクリートで固められた監獄のように殺風景なこの部屋は、『ミネルヴァのフクロウ』が突貫工事で作り上げた基地の一室だ。そして山で出会った『天空の怪物』の真下に掘られた観察基地でもある。

 建設時間は僅か十六時間。しかし最大二十人の人員を収容・一ヶ月無補給で生活するための機能を持ち、シャワールームやレクリエーションルームなども完備した立派な施設だ。怪物由来の技術を使える『ミネルヴァのフクロウ』は、時に魔法めいた事も成し遂げる。

 さて、そこで行われたジョセフの話は、彼の前に並べられた机に着く十五人の面子に向けたものだが――――うち十四人の大半はふんぞり返っていたり、くっちゃべっていたり、居眠りしていたりと、興味がない事を隠しもしていない。耳を傾けている者も半信半疑といった様子。

 ワクワクで目を輝かせているのは、レイナただ一人だ。

 

「大気食……凄いですね! そんな生物がいるなんて!」

 

「はははっ! そうだろうそうだろう!」

 

「一日三万トンだとすると、この種全体では一千万トン……ううん、子供を含めればそれよりずっと大量の大気が毎日彼等の身体を通るのですか。大気組成だけじゃなく、インフルエンザのような大気中を漂うウイルスや細菌の個体数にも影響を与えそうですね」

 

「良い着眼点だ! そう、高温だと思われる彼等の体内を通過した雑菌やウイルスは、多くが死滅する筈だ。その結果地球全体の衛生状態が保たれて」

 

「おい、何時までこのつまらない話を聞かされるんだ!」

 

 レイナとジョセフが話していると、何処からか野次が飛んできた。誰が飛ばした野次かは分からないが……誰が言ってもおかしくない雰囲気がある。聞いてるだけでワクワクするのになぁ、と思うレイナであるが、しかし彼等と自分達の感想が違うのも仕方ない。

 彼等は科学者ではなく作業員、それも『今回』が初仕事な、ほぼ一般人なのだから。

 付け加えると彼等の大半は、何処かの国で死刑判決が出された元死刑囚らしい。今回の任務を行う上で人手が必要になり、急遽集められたとか。レイナが此処を訪れる三日前には来ていて、これまで地下で『お勉強』をしていたそうだ。

 作業員達は全員が全員、凶悪な顔付きや態度という訳ではない。真摯な眼差しの者や、おどおどしている大人しそうな者もいる。そもそも死刑囚と一言でいっても国によって死刑になる基準や罪状が異なる訳で、他国から見ても『悪人』や『クズ』のような人間とは限らない。が、やはりこの場に集まった者の大半は凶悪そうで、聞いている態度も悪かった。

 とはいえ、それを「しょうがない」の一言で片付ける訳にはいくまい。何故ならこの説明会の後、彼等はすぐ仕事……怪物との接触を行うからだ。

 レイナは幾度も怪物と対峙してきたが、それでも『天空の怪物』とは初接触だからこうして話を聞いている。怪物が好きだから聞いていられるというのもあるが、それ以前に無知のまま挑むには怪物というのは危険な存在だ。知識もなく接触すれば、一瞬で殺されてもおかしくないのである。

 この説明会が、彼等の生死を分かつかも知れない。

 

「ははは。怒られてしまったし、そろそろ本題に入るとしよう」

 

 しかしジョセフは死刑囚達の不真面目さを叱る事もなく、淡々と話を続けた。

 ぶるりと、レイナは背筋を震わせる。ここで彼等を叱らないというのは、臆病だとか優しいとかではない……()()()()()()()()()()という無関心の現れ。

 レイナはまだ、いくら死刑囚相手でもそこまでの心境には達していない。彼は冷酷だから出来るのだろうか? 恐らく、否だ。彼はきっと、見捨てる事に慣れてしまったのだろう。そうなってもおかしくないぐらいに、怪物と触れ合う事は危険なのだから。

 ……自分は、果たしてそうならないで済むだろうか。或いは、何時かなってしまうのか。

 

「さて、今回の仕事に関する情報は渡した資料にも書いてある。資料の五ページを見てくれ」

 

 レイナの気持ちなど露知らずか、それとも察した上で気にも留めていないのか。ジョセフは分厚いレポート用紙の束を手に持ち、()()見るように促す。レイナは顔を左右に振って気持ちを切り替えると、すぐに資料を捲る。周りからは疎らに紙の摩れる音が聞こえた。

 ……新人向けに作られたものらしい。資料は、基本的なところから書き始められていた。

 『ミネルヴァのフクロウ』は、主に三つの任務を行う。

 一つは怪物の『調査』。この世界にどんな怪物が潜んでいるのか、世界とはどれだけ不思議に溢れているのか。未探索領域や危険エリアを探検し、それを突き止める。

 二つ目は怪物の『研究』。発見した怪物の生態を調査し、出来るかどうかは別にして、管理するために必要な情報を集める。また怪物から得られた知見を元にして、新たな技術を開発する事も含まれる仕事だ。

 そして三つ目が今回の任務である『秘匿』。社会の混乱を防ぐため、怪物の存在を隠す。そのために必要な事を行う仕事だ。

 例えば立ち入り禁止区域を制定したり、侵入者の保護を行ったり……本来の生息圏から脱した怪物を駆除もしくは誘導したり。任務の性質上怪物との直接対決も珍しくなく、非常に危険で尚且つ緊急を要する案件でもあるため、作業員の動員許可が最も下りやすい。むしろここに人手を取られているため、『調査』や『研究』に人手を回せないとも言えるのだが。今回の作業員達が新人ばかりなのも、他の封じ込めに人手が取られている影響だとレイナは聞いている。

 つまり、未熟な人員を送った結果大量の死者が出ようとも、それでもやらねばならない仕事という事だ。今回のように()()()()()()()()()()()()()()()()()時というのは。

 

「『天空の怪物』は、本来ならば大海原の上空で暮らしている種だ。しかし何故かとある個体が一ヶ月前に突如陸地に向けて進行し、そのまま上陸してインドを横断。進路上の都市を纏っている暴風で破壊しながら、此処山岳部に到達した。その後一ヶ月、これといった動きを見せず、一定範囲内を旋回し続けている」

 

「……暴風による被害は、どれほどなのですか?」

 

「現時点で死者は三百人。避難者は一万五千人を超えるとの話だ。超大型サイクロン及び不安定な超低気圧という事で隠蔽し、近隣住民には何時でも避難出来るよう呼び掛けているが……もしも彼がまた動き出し、人口密集地へと移動した場合、今回とは比較にならない被害が出るだろう」

 

 質問に対するジョセフの説明に、レイナはごくりと息を飲んだ。この基地に来るため通ってきた道中で吹き荒れていた暴風……恐らくはアレが怪物により引き起こされている風だろう。

 自分達はなんとか突破出来たが、それは此処があまり物のない『自然』の中だからだ。もしも都市部であれば、風に乗って様々な物体が飛んでくる筈である。ペットボトルのような軽い物でも速度が出れば危険だし、瓦や材木のように重たく硬い物が当たれば最悪死に至るだろう。怪物の通った都市での犠牲者数も頷ける。いや、むしろよく三百人で済んだものだと言うべきか。

 レイナとしてはその圧倒的強さに興味と感動を覚えるものだが、死刑囚(一般人)からすればただの脅威としか思えない。

 

「今回の任務は、何故か山に居着いてしまったこの怪物を本来の住処、つまり海へと帰す事だ」

 

「おいおい、マジかよ。こんな化け物ぶっ殺せば良いだろうに」

 

 ジョセフが告げた任務の内容に、死刑囚の一人が悪態を吐くのも仕方ないだろう。

 仕方ないが、『ミネルヴァのフクロウ』とて善意で怪物を生息域に帰すのではない。この組織は基本人間がこの世界で生存し続けるための研究・活動を行うのであり、必要ならば怪物の殺処分も躊躇わない。

 やらない理由は主に二つ。

 

「そうだね。それが最適解なら、個人的には反対だが『ミネルヴァのフクロウ』はそれを行うだろう。しかしそういう訳にもいかない」

 

「なんでだよ。生態系がどうたらこうたらか言うつもりか?」

 

「それも理由の一つだ。『天空の怪物』は吸い込んだ大気と共に、大量の雑菌やウイルスの除去も行っている。たった一匹でも殺した場合、年間一千万トン以上の大気浄化が滞るだう。結果的にインフルエンザなど感染症の蔓延が引き起こされ、死傷者が数千人単位で増える可能性があるのだよ」

 

「可能性ねぇ……たった一匹殺したぐらいでそうなるとは、とても思えねぇがな」

 

「はははっ! まぁ、確かにね。あくまで可能性だし、決して高いものでもないだろう。あくまでリスク要因の一つだ」

 

 言葉遣いは荒いが的を射ている作業員の意見に、ジョセフは笑いながら肯定。ジョセフの語った『一つ目の理由』は、どれほど煽ったところで所詮は可能性に過ぎない。例えどんな立場や境遇の相手からの意見でも、真っ当な意見には真摯に答えてこそ科学者だ。

 故にもう一つの、怪物を殺さない一番の理由も伝える。

 レイナにとっては最早慣れてしまった、如何に怪物が『強い』のかという点を。

 

「殺さない一番の理由は、殺せないからだ」

 

「殺せない? なんだそりゃ。怪獣映画よろしくミサイルも戦車も効かないってか?」

 

「うむ、効かないね。彼等の全身を覆う羽毛は耐熱性が高く、凡そ数万度の高熱さえも遮る。強度も頑強で、戦車砲だろうと傷一つ付かない。恐らく海中に生息している、天敵となる怪物への備えとして発達したのだろう」

 

「……いやいや、でもアレがあるだろ。核兵器が。アレでどかんと吹き飛ばせば良いんじゃね?」

 

「核でも駄目だよ。確かに水爆の中心温度は数億度に達し、『天空の怪物』の羽毛を焼き切れる。だけど彼等が纏う暴風はあまりに強く、至近距離での起爆は不可能だ。離れた位置からの爆破では、『天空の怪物』に届く頃には数千度まで下がり、効果を成さない」

 

「……マジかよ」

 

「マジだ。一応理論上では十メガトン級の水爆を十六発用いれば、暴風を剥がして焼き殺せると考えられている……それをやると環境汚染が酷い事になるだろうがね」

 

 ジョセフは楽しそうに笑いながら答える。集められた作業員達は、誰一人笑っていない。

 そしてレイナは、真面目な顔で考え込む。成程これが()()()()()()か、と。

 レイナは渡された資料の表紙に、『制圧難易度』と書かれた項目があるのを見逃していなかった。カテゴリーBは最も多くの怪物が属す区分であり、その意味では『天空の怪物』は有り触れた怪物と言えるのだろう。たった一体で大量の戦術核を要求する強さは、正しく怪物だ。

 勿論ジョセフの語る理論が正しいなら、核を使えば倒せない事はないとも言える。しかしあくまで理論上の話。核攻撃を続ければ怪物もなんらかの対処を試みるだろうし、或いは未発見の能力で対抗してくるかも知れない。きっちり合計百六十メガトンの威力で倒せるものではないだろう。

 ……ちなみに先日出会った『魔境の怪物』はカテゴリーA。あのレベルになると原理上どんな高出力の水爆でも通じないらしい。『天空の怪物』は「形振り構わなければなんとかなる」生物なのだから、「形振り構わなくてもどうにもならない」生物と比べれば遥かにマシなのだが、新人作業員には知る由もない。

 

「……信じられねぇ」

 

「信じたくない気持ちは理解出来るよ。俺も昔はそうだった。とはいえ泣き言を言っても始まらない。それに今回の作戦はあくまで彼を元の生息地に戻す事であり、倒す事が目的じゃないんだ。無理を言ってる訳じゃないから、前向きに頑張っていこう!」

 

 唖然とする死刑囚達に、ジョセフは応援するように励ます。尤も、これで元気を取り戻すような者は一人として見られない。

 彼等がどのような甘言で集められたのか、それとも強制なのか。レイナには知る由もない事だ。しかしまさかこんな、人智を超越する怪物と対峙するとは思っていなかっただろう。

 勿論彼等も道中での暴風、そして非常識なほど巨大な鳥の姿を目の当たりにした筈だが、よもやミサイルどころか核すら通じないとは考えてもみなかったに違いない。一般人にとって、『生物』とはその程度でなければならないのだから。

 

「(これにワクワク出来れば、楽しんで仕事出来るのにねー)」

 

 レイナなりの同情をしつつ、しかし無駄口は叩かない。これからジョセフが作戦内容について具体的に話すのだ。折角の情報を聞き逃すというのは、先程不真面目な作業員達に対して思ったように、自らの命綱を切り落とすのに等しい愚行である。

 一字一句逃さず、全ての情報を頭に叩き込む。それが怪物と出会う前に出来る唯一の策なのだから。

 ……資料に貼られていた『天空の怪物』の写真を見て、「まん丸お目々が可愛い~」等と即座に夢中になってしまうレイナだったが。死にたいとは思わないが、喰われて死ぬのも厭わない程度には彼女も狂人なのである。

 

「良し、じゃあ次は資料の十ページ目を見てくれ」

 

 ジョセフの言葉で我に返ったレイナは、慌てて資料のページを捲る。

 周りから聞こえてくる紙の摩れる音が、先程より随分と増えたようだった。



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空へ

 轟々と暴風が吹き荒れる荒野に、レイナとジョセフ、そして十四人の作業員達が居た。時刻は十九時を過ぎ、辺りはすっかり暗くなっている。この地に棲まう他の怪物……例えば『刀神の怪物』など……の活性が下がるため比較的安全との話だが、仕事を行う上であまり適した環境とは言えない。作業員達が突貫で点けた照明、それから頭に乗せたヘルメットのライトがなければ、今頃足下すら見えない状態だっただろう。更に全員が分厚い防護服を着て、ヘルメットまで被っているので、個人の識別も難しい有り様。

 そんな夜遅くになっても、『天空の怪物』は未だレイナ達の頭上を飛んでいた。目視なので正確とは言い難いが、昼間始めて目の当たりにした時と比べ、高度が下がっているようにも、旋回速度が落ちているようにも見えない。

 どうやら『天空の怪物』は、鳥目ではないらしい。尤も鳥目ではない鳥というのは左程珍しくもないが。それよりも、昼間からずっと飛び続けている事の方が興味深いだろう。

 

「飛び続けてますねぇ……どれぐらいの間、飛んでいるのですか?」

 

「一月前にこの地に辿り着いてからずっとだ。正確に言うなら、コイツに関しては生まれてからの十五年間絶え間なく飛び続けている」

 

「……年齢が分かっているのですか?」

 

「ああ。俺はコイツが卵から生まれた時からの親友さ。ペテロと呼んでいる。それでコイツに限った話じゃないが、『天空の怪物』は生涯空を飛び、地上や海面には降りてこないのさ」

 

 レイナが尋ねると、ジョセフはそのように答えた。マグロのようなものなのかな? と思うレイナだったが、しかし魚類であるマグロと違って、『天空の怪物』は鳥類。生涯空中生活を行う上で、一つ決定的に向いていない特性がある。

 

「……産卵時はどうするのですか? その時ばかりは流石に地面に降り立つと思うのですが」

 

「いいや、産卵も子育ても飛びながらする。彼等の繁殖方法は独特で、雌が雄の背中に産卵するんだ」

 

「えっ。でも卵を産み付けても、飛びながらだとかなりの数が落ちてしまうのでは?」

 

「卵管から分泌される粘液のお陰で、卵は雄の身体に張り付くから大丈夫さ。生まれた子供は人間の指のように動く足で親の羽根にしがみつくから、そう簡単には落ちない。ちなみに子育ては雄の仕事で、雌は産卵後は関与しない。まぁ、子育てといっても空気食である彼等に給餌は必要なく、精々天敵を追い払う程度だがね。子供は平均して五年間雄の背中で育ち、その後独り立ちする事が分かっている」

 

「へぇー……」

 

 感嘆の声を漏らすレイナ。背中で子育てをする生物というのは、両生類のピパピパやコモリガエル、昆虫のコオイムシなどでも見られるが、いずれも子供を天敵から保護するのが目的だ。『天空の怪物』のように、空中生活に特化した結果というのは珍しい。或いは元々背中で子供で育てる種だったから、生涯空を飛び続ける生態へと進化出来たのか。進化の軌跡を想像するだけで胸が躍る。

 そんな生き物にこれから()()()()のだから、わくわくが顔に出てしまうのは仕方ない。

 

「ジョセフ博士。気球の用意が出来ました」

 

 故にジョセフに話し掛けてきた作業員の方へ、レイナはジョセフよりも早く振り向いた。作業員の男とレイナの目が合うと、作業員は顔を顰める。レイナの笑顔に、思うところがあるらしい。

 尤も、作業員の言いたい事もレイナには分からなくもない。怪物との接近を楽しみにするなんて、頭のネジが外れてなければ無理だろう。普通の感性の持ち主であれば、嫌がるのが当然だ。

 

「分かった――――マイケル! クリス! 仕事の時間だ!」

 

「……了解」

 

「り、了解、です……」

 

 それはジョセフに呼ばれた、マイケルとクリスという名前の作業員も変わらない。痩せ形で頬のこけたマイケルだけでなく、筋肉隆々の禿げ頭の男であるクリスもどもりながら少し怯えを見せていた。

 本来、作業員達の仕事は機械の設置や物資の搬入などの雑務であり、あまり怪物と接する事はない。専門知識のない『ど素人』がやらかした結果、怪物が暴れ出したり、貴重なサンプルが破損されては困るのだ。言い方は悪いが、死刑囚やそれに類する人間を何処まで信用出来るのか、という話である。

 とはいえ万年人手不足なのが『ミネルヴァのフクロウ』。一体の怪物に派遣する研究員の数は出来るだけ減らしたい。そのため知能指数や技術力など複数の観点から『有能』かつ『安全』と認められた作業員を、助手として認定して研究者に付き添わせる事はよくあるという。尤も選ばれた側としては、選ばれたところで凄い褒美がある訳でもなく、作業員的にはより危険な仕事をやらされている認識のようだが。

 

「クリスはレイナと組んでくれ。レイナ、彼は今集まっている面子の中では、最も性格的に優秀な人物だ。安心して頼って良い」

 

「はい。えっと、よろしくお願いします」

 

「よ、よろしくお願い、します」

 

 レイナが挨拶すると、クリスは屈強な身体を丸めるようにして会釈。あまり死刑囚らしくない様子に、レイナは少しだけ彼個人に興味を抱く。

 

「良し、じゃあすぐに気球へと乗り込もう。時間がないからな」

 

 勿論それを尋ねるような暇はない。

 先導するように歩くジョセフの後を、レイナが真っ先に追い駆ける。

 マイケルとクリスは、レイナの後を追うように駆け出すのだった。

 ……………

 ………

 …

 轟々と、炎の音を響かせながら気球が飛ぶ。

 噴き出す炎はかなりの大きさで、よく見れば頭上に広がる気球の生地と少し接しているようだ。しかし布は燃える気配もなく、与えられる熱エネルギーを余さず受け止めている。きっと怪物由来のテクノロジーで作られた、強力な耐熱性を有す生地なのだろう。

 強力な熱により、気球は猛烈な速さで上昇していく。まるでエレベーターのようなスピードで、乗組員達に強力なGを加える。ぐっと身体が押し潰されるような感覚。内臓にも負荷が掛かり、三半規管も狂わせた。

 そうした感覚は決して気持ちの良いものではない。が、自分が今中々面白いものに乗っているのだという実感に変えてしまえば、不愉快な気持ちはぐるりと反転する。人間とは、それが出来る生き物なのだ。

 

「ふぉぉぉぉ!? 凄いこの気球ぅぅ!」

 

 故にこの気球に乗っているレイナは、喜びの気持ちが声となって飛び出した。

 

「『ミネルヴァのフクロウ』が誇る最新鋭の気球だからな。布の繊維はとある昆虫が吐く糸を使っていて、ナパーム弾の直撃にも耐える代物さ。まぁ、『天空の怪物』が本気でじゃれついたら為す術もなく破壊されてしまうがね」

 

「安心すれば良いのか、不安になれば良いのか……」

 

 ジョセフが気球の性能について説明し、それを横で聞いていた痩せ形の男マイケルがぼそりと独りごちる。クリスは何も言わなかったが、ぶるりと身震いしていた。

 二人が恐怖するのも仕方ない。今からレイナ達は、この気球で怪物に接近しようというのだから。

 レイナ達が乗る気球は非常に大きなもので、球皮(エンベロープ)の横幅は十五メートル、高さは五十メートルもある。バーナーも相応に大きく、噴き出す炎は浴びれば人間など一瞬で墨に変えてしまいそうだ。そしてレイナ達が乗るゴンドラ部分も、縦横十メートル程度の広さを誇る。尤もゴンドラには研究で使う機材も積まれているので、数値ほどゆったりとした空間ではないが。

 ジョセフが語った布の強度も考慮すれば、下手な兵器より遥かに強大な浮遊要塞と言えよう。しかしこれでも『天空の怪物』と比べれば、翼長部分ではたったの約三分の一しかない。じゃれつかれたら、確かにジョセフの言う通りになりそうだ。そして『天空の怪物』の飛行高度は海から見て高度五千メートル、レイナ達が登った山から見ても五百メートルもの高さがある。落ちればどうなるかは、言うまでもない。

 されどそんな事を悩んだところで、どうなるものではない。危険だろうがなんだろうがレイナ達は怪物の下に行かねばならないのだ。なら、楽しんだ方が『得』だろう。

 

「怖がるよりも楽しみましょうよ。これからでっかい鳥と出会うんですよ? ワクワクするじゃないですか!」

 

「なんでワクワク出来るんだコイツ……」

 

「死ぬかも知れないのに……」

 

 レイナなりのアドバイスをしてみたが、作業員二人は呆れるような表情を浮かべるだけ。生まれついての生き物好きであるレイナには、これ以上彼等をどう説得すれば良いのか分からず、口を噤むしかなかった。

 

「……そろそろ仕事の時間だ! 気を引き締めていけ!」

 

 そうして抱いた憂鬱な気持ちも、ジョセフの掛け声で胸の奥底に押し込む。

 レイナは笑っていた口を強く閉じ、着込んでいる作業着の腰部分に付けられたポーチを触った。試験管やナイフ、ピンセットに注射器など、様々な調査機器の入ったそれが、ちょっとやそっとの刺激で落ちない事を確かめる。もう一つチェックするのは腰に付けられた紐。人間の体重ぐらいは支えてくれるそれも、腰から外れない事を確認した。

 レイナがチェックを終えると、ジョセフが隣にやってきた。マイケルとクリスはレイナ達から離れて気球の操作を続け、レイナとジョセフはゴンドラから身を乗り出すほど前のめりになる。

 気球が高度を増すと、最初にレイナ達を出迎えたのは稲妻だった。

 『天空の怪物』に発電能力はない。しかし彼等が食事として大量の空気を吸い込む過程で大気分子が激しく擦れ合い、結果雷が発生しているのだ。生じた電撃は天然の雷と同等の出力があり、その電圧は数億ボルトに達するという。

 しかし恐れる必要はない。この雷は想定済み。気球は雷程度では燃えず、レイナ達が着る服にも耐電性がある。時折当たる雷などお構いなしに気球は空へ昇り続け……

 そして、ついにレイナ達は『彼』と同じ目線に立つ。

 

「――――大きい……!」

 

 レイナの口から最初に出たのは、弾んだ言葉。

 資料に書かれたデータ曰く、翼長は百六十二メートル。しかしレイナはその数字を誤りだと感じた。視覚から入ってくる情報は、この生物が何百メートルもあると訴えている。あまりの大きさに遠近感が掴めず、どれだけ離れているのか全く分からない。

 『彼』は羽ばたきを殆どしていない。まるで滑空するように緩やかな……けれども大きさを考えれば自動車よりもずっと速く……飛行をしていた。羽毛も一枚一枚がハッキリと確認出来るほど大きく、もしも一枚でも貰えれば、きっと人間一人が眠れるベッドを作れるだろう。背中には百人以上の人間が簡単に乗れそうで、それだけの大人数を乗せても微動だにしない力強さが感じられた。

 怪物に肉薄したのは、これが初めてではない。しかしこれほどの巨体に迫ったのは生まれて初めて。

 これが『天空の怪物』――――壮大なる空の王者を前に、レイナは見惚れてしまった。

 見惚れるとはつまり、頭が真っ白になって何も考えられないという事であり。

 

「ちょ……来てる来てる来てる!?」

 

 マイケルが叫ばなければ、『天空の怪物』が自分達の気球目掛け猛然と飛んでいる事にも気付けなかっただろう。

 

「うむ。全速力で後退だ」

 

「「了解!」」

 

「ふぇ?」

 

 ジョセフは即座に指示を出し、マイケルとクリスは待ってましたとばかりに返事をする。最後に間抜けな声を漏らしたのはレイナ。

 レイナだけが何も考えておらず、急速に後退を始めた気球の動きに反応出来ない。

 

「え、わ、わぎゃば!?」

 

 ゴンドラと共に身体が思いっきり傾き、レイナはごろんと転がってしまう。ジョセフはゴンドラをしっかり掴んで体勢を保ち、マイケルとクリスは姿勢制御とバーナーの火力調整を行う機器に捕まって堪えていた。レイナだけが、傾くゴンドラの中で仰向けに倒れてしまう。

 そしてそのゴンドラの横を、猛然とした速さで横切る巨影が目に映った。

 それが『天空の怪物』だという事を、怪物大好きなレイナは即座に察知。背中を打った痛みで閉じかけていた瞼をばちりと開き、その姿を目に焼き付けようとする。試みは成功し、レイナは至近距離までやってきた『天空の怪物』をしかと記憶に刻み込んだ。

 故にレイナは違和感を覚える。

 何がおかしかったのか? 考え込めば答えはすぐに出た。

 目だ。

 今し方やってきた『天空の怪物』の目が、生気が抜けたように虚ろだったのである。勿論目の印象というのは、生物によって異なるもの。人間から見て虚ろな眼差しの生物というのは珍しくない……が、レイナは作戦前の説明にて配られた資料で、『天空の怪物』の写真を見ていた。記憶の中の画像と比べてだが、現実の方がずっと虚ろだと感じる。

 何かがおかしい。

 されど現時点で異常な行動を取っているのだから、何かがおかしいのは当たり前。レイナ達はそれを調べに来たのだ。胸の中でふつふつと熱い衝動が込み上がる。

 

「何時までも寝ている暇はないぞ! 作戦を始める!」

 

「はいっ!」

 

 ジョセフの呼び掛けに、レイナは衝動のまま元気よく返事。誰の手も借りずに立ち上がる。

 無意識に握り締めていた拳を開き、レイナはジョセフ達と共に『仕事』を始めるのだった。



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好奇心は猫を殺す

 気球に乗るマイケルがその手に持つ、ショットガンのように大きな銃の引き金を引いた。

 銃から放たれたのは弾、ではなく錨。人の手ほどの大きさがあるそれは、目にも留まらぬ速さで飛んでいき……掠めるように横切った『天空の怪物』の片翼に引っ掛かった。

 錨は翼に触れた瞬間、さながらアニメのロボットが如く動きで変形。ガッチリと羽根に食い込み、ちょっとやそっとでは外れなくなった。錨から伸びるロープはぴんっと張り詰め、そのロープと繋がっている銃には怪物のパワーが伝わる。

 もしもその銃を手だけで持っていれば、力で怪物に敵う筈もなく、銃とマイケルはそのまま大空へと攫われただろう。が、銃はマイケルだけでなく、気球内に置かれた大きな台座状の装置と一体化していた。マイケルが銃から手を離しても、装置が人間では到底出せない力で銃を固定。怪物のパワーを受け止めてみせた。

 結果、気球は『天空の怪物』に引っ張られる形で動き出す。

 『天空の怪物』の飛行速度は時速三百キロ。この大きさからすればゆったりとしたものかも知れないが、生身の人間からすれば驚異的な速さだ。気球に加わった慣性は乗組員であるレイナ達にも襲い掛かる。ジョセフやクリスは大きな体躯のお陰か平然と立っていたが、軟弱そうなマイケルは蹌踉めき、華奢なレイナは思いっきり転んだ。

 一人倒れたレイナは、しかし痛みや恥ずかしさに悶える事もなく立ち上がる。急ぎ足でゴンドラの端まで移動し、身を乗り出さんばかりの勢いで気球の進行方向を見つめる。

 大空を飛ぶ『天空の怪物』は、こちらの事など気付いてもいないかのように飛び続けていた。

 

「凄い力……この大きさの気球を引っ張って飛ぶなんて」

 

「その通り、と言いたいが……それはそれで妙だな。確かに彼等の力は、俺達人間がどう足掻いても敵わないぐらい強い。だが、錨を打ち込まれて無視するほど落ち着きのある種ではないんだが」

 

 レイナが感嘆していると、ジョセフは疑問を言葉にした。言われてみればこの行為、ほんの僅かではあっても『天空の怪物』の飛行を邪魔している。攻撃的な反応を見せる、とまではいかなくても、鬱陶しそうなアクションを見せるのが自然ではないのか。

 しかし現に『天空の怪物』はこちらなど見向きもせず、延々と飛び続けるだけ。

 本来の生息地と異なる場所に居着いた時点でおかしいのは確かだが、こうした諸々の行動からも、あの巨大な怪鳥が何かしらの異常をきたしていると窺い知れた。

 

「(まぁ、最初から異常なんだけどね。この怪物の行動)」

 

 レイナは地上で聞いた話を思い返す。

 具体的には、一ヶ月間同じ場所を旋回し続けている事だ。空を飛び続けている事自体は、『天空の怪物』にはそれを可能とする生理機能があるので問題ない。しかし同じ場所をぐるぐると周り続けるというのは、明らかな異常行動だろう。嫌なものから逃げた、気になるものがあったので近付いた……いずれにしても、数時間もすれば飽きて何処かに行きそうなものである。

 説明会では縄張りの概念がないと話していたので、移動そのものへの躊躇などない筈。それに餌が大気なら、新鮮な空気を求めて移動を続ける方が合理的だ。いくら吸った分だけ新しい空気が流れ込むとしても、『排ガス』が漂う領域に滞在する事は健康上好ましくはあるまい。

 何が原因でこの場所に留まっているのか。その原因を取り除けば、怪物は海へと帰るのだろうか?

 無論、それを探るのが自分達の仕事だというのは忘れていない。

 

「よっ」

 

 マイケルは二発目の錨を撃ち、もう一方の『天空の怪物』の翼に引っ掛ける。二本の錨により固定され、気球は安定的に牽引される状態となった。

 次いでマイケルは銃を固定している気球内の機器の傍へと寄り、カチカチとボタンを押して操作。すると猛烈な力で銃はロープを巻き取り始めた。気球は僅かに加速し、『天空の怪物』との距離を詰めていく。

 やがてゴンドラから十メートルほどの距離まで『天空の怪物』と肉薄すると、マイケルとクリスは気球内に置かれていた板を手に持ち、ゴンドラ内の特殊な装置を使って横向きに固定。ボタン操作で板は伸び、ゴンドラの一部が開閉し……長さ十メートルにもなる橋を作り出した。板をもう二枚、今度は縦に固定して展開すれば、その板は手摺りへと早変わり。ものの数分で、気球から『天空の怪物』まで続く橋が出来上がった。

 

「良し、橋は出来たな。マイケル、付いてきてくれ。レイナもクリスと共に来るんだ」

 

「はい! 私、怪物の背中って始めて乗ります!」

 

「なんでこの人こんなに楽しそうなの……?」

 

「考えるだけ無駄だ。ここの科学者は変態か気違いしかいねぇみたいだからな」

 

 元気よくレイナは返事をし、クリスが疑問を言葉にし、マイケルが諦めたようにぼやく。変質者扱いされたレイナだが、自分の思想が真っ当だとはこれっぽっちも思わないのであまり気にしない。

 ()()()()()()()、今は怪物の背中に乗る方が大事だ。

 先行して橋を渡るジョセフの後を、レイナは駆け足で追う。気球と橋は『天空の怪物』に牽引されている状態なので、かなり強めの暴風が身体に吹き付けた。レイナ達が履いている靴はこうした状況を想定し、地面と強く吸着してくれるものであるが、それでも油断をすれば呆気なく飛ばされそうだ。油断しなくとも、怪物が暴れたなら気球と共に橋は大きく傾き、レイナは大空に放り出されるだろう。一応気球と繋がる命綱をしているとはいえ、なんらかの拍子に外れたり切れたりするかも知れない。

 しかしレイナは手摺りをしっかりと掴みながら臆さず進み……ついに、『天空の怪物』の背中に跳び乗った。

 靴の裏からも感じ取れる、ごわごわとした質感。羽根の一枚一枚が分厚く、弾力があるようだ。無意識にレイナはその場にしゃがみ込み、手袋を外して直に触ってみる。第一印象はゴムのような、しかし触れば触るほど生物間がある……これまで色々な鳥の羽根を触ってきたが、このようなものは初めてだ。

 

「はははっ! いきなり素手で触るとは、中々勇気があるな。もしもその羽根が強酸性の成分を含んでいたら、今頃お前さんの手は焼け爛れているぞ?」

 

 そんな無意識の行動を、ジョセフが笑いながら窘める。我に返ったレイナは慌てて両手を挙げ、勢い余ってすっ転んでしまった。恐る恐る両手を付いて、レイナは身を起こす。

 

「……無意識でした。すみません」

 

「うむ、今後は気を付けた方が良い。まぁ、『ミネルヴァのフクロウ』の科学者はどいつもこいつも似たようなものだがな。俺もコイツらの背中に初めて乗った時、思わずその羽根に顔から跳び込んでしまったものさ」

 

「うわぁ。私よりやらかしてますねー」

 

 似たもの同士だった先輩に、レイナは思わず呆れ顔。それでもジョセフは楽しそうに笑うだけだったが。

 

「さぁ、遊んでばかりいないで、そろそろ働いてもらうぞ。俺は胴体の方を調べよう。お前さんは頭の方を調べてくれ。そっちの方が調査範囲は狭いから、慣れてなくてもこなせる筈だ」

 

「分かりました。今回はサンプル採取だけで良かったですよね」

 

「そうだ。大人しい怪物だから基本的には問題ない筈だが、異常行動を取っている個体だから何が起きるか分からん。気になるものを見付けたら、触らず、俺に知らせるんだぞ」

 

 任務の内容を確認するレイナに、ジョセフは笑いながら、しかし凜とした声で答える。それだけ危険な仕事だという事だと、改めて思い起こす。

 レイナは気を引き締め、意識を切り替えた。

 調査の前にすべき事は命綱の確認。気球側で固定されているそれは、引っ張っても外れそうにない。橋の方はマイケルとクリスが色々な機材を出し、怪物の身体に固定していた。これでいざという時でも素早く逃げられる……と思いたい。

 身を守るための準備を終えたレイナは、早速数十メートル先にある頭部まで移動する。辿り着いた頭は、幅十メートルはあるだろうか。やや丸みを帯びているが、大きさのお陰でそこまで不安定でもない。

 レイナは早速その場に座り込んでサンプル採取を始める。橋の固定を終えたクリスも共に来ていて、同じくしゃがみ込んだ。マイケルはジョセフの下に居り、ジョセフは宣言通り『天空の怪物』の胴体で調査を始めている様子。

 レイナも黙々とサンプル集めに勤しむ。ピンセットとハサミで羽毛の破片を採取したり、抜けかけている羽毛があればそれを一枚丸ごと確保。分厚くて弾力のある羽毛を掻き分け、『フケ』などの皮膚片も集める。

 

「あ、こんなところにダニが寄生してる! こっちは線虫っぽい! どっちも三センチ以上もある大きな奴だぁ、可愛いなぁうへへへへ」

 

 ……ついでに時折寄生虫も見付けて、ハイになっていたが。それらも貴重なサンプルなので、全力で採取していく。決して私情は挟んでいない、つもりである。

 

「あの、一つ質問をしても、良いでしょうか」

 

 実際には夢中でサンプル集めをしていたので、レイナは助手であるクリスの問いに気付くのが少し遅れた。

 ワンテンポ遅れて振り返ったレイナに、クリスは少し驚いたように身動ぎ。身体はがっちりと大きいのに、どうにもこのクリスという男は胆が小さいらしい。とはいえ人智を超える怪物の相手をするのなら、少しぐらい臆病で慎重な方が良いだろうが。

 レイナは穏やかな笑みを向けながら、クリスの会話に乗る。

 

「ええ、良いですよ。私に答えられる事ならなんでも訊いてください」

 

「えっと、じゃあ……羽根とか虫とか集めてますけど、それで何が分かるのでしょうか?」

 

 クリスが尋ねてきたのは、今のレイナが行っている作業そのものへの疑問。

 確かに『一般人』からすれば、羽根やら皮膚やらを集めてどうするのか、とは思うかも知れない。この怪物を元の住処に帰すのが任務なのだから尚更だ。レイナはサンプル採取を続けながら、クリスの質問に答える。

 

「そうですねぇ。例えばこの羽根の成分と、昔採取された羽根の成分を比較した時、なんらかの物質がたくさん検出されたとかの結果が出るかも知れません。もしもその物質が細菌由来なら、抗生物質を飲ませる事でこの異常行動を治療出来るかも知れません。或いはなんらかの汚染物質なら、その汚染物質に引き寄せられているとか逃げているとか、ここにやってきた原因が分かるかも知れません。原因を取り除けば、自然と帰る……かと知れません」

 

「……かも知れない、ばかりですね」

 

「まぁ、生き物相手ですから。原因を取り除いたところで、帰り道が分からないとか、気に入ったとかの理由で此処に居座る可能性もありますし。最悪、此処にやってきたのはただの気紛れ、なんて事もあるかも」

 

「もし帰す方法が分からなかったら、その場合はどうするのですか?」

 

「さぁ? 水爆を十数発直撃させれば倒せるかもという話ですけど、個人的には無理じゃないかなーと思ってますし、やってしまえばそれなりの環境破壊を引き起こすでしょうからね。この地域への立ち入り禁止を強化して放置、が妥当な対策じゃないでしょうか」

 

「放置、ですか……確かにホランド博士の話だと、殺しても問題が生じる可能性があるみたいですし、それしかないというのも分かりますが……」

 

 真剣な顔付きで、『もしも』の心配をするクリス。

 ジョセフの話もちゃんと聞いていたようなので、根は真面目なのだろう。そして一般人らしく、人の社会が壊れるのは望んでいないようだ。

 不安にさせてしまったかも知れない。世間話程度のつもりで語っていたレイナは、少し居心地が悪くなった。

 

「……此処のサンプルは十分かな。えっと、何処か気になるところとかあります?」

 

「え? いや、いきなり言われても……」

 

 話題を変えてレイナが尋ねると、クリスは困惑しながら辺りを見回す。死刑囚なのにほんと真面目だなぁ、と感じたレイナはくすりと笑った。案外彼は人など殺しておらず、どこぞの国家で同性愛をしてしまった、独裁者を批難してしまった……それだけの罪状なのかも知れない。

 お喋りはそろそろ止めようと、レイナは気持ちを切り替える。今優先すべきは怪物の調査。抜けた羽根や寄生虫は採取したが、これらは健康な時にも存在するものだろう。もっと普通じゃなさそうなものはないだろうか? キョロキョロとレイナは目をあちらこちらに向ける。

 

「……ん?」

 

 そうしていると、ふと、真面目に周囲を見回していたクリスの呟きが聞こえた。

 

「どうしました?」

 

「……あっちで、何か光ったような……」

 

「光った? え、何処ですか?」

 

「あそこです。丁度頭の真ん中、いや、少し前の方に」

 

 レイナが尋ねると、クリスが指差しながらその場所を教えてくれる。

 目を懲らしてよく見てみれば……確かに、何かが光っていた。とはいえ随分と弱い光であり、羽毛が風で靡いているため隠れている時間の方が長い。十秒以上待って、ようやく一瞬光っているような気がするだけ。

 

「本当ですね……よく見付けられましたね。凄いです」

 

「え? あ、えと……恐縮で」

 

「じゃあ早速調べてみましょう」

 

 照れているのかどもるクリスだったが、レイナはそのクリスを他所に早速光の方へと歩き出す。

 如何にも怪しげな物体を見付けたのだ。それを調べずにいるなど出来っこない。一体どんなものが出てくるのか、不思議生物か、特異な体組織か。わくわくが顔に出ている自覚もないまま突き進み――――

 

「……何コレ?」

 

 正体が見えた瞬間、わくわくは違和感と疑念にすり替わった。

 辿り着いた場所にあったのは、金属の塊。

 しかも鉱石の類ではない。縦横五センチほどの正方形をした箱形で、小さなライトのようなものが付いた、明らかな機械だ。箱の四隅からは突起が伸びていて、ハサミのようになっている先端が羽根を掴んでいる。中心からは一本のアンテナが立ち、吹き付ける風で揺れていた。

 

「……これはうちの組織が付けた機械、なのですか?」

 

 レイナが観察していると、遅れてやってきたクリスが尋ねてきた。しかしレイナは答えない。答える事に頭を使いたくなかったから。

 一体これはなんなのか。

 怪物の生態調査をするため、『ミネルヴァのフクロウ』が取り付けた発信器? 恐らくそれが一番現実的な考えだろう。生態調査のため発信器を取り付けるというのは、野生動物の生態を研究する方法としてはポピュラーなものの一つだ。

 だがどうにも腑に落ちない。発信器は基本的に生物の行動を妨げないものが好ましく、その意味では小型化はすべきだ。しかし『天空の怪物』の大きさを考えれば、こんな五センチ程度まで小さくしなくても良いだろう。もっと大きくして、安定的にする方が合理的な筈。

 違和感を抱けば、途端にこれが怪しく思えてくる。具体的にどうとは答えられないが、これは、おかしい。

 

「……ホランド博士に報告しないと」

 

「……分かりました」

 

 方針を言葉にすると、クリスがこくりと頷く。レイナが抱いた違和感を察し、この機械が『異常』なものと思ったのだろう。真面目な顔が、一層真剣なものとなる。

 そんな彼の見ている前でレイナは早速発信器に手を伸ばし、

 ブチッと発信器をもぎ取った。

 

「えっ」

 

「え?」

 

 クリスが驚いたように声を出し、レイナはキョトンとする。しばし沈黙が流れ、クリスは段々顔を青くしていった。

 

「……あの、なんでその機械取っちゃったんですか?」

 

「え。だってこれなんか怪しいし、もしも元凶なら怪物が可哀想だからさっさと取っちゃえって思いまして。それに博士に直接機械を見てもらった方が早そうですし」

 

「いや、怪しいものあったら呼んでくれってホランド博士に言われてましたよね?」

 

「……あー」

 

 指摘され、レイナは目を逸らす。口から漏れ出た言葉が全てを物語っていたが、クリスは口許をひくつかせるばかり。

 再び流れる沈黙。

 

「……てへ♪」

 

「いや、何誤魔化してるんですか!?」

 

 可愛く舌を出してみたが、クリスは誤魔化されてはくれなかった。

 

「いやー、うっかりしてました。何時も割と本能で生きてますからね、私」

 

「ええぇぇぇえええ……この人科学者なのになんで本能剥き出しなのぉ……」

 

 あまりにも能天気なレイナに、クリスは顔面蒼白になりながら後退り。自分のした事分かってんの? と言われている気がして、流石にレイナも申し訳なく思う。

 とはいえこんな小さな機械だ。怪しいだのなんだの考えたが、あくまでただの推測。恐らく本当に『ミネルヴァのフクロウ』が取り付けた、生態調査用の発信器だろう。そうじゃないとしても、水爆でも一発二発じゃ倒せない怪物がこんなもので調子を狂わせる筈もない。

 そう考えていたレイナは、自分のやった事をあまり深く考えず。

 

【キョオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンッ!】

 

 能天気な状態だった脳みそには、突然聞こえてきた『雄叫び』を即座に理解するような俊敏さはなかった。

 

「……………えっと――――」

 

 今のは何? そうクリスに尋ねようとして、けれどもレイナは続きを言う事が出来なかった。

 今度は、『地面』が大きく傾いたのだから。

 反射的にレイナはしゃがみ込み、そこにあった羽根を掴んだ。クリスも羽根を掴み、振り落とされないようにしている。

 ……そう、羽根だ。レイナ達の足下にあるのは地面などではない。そこにいるのは大きな生命体。

 

【キョオオオオオオオオオオオオッ!】

 

 そしてそいつは、まるで自らの存在を誇示するように仰け反り、翼を羽ばたかせ、全身がビリビリと響くような叫びを上げる。

 流石にここまで見せられては、現実逃避しようという考えも浮かばず。

 

「……やっちゃった。てへっ」

 

 おどけてみせても、クリスはぴくりとも笑ってくれなかった。



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初体験

 謎の機械を取り除いた結果、『天空の怪物』は本調子を取り戻した。大きく広げた翼で空高く舞い上がり、真っ直ぐ、本来の住処である海へと向かう……

 

「(なんて、都合の良い展開は起きないわよねぇ)」

 

 出来ればそうなる事を祈っていたが、叶いそうにない願望をレイナはさっさと捨てる事にした。

 『天空の怪物』は未だ雄叫びを上げ、激しく翼を羽ばたかせている。大きな翼が生み出す浮力は怪物の巨体を空高く昇らせ、身体が激しく上下させていた。身体を仰け反らせる動きも相まって、強烈な慣性がレイナの身体を突き飛ばそうとする。両手で足下の羽根を握り締めていなければ、今頃レイナは空中に放り出されているだろう。

 今まで殆ど翼を動かしていなかったのだから、飛ぶために羽ばたいているのではない筈だ。苦しんでいるのか、はたまたパニックに陥っているのか。

 一番の問題は、この動きが何時終わるのかだ。

 先程うっかり取り外してしまった機械が全ての元凶で、今の『天空の怪物』はちょっとしたパニック状態というのなら、それはとても良い事だ。時間が経てば落ち着きを取り戻し、ついさっき祈っていた展開が訪れるに違いない。しかしその落ち着きを取り戻すのが何時なのかは分からないし、そもそも本当にこの機械が諸悪の根源かは不明である。

 果たしてそろそろ止まってくれるのか、それとも体力が尽きるまで暴れるのか。この場に留まってくれるとは限らず、もしかすると山を下って市街地まで降りてしまうかも知れない。超大型サイクロンという嘘が信じられてしまうほどのパワーが、都市を襲えば……

 なんとしても止めなければならない。しかしどうやって――――

 

「エインズワーズ博士! は、早く避難しましょう!」

 

 考えるレイナだったが、その思考を妨げる声が聞こえてきた。

 声が聞こえてきたのはすぐ隣。視線を向ければ、這いつくばりながら泣き顔を見せるクリスの姿が。

 一瞬どうしようかと考えて、確かに彼の言うように避難を優先した方が良いとレイナも納得する。考えるにしても対処するにしても、こんな荒れ狂う足場の上では何一つ出来っこないのだから。

 

「エインズワーズくん! 無事か!」

 

「! ホランド博士!」

 

 怪物の胴体の方を調べていたジョセフとマイケルも、レイナ達の下へとやってきた。屈んだ姿勢での移動は決して速くないが、全力で動いているのは苦悶に歪んだ顔で分かる。

 

「あ、あの、これ――――」

 

「話は後だ! 今は逃げるぞ!」

 

「は、はいっ!」

 

 反射的にレイナは機械について告げようとするも、近付いてきたジョセフは逃げる事を優先。彼の強い言葉に押されたレイナは大人しく返事をし、機械を服のポケットに突っ込んでから地上へ戻る手段である気球への退避を始めた。

 一応、レイナ達は全員命綱を付けている。故に大空へ放り出されたとしても、地面と激突してあの世へ直行、という展開だけは避けられるだろう。しかしその後は? 空中で宙ぶらりんになりながら、命綱を手繰り寄せて登る……これが如何に大変であるかは、語るまでもない。その上万が一にも『天空の怪物』の翼や足に命綱が絡み付こうものなら、強靭な力で引き千切られたり、或いは途轍もない怪力をダイレクトに身体で受ける可能性もある。

 出来れば落ちたくない。故にレイナは必死に怪物の羽毛を掴み、這いずるような体勢で前へと進んだ。クリスも同じように這いつくばり、のろのろと歩む。

 対するジョセフとマイケルは、こうした修羅場に慣れているのか。レイナ達と似たような体勢でありながら、二人の進みはレイナ達より格段に速い。

 ついにジョセフが橋に辿り着き、続いてマイケルも到着。

 

「命綱は持ったぞ! 二人とも走れ!」

 

「速くしろ!」

 

 ジョセフとマイケルがレイナ達の命綱を掴んで『安全』を確保。急いで来るよう怒鳴るように促した。

 彼等が命綱を掴んだところで、絶対に安全となった訳ではない。もしも『天空の怪物』が突然バレルロールでも始めたなら、しっかり羽根にしがみついていた方がまだ生還出来るだろう。しかしリスクを恐れて背中に乗り続ける事とどちらが危険かと言えば、間違いなく走り出した方が幾分マシだ。

 

「はい! クリスさん、行きましょう!」

 

「へぁ? え、あ、あの」

 

「ほら早く立つ!」

 

 どもり、狼狽えるクリスの肩を支えて、レイナは駆け出す。クリスの重たい身体は思うように進まず、『足場』が揺れ動くため何度も転びそうになった。しかしそれでも腰を上げた事で、這いずるよりも速く進んでいる。

 ジョセフ達から遅れる事数十秒。ようやくレイナ達も気球へと続く橋に辿り着いた。

 

【キョォオオ……アアアアア!】

 

 瞬間、『天空の怪物』がこれまでとは気迫の違う雄叫びを上げる。

 

「む、いかん! 気球の固定を外す!」

 

 その声を聞いたジョセフは、誰からの反応も待たずに気球内の装置を操作。気球と『天空の怪物』を繋いでいたロープが外れ、大空へと飛んでいく。

 まるでそれが合図であるかのように、『天空の怪物』は猛烈な速さで飛び出した!

 旋回中でも時速三百キロもの速さだったが、今はもうそんな()()()()した動きではない。全身から白い靄のようなものが噴き出している事から、音速を遥かに凌駕していると分かる。挙句その靄を出していた速さから一瞬で何倍も加速したため、今ではもうどれだけ速いのか想像も付かない。

 これが、『天空の怪物』の力だと言うのか。

 

「(十メガトンの水爆を十六発ぶつければ倒せる? 机上の空論も良いところじゃない……あれじゃあミサイルすら追い付けないわよ!)」

 

 驚異的なパワーに本能的な恐怖と、それ以上の感動を覚えるレイナ。しかし感動が焦りへと変わるのに、大した時間は必要なかった。

 『天空の怪物』は急旋回をし、レイナ達目掛け突撃してきたのだから。

 何故か? 考えるまでもない。パニック状態の中、変な生物が背中を駆け回っていて腹が立っているのだ。曰く『天空の怪物』は人間に好意的な種のようだが、しかし混乱している今、友愛を思い出してくれると期待するのは少々能天気というものだろう。

 こちらを見ている頭が大きな口を開けた――――レイナがそう認識したのと同時に、『天空の怪物』がこちら目掛け力強く飛来してくる。猛烈な速さで突撃してくる様は正しくミサイルのよう。数秒と経たずにレイナ達の下へと辿り着く筈だ。

 気球のゴンドラで待つジョセフとマイケルが何かを叫んでいたが、レイナには聞こえなかった。そこに思考のリソースを割くのは無駄だと、脳が本能的に察した……のではない。叫びが言葉と認識出来るほどの『時間』がなかっただけ。

 橋の上に居るのは、レイナとクリスの二人。ゴンドラまでの距離は約十メートルあり、このまま走って逃げようとしても、どちらも間に合わない。突撃してくる『天空の怪物』は、それほどの速さだった。

 しかし片方だけが助かる方法はある。

 レイナは無意識に、その方法を実践した。具体的には橋の上で駆け出し……自分の前を進んでいるクリスに体当たりをお見舞いする事。

 レイナ渾身の一撃は、自分より遥かに大柄な男も突き飛ばす! クリスはほんの一瞬、歩くよりも速く前へと進んでこけた。レイナとの距離が数メートルと開く。

 

「だっ!? え、エイ……」

 

 振り返ったクリスに、レイナはにこりと微笑みを

 返す前に、『天空の怪物』がレイナに突っ込んだ。

 一瞬だった。一瞬で何もかもが終わる。大きな口を開いていた『天空の怪物』は、レイナと橋の一部をそのまま口の中に突っ込んで……『天空の怪物』は通り過ぎた。

 衝撃でがたんっと気球が傾く。クリス達の身体が僅かに浮いたが、幸い振り落とされずに済んだ。気球の姿勢は設置されている機械によって自動的に修正され、十数秒もすれば安定した状態に戻る。されどそれを喜ぶ者は誰一人としていない。

 

「なんて、事だ……!」

 

「マジかよ……クソが!」

 

「え、エインズワーズ博士……」

 

 残された男達が悪態を吐けども、レイナが顔を見せる事も、返事をする事もない。

 大空を飛ぶ怪物の腹の中に、彼等の叫びなど届かないのだから……



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大脱出

「(いやぁ、まさかこうもあっさり食べられちゃうとは……)」

 

 真っ暗な『食道』を下りながら、レイナはなんとも暢気に考えていた。

 自分が今どうなっているか、自覚はちゃんとある。作業員を助けようとした結果、『天空の怪物』に食べられてしまったのだ。何も見えないのであくまでも感覚的な話だが、怪物の巨体故か食道は存外広く、全身をもみくちゃにはされていない。それでも背中側の肉がぐにぐにと動き、レイナを体内の奥へと導いていた。身体の前面ではびゅうびゅうと風が流れ、粘液で湿った顔を冷やしていく。

 食道の次にあるのは、余程変な生き物でない限り『胃』だろう。胃というのは食べ物を消化する場所。消化液の成分は生物種により様々だが、いずれも強力な分解能力を持ち、食べた物を溶かしていく。酸が来るのかアルカリが来るのかは分からないが、生身の人間であるレイナに耐えられるものではあるまい。残念ながらここまでの人生のようだ。

 ……何時かはこうなると、レイナ自身思っていた。怪物という危険生物と触れ合う仕事をしているのだから、食べられるなんてのはよくある死因の一つだろう。全身を噛み砕かれながら食べられなくてラッキーと言うべきか、生きたまま胃液で溶かされてアンラッキーと言うべきか……楽な死に方は出来ないと『星屑の怪物』の調査をしていた時に言われていたので、あまり後悔や恐怖も何もないのだが。

 むしろ生きたまま怪物の腹の中を探検出来るのは、それはそれで興味深い。どんな研究資料でも、自らが消化されていく行程を記したものはないのだから。そういう意味では、噛み砕かれなくて良かったと言えるだろう。

 

「(我ながら頭のネジ外れてるなぁ……ま、今更世間体を気にしても仕方ないか)」

 

 これが人生最後なら、好きなようにやらせてもらおう。そう考えたレイナは食道の動きに身を任せる。吹き流れる風の感覚と蠢く肉の動きを記憶に刻み込みながら、どんどん奥へと進み――――

 しばらくして身体が放り出されるような感覚に見舞われた。一秒か二秒浮遊感を味わうと、今度はぼふんという座布団のような感覚を落ちた身体で感じる。相変わらずの真っ暗闇で周りは見えないが、手足をばたつかせても何にもぶつからないぐらい開けた空間のようだ。

 そしてそれより先に身体が進む事はなく、何も起こらない時間が続く。

 ……本当に何も起こらない。何十秒か待ってみたが、全く動きがなかった。

 

「(……なんで何も起きないの? 此処、胃じゃないの?)」

 

 あまりにもイベントがないので、レイナは思考を巡らせる。己が末路を受け入れた頭は冷静そのもので、普段通りの聡明さで事態を分析する。

 まず、胃袋はしっとりと湿っている。直に触れている手はその湿り気によりべたべたしていた、が、痛みや熱さは特に感じられない。手探りで作業着の状態も調べてみたが、これといって状態が悪くなっているようにも思えなかった。強いて問題点を挙げるなら、サウナのような暑さと湿り気があって、そう遠からぬうちに熱中症になりそうな事ぐらい。

 消化というのは単純に食べ物を溶かすだけではない。生理的に考えた場合、食べるという行いは外界のものをダイレクトに体内に取り込む行程なのだ。入り込むのは栄養だけでなく、毒素や雑菌など、生体にとって有害なものも少なくない。そのため食事の際には強力な消化液を用い、こうした有害物質を滅却するという作業が行われる。消化器官の『本業』はあくまで食べ物の分解であるが、化学的な力押しにより、この段階で大半の有害物質は無力化されるものだ。

 仮に分泌されているものが人間の皮膚さえ焼けない酸だとしたら、精々お酢程度の代物だろうか? 効果がないとは言わないが、命を預けるにはあまりにも心許ない。というかそもそも食べ物の分解が出来ないのではないか? びゅうびゅうと風に吹かれる中、レイナは更に考え込む。

 そして、ふと一つの仮説を閃く。

 ひょっとすると『天空の怪物』の消化器官は()()()()()()()()()()()退()()()()()()()()()()()()、と。

 

「(そっか。空気食なら、強力な酸なんていらない筈)」

 

 『天空の怪物』の食糧は空気。しかも空気を栄養素に変えるのは、体内で共生している細菌の役割だ。最終的には繁殖した細菌を頂くにしても、それは消化器官の奥深くなど、ごく狭い領域でやれば良い事。つまり『天空の怪物』自身には、強力な酸や酵素を胃袋全体にぶちまける必要がない。やるべきなのは精々、細菌が生きやすいよう体内を高温に保つ事だけ。

 生物の進化は、不必要なものは次々と切り捨てていく。何故なら余計なものを持っているより、そのエネルギーを別のものに費やした方が競争で有利になるからだ。例えば消化液や酵素を生産するための大きな臓器を持つ個体と、その臓器を退化させて筋肉に置き換えた個体、どちらが恐ろしい天敵から逃げられるだろうか? 恐らくより逃げ足が速い、或いは捕まった時手痛い反撃が出来る、筋肉隆々の後者だろう。また食糧不足などの危機に見舞われたなら、無駄なエネルギー消費をカットした個体の方が生き長らえやすい。

 必要がないなら、消化能力など捨ててしまえば良い。人間ならば躊躇し、あり得ないと感情的に否定する方向性も、生物は適応的であれば採用するのだ。

 

「(そうだとしたら……まだ、諦めるには早そうね)」

 

 あくまでも可能性の話。されどチャンスがあるというのなら、掴まねば勿体ない。諦めていた気持ちは、ぐんぐんと盛り上がってきた。

 それに、レイナのポケットには怪しげな機械がある。

 この怪物の頭から取り外した、あの謎の機械だ。寸でのところでジョセフに渡しそびれてしまったこれを持ったまま死ぬのは、なんというか、非常に格好が付かない。それにこの機械が『天空の怪物』を狂わせた元凶ならば、調査と解明が必要だ。せめて機械だけでも、外に送り出さねばならない。

 

「……良し。ちょっと脱出、頑張ってみようかしらね!」

 

 怪物の腹の中で、レイナは力強く立ち上がった。

 さて、行動を起こす前に一呼吸。まずは考えてみようとレイナは頭を働かせる。大きな動物に食べられてしまった時の脱出方法には、どんなものがあるだろうか?

 一番簡単に思い付くのは、腹をナイフか何かで掻っ捌く事だろう。

 しかし生憎レイナの装備に、人が通れるほどの大穴を切り開けるような刃物はない。仮にあったところで……果たしてこの『天空の怪物』に通じるだろうか? モンスター映画では爆弾を食わせてドカンっというのは一つのお約束だが、どうにもレイナには()()()()()達にそれが通じるとは思えない。なんというか、ダイナマイトを食べてもゲップ一つで済まされそうな気がした。

 別の方法を探る方が良いだろう。

 

「(もっとシンプルに、正規の方法……肛門からの脱出は?)」

 

 最も自然に体外へと排泄される案を考えてみる。が、すぐにこれは却下にした。

 レイナが今居る場所はまだ安全だが、奥がどうなっているかは分からない。想像通りなら、胃袋の奥は増殖した細菌を消化するため、此処よりも危険な状態の筈。それに生物の腸内というのは大概無酸素状態であり、酸素が嫌いな細菌にとっては楽園でも、人間などの『高等生物』が生きていける環境ではない。生きては通れない環境だ。機械だけならなんとか送り出せるかも知れないので、最後の手段には出来るだろうが。

 腸をひとまず候補から外すなら、食道を登るのは? これも無理だろう。下ってきた時の力強さ、吹き付ける暴風があるからだ。ピッケルなどの道具があれば可能かも知れないが、ないもの強請りをしても仕方ない。

 考えてみても手詰まりばかり。なら、情報を探るためにしばし胃袋内の調査を進めるべきか?

 

「(……そうする余裕もなさそうね)」

 

 じわりと汗を流れた汗の所為で、この案も否定せざるを得なくなる。

 ジョセフの話曰く、『天空の怪物』と共生している細菌は七十五度の温度が最も好む。ならば『天空の怪物』の消化器官内は、恐らくこの温度で安定している筈だ。それが最も効率的に細菌を繁殖させられるのだから。

 一般的なサウナの温度が八十~百度らしいので、七十五度というのはやや(ぬる)めのサウナといったところか。裸一貫で過ごす分には物足りないかも知れないが、生憎分厚い作業着を着込んでいる今は地獄でしかない。だからといって、何が起こるか分からない生物の体内で裸になるなど自殺行為も良いところだ。万が一にも傷口などから雑菌が入れば、それこそ命に関わる。

 発汗の勢いとこれまでこなしてきたフィールドワークの経験から概算し、活動可能なのは精々十数分と判断。のんびりしてもいられない。

 策はないか。案はないか。出来れば生還したいという程度なので焦るつもりもないが、しかし考えが纏まらないとそれはそれで苛立つ。とんとんと、靴を慣らすように足が動き――――

 カチャリ、という音が鳴った。

 

「……あん?」

 

 ぴたりと、レイナは足を止める。

 足下を見ても、何も見えない。しかし足を動かしてみればカチャカチャと音が鳴り、靴越しに硬い感触を覚える。

 なんだと思い、レイナはしゃがみ込んで足下を触った。手が触れたのはスポンジのような柔らかい感触の組織……そして硬い物体が複数あった。掴んでみれば、それは厚さ数ミリの板状のものだと分かる。暗さの所為でよく見えない、この物体の正体はなんなのか。触りながら思案したレイナはふと閃いた。

 プラスチックだ。

 恐らくレイナ達が使っていた、あの即席橋の欠片だろう。レイナと共に食べられたものらしい。大きく手を振るように広範囲を探れば、かなり大量の破片が飲み込まれていると分かった。

 足下に広がるスポンジ状の組織は、こうしたゴミが奥へと行かないようにするためのフィルターか……足場のような組織の役割について考察した時、別の疑問がレイナの脳裏を過ぎる。

 

「(この子達、ゴミを飲み込んだ時ってどうするの?)」

 

 その小さな違和感が、レイナの頭脳を活性化させた。

 そう、空気食ならば雑菌やウイルスのみならず、大気中を漂う埃などの『巨大』なゴミも大量に取り込む筈。そうしたものも細菌と一緒に消化するのか? いや、レイナが『足止め』された、最も多くのゴミが集まる此処さえ消化液がないのだからそれは違う。大体ゴミと一言でいっても、その種類は千差万別。まとめて消化というのは、ちょっとばかり乱暴過ぎるし、エネルギーもたくさん必要だろう。

 面倒に考える事はない。胃袋に異物がやってきたなら、もっとシンプルな方法で良い。

 吐くのだ。例えるならば猫が、毛繕いなどでたくさん入ってきた毛玉を吐き出すように。

 

「(吐く条件は? 胃に溜まった重量? ゴミによって重さなんて全然違うじゃない! もっとシンプルな条件、空気の通り道であるフィルターが、胃の機能を阻害する要素は――――)」

 

 面積。

 ゴミがこの『足場(フィルター)』を一定面積覆った時、嘔吐が起きる筈。

 ならば、取るべき策は一つ。

 

「っ!」

 

 レイナは素早く、その場に寝転んだ。座った体勢よりも、四肢を広げた方がより広く足下の組織を刺激出来る筈だから。

 されど一分ぐらい寝転んでも、変化は起きない。これではまだ足りないのか? 巨大な怪物の胃袋からすればレイナもプラスチック片も僅かなもので、まだまだ気にする必要なんてないのかも知れない。

 もっと刺激する面積を広げなくては。

 次にレイナが起こした行動は、服を脱ぎ捨てる事。裸になったら命に関わる? それは考えなしの時の話だ。これがチャンスに繋がるなら、レイナは躊躇わない!

 靴を脱ぎ、上着を脱ぎ、ズボンも下着も全部投げ捨てる。全裸になったレイナは、これでどうだとばかりに大の字で横になった。地肌で接した胃の組織は、焼けるように熱い。しかしレイナは歯を食い縛り、これに耐える。火傷も雑菌も、今は知った事ではない。

 投げた靴が壁にぶつかったような音を出していないので、『天空の怪物』の胃袋はレイナの想像よりも更に巨大な様子。服を投げ捨てたところで、怪物からしたらまだまだ微々たるものかも知れない。

 これでも足りないか。なら今度は髪の毛を千切って撒くとか――――

 実物の命を投げ打つ事すら厭わぬレイナは、今度は女の命を撒き散らそうとする。されどその行いは寸前で必要なくなった。

 胃袋全体が、小刻みに震え始めたからだ。

 

「……ようやくかぁ」

 

 自分の目論見が成功したと知り、レイナは無意識に強張らせていた身体から力を抜いた。

 これで『脱出』は出来るだろう。されど命が助かる可能性は、やはり皆無。

 『天空の怪物』は高高度を飛行しているのだ。世の中には高度一万メートルから落ちても生還した人がいるらしいが、それは落下地点が針葉樹という、天然のクッションがあったから成し遂げられた事。レイナが調査していた場所に、そうしたものは期待出来ない。

 無論もしかするともしかするかも知れないが、具体的な奇跡が思い付かない現状、何も起きないとするのが現実的。吐き出されたレイナは地面に叩き付けられ、ジ・エンドだ。

 

「……まぁ、死体があるだけマシな死に方かなぁ」

 

 されどレイナの心に恐怖は左程ない。むしろ謎機械を()()()()()事に満足。

 やがてトランポリンのように波打つ網目状組織と、足下なら流れ込む台風すらも目じゃない爆風により、レイナの身体は空へと舞い上がる。あまりの衝撃に一瞬意識が飛んだレイナは、その後パチリと目を開き――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何故か、目の前に見知らぬ天井があるのだった。



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お見舞い

「怪物に食べられたにも拘わらず生還した人は、私が知る限りこれで二人目です」

 

 怒っているのか呆れているのか、何時も以上に眉間に皺を寄せながら『所長』が話し掛けてくる。

 レイナはその言葉を、『ミネルヴァのフクロウ』本部に置かれたベッドで寝ながら聞いていた。どう反応したら良いのか分からず、とりあえず笑って誤魔化そうとするが……表情を変える程度の僅かな動きでもギブスで固定された右足と右手、そして肋骨が激しく痛むので、すぐに顰め面に変わってしまう。

 痛みに悶えても所長は気遣いの言葉を掛けてはくれず、ふん、と小さな鼻息を吐くだけ。けれども所長の視線は右足と右腕に向けられていて、全くの無関心ではないらしい。それにこうしてお見舞いにも来てくれたのだから、感謝こそすれ悪態を吐く理由もない。

 

「(心配、してくれたのかな?)」

 

 上司の好意を、レイナは素直に受け取った。

 ……『天空の怪物』に食べられたレイナは、奇跡的な生還を果たした。ただしそれはレイナの努力の甲斐というより、数多の幸運に恵まれた結果と言えよう。

 あの『天空の怪物』はジョセフと付き合いが長く ― そう、ジョセフ曰く十五年だ ― 、彼にとても懐いていた。暴れ回っていた『天空の怪物』はジョセフの姿に気付くや、助けを求めるように気球へと急接近。ジョセフが優しく宥めると安心したのか、『天空の怪物』はジョセフの立つゴンドラの傍でしばし滞空していた。

 丁度そのタイミングで()()()『天空の怪物』は、胃の中身(レイナ)を気球の中へとぶちまけたのである。

 こうしてレイナは大空に放り出される事もなく、ゴンドラ内で迅速に救助された訳だが……吐き出された際の衝撃が凄まじく、失神してしまった。ついでに言うとゴンドラの床に叩き付けられた衝撃で肋骨を骨折し、食道を通った時変な方向に曲がったのか右足と右腕を複雑骨折。突貫工事で建てた基地に医務室がなければ、やはりあの世行きだったらしい。クリスなんかは寝ずの看病していたとかなんとか。

 ちなみに当の『天空の怪物』は、一晩経って落ち着いたのか、その後悠々と海へ帰ったそうだ。進路上の町では『暴風雨』からの避難が行われ、帰路では死傷者なしとの事。

 事態は解決し、レイナも生還。仕事は完璧に成し遂げられたのだ。

 

「いやぁ、組織のお陰様で助かりました……えと、なんか凄い骨折しちゃったんですけど、私、何ヶ月か休職とかになるんですかね……?」

 

「問題ありません。人体の回復速度を著しく向上させる薬が、我々の組織にはあります。それを飲めば一週間後には現場復帰出来るでしょう」

 

 ちなみにそんな功績を上げても、一週間で現場に戻されるようで。

 ブラック研究所だなぁ、と思うレイナ。しかし死にかけても一週間で戻れるならもうちょっと無茶出来るかな? とも頭の片隅で考えていたのだが。すぐ仕事に戻れるならば、それはレイナにとって望むところ。彼女は怪物が大好きなのであり、死をも恐れぬ狂科学者なのだから。

 『懸念』の一つは解決した。されどもっと大きな『懸念』は、まだ解決しないだろうという確信がある。

 

「あと、私が回収したあの機械……アレについて何か判明した事とかあるのでしょうか?」

 

 それでも駄目元で尋ねてみると、所長は一瞬だけ痙攣するように口許を震わせた。次いで小さくないため息を吐き、真剣な眼差しでレイナを見る。

 これだけ見れば答えは分かったようなものだが、所長は言葉でもちゃんと説明してくれた。

 

「……現在技術班が解析を進めています。現時点で判明した事は電気信号の受信・発信機能がある事、そして発信機能に関しては、最大出力を出せば人間一人感電死させられるかも知れないという事です」

 

「かも知れない、ですか……なんというか、凄い機械なのは分かりますけど、怪物相手じゃ全然効かなそうな感じですね」

 

「その通り。仮にあの機械が脆弱な体内に仕込まれたとしても、『天空の怪物』は気付きもしないでしょう。昔何処かの国の軍隊が爆弾で内側から吹っ飛ばそうとして、見事失敗した事からも明らかです」

 

「あ、やっぱ効かないんだ……えと、つまり殺傷目的ではないという事ですね?」

 

「恐らくは。無論、怪物の事をろくに知らない愚か者共の行いという可能性もゼロではありませんが」

 

 忌々しげに眉を顰め、口を閉ざす所長。挟まれた沈黙を活用し、レイナは頭の中で様々な情報を飛び交わせ、混ぜ込み、しばし思考に没頭する。

 人一人殺せるかどうかという電気では、どうやっても『天空の怪物』は殺せない。しかしただの発信器にそこまで強い電流は必要ない筈だ。それに『天空の怪物』は比較的大人しい種だが、好奇心旺盛なため積極的に近付いてくる。ちっぽけな人間達からすれば接触は命懸けであり、これだけの危険を冒してまで設置した物体に大した効果がないとは考え難い。

 何か意味があった筈なのだ。例えば電流を神経に流す事で、気分や精神を変えるような……

 

「(いずれにせよ、電流は怪物の行動に何か影響を与えるためのものと考えられる。問題は、心当たりが多過ぎる事ね)」

 

 生息地からの不可解な移動、同じ場所をぐるぐると旋回し続ける行動、外した後のパニック状態……異常行動を挙げれば切りがなかった。共通点があるかもと考えたが、どうにもそれを見付ける事も出来ない。

 そもそもこれらの行動は、全て機械を取り付けた者達の思惑通りなのだろうか?

 どんなに理論的な式を組み立てようと、さらりと予想を超えてくるのが生物というものだ。ましてや相手が人智を超える怪物となれば尚更である。機械は完璧に働いたかも知れないし、まるで仕事をしていなかったかも知れない。『天空の怪物』の異常行動はヒントになる筈だが、どれが『正しい』のか、或いはどれが『間違い』なのか分からなくては使い物にならないだろう。

 やはり機械の役割を知りたいなら、機械自体を調べるのが一番だ。『ミネルヴァのフクロウ』にはそれが出来る技術者がおり、解析自体は難しくない筈である。

 ……現物がちゃんとあれば、の話だが。

 

「あなたの持ち帰った機械の状態がもう少し良ければ、電流の波形や出力パターンを調べられたようなのですが」

 

「うぐ。で、ですよね……すみません……」

 

 食べられた際の、そして吐き出された時の衝撃により、レイナが確保していた小さな機械はボロボロに壊れてしまった。おまけに脱出時の衝撃で飛び散ったのか、はたまた怪物の胃袋に残っているのか、パーツが幾つか欠損しているらしい。

 壊れているだけならまだしも、パーツそのものが足りないというのは致命的だ。そのため解析は難航、機能の完全な解明は恐らく出来ないとの事だった。

 無論残骸だろうがなんだろうが、持ち帰らなければあの謎機械がどんなものだったのかすら知り得なかったのだ。手掛かりを持ち帰った時点で大手柄である。

 

「……これは小言ではなく事実を述べただけです。あなたが気にする必要はありません」

 

 だからこそ、所長もバツが悪そうに訂正したのだろう。

 

「なんにせよ、これ以上はあなたが関わる案件ではありません。解析を進めるのは技術部、なんらかの組織の関与が疑われた場合は政務部と保安部が担当します。あなたに今後何かをお願いするとすれば、第一発見者として当時の状況を尋ねる程度でしょう」

 

「……了解しました。忘れないようにしつつ、職務に戻ります」

 

「結構。他に何か質問はありますか? なければ、私もそろそろ仕事に戻りますが」

 

 所長に尋ねられ、レイナは僅かに考える。少なくとも今この瞬間、『天空の怪物』に付けられていた機械について確認したい点はない。

 強いて言うなら、個人的な疑問が一つだけある。

 だから訊かなくても何も問題はないのだが、些末な話でも分からない事を分からないままにしておくのはあまり好まない。レイナに限らず、科学者とはそのような人種である。

 本当に些末な疑問なので、どうせなら訊いてしまおう。

 

「じゃあ、一つだけ……怪物に食べられて助かったのは二人目との事ですけど、一人目はどんな人だったのですか?」

 

 そう思ったレイナは、世間話のように話を振った。

 所長はレイナの質問に一瞬キョトンとした表情を浮かべ、次いで呆れるように顔を顰める。それから唇を僅かではあるが尖らせ、不機嫌さを露わにした――――割には、あっさりと話し始めたが。

 

「……そうですね。まず、彼女はとても偏屈で」

 

「へぇ。女性なんですか」

 

「意地が悪く、人使いも悪く、口も悪い」

 

「はぁ……ん?」

 

「かなり歳は取っているけど未だ元気で、当分くたばりそうにない」

 

「……へ、へぇ……」

 

「そしてこの前一生懸命書いた『魔境の怪物』の論文をこっぴどくこき下ろされたのが悔しいから、何時かぐうの音も出ないような凄いやつを書いてやる。というかコイツ絶対友達とかいないでしょ、付き合い悪そうだし」

 

「……………」

 

「と、あなたが思っているであろう人物です」

 

 ぺらぺらとかつてないほど饒舌に、所長は一気に語りきる。

 気付けば、所長は今まで見せた事もないようなにやついた笑みを浮かべていた。対するレイナは顔を引き攣らせ、苦笑いしか出来ない。

 所長が言うような人物に、心当たりはある。あるが、まさか目の前に居るというのは想定外。なんと答えるべきか、人類の中でもそれなりに優秀な頭脳でも答えが導き出せず、歪んだ口から出るのは乾いた笑いだけ。

 

「私も昔はやんちゃをしたものです。そうそう、言い忘れていましたが此度の始末書は明日までに書いてください。私自らが確認します……これから、しっかり可愛がらせていただきますからね」

 

 所長はご機嫌な口調でそれだけ言うと、すたすたと病室を後にする。

 所長が部屋から出て、残されたレイナはぐたりと項垂れた。顔は未だ引き攣ったまま、笑みも乾いたまま。

 

「……気に入られた、という事なのかなぁ」

 

 上司に好かれる。どちらかといえば良い事なのに、レイナは喜べない。

 どう考えてもあの所長の言う『可愛がる』は、女子のそれではなく、体育会系のノリとしか思えないのだから――――



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Species5
緊急任務


 レイナが『天空の怪物』の調査から帰還してから、早五日が過ぎた。

 有無を言わさず飲まされた怪しげな薬の効力のお陰か、怪我はもうすっかり良くなっている。歩き回る事に支障はないし、食事も難なく行える状態だ。寝込んでいたのは実質丸二日間ぐらいなもので、気分的にはもう何時でも仕事に戻れる。全治二~三ヶ月は掛かるであろう骨折が数日で治るというのは、最早魔法染みた効力と言えよう。

 とはいえ劇的な回復には副作用が付きもの。感じていないだけで、身体はかなり疲弊しているとレイナは医師から説明を受けていた。身体が鈍らない程度の、具体的には部屋の中を歩き回る程度の運動は推奨されたが、猛獣ひしめく森の中を探索するような激しい動きはNG。要するに基本安静にしていろという話だ。

 気持ちは元気なのに休まされるというのは、それはそれでしんどい。

 

「……暇だなぁー」

 

 故にレイナは療養生活に飽きてしまっていた。医務室のベッドの上で寝転がり、すっかり治った足をぱたぱたと動かしながら不満をぽつりと呟く。

 その声に、医務室に居た白衣姿の男が反応した。無精髭を生やした強面の、恐らく四十半ばの彼は、レイナの声を聞いて顔を顰める。レイナの愚痴を快く思っていない事を隠しもしない。

 当然であろう。彼こそが、レイナを診察した『医者』なのだから。

 

「……死にたいなら止めはしないぞ。自覚は出来ないだろうが、未だにお前の身体はボロボロだからな」

 

「別にまだ現場に出たい訳じゃないですよ。弱った身体じゃ足引っ張っちゃいますし。でも暇なんですー」

 

「だったら寝ていろ。全く、なんで此処の研究者はどいつもこいつも狂人ばかりなんだ」

 

「人の事狂ってる呼ばわりは酷くないですか?」

 

「化け物に食べられたのに、また化け物に会おうとする奴が狂ってる以外の何かだとは到底思えねぇよ」

 

 レイナとしては軽口を、医者としては恐らく真剣な、そんな言葉を交わし合う。確かに彼の言う事は至極尤もで、それなりにレイナも自覚してるが、他人に言われるのと自覚するのはまた違うものなのだ。ぷっくり頬を膨らませ、不満をアピールしてみる。

 なんとも子供染みたレイナの反応に、医者は大きなため息を吐く。

 しかし彼はそれを窘めたりはしない。代わりに見せた行動は、部屋の隅にある自身のデスクに歩み寄る事。おもむろに引き出しを開けた医者は、その中から一冊の本を取り出した。非常に分厚く大きな本で、大人の男でも持ち運ぶのが辛そうな代物である。

 最早筋トレに使えそうな代物であるそれを、医者はレイナの方へと投げてきた。ぼすん、と落ちたそれをレイナの胸を圧迫。元気な身体に小さなダメージを与える。「安静にしろって言ってた癖に……」と愚痴りつつ、レイナは投げ付けられた本の表紙を見た。

 『200X年X月 組織内研究新論文』

 この言葉を見た瞬間、不機嫌な気持ちは跡形もなくレイナの胸から消し飛んだ。

 

「ぴゃああぁっ!? こ、これもしかして先月発表された怪物研究の纏め!?」

 

「ああ。正確には怪物だけじゃなくて、怪物の生息域に棲む生物全てだがな。お前ら狂人科学者を黙らせる、一番良いアイテムだ。それでも読んであと二日間大人しくしていろ」

 

 まるで子供をあやすような言い方をしてくる医者だったが、今のレイナにそんな事はどうでも良い。研究者であるレイナは怪物研究の論文を自由に読める立場であるが、わざわざ最新の研究を探して読むのは一苦労だ。それに未知の塊である怪物は毎月、いや、毎日大量の論文が発表されている。こうした目録がなければ、全てを網羅するというのは難しい。

 等々読みたい()()()()()()理由はあるのだが、レイナ個人としては大好きな怪物について新しい事を早く知りたいという純粋な好奇心が最優先。一瞬で本の虜となったレイナはいそいそと表紙を捲り、まずはどんな論文が出たのかを把握すべく目録に目を通す。

 次の驚きは、読んで数秒と経たずにやってきた。

 

「……凄い。ここ半年に新発見された怪物の報告だけで、三つも論文がある」

 

「半年で三種は多いな。年に二~三種ぐらいが普通なんだが」

 

「普段でも、二ヶ月に一度は新種が見付かってるんですね……あ、どれもカテゴリーAだ」

 

「流石に人が入りやすい環境の怪物は、もう粗方見付かってるからな。発見される新種は深海だとか密林だとか地下だとか、どれも前人未踏の地の奴等ばかり。過酷な場所に棲むからか、とんでもない化け物だらけだ」

 

 恐ろしいもんだよ、と言う医者。レイナとしては新発見の怪物というのは実にワクワクするが、どうにもこの医者は科学者ではなく一般人寄りの考えらしい。

 毎年毎年新種が見付かるからには、まだまだこの星には数えきれないほどの怪物が棲んでいるのだろう。人間の繁栄が如何にちっぽけで、砂上の楼閣でしかないと思い知らされる。

 この星は人のものではない。

 レイナが心からわくわくする言葉は、人によっては絶望なのだ。なら、怪物と人間の共存というのは……

 

「(まぁ、いっか。それを考えるのはお偉いさんとか広報や工作班の仕事だし)」

 

 頭の中を過ぎる『もしも』。されどレイナは大して気に留めない。

 怪物が人間に滅ぼされるかもという状況なら、レイナは真剣に考えただろう。しかし現状は逆だ。人類がすべきは怪物達のご機嫌を損ねず、見逃してもらう事しかない。勿論環境破壊を繰り返せば生態系が崩壊し、人間でも数多の怪物を絶滅させられるだろうが……その場合人類は、致命的なしっぺ返しを喰らう事になるだろう。

 怪物との共生など、()()()()()()にも程がある。自分達は生かされている側なのだ。

 しかし誰に、どんな風に生かされているかは、やはり知っておくべきだろう……建前を考えつつ、本音を言えば怪物についてもっと知りたいだけのレイナは再び本の世界へ。『終末の怪物』の新分類体系、『祝福の怪物』を活用した食糧増産計画、『疫病の怪物』から得られた新たな抗生物質、『』――――どれもこれも目を惹くタイトルだ。どれから読もうかと悩み、全て気になるなら最初から読もうとページを捲った

 

「レイナ・エインズワーズ!」

 

 刹那、医務室に大きな声が響き渡る。本に夢中で油断していたレイナは、跳ねるように声の方へと振り返った。

 向けた視線の先に居たのは、所長。

 余程急いでいたのか、所長は息を切らしていた。服も乱れていて余裕が感じられない。何か、重大な話をするために訪れたというのはすぐに察せられる。

 

「療養中に申し訳ありませんが、次の任務です。一時間以内に支度を終え、現場に向かいなさい」

 

 故にレイナは所長の命令に左程驚かない。

 あくまでレイナは、であるが。

 

「ま、待て! コイツは一週間は安静なんだぞ! あと二日は最低でも休ませろと言った筈だ!」

 

 所長の突然の命令に、医者は怒鳴るように反論した。人の命を預かる者として、怪我した当人が愚痴って言うならいざ知らず、上司が部下に命じるのは許せないのだろう。

 しかし科学者という合理的思考の持ち主である所長が、なんの理由もなく職員の命を危険に晒す筈もない。医者が文句を言っただけで翻るほど、軽い気持ちで語られた訳がなかった。

 

「無茶と非常識は承知しています。ですが、その上で仕事を頼まねばならない状況なのです」

 

「コイツ一人寝ていたから何がどうなる!? 世界が終わるとでも!?」

 

「世界の定義にもよりますが、その認識で凡そ問題ありません」

 

「……っ!?」

 

 恐らくは勢いで言ったであろう医者の言葉を、所長は真剣な顔で肯定。まさかそんな返事が来るとは思わなかったのか、医者は声を詰まらせた。

 怯んだ彼の脇を通り、所長はレイナが寝るベッドの傍までやってくる。

 次いで所長はレイナに、分厚い書類の束を手渡そうとしてきた。息を飲んだレイナは、読んでいた本を脇に置き、書類を受け取る。ぺらぺらと神を捲り、中身を読んだ。

 それだけで、所長が此処に来た理由は分かった。

 

「現在、世界各地で怪物の急激な活性化が確認されています」

 

 紙に書かれていた内容は――――世界各地で起きた()()()()()()()についての報告だったのだから。

 

「世界、各地……具体的には何処が……」

 

「恥ずかしながら把握出来ていません。今も救援要請がひっきりなしに私の下に飛んできて、件数は増え続けています。ほぼ全ての職員が封じ込め作業に入っていますが、人手がまるで足りていないのです。このままでは怪物の存在を秘匿しきれないどころか、文明崩壊も視野に入れねばなりません」

 

「なんてこった……マジかよ……」

 

 唖然とする医者は、もう所長を止めようとはしない。顔はすっかり引き攣り、瞳が小刻みに震えていた。

 研究者ではないからこそ、彼は怪物が恐ろしい存在だと理解している。それでいて怪物と深く関わる立場故に、彼等が自然界の奥底で穏やかに暮らしていたからこそ人間は『支配者ごっこ』が出来たのだと分かっているのだ。

 本当の支配者が暴れ回れば、それだけで人類文明など一夜と掛からずに滅び去る。

 終わりの予感。死の恐怖……感覚としては医者が抱いている想いが人間として一番『普遍的』なものだろう。恐怖で部屋の隅に縮こまるか、絶望で膝を屈するか、使命感に燃えて立ち向かうか。どうなるかは人それぞれでも、そうした心と行動になるのが普通だ。

 だが、レイナは違う。

 

「(凄い……凄い! 何が起きているんだろう!)」

 

 レイナの心に真っ先に噴き出したのは、好奇心。

 無論人類文明が滅びるかも知れないという恐怖や、大勢の人を助けなければならないという責任感もある。科学者とは、自然界のルールを解き明かし、人類の発展に寄与するのが責務。一科学者としてレイナもその想いは常に胸に秘めているのだ。

 されどそれを差し置いて、子供の心が彼女を突き動かす。

 どうして世界中で一斉に怪物が活性化したのか? それは自然な事なのか、不自然な事なのか。不自然ならば何が起因か、自然ならばその意義は――――考えても考えても答えは出ず、考察にすら至れない妄想が頭を埋め尽くしていく。

 もう、我慢など出来ない。

 

「行きます! いえ、行かせてください!」

 

 レイナが満面の笑顔と共にその答えを返すのに、迷いなどなかった。

 

「おま……だから一週間は安静だと言って……!」

 

「無駄ですよ。彼女、私に似てますから」

 

「……マジかよ」

 

 足掻きとばかりにレイナを引き留めようとする医者だが、所長の一声で彼はすっかり言葉を失った。どうやら所長の()()()()()()というのは、『ミネルヴァのフクロウ』では有名らしい。

 恐らく組織内でもとびっきりの狂人と同類扱いされてしまったが、元より人からの評価など大して興味がないレイナ。そもそも対人関係など気にしている時間はない筈だ。

 所長もそれを分かっているようで、医者を黙らせた後は即座に説明を再開する。

 

「あなたには日本の北海道に向かってもらいます。日本は母国でしたよね?」

 

「ええ、まぁ……生まれも育ちも関東ですから、そこまで詳しくはないですが」

 

「通訳が必要ないなら問題ありません。通訳を付ける人手すら惜しいのですから」

 

 所長はそう言いながら、次の資料――――写真を数枚取り出し、レイナに渡してきた。

 レイナはすぐに写真を見つめる。

 そこに映るのは『異形』の生命体。これまで様々な生物を見てきたレイナであるが、写真のような姿の生物は初めて目にした。成程、これが次の仕事相手かと理解し、口許が僅かに弛む。

 

「これが次の相手……この子はどんな生き物なのですか?」

 

 まずは相手の情報把握。どうせ謎ばかりだと思うが、大きさや分類、食性などを少しでも把握しておきたい。そうした知識が身を守り、そして怪物の生態を解き明かすヒントとなるのだから。

 ところが。

 

「データはありません」

 

 所長から返ってきたのは、そんな一言のみ。

 ……未知の方が多いのなら兎も角、ないとはどういう事か? 全く予想していなかった返答に、レイナは固まる。医者も固まる。沈黙が医務室内を満たした。

 その沈黙を破るのは、唯一固まらなかった所長のみ。

 

「臨時識別名『異形の怪物』……あなたに任せるのは、今し方発見されたばかりの新種の怪物なのですから」

 

 憮然とした顔で告げてきた『情報』に、流石のレイナも頬を引き攣らせてしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Species5 異形の怪物

 

 

 



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小さな一歩

 新種の怪物の存在が確認されたのは、今から十二時間前の事。

 日本の北海道に広がる大森林……怪物はそこに突如として現れた。その森はこれまで怪物どころか猛獣も確認された事がない、ごくあり触れた人工林である。維持管理や研究は民間が行っており、『ミネルヴァのフクロウ』による専門的データや調査記録は一切ない。噂話などの曖昧な目撃例もないらしい。

 インターネットや行政文書、一般的な学術論文で確認出来る事――――それが新種の怪物及びその生息地について『人類』か把握している全てだ。

 要するに。

 

「なーんにも分からないって事よねぇ……こりゃ調べ甲斐がありそうだわ」

 

 自分の置かれた現状を正確に把握したレイナは、口では悪態を吐きつつも、好奇心でキラキラと輝く笑みを浮かべていた。

 小高い丘の上に立つレイナの目の前には、大きな森が広がっていた。背負うリュックサックの位置を直すために軽く跳び、次いでレイナは麓に広がる森をじっくりと眺める。

 森と言っても此処にあるのは人工林で、生えているのは材木用の杉ばかり。今の季節は秋の終わり頃だが積雪はまだなく、濃い緑が地平線の彼方まで続いていた。空には雲一つなく、朝日に照らされた森全体がキラキラと輝き、細かなところまでよく見える。どの木もかなり高く伸びているのは、林業の人手不足により適切な時期に伐採出来ていないからか。等間隔に同じ背丈の木々が並ぶ姿は美しいものだが、あまりにも秩序立った姿は『不自然』の極み。

 あたかも、その不自然を蹂躙でもしているのか。

 地平線の近く……レイナ達から数十キロほど離れた場所に、『そいつ』の姿はあった。手に持つ双眼鏡を覗き込み、レイナは『そいつ』をじっくりと観察する。

 周りに立つ木々の大きさから推定して、全長は五十~六十メートル程度。形は球体。全身が雪のように白く、他の色合いは染み一つ見られなかった。目や口どころか手足も確認出来ず、触角や尾羽も見られない。見方によっては可愛らしいとも思える球体だ。あの玉がどんな感触なのか……是非とも確かめたい。

 尤も、周りの木々を吹っ飛ばすほどの勢いで回転していなければ、の話だが。

 巨大球体はごろごろと転がっていた。人工林を忌むかのように吹き飛ばし、次々と杉の木が空を飛ぶ。大きく育った杉ならば一本当たり凡そ一~二トンの重さがある筈だ。それが空を飛ぶのだから、回転による破壊力が如何ほどかは語るまでもない。

 人智を超える圧倒的なその力は、怪物と呼ぶしかあるまい。そして白くて丸い姿は、一体なんの生物と分類的に近しいのか全く分からない。考えれば考えるほど感じる奇妙さは、これまで出会ったどんな怪物にもなかったもの。

 『異形の怪物』……正にこの名が相応しい生命体だ。

 そんな奇妙で奇怪な生物を、文字通り世界で始めて調査する。生き物大好きなレイナにとって、これ以上ないほどワクワクさせてくれるシチュエーションだ。正直、今すぐ全力ダッシュで駆け寄り、その圧倒的なパワーを間近で見たい。

 とはいえこれでも二十を過ぎた大人の身。ちょっと深呼吸して気持ちを落ち着かせれば、迂闊に近付けば一瞬で粉々に吹き飛ばされると分かる。

 突撃する前に確認すべきは、自分の『手札』がどんなものであるかだろう。突撃は他に方法がないと分かってからで遅くない。

 レイナはくるりと後ろを振り返る。

 

「な、なん、なん……」

 

「ひぃぃぃぃ……」

 

 そこにはガタガタと全身を震わせている、作業着姿の若い男女が二人居た。どちらもアジア系、いや、日本人なのは、漏れ出ている声のニュアンスから分かる。男の方はアスリートのように引き締まった身体を持つ好青年、女は黒髪で大人しげな雰囲気の美人であり……二人とも顔色を真っ青にしていた。

 この二名がレイナの『異形の怪物』研究をサポートする作業員である。此処に来るまでに読んだ資料によると、彼等は今回が初任務らしい。研修なども途中で切り上げられ、実戦投入されたとかなんとか。怪物の資料もろくに読ませてもらえていないとなれば、本物を前にして恐れ慄くのも無理ない。

 二人は死刑囚どころか犯罪歴もない人物で、能力的にはかなり優秀だと渡された資料には書かれていた。本来なら十分な教育を受けさせ、簡単で安全な任務で経験を積ませ、保安部などの実働部隊に昇格させる予定だったとも。そんな人材を未熟なまま、下手すれば使い捨てにする現場に投入するというのは、余程事態が逼迫しているのが窺い知れた。

 ……そして作業員は()()()()()()()()()()

 

「(そりゃまぁ、人手が足りないのは分かってますけどー)」

 

 割り振られた戦力の乏しさと不確実さに、レイナは肩を落とす。

 仕方がないとは思う。世界中で同時多発的に怪物が暴れ始めたのだ。封じ込めるにしても、研究者と作業員が大量に必要である。加えてカテゴリーAやBのような怪物は一体で文明を破壊しかねない存在であるし、カテゴリーCやDでも伝染病などで同等の被害を出しかねない種もいる。そうした文明そのものを脅かす存在の封じ込めを優先するのは当然であるし、絶対失敗出来ないのだから戦力は多めに配分せざるを得ない。

 未知の存在である『異形の怪物』は詳細なカテゴリーや能力は不明だが、大きさや動きの激しさからカテゴリーCと推定されている。伝染病や毒素などは不明だが、回転する動きの中で何かを撒き散らす様子はなく、仮に体内に猛毒があっても周辺は汚染されていないだろう。少なくとも接近しただけで死ぬという事態はない筈だ。

 推定だのだろうだの筈だの、不確定要素ばかりだが、兎にも角にも現時点ではコイツが一番『マシ』なのだ。あーだこーだと文句を言ったところで、もっと過酷な現場に送り込まれるだけである。

 文句を言う暇があったら、さくっとあの怪物が現れた謎を解くべきだ。

 

「……良し。えっと、すみません!」

 

 まずは大切な仲間と意思疎通を図ろう。そう考えたレイナは、未だ震えている作業員二人に声を掛けた。呼ばれた瞬間二人は跳ねるように驚き、その声がレイナのものだと分かると引き攣った表情でレイナを見る。

 端的に言って、二人の作業員が浮かべているのは助けを求めるような表情だった。

 

「な、なんですかぁ……わ、私達、なんでこんなところにぃ……」

 

「えー、その、単刀直入に言いますとあの怪物の研究を行います。そのためのお手伝いをしてほしくて」

 

「あ、あんな怪物の研究なんて無理だ! 近付いたら、つ、潰される!」

 

「うぅ……実家の借金を返すために命懸けの仕事をするとは聞いていたけど、こんなところで死ぬなんてぇ……」

 

 レイナの説明に、いきなり拒否感と絶望を露わにする二人。どうやら女の方は借金返済を出しに、『ミネルヴァのフクロウ』にスカウトされたらしい。男の方も恐らく似たようなものだろう。

 ご愁傷様、と言うのは色々洒落にならないので止めておく。それに彼女達の命を無下に扱うつもりはないのだ。諦めムードの二人に、それだけは分かってもらう必要がある。

 

「可能な限り安全には配慮しますし、人体実験のような真似もしません。あなた達にお願いする作業は、基本的には安全なものです」

 

「そ、そうは言うが……でも……」

 

「確かにあのような怪物の活動圏内での作業ですし、怪物がどのような行動を起こすかは未知数のため、必ずしも命の保証は出来ませんが……それでも、やらなければならない理由があります」

 

「……理由?」

 

「私達がここであの怪物の謎――――どうして突然この場所に現れたのか、何処に向かおうとしているのか、どうすれば止められるのか。それを突き止めなければ、人類文明そのものが危うくなります。私達が、やらねばならないのです」

 

 真っ直ぐに見つめながら、レイナは躊躇いなく答えた。

 本心からの言葉。作業員二人はそれをどう思ったのか、互いに顔を見合わせ、しばし黙りこくる。

 やがて一人が頭を掻き毟り、もう一人がレイナにいくらか引き締まった顔を見せた。

 

「……分かった。逃げたってろくな事にないんだから、腹を据えてやってやる」

 

「わ、私も、頑張りますぅ……」

 

 二人の返事は、レイナにとって最高のものだった。

 

「ありがとうございます!」

 

「とりあえず自己紹介だ……ぼくは伊吹(いぶき)平治(へいじ)。よろしく」

 

「私は木村(きむら)道子(みちこ)です。その、よろしくお願いします……」

 

「私はレイナ・エインズワーズです。名前は洋風ですけど、産まれも育ちも日本なので同郷ですね。よろしくお願いします」

 

 平治と道子の名前をしかと記憶し、レイナは名乗りながら自らの手を前に出す。

 先に平治がその手を掴んで握手し、道子が続いて握手。強張り、震えていた二人の顔に、僅かだが笑みが戻った。相変わらず諦めは感じさせるが、しかしその諦めに身を委ねているようには感じられない。いざとなれば足掻いてやるという、生き物としての信念が確かにある。

 今の二人になら、大事な仕事も任せられるだろう。『頼もしい作業員』を得られたレイナも力強い笑みを浮かべた。

 

「じゃあ、早速お仕事をしましょう。はいこれ」

 

 なので早速、レイナはその手に持っていた双眼鏡を道子に渡す。

 

「……えっと……これは?」

 

「うちの組織で開発した双眼鏡です。時間と観測対象の速度が分かります。これであの怪物を観察して、時間毎の速度変化を記録してください。あ、用紙はこちらにお願いします。説明書はこれです」

 

「あ、はい……うわ、分厚い……」

 

「伊吹さんは空気のサンプルを採取してください。恐らくなんの変化もないと思いますが、それを確定させるために必要です。という訳でこれが空気のサンプルを採取するための容器です。蓋を押せば穴が開いて、中に空気が入り込む仕掛けです。とりあえず一度に五ヶ所ずつ、五分置きに三回お願いします」

 

「お、おう……」

 

 一通り説明された道子と平治は、目を丸くしてキョトンとなる。

 そんな二人の視線の前で、レイナは背負っていたリュックを下ろし、カメラと画材を取り出す。

 

「私は怪物のスケッチ及び撮影を行います! 何か奇妙な事があったら声を掛けてくださいね!」

 

 そして胡座を掻いて座り込むと、宣言通りスケッチと撮影を始めた。

 何枚か写真を撮った後、レイナはカメラの望遠機能を用いて怪物の姿を詳細に確認。見えたものを記憶し、鉛筆を紙の上に走らせる。スケッチは写真のように正確ではないが、写真と違って観察時に見せた一瞬の出来事を記憶から書き込めるもの。そうした一瞬の動きが生物の謎を解き明かすヒントにもなるのだ。

 カリカリ、カリカリ。時折背筋を伸ばし、パシャパシャと撮影。それからまたスケッチを始める。

 レイナが黙々と作業しているのを見て、道子と平治も作業を始める。道子は双眼鏡を覗き込み、一定間隔で紙に速度を書き記す。平治も丘のあちこちで大気を採取し、ラベルに日付を書き込んでから箱にしまい、また五分後に大気を採取。

 特に会話もなく、黙々とこれを続ける。ひたすら続ける。大きな動きもハプニングもなく、粛々と。

 ……地味だな、これ。

 ……なんか測量っぽい。

 何処からともなくそんな声が聞こえてきた気がするレイナだったが、研究とは関係ないので無視した。



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肉薄

 

「うん。良い写真がいっぱい撮れたぁー」

 

 自分の撮影した怪物の画像データを眺めながら、レイナは悦に浸った声を漏らす。口から涎が零れそうになり、画面が汚れぬよう素早く拭う。

 十五分間の観察で撮影した画像データは約五十枚。基本的には球体が高速回転しているだけの、ワンパターンな画像ばかり。見た目の上では、どの画像も大差ない。

 しかしレイナからすれば異なる。回転の向き、動き、木の飛ばし方、そこから予測される力強さ……全てが好奇心を刺激した。出来る事ならこの回転する身体に跳び付き、弾き飛ばされてその破壊力の強さを探りたいところだ。無論それをすると更なる秘密と触れ合えないので脳内シミュレーションを行う。無数の自身が粉微塵に吹き飛ばされたが、それはレイナに恐怖ではなくワクワクを与える。

 

「うへ、うへへへへ……」

 

「「うわぁ……」」

 

 結果笑い声が漏れ続けていると、それを見ていた道子と平治が軽蔑した声を上げる。声に気付いてレイナが振り向けば、二人は随分とレイナから距離を開けていた。

 丘から降りるほど離れてはいないので『逃亡』の心配は必要ないが、だからといって距離を取られて嬉しくもならない。レイナはむすりと唇を尖らせる。

 

「ちょっとー、なんでそんな退いてるんですか」

 

「いや、だって、あんな化け物の写真見ながら笑っていたら……」

 

「誰だって退く。というか、あんた楽しんでないか?」

 

「勿論楽しんでいます!」

 

「即答っ!? 人類文明の危機はどうした!?」

 

「そっちはお仕事です! 怪物研究もお仕事ですけど私の心を満たすものです!」

 

「開き直った……」

 

「マッドサイエンティストじゃないですかぁ……」

 

 散々な言われように、レイナはますます唇を尖らせる。一応彼等とは上司と部下の関係だが、レイナ的にはまだまだ自分も新人のつもりなので、敬意が足りない事についてはどうでも良い。しかし相手がどれだけ驚異的な存在だろうと好きなものは好きなのだ。それを否定される事は容認し難く、不機嫌にもなるというものである。

 とはいえ楽しんでばかりいられないのも事実。平治が話したように、人類文明の危機には変わりない。悦に浸るのはそろそろ我慢し、真面目に研究せねばならない。

 深いため息と共に鬱屈した感情を吐き出し、気持ちを一新。平治と道子に集めてもらったデータを並べ、レイナはしばし考え込む事にした。

 まず、大気の情報。

 平治から検査キットをもらい、片手に収まるサイズの機械にセットする。これは収集した容器をセットすると中の空気を解析し、詳細な情報を表示してくれるもの。精度や検出出来る物質に限度はあるが、野外でも簡単に使え、何よりすぐに結果が表示される。信じ過ぎるのは良くないが、素早く情報を得たい時には便利だ。

 平治には五カ所から三度大気を収集してもらっており、それぞれの空気を解析。出てきた結果によれば、大気成分に大きな異常は見られない。大気中の細菌やウイルスの大まかな数を示すタンパク質値も一般的な水準だ。怪物が伝染病や毒ガスをばらまいている可能性と、なんらかの化学物質や細菌類に引き寄せられて現れたという可能性が低くなる。

 次に道子が調べた、怪物の速度。

 十五分間の観測により、平均移動速度は時速四十キロ程度と分かった。また怪物とレイナ達の距離も、現時点で凡そ十五キロほど離れていると判明する。進路は真っ直ぐレイナ達の方。そろそろ場所を移した方が良いだろう。

 この四十キロという速度は、さて、どう判断すべきか。怪物の移動速度としては、非常に遅いような気がする。体調が悪くてゆっくりにしか動けないのか、はたまた本気を出していないのか。『異形の怪物』の身体能力がどの程度か分からない現状、こうだと明言するのは難しい。

 まだまだ調査が足りない。

 それを実感するも、しかしどうしたものかとレイナは悩む。変化があるまで遠距離から観察し続けるというのも、時間があるなら良い手だろう。されどそうもいかない。

 

「(確か、此処から町までの距離って二十キロぐらいしかないのよね……)」

 

 此処がごくごく一般的な人工林であり、人里から左程離れていないという事だ。

 仮に直線距離でこの森から町まで二十キロあるとしても、時速四十キロという速さならば三十分で到達する。うろちょろしてくれるなら数時間掛かるかもだが、今のところ怪物の動きは直線的。寄り道はあまり期待出来ない。

 深夜なら兎も角、朝から昼に掛けてこの巨大生物が町の近くまでやってきたら、たくさんの人に目撃されるだろう。怪物の存在は白日の下に晒され、人類社会はパニックに陥る。いや、そもそもこんな巨大生物が町に侵入すれば、大勢の犠牲者が出かねない。時速四十キロというのは車やバイクなら簡単に逃げきれそうな速さだが、怪物は家も曲がり角も全部踏み潰して直進出来るのだ。地形次第では果たして逃げきれるかどうか……

 素早く情報を集めるためには、やはり接近したい。しかし動きがあまりにも激し過ぎるため危険、というより無謀だ。どうしたものか……

 妙案が浮かばず、行き詰まってしまうレイナ。

 

「……あれ?」

 

 そんな時、ふと道子が声を漏らした。

 

「どうしたんだい?」

 

「え。あ、いえ……その、怪物の動きが、変わったような……」

 

「変わった?」

 

 平治に尋ねられた道子は、指を指しながらそう答える。

 レイナも一度考えを頭の隅に寄せ、怪物の方を見た。怪物は未だごろごろ転がり、こちらに接近しているようだが……確かに、違和感を覚える。

 レイナには上手く言葉に出来ない。無理矢理にでも言語化するなら、『派手さ』が最初に見た時よりも足りないような……

 

「……なんだか、木の飛び方が最初に見た時よりも大人しくなってないか?」

 

 平治も同じく違和感を覚えたようで、彼はそれを言葉に出してくれた。

 瞬間、レイナは大きく目を見開く。

 木の飛び方が大人しくなった――――平治の意見は正しい。確かに怪物により吹き飛ばされている木々の舞い上がる高さが、最初に見た時よりもかなり低くなっている。

 木の舞い上がる高さが低いとはどういう事か? 難しく考える必要はない。単純に、吹き飛ばす力が弱まっているというだけだ。では、何故吹き飛ばす力が弱まったのか?

 ()()()()()()()()のではないか。

 そして段々とその速度が落ちているのなら……もしかすると、もうすぐ止まるかも知れない。

 動きが止まれば、高速回転を続けている時より遥かに安全な筈だ。上手くいけば体表面のサンプルが得られるかも知れないし、そこまでは無理でも音や細かな動きぐらいは観測出来る。もしかすると遠目では見えなかった、様々な『秘密』を観察出来るかも知れない。

 千載一遇のチャンスだ。何故動きが鈍ったのか分からない以上、数時間以内に二度目があるとは限らないし、そもそも何分間止まるか予想も付かない。止まる保証もないが、そこは賭けに出るしかなく――――この賭けに勝たねば二度とチャンスは訪れないという確信を抱く。

 レイナが動き出すのに、さして時間は掛からなかった。

 

「? え、博士? どうしたのですか?」

 

「怪物に接近します」

 

「はぁ……せ、接近!?」

 

 荷物を纏め始めたレイナを不思議に思ったのか。尋ねてきた道子に、レイナは何一つ隠さずに答える。

 驚きの声を上げた道子は、顔を青くしながら震えた。お前も一緒に来いと言われるのではないかと、不安がっているのがレイナにも一目で分かる。しかしその不安は無用なものだ。レイナは道子を連れていこうとは元より考えていない。

 

「大丈夫です。私一人で近付きます。お二人はここで怪物の動きを監視し、何か変化があったら教えてください」

 

 お願いするのは怪物の監視と報告のみ。

 危険な賭けなのだ。行くのは自分一人で十分だろう。

 

「……ぼくも行くよ!」

 

 勿論、向こうから手伝いを買って出てくれるのなら、それは願ったり叶ったりではあるが。

 平治の提案に驚き、レイナは一呼吸置いてからその発言を改めて確認する。

 

「……危険ですよ?」

 

「流石に分かってるよ。でもまぁ、なんだ。あんたを一人にしたら呆気なく死にそうだからね。目覚めが悪くなるのは勘弁だ」

 

「……助かります」

 

「あ、あの、私は……」

 

「木村さんは先程お願いした通り、監視をお願いします。森の中からでは怪物の動きは見えませんから。私達の目になってください」

 

 おどおどする道子に、改めてレイナは指示を出す。安全な仕事であるが、道子の役割は決して軽くない。むしろ道子のように怪物を常に監視している者が居なければ、おちおち命など賭けられないというものだ。

 この場に残る者にも大切な役割がある。レイナの気持ちは届いたようで、道子はゆっくりと頷いた。

 

「……分かりました」

 

「お願いします。通信機を渡しておきますね。どんな些細な事でも良いので、変化があったら教えてください」

 

「はい。その、お気を付けて」

 

「可能な限り善処します」

 

 道子に別れの挨拶を伝え、レイナは丘を下る。

 平治も後に続き、二人は揃って森へと入るのだった。

 ……………

 ………

 …

【か、怪物の動きが止まりました! どうぞ……】

 

「はい、こちらでも完全静止を確認しました。このまま監視を続けてください。どうぞ」

 

【りょ、了解しました】

 

 通信機越しに道子とやり取りをし、一通り話し終えたレイナは耳許から通信機を退かす。

 次いで、目の前の『怪物』をじっと見つめた。

 間近で見れば、その圧倒的な巨大さがよく分かる。遠目での目測通り、五十メートルほどはあるだろう。レイナはこれまで様々な怪物と遭遇しており、五十メートルというサイズは決して巨大な部類ではない。しかし人類と比べれば圧倒的なサイズで、途轍もないプレッシャーをレイナに与えてくる。

 そんな威圧感を和らげるのが、怪物の表面を覆い尽くすもの。

 体毛だ。回転中はその動き故に気付かなかったが、真っ白な体色は、全身くまなく生えている白い毛によるものだったらしい。風が吹くと草原のように靡くところからして、かなり滑らかな質感のようだ。朝日を浴びるとキラキラ輝き、朝露のような雅な煌めきに包まれる。

 これが――――『異形の怪物』の真の姿か。

 至近距離で未知の怪物を前にしたレイナは、勿論とてつもなくワクワクしていた。『星屑の怪物』や『天空の怪物』とは接触こそしたが、あれらは先輩達から安全性についてお墨付きをもらった上で触れ合っている。此度そのような許可はなく、それどころか恐らく世界で始めてこの種にここまで近付いたのだ。これがどうして興奮せずにいられよう。

 

「こ、こんなのが転がってたんだ……い、いきなり動いたり、しないよな……?」

 

 いや、怖がるというのが一般的な反応か。

 啖呵は切ったものの、いざ怪物を前にすると恐怖が込み上がってきたのか。腰が引けている平治に、レイナは淡々と答える。

 

「どうでしょう。動き出す兆候があれば良いのですが、もしかしたらないかも知れません」

 

「ちょ……」

 

「まぁ、ここまで来た以上怖がっても仕方ありません。精々僅かな兆しも見逃さないよう、警戒は怠らずにいましょう」

 

 それはそれとして、と頭の中で前置きしながら、レイナはふと思う。

 そもそも、『異形の怪物』はどのように前進しているのだろうか?

 遠目からの観察では、この怪物はごろごろと前に転がりながら移動しているように見えた。が、これを前転移動だと考えるのは早計かも知れない。例えばモロッコの砂漠に生息するクモの一種、通称フリックフラックスパイダーは、天敵から逃げる際にバク転を行う。このバク転はかなりのスピードがあり、砂漠のように足場が不安定な環境では普通に走るよりも速い。

 この怪物も、前転に見せかけてバク転していた、という可能性もある。或いは回転しているように見えただけで、本当は毛の動きだけで移動していたのかも知れない。人間の目というのは、存外当てにならないものなのだ。

 ……前転バク転を考える以前に、何処に頭があるのかすら分からないが。

 レイナと平治は一応『異形の怪物』が進んでいた向きとは直角の位置に立っているのだが、頭の向きや移動方法が分からぬ現状、不意にこれまでとは全く違う方角進んでもおかしくない。もしもレイナ達の方に来たら、逃げる間もなくお陀仏だ。

 ましてやその身体に接近し、()()()()()という行為がどれほど危険なのか。

 

「うん。ま、仕方ない」

 

 分かった上で、レイナは自分の命を惜しまなかった。

 

「……何が仕方ないって? え、なんで怪物に近付こうとしてるんだ?」

 

「ちょっとあの毛を毟ろうかと思いまして。毛が手に入れば、色々分かるかもですし」

 

「何さらっととんでもない事言ってんのコイツ!?」

 

 部下からのコイツ呼ばわりもなんのその。その程度の礼節を気にするのなら、己が生命の危機を無視出来る訳がないのだ。

 お構いなしに突撃しようとするレイナ。平治はがっしりと組み付きそれを阻もうとする。やはり男性の力というのは強いもので身動きを封じられてしまうが、しかしそれでもレイナは止まらない。怪物の毛を取ると決めた以上、そこは断じて譲れないのだ。

 

「ま、待ちなって! 毛が取りたいなら、ほら、転がってきた場所を調べれば良いじゃないか! 多分何本か抜けてるって!」

 

「あ。それもそうですね。うっかり失念していました」

 

 逆に言えばそれ以外はあまり執着していないので、より良い提案があればあっさり行動方針を変えるのだが。不意にレイナがぴたりと止まるものだから、平治は勢い余ってつんのめり、レイナもろとも倒れそうになる。平治は苦笑いを浮かべながら、レイナを解放した。

 申し訳ないと思いつつ、やはり第三者が居てくれるのはありがたいとレイナは感じる。大好きなものを前にした時、人間の理性というのは当てにならないのだ。

 ともあれ、そうして平治の提案に従ってレイナは『異形の怪物』が通った場所……木々が薙ぎ倒されている領域へと向かう。平治もついてきて、一緒にその場へ足を踏み入れた。木々は粗方踏み潰され、空には青空が広がっている。風通しも良く清々しい気持ちにさせてくれた……真っ白な巨大球体の全体像がハッキリと見えなければ。

 怪物が気紛れにバックでもすれば、その瞬間にあの世行き。

 しかしスリルを味わうよりも、毛の一本見付ける方がレイナには大事。倒れた無数の杉の木を踏み付けながら、後方の怪物など目もくれずに足下を探して回る。対する平治は足下より怪物の方をちらちらと気にしていて、調査はあまり行えていない様子だ。

 

「……ん? これ、アイツの毛じゃないか?」

 

 尤も、そういう人に限って見付けてしまうのもよくある事で。

 

「え? どれですか!?」

 

「これだよ。ほら」

 

 レイナが思わず尋ねると、平治は見付けたものを足下の木から拾い上げてくれた。本来それは稀少なサンプルであり、素手で触るのはNGなのだが、細かな事は気にしないレイナ。これは観察・実験用にしようと柔軟に思考を切り替え、平治から一本の毛を受け取る。

 それは真っ白で、かなり太い毛だった。

 長さはざっと二十センチほど。太さは正確には計りかねるが、指で摘まめば強い手応えを感じる程度にはある。手触りは滑らかで、触り心地はかなり良い。人間の指の力でも簡単に曲がるが、柔軟性に優れているため折れる事はなく、千切ろうとしてもビクともしなかった。

 このような毛の持ち主について、レイナにはパッと思い付く種はいない。

 しかしだからこれは怪物の毛だと確定するのは、些か早計だろう。逃げ遅れた哀れな犠牲者のものかも知れないし、何処からか風で飛んできたものかも知れない。確信を得るには追加でもう何本か、可能なら数十本ほどをこの踏み荒らされた木々の上から発見したいところだ。

 まだまだ調査が必要である。平治にそれを伝えようとした

 

【ピキィイオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!】

 

 瞬間、甲高い雄叫びが森に響く。

 レイナと平治は同じ方へと振り向いた。そこから声が聞こえてきたのだから。そして二人は声の主を見る。

 もぞもぞと全身の『毛』を波立たせ始めた、怪物の姿を――――

 



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身内議論

【は、はか、博士! かか怪物が、動き出しました!】

 

 通信機より聞こえてくる、道子の叫び声。

 目の前で怪物を見ているレイナ達は無論その事を知っている。しかし目の前で起きている動きが風やらなんやらによる錯覚ではないのだと、第三者的な意見が聞けたのは良かった。もしかしたら怪物の傍に居るというプレッシャーから、些末な変化を過敏に受け止めている可能性もあるのだから。

 そして本当に動き出したのなら、暢気にしている場合ではない。

 

「伊吹さん! 離れましょう!」

 

「は、離れるって、どっちに!?」

 

「あっちです!」

 

 平治の問いに、レイナは即座にある方角を指差しながら答える。

 ぶっちゃけてしまうと、当てずっぽうな方角だ。

 現状『異形の怪物』がどちらに進むかなんて想像も出来ない。ならば出来る事は、兎にも角にも離れる事。距離さえ取れば、例え怪物が自分達の方に転がってきたとしても少しは時間を稼げる。本当に少しだけだろうが、一秒でも思考する時間が得られれば、起死回生の手だって打てるかも知れない。

 最後まで諦めず、自分の力で出来る事をする。それが大自然に立ち向かう上で一番大事な心構えである事をレイナはよく知っていた。

 ――――幸いにして、今回その努力は必要なかった。

 ついに再び転がり出した『異形の怪物』が向かう方角は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だったのだから。

 

「あれ? 帰っていく……?」

 

「た、助かったの、か……」

 

 怪物が自分達の方に来ないと分かった瞬間、平治は腰砕けになりながらへたり込む。アスリートのように引き締まった身体を持つ彼も、やはり人智を超えた存在には敵わないのだ。

 されど元より勝てると思っていないレイナは、怪物の動きを冷静に注視。

 ……怪物は、正確に来た道を戻っている。時折木々が吹っ飛んでいるが、それは此処まで来た時に踏み潰してきたもの。行きの時点で難を逃れた木に、新たな被害は出ていないようだ。

 それに、動きが妙に鈍い。

 まるで疲れているのに、無理にでも動いているような……

 

「……なんにせよ、チャンスかな。伊吹さん、動けますか?」

 

「え? あ、ああ。大丈夫、ちょっと驚いただけだから」

 

 確認したところ、平治はまだ活動可能だという答えをもらえた。レイナが嬉しそうに笑うと、彼の表情は途端に曇ったが。

 とはいえレイナは彼らに危険な事をさせるつもりなどない。少なくとも『異形の怪物』に肉薄した今し方の行いと比べれば、遥かに安全な『仕事』である。

 

「じゃあそろそろご飯にしましょう。お腹が空いたら頭も働きませんからね!」

 

 ただしこの状況下で食欲が湧くのは、自分ぐらいだという自覚もあるのだが――――

 

 

 

 

 

「んー、美味しぃー!」

 

 もしゃもしゃと携帯食料 ― スティック状に固められた、砂糖たっぷり激甘ミルク味の代物 ― を食べながら、レイナは楽しそうに声を上げた。

 疲れた頭にはエネルギーが必要だとばかりに、どんどん携帯食料を食べていく。勿論持ってきた食料は有限で、一食分の配分を超えない範疇での話だが。対して道子と平治の職は進まず、一食分の配分すら食べられるか不安になるほど。

 多分、怪物が踏み鳴らした木々の上でのランチタイムというのがお気に召さないのだろう。

 

「……よく食べられますね。あんな恐ろしい怪物の進路上で食事なんて」

 

「距離はあるから大丈夫ですよ、多分。それにいざとなったらまた近付かないとですし……あとご飯はちゃんと食べましょうね。人間の身体に蓄積されているグリコーゲンは約千六百キロカロリー分。一日分の基礎代謝にもなりゃしません。常に身体をフルパワーで動かすためには、定期的な食事が必要ですもぐもぐもぐ」

 

「……確かに飯は食べないとな。いざって時に動けなかったら、それこそ命が危ない」

 

「……そうですねぇ」

 

 レイナの意見に納得、したかは分からないが、作業員二人も食事を始める。にこにこと笑いながら、レイナは本日五本目 ― ちなみに一本二百キロカロリー ― の携帯食料を口に入れた。

 

「さぁて、そうは言っても時間が何時まであるか分かりませんし、考えてもいかないといけませんね」

 

「とはいっても、何から考えれば良いのか……」

 

「そもそも何も分かっていないというか」

 

 道子と平治の意見に、レイナはうんうんと頷いてしまう。

 具体的な方針を立てられない理由は簡単だ。『異形の怪物』がなんの仲間なのかさえも分かっていないからである。分類というのは決して絶対的なものではないが、かなり大きな指標となるもの。例えば現在確認されている種の全てが肉食であるネコ科と分かれば十中八九肉食性だろうし、魚類ならば全身を覆う体毛は鱗が変化したものだと推測出来る。

 これらは表に出てきた理由を説明するものではないが、理由に結び付く遠因……怪物の生態を探る手掛かりにはなる。正体を知るというのは、それだけ生物学にとって重要な事なのだ。

 だからこそ、これだという思い込みは真実を見失う原因ともなり得る。

 

「(私的には哺乳類の仲間かなって考えてるけど、他の意見も聞きたいな)」

 

 自分の思い込みを、自分自身で正すのは難しい。この場に居る他の人達の意見を訊いてみようと、レイナが考える。

 

「お二人はあの怪物の正体はなんだと思いますか?」

 

「え? 正体ですか? ……怪物って、怪物なんじゃ?」

 

「うん。ぼくもそう思ってるけど」

 

「あー……生物学的な分類の事です。ネコの仲間とか、コイの仲間とか、そういう」

 

 レイナの説明に、二人の作業員は「あー……」という、納得したのかどうかよく分からない返事をした。

 しかしそれも仕方ないだろう。秘密結社の一員とはいえ、立場的には借金の形でマグロ漁船に乗せられた一般人のようなもの。彼女達からしたら怪物なんてものは、空想上の怪獣となんら変わらない。怪物達に生物学的な分類が当て嵌まるという、発想すらなかったのだろう。

 逆に、それはレイナと違って学者的な思い込みがない事の証だ。彼女達の忌憚のない意見は、真実への道を示してくれるという期待が込み上がる。

 

「そーいう事なら、ぼく的には……マリモ、かなぁ」

 

 最初に意見を出したのは平治。

 マリモといえば、北海道でお土産に売られている『藻』の集合体の事だろう。マリモ自体は北海道以外の日本各地、もっと言うなら北半球の高緯度地域に広く分布しており、丸くなるのはその中の一部。丸くなるのは生理的な特徴ではなく、波や地形により、良い感じに転がり続ける事が原因だ。そしてあの怪物の真ん丸な姿は、確かにマリモっぽく思える。

 しかし通常のマリモは、直径数十センチを超えて大きくなる事が出来ない。彼等は植物であるため生存には光が必要なのだが、球の大きさが十センチほどになると中心部に光が届かず、枯死してしまう。そのためマリモの中は空洞化していて非常に脆く、強い波で岸部に打ち上げられたり、嵐などで海底が激しく掻き乱されたりすると簡単に壊れてしまうのだ。

 それを考えると直径数十メートルの巨大マリモというのは、流石にあり得ない……とも言いきれない。

 あの怪物は全体的に真っ白だ。少なくとも見えている範囲は全て、入手した毛も先端から根元まで白である。植物が緑色なのは光合成に必要な葉緑体があるためだが、世界には葉緑体を持たない植物も存在する。

 寄生植物だ。

 栄養を宿主に完全に依存している種の場合、光合成による栄養生成は不要である。むしろ維持コストばかりが掛かる金食い虫だ。そのため寄生植物は葉緑素を喪失し、茶色や、色白な姿をしているものが多い。『異形の怪物』も寄生植物ならば色白でもおかしくないし、栄養を宿主に依存しているのなら、光が届かない内部も生存しているだろう。中身がちゃんと生きていれば自重を支え、巨大化も出来る。

 てっきり動物だと思っていたレイナには、非常に良い刺激となる意見だ。是非とも候補の一つとしたい。

 

「成程……その可能性は考えていませんでした。ありがとうございます」

 

「えっ!? あ、いや、思い付きを言っただけだからそんな参考にされても。それになんか鳴いてたから、多分違うし……」

 

「植物だから鳴かないとは限りません。内部に空気の通り道があった場合、通気の際に音が鳴るとも考えられますよ」

 

「う、うぅ……ほ、ほら、君はどうなんだい!?」

 

 レイナが正直に感心していると、平治は照れたのか右往左往。誤魔化すように道子に話を振る。

 

「えっ!? わ、私は……ごめんなさい。何も思い付かなくて……」

 

 まだ考えが纏まっていなかったのか、道子から返ってきたのは申し訳なさそうな諦め。

 無茶ぶりをした側であるレイナからすれば、こうして謝られてしまう方が辛い。

 

「いえ、突然質問してしまったのはこっちですし。私だって、哺乳類かなーってぐらいにしか考えが纏まってませんから」

 

「えっと……それに、まぁ、ぼくらは間近で見てもいたしね。情報量が違うんだから仕方ないよ」

 

 話を振った手前無視出来なかったのか。平治が入れたフォローに、確かに、とレイナも思う。怪物からずっと遠くから眺めていただけの道子は、レイナ達よりも『感覚』的な情報に乏しいだろう。

 かといって、道子に与えられる情報が何かあるかといえば、そんな事もないのだが。何分近付いてはみたものの、触れる事すら叶わなかったのだから。

 強いて何か提示出来るものがあるとすれば……

 

「落ちていた、この毛ぐらいかなぁ」

 

 平治が拾ってくれた一本の毛ぐらい。

 レイナは懐から毛を取り出し、指で摘まんで眺めてみる。やはり奇妙な手触りと太さを持つが、これといって神秘的な性質は感じられない。

 加えて、まだあまり捜索していないとはいえ、まだ見付かったのはこの一本のみ。未だこれが怪物の毛なのか、それとも未知の生物Xのものなのかも判然としない有り様だ。

 仮に怪物の毛だとして、毛一本から何が分かるというのか。勿論体毛からはたくさんの情報が得られるが、『異形の怪物』がこの地に出現した理由を教えてくれるとは思えない。せめて糞や体液ならば、具体的な体調などが窺い知れるというものだが……

 

「? 博士、その毛は?」

 

 眺めていたところ、道子が興味を示した。

 

「え? ああ、これは怪物の毛……かも知れないものです。確定じゃないですけど」

 

「へぇー……見ても良いですか?」

 

「止めなって。一応これ、研究サンプルとかなんだろ? 下手に壊したらまた借金が膨らむよ」

 

「う……やっぱ止めます……」

 

 意外と好奇心旺盛なのか、道子が怪物の毛に興味を持つ。尤も平治に窘められると、あっさり身を退いたが。

 好奇心の権化であるレイナからすれば、道子の気持ちを大事にしたいところだ。

 

「あはは、大丈夫ですよ。壊れたら磨り潰して成分抽出とかに使うだけですし、むしろ今は行き詰まり気味なので、色んな意見を出してくれるとありがたいです」

 

「えっと、じゃあ……」

 

 道子はレイナから怪物の毛を受け取り、まじまじと眺める。二本の指で触ったり、日に当ててみたり、子供のように楽しんでいた。

 実際、あの毛が一本失われたところでどうという事もない。貴重なサンプルではあるが、紛失しない限り文句を言うつもりなどレイナにはさらさらなかった。というより、本当に新しい見方をしてくれた方が遥かにありがたい。今はそれだけなんの手立てもないのだから。

 

「あっ」

 

 故に、道子がふと漏らした声は、レイナにとって非常に気を惹くものだった。

 

「? どうしましたか?」

 

「へぁっ!? えとえとあのえとえと」

 

「……分かりやすいなぁ。壊しても平気って言われたんだから、さっさと見せなよ」

 

 尋ねるとあからさまに道子は狼狽え、見かねた平治が道子の手を掴む。捕まってしまった道子は必死に抵抗したが、されどやはり男である平治の方が強いのだろう。あっさりと毛を持っていた方の手を引き寄せられ、

 ()()()()()()を、レイナに見せた。

 

「ありゃまぁ、こりゃ随分と派手に……」

 

「ちち、違うんです!? わ、私って確かにおっちょこちょいで、お皿とかツボとかよく落として割ってましたけどでもこれは本当に触っていただけで!?」

 

 必死に弁明する道子だが、その手に掴んだ毛がささくれている事実に変わりはなく。平治が「ああ、君が借金した理由って……」と言いたげな、何もかも悟った眼差しを向ける。

 対してレイナは、しばし凍り付いたように動かない。

 動き出した時には、まるで獲物を見付けた獣のように素早く――――そして有無を言わさず、道子の手から毛を奪い取った。レイナの突然の行動に平治は呆けたように硬直し、道子は一層おろおろしてしまうが、レイナの意識は二人に向かない。

 レイナが見つめるのは、ただ一本の毛のみ。

 毛には『ささくれ』のような突起が出来ている。

 いや、これは突起などではない。一本の真っ直ぐな毛だと思っていたそれは、正確には細かな『枝毛』がぐるぐると巻き付いていたものだったのだ。恐らく道子が()()()に扱った事で、束ねられていたものが解けたのだろう。レイナが指で弄った時には見付けられなかった特徴だ……口では適当にしても良いと言っていたが、どうやら心の奥底では大切なサンプルだと思っていたらしい。

 自分の内面に呆れつつ、レイナは更に詳しく『毛』を観察する。

 ささくれを開いてみれば、枝毛は決してランダムな生え方をしておらず、左右対称に二本ずつ生えているようだと分かった。また左右の枝毛は同じ長さであり、根本付近が一番長く、先端が最も短いと、長さに規則性がある。枝毛の数は数十対も存在しており、隣の枝毛との距離は等間隔に並んでいた。捻じ曲がっていたものなので綺麗には開かないが、無理矢理広げた際の形は所謂――――

 

「……嘘でしょ」

 

 ぽつりと、否定の声が漏れるレイナ。しかし心の中では一切否定などせず、過ぎった発想を考察する。

 毛を持つ生物といえば、哺乳類が挙げられるだろう。だが哺乳類の毛は角質化した皮膚が起源だと言われており、そのためかあまり複雑な形を取らない。左右均等に一本ずつ、それも何十対もの枝毛が伸びるというのは、あり得ないとは言わないが、中々進化の『手間』が多そうだ。

 生物進化を考える時、その辿ってきた順路は基本的に『最短手数』にするものだ。何故なら適応的な変異は稀なものであり、そう頻繁に起きるものではない。偶々最短で辿り着けた幸運な者が子孫を残せたというのが、最も合理的な考えなのである。

 つまり怪物の毛は、哺乳類のものではないと考えるのが自然。そして毛を持つ生物には哺乳類以外にももう一グループ存在し、それは通常体毛とは呼ばない。

 ()()だ。

 

「……まさか」

 

「どうしたんだい? もしかしてこれ、やっぱり触ったら不味かったとか……」

 

 道子だけでなく平治も狼狽え始めるが、レイナにその言葉は届かない。そんな事に意識を割いている場合ではないが故に。

 この毛が羽毛だとして、そしてもしも予想通り『異形の怪物』の分類があれだとしたら――――レイナはその異変に心当たりがある。

 あるのだが、しかしその可能性はあってほしくない。あれは一度きりの過ちであるべきなのだから。されど『犯人』がそんな殊勝な心の持ち主ならば、最初からあんな事は起きていない。人間というのは自らを万物の霊長だと誇りながら、実際には痛い目を見るまで平気で危ない橋を渡る生き物なのだ。

 そして『二度目』が此度の大事件の最中に起こされたという事は……

 

「……いや、今は、そこまで考えなくて良い」

 

「博士……」

 

 考え事の最中、道子が不安そうに声を掛けてきた。やっぱり怒られるのではないか、また借金が膨らむのでは……そんな気持ちが顔に出ている。

 レイナは道子の方に振り向き、にこりと微笑む。次いでがっちりと、彼女の手を握り締めた。その流れで平治の手も握る。

 二人に感謝を伝えるために。

 

「ありがとうございます。まだ仮説ですけど、あなた達のお陰でやるべき事が一つ閃きました」

 

「え? あ、はぁ……」

 

「そりゃ何よりだけど、何をする気なんだ?」

 

 今度は平治が尋ねてきた。レイナは思わせぶりに笑みを浮かべると、今度は『異形の怪物』の方へと振り返る。

 『異形の怪物』はまだ動いていたが、その動きは随分とゆっくりなものになっていた。相当()()しているのだとすれば、それはレイナの閃いた可能性を担保する証拠の一つだ。

 確信を持ったレイナはもう迷わない。

 

「今からちょいと、()()()()()()()()と思ってます」

 

 故に堂々と、自分の考えを二人に明かすのだった。



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助け出せ

 『異形の怪物』は再び動きを止めていた。

 しかしそれを静止と呼ぶのは、憚られるところだろう。何故なら『異形の怪物』の白い身体は息切れするように上下しており、「ピィー」という甲高くも巨体からすればあまりにもか細い鳴き声が時折聞こえてくるのだから。

 明らかに、『異形の怪物』は弱っていた。もうしばらく動き続けたら、死んでしまうのではないかと思えるほどに。

 

「だからって登ろうとするのはどう考えてもおかしいでしょーが!」

 

 尤も、それで『接触許可』が出るなら苦労はない訳で。

 

「いいえ! 行かねばならんのです!」

 

 分かった上で()()()()()()()()()()という決断を下したレイナが、平治に引き留められたぐらいで止まる筈もなかった。

 転がるのを止めた『異形の怪物』のすぐ傍までやってきたレイナは、平治に組み付かれながらもじりじりと前に進み、怪物の下へと向かおうとする。何時また怪物が動き出すか、分かったものじゃないというのに。

 

「あ、危ないですよ……何時動き出すか分からないですし……」

 

「そうです! 何時また動くか分かりません……これ以上疲弊させたら、この子が死んでしまうかも知れません! だから急ぐのです!」

 

「いや、そもそもなんで急ぐのさ!? 自分で転がっているんだから、疲れたら勝手に休むだろ!?」

 

「いいえ! 恐らくあの子は休めません! ()()()()()()()()()()()()!」

 

「はぁ!? 休ませないって、一体どこのどいつが――――」

 

 至極尤もな平治の反論。それに対するレイナの答えはその手に握っていた、少し前に道子から奪い取った怪物の毛。

 いや、道子とレイナの手により開かれたそれは、最早毛とは呼べないだろう。無数に枝分かれした細かな枝毛を持つそれは『羽毛』である。

 或いは『羽根』と呼ぶべきか。

 

「『異形の怪物』の正体は、恐らく鳥類です」

 

 その羽根から導き出した結論を、レイナは臆さずに語った。

 

「と、鳥? いや、まぁ、毛は確かに羽根っぽいけど……でも翼も足もないし、目や嘴もないぞ?」

 

「町からたった二十キロしか離れていない森にいるのに、今まで目撃証言すらなかった怪物です。海を渡ってきたとか、森に潜んでいた訳じゃない……恐らくこの森の地下深くには空洞があり、そこから現れたのでしょう」

 

 そうだと考えれば、あの奇怪な姿にも多少は得心がいく。

 地下空洞という限られたスペースの中では、飛行のための翼や、細長い足は邪魔だろう。それに光がない環境では体色を失って白くなり、目も退化して喪失する筈だ。嘴も食べ物次第では必要なく、転がる際に邪魔なら退化していく。

 ミミズトカゲと呼ばれる爬虫類は、地中生活に適応するために手足も目も退化させ、ミミズのような姿となった。例え鳥であろうとも、洞窟生活に適した姿があるなら鳥から逸脱した姿となる。生命とはそういうものだ。

 

「そ、それは分かったけど……だからなんなんだ? 鳥だと何か不味いのか?」

 

 白い球体が鳥だとは到底思えないのか困惑しつつ、しかし平治は新たな疑問を呈す。

 彼の言い分は尤もだ。そしてその疑問を抱くのも仕方ない。彼は新人作業員で、昔の事など知らないのだから。

 レイナと違って。

 

「私は先日、鳥の怪物に取り付けられた機械を見た事があります。その鳥の怪物も、異常な行動を引き起こしていました」

 

 脳裏を過ぎるのは、ほんの数日前の調査――――『天空の怪物』の身に起きた事。

 かの怪物も、普段の生息地から離れた場所に移動・滞在するという異常行動を起こしていた。その原因と見られているのは、身体に取り付けられた謎の機械。誰が作ったのか、どんな目的と役割があったかは未だ不明だが……怪物に機械を取り付けるという危険行為をしたからには、それなりの理由がある筈だ。

 そして『異形の怪物』が『天空の怪物』と同じく鳥類であるなら、そこに繋がりが見出せる。

 分類群が同じならば身体の構造は似たようなものになるだろう。神経系の仕組みや生理機能にも大きな違いはない筈。ならば機械の影響も、同じように受ける可能性が高い。

 同じ機械で操れたとしても、おかしくない。

 

「その鳥の怪物には機械が取り付けられていました。私達『ミネルヴァのフクロウ』には身に覚えがない、未知の機械です。あの時、それがどんな意図で付けられた機械だったのか疑問でしたが……この怪物を見て確信しました。恐らく、怪物の行動をコントロールしようとしていたのでしょう」

 

「怪物を、コントロール……?」

 

「そ、そんな事が出来るのですか?」

 

「やった人達は出来ると思ったのでしょう。実際、多少なりと行動は操れたみたいですし」

 

 ぐるぐると同じ場所を旋回する。

 自分が進んだ道を往復する。

 どちらも、野生動物が取らない行動ではない。しかしあまりにも規則的な動きは、そこに『人の意識』を感じさせた。それに無秩序な動きよりも規則的な行動の方が、ちゃんと操れている事を確認する上で都合が良い。『異形の怪物』が操られている、状況証拠ではあるだろう。

 ……推測に推測を重ねた、連想ゲーム的な発想だ。しかしレイナは確信している。あの奇妙な行動も、生息域から離れる事も、全て人間の仕業なのだと。

 なんと傲慢な、と思う。身の程知らずだとも。

 恐らく、いずれ報いを受けるだろう。レイナの知る怪物達は、人類の科学など鼻で笑うほど出鱈目な存在なのだ。今は上手く制御出来ているように見えても、何時か必ずしっぺ返しを喰らう。そのしっぺ返しが犯人だけを襲うのか、人類文明全体に及ぶかは分からないが。

 それはもう仕方ない。触れてはいけないものに触れたのだから。しかし、レイナには見過ごせないものがある。

 人間の都合で振り回される、なんの罪もない『異形の怪物』だ。

 ただの推測だから間違っているかも知れない。だけど間違っていないのなら、今もこの子は苦しんでいる。

 その考えに至りながら無視するなんて、レイナには我慢ならない。

 

「無理矢理操られているなんて、ほっとけません。助けたいんです。身の程知らずと罵られようとも」

 

 これがレイナの、正直な想いだ。

 実直な意見に何を感じたのか。平治と道子はしばし互いの顔を見合う。それから二人は同時に、大きなため息を漏らした。

 

「……分かった。それがあなたの考えなら、止めはしない」

 

「! あ、ありがとうございます!」

 

「ただし! ぼくは此処に残るからな! 万一アンタが落ちてきても、しっかり受け止められるように!」

 

「わ、私も、何が出来るか分かりませんけど……あの、で、出来る事はお手伝いします!」

 

 平治と道子の声援に、レイナはパッと笑顔を浮かべた。

 無論平治の言う、落ちてきたら受け止めるというのは中々難しい事だろう。道子に何か出来るかといえば、恐らく出来る事はない。二人の応援は、冷静に考えれば本当に『ただの応援』だ。

 しかしそのただの応援がレイナには嬉しい。自分の無茶を、沸き立つ衝動を、肯定してくれたのだから。

 

「――――はい! お願いします!」

 

 大切な『仲間』に背中を預け、レイナは目の前に存在する白い毛玉を登り始めた。その手に嵌めているのは、本来ならば崖登りで使用する特殊な手袋。ヤモリの能力(ファンデルワールス力)に怪物の生体機能を加えたもので、触れさえすればどんなものにも張り付く便利な代物だ。あくまで張り付くだけで、登るための力は自力だが。

 加えて登ると一言でいっても、適当な場所を選ぶ訳にはいかない。

 仮説通り『異形の怪物』が『天空の怪物』同様、機械により狂わされていたとしよう。その場合、用いられた機械は『天空の怪物』に使用されたものと同型と考えるのが自然だ。

 その機械だが、大きさは僅か五センチ程度。

 ……怪物の直径は約五十メートルもある。仮に真球だとした場合、表面積は凡そ七千八百平方メートルにも及ぶ。更に怪物は全身を体毛で覆っており、余程の近距離か手探りでなければ埋もれた機械は見付けられまい。この範囲を手作業で虱潰しに調べ上げるのは骨が折れるし、見落としのリスクも大きいだろう。何より時間が掛かっては、『異形の怪物』がまた動き出してしまうかも知れない。

 素早く目星を付ける必要がある。そしてレイナは既にある程度範囲を絞っていた。

 

「(この怪物は回転して移動しているように見えた。どんなに頑丈な機械でもこんな大きな怪物がのし掛かったら潰れるだろうし、或いは移動時の衝撃で外れるかも知れない)」

 

 つまり回転時に地面に触れる場所……進行方向から見て『前面』となる側には機械を設置出来ない筈だ。そしてそれは『異形の怪物』にも同じ事が言える。常に回転して移動する上で、『前面』に頭があると移動の度に顔面を叩き付けてしまう。どのような経緯でこの回転移動が進化したのかは不明だが、顔面を地面に叩き付けて怪我するよりは、無傷のままやり過ごす方が適応的だろう。

 ならばこの怪物の頭は前面ではなく、側面にある筈だ。そしてそこが最も衝撃を受け難い、安定した箇所ならば――――機械を取り付ける場所は他にない。

 これもまた推測だ。実は鳥ではなく、平治が指摘したように植物だとすれば、頭の位置なんて存在しない。不意にレイナが居る側へと転がり初めてぺっちゃんこ……そうなる可能性もある。

 だけどレイナは恐れない。

 

「(科学者が、自分の考えを信じない訳ないでしょ!)」

 

 レイナは自分の考えになら、命を掛けられる人間なのだから。

 心さえ決めてしまえばすいすいと登っていける。崖登りのようなものだが、体力的な問題はない。『ミネルヴァのフクロウ』の一員となる前まで、レイナは若くして世界的に有名な昆虫学者だった。世界中の稀少な虫を求め、人の手の入っていない環境を探索した事は一度や二度ではないのだ。

 昼間故に明るく、これといった強風も吹いていない。掴める場所は何処にでもあり、足を上手く毛に絡めれば体勢も少しは安定する。崖登りとしては左程難しくない。

 問題がなければ、このまま目的の場所までいける筈だ。

 ――――()()()()()()()()()

 

「(……まぁ、いるわよねぇ。ここまで大きいのは想定外だけど)」

 

 ふとレイナは腕を止め、心の中でぼやく。

 進もうとした先に、直径五十センチほどの赤くて丸い塊がある。

 赤い塊は僅かながら動いていた。怪物の毛を掻き分けながら、レイナの方に接近している。時折見える足は細く、数は八本。表面には疎らに毛が生えており、剥き出しの肉のような皮膚をしていた。

 やがてレイナの間近までやってきたそいつは、生い茂る体毛の中から顔を見せる。

 頭は身体に比べ随分と小さく、触角も生えていない。鋭いナイフのように先の尖った顎を『一つ』持ち、その顎を左右から挟むように肉質の突起が生えている。顔面には八つの単眼がぽつぽつとあるだけで、とてもシンプルな顔付きだ。しかし単純だからこそ動物的な感情が感じられず、無機質で異質な印象を受けるだろう。

 レイナからすれば()()()()()だが、これだけ大きな個体は流石に初めてお目に掛かる。

 

「(ダニね。こんなところにまで進出してるとは、流石というかなんというか)」

 

 レイナの目の前に現れたのは、体長五十センチもの巨大ダニだった。

 動物の体表面に他の生物がいるというのは、決して珍しい事ではない。というよりそれが普通の状態だ。人間だって衛生状態が決して良くなかった数百年前まで、寄生性生物は身近な存在である。ヒトジラミに至っては人間専門の寄生虫であり、それだけ長い付き合いがあったという証。

 この巨大なダニも、怪物の体表面に適応した種であろう。一体どんな生態をしているか気になるが……まず気にすべきは、その食性だ。

 鋭いナイフのような口は、吸血性のダニと良く似ている。しかしだから宿主を吸血すると考えるのは早計だ。もしかすると宿主に付いた寄生虫を食べている、捕食性のダニという可能性も否定出来ない。実際、他の虫を食べる『益虫』のダニというのも珍しくないのだから。

 もしも捕食性のダニでも、人間よりも遥かに小さいのだからまず襲ってはこないだろう。しかし洞窟性の生物なら視力は皆無だと思われるので、臭いや動きに反応する可能性もある。『崖登り』の最中故に両手が塞がっている今のレイナは、反撃はおろか防御すら出来ない状態だ。

 さて、どうなる事か。何が起きても何も出来ないレイナは、せめて興奮だけはさせないようじっと動かず……

 しばらくして巨大ダニは、頭を振りながら怪物の体毛を掻き分けて――――顎先を怪物の皮膚に突き刺すような仕草を見せた。

 どうやら、怪物の吸血に特化した種だったようだ。レイナはホッと安堵の息を吐いた

 瞬間、生い茂る毛の中から『イモムシ』が出てくる。

 イモムシといっても、チョウや甲虫の幼虫ではない。半透明でヘビのように細長い身体には足がなく、頭部は小さいながらも存在していた。体長は一メートルを超え、半透明故に分かり難いが、かなり、筋肉質な身体付きをしている。

 恐らくは『ノミ』の幼虫だ。

 

「なっ――――」

 

 突然現れた巨大昆虫に、レイナも思わず身が強張る。尤も驚きがなかったところで何か出来た訳でもなく、レイナはただただノミの動きを見る事しか出来ず。

 ノミの幼虫は、レイナの目の前に居るダニに襲い掛かった。

 ぶじゅりと柔らかな肉が引き裂かれる音が鳴り、キィ、と甲高い声を上げるダニ。ダニは藻掻いて抵抗するが、ノミの幼虫は長大な身体を巻き付け、身動きを封じた。ノミの幼虫は身体の末端にある四本の『爪』で怪物の体毛を掴んでおり、転落する様子はない。

 仕留めたダニをじゅるじゅると啜り始めると、ノミはもう動かなくなった。

 

「(……成程ね)」

 

 心の中で呟いたレイナは再び動き出す。横を静かに横切るレイナに、食事中のノミは特に攻撃を仕掛けてこなかった。

 耳を澄ませば、あちこちから毛を掻き分けるような音が聞こえてくる。

 恐らくはダニやノミなど、寄生生物達とそれらを襲う捕食者が鳴らしているものだ。『異形の怪物』の体表面には様々な生物が生息し、そこで独自の生態系を築き上げているのだろう。

 『天空の怪物』の身体に乗った時には、こうした巨大寄生生物の襲撃は受けなかった。『天空の怪物』にも大きな寄生虫がいたが、ここまで馬鹿げた大きさではない。『異形の怪物』の身体では寄生虫の巨大化が起こりやすかったのか? 或いは生息環境の差か? そもそも『異形の怪物』にはどれだけの寄生虫がいるのか? いるとしたら傾向は?

 考えれば考えるほど、疑問は湧いてくる。考えれば考えるほど、ワクワクが止まらない。

 そのワクワクを邪魔する『人間』がいる。

 

「……見付けた」

 

 ぽつりと、レイナは呟いた。

 登った高さは凡そ二十五メートル程度。怪物の『半径』に程近い場所で、生い茂る毛の隙間から一瞬だけ赤い煌めきが見えた。それは気の所為かも知れないと思えるほどの刹那であり、けれども新たな目印にレイナは迷わず近付く。

 接近してみれば、赤い輝きがもう一度見える。注視している中で再び目にすれば、色々な事が理解出来た。例えば赤い輝きが酷く人工的である事、そして赤い輝きが怪物の毛に反射したものである事も。

 光が見えた先。恐らくはあの根元に、不埒な機械がある。

 

「今、助けるわよ……!」

 

 大好きな怪物を苦しめる元凶。レイナはそこに手を伸ばし、がっちりと握り締める。

 『天空の怪物』の時は戒められた、無茶な行動。しかし此度は止める者もなし。レイナは寸分の迷いもなく、取り付けられた機械を引っ張り、取り外した!

 機械を外された瞬間、『異形の怪物』の全身がぶるりと震える。レイナは振り落とされこそしなかったが、大きくその身体が浮かび上がり、一瞬ヒヤッとした。しかし自分の命が助かった事よりも、レイナの頭を満たすのは怪物の事。

 果たしてこれで全てが良くなるのか? 不安の答えは――――

 

【ピィィイーッ!】

 

 元気で明るい声が教えてくれた。

 『異形の怪物』がまた震える。そして今度はレイナの頭上付近がもごもごと動き、柔らかな白い毛を逆立たせた。何か特異な反応を見せている。

 レイナは素早く、勿論寄生虫達には気を付けながら下り、地上に立った。それから何が起きているか知るべく、地上で待ってくれている平治達の下へと駆け寄る。

 道子と平治はガタガタと震えていた。そこに現れたものを恐れるように。

 彼等の傍までやってきたレイナはくるりと振り返り、二人と同じものを見る。次いで二人が恐怖に震えるのも納得だと、レイナは即座に理解した。

 白い球体の上部に出来た、十メートル近い三日月のような裂け目。中にはだらだらと粘付いた液体が満ち、赤黒い中身の色が見えていた。ホラー映画に出てくる怪物のような、おどろおどろしい『顔』。今まで白い球でしかなかったものが半端に生気を帯び、故に人間達の恐怖を増幅させる。

 しかしレイナだけは笑った。それが『顔』であるのと同時に、表情だと気付いたがために。

 そしてその表情が人間と同じであるならば、恐れる必要など何もない。

 

「あら、良い笑顔じゃない。憑きものが取れたってやつ?」

 

 目の前の怪物は、ただ清々しい気持ちを抱いているだけなのだから……



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謀略

【ピピピィー!】

 

 元気で明るい鳥の鳴き声が、北海道の大地に響き渡る。丸くて白い身体をごろんごろんと転がし、ぴょーんっと跳ねて、着地時にちょっとした大地震を引き起こす。木々が衝撃で吹き飛ぶと、それが楽しかったのか。囀るように甲高く鳴きながら、一層激しく転がり回る。

 『異形の怪物』が上げたその声、そして元気いっぱいな動きに、レイナは満面の笑みを浮かべた。自分はやり遂げたのだ。大自然を生きていた命の一つを、自然から逸脱した意思から守れたと。

 レイナは『異形の怪物』から、怪しい機械を取り外す事に成功したのだ。

 

「しっかし、なんでこんな機械を付けたんだか」

 

「本当に……操るにしても、住処でごろごろさせれば良いのに、なんで表に出したんだろう……?」

 

 ちなみに現在、その機械は平治と道子が観察していた。流石にこれは壊すと色々お説教されそうなので、平治に持ってもらっている。

 愚痴る二人の言葉に同意するように、レイナもこくりと頷いた。そして浮かべていた笑みを消し、忌々しく機械を睨む。レイナ的にはこんな機械など作る時点で『不敬』だと思うが……それはあくまで自分の見方。この機械を取り付けた輩の意思を探るには、その立場に立って考えねばならない。

 何故こんな機械を取り付けたのか、()()()()()()()()()()

 まず、この機械はどんなものなのか? 『異形の怪物』に取り付けられていた機械は、大きさと形からして『天空の怪物』に取り付けられていたものと同一のものだ。取り付けられていた場所も『天空の怪物』と同じく頭部。外見から性能を推測するのは専門外というのもあって難しいが、恐らく同等、或いは改良されたものだと考えるのが自然だろう。

 そして二匹の怪物の特異な動きから、その行動を制御するというのが機能だと思われる。

 気になるのは、『天空の怪物』と『異形の怪物』には鳥類ぐらいしか接点が見られない点だ。『異形の怪物』はかなり特殊化した形態をしており、ここまでの変化を遂げるには相当の時間が必要な筈である。共通祖先はかなり遠い、数千万年単位で昔の種という事もあり得るだろう。そこまで分類が離れていると、生理機能も何処まで共通しているのやら。

 にも拘わらず、この機械は二種の怪物の動きを制御出来た。かなり広範囲に影響を与えられる、恐らく最初からそれを設計思想として開発されたものだと推測出来る。

 ならば。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それを世界で、同時多発的に起こせば……

 

【ピ? ピピッピー! ピピピィー!】

 

 恐るべき考えに至った時、不意に『異形の怪物』が騒ぐように鳴き始める。

 突然の行動に、一瞬嫌な予感が……かつて自分が食べられた時の光景がレイナの脳裏を過ぎった。しかしすぐに、その予感が自分の勘違いだと気付く。『異形の怪物』に苦しんでいる様子はなく、むしろぴょんぴょんずしんずしんと、垂直に元気よく跳ねていた。引き起こされる地震に転びそうになるが、なんとも楽しげな様子にレイナは再び笑みを浮かべてしまう。

 尤もその笑みは、突如として大地が大爆発を起こした事で強張ってしまうが。強張るだけならマシな方で、平治と道子はひっくり返る。

 大地の大爆発は凄まじく、まるで原爆でも落とされたかのような広範囲が吹き飛んだ。しかしその爆発は火薬により引き起こされたものではない。炎も煙も上がらず、ただ地面が吹っ飛んだだけだ。

 そして爆発現場の直情には、真っ白な『球体』が浮いていた。

 否、浮いていたのではない。一瞬空中で静止したそれは、自由落下で落ち始めたのだから。つまり跳び上がっていたのだ。自らの身体の動きだけで、『球体』は大地を核爆弾の如く粉砕したのである。

 やがて着地したそれは、『異形の怪物』の三倍はあろうかという巨躯を有していた。されど見た目は『異形の怪物』とまるで同じ。『異形の怪物』は【ピィー!】と嬉しそうに鳴くと、新たに現れた白い球体に寄り添う。白い球体も『異形の怪物』に寄り添い、ピピピと嬉しそうに鳴いた。

 

「……お、親子、なのかな?」

 

 平治がそう呟き、レイナもそう思う。

 『異形の怪物』はヒナだったのだ。それも親離れが出来ていない、小さな子供。本来は後から現れた直径百五十メートルほどの姿が、成体となった『異形の怪物』の姿なのだろう。

 恐らく成体は、離れ離れになったヒナを探していたのだ。きっと親は今の今まで右往左往しながら我が子を探し、ついにその鳴き声を聞いたので直進で向かってきた……というところか。

 鳥の場合巣立ちした後も、しばらくはヒナの世話をするもの。その世話は本能によるものの筈だが、しかしこうして擦り寄る姿を見ると、やはり非常に愛情深い怪物なのだろう。

 

【ピピィーピィーピィー】

 

【ピピッ!】

 

 親鳥が鳴くと、『異形の怪物』も同じく鳴く。ごろごろと転がりながら移動した二羽は、親鳥がぶち破って出来た大地の穴を通じ、地下へと戻っていった。

 

「(予想通り、地底生活をしてるみたいね。しかしあれだけ大きいとなると餌は何を食べてるのかしら? 光がないから生産者なんて殆どいない筈だけど……)」

 

 帰っていく怪物達の姿から、生態的予測を立てるレイナ。小難しい理屈を考えつつも、心の内は暖かな気持ちで満たされていた。

 レイナは根っからの怪物好きだ。怪物達が自然に帰っていくのは良い景色であり、しみじみと感動しながら眺めるもの。ただ静かに、命の営みが戻るところを見ていたかったのである。

 尤も、周りの一般人二人は違うようで。

 

「や、やったぁー! 帰ったぁ!」

 

「わ、私達、助かったんですね! お仕事完了ですよね!?」

 

 はしゃぐように喜びに満ちた声を上げながら、レイナに抱き付いてきた。

 いきなりの事に驚くレイナだったが、平治達のあまりの喜びように、どう声を掛けたら良いのか分からなくなる。なんとなく顔を見ていると、二人とも目に涙まで浮かべていて、ますます声が掛け辛い。

 だけど、喜んでいるのだから邪魔する必要なんかもない訳で。

 

「(……まぁ、いっか)」

 

 初仕事を無事に終えられた事を、黙して祝福するのだった。

 

 

 

 

 

「うぅ……泣いてるところ見られた……」

 

「恥ずかしい事なんてないですよ。最後の方はちょっと麻痺してましたけど、私達、何時死んでもおかしくない立場だったんですから」

 

「そうかな……そ、そうだよな。誰でも泣くよな」

 

 胡座を掻いて草原の上に座る平治と、傍で正座している道子がお喋りをしている。体育座りをしているレイナは、そんな二人の話をニコニコしながら聞いていた。

 怪物を本来の住処へと戻す――――任務を果たしたレイナ達三人は現在、最初に怪物の観測を始めた小高い丘の上に居る。仕事を終えたので荷物を片付けなければいけないのと、一仕事終えた後の小休止……ちょっと早めの夕ご飯を食べるため。

 奮戦している間に随分と時間が経っていたようで、陽は西に傾き、空が茜色に染まっている。怪物親子によってズタズタに破壊された森の風景と合わさると、なんとも終焉感のある景色だ。無論森はまだまだ生きている。人工林なので人の手は必要だろうが、やがて再生するだろう。

 ――――そう、まだ何も終わっていないのだ。

 

「……さてと、そろそろお仕事の報告をしないといけませんね」

 

「ん? ああ、そっか。アンタにとってはこんなのは仕事の一つか」

 

「あ、あの、これからも頑張ってください! 無事を祈ってます!」

 

「いや、お二人共もうこんな目に遭わずに済むみたいな感じですけど、多分まだまだ使われますよ?」

 

「「……やっぱり?」」

 

 レイナがツッコミを入れると、平治と道子は乾いた笑みを浮かべた。どうやら此度の仕事で精神的にかなり疲弊したようで、現実逃避をしていたらしい。

 気持ちはレイナにも分からなくはない。自分は怪物が大好きなので命を賭けても平気だが、一般人からしたら命は惜しいものだ。明確に襲われた訳でなくとも、余波だけで人間を粉微塵に粉砕出来る化け物になんて、もう二度と近付きたくないだろう。

 ……これまでの経験的に、正直今回は一番『マシ』な方だとレイナは思うのだが。簡単なものから経験を積めて良かったと言うべきか、これから更に苛烈な仕事を任されると言うべきか。

 尤も彼等には仕事の選択権などなく、出来る事など精々フラグを立てないよう言動に気を付けるぐらいなのだが。

 

「まぁ、休暇ぐらいはくれるかも知れませんけど……あー、そういえば私、あと二日は安静のところ引っ張り出されたんですよね。またベッドに戻されるのかなぁ、やだなぁ」

 

「なんかさらっと言ってますけど、割と大変な事ですよねそれ……?」

 

「やだなぁとか言ってる時点で、送り出した奴とネジの外れっぷりは大差ないと思う」

 

 部下二人の正直な意見もなんのその。頭のネジが外れている事など自覚済みのレイナは気にも留めず、本部に連絡するための通信機を手に取った

 直後、通信機がぶるぶると震える。

 どうやらこちらが掛ける前に、本部から連絡が来たらしい。『ミネルヴァのフクロウ』が使用している通信機は、基本的にはどれもマナーモードだ。怪物や危険生物が蠢く環境で音を出す事は、餌が此処にあると訴える事に等しいからである。そうした業務知識も身に付いてきたレイナは、特段驚きもせず、通信機の通話ボタンを押す。

 

【こちらマリア。レイナ・エインズワーズはいますか?】

 

 レイナが驚いたのは、通話相手が所長だと知ってからだ。

 

「えっ!? しょ、所長!? なんで――――」

 

【質問に答えなさい。無駄な問答をしている時間はありません】

 

「え、あ。はい。こちら、レイナ・エインズワーズです」

 

 有無を言わさない強い言葉に、レイナは言われるがまま返答。まるで先生に怒られている小学生だなと、乾いた笑みが浮かんだ。

 しかしながらいくら『お気に入り』とはいえ、所長という立場の人間が下っ端研究員(レイナ)に伊達や酔狂で連絡はしてこないだろう。彼女の方から連絡するに足る、何らかの理由があると考えるべきだ。

 

【通話にすぐ出られたという事は、現在の任務は完了したと考えて良いですね?】

 

「は、はい。完了しました。『異形の怪物』は生息地域に帰っています」

 

【結構。では任務時に起きた出来事の詳細、及び新種に対する所見報告を後回しにすれば、次の任務はすぐ行えますね?】

 

「……はい」

 

 所長からの問いに、肯定の返事をするレイナ。所長からはまだ具体的な事は何も言われていないが……何を言われるのか、大まかな予想は出来た。

 そう、本当に予想は簡単だ。

 怪物を狂わせる機械の存在、そして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という任務前に受けた説明……二つを合わせれば、一つの可能性が容易に浮かんでくる。

 即ち、此度の騒動が人為的に引き起こされた可能性だ。

 それ自体は勿論大変な事である。危うく文明が滅茶苦茶になるところであったし、生態系へのダメージもどれだけ与えられたか分かったもんじゃない。しかしながらそれは後で考えたり、調べれば良い事。

 怪物が誰かの意図で暴れ回らせていたとして……世界各地で暴れさせたらどうなるか? 相手は少なくとも怪物の存在を知っているのだ。『ミネルヴァのフクロウ』についても把握している筈である。そして『ミネルヴァのフクロウ』がどのような目的を持った組織であるのかも。

 怪物が暴れ出せば、『ミネルヴァのフクロウ』は見過ごせない。大量の人員を差し向ける筈だ。勿論やらねばならない業務を疎かにはしないよう、努力はするだろうが……どうしても普段と比べ手薄になるし、些末の連絡事項は後回しにせざるを得なくなる。

 その隙を突けば、普段は出来ないような事だってやれる筈。

 これは明らかな()()()()だ。

 

「……次の任務は、どんなものですか?」

 

 全てを察したレイナは、通信機の向こうに居る所長に問う。

 所長は一呼吸置いた。まるで自身の気持ちを落ち着かせるために。

 あの所長が困惑している――――それがレイナの心をますます動揺させたが、されど通信機越しの所長に伝わる筈もなく。

 やがて所長はハッキリとした口調で、こう告げるのだ。

 

【ただちに南極へ向かいなさい。そこに眠る『終末の怪物』を、目覚めさせないために】



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Species6
近付く終焉


 時は一九九〇年代初頭。南極大陸の永久凍土下に、巨大な地下空洞が存在している事を『ミネルヴァのフクロウ』が確認した。未確認の生態系が存在すると確信した彼等は探検隊を送り込み、調査を進め……最深部にて彼等は発見してしまった。

 氷付けになった、途方もなく巨大な怪物の姿を。

 発見当時は氷漬けの状態だった故に死亡していると考えられていたが、後の調査により生存している事が判明。体長は四百メートルを超えており、現在確認されている怪物の中でも最大級の種である。食性は不明だが、熱エネルギーの吸収が検知されており、この能力により凍結状態でも生き長らえているらしい。ただしその能力により氷が一層冷却され、自身の覚醒を妨げている面もあるようだが。

 空洞内には他にも多数の生物が生息しており、その危険性から調査は難航。怪物の研究はあまり進んでおらず、本当につい最近分類に関する論文が発表されるほど謎が多い。具体的な危険性は未だ不明。しかしながらその圧倒的な巨体、熱を吸収するという性質から、現代兵器及び核兵器はほぼ通用しないと推測されている。そして現時点で凍結状態の個体以外は確認されておらず、絶滅種の生き残りという可能性が高い。

 このため万一覚醒した場合、既存の生態系では対応可能な種が存在せず、地球環境に壊滅的打撃を与える危険がある。

 目覚めさせてはならない、触れてはならない、禁忌の生命体。もしも目覚めたならば、奴の咆哮は全てに終わりを告げるラッパとなるだろう。

 故に『終末の怪物』。

 

「それがこれから向かう先にいる怪物です……こんな怪獣みたいな生き物と会えるなんて、ワクワクしますね!」

 

「いや、しないから」

 

「しません。まだ死にたくないです……」

 

 そうした説明を怪物の写真込みでしたところ、レイナは平治と道子の二人からバッサリと否定されてしまった。ぷくりと頬を膨らませるレイナは、二十歳の女性ではなく、五歳ぐらいの幼女のように無邪気である。

 無論レイナも、暢気にしている場合ではないというのは自覚するところ。

 自分達の乗る飛行機が、『ミネルヴァのフクロウ』が保有する()()()()()()である事からも明らかだ。

 

「話は変わりますけど、この飛行機、どれぐらいの速さなのですか? 凄く速いと聞きましたけど」

 

「時速五千キロ、マッハ四・一だそうですよ。南極まで二時間半もあれば着くかと。もうそろそろですかねー」

 

「へぇー」

 

「いや、へぇー、じゃないよ。戦闘機でもマッハ二とかそんなもんだから」

 

 ぼんやりと納得する道子に、平治がツッコミを入れる。平治の言う通り、最新鋭の戦闘機でも精々マッハ二を超える程度。ロケットやミサイルならばマッハ二十ぐらい余裕で出せるので、技術的にこの速さが不可能という訳ではないが、コスト面や乗組員の安全性を考えればマッハ二前後が『限度』なのだ。

 莫大なコストを投じられた事は明白。お陰でレイナ達が並んで座っている座席も、ふわふわした座り心地抜群の高級品に出来た……かは定かではないが。

 その上機内は殆ど揺れが感じられない。速度が増せば空気抵抗の強さも増大し、安定性が欠けるものだが、この飛行機の中はまるで静止しているかのように静か。ロマンスカーよりも快適な旅路だ。恐らく怪物由来の技術が使われているのが窺い知れる。お値段も相当なものだろう。

 その高級技術の塊に乗せられて向かう先が、南極大陸な訳だが。

 

「はぁ……化け物を一匹追い払ったと思ったら、また仕事か……」

 

 平治は深々と項垂れながら、自身の境遇をぼやく。

 『異形の怪物』の任務を終えたレイナ、及び作業員二名(平治と道子)は、所長の通信が終わってすぐやってきたこの飛行機に乗せられた。『終末の怪物』が眠る南極へと向かうために。

 そもそも何故南極に、こんな急ぎ足で向かうのか? 理由は、南極にある『ミネルヴァのフクロウ』の基地が現在音信不通だからである。

 レイナが考察したように、どうやら『異形の怪物』及びその他怪物が一斉に暴れ出したのは、何者かの陽動だったらしい。所長も同様の考えに至っており、そう考えられる理由を二つ教えてくれた。

 一つは、同時に暴れ出した怪物の八割が鳥類――――つまりレイナが発見した機械が騒動の原因だと思われる事。同時多発的に機械を使用したのだから、陽動の意思があったと考える方が自然だ。残り二割である鳥以外の怪物は、鳥達が暴れ出した事による連鎖反応で飛び出したのではないかとの事である。

 そしてもう一つの理由は、『ミネルヴァのフクロウ』が人員不足に陥ったタイミングで南極基地が襲撃を受けたから。

 襲撃を報告後、南極基地は沈黙。そのため襲撃者の正体や規模は不明だが……狙いがあるとすれば、『終末の怪物』以外にはないというのが上層部の判断だ。あの怪物は他とは違う特別な種であり、わざわざ狙うという行動にも納得がいく。

 目覚めれば滅びを招く怪物。それに何をする気かは分からないが、他所様の基地に押し入ってくるような連中が()()()な扱い方をするとは思えない。放置すれば文字通り人類文明の危機だ。少しでも多くの人員を掻き集め、襲撃者の目論見を阻止しなければならない。

 そう、世界を救うために。

 

「……私達に、出来るのでしょうか」

 

「やらなきゃ駄目ってのは、分かってるけどね……」

 

 道子が弱音を吐き、平治がそれに賛同する。二人は項垂れ、すっかり沈んでいた。

 何故レイナ達が『終末の怪物』対応に向かうのかといえば、彼女達が()()()になったメンバーの一つだからに過ぎない。他の怪物の沈静化はまだ出来ておらず、科学者や人員を回す余裕はないとの事。レイナが怪物に取り付けられていた『機械』について報告したとはいえ、怪物はその気になればくしゃみ一つで何百もの人間を殺せるようなものばかり。慎重な対応が必要であり、解決法が分かったところですぐに出来るものではないのだ。そもそも機械云々はあくまでも『推測』であり、本当に機械があるのかの確認するだけでも時間を取られる。未だ作業中のメンバーが救援に駆け付けてくれるとは期待出来ない。

 一応レイナと同じぐらい早く、自分の担当分を解決した科学者が二人居たらしい。逆に言えば、その二人と、彼等が引き連れている作業員達だけが本作戦の全人員。情報の混乱から正確な人数は不明だが、彼等の連れている作業員が全員無事でも、精々二十人程度らしい。

 たった二十人で世界を救え――――上層部も中々無茶を言ってくれるものだ。平治達が不安になるのも当然だと、レイナにだって分かる。

 

「まぁ、程々に頑張りましょう。失敗しても、あまりくよくよせずにね」

 

 その上でレイナは、お気楽に振る舞う。

 平治と道子は同時に、呆れた眼差しをレイナに向けた。二人が今の言葉をどう思ったのかは理解するが、それでもレイナは飄々とし続ける。

 ついに我慢ならないとばかりに、平治が口を開く。

 

「程々にって……世界の危機に随分と暢気だね、本当に」

 

「私達が対応した『異形の怪物』。あの怪物がちょっと気紛れを起こせば、北海道はあっという間に壊滅でしょう。私達の文明だの命だのなんてのは、薄氷の上に乗っている代物です。駄目な時は、何をやっても駄目ですよ」

 

「それは、そうかもだけど……」

 

「勿論最低限頑張らないと、チャンスは掴めないものです。だから程々に、ね?」

 

 レイナからの言葉に、平治と道子は互いに顔を見合わせる。

 しばし流れる沈黙。

 それを打ち破ったのは、二人の口から漏れ出た笑い声だった。

 

「ははっ。全くアンタは能天気だねぇ……そうだね、確かにうだうだ考えても仕方ないか」

 

「そうですね。やれる事だけは頑張って、それで駄目なら仕方ない。うん、却ってやる気が出てきました」

 

「その意気です。勿論私も頑張りますよ! 『終末の怪物』なんて凄そうな生き物、この目で見るまで死ねませんから!」

 

「……なんかコイツだけ目的違くない?」

 

 思わず本音が漏れ出た口を、レイナは片手でパッと塞ぐ。無論こんな事で出てしまった発言が撤回される訳もなく、平治と道子に笑われてしまったが。

 狙ってやった訳ではないが、『作業員』のコンディションは良好。これならこちらは最大限の力を出せるだろう。元より後悔する気はないが、憂いは完全になくなった。

 

【エインズワーズ博士。あと三十分で集合地点に到着します】

 

 タイミング良く、飛行機も目的地に近付いている。機内に流れた操縦士からのアナウンスがそれを教えてくれた。

 レイナは席を立つ。平治と道子も立ち上がり、三人はこくりと頷き合う。

 

「それじゃあいっちょ、世界を救うとしますか!」

 

「「了解!」」

 

 掛け声と共に、最後の準備へと向かうレイナ達。

 これより自分達が目の当たりにするものを知らない彼女達は、臆する事なく『仕事』に取り掛かるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Species6 終末の怪物

 

 

 



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科学者集結

【ハッチ開けます。ご武運を】

 

 機内に響く男性操縦士のアナウンス。その言葉通り、レイナの正面にある機体後部のハッチが開いた。

 大きな車両も通れるであろう巨大ハッチが開くと、轟々と激しい音が聞こえるほどの吹雪に満たされている外が見えた。時間帯が夜というのもあって、後部ハッチから一メートル先すら殆ど見通せない。機体は既に着陸しており、外には一面の雪原が広がっていると頭では理解しているのだが……暗闇から先が断崖絶壁のように見えて、本能的に足が竦んだ。

 季節的に今の南極は『初夏』なのだが、これは季節外れの大吹雪なのか、はたまた偶にはこんな事もあるのか。いずれにせよこの吹雪の中を歩くのは中々の困難だ。寒さも見た目通りに厳しく、それこそ半端な装備で出向けば一瞬で凍り付いて死んでしまうだろう。

 果たしてレイナが着ている()()()()()()()()で、この寒さをやり過ごせるだろうか? おまけに付けている手袋も薄く、頭には軽い帽子が一つ乗っているだけ。長靴長ズボンではあるが、極寒仕様と呼べるほど生地は厚くない。まるで暖冬時の日本で見られるような格好だ。

 日本の冬もそれなりには寒いが、吹雪いている南極の中とは比べるべくもない。こんな格好で外に出たなら、あっという間に腐らない死体の仲間入りだろう。普通ならば。

 しかしレイナ達の格好は、決して普通のものではない。

 

「……まさか本当に顔以外全然寒くないなんて」

 

「その顔の寒さも、クリームを塗っただけで我慢出来る程度のものですし」

 

 吹き付けてくる外気を浴びて、レイナの後ろに待機していた平治と道子が感想を述べる。振り向いてみれば、二人とも心底驚いたように目を丸くしていた。レイナも同様の意見であり、えへんと誇らしげに胸を張る。

 レイナ達が着ている服は『ミネルヴァのフクロウ』により製造された、特殊な防寒着だ。使用されている生地は怪物由来の技術で製造されたもので、厚さ数ミリもあれば摂氏マイナス百度の低温でも殆ど熱を逃がさないという代物。この生地により作られた服は通常の装備と比べ遥かに軽く、何より身体の動きを妨げない。

 過酷な環境において、『軽い』と『動きを邪魔しない』は非常に重要な機能だ。一般的な南極探検家が着る、体格が倍近くなるような分厚い防寒着では跳んだり走ったりも難しい。対してレイナ達の格好ならば全く問題なく走れ、いざとなれば跳べる。

 危険な怪物と相対するには、打ってつけの服装という訳だ。ちなみに露出している顔や耳には、怪物由来の成分から抽出されたクリームを塗ってある。生地ほどの防寒性はないが、南極の寒さによる凍傷や霜焼けを防ぐ程度の効果はあるという。

 

「なら、出発しても問題ありませんね――――行きましょう」

 

 レイナは指示を出し、先頭を歩く。平治達はその後ろに続き、三人は雪の世界に降り立った。とはいえまだ目的地目指して出発はせず、ハッチの明かりが届く範囲内で、最終確認を行う。

 履いている靴が雪を踏み締め、ぎゅむ、ぎゅむと、独特の音を鳴らす。水気のない雪はとてもふかふかしていて、非常に歩き難い。

 何より視界が吹雪に覆われ、殆ど何も見えない。木なんて育たない環境というのもあって、目印となるものも存在しない有り様。そして有機物がない故に雪には染み一つ付かず、一面がコントラストのない純白に覆われている。

 もしも普通に歩けば、三十メートルと進んだ時点で自分の居場所が分からなくなるだろう。来た道を戻るという簡単かつ確実な策さえも、視力に九割依存している人間では難しい。考えなしに進めば間違いなく遭難だ。

 特別な防寒着により寒さから身を守っているレイナ達だが、食糧や水は最低限……腰に備えつけたポーチ内に入っている一千キロカロリー分の携帯食料と、同じく腰に装着している水筒内の五百ミリリットルの水しかない。早急に『終末の怪物』の下へと向かわねばならない都合、身軽にしなければならないからだ。もしも遭難した場合、この僅かな物資だけで、何時来てくれるか分からない助けを待つ羽目となる。

 そもそもただでさえ動員されたメンバーが少ない事が予想されるのだから、こんな形で『欠員』を出してる余裕なんてない。

 

「……皆さん! 私の声が聞こえますか!?」

 

「ああ! 大丈夫!」

 

「わ、私も聞こえます!」

 

 吹雪に負けないよう、大声で点呼を取る。二人の声は聞こえてきたが、微妙に聞き取り辛い。

 当然こんな原始的な方法で存在を確認するのは、非常に危険だ。体力も消費する。如何に素晴らしい装備で身を守っていようとも、その素晴らしい装備を打ち破るのが自然というもの。油断は大敵だ。

 先頭を歩くレイナのズボンの腰部分には、ベルトに結び付けられたカーボンナノチューブで出来たロープがある。このロープの伸びた先には平治の腰のベルトがあり、しっかりと結ばれていた。そして平治の腰からもロープが伸び、道子と結ばれている。

 なんとも原始的なやり方だが、これなら確実に行動を共に出来る筈だ。何事もシンプルに片付けられるならそれが良い。

 

「……出発します!」

 

 ロープの結びを再度確かめ、外れない事を確認してから、レイナ達は目的地目指して歩き出した。

 吹雪の轟音の中、柔らかで分厚い雪を踏み固める音が混ざる。声を掻き消すほどの騒音の中、黙々と歩くのみ。

 レイナだけが時折腕時計のように装着した、これまた腕時計のような機械に目を向けていた。

 この機械は所謂コンパスだ。ただし指し示すのは南北ではなく、『ミネルヴァのフクロウ』の基地がある場所。説明書曰く、最寄りの基地の場所を示してくれるらしい。距離や到着推定時間、座標まで表示してくれる優れものだが、それでいて非常に製造コストが安く、大量に製造されている。科学者であるレイナのみならず、作業員に過ぎない平治や道子にも配布されていた。

 三人が同じものを装備すれば、一人の機械が故障や誤作動を起こしても、もう二人がフォロー出来る。行く先がバラバラになる事もなく、服装のハイテクぶりもあって、若者三人の歩みは止まらず緩まず……

 

「……こうもあっさり突破すると、それはそれで拍子抜けするわね」

 

 十五分も歩いた頃、レイナ達はついに目的地に辿り着いた。

 まるで到着したレイナ達を祝福するかのように、吹雪の勢いが衰え始める。上空の雲も晴れ、月明かりが差し込んだ。するとレイナ達の目の前に現れるように、その『建物』は姿を見せた。

 外観は、ぱんぱんに膨らんだホットケーキのような形のドーム。横幅は三百メートルほどもあり、高さも三十メートルはあるだろうか。窓や扉などの出入口が見当たらず、壁には殆ど凹凸が見られない。良く言えば近未来的、率直に言えば奇怪な出で立ちだ。姿が見えればその巨大さと奇妙さに威圧もされるが、外壁は周りの雪と同じく穢れのない真っ白な色合いをしており、吹雪の中では完全に景色に溶け込んでいた。コンパスに基地までの距離が表示されていなければ、勢い余って壁に激突しただろう。

 

「うわ、マジで南極にこんな基地作っていたのか……いよいよSFだなぁ」

 

「凄いです……あの、私ちょっと秘密基地とか憧れていまして……」

 

 レイナに続き、平治と道子も基地の傍にやってきた。準備万端で進んでいたので当然の結果ではあるのだが、誰一人欠けなかった事にレイナは安堵の息を吐く。

 勿論、辿り着いたのでこれで終わりなんて事はない。仕事はこれからが始まりだ。

 そのためにも他の仲間と合流しなければならない。

 

「(待ち合わせ場所は此処なんだけど……まだ来てないみたい)」

 

 コンパスで時間を確認。事前に聞かされた作戦予定時刻まで、あと五分ほどだった。

 緊急の作戦であるため、スケジュールがかなり厳しく設定されている。もし五分経っても合流予定の二チームが集まらなかった場合、本部へ通信して新たな指示を仰ぎつつ、仲間が来るまで待つよう指示されているが……それで『終末の怪物』が目覚めては意味がない。場合によっては、単独チームでの作戦遂行が指示される可能性もあるだろう。

 それは勘弁してほしいと、レイナは願う。

 

「……あ、エインズワーズ博士。向こうから誰か来ます」

 

 その願いが叶うように、早速誰かがやってきてくれた。

 人数は五人。先頭を歩くのは、恰幅の良い人物だった。レイナ達と同じ特別な防護服を着ている筈なので、恐らく元々の恰幅が良いのだろう。レイナ達の姿が見えたのか、どかどかと力強い駆け足で近付いてくる。仲間を見付けた、というより知り合いを見付けたかのような走り方だ。

 恐らくは『彼』だ。作戦前に誰がこの作戦に参加してくれるか聞いていたレイナは、目の前に居る人物と合致する方を予想する。そしてその予想は見事適中した。

 

「ホランド博士! 元気でしたか!」

 

「それはこちらの台詞だよ、レイナ!」

 

 『天空の怪物』の時世話になった、ジョセフ・ホランド博士。彼が四人の作業員達と共にやってきたのだ。作業員達は慣れた様子で大きな自動小銃を持ち、選りすぐりの『兵士』を選んできたと分かる。

 すぐ近くまでやってきたジョセフは、久方ぶりに娘と再会したかのようにレイナを強くハグした。文化の違いに少々戸惑いつつ、レイナもジョセフにハグをする。しばし再会を喜び合うと、ホランドから先に離れ、レイナも同じく離れた。

 

「怪我の調子は良さそうだね。元気で何よりだ」

 

「お陰様で……ホランド博士が来てくれたなら、百人力です」

 

「ははっ。此処に来られたのも、元を辿れば君の功績だと思うがね」

 

 ジョセフは笑いながら、レイナを褒めてくる。

 彼が合流チームの一人となる事は、ある意味必然であろう。レイナが初めて怪しい機械を発見したのは『天空の怪物』調査時であり、ジョセフはその時に指導してくれた先輩研究員。故にレイナが発見した機械についても知っている立場だ。

 恐らく彼は、暴れている怪物が鳥類だと気付いた時、機械の存在を思い出したのだろう。そして調べてみたら案の定……といったところか。

 

「ところでもう一人、彼はまだ来ていないのか?」

 

「はい。でももうすぐ時間……あ、来たようですね」

 

 キョロキョロと辺りを見回したところ、レイナは新たな人影を発見する。

 こちらは、なんと単身。身軽な格好に相応しい、軽快な足取りでやってきた。

 合流チーム? の二つ目だ。彼もまたレイナの知っている人物。歩き方からして、ジョセフと同じくこちらも元気そうだと分かって自然とレイナの顔には笑みが浮かぶ。

 

「先輩! 来てくれたのですね!」

 

「やぁ、エインズワーズさん。大怪我したって聞いた時は心配したけど、元気そうで何よりだ」

 

 初めての任務……『星屑の怪物』調査に同行してくれた先輩だ。

 

「先輩はお一人なのですか? 他の人達は……」

 

「……殆どの作業員が死傷してしまった。怪物から機械を取り除く事には成功したけど、急激な体調変化で興奮したのかも知れない。自分の力不足が恥ずかしいよ」

 

「……そう、でしたか」

 

 どうやらジョセフほど上手くは出来なかったらしい。とはいえ怪物の強さや性質は千差万別。完璧な対処法などある筈もない。悪かったのは先輩の対応ではなく、運の方だろう。

 それを言っても、先輩の励ましにはならないだろうが。

 

「まぁ、それは個人的な話だよ。君が気にする事じゃない……それより、今はこの作戦の遂行が大事だろう」

 

「うむ、その通りだ」

 

 先輩の方から話を変え、ジョセフもそれに賛同する。レイナも頷いて同意した。

 集まったメンバーは総勢九名。

 飛行機内で動員数は二十人にも満たないと聞かされていたレイナだが、まさか半分以下しかいないとは。悪い方に結果が転んでしまったが、愚痴を言う暇はない。

 この九人で、世界の危機を救うのだ。

 

「良し、念のためレイナに確認しよう。『終末の怪物』についてはどの程度把握している?」

 

「えっと、飛行機内で資料を読んだ程度です。基本的な身長や、予測される能力。あと先月発表された、最新の分類学についても目は通しました。作業員である彼女達にも、出来るだけ説明はしています」

 

「グッド。素晴らしい」

 

 レイナがすらすらと答えると、ジョセフは満足げに微笑む。褒められたレイナは、大人らしく振る舞うため冷静さを装うも、口許がにやにやしていた。

 ……横目で見た先輩が、何やら不機嫌そうなのはどうしてなのか?

 

「君の方も、大丈夫かね?」

 

「はい。資料と最新の論文には目を通しています」

 

「良し。私の方も勿論同じだ……他に出来る準備もない。私は以前この基地に来た事があるし、『終末の怪物』への行き方も覚えている。道案内は私がしよう」

 

 考え込んでいる間に、ジョセフは先輩にも同様の質問をする。先輩はごく普通に答え、ジョセフも納得した様子。

 若者二人の準備が『万端』である事を確認したジョセフは、基地の壁に接近。胸ポケットから一枚のカードキーを取り出し、壁に当てた。

 すると壁の一部が動き出す。

 まるで意思を持つかのように壁は左右に分かれ、簡易的な扉となった。窓や扉などの出入口がないとは思っていたが、よもやこんな仕組みだったとは。恐らくこれも怪物由来の技術で作られたのだろう。こんな超技術のヒントになるほど、怪物というのは不思議で面白い生き物なのだ。

 そしてこの奥に、とびきり不思議で危険な怪物が眠っている。

 

「(……ヤバい。ワクワクしてきた!)」

 

 世界が滅びても良いとは思わないが、世界を滅ぼすかも知れない生き物には興味がある。高鳴る胸を押さえ、これは仕事なんだからと気持ちを静めようとし……

 

「どうしたんだい、レイナさん?」

 

「へ?」

 

 先輩に声を掛けられて、自分がすっかり呆けていたと気付かされる。

 長々と考えているうちに、もう基地内に突入する運びとなっていたらしい。ジョセフチームは先に行ってしまったようで、先輩は開かれた基地の入口前に立っている。平治と道子も自分の顔を見ていた。

 こりゃいかん。まるで子供じゃないか。

 

「す、すぐ行きます! 皆さん、行きましょう!」

 

 取り繕うように早口で喋りながら、レイナは基地内へと足を踏み入れる。

 ……あれ? 先輩、私の事名前で呼んでたっけ?

 僅かに覚えた違和感は、しかし未だ溢れ出すワクワクに塗り潰されて、あっという間に薄れて消えてしまうのだった。



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古の生態系

 最初、レイナは基地内が地獄と化していると考えていた。

 飛行機内で読んだ資料曰く、南極基地には総勢百五十名の研究員・作業員、そして武器を持った『保安員』が居たという。その全員と連絡が途絶している現状を思えば……彼等の生命が無事とは考え辛い。どれほど腕の立つ連中が、どれほどの規模でやってきたかは不明だが、穏便に拘束されていると考えるほどレイナも甘い考えの持ち主ではないのだ。

 だから多少の覚悟はしていたが――――

 

「これは、想定していた中では最悪ですかねー」

 

「ほんとにねー」

 

「困ったものだなこれは」

 

 ぽつりと正直な感想を零すレイナ。そんな彼女の一言に、先輩やジョセフも賛同した。

 レイナ達が突入した基地内はお洒落なオフィスの受付のような、静かで落ち着きあるデザインをしていた。天井の明かりは煌々と輝き、少なくとも発電装置は生きていると分かる。気温は暑くも寒くもないものであり、着ていたのが普通の防寒着ならば汗が滲んできただろう。普段なら、きっと職員達の団欒する姿が見えたに違いない。

 残念ながら、今此処にあるのは血溜まりや壁に付着した血飛沫。服の切れ端らしき布地に毛髪。そして――――『肉片』。

 惨たらしい虐殺が此処で起きていた証だ。見ているだけで胸糞が悪くなってくる。されど音信不通となった基地なのだ。この程度の惨状は想定していた通り。好ましくはないが、予期していたのだから驚きは少ないし、わざわざ問題視する事でもない。

 問題なのは、そこに()()()()()()()()()()事だ。職員は勿論、襲撃者らしき姿もない。

 

「……誰もいないね?」

 

「全員無事に逃げた、という事でしょうか……?」

 

 死体がない事に、平治と道子も違和感を覚えたらしい。道子はおどおどと希望的な考えを述べている。

 レイナとしてもそうであってほしい。が、肉片が散らばっている事からして、その可能性は皆無であろう。先輩とジョセフも神妙な面持ちを浮かべ、同じ結論に達している様子である事からも、レイナの中で自分の考えが正解だと確信していた。

 尤も、だからといって自分達に今更何が出来るというものでもなく。

 

「……慎重に、可能な限り音を立てないように移動しよう」

 

 先輩が提示した案が、唯一の『悪足掻き』だった。

 ジョセフが先頭を歩き、彼が引き連れてきた作業員四名、先輩と続いていく。レイナは先輩の後を追い、平治と道子もレイナの後ろを付いてくる。

 事前に渡された資料曰く、この基地の奥には地下空洞への入口があり、『終末の怪物』はその地下空洞内で眠っている。まずはそこを目指し、怪物の状態を確認するのが作戦の第一段階だ。道を知っているというジョセフの後を追い、長い長い廊下を九人で進む。

 奥に進んでも、基地内は何処も血塗れだった。

 血塗れだが、死体は何処にもない。どの壁も真っ赤に染まり、致死量の血溜まりさえも珍しくないのに。「ここで惨劇がありました」というメッセージはあるのに、肝心の惨劇が見付からず、じわじわと不安が心を蝕む。

 沈黙を保ったまま歩き続けるレイナ達。やがて一行は大きな部屋に辿り着く。部屋の中には無数の棚や機械が置かれ、正確な広さは窺い知れないが、横幅だけで三十メートルはありそうだ。棚には『無断での開封禁止』だの『C級研究員以上のみ接触可能』だの、仰々しい張り紙がチラホラと見られる。恐らくは研究施設の一つで、採取されたサンプルなどが保管されているのだろう。ただし顔で感じる気温が特別低いという事もなく、紫外線消毒やクリーンルームも通らなかったので、そこまで稀少な検体や取り扱いに注意が必要なものはなさそうだが――――

 

「隠れろ!」

 

 等とレイナが考えながら歩いていた時、ジョセフが小声で警告を発した。

 ジョセフの連れてきた作業員達は素早く棚の影に隠れ、先輩も同じぐらい速く移動。考え込んでいたレイナは反応が遅れ、平治と道子に連れられ近くの棚に身を潜めた。

 足音が止み、全員が息を潜めると……小さな音が聞こえてくる。

 それは、くちゃくちゃと、何かを噛むような音だった。

 時折ぶちりと引き千切る音が鳴り、ごくんと物を飲み込む音が聞こえた。ガリガリというのは、爪が床を引っ掻いた際のものか。時々大きな千切れる音が鳴ると、今度は硬いものを砕く音が聞こえてくる。そしてまた飲み干す音が鳴ると、唸るような、満足するような、そんな獣の鳴き声が後に続いた。

 居るのだ。何か、大きな生き物が。

 

「……………」

 

 ゆっくりと、音を立てないよう、慎重にレイナは物陰から顔を出す。平治と道子はそんなレイナを止めない。彼女達も『正体』が気になるのだろう。レイナと同じく物陰から顔を出した。

 

「ひっ」

 

 次いで道子が小さな悲鳴を漏らす。

 しかしよく頑張った方だ。レイナが予め……南極に向かう飛行機内で、少しだけ『説明』しておいたのが功を奏したのだろう。何も知らなかったなら、彼女はきっともっと大きな叫びを上げている。

 レイナ達が目にしたのは、棚を薙ぎ倒して作った広いスペースに陣取る、巨大な爬虫類だった。

 されどそれをトカゲと呼ぶ者はいないだろう。何故ならそいつは地面に対し垂直に生えた二本の後ろ足だけで立っていたのだから。体長は凡そ十メートル。背中と尾は地面に対して水平に伸びており、体高は三メートル程度だろうか。手足は人間の何倍も太く、力強いもの。長くて太い首の先にはワニのような頭部があり、その頭部に嵌まる目玉は部屋の明かりによって赤く輝いている。開いた口にはナイフよりも鋭い歯がずらりと並び、血を滴らせていた。

 長く伸びた尾は、手持ち無沙汰であるかのようにぶらぶらと揺れている。時折ぶつかった椅子や棚が吹き飛ばされ、力強さを物語っていた。足は後ろ向きの指が一本、前向きの指が三本と、鳥のような形をしている。手にも足にも長く鋭い爪があり、コンクリートで出来た床に傷を付ける。爬虫類でありながら運動性に優れているのか、足は人間のように忙しなく、小刻みに動き回っていた。走り出せば、きっと凄まじい速さを生み出すであろう。

 そして身体を覆うものは、羽毛と鱗だ。首や腕、胴体や足など、大半は羽毛に覆われている。鱗に覆われているのは顔面と腹部だけ。無感情な顔が血で汚れている様は、如何にも殺戮マシーンであるかのような印象を見る者に与える。羽毛の色合いは青白く、まるで氷のようだ。

 等々長く語れども、現代人であればこの生物をたった一言で言い表せる。

 

「きょ、恐竜……!?」

 

 平治が思わず呟いた、絶滅した筈の生物の名を以てして。

 レイナ達の前に現れた生物は羽毛に覆われた『恐竜』だった。多少詳しい者に伝えるならヴェロキラプトルをアロサウルスぐらい巨大化したような姿。知らないものに教えるなら、デカい肉食恐竜だろうか。

 恐竜の再発見となれば、正しく世界が驚くものであろう。されど『ミネルヴァのフクロウ』にとって、この発見は新しいものではない。

 何故なら『終末の怪物』が眠る領域には、恐竜がわんさか住み着いている事が既に確認されているのだから。

 

「(資料を疑っていた訳じゃないけど、こうして本物を前にすると、やっぱり驚くわね……)」

 

 鼓動が早まる胸を押さえながら、レイナは飛行機内で目を通した資料について思い起こす。

 今から凡そ六千六百万年前――――巨大隕石が地球に激突した。巻き上がった粉塵により太陽光が遮られ、地球は急速に寒冷化。世界で最も有名な大量絶滅が引き起こされた。当時恐竜は既に衰退期を迎えており、この巨大隕石により止めを刺される形で絶滅した……というのが表向きの通説である。

 だが、恐竜は滅びていなかった。

 元々寒冷地に棲息していた種が、気温の低下に合わせて赤道方面に進出。寒冷化した『熱帯地域』に適応する事で辛うじて絶滅を免れたのだ。ただし再び支配者として返り咲くほどの力は残されておらず、細々と命を繋ぐのみ。やがて隕石による粉塵が晴れ、徐々に気温が上昇を始めたものの、その頃には恐竜の生態的地位(ニッチ)は鳥類や哺乳類に奪われており、暖かな地域に生き延びた恐竜達の居場所は残されていなかった。

 恐竜達は進化したライバルとの競争を避け、より寒くて天敵が少ない極地へと進出していく。最終的に南極に辿り着いた彼等は、氷の大地の地下に適応。独自の進化を遂げながら、ひっそりと生き延びていた……

 それが、『終末の怪物』が存在する空洞に築かれた生態系の起源であると考えられている。恐らくこの恐竜も生き延びた末裔の一種であり、なんらかの拍子に地下から出てきたのだろう。

 

「(あの図体なら、人間一人ぐらいぺろりよねぇ……)」

 

 室内に居る恐竜 ― 羽毛に覆われているので以後この種は羽毛恐竜と呼ぼう ― の足下には、『肉塊』が転がっている。元が職員なのか、それとも襲撃者なのかはもう分からないが……羽毛恐竜によって噛み砕かれたのは間違いない。

 通路に死体がなかったのは、基地内に侵入した恐竜達が食べ尽くしたのだろう。万物の霊長を自称したところで、野生動物からすれば人の亡骸など肉塊でしかない。落ちていればありがたく頂戴するものだ。

 尤も、いくら巨体故にたくさんの餌が必要だとしても、十メートルの生き物の腹に百五十人の人間は収まらない。相当数の恐竜類が基地内を闊歩している筈である。

 

「……攻撃しますか」

 

「いや、止めておこう。食事中なら、こっちなんて気にしない筈だ……物陰に隠れながら、音を立てないように進むぞ」

 

 ジョセフが連れてきた作業員の一人が小声で提案するも、ジョセフはそれを却下。忍び足で先へと進む事にした。

 動き出したジョセフを追い、レイナ達も棚の影から出る。羽毛恐竜は時折レイナ達の方へと振り向いており、完全に気付いている様子だ。とはいえ足下に美味しい肉塊があるのだから、ジョセフが言ったようにわざわざこちらを襲う必要などない。追い駆けてくる素振りはなく、そのまま食事に没頭する。

 やがて部屋を出て、廊下に辿り着いたレイナは安堵の息を吐く。先輩やジョセフ、他の作業員達も全員無事。このまま先を急ごうと、ジョセフが目の前にある十字路目掛け歩き出した

 

「グル?」

 

「あっ」

 

 直後、十字路から新たな羽毛恐竜が姿を現す。

 体長は八メートル前後。先の部屋に居た個体よりも一回り小さいが、人間から見れば十分に大きい。

 ごくりと息を飲む一同。しかしまだ慌てる必要はない。満腹のライオンはすぐ傍をシマウマが通っても襲わないように、この羽毛恐竜も満腹ならばわざわざ人間を襲う事はない筈だ。確かにアシダカグモのように食事中でも獲物が横切ればとりあえず殺すような生き物もいるが、そういうのは動くものをなんでも襲うなどの本能が原因である。だからじっとしていて、刺激しなければ安全――――

 と、考えていたレイナだったが、ふと気付く。目の前に現れた彼の、鱗に覆われている頭に血が一滴も付いていない事に。

 ……どうやら今日はまだ、獲物に有り付けていないらしい。

 なら、起こす行動は決まっていて。

 

「グルガアアアァッ!」

 

 羽毛恐竜はジョセフ目掛け、大きな口を開けて噛み付こうとしてきた!

 

「ぬぉあっ!?」

 

 ジョセフは跳び退くようにこれを回避。危険生物と毎日触れ合っているお陰か、反応は誰よりも早かった。

 攻撃が空振りに終わった羽毛恐竜だが、それで捕獲を諦めはしない。この程度で狩りを止めては生き残れないのだ。そして此処には食べ応えのある獲物が九体もいる。選り取り見取り。

 羽毛恐竜が次に狙いを定めたのは、ジョセフが連れてきた作業員の一人だった。

 

「なっ!? こ、この化け物――――」

 

 狙われた作業員は自動小銃の引き金を引き、攻撃を開始する。パパパッと軽薄な破裂音が響き、無数の金属弾が羽毛恐竜の顔面に当たった。

 しかし羽毛恐竜の頑強な鱗は、人類の叡智を容易く弾く。動きすら妨げられず、羽毛恐竜は一気に直進。

 攻撃に意識が集中していた彼は逃げる事が出来ず、羽毛恐竜に頭から肩の辺りまで咥えられてしまう。バキバキと音が鳴り、突き立てられた牙によって空いた胴体の穴から血が噴き出す。傍に居たレイナはその血を浴び、服と顔が真っ赤に染まる。

 食べられた作業員から悲鳴は上がらない。即死だったのだろう。羽毛恐竜は仕留めた獲物を地面に落とし、足で踏み付ける。

 

「グガアァアァァァッ!」

 

 続けて、威嚇するように吼えた。

 これは俺の獲物だと言うかのような叫び。生き物大好きなレイナさえも、捕食者の力強さにぞわりとした悪寒が走る。

 冷静に考えれば、この羽毛恐竜はしばし仕留めた獲物に夢中だ。そして襲われた作業員はもう助からない。だから落ち着いて、彼を見捨てて静かに逃げれば、安全に退避出来る筈。

 そんな冷静な判断を常に出来るなら、人間社会で起きる不幸は幾らか消えてなくなるだろうが。

 

「に、逃げろぉ!? 早く!?」

 

 作業員の一人が叫びながら走り出すのに、さして時間は掛からなかった。

 

「ちっ……仕方ない! 走って行くぞ!」

 

 ジョセフは舌打ちしつつ、走り出すよう全員に促す。

 ジョセフの判断は正しいだろう。一人が激しく動いた事で、今し方『獲物』を仕留めた羽毛恐竜は興奮したように牙を剥き出しにしていた。逃げる獲物を前にして、捕食者の本能が刺激されたのかも知れない。

 

「ぐぎゃあっ!? ひ、ひぎゃあっ!?」

 

 そして真っ先に逃げ出した作業員は、廊下の先で新たに現れた恐竜に襲われた。まるでヘビのように身体が細長い、全身が羽毛に覆われた独特な姿の恐竜だ。

 自分を興奮させた獲物は、別の恐竜に捕まった。ならば羽毛恐竜の衝動は近くのものにぶつけられるだろう。

 次に狙われるのは、間違いなく自分達だ。

 

「レイナさん! 急ごう!」

 

「は、はい! みんなもこっちに!」

 

 先輩が手を掴んできて、レイナは引っ張られながら自分の部下達に指示を出す。平治と道子は顔を青くしながら、レイナと共に走る。

 一度騒いでしまえば、それは獣達を呼ぶ鐘の音と化す。

 部屋の中に隠れていた体長一メートルほどの恐竜が、群れを成して一人の作業員に襲い掛かる。作業員の一人が銃弾を撃ち込み何匹か倒したものの、数が多過ぎて仕留めきれず。彼は押し倒された後、部屋の中に引きずり込まれた。

 横道から飛び出してきたのは、長大な首を持つ四足歩行の恐竜。ブラキオサウルスのようなカミナリ竜の末裔かとも思えたが、大きく裂けた頬や鋭く尖った歯は肉食に特化したもの。どう見ても肉食性で、その予感を裏付けるようにレイナ達目掛け首を伸ばしてくる。辛うじて全員がその一撃を躱せたが、よく見ればまるでネコ科のようにしなやかな体躯は、一度駆ければ人間など簡単に追い抜く速さを出せるだろう。

 カミナリ竜もどきを振りきれたのは、反対側の道から現れた丸太のように寸胴な体躯の恐竜が足止めしてくれたからだ。角もフリルもない毛むくじゃらなトリケラトプスとでも言うべき生物は、されどこれもまた肉食性らしい。カミナリ竜もどきに食らいつき、取っ組み合いを始めた。血飛沫と悲鳴と雄叫びが轟き、そのまま通路の奥へと消えていく。

 出会う生物はどいつもこいつも肉食性。植物なんて生えていないであろう南極の地下空洞に適応した結果、食性が肉食に偏ったのか。しかしそれでも生産者がいなければ生態系は成り立たない。糞を糧にして育つ虫か、海の魚が入り込んでいるのか、単に餌を求めて肉食動物だけがやってきたのか――――

 

「(こんな時じゃなかったら楽しめたのにぃ!)」

 

 じっくり考察したいのに、レイナの立場がそれを許してくれない。今は『終末の怪物』を目指し、走り抜けるのみ。

 廊下を抜けたレイナ達は、やがて大きな部屋に辿り着いた。野球ドームのような、開けた空間。中心部が証明で照らされている事、床がコンクリートで固められている事……特筆すべきはその二点ぐらいしかない、殺風景な部屋だ。

 ただ一点、中心部に積まれた()()()()を除いて。

 

「見えた! 『ゲート』がある!」

 

 ジョセフが、部屋の中心にある瓦礫の山を指差した。

 よくよく見れば、瓦礫の山だと思っていたものが、内側から裂けるように粉砕されたコンクリートの床だとレイナは気付く。そして瓦礫の中央には直径十五メートルほどの大穴が空いており、地下へと続く道になっている。

 此処が地下空洞への入口だ。恐らく『ミネルヴァのフクロウ』により、生態系に影響が出ない範囲で封印されていたのだろう。しかし襲撃者達の手により破壊。爆破時の震動や臭いの影響か、恐竜達はこの大穴を通って基地内部に侵入してきた、といったところか。

 そしてこの先で、『終末の怪物』が眠っている。

 

「ど、どうしますか!? 跳び込むんですか!?」

 

「いや、内部調査の際に使用する通路がある! 襲撃者もそこを通っているに違いない! ほら、あそこだ!」

 

 ジョセフが指差した場所は、目の前の大穴……の縁部分。目を懲らして見てみれば、鉄製らしき階段の姿が確認出来た。

 あそこから下れば、地下へと行ける。

 

「ぎゃあっ!?」

 

 尤も、辿り着く前に銃を持った四人目の作業員が犠牲になり、既にメンバーは壊滅状態なのだが。

 後ろから追ってきていた羽毛恐竜が、ジョセフの連れてきたメンバーを頭から丸かじり。どばどばと滴る血液を見れば、彼の頭がどうなったかは語るまでもない。

 

「急げ急げ急げぇ!」

 

 真っ先に階段を降りるジョセフ。先輩が後に続き、レイナと平治と道子もなんとか無事階段まで辿り着いた。

 階段はぐるぐると螺旋を描き、何十メートルも下に続いている。いくら下りとはいえ、駆け抜けるのは一苦労だろう。また螺旋故に上下を見通せるため、こちらを追ってくる肉食恐竜の姿がない事を確認出来る。

 体力回復に努めるなら、今しかない。

 

「はぁ、はぁ……少し、息を整えよう。足は止めず、歩きながらヒートダウンだ……」

 

 ジョセフの提案に反対する者はおらず、レイナ達は走るのを止めた。

 しばしの間、カンカンと、踏み締めた階段の音だけが聞こえてくる。

 呼吸を整えながら、レイナは辺りを見回す。地下空洞への入口とは言うものの、此処は数十メートルにもなる垂直の縦穴だ。基地内に侵入してきた恐竜達の身体能力は不明だが、この高さの崖登りをするのは少々酷だろう。大気の流れに乗って移動出来るような微小生物以外、人の手がなくとも実質隔離状態だったと考えた方が良い。

 階段がなければ、この先にある地下空洞へ行くのに毎度パラシュート降下とロッククライミングが必要になる。調査や管理を行うのにそれではあまりにも効率が悪い。『ミネルヴァのフクロウ』が基地を設営し、階段を作るのも、効率を考えれば妥当な判断だが……お陰で恐竜達は外に出られた訳だから、皮肉なものだ。

 まさか襲撃者達は、恐竜達を外に逃がそうとしたのだろうか? 過激な(それでいて誤った)動物愛護団体が、隔離を維持しようとする『ミネルヴァのフクロウ』に反感を持って此度の襲撃を……

 

「(いや。それはないか)」

 

 過ぎった可能性を、しかしレイナは即座に否定した。

 もしも恐竜を外に逃がすのが目的なら、階段の道中、体長三十センチ程度の小型恐竜の死骸がごろごろ転がっている筈がない。どの個体も身体を撃ち抜かれ、銃弾により殺されたと分かる。

 基地内に恐竜の死骸はなかったが、襲撃者達は恐竜を殺そうとしなかったのではない。単に殺せなかっただけ。殺せるのなら、こんな無害そうな種でも殺すのだ。

 

「ホランド博士。襲撃者はひょっとして……」

 

「確証はないが、可能性は高いだろう」

 

 その時ふと、レイナの耳に先輩とジョセフの話し声が聞こえてきた。

 どうやら二人は襲撃者に思い当たる節があるらしい。一体それは何者なのか。

 やがてレイナ達一行は階段を降りきり、ちょっとした広間に辿り着いた。一息吐いたレイナは早速先輩達に襲撃者について問おうとした

 丁度、そんな時である。

 

「動かないでください――――動くと撃ちますから」

 

 背後から、物騒な声が聞こえてきたのは……



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傲慢な人類

「誰――――」

 

 声がした方に、真っ先に振り向いたのは道子だった。

 彼女は比較的臆病な性格だ。突然声を掛けられた事に驚き、無意識に振り向いてしまうのも仕方あるまい。

 そう、そのぐらいは仕方ないのに。

 パンッ、という破裂音が、容赦なく辺りに鳴り響いた。

 

「うっ……」

 

 次いで道子の呻く声と、倒れる音が聞こえてくる。

 

「! 木村さ……」

 

 今度はレイナが反射的に動き、そして再び破裂音が響いた。

 するとレイナの腹に鋭い衝撃が走る。

 痛い、と思うよりも前に腰が抜けたように倒れてしまうレイナ。次いでころころと、何かが床を転がった。目を向ければ、そこには潰れた金属の塊……銃弾が落ちている。

 撃たれたのだ。声を掛けてきた何者かに。

 ……着込んだ防寒着に『防弾性』の評価はなかったが、小さな弾丸ぐらいは防げる頑強さがあったようだ。流石は怪物由来の技術。弾丸には血が付いていないので、身体に致死的な傷はない筈だ。ジョセフや先輩が落ち着いているのは、防寒着が弾丸程度なら防ぐ事を知っているからだろう。

 

「ほら、言う事を聞かない二人が早速撃たれてしまいました……まぁ、死ななかったようですが」

 

 尤も、撃ち手は防寒着の性能を分かっていて発砲した、という訳ではなさそうだが。

 

「い、痛い……痛い……やだ、こんな……」

 

「木村さん、落ち着いてください。弾は服を貫通してませんから、大丈夫です」

 

 死の勘違い(予感)に震える道子を宥めながら、レイナは視線を声がした方に向ける。

 そこには一人の、若い男が立っていた。

 身長百八十センチほど。引き締まった身体付きをしているが、それでいてしなやかさもある、豹のような男だ。東南アジア風の顔立ちは端正で、浮かべる笑みは爽やかとしか表現出来ない。その身を包むのは競泳水着のようなタイツだというのに、変質者というより、潜入工作員や特殊部隊の人員に見えてしまう。

 そして右手には、煙を立ち昇らせる拳銃が握られている。

 コイツが自分達を撃った犯人だと、レイナはすぐに確信した。

 

「さて、自己紹介をしておきましょう。私の事は、ひとまず『指揮者』とお呼びください。この作戦の指揮を執っていたので。あと、我々の組織について説明は必要ですか?」

 

「いいや、必要ないね。こんなアホらしい事をする組織なんて、一つしか知らないからさ」

 

 犯人こと指揮者が尋ねると、先輩が棘のある言葉で答える。倒れた姿勢でいるレイナには先輩の顔が見えず、その表情は窺い知れないが……間違いなく()()()()()()()と分かるほど、声は怒りに染まっていた。

 

「お前、人類摂理のメンバーだろ?」

 

 それだけ、名指しした組織の事が嫌いなのだろう。だからこそレイナは驚き、思わず指揮者を凝視してしまう。

 人類摂理。

 それは『魔境の怪物』を調査した際、多数の軍艦を派遣してくれた組織の名前だ。確かに完全に思想を共有している組織ではなく、あくまであの調査時は利害が一致していたから協力してくれたという話だったが……

 

「ほう、よく分かりましたね……というのは少々馬鹿にし過ぎですか」

 

 指揮者はあっさりと、先輩の指摘を認める。

 ショックを受けるほど親しい存在だった訳ではない。されど名前ぐらいは聞いた事がある相手の『襲撃』に、レイナは少なくない動揺を覚えた。

 何故彼等はこんな事をしたのか。

 

「折角来てくれたのですから、手ぶらで帰すのも失礼というもの。良いものをお見せしましょう。さぁ、そのままあの道を真っ直ぐ進みなさい。お二人も立ち上がるのですよ」

 

 どうやらその説明もしてくれるらしい。なんとも親切な奴だと、指揮者に悪態の一つも付きたくなる。

 しかしその前に、今は同じく倒れた道子の方が心配だ。

 

「木村さん、大丈夫ですか?」

 

「は、はい。博士が言った通り、弾は通らなかったみたいで……」

 

「大丈夫か!? 怪我は……」

 

 レイナが立ち上がり道子に駆け寄り、次いで平治もやってくる。彼の気遣いのお陰で、レイナも道子も笑みを浮かべる程度の余裕は取り戻せた。

 無論、だから反撃に転じよう、とは思わない。今回は腹に撃ち込んでくれたから助かったものの、露出している頭部に撃ち込まれればやっぱりあの世行きだ。数少ない銃持ち作業員が皆食べられてしまった今、小さな拳銃相手でも勝てるものではない。

 ジョセフも先輩も、指揮者に言われるがまま歩き出す。レイナ達もその後を追い、指揮者は拳銃を構えたまま最後尾に付く。向かう先は、人が二人ギリギリ並んで通れる程度の細い横穴。氷で出来た通路を、レイナ達は二列に並んで歩かされた。

 

「まず、我々人類摂理の使命はご存知ですか?」

 

 指揮者は後ろから、問いを投げ掛けてくる。

 それに答えたのはジョセフだ。

 

「今更だな。()()()()()()()()()()()、だろう?」

 

 忌々しげに返された答え。

 あまりにも不遜な答えに、レイナは思わず目を見開く。指揮者は楽しそうに笑い声を出し、機嫌を悪くした様子もない。

 

「少し誤解されているようですね。我々は、人間がより繁栄出来るようお手伝いしているだけです。そのために地球を人類の手中に収める必要がある、というだけの事」

 

「そして怪物は邪魔だから絶滅させると?」

 

「勿論。あの化け物達さえいなければ、人類は地球上の資源を全て活用出来ますから」

 

 それはジョセフからの問いに答える時でも変わらない。さらりと、臆面もなく彼は語った。

 怪物を絶滅させる。

 レイナからすれば、到底受け入れられない発想だった。呆けていると、今度は先輩が語り出す。

 

「君達は相変わらず自然の秩序というものが分かっていないね。怪物がどれだけ世界に貢献しているのか、知らないのかい?」

 

「勿論、有益な面はあるでしょう。それを含めて、絶滅させた方が人間にとって得だと考えます。そもそも看過出来ないほど危険な存在じゃないですか。気紛れ一つで文明を滅ぼすような生き物を保護するなど、我々からすれば正気の沙汰とは思えない」

 

「怪物に守られてきた世界を壊す方が、正気の沙汰とは思えないけどね」

 

「問題ありません。人間には知恵があるのですから。最初は被害を受ける事もあるでしょうが、いずれ技術により全てを克服出来ます」

 

 先輩と指揮者は互いの意見をぶつけ合う。双方分かり合うつもりのない言い合いは、それぞれの立場を明白にしてくれた。

 人類摂理の者達は、人類の力があれば自然を制御出来ると考えているらしい。怪物達が守ってきた自然の摂理さえも。故に危険な怪物は排除して問題ない……という理屈だ。

 それはある意味、人類をここまで発展させた原動力の意思。西洋で科学技術が著しく発達したのも、自然を屈服させる事がある種の目的だ。屈服させても問題は起こらず、むしろ一層の繁栄を手に入れられると信じられていた。現在ではその考えを修正せねばならない問題が多々起きているものの、人間は未だ自然のコントロールを諦めていない。気候の制御、生物数の管理、人命の保護……そしてそのためならば、自然破壊が()()()()とまだ妄信している。

 人類摂理は、そうした考えを強く信奉している者達の集まりという事か。

 なんと傲慢な。結局は世界を自分の思うがままにしたいだけ。自分の欲望のために世界を壊せば、取り返しの付かない災厄が引き起こされるだろう。それこそ、人類を滅ぼすような事態だってあり得るのだ。

 とはいえ、これはレイナの考えだ。

 自然破壊が何をもたらすかは、ある程度は予測可能だが、実際には起こってみなければ分からないところが大きい。レイナは大災厄が起きると考え、指揮者は人間の知能なら問題解決を可能にするという評価を出している……これは価値観の問題だ。歩み寄る意思がなければ、排除し合う他ない。人間の力を信じている指揮者を、自然の力を信じるレイナ達が説得する事は、どうやっても出来ないだろう。

 ただ、ケチは付けられる。

 

「よくもまぁ、そんな大言を吐けるもんだよ。『魔境の怪物』にボロ負けしてる癖に」

 

 先輩が言い返したように、現時点での人類摂理(人類側)の力は怪物に遠く及んでいないのだから。絶滅させようとしたところで、返り討ちが関の山である。

 されど指揮者は笑う。不敵に、一切自信を崩さずに。

 

「そのための『終末の怪物』ですよ」

 

 悪寒のする言葉を、告げながら。

 歩き続けていたレイナ達は、やがて開けた広間に辿り着いた。広間と言ってもあくまで洞窟内。天井まで二十メートルほどの高さがあり、横幅が軽く五十メートルはあるというだけの事である。しかしながら凡そ人間の手では作れそうにない空間に、レイナは一瞬己の状況を忘れて見惚れてしまう。

 広間の左手側には大きな壁があったが、右手側はどうやら断崖絶壁らしい。絶壁の下にも広大な空間があるらしく、この場所の途方もない広さを物語る。よく見れば壁や地面には無数の傷があり、それは獣達の足跡や闘争の痕跡だと窺い知れた。此処もまた野生の王国なのだ。

 だからこそ、広間を行き交う『タイツ姿』の男達が酷く不自然に見えるのだろう。

 

「立ち止まってください。不審な動きを見せたら、今度は頭を狙いますよ?」

 

 広間に入ったレイナ達を止め、指揮者はレイナ達の前まで歩いてくる。見せ付けるように正面に陣取った彼は、なんとも上機嫌な、腹立たしい笑みを浮かべた。

 

「隊長。準備が出来ました……その者達は?」

 

「『ミネルヴァのフクロウ』の援軍のようです。尤も武装も何もないようですが。恐らく武装メンバーは外に出た恐竜達に食べられたのでしょう。結果的に無力化出来たので、良い機会ですし、人間の力を過小評価している彼等に正確な現実を教えようと思いまして」

 

 部下だろうか、青年らしき輩が報告しながら指揮者に近付く。指揮者が笑いながら答えると、青年もまたにやにやと笑った。まるでレイナ達が何も知らない事を嘲るかの如く。

 自分達は怪物の専門家だ。自慢する訳ではないが、それなりのプライドがあるというもの。怪物関連で何度も笑われるのは、如何に温和なレイナでも少々腹に据えかねる。しかしながら人類摂理の者達も、怪物がどれほど強大なのかは知っている筈だ。こちらを侮辱する、その自信に得体の知れない不安が過ぎる。

 まさか、本当に……

 

「さぁ、あちら側に移動し、下を覗き見てください」

 

 『あり得ない』可能性が脳裏を過ぎった時、指揮者はレイナ達に新たな指示を出す。あちら、と言って指し示したのは、右手側……断崖絶壁の方。

 言われるがまま、レイナ達は断崖絶壁へと押しやられた。怪しい行動を起こせば頭を撃つと言われた以上、その通りにするしかない。ジョセフも先輩も、平治も道子も崖下を覗き、レイナも身を乗り出して見る。

 正直なところ、そこに何がいるのかは分かりきっていた。分かっていたが、それでもレイナは息を飲んでしまう。

 眼下に横たわる世界の終わり――――『終末の怪物』を見てしまったがために。



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過ち

 その生物の両腕は『翼』に変化しており、巨大な羽毛が隙間なく覆っていた。

 広げられた翼の末端には小さな……それでも長さ二十メートルはありそうだが……爪が生えている。羽毛に覆われていても分かるぐらい翼を形成している骨は太く、横たわる巨体――――四百メートル以上あるだろう身体でありながら、間違いなく空を飛んでいたと確信させた。

 倒れている身体も羽毛に覆われていたが、筋肉質な肉付きは隠しきれていない。発達した胸筋、分厚い筋肉の付着した足、それ単体で生物として振る舞いそうなほど逞しい尾。全てが攻撃的であり、両腕を広げた仰向けの姿勢という情けない寝姿だというのに、背筋が凍るほどの獰猛さを窺い知れた。

 そして長く伸びた先にある頭は、ワニのような肉食性爬虫類の特徴を色濃く残している。ただし恐竜達と違い、顔まで羽毛に覆い尽くされていた。一部の羽毛は赤黒い線を描き、凶悪な紋様を顔面に刻んでいた。半開きの口には家屋の一つ二つを簡単に貫きそうなほど巨大な歯が生え、獲物を待ち構えているかのよう。

 その姿を一言で例えるならば、羽毛を生やしたワイバーンか……或いは()()()()()()()()()か。既知のどんな生物とも異なる、異様な外観の生命体。

 かの存在については、レイナも資料で把握している。自分がこれまで見てきたどんな怪物達よりも大きなその『数字』を読んだ時、具体的にどの程度のものなのかを想像しようとした。幼い頃に見た東京タワーが高さ三百三十三メートルなので、それよりずっと大きいもの。実物を見たらきっとたまげると、それなりには覚悟していたつもりだ。

 なんとも嘗めた考えである。

 命あるものの存在感が、それよりも小さな無機物と比較になる筈がないというのに。

 

「……………」

 

 口をポカンと開き、レイナは固まってしまう。いや、レイナだけではない。平治も、道子も、目を丸くして動かなくなった。先輩は舌打ちし、ジョセフが西洋人らしい悪態を吐いていたが、二人もまたそれを見つめるのみ。

 『終末の怪物』と呼ばれる生命体の持つ存在感は、人間達の心を一瞬にして捕らえてしまったのだ。

 

「(これが……世界を終わらせる、生き物……)」

 

 圧倒的な巨躯もさる事ながら、全身のあらゆる特徴が奇怪。

 大きな翼や屈強な身体付き、ワニのような頭部に全身を覆う羽毛など、全て資料に添付されていた写真で見ているが……そんな事前知識などなかったかのように、心が打ちのめされている。崖下に広がる野球場よりも広大な空洞さえ、かの巨体には狭苦しそうだ。周りには虫のような黒い粒が動き回っていて、あまりの小ささに、なんらかの作業をしている人の姿だと気付くのが遅れた。

 そしてひしひしと感じる。この氷の世界にいながら、奴の生命力はまるで衰えていないと。

 写真では分からなかったが、直に見てレイナは確信した。()()()()()()()。これまで見てきた怪物とは明らかに毛色が違う。世界を滅ぼすという肩書きが全く過大に聞こえない、恐ろしい存在だ。

 

「なんという事だ……『終末の怪物』が氷の外に出されている……!」

 

「復活させるのだから当然です。今は熱エネルギーを与えている真っ只中。間もなく活動を再開するでしょう」

 

 ジョセフの漏らした独り言に、指揮者は淡々と答えた。ジョセフは顔を上げ、指揮者を睨む。

 レイナもひっそりと指揮者を睨み付けたが、同時に違和感を覚えた。

 人類摂理の目的は怪物の絶滅。なのに今の話を聞く限り、『終末の怪物』を目覚めさせようとしているらしい。これだけ巨大な怪物なのだから、まともな手で殺すのは不可能な筈。せめて眠っている間に対処した方が楽ではないか。

 同じ疑問を先輩も抱いたらしい。彼は指揮者に、敵意を露わにしながら尋ねる。

 

「どうして復活させる? 自称賢い人間様なら、寝込みを襲う方が確実に倒せると思わないのかい? ま、やったところで傷一つ付けられるとは思わないけど」

 

「簡単な話です。この怪物は殺しません」

 

「……どういう意味だ?」

 

 要領を得ない回答。問い詰める先輩、そして疑問に思うレイナ達に、指揮者は不敵に笑ってみせる。

 

「この怪物を操り、我々の武器とします」

 

 そしてその口から平然と、恐ろしい……或いは身の程知らずな言葉が出た。

 

「『終末の怪物』を操る……だって?」

 

「あなた方も知っての通り、怪物の力は強大です。核兵器さえも通用しない事は珍しくもない。現状人類には核を超える兵器はなく、故に怪物を武力で滅ぼす事は叶いませんでした……ですが発想を逆転させてはどうでしょうか?」

 

「ぎゃ、逆転?」

 

 思わず声を漏らした道子に、指揮者は満足げに頷く。

 

「つまり、核兵器が通じない怪物同士を戦わせてはどうなるか、という事です」

 

「……成程。確かに怪物同士なら、少なくともどちらか一方は殺せるだろう。そして最強の怪物を使えば、理屈の上では全ての怪物を殺せる」

 

「その通り」

 

 パチパチと拍手をする指揮者。ジョセフは「くそったれ」と悪態を吐くが、まるで堪えない。

 

「『ミネルヴァのフクロウ』に送り込んだ、我々のスパイが持ってきてくれた『終末の怪物』の情報……既存の生態系から逸脱した滅びの使者は、我々にとって打ってつけの存在でした。全ての、あらゆる怪物の天敵となり得る存在なのですから」

 

「だから操ろうと? 馬鹿げてる! 大体怪物の制御なんてどうやってやるつもりだ!」

 

「既に実験はしています。それこそ念入りに、何十ケースも。あなた方もよく知っているでしょう?」

 

「……!」

 

 指揮者から訊き返され、ジョセフは言葉を失った。先輩も声を詰まらせ、レイナも息を飲む。キョトンとしているのは、平治と道子だけ。

 そう。レイナ達は知っている。

 鳥の怪物達に取り付けられていた機械……怪物の行動に異変を起こしたあれが、人類摂理達の語る『実験』だったのだ。

 

「あの機械は、あなた達が……!」

 

「我々とて怪物の危険性は承知しています。鞭と飴で躾けられるほど甘くはない。あなた方が終末の名を与えた怪物ならば尚更でしょう。ですから実験したのです。恐竜と近縁な、鳥の怪物を用いる事で」

 

 鳥が恐竜から進化した動物だというのは、少し生物学を齧ったものなら誰でも知っているだろう。

 そしてもっと詳しく言うなら、鳥は()()()()()だ。少なくとも骨格レベルの話であれば、差は殆どない。無論進化は骨格だけでなく内臓や血管、消化器官など全身に起こるものであり、恐竜=鳥とするのは生理学的に些か早計である。されど現生生物で最も近縁、直系の子孫なのは間違いない。

 理屈の上では、鳥に通用する技術は恐竜にも通用すると考えるのが自然だ。

 

「この巨大な恐竜モドキを操るため、鳥の怪物に特別な機械……我々はこれを『笛吹き男』と呼んでいますが……これの試験を行いました」

 

 指揮者が懐から取り出したのは、小さな機械。レイナが二度も見付けた、あの忌まわしき四角い塊だった。

 

「『笛吹き男』は怪物の脳波に干渉し、行動を制御します。また制御時の脳波を集積し、どのパターンによる制御が効果的かも算出可能です。この怪物が鳥か恐竜かは議論が分かれるところでしょうが、莫大なデータがあれば問題ありません」

 

 世界中の怪物を暴れさせたのは、陽動だけではなくシミュレーションも兼ねていたのだろう。無事怪物が暴れ回ったがために、彼等は南極基地を襲撃したのだ。

 多数のデータから最適解を導き出すという仕組みは、正に叡智を持つ人類らしい手口である。そして現実に怪物達を暴れ回らせた事から、人類摂理の思惑はそれなりには成功裏に進んでいるのだろう。

 

「既に『笛吹き男』はあの怪物の頭に設置済みです。そして間もなく怪物は復活し……人間はついに自然を克服するのです!」

 

 指揮者は誇らしげに両腕を広げ、大いに笑った。周りに居る人類摂理のメンバー達も同じく笑う。

 彼等の笑いに虚勢はなく、本心からのものだとレイナは感じた。ブラフでもなんでもない。本当に彼等の計画は順調に進み、間もなく『終末の怪物』が蘇る。

 レイナ達は指揮者の妄言に、何も言い返せない。先輩もジョセフも押し黙ったまま、指揮者を丸くした目で見つめる事しか出来なかった。

 何故なら――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……あの、すみません」

 

 レイナ達と違って呆けていなかった道子が、おどおどと手を上げる。

 指揮者は笑うのを止め、にこやかに微笑みながら道子を見る。紳士的な、ムカつく笑顔。とても上機嫌な彼は、道子の質問を許す。

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「えっと、その、私は生物学とか詳しくなくて、この作戦前にエインズワーズ博士から話を聞いただけなのですけど……」

 

「ええ、勿論構いません。分からない事は分からないと、正直に認める事が進歩するためには肝心ですから」

 

 あくまでも礼儀正しく、それでいて明らかにレイナ達を見下すように、指揮官は語る。

 とはいえおっとりした性格の道子にそんな嫌味は通じなかったようで。質問の許可が出たと純粋に思ったであろう彼女は、素直に疑問を言葉にした。

 

「『終末の怪物』は鳥でも恐竜でもなくて、翼竜だと聞いたのですけど……違うのですか?」

 

 ここまでの話が全てひっくり返る、致命的な『食い違い』を――――



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終わりの目覚め

「はは! 何を言うかと思えば! 翼竜も恐竜も大差な――――え?」

 

 指揮官の上機嫌な顔が引き攣ったのは、道子が尋ねてすぐの事。喜びで赤らんでいた顔は一気に青くなり、泳いだ視線が、未だ眠る怪物に向けられる。

 『終末の怪物』はその外観から、ごく最近まで『ミネルヴァのフクロウ』でも鳥か恐竜に属すと考えられていた。

 何しろ全身が羽毛に覆われていたので、一見して恐竜か鳥類に見えたからだ。加えて南極の地下空洞には恐竜がわんさかと暮らしていたので、彼等との共通祖先から分岐した種だと考えるのが自然。長年の進化でまたしても鳥型へと変化したのか、或いは鳥と近縁な種が祖先なのか……いずれにせよ、『終末の怪物』は恐竜の系譜だというのが主流な説だった。

 ところが最近、新説が発表された。

 その論文は凍結状態の姿勢から骨格を推定、また氷内に点在していた羽毛を解析し、『終末の怪物』が分類学上何処に位置するのかを探ったというもの。結果、従来予想されていた分類である恐竜や鳥ではなく、実は翼竜に位置すると判明したのだ。翼を覆う羽毛らしきものは鱗が変化したのではなく、皮膜がささくれるように発達したもので、羽毛とは起源が全く異なるという。恐らく羽毛恐竜達と同様保温のために発達したもので、所謂収斂進化というやつだ。

 かくして()()、『終末の怪物』は恐竜から翼竜へと分類を変えるべきだ――――という論文が発表された。病室内でレイナが読もうとしていた、あのカタログにも載っていた。

 

「(そりゃまぁ、当初思っていた分類とは違いました、なんてのは生物学じゃよくあるけど……)」

 

 生物の姿形は適応の結果に過ぎない。よって知見が少ない発見初期に姿形を指標にした結果、間違った分類を当て嵌めてしまうのは多々ある事だ。『ミネルヴァのフクロウ』だって最近まで『終末の怪物』の分類を間違えていたのだから、人類摂理をとやかく言える立場ではない。ないのだが……だから何も言わないという訳にはいかない。

 人類摂理側がどれだけの技術力を持ち合わせているかは不明だが、怪物を操る機械を一朝一夕で作れる筈もない。開発が始まったのはそれなりに昔の事で、故に人類摂理のスパイは、恐らく先月発表の論文を読んでいない。人類摂理側は、『終末の怪物』の古いデータを……恐竜か鳥であるという情報を元にして研究を進めた筈だ。

 ここで一つ大事な前提がある――――()()()()()()()()()

 確かに恐竜との共通祖先から分岐したと考えられているが、それはもう二億二千万年前の話。ちなみに鳥類誕生は、始祖鳥を始まりとするなら一億五千万年ほど前。七千万年も開きがある。恐竜という系統で繋がっているから操れる筈、という考えもあるかも知れないが……例えば共通祖先が七千五百万年前に分岐したヒトとマウスを『同じ』とし、マウスに通用した手法をそのまま人間に当て嵌めるというのは、中々難しい話ではなかろうか。

 対鳥用に開発された機械は、果たして翼竜を操れるのか?

 

「……っ! じ、実験中止! 今すぐエネルギーを遮断しなさい!」

 

 指揮者は拳銃を投げ捨て、近くにあった大きな機械に跳び付きながら叫ぶ。すると広間全体に彼の声が響き渡る。どうやら通信機能があるらしく、スピーカーか何かから音が発せられたのだろう。

 されど彼の叫び、それを拡声した音は、氷を叩き割るような音により妨げられた。

 次いでレイナ達を襲う、巨大な地震。揺れはあまりにも強く、レイナ達も人類摂理も纏めて転んでしまう。更には叫ぶような地鳴りが響き、鼓膜を超えてきた音が頭を掻き乱す。地震は中々終わらず、苦しみも終わらない。

 いや、そもそも地震ではなかった。

 尻餅を撞いたレイナの目の前、断崖絶壁の向こうで、巨大な影が鎌首をもたげたのだから。

 巨大な翼が左右に広がろうとする。ところが野球ドームよりも大きな空間なのに、翼が完全に広がりきらない。すると苛つくように翼を羽ばたかせ、自分の動きを阻む壁に叩き付けた。氷の塊である筈の壁は、まるで砂のように呆気なく崩れ去る。

 壁の崩落により支えるものがなくなり、天井も崩落を始めた。まるで雨のように氷の塊が降り注ぐ。その下にはたくさんの人達が居た筈だが……逃げきれる訳もなく。

 ただ目覚めただけ。それだけで何十何百の人間が命を落とす。身動ぎだけで全てを破壊していく様は、与えられた名に恥じない。

 一手、遅かった。

 『終末の怪物』が、目覚めてしまったのだ。

 

「止めるのです! 静止命令を出しなさい!」

 

「は、はいっ!?」

 

 指揮官は近くの部下に命じ、部下は傍の機械にしがみついて操作。先程まで自信満々に話していた『笛吹き男』を起動させたのだろう。

 だが、『終末の怪物』は止まらない。バタバタと羽毛に覆われた翼は揺れ動き、人間の事などお構いなしに氷の壁を砕いていく。のろのろと、だけど人間からすれば凄まじい速さの動きは続く。

 そして大きく伸ばした翼が、こちら目掛けて落ちてくる。

 

「……ぜ、全員退」

 

 指揮者が出した指示は、最後まで語られる事はない。

 力強く叩き付けられた『終末の怪物』の翼の先が、人類摂理の連中を纏めて叩き潰したからだ。静止命令など、全く聞き入れられなかった。

 レイナ達『ミネルヴァのフクロウ』の人員は人類摂理と距離を取っていたお陰で巻き込まれなかったが、叩き付けた際の爆風で何メートルも吹き飛ばされてしまう。ついでとばかりに翼は氷の床と壁も易々と粉砕。レイナ達が居た広間も、この一撃により本格的に崩壊が始まった。

 これほどの威力だ。人類摂理の者達はぺちゃんこを通り越して、跡形も残ってはいまい。世界を人間のものにする……その傲慢の結果としては些かあっさり気味の末路だとレイナは思うが、しかしそれは人間からの物言い。大自然からすれば、そもそも天罰を与えたつもりすらないのだろう。

 そう、『終末の怪物』にとって、人間の事など端からどうでも良い。奴が翼を叩き付けたのは、愚かな人間に天誅を下すためではないのだ。例えるならば眠りから覚めた時、布団の中でもぞもぞと蠢いただけ。

 人間は奴にとって、足下をうろちょろする虫けらでしかない。

 

「全員逃げろ! 此処に居たら潰される!」

 

 ジョセフの声で、呆けていたレイナは我に返る。しかし理性を取り戻したところで、『終末の怪物』が動き回る事で引き起こされている、巨大地震染みた揺れの中で立ち上がるのはキツい。おまけに氷の上で上手く踏ん張れない有り様だ。

 

「ほら、立って立って!」

 

 先輩が手を差し伸べてくれなけば、きっとこのまま氷の下敷きだっただろう。

 先輩に引っ張られ、立ち上がるレイナ。道子は平治に支えられながら立ち、ジョセフも自力で立つ。全員が起き上がったのを見て、ジョセフは「こっちだ!」と言いながら走り出した。

 

「ど、何処に行くんですか!?」

 

「こんな時のための脱出艇がある! あっちだ!」

 

 空洞内に響き渡る崩落音に負けないよう、大声で叫びながらレイナは問う。ジョセフも負けじと大声で答えてくれた。

 ぐねぐねとした細い道を通り、やがてレイナ達は空洞内に降りるために使った階段に辿り着く。されどジョセフは階段を使わず、別の横道へと入る。

 此度の横道はすぐ行き止まりに辿り着いた。

 小学校の体育館ぐらいの広さがある、大きな空洞。その半分近くの床は水に浸っており……岸には三十人以上軽く乗れそうな大きさの潜水艦が浮いている。

 

「あの潜水艦に乗り込め! 地下水脈を通り、脱出する!」

 

 ジョセフはそう言うと、潜水艦に跳び移った。上にあるハッチは、こんなところで時間を掛けても仕方ないからか施錠されておらず、簡単に開く。

 

「行こう!」

 

「博士も早く来てください!」

 

 平治と道子も潜水艦に跳び移り、未だ陸地に立つレイナと先輩を呼ぶ。

 恐らく、この潜水艦が最も安全な脱出方法だ。

 他の脱出経路があるとすれば、地下空洞内の何処かから出るか、或いは基地内へと戻る階段を使うか。地下空洞内の別ルートなんてあるのかどうかも分からないし、あったところで中生代の生き残り達の支配域を生身で突破せねばなるまい。不可能とは限らないが、可能性は限りなくゼロだ。それと比べれば階段を登って基地へと戻る方がマシだが、基地内にも恐竜達はひしめいている。わざわざ選ぶ理由がない。

 逃げるなら潜水艦一択だ。

 ()()()()()()

 

「――――私、ちょっと怪物に挑んでみます!」

 

 レイナが選択したのは、抗う事だった。

 皆の返事を待たず、レイナは走り出す! ジョセフや道子達の引き留める声が後ろから聞こえたが、全て無視した。通ってきた道を戻り、未だ残ってくれている階段を上がり始める。

 ここで何もしなければ、『終末の怪物』は悠々と世界に飛び立つだろう。

 その結果人類文明が滅びるのは、良しとはしないが自業自得な面もあるので仕方ないとレイナは思う。人類摂理は全人類の中の一部ではあるが、彼等を育んだのは、長い年月を掛けて作り上げた人類文明なのだから。

 されどこの星に棲まう他の生物達にとっては完全なとばっちりだ。人間が余計なものを目覚めさせたばかりに、多くの種が絶滅する……それは自然を、生き物達を愛するレイナにとって容認出来るものではない。罪悪感や同情心とは違うが、何もしないままでは()()()()()()

 勿論勝ち目なんてないのは分かっている。レイナ単身では最強クラスの怪物は勿論、羽毛恐竜一匹倒せやしない。身の程知らずとはこの事だ。

 しかし、そもそもレイナは自分の身の程を弁えた事などない。或いはここまで考えてきた『お題目』すら、心の奥底では気にしてすらいないだろう。

 そう。彼女を突き動かすものは、何時だって――――

 

「ばっ……かなのか君はぁ!?」

 

 自嘲していたレイナだったが、不意に後ろから怒鳴られたものだから驚いてしまう。思わず転びそうになりながら、レイナはすぐに振り返る。

 そこには鬼のような形相で階段を駆け上る、先輩の姿があった。

 

「え!? せ、先輩!?」

 

「なんでいきなり階段を上り始めたんだ!? 『終末の怪物』に挑むつもりか!?」

 

「そうです!」

 

「そうです!?」

 

「だってこのままじゃ、地球の生態系を破壊されてしまうじゃないですか! 何かしないと! というか先輩だって来てるし!」

 

「君が一人で全然違う方に逃げてるから追い駆けてきたんだよ!」

 

 ぎゃあぎゃあと口論をしながら、レイナと先輩は階段を上りきる。人類摂理により空けられたであろう、コンクリートの天井()にある大穴を潜って、二人は地上に出た。

 基地内部は天井が落ち、壁が崩落していた。『終末の怪物』による地下空洞の崩落は、基地にも多大な被害を与えているらしい。最悪倒壊に巻き込まれてぺちゃんこだが、文句や恐怖を言っても仕方ない。

 レイナは記憶を頼りに外へと向かい、先輩も後を追ってくる。脱出の最中、恐竜達の姿は見られなかった。恐らく、どの個体も基地の外へと逃げたのだろう。世界の終わりを察知したがために。

 時折倒れてくる瓦礫の下敷きになりそうだったが、レイナは幸運にもこれを回避。先輩と共に外へと出た

 直後、『終末の怪物』も外へと飛び出した!

 

【キルキルキルルルル!】

 

 甲高い、どう形容すべきか分からない叫びを上げる『終末の怪物』。あの短い時間でどれだけ移動したのか、レイナから数キロほど離れた地点の大地から飛び出す!

 四百メートル超えの巨体には、分厚い氷の塊なんて障害にはならないらしい。まるで紙か落ち葉のように、飛び出した際の衝撃で大量の雪や氷を浮かび上がらせる。何百メートル、或いは何キロメートルも広がる白い爆炎は、あたかも神の復活を祝福するようであり、この世の終わりを見た者に想起させた。

 全てを吹き飛ばして現れたその姿に、疲労も怪我も見当たらい。羽毛に覆われた翼に傷はなく、身体と比べれば細長い首にも、長い尾も健在だ。それでいて久方ぶりの外界はやはり嬉しいのか。長い首を左右に振り、笑うように裂けた口許を歪め、巨大な翼を羽ばたかせる。翼を動かせば暴風が巻き起こり、雪や氷のみならず、遠く離れた基地の柱や屋根さえも吹き飛ばす。

 無論、人間が例外になる事もない。

 

「危ない!」

 

「きゃっ!?」

 

 レイナも先輩に抱き付かれ、その身を無理矢理丸め込まれていなければ、吹き飛ばされた際に怪我をしたかも知れない。またレイナ達が南極を訪れた際に起きていた吹雪により、雪がたっぷり積もっていたのも、何十メートルと飛ばされても無事だった一因か。

 

「ぷは……レイナさん、大丈夫?」

 

「は、はい。私は、大丈夫です。先輩は……」

 

「ボクも大丈夫だ。このぐらいのピンチは慣れっこだよ」

 

 身を挺してくれた先輩に怪我がないと分かり、レイナは安堵……したかったが、そうもいかない。すぐに『終末の怪物』の方を見遣る。

 人類が建設した殆どの建築物を凌駕する身体は、前傾姿勢を取り、両腕に持つ大きな翼を広げていた。

 飛び立つつもりだ。このまま奴を南極の外に出しては不味い。

 

「先輩! 何か、凄い武器はありませんか!? ありますよね!? こーいう秘密基地なら!」

 

「……一応ね、あるよ。ホランド博士は、それを見にいったんじゃないかな。実際のところ、こっちに来てくれるかどうか分かんないし」

 

「やっぱり! ……ホランド博士が?」

 

 こてんと、レイナは首を傾げる。

 ホランド博士が見に行ったとは、どういう事か。その特別な武器とやらは海にあるのか。しかしどうして海に?

 いや、それよりも。こっちに来てくれるかどうか分かんない、とはなんだ?

 まるでその武器に()()()()()()()()()()()()()()

 

「……先輩、その武器って……」

 

「説明は後にしよう。それより、そのとっておきが来るまでには時間が掛かるんだ。時間稼ぎが必要だ……本当はボクだけでやるつもりだったけど仕方ない。レイナさん、手伝ってもらうよ」

 

 問おうとするレイナだったが、先輩は話を遮り『今』について話す。

 気にはなる。しかし先輩が話さないという事は、話す必要がないという事なのだろう。

 ならば聞かない。今はあらゆる無駄が惜しいのだから。

 

「了解です! 全力で手伝います!」

 

「その意気だ。それじゃあ……世界を救うとしますかね」

 

 レイナの快活な返事に先輩は満足げに頷き、それから前を見据える。レイナも同じ方へと顔を向け、そこに立つ巨大な化け物を見た。

 『終末の怪物』はこの星の生態系に組み込まれていない生物。ただ歩くだけで、或いは息づくだけで、星の全てが壊されかねない。

 本来ならば、恐れたり、或いは敵意を露わにした表情を浮かべるべきなのだろう。

 されどレイナはそんな顔にはならない。確かに世界が滅びるかも知れない。たくさんの動植物が滅び、大勢の人が悲惨な死に方をするかも知れない。そんな結末はレイナの望むところではないが……それはそれ。

 例え世界を滅ぼすという『邪悪さ』があろうとも――――圧倒的生命体を前にしている事への感動は消えやしない。

 結局のところレイナ・エインズワーズは、どんな生き物であろうとも大好きなのであり。

 

「ああ、すっごい……ワクワクしてきた!」

 

 世界の危機を前にして、満面の笑みを浮かべてしまうのだった。



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虫けらの意地

「時に先輩、邪魔をするのは結構ですけど、果たして間に合うのでしょうか?」

 

 戦う意思を決めたが早々、なんとも情けない疑問をレイナは口にしてしまう。とはいえ、それは重大な問題だ。

 『終末の怪物』は既に翼を広げ、大空に飛び立とうとしている。常識的に考えればあの巨躯が飛べる筈などないのだが、残念ながら怪物に常識は通じない。空を飛ぶ以外役に立たなそうな両腕()を羽ばたかせれば、奴は当然のように大空へと舞い上がるだろう。

 そして航空力学的に考えた場合、重たい物体を飛ばすためには速度が必要だ。例えば航空機でエンジントラブル等の理由により失速した場合、機首を下げて降下……落ちる事で加速して揚力を得て、機体を安定させるという対策が取られる。『終末の怪物』が空を飛ぶためには相当のスピードが必要であり、逆説的に奴はとんでもない速さで飛べる筈なのだ。

 一度空を飛ばれたら、恐らく追い付く術はない。飛ぶ前になんとかしなければならない訳だが、一体どうやって止めれば良いのか?

 

「一応、こんな事もあろうかと、という感じのものは用意しているよ。予測進路Bを取ってるから、場所も申し分ない」

 

 レイナの疑問に対する先輩の答えは、ポケットから取り出した小さな機械だった。通信端末のようなそれは、真ん中に赤いボタンが一つ付いている。初めて見る筈なのになんだか見覚えがある機械だなぁ、とレイナが思うよりも早く、先輩の指はそのボタンを押した。

 瞬間、『終末の怪物』が足下から噴き出した白煙に飲まれる。

 白煙は舞い上がった雪によるものだけでなく、朦々と立ち上がる粉塵も混ざっていた。白煙の大きさは一瞬で一キロ近く広がり、『終末の怪物』の姿を覆い隠してしまう。

 次いで、殴られたかのような衝撃がレイナの身体に襲い掛かる! 踏ん張る事も出来なかったレイナは「ぎゃあっ」と情けない悲鳴を上げながら、あっさりと吹っ飛ばされた。雪が積もっていなければ、今頃石や砂で傷だらけだろう。

 

「とりあえず、指向性水爆を起動した。爆破半径は小さいけど、大体十メガトンぐらいの威力があるよ」

 

 そして爆風を予期してしっかり踏ん張っていた先輩は、平然と恐ろしい事を語る。

 いざとなったら人員ごと吹き飛ばすつもりだったのか。『ミネルヴァのフクロウ』のあまりにも無慈悲な考えにゾッとしなくもないが、しかしながら怪物に対しまともに通じる武器など他にない。

 むしろレイナが気にするのは生態系の方。

 

「げほっ、げほ……そ、そんなの使ったら、空洞内の恐竜達は大丈夫なんですか!?」

 

「恐竜達の本来の住処は、『終末の怪物』が眠っていたところよりも更に奥深くだよ。浅いところにいるのは全個体数からすればほんの一部。それに指向性水爆は基地の床に仕掛けられていて、しかも上向きの打撃だから、恐竜達には殆ど被害はない筈だ。うちのは純粋水爆だから、放射能汚染もないし」

 

「綺麗な水爆とか、さらっとオーバーテクノロジーを……」

 

「うちがその手の技術持ちなのは、もう散々見てきて知ってるでしょ?」

 

 レイナのツッコミを受け流す先輩。ともあれ空洞内に広がる古の生態系への被害は、皆無とは言えないまでも少なく抑えているらしい。純粋水爆が配置されたのも、そうした環境への配慮からだろう。

 そうなると残る問題は一つ。

 

「……これで止まれば苦労はないんだけど、やっぱりそうもいかないか」

 

 そもそも、()()()()()が通じるような相手ではないという点だ。

 

【キル? キルルルル……】

 

 水爆により舞い上がった白煙の中から、『終末の怪物』はあっさりと顔を出してくる。

 現れた顔は困惑こそしていたが、それだけでしかない。痛み、というより苦しみを何一つ感じておらず、何が起きたのかすら理解していない様子だ。現代科学最大の一撃を受けてなお、攻撃を受けたという認識すら与えられていない。

 熱を吸収する能力がある事は、凍結状態の時点で判明していた。そして放射線ばかりが取り沙汰される核兵器だが、その攻撃の本質は太陽をも上回る熱。攻撃の相性が最悪なのは、復活前から予想されていた事である。

 

「だけど足場はボロボロにしてやった。これならあの周辺を出るまで、ろくに飛び立てない」

 

 元より、目的は足止めなのだろう。

 

「万一に備えて、基地の外に封じ込め用の兵器がある! レイナさんこっちに来てくれ!」

 

「は、はい!」

 

 正しく形振り構わない一撃により、時間は稼げた。先輩の後を追い、雪原を駆け抜ける。

 先輩は腕に巻いたコンパスをちらちらと見ながら、何処かを目指す。やがて立ち止まった彼はまた懐から、通信機のような機械を取り出した。今度の機械はたくさんのボタンが付いていて、先輩は慣れた様子で押していく。

 最後に隅っこのボタンを押すと、ガコン、という音を立てて雪が盛り上がる。

 盛り上がった雪は垂直まで立ち上がり、それが自動的に開いた金属製の扉だと分かった。雪に埋もれていた扉の下には梯子があり、先輩は迷いなく降りていく。

 レイナも後を追えば、小さな部屋に辿り着いた。壁の代わりに無数のモニターが敷き詰められ、床にはコンピュータやらコンソールやらが無数に並んでおり非常に狭苦しい。置かれている椅子は二つだけだが、その二つに大人が二人座れば十分に窮屈だ。

 

「此処は……?」

 

「ボク達が最初に訪れたあの基地は、あくまで監視と研究のための施設だ。万一があった時、『封じ込め』を行う施設はこっちなのさ」

 

 困惑しながら空いていた椅子に座るレイナに、一足早く座っていた先輩が答える。彼は流れるような速さで端末を操作し、最後に大きなレバーを引いた。

 瞬間、ずどん、という突き上げられるような揺れが起きる。

 『終末の怪物』が何かしたのか。そう思うレイナだったが、どうにも様子が違う。揺れは一回だけで終わらず、延々と続いていた。更にはどういう訳か、身体に妙な『圧』を感じる。まるでエレベーターに乗った時のような違和感だ。

 そして先輩が浮かべる、少年のような笑顔。

 

「『ミネルヴァのフクロウ』の本気を見せてあげるよ」

 

 自慢げな言葉を語り、先輩はとあるボタンを押した。するとモニターに光が灯り、何かが写り出す。

 そのモニターには『答え』が映る。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()。比較する物体がないため詳しくは分からないが、高さは二百メートルを超えているように見える。大地を覆い尽くす雪が蹴散らされ、白い煙のように漂っていた。壁はぐるりと弧を描き、巨大な円を描く。

 その円の中心に居るのは『終末の怪物』。

 レイナは気付いた。自分達の居場所が、モニターに映る巨大な壁の中であると。

 

「こ、これは……!?」

 

「封印用要塞『ケイジュ』。組織が開発した最終防衛ラインさ。まぁ、向こうからしたらこんなのは段差程度だろうけど」

 

 驚くレイナの前で、先輩は慣れた手付きで機器の操作を続ける。

 モニターには無数の照準が現れた。一つ一つがなんらかの武器のものだとすれば、ざっと五十の砲が『終末の怪物』を狙っている。この映像だけで圧倒的な火力が想像出来る、が、相手は水爆の直撃さえも平然と耐え抜く生命体。一体どんな武器ならば通用するというのか。

 不安、というよりも達観に近い想いを抱くレイナ。だが、自分の考えがひょっとしたら『杞憂』かも知れないとも思う。

 何故なら先輩の顔には、不敵な笑みが浮かんでいたからだ。

 

「レイナさん、そこのレバーでモニターにある赤い照準が動かせる。奴の足下を狙ってくれ」

 

「え、あ、はい!」

 

 指示を出され、レイナはすぐにレバーを操作。まるでゲームコントローラーのスティック染みた軽さで照準は動き、それが却って正確な狙いを妨げる。

 それでも一応は今時の若者であるレイナは、『ケイジュ』を観察するためか止めている『終末の怪物』の足に狙いを無事定め――――

 

「撃て!」

 

 先輩の掛け声と共に、レバーのボタンを押す。

 すると『ケイジュ』から射出されたであろう、白い塊が『終末の怪物』の足へと飛来。見事着弾した。ただし派手な爆発は起こらず、まるで飛沫のように飛び散るだけ。攻撃としては、なんだかしょぼい。

 しかしそれで十分だった。

 直撃した物体は、粘着質な液体だったのである。拡散した液体は『終末の怪物』の足下に張り付き、雪原とその巨体を繋いでしまう。雪のような粉があると剥がれやすくなりそうな気がするが、液体はお構いなし。がっちりと地上と張り付く。

 気にせず歩こうとした『終末の怪物』は、されど足は一歩と前に進まず。その結果身体が前のめりになってしまう。自分の足が固定されているとようやく気付いたのか、バタバタと翼を羽ばたかせるも時既に遅し。

 ずどんという轟音、更には巨大地震と勘違いしそうな揺れを起こしながら、『終末の怪物』は転倒した! 特段怪我もしてないのか素早く起き上がるも、怪物がどれだけ力を込めても足は動かず。未だにその動きを阻んでいる。

 『終末の怪物』は我慢ならないとばかりに、付着した液体に首を伸ばして噛み付き、強引に引き剥がそうとする。が、この試みは失態だ。液体は口に張り付き、開かなくなってしまったのだから。キョトンとした顔が慌てふためくのに、そう長い時間は掛からない。

 

「凄い……え、なんですかあのネバネバ!?」

 

「あれはアルゼンチンに生息している、イモムシ型の怪物が吐く糸を利用したものさ。利用しやすくするため多少加工しているから、本物ほどの粘付きはないけど、十分過ぎるだろう?」

 

 興奮するレイナに怪物由来のテクノロジーだと説明する先輩。彼は自分の手元にあるコンソールを叩き、新たなレバーと小さなモニターを出した。

 先輩はモニターに映る照準を確認し、『終末の怪物』の頭に狙いを定める。口に付着した液体を取ろうと藻掻いている『終末の怪物』だが、当の頭はあまり揺れ動いていない。ロックオンを知らせるような音が鳴り、合わせて先輩はレバーのスイッチを押す。

 瞬間、何かが『ケイジュ』より放たれた。

 あまりにも高速で飛翔し、残像しか見えなかったそれは『終末の怪物』の頭部に命中。ほんの僅かに、怪物の顔を背かせる……そう、背かせた。核爆弾を喰らった事すら気付かないほど頑強な生物が、ただ質量がぶつかっただけで頭を揺らしたのだ。

 『終末の怪物』は目をパチクリさせ、キョロキョロと辺りを見回す。その間に先輩は別モニターを見て、そこに移る『終末の怪物』の背中……背後の映像で照準を合わせる。再びスイッチを押すと、今度は背中側から飛んできた何かが『終末の怪物』の後頭部を直撃。怪物の頭が僅かながら前のめりに傾く。

 今度はレイナにも何がぶつかったのかが見えた。ただし飛んでいるものではなく、『終末の怪物』の頭に激突し、弾かれたものだ。

 一言でいうならば、針。

 長さは推定五十メートル。曲がりも欠けもしていないそれは、画面越しで見ているレイナすら寒気を覚えるほど鋭い。どうやらこの物騒な凶器をぶち込んでいたようだ。

 

「アレは中国に生息している、甲虫型の怪物から得た素材を加工したもの。核シェルターなんて余裕で貫通する威力があるよ」

 

 針の存在に気付いたレイナに、先輩はまたも説明。跳ね返した怪物の強度は勿論恐ろしいが、怪物に命中しても欠けない強度は正しく怪物由来。核シェルターを貫くというのは、比喩ではないのだろう。

 更に先輩がボタン操作をすると、『ケイジュ』の一部から電撃が放たれた。また機銃のようなものが生え、小さな爆発する粒も撃ち出す。青白いレーザーのようなもの、回転しながら飛んでいく刃……不可思議な攻撃も『終末の怪物』に当たり、激して飛び散る。

 どれもこれも、現代科学では作り出せないような超兵器ばかり。

 『ケイジュ』に詰め込まれているのは、怪物達の力なのだ。

 

【キル、キルルゥ……!】

 

 次々と放たれる怪物の力を受けて、ついに『終末の怪物』が唸る。口を塞いでいた粘付きを強引に引き千切りつつ、朦々と漂う煙を羽毛に覆われた翼で払い、ハエが眼前に飛んできたように仰け反って針を躱す。浴びせられる爆発やレーザーは羽毛を穢し、『終末の怪物』は不愉快そうに身を震わせた。

 お世辞にも、ダメージを与えているとは言い難い。されど明らかに意識は人間達の攻撃に向いていて、もう、奴は飛び立とうとはしていない様子。

 虫けらである人間が、偉大なる怪物様の足を止めたのだ。

 

「こ、これなら……!」

 

 胸に希望が満たされたレイナは、思わず呟く。

 怪物達の生態研究を元にして作り出した技術の数々。真似をしたのは人類の力だが、しかし元を辿れば怪物の力だ。つまりこの戦いは、怪物対怪物の争いである。

 『終末の怪物』は世界を滅ぼすという。されどこの星には他にも数多の怪物が潜んでいるのだ。その力を結集させれば、倒す事は叶わずとも、足止めぐらいは出来る。この間にジョセフが秘密兵器か何かを起動させれば……きっとコイツを封じ込められるに違いない。

 勝てると思った。

 勝利と主張するにはあまりにも情けないやり方だが、目的を達成出来たならこちらの勝利である。中々人間もやるじゃないかと、僅かにレイナの口許が緩んだ。

 ――――これは油断ではない。何故なら例え警戒心を剥き出しにしていても、何も変わらなかったのだから。

 確かに、未だレイナ達は『終末の怪物』に掠り傷すら負わせられていない。されど傷がない事と、苛立ちを覚えない事は別問題。

 さながらそれは無害な羽虫が耳許を飛び交うだけで、横を通り過ぎた誰かと肩がぶつかった時よりも激しい怒りを覚えるように。身体は無傷でも、五月蝿い小バエを叩き潰してやろうと軽く手を振り回すように。

 いずれなんらかの反撃があるとは、レイナも薄々予期していた。

 予期出来なかったのは、世界を終わらせる生き物の『掌』を、小バエに過ぎない人間なんかが予想出来る筈もない事。

 

【キルルルルルルル……!】

 

 これまでよりも微かに低い、けれども聞いた事のない声色。今までとは異なる様子、そして何より映像越しからも伝わる『怒り』に背筋が凍るレイナだったが、気付いたところで遅過ぎた。

 『終末の怪物』が翼を大きく広げて、その身体から()()()()()()()()までに、コンマ一秒の貯めすら必要としなかったのだから。

 

「……え?」

 

 もしも冷静だったなら、あまりの間抜けさに笑ってしまったであろう声がレイナの口から漏れ出る。

 これまでも怪物の不思議な力は幾度となく見てきたが、此度の『力』は幻想的過ぎた。思考が停止し、四方八方に広がりながら迫り来るそれがなんであるのかすら考え付かない。尤も考えたところで、一秒と経たずにやってきたものをどうこう出来る筈もなく。

 

「不味いッ!」

 

 精々先輩が、レイナの身体に突然抱き付くぐらい。

 いきなり抱き付かれたレイナは目を白黒させてしまう、が、驚きを自覚する暇もない。

 直後、レイナの身体が浮遊感に包まれた。

 続いて聞こえてきたのは、耳が痛くなるほどの爆音! 今まで映像を映していたモニターがノイズ塗れになった、直後にはモニターそのものがバラバラに吹き飛ぶ。機器が根元から引っ剥がされ、次々と空を飛んだ。

 怪物が放った攻撃で、要塞ケイジュが破壊された。

 文章にすればたったこれだけの事象。されどそのために必要な力はどれほどのものか。余波によるものか頭が激しく揺さぶられ、全身に何かがぶつかったような感覚の

中、レイナの意識が途絶える。

 目覚めた時、レイナの身体は半分瓦礫に埋まっている状態で横たわっていた。

 

「……………ぶはっ!? はっ、あ、はぁ、はぁ、はぁ……!?」

 

 そして息も止まっていて、覚醒と共に再開した呼吸で不足していた酸素を補おうとする。

 何がなんだか分からない。今、自分はどうなっている? というかこの瓦礫は何?

 混乱しながら、じたばたと蠢いて身体の上の瓦礫を退かす。瓦礫は比較的軽く、レイナの力でも押し退ける事が出来た。身を起こし、そしてパチリと目を開けてみれば、

 自分に寄り掛かるように倒れ、頭から血を流している先輩の姿を見た。

 

「……え?」

 

 最初、レイナは呆けた声が漏れ出た。

 次いで顔を青くし、急いで周りを見渡して、助けを呼べる場所ではないと思い出して自分が先輩を看る。

 先輩はレイナの身体に抱き付くような体勢で、全身がぼろぼろになっていた。服は埃で汚れ、顔や手などの露出している場所には青痣が見える。恐らく服の下にもたくさんの傷がある筈。

 これで気付かぬほど、レイナも鈍くない。

 先輩は身を挺して、先の崩壊から自分を守ってくれたのだ。

 

「先輩っ!? 嘘、先輩起きてください!」

 

「ぐ……ぅ……あ、あぁ……よかっ、た……無事、で……」

 

 レイナが身体を揺すると、先輩は呻くような声を漏らす。まだ生きているし、言葉も発してくれた。どうやらもうしばらくは生きてくれそうである。

 しかしこんなのはあくまで素人診断。本当の容態は、専門的な知識を持つ医者に診せねば分かるまい。一見したところ出血は浅い切り傷による僅かなものだけだが、臓器が傷付いていた場合、放置すれば容態が急変する可能性だってある。

 何処かに応急手当をするための道具はないだろうか? レイナは辺りを見渡して、

 ようやく、自分が置かれている境遇を理解した。

 周囲に広がるのは、瓦礫の山ばかり。そして暗雲に満ちた大空が広がる。

 自分は『ケイジュ』という強大な要塞内に居た筈。なのにどうして外にいるのか? 考えれば答えはすぐに導き出された。難しい事は何一つない。

 ただ、『終末の怪物』が放った不思議な一撃で『ケイジュ』が跡形もなく吹っ飛ばされただけだ。

 

「……何よ、それ」

 

 思わず、笑ってしまう。先輩を治療するという考えすら、何処か彼方に飛んでいった。

 これなら勝てる? 足止め出来る?

 なんという思い上がりか。あんなにも怪物と触れ合ってきたのに、自分は何も分かっちゃいなかった。怪物の力をいくら模倣したところで、本当の怪物相手では足下にも及ばない。怪物達の力が人間の理解を超えているのだから。

 ましてやその怪物達をも滅ぼしかねない『終末』など、足下にすら及ぶ訳がないのに。

 

【キルルルルゥゥゥ……!】

 

 邪魔者を排除したという確信を抱いたのか、『終末の怪物』は悠々と翼を広げる。今度こそ飛び立つつもりのようだが、最早レイナ達にはちょっかいを出す手段すらない。

 虫けらの抵抗もここまでか。元よりレイナの心に諦めが満ち、立ち上がる力すら入らなくなる。職業的使命感がへし折られると、後に残るのは純粋な好奇心のみ。果たしてこの強大な生命の出現は、この星の生態系にどんな変化をもたらすのか……

 そんな考察を始めた時である。

 

「……とりあえず、時間は、稼げたか」

 

 何処か安堵したような声を、先輩が漏らした。

 どういう事か? 答えは間もなく教えてもらえた。ただし先輩の口からではなく、歩く事も儘ならないような大地震という形で。

 この揺れは『終末の怪物』が起こしたものではない。何しろ『終末の怪物』そのものが、地震に困惑した素振りを見せているのだ。首を左右に動かし、辺りを見回している。広げた両翼を曲げ、まるで人間の格闘家のような構えを取った。

 『終末の怪物』はこの地震に、なんらかの気配を感じ取ったらしい。故に警戒していたようだが……残念ながら今回、それは意味を成さなかった。

 何故なら気配は『終末の怪物』の足下に潜み、出現と同時に古代の支配者を容赦なく突き飛ばしたのだから。



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生存競争

【グッギルルリリリリリ!?】

 

 突き飛ばされた巨体が落ち、雪による白煙が舞い上がる。転倒時の衝撃によるものであろう、一際大きな大地震がレイナ達を襲った。

 途方もない大きさを誇る『終末の怪物』の身体には、ただ倒れただけで自然災害染みた事象を引き起こす。途方もなく強大で、人には制御不可能な力。

 ならば、それを突き飛ばしたモノの力は如何ほどなのか?

 

「……なん、ですか。アレは」

 

 現れた『モノ』を前にしたレイナは、思わず呟いていた。

 つい先程まで『終末の怪物』が立っていた場所……その大地から雪と岩盤を押し退けながら這い出し、地上に現れたのはまるで雪山のような存在だった。

 胴体も手足も頭も、どれもこれも丸太のように太い。がに股のように開いた二本の足で大地を踏み、尾を持たない下半身をゆっくりと持ち上げた。腕は力なく垂れ下がり、身動ぎする度にぶらんぶらんと揺れている。お世辞にもやる気のある歩き方ではない。

 純白の身体には等間隔に体節らしき筋が入っており、皮膚はぱっつりと張っていた。浮き出した血管や鋭い背ビレもなく、『終末の怪物』と比べれば大人しい印象を受けるかも知れないが……目が一つも付いていない頭は、お世辞にも愛らしいとは呼べないだろう。口には顎などなく、内側に歯がびっしりと並んだ筒のようだ。体長は『終末の怪物』に匹敵するほど大きい事から、四百メートルを超えている。

 これが、先輩の言っていた『とっておき』なのか。

 

「南極の海底に生息している怪物だ……発見は一九八〇年代。成体個体数は僅か十体で、研究も殆ど進んでいない。ただ途方もなく巨大なその身体から、『終末の怪物』にも対抗出来る数少ない種だと考えられている。そして強大なライバルが現れたなら、決して無視はしない筈……本当に、迎撃に来てくれるかは分からなかったけどね」

 

 戸惑うレイナに、先輩は声を絞り出しながら教えてくれた。無理をさせてしまったと自らの失態を恥じるレイナだが、それよりも遥かに大きな興奮が胸を満たす。

 レイナと白い怪物の距離は、数キロは離れているだろう。

 されどひしひしと、その身から放たれる力を感じる。これまで様々な怪物と出会い、『終末の怪物』にはケンカも売ったレイナであるが……歩く姿を見ただけで確信した。

 コイツには勝てない。何をしようが、どんなに知恵を絞ろうが、誰と協力しようが。

 例え、『終末の怪物』であろうとも。

 

【……フォオオオオオオオン】

 

 白い怪物は静かで美しい声を発しながら、背筋を伸ばす。どう見ても異形の怪物でしかないその姿は、されど胸を張っただけで『巨神』と化した。

 四本の手足。もたげられた頭。尾を持たない身体。二本の足で直立する姿……重なる特徴などその程度しかない、似ても似つかぬそのシルエットに、けれどもヒトの姿を想起してしまう。それは神と近しい存在でありたいという願望故か、あのような存在に至りたいという夢か、大き過ぎる存在感に知的生命体としてのアイデンティティすらも飲まれたのか。

 どうあれ人間は、生理的嫌悪など無視してあの生き物に焦がれてしまう。

 

「ボク達は彼等をこう呼んでいる――――『人型(ヒトガタ)の怪物』と」

 

 故に『ミネルヴァのフクロウ』がそう名付けるのも致し方なし。

 無論、大いなる野生動物が矮小な虫けら達の与えた名など、気にも留める筈がないのだが。

 

【キィイイルキルキルキルルルル!】

 

 『人型の怪物』に突き飛ばされた『終末の怪物』が身を起こしながら、咆哮を上げた。身の毛もよだつ雄叫びは、されど巨神を怯ませる事すら出来ず。

 『人型の怪物』はなんの迷いもなく駆け出し、突撃を仕掛けた!

 二足歩行で大地を疾走する様は、特撮番組の巨大ヒーローのよう。ヒーローとの違いは、地球を守るために来た彼等と違い、野生動物故に人間どころか地球すらも気にも留めないという事。南極の大地が崩壊しそうなほど激しく駆けた末に、『人型の怪物』は巨大な竜に跳び付く。

 自身と同格の存在に組み付かれた『終末の怪物』は、しかしこちらも易々とはやられない。自慢の翼を振り上げ、『人型の怪物』を突き飛ばす! 自身を空に浮かばせるほどのパワーを生み出す翼は、同程度の体躯の生物を押し退けるのに十分な力を有していた。翼で殴られた『人型の怪物』の身体は宙に浮かび、何百メートルどころか、一キロ以上飛ばされる。

 

【キルキルルルルルルル!】

 

 これを好機と見たのか。『終末の怪物』は巨大な翼を羽ばたかせながら、『人型の怪物』へと突撃した。『人型の怪物』はすぐに起き上がろうとするが、『終末の怪物』の方が格段に早い。

 組み伏されて即座に敗北が決まるものではあるまい。だが形成が不利に傾くのは確実だ。このままでは『人型の怪物』が押し倒されてしまうと遠目で見ていたレイナは感じ、

 その予感を否定するかのように、『人型の怪物』は奇妙な動きを見せる。

 立ち上がるのを中断し、右腕を前へと突き出したのだ。人間染みた外見故にその姿は命乞いのようにも見えるも、野生の獣がそんな無為な事をする筈もない。『終末の怪物』も何か嫌な予感がするのか顔を顰めるも、古代の王者としてのプライドか、止まらずに突っ込む。

 そしてあと百メートルと迫ったところで、『人型の怪物』がついに技を繰り出す。

 突き出した腕が()()()()()のだ。

 

【キルギッ!?】

 

 肘辺りから先が撃ち出された腕はまるで砲弾のように飛び、『終末の怪物』の顔面に叩き付けられる! 『終末の怪物』もこの技は予想出来ず、その威力も凄まじかったのか、大きく仰け反ってひっくり返ってしまう。

 正しくこれはロケットパンチ。

 ただし、よく見れば腕の後ろには糸のようなものが付いていたが。腕は糸を巻き取るようにして戻り、元の場所に嵌まると傷口が塞がっていく。自分の腕が元に戻った『人型の怪物』は気にする素振りもなく立ち上がった。

 再び五体満足となった『人型の怪物』はひっくり返った『終末の怪物』に跳び掛かり、馬乗りとなった。『終末の怪物』は羽ばたきながら暴れるが、マウントを取った『人型の怪物』はそう簡単には退いてくれない。むしろこれがチャンスとばかりに、二本の腕を振り下ろす! ただのパンチといえばそれまでだが、殴られる度に『終末の怪物』が悲鳴を上げ、血と羽毛が飛び散った。

 人間では気付いてもらうのがやっとだったのに、『人型の怪物』の一撃は容易くダメージを与えている。

 核弾頭すら凌駕するのではないかと思える拳。それでも一発二発では『終末の怪物』に死をもたらさないが、十発、二十発となれば話は違う。そして相手の命を奪う事など躊躇しない野生動物に手心だのなんだのがある筈もなく、『人型の怪物』は延々と殴り続ける。

 これにて決着か?

 否である。『終末の怪物』とて、この程度でやられるほど柔ではない。

 

【キ……キルキルキルルルルゥウウ!】

 

 高々と吼えた『終末の怪物』は、その身体から青白い波動を放った!

 全方位に波動が広がっていく、さながら魔法のような光景。されど既にその攻撃を一度目にしているレイナは、今度は左程驚かない。意識を集中し、何が起きているのか探ろうとする。

 よく観察すれば、答えは難しくなかった。

 波動の通り道にある雪が、一瞬で蒸発していたのだ。つまりあの波動は摩訶不思議な魔法ではなく、超高出力の熱波だとレイナは理解する。

 恐らくは体内で生成した熱エネルギーを、なんらかの方法で圧縮・解放したのだろう。四百メートルを超える巨体となれば、ただ生きていくだけで莫大な熱を発する。それを外へと放てば、膨張した大気圧だけで十分攻撃として通用する筈だ。それこそ、『ミネルヴァのフクロウ』が開発した要塞を粉々に粉砕したように。

 幸いにしてレイナ達がその熱波を浴びる事はなかった。距離が遠かったからではなく、幸運にも射線上に『人型の怪物』が居たが事で熱波を遮ってくれたからだ。

 熱を吸収するという体質に相応しい大技は、馬乗りになっていた『人型の怪物』を直撃し、容赦なく突き飛ばす! 横転した『人型の怪物』は転がりながらも立ち上がろうとするが、古代の王者は甘くない。翼や尾からソニックブームを発するほどの速さで迫るや、『終末の怪物』は『人型の怪物』の喉笛に噛み付いた!

 『終末の怪物』が誇る鋭い牙は、『人型の怪物』の肉に深々と突き刺さる。人間の武器ではどうやっても傷付かないであろう真っ白な肉体は、空けられた穴からどす黒い体液を撒き散らす。

 人間ならば死に至ってもおかしくない傷。されど『人型の怪物』は怯みもせず、むしろ勇ましく『終末の怪物』の首へと腕を伸ばした。長くしなやかな首は、逆に言えば頑強さとは程遠い。太く逞しい腕に絡まれるや、巨大な竜は悲鳴を上げ、『人型の怪物』から口を離した。

 これはお返しだ。そう言わんばかりに『人型の怪物』は片腕の力で『終末の怪物』の首を手繰り寄せるや、もう片方の腕に握り拳を作って殴り付ける。容赦ない打撃はまたしても血飛沫を飛び散らせ、整った顔面の形を変えていった。

 やがて殴られ続けていた『終末の怪物』の頭から、何か一際大きなものが飛ぶ。

 それはレイナ達の方へ、まるで狙っているかのように飛来していた。

 

「ちょっ……っ!」

 

 身の危険を感じたレイナは、咄嗟に先輩に抱き付く。無論不安からではない。先輩が自分を守ってくれた時のように、今度は自分が先輩を守ろうとした。

 結果的に、その必要はなかったし――――無意味な行いだった。

 直径三メートルはあろうかという眼球が直撃したなら、人間の一人二人、纏めて吹き飛ばされるだろうから。

 落ちてきた目玉はレイナ達の頭上を飛び越え、背後に墜落。流石に頑丈な組織ではないからか、ぐちゃぐちゃに潰れながら飛び散る。もしもレイナ達を越えず、手前で落ちていたなら、飛び散る肉片によりやはり命を失っていただろう。

 幸運にも怪我一つしなかったレイナは、この巨大な目玉が飛んできた方角……怪物達の決戦場に再び目を向ける。

 

【キルルルルキィイイイッ!?】

 

 『終末の怪物』は泣き叫ぶように声を荒らげていた。片目の潰れた頭を、必死に振りかぶりながら。最早半分以上形を失った頭は動かせば動かすほど血と肉を飛び散らせるが、『終末の怪物』はそんな事は些末であるかのようにのたうつ。命に比べれば、顔面が再起不能なまで崩れる事などどうでも良いのだ。

 されど『人型の怪物』に容赦はない。首を捕まえている腕はより強く締め上げ、ガッチリと頭を固定。大振りで野性的な、殺意に塗れた拳を執拗に打ち付ける! 既に崩れかけている『終末の怪物』の顔面に最早真っ当な防御力はなく、どんどん形が変わっていく。

 このまま頭の中身も粉砕すれば、勝負は決する。

 

【キ、ルルルィイイッ!】

 

 それを理解したのは人間達だけでなく、殴られている『終末の怪物』自身も同じだった。

 今までにないほど悲痛な、それでいて未だ生命力に溢れた咆哮と共に『終末の怪物』の全身から青白い熱波が放たれる! 至近距離からの一撃は『人型の怪物』も耐えられず、吹っ飛ばされてしまう。

 自由になった『終末の怪物』は、しかし無防備になった『人型の怪物』への追撃は行わず。それどころかそっぽを向き、両肩から伸びる巨大な翼を広げた。

 逃げ出すつもりだ。

 遠目に見ていたレイナにも分かる行動。人間的には情けなくも思えるが、野生の世界でプライドなんてあっても邪魔なだけ。勝てないモノから逃げるのは極めて合理的な選択である。

 加えて、世界にとってもこれが最悪の展開だ。確かに『人型の怪物』によりその身はボロボロになったが、だからといって瀕死という訳でもない。片目を失う満身創痍状態でも、生半可な怪物、ましてや人類の手に負えるような存在ではないだろう。

 『ミネルヴァのフクロウ』が恐れているのは怪物が存在する事ではない。古代より蘇った怪物により生態系が崩壊する事。脱走し、野生を謳歌する事こそが最悪なのだ。

 ここで奴が逃げたら、世界が終わる。

 ――――まるでそれを理解するかのように。

 

【フォオオンッ!】

 

 『人型の怪物』は素早く立ち上がった!

 彼も『終末の怪物』が逃げ出そうとしている事に気付いたのだろう。人間達にも分かるぐらい大慌てで立ち上がり、『終末の怪物』を捕まえようと両腕を伸ばす。しかし『終末の怪物』の方が先に動いている。空を飛ぶためか、雪に覆われた大地を疾走し始めていた。

 『人型の怪物』も走って追い駆けるが、『終末の怪物』の方が僅かに速い。二匹の距離はどんどん開いていく。そして『終末の怪物』はついに翼を羽ばたかせると、その巨体をふわりと浮かび上がらせた。一度の羽ばたきで百メートル近く舞い上がり、二度、三度と羽ばたけばどんどん高く舞い上がる。

 もう駄目だ。レイナはそう思った。

 これで俺の勝ちだ。『終末の怪物』はそう思ったかも知れない。

 ――――逃がすものか。

 『人型の怪物』はそう思ったのだろう。

 

【フォオオオオオオオオオオンッ!】

 

 大地と空気を揺さぶる、雄々しい咆哮。『人型の怪物』は自らの掛け声と共に、何故かその場で()()()()()になる。

 転んだのか? 諦めたのか? 傍目には何をする気か分からない行動の真意は、すぐに明らかとなった。

 『人型の怪物』の頭部が、射出されたのだ。

 勿論比喩ではない。まるで砲弾かロケットのように、巨大な頭が飛び出したのである! 凄まじい速さで飛び出した頭は、後ろに紐のようなものが付いていた。戦いの最中に見せた、ロケットパンチと同じものだろう。そう、何も飛ばすのは腕だけとは限らない……否、腕に限定する必要なんてない。

 ()()()()()()()()()()とでも言うべき技で飛ばされた頭は、『終末の怪物』の背中に命中。筒のような口を大きく開き、内側にあったヤスリ状の歯を突き立てたのだろうか。『終末の怪物』は大きな悲鳴を上げた。

 これは不味いと、必死に羽ばたいてどうにか空に逃げようとする『終末の怪物』。しかし『人型の怪物』がおめおめと許す筈もない。背中に食らい付いた頭は離れず、紐のようなものもあって、それ以上高く上がる事を許さない。

 それどころかまるで魚釣りのように、じりじりと紐が収縮していくと、『終末の怪物』は『人型の怪物』の方へと引き寄せられる。

 

【キル!? キルル! キルルゥ!?】

 

 錯乱するように暴れる『終末の怪物』。堪らず青白い熱波を放ち、これを振り解こうとするが……此度ばかりは無意味だ。確かに『人型の怪物』をも吹き飛ばす一撃だが、その実、『人型の怪物』はこの攻撃でダメージはあまり受けていない。鋭い歯で食らい付いた頭は剥がれず、精々遠くの胴体がすっころぶだけ。

 紐は容赦なく縮んでいき、ついに『人型の怪物』の腕が届く位置まで『終末の怪物』は引き寄せられた。今になって覚悟を決めたのか振り向くも、その判断はあまりにも遅い。『人型の怪物』は長く伸びた『終末の怪物』の首を両腕で捕まえた。

 次いで逃さぬよう少しずつ、少しずつ腕を動かし……右手でがっちりと掴んだのは『終末の怪物』の頭の根元、そして左手で掴んだのは爬虫類的な頭。

 次いで左手で頭を少しずつ、明らかに無茶な角度で、『人型の怪物』は回していこうとする。

 

【キルゥウウウ!? ギッ、ギルルルルルルルルルルル! ギルゥイイ!?】

 

 『人型の怪物』が何をするつもりなのか、『終末の怪物』も理解したのだろう。これまでにないほど激しく暴れ出す。

 羽ばたく翼。泣くような悲鳴。吐き出される血飛沫。見ているだけで可哀想になるほどの懇願は、されどケダモノには通じない。あまりにも残忍な、一片の容赦もない責め苦は十数秒と続けられ――――

 『終末の怪物』の頭が、ぐるりと回った。

 『人型の怪物』は勢い余ってか、はたまた最初からそのつもりか。一回転した頭を更に回し、ついに頭部が捻じ切れる。途中で切れたであろう脊椎を僅かに頭側から覗かせ、戦利品とも言える『終末の怪物』の頭をその手で持ち上げる。

 尤も、戦国時代の武士なら兎も角、野生動物に相手の首をどうこうする文化などなく。『人型の怪物』は強敵の頭を、まるでゴミか何かのように放り投げる。

 その動作があまりにも無造作で、あまりにも無関心であるがために。

 

【フォオオオオオオン】

 

 『人型の怪物』が綺麗な声で鳴くまで、傍観者であるレイナは決着が付いた事を理解出来なかった…… 



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戻らぬ世界

【フォオオオオオオオオオンッ】

 

 美しい音色のような鳴き声が、南極の大地に響き渡った。

 勝利の咆哮としては些か上品であるが、されどそんなのは人間達の勝手な思い込み。彼等からすれば他者の評価などどうでも良いものである。

 『人型の怪物』は一鳴き終えると首からも手を離し、残った『終末の怪物』の胴体を踏み付ける。持ち前の頑強さで最初の数秒は持ち堪えた『終末の怪物』の肉体だったが、しかし『人型の怪物』が一層強く力を込めれば、生命を失ったそれに耐え抜く力などない。ぐしゃりと血肉を撒き散らし、南極の大地を赤く染め上げた。

 頭を捻じ切った時点で確定していたとはいえ、これだけやれば完璧だろう。『人型の怪物』は全身から力を抜き、臨戦態勢を解く。

 完全な勝利。

 余裕とは言い難いまでも、『人型の怪物』はたった一体で世界を救ってみせた。諸悪の根源である人間達には、何も出来なかったというのに。

 そして怪物達にとって人間など、意識する必要すらないのだろう。

 

【……フォン】

 

 ライバルを倒して満足したのか。『人型の怪物』はレイナ達など見向きもせず、のそりのそりと歩き出した。目指す方角にあるのは、初めてこの地上に現れた時に通り、『終末の怪物』に奇襲の一撃を喰らわせた穴がある場所。

 ……しゃがみ込んだ『人型の怪物』が、なんだかしょぼんと項垂れた。

 恐らく穴が塞がっていたのだろう。水爆なんて及びも付かないパワーで暴れ回ったのだから、地形が滅茶苦茶になるのも当然である。穴の周りが崩落して塞がってしまうのも必然だ。

 最短の帰り道がなくなり、ガッカリしたのか。「マジかよくそだりぃ」という声が聞こえてきそうなほど肩を落とし、これまで見せていた力は何処に行ったのかと思うほど弱々しい足取りで『人型の怪物』は海を目指して歩いて行く。

 世界を救った生き物の、あまりにもおっさん臭い後ろ姿。

 ああ、これが彼等の本当の姿なんだなと気付いたレイナは、思わず笑いが漏れてしまう。

 

「あっははは! あんな凄い戦い方してるのに、なんか可愛いなぁ」

 

「……確かにねぇ」

 

 レイナが独りごちた言葉に、傍に居た先輩が相槌を打つ。彼は身を起こすと少し顔を顰めたが、身体の動きはやや鈍い程度。怪物達の死闘の間休んでいた ― 正確には下手な身動きが取れなかっただけだが ― 事で、いくらか回復したらしい。

 仕事仲間の無事を知り、レイナは安堵する。勿論先輩にはこの後医務室での治療を受けてもらわねばならないが……連絡手段がないので、大人しく助けが来るのを待つしかない。幸いジョセフ達が先んじて脱出したので、『ミネルヴァのフクロウ』からの救助はそう遠からぬうちに来てくれるだろう。レイナに出来るのはその間にこの冷たい南極の大地で体温が奪われぬよう、膝枕状態で先輩を抱いておくぐらいだ。

 先輩を太股と腕で温めながら、レイナは自分の感じたものを語る。

 

「あの気の抜けた姿が、彼等の本性、というか本来の気質なのでしょうか」

 

「そうなんじゃないかな。海底で殆ど動きを取らないのも、何かを警戒してるとかじゃなくて、単にだらだらしてるだけじゃないかな」

 

「あはは。そりゃ、生き物からしたら無意味に動いたってエネルギーの無駄ですからねぇ……ところで『人型の怪物』って、なんの仲間なんですかね。脊椎動物ではなさそうですが」

 

「死骸の回収すら出来てないし、食性すら不明だから推測に過ぎないけど……環形動物の一種と見られているね。特に多毛類に近いと考えられてる」

 

「多毛類って、ゴカイとかイソメとか?」

 

「そうそう」

 

 多毛類と言えば、釣り餌などでよく使われる生き物。極めて多様性が大きく、中には体長一~三メートルもあるオニイソメという『普通の生物』も存在するほど。とはいえ、流石に四百メートル超えの身体を持ち、地上で格闘戦が出来るような種がいるとは思わなかったが。

 そう、目の前でその戦いぶりを見ても、『人型の怪物』が何に属するのかすらレイナには分からなかった。いや、先輩の語った話だって現時点では推測である。もしかしたら本当は全然異なる生物……それこそ実は脊椎動物だったという可能性だってあるのだ。人間達は、怪物についてなんにも知らないのである。

 あの『終末の怪物』と同じように。

 

「……先輩。念のための確認ですけど、『終末の怪物』ってもう一体ほどいたりは」

 

「しない。少なくともボク達が知っている範囲ではだけど」

 

「なら、『終末の怪物』は……絶滅した訳ですね」

 

「ほんのついさっきね」

 

 先輩からの肯定の言葉。それを聞いたレイナは、悔しさから唇を噛み締める。

 『終末の怪物』。

 如何にも悪者らしい名前こそ与えられたが、しかし彼は決して邪悪な存在ではない。ただ古代から静かに眠り続けていただけのものであり、目覚めたら世界が終わりだなんだというのは人間側の一方的な意見だ。

 彼もまた地球で暮らす生き物であり、きっとワクワクするような生態を持っていたであろう。強面だけど実は子煩悩だったかも知れないし、暑いのが苦手で冷たい海水に浸かるなどの仕草があったかも知れない。昼間はぐーたらと寝転がったり、夜にだらだらと遊んでいてもおかしくないのである。そうした不思議や可愛らしい面が解き明かされる事は、もう二度とない。

 そして彼を足止めし、『人型の怪物』にぶつけ、滅ぼしたのはレイナ達。

 確かに目覚めさせたのは『人類摂理(身勝手な人間)』であるし、そのまま見逃せば『終末の怪物』以外の種が幾つも滅びた可能性がある。生態系の崩壊から人類文明が再起不能なダメージを受け、混乱や飢えから何十億もの人が死んだとしてもおかしくなかった。それに残り一体なのだから、遅かれ早かれ絶滅は免れない。

 けれども止めを刺した事実は変えられない。

 それに、どれだけ地球の生態系を守るためだと弁明したところで――――()()()()()()()()()()()

 

「『終末の怪物』は、休眠中も熱エネルギーを吸収していた……それは知ってるかな?」

 

「はい。此処に来るまでに読んだ資料に書かれていましたから」

 

「じゃあ、その『終末の怪物』がいなくなった事による影響は、想像が付くね?」

 

「……はい」

 

 いくら休眠という低代謝状態とはいえ、四百メートルを超える巨体が生きていくのに必要なエネルギー量は莫大なものだろう。事実『終末の怪物』はその熱吸収能力により周りの氷が凍結し続け、故に眠りから覚める事が出来なかった。

 『終末の怪物』が死に絶えた事で、これまで彼が生きるために消費されていた熱は地球上になんらかの形で存在する事となる。それは地球全体から見れば微々たるものかも知れないが……ほんの少しだけでも、地球を温かくするだろう。

 昨今地球温暖化が叫ばれているが、彼がその変化を緩やかにしていたとすれば? 今後温暖化はこれまでと比較にならない、予測不能な速さで悪化するかも知れない。地球が暖かくなれば、南極のみならず様々な地域の氷が溶けていくだろう。それは単に海水面の上昇だけを引き起こすのか、住処を負われた怪物達の大進行を招くのか、眠り続けていた怪物を蘇らせるのか……

 どれだけ後悔しようとも、いくら許しを請おうとも、もう世界は変わってしまった。二度と取り返せないピースを失った形で。

 なら、前を向くしかない。例えその姿がまるで反省していないように見られたとしても、歩き続かなければ変化する世界に置いてきぼりにされるのだから。

 

「これから、忙しくなりそうです」

 

「それが分かっていれば良し……いつつ」

 

「先輩?」

 

 話の途中で声を漏らした先輩の方を見遣ると、先輩はバツが悪そうに顔を顰めていた。

 どうやら、今まで痛みを我慢していたらしい。

 

「……痛いなら痛いって言いましょうよ」

 

「いや、女の子の前でそーいうのはさ、ほら、男としてのプライドというかなんというか」

 

「くっだらない意地なんて張らないで、ちゃんと症状を言ってください。適切な手当が受けられませんよ……そりゃ道具も何もないですけど」

 

「はい、気を付けます」

 

 素直に謝る先輩の頭を、「よろしい」と言いながらレイナは撫でてやる。流石にこれは恥ずかしいのか、先輩の顔がもにょもにょと歪んだ。

 ……窘めてしまったが、思えば先輩が怪我をしたのは自分を瓦礫から庇うため。先輩が勝手にやった事と言えばその通りなのだろうが、じゃあ自分はなんの恩も感じなくて良いとはなるまい。

 お礼の一つぐらいはしておくべきだろう。

 

「……先輩、あの、先程はありがとうございます。『終末の怪物』の攻撃から、私を守ってくれて」

 

「ん? ああ、なんて事はないよ。ボクが身を挺したところで、本当にヤバい攻撃だったら蒸発して吹き飛んでるから意味ないし。運が良かっただけさ」

 

「それでもお礼をさせてください。何かお願いがあったら、それなりには聞きますよ」

 

「お願いかぁ。そうだなぁ……」

 

 先輩は目を閉じ、かなり真剣に考え込んでいる。飯を奢れとか仕事を手伝えとか、その程度のものを想定していたレイナにとって長考されると色々怖い。一体何を頼まれるのかと、思わず息を飲む。

 やがて先輩は大きくその目を見開き、

 

「じゃあ、名前で呼んでほしいな」

 

 ハッキリとした口調で告げられたお願いは、考え込んだ割には些末なもの。

 レイナは首を傾げた。何故そんな事をお願いするのか。別に普通に頼めば良いじゃないかと。

 何か特別な意味があるのか。そう思い至ったレイナは考えを膨らませ……一つの仮定に思い当たる。

 レイナにとって、そうした感情を向けられるのは初めての事ではなかった。鈍くはあるが、ヒントがあれば気付くぐらいには経験豊富。故にこうした事には案外慣れていて、驚く事はない。むしろ今までの理由が分からない数々の言動に合点がいき、成程なと思う。

 驚きがあったのは、自分の感情の方。

 どうやら自分も彼の事は()()()()()()らしい。好みの男性像を上げるなら、優しさの中に逞しさがある人。確かに迫り来る瓦礫から身を挺して守ってくれる人は、優しさと逞しさがある。自分の好みにどんぴしゃで、好意を抱いてしまうのは極めて自然な流れであろう。

 ならばそのお願いにはすんなりOKを、とも思ったが、しかしそうした諸々の気持ちを自覚しながら名前を呼ぶのは妙に気恥ずかしいもので。

 

「仕方ない人ですね……大桐さんは」

 

 苗字を呼んで、レイナは自分の中に芽生えた気持ちを誤魔化してしまうのだった。



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怪物達の地球

「というのが、私と旦那の馴れ初めでね。いやぁ、あの時はほんと格好良かったわぁ。勿論今でも格好良いけどね! むしろ日々増してるぐらい?」

 

「なんで惚気てるのこの人……」

 

 真夜中の大森林にて。泥まみれの新人である青年に向けて、同じく泥だらけの格好であるレイナ・エインズワーズ(大桐 玲奈)は二年前にあった旦那との思い出(という名の南極任務)をつらつらと語っていた。新人から呆れた眼差しを向けられていたが、生憎新婚ほやほやの玲奈にその感情は届かない。

 無論いくら新婚でも玲奈達の頭上に陣取る巨大な山――――『封印の怪物』が動いていたら、こんな無駄話はしていないが。

 玲奈達は今『封印の怪物』の本体から伸びている、太さ五十メートルもの四角柱状をした脚部の一本に寄り掛かっている状態だ。もしもこの足が動けば、人間である彼女達は踏み潰されるか蹴り殺されるかなのだが、玲奈は気にせず背を預けている。もう動かないと確信している玲奈は、新人からのいちゃもんにぷくりと頬を膨らませた。

 

「だって暇なんだもん。『封印の怪物』はちゃんと止められたし、お陰で核ミサイルの発射も中止。あとはうちの組織の救援が来るのを待つだけよ。ならお喋りぐらいしても良いじゃない」

 

「……しかし、大桐博士、よく分かりましたね。足の裏にゴミが刺さっていたのが原因だったなんて」

 

 余程惚気話を聞きたくないのか、新人は視線と共に話を逸らす。

 彼が見た先には、巨大な金属の塊があった。塊と言っても、綺麗に溶かされて出来た金棒の類なんかではない。車やら自販機やら、金属製の『人工物』を無茶苦茶な力で丸め込んだ、直径四メートルにもなる汚い三角錐だ。

 この汚い金属塊は『封印の怪物』の足の裏に突き刺さっていたもの。

 そしてこのゴミこそが、『封印の怪物』を歩かせていた元凶である。

 

「大した推理じゃないわ。『封印の怪物』はキノコの集まり。全身の情報を処理する中枢神経なんてない筈だから、身体を動かす仕組みは局所的で機械的なものにならざるを得ない。だとしたら、足の裏に何かがあると思ったのよ。足が地面に付く度刺激を受けて、その刺激が次の歩みを促す……そんな感じにね」

 

「成程……しかしこんな金属ゴミが原因だったとは。人間の環境汚染も、来るとこまで来たって感じですね」

 

「……そうね。そうかもね」

 

 新人が漏らした感想に、玲奈は歯切れの悪い言葉で同意する。

 『封印の怪物』の足の裏に刺さっていた金属塊はどれも人工物だ。それも自動車や自販機などの、大きくて重量があるもの。風や雨で運ばれてきたのではなく、恐らく不法投棄されたゴミだろう。

 しかし『封印の怪物』の傍に一般人が立ち入る事はまず出来ない。『ミネルヴァのフクロウ』による生息区域への立ち入り禁止措置もあるし、周辺の森に暮らす獰猛かつタフな獣達の洗礼もあるからだ。生半可な気持ちでゴミを捨てられるような場所ではない。

 そもそも『封印の怪物』は普段全く動かず、じっとしている。その足の裏にゴミを刺すという事は、つまり怪物の足下までやってきて、なんらかの方法を使ってゴミを足の下に埋めた事に他ならない。怪物のお膝元までやってきて、やる事が不法投棄? あまりにも馬鹿げている。何かもっと、リスクに見合う理由があったと考えるべきだろう。

 

「(まさか『人類摂理』の連中がまた……)」

 

 脳裏を過ぎるのは、二年前に大事件を引き起こしたあの連中。今回もこの巨大な怪物を支配下に置き、世界中の怪物を襲わせようとしたのか?

 されど今回はゴミを足の裏に刺しただけで、コントロール出来ていたとは思えない。そもそも『封印の怪物』は確かに文明を滅ぼせる類のものだが……それは怪物の大量放出という、文明にとって致命的な性質があるから。個々の戦闘力が高いという訳ではないので、他の怪物と戦わせても普通に負けるだろう。

 更に付け加えると、人類摂理は『終末の怪物』を目覚めさせるために戦力の大半を投じた結果、道中の野生動物やコントロールしきれなかった怪物、そして『終末の怪物』に襲われて壊滅した。上層部などは流石に残っているだろうからいずれ再起するにしても、二年かそこらで回復出来るダメージではないと玲奈は知り合いから聞いている。奴等が此度の事件の元凶とも思えない。

 

「(不法投棄じゃない、人類摂理でもない。他の外部組織? ううん、だとしてもこの行動の意図が分からない)」

 

 果たして『原因』はなんなのか。それが分からねばまた同じ事が繰り返される可能性がある。

 考え込む玲奈。新人はもう疲れてしまったのか、話が止まると『封印の怪物』にもたれ掛かり居眠りを始めてしまった。研究者の新人なら、かつての自分がそうされたように優しく起こすところだが、彼はあくまで広報部。寝かしておこうと思い、玲奈はふと気が緩んだ。

 そうでなければ、きっと聞き逃したであろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――っ!」

 

「ぶっ!? んぐぅ!?」

 

「静かにっ! 何か来るわ」

 

 反射的に新人の口を押さえ、驚いた新人が暴れ始めてから指示を出す。新人は大きく目を見開くも、混乱よりも恐怖が勝ったのか素直に押し黙る。

 沈黙の中、玲奈は近付いてくる音の位置を把握し、『封印の怪物』の巨大な足から離れないようじりじりと動く。音はゆったりとした間隔の割にかなりの速さで接近してきたが、どうにか玲奈達は影に隠れた状態を維持出来た。

 

「グルルル、ガゥガガゥ」

 

「ゴォルルルル……」

 

「ゴガゥ、オオォーンッ」

 

 しばし耳を澄ませば、聞こえてくるのは獣の唸り声、のようなもの。

 ような、という微妙な表現なのは、その声がやたらと長く続き、パターンめいていたから。声の色合いから判断するに数は三体ほどいるようだ。そしてその声量から、少なくとも人間よりも大きな生物らしい。

 

「(『封印の怪物』に棲み着いている、別種の怪物かしら?)」

 

 しかしこのような奇妙な声の生物は、此処に来るまでに呼んだ資料にはなかったように思う。無論内部に大量の怪物が潜む『封印の怪物』の情報は、いくら玲奈が天才科学者とはいえちょっと時間を割いたぐらいで全て覚えられるようなものではない。それに未確認種だってまだまだいる筈なのだ。

 そう、理性的に考えれば分からなくても不思議はない。不思議はないのに……何か、違和感を覚える。

 これは理性による考えではない。数多の怪物と触れ合ってきた事により積み重ねた経験、そして脳の奥底に眠る本能が覚えている感覚。

 『彼等』は、他の怪物と何かが違う。

 

「(……気になる)」

 

 むくりと沸き立った好奇心。

 玲奈がその好奇心に逆らう訳もなく、身を隠している『封印の怪物』の足から僅かに顔を覗かせた。

 瞬間、思わず息を飲みそうになる。

 ――――玲奈が目にしたのは、三体の生物。個体差らしき小さな違いはあるものの、恐らくは同一種の集まり。

 その生き物は、二本の足で立っていた。しかし人型の生物ではない。背筋の曲がった五メートル近い身体は、上から下まで真っ白な毛に覆われていた。臀部からは三メートルはあろうかという尾が生え、ゆらゆらと揺れている。だらんと下げた腕の先には、魔女を彷彿とさせる細い指と、ナイフのように鋭い爪が生えていた。腕には、何かの動物の骨で作られたのか、ブレスレットらしきものが巻かれている。頭の上には大きな耳が二つ立ち、辺りを探るように忙しなく動く。

 そしてその頭の形は、オオカミそのもの。

 開いた口には鋭い牙がずらりと並んでいる。銀色の瞳の中心には小さくて黒い瞳孔があり、肉食動物らしい獰猛さ、加えて聡明な知性を感じさせた。凜とした顔付きは野性味溢れ、ペットとして人に飼われている末裔達とは明らかに違う。

 彼等の姿を一言で例えるならばファンタジー漫画に出てくる獣人だろうか。ただしキャラクターとしてデザインされた獣人と違い、あくまでも野生の獣。可愛らしさや愛嬌なんてものはなく、ただただ野性的で、動物的だ。

 だというのに。

 

「ガゥゥ……オォン。オウォゥ」

 

「グルガォオン。ガゥルルルォル」

 

「ガルルルル、ルル、グルルル」

 

 奴等は()()()()()()()()

 一頭が何かを話すと、もう一頭が長々と語り、更にもう一頭が短く喋る。両腕を振ったり、顔の向きを変えたり、わざとらしく口を開いて牙を見せたり……仕草も多様だ。

 言葉を操る生物というのは、実のところ存外多い。日本人に身近な例を挙げれば、シジュウカラという小鳥は単語のみならず文法も用いて会話をすると言われている。オオカミのような見た目をした彼等が会話をしていても、それ自体はおかしくない。

 しかし彼等は互いに顔を見合い、頻繁に言葉を交わしている。鳴き声のバリエーションは豊富で、同じパターンの声は中々ない。まるで習っていない外国語を聞いた時のような、ルールすら理解出来ない複雑さだ。身振り手振りまで付与するとなれば、いよいよ異文化である。

 彼等の言語能力は、もしかすると人間に値するものではないか。

 

「ガル……グルガルルガ」

 

「ガゥオン。ガオォオオオン」

 

 なんらかの会話を重ねたところ、彼等の一体が身体を左右に大きく揺すりながら歩き出す。向かう先にあるのは……巨大な、『封印の怪物』の足に刺さっていた金属の塊。

 車数台分はあるだろう物体を、彼等の一体は片手で軽々と持ち上げる。確かに奴等の体格は巨大だが、金属塊も同程度には大きいのだ。自分と同じぐらいの、それもかなり密になるまで潰された金属を持ち上げるには、相当力が強くなければならない。

 そして。

 

「ガルォン。グルァアオン、ガオオン、ルロロロロ」

 

「ガルガァ」

 

 なんらかの指示を出す一体に、金属塊を持った個体が肯定の返事を返す。その個体は金属を片手で持ち上げたまま、玲奈達が隠れている『封印の怪物』の足下へと運ぶ。

 次いでその足の周りを、鋭い爪で掘り始めたではないか。

 金属の塊を軽々と持ち上げる腕力は、硬い地面を簡単に掘り進めていく。あっという間に数メートルもの穴を空けると、手に持った金属の塊を穴の下に仕込み、

 ぐっと、その金属を()()()()()

 直後に聞こえてくるのはぶちぶちと何かを千切るような音。

 その音がどのような原因で鳴ったものか、玲奈はすぐに気付いた。気付いたが故に玲奈が起こした行動は、新人の手を取り、自分達が身を隠していた『封印の怪物』の足から離れる事。戸惑う新人だったが玲奈は構わず走る。

 あたかもそんな人間達が離れるのを待っていたかのように、『封印の怪物』の足が再び動き出す!

 ゾウなど及びも付かない巨足がゆっくりと、しかし人間が走るよりも明らかに速いスピードで前へと進む。幸いにして玲奈達が進んだのとは別の方角だったが、移動時の風圧だけで身体が倒れそうになる。やがて降りた足は、たった一歩でどんな巨大地震も上回るような揺れを引き起こした。

 

「ひぃ!? な、なんで……」

 

「あっ」

 

 あまりの揺れに新人が悲鳴を上げてしまう。しまった、と思った時にはもう遅い。

 獣人染みたケダモノ三匹が一斉に、隠れる場所を失った玲奈達の方を振り向く。

 不味い、と思う玲奈だったが……獣人もどき達は襲い掛かってこない。驚いたように目を見開きこそしたが、その顔はすぐ笑みのようなものに変わる。

 彼等は『封印の怪物』の足に跳び付くや、その爪を怪物の脚の表面に突き立てた。更に何か紋様を描くように、爪で傷を付けていく。

 するとどうした事か。『封印の怪物』の足がぞわぞわと波打つ。

 そしてまるで玲奈達に迫るかのように、こちら目掛けて動き出した!

 

「ひぃいいいっ!?」

 

「走って! 死ぬ気で!」

 

 叫ぶ助手の背中を突き飛ばさんばかりの勢いで玲奈は押し、全速力で離れる!

 ゆっくり、だけど高速で落ちてきた足は、玲奈達の後ろ三メートルほどの位置に着地。すぐに走り出した甲斐もあって、足の可動範囲外に出ていたのだろう。しかし生じた揺れはあまりに大きく、新人が転んでしまった。すぐに彼の肩を抱えるようにして起こし、また走る。今は兎に角走るしかない。

 逃げる中で、玲奈は思う。

 奴等は一体何をした?

 『封印の怪物』の足にゴミである金属の塊を刺した――――もしもそれが単なる遊びなら、深く考える必要はない。動物達のする遊びに、生態的理由は兎も角、理性的な意味合いはないのだから。

 しかしあの獣人もどき達の動きに遊びらしさはなかった。さながら仕事のようにスムーズかつ効率的な動きで、なんの躊躇いもなく突き刺している。その後足が動き出した際も、悲鳴一つ上げずに冷静なまま。その行動により何が起きるのか、分かっていたとしか思えない。

 加えて怪物の足に跳び付いた時に引っ掻くや、その足を()()()()()()()

 論理的に考えれば何をしたかは明白。後は認められるかどうかであり、玲奈にとってそれは左程苦ではない。

 

「(コイツら、()()()()()()()()()()()()()()()()()……!)」

 

 その事実を、玲奈は頭の中で言葉にした。

 本能により他の怪物を操るというのなら、興味深くはあるが、さして驚く事ではない。寄生虫など一部の生物にとって、宿主の行動を制御する事は生態として組み込まれたものであり、珍しい能力ではないからである。

 しかしあの獣人もどき達は、明らかに技術を用いて『封印の怪物』の動きを変えている。それは本能ではなく、知性による技だ。

 彼等の知能はどの程度のレベルだろうか? 一般的な万物の霊長(人間)ならば人間程じゃないと言いたいところだろうが、玲奈にその辺りの抵抗は殆どない。道具を用いて他種の行動を変えられる……それを理解する知性は、人類に匹敵すると考える方が自然だ。

 挙句仲間と会話をし、行動を決めているようにも見えた。リカオンなどは『投票』により群れの行動指針を決めると言うが、彼等の会話はもっと複雑だろう。指示を出す個体、受ける個体が決まっていて、それでいて話し合いをする程度には対等という緩い階級制がある。社会性も人間並に高いと考えて良い。

 これだけ知能面に優れていながら、自販機や車の集まりである、重量数十トンの金属塊を軽々と持ち上げる怪力まで誇る。怪物の足に跳び付くなど、俊敏性も怪物と呼べる速さだ。当然自分が出した力に耐えられなければ動く度に身体が酷く傷付いてしまうので、肉体の頑強さもパワー相応にあるのだろう。

 高度な知能。

 優秀なコミュニケーション能力。

 圧倒的な身体機能。

 そして他の怪物さえも自在に操る技術。

 ありとあらゆる点が人間を凌駕している。ハッキリと述べるならば()()()()()()()か。

 生物進化は競争の歴史だ。生き方が重なるもの同士は戦いを避けられず、弱いモノは生き方を変えるか、さもなくば滅びるしかない。即ち人類がこの獣人もどきと争えば、待っているのは過酷な地への追放か、或いは滅び。

 しかも戦いだけでなく、共存や服従さえも許されない。彼等や人間が話し合いに乗らないという意味ではない。生物間の競争とは単純な殴り合いではなく、資源と空間の奪い合いである。直接殺されなくても、使える資源が減れば個体数は維持出来ない。共存共栄の名の下に、相手側が繁栄するほどに人類は数を減らし……緩やかに滅びる。

 直接的捕食者や絶対的強者とは違う、人類種にとって最低最悪の天敵。名付けるならば、『天敵の怪物』だ。

 一目で分かる人類種の敵を目にして、玲奈は――――その胸がどくんと鳴ったのを実感する。

 

「……グルガォン!」

 

「オォォーンッ!」

 

 『天敵の怪物』達は玲奈達が遠く離れたのを見るや声を上げ、三頭一斉に『封印の怪物』の足から飛び降り、自動車よりも速く奥地へと駆けていく。どうやら今し方怪物を動かしたのは、ただの威嚇行動だったらしい。突き刺した金属も、無理矢理足を動かした影響からか、ぽろりと落ちてしまった。『封印の怪物』の再進撃が始まる心配はいらないだろう。

 故に玲奈が考えるのは、『天敵の怪物』についてのみ。

 人間を警戒しているのか、はたまた深追いしたくない事情があるのか、或いは危害を加えるつもりなどないのか。どうして『封印の怪物』を動かしたのか、もしも人間について知っているのならこの行動の意図は――――

 何を考えても分からない。

 分からないから知りたい。

 知りたいのだったら、動くしかない!

 

「新人くん! 先に帰ってて良いわよ! あと『封印の怪物』だけじゃなくて、さっきの怪物についてもちゃんと報告してね!」

 

「へぁ? え、大桐博士!? いやいや僕一人じゃあの化け物だらけの森は突破出来ませんから!? というか博士は何処に行くつもりなのですかぁ!?」

 

「ちょっとあのお犬様達を追い駆けるわ!」

 

 助手からの返事を待たず、玲奈は『天敵の怪物』が去っていった方へと進んでしまう。

 もしかしたらあの獣達に殺されるかも知れない。

 生きたまま腹を裂かれるかも知れないし、頭からバリバリと噛み砕かれるかも知れない。奇妙な儀式の生け贄にされるかも知れないし、妙な病気を移されるかも知れない。怪物達との接触は命を削る行いだ。何時かは命を落とす。そしてそれは今日かも知れない。

 だけど、それがなんだ。

 この星には、まだまだ知らない命が潜んでいる。数えきれないほどの不思議に溢れ、全てがこちらの想像を易々と飛び越えていく。

 そんな面白いものを前にして、我慢なんて出来る訳がない!

 

「ふふっ……ワクワクしてきたわ!」

 

 玲奈は躊躇いなく駆けていく。

 己が胸を満たす子供の時から変わらぬ衝動が、彼女を大自然の奥へと向かわせるのだから。



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